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ヒキタクニオ
ベリィ・タルト
目 次
01外苑花火
02女衒ビル
03ピグマリオン
04ベリィ・タルト
05親子
06股ぐらパワー
07|A《エース》
08平行線
09「いいな、関永ちゃん」
10臆病犬
11ショコラ・フーレ・ア・ラ・クレーム
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01 外苑花火
額《ひたい》から流れ落ちるひと筋の汗を関永《せきえい》は白いハンカチで拭《ぬぐ》った。
花火見物のために神宮外苑に押し寄せてくる人間たちの流れに逆らって関永は歩いた。
八月の暑い日でも東京の住宅街では蝉は鳴かない。地面を小さく区切ったうえに、境界線ぎりぎりまで家が建てこんでいるので蝉の行き場がないのだろう。しかし、不思議なことに、山手線の内側、所謂《いわゆる》、都心部と言われる場所には大きな公園があり、うるさいほど蝉が鳴いている。
神宮外苑は蝉の鳴く大きな空間のひとつだが、今日の外苑付近は、花火大会に向かう人の声と足音に溢《あふ》れ、蝉の鳴き声は追いやられるように影を潜めていた。
関永は歩きながら、蝉の話を思い出していた。
蝉は何年間も暗い土の中に押し込められて成長し、やっとの思いで土中から這《は》い出してきたのに、夏を満喫することもなく数日で死んでしまうのは、かわいそうである、とよく言うが、本当は蝉は、ゆっくりと寝ていたかったのではないか。適度な温度と湿度の中で土壌に含まれたエサを喰《は》み、あくせくと動き回ることもなくゆったりとした夢を見ながら過ごしていたかったのではないか。しかし、時が経つと蝉は成長し、否応無しに世の中に引き摺《ず》り出される。燦々《さんさん》と輝く眩《まぶ》しい太陽のもと、餌を求めて彷徨《さまよ》い、鳥や捕虫網に追いかけ回され、ゆっくりと眠る場所を確保することもままならない。蝉は、引き摺り出された世の中が辛すぎて泣いているのかも知れない、という話だった。
その話は誰かに聞いたか、それとも、小説の中の一部分を読んだのか、暑くねっとりとした空気に包まれていた関永の脳味噌はうまく記憶を引き出すことができなかった。
今日のように生温かい息を吐き出す人間たちが押し寄せ、夜空に狂ったような雷鳴が轟《とどろ》くと、蝉はもしかすると恐ろしさの余りショック死してしまうのではないか、と関永は蝉に同情した。
関永は不機嫌な顔を隠すこともなく、人の流れに逆行して原宿団地に向かった。関永は追いやられる蝉になるつもりはなかった。
中肉中背に短い髪、装飾品をつけていない関永の歩いている様を写真に撮って見せたなら、たぶん、人は関永のことを四十がらみの普通の中年男と思うだろう。しかし、一旦、関永が歩きだすと対向してくる人間は道を空けた。
関永が永い間暮らしていた関東の筋者の世界では、こんな状態のことを『臆病犬』と呼んだ。
関永の身のこなしや目配りに、薄草色の麻のスーツに開襟シャツという涼しげで大人しい格好の中に収まりきれない危険な匂いを感じるのだろう。人間に大昔から備わって、日々薄れてしまった危険を回避する能力を、関永と擦れ違うことで人はおぼろげながら思い出す。それが『臆病犬』と言われるものだった。
露店を出しているトウモロコシ売りやカキ氷売りは関永を見つけると頭を下げ、テキヤが頭を下げているのを目敏《めざと》く察した人間は関永に道を空けた。
「いらっしゃい、セキエイさん。また、不機嫌な顔してんね」
住人の堺が冷えたビールを差し出した。
「しょうがないだろう、うちのビルの屋上だと花火のカスが降ってきてあぶないんだよ」
「近すぎるってのも問題だね」
「おまえのところが一番楽に花火が観られるからな」
堺は原宿団地の一棟の最上階を二部屋続きで持っている。東京オリンピック頃に建てられた分譲の団地の外壁は老朽化しているが、堺の部屋に入ると二部屋の壁をぶち抜き、杉板を敷き詰めた空間が広がる。
「どこからやってくるんだってくらい人が集まってきてるでしょう?」
「ああ、気味の悪い格好した奴がな」
「どこに売ってるんだ、そんな服ってやつだね」
「ひどい浴衣だったな。浴衣の裾にスリットが入ってるんだぜ、ミニ丈になってるのもあったな。ふざけたことに背中にハート形に穴が開いてるのもいたぜ。そいつらが浴衣にサンダル履いて、地下鉄の出口からぞろぞろと湧いてきてたよ」
「何年かに一度、着物屋がトチ狂ったように若者向きに、そんなインチキなものを出すんですよ」
「生地なんて、浅草の仲見世で外人のお土産用に売ってるようなペラペラの紙みたいなんだぜ。あんな薄気味悪い出来損ないの金魚を見せられるこっちの身にもなってほしいな」
「相変わらず口が悪いね。今夜はうちにもいろんな奴が来ますけど、文句言わないでくださいね」
「ああ、四十近いおまえの長髪にも文句言ってないだろう。どうせ、おまえのところに来るような奴らはまともな奴じゃないから、文句言ったって切りがないだろう」
「非道《ひど》いこと言うね。セキエイさんだって人買い≠セろう」
「おまえなあ、そんな下品な言葉を使うなよ。二十一世紀にもなって人買いなんて言い方は死語だぞ」
関永は空になった缶を堺に投げた。堺は缶を受け取ると笑いながら新しいビールを差し出した。
陽が暮れていくうちに人が部屋に集まりだし、堺が関永に気を使って流していたクラシックを客が勝手に七〇年代のロックに替えた。花火が始まる頃には曲は七〇年代ロックからテクノやトランスに変わっていった。単調な電子音が間断なく続く重低音のリズムは、思ったよりも花火に似合っていた。関永は窓辺のソファーに座ってビールを片手に花火を眺《なが》めた。
「ねえ、煙草ちょうだい」
しだれ柳が綺麗に散った余韻を楽しんでいた関永の肩を若い女が叩いた。
「なんだ、おまえ。堺のところの人間か?」
「サカイって誰?」
「この部屋の住人だよ」
「知んない。チョーいい場所があるからって連れてきてもらっただけー」
「そうか、悪いけど俺は花火を観てるから、向こうに行ってくれ。ほら、煙草ならやるよ」
関永は封を切っていない煙草を若い女に投げてよこした。
「感じ悪るー」
若い女は煙草を空中で受け取ると、言って背を向けた。
「おい、ちょっと待て、礼ぐらい言えよ」
「サンキュウ──」
人を喰ったように語尾を上げ笑顔で答えた若い女に向かって関永は立ち上がろうとした瞬間、窓の外で尺玉の花火が打ち上がり、空気を重く揺らした。尺玉を合図に連発が始まった。
関永は喰い入るように空を見上げた。火薬の匂いが風に乗って漂ってきた。
花火が終わり窓が閉められると、部屋の中は煙草とは違う煙が充満しはじめた。枯れ草の香り、金属の灼《や》ける匂い、冷たい煙と熱い煙が混ざり合って立ちこめた。照明は落とされ蝋燭《ろうそく》に変わった。
「ねえ、あんた何やってる人なの?」
若い女が関永のソファーにドスンと腰を掛けた。
「なんだ、また、おまえか。向こうに行ってろ」
関永は邪険に若い女の肩を押した。
「どうして、そんなに感じ悪りーの?」
「帰りたいけど、帰れないんだよ」
若い女の顔も見ずに吐き捨てるように言った。
「どうして、帰れないの?」
「おまえみたいな頭の中が薄暗い若い奴が、花火観て興奮して、そこいら中を飛んだり跳ねたりしてるからな。そんなイヤーな気分になるもんを見たくはないだろう」
「ふーん、じゃあさあ。これ、ここ、触ってみて」
若い女は股上十センチほどのヒップ・ハングのジーンズを穿いている。ヒップ・ハングのジーンズは、低いソファーに座って前屈みになるとお尻の半分は出て割れ目まで見えてしまう。若い女は腰のくびれから半円状に盛り上がったあたりを指差した。
「いいよ、そんなもん、触らなくて」
関永はしかめっ面をして手を振った。
「触ってみなよ。ほら、こうやって」
若い女は振っている関永の手を、自分の腰に回すように腕を引っぱった。
さらりと乾燥した滑るような肌の感触が関永に伝わった。
「スルスルする?」
楽しげに持ち物を自慢する子供のような女の表情に関永は思わず「ああ、スルスルするな」と答えていた。
「気持ちいい?」
「ああ、いい毛皮のコートを逆毛を立てずに触ってるみたいだ。田舎のアメリカ娘の穿くようなGパンにも、おもしろい効用があるんだな」
関永は少し皮肉を混ぜたつもりだったが、若い女はけらけらと笑っている。
「セキエイさん、楽しそうじゃない。その子、セキエイさんとこの子?」
腰に手を回している関永の様子をうかがっていた堺が声をかけてきた。
「違うよ。どっかから紛れ込んできたみたいだぜ。住人のおまえのことも知らないみたいだし、もうちょっと、人の出入りのチェックはしといた方が長生きできるぞ」
「そうっすね」
堺は素直に頭を下げた。
「おい、堺。そこの蝋燭をちょっと取ってくれ」
関永はグラスに入った蝋燭を受け取ると、若い女の顔に近づけた。オレンジ色の炎に照らされた顔が浮かび上がった。
「この位置で蝋燭を持っていてくれ」
グラスを堺に持たせ、関永は煙草を一本取り出した。
「瞳を動かさないで俺の額のあたりを見てろ」
若い女の顎を人さし指と親指で掴《つか》み固定し、眼科医のような手つきで煙草を水平にして顔に近づけた。興味深げに瞳を動かしていた若い女は、言われるがままに顔を覗き込む関永の額を見つめた。
「セキエイさん、何やってるんですか」
堺は一緒になって若い女の顔を覗き込んでいた。
「瞳と瞳の間の長さと、鼻の長さを計ってるんだ」
「煙草でですか」
「何センチってのを計ってるんじゃなくて、バランスを見てるから煙草でいいんだよ。瞳と瞳を結んだ線を底辺に鼻の突端を頂点にした逆二等辺三角形が出来上がるだろう。この逆二等辺三角形の底辺と高さの比率が重要なんだ。高さは短い方がいい。それと、顔全体に占める逆二等辺三角形の割合が大きければ大きいほどいい」
関永は若い女の顎を動かして横を向かせた。
「鼻筋は高すぎないこと、三角形が険しくなるからな」
煙草を縦にして鼻の先に当て、吸い口を顎に合わせる。
「こいつの鼻は鼻の突端が少しだけ上向き加減になって、この部分だけ高くなってるだろう。だから、煙草を縦にして、鼻と顎に渡してくっつけても唇が煙草に触れるか触れないくらいの位置にある。これがバランスのいい口許《くちもと》のラインだよ。額は横から見て丸みを帯びたカーブを描く」
関永は若い女の顔を正面に向けた。堺はまじまじと顔を眺める。
「おまえ、歳はいくつだ」
「十七」
「名前はなんていうんだ」
「リン」
「あだ名じゃなくて、本当の名前は何なんだ」
「本名だよ」
「どんな漢字を書くんだ、勇気凜々の凜か」
「カタカナ」
「なんだそりゃ、変わった名前を付けられたな。親はどうしてそんな名前を考えたんだ?」
「うん、読んだことないけど、ひとりぼっちのリン≠チてマンガの主人公の名前なんだって」
「あはは、そんな漫画が俺のガキの頃にあったなあ。暗い競輪の漫画だぜ、それは。これはお誂《あつら》え向きだ」
室内に響く重低音を跳ね返すような勢いで関永は笑い続けた。
「リン、おまえ、アイドルになってみないか」
関永はリンの顔を見据えた。
「えっ?」
リンの瞳は、揺れる蝋燭の炎を映している。
「この部屋にいる奴らは、今どきの若者な格好してるけど、まっとうな仕事で飯食ってる奴らじゃないのは感じてるよな。おまえだって、こんな場所にまで紛れ込んでくるんだから」
リンは頷いた。
「じゃあ、俺が道玄坂で声かけて、田舎の姉ちゃんをアダルトビデオや風俗に引っぱるスカウトじゃないってことがわかるな」
「うん、水商売のスカウトにも見えないよ」
関永が立ち上がるとリンも立ち上がった。
「堺、帰るぞ。この子が煙草を吸い始めたら取り上げろ、肌に悪いからな。それと、こいつはうちで預かるかもしれないから、この部屋にいるまともじゃない奴が言い寄ってきたら、うまく捌《さば》いてくれ」
堺は笑いながら「オッケー」と言った。
「じゃあ、やる気があるなら、うちに来な」
関永は名刺を取り出して見せるとリンのヒップポケットに押し込んだ。リンがあっけにとられていると、関永はおもしろくもなさそうに部屋を出て行った。
道で声をかけてきたサラリーマンに買わせたプリペイド式の携帯電話の通話残量も残り少なくなっている。リンは財布を出して中身を確認する。紙幣はなく銀色の硬貨一枚と銅色の硬貨が数枚あるだけだった。堺の部屋を出る前に電話を借りればよかったと、後悔した。電話をすることは諦めて転がり込んでいるアパートに向かった。
原宿から渋谷寄りの裏通りに建つ木造モルタルのアパート。1K、ユニットバス付きの小さな空間に八万円という値段を払い続けることに何の異常も感じていない住人は、まだ部屋に帰っていなかった。
ドアを開けると夏の熱気を含んだ空気がむっと溢れ出してきた。リンは窓を全開にした。窓の下には小さなドブ川をコンクリートで覆った細くて長い公園が続いている。ペンキの剥げたブランコに乗ったカップルがリンを見上げた。
この部屋の住人の洋子は南青山の美容室で見習いをやっている。美容師見習いの給料では家賃を払うことのできない洋子は、両親から援助してもらっている。おかげでリンは一円も払うことなく居候をさせてもらえた。
洋子は金を受け取ることはしなかったが、リンにとっては気持ちが引く行為が金銭の代償だった。洋子は手を握って寝ることをリンに要求した。たまに男を部屋に泊めてリンを追い出すことと、初めての一人暮らしで恐いと言っていたことで安心していたが、どうも洋子にはバイセクシャルの気があるのではと、リンは疑っていた。
夜中に寝苦しくて目を覚ますと、様子を窺《うかが》うように大きく開いた洋子の目と鉢合せすることがあった。洋子は微笑んですぐに目を閉じてしまうが、いつの日にかは微笑が消えて近づいてくるのだろう、とリンは感じている。
部屋の隅に置かれた卓上式の電動グラインダーをリンはテーブルの上に設置した。スイッチを入れると円盤状の砥石が回り始める。美容師用の鋏《はさみ》の刃を砥石にそっと当てると、線香花火のような小さな火花が散った。リンは口を真一文字に結んで、腕を固定してゆっくりと刃を砥石の上で滑らせる。
明日の夕方までに五本の鋏を研ぎ上げなければならない。
リンの唯一の収入源である鋏研ぎの仕事を始めて一カ月になる。家出中のリンにできる仕事の中では結構気にいっていたが、美容室が休みの火曜日に仕事が集中するのには閉口していた。
三本目の鋏を研ぎ終わると夜中になっていた。煙草を取り出して火をつける。ひと口吸う。思い直したようにリンは煙草を消した。ヒップポケットから皺《しわ》くちゃの関永の名刺を出し、ぼんやりと眺めた。
いままでに道を歩いていて何枚の名刺を貰っただろうか。一番多いのがホステスのスカウト、次が風俗、そして、写真を撮らせてくれとモデルを頼み込むフォトグラファー。あからさまにアダルトのスカウトをしてくるのはほとんどないけれど、ホステスのスカウトをしながら女の子の状況を見てアダルトに変更してくるスカウトはたくさんいた。リンの財布の中身を見透かすのかホストや化粧品のキャッチセールスは声をかけてはこない。
研ぎ上がって油を薄く塗った鋏の刃を名刺の端に当てる。ツーと刃が力を入れることなく紙に喰い込んでいく。そして、三ミリの帯になって名刺から切り離された。
リンたちのような道をうろうろする女の子は、釣堀で泳いでいる魚のようなものなのかもしれない。
クリーニングに何年も出していなさそうな不潔な皺の寄ったスーツのスカウトマンに乗せられて行った友達は多くいた。十六歳でキャバクラに潜り込んだのがばれて、親が迷惑料と言われるきつめの金銭を脅し取られた者もいる。半年も水商売に染まると、金の臭いを振りまき始めるのだろう、ホストが群がり、あっというまに金と身体を毟《むし》られ、風俗に墜ちていく友達もいた。モデルからアイドル予備軍の事務所に移った友達とは音信が跡絶《とだ》えたままになっている。テレビや雑誌で一時期は顔を見たが、近頃はさっぱり見なくなった。
テーブルには数本の白い帯が散らばった。余白のほとんどがなくなり三分の二ほどの大きさになった名刺は、釣られて水商売を始めた友達がくれた角の丸い小さな名刺のようになった。
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02 女衒ビル
「小松崎、DVDの普及率ってのはどのくらいなんだ?」
クリーム色のソファーに深く腰を掛けた小松崎が関永を振り返った。
「そうですね。ゲーム機がDVDになってるのと、レンタルビデオ屋の大手がDVDのレンタルを始めて大分普及してきていますが、まだまだ、ビデオには及びませんね」
「DVDってのは色が綺麗なんだろう」
関永は机の上に足を投げだし、爪をやすりで磨いている。
「関兄、見たことないんですか。この部屋にも置いてありますよ、DVDのデッキが」
「そうだったのか。知らなかったな」
「この間、DVDソフトを置いておいたんですけどね。DVDの画質はまあまあですね。磁気テープじゃないんで劣化しないってのが最大の特徴です。電器屋はレコードがCDに替わったようにビデオをそうしたいようですけど」
「じゃあ、アイドルのDVDってのも無駄な産物だな」
「そうでしょうね。アイドルは三年もてば良いほうですから意味ないですね、劣化しようが」
「じゃあまた、ここぞとばかりに何でも商売にしてしまえっていう電器屋のパターンか」
「DVDのプログラムはまだ高いですけど、プレス一枚の原価はビデオの五分の一程度ですからね。ビデオぐらい売れるとおいしいですよ」
「電器屋もいろんなこと考えるな」
関永はのけ反ってデスクチェアの背を押しながら背伸びをした。プラスチックと金属の綺麗に噛み合う音が、ハマー製のデスクチェアの接合部分で、微かに響いた。
ノックの後に社長室の厚い樫材のドアが開いた。
「社長にお目にかかりたいと、若い女の子が来ていますけど。どうしますか?」
夏だというのに、ウェストの締ったかっちりとしたスーツを身に着けた吉沢がパンプスのかかとを白いリノリュウムの床に響かせて部屋に入ってきた。
「どんな女だ?」
「リンと言えばわかるって言ってるんですが、それがあられもない格好をした娘《こ》で……」
吉沢は染めていない銀髪を少し傾げた。
「ああ知ってる。でも、吉沢さんがあられもないっていうのはどんな格好なんだ?」
「はあ、お臍どころか、お腹が丸見えの格好ですね」
「そうか、腹を下しそうな格好ってことか。リンなら知ってる、通していいぞ」
吉沢と入れ替わりにリンが部屋に入ってきた。
「アイドルになりにきたよ」
吉沢のいう格好とは、花柄のスカーフを頭に巻き、タンクトップというよりビキニの水着と言った方が当たっているトップ、限界ぎりぎりの股上までローライズした七分丈のヒップ・ハングのパンツを履いているリンにはぴったりな言葉だった。原色がちりばめられた布地と肌の境目が妙に生々しく、まるで羽根を毟られかけた孔雀のように見えた。
「これはまた、すごい格好してるな。リン、それがおまえの精いっぱいのおしゃれか」
「そんなことないよ」
リンは胸を張ったが、本当のところは何時間も考えてコーディネートした格好だった。
「俺が子供の頃に見た昼間のホステスが、カーラーを巻いた頭にそんなスカーフを巻いてたな。それで小犬を抱いてパーマ屋に通うんだ」
関永と小松崎は顔を見合わせて笑った。
「何で、笑うんだよ」
リンは唇の下をへこませた。
「悪い悪い。おまえには流行《はや》ってて新鮮に見える格好でも、俺たちの記憶にあるのはホステスのおばさんなんだよ。俺にはどう考えても、そのスカーフの内側にはプラスチックの赤いカーラーが何個も巻いてあるような気がするんだよ」
小松崎は顔を下にして笑っている。
「カーラーなんかしてない!」
リンはスカーフをとって髪の毛を両手で大仰にぐしゃぐしゃにした。
「そっちの方が、イギリスの不良の子供みたいでいい。そんな頭がいいな。ところで、リン。何でおまえはアイドルになりたいんだ?」
「お金を稼いでマンションが買いたい」
「ほう、貧乏な親のためにマンションを買ってやりたいのか。殊勝な考えだな」
関永は一人掛けのソファーに腰を降ろした。
「違う。一人で住む家が欲しいんだ」
「何だ、おまえ。家を出たいのか」
「もう、出てるよ。自分のお金で買ったアタシの家が欲しいんだよ。今は友達のところに居候してるから」
「男のところに転がり込んでるのか」
「女の友達だよ」
「別に、そんなもんは男でも女でもいいんだよ」
「本当に女だよ」
「それで、仕事は何をやってるんだ」
「鋏研ぎ。美容師の鋏を研ぐんだ」
関永と小松崎はまた小さく笑った。
「そんな仕事じゃ、マンション買うのに百年ぐらいかかりそうだな」
「超安《チヨヤス》、びっくりするぐらい超安」
「それはそうだよ。美容室の払うみかじめ料だからな、そんなもんは」
「みかじめ料って、何?」
「そんなことも知らないで、街で子供が一人っきりで生活しよってのか。みかじめ料ってのはやくざが脅し取る用心棒代のことだよ。用心棒っていっても守ってなんかくれない、ただの場所代を払えっていうタカリのことだ。現金だけ取ると犯罪になるだろう、商品を介在して金を要求するんだよ。飲食店ならおしぼり、喫茶店ならリースの絵画、大きな店なら観葉植物ってな。何で美容師って職人が自分の道具を自分で手入れしないんだよ。それも、おまえみたいなバイトが研ぐんだぜ、馬鹿な話だ」
「でも、一緒に住んでるのは美容師だけど、店で一括して出してくれるって……」
「店もひでえことしてるな。そんなもんは従業員の給料からさっぴいて、みかじめ料払ってんだよ」
「そうなんだ。いくらで業者は店におろしてるんだろう」
「そんなことは知らない方がいい」
「業者はアタシたちからグラインダーの貸し賃も取るんだ。超汚いよ。あんなグラインダーなんか安売りしてるのに」
「もしも、おまえが欲だして業者を通さずに一人で鋏研ぎの仕事を店に取りに行ったらとんでもなく非道い目に遭ってたんだぜ。調子に乗ると痛い目に遭うな。業者って言ったって皮剥いだらやくざだから」
リンは小さく舌を鳴らしてソファーに座った。
「関兄、跳ねっ返りの野良猫を拾ってきましたね」
リンと関永のやり取りを興味深げに眺めていた小松崎が口を開いた。
「ああ、堺のところのパーティに紛れ込んでいたんだ」
「相当な恐いもの知らずですね。関兄がこの前に話していた半ケツ触らせた娘ですか」
「そうだよ。どう思う、小松崎」
「そうですね……」
「何だよ、アタシを雇うのかよ、どっちなんだよ」
リンは苛立った声を出した。
「悪いね、リンちゃん。物事には順序があるんだよ。私の紹介もしてなかったからね。私は小松崎、ここの専務です」
小松崎は関永に比べて優しくリンに接してきた。抜けるような白い肌と慇懃《いんぎん》無礼な態度を恐ろしく感じた。頭を下げた小松崎に対してリンも立ち上がってお辞儀をした。
小松崎は後ろ手でドアの鍵をかけた。金属音が広い空間に響き、リンは身構えた。
「じゃあ、リンちゃん。洋服脱いで」
まるで「履歴書を提出して」というような日常的な声色で小松崎が言った。
リンは素早く立ち上がると慣れた仕草でナイフを取り出した。小さなフォールディング・ナイフの刃は輝きながら二人の男たちを威嚇するように向けられた。
「嫌だよ! こんなところで二人がかりでヤラレルなんて」
関永と小松崎は顔を見合わせた。そして、大笑いした。
「何だそれ。リン、ヤラレルなんてよ、どこから仕入れた情報なんだ。まったく付き合ってる友達が悪いんだな。俺たちは商品に手を出すようなチンピラじゃねえよ」
リンはナイフを下ろさない。
「それにしても、綺麗に研いであるナイフだな。でもなあ、リン。その研ぎかたじゃあ、角度が出にくいんだよ。それくらいのナイフを研ぐ砥石は、こっちのほうがいいぞ」
関永がポケットを開いてリンに見せた。金属の塊が微かに覗いている。目を凝らした瞬間、小松崎がゆっくりとした動作で腕を掴んだ。びっくりして小松崎を振り返ると、関永が視線の反対側からすっと近づいた。動きは遅くても力は強く、親指の付け根をぎゅっと押さえられると簡単に手が開いてナイフが床に落ちた。
「綺麗だけどちっこいナイフだな、リン。こんなもんで身を守っていたのか。普段は肉球の内側に収まって、いざというときには飛び出す爪ってことか」
関永はナイフを床から拾い上げるとロックリリースを外して刃を納めた。
「リンちゃん。私たちは身体を確認したいんだよ。身体検査だと思えばいい」
「でも嫌だ。恥ずかしいじゃん」
「恥ずかしいだと!」
悪びれた様子もなくソファーに座ったリンに関永の怒号が飛んだ。
「アイドルってのはな、楽しくもなんともないときにでも笑顔が出せるんだぞ。垢臭いガキの前で思ってもないようなこと喋って、どんなに気味の悪いガキとでも、にっこり笑って握手するんだ。俺にはそっちのほうがよっぽど恥ずかしいぜ。無理にとは言わない。俺たちの前で洋服を脱ぎながらシナを作って笑えとは言ってない。そんなことが恥ずかしいのなら帰りな。向いてないから」
関永と小松崎はリンのことを見ている。怒号は低く重かったが、二人は眉根を必要以上に上げたり、恐い顔をして見ているわけではない。でも、そこがリンにとっては恐ろしいように感じた。このまま帰ろうと思った。
リンが黙って座ったままでいると、関永と小松崎が目配せをした。テストの臭いがした。中学校の頃、職員室に呼ばれ教師に寄ってたかって怒られているとき、何人かの教師は試している目をしていた。それは味方をしてくれる人間だった。一カ月で退学になった高校では、そんな目をした大人はいなかった。みんな呆れて蔑《さげす》む目だった。目の前にいる二人は待っている目をしていた。
リンは二人を見返して覚悟を決めた。
「じゃあ、脱ぐよ」
誰もいない脱衣所で洋服を脱ぐように、リンは一枚一枚乱暴に剥ぎ取った。
全裸になったリンの手を関永が掴み、反対側の乳房に小松崎が顔を近づけた。リンは賭けをするような気持ちで目を閉じた。
「やっぱり、寄せて上げてやがったな。小松崎、これじゃ、巨乳では売れないな」
「関兄、これで充分ですよ。巨乳はツブシが効かないですし、この顔だったらこれぐらいがベストでしょう」
「そうか、変に細工しないほうがいいかもな」「それより、このお尻ですね。脊椎に比べて腰骨が後ろに付いているでしょう」「ほんとだな」「これがいいんですよ。ヒップ・アップの形です。もう一センチ筋肉を上げれば三、四センチは脚が長く見えます。さっきリンちゃんが履いていたようなローライズが似合うから、今どきの体型ですよ」「そうだな、ガリガリに痩せて垂れたケツの女があんなもん履いたって似合わねえからな」「これぐらいじゃないと。女の子に人気のでるお尻かもしれませんよ。セルライトもないし」「セルライトって何だ?」「肉割れですよ。急に体重が増減して脂肪が山脈みたいに皮膚を盛り上げるやつです」「ああ、あれか、そういえばないな」「ありがたいですよ。セルライトを消すのは大変ですから」「|入れ墨《タトウー》とかボディピアスは入れてないか」「ないですね、ほくろも染みも見当たりません」「覚醒《ポン》剤喰ってるかもしれねえから注射器《カイキ》の跡を探せ」「腕にはないですね」「足の先から一緒に静脈追っていくぞ。おまえはそっち側な」「やっぱりないですね」「わかんねえぞ。昔の女優とかは跡隠すために肛門に打ったっていうからな。ケツの穴調べるか」「まあ、その必要はないんじゃないんですか、この肌質からしたら、そんなハードなことやってるようには見えませんよ。吸引も有機溶剤もやってませんね、たぶん」「そうか、じゃあ、顔いくか」「そうですね」
「リン、口を大きく開けてみろ」
関永は口の中に指を入れてきた。濃い煙草か葉巻きを吸っていたのか、苦くてイガラっぽい味がリンの口腔に広がった。
リンは声に出して「ウエー」と言った。
「もう、服着ていいんだよね?」
「ちょっと待て、リン。よし、虫歯もないみたいだな。おい、小松崎、あれ持ってこい」
小松崎は頷くと、サイドボードから体重計を取り出して置いた。
「リンちゃん身長は?」
「百六十一センチ」
体脂肪計付きの体重計に慣れた手つきで入力する小松崎は医者のように見える。
リンは息を吐き出し、そっと金属盤の上に乗る。
「おもしろいね。どんな女の子でもそうやって、そろりそろりと体重計に乗るんだね」
屈《かが》んでリンを見上げていた小松崎は言った。
液晶の数値は体重四十六キロ、体脂肪率一九%と表示した。
「まあまあ及第点かな。どう思う、小松崎」
「そうですね。あと脂肪三キロ落として、筋肉を五百グラム程増やすか。脂肪を二キロ落として筋肉を締めるかですね」
「どう違うんだ?」
「売り方によって変わりますけど、スポーティで生命力のありそうな感じだと前者ですね。後者ははかない感じになります」
「よし、売り方が決まったら、おまえにまかすよ」
「わかりました」
小松崎はリンに向き直ると腿《もも》を触った。
「リンちゃん。近頃は夜になると街をうろうろしてるだろう」
「うん。どうしてわかるの」
洋子の手を握って寝るのが嫌で、ここ一週間は外にいた。ぼんやりと道に座っていると、飯にありつくこともあるけれど、それだけ目を血走らせた男たちに声をかけられるリスクも多い。リンはぐるぐると街中を歩いていた。
「太腿の前の部分が張ってるからね。これは走った脚じゃない、それと日焼け止めを塗ってないのに陽に灼けてないからね。綺麗な白い肌だ」
と言うものの小松崎の肌は、リンの肌よりも透明感のある少しだけ青みがかった肌だった。
「よし、服を着ていいぞ、リン」
関永は、ヒップ・ハング用にローライズに股上を短くした横長のショーツをつまむと、不思議そうに眺めてリンに投げてよこした。非道いと思ってリンが睨《にら》んでも「しゃがんでもパンツが見えないようになってんだな、これだと。みんないろんなこと考えるんだな」と、関永は新商品の感想を述べるだけで、女の子の下着を手にしている興奮も、それをわざと抑える気負いも感じられない顔だった。
下着をつけ、脱ぎ散らかした衣服を手に取る。ふと視線を移すと、二人の男たちはリンをそっちのけで語り合っている。
「おい、リン。字は書けるか」
「書けるよ。当り前じゃない」
「そうか、じゃあ、履歴書を書いてくれ。でもなあ、リン。日本の識字率は一〇〇%に近いっていうけど、たまにいるんだぜ、読み書きできないのが」
天板に何も載っていない机の引き出しから履歴書とボールペンを出してリンの前に並べた。リンは床に腰を下ろしてソファーの前の低いテーブルに置かれた履歴書に取り組んだ。
二人の男はじっと手許を見つめている。小学生の頃の書き順のテストを思い出した。どんな奴と付き合っているんだ、なんて言うくせに字が書けるかというのは馬鹿にしている、自分たちこそ、どんな人間に文字を書かせてきているんだ、とリンは憤慨していた。
「おー、ちゃんと書いてるな。字が書けなくてもウチは馬鹿にしないんだけど、これだけ書ければ大丈夫だ」
関永は履歴書を取り上げると、声に出して内容を読んだ。
「賞罰なし、趣味空欄、特技空欄、家族構成、母一人子一人か、うーん、親父は離婚か死別か」
「離婚……」
「そうか、アイドルになる要素充分ってところだな」
「父親がいる場合は、タクシーの運転手ってのが多いパターンですね」
「リン、実家はどこなんだ?」
「下北《しもきた》」
「なんだ、街の子じゃないか。家を出てここいらに住んでるのなら、俺はてっきり、田舎から東京に憧れて出てきた奴だと思ってたな。わざわざ貧乏して、ここいらに住まなくてもいいのにな。そんなに嫌か家が」
「まあね。下北も嫌いだし」
「下北って若い奴らには人気があるんじゃないのか?」
「他所者《よそもの》ばっかし」
「おまえみたいなのでも、地元意識ってあるんだな」
「関兄、テリトリー意識は若い方が強いんじゃないんですか」
「そうか、そう言えば、子供の頃はそうだったな。ここいらも俺がガキの頃は住宅街と時代の先端を走る大人の衣料メーカーがあるくらいで、同じ歳ぐらいの他所者が道を歩いてたら裏に連れ込んで、とんでもない目に遭わせてたな。でも、どうした弾みか全国区の盛り場になってきて、他所者が大量に押し寄せるようになると、もう、対処できなくなった。住んでいる者の方が強かったはずなのに逆転されてきたものな。他人の場所に入り込んで、勝手きままに振る舞って、まずくなったらさっと消えてしまう。そんなのが次から次と入れ替わるんじゃ、やってられんな」
リンは関永をじっと見ていた。そんな昔話を聞きに来たんじゃない。裸にまでなったのに、このテストには合格したのか、それが早く聞きたかった。
「小松崎、この目がいいんだ」
関永は顔を睨んでいるリンに近づけ、眉間に指先を触れさせた。リンは顔を反らし、より強く睨むと、指先の触れた部分に縦の皺が入った。
「ええ、関兄が今年の初めから言っていた一重|瞼《まぶた》の大きな目ですね」
「そうだよ。珍しい形だ。リン、おまえは親のどっちに似たんだ?」
「パパ」
「そうか、いい男なんだな。母親は一重瞼か」
「ううん、二重瞼」
「変だな。確率から言うと一重なんだけど、まあ、そういうこともあるか。リン、おまえの瞼は変わってるんだよ。一重のくせに瞼に脂肪が少ないんだ。脂肪が少ないと皺が寄って二重になるんだけど、おまえのは皮だけのような薄い瞼が、ぎりぎりのところで一重を保ってるようだ。おまえ、徹夜して遊んだりすると二重瞼になるだろう」
「なる。細かい皺で五重ぐらいになる」
「そうか、瞼で二つのことがせめぎ合ってるんだな。じゃあ、二重にならないようにケアしとかないとな」
関永が小松崎を見た。
「瞼ですね。脂肪が少なくて薄いだけに、保湿に気を使わないといけませんね」
「考えといてくれ」
ということは、私は合格しているの! リンは眉間の皺を緩めた。
「この三白眼の目もいいんだ。小松崎の目も三白眼だけど、深い皺の二重瞼だから目のアウトラインがかくかくした白人っぽい印象になる。ところがリンのは一重瞼の大きな目だから丸みのあるアウトラインをしてる。それも上下をひっくり返しても大丈夫なシンメトリだからな。アーモンド・アイを持つ東洋人の匂いがしてくる。作り物じゃできない目だ」
「白人っぽいハーフはモデル止まりですからね」
「俺が最初見たときは、蝋燭の炎の中だったから気が付かなかったけれど、自然光の中で見ると白眼の部分が青みを帯びてるな。写真やブラウン管では表し切れないけれど、面と向かって話す相手には効くだろうな」
「白眼の部分の青みを保つのは、ちょっとやったことないですね。調べておきますよ」
小松崎はリンの目をまじまじと覗き込んだ。リンはまた眉間に皺を寄せた。
「ねえ、そんな話ばっかで、アイドルにしてくれるんじゃないの? 雇ってくれないの? 試験は合格なの? わざわざ裸にしてアダルトとかじゃないの? 本当にアイドルなの?」
堰《せき》を切ったようにリンの目と口は動いた。
「どうしたんだ、おまえ。結構短気なんだな。俺たちは騙してなんかないぜ。そんな、おまえみたいな子供騙すような貧乏臭いことはしないの。そうだったらこのビルの二階の会社に連れていくよ。そこがアダルトと風俗の担当だから」
リンの興奮した様を関永は楽しんでいるように見えた。
「リンちゃん、児童福祉法違反っていうのは、ハイ・リスクでロー・リターンなんだよ。わかるかな」
「わかんない」
「おまえ騙していくらか稼いだとしても、割に合わないぐらい高い刑罰が待ってるってことだよ。未成年者は法律で守られてるからな。ここを出て、その足で警察に飛び込んで『無理やり裸にされました』って泣き付いてみろ、あっという間にパトカーが何台もやってきて俺たちの腕にはガシャンと手錠《わつぱ》がはめられる。おまえの裸を見たばっかりに懲役くらうんだ。高いストリップだぜ。だから、そんなことはしないんだよ」
「ちゃんと契約するから、心配しなくてもいいよ」
小松崎の優しい口調は一貫している。
「ほら、契約書だ。ここにおまえの名前を書け。住所はおまえの住民票のあるところ、たぶん、下北沢だろう、そこを書いてくれ」
ボールペンを握って、リンは一字一字を丹念に書く。縦書きで自分の住所と名前を書くなんて何年ぶりかのことだった。曲がらないように神経を使い書き進め、最後になってボールペンが止まった。住所の数字の書き方がわからなかった。二人の男が手許を覗き込んでいる。馬鹿にされたくないと思い、封筒や手紙の宛名を書いた記憶を蘇らせた。
書き終わった契約書を関永が摘《つま》み上げた。関永は少し笑うと、びりびりと大きな音を立てて契約書を二つに引き裂いた。
「何するんだよ……」
リンは見上げた。もしかすると住所の縦書きを間違えていたのかと思い、言葉の勢いも尻すぼみになった。
「よく見てみな」
二つに裂かれた契約書をテーブルに戻した。
「間違ってたの?」
「ほら、ここになんて書いてある。リン、読んでみろ」
指差した部分に目をやる。リンは関永をまた見上げ、睨みつけた。
「アダルトビデオ出演の契約書だ。簡単なことなんだよ、おまえを騙すことなんて。信用しろと簡単には言えないが、妙な知識は捨てて俺たちの言うことを素直にきくんだな」
「うん」
「返事は、ハイだ」
「ハイハイ」
「ハイは一回でいい」
関永が睨むとリンは小さな声でハイと一回だけ言った。新しい契約書を小松崎が用意してテーブルに置いた。
「リンちゃんは未成年だから保護者の同意書が必要なんだ。これが同意書。それと、こっちが契約書。これは後でよく読んで、それから署名してくれればいい。内容でわからないことがあったら私に質問してくれたらいい」
切り裂かれた契約書とは紙質も書体も違う契約書を手に取る。枚数も多く、見慣れない漢字が並んでいたが、リンは眼を輝かせて文字を読んだ。
「本当にアイドルになれるんだね」
「ああ、免許も許可証もないからな。なったと宣言すればなったんだ」
リンは自分を幸福にする切符を手に入れた気持ちだった。
「六カ月だな勝負は」
「どういうこと?」
「アイドルで芽が出るかどうかは、六カ月でわかるってことさ。その契約書も六カ月の期限だ。おまえが笑いながら更新するか、こっちの破れたぺらぺらの契約書に署名するか」
「がんばるよ」
「そんなことは当り前だ。誰でもがんばるさ。でも博打《ばくち》だからな、がんばりゃいいってもんでもない。企画会議を重ねて売り方を検討して売れるってほど甘くない。どうして売れるのかってことは予測はできるけど、最後のところは誰もわかってない。結果でしか判断できないんだ」
「よく、わからないけど」
「まあ、そのうちに、いやっというほど味わわされるだろうよ」
リンは目を真っ直ぐにして聞いていた。関永は確かにリンの方を向いているのだが、焦点は合っていない。
リンを見ると言うよりも、リンの皮膚から五センチくらいのあたりを眺めていた。六カ月後には確実にそのあたりの空気の密度は変わっている。靄《もや》が立ち込めたように密度が高まり、皮膚の輝きを乱反射させ、見る者の目を吸引するのか、それとも、ばさばさに乾き切り、何の吸引力もない霞んだ空気の層に変り果てているかもしれない。
関永はいまのリンの様子を記憶に刻み込んだ。
「本当に、今日からでもここに住んでいいの!」
事務所より五分ほど千駄ヶ谷方面に歩いた場所にあるマンションの部屋で、リンは壁に響くような陽気な声を上げた。
「そんな大きな声は出さないの、女の子なんだから。この部屋は会社の持ち物で、ここにある物は全て会社の備品ですからね。大切に扱ってくださいね」
「オッケー」
「返事はハイでしょう」
吉沢も関永と変わらないぐらいの恐い顔で言った。ここまで歩いてくるだけで、背筋を伸ばしなさいだの、腰を振って歩いてはいけないだの、いくつも注意を受けた。しかし、「そんなにお腹が丸見えの服はやめなさい。これからはお金を取って見せるようになるのだから、お金を払う側の人たちに悪いでしょう、ただで見せては」と言われたとき、学校の風紀の先生の注意とは違うものだと思った。
「いま住んでいるところから荷物を持ってくるのに車は必要? 誰か男の人頼みましょうか?」
「ううん、手で持ってこれるぐらい」
「じゃあ、一人で大丈夫ね。それと、これ三万円。日用品を買いなさい。買うときは領収書を書いてもらってね。化粧品とか身体に付けるものは後で、ちゃんとあなたの肌質や髪に合ったものを小松崎さんがセレクトするから、このお金で変なもの買わないでね」
「シャンプーとかも、買っちゃ駄目なの?」
「夕方に小松崎さんが美容室に連れて行くから、そこで買うでしょう」
「三万円も何を買うの?」
「お釣りは持っていればいいけど、おこづかいじゃないんですからね。あなた、肌は弱いのかしら?」
「別に普通」
「じゃあ、インド綿のパジャマを買ってきなさい」
「そんなの、どこに売ってるの」
吉沢は電話の横にあったメモ用紙を取ると店の地図を書いた。入ったことはないけれどリンがよくうろついている道に面した店だった。
「じゃあ、私は帰りますから、夕方までに用事を済ませて会社に戻ってね」
「ハイ」
鍵を手渡すと吉沢は帰って行った。ドアが閉まるとリンはジャンプしてベッドに飛び込んだ。六畳ほどの小さなワンルーム。ユニットバスも小さく、台所には電気のコンロが一つはめ込まれただけの簡素な造りだけれど、生まれて初めて誰に気がねすることもない空間を得たことをリンは喜んだ。夜中にうろうろすることも、気を使って部屋の隅で小さくなっている必要もない。
ベッドの上で大の字になった。喜びは安堵に変わり、疲れ切った旅人が、やっとたどり着いたホテルのベッドで眠りにつくように、リンは軽い寝息を立て始めた。
「小松崎、名前はどうする」
関永は窓の下に広がる神宮外苑の緑をぼんやりと眺めていた。
「リンはそのままでアリだと思いますよ。上はどうしますかね」
「本名だと、何かとまずいからな。いい名前を考えてくれよ」
「わかりました。まあ、売り方が決まれば自然と名前も浮かび上がってきますよ」
「それが問題だな、どう思う?」
「顔も身体も充分に合格です。化ける可能性はいくらでもあります。どんな売り方でもできますね。子供の癖に世間を知ってるようですから、器用になんでもこなせそうですし、清純派のカワイ娘《こ》ちゃんもやれるでしょう。すっとした美人も仕込めばできます」
「背が異様に小さいとか、少し片寄っていてくれたらな、消去法が使えるんだけどな」
「関兄はあの娘のどこに引っかかりを感じたんですか」
「やっぱり、目だ。でも、それじゃあ、当り前過ぎて特徴とは言えない。細くてもでかくても、どんな形の目でもアイドルの売り物は目だからな、それだけで押すわけにはいかないからな」
