[#表紙(表紙.jpg)]
ヒキタクニオ
消 し 屋 A
目 次
01博多
02こづかい
03契約書
04ボール・ゲーム・パーク
05コンディーション・グリーン
06ホーム
07始動
08蒟蒻《こんにやく》
09まえだ屋旅館
10キング
11アルカロイド
12親子
13ロッカールーム
14バックネット
15大濠《おおほり》公園
16脱皮
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01  博多
博多の焼き鳥屋は、客が入ってくると店の中央に吊り下げた陣太鼓をドンドーンと打ち鳴らす。
客を歓待する気持ちの表れだろうが、もう一つの意味には、一見《いちげん》の客かそうでない客かを店側が判断する基準にもなっている。初めての客は暖簾《のれん》をくぐった瞬間に、打ち鳴らされる陣太鼓の音に驚き目を丸くし、二回目からの客は身構えて動じない風を装う。
「お客さん、こん前も来たけど、博多の人じゃなかろう?」
音声を消したテレビを観ていた焼き鳥屋の店主がカウンター越しに声を掛けた。
「わかるかい。じゃあ、どこの人間だと思うんだよ」
幸三《こうぞう》は薄手のサングラスを取って顔を店主に向けた。
「なんか、洒落《しやれ》とうもん。東京の人やろう?」
店主は幸三を値踏みするように上から下まで眺め、隣に座っている蘭子の顔をチラッと見た。
「なんいいよとね、おいしゃん。俺のどこが東京モンに見えるとね」
幸三は博多弁を使って片頬を上げた。店主は、おっという顔で見返した。
「なんね。元々は博多の人間が東京に行ったっちゃね」
「違うよ。東京から来たけど随分前に、ここに一年ぐらい住んだのさ」
「ほう、そうね。それにしても、上手に地元の言葉を喋《しやべ》るね。もし、博多の人間が東京に行ってツヤつけて帰ってきたんなら、いじめちゃろうと思ったけど、うん、そんならよかたい」
「親爺、ツヤつけ′トばわりかい。ひでえ店だな」
「すんまっせんね。悪う思わんとって。何かサービスするけん」
言い方は強かったが幸三の眼は笑っていた。それを見た店主は軽く頭を下げた。
「ねえ、幸ちゃん。ツヤつけ≠チて何?」
蘭子が訊いた。
「ねえさん、そりゃあカッコつけのことたい。博多の男でツヤつけって呼ばれたら、そりゃあもう、最低の評価やけんね」
店主が耳敏く蘭子の質問に答えた。
「そう、この町の人間は、滅茶苦茶ツヤつけを嫌うよな。なんでだろうな」
「そりゃあ、ツヤつけは最後に逃げるけんね。信用がないったい。でも、兄さんに言ったツヤつけは、冗談の言い方やけん気にせんで。豚バラ、サービスするけん」
博多の焼き鳥屋は、焼き鳥と銘打っていながら、メニューの一等最初に、三枚肉を串に刺して塩と胡椒だけで焼いた豚バラが載っている。
店主は「豚バラ一丁サービスで、カウンターの鯔背《いなせ》なカップルに!」と声を上げると奥に引っ込んだ。
「調子のいい親爺だな。こういうときは粋って言うもんだぜ。鯔背ってのは下町じゃツヤつけ≠ニ同じような意味なんだよ」
幸三は蘭子に言うと眼だけで店内を見回した。
「蘭子。俺の斜め後ろのテーブル席に男が四人座ってるだろう。見えるか」
「見えるわよ」
蘭子も声のトーンを落として答えた。
「じゃあ、ライターを落とすから、どんな靴を履いているか、やつらの靴を見てくれ」
幸三は、ライターを肘《ひじ》で押すとカウンターから落とした。蘭子は男たちと視線を合わせないようにしゃがむとライターを拾い、男たちの靴を見た。
「みんな、普通の黒い革靴だったわよ」
蘭子は耳打ちした。
「同じ靴を履いている奴はいたか?」
「うん、二人の靴は同じみたいだった。人工皮革で金具が一緒だったように見えたわよ」
「そうか、やつらは刑事だな。履いている靴は警察からの官品で支給されたドタ靴だ」
幸三は、ちらちらと注視する男たちの視線を背中に感じていた。
「幸ちゃん、来るわよ」
蘭子は緊張して掠《かす》れた声をだした。
「旦那さん、申し訳ありませんが。バンカケさせて頂きたいんですけど、よろしいですか?」
立ち上がった四人の中の一番若い男が福岡県警の名が入った手帳を開いて声を掛けた。
幸三には「バンカケ」という俗語が「職務質問」であることはわかっていた。バンカケという言葉に反応するかどうかで、警察にとっては、相手の素性を把握しようとする初歩的なやり方だった。
「バンカケ? それはどういう意味ですか?」
とぼけた顔で幸三は言った。
「失礼、職務質問です。何か身分を証明するものをお見せいただけませんか?」
「職質か。じゃあ、拒否してもいいんだよな。国民の権利として」
幸三を囲んで立っている四人の男たちの中に緊張が走った。緊張が店の中に伝わり、客の何人かが怪訝《けげん》な顔を向けた。
「まあまあ、おあにいさんも、そげんつっけんどんに話さんと仲良うやろうや。お楽しみんときに申し訳なかけど、ちょっとだけやけん」
四人の中で最も年配と思われる刑事も手帳の一ページ目を提示して、若い刑事と幸三の間に入ってきた。
幸三は立ち上がった。
「おっさん、俺は何もしてねえぞ」
「きさん! 偉そうに、なん言いようとか、身分証ば出せ! 偽の保険証やら出しよったらしょっぴくぞ。きさん、山岡やないとや?」
半笑いの幸三に、四十代の歳の頃の太った刑事がいきりたって詰めよった。客たちの怪訝な顔が興味に変わった。揉め事好きな博多の酔客の顔になった。
「それは、人違いだな。俺はそんな名前じゃねえよ。刑事さん」
刑事たちを睨《にら》みながら、胸ポケットから財布を出した幸三は、運転免許証を二本指で挟んで差し出した。餌《えさ》を与えられた動物のように免許証を荒々しく奪い取ると四人はそれを覗き込んだ。
四人の刑事たちの落胆の声が響いた。
「申し訳ないけど、奥さんのほうもお願いできるかな」
役職が一番高そうな刑事が悔しそうな顔で蘭子に言った。幸三と蘭子は顔を見合わせて笑った。
「刑事さん、今回は完全なガセねただな。大方、東から逃げてきた男と女を追ってるのかもしれねえけど、こいつは、奥さんでも彼女でもねえよ、男だぜ。蘭子、免許証見せるか、それとも、刑事さんにチンチンでも触らせてやれよ」
刑事たちは何度も蘭子の出した和夫名義の免許証の顔写真と、蘭子の顔を見比べた。
「蘭子は顔をいじってねえからな、人の顔を見るのが仕事の刑事なら本人だってわかるだろう」
刑事たちは、二人の顔を見て「これは失礼しました」と言うと、よくあることのように軽く頭を下げて店を出ていった。
客たちは、刑事を見送ると、面白くなさそうに杯に目を落とした。
「おい、親爺。おまえだろう、デコスケにガセを掴《つか》ませたのは」
幸三は店主に顔を近づけた。
「なーも、そげんこと俺はしとらんですよ」
「嘘つけ、さっきのデコスケが帰るとき、金も払ってねえし、おまえと妙な目配せしてたじゃねえか。この野郎」
物言いは荒かったが、幸三の顔は笑っている。
「怖かねえ、兄さんは。そげなことに目配せしとうってことは、やっぱり、堅気じゃなかね。まあ、捕まらんやったんやけん、よかやないですか」
店主は何度も頭を下げた。
「そんなに手配書に俺たちが似てたのか?」
「いやあ、手配書はファックスで送られて来たけん、顔は潰れてようわからんやったけど、美人を連れた四十代の痩せた男って書いてあったけんね」
「そんなことで、よくデコスケが四人も出張ってきたな」
「それはくさ、五年前に指名手配されとったのを俺が通報して逮捕したけんやろうね。刑事さんも俺の情報やったら信用するけんね」
「親爺、いつか刺されるぞ、そんなことやってたら……」
幸三と蘭子は苦笑しながら顔を見合わせた。
「大丈夫くさ。協力して賞状とか貰っとったら、俺が警察に捕まったとき、刑の減刑とかがあるけんね」
「どういうことだよ、親爺」
「酔っ払い運転で切符切られても、人命救助とか泥棒捕まえて賞とか貰っとったら、酔っ払いが酒気帯びぐらいには減刑されるとよ。十五点の一発取り消しが、六点の講習になるけんね」
「ちっ、親爺のチンケな命乞いのために、懲役行くような奴がいたんだな。同情するぜ」
幸三はげんなりした顔で酒を呷《あお》った。
「そげん言いなんな。兄さんも捕まらんやったちゃけん、よかやない。もう一人前豚バラサービスするけん」
店主は悪びれるところもなく眉毛を上げて言った。
「いらねえよ、そんな豚の脂ばっかり喰えるか」
「なん言いようとね。土地の喰い物は断わったらいかんとばい。ウェルダンで焼いて脂ば落としとくけん。喰うちゃりよ、カリカリに焼いたのもまた格別やけん」
店主は満面に笑みを浮かべていた。
「なあ、蘭子。この親爺が博多の男の典型だ。覚えとくといいぜ。押し付けがましいお調子もんだ」
「なんね、兄さんは口が悪いね。それはそうと、兄さんの仕事はなんね? どげん見たって堅気には見えんけど」
「俺は消し屋≠セよ」
「?? なんねそれ?」
「殺し屋ってことさ」
「殺し?」
「そう、人殺し。人間の生きてきた痕跡を消すから、消し屋だよ。関東から飛ばされてきた鉄砲玉とかじゃないぜ」
「なんね、兄さん。そげな消し屋やらおるわけなかろうもん、冗談ばっかり言うてから。人をからかったらいかんバイ」
店主は、ぷいっと顔を横に向けてテレビ画面に目を移した。
幸三は蘭子の耳許で「押し付けがましいお調子もんのくせに、自分の知らないことは簡単に受け入れられないんだ。すぐに、馬鹿にされたと思ってへそ曲げる。これも博多の親爺の特徴だ」と囁《ささや》いた。
蘭子は楽しそうに頷くと、テレビ画面に映っているプロ野球中継を食い入るように見つめ始めた店主の横顔を観察した。
福岡ダイエーホークスの捕手の真壁が審判にタイムを願いマウンドに近づくと、福岡ドーム球場の観客は総立ちになった。
一九〇センチ近い身長に、鍛え上げられ厚く盛り上がった筋肉、強化プラスチックとショックアブソーバーをふんだんに使ったプロテクターを装備した真壁は勇壮な戦士のように見えた。
マスクをヘルメットの上に上げると、高い鼻梁と大きな二重|瞼《まぶた》の目、ゲルマン民族の血が四分の一混ざった真壁の顔が現われた。
「どうした杉山。恐いのか?」
杉山は真壁をすがるような目で見上げた。博多弁の怒号と歓声がマウンドに降り注がれていた。
九回表、1対0の2アウト、二塁三塁にランナーを抱え一打逆転のピンチ。ゲームが臨界点に達する緊迫した状況を杉山に任せるには荷が重いと、真壁は思った。
「壁さん、敬遠か? 一塁は空いてる」
「いや、このバッターで勝負だ」
杉山がぎりぎりの精神状態であることは充分にわかっていた。しかし、真壁は首を振って勝負を命じた。
1ストライクをストレートでとったあとに杉山が投げ込んだ二球目三球目は、完全に腕が縮こまった逃げのボールだった。ここで杉山が逆転打を打たれたら、たぶん二軍落ちすることは目に見えている。こんな緊迫した現場に出くわしている自分の運命を呪っているのだろう、この場から逃げ出したい気分が丸見えの杉山を、真壁は睨み据えた。
「杉山、罪人谷《つみびとだに》に墜ち込みたいのか」
真壁の言葉に杉山は身体を強《こわ》ばらせた。
「罪人谷だぞ。言ってみろ。ほら『つ』」
「ツヤつけるな」
「そう、『み』は」
「みっともなくていい」
杉山は真壁を見返した。
「『び』だ」
「びびるな」
「よし、『とだに』を続けて!」
「『と』にかく! 『だ』るまになって! 『に』げるな!」
拳を握って杉山が言った。
「そうだ。逃げるんじゃない。ここで踏みとどまれ。三番バッターとはいっても網野だって、おまえと同じ崖っぷちだ。打つ気満々に見せてはいるが、それはおまえが逃げることを願ってのことだ」
真壁はキャッチャーミットで杉山の肩を叩いた。
「行きますよ、壁さん」
「よし、じゃあ、次の球は真直ぐでド真ん中に投げ込んでこい。奴は、おまえが逃げると踏んでる。たぶん、手を出してこない。そこで、奴が見送ったら俺が直ぐに返球するから、サインはなしで、おまえは直ぐに次の球を投げ込んでこい。奴に考える暇を与えずに投げ込むんだ」
「わかった壁さん。球種は何ですか?」
「フォークボールだ」
「えっ、三塁ランナーがいるんですよ。もし、暴投にでも……」
杉山は真壁をもう一度見上げた。フォークボールを投げることはそれほど難しいことではない。ほとんどのプロ野球のピッチャーなら投げることができる。
しかし、その一球を投げ込む瞬間に冷静でいられるかが問われる。球の回転を完全に殺すことができなければ、それは絶好のホームランボールになり、投げるフォームが緊張すれば、フォークボールを予想されて何の威力もないボールになる。そして、力が入り過ぎると球は予測もつかない方向へ向かう。
プラクティカル・ピッチャーと呼ばれる練習場だけで優秀なピッチャーには、来年の年俸を一瞬にして失う危険のある場面で、フォークボールを投げる精神力はない。
それは、技術を超えた差である、そこをやり切れる人間だけが第一線のマウンドに残ることができる。
「ワンバウンドだろうが、何だろうが、俺が止めてみせる。暴投なら暴投でいい、みっともなくていいんだ。逃げずに踏みとどまれ!」
ピッチャー特有の杉山の大きな臀部《でんぶ》を、真壁は力強く右手で叩いた。
杉山は真壁の目を見て頷いた。
「おまえも崖っぷち、奴も崖っぷちだ。グラウンドに埋っている運をどっちが掘り出すかだ。罪人谷に墜ちて行くか、キラキラの運を掘り出すか、面白いじゃないか。俺のミットだけに集中して、思い切って真ん中に投げ込んでこい」
真壁は言うと、さっと振り返ってマウンドを降りてキャッチャーズボックスに向かった。杉山は真壁の背番号「14」を見つめて深呼吸した。
杉山は、オレンジ色のつばをぐいと下ろして帽子を深くかぶり直した。セットポジションに構えると、視界からバッター網野の顔は見えなくなり、真壁の構えたミットだけが大きく映った。
考える間もなく、クイックモーションで杉山は振りかぶった。硬球を離すとき、指が「ピシッ」という音を鳴らした。
杉山の指に、硬球の湿りけを帯びた革と|縫い目《シーム》の感触が残った。速球に綺麗な回転が蘇り、真壁のミットに吸い込まれるように消えた。
「ストライック!」
審判の声とボールの音が重なるほどの真ん中のストライクだった。
右バッターボックスの網野が少しうろたえて「勝負か?」という表情で真壁を振り返る。
真壁はそれを無視し、まるで盗塁を刺すかのように早いモーションでボールを杉山に投げ返した。そして、肩を張り「壁」とあだ名される身体をより大きな壁のように構えた。
杉山は、ヒップポケットに入れたロージンバッグで指に粉をつけ、グラブの中で硬球を人さし指と中指の間にぐっと押し込んだ。
「奴に考える暇を与えるな」という真壁の声に従って早いモーションで振りかぶった。相手に考える暇を与えない、ということは、自分自身にも考える暇はないということだ。杉山は何も考えず右腕を振り抜いた。
前のボールと同じ軌跡を描きながら硬球は投げ込まれてくる。網野のバットが狙い澄ましたように動き始める。
(落ちろ!)
真壁は心の中で叫び低く構えた。
硬球は網野の手前三メートルで、一瞬、赤いシームが確認できるほど回転を止め、そして、お辞儀をするように落ちた。
網野のバットは前方にスライドし、身体は泳ぎ腰が引けた。
バットは空を切った。
前のめりになったボールは、ホームベースまで落ちてワンバウンドする。真壁は覆い被さるようにボールを身体で受ける。肉にぶつかる鈍い音がして、ボールは地面に落ちた。
軸の崩れたスイングで前に一歩踏み出した網野は「ちーっ」と大きく舌打ちをした。
真壁はボールを拾って網野の背中にタッチすると、審判が高らかに「ストライック、アウツッ。ゲームセット」と声を上げ右手を挙げた。
福岡ドームが地鳴りのようにどよめいた。
「くー、さすが壁や、しのぎ抜いた!」
店主が手を叩いた。
「どげんね、兄さん。これが博多が誇るホークスのキャッチャー、真壁たい。こいつは、どげなときにも逃げんけんね。杉山に真っ向勝負させたろうが、壁にかかると、二級品のピッチャーも磨きがかかるけんね。大したもんよ」
孝行息子を自慢するように、機嫌よく店主は幸三を振り返って言った。
「あら、いい男ね」
ブラウン管にマスクを取った真壁のアップが映っているのを蘭子が覗き込んだ。
「そやろう、ねえさん……。壁はちーっとばかし外人の血が交じっとうらしいけど、日本国籍持った歴《れつき》とした日本人やけんね」
店主は蘭子を呼ぶときに少しばかり戸惑った。
「おいおい、親爺、何だそれ。日本に生まれて、日本に育って、日本国籍持ってたって、どう見ても日本人に見えねえガキがわんさかいるぜ」
幸三は豚バラで店主を指しながら言った。
「そらそうやバッテン……」
「そのキャッチャーが在日で北朝鮮か韓国の国籍を持ってたら、いまいち応援してねえんじゃねえのか? プロ野球の選手には多いからな」
「そげんことはなかよ……」
店主の言い淀みに、図星だったのだろうと幸三は苦笑した。
「大阪、京都、そして福岡っていうと、差別好きが多い三大都市だからな。まったく、日本に生まれて、一緒に日本で育ったんだから仲良くやりゃあ、いいのにな。やれ、国籍がどうだ、やれ出自が……」
幸三にからまれると思ったのか、目を合わせずに店主はそそくさと奥に引っ込んだ。
「どうしたのよ、幸ちゃん。いらついてるの? 可哀相じゃない、おじさん逃げてったわよ」
蘭子が幸三を肘で突ついた。
「しょうがねえだろう、いらつきもするさ。消し屋の仕事がまったく入らねえんだから」
東京から福岡に流れて来て二ヵ月、幸三には消し屋の仕事が一つも入っていなかった。
「何だ、幸ちゃんも結構、そんなところでいらつくなんて、仕事人間なのね。いいじゃん、仕事なくたって、一年やそこらは遊んで暮らせるくらい東京で稼いだんだから、ぶらぶらしてれば?」
「金じゃねえって。それに、暇ってのは辛いもんだぜ」
幸三は焼酎のウーロン茶割りを呷った。
「それって、よく考えたら変な話よね。仕事って主に、人殺しでしょう。そんなに人が殺したくて堪《たま》らないの? まさか、血に飢えてるってことなの? 幸ちゃんは」
「人を脳味噌の傷ついた通り魔みたいに言うなよ。そんなんじゃねえよ。あくまでも消し屋は仕事だよ。仕事がねえのにも、いらつくけど、どうも、今回の福岡は調子が狂うんだよ」
「どうしたの」
「この、幸三って名前の戸籍を新しく買ったじゃねえか。今度は福岡だってんで、わざわざ福岡から関東に流れてきた人間の戸籍を東京で買ったんだ。東京でこの戸籍を使って準備してる分には、何もなかったんだけどよ。でもよ」
「でも、何よ」
「こっちに来て免許を書き換えたり、住民票移したりしてるうちに、戸籍の住所を書くと嫌な目に遭うんだ」
「戸籍の住所って……、ああ、なんとなくわかったわ」
「小さい町だからな、役人だろうが警官だろうが、そんな場所の住所をきっちり記憶してんだな。なんとも言えねえ目つきで見んだよ。根深いぞ、この町の人間たちは」
「私なんて、見た目で特殊なオカマだから、そんな視線には慣れっこだけどね。幸ちゃんみたいに、戸籍買って、急にそんな目に遭いだすと面喰らうわよね」
「それまでは普通に接してるくせに、住所を見ると、すっと表情が変わるんだ。その瞬間の相手の顔を見るのが嫌なんだよ。面の皮がペロッて剥《は》がれて平べったくなって、視線は俺を素通りすんだよ。戸籍を何度も買ってきたけれど、こんな経験は初めてだ」
「あら、幸ちゃん、何年か前に、在日系の韓国の国籍買ったことってなかったっけ?」
「英弘《ひでひろ》の頃だな。あれは今回みたいな嫌な目には遭ってなかった。コリアン・ジャパニーズってんで昔に比べて解放されてる。アメリカにいるイタリア系アメリカ人みたいな位置に日本ではなりつつあるからな、韓国人は。ニンニクとレッドペッパー好きで美味《うま》い料理屋がいっぱいあるってところなんて、そっくりだし、ファミリーの結束が固い組織もある」
「でも、英弘ってすぐやめちゃったじゃん」
「戸籍が何であろうと、消し屋の仕事でサツにしょっぴかれたらあっという間に絞首刑《バタンキユウ》だけど、韓国籍のときに、小さなことでしょっぴかれると、強制送還、国外退去になるんだよ。そりゃあ、ちょっと面倒だなって思ったから、やめたんだよ。堪んねえぞ、ハングル読めねえのに向こうに飛ばされちまったら」
「やっと、幸ちゃん笑ったね」
蘭子は幸三を見つめて言った。幸三は鼻に皺《しわ》を寄せて見返した。
男同士であることを除けば、二人は信頼し合う夫婦のように見えた。
「ばかやろう、気持ちの悪いこと言ってんじゃねえぞ」
「たまにはいいじゃない。私だって心配ぐらいするのよ。毎日、ぼんやりしてて、たまに飲みに出るといらついてさ、そうかと思うと、人権派みたいになって人道主義を説きそうになったり、幸ちゃんが言うように福岡に来て調子狂っちゃったのはわかるわよ」
「あははは、糠味噌《ぬかみそ》こねてる古女房みたいなこというなよ、おまえ」
幸三は大きく笑った。
「駄目駄目、いまの幸ちゃんの笑いは、痩せ我慢の笑いよ。雌雄《しゆう》同体系のオカマには男の痩せ我慢は丸見えで心苦しいのよ」
蘭子は幸三の笑いを鎮めるような静かな声で言った。
「そうか……」
幸三ははっとしたように見返した。
「そう。姿を隠して、まるでそこにいないように存在までも消す消し屋なのに、あんな親爺に違和感を感じさせたのよ」
「そうだな……」
「そんなこといままでになかったじゃない。地方に行っても、観光客に道を訊かれるくらい同化してたのに。自分から消し屋だなんて言ったりして、恐いわよ、私は。捕まったら、簡単に死んじゃうんだからね」
整った女顔の蘭子が、細い眉を上げて話すと恐ろしく見えた。
「わかった、わかったよ。お見通しってとこだな」
「あんたのために、死んでもいいと思ってるのよ。だから私はあんたと一緒にいるの……。忘れないでね」
「蘭子、そんなに真剣な顔で見るなよ。調子狂ってても、それなりにどうにかするからよ! 心配すんなよ」
「雌雄同体系のオカマは、本当にお見通しなんだからね」
蘭子は嬉しそうな顔だった。
「どうにかするからよ」
「地方は新規しかやらないってんじゃなくて、昔に仕事したところとか回ってみたら?」
「ああ、そうしてみるか……」
「あら、素直なのね、幸ちゃん」
「雌雄同体系のオカマなんて奴の話は、聞いておかないとな。でも、蘭子。調子が狂ってるときにもがくと、とんでもないことが起こるからな」
「いいわよ。あんたの消し屋仕事の中で、私を殺さないといけないような場面になったら、いくらでも使ってよ」
「………」
幸三は蘭子の顔を見た。
「私のことを好きとか嫌いとかで殺さないでよ。嫌になったら言って、静かに別れていくから……」
「かはははは、何言ってんだ、おまえ。好きとか嫌いとかで殺すようなずさんなことはしねえよ。俺は消し屋だぜ。必要だったら一つも躊躇《ちゆうちよ》しないで、おまえを殺すさ」
「いまの笑いは好きよ。そうやって笑っててよ消し屋の幸三≠ネら」
幸三の顔を見ずに言うと、蘭子はコップの冷や酒に口をつけた。
幸三は蘭子の横顔を眺めた。
和夫という男名前の戸籍を持つ通名《つうめい》蘭子と棲むようになって五年になる。叱咤激励にも似た苦言を呈されたのは初めてのことだった。
幸三が人を殺して帰宅すると、蘭子はその臭いを直ぐに感じ取って言葉少なになるほど敏感な同居人だった。非難するわけでも、肯定するわけでもなく、ただ人を殺して来たことだけを感じ取っているだけだった。
東京から福岡に突然行くと言われても蘭子は動じることなく静かに準備をした。東京を出る二日前に勤めていたオカマバーを辞め、福岡に荷を下ろして一週間もしないうちに新しい勤め先を決めて出勤した。蘭子はいつも黙って幸三に寄り添っていた。
そんな蘭子の苦言は、幸三にとってきつい一発だった。
「明日には、昔世話になったところに顔を出しに行くよ」
幸三は蘭子の横顔に言葉を投げた。
「うん」
蘭子は切れ長の目の目尻を下げた。
男同士の愛情なのか、蘭子が糟糠《そうこう》の妻を演じてみたいだけなのかわからなかったが、本当に心配されているんだと、幸三は思った。
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02  こづかい
渡辺克己は、相田興業の社長室でベルトを外すと、太り肉《じし》の身体を億劫《おつくう》そうに動かしてズボンを床まで下ろして下半身を晒《さら》した。
踝《くるぶし》のすぐ上までの足全体を埋め尽くした刺青《いれずみ》の濃い藍色と、大人用紙オムツの微《かす》かに青みがかった白が微妙なコントラストを醸《かも》し出した。
ズボンを脱いで机の上に置き、パンツ型の紙オムツを一気に引き下ろした。紙オムツのギャザーが足の付け根に赤く短い縦縞の跡を残した。
足の付け根を掻きむしると、渡辺はほっと人心地ついたように、下半身を晒したまま椅子に腰掛けた。
真珠が三個埋め込まれた性器は、力なく垂れ下がり、棹の中心部に藍で彫られた「剣抜弩張《けんばつどちよう》」という文字は畳んだ提灯の文字のようにひしゃげていた。
尿を吸ったジェルで重くなった紙オムツを丸めると、ポリ袋に入れ口を縛った。
消毒用アルコールを含んだ衛生濡れナプキンで性器部分を丹念に拭うと、剣抜弩張の文字が右や左に歪《ゆが》んだ。剣を鞘《さや》から抜き放ち、石弓を引き絞る、という意味の激しくて緊迫した状態を表わす言葉も、いまでは、遠い昔のように思えた。
修羅場になりそうな日の前の晩は、下腹がからっぽになるまで性器を振り回した。女性器に埋没し、そして現われる剣抜弩張の文字を確認して自分をいきり立たせた。
四年前の抗争で六発の銃弾を身体に受けてからは、性器をいきり立たせて剣抜弩張の文字を見るどころか、反射性尿失禁というものに悩ませ続けられていた。
抗争の原因は、福岡ドーム球場の利権の争いだった。
相田興業と名乗ってはいるが、世情に合わせて看板を掛け替える前までは、相田一家と金文字の看板を表に掲げていた歴とした組織暴力団である。その相田興業の下請け、ようするに企業舎弟の株式会社福博警備という会社が持っていた福岡ドームの警備の利権を関西大手の企業舎弟が奪いにきたことが抗争の発端だった。
現在では、下部組織の組同士を闘わせる代理戦争は終焉を迎え、企業舎弟同士が経済戦争を行う時代になっている。
そして、その経済戦争が収まり切れないときに、初めて武闘派の組織が動き始める。
福岡ドームの利権争いは、上部組織を巻き込む抗争に発展し、渡辺は六発の銃弾を受け、そして、相田興業の企業舎弟である福博警備はその利権を守り通した。
六発の銃弾を受けて渡辺が生き延びたことが、抗争において大きな意味を持った。最終手段に出た関西の大手が相手方の頭を取り切れなかったことでアヤがついた。失敗は大きな失点になり情勢は一気に変わる。相田興業の渡辺克己の運にあやかりたい同業者たちが集まってきた。そして、渡辺は「不死身のナベカツ」という通り名を貰った。
ベテランが怪我から返り咲く、スポーツの世界で言う不死身でもなく、不慮の事故から九死に一生を得た不死身でもない。
命を的にかけられ、人を殺すためだけに創られた道具で狙い撃ちされ、狙った人間がまんまと成功を収めたと思ったところで、現世に舞い戻ってきた。
命を取ったり取られたりする世界での正真正銘の不死身という称号である。
「不死身のナベカツ」という通り名は、気合いとハッタリの世界では絶大な効力を発揮し、金が唸りを上げて雪崩《なだれ》込んでくるようになった。
そして、渡辺が通り名と共に、背負わなければいけなくなったのが、大人用紙オムツだった。
不死身は表で、大人用紙オムツは裏だった。
裏はどんなことがあっても表に出してはいけない。「不死身のナベカツ」と「オムツのナベカツ」ではまるで違いすぎる。
それは、血統書付きのチンチラペルシャと、猫エイズに罹《かか》って鼻水を垂らした捨て猫ぐらいに違う。
ぼそぼそになってしまった捨て猫でも温かい家庭に拾われれば、それなりに穏やかな一生を送ることはできるだろうが、渡辺の生きる世界ではそういうわけにはいかない。
背中から受けた銃弾による脊髄損傷の後遺症として抑制中枢が完全に遮断され、膀胱《ぼうこう》に刺激が加わると不随意に膀胱が収縮し、排尿が起きてしまう。反射性尿失禁と呼ばれるものだ。
ヤッカイモンと呼ばれる自分の妻だけが、渡辺のオムツの事実を知っている。
その妻から、パッドタイプの紙オムツからパンツタイプに替えることを助言され、一ヵ月前から、パンツタイプに替えた。パンツタイプはパッドタイプに比べてズボンの中でかさばり、ズボンを脱ぐとオムツをしていることがすぐにわかってしまう。
尿吸収量はパッドタイプのスーパーと銘打った六〇〇ミリリットルに及ばず、四〇〇ミリリットル程度だが、パンツ型をしていることで渡辺は心理的にパッドタイプよりも落ち着いた。
なにせ、パッドタイプは生理用ナプキンと形態も装着方法も同じで、渡辺にとっては、女になったような気分を味わわされて情けなかった。
パッドタイプのオムツを見るたびに、「チャームナップ・ナベカツ」「アンネ渡辺」などのくだらなくて最悪なあだ名が頭に浮かんだ。
もし自分の敵が自分のような立場に陥ったことがわかったなら、最低の通り名を相手に付けておとしめるだろう。
喧嘩のときには、相手の弱点をちゃかして激怒させれば、こっちのもんだ。
「冷静なふりをしてるけど、どうしたんだい? 今日は小便ちびっても大丈夫なように、多い日でも安心≠チてやつに替えて来たのか、てめえ! それとも夜用ロング≠チてやつか?」などと、えぐるような啖呵《たんか》を吐き掛けられる日がいつか来るかもしれないと渡辺は不安を覚えた。
渡辺は、敵が薄ら笑いを浮かべている姿を打ち消し、消毒用アルコールを含んだ衛生濡れナプキンをポリ袋に突っ込み、オムツの入ったポリ袋も二重になるように入れて口をきつく絞った。
鍵の掛かるサイドボードから新しい紙オムツを取り出し、ポリ袋を収めて鍵を閉めた。
渡辺は真新しい紙オムツをはいた。
乾いたサラサラ感に少しばかり気持ち良い気分を味わっていると、社長室のドアがノックされた。
「おう」
渡辺は返事をすると、ズボンを引き上げ、消臭スプレーを天井に向けて振り撒いた。
薄荷《はつか》の香りが霧状になって広がった。
鼻を何度か動かし、忌《い》まわしい尿の臭いが隠れたことを確認してドアの鍵を開けた。
「おー、何や、珍しか人間の顔が現われよった。省吾やないか!」
「お久し振りです。また、博多に厄介になりに来ました」
幸三はドアをくぐると、頭を小さく下げた。
「そうね。まあ、入りない、座りない」
渡辺が招き入れると、幸三は懐かしそうに部屋を見回した。
社長室の調度品から、相田一家から相田興業へと時代の波を乗り切って、経済的に潤っているのが幸三には見てとれた。しかし、渡辺の態度と部屋に漂う消臭剤の臭いに奇妙なものを感じ取った。
(クスリをやっていたのか?)
と、幸三は消臭剤の裏に隠された臭いを嗅ぎ取るように鼻孔を広げた。
「省吾、ほら、早よ座りない」
渡辺は幸三の小鼻が少し膨《ふく》らむのを目敏く見て、気を削《そ》ぐように幸三の背中を押した。
幸三は押されるままに革張りのソファーに座り、臭いの違和感を脳裏に刻んだ。
「ナベカツさん、申し訳ないけど、また、名前が変わったんですよ」
「何や、省吾やないとや、そんで、何って名前になったとか?」
「はい、ナベカツさんと仕事したときの省吾から、英弘、良二、そして三郎って名前を通り抜けて、今回は三つの幸せの幸三って名前です」
「そうかい。消し屋省吾≠ェ消し屋の幸三≠ゥ。今回は、四《よ》つ言葉やけん、『の』が入るっちゃな」
「さすが、ナベカツさん。仕事のときは消し屋の幸三で。面倒でしょうが、入れ替えを願います」
「よかよか、ヤクザは人の顔と名前を憶えるんが仕事みたいなもんやし、それもおまえのシノギ方やけん、間違わんごと気をつけるたい」
幸三は頭を下げた。
「それにしても、何年振りかいなねえ、幸三」
渡辺は、まるで昔から呼んでいるような声で幸三と呼びかけた。
「十年を超えてますね。ナベカツさんは、相田一家の頭取ったそうで、おめでとうございます」
「なんも、ただの年功序列たい。俺も五十八になったけんね。五十三で組を引き継いで、社会情勢から言ったら、早くも遅くもなく、どうにか生き残れたってことたい。おまえのごと荒々しかシノギはしとらんけん、なんも誇れんよ。それにしても、どげんしたとや? 関東のほうで何かあったとな?」
「ええまあ、ちょっときつめの仕事をこなしたもんで」
「おまえが、きつめって言うと、そりゃあ随分と激しそうな消しの仕事だろうな。それで、追われとうとか?」
「いえ、俺の消しで揉《も》め事が終結したってことで、追われる心配はありません。ただ、少しばかり風を変えてみようかと思いましてね」
「おお、それがよか。俺たちのごたあ組織の筋者は地面に根ば張らないかんばってん、おまえんごと、一本|独鈷《どつこ》でシノいでる奴は、あまり同じところにおらんほうがよかろうけんね」
「そうですね。根なんて生やしてると、あっという間に絞首刑《バタンキユウ》ですから」
「そら、そうやな」
渡辺は、短く肉に埋ったような首を触った。
「それで、幸三。仕事はあるとか?」
「いやあ、ないですね、まったく。それで、ナベカツさんのところに消し屋のご用聞きに来たんですよ」
「うちもなかぜ。いまの博多には」
渡辺は言って、煙草に火をつけた。
「消し屋の幸三が走り回らないかんような仕事はなかろうね」
「そうですか」
幸三は落胆するでもなく言った。
「抗争やらないけんね」
「それは知ってます。俺は今回博多に来て、様子が違うんで戸惑ってるんですよ。不況ってのはわかりますけど、そういうときこそ筋者が暗躍するじゃないですか、しかし、そんな気配は感じない。かといって、筋者が意気消沈して疲弊してるわけでもない」
「おまえなら、わかるやろう」
「ええ、ナベカツさんのところだって潤ってないわけがないのはわかりますよ。このソファーなんて、ウィルクハーンの特注だ。金持ってるだけの成金には、こんなソファーを買う頭も情報もないですからね」
幸三は、ドイツが誇るオフィス家具メーカーのソファーの座り心地を試すように腰を動かした。ピンと張られた革と、ステンレスの金属が濡れた軋《きし》み音を立てた。
「俺には、あんまり、似合っとらんやろうけど、座り心地はなかなかよかよ。わかる奴にはわかるっちゃね」
「ええ、筋者ってのはハッタリをかましますけど、こんな風に空間を創って試されることは、そうそうありません。ナベカツさん、誰の知恵入りですか?」
「こりゃあ、うちの若頭を紹介しとかないかんね。それこそ試しがいっぱいある部屋やけど、それを指摘する人間がいたら紹介しろって、うるさいっちゃんね。いま、呼ぶけん、待っときない」
渡辺は立ち上がると部屋を出て行った。
十数年前に相田一家と仕事をしていたときの様相とはまるっきり変わっている。
祝い提灯と象牙《ぞうげ》の置物、ハッタリをかました黒革の大きなソファーは、現代の状況にはそぐわないと敏感に察知した筋者が組織内にいることを示していた。そして、次に来る選択が、イタリア・カッシーナの家具のような情報が先行した成金趣味ではないところも不思議に思えた。
幸三は、どんな若頭が姿を見せるのか身構えてドアを見た。
身体に脂肪を思う存分に付け、肩を揺するように入ってくる渡辺の後ろに、額をM字型に禿《は》げ上がらせた男の顔があった。
男はにこやかに顔をほころばせて、ウィルクハーンのソファーに座った。
「どうも、はじめまして、渡辺のオヤジの下で働かせてもらってます。相田一家の若頭、現在相田興業の専務、今岡と申します。よろしくお願いします。消し屋省吾改め、消し屋の幸三さん。お噂は以前から、社長から聞いています。お顔を拝見できて光栄です」
仁義を切っても似合ういかつい顔と、重量級のボクサーのような身体を持った今岡は、昔風な挨拶をした。幸三と今岡はちらりと目を合わせて頭を下げあった。
「今岡さん、間違ってたら悪いけど、前に顔がついたことないかい?」
「さすがですね。まだ私が修行中の頃に、消し屋省吾と顔はついたことはありましたが、それこそ、こっちは糞《くそ》扱いの丁稚《でつち》ですから、今回初めてお話しができるってことでの、はじめましてでして」
今岡は博多弁を使わなかった。
「そうかい、じゃあ、何人も抜いて出世したってことだな」
幸三は細長い指で煙草を抜くと火をつけた。
「いえ、安定期だから、私のような金庫番がするする上がったってことで、喧嘩になれば私なんて簡単に首をすげ替えられますよ」
「こいつの見た目は、いかついんやけど、本当にうまいのは会社の取り回しやもんね。こいつのお陰で、うちは随分と潤っとうよ」
「そのようですね」
「だからというのは変なんですけれど。消しの仕事というのは、いまのところうちにはありませんよ。博多の筋者は安定期に入ってますからね」
「安定というと?」
「ええ、企業舎弟の会社が、きっちりと上納を納めることができるんですよ。筋者同士が血を流すような戦争から、企業舎弟同士の経済戦争ってのが時流なんですね、博多では」
「喧嘩するより商売優先ってことですね」
「優先ってよりそればっかしやね。俺はお陰で暇を持て余しとおよ。幸三、いまは、筋者が金出して会社ば始めるやない、客のことやら何も考えんモラルのない会社よ。バレんやったら何でもするってのが根底にあるけん、儲かるとよ」
「いいじゃないですか」
「それが、おかしなことになっとうな。俺たちが儲かっとうと知ったら、面白かことに、真っ当な堅気の会社も、俺たちのやり方ば、真似するっちゃんね」
「勘違いした堅気が筋者の真似なんてすると火傷《やけど》するな」
「いまんとこは、どうにかやっとうけどな」
「そうでしょうけどね」
「火傷じゃ済まんくなるよ。蛇《じや》の道はヤクザやけんね、堅気の会社が違法なことやりよったら、俺たちが、そこんとこを調べ上げて乗り込むんやね。それで、つつきまくって会社ば乗っ取るったい」
「不死身のナベカツが後ろに付いてるってことで、堅気は他の筋者にも泣きつけないし、それこそ、自分が法律を破ってますからね、警察には行けませんし」
「それは大漁ですよ。一億総ヤクザみたいなもんで、完璧に法律を遵守してる会社なんて少ないですから」
今岡は背筋を伸ばして喋っている。
「そうよ、幸三。スーツ着てネクタイ締めた真っ当な堅気の質がどんどん悪くなってるお陰でうちの企業舎弟はがんがん増える。台湾や香港と済州島にまで会社がある。うちの企業舎弟の間で、金のやり取りしてぐるぐる回せば、洗濯したように金なんて真っさらになるけん税金やらかからんけんね」
「その金の流れを作り上げたのが今岡さんってことですか」
「まあ、どこの組でもやることでしょう。とにかく、社長も言ったように、堅気の会社の質の低下が私たちに味方してますね。日曜日には白いポロシャツ着て、子供を連れて遊園地に行くお父さんが、いざ、会社という括《くく》りに入ると、伝票の書き換えや、ラベルの張り替えなんて詐欺や、違法工事も何でもござれと、罪悪感のかけらもなくやってますからね。法律スレスレっていうところでやりくりしているうちの企業舎弟のほうが、よっぽど法律を守ってますよ。どっちがヤクザかわからない」
幸三が笑うと、今岡が苦笑した。
「ヤクザと消し屋が苦笑してしまう世の中じゃ、人殺しなんてもんは、脳味噌の薄暗い奴が繁華街で包丁振り回すってことだけになってるんですね」
「そやな、堅気は殺さんでも、追い込んだら勝手に自殺するけんね。筋者は殺し合わんでもやっていける。幸三、おまえには寒か時代になっとるぞ、博多は」
渡辺は幸三に対して言った。幸三にとってそれは、すまなそうというより、喧嘩せずにシノギを続けている自分に戸惑っているように聞こえた。
「幸三さん、いまのところは消しの仕事はありませんが、何かが勃発する危険はいつもはらんでいるのがこの業界です。その時には力を貸してください。それで、今日はこれを……」
今岡はピンと張った厚めの封筒を幸三の前に差し出した。
「俺は、こづかいをたかりに来たんじゃないぜ」
幸三の切れ長の三白眼《さんぱくがん》はより剃刀《かみそり》のように細くなった。
「幸三、くれるってもんは貰っときゃよかろうもん。今岡は、恐ろしくケチやけど、見込んだ人間には金を張るとよ。俺は今岡が、こげんふうにポンと金ば出すのを初めて見た。幸三、今岡の気持ちば受けてやんない」
「はあ、じゃあ遠慮なく」
幸三は頭を下げると封筒を取った。五十万ほどの厚みが掌に伝わった。経済を専門にした筋者の渡した五十万はそれ以上に重く感じられた。
「幸三、おまえはいくつになるとや?」
「今回の幸三の戸籍では四十六になっています」
「本当の歳のプラスマイナス三歳ぐらいか……。幸三、顧問って形で、うちに入らんか? おまえ一人ぐらい遊ばせとく余裕はあるけん」
「それは遠慮しときますよ。自分のルールでしか動けないんですよ」
「そげん言うと思った。ばってん一本独鈷じゃ、これからもっときつくなるぞ」
もしかすると渡辺が自分のことを心配しているのかと、幸三はおかしくなった。
「そんときは、また名前でも替えて風を変えますよ」
「ほんとに、おまえは『消し屋A』やね」
「何ですか、Aって」
「仮名のAってことだよ。少年Aとか仮名A氏とか言うやろう。実体がよう見えんってこったい」
「そりゃ、うまいこと言いますね。二十数年名前替え続けてると、本名が何だったかわからなくなりますよ。まあ、俺には本名なんて何の意味もなくなっちまってますけどね」
幸三が小さく笑うと、二人も釣られて笑った。
「じゃあ、これで今日は」
さっと立ち上がって幸三が言った。
「まあ、何かありそうなときは連絡入れるけん」
渡辺が言うと、今岡が立ち上がって頭を下げた。幸三と今岡が顔を見合わせた。
今岡にはニヤリと笑った幸三の顔が像を結んだ。次の瞬間、その像がぼやけた。
幸三はボクサーがスウェーしてパンチを避けるように身体を横に振った。あくまでも軽く自然な動きは、幸三を影のように見せた。
影が肩口を通り抜けたと今岡が目の端で追うと、身体は影に柔らかく包み込まれていた。渡辺は微動だにしなかった。
「今岡さん、動かないほうがいいよ」
幸三が耳元で囁いた。今岡の右手は背中に回されて極《き》められ、喉元に冷たい金属が当てられている。
「刃物を動かすから変なことしないでね。今岡さん」
喉元の刃物がゆっくりと離れると、今岡はゴクリと喉を鳴らした。
「ほら見てご覧……、今岡さん」
下から静かに刃物が上がって今岡の目の前に止まった。刃渡り十センチほどで鉛筆の幅ぐらいしかない刃物だったが、磨き上げられて光る刃物には今岡の瞳が映り込んだ。
「なんでえ、小さい刃物だなって思ってるだろう。でもね、これって、なかなかの優れもんでね、耳這刀《じばいとう》っていうんだよ。これを一気に耳の中に突っ込むんだよ。見てご覧、左右対称に刃がついてるだろう。耳の穴の中を切り裂きやすいようになってるんだ」
幸三は催眠術師のように優しい声で言った。そして、刃を少しずつ横にずらして刃先を見せた。
「刃先が尖ってなくて丸みを帯びているのが見えるかい? 何故こんな形になっているのかっていうと、骨とかに突き刺さらないようになってるんだよ。だから、ツーと滑るように脳味噌狙って進むんだね。まるで、耳の穴を這うようにね、だから耳這刀なんだよ」
「あの……」
「危ないよ、動いちゃ。フランクフルトソーセージに割り箸を刺すように、ツーと入って行くんだから。露店で売ってるじゃないアメリカンドッグって言って。あれ、全然おいしくないね」
「何言ってんだ、幸三さん」
声に反応して幸三は今岡の右腕を締め上げた。
「動くなって。耳に当てるからな、もう、ピクリともできないぜ」
今岡の耳に冷たい物が当たった。少しこそばゆくて身震いしそうなのを堪えると、背中から後頭部に鳥肌が走った。
「ツッと刺してクイッて動かすと十分も持たないからね。救急車呼んで、脳外科医を捜してる間に、終わってしまうんだよ。そんな目に遭いたくないよね」
幸三は首だけで渡辺を振り返った。
「ナベカツさん、ちゃんとボディチェックしねえと、こんなもんを持ち込まれるんですよ。まあ、ハジキやドスを念頭に置いたボディチェックじゃ、この耳這刀は見つけられないでしょうがね」
「幸三、俺がここでチャカ出したら、そげな小っちゃなヤッパでどうするとや?」
渡辺は幸三を食い入るように見ている。
「おっと、渡辺さん、もう今岡さんの耳の入り口んところに耳這刀の刃先が触れてんだから、動いちゃ駄目だよ。たぶん、ナベカツさんはハジキは持ってないよ。でもね、もし、胸に呑んでたとしても、ハジキ取り出す動きと、俺が耳這刀をツーと入れてクイッと動かすんじゃ、こっちのほうが速いんですぜ。どうですナベカツさん、金を産む鶏を賭けて試してみますか」
幸三は片頬を上げてニヤついた。
「消し屋は仕事が終わったら、すっと消えるんだぜ。そのあとは、どうするとや。殺して捕まるんなら自爆テロと同じやないか。消し屋は、どげんやって逃げるかが問題やないとか、逃げらるるとか?」
「耳這刀は、音がないですからね。ドアの外に音が聞こえません。異変を感じて若い衆が雪崩込んでくることはない。それに、さっきナベカツさんは、俺に同情のような言葉を吐きましたね。隙のないピカピカの武闘派だったナベカツさんも金が入って平和ボケしてるって踏んだんですよ。この場を俺より速く動いて収拾する力はないって。今岡さんを消したあとに、音もなくナベカツさんを沈めますよ」
「………」
「耳這刀はほとんど返り血を浴びないんです。隣の部屋で電卓を叩いて書類に没頭してる若い衆たちに、血の臭いを感じることができますかね」
渡辺が無言で見つめ、今岡の吐く息が社長室に規則的に響いていた。
「さあ、今岡さん。ゆっくり両手を頭の後ろで組んでくれるか。耳には耳這刀を当ててるから静かにだぜ」
今岡は後ろ手に組むと、身体を動かさないように大きく息を吐いた。
「幸三、これはプレゼンやな」
渡辺が探るような目つきで訊いた。幸三は表情を変えなかった。そして、今岡の大腿から臀部までを撫で回した。
「今岡さん、いい尻してるね。若い頃は、ラグビーか野球をやってた筋肉だな。でもね、脂肪が霜降りになって筋肉に入り込んできてるよ。せっかく、いいもの持ってんのに、安心してたらブヨブヨになって垂れ下がっちまうねえ。ふふふ」
「幸三、もうそれくらいにしてやらんね。金を渡したのはおまえを馬鹿にしたわけじゃなかけん。プレゼンなら、その耳這刀ってのば俺にくれんね。そしたら、耳這刀ば買ったことになるやろう。それでよかろうが」
渡辺が言うと幸三は今岡の耳から耳這刀を外した。そして、袖の裏側に両面テープで張り付けていた厚紙製の鞘を剥ぎとると耳這刀を収めた。バリッという乾いた音に今岡の身体はビクッと動いた。
「今岡さん、悪かったね。でも用心はしたほうがいいよ。ナベカツさん、耳這刀は進呈しますよ。使うのは難しいでしょうがお納めください。お二人さん、お忙しいところをお騒がせしやした。こんなやり方もありますんで、消し屋のご用命がありましたら、連絡を願います」
幸三は今岡を軽く突き離すと、耳這刀を自分が座っていたソファーに投げた。渡辺と今岡が視線を耳這刀に向けた瞬間に幸三はドアに動いた。
「じゃ、そういうことで」
後ろ手でドアを開けると幸三は姿を消した。残された二人には、幸三の身体が小さく開いたドアの隙間に吸い込まれていったように見えた。
「ふーっ」
残された二人の息が響いた。そして、そのため息は苦笑に繋がった。
「あいつの腕は上がっとうようやな。前のときは、夜に来て建物の電気ば全部消したけど、今回は真っ昼間やけんね」
渡辺はソファーにあった耳這刀を手に取った。
「私は、誰に狙われたのかを考え続けていましたよ。しゃばいことですね」
しゃばい、と博多弁で弱虫という言葉を今岡は使った。
「で、誰が絵ば描いて幸三をよこしたと思うたんか?」
「近場ではまったく、もしかすると関西かと思いましたが……。みっともないことですね」
今岡は、幸三の座っていたソファーに腰を下ろした。ウィルクハーンの固めのスプリングが腰を押し返した。今岡は尻のポケットに異物を感じ手を後ろに回した。
「あれえ?」
手に握られた異物は、幸三に渡したはずの封筒だった。それを見た渡辺が大きく笑った。
「やられっぱなしやな、俺たちは。この耳這刀もただで進呈されとるやないか。しかも、平和ボケやけん用心しろっていう助言まで受けて。情けなかねえ、今岡よ」
渡辺は言うと、耳這刀を鞘から抜いて「この研《と》ぎ方は素人じゃなか、金がかかっとうな」と刃に親指の腹を当てながらボソッとつぶやいた。
「セキュリティーとかを見直しますかね。危機管理システムとして、うちの警備会社に頼んで、この部屋にも警報装置に直結したスイッチとかを配したほうが良さそうですね」
「馬鹿野郎! それが平和ボケって言われるところたい。自分の身体ん中に危機回避の装置がなくなっとうってことやろうが!」
渡辺が怒鳴ると今岡は小さくなった。しかし、渡辺にとっては自分に言い聞かせた言葉でもあった。
六発の銃弾を身体に受けたときに生き残れたのは、自分の運などではなく敵の人材の選定ミスで、もしも、その当時に幸三が博多にいて、敵に雇われていたなら銃弾など受けずに葬り去られていただろう。自分に運があるとしたならば、それは幸三がいなかったことだ。今岡のように幸三に後ろへ回られ、尻を撫でられていたとしたならば、幸三は手に残る違和感と部屋に入ってきたときの鼻に皺を寄せた臭いとを結びつけ察知するだろう。そして、一番知られたくない配下の前でズボンを下ろさせたかもしれない。そんな思いが渡辺の中で渦巻いた。
平和ボケという言葉に寒気が走った。幸三に仕事がないと同情に近い感情を持ったことは、自分自身の平和ボケを露呈していたのだろう。自分は時代に合わせて変わってきた、そして、消し屋の幸三も変わっていた。しかし、幸三とは時代との対峙《たいじ》の結果が違っていた。自分のは、笑って食い物にしている拝金主義の企業に近づいていた。ずるくて、少しも賢くない拝金主義だった。
渡辺は嫌な気分でいっぱいになった。
「今岡、死にとうなかったら幸三が博多にいる間は繋がっとかないかんぞ。ギリギリんとこで生きとう奴は離したらいかんぜ」
苦々しい思いで渡辺は言った。
「はい、わかりました」
今岡は、ナンバーワンの売り上げを誇る営業マンのような顔で答えた。
細くて薄い耳這刀は丹念に研がれ磨かれている。どんな狭い隙間にも静かに入り込んでいくだろう、そして、核心の部分を切り裂く。渡辺には、耳這刀は幸三のように見えた。
十数年前にプレゼンと称して幸三が一人で乗り込んだときは、手品のように電源を切り、懐中電灯で九寸五分の匕首《あいくち》をギラつかせ、その場を掌握した。しかし、今回は、耳這刀のように静かだった。時代と共に幸三が進化しているのを渡辺は感じた。
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03  契約書
福岡の繁華街天神の横に面した大名町は、古くから十階建て以上のビルが建ち並ぶ町である。路面電車が走っていた名残の細い通りの両側に古くて高いビルが迫《せ》り出すように建っている様は、旧市街の香港の町並みのようにも見えた。
酒家と名の付いた老舗《しにせ》の中国料理店が一階から三階までを独占し、その四階から上は住居になっている十三階建てのビルがある。九州一の歓楽街中洲に歩いて行ける立地、日当たりは悪く、環境も決して良くない古いビルには、近所付き合いなどは一切やらない人間たちが住んでいた。消し屋が身を潜ませるには打ってつけの環境だった。
幸三は居を構えた十一階の階段の踊り場で、軽くアキレス腱を伸ばすストレッチをした。三十年はたっているだろうコンクリートの壁は、何度も塗り返したせいで、昔の円柱のポストか使い込んだ船の手すりのようなペンキのでこぼこが目立った。
皺一つないバイアス織りのスーツに革底のビットローファーの幸三は、ゆっくりと深呼吸をして下りの階段に背を向けた。そして、踵《かかと》から階段を一歩ずつ後ろ向きに降りて行く。
手すりを持つこともなく背筋を伸ばし、後頭部から背中、それと足の裏に神経を集中させて敏感にする。革底の靴を履き慣れていない人間の足音はコツコツと無様な音を立てるが、幸三はしっとりとした足音をわずかに響かせるだけだった。
たった一人で、どんな状況でも仕事をこなさなければならない消し屋は、背中にいくつも目を持っていなければ生きていけない。幸三は毎日、仕事着に身を包んで後ろの目を覚ます行為を繰り返してきた。その時々の仕事の状況に合わせて服装が作業服やジーパンにスニーカーのようなカジュアルな服装に変わることはあったが、いまはさし迫った仕事がないので、身にまとう頻度の高いスーツにしていた。四十代の男が一番目立たない服装はスーツで、幸三は、形や値段も受ける印象も違う様々なスーツを揃えていた。しかも、幸三の場合はスーツで激しく動くこともある。格闘の末、肩口がぱっくりと裂けてしまっては目立ち過ぎて逃げ場を失う。皮膚の一部に感じられるほど着こなしていなければならない。ユニフォームでいうならスピードスケートやアルペンスキーの選手のように、金も気も遣った。
九階を過ぎたところで、幸三は階下に人の気配を感じ回転して、後ろ向きから前向きに歩き始めた。
八階の階段に小学校の高学年ぐらいの男の子が座っていた。幸三は健康のために階段を使っている住人のような素振りで、「どうも」と小さな声で言いながら男の子の横を通り過ぎた。
押し殺したような嗚咽《おえつ》が微かに聞こえた。
