大地 第三部「分裂した家」
パール・バック/大久保康雄訳
目 次
大地 第三部
パール・バック年譜
パール・バックとアジア[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
主要人物
[#ここから1字下げ]
王元《ワン・ユワン》……王虎《ワン・ホウ》将軍が第二夫人に生ませたただひとりの息子。南方の革命軍に参加して父の期待を裏切る。詩文を好む内省的な性格。アメリカに六年留学、西洋文明の長短両面を学び、祖国愛と民族意識に目覚めてはんもんする。第三部の主人公。
老夫人……王虎将軍の第一夫人。教養ある聡明な女性で、ひとり娘の教育と孤児院の経営に半生をささげる。
愛蘭《アイラン》……老夫人の娘。王元の腹違いの妹。
盛《シェン》……王一の三男、王元の従兄。元とアメリカヘ留学し、西洋文明に心酔する。
孟《メン》……王一の四男、王元の従兄。新政府樹立に狂奔する革命軍の将校。
ウィルスン教授……元の恩師、温和な学者。
メアリ……ウィルスン教授の娘。元に好意をよせる。
美齢《メイリン》……孤児で老夫人の養女となり、医者を志す。のち元と結婚する。
伍《ウー》……小説家。愛蘭と結婚する。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
こうして王虎《ワンホウ》将軍の息子|王元《ワンユワン》は、生まれてはじめて王龍《ワンルン》の土の家にはいった。
王元が南方から帰ってきて父とけんかをしたのは、十九歳のときであった。それは、ある冬の夜のことで、王虎将軍がひとりすわっている大広間の格子《こうし》窓には、北風にあおられた雪が、しきりに吹きつけていた。王虎将軍は炭火が赤々と燃える火鉢《ひばち》を抱くようにして、物思いにふけっていた。彼はこうして夢想をするのが好きだった。いつかは息子が帰ってくる、父の軍隊をひきい、父が志を立て、しかも、それよりさきに老齢に見まわれてついに初志を貫徹しえなかった勝利をおさめるだけの一人前の男に成長して帰ってくる、と、いつも夢みていたのである。そんな夜、息子の王元は、だれも予期しないときに帰ってきたのであった。
彼は父の前に立った。将軍が見ると、息子は見慣れない軍服を着ていた。それは王虎将軍のような軍閥の敵である革命軍の軍服である。その意味がはっきりわかると、将軍は夢想からさめ、老いの身ながら立ちあがり、わが子をにらみつけ、つねに身辺から離さぬ細身の鋭い剣をひきよせ、敵を殺すように息子を殺そうとした。
王虎将軍の息子は、心の奥に持ってはいたものの、いままで一度も父の前で見せようとしなかった怒りを、生まれてはじめて爆発させた。彼は藍《あい》色の上着をあけ、陽《ひ》にやけてはいるが、すべすべした、はちきれそうな胸を見せて、高い若々しい声で叫んだ。「おとうさんはわたしを殺すだろうと思っていました――それがおとうさんの旧式な唯一の解決策なのですからね――さあ、殺してください!」
しかし、そう叫びながらも、彼は、父には自分を殺せないとわかっていた。ふりあげた父の腕が、そろそろとさがり、剣がゆっくりと空《くう》を切って落ちるのが見えた。そして、息子が目も離さずみつめていると、父のくちびるが泣きだしそうにふるえ、そのふるえをとめようと父がくちびるを手でおさえるのが見えた。
父と子が、こうしてにらみあっているとき、若いころから将軍に仕えてきた忠実なみつ口の老人が、眠る前に主人の気持ちをしずめる、いつもの温めた酒を持って、はいってきた。この老人には青年のほうは、ぜんぜん目にうつらなかった。見えたのは老主人の姿ばかりで、ふるえている顔や、弱々しい怒りの色が急に消えるのを見ると、老人は声をあげて走りより、急いで酒をついだ。すると王虎将軍は、息子のことも忘れ、剣をほうり出し、ふるえる両手で大杯をつかみ、口へ持って行って、幾度となく飲んだ。一方、忠実な老僕《ろうぼく》は、持っている錫の酒壺から、どんどんついで行った。王虎将軍は、ひっきりなしに「もっとつげ――もっとつげ――」とつぶやくように言い、泣くのを忘れた。
青年は立ったままふたりを見守っていた。彼は、このふたりの老人を見守っているのだが、ひとりは傷つけられた気持ちのやりばを、ひたすらに子供っぽく酒に求めているし、ひとりは、みにくいみつ口の顔を主人おもいの愛情にゆがめながら身をかがめて酒をついでいる。それは、こんなときでも、酒と酒による慰めしか念頭にないふたりの老人にすぎなかった。
青年は自分が忘れ去られているのを感じた。それまで、はげしく熱っぽく打っていた心臓が胸のなかで冷え、のどのかたまりがとけて、急に涙が出そうになった。しかし涙は出さなかった。軍官学校で学んだきびしい鍛練が、いま彼の役に立ったのである。彼は身をかがめて、さっき投げすてた帯剣をひろいあげると、一言も言わずに、しゃんと姿勢をなおして、子供のころいつも若い家庭教師と勉強していた部屋へはいった。その家庭教師は、その後、軍官学校で彼の隊長になった人である。暗い部屋のなかで、彼は手さぐりに机のそばの椅子を見つけて腰をおろした。胸もうちくだかれたような気持ちだったので、ぐったりとからだをのばした。
いまとなってみると、父のことを心配して――いや、父を愛するあまりなのだが、それにしても、この老人のために同志と主義をすてるほど逆上する必要はなかったのだという気がした。王元は、たったいま見てきた父、いま広間で酒を飲んでいる父のことを、幾度となく思いかえしてみた。彼は父を新しい目で見た。そして、これが父である王虎将軍だとは、ほとんど信じられぬほどであった。なぜなら王元は、昔から父を恐れ、それでいて、不本意ながらも、そして心ではひそかに反発をおぼえながらも、父を愛してきたからである。王虎将軍の唐突な怒りや、その怒声や、つねに身辺を離さぬぎらぎらする細身の剣をさっと突き出す身のこなしなどが、恐ろしかったのだ。さびしがりやの子供だったころ、王元は、何かして父を怒らせた夢を見て汗をびっしょりかき、夜中によく目をさましたものである。もっとも、父はいつまでも息子のことをほんとに怒っているはずがないのだから、何も、そうこわがらなくてもよかったのだが。しかし、父が他人に向かって怒ったり、怒ったようなようすをしているのを、よく見かけたものである。なぜなら将軍は、部下を統率する武器として、その怒りを利用していたからである。子供のころの王元は、父が怒ったときのかっと見開いた、らんらんたる目や、荒いまっ黒なひげをうちふるうときのようすを思い出しては、まっくらななかで、ふとんをかぶってふるえていたものである。部下のあいだでは、こんな冗談が、こわごわながら口にされていた。「虎《とら》のひげは引っぱらんほうがいい!」
しかも、それほど怒りっぽい王虎将軍であるが、息子だけはかわいがっていた。王元も、そのことを知っていた。知っていて、それがこわかった。それというのが、この愛情は、かんしゃくと同じようにはげしくて、気むずかしくて、子供の王元に重くのしかかってくるからであった。それは王虎将軍の身のまわりに彼の胸の炎をしずめる女がいないからであった。ほかの軍閥の将軍たちは、戦争から帰って休養しているときや、老境にはいると、なぐさめに女を引き入れるのだが、王虎将軍は、まるで女を近づけなかった。ふたりもいる妻にさえ会いに行ったことがなく、そのうちのひとり、ある医者の娘で、ひとり娘だったため、父親が死んだとき遺産をうけた妻は、もう何年も前から海岸地方の大都会へ行ったままで、王虎将軍とのあいだに生まれたただひとりの娘を、そこの外国式の学校へ入れて勉強させていた。こんなふうで、王元にとって、父は愛情と恐怖のすべてであり、このまざりあった愛情と恐怖は、彼にのしかかってくる見えざる手であった。彼は身動きもできず、心も魂も、父にたいするこの恐怖と、父の愛が集中されているのはただ自分ひとりだけだと知っていることから、しばしば、がんじがらめにされるのであった。
王虎将軍は自分では気がつかなかったが、王元がこれまでにないほどの苦境に立ったときでも、彼をしっかと、おさえていた。それは南方の軍官学校で戦友たちが隊長の前に立ち、祖国の政権を奪取し、そこにあぐらをかいている無力な大総統を打倒し、げんざい軍閥や海外からの外国軍隊の苛酷《かこく》な手によって塗炭《とたん》の苦しみを受けている善良な民衆のために戦い、かくしてふたたび偉大な国家を再建するという新しい大義名分を誓ったときのことであった。若者たちが、つぎつぎと身命を投げうつと誓ったとき、王元は、いま打倒を叫ばれている当の軍閥にほかならぬ父にたいする恐怖と愛情とにしばられて、ひとり仲間はずれになったのである。
心情においては、彼は戦友と同じであった。苦しみにあえぐ民衆の、ぞっとするような思い出のかずかずが、彼の心にもあった。よくみのった作物を父の部下の馬蹄《ばてい》に踏みにじられたときの民衆の表情を思い出すことができた。ある村で、王虎将軍が、いかに言葉はおだやかにしても、部下のために食糧と金と税とを要求したとき、ある老人の顔にうかんだ、あきらめきった憎悪と恐怖の表情を思い出すことができた。地上に横たわり、父や部下から一顧もあたえられない死体のことも思い出すことができた。また洪水や飢饉のこと、そして一度、父といっしょに堤防の上を馬で行ったときのこともおぼえていた。あたりは一面の水で、堤防は、飢えにやせさらばえた男や女でまっ黒になっていた。彼らが王虎将軍や王虎将軍の大事な息子に襲いかかったりしないように、兵士たちは血も涙もないようなむごたらしいことをしなければならないほどだった。たしかに王元は、こうした情景や、そのほかにも、たくさんのことをおぼえているし、また、自分がこうしたことを目にするたびに心がひるみ、自分が軍閥の将軍の子であることを憎悪したこともおぼえている。戦友のあいだにいるときも、父のために、身命をささげても惜しくないほどの大義から、ひそかに身をひいたときも、彼は自分を憎悪した。
昔の子供部屋の闇《やみ》のなかにひとりすわって、王元は、父のためにささげたこの犠牲、しかもいまとなってはまったくむだになった犠牲を思った。父には自分の犠牲が理解できないし、またその価値を認めもしないのであるから、あんなことをしなければよかった、と思った。この老父のために、王元は同時代の青年たちや彼らとの同志的結合をすてたのだが、さて王虎将軍は、いくらかでもそれに感激しただろうか! 王元は、これまでの一生を通じて、自分があやまったほうに利用され、あやまったふうに理解されてきたのを感じ、とつぜん、子供のころ、自分が好きな本を読んでいて、やめるのはいやだというのに、部下の戦争の演習を見せるために無理やり引っぱり出されたことや、食べるものをもらいにきた人々を銃殺したことなど、父が自分にあたえた心の傷手《いたで》を、ささいなことまで一つ一つ思い出した。そして、そうした不愉快な多くのことを思い出しながら、王元は、くいしばった歯のあいだからつぶやいた。
(父はこれまでおれを愛したことなどなかったのだ! 自分では愛しているつもりで、おれのことを唯一の宝のように思っていながら、おれが真実何を求めているかを一度だってたずねたことはないし、たといたずねても、おれの言うことが自分の思うとおりでなかったら、拒絶するだけのことだったから、おれは父が望んでいることを言うために、いつも考えてから口をきかなければならなかった。おれには自由というものはなかったのだ!)
それから元は戦友のことを考え、彼らは自分を軽蔑しているにちがいないと思った。そして、もうこうなっては彼らとともに偉大な祖国再建に参加するわけにはいかないのだと思い、反抗するようにつぶやいた。(おれは、はじめから、あんな軍官学校なんかには行きたくなかったのだ。それなのに父が、なんでもかでも行けと言ったのだ!)
元の心には、こうした悲しみとさびしさが、いやましにつのってきた。彼は唾《つば》をごくりと飲みこみ、暗闇のなかで目をしばたき、不機嫌になった子供のように、かんしゃくまぎれにつぶやいた。(父がどんなことを知っていようと、気にかけていようと、理解していようと、おれは革命軍に投ずればよかった! 隊長の言うとおりについて行けばよかった。だって、おれにはだれもいないじゃないか――だれひとり――)
こうして元は、この世に自分ほど孤独なものはないと思い、ひどく憂鬱な気持ちで、ひとりすわっていたが、だれもそばへ寄ってこなかった。いつまでたっても、召使ひとり、ようすを見にくるものもいなかった。父子が争っているあいだ、格子窓には、ひそかな目と耳があったので、主人の王虎将軍が息子にたいして腹を立てているのを知らないものはひとりもなく、息子を慰めて、王虎将軍の怒りをわが身に引きうけようとするようなものはひとりもいなかったのである。元がだれからもかまってもらえないのは、これがはじめてで、それだけに彼は、いっそうさびしさを感じた。
彼は、いつまでも、そのまますわっていた。ローソクをつけようともしないし、召使を呼ぼうともしなかった。机の上で両腕を組み、その上に頭をのせ、憂鬱の波に襲われるがままにまかせていた。しかし、ついに眠りに落ちた。疲れきっていたし、若かったからである。
目をさましたときは、うっすらと夜が明けかかっていた。彼は急に顔をあげ、あたりを見まわした。とたんに、父と口争いしたことを思い出し、その心の痛みがまだ残っているのを感じた。彼は立ちあがって、中庭に向かった戸口へ行って、外を見た。中庭は人影もなくひっそりしていて、薄暗い光のなかで灰色に見えた。風は落ちて、夜中に降った雪は降るそばから消えていた。門のかたわらには、夜番が、暖かい場所を求めて壁の隅《すみ》に身をまるめて眠っていた。盗賊をおどかして追いはらうための竹棒と棒きれとが、敷瓦《しきがわら》の上にころがっていた。元はこの男の寝顔を見て、あごをだらりとたらし、口を開けて、らんぐい歯を見せているそのだらしなさに、なんとみじめなのだろうと、憂鬱な気持ちで思った。しごく気のいい男で、元は子供のころ、それもほんの最近まで、縁日や何かで、お菓子やおもちゃを、よく買いに行ってもらったものだ。しかし、いまの元にとっては、その夜番も、若主人の苦悩など気にもとめない、老いてみにくい男にすぎないように思われた。そうだ、ここでの自分の全生涯は、まるで空虚だったのだ、と思うと、急にその生活にたいする反抗で気ちがいじみた気持ちになった。それは、いまにはじまった反抗ではなかった。昔から彼と父とのあいだにあった、かくされた戦いの戦端が開かれたのである。それは彼の知らないうちにめばえた戦いであった。
まだ元が小さな子供だったころ、家庭教師として彼を教育し、訓練し、しょっちゅう革命や国家改造の話をしたのは、西洋の教育を受けてきた若い軍人であった。子供の心は、そうした偉大な、いさましい、美しい言葉の意味に、すっかり燃えあがった。それでいながら、家庭教師が声を落とし、熱心に、「他日あなたのものになるこの軍隊を使わなければいけません。祖国のために使わなければならないのです。なぜなら、いまのような軍閥の存在を許してはおけないからです」と言うのを聞くと、いつもその燃えあがった火が消えるのを感じた。
こうして王虎将軍が知らないうちに、このお雇い教師は、隠密のうちに、息子が父に反対するように教育したのであった。そして、元は若い家庭教師の輝くような目を、みじめな気持ちでみつめ、その火を吐くような言葉に、じっと聞き入り、心の底まで感動した。しかも、心のなかでは消しようもないほどはっきりしていながら、口には出せない「けれども、ぼくの父は軍閥の将軍なのだ」という言葉のために、身動きができなかった。こうして、子供時代を通じて元は苦しみなやんだのであるが、そのことを知っているものは、だれもいなかった。そのため彼は、年齢のわりに、きまじめで、無口で、いつも憂鬱そうにしていた。父を愛していながら、父に誇りを持つことができなかったのである。
だから、この夜明けの淡い光のなかに立った元は、ながい年月の心の戦いに疲れて、すでに力もつきはてていた。それから逃げ出したい気持ちだった。あらゆる戦いから、どんな大義名分からも逃げ出したかった。しかし、どこへ行けばよいのか。人の目を盗むこともできず、父の愛情によって、この壁のなかへ閉じこめられていたので、彼は友人もなく、行くところもなかったのだ。
やがて元は、戦闘と戦闘の物語ばかりのなかで育ってきたこれまでの生涯のうちで、これほど平和なところはないと記憶している場所を思い出した。それは小さな古い土の家で、一介《いっかい》の農夫だった祖父の王龍が、金持ちになり、家を起こし、城内に移り、王大人と呼ばれるようになるまで住んでいた家であった。その家は、いまでも村はずれにあって、三方は静かな畑地になっていた。元はおぼえているが、家の近くの小高い丘の上には、王龍の墓をはじめ、ほかの家族たちや祖先の墓があった。子供のころ、父が、その土の家の近くの町に住んでいるふたりの兄、地主の王一《ワンイー》と商人の王二《ワンアル》をおとずれたとき、いっしょに連れられて、一、二度、あるいはもっとたびたび行ったことがあるので、よく知っていた。
あの小さな古い家へ行けば、平和で、ひとりきりになれる、そう元は思った。なぜなら、元もよくおぼえている、あの静かな、落ちついた顔をした女が尼僧になってしまってからというもの、父が年をとった小作人を住まわせている以外に、だれも住んでいないからだ。元はその女を一度見たことがある。ふたりの妙な子供といっしょに住んでいた。ひとりは髪の毛の白い白痴で、これはもう死んでしまったし、ひとりは上の伯父の三男で、せむしだったが、これは僧侶になった。当時会ったときでさえ、その沈んだ表情をした女が尼僧のような気がしたのを、元はおぼえている。というのが、頭こそまるめていないが、男に会うと顔をそむけ、相手の顔を見ようとせず、灰色の着物を胸のところでかきあわせて着ていたからである。顔は、まったく尼僧の顔で、欠けはじめた月のように青く、肌はきめがこまかく、か細い骨をぴったりとつつんでいて、近くへ寄って髪の毛のような小じわを見るまでは、とても若く見えた。
しかし、その女も、いまはいない。家にはふたりの老小作人がいるだけだから、あそこならいい。
こうして行くさきはきまったし、自分でもここを離れたかったので、一刻も早く出て行きたい気持ちで、元は、もう一度部屋をふりかえった。しかし、まず何より、このいやな軍服をぬがなければならない。そこで、豚皮の箱を開いて、ふだん着ている服をさがし、羊皮の上着と布地の靴と白い肌着をとり出すと、そっとそれに着かえた。それから、馬をひき出すために、明るみかけた中庭を忍び足で通り、銃を枕にして眠っている夜警のそばを抜け、門を開けはなしにしたまま外へ出ると、ひらりと馬にとび乗った。
しばらく馬を進めると、大通りをはずれて小路にはいり、その小路を過ぎると田んぼへはいった。すると遠くの小山のうしろから、太陽が燃えるような光を先駆として顔を出すのが見えた。そして、晩冬の朝の冷たい大気の中で、気高いほど赤くはっきりと、とつぜん朝日がのぼった。あまり美しいながめだったので、知らないうちに元はいくらか悲しさを忘れ、とたんに空腹をおぼえた。そこで路傍の飯店の前で馬をとめた。土の壁に低く切ってある戸口からは、湯気が、温かく食欲をそそるように流れ出ていた。彼は熱い米のカユと塩魚とゴマをふりかけた蒸餅《むしもち》と茶色の壺に入れた一杯の茶を注文した。すっかり食べてしまって、お茶を飲み、口をすすぐと、あくびをしている飯店の亭主に代金を払った。亭主は、そのあいだに、髪をくしけずり、顔を洗って、さっきよりも、いくらかきれいな顔になっていた。金を払うと元は、ふたたび馬にまたがった。そのときは、高くのぼった太陽が、霜をおいた小さな小麦や、村の家々の霜をおいた屋根に輝いていた。
やがて、何はともあれ若いのだし、それにこのような朝でもあるので、元は急に、人生というものは、自分の人生だって、そう悪いばかりであるはずはない、という気がしてきた。心がはずみ、ひろい土地をながめながら馬を進めて行くうちに、木や畑があって、どこか近くに水の流れが見え、水音が聞こえるようなところで暮らしたいと、自分がかねがね言っていたのを思い出し、心のなかで思った。(いまのところ、これくらいのことはしてもいいらしい。だれも気にとめようともしないところをみると、自分の好きなことをしていいのだ)そして、こうした新しいささやかな希望がわくと、知らず知らず心のなかで言葉が組み立てられ、詩の形となり、彼は、なやみを忘れてしまった。
それというのが、青年になってからの元は、詩をつくる趣味を自分のなかに見いだしていたからである。それは短い優美な詩である。彼はそうした詩を、よく扇面や、自分の部屋の白壁など、いたるところに筆で書きつけたものである。家庭教師は、こうした詩を、いつも笑った。なぜなら、王元がつくる詩は、秋の水面に落ちる木の葉とか、池に垂れる新しく芽ぶいた柳とか、白い春霞《はるがすみ》をとおして赤く咲いた桃の花とか、耕したばかりの黒い豊かな耕地のうねとか、そんな優美なものばかりだったからである。
彼は軍閥の将軍の子にふさわしいような戦争や勝利の詩はつくらなかった。戦友に無理にすすめられて革命の詩をつくるにはつくったが、それは勝利よりも死ぬことを詠《よ》んだもので、戦友たちが求めるものとちがって、やさしい調子のものとなり、元も、みんながよろこんでくれないのでがっかりしたものだ。彼は、「韻を踏むと、こうなってしまうのだよ」とつぶやくように言って、二度とそんな詩はつくろうとしなかった。それというのも、彼は見たところ、おとなしくて柔順そうではあるが、心のうちには、頑固さと、ひそかな強情さとを持っていたからで、このことがあってのちは、つくった詩を、だれにも見せなかった。
いま、元は生まれてはじめて、だれからも命令を受けず、自分ひとりになった。これは彼にとっては、すばらしいことだったし、いままであこがれていた土地を、ひとり馬で行くのだから、そのすばらしさは、ひとしおであった。いつのまにか憂鬱さがやわらいだ。青春の血がわきあがり、肉体が新鮮にたくましくなるのをおぼえ、冷えきって澄んだ大気は鼻孔にこころよく、たちまちにして、心にうかんでくる詩の神秘以外は、すべてを忘れてしまった。彼は、急いで詩をつくろうとはしなかった。ひろびろとした砂地が高まり、雲一つない青空を背景にくっきりと姿を見せている裸の山々をながめ、その山々のように澄みきった心境から、雲影もない空に向かって裸になっている山のように完全な形で詩がうかんでくるのを待った。
こうして、この甘美な孤独の一日が過ぎ、それとともに心が落ちついてきたので、彼は愛も恐れも戦友も戦争のことも忘れることができた。夜になると、彼は田舎の飯店に泊まった。亭主は子供のない老人で、もの静かな後添いの女房もそう若くはなく、年老いた夫と暮らしていても、退屈とは思っていないようであった。その夜の客は元だけで、あるじ夫婦は彼を気持ちよくもてなしてくれた。女房は、かぐわしい薬味をつけ、こまかくきざんだ豚肉をなかに詰めた、小さな饅頭《まんじゅう》をごちそうしてくれた。元は、食事をすまし、お茶を飲むと、したくされた寝室へ行き、こころよい疲労のため、ぐったりと寝台に身をのばした。
眠りに落ちる前に、父や父との口争いのことが、一、二度、刺すように思い出されたが、それもすぐ忘れることができた。というのが、その日まだ日が沈まぬうちに、詩が夢みていたとおりはっきりとうかんできたからである。それは一語一語が水晶のように澄んだ完全な四行詩で、彼の望みどおりにできた。そこで彼は、すっかりいい気持ちになって眠った。
このような自由な日が、日ごとに楽しくガラスの粉のように乾いた冬の陽光が山や谷に降り注いでいる三日間が過ぎた。元は心の傷もいやされ、なんとなく希望に満ちて、祖先の住んでいた村へ着いた。日も高くのぼった朝、彼はその小さな部落に馬を乗り入れ、全部で二十戸ばかりの草ぶきの土の壁の家を見、熱心にあたりを見まわした。通りには、百姓だの、その女房だの、子供だのが、戸口に立ったり、入り口にかがんだりして、餅《もち》やカユの食事をしていた。元には、彼らがみないい人たちに思えた。みんな自分の友だちのように思われ、彼らに親しみを感じた。隊長が民衆のための大義名分を叫ぶのを、幾度となく聞いたものだが、これが民衆なのだ。
ところが、元を見かえす彼らの目には、強い疑いと非常な恐怖に満ちた不信の色がこもっていた。というのは、彼は、ほんとうは戦争や戦争のやりかたを憎んでおり、しかもそれと自分では気づかずにいたものの、いまでも彼は軍人らしいようすをしていたからである。心のなかはどうであろうと、父は元のからだを強くたくましくきたえあげたので、馬に乗った姿も、将軍のようにしゃんとしていて、だらしのないところはなく、どこから見ても百姓のようではなかったのだ。
だから村の人たちは元を疑わしそうに見たのである。彼の素姓がわからないし、見慣れぬ人や、そうした人間のすることを、村人たちは、つねに恐れていたのである。村の子供がおおぜい、餅のきれはしを手に握り、彼がどこへ行くのか見とどけようとあとを追ってきて、めざす土の家に彼が着くと、ぐるりと彼をとりまいて立って、じっと彼をみつめ、餅の端をかじったり、たがいに押しあいしたり、鼻をくんくんいわせたりしていた。子供らは、やがてこうして立って見ているのにあきると、親たちに、あの色の黒い、背たけの高い若い人は、王の家の前で赤い大きな馬を降り、柳の木に馬をつなぎ、家のなかへはいって行ったが、背たけが高いうえに家の入り口が低いので、はいるとき背をかがめなければならなかった、というようなことを話すため、ひとりまたひとりと走って帰って行った。そして、通りでそんなことをどなっている彼らのかん高い声が、元の耳にもはいったが、彼は子供たちのそんなおしゃべりなど気にもかけなかった。しかし、子供たちの話を聞くと、親たちは、いっそう元のことを疑い、どこのものやらわからぬ、あの色の黒い背たけの高い若者から、何か災難を受けてはならぬと思って、みんな王の土の家の近くには寄りつかなかった。
こうして元は、大地の上に生きていたこの祖先の家に、見知らぬ客としてはいって行った。彼は中の部屋へはいり、そこに立って、あたりを見まわした。年老いたふたりの小作人は、彼がはいってくる物音を聞きつけて、台所から出てきたが、彼の姿を見てもだれかわからず、彼らもやはりおびえていた。彼らがおびえているのを見て、元は、ちょっと笑って見せてから言った。「ぼくのことをこわがるにはおよばないよ。ぼくは、王虎将軍といわれている王将軍の子だよ。王虎将軍は、昔ここに住んでいたぼくのおじいさんの王龍の三番目の子じゃないか」
老夫婦を安心させ、自分はこの家にはいる権利があることを示すために、そう言ったのだが、しかし彼らは安心したようすはなかった。前よりもびくびくして、たがいに顔を見あわせ、口まで入れて食べようとしていた餅が、からからになって、石のように咽喉《のど》につまった。やがて老婆は持っていた餅のきれをテーブルの上において手の甲で口をふいた。老人はあごを動かすのをやめ、進み出て、もじゃもじゃの白髪頭を一つさげ、ふるえながら、そして咽喉につかえた餅を飲みくだそうとしながら言った。「あなたさま、なんの御用でごぜえますかね、そして、わしらをどうなさろうというのでごぜえますかね」
そこで元は腰をおろし、またちょっと笑って見せた。こだわりなく笑うことができた。というのは、これまで、こうした下層の人たちが賞賛されるのを聞いていたので、恐れる必要はないと思ったからである。
「ぼくは、なにもほしいのではない。ただ、この先祖代々の家に、しばらくかくれていたいだけなのだ――たぶん、ここで暮らすようになるかもしれない――ぼくにわかっているのは、畑だの、木だの、どこかにある川だのに、ずっと前から妙なあこがれを持っていたということだけだ。そうはいっても、土の生活というものが、どんなものか、知りはしないのだがね。でも、へんな羽目から、いまのところ、しばらく身をかくさなくてはならなくなったので、ここにかくれようと思うのだよ」
これも老夫婦を安心させるために言ったのだが、今度もふたりは安心しなかった。ふたりは、たがいに顔を見あわせていたが、やがて老人も餅のきれをおき、しわだらけの顔に不安の色をうかべ、すこしばかり残っている白いひげをあごの上でふるわせながら、一生けんめいになって言った。
「あなたさま、身をおかくしなさるには、ここはまったく悪いところでごぜえますよ。あなたさまのお家柄、あなたさまのお名まえは、この近くじゃだれひとり知らねえものはありません――それに、わしはあなたさまのようなご身分の方の前では口のききかたも知らねえ、がさつな人間でごぜえますから、お許し願いてえのですが――あなたさまの父御《ててご》は軍閥だというので憎まれていますだし、伯父さまがたも、やはり好かれてはいましねえだからね」
老人はそこで言葉を切り、あたりを見まわしていたが、今度は元の耳もとに口をよせてきて小さな声で言った。「この土地のものたちに、ひどく憎まれたで、上の伯父さまも奥方さまも、恐ろしくなって、外国の軍隊が守ってくれる海岸の町で暮らすために、子供さんがたを連れて行っておしまいになったし、下の伯父さまが小作料を集めにいらっしゃるときは、町で雇った兵隊を連れていらっしゃるような始末でごぜえますだよ! ご時勢が悪くて、土地のものは戦争や税金にすっかりまいってしまって、もうやけになっておりますだ。あなたさま、わしらはもう税金を十年分も前払いしていますだよ。ここは、あなたさまが身をかくしなさるには、いい場所ではごぜえましねえだ」
そして老婆も、ひびだらけの節くれだった両手を、つぎはぎだらけの青木綿の前掛けでつつみ、泣き声で言った。「まったく身をかくしなさるには、いいところじゃごぜえましねえだよ、あなたさま」
こうして老夫婦は疑わしそうに、そして熱心に、彼がこの家から立ち去ってくれるように願いながら立っていた。
しかし元はふたりの言うことを信じなかった。彼は自由の身になったことがうれしく、目にうつるものすべてが気に入り、あかるく輝く陽光に心がはずんでいたので、どんなことがあってもここで暮らしたいと思い、楽しさを顔にあらわして微笑し、だだっ子みたいに叫んだ。
「それでもいいよ。ぼくはここに落ちつく! 何も、おまえたちが心配することはないさ。おまえたちの食べるものを食べさせてくれればいい。まあ、しばらくのあいだ、ここで暮らすことにするよ」
彼は、なんの飾りもない部屋に腰をおろし、壁に立てかけた鍬《くわ》や犂《すき》、やはり糸につないで壁につるしてある赤い唐がらし、一、二羽の鶏といっしょにたばねた玉ネギなどを見まわし、何もかもが気に入った。すべてが彼には珍しかったのである。
急に彼は空腹を感じ、老夫婦の食べていた、ニンニクを包みこんだ餅が、いかにもうまそうに思えた。「ぼくはおなかがすいた。何か食べさせてくれないか、おばさん」
これを聞くと、老婆は叫んだ。「でも、あなたさまのようなご身分のお方のお口に合うようなものは、何もごぜえましねえ。鶏が四羽おりますで、何よりもそれをまず一羽つぶしますだが――こんなまずい餅しかごぜえましねえ。それも小麦粉でこしらえたのじゃねえですだよ」
「それが食べたいんだ――大好きなんだ!」元は心からそう言った。「ここにあるものは、ぼくは、なんでも好きなんだ」
そこで老婆は、やっとのこと、それもまだ半信半疑のていで、ニンニクの茎のぐるりに餅をうすくのばして巻いたのを持ってきた。しかし、それでは気がすまず、秋に塩漬《しおづけ》にしてたくわえておいた魚をさがし出してきて、もてなすつもりでそれに添えた。彼はそれをすっかり平らげた。彼にとっては上等の食事であった。これまで食べたどんな食事よりもおいしかった。なぜなら彼は、なんの気がねもなく食べたからである。
食べてしまうと、それまで気がつかなかった疲れが急に出てきた。彼は立ちあがってたずねた。「寝台はどこかね。しばらく眠りたいのだが」
老人が答えた。「ふだん使ってない部屋が一つありますだ。あなたさまのおじいさまが、昔住んでおられただが、その後は第三夫人の梨華《リホワ》さまが住んでおいでになった部屋ですだ。梨華さまは、わしらみんなから好かれた夫人でな、とても清らかな、美しい方で、とうとう尼さんになられただよ。その部屋に寝台がごぜえますだから、そこでお休みなせえまし」
そう言って老人は横の壁の木の扉を押した。見るとそれは、せまくて、暗くて、窓といえば小さい四角な孔《あな》だけで、その孔には白い紙がはってある、静かな、がらんとした部屋であった。彼は、その部屋へはいって扉を閉めると、これまではいつもだれかに見張られている生活であったが、いまはじめてほんとにひとりで眠れるのだという気がした。そして孤独とは彼にとってありがたいものであった。
しかも、この薄暗い、四方を土の壁でかこまれている部屋のなかに立ったとき、一瞬、いまだにこのなかには、あるたくましい古い生活がつづいているような奇妙な唐突な感じにうたれた。彼は、いぶかしそうに周囲を見まわした。麻のカーテンをかけた寝台、白木《しらき》のテーブルと腰掛け、多くの足がくぼみをつけ踏みかためた寝台と扉のそばの土間など、それはいままでに見たこともないほど質素な部屋であった。自分よりほかにはだれもいないのだが、彼は近くに、自分には理解しがたい、大地に根ざしたたくましい魂を感じた……と思うと、それは消えてしまった。急に、彼は他の生命を感じなくなり、ふたたびひとりきりになった。彼は微笑し、とても気持ちよく疲れているから眠らなければならない、と思った。目がひとりでにふさがるのである。彼は大きな幅の広い田舎式の寝台に近づき、とばりを開いて身を投げ出し、内側の壁によせてたたんであった青い花模様の古ぶとんにくるまった。横になったと思うと、もう眠っていた。そして、昔ながらの家の深い静寂のなかで、身と心を休めたのであった。
やっと目をさましたときには、もう夜になっていた。彼は暗闇のなかで身を起こし、とばりをさっとあけて、部屋のなかに目をやった。壁に四角に切った孔からさしこむ弱い光もなく、どこを見ても、やわらかい、物音一つしない暗黒のみであった。目をさましてみると、自分ひとりなので、これまで経験したこともないほどやすらかな気持ちで、彼はまた横になった。彼が目をさますのを待っている召使が近くにいないことまでが、彼には気持ちよかった。いまのところ、すみずみまでしみわたっているこの静寂以外、何も考えたくなかった。物音一つ聞こえなかった。眠ったまま寝がえりをうつ粗野な衛兵の寝言も、石敷きの中庭にひびく馬蹄《ばてい》の音も、いきなり鞘《さや》から引き抜かれる長剣の金属性の音も聞こえなかった。ただ、いとも甘美な静寂があるばかりだった。
ところが、ふいに物音が聞こえた。静寂をやぶって中の部屋で人の動きまわる音と話し声が聞こえてきたのである。元は寝がえりをうって、とばりの隙間から、たてつけのわるい、飾りのない扉のほうへ目をやった。扉がそうっと、すこしずつ開いた。ローソクの光が、そしてその光のなかに人の頭が見えた。それから、その頭がひっこむと、今度は別の頭がのぞきこみ、その下に、もっとたくさんの頭が見えた。そのとき、元が身動きをしたので寝台が音をたてた。すると、たちまち扉は、静かに、すばやく閉じられ、部屋は、ふたたびまっ暗になった。
元はもう眠れなかった。目を開けたまま、横になり、早くも父がこのかくれ家をつきとめて、自分を連れもどすために人をよこしたのだろうか、と考えた。このことに思いあたると、けっして寝台から起きまいと決心した。それでいながら、いまの出来事が気になってたまらず、とてもじっと寝てはいられなかった。そのとき、とつぜん馬のことを思い出した。馬は打穀場の柳の木につないだままで、飼料をやったり世話をしたりするように老人に命じてなかったので、いまでもつないだままになっているにちがいないと思い、彼は起きあがった。というのが、彼は普通の人間よりも、そういうことには、やさしい心を持っていたからである。部屋は、ひどく冷えこんでいたので、羊皮の上着をぴったりとまとい、靴をさがしてはくと、壁伝いに手さぐりで戸口まで行き、扉を開けて出て行った。
灯《ともしび》のついた中の部屋には、老若とりまぜて二十人ばかりの百姓たちがいた。そして、彼の姿を見ると、ひとり立ちふたり立ちして、みんな立ちあがり、じっと彼をみつめた。彼は、驚いて一同を見たが、あの老小作人の顔以外には、知っている顔は、一つもなかった。やがて、一同のうちでも、もっとも年長の、もっとも温和な顔をした、青い服の百姓が、進み出た。昔ながらの田舎風に、まだ白髪を弁髪《べんぱつ》にして背中にたらしていた。その男は、おじぎをして、元に向かって言った。「この村の年寄りどもが、あなたさまにごあいさつにまいりましただ」
元は、かるく会釈し、一同にも席につくように言い、自分も、彼のためにあけてある白木《しらき》のテーブルの一ばんの上席についた。待っていると、やがてさっきの老人が口を開いた。「お父上は、いつおいでになるのでごぜえましょうか」
元は簡単に答えた。「父はこないよ。ぼくは、しばらくひとりで暮らしたいと思ってきたのだ」
これ聞くと一同は、青い顔をして、たがいに目を見あわせた。そして、例の老人が、また一つ咳《せき》ばらいをして口を開いた。この老人が一同の代表者であることがわかった。
「この村のものは貧乏人ばかりでごぜえまして、それにもう、しぼられるだけしぼられていますだ。あなたの一ばん上の伯父御さまは、遠い海岸の町で暮らすようになってからというもの、それまでよりもっと金使いがあらくなって、わしらは手にあまるような小作料を、無理やり取り立てられておりますだ。軍閥にも税を払わねばならねえし、匪賊よけにも金を出さねばならねえし、わしらは暮らすだけのものもねえ始末ですだ。それでも、金額を言ってくだされば、なんとか工面《くめん》して払いますだで、どうか、どこかほかのところへおいでになって、これ以上わしらをいじめねえでくだせえまし」
元は驚いて周囲を見まわし、鋭い声で言った。「おじいさんの家へきたというのに、そんな話しか聞けないとは、じつに意外だ。ぼくは、おまえたちから金をとるつもりはぜんぜんない」それから、ちょっと間をおいて、一同の正直そうな、だが腑《ふ》に落ちないような顔つきを見ながら、つづけて言った。「おまえたちを信じて、ほんとのことを話すのが一ばんいいかもしれない。いま南方に革命が起こっているのだが、それは北方の軍閥に反抗して起こったものなのだ。しかし、父の子であるぼくとしては、父に向かって武器をとるわけにはいかない。たとい戦友といっしょにやるとしても、そんなことができるものではない。そこで、ぼくは夜昼かまわず脱走して、護衛兵といっしょに家へ帰ってきてしまった。すると父は、ぼくの軍服を見て怒った。とうとうぼくと父はけんかをしたのだ。それに、革命軍の隊長も、ぼくのことを非常に怒っているから、さがし出してこっそり殺すかもしれない。そこで、ぼくは、しばらく身をかくしたほうがいいと思って、ここへきたのだ」
ここまで言うと、元は言葉をきって、周囲のまじめくさった顔を見まわしたが、ふたたび口を開いて、ひどく熱心に話しはじめた。というのは、彼は一同を納得させようと一生けんめいだったし、また彼らのうたぐり深さに、すこし腹を立ててもいたからである。
「とはいうものの、ぼくは身をかくすためだけにきたのじゃない。この土地の静けさに強いあこがれを持っていたからなのだ。父は、ぼくを軍人に育てたが、ぼくは血だの人殺しだの銃のにおいだの軍隊の騒がしさだの、そういうものがきらいなのだ。昔、子供のころ、父に連れられてこの家にきて、女の人と妙なふたりの子供に会ったことがあるが、そのときでさえ、その人たちがうらやましくて、軍官学校で戦友と暮らしているあいだも、ここのことを思い出し、いつか行ってみたいと思っていたのだ。めいめいこの村に家庭を持っているおまえたちのことが、ぼくはうらやましい」
これを聞くと、一同は、また顔を見あわせた。自分たちのような暮らしをうらやむものがあろうとは、理解もできないし、信じられもしないことだった。彼らにとって生活はそれほど苦しかったのだ。熱心に、執拗《しつよう》に、あけすけな態度で話しているこの青年にたいする彼らの疑惑は、いっそう強くなるばかりであった。なぜなら、この若者は土の家が好きだと言うからである。彼がこれまで、どんなぜいたくな暮らしをしてきたか、それは想像にかたくない。なぜなら、彼の従兄弟《いとこ》たち、伯父たちが、どんな暮らしをしているか、彼らはよく知っているからだ。ひとりの伯父は遠い都会で王侯《おうこう》のような生活をしているし、いまは彼らの地主になっている商人の王は高利貸しをして、途方もない富豪になっている。このふたりを、彼らは、その財産はうらやみながらも、みんな憎んでいた。だから心のなかで、この若者もうそをついているのだと思い、憎悪と恐怖の目で見ていた。なぜなら、このひろい世界に、大きな屋敷に住める身分でありながら土の家に住みたいというような人間がいようとは、彼らには信じられなかったからである。
一同は席を立った。元も立ちあがったが、こんな場合席を立つのは、少数の長上にたいして以外、ふだんにはないことなので、その必要があるのかどうか、よくわからなかった。つぎはぎだらけの外衣を着、だぶだぶの色のさめた木綿の服を着ている、こうした百姓たちを、どんなふうに扱ったらよいか見当がつかなかったのだ。しかし、なんとか彼らの機嫌をとっておきたかったので、彼は席を立って、一同がおじぎをすると、一こと二こと儀礼的な言葉をかけた。一同は、その単純な顔に見あやまりようもない不信の色をうかべながら、彼の言葉に答えてから帰って行った。
あとに残ったのは小作人老夫婦だけであった。ふたりは不安げに元を見ていたが、やがて老人が訴えるように言いはじめた。
「あなたさまがここへおいでになったわけを、うちあけて話してくだせえまし。そうすれば、どんな禍《わざわ》いがくるか、わしらに前もってわかりますだで。事情をさぐらせに、あなたさまをよこされたについては、お父上は、いったいどんな戦争をおっぱじめようと考えていなさるのか、教えてくだせえまし。わしら貧乏人を助けてくだせえまし。わしらは神さまや軍閥や金持ちやお役人や、そんな強い悪い連中の言うなりになるよりしかたがねえでごぜえますだ」
元は、彼らの恐怖の原因がわかったので答えた。「ぼくは事情をさぐりにきたのじゃない。父の命令できたのではないのだ――すっかり話したじゃないか、あれはうそではないのだよ」
それでも老夫婦は彼の話を信じることができなかった。老人は、ため息をついて顔をそむけ、老婆は泣き出しそうな顔をして黙って立っていた。元はふたりをどうとり扱っていいかわからず、いらいらとかんしゃくが起こりそうになったとき、ようよう馬のことを思い出してたずねた。「ぼくの馬はどうしたろう――忘れていたが――」
「台所に入れときましただよ」と老人が答えた。「ワラと乾《ほし》大豆を食わせて、池の水を飲ませておきましただ」そして元が礼を言うと、彼は言った。「そんなこと、なんでもねえですよ。あなたさまは、わしの昔のご主人のお孫さまじゃねえだかね」そして、これだけ言うと、とつぜん彼は元の前にひざまずき、大きな声でうめくように言った。「昔は、あなたさまのおじいさまも、この土地で、わしらと同じ百姓をしていましただ――わしらと同じ普通の人間でしただ。この村で、わしらと同じように暮らしていましただ。でも、いつも貧乏で食うものも食いかねているわしらよりは運がよくて――それでも、昔はわしらと同じ百姓だったあのおじいさまに免じて、あなたさまがここへおいでになったわけを、うちあけてはくださらねえだかね」
元は手をとって老人を立たせた。しかし、それはあまりやさしくとはいえなかった。というのは、彼はこうしたうたぐり深さにうんざりしはじめていたし、また、えらい人物の息子として、これまで自分の言葉はいつもそのまま信じられてきたからである。そこで彼は、どなりつけるように言った。
「さっき言ったとおりだ。幾度も同じことをくりかえすのはいやだ! ぼくのために災難が起こるかどうか、やがてはっきりするだろう!」それから老婆に向かって言った。「腹がすいたから、食べるものと、上等の酒があったら持ってきてくれ」
老夫婦は黙々と給仕をし、そして彼は食べた。しかし、朝食べたときほど、うまいとは感じなかった。すぐに満腹したので、やがて、それ以上口をきかずに立ちあがり、また寝室へ行って、眠ろうと横になった。しばらくのあいだ寝つかれなかった。あの単純な百姓たちに腹が立っていたからだ。(阿呆《あほう》どもが!)と彼は心のなかでどなった。(正直かもしれないが、その上にばかがついている――こんなせまい土地に住んでいるので、何も知らないのだ――まるで世間からしめ出されているのだ――)こんな連中のために戦争をするだけの価値があるのだろうか、とうたぐった。そして、彼らにくらべると自分が非常にかしこいような気がした。自分のほうがかしこいと思うと、いい気持ちになり、暗闇と静寂のなかで、またしても深い眠りに落ちた。
父から発見されるまでの六日間、元はこの土の家で暮らした。そして、その日々は、彼の全生涯のうちでも、もっとも楽しいものであった。何かとたずねにくるものもないし、老夫婦は黙々とかしずいてくれるし、彼は、自分にたいするふたりの疑惑も忘れ、過去も未来も考えず、ただその日その日のことだけを考えて暮らした。どこの町へも行かず、大きな屋敷に住んでいる伯父のところさえ、一度も訪《たず》ねなかった。毎晩暗くなると眠り、毎朝早く、さえきった冬の陽光のなかに起きいで、食事もすまないうちに、戸口から、冬麦でかすかに青みをおびている畑をながめた。眼前には、大地がはるか向こうまで坦々《たんたん》とひろがり、その坦々たるなかに、藍《あい》色のしみみたいなものが点々と見えた。それは、まもなくおとずれる春のために畑のしたくをしている男女や、畦路《あぜみち》を通ってほかの村や町へ行き来している人の姿だった。それから、毎朝彼は詩のことを考えた。そして砂岩を彫ったように、雲一つない青空を背景にそびえている遠山の美しさを、一つ一つ心にきざみつけ、はじめて祖国の美を理解した。
子供時代を通じて、元は軍事教官が「わが国」「われらが国土」という二つの言葉を用いるのを耳にしたことがあった。ときには元に向かって、ひどく熱心に、「あなたの国」と言ったこともある。しかし、そういう言葉を聞いても、元は胸がおどるように感じたことはなかった。それは、じつをいえば、元が将軍公署で父とともに非常にせまい隔離された生活をしていたからである。兵隊たちが騒いだり食べたり眠ったりする兵営にも、ほとんど行ったことがなかったし、王虎将軍が出征するときでさえ、元は中年のおとなしい特別護衛兵にかこまれて暮らしていたのである。その護衛兵たちは、若主人の近くでは静粛にしているよう、くだらぬ、みだらな話などしてはならぬ、と厳命されていたのであった。こんなふうにして、元と外界とのあいだには、つねに兵隊が身近に立ちふさがっていたのだ。
いまの彼は、毎日見たいものが見られた。そして彼が見ようと思えば見ることのできる周囲のものとのあいだにも、何もじゃまがなかった。彼は天と地が接するところまで、さえぎられるものもなく見ることができた。はるか西のほうに、青磁色の空に向かって黒く鋸歯《のこぎりば》型にそびえる町の城壁を見ることもできたし、大地の上の遠近のこんもりした森の部落を見ることもできた。こうして毎日心ゆくばかり遠く自由にながめたり、大地を歩いたり、馬を走らせたりしていると、いまはじめて、「国」というものがどんなものか、わかったような気がした。あの畑、この大地、この空そのもの、あのうす青い美しい裸の山、こうしたものが自分の国なのだ。
ところが奇妙なことが起こった。元は馬に乗ることすらやめてしまった。なぜかというと、それが自分を大地からもぎはなすような気がしたからである。はじめのうち彼はよく馬に乗った。これまでも、いつも馬に乗っていたし、彼にとって馬に乗ることは自分の二本の足を使うことと同様だったからである。ところが、いまはどこへ行っても、百姓たちがじろじろながめる。彼を知らない連中だと、きまって、たがいに話しあう。
「あれはたしかに軍馬だぞ。まっとうな荷物を運んだ代物じゃねえ」そして、二、三日もすると、自分に関するうわさがひろまり、百姓たちが言っているのが、彼の耳にも聞こえてきた。「王虎将軍の息子がきて、大きな馬をどこでも乗りまわし、あの一族の連中らしく、いばりくさっている。なんのためにきたのかな。きっとおやじのかわりに土地を見まわり、作物をしらべ、戦争の費用をつくるために、わしらにまた新しい税金をかけようともくろんでいるにちがいねえだ」元がそばを通ると、彼らは、きまってしぶい顔つきで彼を見、それから顔をそらし、土の上に唾《つば》をはく。
はじめのうち、こうして軽蔑をこめて唾をはくのを見ると、元は腹も立ったし、驚きもした。父よりほかにこわいものはなかったし、また自分の命令に一刻も早く従おうとする召使に慣れていた彼にとって、こんな扱いを受けるのは、はじめてだったからである。しかし、しばらくすると、なぜこんなことになったのか、この農民たちがいかに圧迫されてきたかを考えた。それは、軍官学校でそう教えられてきたからで、それを考えると、気分もなおり、百姓たちに気がすむまで唾をはかせることにした。
そこで彼は馬を柳の木につないだままにして歩きまわった。はじめは、自分の足を使うのはちょっとつらかったが、一日二日もすると、歩くのにも慣れた。ふだんはいている皮靴をやめ、農夫のはくわらじをはいたが、足の裏に、何カ月もつづく冬の日照りに(乾《かわ》乾ききった畦路《あぜみち》や道路のかたい大地を感じるのは気持ちよかった。人とすれちがったとき、自分がのろわれ恐れられている軍閥の将軍の子としてではなく、見知らぬ他国の人として見られるのもうれしかった。
この数日間に、元は、いままでにないほど祖国を愛するようになった。そして非常に自由で孤独だったので、詩が形をなし、輝き、すぐにも文字になるように、おのずから心にうかびあがってきた。言葉をさがす必要など、ほとんどなく、ただ自分のなかにあるものを書けば事たりた。土の家には帳簿も紙もなく、ただ古筆が一本あるだけであった。たぶん、昔祖父が土地売買の証文に名まえを書きしるしたものであろう。それでもその筆はまだ使えたので、それと、見つけ出した墨のかけらで、元は中央の部屋の白壁に、自作の詩を書きつけた。
小作人の老夫婦は魔法で書かれる読めない字を、なかば賛嘆、なかば恐怖の目でながめた。元はいま、静かな池の面をなでる柳とか、空にただよう雲とか、銀色の雨とか、散る花とか、そんな題材ばかりでなく、新しい詩をつくったのであった。それは彼の内部の奥深いところからわき出てくるもので、彼は自分の国土と、それにたいして自然と出てくる新しい愛情を詠《よ》もうとしたのであった。だから、そうすらすらとはつくれなかった。かつての彼の詩は心の表面にうかぶ美しい泡《あわ》のように、きれいではあるが空虚な形だけのものだった。しかし新しい詩は、そうきれいではないが、彼が戦ってきたもの、よくはわからないながら、格調もあらく、平仄《ひょうそく》もあわないままにうかんでくる、ある内容に満ちていた。
こうして日々は過ぎ、元は、あふれるような偉大な思想をいだいて、ひとり暮らした。将来はどうなるか、彼にもわからなかった。将来をはっきりさせるようなことは、彼の心には、はっきりした形としてうかんではこなかった。いまの彼は、光そのものが青く見え、紺青《こんじょう》の空から降り注ぐ雲の影もない陽光のなかに輝いている、この北国のきびしく明るい美しさのなかで呼吸することに満足していた。
彼は小さな村の通りで、人々が話しあう声に聞き入った。路傍の飯店の人々の仲間にはいり、ほとんど自分は口をきかず、よくはわからないが耳や心にこころよくひびく言葉に耳を傾けた。そこには戦争の話などはなかった。どんな息子が生まれたとか、どこの土地が売られたとか買われたとか、値段はいくらだったとか、どこそこの男が、あるいは女が、結婚したとか、どんな種子をまけばいいとか、ただそんな平凡な普通のことを話しあう村のうわさ話だけしかない平穏さのなかで、やすらぎを得た。
こうしたことの楽しさは日ごとに強くなり、それがあまり強くなると、一編の詩が心にうかんできた。筆をとって書くと、しばらくのあいだは心がやすまった。もっとも、ここに不思議なことがあった。それは、自分でもおかしく思うのだが、日々を楽しく感じているにもかかわらず、うかんでくる詩は、いつも明るい詩ではなく、まるで彼のなかにかくれた悲しみの泉ででもあるかのように、深い憂愁の影をおびていて、どうしてこうなるのか、彼にもわからないことであった。
とはいうものの、王虎将軍のひとり息子ともあろうものが、どうしてこのような生活をいつまでもつづけることができよう。いたるところで田舎の農民たちは言っていた。「見慣れない、背たけの高い、色の黒い若者が、まるでばかみたいに、あちこちほっつき歩いている。王虎将軍の息子で王商人の甥《おい》だということだ。だが、あんなえらい人の息子が、ひとりであんなふうにほっつき歩くなんてことがあるだかね。王龍の古い土の家に住んでいるということだが、きっと気がふれたにちげえねえだよ」
このうわさは町に住んでいる王商人の耳にも伝わった。彼は、このことを店の老番頭から聞くと、きびしく言った。「わしに会いにもこないし、たよりもよこさぬところを見ると、もちろんそれは弟の子ではない。それに、弟が大事な息子にそんな勝手なことをさせておくはずがないじゃないか。あすになったら、下男をやって、父の家に住んでいるのが何者か調べさせよう。わしはあの家を兄からあずかっているのだ。あの家に住んでもいいという許しをだれにもあたえたことはない」そして彼は、その男が偽者《にせもの》で、匪賊のスパイかもしれぬと、ひそかに恐れたのであった。
ところが、そのあすという日は、とうとうこなかった。というのは、王虎将軍の兵営にも、そのうわさが伝わっていたからである。その日、元は、いつものように起き、戸口に立って食事をし、お茶をすすり、はるか遠くをながめながら空想にふけっていると、遠くに、人の肩にかつがれた轎《かご》が一つ、それからまた一つつづき、そのまわりを一隊の兵隊がとりかこんで歩いてくるのが目にうつった。そして、その兵隊が父の兵隊であることが軍服でわかった。そこで彼は、急に食物もお茶もほしくなくなくなり、家のなかへはいって、食べものをテーブルの上におき、近づいてくる轎を待ちながら、心のなかで吐き出すような気持ちで考えた。
(たぶん、あれは父だろう――たがいになんと口をきけばいいのだろう?)いつか一度は、かならず父と顔を合わせなければならないこと、そして、いつまで逃げおおせられるものではないことがわかっていなかったら、彼は畑を通って子供のように逃げ出したい気持ちであった。彼は、ひどく乱れた心を抱いて待っていた。昔の子供時代の恐怖を、無理にもふりはらったが、待っているあいだ、ものを食べる気にはなれなかった。
ところが、轎が近づいてきておろされると、出てきたのは父ではなかった。男ではなくて、ふたりの女であった。ひとりは母、そしてもうひとりは母の侍女である。
めったに母に会ったことがないし、またこれまで母が家を出た記憶がないので、元はまったく驚いてしまった。いったい、どうしたのだろうといぶかりながらも、あいさつをするために、ゆっくりと出て行った。母は侍女の腕にもたれて彼のほうへ歩いてきた。白髪で、上品な黒い服を着ていて、歯がすっかり抜けているので頬《ほお》がくぼんでいた。しかし頬には、いまだに美しく赤味がさし、表情は単純で、いくらかあどけなく見えるが、それでもやさしさがあふれていた。息子の姿を見ると、母は、田舎風に気どらずに声をかけた。母は若いじぶんは田舎娘だったのだ。「元や、おとうさまがご病気で、死ぬのも間近いからとおまえに伝えてこいとおっしゃって、わたしをおよこしになったのだよ。死ぬ前にすぐ帰ってさえきてくれれば、好きなようにさせてやる、とおっしゃるのだよ。怒ってはいないから、帰ってきてさえくれればいいと言えと、そうおっしゃるのだよ」
彼女はこれを大きな声でだれにでも聞こえるように言った。事実そのときには村人たちが何か新しいことを見たり聞いたりしようというので集まっていたのである。しかし元の目には彼らの姿は見えなかった。いま聞いたことで、彼はそれほど混乱していたのである。この何日かで、彼はこの家は離れまいと、かたく決心していたのであるが、父がほんとに死にかかっているとすれば、どうしてこれをことわることができよう。だが、ほんとだろうか。ふとそのとき、父が酒に慰めを得ようと手をのばしたとき、その手がふるえていたのを思い出し、あるいはほんとかもしれないと思い、それならば、息子たるものが、なんであろうと父の言葉をいなむわけにはいかない、と思った。
そこへもってきて、侍女は元の疑惑をみてとると、ご主人を助けるのが自分のつとめだと思い、また村人たちに自分のえらさを示そうとして、あちこち見やりながら、大きな声で言った。「おお、若将軍さま、ほんとでございますよ。わたくしたちもお医者さまも、みんな気ちがいのようになっているのでございます。老将軍さまのご寿命も、ながいことはございませんから、もし生きておいでになるうちにお会いになりたいとおぼしめしたら、すぐお帰りにならないと間にあいません。誓って申しますが、老将軍さまのご寿命は、ながくはございませんよ――もしそれがうそだったら、わたくしは死んでお目にかけます!」
村人たちはみなこの言葉をむさぼるように聞き、王虎将軍が近いうちに死ぬと聞いて、意味ありげに目を見かわしていた。
しかし、それでもなお元は、このふたりの女をうたぐった。なんとかして彼を連れもどそうとする熱意が、ただごとならず底にかくされているのを感じ、いっそう疑いが強まるのであった。侍女は、彼がなおも疑いをはらさないのをみると、彼の前に身を投げ出し、打穀場の固い土間に頭をうちつけ、つくり泣きをしながら、大きな声で言った。「お母上さまをごらんなさいまし、若将軍さま――奴隷ではございますが、このわたくしをごらんなさいまし――わたくしたちが、どんなに心からお願いしておりますことか――」
こんなことを一、二度すると、彼女は立ちあがって、灰色の木綿の服についた塵《ちり》をはらい、口をぽかんと開けてながめている村人たちのほうへ、見下すような視線を投げた。これでつとめをはたしたので、誇り高い名門の家の、誇り高い召使だから、ここらあたりの土百姓とは格がちがうといわんばかりのようすで、わきへ寄って立っていた。
しかし、元は侍女には目もくれなかった。彼は母のほうをふり返り、いかにいやであろうと子としての義務だけは果たさなければならないとわかっていたので、母に家のなかへはいって腰をおろすようにと言った。母は招じられるままに家のなかへはいった。村人たちも、あとからついてきた。そして、見たり聞いたりするために戸口からはいりこんだ。しかし、身分の高い人を見たがる平民どもには慣れているので、母は彼らのことなど気にもかけなかった。
彼女は中の部屋を珍しそうにながめてから言った。「この家へきたのは、わたしは、はじめてです。王龍さんが金持ちになったことや、茶館の女を家へ入れたことや、しばらくのあいだその女の言いなりになっていたということなど、子供のころ、よくそんな話を聞かされたものです。その女がどんな顔をしているかとか、どんなものを食べたり着たりしているかとか、そんな話が、このあたり一帯で、口から口へと大評判で語り伝えられたものです。もっとも、わたしがほんの子供だったころ、王龍さんはもう老人だったから、当時でさえ、昔語りだったけれどね。いまでもおぼえているが、王龍さんは、その女にルビイを買ってやるために地所を売ったといううわささえありましたよ。でも、あとで買いもどしたということです。その女には、わたしは自分の結婚式の日に一度会っただけですがね。それに――うちのおかあさんときたら!――亡《な》くなる前は、ひどくふとって、ふた目と見られないかっこうでね! ふっふ――」
彼女は歯のない口で笑って、愛想よくあたりを見まわした。母がこだわりなく正直に話しているのを見ると、ほんとのことをきき出す勇気が出てきて、彼は率直にたずねた。「おかあさん、ほんとにおとうさんはご病気なのですか」
そう言われて母は自分の目的を思い出し、歯のない歯ぐきのあいだから、すうすうと息をもらしながら言った。ものを言うときには、かならずこんな音が出るのである。
「おとうさんは、ほんとにご病気なのです。どのくらいお悪いのかわからないけれど、寝床に寝ようとはなさらず、広間の椅子に腰をおろして、酒ばかり飲んでいます。なんにも食べないで、マクワウリみたいに真黄色になっておいでだよ。あんな黄いろい顔は見たことがない。それに大きな声でどなるものだから、だれひとりそばへ行って声をかけるものもないのです。そのどなり方といったら、これまでもすごかったけど、あれよりもっとすごいのです。あんなになんにも食べないでは、どう見ても、ながくは生きられまいと思いますよ」
「ええ、ええ、ほんとでございますよ――なんにもおあがりにならないのですから、ながくはございませんよ」と侍女も同じように言った。彼女は夫人の椅子のそばに立って、首をふり、自分の言葉に憂鬱なよろこびを感じていた。それからふたりの女はいっしょにため息をつき、まじめくさった顔をして、そっと元のほうをうかがった。
元は、いらいらしながら、ちょっと考えてから口を開いた。というのは、まだ疑いが残っていたし、それに父の言葉を思い出して、女というものは、みなばかだとは思ったものの、父の病気がそんなにひどいのが事実なら、けっきょくは行かなければなるまいと思っていたからである。
「それでは帰ります。でも、おかあさん、あなたはお疲れでしょうから、一日二日ここで休んでからお帰りになったらいかがですか」
そこで彼は、母を休息させるために、なにくれと世話し、いまでは自分のもののように思えて別れるにしのびない気がするあの部屋へ母を案内して、そして、母が食事をすませると、楽しく美しかった日々の思い出を心から追いはらい、ふたたび馬に乗って、馬首を父のいる北の方へ向けた。しかし、またしても、あのふたりの女の話があやしく思われてきた。なぜなら、彼が帰るのを見て、彼女らが、あまりはしゃぎすぎているからだ。一家の主人が病気だというにしては、あまりはしゃぎすぎるような気がしたのである。
彼のあとには父の兵隊が二十人ばかりつき従っていた。彼らが、なにかみだらなことを言っていっしょにどっと笑うのを聞くと、彼は、もうがまんができなくなり、自分の馬のすぐうしろに耳慣れない彼らの馬蹄の音を聞くのが不愉快で、腹立たしげにふり返ってにらみつけた。しかし、なぜうしろからついてくるのかと、はげしい調子でたずねると、彼らは、びくともせずに答えるのであった。「こんな機会をねらって、身代金を要求するために敵が若将軍を捕えたり、どうかすると殺したりするかもしれませんから、そんなことのないように、おそばを離れないようにという命令を受けているのです。このあたりには匪賊がたくさんいますし、若さまは老将軍のただひとりの大事なご子息でございますからね」
元は、なんとも答えなかった。彼はうなって、断固として馬首を北に向けた。自由を思うなどとは、なんというばかだったろう。自分は父のひとり息子ではないか。ひとり息子である以上、すべては絶望ではないか。
彼が通り過ぎるのを見守っている村人や農民のなかで、彼が立ち去るのを見てよろこばないものはひとりとしていなかった。なぜなら、彼のことをぜんぜん理解も信じもしていなかったからだ。彼が帰らなければならない羽目になったことを彼らが非常によろこんでいるのが元にもわかり、この光景は、この幾日かの自由な日々のよろこびのなかに黒い汚点として残った。
こうして元は心にもなく護衛兵を従えて父の将軍公署の門まで馬を乗りつけた。護衛兵は道中かたときも彼から離れなかったが、彼らが元の身辺を護衛するのは、匪賊のためではなく、彼がどこかへ逃げ出しはしないかと警戒するためであるのが彼にはすぐにわかった。「ぼくのことは心配しないでいい――自分の父親から逃げ出すと思うのか――ぼくは自分からすすんで父のところへ帰るのだぞ!」と、彼は幾度も口まで出かかった。
しかし彼は、何も言わなかった。軽蔑をこめ、黙って見やるだけで、言葉をかけようともせず、馬をできるだけ速く走らせ、乗馬の脚の早さに誇らかなよろこびを感じた。護衛兵の普通の馬とは、まるでくらべものにならなかった。だから、彼について行くには、彼らは自分たちの馬をあわれなほど鞭《むち》打たねばならなかった。それでいながら、いくら走ったところで自分が囚人であることを彼は知っていた。詩もうかんでこないし、美しい風景も目にうつらなかった。
こうした強行軍の二日目の夜、彼は父の家に着いた。馬から降りると、急に心の底まで疲れをおぼえ、父がいつも寝る部屋のほうへ、ゆっくりと歩いて行った。兵隊や召使どもが、そっとうかがっているのには目もくれず、会釈もしなかった。
ところが、もう日が暮れているのに、父は寝室にはいなかった。ぶらぶらしている衛兵にたずねると、「将軍は広間のほうにおいでになります」と答えた。
これを聞くと、元はすこし腹が立ってきた。いずれにしろ、父の病気は、そうひどくはなく、自分を家に連れもどす策略にすぎなかったのだ、とひそかに思った。そして、父を恐れずともすむように、そうした策略にたいする怒りを、わざと燃えたたせた。大地に親しんだあの楽しい孤独な日々のことを考えると、父にたいする怒りを新たにすることができた。しかし、広間にはいり、父の姿を見ると、怒りは、いくらかやわらげられた。それが策略ではなかったことを、自分の目で見ることができたからである。父は彫刻した椅子の背に虎の皮を投げかけた上に腰をおろし、火のいっぱいおこった火鉢をかかえていた。毛の深い羊皮の服にくるまり、高い毛皮の帽子をかぶっていながら、それでも父はひどく寒そうにしていた。皮膚は古びた皮のように黄いろく、目は熱のために乾いて黒く落ちくぼみ、剃刀《かみそり》をあてない頬のひげが灰色でざらざらしていた。息子がはいって行くと顔をあげたが、また火鉢へかがみこんで、言葉もかけなかった。
元は進み出て、父の前で頭をさげて言った。「ご病気だということなので帰ってきました」
しかし王虎将軍は低い声で言った。「わしは病気じゃない。そんなことは女どもが言うだけだ」そして彼は息子を見ようともしなかった。