「第一印象は目でしょうけど、初見のときは、他に何か感じませんでしたか」
「そうだ、あいつなあ、俺にケツを触らせたんだ、自分で俺の掌を引っぱって。Gパンの半ケツのところを」
「そうらしいですね」
「不思議なのは、リンがどうして俺のところに擦《す》り寄って来たんだろうって。邪険に追い払っても擦り寄ってきたんだ」
「こづかいくれるとでも思ったら、一回擦り寄って、脈がないならもう来ませんよね」
「ああ、金を出す奴は部屋には何人かいたからな。見る目ねえな、このガキって最初は思ったよ」
「もしかすると、関兄のことを別の視点で選んだのかもしれませんよ」
「どういうことだ」
関永はソファーに座った。
「可愛い顔した娘《こ》って、結構苦労するらしいんですよ。私たちから見れば顔が可愛いってことで優遇されそうですけど、実情はそうでもない。学校とかじゃ年上の同性から目の敵《かたき》にされやすいんですよ。同級生なら気性が強ければどうにかなるでしょうけど、一つか二つ年上ってのはキツイんですね」
「それは、男だってそうだな。目立ってると呼び出しとかかけるからな」
「可愛いって噂になるような女の子って、そういうとき、学校の中で一番強そうな男を選び出して付き合うんです、守ってくれますからね」
「ほう、うまい方法だな。先生に言っても無駄だし、母親に言ってもな」
「自己防衛本能っていうんですか、そんなもんが発達するんじゃないんですか、リンちゃんみたいな娘は。家出して、そこいらでウロウロしていると、街は危険でいっぱいですからね。守ってくれる強い男を嗅ぎ分けるのに長《た》けてるかも」
「今日一日で寝ぐらを確保したからな。もしかして、俺のことを知ってて擦り寄って来たとしても、それはそれで使える頭を持ってる」
「街中で生き残る野良猫ですね」
「パリの地下鉄にいる女の子のスリみたいだな」
「東欧とかから出稼ぎしてきてるロマーノの子供ですね。フランスだからですか、いやに可愛くてお洒落な格好してましたね」
「いいじゃないか、それ。野良猫の習慣《ハビツト》だな。リンは素地でいってみるか」
「健気《けなげ》に生きている野良猫ですよ」
「それだな。そして、ターゲットは二十代後半から三十代の女」
「どういうことです、二十代後半から三十代の女って」
「はは、一人暮らしのねえちゃんが会社の帰り道で野良猫の頭とか撫でてるじゃないか。あれは健気に思ってるんだよ。あの感覚だよ。二十代後半から三十代の女が応援したくなるような野良猫じゃないか、リンって」
「マスカキ小僧は、ほっといてもついて来ますからね。それはおもしろいかもしれないですね」
小松崎が言うと、関永は笑った。
株式会社マージン・ハウスが五階にあるビルは、関永がバブルが終焉《しゆうえん》を迎えるどさくさに乗じて手に入れたものだった。
所属していた組織が大手に吸収合併された機会に独立し、土産と称して塩漬けになったままで手を焼いていたビルを半分無理やりにぶんどった。そして、ゆっくりと時間をかけて解凍して所有権を移した。
「外苑前第三ビル」と当たり障《さわ》りのない名前が付けられ、所有者をぼかすために第一第二もないのに第三とナンバリングされているが、陰では「女衒《ぜげん》ビル」とか「人買いビル」などと呼ばれている。二階は、水商売や風俗関係のスカウトの元締めの会社「東和興業」、三階は、アダルトビデオ女優やレースクイーンを派遣する会社「ピジョン・エンタープライズ」、四階は、雑誌やカタログなどやショーには出られなくて、チラシに出るモデルを扱うモデルクラブの「キャズ」が入居している。
五階にある「株式会社マージン・ハウス」の社長室でぼんやりと関永は過ごしているが、「東和興業」「ピジョン・エンタープライズ」「キャズ」も本当のオーナーは関永である。
外苑前第三ビルには階ごとのヒエラルヒーが存在している。
上の階に登って契約をする者も、下の階に落ちていく者もいるが、相撲取りの番付のように階が違うとまったく扱いも変わる。ビルに出入りするほとんどの女たちは、自分の所属する階の世界しか知らない。
二階の東和興業はエレベータの使用は禁止されている。街で釣られた女たちは、ここで容姿や性格をチェックされ見合った店に派遣されていく。派遣とはいうものの実情は売られて行くのと変わりがない。何故なら、東和興業に出入りする女たちのほとんどは、支度金として金を借りる。契約書でつながっているのではなく、借用書のつながりである。店を変わりたいとか、店とのトラブルの相談にも乗るので何度も出入りする女たちはいるが、ほとんどの場合、髪を茶色に染めてウェストを絞った薄汚れたスーツのスカウトに釣り上げられた世間知らずの女たちだった。
ここ五年ほどで、東和興業の業績は薄利多売ができるということで、すっかり安定した。上京してきた女の子たちのアルバイトの職種に、水商売と風俗というのが認知されたのだろう。水商売に対して、キチガイ水を売るなどと言われていた時代のことなど、まるで意に介さない女たちにとって、水商売の仕組みや因習は昔と変わりはないのだけれど、頭の中ではニュー・ウェイブの仕事になっている。
ニュー・ウェイブとは言っても、勝手に新種になっただけで、水商売の歴史や異常体験によって女たちは金銭感覚を麻痺させられる。ここで、足を洗う者も多くいる。結婚したり地元に戻ったり、元々、水商売をやり続ける素質があるわけではないだけに、迷い込んで来た者たちは、戻るのも早い。若いときにちょっとした冒険を経験したつもりでいる。
そして、次の段階に進む者たちが現われる。アダルトビデオや風俗店のように、性を扱う場所に身を移して来た女たちには独特の羞恥心がある。
背の高いの低いの、優しい娘や底意地の悪い娘、恐ろしく頭の良い奴や、まるっきりの馬鹿。様々な容姿、性格、頭脳と一定の基準は明確にはない。しかし、薬物に染まって沈められる女たちは別にして、明確ではないけれどおぼろげながら浮かんでくる特徴が性風俗の女たちにはある。
羞恥心は誰にでもある。しかし、その女たちの羞恥心の有り様は違う。見ず知らずの男に抱かれ、大勢の目の前でも股を開くから羞恥心がないと言っているのではない。露出狂やニンフォマニアの女が自虐的な行為の中から快楽を盗みとるために体を開くのとは違う、とアダルトビデオの面接をしてきた男や風俗の技を教える調教師は言う。彼女たちに、羞恥心を抑え込んでしまう奇妙な母性本能のようなものを感じ、「性風俗の女たちは男たちが射精することを母親のような気持ちで見守っている」らしいと言う。しかし、関永はそう聞いたとき、即座に反論した。
組織に属していた頃、債権《きりとり》がらみでぐるぐる巻きにして女たちを風俗に沈めた。泣きわめき諦め生き地獄に墜ちていく。背筋が冷え切ってしまう仕事だった。
墜ちていった女たちにそんな気持ちを抱くのは、自分たちのやってきた仕事の残酷さを薄めたいという気持ちが働くからだ、と関永は吐き捨てた。
「いや、女たちは変わってきてるんです」と関永の投げ捨てた言葉を調教師は投げ返した。
人の心が読める超能力者が風俗店に行って、女の心の中を覗いてショックを受けた、なんて話はおとぎ話でしかない。現代なら苛酷で嫌でしょうがない仕事は、いつでもやめられる。何の問題もない家庭に育った女の子が有名になりたいと言って、アダルトビデオに出演する。人さらいにあって、いやいややらされているわけじゃなく脚を広げる。女たちは変わってきている、と調教師は自信満々に言った。
底辺で女衒をやり続けてきた男たちの言葉は、関永にざらついた後味を残した。
二階から四階までの利益を吸い上げて五階の株式会社マージン・ハウスは成り立っている。関永にとって、二階から四階に出入りする女たちは日常の金を産むためのもので、五階の女たちは非日常だった。金に余裕のある人間が趣味と実益を兼ねて競走馬を買うようなものである。
人間を使った博打ほどおもしろいものはない、と関永は思っている。
マージン・ハウスで契約をしているのはリンの他に女優の卵が二人と、煮ても焼いても喰えないような顔と性格を持ったジャズ歌手だった。
女優の卵の二人は劇団に所属して、マージン・ハウスから月々わずかな援助を受けている。関永にとっては育てるというより、種を蒔いて発芽するのを待っている状態だった。死なない程度に金を与えて飼い殺しにしていると、人間はもがき始める。女優はもがけばもがくほどおもしろくなる、と関永は考えた。大きく援助を与えると土の中で種は腐ってしまう。
ジャズ歌手のミエとは義理でマネージメント契約をしている。関永は博打の要素は何も期待をしていない。楽器演奏者ならともかく、神様の領域まで届くような声を持っていない限り、日本で歌だけで食っていくことは不可能に近い。ネイティブではない日本|訛《なまり》の英語でスウィングできるわけがない。
もし、ミエが神様の領域まで届くような声を持っているのなら、たぶん違うジャンルの歌を唄っているだろう。それほど、不遇で見捨てられたジャンルであるのに、ミエは巧みな人間関係を駆使してどうにか食いつないでいる。CDの売り上げなどなくても、ミュージカルの脇役を一公演こなせば百二十万ほどの出演料になり、ライブハウスでライブをやれば、入場料の六割は手にはいる。そのどちらの仕事も、歌のレベルが同じぐらいなら、誰がやっても差のないもので、ここでミエの人間関係の巧みさが発揮される。
ミエのような人間が敏腕マネージャーになるだろうと、関永は歌を諦めて趣味にしてくれる日を待っている。
リンが住み始めた部屋は、半年前に結婚してやめたグラビアアイドルの玲奈《れな》の部屋だった。玲奈はこの部屋の風呂場で二度、リスト・カットした。
一度目の時は、救急車を呼ばずに、関永が懇意にしている美容整形外科医を叩き起こして縫合処置させた。契約して三カ月、まだアイドルとしてやっていけると踏んだ関永は、最小の針と極細の糸を使って丁寧に縫わせた。傷はほとんど残らず手首の皺と同化した。
二度目は一年半後だった。グラビアアイドルのB級をうろうろしていると、どうしても裸に剥かれる時が来る。うまくかわすか、覚悟を決めるか、嫌ならやめとけという関永の助言にも玲奈はきっぱり「やる」と宣言した。しかし、撮影のために海外に出発する前夜、玲奈は風呂場で湯に浸かりながら手首を切った。関永と小松崎が異変に気付きドアチェーンを切断して助け出したが、湯に浸かっていただけに出血はひどく、バスタブに溜まった湯は深紅でとろみさえあった。
玲奈のグラビアでのアイドル生命は絶たれ、マージン・ハウスはギャラの五倍に相当するペナルティと撮影経費のキャンセル代を支払った。
リスト・カッターのイメージを拭えない玲奈を受け入れてくれる場所はアダルトビデオぐらいしかなかった。玲奈は仕事がないのをいいことにマージン・ハウスとの契約が切れるまで遊び狂った。次の落ち着き先を結婚と決めて見切りを付けていたのだろう、遊びの果てに見つけた婚約者を連れて関永の前に現われた。
玲奈の地元と同じ静岡で事業を手広くやっている青年実業家と称した男は、小松崎の辛辣な質問の末に、地元のヤクザが企業舎弟にやらせているカジノバーを三軒手伝っているにすぎないことが露呈した。
玲奈とマージン・ハウスとの契約が切れ、部屋の明け渡しに関永と小松崎は立ち合った。玲奈は婚約者とその配下らしい若者を連れて現われた。虚勢を張っているのか、婚約者は若者に強い言葉で命令していた。汗だくになりながら荷物を運んでいる若者は、サイズのまったく合っていない濃紫色のスーツに坊主頭、黒いエナメルの靴に白いソックスという格好だった。
重低音に改造したホーンを軽く鳴らして玲奈を乗せた車が走り去った後、関永と小松崎はどっと疲れてしまった。疲れを紛らわそうと饒舌《じようぜつ》になった二人は玲奈のこれからを予想する賭けをした。
元アイドルを手に入れた男は有頂天になる。疲れ切っていた玲奈はゆっくりと療養するように生活する。しばらくは幸せに暮らすが、ささいな事件が起こる。他人の二人が一緒に暮らす上で事件が起こらないはずはない。それは、夫の浮気疑惑や親戚付き合いのトラブルなど苦労すれば乗り越えられるたぐいの事件だ。静養十分で元気を取り戻した玲奈は平凡な生活に飽きてくる。朝起きて体重計に乗る、太りやすい体質の玲奈の体重は急上昇を始めている。鏡に映った顔は輝きを失い曇って見える。些細な事件や小さな不満が澱《おり》のように静かに堆積していく。フラッシュがたかれ、カメラマンの褒め言葉を全身に浴びていた日のことを思い出す。些細な事件や小さな不満は満杯に近く、ちょっとでも揺らすと溢れ出そうになっていく。手首の傷跡を恐ろしく感じる。そして、受話器を取り上げ、マージン・ハウスに電話をかけるだろう。マージン・ハウスと再契約できないかという打診が二年の間にあると賭けたのは小松崎で、それ以降と賭けたのは関永だった。
関永が電話してきてほしくはないなと言うと、小松崎は、約二年B級のアイドルやってたんですよ玲奈は、そのくらい、当り前の顔して悪びれもしないで電話してきますよ、と笑った。
たぶん、小松崎の言うとおり玲奈は電話をかけてくるだろう。一度スポットライトを浴びる快感を体験したものは、簡単には蛍光灯の下での生活に満足できない。ましてや、リスト・カットを繰り返して現状を打破しようとする方法を憶えた人間は臆面もなく欲望を追う。
リンは寝ぐらを与えられ大の字になって昼寝して、玲奈がリスト・カットして鮮血に染まった風呂にゆっくりと浸かって、すっきりした顔で夕方にマージン・ハウスに戻ってきた。そして、美容室で磨き上げられるためにリンは小松崎に連れられて行った。
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03 ピグマリオン
免許を持っていないことで右翼に脅されたカリスマ美容師がいる美容室は、暗くなっても見物がてらの長い行列ができていた。
その美容室の並びに、看板も何も出ていない蔦《つた》の鬱蒼《うつそう》と絡まった四階建てのビルがある。リンは今までに何度もそのビルの前を通っていた。まったく自分に関係のない建物だと思って注意したことはなかったが、ドアの前に立つと、リンは小学生の頃に、このビルを見た記憶があるのを思い出した。南青山を歩いている記憶の端に、いつも違和感を持ってこのビルが存在していた。石造りの外壁の沈んだ灰色と蔦の深緑で、その一画だけは南青山に昔からある神社かお寺のように見えた。
重そうな木製のドアは来訪者を拒絶している。小松崎は古いインターホンを鳴らして名前を告げた。
ドアが開いて案内の男が顔を出した。エントランスに招き入れられると景色は一変した。床は黄色味がかった大理石が敷かれ、四階の天井まで続く吹き抜けの壁は漆喰で塗られ、等間隔に幾何学模様のレリーフが埋め込まれていた。
吹き抜けの中心部には、大理石や漆喰の白が反射する光を全て吸い尽くすような黒鉄《くろがね》色の螺旋《らせん》階段が、塔のようにそびえ立っている。リンは圧倒されるように小さな声を漏らして塔を見上げた。
案内の男は裸足だった。足音がまるで聞こえない男の後ろについて螺旋階段を登る。リンの履いているゴム底の靴が鈍い不様な音を立てた。前を行く小松崎の靴音は、革底で木のかかとなのに乾いた金属音を響かせている。
三階まで登るとドアが開いた。
「いらっしゃい、小松崎ちゃん。あら、セキエイちゃんはどうしていないの?」
背筋を伸ばした男が微笑んで立っている。男の顔はどのようなことをしたらそんなになるのか、と思えるほど色艶が良かった。ゴディバのミルクチョコレートの乳脂肪を五〇%ほど増量したぐらいの薄茶色で、肌の表面はしっとりとした輝きを放っていた。
リンは高級鞄店のショーウィンドウに飾られた鞣《なめ》し革のバッグを思い出した。男は大理石の床にすっくと立って飾られているようだった。
「すいませんね。関兄は片付けなければならない仕事で」
「嘘おっしゃい、ひまなくせに。また、私を避けてるのね。終わったら来るように電話しておきますから」
男はリンに微笑むともう一度、いらっしゃい、と言った。廊下に並んだドアの一つを開けると、リンの肩を抱えるように部屋の中に誘った。
リンは居候していたワンルームよりも広い個室の美容椅子に座った。椅子の前の壁には高さ二メートルはある鏡がはめ込まれている。
「どうも、リンちゃんね。美容室JINの仁《じん》です、よろしく」
仁は鏡越しに軽く頭を下げた。リンもぎこちなく頭を下げる。
「小松崎ちゃん、電話で聞いていたけど、実際に見るといいじゃない。セキエイちゃんの考えてる売り方が把握できたわ。それでいきましょう」
仁は鏡越しに小松崎と話している最中でもリンの髪をいじっている。
「仁さんにおまかせしますよ」
「私はヨーロッパの地下鉄《メトロ》で、何人のロマーノの子の手を殴ったことか。屈託のない可愛らしい顔してるけど、スリをしながらストリートで生きてるのよ。でもね、いいのよあの子たち、健気で胸が締めつけられる思いがしたわ。リンちゃんもいいわよ、鋏研ぎの仕事だなんて健気で、頭も靴下もルーズな娘じゃないみたいだし。リンちゃん、私の言う通りにできる?」
「はい」
鏡に映ったリンに向かって仁は満足そうに頷いた。
JINに来るまでの道すがら小松崎に散々脅されていた。
返事は必ず「はい」ということ、わざとらしく「お願いしまーす」なんて可愛らしく言ってはいけない。好みのうるさいオカマだから、下手に喋って怒らせると大変だから、聞かれたことだけ簡潔に答えろ。怒らせたら、裸にされて表参道の一番目立つところに逆さに吊り下げたり平気でやるからな、と小松崎は真面目な顔で言った。
リンは小松崎の言葉をそれほど深くは考えていなかったが、JINのドアを開けた瞬間に圧倒された。日常の世界から一気に別世界に迷い込んでしまった気分だった。案内人が裸足でヒタヒタと登る螺旋階段は、遊園地のどんなアトラクションとも違う恐怖心をリンに植え付けた。仁を見たときは、もし、この世に鬼がいるとするならば、こんな感じなんだと思うほど足がすくんだ。小松崎に言われるまでもなく、猛獣の前に出された小動物のように、リンは小さくなっているしかなかった。
ドアがノックされ、男が道具を満載したワゴンを押して入ってきた。ワゴンをセットすると仁と同じように髪をいじった。この男も裸足だった。
「ねえ、小松崎ちゃん。リンちゃんの髪の毛を漆黒に染めようと思うんだけど、どうかしら?」
仁は振り返って言った。
「漆黒の黒髪ですか……」
「リンちゃんの髪って細くて毛の量が多いの。だから漆黒が映えるのよ。プレスリーって元々は金髪だって知ってた? あれって黒に染めてるのよ。リーゼントは細い毛で毛の量が多くて黒いと一番綺麗なのね」
「リーゼントにするんですか?」
「馬鹿ね、たとえよ。リンちゃんの場合は、髪の根元を大きめにウェーブをかけて、毛先は反対側に跳ねさせるの。後頭部にボリュームを持たせて、前から風を受けて毛先が斜め上に跳ね上がる感じね」
「おまかせしますよ、仁さんに」
「悪くいえば、私たちの歳ぐらいの人間が見ると、あなた、ちゃんと髪に櫛をいれなさい! 朝起きたまま来たでしょう!って頭だけど、大丈夫?」
「大丈夫です。やってください」
小松崎が頷くとリンの了承もなく作業が始まった。裸足の男が入れ替わり立ち替わりリンの頭に群がりいじり回した。途中、何も食べていなかったリンの腹の虫が大きく鳴り、仁のお手製クッキーと紅茶で休憩を入れた他は、一瞬たりとも裸足の男たちは手を休めることはなかった。
無駄な作業と無駄な待ち時間、くだらないおしゃべりがないので一時間を少し過ぎたぐらいでセットの手前までの作業は終わった。
セットとメイク・アップの道具が満載されたワゴンが運び込まれた。ソファーで小松崎と話していた仁が立ち上がった。
仁はリンの髪を手櫛と少しのオイルで仕上げ、小松崎を呼んだ。
「こういうことか、いいじゃないですか、仁さん」
「ね、清潔な戦災孤児みたいでいいでしょう。靴磨きやったり、シケモク集めたり、カッパライで生き延びてるのよ」
「『おじさん、靴磨かせておくれよ』って言いそうですね」
「小松崎ちゃん、あんた三十代でしょう、よくそんなこと知ってるわね」
「モノクロームの映画ですよ。こんな子が健気に生きてましたよ」
「そう。でもね、ここから、この子がメイクで変わるのよ。女になっていくの。それも、女になるかならないかの途中ね」
仁はリンの顔にベースを塗った。
「コンシーラなんていらないのよ。染みや黒ずみを消す必要がないからね。リンちゃんの場合は隠すんじゃなく育てるメイクなのよ」
リンと小松崎が仁を見た。仁は見上げているリンの腕をとると、二の腕の内側の部分を高く上げてリンの顔に近づけた。
「ほら、二の腕の内側の色と顔の色が同じでしょう。二の腕の内側の色が本来その人が持っている皮膚の色なのよ。若いっていいわね、くやしくて殺したくなるくらいよ、リンちゃん」
仁はリンの二の腕の内側をつねった。痛さで叫び声を上げそうになったが、仁の光る目を鏡越しに見て声を出すのを必死に堪えた。
「本当はベースもいらないの、これはUVカットみたいなものね。もちろん、チークもいらないわ。発展途上の肌だから」
裸足の男たちも仁の後ろで頷いている。
「お肌の曲がり角は二十五歳っていうでしょう。あれは恐い言葉、勘違いしてしまうわ。二十五歳までは若いから少々無理をしてもいいんじゃないか、そのかわり、二十五歳からは気をつけようって大概の人は考えるの、でもそれは違うのよ。お肌は二十五歳まで成長を続けているってことなのよ。わかる、リンちゃん」
仁は目の奥を覗き込むように顔を近づけた。睫《まつげ》をぱっちりとカールさせた仁の目はきらきらしていた。目尻には小皺一つない。リンは首を横に振った。
「リンちゃんぐらいの歳で、みんな二十五歳以降にやる維持のための基礎化粧を始めてしまうの。オイルがギトギト、刺激が満載、栄養過多ね。リンちゃんの歳なら、もっとゆっくりと優しく育ててあげないと、まだまだ育つはずの肌が十代で成長を止めてしまう。六〇%ぐらいしか育たなかった肌を二十五歳から維持するのって大変なのよ、弱くてね。だから、化粧品にお金がかかるの。リンちゃんの肌はもっともっと育つのよ、スポンジが水を吸うように、栄養もいっぱい吸うから、栄養過多は絶対に駄目。二十五歳までに一〇〇%に育て上げたお肌は強靭な輝きを放つ芸術品なのよ。いまから、基礎化粧を教えるけど、毎日、やらないと駄目だからね」
裸足の男から渡されたガーゼを仁は指に巻き、化粧水を含ませた。
「肌は絶対に擦《こす》っちゃ駄目よ。素人のマッサージなんてもってのほか。日本人の肌、それも若い発展途上の肌は、とにかく冷やすの。肌が育つのって、とてもエネルギーを使うから熱を持つのよ。だから、優しく冷やしてあげて休ませるの。筋肉疲労のときだって、最初は冷やすでしょう。肌だって同じ。柔らかいガーゼに化粧水を含ませて優しく叩くのよ。化粧水は水に近いものね。栄養ではなくて温度を下げることが重要だからね」
ガーゼを巻いた人さし指と中指で仁が顔を叩く。冷たい感触が気持ちよく、肌が引き締まる。
「これを、毎日ね。たったこれだけだけど、一日も欠かしちゃ駄目。クリームみたいな油分は三日に一度ぐらい、それも肌が疲れたときに目尻と唇の端に塗るだけよ。クリームも化粧水もこっちで用意します。若いときは肌から栄養を吸収してはいけないの、身体の中から肌のための栄養を摂取するのね。変なもの食べちゃ駄目よ。まあ、食事に関しては小松崎ちゃんが管理するだろうけど」
「はい、食事と運動は私がやります。もう三キロほど体重を落とそうと思ってるんですけど、大丈夫ですかね」
「しょうがないわね。でも、ほっぺただけはへこまさないように気をつけてね。リンちゃんの身体なら、脂肪を減らすのもいいけど、もう少し筋肉を細くしてくれないかな。顔の脂肪は結構ぎりぎりに少ないから」
「わかりました」
小松崎が仁に敬愛を込めて丁重に接しているのがリンにもわかった。
「下地とファンデーションは薄く最小限度にね。これは保護のためと考えて、外に出るときは必ずすること。日常生活用と撮影用とでは違うから、最低三種類は揃えておかないとね」
仁は手早く丁寧にファンデーションを均一に肌にのせていく。
「リンちゃんの肌だとムラなく仕上がるわね。次は唇よ。リップは絶対に筆で塗ること。スティックでちょっちょって塗る癖つけちゃ駄目。筆のほうが慣れると楽だし、エッジをはっきりさせることもぼかすことも自在になるからね。そして、色は洋服との兼ね合いがあるからこれって決められないけど、明度と彩度だけは固定しておくのね。肌の色と唇の色と口の中の色の繋がりで決めるのよ。お尻の肌と肛門と括約筋の内壁の繋がりと同じね。口の中の色が一番鮮やかに見えるように、唇の彩度と明度を落としておくとセクシーなの。鮮やかなピンクの舌なんて出されたら男たちはイチコロよ。わかったリンちゃん、肌の色と口の中の色の半分ぐらいのところの彩度と明度で、口の中の色を際立たせるのよ。苔だらけの舌や不健康な青黒い歯茎になった人間には、真似できないことをやるの」
筆を使って仁は唇をつくっていく。半開きにした唇が筆の動きに合わせて左右に動き、仕上がるにつれて唇は立体的に見えてくる。最後にグロスを薄く塗って少しだけ輝きを溜め込むと、仁は筆を唇から離した。鏡に映った唇の形や動きはリンには初めて出会うものだった。まるで自分の唇でない別の生き物のように映った。
「さあ、目と眉ね。電話では聞いてたけど、本当にぎりぎりの瞼ね。上目使いになると、大きな二重になってしまうのね。保湿に気をつけてれば、どうにか一重はキープできるわ。
アイラインは上より下のラインを強めに入れて、相手の視線を下に移す感じね。そうすると三白眼を強調するわ。目尻は上げないで水平にして、目頭はこころもち下げてね。充分に大きな目だから、これ以上大きく見せる工夫は禁物ね。そして、睫はこれでやるの」
仁は小さなスプーンを取りだして睫に当てた。
「ビューラーより、スプーンの方が応用が効くのよ。ビューラーだと縦方向にカールさせるだけだけど、スプーンでやれば目頭は上に大きく巻いて、目尻は外に向かって流すこともできるのね。それで、マスカラで形を固定する。これも軽くね。がちがちに固めて縒《よ》ったりしてゴキブリの足みたいにしてる子がいるけど、あんなことしてたら毛根から傷《いた》んでしまうから、べたべたにしちゃだめよ」
上下の睫をカールさせると眼球が前に迫り出してきたように見え、三白眼の目が生き生きとしてきた。
「眉毛ね、これは悩むところね。一番つくることができるし、流行りからあんまりハズレすぎると違和感を感じるから。でも、髪の色が漆黒だから、流行りの茶系は捨てて、チャコールグレイにしようかと思うのよね」
毛抜きで抜かず小さな鋏を使って眉を整える。
「眉頭は厚めで眉骨の内側から始めて、眉の頂点は眉骨に乗るくらいね、そしてそこから耳に流すようにラインを下ろすの。なるべく眉骨を外さないようにしないとギスギスしてしまうから。眉毛は位置と形の型をつくってあげるから、それを使って練習なさい」
裸足の男が、縦八センチ、横二十センチの透明の塩ビ板をリンの額に当てた。出来上がった眉の形を慎重に描き写し、位置を決める目尻と目頭の点を記した。何度も描き直し、よく切れそうな銀色のカッターで塩ビ板をリンの眉の形に切り抜いていく。
「さ、こんな感じかな、どう、小松崎ちゃん」
刷毛《はけ》で顔の表面を仕上げ、髪をさっと整えた。小松崎はソファーから立ち上がった。
仁に促されてリンは椅子から立ち小松崎に向き直った。
小松崎はリンに生命力を感じた。リンの顔には素材を活かし切った強さがあった。まるで言うことを聞かない動物が意を決して襲いかかってくるような目の輝きだった。ナイフを抜いて振り回したときのリンの目が蘇った。
「いいですね。何も納得してないような目がいいですね」
「半端な気持ちで近づいてくる男には噛みつくのよ。リンちゃんは」
「仁さん、関兄は白眼の部分が青いのを気にいってるんですよ。これって、維持というか、保護しとかないと、途中で消えたりするんですかね?」
「そうね、この青い色があったから、私は漆黒の髪でいこうと思ったのよ。そもそも、白眼の部分が青いのは赤ちゃんの目に多いのよ」
仁はリンの顎を掴むと顔を上に向かせ、大きく目を開かせた。
「白眼は強膜っていう膜でできてるの。膜とは言っても柔らかいものじゃなくて、眼球の形を保つためにあるから構造上は腱《けん》に近い頑丈なものなのね。血管が少ない腱だから白いの。歳をとると段々と厚くなるんだけど、リンちゃんの場合はそれが薄いのよ。それで強膜の内側にある葡萄膜というのが透けて見えてるのよ。葡萄膜というのは強膜と違って血管がたくさん通っていて色素も多いのね。葡萄膜っていうくらいだから葡萄色してるんじゃないのかしら。眼球内に不必要な光を通さないような役割をしているから葡萄色のカーテンみたいなものなんでしょうね。カメラのすきまの部分から光が入るとフィルムに変な像が映り込んじゃうでしょう。強膜が葡萄膜を薄く透かすと青い白眼になるのね。うちのお客さんにもいるわよ、青い白眼のおばあさんが」
「じゃあ、染まったとか、色素の問題ではないんですね」
「強膜が薄いのは生まれつきだわ」
ドアがノックされ、勢いよくドアを開けて関永が入ってきた。リンの顔を見るなり大きな声で笑った。そして、近づいたり遠ざかったりして目を凝らして眺めている。まるで頼んでおいた玩具を息を切らして玩具店に取りに来た子供のような顔だった。
「いいじゃないか、リン。捕獲された野生の獣みたいだ」
リンは黙って関永を見ていた。
「どうした、大人しいな。わかった、チョコボールみたいなオカマが恐かったんだろう。大人しくしてて正解だったんだぞ、逆らってたら、おまえなんか喰い殺されてる」
仁が「まあ、ひどい」と明るい声を出して関永の肩を叩いた。
「いい出来だよ、仁さん。さすがだ」
「これは基本だから、ストロボ撮影のときと太陽光のときと変えるから相談してね。それとセキエイちゃん、本当にこの子と契約するの」
「ああ、そのつもりだよ、俺は」
「じゃあ、リンちゃん用のメイク・セットを用意してあげていいかしら」
「お願いするよ」
裸足の男に仁はメモを書いて指示を出した。お辞儀をして去る裸足の男の足の裏は、風呂上がりのようにまっさらだった。
磨かれたピアノのように黒光りしたメイク・ボックスを、裸足の男が恭しく持って戻ってきた。テーブルに置くと蓋を開け、中身をスライドさせ献上品のように披露した。様々な太さの筆が機能的に並び、瓶や缶がぎっしりと詰め込まれている。
「リンちゃん、これは、あなた用にセレクトしたフルセットだから、大事に使ってね」
「はい」
目を見張ってリンはメイク・セットを見ていた。
「セキエイちゃんは契約するらしいけど、あなたが中途半端に辞めたりしたら、このメイク・ボックスの請求書はあなたに回すからね。びっくりするぐらい高いのよ、これは」
「わかりました、辞めません」
リンは気圧《けお》されるように返事をした。
「いい返事ね。じゃあ、使い方を教えてあげるから、明日からこれを持ってここに通いなさい。それと、仕事のときは必ずこれを持っていくのよ。レシピを書いて入れておくから、メイクさんにこの道具を使ってメイクしてもらいなさい。ここに私の名刺を貼っておくから大丈夫だと思うけど、もしも、レシピ通りにやらなかったり、眉型を無視して自分勝手にやるようなメイクだったら電話しなさい、この業界から干してやるから」
リンには、干してやるという意味が、実際にどんなことをするのか思い浮かべることはできなかった。今日会った大人たちは、まるで違う価値観で生きているように思えた。アイドルになりに来た、と元気よく宣言した朝の自分を懐かしく思うほど、大人たちに頭の中をぐるぐると振り回されている。
「仁さんにかかったらリンも借りてきた猫だな。こいつは初めて俺に会ったとき、ケツを撫でさせて、今日はナイフ振り回したんだぜ」
「それはね、セキエイちゃん。私のことを同性の恐い人だと思ったからじゃないの。あなたたちは異性だからね。どうにか対処できるんじゃないの」
「それは言えるな、思ったより用心深そうだしな。リン、そうなのか?」
関永は少し楽しそうに訊いてきたが、リンは答えられるわけがなかった。
「あれれ、黙っちまった。それも、一つの答えだからな、まあいいや。変におべっか使うガキじゃ白けるだけだから」
リンは関永を少し睨んだ。人の気持ちの中にずかずかと土足で入り込んできて高笑いをする人間に初めて会った。しかし、太刀打ちができないと思った。自分のことをいやらしい目で見て接してくる大人は何も恐くない。若い男なんて簡単に鼻であしらえる。しかし、今日会った大人たちはまったく付け入る隙がない。笑ったりふざけたりしているけれど、じっと自分の仕草や行動を観察しているようだった。リンは自分なりに身構えていた。
「どうした、リン。何で、おまえは拳を握りしめてるんだよ。何にもしねえよ」
関永は新しく手に入れたおもちゃの動きに大喜びしているようだった。
「関兄、そう攻めたてたら、リンちゃんは何も答えられないですよ。それに、私や仁さんは今日が初見なんですから、遠慮してるんじゃないですか」
小松崎が助け船を出した。
「それもそうか。じゃあ、リン。何か訊きたいことがあれば訊いてみろ」
「どうして、みんな裸足なの……」
リンが訊くと、関永と小松崎は顔を見合わせて、押し殺したように笑った。
「座ったら何万っていうクラブのチーママみたいに、おまえは思い切って話を変えるな。オカマの特殊な感覚なんだよ、裸足ってのは」
「オカマ、オカマってうるさいわね」
仁は関永に擦り寄った。
「足音なのよ、リンちゃん。従業員は足音をさせないの」
「妙なことしてるだろう、靴の足音で客を選んでんだな。仁さん、じゃあ、俺の靴はどこのかわかるか?」
「そうね、セキエイちゃんのはイギリスかな、重いから。小松崎ちゃんの靴はイタリアの音がしてるわ」
「はは、はずれ。俺のは香港のだ。二年に一回は足型を直しに行かないと癇癪《かんしやく》を起こす中国人の爺さんの手製だ」
「香港の仕立てならロンドンと同じでしょう、当たりよ。私のはわかる? ブラジルなのよ」
鞣し革のスリッポンを脱ぎ、手で折り曲げた。スリッポンの靴底は革製なのに柔らかく曲がった。
「ブラジル! そんなところの靴を履いてんのか」
「そうよ。プロサッカー選手のスパイクを造ってるところにオーダーするの。ブラジルのサッカー選手って子供の頃は貧乏だから裸足でサッカーやってたのよ。それでスパイクを造るときも、裸足に近いように柔らかく造るのよ。だから、柔らかい靴にしようと思ったらブラジルなのね。私も本当は裸足がいいんだけど、歳なのね。しょうがなくこれを履いてるのよ。でも、これだったら、足音だけでも裸足のときと同じ」
仁はスリッポンを履くと歩いて見せた。しっとりと濡れた音がした。
「ね、裸足みたいでしょう。三十年前にこのビルを建てたとき、まさか靴を履かなくちゃいけなくなるなんて思ってもみなかったわ。足の裏と一番相性のいい石を選んだのに」
「足音で客を選ぶってのも骨の折れることだな」
「そうよ。うちにはアメリカの運動靴をきゅっきゅって鳴らすような客はいないの。あんな楽なことばっかり考えた靴を履くなんて、それも大人が。スニーカーなんて子供と運動するときに履けばいいの。あんなの足が弱った老人の靴よ。リンちゃん、明日からは、いま履いているような不格好な革靴なら下で預けて裸足できて」
「高かったのに、この靴」
顔がきつくなったかと思うと、仁はリンの足を押さえ付けて靴を脱がせた。
「高いといっても、革やゴムを接着剤で貼り付けたしろもんよ、これは。どこにも縫った跡がないの。調子に乗った靴屋が勝手な値段を付けてるだけ、あんたたちみたいな何もわかってない子供を騙して売ってるのよ。あんたたちもすぐホイホイと騙されてお金出すから、引き分けだけど」
靴を放ると、リンの素足を仁は掴んだ。
「あら、いい足してるじゃない。細くて綺麗なハイヒールが履けるわよ。いいわね、私なんて細い靴が入らないから、小指を切り落とそうかと若い頃には思ったわ」
リンは足に顔を近づけて摩《さす》っている仁を見下ろした。噛みつかれそうで、すぐに引っ込められるように足に力が入った。変態オヤジに素足を見せて一万五千円貰ったときよりもリンは危険を感じて緊張した。
青山墓地方面から西麻布の交差点を目指し、交差点にさしかかる直前で道路をUターンすると、古い建物の中華料理店がある。店の前に立つと八角《はつかく》の匂いが食欲をそそった。リンは仁の美容室を出ると、お腹がすいて死にそうだ、と関永に訴えた。
入口で蝶ネクタイをした中国訛の男が声をかけた。
「関永さんは、鼻が利《き》くね。今朝届いたとこよ」
「やっぱりな、そろそろだと思ったよ。上は空いてるか?」
中国人はアメリカ人のような仕草で両手を広げた。
紫檀の円卓が部屋いっぱいに置いてある個室に入ると、壁に染み込んだ中華料理のエスニックな匂いが漂ってくる。
ほどなくすると、ビールとリン用の冷たいプーアール茶、数種類の前菜を盛った皿を銀の盆に載せたボーイが入ってきた。ボーイはよく躾《しつけ》られた犬のような従順な眼をして、皿やグラスを並べ、関永と小松崎にビールを注いだ。そして、一瞬だけ従順な眼をほどいてリンに視線を移した。
「どうだ、この姑娘《クーニヤン》は」
関永がボーイの視線を目敏く察して言った。ボーイは親指を立てて目を細め、出ていった。リンはそんなやりとりを無視して前菜の皿に箸を伸ばした。海月《くらげ》と胡瓜の酢の物をこりこりと噛み砕き、腸詰とピータンときくらげをほおばった。
「リンちゃん、もっと噛まなきゃ駄目だよ」
小松崎が蒸し鶏の冷製をリンの皿に装いながら言った。
「だって、今日は半額マック二つと、さっき食べたぼそぼそのクッキーだけなんだもん」
「どうして、そんなものしか食べないの」
「安いから」
「だったら、自分で作れば、もっとちゃんとしたものが食べられるよ」
「料理できないもん」
小松崎はリンが前菜の皿を平らげていくのを見ながら「まあ、しょうがないか」と言った。
蝶ネクタイの中国人が満面に笑みを浮かべ、皿を抱えて個室に入ってきた。皿には藁《わら》で縛られた蟹が並べられている。
「黄油蟹です」
白い手袋を儀式のようにはめ、鋏を握ると蝶ネクタイの中国人は蟹を縛った藁を切っていく。関永と小松崎は身を乗り出すようにして手許を見つめた。藁は茹ですぎた海草のように水分を含み重そうに見えた。
蝶ネクタイは蟹の腹を開ける。蒸し上げて薄赤く変色した殻からは、想像もできない鮮やかで濃い黄色の蟹肉が現われた。
黄油蟹は、七月から八月に香港近郊で獲れる蟹で、産卵を控え身体中に油を蓄え、その油は蟹肉を黄色に染める。根元から足を折ると、断面はオレンジ色に近い黄色の肉が顔を出す。
蝶ネクタイが取り分ける前に関永が足に手を出し、根元にむしゃぶりついた。それを合図のように小松崎が味噌の詰まった甲羅を掴んだ。
リンの皿に足が二本と甲羅が取り分けられた。恐る恐る甲羅の味噌をスプーンで口に運んだ。甘い油と濃い蟹の味が広がり、口の中に染み込んでいくようだった。
「お嬢ちゃん、おいしいですか」
凝縮した味にびっくりして頷いているリンの姿を見て、蝶ネクタイは手品がうまくきまったマジシャンのような微笑みを浮かべた。
関永と小松崎は器用に蟹を解体して肉をむさぼり、味噌をスプーンですすっている。リンは横目で見て、同じように自分で足を割って食べようとするけれど、蟹足はチューチューと音がするだけで蟹肉は入ってこない。
蝶ネクタイが見かねたように食べ方を丁寧に教えた。リンは殻に割れ目を小さく縦に入れ、切り口を吸った。甘い油が絡まった柔らかな肉が口いっぱいに流れ込んだ。
黄油蟹は蒸す前に、暴れて身体の中の油が外に滲み出てしまわないように、氷水に浸けて仮死状態にする。それほど油が多い。その油は肉と殻の間を埋めて真空状態を作り、吸っただけでは肉は離れない。しかし、一度、空気を入れて真空でなくなると油のおかげで驚くほど身離れがよくなる。
コツを掴んだリンは二人に追い付くようなスピードで食べ始めた。
蝶ネクタイは皿が空くと、新しい蟹を載せた皿を持って現われた。身をこそぎとられて軽くなった殻は、乾いた音を立てて積み上げられていった。
追い付いてきたリンを小松崎が見て微笑んだ。関永はボーイを呼んで甕《かめ》出し紹興酒と、プーアール茶を追加注文した。
「リン、うまいか」
「うん」
リンは口いっぱいにほおばったまま頷いた。関永の眼が一瞬、細くなった。リンはすぐさま「はい」と言い直した。
「ちゃんとやれば、こんなものが自分の金で食べられるようになる」
「はい」
リンは蟹から手を離さない。
「リン、医学生が医者になるときに乗り越えなきゃならないことって、何だかわかるか」
関永の質問にリンは視線を送ったが、首を振るとすぐさま蟹に没頭していく。
「医学部では解剖の実習があるんだけど、それを乗り越えるのは大変らしい。人間を切り刻むって初めてのことでショックを受けるからな」
大きな眼だけを関永に向けてはいるが、蟹はリンの口に次々と吸い込まれていく。
「精神が耐え切れなくて、医者になることを断念してしまう奴が一年に何人もいるらしい。それはそうだ、人間を切り刻むんだからな。でも、それをやらなけりゃ医者にはなれない。通過儀礼みたいなもんだ。通過儀礼ってわかるか」
「わからない」
「バンジー・ジャンプの原型だな。先住民が大人になるために勇気を試す儀式だ。先住民がやるのは、足にゴムじゃなくて木の蔓を巻くから、勇気だけじゃなくて身体の丈夫さも試されてんだな。バンジー・ジャンプで身体を壊すような人間は、苛酷な自然の中では生き残れないってことさ。医学部の専門課程の最初にやる解剖が医者にとってのバンジー・ジャンプだな」
リンはプーアール茶をひと口飲むと、また、蟹にとりかかった。
「苛烈な受験勉強もしてきたし、金も時間もかかってるから、どうにかこうにか、人間を切り刻むことにも慣れてくるんだな。人間はすごいよ、どんなことにも慣れるんだぜ。でもな、半年ぐらいは飯食うときに辛いらしいんだ。リン、何が一番、食べられなくなるかわかるか」
「わかんないよ、そんなの……」
リンは顔をしかめた。
「スクランブル・エッグだってよ」
「えっ、どうして」
「人間の脂肪がスクランブル・エッグにそっくりなんだってよ。それが皮膚の下や内臓の付近に大量に詰まってるらしい。まるで、この蟹みたいにな。切っても切っても次から次へと脂肪が湧いて出るようだってよ」
「………」