体育座りをして膝の間に顔を押し込み、泣いていることを見せまいとしている男の子の姿は頑《かたく》なだった。男は泣き顔を見せないように子供でさえ我慢するのだろうと、幸三は懐かしく感じた。
幸三が三階を下っているときに男の子が大きくしゃくり上げる声が階段に響いた。
地上まで降りて、郵便受けを開けると、出張ヘルスとローン会社のチラシがいつものように投げ込まれ、『杉本幸三』という新しい名前宛に携帯電話会社と銀行からのダイレクトメールが届いていた。幸三はダイレクトメールの自分の名前のところを中心に小さく千切りゴミ箱に捨てた。会社は新規契約のお礼を兼ねた新製品の情報を送り付けてくる。会社というのは礼儀正しくしようとしているけれど、結局はいぎたない商売人に過ぎない。悪辣《あくらつ》なところを微塵《みじん》も見せずに新規契約の手続きを行っていた銀行の担当や携帯電話会社の営業マンから、もしも、商売というものを引き算のように抜いてしまうと、無愛想で利己的な人間が残ってしまうのだろう。
背中向きに幸三は階段を登る。背中向きに階段を降りるときは転がり落ちる危険に対して神経を集中するが、登る場合は踵から背中にかけての腱と筋肉を鍛えることになる。背中向きに降りる場合の人間の動きは、前からの力に対して踏み留まるという動きに近く、それは、重たい物を胸と腕で前に押す筋肉の使い方で、日常ではさほど変わった筋肉の使い方ではない。しかし、登る行為はまるで日常生活では行われない筋肉の動きだった。重力に反して身体を持ち上げながら後ろに進む。スポーツ選手にはほとんど必要のない筋肉の動きだが、消し屋にとって背中を見せないように場面を掌握して逃げることは珍しくない。背中に目を持ち、敵を前の目で牽制して踵から階段を駆け登る。転んだ瞬間にすべてが終わる。幸三は、自分が袋叩きに遭い引き裂かれる情景を思い浮かべながら階段を登った。
七階にさしかかると階上にまだ人の気配を感じた。幸三はわざと足音を大きく立てて登り始めた。
背中向きに階段を登って来る人間に大いに驚いているのを感じながら幸三は八階に上がった。そして、幸三はビデオの逆回しのように乱れることなく少年の横に背中向きのまま腰掛けた。少年が目を真ん丸に開けて幸三の横顔を見ている。
「おい、少年。どうしたんだ、こんなところで」
「何でもないよ、別に……」
幸三が顔を向けて言うと少年は顔を背《そむ》けた。
「コラ! この餓鬼! 高えスーツの尻が汚れるのを承知で見ず知らずの餓鬼に声掛けてやってんだぞ、コノ野郎。別にたあ、どういうこった。大人を舐《な》めると恐い目に遭わせるぞ!」
少年の目に怯《おび》えの色が見えた。
「もう一回訊くからな、ちゃんと答えねえと承知しねえぞ、この餓鬼。どうしたんだ?」
「タックンたちにいじめられたんだよ」
泣き声が交じった声で少年は言った。
「ふん、大方そんなこったろうと思ったぜ。おまえ、何て名前なんだ?」
「純……」
「それで、タックンってのは、何て名前だ?」
「達夫だよ」
「あははは、達夫に純かあ、そりゃあ純がいじめられる側だな」
「じゃあ、おじちゃんは何て名前なの?」
「俺は幸三だ。典型的ないじめっこの名前だな。俺だってピーピーすぐ泣く純なんて弱っちい名前の奴がいたら、そりゃ面白がっていじめたくもなるわな。なんてったって幸三だからな、あははは」
幸三は格好の暇つぶし相手ができたと面白半分に言った。
「そんな、名前でいじめるなんておかしいよ」
純のサラサラの髪が揺れて天使の輪が光った。
「餓鬼はやっぱり馬鹿だなあ。名前は大事なんだぜ。達夫なんてゴツくて田舎臭い名前の奴にとって、純って名前はなかなか嫌味に聞こえるもんだ。それにおまえ転校生だろう」
「えっ、どうしてわかるの」
子供ながらも純は不信感のこもった目で幸三の顔を覗いた。
「大人は何でもわかるんだよ。おめえ、博多弁喋ってねえじゃねえか。しかも、東京の山の手の餓鬼のしゃべりだ」
「おじちゃんだって、博多弁喋ってないじゃないか」
「なんば言いようとか、きしゃん。博多弁はちゃんと喋りきいばい。それにな、大阪の言葉も使えんねんでぇ。どや、おもろいやろ。名古屋だって青森だってできるぞ」
「すごいな。どうしてそんなことができるの」
「そりゃなあ、おじちゃんはたった一人でいろんな町に乗り込んでいくからだよ。郷に入ったら郷に従えってのがあるだろう、それじゃ遅いんだ。俺はなあ、博多に来る前にもう博多弁を喋れるようにしたんだぜ。郷に従って、それからやっと郷に入れんだよ。おまえ、博多に来る前に博多のこととか調べたりしてねえだろう」
純は頷いた。
「前の学校の先生と親はどんな町だとか、どんなことに気をつけろとか言わなかったのか?」
「うん、博多は魚がおいしい町だって……」
「それは随分と人間を舐めてるか、ただの阿呆のセンコーと親だな。おまえだって嫌だと思うぜ。知らねえ奴がいきなり自分の家に、『魚うまいんだってね』なんて能天気なこと言いながら入ってきたら」
「うん、嫌だ……」
「ニホン猿の猿山の中に、リスザルって毛が金色のちっこい猿を入れたみたいだな。金色の毛ぐらいニホン猿に近い色に染めりゃあ、よかったんだ」
幸三は笑って言った。
「どうやったらいじめられないの? おじちゃんだったらどうする」
二重瞼の大きな目で純は見上げている。
「最初にいじめられないように防御線を張っとくのは、それほど面倒じゃなかったんだけどな。いったん、いじめられ始めて、そこから抜け出すってのは難しいだろうな」
幸三の言葉を聞いて、純は「ふーん」と言うとまた下を向いた。
「おじちゃんって、何してる人なの?」
「俺は消し屋だよ。消し屋ってのは殺し屋ってことだな」
「嘘だあ。殺し屋なんて」
「何言ってんだ、おまえ。福岡で起こった犯人の捕まっていない殺人事件は全部おじさんがやってるんだ。秘密だぞ、人にバラしたら、おまえも殺しちゃうぞ」
「そんなにいっぱい殺せないよ……」
突飛な話に突飛な話を被せると子供はよけいに信用する。殺人事件、殺しちゃうという言葉を被せられることで、消し屋という言葉に対する疑問は薄れ認めてしまう。少し怯えた表情で見上げた純を幸三はおかしくてしょうがないという顔で見た。
「タックンを殺してくれないかな……」
純の声は消え入りそうなほど小さかったが、切実な色は充分に表れていた。
階段に時折吹き込んで来ていた風に、博多湾に面して発展した町らしく潮の香りが混ざっていた。博多の海は志賀島《しかのしま》という陸続きの島で囲まれ内海と外海に分けられ、博多湾は流れの淀んだ内海になる。
幸三は潮風の中にある腐敗臭を嗅ぎとった。
純はすがるような目で幸三の返事を待っていた。
「それで? まさか幸ちゃん、その純って男の子のお願いを引き受けたわけじゃないでしょうね」
蘭子はピンセットのように細長い指で、ダイニングテーブルの上の皿に盛られたブラックオリーブを摘《つま》んで口に入れた。幸三は武骨なデュラレックスのグラスに重口の赤ワインをどぼどぼと注いで蘭子の前に置いた。
「それがな蘭子。純って餓鬼はなあ、ぐっとくるような綺麗な顔してんだ」
「何、それ」
蘭子は喉仏を大きく上下させてオリーブの種を幸三の顔目がけて吐いた。幸三は飛んできた種をスウェーして避けた。種は壁に当たると大きく跳ねてステンレスのシンクに飛び込みカランカランという音を立てた。
「いや、おまえが見たってぐっとくるはずだ。俺はビスコンティの『ベニスに死す』を思い出したぜ」
「あらそうなの」
蘭子の顔が少しだけ輝いたのを幸三は見逃さなかった。
「そうなんだよ。純の鼻筋はいいラインだぜ。小学五年にして、あの鼻筋は成長していくと一級品になる匂いがする。おまえだって会えば何か手助けしてやりたくなるぞ」
幸三も蘭子に負けないほど細くて長い指でブラックオリーブを三個摘むと口に放り込んだ。
「でも、幸ちゃん。綺麗だって言っても子供でしょう。いつからお稚児さん趣味になったのよ。それに、いくら暇だからって小学五年生のこづかいの中からの報酬で消しの仕事するの?」
「それがよう……」
ダイニングの椅子から幸三は腰を少し浮かすとヒップポケットから皺の寄った紙を取り出した。
「何それ?」
「契約書だよ」
幸三が紙片を渡した。
『 契約書
仕事の報酬として、十八歳になったらやらせます。
[#地付き]野仲 純』
と、少し湿った紙片には拙《つたな》い字で書かれていた。
「馬鹿じゃないの! まったく、もう!」
蘭子は紙片をひらひらと振って叫んだあとにけたたましく笑った。
「笑うなよ、バカヤロウ。おまえだって純を見たら唾をつけておきたくなるって」
照れたように言うと、幸三は赤ワインを蘭子に負けないくらいに喉仏を上下させて飲んだ。
「でもよかったわ。大人になるまで待つっていうのは。私たちはゲイだけど、いたいけな子供に性嗜好を持つのは変質者だからね」
「だろう。ゲイは芸術を産むことはあるけど、変質者はぼそぼそで悲しいだけだからな」
「若さに対する嗜好は、自分の老いに対する攻撃の部分があって、そこに芸術を産む可能性はあるけど、小学生は若すぎね。仔牛や仔羊は柔らかいだけで年寄りの食べ物だから、歯応えがないと私たちには駄目よ」
蘭子は、たっぷりのオリーブ油で素揚げした鶏の軟骨を、ミキサーにかけたバジルとニンニク、それと摺りおろした羊のチーズに和《あ》えたものをフォークで刺した。そして、口に入れると、わざとのようにコリコリと歯を立てて音を鳴らした。バジルの香りがダイニングに広がった。
「それでな蘭子。面白いことに、この契約書を純に書かせた直ぐあとに仕事の呼び出しがかかったんだ」
「あら、良かったじゃない。もしかしたら、その純って子が幸ちゃんの風向きを変えたのかもよ」
「風ねえ」
幸三は、豚肩ロースのブロック肉をナツメグ、オレガノなどの香辛料と塩で漬けて一週間寝かせ、それを二百度でじっくりとローストしたものをオーブンから取り出した。そして、焦げ茶色にローストされた肉塊をダイニングテーブルに置いた楕円《だえん》の柿の木のまな板にゴロンと転がした。幸三はバイキングの末裔《まつえい》のような仕草で、ローストされたポークを一センチほどの厚みにカービングしていく。中心に行くにしたがって薄い桜色の断面が見えると、湯気が上がり透明の肉汁が断面に汗をかいたように浮き出て滴《したた》った。
「ああ、いい匂い。やっぱり、幸ちゃんがローストした豚は最高の匂いだわ」
蘭子は湯気を吸い込んだ。
「豚の塊は暇人の食材だからな」
博多に来て仕事のない幸三は、毎日料理を作っていた。
「でも、仕事が入ったんでしょう。しばらくは幸ちゃんの時間をかけた料理も食べられなくなるわね」
幸三はカービングされた肉を皿に盛り、クレソンを二茎添えた。そして、たっぷりの西洋ワサビとバルサミコ酢をステンレスのソースカップに入れ、肉片に寄り添うように皿に載せた。
「|ボナペティ(たんと喰え)」と言うと幸三は皿を蘭子の前に差し出した。
「わかんねえけどな」
「何が?」
「風が変わったってことが」
「どんな仕事なの?」
蘭子はフォークとナイフを両手に握ったまま訊いた。
「明後日、福岡ドームに来てくれってよ。野球場だぜ、妙だろう。しかも、ホークス対ファイターズの試合をやってる最中だぜ。そんなところで打ち合わせるってのは初めてだよ」
「生ビールを飲みながら楽しく野球観戦って感じじゃなさそうね」
口に入るかと思うほど大きく肉片を切りながら蘭子は言った。
「ああ、おまえは風が変わったって言うけど、博多に来てから俺に向かって吹く風はずっと奇妙に静かな乱気流だぜ」
幸三は飲み干したワインを注ぎ直し、蘭子の返事を待とうと顔を上げると、蘭子はローストポークで頬を膨らませながら頷いていた。
「ったく……。おまえは元は男だから一つのことしか集中できねえな。心底《シンネコ》に女だったら、歯を磨きながら電話したり、洗濯しながら料理できる。二つのことを同時にこなせんだけどな。おまえのほうが見た目は女が入ってんのに、どうして二つ以上のことができないのかねえ。同時進行できるってのが女の特性だろう?」
「しょうがないじゃない。やっぱり幸ちゃんのローストした豚はおいしいんだから堪能しちゃうのよ。それに私はオカマだから一つと半がいいところよ」
どうにか肉塊を飲み込んだ蘭子は言った。
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04  ボール・ゲーム・パーク
福岡ドーム球場のロイヤルボックスのロビーは、ホークス対ファイターズの試合がすでに始まっていることもあって閑散としていた。
幸三は受け付けを済ますと、案内嬢の垢抜けない制服の後ろ姿を見ながら絨毯《じゆうたん》敷きの廊下を歩いた。
ロイヤルボックスと呼ばれる個室のドアが並んでいる。年間使用権利料として数千万円で企業に貸し付けていたロイヤルボックスも、いまや陰で十分の一にダンピングしても借り手は少ないという。
バブル期の残骸のようなVIPルームを喜ぶ人間も少なくなっているのだろうし、内装の造りもエグゼクティブ仕様で、バブル期にキノコのように乱立したリゾートホテルを思わせた。
渡辺から打ち合わせの場所をここだと聞いて、幸三は違和感を感じ調べた。蘭子の勤める店の客や雑誌、インターネット上や飲み屋の店主から聞くロイヤルボックスの評判は両極端だった。
その席を確保できたことで、いかに自分が社会と密接に繋がっているかを自慢したい人間は好意的に語った。それは、VIPという言葉に、まんまと乗せられてバブルディスコに通った人間のようであった。
批判的な意見は、ボックス内の飲食物持ち込み厳禁に対する文句だった。
静かな野球観戦の場と、食事と飲み物を提供することで利益を得ている場所でその文句は場違いだった。料亭に弁当と水筒を持って行くようなものだ。
しかし、幸三は球場内に入ると少し考えも変わった。出入口のゲートの場所さえも変え、訪れる人間にヒエラルヒーを感じさせようとしているが、時給八百五十円程度のアルバイトにマニュアルを与えて接客させるようでは、ディズニーランドぐらいのサービスしかできないだろう。
(よお、ねえちゃん。ニューヨークヤンキース好きのビジネスマンは、スーツ姿にキャップ被ってカボチャの種を喰いながら野球観戦するってのが無上の楽しみらしいんだけど、知ってるか? 俺もカボチャの種を持ってきたんだけど、これなら持ち込んでもオーケーだろう?)
と、からかいたくなる気持ちが湧き起こったが、幸三はやめておいた。たぶん、当社の規定という企業が都合のいいように造っただけのマニュアルに沿った答えが返ってくるだけだと予測はついた。しかも、性嗜好《せいしこう》の方向が若い女に向かっていないので、案内嬢のマニュアル通りの答えを聞くと、からかうだけでは済まなくなり辛辣な言葉を吐いてしまうだろう、と思った。
案内嬢の内股に動く尻を見続けながら、閉ざされた廊下をドーム球場を半周するかと思うほど歩いていると、幸三は自分がどこにいるのかがわからなくなりそうだった。
案内嬢がドアの前に立ち止まりノックすると、室内から渡辺の胴間声が響いた。
三方を壁に囲まれた個室は、グラウンド側はガラス張りで、外にはバルコニーが造られていた。客はそこでも観戦できるようになっている。
「おう、幸三。入りない」
ソファーに座って振り返った渡辺と今岡の背景に、光を浴びて蛍光色に近いくらいに輝いている人工芝の緑が広がっている。
幸三はお辞儀をして頭を上げると渡辺を改めて見た。筋者を長年やってきた人間の肌は太陽光のもとでは生き腐れの魚のようにどんよりする。しかし、まるで自然のものを含まないカクテル光線を人工芝で照り返した緑の中で渡辺は、キャラクターグッズのように艶やかに見えた。筋者は自然に反した身体に悪そうな空間がよく似合う。チンピラや半グレがミッキーマウスの絵が大きく入った趣味の悪いセーターを着るのは、あながち間違ってはいないのかもしれない、と幸三は思った。
「ナベカツさん、変わった場所で打ち合わせするってことは、仕事も変わりもんですね」
幸三は一人掛けのソファーに座ると言った。
「まあ、そげんところやけん、あせらんとビールでも飲みない」
今岡が備え付けの冷蔵庫から瓶ビールを出し、気持ちのいい音で栓を抜いた。
「じゃあ、今日はメモはとらないほうがいいですかね」
「そやな。まだ、おまえが受けるかどうかわからんけん、変な証拠ば残さんほうがよかろうな」
「そう言われると思って手ぶらできました」
幸三は両手の掌を広げて見せたが、スーツの肩のパッドを細工して小さな録音機を取り付けてあった。
「では、私からお話しします」
ビールを注ぎながら今岡が言った。
「幸三さんが博多にいたときには、この球場もダイエーホークスという在福球団もなかったんですけど。いまや、ここは大きな金の動く場所としてわが社では重要な位置を占めています」
今岡はわが社と言う代わりに相田と言っているように聞こえた。
「福岡ドームの警備の利権を持ってるのは知ってますよ。そして、それをナベカツさんの身体で守り切ったってことも」
「さすが調べてますね。でも、今回は、警備の利権ではなく、相田の元々の土壌を作った野球賭博のことなんです」
「野球賭博? 危ない橋を渡らなくても喰えるはずなのに、いやにきつめのことしてますね」
「ハイリスク・ハイリターンやけん、今岡はいい顔せんばってん、これはうちの屋台骨を作ったようなもんやけんね。危ないけんやめたとか思われたら、この稼業じゃまずかろうが」
渡辺は口を挟むとビールをちびりと飲んだ。ごくごくと喉を鳴らしてビールを飲みたかったが、ズボンの下で乾いた感触を感じさせている紙オムツのことを考えて躊躇した。
「ボール・ゲーム・パークと名前が変わっても、やってることは、野球場の時代と変わりませんね」
「相田の形骸として残しているというか、ヤクザとしてのイメージですよ、いうなれば。だけどイメージっていうのは大事ですからね。この間、幸三さんのプレゼンにすっかりやられて、強者のイメージをもう一度見直しとこうと、社長に言われて仕事を総ざらいしてみたんですよ。そしたら、出ましたね、不穏な動きが」
「不穏?」
「ええ、関西の方がちょっかい出してきてますね。まだわずかにですが、しかし、肝臓にできた小さな腫瘍《しゆよう》みたいなもんです。痛みはないけれど、ほっといて大きくなったらことですからね」
「具体的にどんなちょっかいですか」
「幸三さんは、博打はやりますか?」
「こいつは、一切、そこいらの博打なんてもんやらんよ。一本独鈷のこいつ自身が競馬|馬《うま》みたいなもんで、自分に金を張って仕事ばこなして、当たりかはずれかで生きとうけん。公営ギャンブルやら、テラ銭ばっかりかかって阿呆らしくてやっとられんやろう。博打は負けたら一巻の終わりってぐらい、ぎりぎりんところでやらな面白うなか。消しの仕事のごと面白か博打はないけんね」
「博打はしませんね」
「なあ幸三。重度のヘロイン患者にマリファナは吸いますかって訊いてるようなもんやな。おまえがパチンコ屋でおばさんに囲まれて台に向かっとったら、それは消し屋稼業真っ最中で誰かば狙っとうってことやろうね」
「野球賭博のやり方は知ってます。ただ、地域によって違いますからね。今岡さん、こっちのやり方を説明してください。それとも関西が胴元のやり方ですか」
「ご存じなら大丈夫でしょう。いわゆる西と東の違いぐらいのことです。ほら、拳銃のことを関東ではハジキ、関西ではチャカって言うでしょう。言い方は変わっても本質は人を殺す道具ですから。博多でも野球賭博の本質は同じです。例えば今夜の試合、ホークスとファイターズのどっちが勝ちかってことを賭ける博打です。ホークスの勝利に百万張って、ホークスが勝てば、賭け金の百万に九十万がついて百九十万が戻ってくる。関東も関西も同じでしょう。ハンディキャップの付け方が違うと思いますけど、一応、表にしてきました」
今岡はコピー用紙を幸三に渡した。丸負け、スクラッチ、元返し、などの言葉、ここ一ヵ月のパシフィックリーグの球団のハンデが細かな字で印字されていた。
野球賭博はハンデの楽しみとされている。チームによって細かくハンデが決められ、賭けたチームが試合に勝ったからといっても、点数の差によって儲けも変わり、ひどいときには試合に勝ったのに、賭博の部分では負けてしまうような場合もある。
「おたくのハンデ師というのは優秀ですか? 近頃は野球を見てないし、勝率が書いてないんで、このハンデ表だけでは俺にはちょっと判断できないな」
「上の下ってところやね」
「九州や関西で、上が付けば、それは一級ですね」
「まあ、そげんところやろうけどな」
渡辺はテレビのスイッチを入れた。
画面に選手が映った。アナウンサーが喋り、「ナンバー」というスポーツ雑誌で野球のコラムを持つスポーツ解説者がデータをボードに示している。
「見てんや、幸三。ボール・ゲーム・パークと言っても、賭博ば、やりようけん、変わっとらんて、おまえは言うけどなあ。変わって来とるぞ」
「変わってますか?」
「ああ、昭和が平成に変わって、いまじゃ、二十一世紀になったように、じわじわと変わっとうぞ。博打に加担する選手がおらんごとなった」
「操作が難しいってことですね」
「そや、時代が変わってしもうたな。貧乏のどん底から身体一つで這い上がってきて、金の亡者になった一級品がおらんごとなったな。野球は集団の競技や、相撲とかボクシングのごと個人単位でのイカサマやらは、そうそうはできん。一発かましてやろっていうロートルは、おるんやけどな」
「そうなんですよ、幸三さん。二線級三線級にはいるんですけど、そんな奴らには、ゲームを左右する力量はありません。やはり、エースや大砲と呼ばれるような一級品が、レギュラーの二、三人を連れてやらないと、ゲームは変わりません」
今岡が口を挟んだ。
「イカサマやらないと、おいしくないでしょう」
「いやあ、博打で、イカサマやらないとおいしくないなんてことは、なくなりましたよ」
「きびしいもんですね」
「しょんなかたい」
吐き捨てるように渡辺は言った。
「で、今回は、珍しく八百長試合を仕組もうと思っているのですか?」
幸三はソファーに背中を預けた。渡辺の顔から、簡単な消しの仕事ではないことを察した。
「八百長ば仕組もうとは思いよるばってん、それで、大儲けしようとは思うとらん」
「それは?」
「言うなれば、対外的な示威行為たい」
「厄介そうですね」
「厄介かどうかは、わからんけど。おまえのコレが火をつけたけん、おまえに頼もうと思っとる」
渡辺は、使い慣れた仕草で、胸の内ポケットから耳這刀を出した。
「がら空きってことが、これで証明されたようなもんですからね。うちもやってるってことを、知らしめる必要性を大いに感じたんです」
今岡が補足した。
「で、誰を消すんですか」
「それがな……」
渡辺は、耳這刀でブラウン管を指し示した。少し困惑した面持ちだった。
ウェイティング・サークルに立った真壁は、相手ピッチャーの投球に合わせてバットを振った。
6対1でホークスのリード。試合の興味は、ホークスの若きエース沢田が完投するかどうかにかかっていた。
真壁は、ベンチで汗を拭っている沢田を振り返った。疲れもなくリラックスしているように見えた。ファイターズの選手も半ば諦めているのか覇気は感じられない。完投はともかく、追い付かれることはないだろう、と真壁は思った。
バットをぎゅっと握り、力強く振った。空気を切り裂く短い音は乾いている。手首がきれいに返ってバットがスムーズに回っている証拠だった。
これほど楽な気持ちで打席に入ることができるのは、年に一度か二度あるかのことだった。
真壁が打席に入るときは、捕手というポジション柄、相手ピッチャーの投球内容を徹底して予測する。
プロ野球選手になる前までは、コースの読み合いも、騙《だま》し合いも駆け引きもなく投げ込まれた球に反応して打っていた。頭をからっぽにして、白い球にだけ集中していた頃が懐かしくなった。
真壁は、この打席を楽しんでみようと思った。
「ストラック、アウツ!」
主審は、三振を喫した五番打者の深津の後頭部に刺さるような声を投げた。野次と歓声が上がった。
真壁は深津と擦れ違いざまに「気にするな」と声を掛けた。
「壁さん、試合は決まったようなもんだから、深津みてえに軽く頼んますよ」
キャッチャーの吉波が、打席で屈伸をしている真壁の顔が近くなったときに小声で言った。真壁はチラッと見て、目を逸《そ》らした。吉波はいつも、何事かを囁《ささや》き陽動する。
バースト・ボールぎりぎりの胸元をえぐる球がきた。真壁は予想していたかのように身体を少し動かして避けた。
「さすがに、読んでるね」
吉波は、また、小声で言った。真壁は背を向けて大きく素振りをした。
ストライクからボールへと外れていくカーブがきた。回転が丸見えの逃げのボールだった。真壁は打席を外して力強く素振りをした。
「ほら、バッター、見せかけだけで打つ気ねえよ。ド真ん中放ってこい!」
球を投げ返しながら吉波が叫んだ。真壁は頭の中に真っ白なボールを一つ浮かべた。歓声は閉ざされ、頭の中が静かになった。
内角低めに落ちるカーブ、ストライク。真壁は見送った。
「危ねえ危ねえ、五年前の壁さんだったら、スタンド入りだったな」
「吉波、試合中の私語は禁止だぞ」
主審に注意された吉波は「オッケー」とおどけて頭を下げた。真壁は頭をからっぽにした。
ピッチャーの手先を離れるとロージンの粉がぱっと上がり、切れのいい縦回転のストレートが外角を狙った。真壁の身体が自然と動いた。
バットは気負いもなく大きな円を描きながら球に近づいた。バットは、芯の小指一本分ほど上でボールを捕えた。ボールを弾き返すというより、優しくバットにボールを乗せてやる。
コンマ何秒かで真壁は、バットを通じて腕に粘りつくような衝撃を感じた。腰を鋭く捻り、その動きに合わせてバットを放り投げるように回転させた。
ボールに投げられたときと真逆の縦回転が加わった。ボールは白墨ですっと線を引いたように登って行く。回転は浮力を起こしボールは重力に逆らって飛び、右中間スタンドの下段に吸い込まれた。
ボールの行方を追って一瞬静かになっていた観客からどよめきと歓声が上がった。
ゆっくりとホームベースを踏んだ真壁を、吉波の大きな舌打ちが迎えた。真壁は振り向きもしなかった。
「幸三さん。こいつを知ってますか?」
マスクを頭に上げた横顔がアップになった真壁を今岡が顎《あご》で差し示した。
「真壁誠ですね。博多に来るとき勉強しておきました。こいつの名前は憶えておかないと」
「真壁と私は、高校の野球部で一緒だったんですよ」
「昔の馴染みを消すんですか」
「もちろん、シノギであれば、親を殺してくれ、と頼めるように修行はしてきました。真壁に対して恨みもなにもありません。それに……」
「消しは消しでも、今回のは、ちぃと毛色が違う。殺して消したほうが、楽かもしれんな」
渡辺が苦笑した。
「どういうことです?」
「殺して、はいそれで仕舞いっちゅうわけには、いかんな」
「試合の間だけ、真壁を消して欲しいんです。それも、強制的にではなく、真壁の自発的な行為として」
今岡は言うと大きく息を吐いた。幸三は黙って今岡と渡辺の顔を交互に見た。静かな部屋の中で、ナイター中継のアナウンサーの声が響いていた。
前口上が長かったのが頷けた。消し屋になって、殺さない仕事を依頼されたのは初めてのことだった。
「真壁を懐柔して八百長に加担させるってことですか?」
「それをしてくれたらありがたいんだけど、真壁は無理ですね。あいつは、どんなことがあっても八百長はやらない」
「脅すって手は試みましたか?」
「巨人の十八番エースのごと、不動産で大損しとったら話はやりやすかろうばってん、あいつはクリーンやけんね」
「女や賭博を使って、どうにか引っ掛けたとしても、脅せません。あいつは、八百長をやるくらいなら野球を辞めますよ。真壁は、そんな奴です」
「昔の馴染みでしたね」
「あいつは、別格でしたよ、学生の頃から。野球も勉強も性格も、こんな奴がいるんだなって思いましたね。まるでかなわなかった」
昔のことを思い出して、今岡は少し眩しそうな顔をした。
「近頃では、会いましたか?」
「たまに、飲み屋で顔がつくことはありましたね。あいつのほうから声を掛けてきますが、私はなるべく遠慮していましたよ。筋者と野球選手ですから」
「その部分では昔の馴染みなんですね」
「まあ、結果的には騙すことになるんですけど」
「やけん、真壁に気づかれんごとやろうと思っとるったい」
「真壁を野球場から消して、関西に対して、情報をリークしたいんですよ。うちは真壁を握っている。ちょっかい出してきたら、がつんと返す手はあるぜって」
「なんでもない事件の中に、人殺しを潜り込ませるっていうおまえの消しのやり方に、似てないこともないぜ」
耳這刀を弄《もてあそ》びながら渡辺が言った。
幸三は、自分のことを消し屋と呼び、殺し屋とは言わない。何故なら、消し屋は事件性までも消してしまうからだ。
団地の公園で拳銃で撃ち殺された死体が転がっているのと、歌舞伎町の非常階段に、頭を打って血を流した死体が転がっているのとでは、刑事の功名心はまるで違う。刑事も人間である。衝撃の強い、社会に反響の大きい事件を解決したがる。幸三の消しの仕事は、いつもその部分を重要視する。
そして、死体を転がすよりも、消息不明を演出することを良しとしていた。家出なり蒸発するなりの証拠を偽装し、消す人間の周辺に、それとなく撒く。
成人した人間には、一つや二つの消えてしまいたくなる理由はあるはずだろう、と警察は思っている。
肉親や友人がいくら訴えたとしても、年間に何万件もの捜索願いが提出されている。そのうち警察が事件性を感じて捜索に着手したものは3%にも満たない。
繋がりのない他人に対し、人間は実に冷たいものである。
幸三は消し屋として、自分の戸籍を消し、刑事の功名心を消し、幾人もの人間の痕跡を消してきた。
「どげんや、幸三。この消しの仕事、引き受けるか?」
渡辺は耳這刀を幸三に向けた。
「これほどの有名人を消すのは、相当に厄介ですね。成功の確率どころか、先が見えない」
幸三の答えに渡辺は苦笑した。
「だからこそ、効果が高いんです」
今岡が身を乗り出した。
「少しだけ考えさせてもらえますか」
渡辺と今岡が頷いた。
幸三は立ち上がった。
「くーー、今回の博多は妙なことするな」
吐き捨てるように言った。
「博多じゃなかぜ、時代っちゅうもんやろう」
渡辺が耳這刀の刃先を指先で、切れ味を試すようになぞりながら言った。
一礼して部屋を出た幸三は、肩パッドにある録音機のスイッチを切った。
ドアを閉めると、廊下は観客の音が途切れた。球場の形に合わせて、わずかに曲がった廊下は出口が見えないほど続いていた。
幸三はゆっくりと歩き始めた。靴音は厚い絨毯に吸い込まれ消えていた。
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05  コンディーション・グリーン
「いらっしゃい!」
ドアを開けると、酒焼けの嗄《しやが》れ声や、喉をすぼめて無理矢理高くした声が店中で響いた。
オカマバーにしてはすっきりとして広い店内にいたオカマたちが、ドアを開けた幸三の姿を見つけると、客をほったらかして我先にと突進してきた。嬌声《きようせい》に続いて、濃い化粧品の匂いにアルコールが混ざった風が出迎えたようだった。
「おまえら変なところ触るんじゃねえ」
幸三はガチャコという源氏名のオカマの手首を掴んで捻った。ガチャコは楽しげな声を上げた。幸三は五人のオカマに身体をべたべたと触られながら一番奥のボックスに案内された。
「どうしたのよ、幸ちゃん」
おしぼりを手にした蘭子が顔を出した。少し嬉しそうだった。
「飲みに来たんだよ」
「あら、野球場で打ち合わせだったんじゃないの?」
「行ってきたよ。福岡ドームによ、滅法変な打ち合わせだったぜ。だから、終って飲みに誘われたけど、断わってこっちに来ちまった」
幸三は嘘をついた。半分が本当で半分が嘘だった。
「ふーん」
それ以上蘭子は訊かなかった。
横に付いたオカマたちが男同士の夫婦の会話を羨ましげな顔で聞いていた。
「あーら、幸三さんいらっしゃい。相変わらず、ダウンライトの下で見ると若い頃の成田三樹夫の肌質ね。いいわよ、掠れて冷たいくせに、しっとりしてるの」
『コンディーション・グリーン』という店名の由来にもなっているママの緑が挨拶をした。
ホモと変態は緑色が好きという古い言い回しを逆手にとったのか、店はサップグリーンと金のストライプに統一され、緑ママも肩を大きく出したエメラルドグリーンのボディコンシャスなドレスを着こなしている。それはまるで海底二万マイルに漂う深海魚にスポットライトを当てたかのように妖しく輝いていた。
「蘭子ちゃん、ちゃんと見張ってないと、うちの娘《こ》たちが幸三さん狙ってるんだからね。ガチャコ、あんたが手におえるような男じゃないんだから、変に擦り寄ると、とんでもない目に遭わされるわよ。早々に諦めて仕事に精出してよ」
蘭子は店の人間に幸三のことを、台湾からコンピュータ部品と不法就労の人間を輸入しているブローカーと説明していた。
しかし、ママの緑だけは初めて幸三を接客したあとに「蘭子ちゃん、あの人、深ーくて沈んだ場所の人間ね」と蘭子に言った。
緑がガチャコに言ったのは苦言ではなく、自分の店の従業員を守るための忠告だった。
「緑ママは博打ってやるんだっけ?」
ガチャコがつくったブランデーの薄い水割りを手に幸三が訊いた。
「博打やってなかったら、今頃はモナコでヨット暮らししているわよ」
「そりゃあママ、無理だわ。モナコは博打場だらけだろう。博打しない人間があんなところで楽しいわけがない。博打の虫が騒ぎ出して、あっというまに|缶カンに小石《スツカラカン》だぜ」
「あはは、それはそうね。博打の病気がぶり返すわね」
幸三は、緑の態度や言葉の端々に滲《にじ》み出る拒絶を、十分に感じていた。
「ママは野球賭博ってやんのかな?」
「プロ野球? それとも高校野球?」
「プロだ。それも博多らしく、福岡ダイエーホークスがらみのやつだ」
「それならやらないわ。私はやるなら高校野球ね。だって若い男の子が若い汗と純な涙を流しているところに、血で稼いだお金を賭けるのよ。オカマの楽しみなら高校野球ね」
「オカマの趣味は別にして、プロ野球の野球賭博ってのは、そんなに面白いのか」
幸三は渡辺と今岡との打ち合わせでの疑問を緑に訊いた。
「面白いわ、博打としたら、通好みね。例えば今夜の試合、ホークスとファイターズのどっちが勝つかってことを単純に賭けられる博打なの、ホークスの勝利に百万張って、ホークスが勝てば、賭け金の百万に九十万がついて百九十万が戻ってくる。大穴はないけれど、ハンディキャップっていうのがあって、点差で戻し金が変わるのよ。だから、野球は負けたけど、点差が開かなくて賭博には勝ったりとかね。ハンディキャップを考えて賭け金を変えたりとか、その辺は複雑ね」
緑はもどかしそうに説明した。
「勝ち負けは単純で、金のやり取りは複雑ってことは、手本引きに似てるのかな」
「やり方は違うけど、勝負にコクがあるところは博打の王様ね。テラ銭が安いから長くじっくりとやれるわ」
「ママ、テラ銭って何?」
ガチャコが陽気な声を出した。
「あんた、競馬とかやるのに、そんなことも知らないでやってるの。賭博やってる人間が利益として取るお金よ」
「利益って?」
「必要経費プラス人件費とプラスアルファよ」
緑はガチャコを窘《たしな》めるように言った。
「JRAなんて25%も取ってるのよ。ガチャコが電話して賭博やってるノミ屋は、もちろん、賭博開帳罪って違法行為なんだけど、もしも、25%もテラ銭取ったら賭博罪じゃなくて、賭博開帳図利っていう詐欺罪になるのよ」
「詐欺って何それ」
「イカサマ賭博と同じってこと、絶対勝てないように数字上なってるってこと、長くやればやるほどパンクするに決まってるの」
「じゃあ、ノミ屋で博打やってればいいんじゃん、負けたときには一割返してくれるわ」
「それはね、賭場を開いているヤクザ屋さんの理論よ」
緑は乗って話しているガチャコではなく、幸三の顔を見て言った。
「一割バックとか、いろんな手でテラ銭を少なくしてるけど、負けたときに、あんたみたいな娘はお金を借りちゃうでしょう。あんた、いくら借りてるの? 怒らないから正直に言いなさい」
「でも、八十万ぐらいよ、ママ」
ガチャコは、短いスカートの裾を引っぱりながらもじもじして言った。
「そりゃあガチャコちゃん駄目だわ。ヤクザに一円でも借りちゃおしまいだよ」
幸三は呆れた顔で言った。
「あらあら、どうしようもないわね、ガチャコは。ヤクザの賭博場は金貸しのサービスなのよ。遊ばせて熱くさせて、その場であれよあれよと金を貸し付けるのよ。そんなとこで熱くなって金を借りるような人間は、法定外の高利でも関係ないからね。毟《むし》りとられてぼろぼろになるわよ。ガチャコ、金を借りるのに、コマ回してよ、なんて言葉をツヤつけて言ってるんじゃないの?」
その場の人間全員が答えを聞こうと、頬紅の下の皮膚をもっと赤くしているガチャコの顔を注視した。
「だってえ、そう言うと、いくらでも貸してくれるんだもん」
幸三と緑は笑い、ほかのオカマも痛い目に遭った経験があるのか大口を開けた。
「ガチャコちゃん、借金も財産のうちとか、甲斐性だなんて言ってたのは昔の話よ。いまは、自動販売機みたいなものでお金貸すほど、あっちは貸したくてうずうずしてるの。しかも、ヤクザに金借りるなんて。土地も財産もないガチャコちゃんにどんどん貸し付けるってことは、あなたに何かの利用価値を見出しているからよ」
蘭子は、妹想いの姉のように薄い皮膚の眉間《みけん》に皺を寄せた。
「そうだぜ、ガチャコ。おまえの親が金持ちなら、その財産に見合う金額だけどんどん貸してくれるぞ。それか親から毟れないんだったら、百万ぐらい借りたところで、ヤクザもんの顔つきが変わるんだよ。さあ、返せって」
「幸三さあん、百万ぐらいだったら、あたしだって返せるわよ」
ガチャコが幸三にしなだれかかった。
「阿呆か、おまえは。百万借りて、百万返すんだったら、そりゃあ、ただのボランティアだろう。利子ででっかく膨れ上がってんだ。そら返せ、すぐ返せって、毎日電話がかかる。一日でも遅れたら、鬼のような顔で迫ってくる。面倒だし恐いし、そしたら、新しい金貸しが親切な顔で相談に乗ってくれる。証文書き直せば、うちは利子だけ入れてくれればいいから、なんて言ってな。恐い顔した奴の隣には優しい顔のグルがいるからな。追い詰めていくのはプロだからな。精神的に疲れ切って、どうでもよくなった頃には、ニューハーフのソープ嬢っていうディープな見世物ができあがるってことさ」
「えー、恐いわ、どうしよう」
ガチャコの声は曇った。
「じゃあ、俺が取り敢えず貸してやるから、早いうちに清算したほうがいい。このままじゃ大変なことになるよ」
幸三は落ち着いた声でガチャコを見た。
「本当? 助かるわ!」
「ほら、優しい顔するともう騙された。駄目だなガチャコは。こうやって多重債務者になってくんだぜ」
甘えた声を出したガチャコを幸三が叱ると、みんなが笑った。ガチャコは、男の子のようにちぇっと舌打ちをした。
「そうだ、緑ママ。この店にも090金融屋って来るのか?」
「携帯一本で金持って来る金貸しね。飲みには来ないけど、たまに店が始まる前とかには顔出してるみたいよ。今日もチラシ置いていったわ」
「そうか、その中で知ってる奴はいるか? 緑ママの嫌いな奴とかさ」
「みんな嫌な奴ばっかりよ、あんなの。私はうちの店に出入りして欲しくないんだけど、こっちはただのオカマで、あっちはヤー様と紐で繋がってるからね」
「じゃあ緑ママ。そのチラシ持ってきてくれ」
緑は「ゴミ箱に捨てちゃったけど、まだあるわよ」と言いながら席を立った。
「幸ちゃん、何する気なの」
蘭子の眉と眉の間に一本の深い縦皺が入った。
「いじめっこをいじめ返す遊びだよ」
幸三は、ガチャコの耳に唇を近づけて打ち合わせを始めた。
蘭子が幸三の大腿をつねったが、体脂肪率が10%以下の大腿はピンと筋肉が張り、つねることはできなかった。
ガチャコは重要な役を与えられた新人女優のようにこくりこくりと頭を下げ小さく返事をしながら役柄を覚え込んでいく。緑ママはチラシを渡し、この店と自分は一切関係ないとしてくれるならいいわよ、と承諾した。
映画監督のように幸三はてきぱきとキャスティングと座り位置を決め、蘭子と幸三はガチャコが一人で座るボックスの横に無関係の客とホステスとして座った。
幸三の指示通りに電話をしたガチャコは指でOKマークを出した。金融屋が来るまでの十分間で幸三は最後の演技指導を行った。
「どうも、まいど」
陽気な声で店に入ってきた金融屋は、爪先から頭の天辺《てつぺん》までチンピラそのものだった。少し長めの髪は明るい色に染められ、動くたびにシャラシャラと音を鳴らす上下のトレーニングウェアは一度も大汗を吸ったことがないように見えた。ナイキのスニーカーは新品のように汚れ一つなく、金色のネックレスや、だらんと緩めに巻いた高級腕時計のように、実用性のない装飾品のようだった。
「今日は、いくらご入りようかいな? まあ、新規やけん五万までやけど」
ガチャコの前に横柄《おうへい》に座った金融屋の声は、幸三のところまで丸聞こえだった。
用心深いプロなら声のトーンを使い分け、隣の席の人間には声が届かないようにする技術ぐらいは当たり前のように持っている。オカマ相手だと舐めて横柄な態度に幸三はやる気になった。相手を見て判断して、このまま進める場合のサインは煙草に火をつけることで、進まない場合は切れたからと煙草を頼むのだった。
幸三が細めの煙草を咥《くわ》えると、蘭子がマッチを擦《す》った。塩化銅を混ぜたマッチは緑色の光を放った。金融屋は「おっ」という顔で、ガチャコはいたずらを始める顔で炎を見た。
天井に向けて大きく紫煙を吐く。幸三の合図でガチャコの演技が始まった。
性同一性障害という病気を持っているとはいえ、毎日、男が女を演じ続けているだけあってガチャコの演技は自然だった。
時折、まるで少女のような声を出しガチャコはケラケラと笑い、金融屋はフルポイントのオーストリッチ革のバッグから書類を何枚か出した。ガチャコは言われるままに文字を埋めた。
金融屋は、金融屋としてはやってはいけない事実をガチャコの演技によってじわじわと引き出されていく。
幸三はゆったりとソファーに身体を沈めて聞き耳を立てた。
金融屋は、現金を慣れた手つきで数えパチンと鳴らした。現金がガチャコの手に渡された。幸三は立ち上がった。
「おっ、ガチャコ。こづかい貰ってんのか?」
「えへへ、借りてんの」
「なんだよ、俺が貸してやったのに」
金融屋は目を逸らした。幸三はかまわずソファーにドスンと座った。
書類は、金融屋にそっと引き寄せられテーブルの上を滑っている。幸三は、人さし指一本で書類の動きを止めた。
「おっと、ガチャコ。字が書けたのか」
幸三は書類に目を落とし、数字を素早く計算した。
「ニイチャン。これで商談は成立かい?」
「ええ、まあ」
軽い愛想笑いを浮かべた金融屋に、幸三は片頬を上げた。
「よかったな、ガチャコ。こづかい貰ってるじゃねえか」
「どういうこと」
「返さなくていいってことだよ。こづかいってことさ。いいアンちゃんと知り合ったな」
「ちょっと、あんた。横から出てきて、何ば言いようとな」
金融屋の声のトーンが少し落ちた。
「そりゃそうだろう。出資法で定められた上限金利の29・2%を超えた利息を取ってんだから、元金は返さなくていいんだぜ、ニイチャン」
店内の空気がすっと落ち着いた。誰もが素知らぬ顔をしていたが、氷をかき混ぜる音さえ小さくして耳をそばだたせていた。
「何言いようとな、うちはちゃんとした免許持っとう会社やけんね」
「どうせ都一だろう。東京都で四万三千円払って登録した金融屋は、全国で金貸しできるからな」
「あんた、同業ね」
「さあ、どうだか」
幸三の片頬は上がったままだった。金融屋は探る視線を露骨に幸三に浴びせている。
「アヤつけようとなら、電話するばい」
「警察にか?」
「キサン! ふざくんなよ」
金融屋は、ブレスレットと同じ柄のストラップが付いた携帯電話を開いた。
「もしもし、ニコポン金融の森山です。何か同業者かわからんおっさんに、アヤつけられとうとですよ。何人か寄こしてもらえんでしょうか……」
幸三は、身体を前屈みにして立ち上がった。手を伸ばすと、冷蔵庫からビールを取り出すような自然な仕草で、金融屋の手から携帯電話を取り上げた。
金融屋は、見上げて口をぱくぱくさせた。呆気《あつけ》に取られて、うまく文句が言えないようだった。
「あんた、どこの組? あっそう……」
幸三は電話を当てて話し始めた。そして、金融屋を手で制すと、出口に向かって歩き出した。
「おい!」
金融屋がやっと声を上げると、幸三は「電話中だ。ちょっと待ってろ」と低めの声で、また片頬を上げた。
「ほら、話があるってよ。ニイチャン」
ドアを開けて店内に戻ると、幸三は携帯電話を渡した。
「何なんだ、あんた」
「いいから、出ろよ」
金融屋は携帯電話を耳に当てた。
「どうゆうことっすか! はあ、はあ……」
眉間に劇画のような皺を寄せて睨んでいた金融屋の眉毛が、次第に八の字になった。
金融屋は電話を切ると立ち上がった。
「書類を破れと言われたっすから……」
音を立てて書類を破くと、金融屋は頭を下げて出て行った。
「よかったな、ガチャコ。本当にこづかいになったぞ」
ガチャコはもとより、成り行きに耳をそばだてていた者が目を丸くした。
「いやーん、幸三さん、どうして! 電話で何を話したの?」
「秘密だよ」
「教えてよ、教えて」
ガチャコが幸三にしなだれかかった。
「幸三さん、あんなことして大丈夫なの?」
緑ママが幸三の横に座った。
「二度と来ないだろうから、大丈夫だよ」
「本当に?」
「ああ」
「ならいいけど。少しは気分がすっきりしたから」
「かっこいいわ、幸三さん」
幸三の腕をガチャコが抱きしめた。
「あら、ガチャコ駄目よ、蘭子ちゃんがいるんだから。それに、もしかすると、あんたを落とすためのグルの芝居かもしれないわよ」
「そうだったら超ラッキーじゃん。いくらでも落ちるわ」
「馬鹿言ってんじゃないの、ほら、離れて」
緑ママは幸三越しにガチャコの腕を叩いた。
「ほら、幸三さん。蘭子ちゃんのところに行って。ガチャコは向こうよ」
「えー、まだ、ちゃんと聞いてないもん」
「もういいの、芝居のほうがまだいいわ。電話で話した内容なんて私は恐ろしくて聞きたくもないから」
緑ママは二人を引き離した。
蘭子のボックスへと幸三は背中を押された。睨《にら》んでいる蘭子の顔があった。
「痛っ」
蘭子の横に座った瞬間、フォークが幸三の大腿を突いた。
「まさか、ガチャコちゃんを狙ってるわけじゃないわよね」
「そんな気はねえよ」
「でも、何であんなことするの。チンピラがホステス落とそうとしてるみたいよ」
「かっこ悪いか?」
「まあね。やっぱりどこかいらついてるわ、幸ちゃん」
「そうか、そう見えるか……」
幸三は声のトーンを落とした。人に聞かれたくない話をするときの声になった。幸三は相手だけにしか聞こえない声、大勢で話す声、相手の動きを止める声など、数種類の声を使い分ける。
「仕事が博打がらみだったんだ、今夜は」
「引き受けたの?」
「いや、その場では保留した。妙な話だったからな」
「それと、何の関係があるの?」
「引き受けるかどうか、俺も博打をしてみた」
蘭子は幸三の顔を見直した。
幸三は、電話の相手に誰が出るかの博打をした。金融屋と揉めれば、ケツモチをしている上部団体に応援を頼むだろうと踏んでの博打だった。
『コンディーション・グリーン』のある場所は中洲、シマは区分けされいくつもの団体が利権を持っている。おしぼりや植木のリースから、携帯金融屋が入り込める店までがきっちりと決まっている。
もしも、金融屋が泣きついた団体が、渡辺の系列であったなら、今回の仕事を引き受けようと思った。馬鹿げた博打だったが、仕事の話自体が馬鹿げていた。
博打はどんぴしゃりで当たりだった。
「なんの遊びや、幸三」
いくつか電話を回されたあとに電話口に出たのは渡辺だった。
「仕事、引き受けますから」
「ほう、そうな。それにしても、ややこしかやり方で電話してきたな」
「それはちょっと……」
幸三が電話をしてきた経緯を話すと、渡辺は大笑いした。
「なら、書類ば破いて金は返さんでいいけん、それで酒でも飲んでくれ。今夜は、おまえが直ぐに帰ってしもうたけん、そん代わりたい」
「はあ」
「おまえは、今回の博多ば、妙や妙やって言いようけど、ちゃんと博打が当たっとうやないか。こういうときは、逆らわんで乗るもんぜ」
「わかりました。じゃあ、またお伺いします」
幸三は風が変わったのを感じた。しかし、それは、まったくいままでと違う方向から吹いた風のようだった。
「じゃあ、電話ば代わるけん、おまえも、その金融の奴に電話ば代わっちゃれ」
幸三が渡辺との成り行きを話すと蘭子は睨んだ。
「もし、それが外れだったら、どうしたのよ。本当、馬鹿みたい」
「そのときは、そのときでどうにかするさ」
「どうにかするって……」
「博打が外れれば、その新しい事務所に行って、プレゼンするだけさ」
「ばっかみたい」
蘭子は大きな声で言うとため息をつきながら、ソファーに背中を預けた。
「しょうがねえだろう」
幸三は仕方なさそうに笑った。
ガチャコが奥のボックスから幸三に視線を投げている。幸三は視線を感じていたが、振り返らなかった。
外に出ると蘭子は幸三の腕に絡み付いてきた。
「ねえ、幸ちゃん。歩いて帰らない?」
「いいよ」
中洲大通りは、酔客の吐く熟柿の臭いで溢《あふ》れていた。幸三は蘭子が握った腕をポケットに入れた。中洲から幸三と蘭子の住む大名までは、天神を抜けて二十分も歩けば着く。
「人、殺すの?」
蘭子の口からワインの香りが漂った。
「わかんねえ」
幸三は、路上に固まっている酔っぱらいを手の甲で躱《かわ》しながら歩いた。
「わかんないって、仕事を受けたんじゃないの?」
「受けたけどよ、どうも、いつもと勝手が違う」
「そうなの」
「時代だとよ。人を殺すのは、頭の沸いた奴が楽しみでやることなのかもな」
「あははは。東京じゃ二十人ぐらい殺したのに、消し屋の幸三も博多に来てからは、まったく血の匂いをさせてないもんね」
蘭子は幸三の肩に鼻を押し付けて大きく吸った。
幸三と蘭子が一緒に住み始めたきっかけは、蘭子の頼んだ消しの仕事からだった。蘭子が付き合っていたCMプランナーの男を、横から盗んだ女優の卵を幸三が殺した。
男は自分を裏切った女を殺し、女は自分の物を盗んだ女を殺す、という。蘭子の場合はCMプランナーではなく、女優の卵を殺してくれと頼んだ。幸三は「オカマなんだから、両方殺しちまったらいいんじゃねえか」とからかった。しかし蘭子は、女優の卵が消えてしまったことで、思い悩むCMプランナーの姿を見ることを望んだ。
幸三は盗んだメルセデスで、女優の卵を轢《ひ》き殺し、車を現場に放置した。
現場に駆けつけた機動捜査隊は、高級住宅街で盗んだメルセデスを犯人が運んでいる途中、住宅街の外れに住んでいた女優を轢き、そして、そのまま逃走した、と予測し、メルセデスに残された証拠品から、犯人を中国人であると判断した。
中国人による高級外車の窃盗が東京二十三区でピークになっていた頃で、一ヵ月に数十件起こる高級外車窃盗事件と、焦った中国人窃盗団が起こした交通事故という証拠の薄い事件の中に、幸三は消しの仕事を潜ませて、警察の意欲を奪った。そして、機動捜査隊の初動捜査から後続の部署に引き継がれる頃には、方向性を見誤った事件は座礁するように闇の中に消えて行った。
蘭子は事件性を削り取る幸三の仕事ぶりに惹《ひ》かれ、手のひらを返したように追いすがってきたCMプランナーの前から姿を消した。
消しの代金として蘭子が幸三に支払ったのは、男から女へ性転換手術をするために貯めていた金額と同額だった。
「ねえ、幸ちゃん。ラーメン食べて帰らない?」
「俺は喰わねえけど、付き合ってもいいよ」
二人は天神の屋台に入った。
「おっ、夏に汗ひとつかかないでラーメン食べる美人のオカマちゃん。今夜は彼氏連れかい?」
鉢巻きにランニング姿の店主が気軽に声を掛けた。
「そうよ。かっこいいでしょう」
「おお、色男たい。ばってん、この兄ちゃんもスーツばビシーッと着て、暑くないとかいなね」
店主は幸三と蘭子を見比べた。
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06  ホーム
フレッシュのアセロラと紫蘇《しそ》をジュースにしたものを、真壁はゆっくりと飲み干した。身体を使ったあとは、ビタミンCを摂って尿酸値を上げないようにする。
真壁はホームの試合で勝った日は、真直ぐに家に帰るようにしていた。勝った日には、誰彼が引率者になって選手たちは飲みに行く。自分は負けた日に他の選手の愚痴を聞く。キャッチャーとは、そんな役目なのだと思っていた。
妻の佑子が作った料理を食べられる夜は、気持ちが落ち着く。その安らぎが明日に繋がる。
ダイニングテーブルに三十品目の食材をうまく使った料理の皿が並んでいる。真壁が全てを食べ切れるわけではないが、佑子は試合の進み具合を見ながら料理を作る。今夜は絶対に家で食べるだろうと気合いを入れた。
シーズンも後半戦になると、体力も落ち食欲も薄くなる。シーズン前に腹筋にうっすらと乗っていた脂肪も、シーズンが終わったときには消え失せている。六つどころか八つに割れた腹筋が、太いロープを縒《よ》ったような姿を現わす。