そこで元はたずねた。「ご病気だからといってぼくを呼びもどしたのは、それではおとうさんじゃないんですね」すると王虎将軍は、またつぶやくように言った。「わしは呼びにはやらん。おまえの居所を女どもがたずねるので、わしは『いまいるところにいさせておけ』と言っておいたのだ」彼は火鉢の火をじっとみつめ、たちのぼる熱に手をかざしていた。
こんな言葉を聞いてはだれでも怒るであろうし、親を尊敬しない近ごろの青年なら、なおさらそうであろう。元にしても、心をかたくなにし、ふたたび家を出て、新たな欲望のままに好きなことをすればできたのであるが、老人の手のように血の気もなく、かさかさになった両手をのばして、ふるえながらどことなく温かさを求めている父の姿を見ては、怒りの言葉を口にする気にはなれなかった。心のやさしい子供には、いつかはおとずれる瞬間がやってきたのであろうか、いま元の心には、孤独で暮らした父は、また子供にかえったのだ、どんな気むずかしいことを言っても、怒らずに、やさしく、子供をあやすように扱ってやらねばならないのだ、という思いがわいた。父のこの気弱さが元の怒りを根こそぎにしたので、いつにもなく目頭に涙がにじむのをおぼえ、思いきって手をのばして父にふれたかったが、妙な生来の恥ずかしさが先に立って、それができなかった。そこで、そばの椅子にあさく腰をおろし、父をじっと見守り、黙って辛抱強く、父がまた口を開くのを待った。
しかし、こうした瞬間のため、元は自由を感じた。父にたいする恐怖が永久に消えうせたのを知った。この老人のどなり声、不機嫌な顔、しかめた黒い眉《まゆ》など、王虎将軍が人を恐れさせるために使う術策を、もはや元は恐ろしいとは思わなかった。なぜならば、元は真実を、つまりこうした術策は父が使う武器にすぎないことを見抜いたからだった。父は自分では意識していなかったが、楯《たて》として、あるいは人が剣をとり、相手を斬るつもりはなくてふりまわすように、そうした術策をふりまわしてきたのであった。こんなふうに、この術策が、しんじつ軍閥の巨頭になるだけの無情さも冷酷さも陽気さもない王虎将軍の心に仮面をつけていたのである。この瞬間それがはっきりとわかったので、元は父をながめ、恐怖を感ずることなく愛するようになりはじめた。
しかし、王虎将軍は息子の心にこれだけの変化があったとは知る由《よし》もなく、無言のまま、息子がそこにいるのは忘れたようなふうをして、物思いにふけっていた。彼は、ながいあいだ身動きもせずにそうしていたが、やがてついに元は、父の顔色が悪いことや、この数日の間に肉がげっそりと落ちて、頬骨が岩のように突き出たのを見て、やさしく言った。「おとうさん、お休みになるほうがよくはありませんか」
息子の声を聞くと、王虎将軍は病人のように静かに顔をあげ、やつれた目を息子の上にすえ、ちょっとみつめていたが、しばらくすると、しわがれた声で、一語一語、ゆっくりと言った。「おまえのために、殺してもいいやつを、わしは百七十三人助けてやったことがある!」彼は昔よくやったように、右手を口のほうへ持って行こうとしたが、その手は自身の重みでまた下がってしまった。そして、手をだらりと下げたまま、なおも息子をじっとみつめながら言った。「それはほんとなのだ。おまえのために、そいつらを殺さなかった」
「ありがとうございました、おとうさん」と元は言った。その百七十三人のものが助かったと聞くのはうれしかったが、その人たちが助かったことよりも、自分をよろこばせようとする子供っぽい望みを父のなかに見いだしたので、そのほうにもっと感動させられた。「ぼくは人が殺されるのはきらいですよ、おとうさん」
「うん、それはわかっておる。おまえは昔からおとなしい子だったからな」と老将軍は、ものうげに答え、それからまた黙りこくって、火鉢の火をみつめた。
またしても元は、なんとかして父に寝るようにすすめようと思った。というのが、父の顔にあらわれている気分の悪そうな表情や、かわいてだらりとたれたくちびるを見るに堪えられなかったからである。彼は立ち上がって、扉のそばであぐらをかいて船をこいでいる例の腹心のみつ口の男のところへ行き、声をひそめて言った。「おやじをなんとか説きふせて寝床に連れて行けないか」
男は元の声を聞いて目をさまし、驚いて起きあがって、ふらふらしていたが、やがて、しわがれた声で答えた。「わしも、ずいぶんおすすめしたんですよ、若将軍さま。ところが、わしが言ったくらいじゃだめで、夜も寝室においでなさいません。横におなりになっても、一時間ばかりすると起きておいでになって、またこの椅子に腰をかけられるのでな。わしもしかたなく、ここに腰をおろしておりますが、眠くて眠くて、もう死にそうですわい。それでも将軍は、あのとおり、いつでも起きておられますのじゃ」
そこで元は父のところへ行って、なだめるように言った。「おとうさん、ぼくも疲れているのです。ごいっしょに行って一つの寝台で寝ましょう。ぼくだってひどく疲れているんです。ぼくもおとうさんのそばに寝ますから、声をおかけになれば、ぼくがちゃんといることがおわかりになりますよ」
これを聞くと、王虎将軍は起きあがるように、ちょっと身を動かした。しかし、そのままぐったり椅子に腰をおろし、首をふり、起きあがろうともせずに言った。「いや、わしはまだ言わなきゃならんことを、すっかり言っていないのだ。ほかにもまだある――何もかもいっしょには思い出せん――話さなくてはならんことを二つだけ、右の手で数えておいたのだがな。どこかそこいらに腰をかけて、思い出すまで待っていてくれ」
王虎将軍の口のききかたには、昔のままの激しさがこもっていたので、元は子供のころ、こう言われると黙って行って腰をかけた習慣を思い出した。しかも、彼のうちには、父を恐れない新たな気持ちが生まれていたので、彼の心は、感じている義務の観念に反抗して、高く叫んでいた。(おやじといっても、退屈な、わがままな老人にすぎないではないか。それだのに、おれは、ご機嫌をとるために、こんなところで待っていなければならないのか!)元の目は片意地に輝き、心の思いを口に出そうとしたとき、腹心の老人は、それと見てとって、進み出ると、なだめるように言った。
「お父上さまには好きなようにさせときなされませ、若将軍さま、ご病気が悪いのでございますからな。そして、なんとおっしゃっても辛抱なされませ。わしらはみなそうするよりしかたがありませんでな」
そこで元は心にもなく、とはいいながらも、いままで反対などされたことのない父が、時もあろうにこんなとき反対されると、ほんとに病気がひどくなるかもしれぬと思って、椅子に腰をおろした。やがて、前よりいらいらして腰をかけていると、とつぜん、王虎将軍が言いだした。「うん、思い出したぞ。まず第一に、おまえをどこかにかくまわなきゃならん。おまえがきのう帰ってきて話したことを忘れちゃおらん。わしの敵から、おまえをかくまわねばならん」
これを聞いて、元は思わず叫んだ。「でも、おとうさん、それはきのうのことじゃありませんよ――」
すると、王虎将軍は昔のとおりの腹立たしそうな視線で、ぐっと息子をにらみつけ、ひからびたこぶしをたたいてどなった。「自分の言うことぐらい自分でもわかっておる。おまえが帰ってきたのが、なんできのうじゃないというのだ。げんにきのう帰ってきたじゃないか!」
ここでまたもや、みつ口の老人が王虎将軍と息子との間にはいり、訴えるように言った。「まあ、まあ――そうにしておきなされ――きのうですわい!」元は不機嫌な顔になり、黙っているよりしかたがないので、頭をたれた。それというのが、妙なことだが、父にたいして感じた最初の憐みが、さっと吹き過ぎる微風のように胸を吹き過ぎてしまい、父が投げた昔のような怒りの目が、憐みよりももっと深いある感情を元のうちにかき立てたからである。憤りがわきおこり、二度とこわがるものか、しかし、こわがらないでいるには、あくまで自分の我を通さなければならぬと自分に言い聞かせた。
一方、父のほうも昔から我が強いので、なかなかすぐには口を開かなかった。父が話をしているときに、息子の分際で口をはさむなどとは、けしからんことだと考え、必要以上にながくおし黙っていた。しかし、じつをいうと王虎将軍は、言いたくないことを言わなければならないので、なかなか口を開かないのだった。こうしているうちに、父にたいする元の怒りが、いままでにないほど強くなってきた。彼はこの男から頭ごなしに沈黙させられた昔のことを思い出した。そんなことは大きらいなのに、武器をとって過ごしたあらゆるときのことを、そして、せっかく自由な日々を暮らしていたのに、またしてもそれを中断させられたことを思い出し、急に彼は父に我慢できなくなってきた。元の肉体そのものが、この老人のそばにいることを嫌悪し、からだも洗わねば、ひげもそっていないことのゆえに、酒や食物を着物の上にこぼしていることのゆえに、とつぜん、父がいとわしく感じられた。父には愛せるようなところは、何一つなかった。すくなくとも、いまのこの瞬間には。
王将軍は息子の胸にこれほどの嫌悪が燃えているとは夢にも知らず、いままで心につかえていたことを、ついに口に出したが、それはつぎのことであった。「だが、おまえはわしのただひとりの大事な息子なのだ。おまえのからだを除いて、わしにはなんの望みもない。おかあさんも一度だけ賢いことを言ったことがある。わしのところへきて言うのだ。『元が結婚しなかったら、どこから孫が生まれてきますか』とな。そこでわしは言ったのだ。『どこからかりっぱな元気のいい娘を探してこい。からだが丈夫で、早く子供を生む女なら、ほかのことはどうだってかまわん。女というものは似たりよったりのもので、どれがどうということはないからな。そんな娘をひっぱってきて、元と結婚させろ。それから、この戦争が終わるまで、どこか外国へ行って姿をかくしていればいい。そうすれば種子は残るというものだ』とな」
王将軍はこれを非常に慎重に言った。言葉も一つ一つ前から考えたものを使い、手もとから離す前に息子にたいしてこれだけの義務は果たそうと、疲れきった脳をしぼったのであった。これはりっぱな父親なら当然なすべきことにすぎないのであって、どこの息子でも道理として承認しなければならないことなのである。なぜならば、息子というものは両親のために選ばれた妻なら文句を言わず結婚し、子供を生ませるのが当然だからであって、それから後は、どこで好きな女をつくろうと勝手なのである。しかし、元はそんなふうな息子ではなかった。彼は新時代に毒され、自分でもわからない自由にたいし、ひそかに執拗なあこがれを持ち、女にたいしては父親ゆずりの憎悪をいだいていて、一方にはこの憎悪、一方にはその執拗さのために、彼はいま、あらゆる怒りが爆発しそうになった。このときの彼の怒りは、せきとめられた洪水に似ていた。全生命がその最大の危機にまで集中されたのである。
最初、父がこんなことを本気で言ったとは、元には信じられなかった。なぜならば、この年になるまで、王将軍は女のことを、ただばかだとか、ばかでなければ裏切り者で信用できないものだとか言っていたのを、いつも聞かされてきたからである。ところが、いまはっきりとそう言われたのだし、王虎将軍はじっと腰をおろして、相変わらず火鉢の火をみつめているのだ。いまになってみると、元には母と待女とが彼を家に連れて帰ることをひそかに一生けんめいに願っていたこと、そして彼が帰る決心をすると非常によろこんだ理由がとつぜんはっきりとわかった。ああいう女たちは嫁だとか結婚だとかいうこと以外は、何も考えないからである。
なるほどそうか、だが、女たちの思うとおりになるものか、と元は心に言った。彼はすっくと立ちあがり、それまで父を恐れ愛していたことも忘れて叫んだ。「ぼくはこのことを予期していました――そうです、軍官学校の友だちから、無理やりに結婚させられた話を聞いたとき――そして、多くはそのために家をとび出してきたのです――ぼくは自分の幸運をいつも信じきれないでいたものでした――ところが、おとうさんも世間の人たちと同じです。昔の人たちは、ぼくたちを永久にしばりつけようとしている――ぼくたちの肉体を通じてしばりつけようとする――あなたたちが選んだ女に、無理に結婚させる――子供にしばりつける――いや、ぼくは、しばられるのはいやです――自分の人生をおとうさんたちの人生に結びつけるため、自分の肉体をそんなふうには使いたくありません――おとうさんなんか大きらいです――ぼくは昔からおとうさんを憎んでいました――憎んでいることを、自分でもはっきり知っています――」
元の全身から奔流《ほんりゅう》のような憎悪がほとばしり出て、彼は、はげしく泣きじゃくりはじめた。こうした怒りにびっくりした例のみつ口の老人は、かけよって元の腰に手をまわし、何か言おうとするのだが、みつ口のくちびるがねじれて口がきけなかった。元は、じっとこの男を見たが、彼はすでにわれを忘れていた。それで、いきなり手をふりあげると、こぶしをかためて、その醜い顔をめがけて打ちおろしたので、老人は、ばったりと床に倒れた。
王虎将軍は、よろめきながら立ちあがった。しかし息子のほうへ行ったのではない――まるで息子の言ったことが理解できないように、ぼんやりした目で、元をじっとみつめるだけだった。そして、老僕が倒れたのを見ると、抱き起こそうとした。
しかし、元は身をひるがえすなり逃げ出した。あとがどうなったかふり返りもせず、中庭を駆け抜け、自分の馬が木につないであるのを見ると、外の大門を走り抜け、目をまるくしている兵隊たちを尻目《しりめ》に、馬にとび乗るなり、この家から一散に駆け出し、これで永久におしまいだと心に叫んでいた。
元は気も狂わんばかりの怒りのなかで父の家をとび出した。しかし、この怒りは、その狂熱から冷《さ》めざるをえなかった。でなければ彼は死んでしまったであろう。事実、それは冷めて行った。友人からも父からも縁を切った孤独な青年として、自分に何ができるだろうと彼は考えはじめた。その一日は一日そのものが彼の頭を冷やす役に立った。なぜならば、あの土の家で過ごした日々では、あれほど果てしなくつづくように思われた冬の日が、いまではけっしてそうではなかったからである。
やがて日の光は弱くなり、東からの風が身を切るように冷たく吹き、馬もこの数日の旅に疲れきっているので、とぼとぼと歩いて行く。あたりの風景も、やはり灰色に暮れかかり、元はその灰色のなかに自分が飲みこまれ、冷やされるように感じた。大地の上の人々までが、同じ灰色になった。なぜならば、彼らは生活し労働している大地に非常に似ているので、大地とともに彼らの外観までが変わり、口のきき方や動作まで静かになるからである。日があかあかと照っているところでは、彼らの顔も生き生きし、ときには陽気に見えることもあるが、いまは灰色の空の下で、彼らの目はどんよりとし、くちびるには微笑もうかばず、着ているものもくすんだ色になり、からだの動きはのろのろしていた。ふだん日の光のために生き生きと見える野や山のちょっとしたあざやかな色彩、着物の藍《あい》、子供の赤い服、乙女のクーツの真紅色なども、いまは色あせてしまっていた。
こうしたくすんだ焦《こげ》茶色の土地を馬で行きながら、以前にはなんでこんなものが愛せたのだろうと、元はふしぎに思った。あの村人や、彼らが自分を愛してくれなかったことを思い出さなかったなら、そして、きょう一日行きかった人々が、あまり無愛想に思われたので、苦々しげに(こんな連中のために命を投げ出すのか)と心に叫ばなかったら、元は、あるいは昔の隊長のところにもどり、革命という大義に馳《は》せ参じたかもしれない。まったく、この日は大地そのものさえ、彼には無愛想に見えた。そして、それだけでは足りないとでもいうように、馬がびっこをひきはじめたので、通りかかった小さな町の近くで降りて見ると、馬は石で脚をいため、びっこになって、使いものにならなくなっていた。
元が馬をとめ、かがみこんで馬の蹄《ひずめ》をしらべていると、すさまじい物音が聞こえてきた。目をあげると、もうもうと煙をはき、全速力で汽車がそばを走り過ぎた。しかし、元は線路のすぐそばにいたので、いくら汽車が速くても、乗客の姿は見えた。乗客があたたかそうに、安らかに、そしてあんなに速く走っているのを見て、元はそれがうらやましくなり、自分の馬がばかばかしいほどのろいような気がし、しかもいまでは役に立たなくなったので、心のなかで叫んだ。(町にはいったら、この馬を売って汽車に乗り、遠いところへ行こう――できるだけ遠いところへ――)そう思うと、それはなかなかいい方法のような気がしてきた。
その晩、一軒の宿屋に泊まった。その小さな町のひどくきたない宿屋で、南京虫がはいあがってくるので元は眠ることができず、目をさましたまま横になって、これからさきどうしたらいいかと考えた。金はすこしは持っていた。それというのが、どんなときに金が必要になるかわからないというので、いつも父が腹巻きの金を肌身《はだみ》はなさず持たせていたからである。それに馬を売ることだってできる。しかし、どこへ行き、何をしたらいいか、ながいあいだ考えがきまらなかった。
ところで、元は普通の無教育な青年ではなかった。自分の国の古典にも通じていたし、家庭教師が教えてくれたので、西洋の新しい知識も持っていた。また教師から習って、外国語もじつにうまく話すことができたので、ほかの青年のように無力でも無学でもなかった。そこで彼は宿屋のかたい板の寝台の上で輾転《てんてん》としながら、現在持っている金とみずからの知識で、何をはじめたらいいだろうかと考えた。軍官学校の隊長のところへ帰るほうがいいのではなかろうかと、心のなかで、とつおいつ考えた。帰って、「わたしは後悔しました。また復学させてください」と言えば、それですむのだ。そして、父と縁を切り、父の腹心の男をなぐり倒してきたことを話せば、それで十分なのだ。なぜならば、この革命軍の団体においては、親に反抗することが入団許可証になるのであり、つねに忠誠の証拠と認められているので、若い連中のなかには、男も女も、自分の忠誠を示すために親を殺したものさえあったほどなのだ。
ところが元は、自分がよろこんで迎えられることはわかっていながら、どういうものか革命という大義へもどりたくなかった。
その灰色の一日の記憶が、いまだにうっとうしく心にこびりつき、あのきたない民衆のことを思うと愛する気にならなかった。彼は心のなかでつぶやいた。(おれはいままで楽しみというものを味わったことがない。ほかの青年たちは、すこしは楽しみをしているのに、おれは知りもしない。いままでのおれの一生は、父にたいする義務と、自分にはついてゆけないあの主義とでいっぱいだったのだ)そして、とつぜん、いままで見たことのない生活、陽気な、笑い声に満ちた生活をしたいと思った。急に元には、いままでの自分の生活はきびしくて遊び相手もなかったが、どこかに仕事と同様楽しみもあるにちがいないような気がしてきた。
遊ぶということを思うと、彼の記憶は、ずっと幼いころにさかのぼり、かつていっしょに暮らしたことのある妹が、いつも笑ったり、小さな足であちこち走りまわったりしたことや、妹といっしょにいると自分もよく笑ったことを思い出した。そうだ、妹を探そう。彼女は妹だ、血をわけあっているのだ。彼は父の生活にあまりながいあいだ結びつけられていたので、ほかにも血をわけた人間がいるということを忘れていたのだ。
とつぜん、そうした人たちの姿が、心にうかんだ――彼にはたくさんの親類がいるのだ。伯父の王商人のところへ行ってもいい。一瞬間、あの家に行ったら楽しいだろうと思うと、記憶のなかに朗らかな陽気な顔があらわれた。伯母の顔だ。彼の伯母やいとこたちのことを思った。しかし、それと同時に、いや、父からそんな近いところに行ってはいけない、伯父がきっと父に知らせるだろう、あそこはあまり近すぎる、と考えた。
汽車に乗って、遠いところへ行こう。妹は遠い海岸の都会にいるのだ。しばらくのあいだその都会に住んで、妹にも会い、陽気な環境のなかで楽しみ、また、聞いただけで見たことのない外国の事物をすっかり見たいと思った。
そう思うと気がせいた。夜が明けないうちから、彼は寝床をとび起き、顔を洗うお湯を持ってくるように大声で宿屋の召使を呼び、服をぬぐと、南京虫を追払うためによく打ちふり、召使があらわれると、こんな不潔なところへ泊めたと言ってどなりつけ、一刻も早く立ち去ろうとしたくした。
召使は元がかんしゃくをおこすのを見て、金持ちの息子だと気づいた。なぜならば、貧乏人はそうすぐにはどなりつけたりしないからである。そこで追従《ついしょう》たらたら用事を急いだので、夜が明けるころまでには、元は食事をすまし、売りはらうために赤い馬をひっぱって宿を出た。このあわれな馬を、彼は肉屋で二束三文に売った。一瞬間、元が苦痛を感じたのは事実だった。自分の馬が人間の食べものになると思うと、ちょっといやな気がしたからだが、すぐに彼は、こんなに気が弱くてはいけないと心を鬼にした。もう馬はいらないのだ。自分はもう将軍の息子ではないのだ。自分は独立独歩の王元であり、どこへ行こうと、何をしようと自由な青年なのだ。そして、その日のうちに、彼は海岸の大都会へ彼を運ぶ汽車に乗りこんだ。
王虎将軍の学問のある妻が、その海岸の都会からよこした手紙を父に読んでやったことがあったが、それが元にとっては幸運であった。王将軍は年をとるにつれて物を読むのがおっくうになり、若いころにはりっぱに読めたのだが、老年になると忘れた字が多く、読むのに骨がおれるようになった。年に二度、夫人から手紙がくるのだが、彼女は、すこぶる達者な字を書くので読みにくいのである。そこで元が父にその手紙を読んで聞かせ、説明してやるのであった。いま思いかえしてみると、夫人が、その大都会の、なんというところの、なんという町に住んでいるか、よくおぼえていた。そこで、汽車が川を渡り、湖を一つ二つまわり、多くの山を越え、春麦がもえ出ている肥沃な耕地を通り、一日一晩の後、汽車を降りたとき、元には行くべきところがわかっていた。停車場からあまり近くなかったので、彼は人力車を雇って行くことにした。こうして俥《チェ》に乗って、彼はひとり、灯《ひ》の明るい都の街《まち》を新たな人生へと進んで行ったのだが、行くみちみち、だれひとり自分を知っているものはないと思うと、田舎者のような気やすさであたりを見まわした。
彼はこんな大都会をいままでに見たことがなかった。街の両側の建物は、あまり高いので、まばゆいほど灯火が輝いているにもかかわらず、暗い空のどこかで消えている建物のてっぺんが見えないのである。しかし、そうしたそびえたつ建物の下の、いま元がいる街は明るくて、人々が真昼間のように歩いていた。ここには世界じゅうの人々が集まっていた。というのは、彼らは、あらゆる人種、あらゆる皮膚の色の人々だったからである。彼の目には色の黒いインド人の男女がうつった。女たちは自分の黒い美しさを引きたたせるために、金襴《きんらん》や純白のモスリンや真紅の長衣を着ていた。それから、きびきびした白人の女や、それといっしょに歩いている白人の男の姿を見たが、彼らは、いつも同じような服装をし、みんな鼻が高いので、そうした男たちをながめた元は、白人の女は自分の亭主と他の男とをどうして見わけるのだろうと、ふしぎに思った。それほど彼らは、よく似ていた。ただ、あるものは腹がつき出ていたり、はげ頭だったり、そのほか、そんなふうに美しさに欠けているところがちがうばかりであった。
そうはいっても、大部分の人は彼と同じ人種で、元は、この都会の街々であらゆる種類の同国人を見た。そのなかには金持ちもいた。彼らは大きな自動車を歓楽場の入り口まで乗りつけ、けたたましい警笛を鳴らしながら走ってくるので、元が乗っている人力車の車夫は、昔の王さまのお通りのように、彼らが通り過ぎるまで道ばたによって待っていなければならなかった。金持ちがいるところには貧乏人がいるもので、乞食、不具者、病人などが、みずからの禍いをならべたてて、わずかな施しの銭を得ようとしていた。しかし、金をもらうには、なかなか骨がおれるし、金持ちの財布からもれる銭は、ほんのわずかなバラ銭にすぎない。なぜなら普通金持ちというものは、鼻を上向け、目をそっぽ向けて通って行くものだからである。元は自分も楽しみを求めてはいるのだが、こうした傲慢《ごうまん》な金持ち連中にたいして、ちょっと憎悪を感じ、乞食にすこしは施すのが当然だと思った。
こうした水の流れのような群集のなかを、元は人力車に乗り、まったく人目にもつかず通って行ったが、やがて車夫は息をきらしながら、ある家の門前に車をとめた。それは、ながい壁に切りこまれた門で、通りの両側には、ほかにもたくさん門がつらなっていた。ここが元のめざす家だったので、彼は人力車を降り、約束の金をとり出し、車夫にあたえた。元は、いまさっき金持ちの男や女が乞食の哀願に耳もかさず、彼らがさし出すやせさらばえた手をはらいのけて通るのを見て、義憤を感じたものだった。しかも、いまこの車夫がおずおずとふるえ、走ったあとなので汗を流しながら、元の絹の服や血色のよい顔を見て、「旦那、心づけをすこしはずんでおくんなさい」と言ったとき、彼はぜんぜん同じ気持ちになれなかった。元は自分を金持ちと思っていなかったし、こうした車夫というものは、いくらやっても満足しないということを聞いていたからである。それで彼は強く言った。「約束の賃金は、それだけじゃないか」すると車夫は、ため息をつきながら答えた。「へえ、お約束は、これだけでございます――でも、旦那のやさしいお心におすがりしたいと思いまして――」
しかし元は、その男のことなど心にかけていなかった。門のほうへ行くと、そこにあったベルを押した。車夫は自分が忘れ去られたのを見ると、また一つため息をし、首にまいていた、きたない布きれで、ほてった顔をふき、汗もたちまち凍るようなきびしい夜風にふるえながら、通りをふらふら帰って行った。
下僕が門を開けにきたが、彼は元をあやしそうにみつめて、しばらくのあいだ門のなかに入れようとしなかった。それというのが、この都ではりっぱな服装をした見知らぬ男が、門のベルをならし、自分はこの家に住んでいる人の友人だとか親類だとか称し、招き入れられると、外国製のピストルを出し、強盗、殺人、そのほか思う存分のことをし、ときには仲間がはいってきて力をあわせ、子供や大人をつかまえて連れ去り、身代金を要求するようなことがあったからだ。それで下男は急いでまた門を閉め、元は名をなのったのだが、しばらく門の外に待たされた。
やがて、ふたたび門を開き、今度は大柄な白髪の、濃いスモモ色をした服の、静かな、いかめしい顔の婦人があらわれた。相手が自分を見ているあいだ、元もその婦人をみつめた。やさしそうな、青白い丸顔で、あまり皺《しわ》はないが、けっして美しいとはいえなかった。口が大きすぎ、鼻が大きくて、目の間が平たいからだ。それでもその目は、やさしくて物わかりがよさそうなので、元は勇気をふるい、恥ずかしそうに、ちょっと笑顔をうかべて言った。「こんなふうに、とつぜんお伺いしてお許しください。わたしは、王将軍の息子の王元です。父のところから逃げ出してきたんです。ほかに、何もお願いはありません。ただ、わたしひとりっきりですから、あなたや妹に会うお許しがえたかったのです」
彼がそう言っているあいだ、婦人はじっと彼を見ていたが、やがておだやかに言った。「下男があなただと知らせてきたときには、わたし、ほんとと思えませんでした。あなたにお会いしたのは、ずいぶん昔のことですから、おぼえているはずもないのですが、ただ、おとうさんそっくりですものね。ええ、だれでも、あなたが王将軍のご子息であることを見ちがえるものはありませんよ。さあ、おはいりになって、ゆっくりしてください」
下男はまだ疑わしそうな顔をしていたが、夫人は元を招じ入れた。その態度は、おだやかで平然としており、はじめから意外だとも思っていないようすだった。いや、じっさいをいえば、この世に、どんなことが起ころうと驚くことはないような態度であった。夫人は元を狭い玄関の部屋に招き入れ、それから、下男に寝台のある部屋のしたくをするように命じ、元に食事はすましたかとたずね、客間に通じる扉を開け、腰をおろしてくつろいでいるように言い、そのあいだに、下男がしたくした部屋で元が不自由しないように、いろいろなものをとりに行った。夫人は、こうしたことをすべて、こだわりなく、まごころこめてするので、元はうれしくなり心あたたまり、ついには自分が歓迎された客のような気持ちになった。これは、父と自分とのあいだに起こったことでやりきれなく思っていた元には、じつにこころよかった。
客間で彼は安楽椅子に腰をおろして待っていたが、これまでに見たこともないような部屋だったので、内心もの珍しく思っていた。しかし、いつものとおり、しかつめらしいふうをして、驚きや興奮の色は見せなかった。彼は暗色の絹の、ながい服をまとって、静かに腰をおろし、ちょっと部屋のなかを見まわしたが、そうじろじろ見るほどでもないので、だれかがはいってきたとしても彼が室内のようすに驚いているとは気がつかないであろう。なぜならば、どんな新しい場所でも、場ちがいに見られたり、そわそわしているように見られたりするのを好まない性質だったからである。それは小さな四角な部屋で、掃除がよく行きとどき、床には花模様の絨毯《じゅうたん》がしいてあったが、それにも、しみ一つなかった。絨毯の中央には一脚のテーブルがあり、このテーブルにも赤ビロウドの布がかけてあって、中央にピンクの造花をさした壺がおいてあった。その造花は、ほんものの花そっくりで、ただ葉が緑色ではなく銀色であった。彼が腰をおろしているのと同じ椅子が六脚あって、クッションはやわらかく、ピンクの繻子《しゅす》のカヴァーがかけてあった。窓には、美しい布地の白い細いカーテンがかけてあり、壁にはガラスをはめた額縁《がくぶち》に西洋風の絵がかけてあった。それは碧《あお》い高い山と、同じように碧い湖と、山の上に建っている元が見たこともないような外国風の家を描いた絵であった。明るくて美しい絵であった。
とつぜんどこかでベルが鳴ったので、元は戸口をふり返った。小走りの足音と、つづいて、かん高く、大声で笑う少女の声が聞こえた。彼は耳をすました。少女が、だれかと話していることはわかったが、相手の声は聞こえず、彼女がつかっている言葉は外国語をまじえた波音のようで、ほとんどわからなかった。
「まあ、あなたなの。いいえ、用事はないわ。ううん、あたし、きょうは、とても疲れてるの。だって昨夜おそくまでダンスしてたんですもの。そんな無理言っちゃだめよ。あの人、あたしなんかより、ずっときれいじゃないの。あたしのこと笑ってるのね。あの人、ダンスだって、あたしなんかより、ずっとじょうずよ――白人の男のかただって、いっしょに踊りたがるほどですもの。ええ、それはほんとよ。あたし、若いアメリカ人と踊ったわ。とってもダンスがうまいの! その人が言ったこと? いいえ、教えるのはいやよ。だめ、だめ! じゃ今夜は、あなたと行くわ――十時。その前に晩餐会があるんですもの――」
美しいせせらぎのような笑い声が聞こえたと思うと、とつぜん、扉が開いてひとりの少女があらわれた。彼は席を立ち、相手をじかに見ないよう、礼儀ただしく視線をふせておじぎをした。ところが、彼女はツバメのように、しなやかに速く、両手をのばしてかけよった。
「元兄さんなのね!」と彼女は、かわいい、やさしい声で、ほがらかに叫んだ。かん高い、空中にただよっているような声であった。「兄さんが、だしぬけにおいでになったと、おかあさまから聞いたの――」彼女は元の手をとって笑った。「そんな長い着物なんか着て、あなた、旧式ね。こんなふうに握手するのよ――このごろでは、だれだって握手するわ」
元は妹の小さな、なめらかな手が自分の手をとるのを感じ、恥ずかしさのあまり手をひっこめた――ひっこめながらも、じっと妹をみつめていた。妹はまた笑って、椅子の腕に腰かけ、彼のほうへ顔を向けた。子猫のような三角形のかわいい顔で、なめらかな黒い髪が、ふっくらした頬《ほお》の上で波うっていた。しかし、彼の心をとらえたのは目であった。明るいまっ黒な目で、光と笑いとが輝き出していた。そして、その下には赤い小さな口があった。くちびるはゆたかで赤く、それでいながら、小さくて繊細であった。
「おかけなさいな」と彼女は小さな女王のように言った。
そこで彼は、彼女にあまり近くない椅子のはしに、用心深く腰をかけたが、彼女は、またしても笑った。
「あたし、愛蘭《アイラン》よ」と彼女は蝶《ちょう》が軽やかに舞うような声でつづけた。「兄さん、あたしをおぼえてる? あたし、よくおぼえているわ。ただ昔よりずっと美男子になったわ――昔のあなたは醜い子だったんですもの――顔がながくって。でも、兄さん、新しい服をつくらなきゃだめよ――いとこたちは、いまではみんな洋服よ――洋服を着ると兄さんはきっとすてきだわ――背が高いから。兄さん、ダンスできる? あたし、ダンスが大好きよ。いとこたちのこと知っていらっしゃる? 一ばん上のいとこの奥さんたら、まるで仙女《せんにょ》みたいに踊るのよ。それから、伯父さんを見せてあげたいわ。自分じゃ踊りたいんだけど、年をとってでぶでぶにふとっているものだから、伯母さんが踊らせてくれないのよ。伯父さんが、きれいな娘たちをじろじろ見るというので、伯母さんが、がみがみ言うところを見せてあげたいわ!」またしても彼女は、小刻みな、宙をとぶような声で笑った。
元は、そっと彼女を見やった。これまで見た女のうちのだれよりも華奢《きゃしゃ》で、からだつきは子供のように小さく、緑色の絹の服は、花につぼみがついているようにぴったりとからだに合っており、襟《えり》は、細い首を高くきっちりとかこみ、耳には黄と真珠の小さな耳輪がさがっていた。彼は目をそらし、口に手をあてて、ちょっと咳《せき》をした。
「ぼくはおかあさまとあなたにごあいさつに伺ったのです」と彼は言った。
これを聞くと、彼のまじめくさった態度をからかうように微笑したが、それは顔じゅうが輝くような微笑であった。それから彼女は立ちあがって戸口のほうへ行ったが、その足どりがあまり速いので稲妻のようであった。
「わたくし、母上を探してまいりますわ、お兄上さま」と彼女は元の口まねをして、しかつめらしく言った。それからまた笑って、子猫のような黒い目から、からかうような視線を投げた。
彼女が去ると部屋のなかはひっそりとなった。まるでせわしなく吹いていた風が、とつぜんやんだような気がした。
元はこの少女が理解できず唖然《あぜん》としてすわっていた。彼女は彼が軍隊生活中に見た女とは、まるでちがっていた。元は父が自分を母の大奥からひき離さない前、妹も自分も小さかったころの妹を思い出そうとした。いまと同じようなきびきびした動作、おしゃべり、大きな黒い目の視線を、よくおぼえていた。また、妹がいなくなってから、はじめのうち毎日が、どんなに単調だったか、父の将軍公署が、いかに味気ないものであったかを思い出した。そんな思い出にふけっていると、いまでさえ、この部屋がひっそりと静まりすぎ、さびしいような気がして、妹が帰ってきてくれればいいと思った。そして、妹のような笑い声をもっと聞きたかったので、もっといっしょにいたいと熱心に望んだ。
とつぜん、彼はまたしても、自分の生涯は笑いというものがなく過ごされたことに気づいた。いつも、あれやこれやの義務ばかりあって、貧乏人の子供が路上で遊んだり、労働者の群れが、ちょっとひまさえあれば真昼の太陽の下で休息し、いっしょに食べものを食うというような楽しみを経験したことがないのだ。彼の心臓が、ちょっと速くなった。この都会は自分にどんなものをあたえてくれるだろう。若いものならだれでも愛さずにはいられない笑い、陽気さ、あるいは輝くばかりの新しい生活をあたえてくれるのではなかろうか。
扉が開く音がしたので、元は熱のこもった目をそのほうに向けたが、今度は愛蘭ではなかった。それは老夫人で、彼女は、すべての人々に、この家をいつもくつろぎと快適さとに満ちているものにしようと心がけている人らしく、静かにはいってきた。うしろに温かい食物の皿を盆にのせてささげた下僕を従えていた。
「お料理はここにおいてちょうだい。さあ、元、わたしをよろこばせたいと思ったら、もうすこし食べてください。だって、汽車のなかの食べものには、こんなお料理はありませんものね。さあ、おあがり、わたしの息子――わたしには、ほかに息子はいないんだから、元、あなたはわたしの息子ですよ。わざわざわたしを探し求めてきてくれたのが、わたしにはうれしいのです。それに、どうしてここにくるようになったのか、その理由を、すっかり聞きたいのですよ」
元はこの善良な夫人がやさしく言うのを聞き、その顔が表情も心情も誠実なのを見、こころよくひびく声を聞き、テーブルのそばに椅子を寄せてくれたとき、小さなおだやかな目にあふれる親切そうな色を見ると、不覚にも涙が目頭ににじむのをおぼえた。彼は燃えるようなはげしさで思った。どこへ行っても、こんな心のこもったもてなしを受けたことはない――そうだ、こんなにやさしくしてくれた人はいなかったのだ。
急に、この家の温かさ、部屋の色の明るさ、耳に残っている愛蘭の笑い声、この老夫人の気のおけない態度、そうしたものが一つになって彼をつつみこんだ。彼は心をこめて食べた。それというのが、ひどく腹がすいているように感じたし、料理は店から買ってきたものとはちがって、念入りに調味してあるし、脂《あぶら》もソースも、たっぷり使ってあったからで、元は、かつては田舎料理をうまそうに食べたことは忘れはて、いまはこれほどおいしい滋養のある料理はないと思って、満腹するまで食べた。それでも、料理は脂っこく、薬味がひどくきいているので、元は、すぐに満ち足りた気持ちになり、老夫人がいくらすすめてくれても、もう一口も食べられなかった。
元が食べるあいだ待っていた夫人は、食事が終わると、また彼を安楽椅子に招じた。温まり、腹がくちくなり、いい気持ちになった元は、夫人に、何もかも自分ですらよく知らないことまで話した。老夫人の大きな待ちかまえた視線に出あうと、とつぜん、内気さが消えてしまい、元は自分の望み――戦争がきらいなことや、大地に根ざした生活をしたいことや、それも百姓のような無知な生活ではなく、賢い農民、百姓たちにもっとすぐれた生き方を教えられるだけの知識を持った農民として生活したいことなどを、すっかり話した。それから、父のために軍官学校をひそかに脱走したことを話したが、じっと自分を見ている老夫人の聡明《そうめい》そうな目に、彼にたいする何か新しい理解の色が光っているのを見て、彼はどぎまぎしながら言った。
「ぼくは父の敵になって戦うのがいやだから脱走したのだと思っていましたが、いま話しているうちに、たとい大義名分はあっても、いつかは戦友たちが行なわなければならぬ人殺しがいやだったという理由もあったことがわかりました。ぼくには人は殺せません――ぼくは勇敢じゃない、それは自分でも知っています。じつをいえば、人を殺すほど人が憎めないのです。殺される人がどんな気持ちか、ぼくにはいつもそれがわかるのです」
彼は自分の弱さをさらけ出したことを恥じ、老夫人を、おずおずと見やった。しかし、彼女は静かに答えた。「だれでもが人を殺せるものではありません、ほんとですよ、でなければ、わたしたちはみんな死んでしまうじゃありませんか」それから、しばらく間をおいて、彼女は、もっとやさしく言った。「あなたが人殺しはできないというのを聞いて、わたしはうれしく思いますよ、元。人の命を奪うより助けるほうがいいことですものね。わたしは仏教信者ではありませんけど、そう考えますよ」
しかし、元がためらいがちに、すこし恥ずかしそうにして、王虎将軍が、相手の女はだれであろうと、なんとかして元に結婚させようとしていることを話すと、老夫人は、ひどく心を動かしたようだった。それまで、夫人は彼の話を親切に、十分な理解をもって聞き、彼がちょっと言葉を切ったときに、ちょいちょい同意の言葉をはさむだけであった。ところが、彼はうなだれて言った。「父にそうする権利があることは、ぼくにもわかっています――ぼくだって法律や習慣は知っています――でも、ぼくには、そんなことはがまんできません。できないんです――できないんです――ぼくは自分のからだは自分のものとして自由でありたいのです――」そこまで言うと、父にたいする憎しみの記億に心が乱れ、なんとかしてそれを告白せずにはいられない気持ちで、もっと話をつづけた。それというのが、何もかも洗いざらい話したかったからである。
「このごろは、父を殺す子供がいますが、その人たちの気持ちがわかるような気がします――ぼくには実際にはそんなことはできませんが、ぼくより手のはやい連中の気持ちがわかるのです」
彼は、こんなことを言って、ひどすぎはしなかったかと老夫人のほうをうかがったが、そんなことはなかった。夫人は、いままでよりもずっと力をこめ、断固として言った。「あなたのほうが正しいのですよ、元。ええ、わたしは近ごろの若い人たちの親に言っているんですよ。愛蘭の友だちのおとうさんやおかあさんや、あなたの伯父さんご夫婦や、若い世代の人にたえず不満を持っている親たちに向かって、すくなくもこの問題では、若い人のほうが正しいってね。ええ、あなたの言うことがもっともなことは、よくわかっていますとも。わたしは愛蘭に結婚をおしつけようとは思いません――それから、この問題で必要があったら、おとうさまに楯《たて》ついても、あなたに力をかしてあげますよ。だって、あなたのほうが正しいと、わたしは確信していますからね」
これだけを彼女は悲しげに言ったが、そこには彼女が人生からかき集めたひそかな情熱がこもっていた。元は夫人の小さな静かな目が、うってかわって輝き、落ちついた顔に感動の色が強まるのを見て、ふしぎに思った。しかし、彼はまだ年若かったので、自分以外のことをながく考えることができず、また夫人の言葉の慰めと、この静かな家の慰めとがいっしょになり、彼はあこがれるように言った。「これからどうしたらいいかきまるまで、しばらくこの家においていただけたら――」
「おいてあげましょう」と夫人はあたたかく答えた。「あなたが必要なだけ泊まっていらっしゃい。わたしは昔から自分の息子がほしいと思っていたのですが、あなたがきてくれましたからね」
じつをいえば、夫人は急に、この背の高い、色の浅黒い青年が好きになったのである。彼の顔にうかぶ正直そうな表情が気に入ったし、物腰のゆったりしたところも気に入った。普通の標準からいえば、頬骨《ほおぼね》が高すぎ、口が大きすぎて美しいとはいえないが、それでも背はたいていの青年よりも高いし、強情なところはあるが、自分の能力にあまり自信がないとでもいうように、口をきくとき、なんとなく内気そうで弱々しいところなどが気に入った。とはいっても、この弱々しさは、ただ言葉づかいだけであって、声は深くりっぱで、男らしい声であった。
元は自分が夫人に気に入られたことを知り、それによってますます心温まり、この家が自分の家のような気がしてきた。それから、しばらく話をしてから、夫人は彼の部屋になる小さな部屋へ案内した。それは階段をあがり、それからまた一つ小さな螺旋《らせん》階段をあがったところの屋根裏の部屋で、きちんと掃除され、必要なものはいっさいそろっていた。夫人が立ち去って、ひとりきりになると、元は窓ぎわへ行って外をながめた。たくさんの街々には灯《ともしび》がともり、この都会全体が輝くばかりの光のなかに横たわっていて、高い暗いところから見ると、何か新しい天国でものぞきこんでいるような気がした。
いまや元は新しい生活にはいった。それまで夢にも見たことがない、まったくの新しい生活である。翌朝、起きて顔を洗い、着がえをすまして階下におりると、夫人がすでに待っていて、今朝も昨夜と同じにこやかな顔をして、彼を新たな心安さにみちびいた。夫人は元を朝食のしたくがととのったところへ案内し、すぐに彼のために考えた計画を話しはじめた。しかし、彼の意志に反することは一言も言わないようにと、いつも非常に細心に注意しているようであった。夫人が言うには、まず第一番に服を買ってあげなければならない、何しろ着のみ着のままできたのだから、それから、この都会の青年が行く学校に入学させねばならない、と言うのだった。
「そう急いで仕事につくことはありません。このごろでは新しい学問をすっかり身につけるほうがいいのです。でないと、将来の収入が、ひどく少なくなりますからね。あなたを自分の息子と同じようにさせてください。わたしは愛蘭が望むなら、いろいろとあの子のために計画していることがあるのですが、そのとおりあなたにもさせてください。あなたは将来の目的がはっきりするまで、ここの学校にかようのです。そして卒業したら、仕事につくのもよかろうし、しばらく外国へ行くのもいいでしょう。ちかごろでは若い人たちがみな外国へ行きたがりますが、わたしにいわせれば、それはいいことですよ。伯父さんなんかは外国へ行くのはむだで、みんな自分の技術や能力のことばっかり頭に詰めて帰ってくるので、食ってゆく力もないことになる、と非難していますけど、それでもわたしは、その人たちが外国へ行って、できるだけのことを習って帰って、それをお国のために使うのはいいことだと思います。ただ、わたしは愛蘭が――」ここで夫人は言葉を切り、しばらく顔を曇らせ、心のなかの憂いに、いま言ったことも忘れたようすであった。しかし、すぐに夫人は、また晴れやかな顔をして、きっぱりと言った。「わたしは愛蘭の一生を、無理に型にはめようとは思っておりません。あの子がいやなら、そうしなくてもいいのです――そして、あなただって、わたしの思うようにしなくてもいいのですよ。ただ、あなたがこうしたいと思うことがあるなら――こうするというのなら――と、わたしはそんな意味で言っているのですよ――そのときは、わたしがその方法を考えてあげます」
元は、こうした新しい考えにすっかり眩惑《げんわく》され、すべてを納得することができず、うれしそうにどもりながら言うばかりであった。「ぼく、ただありがたく思うばかりです。そして、お言葉がうれしくてたまらないのです――」こう言って彼は食卓につき、若者らしい新たな食欲と、安らぎを得た心と、自分の家庭となる場所をえたよろこびとで、たっぷりと朝食を食べた。夫人は笑い、満足して言った。「ほんとに、あなたが食べているところを見るだけでも、あなたがきてくれたのがうれしいですよ。それというのが、愛蘭はちょっとでもふとってはいけないというので、まるで食べようとしませんの。ほんのちょっぴり、子猫が食べるくらい、そして、食べものを見るとほしくなるからといって、朝のうちは起きてこないんですよ。あの子は、何よりも、美しくなることばかり気にかけています。このわたしの子がね。でも、わたしは若い人が食べるのを見ているのが好きですよ」
そう言いながら、夫人は自分の箸《はし》をとって、魚や鳥肉や薬味の一ばんおいしそうなところを元にとってやり、自分が食べるものよりも、彼の健康な食欲のほうに、はるかに大きな楽しみを感じているようであった。
元の新しい生活がはじまった。まず最初に夫人は外国から輸入した絹や毛織物を売る大きな店に出かけ、それから仕立屋を家に呼びよせた。仕立屋は布地を裁断したり測ったりして都会風に元の服をつくった。夫人は仕立屋を急がせた。というのは、元はまだ前の服を着ていて、それは仕立てがだぶだぶで田舎風なので、夫人は、そんな服を着ているあいだは、伯父や、いとこのところを訪問させたくなかったのである。ところが、きっと愛蘭が話したのにちがいないが、伯父やいとこたちは元がきていることを聞いて、ぜひ歓迎の宴にこいと言っていたのだ。しかし、夫人は彼のよそ行きの服ができるまで、彼らを一日だけ待たせた。それは孔雀色の青い繻子《しゅす》に、同じ色の花模様をあしらった長衫《チャンサ》と、袖《そで》のついた黒繻子の短衣だった。
元は夫人の配慮に感謝した。なぜならば、彼がこの新調の服を着こみ、町の理髪屋を呼んで髪を刈らせ、顔のやわらかいひげをそらせ、夫人が買ってくれた新しい皮靴をはき、黒い絹の短衣をひっかけ、青年がだれでもかぶっているフェルトの外国風の帽子をかぶって自分の部屋の壁の鏡をのぞいたときには、自分がじつにりっぱな青年に見え、この都会の青年たちとすっかり同じであることを認めざるをえなかったからで、こうしたことをうれしく思うのは、しごく当然のことなのである。
それでいながら、そう意識すると、かえって面映《おもは》ゆくなり、夫人が待ちうけている部屋へ、ひどく恥ずかしそうにおりて行った。すると、そこには愛蘭もいて、彼女は彼の姿を見ると両手を打って叫んだ。「まあ、とても美青年になってよ、元!」そう言って彼女がからかうように笑うので、元は血が一時にのぼってきた。顔から首までまっ赤になり、愛蘭は、それを見てまた笑った。しかし、夫人は娘をおだやかにたしなめ、元をぐるぐるまわらせて、悪いところはないかとしらべ、一分《いちぶ》のすきもないので、今度もまた彼に満足した。なぜならば、彼のからだはまっすぐでたくましく、自分の骨折りが実を結んで、こんなりっぱな風采になったのを見ると、すっかり苦労のしがいがあったような気になったからである。
それから二日目に、歓迎の宴が開かれ、元は妹と、いまでは母と呼んでいる夫人――母という言葉は、どうしたものか実の母を呼ぶときよりも、こだわりなく口に出た――といっしょに伯父の家に行った。三人は車で行ったが、それは馬がひく車ではなく、内部に仕掛けてある機関によって動き、運転手によって操縦される車で、元は、こんなものにはこれまで乗ったこともなかったが、まるで氷の上をでも行くようになめらかに走るので、ひどく気にいった。
途中、伯父の家まで着かないうちに、元は伯父や伯母やいとこたちについて、たくさんのことを知った。というのは、愛蘭が笑ったり、一語一語の意味を強調するためにずるそうな目つきをしたり、小さな丸い赤い口をゆがめて見せたりしながら、伯父たちについて、あれやこれやと話してくれたからである。そして、彼女が話してゆくにつれて、王元は彼らの姿が目の前にうかぶような気がした。妹の話が機知にとみ、茶目気があるので、いつも礼儀正しくしている彼でさえ笑い出さずにはいられなかった。愛蘭が伯父のことを、
「人間の山そっくりなのよ、大きなお腹《なか》を突き出して、あのお腹をかかえて行くには、どうしてももう一本足をはやす必要があるわ。それに頬の肉が肩までたれているし、頭ったら坊さんみたいに丸|禿《は》げ! でも、その禿げっぷりは坊さんどころじゃないわ。それに、ふとっているのを苦にしているの。しかもそのわけは、息子のように踊れないからなのよ――若い女をそばに引きよせて抱いていたくてしようがないのに、それができないからなのよ――」それを考えて、愛蘭は大きな声で笑い出した。すると、夫人はおだやかに、だが、目をきらりと光らせて言った。「愛蘭、口をお慎みなさい。あなたの伯父さんですよ」
「そうよ、だから思ったとおり言ってるんじゃないの」と彼女は生意気そうに言った。「それから伯母さん、この人は伯父さんの第一夫人なのよ。伯母さんは、この都会がいやで、田舎に帰りたがっているの。それでいながら、伯父さんをひとりにしておくと、お金めあてに、どこかの若い女が伯父さんをとりはしないか、若い女は現代的だからお妾《めかけ》なんかにはならず、本妻になって、自分を追い出しはしないかと、それが心配なのよ。伯父さんのふたりの夫人は、すくなくともこのことだけ、つまり第三夫人を持たせまいという点においては一致しているの――このごろよくいう一種の婦人連盟よ、元。それから三人のいとこたち――一ばん上は、あなたも知っているように結婚しているわ。ところが、奥さんというのが、家庭ではご主人格で、旦那さまなんか頭ごなしなの。それで哀れないとこは、奥さんにかくれて、こっそり楽しまなけりゃならないというわけなのよ。ところが奥さんときたら、そりゃ抜け目がなくて、旦那さまのからだについている香水は嗅《か》ぎわけるし、上着にちょっとついた白粉《おしろい》でもみつけるし、ポケットから手紙を探し出すし、だからあのいとこは、お父さんの二の舞いをやっているわけよ。それから、つぎのいとこの盛《シェン》――これは詩人だわ、愛すべき詩人で、雑誌に詩を書いたり、愛のために死ぬ小説なんか書いていて、一種の反逆児、それもやさしい、かわいい、笑顔《えがお》をした反逆児で、いつも新しい恋愛をしているわ。でも、三ばん目のいとこは、ほんとの反逆児なのよ、元。革命家なの――あたし、ちゃんと知ってるわ!」
これを聞くと、夫人は真剣になって言った。「愛蘭、言うことに気をおつけなさい! あの子は親類なんですよ。このごろでは、この町でそんな言葉を使うのは危険ですよ」
「あの人、自分であたしにそう言ったのよ」と愛蘭は言ったが、コ声を低くし、車を運転している男の背へ、ちらりと目をやった。
そんなことまで、そしてもっといろんなことまで妹が話してくれたので、王元は伯父の家にはいったときには、伯父の家族のことは、みんな妹に聞いて知っていた。
伯父の家は、王龍が北方の田舎町に買って息子たちに残した大きな家とは、またちがった家であった。あの家は古くて大きくて、部屋といえば、だだっぴろくて、奥深くて暗いか、狭くて暗いかで、中庭をかこんで建てられ、二階がないかわりに、横に部屋また部屋とつづき、空間はたっぷりしていて、屋根は高く、梁《はり》はふとく、窓は格子《こうし》窓で、南方からとりよせた貝の一種で飾られていた。
ところが、この新しい外国風の都会のこの新しい家は、それとよく似たほかの家が押しあいへしあいしている街に建っていた。それらの家々は洋風で、高くて、狭くて、中庭も庭園もなく、部屋といえば、ぎっしり詰まっていて、小さくて、格子のない多くのガラス窓がついているので、ひどく明るかった。部屋には日の光が強烈にさしこんでいて、壁や、花模様の繻子のカヴァーをかけた椅子や、テーブルや、婦人の衣服の明るい絹や、紅をぬったくちびるなど、あらゆる色彩を照らし出しているので、元は親類一同が集まっている部屋にはいったとき、美というにはあまりに強烈な華やかさを感じたものだった。
部屋にはいると、伯父が大きな腹を膝から両手でかかえあげるようにして立ちあがった。その腹からは錦織の長衫《チャンサ》がカーテンのようにたれていた。伯父は、あえぎながら、客に向かって、あいさつの言葉を述べた。「ええと、みんな、ようきてくれたな。ところで、ええと、この元も背が高くて、色が黒くて、おやじによう似とるな――いや、似てはおらん――たぶん、いくらかおやじよりおとなしいようだ――」
伯父は太鼓腹に波うたせて、あえぐように笑い、またやっとのことで椅子に腰をおろした。つづいて伯母が立ちあがったが、元が横目で見ると、ととのった灰色の顔をしていて、黒い繻子の上着とスカートを着た、きわめて質素な上品な婦人で、両手を袖に入れて前で組み、小さな纏足《てんそく》をした足なので、立っているのもおぼつかなげであった。彼女は一同にあいさつをして言った。「お宅でもお変わりがなくて、何よりでございます。それに元さんも。愛蘭、あなたはやせましたね――細くなりすぎましたよ。近ごろの若い娘さんは、やせるために食べるものもろくろく食べず、男の服のような大胆な、からだにぴったりした服を着るようになりました。どうぞおかけくださいまし」
伯母のそばに元の知らない女が立っていた。みがきたてたばら色の頬《ほお》、石けんで洗ってぴかぴかしている肌《はだ》、田舎風に額からまっすぐにたらした髪、非常に明るいが賢すぎるというほどではない目をした女である。だれもこの女の名を教えてくれないので、召使なのか、そうではないのか、元には見当もつかなかったが、やがて母が、この女に向かって、ていねいなあいさつをしたので、これが伯父の第二夫人であることがわかった。そこで元がちょっと頭をさげると、その女は顔を赤らめ、田舎の女がするように、両手を袖に入れておじぎをしたが、口はきかなかった。
やがて、あいさつがすっかり終わると、いとこたちは別室でお茶を飲むようにと元をさそった。彼と愛蘭は目上のものたちから解放されるのをよろこんで招きに応じた。元は黙って彼らのおしゃべりを聞いていた。彼ら同士は、よく知りあっているが、元は、いとことはいうものの、彼らにとっては他人みたいなものだったからである。
元は彼らをひとりひとりよく観察した。一ばん上のいとこは、もう若いという年でもなく、やせてもいず、父親のように腹がつき出しかけていた。暗色の毛織の洋服を着ていると西洋人のように見え、白い顔は、いまだに美しく、やわらかい手は肉づきがよく、つやつやしていて、いとこの愛蘭のほうを、落ちつきのない目で、あまりながく見ているので、彼の美しい妻は、鋭い声で、ちょっとあてこすりを言って、そのまま、何かほかのことに話をそらせた。それから二ばん目のいとこ、詩人の盛《シェン》がいた。長くのばした髪の毛が顔にたれ、指はながくて白くてきゃしゃで、顔に瞑想《めいそう》的な微笑をうかべている。三ばん目のいとこだけは、容貌も動作も、やわらかなところがなかった。十六歳かそこらの少年で、普通の灰色の学校の制服を着て、首まできちんとボタンをかけ、顔は美しいとは義理にもいえなかった。ぶかっこうな形で、にきびだらけで、両手はごつごつして、だらりと袖口から長くたれている。ほかのものがしゃべっているのに、この子だけは口をきかず、近くの皿に盛ったピーナッツを食べているが、いかにもむさぼるように食べているくせに、青年らしい憂鬱が顔をおおっているので、ぜんぜん食べる意志もないのに食べているといいたいようだった。
部屋のなかや、みんなの足のあいだを、小さな子供たちが、かけまわっていた。十と八つの男の子がふたり、女の子がふたり、それに女中が持った紐《ひも》にゆわえつけられている、きいきい泣く二つになる子、乳母に抱かれ乳を飲んでいる赤ん坊などだった。これは伯父の第二夫人の子や、いとこたちの子だったが、元は子供はにがてだったので、かまわずにほうっておいた。
最初のうち、話は彼らばかりのあいだではずんでいたので、元は黙って腰をおろしていた。というのが、小さいテーブルの皿に盛ったいろいろな菓子を勝手に食べるようにすすめ、いとこの妻が女中にお茶をつぐように命じたほか、彼らは元のことなど忘れたようすで、元が教えこまれてきた礼儀作法などには心を用いようとしないからであった。そこで彼は音のしないようにクルミを割り、お茶を飲み、みんなの話に耳を傾け、ときどき照れながら子供にクルミの実をやったが、その子は無作法にがつがつと食べ、礼も言わなかった。
しかし、まもなく、いとこたちのおしゃべりも下火になった。上のいとこは元に、どこの学校に行くつもりかなど、一こと二ことたずねた。そして、元が外国に留学するかもしれないと答えると、うらやましそうに言った。「ぼくも外国に行けたらと思ったんだが、おやじのほうは、ぼくのことで金を使うのを、ひどくいやがってね」そう言うと、彼はあくびをし、鼻の孔《あな》に指を入れ、不機嫌そうに考えこんでいたが、やがて小さいほうの男の子を膝にのせ、お菓子をやり、ちょっとからかって、子供が怒るのを見て笑い、子供が小さなこぶしをふりあげてはげしく打ちかかると、ますます笑った。愛蘭は、いとこの妻と低い声で話しこんでいた。いとこの妻は、姑《しゅうと》が近ごろの女性ならとてもやれないようなことを要求する、というようなことを、腹立たしげな調子で、声をひそめて話しているのが、元にも聞こえた。
「あれだけ召使がいるというのに、お姑《かあ》さんは、わたしにお茶をつげって言うんですよ、愛蘭――それに前の月よりちょっとでもお米をよけい使うと、わたしの責任だって叱《しか》るんですからね。もうわたしには、辛抱できませんわ。このごろでは夫の両親と同居する女なんて、あまりいませんよ。わたしだって、ほとほといやになりましたわ」それから、そんなふうな女のおしゃべりが、なおもつづくのであった。
一座のうちで元が最大の好奇心を持って見たのは、愛蘭が詩人と呼んだ二ばん目のいとこの盛であった。それは一つには元自身が詩を好むからであり、一つにはその青年をつつむ優美さが気に入ったからであった。それはきゃしゃな優美さで、暗色のあっさりした洋服を着ているので、いっそう目立って見えた。彼は、美しかった。そして元は、美しいものは大好きであった。それで盛の卵形の顔や、若い娘の目のような、あんずのかたちをして、やさしく、黒く、夢みるような目から目をはなすことができなかった。それというのが、このいとこには、ある感情が、心の奥に、ある理解の表情があり、それが元の心をひきつけたからである。元は盛と話したいと思った。しかし、盛も三ばん目のいとこの孟《メン》も話をせず、やがて盛は本を読みはじめ、ピーナッツがなくなると孟はどこかへ行ってしまった。
しかし、こんなに人間でいっぱいの部屋では話をするのも容易ではなかった。子供たちは何かといえば泣くし、お茶とか食べものとかを運んでくる召使が、たえず通るので、扉はしょっちゅう音を立てるし、いとこの妻は、ひそひそ声で話をしているし、愛蘭は、その話に興味を持ったふりをして大声で笑ったりしていた。
こうして、ながい一夜は過ぎた。豪華な晩餐会が開かれ、伯父と上のいとこは信じられないほど食べた。そして、ある料理が思ったほどでないと、いっしょになって苦情を言い、肉や菓子の料理のできぐあいを比較し、ある料理がうまくできていると大きな声でほめ、自分たちの批評を聞かせるために料理人を呼びよせた。料理人は台所で働いていたままのきたない黒いエプロンをかけてあらわれ、主人の言うことを心配そうに聞き、ほめられると油だらけの顔をほころばせ、非難されると将来気をつけると詫《わ》びてうなだれた。
伯父の第一夫人は、料理に肉がはいっていはしないか、豚脂で料理してはいないか、卵が使ってありはしないかと、それを注意することにばかり気をとられていた。なぜならば、彼女は老年になったので、あらゆる肉類を断つ仏教徒の誓いを立てているからで、そのため特別の料理人をおいていたのだ。その料理人は、どんな肉のかたちでも、たくみに野菜でつくるので、スープに鳩の卵がはいっていると思うような料理でも、鳩の卵なんかはいっていず、目といい、うろこといい、まるで魚そっくりの巧みな作りものが出るので、切ってみて肉もなければ骨もないことがわかるまでは、だれでも魚だと思うにちがいない。第一夫人は夫の妾《めかけ》をこの仕事にかかりきりにさせていて、しかも、聞こえよがしに言うのであった。「これは息子の嫁がしなければならない仕事です。でも、近ごろでは息子の嫁といっても嫁じゃありませんからね。わたしには嫁はないのです。いや、ないも同様ですよ」
息子の嫁は、きちんとかたくるしくすわっていた。非常に美しいが、表情に冷たさがあって、そんな話など聞こえないふりをしていた。しかし、気楽な性分で、いつも調停役にまわる第二夫人は、愛想よく答えた。「わたしは、なんでもありませんよ。忙しいのが好きなんですから」
こうして彼女は、いろんなこまかいことを忙しそうに引き受け、みんなの仲をとりもった。血色のいい、健康そうな、いつもにこにこしている不器量な女で、彼女の最大の幸福は、ちょっとひまをみては、靴に刺繍をすることであった。それで、いつもそば近くに繻子の布や、花、鳥、葉などの、きれいに切りぬいた紙型をおいておいたし、くびには、すぐにとれるように、たくさん色絹糸をかけていたし、中指には、いつもシンチュウの指貫《ゆびぬき》をはめていた。あまりいつも指貫をはめているので、夜になっても忘れたまま寝ることがよくあったし、また指貫がなくなったと探しまわったあげく、ちゃんと指にはめているのを見つけ、自分のうかつさに、まるで子供のような陽気な調子で大笑いし、しまいには、みんなもつりこまれて笑わずにはいられないほどであった。
子供たちの泣き声や食事の騒ぎなど、こうした家庭的なおしゃべりや騒音のなかにあって、教養のある王将軍の第一夫人は静かな品位を持ち、話しかけられると答え、しとやかに食べはするが、自分の食べているものに、いやしいほどの注意は払わず、子供にたいしても礼儀正しくふるまった。彼女のおだやかな落ちついた目は、そのひどく瞑想的な重々しさによって、愛蘭のすぐすべり出しそうな舌や、なんでも笑いの種をみつけ出す抜け目のない目をおさえつけ、慈愛深くてやさしい彼女の存在は、この一座のなかで、なんとなく重きをなし、そのため、みんなも心やさしく礼儀正しくなるのだった。元は、それを見ていよいよ尊敬の念をまし、彼女を母と呼ぶことに誇りを感じた。
しばらくのあいだ、元は、こんな生活があるとは夢にも思わなかったほど、のんきな生活をおくった。彼は老夫人にすべての信頼をかけ、夫人の言うことなら、まるで小さな子供のように従った。それも、ただ盲従するのではなく、よろこんで心から従うのであった。それというのが夫人は頭から命令するのではなく、いつも、自分はこういうふうに考えるのだが、あなたはそれでいいかとたずね、しかも、やさしくそれを言い出すので、いつも元には、かりに自分がさきに考えるとしたら、きっとそうした考えを選ぶだろうと思われるのであった。
夫人のところへきて、まだいくらもたたないある日、愛蘭は起きてきたことがないので、ふたりきりで朝食の食卓に向かったとき、夫人が言った。「あなたの居どころを、おとうさんに知らせないままほうっておくのはよくありませんね。あなたさえよければ、わたしからおとうさんに手紙を出して、あなたが無事にわたしのところにいること、この海岸の都会にいれば、外国の支配をうけているのだから、戦争にまきこまれるおそれもなく、あなたはおとうさんの敵からも安全だと言ってやりましょう。それから、今度の結婚問題も打ち切りにして、いまの若い人たちのように、そのうち自分で配偶者を選ばせてくださるようにお願いしてみましょう。それから、あなたがこちらの学校に行くようになっていることや、達者でいることや、わたしの息子なのだから、あなたのことはわたしがめんどうをみることなどを言ってやろうと思います」
元はこれまでも父のことでは安らかな気持ちになったことがなかった。昼間、見物に出て、あちこちと街を歩いているときだの、見知らぬ都会の人たちにもまれているときだの、あるいはこの清潔な静かな家にいて、新しい学校へ行くために買った本を読んでいるときなど、自分があくまで意志をつらぬいたことを思い出し、いまのような自由な生活をおくる権利が自分にはあるのだ、父だって、無理に自分を連れもどすことはできないのだ、と心に叫ぶことができた。ところが、夜だとか、朝早くから街々に起こる騒音にまだ慣れていないので、暗いうちに目をさましたときなどには、自由などえられるものではないような気がし、昔の子供時代の恐怖がよみがえってきて、彼は心に叫ぶのだった。(ここでずっと暮らしていけるかどうかあやしいものだ。父が兵隊を連れて、また連れもどしにきたらどうなるだろう?)