投げ捨てるように蟹を置いた。ほおばっていた蟹が一瞬にして生臭いスクランブル・エッグに変わった。えずきそうになるのを堪えて飲み込んでいくと、苦しくて涙目になった。
「どうした、リン」
関永は楽しくてたまらないという顔で言った。リンはプーアール茶を口に含むと、喉が痛くなるほど無理やりに蟹を飲み込んだ。涙のいっぱい溜まった目で睨みつけた。
「なんで、そんな気持ちの悪いこと言うんだよ」
恨めしそうに声を張り上げたリンを見て関永は声を上げて笑った。
「慣れろよ、リン。何ともないぜ俺は」
関永は黄油蟹の足を掴むと、ちゅるちゅると吸ってみせた。
「人間は、おいしいものもまずいものも頭で考えて決めてるんだ。どうしても食えない物なら最初から食ってねえだろう。頭の中のイメージで嫌ったんだよ。おまえが自分で味を変質させたんだ。わかるか、リン。これから、おまえが超えなきゃなんねえことが、ごまんと起こる。もしかすると、スクランブル・エッグが人の脂肪の味がしたとしても、飲み込まなきゃなんねえようなことまで、起こるかもしれない。そんな場所におまえは足を踏み入れたんだ」
リンは黄油蟹の油がてらてらと光る関永の口元を睨んでいた。そんなことは、もうすでに充分に感じていた。
マージン・ハウスの地下の一室は有酸素運動、ウェイトを使ったパワー系の運動ができるジムになっている。
ジム内にはエアロ・バイクの回転音とリンの喘ぎ声が響いていた。中学の体育の授業で運動をした以外、街で追いかけられて逃げることか、クラブでだらだらと身体を動かすぐらいしかしていなかったリンの心肺機能は熱く膨らんで爆発しそうだった。
「リンちゃん、口で息を吸うんじゃなくて鼻で息をするんだ。あと五分、心拍数百三十をキープして」
エアロ・バイクを漕いでいるリンの顔色と心拍計を小松崎は見比べている。
朝、小松崎の電話で起こされ、重いメイク・ボックスを下げて仁の美容室に行った。仁に定規で叩かれながらみっちりと刷毛の動かし方を習い、裸足の男たちが用意したぼそぼそのクッキーと生野菜で作ったジュースを、ビルの屋上のテラスで仁と並んでゆっくりと食べた。屋上に几帳面に干された白いタオルと空の青のコントラストは綺麗だったが、ぼそぼそのクッキーに口腔中の水分をすべて奪い取られ、飲み込むのに苦労した。仁と二人っきりで並んで座っていると若さを吸い取られていくようだった。
マージン・ハウスにたどり着くと、アメリカのオリンピック選手が着るような鈍い輝きを放つトレーニングウェアを身にまとった小松崎が待っていた。着いた早々にリンは小松崎と同じトレーニングウェアに着替えさせられジムに連れてこられた。小松崎が手を添えるストレッチで身体の隅々まで筋肉と腱を伸ばされ、十回ぐらいなら軽くできそうな上半身を少しだけ動かす腹筋を、目の前が暗くなるほどやらされた。エアロ・バイクは二十分を一セットにして四セット目が終わろうとしている。
「よし、クールダウン。軽く二分、その場で歩いて」
小松崎は水の入ったペットボトルを渡した。
「もう、疲れた」
リンは掠れた声で言うとペットボトルを受け取り、喉を鳴らして飲んだ。
「文句言わない。五分休憩したら、ウェイトをやるからね」
懐中電灯をひと回り細くしたぐらいの小さなダンベルを手に持って、カチンカチンと鳴らしながら小松崎は言った。
「えー、まだやるの」
「もう少し。これでも、初日だから一番軽いメニューなんだからね。そうだ、リンちゃん、汗はかいてる?」
「もう、びしょびしょ」
「身体のどの部分にかいてる?」
「身体中よ」
小松崎は座り込んでいたリンのトレーニングパンツの裾をめくり上げ、踝《くるぶし》からふくらはぎを撫でた。
「ここにかいてないよ。リンちゃんぐらいの若さだと、相当に新陳代謝がよくて血行もいいだろうから、ここまで汗が吹き出るはずだよ。ここがさらさらってことは、まだまだ運動が足りないか、運動不足で血行が悪くなってるってことだね。はい、立って」
ダンベルを持たされたリンは、まるでボクサーとトレーナーのように小松崎と呼吸を合わせながらウェイトトレーニングを消化していった。
一時間半、へとへとになるまで身体を動かし、シャワーを浴び、メイクをして五階に上がると、吉沢が背筋を伸ばして待っていた。
「さあ、リンちゃん。これからは、日本語の発声と発音の勉強です」
吉沢はアナウンサーのような口調で言った。
十人ほどで会議ができるように長い机がしつらえられた部屋に入ると、吉沢から『日本語の発声と発音』という題名の一冊の本を渡された。新しい本は教科書と同じ匂いがして、リンの気を滅入らせた。
初日ということで、吉沢は発声法や呼吸法のような身体を使う訓練はやらず、リンの声の質を把握するために時間を費やした。
外科医の使う薄いゴム手袋をはめた吉沢の手が、遠慮なくリンの口の中をまさぐった。ゴムの味が広がり、リンは何度もえずいた。施したばかりのメイクは涙と汗で流れ落ちた。
「へばってたか。リンは」
スーツに着替え終わった小松崎に関永が訊いた。
「久しぶりの運動ってことで相当に。でも、若いから大丈夫でしょう。それに、リンちゃんは赤色筋肉が多そうですから」
「赤色筋肉? 何だそれ」
「持久力に優れた筋肉ってことで、脂肪を効果的に燃焼させるんです。基礎代謝がいいもんで、一日の消費カロリーが高いんですね。コンビニ飯やファスト・フードのような高カロリーの粗雑な食い物しか食べてないのに太ってないのは、そのせいだと思います」
「そうか、それはいいな」
「効果が出るまでこのまま続けます。隠れて物を食べたり、運動をさぼらないように厳しくやりますから」
「じゃあ、問題は、リンの喋り方だな」
「若者訛が随分とありますからね。アーティキュレーションもイントネーションも一から叩き直さないといけませんね。張り切ってましたよ吉沢さん、腕の見せ所だって」
「うわ、きついからな、あのおばさんも。また、ゴム手袋か?」
「用意してましたよ」
関永は込み上げてくるえずきを我慢するように喉を押さえた。
「やり過ぎて、劇団員みたいなしゃべりになったらまずいから、おまえ、ちゃんとチェックしとけよ」
「了解。若者特有の喉を絞めた死にかけのアヒルみたいなしゃべりを取って、リンちゃん自身のが出てきたら終わらせますよ」
「頼むぜ。若者訛を直すために、劇団四季の新入生みたいな腹から地鳴りのような声で話す劇団訛を付けられてもこまるからな。何だったっけ、ヴォーチェ・デデって」
「関兄、ヴォーチェ・ディ・ペットですか、胸から声を出せっていう。そこまでは、やりませんよ。とにかく、リンちゃんが自然に話せるようにしますから」
「ああ、それがいい」
口の中に広がっているはずのないゴムの味を消すように、関永はコーヒーを飲んだ。
毎日、訓練と運動の繰り返しだった。リンは自分がこの世界に向いているのかいないのか考える余裕もないほどに疲れ切った。
小松崎は「仕事が入ってくれば、慣れて自信もついてくるよ」と言ったが、リンにはまるで暗闇の中を走っているような気分だった。
リンの雑誌デビューは、リンの体重が一キロほど減った頃に決まった。一ページのグラビアだったが、リンは嬉しくて飛び跳ねた。同時に芸名も『吉川リン』に決まった。どうして、吉川という名に決めたのかとリンが訊くと、関永は、思いつきだよ、と素っ気なく言った。
初めてのグラビア撮影は、まるで幼稚園のお遊戯のようだった。カメラマンは子供をあやすような喋り方で接してきた。カメラマンが「可愛いよ」を連発していくうちに、リンは阿呆らしくて微笑めなくなった。これが関永の言った、楽しくもなんともないときにでも笑顔を見せる、という恥ずかしさなのだとリンは実感した。
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04 ベリィ・タルト
リンの母親の絵里子は、短めのスーツの脚を組み替えた。たぶん、その仕草は絵里子の仕事をしているときの術《て》であるのだろうと、関永は見透かした視線を送っている。
リンについての関永と絵里子の話合いは、まったく噛み合わず平行線をたどり一時間は経っていた。
訪問販売の化粧品会社の営業副部長と肩書きが書かれた絵里子の名刺と、横に座っている増田という男の主任と書かれた名刺がテーブルに並んでいる。絵里子と増田は上司と部下という関係以外にも親密という関係がありありと見てとれた。
柔らかいパーマをかけた歳下の男に援軍を求めたのだろうが、増田は関永と小松崎を前にして萎縮していた。
「親の私にひと言の断わりもなく、事務所に所属するなんて、私は納得できませんよ」
絵里子は「わたし」ではなく「わたくし」と自分のことを呼んでいる。化粧で誤魔化してはいるが整形だとわかる大きな二重瞼と「わたくし」という言い回しが、関永には気味の悪いものに思えた。
「お母さんを無視して契約しようとは思ってませんよ。げんに保護者の同意書を娘さんに渡してるじゃないですか」
「リンが同意書を持ってきましたが、私は破り捨てました」
破られた同意書をリンはテープで貼り合わせて持ってきた。
問題を多く抱えた母娘の関係だと関永は思った。離婚して女ひとりでリンを育てるのは大変だったろうが、絵里子はリンにとっては母親ではなかった。リンが小さい頃は着せ替え人形のように着飾らせ、成長すると友達のように振る舞った。
絵里子は新しい男のことを、まるで女友達のように小学生のリンに相談していたらしい。母親の恋愛話は思春期の女の子にとって生々しくて気味の悪いものだっただろう。
「新しい同意書を用意してありますから」
小松崎がテーブルに同意書をすっと差し出した。絵里子は同意書を無視した。
「とにかく、連れて帰りますから」
「連れて帰ったところで、また、娘さんは家出しますよ」
「そんなのあなたには関係ないでしょう」
「娘さんは自分の意思でここに来たんですから、家出してまたうちに来るでしょうね。そして、またお母さんが怒鳴り込んでくる。同じことの繰り返しですよ」
関永が言うと、絵里子は少し首を振りながら、大きくため息を吐いた。わざとらしい仕草だった。
呼ぶまで五階には上がってくるなと関永に言われ、リンは地下のジムでエアロ・バイクを漕いでいた。有酸素運動に身体が慣れ、考え事ができるようになっていた。
友達は「リンちゃんのママは若くていいよね」と言ったが、風邪をひいて寝ているときにそばにいてくれる母親の方がいいに決まってると思った。
普通の家庭というのがどんなものかよくは知らないが、遠足のときにデリカテッセンのランチボックスを持って行くのは普通ではないと気付いた。それからは学校の行事が嫌いになった。
会社ではキャリアウーマン、家庭では友達、母親の姿はどこにもなかった。怒るときだけ、たまに母親が顔を出した。
「どうして、パパと離婚したの」というリンの問いに、絵里子は「パパのことは大好きだったけど、ママが外で働くことをどうしても許してくれなかったの。ママは、これからは女性も自立していないといけないと思うのよ。だから、リンちゃんも協力してね」と答えた。そのとき、リンは頷いたが、ちょっと勝手だなと思った。姉妹と間違われるような服を着て、友達のように振る舞う母親を疎ましいとリンは思った。
「結構、近くにいたんですよ、娘さんは。ちゃんと、探しましたか」
絵里子の吐いたため息に対して、関永は嫌味を混ぜた。
「私は私なりに探しましたし、あなたたちのようないかがわしい人に心配される筋合いはありません」
横に座っている増田がびっくりしたような顔で絵里子を見た。
「いかがわしいねえ。それはお母さんが小学生の娘さんに芸能プロダクションのオーディションを受けさせていた頃の経験から、いかがわしいと思ってるんでしょうかね。うちはオーディションの受験料を取って稼ぐようなことはしてませんよ」
「そんなことまで知ってるんですか。手練手管でリンからあることないこと聞き出して。相手は、まだ子供ですよ」
絵里子は憤慨して言った。
関永は手練手管でリンから話を聞き出したわけではなかった。
絵里子の現われた前日、テープで貼り合わせた同意書を手に持ってリンは会社に戻った。声を出さずに泣きながら同意書を握り締めていた。リンは悔しそうな顔でぶちまけるように心の中を関永に対して吐き出した。
話し終わって少し落ちついたリンを、関永は六階の自宅に招き入れた。
エレベータを降りた場所から黄色味を帯びた大理石の床が広がっている。
「あっ、仁さんのところと同じ床だ」
リンが屈んで床を掌で撫でた。
「そうだ、同じ床だ」
靴のかかとを関永は重く鳴らした。
「関永さんも足音で差別するんだ。仁さんと同じ趣味だね」
リンは仁のところでするように靴とソックスを脱いで素足になった。
「同じ趣味じゃねえけど、あのオカマは俺の親父だ」
真ん丸になった目をリンは関永に向けた。まじまじと見ると、関永にミルクチョコレートをかけると仁に近づくかもしれないと思った。
バターのようなしっとりとした色合いの大きなソファーにリンは座らされた。壁にはヘラクレス甲虫を一匹、ピンで留めた状態で描いた天井までとどく大きな絵が掲げられている。ワンフロアをすべて見渡せる空間には生活臭を漂わせるものは何一つなかった。
「オカマの部屋みたいか」
トマトジュースをテーブルに置いた関永にリンは首を振った。
「俺は親父みたいにゲイじゃない。性的にはストレートだよ。ただ……」
「ただ、何?」
「性的嗜好は女だけど、変態なんだ。ハード・スパンキングって知ってるか?」
リンは身体を固くした。
「手の甲に釘を打ち込んでもらうことに快感を感じるんだ。打ち込むのは綺麗な女の子じゃないと駄目でな、おまえは適任なんだ」
「嫌、嫌だよ、そんなの」
腰を上げようとしたリンを関永が笑いながら止めた。
「冗談だよ、悪いな。いまでこそ、ゲイだオカマだって少しは認知されてきたけど、三十年前に自分のことをゲイだとカミング・アウトした親父を目の前にした俺は、いまのおまえみたいに鳥肌たてて逃げだしたくなったよ。たまんなかったな」
関永が自分の飲み物を手にどすんとソファーに腰を下ろした。コロンを含んだ風がリンに吹いた。女の子の使うムースのような可愛らしい匂いだった。
「大昔から、気味の悪い奴はいるんだよ」
「どういうこと?」
「人間が大勢いると何人かは、生まれ付いての変わり者だってことさ。江戸時代だろうと、平安時代だろうとゲイはいて、淫乱を丸出しにして男を渡り歩かずにはいられない女もいたんだ。しょうがねえことだよ。俺の親父は真性のゲイだ。俺を産むことまでも計画的だったらしい。時間はかかったけれど、そんなことまでやられれば、しょうがねえ人間がいるって思うしかないだろう」
「仁さんは離婚したの? 関永さんのお母さんってどうしてるの」
「おふくろは俺よりもショックだったと思うぜ。でも、人間は強いな、再婚したよ。新しい生活を営むことで忘れるのが一番の方法だからな。今年も年賀状が来たから、まだ生きてるってことだ」
「可哀相ね、お母さん」
「そこからは、俺の方が可哀相かもしれないな。親父に引き取られた俺は、親父の同居人と暮らすんだからな。親父と似たような歳格好の髭の生えたおっさんと一緒にだぜ。親父二人の新婚生活に付き合わされるのは、たまらなかったぞ」
笑うしかないという高笑いを関永は上げた。
「そんなにうちはひどくない……」
リンは下を向いた。
「違う違う、リン。俺は不幸自慢をおまえとしたいわけじゃない。誤解するんじゃない。俺のところがこんなにひどくて、おまえのほうが楽だから、大丈夫だって、言ってるわけじゃない」
「じゃあ、何が言いたいの?」
顔を上げてリンは関永の口許を見た。
「おまえのママは、もしかすると、生まれついての変わり者かもしれない。おまえの話しか、聞いてないからはっきりとは言えないけどな。そうだったとしたら、しょうがねえって諦めるしかない」
「ママがゲイってこと?」
「いや、男好きってことさ、生まれ付いてのな。夫婦がいて子供がいるノーマルな家庭にまるで適応できない人間はいるんだ。次から次に男を替える、抑えることができないんだな。戦前の日本なんて、結婚している女が浮気したら姦通罪ってやつで逮捕されたんだぜ、それでも自分を抑えきれない。端から見るより、生まれつきの変わり者は苦しんでるんだぜ」
「ママは苦しんでるんだ……」
「さあ、それはどうかな」
関永はソファーから立ち上がり、ダイニングのエリアへと歩いた。ステンレス製の冷蔵庫を開けると「おかわり、いるか?」と言いながら瓶詰めのトマトジュースを振った。リンは首を振った。関永はカウンターにトマトジュースの瓶とジンの瓶を置き、器用な手つきでジンベースのブラディ・マリィをつくっている。
熟したトマトの絵が印刷されたラベルには、英語ではない文字が書かれている。透明なグリーンのジンの瓶とトマトジュースで、クリスマスのような色合いになったカウンターを、リンはぼんやりと眺めた。
「真性の変わり者じゃないのに、情報や環境に煽られて変わり者風なことをやってる人間もたくさんいるからな。大昔から、真性の変わり者が生まれてくる確率は、それほど変化はしてないはずだ。離婚など元々は変わり者がやるようなことが増えるってことは、情報や環境に煽られてる人間が増えたってことさ」
「ママがそうかもしれないの?」
「煽られてる口かもしれない。俺の嫌いな種族だ。子供もいるってのに、まだ、愛だの恋だの言ってやがる。安物のドラマでは、そんなのをわんさかやってるからな。離婚する必要もないのに、浮かれたように愛や恋を家庭以外に求めて離婚しやがる。夫婦喧嘩の延長で別れちまう。子供にしてみればいい迷惑だ。夫婦がいて子供がいるまっとうな家庭にどうやっても適応できない人間がするもんだ、離婚なんて」
「でも、ママは働きたいって」
「そんな理由で離婚なんてされたら困るだろう。そんなことは結婚する前にわかってることさ。もっと、違う理由があるか、煽られて浮かれちまったかだな。そんなくだらねえ理由で子供を犠牲にしてるなら嫌な話だぜ」
「関永さんは仁さんの犠牲になったの?」
「俺は犠牲になったとは思ってない。しょうがないだろう、相手は真性の変わり者なんだから。俺が犠牲になったなんて思うよりも、親父は、俺の知らないところで嫌になるほど差別されて辛酸を舐めてるとわかるからな」
「ママはどっちなんだろう」
「さあな、会ってみないとわからないけどな」
関永はグラスをテーブルに置いた。
「子供を騙して、こんなところに連れてきて。訴えますよ、いいんですか」
絵里子はいきり立っている。
「どうぞ、ご自由に。児童福祉法違反で訴えるといいですよ」
関永はまるで動じずに答えた。
「じゃあ、リンは連れて帰りますよ」
「それは困る。訴えて裁判になったとしても受けて立つと言ってるだけで、連れて帰っていいとは言っていない。リンには、それなりに金がかかってるからな」
「お金ですって、ほらごらんなさい。ただのやくざじゃないの、そんなこと言うのは」
「そうだよ、やくざみたいなもんだよ、お母さん。当り前じゃないか、興行の世界なんだよ、ここは。人の稼《しの》ぎにアヤ付けるってことは喧嘩売ってるのと同じだよ」
「いや、私たちは、そんな喧嘩なんて、ただ、可哀相だったもので」
増田が慌てて口を挟んだ。
「リンが可哀相だって言うのか、それとも母親が可哀相だって言うのか。何言ってんだおまえ。ちゃんと育てようとしていない親の許を離れて自活しようとしてるんだぜ、リンは。家出してても探しもしねえってのは養育を放棄してんだよ、そんなのは」
「私だって、仕事が忙しくて」
「仕事、仕事って、免罪符のように言ってるけど、あんたんとこの親会社ってどんなところか知ってるのか」
関永はテーブルの上の名刺を手に取った。
「人のことをやくざだ、訴えるだの言ってるくせに、あんたんとこの会社は、広域暴力団の指定を受けた、れっきとしたやくざの企業舎弟だぜ。企業舎弟って知ってるか、暴力団の資金源なんだよ」
絵里子と増田は黙ってしまった。
「あんたらの親会社に俺が『てめえのとこの化粧品はパチもんだ』ってアヤ付けに行ったら、山奥に通ってる高速道路の脇に裸で埋められちまう。高速道路の脇ってのはそうそうは新しい工事が入らねえから、見つからないんだよ。あんたらは、そんな目に遭いそうなことをしてんだよ」
関永の声が一音低くなった。
「あんたらの親会社のケツモチしてるやくざんところに、あんたらの名刺を持って行って『あんたの手持ちの会社の人間が、うちの稼《しの》ぎの邪魔してんだけど、どうしてくれるんだい、ちゃんと対処してくれよ』ってことも言える」
「いや、それは、ちょっと……」
増田が慌てて顔を上げた。
「しねえよ、そんなことは。例えばってことだけで」
関永は笑って見せたが、増田はテーブルに置かれた自分の名刺を、子供を人質に取られた親のような目つきで見ていた。
「関永さん、ママが駄目だって言ったら、私はやめないといけないの?」
リンは切実な目をしていた。
「そんなことはない。うちが欲しいのは、おまえのママの協力じゃなくて、署名と判子だけだから、どうにかするから心配するな。そう言えば、離婚したおまえの親父ってのはどうしてんだ?」
「知らない。ママと離婚してから一回も会ってない」
「そうか」
「どうして、そんなこと聞くの」
「おまえのママが最後まで同意書に判を押さなかったら、監督養育義務の放棄ってのはれっきとした犯罪だから、父親のほうから同意書に判を押してもらうって手もある。まあ、そこまでやらなくても、おまえのママは判子をつくと思うけどな」
「ママってワガママだから強いよ」
「そうか、子供からワガママって言われるってのは、なかなか現代的だな」
関永は少し笑って、まるで動じてないように見えた。
たぶん、母親は会社にやってくる。リンは母親が関永に言い負かされる光景を想像した。
「とまあ、こんなふうに、そちらが母親だって怒鳴り込んできても、対応策はあるんですよ、お母さん。増田さんも、ここで揉めたら、あんたにもとばっちりが降りかかりますからね。そこんとこ、冷静に考えたほうがいいですよ」
関永は目を細めて言った。
「私は反対しているんです。あなたがたに対応策があろうがなかろうが、私には関係のないことです」
「お母さん、質問ですが、どうして反対されるんですか。うちはリンさんやお母さんに、一円たりともお金を使わせてませんし、これから先もないでしょう。もちろん、リンさんが利益をあげるようになれば、給料は上がっていきますよ。うちは珍しいくらいに明朗なんですよ、金銭に関しては」
「そんなことで反対してるんじゃありません」
「じゃあ、何なんですか」
「不幸になるからです」
「はあ? 不幸だって。昔は自分からリンを着飾らせてオーディション受けさせてたんだろう。何を今さら、そんな勝手な言い分で、こっちが納得できるわけないだろう」
「納得していただかなくても結構、不幸になるのは私とリンですから」
絵里子は言い放つと、下瞼に力を入れて関永を睨み、身体中から説は曲げないというオーラを放出している。
げんなりとした関永は小松崎と顔を見合わせた。
たぶん、絵里子は会社では意見を通すのがうまいのだろう。キャリアウーマンと呼ばれる人間は、負けず嫌いというものを武器にしている。しかし、関永は男社会の中に紛れ込んだ異性だから、そんな他愛もない武器で渡っていけるのだろう、と思った。
「でも、リンちゃんは、行儀のいい子ですよね」
関永に替わって小松崎がまっすぐに絵里子を見て言った。
「どういうことですか」
絵里子の言葉には、刺《とげ》が含まれていた。
「食事をするとき、きれいに三角食べしますからね。なかなかいませんよ、あんな子は」
「そう言えば、ご飯とおかずと汁物を順繰りに食べてたな」
関永は小松崎にかぶせるように言った。
「私も、いままでにいろんな女の子のマネージメントの仕事をしてきましたが、育ちの悪い子は、みんなマヨネーズを何にでもかけて食べたがるんですよ。マヨネーズってのは、タンパク質、カルシウム、脂質、酸味、糖質がすべて揃っているいわゆる完全食品ですからね。たぶん親が作る食べ物がちゃんとしてなかったんで、マヨネーズをかけて、味を誤魔化していたのが、やがて癖になってしまったんでしょう。みっともないことです。リンちゃんは、野菜の味をちゃんとわかって楽しんでます。行儀のいい子だと思いましたよ、お母さん」
絵里子はきょとんとした顔で小松崎を見ている。小松崎は話を続けた。
関永は二人の様子を眺めた。
三角食べなんてものを、リンがしているのを関永は見たことはなかった。話し合いの相手が男であるか、絵里子よりも十歳ほど歳が上であったならば、小松崎の役割を関永がやることになる。よくもまあ、微妙に外した話をするものだ、と関永は感心していた。たぶん、絵里子は三角食べをリンに教えている光景を記憶の中から探しているだろう。そして、その事実がないとしても、それに似た光景を探しだしてきて、小松崎の話に合うように変形させて思い浮かべているのだろう。
小松崎はまったく女を信用していない。だからこそ、絵里子のしゃべる身勝手な話や偽りを笑顔で受け流すことができる。
いつの間にか、絵里子はリンの幼稚園時代の思い出を楽しそうに語り、小松崎は上手に合いの手を入れて頷いている。
あと三十分もしないうちに、絵里子は同意書を鞄に入れて帰っていくだろう。小松崎は最後まで追い込むことはしない。日をおいて自宅か会社に現われ、今日と同じように微笑みを浮かべて話を進める。ゆっくりと小松崎に絡めとられていくだろう。
関永は安心した視線を小松崎に送った。
はめ殺しの大きな窓に、リンと関永がソファーに並んで座っている姿が夜景を透かして映っている。
「ママはワガママって言ってるけど、おまえこそワガママじゃなかったのか」
関永は窓に映ったリンに向かって言った。
「わかんないけど、そうかもしれない」
「そうか」
「あれ何?」
部屋を見回していたリンが、ベッドサイドに寝かされている大きな黒い塊を指差した。
「楽器のケースだよ」
「楽器って?」
「チェロだよ」
関永はおもしろくもなさそうに答えた。この部屋にチェロという楽器は似合うかもしれないが、関永にはまるで似合っていない楽器の名前を訊いたリンは、大袈裟に驚いた。
「見ていい?」
関永は頷いた。リンはケースに手を掛けた。一瞬、ケースの中には見てはいけないものが詰まっている気がした。振り返ると関永が見ている。リンは思い切って留め金を外した。一気に開けると古い木の香りが重く漂った。
「弾いてよ」
ケースに収まっているチェロのしっとりと濡れた色合いと形は、壁に掛かった絵の中のヘラクレス甲虫に似ていた。
「やだよ」
リンは「けち」と言いながら弦を弾《はじ》いた。重い音が部屋に響いた。
「人が嫌がっていることを自分の立場を使って強要するのをワガママって言うんだぜ」
「本当は、弾けないんじゃないの」
リンはからかうような口調だった。
「俺は、あの変わり者の親父に育てられたんだ。チェロぐらい弾けたって不思議はないだろう。親父が離婚してからは、新しく同居人になった男と結託して、俺をチェリストに仕立てあげようとしてたな」
「カッコいいじゃん、チェロなんて」
「オーケストラの中では、チェリストが一番色気があるっていわれるくらいだから、親父は自分がやりたかったんだろうな。俺をチェリストにしたがってたのは、オカマの見栄と意地みたいなもんだ。親父と同居人がソファーに並んで座って、中学生の俺が弾くチェロの音色を楽しんでたよ。チェロの低音は子宮の中で、いつまでも響き続けるんだってよ。子宮もねえのに気味の悪いことを子供に言うなよな、まったく」
関永は、ケースから軽々とチェロを取り出した。慣れた手つきで弓を扱う。ごつごつしていた手が弓を持つと繊細な手に変わって見えた。関永はチェロを抱くように構えると大きく息を吸い、一番太い弦に弓を這わせた。地鳴りのような空気の振動が壁に谺《こだま》する。リンは身体をきゅっとすぼめた。膀胱におしっこが満杯だったらトイレに駆けこんでしまいそうな揺れが下半身に伝わった。
関永はひと振りしただけで弓を置いたが、いつまでも部屋の空気は揺れていた。
「な、おまえの未発達の子宮でも振動が伝わるだろう。この響きをおっさん二人が目をトロンとさせて楽しんでるんだ。たまんねえな」
「どうして、チェリストにならなかったの?」
「なりたかったけど、なれなかったのさ。十何年も専門的にやってれば、一流になれる人間と、そうじゃない人間との違いがはっきりとわかるようになる。それは、自分に対してでも冷酷に判断できる」
「そんなもんなの」
冷酷という言葉を活字以外で、身近に初めて見聞きしたと、リンは思った。
「ああ、そんなもんさ。一流になれる人間と、そうじゃない人間との違いを判断できなかったら、アイドルなんて売り出せねえよ」
「じゃあ、私はどうなのかな、なれるのかな」
「どうだろう、おまえは研修期間だからな。真性の変わり者でも、ぼろぼろになる世界だ。浮かれてやってきたもんは、とんでもない目に遭うと思ってればいいさ。アイドルなんてちゃらちゃらして見える世界でも、どうしても超えられない壁ってものがあるんだよ」
「がんばれば、超えられるのかな、私でも」
「すべての総計が一〇〇%になれば、超えられるさ。だけど可愛いだけでも、努力するだけでも、運がいいだけでも、金があるだけでもだめなんだな。その割合がどうであれ総計が一〇〇%でなければ、壁は超えられない。九九%の奴も九八%の奴も超えられない。世の中とクロスするってことはそういうことだ」
関永は会社にいるときと違って少し真剣な顔に見えた。
「じゃあ、できないかもね、私には。でも、超えてみたい」
「ああ、超えてくれ。そう思っておまえと契約したんだ」
リンは関永の目を初めて恐ろしいと思った。超えられなかった人間をいっぱい見てきた目だと思った。
「アイドルは、ふかふかのスポンジケーキと、ふわふわにホイップした真っ白なクリームで作られたショートケーキの上にのっかったフレッシュな苺みたいに思ってる奴がいる。でもな、そうリンが思っているとしたら違うんだ」
「そうなの、ストロベリーののったショートケーキって、アイドルっぽいけどな」
「まるで違う。アイドルは、固く焼き上げたパイ生地の中にねっとりと流し込まれたカスタードクリームの海に、身を沈めかけたベリィなんだ。それも、蜜とワインで甘く煮つめられたベリィなのさ。ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキなんて優しい代物じゃない。もっと凝縮され、頭の芯が痺《しび》れるほど深くて甘いベリィのタルトだよ」
「ベリィ・タルトか……。アタシは蜜とワインで甘く煮つめられていくんだね」
「そうさ。最後にアプリコット・ジャムを水で溶いたものを刷毛で塗って艶出しをして、ショーケースに飾られるんだよ」
「………」
リンにとって途方に暮れる話のようであった。しかし、現実には、身体を洗われ肌を磨かれて、非日常の体験をさせられていると、関永たちの手によって違う人間に造り変えられていくのをリンは感じていた。
関永は独り言のように「さあ、召し上がれ」とつぶやいた。
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05 親子
小松崎が無表情な顔を一層無表情にして帰ってきたと同時に、一本の電話が関永に入った。電話はリンに対しての仕事の依頼だった。
「おい小松崎、リンにいい仕事が入った。思ったより早く喰いついてきたな」
「何ですか、仕事って」
「企画物だけど、雑誌の巻頭グラビアの四人の中の一人でどうかって。あんな、ヘタクソなカメラマンが撮った写真で喰いつくってことは、編集者は相当優秀な奴か、先走りの勘違い野郎ってことだな」
「どこの雑誌の企画ですか」
「エイチ社の『デラビ』だ。新しい四人の女の子をサイパンでまとめて撮るってことらしい」
「いいじゃないですか、それ。リンちゃんは当たりかもしれませんね。喰いつきが早い」
「おまえの方はどうだったんだ」
「まったく駄目でした。リンちゃんの母親の会社に行って会ったんですけど、署名も判ももらえませんでした」
「なんだ、妙に頑《かたくな》だな。楽勝だと思ってたけど。リンの親父ってのを押さえたほうが良さそうだな」
「ええ、親父を探す算段はすでにつけました」
小松崎にとっても、絵里子は楽勝の相手に思えていた。しかし、今日の絵里子はまるで違って見えた。
絵里子は、会社に現われた小松崎を会社の人間の目から遠ざけるように少し離れた喫茶店に引っぱった。リンを帰して欲しいと哀願する絵里子の姿に、隠し事の臭いを小松崎は感じた。それは、リンのことなのか、絵里子自身のことなのか探り切れなかったが、秘密を悟られないように緊張して、何度も耳朶《みみたぶ》のピアスに触れる仕草が印象に残った。秘密を共有することさえできれば話は一気に進むだろう。小松崎はその場で執拗に質問することをせずにいた。秘密を抱えて口を堅く閉じた貝は扱いにくい。失敗すると殻を壊してこじ開けなければならなくなる。そんな垢抜けない方法を小松崎は取りたくなかった。
打ち合わせは総勢二十名をエイチ社の会議室に詰め込んで行われた。関永はエイチ社に行く道すがらリンに「自分が四人の中で一番可愛いと思ってろ」と何度も言い聞かせた。
壁を背にした格好で、プロデューサー、カメラマン、編集者や関係者たちが並び、向かい合う格好で四人の女の子が座った。面接のように質問を受ける。趣味はと尋ねられて、リンはナイフ研ぎと答え、チャームポイントは、三白眼と答えた。リンのぶっきらぼうな言い方の声はよく通り、教科書丸写しの答えにうんざりしていた会議室は笑いに包まれた。
リンは真っ赤になって後ろを振り返ると、関永と小松崎が頷きながらオーケーマークを出した。保護者参観にきた親のようで、リンは少し安心した。いまだに二人の本心がどこにあるのかわからなかったが、二人との距離は縮まっているようだった。
明るい栗色の頭の中で、大きな雲丹《うに》のようなリンの漆黒の頭は目立った。背後に座っている関永には、リンの表情はわからなかったが、向き合っているカメラマンや編集者たちの視線がリンに多く注がれているのをみると、好印象を与えているのだろう。
「企画書をお読みになれば、わかると思いますが、今回、『無駄な経費はかけません』という方針を掲げてあります」
プロデューサーが言った。紙をめくる音が会議室にさざ波のように広がった。
「サイパン行きの人数は最小限にしたいと思っています。プロデューサー、カメラマンとアシスタント、ヘア・メイク、エイチ社から編集者一人、それと、女の子四人です。基本的にマネージャーさんやお付きの方、アート・ディレクター、スタイリストの渡航予算は組んでおりません。それでは、とても心配で困るという社の方は、自費による参加となります。申し訳ございませんが、そこのところお汲み取りください」
マネージャーたちは困惑でざわついたが、プロデューサーは話を先に進めた。文句があるなら売れてみろと言わんばかりだった。
「男四人と新人アイドル四人、それとオカマが一人のサイパンか、オカマを司会にした合コンみたいだな」
関永は後部座席から運転している小松崎に言った。
「ああ、ヘア・メイクがオカマの司会者ってことか。メイクしながらやり手ババアみたいに仲を取り持つんでしょうね。私、付いていったほうがいいですかね」
小松崎はルームミラー越しに見た。
「大丈夫だろう。ギャラなんてページ二万ぐらいしかなんないんだし、おまえが行ったら無駄な金だ。リン、言い寄ってきても、絶対にやらせるなよ」
「はい」
リンは、すんなりと返事ができるようになってきた。
「今日、前に座ってた人間で、誰が重要かわかるか。リン」
「眼鏡かけた編集の人かな」
「おっ、どうしてだ」
「偉そうにしてるプロデューサーが、なんとなく遠慮してたみたいだから」
リンの答えを聞いて二人は笑った。
「やるじゃねえか、おまえ。プロデューサーなんて、あれは外注の雇われだから大して力なんて持ってない雑用係だからな。仕事を紹介してやるなんてカッコ付けて言い寄ってきても無視していいぞ。それと、カメラマンはやりたくてしょうがない下半身だけの生き物だから、しつこく迫ってきたら、遠慮しないでブン殴っていい。編集者は企画を立てるからな、気に入られてこい。でも、やらせちゃ駄目だぞ、キスぐらいはさせてもいいけど」
「うえー。やだよ、そんなの」
噛みつきそうな顔で関永を睨んだ。
「何言ってんだ、リン。近ごろの若者は、自分がアメリカ人にでもなったつもりでいるんだろう。そう考えりゃ、別に大したことないだろう。効くんだぞ、キスだけさせるってのは。なあ、小松崎」
「引っぱりますからね、有効ですよ」
「ほらみろ、リン」
「そんなこと言って、それをやったら、次は寝てこいとか平気な顔で命令するんじゃないの、関永さんは」
たぶん、そうに決まっている、この人たちの価値観では、セックスなんてまるで道具だと思っているに違いない、とリンは思った。
「言わねえよ、そんなことは。キスだけさせて引っぱるから、そこに技術が介在するんだよ。やらせちまったら、それまでじゃねえか。セックスなんて簡単なもので手に入れた仕事は、同じようなことをする奴に簡単に取られちまうんだよ」
「なんだ。もっとひどいじゃん。キスなんかさせないし、絶対にやらせない」
「ああ、おまえの魅力だけで引っぱってくれ。そっちのほうが、うちの面倒も少なくてありがたい。でも、狙い目は編集者だからな。若僧で金持ってなさそうでも、企画を立てれば会社の金が動く。世馴れてなさそうでも、力は持ってるんだから」
「わかったよ。愛想良くしとく」
リンは少し不貞腐れて言ったが、そんなものかもしれないとも思った。女の子の中でも売春《ウリ》をやる子と、惚れっぽくてすぐやらせる子は一段低く扱われる。そんな奴に限って簡単に妊娠して、中絶費用のためのカンパを募る。まったく馬鹿みたいで、リンはカンパを断わり続けてきた。
カンパしなくていいから病院に付いてきてくれる? と断わる前に先を越され、思わず頷いて付き添わされたことがあった。
病院は、高架線の脇の繁華街にあるような湿った雰囲気を想像していたが、まるで違っていた。駐車場にはぴかぴかにワックスを掛けた低燃費車があるような、建て売りが並んだ住宅街にあり、病院の看板は丸文字で書かれてあった。薄いピンクで統一された待合室は清潔で、ディズニー・キャラクターの縫いぐるみが飾られていた。
友達が診察室に消えて、暇になったリンはきっちりと並べられた雑誌を手に取った。『家庭画報』という雑誌は本も重ければ、内容も別世界のようで重たく感じた。グラビア写真の中の風景は塵《ちり》一つなく、同じように待合室のソファーも新品のようにヨレはなかった。自分の着ている洋服の袖のほつれや染みが、明るく柔らかい照明に照らされて目立って見えた。
施術は三十分くらいで終わり、病室に寝かされていた友達とリンを、待合室の壁と同じ薄いピンク色の白衣を着た看護婦が呼びに来た。
診察室に入ると女医が待っていた。丸椅子に座らされた二人は、机の上のステンレス・トレイに目を奪われた。生のレバーを稲荷寿司ぐらいの大きさにぎゅっと固めたような胎児だった。女医は凝視したまま押し黙ってしまった二人に見せつけるように胎児の足をピンセットで開いた。男の子だったみたいね、と冷静な声で言った女医は、刺のある口調で二人に説教を始めた。延々と続く説教の間、リンは女医の顔をまともに見られなかった。
「リンちゃん、南の島用の日焼け止めを仁さんに用意してもらわないと、日焼けしたり水着の跡を肌に残したりすると怒り狂うぞ、あの人は」
ルーム・ミラー越しに見える小松崎の目は笑っている。
「はい。明日、仁さんのとこに行ったときに訊いてみる」
「じゃあ、いまから行ったらいいよ。すぐそこなんだから、このまま送ってあげる。仁さんには、早く知らせたほうがいいよ」
「ありがとう。でも、どうして仁さんは、私の身体が日焼けしたら怒るの?」
「そりゃあ、リン。いつかおまえを殺して皮を剥いで、自分に移植しようと思ってるからだろうよ」
「えー、全然おもしろくない」と、口では言ったものの、仁ならやりかねない気がした。
車が角を曲がると全開にした窓からお盆過ぎの生温かい風が吹き込んできた。遠くに蔦の絡まった仁のビルが見える。「芸能界とゲイの世界で、嫌になるほど泥水かぶったお陰で、このビルを建てられたのよ」とステンレス鋏を持ってさらりと言った仁と、まったく似ていないがステンレス・トレイを持った女医の姿が重なった。
もしかすると、女医も仁も若い女に対して憎しみを感じているのではないか、とリンは思った。
小松崎はクロールでゆっくりと泳いでいた。平泳ぎと同じくらいのスピードでクロールを続けることが、面倒で体力のいることだと初めて知った。顔の側面を切るように流れていくはずの水が息つぎの度に口に流れ込もうとする。
練習用にコースを区切ったジムのプールで、平泳ぎをする人間の神経がわからない。水泳部上がりの肘を曲げたブレストならば、対面通行のコースの中で擦れ違うことはできるだろうが、古式泳法のような腕を横に広げた平泳ぎでは迷惑でしょうがない。
四メートル先をのし烏賊《いか》のように泳いでいる絵里子を、二ストロークで抜き去りたい気持ちを抑えながら小松崎は泳いだ。小松崎が後ろに付いていることなど知らない絵里子の無防備な白い内股は、水の中でフルフルと揺れている。
ゴーグルとキャップを脱ぎ、コースロープに小松崎はもたれかかった。折り返してきた絵里子の頭が水面を上下しながら近づき、小松崎の横をすり抜けてターンした。黒いゴーグルをかけた絵里子の目は見えなかったが、小松崎に気付いた気配を感じ小松崎はプールを上がった。
毎日の有酸素運動の成果が体脂肪率一〇%以下の身体に現われていた。脂肪の少なさと筋肉の張りのせいで肩やふくらはぎに血管が浮いている。プールサイドをバスタオルで身体を拭きながら歩く小松崎に、同年代の脂肪太りがなかなか治らない男たちの視線が集まる。小松崎は目の端で絵里子の視線を捕えると、さっとロッカールームに姿を消した。
「探偵、三枚ぐらいの報告書で十五万はぼり過ぎだろう」
関永はA4のコピー用紙に印字された文字を読みながら言った。
「でも、関永さん。この細見って男、まったく面白味がないんですよ。しょうがないでしょう。会社と自宅と病院、これだけですからね、報告書三枚でも多過ぎるくらいです」
「それも、そうだな。病院に通院してなかったら、それこそロボットみたいだな。皮肉なことに鬱病ってとこだけが人間臭い」
「そうすねえ。調べてるとさびーしくなりましたよ」
「やっぱり、探偵は、ハードボイルドじゃないと、おもしろくないのか」