プロ野球選手は、食べることが練習以上に大事だと、結婚するときに球団のトレーナーから講義を受けた。成績を上げるのも、故障を防ぐのも、そして、選手生命を最大限に伸ばすのも食生活のバランスに負うところが大きい。そして、それは、選手個人によって変わり、選手の年齢、ポジションによっても変わる。
ベテランの域に達した年齢、怪我の多いキャッチャーというポジション、チームリーダーとして全試合に出場しなければならない重責、真壁のどれをとっても身体に負担をかけるものだった。
「あなた、これモロヘイヤと韮《にら》の冷たいスープよ」
佑子はスープ皿を真壁の前に出した。濃緑の粘りのあるスープは、ゆったりと揺れた。
「面白い味だな」
真壁はゆっくりとスプーンを上下させてスープを平らげていった。
「鰹と昆布で出汁《だし》をとってるから、さっぱりしてるでしょう」
「ああ。うまい」
真壁の食事の内容は、一年を通じて変わっていく。
シーズン・オフは身体と頭を休めるために、自由に食品を選び、強制はなるべくしない。自由に食べたい物を食べることが精神的に休みになる。
自主トレーニングに続いてキャンプ・インする頃は、身体の絞り込みに入る。完全な高タンパク、低カロリーの食事になる。茹《ゆ》でた地鶏の笹身や、茹で卵の白身の部分が主食となる。オフに蓄積した脂肪を洗い流すように熱に変えて筋肉を再生する。
シーズンが始まると、試合の日程に合わせてカーボ食となる。一回から九回まで、座り続けて運動するキャッチャーは、持続を主に考えた体力を必要とする。カーボ食という炭水化物を効率よく身体にため込む食事方法は、身体が糖をうまく使って試合中の燃料切れをなくす。
シーズン真っ盛り、真夏になると、白身魚や青魚でタンパク質を補う食事になる。魚は熱を帯びた身体を冷やす効果がある。そして、身体の疲れから食が進まなくなることをあっさりとした魚が防いでくれる。夏野菜でビタミンとミネラルを摂り、炭水化物は試合前日の夜に集中して食べる。
そして、シーズン後半。コンドロイチンを豊富に含む食材を中心にする。腱や筋が炎症を起こし、膝や肘のような接合部分が悲鳴を上げ始めないようにコンドロイチンが必要となる。フカ鰭《ひれ》、鶏の軟骨、手羽先などを摂る。カロリーはそれほど気にせずに食品の量を増やす。全身の筋肉が疲労し、食べなければ痩せていき体力がなくなる。
「あなた、軟骨の素揚げもね。辛子醤油で食べて」
「ああ」
「それと煮豚は、脂を落としてますからバルサミコ酢とオリーブオイルでね」
「わかってるよ。そんなに見張ってなくても食べるから大丈夫だ」
真壁が少し笑った。佑子も微笑みながら、小松菜のおひたしを煮豚の皿に近づけた。
真壁家では、野菜を洗うときも長野から運んでもらっている硬水を使う。甕《かめ》に溜めた硬水を柄杓《ひしやく》ですくって洗い、茹でる水は、軟水を使う。味がどれほど変わるかは、わからないが、真壁の身体のことを最優先に考えるのが真壁家のやり方だった。
小松菜のおひたしに、奄美大島から取り寄せた黒酢をかけ、岩塩をミルで挽《ひ》いた。真壁が佑子の手元をじっと見ていた。
「どうしたの?」
「雪みたいだなって」
岩塩は、おひたしに載ると、地面で消える雪のようにすっと溶けていく。真壁は箸を伸ばした。
「勇と和美は?」
「途中まで試合を観てたんですけど、二人揃ってこっくりこっくりしたから、寝かせましたよ」
「いやに早いな」
「今日は、二人ともプールがあったから、疲れたんでしょう。起こしましょうか?」
「いや、いいよ。俺も何だか眠いから」
「あら、珍しいわね。試合はちゃんと録画してるけど、今夜は観ないの?」
「明日の朝にしとくよ。すんなり勝ってしまった試合のあとは、どうも、眠たくなるな」
真壁は赤ワインを一口飲んだ。大きな喉仏が生き物のように上下した。ダウンライトの下で顔に影を作った真壁を、佑子は見ていた。シーズンが後半になると、真壁の顎からエラにかけての脂肪がごっそりと落ちる。佑子はお願いだからもっと食べて、と叫びそうになった。
「あなた、ほら、箸が止まってるわよ」
「ああ、そうだな」
大根おろしを大量に載せ、煮豚をひと切れ口に放り込んで、真壁は「ほらね」という顔をした。佑子には辛い笑顔だった。食欲が落ちてきているのが痛切に感じられた。大根の中のジアスターゼに消化を頼りたくなっているのだろう。
佑子はテーブルを見回し、皿の残り具合を確認した。
立ち上がると、ガス台に乗った鍋の上湯《しやんたん》スープに火を入れた。小ぶりの丼に、麦めしを握った焼おにぎりを置き、ほろほろと崩れそうになるフカ鰭の姿煮を慎重な箸さばきで乗せる。フカ鰭と上湯は、真壁がよく行く広東料理の店から届けてもらっている。
博多|葱《ねぎ》を細かく刻んだものと三ツ葉を丼に少し散らし、真壁の前に置いた。丼の横には茗荷《みようが》の浅漬けの小皿を添える。
上湯を土瓶に移し換えて真壁に渡す。上湯を注ぎかけると、丼の中の焼おにぎりが、ぴちぴちと小さな音を立てた。
真壁は湯気を大きく吸い込むと蓮華《れんげ》を手に取った。
「マッサージの先生を、今夜は呼ぶの?」
「今日はよすよ。それより、腹がこなれたら、ぬるい湯にゆっくり浸かったほうが良さそうだ」
真壁は丼を持ったまま答えた。
佑子は皿に残った食べ物を集めてラップしていた。
マンダリンの蜂蜜を塗ってローストしたチキンは、一つも箸をつけられることなく残っていた。身体を絞り込むときには、笹身を主食のように食べて飽きているからなのか、普段の食事に上るチキンはいつも残していた。
「おいしいのに、もう」
佑子は、チキンを切ると、ひと切れ頬ばった。
食べ物の好き嫌いがあるような奴は、プロスポーツ選手としては失格だ、と真壁はよく言っていた。でも、もしかすると、塊のチキンが嫌いだったのではないかと、佑子は思った。焼き鳥屋には、たまに出かけることはあっても、子供たちが好んで食べたがるので買ってくるファーストフードのフライドチキンを、真壁が手にした記憶はない。
皿を洗い拭き上げて、パパイヤを冷蔵庫から取り出した。摘んで食べやすいように切って楊枝《ようじ》を刺した。
パパイヤを持って居間に入ると、真壁はソファーにもたれかかって映画を観ていた。
「よかった、寝ちゃうと胃もたれするから」
パパイヤを置くと、佑子は画面に目を移した。スティーブ・マックィーンが赤と白のだんだら縞の囚人服で走っている。佑子には見慣れた画面だった。
誰にでも、気持ちが塞いだときや、疲れた自分を叱咤するために観る映画はあるだろう。真壁の場合は、「パピヨン」で、佑子は「メリーポピンズ」だった。真壁の身体はもちろんのこと、頭の中にも疲労が蓄積しているのを佑子は感じた。
「ねえ、あなた。もしかしたらチキンって嫌いなんじゃないの?」
佑子は努めて明るい声で言った。
「どうしたんだよ、藪《やぶ》から棒に。いつも食べてるじゃないか。俺の身体は鶏肉から出来てるんだよ」
「でも、今夜も箸をつけなかったわ。だから、もしかして嫌いなのに無理してるんなら、考えようかと思って」
「ははは。気を遣いすぎだよ」
真壁はパパイヤを口に含んだ。
「それなら、いいんだけど」
「疲れているから、少し食欲は落ちてきたけど、まだまだ大丈夫だ。心配するなよ」
「わかったわ」
佑子は頷《うなず》いた。
「お風呂にお湯張るわよ。今日、新しいアロマ・オイルを買っておいたから、使ってね」
「オッケー」
陽気に答えると、真壁は、またパパイヤを食べた。パパイヤも大根と同じで、脂の消化を助ける。やはり、身体が欲しているのかもしれない。
真壁こそが気を遣っている、と佑子は思った。真壁は申し分のない夫だった。結婚当初の若い頃は、朝帰りをして喧嘩になったこともあったが、いまではまったくそんな素振りもない。
野球では、ぴりぴりするほど気を遣い、家庭でも気を遣わせるのは忍びない、と佑子は精一杯やっているつもりだったが、真壁は癖のように家庭でも気を遣ってくれる。
佑子は真壁が入る頃には、ちょうどぬるめになるように、湯の温度を熱めの四十三度に設定した。浴槽に湯を張りながら、アロマ・オイルと新しいタオルを用意した。
アロマ・オイルの蓋を開ける。ラベンダーとクミンの香りがゆったりと浴室に広がった。「神経が昂《たかぶ》ったときに、とってもよくリラックスさせてくれますよ」と店員に勧められて買ったものだが、こんなに早く利用できるのは不思議な気がした。真壁には、精神も肉体もゆっくりと鎮静してもらいたい、と佑子は願った。
糟糠の妻を演じたいの? と皮肉を交えて言われたこともあった。腹が立ってしょうがなく真壁に言うと、真壁は笑いながら「ひもじい意見は聞かないことだよ」と答えた。
佑子ははっとした。チャンスで三振をしたときはともかく、ピッチャーの不調で試合に負けた日でも、真壁は無責任で聞くに耐えない誹謗《ひぼう》中傷に晒される。自分の何倍もの言葉を投げつけられているのだ、と気付くと申し訳なくなった。
佑子の兄が、プロにこそなれなかったが大学まで野球を続けていたので、野球は身近にあるスポーツだった。その関係から、佑子は大学生のときに、いまでは廃《すた》れてしまったリリーフカーを運転するアルバイトをしていた。
先発ピッチャーが打ち込まれ、球場内が騒然となったとき、ブルペンから次発のリリーフピッチャーを運ぶ、そんな見世物のような仕事だったが、やってみると違っていた。
リリーフカーは、電気モーターで動く遊園地にあるような小さな車だったが、そこに乗るリリーフピッチャーの緊張はとてつもなく大きなものだった。
スパイクが床の鉄板をカチャカチャと鳴らすほど足が震える者もいた。引退してバラエティー番組に出ている元選手は、「リリーフカーを運転するネエちゃんを口説いた」と番組中に言っていたが、「俺って、大丈夫に見える?」と何度もリリーフカーを運転する佑子に聞いていた。身体が人並み以上に大きな大人の怯えた声を聞くのは初めての経験だった。
色々なピッチャーが緊張と闘っている中、一人のベテランピッチャーが、ブルペンからマウンドの近くまで、下を向いたまま自分に言い聞かせるようにつぶやき続けていた「壁、頼むぜ壁。頼むぜ壁。頼むぜ壁。頼むぜ壁……」。その言葉で佑子の真壁に対する気持ちは変わった。
マスクの下の華麗なマスク、と真壁が評判になっていた時期だった。野球のルールさえ知らないグルーピーが球場に陣取り、容姿から想像される噂話が雑誌に取り上げられた。野球談義が行われるラーメン屋の店主に真壁は人気がなかった頃のことだった。
真壁と最初に直接話したとき、この人は、無遠慮な視線を跳ね返す術《すべ》を持った人だと思った。人ごみの中でも自然に見えた。
初めて二人っきりでデートをしたとき、真壁は野球の話しかしなかった。それは、野球で金持ちになるとか、野球で有名になってみせるというような話ではなく、野球そのものの話だった。野球が好きでしょうがないという気持ちが伝わってきた。難しい話もたくさんあり、佑子が質問すると、真壁は丁寧に説明した。
真壁が語った野球の話は面白くてしかたがなかった。お陰で佑子は、野球が大好きになり、真壁を好きになった。
いまでは、真壁はそれほど野球の話はしなくなったが、野球が好きで堪らないという気持ちは変わっていない。だからこそ、一日でも長く真壁に野球をやっていてもらいたい、自分はそのために生活のすべてをつぎ込んでもいい、と佑子は思っていた。
[#改ページ]
07  始動
○月○日
AM
07:30 佑子(妻)起床。
08:29 勇(長男)、和美(長女)起床。
09:00 朝食。
09:46 勇、ユニフォーム姿で家を出る(リトルリーグ、胸に『百道《ももち》 younger』の文字あり)。
10:26 真壁、起床。
10:50 帽子を目深に被って大濠《おおほり》公園を散歩。顔見知りも多く、気軽に挨拶する。
11:40 朝食を兼ねた昼食。
PM
13:15 真壁、車を自分で運転して球場へ向かう。車種は、レンジローバー(白)。
13:32 いたって安全運転で、球場の関係者駐車場に入る。
14:30 選手ミーティング。
16:00 球場内練習。ストレッチ、軽いダッシュなど。
マスコミ、記者証などがあれば、フリーパスに近い。
ロッカールームは、職員及び関係者のパスが必要。
食事が用意されているが、それほど真壁は食べない。
ヨーグルトやおにぎりなどの軽い物。
※先発メンバーの発表。
※先発投手は前日に発表。
17:00 守備別に練習。真壁は守備練習は早々に引き上げて、ブルペンに先発投手の調子を見にいく。
打撃練習。
真壁は、フリーバッティング六十スウィング中、二本の柵越え。
客が球場内に入りだす。ダイエー側の外野席から埋まりだす。
※試合一時間前、賭け締切。
18:30 試合開始。
21:28 4対0でホークスの完敗。先発投手が浅い回で打ち込まれ、後はいいところなし。
22:10 レンジローバーを駐車場に置いて、ハイヤーで中洲方面に向かう。同乗しているのは、先発の若い投手(沢田)、ショートストップ(山中)。
22:42 クラブ『ミュゼ』に入店。常連というより、馴染みというほどの来店。真壁に目当ての女がいるようには見えない。もっぱら、沢田に話しかけている。山中はホステスを口説くのに夢中。
真壁は大人しいというより、遊びに飽きている感じがする。風体の悪い客が、真壁を見つけて酒を奢ろうとしたが、真壁は、慣れた感じでママをうまく使って断わった。
※ママからの評判は上。真壁は騒ぐこともなく綺麗な酒らしい。
23:54 店を出る。支払いは真壁が持った。金額は不明。ホステス二人(アヤ、サキ)(漢字不明)を連れていく。
24:08 『すし幸』に入店。真壁以外の四人は旺盛な食欲。山中は途中で、ちらし寿司を食べた(変な奴だ)。
24:52 『すし幸』を出る。代金は87150円也。真壁がダイナースカードで支払った。真壁は土産に茶巾寿司を注文した。
真壁は四人と店の前で別れた。酔っているようには見えない。
24:58 タクシーで大渋滞している通りを歩いて抜け、空いた道でタクシーを拾って自宅方面に向かう。
01:19 自宅に到着。インターホン一回で直ぐに玄関のドアが開いた(真壁がタクシーの中から電話したのか?)。
佑子は寝間着姿ではなく普段着。レンジローバーは球団の誰かが運んだのか、ガレージに収まっている。
01:25 録画してあった今日の試合を観る。リモコンを使って巻き戻し、早送り、再生をしながら、ノートに書き込む。佑子は就寝。
02:44 真壁、就寝。
「真壁らしいというか……」
相田興業の今岡は、出力された一週間分の真壁のデータを、手にしながらつぶやいた。
「ホームでの試合では、大体がこんな感じですね。遠征に行くと、もっと地味ですよ」
幸三はラップトップ型のPCの画面に、遠征に出かける真壁の画像データを表示した。
博多駅のホームで選手たちに交じり真壁は大きく見えた。頭が半分出て、横に広がった肩幅が骨格の違いを感じさせた。
「でっかいけど、地味だな真壁は」
画像データをマウスでぱらぱらとめくりながら今岡が笑った。
ブランドの銘柄が目立つようにデザインされたバッグ、流行のタイトなスーツと派手な色のシャツの選手たちの中で、濃いグレーのスーツに薄いグレーのポロシャツ姿の真壁は、あだ名どおりに『壁』のように見えた。それも、古いビルの分厚くて無骨な壁だった。
「顔が綺麗なんだから、もうちょっと飾ればかっこいいのになあ」
「いやあ、今岡さん。結構地味だけど洒落てますよ。このスーツは、ヒューゴ・ボスですからね」
幸三が画像を拡大し、今岡が液晶に顔を近づけた。
「日本人の規格から外れたこんなガタイの奴の着られる吊るしのスーツは、ドイツ・オランダサイズのヒューゴ・ボスぐらいでしょうね。日本で一番似合ってるかもしれない」
「それはそうかもしれませんね。あいつにはゲルマン民族の血が四分の一流れているから」
「身体と収入に見合ったスーツというのは、機能美ってところですかね。生活を見ていてもわかりますよ。無駄なことや過剰なことはしないですね、真壁は」
「隙がありませんか?」
「ええ、あれほど盗撮器や盗聴器の仕掛けにくい家はありませんでしたね」
「ほー」
今岡が意外な顔を向けた。
真壁の家にセコムは入っているが、そんな警備は無謀な強盗をやる中国系の窃盗団やコソ泥に有効なだけで、幸三にはまるで効かない。
幸三は、リトルリーグで練習をしていた息子の勇の鞄から、鍵を抜き取り合鍵を作った。
しかし、幸三が最も神経を遣ったのは、邸内に入ってからだった。
パ・リーグの年俸ランキングベスト5に、いつも顔を出している選手に似合う広い邸《やしき》だった。地下一階、地上二階建ての建物内のすべてに佑子の意識が向けられている。それは、外部からの侵入に対して注意を払っているとかではなく、家庭のことを真剣に考えている専業主婦の責任のようなものだった。
建物に侵入して、幸三はなるべく物に触れないようにした。佑子には些細《ささい》な異変も感じさせてはいけないと思えた。子供や真壁が物を動かしたのなら、それはいつもの行動パターンで理解できる、しかし、他人のものは、異変として感じるだろう。
「真壁が選んだ嫁さんらしいな。で、幸三さん、どこに仕掛けたんですか?」
「仕掛ける場所は、大して難しくはなかったんです、テレビと電話ですから。女性は機械に弱いですからね。内部を覗くことはないでしょう」
「電化製品の中を覗くのは恐いんでしょうね」
「気を遣ったのは、作業をした跡を周りに残さないことです」
作業をする前に、佑子の掃除の痕跡を慎重に確認した。毎日掃除しても、埃《ほこり》は積もる。テレビと電話だけが、ぴかぴかに磨かれていたり、違う掃除道具で埃を払われていたとしたら、佑子にはわかるだろう。
幸三は佑子の使っている化学処理された繊維のハタキを探し出し、作業の痕跡を佑子の掃除の中に滲み込ませた。
「やはり家庭の中からは、糸口は見つかりそうにないですか?」
「言い切れませんが、難しいでしょうね。家庭のことで脅しをかけてどうにかなるようなものでもないでしょう」
「子供を誘拐してとか?」
「嫁さんに色男をけしかけて、とかですか」
今岡と幸三は呆れたように笑った。
「真壁なら躊躇せずに通報しますね。福岡県警が大喜びで手錠掛けに来ますよ。あっというまに私は、絞首刑《バタンキユウ》でしょう」
「幸三さんがよく言っている警察が喜ぶような事件にするな、ってとこか」
「殺していいのなら、本当にそれが楽ですよ」
今岡は苦笑した。
「高校時代の真壁は、どうでしたか? 確か、関東の高校でしたね」
「ええ、スポーツエリートを育成する高校でしたけど、あいつは、別格だったですよ」
「今岡さんも、スポーツ特待生なんですよね」
「私は、関東の中学でしたから近場で目についただけで、真壁の場合は、全国レベルで探して、博多でスカウトされています。学費寮費は全額免除に、こづかいや奨学金付きですから、まったく違いますよ」
「仲は良かったんですか?」
「親友とは言えませんが、仲は良かったです。まあ、あいつは嫌われない奴でしたから……」
眩《まぶ》しそうな顔で今岡は話し始めた。
今岡が初めて真壁と会ったのは、スポーツ特待生のセレクションの行われたグラウンドだった。全額免除の特A特待生の体格や身のこなし方に気圧《けお》された。こんなに実力の差があるのか、と感じて入学を辞退しようと今岡は考えたほどだった。
野球部の監督は奇特な人物で、体育会系の縦の構造や根性主義を嫌っていて、自由なスポーツ環境を作っていた。甲子園に出て勝利を挙げることより、生涯を通じて野球ができるようにと、先を考えての練習や育成、体力作りを行っていた。坊主刈りでない選手が初めて甲子園に出場したのは、この高校だった。
学年を問わずにレギュラー入りの機会は与えられ、当然のように真壁は一年生から正捕手で、今岡は三番手の控えピッチャーだった。
「私は退部しましたけどね」
真壁にこそ劣るが、今岡は立派な身体をしている。今岡は、その身体を少し縮めるようにして言った。
「どうしてですか?」
「練習もきつくないし、しごきもない。本当に良い環境で、みんな、伸び伸びと野球をやっていました。でもね、そうなってくると、より明確に力の違いがわかってくるんですよ」
自主トレーニングをして努力をするのは、当たり前の場所だった。誰もが自分とコーチとでメニューを作り、自分の弱い部分を鍛え、長所を無理せずに伸ばすことをやっていた。そして、今岡は努力だけでは超えられないものがあることに気付いた。
「よっぽど残酷でしたよ。自分の可能性や限界が段々と見えてくるんですから。プロ野球選手になっていく資質というものがあって、それが私にはないことがわかるんです」
「それが真壁にはあった。だから別格だと」
「そうですね。実証もされていますし」
「嫉妬とかは感じましたか?」
「まったくないですね。真壁と拮抗《きつこう》していれば、少しはライバルとして感じたんでしょうが、違いすぎましたから。真壁を羨望のまなざしで見て、勝手に嫉妬する人間はいるでしょうが、それは真壁と同じ土俵に上がったことがないからですよ」
「そんなもんですか……」
「監督がよく言ってましたね。嫉妬をするのは、『ひもじい人間』だと」
「ひもじい?」
「ええ。同性に対する嫉妬ですね。よくいたでしょう、年下の奴がちょっと目立つと文句言うのが。それとか、新聞とか雑誌に投書するような馬鹿が。あんなのは、自分ができないから悔しくてしょうがない嫉妬で、その浅はかさは明日には繋がらない」
「はは、ひもじいってのはいいな。それはそうだ。スポーツエリートを育成してるんだから、そこの選手は嫉妬の的になるものな」
「まったくできもしないのに、『やりたいやりたい、俺だってできるはずだ、あの野郎ばっかり』って思っているのは、精神が飢えている乞食だってね。だから、ひもじくてしょうがない、だからそんな、ひもじい人間は相手にするな、自分もなるな、といつも監督は言ってましたよ」
「真壁には、その当時の監督の教育が活かされているようですね。酔客だらけの中洲の大通りを、視線を跳ね返して歩いてました」
幸三は、今岡が筋者世界で出世した理由の一端を見たような気がした。筋者の世界も、プロスポーツの世界と似たようなもので悋気《りんき》と嫉妬が渦巻いている。
「真壁は野球に向いていて、今岡さんは筋者に向いていたんでしょうね」
「まあ、そうですね。世間的な地位や評判はまったく天と地ですけど」
「なかなか、真壁に付け入るのは難しいな」
「だから幸三さんに頼んでるんですよ。弱いエリートや、がさつに前に進んでいるような奴なら、私たちで十分に弱みを捕まえられます。真壁が難しいのは、私が一番良く知っています」
「うーん、まったく厄介な仕事だぜ」
幸三が言うと、今岡が笑った。
「今岡さんが、やられるとしたら、何でやられると思いますか? 同じ場所で教育を受けたんだから、何かいいヒントになるかもしれない」
「そうだな。この前の幸三さんのように、いきなりやられるのには弱いですね。後ろからズドンとか」
「それができるんだったら、苦労はしてないですよ」
幸三は大きなため息をついた。そもそもが、真壁はいままで幸三が消してきた人間の類型のどこにも当てはまらない。入り込んでいく糸口の先端さえも見えない。
「もうちょっと、もがいてみます」
幸三は立ち上がった。
「お願いします。私も、記憶を探って、真壁に関することを思い出してみますから」
「記憶を探ってか……。それはぜひ」
幸三はドアを開けた。
「そうだ。話は変わるけど、今岡さんは、どうして筋者になったんですか?」
「これでも、向いている職種を考えた末の一つの選択肢だったんですよ。野球辞めて、少しぐれたときにね。結構筋者の修行も性《しよう》に合ってました。いまどきでは、墜ちていった場所が筋者だったなんてのじゃ、出世しませんから」
「さすがだね」
幸三はドアを閉めた。
「ガチャコ、真壁はあそこにいる。見えるか?」
クラブ『ミュゼ』のソファーに深く腰掛けた幸三は、目から上だけを背もたれから出して振り返った。ガチャコが顔を寄せてきた。
「わあ、やっぱり、大きいわね」
幸三から電話を受け、走ってきたガチャコの吐息は荒く、少し熱かった。
「まあ、一杯飲んでから息を整えてくれ」
自分が飲んでいた薄い水割りのグラスを、幸三はガチャコの口につけた。
ガチャコはウィンクをすると、ゴクリと喉仏を上下させて水割りを飲んだ。
小さな丸い顔と鶴のように長い首には、女の子のような可憐さがあり男の臭いはしなかった。しかし、喉仏だけは男の痕跡の残り香のように首に引っかかっていた。
「あら、カワイ娘ちゃんねえ」
ミュゼのママがガチャコの横に座った。
「こんにちはー、ガチャコでーす」
ガチャコはわざと低い男の声で答えた。
「オカマちゃんだったのね。ちょっと背が高いと思ったけど、可愛いわよ、ガチャコちゃん」
「えへへへ」
ガチャコの笑い声は、照れた少年のようだった。
「こいつホークスの真壁のファンでね。電話したら、直ぐに飛んできたんだ。申し訳ないけど、サインと握手をお願いできるかな」
「真壁さんなら大丈夫よ、ファンを大切にするから、ちょっと待っててね」
ママが立ち上がると、ガチャコがその背中を見送った。幸三は、真壁たちに背を向け、ソファーに埋まるように深く座った。
ガチャコが呼ばれた。幸三はガチャコの尻を叩いて「頼むぜ」と小声で言った。ガチャコは女の子の声で小さく「わかった」と答えた。
幸三の後頭部に、野太い男たちの笑い声が届いてきた。続いてガチャコの嬌声が上がった。
「今度、店に飲みに来てよね!」
しばらくしてガチャコの声が響いた。
「ああ、行く行く」
真壁ではない声があとを追った。幸三は頭を低くして、ピクリともせずに座っていた。
ガチャコは選手四人のサインの入ったハンカチを幸三の膝に広げた。
「真壁さんはねえ……」
喋り始めようとしていたガチャコの口に幸三が人さし指を当てて制した。ガチャコの唇がビクッと震えた。
「ここで話すな。俺が精算をしてドアから出ていったら、真壁たちに向かって手を振って出てきてくれ。俺は、一階のエレベータの横で待っているから」
幸三はガチャコに言うとママを呼んだ。
エレベータのドアが開くと、ガチャコは階段の壁に背を付けて立っている幸三の肩と横顔を見つけた。
『コンディーション・グリーン』のママには、幸三と二人っきりで会うな、と言われていた。でも、電話がかかってうれしくなって来てしまった。携帯の電話番号を名刺の裏に書いて、こっそりと渡していたけれど、本当に電話がかかってくるとは思わなかった。
幸三からの電話の番号表示が、公衆電話や、福岡の092で始まる番号表示だったら出なかっただろう。
おそるおそる出た電話から幸三の声が聞こえてきたとき、最初の一言目で、幸三さん! と返したほど、幸三の声が身体に入り込んできた。無意識のうちに、かかってきた幸三の番号表示をメモリした。
今夜の電話で、幸三から頼まれたことは、真壁というプロ野球選手に会い、その男の性的嗜好を感じてほしい、ということだった。つまり、真壁がホモセクシャルであるのかどうかをオカマの感覚で嗅ぎとってくれというものだった。
ママは幸三の職業を訊いてはいけないとも言った。幸三が店で言っていた台湾からコンピュータ部品と不法就労者を輸入しているブローカーという職業でないことは、薄々気付いていた。
今夜の幸三の頼み事を聞いて、職業を訊いてみたくなった、でも、恐くなってやめた。ただただ、電話をくれて頼み事をしてくれたことがうれしかった。
「どうだった真壁は、オケケと思うか?」
幸三と目が合うと身体を引き寄せて訊いてきた。
「うーん、違うと思う。真壁さんって、ノンケだよ」
「本当にそうか?」
「大丈夫よ。私だって歴としたオケケなんだから、同病のオケケの匂いはわかるわ」
「まあ、そうだろうな」
「うん。だって、私を見る目が不思議そうだったんやもん。こんな人間がいるんだなあって感じの目、オケケはあんな目では見ないわ。オケケの視線は、もっと身体の中に入り込んでくるのよ」
「そりゃノンケだな」
「でしょう!」
「上出来だ。ガチャコ、ありがとう」
幸三は腰に回した腕により力を入れてきた。蛇に絡みつかれたことはないけれど、こんな感じに柔らかくじわりと締め付けるのかな、とガチャコは思った。
「えっ。幸三さんって、ありがとう、なんて言うんだ……」
幸三の顔を見上げた。幸三は腰を押すようにして歩き始めた。
中洲の大通りは酔客で溢れていた。幸三の腕はハンドルのようにガチャコの身体の向きを変え、人ごみの中を泳ぐように動かした。
「時間はあるか?」
「あるわ」
今夜の中で一番可愛い女の声が出せた。
「行くか?」
「うん……」
ガチャコは頭をカクンと降ろした。
「おい、ガチャコ。おまえチンチン付いてるのか」
幸三が耳に軽く唇を付けて訊いた。電動歯ブラシで触れられたようにこそばゆく感じた。幸三の声だけを選り分けて聞く耳栓をはめられたように雑踏の音が消えていった。
「ごめん、幸三さん。お金が溜まってないから、オッパイはできているけど、まだ……、下は未工事のままなの」
「ぶらさがってんのか?」
また、耳に幸三の唇が触れた。
「うん」
「俺好みだよ。女の身体から飛び出してきたみたいで」
身体の芯がぽっと熱くなってきた。
きついガードルで目立たないように押さえ込んでいる性器に血が流れ込んでいく。性器に流れ込んだ血液の分だけ、脳に隙間が空いていく、そして、空いた隙間に幸三がするりと入ってくるようだった。もっと、隙間を広げ、幸三に入ってきてもらいたくて仕方がなかった。初めて勃起した頃の懐かしいキンという感覚が下半身に蘇ってきた。
ガチャコは身体を預け、頬を幸三の肩に押し付けた。夏のスーツの薄い生地を通して、幸三の温度と匂いを感じた。
今岡にとって、高校生の頃の真壁を思い出すことは、自分の高校時代を思い出すことだった。
今岡は、二、三度、ふらっと実家に立ち寄ったことがあるだけで、十七年も親兄弟とは音信不通のままだった。十七で家を飛び出し、じわじわと西に流れ、福岡で盃を受けて腰を落ち着かせた。生きてきた半分を家庭で過ごし、残りの半分を組織の中で過ごしてきたことになる。初めて起訴されたときにも親には一切連絡を入れず、身柄引受人は、組織の兄貴分だった。
今岡が帰らなかったのは、意地を張っていたり、親との折り合いが悪かったわけではなく、組織の中に身を置くことが忙しすぎたからであった。
給料生活者の父親と専業主婦である母親は健在だが、大して会いたいとは思わない。愛情が薄れたというより、組織で生きてきた刺激が、今岡の中にある感情を歪ませてしまったのかもしれない。それほど今岡は、縦割りの構造を持つ組織に性格がどんぴしゃりにはまっていた。命令系統がしっかりとしていると安心できた。善悪の判断は、すべて組織の論理の中で完結していた。
真壁と親との関係はどうだったろう? と、今岡は少ない記憶を探った。
確か真壁の父親は義理の父親だと聞いたことがあった。寮にあった真壁の家族写真を見て、誰もが薄々は気付いていたことだった。両親や妹も日本人の顔をしているのに、真壁のような彫りの深い顔立ちの子供が生まれるはずはない。真壁家の写真では真壁だけが外国人に見えた。
真壁は、今岡が写真に視線を送っていることに気付くと、父親と血が繋がっていないことを告げた。その声には気負いも、不貞腐れた様子も感じられなかった。今岡もそんなもんかと聞き流した。
いま思えば、そこに何かしらの問題があるかもしれない、と今岡は「真壁、父親」とメモに記した。
たまには、実家に帰ってみてもいいかな、と今岡は思った。真壁と一緒に写った写真は、まだ実家には残っているのだろうか。たぶん、自分の思い出となる物は、すべて実家からは消えているだろう。
煙草に火をつけると、大きく吸い込んで煙を吐いた。
埼玉県で真壁と出会い、真壁の生まれ故郷である福岡で、また真壁と出会った。埼玉では同じ野球を志す若者として、福岡では陽の当たる代表と、陽の当たらない裏で蠢《うごめ》く虫として。因縁とは思わない、ただの偶然でしかない。福岡の飲み屋で真壁と出会ったとき、真壁は埼玉時代の笑顔で今岡と接してきた。嫉妬や悔しいと思う気持ちは浮かばなかった。
今回、その真壁を騙すことになる。
これが自分の仕事だから罪悪感は一つもない。頭の中の隅々まで探ってみても真壁に対する罪悪感は転がっていない。時間と刺激が今岡を大きく変えてしまったのだろう。
思えば遠くへ来てしまったもんだな、と今岡は考えると笑ってしまった。
「真壁は表、自分は裏。真壁の影の部分は何か? もしかすると自分の光の部分が真壁の影に通じるかもしれない」今岡は、メモに書き加えた。
渡辺は出前の夕食を食べたあと、ソファーでうたた寝をしていた。子供の頃のじんわりと温かい解放感が下半身を占領していた。
夢の中の自分は、半ズボンに白いランニングシャツを着た子供の姿をしていた。
今回の尿漏れは、漏れというには激しく、膀胱をからっぽにするまで目が覚めない子供のような寝小便だった。
下半身の感覚が子供の頃の夢を見させたのか、それとも、子供の頃の夢が下半身に影響を与えたのか、わからなかったが、目覚めは最悪だった。
明け方に刑事たちにドアをがんがんと叩かれ、犯罪が露呈したことを逮捕状で知らされる瞬間よりも最低な気分だった。
脱ぐだけでもやっとのパンツタイプの紙オムツは、ずっしりと重く、尿吸収の限界を超えてだらんと垂れ下がった。二の腕に力を入れないといけないほどの重さは渡辺の気持ちを暗くした。
渡辺は憤怒の顔で紙オムツを目の高さまで持ち上げた。腕がぷるぷると震えた。
窓を開け放った。渡辺はいまいましげに紙オムツを力いっぱいに投げ捨てた。紙オムツは街路樹に当たり、がさがさと音を立て、大通りの車道に落ちた。
少しだけ気持ちが晴れたが、誰かに見られているかもしれないと、渡辺は我に返って部屋の電気を消した。下半身を晒け出したまま、もう一度窓に近づいた。
紙オムツを車が轢いていった。
尿を大量に吸収したジェルが、紙オムツの中で轢き潰される音は、三階の窓から顔を半分覗かせている渡辺の耳にまで響いてきた。
何台も何台も、車は紙オムツを狙いすましたように轢いていった。タイヤに付着していたディーゼル車の粉塵や街の汚れは、青みがかった白い紙オムツを道路の色に染めていく。
窓から入る風が、少し湿りけを残した下半身の熱をすっと奪い、「剣抜弩張」と彫られた性器は一段と縮んだ。
渡辺は薄暗い中で、衛生濡れナプキンを取り出し、下半身を丁寧に拭った。消毒用アルコールは気化し皮膚の温度を下げ、より渡辺の性器を提灯のようにへしゃげさせた。
慣れた手つきで紙オムツを付ける。作業には慣れていたが、かさかさと乾いたギャザーの感触や、パンツタイプの紙オムツを穿いた自分の姿には決して慣れることはなかった。
渡辺はズボンを引き上げると、消臭スプレーを振り巻いた。
部屋をノックする音がした。今岡は頭を振って真壁の像を追い払った。
「専務、ちょっとよかですか?」
阪本の赤茶けた頭がドアの隙間から覗いていた。
「おう、入れ」
腰を絞ったブリティッシュ・ラインのスーツを着た阪本は、手に数枚の紙を載せていた。今岡が紙を受け取ると、阪本は少し身体を右向き気味の直立不動にして待った。
「何だこれ」
今岡の表情がすっと変わった。
「今夜のホークス戦で底が出たもんですから」
「底が出たのは見れば、すぐわかるんだよ。何でこんな底が出るんだよ」
机に紙を置くと、今岡は阪本の爪先から頭の天辺までをじっとりとした視線で眺めた。
相田興業では、各部門で一日の売り上げを記録して折れ線グラフにする。そして、月の中で一番売り上げが落ちた日を折れ線グラフの形から底≠ニ呼び、一年を通じて一番売り上げが悪い日を大底≠ニ言う。底が出た日は緊張する。
「底が出たら、いの一番で知らせろとは言ってるけどなあ……。底が出ましたって言ったっきりの立ちん棒じゃなあ」
「はあ……」
「底が出るときは、それなりに意味があるだろう。どう思うんだよ、てめえは」
「はあ、小口の客の数が、ここ一週間で三倍に増えたとです。それが、原因じゃなかでしょうかね」
「そうか……。偶然じゃなさそうだな」
「でも、専務。終盤戦に入ってきとるんですから、小口は増えますよ」
「今夜は揃いも揃って、その増えた奴らが当てるってことが偶然と思うのか、おまえは」
「はあ、そうっすね」
「偶然か偶然じゃないのかを見極めるのが博打だろう。数字見てるだけで、ぴりぴりって予感しないと干されるぞ」
阪本は頭を下げた。
「おい、いい歳してピアスなんてしてんじゃないぞ」
今岡は立ち上がると、阪本の左耳を摘んだ。
「すみません」
「阪本、明日までに坊主にしてこい。それと、今回の底が、何かの予兆なのかどうか調べとけ」
椅子を回して今岡は背を向けた。
「わかりました」
阪本はもう一度深く頭を下げると部屋を出ていった。
今岡は、阪本を見ていらついていた。
阪本の無防備さは、幸三に耳這刀《じばいとう》を耳の穴にそっと当てられた自分を見ているようだった。
書類を持つと今岡は渡辺の部屋をノックした。
「社長、ちょっとこれを見てくれますか」
今岡は渡辺の部屋に入ると空気の違いを感じた。窓が開いている。渡辺は今岡の視線の先を感じたように窓へと歩いた。
「何ごとや?」
渡辺は後ろ手で窓を閉めながら訊いた。大通りの騒音がすっと治まった。
「今夜のホークス戦で底が出ました」
紙片を食い入るように渡辺が見つめている。
「今週、小口の数が三倍近くなりました。偶然ではないように思います」
「偶然やないっちゅうのは、おまえの博打の虫か? それとも経済のデータからはじき出した予測か?」
渡辺の目には試している色があった。
「データからの予測なら、明日の朝一に話を入れに来ているでしょう。今回は、私の博打の虫が知らせてきたと思ってるんですけど」
「ほう、珍しかことやな。おまえの博打の虫やら信用せんばってん。底と珍しかことが二つ来たんやけん、これは偶然やなかろうな」
「関西でしょうか?」
「阿呆かおまえは、坊主にするぞ。関西かどうかを、それこそ、おまえがおまえの得意科目のデータ漁りで調べるっちゃろうが。命の残り少なくなってきとう俺の博打の虫を使わせるな」
「すみません」
「まあ、偶然やらいうもんが、俺たちの周りで起こるとか、考えんほうがよかろうな」
「そうでしょうね。近頃は、そんなことばかり考えています」
「そうやな、危機管理っちゅうことやな」
「では、引き続きチェックして、明日報告します」
「幸三からの連絡は?」
「もがいているようです」
「そうや……」
今岡はもう一度深く頭を下げると部屋を出ていった。
渡辺は、幸三に耳這刀を耳の穴にそっと当てられた今岡を思い出していた。それは、自分の無防備さが招いた部下の失態だった。部下の失態はそのまま自分に跳ね返って来る。
渡辺は大きく窓を開け放った。大通りの騒音と排気ガスの混ざった空気が入り込んできた。視線は吸い寄せられるように忌まわしい紙オムツに注がれた。
紙オムツはペちゃんこになっていた。
車に轢かれたばかりの猫は生々しく色鮮やかだが、轢かれ続けていくと、平たくなって猫の煎餅《せんべい》のようになる。紙オムツも煎餅のようになり、忌まわしさは薄れかけていた。
紙オムツが、じわじわと吸い込まれるように道路と同化していく様を、渡辺はぼんやりと眺めた。
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08  蒟蒻《こんにやく》
「返してよ!」
純は、ランドセルを両手で抱え上げ、達夫を睨んだ。達夫の高い頬骨の上にのった細い目が勝ち誇ったように純を睨み返した。
夏休みの登校日に出てきたことを純は後悔した。裏門から見つからないように帰ろうとしたことが裏目に出た。
「返してよ、げな! してよ、やら言うとはオカマやろう、おまえ」
達夫の子分の一樹と拓也が、オカマやオカマや、と囃《はや》し立てながら純の腕を押さえた。産毛《うぶげ》もない白い腕に、真っ黒に日焼けした腕が絡み付いてきた。
達夫が純の足を踏みつけた。買ってもらったばかりの真っ白のナイキに掠れたような靴跡が付いた。
「タックン、知っとうね。オカマって、大人の言葉でホモって言うっちぇ!」
拓也が言った。
「俺も聞いたことがあるじぇ。うちの姉ちゃんの本にも、ホモセクチャールって書いてあった」
一樹が大声で言った。
「イヤーン、アッハーンって言ったら返しちゃあぞ」
達夫が顔を近づけた。
「ほら言わんや! オカマの純子! ホモセクチャールの純子!」
達夫は純の目の奥を覗き込むようにして怒鳴った。純の耳元で一樹と拓也の笑い声が響いた。
「早く言わんや、ホモセクチャールやろうが」
一樹はホモセクチャールの部分を、英語のように発音した。純は歯を食いしばった。
達夫は一メートルほどの高さの堤防に飛び乗った。純は一瞬、そのまま海に落ちてしまえと望んだ。しかし、達夫は、バランスを取りながら純のランドセルをぐるぐると回した。堤防の上で長年遊び慣れている仕草だった。
「言わんと、海に捨てるじぇ」
達夫は、からかうようにランドセルを海に放るふりをした。
「やめてよ!」
涙が出そうだった。でも泣くと面白がって余計にいじめてくるのはわかっていた。純は必死に涙を堪えた。
三人が揃って高い声を上げて「やめてよ! やめてよ!」と叫んだ。
「ほら純子、早く言わんや! 言わんとランドセルば落とすぞ」
達夫は笑っている。一樹と拓也は一段と腕を強くねじ上げた。
「イ、イ、イヤーン……」
屈辱が純を満たした。
「何や! いっちょん聞こえんぜ!」
「イヤーン……、ア、ア、アッ……」
鼻の奥がツーンと痛くなってきた。純は拳を握って涙を堪えた。
「いっちょん聞こえんバイ! 腕ば離してやれ。それで腕を横に振りながらイヤーン、アッハーンって言えば、でっかか声も出るやろう」
達夫がシナを作って腕を横に振ってみせた。純を離すと一樹と拓也も身軽に堤防に登った。
「早よ、言わんか! 落とすぞ、使えんごとなるぞ」
一樹が達夫の横で腕組みをして言った。
もしも、自分が大きくて強かったなら、一樹を最初に泣かしたいと純は思った。
「イヤーン、アッハーン……」
純は下を向いて言った。
頭を横に振ると髪がさらさらと揺れた。涙声になりかけた純の声は、イヤーンのヤの部分で裏返り、ハーーンの部分では悲しげに大きく伸びた。
「うえー! 気色悪うー! 本当のオカマやん! うえーホモセクチャールやが!」
一樹が言うと全員で笑った。
「イヤーン! アッハーーン! イヤーン! アッハーーン! イヤーン! アッハーーン! げな!」
三人で揃って腕を振りながら声を揃えた。
「塩水で洗ったら、女の持っとうランドセルのごと、赤くなるっちゃないとや」
達夫は手にしていたランドセルを海に投げた。一樹と拓也が驚いたように海を覗き込んだ。
純は堤防に駆け寄った。
「純、今度は赤いランドセルで学校に来やい!」
達夫はしゃがんで、純の顔を覗き込んで怒鳴った。
「んならな! 純子!」
達夫を先頭に堤防の上から大きくジャンプして地面に飛び降り、三人は駆けて行った。
一樹の甲高い嘲《あざけ》りが遠くに聞こえたが、純は振り返らなかった。堤防に腹ばいになって海を覗き込んでいると、ボタボタと涙が滴り落ちた。
ランドセルは博多湾の内海特有のベタ波に揺られながら、かろうじて浮いていた。
「幸ちゃん、ガチャコちゃんを喰ったでしょう」
蘭子は、蒟蒻《こんにやく》のぴり辛炒めを盛った皿を、昼食のテーブルに置いた。
「ああ、喰ったよ」
幸三は蒟蒻の油揚げ巾着包み煮に大根おろしを大量に載せ、博多葱を散らした。
「ふーん」
酢味噌の小皿と青海苔入りの刺身蒟蒻の皿を両手に持った蘭子は、鼻を鳴らして睨んだ。
「ガチャコちゃんに何か仕事を手伝わせているの?」
「そうだよ」
刺身蒟蒻をテーブルに出す前に、幸三は途中で受け取った。
「だから喰ったの?」
「そうだよ」
「それって、ガチャコちゃんをうまく操るために?」
蘭子は、味噌汁の椀を載せた盆をテーブルに置いた。
「そうだよ」
「ガチャコちゃんのこと好き?」
「別に」
「ガチャコちゃんに非道《ひど》いことするの?」
「さあ、どうだろう。今回はいつもと違うからな、予測がつかねえんだ」
「ふーん」
食卓が整い、蘭子は席に着いた。
「珍しいな、蘭子。嫉妬してるんじゃねえか?」
幸三は味噌汁の入った椀に手を伸ばした。
「してないわよ」
「じゃあ、この昼飯はいじめか? 蒟蒻ばっかりじゃねえか」
「身体にいいわよ。それによく食べてるじゃない」
「それは身体を絞るときに集中して喰ってるだけだ」
「そうだったかしら」
「それにしても、この味噌汁の具はやりすぎじゃねえのか。俺が蒟蒻嫌いなの知ってるだろう」
幸三は味噌汁に入っていた白滝を箸で摘んだ。
「あら、嫌いだったかしら?」
蘭子は白滝をつるつると食べた。白滝の最後の端がピロンと揺れて小さな滴《しずく》が跳ねた。
「木枯し紋次郎と一緒だ」
大きな音を立てて、幸三は白滝をすすった。
「何よ、それ」
「紋次郎も蒟蒻が嫌いだったんだって、前もおまえに話したぞ」
「どんな話だったかしら」
蘭子は親指大の蒟蒻のピリ辛炒めを箸で摘むと口に入れた。
「紋次郎の幼馴染みの弁蔵の弟が蒟蒻で間引きされたんだよ」
幸三は刺身蒟蒻を生レバーのようにちゅるっと吸い込んだ。
「間引きって何だっけ?」
「貧乏な家が、喰いぶちを減らすために、自分の子供を殺すんだよ。昔の産児制限だな」
「なんか、聞いたことあるような気がするなあ」
油揚げの巾着を箸で開くと、細切りの蒟蒻と人参、里芋、ひじきが顔を出し、ふわりと湯気が立った。香ばしい胡麻油の香りが広がる。
「聞いたことあるはずだぜ。まだ赤ん坊の幼馴染みの弟が、蒟蒻を使って間引きされているのを襖《ふすま》の隙間から覗き見てしまってから、紋次郎は蒟蒻が喰えなくなったんだ」
幸三は、ずっしりと重い巾着包みを箸で持ち上げると、そのままかぶりついた。
「あっ思い出した。その赤ちゃんって、蒟蒻を口に押し付けられて窒息死させられたんでしょう」
蘭子はちゅるっと刺身蒟蒻を食べるとタンッと舌を鳴らした。
「残酷なことするよな、まったく」
「何言ってんのよ、幸ちゃん。自分は人殺しで何人も殺してるくせに。しかも、木枯し紋次郎って、テレビの時代劇でしょう。嘘んこの話じゃない」
「なんだよ、やっぱり憶えてるじゃねえか」
幸三が睨むと、蘭子は笑っていた。
「ねえ、幸ちゃんも蒟蒻に嫌な思い出があるの?」
「ねえよ、そんなもん」
幸三はがしがしと蒟蒻を噛みちぎった。
純は涙が乾くとロープを探した。どうにかしてランドセルを釣り上げようと思った。ランドセルを持たずに帰ると、いじめられていることが母親にばれてしまう。
転校してきた当初は、仲良くしてくれていた達夫を家に連れて帰ったことがある。母親は、こんなに早く友達ができたと褒《ほ》めてくれた。いまは、いじめられていると、純はどうしても母親に知られたくなかった。
ロープは、公園に点在する「ブルーシートの団地」の横に積み上げられていた廃品の中から見つけた。
自転車のスポークを鉤《かぎ》型に曲げロープに結び付け、純は堤防からロープを垂らした。
妙案だと思ったが、何度やっても簡単には釣れなかった。波に押されて半分沈みかけたランドセルは堤防の下にあり、地面から背伸びをして堤防に寄りかかっているだけでは、うまくランドセルに向かってロープは垂らせなかった。
堤防から身を大きく乗り出そうとしても恐くてできない。純はいままでに堤防の上に立ち上がったことはなかった。
達夫たちが身軽に堤防を登ったり降りたりする光景が蘇った。悔しさが込み上げてきた。
純は意を決して堤防の上に足を掛けた。地面から両足が離れた。堤防の上で腹ばいになると身体が緊張した。地面に足を着けて海を覗くのとは違って不安定に感じられた。
四つんばいになって、ゆっくり立ち上がろうとするけれど、コンクリートから手が離せない。真っ青な空と海との境を目の端で捉えると、身がすくんでしゃがみ込んでしまった。
純は手を離して二本足で立ち上がることを諦めて、腹ばいになった。腹ばいになれば、少しだけ堤防から身を乗り出せた。
手をいっぱいに伸ばしてロープを垂らす。鉤型のスポークがうまい具合にランドセルの近くに降りた。左手と両足で堤防を掴み、もっと身を乗り出す。ロープを引き寄せたり、ランドセルのそばでジャンプさせる。肩掛けの輪に引っかかるように、何度も位置を調整した。
右手にぐっと重みが掛かった。純はロープを慎重に手繰《たぐ》り寄せる。ランドセルが空中に浮くと重みが腕に掛かってきた。座り直して足で堤防を挟み両腕でロープを引っぱった。
海の中に引き摺り込まれそうで恐くなった。純は歯を食いしばった。また、涙が滲んできた。危険を感じて恐ろしくなってしまった涙だった。誰か助けて! と純は心の中で叫んでいた。
堤防に引き上げられたランドセルは、力尽きたように大量の海水を吐き出した。海水はからからに乾いた堤防のコンクリートを黒々と染めた。太陽の光は真上から降り注ぎ、カモメの鳴き声に外航船の汽笛が鳴り、潮風が汗を乾かす、海の色も空の色も真っ青な風景だった。しかし、純にとっては憎らしいモノクロームの情景に映った。
純はランドセルの横で声を上げて泣いた。安堵《あんど》と悔しさとがない交ぜになった涙が溢れ出た。
福岡なんかに来なければ良かった、と純は心底思った。
幸三は背中から階段を降り始めた。降りていくと八階に人の気配を感じた。
「どうした、純。また、いじめられたのか」
立ち止まると幸三は訊いた。
純は答えなかった。両足の間に入るほど頭をうなだれて動かなかった。
「ははは、相当にやられてんなあ」
幸三は、薄いグレーのスーツを着ていたので、ポケットから白いハンカチを出して尻の下に敷いた。
「今度は、何されたんだ?」
純は一段下に置いていたランドセルを蹴った。海水を吸ったランドセルは湿った音で転がりひしゃげたように踊り場で止まった。
「ははは、不貞腐れてんなあ」
幸三の顔を純が睨んだ。
「おっ、今度は怒ったか、あはははは」
幸三は立ち上がると階段を降りランドセルを手にした。そして、チェスト・パスのようにランドセルを純に投げた。
純はやっとの思いで受け取ると、立ち上がってランドセルを力任せに投げ返した。幸三は身体を少し動かしただけでランドセルを見切って避けた。ランドセルは壁にぶつかり中味が散乱した。
「なんだ、元気いいじゃねえか」
「やらせたら、殺してくれるって言ったじゃないか!」
純の甲高《かんだか》い声が階段に響いた。
「おいおい、殺してくれなんて、でっけえ声で言うなよ。まったく、餓鬼は自分本位だな」
ハンカチで手を拭きながら幸三は言った。
「じゃあ、小さな声ならいいの?」
「けっ、東京生まれの餓鬼は屁理屈を言うな。それに、やらせるなんて、声変わり前の声で叫ばれたら、お稚児さん趣味のホモと間違われるじゃねえか」
「えっ、おじちゃんホモなの!」
「そうだよ」
「今日はオカマって言われていじめられたんだ」
「今日はって何だそれ。オカマやホモってのは一生のもんだぜ。今日だけ特別にオカマって言われたのか?」
「ホモセクチャールとも言われた……」
「なんだそれ、どうしてシャじゃなくてチャになってんだ。しかもチャーって伸びてるじゃねえか。大人はホモセクシャルで子供の場合はホモセクチャールって言うみてえだな、ははは」
「笑ってないで殺してよ」
純は拳を握っていた。
「わかったわかった。でもよ、純。さっきぐらいに、むかついてイジメッコにぶつかりゃあ、解決するんじゃねえか」
「無理だよ」
「たぶん、おまえじゃ無理か。餓鬼はずるいから、俺みたいに優しく接してくる奴には、調子に乗って食ってかかってくるけど、本当にむかつく奴の前ではびびってしまうからよ。ははは」
幸三は背中から歩き始めた。
「行っちゃうの?」
純は追いすがるように階段を降りた。
「ああ、大人は忙しいんだよ。今度、相手にぶつかって、うまくいかなかったら、家に来な。一一〇三号室だから」
「うん。そのときは殺してくれるんだよね」
「まあな」
「やらせるから」
「おお頼むぜ。でも、これじゃ援交を迫られている気の弱いオヤジみてえだな」
幸三は後ろ向きで階段を降りながら話し、純はその後をついて階段を降りている。手は繋いでいないもののフォークダンスをしているようだった。
「純、おまえの父親って何してるんだ?」
「会社員」
「相談してみたか?」
「一緒に住んでないから」
「そうか、それは大方両親が離婚して、母親の実家の福岡に引っ越してきたってところだろ」
「すごいね、おじちゃん。そのとおりだよ」
「大人は何でも知ってんだよ」
父親は会社員とは言っているが、まっとうな会社で働いているとは幸三には思えなかった。
「じゃあな」
一階に降りた幸三は言った。
「うん」
入り口を出ると純が手を振った。子犬が尻尾を振っているようだった。幸三は釣られて小さく手を振り返した。
「食中毒ってのはどうですかね?」
今岡は言った。
「食中毒か……」
幸三はソファーに身を預けた。渡辺も口の奥で食中毒とつぶやいた。
「できないことはないですよ。試合当日、真壁は朝食と昼食を兼ねた食事を家で食べますし、試合の前に球場内の選手用食堂で軽い食事を摂りますから」
ラップトップ型のPCを操作して、幸三は画面に表を出した。毒物、菌、薬物などの成分表と、人体における症状などを表にしたものだった。
「へえ、幸三さんは毒殺もやるんですか」
今岡が興味深げに画面の文字を追っていた。
「毒殺はやりませんよ、体内に薬物が残りますからね。いまの検屍技術は飛躍的によくなってますから、薬物の痕跡は100%近い確率で発見されます。私の場合は動けなくしておいて、さらうときに薬物を盛りますね。それも、薄いやつです。薬物ってのは厄介で、殺して埋めても身体のいたるところに残留するんですから」