そんなとき元は父のやさしさや愛情を忘れ、父が老齢であることや病気であることも忘れて、父がよくかんしゃくをおこしたことや、自分の意志をおしつけることにばかりかかっていたことだけが思い出され、子供のころの身をすりへらされるような悲しい恐怖が、また襲ってくるのをおぼえるのであった。いままでに、幾度となく、なんといって父に手紙を書こうか、もし父がきたら、どうしてまた身をかくそうかと、そんなことを考えてきたものだった。
それで、いま老夫人が言うのを聞くと、それがひどく楽な確実な方法のような気がして、彼は感謝をこめて言った。「それはいい方法ですね。おかあさん、ぼくは大助かりですよ」そして、食事をつづけながら、しばらく考えていると、肩の荷がおりたようで、すこしばかりわがままを言う気になった。「ただ、手紙をお書きになるとき、父は昔ほど目がよくありませんから、わかりやすく書いてください。それに、ぼくは結婚させられるようなら帰らないということも、はっきり書いておいてください。そんな奴隷のような境遇におちいる危険があるなら、父に会うためにだって絶対に帰りません」
老夫人は元のひたむきな一途《いちず》さを見て、おだやかに微笑し、静かに言った。「ええ、ちゃんとそう書きますよ、でも、もっとていねいな言葉でね」そして、夫人がひどく落ちつきはらい、確信に満ちているようなので、元は最後の恐怖も消え、自分が老夫人の血をわけた実の子ででもあるように、夫人にたよりきった。彼はもう恐れなかった。そして、ここにいるかぎり自分の生活は安全であり確実であると思い、人生のあらゆる面に、ひたすら目を向けた。
それまでの生活は、じつに単純であった。父の将軍公署では、彼にできることで、いつもしていることは、いくらもなかったし、彼がほかに知っている唯一の場所、軍官学校でも、同じように単純なことばかりであった。読書と戦争の研究と、遊ぶためにあたえられたわずかな時間に知りあった青年たちとの論争や交友だけであった。なぜならば、軍官学校では世間の人と勝手に交わることを許されず、彼らの大義のためと、それによって起こるべき戦争のために、じつにきびしく訓練されていたからである。
ところが、この騒がしいあわただしい大都会へきてみると、元は自分の生活が、一度にみんな目を通さねばならぬ書物に似ていて、同時に二十種類もの生活を経験しているのを知った。そして、彼は貪婪《どんらん》で、熱情をあおられ、はげしいあこがれを抱いていたので、そうした人生の一つでも自分のそばを通過してしまうのが堪えられなかった。
この家のもっとも手近なところにも、彼があこがれていた陽気な生活があった。これまで、ほかの子供と知りあったり遊んだりして義務を忘れたことのなかった元は、いま妹の愛蘭とともに暮らしていると、過ぎ去った子供時代を、ふたたび思い出した。ふたりは怒らずに口げんかもできたし、なにかふたりきりの遊びをし、元は自分が笑っていること以外は、何もかも忘れるまで、おたがいに笑うこともできた。最初のうち、彼は妹の前に出ると、きまりが悪く、声を立てて笑うこともできずに、ただ微笑するだけで、心が何かに妨げられ、真情が自由に流れ出してこなかった。彼は昔から、冷静であれ、品位を失わずゆっくりと行動せよ、顔は重々しく正面を向けていよ、熟慮の後に答えよ、というように教えこまれてきたので、このからかい好きの妹を、どう取り扱っていいかわからなかった。
愛蘭は彼をからかい、彼のまじめくさった表情を、その小さな朗らかな顔でまねして見せるのだが、それが彼のながい顔にあまりよく似ているものだから、老夫人も思わず微笑し、元まで笑わずにはいられなかった。もっとも、これまでそんなことをされたことがないので、はじめは自分がそんなふうにからかわれるのが好きなのかどうか見当もつかなかったのだが。しかし、愛蘭は彼に、いつまでもまじめくさった態度をさせておこうとはしなかった。彼が彼女のしゃれに答えるようになるまで手をゆるめようとはしなかったが、また、彼がうまいことを言うと、それをほめてやるだけの公平さを持っていた。
ある日、彼女は大きな声で言った。「おかあさま、うちの老聖者さまも、だんだん若がえってきたことよ。あたしたちで青年にしてあげましょうよ。方法はわかっているの――洋服をつくってあげて、あたしがダンスを教えてあげて、ときどきダンスに連れて行くのよ」
しかし、元が新しく楽しい生活を発見したといっても、これはまたたいへんなことであった。愛蘭が、このダンスと称する外国の楽しみのために、しばしば出かけるのは元も知っていたし、夜など、ときどき、華やかな電灯の輝く家の前を通りかかってみたこともあるが、そのたびに彼は目をそむけたものである。自分の妻でもない女を、男がぴったりと抱きよせるなんて、あまりに厚顔無恥な所業と思えたし、たとい自分の妻にせよ、あんなふうに人前でなすべきこととは思えなかったのである。しかし、彼が急にまじめくさった顔になったのを見ると、愛蘭は、ひどく執拗になり、自分の考えを主張し、彼が内気そうに一時のがれに、「ぼくにはできないよ。足がながすぎるもの」と言うと、彼女は答えた。「西洋には、あなたより足のながい人が、たくさんいるわ。それでもちゃんとダンスをしているわ。このあいだの晩も、あたし、ルイス・リングの家で白人と踊ったんだけど、あたしの髪の毛が、しょっちゅうその人のチョッキのボタンにひっかかるの。それでも、その人、風に吹かれている高い木みたいに踊っていたわ。だめだめ、ほかに何か逃げ口上を考えなさいよ、元!」
彼が恥ずかしくてほんとの理由を言いかねていると、彼女は笑って、小さな人さし指を彼の目の前でふりながら言った。「わけはちゃんとわかっているわ――あなたは女の子がみんな自分に恋すると思っているのね。そして、恋をするのがこわいんでしょう!」
それを聞くと、老夫人が、おだやかに言った。「愛蘭――愛蘭――すこしお慎みなさい」そこで元は、いくらか不安そうに笑って、その場はそれですませた。
ところが愛蘭は、そのまますまそうとはせず、毎日彼をつかまえては言った。「逃がしはしないことよ、元――なんといったってダンスを教えるんだから!」彼女の生活は、ほとんど遊ぶことに費やされていて、学校から飛ぶように帰ってくると、本を投げ出し、はでな服に着かえると、芝居だの、ほんものそっくりで出てくる人物が動いたり話をしたりする写真を見に出かけた。しかもこのごろでは、ほんのちょっとでも元と顔をあわせると、翌日からダンスのけいこをはじめるといって彼をからかうので、恋愛のことを考えて彼はかたくならざるをえなかった。
この問題が今後どう展開するのか、元にはわからなかった。というのは、愛蘭といっしょに出たりはいったりしている美しいおしゃべりな女の子たちが、彼にはまだ恐ろしかったし、また、愛蘭が彼女らの名を言い、彼女らにたいしては「あたしの兄の元よ」などと言って彼を紹介するのだが、元には、みんな同じように見え、同じように美しいので、まだ、だれがだれだか見わけがつかなかったからである。それに、このような美しい娘たちよりも、元には自分の心の奥深くにあるものが恐ろしかった。彼女らの小さな軽率な手が彼のうちにかきたてるかもしれぬある秘《ひそ》かな力が恐ろしかったのである。
ところがある日、愛蘭のいたずらに油を注ぐようなことがおこった。その夜、元が夕食に自分の部屋から出て行くと、彼が母と呼んでいる夫人が、ひとり食卓について待っていた。愛蘭がいないので、食堂はひどく静かであった。こんなことは元にとって珍しくなかった。なぜなら、愛蘭が友人と遊びに行っているときなど、ふたりきりで食事をすることがよくあったからだ。ところが、今夜は彼が食卓につくやいなや、夫人は静かな口調で言い出した。
「元、ずっと前からあなたに頼みたいことがあったのですが、あなたが一生けんめいに勉強をして、朝は早くから起きるし、睡眠をよくとらなければいけないことがわかっていたので、いままで言い出さないでいたのです。でも、うちあけて言うと、ある問題で、わたしは、ほとほと手をやいているのです。だれかに力をかしてもらわなくてはならないのですが、わたしは、あなたのことを実の息子のように思っていますから、ほかの人には頼めないことでも、あなたには頼めるのです」
これを聞いて、元はひどく驚いた。というのは、夫人はいつも確信に満ち、落ちついていて、考え方にしろ理解にしろ、まったく円熟しているので、他人の助けを必要とするとは考えられなかったからである。彼は茶わんを持ったまま夫人を見あげ、いぶかしそうに言った。「ぼく、どんなことでもしますよ、おかあさん。だって、ぼくがここにきてから、ほんとの母もおよばないほどやさしくしてくださったんですもの。いちいち数えきれないほどのご親切を受けているんですもの」
彼の声や顔にあふれている率直な善良さに、思わず夫人の表情もくずれた。夫人は、くちびるをふるわせながら言った。「話はあなたの妹のことです。わたしはあの子のために一生をささげてきました。あの子が男でなかったことが、まずわたしの最初の悩みでした。あなたのおかあさんとわたしは、ほとんど同じころ妊娠しましたが、やがておとうさんは戦争へおいでになり、帰っていらしったときには、ふたりともお産をすませていました。わたし、あなたが自分の子だったらよかったと、どれほど思ったことか、元、それは、とても口では言えないくらいです。おとうさんは――二度とわたしを見向きもなさらないのです。わたしはおとうさんの心のなかに、何か強い感情が流れているのを知っていました――ふしぎな奥深い心を持っているのですが、だれもその心を占めたものはありませんでした。ただ、あなたひとりをのぞいて。おとうさんが女をなぜあんなにおきらいになるか、わたしにはわかりません。でも、男の子をほしがっていらしったのは、前から知っていましたので、ご出征中も、わたしが男の子を生んだなら、と、そればかり考えていました――わたしは世間の女のように愚かではありません――父が知っているかぎりの学問を教えてくれたのです。わたしは、いつも思っていました。おとうさんが、なんとかわたしを見てさえくだされば、わたしの気持ちがわかってくだされば、いたらぬながら、わたしの持っている知恵で慰めてあげられるだろうに、とね。ところが、おとうさんにとって、わたしは息子を生むための、ただの女にすぎませんでした――しかも、わたしは男の子を生まず、愛蘭だけしか生みませんでした。凱旋しておいでになったとき、おとうさんは、あなたのおかあさんに抱かれたあなたを見ました。わたしは愛蘭に男の子のような赤と銀の雄々しい着物を着せました。それに愛蘭は、とてもきれいな子でした。ところが、おとうさんは見向きもなさらないのです。幾度となく、何か口実を設けては、愛蘭をおとうさんのところへやったり、自分で連れて行ったりしました。あの子は賢くて、年のわりに知恵のつくのが早いので、どんなにいい子か、おとうさんにもわかるにちがいないと思ったからです。ところが、おとうさんは女というものに、とても妙なこだわりを持っておいでなのです。それで、あの子にしても、ただの女の子としかうつらないのです。とうとうわたしは、さびしさにたえかね、おとうさんのもとから離れようと思いました――公然とではなく、娘を教育するという口実で。そして愛蘭には、男の子にあたえられるだけのものはすべてあたえ、女として生まれた不利益を断ち切ることに全力をつくそうと決心しました。おとうさんはお金のことでは寛大でしたよ、元――ちゃんとお金を送ってくだすったのです――何も不足はありませんでした。ただ、わたしが死のうと生きようと、娘がどうなろうと、てんで気にかけてもらえないことだけをのぞいては……わたしがあなたに親切にするのは、おとうさんのためではなく、あなたのためなのです」
夫人は、これだけ言うと、はかり知れぬ深いまなざしを彼に投げかけた。元は、この視線に出あうと、こうもはっきりと夫人の生活や心のなかを見たことにどぎまぎし、こんなことまで知ったことを恐ろしく感じ、言葉も出なかった。なぜなら、夫人は彼の目上の人だったからである。やがて夫人は話をつづけた。
「そんなふうで、わたしは愛蘭のために一生をささげました。あの子は、かわいい陽気な子でした。この子は、いつかは、偉い、そうですね、偉い画家か詩人、あるいは、近ごろでは女医もありますから、わたしの父のような医者が一ばん望ましいけれど、すくなくとも、わが国の新時代の女性の指導者になるにちがいないと、いつもわたしは考えていたものでした。わたしが生んだたったひとりの子は、わたしがなろうとした――学識のある、聡明な、偉い女性になるにちがいないような気がしていました。わたしは外国の教育を受けたかったのですが、自分では受けられませんでした。娘がほうり出した教科書を読んで、知らないことがたくさんあるのを知って悲しくなります……でも、いまになって、あの子がそう偉い人間にはならないだろうということがわかってきました。あの子の才能といえば、笑うこと、からかうこと、きれいなこと、それから人の心をつかむことだけです。何をするにも努力しようとはしません。自分の楽しみ以外は、何も好みません――やさしくはありますが、そのやさしみには深みがありません。親切にするほうが、それをしないより人生が楽しいから親切にするのです。わたしにも、あの子の底が知れたのですよ、元――わたしがつくろうと思っていたものの材料がわかったのです。わたしはだまされません。わたしの夢は消えました。いまでは、あの子が賢明な結婚をすることしか望みません。なぜなら、あの子は結婚するよりほかはないからですよ、元。あの子は男の保護を受けなければならない女です。しかし、わたしが選んだようなところへはお嫁に行かないでしょうし、それにわがままですから、不良青年か、うんと年のちがう愚かな男に、からだを安売りするのじゃないかと心配でたまりません。あの子には、どこかつむじ曲がりのところがあって、そのため、しばらくのあいだ白人となれなれしくしたり、その人といっしょにいるところを見られて得意になったりしたものでした。でも、いまは、そのほうは心配していません。また風向きがちがってきたのです。いまわたしが心配しているのは、むしろこのごろたえずいっしょにいる男のことなのです。わたしがいつもあの子のあとについて行けるものではなし、いとこたちも、いとこの嫁も信用できません。元、わたしを安心させるために、ときどきあの子といっしょに夜出かけて行って、間違いがないように気をつけてくださいませんか」
夫人がこの長話をやっと終わったとたん、愛蘭が遊びに行くしたくをして部屋にはいってきた。銀でふちどった濃いばら色の、ながい、すらりとした衣装を着けて、西洋風のかかとの高い銀色の靴をはき、襟《えり》は最新流行型に深く切りこんであって、子供のような細い、なめらかな、やわらかい首すじを、すっかり見せ、袖《そで》も肩のすぐ下で切りとられているので、ほっそりした、それでいながら骨一つ見えず、やわらかい、ふくよかな肉におおわれた美しい腕が、むき出しになっていた。子供のように細いが、女らしくふっくらした手首には、彫刻した銀の腕輪をかけ、両手の中指には銀のヒスイの指輪をはめ、黒玉のようにつややかに黒い髪は、美しく化粧した顔をふちどるようにカールしてあった。肩には、やわらかい、雪のように白い外套をかけていて、部屋にはいってくると、それをさっとはねのけ、自分が美しいことをよく意識し、自分の美しさに無邪気な誇りを持って、はじめに元のほうを、それから母のほうを、にこやかに笑いながら見た。
夫人も元も愛蘭を見て、目を離すことができなかった。愛蘭のほうも、これを見て、心からうれしそうな、勝ちほこった笑い声をあげた。この笑い声で夫人はやっと娘から目を離し、静かに言った。「今度はだれといっしょに行くの?」
「盛のお友だちとよ」と愛蘭は陽気に答えた。「作家なのよ、おかあさま――有名な小説家――伍麗陽《ウーリーヤン》よ」
それは元もときどき耳にしたことのある名まえであった。――事実、西洋風の小説家として有名な人物で、その小説は自由奔放、男女間の恋愛を取り扱い、たいていの場合、主人公の死で終わっていた。そんな小説なので、元は人にかくれて読み、読んだことを恥ずかしく思っていながら、その小説家に会うことには、すくなからず好奇心を持っていた。
「ときには元も連れて行ってあげなさいよ」と母はおだやかに言った。「あまり勉強が過ぎるって、いつも言っているんですよ。たまには妹やいとこたちと、すこし気晴らししていけないことはありませんからね」
「そうよ、元兄さん、あたしのほうは、ずっと前から待っていたのよ」と愛蘭は、あふれるほどの笑顔を見せ、大きな黒い目でみつめながら言った。「でも、洋服をつくらせなきゃ。おかあさま、兄さんに洋服と靴をつくってあげてよ――こんな服より洋服のほうが足が自由で踊りやすいわ。あたし、男の人の洋服って大好き――あす、出かけて兄さんのものをすっかりそろえましょうよ。ちっともおかしくないわよ、元兄さん。洋服を着れば、だれにだって負けないくらいりっぱになるわ。それに、あたし、ダンス教えてあげるわね、元兄さん。あしたから早速はじめましょう」
元は顔を赤くして首をふったが、最初の決心ほどかたくはなかった。それというのが、夫人の話を思い出し、夫人がいかに親切にしてくれたかを思わないわけにはいかなかったし、これこそ恩義にむくいる道だと思ったからである。そこへ愛蘭が言った。「ダンスができないで、どうするのよ。まさか、ひとりでじっとテーブルについているわけにもいかないじゃないの――あたしたち若いものは、みんな踊るのよ」
「それがご時勢というものですよ、元」と夫人はため息まじりに言った。「西洋からはいってきた、奇妙な、いかがわしい流行です。わたしはきらいですし、賢明なこととも、いいこととも思いませんけれど、事実はそんなものですよ」
「おかあさまって、ずいぶん変わっていて旧式なのね。でも、あたし、おかあさまが好きよ」と愛蘭は笑いながら言った。
しかし、元が口を開かないうちに、扉が開いて、白い胸着に黒の洋服を着た盛がはいってきた。もうひとりの男がいっしょで、それが例の小説家であることは元にもすぐにわかった。それに女もいっしょで、愛蘭と同じような、ただ緑と金色とがちがう衣装を着ていた。しかし元には、近ごろの若い娘は、みんな同じに見えた。みんな美しくて、みんな子供のようにほっそりしていて、みんなお化粧をして、みんな鈴のような声をしていて、たえずよろこびや悲しみの声をあげるのである。だから元は女のほうは見ず、その高名な青年のほうを見た。
それは背の高い、物腰のやわらかな男で、顔は大きくて、のっぺりして白くて、薄い赤いくちびる、黒い細い目、一文字の細い黒い眉《まゆ》など、非常に美しかった。しかし、一ばん目につくのは、話をしているときでさえ、たえず動かしているその手であった。大きな手であったが、女の手のようで、指は先が細く、根もとはふとくてやわらかく、肉はなめらかでオリーブ色で、香油を塗っているらしく、いいにおいのする――肉感的な手なのだ。元はあいさつするためその手を握ったとき、彼の手が自分の手のなかでとけて流れて生温かくなるように感じて、急にふれるのがいやらしくなった。
しかし、愛蘭とその男は、親しげに目を見かわし、彼の目は、彼女の美しさを自分がどう思っているかを大胆に語っていた。そして、それを見ると母の顔には困惑の色がうかんだ。
彼ら四人は、花を運ぶ風のように、とつぜん出て行った。そして、ひっそりした部屋には、また元と夫人だけになった。夫人は元をじっとみつめた。
「元、わたしがあんなことをお願いしたわけがわかったでしょう」と夫人は静かに言った。「あの男は、もう結婚しているのですよ。わたしは、ちゃんと知っています。盛に聞いたのです。はじめは話そうとしませんでしたが、とうとうそのことをうちあけ、当今では、もし妻が旧式で、親が選んでくれた女だったら、男はほかの女と歩いていても、破廉恥だとは考えられていないと教えてくれました。でも、わたしは自分の娘をそんなふうにしたくないのですよ、元」
「ぼく、行きます」と元は言った。そして、前には悪いことだと思われたことも忘れてしまった。なぜなら、それはこの夫人のためにするのであるからだ。
こうして元《ユワン》は洋服をつくってもらうことになり、愛蘭と母が彼といっしょに外国人の店へ行った。その店では仕立師が彼の寸法をはかり、彼のからだつきをしらべた。そして、礼服用としては見事な黒い生地が、ふだん着用としては暗褐色のあらい生地が選ばれた。それから皮の靴だの帽子だの手袋だの、その他外国人が身に着ける細かいものを買った。買物をしているあいだじゅう、愛蘭は、しゃべったり笑ったり、かわいい手を出してあれこれと品物をとり出したり押しやったり、首をかしげて元にはどれが似合うか見たりするので、元も、なかばきまり悪く恥ずかしがりながらも、ついには笑いだし、いままでにないほど陽気な気分になった。愛蘭があまり自由で美しいので、店員まで彼女の言葉に笑いだし、そっと彼女の顔を見たりした。ただ母親だけは、微笑をうかべてはいるものの、ため息をもらした。それというのが、愛蘭は、その言うことすること、すべて軽はずみで、人を笑わせることばかり考え、無意識のうちに、人の目に自分がどううつっているかをさぐり、男が彼女を美しいと思えば――そして、男はみんなそう思うのである――いっそう彼女は陽気になるのであった。
こうして元は、ついに洋服を着せられることになったが、いままではゆったりした長衫《チャンサ》をまとっていた足のあたりの、なんとなくむき出しになった感じに慣れてしまうと、洋服は、すこぶる着心地がよかった。歩くのも自由だし、たくさんポケットがあるので、日常のこまかいものを入れるのに便利だった。また、新調の洋服をはじめて着た日、愛蘭が手をたたき、
「元兄さん、すばらしいわ! おかあさま、見てごらんなさいよ。よく似合うじゃないの、赤いネクタイ――兄さんの浅黒い顔には、よく合うと思ったんだけど、やっぱりそのとおりだったわ」と言ったときには、じつをいうと彼も愉快であった。それから愛蘭は言った。「元兄さん、あたし、兄さんを、どこへだっていばって連れて行くわ――そして、こんなふうに紹介するわ――ミス陳《チン》、兄の元よ、おふたりともお友だちになってくださいな、ミス李《リ》、兄ですわ!」
こうして愛蘭は一団の美しい娘さんたちに紹介するまねをした。元は、きまりが悪くて、どうしていいかわからず、頬《ほお》を新しいネクタイのようにまっ赤にして苦笑いしながら立っていた。しかし、なんとなくいい気持ちで、愛蘭が蓄音器のふたを開け、部屋じゅうに音楽をひびかせ、彼を抱きよせて腕をかけさせ、手をとって静かに踊りはじめたときにも、なかばまごつきながら、非常にいい気持ちで、彼女のなすがままにまかせていた。彼は自然のリズムを自分のなかに感じ、いくらもたたないうちに足がひとりでに音楽に合わせて動いていた。愛蘭は彼がぞうさなく音楽に合わせることをおぼえたのでよろこんでいた。
こうして元は、この新しい楽しみをはじめた。それが楽しいものであることを知ったからである。ダンスが彼の血のなかにわきたたせる欲情を恥ずかしく思うこともあった。そして、この欲情がわいてくると、自分を抑制しなければならなかった。なぜなら、抱いている女を、どんな女であろうと、ぐっと抱きしめ、自分をも相手をも、その欲情のなかへ投げこみたくなるからであった。これまで若い女の手にふれたこともなく、妹や、いとこ以外には若い女には話しかけたこともないのに、温かい明るい部屋で、あやしくもつれあう外国の音楽のリズムにのり、腕にうら若い女を抱いて動きまわることは、元にとって容易なわざではなかった。最初の夜のはじめのうちは、足がいうことをきかず、ステップをまちがえやしないかと、そのことばかりに気をとられ、ちゃんと足を動かすこと以外には、何も考えられなかった。
しかし、まもなく足がひとりでに、そしてほかの人と同じようになめらかに動くようになり、音楽がみちびいてくれるので、元も足のことが気にならなくなった。この大都会のダンスホールに集まった、あらゆる人種や国籍の人々のあいだにまじると、元もそのなかのひとりにすぎなくなり、だれも自分を知らないという気やすさにとけこんでしまった。彼は、ひとりきりであった。そして、自分がひとりきりであり、若い女とぴったり寄り添い、女の手を握っている自分を発見した。はじめのころの彼は、相手の女性のよりごのみはしなかった。みんな美しくて、みんな愛蘭の友だちであり、みんなほかの男と同様に彼にもやさしくしてくれた。そして彼の求めるものは、若い女性を抱き、ゆるやかな甘美な、くすぶっている火、自分では身を投げ出す勇気のないその火で心を燃やすことだけだったのである。
後になって、白昼の光や教室の厳粛さに冷静になったとき、そのことを恥ずかしく思ったにしても、これは危険なことだ、避けなければならぬと自分に言って聞かせる必要はなかった。なぜなら、夫人にたいする義務があって、自分は夫人に力をかしているのだという言い訳があるからである。
彼が妹をよく監視していることは事実で、毎晩ダンスが終わると、愛蘭が帰宅のしたくをするのを待っていて、ほかの娘をいっしょにさそうようなことはなかった。なぜなら、そんなことをすると、その娘を送って行かねばならず、愛蘭をほうっておくことになるからである。自分がこんなふうにして時間を費やしていることを正当化しなければならないので、とくに彼は注意ぶかくし、油断なく見はっていた。伍という男が、しばしば愛蘭と会っていることが事実なので、いっそう目が離せなかった。このことがあるので、楽の音に心を動かされ、抱いている女がぴったり寄り添ってくるときなど、時おり忍びこんでくる甘美な悩ましさも忘れることができ、愛蘭がほかの部屋へ伍といっしょに姿を消したり、冷たい空気にあたるためにバルコニーに出たりすると、なおさらそうであった。そんなとき、彼はダンスが一曲終わり、彼女を見つけ出して、そばにつき添うまで、心が休まらなかった。
しかし愛蘭も、そんなことを、いつも辛抱しているわけではなかった。よく彼女は、ふくれ面をして見せ、ときには怒ってどなることもあった。「あたしのそばにくっついてばかりいないでよ、兄さん。あなただって、もうひとりでほかの女のかたをさがしてもいいころだわ。もうあたしなんかいなくてもいいじゃないの。ダンスだってちゃんやれるしさ。あたし、勝手にさせてもらいたいわ」
これにたいして元は、なんとも答えなかった。彼のほうは老夫人から頼まれたことをうちあけようとしなかったし、愛蘭は、いくら怒っても、そうあからさまに自分の意志を通そうとはしなかった。自分でも言われたくないことを口にするのを恐れているふうであったが、怒っていないときは忘れてしまって、相変わらず彼の愉快な遊び仲間であった。
そのうちに彼女はずるくなって、彼に腹を立てないようになった。むしろ笑って、彼を自分のそばにひきつけておきたいとでもいうように、勝手についてこさせた。そのかわり愛蘭の行くところには、いつも例の小説家がいた。家へは、けっしてこなくなったところをみると、愛蘭の母が自分をきらっていることを、彼は知っているらしかった。しかし、公開の席だろうと友人の家だろうと、愛蘭が顔を出すところを知ってでもいるように、いつも彼女のそばには彼がいるのであった。
元はこの男と踊っているときの愛蘭を注意しはじめたが、こんなとき、彼女は、かわいい顔にまじめくさった表情をうかべていた。そのまじめくさった表情が、あまり彼女にはそぐわないので、元は、しばしばとまどいし、一、二度、夫人にそのことを話そうと思ったこともあった。とはいっても、愛蘭は、たくさんの男と踊るのだから、これといって話すべき事実はなかった。それで、ある晩いっしょに帰るとき、元は愛蘭に向かって、あの男と踊るときは、なぜあんなまじめくさった顔をしているのか、とたずねた。すると、彼女は笑いながら、さりげなく言った。
「たぶん、あの人と踊るのがいやだからよ」そして、口をとがらせ、からかうように元のほうへ赤く紅をぬったくちびるをつき出して見せた。
「じゃ、なぜ踊るの?」と元は無遠慮にたずねた。すると彼女は目にいたずらっぽい色をひそめながら、いつまでも笑っていたが、やがて言った。
「だって、失礼なことはできないじゃないの、兄さん」それで、納得はできないながら、このことは心から追いはらったが、しかしそれは彼の楽しみに一|抹《まつ》の暗影を残した。
ほかにもう一つ彼の楽しみを傷つけることがあった。ちょっとしたありふれたことではあるが、それが存在することは事実だった。花で飾られ、あきるほどの酒や料理がまきちらされ、こぼされている、温かい明るい深夜の部屋から出てくるたびに、元は忘れたいと思っているもう一つの世界に足を踏みこむような気がするのであった。というのが、夜の闇のなかや、夜明けの薄光のなかに、乞食や食うに困った貧民が戸口にむらがっていたからだ。眠ろうとしているものもあるが、なかには客の去った後の歓楽場へ野良犬のごとく忍び入り、テーブルの下をあさって、投げすてられた食べものの屑《くず》を盗もうとするものもあった。その余裕は、わずかな時間しかなかった。なぜなら、給仕たちがどなりつけ、けとばし、足を持って引きずり出し、門を閉めてしまうからである。愛蘭や彼女の友だちは、このような哀れな人たちを見ようとはしなかった。また、見たにしても一顧もあたえず、野良犬を見るように慣れっこになっていて、めいめいの車から笑ったり声をかけあったりしながら、楽しそうにわが家の寝床へと帰るのであった。
しかし、元の目には彼らの姿がうつった。見まいとしても見えた。そして、深夜の歓楽の最中でも、音楽やダンスの最中でも、薄明の町に出て貧民の無気力な姿や狼《おおかみ》のような顔を見なければならない瞬間が、はげしい恐怖をもって思い出されるようになった。こうした貧民のひとりが、はしゃぎまわる金持ち連中の無関心さに業《ごう》をにやし、手をのばし婦人の繻子《しゅす》の衣装にすがりつくこともあった。
そんなときは、男の声が、いたけだかにどなりつけた。「手をはなせ! おまえのそんなきたない手でご婦人の繻子のお召し物にさわって汚すとは何事だ!」すると、そこに立っていた警官がかけつけてきて、爪ののびた、きたない手をたたきのけるのであった。
しかし、元はそれを見る勇気もなく、首をうなだれ、急いで通り過ぎた。というのが、彼は棍棒でなぐられるのは自分の肉であり、骨を折られてたじろぎ、ぐったりとたれるのは自分の飢えた手のように感じる心を持っていたからだ。そのころの元は快楽を愛し、貧しい人たちを見たくなかったのだが、見たくないと思っているときでも、彼らの姿が目にうつるような人間に生まれついていたのである。
しかし元の生活は、そんな夜ばかりではなかった。他の学友たちにまじって、学校で勉強するきびしい日々があり、そして彼は、愛蘭が詩人および反逆者と呼んでいた、いとこの盛《シェン》や孟《メン》を、もっとよく知るようになった。このふたりは学校では真実の自分を示し、教室や運動場で大きなボールを投げあっているときなど、この三人のいとこは、われを忘れることができた。みんなきちんと机に向かって講義を聞いたり、飛びはねたり、友人に大声でどなったり、だれかが競技でしくじるとどっと笑ったりして、元は家庭では知らなかったいとこたちを知るようになった。
なぜなら、家庭で目上の人といっしょにいるときの青年は、けっして彼らのほんとの姿ではなく、このふたりのいとこも、そうであった。盛《シェン》は、いつも無口で、だれにたいしても肌ざわりがよく、詩のことは人にはかくしていた。孟《メン》は、いつも仏頂面をしていて、こまごましたものや茶わんなどがいっぱいのせてあるテーブルによくぶつかったりするので、しょっちゅう母親にしかられていた。
「こんな水牛みたいな子は家にはいなかったよ。盛のように、おとなしく静かに歩けないのかね」ところが盛が遊びに行っておそく帰ってきて、翌朝学校にまにあうように起きられなかったりすると、母は盛に向かって言うのであった。「つねづね言うことだけど、わたしほど苦労のたえない母親はありませんよ。息子といえば、ろくでなしばかりで。孟のように夜はちゃんと家にいたらどうなの! あの子が洋鬼《ヤンキー》のような服を着て、夜になるとこっそり出かけて、どんな悪いところかわからないようなところに行くのは見たことがありませんよ。おまえを、そんな悪いことに引っぱりこんだのは兄さんだし、兄さんをあんなにしたのはおとうさんですよ。もとはといえばおとうさんが悪いのです。わたしはいつもそう言っているんですよ」
じつをいうと、盛は兄が行っている歓楽場にはけっして行っていなかったのである。なぜなら盛は兄より趣味のいい快楽を求めているからで、愛蘭が行く場所で、元はよく彼の姿を見かけたものだった。元や愛蘭といっしょに行くこともあったが、たいていは愛している女性とふたりきりで行って、ひと晩じゅうふたりは黙々と、そしてしごく楽しそうに踊っていた。
こうして兄弟たちは各自勝手に行動し、この雑然とした大都会のかくれた生活に熱中していたのであった。盛と孟は非常に性格がちがうので、ことごとに衝突しそうに思われた。年がうんとちがう長兄を相手にするよりは、すぐけんかになりそうに思えた。彼らと長兄とのあいだには、若くして王虎《ワンホウ》将軍のところへやられたが、軍人をきらい、首をくくって死んだ兄があるので、年がひらいているのである。しかもふたりはけんかをしなかった。その理由の一つは、盛は、じつにやさしい、なごやかな青年で、けんかなどつまらぬものと考え、孟の勝手にさせているからでもあるが、また一つには、おたがいの秘密を知っているからでもあった。盛が、あるいかがわしい場所へ行っていることを孟が知っているとすれば、盛は、孟が秘密革命党員で、目的こそちがっておれ、盛が行く場所よりもっと危険な秘密の会合場所を持っていることを知っていたのだ。こうしたわけでふたりとも相手のことは黙っていて、母親の前でも相手を犠牲にして自分を弁護するようなことはしなかった。ところが、時がたつにつれて、ふたりとも元を知るようになり、ますます元が好きになった。それというのが、一方が元だけに話したことを、元はけっして他方にもらすようなことはなかったからである。
そしていまでは学校が元の生活の大きな楽しみとなりはじめた。彼は実際に学問が好きだったからである。新しい本を山ほど買いこんで両脇にかかえてきたし、鉛筆も買ったし、ついには、ほかの学生がみんな持っているような外国製のペンを誇らしげに買って上着の端にさし、昔から使っていた筆は、月に一度、父に手紙を書くとき以外、まるっきり使わなくなった。
本という本は元にとって魔法であった。彼は、きれいな、読んだことのないページを熱心にめくり、一語一語を頭にきざみこもうと思い、ただ学問を愛するがためにのみ勉強をした。目がさめれば、まだ暗いうちに起き、本を読んだ。そして、わからないところがあると暗記をした。こうして、読んだところをおぼえて行った。そして早い朝食をすますと――彼が学校へ行く日は、愛蘭も.母も、そんなに早くは起きないので、たったひとりで食事をした――彼は家をかけ出し、まだ人通りもすくない町を歩いて行き、いつも一ばん早く学校に着いた。そして教師がちょっとでも早くくると、元はその機会を利用し、内気さに鞭《むち》打って、わからないところを質問した。ときには教師が休講することがあったが、そんなとき、普通の学生は一時間遊べるというのでよろこぶが、元はよろこばなかった。むしろ、悲しむべき損をしたと思い、その時間は教師が講義するはずだったところを自習して過ごした。
そんなふうなので、学問することは、元にとってもっともよき楽しみであった。世界じゅうの国の歴史、外国の小説や詩、生物学などは、いくら勉強しても、あきることがなかった。なかでも、植物の葉、種子、根の内部構造を研究したり、いかにして雨や太陽が土壌を形成するかを教わったり、作物はいつ植えるか、どうしてその種子を選ぶか、どうして収穫を増すかなどを学ぶのが好きだった。こうしたことや、もっと多くのことを元は学んだ。彼は食事や睡眠の時間もおしんだが、彼の大きな若い肉体が、いつも腹をへらしていて、食物と睡眠を要求するのでこれは仕方がなかった。しかし、老夫人は、このことをよく見ていた。何も口に出しては言わないが、彼のほうでは気づかずにいても、夫人のほうは、よく注意していて、彼の好きな料理をなるだけ多く食膳に出すように心をくばっていた。
彼は、いとこたちともよく顔をあわせ、彼らは日ましに元の生活の一部になって行った。盛は元と同級で、よく自作の詩や作文を朗読させられ、ほめられることがあった。そんなとき、元は謙虚な羨望《せんぼう》をもって彼を見、自分もあのようななだらかな韻を踏んだ詩をつくりたいものだと思った。もっとも、盛は得意そうにもせず、目をふせ、ほめられてもうれしくはないというようなふりを装っていた。そして、みんなもそれをほんとうだと思いそうになるのだが、盛は美しい口もとに得意そうな微笑をうかべ、知らず知らず内心うれしさを見せてしまうのであった。元はそのころあまり詩をつくらなかった。あまり忙しい生活をしているので詩想がわいてこなかったし、たといつくったにしても、蕪雑《ぶざつ》な言葉しかうかんでこず、またその言葉を昔のようにまとめることができなかった。彼には自分の思想があまり大きいので、形にならず、はっきりとらえて言葉の枠《わく》にはめこむのがむずかしいのだという気がした。おおいに推敲《すいこう》し、幾度も書きなおしたときでさえ、老教師はよく言ったものだった。「おもしろい。なかなかよくできとる。だが、きみの言おうとする意味がわしにはわからん」
ある日、元が種子を題材にして詩をつくって見せたときも、老先生はこんなふうに言ったが、元も自分の言っている意味を明確に言うことができず、どもりながら言った。
「ぼくが言おうとしたのは――種子のなかには、種子という究極の原子のなかには、それが大地にまかれるとき、種子はもはや物質ではなくなり、魂のようなもの、エネルギーというか、一種の生命というか、精神と物質との中間のようなものになる瞬間があって、種子が成長しはじめるその変形の瞬間をとらえ、その変化を理解することができたら――」
「うむ、なるほど」と先生は納得しかねたような顔で言った。親切な老人で、いつも眼鏡を鼻の下のほうにかけていて、いまもその眼鏡越しに元をみつめた。長年、学生を教えてきたので、自分の求めているものがはっきり固定しており、どういうものがいいかという標準ができあがっているのである。先生は元の詩をおき、眼鏡をおしあげ、つぎの紙をとりあげながら、考え考え言った。「きみにも、あまりよくわかっていないようじゃね……ほら、ここに、もっとよくできた詩がある。『夏日漫歩』という題じゃ――なかなかいい――読んで聞かせよう」それは盛のつくった詩であった。
元は黙りこみ、自分の思想を心におさめ、先生の読む詩を聞いた。彼は盛の美しい流れるような思想や、清澄なリズムをうらやんだ。しかもそれは身をもむような羨望ではなく、いとも謙虚な、賛嘆の念をこめた羨望であって、彼の美貌、自分よりもはるかに美しい盛の容貌をひそかに愛しているのと同じ気持ちであった。
とはいいながら、元には、ほんとうの盛というものがわからなかった。というのが、盛は、いつもにこやかに、いんぎんな率直さを示すのだが、だれも盛をよく知っているものはいなかったからだ。彼は、やたらに賞賛や好意に満ちたやさしい言葉を口にするし、よく心やすげに話をするのだが、しかも彼の言葉は彼の本心を語るものではなかった。彼は元のところへきて、「きょう学校が終わったら、映画を見に行かないか――『大世界座』に、とてもいい外国映画がかかっているんだ」などと言うことがあった。しかも、いっしょに映画館まで歩いて行って、三時間もいっしょにいて帰ってきて、元は盛といっしょで楽しかったとは思うのだが、さて考えてみると、盛が何を言ったか、おぼえていないのである。おぼえているのは、ただ、薄暗い映画館のなかの盛の微笑をうかべた顔と、輝くような、妙な卵形の目だけであった。一度だけ盛が、孟と彼が奉じている主義について話したことがあった。
「ぼくは、あの連中とはちがうよ――ぼくは革命党員なんかにならない。自分の生活を、あまりにも愛しているし、それにぼくは美しか愛していないからね。ぼくが心を動かされるのは美だけなのだ。どんな主義だろうと、そのために死にたくはないね。いつかは外国へ行くだろうが、外国のほうが美しかったら帰ってこないかもしれない――そんなことはわかりゃしないよ。ぼくは大衆のために苦しむ気にはなれないね。やつらは、きたなくてニンニクのにおいがする。勝手に死ぬがいいんだ。やつらなんかいなくたって困りゃしないよ」
彼はこれを、じつに静かに楽しそうに言ったのである。そのときふたりははなやかな劇場のなかにいて、着飾った男女がお菓子やクルミを食べ、外国のたばこをふかしているのを見ていたのだが、彼の言葉は、それらの人々の声を代表したものだったかもしれない。しかも元は、このいとこに非常な好意をよせているにもかかわらず、「勝手に死ぬがいいんだ」という言葉を平気で言う彼に冷酷さを感じないではいられなかった。なぜならば元は、いまでも死を忌みきらい、その当時の彼の生活は貧乏人には交渉がなかったのだが、それにもかかわらず彼は彼らが死んだほうがいいとは思わなかったからである。
しかし、盛がその日言ったこの言葉によって、元はその後盛に会ったとき、孟についてもっとたずねてみる気になった。孟と元は、あまり話をしたことはなかったが、フットボールをいっしょにやることがあるので、元は孟の突撃ぶりや跳躍のはげしさに好意を持っていた。孟はだれよりもたくましい肉体を持っていた。学生たちは、たいてい青白い顔をして、無気力そうで、たくさん服を着ていてそれをぬごうとしないので、走るにしても子供みたいだし、ボールをとるにしてもまごつくし、投げるにしても女の子のように横から投げるし、蹴るにしてもそっとしか蹴らないので、ボールはごろごろころがるだけで、すぐとまってしまうのであった。ところが孟は、まるで敵にでも出あったようにボールにとびつき、かたい皮の靴をはいた足で蹴るのである。ボールは高くまいあがり、落ちてくると大きくバウンドして、またはねあがる。孟のからだはフットボールにきたえられているので、元は盛の美しさを愛するように、孟のたくましさを愛した。
それで、ある日、元は盛に向かって、「孟が革命党員だってこと、どうしてきみは知ってるんだい」とたずねた。すると盛は答えた。「孟が自分で話したんだよ。いつもぼくには自分のしていることを打ち明けるんだ。話すのは、ぼくだけだと思うけど、ときには心配になることがあるよ。父や母や兄にも、孟のしていることは話さないようにしているんだ。話せば親たちは孟に叱言《こごと》を言うだろうし、孟は、すぐかっとなる性質だから、家出もしかねないからな。いまはぼくを信頼して、たいていのことは話すので、あれがどんなことをしているか知っているが、打ち明けようとしない秘密があることも知っている。というのは、何か気ちがいじみた救国の盟約を結んでいて、腕を切って血を出して、その血で加盟文を書いたらしいのだ」
「それで、ぼくらの学校にも革命党員はたくさんいるのかい」と元は、すこし心配になってたずねた。というのは、それまでここなら安全だと思っていたのに、どうやらあまり安全でもなさそうな気がしてきたからである。軍官学校の同窓生もやっていて、しかも彼がその仲間にはいろうとしなかったことを、ここでもまたやっているからである。
「たくさんいるよ」盛は答えた。「それに、なかには女学生もいる」
元は目をまるくして驚いた。彼の学校には女学生もいた。男の学校の多くは、法律で女学生の入学を許しているので、この進歩的な海岸都市では、それが習慣になっていたのである。そして、学問をしようと志す女学生は、あまりそれをよろこばなかったとはいえ、彼の学校だけでも、三、四十人はいて、教室でもちらほら見かけたが、彼女らは、たいてい美しくなく、またいつも勉強ばかりしているので、元は注意もしなければ、学校生活の一部とも考えていなかった。
ところが、この日以来、盛の言葉が気になって、元は女学生たちを以前よりも好奇心をもって見るようになり、本をかかえ目を伏せている女学生のそばを通るたびに、こんなとりすました女が、あんな秘密の陰謀に荷担しているなどということが、あり得るだろうか、と思った。とくに彼の注意をひいた女学生がひとりいた。元と盛のクラスでは、それが、ただひとりの女学生だったからであろう。やせて、飢えた小鳥のように骨ばっていて、顔は繊細でとがり、頬骨が高く、鼻筋が通って、その下の薄いくちびるは色が悪かった。教室では口をきかず、書く文章は、よくも悪くもなく、教師に批評されたこともないので、彼女がどんなことを考えているか、だれも知らなかった。しかし、彼女は、いつも講義に出て、教師の言う言葉に、じっと耳を傾けていて、ときどきその細い陰気な目に興味の色が輝くように見えるだけだった。
元は好奇心から、その女学生のほうをよく見ていた。そして、ある日とうとう彼女は彼の視線を感じて、彼のほうを見返した。それ以後は元が彼女のほうを見ると、いつも相手が、ひそかにじっとこちらを見ているのを発見したので、もう彼女を見るのをやめにした。しかし、その女学生はだれとも交際していないようなので、彼は、その素姓《すじょう》を盛にたずねてみた。すると盛は笑って答えた。
「あれか! 例の仲間のひとりだよ。孟の友だちでね――ふたりでいつも秘密の相談や計画をしているよ――あの冷たい顔を見たまえ。冷たい人間が、しっかりした革命党員になるのだよ。孟は熱しすぎる。きょうは熱中しているかと思えば、あすは絶望している。だが、あの女は、いつも氷のように冷たく、氷のように変わらず、氷のように固い。ぼくは、そんなにいつも同じように冷たい女はきらいだね。しかし、あの女は、孟がのぼせあがって、はやまって計画を発表しようとしたりするときには冷静にしてくれるし、失望しているときには、いつも変わらぬ態度で元気をつけてくれるのだ。あの女は、すでに革命がおこっている奥地からきているのだよ」
「あの連中は、どんなことを計画しているのかね」と元は声をひそめ、好奇心にかられてたずねた。
「革命軍がきたら、得意になって迎えようと計画しているのさ」と盛は言って肩をすくめ、人に聞かれないように、ぶらぶらと歩き出した。「あの連中がもっとも力をいれて働きかけているのは、いくら毎日稼いでもわずかな賃銀しかえられない工場労働者だよ。それから人力車夫たちに向かって、どんなに彼らが踏みつけにされているか、外国の警察が、どんなに残酷に彼らを圧迫しているかといったようなことを話し、いよいよ勝利の日がきたら、こうした下層階級が蜂起《ほうき》し、いつでも権利を獲得できるように工作しているのだよ。まあ、待っていたまえ、元――やつらは、きみを口説きおとしにくるから。そのうちに孟がくるよ。このあいだも孟がぼくにきいていたよ、元はどんな人間だろう、心のなかでは革命に賛成なのだろうかって」
ついにある日、孟は元をさがし出し、片手を肩にかけ、片手で着物の袖をとらえ、いつもの不機嫌そうな調子で言った。「きみとぼくとはいとこなのに、ふたりきりで会ったこともあまりないし、これではまるで他人みたいじゃないか。校門のそばの喫茶店へ行って、いっしょに飯でも食おうじゃないか」
最後の授業が終わって、みんな自由になったところだったので、元は断わるわけにもいかず、孟といっしょに行った。ふたりはしばらく喫茶店にいたが、孟は、とくに話があったわけではないらしかった。なぜなら、ただ町をながめて、通りがかりの人を見ているばかりだったからで、たまに口をきくとしても、それは目にうつるものに辛辣《しんらつ》な冗談をあびせるためであった。
「あの自動車に乗っているふとった偉そうなやつを見たまえ! 食いくたびれて身動きもできないでいる。搾取《さくしゅ》階級だよ――高利貸か銀行家か工場主だ。見ればわかる。噴火山の上にあぐらをかいていることを自分で知らないんだ!」
いとこの言う意味はわかったが、元は黙っていた。もっとも、正直にいうと、その男より孟の父のほうがふとっていると心に思ったのであるが。
また孟は、こんなことも言った。「あの人力車をひいている男を見たまえ――食うものもろくろく食っちゃいない――ほら、交通違反をやった。田舎から出てきたばかりなので、巡査が手をあげているときには道を横ぎってはいけないことを知らないんだ。ほら、ぼくが言ったとおりだ。見たまえ、巡査がなぐっている――人力車をひっくり返してクッションをつかんだ! これであの車夫は車もきょうの稼ぎも失ってしまったのだ。しかも、やはり今夜も車を借りた親方に金を払わなくちゃならないんだ」
この事件を見、車夫が絶望にうなだれて立ち去る姿を見送っているうちに、孟の声がふるえてきたので、元がふり返ってみると、驚いたことに、このおかしな青年は憤怒のあまり泣き、しかも涙を流すまいと不器用にそれをこらえているのであった。元が同情の目で自分を見ているのを見て、孟はのどをつまらせながら言った。「話のできるところへ行こう。ぼくは話をしないではいられない。やつらの圧迫をあんなに辛抱強く忍んでいる愚かな人間を見ると殺したくなるよ」
元は孟をなだめるため自分の部屋へ連れて行き、扉を閉めて興奮がおさまるまで話をさせた。
こうして孟と話したことが、元の心に忘れたいと思っていた良心のようなものをめざめさせた。元はこのごろ安逸な生活を、快楽や刺激を、義務からの解放を、自分の好きなことだけをしていればいい生活を愛した。いっしょに住んでいる老夫人と愛蘭は賞賛と愛情を惜しげもなくあたえるので、彼は温かさとやさしさにつつまれて暮らしていた。世の中には、身を温めるに衣なく、腹を満たすに食のない人々がいることを、ともすれば忘れがちであった。自分があまりに幸福だったので、悲しいことを考えようとはせず、ときに夜明けの薄明のなかで、父がまだ自分の上に権力をふるいうるかもしれぬと考えることがあっても、老夫人の手腕と親切とに信頼して、そんな心配は追い払ってしまった。ところがいま、孟が話した貧しい人々のことが、またしても彼に、かつてのような暗い影を投げかけ、彼はその影にまともから打ち向かうことができなかった。
とはいうものの、こうした話によって、元は、いままで知らなかった面から祖国というものを見ることを学んだ。土の家で暮らしているころ、彼は祖国を広々とした美しい土地として見ていた。彼は祖国の美しい、いわば肉体を見たのである。そのときでも彼は民衆というものを深く感じなかった。ところが、この都会の町々で、祖国の魂を見ることを、孟は教えてくれたのである。下層階級や労働者に加えられるどんなわずかな侮辱にも孟は憤りをもって注意するのだが、元は自分よりも年の若い青年によって、そうしたものに注意することを学んだのであった。
非常に富裕なものがいるところには、かならず非常に貧しい人がいるものである。元が町を歩いていると、そうした貧しい人が、たくさん目にうつった。というのは、たいていの人が貧乏だったからで――もっとも悲惨なのは盲目で病気のため汚れくさり、生まれて一度も湯を使ったことがない飢えた子供たちであった。しかも両側には、あらゆる商品をならべた大きな店があって、屋根には絹の旗がひるがえり、バルコニーには楽隊が音楽を演奏し、たくさんの顧客をひきよせているにぎやかな明るい町々にさえ、きたない乞食が哀《かな》しい声をあげて物を乞《こ》い、どの顔を見てもやせて土のような色合をしていて、まだ日も暮れないうちから、餓鬼のような客をあさるために、淫売婦《いんばいふ》がうろうろしているのであった。
元は、こうしたものすべてを見た。そしてついには、孟の心よりも彼の心のほうが、はるかに深い傷を受けた。なぜなら、孟は義に殉《じゅん》ずる人間、あらゆるものを主義に役立たせずにはおかぬ人間だったからである。飢えた人々とか、外国に鶏卵を輸出する工場の内外へ投げすてられる腐った鶏卵を拾うために集まった貧民とか、一銭のカユを買い、それをすすっている貧民とか、牛馬にも重すぎるほどの荷物を背負ってゆく苦力《クーリー》とか、あるいはまた、貧民が物乞《ものご》いをしているというのに笑いさざめいている遊惰な金持ちや、絹をまとい化粧をした女を見るとき、孟の憤りは爆発し、彼の感じるすべてのものにたいする解決として、彼は、つねにつぎのように絶叫するのであった。
「われわれの主義が成就するまで、この状態は絶対に改善されはしない。どうしても革命が必要なのだ。われわれはブルジョアをたたきつぶし、われわれを強圧する外国人を追い払い、貧乏人の生活を向上させなければならない。それには、ただ革命あるのみだ。元、きみは、いつこの光明を見て、われわれの主義に参加してくれるのだ? われわれは、きみを必要としている――祖国は、われわれすべてを必要としているのだ!」
孟は怒りをこめた燃えるような目を元に向ける。それは元が約束するまでは離さぬとでもいうような勢いであった。
しかし、元は約束をすることができなかった。彼にはその主義が恐ろしかったからである。けっきょくそれは彼がそこから脱出してきた主義と同じものではないか。
それに元は、病弊を解決する主義というものが、なんとなく信用できなかったし、また孟のようにブルジョアを当然のことのようにはげしく憎むこともできなかった。金持ちのからだがふとっていること、指にはめた指輪、外套の裏につけた毛皮、夫人の耳につけた宝石、顔の口紅、白粉《おしろい》、そういったものが、ますます孟を主義に追いやるのであった。ところが、たといそれが金持ちの顔であろうと、親切な表情が浮かんでいれば、元は心ならずも、それを見ないではいられないし、また、たとい繻子《しゅす》の服を着ていようと、乞食に銭を恵む脂粉の装いをした女の目に憐憫《れんびん》の色を見ることができたし、それに、金持ちの口から出ようと貧乏人の口から出ようと、彼は笑い声が好きであった。たとい悪人だと知っていても、笑う人は好きであった。孟は皮膚の色の黒白によって、人間を愛したり憎んだりするのだが、じつをいうと元には、どうしても「この男は金持ちだから悪人だ、この男は貧乏人だから善人だ」とは思えず、したがって、それがどんな偉大な主義であろうと、主義というものを信ずることができなかった。
元は、この都会の群集のなかで生活している外国人を、孟のように憎むことができなかった。この都会は世界各地との貿易が盛んなので、あらゆる皮膚の色、あらゆる国語の外国人が、いっぱいいて、どこへ行っても彼らの姿が目についた。おとなしいものもいるが、なかには騒々しくて性悪で、酔っ払いもいるし、貧乏人も金持ちもいた。孟は、何よりも金持ちを憎むが、とくにひどいのは金持ちの外国人であった。酔っ払った外国の船員が人力車夫を蹴とばしているとか、白人の女が商人から何か買って請求されただけの金を払うまいとしているところとか、こうした多くの国籍のものが集まってともに生活している海岸都市ではよく見うける光景を見ても、孟には、それが堪えられないほど残酷なことに思われるのであった。
孟は外国人の生活の風習そのものにさえ憤りを感じた。外国人に出会うと、一歩も道をゆずろうとしなかった。彼は青年らしい顔をいっそう不機嫌そうにし、肩をいからせ、たとい相手が女であっても、外国人に道をゆずらせれば、それだけ愉快なのであって、憎悪をこめてつぶやくのであった。「やつらなんぞ、われわれの国へきてもらわなくてもいいんだ。やつらは、われわれから盗み強奪するためにきているのだ。やつらは宗教でわれわれの魂を奪い、貿易で品物や金を奪っているのだ」
ある日、元と孟とが学校からの帰途、いっしょに町を歩いていると、白人のように皮膚の色が白く、鼻は高いが、目や髪は黒くて、白人のようでもない、背のすらりとした男に出あった。すると孟は憤りをこめた一瞥《いちべつ》をくれ、元に向かって言った。「この都会で、何よりもきらいなのは、いまのような人間なのだ。どっちつかずで、血が混じっていて、信頼できず、心が二つにわかれている。中国人でありながら、男にしろ女にしろ、外国人の血と自分の血を混ぜるほど自己を忘れるなんて、ぼくには理解できない。ぼくは、そんなやつら、いま出会ったようなやつらは、みんな売国奴《ばいこくど》として殺してやりたいよ」
しかし、元はその男のおとなしそうな表情や、色こそ白いが忍耐強そうな顔を思い出さずにはいられなかった。「やさしそうな男だったじゃないか。皮膚の色が白くて混血だというだけの理由で、ぼくには、あの男が悪人だとは考えられないね。両親のしたことは、どうにもしようがないじゃないか」
しかし、孟は叫んだ。「きみは彼を憎むべきなのだよ、元! 白人がわが国にどんなことをしたか、残酷な不当な条約をもって、われわれを囚人のようにしばりつけているのを、きみは知らないのか。われわれは自然の法律さえ持つことができないのだ――白人がわが国民を殺しても、ほとんど罪に問われないのだ――わが国の法廷にさえ出ないのだ――」
孟がいきり立ってこんなことを言っているあいだ、元はわびるような微笑をうかべて聞いていた。なぜなら、相手がいくら激してきても彼は冷静であって、国家のため憎むべきだというのは正しいかもしれないとは思いつつも、憎む気になれないからであった。
こんなふうで、元はまだ孟の主義に参加することはできないでいた。孟からすすめられると、内気そうな微笑をうかべるだけで何も言わなかった。しかも、いやだとは言えず、忙しいからと言って――そんな偉大な主義のためにさえ、彼はひまがなかったのである――その場その場のお茶をにごしていたので、ついには孟もあきらめ、彼とは口もきかなくなり、会っても無愛想にちょっと頭をさげるだけになった。
祝祭日とか救国記念日とか、旗をうちふり、歌をうたって行進しなければならないときは、元も売国奴と非難されないために、みんなと同じように行進に参加した。しかし、秘密の会合とか陰謀には加わらなかった。ときどき、こうした陰謀団の話を耳にすることがあった。ある権力者を暗殺するため、ひそかに部屋へかくしておいた爆弾が発見されたというような話であった。それから、一度などは、外国人と親密な交際をしているという理由で憎んでいた教授を、陰謀者の一団が袋だたきにしたこともあった。しかし元は、こんな話を聞くと、ますます熱心に学問に心を向け、興味をほかへ向けないようにつとめた。
じつのところをいうと、このごろの元の生活は、しなければならないことがあまり多すぎて、根底にどんなことがあるのか、考えるひまがなかったのである。貧富ということをはっきりと最後まで考えないうちに、あるいは孟の奉じている主義の意味を理解しないうちに、または歓楽さえ十分に味わわないうちに、もうほかのことが頭にからんでくるのである。
学校では、あらゆる知識を得た。いままで知らなかった学課だの、実験室で目の前に展開される科学の魔術だの、多くのことを学び、多くのことをした。化学実験のときでさえ、彼は敏感な鼻を不快にする悪臭をきらい、自分でつくった化合物の色彩の美しさにうっとりとした。二種の、なんでもない液体を一つにすると、急に泡《あわ》だって新しい生命、新しい色、新しいにおいを生じ、こうして第三のものが生まれるのを、彼は驚異の目をもって見た。そのころの彼の心には、全世界が一つに集まっているこの大都会のあらゆる思想や認識が流れこんでいて、昼も夜も、その一つ一つが何を意味するか理解するひまなどなかった。あまりに数が多いので、彼は一つのことに没頭することができず、心のなかで、いとこたちや妹のことを非常にうらやましく思うこともあった。というのが、盛は夢想と恋愛のなかに生きているし、孟は主義のなかに、そして愛蘭は美貌と快楽のなかに生きているからであって、いろいろなもののなかに支離滅裂に生きている元から見ると、しごく安楽な生活のように思われたからである。
この都会の貧しい人たちも、貧しい暮らしをしていると、そう愛すべき存在ではないので、元は、かならずしも憐れみを感じることはできなかった。彼も彼らを憐れみ、食物や衣服をあたえたいと思い、金を持っているとき、乞食が腕に手をかけたりすると、ほとんどといっていいくらい金を恵んでいた。しかし、金を恵むのは憐憫《れんびん》の情からばかりではなく、すがりついてくる彼らのきたない牛や、車のそばに寄ってきては、「お情けをかけてくださりませ、お若い旦那さま――お情けをかけてくださりませ、わしも子供たちも飢え死にをいたします」という泣き声から解放されたいからでもあった。この都会には乞食よりもさらにぞっとするような光景が一つあった。それは乞食たちの子供である。小さな顔に乞食商売のあわれな表情をすでに刻みこんでいる、ぴいぴい泣く極貧の子を、元は見るに忍びなかったし、またもっともひどいのは、裸の母の骨と皮ばかりの胸に抱かれている半裸の飢えた赤ん坊の姿であった。元は、そうした人たちから、身ぶるいしながら身をひいた。彼は銭を投げあたえ、目をそらし、急いで通り過ぎた。そして、ひとり心に思った。(あの貧しい人たちが、これほど醜悪でなかったら、自分だって孟の主義に参加するかもしれないのだが!)
とはいいながら、こうした自国の同胞から彼を完全に引き離すことをはばむものが他に残っていた。それは大地や田畑や木々にたいする彼の昔ながらの愛情であった。都会に住んでいると、冬のあいだはその愛情が薄れて行って、元はよく忘れていることがあった。しかし、春が近づくと、彼はなんとなく落ちつかなくなった。暖かくなると、都会の小さな公園にも木々が芽ぐみ、町には、天びん棒の両端に籠《かご》をつけ、それに花盛りの紅梅の盆栽や、すみれや春の百合の大きな花束をかついでくる行商人の姿があらわれた。なごやかな春風にあたると、元はむずむずしてきた。そして春風は彼にあの土の家が立っている小さな村のことを思い出させ、足にこの都会の舗道でないどこかの大地を踏みたいというあこがれを感じた。そこで元は、この春の新学期から、土地の耕作を教えてくれる課目の授業を受けることにした。そして彼も、ほかの学生とともに、郊外に小さな土地を割り当てられた。それは教科書で習ったことを、この土地で実習するためであって、この小さな土地に種子をまいたり、雑草をとったり、そういった労働をするのが、元の仕事の一部だったのである。
元に割り当てられた土地は、たまたま一ばん端にあって、ある農夫の畑と隣合せになっていた。そして、元がはじめてその土地を見に行ったのは、ひとりで行ったのだが、そのときその農夫は、にやにや笑いながら、こちらを見ていて、やがて大きな声で話しかけてきた。
「あんたがた学生さんが、ここで何をするのかね。学生さんというものは本で学問をするものとばかり思っとったがの」
それで元は答えた。「近ごろでは、種をまくのも、とり入れをするのも本で習うんですよ。それから、種子をまくために土地を耕す方法も習うのです。ぼくはきょうはそれをやろうと思ってきたんです」
これを聞くと百姓は大笑いし、ひどく軽蔑をこめた調子で言った。「わしは、この年になるまで、そんな学問なんか聞いたこともないね。百姓というものは、親が子に教える、そしてその子がまたその子に教える――隣のやり方を見て、隣のするとおりにすれば、それでいいだでのう」
「それで、もし隣のやり方がまちがっていたら?」と元はにこにこ笑いながら言った。
「そんなときは、隣の隣の、まちがいのない人のを見るさ」と百姓は言って幾度も笑い、それから自分の畑を耕しにかかったが、何かひとりつぶやいたり、手を休めて頭をかいたり、からだをゆすってまた笑ったりしていたが、やがて大きな声で言った。「うん、わしは、そんなこといままでに聞いたこともない。わしの息子は学校なんかにやらなくてよかったというもんだ。むだに銭を使って、百姓仕事を習わせるなんて! 学校で習うより、わしのほうが、うんと教えてやれるというもんだて」
ところで、元はいままで鍬《くわ》というものを握ったことがないので、いまこの柄のながいやっかいな代物《しろもの》を手にとると、どうにも重くて、うまく使いこなせなかった。いくら高くあげても、土のかたまりをくだくようにうまくふりおろせず、いつも横のほうに行ってしまうのである。汗だくだくになるまでやっても、できなかった。その日は春にしては寒く、肌を刺すような風が吹いていたが、まるで真夏のように汗が流れた。
とうとう彼はあきらめて、百姓はどうしているかと思って、そっとそのほうをうかがって見た。というのが、百姓の鍬は規則正しく上下し、鍬の先が落ちるたびに、ちゃんとねらいが狂わないからである。とはいうものの、元にも、いくらかの誇りはあったから、自分が見ているのを、百姓が気づかないでくれればいいと思った。しかし、百姓はいま自分のほうを見ているばかりでなく、いままでもずっと見ていて、元がめちゃくちゃに鍬をふりまわしているのを見て内心笑っていたのだということがわかった。元の視線をとらえると、彼はまた大声で笑い、畑を大股に歩いてきて言った。
「すっかり本で習ったんだから、まさか、隣の百姓のやり方を見てたんじゃあるめえね!」そう言って笑って、またつづけた。「おめえさんがたの本には鍬の持ち方も書いてねえのかね」
元は、くだらぬ怒りに、ちょっと苦しんだ。それというのが、驚いたことに、この土百姓の笑い声を聞くと、たまらない気がしたし、また一方、こんなちっぽけな土地さえ耕せないで、種子などまけるものではないと、悲しいながら自分でもはっきりわかったからである。しかし、理性の力がやっと彼の羞恥《しゅうち》をおさえた。彼は鍬をおろし、自分も笑い、百姓が笑ったのも我慢し、汗みずくの顔をふいて、おとなしく言った。
「あんたの言うとおりだよ。本には書いてないんだ。教えてくれれば、あんたを師匠にするよ」
この飾りけのない言葉に、百姓はひどくよろこび、すっかり元が気に入って、笑うのをやめた。じつをいうと、自分のようないやしい百姓でも、こんな青年、言葉づかいといい風采《ふうさい》といい、だれが見ても学問のある青年に教えるものを持っているということが百姓には内心得意だったのである。それで、百姓は偉そうに、もったいぶった態度で元を見て、しかつめらしく言った。「まず、わしとあんたと、どっちがそんなに汗をかかずに自由に鍬を使っているか考えてみるがええだ」
元が見ると、百姓は、たくましく陽《ひ》に焼け、腰まで裸になり、脛《はぎ》は膝《ひざ》までむき出しで、足にはわらじをはき、陽や風にさらされて顔は渋紙色になり、どこを見ても働きよさそうなかっこうであった。元は、なにも言わず、にっこり笑って上に着ている重い外套をぬぎ、それから下の上着をぬぎ、袖《そで》を肘《ひじ》までまくりあげ、すっかりしたくをととのえた。百姓は、それをじっと見ていたが、とつぜんまた叫んだ。「まるで女みたいな肌をしているだな! わしのこの腕を見てみなされ」そして彼は自分の腕を元の腕とならべ、指をひろげた。「あんたも指をひろげてみなされ――ほら、てのひらは豆だらけじゃ! それは鍬をゆるく握るからで、そんなことをすれば、わしの手だって豆ができるだよ」
それから百姓は鍬をとり、両手で鍬の握り方を示した。一方の手で、しっかりと強く柄を握り、一方の手で、ふる方向をきめるのである。元は習うのを恥ずかしく思わず、幾度も幾度も練習したので、ついには鍬の鉄の刃がまっすぐ力強く落ち、落ちるたびに土のかたまりが砕けるようになった。すると百姓がほめてくれたが、元はそれが先生に詩をほめられたようにうれしかった。しかし、その百姓が平凡な男なのを見て、自分がうれしかったのが、ふしぎな気がした。
日ごと、元は自分に割り当てられた土地へきたが、彼は、ほかの学生がだれもいないときにくるのが好きであった。なぜなら、みんながいると、例の百姓は、ぜんぜん近寄らず、自分の畑の遠いところで働くからであった。しかし、元がひとりきりだと見ると、近づいてきて話したり、種子はどうまくかとか、芽が出てきたらどう間引きをするかとか、芽が出たら食ってやろうと待ちかまえている虫をどんなふうに注意するかなどを教えてくれたりした。
そのうちに今度は元が教える番になった。それは、そうした害虫があらわれたとき、彼はその害虫を殺す外国製の薬品のことを本で読んで知っていたので、その薬品を使ったときのことであった。彼がはじめてこれを使ったとき、百姓は笑って言った。
「わしのするのを見習ったことを忘れねえがええだ。おまえさんの本には、でたらめばっかり書いてあって、豆はどのくらい深くまくか、いつごろ除草するか教えてくれなかったでな」
しかし、豆の苗の上で害虫がきりきり舞いして死ぬのを見ると、百姓は、まじめな顔になり、ふしぎそうに声を低めて言った。「まさかほんとだとは思わなかったね。してみると、この害虫は神さまの思召《おぼしめ》しじゃねえのかね。人間の力で追いはらえるものなのかね。ともかく、本のなかにも役に立つことが書いてあるだな――うん、こりゃ、たいしたものだぞ。何しろ、植えつけても種子をまいても、虫に食われりゃ、なんにもならねえだでな」
そう言って百姓が自分の畑に使う殺虫剤をくれと頼んだので、元は、よろこんでわけてやった。こうしたことで、彼らふたりは、ある意味では友だちになった。元の畑はだれよりもよくでき、このため彼は百姓に感謝し、百姓のほうでも彼の豆がよく育ち、隣の畑のように虫に食われなかったことを元に感謝した。
このような友だちを持ち、わずかながら働く土地を持ったことは、元にとってよいことであった。なぜなら、その春のあいだ大地の上でせっせと働いていると、これまで知らなかった満足感がわいてくるのをおぼえたからであった。元は服を百姓の着るような普通の服に着がえ、靴までわらじに変えることをおぼえた。そして百姓は、未婚の娘はいないし、女房はもう年をとって醜かったので、元を自由に自分の家に出入りさせた。それで元は野良着を百姓の家にあずけておいた。こうして元は毎日ここへくると百姓に早変わりした。彼は自分でも思っていた以上に土地に愛情を持った。種子が芽ばえるのを見ているといい気持ちで、そこには詩があった。それは、かつて彼が表現しようと思い、それについて詩をつくってみたものの、ついに表現することができなかったものであった。
彼は畑の仕事そのものを愛し、自分の仕事がすむと、しばしば例の百姓の畑を手伝った。そして、百姓に招かれるままに、気候も暖かくなったので、百姓の女房が食卓の用意をした打穀場でいっしょに食事をすることもあった。彼は、しだいにたくましく陽に焼けていったので、ある日とうとう愛蘭が言った。「元兄さん、どうしたの。日ごとに黒くなるじゃないの。百姓みたいだわ」
元は、にやにや笑って答えた。「ぼくは百姓なんだよ、愛蘭。でも、そんなことを言ったって、きみはほんとと思わないだろうね」
読書をしているときとか、夜の歓楽のさなかにあるときでさえ、彼は、あのささやかな畑から遠く離れていると、急にそのことが思い出されて、本を読んでいても遊んでいても、今度まく新しい種子を計画したり、いまつくっている野菜は夏前に摘めるだろうかなどと考えたり、ある作物のさきが黄いろく枯れかかっていたのを思い出して心配したりした。
ときどき、元は考えることがあった。(貧乏人がみんなあの百姓みたいだったら、よろこんで自分も孟《メン》の主義を奉じて運動に加わるのだが)
元がこの割り当てられたささやかな土地に、堅実な、秘密の満足を持ったのは、よろこぶべきことであった。それが秘密だというのは、たとい自分から進んで話すのではないにしても、きかれれば自分が畑で働くのが好きな理由をだれにでも話してさしつかえないのだが、こうした都会の青年のあいだでは、田舎者を「田吾作」とか「大根野郎」とか、その他こんなふうな名で呼ぶのが習慣だったので、彼のような年ごろでは、そんなことをするのが、すこし恥ずかしかったからである。それに、元は友人の言うことも気になった。それで、彼は盛《シェン》にさえ、このことが話せないでいた。盛となら、ふと目に映った色とか形とかの美しさというような、いろんなことを語りあうことができるのだが。
愛蘭に向かっては、自分が一つかみの土地に、ふしぎな、深い、堅実なよろこびを感じていることなど、とうてい話す気にはなれなかった。母と呼んでいる夫人には、必要があったら話してもいいと思っていた。なぜなら、ふたりとも内面的なことはあまり話しあわなかったが、ふたりきりでいるときの食事の席では、夫人は重々しく自分のしたいと思っていることなどを、よく話すからである。
それというのが、夫人は地味だがりっぱな仕事をたくさん持っていて、この都会の婦人たちのように、勝負事とかお祭り騒ぎとか、競馬や競犬に熱中するようなことはなかったからである。こういうことは夫人にとって楽しみではなかった。とはいっても、愛蘭が行きたいといえばいっしょに行くこともあるが、そんなときには、これは義務であって、何もそれがおもしろくてきたのではないとでもいうように、ひとり端然として見ているのであった。
夫人のほんとの楽しみは、彼女が子供たちのためにしている慈善事業であった。それは貧乏人の両親からじゃまものとしてすてられる生まれたばかりの女児たちであった。夫人は、こうした子供をみつけると、自分で経営しているホームに収容するのだが、そこには婦人をふたり雇って保母の役目をさせ、また自分でも毎日行って子供たちを教育したり、病気や弱っている子を見舞ったりしていて、このような孤児を二十人近くもかかえこんでいた。この慈善事業については、夫人も幾度か元に話したことがあった。その女の子たちには、何かりっぱな堅気な仕事を教えこみ、百姓だろうと商人だろうと職工だろうとかまわないが、りっぱな働きのある嫁をほしがっている正直な男と結婚させたいと考えていることなどを語った。
元も一度、いっしょにこのホームに行ったことがあるが、いつも重々しい落ちついた夫人にあらわれた変化に、彼は驚いたものであった。それは貧しい質素な施設であった。それというのが、夫人は、このような事業のためにでも、愛蘭から楽しみを奪おうとはしなかったので、これにはあまり多額な金がつぎこめなかったからである。しかし、一歩門内にはいると、子供たちが、どっと夫人のそばに集まり、彼女のことをおかあさんと呼び、着物をひっぱったり手をふったりして愛情を示すので、ついには夫人も笑い出し、恥ずかしそうに元のほうを見るのであった。元はそれまで夫人が笑ったのを見たことがないので、目をまるくしてつっ立っていた。
「愛蘭はこの子供たちのことを知っているのですか」と彼はたずねた。
これを聞くと、夫人は急にまた、いつもの重々しい態度になり、うなずいて、ただこう言っただけであった。「あの子はいまは自分の生活でいっぱいなのですよ」
それから夫人は質素なホームのなかを、あちらこちらと元を案内した。中庭から台所まで、すべて貧しくはあったが清潔であった。そして夫人は言った。「この子たちのためには、あまりお金はいりません。みんな働く人のおかみさんになるのですから」そう言って、すぐにつけ加えた。「このなかに、ひとり、たったひとりでもいいから、わたしが愛蘭をこうしようと考えていたような子がいたら……わたしはその子を自分のうちに引きとって、その子のために一生をささげようと思っています。そんな子がひとりいるようです――まだ海のものとも山のものともわかりませんけれど――」
夫人が呼ぶと、ほかの部屋からひとりの女の子がはいってきた。ほかの子より年かさで、まだ十二か十三だろうが、落ちついた顔をした子であった。その子は恐れるようすもなく近より、夫人の手を握り、顔を見あげ、澄んだ声で言った。「何かご用ですか、おかあさま」
「この子は」と夫人は、その子のあおむけた顔を見おろしながら、熱のこもった調子で言った。「何かある魂を持っています。でも、それがどんなものやら、まだわかりません。生まれたばかりのとき、ここの戸口にすててあったのを、わたしがみつけて収容したのです。この子は、一ばん年かさで、わたしがみつけた最初の子なのです。文字もすぐにおぼえますし、何を教えても真剣ですし、非常にたよりになる子ですから、このままでゆけば一、二年のうちには、うちに引きとることになるでしょう……じゃあ、美齢《メイリン》、行ってもいいよ」
その子は夫人にちらっとほれぼれするような笑顔を見せ、それから元に深みのある視線を投げた。相手は、まだほんの子供ではあったが、元は、その視線を忘れることができなかった。それは非常に澄んだ、物問いたげな、とくに彼にだけ向けたとは思われないが、ひたとみつめた視線であった。そして彼女は部屋を出て行った。
このような夫人なのだから、元は話してもいっこうかまわなかったのであるが、けっきょくのところ話す必要はなかった。元は、畑で過ごす数時間が楽しいのだと、自分で知っているだけであった。その数時間は彼を心のなかのある根に結びつけたのである。だから、彼は、ほかの多くの人のように、この都会の生活の表面を根なし草のように漂っているのではなかった。
不安を感じるとき、いろいろな疑問がおこったとき、元は幾度となく自分の畑に行き、晴れた日も冷たい雨の降る日も、汗を流し、黙々と、あるいは隣の百姓と日常のことを静かに話しながら働いた。そのような労働、そのような話は、しているあいだは、なんの役にも立たず、たいして意味もないように思えるのだが、夜になって家に帰ってみると、心の焦燥《しょうそう》からすっかり洗い清められ解放されているのだった。大地から学んだ落ちつきを心に持っているので、わずらわされることなく、幸福に本を読み、瞑想することもできたし、愛蘭や友だちといっしょに出かけて行って騒音と光とダンスのなかに幾時間かを過ごすこともできた。
そして、大地があたえるこの落ちつき、堅実さ、それが心におろしてくれる根が、元には非常に必要だったのである。なぜならば、この春、彼の生活は、これまで夢にも思っていなかった方向へねじまげられたからである。
ある一つのことでは、元は盛よりも愛蘭よりも非常におくれていて、孟とくらべてさえおくれていた。この三人は元よりも温かい空気のなかに暮らしていた。彼らは、この大都会で青春を過ごし、大都会の刺激が彼らの血のなかに注ぎこまれていた。ここには青年に訴える無数の刺激があった。壁にえがかれた恋愛と美人の絵、外国の男女が演ずる恋愛映画が上映されている映画館、わずかな金で女を一夜買えるダンスホール、こうしたものは、なまの刺激である。
このほかに、恋愛を扱った物語や小説や詩が、どんな小さな店にでも売っていた。昔はこうしたものはすべてみだらなものとされ、若い男女の心の火に油を注ぐ発火剤として、だれも、おおっぴらには読まなかったものである。ところが、今日では、外国の微妙な思想が侵入してきて、芸術とか天才とかその他の美名の下に、若いものが、これらの作品を、いたるところで読んだり研究したりしているのであった。しかし、いかに名まえは美しくとも、依然として発火剤は発火剤であり、昔ながらの火は燃え立たせられるのである。
若い人たちは男も女も大胆になり、古い慎み深さは失われてしまった。手を握りあっても昔のようにみだらな行為とは見られないし、若い男が自分で若い女に婚約を申し込んでも、娘の父親が男を法廷に訴えるようなことはしなかった。昔は、そしていまでも、外国風の自由な習慣が普及していない奥地の町では、そういうことが行なわれているのである。そして、ふたりが公然と婚約すると、まるで未開人のように自由に行き来する。そして、よくあることだが、若い血がはげしく燃えすぎ、まだそのときにならぬうちに肉と肉とが触れあうようなことがあっても、両親の若いときのように、不義密通として殺されるようなことはなかった。それどころか、結婚の日どりが早くなるばかりで、こんなふうにして子供が生まれても若夫婦は手柄顔で平然としていた。そして両親は、苦々しく思っても、かげで不愉快そうに顔を見合わせるばかりで、じっと我慢しているよりしかたがない。これが新時代というものだからである。しかし、多くの父親は息子のために、そして母親は嫁のために、新時代を呪《のろ》っていた。しかし、なんといっても、これが新時代なのであって、昔にかえすよすがはなかった。
このような新時代に盛は生活していた。弟の孟も愛蘭もそうなのであって、彼らは新時代の一部であり、ほかの時代を知らなかった。しかし、元はそうではなかった。王将軍は彼をあらゆる古い伝統のなかで育て、すべての女性にたいする自分の憎悪までもそれにつけ加えた。それで元は女のことを夢にも見たことはなかった。もし気のゆるみから眠っているうちに女の夢でも見ると、目をさまして、ひどく恥ずかしい気がし、寝床から飛び出して猛烈に勉強するとか、しばらく街を歩くとか、そんなことをして心のなかからみだらな思いを追い払った。いつかは、ほかの男と同様に自分も結婚し、ちゃんと子供を持たねばならぬことはわかっていたが、そんなことは勉学にいそしんでいるいまのようなときに考えるべきことではなかったのである。いまの彼は一途に学問のみにあこがれていた。そのことは父にはっきり書き送っておいたし、いまでもその気持ちは変わっていなかった。ところが、この年の春は夜ごとの夢になやまされつづけた。昼のあいだは恋愛とか女性とかを考えたことはないのだから、ふしぎであった。しかも眠っている彼の心は、そうしたみだらなことでいっぱいなので、目がさめると恥ずかしさに冷や汗をかいた。そして、あのささやかな畑へ行って、必死に働いた日だけ、心が洗い清められるような気がした。そして、ながい時間働いた日は、夜も夢を見ることがすくなく、ぐっすりと気持ちよく眠れた。それで、彼はいままでよりもいっそう熱心に畑で働くようになった。
自分では知らずにいるものの、元の血は、あらゆる若い人たちと同じように燃えていたのである。無数の美しい物思いに心を放散させている盛よりも、はるかにはげしく燃えていたし、熱中することのできる主義を持っている孟よりも、もっとはげしく燃えていたのである。しかも、元は子供時代の冷ややかな将軍公署から、この刺激の強い都会へと出てきたのである。いままで女の手にさえ触れたことのなかった彼は、女のほっそりしたからだに腕をまわし、手を握っていると、いまだに悪いことをしているような気がし、女の呼吸を頬《ほお》に感じながら、音楽にあわせて思うがままに女をリードしていると、快くもあるし恐ろしくもあるような甘美なうしろめたさをおぼえるのであった。