「嫌だなあ、関永さん。探偵、探偵って。私はれっきとした興信所の調査員なんですからね。探偵なんて言わないでくださいよ。それに、近頃はハードボイルドな調査なんて、これっぽっちもないですよ。貧乏臭い浮気調査ばっかりです。関永さんとこも、こんな陰気臭い調査じゃなくて、たまには派手なやつを頼みますよ」
探偵は、まるでコピー機販売の営業マンのように愛想良く挨拶をすると請求書を置いて帰っていった。
探偵とはまるで正反対の、愛想のカケラもない表情をした細見の写真三枚が机に並んでいる。さすがにリンの父親だけあって端正な顔をしているが、三白眼の黒眼は目玉に開いた穴のように光はなかった。明日、同意書を持ってこの男に会いに行くと考えただけで気が滅入った。
サイパン行きのことを仁に告げると、仁は両肘をくっつけるようなオカマ特有の拍手をして喜び、リンから企画書をもぎ取った。そして、ヘア・メイクの担当が知り合いの弟子であることに気付くと、すぐさま電話をしてリンのメイクに関して高圧的に指示を出した。
お祝いよ! と仁が言うと、裸足の男が銀のバケツに入ったシャンペンをトレイに載せて現われた。シャンペンは、お酒を飲んだら小松崎に怒られる、と断わるリンにも注がれた。仁は恐ろしい目で睨み、お祝いだからいいのよ! あんな健康マニアの言うことばかり聞いてちゃ心が腐るわよ! と叫んだ。
ほとんど毎日、脂分のない粗食を摂り、有酸素運動を繰り返してきたリンの身体は、スポンジのようにアルコールを吸収した。ピンク色した泡立つ液体は、一瞬、胃の中でとぐろを巻いたかと思うと分散して身体中を駆け巡った。
「ねえ、仁さん。関永さんが言ってた、仁さんは私の肌を剥いで自分に移植したいんだって」
「あら素敵! いいわね、それ。セキエイちゃんもたまには、いいことを示唆してくれるのね」
やっぱり親子だ、とリンは思った。
「ねえ、仁さん。どうして関永さんのことを苗字で呼ぶの? 普通、下の名前で呼ばない?」
「関永はセキエイちゃんのお母さんの旧姓なのよ。私が世界中で、唯一セックスしたことのある元嫁のことね。その頃、嫁のことをセキエイちゃんって呼んでたの、そして、離婚して出てったら、あの子が苗字を関永にしたいって言うの、だからかな、替わりに、あの子をセキエイちゃんって呼ぶようにしたのよ」
「そんな、替わりにって」
「あの子も最初は嫌がってたわ。ペットの猫じゃないんだから、いなくなったからって、惰性で次の奴を同じ名前で呼ぶなって」
仁は笑うと、リンのグラスにシャンペンを注いだ。仁は、親も子も、夫も嫁も、男も女も、みんな一緒くたにしてしまっている。関永が、真性の変わり者と諦めた表情で言ったのをリンは思い浮かべた。
ねえ、仁さん……、とリンは身体中を駆け巡るピンクの液体に押されて、仁に女医の話を語った。
「あら、そんなサディスティックな女っているのよね。たぶん女医は、その胎児をミキサーにかけて若いエキスを抽出するのよ。若返りの秘薬だからね」
皮を剥いで移植するのと一緒じゃん、とリンは心の中で叫ぶと、血が過熱するのを感じた。
「あの女医って、私たちのことを憎んでいたのかな」
「どうかしらね、そんな簡単なものじゃないと思うわよ。もし、私が女医で、若い女が堕胎をしにきたとしたなら、悲嘆を感じたでしょうね」
「悲嘆って?」
「嘆き悲しむってことね」
「私たちの馬鹿な行為に?」
「あら、リンちゃんはお馬鹿ね。あなたたちじゃなくて自分自身に対してよ、悲嘆を感じるのは」
ふーん、とリンはわかったような気がして言った。頭ではまるでわかっていなかったが、過熱した血が下腹部あたりで沸騰するのを感じた。
テラコッタ調の外壁を持つマンションの三階からは、古ぼけた商店街のアーケードの屋根が見渡せた。ドアチャイムを鳴らすと、ドア越しに部屋の中の空気がいやいやを始めたように感じた。ドアを少しだけ開けて顔を出した細見は、探偵の資料がなかったら関永より三つ年上だとはわからなかっただろう。モノクロームのフランス映画の老人役が撮影の途中で倒れたら、監督は代役に抜擢するだろう、と思わせるほど細見はぱさぱさに渇き切って見えた。
掃除が行き届いているというよりも、散らかす気力さえもないので整然と見える部屋に通された関永は、異彩を放つ紙袋に眼が止まった。
もし、関永が細見と長年の友達であったならば、「うわあ、何だこれ、こんなの俺は初めて見たぜ」と言って、手に取っただろう紙袋は医者の渡す薬袋だった。それはデパートで香水を買ったときに渡されるような底の付いた手提げ型の紙袋で、外側には、通常の薬袋のように処方箋や病院名が青い清潔な文字で印刷されてあった。
関永は同意書を渡し説明を始めた。細見は同意書に目を落としたまま返事もせずに小さく頷いていた。
「リンが人前に出る仕事ねえ。ふーん、おもしろいな」
説明が終わると細見は顔を上げた。
「未成年ですので、親の同意書が必要なんですよ」
「今さら父親づらして反対する理由はないですから、リンがやりたいと言うのなら、やればいいと思いますけど、ぼくには親権がないんですよ」
細見には、ぼくという言い方が似合っていた。
「大丈夫です。賛成であるなら、一応、押して貰えれば、ありがたいんですけどね」
関永が頭を一回下げた。細見がそれを見て苦笑した。
「絵里子ですか」
細見の苦笑は続いている。ドアを少し開けて、この世の終わりのような顔で招きいれたときと様子が変わったように関永は思った。
「ええ、まあ。子供の頃にはモデルのオーディションを受けていた、とリンさんから聞いてるんですけど。どうも、今回は誤解があるようで……」
「誤解か! はははは」
関永が一瞬身体を堅くするほど細見の笑い声は大きかった。可笑しくて堪らない、長い間黙っていたけど、君、それ間違ってるよと、嘲《あざけ》るような突発的な笑いだった。そして、細見は目を大きくみはり「おや、まだ、お茶も出していなかったな、これは失礼」と快活に席を立つと、スリッパがパタパタと乾いた音をたてた。
これは、俺がチャイムを押してから、急いで薬を飲んだな、と関永は感じた。ようやく薬が効いてきて本来の細見の姿が顔を現わしてきた。しごく当り前の、気さくで、でも少しだけ嫌味な男のようだった。そんな男はどこにでも、ごろごろといる。
茶器を盆に載せて「いやいや、あまり来客がないんで、お茶っ葉が湿気ってるかも」としゃべりながら細見は戻った。
「わかりますか?」
「ええ」
「わかるかたには、すぐわかりますよね。お察しの通り、ぼくは、抗鬱剤とメジャートランキライザーの投与を受けている鬱病患者です。カミング・アウトしてますから、どうぞ、お気になさらずに」
照れているのか、芝居がかった物言いだった。
「絵里子は、判を押しませんよ」
聞いて欲しくて堪らないという表情を細見は顔全体に表した。
「どうしてですか」
「それはたぶん、ぼくが病気だから。それによってリンがそういう仕事をすると、ぼくのことで嫌な目に遭うと思っているんでしょう」
「そんな、たかが鬱病ですよ」
「おや、あなたのまわりには頭関係がきつそうなのがいそうですね。そうなれば話が早い、絵里子は世間に一番多くいるタイプの人間です。ぼくの持病を偏見の塊の目で見ていますからね」
持病とは、うまい言い方だ。今度、仁にゲイは持病だという言い方を教えてやろう、と関永は思った。
「困ったもんですね」
「ああ、困ったもんだ。冗談じゃない。絵里子はまだ、そんな偏見を抱えているなんて信じられない。会社で働いているってのに、社会性がなさ過ぎる。ああいう奴が病気の進行を早めるんですよ」
「まあ、興奮しないで、細見さん」
「興奮はしていません。鬱病にとって、興奮は禁物ですから、痛風患者の口にラードと砂糖を突っ込むようなもんです。うーん、ちょっと違うな、漕ぎすぎたブランコかな、強く漕ぐと揺り返しがひどい」
「はあ」
「ぼくらが離婚したときと、絵里子の判断基準は変わっていないんでしょう。ぼくは、鬱病という病気を近視に近いもんだと思っています。わかりますか近視です、近眼ですよ。あなた、近視ですか?」
「いいえ」
「おう、それは羨ましいですね。あなたのまわりに近視の人がいるでしょう、学生の頃に眼を酷使して仮性近視になって、それが進行して近視になった人たちが。それと鬱病はそれほど変わらない。社会で働いて身体や脳を酷使して、抑鬱状態になる、そしてそれが鬱病に進行する。医者は治ると言いますが、治りませんよ、ウィルス性の疾患ではないんですから根絶なんてできません。近視が治りますか、無理でしょう、一生うまく付き合っていくしかないんです。でも、それでもいいんです、治らないとはっきり言われた方が。近視は一生治らないからといって、『俺は眼の見えない第一級の身障者だ』、と落ち込み続ける人間はいませんよ。眼鏡やコンタクトにすれば日常生活に支障はないんです。鬱病だって薬さえ的確に服用していれば問題ない。季節によって薬の量の増減はありますし、段々と耐性ができて量が増えることもありますが、薬は内臓を傷めますからね……」
饒舌に語る細見が薬の量と言う度に、関永は部屋の中で大きな存在感を持ってダイニングテーブルにのっている薬袋を見た。細見は関永の動く視線に気付き、ああ、あれね、と立ち上がり紙袋を掴むと関永に渡した。
「五年前に、大きな波がきまして、それの形骸です。かつては、この袋に溢れんばかりの錠剤が詰められていました。今では、その頃の半分くらいの量にまで減らすことができたんですけど、この袋でないと気分的に駄目になりましてね。これいっぱいになってもどうにかなったという経験の象徴というか、安心感をもたらすものとしてあるんです。それと、カミング・アウトしている者にとってよい道具にもなりうるんです。こんな大きな袋ってなかなかないですからね。ぼくがこの袋を持っていると、初対面では訊いてはきませんけど、何度目かにはこの袋のことを話題にしてきます。その時、一気にカミング・アウトすれば、すんなり行くんですね。これだけ目立つ袋だと公言して歩いているようなものですから、差別的な人間は近づきにくいって効果もあります」
薬袋は細見にとって、開き直るための道具を自分でこしらえたようなものだろう、黒人が「ブラック・イズ・ビューティフル」と隠しようのない肌を露《あらわ》にするのに近い、と関永は細見から吐き出される言葉を受け止めていた。
「そこまで考えて向き合ってきたのに、絵里子さんは、どうして」
「身内というのは、友達や同僚と違いますからね。ぼくの病気を、自分のこととしてまともに受け止めなければならない。それに加えて、絵里子には、思い込みの強さと、頑な意志で社会で働いていたという自負を持ち合わせていました。絵里子は、鬱病に対する初歩的な偏見を、ぼくによって覆されたくない、と頑にがんばったんですね。ぼくが発病した当初は、叱咤激励の毎日でしたよ。一番やっちゃいけないんですけどね、毎日風呂に入って神経質なほどに歯を磨くぼくが、発病すると清潔にすることを億劫になって拒否するんですから、横で見ている絵里子にとっては、ぼくが壊れていくと感じて恐かったんでしょう。当時はぼくも、まだよくわかっていなかったから、絵里子の間違いをうまく指摘できなかったんですね。それが、後々まで尾をひいた。絵里子はぼくが薬を飲むことを嫌がったんです。薬を飲むことが、病気に負けていることだと言いだしたんです。お笑いだ、まったくお笑いだった。近視の人間に眼鏡をかけずに生活しろって言っているようなもんだ。それに、大仰に涙さえ浮かべて『あなたが鬱病だなんて、私は信じたくないの! あなたがそんな精神の弱い人だと思いたくない』とぼくに訴えた。これこそ、完全な偏見じゃないか、トラジティだよ。精神が弱いだなんて、どっからやってきた話なんだ。みんな絵里子の頭の中で増幅された鬱病のイメージが、人生の敗残者として重なり合っていってるだけじゃないか。おまえが一番タチの悪い差別をしているんだ、とぼくは言いましたね」
思い出してもヘドが出る、といったふうに細見は顔をしかめた。関永はカウンセラーのように軽く頷きながら話を聞いていた。
「そのとき、絵里子はどんな顔でぼくを見て何と言ったと思いますか? 壊れてしまった機械かなんかを見るような蔑んだ視線で『可哀相に。一緒に治していきましょう。がんばればきっと治るわよ。あなたはそんな弱い人じゃない』と言ったんです。それでは君は、弱い精神のお陰で狂ってしまった哀れな男に、健気にも手を差し伸べようとする安もののヒロインでも演じようと思っているのかい、という言葉をぼくは呑み込みましたよ。口に出して言うだけでぼく自身が惨めになるからです。まるっきり、絵里子とぼくの話は平行線をたどってますからね。ぼくの鬱病に対する注意と意見は、単なる狂人の独り言のように絵里子の耳の穴の空洞を通り抜けていくだけですから」
「それで、離婚されたわけですか」
「すぐという訳ではありませんでしたが、通院では悪化するだけだろうと、入院治療に踏み切って、一カ月後に病院に封書で離婚届が送られてきましたよ。『ごめんなさい』と言う言葉が二十回以上も出てくる分厚い手紙が添えられてね。それからリンには会ってませんね、会いたい気持ちはあるんですけど、絵里子は、ぼくの病気がリンに伝染《うつ》るとでも思ってるのか、まったく会わせてくれませんから。ぼくの病気は本当に鬱病なのだろうかって、自分自身が疑ってしまいましたよ、あんまりな行動を取られるのでね。子供の頃から差別や偏見を受ける側にいたわけではありませんでしたから、中年になっていきなりなもんで、対処に困りましたよ、あの頃は」
元気を取り戻して喋る細見には病気の翳《かげり》は見えなくなっていた。顔の皺や乾き切った皮膚は大量の薬を服用するうえでの仕方のない副作用のように思えてきた。
「絵里子さんとは音信不通ですか、やはり」
「五年ほど前に、絵里子からの手紙がきてからは。現在のぼくの住所は、知らないでしょう。愛情豊かで優しさに溢れ、そして無神経に人の心をえぐる手紙だったな。ぼくの病状を気遣うというより、もうすでに病気を克服しているだろう、と推測した文面で始まり、絵里子の大学時代の教授が自殺した話に続いていました。教授が鬱病であったからこそ、ぼくに手紙を出したんだろうけど、自殺に対してまったくひどい推論が書かれてあったな。鬱病の最も気をつけなければいけないことが、回復期における自殺衝動であることや、鬱病の場合、自殺は病死である、と何度も言い続けたことが絵里子の記憶の中には、これっぽっちも残っていなかったことを如実に示す推論だったですよ。絵里子が思うに、教授は自殺して安堵した、と言うんですね。妻に先立たれ子供のいなかった老教授は、寂しい毎日を送っていただろうから、生きていく希望を失った、と思ってるんです。まったく馬鹿らしいにもほどがある。教授に同情しましたよ、ぼくは。死にたいわけないだろう、鬱病特有の自殺衝動が出ただけで、それをうまく乗り切れば、また、生きていけるってのに。それが鬱病での自殺が病死といわれることなのに、絵里子の勝手な思い込みの脳味噌の中で、教授は独りぼっちの悲しみを抱えて死んでいく哀れな老人になってしまうんだ。そして、たぶん、その哀れな教授とぼくを照らし合わせて、久しぶりに手を差し伸べてやろうと、ぼくに対する愛情深い手紙を書くことを思いついたんでしょう。メジャートランキライザーの量が倍近くに増えるほど心が震えましたよ。そして、ぼくは、ある思いに取り憑かれてしまった。額に『負け犬』と墨を刺し、小さな引っ掻き傷を身体中に作り、慰謝料代わりに絵里子に与えたマンションの扉の前で首を吊るんです。衣服は一切つけず、引っ掻き傷から滴り落ちる血だけがぼくを包む衣装なんです。絶対にやりたくはないけれど、魅惑的なその行為にぼくは囚《とら》われてしまったんです」
細見は言葉の激しさとはうらはらに、表情は穏やかに見えた。関永は生身の細見が出てきているからだろうと思った。人間なんてこんなもんさ、関永は目の前で喋っている中年男を眺めた。薬によってどうにか薄く積もった綿のような不快感を取り除き、やっといつもの自分の姿が現われたのに、薬は日常生活で纏《まと》うはずの羞恥という衣装さえも取り払った。細見の姿には、中年男が元気を取り戻し、マスターベーションを盛大にやってのける疾走感さえ感じられた。
「その時期に、この薬袋になったわけですか」
「ええ、そうです。その行為を抑えるために薬が増えましたから、でも、さすがにやりませんよ、そんなことは。そんな行動に出られるくらいなら医者はぼくの病名を書き直さないといけない」
あれ、君いたんだね、というふうな軽い驚きを細見は浮かべて答えた。
「もし、細見さんがその行為を実行していたら、娘さんはどんな子になったんでしょうね。いまでは、自活したいと健気にやってますけど」
「そうですか。もしもって考えたらきりがありませんけど、父親がズダ袋のようにぶら下がっていたら、まったく違う生き方を模索したでしょうね」
細見は「ああ、やらないでよかったな」とため息まじりに付け加えた。
「リンは、ぼくの血のせいか、少し考え込むようなところがありますから。特殊なほどではありませんでしたが、ぼくら夫婦の平行線を辿《たど》る話し合いを横で聞き続けて、人間は納得し合えない動物だと感じたのかもしれませんね。大きな目でじっと見てましたよ、ぼくらの話し合いを。ほら、ペットの猫とかが言葉もわからないのに人間の話し合いをテレビの上に座って見てるって、あんな感じに。意味はわかっていないけれど、微妙な諍《いさか》いを声の高低や目の表情で感じながら」
昔を懐かしむように細見は言った。
「そうだ、大きくなった娘さんの姿を細見さんは見ておられないでしょう」
関永はグラビアのページを開いて渡した。
「へー、美人になったな。小さい頃は目ばっかり大きく目立ってたんだけど、成長するとバランスがとれてくるものだな」
細見は、自分のDNAの成長を確かめるかのようにグラビアを近づけて、細部を点検した。
「評判いいですよ、娘さんは。物おじしませんし」
「そうですか、あの子がねえ。リンはいつも一人で遊んでましたよ、子供の頃は。部屋を覗くと、誰に教えられたのか、プラモデルとかの中に入ってる小さなモーターで遊んでましたね。モーターの軸に色を付けた紙を刺して、それを乾電池に繋いで回すんですよ。パーって紙が回転して色が混ざり合って見えたり、独楽《こま》の頭みたいに輪ができるのをじっと眺めてましたよ」
「そんな理科の実験がありましたね、そう言えば」
「実験としてはおもしろいですけどね、リンは日がなやってるんですよ。あれって、回転してるときだけの色があるじゃないですか、ふわっとした色合いの。赤と青の色が混ざって紫色になるけど、実際の固定された色じゃないですからね、なんかこう、危ういというか、はかないって感じの色に。それを見るのが好きと言ってましたね」
「いいじゃないですか、詩人みたいで」
「絵里子が嫌がりました、陰気だって。そりゃあ、部屋で子供が一人、ぶーんってモーターの音だけさせてるのは陽気じゃないですけどね。ぼくが発病したときは、絵里子は無理やりリンを病院に連れていきましたよ。鬱病が遺伝したり伝染するものだと思ってたみたいですね」
「娘さん、美容師の鋏をグラインダーで研ぐアルバイトしてましたよ。それってモーター遊びに結構近いかもしれませんね。グラインダーの丸い砥石は回転すると、白っぽくなってちょっと浮いたように見えますから」
「はははは、親のぼくが言うのもなんだけど、変な奴だな」
細見の突き上げるような笑いに釣られて関永も笑った。細見の笑いは、折れ線グラフの急上昇の頂点に位置していたようで、上気した顔色が褪《さ》めていくのが見てとれた。
射精後のすっきりとした解放感と、ちょっとした疲労を顔に覗かせて、細見は同意書に署名をした。生真面目そうな角張った文字だった。そして、大学教授が興奮して長々と喋り続けた講義の後に、遠慮がちに受講の判を押すように、細見は判をついて関永に渡した。
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06 股ぐらパワー
到着ロビーで待つ関永と小松崎の前に現われた一団の中で、リンだけはまったく陽に灼けていなかった。急激に焼いた肌特有のむくんだような赤黒いただれと、過剰な脂の分泌で焼き豚のようになってしまった女の子たちに比べ、リンは真珠のように洗練されて見えた。
「どうだった? リン」
関永が訊いた。
「おもしろかったよ」
「おもしろかった? どうして」
小松崎がリンの転がしてきた小さなスーツケースを手にとった。
南の島の太陽で見ると色鮮やかに見える土産物の民芸品も、日本に着いた途端に趣味の悪いペンキの塗料だけが目立つゴミのように見える。土産物を袋から溢れさせている女の子たちに比べてスーツケース一つで帰ってきたことも、リンが洗練されて見えた理由だろう。
「だって、お芝居観てるようだったもん。おかしかったよ、みんな」
関永はニヤっと笑い「その話は、後だ」と言って、リンの口を手で押さえた。編集者がにこにことして近づいた。
「じゃ、ここで解散ということで。フィルムが上がりましたら連絡します。リンちゃん、とっても良かったですよ」
編集者が頭を下げ、入れ替わりにヘア・メイクのオカマが来た。
「関永さん、リンちゃんは私が守ることもなかったわよ。そつなくっていうより、堂々と大御所みたいな顔でこなしてたわ」
オカマはリンの髪に手をやりながら言った。
「そうかい、じゃあ、仁さんに干される心配もないってことだな」
「本当、肩の荷がおりたわ。でも、リンちゃんいいわよ、ほんとに。大物になるわ、きっと」
「何言ってんだ。大物になるわよってのは、オカマが、あら素敵って叫ぶのと同じくらい簡単に言う台詞だぜ。そんなしみったれた台詞でマージン・ハウス特製のリンを評価してくれるなよ」
関永は楽しそうにオカマの尻を撫でた。オカマの塩辛声の悲鳴がロビーに響いた。
東京までの車中では、オカマによるサイパン話で盛り上がった。
陰毛の濃い女の子が目に涙をいっぱいに溜めて毛抜きで抜いて、その部分が翌日の撮影時に陽に灼かれて赤い発疹になり、プロデューサーに『そんな赤いポツポツが出ないような大きさの水着を選ぶことぐらい常識だろう! ハイレグじゃないのに着替えろ』と罵られ、罵っていたくせに、夜になるとプロデューサーは甘い声で発疹のある女の子を口説いて部屋に連れ込んだらしい、とオカマは話した。
「あのプロデューサーは髭が濃かったから、口説き文句は『ぼくのように髭の濃い男にとって、髭剃り負けの赤いポツポツは日々体験してることだからね。とっても良い治療法があるから教えてあげるよ』なのよ。言うほうも言うほうだけど、乗る女も乗る女よ」
と、プロデューサーの声をオカマが真似たところで大笑いになった。
リンは出発前に関永に言われた通り、一番最初に撮影してもらうことを希望して撮影を終えた。撮影が終わっているので意地悪のされようもなく、リンは心置きなくその夜からはカメラマンやプロデューサーたちに肘鉄を食らわせ続けたらしい。翌日からは、他の女の子たちの撮影に傍観者として同行して、女の子たちの媚びへつらった猫撫で声と、男たちの魂胆との駆け引きを芝居を観るように眺めていた、とリンは関永に報告した。
「あーあ、古臭いことやってるな、まったく。ドテの赤いポツポツと鼻の下の赤いポツポツを擦り合わせて幸せな気分になれるのかねえ。じくじく痛くて惨めな気分になりそうだな」
「その痛みが好かったりするのかもよ」
オカマが下卑た声を出した。
「それは、おまえらみたいな性の倒錯者の話だろう。どうせ、じくじく痛いなら、アフリカの大地に穴あけてチンポ突っ込むって何とか族がやる儀式の方が爽快な気分になるぜ」
「関兄、私はどっちも嫌ですね。じくじくってのがとっても嫌だな。変な病気になりますよ、そんなことしたら」
「健康マニアのおまえの意見らしいな。心がじくじくするセックスに関しては、おまえはまったく平気なのに、人各々に感覚が違うな。リン、おまえだったらどう思う」
「私は普通がいい」
「ガキだな、おまえは。普通なんてもんが、この世にあるか。そんなもんは悪事をしていないと思い込んでる小市民の作り上げた身勝手な幻想だ」
「関兄のそれも、普通の親に育てられていない人間の幻想じゃないですか?」
「あっ、小松崎。嫌なこと言うな、おまえは。殺したくなるぜ、おまえを」
関永は言葉とはうらはらに、機嫌のよい声だった。
「まあ、それにしても、やられなかったのは上出来だったぞ、リン。今夜は、うまいもの喰わせてやるから何がいい?」
「和食」
リンは気持ちの悪い話題からそれたことを喜ぶように声を上げた。
「それがいいよ、リンちゃん。海外で油だらけの食べ物ばっかり食べてるだろうから、血液がどろどろになってるよ。湯葉なんかがいいんじゃないかな。湯葉は好きかい、リンちゃん」
「食べたことないよ」
「そうか。ホットミルクに膜が張るだろう、それの豆腐版だよ。熱した豆乳に張った湯葉を自分で掬《すく》って食べる店が青山にできたから、そこに行こう。いいよ湯葉は、植物性タンパク質とビタミンB群の宝庫だから」
「よし、リン、湯葉だ、それで行こう。あんたも、一緒にどうだ、リンが世話になったから、ご馳走するよ」
「まあ、素敵」
とオカマはアヒルのようなダミ声で叫んだ。
湯葉の店での小宴会を途中で抜け出した小松崎は西麻布に向かった。交差点から脇道にそれる。東京はどんな場所にでも人が住んでいる。私鉄もJRも通らず、坪単価も極めて高い西麻布の裏道にも住宅街が存在する。
小松崎は、住宅や個人事務所の入ったありきたりのマンションの地下に下り、いかにもピッキングをしやすそうなドアを開けた。雑多な人間たちの声が塊になって、入ろうとする人間を押し戻そうとする。ドアの内側には、四人掛けのテーブルが三十、カウンター席が二十もある空間が広がる。小さな蝋燭だけの照明に照らされた顔だけがぽっかりと暗闇に浮かんでひしめきあっている。
内装屋が見積りを吹っかける安っぽい装飾も、オーナーが自分の趣味をいきがって開帳する品もない。バー本来の味だけをぎゅっと凝縮してポンと取り出すと、この店になるのだろう。オーナーはなかなかの切れ者で、西麻布でわざわざ飲むような輩は、インチキな代理店や設計事務所にいいようにされて、店側が客に押し付けるコンセプトいっぱいの店に飽き飽きしているだろうと、この店を作って大当りした。店の中の唯一の装飾は客であり、場所柄に沿った派手な人間が集まることが、異空間の効果を倍増させた。
小松崎がカウンターに座ると双子のオカマが注文を取りに前に並んだ。眼鏡がギルバート、コンタクト・レンズがジョージで、まるっきり日本人だが、いつも一緒にいて同じ動作で動くので、イギリスの現代美術の作家に準《なぞら》えて「西麻布のギルバート&ジョージ」と呼ばれている。本家のギルバート&ジョージは、「|生きた彫刻《リビング・スカルプチヤー》」と題して美術館の展示場所で一日中同じ動作を繰り返すパフォーマンスをやり、双子ではないがゲイのカップルだった。
「あら、小松崎さん、いらっしゃい」
双子は声を揃えて言った。
「テキーラをソーダで」
「またテキーラぁ」
「ああ、おまえの店で一番カロリーが低い酒がテキーラなんだ」
双子は不機嫌そうな小松崎の様子を察知して「はーい」と声を揃えて去っていった。
オカマは一日に一人で充分だ、と小松崎は心の中でつぶやいた。いい女に会いたい、と思った。美しくて、従順で、滑るような肌と、脳味噌の奥をくすぐるような匂いを香水もつけずに発散する女、そして、決して裏切らない女に会いたい、と思った。
小松崎の掌に妻の芽衣子を絞め殺したときの感触が蘇った。滑るような肌に包まれた柔らかい筋肉の首は、ひよこをぎゅっと握ったときと同じくらいに、か細かった。二十年経ったいまでも、細い骨が掌の奥で折れていく小さな振動は鳥肌とともに再現される。
裏切りさえしなかったら、芽衣子は最高の妻であり女だった。
自首した警察の取り調べ室で、「なにも殺さなくてもいいだろう。誰にだって過ちはあるもんなんだから」と、刑事が言ったとき、小松崎は刑事に殴りかかった。
妻は、産まれ出てくる小鹿のように、膝頭が鼻に付くほどに長い脚をピンと伸ばして、かかとを男の肩に掛けていた。乳房を掴まれ、機械のように動く男の腰に合わせて、自分だけに聞かせていたはずの喘ぎを小松崎の見知らぬ男に対して発していた。
自分が、そんな光景を目にしてから、もう一度言ってみろ、と思った。映画やドラマでよく目にするような光景でも、いざ、現実のものとして自分に降りかかってきたら身体の芯が冷たくなって震えるはずだ。その光景を目の前にして「誰にだって過ちはあるもんだ」という手垢のついた言葉を思い浮かべる人間なんてこの世にいるはずがない。どうしてそんな裏切りを簡単に見つかってしまう可能性のある自宅でやったのか、芽衣子の考えの無さが許せなかった。目の前の光景を消し去ることだけに固執した心は小松崎の身体に命令を下した。
台所で包丁を掴み、背後からそっと近づいた。男の汗ばんだ背中が、触れるのも嫌なほど穢《けが》らわしいものに見えた。刺そうとする身体の動きが止まりかけた瞬間、電話のベルが鳴った。身体はビクリと動き、それが合図のように身体を押した。振り返ろうとする男を躊躇せずに刺した。包丁は男の腰のあたりに、豆腐を切るように抵抗なく刺さった。男はベッドから転がり落ちた。電話は鳴り続けている。ペニスを屹立させたまま動けないでいる男の大きく見開いた視線を充分に感じながら、小松崎は芽衣子の首を絞めていった。芽衣子はぐったりとして失禁した。尿の流れ出る音と電話のベルが重なった。失禁が止まって、かわりに男の歯がガチガチと甲高い音を立ててベルに重なった。小松崎は裸足のまま振り返りもせずに家を出て、警察に向かった。
男は裏切った女を殺し、女は裏切った男に抱かれている女を殺す、という。自分もその通りだった。男の傷は急所を外れ一命を取り止めた。偶然というか、汗ばんだ男の背中に触りたくない気持ちが手許を狂わせたのかもしれない。
もしも、神様という存在がいるとするならば、どういうつもりで、忌まわしい光景を自分の網膜に張り付けたのだろう。この世の中から芽衣子の存在はなくなったが、芽衣子の見せた光景は決して色褪せることはない。忌まわしい光景を消し去ろうと行った行為は、誰かに導かれたようにスルスルと身体が動いた。もしかすると、神様に導かれたのかもしれない。あの時に鳴っていた電話に出ると「ご苦労さん、これから、まったく違う人生が始まるよ」と、残酷な神様の声が聞こえてきたのかもしれない。
どんなときにでも、視線を虚ろにすると、網膜に張り付いた芽衣子の光景が像を結び、掌の内側に芽衣子の首が再現される。それらのことが一生涯付いて回ると考えたら、諦めの気持ちも湧いたが、不確かな存在の神様を恨む気持ちも生れてきた。
男の歯がガチガチと鳴り、電話のベルが重なって蘇ってきた。電話のベルは二十年のときを経て、現在の音に変わっている。小松崎は虚ろだった視線の焦点を合わせた。西麻布のギルバート&ジョージの姿が像を結び、隣に座っていた髪を特大のチョコレート・パフェのように結い上げた女が「電話、電話」と小松崎に顎で差し示した。
カウンターに置いていた携帯電話が、バイブレーターの振動でカタカタと跳ねていた。
「もしもし、絵里子です。地図の通りに来て、たぶん店の前だと思うけど、外に出てきて。間違ってると嫌だから」
「いますぐ行きます」
ドアを開ける寸前には、小松崎の顔に柔らかい微笑みの仮面が被せられた。
「ここで、正解ですよ。絵里子さん、中にどうぞ」
絵里子は興味津々に店内を覗き込みながら入った。
「連れが来たから、奥に移るよ」
双子はハモるように返事をし、絵里子は楽しそうな目を向けた。小松崎は暗い店内をエスコートした。
二人がデートをするのは今夜で三度目だった。二度目の夜、絵里子は脚をM字形に大きく開いて小松崎を受け入れた。
同意書が欲しくて近づいてきているのを絵里子は気付いてないはずはない、と小松崎は思った。もちろん、小松崎は「同意書を欲しい」などと自分からは決して言わない。絵里子もその話には触れない。わかっていて、どちらが先にそのことを口に出すかのゲームをやっているようだった。
小松崎が金目当てではないとわかっているし、同意書を握っていることで下手なことはできないと安心しているのだろう。少しだけ危険な匂いがして、連れて歩くには申し分のない容姿をした小松崎と、愛のある中年カップルを演じるのは絵里子にとって同僚に自慢したいような遊びだった。
「今日も残業だったんだね」
小松崎の瞳に映る蝋燭の炎が揺れている。
「もう、いやになっちゃうわよ」
念入りに化粧した絵里子の唇は、ジェルのせいで濡れたように光っている。
「いまは、どんな仕事をやってるの」
「ウチの会社が今回作るHPの担当なんだけど、私は。作るっていっても私は指示を出す側で、HPの制作会社が実際は作るのね」
「へー、そういうのも詳しいんだ」
「相手になめられないように、勉強しなくちゃいけないから、詳しくもなるわ。大変なのよ、女が一人で生きていくのも」
「嫌なことが多いんだろうね」
「そうね。女だからってことで嫌な目に遭うことは大分減ったわよ。セクシャル・ハラスメントみたいなものは」
「絵里子さんに、ハラスメントなんかしたら、恐そうだな。訴えられて、とんでもない目に遭わされそうだ」
「恐いわよ、私は」
じゃあ、恐いことしてごらんよ、いくらでも受けて立つよ、と小松崎は声に出さずに言った。
「今日も、ここに来る前に怒鳴っちゃったわ。HPの制作を請け負ってる会社って、フランス資本の広告代理店の制作部門なのね。そこの女の子が堪らないのよ」
「また、絵里子さんの過激な現代批判が始まったな」
二回目のデートのとき絵里子は、自分と同じ世代の専業主婦をおばさんと言い放ち、こき下ろした。
「嫌なのよ、その子。私たちは嫌な思いをしてがんばってきたのよ、男社会の中に乗り込んで。それでどうにか女性の地位を向上させ得たのよ。でも、その子は、わかってないの。津田塾出て、ボストン大学の大学院を出て、フランス外資の会社なのよ。最初は偉いなって気後れしそうだった。でも、その子って、全然自分を主張しないのよ、無口なのよ。駄目じゃないそんなのって、そう思わない小松崎さん」
「えっ、どう駄目なんだろう、ぼくにはよくわからないんだけど」
絵里子の前では、「ぼく」と言ったほうがいいと小松崎は直感して、ぼくで通している。
「わかってないなあ、小松崎さんは。これからの女性は自分を主張しないと。お茶汲んで、給湯器の前で噂話してるOLじゃないんだから。その子から、伝わってこないのよ、情熱が。無口に黙々と仕事をこなしてるけど、もっと、上を見てがむしゃらに登っていって欲しいのよ。私たちががんばって築いてきたものってのは大きいの。それを、ちゃんと受け継いでくれなくちゃ。私たちががんばってきた意味がないわ。それなのに、その子はマイペースなまま。その子のがんばりを何も感じないのよ。ほんとに嫌になっちゃうわ」
「そりゃ、大変だあ」
小松崎は、その子に同情した。昭和ひとけた世代のオヤジにいたぶられた時代を思い出した。高度成長期のモーレツサラリーマンの主張が、キャリアウーマンに乗り移ったように思えた。たぶん、絵里子の父親は会社の鬱憤を家庭で晴らしていたのかもしれない。
鬱憤を晴らすオヤジに対して母親は、いまの小松崎のように、単なる学歴コンプレックスや若僧に対する嫉妬でも、上手な相槌を打って聞いていたのだろう。
そんな男尊女卑は打破しないといけない、と絵里子ががんばっているうち、男女差別を超えて、男女の区別さえも飛び超えてしまったようだった。憎むべきオヤジを打ち倒して、いまや女たちは、その憎むべきオヤジに成り下がろうとしている。小松崎は、絵里子とその子に同情した。
湯葉を食べ終え部屋に戻ったリンは、スーツケースを開けた。スーツケースの中に残っていた外国のホテルの匂いが部屋に少しだけ漂った。
リンはホテルから持って帰ってきた石鹸を探し出して匂いを嗅いだ。果物が熟したような甘い香りがした。「これ以外は使っちゃ駄目よ」と仁にきつく言われて手渡された石鹸は泡立ちも悪く、鼻を近づけて嗅ぐと蝋燭の臭いがした。
「明日は、なんもかんも休んでいいぞ。オカマオヤジのメイク修行も、健康マニアの有酸素運動も、ゲシュタポババアの発声練習もお休みだ! 一日だけの休みで悪いけど、しちゃいけないって言われたことをいーっぱいやっていいぞ、リン」
と、関永が酔っ払って言った。それは本当か、とリンは何度も念を押した。関永は酔っ払った目で本当だと言って、『何やってもよし、文句がある奴は俺が相手だ。関永』と書いた割り箸の袋に署名してリンに渡した。
だから、今夜は良い香りの石鹸で身体を洗うと決めた。一日空けば、匂いは消えて敏い仁にもわからないだろう。一度、別の石鹸で身体を洗ったのを、仁は直ぐに嗅ぎ取ってひどく怒った。
今夜はこの石鹸で身体を洗い、明日はマックとケンタを食べて死ぬほど寝ようと、リンは心に決めた。
「おお、いい写真じゃないか、これ」
ライト・テーブルで照らされたポジ・フィルムをルーペで覗きながら関永が言った。リンと小松崎も順番に覗いた。
「いいでしょう、関永さん。今回、四人の中でリンちゃんは、ダントツですね」
編集者は誇らしげだった。
「これって、何か特別な撮り方とかしたのかな」
「おもしろいでしょう。しごく当り前に撮ったんですけどね」
リンがサイパンの砂浜に立っている写真は、視線を鷲掴みにする力があった。
濃い青空に熱帯特有の湿気を含んだ雲が、リンの背景の右半分を占め、左半分からは夕暮れがグラデーションで青空に迫っている。海の色は空の色を完璧に写し取り、海と空との境はおぼろげになっていた。夕陽を少しだけ滲ませた砂は黄色味を帯び、色のせめぎ合いを真っ二つに別《わ》けるようにリンは立っている。漆黒の髪と夕暮れを跳ね返して白く輝く肌のリンは、色彩豊かな写真の中で切り取ったように無彩色《モノクローム》に見えた。物語の始まりを予感させるような写真だった。
「何だか、地上に舞い降りてきたって感じでしょう」
編集者は興奮している。
「そんな、ちょっと、褒めすぎじゃないの」
「いいえ、この写真は今回の企画を変えましたからね。四人のうちの一人を減らして、リンちゃんのページを二倍にします、他にもいい写真がたくさんありますから」
「それは、ありがたいな。それで、どの子が落とされたのかな」
関永が訊くと、編集者は「この子です」と、ポジ・フィルムをライト・テーブルの上に置いた。
「あっ、ポツポツだ」
リンが声を上げると、関永と小松崎がポジ・フィルムを覗き込んで、「はは、こいつか、ポツポツは」と言って笑った。意味がわからずにいる編集者に関永が『ポツポツ』の由来をオカマがやったプロデューサーの真似のまた真似をして説明した。
「それなら、私も横で聞いてましたよ。どんな方法で治療するのか知りませんが、私が見たところでは、まったく治ってませんでしたね」
「ポツポツは、踏んだり蹴ったりだな。治らないわ、ヤラれるわ。挙句の果てには、落とされて」
「しょうがないですね。たった数日間の撮影旅行で、そんな間抜けなあだ名を付けられて笑われるっていうのは、もう、その時点で落第です。バラエティ・アイドルなら、戦略的にそう行動しますが、たぶん、この子の場合はそこまで考えていないでしょう。うちの雑誌として考えたら、この子を外して、リンちゃんのページを増やすというのは、しごく当り前のことですよ」
リンがちょっとびっくりするくらいに、編集者の声は冷たく聞こえた。
「リン。ポツポツの仕事をぶんどった形になったけど、よくあることだから、気にするな」
「はい」
ポツポツは私のことを恨むんだろうな、とリンは思った。中学のとき、担任の男性教師に一方的に好かれ、気味の悪い縫いぐるみを貰ったり、あからさまに贔屓《ひいき》され、女子生徒全員から恨まれる結果になった。それこそ、踏んだり蹴ったりだった。
「それから関永さん。編集長が、話がしたいということなんですけど、お時間はいいですか?」
「かまわないよ」
関永たちは編集者について上の階に上がると、応接室に案内された。応接室は階下と違って重厚な造りで、招かれた者にヒエラルヒーを感じさせた。
型どおりの名刺交換を済ますと、取締役の肩書きが付いた編集長は、自分からよく見える位置にリンを立たせた。
毛穴の一つ一つを確かめるように編集長の視線は、リンの表面をゆっくりとなぞっていった。そして、今度は、顎を引き気味にして、リンをぼんやりと眺める、それは、霊媒師が背後霊を読み取るような仕草だった。
「関永さん、いいですねリンちゃんは。蹂躙《じゆうりん》してくる視線を跳ね返す力がありそうだ。アイドルは晒《さら》し者ですからね。跳ね返す力がないと、どんなにいいものを持っていてもズタズタにされてしまいます。股ぐらパワーに吸い寄せられ、陰嚢に精液を満杯にした人間たちの視線というのは、身体を焦がしてきますからね」
初老に近い編集長が、股ぐらパワーと生真面目な顔で言うのがリンにはおかしかった。
「お話というのは、何でしょう」
「実は、リンちゃんで写真集を出したいと思っているんです」
関永と小松崎はホウという顔で編集長の顔を見た。
「来週から撮影なんですけどね、そちらのスケジュールはどうでしょう」
「来週! それは、また、いきなりですね。何か事情がありそうですね」
「ええ、下降線を辿っていたアイドルのヘア・ヌード写真集が土壇場でキャンセルになったんです」
「ほう、近頃では、珍しいですね、違約金が大変だ」
「事務所は起死回生と考えて、女の子を説き伏せたんでしょうが、女の子は脱ぎたくないから婚約者をつくって、引っ掻き回しましたよ。いいように乗せられた婚約者は、IT事業で山を当てた小太りの三十男でした、金を集めるのが死ぬほど好きといった感じのね。まったくモテない男ってのは結婚前には、見栄を張るんですかね。違約金を全て払って、新婦が衆人の前で毛を晒すのを防いだってことです」
「リンにヘア・ヌードを?」
関永が言った。
「いいえ、そんな、こんな生きのいい子には、やらせませんよ。うちとしては、違約金も入ったし、損をするどころか、売り上げぐらいの儲けさえ出てますからね。こういう時こそ、新しい人間にチャンスを与えるべきではないか、と思っていたところに、リンちゃんのポジが上がってきた。売り上げを考えないでいいのなら、私だって、パサパサの陰毛より、力のあるリンちゃんの目の光を記録に留めておきたい。そう思うのが出版に携わっているものの本音でしょう。どうです、やりませんか」
「ラッキー・ガールだな、リンちゃんは」
小松崎が思わず声に出して言った。