「へー、そういや、墓を掘り返してモーツァルトの死因とか調べてたな」
「それは土葬でしょう。いまの日本では、焼いて骨になっていても残留薬物を探し出しますから」
「保険屋のおばはんが、いっぱい捕まっとうやないか。警察が真剣に調べたら一発でバレるったい」
渡辺が陽気な声を出した。
「保険屋のおばさんが捕まってくれたおかげで、それを利用する手ができましたけどね」
「どげなことや?」
「例えば、ナベカツさんを殺そうと思えば、奥さんが使えるってことです。毒物を使うのは体力的に弱い近親者という先入観を使うんですよ」
「うちのヤッカイモンはよくやってくれようぜ」
「駄目ですよ、ナベカツさん。女房のことをヤッカイモンなんて呼んでると、それだけで夫婦間の関係はうまくいってないと思われます。それに、陰で文句一つ言っていない女房なんていませんし、ナベカツさんも探れば問題はたくさんあるでしょう」
渡辺は紙オムツのことを思うとぞっとした。
「世の中に、自分の亭主を殺そうと考えたことのない女房はいないってことか」
妻子持ちの今岡も感慨深げに言った。
「嫉妬心からきた浅はかな知恵ってところを演出すると、警察は先入観から嫁さんに目を向けますからね。嫁さんが、薬物を手に入れるルートを知りうるように細工しておいて、同じ薬物を使って消せば、大きな物証になります」
「おまえは、非道いことを用意周到に考えとるんやなあ」
「仕事ですからね。まあ、そうやって、考えたら真壁を薬物で体調不良にすることは難しくないんです。スターティング・メンバー発表の前に欠場させるなら家の食卓で、試合直前か試合中なら、球場内の食堂で薬物を盛ればいいんです」
「症状はどんなもんですか?」
今岡が身を乗り出した。
「いかようにもできます。薬の調合と真壁の身体の状態がきちんと合えば、二時間後にぴったりと嘔吐が始まるということさえ可能です」
「ほう、そげんことできるなら、よそでは飯は喰えんな」
「そうですよ、ナベカツさん。緊張状態にある長《おさ》には、毒味役が必要です。まあ、真壁の場合も食べる物に関してきちんと管理されていますから、簡単ではありません。でも、今回の場合は、この方法じゃ、ちょっとまずいでしょうね」
「どこがですか?」
「真壁が自分の意志で欠場するってところに意味があるんでしょう。そうでなければ、相手方に対しての示威行為にはならないんじゃないですか」
「それは、そうやな。うちが、あの折れない真壁を、どうにかして握っているという感じにはならんな」
「二回表とか三回裏に欠場させるのなら、食中毒による体調不良ってことで、こちら側の手の内が多いと思わせることはできるでしょう。しかし、やはり最初は、真壁の自発的で意味不明の欠場ってのが効果的でしょうね」
「近頃の西は、がに股で関西弁喋りながら喧嘩を売ってくるわけではありません。それこそ、毒殺のように密かに迫ってきますからね。こちらも、表だっての示威行為はできません。心理戦でいきたいですね」
今岡は関西のヤクザを吐き捨てるように西と呼んだ。
「それはそうですね」
「他の方法はありませんか?」
「真壁辞典と呼んでもらっていいくらいに調べましたが、やはりつけ入る隙はなかなか見つかりません。でも、昨日、ちょっと面白い話に当たったんです」
「なんや、面白か話って」
渡辺はヤスリで爪を研いでいたのをやめて立ち上がった。
「真壁の父親というのが、蒸発しているというのはご存じですか?」
「父親が違うことは知っていましたよ。昔に真壁から聞いたことはあります。でも、蒸発していたとは知りませんね」
「真壁が小学生の頃に、父親は消息不明になっています。そして、母親は、真壁を連れて再婚してます」
「ほう、ちょっと面白か話になってきたな」
渡辺が今岡の隣に座った。
「真壁の父親は、大神清と言います」
「大神っちゃあ、博多にたまにある名前やな」
「ええ、大神家は、なかなか良い家柄だったんです。大神の父親はもう死んでますけど、ゼネラルモーターズの極東販社の取締役でした。戦前から海外赴任を経験していて、海外で外国人に産ませた子を日本に連れて帰ったようですね。それが大神清です」
「そこからゲルマンの血が入って来たわけか……」
「外国でつくった子供ば連れて帰るやら、いまやったら、それこそ毒ば盛られるやろうな。昔は金があったら、本宅と別宅を持つのやら当り前の話やったもんな」
「大神家も本宅で六人と別宅で三人の子供がありましたよ。大神清の場合は、本宅に引きとられ六人兄弟の末っ子として育てられました」
「子供を産み散らかしとうな。そりゃあ、外国で産ませた子も連れて帰るのもわかる。明治の男は金を作ったら好き放題やな」
渡辺は少し羨ましそうに笑った。
「昨日、大神清の異母姉に会ってきました。事情というか下調べのつもりだったんですけど。そこで、大神清は、どうも博多にいるんじゃないか、という話が出てきました」
「蒸発した人間が?」
「ええ」
幸三は頷いた。
堅気用のさえない銀縁眼鏡に、清潔そうにアイロンはかかっているけれど野暮ったいデザインのスーツを着て、幸三は大神清の姉のマンションを訪ねた。
大神清の姉は、町中のマンションに一人暮らしをしていた。
地元ローカルテレビ局の下請け会社の名前の入った名刺と、行方不明人のテレビ公開捜索の番組名を印字した企画書は大神の姉の興味をそそった。
一人暮らしの寂しさというより、元来から話し好きの性格なのだろう。本家の名前を出して信用させたとはいえ、物を売りつけられる心配がないとわかると、ドアを大きく開けた。姉は、居間にこそ通しはしなかったが、子犬を抱いたまま弟のことを饒舌に語った。
姉は大神清のことを「清ちゃん」と呼んだ。大神清との記憶は、蒸発した以前で止まっているのかもしれない。
大神清が蒸発した経緯は、姉の思い込みの記憶の中で歪められて、それほどあてになるとは思えなかった。どうやら、綺麗な顔立ちの自慢の異母弟は、末っ子ということもあって、可愛がられていたのはわかった。
「それがねえ、私、このあいだ、清ちゃんを見たとよ」
散々、大神清の顔の綺麗さを自慢されたあとに、ぽんとその情報は飛び出してきた。
「えっ! どこでですか?」
驚いた声を上げると、姉に抱かれていた子犬がキャンと幸三に向かって吠えた。小さくても一応は番犬の役割を果たしているのだろう。
「私がねえ、バスに乗ってたときよ。私も七十を超えたから、バスに無料で乗れるパスを貰えるとよ」
「はあ、パスがタダなんですか」
幸三は人畜無害の中年男の表情で答えていた。
「そう、タダなのよ。区から支給されるんだけどね。無料パスって、バス会社が老人のために、ボランティアでタダにしてくれてると思うじゃない、普通は」
「違うんですか」
「あれはね、区がお金を払って、バス会社から定期券ば買いようとよ。割り引きもなしで正規の値段でよ」
「へー、そうなんですか」
ここぞとばかりに幸三は驚いた顔を向けた。
「私が言うのも変やけど、税金の無駄使いのような気もするとよね。それに、バス会社もバス会社よね。ボランティアにして、割り引きぐらいしてくれたらいいとにねえ」
「そうですねえ。役人と大企業とのナアナアの関係がそうさせるんでしょうね」
「そうそう」
「で、バスを利用していたときに、清さんを見られたんですよね」
「そうなのよ。そこの大通りから私はいつもバスに乗るんだけど、ちょうど、天神に着く少し前だったかしらねえ、清ちゃんを見たのは」
姉のマンションは、天神という福岡一の繁華街からバスで十五分ほどのところにある。
「あっ、と思ったわ。上から下まで黄土色でね。昔からあの子の趣味は変わってないのねえ」
「黄土色? どういうことですか?」
「清ちゃんは、黄土色が好きだったとよ。ちょっと赤みがかったような明るい黄土色ね。あのときも、黄土色のハンチングに黄土色のコートだったわ。それに靴もそうだったような気がするわ。昔はよく、黄土色と茶色のコンビ靴を履いていたわ」
「顔は確認されましたか?」
「清ちゃんだったわ。私は振り返って見たから間違いようはないわね。大分歳をとってたけど、鼻筋もすっと通って大きな目で、変わってない印象だったわ。昔は色が白くて黄土色がとてもよく似合っていたのに、ちょっと色が黒くなってたみたいよ」
「話されたんですか」
「停留所で降りて直ぐに走ったけど、もういなかったわ」
「その一度だけですか? 清さんを見かけたのは」
「私はね、でもすぐ上の姉も見かけたって言ってたわ」
真壁が休日にチノパンを穿いて子供と出かけていた姿が、幸三の脳裏に浮かんだ。チノパンは休日の父親のカジュアルな格好だったが、黄土色のチノパンを真壁が穿くと、それはGIの軍服のようにも見えた。
「信用できるとか、そげな婆さんの話」
渡辺が言った。
「もう一人の姉のところには、大神から博多にいると電話がかかったことがあるようです。住所や仕事は話さなかったそうですけど」
「大神ってのは、結局、何で蒸発したとや?」
「借金ですね。真壁と妻を捨てて蒸発して、一時期、本家に戻ったりもしたようですけど、そこでまた借金を繰り返して、本家に結構な額を肩代わりしてもらってますが、また、蒸発しています」
「これは、使えそうやな」
「戸籍も住民票も、失踪者扱いになってます」
「真壁とは会ったことがあるとやろうかね」
「大神清の元妻を調べてみましたが、元妻とは一切の接触はありませんでした。しかし、まだ真壁との接触の有無はわかりません」
「仕事は、なんばしようとやろうか?」
「それもわかりませんが、まあ、住民票もない人間ができる仕事といえば、ヤクザか、日雇い労務者か、新聞の拡張員ってところでしょう」
「消し屋は、どげんな。おまえは住民票は持っとうとか?」
「戸籍もパスポートも免許証も持ってますし、税金も払ってます。偽物でもいいから身元が保証されないと、町中は自由に動けませんからね」
「おい、今岡。おまえは税金は払っとうとか?」
「ちゃんと払ってますよ。いまどきは、北朝鮮のスパイだって税金は納めてますから。社長こそ、税金は払ってるんですか?」
「俺は、裏金以外は、ちゃんと払っとうぞ」
渡辺の答えに今岡は苦笑した。
「大神清を探すのは、そちらに振ってもかまいませんか?」
幸三は切り出した。
「おう、そりゃあ、うちのほうが適任やろう、蛇の道はヤクザやけん」
「では幸三さん。大神清の特徴を言ってください」
メモを取り出した今岡は言った。
「じゃあ、これを」
幸三は大神清のデータを画面に表示した。
『大神清、一九三三年九月二十日生まれ、六十八歳。一九七五年失踪。前住所、福岡市中央区桜坂。
背は高くて痩せ型。ベルギーと日本のハーフ。目鼻立ちがはっきりした洋顔。ホークスの真壁選手に似ている。黄土色の服装を好む。ハンチングを使用するときあり。
借金による失踪。住民票戸籍等は、失踪時より動かした形跡なし。失踪前までの職業、父親の貿易会社に勤務。退社後、宝飾店、スナックなどを経営。博打嗜好不明。趣味、エルビス・プレスリー好き。性的嗜好不明。傷、刺青、手指の欠損等は不明』
今岡がデータを読み終えると、幸三はテキストをフロッピーに落として手渡した。
「結果が出るのに、どれくらいかかりますか?」
「そうですね。借金抱えて消えた家族なら一週間もかからずに探し出しますけど。大神の場合はどうでしょう。福岡の中だけで探すのならあっというまです。容姿に特徴もあるし、新しい戸籍を持って別人として、表の社会で暮らしていない限りは、我々のテリトリーの範囲内です」
今岡は立ち上がるとフロッピーを手に部屋を出た。
フロッピーのデータは、今岡の手から部下に渡され、そして、配下の組織に『至急 相田興業 今岡』と銘打たれた形で伝達される。
下請け業者などは、相田興業に対してごまをするために我先に情報を返信し、そのまた下のいくつかの業者に情報を流す。情報は一日のうちに博多中の裏に、ピラミッド状に広がっていく。
直接的に相田興業との繋がりのない人間からの情報で有力なものには、金一封が渡され、下請け業者は相田興業からの仕事が増える。
取り立てから逃げる人間が大勢いることから、情報網は確立されている。ある意味、伝達の早い情報網を持っていることが貸し金業を行うための必須の条件になりうる。
「幸三、どげん思うや、六十八歳で住民票も持たんと暮らしていくっていうのは」
渡辺は訊いた。
「さあ、どんなもんなんでしょうね。成功してウハウハの人生とは思えませんね」
「そりゃそうやろう。筋者かヨゴレじゃない限り、所在がはっきりせん人間が成功するほど、いまの社会は甘くはなかろう。なんていっても番号が付いとうけんなあ」
「番号を付けられて税金を払わないかわりに、色々な形で他のものを払わされているでしょうね。プライドとか幸せとか」
「ほう、幸三の口から幸せなんて言葉が出るとは思わんかったなあ」
「それは考えますよ。消しの仕事を頼んでくる人間は、誰かを消して、そいつの幸せをぶんどって自分の幸せを増やそうとしているんですからね」
「幸せねえ。今回は、うちが誰の幸せをぶんどる形になるのかが、まだ、わからんからな」
「じゃあ、私はこの辺で。結果は出たら連絡をください」
幸三は立ち上がった。
「何や、もう行くとか? もうちょっとおればいいやないか」
渡辺は焦《じ》れた声を出した。
「駄目ですよ。今日は真壁が遠征から帰ってくるんです」
「また張り付くとか?」
「遠征から戻ると、違う動きをする可能性もあるんです」
「そうや」
幸三は相田興業を出て博多駅に向かった。
プロ野球選手の遠征は、一つに固まって事故に遭うとチームが崩壊するという理由で、二手に分かれて移動する、と言われるが、この日のホークスの選手たちは一団となってホームに降り立った。選手たちの顔には一様に疲労の色が見えた。
真壁は佑子と娘の和美を見つけると一団から離れた。振り返って一団に挨拶をすると三人で急ぐようにホームを後にした。
大きな荷物をレンジローバーの荷台に載せ、真壁の運転で走り出した。行き先は草野球をやるような球場だった。
球場では勇の所属する百道ヤンガーズの試合が行われていた。真壁がスタンドに顔を見せると観客がざわついた。一塁側のスタンドに三人は並んで座った。真壁はビールを手に、佑子は黒いレースの日傘をさしてペットボトルの水を持ち、和美はアイスを舐めていた。幸三は三人から五列離れた斜め後ろの席に座った。
ホークスの野球帽を被った三人の少年がサインを求めにきた。真壁は少年たちの帽子のつばに丁寧にサインをする。
勇はエースで四番、真壁の遺伝子を受け継いでグラウンドの中では一際目立つ体躯をしていた。マウンドから少年野球特有の身体をいっぱいに使ったオーバースローで勇は球を投げ込む。少年野球では変化球が禁止されているので、バッテリー間のサインのやり取りは短く、展開はスピーディーだった。
真壁の横顔は楽しそうに見えた。チャンスのときは愉快そうに手を叩き、ピンチのときは声援を送った。
ライト側の空が赤く染まり、三塁側のスタンド席を赤く照らした。勇は最後のバッターを三振にとり、スタンドの父親に向けてガッツポーズを決めた。真壁は立ち上がって息子に拍手を送った。
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09  まえだ屋旅館
「どんぎまりやぞ! 幸三」
渡辺の声が電話口から響いた。
「出ましたか?」
「おう、出た出た。直ぐ下に降りてこい。いま、おまえんとこに向かいよう途中やけん」
「わかりました」
幸三は急いで着替えるとエレベータを使って階下に降りた。
パールホワイトのメルセデスのウィンドウを開け、渡辺が顔を覗かせていた。幸三は少しうんざりした。筋者が中に乗っていますと喧伝《けんでん》して走る車で仕事をするほどには、まだ状況がわかっていなかった。
「早よ、乗れ」
渡辺が内側からドアを開けた。助手席には今岡が座っていた。幸三は運転席に座っている男に「ハザードを点《つ》けて、駐まっててくれ」と言った。
「大神には、もう、会いましたか?」
「いや、まだや」
渡辺の答えを聞いて、幸三は車に乗り込んだ。
「相田側で大神に会った人間はいますか?」
「いや、いません。私もまだです」
今岡は、振り返った。
「では、初見に関して、私に任せてもらえませんか?」
「それは、もちろん」
「で、どうして、会ってもいないのに大神だとわかるんですか?」
幸三が言うと、渡辺と今岡が大きく笑った。
「見てください、これを」
今岡がセットしてあったラップトップ型のPCを渡した。
「何だ……これ……。真壁にそっくりじゃないですか」
幸三は思わず笑いを含んだ声を漏らした。
「なっ、どんぎまりやろう、これは」
渡辺は幸三の肩を突ついて笑った。PCの画面には写真の画像データがあった。
「うちの下請けのもんが、盗み撮りしてきたんですけど、実際に動いている姿を見ると、もっと、真壁に似ているそうです」
写真の中の大神は、姉の語ったように黄土色のハンチングを被り歩いていた。
真壁に三十歳ほどの年齢と渋茶色のメラニン色素を足し、そして、真壁から覇気を引いたような容姿をしていた。
「ヤサはどこですか?」
「春吉《はるよし》にある簡易旅館です」
「じゃあ、行ってください」
メルセデスは、クラクションを鳴らすと車の流れを強引にせき止めて走り出した。
春吉橋近辺は、移り変わりの激しい福岡の中で、まだ、ドヤと呼ばれる町並みを残している。朝は日雇い労務者を買い叩く筋者のバンが並び、夜は最低価格で春を売るタチンボウが並ぶ。
大神がいる簡易旅館は、新築のビジネスホテル形式のベッドハウスに挟まれるようにして建っていた。
簡易旅館『まえだ屋』の前には、シャラシャラのトレーニングウェア上下にセカンドバッグを持った男が立っていた。一見して筋者とわかる若い男は、メルセデスを見つけると腰を下げた筋者の挨拶の形でお辞儀をした。
「おい、もっと旅館から離れたところまで進んで止めてくれ。これじゃあ、まんま筋者登場ってバレちまう」
幸三は舌打ちして運転手に告げた。
「今岡、あれは誰や?」
「山本のところの若衆で、田辺と言います」
「見てんやい、必死豆たんでついて来よるぞ」
振り返ると、田辺は、がに股で走っていた。首や腕に吊り下がった金色の装飾品は、太陽の光を浴びて飛び跳ねながら光っていた。
「あーあ、みっともねえな。もっと目立ってやがる」
今岡は運転手に車を止めさせ、助手席のウィンドウを下げた。バタバタと足音が近づいて来た。
「きさんは、人目を引かな気がすまん山笠か!」
珍しく今岡が博多弁を使った。田辺は大声で「すんまっしぇん!」と頭を下げた。
「でっけー声出すなって言ってんだよ。このスカタン。で、奴はいるのか?」
「はい、奴は仕事にあぶれたごとあって、帰ってきとうです」
「旅館の中にいるのか?」
「はい」
「じゃあ、もっと離れたほうがよさそうだな。田辺、また、走れ」
角を曲がってメルセデスが止まると、汗だくの田辺は地面にへたり込んだ。
今岡と幸三は田辺を見下ろした。暖まって発散されるコロンの裏側に、もう一つ甘い香りが漂った。
「てめえ、ポン喰ってんだろう」
今岡が鼻をひくひくとさせて怒鳴った。
「そげな、喰ってなかっすよ」
今岡が田辺のセカンドバッグを奪い取ると、中身を道路にざらっとあけた。携帯電話、手帳、財布に混ざって田辺には似合わない革製のペンケースがあった。蓋を開けると、糖尿病患者用のインシュリン注射器を加工したものと、透明の結晶が入ったパケが出てきた。
「おまえなあ。これじゃ仕事中の酒屋が、てめえの店の棚から、商品を抜いて酒飲んでるのと同じだぞ」
「すんまっせん……」
今岡はパケを開けて地面にばらまくと、注射器をクロコダイル革の靴で丹念に踏み潰した。
「ニイチャン、こんなもんは、姉ちゃんとチンカモするときか、日曜の夜中に、テレビで再放送の古いドラマを見ちまって、どんよりしたときに使うもんだぜ」
幸三が田辺を立たせた。
「で、奴は動きそうなのか?」
腕時計を眺めて今岡が言った。
「はあ、八時ぐらいに戻ってきてから、外に出てません」
「そうか、そろそろ昼飯に出るかもしれないな。おまえの車はどこにある?」
「大通りにあるコインパーキングに駐めとうです」
「じゃあな、旅館の見えるところに、俺たちは戻るから、車を持ってきて後ろにつけろ」
「はい」
田辺は返事をすると兵隊のように駆けていった。
ほどなくすると、メルセデスの後ろにガンメタルのシーマが止まった。
「幸三さん、これからどういうふうにしますか」
「たぶん、大神本人であるかは、本人の口から確認しないといけないでしょう」
「旅館には、渡瀬という名前で投宿してます」
「どれぐらいの期間」
「もう、四年にはなるそうです」
「じゃあ、へたに旅館の帳場に上がり込まないほうがいいですね。今日は顔だけ確認して帰りましょう」
「わかりました。社長はどうします?」
「俺も顔の確認ばしようかね」
渡辺は大|欠伸《あくび》をした。
「私は後ろのニイチャンの車に移ります。連絡は携帯を鳴らしてください」
幸三は車を出た。
「『まえだ屋』はおまえのとこのシマなのか?」
「そうっす。うちがみかじめ取っとうです」
「連絡を入れてきたのは、『まえだ屋』の人間か?」
「オヤジです。こん前も、警察より先に密告《チツクリ》を入れて来とうですけん」
「警察に通報しても一円にもなんねえからな。今回は、おまえのところが金払うのか?」
「いや、相田さんのところっす。うちやったら、三万くらいですけど、相田さんとこは金持ちやけん倍はいきますけん」
「そうか。大神ってのはおまえのところと関係はあるのか?」
「ないと思いますばい。俺は債権と金貸しのほうですけど、初めて見る顔でした」
「そうか」
幸三はシートを倒して大きく伸びをした。
「あのう、あのおっさん、何ばしたとですか?」
「あいつは、北朝鮮の工作員だよ」
「本当っすか!」
「ああ、北朝鮮からの覚醒剤ルートの最高責任者だ」
「えー! どうりで、今岡さんやら渡辺さんが出張って来るはずやな。どげな仕事になるとですか?」
「今度、紙幣が新しく変わるのは知ってるか?」
「知っとうです」
「北朝鮮からの偽札が日本国中に流されて、政府はその対応策を考えたわけだ。北朝鮮側は、それじゃ、いまのうちに大量に捌《さば》いてしまおうって腹だ」
「でも、あのおっさんは覚醒剤ルートじゃなかとですか?」
「そうだよ。運んで来るときは、覚醒剤と偽札は一緒に運ばれ、日本に着くと国内は別のルートになる。しかし、今回は、大量の偽札だ。それで覚醒剤ルートも担ぎ出されたってわけさ」
「すごく|大事で《おおごと》すね」
「もっとすげえぞ。あのおっさんを経由する偽札を、相田は全部かっさらう計画なんだ」
「うわあ、すげえじゃなかですか!」
「だからようニイチャン、へたに動くと人が死ぬ。慎重に頼むぜ」
「はい、わかりました」
「それから、次に何か頼むときがあると思うんで、そのときにはよろしくな。俺は幸三だ」
「田辺っす。よろしくお願いします」
幸三は手を差し出した。田辺は何度も頭を下げて握手をした。
大神とおぼしき男が現われた。
男は黄土色のハンチングを被っていた。
「あれか?」
「そうっす」
幸三が身を乗り出すと、田辺が答えた。
「あれやないや?」
「そのようですね。真壁にクリソじゃないですか」
渡辺が言うと、今岡はPCの画像データを開いた。
男は、吸い口が茶色の煙草を咥えると火をつけた。だるそうに首を二、三回振るとメルセデスのほうへ向かって歩き出した。
幸三の携帯が鳴った。
「あれでしょうか?」
緊張した今岡の声が響いた。
「あれです」
「尾《つ》けますか?」
「いや、今日は顔の確認だけにしておきましょう」
ゆっくりとした足取りで、男はメルセデスとシーマのすぐ横を通りすぎた。
男の白いカッターシャツは、何度も水を潜らせたと思わせる生地のよれがあった。
幸三は男の後ろ姿を見送った。
首から肩にかけての骨格は、真壁と同じ日本人離れした広さがあった。この男のDNAを真壁が受け継いでいることは疑いようはないと思われた。
しかし、真壁とこの男との間に親子の関係があるとは思えなかった。人間は環境を同じにすると、どこかしら影響し合う部分が現われる。見る限りでは何も感じられなかった。
しかも、この男からは、真壁にはない大きな倦怠感が滲み出ていた。それは、生活が困窮しているだけではない疲れのようだった。
幸三は、男が角を曲がったのを見届けて携帯を手にとった。
「戻りましょう」
「わかりました」
「私はこの車に乗ったまま尾いていきますから、出てください」
メルセデスはゆっくりと動き出した。
「田辺、相田に戻るから、あとを尾いていってくれ」
「はい。あの……幸三さんって、相田の客分っすか?」
「そうだよ」
幸三は答えると、身体をシートに深く埋めて目をつぶった。
「幸ちゃん、何やってんの?」
蘭子が幸三の後ろから肩に手を掛けた。
「洗濯機回してんだよ」
幸三は洗剤を箱ごと傾けて洗濯槽に豪勢に流し入れた。蘭子は、幸三の背に身体を寄せて、顎で肩をぐりぐりと押した。
「何、これ?」
洗濯機が回り始め、ボタンがかちゃかちゃと音を鳴らした。
「スーツだよ」
「あっ、これってセルッティの夏物じゃないの!」
「そうだよ」
「駄目になっちゃうわよ、こんなことしたら」
「駄目にしてんだよ」
「ふーん」
洗濯機の蓋を閉めて、幸三は玄関に向かった。蘭子は幸三の背中に張り付いたまま歩いた。
「あっ、ベルルッティの靴……」
靴を手に下げ幸三は道具箱を取り出した。そして、ベランダに向かい窓を開けるとベランダに足を投げ出して座った。蘭子は、また、幸三の肩に顎を乗せた。
サンドペーパーを道具箱から出して、幸三は靴の先端に当てた。ジャッジャッという音がするたびに、靴に細かい傷が付いていく。
「そんなことしたら、駄目になっちゃうよ」
「駄目にしてんだよ」
「ふーん」
靴を何度も力任せに折り曲げ、踵の後ろの部分をカッターナイフで斜めに削る。
蘭子が後ろから幸三の耳朶《みみたぶ》を人さし指でぷるんぷるんと弾く。幸三は意に介せず、黙々と作業を続けた。
「幸ちゃん、加齢臭がするわよ」
耳の後ろに蘭子が鼻と口を押し付けて言った。
「本当か!」
幸三が振り返った。
「あはは、嘘よ」
「ふん」
幸三は身体が臭いを発するのを嫌う。消し屋の仕事上、臭いであってさえもその場に痕跡を残さないようにしているからだ。仕事の前後は念入りに身体を洗う。前は自分の気配を消すために、そして、仕事のあとは、血の臭いを消すために。
蘭子は、幸三の背中に背でもたれ、首のストレッチをするように後頭部を幸三の肩に乗せた。
洗濯機のブザーが鳴った。幸三は蘭子の頭を後ろ手で押し返して立ち上がった。
折り畳み式のアイロン台をセットし、アイロンのスチームを切って最高温に目盛を合わせる。
脱水の終わったスーツは固く縒れて、干物のようになっていた。
幸三はスーツの上着を広げ背中の部分からアイロンを当てた。弾ける音がしてわずかに湯気が上がる。蘭子がまた、幸三の肩に顎を乗せた。
「幸ちゃんのここが好きなんだよね」
アイロンを握る幸三の手の甲の蛇が這ったような血管を蘭子が押した。
「ずーと、繋がってるんだよね」
体脂肪10%以下をキープしている幸三の腕には太い血管が浮いている。それを蘭子は二の腕近くまでなぞろうとするが、幸三はアイロンがけを止めないので何度も指が血管から外れた。
「おまえの親父って痩せてたんだよな」
「そうだったわ、もう何年も会ってないけど……。初めて幸ちゃんの車に乗ったとき、運転するときのお父さんの腕の感じに似てるんでびっくりしたわよ」
「性同一性障害にファザコンが加わった二重苦だな」
「悲しいオカマは大変なのよ」
蘭子は笑った、そして、細く尖った顎に力を入れて幸三の肩をぐっと押した。
幸三は蘭子を離すと、白いカッターシャツを着て生乾きのスーツに袖を通した。
「何で着るの?」
「こうやると深い着皺が入るんだよ」
ゴミ袋を床に敷いて、幸三はそこに胡座をかいた。そして、手に持ったドライヤーの温風を身体に当てる。乾いていくスーツから洗剤の香りが湿った温かい風に乗って漂った。
「背中はやったげるわよ」
「頼むよ」
生乾きのスーツなので身体を寄せられずに少し離れていた蘭子が、ドライヤーを手に取った。
「おまえなあ、ドライヤー近づけて熱くしたりするなよ」
幸三が振り返って睨んだ。
「あはは、さすが、先読みの幸ちゃん。やろうと思ってたわ」
蘭子は丁寧にドライヤーの風を当てた。
「なあ、蘭子。おまえどうして家を出たんだ?」
肩口を乾かしているときに幸三が訊いた。
「何それ、そんな昔のことは忘れたわ」
「教えてくれよ」
幸三は振り返った。仕事のときの目をしていた。思わず蘭子はドライヤーを止めた。
「お父さんが嫌いになったのよ……」
蘭子は答えていた。
「何があったんだよ」
「高校二年の夏休みにバスケット部の先輩と初めてセックスしたの」
「男?」
「もちろん、すっごくかっこいい男だったわ。それから、何だかお父さんが嫌いになったの……」
「何だそれ、女の子みたいだな」
「それはそうよ。オチンチンがあっても中身は女なんだから。それで、高校を卒業してから家出するように東京に出てきたの」
ドライヤーを、蘭子はまた当て始めた。
「帰ってないのか」
「昔は、男の格好でたまに帰ってたわ。憑《つ》きものが落ちたみたいにお父さんのこと嫌いじゃなくなったしね。でも、もう帰れないわ」
「どうして? 嫌いじゃないんだろう」
「だってさあ、これだけ女の服ばっかり着て生活してると、男の格好したらすごく変になっちゃったのよ」
「変って?」
「宝塚の男役みたいなの。全身を鏡で映してみて、私は笑っちゃったわよ。カッコ悪いならまだしも、とっても奇妙なのよ」
「新米のおナベみたいなんだな」
幸三は笑いを押し殺すように言った。
「おナベは、元女だから背が小さいけど、私の場合は背が高いから、もっと目立つのよ。しかも、奇妙な部分も増幅されて……。そんな格好で帰ったら親が可哀相じゃない」
「変装ってのは慣れだからな。身体に染みついた女の仕草ってのを消さないとちぐはぐになるんだよ」
幸三はぼそぼそになった靴を履いて立ち上がった。
「じゃあ、これはどうだ? 金銭トラブルを起こして逃げてきた男が、簡易旅館の玄関に立つって感じになってるか?」
肩を落とし怠惰そうな姿勢で言った。
「あはは、見えるわよ。鞄は?」
「伊勢丹の紙袋だよ。確かあったよな」
「そうか、福岡って伊勢丹デパートないから、他所者《よそもの》に見えるわね」
「ほかに何か気付いたことあるか?」
幸三は手を広げて一回転した。
「うーん、そうねえ。サングラスはかけるの」
「ああ、コンビニに売ってる千円の安物だ。さっき買ってきた」
サングラスを取り出して掛けると、銀色に光るフレームが安っぽく見えた。
「なんか浮いてる感じで似合ってないわよ、幸ちゃん」
「それでいいんだよ。サングラスって、揉め事のときには一番にふっとんで壊れたり、無くしたりするだろう。それでも、取り敢えず顔だけは隠しておきたいって、コンビニで買うんだ」
「気に入った物を探す余裕もないか」
「そうだよ」
「そんなことばっかり考えるのね」
「おまえの変装よりは楽だぜ」
幸三はドライヤーを受け取ると、スーツの内側に風を当てた。
蘭子は幸三から漂ってくる湿気の混じった温かい空気を感じていた。洗剤と水洗いしたスーツの染料の匂いの内側に幸三の匂いがした。
自分だけが嗅ぎ取ることのできる幸三の匂いは、熟《う》れる前の青い果物の香りのように薄く、砂のように固く冷たかった。
『まえだ屋』の手前の角で幸三はタクシーを降りた。
道端でしゃがみ込んでカップ酒を飲んでいた男は、タクシーを使う人間は裕福だと思っているのか釣銭をよこせというように手を出した。幸三はコンビニの袋から缶ビールを取り出すと男に渡した。男はおどけた声で「ありがとやんしたあ」と言って受け取った。
旅館の引き戸を開けると、宿主は上がり間口にステテコ姿で座ってスポーツ新聞を読んでいた。木造の旅館の内部は思ったより掃除が行き届いているようで、柱が黒光りしている。
「泊まれるか」
「よかですよ」
宿主は受け付けと書かれた小部屋に入ると、カウンターから顔を出した。カウンターも飴《あめ》色に磨き込まれていた。
「何泊されますか」
「三泊」
「規則なもんやけん、宿帳ばお願いします」
幸三は東京の住所を書いた。
「川が見える部屋がいいんだけど、あるかい」
まえだ屋の裏には、九州一の盛り場中洲と春吉を隔てる川が流れている。
「よかですよ。前金でお願いできますか。三泊で八五五〇円になっとります」
幸三はポケットから裸のままの紙幣を出して払った。
「お客さん」
二一二と書かれたプラスチックの札がついた鍵と釣銭を受け取って部屋へ向かおうとした幸三を宿主が呼び止めた。
「靴は、部屋に持って上がったほうが、よかですばい。革靴は黙って持っていく人間が多かですけん」
店主の手には萎《しお》れたポリ袋が下がっていた。盗むと言わずに黙って持って行くというところに、ドヤで商売をしている人間の気遣いを感じた。
廊下や階段の壁にはやたらと貼り紙が目についた。田辺に聞いていた大神とおぼしき男の二〇八号室の前を通り過ぎ、一番奥まったところに二一二と書いた紙が貼られたドアがあった。
四畳の細長い部屋は、大きな部屋を薄い板で仕切った普請だった。元々は遊廓として使われたこともあったのだろう。現代でいうと雑居ビルのワンフロアを石膏《せつこう》ボードで区切って小分けした風俗店のような造りになっている。
窓を開けると対岸のネオンが点滅し、川面に反射したネオンは眩《まばゆ》く揺らめいていた。川の流れは早くないが、満潮の海から流れ込む海水のおかげでドブ臭さはなかった。
幸三は上着を脱ぎハンガーに掛けて壁の出っ張りに引っかけた。押し入れやタンスはなく、布団は畳んで隅に置かれている。胡座をかいて煙草を取り出すと、客の行動を見越したように、目の高さの壁に「部屋での煙草はご遠慮ください」と書いた紙が貼られていた。
煙草を諦め幸三は、日雇い労務で稼いだ金で数年間もこんな部屋に逗留している男に思いを馳せた。
一日の労務で稼ぐ金額は一万円前後、『まえだ屋』に支払う宿代の二八五〇円は決して安い金額ではない。月にして八五五〇〇円を宿代に捻出するのなら、六畳一間のアパートを借りたほうが随分と安く済む。そこまでしてここに逗留する理由は、ひとえに住民票を持っていないからである。税金を納める気持ちのない者には、アパートを借りる信用は得られない。ドヤ街は、そんな人間たちのルールで占められている。大神とおぼしき男もそのルールの中にどっぷりと浸かっているのだろう。
幸三は部屋を出ると階下に降りた。浴室や洗面所には誰もいず、テレビ室と書かれたドアの外にまで声が響いていた。畳敷きの十畳ほどの部屋には、二十九インチの古ぼけたテレビが置かれ、数人の男たちが食い入るように画面を見つめていた。テレビではホークス対マリーンズの試合が放映されていた。
足を踏み入れると無遠慮な視線が幸三に向けられた。
「お邪魔しますよ」
物怖じしない様子で幸三は立ったまま言うと、ねめつけるように部屋を見回した。男たちはまた、画面に視線を移した。
大神とおぼしき男は壁にもたれかかり長い足を折り畳んでいた。
「兄ちゃんは初顔やね。特別に張らしてやってもよかたい」
赤銅《しやくどう》色に日焼けしたごつい身体を見せつけるようにランニングから肩を出した男が声を掛けてきた。
「何をだい?」
「そらテレビで野球ば観よるっちゃけん、わかろうもう」
「野球賭博か……。おかしいな、先発投手が発表されたら、賭けは締め切るんじゃねえのか」
「やけん特別たい」
「特別ってのは何なんだよ、おっさん」
「特別っちゅうのは途中参加やけん、ハンデの上乗せをするってこったい」
「なんでぇそりゃあ、ハンデの上乗せなんてしたら、勝てるわけねえじゃねえか」
幸三は鼻で笑った。
「なんや兄ちゃん、初顔の癖にえらそうやな。俺はここば仕切っとうゲンっちゅうもんたい。きさまは、何ちゅうとや」
ゲンは立ち上がった。身体はごついが背は低かった。
「俺か、そうだな。名無しのゴンベエのゴンだな」
「何やそれ、大方、関東から逃げて来とるチンピラやろう。舐めたことしよると怪我するぞ」
「なんでぇ、博多のオヤジは転校生をいじめる餓鬼みてえなことしやがるな。他所者を受け入れる度量なんてもんはねえのか」
幸三は静かな声を出した。
「きさん、こら! ふざくんな! そげん自信があるとなら、試しちゃあぞ。物言えんごとしちゃるぞ」
「物言えんって何だい。口に猿轡《さるぐつわ》でもはめようってことなのか? 知ってるか、おっさん。猿轡ってえのは英語でギャグってんだよ。冗談と下らねえ戯言《たわごと》ってことだ」
「ぐちゃぐちゃと能書き垂れんな、きさん。表の駐車場や、ついてこい!」
ゲンはいきり立った声を出して睨んだ。
「オッケー。でもよ、その前に、部屋に戻って靴取ってきていいか? 何でも、ここにはせこい泥棒がいるらしくてよ、革靴だと盗むんだってよ。ちっ、貧乏臭ぇとこだな。てめぇが仕切ってんなら、てめぇが盗んでんじゃねえのか! はっ」
幸三の口から思わず笑いが漏れた。ここのところ、頭しか使っていない幸三は、身体を使ったカタルシスを求めていた。
「待っとるぞ、きさん!」
ゲンの怒声を背に受けて幸三は部屋を出た。
「お客さん、駐車場の物は壊さんどってくださいね」
よくあることなのだろう、玄関で靴を履いていた幸三に宿主が声を掛けた。
「わかったよ」
幸三は答えて外に出た。
コンクリートで囲まれた駐車場には、テレビ室にいた男たちが集まっていた。興味津々の男たちの顔は、裸電球に照らされて縁日の露店を楽しんでいる客のように見えた。大神とおぼしき男も余興を楽しむ目をして頭一つ出して立っていた。
「兄ちゃん、九・一で負けとうぞ」
「こんなとこでも賭けてやがんのか、好きだね、まったく」
「まだ余裕こいとうな、兄ちゃん。俺が相手するとは言っとらんけんね。きさまの相手はこいつやけんな」
ゲンの横の坊主頭に無数の傷がある男が一歩前に出た。
「菊池や。元ジュニアミドル級の東洋チャンピオンやぞ」
自慢げに言うゲンの言葉に合わせるように菊池は胸を張った。菊池の顔は、鼻は潰れ、眉の部分や頬骨が瘤《こぶ》のように盛り上がっている。典型的なブル・ファイターの顔つきだった。
「ちっ、汚ねえ真似しやがる」
「そりゃあ、きさんが勝手に思い込んどうだけやろう。兄ちゃん、いま、迷惑代払って、土下座して謝るんなら許しちゃあぞ。逃げてきとうヤクザかなんか知らんけど、裏の人間なら相撲取りと拳闘屋とは喧嘩しちゃいけんって知っとろうが」
ゲンは勝ち誇ったように言った。
「何言ってんだ、てめえ。そいつはどうせパンチドランカーのヨイヨイだろう。頭ん中が薄くなってねえボクサーなら、筋者の事務所で高給取りの用心棒やってるはずだ。ハッタリかますんじゃねえぞ」
「やるんなら、身体検査や。さっき部屋に戻ってヤッパやら呑んどうかもしれん。手ば上げやい、兄ちゃん」
幸三が万歳をすると、ゲンが身体をまさぐった。
「じゃあ、俺のほうも確認させてもらうぜ」
菊池も素直に万歳をした。腹にこそ脂肪がうっすらと巻いているが、毎日肉体労働をしている身体は締っていた。肩から背中にかけての筋肉は見事な盛り上がりをしている。
「よし、始めや! 菊池、殺したらいかんぞ、あとが面倒やけんな!」
ゲンの声が開始のゴングになった。菊池は両拳を頬にくっつけて前屈みになった。幸三は軽く拳を握って構えた。
菊池がボクサー特有の摺り足で移動する。コンクリートと靴のゴム底の掠れる音が近づいた瞬間、菊池はジャブもなしにいきなりのストレートを放った。伸びのあるストレートはのけ反って避けた幸三のガードしていた拳を捉えた。幸三は後ろに吹っ飛んだ。
「なんやなんや、兄ちゃん、口だけやないか!」
ゲンの笑い声が響いた。
幸三は頭を振って起き上がった。パンチドランカーとは微塵も感じられないトリッキーで早い動きだった。しかし、パンチドランカーには持続力がない、その部分に幸三は望みを賭けた。
菊池は一転してジャブ、ワンツーとオーソドックスにパンチを繰り出してきた。後退《あとずさ》りながら身体を振って避ける。幸三の背中が壁に付いたのを見てとった菊池は渾身の右フックを打ち込む。幸三は腕でガードしながら横に転がった。
金を賭けている男たちの野次と怒号が飛ぶ。二人はまるで、闘鶏賭博の鶏のように、金にぎらついた目に取り囲まれていた。
幸三は体勢を整えると低く構えたまま菊池の左脇腹にタックルするように突っ込んだ。菊池は俊敏に腰を屈めて小さな回転の右フックを放った。拳は幸三の頬からこめかみ辺りに決まった。肉を弾く音と目の奥に真っ白な光が走り前のめりに倒れかける。菊池はすかさず膝を出し、連続した前蹴りが容赦なく幸三を襲う。幸三はコンクリートの地面を転がった。
両腕で顔をガードして幸三は立ち上がった。ガードの上から菊池は短い息をシュッシュッと吐きながらパンチを連続して入れてくる。ガードを上げさせるというより、腕を使い物にならなくするためにパンチを打ち込んでくる。
腕が痺れ始めた幸三は、防戦一方の中、腕の間から菊池を見つめた。タイミングを見計らい右にスウェーして低い蹴りを打ち、タックルを試みる。倒して距離を詰めないとやられる。
組み付いた瞬間に背中に肘打ちを喰らい、幸三は膝をついた。菊池の右足の膝蹴りを腕で防いでいたもののまともに受け幸三は後ろに吹っ飛んだ。前屈みの菊池は機関車のようにシュッシュッと突っ込んできた。
幸三はフェイントをかけて、左からの大きなフックを打ち込む。初めてのクリーンヒットが菊池の顎を捉えた。菊池は顔を少し歪めた。すかさず右のストレートを打ち込むが紙一重で避けられ、カウンターを拳の上から打ち込まれた。
「そや、菊池! 決めっしまえ!」
ゲンの声で菊池のラッシュに勢いがつく。幸三は亀のように身を縮めて耐えた。肉を弾く音と菊池の吐息が交差する。幸三は菊池との距離を計りながら腕の間から鋭いまなざしを注いだ。
菊池の息は上がっていない。パンチドランカーではないだろう。幸三は距離を縮めて身体を寄せ組み付いた。ダッキングして菊池の腕を押さえ込み、頭突きを左から叩き込んだ。幸三は次第に冷静になっていった。
菊池の弱点がおぼろげながら見えてきた。東洋チャンピオンは、ゲンのハッタリとしても、菊池がプロのボクサーであったことはわかった。早くて重いパンチには衰えは見えず、身のこなしにもパンチドランカーを匂わすものは何も感じられない。
幸三は菊池を突き放して、身体を左右に揺らし左からの大振りのフックを放った。幸三の拳は瘤のように盛り上がった菊池の右の頬骨に食い込んだ。
駐車場にどよめきの声が上がった。
幸三は拳を連続して打ち込みながら菊池の右へ右へと回り込んだ。形勢は一気に逆転した。
菊池がボクサーを廃業してドヤ街に墜ちてきた理由、それは右目にあると幸三は確信した。網膜剥離《もうまくはくり》による失明なのだろう。離れて対峙しているときには判断できなかったが、ダッキングして頭突きをいれたときに、右の黒眼が動いていないことを幸三は確認した。
面白いように幸三の拳が当たり始め、菊池の動きが鈍くなった。反撃する菊池の大振りのフックは力もなく軽くスウェーして見切ることができた。
空振りのフックで菊池のバランスが崩れた隙をついて、幸三は腰の回転が効いた肘撃ちを頬に決めた。拳で殴ったときとは違う甲高い音が駐車場に響いた。菊池の顔が半回転し、左眼は白目を剥き、見えるはずのない右目は空《くう》を睨んだ。空気が抜けていくような落胆の声が男たちから漏れ響いた。
膝から崩れ落ちていく菊池に男たちの視線が注がれている中、幸三は左腕に仕込んだ耳這刀を抜きながら影のように移動した。
「動くんじゃねえぞ!」
ゲンの背後から首に腕を這わせた幸三は、怒号を浴びせかけた。あっけにとられたような男たちの視線が、泡を吹いている菊池からゲンに集まった。
「見えるか」
耳這刀をゲンの目の前に構えた。磨き上げられて光る刃面に怯えた瞳が映り込んだ。
「このボクサーくずれも可哀相になあ、片目じゃ筋者の用心棒もできなくて、てめえみたいな奴に飼われてんだな」
ゲンの喉仏がごくりと上下した。
「耳這刀って言ってな、左右対称に刃がついて耳の穴の中を切り裂きやすいようになってんだ。これを一気にグッと突っ込んで、キコキコって動かすと脳味噌がぐちゃぐちゃになるんだぜ、おっさん」
幸三は耳這刀をゲンの睫《まつげ》に触れさせながら引くと、そっと耳に当てた。
「や……やめろ……」
ゲンから掠れた声が漏れた。
「じゃあよ、軽く入れてキコキコって動かそうか。それだったら耳が聞こえなくなる程度だぜ。ちょうどいいじゃねえか、片目のボクサーくずれと、片耳のおっさんでバランスが取れる。これからも助け合って生きていけるってもんだ」
「な、何が欲しいとや?」
「おっさん、俺は何も欲しくねえよ。他所者ってだけで、かさにかかってくる奴が嫌いなだけさ、俺みてえに流れてるもんにとってはな。しばらくここに逗留するから、よろしく頼むぜ」
幸三はゲンを突き放した。ゲンはへなへなと座り込んだ。
「では、みなさんお騒がせしました」
深くお辞儀をすると幸三は駐車場をあとにした。
気持ちが高揚していた。
いままでの仕事でゲンか菊池がターゲットならば、耳這刀を押し込み、そして、死体をコンクリートに詰めるかプレス機で圧縮して海の底に沈めてしまえば終わりだった。
ゲンの耳に耳這刀を添えたとき、東京で二人の人間の脳味噌を崩した手の感触が蘇っていた。
相田興業で行ったプレゼンテーションでは味わえない高揚感だった。しかし、その高揚感もあっというまに薄れていく。
殺すことに快感を覚えるわけではなく、緻密に積み重ねてきた計画が終わるカタルシスが幸三にとっては最高のものだった。今回感じた高揚感は、感触だけのものでカタルシスとはほど遠いものだった。
生温かく淀んだ空気が漂ったドヤ街に、時折、潮を含んだ冷たい風が吹いた。幸三は冷ややかな風を頬に受けながら歩いた。拳を受けた皮膚は熱を蓄え、身体のいたるところが軋み始めていた。
コンビニで買ってきたロックアイスは、氷が溶けて生温《なまぬる》い水の入っただけの袋になっていた。
幸三は氷で患部を冷やすことを諦め、包みの中から馬肉を取り出した。九州には馬肉の刺し身を出す店が多く、簡単に馬肉の塊が手に入る。
馬肉を頬からこめかみ辺りに載せると幸三はごろんと横になった。氷は冷やして温度を下げるだけしかできないが、馬肉は違っていた。馬肉は患部の熱を移し取るようにして腫《は》れた部分の温度を下げる。一時間もすれば、すっかり腫れは引いてくれるだろう。顔の腫れた消し屋なんて仕事にならない。幸三は、傷を舐め動かずに身体を治す猫のように小さく身体を固まらせた。
『まえだ屋』の部屋は、野良猫や野良犬が傷を治すために入り込む団地のバルコニーの軒下のようで、その狭さが幸三には適していて安心を与えた。
「大神さんじゃないですか?」
幸三は、一発勝負のつもりで大神とおぼしき男の背中に声を投げかけた。
男は一瞬肩をびくりと震わせて振り返った。
「大神さんっすよね。箱崎でスナックやってらした」
満面に笑みを浮かべて幸三は近づいた。男は探る目をしていた。ここで、大神ではないと簡単に答えられたらあとが面倒になる。
「懐かしいなあ、マスターと、こんなところで会えるなんて」
男は無言で仁王立ちしていた。
「俺、何度か行ったことありますよ。店の名前は、確か『キング』でしたね」
幸三は、男に喋らせないように矢継早に思い出を話した。男には、菊池を地べたに這いつくばらせ、ゲンの耳に異形の刀を添えた幸三の記憶が焼き付いている。陽気に話してくる幸三に対して、「あんたなんか知らない」と無下に言い放つのは、恐ろしいと感じるのは当たり前のことだ。男はどうするかを考えているようだった。
「いやー。二十年ぶりぐらいっすかねえ」
あくまで陽気な顔で話す幸三に対して、男は返事を躊躇しているように見えた。
「幸三です。まあ、俺も二十そこそこだったから、顔もガラも変わりましたんで、憶えてねえと思いますけど。俺は久々に戻った博多で、珍しい人に会えるなんてのは、ついてるってことですね」
男の顔が少し緩んだ。
幸三が自分の口から「憶えがないだろう」という譲歩の言葉を吐いたことに男は反応したようだった。喧嘩早い陽気な男に覚えていないが知らないといって恥をかかせて怒らせる危険は少し遠のいた。
「店には、あの頃でも珍しくなったジュークボックスが置いてありましたよね。ジュークボックスの中身は全部エルビスのレコードでしたっけ」
「幸三さんだったっけ……」
幸三のことなど男の記憶のどこを探してもあるはずがない。しかし、「だったっけ」という言い回しで男は答えた。
「申し訳なかばってん。大神って名前は使ってないもんやけん、ここではあんまり大っぴらに呼ばんどってくれんやろうか。そこんところば、よろしくたのんますよ」
男はすんなりと大神であることを認めた。大神の顔には蒸発した男という緊迫した様子はなかった。
幸三は顔色一つ変えなかったが、腹の底ではシメタと笑いとばしていた。
「それは、失礼。こんなところじゃ、昔の名前なんてもんは禁句ですからね。俺も名字はないと思って生きてます。幸三って捨て名で呼んでください。大神さんはなんて呼べばいいっすか?」
大神と言うところだけ幸三は小声で口をすぼめた。
「みんな適当に呼んどうけん。何でもよかよ。こげなところにおるような人間は、あんたがさっき言いよった名無しのゴンベエ≠竄ッんね」
「では、清《せい》さんでもいいですかね。昔は、たぶん、マスターのこと清さんって呼んでいたと思いますから」
「それでよかよ。下の名前は、たまに使っとうけん」
「清さん、再会を祝して、一献傾けませんか。奢らせてください」
幸三は指の盃を飲み干した。
「おっ、よかねえ」
大神は一段と表情を緩めた。
用意した罠に獲物はすんなりと入ってきた。
無防備で無警戒なのは仕方のないことかもしれない。蒸発して二十数年以上経ってしまった人間には、守るべき財産や地位はない。
幸三は命に値段を付けて仕事をする。大神を消してくれと、金を払う人間はいないだろう。大神の命には一円の価値もないということだった。それは、あまりにも簡単に消すことができるということでもある。
「さあ、行きましょう」
靴を履き終えて大神は立ち上がった。幸三はさっと掌を大神の腰に当ててゆっくりと押した。
「あー、はいはい。行きましょう」
大神は幸三の掌を嫌がらなかった。幸三は獲物が罠に掛かったことを確認した。
「先輩、あそこの大通りのところにモツ焼き屋がありましたねえ。どうです、そこで」
「おー、良かねえ」
思いのほか響いた大神の声に、ビール瓶を片手に横たわっていた男が振り返った。
「春吉橋の電停のあった跡のところやろう」
「あっ、デンテー? ああそうですね、あーあの、チンチン電車のね」
幸三は言い淀みかけて胆を冷やした。大神は「良かねえ」とつぶやいているだけだった。
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10  キング
一九七九年に福岡市の路面電車が全面廃止される数年前。自動車の数が増大して、いかにももっさりとしてスピードの出ないチンチン電車が、道路の邪魔者扱いされ始めた頃、筥崎《はこざき》八幡宮の電停の傍に大神が経営するスナック『キング』があった。
『キング』のドアには頂点が下を向いた三角形の窓がある。窓にはステンドグラスと呼ぶにはぞんざいな造りだが、赤と黄色で幾何学模様を構成したガラスがはめ込まれていた。
大神は、いつもカウンターの中からドアを見つめながら仕事をしている。
三角形の窓に人影が映った瞬間に、誰であるかを予想して当てることを繰り返していた。大神は博打をやりたいという気持ちに囚われていた。
三角窓に影が現われた。
大神は女だと思った。
「清ちゃん、久し振り」
店のドアを開けて顔を出したのは、幼馴染みの小日向《こひなた》だった。背の小さいところで小日向を女と見間違った。
「おう、コヒ。久し振りやん、入りやい」
大神はカウンターの中でグラスを磨いていた手を止めた。
「今夜は、珍しい人を連れてきたばい」
小日向は針金のように細い身体をおどけるように揺らすと、ドアの外に向かって手招きした。
「清、何年ぶりかいな」
「おー、岩さん」
大神が手を広げた。岩田は手を差し出して握手を求めた。判子のような大きな金の指輪が目立った。大神はちらっと岩田の反対の手に視線を移した。小指が第一関節から無くなって、岩田のごつごつした手をよけいにずんぐりと見せていた。
噂では拘置所から刑務所に落ちる前に、岩田は渡世のいざこざの責任を取るために指を食いちぎったという。
刃物のない拘置所でのことで、自分の歯しかなかったかもしれないが、恐ろしいことをするもんだと思っていた。しかし、岩田らしいと言えば岩田らしいのかもしれない。大神と小日向の二歳上の岩田は、ガキ大将がそのまま筋者になっていったような性格だった。
大神にとって、岩田の出現は面白いことでもあり、危険を伴うことでもあった。
若い頃、岩田はガキ大将で、煙草やおんな遊びのように子供が大人ぶってやる遊びを見つけては後輩に教えた。そして、岩田が筋者になってからは、法律に反した博打のようなもの、旨い商売の裏のやり方まで、自分の商売の一環として教えた。
「清、儲かってるか?」
「ぼちぼちっすよ」
「なら、売り上げに貢献せなならんな。なんでもいいぞ、この店で一番高い酒をキープするけん」