愛蘭が容赦なくからかうほど彼は礼儀正しく、女の手を握るといっても、ほんの触れるか触れないくらいであった。多くの男は女のからだをぴったり抱き寄せたがり、またそれをだれも非難はしないのだが、元はそんなこともしなかった。それにもかかわらず、愛蘭があまりからかうと、彼の気持ちは、そんなことがなかったら動かなかっただろうような、そしてまた彼としても欲しないような方向に動くのであった。
愛蘭は、ときどき、かわいい口をとがらせて言うことがあった。「元兄さんは、ずいぶん旧弊なのね。相手をそんなに遠くへ押しやって、うまく踊れるものですか。女の人を抱くときには、こうするものよ」
そして、愛蘭が珍しく家にいる晩など、夫人もみんないる部屋で、彼女は蓄音器をかけ、自分のからだを元の腕にぴったりおしつけ、足をからみあわせんばかりにして踊った。それから、ほかの娘がいると、かならず彼をからかい、笑いながら言うのだった。「あんた、元兄さんと踊るときには、しっかり抱かせなきゃだめよ。兄さんたら相手を壁におしつけておいて、ひとりで踊るのが好きなんだから」それからまた、こんなことも言った。「元兄さん、あなたは、そりゃいい男よ。でも、女ならだれでも用心しなきゃならないほどいい男でもないことよ。あたしたちのなかには、もう好きな人をきめている人もあるのよ」
愛蘭は友だちの前でこんな冗談を言ってみんなを笑わせるので、もともと大胆な娘たちは、いよいよ大胆になって、元と踊るとき、恥ずかしげもなく、からだを押しつけてきた。彼は彼女らの大胆さをやめさせようと思うのだが、愛蘭がなおも図にのってひやかしそうなので、一生けんめい我慢していた。すると、臆病な娘たちまで、彼と踊るときには、にっこり笑い、もっと大胆な男と踊るときより大胆になって、うわ目をつかったり、笑ってみせたり、力をこめて手を握ったり、腿《もも》と腿とをすりよせたり、女性が自然におぼえた技巧を使うのであった。
ついに元は、夢や、愛蘭に紹介されて知った娘たちの奔放さになやまされ、もう二度と愛蘭とはいっしょに行くまいと思うのだが、老夫人がいまでも、「元、あなたが愛蘭といっしょだとわかっているので、わたしも安心なのですよ。あの子が、ほかの男の人と行ったときでも、あなたもいっしょだと思うと気が休まるのです」としばしば言うので、行かないわけにはいかなかった。
それに愛蘭も元といっしょに行くのをよろこんでいた。なぜなら、元は背が高くて、風采も悪くなく、友だちのなかには彼を連れて行ってやるとよろこぶ娘もいたので、彼女は彼を見せびらかして得意になっていたのである。こうして、元のなかには、心にもなく情熱の火が燃えあがらんばかりになっていたのだが、ただ彼はそれに発火剤を投じようとしなかっただけであった。
しかし、ついに発火剤は投じられた。それは彼も予想できなかったし、また、だれにも予想できないことであった。
それはこういういきさつであった。ある日、元は教師が宿題として壁にはり出した外国の詩を写すため、教室に残っていた。そして、おそくなったのでほかの学生はみな帰ってしまった、と彼は思っていた。たまたまこれは、彼も盛も、それから革命党員だという、あの顔の青い女学生も出席する講義であった。元が写し終わってノートを閉じ、ペンをポケットに入れ、立ちあがろうとしたとき、彼の名を呼ぶ声が聞こえ、こう言うものがあった。「王さん、ちょうどいいところなのでお願いするんですけど、この詩の意味を説明していただけません? あたしよりあなたのほうがよくおできになるんですもの。教えていただければありがたいのですけど」
それは非常に気持ちのいい声であった。若い女の声だったが、愛蘭や彼女の友だちのような、なまめかしい声ではなかった。若い女にしては、なんとなく深みがあり、たっぷりと、身にしみるような調子なので、なんでもない言葉を言っても、単なる言葉以上の意味を持つように思われる声だった。元が急いで顔をあげてみると、驚いたことには、そばにあの革命党員の女学生が立っていた。その青い顔は、いつもよりも青かったが、そばに立っているのを見ると、その黒い細い目は、すこしも冷たいところはなく、心の温かさと感情があふれ、凍ったような顔の冷ややかさを裏切って、青い顔色のなかで燃えていた。彼女は、じっと彼をみつめ、それから静かにそばに腰をおろし、彼の答えを待った。日常、だれにでも話しかけるような冷静な態度であった。
彼は、どもりながら、なんとか答えた。「ええ、いいですとも――ただ、ぼくにもよくわからないんです。こんな意味じゃないかと思うんですが――どうも外国の詩はわかりにくいんで――これは頌詩《しょうし》で――まあ、いわば――」こんなふうに彼は相変わらずどもりながら、どうにか説明したが、そのあいだも、あるときは自分の顔に、あるときは詩の言葉に、じっと注いでいる深い彼女の視線を、つねに意識していた。彼が説明し終わると、彼女は立ちあがって礼を述べたが、今度もまた単純な言葉でありながら、その声のせいだろうか、非常な感謝がこもっているようで、元には、どんな努力も、それほどの感謝を受ける値うちはないように思われたほどだった。それからふたりは、どちらから誘うともなくいっしょに教室を出て、もう午後もおそかったので、学生たちがみんな帰ったあとの静まりかえった廊下を歩き、そうして門のほうへ歩いて行ったが、女は、いっこうに口を開こうとしないので、元は礼儀上一つ二つちょっとしたことをたずねた。
「お名まえは、なんとおっしゃるのですか」と彼は教えこまれたように、昔どおりの丁重な流儀でたずねた。しかし、彼女は、てきぱきと答え、言葉もぶっきらぼうな感じで、元の丁重さにこたえようともしなかったが、ただ声だけは彼女の言うあらゆる言葉に意味をあたえていた。
ついに門まできたので、元は低く頭をさげた。しかし彼女は、ちょっと頭をさげただけで、さっさと別れてしまった。たしかな速い足どりで群集のあいだを歩き、ついに見えなくなるまで見送っていた元には、彼女が普通の女よりちょっと背が高いことがわかった。それから元は狐につままれたような気持ちで人力車に乗り家に帰ったが、あれはどんな女なのだろうかと考え、その目と声が、表情や言葉とはちがったことを語っていたのを、ふしぎに思った。
こうしたわずかなきっかけから友情が生まれた。元は、これまで女の友だちを持ったことがないし、実際には友だちというものがあまりなかった。それというのが、ある人々は小さな特別のグループをつくり、そのなかで自然に自分の位置をつくるものだが、元には、そんなグループもなかったからである。いとこたちは友人を持っていた。盛は、新時代の詩人、小説家、画家をもってみずから任じ、例の伍のような指導者に夢中になって追随している自分と同じような青年たちのグルーブに属していた。また孟には革命党員の秘密のグループがあった。しかし元は、そんなグループには属していず、会えば口をきくくらいな青年は二十人もいたし、ちょっと立ち話をするぐらいの愛蘭の友だちも幾人かはいたが、親友というべきものはなかった。それが、知らず知らずのうちに、この女学生が彼の友だちになってしまったのである。
そのいきさつは、こんなふうであった。はじめ交際を求めてきたのは彼女のほうからで、技巧の一つも使うような女ならだれでもやる方法だが、何かにつけて彼に説明や助言を求めてきた。そして、すべての男のご多聞にもれず、こんな単純な技巧にさえ元もだまされたのである。というのが、けっきょくのところ彼も男であり若いので、女に助言をあたえるということは、いい気持ちなものであり、彼女の論文を手伝ったりするようになったからである。そしてついには、なんとかかとか口実をつけて、おおっぴらにではなかったが、毎日会うようになった。だれかが元に、この女をどう思っているのかとたずねたら、ただ友情だけで、それ以上のものは感じていない、と答えたことだろう。じつのところ、この女は彼が美しいと思ったどの女とも非常にちがっていた――美しいと思ったといっても、それはちょっとでも美しいと思ったという意味で、それというのが、いままで本気になって考えた女などひとりもいないからである。
もしも女というものを頭においたことがあるとしたら、それは愛蘭のような美しい花のような娘であった。愛蘭は小さなきれいな手と、かわいい顔だちと、優雅な物腰をしていて、こうした美点を愛蘭の友だち連中は、すべてそなえていた。それでいながら、元は彼女らのどのひとりにも愛情を感じていなかった――ただ心のなかで、もし自分が恋をするとすれば、相手の女はばらの花のように美しく、あるいは、ふくらみかけた李《すもも》の花とか、そのような可憐《かれん》で実際的でない女でなければならない、と考えているだけであった。それで、時おりそのような女性にささげる詩をひそかにつくったことがあるが、一行か二行だけで、いつも終わりまでできなかった。というのは、その気持ちは、まだかすかで、漠然としていて、全女性のなかから詩につくるほどきわ立って彼の前にあらわれた女がひとりもいなかったからである。彼の恋ごころは日の出の前の薄光のようにぼんやりとしたものだったのである。
彼が恋愛の相手として考えていたのは、この女のような、地味で生《き》まじめで、いつも藍《あい》か灰色のきちんとした服を着て、皮靴をはき、いつも本や主義に没頭しているような女でないことはたしかであった。したがって彼はその女を愛していなかった。
ところが女のほうは彼を愛していた。このことを、いつ発見したか、元にもよくわからなかった。しかも、彼にはそのことがわかっていた。ある日ふたりは遠出して、運河沿いに静かな通りを歩いたことがあった。それは、たそがれどきで、やがて引き返そうとすると、とつぜん、彼は彼女が自分を見ているのを感じた。彼女の目を見ると、それはいつもとちがって、深い、すがりつくような、燃えるような目であった。そして、彼女のものとは思えないような美しい声が聞こえた。「元、あたし、何よりも見たいものが一つあるんですけれど」
自分では彼女を愛しているとは思ってもいないのに、急に心臓がどきどきするのをおぼえながら、元が、それは何かとたずねると、彼女はつづけた。「あなたが、わたしたちの運動に加わってくださるのを見たいのです。元、あたし、あなたをほんとの兄さんだと思っていますけれど――同志とも呼びたいのです。あたしたちには、あなたが必要なのです――あなたのりっぱな心と力が。あなたは孟なんかよりも二倍もすぐれた方ですわ」
とつぜん元は、彼女が交際を求めてきた理由がわかったような気がし、彼女と孟とで仕組んだことだと思うと腹が立ってきて、もりあがった気持ちがせきとめられてしまった。
しかし、すぐに彼女は言った。その声は、やさしく、たそがれのなかで深くひびいた。「元、そのほかにもわけがありますわ」
今度は元は、そのわけをたずねる勇気がなかった。臆病さがさきにたって、ほとんど息も詰まりそうになり、からだがふるえるのを感じた。彼は、ふり返ってささやくように言った。「ぼく、帰らなければ――愛蘭と約束があって――」
それきりほかに話もせず、ふたりは帰途についた。ところが、いよいよ別れるときになって、彼らは、いままでついぞしなかったことをした。そんなつもりもなく、もちろん前から考えていたことでもなかった。ふたりは手を握りあったのである。そして、手を握ると元の心には、ある変化がおこり、ふたりはもう単なる友人ではない、なんであるかはわからないが、もう友人ではなくなったのだという気がした。
しかし、その夜、愛蘭といっしょに出かけ、あの娘と話し、この娘と踊っているあいだ、彼は、これまでとはちがった目で彼女らをながめ、世の中の女というものは、どうしてこんなにいろいろとちがっているのだろうとふしぎに思い、その夜、寝床にはいってからも、ながいあいだこのことを考えていた。
彼が女というものを考えたのは、これがはじめてであった。彼は、あの女のことを、ながいあいだ考えていたのである。そして、その目のことを思い出し、かつてはその目が青白い顔のなかで、つやのない縞瑪瑙《しまめのう》のように冷たかったことを思い出した。しかしいま、彼が話しかけると、その目が、それ自身の持つ温かい美しさに明るく輝くのを見たのであった。それからまた、彼は彼女の声がいつもきれいなことや、その豊かさが彼女の静かな態度や、うわべの冷ややかさとは似つかわしくないことを思い出した。それにしても、それは彼女の声であった。そんなことを考えているうちに、彼は彼女のもう一つの理由というのを聞けばよかったと思った。その理由というのが、彼が想像しているようなものであれば、彼女の声でそれが語られるのを聞きたかったのである。
しかし、それでも彼は彼女を愛してはいなかった。愛していないことをよく知っていたのである。
そして最後に、彼の手のまんなかにぴったりとおしつけた彼女の手の感触を思い出した。こうして、手のひらと手のひらをおしつけて、ふたりは街灯もない街《まち》の闇《やみ》のなかに、一瞬立っていたのだが、ふたりとも化石したように身動きもしなかったので、人力車が避けて通ったくらいで、車夫が大声でどなるまでふたりとも気づかず、どなられても気にもかけなかった。あまり暗かったので彼女の目は見えなかった。そして、彼女も口をきかなければ、彼のほうも口をきかなかった。頭にあるのは、しっかり握りあった手の感触だけであった。それを考えたとき、発火剤に火がついた。いまでも自分が彼女を愛していないことは知っているので、その正体が何やらどうにもわからなかったが、彼のなかで、何ものかが燃えあがったのである。
この女の手に触れたのが盛であったなら、忘れたければ微笑するだけで忘れたであろう。なぜならば、彼はその場かぎりの情熱で、たくさんの女の手を握っていたからである。あるいはまた、その女が自分を愛していることを知れば、いくらでも好きなだけ、すくなくも興味を感じなくなるまで、いくらでもその手を握り、それから小説の一、二編か詩の一つも書いて、ますます心の負担を感じずに忘れ去ることであろう。また孟にしても、ながいあいだそんなことを考えてはいないだろう。なぜなら、彼らの運動のなかには女がたくさんいて、若い男も女も大胆に自由に行動することを目的とし、おたがいを同志と呼び、男も女も、つねに同権であり、愛しあうのも自由だと、孟は、しょっちゅう聞かされてもいるし、人にも言っているからである。
こうした自由を持っていながら、彼らの運動のなかには過度の自由は実際にはなかった。なぜなら、こうした若い男女は、孟と同じように、愛情以上の主義に燃え、その主義が彼らを洗い清めていたからである。そのなかでももっとも清浄なのは孟であった。父の情痴や兄の落ちつきのない目を見て、愛欲にたいする嫌悪のなかで成長してきたので、女とともに過ごす楽しみなどは、主義のために費やすべき精神や肉体を浪費するように思われて、彼はいっさい軽蔑していた。いままで孟は女に触れたことがなかった。みんなと同じように結婚の掟《おきて》に従わぬ自由恋愛とか恋愛の権利とかを口にはするが実行したことはなかった。
しかし、元にはそんな孟のようにいっさいを浄《きよ》める主義はなかった。それに盛のようなのんきに気楽に女と交わる安全な方法も知らなかったので、生まれてはじめてその女に手を握られると、それが忘れられなかったのである。それにまた驚くべきことが一つあった。それは、思い返してみると、彼の手を握った彼女の手のひらが熱くて汗ばんでいたことだった。彼女の手が熱いであろうとは思ってもいなかった。彼女の青い顔や、話をするときでもほとんど動かない冷たい色あせたくちびるなどを考えたとき、もしそれより以前に考えたとすれば、彼女の手はかわいて冷たくて、指にも力がないと思ったであろう。しかし、事実はそうではなかった。彼女の手は、ぴったりと熱く、すがりつくように彼の手を握ったのである。手、声、目――これらが彼女の燃えるような心を告白していた。そして、この女の心は――大胆で落ちついていて、しかも内気な――元は自分が内気なので、それがよくわかるのだ――このふしぎな女は、どんな心情を持っているのだろうと考えはじめると、元は眠られず、寝床のなかで輾転《てんてん》とし、彼女の手にもう一度触れたくなった。
それにもかかわらず、ついに眠りに落ち、冷え冷えとする春の朝になって目をさましたとき、元は自分が彼女を愛していないのを知った。冷たい朝でも、彼女の手がどんなに熱かったかを思い出すことはできたが、たといそうにしても、自分は愛していないと心に言うことができた。そして、その日学校では、びくびくもので彼女を見ないようにし、午後になると、ぐずぐずしないで、できるだけ早く農園へ行き、気ちがいのように働いた。そして思った。(手に受ける大地の感じは、どんな女の手の感触よりも気持ちがいい)そして、昨夜寝床のなかで悶々《もんもん》として考えたことを思い出し、心に恥じ、これが父に知られなくてよかったと思った。
しばらくすると例の百姓がやってきて、元がカブラの雑草をとっているのを見て、うまくなったとほめ、笑って言った。「おまえさん、はじめて畑を耕したときのことをおぼえているかね。あれが今日だと、カブラも雑草もいっしょくたに切るところだがな」彼は大笑いして、それから慰めるように言った。「だが、まだおまえさんは百姓になれる見込みがあるだよ。腕の肉や背中の厚みを見ればわかるだ。ほかの学生さんたちは――あんなしなびた草のようなろくでなしは見たことがねえ――眼鏡をかけて、細い腕をだらりとぶらさげて、金歯を入れて、棒きれのような足を外国のズボンに突っこんで――わしがあんなからだだったら、長い着物を着て、なんとかかくす工夫をするだがな」そしてまた百姓は笑って言った。「まあ、わしんとこへきて一服しなされ」
元は招かれるままに百姓の家へ一服しに行き、百姓が大きな声で、都会人を軽蔑し、とくに若い人たちや革命党員をののしるのを、ほほえみながら聞いた。元が革命党員のために、おだやかに弁護めいたことでも言うと、百姓は一言のもとにどなりつけて言った。
「じゃ、あの連中がいったいわしらのためにどれだけ役に立つことをしてくれただね。わしは、わずかばかりの土地と家と牝牛を持っている。もうこれ以上土地はいらねえし、食うだけのものはある。お上《かみ》で税金さえむやみにとらなきゃ、いまのままでいいのだが、わしらのようなものは、いつでも税金をとられるだでな。あの連中がきて、わしや、わしの家族を楽にしてやると言うが、なぜそんな必要があるだね。見も知らぬ人のおかげで楽になったなんて話は、聞いたこともねえだ。身内のものでなきゃ、だれが親切にしてやるもんか。何か自分たちのほしいものがあるのは、ちゃんとわかっているだよ――わしの牝牛か、でなきゃ土地だろうて」
それから、しばらく彼はののしりつづけた。そんな息子を生んだ母親をののしり、自分と同じ考えを持っていない連中をこきおろして陽気になり、元が畑でよく働くといってほめ、それから笑った。元もいっしょに仲よく笑った。
大地の健康さと清浄とから、彼は家に帰って寝床にはいった。その夜は、どんな快楽を求めにも出かけたくなかった。というのが、女などほしくなかったし、どだい女になどさわりたくもなく、ただ働くことと勉強だけに熱中したからで、その夜はぐっすりと眠った。こんなふうに大地はしばらくのあいだ彼を癒してくれた。
それでいながら、彼の心のうちには、すでに惰炎に火がついていた。一日二日すると彼の気持ちはまた変わって、落ちつきがなくなった。それである日、あの女が教室にいるかどうかと思って、そっとふり返ってみた。彼女はちゃんといて、ほかの学生の頭越しにふたりの目があった。彼は、すぐに目をそらしたのだが、相手の目は、しつこく追ってきた。彼は彼女を忘れることができなかった。また一日二日してから、彼は入り口で、前から考えてもいなかったのに、つい口から出してしまった。「きょう、散歩に行きませんか」彼女はその深みのある目を伏せてうなずいた。
その日、彼女は手を握りもせず、いつもより離れて歩くような気がした。黙りがちで、話もはずまなかった。すると、驚いたことに、元の心に、あべこべな気持ちが起こった。それまでは彼女から手を触れられるのもいやだし、あまり近く寄られるのもいやだと、はっきり思っていたのである。それだのに、しばらく歩いて行くうちに、手を握ってもらいたいような気がしてきたのだ。別れるときでさえ、彼のほうからは手を出さなかったくせに、彼女のほうから手を出してくれそうなものだ、そうすれば、こちらも出さないわけにはいかなくなるではないか、と思って見ていた。しかし、彼女は手を出さなかった。彼は、なんだかだまされたような気持ちで家に帰ったが、そんな気持ちになったことに腹が立ち、恥ずかしくなり、もう金輪際《こんりんざい》、女なんかと散歩はしない、自分には仕事があるのだ、と心に誓った。その翌日は、男はよろしく孤独に生き、学問に精進し、女を遠ざけるべきだと痛烈な文章を書いて、おだやかな老教師を驚かせ、その夜は、あの女を恋しなくてよかったと、百回も自分に言い聞かせた。それからしばらくのあいだ、彼は毎日農園に入りびたりになり、女の手を握りたくなるのを忘れようとつとめた。
それから三日ばかりたったある日、細かい楷書で書いた、見おぼえのない筆跡の手紙を彼は受けとった。いまの元には、あまり手紙はこず、時おりくる手紙といえば、軍官学校時代の親友で、いまでも仲よくしている友だちからの手紙だけであった。そして、いま受けとった手紙は、その友人の字のように走り書きではなかった。封を開いてみると、なかには彼が愛していない女からの手紙がはいっていた――ひどく短い、たった一枚きりの手紙で、それにはつぎのようなことがはっきり書いてあった。「わたくし、何かあなたのお気にさわるようなことをしたのでしょうか。わたくしは革命党員で、近代的な女です。ほかの女の方のように、自分をかくす必要を認めません。わたくしはあなたを愛しています。あなたは、わたくしを愛してくださることができますか。結婚など求めもしませんし、気にもかけません。結婚は古い束縛です。でも、もしわたくしの愛がお入り用なら、いつでも差し上げます」そして最後に、彼女の名が、ぴったりとまつわりあうように、小さく謎のごとく書いてあった。こうしてはじめて元は恋をもちかけられたのである。
この手紙を手にして、自分の部屋にひとりになった彼は、いやでも恋愛について、恋愛が意味するあらゆるものについて、考えざるをえなかった。彼さえその気になれば、いつでも彼の手に身をゆだねようというひとりの女性がいる。そして、幾度となく彼の血は、彼女を抱けと絶叫した。彼はこの数時間のうちに子供らしい気持ちを失った。高鳴る胸と燃えるような血のなかで成熟した男が成長した。彼の肉体は、もう子供の肉体ではなくなった……。
数日のうちに、心のなかの情熱は彼を成熟させ、情欲においては彼は完全に一人前の男になった。しかし、それでもなお彼は返事を書かず、学校でも彼女を見ないように努力した。二晩、彼は机に向かって返事を書こうとし、二度、彼のペンからは、「ぼくはきみを愛していない」という言葉が流れ出ようとした。それにもかかわらず、彼はその言葉を書く気にならなかった。彼の好奇心に燃える肉体が、その求めるものがなんであるかを知ることを彼に強要するからであった。こうした血と心の暗黒の混乱のなかにあって、彼は返事を書かず、自分の心の推移を待った。
しかし、不眠の夜がつづき、怒りっぽくなり、いらいらしているので、母たる老夫人は心配そうに彼を見守り、彼のほうも夫人が物問いたげにしているのを感じた。しかも彼は、うちあけるわけにはいかなかった。なぜなら、自分でも愛していない女の愛を受け入れられないから怒っているのだ、女があたえようとするものを欲していながら、その女を愛することができないから怒っているのだとは、いくらなんでも言えなかったからである。それで彼は、この心の格闘をなるがままにまかせておいたのであるが、しかも彼は戦争がはじまる前の父のように不機嫌になった。
あらゆることにすこしずつ心を奪われ、しかも、何事にも徹底的には進んでゆけない、こうした煮えきらない元《ユアン》の生活に、とつぜん、王《ワン》将軍が、はっきりした解決を迫ってきた。しかも、それが何を意味するか、王将軍には、ぜんぜんわかっていなかったのである。最初に老夫人が手紙を出して以来、何か月も王将軍は返事をよこさなかった。遠い将軍公署の広間でにがりきって、一言も答えようとはしなかったのである。夫人は元には知らせずに、それからまた二度三度手紙を出した。そして、時おり元が、父からなぜ返事がこないのだろうとたずねると、夫人は、なだめるように答えたものだった。
「ほっときましょう。なんにも言ってこない以上、悪いこともないでしょうからね」そして、じつをいうと元は、ほっておくほうが気が楽であった。日ごと彼の心は生活に追われ、ついには、父が恐ろしかったことも、父の権力からのがれ出したこともほとんど忘れ、この都会における生活で手いっぱいのような気がしていたのだ。
すると、ある日、春も終わりに近いころ、王将軍が、ふたたび息子にその力をおよぼしてきた。沈黙をやぶって、夫人にたいしてではなく、直接息子にあてて手紙をよこしたのである。それは秘書に書かせた手紙でもなかった。ながいあいだ使わなかった自分の筆で、王将軍は息子にほんの数語を書き送ってきたのであった。文字は鋭く、あらあらしく書いてあったが、その意味は、すこぶる明瞭であった。「わしの意志は変わらない。帰って結婚せよ。日取りは今月の三十日にきめてある」
元は、ある夜、遊びに行って帰ってみると、部屋にこの手紙がおいてあるのを発見した。彼は歓楽に酔いしれ、興奮し、音楽にあわせてからだを動かしながら、あの女があたえようとしている愛情を受け入れようと、ほとんどそう決心して帰ってきたのであった。翌日は、でなければ翌々日は、彼女の求めるところへ行き、彼女が求めるままにしようという興奮でいっぱいになり――すくなくとも、そうしようという考えをもてあそびながら帰ってきたのであった。すると、彼の視線は机の上に落ち、そこに一通の手紙があることが目についたのである。上書きの筆跡に見おぼえがあって、どこからきたものか、すぐにわかった。彼は手紙をつかむと、旧式な封筒の粗《あら》い紙をやぶり、中身をひっぱり出した。すると、さきほどの文字が、王将軍のどなり声のように、はっきりと書いてあったのである。
たしかに、その言葉は元をどなりつけているようであった。この手紙を読み終わったとき、部屋のなかが、大きな物音のあとのように、とつぜん、しんと静まりかえったような気がした。彼は書面をたたみ、また封筒に入れてから、静寂のなかに息をころしてすわっていた。
どうすればいいのだろう? 父が下したこの命令に、どう答えたらいいだろう? 三十日? それでは、あと二十日足らずしかないではないか。すると昔の子供時代の恐怖がよみがえってきた。心に絶望がはいよってきた。いずれにしろ、父に反抗することは不可能なのではあるまいか。いままでに反抗をなしとげたことがあっただろうか。いつもけっきょくは、恐怖とか愛情とか、その他の同じような力で、父は、なんとかかとか自分の意志を押し通してしまうのだ。若いものは年長者からのがれることは絶対にできない。ひとまず帰って、このことだけは父の命令どおりにしたほうがよくはなかろうかと、元は心弱くも思いはじめた。帰って、その娘と結婚し、一晩か二晩泊まって義務だけを果たし、それからまた帰ってきて、二度と行かなければいいではないか。そうすれば、あとはどんなことをしようと法に触れることはないし、彼にとっても罪とはいえなくなる。父の命令に従ったあとなら、好きな女とも自由に結婚できる。
そんなことを、とつおいつ考えながら、やっと寝床についたが、それでも眠れなかった。歓楽の熱っぽい興奮も、すっかり消えてしまった。自分の肉体を、父が選んで待たせてある女にあたえることを思うと、種をとるために家畜を貸すのと同じような気がして、気持ちが冷たく凍るような気がした。
一睡もしなかった彼は、こんな心弱い気持ちになって、朝早く起き出て、夫人の寝室の扉をたたいて起こした。そして夫人が扉を開けると、黙って父からの手紙を渡し、読んでいるあいだ待っていた。文面を読んで夫人の顔色が変わった。彼女は静かに言った。「あなたは疲れています。行って朝御飯をおあがりなさい。無理にでも食べるんですよ。食べると元気が出ます。いまは何も咽喉《のど》を通らないでしょうが、食べなければいけません。わたしもすぐ行きます」
元は、おとなしく言われたとおりにした。食卓につき、女中が熱い米のカユと薬味と夫人が好きな外国のパンを運んでくると、彼はほしくないのに食べた。やがて、温かい食べもののおかげで、からだが温まり、前よりも元気が出て、夜の闇のように絶望的でなくなり、夫人がきたときには、その顔を見てこんなことを言った。
「帰らないと言ってやろうという気になりました」
夫人も食卓につき、パンをとりあげ、考えながらゆっくりと食べていたが、やがて言った。
「それならば、そう言ってやったがいいでしょう、元、わたしは賛成です。あなたの決断を無理じいするようなことはいたしません。それはあなた自身の生涯の問題なのですし、相手はあなたのおとうさんなのですからね。おとうさんにたいする昔からの義務の念のほうが、あなた自身にたいする義務の気持ちよりも強かったら、おとうさんのところへお帰りなさい。あなたを責めはしません。でも、帰りたくないのでしたら、ここにいらっしゃい。どんなことがあろうと力になってあげます。わたしは恐ろしいとは思いませんから」
この言葉を聞くと、元は勇気がわき出てくるのを感じた。父に反抗して争うことのできる勇気である。しかもなお、この勇気に最後の仕上げをするには、愛蘭の向こう見ずの激励が必要であった。その日の昼に元が帰ってくると、愛蘭は伍《ウー》からもらった小犬と客間で遊んでいた。小さな、毛のふさふさした、鼻の黒い愛玩用の犬で、愛蘭がとてもかわいがっている犬であった。元がはいってくると、彼女は顔をあげて言った。
「元兄さん、きょうおかあさんから聞いたわ。おかあさんは、あたしも若いのだから、若いもの同士でよく話し合ってごらんって。いまの若い娘がどんな意見を持っているか、兄さんも知っておいたほうがいいとおかあさんは思っているのよ。兄さん、あんな老人の言うことに耳をかすなんて大ばかだわ。あたしたちのおとうさんだからって、それがどうなのよ。どうにもしようがないじゃないの。ねえ、兄さん、あたしだってあたしのお友だちだって、会ったこともない人と結婚するなんてそんなばかげたこと、考えもしないことよ。帰らないって言っておやりなさいよ――おとうさんに、何ができるものですか。まさか兵隊を連れてきて、兄さんを引っぱって帰るわけにもいかないでしょう。この町にいれば安全よ――兄さんだって、もう子供じゃないんですもの――あなたの生涯は、あなたのものよ――いつか、あなたの望む結婚を、ちゃんとすればいいわ。自分の名まえも書けないような無教育な妻なんて、兄さんがみじめすぎるわ――それに纏足《てんそく》だってしているかもしれないことよ。それに、あたしたち新時代の女性は、絶対に妾《めかけ》なんかにはなりませんから、このことを忘れないでね。そんなものに、どうしてなるものですか。おとうさんが選んだにしろ、そんな女と結婚しても、やっぱり結婚は結婚よ。その女は、あなたの奥さんよ。あたしは第二夫人なんて大きらいだわ。もし既婚の男が好きになったら、あたしは奥さんを離婚させ、同棲《どうせい》をやめさせ、あたしだけが妻になるのでなければ承知しないわ。あたし、そうきめているのよ。あたしたち新しい女性は、同盟を結んで、妾として結婚するくらいなら、結婚しないでいると誓いあっているのよ。だから、おとうさんの言うことなど、きかないほうがいいわ。だって、いま結婚なんかすると、あとでやっかいなことが起こってよ」
こうした愛蘭の言葉は、元が自分だけではできないことを断行する力をあたえた。いつものやさしいわがままに似ず、熱のこもった彼女の声を聞き、この都会に多い愛蘭のような女性のことを考えると、彼女の華やかな片意地な美しさの魔法にかかったように、彼は考えはじめた。(自分は父の時代の人間じゃない。いまでは父だって、そんな権利はないのだ。それは事実なのだ――そうなのだ――)
この新たな力を得て、彼は、すぐに自分の部屋へ行き、勇気がくじけないうちに急いで手紙を書いた。「そんなことのために、ぼくは帰るわけにはまいりません。現今では生きる権利はぼくにあるのです。これが新時代というものです」
書いてしまうと、元はちょっと考え、言葉が強すぎはしないかと疑い、もうすこしおだやかな言葉を添えたらよくなるかもしれないと思って書き加えた。「それに、いまは学期の終わりで、帰るには、はなはだ都合のわるい時期なのです。いま帰るとすると、試験が受けられず、何か月もの勉強が水のあわになります。ですから許してください。とはいっても、じつを申しますと、ぼくは結婚などしたくないのです」こうして、手紙のはじめと終わりとに型どおり丁重なあいさつの言葉を書き、いまのようなおだやかな言葉を加えたとはいえ、元は、いうべきことは明瞭に書いたのであった。彼はこの手紙を下僕に頼む気になれなかった。それで自分で切手をはり、日の輝く街を歩いて行って、自分でポストに入れた。
手紙がポストに消えてしまうと、彼は元気が出て、気持ちが軽くなった。手紙に書いたことを思い出そうともしなかった。家へ帰る道も楽しく、街を歩いている現代的な男女のあいだにいると、前よりも元気が出て、気持ちが落ちついてきた。いまどき、父が彼に要求したようなことは、じつにばかげたことであった。いまこの街を歩いているこれらの人々に話したら、そんな古い、いまでは通用もしないやりかただと一笑に付するだけだろうし、そんなことを恐れる彼を阿呆というだろう。こうして、その人たちのなかにいると、元は急に気が強くなってきた。これこそ自分の世界なのだ――この新しい世界――自由な男女の世界、各自がそれぞれ勝手に生きている世界。暗い空が晴れたような気持ちで、帰って勉強する気持ちにはならなかった。しばらく、どこかで遊びたかった。すぐそばに華やかな劇場があって、看板には、いろんな国語で、「本日上映、本年度最高の映画『愛の道』」と書いてあった。元は劇場の大きく開かれた入り口をはいって行く人々の列に加わった。
しかし、王将軍はこんなことでへこむような人間ではなかった。一週間もたたないうちに彼は返事をよこした。今度は三通で、一通は元にあてたものであり、一通は夫人あて、一通は彼の長兄にあてたものであった。書きかたこそちがっているが、意味はみんな同じで、自分で書いた手紙でないだけに、言葉はおだやかであった。しかし、そのおだやかさのために、かえって言葉が冷たく怒っているように感じられた、手紙の文面は、つぎのようなものであった。息子の元には今月の三十日に結婚させることにした。陰陽師が、この日を吉日だと言ったからである。学校の試験とぶつかるので息子はその日に帰れないというから、両親は代人をたてて結婚させることにきめた。代人には、いとこの王商人の長男を当てるが、これなら代人としてもっとも適当であると考える。こういう次第だから元は、たとい代人でも、自分で帰って結婚したのと同様に、その日から正式に結婚の事実が成立する。
こうした文言を元は父の手紙で読んだ。王将軍は、あくまで自分の意志を押し通すつもりなのだ。そして、怒りにかられたのでなければ、父がこんな残酷なことをするはずがないと思い、元はその怒りを感じ、またしても、それが恐ろしくなった。
事態は、まったく元の手におえないところまできていた。なぜならば、古い法律によって、王将軍は当然の権利を行使し、多くの父親が、つねに行なってきたことを行なっているにすぎないからである。元は、このことをよく知っていた。この手紙がついた日に、元は家に帰ってくると、下男がドアのところで渡したので、狭い玄関の間で、ひとりそれを読んだのだが、そのときすべての勇気が抜けて行くような気がしたものだった。この幾世紀の結集された力に対抗しようとしている自分は、いったいどれだけの力を持っているというのか。単に一介の青年にすぎないではないか。彼はのろのろとからだを動かして客間へはいった。愛蘭の愛犬が部屋にいて、鼻をくんくんいわせながら、からだをこすりつけてきたが、元が見向きもしないので、かん高い声で一声二声ほえた。いつもならこの気の強い小犬に笑って相手してやるのだが、きょうは見向きもしなかった。そして、椅子に腰をおろし、両手に頭をもたせ、勝手にほえるがままにしておいた。
ところが、犬のほえ声を聞きつけ、夫人が、何か起こったのではないか、だれか知らぬものでもきたのではないか、とようすを見にきた。そして元の姿を見ると、何が起こったかを、夫人はすぐに見てとった。夫人は王虎《ワンホウ》からの手紙をすでに読んでいたので、慰めるように言った。「まだあきらめてはいけません。もうこうなれば、あなたひとりで片づく問題ではありません。伯父さんや伯母さんや、上のいとこも、ここに呼んで、どうしたらいいか相談しましょう。王家の一族は、あなたのおとうさんひとりきりじゃなし、またおとうさんが一ばんの年長者でもないんですからね。伯父さんがしっかりしてくだされば、おとうさんの意志を変えるように説きふせることだってできないことはありますまい」
しかし、あの年とってふとった、快楽ばかり追っている伯父のことを考えると、元は、ただ叫ぶように言うだけであった。「いつ伯父さんがしっかりしていたことがありますか。この国で強い人といえば軍隊と鉄砲を持っている人たちだけです――彼らは、ほかのものをみんな自分の意志に従わせます。そして、そのことは、ぼくが一ばんよく知っているんです。父が死をもっておびやかして意志を通すのを、ぼくは何百回となく、いや何万回となく見てきました。父が剣や鉄砲を持っているので、だれでもこわがるのです――いまになって父の言葉の正しいことがわかりました――最後に支配するのは、このような力だということが――」
そして元は心細くなって、すすり泣きをはじめた。逃げ出したことも、我意を通そうとしてきたことも、いまになっては、すべて画餅《がべい》に帰したのだ。
しかし、しばらくすると彼は夫人の激励や慰めを受け入れた。そして、その晩夫人は、ちょっとした宴会を催し、伯父一家を招いた。みんな集まり、食事がすむと、夫人はこの問題を持ち出した。一同は、どんな意見が出るかと待っていた。
盛《シェン》も孟《メン》も愛蘭も、この席に出た。とはいえ、これは親族会議なので、夫人は旧習に従って席順をきめ、若い彼らは末席につかされていた。若い連中は作法どおり黙って控えていた。愛蘭までが、心のなかでは、このものものしい光景をばかにし、あとでからかってやろうと思っているように目を輝かしてはいたものの、やはり黙っていた。盛は、何かほかの楽しいことでも考えているようすだった。しかし、一ばん黙っていて静かにしていたのは孟だった。彼の顔はこわばり、ひどく赤く、怒っているようだった。彼は、この問題ばかり考えていて、しかも口に出すわけにいかないので、なおさら腹の虫がおさまらなかったのだ……。
最初に口をきるのが、最年長の王一《ワンイー》の義務であったが、彼が、できるならそんな義務はごめんこうむりたいと思っているのが態度にはっきりとあらわれていた。そして、それを見て元は、何か自分の役に立つようなことを言ってくれるかもしれぬと、わずかにかけていた伯父への望みをあきらめてしまった。最年長者の王一がそんな態度を見せたのは二つのものを恐れていたからである。第一に弟の王将軍を恐れていた。弟が若いころ、どんなにはげしい気性だったかをおぼえていたし、また王二の長男が奥地の大都市で、豪奢な生活をし、虎将軍の名のもとに、ほとんど県知事のような地位についているのを知っていた。この息子は父親に金の必要が起きると、いつでもすぐに送ってきてくれた。しかも、金の使い道ならいくらでもあるこの外国風の都市で、金の必要のないときなど、ほとんどなかったといっていい。それで最年長者の王一は王将軍の機嫌をそこねたくなかったのである。王将軍にもまして彼が恐れているのは、自分の妻、息子たちの母親であった。そして、彼女は彼が言うべきことを、はっきり教えたのであった。家を出る前、彼女は夫を自分の部屋に呼んで言った。
「あなたはけっして元の味方をしてはなりませんよ。まず第一に、われわれ年をとったものは力をあわせなければなりませんし、第二に、もしいまの革命の話がほんとになったら、いつ弟さんの助けを借りなければならなくなるかわかりませんからね。わたしたちはまだ北部に土地を持っているのですから、そのことも考えなくてはなりませんし、自分たちの都合も忘れるわけにはいきませんよ。それに法からいっても父親のほうが正しいのですから、息子はそれに従うのが当然です」
これだけのことを、妻から強く申し渡されているので、いまこの老人は、じっと自分を見つめている妻の視線に出あうと、汗をかき、口を切る前に、まず剃《そ》りあげた頭をふき、ちょっとお茶を飲み、咳《せき》払いをし、一、二度|唾《つば》をはき、なんとか引きのばそうとできるだけのことをしたが、それでも、みんなが彼の発言を待っているので、しどろもどろに、あえぎながら意見を述べはじめた。ふとりすぎて脂肪が内臓を圧迫するので、このごろでは、いつも声がしゃがれていた。「弟から手紙がきた。元に結婚させると言ってきたのだ。聞くところによると、元は結婚したくないと言っているそうじゃ。そこで、わしの聞いたところでは――わしの聞いたところではじゃな――」
ここまで言うと、彼はつかえてしまった。夫人の目とぶつかると、目をそらし、あらためて汗をかき、また頭をふいた。その瞬間、元はこの伯父が心から憎くなった。こんな男に自分の一生はゆだねられているのだ、と憤然として考えた。そのとき、とつぜん目をひきよせられるように感じたので、見ると、孟の二つの目が、強く侮蔑《ぶべつ》するように、じっと自分に向けられていた。その目は語っていた。「老人どもに希望をかけてはいけないと、前からぼくはあれほど言っていたじゃないか」
ところで、王老人は夫人の冷たい凝視に追いつめられ、早口に言った。「だが、わしは考えるのだが――わしが考えるに――息子は親に従うべきだ――聖賢の語にもある――それで、ともかく――」ここで王老人は、やっと自分の意見を思いついたとでもいうように、とつぜんにやりと笑った。「とにかくだな、元、女というものは、どれもだいたい同じようなものでな、気になるのははじめだけで、それもほんの一日二日のことだよ。わしからおまえの学校の校長に手紙をやって、試験を免除してもらおう。おとうさんをよろこばせておくがいい。何しろ、はげしい気性の男だし、いずれにしろ、われわれが力になってもらわねばならんときがくるかもしれぬからな――」
そこでまた夫人のほうを見やったが、夫人の目がきびしく余計なことは言わぬようにとしかっていたので、彼は急に弱々しく言葉を結んだ。「わしはそう考えるのだ」それから長男のほうを向いて、ほっとした調子で言った。「今度はおまえの番だ、意見を言いなさい」
そこで長男が口をきったが、彼の話のほうが父の意見よりも理屈が通っていた。しかし彼は、だれにも不快をあたえないようにと思っているので、どっちつかずの意見になった。それでも彼はやさしく言った。「元が自由を欲する気持ちは、わたしにはよくわかります。若いときはわたしも自由を求めたものです。わたしの結婚のときも大騒ぎをして、好きな女と結婚したいなんて言い出したものでした」彼はちょっと図々しく笑って、きかん気の美しい妻がこの席にいたら、とても考えられないほど大胆に言った。しかし、妻は出席していなかった。出産の日が近かったからで、妻は、もう四人も子供があるのに、また生まなければならないので、このごろは非常に機嫌が悪く、これ以上妊娠しない外国の方法をどうしても習うのだと、夜も昼も言っていた。そんなふうで妻がいないものだから、彼は父のほうを見やり、ちょっと笑ってから言った。「じつをいうと、あの当時、結婚のことで、なぜあんな大騒ぎをしたものか、よくふしぎに思うことがあります。なぜなら、けっきょくのところは、父の言うとおりなので、女はみな同じもの、結婚も同じもの、結果もまた同じもの、そして、かならずそうなるのですからね。けっきょくは冷たくなるのですから、はじめから冷たい結婚をするほうが得ですよ。それに愛というものは理性のように永《なが》続きしませんからね」
そして、これで終わりであった。ほかのものはだれも発言しなかった。愛蘭の母も口をきかなかった。このような男ふたりを前にして、何を言ってもむだだとわかっていたからである。言いたいことは元にだけ言うつもりだった。若い連中も黙っていた。なぜなら、彼らにとって議論など暇《ひま》つぶしにすぎなかったからである。若い連中は、できるだけ早く、ひとりひとり席をはずして、ほかの部屋へ集まり、そこで、めいめいの意見を元に話した。盛は事件そのものが笑うべきことだと思ったので、そのとおり元に言った。彼は、きれいな白い手で髪をなで、笑いながら言った。
「ぼくがきみだったら、こんな召喚状には返事も出さないよ、元。きみには同情するよ。そして、ぼくの両親がそんなことをしないのをありがたいと思っている。いくら新しいやり方をののしるにしても、いまでは、この都会の生活に慣れているのだから、父も母も、本気になってぼくらに強制するようなことはできないのだ。そして、ぐちばかりこぼして精力を使っているのさ。ほっときたまえ――きみ自身の生活をすることだ。怒った手紙など書かないで、自分の好きなことをするのさ、帰る必要はないよ」
すると、愛蘭が、はげしい勢いで叫んだ。「盛の言うとおりよ、元。こんなこと、もう二度と考える必要はないわ。いつまでも、ここであたしたちと暮らしてればいいじゃないの。あたしたちはみんな新しい世界の人間よ。あなただって、そのうちに、ほかのことは、すっかり忘れてしまうわ。この町には、あたしたちを幸福にし、一生涯おもしろおかしく暮らせるだけのものがあるのよ。あたし、ほかのところに行きたいなんて思ったこともないわ」
しかし孟は、みんなの話がすむまで黙っていた。そして、やがてひどく重々しく、ゆっくりと言った。「みんな子供みたいなことを言うね。法律によれば、元は父がきめた日に結婚したことになるんだよ。この国の法律によって、元はふたたび自由にはなれないのだ。元は自由じゃない――自分で自由だと言おうと、自由だと考えようと、ひとりいい気になっていようと、そんなことは問題じゃない――自由じゃないんだ……元、これでもきみは革命運動にはいらないのか。なぜわれわれが戦わねばならないか、これできみにもわかったろうと思うがね」
元は孟を見た。そして、孟の燃えるようなはげしい二つの目にぶつかり、彼の魂の必死の勢いを読みとった。元は、ちょっと逡巡《しゅんじゅん》していたが、やがて絶望の中から静かに答えた。
「ぼくも加盟しよう!」
こうして、王虎将軍は自分の息子を敵側に追いやったのであった。
祖国を救うため、これからはこの主義に心魂をうちこむことができるのだ、と元は思った。いままでにも、「われわれは祖国を救わねばならない」と呼びかけられたとき、それが当然なさなければならないことのような気がして、いつも心をかきたてられはしたが、なぜ祖国は救われなければならない状態にあるのか、たとい救うにしても、何から救うのか、またこの祖国という言葉の意味はどんなものかということさえはっきりわからなかったので、力の持って行きようがなかった。父の家にいた子供のころ、家庭教師がそう教えたときも、彼はこの救国という衝動をおぼえながらも、やはり当惑を感じ、何かをしたいとは思ったが、何をしていいかわからなかった。軍官学校では、外敵によって祖国に加えられている害悪について、耳にたこができるほど聞かされたが、父もまた敵だというので、やはりはっきりとは理解ができなかった。
この都会の学校でも同じことであった。彼は孟が同じことを、いかに祖国が救われなければならない状態にあるかということを語るのを、しばしば聞いた。なぜなら、孟は主義のことを語らないときは、救国のことばかり語っていたからである。彼はこのごろずっと秘密の会合で忙しくて、ほとんど学業など見向きもしなかった。そして、彼やその同志たちは、いつも学校や市当局に抗議文をつきつけたり、外敵、不平等条約、市政府や学校の取り締まり規則など、彼らの希望にあわないものには片端から反対を叫び、旗をかついで市内を行進した。彼らは多くのものに、たといその人たちの意志に反してでも、この行進に参加することを強制した。孟は軍閥の頭目にも劣らないようなすごい顔をして参加を強制し、ぐずぐずしている学生をどなりつけた。「諸君はそれで愛国者といえるか。外国人の走狗《そうく》ではないか――われらの祖国が外敵によっていまや破滅させられようとしているときに、諸君はダンスをしたり遊んだりしているのか!」
ある日、元が忙しくて、そんな行進に参加するひまがないと言うと、孟は元に向かってさえ、どなりつけたものだった。盛なら、孟が寄ってきて、たけりたったことを言ったところで、例の愉快そうな調子で笑い、ちょっとからかうこともできた。なぜなら、孟は若い革命党員の指導者である前に彼の弟だからである。ところが、元はいとこにすぎないので、この怒りっぽい青年からできるだけうまく逃げなければならなかった。そしてこんなときの最良の避難所は例の農園であった。というのが、孟やその同志には畑をこつこつ耕すなどという愚かな労働をするひまがなかったので、ここにいれば元は彼らからのがれることができたからである。
しかし、いまこそ元には、祖国を救うということが何を意味するかがわかった。王虎将軍が、何ゆえ敵であるかということがわかった。なぜならば、いま祖国を救うことは自分を救うことであり、父は自分の敵であって、みずから自分を救わなければ、だれも救ってはくれないことがわかったからである。
元は、この運動に身を投じた。彼は孟のいとこであり、孟が彼のために誓約してくれたので、忠実を証明する必要はなかった。また孟も主義にたいする元の真実性を誓うことができた。なぜならば、彼は元の憤りの理由を知っていたからであり、ある一つの主義にたいして忠実であることの唯一の保証は、つねに元がいま感じているような個人的な深い憤りのなかにあることを知っていたからである。元は旧時代がいまや彼の特殊の敵であるから旧時代を憎悪することができるのである。それ以外に自分を解放することはできないから祖国を解放するために戦うことができるのである。そんなふうで、その夜、彼は孟に連れられて、曲がりくねった通りの端にある古い家の一室で開かれた秘密の会合に出かけた。
その町は貧乏人相手の娼婦の巣として知られているところで、あやしげな服装をした男たちが行ったりきたりしていた。そして、どんな場所だかだれでも知っているので、若い労働者たちが出入りしても、注意をするものはなかった。孟は、この町を先にたって元を連れて行った。客を呼びこむ声や騒ぎには、孟は目もくれなかった。この場所に慣れっこになっているので、あちこちの入り口から女たちが客をつかまえようと飛び出してきても、顔を見ようともしなかった。しつこく袖をつかんで離さない女でもいると、うるさい非情の虫けらでも始末するように、その手を振りはらった。ただ女が元をつかまえて離そうとしないときだけ孟はどなった。「離せよ。おれたち、行く店はきまっているんだ」彼はそのまま大股に歩きつづけた。くっついて歩く元は手を離されて助かった気持ちだった。というのが、その女は下卑《げび》た、ひどい顔をしているし、若くもないので、色目を使って媚《こび》を呈するさまが、ぞっとするようだったからである。
やがて一軒の家に着くと、女がなかへ入れてくれた。孟は階段を上って、一つの部屋へはいった。そこには五十人かそれ以上もの男女がいて待っていた。指導者の孟の後ろから元がはいって行くのを見ると、低い話し声がぴたりとやみ、一瞬、疑惑のこもった沈黙がおとずれた。しかし、孟が言った。
「心配するにはおよばないよ。これはぼくのいとこなんだ。前から言っていたことだが、ぼくは彼がわれわれの運動に加盟してくれることを非常に望んでいたのだ。なぜならば、彼はわれわれにたいへん役に立つからだ。彼の父は軍隊を持っていて、これは他日われわれの役に立つかもしれない。ところが、彼は加盟することを承知しなかった。きょう、ぼくが説いていたことが真実であり、自分の父は敵である――われわれの父がすべて敵であると同様に――ということを知るまで、この運動の正しいことを、はっきり感じていなかったのだ。いまや彼は決意した――決意するに十分なだけの憎悪を持っているのだ」
黙ってこの言葉を聞いていた元は、一座の燃えるような顔を見まわした。いかに色は悪かろうと、また美しくなかろうと、ここには燃えるような表情をうかべていない顔は一つもなく、目もすべて同じように燃えるようであった。孟の言葉を聞き、これらの目を見ると、彼の心臓は、ちょっととまった――自分は、ほんとうに父を憎んでいるだろうか。――父を憎むことはできない、と彼は思った。憎むという言葉に、彼は心の中で動揺し、逡巡した――自分は父のすることを憎悪している――父のすることを肝《きも》に銘じて憎悪している。しかし……彼が動揺しているその瞬間、影になっていた暗いところから立ちあがって、彼のところへきて手をさし出したものがあった。その手に見おぼえがあったのでふり返ると、目にはいったのは見おぼえのある顔であった。それはあの女で、例のふしぎな美しい声で言った。「あなたが、いつかは加盟してくださることがわかっていましたわ。加盟せずにはいられないようなことが起こると、わたしにはわかっていましたわ」
この女の姿を見、この手に触れ、この声を聞くと、元は心が温まり、心から迎えられるのを感じた。そして、あらためて父のしたことが思い出された。そうだ、もし父が、見たこともない女と結婚させるような憎むべきことをするなら、自分も父を憎んでやる。彼は女の手をつかんだ。彼女が自分を愛していることを知るのは、心も狂わんばかりの甘美な気持ちだった。彼女がここにいて、自分の手をとっているので、彼は急に彼らの同志になったような気がした。彼は、急いで部屋のなかを見まわした。ここにいるものは、みんな自由なのだ。自由で若いのだ! 孟が、まだしゃべっていた。ふたりが、男と女が、手に手をとって立っているのをだれもおかしいとは思わなかった。ここではみんな自由だからだ。孟がこう言って言葉を結んだ。
「彼については、ぼくが保証する。もし彼が裏切ったら、ぼくも死ぬ。ぼくは彼のために誓う」
彼が言い終わると、彼女は元の手を握ったまま、いっしょに二、三歩進み出て言った。「わたしも――わたしもこの人のために誓います!」
こうして彼女は彼を自分と、そして同志へと結びつけたのである。そこで一言の反対もせず、元は誓いをたてた。みんなの面前で、そしてみんなの沈黙の中で、孟がナイフで元の指を切り、すこしばかり血をとった。その血を孟が筆にふくませると、元はその筆をもって、誓約書に署名した。それが終わると一同は起立し、彼を党員として受け入れ、いっしょに誓約書を朗唱し、同志であることを証明する徽章を元にあたえた。こうして、ついに彼は彼らの同志になったのである。
党員になった元は、いままで知らなかった多くのことを発見した。この結社は、いたるところにある他の無数の結社と網の目のように結びつき、この網の目は全国の各省から多くの都市、ことに南方にのび、全国の中心は、あの軍官学校のある華南の大都市にあった。この中央本部から秘密通信によって指令が出される。孟は、この秘密通信の受領法や解読法を知っていて、指令に従って、すぐに全国の同志を招集し、ストライキを起こせとか声明書を出せとか伝達する。そして、これと同じことが幾多の都市で同時に行なわれるのである。なぜなら、こうして多数の青年男女が全国的に結集しているからである。
このような結社の会合の一つ一つは、将来の大計画を実現する第一歩なのであった。そしてこの大計画なるものは、元にとっては、じつをいうと、そう耳新しいものではなかった。というのは、ものごころついて以来、彼はそういうことばかり聞かされてきたからである。彼の子供のころから、父はよく言ったものだった。「わしは政権を獲得して一大国家をつくるのだ。新しい王朝を創始するのだ」王将軍は青年のときから、こんな大望をいだいていたのであった。それから元の家庭教師も、ひそかに言っていた。「いつかわれわれは政権を獲得し、新しい国家をつくらなければなりません――」そして軍官学校でも同じことを聞かされたし、いまも同じことを聞かされたのである。しかも、それは多くの人にとって新しい叫びであった。商人の子、教師の子、静かに暮らしている普通の人の子、退屈な平凡な生活を送っているこうした息子たちにとって、これほど大きな叫びは、いままでになかった。新国家の創造を語り、国家の新しい興隆を見、外国人に戦いを宣することは、あらゆる平凡な青年に大きな夢をあたえ、支配者、政治家、将軍としての自分を空想させた。
しかし元にとっては、その叫びはそう珍しいものではなかったので、ほかの人たちと声をあわせて高らかに叫ぶことができなかった。だから彼は、「どういう方法で実行するのですか」とか「学校に行かず、ただ示威行進にばかり時間をつぶして、どうして国が救えるのですか」とたずねて、しばしば彼らを困らせた。
しかし、しばらくすると、彼は沈黙を守ることをおぼえた。なぜならば、ほかの連中はこうした話をひどくいやがるからである。また彼がほかの同志と同じ行動をとらないと、孟やあの女の立場が苦しくなるからである。孟はふたりきりのとき、彼に言ったことがあった。「上部からくる指令に疑問を持つ権利は、きみにはないんだよ。われわれは服従しなければならないのだ。そうすることによってのみ、きたるべき偉大な日のための準備ができるのだからだ。ほかの同志にも許さないのだから、きみにも質問を許すわけにはいかないよ。いとこだからえこひいきをしていると言われるからね」
そんなふうで、自分に理解できないことでも服従しなければならないとすると、どこに自由があるのだとたずねたい疑問が起こるのだが、元は、その疑問をおさえつけなければならなかった。彼は自分に言い聞かせた、将来自由を得るにちがいないのだと。また、こうも思った。父に従えば自由がないのはきまっているし、すでに同志とともに運命の賽《さい》を投げた以上、ほかに進むべき道はないのだと。
それで近ごろは指令されたとおり自分の義務を果たした。行進の日は旗の用意をした。彼の字は明瞭で、ほかのものよりじょうずだったので、学校に何か要求するときには要求書を書いた。そして学校当局が要求を入れないというので同盟休校をするような場合には、彼も学校を休んだ。しかし、学課におくれないようにと、ひそかに勉強した。また彼は労働者の家をたずねてはパンフレットをくばって歩いた。それには、彼らがいかに酷使されているか、賃銀がいかにすくないか、彼らのおかげで経営者がいかに肥えふとっているかといったような、みんながすでに知っていることが書いてあった。こうした男女は字が読めないので、元が読んでやるのだが、彼らはよろこんでそれを聞いて、自分たちが思っていたより酷使されていることを知り、おたがいにびっくりして目を見あわせ、口々に叫ぶのだった。「うん、まったくだ。おれたち腹いっぱい食ったことがねえんだからな――」「うん、わしらは夜も昼もなしに働いて、それでも餓鬼《がき》にろくすっぽ食わせられねえんだ――」「わしらのようなものには楽しみはないよ。きょうもあすも、いつまでたっても同じことだ。毎日、かせぐだけ食っちまうんだからな」そして彼らは、いかに自分たちが酷使されているかを発見し、血に飢えたような絶望的な目を見合わせるのであった。
彼らの姿を見、彼らの言葉を聞くと、元は気の毒と思わないわけにはいかなかった。彼らがつねに酷使され、子供たちは栄養不良で顔色が悪く、紡績工場や外国人経営の機械工場で毎日長時間働き、しばしば工場内で死んでも注意もはらわれないからであった。両親さえあまり気にかけないのだ。子供はすぐ生まれるし、貧乏人の家には、つねに不必要なほど子供がいるからである。
しかも、これほど気の毒とは思っても、じつをいうと、元は彼らの家から出ると、ほっとするのであった。それというのが、貧乏人の家は、つねに悪臭がただよっているし、彼の嗅覚は、ひどく敏感だったからである。家に帰って、からだを洗い、彼らとは遠く離れているのに、まだあたりにそのにおいが漂っているような気がした。自分の静かな部屋で、ひとり本に向かっていながら、顔をあげると、その臭気が襲ってくる。服をとりかえても襲ってくる。歓楽の場所に行ってさえ襲ってくるのである。ダンスをしていると、腕に抱いた女のかおりを圧倒し、また清潔に、見事に調理された料理の芳香を圧倒して、彼は貧乏人の悪臭をかぎわけることができた。それはいたるところに浸透していて、元を不快にした。昔から元には、こうした気の弱い潔癖さがあって、そのため、何をしても全魂をうちこむことが、いまでもできないのだ。というのが、どんなものにも、ほんの小さいことであるが、彼の感覚にひやりと訴えるものがあるからであった。自分の人物が小さいのを恥じながらも、貧乏人の悪臭から自分の肉体がしりごみするので、彼は主義にたいして自分がいささか冷淡なのを知った。
いまでは彼もその一員になっている結社の交友関係で、もう一つ困ったことがあった。それは、しばしば運動の障害となり、ほかの同志とのあいだに暗影を投げた。それはあの女であった。というのは、元はこの運動に加盟して以来、彼女は元が自分のものになったと確信したらしく、放そうとしないからであった。こうした若い人たちのあいだには、大胆にも同棲している男女もあって、それは不道徳なこととは思われていず、だれもなんとも言わなかった。彼らは同志と呼ばれ、ふたりのあいだの関係は、ふたりが希望しているあいだだけ、つづくのである。そして、その女は元が同棲してくれるのを望んでいるのであった。
ところが、ここにおかしなことがあった。もし元が運動に加盟せず、前のように楽しい夢のような生活をつづけ、その女ともあまり合わず、ただ教室で顔をあわせるとか、ときどきふたりきりで散歩するとかだけだったら、彼女の大胆さや美しい声や率直なまなざしや情熱に燃える手が、彼のつきあっている愛蘭の友だち連中とは非常に毛色がちがっているということのため、彼を魅惑しただろうと思われる。なぜならば、元は女にたいしては非常なはにかみ屋なので、かえって大胆さが彼には魅惑的に思えたからである。
ところが、彼はいまこの女と毎日いたるところで顔をあわせたのだ。彼女は元は自分のものときめてしまい、毎日学校が終わると、待っていていっしょに帰る。それで、ほかの学生もそれに気づかないはずはなく、みんな元をからかって声をかける。「彼女が待っているよ――待っているよ――とても逃げられないね――」こんな口さがない冷やかしが、しょっちゅう彼の耳に聞こえてくるようになった。
はじめのうち元は、そんな言葉は、聞かないふりをしていた。どうしても聞かなければならない場合には、気弱そうに微笑した。そのうちに彼は恥ずかしくなり、授業が終わっても、なるたけ教室に残っていたり、人の気づかない出口から出て行くようになった。それでも、彼女に面と向かって、「きみがいつも待っているのには、うんざりするよ」とは言えなかった。それどころか、彼女が待っていてくれるのをよろこんでいるふりしかできなかった。秘密会合に行くと、彼女も出席していて、いつも自分のそばに彼の席をとっていた。そして、みんなは、これをふたりがあらゆる点で結びつけられた証拠だとみなした。
しかもなおふたりは結ばれてはいなかった。元には、この女を愛することができなかったからである。会えば会うほど、彼女が彼の手をとればとるほど――いまでは彼女は、しばしば彼の手をとり、ながいあいだ握りしめ、欲情をかくそうとはしなかった――いよいよ元は愛せなくなるのであった。それでも彼女の価値を認めないわけにはいかなかった。なぜならば、彼女が非常に忠実で、ほんとに自分を愛していることがわかっていたからであり、彼は内心恥じながらも、ときどき彼女のこの忠実さを利用することがあるからだった。彼があまり気の向かない仕事を命じられたときなど、彼女は彼が気が進まないのをすぐに見てとり、自分にできることだったら、それは自分がやりたかったのだと言って代わってくれるので、元は自分の好きなこと、たとえば書いたり、あるいは、いやな臭気のする貧民街へ行くかわりに農村へ行って百姓たちと話をするといった仕事を受け持つことができた。そんなふうで、元は彼女の好意をありがたいと思っているので、怒らせたくなかったが、一方彼としても男なので、彼女の好意を受けながら愛せないでいることを恥ずかしく思うのであった。
元が彼女の愛をこばめばこばむほど――ながいあいだ、どちらも言葉には出さなかったけれども――彼女の愛情ははげしくなり、ある日、ついに言葉となってあらわれた。こういうことは、すべてそうならずにはすまないものなのである。たまたまその日、元はある農村へ派遣されることになったので、彼はひとりで行って、帰りに例の農園へよって、畑のぐあいがどうなっているかを見てきたいと思っていた。党の運動という余分の仕事ができて忙しかったので、このごろは畑へも思うように行けなかったからである。晩春のうららかな日だったので、彼は、その村まで歩いて行き、百姓たちとしばらく話をし、こっそりパンフレットを渡し、それから東のほうへまわり道して、自分の畑へ寄るつもりにしていた。彼は百姓たちと話をするのが好きで、よく話をしたが、しいて説き伏せようとはせず、普通の人を相手にしているように話した。また彼らが、「だがのう、土地を金持ちから取りあげて、わしらにくれるなんてことは、聞いたこともないな。できることじゃないよ。それに、そんなことにはならんほうがええだよ。あとから、なにか罰を食うといかんからな。いまのままのほうがええだよ。すくなくとも自分たちの苦労の種がわかっているだでな。昔からあった苦労でな、ちゃんとわかっているだで」などと言うのも、よく聞いてやった。彼らのなかで新時代の到来を歓迎するのは、ぜんぜん土地を持たない連中だけであった。
ところが、この日、夢のような、孤独な、楽しい時間を胸にえがいていると、彼女がやってきて、例の確信に満ちた調子で言うのであった。「あなたといっしょに行って、あたしは女たちに話しますわ」
元としては彼女にきてもらいたくない理由がたくさんあった。彼女が目の前にいれば、主義を説くのに激越な言葉を使わなければならないが、彼は、そんな激越さを好まなかった。またふたりきりになると、手をとられるのが恐ろしかった。それに、あの人のいい百姓がいはしないかと思うと、農場にも寄れない。彼が運動に加盟していることは、あの百姓に話していないし、またそんなことを知られたくはないので、この女を同伴するわけにはいかなかったのである。それにもまして、自分でまいた種子から生えた作物のできぐあいに彼が関心を持っているところを、この女に見られたくなかったのだ。彼女が驚くだろうと思うと、そんなものに彼が抱いている妙な古い強い愛着を、この女に見せたくなかったのである。彼女が笑うだろうとは心配しなかった。というのは彼女は、何を見ても笑いとばすような女ではなかったからである。しかし、彼女が驚くことや、理解してくれないこと、自分で理解できないことはすぐ軽蔑するくせがあることが恐ろしかった。
それでも、彼は彼女を追い払うわけにはいかなかった。彼女は孟を動かして元と同行するようにという指令を受けとっていたからである。そこでふたりはいっしょに出かけたが、元は口もきかず、道の片側を行き、彼女が近よってくると、すぐに、こちらのほうが歩きよいとかなんとか口実を見つけて道の反対側を歩いた。市中の道路が狭い道に変わり、これがまた細い小路に変わり、ふたりが前後になって歩かなければならなくなると、元は、ほっとして、彼女の姿を見なくてもすみ、しかもあたりを見まわせるように、先に立って歩いた。
しかし、彼女もずっと前から彼の気持ちを察していた。はじめのうち、彼女は静かに話しかけ、彼のそっけない返事も気にかけないふうを装っていたが、やがて黙ってしまい、ついにはふたりとも黙ったまま歩いた。そのあいだも元は彼女の愛情がたかまってくるのを感じ、彼女を恐れたが、それでも強情に黙って歩きつづけるよりしかたがなかった。そのうち道の曲がり角へきた。そこには古い昔に植えられた楊柳《やなぎ》の老樹が幾株かあって、年々枝を払うので、年ごとの新しい枝が、まるで筆のようにむらがりはえ、小路の上でまじわって、深い緑陰をつくっていた。このひっそりしたさびしい場所を通り過ぎようとしたとき、元は、うしろから肩に手がかかるのを感じた。彼女は彼をふり向かせ、彼の胸に身を投げかけ、急にはげしく泣き出しながら言った。
「あなたがあたしをなぜ愛してくださらないか、あたしは知っています――あなたが夜になると、どこへおいでになるかも知っています――このあいだの夜、あなたが妹さんとお出かけになるあとをつけて行きました。あなたは大きなホテルヘはいりました。そこには女たちがたくさんいました。あなたは、あたしよりも、あんな女のほうが好きなのです――あなたがいっしょに踊った女を見ましたわ――桃色の夜会服を着ていた女です――恥ずかしげもなく、あなたにすがりついたりして――」
いまでもときどき元が愛蘭といっしょに出かけるのは事実であった。それというのが、妹にも老夫人にも運動に加盟したことを打ち明けていなかったし、忙しいからそうそう愛蘭のようには行けないと口実をもうけることはあったが、ときどき行かなければ愛蘭が怪しむだろうし、老夫人はいまでも彼がいっしょに行って安心させてくれるのを願っているからだった。いま彼女が泣いて言うのを聞くと、元も思い出したが、二、三日前の夜、大きな外国風のホテルで、愛蘭の親しい友人の誕生日のために催されたパーティに愛蘭と出席したことがあった。そして、その友人と踊ったのだが、ホテルには道路に面して大きなガラス窓があった。この女の油断のない目が、ほかの客のなかから、彼の姿を探し出したのであろう。
彼は、からだをこわばらせ、腹を立てて言った。「ぼくは妹と行ったんです。招待されたんですよ、それに――」
しかし彼女は、熱い手で握っている彼の手が冷たくなるのを感じると、さっと飛びのいて、彼よりもはげしい怒りをこめて叫んだ。「あたし見ましたわ――あなたはその女を抱いて、平気で手を握りあっていました。それなのに、どうして蛇かなんぞのようにあたしから逃げるのです! あたしたちが憎み、打倒しようとかかっている人々とあなたが遊んでいることをほかの同志に話したら、あなたはどうなると思っていらっしゃるの? あなたの生命は、あたしの手の中にあるのよ」
これは事実であって、元もそれはよく知っていた。しかし静かに軽蔑をこめて彼は言った。「そんなことを言えば、ぼくがあなたを愛するようになるとでも思っているんですか」
すると彼女は、またぐったりと彼に倒れかかり、すがりついたまま静かに泣き、彼の両腕をとると、からだを抱いてもらうように自分でささえ、そんなかっこうでふたりは立っていた。元は彼女のすすり泣きに心を動かされ、気の毒になってきた。そして、やがて彼女が、「あたしは、あなたから離れられなくなりました。ふたりが結びつくことは、あなたが望んでいないように、あたしも望んでいなかったのです。だって、あたしは、どんな男の人にも心を奪われたりしたくなかったのですもの――それだのに、いまのあたしは、あなたから離れるくらいなら主義をすてます――あたしは、悪い、弱い女になりましたわ」と言ったとき、憐《あわれ》みの念が急にわき起こって、心にもなく、彼女がささえているとおり腕を相手のからだにまわしたままにしておいた。
しばらくすると彼女は落ちつき、彼から離れ、涙をふき、こうしてまたふたりは歩きだした。彼女は悲しそうに黙りこんでしまった。ふたりは命じられた仕事をすましたが、その日はそれ以上何も話をしなかった。
しかし、元も彼女もふたりのあいだの関係がどんなものであるかを知っていた。元には、へんにつむじ曲がりなところがあって、いままで愛蘭の友だちに心をひかれたことがなかった。それに、そうした金持ちの美しい娘たちは、かん高い、軽やかな、陽気な声や、金属性の笑い声や、色とりどりの美しい着物や、耳の宝石や、なめらかな肌や、染めた指の爪など、みな同じようなかっこうをしているので、同じように見えたのである。彼はただ音楽のリズムを愛し、音楽に趣をそえる娘たちを愛したのであって、いまでは、はじめのうちのように女に心をなやまされることはなかったのだ。
ところが、この女の嫉妬《しっと》は妙に彼をかりたてて、彼女が嫉妬している相手の女たちのほうに彼を追いやったのであった。そして、彼女が陽気でないがゆえに、その女たちの陽気さが彼にとっては魅力であり、彼女らのはなやかさや、楽しむこと以外には何も主義を持っていないことのなかに、ある愉快さを見いだしたのであった。そのなかでも二、三人とくに好きな女ができはじめた。ひとりは、清朝が崩壊して以来この都市に亡命している老皇族の王女で、こんなかわいいきれいな女を元は見たことがなかった。その美しさは一点の非のうちどころもなく、元は彼女の姿を見るのが楽しみであった。もうひとりは、もっと年をとった女で、元の若さと美貌に好意を持ち、この町に婦人服飾店を経営していて、一生結婚はしない、事業をつづけるのだ、と言っているくせに、元が好きで、よく冗談を言ったりした。彼女は元が気に入っていた。元もそのことを知っていた。そして、彼女の刀身のようにほっそりしたからだつきや、短く刈った黒い髪をぴったり頭になでつけている鋭い美しさが、ひどくなやましい楽しさをあたえた。
このふたりの女や、そのほか二、三人の女のことを、ふと頭にうかべることさえ、もうひとりの女から非難されると、彼はうしろめたいような気がした。そして彼女は、あるときは情熱的に怒りをこめて訴えるかと思えば、あるときは冷ややかに憎々しげにしていた。元はこの女と妙なふうに同志として結ばれているので、どうしても離れるわけにはいかないと覚悟はしているのだが、それでも愛することはできなかった。
父があの遠い町で彼に結婚させるときめた日の数日前のある日、元は自分の部屋の窓ぎわにひとり憂鬱そうに立って、町をながめていた。そして、きょうはあの女に会わなければならないと思うと不愉快になった。(父が束縛するから自分は反抗したのだ。それなのに、あの女から束縛されるとは、なんと自分はばかなのだろう!)そして、このことをいままで考えもせず、またしても自由をうしなっていたことに驚き、腰をおろして、何かのがれる道はないか、この新しい束縛からなんとかして解放される方法はないかと、すばやく頭をめぐらせた。この新しい束縛は、秘密でもあり、仕事の上で密接な関係もあるので、そういう意味では父の束縛にも劣らぬ重荷であった。
そのうちに、突如として彼は解放された。こうしたあいだにも例の運動は華南地方でますます勢力をまし、いまや時節到来とばかり、革命軍は華南の都から燎原《りょうげん》の火のごとくこの国の中心部へと進軍してきた。南海から起こって沿岸地方を荒しまわる台風のように、とつぜん、この軍隊は肉と血と真理を身につけ、ほとんど超人間的な力をもってあらわれたので、国じゅう、いたるところの都市には、四方八方に、その軍隊が進軍してくる前、進軍した後、その威力と破竹のような勝利のうわさが流布されていた。この軍隊の兵士は、みな若い人々で、なかには女もまじり、神秘的な力を持っているので、その戦いぶりは、ただ給料のために戦う兵隊とは、まるでちがっていた。彼らは自分たちの生命であるところの主義のために戦っているのだから、じつに無敵であって、軍閥の傭兵《ようへい》は疾風の前の枯れ葉のように潰走《かいそう》した。彼らの進む前には、あたかも前衛兵のように、彼らの威力や大胆不敵さへの恐怖、それから死を恐れないがゆえに彼らには死も近寄らないというようなうわさが乱れ飛んだ。
そこで、この都市の支配者たちは、恐怖のあまり、この都市に住む革命党員を根こそぎにしようと彼らに襲いかかった。市中にいる陰謀団が、来襲する革命軍に合流するのを恐れたからで、孟や元やあの女のような党員が、ほかの学校にもたくさんいたのである。これはわずか三日間の出来事で、支配者たちは学生が住んでいる部屋に片端から乱暴な兵隊を送り、本とか紙片とか旗とか、その他、革命運動に関係のあるものが発見されると、たちどころに射殺した。たといそれが女であっても射殺した。この三日間に、この都市だけで射殺された若い男女は数百人にのぼり、自分も一味と思われて生命を落としてはたいへんだというので、だれも抗議するものはいなかった。また殺されたもののなかには無関係な人もたくさんいた。それというのは、だれかに恨みを持っている悪いやつが、その憎んでいる人の名を密告し、その人たちが革命党員だという偽りの証拠をあげると、その言葉だけで多くの人が殺されたからである。市中の革命党員が、外部から攻撃してくる革命軍に内応しはしないかという支配者のあいだの恐怖は、それほど強かったのである。
そのうち、ある日なんの前ぶれもなく、一つの事件が起こった。ある朝、元は教室へ出ていて、例のように彼女が自分を見ていることがわかったので、ふり返るものかと思いながら、なんだかそうしなければいられないような気がして、ふり返ろうとしたとたんに、一隊の兵隊がはいってきた。隊長が、「全員起立せよ、いまから身体検査をする」とどなった。そこで学生たちは、何が何やらわからず、おびえて立ちあがった。兵隊は学生の身体検査をしたり、本を調べたりし、ひとりが学生たちの住所氏名を帳面に書いた。これは完全な沈黙のうちに行なわれ、教師も、しかたなく黙って立っていた。聞こえる音といっては、兵隊の靴の踵《かかと》に触れる長剣のひびきと、板張りの床を踏む彼らの重い靴の音ばかりであった。
このおびえて静まりかえった部屋から、何か持っているのを発見されたらしく、三人の学生が連れ出された。ふたりは男の学生だったが、ひとりはあの女であった。ポケットに証拠となる書類を持っていたのだ。この三人を兵隊は前に立たせ、歩きはじめると、着剣した銃でこづいて彼らを急がせた。元は、こんなふうにして彼女が連れて行かれるのを、どうしようもなくぼんやりとみつめていた。出口まで行くと、彼女はふり返って彼のほうを見やった。ながい、訴えるような無言の目であった。すぐにひとりの兵隊が銃のさきで押し出した。彼女の姿は消え、元はもうこれで永久に彼女の姿を見ることはないのだと思った。
彼が第一に考えたのは、(おれは彼女から解放された)ということだった。そしてすぐに、自分がそんなによろこんだことを、なかば恥ずかしく思った。しかも、彼女が連れて行かれるとき彼に投げたあのひどく悲しげな目を思い出さずにはいられなかった。彼女が、まごころをこめて愛してくれたのに、彼のほうでは愛していなかったがゆえに、その目を思うと、なんだか悪いことをしたような気がした。(どうにもしかたがなかったじゃないか――愛さなかったにしても、ほかにどうすればよかったというのか)と自分を弁護し、そう心のなかでひそかに思ったときでさえ、(それにちがいない。しかし、彼女がこんなにすぐ死ぬことがわかっていたら――すこしは慰めてやってもよかったのではないか)という、また別の小さな弱い声がささやいた。
しかし、そんなことをながく考えているひまはなかった。その日はもう授業どころではなく、教師は講義をやめることにしたので、みんなは教室から急いで出て行ったからである。ところが、急いで帰ろうとしていると、元はだれかに腕をとられた。ふり返ってみると、それは盛であった。盛はだれもいないところに彼をそっと連れて行き、声をひそめて言った。いつもの、のっぺりした顔がきょうだけは恐怖に乱れていた。「孟を知らないか――あれは、きょうの手入れを知らないんだ。もし身体検査でもされたら――孟が殺されでもしたら、うちの親父《おやじ》は死んでしまうよ」
「ぼくも知らないんだ」と元も盛をみつめて言った。「この二日ばかり孟に会っていないのだ――」盛はそのまま行ってしまった。どの教室からも出てくる、おびえて黙りこんだ学生の群れを、彼の敏捷なからだが縫って行くのが見えた。
元は人通りのない裏通りを選んで家に帰り、夫人がいたので、きょうの出来事を話し、最後に安心させるために言った。「もちろん、ぼくは何も心配することはないんです」
しかし、夫人は元よりももっと深く考えたので、急いで言った。「考えてごらん――あなたは孟といっしょのところを見られているのですよ――いとこだし――それに孟はこの家へきたこともあるのだから、あなたの部屋に本とか書類とか、そのほかちょっとしたものでもおいて行ってやしませんか。ここへも捜索にきますよ。ああ、元、あなたはすぐお部屋へ行って調べていらっしゃい。そのあいだにわたしは、あなたをどうしたらいいか考えます。何しろ、おとうさんはあなたを愛していらっしゃるのだし、あなたにもしものことがあれば、それはみんなわたしの過失なのです。だって、おとうさんから帰れと言ってきたのに帰さなかったのはわたしなのですからね」そして、夫人は元がいままで見たこともないほど深い憂慮の色をうかべていた。