「あなた、これぐらいのラッキーなんて当り前ですよ。アイドルで登り詰めていく人間は、私ら常人では掴むことのできないラッキーを繰り返して掴んでいくんです、何回も宝くじに当たるようなね」
「それは、言えるな。それで、リンをどう撮りたいんですか?」
「当初のヘア・ヌードはスペインのグラナダを予定していましたが、そんなババ臭いシチュエーションは必要ないでしょう、リンちゃんなら。今回は、原宿、渋谷、下北《しもきた》、吉祥寺、池袋、お台場の若者が好む雑踏とサブ・カルチャーの中と考えています。ファッションは現代を踏襲していても、ずんぐりむっくりした体型にひらべったい顔のDNAを隠すことのできない若者たちの前で、リンちゃんを対比させるんです。世の中に引き摺り出される人間は美しいっていうことが際立ちますよ。どうです、関永さん、悪い話じゃないですよ」
編集長と編集者は顔を前に出した。関永は片頬を上げた。
「やりましょう。煮るなり焼くなり、リンを使ってください。お任せします」
「よし、決まりだ。おもしろいものを作りましょう」
関永と編集長は腰を上げて握手を交した。リンの目の前で、リンの意向など関係なく物事が進んでいった。
カメラマンは写真集を手懸けるのは初めての新人が抜擢された。カメラマンは「お台場はやめましょう。あそこは、地方からの観光客が着飾ってやってくる。ディズニーランドにいる人種と似通った人種の集まる場所だから、カルチャーとしての面白みはないですね。それなら、ぼくは上野で撮りたい。それと、吉祥寺なら、高円寺の方がよりサブ・カルですよ。高円寺は当り前の商店街が古着屋に浸食されていく過渡期ですから」と言って企画を練り直した。
ヘア・メイクは「私がやるわよ」と仁が名乗りを上げた。そして、仁はスタイリストとしてオカマ特有の肩パッドの入ったおばさん臭い服ではなく、ダークスーツで堅い格好をしたゲイの痩せた男を連れてきた。
撮影は、「ゆっくり、じっくりと撮りましょう。夏が終わって秋に入る頃は、都内でも乾燥して大気が澄みますから、いい空気感になります。印刷所はすでに押さえてありますから、撮影が終われば直ぐにでも出版できます。さあ、秋が楽しみだ」と編集長の提案で、三週間かけて快晴の日だけを朝に判断して不定期に行われることになった。
ポツポツの仕事を取ってリンが八ページのグラビアになった雑誌の発売日、マージン・ハウスの電話は鳴り続けた。
「おい、リン。百匹の猿≠ェ起こりそうな勢いだな」
電話の対応に追われている小松崎をよそに関永はのんびりした口調だった。
「百匹の猿≠チて、なに?」
「情報伝達の不思議ってやつだな。例えば、大分の高崎山の一匹の猿が芋を食べるとき、海水で洗って食べると塩味がうまいってことを発見する。隣の猿が真似をする。はは、猿真似だな。段々と真似する猿が増えて、猿が浜辺で並んで芋を洗うようになる。それが、百匹になったとき、どうなると思う、リン」
「どうなるんだろう。わかった、塩を作り出すのかな、猿が」
リンは、どうだという顔をした。
「阿呆か、おまえは。それじゃ、いつの間にか猿が人間になっちまうだろう。そうじゃなくて、全国のいたるところで芋を洗う猿が現われるんだよ。変だろう、教えてもないのにな。そして、あっという間に全国の猿は芋を海水で洗うのが定番になるってことだ。アイドルなんかでは、似たようなことがよく起こるんだ。ある一定まで、知れ渡ると、その次には、爆発的に情報が流れ出して、一気に全国区になるんだ」
「そんなことに、なるのかな」
「まあ、この百匹の猿の話ってのは結局は、ライアル・ワトソンって作家の作ったメタファーで嘘っぱちだったんだけどな。だけど、その百匹の猿の話自体が百匹の猿を起こしてたんだ。人間が信じたいと思わせるような話だからな、虚構であるのに語り伝えられると真実味が生まれる。アイドルは虚構と現実を彷徨《さまよ》ってるようなもんだからな、そんなところで有名になっていくんだ。虚構の世界から現実の世の中に引き摺り出されるように有名になるんだよ。俺は、現場で見てきたけど、それはもう、あれよあれよという間に登り上がる、おもしろいもんだぜ」
「ふーん」
と、リンは言葉では言ったが、登り上がる自分を少しだけ想像して楽しい気持ちになった。
「ただ、登り上がっていく時期ってのは、大きく身体を開いて無防備な状態なんだ。よくないものも引き寄せて取り込んでしまう」
「どんなこと?」
「それは、いろいろあるさ。このビルの非常口に、チンチン出した若い男がずっと立っていたりするんだよ」
「うえー」
「しかも、腹に『リンちゃん、EAT ME!(僕を食べて)』ってマジックで書いたりしてるんだぜ」
リンは中学校の帰り道に時たま出くわした痴漢を思い出した。露出した性器をいきり立たせて、放心したような、それでいて満足そうな顔で立っている。気味が悪いというより、壊れた人間を見るようで恐ろしかった。その腹にもしも自分の名前が書かれていたとしたらと、考えるだけでおぞましく、背中に鳥肌が走った。
「もっと、激しいのになると、とんでもない事件も起きたな。あるアイドルを犯そうと計画した男が、自分の両親を殺したんだな。まったく関係のないことのようだけど、その男は、自分がアイドルを犯したりしたことが世間に知れたら、両親は恥ずかしい思いをするだろうから殺した、と供述したんだってよ。アイドルの部屋に忍び込もうとしたのを事務所の人間が取り押さえて警察に突き出したら、鞄の中からロープや手錠、血に塗《まみ》れたナイフやらが、ざくざく出てきたらしい。両親を殺して、すぐにやってきたんだな。まったく、アイドルってのは、とんでもない奴の頭の中を沸騰させちまう」
「そんなの滅茶苦茶じゃん、どうしたらいいの、私は」
リンの背中の鳥肌は波を打ってわさわさと動いた。
「関兄、そんなにリンちゃんをビビらせたら可哀相ですよ。大丈夫だよ、リンちゃん。リンちゃんのことは私たちが完璧に守るから」
小松崎をすがるような目でリンは見た。
「俺は、ただ実例を挙げただけだよ。これから、ちゃんと守るからって話を続けようと思ったのに、おまえが途中でいいところかっさらう茶々入れるから、俺が悪者みてえじゃねえか」
関永が睨むと「本当かな」と小松崎は笑った。
「馬鹿野郎。ちゃんとこういうのも用意してるんだよ。ほら、リン。これを護身用に持ってな。ケミカル・メスだ。催涙スプレーみたいなもんだから、掛けられた相手は五分ぐらいは目も開けられない」
口紅ぐらいの大きさの銀色の円筒を渡されたリンは、興味深げに見た。
「それって、関兄の鍵束から外しましたね、いま。用意してたんじゃなくて、自分のじゃないですか、調子いいなあ」
「おまえは、そんなところだけは、よく見てるな。嫌な奴だ」
リンは二人の会話を聞いて笑ったおかげで、鳥肌が収まってきた。
「ところで、小松崎。電話はどんな感じで入ってるんだ?」
「雑誌の表紙から取材まで様々ですね。取りあえずは、こちらから折り返し掛け直すと伝えてます」
「写真集の撮影を優先順位の一等最初にするから、それを伝えてスケジュール組んでくれ。取材は雨の日か夜だな。ライターとカメラマンが来るだけだろうから、融通を利かせて貰え、文句言うところは断わっていい。それで、今日は晴れまくってるけど、撮影はやるのか」
「やりますよ。今日は神宮外苑の屋外プールで水着です。秋に入りかけてますから、閑散としてますからね」
「ほう、あんなとこで撮るのか、懐かしいな。でも、あそこは撮影許可なんて下りるのか」
「ゲリラでやるそうですよ。カメラマンも水着で、カメラ一台だけ持って」
「関係ない人間が映り込むぞ」
「それが狙い目らしいですね。体脂肪率一〇%前後に無駄な脂肪を削りとったリンちゃんの身体と、何もやってないぶよぶよの身体を対比させるんですよ」
「また、残酷なことするな」
「身体のバランスも違うし顔もまるで違うってのは、やはり、隣に煙草みたいな対照物が置いてあるほうが分かりやすいですから。それと、映り込んだ人間には印刷時に犯人みたいな目隠しを付けるんだそうです。それも、また、一風変わった写真でおもしろいですね」
「いろんなことを考えるもんだ。リン、ちゃんと用意はできてるのか」
「はい、朝から下着を何も付けてないよ」
リンは締め付けるものがないワンピースを着ていた。
「だから、そんな格好してたのか。ノーパンだからって、そこいらに座って、変な染みなんてつけないでくれよ」
「もう、馬鹿じゃないの。つけるわけないでしょう!」
関永がソファーを確認しながら笑っている。
「リンちゃん、そろそろ、みんな来るから、下でシャワー浴びてきなよ」
リンは立ち上がって、自分の座っていたソファーを確認して関永をフンと見て階下に下りていった。
「おい、小松崎。ここに来るのかみんな」
「そうですよ。プールに一番近いですからね。ここで水着選んでヘア・メイクします」
関永は「えっ」と声を出して、そそくさと立ち上がった。
「どこ、いくんですか関兄」
「仁が来るんだろ。俺は後から撮影を覗きにいくよ」
「プールはパブリックなスペースですからね。刺青《いれずみ》を入れた人間は入場できないんじゃないですか」
「プールで泳ぐわけじゃないんだからシャツ着てれば大丈夫だろう。俺の刺青なんて日本の伝統文化なのにな。仁がプールに行くなら、もっととんでもない格好するだろうよ、そっちの方が入場禁止だぜ」
窓から下を覗くと、真っ黒な日傘をさした仁がまさにビルに入ってくるところだった。関永は非常階段を駆け下りていった。
「けっ、何だありゃ、ゲリラもくそもねえな」
関永が物陰からプール脇の観戦スタンドをこっそりと覗くと、そこには見るからに異種の一団が陣取っていた。
仁は、つばの広いストロウハットを被り、黒の薄手のバスローブを羽織って座っている。その横から、かしずくように黒い日傘をさす裸足の男。鍛え抜いた身体の小松崎は、これ以上小さいサイズはないと思える黒いビキニ水着をはいて、背筋を伸ばして立っていた。青白い身体にサイズの合っていないトランクス姿の編集者はアート・ディレクターとして、連写音を響かせているカメラマンに指示を出している。
美少女を囲んだ一団は、まるでフェリーニの映画に出てくるサーカス団員の海水浴のようだった。
背中一面に彫った青一色の刺青を白いシャツから透かした関永は、あんな恥ずかしい一団に加わるのは願い下げだと、見つからないように遠くから撮影を見つめた。
燦々と太陽は照っているが、じりじりと灼きつける真夏のような勢いはなくなっていた。スタンド裏の森から寒蝉が鳴いているのが聞こえる。子供の頃、油蝉にとって替ったように寒蝉が鳴き始めると夏が終わっていくのを感じた。
「晃司、知ってるか。寒蝉は夜になると閻魔蟋蟀《えんまこおろぎ》に変身するんだぜ」と、たぶん同じ時期に鳴き始めるので妙に本当らしく聞こえた嘘を教えたのは、二つ年上のヨッチンだった。ヨッチンは神宮外苑屋外プールのタダの入り口を教えてくれたので、そんなくだらない嘘も信じてしまったのかもしれない。プール脇にあるフェンスの一部のボルトが弛んでいたのを見つけたヨッチンは、それを手で抜き取りフェンスを押し広げると、監視員からは見えない位置から中に入れるのを発見した。
その夏、ヨッチンはヒーローだった。その頃流行った映画の『大脱走』を真似て、紐を使って遠くから合図を送る方法で大勢の餓鬼どもを入場させたりもした。三年もすると、改修工事によって、フェンスのボルトは取り替えられて、ヨッチンの秘密の入り口は使えなくなったが、夜中に忍び込んで遊ぶという新しい方法のお陰で大して落胆はしなかった。
関永が中学三年の夏休みに初めてセックスしたのもこのスタンドだった。真っ赤なタオルケットとウィスキーとコカ・コーラを持って同級生の女の子を連れ込んだ。
中に射精してしまった関永は、大急ぎでコカ・コーラを振って女の子の膣に突っ込んだ。女の子は泣きながら飛び跳ねていた。青姦の三点セットとインチキな避妊法を伝授したのも暴力団の準構成員になっていたヨッチンだった。
オカマの親父二人に育てられ、不良にはまったく似合わないチェロを弾く関永を笑わなかったのはヨッチンだけだった。中学生ぐらいの悪餓鬼にとって、チェロなんて西洋かぶれな楽器を弾くなんてことがわかったら、それこそ舐められてしまう。関永がその頃の流行りのリーゼント頭で、チェロを持って歩くのは勇気のいることだった。バイオリンなら袋に入れて隠すことができたが、チェロは因縁を付けてください、と言わんばかりに目立った。いっそ、コントラバスぐらい大きければ、リーゼントの似合う指で弾くウッド・ベースに間違われるのだけれど、チェロは中途半端な大きさだった。
苦労をしながら続けたチェロに挫折を感じて、関永のドロップアウトは進んだ。そんなときに相談する人間で人生とは大きく変わるものだ。チェロをやめるなら、最後に聞かせてくれ、と頼んだヨッチンのリクエストに応えて弾いてから、二度と弾いていない。ヨッチンは渾身の力で弾いたチェロの音色にいたく感動して「チェロの弾けるヤクザなんて、なかなかいないぜ。晃司、これからの都会派ヤクザは、個性が大事だ」と、もう二度と弾かないと心に決めた関永に勘違いの賛辞と新しい職業への誘い文句を並べた。
スラッとした容姿を持つ優男のヨッチンが女にモテているのを知っていた関永は、まだまだ、したいさかりだったのと、チェロの弾ける都会派ヤクザのくだりが妙に気に入って、誘われるままにヤクザになった。
まったくチェロのことなど思い浮かばないほど関永がヤクザに没頭していた頃、ヨッチンは人を殺す事件を起こした。自分の女房を絞め殺し、間男を刺して千葉の長期刑《ながむし》の刑務所に収監された。
関永が背中いっぱいに青一色の刺青を彫り、恐喝で一年六月《いちねんろくげつ》の短期刑《しよんべん》を受け若頭補佐に出世した年に、ヨッチンは出所して戻ってきた。組の稼《しの》ぎとは、関係のない事件で懲役に行ったヨッチンの位は上がることなくヒラ組員のままだった。盃を直すことになり、関永はヨッチンの兄貴になった。それからは、呼び合う呼び名も、ヨッチン、晃司から、小松崎、関兄に変わった。仮出獄して刑期は短くなったとはいえ十数年も看守に絶対服従を強いられたせいなのか、逆転した立場に小松崎は動じることなく順応した。それからは、組を抜けても立場は変わらずに関永に付いて一緒にいる。
関永はプールサイドでノボリを立てて売っているコカ・コーラが飲みたいと思った。いまの小松崎なら、『そんなアメリカの毒を飲むぐらいなら、本物のコカの葉のほうが身体にいいはずです』と言うだろう。
刑務所を通過してヨッチンから小松崎に変わって、女をまったく信用しなくなり、健康マニアになってしまったが、元々からそんな素地があったのかもしれない。人間の根本なんて、それほど変わりはしない。長年の刑務所暮しが、小松崎の本来の姿を見せる結果になったように関永は思った。
短い刑期なら、社会との関係を切ることなく刑期を勤められる。ヤクザはヤクザらしく虚勢を張れる。また、短期刑の刑務所は、犯罪で生活している人間たちの濃密な縮図になる。刑務《なか》所での評判は、あっという間に外に知れ渡る。一年六月という期間ならば、外に出てからの身の振り方も現実のものとして考えなければならない。しかし、十数年では、話が変わってくる。毎日の食事も、就寝も起床も全て決められる。その苦痛に慣れると、決めて貰っているという子供の感覚になるらしい。虚勢を張る必要も、希望を持つ必要もなくなる。小松崎が言うには、そんな状態での十数年は、「永遠」という言葉と同じ意味になるらしい。
十数年間、ほとんど女と触れることも、見ることもなかった小松崎の記憶は、殺した女房で途切れていた。しかも、それを永遠として感じるのなら、たまらなかっただろう。
出所して、どうしても小松崎が理解できなかったのは、信用できない女に毎日食べるものを決められ、決められた給料の使い途を決められ、その上、家を買うために三十五年ローンという永遠の期間、金を払い続ける契約を結ぶ人間がいるということだった。おまえみたいな奴が、ゲイになればいいのにな、という関永の問いに「同じでしょう。恋愛感情を持つと、相手が裏切ったと感じるんだろうから。それに、ゲイはなろうと思ってなるもんじゃないですよ、あれは取り憑かれるもんですね」と、小松崎は答えた。
撮影の合間なのか、水が冷たくて誰も泳いでいない五十メートルプールを、小松崎がフルスロットルの勢いで泳いでいる。肘から出水、親指から入水と規則的にクロールの掻き手を繰り返し、綺麗にターンを決めていた。プールの端がなかったら、どこまでも永遠に泳いでいきそうだった。あはは、まったく、変わった奴だな、と関永は笑った。
リンは一カ月の間に、写真集の撮影を終え、月刊誌の表紙一本、グラビア三本と取材を数社こなし、レンズを見て微笑むことにも慣れた。
テーブルの上にはリンの掲載された雑誌が戦利品のように広げられている。
ソファーに座って自分のグラビアを確認していたリンの膝の上に、関永は、ポンと給料袋を投げた。
「リン、給料だ」
リンは目を輝かせて受け取った。
「もー、紙しか入ってないじゃん!」
「そりゃあ、給料明細っていうんだよ。給料はおまえの銀行口座に振り込んだ」
興奮して食ってかかったリンを、からかうように関永は言った。リンは初めて貰う給料明細を興味深げに眺めた。これまではアルバイトとはいっても、ほとんどが源泉徴収を税務署に納めていないような仕事で、現金払いだったので、明細書などは初めて見る代物だった。
「また、興奮して目の色変えられそうだから先に言っとくけど、一番下にある数字が手取りの金額だからな、それが振り込まれてるんだから、少ないとか言ってナイフを振り回すんじゃないぞ」
「そんなことはしないよ。でも、ありがとう。私、初めて給料貰った。すっごく嬉しい!」
「手取り十三万ぐらいで、喜んでもらえれば、こっちもありがたいな。そうだ、リン。それなら、手取り二十万ぐらいで五年契約に変更しようか。七万も余分に貰えるぞ」
「えっ、七万も! どうしようかな」
リンは頭の中で計算を始めた。
「駄目だよリンちゃん、そんな話に乗ったら。売れてくれば、ガンガン給料は上がるんだからね。すぐに倍になって、その次の月には、また倍になる、毎月倍になっていくぐらいに上がるんだから」
「そうなの、もう。詐欺師関永! いっつもいっつも、私をからかってばっかり」
関永は声を出さずに笑っていた。
「リン、詐欺師ってのは、金を騙し取って初めて詐欺師って言うんだよ。給料出してる人間に失礼な」
「まあまあ、リンちゃん、ところで、そのお金を何に使うんだい」
小松崎が訊いた。
「そうねえ……」
「新人のアイドルの好きなものといえば、焼き肉と洋服とディズニーランドだけどな。それで、もうちょっと売れてくると、犬とか車を欲しがる」
「そうですね、男ができると犬とか車だな。あれって、自分が自由にできるものが欲しくなるんでしょうね。アイドルを愛人にするような男なら金もあるし力もあって自由にならないですからね。リンちゃんだったら、何だろうな」
「貯金なんて言うなよ。マンション欲しいって最初に言ったからな、リンは。売れりゃあ、現金で買えるんだ。売れなけりゃ、貯金を百年やったって買えない。あっ、おまえ、貯金って思ってたな、動揺して目が大きくなったぞ」
「そんなことないよ」
図星だった。近頃、関永はよく観察している。リンが怒っているときは、唇の下がへこむのを指摘した。
「リン、早く、何に使うんだよ」
「自転車買おうかな」
関永と小松崎は顔を見合わせた。
「微妙だな、それ。貧乏臭い手前ぎりぎりだ、ははは。もしかして、それって、地下のジムで、漕いでも前に進まない自転車に毎日乗ってるからじゃないのか、リン」
リンの唇の下がへこんだ。
「怒るな、そんなに。自転車が欲しいならやるよ、俺の自転車を」
「えっ、どんなの?」
「新聞配達に使う自転車だ。かっこいいぞ、黒くて戦車みたいなヤツだ。荷台なんてでっかくてテレビとかも運べるぞ」
リンはケミカル・メスを関永に向けて構えた。
「リンちゃん、私のでよかったらあげるよ。マウンテン・バイクだけど」
「本当に? やったー、小松崎さんの自転車ならかっこよさそうだからいいな」
「なんだよ、それ。小松崎さんのならって」
からかう顔で言う関永を無視してリンは膝の上の雑誌に目を落とした。
「おっ、無視するのか、リン」
「もう、うるさい!」
関永は「ちっ、怒るなよ」と、小さな声だが充分に聞こえる声で言った。リンは唇の下がへこまないように用心した。
「ねえ、小松崎さん。ポジ・フィルム見るときのルーペって持ってる?」
リンはにこにこしながら言った。「けっ、ポジだってよ。ちょっと言葉憶えると、すぐ使いたがるな」と、関永がまた、小さな声で言った。ルーペを受け取ると、リンは自分の写真集の広告ページにルーペを置き、片目をつぶった。
「ねえねえ、小松崎さん。ちょっとこれ見て」
小松崎が片目をつぶった。
「あっ、あれれれ。関兄だな、これ」
広告ページには神宮外苑屋外プールの写真が使用されてあり、リンの後ろのスタンドにスーツの上着だけを脱いだ関永が写っていた。犯人のように目隠しがデザイン処理されているが、紛れもなく関永だった。
「なんだ、あの日来ないからひどいなって思ったけど、やっぱり私のことが心配で来てくれてたんだ、関永さん」
「俺じゃない。他人の空似だ」
「えー、だってこの格好も髪型も靴も関永さんだよ。ちょっと、ぼやけてるけどルーペで見ればわかるよ。それに、プールのスタンドでこんな格好してる人なんて誰もいないよ。明らかに変だよ、長いズボンに長袖シャツでさ」
目隠しで視線はわからないが、少し腰を浮かし加減で撮影を覗き込んでいる雰囲気だった。
「見せてみろよ」
関永はルーペを使って確認すると、雑誌をリンに投げた。
「俺じゃねーよ。俺はこんなにかっこ悪くねーよ」
「絶対関永さんだって。往生際が悪いな。ねえ、小松崎さん、もう一回、ちゃんと確認してよ」
「小松崎、いい加減なこと言うと殺すぞ」
小松崎は写真集用のポジを選ぶときより真剣に目をすがめた。
「これは、関兄ですね。リンちゃんの勝ちだな」
「馬鹿野郎、嘘を言うな」
「いいえ、確かに関兄です。しかも、コカ・コーラなんてものを飲んでる。関兄はグラスや瓶を持つ時、小指を曲げる癖があるんですよ。この写真の人物のコーラを持つ小指は半分しか写ってない」
「そんなの、エンコ飛ばしたコーラ好きのヤクザかもしれないじゃないか」
「駄目駄目、そんな屁理屈は裁判所でも通りませんよ。要素が重なりすぎです。あの日は麻のスーツを着ていたのを私は記憶してますし、髪型もいまと同じです。それに、どうしても違うと言うなら、ポジ・フィルムから目隠しの処理をしていないのを拡大プリントして確認することもできるんですよ」
小松崎が言い終わると、リンは勝ち誇ったようにルーペと雑誌を関永の顔の前に差し出した。
「うるせえなあ、おまえらは。鬼の首でも捕ったみたいに。百歩譲って、ここに写ってるのが俺だとしても、それはリンを心配してのことだから、それでいいじゃねえか」
「さすが、関永さん。やっぱり、私のことが心配だったんだ」
リンは皮肉っぽく言ったが、内心では別だった。
「まあ、そんなところだ」
関永は虚勢を張って話を誤魔化した。
「認めましたね、関兄」
「ああ、認める認める」
「駄目ですよ、コーラなんて飲んじゃ。あれはアメリカの毒ですからね。昔の人間には、コーラは男らしい飲み物だとか、二日酔いに効くなんていう奇妙な信仰がありましたが、あんなものは全て迷信ですからね、現代の人間は飲んではいけません。完全なケミカルですから、歯を溶かし身体を腐らせます。どうせなら、コカの葉を噛んだほうがプランツですから身体には、よっぽどいいです。コカの葉を噛みながら南米の先住民は百キロぐらい平気で野山を走るんですからね」
「本当にうるさいな、小松崎は。そんなこと言うんじゃないかと思ったよ。なあ、リン。小松崎はたまに、こんな、本当かどうか分からないデマ飛ばすから、気をつけたほうがいいぞ。何が百キロだ、見たこともないくせに」
「リンちゃん、ほら見てご覧。あんなアメリカの毒を飲んだりすると、関兄みたいに、頭に毒が回って人の話を聞かない人間になってしまうんだよ」
「滅茶苦茶言うな。おまえみたいな、健康マニアは早死にするんだ」
「分かってないなあ、関兄は。健康な状態で死ねたら最高じゃないですか。あっち痛いこっち痛いって身体を引きずって生きるより、鍛え上げて健康な身体で、燃え尽きてしまいたいですね、私は」
「何だそれ、あしたのジョー≠カゃねえか。馬鹿じゃねえの。おまえなんて燃え尽きて真っ白な灰になっちまえばいいんだよ」
冷静な顔でまくしたてる小松崎と必死に防戦している関永を、リンは楽しい気分で見ていた。仲の良い二人の馴れ合いの口論を羨ましく思った。
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07 |A《エース》
「バースト・プロっていったら、ポツポツの所属事務所ですね」
関永用のアポイント・ノートをめくりながら小松崎が言った。
「へえ、ポツポツはバースト・プロだったんだ。バースト・プロっていえば業界最大手だぜ。人材不足なんだな、あんな質の低いの所属させてるなんて」
「バースト・プロの人間が、いったい何の用なんでしょうね。まさか、リンが仕事を取ったって因縁ですかね。あそこは安岡組の企業舎弟ですから」
「まさか、そんなことはないだろう。取った取られたでいちいち因縁つけてたら、きりがない」
「それなら、いいんですが」
「ところで、リンは今日何するんだ?」
まだ、何か言いたそうにしている小松崎を押さえて関永が訊いた。
「夕方の五時から、恵比寿のスタジオで撮影ですね。眼鏡メーカーの広告です。これに関連して女性月刊誌の眼鏡特集の撮影も入れてます。モデルというより、ゲスト取材ですね。ギャラがいいので入れときました。だいぶ広告関係が増えてきましたね」
「そうか、他には」
「テレビも入ってきていますが、安っぽい仕事なんで断わってます」
「ああ、それでいい。テレビはメインか、その次ぐらいじゃないと出すな。それか宣伝だな」
「がんばってますよ、リンちゃん」
「がんばんなくていいよ。がんばってどうにかなる場所じゃないから」
「いえ、売れるためにがんばるんじゃなくて、地道なことを楽にこなせるようになろうとがんばってます。この場所ってのは派手な部分と地味な部分の両極じゃないですか、状況ががんがん変わっても動じないように努力してますよ。それにダイエットしながら不定期の仕事をこなすってのは結構キツイんです。私たちのような成長期を遠く離れた人間とは違って、本当に身体が食べ物を求めますからね」
「それができないようじゃ駄目だろう」
「そうなんですけど、あの子は自分でやってるんですよ。いままでの子は叩いたりなだめたりして大変だったんですけど」
「思ったより地味で健気だったんだな」
「関兄の言った、野良猫の習慣《ハビツト》ですね。生き残るための方法を自分で見つけ出してます」
二人がリンのことを頭に思い浮かべているとき、リンは六階下の地下で有酸素運動のためのエアロ・バイクを漕いでいた。
昨日の撮影の途中に差し入れされたケーキが浮かんで消えない。あれを断わるときに胸がドキドキした。カロリー制限をして有酸素運動をすればするほど、食べ物はおいしくなる。ぎすぎすに痩せればいいのなら食べなければいい。人間は三日も断食すれば、あとは食べ物を拒否する脳内物質が分泌される、それは拒食症を引き起こす物質だ、と小松崎に教えられた。肌の質を上げながら、拒食症一歩手前を維持するのは、鼻先にぶらさげられた人参を、唾液が大量に出るようにちびちびと食べながら走るようなものだった。
仕事が忙しければ気が紛れるけれど、まだまだ、暇な時間はいっぱいある。リンは暇な時間が恐くなった。
一日に百二十分の有酸素運動と三十分のウェイト。九百キロカロリーの野菜に含まれる炭水化物と植物性タンパク質、ビタミンと食物繊維のタブレットと二リットルの水、それとエキストラバージンのオリーブ油を大さじ三杯、これらを摂ることを毎日の状況が変わる中で実践していかないといけない。
ボクサーは身体を極限まで絞り鍛え上げて、相手を殴り倒す。アイドルは身体を極限まで絞り磨き上げて、見るものを魅了する。自分を追い込み身体を凝縮すればするほど、身体から放たれる輝きは、鋭く切れのあるパンチのように男たちの脳味噌に切れ込んでいく。
リンは自分でも不思議なほど生真面目に言いつけを守った。自分のがんばりが結果を出していくことが、リンにはおもしろくてたまらなかった。生まれて初めてと感じた。子供の頃からいつも自分にまとわり付いていた不充足感は払拭されていく。やる気という言葉がどんなものであるのか、リンは初めて気付いた。
負けるな、負けるなと小さく声に出しながら心拍数を百二十に固定してエアロ・バイクのペダルを漕ぐ。漕いでも、一ミリも前進しないけれど、漕げば漕ぐほど弱かった頃の自分から遠ざかっていける自転車だった。食欲に負けそうな自分を遠ざけ、サボりたくなる自分を遠ざけ、無心になるように漕ぎ続ける。ふくらはぎや手の甲からも汗が滲み出す。ペットボトルの水を口に含む。身体の中の古い水分が新しい水と入れ替わっていく。アドレナリンが噴出してランナーズ・ハイの状態が近づいてきた。
鼻から吸われた酸素が効率よく吸収され、身体中を駆け巡り脂肪が燃焼される。リンの頭の中には何もなくなった。何も考えず、何も思わず、マシーンのようにいくらでも運動を続けることができた。食欲は消え去ったが、ケーキの幻影は、ピタッと網膜の中心に止まったまま動こうとしない。リンはペダルを漕ぎ続けた。
名刺に取締役スカウト部長の肩書きの入った大隅と名乗るバースト・プロの男は、虎屋の羊羹《ようかん》の大棹をさげてやってきた。人間を撲殺できそうなほど大きくて持ち重りのする羊羹はテーブルの上で存在感を示した。
目に微笑みを浮かべて話す大隅は、リンの移籍話を持ってきた。
「四千万ですか、リンの値段は」
関永が大隅と同じくらいに穏やかな声を出した。
「ええ、新人の移籍料としては、最上部の値段です。とにもかくにも、うちの専務がぜひにと」
「専務の目に止まったんですか」
顎の細い昆虫のような顔をしたバースト・プロの専務の顔を関永は思い出した。
「リンさんの写真を見て大変に気に入ったようです。申し訳ないんですが、写真集のほうも裏にちょっと手を回して、ポジを見せてもらいました」
関永は目を細めた。所属タレント五十人中半分をアイドルで占める大手なら、エイチ社とは毎週毎月の仕事があるはずだ、エイチ社もバースト・プロの申し出を断わり切れなかったのだろう。わざわざこの場でフライングの事実を教えることに、大手の用意周到さを感じた。
「で、どうでしたか? リンの写真集の出来は」
皮肉を少し込めて関永は言った。
「売れますよ、あれは。素晴らしい写真でした。リンさんは大化けしますよ」
「大隅さん。さすが大手ですね。大化けしそうだから、売ってくれっていうのは」
「ちょっと、失礼でしたね、申し訳ない。それでは失礼ついでに言わせて頂ければ、うちではもう一段階上のリンさんの売り方が提示できうるんです。リンさんにとっても、おたくにとっても悪い話じゃないと思うんですけど」
「一段階上ってのは、どういうことですか?」
「歌です」
「リンは、ヘタじゃないけど、たいしてうまくないですよ」
「これだけ容姿ができ上がっていれば、歌の上手下手は、あまり関係ないのは関永さんも、よくご存じでしょう」
「金をつぎ込んで大量に広告を打つときに、リンの顔のアップならってことですか」
関永はざらりとした嫌な気分になった。おもしろくない売り方だった。CMを打たなければいけない商品は、所詮何でもいい商品だと関永は思っている。例えば、缶コーヒーなどは、A社とB社を飲み比べる人間などいない。CMでイメージを植え付ける競争をやっているだけで、消費者の味覚では、A社だろうとB社だろうと大差ない。
CMを打つことを前提として作られた工業製品ならそれも仕方がないだろう。しかし、人間を使ってギャンブルをするアイドルに、その方法を取り入れても面白味はなにもなくなる。二億かけて二億七千万儲かるだろうと、利潤率を計算し銀行から金を借りてアイドルを売り出すなんて、まるで、本命に大金を賭ける利殖に近い。まったく、金を稼ぐことばかり考える連中が味わいを無くしていく。
「リンさんなら、数字は見込めますからね」
大隅は、数字に強い清潔なビジネスマンのように見えた。ただ、清潔でクリーンなものを作ろうと思っていない関永にとっては、面白くない生き方をしていると感じた。
「四千万の中には、リンと専務の愛人契約代も含まれているんでしょうね」
大隅は縁なしの眼鏡を外して、ハンカチで曇りを拭きながら「そうです」と言った。
バースト・プロの専務は業界では有名なロリコンだった。ロリコン天国の日本では、自分のロリコン趣味をうまく市場に乗せることができれば、巨大な金を産む。大隅のような経済のコツを知った人間とのコンビは、ベストの組み合わせなのだろう。会社の経費で愛人を作る方法には虫酸が走った。
「リンはなんて言うかな。あいつはナイフとか振り回しますよ」
「おう、それですよ。専務はなかなか言うこときかないで、すぐに爪を立ててくるような、やんちゃな子を求めてるんですよ」
専務のロリコン趣味は何でも言うことを聞く奴隷を欲しがることから、ある程度は進化していた。
バースト・プロの専務は八年前に天才を育て上げた。沖縄出身の|A《エース》とあだ名される十代の美少女アイドルだった。時代を動かしたAは容姿に加えて、天性の声を持っていた。天才は強烈な吸引力を持っている。バースト・プロの礎を不動のものにしたのは、Aの吸引力だった。Aの吸引力は時代をかき回し、金を集めた。その金はAの出身地の沖縄の主力産業の一つであるサトウキビの総売り上げを上回った、とニュースになったほどだった。
Aが売れると、Aの立場と専務の立場が逆転した。宝くじの当たり券をたまたま引き寄せただけのロリコン専務では、Aに対処できるわけはなかった。Aは嵐を巻き起こし、扱いきれない存在としてバースト・プロ内でアイドルを脱却するべく脂肪を蓄積しながら、次の段階へと進んでいる。五十年に一人出るかどうかの逸材のAは平成の美空ひばりか、日本のアネサ・フランクリンに成長していくのかもしれない。しかし、その成長過程では、過去の一級品と呼ばれる人間たちがそうであったように、強い吸引力は様々な事件や事故を巻き起こすのだろう。Aに会ったとき、関永は愛くるしい顔をしているが「化け物」だと思った。時代に選ばれた人間だけが持つ輝きを放ち、災いや不幸まで吸収して歌声に乗せてしまう装置を備え持っている、と感じた。
「新しいAは、そう簡単には見つかりませんよ」
「もちろん、それはわかってます。Aの十分の一でもあればすごいことです。Aのような子を運営していくには、それなりの覚悟がいりますから」
「リンなら、専務でもどうにか扱いきれるだろうってことでしょうが、私のほうでは、いくら破格の値段をいわれても、リンを手放す気持ちはありませんよ」
大隅は、少し驚いたように関永を見た。
「他に何か、要望のようなものがあるんでしょうか。悪い話じゃないと思うんですけど」
「お断わりするのを不思議に思ってらっしゃるでしょう。途中まで育てて、こんなに早く高値で売り渡せられれば、投資もほとんどせずに大きな利益を上げることになるのでしょう。うちの通常のパターンなら、諸手《もろて》を挙げて応じるんですけど、リンに関しては、少しばかり私の考えを改めているんですよ」
「どういうことでしょう」
「ええ、もう少しリンのことを見ていたい、と思ってるんです」
大隅は、「冗談でしょう」と言って、大袈裟に笑った。
「うちは、バースト・プロさんのようにジャスダックに上場を予定している企業ではありませんからね。遊びの部分が作れるんです。アイドルを道具として利益を追求するのなら、お宅の申し出は、ありがたいものですけど、リンに限っては、大いに遊んでいるんです」
小松崎も驚いた顔でしゃべっている関永を見た。
「それは、リンさんにうちのAのような部分があると思われてるんでしょうか?」
「ええ、まあ。Aさんのように開花はしていませんし、系統も違いますけど、似た臭いを感じているんです」
関永は照れたように話した。
「うちのAに会ったことはありますか?」
「ええ、一度。ちょっと恐ろしく思いましたよ。これこそが、神に選ばれし者なんだ、と実感しました」
「ありがとうございます。でも、持て余しますよ」
「でしょうね。失礼な言い方になるかもしれませんが、いくら大手の会社だとはいっても、会社の経営とか利益とか常人の考えるようなことでAさんと対応していては、たぶんAさんは扱いきれないでしょう」
今度は大隅が照れたように笑った。
「私らは、経済行為で生きてますからね、辛いですよ。Aに関しては予測のつかないことばかりで、儲かるにしても、常軌を逸した儲かり方しますから、節税する時間とか、まるでありません。やはり、毎年、順調に利益が見込めるというのが、会社的には効率がいいですからね」
「その考えの中から弾《はじ》き出されたリンの値段が四千万というのは、すごいことなんですけど、私はリンが時代を切り裂く瞬間っていうのを経済効率を度外視して見てみたい。私は横にいて体験してみたい、と思ってるんです。大隅さんは間近で体験されたでしょう」
「体験しましたね。金が音を立ててなだれ込んで、その金の臭いに釣られた人間が津波のように押し寄せて来ました。たった一人の女の子のおかげで、会社ががんがんと大きくなるんです。異常事態ですね」
「それがおもしろいじゃないですか。右から左に商品を動かして、そこから利潤を得るんじゃないんですよ。高校もちゃんと卒業していないような女の子が、最高学府を出て日本の経済を牛耳っているつもりの経済エリートたちをあたふたさせる。愉快じゃないですか。私は愉快だと思いますよ。大隅さんにとっては違うかもしれないけれど」
「私が、自由にできる少数精鋭の会社であるならば、賛成したいですけどね。関永さんの意見には賛成できません。リンさんに関して今回は交渉決裂、平行線ってところでしょうか」
「申し訳ないです」
関永は頭を下げた。
「わかりました。今日は取りあえず早々においとまします。専務はわがままな子供の部分を持っていますから、悪い話は早めに入れとかないといけませんから」
大隅は立ち上がって、頭を下げた。立ち去る大隅を見送る小松崎が、聞こえるように「ひとつも諦めてませんね、あれは」と言った。大隅は小松崎の言葉に振り返らずに部屋を出て行った。小松崎の皮肉のこもった台詞がまだまだ続きそうな状況を示していた。
「最初は、値段を吊り上げるためのフェイクだと思っていましたが。リンちゃんに対して、そんな思い入れがあったとは意外でしたね」
「変かな?」
関永は振り返った。
「変と言われれば、変ですけどね。頷ける部分もありますよ。私もリンちゃんに対しては、妙に入れ込んでしまうところがあります。仁さんも編集長たちもそうじゃないですか、リンちゃんにはAに似た吸引力はあるでしょうね」
「だから、俺は見てみたいんだ、波紋が広がって行くところをな。こっちが巻き込まれてぐるぐる振り回されるかもしれないが、こんな面白いものは金を積んだって見られやしない」
老廃物を全て水分と共に流し去り、綺麗な水とすっかり入れ替えたリンが、撮影の用意を整えて部屋に入ってきた。
「どうしたの? じろじろ見ないでよ」
関永と小松崎は、よく締まった肌の輝きが増しているのを実感した。
「リン、綺麗になってきたな」
関永はリンの目を真っ直ぐに見た。
「何? またなんか私をからかういたずらの、はじまりなの?」
リンは鼻に横皺を寄せて見返した。
「関兄、まったく信用されてませんね。リンちゃん、本当だよ。綺麗になってきた。私が保証する」
「本当! 嬉しい。体脂肪もちゃんと落ちたし、小松崎さんのレシピで食べるから、便秘も全然しなくなったの」
「そうか、リン。良かったな、ウンコがモリモリと出てるのか、偉いぞ」
「もう、全然おもしろくない」
「さあ、リンの直腸あたりが軽くなったことだし、撮影に行くか」
リンは「馬鹿関永」といってメイク道具を持って背を向け部屋を出ていった。関永はリンを追いかけ、からかい続けている。クラスの可愛い女の子のことが気になってしょうがなくて、上履きを隠してしまう男の子のように関永は見えた。
メイクを終え、肩を出したタンクトップ姿のリンがスタジオに入って来た。スタジオ内の視線がすべてリンに注がれる。リンは堂々と視線を受け止めてスタジオの中心にある椅子に座った。カメラのフィルムに写されるのは、眼鏡を掛けたリンの顔と肩と鎖骨だけだった。眼鏡メーカーのポスターは、眼鏡をかけたリンの顔の大写しとコピーと会社名だけのイメージ戦略だった。リンの白眼の部分が青いと気付いたアート・ディレクターだけに、センスのよい大胆なポスターになるだろう。ポラロイドカメラで撮られた試し撮りの写真を見て、アート・ディレクターは満足げに頷いている。
「リンちゃんがスタジオに入ってきたときに、スタジオの温度が一度上がるようでしたね」
アート・ディレクターが関永に写真を見せながら言った。
「関永さん。もしかして、リンちゃんは外国の血が入ってますか」
「いいえ、入ってませんよ。そう見えますか」
「目が、とても不思議なんですよね」
「さすがにわかりますか、リンの父親と母親の遺伝子が目で闘っているんですよ。父親は綺麗な二重の三白眼ですが、母親は一重なんです。通常はあんだけ脂肪が少ない瞼は、二重になるらしいんですが、頑固に一重なんですよ。そこがおもしろいんですけどね」
「そういうことか、なるほどね。ところで関永さん。今度、リンちゃんを使ってビターチョコレートのプレゼンかけようと、クリエイティブ・ディレクターと話しているんですけど、どうでしょう? ビターチョコレートのイメージキャラクターですから、テレビCMもポスターもふんだんにあります。注目度高いですよ」
「それはもちろんお願いします。チョコレートの広告はアイドルの登竜門ですから。それにしてもミルクチョコレートじゃなくて、ビターってところが、リン向きでいいじゃないですか、さすがに、目の付けどころがいいですね」
仕事が仕事を産んでいく。関永はフラッシュを浴びているリンを見た。瞳の中で光る星がひとつ増えたように思えるほど目が輝いている。リンにもどうやら自信みたいなものが生まれてきたようだった。目の輝いている人間には才能のある人間が集まってくる。