岩田と小日向はカウンターに座った。岩田は「困ったことがあったら言って来い」というのが口癖で、男侠《おとこぎ》を見せるのが大好きな男だった。事実、若い頃から、大神は何度も助けられた。他所の中学生に取り囲まれているときに、一人で殴り込んで来てくれたのも、喧嘩のときの審判を買って出るのも岩田だった。いうなれば岩田は、大神や小日向の年代の兄貴分の関係になる。それは、大神が三十九歳、岩田が四十一歳になったこの場でも変わらなかった。
「大丈夫? 岩さん。うちのは高いよ」
大神は笑いながら、棚ざらしになっていたブランデーをカウンターに置いた。
「清、これって、俺が開店祝いに送ったやつやないとか?」
岩田はブランデーの瓶を指輪でこつこつと叩いた。
「そんなの岩さんが刑務所に落ちる前のことだろう。これは違うよ。刑務所ボケしとっちゃないと?」
「馬鹿たれ、そんなことあるか」
三人は悪ガキ当時の顔で笑った。
「清ちゃん、金はあるけん」
小日向が札入れを出して中身を開帳した。十万円ずつ束ねられた札がパンパンに詰め込まれていた。
「なんや、コヒ。偉そうに、それって岩さんの財布やろう?」
「ちぇ、バレたか。清ちゃんは、堅気のくせに目が効くね」
岩田は幹部で小日向はヒラ組員の関係から、岩田は昔風のやり方を好んでいて、小日向に財布を持たせ金を管理させていた。
「ってことは、岩さんはいま、一円も持ってないってことやろう。コヒが金持って逃げたら、電話もかけられんし、タクシーも拾えんってことやね」
「コヒにそんな根性があるか。それに札入れ以外にも金は持っとうぞ」
岩田は、スーツの内ポケットから封筒を出すと、中から紙幣の束を棒状にきつく巻いたものを取り出した。
「どうや? 金の葉巻きや」
岩田はそれを口に持っていくとポーズを決めた。
「火、点《つ》けましょうか?」
大神がライターを出した。
「やめんか、馬鹿」
「ほら、やっぱりね。それって岩さんの金じゃなくて、博打の上がりでしょう。組の金やけん、手の引っ込め方が早かったばい」
「何や、清。コヒの言うごと、いやに目が効くな。おまえも、こげなキチガイ水売っとらんで、筋者になれよ、腕一本で稼げるぞ」
「いいっすよ、俺は」
大神は岩田の顔を見た。ベーコンのように赤黒く盛り上がった傷がこめかみから後頭部に続き、鼻は三角形に変形していた。そんな顔になるまで身体を張らないと稼げないのなら、筋者なんてやりたくはないと思った。
「よかぞ筋者は。荒《すさ》んだ生まれの者ばっかりやから、おまえも合いの子とか言われて、からかわれることはなかぜ」
「ははは、俺は親父が日本人やけん、パンパンから生まれたんやないけんね。いまじゃあ、そげんからかわれたりせんよ」
「清ちゃん。岩さんはねえ、清ちゃんを横に連れて歩きたいとよ。ずんぐりむっくりの岩さんの脇に、背のスラッとした二枚目の清ちゃんが立ったら、『悪名』の名コンビ、勝新太郎《カツシン》と田宮二郎《タイムシヨツク》のごとなるけんね」
「なんだ、そんなことだと思ったばい」
「コヒ、きさん。ずんぐりむっくりって言うな」
岩田は小指のないほうの拳で、小日向の肩をごんごんと叩いた。薄い身体の小日向はぐらぐらと揺れた。
チンチン電車の警笛が店内にまで響いた。
邪魔者扱いされ始めてはいたものの、過去の栄光もまだ薄れておらず、チンチン電車は街中に響き渡る甲高い警笛を鳴らしていた。
「おう、清。チンチン電車がまだ走りよるぞ。ちょっとの間、店を閉めて打ちに行こうや。ここは、もっと遅くなってから客が混むとやろう?」
「そうや、清ちゃん。新しい賭場が立ったっちゃん。行ってみらんね」
博打の臭いを嗅いで、大神の心臓がどきんと鳴った。
「小一時間ぐらいなら……」
大神はそそくさとエプロンを外していた。
『キング』の看板の電気を消して、鍵を閉めているとき、警笛が鳴った。
「清ちゃん、終電が電停に来よるぜ!」
小日向が叫ぶと、岩田は駆け出した。大神もそれに続いて走った。
「おーい、ちょっと待ってくれ!」
岩田が雪駄《せつた》の踵に打ち付けた鋲《びよう》の音を立てて陽気に叫んだ。大神は岩田を追い抜き革靴の底を鳴らした。小日向はどたどたと遅れてついて走った。
チンチン電車は、手を振って走る三人が見えているのか、急げ、と追い立てるように警笛を一つ鳴らした。
「清ちゃんは、太か綺麗な血管ばしとうねえ」
小日向は大神の腕を摩《さす》りながら言った。
「そんなこと言うとる暇があったら、早う目を開かせんや」
大神はぐっと拳を握った。
「そーら、目がばちーっと開いて相手の札が丸見えになるばい」
注射器の先から空気を飛ばすと、小日向は慣れた手つきで血管に針を刺し入れた。
「そーらそーら、どげんね、清ちゃん」
子供をあやすように優しく言うと、小日向はピストンをゆっくりと押す。液体《アンフエタミン》が全部入り切らないうちに、今度はピストンをゆっくりと引いた。注射器の中に血液が逆流してくる。透明の液体の中の血液は赤い糸屑のように舞いながら広がり、そして、舞い疲れた赤い糸屑はピンク色の靄《もや》に変わる。小日向がピストンをポンプのように何度か上下させると薄ピンク色だった注射器の中は真っ赤に染まった。
「清ちゃん、行くよ。そーらそーら……、そーらそーら」
小日向は、ゴムバンドを大神の腕から外すと、一定のスピードでピストンを押して注射器の中をすっからかんにした。
大神の身体の血管を伝って拡がっていったトゲトゲの快楽は、胃の裏の背骨|辺《あた》りに集結し、その部分を少しひんやりとさせた。瞬間、冷たい塊となって快楽は背骨を競《せ》り上がる。身体の中で背骨をポコポコと叩きながら登る音が共鳴して大神には聞こえた。
「うーーー」
背骨を登ってきた快楽は、背骨の終わりと頭蓋の境目で大きく弾けた。大神の目は大きく見開かれ天井を向いて焦点を合わせた。呼吸を止め後頭部の爆発音にとらわれていく。
「おうー、天井の木目までようわかる」
やっと息を返すと、大神は雄叫びを上げた。
「よーし、もう一勝負たい。カミシタの中の札が、かちっと見えるようやぞ」
大神は立ち上がると、小日向を振り返りもせずに廊下に出た。
手本引きの盆が行われている部屋の襖を開けると、胴師の所作を前屈みになって覗き込む男たちの向こうに、真白な敷布の盤が眩しく大神の目を刺した。
大神は座ると、盆の中心に鎮座している胴師の動きを注視した。胴師と自分との勝負が始まる。後頭部の快楽が再現されるような感覚を覚えた。
手本引きの胴師は、一から六までの数字を書いた花札と同じ形の札「こでん」を、片肩からだらりと下げた羽織りの陰で片手で繰り、一番上に決めた一枚を乗せる。そして、胴師は決めた札を「カミシタ」と呼ぶ日本手拭いに挟んで場面に置く。
張り方は、札を予想する。たかだか一から六の数字を当てるような単純な博打のようだが、胴師と張り方との札の読み合いは高度な心理戦になる。
一、二、四、四、四、一、六、五、五、二、一、三……。
大神は前の勝負で胴を取ったときの張り目を思い返していた。手本引きは客側も胴師を張ることができる。大神の胴師は客とは思えないほどよく立った。
岩田と小日向に手本引き賭博を開帳するこの盆に連れて来られてから、二ヵ月になる。最初の一ヵ月は賭場が沸き立つほど大神は胴師で連勝した。
元々に博才があったのか、単なるビギナーズ・ラックなのかわからないが、大神は他の博打よりも手本引きの胴師が性に合っていた。
三、二、四、二、六、一、六、五、五、二、四、三……。
目の前を、一から六まで数字がちゃかちゃかと音を立てて通り過ぎていく。大神は張らずに場面を眺めた。
「清、受かってるか?」
横に座って岩田が声を掛けてきた。
「とんとんって、ところです」
岩田は張り方に加わって金を張った。その張り方は、胴師をやっている商店街の若旦那に対しての賭場からのサービスのようなもので、あっという間に、胴師の懐が膨らんだ。
岩田がすっと身体を寄せてきた。
「次に四が出たら根を引くけん、スイチで勝負やぞ」
「はい」
大神は張り方として小さく賭けた。出目は「二」で金は胴師に流れた。岩田は立ち上がると若者に酒を頼んで部屋の隅に移った。
手本引きの張り方の賭け方には、四枚張りで確率よく小さく賭けるか、スイチと呼ばれる一枚張りで四・五倍の高配当を狙うかまでの十二種類の札の賭け方がある。
大神は目立たないように「一、二、五」の三点に小さく金を張った。
張り方の金が揃うと、金の計算を扱う合力《ごうりき》と呼ばれる男の「勝負」という粋な声が盆に響く。胴師は自分の選んだ札を木札で示し、カミシタの中から札を開帳した。札は「四」だった。張り方から押し殺したような息が一斉に吐き出された。張り方の金がどっと胴師に流れ込んだ。
大神は胴師の懐の金を計算した。胴師の若旦那は盆が生きていることに気をよくして、カミシタを扱う手つきも大げさになっていた。
岩田の言っていた「根」という言葉が生きてきた。根とは前回に出した札と同じものを出すことで、心理戦の中では根が重要な要素となる。大神は胴師の若旦那の所作が大げさになっていることで、根がくることを確信した。
張り方の客が何事かを念じるように言葉を口の中で繰り返しながら金を盆に張る。真白な敷布の上に、手垢でくすんだ紙幣がぽんぽんと並んでいく。
「さあ、ないか、あと、ないか」
合力は盆を見回した。大神は胴師の懐が空になるように四・五で割った金額を「四」にスイチで張った。
「勝負」
カミシタの中から胴師は「四」の札を見せた。胴は大神のスイチの一発で沈んだ。張り方からの羨望の声とまなざしが、大神になだれ込んでくる金に注がれた。
大神は大きく息を吐いて金を束ねた。
若旦那に出目表を渡しているのは岩田で、大神は岩田のこづかい稼ぎに一役買った形になった。負けが込んでいる客に組がサービスとして戻す金を横から抜くようなものだった。大神はこの配当の五割を岩田に渡す。半分の金でも大神にはありがたかった。胴師をやるには金がいる。手本引きは胴をとらないと大きく儲からない。張り方としてスイチで四・五倍の配当を貰うよりも、胴師の総取りは高配当だった。懐の中にどさっと金が雪崩込んでくる感覚は忘れられない。
三、二、一、二、六、六、六、二、二、六、四、三……。
「ねえ、今日もお店休んだでしょう」
妻の時枝の声が尖っていた。
「開けてたよ」
大神は目を合わさずに言った。頭の中には、三、二、一、二、六、六、六、二、二、六、四、三……、と札が順繰りにめくられる光景と、ステンレスの注射針が鈍く光っていた。
「嘘ばっかり。『キング』の前通ったら看板が消えてたわよ。嘘言わないで……」
時枝の声は尖ってはいたが、切実な色も含んでいた。
「そりゃ、外が消えとっただけで、中にいたんだよ」
「どこ行くのよ?」
「三」の札がピタッと脳裏に張り付いている。時枝の声が素通りした。大神は財布を掴むと居間を出た。
「やめてよ! あなた」
時枝の声は大神には聞こえなかった。
一昨日の勝負では、『キング』の家賃と売り上げと同じ金額が手元に残った。昨日の前半の勝負では、家賃と売り上げの五倍まで金を増やし、中盤で一進一退を繰り返した。そして、後半にきつめの張り方から打ち込まれて胴は腐った。結局、一昨日と同じ金額が残った。
『キング』の家賃と売り上げがあれば、今月は店を開けないでもやっていける。しかし、それでは大神は満足しなかった。その金プラス手本引きの軍資金が必要だった。家賃を払って、経費を計算して時枝に生活費を渡してしまうと、胴師を張る資金には足りなすぎる。胴師を張らなければ、手本引きの醍醐味《だいごみ》は味わえない。
先月は店の売り上げを少しだけ割ったので、貯金を崩して資金にした。大神は、博打の金のために貯金を崩したのではなく、生活費に回す金が足りなかったので貯金を崩したと思うようにしていた。
大神はチンチン電車に飛び乗り、乗車賃二十五円を料金箱に投げ入れた。料金箱が透明の上蓋が付いた賽銭《さいせん》箱のように見え、思わず手を合わせたい気持ちになった。今夜は、どうしても、『キング』の家賃と売り上げプラス軍資金を手元に残して帰りたかった。
使い古しの歯ブラシで、フライパンの柄の接合部分に張り付いた油汚れを落としていた。ガスコンロの火口についた五徳はクレンザーで磨き上げられ鉄色に輝いていた。
大神はフライパンの柄にお湯をかけた。買った当時の色が戻ってきた。
冷蔵庫の冷凍庫部分に大神の視線が止まった。手を丹念に洗い冷凍庫のドアを開けた。注射器とクリアな結晶の入ったパケを取り出すと、パケの冷えた空気はパケの外側部分を湿らせた。冷たいところに置いておけば、結晶は熟成していくような気がしていた。
スプーン半分ほどに水を張り、小さな結晶を落とした。結晶は水の中をツーと動いた。
夜店で売っていた玩具に動きが似ていた。軽い紙製のヨットの船底にナフタリンか樟脳《しようのう》をくっつけて水に浮かべると、ツーと動く仕組みになっていた。
コーヒーサイフォンのガスバーナーに火を入れ、その火を最小に細くした。遠くからスプーンをかざした。スプーンの水が回りから沸き上がり小さな泡を立てた。頃合を計って火を消すと、スプーンの中の泡は一瞬だけ大きくなる。
注射器で、スプーンの中身を吸い取った。
三十秒後には、後頭部で弾ける冷たくて熱い快楽を味わえると思うと、大神の心臓は早く鼓《う》った。
真っ黒な雲が空を覆い星一つ見えない深夜、大神はチンチン電車のレールに沿って歩いていた。全身にどっと疲れがたまり、少しふらついてレールを踏んでしまう。革靴の底に埋め込まれた石と違ったつるっとした感触を受けた。
最初の胴師で大きくやられ、胴が腐る寸前でどうにか皮一枚繋がった。そして、手持ちの金がプラスマイナス・ゼロに戻るまで、八時間かかった。仕舞い盆の二勝負前で、ようやく息をつくことはできたが、すっきりとしない重い疲労はのしかかってきた。我慢強く小さく勝負した八時間が、阿呆らしいものに思えてきた。
「清ちゃん、そりゃあ、ポン喰うけん、掃除が好きになるったい」
『キング』のソファーに小日向は深く腰を下ろして言った。
「そやろうか?」
大神は新品同様に透明感のある灰皿を出した。
「俺もポン始めたとき、掃除が止まらんようになったぜ。でも、すぐ普通に戻るけん、心配せんでもよかばい」
「ふーん」
大神はダスターでテーブルに舞った小さな煙草の灰を拭いた。
「それと清ちゃん、博打の借金は早く返したほうがよかばい」
「わかってるよ。おめえんとこ、利子が高すぎるばい。今日は利子だけ入れるってことで勘弁してくれんか?」
「そりゃ、清ちゃんやけん、よかけど。溜めんほうがよかよ」
「コヒ、いま流行のサラリーマン金融って知っとうや?」
「サラ金やろう。天神の端っこにいっぱい店が出とうよ」
「担保なしで、利子もおまえんとこで借りるより安いって本当かいな?」
「止めたがいいよ、清ちゃん。手数料やら書類代やら加えられたら、結局はうちで借りるのと変わらんよ。どうせ、ヤクザがやりよっちゃけん」
「なんや、そげんことか」
「やめたが、いいよ」
「わかったわかった。なら、賭場に行く前に銀行に寄って行こうかね。今夜の軍資金とコヒんところの利子ば下ろさないかん」
大神は『キング』の鍵を鳴らした。
「清ちゃん。雨が降りよるばい」
先に外に出た小日向がドアから顔を出した。大神は女物の傘を小日向に渡した。傘は時枝のものだったか、客の忘れ物だったか定かではなかった。
時枝は、『キング』に掃除に来てもやることがない、と言ってほとんど立ち寄らなくなった。時枝と話す時間は極端に減った。昼間に『キング』にやってきて、ぼんやりとジュークボックスのエルビスを聞いているときの時枝の顔が大神の頭の中で薄ぼんやりとしてきた。
電停に二つの傘が並んでいる。大神の蝙蝠《こうもり》傘と小日向の水玉模様の傘は随分と開いている高さが違っていた。
「なあ、コヒ。サラリーマン金融って、担保があったら金利を安くしてくれるとやろうか?」
大神は上から水玉模様の傘を蝙蝠傘でつんつんと叩いた。
「知らんばってん。担保があるんやったら、サラ金やらに行くより岩さんに相談したほうがよかばい。都合よくやってくれるけん」
小日向が大神を見上げた。
「それは、そうやろうな……」
「それよか、清ちゃん。金借りて博打やら打たんほうがよかばい」
「しょうがないばい、面白いけんねえ」
「切りがないばい」
「コヒ、二十五円貸してくれ。銀行で下ろしたら返すけん」
大神が水玉の部分を傘の骨で突ついた。
「電車賃も持ってないと?」
呆れた顔で小日向は見上げた。
「札を崩したくないけん」
大神は札入れを開いて見せた。『キング』の家賃分の紙幣が、すべて同じ方向を向いて納まっていた。
「まあ、よかばってん。清ちゃんも、聖徳太子が喧嘩せんように、まじないをかつぐんやね」
小日向は面白くもなさそうな声で言うと、二十五円の回数券を大神の大きな掌に載せた。
「コヒ、華奢な手やな。うちの誠と同じぐらいやぞ」
「そんな、誠はまだ小学生やないの」
「いや、あいつは手がでかいんだ」
大神は笑った。
「それにしても、小学生と同じにされたら、かなわんなあ」
小日向も息だけで笑った。
「ねえ、あなた、ちょっとそこに座ってよ」
時枝が大神に言った。時枝は高校まで関東で暮らしていた。甲高い博多弁ではなく、一音低い標準語で喋るときは怒っている証拠だった。
「どうした?」
大神はソファーに座った。
「どうした、じゃないわ。今月の生活費のことよ。どうするの?」
時枝の顔が平べったくなった。
「どうにか、するけん」
「どうにかって、大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。それより、誠はどこにおるとや?」
「何、言ってるの、学校でしょう。話をそらさないで。生活費のことよ」
時枝は決して声を荒げない。大人しいというより、怒りが青白く燃えるタイプで、静かになっていく。
「いま、渡せばいいとや?」
大神は財布を出した。
「いいわよ。それなら私には文句はないわ」
財布の中から店の家賃分の紙幣の束を崩し時枝に渡した。聖徳太子が全員、同じ方向を向いた紙幣だった。時枝は少し驚いていたが、小さな声で「ありがとう」と言った。
大神は家を出た。時枝の表情を思い出していた。もしかすると、家賃分を切り崩したことに気が付いていたのかもしれない。
『キング』の土地と建物の権利は大神の親が持っている。親の会社を辞め、宝石を扱う店を開いて一年で潰した。次に親は箱崎に店舗を買ってくれた。甘やかした、というのではなく諦めていなかった、というぐらいの大神の親の援助だった。大神は相場通りの家賃を親に払っていた。三年余り、一日も滞ることなく月末に家賃を納めていたが、今回、数日遅れることになるかもしれない。
『キング』の前の植え込みに岩田が座り、小日向は背伸びをして三角形の窓を覗き込んでいた。二人の姿を見た瞬間に、大神の頭の中で手札の数字がちらついた。
二、六、六、六、三、二、一、二、二、六、四、三……。
「おう、清。重役出勤やな」
岩田は笑っていた。
ドアを開けると、薄く酒と煙草の籠った臭いが漂ってきた。客で溢れた次の日は、窓とドアを全開にして一時間は換気扇を回さなければいけないほど濃く臭いが漂ったが、近頃は日に日に薄くなっていくようだった。
店内に入ると小日向が慣れた手つきでジュークボックスの電源を入れて硬貨を投入した。アコースティックの前奏に続いてプレスリーの甘ったるい声が流れた。
「また、ラブミーテンダーか。おまえも飽きん奴やな」
大神は苦笑しながらカウンターの中から声を掛けた。横にある冷蔵庫にぴたっと視線が止まった。
「好きなもんは、しょうがなかろう。清ちゃんとこのジュークボックスで聞くラブミーテンダーが、一番好きなんやから」
「変わった奴だな」
「俺はエルビスよか、トム・ジョーンズのほうが良かな」
岩田がぼそっと言った。
冷蔵庫を開けると、大神はパケを取り出した。アンフェタミンと手本引きは大神の中でワンセットになっていた。一本つけて高揚した気分のまま賭場に出向くのが儀式になってしまった。
「清ちゃん、射ってやろうか?」
小日向が注射器を握った。大神の視線は注射針に止まり、ひび割れたジュークボックスから流れるエルビスの声が、一音高くなり研ぎ澄まされていくように聞こえた。
「頼む」
二の腕をゴムで縛り、大神は肘の内側をパシパシと叩いた。太く盛り上がった血管は青黒い痣《あざ》が張り付いていた。
「一回で血管を探り切らんと、こげなふうに内出血するけんね。見とってん、一回でスッポリやけん」
小日向が操る注射針は、刀が鞘《さや》に収まるように、痛み一つ感じさせず血管に滑り込む。注射器のポンピングが始まると大神は注射器の中に吸い込まれたい衝動に駆られた。
「地獄の釜がぐらぐらと煮えとるごたあなあ、清」
岩田の声が遠くに聞こえた。大神の身体は冷たい快楽で沸き立っていた。目を見開いたまま大神はソファーに深く座った。
「コヒ、すまんばってん。煙草を買ってきてくれ」
「岩さん、煙草ならあるよ」
小日向は煙草を出した。
「俺は、ハイライトのごたる労働者の煙草は吸わんばい、洋モクば買って来てくれ」
「わかったよ」
小日向がキングを出ていくと、岩田は大神の横に座って身体を寄せてきた。
「清。これが、若旦那の出目や、覚えとけ」
岩田の渡した箸袋の切れっぱしのような紙片には、数字が並んでいた。
「アイアイサー」
数字にぴたりと焦点があった。大神は、冷たい快楽にぎゅっと締め付けられている脳味噌に、数字を染み込ませた。
「若旦那がなあ、根を引くときは緊張して左目が小さくなる疵《きず》があるの知っとうか?」
疵は心理戦の極致である手本引きをやる胴師が持つ最大の弱点である。大神は疵という言葉を知る前から、胴師の動きの癖に注目していた。同じ動作、同じ顔つきで札を繰ることができる胴師はいない。嘘を言うときの人間に表われる癖のように、緊張や策略が身体のどこかに疵として残る。それを張り方は盗むように見切るのが手本引きだった。
「ええ、あの若旦那は疵だらけですから、出目表と違う数字を出すときは、札を探る右肩が緊張しとるとも丸見えっす」
「よう見とるな。うちの組の胴師の疵も知っとうとか?」
「大体はね。岩さんとこの売り出し中の坊主は、ここぞという札を出すときは、小さく唇の右脇で舌舐《したな》めずりしますし、ベテランの佐々木さんは、聞いていると、狙っているときと流しているときの声のトーンが違います」
「ほー、向いとるな、おまえ」
岩田は、ソファーに背を預けて座った大神の横顔を眺めた。
エルビスの歌声にゆったりと乗って背骨が呼吸を始める、そして、フレーズの終わりのため息混じりに消える歌声に合わせて、呼吸も薄くなった。
「ほら、誠のグローブ代」
「お店も開けてないのに、どうして?」
時枝は、大神の身体に、また博打の虫が住みついてしまったことに気付いていた。
「今日、学校から帰ってきたら、誠の好きなのを買ってやれよ」
「駄目よ。クリスマスまで、まだ間があるわよ。クリスマス・プレゼントにするんでしょう」
「そんなこと言ったけかな」
まるで覚えていなかった。大神の頭の中では、昨日の勝負で、若旦那の疵をうまく見切って、スイチを決めた光景が再生されていた。
「言ったわよ。大丈夫? あなた」
大神は答えずに部屋を出て行った。
時枝は長いストレートの髪を後ろに束ねて、掃除を始めた。大神は以前に競艇に溺《おぼ》れたことがあった。いまの大神はそのときと同じような目をしていると時枝は思った。
恐ろしくてしょうがなかった。宝飾店を閉めるとき、大神は被害を最小限に止める努力をした。そして、どうしようもなくなって時枝に謝った。大きな身体を屈めて、上目使いで謝っていた大神の表情を見ると、許してしまった。また、どうしようもないことを許してしまうのかもしれない。時枝は身を堅くした。
時枝が初めて大神と会ったとき、首から肩にかけてのラインがエルビスのように見えた。日本人離れした広い肩幅は頼もしく、そして甘かった。
すぐに恋に落ち、結婚した。裕福な家庭に育った大神との結婚生活は最初は夢のように思えた。しかし、それは、やはり現実感の薄い、それこそ、エルビスが歌い続けた世界のようなものだった。簡単に割れて壊れてしまうガラス製の家庭だった。時枝にとって甘く優しく見えた大神の部分は、そのまま社会に置き換えると弱さのように思えた。ガツガツとのし上がっていく男を時枝は好きでもないし、さもしいと感じていたが、結婚してからは、そんな男の部分を大神に求めていたのかもしれない。容姿が人並み以上に優れた大神は、ガツガツとしているのは、醜男《ぶおとこ》の専売特許であると思っているのか、不格好なことを嫌っていた。そんな大神を時枝は歯がゆく思い、そして終わりが来ることを予感して怖れていた。
六、六、六、六、二、一、二、二、二、二、四、三……。
無茶な出目だった。胴師の大神は六の根を四回続け、そして、また二の根を四回続けた。二の四回目の根で張り方の金はほとんど胴師の大神の元に流れ込んだ。
「清ちゃん、今夜は、鬼が憑いとるごたあね。見事やったばい、あんな出目を出せるのは清ちゃんだけばい」
束になった札を数えている大神に小日向が擦り寄った。
「ほら、煙草銭や」
大神はハイライトがワンカートン買える紙幣を小日向の胸ポケットに押し込んだ。
「腹は減ってないか、清ちゃん。鉄火巻でも持ってこうか?」
「いや、いい。コヒ、それよりか、冷たいのを一本や」
「ひや酒ね、それともポンか?」
「ポン喰って、もう一回勝負するぞ」
「オッケー」
待っていたかのように小日向は、胸ポケットから銀色のケースを出すと大神の目の前にかざした。
磨き込まれて鏡のようになったケースに大神の深い二重瞼の目が映った。
「今夜は行くとこまで、行くぞ、コヒ」
「ああ、わかっとるばい、清ちゃん」
小日向は言うと同時に、大神の血管に針を差し入れた。大神は身体の中に三、二、一、二、四、二、六、二、と数字が音を立てて流れ込んで来るように感じた。
大神は盆の中心に正座すると、羽織りを右肩にかけた。張り方は少し前のめりになり、羽織りで隠れた大神の右手を注視した。
闇の中で札を繰る乾いた音が微かに響く。
大神が胴師で受かる理由の一つは、作為を捨て空の頭で札を繰れることであった。一から六までの数字の組み合わせの他に、「無心の札」という札を大神は持っていた。
無心の札を切るのは簡単そうで簡単ではない。無心になり切れていないと、疵が表われ狙い撃ちされる。
大神は頭を空にした。
一から六までの札、それと無心の札のすべてを、同じ動作、同じ表情で出さないといけない。身体の隅々まで気を張って札を繰る。筋肉を同じように動かすこと、すなわち同じフォームを繰り返すことは運動神経の鈍い人間には難しい。
大神は大きな身体を微動だにせずに選んだ四の札をカミシタに挟んだ。そして、自分の前に所作通りに置いた。重なった紙幣がぽんぽんと張り方から盆へと投げ置かれた。
今夜の大神はつきまくり、金は雪崩のように流れ込んだ。しかし、疵を見せないフォームを持続するためは、アンフェタミンを注入しなければならなかった。
「清ちゃん、今夜は久々のお大尽《だいじん》やね」
大神は一息でビールを飲み干した。ビール瓶を両手で抱えて大神に擦りよったホステスを小日向は抑えるとグラスにビールを注いだ。
「岩さんもコヒも、今夜は俺の奢りやけんバンバン飲んでくれんね」
大神は小日向からビール瓶を奪うと岩田のグラスに注いだ。
「おお、今日は見事な胴師やったばい。これでうちでの借金がちゃらになるんじゃないとか」
「そんなもん、ゼロが一つよけいにないと、このぐらいの勝ちじゃ全然足りんよ」
「そりゃそうかもしれん。そこいらの商店街のおっさんが客の草博打やけんな」
岩田は愉快そうに笑った。
「でも、清ちゃんぐらいの腕があるんなら、地道に勝ちば拾っていけば返せるばい」
「コヒ、何言いようとか、博打の借金ば博打で地道に返せる人間やらおるわけないやろう。清はドンと勝って返すはずや、なあ清」
「そうやねえ、でっかい博打ば打たせてくれたら、どうにかしてみせるばい」
大神は横にいたホステスを引き寄せた。ホステスは嬌声を上げ、大神にしなだれかかった。安い化粧品の香りが大神の鼻をついた。
「こちら、俳優さんのごと格好の良かね」
ホステスは大神の手を取って自分の太腿に乗せた。
「駄目駄目、清ちゃんは、格好は良かばってん、ウツウツやけん、おまえやら相手にせんよ」
「何? ウツウツって」
「飲む打つ買うのウツたい」
「それやったら、ウツだけで良かろうもん。何でウツウツなん?」
「そりゃ姉ちゃん、博打だけじゃないもんも打つけんたい。ダブルで打つけんウツウツたい」
「博打以外の打つもんって何?」
「怖ーかクスリたい」
「コヒ、黙っとけ。この馬鹿が、いらんこと言うな。そうや、おまえ、ちょっと煙草ば買って来い」
「煙草ならうちが買って来ましょうか」
「しゃあしか、黙っとれ。コヒ、行ってこい」
岩田は筋者の商売用の顔でホステスと小日向を睨んだ。小日向は直ぐに立ち上がると店を出て行った。
「おう、おまえらも、ちょっとはずせ」
顎で指すとホステスたちは席を離れた。
「どうしたとね、岩さん」
「清、来週にでっかい博打がある」
岩田が大神に顔を寄せた。
「本当っすか」
「ああ、花会博打って言ってな。博多だけやないぞ、大阪やら鹿児島からまでも親分が集まる博打や。回り持ちで、今回はうちの組が盆を仕切る」
「太そうやね」
「太かぞ。張り方のゼロが一つも二つも違うばい」
「と言うと、胴師で勝てば天井知らずってことですか?」
「そうたい。おまえの借金を返すのやら屁でもない。釣銭で一年は遊べるかもしれんぞ」
「俺とかでも勝負できるとね」
大神は身を乗り出した。
「いや、普通は親分クラスしか入れん博打たい、持ち金の信用がないけんな。ばってん、今回やったらうちの仕切りやけん、俺の顔で入られる」
「ばってん、張り金のゼロが一つ違うんなら、胴師はそれ以上に金持ってないと、一発で潰されるばい。いまの俺には、そんな大金はないよ」
「心配せんでよか、軍資金は俺がなんとかする」
「岩さんが貸してくれるとな」
「ああ、俺がおまえに出資してやる。でもな……」
岩田は話を止めた。大神は岩田の目の動きに反応して振り返るとホールの入り口に小日向の姿があった。
「清、明日『キング』に二時に行くけん、そこで詳細は話す」
「二時ですね」
大神は答えた。
生バンドのギタリストが思い入れたっぷりに弦を弾いた。良い思い出があるのか、それともきつい思いをしたのか、聞き覚えのある旋律に、ホールのホステスたちの視線は、一斉にギタリストに注がれた。
インストルメンタルの「ラブミーテンダー」に合わせて、ホールの人間たちは小さな声で歌い始めた。その音の中を小日向は、洋モクをチークダンスの相手にしてステップを踏みながら近づいた。
「ありゃりゃ、せっかくエルビスをリクエストしてきたのに、踊る相手がおらんな」
小日向はおどけたポーズのまま男だけのボックスに向かって言った。
「阿呆か、そげな古臭い曲をかけるけん、みんなおらんごとなったったい」
「岩さん、そげん言わんでよ。マイ・フェイバリット・ソングなんやけん」
甘い声で小日向は歌った。
「何がマイ・フェイバか、ツヤつけて横文字使うな」
「清ちゃん、ツヤつけって言うなよ。悲しくなるばい」
小日向はボックスに座ると大神の肩をごつごつと叩いた。
「きさん、博打打ちの肩に触るな。運が逃げるやろうが」
「何やそれ、博打打ちげな。清ちゃんこそ、ツヤつけとうやない」
笑っている二人を岩田は見ていた。
『キング』の三角形の窓が坊主頭のシルエットを透かした。
店に入った岩田は、中を見回すとポケットから鍵を取り出した。小指のないずんぐりとした指に摘まれて揺れる銀色の鍵は、薄暗い店内でカチリと光った。
「清、宝もんのいっぱい詰まった金庫の鍵やぞ」
「岩さん、まさか組の金を軍資金にしようと?」
「阿呆か、俺はそげな足の付くようなことはせんぞ」
岩田はカウンターに鍵を置いた。大神は鍵を見つめた。
「これは、疵帳が入っている金庫の鍵や」
「疵帳?」
「おう、今度の花会博打で手本引きの胴を張る胴師たちの疵を書き込んである帳面たい」
「そんなもんがあるったい」
「うちは博徒やぞ。うちの関係する博打の裏と表を網羅しとかな喰っていかれん。福岡ボートの抜け道の帳面とか、野球賭博のハンデ表の帳面やらが詰まっとる金庫やぞ」
「ほう……」
大神は唾を飲み込んだ。
「今日の午前中に若頭が来てないうちに、ちょっと机の中から鍵を失敬して合鍵を作ったったい」
「で、その疵帳は?」
「ない、拝めるのは明日の明け方や。毎日チェックしよるけん持っては来られん。そんときにうちの機械で複写するつもりや」
「わかった」
「それと、うちの胴師が出すサインば教える」
岩田は一枚の紙を出した。大神は一から六までの札のサインが書かれた紙を食い入るように見た。
「岩さんのところの胴師から、組が仕込んだ張り方に流れる金を、俺が横からかっさらうってことか……」
胴師の金が十分に溜まったところで張り方にスイチを決められて、胴が潰れることはよくある。それを未然に防ぐために考えられた方法が仕込みの張り方に胴師の金を緊急避難させる方法だった。張り方は他の張り方から金を喰われることはない、手本引きは胴師対張り方の勝負に終始する。
「そうや。胴師の金を緊急避難させるんやな。そこを狙い討ちする」
「そんなことして、大丈夫なのか?」
「そりゃ毎回やれば疑われる。それを疑われんごと、うまくやるしかないやろう。それは俺が場面を見ておまえにサインで知らせるけん」
「さっきのサインと違うサインやね」
「そうや。それとおまえが胴師のときにも金を緊急避難させるけん、そのときのサインも決めとくぞ」
「わかった。でも金を緊急避難させる張り方が岩さんやと、まずいんやないか?」
「それは、もうひとり人間を用意する。おまえが胴師で溜め込んだ金は、そいつと俺とで分散して安全なこちら側に流す」
「もう一人っていうのはコヒか?」
「いや、あいつは使えん。俺たちとの繋がりが見えん人間を使う。それにコヒには荷が重すぎる」
「そうやね」
大神は苦笑した。
「これで、おまえが張り方になったときの攻撃と、胴師で受かったときの防御はできた。それで、これからが問題や。おまえの胴が受からんと話にならん」
「受かってみせるばい、岩さん」
「ツヤつけんな、がんばりだけで胴師が受かるんやったら、こげん苦労はせん」
岩田の怒号が飛んだ。大神は身をすくめて頭を下げた。
「清、わかっとるやろうけど、手本引きはイカサマがほとんどできん博打や。盆の裏に潜り込んでサイコロを針で突つくようなこともできん」
「そうやね……」
「相手の札を盗み見ることもできん、相手との札のやりとりもないから、札に細工もできん、偶然の要素は、まったくない頭の中だけの勝負たい」
岩田の声が落ち着いた。
「はい」
「そこで考えたのがウソ疵や。ウソ疵のことは知っとうか?」
「聞いたことはありますけど、よくは知らんです」
「偽物の疵のことたい。大きな花会博打のために前々から仕込む偽物の疵や。おまえがいつもやりよる草博打のときに、負けを覚悟して仕込み続けるんや。そして、花会博打のここぞ、というときにドカンとウソ疵で相手を引っ掛ける」
「俺はそんな準備はしてきてないばい」
「それが良かったい」
岩田は、大神が見よう見真似で胴師を張る姿を見つめ続けてきた。不思議な気分だった。金持ちのボンボンが抜け切らない甘ちゃんのくせに大神は手本引きに向いていた。素人とは思えないほど疵が少ない自然な所作で札を繰っていた。
「おまえは素人にしては珍しく疵はほとんどない。でもなあ、清。おまえにも微かに疵があるんや。それを俺は利用した」
「どういうことだ、岩さん」
「俺しか気付いてなかったおまえの疵のことを、情報として流した」
「岩さん、だから、俺は狙い撃ちされよったんか?」
「そうや、俺の知り合いの筋者たちには丸見えになっとる」
「非道いじゃないか」
「ああ、非道いな。でもな、清。それぐらいせんと完璧なウソ疵は作ることはできん。おまえは、己の知らんうちに、ウソ疵を作ったことになるんや、それで初めて花会博打でドカンと引っ掛けられるんや」
岩田は準備に準備を重ねてきた。大神を騙さないとウソ疵は作りえなかった。どれほど修業を積んだ胴師でも、ウソ疵を草博打で蒔《ま》き続けるのは難しい。意識しない状態で思わず出てしまうのが本物の疵だからである。無意識の中で第三者によって作り出されたウソ疵こそ、目利きたちの鋭い目をかいくぐることができる。
岩田は、大神の疵の情報を流すことにも細心の注意を払ってきた。聞く側にこちらの作為を知られてしまっては、台無しになってしまう。あるときは、盆の張り方として座りながら、小声で話して、それを他の筋者に盗み聞きさせた。そして、あるときは、喫茶店や飲み屋での噂話の中に、大神の疵の情報を流した。効果が表われてきたのは近頃だった。大神の疵の存在が流布されたせいで、大神の胴師は狙い撃ちされ始めていた。
「清、おまえの疵はお見通しや。このまま胴師をやったら、負け続ける。ここで一発逆転しようやないか」
「岩さん、一発逆転って……。岩さんのせいでこんな状態になってしまったんやないか! 店を売らないかんくらいの借金やぞ」
「阿呆。売らないかんって言っても、売ってないやないか。甘いこと言うな。それに、花会博打で一発決まれば、そんな借金はちゃらで、店がもう何軒も買えるくらいの金は転がり込むんぞ。騙《だま》しとったのは、それが最善の方法やったからや。清、ここは度胸決めて、話に乗るしかないんやぞ」
「でも……」
「デモも糞《くそ》もあるか! おまえのまわりでは着々と事は進んどるんぞ。男やったら胆を据えろ」
大神は返事をせずに冷蔵庫のドアに手を掛けた。岩田は大神を見据えていた。
「岩さん、一本喰って良かね」
「好きにせえ」
大神はアンフェタミンを身体に流し込んだ。冷たい快楽が背骨を駆け上がり、それは冷たい勇気に姿を変えた。
「やる。やろう、岩さん。人生は一回きりや、ドカンと決めようや」
「よしっ、よう言った」
岩田は瞬《まばた》きを繰り返している大神の肩を強く掴んだ。日本人離れした広くてスマートな大神の肩にのった自分のずんぐりむっくりした手を岩田は見つめた。
第一関節から先が欠けた小指は、岩田にとって復讐の象徴だった。拘置所の面会室で指を食いちぎれと伝えた弁護士の表情は忘れられない。組織が自分に対して責任を取れと言ってきたのは、しょうがないことだと思った。だが、しかし、刃物を扱えない拘置所の中で、指を食いちぎれというのは、非道い仕打ちだった。通常は、詰めた小指は迷惑をかけた相手に渡されて初めて指詰めの意味を持つ。しかし、岩田の食いちぎられた小指の先は、誰の手にも渡らずに廃棄された。容赦のない組織の仕打ちに岩田は沸々と煮えたぎっていた。
「清、ちょっとこっち来い」
岩田は鏡の前に立った。
「おまえの疵は、右の眉毛の上からこめかみのところが一回か二回、プクッ、プクッと、盛り上がるんや。知っとったか?」
「いや、まるで」
「鏡の前で札を繰る練習やらは、してなかったんか?」
「そんなことは、してないよ」
「そりゃまた、剛気というか無謀というか。うちの者やったら普通は、鏡の前で何ヵ月も練習して胴師を張るんやけどな」
岩田は呆れた顔で大神を見上げた。
「岩さん、俺の疵はどんなときに出るんだ?」
「それは、根を張るときのような、ここぞと緊張したときやな」
「何で、ここがプクッ、プクッと動くんやろうか?」
「たぶん、右の奥歯の高さが左の奥歯より高いからやろうな。緊張すると、歯を噛む癖があるんやと思う」
「知らんかったな……」
大神は鏡に向かって何度か歯を噛んだ。こめかみ辺りの皮膚がわずかに盛り上がるのが見て取れた。
「米を噛むと動くけん、こめかみって言うとがわかるな。博打のときでも、ここぞって勝負は、それこそ金を産む瞬間やから、米を噛んでしまうんかな」
岩田は大神のこめかみをすっと撫でた。
「どげんすれば、疵は治るんかな?」
「右の奥歯を削るか、抜くかすればいいんやけど、今回はそういうわけにはいかん。疵が無くなってしまってはウソ疵にはならんけんな」
「抜いたりするのは、やっぱり嫌やなあ」
「阿呆。そげんことしてみんな胴師を張るんやぞ。抜いてそれで仕舞いなら、そっちのほうが楽や。今回は疵を知って、それをまた、自分の武器にするんや。緊張の極致で出る癖を意識の中に封じ込める。自分の心で自分の身体の反応を押さえ込むようなもんやな」
緊張したのか、岩田を見返した大神のこめかみがピクリと動いた。薄暗い店内に差し込む光が大神のこめかみの疵を浮き上がらせて見せた。
『キング』のドアが開けられた。
「おっ。岩さん、どげんしたと? 早いお越しやね」
小日向は店に入るなり硬貨をジュークボックスに投げ入れた。そして、キイパンチャーのようにブラインドタッチで、ラブミーテンダーのボタンをセットした。
「コヒ、いいところに来た、煙草が切れたけん、買って来てくれ」
岩田は千円札を一枚指に挟んだ。
「もう、金を入れたとこなのに」
「しゃあしか、釣銭をやるけん、いくらでもラブミテンダば聞いたらいいやないか」
何も言わず紙幣を摘み上げると小日向は店を出て行った。
小日向のあとを追うようにエルビスの歌声が流れた。
「僕のことを、優しく甘く愛して……か」
大神がぽつりと言った。
「何や、それ」
「ラブミーテンダーの出だしですよ」
「甘く愛して、ってか。男のくせに気味の悪い奴やな。やっぱり、俺はトム・ジョーンズがいいな」
「はは、それは岩さんがオッサンだからだよ」
トロリと溶けそうなエルビスのため息は、大神の身体の中に冷たい快楽を注入しろと誘っているように聞こえた。大神は、また、冷蔵庫のドアに手を掛けた。
大神はシャツを脱ぎ上半身裸になって鏡の前に座った。スチームの効いた『キング』の店内でも、少し肌寒く感じた。
全身の映る大きな鏡の中の大神は痩せて見えた。肩から首にかけてうっすらと乗っていた脂肪は姿を消して、腱と筋肉の間を渓谷のように深くへこませていた。彫りの深い顔と同様に、アンフェタミンは大神の身体も彫りの深い様相へと変えていた。
何度も何度も、神経を集中して同じ動作で札を繰り続けた。六、六、六、六、二、一、二、二、二、二、四、三……。四、五、六、六、二、一、三、二、二、二、四、一……。飽き飽きして嫌になっても札を繰った。裸の上半身の筋肉の影が少しも変わることのないように動作を繰り返す。指先のわずかな動きの違いは、腕の筋肉と筋を伝って首筋に移り、そして、顎の関節を引っぱる。
(違う)
大神は心で叫んだ。
裸になって札を繰ると、身体中に疵が存在していることを知った。
大神は黒いビニールテープを一センチに切って、右手の甲、肘、右肩の頂点、首の付け根、顎、えら、それとこめかみに貼った。身体の動きがより露《あらわ》になった。そして、上の奥歯と下の奥歯が付かないように、舌を上下の前歯の間に差し入れた。大神はまた札を繰り続けた。
えらの関節が、上下の奥歯の付かない距離を感じるまで繰り返した。頭で覚えるのではなく、奥歯と奥歯の五ミリ隙間を身体に覚え込ませる。
肌寒さも、疲れも感じなくなっていく。壊れた機械のように同じ動作を続けていくと、大神の頭の中には漆黒の静寂が住みつくようになった。
「あなた、痩せたんじゃないの?」
「そうか……」
『キング』のスツールに座った時枝はカウンターの中でグラスを磨いている大神に言った。
「お客さん、誰もいないね」
「ああ……」
「気のない返事ね」
「誠は寝たとか?」
「寝たから来たんでしょ」
グラスのビールを時枝は手に取った。
「ねえ、『キング』辞めるの?」
「どうしてそんなこと思うとや。俺は辞めるなんて一言も言ってないぞ」
「だって、やる気なさそうだし」
「そんなことはないよ」
こめかみがぴくりと動いたような気がした。大神は咄嗟《とつさ》に前歯に舌を差し入れた。
「嘘ばっかり。嘘ついているときのあなたの顔って直ぐわかるのよ」
「そうか? どんな顔してるんだ俺は」
「どうって、はっきりとは言えないけれど、私にはわかるの」
時枝は歌うように言った。
「こないだ、俺が嘘をつくと、こめかみが少し膨らむって言われたけどな」
「女でしょう! そんなこと言うのって、あなたの顔をずっと見てたってことじゃない。女ができたんでしょう!」
時枝は大神を睨んだ。
「違うよ。岩さんだよ、言ったのは」
「嘘ばっかり、あんな人が、あなたを見つめるわけないじゃない……、嘘ばっかり!」
時枝は立ち上がると『キング』のドアを開けた。もう一度、大神を睨むとドアを大きく開けて出ていった。時枝と入れ替わるように、サンダルの音と冷たくて乾燥した空気が『キング』に入り込んで来た。
大神は時枝のあとを追わなかった。嘘はついていない。上の前歯と下の前歯の間に舌を挟む必要もないほど、大神は正直に答えていた。
大神は舌を抜いて、奥歯をぐっと噛み締めた。寄りかかった冷蔵庫は、ブーンと低い音の振動を大神の背中に伝えていた。
時枝はコートを脱ぎ捨てると誠の寝ているベッドに潜り込んだ。布団はふんわりと温かく、誠の背中は熱いくらいだった。誠は一瞬、起きかけたが、直ぐに規則正しい寝息を立てた。
時枝にとって誠は、大神と楽しく抱き合えていた頃の象徴に思えた。堪えていたのに涙が流れ出てくる。時枝は身体を堅くした。誠の身体が遠く思えた。ずっと昔の一時だけの思い出のように薄く消えてしまいそうだった。
時枝は誠を抱きしめた。大神を半分ぐらいにした誠の肩は同じ形をしていた。
「どうしたの、ママ」
誠はびくっとすると振り返った。
「パパがね……、パパがね……、パパがね……」
「パパがどうしたの?」
「パパがね……」
時枝は次の言葉が言えなくなった。
「パパがどうしたの、ママ」
「パパが、クリスマスに新しいグローブ買ってくれるって……、よかったね……」
「知ってるよ、約束したから」
「そうだったわね……」
時枝は誠の身体を強く抱いた。大神が小さくなったように感じた。
「行くぞ、清」
岩田は自分の胃の高さぐらいにある大神の腰を叩いた。
「うん。コヒは先に行ったのか?」
「あいつは、準備やらで、随分と先に旅館に行っとるはずや」
「そうか……」
大神は頷いた。
旅館の引き戸を開けると、石油ストーブで暖められた空気が立ち働く人々の音と一緒に流れ出た。
二階の大広間には緋毛氈《ひもうせん》が敷かれ、畳に純白の布の被せられた盆が三枚並んで置かれてあった。盆の直ぐ上まで延長コードで降ろされた照明器具が天井の高さをより感じさせた。
「清ちゃん」
小日向が後ろから声を掛けた。
「おう」
「良かスーツ着とるねえ」
「こんなときしか着れん一張羅たい」
キャメルのスーツのズボンには、座布団に座るのが惜しくなるような折り目が真直ぐに入っていた。
「似あっとるばい、黄土色が」
「黄土色って言うなよ。キャメルって言うったい」
「そうやったね」
「コヒ、見ときやい。ドカンと勝ってみせるけん」
「でも、気をつけんといかんばい。レートが全然違うっちゃけん。とんでもないことになるけんね」
「わかっとう」
「辞めるんやったらいまのうちや、辞めたかったらいつでも辞めてよかとよ」
「何も心配はいらんって」
大神は小日向の肩を軽く叩いた。
盆は静かに始まった。
草博打とは違う格式がある花会博打の席に、大神は軽い緊張を感じながら張り方として座っていた。
岩田の盗んだ疵帳に記載されている胴師が胴をとった。
無駄な動きがまったくない所作で札を繰る胴師に、張り方たちの隙のない視線が注ぎ込まれる。胴師の繰り札が決まると札をカミシタに挟んで「入りました」という声で盆に置いた。
畳に純白の布が被せられた盆は、撮影で使う反射板《レフバン》のように低い照明の光を反射し、前のめりになった張り方たちの顔を下から照らした。
胴師の両サイドに座った合力と呼ばれる盆の世話人が「サクサク張ってください」と張り方に声を掛けた。
金がぽんぽんと盆に投げ置かれる。
胴師の手が盆に置かれたカミシタに掛かる。張り方たちの顔がぐっと前に出る。盆の空気が凝縮していく瞬間だった。
胴師がカミシタを開いて繰り札を開示して勝負が決まった。一斉に張り方たちから声が漏れ、当たった者もはずした者も同じように身体の緊張を解いて顔を引いた。合力が賭け金から配当を暗算して張り方に投げ返す乾いた紙幣の音が収まると、また、勝負が始まる。盆には緊張と解放が波のように押しては返しながら続いていく。
大神は一進一退しながらの勝負が続いた。そして、もっとも緊迫した局面を迎えた。
胴師が「四」の根を引いた。次の勝負も、カミシタから表われた繰り札は「四」だった。張り方たちから重い声と舌打ちが聞こえた。大神は目を凝らして胴師の所作を眺めた。疵帳に記載された『喉仏が動く疵あり、それを隠すために顎を引き気味にする』という記述がまさに胴師の所作の中に微かに表われた。
「四」の札が、三回続いている。胴師の顔は「さあ、次も四の札で行きますよ」とでも誘っているように張り方たちを見回した。張り方の金は「四」以外に散った。大神はスイチで「四」に大きく賭けた。隣の張り方が大神の顔を驚いたように睨んだ。
張り方たちの身体が一斉に前のめりになり、空気が堅くなった。
「四」
息を詰めていた張り方たちが大きく息を吐き、照明に照らされた小さな埃が渦を巻いた。胴師がちらっと大神を見た。大神はその視線を受けた。
胴師が羽織りの闇の中で札を繰る音だけが盆に響いた。張り方の誰もが羽織りの中を透かして見たい願望にとらわれて前のめりになる中、大神は胴師の喉仏がわずかに動いたのを見逃さなかった。
「入りました」
胴師は背筋を伸ばした。
「さあ、サクサク張ってください」
合力の声で張り方の金が盆に投げ置かれた。大神は少し遅れて、前の勝負よりも大きな金を「四」にスイチで賭けた。隣の張り方の視線がより強く大神に向けられた。
「四」
胴師は射るような目で大神を見た。張り方たちはどよめいた。金がドスンと音を立てるように大神の前に投げ置かれた。
次の勝負で大神は胴師の気合いをさらりと避け、「ボンウケ」という三枚賭けで「一」「三」「五」に金を置いた。胴師のカミシタから開示された札は、「一」だった。胴は荒れた。
安定していた胴師の札を繰るフォームが崩れた。そして、胴師はツキに見放されたように大神を中心にした張り方たちに喰われていった。
大神は胴師として右肩に羽織りを掛けて正座した。軽い緊張感を感じて大神は舌を前歯で挟んだ。
大神が札を繰り始めると張り方たちの目が一斉に険しくなった。命の次に大事な金を奪いに来る人間の目だった。大神はその視線を受けて立った。
無駄な動きのない大神の所作は静かだった。
「入りました」
大神の低い声が盆に響いた。
「サクサク張ってください」
合力の声で盆に金が投げ落とされた。大神は表情を変えることなく心の中でほくそえんだ。
張り方で勝ったことが大神の胴師に自信を与えた。そしてその自信は大神にツキを舞い込ませた。盆を泳いでいる金という魚を、釣竿ではなく投げ網で掬《すく》い上げるようなものだった。金が大神の懐に雪崩込んだ。
大神の胴が十分に膨らんだ頃、岩田に雇われた川俣という男が張り方の位置から、耳朶《みみたぶ》を二回触る通しサインを送ってきた。受かりすぎた胴の金を安全な張り方に分散しようとする方法だった。大神は返しのサインとして、まくれ上がるスーツの袖を直すように袖を引いた。大神からの返しのサインは、鎧《よろい》の部位である胴、籠手《こて》、袖、脇楯《わいだて》、脛楯《はいだて》、脛当《すねあて》の六具に準《なぞら》えてあった。胴、肘で胴を擦ると「一」。籠手、腕を揉むと「二」、袖、スーツの袖を引くと「三」。脇楯、後頭部を掻いて脇を開けると「四」。脛楯、正座している膝を左手で握ると「五」。脛当、座布団を触って直すと「六」と決めていた。
大神と川俣は三回サインのやり取りをして、胴の懐の三分の一を川俣に流した。
「これで胴を洗います」
大神は宣言すると立ち上がって盆を離れた。
休憩所としてしつらえられた一階の広間で、大神はソファーに背中を預けて背を大きく伸ばした。小日向が黙ってグラスにビールを注いだ。大神はそれを一気に呷った。大神の身体の中には終わったばかりの勝負の興奮が居座っていた。
大神は窓を開け放った。川の水と海水が混ざり合った臭いが冷たい空気に乗って大神の身体を冷やした。しかし、その空気では大神の身体の内側は冷やすことはできなかった。
「コヒ、もっと冷たいのば、くれんか」
大神は言いながら腕に注射器を当てる動作をした。小日向は無言で頷くと、胸の内ポケットから銀色のケースを取り出した。新品の注射器の針は、川面に映る中洲のネオンよりチカチカと輝いて見えた。
「うー、寒いな、窓を閉めんか、清」
小日向と入れ替わるように岩田がソファーに座った。大神は身体の芯を冷やしていく快楽を逃さないように、ゆっくりとした動作で窓を閉めた。
「この調子や、清。このままで行けば、次の胴師で、おまえの借金はチャラになるぞ」
岩田が声を潜めて言った。
「行くとこまで行こうや、岩さん」
「当たり前たい。進軍や」
大神は笑っていた。次の胴師を張るときの出目が頭の中でカシャカシャとめくられていた。
五回目の胴師を大神は張っていた。大神の好調は止まらず、すでに『キング』の支店を何軒も出せる金を懐にしていた。
張り方の誰もが大神の胴師をマークしてきた。狙い済ましたような張り方の攻撃が続いた。
大神は前歯の間の舌を抜いた。緊張が奥歯からこめかみに伝わる。大神から向かって、大神の右のこめかみが見える場所に座った張り方たちが、息を吹き返したように執拗に狙いを掛けてきた。
(向かって来やい。いくらでも)
大神は札を繰り続けた。
岩田が念を入れて蒔いてきた疵の情報に釣られた張り方たちの掛け金がずんずんと太くなっていく。
(来い!)