それから夫人は彼といっしょに部屋へ行って、彼の持ち物を全部しらべた。夫人が、本だなの抽出《ひきだ》しのなかだの棚の上などを片端から調べているうちに、元は、あの女がよこした古い恋文を破りすてずにおいたのを思い出した。詩の本のあいだにはさんでおいたのだが、べつにたいせつにして保存しておいたわけではなく、ともかくそれが愛を語っている手紙だったので、はじめのうち、彼には貴重なもの――生まれてはじめての愛の言葉であり、したがってしばらくのあいだは、そのために魔法のような力を持っていたのだが、いつとはなしに忘れてしまっていたのである。彼は夫人が向こうを向いているすきに、それをとり出し、手のなかでまるめ、口実をもうけて部屋を出て、ほかの部屋へ行ってマッチの火をつけた。指のあいだでその手紙が燃えているとき、彼は、あの気の毒な女のこと、そして彼に投げたあの視線を思い出していた。それは兎が猛犬に襲われ食い殺される前のような目であった。元は彼女のことを思うと、非常な悲しみにうたれた。いまでさえ、いや、前よりもいまのほうがもっと強く、自分が彼女を愛していないこと、なんとしても愛することができないこと、うしろめたい気はするが彼女の死を気の毒とさえ思っていないことを知っているがゆえに、その悲しみは妙になんとなく深かった。こうして手紙は彼の指のあいだで灰となってすてられた。
たとい元が悲しむだけの愛情を持っていたにしろ、悲しんでいるひまはなかった。なぜならば、手紙が燃えて終わるか終わらないうちに、扉が開いて、伯父と伯母と上のいとこと盛がはいってきて、みんなで孟の姿を見なかったかと叫んだからである。老夫人も元の部屋から出てきた。みんなおびえながらいろいろと言いあった。伯父はふとった顔を恐怖にふるわせ、泣きながら言った。
「わしがこの都へきたのは、残酷で乱暴な野蛮人ばかりの小作人からのがれるためだった。ここなら外国の軍隊が保護してくれるから安全だと思ったのだ。こんなことが起こっているのに黙って見ているなんて、外国の軍隊は、いったい何をしておるのだ。それに孟の姿が見えん。盛の話だと、孟は革命党員だというのだ。わしは、なんにも知らなかったのだ。どうしてわしに話さなかったのだ。知っていれば、とっくの昔にわしの手でうまく片づけたのに!」
「でも、おとうさん」と盛が低い心配そうな声で言った。「おとうさんにお話しすれば、それこそ騒ぎを大きくするばかりだったのですよ」
「そうともさ、おとうさんがなさることは、そのくらいのところですよ」と盛の母親が苦々しげに言った。「もし秘密があるなら、家のなかで秘密を守れるのは、わたしだけです。そのわたしに打ち明けてくれなかったのが残念です。孟はわたしが一ばんかわいがっていた息子なのに!」
柳の灰のように土気色になった盛の兄は、気がかりそうに言った。「あのたったひとりのばか者のために、わたしらみんなが危険にさらされているのだ。うちにも兵隊がきて、尋問したり、嫌疑をかけたりするでしょうからね」
ついで元が母と呼んでいる老夫人が静かに言った。「こんな危険にのぞんだのですから、どうすればいいか、みんなで考えましょう。元は、わたしがあずかっているのですから、わたしが考えてやらなくてはなりません。わたしはこう考えています。いずれそのうちには外国の学校に留学させようと思っていましたから、すぐに出発させましょう。できるだけ早く、書類がととのいしだい、出発させます。外国にいれば安全だろうと思います」
「じゃ、みんな行こうではないか」伯父が熱心に言った。「外国にいれば、われわれもみんな安全だ」
「おとうさんはだめですよ」と盛が辛抱強く言った。「外国では、勉強のためとか、何か特別の理由がないと、上陸を許可しないのです」
これを聞くと、老人は胸をそらせ、小さな目をいっぱいに開いて言った。「そんなことを言ったって、向こうじゃわれわれの国に上陸しておるじゃないか」
しかし、老夫人がみんなをなだめて言った。「わたしたちのことは、いま相談する必要はありますまい。わたしたち年よりは大丈夫ですよ。まさか、わたしたちのように年をとってまじめに暮らしているものを、革命党員だといって殺しもいたしますまい。上の息子さんだって、妻子はあるし、そう若くもないんですから、まあ大丈夫でしょう。でも、孟が党員であることを知られていますし、孟との関係で、盛も、それから元も危険です。なんとかして外国へ逃がさなければなりません」
そこで一同は、その方法を相談した。老夫人は愛蘭の外国人の友だちを思い出し、その人に頼めば、海外渡航に必要な書類や手続きも、早くととのうのではなかろうかと言いだした。そこで夫人は立ちあがり、女中を呼んで、友人のところへ行っている愛蘭を呼びにやろうと扉に手をかけた。愛蘭は、このごろ世間が騒がしく、そのため陰気くさく、陰気くさいのは彼女には堪えられないので、学校へ行く気にもならず、きょうも朝から遊びに行っているのであった。
老夫人が扉に手をかけたとたん、下の部屋から大きな声が聞こえた。それはいばって、荒々しく叫んでいる声であった。「王元《ワンユアン》というものが住んでおるのは、ここか?」
一同は、たがいに顔を見あわせた。伯父は牛肉の脂身《あぶらみ》のようにまっ青になって、どこかかくれるところはないかと、あたりを見まわした。しかし、老夫人がまっさきに考えたのは元のことであり、つぎに盛のことであった。
「ふたりとも」と夫人はあえいだ。「早く――この屋根裏の小部屋へ――」
その部屋というのは階段がなく、入り口といえば、いま一同が集まっている部屋の天井にあけた四角な穴だけであった。しかし、夫人はそう言いながらも、その穴の下にテーブルを押して行き、椅子を引っぱってきた。そして、いつも元よりすばやい盛が先に飛びあがり、元もそれにつづいた。
しかし、ふたりとも間にあわなかった。ずいぶん急いだのだが、扉が疾風に吹かれるように開かれ、十人ばかりの兵隊が立っていた。隊長が、はじめ盛のほうを見ながらどなった。「おまえが王元か」
盛の顔色もまっ青になった。彼は答える前に、なんと言ったらいいかと考えるように、ちょっとためらっていたが、やがて低い声で答えた。「いえ、そうじゃありません」
すると隊長がほえるように言った。「じゃ、こっちが王元だな。うん、あの女が言ったのをおぼえている。背たけが高くて、色が黒くて、眉《まゆ》が濃い――口はやさしくて赤い――そうだ、まさしくこの男だ――」
一言の弁解もせずに、元はうしろ手にしばられた。だれもこれを妨げるわけにはいかなかった。伯父が泣きふるえても、老夫人が進み出て、重々しい、しっかりした調子で、「あなたがたはまちがえています――この子は革命党員などではございません。わたくしは誓います――この子は勉強好きな、注意深い子です――わたくしの息子です――そんな運動などには加わったこともございません――」と言ったが役に立たなかった。
兵隊たちは下卑《げび》た笑い声をあげただけだった。そして大きな丸顔の兵隊が言った。「奥さん、母親というものは息子のことを知らないものです。男のことを知ろうと思えば、若い女にきくことです――母親じゃだめです――その女は王元という名まえも、この家の番地も、人相も正確に教えてくれましたよ――さよう、その女は、この男の人相を、よく知っていましたぜ――人相風態すみずみまで知っているようでしたな――それから、この男が第一の指導者だって言いましたよ――はじめは、その女は、しぶとくて怒っていましたがね、そのうちに、しばらく黙っていて、それから自分でこの男の名を言ったのですよ。ぜんぜん拷問にもかけないのにね!」
元が見ていると、老夫人はこれを聞いて、なんのことかわからないようすで呆然《ぼうぜん》としていた。彼は何も言うことができなかった。黙ってはいたが、心のなかでは、ぼんやりと考えていた。(では、彼女の愛が憎しみに変わったのか! 愛では、おれをしばれなかった――そこで、憎しみで、しっかりとしばりつけたのだ!)こうして、彼は連行されて行った。
その瞬間でも、元は死刑はのがれられないと覚悟していた。この数日、革命運動に加盟していたことが判明したものは、すべて死刑にされたことを、それは公然とは知られていなかったが、彼は知っていたし、あの女が彼の名を口にしたのなら、彼の罪状についてこれより確かな証拠はないからである。そう覚悟はしたものの、死という言葉が彼には現実に考えられなかった。彼と同じような青年がすしづめにされている監房に押しこめられたときも、まっ暗だったので入り口でつまずいて倒れて、看守が、「さあ、ひとりで起きろ。あすは、ほかのものが起こしてやるからな」とどなったときも、彼には死という言葉の意味が理解できなかった。
看守の言葉は、あすの彼を待っている弾丸のように彼の心臓をつらぬいたが、元は薄闇《うすやみ》をとおして満員の監房を見まわすだけの余裕があり、そのなかは男ばかりで女がいないのを見て安心した。(ここにあの女がいて、おれが死ぬことを彼女に知らせ、けっきょくはおれが彼女のものになったことを知らせるよりは、知らせずに死んだほうが、どのくらいいいかわからない)と彼は考えた。これが彼に安心をあたえた。
何もかもがあまりに急な出来事だったので、元は、なんだかここから救い出されそうな気がしてならなかった。はじめのうち、いますぐにも救い出されるものと思っていた。彼は母と呼んでいる老夫人を非常に信頼していたので、考えれば考えるほど、夫人が救出の方法を考えてくれているものとの確信が強くなってきた。はじめの数時間、彼は固くそう信じていた。そして、同房の連中をながめると、彼らより自分のほうがはるかにましだという気がし、彼らが貧乏人らしいようすをしているし、自分より聡明でもなく、金も勢力もない家柄のものらしいので、その確信はいよいよ強くなった。
しかし、しばらくすると日が暮れてまっ暗になった。暗黒の沈黙のなかで、みんなは土間の上にすわったり寝たりしていた。みんな自分の口から自分を罪に落とすような言質をとられない用心から、だれも口をきかず、各自が他人を恐れているので、おぼろげながらでも顔が見わけられるあいだは、位置を変えるためにからだを動かす音だの、そういった声のない音のほかは、何も聞こえなかった。
やがて夜のとばりが落ち、だれにも他人の顔が見えなくなると、暗黒のため各自ひとりきりになったような気がして、最初の声が、ひそやかに、「おかあさん――おかあさん――」と叫び、そのまま身も世もない泣き声に変わった。
この泣き声は、みんな自分が泣いている声のような気がして、とても聞いていられなかった。だれかが、もっと大きな不機嫌そうな声で叫んだ。「静かにしろ! おかあさんなんて言って泣くとは、なんという赤ん坊だ。おれは忠実な党員だ――おれはおふくろを殺し、弟は親父を殺したのだ。おれたちには主義のほかに父も母もないのだ――そうじゃないか、弟……」
すると闇のなかから、いまの声とじつによく似た声で答えるものがあった。「うん、おれは親父を殺した!」すると最初の声が言った。「おまえは後悔しているか」すると後の声があざ笑うような調子でまた答えた。「たとい親父が二十人いても、おれはよろこんでみんな殺す――」するとだれかが大胆になって叫んだ。「うん、あんな爺《じじい》や婆《ばばあ》どもは、年をとってから、いつも暖かく着せてもらい食べさせてもらう召使にでもする気で、おれたちを育てただけなのだ――」しかし、最初のひそやかな声は、まるでこうした言葉は耳にはいらなかったように、「おかあさん――おかあさん」と相変わらずうめきつづけていた。
しかし、夜がふけるにつれて、ついに、そのような泣き声もしずまった。ほかのものがしゃべっているあいだ、元は一度も口を開かなかったが、みんなが静かになって、夜が、その深い消耗しつくした静寂さをもって、いつまでもつづくと、ついに彼は、それに耐えられなくなった。すべての希望が消えうせはじめた。扉がいまにも開いて、「王元、出ろ――釈放だ」という声が聞こえるにちがいないと待ちかまえていた。
しかし、そんな声は聞こえなかった。
ついに、とてもこの静寂には耐えられないので、元は、何か物音を立てずにはいられなくなった。考えることに疲れはてたのだ。自分の一生のことや、それがいかに短い生涯であったかなどと思わず考え、(父の言うとおりにしていたら、いまこんなところに入れられてはいなかっただろう)と考え、それでいながら、(父の言うとおりにしておけばよかった)とはどうしても思えなかった。それどころか、そのことを考えると、彼のうちにある頑固さが(それでも、父があんなことを要求するのはまちがいだと信じる)と正直に言わせるのであった。それからまた、こんなことも考えた。(すこし我慢して、あの女の言うとおりになっていたら――)するとまた不快さがこみあげてきて、(それでも、そんなことはしたくなかったのだ――)と正直に思った。そして、過去はすでに決定し、とり返しがつかないのだと思うと、将来のことを考えるよりほかに、することがなくなり、彼は死を考えざるをえなくなった。
なんでもいいから、この暗闇のなかから、何か物音が聞こえればいい、さっきの少年が母を呼ぶ声でもいいから聞こえればいいと元は思った。しかし、監房は、まるで人ひとりいないかのように静かであった。しかも、その暗黒は眠っているのではなかった。それは恐怖と静寂が充満した、生きている、待っている、目ざめている暗黒であった。はじめのうち、彼は恐怖を感じなかった。ところが、夜がふけると、恐ろしくなった。いままで現実感のなかった死というものが、いまや現実となった。斬首だろうか、銃殺だろうか、と急に息づまるような気持ちで考えた。新聞で読んだところによると、近ごろは奥地の町の城門には、革命運動に加盟していた若い男女の首がさらしてあるそうだ。革命軍の進出が予定よりおくれたために、各地の革命党員が、蜂起《ほうき》する以前に地方官憲のために捕えられたのである。彼は自分の首を見るような気がした――しかしすぐ、(ここは外国風の都会なのだから、きっと銃殺するにちがいない)と思って、慰めに似たものを感じ、すぐにまた、死んだのち自分の首が肩にのっているかどうかを問題にしうる自分を考えて、皮肉な愉快さを感じた。
背を二つの壁のあいだのすみにおしこみ、膝を立ててかかえこみ、ながいあいだこの責め苦のなかでうずくまっていると、とつぜん、扉が開いて、暁の灰色の光が監房にさしこみ、虫けらのかたまりのようにごろごろ横になっている囚人の姿を照らした。明るくなったので、みんな目をさました。しかし、だれも立ちあがりもしないうちに、大きなどなり声がした。「みんな出ろ!」
そして、兵隊が監房にはいってきて、鉄砲で押したりこづいたりして、みんなを起こした。起こされると、例の少年は、「おかあさん――おかあさん――」と泣き出し、兵隊が小銃の台尻で頭をしたたかになぐっても、やめようとしなかった。彼は呼吸でもするように、そして、どうしてもやめられない、こうして生命を吸いこまなければならないのだとでもいうように、その言葉をうめきつづけていた。
この少年をのぞいて、ほかのものは、みんな黙ってよろめき出た。各自が自分の運命を知ってはいるのだが、ぼんやりしていた。するとひとりの兵士が手にした懐中電灯をあげて、ひとりひとりの顔をその光で照らした。元は最後に出て行ったが、出るとき、その光が彼の顔を照らし出した。ながいあいだ闇のなかにいたので、急に光をあてられて目がくらんだ。そして、目がくらんだ瞬間、彼は部屋のなかへ押しもどされ、あまり強くおされたので、踏みつけられた土間に倒れてしまった。そして、たちまち扉に錠をおろす音が聞こえ、彼はそこに、ひとり、そしていまだに生きて残された。
こんなことが三度起こった。その日のうちに監房は、あらたに捕えられた青年たちによって、ふたたび満たされ、その夜も、またつづく二夜も、元は、あるときは沈黙し、あるときは呪《のろ》い、あるときは泣き、あるときは狂気のように叫び出す彼らの声を聞かねばならなかった。三度夜が明け、三度元は監房のなかへひとりつきもどされ、扉に錠がおろされた。食物もあたえられねば、話をしたり質問したりする時間もあたえられなかった。
一日目は希望を抱かないわけにはいかなかった。二日目も、いくらか希望を持っていた。しかし、三日目になると、飲まず食わずなので、すっかり弱りはて、生きようが死のうが、どうでもいいような気になった。三日目の夜明けには立ちあがる気力もなく、舌はかわいてはれあがっていた。それでも兵隊はどなりつけ、こづいて立ちあがらせた。そして元が扉に両手ですがって立ちあがると、また懐中電灯の光が顔にあたった。ところが、今度は突きもどされなかった。ほかの囚人たちが確定した運命の道を歩いて行き、ついにその足音の反響さえ聞こえなくなると、その兵隊は彼をささえ、ほかの狭い廊下を通って、かんぬきをかけた小さい扉のところへ元を連れて行った。そして、かんぬきをはずすと、一言も言わずに、その戸口から元を突き出した。
元は自分が狭い道に立っているのを発見した。どこの都会の裏通りにもある人の知らない区画の曲がりくねった道であった。通りは夜明けの淡い光にまだ薄暗く、人影も見あたらなかった。まだ頭は朦朧《もうろう》としていたが、元にも一つのことだけははっきりとわかった。それは彼が自由の身になったこと――どうしてだかわからないが、釈放されたのだということだった。
左右を見まわして、どちらに逃げたらいいだろうと考えていると、薄明のなかからふたりの人影が駆けよってきた。元は、また戸口のほうへ身をしりぞけた。ところが、そのうちのひとりは、背は高いがまだ子供で、駆けよってくると、じっと元をのぞきこんだ。元は、その女の子の大きな黒い真剣そうな二つの目を見、低い熱のこもった声を聞いた。「元さんよ――ここにいるわ――ここにいるわ――」
すると、もうひとりのほうも近よってきた。見るとそれは彼が母と呼んでいる老夫人であることがわかった。しかし、ぼくです、と言おうとするのだが口がきけず、からだがぶるぶるふるえ、融けてゆくような気持ちで、目の前がまっ暗になり、女の子の黒い目が急に大きく黒くなって、そのまま消えてしまった。どこか遠いところで、「まあ、かわいそうに――」と、かすかな声が聞こえた。と思うと、彼はぐったりとくずおれ、何も聞こえず、何も見えなくなった。
目がさめてみると、元は、何か動いて揺れているものの上にいるように感じた。ベッドに寝ているのだが、そのベッドが上がったり下がったりしていて、目を開けてみると、それはいままで見たことのない小さな部屋であった。壁にはめこんだ灯火の下にだれかがいて、こちらを見守っていた。元が気力をふるい起こして見ると、それは、いとこの盛であった。盛も元のほうを見ていて、元が見ているのを見ると、椅子から立ちあがって笑顔をうかべた。それはいつもの笑顔であったが、元には、これほどやさしく気持ちよい笑顔は見たことがないとさえ思われた。盛は小さなテーブルの上の熱いスープの皿を持ってきて、元を興奮させないように言った。
「きみのおかあさんにね、きみが目をさましたら、すぐにこれを飲ませるようにと頼まれたのだよ。そしてアルコールランプを渡してくれたので、ぼくはもう二時間も冷えないようにランプにかけて温めていたんだよ――」
彼は子供にでも飲ませるように、そのスープを飲ませた。そして元も子供のように黙って飲んだ。それほど疲れて頭がぼんやりしていたのだ。どうしてここへきたのか、ここがどこなのか、考える気力もなく、子供のように、あるがままを受け入れて、スープを飲んだ。からからになってはれあがった舌は、その温かい液体が気持ちよく元気がつくように感じられるだけであった。彼は、できるだけ、つとめて飲んだ。盛はスプーンでスープをすくいながら静かに言った。「ここがどこか、どうしてこんなところにいるのか、きみは、ふしぎに思っているだろう。ぼくたちは小さな船に乗っているのだよ――実業家の叔父さんが近海の島へ商品を運んでいる船だ。叔父さんの口ききで乗せてもらったのさ。ぼくらは手近な港までこの船で行って、外国へ行くために必要な書類がとどくのを、そこで待つことになっているのだ。きみは自由になったのだ。きみは自由になったのだよ、元。だけど、これにはたいへんお金がかかったのだよ。きみのおかあさんも、ぼくの父も兄も、かき集められるだけ金を集めるし、二番目の叔父さんからも、たくさん借りたのだ。きみのおとうさんは気が狂ったようになって、自分も女に裏切られたことがある、自分も息子も、今度こそは永久に女とは縁切りだ、と言っているそうだ。そして、きみの結婚のことは断念して、結婚費用や手もとにある金を、みんな送ってきたので、そんな金をいっしょにして、きみの自由を買い、この船で逃げ出すことができたのだ。上から下まで金をばらまいてね――」
盛がこんな話をしているあいだ、元は、聞いてはいるのだが、すっかり疲れはてていて、その意味がよくのみこめなかった。ただ船が上下に揺れるのと、飢えたからだにしみこんで行くスープの快い温かさを感じるだけであった。やがて盛が急に笑顔になって言った。
「でも、孟が無事なことがわかっていなかったら、こんな場合、ぼくは、こんなによろこんで国を離れられたかどうかわからないよ。やつはまったく抜けめのない男だよ! ぼくは弟のことが心配だった。きみは監獄にいれられて死刑ときまったことがわかるし、孟はどこにいるものやら、無事でいるものか、もう殺されたものかわからないし、父も母も、きみと弟とのことで、うろうろしていたのだ。ところがきのうきみの家とぼくの家とのあいだの町を歩いていると、だれか紙片をそっと渡すものがある。見るとそれには孟の字でこう書いてあるのだ。『ぼくを探したり心配したりしないでください。両親もぼくのことはもう気にかけないでください。ぼくは無事で自由な天地にいます』」
盛は笑って、からになった皿をおき、マッチをすってたばこに火をつけ、陽気そうに元に向かって言った。「ぼくは、この三日というもの、おちおちたばこも吸わなかったよ。しかし、もういいんだ。あのやんちゃ坊主の弟も安全だとわかったからね。そのことを親父に話すとね、親父め怒って、以後孟なんぞ子とは思わんなんて言っていたけど、いまごろは胸をなでおろして、今晩はどこかへ祝杯をあげに行っているにきまっているよ。兄貴は劇場へでも行っているだろう――新流行の女優劇というやつが上演されていて、女の役には女がなり、男が女になったりしない芝居なんだ。何しろ兄貴は、そんなおかしな芝居がすごく好きなんだからね。それから母は、しばらく親父に怒っていたが、孟が無事だし、ぼくときみはこうして逃げ出したし、これでみんなめでたしめでたしさ」
盛は、ちょっとたばこを吸っていたが、今度は、いつもよりまじめな調子で言った。「だがね、元、こんな始末で行くにしても、ぼくは外国へ行くんだと思うと、うれしいよ。口に出してこそ言わないし、革命運動にも加わらないし、できるだけ楽しく暮らすようにはしていたが、ぼくはこの国と戦争がいやなのだ。きみたちはみんな、ぼくのことを詩のことばかり考えている、いつも陽気な男と思っているだろうが、じつをいうと、ぼくは悲しくなり絶望することがよくあるんだ。ほかの国へ行き、その国の人たちが、どんなふうに生活しているかを見るのが楽しみなのだ。この国を離れると思うと胸がわくわくするよ」
しかし、盛が話しているあいだも、元はもう聞いていられなかった。スープを飲んで気持ちはいいし、動揺する狭いベッドはやわらかいし、自分が自由の身になったことはわかったし、彼は満ちたりた気持ちにつつまれた。やっと、ちょっと笑顔をうかべただけで、まぶたがくっつきそうになった。盛はそれを見て、やさしく言った。「眠りたまえ――寝たいだけ寝かせてくれっておかあさんに言われたのだよ――ゆっくり眠るがいいさ。もうきみは自由なんだからね」
この言葉を聞いて、元は、もう一度目を開けた。自由? そうだ、ついにすべてのものから解放されたのだ……やがて盛が、思っていることの結論のように、もう一度言った。「きみもぼくと同じような気持ちなら、この国には何も心残りはないはずだよ」
そうだ、と元は眠りかけながら思った――故国に残しておくのが惜しいようなものは何もない……眠りかけた瞬間、彼の心には、あのすしづめの監房、あののたうちまわる人々の姿――あの夜々――そして、死におもむく前にふり返って自分をみつめたあの女の姿がうかんだ。彼は、いつしか眠ってしまった……と思うと、とつぜん、彼は非常に平和な気持ちになって、あの農場にいる夢を見た。そこには彼が耕作した一片の土地があった。その風景が絵のようにはっきりと見えた。エンドウはさやのなかでみのっているし、緑のひげをつけた大麦は伸びきっているし、例の気のよい百姓が隣の畑で働いていた。しかし、そこには彼女がいた。その手は冷たかった。ひどく冷たかった。あまり冷たいので、彼はちょっと目をさました――そして自分は自由になったのだと思い返した。盛が言ったことなど、彼には問題ではなかった……ただ彼のただ一つの心残りは、あの一片の土地だけだったのだ。
元は、いよいよ眠る前に、つぎのような慰めを感じた。(でも、あの土地は――自分が帰ってきたとき、あれだけは、やはりもとのままで残っているだろう――大地はつねにあそこにあるのだ――)
[#改ページ]
王元《ワンユアン》が故国を出たのは二十歳のときであったが、多くの点で彼はまだ子供であった。いろんな夢が混沌《こんとん》として胸のうちにうずまくばかりで、やっと手をつけたばかりの計画も、みなどうしたらやりとげることができるのか――というより、ほんとうに自分がやりとげるつもりかどうかさえはっきりしないありさまであった。生まれてから今日まで、ずっとだれかしらに監督され、見守られ、世話をされてきたので、そうした保護を受けることしか知らなかった彼は、あの監房に投げこまれていた三日間の経験のあとでさえ、悲しみというもののほんとうの味を知るにはいたらなかった。外国に彼は六年いた。
その年の夏、いよいよ帰国のしたくをととのえたときは、ちょうど二十六歳の誕生日を迎えようとしていたころで、たいていのことについては、もうりっぱな大人《おとな》になっていたが、一人前の大人になる最後のしあげをするものとしての悲しみにはまだ見舞われたことがなく、そんなものが必要だということも彼にはわかってはいなかった。たぶん、人に問われたら、彼は自信ありそうに、つぎのように答えたであろう。
「ぼくは大人です。自覚を持っています。自分の目的を、ちゃんと知っています。かつての夢は、いまは実現できる計画になっています。学業も終えました。故国《くに》に帰ってからの生活の準備はすっかりできています」
まったく元にとって、この六年間の外国生活は、彼のこれまでの生涯の半ばを占めているように思われた。むしろ、それ以前の十九年間は小さいほうの半分で、この六年間のほうが、より大きな、より貴重な半分であった。なぜなら、この六年間こそ、自分を一定の進路にみちびき、その方向にしっかりと自分をすえてくれた時期だったからだ。しかし、じつをいえば、自分では知らなかったけれど、彼の自覚していない多くの点で、彼の行くべき道はさだまっていたのである。
もしだれかが「これからの人生を生きてゆく準備が、どんなふうにできたというのかね?」とたずねたら、彼は本心から、つぎのように答えたであろう。「ぼくはりっぱな西洋の大学を卒業しました、しかもその国に生まれた連中よりも優秀な成績で」いかにも誇らしげにこう言ったであろうが、その外国人の大学生たちのなかに、つぎのように彼のことを悪く言っていたものがあったという思い出については、きっと何も言わなかったであろう――「それは、だれだって、くそ勉強ばかりして、ほかのことは何も考えなければ、優等の成績はとれるさ。しかし、大学というものは、それだけのものじゃない。学校には学校の生活がある。ところが、あの男ときたら、本にかじりついているばかりで、何もしないのだからね――学生生活にはいっさいかかわりを持たないのだからね――いったい、みんながあんなふうだったら、大学のフットボールやボートレースは、どうなると思う?」
元はそれらの、いつも仲間同士で活動することの好きな、朗らかなこの国の青年たちが、自分のことをこんなふうに言っているのを知らぬではなかった。彼らのほうでも、べつにかげでこそこそ言うのではなく、講堂あたりでしゃべっていたのである。だが元は平気で胸を張って歩いていた。教授たちの賞賛や、幾度かの授賞式のときに言われた言葉によって、彼は引け目を感じずにいられた。授賞式で彼の名が一番に呼ばれたことも珍しくなく、そのたびに賞を授与する人の口から、「国語のちがう国で学んでいるにもかかわらず、他のものをしのぐ好成績をあげた」という言葉を聞かされたのである。それゆえ、そういうやりかたが仲間からきらわれるのも承知の上で、元は誇りを失わずに勉強をつづけてきたのであった。彼は自分の属する民族の能力を発揮しえたことをよろこび、自分がスポーツなどは子供の遊びと大差のないものだと思っていることを、それによって人々に示すことができるのをよろこんだ。
さらにまた、だれかが「男としてのきみの人生を生きてゆく上で、どういう心がまえができているのか?」とたずねたら、彼は答えたであろう。「ぼくは数知れぬほどたくさんの書物を読んだ。そしてこの国から知りうるかぎりのものを学びとった」と。
そしてこれは偽りではなかった。この六年間、元は鳥籠《とりかご》のなかのツグミのような孤独な生活をつづけてきたのである。朝は、早くから起きて本を読み、下宿のべルが鳴ると階下へおりて朝食のテーブルにつき、たいていは口もきかずに食事をした。同宿のものとも、宿のあるじの婦人とも、あまり話をしようとはしなかった。彼らとの雑談で時間をむだにする必要はないと思っていたのである。
正午には、学内の大きな食堂で、学生たちにまじって昼食をした。そして午後は、実習も教室の授業もないときには彼のもっとも好むことをして過ごした。図書館の広いホールヘはいって行って、万巻の書物のなかに腰をおろして、読んだり、ノートをとったり、いろいろの問題について黙想にふけったりしたのである。こうしているあいだに、彼は、いわゆる西洋人なるものが、一般の民衆こそ粗野であるけれども、孟《メン》がかつて痛罵《つうば》したような野蛮な民族ではなく、あらゆる学問が進んでいることを認めざるをえなかった。しばしば元は、この国に住む彼の同国人が、白人は物質の知識と利用とにかけては長じているけれども、人間の精神の糧《かて》となるべき学芸については劣っていると言っているのを耳にした。だがいま彼は、この図書館のそれぞれ専門の部屋が哲学なり詩なり美術なりの書物ばかりで満たされているのを見ると、この異国の地にいるかぎり彼としては死んでも口に出して言いたくないことであったが、はたして自分の祖国ですらもこれほどに偉大であろうかという疑問につきあたるのであった。彼は自国の古今の聖賢の書が西欧の言葉に翻訳されているのや、東洋の芸術について書かれた書物さえも発見して、その学問の領域の広さに唖然《あぜん》としてしまった。そして、このような学識を持っている国民を、なかばはうらやみ、なかば憎しみをさえおぼえた。自分の国では、民衆のなかには一冊の書物さえ読めないものが多く、女性は、さらにはなはだしいことを思い出して、彼は不快になった。
この国へきて以来、元の心には、つねに二つのちがう気持ちがはたらいていた。彼は船中で元気をとりもどし、あの死の三日間の打撃から立ち直ってきたことを感じたとき、生きていてよかったと思った。それから、生きるよろこびを感じるにつれて、今度の旅行と、眼前に展開する珍しい風景と、この見知らぬ国の広さとを心から楽しんでいる盛《シェン》の気持ちが、彼にもうつってきた。それで元は、まるで見世物を見にゆく子供のようにわくわくして、何を見ても愉快になれそうな気持ちで、新しい異国の土を踏んだのであった。
そして事実、何を見ても愉快になれた。はじめてこの新しい国の西海岸の大きな港市に上陸したとき、彼には、あらゆるものが話に聞いた以上だと思われた。建物は、聞いていた以上に高くそびえ、街《まち》は、まるで屋内の床のように舗装されていて、腰をおろしても寝ころがっても汚れないほど清潔であった。人々の皮膚の白さ、服装のきれいなことは、見ていて、まことに気持ちがよく、みんな金持ちで栄養が満ち足りているように見えた。元は、ともかくもこの土地では貧乏人が金持ちのなかに立ちまじっていないだけでもうれしいと思った。この国では富者が何ものにもわずらわされずに自由に街に出て歩けるのである。乞食に袖《そで》をひっぱられ、大声で慈悲を求められ、小銭をとられることもないのだ。だれもが不自由をしていないから、生活を楽しむことができる。みんなが自分と同じように食べているのだから、楽しみながら食べることができるのである。そういう国なのだ。
こうして、最初の数日のあいだ、元と盛とは、ただもう目に触れるものの見事さりっぱさに感嘆の声をあげるばかりであった。この国の人々は、みんな御殿に住んでいる――それらの家々をはじめて目にするふたりの青年には、そう見えたのであった。この都市では、商店街を離れると、ひろびろとした道路に大きな樹木が陰をつくり、家々はみな高い塀《へい》をめぐらす必要がなく、どの家の芝生も隣家の庭とすぐにつづいていた。盗みを恐れて塀を立てる必要がないほど、だれもが隣人を信用しているのだろうか? 元や盛には、それが驚異であった。
こうして、はじめは、この都会のすべてが完全無欠なものと思われた。大きい四角な建物が、高く、くっきりと、金属をはりつめたような青空をくぎっているのが、彼らには壮麗な神殿――そのなかに神々が住んでいないだけの――のように見えた。そして、それらの建物のあいだを、この都会の富裕な紳士淑女を乗せた何千何万とも知れぬ乗りものが、すばらしい速力で走っていた。歩いている人々もあるが、それさえも楽しみのために歩くので、乗りものに乗れないからではないらしい。はじめ、元は盛に言ったものだった。「こんなにたくさんの人たちが、ひどく急いで歩いているけど、何事か起きたのではないかね」
ところが、しばらく見ているうちに、人々がみな朗らかな顔つきで談笑していて、そのひびきの高い話し声も悲しそうではなく晴れやかなことに気がついた。どこにも変事などはないのだ。彼らは速度を愛するから速く走っているのである。これが彼らの性分なのだ。
また、ここでは、空気や日光にさえ、ふしぎな力があった。元の母国では、空気は、うとうとと眠気をさそうようにのんびりしていることが多く、夏は眠る時間が長くなるし、冬は閉めきった部屋にうずくまって眠りと温かさとをむさぼらずにはいられないが、この新興の国では、風も日光も、猛烈な、驀進《ばくしん》するようなエネルギーに満ちていた。だから、元も盛も、しぜんと、ふだんよりも足早に歩くようになった。晴れ晴れとした光のなかで、人々は日ざしのなかをかけめぐる微塵《みじん》のようにきらきらと動きまわっているのだ。
とはいえ、すべてが珍しく、何もかも楽しいものばかりだった最初の二日間に、早くも元は、その楽しみが、ふとした瞬間にそがれるのを感じた。六年後の今日でも、それはほんの小さな出来事であったけれども、彼は、その瞬間のことをすっかり忘れたとは言いきれないのである。上陸して二日目に、彼と盛とは、おおぜいの人が食事をしている、一軒のレストランヘはいった。客はブルジョアというほどではなくても、自分の食べたいものを食べられるくらいの身分の人々であるらしかった。ふたりが入り口のドアをはいって行ったとき、元は、それらの白人の男女が、彼と盛とを、不審そうに見たように感じ、また彼と盛とを避けるようにしたのではないかと思った。もっとも、白人というものは彼らが好んで食べるチーズのような、悪臭とまでは言えないけれど、ちょっとした異臭があるので、元には、じつはそのほうがありがたかったのだが。
さて店のなかへはいってゆくと、カウンターのところにいる女の子が、ここの習慣らしく、ふたりから帽子を受けとって、ほかのたくさんの帽子といっしょに預った。それで帰りがけに、ふたりが帽子を要求すると、この女の子は一度にいくつもの帽子をさし出したので、ひとりの男が、元が声をかけるひまもなく、自分のと同じ茶色の元の帽子をつかんで、頭にのせながら、さっさとドアの外へ出て行ってしまった。元は、すぐにそのまちがいに気がついたので、急いであとを追い、ていねいに声をかけた。「もしもし、あなたの帽子はこれです。わたくしの粗末な帽子とおまちがえになりましたね。わたくしが手を出すのがおそかったのです。すみませんでした」そして元は、おじぎをして、相手の帽子をさし出した。
だが、もうあまり若くもないその男は、やせた顔に、不安そうな、鋭い表情をうかべて、元の言葉をいらいらしながら聞いていたが、聞き終わると自分の帽子をひったくるように受け取り、ひどく不快そうなようすで、禿頭《はげあたま》にかぶっていた元の帽子をぬいだ。そして、たった二言、それも吐きすてるように言って、男は立ち去った。
あとに元は自分の帽子を手に持ったままとり残された。その男のてらてら光る白い禿頭がいやだったので――いや、それよりも相手の吐いたきたない言葉が何よりも不愉快だったので、その帽子をもう一度かぶらなくてはならないのが恨めしかった。盛がそばへきて、元にきいた。
「どうして頭でもなぐられたようにポカンと突っ立っているのだ?」
「あの男が、二つの言葉で、ぼくを打ちのめしたのだよ。意味は知らないが、あれが悪い言葉だということだけは、ぼくにもわかる」
盛はそれを聞いて笑ったが、その笑いには、鋭い怒りが、いくらかまじっていた。「たぶん東洋の鬼めとでも言ったのだろう」
「悪い言葉だったよ、たしかに」元はそれが気がかりで、うかない顔つきになった。
「ぼくらは外国人だからね、ここでは」と盛は言った。それから、無言で肩をすくめてみせ、やがて言った。「どこの国も似たり寄ったりさ」
元はなんとも答えなかった。しかし彼は、いままでのように愉快ではなくなり、何を見ても心から楽しめなくなった。そして心のなかで頑固で反抗的な自我をしっかりとかためて行った。王虎《ワンホウ》将軍の子、王龍《ワンルン》の孫ともあろうものが、何百万の白人のなかにいようとも、自己をうしなってなるものか。おれは永久におれなのだ。
その日、彼はいつまでも心に受けた傷手《いたで》を忘れることができなかった。とうとう盛はそれに気づいて笑った。すこし意地の悪い微笑をうかべながら、盛は言った。「故国《くに》だったら、孟《メン》が、さっきのような男に向かって、洋鬼《ヤンキー》め! とどなるところだ。そのことを忘れてはいけないよ。そうすれば感情を害するのは先方なんだからね」そしてそれからは盛は目につくものを一つ一つ指さしては、つぎからつぎへと話しかけてきて、ようやく元の気分をまぎらせることができた。
それからの日々――そして過ぎ去ったこの年月、見るべきもの、驚嘆すべきものが、まことにおびただしかったから、あの小さな出来事などは忘れてしまったと言いたいところだが、事実は忘れられなかった。まるできょうのことのように、はっきりと、ふとそれが頭にうかぶと、あの男の怒ったような顔が見え、不当としか思われない心の傷が、六年前と同じように痛むのであった。
しかし、忘れなかったとはいうものの、その記憶は心の底に埋もれていることが多かった。元も盛も、留学の初期には数知れぬ美しい景観につぎつぎと接したからである。ふたりを乗せた汽車が越えて行った大山岳地帯では、麓《ふもと》の丘には温泉がわいていたけれども、嶺々《みねみね》は積雪をいただいて高い青空にそびえていた。山また山のあいだには、黒い谷間の底深く、激流が岩をかみ飛沫《しぶき》をあげて流れていた。このすさまじい美観に圧倒されて、元は、これが現実であろうか、画家が激烈な情熱にまかせて、怪奇、奔放な色彩で描きあげた西洋画が列車の下においてあるのではないだろうか。いずれにしても自分の故国は、このような土や岩や水でできてはいない、と思った。
山岳地帯をあとにすると、つぎには同じく奔放な色彩に富む平野と、数か国にも匹敵しそうな広さを持つ田園が開け、その豊沃《ほうよく》な大地から莫大な作物を生み出すために、巨獣のような機械が、すさまじく活動していた。そのありさまを元はきわめてはっきりと見たが、これは彼にとって山地以上の驚異であった。彼は、これらの大きな機械をじっと見ながら、故郷の老農夫が彼に鋤《すき》の持ちかた、狂いなく地面へふりおろす鍬の使い方を教えてくれたことを思い出した。あの農夫は、いまでもああして土地を耕しているのである。ほかの百姓もみなそうだ。それから元は農民たちの小さな畑が、それぞれたがいにつり合いをたもって、きちんと作られることや、人間の排泄物をためておいて、作物のわずかばかりの種子にそれを注ぎかけ、青々とゆたかに実らせ、苗木の一本一本が実れるかぎり実るようにくふうして、一本の麦も、一尺の土地も、その価値を極度まで発揮させることを思った。だがこの国では、一本の麦や一尺の土地に心をわずらわすものはひとりもいない。きっとここでは、畑はマイルを単位にしてはかられ、作物の本数などだれもかぞえたりはしないだろう。
こうして、最初のころは、たったひとりの男の二つの言葉を別にすれば、元にとっては、あらゆるものがよく思われ、なんでも自分の国のものよりもすぐれているように思われた。村々は清潔で、生活はゆたかであり、畑で働く人と町に住む人とは、ちがった装いをしていることはわかるけれども、農村の人々もボロをまとっているわけではなく、この国の家々には一つとして泥や藁《わら》でできているものはないし、鶏や豚が勝手にうろついているところもなかった。これらはみな感心していいことだ――すくなくとも元はそう思った。
それでも、その時分から、すでに元は、この国の大地が自国のそれのようではなく、何か異様で、野性を帯びていることを感じた。時がたつにつれて、田舎道を歩いたり、大学の農場で故郷の学校でしたように自分で耕作をしたりすることによって、その大地がどのようなものであるかがわかってくると、そのちがいが、ますます忘れられなくなった。この国の白人たちを養っている大地も、元の民族を養っている大地と同じ大地ではあるが、それを相手にして働いてみると、彼の父祖が骨を埋めている|あの《ヽヽ》大地ではないことを元は知った。この土地はまだ新しく、人間の骨が十分に埋まっていない。それゆえに、まだ馴化《じゅんか》されていないのだ。元の故国の土が、そこに生きる人間の骨肉を浸《し》みとおらせているのにたいして、この国の新しい民族は、まだ土にまで浸みこむほど人間が死んでいないからだ。この大地は、いまはまだ、それをわがものにしようとして努力している人間よりも強いのだ。そして、その野性に感化されて、人間もまた野性的であり、富と学識とがありながら、しばしばその精神や外貌《がいぼう》に野蛮なものがあらわれるのだ。
ここでは大地は征服されていない。森林におおわれた山また山、かつて人手を加えられたことのない巨木の下の枯れ木や落ち葉は、みな荒れ朽ちるにまかせてある。広漠《こうばく》たる原野には草がはびこり、獣どもが勝手にその草を食《は》んでいる。広い道路が勝手気ままにいたるところを走っている。これらはみな土地が征服されていないことを示すものだ。人々は、ほしいものだけを使っている。売ることもできないほど莫大な収穫をあげ、樹木はどんどん伐り倒すし、一ばんいい畑だけを使って、あとは荒れるにまかせている。それでも土地は使いきれないし、人間よりもまだ大きな力を持っているのだ。
元の故国では、土地は征服され、人間はその主人である。山々の樹木はずっと昔に裸にしてしまったし、現在では野草さえも人間の燃料に刈りつくされている。人間は、わずかばかりの土地から取れるかぎりの作物をしぼり取り、土地は極限まで人間のために働かされた上に、まだ足りなくて、逆に人間は、おのれの汗と老廃物と死骸とを土地に注ぎこんで、土地の処女性はまったく失われてしまった。人間は彼ら自身で土壌《どじょう》をつくっているのである。人間がいなければ大地はとうの昔に消耗しつくして、石女《うまずめ》のように何も生まなくなっていただろう。
この新しい国土とその秘密とについて考えるとき、元が感じたのは、右のようなことであった。自分に割りあてられた土地を耕作するとき、彼がまず考えたことは、何をこの土地にほどこせば収護が期待できるか、ということであった。だが、この異国の大地は、まだ使用されたことのない自力だけで十分に肥えていた。わずかなものを投入するだけで、それは人間には強すぎるほどの生命力を発揮して、非常に多くのものを生み出した。
この元の賛嘆の念に憎悪がまじるようになったのは、いつからであったろうか。六年目の末に過去をふり返ってみて、彼に憎しみの第一歩を踏み出させた例の帽子をとりかえた男を、彼ははっきりとおぼえていた。
元と盛とは早く別れた。あの最初の汽車の旅が終わったときである。盛は同国人のおおぜいいるある大都市が好きになり、自分のように詩や音楽や哲学を学ぶことを好むものには、この都会の大学が一ばんいいと言った。それに彼は元のように土にたいする愛着をすこしも持っていなかった。元のほうは、この国へきて何をするか、はっきり心にきめていることがあった。それは彼がもとから希望していたこと、農作物を育て土地を耕す農学の研究であり、この国の富強も、土地からの収穫による富に負うところが多いのを、上陸後まもなく信じるようになったので、この志望は、いっそう確固たるものになった。それで元は、その大都市に盛を残して、自分の志望を満たすことのできる他の都市の大学へ行ったのである。
まず第一に、元は自分が食事をし眠る場所、この異境でわが家と呼ぶことのできる部屋をみつけなくてはならなかった。大学へ行くと、ひとりの白髪の老人が親切に彼を迎えて、彼が寄宿し食事のできる場所をいくつか教えてくれたので、元は、そのうち一ばんよさそうなところを探しに出かけた。彼がベルを鳴らした最初の家では、ドアがすぐに開いて、かなりの年配の、おそろしく大きな女があらわれ、むき出しの大きな赤い腕を、その偉大な胴体をおおっているエプロンでふきながら、そこに立った。
元は、こんな大きなからだをした女を見たことがなく、一目見ただけで、やりきれないと思ったが、それでも丁重にたずねた。「ご主人さまはおいでになりますか?」
するとこの女性は両手を腿《もも》にあてがって、のろくさい、大きな声で答えた。「ここはわたしの家です、男の主人というものはおりませんよ」それを聞くと元は、ほかへ行くことにした。いくらこの土地でも、こんな恐ろしい女のいる家ばかりではあるまい、それに男の主人のいる家に住んだほうがいい、と思ったのである。まったくこの女は、とても信じられないような存在であった。胴も胸も、途方もなく大きくて、短い頭髪の色にいたっては、この女以外の人間の肌から生えることがあろうとは、とても思えなかった。それは台所の脂《あぶら》や煤《すす》でいくらかくすんではいたが、はでな、赤味を帯びた黄色であった。この奇怪な髪の下にまるまると肥えた顔が、これまた赤い色だが髪の毛とはちがった紫色がかった赤さで照り輝き、そのなかで二つの小さく鋭い目が、新しい陶器にときたま見られるような青い光を放っているのである。とても見るに堪えなかったので目を伏せると、そこに女のぶざまな二本の足が踏みはだかっていて、これまた見るに堪えなかったので、そこそこにいとまを告げて、ほかをさがしにゆくことにした。
だが、意外にも、それから訪《たず》ねた一、二軒の家は、貸間あり、という札を出しているのに、彼はことわられた。はじめはその理由がわからなかった。ある女は、「ふさがっています」と言ったけれど、空室ありという札がそこに出ているのだから、うそをついていることは明らかだった。そのつぎも、そのつぎも、同じだった。最後にやっと、ほんとうの理由がわかった。ひとりの男が、無遠慮に、こう言ったのである――「有色人種の人には、部屋を貸さないことにしているんでね」
はじめ、元はその意味がのみこめなかった。薄い黄色の自分の皮膚が、ふつうの人間の肌の色以外のものだとも、自分の黒い目や髪が、人間の髪、人間の目として通用しないことがあるとも、思ってはいなかったからである。しかし、すぐに彼はその意味を理解した。それは、この国のあちこちで黒人たちを見かけたが、彼らが白人からあまり尊敬されていないことを印象にとどめていたからである。
かっと心臓から血が頭へのぼった。彼の顔が黒ずんで燃えるようになったのを見ると、男は、なかば弁解するように言った。「世の中の景気が悪いんで、女房が下宿屋をして暮らしを助けてくれてるんだが、どうにか下宿人も居ついてくれているのに、外国の人を泊めると、みんな出て行ってしまうのでね。でも外国の人に間貸しをする家だってありますぜ」そして男が告げてくれた街《まち》と番地とは、元があの恐ろしい女に会った家のそれであった。
これが憎悪の第二の段階であった。
彼はそこで深い自尊心をこめて礼儀正しく男に礼を述べ、最初の家へもどって、女のおぞましいからだつきから目をそむけながら、部屋を見せてほしいと申し出た。屋根裏の小さな部屋であったが、清潔だし、階段でほかと切り離されているので、彼は気に入った。女あるじのことを忘れていられるものなら、この部屋でけっこうだと思った。ここなら、ひとりで静かに勉強ができそうだ。それに寝台やテーブル、椅子や衣装戸棚などの家具のまわりに、天井が傾いているのもおもしろかった。こうして彼は、ここに下宿することにきめ、この部屋が六年間の彼の住居になったのである。
そして実際には、女あるじは見かけほど悪い女ではなかったので、彼は大学へ通っているあいだ、ずっとここに住んでいた。年とともに女は彼に親切になり、彼も、その恐ろしい外貌や下品な態度にかくされている彼女の親切を理解するようになった。元は僧侶のように簡素に、きちんとして暮らし、数すくない持ち物は、いつも同じ場所におかれていた。女は、だんだん彼に好意を持つようになり、ときどき風の吹くような吐息をもらしながら言うことがあった。「王さん、あたしのせがれたちが、みんなあんたのようにきちんとやってくれていたら、あたしもこんな女にならなくてすんだでしょうよ」
そのうち幾日かたつと、彼はこの大女が、がさつではあるが、たいへん親切な人間であることを知った。彼女の大声にはへきえきするし、肉の厚いまっ赤な腕が肩からむき出しになっているのを見るとぞっとしたけれども、彼の部屋へ黙ってリンゴをおいて行ってくれたりすると、やはり心から彼女に感謝した。また食卓ごしに、「王さん、あなたにはお米のご飯をたいてあげましたよ! あんたがたのふだん食べつけたものがなくては不自由だと思ってね――」などと大声にどなるのも、親切気からだということがよくわかった。もっとも、そのあとにつづけて、彼女は無遠慮に笑いながら、わめくのだった。「でも、あたしにできるのは、お米ぐらいがせいぜいで――かたつむりだのねずみだの犬だの、そういうあんたがたの食べものは、とても出してあげられませんよ!」
そういうものは自分の故国でもけっして食べないと、いくら彼が抗議しても、女は耳をかさなかった。それで、しばらくすると彼も、女が冗談を言ったときには無言で微笑しながら、女が食べきれないほどの食事を無理にすすめたり、彼の部屋を温かにし、きれいに掃除してくれたり、彼の好きな料理をわざわざ骨折ってこしらえてくれたりした親切を、つとめて思い出すようにした。やがて彼は、相変わらず不快でたまらない彼女の顔を絶対に見ないで、彼女の親切だけを考えていられるようになった。時がたつにつれ、同じ町に住む幾人かの同国人のようすを聞くと、もっと悪い下宿が多いらしく、どこの女主人も口が悪く、食事はけちくさく、そして異人種を軽蔑していることがわかり、いっそう自分の下宿の女主人をありがたく思うようになった。
しかし元にとって何よりもふしぎでならなかったことは、この醜悪な、がらがら声の女が、一度結婚したことがあるという事実だった。彼の故国だったら、新時代のくる以前には、若い男女は命じられた相手と結婚しなくてはならなかったし、男子は、どんな醜い妻をあたえられても、めとらなければならなかったから、これはべつに意外とするに当たらぬかもしれない。しかしこの国では、昔から男は自分で花嫁を選んできた。してみれば、かつては自分から進んでこの女を選んだ男がいるわけである。そしてその夫によって、夫の死ぬ前に、彼女は子供を――いま十七ぐらいで、やはり彼女といっしょに住んでいる娘をひとり、生んだのだ。
そして、もう一つふしぎなことは――その娘が美しかったことである。白人の女に、ほんとうの美人がありうるとは考えたこともない元は、この処女が、髪も目も明るい色をしているにもかかわらず、美人と呼ばれねばならぬことが、よくわかった。彼女は母親の燃えるような赤いちぢれ毛を受けついで、それを彼女の持つ若さの魔術で、まことにやわらかな赤銅色のカールに変じ、それを短く切って、愛らしい形をした頭や白い襟足《えりあし》をつつんでいた。目も母親とそっくりだが、もっとなごやかで、色が濃く、そして大きかった。そして彼女は眉毛《まゆげ》と睫毛《まつげ》とを茶色に染めて、母親の薄い色とは感じを変えていた。くちびるも、やわらかで、ふっくらして、そしてまっ赤だった。からだは若木のようにほっそりとして手の肉のあついところはなく、しなやかで、長い爪を赤く塗っていた。彼女の服装は、元も若い男だからよくわかったが、何かごく薄い衣装をまとっているので、細い腰や小さな乳房や、肉体の線の動きが、すっかり透きとおって見え、そのうえ彼女は若い男たちが――したがって元も、それに視線をひきつけられるのを知っていた。元はそのことを彼女に知られていると知ったとき、故知れず彼女が恐ろしくなり、嫌悪さえ感じて、なるべく無関心な態度をとり、彼女からあいさつされても頭をさげるだけにしたいと思った。
彼を安心させたのは、彼女の声があまり美しくないことであった。彼はきれいな声が好きだが、彼女の声は低くもなく、甘美でもなかった。何を話すときも、声が高すぎ、ツンと鼻にかかった。それで、彼女の姿のやさしさに感じたときとか、食卓で偶然に彼女の隣にすわって、首筋の白さに視線が落ちたりしたときなど、彼女の声が美しくないので安心したのである……そのうちに、彼はほかにも自分の好きになれないところをみつけ出した。彼女は母親の家事の手伝いをしたがらなくて、食事のときに、食卓にそろえるものを忘れた母親が、何か持ってきてくれるようにと言うと、いつも舌うちしながら立ちあがって、「おかあさんたら、いつでもちゃんとテーブルのしたくができないのね、きっと何か忘れるんですもの」などとつぶやくことがよくあった。また彼女は自分の手の美しさを大事にしているので、脂《あぶら》のうかんだよごれた水のなかへ手をつけることをきらった。
こうしてこの六年間、元は自分の好きになれないところが彼女にあることをよろこびとし、いつもはっきりとそれを頭におくようにしてきた。彼は彼女のかわいらしい落ちつきのない手が自分のそばにちらちらするのを見ながら、それが怠けものの手、彼女自身以外のだれのためにも役立たない手であり、若い娘の手にふさわしからぬ手だということを頭にうかべることができた。そして、元も異性に情熱を感じた経験があるので、時としては彼女の身近にいるのが気にならないわけではなかったが、そのたびに、この異国の土を踏んで最初に聞いたあの二つの言葉をすぐ思い出すのであった。それを思い出すと、彼は自分とこの娘とが血を異にしていること、たがいに縁もゆかりもないのだということを考え、どこまでも超然として孤高の途《みち》をゆくことに落ちつきと満足とを感じるのであった。
それどころか、おまえはもう女はたくさんじゃないか、さんざん裏切られたのじゃないか、と彼は自分に言い聞かせた。――もしこの外国でまで裏切られたら、だれがおまえを助けてくれるのだ。女には近寄らないほうがいいのだ。そう思って、彼は、なるべくこの娘を見ないようにした。彼女の胸のあたりを、けっして見ないくせをつけた。娘は大胆にも、ときどき彼をダンスなどに誘うことがあったが、彼は根気よくそれをことわりつづけた。
だが彼にも眠れない夜はあった。彼はベッドに横たわって、あの死んだ女のことを想《おも》い、どうして、どこの国でも、男と女とのあいだには、はげしい情熱が燃えあがるのだろうと、悲しく――だがそれとともに、どきどきする好奇心をおぼえて、考えるのであった。彼は最後まで彼女をよく知らなかったし、しかも最後には、あんなひどい目にあわされたのだから、それは要するにつまらぬ疑問であった。月の明るい夜などは、ことに彼は眠れなかった。そして、ようやく眠ったかと思うと目がさめ、外の木の枝が、明るい月の光に照らされて窓の白壁に影をうつして踊っているのを、横になったまま無言で見守っているようなこともあった。やがて、いらいらと寝返りして、目をつぶって、思うのだった――(月の光が、あまりに明るすぎる――そのために、おれは何かに――おれがついに味わうことのなかった家庭に――あこがれているのだ)
なんといっても、この六年間は元にとって、深い孤独の歳月だった。日ごとに、彼の孤独は深くなっていった。うわべは、いつも礼儀正しくて、だれからでも話しかけられれば受け答えをしたが、だれにたいしても自分からあいさつをしかけることはなかった。日ましに、彼はこの新しい国の好ましからぬものから遠ざかって行った。彼の民族的な誇り、西欧の世界がまだ開ける以前からつづいてきた民族の無言の誇りが、彼の内部でしっかりと形成されていった。彼は街で向けられる愚かしい好奇の視線を、黙々と耐えしのぶことを学んだ。日用品を買うにも、頭を刈りひげをそるにも、この小さな町のどの店にはいることができるかを、彼は知った。店によっては、彼を客として扱うのをきらうところがあったのだ。無愛想にことわるものもあれば、品物の代金を二倍にして請求するものもあり、表面だけいんぎんに、「この土地で商売をしておりますと、人気が大切でございますから、外国人の方とはお取り引きしないようにしております」などと言うものもあった。それで元は乱暴にことわられても丁重にことわられても、黙ってそこを立ち去ることを学んだのであった。
幾日もだれとも口をきかずに過ごしても辛抱ができたから、やがて彼は、このあわただしい異国の生活のなかに迷いこんだ、たったひとりの異分子のようになった。一つには、ただのひとりとして彼に向かって彼の祖国のことをたずねるものがいなかったからである。白人の男も女も、みな自分たちだけの世界に没頭して暮らしているので、ほかの国の人間が何をしようと、けっして気にしなかったし、国によってちがいのあることを聞いても、無知のために物事がうまくできない人間でも見るように、寛容な微笑を見せるだけだった。仲間の大学生も、理髪店の主人も、下宿のおかみさんも、たとえば中国人はみな、ねずみや蛇を食べ、阿片をすっているとか、女はみな纏足《てんそく》をするとか、男はみな弁髪を垂らしているとか、そうした固定観念を持っていることを、元は知った。
はじめ元は熱心にこれらの無知からくる誤りを正そうとした。彼は自分はねずみや蛇を食ったことはないと断言した。また愛蘭《アイラン》やその友だちの娘たちは、どこの娘たちにも劣らず軽快にダンスをすることを話した。だがそれはなんの役にも立たなかった。彼らは、その話をすぐに忘れて、前と同じことだけを忘れずに思い出すからである。もっとも、そのことは元に、つぎのような結果をもたらした。つまり、こうした無知にたいして憤りを感じることが、あまりにも深く、あまりにもしばしばだったので、しまいには彼は、この国の人々の言うことにも正しい点、真実な点があるのを忘れて、自分の国全体が海岸の大都市のように文化的で、娘たちはすべて愛蘭のような娘ばかりだと信じるようになってしまったのである。
元が土壌学を学ぶ二つの講義で、いつもいっしょになるひとりの学生がいた。彼は農家の息子で、田舎育ちの、非常に人なつこい、だれにたいしても親切な青年だった。元は、あるとき偶然に教室で彼の隣席に腰かけた。元のほうからは話しかけなかったが、青年のほうから話しかけて、それからは教室を出るといっしょに歩くようになり、やがて日向《ひなた》ぼっこをしながら雑談をかわすようになり、ある日とうとういっしょに散歩をしようと元をさそった。これまで元は、そういう親しみを見せられたことがないので、この散歩は思いがけなく楽しかった。それほど彼は孤独だったのだ。
まもなく元は、この新しく得た友に自分の身の上を語るようになった。いっしょに道ばたの木かげに腰をおろし、話をしていると、急に青年は、せっかちに叫んだ。「他人行儀はよそうよ。これからはぼくをジムと呼んでくれないか。きみの名はなんていうんだい? ワンか。ユアン・ワンだね。ぼくはバーンズっていうんだ。ジム・バーンズだ」
そこで元は、自分の国では姓がさきにくること、いまのように自分の名を呼ばれると、まるで逆な気がすると説明した。これがまた若者をおもしろがらせ、自分の名を逆さに言ってみて、大笑いをした。
こんななんでもない話や、いっしょに笑うことが多いところから、ふたりの友情は育ってゆき、やがて、もっとほかの話をするようになった。ジムは自分がこれまでずっと農家で育ってきたことを元に話し、「ぼくのおやじの農場は二百エーカーぐらいある」と言ったので、元は、「じゃ、きみのおとうさんはお金持ちだね」と言った。するとジムはびっくりして彼の顔を見て、「ここではそんなのは小っぽけな農場さ。きみの国では、それくらいでも大きいほうかい?」ときいた。
これには元は率直に返事をしなかった。相手の軽蔑を買うのがいやさに、自分の国の農家がどんなに小規漠であるかを言うのが、急に堪えられなくなったので、ただつぎのようにだけ答えた。「ぼくの祖父の土地は、もっと大きかったから、金持ちだと言われていた。けれども、あちらでは土地が肥《こ》えているから、もっと小さな土地でも暮らしには困らないのだよ」
そんな話から、彼は町にある大きな屋敷のことや、父の王虎のことへ話を持って行った。父を軍閥の巨頭とは言わず、将軍と呼んで話した。彼はまた海岸の大都市のことや、王夫人のこと、妹の愛蘭のこと、愛蘭の楽しんでいる近代的な享楽生活のことなどを語った。そうして日ごとにジムが熱心にいろいろききたがるのにまかせて、元は自分がそんなに多弁になっているとも気づかずに、さまざまの話をした。
だが、元は話すのが愉快だった。異国での孤独な生活、自分の想像以上に孤独な生活に加えて、彼に加えられる数々の侮辱も、もし人にきかれたら、そんなものはなんでもないと昂然《こうぜん》として答えたであろうが、けっしてなんでもなくはなかったからだ。彼の誇りは幾度となく傷つけられていたが、これまでの彼は、こんな待遇には慣れていなかったのである。それがこの白人の若者といっしょにすわって、自分の民族、自分の一門、自分の国の輝かしさを、つぎからつぎへと語っていると、彼の心は休まった。ジムが驚嘆して目をまるくしているのを見るのは、彼の心の傷にとっては何よりの良薬だった。ジムは心からへりくだって、彼に言うのだった――「きみから見たら、ぼくらは、ずいぶん貧乏人だね――将軍の息子で、たくさんの召使を使って――ぼくは夏休みにきみを家へ呼ぼうと思っていたんだが、きみの故郷の話を聞くと、言い出せなくなりそうだよ!」
そこで元は、ていねいに礼を言い、上品に答えた。「ぼくは、きみのおとうさんのお屋敷は、きっと大きくて楽しいにちがいないと思うよ」そして彼は相手の感心したようすに、心から満足をおぼえた。
だが、こうした会話は、元の心のうちに、ひそかに一つの実を結んだのであった。彼は自分ではそれと気づかずに、自分の母国を自分の話しているとおりに見るようになったのである。彼は自分が王虎将軍の戦争や、その物欲に駆《か》られた軍隊を憎んでいたことを忘れ、いつしか王虎将軍をりっぱな広間にどっしりと腰かけている威風堂々たる将軍だと思うようになった。また彼は王龍の住んでいた小さな村や、そこで祖父が食うや食わずの境涯《きょうがい》から労働と頭脳とでどうにか立身したことなどは忘れて、自分が子供のときに見た、祖父が町に建てた庭のひろい大きな屋敷ばかりを心にえがいた。故国の数知れぬ古びた小さな土の家――泥の壁、藁《わら》の屋根のそれらの家に貧しい一家が住み、ときには家畜までいっしょに雑居していることも忘れて、海岸の大都市と、その豪奢《ごうしゃ》と、歓楽のちまたとだけを、はっきりと思い出した。だからジムが、「きみの国も、ここと同じように自動車がたくさんあるかい?」とか、「きみの国の家も、ぼくらの家と同じようかね?」とかきいても、元はあっさりと、「あるとも。みんなあるよ」と答えるのだった。
といって、彼は嘘《うそ》をついたのではない。ある程度まで、彼は真実を語ったのだし、また見方によれば、日がたつにつれて遠い故国がますます完全なものに見えてきたという意味では、彼はまったく嘘いつわりのない真実を語っていると信じていたのである。彼は美しくないもの、どこにでも見られる貧窮などは、すっかり忘れていたし、世界じゅうでただ一つ自分の国だけは農民はみんな正直で満足しているし、召使はすべて忠実、主人はみな親切で、子供たちは親孝行、処女は貞淑で謙譲そのものだ、というふうに思えたのである。
遠い祖国をこのように信じることが、あまり強くなっていたので、彼は、ついにある日、その信念の力にひきずられて、公の席上で自国の弁護をすることになった。それは、この町の人々が教会と呼んでいる寺院に、ながらく中国に住んでいたアメリカ人がきて、中国の映画を見せ、その住民と習俗について講演をしたときのことである。宗教を信じない元は、まだ一度もこの異国の寺院へ行ったことはなかったが、そのアメリカ人の話を聞き、その見せる映画を見たいと思って、その夜、出かけて行った。
やがて群衆のなかに元は腰をおろした。はじめ見た瞬間から、その講演者を元は好かなかった。その人物が、話には聞いたことがあるが、まだ見たことのない宣教師という種類の人間であることに、彼は気がついたからである。少年時代、軍官学校で教えられたところでは、宣教師は宗教を売りものにして外国へ行き、愚民をまどわして何か秘密の目的で自分の宗派に引き入れるものだということであった。その目的がなんであるかは、いろいろ想像はされるが、だれも確実には知らない。しかし人間がなんの目的もなく、私利を離れて自分の国を出てくるはずがないことだけはたしかだ、というのである。
さて、いまその背の高い講演者は、しぶい顔をして立ちあがった。日やけのした顔に、目がくぼんでいた。彼は話しはじめた。元の国の貧民について、飢饉について、土地によっては女の子が生まれると殺されることについて、ひどいあばら家に住んでいること、そして陰惨な不潔なありさまを、彼は語った。元はそれを終わりまで聞いた。つぎに講演者は映画を見せた。それはみな彼が実見してきた光景だということであった。元は乞食がスクリーンから哀れな声で物を乞《こ》うのを見た。顔のくずれたライ病人、空腹のふくれあがった欠食児童、狭いごみごみした街と、牛馬にも重すぎるほどの荷を背負った男たちを見た。温室育ちの元が見たことのない悲惨な情景が、つぎつぎとあらわれた。最後に、講演者はおごそかに言った。「ごらんのとおり、この哀れむべき国にはキリストの福音が必要であります。われわれはみなさんの祈祷《きとう》をお願いします、みなさんの献金をお願いします」そう言って腰をおろした。
だが元は、もう我慢ができなかった。無知な外国の群衆の凝視の前に自国の欠陥があばき出されるのを見て、恥と悲しみとのまざった憤りが胸にこみあげてくるのをおさえながら、ここまで辛抱してきたのだ。いや、欠陥ばかりではない。彼自身、この講演者が話したようなことは見たことがなかったのだ。彼には、このせんさく好きな宣教師が、鵜《う》の目|鷹《たか》の目で悪いところばかり探し出し、西洋人の冷たい目の前にそれらをひきずり出したとしか思えなかった。このように残虐に暴露した人々のために最後にこの講演者が喜捨《きしゃ》を乞うのは、元には、いっそうひどい屈辱としか思えなかった。
元は怒りのためにわれを忘れた。彼は席からおどりあがって、前の列の椅子を両手に握りしめ、大声に叫んだ。目は燃え輝き、頬を紅潮させ、全身がぶるぶるふるえた。
「その人の話も、いまの写真も、みんな嘘《うそ》です! わたしの国には、あんなものはありません! あんな光景を、わたし自身見たことがないのです――ライ病人なんか見たことがありません――飢えた子供も、あんなひどい家も、見たことはありません! わたしの故郷の家には何十という部屋があります――そういう家がたくさんあります。その人はみなさんからお金をまきあげるために嘘をでっちあげたのです。ぼくは――ぼくは自分の国のために言います! われわれは、このような人を必要としません。みなさんのお金もほしくありません! あなたがたからなんのほどこしも受けたくないです!」
元は、こう叫んで泣きそうになったので、口を結び、腰をおろした。聴衆は、この突然の出来事に驚いて、しんとしていた。
講演者はというと、さびしげな笑いをうかべながら彼の言葉を聞いていたが、やおら立ちあがって、おだやかに言った。「そのお若い方は、新時代の学生さんでしょう。お若い方にわたしが申したいことは、わたしは、いまお目にかけたような貧民のなかで生涯の大半を過ごしてきたということです。あなたもお国へお帰りになったら、わたしの住んでいる奥地の小都市へおいでください。これらの実情を、すっかりお目にかけましょう……ではお祈りをささげて閉会にいたしましょうか」
彼はこんな偽りに満ちたお祈りなど聞いてはいられなかった。彼は立って、よろめくように往来へ出た。すぐあとから、三々五々、家へ帰る人々の足音が聞こえ、そのとき、その夜元が受けた最後の屈辱が待ちうけていた。ふたりの男が、彼だとは気がつかずに追いこして行ったが、そのひとりが言ったのである。「珍しいことだね、中国人が立って文句を言うなんて――いったい、どっちの言い分が正しいんだろう?」
すると相手は答えた。「たぶん両方とも正しいのではないか。人の話を何から何まで信じるのは危ないよ。だが、外国人がどうだろうと、かまわないじゃないか。われわれにはなんの関係もないことだよ!」そしてその男が、あくびをし、もうひとりも無頓着《むとんじゃく》に言った。「それはそうだ――あすは雨らしいね」そのまま彼らは歩いて行った。
聞いていた元は、ふたりの男の無関心さに、いっそう心を傷つけられた。たとい宣教師の言葉が正しかったとしても、彼らは関心を持つべきだが、あれが嘘だからこそ、なおさら真実を知りたいと思うのが当然ではないか、と彼は思った。怒りを胸に抱いて彼はベッドにはいり、幾度も寝返りをし、怒りのために涙さえ流した。そして、この国の人々に自分の国の偉大さを教えるためにもっと何かしなくてはならないと心に誓った。
こうしたことのあったあとで元を慰めてくれのは、友人のジムであった。彼はこの質朴《しつぼく》な田舎の青年に会うと心が休まり、自分の国民にたいする熱い信頼をこの若者につつまず話した。彼の祖父の高貴な精神を育《はぐ》くみ、今日までも国民の生くべき信条を形成して、この国で見られるような淫蕩《いんとう》や放恣《ほうし》のないはるかに美しい国にした聖賢の教えについて彼は語った。あちらでは男も女も節度を守り、善良な秩序をたもっている、その善良さから美が生じている。彼らにとっては、この国にあるような書かれた法律は必要がない。こちらでは子供でさえも法律で保護され、婦人も法の庇護《ひご》がなくては危ないではないか。自分の国では――と元は心からそう信じこんで言った――子供が害せられないための法律とか、子供を害する人間を罰する法律とか、そんなものは必要がないのだ。その瞬間には母から聞かされた捨て子の話などもすっかり忘れていた。また彼は、女は家庭にいさえすれば、いつも安全で、尊敬されていると話した。「すると婦人の足をしばるというのは、ほんとうの話ではないんだね?」そう白人の若者からきかれると、元は昂然《こうぜん》と答えた。「それは古い古い習慣さ。きみたちの国でも婦人が胴をきつく締めたことがあったじゃないか。いまでは、それはもう過去のことで、どこへ行ったって見られやしないよ」
こうして彼は祖国の弁護のために立ち、それが彼の大きな目的になった。それがために彼は時おり孟《メン》のことを思い出すことがあり、ようやく孟の真価がわかったと思った。「孟は正しかった。わが国ははなはだしく辱《はずか》しめられ、おとしめられている。いまこそわれわれは力をそろえて祖国を支持しなくてはならぬ。孟よ、やっぱりきみのほうが、ぼくよりも正しく真実を見ていた。ぼくはそのことをきみに言いたい」孟に手紙を書き、そのことを知らせたいにも、彼の居どころが知れないのを、元は、残念に思った。
父親には手紙が出せるので、彼は書いた。いま彼は前よりもやさしい言葉で、くわしく手紙を書くことができた。祖国への新しい愛は、家族への愛情をも深めたのである。彼は書いた――
[#ここから1字下げ]
ぼくはよく故郷へ帰りたくてたまらなくなります。自分の国ほどいい国はないような気がするのです。わが国の生活様式、わが国の料理は世界一です。帰国したら、ぼくはすぐに、よろこんで家へ帰ります。ぼくがこちらにとどまっているのは、単に学ぶべきものを学び、国のためにそれを役立てたいからにすぎません。
[#ここで字下げ終わり]
そして、そのあとへ息子が父親に示す儀礼的なあいさつをつけ加えると、封をし、切手をはって、おもてのポストヘ入れに行った。それは週末の休日の夜で、街《まち》には灯《ひ》が明るくともり、若い男たちは大声で知っている唄《うた》を歌い散らしてはしゃいでいたし、若い娘たちもいっしょになって笑ったり叫んだりしていた。こうした野卑な風景をながめて、元は冷笑にくちびるをゆがめ、思いは手紙のあとを追って、父親がただひとりで住んでいる院子《ユワンズ》の重々しい静けさのほうへ飛んだ。すくなくとも父だけは何百の兵を従えている。すくなくとも軍閥の首領として、おのれの信ずる軌範にしたがって生きている。かつて幾度も見たように、王虎将軍が虎の皮を背にし、赤々と石炭の燃えている銅製の火鉢を前に、護衛の兵をかしずかせて、王者のように堂々と木彫りの大椅子にすわっている姿が、ありありと目にうかんだ。そのとき元は、野卑《やひ》な喧騒のただなかで――やかましい歌声やダンス・ホールから流れ出す卑猥《ひわい》な調子はずれの音楽のただなかで、かつておぼえたことのないほど自分の属する民族にたいして大きな誇りを味わった。おれは周囲の人間どもよりも上なのだ、歴史の古い、王者の血統を受けているのだ――そう考えながら、孤独な自室へ帰って、ひたむきに読書に没頭した。
彼が憎悪を胸にたくわえた第三の段階が、これであった。
第四の段階は、別の、もっと身近な原因から、まもなくきた。それは例の新しい友人が導火線であった。ふたりの若者のあいだの友情は前よりも熱がさめ、元の話題は冷静な、よそよそしいものになり、勉強の話とか、教授たちから数えられたこととかにかぎられるようになったが、それはジムが元の下宿へ訪《たず》ねてくるのが、自分に会うためでなく、下宿の娘に会いにくるのだということを、元が知ったためであった。
事のおこりは、ごくなんでもないことであった。元がある晩、雨が降って、いつもの習慣になっている散歩もできないので、新しい友人を自分の室へ連れてきた。下宿へはいると、表側の部屋で音楽が聞こえ、ドアがすこし開いていた。蓄音器をかけているのは下宿の娘で、彼女がドアの開いていることを知っているのはたしかであった。通りがかりに、ジムはなかをのぞいて、娘を見た。娘もジムを見て、例の魅惑的な目を投げた。ジムはそれに気がついて元に言った。「あんなピーチがここにいることを、どうしてきみは黙っていたんだい?」
元はジムのいやらしい目つきを見て、我慢ができなかったので、冷ややかに答えた。「きみが何を言っているのか、ぼくにはわからないな」だが、ピーチという言葉はわからなかったが、ほかのことはすっかりわかっていたので、元は非常な不快を感じた。あとになって、いくらかおだやかな気持ちでそのことを考え、あんなことは忘れてしまおう、あんな小娘ぐらいのことで友情をそこなうのはよくないことだ、この国では、ああしたことは、ごく軽く考えられているのだから、と自分に言い聞かせた。
しかし二度目にそのことがあったとき、というよりもあったと元が思ったとき、彼は泣きたいほど深い痛手《いたで》を受けた。ある晩、おそくまで勉強をしようと思って、外で夜食をしたため、帰ってくると、下宿人が共同で使っている応接間で、ジムの声が聞こえた。そのとき元は、ひどく疲れていて、上下に読むことになれている目には疲れやすい横文字の洋書を長い時間読んでいたために目が痛くなっていた折りからだったから、友人の声を聞いて、うれしく思い、一時間ぐらい話をしたいと思った。それで、すこし開いているドアを押し開け、うれしそうに、彼としては珍しく自由な気持ちで叫んだ。「やあ、ジム、いま帰ってきたよ――ぼくの部屋へ行こうか」
見ると、部屋のなかは、ふたりきりだった。ジムは、ちょうど愚かしい笑いを顔にうかべて、菓子箱か何かの包みを開けようとしており、彼の正面の深い椅子に、しどけない美しさを見せて、下宿の娘が身をしずめていた。元がはいってきたのを見ると、娘は彼を見あげ、ちぢれた赤い髪をうしろへ振り立てながら、からかうように言った。「この人、きょうはあたしに会いにきたのよ、王さん……」そしてふたりの顔を見くらべているうち、元の頬には血がのぼって、だんだんどす黒くなり、なんの警戒も見せていなかったその顔が、みるみる他人行儀に、素気《そっけ》なくなった。一方ジムはまっ赤になって、自分のしたいことをするのが何が悪いのだと言いたげな敵意をみなぎらせていた。娘は爪を紅《あか》く染めた手をふりながら、すねたように叫んだ。「でも、いいわよ、ジムが行きたければ行ったって――」
ふたりの青年のあいだには、重苦しい沈黙が流れた。娘が声をあげて笑った。やがて元が、静かに言った。「むろんジムの好きなようにすればいいですよ」
彼はジムの顔が見たくなかったので、二階へあがり、静かに扉を閉めてから、しばらくベッドに腰をおろして、自分の心にわいた嫉妬《しっと》の苦しみと怒りとについて思いまどった――何よりもジムの醜い人のよい顔にうかんでいた愚かしい表情を忘れることができず、あの表情に反感をおぼえずにいられなかったので、彼の心は不快に堪えなかった。
それ以来、彼は前にもまして孤高の態度をとるようになった。白人の男も女も、自分の聞いたこともないほど抑制のない、獣欲のはげしい人種で、心のなかで考えていることは、みな異性にたいするみだらなことばかりなのだ、と彼は自分に言い聞かせた。そう考えると、彼の心にすぐうかんできたのは、彼らが行きたがる映画のことであった。表通りに、けばけばしく出ている、ものほしげな、いつも半裸体の女ばかり描いてある看板絵であった。夜おそく帰ってくるとき、暗い街かどで、いやらしい光景を見ないことはないではないか、と彼は憎しみをこめて思った――男が女を抱いて、たがいにしっかりと抱擁し、いやらしいかっこうに手を触れあっているような光景で町じゅういっぱいなのだ。元は、それらの光景に嘔吐《おうと》をもよおし、こうした低劣なありさまを見ることは彼の胃でさえ我慢ができないのだ、と思った。
それ以来、彼は、けっしてジムに近づかなかった。ジムの声が家のなかのどこかで聞こえると、彼は、ひとりで静かに階段をのぼり、自室で書物に読みふけった。しばらくしてジムがはいってきても、よそよそしい口をきいた。ジムがどうして平気で彼の部屋へこられるのか、元には理解できない奇妙なことに思えた。娘にたいする彼の感情は、前からつづいている元への友情にはなんの妨げにもならず、相変わらず朗らかな調子で、元がよそよそしくしてあまり口もきかないことに気がつかないらしいのだ。もっとも、ときには元も娘のことを忘れ、気楽に雑談をし、軽くジムをからかったりすることも、あるにはあった。しかし、すくなくともいまでは彼は、ジムがくるから応対するだけであった。以前のように彼に会いたいという積極的な気持ちはもう持てなかった。元は、静かに自分に言った。(ジムが会いたければ、おれはここにいる。おれの気持ちは変わったわけではない。向こうがおれを求めるなら、向こうからこさせればいいのだ)だが、変わらぬと口では言っても、彼は変わった。彼は、ふたたび孤独になったのである。
元は気持ちをまぎらせようとして、町や大学について自分の気に入らぬことに注意を向けるようになった。そして彼の気に入らぬことは、どんな些細《ささい》なことでも彼の赤くはげた心に刀剣のように鋭く傷を負わせた。彼は街で群衆のしゃべる言葉を聞き、その声も語韻も、とげとげしくて、自国語の流れる水のようななめらかさとは似ても似つかないことを思った。学生たちの野方図な顔つき、教授の前でへどもどする言葉つきの醜態を心にとめた。そのたびに彼は、ますます自分のことに気をつけるようになり、異国の言葉ではあるが会話をますます完全にし、学業にも彼ら以上のりっぱな成績をあげよう、それが国のためだ、と思うのだった。
彼が知らぬ間に白人を軽蔑するようになったのは、彼らを軽蔑したい気持ちが彼にあったからではあるが、一方では彼らの生活、富、住居、大きな建物、彼らの成しとげた多くの発明、空気や風や水や光の魔術についての彼らの学問など、すべてのものに羨望《せんぼう》を感ぜずにはいられなかったからでもある。しかも彼らの博識英知、彼自身のそれにたいする感嘆の念すらも、かえって彼らをきらわせるもとになった。どうして彼らはそれほど優勢な地位を盗みとったのか、その優勢をどうしてあのように確信して、自分が彼らをこれほど憎んでいることさえ感じずにいられるのか。ある日、彼は図書館で、一冊の驚くべき書物を前にして考えこんでいた。その書物は、植物の幾代にもわたる生態を、種子が地に植えられる以前に予想できることを、はっきりと彼に指摘していた。それは発育の法則がはっきりと知られているからであった。これは元にとってはじつに驚くべきことで、人間の普通の知識とはあまりにもかけ離れていたので、思わず内心のひそかな感嘆を声に出して叫びそうになった。だが、そのときでも彼は冷たい気持ちで考えた。(わが国民は、世界はまだ夜だと思い、みんな眠っているものと思いこんで、カーテンをおろして長い眠りをむさぼってきた。だが夜は、とうの昔に明けはなれて、西洋人どもは起きて働いていたのだ……われわれは、この長い年月のあいだにうしなったものを、はたして取りもどすことができるだろうか?)