「あれ、関永さん。奇遇ですね。撮影ですか」
撮影が終わってスタジオのロビーでリンを待っていた関永に声をかけてきたのは大隅だった。何が奇遇だ、と関永は思った。大隅の後ろには専務が顔を覗かせている。
「ええ、いま終わったところです」
「紹介します。うちの専務の高須です」
ガリガリに痩せて、裏原宿の店でロンドン直輸入の服を上から下まで揃えたような格好をした高須は、ブランド物の名刺入れから名刺を取り出した。
「今日は、どうも大隅が先走りまして申し訳ございません。失礼が多かったようで」
格好とは違う年相応な如才ないしゃべりで高須は前に出た。
「どうですか、関永さん。私の先走りが良くない結果を招いたようで。ここはできれば挽回させてもらいたいという意向を汲んでいただけないでしょうか。お近づきの印に、席をつくりますんで。ぜひ、みなさんご一緒に」
大隅は番頭か若手営業マンのように腰を折って話した。
「リンの件に関しては、お断わりしますよ」
関永は素っ気なく言った。
「いえいえ、その件はなしということで、これは、お詫びです。お詫びの席を設けようと思ったんですよ」
大隅が言い終わると同時に、撮影のスタッフが荷物を抱えてロビーに出てきた。大隅は目敏く見知った顔を見つけて近寄り話しかけ、これからバースト・プロの払いで店を予約したと話し始めている。
リンと一緒に出てきた小松崎が不審な顔で関永に近づいた。
「どういうことですか、関兄」
「大手の動きは早いな。あっというまにこんな状態だ。おまえ、リンから離れないでしっかりとガードしてくれ。むげには断わらない方がいいだろうから、一緒に飲むことになる」
「わかりました」
小松崎はすっと動くと、リンの傍らに移動してメイク道具を持った。
「リンちゃん、関兄の横で喋っている痩せた男がバースト・プロの専務で、隣にいるのがスカウトだ。話を入れるのが遅れて悪いけど、今日、あのスカウトがリンちゃんの移籍話を持ってきた。関兄は突っぱねた。それで、もう専務までやってきてる。どんな裏があるかわからないから、私の側を離れないでいてくれ。相手がどんな話をしても平然と構えて、答えを出さなくていいからな」
「えっ、うん、はい、わかった」
小松崎の真剣な声に気圧されるようにリンは答えた。
一団はスタジオから歩いて五分ほどのイタリア・キュイジーヌの店に招き入れられた。
店は八階建てのビルの屋上のペントハウスと屋根付きのオープンテラスで構成され、白人のウェーターが揃っていた。
「おい、小松崎。ここのウェーターのビザのチェックと血液検査をすると、おもしろいことになりそうだな」
ペントハウス側の席に着いた関永はリンを小松崎との間に挟んで小声で言った。
アート・ディレクターやカメラマンがリンの対面に座ろうとしたのを大隅は押し退けて、専務と自分の席を確保した。
「うちは、まったくその気はありませんから、リンの前で生臭い話はなしにしてください」
「それは、もう、当然です。この場は私の一存で決めた場ですから、ほんとにお近づきということで」
関永の言葉に大隅は腰を折って対応した。一人でマージン・ハウスに来たときとは、別人のような大隅の姿勢に大手の縦社会を関永は感じた。こんな奴が後ろから人を刺すんだろうな、とも思った。
「今晩は、バースト・プロの高須です。よろしく、リンちゃん」
手を差し出して握手を求めた高須に、リンはしかたなく応じた。
バースト・プロとマージン・ハウスの人間以外のスタッフたちは、降って湧いた大盤振る舞いに盛り上がっていった。
高須は上機嫌でリンと話を始めている。「リンちゃんの靴のサイズっていくつ?」「二十四・五です」「結構、大きいんだね。でも横幅は細くて縦に長いタイプじゃない?」「そうですね」「スタイリストさんは大変だ」「可愛い靴がないって言ってる」「そうか、リンちゃん。渋谷と吉祥寺にあるティルソって靴屋知ってる?」「あっ、知ってる。こないだのスタイリストさんが持ってきた靴がそこのだった」「可愛い靴だったでしょう」「はい、すっごく可愛かったから、小松崎さんに頼んで買い取りしてもらったの」「そうなんだあ!」
なんだよ、さすがに若い女の子と話し慣れてるじゃないか、と関永は高須の細い顎を嫌な思いで見た。
「あらら、高須さん、それに大隅さんじゃないですか。偶然ですね」
隣のテーブルに着いた髭の男が声をかけてきた。男は立ち上がると大股で歩いてきた。
「守田さん、ちょうどいいところで会ったな。マージン・ハウスの方々とちょっとした飲み会でしてね」
「マージン・ハウスさん、おお、それは、紹介してください」
守田は名刺を差し出した。名刺にはサニー・サイドレコードと書かれてあった。くだらない芝居してんじゃねえぞ、と心の中でつぶやいて関永は大隅を睨んだ。
「この子が、噂のリンちゃんですか。これはまた、可愛いなあ。関永さん、いい子を掴んでますね。マイク握らせたいな、こういう子には。関永さん、どこかのレコード会社と契約はされてますか」
「いいえ」
「じゃあ、やる気がありましたら、ぜひうちに」
「はあ、まあ」
関永は徹底的に無視してこの場をやり過ごそうと考えた。情報量が格段に少ない場合には相手に喋らせるしかない。どんな引っかけを企んでいるかもわからない、ヘタに喋ると乗せられてしまう恐れがある。
Aの曲が宴会の場を分けるように携帯電話から流れた。専務は携帯を耳に当てながら席を立つと、守田が専務の後を追った。
関永がトイレに立つと、専務がちょうどトイレから出てきたところだった。
「関永さん、昼間は大隅が本当に申し訳ありませんでした。僕としては、指六本出してもいいと思ってるんですよ。今日、リンちゃんに直接会って思いました。どうでしょう、関永さん、あらためて考えて頂けないでしょうか」
専務は関永に擦り寄って饒舌に喋った。口臭が鼻をついた。
「いえ、値段は問題じゃないですから。私はリンを手放す気はありません」
コロンではない甘い臭いが専務から漂っている。関永がトイレに入ると、専務から漂っていた臭いがより濃密になって滞留していた。舌の奥に苦味が残るようなケミカルな甘い臭い。ちっ、あの野郎、ポン喰ってやがったな、と関永は吐き捨て、トイレの窓を開けた。
「リン、そろそろ時間だ、帰るぞ」
肩を叩かれたリンは、はいと返事をして立ち上がった。引き留めようとする大隅を関永は手で制した。
「皆さん、申し訳ないですが、私たちは、ここでおいとまさせていただきます。これから、リンのスウェーデン語のレッスンがあるもので。スウェーデン語の教師が大女のゲルマン民族でね、遅刻すると大層怒るんですよ。本当に申し訳ないですが、これで」
呆気に取られている大隅や専務を尻目に、関永はリンの背中を抱いて立ち去った。
「いまごろ、どんな仕事をするために、スウェーデン語を話せるようにならないといけないのかって話題になってるぞ」
車に乗った関永が楽しそうに言った。
「そうですかね」
「きくんだぞ、突飛な話だからこそ、引き留められずに出てきただろう。あいつらだって、とっさにスウェーデン語に関連する言葉が出なかっただろう。これがダンスのレッスンとか言ってたら、どんなダンスですか、とか、いい先生紹介しますよ、とか、話を続けられちまうだろう。スウェーデン語だから思考を断ち切れたんだ。しかも、ちょっとイヤラシゲだろう。そこがまたいいんだよ」
「そうかなあ。くだらん嘘つき呼ばわりされてるんじゃないかな」
「あの専務は便所でポン喰ってやがったから、くだらん嘘ぐらいがちょうどいいのさ」
「ポン喰ってましたか、どおりで口が臭いと思った」
「リン、気味の悪い奴を引っぱってきちまったな」
リンは答えられなかった。自分の商品価値など考えてもいなかったが、じわじわと大人たちが迫ってきているのを感じていた。それは道で声をかけてくる若者たちとは違い、生々しい動物の臭気はないものの、古い紙幣のようなどろりとした金の臭気を感じた。
専務の金属が焼けたような口臭までが蘇ってきそうだった。リンは車の窓を全開にした。夜の繁華街からは、アルコールと食べ物の油と排気ガスの混じった臭いが風に乗って流れ込んできた。リンは雑多な臭いに押し潰されそうで恐ろしくなった。
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08 平行線
「吉川リンばんじゃ〜〜い!! 吉川リンばんじゃ〜〜い!!」
リンの写真集が発売された日を境に、それまでは「神宮前ばんじゃ〜い!!」と事務所の住所を叫びながら事務所の前を歩いていた予備校生風の若い男は「吉川リンばんじゃ〜〜い!!」と叫ぶようになった。
「きっかり四時ですね」
「まったく、あの声は妙に耳に残るんだ。神宮前ばんじゃ〜いの頃なら、まだ聞き流せたけど、吉川リンばんじゃ〜〜い、のじゃ〜〜いの部分がより切実な感じに聞こえるんだよな」
関永は叫ぶ男の後ろ姿をいまいましげに窓から見下ろしている。
「あいつの写真撮っといたか?」
「ええ、最重要危険人物ファイルにちゃんと貼ってますよ。エイチ社の人間にも渡しておきましたから」
「写真集の売り上げが伸びると、そのファイルの写真も増えるんだろうな」
「まあ、仕方ないですね。人気のバロメータと考えるしかないでしょう」
「今日もサイン会と握手会があるんだろう。ぶつぶつ喋ってる奴とか、昨日の奴みたいなのが寄ってくるぞ。アイドルを売り出してる俺が言うのもおかしいんだけど、どうして、あんなのが集まってくるんだろうな。量が増えてないか」
関永は苦い思いが湧いてきた。昨日のリンのサイン会でも事件が巻き起こった。リンの前に並ぶサインを待つ列から外れた柱の陰で、座っている若い男を見つけたのは関永だった。最初は何か建物の修理をしているように見えた男は、立ち止まってよく見ると、自分の履いているズボンの裾を一センチぐらいの短冊に鋏で切り刻んでいた。関永は一瞬、何を意味しているのかわからなくなり、その男の行動を覗き込むように注視した。男は関永の顔を見上げると、嬉しそうに微笑みながら、「ほら、こんなに切れたよ」と一センチ幅のズボンの裾を、関永がよく見える位置に差し出して言った。関永は尋常ではないものを感じ、あとずさり警備員を呼んだ。男の行動にどんな意味があるのか、まったくわからなかった。リンの写真集を持っていることで、リンに対する思いが行動させたのかもしれないと考えると、苦さが増していく。
「頭の中が沸いた人間は増えてるかもしれませんね。写真集が出た途端に、素材が提供されたんでしょう。インターネット上でリンちゃんのアイコラが花盛りです。リンちゃんの顔に裸の身体がCGで合成されて踊ってますよ」
「うわ、可哀相な奴らまで呼び寄せたか。ちゃんと対処したか?」
「ええ、目に余るのは、業者に頼んで駆除してもらうようにしています」
「ああ、ウィルスだろうが、爆弾だろうが送り付けて駆除してくれ。それから、そんなものはリンの目には触れさせないようにな」
「大丈夫です。リンちゃんはインターネットに興味はなさそうですから」
「そりゃそうだな。あんなの同僚に差をつけたい団塊の世代のオヤジと、暇を持て余したモテない男と女が情報を欲しがって企業の餌食になってる場所だからな。リンには必要のない世界だ」
「そうでしょうね。ああいう子はもっと違う場所で生きてますよ」
「えっ、どういうことだ、それ」
「私らの十七歳の時ってどうだったですか、大人から相手にもされなかったですよ。でも、リンちゃんの場合は違いますからね、いい歳した大人がおべっか使ってきますからね。マン・ウォッチングしてるだけで、おもしろくてしょうがないと思いますよ」
「おー、そうだな、おまえうまいこと言うな。特殊だよな、リンは。こんな生活してる十七歳ってのは日本中探しても十人もいないな。日本中じゃなくていいか、東京だけで十分だ」
「五人ですね。売れてきてますから」
きっぱりとした顔で小松崎は言い切った。
「そうか。じゃあ、質問だ。いいか」
「なんなりと」
小松崎は片頬を上げた。
「そんなに、構えられても困るけど、俺は不思議に思ってるんだ。神宮前ばんじゃ〜い!! から、吉川リンばんじゃ〜〜い!! に変化した理由だよ。俺には、神宮前から吉川リンまでの距離感がありすぎてまったくわからないんだよ。飛躍という言葉が珍しく使えるようなもんだろう」
「あはは、関兄。それはやられてますね。理由はそれほどおもしろいものじゃないと思いますよ。明日の四時に捕まえて、聞いてみたとしても、くだらない答えですよ。私は、頭の中が沸いた人間は刑務所でたくさん見てきましたから。瞬間は深遠な感じがしますけど、実情は単純な思い込みだけですよ」
「そうか、おまえが言うと真実味があるんだけど、その、くだらない単純な理由も訊いてみたいんだよな」
「あー、関兄。それは不毛の大地を駆け巡るようなもんですよ。私は関兄の知りたい欲求の手伝いはしたくありません」
「そうか、面白くない奴だな、おまえは」
吉川リンばんじゃ〜〜い!! と叫ぶ男の声を真似て関永は叫んでみたが、小松崎は反応しなかった。
「おい、リン。ちゃんと除菌の石鹸で手を洗ったか?」
サイン会と握手会を終えたリンがメイクを落としている後ろから関永が声をかけた。
「洗ったよ、ちゃんと」
「みんな、チンポ握って、おまえと握手してくるんだからな」
「あはは、言えてるけど、こんなこと毎日やってると平気になるよ」
リンは振り返りながら言った。
「そうか、除菌がルーティン・ワークになってるからな。そうだ、リン。こんな静岡くんだりまで来たんだから帰りに温泉にでも入っていくか、日帰りで泊まらないけど」
「入りたい入りたい」
サイン会では見せなかった本当の笑顔をリンは見せた。
「いいですね。美肌と殺菌を兼ねて行きましょうよ、関兄」
出版社の人間たちと別れて高速を下りた三人の車は伊豆の温泉に向かった。象牙色の古いジャガーのウィンドウに貼られた昏《くら》いシールドは、紅葉が始まる寸前の濃くなった樹木の緑を映し込んでいた。平日の伊豆の山中には擦れ違う車はほとんどない。車の後部座席で寝ていたリンが目を覚ますと、まわりの景色が一転しているのに気付いた。リンはここぞとばかりにウィンドウを全開することを頼んだ。
澄んでいるせいか、体感温度は低く感じる空気にはキレがあった。風を顔いっぱいに受ける。空気の細かな粒子が肌を研磨してくれるようだった。東京とはまるで違う空気を受けて、リンは幸せを感じた。毎日毎日、煮しめたような大人と接し、目に脂が浮いたような男の子たちと握手をする生活が続いている。街中の淀んだ空気を身体中に吸い込んだ人間と会うことで、その淀んだ空気の凝縮したものを受け止めなければならない。人間を通過した空気は機械から排出される空気の何倍もとろみがあるように感じる。アイドルになる前は街中の空気は心地のよいものだったように思った、熟成する匂い、腐敗していく臭い、人工的なコロンの匂い、排気ガスやレストランの調理場の裏から漂ってくるキャベツの芯の臭いまで、生きている街の匂いだと感じていた。しかし、リンは、その都市の臭いをすべて統合してミキサーにかけたなら、それは金の臭いになることに気付いた。森には単純な匂いしかしなかった。単純な生物が吐き出す空気には微かに山の水の匂いが付加されているだけで、樹木が腐敗していく匂いは、食べ物の匂いに近いと感じた。人間は樹木と同じように自然に発生した生き物なのに、どうして人間が集まると、自然の匂いにならないのだろう。淀んで酸っぱくて哀しくなる臭いだった。
「おい、小松崎。後ろの車のナンバーってどこの地名になってる?」
関永の声が一音低くなった。
「品川ナンバーですね」
型落ちのシーマと、車高を落としたワゴン車が連なっている。
「あの二台、朝の高速の入り口で見なかったか」
「朝は憶えていませんが、サイン会の会場を出るときにいたような気がしますね」
小松崎は全開していたウィンドウを一斉に閉めた。
「なんか、すごくやばい感じがしてきたな」
関永が言い終わると、同時にシーマが反対車線に飛び出し、スピードを上げて関永たちのジャガーのすれすれを追い抜いた。シーマは車体を大きく振るとタイヤを軋《きし》ませ、ジャガーの進路を塞ぐように半転した。小松崎はフルブレーキをかけて、ジャガーは止まった。
シーマから金属バットを握った男が躍るように飛び出した。助手席から最初に飛び出した男は大きく振りかぶって小松崎がハンドルを握っている運転席側のサイドミラーを一撃で叩き飛ばし、次の男は関永側のウィンドウに金属バットをフルスウィングで打ち下ろした。リンの叫び声とサイドミラーの転がる音が重なり、ウィンドウが弾ける音と関永の「リン、伏せてろ」という怒号が重なった。小松崎が後ろを振り返ったが、二台目のワゴンが退路を塞いでいる。
「囲まれたな」
関永はまわりを見回した。シーマから二人と、ワゴンから四人の男と合わせて六人がジャガーを取り囲んだ。すべての男たちが金属バットを握っている。
「圏外です」
小松崎が携帯電話の表示を見て言った。
「リンをさらう気だな。よし、小松崎。俺が飛び出すから、車のトランクをそこのレバーで開けてくれ。リンはそこで小さくなってろ」
関永はドアを蹴り開け、ドアの側にいた男を倒しながら外に出た。金属バットが横殴りに関永の頭部を襲う。頭の数センチ上を風が通過する。腰に振り下ろされた金属バットが直撃して関永の身体が前のめりに転がった。小松崎がジャガーを急発進させてシーマの横腹に突っ込む。ジャガーのトランクが反動で跳ね上がり大きく開いて、転がった関永の横に来た。関永は立ち上がるとトランクに身体を突っ込んだ。掌に白鞘の感触が伝わった。
関永は振り向きざまに日本刀を抜いた。薄く暮れかけていた陽を刀身は吸い込んで光った。男の金属バットが袈裟がけに襲いかかった、関永はそれを日本刀で払う。火花を散らし、高校球児が打つホームランのような心地よい金属音が鳴り響いた。
「ホンモンだぜ」
日本刀を中段に構え、関永は呼吸を整えるように落ち着いた声を出した。男たちの腰が少し引けた。間合いが少し広がった。
「少し刃が欠けちまったかもしれねえな、いまので。おい、革ジャンの後ろのおまえ、おまえがこんなかで一番偉いんだろ。この刀の研ぎ代をおまえの兄貴分に請求してやるからな」
関永に刃先で示されたスーツの男は顔をしかめた。
「何黙ってんだよ、おまえ」
「その子を渡せ」
スーツの男は金属バットを構えて言った。
「何言ってんだ、おまえ。渡せるわけないだろう。おい、仕事として請け負ったから、一応は言っておこうってのが、ミエミエだぜ。おまえ、いま、どうしようか計算してるだろう、金に見合った仕事かどうか」
「いいから、渡せ」
間合いを縮めようとする男を関永は、刃先を男の眉間の延長線上に構えて威嚇する。
「おい、おまえ。利き腕はどっちだ」
関永の声は静かだった。
「えっ? なんだって」
スーツの男は思わず聞き返した。
「だから、飯食うときはどっちで箸を持つんだ、おまえは」
関永は苛立ったように少し荒い声で言った。言われた男は気圧されるように「右だよ」と答えた。
「じゃあ、おまえの右の手首を落とすことにしよう。その金属バットで殴りかかってこい。綺麗にばっさりと右の手首から先を切り落としてやる。おまえがいくらで、この仕事を請け負ったか知らねえが、利き腕落とした片手で、一生送ってもいいような金が貰えるのか」
金属バットを構えた男たちの間合いが、また少し広がった。
「おまえ、いま、考えてるだろう。俺のポン刀が許可物かどうか。許可のないもんだったら後が面倒だから切り込めないって。悪いけどこれは、歴とした許可物だ。お誂え向きに、ちょうど少しだけ刃が欠けた。研ぎ屋に出そうと持っている時におまえらに襲われたってことで、正当防衛で心置きなく振り回せるぜ」
関永が一歩前に出ると輪は広がった。
「おい、そこの革ジャン。おまえの利き腕はどっちだ? チンピラが片手で出世できるほどやくざの世界は甘くねえぞ。天才みてえにすげえ頭を持ってんなら五体不満足でも稼《かせ》げるだろうけど、おまえらならどうなんだ? 試してみたい奴は、さっきみたいに殴りかかってこいよ」
関永が睨むと革ジャンはあとずさった。六人で一斉に襲いかかれば、どうにかなるだろうが、一人か二人は手首を切り落とされるだろう、それが自分である可能性を頭に思い浮かべると、男たちの戦意は喪失していった。
関永はこの場所の空気を掌握した。
目と刃先で男たちを威圧しながら、関永はシーマに近づいた。キーを抜きシフトレバーをニュートラルレンジに入れサイドブレーキを外した。ジャガーの進路を塞いでいたシーマはゆっくりとバックを始め、道路脇の林の中に進んで木に当たって止まった。小松崎がエンジンをスタートさせて助手席のドアを開けた。
「おい、おまえら。リンはなあ、俺たちの稼《しの》ぎなんだ。死んでも渡せねえぞ。小遣い貰ったぐれえの気持ちで、次もやってきたら、次は殺すぞ」
関永は男たちを睨《ね》めつけて、刀を納めると同時に車に乗り込んだ。割れたウィンドウのガラスが道路に散乱して音を立てる中、ジャガーはタイヤを軋ませて急発進した。関永はウィンドウからこれ見よがしに大きく腕を出すと、森の奥に向かってシーマのキーを投げ捨てた。
夕暮れが鰯《いわし》雲をみかん色のフリースのように染めている。関永は金属バットで打撲した箇所に湯の成分を浸透させるようにゆったりと露天風呂に浸かった。湯舟に映る鰯雲はゆらゆらと揺れて金魚のように見えた。
「関兄、業者に頼んで東京の工場に車を入れる手配は済みました。代車は、レンタカーを借りています。一時間ほどで届くでしょう。どうしますか東京に戻りますか」
小松崎は湯面を乱して湯に浸かった。
「今夜は動かないほうが良さそうだ。あいつらも東京に戻るだろうから、帰り道で変に出くわすのも面倒だからな。今日は泊まって、明日、明るくなってから移動しよう」
「えっ、泊まるの!」
垣根の向こう側からリンの歓声が上がった。
「ああ、泊まるぞ、リン」
女風呂からガタガタと音がして垣根の上からリンが顔を出した。
「本当に泊まるんだね、やった。うわっ、関永さんの身体って入れ墨だらけのヤクザじゃん。お湯に浸かってると真っ青で鮫みたいだよ」
「入れ墨なんて言うな、彫り物って言えよ」
「関永さん、バットで殴られたところは大丈夫?」
「痛てえよ、リン。おまえを守るのは大変だよ。明日になったら青痣《あおあざ》だらけになっちまうな。おまえが後で湿布薬を優しく貼ってくれ」
リンは頷いた。
「関兄の場合は青一色の彫り物のせいで、どこが青痣なのかわからないでしょうけどね」
「ひどいこと言うなおまえは。そんなこというなら、今度はおまえがやってくれよ。次はハジキを持ってくるぞ、あいつら」
「私は、そういう荒々しいのは卒業してますから。手首を切り落とすなんて微妙な啖呵はもってませんし、私なんてあっという間に撃ち殺されます」
関永は「ほら見ろ、リン。本当は俺が一番おまえを守ってるんだぞ」と言って湯をざぶざぶとかき回した。
「今日は守ってくれて、ありがとう。関永さん」
夕暮れは伊豆の山あいに暮れかかり、朱色の光はほとんど真横から射している。リンは顔が赤くなっているのを感じた。人にありがとうと言う経験は、ほとんどなかった。あのときの関永の顔は恐ろしかった。本当に日本刀で手首を切り落とすとリンは思った。真剣な顔で自分を守ってくれたのが嬉しくてしょうがなかった。顔が赤くなっているのは、夕暮れのせいだと思ってくれればいいな、とリンは思いながら湯の中にドブンと浸かった。
温泉旅館の料理はテーブルをいっぱいにする豪華なものだった。小松崎が、リンの食べていいものと駄目なものを選り分けている。リンは唇の下をへこませながら小松崎の手先を見つめた。案の定、山菜の天ぷらは駄目なグループに入れられた。関永は湯から上がると、旅館の電話と携帯を使って、怒声の混じった指示を出し続けている。
「おまえら、先に食べ始めていいぞ。それと、リン、左前だぞ、それ」
振り返って言った関永の顔は、手首を切り落とすと言ったときと同じようで、リンは思わず大きな声で「はい」といった。
「ねえ、小松崎さん、左前って何?」
小声になったリンの後ろで、「耳を削ぐ」「親より先に死ぬのは親不孝だぜ」「何級の障害者手帳を欲しがってるんだ、テメエは」「四級なら高速道路代が半額になるぜ」など、詳細を聞きたくもない関永の怒号が電話口に注がれている。
「リンちゃん、浴衣の前合わせが反対なんだよ。まあ、よくあることだよ。女の人の洋服は反対だからね」
リンは後ろを向いて浴衣の前合わせを直した。
「初めて浴衣着たから」
「そうか、教えられないとわからないことだからね。気にしないでいいよ。仁さんの前でやらなくてよかったね。オカマとかおばさんだと鬼の首でも捕ったように、いまの若い娘はって、やいのやいの言うからね」
小松崎はいつも優しく言ってくれる。
油を使っていない料理だけが選り分けられてテーブルに並んでいたが、いつもとは彩りも品数も違う料理にリンは目を見張った。
リンはお預けをくった犬のように関永を見た。関永は背を丸め、電話口の相手が仇のように激しい言葉を吐き出している。
「関永さん、ごはん、一緒に食べようよ」
関永は、「おっ」と言ってリンを振り返った。関永にはリンの顔は、暗くて底の見えない井戸を覗き込んで、初めて闇に対して恐怖心を感じた子供のように思えた。
「そうだな、飯を食おう。何だ、おまえの前にはパサパサしたもんばっかりしか並んでないな」
少しだけ笑った関永の顔をリンは嬉しい思いで眺めた。関永はぐつぐつと煮えたぎる小鍋を突ついている。
リンは、カロリーは低いけれど普段では食べられない山海の珍味を噛み砕き、胃に収めていく。
関永と小松崎は作戦を練るようにぼそぼそと話しながら酒を呑んでいる。
「やはり、バースト・プロでしょうか」
「十中八九、あそこの関係だろう」
関永は鮫皮のおろしで茎|山葵《わさび》を擦り、金目鯛の刺身にたっぷりと載せた。リンも真似をして山葵を擦った。山道を登ってくるときに車の窓から入ってきた緑の匂いに、突き刺してくる鋭さを加えた香りが漂った。
「半分脅しで、半分さらう気だったから中途半端でしたけど、次はきびしくなると思いますね」
「どんな手を使ってくるかな。まさか、ハジキ振り回してカチ込みかけてくることはないだろうけど。リンの動かす金が太くなったら、人死《ひとじ》にが出る揉め事になるだろうな。早いところ収めないとな」
「写真集が出てから、サニー・サイド以外のレコード会社からもオファーが来てますからね。契約すれば、バーストも手荒なことはやりにくくなるでしょうね」
「そうだな。三つ巴《どもえ》にしてしまったほうが、良さそうだな」
リンがガマ蛙を押し潰したような声を出して頭を抱えた。
「どうした、リン」
涙目になったリンが山葵を指差した。
「うるせえな、おまえは。静かに食え。山葵の茎ごと鼻に突っ込むぞ」
関永が山葵を手に持ってリンの鼻先に近づけた。ちょうど大きく息を吸い込んだ瞬間だったリンの鼻孔に、緑の刺のような空気が塊になって入った。目からは押し出されるように真ん丸な涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。それは山葵を近づけると涙を流すように、セットされた時計仕掛けの人形のようだった。
太陽が天辺《てつぺん》にある時刻にマージン・ハウスに戻った関永は、白いメルセデスがビルの前に停まっているのを発見した。メルセデスは太陽の光がまるで似合わない筋者が車中にいる臭気を発散させていた。
「早速、お出ましだな」
「まさか、襲ってきませんよね」
小松崎は緊張した声を出した。
「さすがに街中だからな。それはないだろう」
関永たちの車が駐車場に乗り入れられると、メルセデスのドアが開いた。大隅が顔を出し、後ろから、どこからどう見ても筋者以外にはありえない容姿の男が姿をあらわした。
「ちっ、安岡組の村田だ。きつい奴が出てきたな」
関永は吐き捨てると車から出た。村田は満面に笑みを浮かべて近づいた。
「よお、関永ちゃん、ひさしぶりじゃねーか。どうした、『わ』ナンバーのレンタカーになんて乗って、景気悪いのか」
強烈な皮肉を込めた村田の顔には、長い間ヤクザ社会の第一線を乗り切ってきた筋者特有の死の前兆を感じさせる翳があった。
「昨日、ちょっとした揉め事がありまして、二十年物のジャガーをおしゃかにされましたんでね」
「ほう、そりゃあ、大変だったな。大丈夫なのかい」
「もちろん、チンケな奴らでしたから、大丈夫でしたよ。依頼した人間がシブチンで金を渋ったか、大間抜けだったんでしょう」
関永は大隅をチラッと見やった。
「ほう、威勢がいいじゃねえか、関永ちゃん。まあ、身体が大丈夫だったなら、良かったじゃねえか、車の見舞金でも出してやるよ」
「それは、どうも。ところで、村田さん、今日は何用で」
「そこのカワイ娘ちゃんの話だよ。どうも話がうまく進んでねえって大隅から泣き付かれてな。こんな立ち話じゃ、なんだから、上がらせてもらうよ」
村田は視線を外すと、関永の返事も待たずにエレベータに向かった。
エレベータには、関永と村田と大隅が乗り込んだ。メルセデスを運転していた若者がウィンドウを降ろして、リンを食い入るように見つめている。小松崎はリンをその視線から防ぐようにして非常階段を登った。
リンを吉沢の横に座らせ、小松崎は部屋に向かった。
遅れて部屋に入った小松崎の足が凍り付いたように止まった。村田が腕をいっぱいに伸ばし、銀色に輝く拳銃を関永の眉間に向けて構えていた。
「小松崎、おまえも、そこに座れ」
視線を関永から離さずに村田は言った。拳銃は関永を狙ったままぴくりとも動かない。小松崎はゆっくりと関永の横に座った。
「村田さん、冗談はよしてくださいよ」
関永が銃口と村田の目を見ながら言った。
「冗談じゃねえよ」
村田は関永から目を離さない。
「悪い冗談ですよ。いまここで、俺を撃ち殺したってリンがそちらに移籍される訳じゃないのはよく知ってるでしょう。それに、村田さんが撃ったら高いものについてしまいますよ、リンは」
「ふふ、関永ちゃん、おまえ、何で足洗ったんだ。こうやってハジキ構えられて、『撃つなら撃ってみろ』って啖呵切って身体を張って、弾の方が除《よ》けていくような運と度胸を持った奴が、でっかい組の親分に昇っていくってのが、通説だけどな。おまえのとこが、吸収合併されたとき、おまえが残ってれば、おもしれえことになってたのになあ。関永ちゃん」
「なに、すぐに撃ち殺されてますよ」
リンの心臓は口から飛び出そうなほど速く打っていた。小松崎が部屋に入っていくとき、耳の横から喉にかけてミミズが這ったような刀傷のある村田という男が、関永に拳銃を向けているのが見えた。吉沢に言うと「まさか」と言って、取り合ってくれない。警察に電話しなくちゃ、何度も頭の中で命令を出しているが、身体は石のように固まって、目の前の電話に手が伸びない。電話が遠くにあるように見えた。
「弾が避けていくかどうか、いま、ここで試してみようか、関永ちゃん」
「しょうがないですね、どうぞ。俺はここで生きてますからね、ハジキ向けられてリンを渡すようなら、これからシノギはできません」
関永が睨んでいた村田の目が、三日月のような形に変わった。関永は村田のブラフに賭けた。ここで少しでも避けると、話の主導権を持っていかれる。関永は身体の芯に棒が入ったように身体を固まらせた。
三日月になった村田の目が横棒のようになった時、銃爪《ひきがね》は引かれた。
「ガチッ」という乾いた金属音が響くと、その場の人間たちのため息が続いた。
「あれ、弾を入れ忘れちまったようだな」
村田は三日月形に目を戻して言った。関永はひさしぶりに会う村田が、経済行為優先の筋者のままでいたことに感謝した。薬物や切った張ったでの騙し合いの日常の中で頭の中が沸いてしまう奴もいる、もし、村田がそうなっていたら、と思い直すと関永の背中に悪寒が走った。
「関永ちゃん、弾入ってたら、終わりだったな」
「身体と命を粗末に扱うからこそ、やくざですからね」
村田は拳銃を下ろしてテーブルに置いた。
リンは立ち上がった。そして、茶器を用意していた吉沢に歩み寄った。
「吉沢さん、あたしが持ってく」
「あら、リンちゃん。あたしじゃなくて、わたしでしょう。そんなことできるのかしら」
「いいの!」
吉沢の持った盆を奪ってリンはドアをノックした。
テーブルに銀色の拳銃が置いてあった。初めて見た拳銃は、風景に溶け込んだように、窓から差し込む昼の光を受け、クリスタルの灰皿と同じような輝きを放っていた。
リンは茶器をテーブルに置いた。
「リン、向こうに行ってろ」
「はい」
リンは関永の声がいつもと変わっていなかったので安心した。
「カワイ娘ちゃんではあるけれど、まだまだ、子供じゃねえか。いい大人がハジキ振りまわす意味があんのかね。まあ、専務は気味の悪い奴だが、鑑識眼だけは持ってるから、このカワイ娘ちゃんが、でっかい金を産みだしていくんだろうな」
村田は部屋を出るリンを目で追いながら言った。
「でっかい金を産むかどうかは、わかりませんが。リンは譲れませんよ」
「そりゃあ、わかったよ。でもな関永ちゃん。こっちにはこういうもんがあるんだぜ」
村田が胸ポケットから二枚の紙を出した。
「なんですか、それ」
「カワイ娘ちゃんの母親の同意書と契約書の写しだよ」
関永は木内絵里子と署名捺印された同意書を掴んで目を通し、小松崎に渡した。
「どういうことですか、これは」
「どういうこともないだろう。バースト・プロと木内さんは契約したんだよ。関永ちゃん、これじゃあ、裁判やっても勝てねえな。カワイ娘ちゃんは未成年だからな、この同意書と契約書は効くぜ」
「さすが村田さん、汚いことやりますね」
「こういうもんだぜ、関永ちゃん。木内さんは快く契約金も受け取ったからな」
「大隅さん、どんな条件出したんだ」
「ええ、プライバシーを完全に守るってことでしたね。木内さんは、リンちゃんの父親の病気のことが知れるのをとても心配されてましたね」
「ちっ、たかが鬱病だぜ。まだ、そんなこと言ってるのか。契約金はいくら払ったんだ」
「五百万です」
「畜生、シロウトをうまく騙しやがって」
関永の押し殺した声を聞いて、村田は拳銃を握った。
「そういうことだよ、関永ちゃん。専務が六千万、大隅が四千万と言ったらしいけど、そんなもんは一切なしだ。うちのほうがカワイ娘ちゃんの所有権は大きいんだからな」
村田は拳銃を手に取ると、慣れた手つきで弾を込めた。
「やくざとの交渉は、条件がいいときに早いとこ決着をつけないと、条件がどんどん悪くなるって通説も忘れちまったようだな、関永ちゃん。まあ、これから売り出す娘だから、今日、無理やり連れては行かないけどな。おめえがちゃんと言い含めて、カワイ娘ちゃんにリボンをつけて、三日以内に持ってきてくれ」
勝ち誇ったように村田と大隅は立ち上がった。
「村田さん、俺は意地っ張りでね。そういう大手のやり方が嫌いで足を洗ったんだよ」
「そうかい、意地でも何でも張ってくれ。これは交渉じゃなくて、うちからの通告だからな。たのむぜ関永ちゃん。リボンだぞ」
村田は拳銃を関永に向けた。
「おっ、そうだ。神宮前あたりを、ハジキを呑んだやくざがうろついてる、なんて警察に通報するんじゃねえぞ。そんなことしたら、違う戦争が始まるからな、関永ちゃん」
三日月の目は凶悪に見えた。関永は村田と大隅の背中を歯ぎしりする思いで見送った。忌まわしい客と入れ替わりにリンが部屋に入ってきた。
振り向きざまに関永の拳が小松崎のこけた頬に食い込んだ。小松崎は身体をダンサーのように一回転させてその場で崩れた。リンの悲鳴が上がった。
「てめー、どういうことだ、あの糞女に電話しろ!」
小松崎は口から血を流し電話にとりついた。
「どうしたの! 関永さん」
「うるさい、黙ってろ」
関永の顔は、日本刀を構えたときよりも恐ろしく見え、怒鳴られたリンは身がすくんだ。小松崎が電話口で話している言葉の中に母親の名前が聞こえ、リンの身体をすくませた。嫌な予感がリンの身体に充満していった。
強く握り締めた拳を大きく振り回したい欲求にリンは駆られていた。
「ママ、どうして、あんなことしたのよ!」
「あなたのためを思ったのよ」
絵里子は化粧を落としながら言った。キャミソール姿で答える母親にリンはより一層拳を強く握り締めた。
「あたしのためになんかなってない。あたしはマージン・ハウスにいたいのよ。どうして、そんな、勝手なことするのよ」
「それは、まだ、リンが子供だからわからないのよ。会社はちゃんとした大きなところのほうがいいに決まってるのよ」
「関永さんだって、小松崎さんだって、優しいし、ちゃんとしてるよ。バースト・プロのほうが、ひどい会社なんだから」
「だからリンは子供なのよ。バースト・プロはジャスダックに上場される会社なのよ、社会的信用も高いの。大人は普通、そういうことをちゃんと考えて会社を選ぶのよ」
「そんなの違う。わかってないのはママよ。それにママは、あたしの知らないところで契約金とか貰ったでしょう」
「あーあ、もう本当にリンは子供ね。あのお金は、バースト・プロさんがリンの個人事務所を作ればいいって、そっちの方が無駄な税金を払わなくてすむからって助言してくれて、それのための資金なのよ。それにパパの病気のことも、世間に知られないようにするって確約してくれたわ。ねっ、ちゃんとしてるでしょうバースト・プロは。パパがあんなだって、リンが有名になることで知れ渡ったら、ママの仕事にだって差し障りがあるのよ」
なだめすかすように絵里子は話した。
「パパのことって、そんな大したことないって、関永さんは言ってた。そういうのこそが偏見だって」
「洗脳されてるのよ、リンは。あんな人たちは、大したことないのよ」
「そんなことない! 毎日一緒にいるからわかるよ。あたしのことちゃんと守ってくれてる」
「リン、ママの言うことよく聞いてちょうだい。ママは社会に出て何十年も働いてきたのよ。女性だってことで随分と差別もされたし、いじめられもしたわ。でもね、そういうときに女性に対して門戸を開いたのは大きな会社なの、大きな会社ほど先進的なのよ。わかるかなアメリカナイズされてるってことよ。バースト・プロはそうだったわよ、昔風の芸能界からは脱却したらしいわ。ママが見るとマージン・ハウスの方はまったく脱却していないと思うのよね」
「そんなの、騙されてるのよ、ママが!」
昨日は金属バットで襲われて、今日は拳銃だったのよ、と言いたかった。でも、それは逆効果になるだろう、絵里子はよけいに関永たちに対して不信感を募らせるだけだ。
絵里子は多数決の人だということが、関永たちと一緒にいることでわかってきた。絵里子と暮らしているときに感じていた違和感はそこにあるとリンは思った。絵里子は雑誌に載って活字になっていることや、テレビの教養番組から得た知識を盲信する、それこそ多数決の中の多数派に属している意見なのだ。「みんなそうだから」「誰もそんなことやってないわ」が絵里子の口癖だった。
小学生になるとき、深緑色のランドセルが欲しくてたまらなかった。でも、「みんなそうだから」「誰もそんなことやってないわ」という理由で言いくるめられるようにして赤いランドセルになった。あのとき、どうして深緑色のランドセルが欲しかったのかと理由を訊かれていない。たぶん、関永だったら「好きならそれにすればいい。でもいじめられるかも知れないぞ。それでも好きで欲しいなら、それにすればいい」と言ってくれたに違いない。
たぶん自分は、関永や仁や小松崎と同じで、多数決では勝てない部類の人間なんだろう、とリンは思った。
絵里子は恐い顔でリンを睨んでいる。怒ると顔が平べったくなるのはいつものことだった。人を蔑むような、人を哀れむような顔だった、多数決で負ける人間を蔑み哀れんでいたのかもしれない。
今日がリンの通過儀礼だった。育ててくれてありがとう、という気持ちはあるが、相容れない気持ちが勝った。決別のときが来たと思った。十七歳だけど、一人で生きていけると確信した。
「さよなら」
リンは絵里子に言った。
「どうしたの、リン」
「もう帰る。あたし」
「何言ってるのよ。ここから仕事に行けばいいでしょう。あなたの家はここでしょう」
「ママ、ごめん。違うわ。ここじゃない」
「リン、不幸になるわよ。ママの言うとおりにしなさい」
絵里子はリンの決心を感じたように言った。
「あたしの選んだことだから」
リンは駆け出した。背中に絵里子の鋭い声が突き刺さってきたが、リンは振り返らなかった。ドアノブを掴むと大きく開け放った。リンは解き放たれたように外に出た。
納得した最高の気分と、情に対する罪悪感が綯《な》い交《ま》ぜになって襲ってきた。エレベータのボタンを押さずに、階段を二段飛びで下りた。タンットトタンッ、タンットトタンッと、足はリズムを刻んだ。
関永たちに会いたかった。同意書を書いたと聞いて、リンは自分がどうにかすると言った。関永は「やめとけ、どうせ平行線だから」と言って止めた。振り切って事務所を出たけれど、「平行線」の意味がよくわからなかった。いまは充分にわかった。
マンションから走り出ると、関永と小松崎が車で迎えに来てくれていた。
リンはそのままの勢いで車に飛び込んで、どすんとシートに座った。
「どうだった、リン」
「平行線」
リンは関永の問いに不貞腐れたように答えた。
「そうか」
「嫌になる」
唇の下がへこんだ。
「親なんて、捨てちまってもいいんだぜ、そんなもんは」
リンは気持ちを察したように言った関永を驚いた顔で見た。
「関永さんは仁さんと仲良くやってるじゃない」
「大昔に俺は親を捨てた。あっちも俺と同じようなもんだろう。でもな、リン。捨てちまってから新しく始まる関係ってのもあるんだぜ」
小松崎が車をスタートさせた。リンは振り返らなかった。絵里子は追ってこないだろうと思った。自分がどんな決意をしたかも、気付いていないだろうから。車のスピードが身体に纏わり付いていた子供の頃の思い出や、絵里子の記憶を引き剥がしていくようだった。
「関永さん、あたしをバースト・プロに売らないよね」
「売るわけねえだろう。それに、いまではあっちは、タダでリンのことを貰おうって腹だからな。冗談じゃねえ。あっちは三日後にリンにリボン掛けて持ってこいだとよ」
「ひどい、モノみたいじゃないあたし。これからどうなるの、あたし」
「三日間は村田は手を出してはこないだろうが、三日過ぎてリンが届かなかったら、もっときつい条件を付けて乗り込んでくるだろうな。それを俺が突っぱねたら、次はさらう計画に出てくるだろう。さらわれちまうと一巻の終わりだな。親の同意書は相手にある。警察も役に立たねえし、裁判も効かねえ。リンは専務に抱かれて、契約書にサインさせられてミニスカートをはいて歌うことになるんだろうな」