大神はすっと舌を差し入れた。羽織りの中の闇と同じ漆黒の静寂が大神を満たした。
「入りました」
今までと変わらない声が出た。
真白な盆に、手垢と汗の染み込んだ紙幣が塊になってドスドスと投げ置かれた。張り方たちが賭けた金は、いままでの金の数倍になる最高額だった。
大広間が静かになった。張り方だけではなく大広間にいる人間のすべてが、大神の置いたカミシタの中身に視線を注いだ。
「サクサク張ってください」
合力の声に乗せられて、追加する張り方もいた。
盆に投げ置かれた金を眺めながら、大神は叫び声を上げそうなほどの快楽を感じた。
カミシタを開いた。張り方のほとんどが予想していなかった「三」の札が表われた。
盆の右側に座った張り方たちから、奥歯を噛み締める唸り声が上がった。合力が掃除をするように盆の金を集めた。
大神は盆を掌握した。ツキの流れはすべて大神に向いていた。次の勝負、そのまた次の勝負と張り方の賭け金は細くなっていった。張り方の小銭を毟《むし》りとるように金は大神の懐に移動した。最高の状態でラストスパートを掛けたマラソン選手が他の選手の気力を削ぎ取ってしまうかのように、大神に追いつこうとする張り方は誰一人としていなくなった。
『キング』の店内が明るく見えた、と大神はドアを開けて電気を点けて思った。それは、大神が二つ、岩田が一つ手に提げたボストンバッグに依るものも大きかったが、博打の醍醐味のカタルシスも感じているからなのだろう。
「やったな、清」
「祝杯やね、岩さん。飛び切りの酒を出すばい」
「おう、ばってん、川俣を待とうかね。あいつが、もう二つばかり重ーかバッグば提げて来るんやけん。ビールぐらいにしておこうや」
「アイアイサー」
大神が注いだビールは泡だらけになった。二人は雲を掴むようなビールを一気に飲み干した。
チャックを開けて中身の紙幣を見せたバッグを肴《さかな》に二人は飲み続けた。
「清、何が良いって、わかるか? こん店の名前が良かたい! キングやぞ、キング!」
岩田は目を糸のように細めた。
「そうや、岩さん! こんだけあったら『キング』ナンバー5まで出せるばい」
「おう、出せ出せ、俺が応援しちゃる」
「でも、ナンバー3ぐらいで抑えて、また花会博打ば狙ったら、ナンバー10まで出せるよ」
「そらそうや!」
『キング』に二人の雄叫びが響いた。
川俣が遅いと二人は気付き始めた。ビールは数本空になって飛び切りの酒も封を切ってしまっていた。
ごすん、ごすんと『キング』のドアが鳴った。ノックというより重い石でドアを叩いているように聞こえた。三角窓には人影は見えない。
「誰な? 店は閉まっとうよ」
大神はドア越しに訊いた。
「清ちゃん、俺」
小日向の声が聞こえた。
ドアを開けた大神の顔が引きつった。小日向は赤黒く顔が変形した川俣の後ろ首を掴んで立っていた。川俣はゆらゆらと揺れながら跪《ひざまず》いていた。ドアには川俣の血が付いている。
「岩田さん、バレバレやんか!」
川俣は叫んだが、折れた歯の隙間のせいで、息が漏れて聞き取りにくい発音だった。
「どうしたとや? コヒ」
大神は小日向の肩に手を掛けた。
「触るな!」
鋭い勢いで小日向は大神の手を振り払うと、川俣を店内にゴミのように放った。
「おまえら、もう終わりやぞ」
小日向は岩田と大神を交互に睨んだ。
「コヒ、冗談はヨシコさん、ってな」
岩田が立ち上がったところを、小日向の後ろに控えていた若い男が前に出た。そして、容赦のない前蹴りを岩田の腹に食い込ませた。
「なんば、浮かれとうとか、岩田。おまえは、破門されたんだぜ。ほら、破門状たい」
小日向は官製葉書に赤い字で印刷された破門状を岩田の顔に投げた。
「ちっ、赤字の破門状か」
岩田は葉書を手にとって読んだ。
「当たり前やろう。組の金盗んだんやからな」
小日向は革手袋をした拳で岩田の鼻を上から殴った。肉の音の中に骨の乾いた音が混じった。
「おい、やめんかコヒ! 俺たちは金やら盗んでないぞ」
「やかましい、きさん。コヒなんてしょぼいあだ名で俺を呼ぶな」
小日向に近づいた大神を若い男が後ろから蹴った。
「疵帳盗んで、組に入るはずの賭場の上がりをここに持って来とうのは、完全な泥棒やぞ」
革手袋の拳が大神の頬を捕えた。キャメルのスーツの胸によれた蜘蛛《くも》の巣のような鮮血の染みが走った。
「きさま!」
大神は小日向に殴りかかったが、若い男二人に両腕を押さえ込まれた。
「こいつら、しゃあしいけん、みんな縛っとけ」
若い男三人は、引っ越し梱包用のテープを慣れた手つきで扱い大神たちを後ろ手に縛り上げた。大神は抵抗したが、岩田はされるがままだった。
跪かされた岩田の前に小日向は立つと、両耳を掴んで膝蹴りを入れた。
「もう、終わりやぞ、岩田!」
小日向は何度も叫びながら膝を岩田の顔に食い込ませた。
「殺したらいいやないか……」
岩田が口を開くと折れた歯が血に乗って流れ出た。
「きっちりけじめ取るまで、生きとってもらわんと困るのは、おまえが一番よく知っとろうが。いっつもやってきたんやけん」
「いつから気付いとったんか?」
「おまえが、清をたらし込み始めた頃から、ミエミエやった」
「そうか。破門状まで印刷する時間があったわけや……。詫びの入れようもないってことやな」
「ねえよ、そんなもん」
「小日向、いつから俺ば狙っとったとか?」
「おまえが、刑務所から戻ったときから、俺は狙っとったよ。何かするやろうなって」
小日向は思い出したように拳を顔に叩き込んだ。
「俺の物ば、全部奪い取ろうってことやな」
「そうや、オヤジも了承済みや。全部吐き出してもらうけんな」
「コヒ、そげんツヤつけても、今度はおまえが、そこの若いのにやられるんやぞ」
「しゃあしか、きさん。おい、おまえら、このしゃあしいおっさんに偉そうなこと言われたんなら、いまのうち返しとけ」
小日向が言うと若い男たちは、順番に岩田を殴り始めた。
「それで、一番の阿呆は、清、おまえや」
髪の毛を掴まれた大神は小日向を睨んだ。
「やめろ、コヒ」
「コヒって言うな!」
小日向は膝を大神の顔に食い込ませた。鼻の奥で錆《さび》の味が広がった。
「岩さんに、随分と助けてもらったやないか、俺たちは」
「やけん、きさまはボンボンの阿呆なんや」
足蹴りで大神を床に転がすと、小日向は大神の身体の上に座った。
「こうやって生きてんだぜ、ヤクザやけんな。もしかしたら、清。俺のことを友達とでも思っとうとか?」
「いまでも、思っとるぞ」
下から睨み上げた大神の顔に小日向は唾を吐きかけた。そして、甲高い声で笑った。
「この世界には友達なんてねえよ。しかも、おまえは堅気で俺はヤクザやけんな。清、おまえはなあ、金があるときはお客さんで、金がなくなったら、道具なんやぞ」
小日向は大神の髪を掴むと何度も床に叩きつけた。
「清! よう聞けよ。堅気がツヤつけてヤクザの真似やらするけん、こげん目に遭うったい!」
何度も何度も大神の頭を床に打ちつけながら小日向は怒鳴っていた。
小日向の怒号が遠くなってきた。大神は小日向の顔を見るのが恐ろしくて堪《たま》らなかった。同じような環境で育ってきたように思っていたが、まったく違う時間を生きてきた恐ろしさを小日向に感じた。
ぺろっと顔の皮を剥ぐと、そこにはまるで異質な小日向の顔があった。小日向の怒号と顔から遠ざかりたい気持ちでいっぱいになった。床に打ちつけられる痛みより、顔を見たくない声を聞きたくないという気持ちが大神の意識を薄れさせた。
小日向の声と顔は、大神の心を折った。小日向から逃れるように、意識は薄れていった。
微かに意識が戻ってきている。小日向の声が聞こえ、岩田の声が聞こえてきた。床に転がったままの大神は目を瞬かせた。
岩田は正座して床に置いた紙片に何かを書いていた。低い丸椅子に座っている小日向に向かって、岩田は土下座をしているような姿勢だった。
「なんや、汚い字やな、しゃきっと書け」
「すいません。手が痛いもんですから」
「人のせいにすんな、馬鹿」
下を向いている岩田の頭を小日向が踵で蹴った。
大神はその光景をぼんやりと見ていた。小日向と岩田の主従の関係が完全に逆転していた。
意識が戻り、小日向に気付かれないように目を凝らして見た。岩田が書かされているのは、何の書類だかわからなかった。
「おう、清、目が醒めたんか」
大神は返事をしなかった。
「次はおまえやからな」
「何が、次なんだ? コヒ」
言ったあとにはっとしたが、小日向の蹴りが飛んできて、また床に転がった。
「コヒって言うな、この馬鹿。よう見とけよ、こいつがいま、みんな吐き出しようところ」
小日向がひらひらと摘んで見せたのは土地の譲渡証や委任状などだった。まるでモノポリー・ゲームで行う書類カードのやり取りのように、岩田から小日向に財産が移っていった。
「じゃあ、清。この店の権利書ば、出してもらおうかね」
「何で、おまえに渡さないかんとか」
「わかっとらんなあ、おまえは。ヤクザのシノギの賭場を荒したんやぞ。迷惑料をもらわんとしょうがなかろうが」
「賭場で儲けた金は、おまえらが持っていくんやろう、それでいいやないか……」
小日向は大神が言い終わらないうちに、口を蹴った。
「おい、足りんようやけん、もうちっとやっとけ」
若い男たちは、「はい」と低い声の返事を返すと、大神を襲った。それは怒りのこもった喧嘩やリンチとは違っていた。男たちは、店の冷蔵庫から取り出したビールをラッパ飲みしながら大神の腹を蹴り、雑談をしながら大神の顔を踏みつけた。気合いを入れることもない楽な仕事のようだった。若い男たちの笑い声に、大神の心はより折れていった。
『キング』の三角窓は朝日を透かし、赤と黄色の幾何学模様のガラスを輝かせていた。
血と目やにでくっついた瞼をようやく開けると、ボロ雑巾のようになった岩田の姿が目に入った。岩田は床に力なく転がったまま大神を見ていた。
「岩さん……」
大神は声を絞り出した。しかし、放心状態なのか、目を開けたまま気を失っているのか、岩田からの返事はなかった。
「どうや、これがスッカラカンになった男の目やぞ」
小日向はソファーから足を大きく投げ出してバナナを食べていた。大神はちらっと見ただけで返事をしなかった。
「返事せんか!」
コーヒーの入ったカップを小日向は投げつけた。大神は避けることもできずにコーヒーを被った。
「役所が開いたら書類が届くけん、そしたら、おまえの番やけんな」
小日向はソファーから立ち上がり軽くステップすると、サッカーボールを蹴るように大神の顔に革靴をめり込ませた。
大神の意識はまた、薄れていった。
岩田と同じ姿勢で床に跪いていた。言われるがままに、何枚もの書類に自分の名前を署名した。
「これでおまえも、スッカラカンやな」
スッカラカンどころか、大神は迷惑料として数枚の借用証にも署名した。身体に染みついた痛みは反抗する気力を奪い取っていた。
大神は正座を解かれソファーに座ることを許された。横には汚れた雑巾をそのまま干からびさせたような岩田が座っていた。
「さーて、今日からここは、俺の店や」
小日向は大きく背伸びをして言った。そして、大神から奪い取った鍵束の中からジュークボックスの鍵を選ぶとコインケースを開けた。
小日向は、コインケースの中から硬貨を一枚摘むと投入口に投げ入れた。そして、慣れた手つきでボタンを押した。
エルビスの歌声が流れ始めた。小日向は下手糞な発音でエルビスの歌声を追った。
(コヒ、おまえが歌うな、耳が腐る)と岩田が言い、(いいや、岩さん。耳やなくて、ラブミーテンダーが腐る)と笑いあった。そんな光景の記憶は大神の頭の中には、まだ、存在していた。しかし、現実には消えて無くなってしまった。
小日向は気持ち良さそうに歌った。
「おい、清。フォー・マイ・ダーリン・アイ・ラブューのダーリンってどげな意味か知っとうや?」
振り返った小日向は笑っていた。大神はゆっくりと首を横に振った。
「なんや、何も知らん奴やな。ダーリンっていうのは、マイ・スウィート・ハートっちゅうこったい」
小日向は満足そうに言った。
岩田は目を閉じて凝り固まったように動かない。小日向は何度もコインケースから硬貨を摘み上げ、投入口に投げ込むことを繰り返した。
大神はソファーに頭を載せて目をつぶった。キャメルのスーツは無数の足跡と血で汚され、汗の臭いが漂っていた。
ラブミーテンダーは、傷んだ頭と身体には、子守歌のように聞こえた。大神はエルビスの甘いため息に誘われるように眠った。
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11  アルカロイド
「ふーん、おっさんにも、そんなことがあったんだな」
幸三は、もも引き姿で足を投げ出している大神に言った。
「何もかんも無くなったなぁ……」
大神はゆっくりと大きな息を吐いた。
「でも、おっさんよ、素人がポン喰って手本引きに溺れたら、そんな目に遭うに決まってんだろう」
「ああ……、そうやなぁ……」
半開きの虚ろな目で大神は、幸三の作業する手先を眺めていた。
炎の出ないジェットライターの音が四畳の部屋に響いた。スプーンの中の液体《アルカロイド》は沸騰した。けだるい香りがぽっと部屋に充満する。大神は香りをゆっくり吸い上げた。
「あんたはコヒと、どっこいぐらいに注射がうまかねえ……」
「そんなラブミーテンダー野郎と一緒にしねえでくれよ、おっさん」
幸三はピストンを押した。とろみのついた温《ぬる》い快楽が血管を伝って大神の身体に浸透した。
「へろへろになるけん……、ヘロインって言うとかなぁ……」
「そうかもしれねえな、アルカロイドの中に、いままさに浮かんでいるおっさんが言うと真実のようだな」
幸三はジェットライターで煙草に火を点けた。
大神と初めて会ってから五日が経った。
ドヤに住む人間は、高い確率で薬に溺れた経験を持つ。幸三は大神の中にその臭いを感じた。そして、幸三が大神にアルカロイドを注射するまでには三日しかかからなかった。
アルカロイドには強力な鎮静作用がある。アルカロイドは人間の持っている欲望をすべて奪いとり、そして、代わりに、ゆるやかに流れる大きな河のような温い快楽を与える。
人間が欲望を奪われると物事に無気力無関心になる。それはすなわち外に対する注意力が薄れ、自己防衛本能のスイッチが切られてしまうことにもなった。幸三は、薄いアルカロイドを使って、注意力を遮断し、無防備に自分を語る木偶《でく》の坊に大神を作り上げた。
幸三は、腕の良いセラピストのようにじっくりと大神から話を引き出した。
胸ポケットに振動を感じた。携帯電話を取り出すと、着信表示は蘭子からだった。
「おっさん、どんよりしててくれ」
「アイアイサー」
大神はおどけた口調だったがまるで覇気はなかった。幸三は部屋を出た。
「幸ちゃん、いま、うちの店に真壁が来たわよ」
「本当か」
「うん、山中って内野手と沢田っていう若いピッチャーと一緒よ」
「そうか、今夜はホークスは負けたからな。ガチャコが連れてきたのか?」
「そうみたい。さっき、ガチャコちゃんが、トイレで幸ちゃんに電話してたみたいだけど、かかってないの?」
「ああ、違う携帯を持って来てるからな」
蘭子はガチャコの知らない幸三の携帯番号を知っていることに少し安堵した。
「ねえ、幸ちゃん、真壁を狙ってるんでしょう? 寝てあげようか?」
「そりゃ、無理だろう。あいつはノンケだ。その気《け》はまったくない」
「忘れたの? 私のあだ名。幸ちゃんと付き合う前までのあだ名はノンケ殺しの蘭子≠セったでしょう。任せといてよ、消し屋の幸三さん」
蘭子は笑っていた。
「そうだったな。おまえが、そうしてくれるとありがたい」
「真壁ってちょっといい男だしね」
「ああ。じゃあ頼むよ。何かあったら電話してくれ」
幸三は携帯の電源を切った。
大神はどんよりとした目で天井を見続けていた。忘れ去ることのできなかった思い出が、川の流れにぷかりぷかりと浮かびながら、大神に向かって流れ寄ってくる。
「おっさん。スッカラカンになったあんたは、それでどうしたんだい?」
幸三が訊いた。
「いったんは家に戻った……。ばってん、借りてもない金を取り立てに取り立て屋が来るんや……」
「そんなもん、脅されて書かされたような借用証なんて、突っぱねればいいじゃねえか」
「そげな気力はなかったな……。家族を巻き込まんのが奴らの狡賢いところやった」
「どういうことだ、おっさん」
「女子供を巻き込むような脅しばかけたら、女は、あっというまに警察に逃げ込むやろう。俺だけやったら……、逃げ込まんけんな……」
「借用証のいきさつを嫁さんに話すのは一苦労だもんな」
「あの頃の俺は……、それを時枝に話すのが恥ずかしかった……。恥ずかしくて堪らんでなぁ……」
アルカロイドは人間を正直にする。いきがりも嘘も、欲望をもぎ取られた人間には必要のないものだった。
「それで逃げたのか?」
「ああ、煙草も買いに行けんかった……。表には、いっつも奴らが、待っとったけんな……。俺は怯え続けとったけんなぁ……」
「岩田も逃げたのか?」
「岩さんは、やられた次の日には、姿を消したよ……。殺されたんかな」
「破門になってスッカラカンのヤクザなんて、殺さねえよ」
「俺は……、恥を晒して……、ぐずぐずして……、それでやっとこさ、逃げた……。みっともないことやなぁ……」
「嫁さんも子供も、親も兄弟も捨てて、博多から消えたわけだ」
「そうや……、情けないことや……」
「可哀相にな、真壁はまだ、七つぐらいだぜ」
「ああ、そうや……、まだ腕も細っこい、華奢《きやしや》な子やったなぁ……」
「そんな子を路頭に迷わせるようなことを、おっさんは、したんだよな」
「そうや……、申し訳ないことや……。どうして、俺は……、あんなことになってしまったんやろうなあ……」
「ツヤつけだからじゃねえのか」
「えっ……」
大神は頭を上げて、幸三の顔を見た。
「だから、おっさんが、ツヤばっかり、つけてたからじゃないのかってことさ」
驚いたような顔で幸三の顔をしばらく睨み、そして大神は、また頭をけだるそうに戻して天井を見た。
「そう……やな……、そうやろうなぁ……」
大神は言った。幸三には、大神が天井に映っている過去を見つめているように思えた。
天井に向けられていた大神の右目から、涙が一粒だけ滑り落ちた。
アルカロイドに満たされた大神は、まるで大鬱《おおうつ》病の患者のように一言も口をきかずに天井だけを眺めていた。幸三は大神を諦めて部屋に戻った。
幸三は腹筋と腕立て伏せ、それと、二リットルのペットボトルを使ったウェイトトレーニングを始めた。
幸三は大神に「くすぶり」の臭いを感じていた。
くすぶりは、真っ当な生き方をしていない者たちがかかる運の病気と呼ばれるものである。くすぶりにかかった者は、やることなすことが裏目に出てしまい、もがき苦しむ。対処法は、ほとんどなく、くすぶりの嵐が吹きすさぶのをじっと堪えるしかない。
くすぶりに対して勇猛果敢に戦いを挑むことは、運命に対して唾を吐きかけるようなもので、その無謀な行動は数倍の災いとなって自分に返ってくる。
そして、このくすぶりの一番厄介な特徴は、伝染《うつ》るということだった。
幸三は大神といることで、くすぶりを伝染される危険を感じた。実際、幸三が博多に降り立ってからは、くすぶりに近いものがあった。消し屋に殺しの依頼がないことは、薄いくすぶりのようなものだった。
消し屋仕事で幸三に消された人間たちは、末期のくすぶり患者が多かった。幸三は末期患者の最期を看取る死神であった。身体に触ることも話すことも少なかったはずだったのが、今回は末期患者にべったりとくっついている。
幸三は、またペットボトルを握ってウェイトトレーニングを始めた。それは、風邪をひかないように体力をつけているようなものだった。くすぶりに効く薬は、存在しない。
「ごめーん、幸ちゃん」
携帯から流れてきた蘭子の声は酔っ払っていた。
「どうした?」
「無理だったわ、真壁」
「そうか。やっぱり駄目か」
「あれは女優が行っても無理ね」
「そんなに堅物か」
「堅物とかホモ嫌いとかじゃないわ。何か興味がないみたい、セックスとかに」
「インポテンツか?」
「そんなんじゃないわ。もっと違うこと。セックスよりも、もっと楽しいことがあって堪らないって感じ。たぶん野球なのかな」
「なんだそれ。よくわかんねえな」
「ほら、いるじゃない。仕事を一生懸命がんばって、それなりに良い地位にいるんだけど、どっか、そいつの最終的な目的は女にモテたいだけなんじゃないのって奴。真壁って、たぶん、そいつの反対側にいる人間なんじゃないかな」
「ふーん、そういうことか」
「セックスに関しては取りつく島もないんだけど、そういうのを別にすれば、いい奴よ、あいつ」
「珍しいな、男に滅茶苦茶厳しい蘭子が初対面で褒めるなんて、惚れたのか?」
「馬鹿言ってんじゃないの、同性として、いいなって思うのよ」
「なんか、ややこしいな。性同一性障害のおまえの中に残っている男の部分が、真壁のことをいい奴って思わせるのか」
「そうよ」
「なんだよ、それじゃあ、普通のホモじゃねえか」
幸三は苦笑した。
「はは、それはそうね。でも、私は女よ。ホモじゃないわ。間違ってオチンチンをつけられて生まれてきた女なの」
「そうか、わかった。その間違ってついてきたオチンチンが、同性として真壁のことをいい奴って言ってるんだな」
「馬鹿、消し屋の要望で切ってないだけで、オチンチンなんて、要らないのよ私は。私のオチンチンは男の人のオチンチンみたいに喋ったりしないのよ」
「ははは」
「もう、感謝してるの?」
「してるしてる」
「じゃあ、いいわ。真壁ね、また、来るわよ」
「そうか、『コンディーション・グリーン』が気に入ったのか」
「どうだろう。飲み屋にセックスを持ち込まないタイプには、楽でいいのかもね。それに、緑ママは博多では珍しく有名人を奉らないから。また来るわよ、きっと」
「じゃあ、引っぱっておいてくれよ」
「オッケー。ガチャコちゃんが担当だったのを、私が無理矢理取っちゃったから」
「おい、あんまりガチャコをいじめんなよ」
「幸ちゃんとやれないように、ガチャコちゃんのオチンチン切っちゃうかもよ」
蘭子はケラケラ笑うと電話を切った。
大神の部屋の前に立つと、ぶつぶつと独り言が薄いドアを透かして漏れていた。
「おっさん、何喋ってんだ?」
「あんたが……、昔話ばっかりさせるけん、いろーんな思い出が浮かんでくるんや……」
大神の虚ろな目は天井から離れない。
「真壁とは、あれから一度も会ってないのかい?」
「どの面下げて、会いに行けばよかとな……、そげなことは、俺はできんばい」
「会いたくねえのか?」
「嫌……、いいよ。誠のことは、テレビで観てるしな……。会えんよ、こげな姿で……」
「そんなこと言うなよ。おっさんがネタモトなんだから。それに、真壁がおっさんに捨てられて、ボロボロの人生を歩んできたわけじゃないんだからよ。もしかしたら、よく捨ててくれたって、感謝されるかもしれないぜ」
「あははは、あんた面白かこと言うなぁ」
大神はしばらくの間、力なく笑っていた。
「なあ、あんた。もう一本、付けてやらんね」
腕をまくって大神は言った。
「いいよ。待ってな」
幸三はアルカロイドを少なめにして用意した。
「あんたは、コヒとどっこいぐらいに注射がうまかねえ……」
「そんなラブミーテンダー野郎と一緒にしねえでくれよ、おっさん」
幸三はピストンを押した。とろみのついた温《ぬる》い快楽が血管を伝って大神の身体に浸透した。
「へろへろになるけん……、ヘロインって言うとかなぁ……」
「そうだよ、おっさん。さっきも言ったよ、それ」
「そうか……」
「おっさん。金欲しいか?」
「そら欲しかなあ……。もう、ここの暮らしも飽きた……」
「ここを抜け出せるだけの金が入る仕事があるけど、やらないか?」
「おお……、やろうやろう……、何でもやるばい……。こげなところにいたって、何も面白いことはないけん……」
「そうだよ、おっさん。抜け出せるぜ」
「毎日毎日、土方して……、焼酎飲んで……、寝るだけやもんな……。なーんも面白いことはなかなぁ……」
「おっさん、仕事の話だ。よく聞いてくれよ」
幸三は大神の耳に顔を近づけた。そして、温い声でゆっくりと語りかけた。アルカロイドのゆったりとした川の流れに浮かんでいる大神に、子守歌を聞かせているように、幸三は言葉を綴った。
幸三は大神の返事を待たずに、何度も同じ話を繰り返した。
「そんな薬中毒のヨイヨイで大丈夫ですかねえ?」
「大神は中毒はしていませんよ」
幸三は今岡に言った。
「でも、結局はポン中が元で、蒸発するはめになったんでしょう?」
「今岡さん、薬扱ったことないね?」
「ええ、どうも私は性質に合わないんですよ。使用したこともなければ、仕事として扱ったこともありません。私はもっぱら、経済関係でしたから」
「そうそうは中毒にはならないよ。というか、なる奴は、一、二回やるだけでなるんだけどね」
「そうですかねえ」
「今岡さんはお酒飲むよね」
幸三はグラスを傾ける仕草をした。
「ええ」
「何年も酒飲んでて、アルコール中毒になってないじゃん。なる奴はなる、ならない奴はならない。アル中になるような人間は薬中にもなる人間ってことなんだよ。酒は合法なだけで、アルコールってのは史上最強のドラッグの一つだよ。厚生省ってのは自分の都合のいいことばっかり言うからねえ」
「そんなもんすかねえ」
「幸三、もう、それくらいにしとけ。それは、薬の売人の猫撫で声やないか」
にやにやと笑っていた渡辺が言った。
「さすが、ナベカツさんにはわかりますね。こんな話を大神のおっさんにしたら、ナベカツさんと同じような反応で、『おまえ売人か? 金ならないぞ』って言いましたからね」
「なんだ、そういうことか」
「大神のおっさんを使って、真壁を引っ掛けますよ」
幸三が言うと、渡辺と今岡がニヤリと笑った。
「私は真壁に関して何を」
「いろいろとやってもらいますよ」
今岡は大きく頷いた。
「いつやるとか?」
「それは、そちらの指定日に沿いますよ。いつにしますか?」
「今岡、いつがよかとな」
「情報を流すとして、そうだな。六日後の土曜日って、ところでどうでしょう」
「わかりました。土曜日のホークス対ライオンズ戦ということですね」
「で、幸三さん。どう情報を流しますか」
「まず一日目は、『相田興業が野球賭博で何かを仕込んだ』とだけ流してください」
「はい」
「そして、二日目。『それは、土曜日のホークス対ライオンズ戦らしい』と流します」
「それは、株のインサイダー取り引きの情報の流し方と似ていますね」
今岡の顔が輝いた。
「今岡さんなら、そっちのほうは専門でしょう」
幸三は片頬を上げた。
「任せてください。三日目には情報を流さないで飢えさせるのではないですか?」
「そうです。そして、四日目も情報を止めて、様子を見ます。この地点でうまい具合に関西に情報が伝わっていない場合は、延期しましょう」
「延期の場合は、また、次の週に同じ方法を繰り返しましょう」
「そして、当日。『相田は、真壁を握ったらしい』と流します」
「スターティング・メンバーの発表に真壁の姿はない」
今岡は想像するような顔で言った。
「金じゃない心理戦ってことやな、幸三」
「ええ、目的は、博多を狙ってきている西の気持ちを削ぐってことですから。金はそれほど儲かりません。あくまでも防御のための示威行為ですから」
「それがよか。西に、ここは触らんほうがよか、と思わせるのが一番の防御やけんな。幸三、それで行け……」
興奮が身体を走り、渡辺は下半身に軽い尿失禁を感じた。幸三が返事を待っている視線を渡辺に向けている。
「今岡、これで行くけん、気張ってやれ」
渡辺は今岡に視線を外して言った。
「じゃあ、さっそく、用意しますから」
幸三は立ち上がってドアに移動した。
「幸三さん、他に何か、私のほうでできることはありますか?」
「取り敢えずは、相田興業では不穏な動きありってところを演出しておいてください。あくまでも今回は、心理戦ですから」
ドアを開けて振り返った幸三は答えると、渡辺に向かって頭を下げた。
「おお、おっさん似合うじゃないか」
大神はキャメルのスーツに袖を通して幸三を振り返った。
「久し振りやなあ、スーツば作るとは」
「吊るしのスーツは、買ったって言うんだよ」
「吊るしのスーツか、これは。昔は、誂《あつら》えんと俺の身体に合うスーツはなかったけどな。あんたが、サイズば洋服屋のごと計るけん、作ってくれたかと思ったばい」
「悪いな、いまはスーツの安売り屋がいっぱいあってな、いろんなサイズの吊るしのスーツがあるんだよ」
「ほう、世の中は変わったなあ。ばってん、誂えるんやったら、もう少し腰の辺りば絞って、肩のラインば強調するんやけどな」
「贅沢言うなよ、おっさん。キャメルのスーツ探すのは面倒だったんだぜ」
「誠の記憶にあるのは、キャメル色のスーツやろうけんって思ったんや」
「まあ、それはあるだろうけど、おっさんが好みで着たいだけのような気もするぜ。それに、いまどきカフス釦《ぼたん》ってのもキザじゃねえか?」
「そげんこと言われても、キャメルのスーツに貝殻の釦じゃ、様にならんやろうもん。それと、ちょっと、このネクタイは幅が広いような気もするんやけど、どうかいな?」
「うるせえジジイだな、まったく。そのネクタイが嫌なら、ジジイらしくループ・タイにするぞ。それも、金メッキのイニシャル入りのな。カッコ悪いぞ、おっさんのイニシャルは『KO』だからな」
「それはまずいな。このネクタイで我慢しとこう」
大神は「トルコ石のループ・タイなら、どうにか……」とぶつぶつ言ったが幸三はそれを無視した。
「先に言っておくけど、靴の底は革じゃないからな」
幸三は、二十八センチの焦げ茶色の革靴を箱から出した。大神は靴を手に取ると靴底を怪訝そうに見て、革靴をぐっと押し曲げた。
「なんやこれ。見かけはちゃんとしたスリッポンやけど、安全靴のように底がプラスチックでできとるなぁ」
大神は骨太の指でこんこんと靴底を叩いていた。
「靴底なんて見えねえから、それでいいだろう。買ってもらってんだから文句言うな。てめえがいつも履いてるもんに比べたら、ぴかぴかだぜ」
「まあ、しょうがないか。ばってん、あんたの履いとった靴はぼろっちいけど、靴底はちゃんとした革底やったばい」
「よく見てんな、そういうところは」
「いいや、靴音を聞いたんや。あんたがあのゲンと喧嘩するって駐車場に降りてきたとき、ドヤに泊まる人間の靴の音やないな、って思った。それで、あんたの勝ちに俺は張ったんやけん」
「ふーん」
幸三はまじまじと大神の顔を見た。屋外の肉体労働を続けて渋茶色に灼《や》けた顔と、キャメルのスーツの明るい色はよく似合っていた。金持ちの老人が、ゴルフやヨットでじっくりと遊びの太陽を浴びて作り上げた肌の色のように見えた。
「おっさん、革底の靴を買ってやるよ」
「本当か、それがよかよ。今回の俺は、太い借金ばして、あんたらに押さえられたってことなんだろう。こげなぴかぴかの安モンの靴を履いた人間には、太い借金やらでけんけんな」
「賭場の考えだな」
「そうやな。俺の頃は、靴ば脱いで上がる賭場ばっかりやったけん、上等のもんば履いとかな、金は回してくれんかったばい」
大神は靴を箱の中に戻した。
「おっさん、あんたが博打や薬に溺《おぼ》れてとんでもない目に遭ったのに、こうやって生き延びてるのは、何故かわかるか?」
「何やろうな」
「それは、あんたの恵まれた身体のお陰だよ。中毒にもならず、その歳で毎日肉体労働しても、大して痛んでない頑丈な身体だよ。それは頭も十分に使えるということでもあるんだぜ。俺が言うのも変な話だけど、もったいない生き方してきたな、おっさん」
大神は幸三の言葉に対して、眉間に深い皺をつくっていた。
金のない人間は、金のある人間の道具になる。それを身をもって体験したはずの大神が、また、道具になってしまっていた。
幸三は道具である大神をじっくりと磨《みが》き込んでいった。
『コンディーション・グリーン』が店仕舞いを迎える時間、客が二人、奥のボックスで飲んでいるだけで、蘭子はぼんやりとカウンターに座っていた。
「蘭子姉さん、ちょっと」
「どうしたの、ガチャコちゃん」
ファンデーションを透かして頬を少し赤らめたガチャコは、ウィスキーのグラスを片手に、蘭子の横に座った。
「幸三さんどこに行ったの?」
「あら、どうしたの?」
「とぼけちゃってさ、携帯の電源が切れっぱなしだから」
「あら、ちゃんと家にいるわよ」
蘭子は水の入ったグラスの氷をからんと鳴らした。
「嘘ばっかり」
ガチャコは睨んだ。
「嘘じゃないわよ。いまここで幸ちゃんに電話しようか? ガチャコちゃんは新しい携帯の番号知らないのね」
新しい携帯という言葉にガチャコの顔が変わった。
「幸三さんと寝たわよ、私」
「だから?」
蘭子はガチャコの顔を見た。
「私のほうが具合が良いって、言ってたわよ」
「あら、そうなの。幸ちゃんって嘘つきだから、騙されないように気をつけなさいよ」
ガチャコは手に持っていたグラスのウィスキーを蘭子にかけた。蘭子は、目を瞬かせたが驚いた様子も見せずウィスキーを浴びたまま、自分のグラスにゆっくりとミネラルウォーターを注いだ。そして、なみなみと注がれて溢れそうになると、それをガチャコのスーツの大きく開いた胸に注ぎ入れた。ガチャコのピンク色のスーツが帯状に紅色に変わった。
二人の笑い声を合図に喧嘩が始まった。
ガチャコが蘭子の髪を掴んだ。顔がのけ反《ぞ》った蘭子がガチャコの髪を掴んだ。二人はキイイィィと叫び声を上げながらフロアに転がり落ちた。ガチャコはミニスカートの中のパンツが丸見えになり、蘭子のハイヒールの片方がすっ飛んだ。店内のオカマたちが一斉に立ち上がってキャアアアと叫んだ。
蘭子が先に立ち上がり、遅れて立ったガチャコの顔に爪を立ててばりばりと引っ掻いた。ガチャコも負けじと肘を胴にくっつけて猫のようなスイングで引っ掻き返した。ネックレスが引き千切れ、宝石のついた腕時計が床をキラキラと輝いて滑るように走った。オカマたちの制止する甲高い声が店内に響いた。ガチャコがビンタを決めると蘭子もまたビンタを返した。イヤリングはもげ、ピアスは耳朶に小さな出血を残して外れた。
「やめなさい! 二人とも!」
緑ママが二人の間に腰を入れるようにして割って出たが、二人に押し返され、奥のボックスまで後ろ向きのままに倒れた。緑ママは突っ込んだボックスのテーブルと共にひっくり返った。グラスが弾けボトルが割れる音が二人をよりヒートアップさせた。
もつれ合っていた二人の足は、次第に内股からガニ股になり、平手は拳を握った。
「てめー、コノヤロー」と蘭子がドスを利かせ、「しゃああしか、きさん」と、ガチャコが受けた。
蘭子のタイトなスカートのスリットは裂け、ガチャコのミニスカートはずり上がって、パンティーストッキングの切り返しの色の変わった三センチの帯部分が露《あらわ》になった。
ガチャコが軽いジャブから鋭い右ストレートを放った。蘭子はぎりぎりでパンチを見切るとガチャコの流れていく拳を掴んだ。そして、腰を落としながら一本背負いで投げた。受け身を取ったガチャコの左手が床でピターンと鳴った。ガチャコは転がって前屈みになって蘭子に突進し、それを受けた蘭子は肘撃ちをガチャコの背中に打ち込む。翻《ひるがえ》ったガチャコはフェイントを掛けて蘭子の顔にパンチを打ち込み、蘭子はスウェーしながら後ずさり、パンチを返した。
「やめんか! きさん! うち殺すぞ!」
地響きのような怒号が店内に響いたかと思うと、蘭子とガチャコは後ろ髪をすごい力で引っぱられて床に倒された。
「店が壊れたら、どげんすっとかあ!」
緑ママが仁王立ちになって二人を見下ろしていた。
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12  親子
「あははは、あはあははは……」
ドアを開けるなり幸三は爆発するように笑い、その笑い声は長く続いた。そして、笑い声は、声のない笑いになって幸三の身体を痙攣《けいれん》させた。
「いい加減に、そのヒックヒックしてる変な笑い方止めてよ」
蘭子は左目につくった青黒い痣を突っ張らせないように気を遣って睨んでいた。
「それで、結局はどっちが勝ったんだ?」
「どっちでもないわ。結局は緑ママの一人勝ちよ。この顔の痣だって緑ママに入れられたんだから」
「あはっ、緑ママの圧勝か! さすが自衛隊上がりってのは強いんだな、あははっは」
「最低」
「そう言うなよ。今日辺りに、おまえんとこで、ちょっとした仕事をするかもしれねえから、みんな仲良くしてくれよ」
「もう仲良くはなってるわよ」
「早いな」
「怒ってるのは、左目に青痣《アオタン》が残ったこと。昔は冷やせば直ぐに色が元に戻ったのに」
「そうか、仲直りは早いのにな」
「殴ったり殴られたりすると、男の部分が奥底から蘇るのかしら、仲直りが早いのよ。青痣も若い頃が蘇ればいいのに」
蘭子は手に持った氷の入った冷たい氷嚢《ひようのう》と、お湯を入れた温かい氷嚢を交互に左目に当てた。
「そんな顔で店に出られるのか?」
「大丈夫よ。コンシーラをきつめに塗って肌を作ればどうにかなるわ」
「おう、ありがたい」
「それで、今夜はどうするの?」
「今夜、ホークスが負ければ、真壁は街に出る。ガチャコからショートストップの山中に誘いの電話を入れさせる。こなかった場合と試合に勝った場合は、それはそれで考えてある。試合に負ければ、取り敢えず俺たちは、『コンディーション・グリーン』に顔を出すから、よろしくな」
「いい加減ね」
「そうでもないぜ。ホークスは七割がた負ける。勝ちは残り三割だ」
「本当に?」
「ああ、今夜のホークスには生きのいいピッチャーがいねえ。歳喰ってよれたのばっかりだ。これは勝てるはずもないさ」
「うわ、ラーメン屋のオヤジみたいな野球の勝敗予想してる」
「そうか、これは人の受け売りだからな」
「じゃあ、まんま、素人解説じゃないの」
「いいんだよ、勝っても負けても、どっちみち真壁に会うということだから」
「予定は変わってないのね」
蘭子は少し真剣な顔で幸三を見た。
「どういうことだ?」
「真壁は殺さないって、言ってたわよね」
「いまのところは殺しはしない。なんだおまえ、惚れたのか」
「そんなことはないけど……。とっても綺麗な絵が焼かれるのを見るのは嫌なものよ。額縁ばっかりごてごてに飾ってる大セコの絵なら、焼こうが切り刻もうが、何にも感じないけれど」
「そんな感情を持って消し屋はやれない」
幸三は片頬を上げて笑った。
「幸ちゃん、ごはん食べる?」
蘭子は話を変えた。
「いらない、ちょっと寝るから。一時間ぐらいしてから起こしてくれないか」
「わかったわ」
幸三は寝室のドアを開けた。
「大神はどうしてますか?」
今岡は『コンディーション・グリーン』に向かう車の中で幸三に訊いた。
「田辺が張り付いていますよ。大神のことを大物だと思ってるから、結構真剣にやってんな、あいつ」
「馬鹿と鋏《はさみ》は使いようですね。幸三さん、真壁が話に乗ってこなかったらどうします?」
「あんたは、どう思う? あんたのほうが真壁とは付き合いが長いんだから」
「あいつが父親をどう思っているかが問題でしょう。あいつは、真っ当ないい奴ですからね」
「だから?」
「真壁は乗るしかないんじゃないかな」
「だったら乗ってくるんじゃないの、それでいいじゃないですか。どうしたんだい、今岡さん、気が進まねえのかい」
「友達ですからね」
「何言ってんだよ、筋者のくせに。筋者に堅気の友達なんているわけねえだろう」
「まあ、そうなんですけどね」
今岡は背筋を伸ばし小さな声で言った。
「盃を交した兄弟分だけしか信用しないんだって気持ちじゃねえと、盃の意味なんて何も無くなっちまうじゃねえか」
「そうですね」
「産みの親を捨てて、盃の親のために畜生の道を極めるのが筋者だろう。友達なんて鈍いこと言ってると長生きしないぜ」
「幸三さんは、誰を信用してるんですか?」
「いまは、あんたとナベカツさんを信用してるさ。契約書もねえけど、この仕事が継続している限り、あんたらを全面的に信用している」
「仕事が終われば、その信用も消えるってことか……」
「そうだよ。そう考えねえとやっていけねえ」
「一人っきりの消し屋ですもんね」
「消し屋なんだけどな。今回も殺しちまったほうが楽なんだよな」
幸三は陽気な声を出した。
「そうでしょうね。しかし、今度のことは、どうしても真壁がうまく機能しなかったら、消してもらうかもしれませんよ」
今岡は筋者の顔に戻って幸三を覗いた。
「おっ、そういう気持ちが大事だと思うぜ。自分たちのためには友達も親も消してしまうってのが、畜生の生き方なんだから」
「そうですね」
中洲大通りに車が入ると、車は渋滞にはまって動かなくなった。車内はエンジンのアイドリングの微かな振動が静かに響いていた。
飲み屋に連れ立って向かう人々の姿が、紗《しや》のかかった暗いウィンドウ越しに見える。今岡はぼんやりと外の景色を眺めた。
「何だそれ、化けもん屋敷か」
幸三は『コンディーション・グリーン』に入るなり声を上げた。
幸三と今岡を出迎えた緑ママの頬骨と、額にある第三の目の部分には、大きな瘤が盛り上がっていた。ガチャコは、10ラウンドを防戦一方で闘って、最後にKO負けしたボクサーのように顔を変形させていた。
蘭子が一番後ろで、幸三に小さく手を振っていた。昼間よりは目が腫れていたが、二人の中に入ると、まるで顔は傷んでいないように見えた。
幸三と今岡がボックス席に座ると、疵だらけの三人が横に座った。
「なんだおまえら。何でこの三人が座るんだよ。もっと崩れてないのを呼べよ」
「うるさいわね。あんたのせいなんだから」
緑ママが幸三の腿を平手で叩いた。
「知らねえよ。関係ねえだろう」
「営業妨害よ」
「何言ってんだ。営業してるじゃねえか。しかも、今夜は、その疵をネタにして盛り上がるんだろう。まったく、オカマってのは、身体を張って商売してやがんな」
「あら、どういうことよ、それ」
「チンチン切って穴作る手術したら、貫通記念のパーティはするんだし、豊胸手術だったらシリコン記念日ってことで客を呼び出すじゃねえか。まったく、手足を喰って生きてる蛸《たこ》みてえな奴らだな」
「失礼ね。じゃあこの店は蛸壺ってことなの?」
「そうだよ」
ガチャコが水割りをつくって幸三と今岡の前に出した。
「こっちは今岡さん、俺の仕事仲間。この人は、お洒落ですっとして見えるけど、臭いでわかるだろう。筋者だよ」
今岡は小さく頭を下げた。
「ガチャコ、その顔だったら山中に迫られなくて済むから、よかったな」
ガチャコは黙って頷いた。
「山中って、ホークスのショートでしょう。あいつってゲイなんですか?」
今岡はグラスをぐいと傾けた。
「悪食《あくじき》ってことですよ。バイセクシャルでもなんでもない。山中ぐらい女好きだったら、ガチャコを毛色の変わった女と見てるんだろうよ」
「下半身で生きてるな。たまには加工品も喰ってみたいんだろうな、そんな奴は」
「傑作なのは、ガチャコがまだ貫通工事してないって、山中は知らないそうなんですよ」
「そりゃ面白い。脱がしたら、ぴょこんと自分と同じもんが飛び出してくるんですね」
「ぴょこん、ならまだ可愛いけど、ダランってぶら下がったり、エイリアンの幼虫みたいに、戦闘的に下半身からビキンって首をもたげるんだよ」
「失礼ね、二人とも。今岡さん、ガチャコちゃんは、今夜はこんなガッツみたいなブル・ファイターの顔になってるけど、普段はアイドルみたいなカワイ娘ちゃんなのよ」
緑ママが口を挟んだ。
「そうか、悪い悪い。じゃあ今度、貫通工事が終わったら、やらしてくれよ、ガチャコちゃん」
今岡は微笑んだ。
「嫌よ。だってぇ、オチンチンがあるのが好みっていう人がいるのよ。その人のために、私は貫通工事なんてしないのよ」
ガチャコは今岡を見て言った。
「ふーん、殊勝なんだなガチャコちゃんは。ぜひ、ガッツじゃない顔を見てみたいよ」
蘭子がテーブルの下で、幸三の腿をつねったが、脂肪のない腿はつるんと蘭子の指を滑らせた。
「あーら、いらっしゃい」
緑ママがドアを振り返りながら立ち上がった。すると、決め事のようにガチャコと蘭子が緑ママのあとをついていった。
すると、ドア付近から、「おー、今夜は、化けもん屋敷かあ?」という客の声が響いた。
「幸三さん。本当にこんな店に、真壁は来るんですか?」
ポツンと離れている今岡が、小声で幸三に言った。
「んーーん、大丈夫だと思うぜ」
幸三はぽっかりと空いたソファーに手を乗せて、今岡に身体を近づけて話した。
疵を使って来店する客を脅かすということを三人組が何回かやったあと、客を案内していたガチャコが、すっと幸三に近寄って来た。
「山中、来るってよ。いま、私の携帯に連絡入った」
ガチャコは言うと、幸三の耳朶を、猫がじゃれているくらいの強さで引っぱって行った。
ほどなくして、「うわ、ボクサーかおまえらは」と山中の声が聞こえた。
「俺たち、そんな腫れを一晩で綺麗にする貼り薬持ってるから、やるよ。下で待たせてる車に置いてあるから」
と山中はよく通る声で話しながら店内に入ってきた。
「えー、それってどんなの?」
ガチャコが陽気な声を上げた。
「自家製のもんなんだよ。作り方は、伝統的にうちのチームに伝わってるんだ。気に入った後輩にしか教えねんだよ。俺は壁さんから教わったな」
「うわー、すごい、頂戴頂戴」
ガチャコのもう一つ高い声が響いた。
「すげえな。やっぱ、オカマは逞《たくま》しいなあ。幸三さんが言ってたみたいに、自分たちの疵をネタにしてますよ」
幸三の隣に座った今岡は、小声で言った。
「本当だな、うちの蘭子なんて、家でしくしくしてたんだぜ、『悔しい』ってよ。なにが悔しいだよ、あいつが一番多く殴ってるよ。緑ママとガチャコに比べて、疵を負ってねえのはてめえじゃねえかよ」
「あんなになっちゃって、あれみんなグーで殴り合ってますね」
「蘭子は、ああ見えても、ライセンスを持つキックボクサーだぜ。日本料理屋でバイトしながらチャンピオンを夢見てたんだっていうほど、健気《けなげ》で鬼のように強いオカマなんだよ」
「うわ、それは、勝てるわけないわ。幸三さんのヤッカイモンも、もうちょっと手加減してやればいいのに」
「手加減してるよ。アイツが素手で本気に殴ったら、あとの二人は今日は立てねえで、家で唸ってる」
「はは、オカマってのはやっぱり変わった生き物だな。でも、蘭子さんが幸三さんのヤッカイモンなんだから、幸三さんもその道の人ってことですよね」
「そうだよ」
「やっぱり、幸三さんもトラウマみたいなもんで女が嫌いになったんですか?」
今岡が少し声をひそめた。
「わかってねえな、今岡さん。女に裏切られたりしてゲイになるんだったら、世の中はゲイだらけになっちまうぜ」
「まあ、そうっすけどね」
「ゲイってのは、DNAに書いてあるんだよ。決まってんだ最初っからな」
「そういうことか。考えてなるものじゃないんですね」
「もしかすると、気付いてないだけで、今岡さんのDNAにもきっちりとゲイって書いてあるかもしれないぜ」
「うわ、やめてくださいよ。筋者のゲイってのはきついですよ」
「男が男に惚れる稼業が筋者だろう。探ってみなよ、書いてあるから」
幸三は今岡の腿にすーっと手を伸ばした。
「やめてくださいよ」
今岡は大仰に飛び退《の》いた。幸三が笑った。
「今岡さん、そろそろ行こうか?」
幸三が今岡の肩を叩いた。
「やりますか」
今岡は立ち上がった。
「じゃあ、行こう」
幸三が立ち上がって、今岡のあとについた。
「よっ、真壁。久し振りだな」
真壁のテーブルの前に立ち止まった今岡は片手を上げた。
「おっ、今岡。どうしたんだ。こんなところで」
真壁はグラスを持ったままだった。
「心配するな、おまえがオカマだってことは、誰にも言わねえから」
「馬鹿、何言ってんだ。ここは付き合いで来てるだけだよ。おまえこそ、怪しいんじゃないか?」
「そんなことねえよ。こんなボコボコの顔したオカマなんて嫌だぜ」
「無茶苦茶言うな、馬鹿。今岡、一緒に飲もうぜ」
真壁はソファーを詰めようとした。
「いいねえ、でもよ、真壁。こっちで一緒に飲まねえか? そのためにおまえが来るのをここで待ってたんだから」
「待ってたって、こんなところで……、俺に用でもあるのか?」
「ああ、だからちょっと、そっちのボックスに移ってくれねえか?」
今岡は同じ口調で喋っている。ボックスのソファーに座った人間が今岡を黙って見ていた。
「いいけどよ。何かおまえ、あったのか?」
「まあ、少しな。ちょっと話をしたいだけなんだ」
今岡は、奥のボックスを指差した。幸三は今岡の後ろで真壁を見ていた。
「わかった。いいぜ」
真壁が立ち上がると、山中が声を掛けた。
「心配するな、山中。こいつは高校の頃、同じ野球部だった今岡っていうんだ」
真壁は振り返って言った。
「おまえの親父《おやじ》のことなんだよ」
真壁が座ると、今岡は直ぐに切り出した。
「親父がどうしたって? 今夜はお袋と一緒にナイターに来てて、さっき帰ったばっかりだぜ」
「違うよ。そっちの親父じゃなくて、昔の親父だよ。蒸発したおまえの親父のことだよ」
「何言ってんだ、おまえ」
「だから、三十年近く前に、おまえとおまえのお袋を捨てて逃げた大神清の話だよ」
「おまえ、俺を脅したいのか?」
真壁はまじまじと今岡を見た。こんな顔で人を見ている真壁を知らないと今岡は思った。その真壁が自分の顔を見て目を丸くしている、今岡は笑いそうになった。
「しねえよ、そんなこと。俺は筋者、おまえは堅気。だけど、友達じゃねえか。そうじゃねえのか、真壁」
「ああ、友達だ」
「大神清が見つかったんだよ。博多で」
「本当か」
「ほら、写真だ。たぶん、おまえの親父だと思うぜ。これを知ってるのは、俺とこの幸三さんと、あと数人ぐらいだ」
今岡はポラロイド写真を渡した。真壁はキャメルのスーツを着た大神の姿を食い入るように見つめた。
「どこにいるんだ、会えるのか?」
「いまは言えない」
「どうしてだ? 今岡、ちゃんと話せよ」
今岡は真壁が針に掛かった手ごたえを感じた。
「俺と幸三さん以外の数人が厄介なんだ。おまえの親父は、西の人間に金を借りて逃げていた。それで、博多で捕まった。西の人間は、博多の地理に不案内だから、助人を頼んだ。それが俺のところだ。俺のところでよかったな真壁。このことは、箝口令《かんこうれい》を敷いたから、広まってはいない」