こうして元は、この六年間に、深い内心の絶望に陥り、この絶望が彼の心に父の王虎が最初に抱いた考えを注ぎこんだ。元は、これまでかつて意識しなかった国家の発展のために一身を投げうとうと決心し、この決意は、やがて彼に自分一身のことを忘れさせるまでになった。彼は、この国の人々にまじって歩いているときも話をするときも、もはや自分をひとりの王元とは見ず、彼の属する国民そのもの、異境にあって全民族を代表するものとして見るようになった。
元がまだ若くて、このような使命を果たすには足らないことを、彼に感じさせることのできるのは、盛《シェン》だけであった。盛は、この六年間、自分から選んで住んだあの大都市を、一度も離れようとしなかった。「どうしてここから動く必要があるのだ?」と彼は言った。「一生かかっても学びきれないものが、ここにはある。ぼくは多くの土地をすこしずつ知るよりも、この都会を深く知りたい。この都会がわかれば、この国の人間がわかることになる。なぜなら全アメリカはこの都会を通じて語っているからだ」
それゆえ盛は元のところへくる気はなかったが、元に会いたがってはいた。元は盛の魅力と諧謔《かいぎゃく》にとんだ手紙の誘いにうながされて、盛のところで夏休みを過ごすことになった。彼は盛の借りているせまい居間に泊まりこみ、そこに集まる人々のさまざまな話を聞いた。ときには口を出すこともあったが、たいていは黙って聞き手にまわった。盛は、まもなく元が狭い世界に閉じこもって、あまりにもひとりぼっちで暮らしていることを知って、元の考え方を非難しだした。
元には意外なほどの思いがけない鋭さで、盛は元がもっと見聞をひろめるべきだと忠告した。
「ぼくらは故国にいるときは書物を崇拝していた。ところが、その結果は、げんにきみの見るとおりだ。この国の人間は、世界じゅうのどの民族よりも書物に関心をはらわない。生活に役に立つものだけに関心を持つのだ。彼らは学者を崇拝しないで、逆にばかにしている。彼らの口にする冗談の半分は教師を種にしたものだ。給料だって召使に払うよりもすくないくらいだ。してみれば、そういう老先生たちから、この国の人間の秘密を知ることができるとは思えないではないか。また百姓の小せがれから学ぶだけで十分とはいえないだろう。元、きみはあまりに偏狭すぎるよ。きみは一つのこと、ひとりの人間、一つの場所だけにかじりついて、ほかのものをみんな見のがしているのだ。どこの国民よりも、この国の人間は、書物のなかでは理解できない。彼らは自分たちの図書館に世界じゅうの書物を集めて、小麦や金を集めて使うようにそれを使う――書物は彼らの持っている計画のための資料にすぎないのだ。元、きみは一万冊の本を読んだって、彼らの繁栄の秘密はわからないよ」
こうしたことを、盛はくりかえしくりかえし元に言い、元は盛の落ちつきぶりと頭のよさとに感心して聞いていたが、最後にたずねた。「すると、盛、ぼくは、もっとよく知るためには、どうすればいいのだろう?」すると盛は答えた。「あらゆるものを見ることだ――どこへでも行き、できるだけいろいろの人間と知りあいになることだ。きみの小さな畑をしばらくほうり出して、書物からも離れるのだ。ぼくはいま、きみの学んだことをすっかり聞いた。今度は、ぼくの学んだことを見せる番だ」
盛のようすは、じつに世慣れていた。話しぶりも巻きたばこの灰の落としかたも、しなやかな象牙色の指さきで油で光らせた黒い髪をなでるようすも、みな自信たっぷりなので、元はすっかり気《け》おされて、自分がまるでカボチャのように土くさい人間のような気がした。まったく盛は、何事につけても彼よりもはるかによく知っているらしい。長身の、夢みがちな、かわいらしい青年だったころにくらべると、盛はなんと変わったことだろう! わずか二、三年のうちに、彼は俊敏な、活気のあふれた男になり、自己の能力と美貌に自信を持つ、あぶらの乗りきった人間になっている。何かの熱気が、彼を動かしたのだ。この新しい国の電気を帯びた空気に触れて、彼の悠長《ゆうちょう》なところは消えてしまったようだ。この国の人間と同じに彼はよく動き、よく語り、よく笑ったが、その発剌《はつらつ》さには、やはり彼の民族の雅致《がち》と深みと悠揚《ゆうよう》さとが残っていた。そして現在の盛のありかたを見れば見るほど、元は、これほどの洗練と才気とを兼ねそなえた男は他にあるまいと思った。彼は心からへりくだった気持ちでたずねた。「きみは、いまでも詩や小説を書いているのかい?」
盛は、朗らかに答えた。「うん、前よりもさかんに書いている。いまでは一冊の詩集が出版できるくらい詩がたまっているよ。それから、いままでに書いた小説で、一つや二つの賞はとれそうだ」盛は、すこしも高ぶらずに、しかも自分をよくわきまえているものの確信に満ちて、そう言った。元は黙っていた。それにくらべると、自分は何もしていなかったような気がする。自分は、この国へきたときと同じように愚鈍だ。友だちもない。この幾年かに自分の生活として示しうるものは、ノートブックの山と、わずかばかりの土地に植えた植物だけではないのか。
もう一度、彼は盛にたずねた。「国へ帰ったら、きみは、何をするつもりだね? やっぱりずっと都会で暮らすのかい?」
元は、盛もまた自国の欠点に悩まされているかどうかを打診するために、こうたずねたのであった。しかし盛は、朗らかに、しかも自信ありげに答えた。「そうとも、ずっとそうするつもりだよ! ぼくは、ほかの土地には住めない。じつをいうとね、元、ここだけの話で、他人の前では言えないが、わが国では、ああいう海岸の都会のほかに、ぼくらのような人間の住めるところはないよ。インテリの楽しめるような娯楽とか、我慢のできる程度の清潔さが、ほかのどこに求められるだろう? 田舎は、ぼくのおぼえているかぎりでは、とても好きになれそうもないよ――人々はみな不潔だし、子供は夏は裸だし、なんにでもハエがまっ黒にたかっている――きみも知っているはずだ――ぼくは都会以外の場所には住めもしないし、住もうとも思わない。なんといっても、西欧人は人生の慰安とか享楽とかいう点で、ぼくらの学ぶべきものを持っているよ。孟は、そういうものをきらうが、何世紀も外国と隔離されていたあいだに、われわれは水道も電気も映画も、そういうものを何一つ考えつかなかったことを、ぼくは忘れるわけにいかない。ぼくとしては、自分の得られるかぎりの快適な生活をしてゆくつもりだ」
「つまり利己的に生きるということだね」元は無遠慮に言った。
「そう言ってもいい」盛は平気で答えた。「しかし、利己的でない人間がいるかね? ぼくらはみな利己的なのだ。孟だって、理想をふりまわす点で、すでに利己的だよ。理想か、ふん! あの運動の指導者たちを見たまえ、元、彼らが利己的でないといえるかね――前に匪賊だったやつもいる――しじゅう立場をかえて旗色のいいほうにばかり動いているやつがいる――国家のためと称して集めた金で食うことよりほか何もしないやつもいる! ぼくからみると、正直に自分は利己的だと言うほうが、ずっと男らしいと思う。ぼく自身は、はっきりそう言う。ぼくは、ぼくの気に入るようにするのだ。だから利己的と言われても、ちっともかまわない。けれども、ぼくは貪欲ではないよ。ぼくは美を愛する。家のなかや周囲に洗練された上品さを必要とする。しかし貧しい生活はしたくない。平安と、美と、いささかの楽しみとが、周囲にあれば、それだけで満足だ」
「そして平安も楽しみもない国民はどうなのだ?」わきたつような胸をおさえて、元はきいた。
「ぼくにそれをなんとかできるというのかね?」盛は答えた。「何世紀も昔から、貧乏人は生まれ、飢饉や戦争は起こりつづけていたのではないか。ぼくの一生だけで、それがすっかり変えられると思うほどぼくに愚劣になれというのか? ぼくは争いのなかで自己をうしなうだけだろう。自己をうしなうことによって、この至高の自我、このぼくそのものをうしなってまで――どうして民衆の宿命にたいして抵抗しなくてはならないのだ? ぼくが海のなかへ飛びこめば、それが干あがって陸地になるとでもいうのか――」
こうした明快な議論には、元は答えるすべを知らなかった、その夜、盛が寝室へ行ってしまってから、まもなく横になったが、一刻も動きやまぬこの大都市の騒音が彼の横たわっている室の壁にうち寄せるのを聞きながら、ただ横になっているだけであった。
こうして耳をすませていると、元は恐ろしくなった。彼と外界の暗い怪奇な騒音の世界とをへだてている小さな狭い壁を通して、彼の心眼は、あまりにも多くのものを見たのであった。自分の卑小さが堪えられなくなって、盛の良識に富んだ言葉の意味にすがり、外灯で明るくなっているこの部屋の温かさにすがり、テーブルとか椅子とか、この人生のきわめて平凡な品物にすがりたくなった。何千マイルにわたる変化と死と未知の生活とのなかに、この小さな一か所だけが安全だった。盛が、安全と逸楽とを選ぶと断言するのを聞いて、あれほど大きかった自分の夢が、こんなにばかげたものに感じられてくるのは、なんというふしぎなことだろう! 盛のそばにいると、元は、それまでの自分をうしない、勇敢さも、白人への憎しみさえもうしなって、子供のように何か確かなものを把握《はあく》したくなったのである。
しかし元は、このように盛のそばにばかりいるわけではなかった。盛はこの都会に知人がたくさんいるので、夜になると若い女性とダンスに行くことが多かった。元は盛といっしょに出かけるが、そこでも彼は孤独だった。はじめ彼は、にぎやかな場所の空気を傍観していて、盛の美貌や親しげな態度や、女性にたいする大胆さなどを、驚異と羨望の目で見ていた。ときには、その真似をしてみようかとも思うのだが、しばらくすると、きっと何か顔をそむけたいような光景を見てしまい、おれは女とは口をきかないぞとひとりごとを言うのがつねだった。
それは、こういう理由からだった。このようにして盛が交際している女性たちは、彼の国ではあまり見かけないタイプだった。彼女たちは、白人か、または混血の、なかば黒く、なかば白い肌をしていた。元は、そのどちらにも、いままで接触したことがなかった。何か肉体的な理由で、どうしても触れる気になれなかったのである。愛蘭といっしょに出かけた夜会などで、彼は前にも、こういう女性に会ったことがある。あの海岸の大都市には、あらゆる肌の色をした人間が雑然といりまじっていたのだ。しかし彼は、こうした婦人と踊ったことはなかった。一つには、女たちが元の目には恥知らずとしか思えないような、背中をむき出しにした装いをしていたからであった。いっしょに踊る男は、その裸の白い肉体に手を触れなくてはならないが、元にはそれができなかった。むかむかしてくるのである。
だが、それを好まないもう一つの理由が、いまはあった。ダンス場で、盛と、盛が近づいたときににっこり笑ってうなずく女たちを見ていると、それがある種の女性にかぎられていて、品のよい、いくらか恥を知っていると思われる女たちは、盛が近づくと横を向いてしまい、同じ白人の男とばかり踊っているように思われたからである。見ていれば見ているほど、そのとおりだと思われてきて、盛自身も、このことを知っているようにさえ思われた。つまり盛は、確実に容易に笑ってくれる娘たちだけを相手にするらしいのである。元は、このいとこのために、心の底から腹が立ってきた――それは、ある意味では自分のためでもあり、自国のためでもあった。ただ彼にわからないのは、上流階級の若い女たちが、なぜそういう態度をとるのかということであった。盛に向かってそれを言いだすことは、きまりもわるいし、盛の心を傷つけるのを恐れずにはできなかった。彼は心のなかだけでつぶやいた。(盛が、もうすこし誇りを持って、あんな女たちと踊らないでくれるといいのだ。上流階級の女どもと踊る資格をみとめられないなら、彼女たち全部を相手にしなければいいのだ)
だが盛は、それほど自尊心を持たず、こういう場所でも愉快そうにしているので、元は、たまらなく心を傷つけられた。ところで、ふしぎなのは、孟がいかに外国人にたいして憤りを発しても、元は、そのために増悪の念を呼びさまされることがなかったのに、いま、盛が近づくと顔をそむける高慢な女たちを見ると、元は、彼女たちを憎むことができると思い、事実憎んだし、これら少数の女たちのために彼ら白人のすべてを憎む気持ちになったことである。そういうとき、元はよく外へ出てしまった。その場にいて盛が軽蔑されるのを見たくなかったからである。そして彼は、ひとりで読書したり、空や街をながめたり、心のなかに渦《うず》まく疑問をみつめたりして、夜を過ごすのだった。
こうして夏がくると、元は忍耐強く盛のあとについてこの大都会のあちらこちらを歩いた。盛は、たくさんの友人を持っていた。いつも食事をする料理店へはいってゆくと、男も女も、なんの気がねもなく、「ハロー、ジョニイ!」と声をかけた。彼らは盛をジョニイと呼んでいるのである。はじめてそれを聞いたとき、あまりなれなれしすぎるので元は気を悪くした。彼は盛に小声で言った。「どうしてあんなつまらない名で呼ばれて平気でいるのだ?」だが盛は笑って答えた。「あの連中が、たがいになんと呼びあっているかを聞けばわかるよ。ぼくは彼らがジョニイという耳ざわりでない名で呼んでくれるので助かっているのだ。それに、彼らがそうするのは親しみを感じてるからなのだよ、元。一ばん好きな人間にたいしては、一ばんなれなれしい名で呼ぶのだ」
まったく盛がたくさんの友人を持っていることは、すぐにわかった。夜になると、ふたり、三人と連れだって、彼らは盛の部屋を訪ねてきた。もっとおおぜいで来ることもあった。盛のベッドにも、床の上にも、押し重なるようにして、たばこをふかしながら、おしゃべりをしているこれらの青年たちは、たがいに、だれが一ばん気のきいた、でたらめなことを思いつくことができるか、ほかの人間がいま言ったことをだれが一ばん早く茶化すことができるかと競争していた。元は、こんなとりとめのない談話を聞いたことがなかった。ときには彼らがみな政府に反抗する連中のように思われて、ひそかに盛のために心配したこともあるが、やがてしばらくすると風向きが変わって、いままで何時間もしゃべったことはふきとんでしまい、最後には、いとも朗らかに現状を謳歌《おうか》し、すべて新奇なものを軽蔑し去って、めいめいが持参したたばこと酒のにおいをぷんぷんさせながら、これらの青年たちは大声に別れの言葉をかわし、自分たちと現在の世のなかとに絶大な好もしさを感じて、満足してにやにや笑いながら帰ってゆくのであった。
ときにはまた露骨に女の話をすることもあった。元は自分の知らない問題だから――ひとりの処女の手に触れたことのほか彼は何も知らなかった――黙って傾聴していたが、胸のむかつくような話ばかりであった。彼らが帰ったあとで、彼はまじめに盛に言った。「あの連中の言うお先っ走りの女というのは、ほんとうにあの話のとおりだろうか、そんなにひどいことがあるんだろうか。この国の女は、みんなそうなのかね――純潔な処女、貞淑な妻、犯すことのできない女性というものはひとりもいないのかね?」すると盛は、からかうように笑いながら答えた。「あの連中は、みんな若いんだぜ――きみやぼくのような学生だぜ。きみは女について何を知っているんだい、元?」
元は素直に答えた。「なるほど、ぼくは女について何も知らないけれど――」
それでも、それ以来、元は街頭でいくらも見ることのできるそういう女たちに注意するようになった。彼女たちもまたこの国の人民の一部なのだ。だが彼には彼女たちを尊敬する気にはなれなかった。彼女たちは足早に歩き、はなやかに装いをこらし、同じくはなやかに化粧している。それでも、彼女たちのあでやかな大胆な視線が元の顔に向けられるとき、その表情は空虚だった。ほんの一秒ぐらいみつめたかと思うと、そのまま通り過ぎてしまうのである。彼女たちにとって、彼は男ではなかった――通りすがりの旅人にすぎなかった。だから男にたいして払うだけの注意を払う価値がないのだ、とその目は物語っていた。元も、それほどはっきりとは理解できぬまでも、その冷たさと空虚とは感じられたから、心の底で彼女たちを憎んだ。彼から見ると、それらの女たちの態度は、あまりにも傲慢《ごうまん》で、冷然と自分の価値に自信を持って闊歩《かっぽ》しているので、ひどく恐ろしいものに思えた。
すれちがうときにも、うっかりして怒られてはたまらないから、かりにもからだにさわったりすることのないようにと注意していた。彼女たちの赤く塗ったくちびるの形、輝くような頭をそりかえらせているその不敵な態度、歩くときのからだのゆすりかた、みな彼を尻《しり》ごみさせるものばかりだった。それらのものに女性的な魅力を彼はすこしも感じなかった。それでいて、それらが、この都会の発剌《はつらつ》とした色彩の魔術に生彩を添えていることはたしかだった。幾日も幾晩も、そうした経験をしてから、やっと彼は、この国の人間は書物のなかにはいないという盛の言葉を納得したのであった。遠くにそびえている大きなビルディングの金色に輝く頂上を見あげながら、ああいうものも書物にはおさめ得ない、と元は思った。
はじめ元は、この国の建築に美しさを認めなかった。彼の目は、低い瓦《かわら》屋根のおだやかな並列や、なだらかな家々の傾斜に慣れ親しんできたからである。だがいまは、その美を理解した――異質の美にはちがいないが、やはり美なのだ。そしてこの国へ来てはじめて、彼は詩が書きたくなった。ある夜、盛が寝てから、ベッドのなかで、彼は、おのれの想念に形をあたえようとして苦心した。いつもの温雅な韻律、かつて彼が田園や雲を詠《うた》った韻律では、役に立たなかった。彼は鋭い言葉、圭角《けいかく》のある勁烈《けいれつ》な言葉がほしかった。自国語の言葉は使えなかった。それは長い伝統に洗練された、婉曲《えんきょく》な、なめらかな言葉ばかりだった。やはりこの新興の外国の言語のなかに言葉をさがさなければならなかった。ところがそれは、ちょうど新しい道具と同じように、自分が使いこなすには重すぎた。のみならず形式や音調にも習熟していなかった。けっきょく、彼はあきらめた。詩の形にすることができないので、思想は形をなさないまま彼の心に残り、それから一日か二日、彼をすこし落ちつけなくした。またその後も、心のしこりは残った。なぜなら、しまいには、それを詩の形にして心から吐き出してしまいさえすれば、この国の人々の意味をはっきり手にとるように知ることができるのだ、という気がしてきたからである。だが、それができなかった。この国の人々は彼から心をそむけ、彼はただ彼らが身軽に動きまわっているなかを右往左往するだけだった。
盛と元とは、ひどく異なった二つの魂だった。盛の魂は、そこから楽々と流れ出る詩と、はなはだよく似ていた。彼はある日、それらの詩を元に見せた。金縁のついた厚い紙に美しい筆跡で書かれていた。盛はわざと無造作に言った。「もちろん、つまらんものだ――ぼくのものとしても、いいものじゃない。まだこれからだからね。これは、この国の印象の断片を、ぼくの心にうかんだままに書きつけたものだ。しかし大学の教授たちはほめてくれたよ」
元は一編ずつ、無言で、敬意をこめて、ていねいに読んでいった。それらは彼には美しく感じられた。一語一語よく選んであり、金の指輪にきちんとはめこまれた宝石のように、ぴったりとその場所にはめこまれてあった。盛が何気なく言うところによると、それらの詩のなかには、盛の知っているある女性が作曲をしたものもあるということだった。ある日、この女性のことを一、二度口にしたあとで、彼は、その作曲を聞くために元を彼女の家へ連れて行った。そしてここで元は、またしても新しいタイプの女を見、また盛の生活の新しい一面を知ったのであった。
彼女は、あるホールで歌っている声楽家であった。けっしてありきたりの歌手ではないが、まだ彼女自身が考えているほど楽壇から認められてはいなかった。彼女は多くの小さな家庭がある大きな建物のなかに、ひとりで住んでいた。彼女が住居にしている部屋は、暗くて、静かだった。戸外には明るい日が当たっていても、日光は、ここへははいってこなかった。高いブロンズの燭台《しよくだい》にローソクがともっていた。よどんだ空気のなかに、香のかおりが重くただよっている。かたい椅子や、クッションのない腰掛けは一つもなく、奥には大きな寝椅子があった。この寝椅子に女は横たわっていた。年配は元には見当がつかなかった。長身の金髪の婦人であった。盛の姿を見ると、彼女は声をあげ、いままでたばこをすっていたホールダーを振りまわしながら、「盛、ダーリン、ずいぶんひさしぶりね!」と言った。
盛は、前にもたびたびそうしたことがあるらしく、気軽に彼女の横に腰をおろすと、また彼女は大声で言った。その声は太くて低くて、すこしも女らしくない異様な声だった。「あなたのあのきれいな詩――『寺院の鐘』の作曲が――やっとできたわ! いまちょうどあなたに電話をかけようと思っていたところよ――」
そのとき盛が、「いとこの元です」と言ったが、女は元のほうをろくろく見もしなかった。盛が言いかけたときには、彼女はちょうど起きあがろうとしたところであったが、長い足を子供のように無造作に動かしながら、たばこのホールダーを口にくわえたまま、はっきりしない声で、「ああ、そう、ハロー、元!」と言って、彼のほうを見もしないで楽器のところへ行き、くわえていたシガレット・ホールダーを下へおくと、鍵盤の上で、ゆっくりと指をすべらせはじめた――元の聞いたこともないような、深い、ゆっくりとした調べであった。まもなく彼女は歌いだした。その声は、すこしふるえを帯びていて、彼女の指が奏《かな》でる調べと同じ低く深い調子で、まことに情熱的だった。
彼女の歌ったのは、盛が故郷にいたころに書いた短い詩だったが、音楽は、どことなくそれと趣がちがっていた。盛のつくった詩句は、寺院の壁に月かげが映す竹の影のように、そこはかとなくもの静かな調子であった。だが、この美しい詩句を歌う異国の女は、それを情熱的な感じに変えてしまって、竹影は濃く黒く、月光は燃えるように熱かった。詩句があたえるイメージにくらべて、音楽がしつこすぎるように感じて、元は困惑した。この女自身が、しつこいのだ。彼女の動作のすべてが悩ましげな意味を帯び――どの一つの言葉も、一つの表情も、単純ではなかった。
急に元は、この女がきらいになった。彼女の住んでいるこの室も、きらいになった。明るい色の髪にそぐわぬ黒っぽい目もきらいだった。彼女が盛を見る目つきも、しきりに彼のことを「ダーリン」と呼ぶことも、音楽が終わったあと、そのへんを歩きまわり、盛のそばを通るときにわざとからだを触れるのも、書いた曲の譜を盛に渡し、彼の上からおおいかぶさるようにして、一度などは彼の髪に頬を押しつけて、いかにも投げやりな調子で、「ダーリン、あんたは髪を染めているんじゃない? だって、いつも、あんまりつやつやしているから――」と言ったことも、みんなきらいだった。
一言も発せずにすわっていた元は、この婦人にたいして、ある嫌悪の情がこみあげてくるのを感じた。それは彼の祖父が、また彼の父が、彼にあたえた健康な嫌悪、この女のすること、言うこと、見せる態度、すべてがみっともないという単純な意識だった。盛が彼女をしりぞけることを――おだやかにでもしりぞけることを、彼は期待していた。だが、盛はしりぞけなかった。彼のほうから手を触れることもしなかったし、彼女の言葉に同じような言葉で応じたり、手を出して彼女の手を迎えたりもしなかったが、しかし彼は、彼女のすること、言うことを、黙って受け入れていた。彼女の手が一瞬、彼の手の上におかれたときも、彼はそのままにして、元が望んだようにその手を引っ込めることはしなかった。女が、じっと彼の目をみつめたときも、なかば笑いながらも彼女の大胆さと媚《こ》びとを受け入れるように、見ている元のほうがたまらなくなるまで、じっと見返していた。
元は木像のように身じろぎもせず、何も見ず、何も聞かないふうをして、盛が立ちあがるまで、じっとしていた。帰りぎわになっても、女は両手を盛の片腕にかけて、彼女のもよおすパーティにきてほしいと盛にせがんでいた。「ねえ、ダーリング、あたしは、あんたをみんなに見せびらかしてやりたいのよ。あんたの詩には何か新しいものがあるわ――あんた自身が新しいんだわ――あたしは東洋を愛するわ――あの曲も、なかなかいいでしょう? 世間の人に聞かせてやりたいわ――それも、あまりたくさんの人ではなく、二、三人の詩人と、あのロシアの舞踊家と――そう、そう、ダーリン、いいことがあるわ――あの舞踊家に、あの曲で踊らせたらどうかしら――一種の東洋的舞踊ね――あんたの詩は、舞踊にしたら、きっとすばらしいわ――ねえ、やってみましょうよ――」女がどこまでもせがむので、盛は、とうとう自分の手で彼女の両手を腕から離させて、彼女の希望どおりにすると約束した――いかにも気が進まぬようなそぶりだったが、元には、それがそぶりだけなのがわかっていた。
ようやく女の部屋を出たとき、元は、一、二度大きく呼吸をして、ごまかしのない日ざしのなかの景色を、うれしく見まわした。ふたりとも、しばらくは黙っていた。元は自分の頭にあることが盛の心を傷つけるのを恐れて黙っていたし、盛は盛で顔にうすら笑いをうかべて、何事か自分ひとりの物思いにふけっていた。とうとう元は、なかば盛を困らせてやる気で口を切った。
「ぼくは女の口からダーリンというような言葉を聞いたのははじめてだ。ぼくにはなんのことだか、よくわからなかったくらいだ。彼女は、そうすると、よっぽどきみを愛しているのかね!」
だが盛は笑って答えた。「ああいう言葉にはなんの意味もないんだよ。彼女はだれにでもああいう言葉を使うんだ――ああいう連中の一種のくせさ。しかし音楽は悪くないね。ぼくの気分をよくとらえているよ」元はそのとき盛の顔を見て、盛が自分では気づかずに顔に出した表情をそこに見た。盛が女の言った甘ったるい、ばかげた言葉が気に入っていること、彼をほめあげ、彼の詩を作曲することによって彼女の示した媚態《びたい》が彼の気に入っていることを、その顔は明白に語っていた。元はそのときはもう何も言わなかった。しかし心のなかでは、盛と自分とは行き方がちがう、生活もちがう、自分としては自分の行き方が一ばんいいのだ、もっともそれがどんな行き方なのか自分にもよくわからないが、盛のそれでないことだけはたしかだ、と思った。
だから、従兄弟《いとこ》をよろこばせるために、この都会にしばらく滞在して見物し、地下鉄とか繁率街とかを見てまわったものの、盛が言ったのとはちがって、ここにはあらゆる生活があるとは言えないことを知った。すくなくとも彼自身の生活は、ここにはなかった。彼は孤独を感じた。彼の知っている、あるいは理解しているものは、ここには一つもなかった――ない、と彼は思った。
すると、ある非常に暑い日、暑さのために盛がだらけて昼寝をしているとき、元はひとりで散歩に出た。そして電車を一つ二つ乗りかえると、彼は、ここのような都会には夢にもあるとは思わなかったような区域へはいって行った。この都会の富める姿を、彼はもう満喫していた。彼にとって建物はみな宮殿であり、市民たちはひとり残らず衣食に満ち足りていた。そのために苦しむ必要がないのだから、だれもそんなことを問題にしていなかった。彼らが求めているのは、それらのあたりまえのもの以上の快楽と美衣美服であり、生命をつなぐためではなく、味覚を満足させるための美食であった。この大都会の市民は、みなこういう人たちばかりである――元はそう考えていた。
だが、この日、彼はぜんぜん面目を異にするこの都会の一面を発見したのであった――貧民街であった。何も知らずに彼はそこへ足を踏み入れたのだが、ふと気がついてみると、あたりはすべてそれだった。みんな貧民である。
彼は知っていた。顔色は青白くても、またあるものは野蛮人のように黒い皮膚をしていても、貧民なら彼は知っていた。彼らの目つき、からだの不潔さ、よごれて鱗《うろこ》のように垢《あか》づいた手、女たちの金切り声、多すぎる子供たちのわめき声、それらによって彼は貧民というものを知っていたのである。べつの遠い国の市街に住む貧民の姿は、まだ彼の記憶に焼きついているが、それとなんとよく似ていることだろう! それに気がついたとき彼は思った。(では、この大都会も、やはり貧民街の上に築かれているのだ!)愛蘭たちが深夜の街へうかれ出るとき、そこに見いだす男女は、こういう人々ではなかったか。
元は一種の勝利に似た感情をおぼえながら思った。(この国もまた貧民を人目からかくして体裁をつくろっている! この大都会でも、これらの区域には、どこの国にも見られる貧民に劣らず不潔な連中が、こっそり押しこめられているではないか!)
とうとうここに、元は書物に書かれていないものを発見したのであった。彼は呆然《ぼうぜん》として、これらの人々のなかを歩いた。狭い、薄暗い室内をのぞきこみながら、往来にすててある塵芥《じんかい》を踏みつけないように足をひろいながら、飢えた子供たちが暑さで半裸体になって走りまわるなかを歩いて行った。頭をあげて、上へ上へと積み重なっている悲惨と貧窮の姿を見ながら、彼は思った。(彼らは高い建物に住んでいる。しかしそれは問題ではない――やっぱり貧民窟なのだ――貧民窟だということに変わりはないのだ――)
暗くなったので、彼はとうとう引っ返して、街灯の輝いている涼しい区域へはいった。盛の部屋へもどると、盛は起きていて、もとどおり陽気になっていた。これから二、三の友人と、にぎやかな劇場街へ遊びに行こうとしているところだったが、元を見ると、彼はすぐに声をかけた。「どこへ行っていたんだ。迷子になったかと思って心配していたよ」
元は陰気な調子で答えた。「きみが言っていた書物のなかにはない生活の姿を、ぼくは見てきたよ……この国の富と力とをもってしても、やっぱり貧民をなくすることはできないのだね」そして彼は行ってきた場所と、そこで見てきたものを、すこし話した。すると盛の友人のひとりが、裁判官のような重々しい口調で言った。「もちろん、やがては貧困の問題も解決されますよ」すると他のひとりが言った。「もちろん、あの連中が、もっと能力があれば、もっと楽な暮らしができるんだ。つまり、どこかに欠陥のある連中なんだね。出世する気なら、いくらでも出世できるんだ」
元は、すかさず言いだした。「事実は、諸君は貧民の存在を見られたくないのだ――ちょうど秘密の悪質な病気を恥じるように、諸君は彼らを恥じているのだ――」
しかし盛は、朗らかに言った。「このいとこに、こういう問題でしゃべらせておくと、おそくなっちまうぜ! 芝居のはじまるまでに、もう半時間しかないよ!」
他人ばかりの世界に住んでいたこの六年間に、元は、彼を友人として親しんでくれる三人のアメリカ人を知った。そのひとりは大学の老教授で、いかにも温和な思想と欠点のない生活態度とを思わせるこの白髪の老人の顔を、元は、早くから好きになった。元にたいして、この老人は、時のたつにつれ、単に教師としてのみでなく、本心をうちあけてつきあってくれた。元とふたりきりで話をする時間を、よろこんでさいてくれるばかりでなく、元が一冊の著書にまとめたいと計画しているノートを読んで、非常におだやかに誤った個所を一つ二つ指摘してくれた。元の話すことには、いつでも耳を傾けてくれ、そのにこやかな青い目には、いつも深い理解がこめられているので、元も、やがて心からこの人を信頼し、かなりうちあけた話をするようになった。
元は、あの大都会で貧民窟を見たことも話し、あのような豪華な都会のまんなかに、貧民が悲惨な生活をしているのは、ありえないことのように思う、と言った。その話から進んで、例の宣教師の話も出て、彼が元の本国の民衆の生活を、下劣な映画でけがし、はずかしめたことを話した。老教授は黙々と、いつもの温和な態度で、最後まで聞いてから言った。
「どんな人でも、ものの全貌を見ることはできないと思う。昔から言われるように、われわれは自分の見たいと思うものだけを見るのだ。きみやわたしは、土地を見ると、種子や収穫物のことを考える。建築家は同じ土地を見て家のことを考えるし、画家は、その色彩について考える。牧師は人間を救われる必要のある存在としてのみ見るから、おのずと救われる必要の一ばんはっきりしている人たちを見ることになるのだろうね」
元は、この意見をしばらく考えてみてから、不本意ながらそのとおりだと思い、公平に考えれば、あの宣教師を、それほどひどく憎むことはできないと思った――しかし、やはりいまでも向こうがまちがっていると彼は思っているから、憎めるものなら憎みたいのだが――そんな気持ちから、彼は言った。「すくなくとも、あの人は、ぼくの国のごく狭い一部しか見なかったのです」これにたいして、老人は相変わらずおだやかに答えた。「そうかもしれないね。そして、もし心の狭い人だったら、とくに狭い部分ばかり見ただろうね」
ほかの学生が帰ったあとの実習室や教室でのこうした会話を通じて、元は、この白髪の老人を愛するようになった。老人のほうでも元を愛し、彼にたいする態度は、ますますやさしさを加えていった。
ある日、教授は、すこし言いにくそうに元に言った。「きみ、今晩、わたしの家へいっしょにきてくれないかね。わたしの一家は、ごく簡素な暮らしをしている――妻と、娘のメアリと、わたしと――たった三人きりだ――しかし、きみが家へきて食事をしてくれると、みんなよろこぶよ。わたしがきみの話をよくするので、妻や娘も、きみに会いたがっているのだ」
この数年間に、こういうふうに人から言われたのは、これがはじめてだったので、元は強く感動した。教授が学生を自宅へ招くというのは、なみなみならぬ好意だと思った。それで彼は、はにかみながら、自国の習慣的な儀礼にしたがって言った。「ぼくにはそんな資格はありません」
すると老教授は、驚いて目をまるくしたが、微笑しながら言った。「そんな遠慮は、わたしの家がどんな質素な生活をしているかを見てからでも遅くはないよ! はじめにわたしが、きみにきてもらえるとうれしいのだがと妻に話したとき、妻は言ったものだよ。『その方は、きっとあたしたちのような質素な暮らしには、慣れていらっしゃらないのでしょうね』とね」
そこで元は、もう一度儀礼的に辞退してから、その招待を受けた。こうして彼は、かげの多い街路を歩いて、とある四角な中庭のような小庭へはいって、そこから木立ちの奥の古びた木造家屋の玄関へはいって行くことになったのである。迎えに出たのは、彼が母と呼んでいた夫人を思わせるような品のよい婦人であった。ふたりの女性は、たがいに一万マイルも離れているばかりか、まるでちがう国語を話し、血も骨も皮膚も似ていないのに、どこか共通なものを持っていた。白いつややかな髪、いかにも母親らしい落ちつき、飾りけのない物腰、まじめそうな目、静かな声、くちびるや額に彫りこまれた知恵と忍耐と、そういうものがふたりを似させているのであった。もっとも、いよいよ広い客間で席に着いてから、ふたりのあいだの相違に、元は気づかないわけではなかった。それは、この夫人が、心から質朴《しつぼく》な生活に満足している様子が見えたが、これは彼が母と呼んでいる夫人には見られないものだったからである。ひとりは希望を抱いてその生涯を送ってきたが、ひとりはそうではなかった。そのちがいなのであろう。二つの道をたどってふたりの女性は平和な老年に達したが、ひとりは夫とともに幸福な道を歩み、ひとりは、暗い道をひとりでたどってきたのだ。
だが、そこへはいってきた夫人の令嬢は、愛蘭とは似ていなかった。たしかにメアリという娘は別のタイプの処女であった。彼女は、たぶん愛蘭よりはすこし年上であろうが、背たけはずっと高く、美しさでは愛蘭に劣り、見たところ非常におとなしくて、声も表情も控え目だった。ところが彼女の話す言葉をよく聞いてみると、彼女の言うことは、みな内容があり、濃い灰黒色の彼女の目は、ふだんのまじめなときは地味だが、話に興がのって才知がひらめきだすと、それにあわせて快活な輝きを見せた。両親の前では慎んでいるが、それかといってけっして遠慮しているのではなかった。両親もまた彼女を対等に扱っているのが、元にはわかった。
それもそのはずで、元は、すぐに彼女が平凡な令嬢ではないことを知った。老教授が元の書いた論文のことを言うと、メアリも、それについて知っていて、即座に、きわめて適切な質問をしたので、元はびっくりして、ふしぎに思いながらたずねた。「チャオツオのような古代の人のことをおたずねになるほど、あなたがぼくの国の歴史をよく知っていらっしゃるのは、どうしたわけでしょう?」
この問いに、令嬢は、つつましく、しかも目のなかに微笑を輝かせながら答えた。「わたしは、お国とはずっと以前から縁があったのでしょうね。お国について、いろいろと書物を読んでいますのよ。チャオツオについて、ほんのすこし読んだことを申しあげてみましょうか。そうすれば、わたしの知識のお粗末なことがおわかりになりますわ。ほんとうは、わたしはなんにも知りませんのよ。でも彼は農業のことを書きましたわね――あるエッセイのなかで。わたし、翻訳で前にすこし読んだことをおぼえていますわ。それはこんなことですの。『罪は貧にはじまり、貧は食の足らざるより起こる。食の足らざるは土を耕すを怠るより生ず。耕さざれば、人は土に結ばれることなし。結ばれるなくば、ややもすれば生地家郷を離れて、飛鳥野獣とえらぶところなし。城邑《じょうゆう》深濠、苛法《かほう》厳刑も生得|虎狼《ころう》の性を矯《た》むる能《あた》はざるべし』」
元もよく知っているこれらの言葉を、この娘は豊かな澄んだ声で暗誦した。彼女の声はじつに意味深く聞かれた。彼女が、この一節を愛していることは、その顔に厳粛さがあらわれ、目に神秘をたたえて、あたかもかつて味わった美をふたたび味わっているように見えることからも感じられた。両親は、じっと、いかにもうれしそうに娘の話すのに耳を傾けていたが、父の老教授は、礼儀上、口には出さないが、心のなかで、(きみも、うちの娘が賢くて教養があることをわかってくれたと思う。こんな娘がほかにいるだろうか)と言っているような目で、元のほうを見ていた。
元は、うれしさを言葉に出さずにはいられなかった。そして、それからは彼女の話によく耳を傾け、彼女にたいして親近感を抱くようになった。彼女が何を話しても、それがどんなつまらないことであっても、つねに理にかなっていて、彼女のかわりに自分がそれを言えばよかったと思うようなことばかりだった。
しかし、今夜はじめて訪《たず》ねたとは思えないほど、この家に親しみを感じ、家族の人たちが自分とは人種を異にすることさえ忘れるほどではあったが、それでもときどきは、何かにつけて彼の理解のおよばない異様なもの、未知のものに元はぶつかった。一同が、やや狭い室にはいって、食事のしたくのできた楕円形のテーブルをかこんだとき、元は、すぐにスプーンをとりあげて食事をはじめようとした。だが彼は、ほかの人たちが、すぐに食べはじめないのに気がついた。老教授は頭をさげた。元をのぞくほかのふたりも同じようにした。なんのことともわからずに元が、どうなることかと見ていると、教授は、まるで目に見えぬ神か何かに向かって言うように、短い言葉だったが心をこめて声をあげて言った。何か賜物を受けたのを神に感謝しているようだった。それがすむと、もう儀式めいたことはなく、みな食べはじめた。元は、そのときは何もたずねずに雑談に加わっていた。
しかし後になって、いままで見たことのないこの儀式があまり珍しかったので、暮れがたのヴェランダに教授とふたりきりで腰をおろしたとき、彼はそれについてきいてみた。そういう場合に、どうすれば礼儀にはずれないかを知っておきたいからでもあった。すると老人は、パイプをくゆらしながら、小暗くなった往来を楽しげに見やって、しばらく黙っていた。それから、掌《てのひら》にパイプをのせて、口を切った。
「元、わたしはきみに、わたしたちの宗教について、どんなふうに話したものかと、一再ならず考えた。さっききみが見たのは、わたしたちの宗教的儀式の一つで、あたえられる日々の糧《かて》について、神に感謝をささげたにすぎない。それ自体は、たいしたことではないが、それはわれわれの生命が抱く最大のもの――神の信仰を象徴しているわけだ。きみは、いつかアメリカの国の繁栄と力とについて、わたしに質問したことをおぼえていると思うが、わたしはそれを宗教の成果だと信じている。元、きみがどういう宗教を持っているか、わたしは知らないが、この国に住んで、毎日わたしの教室に出入りし、この家にもきてもらって――たびたびきてもらいたいと思っているが――それで自分の信仰のことを話さないのは、わたし自身にたいしても、きみにたいしても、忠実を欠くことになりはしないかね」
老人がこんなふうに話しているあいだに、ふたりの女性も出てきて、そこに腰をおろした。夫人は椅子にかけて、風に吹かれているように前後にゆるやかにからだをゆすっていた。そうしながら、夫の話に聞き入って、いかにもわが意を得たというように、にこやかにうなずいていたが、夫が神々や、人間の肉体をつくった神々の神秘について語りつづけて、途中で一息つくと、夫人は静かな情熱にうながされたように口を開いた。
「ねえ、王さん、わたくしは、ウィルスン博士〔夫のことを夫人はこう呼んでいるのである〕から、あなたが教室でたいへんおできになることや、とてもりっぱな論文をお書きになることをうかがってから、いつもあなたをキリストの信者になる方と思っていましたのよ。もしあなたが信者におなりになって、教えの証《あか》しを持ってお国へお帰りになるようでしたら、それはお国にとって、どんなにすばらしいでしょう!」
これは元には大きな驚きだった。彼女の言葉が、何を意味するのか、彼には皆目わからなかったからである。しかし無作法になるまいとして、彼は単に微笑しながら、ちょっと頭をさげ、何か答えようとした。すると、その瞬間、メアリの声がそれをさえぎった。それは金属のように鋭く澄んでいて、元がはじめて聞くような調子を持っていた。彼女は椅子にかけず、踏み段の一ばん上の段に腰をおろし、両手で顎《あご》をささえ、父親が話しているあいだは話に聞き入っているようすで黙っていた。それがいま、何か腹立たしげな、奇妙に鋭い調子の声が、夕闇のなかから、断ち切るようにひびいてきたのであった。「なかへおはいりにならない、おとうさま。あちらの椅子のほうが楽ですわ――それにわたし、明るいほうが好きよ――」
すこし驚いたように、老人がそれに答えた。「そうかい、メアリ、では、そうしよう。しかし、おまえは夕方ここにいるのが好きだと思っていたがね。毎晩みんなでここにしばらくいることにしているのに――」
だがメアリの答えは、さらに落ちつきのない、強情にさえ聞こえるものだった。「今夜は、明るいところが好きなんです」
「そうかい、では、そうしよう」老人は言って、のろのろと立ちあがったので、みな屋内へはいった。
明るい部屋へはいると、教授はもう宗教の神秘について話さなかった。今度は令嬢が話題を引き出して、元に彼の国についていろいろの質問をあびせた。それがみな急所をついて、ときにはあまり深刻なので、元は正直に自分の無知を恥じながら知らないと白状しなくてはならない場合もあった。そして彼女と話をしていると楽しかった。彼女は美人でこそないが、顔は聡明で引きしまっており、きめはこまかくて色が白く、くちびるは薄くて、ほどよく赤く、髪の毛はちぢれていなくて彼の髪の黒さに近かったが、彼のよりは、ずっと細かった。彼女の目は非常に美しかった。熱を帯びると黒っぽくなるが、笑うと愛らしく光る灰色に変わる。そして彼女は声をあげて笑うことはなかったが、よく微笑した。手の表情がゆたかである。細く、しなやかな、休みなしに動いている手で、小さくはなく、やせすぎているせいか、美しいと言えるほどなめらかではないが、それでいて形や動きに一種の魅力があった。
しかし元は、これらのものだけで楽しかったのではない。彼女の場合、肉体はそれ自身のものではなく、彼女の精神と霊魂とを包むものとしてのみ存在することを、彼は知っていたからである。このような女性を知らなかった元にとって、これは新しい経験であった。彼女のうちに瞬間的な美しさを見たと思うと、それがたちまち消えうせて、彼女の精神が放つ一瞬のひらめき、彼女の舌が語る機知にとんだ一句のなかに、たちまちそれを忘れ去ってしまう。肉体は、ここでは精神によって息吹《いぶ》きをあたえられ、精神は肉体について思いをいたすことを許さないのだ。それゆえ元は彼女をほとんど女としては見ず、変化にとむ、輝かしい、熱意にあふれた、また時にはすこしく冷ややかな、あるいは急に黙りがちになる一つの存在として、見ていた。だが彼女の沈黙は空虚さからではなく、彼女の心が何か元の言ったことをとらえたときとか、それを明らかにするために巧みに分析しているときとかに黙しがちになるのであった。こうした沈黙のなかで彼女はよくわれを忘れて、元が言い終わったあとまでも彼の目をみつめていることを忘れていることがあり、元は、こうした彼女の沈黙のおりに、一度ならず、その変化にとむ黒い瞳の奥を深くのぞきこんでいる自分に気がつくことがあった。
彼女は宗教の神秘については、ついに一度も話をしなかったし、老夫婦も、あれきり二度と触れようとしなかった。ようやく元が立っていとまを告げようとしたとき、教授は、ちょっと彼の手をとらえながら言った。「もしその気になったら、日曜日にわたしといっしょに教会へ行って、どんなものか見たらいいと思う」
元は、これも親切な申し出の一つと受けとって、ぜひ行きたい、と答えた。人種さえもちがう自分をこの家の息子のように遇してくれる三人にまた会えるのがうれしかったので、彼は、いっそうよろこんでこう答えたのであった。
元は、自分の部屋へ帰ってきて、ベッドのなかで眠りを待つあいだ、あの三人について考えた。何よりも令嬢について考えた。自分がこれまで会ったことのない女性がここにいる。彼女は自分が知っているどんな女性とも質を異にしている。これは愛蘭よりも輝かしい素質だ。愛蘭の明朗さと、子猫のような美しい目と、愛らしい笑いとを、みんな集めても、メアリのほうが、はるかに輝かしい。この白人の女性は、生まじめになることも多いが、何か強い内面的な知性を持っている。それは彼女の母親の女らしい、おっとりとしたやさしさにくらべると、やや硬《かた》すぎることもあるが、つねに澄明だ。彼女は、その肉体をさえ、うかつには動かさない。彼女には肉体だけの無意味な動作というものが一つもないのだ。ここの下宿の娘のように、腿《もも》や手首や足を人目につくようにたえず動かす盲目的な肉体の動きというものが、ぜんぜんないのだ。また彼女の言葉や声にも、盛の美しい詩句をしつこい熱情的な音楽に作曲したあの女のようなところはない。メアリの言葉には、意味ありげな思わせぶりのようなものはこもっていないからだ。彼女は流れるように、敏活に、鋭く、明晰に話す。一つ一つの言葉が、それぞれ重みと意味とを持っているが、それ以上の余計なものはない。言葉は彼女の心の有用な道具であって、あいまいな思わせぶりを伝える役目を負わされてはいないのである。
元が彼女のことを考えるとき、主として思い出すのは、色と形のある肉体に包まれてはいるが、けっして肉体によってかくされてはいない彼女の精神であった。彼は彼女の言ったことや、彼女が彼の思いおよばないことを言うその頭のよさについて、思いに沈んだ。一度、愛国心について話しているとき、彼女は言ったことがある。「理想主義と熱狂とは、べつのものですわ。熱狂は肉体的なものにすぎない場合があります――肉体の若さや力が精神を元気にするような。でも理想主義は、肉体がおとろえたり破壊されたりしても、いつまでも生きていますわ。だって理想を持つことは、霊魂の本質的な性質ですもの」そのとき彼女の顔は敏感な、聡明な表情の変化を見せて、いかにも愛情のこもった目で父親を見ながら、言ったものである。「わたしの父は、ほんとに理想を持っていると思います」
すると老人は、おだやかに答えた。「それを、わたしは信仰と呼んでいるのだよ、メアリ」
元はいま、この父親の言葉に彼女がなんとも答えなかったことを思い出した。
こうして彼は、この三人のことを考えながら、この異国へきて以来かつておぼえたことのない魂の満足を味わいながら眠りについた。彼にとって、この人たちが現実の存在であり、よく理解できる人たちのように思えたからである。
それで、老教授の言った宗教的儀式の行なわれる日がくると、元は、いつもよりもよい衣服をきちんと着けて、ふたたびあの家を訪れた。ドアが開いて、そこにメアリが立っていたので、彼は、ちょっと気おくれを感じた。明らかに彼女は彼を見て驚いていた。目に強い色をうかべ、すこしも微笑がなかった。そればかりか、彼女は裾《すそ》の長い青い外套を着て、同じ色の小さな帽子をかぶり、元の記憶している彼女よりも、背たけが高く見え、どこか威圧的なところさえあった。それで彼は、どもりながら、やっと言った。「あなたのおとうさまが、きょう、教会へ連れて行ってくださるとおっしゃいましたので……」
何か困ったような表情を目にうかべて、彼の目をさぐりながら、彼女は、にこりともせずに答えた。「ええ、知っていますわ。おはいりになりません? もうじき、したくができますから」
そこで元は、楽しい友情の思い出の残っている部屋へ、ふたたびはいった。しかしけさは、先夜ほど親しみが感じられなかった。暖炉にも、あの晩のように火が燃えていなかったし、秋の朝のきびしく冷たい日ざしが窓からさしこんで、床の敷物や椅子の蔽《おお》いなどの古びたさまを明らさまに見せているので、先夜の暖炉や灯火の明かりのなかでは、薄暗く親しみ深く思われた光景が、きびしい光線のために、あまりに古び、新鮮味がないように感じられたのだ。
しかし老教授と夫人とは、教会行きのきちんとした服装をととのえてはいってきて、先夜と同じように親切に迎えてくれた。老人は言った。「よくきてくれた。きみに強いるようになってはいけないと思って、あれきり教会の話はしなかったのだが」
しかし夫人は、いつものやさしい、あふれるような好意を見せて言った。「でも、わたしはお祈りしましたのよ。神さまのおみちびきで、あなたがおいでになるようにとお祈りしましたの。王さん、わたしは毎晩あなたのことをお祈りしていますわ。もし神さまがわたしのお祈りを聞きとどけてくだすったら、どんなにうれしいことでしょう。もし、わたしたちの気持ちが通じて――」
そのとき、この古びた部屋の朝の光線のように、突き刺すような鋭さで、令嬢の声がひびいた。快活な、好意のある声ではあるが、ひどく冴《さ》えた、澄みきった調子の、元が前に聞いたよりも、やや冷たい声であった。「さあ、まいりましょうか。ちょうど時間がいっぱいですわ」
彼女は、さきに立って外へ出ると、みんなで乗ってゆく自動車の運転席にすわった。老夫婦は、うしろの席にかけ、元は彼女の隣に座をしめた。彼女はハンドルを動かしながら、彼に一言も話しかけなかった。元も礼儀を守って、何も言わず、彼女のほうを見ることさえしなかった。ただ、ときどき外の珍しい景色を追って首をめぐらすついでに、ちらりと見るだけだった。それでも、直接に彼女を見ないでも、ながめている景色の手前にある彼女の横顔は見ていた。その顔には、いま微笑の影も明るさもなかった。悲しげに見えるほど厳粛で、まっすぐな鼻、輪郭の鋭い繊細なくちびる、襟《えり》についている黒い毛皮の上に見えるくっきりした形の顎《あご》、そして灰色の目は、まっすぐに前方の道路の遠くを見すえていた。こうして巧みに車を操りながら姿勢を正している彼女を見ると、元は、すこし彼女がこわくさえなった。あれほど遠慮気がねなしに話をしたことのある相手とは別人のような気がした。
こうして彼らは、おおぜいの男や女や子供がはいってゆく大きな建物の前まできた。彼らも同じくなかへはいり、席に着いた。元は教授と令嬢とのあいだにすわった。こういう寺院へはいるのは、これが二度目なので、好奇心から元は、あたりを見まわさずにはいられなかった。本国の寺院は彼もたびたび見たけれども、それは下層社会の無知なものか、あるいは女たちのためのもので、彼は生まれてから、まだどんな神をも礼拝したことがなかった。二、三度、好奇心から寺院へはいって、たくさんの偶像を見たり、大きな鐘が鳴り出すときの、沈んだ寂しげな音色に耳をすませた経験はあるが、彼はネズミ色の法衣をつけた僧侶たちを軽侮の目で見ていた。それは家庭教師から、子供心に、僧侶とは民衆を食いものにする無知な悪党だと教えこまれていたからであった。それゆえに元は、どんな神をも尊崇しなかったのである。
いま、この異国の寺院に彼はすわって、その光景を見守っていた。それは気持ちのよい場所であった。初秋の日ざしが細長い窓から大きな縞《しま》になって流れ入り、祭壇に飾られた花や、婦人たちの灰色の衣装や、若い人々はすくないが、さまざまの趣のちがう人々の顔を照らしていた。やがて、どこからともなく音楽が堂内に流れこんできた。はじめは、きわめて静かな調べだったが、しだいに音量を増し、高くなって、ついには空気がそのために震動するかと思われた。元は、どこからその音がくるのかと思って首を横へ向けると、隣にすわっている老教授の姿が目にはいった。頭をたれ、目をつぶって、その顔には恍惚とした甘美な微笑がうかんでいた。あたりを見まわすと、ほかの人々もみな呪縛《じゅばく》されたように寂《せき》として静まりかえっていた。元は、こうした場合、どうすれば礼儀にかなうのか、わからなかった。だが、メアリを見ると、彼女は運転席にいたときと同じく姿勢を正し、誇らかに顎を上向け、目は見開いて遠くを見すえていた。彼女のそういう姿を見たので、元も未知の神の前に頭を下げないことにした。
この国の偉大な力は宗教の力にもとづくのだと言った老博士の言葉を思い出して、いま元は、その力とはなんであるかを知ろうとして見守っていた。だがそれは彼には容易に発見できなかった。なぜなら、荘重な音楽が、ふたたびもとの柔和さにかえり、やがて、どこともしれぬかくれた場所へ消えてしまうと、長い衣を着た僧侶があらわれて、何かの言葉を読みあげ、それを人々は、つつしんで聞いていたが、傍観している元の目には、なかには自分の服装や他人の顔にばかり注意を向けているような人々の姿も映ったからだ。しかし老博士夫妻は熱心に耳を傾けていた。メアリだけは相変わらず何を聞いても顔色を動かさずに遠くのほうをみつめているので、果たして聞いているのかどうか、元にはわからなかった。音楽は、それから幾度も、聞こえてはまたやみ、元にはわからない言葉が朗誦された。それから例の長衣の僧侶が、前に読みあげた大きな書物について会衆に向かって説教をした。
元もそれに耳を傾け、その愉快そうな、高徳の人の説教を、元は、善良で無害だと思った。貧者にたいしてもっと親切であれ、克己自制の生活を送り、神に仕えよと、その人は会衆に向かって説いた。どこの僧侶でもしそうな話だと彼は思った。
説教がすむと、彼は一同に頭を下げさせて、神に祈祷をささげた。このときも元は、どうしようかと思ってあたりを見まわすと、今度も老夫妻は敬虔な態度で頭を下げていた。そして今度も隣席の若い女性は誇らかに頭をあげたままだったので、元も頭を下げなかった。彼は目を大きく開けて、僧侶が何かの偶像を持ち出すのではないかと見ていた。会衆が頭を下げて、礼拝の用意をしていたからである。しかし僧侶はなんの偶像も持ち出さず、神の姿は、どこにも見えなかった。そして、僧侶の言葉がしばらくして終わると、人々は神の出てくるのを待たずに動きだし、立ちあがって帰りかけたので、元も下宿へ帰ったが、そこで見たことも聞いたことも、何が何やらすこしもわからなかった。そして、そのなかで何よりもはっきりと思い出されるのは、とうとう一度も下げることをしなかった誇りの高い女性の頭の輪郭であった。
とはいえ、この日が機縁となって、つぎの新しい事件が元の身の上におこった。ある日、ちょうど冬の小麦の種子をまいて、どの種類のものが一ばんよくできるかを実験していた元が、農場から下宿へ帰ると、机の上に一通の手紙がおいてあった。元の孤独な外国生活にあっては非常にまれなことであった。三か月に一度のわりで、父親からの手紙が同じ机の上におかれるのがつねであった。どれも、ほとんど同じような文句で、王虎将軍は無事である、春までは休養して、また戦争に出る。元は自分の学びたいと思うことをよく勉強しなくてはいけない、おまえはひとり息子だから、学業を終えたら、すぐに帰国せよ、といったようなことが書いてあった。さもなければ愛蘭の母の夫人からの手紙で、彼女の日常のこまごましたことや、愛蘭を早く嫁《とつ》がせたいと思うこと、彼女はもう三度も自分の意志で婚約して、そのたびに勝手に自分のほうから破談にしてしまったことなどが書いてあった――愛蘭のわがままのくだりを読むと、元は思わず微笑を禁じえなかった。それから夫人は自分の心を慰めるためのように、こんなことをつけ加えた。「けれども美齢《メイリン》がわたしの頼りです。いまではあの子を引き取って教育していますが、たいへん学問がよくできますし、何をさせてもまちがいがなくて、すべてに申しぶんがありません。こんな娘こそわたしがほしいと思っていた娘だという気がします。ときには愛蘭以上にわたしの娘のような気がします」
元が期待できるのは、これらの手紙だけであった。愛蘭も一、二度は手紙をよこした。二つの国語をごたまぜに使って、例のわがままな茶化した調子で、帰国するときには、アメリカの宝石類をみやげに持ってこないと承知しないとか、ぜひアメリカ人の奥さんを連れてきてほしいとか書いてあった。また盛の手紙もくるにはくるが、ごくまれで当てにはならなかった。美しい容姿と巧みな弁舌とを持つ青年ではあり、しかも外国人だということが、気まぐれで新しいもの好きな都会人の目には、いっそう魅力を添えるらしく、盛の生活はさまざまの享楽に忙殺されているのだろうと、なかば悲しい気持ちで元は想像した。
だが、きょうの手紙は、それらのどれでもなかった。それはまっ白な四角い封筒で、彼の名がはっきりと黒インクで書かれて、テーブルの上にあった。開けてみると、それはメアリ・ウィルスンからであった。彼女の名は、下のほうに、明瞭な大きい文字で、しかも精気と俊敏さのあふれる書体で、したためてあって、月末に下宿の主婦が勘定書に書いてくる粗野な文字とは比較にならなかった。「用事があるから、都合のよいときにきてほしい、このあいだ教会へごいっしょに行った日以来、気になっていることがある。あなたに言おうと思っていながら、まだ話さずにいるのだが、それを打ち明けてお話ししたい」という意味のことが書いてあった。
それで元は、何事かといぶかりながら、地味な上等の服に着かえ、土によごれた顔を洗って、夕食をすませてから外へ出た。
出がけに下宿の主婦が声をかけて、今日御婦人の方からお手紙がきたからテーブルの上へおいておいたが、さっそく会いに行くのでしょう、と言った。居あわせたものが、みな大声で笑い、なかでも娘が一ばん大きな声で笑った。しかし元は何も言わなかった。ただその無作法な笑いが、彼らごときが足もとへも寄れないはずのメアリ・ウィルスンの名をはずかしめたことにたいして、腹が立った。彼らにたいする憤りで、元の胸は煮えかえった。彼は彼女の名だけは、絶対に自分の口からはだれにも言わないぞと心に誓った。ちょうど彼女を訪ねようとしている矢先に、あんな笑い声を聞き、あんないやらしい表情を見たことを、自分の心のなかだけの出来事であるにしても、残念でたまらなかった。
その記憶は消えなかった。ふたたび、あの家の入り口に立ち、ドアが開いて彼女がそこにあらわれたときも、その記憶は彼にひけめを感じさせた。彼は、かたくなって遠慮がちになり、彼女が好意のこもった手をさし出したのにも、気がつかなかったふりをして手を触れなかったほど、あの連中の下劣さにたいする反感で気むずかしくなっていた。そのとりすましたような冷淡さを彼女は感じとった。彼女の顔から明るみが消え、彼を迎えるためのにこやかな微笑も、どこかへ行ってしまって、どうぞおはいりくださいという声も、もの静かで、温かみがなかった。
だが、なかへはいると、部屋のなかは最初の晩のとおりで、温かく暖炉に燃える火の明るみは親しみがあふれていた。古びた深い椅子も彼を招き寄せるようで、がらんとした静けさが、彼を気持ちよく受け入れた。
しかし彼は、あまり彼女の身近に席をとりたくなかったので、彼女が腰をおろすのを見とどけるまで立っていた。彼女は彼のほうを見ないで、無造作に暖炉の前の低い腰掛けにかけてから、手まねで近くの大きな椅子を彼にすすめた。だが元は、そこへ腰を掛けるにはかけたが、椅子をいくらかうしろへ引くようにして、彼女の顔がはっきりと見える程度の近さではあっても、ひょっと自分が手を前へ出したり彼女のほうで出したりしたときに手が触れあわないように用心した。そうすることによって、あの下品な連中の笑いが、単に下等な笑いにすぎなかったことを、はっきりさせたいと思ったのである。
こうしてふたりはふたりきりで対座した。老夫婦は、どうしたのか、姿も見えず、声も聞こえなかった。だが、両親のことは何も言わずに、令嬢はすぐに、まるで言いにくいことではあるが話さずにすますわけにはいかぬことのように、いくらか唐突に、その話を切り出した。
「王さん、わたしが今夜きてくださるようにお願いしたので、変に思っていらっしゃるでしょうね。あなたとわたしとは、ほとんどなんのつながりもない間柄ですものね。でもわたしはお国のことについて、ずいぶんたくさんの本を読みまして――わたしが図書館で働いていることは、ご存じでしょう?――それでお国のことをいくらか知っていますし、たいへん尊敬してもいます。これからここでお願いすることは、ですから、あなたおひとりのためではなくて、中国人としてのあなたのためでもあるのです。わたしはひとりの近代的なアメリカ人として、近代的な中国人としてのあなたにお話しするのですわ」
ここで彼女は言葉を切って、すこしのあいだ、じっと元をみつめていたが、やがて暖炉の薪の山のなかから、一本の小枝を拾いあげ、ややものうげなようすで、燃えている薪の下の赤い石炭を、それでかきたてた。元は、どういう話であろうかといぶかりながら、まだいくらか彼女にたいして気づまりを感じて、つぎの言葉を待った。女性とふたりきりで話をすることに慣れていないからである。
「じつは、父や母が、あなたがキリスト教に興味をお持ちになるようにと骨を折っているので、わたしは、たいへん困っています。両親については、わたしがこれまでに知った人間のなかで一ばんいい人たちだということのほか、何も申しません。あなたは父をよくご存じですから、父がどういう人間かは、おわかりでしょう――だれにだって、それはわかりますわ。わたしは生まれてから今日まで、父が怒ったり不親切になったりしたのを見たことがありません。あれ以上にいい両親を、どこの娘が、どこの女が持ったでしょう? たった一つ困ることといえば、父は、あの善良さをわたしに伝えてくれなかったとしても、あの頭脳を伝えてくれたことですわ。わたしの時代になって、その頭脳をわたしが使った結果は、父の生涯を養ってきた原動力の宗教に反対するようなことになってしまったのです。じつは、わたし自身は宗教を信じていないのです。父のような、力強い、鋭敏な知性を持つ人が、どうして自分の宗教にその知性を使わないのか、わたしには、どうしてもわかりません。宗教は、父の感情的な要求を満足させています。しかし父の知的生活は宗教の外にあるのです。そして――その二つのあいだに連絡がないのです……母は、もちろん知的ではありません。単純ですから、母の立場は理解できます。もし父が母のような人間でしたら、わたしは、ふたりであなたをクリスチャンにしようとするのを、おもしろがって見ていたでしょう――成功する見込みがないことがわかっているからです」
彼女はいまその正直な目をまっすぐに元に向け、小枝をつまんでいる手を動かすのをやめていた。そして彼を見る彼女の視線は、さらに熱を帯びてきた。
「ところが――わたしの心配なのは――父なら、あなたを動かすかもしれないということです。あなたが父を尊敬していらっしゃることを、わたしは知っています。あなたは父の弟子です。わたしの考えでは、父は一種の空想をえがいていて、あなたが偉大なクリスチャンの指導者になってお国へお帰りになることを祈っているのです。父は、昔宣教師になりたいと思ったことがあるということを、あなたに話しませんでしたか? 父の時代には、善良で誠実な少年や少女は、だれでも海外伝道熱――そういう名まえで呼ばれていました――にうかされたものですわ。けれども父は母と婚約して、母がそれほどからだが丈夫でありませんでしたので、それでふたりとも、それからずっと、一種の挫折、とでも言いましょうか、ともかく失敗者だという気持ちを持っているらしいのです……ほんとに、世代のちがいというのは、ふしぎですわ! わたしたちは――両親もわたしも、あなたについては同じ気持ちでいますのに」――彼女の深い美しい目が、なんの恥じらいも媚態もなく、まっすぐに彼を見ていた――「それですのに、どうしてこうもちがうのでしょう! あなたがりっぱな方なので、父や母はなんとかして自分たちの信仰に引き入れたい、そうなったらどんなにすばらしいだろう、と思っているのです。わたしには、あなたがあなた以上のものになれる――それも宗教の力で――そんなふうに言えるのは、とても僭越《せんえつ》なことに思えますわ。あなたは、あなたの民族と、あなたの時代とに属していらっしゃるのですわ。あなたにとって無縁な外国のものを押しつけるなんてことは、だれにもできないことですわ!」
これらの言葉を、彼女は自然に流れ出る一種の強い熱情をこめて語った。いやしい意味ではなく、元は、その熱によって彼女のほうへ引きよせられた。それは彼女が彼を、単に彼自身として、ひとりの男としてでなく、彼の属する民族を代表するひとりとして見ているように思われたからであった。まるで彼を通して、何億の中国民族に向かって語っているように思えた。しかし彼と彼女とのあいだには、品位、理性、生まれつきふたりが持っている遠慮深さ――そうした障壁があった。そこで彼は感謝をこめて言った。「おっしゃることは、よくわかりました。ぼくはお約束します、おとうさまが、ぼくの受け入れることのできない信仰を持っておられることがわかりましても、そのためにけっしてぼくの先生にたいする賛美の念が弱められることはありません」
彼女の目は、ふたたび暖炉のほうへ注がれた。火は燃えつきて赤い炭と灰になったが、その光は、かえって赤く、彼女の顔や髪、彼女の手、彼女の暗紅色のドレスをうき立たせていた。彼女は考えこみながら言った。「だれが父を賛美しないでいられるでしょう? わたしとしては、父から教えこまれた子供のときの信仰をすてるのは、つらいことでしたわ。でも、わたしは父には正直でした――正直になれました――ですからふたりで何度も何度も話しあいました。母には何も話せませんでした――いつも母が泣きだしてしまうものですから、それで辛抱できなくなるのです。ところが父は、どんな点でも相手になってくれました――ですから話ができました――父はいつも、わたしの不信仰を尊重してくれました。わたしも父の信仰を――尊敬しましたし、前にもまして尊敬するようになりました。父とわたしとの考えは、ある点では、とてもよく似ているのです――そこまでくると知性ははたらかなくなり、論理でなくて信仰がはじまるのです。そこでふたりは離れます。父はそこで飛躍して、それを受け入れます――素直に信じて、信仰と希望の世界にはいれるのです――わたしには、それができませんでした。わたしの世代のものには、それができないのです」
急に勢いよく彼女は立って一本の薪をとり、燃えている石炭の上へ投げこんだ。火花が太いまっ黒な煙突へ噴きあがり、ふたたび炎があがりはじめたので、元は、ふたたび勢いのよい光のなかで輝いている彼女を見た。彼女は炉棚《ろだな》によりかかって彼を見おろして立ったまま、まじめに、けれども口もとに微笑をうかべながら言った。「わたしが申しあげたいと思ったのは、これだけです――これで全部ですわ。わたしが無信仰者だということをお忘れにならないでください。父や母があなたを動かそうとしても、世代がちがうということをお忘れにならないでください――父や母は、わたしとは――あなたやわたしの世代とは、ちがう世代の人たちなのですわ」
元は、心から感謝しながら立ちあがった。そして、なんと言おうかと考えながら彼女とならんで立ったとき、思いがけなく言葉が――あらかじめ考えて言おうとしたのではない言葉が――彼の口から流れ出た。
「ぼくは――」彼女を見ながら、のろのろした調子で彼は言った。「自分の国語で、あなたにお話ができたらと、それが残念です。お国の言葉は、どうしても完全に自然には話せないからです。あなたは、ぼくたちが同じ人種に属していないことを忘れさせてくださいました。とにかく、お国へきてからはじめて、心から心へ障壁なしに話しかけられた、という気持ちになりました」
彼が正直に、単純に、そう言うのを聞いて、彼女は子供のように真正面から彼の顔を見た。ふたりの目は、水平に相手の目を見ていた。彼女は静かに、しかし好意をこめて答えた。「わたしたち、きっとお友だちになれますわね――元」
彼は、なかばおずおずと、しかもどこか未知の新しい世界に一歩を踏み出すように答えた。どこへ踏み出すのか、そこに何があるのかはわからないが、どうしても踏み出さずにはいられないような気持ちで答えたのであった――「そうしてくだされば」――それから、まだ彼女からは目を離さずに、羞恥《しゅうち》のために非常に低い声で、彼はつけ加えた――「メアリ」
そのとき彼女は、ひらめくような、才気のあふれた、すこしおどけた微笑で、彼の言葉をこころよく受けたことを示しながら、まるで(今夜はもう十分におたがいの気持ちを話しあいました。ここまでにしておきましょう)と、はっきり口に出して言ったかのように、彼をおさえてしまった。それからふたりは、しばらく書物の話や軽い世間話をしているうちに、やがてポーチに足音が聞こえた。彼女はすぐに言った。「帰りましたわ――わたしの大事なふたりが。祈祷会へ行きましたの――水曜日の晩はいつも行くんです」
彼女は身軽に玄関へ行ってドアを開け、老いた両親を迎えた。老夫妻は肌寒い秋の夜風に赤くなった元気のよい顔ではいってきた。まもなくふたりとも炉辺にきて、これまで以上に元に心おきなく話しかけ、立ちかけた元を、もう一度椅子につかせた。そのあいだにメアリは、くだものと、夫妻が寝る前に好んで飲む熱いミルクを運んできた。元はミルクはきらいだったけれど、この一家との親しみを余計に感じたかったので、手にとって、すこしばかりすすった。するとメアリは、やっと気がついて笑いながら、「まあ、どうしてわたし、そのことを忘れていたのかしら?」と言い、改めてお茶をいれて彼にすすめた。一しきりそのことでおもしろく話がはずんだ。
だが、あとになって元が一ばん思い出したのは、つぎのような瞬間だった。話がちょっととぎれたとき、夫人が嘆息して言った。「メアリや、おまえも今夜は出席してくれるとよかったのにねえ。とてもよい集まりでしたよ。ジョーンズ博士のお話は、とてもおじょうずだと思いましたわ――ねえ、ヘンリー――どんな大きな試練でも切り抜けられるような信仰を持つことについてお話しになったのです」それから、やさしく元に向かって言った。「あなたは、ときどきずいぶんさびしいと思うことがおありでしょうね、王さん。ご両親と、こんなに遠く離れていらっしゃるのは、あなたもきっとお辛《つら》いでしょうし、ご両親も、さぞ息子さんを遠くへお出しになっているのがお辛いことだろうと、わたしは、いつもそう思うのですよ。もしあなたさえよければ、毎週水曜日には、うちで夕食をめしあがって、ごいっしょに教会へ行けたら、どんなにいいだろうと思うんですけどね」
元は、なんという親切な婦人だろうと思いながら、ただ、「ありがとうございます」とだけ答えたが、答えながら彼の目はメアリの上へ落ちた。メアリはまた腰掛けにかけていたので、いま彼女の目は彼よりも低いところにあり、そして非常に近くにあった。彼女の目のうちに、またその顔全体に、彼は一つの美しい、愛情のこもった、なかばうきうきした意味を読みとった――母親にたいする愛情とともに、元にたいして深い理解のこもったこの表情は、それゆえにふたりを一種の相互的な了解のなかで結びつけていた。そこで彼とメアリとは、まったくふたりきりで結びついていたのであった。
それ以来、元《ユワン》は、ある秘密の、人知れず豊かな気持ちを意識しながら暮らした。この国の国民が、もはや彼にとっては完全に無縁のものではなく、その生活が、まったく異質のものでもなくなって、近ごろでは自分が彼らを憎悪していたことも忘れがちになった。そして彼は、自分が前ほどに彼らからたえず侮辱を加えられていないと思うようにもなった。
いま彼には自分のはいってゆける二つの門があった。一つは外的な、形のある門で、彼がつねに自由に出入りでき、そして歓迎される老教授の家庭であった。古びた茶色の居間は、この異境での彼の|わが家《ホーム》になった。前には彼は自分の孤独をまことに快いものに思い、もっとも望ましいものだと思っていたが、いまでは彼の考えは、もっと先に進んで、孤独というものは、それが不快な望ましからぬ存在を追い払ってくれる場合にだけ人間にとって快いものなので、愛すべき存在を発見した場合には、もはやすこしも快いものではないことを知った。この老教授の家の居間で、彼は愛すべき多くの存在を発見したのである。
そこには何冊かの手ずれのした書物という存在もあった。見かけは小さくて黙然としているけれども、ときどき彼がこの部屋へひとりではいってきて、しばらくは家のなかにだれもいないようなとき、ひとりで腰をおろし、ふと一冊の書物を手にとると、それがじつに雄弁に彼に語りかけてくることに気がつく。書物は、この部屋では、ほかのどんな場所よりも近々と自分に語りかけるような気がした。それは、この部屋が、学問の持つ親しみと静けさとで彼をつつんでくれるからであった。
またここには、老師という愛すべき存在があった。教室でも、実習場でも、この部屋ほどこの人物の美点を元《ユワン》に教えてはくれなかった。老教授は、きわめて単純に、子供のような生活を送ってきた人であった。農家に生まれ、学生となり、ついで教師となり、そして、ながい歳月をへてきた。だから彼は、世のなかのことは、ほとんど知らず、この人は世のなかで暮らしてきた人ではないと言いたくなるほどであった。しかも彼は理性と精神という二つの世界に生きた人であった。元は、いろいろの質問をしてこの二つの世界をさぐったのであるが、老人がその知識と信仰とを語るのを黙々と聞いていると、狭隘《きょうあい》さなどというものは、すこしも感じられず、時間や空間にしばられていない一つの精神の広大無辺な素朴さを感じるばかりであった。この精神にとっては、人間と神とのいっさいのものが可能なのである。それは現実とお伽噺《とぎばなし》の世界とのあいだの境界を認めない賢明な子供の心が持つ広大無辺さであった。しかも、この素朴さは、驚くべき英知に満たされているので、元としては、それを敬愛せずにはいられなかった。そして、ただおのれの理解の狭さを反省し、なやまずにはいられなかった。こうしたなやましさから、ある日、ちょうど彼がひとりで居間にいるときにはいってきたメアリに向かって彼は言った。
「ぼくは、おとうさまのお話をうかがっていると、もう一息でクリスチャンになってしまいそうです!」
彼女は答えた。「だれだってそうですわ。でもあなたも、わたしと同じように、その――もう一息というものが障壁だということが、きっとおわかりになると思うわ。わたしたちの心は、おとうさまとはちがうのよ、元――あれほど質朴でなく、あれほど確信がなく、そしてもっと探究的なのよ」
はっきりと、冷静に、彼女がそう言うので、それで元も、このようにして彼女と結びつくことによって、おのれの意志に反してある瀬戸ぎわまで引きずられていたのが、もとへ引き返せたことを感じたのであるが、とはいえ、引きずられたのは、やはり自分の意志でもあった――なぜなら彼は老教授を愛していたからである。しかし彼女は、そのたびに彼を引きもどすのであった。
もしこの家が外の門であると言えるならば、彼女は、その内奥の核心へ通じている門であった。なぜなら彼女を通して彼は多くのことを学んだからである。彼のために、彼女は自分の国民の歴史を語った。ほとんど地球上のあらゆる国民、民族を網羅するアメリカ人が、どのようにしていま彼らの住んでいる国土へ集まってきたか、武力により、策略により、あらゆる手段の戦争により、どのようにしてこの土地を領していた人々から国土を奪いとり、おのれのものとしたかを、彼女は語った。元は子供のころに『三国志』の物語を熱心に聞いたように、その話に聞きほれた。それから彼女は、彼女の祖先たちが、いかに勇敢に、命がけで、大陸の東から西へ、開拓して行ったかを語った。ときには、あの居間の炉辺で、ときには晩秋の落葉を踏んで林のなかを散歩しながら、その話を聞いていると、元は、この女性が表面の温和さに似ず、その血のなかにじつに強固なものを秘めているのがわかるような気がした。彼女の目は、そのときどきで才気をひらめかせたり、大胆になったり、冷酷になったりすることができた。彼女の顎《あご》は一文字に結んだくちびるの下で強くひきしまっていた。そして彼女は、自分の民族の過去に、強い誇りを感じ、話しているうちに、はげしく燃えてくるのだった。元は、なかば彼女に畏怖《いふ》を感じた。
ところで、非常にふしぎなことは、こうしたとき、元はメアリのうちに、ほとんど男としか思えないような力を感じ、逆に自分自身には男らしくない、弱い、よりすがりたいような気持ちが起こることであった。ふたりが男と女とであることはたしかだが、それが混和して、はっきりと自分が男で彼女が女というふうではなくなっているような気がした。そして、ときには、彼女の目は彼にたいして、まるで強者が弱者にたいするような表情を見せるので、その表情が変わるまではからだがすくむような気がすることがあった。それゆえ、彼は、しばしば彼女を見て美しいと思い、彼女の肉体が活力に満ちて矢のように軽く感じられ、また彼女の積極的な精神には感動せずにいられなかったけれど、それでいて彼女を自分の肉体にたいする肉体として感じたり、手を触れ愛をささやくべき女性として感じることが、どうしてもできなかった。彼女のうちに、どことなく彼を畏怖させるものがあって、それが恋愛として成熟することをさまたげたのである。
彼は、むしろそれをよろこんでいた。なぜなら彼は、いまでも恋愛とか女性とかを考えたくなかったからである。この女性にひかれる多くのものがあるために、彼女から離れることは彼にはできなかったものの、一方では彼は彼女に手を触れたくないと思う自分の気持ちをうれしく思っていたのだ。いまでも、もしだれかにきかれたら、彼は言ったであろう。「人種のちがうものの結婚は、賢明でもなければ、当事者にとって幸福でもない。その双方の民族に、そうした結合をよろこばない外的な困難がある。だが、そればかりでなく、両者のあいだには内面的な争いもある。この相互の反発は、ちょうど血そのものの反発のように深いものだ――二つの異なった血のあいだの闘争には終局がないのだ」
とはいえ、自分は彼女にたいしては安全だという彼の確信がゆらぐこともないではなかった。というのは、ときどき彼女が彼にとって血の上でもまったく異質のものではないように思われることがあったからである。それは彼女が自分の同胞について彼に教える力があるばかりでなく、彼の国の人間についても、彼がこれまで気のつかなかったような見方で彼に教えることがあったからである。元は自分の同胞について知らないことがたくさんあった。彼は自国民のなかで暮らしてきたといっても、それは一部分にすぎなかった。彼の父の生活の一部、軍官学校と民族的な理想に燃えている青年たちの生活の一部、あの土の家の生活の一部、近代的な大都市の生活の一部といったように、それぞれ一部分にすぎず、これらの部分のあいだには、それを一つの世界に統一するものがなかった。もしだれかが彼の国とか彼の国民とかについてきけば、彼の話す知識は、みなばらばらで連絡がなく、話をしているあいだにさえ自分の言うことと反対の事実を思い出す始末で、けっきょく、いつかの背たけの高い宣教師が語ることを単に自尊心のために否定したものの、それ以外は何もしゃべらなかったのと同じことになってしまうのだった。
ところが、彼の国民が生をいとなんでいる国土を見たことさえないこの西洋の女性の目を通して、彼は自分が見たいと望んでいる祖国の姿を見たのである。いま彼のために彼女は、中国の国民について、読めるかぎりの書物を読んでいた――旅行者の著書や講演、アメリカ語に翻訳された小説や物語、それから詩、そのうえに彼女は絵や写真も見た。こうしたものから、彼女は元の国のありかたについて、一つの夢、一つの内的な知識を、彼女の心の内部につくりあげた。彼女にとって、それはもっとも非のうちどころのない美しい国、男も女も正義と平和のなかに生き、聖賢の教えにもとづいて健全な秩序をあたえられた社会に住んでいる国であった。
そして元は、その彼女の言葉に聞きほれて、同じくそういう国として中国を見ていた。
彼女は言うのであった。「ねえ元、わたしから見ると、あなたのお国では、わたしたち人間の問題を、一つ残らず解決してしまったように思えるわ。父と子、友と友、男と男の美しい関係――すべてが考えられていて、単純に、じょうずに表現されていますわ。そして暴力や戦争にたいして抱いている中国人の憎悪、あれを、わたしはほんとにえらいと思いますわ!」
すると、聞いている元は、自分の少年時代のことを忘れてしまって、ほんとうに自分も暴力と戦争を憎んでいたことだけを思い出し、そして自分が憎んだのだから国民もみな憎んだのだと思い、また村の百姓たちが、戦争はしないでほしいと彼に哀願したときのことを思い出して、だから彼女の言葉は真実であり、それだけが真実であるような気がしてくるのであった。
また、ときには彼女は自分の発見した写真を彼といっしょに見るためにとっておくこともあった。たとえば、どこかのけわしい山頂から空にそびえている高い仏塔とか、楊柳《やなぎ》が枝をたれている田舎の池で白い鵞鳥《がちょう》が木かげにうかんでいる図とか――それをみつめて彼女は息をひそめてやさしく言うのであった。
「まあ――美しいこと――なんて美しいんでしょう! こういう絵を見ていると、わたしは、自分が前に住んでいてよく知っている場所のような気がしてならないのよ。わたしには、こういう風景への、ふしぎなあこがれがあるらしいわ。あなたのお国は、世界じゅうで一ばん美しい国にちがいないと思うわ」
それから写真をみつめて元は、それを彼女の目を通じてながめ、彼自身もその地に遊んだ数日間に味わった美観を思い出して、彼女の言葉を単純に受け入れ、すこしの嘘《うそ》もなく答えるのであった。「ほんとうです、まったく美しい国です」
すると彼女は、なやましげに彼を見ながら言葉をつづけた。「あなたからごらんになると、さぞわたしたちはみんな粗野で洗練されない生活をしているように見えるでしょうね――わたしたちは、ほんとに新興国民で、田舎者なのですわ!」
すると元は急に、そうだ、そのこともほんとうだ、という気がしてきた。彼は自分の下宿や、口やかましい女主人が、いつも娘を叱《しか》りとばし、家のなかを口論で騒がしくしていることを思い出し、それからまたあの大都市の貧民窟を思い出すのだが、しかし彼は、ただやさしく言うだけだった。「すくなくとも、ここのお宅には、ぼくの国と同じような平和と礼節があります」
彼女がこうした気分になっているとき、元の気持ちは、ほとんど彼女を恋していた。彼は誇らしく考えるのであった。(おれの国のことを考え夢みるときには、彼女は、やさしい、おだやかな女になる。気の強いところが消えて、すっかり女らしくなる。それほどおれの国は彼女の上に大きな力をおよぼしているのだ)そして彼は、いつかは自分の意志に反して彼女を愛するようになるのではあるまいかと思った。ときには、ほんとにそうなると思い、それからこんなふうに考えることもあった――(彼女は、いまでももう、おれの国を自分の国のように考えているのだから、もしあちらへ行って暮らしたら、彼女は、いつもこんなふうに温和な女性らしい気持ちになって中国を賛美し、何かにつけておれを頼りにするようになるだろう)
そうしたときには、元は、もしそうなったらさぞ楽しいだろうと思った。中国の言葉を彼女に教えたら、どんなに楽しいだろう。楽しいといえば、彼女がつくる家庭、自分が心から愛するようになったこの家のような家庭、こんな居ごこちのよい家庭的な家に住んだら、それもどんなにか楽しいだろう。
だが、このように彼女にひきつけられるかと思えば、またすこしたつとメアリがすっかり別人のようになるのに気がついた。彼女の気の強さがひらめいて、他人を支配する自我が表面に出てくるのである。そうなると彼女は議論をし、攻撃し、批判し、鋭い一言か二言で、ずばりと思うことを言ってのける。父親の教授に向かってまで、そういう調子であった。元にたいしては、だれにたいしてよりも従順なのだが、そういうとき元は、また彼女が恐ろしくなり、とても自分にはおさえつけることのできない野性が彼女にあることを感じるのであった。こうして彼女は、いくたびか彼をひきよせたり遠ざけたりした。
こんなありさまで、留学の五年目と六年目とを通じて、元は、ずっとこの女性と離れずに過ごし、そしてつねに彼女は彼にとっては女性以上の存在として畏怖されるか、あるいは女性以下の存在として欲望の対象にならないか、どちらかであったが、しかもなお彼女が女性であることをまったく忘れきることもできなかった。しかし、けっきょくのところ、彼の深くはあるが狭すぎる性情のために、彼女は彼の唯一の友人だったことになるのである。
こうして、遅かれ早かれ、もっと彼女に近づくか、あるいはもっと彼女にたいして冷たくなるか、どちらかでなければならぬことが、元にとっては、より確実な運命であったのだが、けっきょく、彼は遠ざかることになった。そしてそれは、それ自身としては小さなことが原因であった。
もともと彼は、学生たちのばか騒ぎにはけっして仲間入りのできない人間であった。その最後の年に、兄弟ふたりでこの大学へはいってきた同国人の留学生があった。同国人とはいっても南方の生まれだから、多弁で、軽薄で、移り気で、よく軽々しく笑った。ふたりとも愛嬌のある青年で、つまらぬことをおもしろがって騒ぐので、学生仲間から好かれて、何かというとすぐ引っ張り出された。そして、どんな道化者にも負けないほど、学生たちの好きな騒々しい歌や変化の多いふしまわしの歌をうまくこなすので、会合の席などへ出ると、道化のように、ふざけたり踊ったりして、人々の拍手を受けるのをよろこんでいた。このふたりと元とのあいだには、白人とのあいだ以上の深い溝《みぞ》があった。南部と北部とでは言語がちがうので、彼らの使う言葉が元の生まれ故郷の言葉ではないということだけではなく、元は心ひそかに彼らのことを恥ずかしく思ってもいたのである。この国の白人たちならば、からだをあちこちにゆすって、ばかげた身振りをしてもかまわないが、自分の同国人が、外国人の前で、そんなことをするのはたまらない、と彼は思った。そして爆笑や喝采がおこるのを聞くと、元の顔が冷たくこわばるのは、そのにぎやかさの底に嘲弄《ちょうろう》がふくまれていることがわかるから――あるいは、わかったと信じるからであった。
ある晩、彼にとって、とくに堪えられぬようなことが起こった。その夜、大学内のホールで演芸会の催しがあったので、元はメアリ・ウィルスンを招待して出かけて行った。近ごろでは彼女は彼と連れだって公の席へよく行くようになっていた。ふたりがならんで見物していると、例のふたりの広東人が出演する番になった。ふたりは百姓の老夫婦になって舞台へ出た。農夫は長い弁髪を背中にたらし、妻のほうは下等な娼婦のように下品でやかましかった。このふたりが道化芝居を演じて、布と羽毛とでつくった鶏のことでけんかして、ののしりあいながら、すこしずつその鶏を引き裂いてしまうまねをするのだが、彼らは見物にわかる言葉でしゃべりながら、しかも、どことなく中国語でしゃべっているような感じも出していた。元は、それをじっとすわって見ていなければならなかった。実際、この茶番劇は、すこぶる滑稽で、ふたりとも、じつに頓知《とんち》があってあかぬけがしているので、みな笑わずにいられなかった。元でさえも、心のうちでは不快を感じながら、ときどきは微笑していた。メアリはおもしろがって、さかんに笑っていたが、やがてふたりの演技者が引っ込むと、笑顔を元のほうへ向けて言った。「あれはお国のありのままを見せたのでしょうね、元。おもしろいものが見られて、とてもうれしいわ」
だが、この言葉は彼から笑いを追い払った。ひどく無愛想に彼は言った。「あれは、ぼくの国とはまるでちがいます。いまごろ弁髪なんぞつけている百姓はひとりもない。あれはニューヨークの舞台に出るお国の喜劇役者のやる茶番と同じことですよ」
どうやら彼が非常に感情を害したらしいと知ると、彼女は、急いで言った。「ええ、それはわかりますわ。あれはただのナンセンスですわ。でもやっぱり感じは出ていたでしょう?」
しかし元は答えなかった。彼は、その晩、会が終わるまで気むずかしい顔をしていて、彼女の家の玄関で頭をさげただけで、彼女になかへはいるようにすすめられてもはいろうとしなかった。近ごろは彼はいつもよろこんでなかへ通り、温かな居間で彼女とともにすこしの時を過ごすのをあたりまえのこととしていたので、彼がことわると、彼女は不審そうに彼の顔を見た。何が気に入らないのかわからないが、何か気に入らないことがあるのだと思った。急に彼女は彼にたいして、すこしいらだたしさを感じ、彼がやっぱり外国人で、気持ちがちがうので、扱いにくいのだと思った。それで彼女は、「では、また今度」とだけ言って、そのまま別れた。
歩きだした彼は、彼女が引きとめなかったために、いっそう感情を傷つけられ、暗い気持ちでつぶやいた。(彼女は、われわれの民族が、あんな愚かなものだと思ったのだ。あの道化芝居が、おれをつまらぬものに思わせたのだ)
下宿へ帰る道々、彼女の冷淡さを思いあわせると、ますます腹が立ってたまらないので、例のふたりの道化学生が下宿している家へ行って、戸をたたき、なかへはいって行った。兄弟は寝じたくをして、着物をぬぎかけたまま、ひどく驚いた顔をして立っていた。テーブルの上には弁髪のかつらや付けひげや、そのほか今夜の扮装に使った道具がおいてあった。それを見ると元は、ますます自分の言おうとすることに熱意を加えずにはいられなかった。ひどく冷たい調子で彼は言った。「きみたちが今夜したことはまちがっているとぼくは思う。それだけ言うためにきたのです。もともとわれわれを嘲笑したがっている国民に向かって、自分たちの姿を笑いものにするということは、ほんとうに国を愛する所以《ゆえん》ではないと思います」
兄弟は、そう言われると、すっかりうろたえて、はじめは、たがいに顔を見あわせたり、元の顔をみつめたりするばかりだったが、やがてひとりが大声で笑いだし、ついで他のひとりも笑いだした。そして兄のほうが英語で言った――彼らと元とは、中国語では話が通じないのである――「国の威厳を保つことは、あなたにおまかせしますよ! あなたの威厳は、百万人の威厳に匹敵しますからね!」そう言って、またふたりはどっと笑った。元は彼らの厚いくちびる、小さな軽薄な目、ずんぐりしたからだつきなどに、がまんができないほど不快になった。ふたりが笑っているあいだ、じっと見ていて、それから一言も言わずに外へ出て、うしろでドアを閉めた。(彼ら南方人は、われわれ真の中国人とはなんの関係もないのだ――いやらしいやつらだ)
その夜、ベッドに横たわって、月かげのさす白い壁に模様のように影をうつしている裸木の枝を見やりながら、彼は自分が南方人とは没交渉でいたこと、以前に南方の軍官学校に長くいなかったことを幸福だと思った。そして、この外国にいても、外国人は自分と同人種、同国民だと思っているが、しかし彼らと自分とは遠く離れていることを感じた。おれはひとりで、誇りを抱いて立っている。真の中国人がどんなものか彼らに示すことのできるのは自分だけだ、と彼は思った。
このように、元は自分を力づけるために、おのれの誇りを、つぎつぎと数え立てた。今夜の彼は、ひどく弱々しい気持ちになっていた。それはメアリの自分にたいする評価が、何よりも自分にとって尊いことを知っているので、自分の国民をすこしでも愚劣な面から見られることに堪えられなかったからである。彼女が自分をまでそんなふうに見ているような気がして、それが彼には忍びがたい屈辱だったのだ。それゆえ彼は誇りとさびしさとを、こもごも味わいながら、眠らずに横になっていた。同国人であるあのふたりさえも、自分とはまったく無縁なことを感じるので、いっそうさびしかった。彼女が家のなかへはいるようにすすめてくれなかったことも、さびしかった。せつない気持ちで彼は思った。(彼女のおれを見るようすがちがってしまった。まるでおれがあのふたりのばかもののひとりででもあるかのようにおれを見たとさえ言えるではないか)
それから彼は、もう気にするのはよそうと決心した。そして彼女についての記憶のうち、あまり愉快でない一面ばかり思い出してみた――ときどき彼女が、はげしい態度を示すこと、声が鋼鉄の刃のように鋭くなること、ときどき女性として男の前であるまじき積極的な言動をすること、等々――そして彼は自動車を操縦しているときの彼女を思い出した。まるで家畜でも走らせるように、すごいスピードを出し、その顔は、まるで石のように筋一つ動かさないのだ。こうした記憶は、みな彼の好まない彼女の一面であった。最後に気位の高い彼は心のなかでこう言ってしめくくりをつけた――(おれにはなすべき仕事があり、おれはそれをりっぱにやるつもりだ。なすべきことをなし終えた卒業の日に、読みあげられる成績表のなかで、おれの名まえよりも上にひとりの名まえもあってはならない。そうおれは誓う。そうしてこそ民族の名誉を輝かせることになるのだ)
そうして、やっと彼は眠った。
だが、さびしさに苦しみながらも彼は、もとの孤独にたてこもることはできなかった。メアリがそうさせておかなかったからである。三日後に彼女から手紙がきた。彼は、その四角い封筒をテーブルの上に見ると胸が強くおどるのを感じずにはいられなかった。しかし、開けてみて彼は、いくらかがっかりした。手紙の文面は、ごくありきたりのもので、これまで毎日会っていた人と三日も会わずにいたときに書くようなものとは思えなかったからである。書いてあるのは、たった四行だけで、何かの花が咲きだしたので母があなたに見てもらいたがっているから、明朝きていただけないでしょうか。あすの朝は、すっかり咲きそろうはずです……ただそれだけだった。
このときの元は、これまでにないほどメアリを恋するに近い気持ちになっていた。しかし一方では彼女の冷淡さが|かん《ヽヽ》にさわって、昔ながらの子供っぽい強情が頭をもたげた。(ふん、母に会いにこいというなら、おれだって夫人に会うだけにしよう!)