「そんなの嫌だよ。契約書にサインなんかしない、暴れるよ」
「無理だな。おまえが暴れたって、相手はプロなんだ。飼い慣らすノウハウは持ってる」
「どうしようもないの! 関永さん」
リンは悲痛な声を出した。
「渡さねえから心配するな。バースト・プロだって売り出したいからリンを欲しがってるんだ。移籍に関して新人のうちから傷はつけたくない。裁判を起こしてくるとは考えられないから、のらりくらりと条件を交渉して時間を稼ぐしかないな。リンが二十になれば、成人だ。同意書の効果もなくなる。それまでさらわれないようにふんばるしかない」
「こっちから、どうにかできないの?」
「いまんとこは、防御してまわりを固めるしか手はない。仲介人を探して仲裁してもらったとしても、同意書があっちにある分、こっちのほうが分が悪いからな。ということで、今日からリンは仁のところで居候することになった」
「わかった」
「夜でもあそこなら必ず誰かいるからな。仁のところなら業種違いだけどゲイ世界の老舗だ。手荒な真似はできないだろう。昼は事務所にいればいいから、仕事のときは俺と小松崎がどうにか守りきってやるよ」
「ごめんなさい、ママが勝手なことしたから、迷惑かけちゃって……」
リンは消え入りそうな声になった。
「騙し騙されが日常の場所の人間にとれば、中途半端に世間を知ってる奴ほど騙しやすい奴はいねえんだよ。それでいて、まんまと騙されてるのに、そういう奴は騙されたと思いたがらないから、必死に穴埋めしたり隠そうとしたりして墓穴を掘るんだ」
「ママはバースト・プロは、ジャスダックだから信用できるって。ねえ、関永さん、ジャスダックってなに?」
「リンはそんなこと知らねえよな。株式会社ってのは、知ってるか」
「はい、知ってる。株式会社マージン・ハウス」
関永は、リンの答えを聞いて少し笑った。
「まあそうだけど、それとは別に、株を公開して博打を打ってるんだな、大きな会社ってのは。元々は、企業が新製品を作るからって資金を集めたり、いい会社だから投資しようってことが基本だったんだけど。売り買いしてるうちに、みんな、それが博打の要素があると気付いたんだな、千円の馬券が十万になるように。投資と言いながら、会社の業績を見ながら博打やってんだ、株券がとんでもない額に跳ね上がるから。わかるかリン。大きな会社は競走馬みたいに走りながら、自分とこに金を張ってくれる奴を探してんだ。そういう、博打場の新参がジャスダックだ。あんなのは単なるC級の博打場だ」
「全然わかんないよ、関永さん」
リンが思わず言うと、今度は関永と小松崎が大きく笑った。
「おまえに説明するのは、難しいなあ。おまえ、競馬って見たことないだろうけど、競馬ってのがあるのは知ってるよな」
「はい、知ってる。馬が走るの」
「その中で一番偉いのが中央競馬会っていうんだ。そこで走ってる馬を、おまえは信用するか」
「そんなこと、言われても。馬だし、わかんないよ」
「馬券を買う奴は信用するんだよ。ただ、それは、速いってことで信用してるだけで、その馬を人間的に信用してるわけじゃない。そりゃ、そうだろう、速く走れるってだけで、人間じゃないんだから、話もできないしな」
リンはうんうんと頷いた。
「それで、中央競馬会の下にあるのが地方競馬だな。これを株式市場に直すと、東証一部、東証二部ってことになる。競走馬と会社は同じだ。速く走るってことは信用できるが、人間的には何も信用できねえよな。会社は業績をぐっと上げるからいい会社、なんて簡単には言えねえじゃないか。業績が上がると株価は上がるけど、働いている人間はぼろぼろだったり、インチキな商品を売りさばいていたりとかな。会社の株価は競走馬の速く走れるってだけと同じようなもんだ。博打だから。株で博打やってる人間以外には、株価が高くたって意味はないんだ。わかるか、リン」
歯を食いしばってリンは聞いている。
「それで、やっと、ジャスダックだ。その賭博場に入れて貰えなかった奴らを寄せ集めて作ったのさ。作った奴は胴元だから儲かるさ、マクドナルドって強力で人気な馬を引っこ抜いて博打をやるんだから。そうやって、考えるとプロレスの興行みたいだな。金を賭ける人間にしてみれば、新しい賭博場ができたって喜んでいるだろうけど、そんなもんを会社を信用する材料にするってのが馬鹿なんだ」
「馬鹿なんだ」
「選挙に出たプロレスラーに投票するぐらいな。信用する場所がまったくわからねえ」
「あー、そういうふうに言われれば、やっとわかったよ」
「ほんとか、リン? 世の中にはいろんなモンが溢れすぎて、わかんなくなっちまってるけど、情報をうまく排さないと、おまえのお袋みたいに乗せられちまうってことだよ。それにしてもジャスダックに上場するから信用できるってのはレベルが低いな」
「もう、本当に縁切ったから」
「あはは、そんなに必死になるな。取りあえずは、さらわれなかったらいいんだ。そのかわり、自由はないぞ。どこに行くにも一人で行くな、俺に断わって行け。それだけだ。どうにかなるさ」
「守ってみせるよリンちゃん、私たちが」
小松崎が振り返って言った。車は仁の建物の前に着いた。仁と二人の裸足の男が胸の前で両手を組んで待っていた。
「どういうことなの、セキエイちゃん!」
仁は内股で車に歩み寄った。
「電話で話しただろう。二回も言わせるなよ」
関永はドアを開けるなり言った。
「そんな、セキエイちゃん。揉め事だからリンちゃんを預かれ、金は払うって一方的に言われても、わからないわよ」
「バースト・プロと安岡組との揉め事だ。詳細はリンに訊いてくれ」
面倒臭そうに言う関永をしかめ面で仁が睨んだ。
「じゃあ、リンちゃんを預かる代金は、フォーシーズンズのスイート一泊の値段でいいのね」
「糞ジジイ、何言ってんだ。千葉のビジネス旅館ぐらいの値段でいいだろう」
「あらセキエイちゃん、失礼ね。ここは青山の一等地なのよ。外国のお客様も泊まれるようにゲストルームもちゃんとしてるんだから、それに、ボディーガード料も含まれるのよ」
「よし、わかった。赤プリの広告代理店割引き値段にしてくれ、長くなりそうだから、貧乏臭い値段で勘弁してくれ」
「しょうがないわね。本当に危いのね」
「ああ、リンをさらわれたら終わりだ」
「まあ、気持ちの悪い。じゃあ、私の部屋に泊まらせるわ」
仁は裸足の男の一人に自分のベッドの横にリン用のベッドを作るように命じた。裸足の男はペタペタと足音を残してドアの向こうに消えていった。
「なあ、捨てて始まるのは、こんな関係なんだ。ケチジジイだ」
関永はリンの耳許でささやいた。
「あら、何言ってんのよ。飲み屋のお得意さんぐらいの待遇はしてるでしょう」
仁は聞き逃さずに言った。
「地獄耳だな、とにかく、リンのことを頼むよ」
関永はリンの背中を押して仁の前に出した。
「とりあえず、一カ月分の請求書出すからね」
「ああ、それでいい」
「そうだ、リンちゃん。ちょうど、お風呂に入ろうと思ってたところなのよ、一緒に入りましょう」
リンは困ったような顔を関永に投げかけた。
「おい、仁。急に男になって、リンの身体を狙ったりするなよ」
「馬鹿ね。若い子と一緒にお風呂に入って、エキスをたっぷり吸収するのよ」
「おっ、言ったな、リンのエキス代だ。一カ月滞在の割引きも付けるからな」
「わかったわよ。じゃあね」
仁は、新鮮な入浴剤を得たように「さあ、お風呂お風呂」と言ってリンの肩を抱いてビルの中に連れて行った。
「まあ、大変なことになってるのね」
仁は身体を伸ばせるくらいの直径がある円形のジャグジー風呂で、気泡に身体を任せながら言った。
リンはミルクチョコレート色のスニッカーズのような仁の身体が湯に浮いているのを眺めていると、少しだけ現実を逃避できた。仁のたらこのような性器も水面すれすれをプカプカと漂い、自分に対して戦闘的になる気配も感じさせなかった。
「リンちゃん、でも、人気者になってきた証拠だから、どうにか乗り越えないとね」
仁は、真珠色のバスタブの横にしつらえられたテーブルに載った皿に手を伸ばした。皿には小指大に小さく切られたブルーチーズが等間隔に並べられている。チーズを口に入れるとタンタンと舌を鳴らし、そしてワインをひと口含み、ねっとりとチーズとワインを混ぜ合わせてゆっくりと嚥下した。
仁の夕食はこれだけで、リンもそれに合わせるように、カロリーを抑えたクラッカーにクリームチーズ、スティック状の人参とストレートのアイスレモンティーだった。
「でも、結構恐いよ。拳銃って生まれて初めて見た」
「それは、恐いわね。拳銃は人を殺すためだけに創られた道具だから、怖いのよ。ここにもそんな物を持った人たちが襲ってくるのかしら」
「それは大丈夫だろうって、関永さんが。仁さんのところは老舗だからって」
拳銃の話やゲイの老舗のことを全裸のオカマと風呂に入りながら喋っている。数カ月が数年のように感じるくらいいろいろなものを見て、いろんな刺激に対して鈍感になっていく。リンは何だか遠くにきてしまったような感じがした。
「それにしても、こんなことになってしまったって、リンちゃんのママは知ってるの?」
「わかってくれないわ、あの人は」
「数人で群れてる女子高生って好き? リンちゃんも同じ年頃だけど」
「嫌い。同じ格好して、同じお菓子食べるのよ。そのくせ仲間内で順位が付いてるの。少しでも和を乱したら仲間外れなの」
「おばさんも女子高生もOLもキャリアウーマンも根はみんな同じなのよ。歳をとっても成長しない人間が多いの。自分たちの小さな見識を寄せ集めて判断したルールの中だけで生きているの。だから騙されるのよ。そうじゃない女の人もたくさんいるし、狭くて小さい考えの中で群れながら生きている男たちもたくさんいるけれど」
「狭くて小さい考えか……」
「そう、いまの男の人は女の人のそんなところに気付いても言えないの、袋叩きに遭うからね。せっかく、司馬遼太郎信仰のオヤジの文化が終わったと思ったら、今度は、うまく騙す男の文化ね。宣伝が主体の商品だったり、瓶が綺麗な化粧水だったりね。へいこらする振りして、女性を持ち上げて騙している男もずるいけど、騙される女も馬鹿なのよ」
「オカマは?」
「オカマは、そんな馬鹿な女の人に馬鹿って言える唯一の存在で、男の嘘を見抜くのよ」
「男の嘘を見抜くのは、元は男だったからでしょう。女の人の場合はどうして?」
「それはこれよ」
仁は、湯面に漂う茶色の性器を指差した。性器はゆらゆらと揺れる陰毛がまわりを囲み、岩場に必死にしがみついている海洋生物のようだった。
「リンちゃんのすべすべのお尻やおっぱいを見ても、何の反応も示さないの。だから女の人は安心してるんじゃないのかな。オカマのことを毛色の変わった仲間とでも思ってるのかしらね」
「じゃあ、オカマが一番いいんだね」
「そんなことないわよ。不幸なことばっかり。私は、この世の中に必要な人間だなんて考えたことは一度もない。もしかすると、善人のつもりで群れている人間は、自分のことを世の中に必要な人間とでも思ってるのかしら、それとも、必要か不必要かなんて頭にも浮かばないのかもしれないわね」
湯から上がると仁は背中を洗うことを命じた。リンは手渡されたガーゼのような布と石鹸で細かい泡をたくさん作った。泡を背中に塗り、素手で柔らかくマッサージするように洗う。前に仁に教えられた身体の洗い方だった。
「裸のリンちゃんに洗って貰ってる姿を、世の中の男が見たら、羨ましくて悶絶してしまうでしょうね。もったいないって、オカマは馬鹿だなって。私のオチンチンはぴくりともしないのよ。世間とズレてんのね、身体も心も。それがいっぱいの不幸になっていくのよ」
掌が吸い付くような染みひとつない肌をした仁の背中には、扇子を開きかけたような形の赤黒い傷があった。ふと、リンは、刃物で刺された傷ではないだろうか、と思った。
約束の三日の次の日、ビターチョコレートの広告のプレゼンに通ったという知らせの電話の最中に、村田が来社した。
村田は予告したとおり、きつい条件を持ってやってきた。リンを渡さないのなら、バースト・プロの傘下に入れ、という会社の乗っ取りに近いものだった。関永は、そんな無茶な話には乗れないとのらりくらりと突っぱねた。拳銃も怒号も飛び交うことはなく、両者とも笑顔さえ浮かべて話し合った。そして、村田は会社を辞すときに「これは最終通告だからな、関永ちゃん。三日後に来てくれ。バースト・プロじゃなくてうちの事務所の方にな」と言った。関永は返事をせずに村田を見送った。
「小松崎、サニー・サイドレコードとの契約は進めろ。ビターチョコレートのプレゼンに通ったことは伝えて、すぐに会いたいと電話してくれ」
「わかりました。せっかくプレゼンに通っても横槍がうるさくて、喜んでいるひまがありませんね」
「まあな、村田は自分のところの行動部隊を使うつもりだな」
「ガードとかを新しく雇いますか?」
「新人のリンにいかついガードなんて付けてぞろぞろと歩いたら、それこそ揉め事を宣伝してるようなもんだ、賢明じゃない。俺とおまえでガードするしかないな。まあ、雇うなら、女のガードを一人だな。それと、弁護士に電話して、こっちから裁判を起こしたら、どれくらい引っぱれるか訊いてくれ。リンが十八になるまで引っぱれるようなら、やってみてもいいと思ってる」
「それは、いいかもしれませんね。裁判中になれば、相手もへたにリンちゃんに手を出しにくくなりますね」
「まあ、それくらいはアッチも考えてるだろうから、小さい手だけどな。弁護士勝負になると大手の方が有利だから。リンがガンガン売れてくれれば、まわりの視線が多くなるから、それがさらわれない方法かもな。仕事中はさすがにさらえないだろ」
「リンちゃん用のスタンガンは買って渡しておきました」
「おう、ありがとう。それと、警備会社がやってる大型バイク盗難に備えたPHSの発信器を持たせるといい。秋葉《アキバ》で買う発信器より居場所の正確さはあるから」
「それはいい。身に付けていておかしくないメイク道具とかの、男にはわからない物に忍ばせましょう」
関永と小松崎は、城壁を固めるための項目を書き出していった。それは修理工場に入っているジャガーの防弾ガラスから、絵里子のこと、仁のビルのセキュリティー・システムの見直し、などいくつもの項目が検討された。
「そうだ! 無駄毛処理のシェーバーにしましょう」
小松崎が顔を見上げた。
「えっ、何が?」
「リンちゃんが発信器を忍ばせる場所ですよ」
「ああ、それでいいんじゃないか」
関永はボソッと言った。
「関兄、関兄のその顔ですよ。無駄毛処理シェーバーって、そそらないでしょう。コンパクトとか口紅だったら、調べたくなるじゃないですか、男は。でも無駄毛処理シェーバーだったら、何か気持ちが削がれませんか」
「まあな。それでいいよ」
無駄毛処理シェーバーというものがどんな形状なのか、どれくらいの頻度で使うものかも皆目見当がつかなかったが、小松崎の発見した喜びの顔を見て、関永は許可を出した。
揉め事を吸収して力にしたのか、仕事が雪崩《なだれ》のようにリンに舞い込んで来た。バースト・プロ以外の小さな揉め事も起こり始めた。
リンが世の中に引き摺り出される瞬間を迎えようとしているのを、関永はひしひしと感じていた。
村田の一方的な約束の日も過ぎたが、村田は姿を現わさなかった。それは、確実に陰からリンを狙っていると思わせた。事実、撮影の合い間の移動や遠出の仕事には尾行がつき、犯人は捕まらなかったが、仁のビルの一階の窓が割られて警報ベルが鳴り響いた。関永たちは必ず、マージン・ハウス以外の第三者と行動を共にするように気を使った。秘密裏にさらわないとリンの商品価値は下がると思わせるほど、リンの仕事は増えた。
「このまま、アッチも忘れてくれませんかね」
焚《た》かれたストロボの中で目を光らせているリンを見ながら、小松崎は言った。
「そりゃあ、無理だろう。見てみろリンを、いまにも大化けしそうだ。バースト・プロじゃ早く欲しくてじりじりしてるだろう」
「なんか方法はないですかね」
「リンを守り続けるしかないだろうな。仕掛けようとすると、それだけ守りが手薄になる。やっぱり、男のガードを一人増やそう」
「目立つんじゃ」
「リンを中心に女のガードをぴったり張り付けて、その一つ外の輪に俺とおまえ、その輪のもう一つ外側に配すればいい。狙っている奴らにだけはわかるぐらいの位置にな」
「わかりました」
二人は撮影されているリンを見つめた。
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09 「いいな、関永ちゃん」
「今日のリンの予定は?」
「午前中は、打ち合わせが二本。午後に入って三時から打ち合わせが一本、リンちゃんの撮影が四時から八時までと、これは雑誌の表紙ですから、たぶん、時間きっかりに終わるでしょう。あれ、そうだ、さっき電話があって、三時からの打ち合わせを六時に変更してくれって、言ってきましたね。撮影中ですから、関兄がちょっと抜けて行ってもらえれば大丈夫だと思ってオーケーしました。打ち合わせ場所はスタジオとそれほど離れてませんから」
小松崎のスケジュール帳にはびっしりとリンの予定が書き込まれている。
「なんて会社だ?」
「株式会社ワダックスという広告代理店ですね。打ち合わせ内容は、カー用品メーカーの広告ってことですね」
「聞いたことない会社だな」
「時間の変更を頼みますか」
「いや、いい。それより、探偵屋に至急連絡をとって、ワダックスがバースト・プロか安岡組につながってないか一時間以内に調べさせろ」
「わかりました」
小松崎は電話に取りついた。
「どんぴしゃりだった関兄。ワダックスは安岡組の兄弟筋の企業舎弟です。村田の息が完全にかかってますね」
打ち合わせの合い間に携帯電話に入った興信所からの連絡を小松崎は伝えた。
「俺とリンを引き離して狙うつもりだな」
「撮影が早く終わると思ったんでしょうかね。表紙の撮影は早いですから。どうしますか、断わりますか」
「いや、乗っかって叩こう。六時になったら、打ち合わせの時間をこっちから、七時に変更してくれ。そして、俺は現場を離れる。たぶん、どこかで見張りが付いているだろうからな。それで、途中でうちの誰かと俺が入れ替わって、ワダックスの打ち合わせに行かせる」
「ばれませんかね」
「ワダックスってのは企業舎弟だろう、たぶん、対応するのは素人だ。完全なでっちあげの仕事じゃなくて、村田あたりから、無理やりリンを使ってくれって入れられた仕事だろうから、ワダックスの社員は俺のことは知らないはずだ。身代わりで大丈夫だ。ばれたらばれたで計画は中止する」
「下の山瀬を行かせましょう」
「それで俺は、一番外に配してるガードの、もう一つ外側から挟み討ちする。俺のところにもう一人ぐらい人間を用意しとくか、これも下のガタイのいい奴を選んどいてくれ」
「わかりました」
小松崎は緊張した顔で頷いた。
リンが撮影をしているスタジオの、道路を挟んだ向かいのビルに喫茶店がある。そこの二階の窓側で関永は紫色のソフトスーツを着た応援の男とスタジオの出入り口を睨んでいた。
「関永さん、あの女、さっきから何回も通ってますよ」
「山瀬、あれは違うだろう。スカウトのやりすぎで、女にしか目がいかねえんじゃないか」
「そうすかねえ。でも、関永さん。オレ、スカウト向いてないんすよ。もっと、ごつい武闘系に替わりたいんすよね。どっか紹介してくださいよ」
山瀬は拳をパンパンと打って鳴らした。
「小松崎が下のスカウトの中でおまえが一番喧嘩好きだってから連れてきたんだ。いい仕事したらいくらでも口きいてやるよ」
関永はスタジオの出入り口から目を離さずに言った。
「ほんとうっすか。よし、がんばろう。殺しちゃいましょうよ。チャカとか、使わないんですか関永さん」
「何言ってんだ、おまえ。それに、関東ではハジキってんだ。チャカは関西の言い方だ」
まじまじと山瀬の顔を見た。喧嘩が好きと喧嘩が強いと喧嘩が汚いとでは、まるっきり話が違う。アダルトやホステスのスカウトをしていて喧嘩が強いか汚くて有名だったら、必ず組織からスカウトされているはずだ。
たぶん、さらう部隊の中には喧嘩が強い、それも、鬼のように強いが頭の中が薄暗いのが混じっているだろう、山瀬を当てるのにお誂え向きかもしれない、と関永は一人で計画を練っていた。
関永の携帯が鳴った。
「関永さん、リンさんたちは地下の駐車場に降ります」
ロビーに待機していたガードだった。
「そうか、変な動きはないか」
「それが、さっき、地下駐車場をチェックしたとき、クリーム色のボルボのワゴンがエンジンかけっぱなしで駐まってたんですよ」
「クリーム色のボルボのワゴンなら一時間前に駐車場に入るのを見たな。器材とか降ろしてるのか、何人乗ってた?」
「器材はまったく降ろしてませんね。シールドで人相等はわかりません」
「それだ! 直ぐ地下に降りろ。俺が行くまで何があっても手出しするな!」
関永は山瀬に「行くぞ」と言って立ち上がると走った。レジで「釣りはいらない」と言いながら紙幣を投げて走り抜けた。
「ちっ、まったく、クリーム色のボルボのワゴンだって! やくざがカメラマンみたいな車でさらいに来るからわかんねえんだ」
と、関永はいまいましげに叫んだ。
また、携帯が鳴り始めた。
「関兄、いまから、地下に降ります」
「小松崎、来てるぞ! 気をつけろ。すぐ行くから、持ちこたえてろ」
「わかりました」
小松崎の声のトーンが一音下がった。
地下の階段に関永が走り込むと、ガードが身を潜ませて駐車場を窺っていた。
「どうだ」
「いま、うちの人間が一人、殴り倒されたところです」
関永がそっと覗くと、小松崎が羽交締めにされてナイフを突きつけられ、女のガードが倒れている。リンは勇敢にも壁を背にしてスタンガンを手に握っていた。
「相手は四人か、よし、山瀬。よく聞けよ。あの頭を剃ったでっかいのがいるだろう」
少し離れた場所からでも、大男は首から後頭部にかけてベーコンのような傷があるのが見えた。
「はい」
「俺とガードは向こうの出口にまわるから、おまえは、十秒ゆっくりと数えて、ここからあいつらに近づけ」
「どうすんすか」
「笑いながら近づけ。そして『あれ! 吉川リンちゃんじゃないっすか、俺ファンなんすよ、サインしてくださいよ』って言うんだ。それで、俺たちがあいつらの後ろに回ったのが見えたら、あのでっかいのに殴りかかれ」
「えっ、関永さん、道具は?」
「道具なんて出してる暇はねえよ。素手だってところを見せながら歩いていくからこそ、相手は安心するんだから。金玉でも腹でも好きなところ一撃で頼むぞ、山瀬。武闘派志向なんだろう。相手だってハジキは出しちゃいねえ、双方とも死人は出したくないんだよ。よし、いくぞ、数えろ」
関永とガードは一階にかけ登り、地下駐車場の反対側に走った。
息を殺して覗くと、山瀬の寸劇が始まっていた。ガードが特殊警棒を音もなく伸ばし、関永はスタンガンを出した。
小松崎の喉元にナイフを当てている男のナイフが、山瀬の登場ですっと、男の背中に隠されるのが見えた。関永は顔を出した。山瀬と目が合った。
「死ね!」
山瀬が叫びながら大男に殴りかかった。リンに向かっていた男たちは山瀬に向かった。関永とガードは男たちの背面にそっと近づいた。
山瀬の拳は軽くかわされ、大男の天辺から落ちてくる頭突きを喰らい、膝から崩れる。膝が地面に着くか着かないかの瞬間、大男の膝蹴りが山瀬の顎に食い込んだ。山瀬はのけ反るように吹っ飛んだ。
関永は、小松崎を羽交締めにしている男の無防備な首にスタンガンを押し付け、ガードは走り出して、リンの前の男の後頭部を警棒で振り抜いた。高圧電流をかけられた男の殺される山羊のような悲鳴と、警棒と頭蓋骨がぶつかる乾いた金属音が交錯した。
音に驚きながら振り返った大男に向け、関永は飛びだし式のスタンガンの銃爪を引いた。リード線付きのスタンガンの針は大男目がけて発射された。針は大男の胸に刺さった。
関永の手に握られたスタンガンとリード線で繋がれた大男は釣り上げられた魚のようだった。関永はマックスの電圧に設定したスイッチを押した。大男は立ったまま泡を吹き、棒のように身体を真っ直ぐにしたまま昏倒した。
残る一人はあっけにとられて、立ちすくんでいる。
「リン、それ貸せ!」
真ん丸になった目をしたリンが下手投げでスタンガンを投げた。関永はキャッチすると、青い稲光を光らせたスタンガンを残りの男の首筋に押し付けた。
スタンガンの余波を受けて倒れた小松崎が頭を振りながら起き上がった。
「小松崎とガードで、山瀬とガードのねえちゃんを車に運び込め」
そう言うと、関永は倒れた男たちの身体をまさぐっていった。リンに迫っていた男と小松崎を羽交締めにしていた男から二挺の拳銃が出てきた。
「あぶねえな、こんなもん持っていやがった」
「関兄がいなくて、私一人だったから出さなかったんでしょうね」
「これは、結構危ないところだったな。こいつらの乗って来た車もカメラマンの車に見せかけたんだな。クリーム色のボルボのワゴンだぜ。あんな車、イタリアのオカマか日本のカメラマンしか乗らねえよ」
小松崎とガードが笑った。
「リン、早く車に乗れ」
「はい」
リンは小松崎からキーを受け取ると車まで走った。
関永は、拳銃の指紋を一旦ハンカチで拭きとると、あらためて倒れている男たちに握らせた。そして、関永はスタンガンを当て、もう一度ずつ男たちに放電した。
「よし、行くぞ」
車が地下駐車場を出た。流れに沿ったところで、関永は非通知設定にした携帯でスタジオの受け付けに拳銃を持った男が倒れていると電話をした。
「やっぱり、連続がきかないのは、これの駄目なところだな」
関永は携帯電話ほどの大きさのリン用のスタンガンを手に握った。
「関兄に最初に渡してあるのは最新型の強力な奴ですから、さっきぐらいの連射は、可能でしたよ」
「先に言っとけよ。それなら、あんとき、ボニー&クライドみてえに、リンにスタンガンを投げて貰わなくてよかったんだな」
「そうですね。前に言いましたよ」
「そうか、まあ、リンに何にもなくてよかった。リン、危ないところだったな」
関永は誤魔化すように言った。
「はい、でも大丈夫」
リンは答えたが、膝の芯がまだ震えていた。今回の襲撃者の声をほとんど記憶していない。小松崎の「リンちゃん!」という問いかけに振り返ると、すでにそこにはナイフを喉に押し付けられた小松崎の姿と、迫ってくる男たちの姿しかなかった。まるで違う世界の人間たちが押し寄せてきたように感じた。
でも、リンは関永が助けに来てくれると思った。ダブダブの紫のスーツを着た男を、鯨のように平たい顔をした大男がゴミ屑のように打ち捨てたとき、関永を見つけたのは、あの場で自分だけだった。関永が必ず来てくれると思っていた。関永がいて小松崎がいて自分がいる毎日を過ごしてきた。だから、そこに欠けている関永が絶対に来ると思っていた。関永の姿を見つけた自分は関永の動きだけを見ていた。小松崎を羽交締めにしていた男に近づくときは、珍しく真剣な顔をしていた。殺してしまうのではないかと思うほど、手にしたスタンガンが凶悪な物に見えた。ボニー&クライドなんて意味もさっぱりわからないけれど、あのとき、「それ貸せ」のそれが何を意味するのかがすぐにわかり、それをどうすればいいのかがわかった。
どうにか助かったけれど、リンは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「会社に戻る前に、リンを仁のところに連れて行こう」
関永が運転している小松崎に言った。
「それがいいでしょう。関兄、悪いですけど、電話で入り口まで仁さんたちに出てきて貰うように言ってくれますか、あそこは、入るのに時間がかかるから」
「ああ、わかった。早く城に帰す方が安全だ」
関永は携帯を取り出して話し始めた。
「えー、みんなで一緒にいないの?」
「駄目だ。後ろの車には顎を砕かれた奴と、女だてらに殴られて失神した奴が乗ってんだ。おまえは、仁のところに行ってろ」
関永の言葉を聞いて、リンは申し訳ない気持ちに、怖くてしょうがない気持ちが加わって黙りこくってしまった。
「関兄、リンちゃんがさらわれた!」
小松崎の電話が入ったのは、顎を砕かれた山瀬を病院に入れて、自宅に戻ってシャワーを浴び終わり、人心地がついた頃だった。
「どこでだ、仁のところにいるはずだろう」
「青山の骨董通りのファミレスです! 関兄、いま、私はエレベータを降りたから車で迎えに行きます。下に降りていてください!」
テレビで古道具を値踏みすることで有名になった初老の男が名付けた青山の骨董通りは、仁のビルから百メートルほどのところにあった。そこには青山には珍しいファミリーレストランがひっそりと営業していた。
「わかった。今日のは二軍だったんだな、一軍を用意してやがった、畜生」
関永が衣服を整え、下に降りると、小松崎の車が横付けされた。
「どういうことだ! 何でリンがそんなとこにいたんだ」
車に乗り込みながら関永が怒鳴った。
「絵里子さんからの電話です」
「なにー! 何でリンのお袋なんだ」
「ファミレスに呼び出したらしいです。そして、リンちゃんがトイレに行ったきり戻って来なくて、探してもいないらしくて、困り果てて私に電話してきたんです」
「バースト・プロは」
「それもかけたけど、繋がったのは私だけのようです。それと、店の人間が騒ぎ出しそうでしたが、警察に電話するのは一応止めました」
「何で、また、あの女が出てくるんだ! 畜生!」
関永が叫ぶと同時に車はファミレスに着いた。二人は店に駆けこんだ。おろおろした絵里子と困惑したファミレスの店長が待ち受けていた。関永と小松崎は顔を見合わすと両者の持ち場に分かれた。
「店長さん、女の子は見つかった。うちにいるから、心配しないでくれ」
関永は店長の肩を抱いて絵里子から離した。
「そうなんですか、でも……」
店長は困惑した顔をほころばせなかった。
「でも、何なんだよ」
「こちらに」
女子トイレに関永を案内した店長はドアを開けた。トイレの床に坊主刈りの女装の男が転がっていた。かつらが脱ぎ捨てられていなかったら、まるで女に見えるほど華奢な男だった。
リンがスタンガンで倒したことがわかった。関永は坊主の男を揺すった。男は二日酔いの朝を思わせる重く淀んだ表情で目を覚ました。
「安岡のところの人間だな」
関永が襟首を掴んだ。ようやく事態をのみ込んだ男の目が小刻みに動いた。
「リンをどこにやった、てめえ。言え。もう一回これをかけてやろうか」
スタンガンの青い稲光を男の目の前に近づけた。
「知らねえな、俺はさらうだけだ。それに知ってたとしても、そんなこと喋るわけないだろう」
男はニヤリと笑った。プロの臭いをさせた男は、耳を千切って目を潰しても言わないだろうと思わせた。
「じゃあ、喋るな」
関永は渾身の力を込めた肘撃ちを男の鼻の下にめり込ませた。前歯が数本折れる鈍い音を響かせて男は崩れた。店長が驚いて一歩引いた。関永は何もなかったような顔で立ち上がり、店長に「ちょっとした内輪揉めだから」と言った。
「えっ、そんな」
店長は引き下がった。
「内輪揉めにも、人それぞれのレベルがあるんだ。文句があって何か聞きたいのなら、俺じゃなくて、この坊主の男に聞いてくれ」
関永は女子トイレから外に出た。店長と前歯を折られた男がどんな話をするのかなど気にしなかった。
「おい、小松崎、リンのお袋を送って、なんでこんなことになったのか訊いておけ。それと発信器の警備会社に連絡だ。まあ、相手は一軍だ。ラブラブシェーバーだろうがバイブだろうが平気で調べるから、無理だろうけどな」
「関兄はどうするんですか?」
「仁のところに寄ってから戻る。後でおまえは、俺の自宅のほうに来て報告だ」
関永はいまいましげに絵里子を睨むとファミレスを出て行った。
関永は自宅に戻ると、もう一度、冷水のシャワーを浴びた。怒りはおさまるどころか頭の芯のあたりで成長を始めている。
関永は透明の緑の瓶からジンをグラスいっぱいに詰め込んだ氷に注ぎかけた。氷が弾け、音をたてた。氷の温度がジンに移り、グラスの表面に水滴がびっしりと浮いた。関永はグラスを握ると一気に喉に流し込んだ。冷たくて熱い液体が駆け足で胃に落ちていく。液体が身体を弛緩させて、頭の芯で成長しかけている怒りを鎮静してくれることを願いながら、関永は杯を重ねた。
チャイムが鳴りモニターに小松崎の姿が写った。
「どうしたんです、ジンのロックですか」
なみなみと注がれたグラスを小松崎は見た。
「ああ、解決できない苦悩を抱えた男の飲み物だと思ってな」
「で、どうです。ジンは」
「変わらねえ。ただのアルコールだ」
関永はまた、ひと息にジンを流し込んだ。
「発信器は関兄が言うようにファミレスのそばの飲み屋のゴミ箱に捨てられていました。それから、絵里子さんに関しては、大隅に乗せられたようですね」
「乗せられたって、どれくらい乗せられたんだ。まさか、リンをさらう手引きをしたわけじゃないんだろう」
「それはないです。それこそ、絵里子さんはバースト・プロ関係がさらったといっても信用しないんですから」
「どうしようもねえな。で、どんな乗せられ方なんだ?」
「絵里子さんは大隅からの電話で、リンちゃんの居場所を知るんです。それで、自分は思い直したって言ってリンと携帯で話したらしいんですね。そう言えば、出てきてくれるだろうって思って、それで、ファミレスに呼び出した。どうにか、自分の考えをリンちゃんに理解して貰おうと思ったらしいですね。でも、ちゃんと話す間もなくあっという間に居なくなったから、訳がわからなくなってます」
「思い直したわけではなくて、リンを呼び出す口実だろう。まったく、浅はかなことしやがる」
「そうですね」
「いまおまえが来るのを待ってるとき、俺は、人間を一人産み出すのは大変だなあって思ってた、出産みたいでよ。テレビかなんかで観たんだ」
「何ですか」
「草原で縞馬みたいなのが出産してるんだ。立ったままで、それで、頭が半分ぐらい出てくると、縞馬より小さい肉食の獣が、出てくる子供を喰いにくるんだ。獣は頭しか出てきていない胎児に牙を立てて引き摺り出すんだ。そして、がぶがぶと喰っちまう。リンそのままじゃないか。俺たちはリンを産み落とし切れなかった」
「そうですね」
「リンのお袋には、もう構うな。あの女はリンをさらう片棒を担がされたことを、認めようとしないんだろう?」
「ええ」
「たまんねえな、かなわねえな。女はすげえ、信じ込むと頑固だからな。男は悩みすぎだな」
「関兄、疲れてますか」
「ああ、へろへろだ」
骨のない海月《くらげ》のように関永はぐにゃぐにゃになった。考え疲れて万策尽きた子供がいやいやをしているようだな、と小松崎は思った。
暗闇の中、やっと目を開けて視線を整えると、像を結んだのは口の臭い専務の顔だった。専務は笑い続けていた。
リンは自分の身体を見まわした。衣服の乱れはない。だが、しかし、身体の中に異変が起きていることはわかった。クラブやレイヴで、湿度の違ったドラッグ混じりの空気を嗅いだときに起こる身体の異変を何倍にも濃くしたものだった。
意識はスッと冷たく醒めて手足は重く動かない。
口の臭い専務がリンの素足を口に含んだ。指の股を押し広げるようにして舌が這う。足の指が溶けてしまいそうな感覚に襲われた。
専務は茶色の液体を時折飲みながら、リンの足をしゃぶっている。焦げくさいようなアルコールの匂いが漂う。茶色の液体は老酒ではないかと思った。リンは自分がツマミになったような気がした。
真っ暗な中に押し込められるようにして意識が途切れる。また、目を覚ますと黄油蟹のように手足をしゃぶられていた。いつか、手足はしゃぶり尽くされて、骨だけになってしまうのかもしれない。
「明日、朝いちでバースト・プロに行くぞ」
関永はベッドに倒れ込んで言った。
「わかりました。リンちゃん、どうしてるでしょうね」
帰ろうとしていた小松崎が振り返った。
「そんなもん、やられてるに決まってるじゃねえか」
吐き捨てるように言うと、関永はベッドに潜り込んだ。
「やはり、そうでしょうね」
「何とかしなきゃな。畜生。何かいい方法ないかな……」
小松崎はお辞儀をして部屋を出て行った。
「関永さん、うちは何も知りませんよ」
大隅はぞんざいに言った。
「そうか、知らないけれど、ひと月もしないうちに、リンがバースト・プロの看板背負って歌を唄いだすんだろう」
「さあ、どうでしょうね」
「関永ちゃん、いまさら絡んできたって駄目だよ。親の同意書はあるし、カワイ娘ちゃんの署名捺印した契約書もあるんだよ。関永ちゃんは部外者なんだから、ね、あくまで。あんまりしつこいと、警察に通報するぜ『やくざが二人で脅しに来た』って」
村田が勝ち誇ったように言った。
「リンがサインするわけないだろう。見せてみろ」
「そんなの駄目だぜ、部外の人間には見せられねえよ」
「専務の自宅にリンはいるんだろう」
「おい、関永ちゃん。専務の家に押し入って、カワイ娘ちゃんをさらったりするなよ。誘拐だぜ、しかも未成年者の誘拐は高くつくぜ」
村田は満面に笑いを浮かべた。
帰りの車の中で関永はむっと押し黙ったままだった。怒りを鎮めようとしているのか、考えているのか小松崎にはわからなかった。
リンは目を醒まし、また、真っ暗な中に押し込められるように意識が途切れるということを繰り返していた。
調度品は何もなく、線のつながれていないミキシング関係の黒い電気製品が積まれている部屋は外から鍵がかけられている。マンションの使われていないひと部屋だろう、新しいフローリングに敷かれた薄いマットレスの上に寝かされている。
たぶん、おしっこを漏らしてしまっているのだろう、腰のあたりのマットレスが冷たい。子供の頃、猫を貰ってきたときに、猫を押し込めて運んできたキャリーバッグの底面に敷かれたバスタオルに黄色い五センチの染みがあったのを思い出す。同じなんだろう、怯えて押し込められて、どうしようもなくてお漏らししたんだ。恥ずかしくてしかたがなかったが、それを隠すこともできない。また、おしっこを漏らしてしまうだろう。リンは、関永を待った。「なんだ、リン。小便垂れ流してんじゃねーか!」と、からかいながらやってくるだろう関永をリンは待ち続けた。
小松崎はビルの入り口からサラリーマンやOLが吐き出されてくるのを、反対側の歩道から眺めていた。毎日を規則正しく生活している人間たちにとって、金曜日の退社時間がどれほど楽しく元気が出るものかが伝わってくる。
絵里子の顔が現われたとき、小松崎はほっとした。連れだって目的地に急ごうとするOLの、まるで放課後の学生のような華やいだ表情は、絵里子の顔にはなかった。
小松崎が後を追い、背中に声をかけた。振り返った絵里子は、驚きと嬉しさ、戸惑いの表情を連続して浮かべた。
「絵里子さん、話があるんだ」
絵里子は最後に表わした戸惑いの顔を崩すことなく黙っていた。
「関兄はリンちゃんを、諦める決心をした。リンちゃんはバースト・プロの所属になったよ。それを報告しようと、思ってね。絵里子さんの望んだ通りになったけど、いまでは、ぼくはそれがリンちゃんのためには一番良かったことだと思ってる」
絵里子は少しだけ戸惑いを解いた。小松崎はそう言ったが、関永は諦めていなかった。ただ行動する方法がないだけで、椅子に座ったままぶつぶつと独り言を言う毎日だった。
「それを絵里子さんに話そうと、会いに来たんだ」
小松崎は微笑んだ。絵里子は釣られて微笑んだ。
金曜日の陽気さをはらんだ店を出ると、喧騒から逃れるように、二人は小松崎のマンションに向かった。
「こうなることが、リンにとって良かったって言ってくれて、ありがとう」
絵里子は、小松崎のテキーラのグラスに自分のグラスを傾けて乾杯の音を響かせた。小松崎は顔を寄せた。
ゆったりとしたソファーで二人は絡み合った。二人は愛のある中年カップルを演じている。小松崎の指が絡み身体が強く圧迫するたびに、絵里子は控えめな喘ぎ声を漏らした。
「ねえ、何してるの」
ソファーから六人掛けのダイニングテーブルに移った小松崎に絵里子が声をかけた。
「こんな遊び知ってるかな?」
テーブルにはコピー用紙と水性ボールペンが二本用意されている。コピー用紙の左上の部分には「絵里子」と書かれ、その下には線画の絵里子の顔が小さく描かれていた。
「これ私? 上手ね小松崎さん。この絵の横にある矢印はどういう意味なの?」
「『こ』から始まる絵を、今度は絵里子さんが描くんだよ」
「絵を描く尻取りか、おもしろいわね」
絵里子は、コピー用紙を引き寄せ、大きなランドセルを背負った女の子の絵を描いて『こども』と書いた。小松崎は、目玉が飛び出て大きな牙と角の生えた獣を描いて『モンスター』と書いた。絵里子は笑い、絵描き尻取りに熱中した。
「ちょっと待って小松崎さん、まだ、絵だけでやめて何かは書かないで。『し』で始まってる物だわよね、これ」
小松崎が描いたのは人間が寝そべっている絵だった。
「そう、『し』から始まってるよ、さあ、何でしょう」
「難しいな、この絵、何だろう。わからないわ、降参」
「これは『屍《しかばね》』、ほら、口をポカンと開けてるだろう」
絵里子はクスッと笑った。「じゃあこれは、わかる?」と言って、トゲトゲの稲妻のようなものを描いた。小松崎は顔を近づけて考えた。
「『捻挫』かな、痛そうだから」
「『ネガティブ』よ。残念でした」
「はは、それはわからないな」
「ねえ、小松崎さん、どこでこの遊びを教わったの?」
「これは僕が自分で考えたんだ。一人でずっとやっていたことがあったよ。やってると落ち着くんだ」
「へえー、一人でやると、終わりがなさそうね」
そう、終わりがないところがよくて、刑務所の中ではノートに小さな絵を描き連ねていった。絵描き尻取りをしていると、小松崎はふかふかのベッドにゆったりと身体を沈めていく感覚に囚われ、懲役が苦行でなくなる。同じ時間に飯が運ばれ、同じ時間に目覚ましのサイレンが鳴る。与えられたことだけを何も考えずにこなしていくと、ベッドに寝ているようで、守られている気分だった。出所するまでに十冊のノートに絵描き尻取りを繋げた。一度も『ん』がついて終わってはいない。毎日毎日、飽きることなく絵を連ねていた。
しばらく熱中しているとコピー用紙は小さな絵でいっぱいになった。小松崎はコピー用紙の端に『小松崎』といれ、絵里子も名前を書いた。
「ねえ、絵里子さん、もう一回しよう」
「えっ」
小松崎は絵里子の髪に唇を一度つけて立ち上がった。
「屋上で」
「屋上?」
「ああ、星が見えるよ」
小松崎は大きな深緑の軍用毛布と、黒い線が二本入った赤い毛布を畳んで脇に挟み、ランタンとホワイト・ガソリンの缶をさげた。絵里子はグラスを二つと重口のワインを手にした。
二人は酔っ払った末の冒険のように、バスローブ姿で階段を上がった。