「どうすればいいんだ?」
「取り敢えず、俺に任せてくれないか? 球団にも知らせずに、おまえは黙っていてくれれば、どうにかできるかもしれない」
「球団には、そんな揉め事に対処する部署がある」
「わかってるさ、取り敢えずの短い間だ。俺が駄目だと思ったら、警察だろうと、球団だろうと駆け込んでくれ。それほど、緊迫はしてない。いまのうちなら鎮静させられる」
「俺は何をすればいい?」
真壁が顔を近づけた。
「金なんてもんは用意しなくていい、事件になるからな。とにかく、おまえはいつもの生活を続けてくれ。それと、これが、俺と幸三さんの携帯の番号だ。これが着信表示したら出てくれよ」
今岡は、名刺の裏に、自分と幸三の携帯番号を書いた。
「じゃ、俺の携帯の番号も教えるよ」
「いいって、知ってるから。俺たちは情報で生きてんだぜ」
「わかった、電話してくれ」
「じゃあ、行くわ」
「頼むぜ、今岡」
「友達じゃねえか、任せろよ」
今岡と幸三は立ち上がった。そして、店を出て行った。
若衆がドアを開けた。今岡は後部座席に座った。大きく息を吐いて煙草を吸った。
「どうだった? ちょっと格好つけすぎたかな」
隣に座っている幸三に向かってどうだ、という顔で言った。
「いいんじゃないですか、あれで。真壁は針には、掛かったんだと思います」
「そうかあ。よしよし! 真壁のあんな顔見たのは、初めてだから、たぶん、いけますね」
今岡ははしゃいでいた。メルセデスはクラクションを鳴らし、渋滞した道に強引に分け入った。それでも、『まえだ屋』に着くのに昼間に比べて随分と時間がかかった。
『まえだ屋』の元々の住人たちは一階で怯えていた。あの蛇のような男が来てからは、ちゃんとスーツを着込んだびんびんに金持ちそうな筋者たちが二階を訪れる。シャラシャラしたトレーニングウェアを着たようなチンピラが直立不動する筋者たちだった。二階に住んで居た者は、下に移り、いまでは、大神とあの男の部屋以外は空き部屋になっていた。大神は、北朝鮮からの覚醒剤ルートの日本の代表と、住人たちに噂されていた。
今岡は、住人たちがたむろしていた広間に入った。
「おじさんたち、申しわけないね。これで、酒でも飲んでよ」
頭を下げた今岡の後ろから、若い衆が千円札を二枚ずつ住人たちに配った。
住人たちが頭を下げて金を両手で受け取っている中、幸三が皺一つないスーツで二階へ上がった。住人たちが幸三に向かって小さく頭を下げた。
「見たや、あれ?」
住人の一人が小声で言った。
「蛇みたいな奴やろう。何やあれ、気持ち悪かぁ」
「ばってん、滅茶苦茶強かったぜ」
「ああ、あれは大神のオヤジば、確保に来た北朝鮮の諜報員やぞ」
「潜り込んだんやな。俺たちが負けるともしょうがないな、相手は現役のプロやもんな」
ゲンは二階を見上げながら言った。
「よし、おっさん頼むぜ」
今岡が大神の背中を叩いた。
「自分の本当の感情で話せよ。それで、西に捕まって俺たちが間に入って話をまとめてるってことは忘れねえでくれよ」
幸三が言いながら携帯をかけた。
「どうも先ほどは、幸三です。いま、大神清さんと話すことができますが、お話ししますか?」
「え、はい、ちょっと待ってください。静かなところへ移動します」
真壁が移動する音が聞こえた。
「もしもし」
息を整えて真壁は話した。
「誠か、久し振りやな……」
「本当に親父か?」
真壁には記憶にある声が流れた。
「なんや、昔はおまえ、パパって呼びよったやないか、なんで急に、親父やらで呼ぶとか」
今岡と幸三は息を止めて笑い出しそうになるのを堪えた。
「そうだったっけ。まわりに誰かいるのか?」
「いるいる。おまえの同級生と幸三さん、その他は、西の筋者や。踝《くるぶし》から手首まで、みっちりと絵の描いてあるようなやつらや」
「大丈夫か?」
「ああ、ちびっと恐ろしかけど、大丈夫たい。それよか、おまえ、ようがんばっとるなあ。テレビで見よるぞ」
「こんなときに何言ってんだよ。どういうことだよ、説明してくれ」
「金借りて、返すのが遅れただけやから、心配せんでいい」
「本当か? 俺は何をしたらいいんだ?」
「何もせんでよか、こっちでどうにかするけん。心配せんでよかぞ」
「親父」
真壁が問いかけると幸三が返事をした。
「ということです。大神さんの身体には傷はありません」
「幸三さん、申し訳ないけれど、今岡がそこにいるなら、代わってもらえないか?」
「いいですよ」
幸三は今岡に携帯を渡した。
「真壁か?」
「どうなってるんだ、今岡。大丈夫なのか?」
「ああ、大丈夫だ。任せてくれ」
「今岡、あれは本当に俺の親父なのか?」
「この親爺が唄ってて偽者だったら、おまえも楽なんだろうけど、うちは、もうちょっと調べている。おまえこそ、どう思う? そのポラロイドと声で、判断できないか?」
「たぶん、親父だと、思う……。ポラロイドは老《ふ》けた親父に見える。声は、いま蘇ったよ。あんな声だったような気がする」
「そうか。こっちは、いまんとこ平静だ。本当におまえの父親なら、うまく話を進めるよ。じゃあ、切るから。今日はこれで連絡しないと思うから、帰って寝てくれ。明日も試合だろう」
「わかった。でも、今岡。何かあったら、遠慮しないで、いつでも電話してくれ」
「そうだな、電話する」
今岡から電話を切った。
「どうです? こんな感じで」
今岡は振り返った。
「いいんじゃないの、今岡さん」
幸三が携帯をハンカチで拭きながら言った。
「あんたら、本当にこれで、誠の身体に手を出さんでくれるのか」
大神が今岡の袖を引いた。
「もうちょっと、働いてくれたら、親父さんの言うとおりに、真壁に傷一つつけることはないから、心配しないでくれよ。あいつの同級生だぜ、俺。友達は大切にするさ」
今岡は、まるで息子のような顔で言った。
「ああ、そうやな」
大神は答えた。
今岡は、二階の大広間を半分に区切って、中広間ぐらいの広さになった部屋の片方を借りた。
中広間には弁当が十五個運び込まれ、冷蔵庫にビールが満杯になった。
「よし、これで夜中の二時まで、待つだけですね」
今岡は立ったまま缶ビールを掴むとグラスに注いで飲んだ。
「そうですね」
幸三は座椅子にどすんと座った。
「おい、田辺、ちょっと来い」
幸三に呼ばれた田辺は畳に正座した。
「何すか?」
「あのスパイの息子が日本にいたんだってよ。すげえなあ」
「へえ、そうなんすか」
「それで、おまえ、今夜は下で泊まってくれねえか?」
「一階ってことっすか」
「ああ、ここの住人が通報したりしないように、一階に泊まって、見張ってくれ」
「はい、わかりました」
田辺はお辞儀をして階下に降りて行った。
「さて、これで階下では、北朝鮮のスパイと瞼の息子っていう噂で持ち切りになるんですね」
「たぶんね」
「階下のやつらは、外に出ていって話しませんかね」
「三十分に一本ずつ、缶ビールの小さいのを配ってますから、外には出ませんよ」
「じゃあ、弁当喰いませんか」
「そうしますか」
幸三が答えると、若い衆がお茶を持ってきた。
「じゃあ、番号を教えた二つの携帯の電源を二時まで切っておいてくれるか?」
今岡は弁当を勢いよく食べながら若い衆を動かした。
「幸三さん。こんなとこで、こんな時化《しけ》た弁当を喰うのも久し振りで面白いですよ」
「よかったじゃない」
幸三は面白くもなさそうに答えた。
「そうだよね、夜中に弁当を喰える胃とか腸は、まだまだ若いって証拠だよ。修行中は毎日、こんな油の多い食い物ばっかりだったもんですよ」
「いまはどんなものを喰ってんですか?」
「夜は和食だね。カロリーの低いもんをちょこちょこって食べるんです。歳なのかな、直ぐ太るんですよ」
今岡は歳の割にはすっきりとしている腹をポンと叩いた。
「あんまり喰わねえで、風呂にでも入ったほうがいいですよ。私は、二時まで寝ますんで」
幸三は脂身やフライの衣を剥《は》ぎ取って、タンパク質だけを食べた弁当を残して、部屋に戻った。
幸三は目覚まし時計を一時四十五分に合わせて、布団に横になった。少しの間でも眠ろうと瞼《まぶた》を閉じた。
遠くで、男の笑い声が響いていた。幸三は、寝返りをうって、また、規則正しい寝息をたてた。
電源を切っていない携帯が鳴った。
「幸ちゃん、どこにいるの?」
「旅館」
「みんなで飲むんだけど来ない?」
「何時? いま」
「十二時三十分」
蘭子の声の向こう側で緑ママの声が響いていた。
「早い店仕舞いだな」
「もう、みんな顔が痛いのよ。だから、早く上がって飲んじゃおってことになったの。いまから来る?」
「駄目だ、寝かせてくれ。埋め合わせは、今度じっくりやるから、悪いな、蘭子」
と幸三は言うと、手にしていた携帯の電源を切った。
「幸三さん、そろそろ起きてください」
今岡がドアをノックしていた。
「わかった、直ぐ行きます」
幸三が時計を見ると、一時三十五分を差していた。
中広間に行くと大神が座椅子にだらんと座っていた。
「今岡さん、このおっさんはいまからの電話には、関係ないでしょう?」
「でもね、いたほうが、臨場感が出るって思ったんですよ」
「寝てるんだから、部屋で寝かせなよ」
「駄目ですよ。臨場感がなくなりますから」
今岡はしっかりとした声で主張した。
「まあ、どうでもいいけど、今岡さん今度のあんたの声は、夜中の疲れた男の声だからね。そんな元気な声を出さないでくれよ」
「大丈夫ですよ、幸三さん」
今岡は自信満々に言った。幸三が目を移すと、そこには、よだれを垂らして座椅子に首を引っかけて寝ている大神の顔があった。
「幸三さん、もういいかな?」
今岡は携帯を握っていた。
「一時五十四分だけど、行けそうだったら、行ってください」
「じゃあ、行くよ」
今岡は携帯の電源を入れて、真壁の携帯を鳴らした。
「どうした、今岡」
三回のコールで真壁が電話に出た。
「いま、やっと一人になったんで電話してる。悪いな寝てたか?」
「起きてたからいいよ。それで、どうなった?」
「こっちは、平静だ。真壁、大変なことになったな。さっきは、悪かったな。いきがって見えただろう?」
今岡は小声で話した。
「そんなことはなかったよ。それで、何かあったのか?」
「いまんところ平静だ。話はゆっくりだけど進んでるから、いま抜け出して便所の中で話してるから、長く話せなくて悪いな。でも、本当に大変だな」
「今岡……」
「わかってる。また、電話する。おまえも、何かあったら、携帯鳴らしてくれ。俺はポケットに入れておくから」
今岡は電話を置くと、携帯の電源を切った。
「じゃあ、次は四時三十分頃ということで、私は寝ますから」
幸三は言うと自分の部屋に戻った。
今岡はビールを取り出してグラスに注いだ。眠れそうになかった。眠ることを諦め、ビールをぐいぐいと飲んだ。
アルコールに酔うことはなく、身体の芯に興奮だけが溜まっていった。
目覚ましが鳴った。針は四時十五分を差していた。幸三は上着を羽織ると部屋を出た。
「今岡さん、寝てないのか?」
「まったく寝られません。この電話のあとには眠れるでしょう」
「じゃあ、やりますか」
今岡は頷くと携帯の電源を入れた。
「もしもし、今岡だ」
五回コールで真壁は電話に出た。
「何か進展したのか?」
「ああ、うちがあれから調べた。やっぱり、おまえの親父の大神清に間違いはないようだ」
「そうか……」
「どうする、真壁」
「結局、俺の親父は何をやって生きてるんだ?」
「いろんなことさ」
「いま、問題になっているのは金か?」
「金だけじゃないけどな。おまえの親父さんは、二千万を少し欠けるくらいの借金を払わずに逃げたんだ」
「俺が、いま、払えば解放してくれるのか?」
「それは最善の策ではないな」
「どうしてだ」
「相手は筋者だ。金借りました。金返さずに逃げました。はい、金を耳を揃えて返しました。では済まない。利子もあるし、延滞金も探す費用も要求するかもしれない。それと、やつらの顔だ。金返さないで逃げた人間をそのままにしていては、他に示しがつかないだろう」
「そうかもな。やっぱり、警察に頼んだほうがよくないか?」
「それは俺も考えている。でも、おまえは余りにも有名人だ。警察は出したくない情報を守ってはくれない。すべてを晒け出してしまう。おまえの親父さんも痛い目に遭うかもしれない」
「そうだろうけど……」
「ちょっと待て、幸三さんに代わる。幸三さんは消し屋だ。わかるか、真壁。揉め事の火種を消すから消し屋なんだ。俺は幸三さんに任せるのがいいと思う。ちょっと、話を聞いてみろ」
「わかった、代わってくれ」
「どうも、幸三です。真壁さん、面倒なことになりましたね」
「ええ」
「今回のことで、もっとも問題なのは、あなたのお父さんのことなんですよ。もしここで、真壁さんが、お父さんの借金を用立てして真っ平らに清算したとしても、また、同じことの繰り返しになるんじゃないかと、今岡さんは心配しているんです。私も思いますよ。大神さんは過去にも同じようなことで、両親に大きな負担を掛けています。金を清算するだけでは、その場しのぎの解決でしかないでしょう」
「はい。ではどんな方法がありますか?」
「検討中です。できれば、五日間だけ、今岡さんと私に任せてください。無理な場合は六日目に警察に頼めばいいんですから」
「そうですか、もし、私が無理して金を払ったら、どうなりますか?」
「まず一つ、お金を清算して大神さんが解放されます。そして、その後、西は大神さんを始末するでしょうね、見せしめで。もし、始末しなかった場合は、大神さんを使って、あなたに脅しを掛けてきます。甘いと思われますからね。あなた一人の揉め事なら、球団なり警察が守ってくれるでしょうが、大神さんの場合は違いますね」
「そうですか、複雑ですね。わかりました、今岡に代わってもらえますか?」
「わかりました」
幸三は今岡に携帯を渡した。
「おまえに頼むよ」
「わかった」
「今岡、金は必要じゃないのか? 三、四百万なら用意できる。俺の自由になる金はそれくらいだから」
「馬鹿、要らねえよ金なんて」
「でも、人間が動くんだぞ、金は必要だろう」
「いいって、いいって。それより早く寝てくれ。明日も試合なんだろう。金なんていいから、ホームラン打ってくれ」
「ああ、わかった。悪いな今岡、面倒なこと頼んでしまって」
真壁の苦笑が電話口から漏れた。
「蛇《じや》の道は蛇《へび》だ。任せとけよ」
今岡は携帯を切った。そして、温くなったビールを一息に飲み干した。
「これで、ヨシっと! 真壁の口にはしっかりと針が刺さった」
「上出来でしょう。あとはじっくりと釣り上げるだけです」
「あいつ、重そうだからな。気をつけないとな。頼みますよ、幸三さん」
今岡は、冷蔵庫から冷たいビールを出した。
「一発で釣り上げましょう。それと、今岡さん。ホームラン打ってくれって言うのは、もう止《よ》してくださいね」
「えっ、駄目でしたか?」
「当たり前じゃないですか。ホームランだなんて、真壁はベーブ・ルースじゃないんですからね」
「そうかあ、良いと思ったんだけどな」
「次は、七時五十分頃ですから、今度はちゃんと寝てくださいね。真壁より今岡さんの睡眠時間が短くなったら、頭の元気さに差が出ますから」
「そうですね、真壁を寝かさないで思考力を奪うってのに、こっちの思考力が低下したら洒落になりませんね」
「私はこれから、準備があるんで家に戻ります。それで七時五十分前には、ここに戻って来ますから」
「わかりました」
幸三は一階に降りた。静まりかえった広間には、振る舞われたビールの臭いが漂っていた。
「こんな時間に、幸ちゃん、何やってるの?」
「おまえこそ、何だよ、それ」
「これ、山中さんにもらった薬」
蘭子は目のまわりにべったりとガーゼを張りつけていた。
「そんな、変な薬つけて大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。あの人たちは傷を治すプロなのよ。プロ野球選手の薬っていえば絶対よ」
「ま、そうかもな」
「何? 道具箱出して、盗聴?」
「いや、会話のほうさ。双方向」
幸三は、黒い無線機をバッグに入れていた。
「ふーん、がんばってね。もう、私は寝るけど、幸ちゃんは、また、出ていくの?」
「ああ」
「じゃあね」
蘭子は背を向けた。
「おい、蘭子。おまえが一番手を出してるじゃねえか」
幸三は呼び止めた。
「そんなことないって。もう寝るから」
蘭子は振り返りもせずに寝室に入った。
幸三はバッグの中身を、もう一度確認して、ジッパーを閉めた。
鍵を掛けて、廊下から外を見上げると、うっすらと藍色になった空がビルの間から見えた。
「何が『悔しい』だよ。嘘泣きしやがって、一番殴ってすっきり爽快なんじゃねーのか」
幸三はぶつぶつと言いながらエレベータに乗った。
幸三が『まえだ屋』に着くと、今岡は、熟睡していた。いくら起こしても、起きないので、幸三は一人で真壁に電話を入れた。真壁は寝ぼけた声を出した。他愛のない話をして切った。
そして、幸三は真壁の家を張った。最初に真壁を張ったときよりも、少し涼しくなっていた。
いつもどおりに真壁は午前中に散歩をして、飯を食べ始めた。幸三は、この時間を利用して、相田興業に行って、朝一に来ていた下っ端《ぱ》の男に用事を言いつけた。
「おい、何でこげん人間が少ないとか?」
渡辺が事務所内を見回して言った。
「はあ、朝、幸三さんが来られて、用事ば言いつけられた人間が、屋上に上がっとるです」
「屋上? 何やそれ」
「垂れ幕ば、作るって言いよったですよ」
「垂れ幕?」
渡辺はエレベータに乗った。
午後一時五分、いつもより少し早く真壁が球場入りの準備を終えた頃、家の前の道に、黒塗りの車が横付けされた。真壁はハイヤーに乗り込んだ。
後部座席に二人の人影が見えた。
幸三は携帯を取り出した。
「おはようございます、幸三です」
「どうも」
「今岡さんから連絡はありましたか?」
「ええ、朝にありました」
「ちょっと、私と今岡さんは離れていまして、連絡がつきにくかったんです。でも、朝に連絡が入ったなら、大丈夫です」
「はあ」
「それでは、また、連絡します」
幸三は携帯を切った。これで、真壁が球団側に話さないように、少しだけ釘をさした。
真壁は球場入りして、ユニフォーム姿で練習を始めた。幸三は、それを見届けると、裏方の制服に着替え、球場の裏に足を進めた。ピッチャーマウンドとバッターボックスの土が保管されている場所や、ロイヤルボックスに入って、カメラの位置などを確認した。
スタンドに戻って真壁を確認すると、禁止されている携帯電話のグラウンドへの持ち込みを犯していた。尻のポケットが、四角く膨らんでいた。
幸三は壁に隠れながら、今岡の携帯を使ってワン切りして、着信記録を残した。
遠くに見える真壁は、ビクッとしてベンチの中に消えて行った。
『まえだ屋』に戻ると、今岡が浴衣姿で弁当を食べていた。
「おはようっす」
「今岡さん。もう昼過ぎてますよ」
「すいません、もう腹減っちゃって」
今岡は即席しじみ味噌汁のカップをすすった。
「俺も飯喰おうかな、腹減った」
幸三は腹に手をやって座った。
「赤だし、白味噌、しじみ、トン汁、では何がいいですか?」
「俺もしじみがいいな」
弁当と、湯気の立ったカップが置かれた。
幸三はげんなりした。家で作って喰ってくればよかった。弁当はコンビニだったら賞味期限切れになっていそうな、油の回った揚げ物だった。
「おう、もう一個弁当持って来い」
今岡は横柄に手を出した。幸三は今岡を見た。
「幸三さんも、もう一個食べますか?」
今岡はばりばりと音を立てて弁当を開けた。
「要らねえよ。一個で十分ですよ」
幸三は吐き捨てるように言った。
「へえ、幸三さんは、結構小食なんですね」
「別に。俺は普通で、あんたは喰い過ぎだ」
飯を頬ばったままの今岡に、幸三は言ったが、「うまいこと、言いますね」と今岡は返した。
「さて、今日は、どうしますか?」
今岡が社長室で渡辺に向かって訊いた。
「俺は、ロイヤルボックスで野球ば見ようかね」
「わかりました。幸三さんは?」
「そりゃあ、いまから、今岡さんと、今日の真壁と話す内容の練り直しですよ。そのあとは、『コンディーション・グリーン』で真壁を待つ」
「そうでしたね。それで、いまからは、いったん、家に帰りますか?」
「いや、ここで練り合わせようよ」
「じゃあ、みなさん、計画通りに」
幸三は専務室と書かれた今岡の部屋に移動した。
ホークスは快勝した。しかし、真壁は山中と出番のなかった若手のピッチャーを二人連れて飲みに出た。
真壁は今岡と幸三を『コンディーション・グリーン』で見つけると、すぐに席を移動した。
「ナイス・バッティング。おまえらしい右中間スタンドにボールをすっと載せるようなホームランだったな」
今岡はグラスを上げた。
「ありがとう」
真壁は西との話を聞きたくて、うずうずしているようだった。
「これで、今シーズンは何本打ったんだ?」
今岡はじらすように話を続けた。
「十四本かな」
「そうか、キャッチャーでその数字はすごいな。キャッチャーからファーストにコンバートしたら、ホームラン王と打点王は狙えるんじゃないか?」
「キャッチャーが好きなんだよ」
「それはそうだな。十四本が何十本になったからって、チームが勝てるとは思えないからな。おまえが蓄積したパ・リーグの打者のデータを駆使して試合を進めないともったいないもんな」
「まだ、後輩のキャッチャーに俺のデータを伝え切ってないから、もうちょっとキャッチャーを張るさ」
「データを教えてんのか? そんなもん自分で作るもんだろう。それに、次のキャッチャーを育てるのは、おまえがコーチになってからでいいじゃないか」
「そんな無茶なこと言うなよ」
「おまえなら監督になれるぜ」
「きついんだぜ、監督も」
「そうかあ。あっち走れ、そら打て、馬鹿野郎三振するな、って勝手なこと言ってるような監督ばっかりだろう」
「言えてるけどな」
真壁が笑うと今岡も笑った。
「監督はいらいらするんだよ。考えてもみろよ。自分の身体がびんびんだったら、自分がやりたくてしょうがないんだぜ。俺はいらいらすると思うよ」
「本当だな」
「キャッチャーと無線かなんかで交信したくなるよ。次はイン・ハイにきつめのストレートだ、とか。このバッターは、初球から振ってくるから、初球は低めの変化球でゲッツー狙いだ、とかね」
「そうか、いらいらするのか、じゃあ、親父さんの話にしよう。幸三さん、話してやってよ」
今岡はグラスに注がれたビールを一息で呷った。
「博多で真壁さんの親父さんを確保した連中より、もう二ランク上の人間が、いま、西からこっちに向かっています」
幸三が今岡の話を繋いだ。
「はい」
真壁はソファーから背中を離した。
「この男は、柿原といって、話のわかる人間だけど、大の飛行機嫌いの新幹線嫌いなんだ。いまはフルアクセルで広島辺りを飛ばしてる頃でしょう」
「でっかいメルセデスが戦車のようにパッシングして走ってるから、早く着くよ。問題がなければ、二時間弱ってところかな」
今岡が口を挟んだ。
「その柿原という人も、幸三さんみたいな火消し屋なのか?」
「消し屋だよ、幸三さんは」
「柿原は消し屋ではありません、組織の人間です。ちょうど、今岡さんと同じぐらいのランクの人間ですから、柿原を黙らせれば、話は決着します」
「大きな話になってますね。俺の親父って……」
「いえ、大神さんがどうの、というより、私たちが横から話を突っついているので、柿原まで出張って来たんです。通常なら、大神さんをさらったら、直ぐに西に運んで処理しますよ」
「悪いな、真壁。俺も考えたんだぜ。おまえに知らさなければ、おまえの知らないところで、親父さんは処理されるんだけど、それはそれで、仕方のないことだったのかなって。元々は、おまえにとって、この親父さんは、死んだも同然の扱いだったんだろ? 知らねえほうがよかったのかな」
「知らせてくれて、感謝してる。親父のことは、いつかケリをつけないといけないんだから」
「感謝なんて言うなよ」
「それと、今岡。三千万用意できる。今朝、球団の人間に交渉した」
「今回のことは、話したのか?」
「いや、話していない。俺の金の一部が球団でプールされている。その中の金だから、理由はそれほど聞かれない、それと家の者にもわからないから。使ってくれ」
「いらねえよ、金なんて」
「そんなこと言うなよ、用意して来たんだ」
真壁は銀行のカードをテーブルに置き、今岡と幸三の間に動かした。
「このカードの口座に三千万入ってる。暗証番号は1414だ。キャッシュディスペンサーで引き出すのは面倒だろうけど、使ってくれよ。俺があんたらを信用している証《あかし》だ」
真壁は来たときと同じ口調で言った。
「わかった。でも、なんだこの暗証番号。おまえの背番号じゃないか。『マカベマコト1414』だなんて、偽物みたいだな。誕生日より簡単だぜ」
「笑うなって、俺の手持ちカードの暗証番号は、ちゃんと難しいのになってるよ」
「わかった、預かっておくよ」
「じゃあ、行くから、何かあったら、電話してくれ。幸三さんも、よろしくお願いします」
真壁は、深々と頭を下げると元の席に戻った。「壁さん、脅されてんじゃねえの!」と山中のおどけた声が響いた。
「しまった。真壁に頼むの忘れた」
幸三は車が走り出すと、いまいましげにつぶやいた。
「どうしたんですか?」
「ほら、薬だよ。作り方教えてもらおうと思ってたんだよ」
「薬って、何ですか?」
「見たでしょう、あの三人の顔。腫れや青痣が綺麗に引いてたでしょう」
「そういえば、そうですね」
「あの薬なんだよ」
「今度、会うときに私が頼んでおきますよ」
「頼むよ」
「わかりました。そういえば幸三さん。真壁から預かっているカード、どうします。私が持ってていいんですか?」
「いいよ、今岡さんが持ってなよ。使ったら防犯カメラに撮られるんだぜ。そんなもんで、金を渡されたら」
「そうなんですか?」
「うまい方法だ。事件が立件しやすくなるからな」
「へー、真壁もやるな」
「気を配ってねえと、最高の位置から引き摺り降ろされるんですからね」
「そりゃそうだろうな、年収三億超えてんだもんな。ハイエナみたいのが、わんさか現われるんだろうな。負けられねえな、これは」
今岡は何度も「三億か、すっげえなあ」と繰り返した。
「おっさん、いよいよ、明日。真壁に会わせてやるよ」
幸三と今岡は布団に入っている大神を覗き込んだ。
「そうか、わかった。おまえら、本当に誠の身体には手を加えてはなかろうな」
「大丈夫だって、心配しないで、寝てくれ」
「ちょっと、寝れんごたるけん、もう一本付けちゃらんかね」
「わかった、若いのに言っておく」
大神は頷いて、また、天井に視線を戻した。
「おもしれえな、アルカロイドは、人間を、楽なことしか考えない人間に変えてしまう」
「そうっすね」
今岡が部屋のドアを開けると、渡辺が煙草を持った手を上げた。
「社長。わざわざ、どうしたんすか?」
「ちょっと、気になることがあったけん来たったい」
「何でしょう」
今岡が座るとグラスが置かれ、冷えたビールが注がれた。幸三はグラスに手で蓋をして、ウーロン茶を頼んだ。
「それがくさ、幸三に、大神の話ば聞いて、思い出したんや。俺は、あの大神って奴が博打しよった頃を見たことあったばい」
「ほんとですか」
「うちは博徒じゃ老舗なんやけん、いろいろと他の賭場も回らされる。その頃に見たばい」
「へえ、そうすか」
「それで、顔を確認したら、そうやった。それでこの写真見たら、もう頷いた。こげなツヤな格好しとったもんなあん頃も」
渡辺は、スーツ姿の大神が写ったポラロイド写真をテーブルに置いた。
「真壁もこの写真には、ぐっと来てました」
「そうやろうな」
「明日、やりますよ」
「真壁はどうなんだ?」
「信用してる、といってこれを俺に渡しました」
今岡は、銀行のカードを見せた。
「いくらはいっとるとや?」
「三千万です」
「そうか、それなら俺が預かっとこう」
「えっ」
今岡の顔に向けて、渡辺は手を出した。今岡は仕方なくカードを渡辺の手に乗せた。
「暗証番号は何番や?」
「4141です」
「何やそれ」
「真壁の背番号が14番なんですけど、それじゃあ芸がないって、ひっくり返したから、4141なんですよ」
「そうか、4141ね、これなら忘れん」
渡辺はカードを自分のカード入れに挟んだ。
「使わないで、くださいよ」
「使わんばい、預かるだけや」
「使ったら、直ぐバレますから、気をつけてくださいよ」
「わかっとる」
立ち上がると渡辺は戦利品を胸に冗談を言いながら帰って行った。
「これから、幸三さんは、どうしますか?」
「私は、もうちょっと大神のおっさんと話して、それから、寄るところがありますから。そっちに寄って、家に戻ります」
「こっちは、何時に来ますか」
「朝一で戻りますから、明け方の真壁への電話お願いしますね」
「わかりました。今度は何を話そうかな」
「昔話でもしたらいいんじゃないですか?」
「それはいいな、そうしよう」
「じゃあ、そういうことで」
幸三はさっさと今岡の部屋を出た。
「何やってるの? 幸ちゃん」
「風呂入ってんだよ。見ればわかるだろう。博多では『目はイボな、見てわからんもんは、聞いてもわからん』って言うんだよ」
幸三は立ったままシャワーを全開にした。頭から泡を吹き飛ばすようにお湯が出た。
「明け方よ」
「蛇口捻れば、お湯が出るんだから、いつ入ったっていいじゃねえか」
「それはいいけど。どうしたの幸ちゃん、汚れたの?」
「ちょっとな」
「人殺し? したの……」
「してねえよ。殺して終わりなら楽だよ、まったく」
「ごはん食べる?」
蘭子はバスタオルを幸三に渡した。
「要らねえ。二時間したら、また出るよ」
「忙しいのね」
「ああ」
幸三は身体を拭いたタオルを蘭子に渡した。
「そういえば、昼に、幸ちゃんの言ってた純って子が来たわよ」
「本当か」
「どうしたの、そんな顔して。おじちゃんは? って言ってたわよ、純ちゃん」
「そうか」
「また、来るってさ。可愛いわね、あの子」
「だろう。今日来たら、電話してくれ。いや、今日な、純を見かけたら電話してくれ」
「また、使うの?」
「わかんねえけど、うまく使えればいいと思ってるだけだから」
「わかった。朝、見つけたら声掛けるわ」
「頼むよ」
ボクサートランクス姿の幸三は目覚まし時計をセットした。
「あれ、寝るの?」
ベッドに倒れ込んだ幸三は、「ああ」と掠れた声で言うと、寝息を立て始めた。
蘭子は幸三の肩を揺すった。幸三はベッドと共に揺れた。
「屍《しかばね》か、おまえは」
幸三の顔を掌でぐっと押すと蘭子はベッドに潜り込んだ。石鹸とシャンプーの香りが薄い羽布団の中に充満していた。蘭子は幸三の首筋に後ろから顔を埋めて、幸三の匂いを嗅ぎ取るように大きく息を吸った。
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13  ロッカールーム
空は抜けるように青かった。幸三は『まえだ屋』の玄関を開ける前にもう一度、空を見上げた。
『まえだ屋』の住人で仕事にありつけなかった者が、玄関の板の間にたむろしていた。玄関を開けて幸三が靴を脱いでいると、田辺が朝の挨拶をしてきた。
「密輸関係が、大変だよ」
幸三が田辺の耳許で言うと、田辺は畏《かしこ》まって聞いていた。
「おはようございます」
お供を連れて朝風呂から出てきた今岡が声を掛けた。
「遅れました。ちょっと人に会ってたもんですから」
「あっ、そうなんですか」
「今岡さん、今夜のホークス対ライオンズのロイヤルボックスのチケットを貰えませんか?」
「わかりました。用意します。今夜は、球場の外での話ですからね、余ってますから大丈夫ですよ。でも、幸三さん、誰を招待するんですか?」
「まあ、余興ですから。子供を招待しようと思ってるんですよ」
幸三は先に二階への階段を上がった。
「今日、真壁とは直接会うんですよね」
「いまは散歩中だから、球場入りする前に会いますか」
「じゃあ、午後一時前後ですね。ああ、それと、柿原役の関西弁は用意してますから、会ってください」
幸三が今岡の部屋のドアを開けると、耳が潰れた猪首の男が頭を下げた。
「どうですか、こんな感じで」
今岡は幸三に向けて男の顔を動かした。
「いいですよ、これで。おじさん、よろしく頼むよ」
幸三が肩を叩くと、男は何度も頭を下げた。
「空いている部屋で待ってもらってくれ」
幸三が指図をすると若い衆が男を案内して部屋を出た。二階はほとんど相田興業が部屋を借り切っていた。
「今岡さん。今日、暑くなるようだったら、柿原役はスーツじゃなくてもいいですよ。汗をだらだら流しながら立ってられたら、洒落にならない。そうだな、西の人間なら、どこに売ってんだってぐらいに趣味の変わった柄の長袖のシャツを着せてください」
「それなら、スーツの下に、そのシャツを着せて、横に立たせた若いのにスーツの上着を持たせましょうか」
「おっ、わかってきたね、今岡さん」
今岡は浴衣を脱いで着替え始めた。彫り物のない背中はつるっとして生々しく見えた。
「こらあ、今岡! 暗証番号が間違っとうやないか!」
今岡の携帯から、渡辺の胴間声が響いた。今岡は裸のまま怒号に釣られて立ち上がった。
「あっ、社長。カード使ったんですか? 駄目ですよ」
「しゃあしい。いま、暗証番号間違いでカードが機械に入ったままや。早くちゃんとした暗証番号ば教えんか! カードが出てこんごとなるぞ」
「なんて番号を入れましたか?」
「4141たい」
「それは、間違って覚えてますよ。1414ですから」
「そうか? よし、わかった」
電話口から、渡辺が「1414や!」と叫んでいる声が聞こえた。
「社長、私が真壁から預かってる金なんですから使わないでくださいよ」
「しゃあしかぞ、おまえ」
「幸三さんに、ATMの監視カメラに映ると、事件を立件する可能性があるから引き下ろさないこと、って言われてるんですよ」
「俺がそげなしょぼいことするか、若いのにやらせとる。おまえが預かっとうならおまえが責任負えばいいんや。幸三は横におるとか?」
「幸三さんは、真壁の親父と打ち合わせしてますよ」
「わかった、あとから行く」
渡辺は荒々しく電話を切った。
「おっさん、今日は、アンフェタミンもアルカロイドもなしのクリアな身体でいてもらうよ」
幸三は布団に胡座をかいている大神に言った。
「クリアって何かいな?」
「透明ってことさ。トゲトゲの物質が血に混じって淀んでないってことだよ」
「そういうことか、わかっとるよ」
「真壁と会うときは、頭もしゃきっとしててくれよ」
「あんた、本当に誠の身体に傷は付けとらんやろうな。誠の身体は毎年何億も稼ぎ出す最高級品やけんな」
「やってない。でも、おっさん。おっさんがうまく立ち回れなくて、話がパーになったら、真壁の膝にブロックを叩き落とすかもしれないよ。何億も稼ぎ出す最高級品も、故障してしまったらパーだからな」
「わかっとうぞ、ちゃんとやる。俺の条件は、誠の身体に指一本触れんことと、金。それと、一回だけでいいから誠と話すことやけんな」
「何を話すんだい」
「一言だけでも、謝るつもりや」
「おっさん、辛気《しんき》臭いこと言うなよ」
「そうやろうか?」
「それにな、おっさん要望のキャメルのスーツに革底の靴、しかもカフス釦までして、しれっと謝ったってなあ。謝るんなら、おっさんの仕事着の菜っ葉服のほうがいいんじゃないか」
「いやや菜っ葉服なんて。菜っ葉服で行かせるなら、俺はやらんぞ」
「我儘《わがまま》なじじいだな、まったく。そうやって一生ツヤつけてたらいいさ」
「あんた、そげんな言い方せんでくれよ。これでも俺は誠に悪いと思っとるんやけん」
「当たり前だ、馬鹿野郎。おまえが真壁を捨てたんだぜ。ツヤつけんな」
大神は少しだけしゅんとした。
「ヘコむなよ、おっさん」
「あんたとおったら、なんや自分が駄目な人間に思えてくるな」
「おっさん、俺にはその考え方がわかんねえよ、まったく」
幸三は部屋を出ようと立ち上がった。
「なあ、やっぱり、一本付けてくれねえか?」
大神が幸三のズボンの裾を引っぱった。幸三は大神を見下ろしていた。
「どうせ、何も考えんで何も感じんとぼんやりして、あんたらの隣に立っとるだけなんやろう。一本付けて、ヘロっとしとかな、暴れ出すかもしれんぞ」
消し屋の仕事を続けてきて、何度も哀願する人間たちの顔を見てきた。哀願を受け入れて仕事を中止することなどは決してない。人間は、駄目だとわかっていても哀願する人間と、駄目だとわかったら哀願せずに黙り込んでしまう人間がいた。大神は、たぶん、後者のタイプだろうと、幸三は思った。
「暴れたり、ぶち壊すようなことがあったら、殺すぞ」
「かまわんよ。生きとったって、つまらんけんな」
大神は真直ぐに幸三を見返した。
「よし、一本付けてやる。何も感じない木偶《でく》の坊になってぼんやりしてろよ」
幸三はアルカロイドを用意した。大神は横柄に右腕を出した。
「あんたは、コヒとどっこいぐらいに注射がうまかねえ……」
「そんなラブミーテンダー野郎と一緒にしねえでくれよ、おっさん」
「いや、ここの若い奴は、下手糞やけん血管ば駄目にする」
「じゃあ、自分で打てばいいじゃねえか」
「わかっとらんねえ、あんたは。上手に優しく打ってもらえたら、最高にいいんや」
大神はゆっくりとした動きの瞬きを繰り返していた。
「おっさん、ラブミーテンダーってのは薬の歌じゃねえのか? 僕のことを優しく甘く愛して、僕を離さないで、君は僕の人生を完璧なものにしてくれた、すごく君を愛してる、だぜ。これはジャンキーが薬に問いかけているんだろう」
幸三は大神に顔を近づけた。大神は最後のフレーズを口ずさんでいた。
「そうかもしれんなぁ。僕はずっと君のものでい続ける、時が終わりを告げるまで、やもんなあ。そうなんやろうなぁ……」
温い快楽に身体を浸しながら、大神はまた、最初のフレーズから、薬に対する愛の歌を口ずさみ始めた。
真壁は玄関を出ると、眩しそうに空を見上げた。そして、直ぐに今岡と幸三を見つけて手を挙げた。
今岡と幸三の乗ってきたメルセデスを若い衆に運転させて、二人は真壁のレンジローバーに乗り込んだ。
「柿原が博多に来て、話は大きく変わった」
最初に今岡が口を開いた。
「どうなってるんだ?」
真壁は助手席の今岡に訊いた。
「真壁さんが、直接、柿原に金を払うことはなくなりました。大神さんも解放することになった。しかし……」
「しかし、何です?」
真壁がルームミラー越しに幸三の顔を覗いた。
「柿原は保証を求めてきたんです。金はあくまでも大神から返してもらう代わりに」
「証文の連帯保証人のところに判子を押せ、と言っているのですか?」
「違う。それは真壁さん、あんたの顔だ。柿原は顔を見せろと言っている」
「どういうことなんですか」
「今岡さんは、あんたと筋者が証文上でも繋がることを最後まで反対したんだ」
「俺は、この線だけはゆずらなかった。おまえが親父さんの金を肩代わりしようが、するまいが、おまえの気持ち次第で、借金に関してはあくまで、柿原と親父さんとの話だ。俺が言うのも変な話だけど、プロ野球選手が筋者と関係を持っていいことなんて、一つもない」
「それで、顔か……。どういう方法で?」
「六時三十分に大濠公園です」
「そんなの無理だ。今夜は試合ですよ」
「だから、柿原は言っているんですよ。あいつも西の筋者だ。証文にあなたの名前もない、それで大神を手放せでは、西には戻れません。筋者の論理は顔です。面と向かって話すのが、一番の信用になる」
「そんなこと……」
「そんなことが、あるんだよ、俺たちの世界には。一番大事なのは顔なんだ。面突き合わす、顔が立つ、顔に泥を塗った、顔役、とにかく、筋者の世界は顔なんだ」
今岡は運転をしている真壁の横顔に言った。車が信号で止まった。真壁は今岡を見返した。
「親のために、試合を放棄する俺の顔が欲しいんだな」
「そうだ」
真壁は黙った。信号が青になって、車は静かに走り出した。
大通りを右に曲がると、真正面に福岡ドームが見えた。埋め立て地特有の近代的な建築物が集まった中でも、福岡ドームは先端を行く姿をしていた。
真壁は福岡ドームを見つめ、今岡は真壁の横顔を見つめた。車は福岡ドームに向かって走っていく。
関係者駐車場に入る手前の道路で真壁は車を駐めた。
「わかった。どうにかする」
真壁は福岡ドームを見上げたまま言った。
「本当か」
「六時三十分だな」
「そうだ」
「ここから先は関係者しか入れない」
今岡と幸三は車を降りた。真壁がウィンドウを開けた。
「待ってるからな」
「ああ」
真壁はしっかりと今岡の目を見た。
「社長、真壁は試合に出ないことを納得しました」
今岡は興奮した声を出していた。
「そうか。じゃあ、GOサインやな」
「最後の『ホークスの負け。仕掛けは相田興業』という情報を流してください」
「わかった」
渡辺は電話を切ると、社長室の鍵を閉めた。声にこそ出さなかったが、真壁が落ちた、という事実は渡辺の下半身を鋭く刺激した。
失禁の尿量はパンツタイプの許容量を超えて、ズボンに薄く染みを残した。
渡辺はズボンを脱ぎ、紙オムツを替えながら、電話をかけた。肩と耳で受話器を挟みながら紙オムツを替えられるほど、慣れていた。何件もの電話先に興奮した声を押さえてかけまくった。
喉が渇いていた。ビールを一杯飲み干したい気持ちでいっぱいになっていた。しかし、渡辺は水分を控えることにした。今夜は外に出ることになる。日々、失禁の尿量は増えてきていた。渡辺は冷めたお茶を、渋い顔で一口だけすすって喉の渇きを癒した。
「山中、俺にも一本くれ」
選手控え室のロビーで煙草を吸っていた山中の肩を真壁が叩いた。山中は煙草を一本だけ箱から半分ほど出して、真壁の前に差し出した。
「気味の悪いことするなよ」
真壁は山中が点けようとしたライターを奪って自分で火を点けた。
「どうしたんすか、壁さん。煙草なんか吸って」
「たまに、吸いたくなるんだよ」
「もしかして壁さん、悩んでるんじゃないっすか?」
「わかるか」
「壁さんでも、悩むことがあるんだね。でも、今日は大丈夫だって、沢田が先発だろう。西武はヨイヨイのピッチャーしかいないから楽勝だ」
山中は煙を大きく吐いた。
「沢田の先発は発表されているけど、そんなに調子がいいわけじゃないぞ」
「それが違うんだよ、壁さん。あいつは今夜は当たりだ。だってな、あいつ、家から球場まで車を運転してきて、一回も赤信号に引っかからなかったんだってよ」
「それがどうしたんだ?」
「五年前に、俺がライオンズ戦で、サヨナラの逆転ホームラン打ったじゃん。あんときの俺が今日の沢田と同じで、一回も赤信号に引っかからなかったんだ」
「へえ、そうか」
「ああ、だから今夜の沢田は当たりの日なんだよ。もしかすると、ノーヒット・ノーランぐらい決めるかも知れないよ。だから、壁さんも悩んじゃ駄目駄目」
山中は煙草とライターをテーブルに置き「あげますよ、これ」と陽気に言ってロッカールームに行った。
何人もの選手、球団関係者が真壁の横を通り過ぎるときに、何かしら声を掛けていった。その一言一言は、真壁に対する期待の表われだと充分に感じられた。
「おう、壁。おまえ煙草吸うようになったのか?」
テーブルの上の煙草とライターを見て、監督は不思議そうな顔をしていた。
「いえ、山中に一本もらったら、置いていったんです」
「そうか。ところで、壁、今夜は沢田で行こうと思うけれど、おまえはどう思う」
「いいと思いますよ」
「そうか、わかった」
監督は煙草とライターを手に取ると「吸わないなら、これは俺が貰うぞ」と言ってロッカールームに向かった。
自分をスターティング・メンバーから外してくれ、と言えなかった。理由さえも考えていなかった。
学校で嫌なことがあると、腹が痛くなったりアレルギーや喘息の発作を起こすことができる子供を羨ましいと思ったことがある。嘘の痛みでも偽物の発作でもなかっただろうが、自分の都合のいいときに起こすので、その子供は嫌われた。
キャッチャーのほとんどが抱える膝の古傷の痛みも、身体の不調も感じなかった。人々の期待というものが、痛みや不調を抑え込んでいることはわかっている。現役の選手を続けていると、自然とそんな身体になってしまう。期待されず、望まれていなければ、膝は悲鳴を上げ、身体中に倦怠感は広がり始めるかもしれない。
ロッカールームのドアを開けると、押し返されるような熱気を感じた。いつもは、自分自身が熱気の源になっていたが、今日は気圧されていた。
ワックスののった革の匂いと、男たちの熱でうっすらと立ち昇ったコロンの香りが充満したロッカールームの中で、真壁はゆっくりとビニールに収まっているユニフォームを取り出した。
「壁さん、今日はどんな感じですか?」
トレーナーの増田がクリップボードとボールペンを手に真壁の爪先から頭の天辺までを、睨《ね》めるように見ていた。
「膝に少し違和感があるかな」
「本当ですか。じゃあ、あとでちょっと調整してみましょう。他には、何かありますか?」
「ちょっと疲れているかな」
真壁はユニフォームに袖を通しながら増田を見ないで言った。増田は、もう一度上から下まで真壁を眺めると、クリップボードの個人別身体票に○と×をボールペンで記入した。
「じゃあ、壁さん、練習する前に、来てください。いの一番に診《み》ますから」
増田は真壁に顔を近づけて、顔色を観察して次の選手に移った。
真壁はユニフォームのズボンの裾をストッキングが見えなくなるまで下げた。そして、14番の背番号が刺繍されたミットを手に取った。軋み一つなく、手にしっくりと馴染んだミットは磨き上げられている。ミットの匂いは、勝負の匂いだった。しかし、今日は、匂いに誘われて染み出てくるはずのアドレナリンは脳の奥底に姿を消していた。
(どうする真壁、どうする真壁)
試合中にいつも響いている自分への問いかけが、頭の中で始まっていた。
十八歳でプロ野球の世界に飛び込んだ。初めての打席はフォアボールだった。コーチが驚くほど、じっくりとボールを見極めてフォアボールを選んだ。スターティング・メンバーのキャッチャーに自分の名前を見たときの高揚感は忘れられない。膝を故障して試合に出られない日が続いたこともあった。試合に出られない悔しさは、身を削がれるほど痛かった。
今日は自分から試合を放棄することを宣言しなければならない。真壁は心底、膝の古傷が顔を出してくれることを望んだ。
子供の手術のために試合を放棄して本国に戻ったアメリカ人選手がいた。マスコミは一斉にバッシングを始めた。地方でのステージを務めて親の死に目に遭えなかった歌手の話を、対比的に扱った論評もあった。
真壁にとって、嫌な論争だった。自分がその場に置かれたら、何を基準にして判断し、どう行動するのだろうかが読めなかった。しかし、現在では随分と気持ちが整理された。
子供の生死に関わるような問題であるなら、たぶん、試合を放棄して駆けつけるだろう。それは、チームメイトやファンの期待よりも、自分に対して子供が「父親が見守ってくれている」ことを期待する気持ちに応えるほうを選ぶだろう。
今回、真壁に降りかかってきたのは、自分一人で背負込む問題だった。
「おい、壁! 聞いてるのか」
ミーティング中のヘッドコーチから怒号が飛んだ。
「すいません」
「壁。沢田で行くから、頼むぞ」
真壁は頷いた。
「今岡! どういうことか、これは!」
渡辺の手に持ったファックス用紙には、ホークスとライオンズのスターティング・メンバーが書かれてあった。
「これっすか」
今岡がちらっとファックス用紙に目をやった。
「真壁の名前があるやないか!」
「私もさっき見ました。大丈夫ですよ、社長。真壁は来ると言ったら絶対に来る男です」
「スターティング・メンバーの発表のあとで、欠場すると約束ば、したとか!」
「いえ、それはしていませんが、あいつは来ますよ。それに、社長。スターティング・メンバーの発表にはあった真壁の名前が、試合開始の時には消えているってほうが、西に対して示威行為の効果は大きいですよ」
「まあ、それは、そうやろうけど、本当に大丈夫なんやろうな!」
渡辺は今岡に詰め寄った。
「どうしたんすか、社長。そんなに興奮して、何かあるんですか?」
今岡は怪訝な顔を向けた。
「それがくさ。ちょっと臨時収入があったもんやけん」
「何ですか?」
「ちーと博打の虫が湧いてな」
「ホークスの負けに張ったんですか! それでいくらっすか?」
今岡の声が大きくなった。
「三千万……」
渡辺の声は少し小さくなった。
「えーーー! それって、真壁から預かってる金じゃないですか?」
「まあ、それはそうやけど」
「駄目ですよ、使っちゃ! ちゃんと返してくださいよ」
「それはちゃんと返すばい。博打に勝てればいいんやから」
「駄目ですよ。負けても返してくださいよ」
「なんや、おまえ。さっき、大丈夫、真壁は来るって言ったやないか。それやったら、俺は博打に負けんということやないか」
「それはそうですけどね。三千万全部張るなんて」
「大変やったんやぞ、当日締切のノミ屋は一括では受けてくれんやったけん、三千万を方々に分散して張ったんや」
「そんなこと、訊いてませんよ」
「当たったら、太いぞ」
「関係ないっすよ。真壁に出し入れをしてない、綺麗なまんまのキャッシュカードを返そうと思ってたのにな」
「そんなこと言うなら、一割色つけて返せばよかっちゃろう」
「そんなこと、言ってるんじゃないんですよ」
「もう、いいんじゃないんですか、そんなことは。それよりそろそろ準備したほうがいいんじゃないですか」
幸三が二人の間に割って入った。
「そうやそうや、今岡、用意や」
「はい」
今岡は、用意をしながら幸三に小さな声で「やっぱり、使ったでしょう」と囁いた。
「壁さん、どうしたんですか?」
福岡ドームの明るめの人工芝の上で、ストレッチを組む相手を探していた沢田の腕を真壁が掴んだ。
「ストレッチだよ」
真壁は沢田を引き寄せるとコーチの指示に合わせて二人組みでストレッチを始めた。
三十秒を数えるコーチの間延びした声に混ざって、微かにカメラのシャッター音が聞こえた。大砲のような望遠レンズで選手を撮っているカメラマンたちの姿が、マンションの屋上からゴミを狙っている烏の行列のように見えた。
「痛いっすよ、壁さん」
「そうか、悪い悪い。沢田、肩はどうだ?」
真壁は沢田の後ろに回り上腕二頭筋を伸ばした。
「変わりないっす」
「そうか。張りとかもないのか?」
「ええ」