子供っぽい意地を張って、明朝、行くことは行くけれども、夫人だけを相手にして、メアリとは口をきくまい、と思った。
そして実際にそのとおり彼は行動した。夫人と連れだって花のところへ行き、その純白な美しさを鑑賞しているところへ、手套《しゅとう》をはめながらメアリが出てきた。彼は無言でちょっと頭だけさげたが、彼女は、それくらいの冷淡さは気にもとめなかった。母に向かって、何か平凡な家事上のことを言っただけで、すぐにそこを去って行ったが、元をじっとみつめたときの彼女の表情は、じつになごやかで、友情があふれていて、それ以外にはなんのわだかまりも感じられなかった。元は、その瞬間に不快な感情をすっかり忘れ、その後は、彼女は行ってしまったけれども、急に花が美しく見えてきた。そして彼は老夫人にたいして新鮮な興味を感じはじめた。そのときまで彼は、夫人が、あまりに多弁にすぎ、だれにたいしても同じように、ほめたり親切を示したりする言葉を、あまりに早く口から出しすぎると思っていたのである。しかしいま庭に出ていっしょにいると、夫人は、すこしも自分をいつわっているのではないとわかった。単純な女性で、非常に思いやりがあって、いつも若いものに優しい愛情を感じているので、土のなかから一生けんめいに芽を出してくる植物にも、小さな子供にたいするようなやさしさでいたわることができるのだ。だから、ばらの若い芽が、まちがって折られたり、何かのはずみで人が草を踏みつけたりすると、いまにも泣きだしそうになるのだ――そう元は考えた。夫人は土のなかに手を入れて、草の根や種子をまさぐることが好きだった。
今日の元は、そうした夫人と同じ気持ちになることができた。それで間もなく彼は、この朝露に濡《ぬ》れた庭園で、夫人に手伝って草をとったり、芽ばえを枯らさないようによそへ移して小さな根が安心して新しい土にひろがるようにする方法を夫人に教えたりした。自分の国から二、三種の種子をとり寄せる約束までして、あちらのキャベツは種類によっては非常に風味がよいから、きっと気に入っていただけるでしょう、などと話した。こうした些細《ささい》なことから、彼は、ふたたびこの家の家族のひとりになったような気がして、この心の温かな母親らしい老夫人を、おしゃべりだとかなんだとか思ったのが、われながらふしぎなくらいだった。
しかし、そのような今日でも、彼は夫人のつくっている花や野菜の話のほかに、あまり話すことがなかった。彼女は元の国の母親たちと同様に単純な心の持ち主で、料理のことや知人のうわさ、庭を美しくしたり食卓に出す生け花の心配をしたり、そうしたことしか考えられない、やさしい狭い心の持ち主なのだ。彼女の愛は神への愛、夫と娘への愛であり、この愛のなかで彼女はもっとも忠実に、また単純に生きてきたのである。
元がときどき困惑させられるのは、この単純さのためであった。なぜなら彼は、この夫人が、どんな書物でも手にとって読み、それを理解することができるにもかかわらず、彼の本国の無知な村人とすこしもかわらぬ奇怪な信仰を持っていることに気がついたからである。彼女と話をしてみて、彼はそれを知ったのである。春の祝祭日の話が出たとき、彼女は言った。「わたしたちは、それを復活祭と呼んでいますのよ、元。この日に、わたしたちの愛する主イエスさまが、死からよみがえって天にのぼられたのです」
だが元は笑う気持ちにはならなかった。どこの国の民衆のあいだにも、この種の伝説はあるし、彼も子供のころにその種の物語を読んだ記憶があるが、まさかこの夫人がそれを信じていようとは思いもよらないことだった。しかし彼女のやさしい声には敬虔《けいけん》の情があふれていたし、白髪の下に子供のように青く澄んだ彼女の善良で正直な目を見れば、夫人が信じていることは疑えなかった。
こうして庭園での数時間は、メアリのなごやかな凝視によって動きだした元の好感情に最後の仕上げをあたえた。メアリがもどってきたとき、元は不快の感情はすっかり忘れていて、それについては何も言わず、三日のあいだ離れていたことなどはまるでなかったように彼女を迎えた。ふたりきりになると彼女は微笑しながら言った。「あなたは二時間も母のお庭にいらしったのね。一度母につかまると、なかなか離してくれないからたいへんでしょう!」
彼女の微笑に気持ちが楽になって、元も微笑を返しながら言った。「死んだものがよみがえったというお話をしていらしったんですが、おかあさまは本気でそう信じていらっしゃるんでしょうか? そういう伝説はどこにでもありますが、婦人でも教養のある人は信じないことが多いのではないでしょうか」
彼女は答えた。「でも、母は信じているのよ。一方、そういう信仰は、あなたには虚偽にきまっていますから、わたしは、あなたがそれにわずらわされないようにたたかうつもりですし、同時に母にとっては、その信仰は真実でもあり必要でもあるので、母にそれをうしなわせないようにたたかうつもりにもなっていますの。この気持ちを、あなたにもわかっていただきたいわ。母は、その信仰によって今日まで生きてきましたし、また、それによって死ななくてはならないのですから、もしそれがなかったら、母は絶望してしまいますわ。でも、わたしたち――あなたやわたしは、やっぱり自分たちの信念を持たなくてはなりませんわ。それによって生きもし死にもするような信念を!」
老夫人のほうでは、その朝は、すっかり元が好きになってしまったので、それからは元が中国人であることを忘れていることが多くなり、彼が故国のことを言い出すと、恨めしそうな顔をして、言うのだった。「元、わたしはこのごろ、あなたがアメリカの青年でないことを、たいてい忘れているんですよ。あなたが、あまりこちらの生活にしっくり合っているから」
するとメアリが、すぐにそれに答える。「元はけっして完全にアメリカ人になりきってはしまいませんよ、おかあさま」そして一度は低い声でつけ加えた。「それがわたしにはうれしいの。いまのままの元を、わたしは好きなのよ」
元はこのことをおぼえていた。メアリが内心の強い熱意に動かされて、そのことを言ったのにたいして、このときばかりは母夫人も、何も言わずに、心配そうな目つきで娘のほうを見た。そのときばかりは夫人も彼にたいして心から温かい気持ちを見せなかったように思われた。だが、その後二、三度、また夫人の庭つくりの手伝いをしているうちに、そんなこともなんでもなくなった。その年の早春のころ、ばらの木に害虫がついたので、元は熱心に夫人に手伝って手入れをした。こうして彼にたいする夫人の小さな冷たさなど、いつしか忘れてしまったのである。しかし害虫を駆除するような小さなことにさえも、元は一種のとまどいを感じた。彼は、その残酷な虫が生きているかぎり蕾《つぼみ》や葉の美しさをそこなうことにたいして、はげしい憎しみを感じて、一匹残らずつぶしてしまいたいと思うのであった。それでいて彼の指は木から虫をつまみ出す仕事をいやがって、あとあとまで肉体的な嫌悪が消えず、いくら手を洗っても気持ちが悪かった。ところが老夫人には、そんな気持ちはなかった。彼女は、一匹つまみ出すごとに、うれしそうに、害虫だということでよろこんでそれを殺すのである。
こうして元は夫人と親しくなったが、同じく老教授とも、彼としては、せいいっぱいのところまで親しくなった。だがじつは、この老人には、だれにしても、あまり近くまでは近づけなかった。それほど彼は深遠さと質朴《しつぼく》さと信仰と知性との、ふしぎな複合体だったのである。元は、しばしば彼の著書や、そのなかの思想について話をすることを許され、また実際に話をしたが、科学的な法則についての学問上の話のなかでさえ、教授の思念は、元にはとてもついてゆけないような幽遠な世界へとさまよってゆくことがあった。そんなとき老人は瞑想をそのまま声に出して語るのであった。
「おそらく、こういう科学的法則は、閉ざされた園の門を開く鍵にすぎないのだろうと思う。われわれは、その鍵を思いきって投げすてて、想像力によって大胆にその園のなかへ進んでゆかなくてはならない――この想像力を信仰の力と呼んでもいい――そしてその園とは神の園だ――無限にして不変なる神、そこにこそ知恵と、正義と、善と、真理と――われわれ人間の貧しい法則がめざしている理想が住んでいる神の園なのだ」
こうした瞑想を、いくら熱心に聞いていても、一つも理解することができず、元は、ある日とうとう言った。「先生、ぼくをその門のところへおいて行ってください。ぼくはその鍵を投げすてることができません」
老人は、これを聞いて、ちょっと悲しそうに微笑して答えた。「きみはメアリそっくりだ。きみたち若いものは――きみたちは巣立ったばかりの鳥のようだ――自分の翼をためすのが恐ろしいのだ。既知の小さい世界から飛び立つのがこわいのだ。理性だけにすがりつくのをやめて、夢と想像力とを信じるようになるまでは、きみたちのなかから偉大な科学者は出ないだろう。偉大な詩人も出なければ――偉大な科学者も出ないだろう――偉大な詩人も偉大な科学着も同じ時代に生み出されるものだ」
だが元がこれらの言葉のなかで一ばんよくおぼえていたのは、つぎの一句だった。「きみはメアリそっくりだ」
彼はたしかにメアリとよく似ていた。一万マイルも離れたところに生まれ、断じてまじりあったことのない二つの血統に属している彼らふたりのあいだに、似たところがあったのだ。しかも、その相似は二重であった。一つは、どの時代の青年にも共通する反逆性という点の相似であり、もう一つは、時代や血に関係なく、一対の青年と処女とのあいだの相似であった。
盛りの春が近づいて、木々はまた緑をよそおい、教授の家の近くの林では冬の枯れ葉の下から小さな花が咲きはじめた。すると、元も自分のうちに若い血の新しい躍動を感じた。たしかにこの家庭にだけは、彼の肉体をちぢこませるものは何もなかった。ここでは彼は異邦人であることを忘れた。この家の三人の家族を見ても、彼らと自分とのちがいを忘れ、老夫婦の青い目も不自然でなく、メアリの目は、その表情が変化に富むがゆえに美しく、いまではすこしも異様には感じなかった。
彼女は元にとってますます美しく見えてきた。いまでは、ある穏和さが、いつも彼女を去らなかった。鋭さが消えて、声さえも以前の剃刀《かみそり》のようなひやりとするところがなくなった。頬も赤味を加えた。口もとにも、やわらかみが加わり、あまりかたくは結ばず、動作にも前にはなかった優美なしなやかさが出てきた。
ときどき元がたずねて行っても、彼女は忙しそうに、出たりはいったりして、あまりゆっくり会えないことが多かった。しかし、春がたけなわになると、彼女の態度は変わってきた。べつにこれという考えもなく、ふたりは毎朝、庭で会うようになった。庭で待っている元のところへ、春の朝のように清新な姿で、彼女が近づいてくる。黒っぽい髪が、なめらかに耳をおおっていた。元は彼女が藍《あい》色の衣服を着たときが一ばん美しいと思っていたので、ある日、ほほえみながら彼女に言った。
「ぼくの国の農村では藍色の服を着ます。藍色はあなたに似合いますね」すると彼女は、にっこり笑って答えた。「うれしいわ」
ある日のことを、元はおぼえている。その日は朝食に招かれたので、早目にきて、庭で彼女を待っているあいだに、小さなパンジーの芽を出している花壇にかがみこんで、たんねんに雑草を引き抜いていた。そこへ彼女がきて、そばで彼のすることを見守っていた。その顔は、珍しく上気したように明るかった。彼が見上げると、彼女が手を出して彼の髪にひっかかっている木の葉か草の葉かをとろうとするところだったので、その手が、ふと彼の頬に触れた。わざとさわったのでないことを彼は知っていた。彼女は、こうした接触をきらって、いつも気をつけているので、道の悪いときなどでさえ男から手を貸されるのをいやがっているように見えた。彼女は、どんな小さな理由ででも男に触れようとして手を出したがる世間の娘たちとはちがっていた。事実、彼が彼女の手に触れたのは、何げないあいさつの握手のほかには、これがはじめてだった。
しかし、このときは彼女は言い訳を言わなかった。包みかくしのない彼女の目と、急に頬にさしたほのかな血の色とで、彼女が、その接触を意識し、彼もまた意識していると知っていることは明らかだった。ふたりは、すばやく顔を見あわせて、すぐにまた目をそらせた。それから彼女は何事もなかったように、「食事にまいりましょう」と言った。
同じく彼も何もなかったように答えた。「手を洗ってから行きます」
そうして、その瞬間は過ぎた。
あとになって彼は、そのことをちょいちょい思い出し、そのたびに彼の心は、ずっと昔、もうこの世にいない革命党の若い女に手を触れられたときの古い思い出のほうへ飛ぶのだった。ふしぎなほど、あのときの熱烈な接触にくらべると、この新しい軽い接触は印象が薄いように思われ、古い記憶のほうが、はるかに生々しく燃えていた。彼は、つぶやいた。(きっと彼女は知らずにさわったのだ。おれはばかだ)そして彼は、みんな忘れよう、こんな考えにわずらわされないように、もっと厳格に心をひきしめよう、と決心した。事実、彼はそういう気持ちのわくのを歓迎したくなかったのである。
こうして、この最後の年の春の幾月かを、元は奇妙な二重の気持ちを抱いて過ごした。心のうちに、彼は自分だけの場所を残し、そこだけはメアリに犯されまいとした。新しい季節のなまめかしさ、若葉のもえだした木の下道をふたりでそぞろ歩きして、ときには郊外へ出る人通りのない小道へはいったりすることもあった。月のおぼろな夜の甘美さ、また春の雨がしとしとと絶え間なく窓ガラスをたたく律動的な音を耳にしながら、ふたりきりですわっている居間の静寂さ――そうしたふたりきりのときでさえ、その世界にだけは踏みこむことを許さなかった。ときどき、どうしてこんなに彼女にたいして心をときめかせるのかと思うほど動揺しながら、しかもそれに負けたくない自分を、元は、われながらふしぎに思うのだった。
たしかに、この白人の女性は彼の心をときめかせながら、しかも彼をよせつけないところがあった。だから彼は、彼女を愛しながら、しかも愛しえなかったのである。彼は美を愛しており、けっして美にたいして無関心ではいられないから、彼女の美しさを認め、彼女の額や首筋が暗色の髪と対照して抜けるように白いのを美しいと思うのであった。それでいて、こういう白さは、彼の愛しうる白さではなかった。彼女の濃い眉《まゆ》の下に澄んだ灰色の目の輝きを見て、その目を輝かせ、きらめかせる精神を賛美することはできるのだが、やはり彼は灰色の目を愛しえなかった。また彼女の手も、絶えず敏活に動き、表情がゆたかで、美しいし、また圭角《けいかく》があって力強いと思うが、しかし彼は、とにかくこういう手を愛しえなかった。
しかもなお、彼は彼女の持つ何かの力に幾度となくひきつけられ、幾度となく、あの多忙な春のあいだ、畑での実習の最中にも、下宿でも、図書館でも、ふと仕事をやめて彼女の姿を心にうかべた。彼は、そうしたとき、自問するのであった。(この国を去るとき、おれは彼女と別れてなやむだろうか? おれはあの女性を通じて、この国と結ばれているのだろうか?)
この国にとどまって、もっと研究をつづけようかという考えをもてあそぶこともあるが、すぐにまた、はっきりと自分を問いつめるのであった。(留学をのばすほんとうの理由はなんだ。じつはあの人のためだとすれば、白人の女性とは結婚したくないことがわかっているのだから、要するに無用ではないか)だが、そのさきを考えると彼は苦しくなった。(いや、やっぱり帰国しよう)それから、さらにそのさきを考え、おそらく自分は帰国してしまったら二度と彼女に会わないだろう――もう一度この国へ来られるみこみはないのだ、と思うと、やっぱり帰国をのばさなくてはならないような気がしてくるのであった。
そんなわけで、こうした自問自答をくりかえしているうちに自然と帰国をのばすことになりそうであったが、海のかなたから聞こえてくるニュースが、彼に帰国をうながす祖国の声のようにひびいてきた。
元は、この留学中の六年間に、ほとんど本国の情勢を知らずに過ごした。彼は小さな内戦がいくつかあったことは知っているが、それはいつものことだからなんの注意も払わなかった。
この六年間に、王虎《ワンホウ》は彼がたずさわった二、三の小戦争について、元に手紙で知らせてきた。一つは新しく台頭してきた匪賊の頭目との戦いであり、他の一つは、あの督軍が王虎の勢力範囲を勝手に犯して軍隊を通過させたのにたいして起こした戦争だった。しかし、こうしたニュースは、すぐに元の念頭から消え去った。それは一つには彼がもともと戦争ぎらいだったからであり、また一つには、この平和な外国に暮らしていると、そうした話に、すこしも現実味がないような気がしたからであった。だから、たまに仲間の学生が、のんきな調子で、「おい、中国の今度の新しい戦争は、いったいどうしたというのだい? 新聞で読んだが、なんでもチャンとかタンとかワンとか――」などと話しかけると、王は恥ずかしくなって、あっさり返事をした。「なんでもないさ――どこにでもある強盗事件みたいなものだよ」
また季節の変わり目ごとに忘れずに手紙をくれる母夫人が知らせてくることもあった。「革命はどんどん大きくなっているようですが、わたしにはよくわかりません。孟《メン》が姿をかくしてから、一門のうちに革命派がいなくなりました。なんでも、とうとう南のほうから新しい革命がはじまったという話です。けれども孟は帰ってくることはできません。手紙をよこしたのでわかりましたが、孟は革命軍のなかにいるようです。けれども帰る気があっても、とてもあぶなくて帰れません。こちらの官憲は革命を恐れているので、まだきびしく孟のような人たちを捕えようとしているからです」
しかも元も祖国のことをまったく考えの外においていたわけではなく、革命について知れるかぎりのことは知るように気をつけて、なんかの変化を知らせる記事は、どんなに小さなものでも熱心に見のがさないようにしていた。たとえば新聞には、「古い太陰暦が廃止されて、欧米風の新暦を採用することになった」とか、「女子の纏足《てんそく》の禁止」とか、「新法律では一夫多妻は許されない」とか、その他こういう記事が、そのころはたくさん出ていた。これらの変化を元はよろこび、かつ信じた。それらの変化を通じて、いまや国全体が大きく変わりつつあるのを彼は知ることができた。そう考えて、彼は盛《シェン》への手紙にも書いた。「この夏、ぼくらが帰国するころには、まるで自分の国がわからなくなっているだろう。わずか六年間で、こんな大きな変化がもたらされたとは、まったく不可能なことのような気がする」
これにたいして、盛は、よほど日数が過ぎてから返事をよこした。「きみはこの夏に帰るのか? ぼくはまだその気にならない。父が学資さえ送ってくれれば、もう一、二年はここで暮らしたいと思う」
この文面を見て、元は、盛の小詩にあのようななやましい憂鬱な曲をつけた女のことを思い出させられて、ひどく不愉快になり、もうあの女のことは考えたくないと思った。しかし盛には急いで帰国してもらいたかった。なるほど盛は大学を卒業する年限以上に滞在しており、しかもまだ学位をとっていないので、困っているのではあろうが、祖国に起こっている新しい事実について盛が一言も触れていないのが、元は不満であった。だが、すぐにまた考えてみると、この富裕で平和な国にいて、革命とか、主義のための戦争とかについて考えるのは、まったく容易なことではなかった。元自身も平和な日には、そういうことを忘れていることが多いのだ、と盛を許す気になった。
とはいえ、彼もあとで知ったことであるが、革命は当時最高潮に達していたのである。まさに革命の最初からの伝統にしたがって、南方に起こった灰色の革命軍は、元が書物に読みふけっていたあいだに、愛しながら愛することのできない白人の女性について自問自答をくりかえしているあいだに、孟をもその一員に加えて、大いなる長江をめざして、その国の心臓部を北上していたのである。長江のほとりで凄惨《せいさん》な戦闘があったが、一万マイル離れている元は何も知らずに平和に暮らしていたのであった。
事実、このような大きな平和のなかに、彼はこうして永久に暮らすことになったかもしれないのである。というのは、突如として、ある日、彼とメアリとの交情が深まったからである。あまりにも長く、ふたりは、友人というよりはやや深く、恋人というにはすこし足りない状態に足踏みしていたので、元は、毎晩ふたりで散歩をし、老夫妻が眠ったあとで話をするのを、あたりまえのこととして受けとるようになっていた。両親の前では、ふたりはなんのけぶりも見せなかった。だからメアリは、もし人からきかれたら、正直に答えたであろう。「でもなんにもお話しするようなことはありませんのよ。わたしたちのあいだに、友だちづきあいのほかに何があるというのでしょう?」そして事実、ふたりのあいだでは、他人に聞かれて怪しまれるような言葉は、一度もかわされたことがなかったのである。
けれども、夜ごとにふたりは、すこしのあいだでもふたりきりでいっしょに過ごさないと、たといその日の出来事を軽く話すだけにしても、一日がすまないような気持ちになっていた。
その春の一夜、こうしてふたりは庭園のバラの植えこみのあいだを曲がりくねっている小径《こみち》を歩いていた。その小径の行きどまりに、ひとむらの木立があった。昔円形に植えられた六本の楡《にれ》の木で、いまでは大きな老樹になって濃いかげをつくっていた。この木かげに老教授は一つの木のベンチをおき、折りにふれてここへきて瞑想にふけっていた。その夜は月の明るい晴れた夜であったので、庭は六本の楡の下だけを残して隅々《すみずみ》まで明るく、この木かげだけがまっ暗であった。一度、ふたりはその円形のかげのなかで足をとめ、そのときメアリはなんの気もなく言った。
「まあ、ここはずいぶん暗いわね。このなかへはいって行ったらなんにも見えなくなってしまうわ」
無言で立っていた元は、月光があまりにも冴《さ》えているのに、異様な不安な快さをおぼえて言った。「月があまり明るいので、若葉の色までわかりそうです」
「暗いところは寒くて、月の照っているところは暖かいような気もしますわ」明るいところへ歩み出ながらメアリが言った。
だが、それからまたあちこち歩いたあとで、ふたりは、ふたたび足をとめた。今度は元がさきに足を止めて言った。「寒くはない? メアリ」いまでは彼も彼女の名を気やすく言えるようになっていたのだ。
彼女は答えた。「いえ――」なかば口ごもるような声だった。それから、どうしてそうなったのかわからないが、ふたりはかげのなかに落ちつきなく立っていて、いきなり彼女は彼のそばへすり寄り、彼の手に触れたかと思うと、元は自分の胸のなかにいる彼女を身に感じた。彼の腕は彼女を抱いており、頬《ほお》は彼女の髪と触れあっていた。元はメアリがふるえているのを感じ、自分もふるえているのがわかった。抱きあったまま一つになってベンチにくずれ落ちると、彼女は頭をあげて彼を見て、両手で頬を押えるように彼の頭を抱き、そしてささやいた。「接吻して!」
映画ではこういう場面を見ているが、自分では経験のない元は、頭が下へ引きよせられて、熱いくちびるが自分のくちびるにおしあてられるのを感じた。つぎの瞬間、彼女に抱きしめられ、強い接吻を受けていた。
とたんに彼は離れた。なぜ離れずにいられなかったか、彼にはわからなかった。なぜなら彼の側にも、あくまで強く抱きしめ、いつまでもくちびるをおしつけていたい気持ちがあったからである。だが、その欲望よりも強かったのは、一つの嫌悪だった。――自分とちがう人種の肉体にたいする肉体の嫌悪とでもいうよりほか、それは彼にもわからないものであった。彼は離れた。そして、すばやく立ちあがった。燃えて、しかも冷えきって、恥ずかしさと混乱とが一つになっていた。だがメアリは、びっくりして、そのまますわっていた。闇のなかでも、彼女の白い顔が彼のほうを見あげ、びっくりして、なぜ離れたのかと問いたげにしているのがわかった。だが殺されても彼には言えなかった。断じて言えない! わかっているのは、彼が離れなくてはならなかったことだけである。とうとう、なかば上ずった、いつもの彼とはちがう声で、彼は言った。「寒くなってきました――家のなかへおはいりなさい――ぼくは帰りますから」
まだ彼女は動かなかった。そして、すこしたってから、やっと彼女は言った。「お帰りになるのなら、どうぞ。もうすこしわたしはここにいたいんです」
それで、自分としては他に方法がなかったのだと思うけれども、何か自分のやり足りないことがあるような気がして、その場をとりつくろうために、彼は言った。「家へおはいりなさい。冷えるでしょうから」
彼女は身動き一つしないで、落ちつきはらって答えた。「もうすっかり冷えていますわ。どうぞおかまいなく」
その声の冷えきった、とりつく島もないむなしさを耳にすると、元は、すぐに身をひるがえして彼女のそばを離れた。
だが何時間たっても眠れなかった。彼女のことばかり考えていた。あの木下闇《このしたやみ》にまだひとりですわっているのだろうかと思うと、心配でたまらなかったが、それでも自分はしなくてはならないことをしたにすぎない、と思っていた。子供がするように、彼は、ひとりで言い訳をつぶやいた。(おれはいやだったのだ。ほんとにいやだったのだ)
その後のふたりの関係はどうなったであろうか? それは元も知らなかった。なぜなら、まるで彼の身辺の事情を察したかのように、祖国が彼を呼びもどしたからである。
翌朝、目をさますと、メアリに会いに行かなくてはならないと思いながら、彼はぐずぐずしていた。朝になっても、彼女を失望させたことが気にかかった。ああするよりほかに、しかたがなかったのだとは思うのだが、ともかく失望させたという事実だけは、はっきりしているので、どうにも行きにくかった。
だが、やっと決心して教授の家へ行くと、一家三人とも、新聞記事を前にして、ひどく沈痛な、驚愕の面もちでいた。元がはいって行くと、老教授は不安そうにきいた。「元君、こんなことが事実ありうるのだろうか?」
元は三人といっしょに新聞を見た。すると大きな活字で、中国の某市で、新革命軍が白人の家族を襲い、彼らを住居から追い出し、そのうちの数人――一、二の宣教師、ひとりの老教師、ひとりの医師、その他若干名を殺害した、という記事が出ていた。元は心臓の鼓動がとまり、大声で言った。「これは何かのまちがいです――」
すると老夫人が、彼の言葉を待っていたようにつぶやいた。「そうよ、元、きっとまちがいだと、わたしは思っていましたよ!」
だがメアリは何も言わなかった。はいってきたときに元は彼女のほうを見なかったし、いまになってもまだ見ていなかったが、彼はメアリがそこにすわって頬杖《ほおづえ》をついて自分のほうを見ていることを知っていた。しかしまだ、まともに彼女のほうを見る気になれなかった。元は急いで新聞記事に目を通したが、読みながら幾度も声をあげた。「事実ではない――こんなことがあるはずはない――ぼくの国ではけっして起こりえないことです! もし起こったとすれば、何か恐ろしい原因が――」
彼の目は、その原因をさがすために紙面を走った。そのときメアリが発言した。その言いかたから彼女の内心の気持ちを十分に察知しうるほど、いまの彼には彼女がよくわかっていた。彼女の言葉は早くて明瞭で、見かけだけは無頓着そうであった。そして声は、すこしきついが、いつもと変わりがなかった。彼女は言った。「わたしも原因をさがしてみましたわ。でも原因と認められるようなものは何もありません――襲われた人たちは、みんな罪のない、民衆と仲よくしている人たちらしいんです。それが家のなかにいて襲われたのです、子供たちまで――」
それを聞いて元は彼女の顔を見た。彼女も彼を見返した。その目は澄んだ灰色で、氷のように冷たかった。その目は彼を非難していた。彼は心のなかで彼女に向かって叫んだ。(ぼくは、ああするよりほかに、しかたがなかったのです!)だが、その目はどこまでも彼を非難していた。
元は、いつもの自分をとりもどそうとして、腰をかけて、ふだんより多弁にしゃべった。彼は熱心に言った。「いとこの盛《シェン》に長距離電話をかけてみましょう――彼は大都会にいるのですから、きっと真相を知っていると思います。ぼくは自分の国民を知っています――こんなことができる国民ではありません――文化的な民族です――野蛮人ではありません――ぼくらは平和を愛しています――流血を憎んでいます。たしかに何かまちがいがあるのです」
すると老夫人も熱心に言った。「まちがいがあることは、わたしにはよくわかっていますよ、元。わたしたちの国の善良な宣教師の人たちに、こんなことがおこるのを、神さまがお許しになるはずはありません」
だが突然、元は、この単純な言葉に、はっとして、あやうく叫ぶところだった。(あの宣教師どもだったら――)そのとき、ふとメアリに視線が落ちたので、彼は黙っていた。いまもまだ彼女は彼を見ていたが、そこには言葉のない深い悲しみがあった。だから彼は一語も発することができなくなった。彼の心情は彼女の許しを求めていた。けれども、その心情さえも退嬰《たいえい》的になった。許してもらうためには、彼の肉体の欲しないところをゆずらねばならぬと思うと、許しを求めることすら望ましくなかった。
彼が黙ってしまうと、だれも口をきかなくなった。それを見て老教授が立ちあがって元に言った。「では元君。何かニュースがはいったら、知らせてくれたまえ」
そこで元も、夫人が行ってしまってメアリとふたりきりになるのが急にいやになったので、同じように立ちあがった。帰る道々、いまのニュースが事実であったらと思うと、恐ろしさに心が沈んだ。そのような屈辱は彼には堪えられなかった。メアリが、昨夜の彼の態度から、ひそかに彼を判断して、すべてを彼の弱さのせいにしているにちがいないと思うと、なおさら堪えられなかった。それゆえ、なおのこと彼は自分の国民がこの事件について罪のないことを明らかにしたいと思った。
それ以後、元とメアリは、ついに近づかなかった。日がたつにつれ、元は祖国への非難をすすぎたい熱情にまきこまれていった。もしそれができるならば、自分自身の態度もまた、それによって正当化されるのだという気持ちになっていたからである。学年末の多忙のなかで、彼は、そのためにも多忙だった。一歩一歩、彼は、それが自分の国の罪ではないことを証明して行かなくてはならなかった。しかし盛からは、事実だと言ってきた。盛の声は、例の記事が出た日、電話線を伝わって、おだやかに、じかに聞くように聞こえてきた。そして盛は、暴行事件があったことは事実だ、と言ったのである。元は性急に叫び返した。「だが、なぜだ――なぜなんだ?」すると盛の声が、のんきそうにもどってきた。まるで彼が肩をすくめているのが見えるような気がした。「なぜだかそんなことわかるものか。暴民《モブ》か――共産主義者か――ともかく何か狂信的な主義のためだろう――だれにも真相はわからんよ」
だが元は苦悩におちいっていた。「ぼくは信じない――何か原因があるはずだ――彼らが挑発したとか――何か原因があるはずだ!」
すると盛は、おだやかに言った。「ぼくらには真相は、けっして知ることはできないよ――」そして彼は話題を変えた。「今度は、いつきみに会えるかね? ぼくは、もうずいぶんきみと会っていない――いつ帰国するの?」
だが元は「すぐに帰国する!」と答えることができただけだった。彼は帰国せねばならぬことを知っていた。もし祖国の無罪を明らかにすることができなかったら、残っている用事が片づきしだい、急いで帰国しなくてはならないのだ。
それからのち彼はもう老教授の家の庭園へは立ち入らなかった。メアリとふたりきりで時を過ごすこともなかった。うわべは親しげにしていたが、ふたりのあいだには何も話すべきことがなかった。元は彼女とふたりだけになる機会をさけていたのである。祖国の無罪を証明することができなくなったのを知るとともに、彼は唯一の味方である教授一家の人たちまでさけるようになったのである。
老夫婦はそれに気づいていて、相変わらずいつもやさしくしてくれたけれども、やはりいくぶんよそよそしくなった。けっして彼を非難しているのではなく、自分たちをさけようとする彼の苦悩を理解できないまでも、気の毒に思って、なるべく彼の心の傷に触れないようにしていたからである。
それを元は夫妻が彼を非難していると感じた。彼はその肩に、祖国の責任の全部を負うていた。このごろ、彼は毎日、新聞を読んで、母国の革命軍が、どこの軍隊でも勝利に乗じて征服地を進軍するときにやることをやっているのを読み、ひとり苦しんでいた。ときどき彼は、父はどうしているだろうか、と思った。革命軍は北方の平原に向かって、いたるところで勝利をおさめながら、じりじりと迫っていたからである。
だが父のことは非常に遠く感じられた。近くには、あまりに近く、やさしく寡黙《かもく》な老教授の家庭があった。彼らが望むので、ときどき彼はその家庭へ行かなくてはならなかった。彼らは新聞の記事については一言も言わなかった。それを口にするのは彼を屈辱でさいなむことになるのを知っているので、彼をいたわっていたのである。しかし、いかに黙していても、彼はそこに非難を感じていた。彼らの沈黙そのものが非難であった。メアリのむっつりとした冷ややかさも、老夫婦の祈祷も非難であった――たとえば、彼らが無理に彼を招いた食事の前に、老教授は低い憂いに満ちた言葉を述べたあとで、つぎのような言葉をつけ加えるのであった。「神よ、遠き国にあって生命の危険にさらされつつある御身のしもべを救いたまえ」すると老夫人は真心こめて、そのあとから、静かに「アーメン」と言うのである。
元は、この祈祷にも、このアーメンにも堪えられなかった。メアリまでが――老夫婦の信仰について彼に警告したメアリまでが、近ごろでは祈るときいっしょに頭をさげているので、いっそう元は堪えられなかった。それはけっして彼女がいままでよりも信仰が深くなったためではない――彼は知っている――単に両親の祈りにこめられた義憤を彼女も感じているからにすぎないのだ、やはり彼女は夫妻といっしょにおれを非難しているのだ、と彼は思った。
ふたたび元は孤独になった。そして孤独のうちに彼は学年の終わりまで勉強し、ほかの学生たちといっしょに卒業式に出席した。式場でも彼は孤独だった。ただひとりの中国人として、彼は学位の証書を受けた。最優等生として彼の名が読みあげられるのも孤独の思いを抱いて聞いた。彼に祝いの言葉をかけてくれたものも幾人かあったが、祝われようと祝われまいと気にする必要はない、と彼は思った。
ひとりで彼は書物や衣類の荷づくりをした。最後に思いあたったことは、あの教授夫妻が、もちろんその好意には変わりはなかったが、彼の帰国をよろこんでいるらしいことだった。元は胸を張って考えた。(おれを令嬢と結婚させたくなかったので、先生夫妻は不安だったのではなかろうか。だからこそ、おれの帰国をよろこんでいるのだ!)
彼は意地悪く微笑しながら、たしかにそうだと信じた。それから、メアリのことを考えて彼はまた思った。(だが、おれは彼女に感謝しなくてはならない――彼女は、クリスチャンになることからおれを救ってくれた。そうだ、彼女は一度おれを救ったのだ――だが一度は、おれがおれ自身を救ったのだ!)
[#改ページ]
子供のころ父を愛しかつ憎んだように、元《ユアン》は愛しかつ憎みつつアメリカを離れた。美しく、若々しく、力強いものは、だれしも愛さずにはいられないものであるが、そのように彼はアメリカを、不本意ながらも愛さずにはいられなかった。彼は美を愛したがゆえに、アメリカの山の木々の美を、死者の墓など見当たらない草原の美を、肥えふとり健康で満足している牧場の家畜を、人間の屑《くず》などうろついていない都会の美を愛さずにはいられなかった。ところが、アメリカのこうしたものが美であるなら、故国の禿山《はげやま》に美があるとは思えないし、生きている人間の使う沃地《よくち》に死者が埋められ、畑のまんなかに墓があるのは美ではないように思われるし、そのほか故国のそうした状態が記憶にあるので、アメリカの美しい風景そのものまで、彼は愛しつつ悩まなければならなかったのである。汽車で通り過ぎる豊沃な農村を見たとき、(これが自分の国だったら、どんなに愛せるだろう。だが、これは自分の国ではないのだ)と彼は思った。彼には、美にしろ善にしろ、自分のものでないものは、どうしても真底から愛せなかった。善良な人々でも、その善良さを自分が持っていない場合には、その人々をあまり好きになれなかった。
船に乗って、ふたたび故国へと向かったとき、この六年間の留学で何を得たろうかと、彼は考えた。知識を得たことは疑いなかった。彼の頭は有用な知識であふれていたし、トランクにはノートやその他の書籍が詰めこんであるし、小麦のある品種の遺伝に関する長い研究論文もあった。そのうえ、彼は小麦の種子を入れた小さな袋を持っていた。それは彼が実験用に栽培した種子のなかから、注意深く選別したもので、この種子を故国の土にまき、順々にふやして、他人にもわけてやり、そうして全国の収穫を増進させようという計画を彼は持っていたのである。こうしたものを手に入れたことは、彼にもわかっていた。
それだけではない。彼は、ある信念を得たのであった。結婚をする相手は、同じ血が流れ、同じ人種でなければならないということである。彼は盛とはちがっていた。白い肌、淡色の目、ちぢれた髪は、もはや彼には魅力はなかった。相手は、どんな女にしろ、自分と同じような黒い目、ちぢれていない黒い髪、自分と同じ色の皮膚を持った女でなければならない。自分と同じ種族でなければならないのだ。
なぜならば、楡《にれ》の木かげのあの夜以来、ある意味では非常によく理解していると思っていたあの白人の女が、いまでは彼にはまったく理解できない他人となってしまったからである。彼女のほうが変わったのではない。その後も、相変わらず彼女は、しっかりしていて、礼儀正しく、彼の言うこと感じることを、すぐに理解してくれた。しかも他人なのである。ふたりの魂は理解しあうかもしれないが、しかし、その魂は二つの異なった肉体に住んでいるのであった。あの後、ほんの一瞬間だけ彼女が彼に近づこうとしたことがあった。彼が帰国するとき、彼女は老教授夫妻といっしょに停車場まで見送りにきたが、彼が別れのあいさつに手をさし出すと、彼女は、その手を一瞬強く握りしめ、灰色の目に熱をこめて曇らせ、低い声で言ったものだった。「お手紙ぐらいはくださるでしょうね」
どんな理由があっても他人の感情を傷つけることのできない元は、彼女の曇った目にうかんだ苦悩の色を見ると、どぎまぎし、どもりながら言った。「ええ――もちろんですとも――手紙ぐらい書かないわけはないじゃありませんか」
しかし、彼の顔色をうかがっていた彼女は、つと握っていた手を離した。そして、ちょっと顔色を変えた。母が急いで、「元さんは、きっと手紙ぐらいくださいますよ」と口をはさんだときにも、何も言わなかった。
そこで元は、手紙を書いて、いろいろなことを知らせる、と約束した。しかし、けっして手紙など書かないだろうということは、自分にもわかっていたし、汽車が動き出して、メアリと顔をあわせたとき、彼女もそう思っていることがわかった。彼は故国へ帰るのだし、彼らは異邦人なのだ。手紙に書くようなものは何もないのだ。彼は、もう着られなくなった衣服を脱ぎすてるように、頭のなかの知識とトランクのなかのノートだけを残して、その全六年間をすてたのであった。……しかも、いまこうして船の上で、六年の歳月を考えてみると、そこには、心ならずも愛さずにはいられないものがあった。それは、このアメリカには彼の求めるものがたくさんあったし、また老教授一家は、ほんとに善良な人たちばかりだったので、どうしても憎む気になれなかったからである。しかし、その愛は心ならずも、と言わなければならなかった。それというのが、こうして故国へ向かっていると、いままで忘れていた故国のことを思い出して、あれこれと考え合わせてみた結果だからである。彼は父のことを思い出し、清潔でも美しくもない、せまい人ごみの街々を、それから監獄で過ごしたあの三日間を、思い出したのであった。
しかし、それらのことにたいして、元は、この六年聞には革命が起こったのだから、きっとすべてが変わったことだろうと考えてみた。すっかり変わったに相違ない。彼が故国を去るとき、孟《メン》は官憲に追われて地下にかくれなければならなかったが、こんど盛《シェン》に聞いたところによると、彼は革命軍の部隊長になっていて、どこでも大手をふって歩けるのだそうである。変わったのは、それだけではなかった。この船に乗っている中国人は元だけではなく、彼と同じように故国へ帰る青年男女が二十人ばかりもいた。みんないっしょになって話したり、同じ食卓で食事をしたりして、故国に起こったことを語りあっていた。せまい道路はとりはらわれ、世界のどこにも劣らないほど広い通りが、昔ながらの都会を縦横に走り、辺鄙《へんぴ》な田舎道まで自動車が通っていて、いままでは歩くか、せいぜいロバに乗るかしていた農民たちも自動車に乗っていることや、革命軍には、たくさんの大砲や爆撃機があり、武装した兵隊がいることや、今日では男女が平等であることや、阿片を売買したり吸ったりすることは新しい法律で禁じられたことや、そうした古い悪習は、すでに一掃されたことなどを、元は彼らから聞いた。
彼らは元が知らないことを、あまりに多く話してくれたので、彼は自分がそうした古い記憶にばかり執着していることがふしぎに思われたほどであった。一刻も早く新しい故国を見たくなった。彼は、この新しい時代に自分が青年であることをよろこび、ある日、同じ中国人と食卓をかこんでいるとき、胸をおどらせながら言ったものだった。「自由で思うがままに生きることのできる時代に生まれたとは、なんというすばらしいことだろう!」
すると、情熱に燃える若い人たちは、みな顔を見あわせ勝ち誇ったように微笑したが、なかでひとりの若い娘が、かわいい足を突き出して叫んだ。「あたしを見てください! これが母の時代に生まれたのだとしたら、こんなりっぱな二本の足で歩けると思いますか」すると一同は子供のように笑って、いろんな冗談を言いあった。しかし、この若い女性の笑いには、おもしろいというだけでなく、それ以上の意味がふくまれていた。ひとりの青年が言った。
「われわれが完全に自由になったのは、わが民族の歴史あって以来はじめてのことなのだ――孔子このかた、これがはじめてなのだ!」
するとひとりの陽気な青年が叫んだ。「孔子なんか糞くらえだ!」すると一同も声をそろえて、「そうだ、孔子なんか糞くらえだ!」と叫んだ。「孔子なんか打倒するのだ。われわれが憎んでいる古い習慣といっしょに倒してしまうのだ――孔子や孔子の教える孝道をたたきつぶせ!」
また彼らは、もっとまじめに話しあうときもあって、そんなときには国家のために何をすればいいかというようなことを、熱心に考えたり計画したりした。なぜならば、こうした仲間のうちには、国家のためにつくそうとする熱情を抱いていないものはひとりとしていなかったからである、彼らが口にする文句のなかにはかならず「国家」とか「愛国」とかいう言葉が聞かれ、彼らは真剣に自分たちの短所や能力をしらべ、それを他の国民と比較するのであった。
「西洋人は、発明の才において、肉体が精力的である点において、進取の気象において、われわれよりもすぐれている」するとひとりが言う。「われわれがすぐれている点は?」みんなは顔を見あわせ、考えこみ、それから言う。「われわれは忍耐力と理解力と耐久力とにおいてまさっている」
これを聞くと、さっきかわいい足を突き出した娘が、我慢できずに叫んだ。「いつまでも耐え忍んでいるのは、あたしたちの欠点ですわ! あたしはもう忍耐はしない決心です――自分の好まないことはどんなことでも忍耐しません。そして、わが国の女性すべてに、何事も忍従するなと教えます。アメリカの女性が自分の好まないことを忍従しているところなんか見たことがありません。アメリカがこれまでになった理由は、それなのです!」
すると、おどけもののひとりが叫んだ。「そうだ、アメリカでは、我慢しているのは男性のほうだ。ぼくらも見習わなくちゃいけないようだね、諸君!」そして、若いものは、何かにつけて、すぐ笑うものなので、彼らも声をあわせて笑ったが、そのおどけものの青年は、断固として自分の道を歩もうとする大胆な美しい娘を、そっと賛美の目でながめていた。
こうして、これらの若い男女や、そのなかにまじった元は、すばらしい元気と、熱烈な帰国への期待を胸に抱いて、船中の日々を送った。彼らは自分たち以外のものには注意をはらわなかった。なぜなら、彼らはすべて自分たちの若さに確信を持ち、自分たちの知識に満足し、ふたたび故国の土を踏む情熱にあふれ、各自が時代に役立つ力を持ち、特殊の価値を持っているという自信を抱いているからであった。しかし、彼らがみな愉快な人間であるにもかかわらず、元は、彼らの口にする言葉が外国語であり、自分の国の言葉を話すときですら、ある観念をあらわすには自国語には適当な言葉がないので、外国語でそれを補わなければならないことや、女性の服装は、なかば洋装、男性はすべて洋服なので、うしろから見ると何人種だかわからないことなどを認めないわけにはいかなかった。しかも彼らは毎晩、男も女もいっしょになって、外国人がするようにダンスをし、時には恥ずかしげもなく頬と頬とをすり寄せ、手に手をとって踊っていることもあった。ダンスをしないのは元だけであった。同国人が、彼の目に外国風とうつるようなことをするときには、どんなささいなことでも、彼は彼らから離れるのであった。そして、自分もかつてはダンスをしていたことを忘れて心に思った。(ダンスなんか外国のものだ)しかし、彼がダンスをしないのは、こうした新時代の女性に手を触れたくないのも一つの理由であった。彼女らが、すぐに手を出して男に触れてくるのが、彼には恐ろしかった。元には、すがりつくように女性に触れられるのが、昔から恐ろしかったのである。
こうして日々は過ぎてゆき、元は、この歳月の後に見る故国はどんなふうであろうかと、日ましにそのことばかり思うようになった。いよいよ到着する日には、ひとり船首へ行って、故国の姿があらわれるのを見守っていた。故国は姿をあらわすずっと前から、その影を投じていた。元が見ていると、澄んだ冷たい緑色の大洋に、黄いろい条《すじ》があらわれた。それは大河が幾千マイルとなく流れてくるあいだに削りとり、滔々《とうとう》として海にまではこんできた黄土であった。その黄いろい分界線は、まるで手で描いたようにはっきりしていた。そこで海の波は押し返され、はばまれているのである。ほんのいままで大洋の上にいた元は、つぎの瞬間、ふと見ると、あたかも船が防壁をでもとび越えたように、眼下は渦《うず》まく黄いろの波であった。彼は故国に着いたことを知った。
その後、それは真夏で暑い日であったが、彼は水浴に行ったが、水が黄いろなので、(こんな水で水浴をするのだろうか)と、はじめは思った。なんとなく清潔でないような気がしたからである。しかし、(この水で水浴をしてなぜいけないのだ。これはわが祖先の大地で濁っているのではないか)と思った。そして水浴をすると、涼しくなって、非常に爽快《そうかい》な気分になった。
やがて船は、いつのまにか河口にはいった。両岸は鈍重に黄いろく、低く、すこしも美しくなかった。そして、その上には同じ色の小さな低い家があった。大地は、人間が美しいと思おうが思うまいが問題ではないとでもいうように、美しく見せようともしていなかった。昔のように、いまも、低い、黄いろい両岸は、ながながと横たわり、流れる大河は大海を押しのけて自分のものだと主張していた。
元といえども、それが美しくないことを認めないわけにはいかなかった。いろいろな国の船客にまじって、彼は甲板に立っていたが、その人たちが、この新しい国をながめて、こんなことを言っているのが、元の耳にも聞こえた。「どうもあまり美しくないね」「ほかの国ほど美しくないようだ」しかし、元はそれに答えようとはしなかった。彼は誇りを持って心に思った。(わが国はその美しさをかくしているのだ。慎み深い女性は、門外の他人には質素な姿を見せる。自分の家のなかにはいってはじめて色のついた衣服を着、指輪をはめ、耳を宝石で飾るものだ。わが国は、そのような女性に似ているのだ)
長年のあいだに、はじめて、この考えが短詩の形となってうかんだ。元は五言の短詩を書きたい衝動を感じ、いつもポケットに入れている手帳をとり出して、一気に書きつけた。このわずかな時間は、この日の昂揚《こうよう》した気持ちに、さらに一点の明るさを加えた。
やがて突然、平坦な、鈍重な大地から、高い建物があらわれた。元は故国を離れるときには、盛に付き添われて、夜、船の船室で目をさましたので、この高い建物を見ていなかった。ほかの船客と同じように物珍しそうにながめているうちに、建物は平坦な大地から高くそびえ、焼けるような陽光をあびてギラギラ輝いてきた。白人のひとりが、「こんな大きな近代的な都市だとは思わなかったね」と言うのが聞こえた。その声に尊敬がこもっているのを認め、元は、ひそかに誇りを感じたが、何も言わず、顔色も動かさず、ただ相変わらず欄干によりかかって、故国の姿をじっとみつめていた。
ところが、こうした誇りが彼の心にわいているうちに、船が岸壁に着いたと思うと、たちまち波止場や岸壁から集まった苦力《クーリー》の大群が船内になだれこんできた。そして、袋やトランクをかつぐようないやしい仕事を手に入れようとひしめきあった。港内には、きたない小舟が夏の暑い陽光のなかを漕ぎ寄ってきた。その小舟には乞食が乗っていて、泣き声をあげて物を乞い、ながい竿の先に籠《かご》をつけて、それをさしあげるのだが、その多くは病人であった。苦力たちも暑いので多くは半裸で、仕事がほしいので夢中になって、汚れて汗だらけのからだで、きれいに着飾った白人の婦人のあいだを、乱暴に押しわけて行くのであった。
元の目には、白人の女が身をさけるのが見えた。苦力たちを恐ろしがっているものもあったが、いずれもそのきたなさと汗と下品さにへきえきしているのであった。元は、この乞食たちも苦力たちも自分の同国人だと思うと、心に恥ずかしさをおぼえた。そして、ふしぎなことに、彼は苦力たちをさける白人の女に非常な嫌悪を感じながら、急にこの乞食や半裸の苦力がいとわしくなり、心のなかで、はげしく叫んだ。(この連中が出てきて、こんなふうにだれの前にでも姿をあらわすのを、当局は取り締まるべきだ。この国をたずねる世界じゅうの人に、まず第一番にこの連中を見せるのはよろしくない。なかには、この連中しか見ない人々もあるだろうし――)
彼は、この光景を見るに堪えず、なんとかしてこうした悪習を改革しようと決心した。ほかの人には、ささいなことに思われるかもしれないが、彼にとっては小さな問題ではなかったのである。
しかし、彼のこの気持ちは、すぐにやわらいだ。船から降りてみると、そこに彼が母と呼んでいる老夫人と愛蘭《アイラン》が迎えにきていたからである。ふたりはおおぜいの人ごみのなかに立っていたが、元は一目でこれだけのおおぜいのなかでも愛蘭ほどの美しい女性はいないことを見て、大きなよろこびがこみあげてきた。老夫人にあいさつし、自分の手を握った彼女の力強い手のよろこびや、目と笑顔《えがお》にあふれる歓迎を感じているときでさえも、船中の人々の目が愛蘭に注がれているのを見ないわけにはいかなかった。そして、自分と同じ人種である彼女を船中の人々に見せてやれたことに満足した。あの乞食や苦力たちの醜態も愛蘭の美しさによって拭《ぬぐ》い消されるような気がしたのである。
まったく、愛蘭は美しかった。元が故国を去ったとき、彼はまだ少年にすぎなかったので、彼女の美しさを十分に知らなかった。しかし、いまこうした埠頭を歩いていると、愛蘭なら世界じゅうの美人とくらべても一歩もひけをとらないと彼は思った。
愛蘭が、少女のころの子猫のような媚態《びたい》を見せなくなったことは、きわめてよい効果を生んでいた。昔のように目は輝いて才気がひらめいているし、声も軽やかで弾力があるが、そこに、なんとなくやわらかな完成された気品がそなわってきて、例の朗らかな笑い声も、ほんのたまにしか出さなかった。温かみのある美しい顔を包んだ短い髪の毛は、黒くてなめらかだった。ほかの女のようにちぢらせていず、黒檀《こくたん》のようにつややかに、まっすぐになでつけて、額のところで切りそろえていた。今日の彼女は、最新流行の、ながい、すらりとした、銀色の服で、襟《えり》は高いが、袖《そで》は肘《ひじ》までしかなく、からだにぴったりしているので、乱れた線一本なく、肩から腰、腿《もも》から踝《くるぶし》まで、非のうちどころもない曲線がなだらかに流れていた。
元は彼女の完全な美しさに、すっかり快適になり、誇らしげに彼女の姿をながめた。自分の国にもこんな女性がいるのだ!