屋上に着くと小松崎は、ホワイト・ガソリンをランタンに注ぎ入れ、ポンピングの作業を続けた。暗い屋上にシュカッシュカッとランタンの空気を圧縮する音が響いた。小松崎は長いマッチでランタンに火を灯した。床に置いたランタンは屋上の床面を丸く光らせた。
「クリスマスの色合いだわ。毛布の濃い緑と赤が黄色い炎に照らされてるわ」
絵里子が声を上げた。
「だいぶ、時期は早いけれどね」
小松崎は絵里子のバスローブの上から赤い毛布をかけた。絵里子は身体を寄せ、毛布をかけたままバスローブを脱いだ。
「寒くない?」
「大丈夫、小松崎さんの肌が温かいから」
絵里子は押し倒すように小松崎に乗った。屋上という空間が絵里子を大胆にした。
小松崎は絵里子を乗せたまま星空を見ていた。絵里子の上下する髪のすき間から見える夜空の星は、とてつもなく遠くにあるようだった。
二人はマンションの屋上で荒々しく絡み合った。
「小松崎さん、あなたって東京生まれ?」
長く続いた射精の後、身体を離した絵里子が小松崎に訊いた。
「そうだよ。生まれてから、ずっとここいらに住んでるけど、それがどうしたの?」
「原宿生まれの原宿育ちなんだ。すごいわね。親もここらへんなの?」
「そうだよ」
「何してるの?」
絵里子はさらに質問した。
「板前だったけどね。ぼくが小学生の時に離婚して出ていったよ。母親は十年前に死んだな」
「ふーん」
「絵里子さんの親ってどんな人なんだろう?」
「私の親は普通を絵に描いたような人よ。地方都市で働く生涯雇用のサラリーマン。そして、母親は専業主婦。箇条書きですべてがわかるような親よ。そんな親に育てられて、短大を出た後に東京に出てきたの」
「地元に不満でもあったのかな、東京に来るってことは」
小松崎は「地元」と言った。田舎でも地方でもなく。
「おもしろくないって思ったのよ。親も生まれ育った町も。だからかな、元ダンナの細見を好きになったのも」
「どういうこと」
「指が細くて長かったのよ。それが私にとってすごく東京の男に見えたわ。小松崎さんの指も綺麗ね」
「そうかな。手入れが悪いから、ばさばさだけど」
手をさすりながら小松崎が言った。
「私の生まれた町の男たちの手は、ごつごつしてずんぐりむっくりなのよ」
絵里子が小松崎の指に触れた。
もしも、関永がこの場にいたならば「俺の指だってずんぐりむっくりだぞ。俺のところは三代続いた東京だぜ。勝手な思い込みを持って人の土地に土足で踏み込んでくるんじゃねえ! おまえらのような奴のせいで、住みにくくてしょうがねえんだ!」と怒り狂うだろうと、小松崎は思った。
原宿なんて、何の特徴もない明治神宮に付随した住宅街だったはずが、外からやってきた人間が作り変えてしまった。まったく元々住んでいた人間を追いやって勝手な思い込みを持った人間が蹂躙してきた。小松崎は絵里子を、そんな人間の代表のような気分で眺めた。
「ねえ、絵里子さん。天国ってあると思う?」
小松崎は絵里子を抱き寄せ、話を変えた。
「私はあってもいいと思うな。怖いじゃない、地獄なんて」
絵里子は小松崎の腕を取り、腕枕で星空を眺めながら言った。
「天国と地獄か……、人間を簡単に天国行きとか地獄落ちなんて決められないよな。基準値がわからない」
「小松崎さんは、どう思うの? 天国はないって思ってるの?」
「死んだら、真っ黒な巨人になるんだよ」
「えっ」
絵里子は小松崎の顔を振り返った。
「真っ黒な巨人は、お月様ぐらいの大きさでね。あんな星空にぽっかりと浮かんでいるんだ。透明な四角い箱に入って胡座《あぐら》をかいて座ってる」
小松崎は真っ暗な空を見上げている。
「どうしたの、それって怖い話?」
「いや、怖くなんかない話だから大丈夫だよ、絵里子さん。真っ黒な巨人って透明の箱に入って何をしていると思う?」
月の光に照らされた小松崎の滑らかな肌は青白かった。
「わからない」
「真っ黒な巨人は、透明な箱の四隅にぶつかりながら、身体中に巻き付いた真っ黒な糸を解いてるんだよ。がたんがたんと箱の角にぶつかりながらね。真っ黒な巨人は何にも考えてないんだ、頭の中まで真っ暗なんだ」
小松崎は夜空を見ながら話を続けた。
「でも、真っ黒な巨人が何百巻きにひと巻きの糸を解く作業のときだけ、ぴっと真っ黒な巨人の頭の中に電気が灯って、考えることができるんだ。一つ目の隅に身体をぶつけ、二つ目、三つ目、そして四つの隅にぶつかるとすっと電気は消えて、また、真っ暗な闇になってしまう。また、いつかくるかもしれない何百巻きのうちのひと巻きを目指して、ぐるぐると回りながら糸を解き続けるんだ」
「怖いわ、小松崎さん」
「大丈夫さ、この話の最後はお笑いなんだ」
小松崎は音がしないようにそっとホワイト・ガソリンの缶を倒した。流れ出たホワイト・ガソリンは小松崎のかけている赤い毛布に黒々と染み込んでいく。
「さらに何千巻きの中のひと巻きだけは、真っ黒な巨人は人間になった夢を見られるのさ、糸を解くたったひと巻きの間にね。一つ目の隅に身体をぶつけたぐらいは、子供の頃で。二つ目の隅で成人するくらい、三つ目で中年、四つ目で老人、そのひと巻きで真っ黒な巨人の夢は終わり。また、真っ暗な作業が始まるんだ。それで、何百巻きのひと巻きに当たったとき、人間になった夢の断片を思い出すことができるんだ。このまえの夢の自分にはあんなことがあったなあって。お笑いだろう」
「気味の悪い話よ、お笑いじゃないわよ」
「お笑いだよ。だって、人間って真っ黒な巨人の夢でしかないんだよ。お笑いだよな」
小松崎は身体を起こして毛布の端を首に巻いてマントのようにした。
「どうしたの、小松崎さん。ガソリン臭いわよ」
絵里子も身体を起こした。真っ黒という言葉が、ガソリンの臭いと共に一歩一歩近づいてくるように絵里子は感じた。
「お笑いじゃないか。僕には可笑しくてしょうがないよ。だって、君も僕も、真っ黒な巨人が見ている夢の一つなんだよ。真っ黒な巨人の夢が終われば、僕たちもぱっと消える。そんな存在でしかないんだよ。お笑いだよ。何百巻きのひと巻きで、たまに今の自分を思い出してもらえるだけの存在なんだ」
小松崎は絵里子を見つめたまま立ち上がり、そして、マッチで毛布に火を着けた。揮発性の高いホワイト・ガソリンが染み込んだ毛布は一瞬で燃え上がった。
吸血鬼のように小松崎が手を大きく広げるとマントは空気を含んで炎の塊になった。小松崎は動けないでいる絵里子を毛布で包むように抱いた。炎に包まれた絵里子はバタバタと動いた。小松崎は最後の力を振り絞るように絵里子の身体をがっしりと抱え込んだ。
「嫌っ」という叫びの後に、絵里子の悲鳴が夜空に吸い込まれるように続いた。
絵里子の長い悲鳴が掠れ、そして、消えるように終わった後でも、炎の勢いはおさまらなかった。細長いマンションの天辺に蝋燭のように炎が灯っている。炎の先の真っ黒な煙は、龍のように身体をくねらせて夜空に昇っていった。
「なんだよ、小松崎。真っ白な灰になりてえ、なんて言ってたのに。これじゃあ、まるで、ぱさぱさの備長炭みてえじゃねえか」
炭化して顔も判断できない黒焦げの小松崎の遺体に、関永は声をかけた。
「あなた、この人の会社の社長ですよね。だったら、これってどういう意味なのかわかりますか。もしかして、これは遺書のようなものなんでしょうか」
検視の終わった小松崎の遺体の前で警官はビニール袋に入った一枚のコピー用紙を渡した。
そこには関永の大嫌いだった小松崎の絵描き尻取りの一人遊びが、絵里子との二人分になって描かれてあった。
「遺書、じゃないですか……」
関永には、言葉にならない小松崎からの遺書のように思えた。
「そうですか、やっぱり。そうじゃないかって言う人間もいるんですよ」
「二人とも、クイズとか好きだったから、最後になぞなぞの遺書を残したのかもしれませんね」
警官は相槌を打った。関永のでまかせを警官はメモしている。
「やはり、心中なんでしょうね。家族の無理心中ばっかりで、こんなのは珍しいな近頃じゃ」
警官は納得したように安堵の声を出した。
「でしょうね」
もう一度、関永はコピー用紙に目を落とした。小松崎の描いた几帳面な線の絵と、絵里子の描いた可愛らしい絵が交互に並んでいる。本当に小松崎が自分に問いかけたなぞなぞのように思えた。
関永は小松崎を引き取ることにして警察署を出た。
「村田さん。ということで、リンの親は、俺が持ってる同意書にサインをした父親だけになった」
受話器を握った関永は言った。
「なんだい、関永ちゃん。思い切った手に出たね。うちはお手上げだ。勝手にカワイ娘ちゃんは持って帰ってくれ、専務の家にいるから。お願いなんだけどさ、専務に何してもいいから、指とかだけは落とさないでくれ。専務はカタギ用の仕事しかできないから、指なんて落としたら使い物にならなくなる」
「うるせえ、殺すかもしれねえぞ」
「そんなに、熱くなるなよ。こっちは手を引くって言ってんだから、小松崎に対しての香典は、俺からはずませてもらうからよ。それにしても、すげえ手を考えたな。どうやってやったんだい?」
村田は何事もなかったように明るく言った。
「知らねえよ、小松崎が勝手にやったんだよ」
「それはすごいな。うちの若いのにも、人のために死ねって言ってんだけど、駄目だね。もうちょっと、俺のために死んでくれたら、うちも楽になるんだけどな。いいな、関永ちゃん」
村田は専務の住所を教え、指だけは落とさないでくれ、と繰り返し言って電話を切った。
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10 臆病犬
ぼんやりと窓を見つめていたリンの眼に、関永の姿が飛び込んできた。関永は錆の浮いたゴルフクラブを手にしてベランダに降り立った。腹這いになって足の指を舐められている、こんな姿は関永に見られたくないと、リンは身体を縮めた。
関永はリンの姿を認めると、ゴルフクラブを窓に向かって振り下ろした。
ガラスの割れる大音響に専務は飛び退いた。
「リン、迎えに来たぞ。おまえ、そんなことされて、足をちゃんと洗わないと腐っちまうぞ。帰るから早く用意してこい」
破片の残った窓から手を入れて鍵を開けた関永は大きな声で言った。リンは立ち上がった。
「おい、村田から連絡は来たはずだ。何を未練がましくやってんだ、てめえ」
専務は後ずさった。
「村田から、リンちゃんは帰すけれど、僕に手は出すなと聞いているだろう」
関永は、黙ったまま専務に近づくと、思いっきり拳を専務の細い顎に叩き込んだ。
「指は詰めないでくれって、頼まれたけどよ。村田には、許せねえから殺すかもしれない、と言っておいたぜ」
殴り倒された専務のうつろな目に怯えが浮かんだ。
関永は、専務を痺れるほど睨《ね》めつけて、それから部屋の中を見回した。プロ仕様のオーディオ機器が目に入った。
ゴルフクラブを日本刀のように構え、ふっと息を吐くと、オーディオ機器にゴルフクラブを叩き下ろした。プラスチックと金属片が砕け散った。関永は壊すというより粉砕しようとしているように何度もクラブを振り降ろした。
そして、休む間もなく、右隣りの映像機器に移った。大画面の液晶テレビは、ブラウン管ではないので破裂することはなかったが、真っ二つに割れる派手な壊れ方をした。映像機器が終わると、ゴルフクラブは右隣りのリトグラフと、それを照らす照明器具に移った。
関永の破壊行為は休むことなく時計回りに回転していった。最初に部屋を見回したのは、めぼしい物を物色していたわけではなく、起点となる十二時の場所を探しただけだった。
六時ぐらいの場所を壊しているときに、リンは丸めて捨てられかけていた洋服を探し出して身につけて戻ってきた。ジャングルを大鉈で切り拓いて移動している探検隊のような関永と、それを放心した表情で眺めている専務がいた。
「よし、これでいい。おい専務。現場で顔がつくこともあるだろうから、そのときは笑って挨拶しようぜ」
十二時の場所まで一周した関永はクラブを置いて振り返って言った。専務は無言で頷いた。
「リン、帰るぞ」
いつもの関永の声に、リンは駆け出して飛びついた。
皺だらけの服にぼさぼさの頭で飛びついてきたリンの姿は、関永には行方不明になってぼろぼろに薄汚れてしまった猫のように見えた。
身体中に染み着いた専務の口の臭いをシャワーでごしごしと洗い流した。ぬるい湯をバスタブに張ってゆっくりと身体を沈みこませてしばらくすると、身体の芯から睡魔が襲ってきた。浅くて縦に長い関永の家のバスタブは保育器のような安心感があった。
遠くに関永の声が聞こえ、朦朧としたまま関永に抱きかかえられた。そして、赤ん坊のように素肌にバスローブを着せられベッドに寝かされた。髪は濡れたままだったけれど、手を上に上げることさえ億劫だった。朦朧《もうろう》とした意識の奥底から、また、睡魔がむくむくと起き上がってきた。関永の声に仁の声が重なって聞こえてきたが、瞼は力なく降りてくる。リンは、また、こんこんと眠り続けた。
「あーあ、こんなになっちゃって……」
仁はぱさぱさに乾き切ってしまったリンの脛《すね》を撫でていた。リンはぴくりともせずに眠り続けている。
「戻ってから、ずっとこんな感じだ」
関永はソファーに座った。
「身体に力が入ってないわね、ほら」
仁がリンの腕を少し浮かして放すと、すとんと力なく落ちて腕はベッドに沈んでいく。
「点滴のあと、解毒と栄養剤の注射を医者が打っていった。それと脱水症状起こすから、たまに起こして消化のいいスポーツ飲料を飲ませてくれって」
リンの寝ているベッドのサイドテーブルには、ステンレスの水筒に入った冷たいスポーツ飲料と果物が用意されていたが、手を付けた形跡はなかった。
「ねえ、猫に血のない海産物を食べさせてはいけないのって知ってる?」
「知らねえよ」
「海老とか蛸とか、血のない海産物を猫に食べさせると身体が萎えるのよ。猫にとっては強すぎる食べ物なのか、合わない食べ物なのかわからないけど。飼い主のいないところで、こっそりと、のし烏賊《いか》をひと袋食べてしまった猫を見たことあるけど、萎えきっちゃって、いまのリンちゃんみたいな感じだったわ」
「その猫、どうなったんだ?」
「翌日は、フラフラしてたけど、その次の日にはケロッとしてたわ」
「そうか」
「ねえ、セキエイちゃん。小松崎とリンちゃんのママのことは話したの?」
「まだだ。起き上がれるようになったら、俺が話すよ」
「ふざけないで話しなさいよ。あんた、いい齢してふざけるから」
「ああ」
憎まれ口を叩くわけでもなく返事をした関永を、仁は見た。憔悴が肩のあたりから滲み出ているのがわかった。
ガラスのダイニングテーブルの前に座って、リンは仁からの差し入れのスープを飲もうとしていた。
「スープは飲むって言うんじゃなくて、食べると言うのが本当なのよ。食べ物の栄養を凝縮させたものだから」と仁はリンに説明した。
お腹が空いて堪らなくなって身体を起こし、スープの置いてあるダイニングに這うようにして歩いてきた。
仁の差し入れのスープの入ったポットは複雑な形をしていた。仁は多分、スープを誰かに差し入れたりするのだろう。保温性の優れていそうなポットはどうやって開けるのか、リンにはわからなかった。しっかりとした金属の留め金も、固く締められた蓋も腕に力の入らないリンには途方に暮れる代物だった。
聞かなければ、この容器にスープが入っているとはおそらく思わないだろう。それほど、頑丈な造りで貴重品を守っている物のように見えた。ポットを呆然と眺めながら座っていると、また、睡魔が襲ってきた。リンはポットにお辞儀するような体勢でテーブルに突っ伏して眠り込んだ。
肩を叩かれている。そっと、労《いたわ》るような叩き方は続いている。意識が少しずつ戻ってきた。空気清浄器のオゾンの香りしかしない関永の部屋に、濃い食べ物の匂いが充満し、鼻から流れ込んでくる。目を瞬かせて視点を合わせると、湯気の立ったスープ皿が二枚並んで像を結んだ。
「食べるか?」
関永がスプーンを渡した。飲むではなく、食べると関永は言った。
薄い琥珀《こはく》色をしたスープには、スプーンで触ると崩れるほどよく煮込まれた親指の先ぐらいの牛の脛肉が三片と、半透明になったキャベツが入っていた。
リンは琥珀色のスープをひと匙《さじ》すくって口に入れた。生命力のある味が口の中に広がった。ひと匙のスープは、喉の手前の飢え切った粘膜に全て吸収されて胃に届くことはなかった。身体が蘇る味だった。何度もスプーンはスープ皿と口を往復する。脛肉は口の中でほろほろと崩れ、キャベツは水雲《もずく》のように喉に抵抗なく滑って胃に落ちていった。
「ゆっくり、食べろよ」
リンは頷いたが身体が止まらない。
豆と人参といんげんの入った白濁したスープは魚の味がした。その白濁が、喉にねっとりと絡まってしまうクリームではないことに、リンはほっとした。仁の自宅で何度か出された大きな白身魚の骨から出汁《だし》を取ったものと同じような味がした。
二皿のスープを平らげると、身体に温度が戻ってきた。関永の注いでくれたミネラルウォーターを飲んで、ふーっと息を吐くと身体が落ち着いた。
「まだ、食べるか?」
「もう、いい」
「よく寝たな。四日間、トイレに行ってスポーツドリンクを飲むだけで、あとは死んだように寝てたぞ」
「四日も寝てたんだ……」
「身体はどうだ?」
「いま、身体中にスープが行き渡っていってる」
身体を縮み込ませなくても、充分に身体が温かいのをリンは楽しんでいた。関永はリンを観察した。
「リン、いまから、話があるけど、大丈夫かな、嫌なら、また後にするけど」
「いいよ、いまで。小松崎さんのこと?」
リンには、関永が気を使ってくれているのがわかった。
「知ってるのか?」
「知らないけど、小松崎さんのことかなって。たまに仁さんが顔を出してたけど、目が醒めて見えるのは関永さんばっかりだったから」
気になっていた。思い詰めた末のいい予感は外れるけれど、思い詰めて膨らんだ悪い予感は必ず当たる。リンは嫌な予感でいっぱいになった。
「死んだよ、小松崎」
関永の言葉は、リンの予感のまん真ん中に命中した。唇の下が少しへこんだ。
「それから、リンのお母さんの絵里子さんも死んだ」
命中した言葉は、激しい勢いでリンを突き抜けていった。
「心中したんだ、二人で。もしかしたら、小松崎の無理心中かもしれない。それで、同意書の効力は薄くなって、おまえがここに戻ってこれた」
泣き出すかもしれないと、関永は身構えた。
「わかってるか、リン」
リンは驚きで身体中が吹き飛びそうだった。
「わかった……、あたし、もうちょっと寝る」
リンは重い身体を持ち上げ、ベッドに倒れ込んだ。仁のところで観せられていたモノクロの映画では、女の人がキャーと叫んで卒倒するのが可笑しかったけれど、自分がそうなってしまっていた。あのとき、男の人が香水のような小瓶の液体を嗅がすと、女の人は目を醒ます、あれは、いったい何を嗅がせていたんだろう、と考えるうちに、リンの記憶がなくなった。
今度の睡眠は短くて、リンはすぐに目が醒めた。部屋には誰もいなかった。
ベッドから降りることなく目を開いて、誰もいない部屋の中を観ていた。時折、関永が下から様子を見に登ってくるときだけ、リンは寝た振りをした。そして、薄目を開けて関永を見ていた。
「関永さん、お腹すいた」
夕方、部屋に戻って来た関永にリンは言った。
「おっ、そうか。昼に仁のところから、お粥が届いてるんだけど、それ食べるか?」
「はい」
関永は、リンには手におえなかったポットをダイニングテーブルに置くと、金属のレバーを手慣れた感じで押した。蓋は、留め金をちょっと外すだけで子供でも開けられそうなほど、軽く回転した。
「まだ、温かいから、大丈夫だ。お袋の味かオヤジの味かわかんねえけど、あいつの作る飯はうまいんだよ」
関永は丼に粥を注いだ。そして、ポットに付属したケースから、枸杞《くこ》の実と松の実を取り出すと粥に散らした。
「こんなもんまである。仁のことだからカロリーを抑えてんだろうな」
シリカゲル入りのジッパー付きビニール袋からは、乾燥してサクサクの揚げパンが出てきた。
「関永さんのは?」
丼が一セットしか用意されていない。
「俺のはある。そこで買ってきた」
関永の椅子の陰に、マージン・ハウスから一番近くで食べ物を売っている店の袋があった。パサパサに乾燥してパンがそっくり返っているサンドウィッチしか売っていない立ち飲みコーヒー屋の袋だった。
「そんなの食べるんだったら、まだ、あるでしょう、一緒に食べようよ」
「いやいいって、うまいからお粥全部食っていいぞ。俺は、酒を飲むから、こんなくらいがうまいんだよ」
関永は、袋から、透明セロハンの中でそっくり返って踊っているサンドウィッチと、ベーグルにハムとオレンジ色のチーズが挟んであるものをテーブルに載せた。そして、封を切っていないジンをどすんとテーブルに置いた。
「えっ、関永さんジンなんて飲むの?」
「こういうのが飲みたいときもあるんだよ」
言った後に、イギリスではジンはアルコール中毒の浮浪者の酒だ、とリンに言ったことがあるのを、関永は思い出した。小松崎にジンは苦悩の酒だと言ったのも、似たようなものだ。アルコール中毒の浮浪者が苦悩していないはずはない。
「何か、訊きたいこととか、ないのか、リン」
リンが粥の二杯目をおかわりしたときに関永は訊いた。
「そんなの、ありすぎて、何から訊こうかと考えるだけで、頭の中がこんがらがっちゃう」
リンは蓮華《れんげ》を置いた。
「まあ、そうだな」
「だから、関永さん。質問するより、結論を先に言うね。あたし、アイドル辞める」
リンは関永を見つめた。
「そうか」
関永は大きく息を吐いて言った。
「止めないの?」
「まあな。小松崎のちゃんとした遺書がないから、俺自身もよくわからないんだよ。単純に考えれば、リンをバースト・プロから取り戻して、ちゃんと世の中に売り出してくださいよ、てことだろうけど。小松崎は変わってるからな、どう考えてやったのかが、わからないんだ。だって、無茶苦茶だぜ、心中か無理心中かはわかんねえけど、死んでまでやらなくちゃいけないことかね。番外の手だぜ、正気じゃねえ」
「あたしだって、正気じゃなくなっちゃうよ」
関永はしまった、という顔でリンを見た。
「それは、そうだな」
「あたしが言いたいのは、アイドルは辞めるってこと」
「わかってるよ、リン。やりたくなければ、やらなくていい」
「本当に言ってるの? 関永さん」
「ああ……」
リンは、関永が力のない返事をするのを初めて聞いた。
「関永さん、もうちょっと、ここに居させてくれる? わがままだけど」
「いいよ、元気になるまで居ればいい。それに、ここに居て気が変わったら、またアイドルやればいい」
「なんだ、本当は辞めてほしくないんだ」
「少しだけな」
関永が笑った。
「ねえ、関永さん、あたしと結婚してくれる?」
リンの顔は、少し笑っていた。
「嫌だよ、そんなの」
「そう言うと思った。どうして嫌なの?」
「結婚なんて嫌いなんだよ、俺は」
「じゃあいいや、結婚してくれなくても」
「簡単な奴だな」
「じゃあ、抱いてよ、あたしを」
「嫌だよ」
「アイドル辞めたんだから、もうあたしは商品じゃないんだよ」
リンはテーブルを回ると、関永のグラスのジンをひと口飲んで自分からキスをした。
ジンの香りに混ざってリンからは、自分の家の石鹸の匂いがした。この家でシャワーを浴びるような女は出入りしない。不思議な気がした、と思ったら、ジンの酔いがガンと関永の後頭部を打った。
関永はリンを抱き上げた。木製の人形のように軽かった。
「どんな感じがいいんだ。俺は一応女衒だから、どんなふうにもできるぜ」
関永はベッドにリンをそっと置くと衣服を脱いだ。そして、リモコンで照明を落とした。
「真面目に、一生懸命やって、それから、可愛いって何度も言って」
リンはパジャマを脱いだ。
二度目に会ったときに裸にしたリンの身体とは違っていた。磨かれ整えられて、そして、皮が一枚剥がれたように女に近づいていた。
「リン、可愛いよ」
関永が言うと、リンは眼を閉じた。
身体は洗練されていたが、身体に触られることにこれだけぎこちない女も珍しい、と関永は思った。リンは動かされるがままで、身のこなしもガタガタだった。
関永の身体がのしかかってリンを圧迫すると、リンの身体は微妙な力で押し返していた。受け入れるどころか、いやいやをしているようにリンの身体に力が入った。
「リン、おまえまさか、処女じゃないよな」
身体を止めて関永は訊いた。
「そうよ」
リンは怒ったような声で答えた。
「もし、そうだったとしても、専務にやられただろう」
「じゃあ、こうしたら」
リンが身体を動かすと、一瞬にして絡みつくような感触の性器が関永の屹立しかけた性器を掴んだ。関永が想像していた骨の当たりそうなごつごつした性器ではなく、それは老練な動きだった。
関永はリンの身体を眺めた。密着した腰と腰の後ろにリンの左腕がねじ曲がって入り込んでいる。隠すように背中に回したリンの左腕を関永は掴んで引っぱった。一瞬にして絡みつくような偽物の性器は姿をなくした。
「仁だろう、こんな気味の悪いこと教えた奴は。こんなことするのは、大昔の女のふりをした男娼だ。だから、あいつのところに預かってもらうのは反対だったんだ」
「でも、やられなかったんだから仁さんのお陰。処女だと言ったら、このやり方を教えてくれたの。嫌な奴だったり、抵抗すると殺されるかもしれないときには、こうしなさいって」
リンが、関永に抱きついた。
「何やってんだおまえら。ジジイと小娘で、気味悪いことするな」
呆れた顔で関永はリンを見た。
「話すなら、やりながら話して」
「痛いぞ?」
「優しくしてくれれば大丈夫……」
関永は動いた。相変わらず、リンは慣れない動きで押し返そうと身体が動いた。
「でも、お陰でこうやって、関永さんに処女あげられるじゃない」
「そんなもんが、大事だと思われていたのは、あのジジイが若い頃に観ていた映画の世界の中だけだ。それか、芸者の半玉か、アイドルだな」
「ほら、アイドルじゃない」
「アイドルの処女は俺が他人に売って商売になるのに、俺がやっちまったら、そんなもんは意味がないだろう」
関永は動きを止めてリンを見た。
「やめないで。絶対に好きな人とのほうがいいって仁さん言ってた。せっかく、初めてなら守ってくれる男とやりなさいって。仁さんに教わった通りにやったら、専務は完全に騙されたから馬鹿な奴って思ったよ。それで、どうにか監禁されてても気持ちが保てて、関永さんが迎えに来てくれるから、待ち続けてみようと思ったの。それでも、専務に何度も征服されそうになった。足なんか舐められ続けたら気持ちで負けちゃう。だけど、最後まではやられていないって、自分に言い聞かせて関永さんを待ってたのよ!」
「そうか……」
「あんなに、怖かったのに、戻ってきたらもっと怖い話だった。ママと小松崎さんが……。もう、あたしの頭の中じゃ手におえないよ」
リンはみるみるうちに泣き顔になった。涙は真ん丸な玉のようになってぽろぽろこぼれ、耳に流れ込んだ。リンは関永にしがみついた。
関永は大きく目を見開いた。キャインキャインという犬の鳴き声が響いた。尻尾《しつぽ》を巻いて上目使いの『臆病犬』が走りよって来て関永の頭の中に居座った。屹立しかけていた関永の性器は一瞬にして萎《しぼ》んだ。拾ってきたリンに一気に追い抜かれてしまった気持ちだった。
リンは、母親を巻き込み、関永の唯一の相棒を燃え上がらせ、そして、自分にしがみついてきている。初めて会ったときから、関永に対して臆病犬にならなかったリンは、一気に追い抜いて大きく変身した。
関永の耳許でリンは「関永さんは、やりたい馬鹿じゃないし……」と囁いた。そんなことじゃない、おまえとこれ以上交わると、いつかおまえの吸引力に巻き込まれ、俺が小松崎と同じ目に遭うんだ、と関永は思った。臆病犬が関永の腰を引かせた。
離れようとする関永の身体をリンは掴んだ。青一色で彫られた関永の背中の大きな鯉を、リンが真っ白な手で抱いて泳いでいるように見えた。
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11 ショコラ・フーレ・ア・ラ・クレーム
絵里子の葬式は弔問客で溢れ返った。リンの知名度は全国区の一歩手前ぐらいだったが、心中という手垢の付いてしまった古い言葉が世間からリンを注目させる結果となった。
リンはワイド・ショーやスポーツ新聞の格好の餌食になり、葬式の間もリンの表情は望遠レンズで撮られ続けた。
「どうせ、やめるんだから、マスコミは無視していいぞ」
と、マイクを突き付けられたリンに関永は言った。リンはマイクに向かってひと言も声を発しなかった。
絵里子の学生時代の同級生や同僚の女たちが、『泣き女』のように声を上げ取り乱した。リンに抱きついて泣く女もいた。リンは誰とも喋らず、涙ひとつ見せずに大きな目を開けて葬式を観ていた。
「葬式ってのは嫌なものだな」
帰り道の車の中で関永が言った。
「どうして?」
リンは流れていく街の風景をぼんやりと眺めている。
「家に戻って、清めの塩を振りかけられると、魔法でもかけられたみたいに葬式のときの悲しみが消えちまう」
「ねえ、関永さん。小松崎さんに命令してママと無理心中させたの?」
運転している関永の横顔にリンは言葉を投げつけた。
「そんなことしねえよ。どうした、リン。誰かに言われたのか」
「言われた……。あたしも関永さんならできるような気がした」
「勝手なことを言う人間っているんだ。やくざなら殺してこいとは命令できるけど、死んでくれと頼めるわけがないだろう。小松崎は自分の考えでやったことだ」
「じゃあ、ママは?」
「それはわからねえ」
「ママは殺されたんだと思う……」
関永はリンを見た。リンは真っ直ぐに顔を向けて大きな目で自分を見ていた。
「そうかもしれないな。小松崎が殺したんだったら、おまえは辛いだろうな」
「別に……」
リンは車のウィンドウを開けた。冷たくて乾燥した空気がリンの頬に当たった。
「悲しくないのか?」
「あたし、変わっちゃったみたい。ママのこと可哀相だと思うし、悲しい気持ちもいっぱいあるんだけど、涙が出なかった。いろんなことが起こりすぎて、感覚が鈍くなっちゃったのかな」
「惜しかったな」
「何が?」
「おまえは、常人では登れない階段をひとつ登ったのにな。そういう感覚は、もっと上にまた登っていくための武器になるんだけどな」
リンは笑っている。
「なんだか強くなっちまったな、おまえは。本当に惜しいよ」
関永は惜しいと思っていたが、たぶん、リンのことを止められないだろう、と感じていた。それだけリンは成長していた。
「辞めたもん、アイドル。死んじゃった小松崎さんには悪いと思うけどね」
あっけらかんとしてリンは言った。関永はまじまじとリンのことを見た。もしかすると、リンは小松崎を使って母親に復讐したのかもしれない、と関永は思った。
夕方の長い昼寝からリンが眼を醒ますと、関永が小松崎の骨壺を持って笑っていた。
「それって、小松崎さんの骨だよね」
「そうだ。小松崎はこんなになっちまった」
関永はテーブルに骨壺を置いた。骨壺は何の飾りもない質素なものだった。
「リン、飯食うか?」
「食べる」
デパートの地下食料品売り場の袋から懐石料理の重箱を取り出し、関永は骨壺の横に並べた。
「ねえ、関永さん。もしかしたら、骨壺持ってデパート行ったの?」
リンは、骨壺と重箱を見比べた。
「そうだよ。おまえと小松崎が大好きなローカロリーの懐石料理を、二人分なんて急に用意できるのは、デパートの地下ぐらいだろう。警察で骨壺を受け取った帰りに寄って買ってきたんだ。何か変か?」
「なんか変な気もするよ。骨壺持ってデパートなんて」
「そうか、不謹慎か?」
「うん」
思わずリンは「うん」と答えたが、関永は怒らなかった。
「まあ、それでもいいじゃねえか、俺たちは不謹慎そのもので生きてきたんだ。ほら、リン、食べろ」
関永は重箱の料理をリンの前に差し出し、自分は茶碗を用意して日本酒を呑み出した。関永の握った茶碗は骨壺によく似たシンプルなものだった。
「おいしい。でも、このお重って、小松崎さんがいたら食べちゃいけないものだらけだな」
揚げものを箸でつまんでリンは言った。
「小松崎だったら文句言いそうだな。懐石料理って銘打ってんのに、獣臭い食い物とかあるからな」
「でも、いいんだ食べても。アイドル辞めたから」
リンの箸が規則的に動いているのを肴に関永は酒を呑んだ。
「ねえ、これって、もしかして小松崎さんのお葬式なの?」
「そうだよ。俺や小松崎は宗教を持っていないからな。話したこともない坊主に戒名なんて付けて貰いたくないだろう」
「戒名ってなに?」
「坊主が死んでいく者に付ける新しい名前だよ。なんたら居士《こじ》とかって墓に刻まれてるだろう。そんなもの俺たちにとっては、何の意味もないことだ」
「でも、付けてくれるなら、付けてもらったほうがいいじゃない」
「金を払って付けてもらうんだぜ。俺は嫌だな、そんな利益率が一〇〇%に近い商売の片棒を担ぐのは」
関永がしゃべると骨壺が反応して相槌を打つのではないかと思えるほど、テーブルに置いた骨壺の色合いは小松崎の肌色に似て青白かった。
「ねえ、関永さん。チェロ弾いてよ」
「嫌だよ」
「どうして、小松崎さんのお葬式なんでしょう、弾いてよ」
関永は困った顔でリンを見た。リンは何度も弾いてと言った。おねだりをする子供のように何度も言うと、関永はしぶしぶ立ち上がって洗面所に向かった。そして、手を丁寧に洗い、ゆっくりと湯に浸けた。
「ひさしぶりだな」
チェロを構え、簡単にチューニングした関永は懐かしむように言った。リンはソファーに座ったまま関永の手許を見つめた。
リンの下半身を揺するチェロの音が響き始めた。びっくりするぐらい大きな音は部屋の壁に反響した。
どんな曲を弾くのか興味津々で聞いていたリンの耳に、聞き覚えのあるフレーズが流れてきた。『上を向いて歩こう』だった。
どうしてクラシックではなくて歌謡曲を弾くのか、リンにはわからなかったが、関永の奏でるチェロの音色は、男の声で歌を唄っているように聞こえた。
リンは身じろぎもせずに関永の抱いたチェロからこぼれ落ちてくる歌声を聞いた。
曲が終わってもチェロの音はリンの身体の中で振動している。その振動を消さないようにリンは小さく拍手をした。
「チェロの音って人の歌声みたいなんだね」
「ああ、チェロの音は男のテノールと同じ音域だからな」
「ふーん、とっても良かった。でも、どうして『上を向いて歩こう』なの?」
「小松崎の好きな曲だったんだ。ちょっと、湿っぽかったかな」
「そんなことないよ」
リンが首を振った。チェロの音がなくなると、妙に部屋が静かに感じられてリンは寂しくなった。
「よし、小松崎の骨を撒きに行くから付いてこい」
関永はチェロを置いて立ち上がると言った。
「えっ、骨を撒くの?」
「そうだ」
骨壺を抱くと関永は、リンを引っぱって外に出た。
関永はマージン・ハウスの前の植え込みに小松崎の骨を撒いた。骨はからからと乾いた音を立てた。
「こんなところに?」
「小松崎と約束したんだ。どっちかが先に死んだらこうしようって」
「どうしてこんなところなの?」
「猫とか犬とかが死んだらこうするんだってよ。こうして、人に踏まれるところに埋めないと、人間に産まれ変われないんだってよ。古臭くて下らねえ迷信だろう」
関永は笑って言った。
リンはしゃがんで小松崎の骨を見ていた。真っ白な骨は植木の根元に振りかけられた肥料のようだった。
しばらくの間、リンは関永の部屋に居候した。セックスをするわけでもなく、仕事をするわけでもなく。好きなときに起きて、たまに外に出て用事を済まして、好きなときに食事をして好きなだけ寝た。リンの身体が治っても、関永はベッドを取り戻すことはなく、リンの自由に任せた。
時々、関永にこづかいもねだった。いつも、いくらでも金をくれた。一番高い物は、フランス行きの格安航空券で、それは現物支給になった。
リンはフランスに格別行きたかった訳ではない。関永と夕食を食べに行ったとき、どこかの地方の郷土料理の店で、「そうだ、リン。フランスに行って、おまえ女優になれ」と関永が叫んだことから話がどんどん膨らんだ。
「日本では疵《きず》が付いたから、ちょうどいいじゃないか。十七歳なら、フランス語ぐらいすぐに喋られるようになる」と、関永が仁に言うと、仁はリンの居候先を見つけてきた。
関永風に言うと、さすが、ゲイは世界の横の広がりがすごいな、ということらしい。フランス語が喋られるようになるまでは、無給のハウスキーパーで居候させてくれるらしい。モデル・エージェントなので、フランス語ができるようになれば契約するけど、それでもいいなら、という微妙にケチくさい条件だったが、仁は真面目な顔で、大物だから乗ったほうが良い、契約できればすごいことなの、と押し切って決まってしまった。
「大丈夫だぜ、リン。俺がおまえを最初に見たとき、パリでスリをやってる女の子のイメージだったんだから、おまえならやっていける」と、関永は妙に自信を持って話を進めていった。
用意は進んで、出発する直前にリンは、追い出されているみたいで悲しくなって関永を問い詰めた。
「何言ってんだ、リン。追い出してるんだよ、俺は。今の俺じゃ、おまえを世の中に産み出す力はないよ。今度は、俺がおまえの吸引力に巻き込まれて、殺されちまうかもしれないって思ったのさ。恐ろしくて堪らなくなった。俺はとんでもない化け物を世の中に送り出そうとしていたのかもしれないってな。かといって、誰かに渡すのも癪に触るから、いっそ外国って思ったんだ。日本の契約は残しておくから、向こうで旋風を巻き起こして凱旋してこい、リン。結構、小松崎はここまで予測していたのかもしれないな」と、言った。リンは小松崎が関永のために死んだんじゃないか、と関永に言った。小松崎が人のために死ぬのは大変なことなんだと言っていたのを耳にしていたからだった。関永は「そんなこと、ねえだろうよ」と言ってはいたが、複雑な表情をしていた。
小松崎は関永のプライドを守るために死んでいった、と考えるのはカッコつけすぎかな、と思ったが、そっちのほうが小松崎には似合っていると、リンはそう考えるようにした。
そして、絵里子は無理心中ではなくて、愛し合って死んだと、思い込むことにした。
関永の部屋に居候しているのは、まるで、暇でしょうがないけれど、ゆったりと考えごとができる夏休みのようだった。
関永が「追い出そうとしてるのさ」と簡単に認めて言ったのは、少し悲しかったけれど、よく考えると、それもいいかなと思えた。関永のぼんやりとした予感だけど、小松崎はそこまで見越した、というのがリンには当たっているように思った。
出発の当日、関永と仁と、窮屈そうに靴を履いている仁のところの裸足男が二人、見送りに来た。
「いいんだよ、あんなのは来なくて。オカマは貪欲だからな、リンを見送りながら、孫か娘を留学させる別離の母親かなんかの役になりきって泣くんだぜ、仁は」
と関永は仁が見送りに来るのを拒んだが、リンは来て欲しいと言った。
関永の予想通りに仁は大泣きして、ハンカチを何枚も使っている。随行した二人の裸足男は仁の介護役だったわけだ。
「ケチで嫌なジジイのゲイだけど、力のある人だから、きっと、いいことがあるわよ、リンちゃん」
「はい」
仁は泣きながらリンを抱きしめた。そして、仁の美容室の客用のチョコレートの箱を手渡した。濃い赤の箱は何も装飾もなく、名前だけが印刷してあるものだった。
「飛行機の中で食べなさい。でも、歯はちゃんと磨きなさいよ。向こうは歯がもっと大事よ」
「これ、食べたかった。ありがとう、仁さん」
「そんなもん、大してうまくねえぞ、リン。それにな、ちょっと昔に流行ったんだけど、そのぐらいの大きさの箱の中に、拳銃《ハジキ》の形に切り抜いた鉄板を入れといて、飛行機の中でこれを開けてねって渡すんだよ。X線を通すと大騒ぎになるんだ」
「ひどい、そんなの捕まっちゃうよ」
「捕まらねえよ。鉄板だから。でもな、そうやって、飛行機に乗る前に品物をあんまり預かったら駄目だぜ、向こうに行ったら」
「はい、わかった」
最終の搭乗手続きのランプが灯り、アナウンスが聞こえてくる。
「それからよ、リン。オカマの食い物にされる若い男の子のことを、なんて呼ぶか知ってるか? それが傑作でよ、ビーフ・ケーキって言うらしい。肉のケーキだぜ。エグイこと言うぜ、あいつら。フランスでは、女優の卵のことをなんて言うんだろうな。chocolats fourres a la creme ショコラ・フーレ・ア・ラ・クレームとでも言うのかな」
「どういう意味? 関永さん」
「クリーム入りチョコレートだよ。もしわかったら、教えてくれ。じゃあな、リン、行け!」
関永はリンの腰を押してゲートを潜らせた。
リンは何度も振り返った。もう少し話したかったが、強い力で押し出された。
関永が手を振った。
関永は、初めてリンに会った日のことを思い出していた。
蝉が一匹も鳴いていない日だった。そういえば、あの日に疑問に思った蝉の話は、よく考えるまでもなく小松崎が語った話であることに関永は気付いた。あんな話は小松崎ぐらいしかしない。
小松崎にとって刑務所が蝉の土の中の楽園と同じだったのかもしれない。あの辛くて泣いている蝉は小松崎のことだったんだな、といまさらながら、考えつかなかった自分が鈍感に思えた。あの日に、自分がリンの半ケツを触らなかったら小松崎は死なずに済んだのかもしれない、と考えていた。
関永と仁が並んで手を振っている。裸足男二人は、胸のところで小さく手を振っていた。リンは走って戻りたい気持ちでいっぱいになった。つくづく恐い親子だったけど、戻りたいと思った。
まあ、でも、嫌だったらさっさと帰ってこよう。おもしろかったら、旅行気分で少しだけ居て戻ってこようと、リンは勝手に心に決めていた。そう決めないと、大声で泣いてしまいそうだった。泣くと関永がからかうに決まっている。
リンは何度も振り返った。関永は手を振っている。
下りのエスカレータに乗って、階下の搭乗ゲートに降りていくリンの姿が足から消えていく。
リンが大きく手を振った。
顔がエスカレータの陰になって消えていくとき、関永は思わずリンの目を追って背伸びをした。大きく目を見開いたリンと一瞬だけ目が合った。子供が成長するにつれ蒙古斑《もうこはん》が薄くなっていくように、リンの白眼の部分の青みは消えていたようだった。泣き顔寸前のリンの顔が残像になった。
リンの振っている手だけが少し余韻を残し、そして、関永の前から消えていった。
単行本 二〇〇二年五月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十七年六月十日刊