真壁は沢田の肱《ひじ》と手首を掴んでゆっくりと回した。
「これは?」
「気持ちいいっす」
「そうか」
上半身が終って、沢田は右脚を折って左脚を伸ばした姿勢で座った。真壁が覆い被さるようにして、沢田の左脚の内転筋を伸ばした。
「いてててっ」
沢田は陽気な声を上げた。
「沢田、森のリードはどう思う?」
「森さんっすか。本ちゃんの試合で、受けてもらったのは二回しかないですけど、結構、やりやすいですよ。やっぱり、壁さんの弟子だっていつも言ってるくらいだから、壁さんみたいに投げやすいキャッチャーっすよ」
「そうか」
真壁は力を込めて、沢田の左脚の内転筋を伸ばした。
「うーーー、痛いっす、壁さん」
「沢田、ピッチャーの下半身は、走り込みの量と柔軟性で決まるんだぞ。こんなことでピーピー言ってたら、相撲部屋に出張させて、股割りさせるぞ」
「ういっす!」
沢田は自分からぐいぐいと身体を曲げた。
「森がピンチの中でリードしていて配球に困ったら、おまえが一番投げたい球を投げるようにしろ。それで森が難色を示したら、マウンドに呼んで、罪人谷に落ちるな、と言え。憶えてるな、罪人谷」
「はあ、憶えてるっす」
「よし」
そう言うと真壁は黙りこくって沢田の身体を丁寧に伸ばした。
真壁の脳裏には、頭を下げて鴨居をくぐっている背の高い父親の姿が映っていた。
今岡の渡したポラロイド写真に映っていた大神清は、紛れもなく突然いなくなった父親だった。
父親はクリスマス・イブに蒸発した。毎年、イブは父親の店で過ごしていたが、その年は、家で家族で過ごすことになっていた。しかし、父親はいくら待っても姿を現わさなかった。テーブルに並んだご馳走を前にして、母親と二人で黙って父親を待っていた。
カリフラワーのような白い紙飾りのついた鶏モモ肉がうまそうで堪らなかった。焼き上がったばかりで湯気が立っていた鶏は、次第に冷えていった。待ちくたびれてお腹も空きすぎて寝てしまった。そして眼が覚めると朝になっていて、赤黒くテラテラと光っていたはずの鶏モモ肉はぱさついて脂が白っぽくなっていた。猛烈に腹が空いていた、思わず鶏モモ肉にかぶりついた。
あれ以来、鶏モモ肉が駄目になった。かちかちのロウソクに、チキンコンソメの味を薄くつけたような味は、いまでも忘れられない。
気味の悪い味を口に残したまま外に出ると、紙包みを玄関の軒に見つけた。中身は、透明のセロファンに包まれたグローブだった。冬の冷気をいっぱいに含んだセロファンは、パリパリと音を立てた。新品のグローブは、口の中の鶏モモ肉の後味より、もっと、上質な油の匂いがした。
遅く起きてきた母親は、こんなの食べても美味しくなかったでしょう、と言って笑っていた。
「壁さん、壁さん。ちょっと、起きてくださいよ」
「寝てないよ」
真壁が沢田を振り返った。
「いま、すごく壁さん身体が柔らかくなりましたよ。だから、寝ちゃったかと思ったっす」
「考え事してたんだよ」
真壁は両脚を広げ、前に倒れながら丸い棒を両掌の下で転がした。
「でも、壁さんって、歳の割に柔らかいっすよね」
沢田は真壁の背中を押した。真壁が「いててて」と声を漏らした。
母親が、本当に笑えないくらいにうろたえだしたのは、父親が帰ってこなくなって一週間経ってからだった。
父親が蒸発して、自分は苦労したのだろうか、それほど苦労はしていないと思った。母親は一年間実家に戻って、再婚した。継父は優しくて良い人だった。母親は苦労したのだろうか? そんな話を母親と交した記憶はなかった。
まだ半分ぐらいの西の空しか夕焼けにはなってなくて、東側の空は、真っ青な状態だった。大濠公園の水を張った大きな堀には、夕焼けと青空が映っている。
「なんだとう」
今岡は携帯に低い声を流し込んだ。ベンチに座っていた渡辺と幸三が今岡の近くに集まった。今岡は、何度も、「本当かよ!」と怒鳴った。
「どげんしたとか?」
「真壁が、グラウンドに出て、バッティング練習を始めたらしいんです。開場したばかりの球場に行った若い奴の話です」
今岡は電話を切ると渡辺に告げた。
「大丈夫か、こりゃ。今岡、おまえ真壁に裏切られとるんやないか。どうするとや?」
「大丈夫です、まだ、時間はある。真壁は来ます。バッティング練習中に身体を痛めることは、よくありますから。腿がつって危ない、と言えば大事をとって試合を休ませます。普段そんなこと言わない真壁が言えば、大丈夫です」
今岡は自分に言い聞かせるように言った。
「なんか、おまえ、焦っとるように見えるばい」
「そんなことないっすよ」
今岡はくぐもった声を出した。
今岡の携帯が鳴った。今岡は電話に出ると何度も頷いた。
「真壁が、守備の練習のときに、コーチに耳打ちして、ベンチの奥に引っ込んだらしいです。どうです、社長。大丈夫でしょう」
今岡は自慢げだった。
「なら、真壁の携帯に電話せえよ。そうしたほうが、賢明やぞ」
「それはそうですね」
今岡は真壁の携帯を呼んだ。しかし、電源を切っているとメッセージが流れた。
「これは、球場に向かったんがいいんやないか?」
「大丈夫ですって、社長。私たちが球場に向かって、真壁と擦れ違ったら、話が面倒になりますよ」
今岡の声は少し苛立っていた。
「今岡さん、私はこんなときのために、保険を掛けておきました。いまから行ってもいいんですけどね」
「いや、もうちょっと待ちましょう。こういうことは、どんと構えていましょうよ」
「もう、太か声出すな」
渡辺が耳を掻きながら言った。
「ラジオ、始まりました」
若い衆が小さなラジオにイヤホンを刺して配った。アナウンサーは真壁の欠場は話していない。
「どうなっとるんかな」
「まだ、試合開始じゃない。試合開始は六時三十分です。それまではわからないですよ」
今岡は言った。
「幸三さん。ちょっと、よかかい?」
大神がベンチを立って幸三に近づいた。
「どうした、おっさん」
「ちょっと、顔を貸してくれんね。幸三さん」
大神は頭を何度も下げた。
幸三は大神のあとをついて歩いた。便所の前に着いた。
「何だよ、おっさん。急にさん付けで呼んで気味悪いな」
「飯場では、チンポに毛も生えとらんような筋者の子分を、さん付けで呼ぶんや、侮蔑を込めてね」
幸三は返事をしなかった。
「一本、付けてくれんかいな? どうせ、もう少しで、俺のお役目はご免なんやろう。そしたら、用済みになるけん、もう一本も付けてくれんくなる。そやけん、いまのうちに頼んどるんや」
「付けなきゃ、暴れるってことか? わかったよ、一本付けてやるよ、待ってな」
幸三は、個室に入り、道具とパケを置くと直ぐに出てきた。
「息子ば、引っ掛けるんやけん、こんぐらいせんと、やっとられんよ」
大神は幸三の肩を叩いて個室に入った。
「沢田、今夜は当たりの日だってとこを見せてくれよ」
ベンチ裏で、真壁はプロテクターの具合を叩いて確かめながら言った。
「えっ、山中さんから、聞いたんすか? 壁さん、山中さんの言ってた逆転サヨナラホームランって本当ですか?」
沢田を後ろから山中がグローブで叩いた。
「何だ、知らねえのか、おまえ」
「はい、入団する前のことですから」
「新聞にも、俺の名前が載ったんだぜ」
「でも、俺、入団するまでは、ジャイアンツファンだったから、ホークスのことなんか、あんまり知らなかったんすよ」
「おまえ、嫌なこと言うなあ」
山中が沢田の腿を叩いた。
今岡の携帯が鳴り始めたのは、ラジオの中でアナウンサーが選手がグラウンドにあがりました、と伝えたのとほとんど同時だった。
「本当か! 畜生」
今岡は荒々しく電話を切った。
「真壁が出場しています。球場に急ぎましょう」
今岡は押し殺した声で言うと、車に向かった。
「おい、誰か! ダフ屋の電話番号知ってたら、いま直ぐ電話して、バックネット裏のチケットを取ってくれ」
幸三は車に乗り込む前の若い衆たちに声をかけた。
「保険というのは、どういうことですか?」
幸三は、バッグの中から無線機を取り出した。
「無線で、真壁と連絡を取ろうかと思います。このまえ、真壁がぽろっと漏らした話で思いつきました。真壁のプロテクターの右より伸びている左肩の部分と、キャッチャーのしゃがむ辺《あた》りに埋めておきました」
「何やそれ、スパイ映画のごたあなあ」
渡辺の間延びした言い方で、運転していた若い衆がちょっと笑った。
「てめえ、何笑ってんだ。試合開始前後の福岡ドーム付近は混むから、裏道を通れよ。バックネット裏に近いほうに行くんだぞ、間違えるなよ。ちんたらしてたら坊主にするぞ」
「勘弁してくださいよ、専務。やっと伸びたんすから」
「うるせえ、それならもっと早く走れ。その雲丹《うに》のイガイガみてえな頭が坊主になっちまうぞ」
今岡は若い衆の頭を後ろから小突いた。
試合開始を大声で告げたアンパイアの声をラジオのマイクが拾った。
「おう、カーラジオばつけんか。イヤホンやら耳に入れとったら痛くなる」
渡辺が若い衆に向かって言った。
メルセデスは何度もクラクションを鳴らし、車幅ぎりぎりの道を走り抜け、福岡ドームに向かった。
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14  バックネット
真壁は、真ん中からボールへ逃げるスライダーのサインを出し、高めに構えた。
一回表、2アウト、ランナーなし、1ストライク、2ボール。沢田は大きく頷きながらボールの握りを変えた。
「頷くときにボールの握りを一回で決めろ」と、真壁に何十回と言われ続けてきた。ボールの握りを決めるときに、もたついて球種をバッターに読まれる疵があったが、真壁のお陰で今シーズンは影を潜めていた。
沢田は左脚を上げると、右脚に充分に体重を乗せて伸び上がった。ミットのエッジ部分を白く染めた真壁特注のミットが、的のようにくっきり見えた。
真直ぐに伸びた身体を倒すように体重が移動する。左脚が地面に突き刺さると、一気に体重がボールに乗り移る。指がボールの|縫い目《シーム》にぴったりと掛かった。腕を振り降ろす力に、プレートを蹴った右脚の力が加わった。
フォロースローしながら沢田はボールの軌道を見つめた。狙いを外されたバットはぎこちないスイングになり、力のない打球がショートに飛んだ。山中が前進してボールを身体の正面で受けると、流れるような動作で一塁に送球した。バッターはほとんど走らずにアウトになった。
「沢田。ボールがするするとバットから逃げていくのが、俺のところから綺麗に見えたぜ」
ベンチに戻る沢田に山中が声を掛けた。プロテクターを着けたままで座った真壁の隣に沢田は腰を下ろした。まわりの選手たちから沢田に陽気な声が送られた。
「球は走ってる。このまま行けよ」
「はい」
真壁は沢田の顔を見て言った。
ダフ屋からバックネット裏のチケットを原価でふんだくった今岡を先頭に、一行がスタンドの席に着いたのは、一回の裏、ホークスの攻撃が2アウトになったときだった。
一塁と二塁にランナー二人、バッターボックスに五番の井川が入った。真壁がレガーズをはめたまま、ネクストバッターズサークルで黒いマスコットバットを使って、身体を伸ばしていた。
「おるばい、あそこに。今岡、どうするとか?」
渡辺は今岡を小突いた。
「どうにかしますよ。ね、幸三さん」
今岡は前屈みになって幸三に顔を向けた。今岡を右端に、渡辺、幸三と並んで、通路側に大神が座っていた。幸三の後ろには柿原役、その隣には若い衆たちが陣取った。
空気の漏れるような歓声がスタンドに上がった。
五番の井川は、ライオンズの東山の内角攻めにボールを詰まらせて、ファーストフライを打ち上げた。
幸三はバッグから煙草の箱ほどの大きさの機械を取り出した。イヤホンをラジオのものと入れ替えてスイッチを入れた。ハウリングしないようにボリュームを小さめに合わせた。幸三のイヤホンに真壁の息づかいが流れ込んできた。そして、いったん、スイッチを切るとバッグの中からもう一つの機械を取り出して、同じ作業を繰り返した。
今岡と渡辺は幸三の手元を覗き込んだ。
「真壁さん、聞こえるか……。真壁さん……」
幸三は機械に繋いだ人さし指大のマイクロホンに小さな声を吹き込んだ。
キャッチャーの位置で地面を均《なら》していた真壁が驚いたようにマスクを外した。
「幸三だ。バックネット裏にいる。ゆっくり振り返ってくれ」
幸三の声に反応して、真壁は振り返った。
「そっちの声も聞こえるから、小さな声で話してくれ」
真壁は一言も発せずにマウンドに向いてしゃがんだ。
「聞こえているようですが、真壁は返事をしませんね」
幸三が言うと今岡が機械を受け取った。
「小さな声で充分ですから。いまは、真壁のプロテクターの左肩の無線を使っています。アンパイアと相手のバッターに聞こえないように気をつけてください」
「真壁、聞こえるか? 今岡だ」
今岡は、マイクロホンを手で包み隠すようにして喋った。
「真壁、返事をしてくれ」
真壁はマスクを被ったまま振り返ったが、イヤホンから真壁の声は聞こえてこなかった。
審判がオン・プレイを宣言して、真壁の背中に覆い被さるようにして構えた。今岡は機械のスイッチを切った。
「なんや、ちゃーらんやないか、返事なしか」
渡辺が幸三に言った。
「まあ、返事はしませんが、聞こえているんですから、まだ、どうにかなりますよ」
「そうかあ、幸三」
「まあ、保険といっても安い掛け金の保険ですから、劇的な補償はありませんよ。考えてじっくりとやらないとね」
「そら、そうやろうけどな。おい、今岡、三千万やからな、三千万!」
「わかってますよ。要は、ホークスが負ければいいわけでしょう。そうすれば、西に対する示威も、三千万も大丈夫ってことです」
「どげんやって、ホークスを負かすとか? そうや、幸三、真壁をここから撃ち殺せ」
渡辺が幸三の肩を掴んだ。
「ナベさん。無茶苦茶言わないでくださいよ。そんな保険は掛けてませんから」
「なら、いまから準備せえよ」
「無理ですよ、そんなの。そういうことは最初から言ってくださいね。そんな無理したら、あっというまに私は絞首台《バタンキユウ》送りです」
幸三は渡辺を見返した。
二回表、0アウト、ランナーなし、0ストライク、1ボール。
真壁は3シームスのストレートを内角高めに要求した。
沢田は頷くと振りかぶって投げた。指にシームが引っ掛かって音を出した。
3シームス特有の乱れた回転のボールはバッターの胸元をえぐるようなコースに外れた。ライオンズの四番のジェフは真壁を睨んだ。真壁はそれを無視して沢田にボールを投げ返した。
沢田の持ち球は、2シームスと3シームスのストレート、小さく曲がるカーブ、スライダー、時速一〇五キロまでスピードが落ちるチェンジアップ、それとフォークボールだった。沢田は若いだけに、調子に乗れば、ぐんぐんと球は切れる。真壁はもう一度、胸元をえぐるストレートを3シームスで要求した。
沢田が振りかぶった。球はよりジェフの胸元に向かうコースを辿った。ジェフが大きく上体を反らした。ジェフは仁王立ちして沢田を睨んで四文字言葉を吐いた。
真壁は外に逃げるスライダーを要求した。沢田は大きく頷いた。
腰の引けたスイングでは、バットの先にボールを当てるのが精一杯だった。セカンドに勢いのないゴロが転がった。ジェフはバットを地面に叩きつけた。
「真壁、聞こえるか、今岡だ」
ベンチに戻る真壁を狙って、今岡がスイッチを入れた。
「親父さん、大変なことになるぞ。返事をしてくれ」
今岡の言葉に、真壁は反応を示さずに、ベンチの中で急いでプロテクターを脱いでいた。
真壁はバットを強く振りながら、バッターボックスに近付いた。球場に真壁を告げるアナウンスが響いた。
打席に入る直前、真壁はバックスタンドを見ながら手袋を直した。
「てめー、真壁!」
今岡は吠えたが、スタンドの真壁に対する拍手でかき消された。
真壁は打席に入って屈伸した。ライオンズのベテランピッチャーの東山は真壁を睨んでいた。
ジェフの胸元に二球続けたことの、返礼をしてやる。そう東山は考えるタイプだと、真壁は思っていた。一球目から早い球を胸元に投げ込んでくるだろう。真壁は内角高めに気持ちを張った。
東山の初球は、真壁の狙いどおりのコースを辿った。居合い抜きの達人が狭い空間で刀を抜くように、真壁は腕を畳んでバットを振り抜いた。ボールは勢いのないライナーでショートの頭を越えた。
「なんや、真壁は、やる気満々やないか」
渡辺の口調がいまいましげになった。
「おっさん、拍手してんじゃねーよ」
幸三が大神の手を止めた。
「博多のオヤジは、直ぐにふざけるから、やだね」
今岡は大神を睨んで、ちらっと渡辺の顔も見た。
ホークスは、真壁を二塁まで進ませたが、凡打で終ってチェンジになった。
「真壁、返事しろ。今岡だ」
定位置に向かう真壁に今岡が言った。
「静かにしてくれよ」
真壁は途中でしゃがむと、スパイクの紐を結び直し始めた。
「どういうことだ、真壁」
「静かにしてくれ、試合に集中できない。予備のプロテクターがあるから、それに替えるぞ」
「馬鹿、そんなことしたら、でっかい声出すぞ。ベンチは大騒ぎになるぞ」
「うるさい、早く、電源切ってくれ」
「聞け、真壁。柿原さんが代替案を出してくれた」
「うるさい。二度と返事はしない」
真壁は小走りに審判のいる定位置に近づいた。今岡はスイッチを切った。
三回表、2アウト、ランナーなし、1ストライク、3ボール。
「壁さん、いやに調子いいね」
ライオンズのキャッチャー石田が打席で素振りをしながら、真壁に言った。
沢田はコーナーを攻めるカーブを投げた。石田はバットでボールを切るようにしてファールにした。
「ねばらねえと、沢田も調子に乗るからね」
次の球もコーナーを狙ったが、石田は見切ってファールした。真壁は沢田に対して力むな、という意味を込めてチェンジアップを要求した。
ストレートとまったく同じ力の籠ったフォームで沢田は投げ降ろした。ボールは時間がずれたように、ストレートよりも山なりの軌跡を描いた。石田は前のめりになりながら、かろうじてボールを見切った。
「ボール」
「いただき!」
石田はバットを捨てて一塁に向かった。真壁は審判を振り返った。
「ボール半個、低いな」
審判が言った。
今夜、初めて沢田はセットポジションで構えた。一塁ランナーの石田はちょこちょことリードを取って、沢田を煽っている。真壁は後ろからライオンズ一番バッターの坂井を観察した。バットを半握りほど短く持って当ててくるのが見えていた。真壁はカーブを高めに要求する。沢田は少し、驚いた様子だったが頷いた。
読みを外された坂井は腰を浮き気味にしてバットを当てた。ボールは鋭かったがセカンドの真正面に飛んだ。セカンドの清水は冷静に処理した。
「真壁、聞こえるか。柿原さんの新しい要望はホークスが負けることだ。聞こえるか、真壁!」
今岡はマイクロホンに向かって言った。ベンチに入ろうとしていた真壁が今岡を振り返った。しかし、返事はなかった。
「畜生!」
「かりかりすんな、今岡。そげんやって、真壁ば攪乱《かくらん》したら、よかやないか」
「そうですね。じっくり、やりますか」
「そやそや」
「おい、ビール買ってこい」
今岡は後ろに座った若い衆に命令した。
人数分の紙コップに入った生ビールが運ばれた。今岡は、ビールを受け取ると喉を鳴らして一気に飲んだ。
「社長、ぐっと、行きましょうよ」
今岡は横の渡辺のビールの減り具合を見て言った。
「ああ、ナイター見物やな」
渡辺はごくっごくっと喉を二度鳴らして今岡を見返した。
「おい、ビール追加だ。ナイター観戦だな。弁当も買ってこい」
「俺は鶏飯《かしわめし》が良かな」
若い衆が走りかけると、渡辺が声を掛けた。
三回裏、2アウト、ランナー一塁、1ストライク、1ボール。
ライオンズ東山は、かわすピッチングを続けていた。
バッターの山中は、2アウトからのトリッキーなセーフティバントを試みたが、間一髪で一塁には間に合わずアウトになった。山中は一塁塁審に大きく両手を広げてセーフのジェスチャーで抗議した。ホークスファンが陣取るスタンドは沸いたが、塁審は、飛び出してきた監督を相手にしなかった。
「なんや、あれ。プロレスみたいなことば、野球もするごとなったんやな」
渡辺はビールを飲んだ。
「どういうことですか?」
今岡は、ビールを飲み干して、また、若い衆に追加した。
「よくあったやないか、外人レスラーが凶器ば隠しとうのを、知っとうくせに、レフェリーが気付かん振りするのが」
「社長、いまどき、プロレスで凶器攻撃なんかしませんよ。いまの流行はガチンコですから」
「そうかあ。栓抜きをパンツに隠したり、覆面の額に王冠を潜ませたりはせんとか?」
「しませんよ、そんなこと」
「そうか……、時代やなあ」
渡辺は思わずビールを、ぐっと飲んだ。しまった、と渡辺は思った。たぶん、膀胱に水分が着々と溜まってきているのだろう。下半身の感覚が鈍くなって、膀胱の溜まり具合を誤ることが多くなっている。
今夜は、パンツタイプのオムツはやめて、フラットタイプを二枚重ねにしてきた。それと小さな紙袋にパッドタイプオムツの小さいものを予備で一枚持ってきている。
「おう、前を悪かね。ちょっと、便所や」
渡辺は立った。
「回の途中とかが、いいんじゃないですか?」
今岡が渡辺を止めた。
「わかっとらんな、おまえ。昔は便所が少なくて大変やったんやぞ。大勢が行くときに行ったら、混雑しとろうが、やけん、こげんときに小便をまりに行くったい」
「それって、平和台球場の頃の話でしょう。ここは福岡ドームですよ。大丈夫ですって、社長」
「大丈夫、大丈夫って、今夜は、何回もおまえの口から聞いとうぞ。なんも信用できんな」
渡辺は言いながら通路に出た。
トイレにはちらほらと人がいた。渡辺は一番奥の個室に入った。ズボンを全部脱いでドアのフックに掛けた。紙オムツを確認して渡辺は愕然《がくぜん》とした。二枚重ねにしたフラットタイプの内側の一枚が早くもたっぷりと尿を含んでいた。
渡辺は予備のパッドタイプの紙オムツを重ね、ずっしりと重くなったフラットタイプはトイレのゴミ箱に捨てた。
これ以上ビールを飲まなければ、どうにかなる。一滴も口にするまい、と渡辺は心に誓った。
席に戻ると今岡が気を利かせてビールを用意していた。
「社長、どうぞ」
渡辺は手渡されたビールに口だけつけて、喉に流し込まなかった。
四回表、2アウト、ランナー二塁、1ストライク、1ボール。
沢田の投げ込んだストレートを、五番の徳宗が左中間に弾き返した。二塁ランナーはDHのジェフ。グラウンドを転がる打球をセンターとレフトが追った。コーチャーズボックスのコーチが三塁に走り込んでくるジェフに向かってぐるぐると手を回した。ジェフは三塁ベースをガツンと蹴り加速度を増してホームに向かった。強肩のセンターからの返球を、ショートの山中が中継しようとピッチャーマウンドの斜め後ろで構えた。山中はジェフとホームベースとの距離、投げ返されてきたボールのコースを咄嗟に判断して、手を引っ込めてしゃがんだ。山中は自分を通過したボールの先でホームベースをブロックしている真壁を見た。
「頼むぜ、壁さん!」
真壁がボールをミットに収めて半回転するのと、ジェフが突っ込むのはほとんど同時だった。前傾姿勢で突っ込むジェフの右肩が、真壁のマスクを脱いだ顎に食い込んだ。プラスチックと肉がぶつかる音が響いた。真壁は身体を固めたまま後ろに吹き飛んだ。真壁はボールを掴んだミットを抱え込んだまま転倒した。つばのないキャッチャー用のヘルメットがベンチ前まで転がった。
審判が何度もアウトと、オーバーアクションで宣言した。
山中が真壁に駆け寄った。
「さすが、壁さん、グッジョブや!」
真壁は頭を軽く振りながら立ち上がった。
「おー、すごかなあ、物凄い音やったな」
渡辺は立ち上がって言った。そして、思わずビールをごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
「幸三さん、無線大丈夫か?」
今岡がベンチに戻る真壁を覗き込むようにして言った。幸三は、機械をチェックした。
「大丈夫、まだ生きています」
「危ないところだったな。肩同士でぶつかってたら、おじゃんだったな」
「やっぱりすごいな真壁は。壁のごとあったぞ」
渡辺の声が興奮していた。
「あれ、社長は、ライオンズじゃないんですか、今夜は」
「まあ、そうやけど。それとこれとは別や」
渡辺は思わず、また、ビールをごくごくと飲んだ。
四回裏、1アウト、ランナーなし、0ストライク、0ボール。
真壁はまだ顎のところを摩《さす》りながら打席に入った。
東山の初球は、相変わらず胸元をえぐるストレートだった。真壁は動かずに見送った。東山の二球目は、外角低めに沈むカーブ。ストレートの最高速が一四〇キロそこそこの東山は、コーナーを狙って投げ込んでくる。真壁はいったん打席を外して素振りをした。狙いをカーブ一本に絞った。
東山が振りかぶった。ボールは内角低めに東山のマックスに近いストレートが決まった。真壁は豪快に空振りした。カーブを投げさせるための誘いを含んだ空振りだった。
2ストライク、1ボール。次は、半分勝負、半分逃げ球の外角ボールぎりぎりの球が来る、と真壁は狙いを絞った。
東山が振りかぶった。真壁はカーブの回転を見切った。身体の回転を充分に溜め込んで、ボールを待った。わずかに外に逃げていくボールを身体を開き気味にしたポイントで捕えた。バットはボールをライト方向に弾き返した。ボールは斜め上空に上がり、ぐんぐんと伸びながらスタンドのポールに向かって弧を描いた。
総立ちのライトスタンドのポール際にボールは吸い込まれた。
歓声が上がる中、真壁はゆっくりとダイヤモンドを回った。
「おいおい、何だ真壁、がんばるんじゃねーよ」
今岡が嘆いた。
ホークス1点、ライオンズ0点で試合は膠着《こうちやく》した。
七回表、ラッキーセブンのライオンズの攻撃に拍手を、とアナウンスが球場に響いた。拍手と歓声、それと、沢田に抑え込まれているライオンズ打撃陣に野次が飛んだ。
「真壁、何度でも言うぞ。とにかく負けてくれ。それが西の要求だ。おまえが来なかったから、問題が複雑になった。頼む負けてくれ、そうしないと、とんでもないことになるぞ。見えるか、親父さんの手」
真壁が今岡の言葉に反応してスタンドをちらっと見た。
「親父さんの巻いたハンカチの中の手が、どういうことになっているか、想像できるだろう。知らないぞ、これ以上にどうなっても」
真壁の返事はなかった。
「真壁、ライオンズに打たせるんだ。おまえなら、それくらいのことは簡単だろう。やってくれ、頼むぞ」
今岡は、真壁の返事を待たずにスイッチを切った。
「沢田、調子いいね、壁さん」
ライオンズの三番の深津が声を掛けた。今季の初めに深津はトレードでライオンズに移った元ホークスの五番だった。
「尻上がりで良くなるからな、もう、おまえらに沢田は止められないぞ」
「また、言ってくれるよね、壁さんも」
深津は打席に入った。トレードされた選手が元のチームと戦うときは要注意だ。ピッチャーの球筋も真壁のリードも知り尽くしている上に、自分を放出したチームに対しての復讐もある。
沢田の一球目は、2シームスのストレート。真壁が冷やりとするほど、球が浮いた。深津は見送って、驚いた顔を真壁に向けた。真壁はそれを無視した。
真壁は3シームスのストレートを要求した。同じ高さに真壁は構えてミットをぽんと叩いた。沢田は大きく頷いて振りかぶった。
前の球とまったく同じスピード同じ球筋でボールが投げられた。
深津のバットは、狙い済ましたようにスイングを始めた。まんまと罠にはまったのは深津だった。沢田の投げる3シームスのストレートは、予測不可能な回転を起こす。ボールは前の球と同じ軌跡を辿りながら、バットの手前でふっとホップした。ボールは真上に弾き飛んだ。
今岡は立ち上がると、階段を駆け降りた。真壁がマスクを飛ばしてバックネットに走った。
「真壁!」
バックネットを掴んで今岡が叫んだ。真壁はキャッチャーフライをバックネット下の壁にぶつかりながら捕球した。一瞬、真壁と今岡はバックネットを挟んで睨み合った。
「真壁」
「試合中だ」
真壁はさっと後ろを向くと沢田にボールを返球した。沢田はボールを手に握った。次の真壁の要求する球は3シームスのストレートだと、沢田は思った。
真壁の股の間で示されたサインは、3シームスのストレートだった。沢田は大きく頷いた。グローブの闇の中で、ボールを操り握りを決めた。深津のバットが付けたボールの傷が、人さし指に触れた。傷の入ったボールには奇妙な回転がかかる。真壁はボールの状態を見てサインを出してくることがあった。
沢田の投げた3シームスのストレートは、揺れながら少し落ちて、バッターをサードゴロに仕留めた。
めっきり球威の落ちた東山は交代し、沢田は順調にライオンズ打線を封じ込めていた。
「どうだ、沢田。行けそうか?」
真壁が沢田の掌を広げた。
「まだまだ、行けますよ」
「握力はなくなってきてないか?」
「まだ、あります」
沢田は掌を握ったり開いたりして真壁に見せた。
九回表、0アウト、ランナーなし、0ストライク、0ボール。
「完封するつもりだね、壁さん」
九番のキャッチャー石田が打席に入った。石田はバッターボックスの一番後ろで構えた。
沢田の一球目を石田はファウルした。明らかにカットするだけのスイングで粘ろうとしているのが、明らかだった。
2ストライク、3ボールから、石田は三球ファウルを打ち、そして、フォアボールを選んだ。
(さあ、最終回の攻撃、ライオンズは同点のランナーを出しました)
ラジオのイヤホンから興奮したアナウンサーの声が聞こえた。
「そやそや、同点のランナーやぞ。真壁、きさん、打たせろ!」
渡辺が立ち上がって怒号を上げた。
「社長、落ち着いて」
「うるせえ、今岡。三千万やぞ。このままホークスが勝ったら、三千万はパアやぞ」
「それは自分が悪いんでしょう」
「しょうがないやないか。博打の虫が飛び起きたんやから」
渡辺は、また思わずビールを飲んだ。
一番の坂井は、打席に入るなりバントの構えになった。沢田は一塁でちょろちょろする石田をノーワインドアップのまま睨んでいた。
両脚でジャンプするようにプレートを外し、牽制球を投げた。石田は頭から一塁に戻った。一塁塁審は両手を広げてセーフと宣言した。
一球目、沢田は外角高めにボールを外して様子を見た。二球目に真壁が指定した球は内角低めのストレート。沢田の球でもっともバントのしにくい球種だった。
沢田は大きく振りかぶって投げた。ボールが少し浮いた。坂井はボールの勢いを消してファースト方向に転がした。沢田がダッシュしてボールを掴んだ。
「ファースト!」
真壁の指示が飛んだ。沢田はセカンドをちらりとも見ずにファーストへ投げた。
二塁ベース上で石田が拍手を坂井に送った。
(さあ、一打出れば、同点の場面です)
「そうやそうや、真壁! 打たせろ!」
渡辺が叫んだ。
「真壁、打たせろ」
今岡がマウンドに向かっている真壁に、無線を使って声を掛けた。真壁はミットで肩を叩いて返した。
ライオンズ二番の須坂は、バットを短く持って石田と同じように沢田のくさい球をファウルにカットした。
沢田はストレートを投げた。須坂はそれを鋭いスイングで襲った。ファウルチップが真後ろに飛んでバックネットを揺らし、観客を驚かせた。真壁は大きなため息をついた。真後ろに飛ぶチップは、ボールのあと五ミリ上にバットが当たればライナー性の打球となってセンターに弾き返されていたところだった。
真壁は次の球に思い切ってフォークボールを要求した。沢田が横に首を振った。この試合で初めてのことだった。真壁はサインをスライダーに変えた。沢田は頷いた。
ボールは須坂から逃げて行くようにスライドした。真壁の目の前に須坂の身体がすっと入ってきた。須坂は横に伸び上がり、短く鋭いスイングでスライダーの曲がり切ったところを叩いた。打球は一、二塁間に飛んだ。セカンドの清水は横っ飛びでボールを止め、二塁上の石田を目で牽制して一塁に投げた。
アウトのコールに球場が沸いた。
マスコットバットを投げ捨てた深津が、ゆっくりと打席に近づいた。ライオンズ側のスタンドから声援が飛んだ。
(さて、深津は今季、ホークスからライオンズにトレードされてますからね。ここらで一発、欲しいところでしょう)
アナウンサーが興奮して言った。
「そやそや、深津! ホークスの鼻をあかさんか! 真壁、そんくらい昔のよしみで手伝え!」
渡辺は吠えた。
「そうだ、真壁。頼む、打たせてくれ」
今岡が、小さな声をマイクロホンに注ぎ込んだ。
沢田は構えると、真壁のストレートのサインに大きく頷いた。
指が大きく弾ける音と共に腕を振り抜いた。体重の乗ったストレートが投げられた。深津は豪快なフルスイング。ボールはチップして真後ろに飛んだ。
二球目は、外に逃げるスライダー、深津はピクリとも動かずに見送った。判定はボール。
真壁はストレートのサインを出した。沢田は大きく頷いた。
真ん中から少し内角寄りのボールを深津のフルスイングが迎えた。チーンと甲高いチップ音が鳴りボールがワンバウンドして真壁の下をすり抜けた。
(どうする真壁、どうする真壁)
真壁の自問が始まった。
「打たせろ、打たせろ」
囁くような今岡の声が自問に重なった。真壁はミットで肩を叩いた。今岡は驚いてイヤホンを外した。
真壁はフォークボールのサインを出した。沢田の身体が緊張した。沢田は首を横に振った。
(どうする真壁、どうする真壁)
真壁は自問に対して、逃げない、と答えた。手を振ってもう一度、フォークボールのサインを出した。
沢田は頷きながら、グローブの闇の中で人さし指と中指を広げてボールを握った。
沢田は左脚を上げた。その瞬間、まるで意識に入れていなかった二塁ランナーの石田の走る姿が、眼の端に映った。あっ、と思った意識が身体のバランスを歪めた。ボールは沢田の指を離れた。引っかかりは薄かった。
(落ちろ!)
真壁はボールがワンバウンドしてもいいように構えた。
ボールは会釈程度もお辞儀をしない。朱色のシームは回転で見えない。真っ黒なバットが、すっと現われたかと思うと、力強いスイングでボールを弾き返した。ボールは唸りを上げた。
球場が一瞬、静かになった。
打球は上向きのライナーで内野を越し、外野あたりで上昇して、レフトスタンドに飛び込んだ。
ほとんどの観客が立ち上がった。その中、渡辺だけが、立ち上がっていなかった。
興奮とともに、放尿感が襲ってきた。びゅんびゅうんと小便がパッドタイプの紙オムツに吐き出されている。渡辺は流れ出る小便を止めることはできなかった。
立ち上がった幸三が、座っている渡辺を見下ろした。灰色のスラックスに、黒々とした染みが広がっていく。歓声の中から、じょー、という音が聞こえた。
幸三は咄嗟に、手に持ったビールを渡辺の広がっていく染みに向かってぶちまけた。
「ナベカツさん! 申し訳ない。ビールこぼしちまった!」
幸三は大仰に謝った。
「よかよか、謝らんでいい」
渡辺が幸三を見上げて言った。
球場の歓声は、深津がホームベースを踏んだところで最高潮になった。
(逆転です! ライオンズ三番の深津の逆転2ランホームラン!)
アナウンサーの声は絶叫に近かった。
スタンドの歓声が続いている中、沢田は次の打者を迎えた。
真壁に冷静にサインを要求した。沢田はそれに応え、フォークボールでジェフを三振にとった。
九回裏、1アウト、ランナーなし、1ストライク、3ボール。
今期のセーブ数トップを続けているライオンズのクローザー近藤は、一人目のバッターをストレートとフォークボールだけで三振に切ってとった。ホークス四番の奈良崎は、1ストライク、3ボールから近藤の球を見切ってフォアボールを選んだ。
球場は九回表より騒然となった。
ホークス五番の井川は繋ぐバッティングを試みていた。近藤の初球は、早いストレート。井川のバットは空を切った。バックスクリーンのスピードガン表示は一五〇キロを示した。井川は左手の指二本分短くバットを握り直した。二球目も力の籠ったストレート、チップするのが精一杯だった。初速と終速がほとんど変わらないストレートは、球がホップして見えた。井川にとって次の球が狙い目だった。次の次には必ずフォークボールが来る。今期のセーブ数のトップを突っ走っている近藤のフォークボールは、わかっていても簡単には打てない。ボールはお辞儀をするどころか、土下座をするようにがっくりと落ちる。
近藤が振りかぶって投げた。内角の低めのボール。井川は腕を畳んでゴルフスイングのようにボールをすくい上げた。ボールはライナーで一塁に上がった。ファーストの深津が大きな身体をいっぱいに伸ばしてファーストミットの先にボールを収めた。一塁ランナーの奈良崎は頭から一塁に戻った。球場に悲鳴に近い歓声が上がった。
ネクストバッターズサークルから真壁がゆっくりと歩き始めた。球場は期待の声援に包まれた。
「畜生、やっぱりいいときに出てくるな、真壁は」
今岡がいまいましげに言った。
そのとき、幸三の横に座っていた大神が今岡の声に反応するように動いた。大神は立ち上がると通路を駆け降りた。幸三があとを追った。
「誠! 誠! ホームランや、かっ飛ばせ! こげなやつらの言うことやら聞かんで! 誠、かっ飛ばせ!」
大神はバックネットにしがみついた。幸三と係員が引き剥がそうとするが、大神は動かない。今岡がその後ろから大神を引き離すのを加勢した。
「誠! 俺のことやら気にせんでよかぞ! 逆転や、誠! かっ飛ばせ!!」
真壁がバックネットを振り返った。大神は真壁を見つめた。真壁は少し口を動かし、そして、力強く素振りをした。幸三と今岡は大神の指を一本一本外してバックネットから引き剥がした。
近藤はノーワインドアップから投げた。真壁はスムースにバットを出した。ボールはがくんと落ちて消えたように見えた。バットは空気だけを切り裂いた。キャッチャーの石田がワンバウンドしたボールを身体で止めた。
(どうする真壁、どうする真壁)
真壁は自問した。一球目から見事に読みを外された。
フォークボールを捨て二球目はストレートに狙いを絞った。
近藤は一塁ランナーは眼中にないかのように大きなフォームで投げ込んだ。真ん中のコースを早いボールが走った。真壁の身体が動き始めた瞬間、ボールは失速した。真壁の腰がボールの落下に合わせて落ちる。ボールはバットの下をすり抜けた。真壁のほとんど膝をつくようなスイングは空を切った。
球場全体が揺れた。
近藤が振りかぶった。ボールは、踏み込んだ真壁の左肩に向かった。真壁はのけ反って避けた。顎のあたりにボールの回転する風を受けた。ボールは2シームスの綺麗な回転で、すっぽ抜けではなく、狙いだと感じた。
真壁は近藤の眼を見て構えた。近藤は睨み返した。
近藤が四球目を投げ込んだ。真壁は右脚にあった重心を左脚に移動しながら腰を回転させた。跳ね返されるような衝撃をバットから感じた。ボールは審判の頭をかすって真後ろのバックネットに突き刺さった。球場全体が大きなため息をついた。
真壁は無心になった。近藤のグローブの闇の中で握られたボールだけに気持ちを集中した。
大きく振りかぶって近藤が投げ込んだ。ボールは一直線に向かってきた。真壁の身体が反応した。ボールが堪え切れず揺れた。真壁の腰が落ちた。ボールは揺れながら落ちた。真壁の目にはバットの下を通過するボールの朱色のシームが見えた。ボールの回転はほとんど死んでいた。ボールはホームベースの角に当たってバウンドの方向を変えた。石田は身体で覆い被さったが、ボールは肩に当たって後ろに飛んだ。
真壁はファーストに向かってダッシュした。振り逃げでセーフになれば後続に繋げられる。全速力で真壁は走った。石田はキャッチャーマスクをはね上げ、ボールを探した。ボールを掴んで振り返ると、真壁の背番号「14」が遠ざかっていくのが見えた。石田は、サイドステップで横に動いた。大きな真壁の背中で隠れていたファーストの深津のミットが眼に入った。
石田は渾身の力で送球した。ボールは一直線の軌跡を描いた。
一塁ベースを駆け抜けようとしていた真壁の耳に、ボールの通過する音が響き、ミットにボールが収まる音が続いた。真壁がベースの感触を足の裏に感じる前だった。
「アウトッ!」
塁審が右手を挙げた。
球場のどよめきが、ため息に変わった。
渡辺と今岡が立ち上がって叫んだ。渡辺のズボンはびちゃびちゃだった。
近藤がマウンド上で大きく吠えた。
幸三は携帯電話を取り出した。
「よし、いまだ」
「うん、わかった」
純の子供特有の甲高い声が返ってきた。
ライト側のロイヤルボックスのバルコニーから、大きな垂れ幕が下がり落ちてきた。
『西、見たか! 渡さんぞ! こっちには真壁がおるんやぞ!』
と垂れ幕には黒々とした字で書かれてあった。球場の大画面には、バルコニーに立っている純と、いじめっこの達夫と一樹と拓也が映った。
「幸三、なんやあれは? うちのロイヤルボックスから、垂れ幕が下がっとうぞ」
渡辺が驚いた声で訊いた。
「相田から西への示威行為ですよ。この時間ならテレビをやってますからね。子供が垂れ幕下げればテレビは食いつくと思ったんですよ」
「おお、そうか」
渡辺は頷いた。
(西武の武の字が抜けてますねえ。あの子たちは、絶対にホークスが勝てると思って垂れ幕を作ったんでしょう。ライオンズの一勝でホークスも背中に張り付かれた気分でしょう)
アナウンサーが解説した。
ベンチに戻る選手たちの中から真壁がバックネットに近づいた。今岡が階段を駆け降りた。
「遅刻して悪いが、いまから、大濠公園に行く」
真壁が今岡を見上げて言った。
「わかった、待ってる」
今岡はバックネットをガシャンと鳴らした。
[#改ページ]
15  大濠《おおほり》公園
「なんだ、親父の指、あるじゃないか」
真壁は公園の照明を真上から浴び、眼の上と頬の下に深い影を作っていた。
「筋者は、堅気の指なんて意味ねえから、落とさない」
今岡は言った。
「ブラフか……、そんなことだと思った。バックネット裏に最初に見えたとき、ハンカチなんて巻いてなかったからな」
「見てたのか、おまえ。俺は試合中に、便所で切ったって言おうとしてたんだよ」
今岡は肩をすぼめた。夜になると、閻魔《えんま》コオロギが鳴く季節になっていた。
「柿原っていう西の人間は?」
「帰ったよ。あとは俺に一任してくれた」
「そうか、すまないな。おまえに預けた金で処理してくれよ」
「いいんだよ、もう、済んだことだから。でも、どうして、おまえ、時間通りに来なかったんだ。そんなに試合が大事か?」
「大事さ。でもな、最初は試合を捨てて、時間通りに来るつもりだった」
「それが何故だよ」
「親父を捨てようと思ったからさ」
真壁は公園のベンチに座っている大神を睨んで言った。大神は下を向いて話を聞いていた。
「非道い奴だな、おまえも」
「ああ、非道いさ。でも俺は考えたんだ。親父は俺とお袋を捨てた。だから、俺からも親父を捨てたんだ。おまえらが言ったことが残っててな」
「俺たちがなんて言ったんだ?」
「ここで金払ったら、同じことの繰り返しになる、と言ったんだ。妙に納得してな。こんな親父は、こっちから捨てないと、本当にキリがないんだろうな、って思ったんだ。捨てられれば、捨てられた人間の気持ちがわかるだろうって……、非道いけどな」
「もう、いいじゃねえか」
「そうだな。なあ、親父と二人で話させてくれないか?」
「いいぜ」
真壁が行こうとすると、今岡が耳打ちした。
「おまえの、親父さんなあ、ちょっと、薬ボケしてるから、たまに、変なこと言うぞ。俺がおまえを騙してるって、思い込んでるふしがあるけど、気にするな」
「わかった」
真壁が言って、大神の肩を叩いた。大神は立ち上がった。
今岡は、携帯を取り出し、球場から自宅に戻った渡辺に電話した。
「いま、大神と真壁が二人で話をしています……」
小声で話して、小さく何回も今岡は返事をしていた。
「社長が、よくやってくれた、と言ってました」
今岡は携帯を切ると振り返って幸三に言った。
「どうも」
「それで、野球賭博の上がりが、経費を引いて一億を超えたんで、幸三さんの払いも上乗せしろって言うんです。それで今回は、一と丸七つで、どうでしょう」
「申し訳ないね」
幸三は言った。
「たぶん、オムツを隠してくれたお礼もあるんじゃないんですか?」
「あれ? 今岡さんも知ってたの?」
「もちろんですよ。社長一人が気付かれてない、と思っているんですから」
「やっぱり、そうか。バレるよな、腰のところなんて、ごわごわだったからな」
「社長室に入ると、消臭スプレーの匂いがするんですよ。それが自宅のトイレのスプレーと同じ匂いでね。私には、すぐわかりましたよ」
今岡は消臭スプレーの匂いを思い出すように鼻を少しひくつかせた。幸三は苦笑した。
博多湾の埋め立てが進み、大濠公園はいまでは海から離れているが、満潮時には川を上ってきた海水がわずかにお堀に流れ込む。大濠公園のお堀を滑るように吹く風に海の匂いが混ざっていた。
真壁と大神はお堀端の道を並んで歩いていた。二人の影は、肩の部分がそっくりに見えた。
「何を話してるんでしょうね。あの二人」
今岡が二人を見ながら言った。
「大した話はないでしょう。黙ってぽつぽつってところでしょう」
幸三は言った。
「そんなもんですかね」
「そんなもんだと思いますよ。それで、大神は、このあと、どうしますか?」
二人の影が遠ざかるの見つめていた幸三は、今岡を振り返った。
「田辺を使って、濃いめの薬をどんと、渡しておきます。それと金は、うちから」
今岡は煙草に火を点けた。
「過剰摂取《オーバードーズ》ですか?」
幸三は今岡の顔をまじまじと見た。
「ええ。たぶん、あの調子なら一ヵ月もすれば冷たくなってますよ。真壁にとっても、そっちのほうがいいですよ」
「結局は、そんな道を選ばされるしかないんですかね。あのおっさんは」
「しょうがないでしょう。あの二人は、同じようなDNAを受け継いでいるんだけど、結局は、まったく違う生き方をしてしまったんですから」
「手本引きの六枚の手札と、ピッチャーが投げる六つの球種、同じようなもので才能が秀でたんだけど、まったく違ったな」
「私も高校の同級生で、同じように野球をやってたってことで括れば、真壁とは、まったく違う生き方をしてしまったんですから」
今岡は煙草の火を消して携帯灰皿に入れた。
「なんだい、羨ましいのかい? 真壁のことが」
幸三が大きく背伸びをした。
「少しはね」
小さく笑って今岡は幸三を見た。
真壁と大神の笑い声が公園に響いた。その声も、同じように低くて似ているように聞こえた。
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16  脱皮
「それで純は何と言ったんだ」
福岡ドームの隣にあるホテルの角部屋には、海の見渡せるジャグジーが付いている。幸三はジャグジーバスを満水にした湯に、ぷかぷかと浮きながら訊いた。
「それがさ、蛇男って言ったわ」
「俺のことを蛇男だって? 非道い奴だな」
「いじめっこも蛇みたいなおじさんって呼んでたわ」
「あの餓鬼たちは、まったく」
「でも子供って、おかしいよね。自分たちがテレビに映れば、純ちゃんと仲良くするって、幸ちゃんと賭けたんでしょう」
「そうだよ」
「垂れ幕の上でテレビに大映しになった瞬間に、みんなで手をつないで、喜んだのよ。単純よね、子供って」
「それで、ちゃんと仲良くなったのか?」
「なったわよ。それと、何で達夫って子が純ちゃんをいじめたのかもわかったわ」
「へー、何だ?」
幸三はジャグジーバスから身を乗り出した。
「純ちゃんが、辛子めんたいは博多の特産って言ってるけど、原材料は、博多では獲れないって、だから、辛子めんたいは嘘んこだって、言ったらしいの」
「はは、東京の餓鬼が言いそうなことだな」
「それで、あの、達夫って子の家は、辛子めんたい屋さんなのよ」
「それは、いじめられるな。馬鹿だな、純も」
蘭子は身体中に泡を塗りたくっていた。
「はは、馬鹿だな子供は。あの、達夫って餓鬼に、福岡の殺人事件の半分は、俺がやってんだ、て言うとびびってたからな」
幸三はジャグジーの泡の中に頭を埋めた。
「非道い、嘘ばっかり言って」
「なあ、蘭子。博多離れて、沖縄とか行かないか?」
幸三は手持ち型の砥石《といし》を持つと、湯に浸かったまま耳這刀を研ぎ始めた。
「どうしたの?」
「幸三って名前も変えて」
蘭子は幸三を見つめた。
「何か、疲れちまったよ。消し屋が人殺ししなかったら、疲れるんだよ」
「人殺しの依頼があったら、もうちょっと博多にいる? 私は結構、気に入ってるんだけどな」
「何だよ、人殺しの依頼って?」
耳這刀の刃に親指の腹をつんつんと当てた。
「ガチャコちゃんを殺してくれない?」
「いくらで?」
「二百五十万」
「ふーん」
「こないだ、幸ちゃん、二百五十万でホステスの女の子を消してたから、そんくらいかなって思ったのよ」
「ガチャコなら、もうちょっと安くて済むけど、やりたくねえな、そんな仕事」
「どうして?」
「面倒臭えよ」
「ちぇっ」
幸三は湯から上がって、博多湾に浮いている能古島《のこのしま》を眺めた。
「ほら、足をこっちに出せよ」
幸三が言うと、蘭子は泡だらけの足を幸三に向けて投げ出した。
「なあ、蘭子。エルビスって双子だったのって知ってるか?」
耳這刀を蘭子の脛に当てると一気に下ろした。
「へえ、そうなの。金髪を黒く染めてたのは知ってたけど」
「俺も双子だったんだ」
「へー、初めて聞いた。幸ちゃんって、弟だったんじゃないの?」
「そうだよ」
「それで?」
蘭子は太腿を剃ってくれている幸三の手元を見た。
「真壁と大神ってのは、双子みたいにそっくりなDNAを持ってたんだな。でも、少し違うだけで、こんなに変わるんだ。光と影みてえに」
「幸ちゃんは、もちろん、影だよね」
「うるせえよ」
幸三は剃った毛を自分の手の甲に泡と一緒になすりつけた。
「お兄ちゃんって何してるの?」
「殺したよ。俺の初めての人殺しは、双子の兄貴なんだ」
「ふーん、でもさあ、それでも幸ちゃんは光にはなれなかったんだね」
「うるせえよ、馬鹿野郎」
耳這刀が肌の上を滑るように動くちりちりという音に、幸三は耳を傾けた。泡の中から肌理《きめ》が細かい肌が露出する。蘭子の脛に、新しい肌が生まれてきたように見えた。
単行本 二〇〇三年一月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十八年三月十日刊