老夫人のうしろに、もう子供ではないが、それかといってまだ女にはなりきっていない、背の高い少女が立っていた。愛蘭ほど美しくはないが、清らかな上品な顔をしていて、愛蘭がそばにいなかったら、十分人目をひくことであろう。背は高いが、ものごしは優雅で、瓜実顔《うりざねがお》の色は白く、黒い眉の下の黒い目は大きく見開かれていた。みんな、おしゃべりや元を歓迎する笑いに気をとられて、だれも、この少女が何者であるかを、元に話すものがなかった。しかし、彼がそのことをたずねようとした瞬間、それがあの日、監獄の門の前で、まっさきに彼をみつけて声をかけたあの美齢《メイリン》という少女であることを思い出した。彼は彼女のほうへ無言でおじぎをした。すると彼女も同じように頭をさげたが、元は彼女の顔がすぐには忘れられない顔であることを知るには、いくらかの時間がかかった。
もうひとり迎えにきていたのは、元はいまでもおぼえていたが、愛蘭を守るようにと老夫人から頼まれた相手の、伍《ウー》という小説家であった。彼はスマートな洋服を着て、鼻下にチョビ髭《ひげ》をはやし、髪を、まるでみがいたように油でてかてか光らせ、みんなのあいだに、いかにも自信ありげに立ちまざっていた。自分は、くるべき権利のある場所へきているのだとでもいうような確信が、態度全体にあらわれていた。その理由は、すぐに元にもわかった。というのが、最初のあいさつやおじぎがすむと、老夫人は、この青年の手をやさしく握り、それから元の手をとって、つぎのように言ったからである。「元、こちらは愛蘭と結婚することになっている方です。愛蘭が希望するので、あなたが帰国するまで結婚式をのばしていたのです」
元は、老夫人がこの男に好感を持っていなかったことをよく覚えているので、どうしていままで愛蘭の結婚のことを知らせてこなかったのだろうとふしぎに思ったが、この場合、失礼なことも言えないので、小説家のきめのこまかい手をとり、このごろ流行しているようにその手を握って微笑した。「妹の結婚式に出席できるとは、じつに愉快です――ぼくは運がよかったですね」
相手は気軽に、すこしものうげに笑い、いつものくせで目を伏せて元を見て、気どった英語で、「運のいいのはぼくのほうですよ」と言って、片方の手で髪をかきあげたが、元には見おぼえのあるあのふしぎな美しさを、またしてもここで彼は見たのであった。
こんなあいさつに慣れていない元は、握っていた手を離し、もやもやした気持ちで、そばを離れたが、ふと、この男はすでにほかの女と結婚していたことを思い出し、いよいよわけがわからなくなった。どうしてこんなことになったのか、いまここでたずねるわけにもいかないので、あとでそっと老夫人にたずねてみようと思った。それでも、みんなで自動車が待っている通りまで歩いて行くとき、このふたりがじつに似合いの一対であることを認めないわけにはいかなかった。ふたりとも、いかにも中国人でありながら、しかもどこかそうでないところがあるのだ。じっくりと根をおろしている老樹が、その節瘤《ふしこぶ》だらけの幹から美しい花を咲かせているような感じであった。
老夫人がまた元の手をとって言った。「うちへ行きましょう。ここは水面の照り返しが強くて暑いようですから」元は老夫人に手をとられたまま通りまで出た。そこに自動車が待っていた。夫人は自家用自動車を持っていて、相変わらず元の手を強く握ってその車まで案内して行った。美齢《メイリン》は夫人の反対側につき添って歩いた。
愛蘭は真紅に塗ったふたり乗りの自動車に乗りこみ、愛人の小説家も、あとから乗りこんだ。この輝くばかりの自動車に乗ったふたりの美しさは、まるで男神と女神とも思われるばかりであった。なぜなら、車の幌《ほろ》がはずしてあるので、日の光がふたりの黒い髪や、しみ一つないなめらかな黄金色の皮膚に、いっぱいに降り注ぎ、車体の真紅のはなやかさも、彼らの美しさをそこなわず、かえってふたりの肉体の非のうちどころもない完全な姿と優美さとを、いっそう強調しているからであった。
元は、この美しさを、またしても感嘆し、民族の誇りが胸にわきあがってくるのを感じないわけにはいかなかった。こんな清澄な美しさは、アメリカでも見たことはなかったのではないか! 故国に帰ってくることを恐れるにはおよばなかったのだ。
すると、立ちどまってこの金持ちの人々が通るのを見ていた群衆のなかから、ひとりの乞食が身をよじらせながら出てきて、その貴族的な真紅の自動車に駆けより、ドアの端に手をかけてすがりつき、乞食特有の鼻声で、「どうぞ一文、おめぐみください。どうぞ、おめぐみを!」と哀願した。
これを見ると、車内の貴公子然とした小説家は、「きたない手を離せ!」と、あらあらしくどなりつけた。しかし乞食は、ますます声を高くし、ドアを離そうとしないので、ついに小説家は身をかがめると、固い皮の西洋風の靴をぬいで手に持ち、その腫《かかと》のところで、なおもしがみついている乞食の指をたたきつけた。力いっぱいなぐりつけたので、乞食は「あっ!」と低い声で叫んで、群衆のなかへ逃げこみ、傷ついた手を口にあてた。
すると小説家は、美しい白い手を元に向かって振ってから、爆音高くスタートさせた。真紅の車体は陽光のなかを飛ぶように走って行った。
帰国してから数日間、元は周囲のことが正確に判断できるようになるまで、あまり考えないようにしていた。最初のうち、彼は、(この国だって、そうちがったところはないじゃないか――要するに、わが国も現代のほかの国と同じようなものだ。どうしてあんなに心配したのだろう)と考えて、ほっと安心した。
事実、彼には、そんなふうに思われたのだ。建物や道路や民衆が貧しくみすぼらしく見えやしないかと、内心ひそかに心配していたのであるが、そうでもないことを知って満足した。彼の外遊中、老夫人は、それまで住んでいた小さな家から、洋風のすばらしい大きな家に移っていたので、彼のその気持ちは、なおさら、うそではなかった。最初の一日、いっしょにその家へ帰ったとき、老夫人は元に向かって言った。「愛蘭のために引っ越したのです。前の家では、お友だちをお招きするにも、狭くて見すぼらしいって愛蘭が言うものですからね。それに、わたしのほうでも前からそうしたいと言っていたとおりにしたのですよ。そうです、美齢を引き取ったのです……元、わたしはあの娘《こ》が自分の子のような気がするのです。わたしの父と同じに、あの娘が医者になることは、あなたに知らせましたかしら。わたしが父から教わったことは、すっかり教えてしまったので、いまでは外国人経営の医学校へ行っています。学校があと二年ありますが、卒業しても、もう何年かは外国人の病院で修業しなければなりません。内科のほうなら、わたしたちの医学のほうが適しているということを忘れてはいけないと、わたしはあの娘に言っています。それでも、切開したり縫ったりする外科のほうは、外国のほうがじょうずであることは否定できません。美齢には内科も外科も勉強させています。そのほか、美齢は捨て子の世話も手伝ってくれます。相変わらず町には捨て子がありましてね――革命があってから、若い男女が自由にふるまうことをおぼえたので、このごろでは捨て子がふえたのですよ」
元は驚いて言った。「美齢はもっと子供だと思っていましたよ――ぼくが留学するころは、ほんの子供だったのをおぼえていますが――」
「もう二十歳になりました」と老夫人は静かに答えた。「ですから、もうとうに子供ではありませんよ。頭のほうは、年齢よりも老けていて、じっさいは愛蘭のほうが三つも年上なのですけれど、まるで愛蘭よりも年上みたいでね――いつだったか、美齢が助手になって外科手術をするのを見に行ったことがあります。婦人患者の首筋を切開する手術でしたが、あの娘の手つきは男のようにしっかりしていました。先生も、美齢がふるえもしないし、血が吹き出してもおびえなかったと言ってほめていらっしゃいました。美齢は、どんなことにもおびえたりしないのです――とてもしっかりした、おとなしい娘ですよ。それに、うれしいのは愛蘭とは仲がよいことです。もっとも、あの娘は愛蘭が遊びに行くときでもいっしょには行きませんし、愛蘭のほうでも美齢がしていることを見ようとはしませんけどね」
そのとき居間には老夫人と元とふたりきりであった。美齢は、すぐにひきとったので、お茶やお菓子を運ぶ召使が出たりはいったりするだけで、近くには、だれもいなかった。それで元は好奇心にかられてたずねた。
「あの伍《ウー》という人は、もう結婚していたと思っていましたけど――」
これを聞くと老夫人は、ため息をついて答えた。「あなたがおかしいと思うだろうと思っていました。愛蘭のことでは、わたしもほとほと手を焼きました。しかし、愛蘭は、あの人といっしょになりたいというし、向こうでも愛蘭といっしょになりたいというのですから、何もいうことはありませんよ――あの娘は、なんといったって聞きゃしないんですからね。この大きな家に引っ越したわけというのも、そのためで、どうしてもふたりが会わずにいられないのなら、どうせふたりは会っているのですから、いっそわたしの家がいいと思ったのです――そして、わたしにできることといえば、あの人が奥さんを離婚して自由なからだになるまで、あまり深入りさせないようにすることだけでした……奥さんというのは、事実、昔風の人でしてね。伍さんのご両親が選んで、伍さんの十六のときに結婚させたのだそうです。伍さんと奥さんと、どちらがお気の毒なのか、わたしにはわかりません。ふたりの悲しみが、わたしにはわかるような気がします。わたしも同じような結婚をして、愛されずに暮らしてきたのですから、他人事とは思えません。しかも、愛されないということがどんなものか、わたしにはよくわかっていますから、自分の娘は好きな人と結婚させようと誓っていますので、ふたりの悩みがよくわかるのです。でも、それも片づきましたよ、元、けっきょくはこうなるより仕方がなかったのですがね――どうもこのごろでは、こういうことが手軽に片づくようです。離婚が成立して、気の毒な奥さんは生まれ故郷の奥地の町に帰ることになりました。いよいよ帰るとき、わたしは会いに行きました。奥さんは伍さんと、この町でいっしょに暮らしていたのですから――もっとも名ばかりの同棲だったと奥さんは言っていましたけどね。行って見ると、奥さんはふたりの女中に手伝わせて、嫁入り道具の一つとして買った赤い皮の鞄《かばん》に衣装を詰めていました。そして、わたしに言ったのは、『こういう終局がくるにちがいないと思っていました――こういう終局がくるにちがいないと思っていました』という言葉だけでした。――美しくもないし、伍さんより五つも年上で、このごろはだれでも話している外国語も話せないし、足は昔は纏足《てんそく》していたらしく、大きな外国風の靴をはいて、それをかくそうとしていました。あの奥さんにとっては、ほんとにそれが終局なのです――そうなっては、あの人の人生に、あと、何が残っていましょう。でも、わたしは、そんなことを考えている余裕はありません。愛蘭のことを考えてやらなくてはなりませんからね。わたしたち年寄りは、新しい人たちから押し流されるがままになっているよりほかに、現代では、何もする力がないのです……だれにも、何をする力もありません。国はめちゃくちゃになるし、わたしたちをみちびいて行くものは何も残っていません――掟《おきて》もなければ罰もないのです」
夫人が話し終わったとき、元は、ただちょっと微笑しただけであった。老夫人は、ひっそりと、いつものように憂いのある表情をしていて、髪はまっ白だった。どこの老人でも言うようなことを言っている、と元は思った。
彼がそう思ったのは、彼が勇気と希望しか感じていないからであった。帰国したその日、しかも数時間のうちに、この都会は、なぜか彼に勇気をあたえた。それほど殷賑《いんしん》をきわめ、豊かだったのである。ちらと通りがかりに見ても、いたるところに大きな新しい店舗が建築されていた。機械類を売る店、世界各地のあらゆる商品を売る店が、いたるところにある。素朴な商品を売る屋根の低い小さな店のならんだ昔のようなささやかな通りは、どこにも見当たらない。いまや、この都会は世界の中心の一つである。新しい建物が層々として高さを競っている。元がアメリカにいた六年間に、二十に余る堂々たる建物が天をついてそびているのである。
帰国した最初の夜、彼は自分の部屋の窓ぎわに立ち、この大都市を見渡して、(盛が滞在しているあのアメリカの都会と、ほとんど変わらないではないか)と考えた。彼を包むものは、まぶしいばかりの灯火、自動車の騒音、幾百万の人間の底深いざわめき、休むことを知らず、たえず伸び、ひしめきあう生命の奔流と鼓動とであった。これが自分の国なのだ。月のない雲を背景として、あかあかと照らし出されている文字は、自分の国の文字であり、自分と同じ国民がつくりつつある商品であることを告げていた。この都会は自分の国のものなのだ。そして、世界のいかなる都市にも劣らぬ大都会なのだ。ふと彼は愛蘭のために押しのけられた女のことを考えた。しかし、考えながらも、しいて心を無情にし、(この新しい時代に耐えてゆけないものは、みんな押しのけられなければならないのだ。それが正しいのだ。愛蘭も伍も正しい。新しいものを拒むことはできないのだ)と思った。
そして、非情な、自由なよろこびに似たものを感じつつ、彼は眠った。
それから数日、元はこうした高揚したよろこびを抱いて、この大都会の隅々《すみずみ》まで行ってみた。牢獄の門から故国を去り、しかも、いまやふたたび真の故国へ帰ったことを考えると、それが夢にも見られぬほどの幸運であるような気がした。そして、すべての牢獄の門が、彼自身の牢獄ばかりでなく、あらゆる束縛の門が開かれたような気がした。父が彼の意志に反して結婚させると言ったことも、若い青年男女が自由を求めたがために、捕えられ銃殺されたことも、忘れ去られた一場の悪夢にすぎなかった。この自由、そのために彼らが生命をすてたこの自由は、いまや達せられたではないか。この都市の街々には、若い人たちが、男も女も、自由な、大胆な、やりたいことは躊躇《ちゅうちょ》なしにやるといった表情で歩いていて、どこを見ても束縛などはなかった。一日二日すると、孟《メン》から手紙がきて、それにはこんなことが書いてあった。
「ぼくもお出迎えに行きたかったが、多忙のため、この新しい首府から動けなかった。ぼくらは古い都を新しくしようとしているのだ。古い家をこわし、町をさわやかな風のように吹き抜ける大きな新しい道路を建設してきた。まだ、いたるところに、もっと道路をつくる予定だ。それから、不必要な神社仏閣をこわして、そのあとに学校をつくる計画を立てている。この新しい時代には、民衆は神社仏閣を必要としないからだ。そのかわりに科学を教えるのだ……ぼくは陸軍大尉で将軍の副官をしているが、将軍は軍官学校時代にきみを知っているそうだ。そして、『ここには彼に働いてもらいたい場所があると元に伝えてくれ』との話であった。そして、それは事実なのだ。将軍が最高首脳部の勢力のある人に話してあるから、きみは、ここの大学で、何か気の向いた講義をしてくれればいい。そうすれば、きみもここに住んで、この都市の建設に協力してもらえるというものだ」
この意気天を突くような手紙を読むと、元は、(これがあのお尋ねものだった孟の手紙なのだ――しかも彼は、こんなにえらくなっている!)と思って非常にうれしかった。また、祖国が早くも元に地位を提供してくれたこともうれしかった。彼は、この問題を心のなかで一、二度考えてみた……自分はほんとに若い人たちに教えたいと思っているだろうか。国民に奉仕するには、おそらくそれが一ばんの早道かもしれない。しかし、帰国早々で、まだすまさなければならない義務があるので、それをすましてから、よく考えて決定することにした。
義務というのは、まず第一に伯父や伯父一家のものにあいさつに行かなければならないし、三日後には愛蘭の結婚式があるし、それから父にも会いに行かねばならなかったからである。帰国してみると、父から手紙が二通きていた。一、二枚の紙に書いた、老人らしい大きな読みにくい、おぼつかなげな筆跡を見ると、彼はなつかしい気持ちが動いて、かつては父を恐れ憎んでいたことなど忘れてしまった。というのが、この新しい時代では、王虎《ワンホウ》将軍もまた忘れ去られた舞台上の老優のように影が薄く思われたからであった。そうだ、ぜひ帰って父に会わなくてはいけない、と彼は思った。
六年の歳月は、愛蘭をさらに美しく、子供であった美齢を成熟した女性に変えていたが、それとともに、地主である王一《ワンイー》夫妻の上には重苦しく老齢を加えていた。元が母と呼んでいる老夫人は、この歳月にも、髪がすこし白くなり、聡明な顔がますます聡明に忍耐強そうになり、すこしやせたくらいで、そんなに変わっていないのに、伯父夫妻は、すっかり老境にはいっていた。いまでは自分の家を引き払って、長男と同居しているので、元もそこへたずねて行った。それは長男が建てた家で、美しい庭にかこまれた洋風の家であった。
伯父は、この庭園の芭蕉《ばしょう》のかげに腰をかけていたが、それを見ると、老聖者のようにおだやかで幸福そうであった。というのが、いまでは彼は肉体的な快楽を追うことをやめ、せいぜいのところ、ときどき美人画を買うくらいだったからである。そのため、このような絵を数百枚も持っていて、見たくなると召使に言いつけて持ってこさせ、一枚一枚めくっては、じっと見ているのであった。元が行ったときも、ハエを追うためにそばに立っている女中が、まるで子供に絵を見せるときのように、その絵を一枚一枚めくってやっていた。
それが伯父だとは、元には、ほとんどわからないほどであった。この老人は、その旺盛な色欲をもって最後の瞬間まで老齢を近づけなかったのであるが、いまでは、だれでも老境にはいるとやるように、ときどき少量の阿片をたしなんだためか、それともほかに理由があったのか、いよいよ老齢がおとずれたとき、それはとつぜん木枯らしのように襲ってきて、からだをしなびさせ、脂肪を吹き払い、いまそうしているところを見ると、皮膚が、まるでからだに大きすぎる着物のように、だぶだぶしているのであった。かつては脂肪のために張りきっていた場所に、いまは黄いろい皺がだらりとさがっているのだ。変わらないのは服装だけで、地は繻子《しゅす》の豪奢なものだが、昔、ふとっていたとき仕立てたままの服なので、これもだぶだぶで、踵《かかと》のあたりにはひだができ、袖は手がかくれるほど長く、襟《えり》はだらりとさがって、やせて皺だらけの咽喉《のど》を見せていた。
元が前に立つと、老人は意味のよくとれないあいさつをしてから言った。「わしがこんなところでひとりで絵を見ているのはな、家内が悪い絵じゃというて取りあげるからじゃよ」そして彼は昔からの好色そうな笑い声をあげたが、荒淫《こういん》にあれた顔にうかぶその笑いは、なんとなくぞっとするようであった。そして笑うとき、彼は女中のほうを見たが、女中は元に見とれているくせに、老人の機嫌をとるため、わざとおかしそうに笑った。しかし、老人の声も笑い声も、昔より力がなかったように、元には思われた。
しばらくすると、老人は相変わらず絵を見ながらたずねた。「おまえが外国へ行ってから何年になるかな」それで、元が答えると、今度は、「わしの次男はどうしておるかね」とたずね、元がそのことも話すと、老人は盛のことが頭にあるときは、いつでもこのことを考えているとでもいうようにつぶやいた。「あの子は外国で金を使いすぎる――盛は金を使いすぎると長男が言っておる――」そして、そのまま重苦しい気分におちいったので、とうとう元は気を引きたてるために、「来年の夏には帰ってくると言っていましたよ」と言うと、老人は若竹の下の美人の絵をながめながら言った。「うん、そう言ってきた」それから、急に思い出したように、突然、ひどく誇らしげに言った。「孟が大尉になっていることは知っているじゃろうな」そして、元が微笑しながら、知っていると答えると、老人は誇らしげに言った。
「うん、あの子は、いまではとてもりっぱな大尉になって、いい給料をとっている。それに、こんな騒がしい時代には、一家のうちに軍人がいるのは、都合のいいものでな――わしの子の孟も、このごろではえらくなったものじゃよ。わしに会いにきたが、それが外国式なのだそうじゃが、軍服を着て腰にはピストル、踵には拍車をつけてな、ちゃんとわしは見といたよ」
元は黙っていたが、この六年のうちに、孟が父に声高くののしられたお尋ねものから、父に自慢される大尉になったことを思うと、微笑を禁じ得なかった。
ふたりで話しているあいだ、伯父は元といっしょにいるのが、すこし気詰まりらしく、甥《おい》にたいする態度というよりは、客人をもてなすような態度を示し、そばの小さなテーブルの急須《きゅうす》をとって、元のためにお茶をつごうとしたりするので、元がとめると、今度は懐中からキセルを出してたばこをすすめたりした。ついには、元にも、この伯父が自分をほんとうに客人扱いしているのがわかった。伯父は当惑したような目で彼をみつめていたが、やがてついに言った。「おまえはどうも外国人のように見えるな――服といい、歩きぶりや物腰が、わしには外国人としか見えん」
元は笑ったが、これを聞いて、あまりうれしくなかった。そして、いずれにせよ、それには答えようもないので、なんとなく窮屈さを感じた。そして、すぐに、六年間別れてはいたが、彼のほうには、この伯父に言うべきことはないし、伯父のほうでも彼に言うべきことがないことがわかったので、いとまを告げた……一度彼はふり返ってみたが、伯父はもう彼のことなど忘れていた。眠くなったとみえて、からだをのばし、頤《あご》をちょっと動かしていたが、すぐに口をだらりと開け、目を閉じた。元が見ているうちに、老人は眠ってしまったらしい。というのは、女中が元の外国風の風采に見とれて、扇を動かすのを忘れていたので、ハエが一匹|頬骨《ほおぼね》にとまり、それから、だらりと開けたくちびるまでおりてきたが、それでも老人は動かなかったからである。
こうして伯父と別れると、元は伯母を探した。伯母にも敬意を表さねばならないからである。そして、応接間で待っているあいだ、彼は周囲を見まわした。帰国以来、彼は目にはいるものすべてを新しい見方ではかっている自分に気がついた。そして、自分では意識しなかったが、彼の尺度は、つねにアメリカ製であった。彼はこの部屋に至極満足した。それは彼がどこかで見た何よりもりっぱなように思われた。床には赤、黄、青が豊富に使ってある鳥獣の花の模様の絨毯《じゅうたん》が敷いてあり、壁には金縁の額に入れた明るい山や青い海の洋画がかけてあり、窓には、どっしりした赤いビロードのカーテン、椅子も同じ赤で、深々とやわらかく、ところどころ見事に彫刻した黒檀の小さなテーブルがあって、啖壼《たんつぼ》までが普通のものではなく、明るい色の青い鳥や黄金色の花模様が描いてあった。部屋の向こう側の窓のあいだには、四幅の軸がかかっていた。それは四季をあらわすもので、春は紅梅、夏は白百合《しらゆり》、秋は黄菊、冬は雪をかぶった万年青《おもと》の赤い実であった。
元は、こんな明るい豪華な部屋を、はじめて見たような気がした。どのテーブルにも象牙や銀を彫刻した小さな人形や玩具《がんぐ》がたくさんおいてあるから、ひとりで幾時間いても退屈することはないだろう。彼が一時は温かさと親しみとがあると思っていたあのアメリカの古びた褐色の部屋とくらべたら雲泥《うんでい》の差であった。伯母の部屋へ行く許しを女中が伝えてくるまで、彼は部屋のなかを歩きまわって待っていたが、そのうちに玄関先に自動車がとまって、いとこ夫妻〔伯父の長男夫婦〕が帰ってきた。
ふたりとも元が記憶している当時とくらべて考えられぬほど裕福そうな様子をしていた。いとこのほうは、もう中年に達し、父親とそっくりにふとっていた。肉づきをそのまま見せる洋服を着ているものだから、実際よりも、もっとふとって見え、大きな腹を、はっきり見せていた。そして、そのぴったりした服の上にのっている、まるい、てらてらした顔が、ひげをそってしまったので、まるで熟《う》れた黄いろいマクワウリのようであった。彼は汗を拭《ふ》き拭きはいってきたが、麦藁《むぎわら》帽子を召使に渡すときに見ると、後頭部には、三段もの肉が、ひだになっていた。
しかし、夫人は、なよやかで美しかった。もう若くはないし、五人も子供を生んでいるのだが、だれにもそうとは思えないほどであった。子供を生むと、この都会の上流社会の夫人の習慣として、子供は貧しい女に育てさせ、乳房やからだを巻いて、もとのほっそりとしたからだつきにするからである。元が見ると、夫人は処女のようにほっそりしていて、もう四十にもなるというのに、顔はぽっと赤らんで象牙のようだし、髪はつやつやと黒く、どこにも苦労や年齢にそこなわれた痕《あと》はなかった。また暑さも彼女の美しさをそこなっていなかった。彼女は、ゆっくりと進み出て、元に向かって愛想よく、しかもしかつめらしくあいさつした。そして、いつもの癇癖《かんぺき》は、汗だらけの大きな図体の夫のほうにちらと送った不快そうな視線のなかに見られただけであった。
しかし、元にたいしては丁重であった。元は、もはや小さな田舎町からぽっと出てきた青年ではなく、親戚の平凡な子供ではないからである。海外留学を終え、外国の学位をとってきたりっぱな人物なので、彼が彼女のことをどう考えているか、それを彼女も気にかけていることが彼にはわかった。
あいさつがすんで、みんな席に着き、いとこが女中にお茶を持ってくるように命じた後、元は話のつぎほにたずねた。「いま、何をしているんですか。とても景気がよさそうじゃありませんか」
これを聞くと、いとこは大きく笑い、すこぶる満悦のていで、太鼓腹にぶらさげた厚い金ぐさりをいじくりながら答えた。「元君、わたしはね、今度新しく開いた銀行の副頭取になったのだよ。戦火の及ばないこうした外国租界の銀行は、このごろ、すごい繁盛ぶりでね。ほうぼうに新しいのができるのだよ。昔はみんな土地に投資したものだ。わたしもおぼえているが、われわれのおじいさんなどは、持っている金をみんな土地につぎこまないうちは一刻も安心できないというふうで、あとからあとから土地を買ったものだよ。ところが、土地も昔のように安全ではなくなった。小作人が暴動を起こして、地主の土地をとりあげたところさえある始末だからね」
「そんなことを、どうしてとめないのですか」と元は驚いてたずねた。
すると夫人が鋭く口をはさんだ。「ああいう農民は殺してしまえばいいんですがね!」
しかし、いとこは窮屈そうに洋服を着た肩をちょっとすくめ、ふとった両手をあげて言った。「だれがとめるのかね。このごろでは、何をしたって、どうしてとめていいかわからないのだよ」そして、元が「政府は?」とたずねると、いとこは、おうむ返しに言った。「政府か! 軍閥と学生のごちゃまぜで、われわれが政府と呼んでいるあれのことかい。あいつらに何が阻止できるものか。このごろでは各自が自分を守らねばならないのだ。だから、われわれの銀行に金が流れこんでくるのさ。外国の軍隊に警備され、外国の法律の下にあるのだから安全なのだよ……わたしのいまの地位は景気がいいよ。友人の好意で手に入れたのだがね」
「わたしの友人の力ですわ」と夫人が、すぐに口をはさんだ。「わたしが骨を折ったのじゃありませんか。わたしが大銀行家の奥さんと親しくなり、その奥さんを通じてご主人と知り合いになり、あなたのことを頼んで――」
「そうとも、そうとも」と、いとこは急いで言った。「よくわかっているよ――」そう言って彼は、なんだか不愉快そうに黙りこんだが、それには、あけすけに言いたくないような事情、その地位を得るために、何か秘密の取り引きでもあったような感じであった。やがて夫人は元に話しかけたが、彼女の言葉や態度には、まず鏡の前で話してみたりやってみたりしたあげくのように、冷ややかな洗練された美しさがあった。「元さんは、りっぱになってお帰りになったのね。うんと学問もして!」
元が自分の学問を謙遜するように、ただ黙って微笑していると、彼女は、わざとらしく笑い、絹のハンカチを口にあてて、また言った。「わたしたちに、話してくださらないこと、きっとたくさん知っていらっしゃるのでしょう。だって、これだけながいあいだ外国で勉強して、行ったときと同じように何も知らないなんてことはありませんもの」
これにたいして、元は、なんと答えてよいかわからず、ぎごちなさを感じた。彼女は、うわべばかりで気が許せないようだし、うそでかこまれているようで、本心がわからないからだった。しかし、そのとき女中に手をひかれて老夫人がはいってきたので、元は伯母にあいさつするために席を立った。
この豪華な洋風の部屋へ、老夫人は召使に身をささえられながらはいってきた。やせて、腰もまがらず、髪もまだ黒いが、顔には縦横に皺《しわ》がよっていた。そして、目は昔とかわらず鋭くて、見るものすべてのあら探しをしているようだった。息子と嫁には目もくれなかったが、元のあいさつは受け、腰をおろすと召使を呼んで言った。「啖壺《たんつぼ》をとっておくれ」
召使が啖壺を持ってくると、老夫人は咳《せき》をして、上品に啖をはき、それから元に向かって言った。「おかげさまで、からだは相変わらず達者だがね、咳が出るのですよ。それに啖が、ことに朝は多くてね」
これを聞いて嫁は不快そうに姑《しゅうと》を見たが、息子はなだめるように言った。「年をとると、だれでもそうですよ、おかあさん」
老夫人は息子のほうは見向きもしなかった。彼女は、じろじろ元を見てたずねた。「わたしのとこの次男は外国でどうしているかね」そして、元が盛は達者でいると言うと、老夫人は強く言った。「あの子が帰ってきたら、すぐ結婚させます」
すると、嫁が笑い出して、遠慮もなく言った。「盛は気にそまない結婚なんかいたしませんよ、おかあさま――近ごろの若い人って、みんなそうなんですから」
老夫人は、ちらりと嫁を見やった。その視線は、嫁にたいする自分の気持ちはもう幾度となく言ったから、いまさら言ったとてしかたがないと思っていることを示していた。それで老夫人は元に向かって話をつづけた。「三男は軍人になったよ。きっともう聞いたでしょう。孟は新しい軍隊の大尉で、たくさん部下を持っています」
このことを聞いたのは二度目で、元は、この老夫人が、かつては孟のことをののしったのを思い出し、人知れず微笑した。いとこが、この微笑を見つけ、音をたてて飲んでいた茶わんをおいて言った。「そうなんだよ。弟は南方から勝ちほこった軍隊といっしょに入城してきてね、いまでは新しい首都で、とても高い地位についていて、自分の部下も持っているし、勇ましいが無慈悲な話も伝わっている。古い支配者たちは一掃され、安全を求めてほうぼうの外国に亡命したので、弟も大手をふってわたしたちに会いにこられるのだが、ただ何しろ忙しくてひまがないのだよ」
しかし、老夫人は自分のこと以外の話は聞こうともしなかった。老夫人は咳をし、大きな音をたてて啖をはいてからたずねた。「元、いよいよ外国から帰ってきて、あなたは、どんな仕事をするつもり? 外国へ留学してきたのだから、あなたなんか、いくらでも高い給料がとれるでしょう」
これにたいして、元は、おだやかに答えた。「何よりもまず、愛蘭が三日後に結婚することになっていますので、それをすませてから父のところへ行き、それから、どんな道が開けるか考えてみようと思っています」
「あの愛蘭!」と老夫人はその名を耳にすると、急に声を高くした。「わたしなら、娘をあんな男と結婚はさせません。それくらいなら尼寺へ入れてしまいます」
「愛蘭が尼寺へですって!」と息子の嫁は叫んで、皮肉そうな、例のつくり笑いをした。
「わたしの娘だったら、そうしますよ」と老夫人は嫁をにらみつけながら、きっぱりと言い、もっと何か言いたかったらしいが、急に息がつまって咳をしはじめたので、女中が肩をさすり、背をたたいて、呼吸をさせる始末であった。
やがて元はいとまを告げ、いい天気なので歩こうと思い、日をあびた街を通って帰るとき、あの老人夫婦はもう死んだも同然だと思った。そうだ、老人というものは、みんな死んだも同様なのだ、と考えてうれしくなった。しかし、自分は若いのだし、時代も若いのだ。この輝くばかりの夏の朝、この都で彼が会うのは、みんな若い人たちばかりのような気がした――美しい腕を外国風にむき出し、明るい色の服を着て、笑いさざめいている若い娘たち、いっしょになって自由に笑っている若い男たち、きょうこの都会にいるのは、みんな豊かな若い人たちばかりで、元は自分もそのなかのひとりであることを感じ、自分の人生は楽しい人生だと思った。
しかし、だれも愛蘭の結婚式のことよりほかには考えていられない日がきた。というのが、愛蘭も伍《ウー》も、同国人ばかりでなく外国人のあいだでも、この都市の若い富裕な人々のあいだでよく知られていたので、結婚式に招待された客は千人を越え、その後の披露宴にも、ほとんど同数の人が招待されていたからである。
元《ユワン》は愛蘭とふたりきりで話す機会もなく、帰国したその日、ほんのちょっと話しただけであった。しかも、そのときでさえ、ほんとに話したような気がしなかった。なぜならば、昔のからかうような、笑ってばかりいるところがなくなって、美しい完成と落ちつきに包まれているので、元には見通しがつかなかったからである。彼女は昔の率直さの残っている表情でたずねた。
「元兄さん、あなたは帰ってきてよかったと思う?」しかし、彼は答えるとき、彼女の目が彼を見ながら、ぜんぜん彼を見ていず、自分だけの心の考えごとに向けられ、暗いうるんだ輝きを持った美しい形骸のみにすぎないことを見てとった。
話しているあいだ、ずっとそんなふうだったので、ついに元は、彼女を包むこのへだたりに面くらい、不安そうに、こんなことをたずねてしまった。「あなたは変わった――幸福そうに見えない――結婚がいやになったのではないのか」
しかし、それでも彼女はうちとけてこなかった。美しい目を大きく見開き、落ちついた銀鈴のような声で笑うだけであった。「あたし、美しくなくなったでしょう、元兄さん。年をとって、顔色が悪くなって、醜くなったのよ!」それで元が急いで、「いや――そんなことはない――昔より美しい、でも――」と言うと、彼女は昔のようにちょっとからかうように言った。
「でも、なあに?――あたしは図々しく、あの人と結婚したい、結婚せずにはいられないと言わなければいけないの? あたし、いままで自分の欲しないことをしたことがあって? あたしは昔から、しょうのないわがまま娘じゃなかった? すくなくとも伯母さまがそう言っているのは聞いたことがあるし、おかあさまだって、いい方だから口には出しておっしゃらないけど、心のなかではそう考えていらっしゃるのが、ちゃんとわかっているのよ――」
しかし彼女が、いたずらっぽい目をしたり、その目を弓なりにして、かわいい眉《まゆ》をひそめたりしても、元には、その目が空虚であることがわかったので、それ以上何も言わなかった。その後、彼はふたりきりで愛蘭と話したことはなかった。それというのが、その三日間というもの、彼女は毎晩新しい衣装を着、色とりどりの絹をまとって出かけたからで、元はいっしょに招待されたときでも、自分のことにばかり没頭していて、人のことは夢の中のように見ているらしい彼女の美しい、きらびやかな、このごろでは他人のような気がする姿を、ただ遠くから見ているばかりであった。
愛蘭はこれまでになかったほど黙りがちだった――高い笑い声は、ただ微笑するだけにかわり、輝いていた目はなごやかになり、からだは丸味を帯び、やわらかく、しとやかになって、物腰にも、昔のような軽やかな、はねるような陽気さが失《う》せて、ゆったりした、落ちついた優美さが加わっていた。彼女は華やかな若さの魅力をすて、この沈黙と優美さの魅力を、あらたに得たのであった。
昼間は、彼女は疲れて眠っていた。元と母と美齢《メイリン》だけが顔をあわせ、いっしょに食事をしたが、みんな声も動作も静かなので、日が暮れ、愛蘭が起きてきて愛人を迎え、客として招待されている家へいっしょに出かけるまでは、家じゅう、ひっそりとしていた。愛蘭が早く起きるのは、出入りの仕立屋にあつらえた絹や繻子《しゅす》の衣装を、からだにあわせるときだけで、こうした衣装のなかには、長い銀色の外国風のヴェールのついた薄桃色の繻子の結婚衣装もあった。
結婚式まで、あと幾日もないというのに、母の老夫人が、あまり口もきかず、沈みがちであるのに元は気づいた。美齢以外には、ほとんどだれとも話をせず、美齢にすっかり頼りきっているように思われた。「愛蘭にスープを持っていってくれましたか」とか、「愛蘭が今夜帰ってきたら、スープか、あの子の好きな外国の粉ミルクを食ませてください。顔色が悪いようだから」とか、「愛蘭がヴェールをとめるのに真珠が二つほしいと言っています。あの子に見せたいから、宝石商に持ってくるように言ってください」というようなことを老夫人は美齢に言いつけていた。
老夫人の心は愛蘭のためにしてやらねばならないこうした小さなことでいっぱいだった。そして元にも、それは母として当然なことと思われたので、この若い娘がいて夫人の手助けをしてくれるのがありがたかった。一度、老夫人が留守で、彼らふたりきりで食事になるのを待っていたとき、元は何を言っていいかわからず、それでいて何か言わなければいけないような気がしたので、美齢に向かって言った。
「あなたのおかげで母はたいへん助かっています」娘は素直な目を彼に注いで言った。「わたしは赤ん坊のとき夫人に助けていただいたのですもの」
元は「そうだそうですね」と答えたが、その娘の目には、恥ずかしさ――自分は捨て子なのだ、両親さえも知らないのだと言わなければならないときに感じるであろうような恥ずかしさがぜんぜんうかばないので彼は驚いた。それから元は、母にたいするその娘の気持ちから、彼女が自分の家族のひとりのような気がしたので言った。「妹が結婚するのだから、おかあさんも、もうすこし幸福そうにしていいと思いますね。母親というものは娘が結婚するときにはよろこぶものだと思います」
しかし、これにたいして美齢はなんとも答えなかった。彼女は目をそらしたが、ちょうどそのとき召使が食事を運んできたので、彼女はそれをテーブルにならべはじめた。元は彼女の仕事ぶりを見守っていたが、彼女はそれを非常にてきぱきと片づけて行って、女中のするのとは、まるでちがっていた。彼は、われを忘れて見守っていたが、彼女のしなやかなからだが、細くて、しかも丈夫そうなのや、むだな動きが一つもなく、たしかな手を、すばやく働かせているのを発見した。そして、彼女が老夫人から言われたことを一度も怠ったことがないのを思い出した。
こうして日々はすみやかに流れ、愛蘭の結婚式の当日となった。盛大な結婚式で、この都市でも一ばん大きな一ばん上流のホテルに、来客は午前十一時に招待されていた。愛蘭の父の王虎は出席するはずがないし、伯父は年をとっていて長く立っていられないので、伯父の長男が代理をつとめ、愛蘭のそばには片時も離れずに母が付き添っていた。
この結婚式は新しい方式にしたがって挙げられ、祖父の王龍《ワンルン》が妻たちをめとったときの質素な式ともちがうし、その息子たちがしたような先祖以来さだめられている古い方式の結婚式ともちがっていた。近ごろでは、この都市の人々は、息子や娘を、いろいろな方式で結婚させ、古いものもあり、新しいものもあったが、愛蘭とその愛人は、最新式の結婚式でなくては承知しなかった。そこで当日のために雇った外国軍隊に音楽を演奏させ、式場を花でうずめたので、これだけでもたいへんな金がかかった。
招待客は各国固有の礼服を着て出席した。というのが、愛蘭とその愛人は、そうした諸外国の人々をも友だちにしていたからであった。こうした人々がホテルの大広間に集まった。ホテルの外の通りは来客の自動車や浮浪人や貧乏人でいっぱいで、浮浪人や貧乏人は守衛を雇って制止させてはいたのだが、それでも彼らは、この日の騒ぎで何かもうけようと、物乞いをしたり、集まった人々のポケットにそっと手を入れて懐中物をとろうとしてひしめきあっていた。このたいへんな群衆のなかに、元と母と愛蘭を乗せた自動車が乗り入れてきた。運転手は人をひかないように警笛を鳴らしつづけであった。守衛が、その自動車に花嫁が乗っているのを見ると、走り出てきて、「どけ! どけ!」と群衆にどなった。
この騒ぎのなかを、愛蘭は、二つの真珠と香り高い小さなオレンジの花輪で飾られた長いヴェールの下で頭をほんのちょっとかしげ、黙々と誇らしげに通って行った。両手に白百合の大きな花束と、香りのよい小さな白ばらの束をかかえていた。
これほど美しい女性はかつていなかったであろう。元でさえ、その美しさにうたれた。おもてにあらわそうとはしなかったが、彼女のくちびるには、とりすました堅い微笑がただよい、伏せたまぶたの下には目が黒く白く輝いていた。それというのは、彼女は自分の美しさを知っていたからである。自分の美しさを一かけらも見落とさず隅々《すみずみ》まで知っており、そしてその美しさを極致まで育てあげていたからである。彼女の前では群衆さえ沈黙し、自動車から降り立ったとき、その百千の目は、むさぼるように彼女に吸いつけられ、その美しさをすっかりのみつくした。はじめは声もたて得なかったが、やがて、こんな声が聞こえてきた。
「おい見ろよ!」「ああ、なんて美しいんだろう。なんて美しいんだろう!」「ああ、こんな美しい花嫁は見たことがない!」愛蘭にも、これはすっかり聞こえたにちがいないのだが、彼女は、聞こえないふりをしていた。
彼女が大広間にはいると同時に、楽隊の演奏がはじまった。集まった来客は、いっせいに彼女のほうを見たが、外の群衆と同じように彼女の美しさにうたれて、沈黙が彼らを襲った。一足さきにはいって新郎のそばに立っていた元は、愛蘭がばらの花をまいてゆく白い衣装の子供ふたりを先に立て、色とりどりの絹の衣装を着た乙女たちを従え、来客たちのあいだをしずしずとはいってくるのを見て、一同とともに、その美しさに心をうたれずにはいられなかった。しかも、その瞬間にさえ、あとになるまで自分でも知らなかったのだが、愛蘭に付き添っている美齢の姿が非常にはっきりと目に焼きつけられていた。
結婚式は、とどこおりなく終わり、ふたりのあいだに誓約書がとりかわされ、新郎新婦が作法どおり両家の人々や来客一同にあいさつし、それから盛大な祝宴とお祭り騒ぎがつづき、新婚夫婦が蜜月《みつげつ》の旅へと立ち、すべてが無事にすんで、家へと帰る途々《みちみち》、そのことを考えていた元は、ふと美齢のことを思い出し、そんなことを思い出した自分を意外に思った。彼女は愛蘭の前に立って歩いていたのだが、愛蘭の美しさとならべても、美齢のかげは、すこしも薄くないような気がした。
元はよくおぼえているが、彼女は袖の非常に短い、襟《えり》の高い、うす緑色の、やわらかい、ながい衣装を着ていて、その顔は衣装の色以上に清らかに、なんとなく青ざめ、毅然としているように見えた。愛蘭とはまるでちがっているというそのことのために、彼女は、そのような美しさにたいして自分が持っているものをしっかりと守っているようであった。というのは、美齢の顔は、愛蘭のように、顔の色や、表情の変化や、輝くような目や、微笑などに負うところのものは何もなかったからである。美齢の気品高い顔は、しまった清らかな肉の下の非のうちどころもない骨格の線からきたもので、それは若さをうしなったずっと後までもその力と高貴さを残す線だと元は思った。いまの彼女は年のわりに老《ふ》けていた。しかし、年をとると、いつかは、そのまっすぐな鼻、そのかっこうのいい頬とあご、はっきりとしたくちびる、頭にぴったりとなでつけた、くせのない、短い黒い髪などは、ふたたび彼女に若さをあたえるであろうと思われた。浮世の苦労も彼女をひどく変えることはないであろう。彼女の物腰には、いまでもなんとなく重々しさがあるが、それだけに年をとってもなお若さをたもっているだろうと思われた。
元はこの重々しい態度をおぼえていた。結婚式につらなっている人々のなかで、重々しい態度をしていたのは、母と美齢のふたりだけであった。祝宴となり、世界各国の酒がつがれ、来客がずらりとならんだどのテーブルからも、これまで口にされたことがないような機知にとんだ言葉がかわされ、乾杯がつづき、新郎新婦が来客のあいだを通りながら、みんなと声をあわせて笑っている、そんなときでさえ、元は自分と同じテーブルについている母の顔が晴れ晴れしくなく、美齢の顔もそうであるのに気づいた。このふたりは、ときどき低い声でささやきあったり、あちこちの召使に指図《さしず》したり、ホテルの支配人と相談したりしていた。それで、こんなに気をくばらなければならないので、ふたりは、晴れ晴れしくない顔をしているのだろうと元は思って、それほど深く気にとめず、目くるめくばかりの広間をながめていた。
しかし、その夜、何もかも片づき、彼らだけになり、召使たちが椅子のカバーをかけなおしたり、あちこちをちゃんと片づけるために行き来しているだけで、家じゅうが静かになると、老夫人は口もきかず、ぐったりと椅子に腰をおろしたので、元は気をひきたてるために何か言わなければいけないような気がして、やさしく言った。「愛蘭はきれいでしたね――あんなに美しいのを見たことがありません――まったく美しかった」
老夫人は、ものうげな調子で答えた。「あの子は美しい子です。この三年間、あの子はこの都会の上流の若い女のうちでは一ばん美しいといわれてきました――美しいので有名でした」老夫人は、しばらく黙っていたが、やがて妙に苦々しさをこめて言った。「そうなのです。しかも、わたしはそうでなければよかったと思います。あの子が、あんなに美しかったことは、わたしにとっても、あの子にとっても生涯ののろいでした。そのために、あの子は何もしなくても、けっこう世の中をおもしろく過ごせたのです。頭を、手を、そのほか何を使う必要もなかったのです――ただ人に自分を見させておけば、賞賛や、望むものや、その他ほかの人なら苦心して得られるものが、ひとりでにあの子には得られたのです。そういう美しさにまけないためには、非常に偉大な精神が必要です。ところが愛蘭は、それに対抗できるほど偉大な精神を持っていませんでした」
夫人がここまで言うと、美齢が手にしていた縫い物から目をあげ、静かな、訴えるような調子で言った。「おかあさま!」
しかし老夫人は、今夜はもうこの苦しさに辛抱できないとでもいうように言葉をつづけた。「わたしは、ほんとうのことを話しているのです。あの美しさにたいして、わたしは一生をかけて戦いました。そして、ついに敗れたのです……元、あなたはわたしの息子です。あなたになら話せます。あなたは、わたしが愛蘭をあの男と結婚させたのを、ふしぎに思っていますね。それが当然なので、わたしだって、あの男を好きでもなければ、信頼もしていません。でも、しかたがなかったのです――愛蘭はあの男のために妊娠しているのです」
この恐ろしい言葉を、老夫人は、きわめて淡々として言った。元は、これを聞いて心臓の鼓動がとまるのを感じた。彼には、こうした事実の恐ろしさを感じるだけの若さがまだあったのだ。自分の肉親の妹が……彼は非常に恥ずかしい気持ちで美齢を見やった。彼女は、うつむいて縫い物をつづけ、何も言わなかった。顔色も変わらず、ただいっそう重々しく、静かな表情になっただけであった。
しかし、老夫人は元の視線をとらえ、その意味をさとって言った。「心配するには及びません。美齢は、何もかも知っているのですから。美齢がいてくれなかったら、わたしは生きてゆけなかったでしょう。しなければならないことを考えたり、計画したり、すべてに相談相手になってくれたのは美齢でした。わたしにはだれも相談相手がいなかったのですものね、元。美齢は、あの美しく愚かな娘にも妹のようにつくしてくれ、あの子も美齢に頼りきっているのです。わたしが、あなたを呼び返そうとしたときも、美齢はとめたのですよ、元。相談相手になってくれる息子がいなければ、とわたしは考えたことがあったのです。だって、新しい離婚の方法なんか、なんにも知らないし、そうかといって、恥ずかしくて、あなたのいとこにも相談する気にはなれませんでした。でも、せっかくのあなたの留学を台なしにしてはいけないと言って美齢がとめたのです」
それでも、元は一言も言えなかった。血が頬にあがってきて、恥ずかしくもあり腹立たしくもあり、混乱した気持ちであった。老夫人は彼の混乱をよく理解し、悲しげに微笑して、また話をつづけた。
「わたしはおとうさんにも相談する気になれませんでした。だって、おとうさんの唯一の解決法は殺すことだけなんですものね。たといそうでなくても、おとうさんには話せません。これは愛蘭のためにわたしがしてやったこと、こんな自由な空気のなかで娘を学校へやり教育したことの悲しい結果なのです。では、これが新しい時代というものでしょうか。昔だったら、こんなことをすればふたりとも殺されてしまいます。ところが、いまではなんのこともありません。ふたりは新婚旅行から帰ってきて、楽しく暮らし、やがて愛蘭の子が普通よりも早く生まれるでしょう。それでも、世間の人は手のかげでこそこそうわさするくらいのものです。このごろでは早く生まれる子供がたくさんありますからね。これが新時代なのです」
老夫人は愁《うれ》わしげな微笑をうかべたが、目には涙が光っていた。やがて美齢は縫っていた絹の布をたたみ、それに針を刺し、老夫人のそばへきて慰めるように言った。「おかあさまは疲れていらっしゃるものだから、心にもないことを言っていらっしゃるのですわ。おかあさまは愛蘭のためにできるかぎりのことをなさいました。それは愛蘭にもよくわかっていますし、わたしたちみんなにもわかっています。さあ、もうやすみましょう。わたし、スープを持ってまいります」
老夫人は美齢の言葉に、おとなしく立ちあがった。これでみると、こういうことがいままでにもよくあったらしい。老夫人は、うれしそうに娘の肩によりかかって部屋を出て行ったが、元は、いま聞いたことで心が混乱して、相変わらず一言も口がきけず、ふたりが出て行くのを見守っているばかりであった。
骨肉をわけた妹の愛蘭が、そんな無軌道なことをしたのか! 彼女は自由を、そんなふうに用いたのか。二度とも虎口を脱したとはいえ、そのような無軌道な情熱が、妹のおかげで彼の生活にも二度しのびよったことがあったのだ。彼は乱れた心を抱いて、そろそろと自分の部屋へひきあげた。彼には愛も苦しみも、それだけが単純に訪れたことはなかった。いつも心が二つにわかれて争っていたのである。いまも、彼の心の半分は、一点のけがれもない女として誇りたく思っている妹に、そんなことが起こるべきではないと思うがゆえに、愛蘭の無思慮さを恥じていながらも、また心の他の半分では、その無軌道さのうちに、ひそかな甘美さを感じ、自分でもやってみたいと思うのであった。だから彼は、はんもんせざるをえないのである。帰国後、これがはじめて彼に訪れた疑惑であった。
結婚式が終わると、子としてこれ以上父のところへ帰るのをのばすのはよくないと元は思った。それに、もともと彼も行きたかったし、またこの家にいることがいまでは悲しく思われたので、いっそう早く行きたかった。老夫人は以前にもましてひっそりしているし、美齢は寸暇をおしみ、わきめもふらず勉強していた。元は帰郷の準備をしている二日間、ほとんど彼女と顔をあわせなかった。一度は彼女が自分をさけているのではないかと思ったが、すぐに、(それは老夫人が愛蘭のことを話したからなのだ。慎み深い娘なら、それを気にして自分に近づかないようにするのは当然だろう)と思い、その慎み深さに好意を持った。しかも、いよいよ北へ向かって行く汽車で出発しなければならないときになると、美齢に別れを告げてから出発したい、このまま会わずに一か月も二か月も別れていたくない、と思った。それで、夜の汽車でたつことにした。そうすれば、学校から帰る美齢にも会えるし、老夫人と三人だけで食事をし、しばらく静かに語りあえると思ったからである。
そして、語りあっているときも、彼は美齢の話しぶりに、いつのまにか聞きほれているのであった。
その話しぶりは、いつもはっきりして、やわらかで、気持ちがよくて、むやみに恥ずかしがることもなく、世間の若い娘が笑うときのように、くっくっとしのび笑いをするようなこともなかった。いつも縫い物を忙しそうにしていたが、一、二度、女中があすの食事のことや、そんなふうなことをたずねにきたとき、元が聞いていると、女中は老夫人にはたずねず、美齢にたずねるのであった。また美齢も、もの慣れた態度で指図をするのであった。それに彼女は、そう無口でもなかった。その夜は、老夫人は、ふだんより静かだったし、元も黙りがちだったので、美齢が学校のことだの、医者になりたいと昔から思っていたことなどを話した。
「最初わたしに医者になりたいという気持ちをおこさせたのは、おかあさまでしたの」と彼女は言って、静かな、晴れやかな目を老夫人のほうへ投げた。「いまでは、わたしも大好きになりました。ただそれには、ながいあいだ勉強しなければなりませんし、学資もたくさんかかります。それをおかあさまがしてくださるのですから、わたしもご恩返しにお世話させていただいているのですわ。いつまでもごいっしょにいようと思っていますの。わたしは、いつかは、どこかの町に自分の病院がほしいと思っています。子供と女のための病院ですわ。まんなかにお庭があって、そのぐるりにベッドや治療室などのある建物があって――あまり大きくなく、わたしひとりで手がまわるくらいで、でも、すべて清潔で、きれいな病院を経営したいと思います」
こうしてこの若い娘は、その希望を語るのであったが、語るうちに夢中になって縫い物をそばへ押しやってしまった。目が輝きはじめ、くちびるには微笑がうかんでいた。たばこを指にはさんだまま彼女をみつめていた元は、驚いて、(この娘だってずいぶん美しいではないか)と思い、彼女の顔を見ているあいだ話を聞くのを忘れていた。突然、彼は自分が不満を感じているのに気づき、なぜだろうと心の中をのぞいてみると、それはこの娘が自分ひとりの人生を計画し、それで十分だと思って、だれもそのなかに入れようとしないのが不愉快なのだとわかった。女性が結婚のことを考えないで人生の計画を立てるのはよくないことだと、そのときの彼には思われた。しかし、そんなことを考えながらも、彼の目には老夫人の顔が見えた。結婚式以来はじめて夫人は興味ありげに目を輝かせ、美齢の話を聞いているのであった。そして、夫人は熱をこめて言った。
「わたしも、それほど年をとっていないなら、その病院で、何かの役に立ちたいと思っていますよ。わたしたちの時代より、いい時代になりました。女が無理に結婚させられないだけでも、いい時代です」
老夫人の話を聞き、元は、それをもっともだとも思い、そう思っていることを言いたいとも思ったが、それでもなお自分の気持ちにそぐわないものを感じた。男ひとりが女ふたりを相手にして話のできる問題ではなかったが、女は結婚すべきだということは、なんとなく反対すべき理由も疑問もない問題だと彼は思った。しかも、自由を求める彼女たちの熱烈さは、彼の心にちょっと冷たいものを残したので、いよいよ別れを告げたときも、思っていたほど名残り惜しさを感ぜず、自分の心のどこかが傷つけられたらしいのだが、さて、どこをどんなふうに傷つけられたのかわからないといったとまどいをおぼえた。
汽車の狭い寝台に身を横たえてから、ずっとながいあいだ、彼は、このことを、そしてこの国の新しい女性のことを考えた。愛蘭は自由にふるまったがために母を悲しませたが、しかもその同じ母が美齢の一生の自由な計画をよろこんでいるのだ。やがて元は、すこしいまいましくなって考えた。(美齢だって、そう自由になれるかどうか怪しいものだ。計画を実現するのが困難なことが、そのうちにわかるだろう。そして、いつかは、ほかの女と同じように夫や子供がほしくなるときがくるにきまっている)
そして彼は、いままでに知り合いになった女たちを思いうかべ、どこの国でも彼女らが、表面にこそ出さないが、すくなくも心のなかでは男に心をひかれていたことを思った。それでいながら、どんなに記憶のなかで美齢の顔や話しぶりを探してみても、彼女の表情に、あるいは声に、男に心を動かしているようなようすは一つも発見できなかった。ひょっとすると彼女が心を寄せている青年がいるのではあるまいかと考え、彼女が行っている学校には男の学生もいることを思い出した。すると、まるで静かな夏の夜から突如として吹きおこる一陣の風のように、突然見も知らぬその学生たちにたいして嫉妬の念がわいてきた。それがあまりにはげしいので、彼は、そんなことを考える自分をこっけいだと思う余裕もなく、美齢がだれに心を寄せようと自分の知ったことではないではないかと考えてみる余裕もなかった。これは、ぜひとも美齢に注意をあたえるべきだ。美齢を、もっと厳重に守ってやるべきだと、老夫人に忠告しようとまじめになって考えた。彼は、いままでだれにも抱いたことのないほど強い関心を美齢にたいして抱いたが、なぜ自分がそんなに関心を抱くのか、それについては一度も考えてみたことはなかった。
汽車が動揺し軋《きし》り進んでいるあいだ、そんなことを考えながら、やがて、いつのまにか彼は悩み多い眠りに落ちた。
元の心から、しばらくのあいだ、こうした考えをすべて追い払うようなことが、つぎつぎと起こった。帰国以来、彼は、この海岸の大都市の生活しか知らなかった。夜も昼も、あらゆる種類の車、自動車や電車、温かく、華やかな服を着て、それぞれ、忙しそうにしている人々でうずまった広い街以外には、何も見ていなかったのである。汗を流して走る人力車夫や行商人のような貧しい人々もいたが、それでも夏は彼らも、そうあわれに見えず、洪水や飢饉から逃げ出して都の街々でその日の食にありつこうとする冬の乞食の姿は見あたらなかった。むしろこの都会は、彼が見たどの都会とくらべてもまさっている愉快なところのように元には思われた。ここは、いとこの新築した家とか、結婚披露宴とか、輝くばかりの結婚祝い品とか、そうした楽しみや富に満ち満ちているのだ。彼が出発するとき、老夫人は、すぐに金だとわかる厚い紙の束を渡してくれたが、彼のために父が送ってくれたものと思って、彼は無造作にそれを受けとった。彼は、この世界に貧乏人がいることを、ほとんど忘れ、自分の一家は金持ちで食うに困らないのだと信じていたのである。
しかし、翌日汽車のなかで目をさまし、窓外をながめると、彼の目にうつったのは、彼が考えていたような風景ではなかった。汽車は大きな川のそばで停車し、乗客はみんな降りて、小さな舟で川を渡り、対岸からまた汽車に乗らなければならなかった。それで元も、ほかの人たちといっしょに屋根のない底の広い渡し船に乗りこんだが、舟は広いといっても全部の乗客を乗せるだけの広さはなく、最後に乗った元は、水に触れんばかりのふなべりに立っているほかなかった。
元は、かつて南方へ行ったとき、この川を渡ったのを、よくおぼえているが、そのときは、いま見るようなことを見なかった。なぜなら、ながいあいだ他のものを見慣れてきた彼の目は、いまでは、こうしたものを新しい観点から見るようになっていたからである。川上には小舟が密集して、さながら水上の町のような観を呈し、そこから悪臭がたちのぼって、吐き気を催させた。いまや八月で、やっと夜が明けたばかりだというのに、もう、うだるような暑さであった。日の光は、そう強くはなかった。空は黒く低く、川面《かわも》と大地をおおうばかりの雲に閉ざされ、どこにも、そよとの風もなかった。このどんよりした光のなかで、人々は渡し船を通すために各自の小舟をおしやるのであるが、小さな艙口《そうこう》からはい出てくる男たちは、ほとんど裸で、暑さに眠れず、陰鬱な、ぼんやりした顔をしていた。女たちは泣きわめく子供たちをどなりつけ、ヨモギのような髪をごしごし掻き、裸の子供たちは腹をへらし垢《あか》だらけになって泣いていた。そんな小さな舟には、夫婦子供が、すし詰めに住んでいて、彼らがその上で暮らしたり飲んだりしている水からは、彼らが流しこむ汚物のため、胸がむかつくような悪臭がたちのぼっていた。
その朝、元の目の前に突然あらわれたのは、こうした光景であった。しかし、この光景は一瞬間とつづかずに消えた。というのは、渡し船は岸にもやった小舟の群れを離れて、ひろびろとした川の中流に出たからである。不潔な男たちの顔から離れた元の目は、つぎの瞬間には、滔々《とうとう》と流れる黄いろい川の流れを見ていたのだ。そして、その変化に気づくか気づかないうちに、渡し船は上流に向かって針路を変え、灰色の空を背景にして雪の峰のようにくっきりとそびえた白塗りの大きな汽船のそばを通った。元も他の人々と同じように船尾を見あげた。そこには外国の赤と青の旗がひるがえっていた。しかし、渡し船が横を通るとき、大砲の砲口が黒く見えた。外国の大砲である。
それを見ると、元は貧乏人の悪臭も、彼らがすし詰めに乗っている小舟も忘れてしまった。彼は川の上下をながめたが、黄いろく流れる中流には、こうした大きな外国の軍艦が七隻までも数えられた。自分の国の中心部に外国の軍艦が警備しているのである。これを数えたその瞬間、彼は他のすべてのことを忘れた。軍艦にたいして、猛烈な怒りが燃えあがってきた。対岸に上陸したときも、憎悪と、それらの軍艦はなんのためにいるのかという疑問を抱いて、ふり返らずにはいられなかった。しかも、それらは白く美しい姿をそこに横たえているのであった。たえず岸に向けてあるあの黒い大砲は、一再ならず地上に火と死の洗礼を浴びせたことがあるのだ。元はそのことをよくおぼえていた。軍艦をみつめているうちに、元は、あの大砲から、いつなんどきわが国民の上に火の雨が降るかわからないのだということ以外、何も忘れてしまい、「あの軍艦は、ここにいる権利はない――われわれは、わが国の水面から彼らを追い払わなければならない」と痛憤やるかたない気持ちでつぶやき、このことを肝に銘じ、その痛憤を抱いたまま、また汽車に乗って父のもとへ旅をつづけた。
ところが、元は自分の心に不可解なことがおこったのを発見した。それらの白い軍艦にたいして怒りを抱き、国民に砲火を浴びせたことを思い返しているあいだは、そして、国民が外国人によって圧迫されたあらゆる不正を思い返しているあいだは――こうした事実は無数にあって、帝政時代に諸外国が軍隊を派遣して破壊略奪をほしいままにし、皇帝に迫って不平等条約を結ばせたことは学校で習ったし、彼がものごころついてからも、そういうことはあったし、この大都会でも、彼が外遊中、祖国の大義名分を叫んだというので、白人の警備隊から多くの青年が射殺されたことがあったのだ――そのような不正を思い返しているあいだは、彼も熱情に似たものに満たされ、食事のあいだも、かすめてゆく窓外の畑や村をながめているあいだも、何をしているあいだも考えていた。(祖国のため何かしなければならない。孟《メン》は正しい。彼のほうが自分よりすぐれている。孟は単純だから、自分よりも真理に徹しうるのだ。自分は弱すぎる。ひとりの善良な老教授がいるからとか――りこうな口をきくひとりの女がいるからというだけで、その国民全部が善良だと信じこむのだ。孟のように外国人を心から憎み、その強い憎悪でもって祖国の人々を助けなければならない。なぜならば、いまわれわれを奮起させる力があるのは憎悪だけだからだ――)あの外国の軍艦を思いうかべながら、彼はこんなことを心に考えたのであった。
ところが、こうした希望にしがみつこうと欲しながらも、元はしだいに熱がさめてくるのを感じずにはいられなかった。そして、この冷却作用は、ほんのちょっとした、説明できがたい形で生じてきたものであった。ひとりのふとった男が、彼と向かいあわせの席にすわっていた。すぐ近くにいるので、その大きな図体から、いつも目を離しているわけにはいかなかった。時間がたつにつれて、車内はだんだん暑くなり、風のない雲間を通して、太陽は汽車の金属の屋根を焼けるように照りつけ、車内の空気が燃えるようになってくると、その男は着物をすっかりぬいで猿股《さるまた》一つになり、悠然と裸ですわっているのである。胸も、厚い黄いろい脂肪ぶとりの肉でだぶだぶしている腹も、肩まで垂れさがった首の贅肉《ぜいにく》も、すべてまる出しである。しかも、それだけでは足りないとみえて、夏だというのに、さかんに咳《せき》をする。はげしい咳で、できるだけ大きな音をたて、しょっちゅう啖《たん》を吐く。元のところまで唾《つば》がとんでくる始末である。こうして、祖国のための義憤の感情のなかへ、同国人であるこの男にたいする不快さが忍びこんできた。
ついに元は憂鬱になった。この動揺する汽車のなかは暑くて、ほとんど生きていられないほどだった。だから、つい見たくない光景が目にうつってきた。というのも、この暑さと疲労のため、乗客たちは生きて目的地までたどりつくこと以外は何も考えなくなっていたからである。子供たちが泣き叫んで母親の乳にすがりつく。停車場につくごとに、窓からハエが飛びこんできて、汗ばんだ肌や、床に吐いた唾や、食物や、子供たちの顔にとまる。ハエは、いたるところにいたし、気にかける理由もないので、以前にはハエになど注意もしなかった元も、外国の生活をし、ハエが死を運んでくることを学んだので、このごろでは、ひどく潔癖になり、お茶のコップや、駅売人から買ったパンや、昼に列車給仕から買った卵飯などに一匹でもとまると、どうにも我慢がならなかった。それでも、給仕のまっ黒な手や、飯を盛る前に皿をふく布巾《ふきん》がねばねば油光りしているのを見ると、いくらハエを不愉快に思っても役に立たないではないかと思わずにはいられなかった。それでも、不愉快はつのるばかりで、とうとう元は給仕をどなりつけた。「そんな不潔な布でさわるくらいなら、皿をふかないでくれ!」
これを聞いて給仕はびっくりして目をみはり、愛想よく笑ったが、ちょうどそのとき、いかにきょうの暑さがひどいかを思い出したとみえて、汗だらけの顔をその布巾でふき、首にひっかけた。もう元は食物に手をつける気にもならなくなった。彼は、さじをおいて、給仕をののしり、ハエをののしり、床の上の汚物をののしった。すると給仕は、そのような罵倒《ばとう》がいかに不当であるかに憤慨し、天も照観あれとばかり、えらい剣幕でののしり返した。
「わたしはね、ひとりきりですぜ。ひとりきりの仕事をすればいいんですぜ。味もわたしの仕事じゃないし、ハエもわたしの仕事じゃないんだ。夏になってハエを殺すことに時間をつぶすやつがあるもんか。この国じゅうの人間が一生かかってハエを殺したって殺しつくすことができるもんじゃない。ハエは自然にわくもんだからね!」そう言って溜飲《りゅういん》をさげると、給仕は腹をかかえて笑った。怒っても、もともと気のいい男なのである。そして笑いながら行ってしまった。
しかし、乗客は退屈しきっていて、何かことあれかしと待っていたので、ふたりの話を聞くと、みんな元に反感を持って給仕の味方をした。ひとりが、こんなことを言った。「まったくの話、ハエなんて、なくなるものじゃないよ。どこからわいてくるのか知らんが、ハエだって生きているんだからな」するとひとりの老婆が言った。「そのとおりですよ。ハエだって生きていたいと思うのは無理もありませんよ。わたしゃハエの生命だってとるのはいやですね」すると、またひとりが軽蔑するように言った。「あいつは外国から帰ってきた学生で、愚にもつかぬ外国の考えをおれたちに押しつけようとしているんだよ」
これを聞くと、飯と肉をたらふく平らげ、いまは大きなおくびを吐きながら、しかつめらしくお茶を飲んでいた、元の前にいる例のふとった男が、ふいに言った。
「そうか、外国帰りか! わしは一日じゅうこうして見ていて、何ものだろうと考えていたのだが、どうにもわからなかった」そして、元の素性がわかったので満足し、なおも珍しそうに彼を見つづけ、見ているあいだもお茶を飲んだり、おくびを出したりするので、元はもう辛抱できなくなり、窓外の坦々《たんたん》たる緑の平野に、じっと目をすえていた。
彼は誇りを持っていたので、そんな男を相手に口をきく気になれなかった。それに食べる気もしなかった。幾時間も幾時間も、彼は窓の外をながめていた。蒸し暑くなった空の下の土地は、ますます貧弱になり、汽車が北へと進むほど、沼や池が多くなったが、それさえ平凡を加えるにすぎなかった。停車場に着くごとに、乗りこんでくる人々の姿は、いよいよ貧乏くさくなって、腫物《はれもの》や眼病にかかっているものが多かった。いたるところに池があるのに、からだを洗ったこともなく、女の多くはいまだに、元がもうすたれたと思っていた古い悪習の纏足《てんそく》をしていた。彼は彼らを見て我慢がならなかった。「これがわが国民なのだ!」と、ついに彼は吐き出すように心のなかで言い、あの白い外国の軍艦のことを忘れてしまった。
しかも、彼が耐えなければならぬ苦痛は、これだけではなかった。元はそれまで気がつかなかったが、車室の向こうの端にひとりの白人が乗っていた。土壁をめぐらした小さな田舎町に住んでいるらしく、汽車がそこに着くと、降りようとして元のそばを通った。そして通るとき、元の悲しそうな若々しい顔を認め、また元がハエのことをののしったのをおぼえていたので、元がどんな人物か察していたらしく、慰めるつもりで英語で言った。「友よ、失望してはいけません。わたしもハエを相手に戦っています。そして、これからもその戦いをつづけます」
元は外国人の声と言葉を聞いて顔をあげた。そこに立っているのは、小柄な、やせぎすの白人で、灰色の木綿の服を着て、うす青い目が、やさしそうだった。しばらく剃刀《かみそり》をあてたことがないらしく、平凡な顔をして、ヘルメットをかぶっていた。元は外国の宣教師であるとさとった。彼は答えることができなかった。彼がすでに見てきたことを見、彼がすでに知っていたことを知った白人がいるということは、どうにも耐えがたい苦痛であった。彼は顔をそむけて返事もしなかった。しかし彼の席からは、その白人が汽車を降り、群衆のなかを土壁をめぐらせた町のほうへと歩いて行く姿が見えた。すると元は、留学中に他の宣教師が、「あなたもわたしが送ってきたような生活をしたら――」と言ったことを思い出した。
元は、みずからを責めるように考えた。(どうして自分はこれまでこれに気がつかなかったのだろう。きょうまで自分には何もわかっていなかったのだ!)
しかも、これは元が見なければならない事物の、ほんの手はじめにすぎなかった。というのが、とうとう父の王将軍の前に立ったとき、彼が見たのは、ついぞ見たこともない父の姿だったからである。広間の入り口の柱にすがり、息子の帰りを待って王将軍は立っているのだが、昔の気力はすっかり消え失せ、例のかんしゃくさえ起こさず、ながい白いひげが、まばらにあごからたれ、目は老齢の過度の飲酒のために赤くかすみ、そのため近くにくるまで元の姿が見えず、ただ彼の声だけを頼りにしている、しなびた老爺《ろうや》になっていたのだ。
元が通ってきた中庭には雑草がおいしげり、そのあたりに立っている兵隊の数もすくなく、それもほんの数人がボロを着てのらくらしているだけで、門の衛兵は銃も持たず、誰何《すいか》もせずに彼を通し、将軍の子息にたいする当然の敬礼もしないのを見て彼は驚きあきれた。しかし、父がこんなにやせおとろえていようとは思ってもいなかった。老将軍は古びた灰色の地の長衫《チャンサ》を着ているのだが、椅子のひじですりきれたのであろうか、袖《そで》のところにはつぎがあたっているし、足には布の上ばきをはいているのだが、踵《かかと》がめくれていて、手には長剣さえ持っていなかった。
元が、「おとうさん!」と呼びかけると、老人は声をふるわせながら、「ほんとにおまえか」と答えた。そしてふたりは手をとりあった。鼻も口も、かすんだ目も、昔より大きいように思われた。しなびた顔には大きすぎるのである。そのような父の年老いた顔を見ると、元は思わず目に涙があふれるのをおぼえた。その顔を見ていると、これがあの王将軍だろうか、これがいつも自分がこわがっていた父、その渋面やまっ黒い眉《まゆ》が、かつてはあれほど恐ろしかった父、眠るときすら長剣を手から離さなかった父だろうかと思われるほどだった。しかし、それは、王虎将軍にまちがいはなかった。なぜならば、それが息子だとわかると、彼はすぐに「酒を持ってこい」と大声に命じたからである。
のろのろと人の動く気配がして、あらわれたのは例のみつ口であった。彼も年をとってしまったが、いまだに将軍に仕えているのである。彼は醜い顔をほころばせながら、将軍の子息を迎え、王虎が元の手をとって部屋に連れて行くと、杯に酒をついだ。
そこへ、またひとりあらわれ、つづいてまたひとりあらわれた。元が会ったことのない、すくなくとも会ったことがないと思う人で、ひとりは老人、ひとりは若いが、いずれもまじめな顔をした裕福そうな男である。老人は、しなびて小さく、暗灰色の小さな模様のある昔風の縞の長衫をきちんと着こなし、上半身には、にぶい黒の絹の袖のある上着を着、頭には小さなまるい絹の帽子をかぶっていた。帽子には近親の喪に服していることを示す白い紐《ひも》のボタンをつけていた。黒ビロードの靴をはいている足にも、踵の上あたりでは、クーツにも白木綿の布を巻いている。これも喪のしるしである。このような地味な服装の上から小さな顔がのぞいている。その顔は、ひげもはえそろわないように、つるつるのくせに、しわだらけで、目はイタチのように鋭く光っている。
若いほうの男は老人とよく似ていて、ただくすんだ藍《あい》色の服だけがちがっている。母をうしなったことを示す喪服をつけている。目は鋭くなく、猿が人間を――親類ではあるが理解しあうほど近くはない人間を見るときの小さなうつろな目のように物思わしげであった。これは老人の子にちがいない。
元がいぶかしそうにふたりを見ていると、老人が、ひからびた高い声で言った。「わしはおまえの二番目の伯父じゃよ。おまえがまだ小さいころに会ったきりだったな。これはわしの長男で、おまえのいとこじゃ」
元は驚いてふたりにあいさつした。ふたりのようすといい、態度といい、落ちついて古めかしく、彼にはあまり親しめないので愛想よくはなかったが、それでも丁重にあいさつした。すくなくも王虎将軍よりは丁重であった。将軍はふたりには注意もはらわず、ただうれしそうに元を見ているばかりであった。
元は、自分が帰ってきたのを父がこんなに子供のようによろこんでいるのを見て、深く感動した。老将軍は元から目が離せないようすで、しばらくじっとみつめていたが、やがて声を立てずに笑い、椅子から立ちあがって元のそばにより、息子の腕や、そのたくましい肩を手でなでながら、また笑って言った。
「わしがおまえの年ごろのときと同じようにたくましい――よくおぼえておるが、わしは腕の力が強く、八尺の鉄の槍を投げることもできたし、大きな石の錘《おも》りを振りまわすこともできたものじゃ。南方の老将軍の部下だったころ、夕方になると、よくそんなことをして同僚たちをびっくりさせたものじゃ。立って、腿《もも》を見せてくれ」
元は言われるままに、おとなしく立ちあがった。すると老将軍は兄のほうをふり返り、声をあげて笑い、昔をしのばせる力のこもった声で言った。「わしの息子を見たかな。あんたの四人の子供のうちにも、この子に太刀《たち》うちできるものはあるまい!」
王二《ワンアル》老人は、おさえつけたような薄笑いをうかべただけで、これにはなんとも答えなかった。しかし、伯父の息子が、ゆっくりと言葉に気をつけながら言った。「わたしは長男ですが、兄弟じゅうでも一ばん小さいのです。下の弟ふたりは、わたしくらいありますし、すぐ次の弟はわたしよりも大きいです」そして、彼はそう言うとき、悲しそうな目を彼らに向けた。
これを聞いて元は好奇心をおこしてたずねた。「ほかのいとこたちは元気ですか。そして、いま何をしているのですか」
伯父の息子は父のほうを見やったが、老人は黙って相変わらず薄笑いをうかべているだけなので、勇気を出して元に答えた。
「土地の管理や穀物店のほうで父の手伝いをしているのは、わたしだけなのです。以前は兄弟みんなでやっていましたが、このごろ、この地方は、ひどく不景気なんです。小作人は威張りかえって小作料もまともに納めません。それに収穫も減ってきました。わたしの兄は、父が叔父さんに――きみのおとうさんにさしあげたのだから、いまは叔父さんのものです。すぐの弟は広く世のなかを見てきたいというので、華南の大きな商店で会計係をしています。そろばんが達者なものですからね。大きな現金を出し入れするので、景気がいいようです。二番目の弟は結婚して家にいます。一ばん下の弟は学校へ行っていますが、わたしたちの町でも、いまでは新式の学校ができました。母が二、三か月前に亡くなりましたから、この弟も喪のあけしだい結婚させたいと思っています」
元は、昔父に連れられてこの伯父の家に行ったとき、大柄な元気のいい田舎女がいて、いつも陽気にしていたのを思い出し、この弱そうな小さな伯父が相変わらずぴんぴんしているのに、あの伯母が死んだと考えると、ふしぎでしかたがなかった。「どうして亡くなられたのですか」と彼はたずねた。
すると息子は父親のほうを見たが、ふたりとも黙っているので、その質問を聞いた王将軍が、それこそ自分に関係のあることだとでもいうように答えた。
「どうして亡くなったというのか。われわれ一門には敵があってな、そいつが故郷の村の近くの山で、|けち《ヽヽ》な流れものの匪賊の頭目になっておるのだ。昔、わしは正々堂々と戦争をして、その男の占拠していた町を包囲して陥落させたことがあるが、それをやつは、いまだに恨みに思っているらしいのだ。そのために、わざわざ、わしらの土地の近くに根城をかまえ、わしの一門のものをねらっていたのだ。ここにいる兄も、その匪賊がわしらに恨みを抱いていることを知っているし、用心深いたちだから、収穫の分け前や小作料の取り立てに、自分では行かず、女だから大丈夫だろうというので、伯母さんをやったのだ。ところが匪賊どもは帰り道で伯母さんをつかまえて、金を奪い、首をはねて、それを道端にころがしておくというひどいことをしたのだ。わしは兄にも言っておるのだ。『わしがまた兵隊を集めるまで二、三か月待て。きっとその匪賊をさがし出して、かならずわしが――かならずわしが……』」王将軍の声は怒りのために力つき、途中で消えた。彼が何か探るように手をさし出すと、そばに立っていた例のみつ口の老部下が、その手に杯《さかずき》を持たせた。昔から習慣になっているのだろう。そして眠そうな声で言った。「落ちついてくだされ、将軍さま。お怒りになると、またおからだにさわります」それからみつ口は、疲れたほうの足を動かし、ちょっとあくびをしてから、元を賛嘆の目でうれしそうにみつめた。
この物語のあいだ、商人の王二老人は何も言わなかったが、丁重に悔みを述べようと思って元が見ると、驚いたことに、伯父の小さい鋭い目は涙にぬれ、なお黙ったまま、つぎつぎと別々の袖口《そでぐち》でたんねんに両方の目をふき、それから、まるで物惜しみするように、人目をはばかるように、ひからびた手で鼻をこすった。元は、この冷ややかな老人が涙を流すのを見て、驚きのあまり口もきけないほどであった。
息子もそれを見て、小さな目を、心配そうに父のほうに向けたまま、悲しそうに元に向かって言った。「いっしょに行った召使の話によると、母がもっとおとなしく黙っていれば、そんなにすぐには殺されなかったろうということでした。ところが、母ときたら、口が達者で、それまで遠慮して口をきいたことなんかないし、昔からすぐ向かっ腹を立てる性質だったので、のっけから、『これだけのお金をみすみすおまえさんたちに渡せると思うのか、この父《てて》なし子どもめ!』と、どなりつけたのだそうです。母がそうどなりつけるのを聞くと、召使は命かぎり逃げだしたのだそうですが、ふり返って見たときには、もう母の首は落ちていたそうです。匪賊どもは、何もかも奪って行ったので、母が持っていた小作料も、すっかりとられてしまいました」
息子は抑揚のない、すこし騒々しい声で、このように語った。言葉が、つぎからつぎへと抑揚もなく流れ出し、父から受けついだからだに母ゆずりのおしゃべりな舌をつけたような感じだった。しかし、孝行な息子で、母を愛していたので、声は乱れ、中庭へ出て、咳《せき》をして気持ちをしずめ、涙をふき、しばらく悲しみにひたっていた。
元は、こんな場合、何をしていいのかわからないので、立って伯父の茶わんにお茶をついだが、血のつづいたこの人たちとは、まるで赤の他人のような気がして、彼らとともにこの部屋にいるのが夢のように感じられた。そうだ、これから自分は彼らに想像もできないような生き方をするのだ。それにくらべたら、彼らの生活は死者のようにとるに足りぬ人生なのだ。
どうしたわけか、ふいに彼は、ながいあいだ思い出したこともないメアリのことを思い出した。……風の強い春の日など、よくそんなことがあったが、美しい暗色の髪を顔になびかせ、白い肌をほんのりと紅潮させ、落ちついた灰色の目をしたメアリが、いまこの部屋ヘドアを開けてはいってきたように、はっきりと心にうかんだのは、なぜであろうか。こんなところに彼女がきても、なんにもならない。ここは彼女には理解できない場所なのだ。よく彼女が口にした中国についての画面、それは彼女が自分でつくりあげた画面にすぎないのだ。久しぶりに再会した最初の緊張も過ぎ、いまはぐったりとしている父や伯父を見ていると、メアリを愛さなくてよかったとしみじみ思った――メアリを愛さなかったのは、ほんとによかった!
彼は古ぼけた大広間を見まわした。何人かの不注意な老僕が、ながいあいだ掃除し残した塵《ちり》が、いたるところにつもっていた。床の敷瓦《しきがわら》のあいだには青いカビがはえ、敷瓦には、こぼれた酒や唾《つば》や灰や脂《あぶら》じみた食べもののしみがついていた。貝殻をはめた格子窓のこわれたところは紙でつくろってあって、その紙もいまはぼろぼろになり、昼日中だというのに頭上の梁《はり》にはねずみが走りまわっていた。老将軍は酒の酔いがまわり、口を開け、大きなからだをぐったりとさせて、こくりこくりと居眠りをはじめた。頭上の釘には鞘《さや》に入れた長剣がかけてあった。父に会ったすぐから、その長剣が父のそば近くにないのをさびしく思っていたのだが、いまはじめてそれをみつけたのである。鞘におさめてあるのだが、それでも美しかった。美しい彫刻の上に塵がつもって、赤い絹のふさは色があせ、ねずみにかじられているのだが、それでも光彩を放っていた。
ああ、外国の女を愛さないでよかった、と元は思った。元の国がどんな国か、彼女には夢を見せておくがいいのだ。真実の姿は知らせずにおいたほうがいいのだ!
熱いかたまりが、のどにこみあげてきた……古きものは永遠に自分から去ってしまったのだろうか。彼は老将軍や、しなびた卑しい顔をした伯父や、その息子のことを考えた。この人たちは依然として自分とつながっているのだ。血管に流れている血によってつながれているのであって、なんとしてもその血を洗い流すことはできないのだ。どんなに彼らから解放されようと願っても、生きているかぎり彼の血管のなかには彼らの血が流れているのだ。
自分の青年時代はすでに終わった、もう一人前にならなければならぬ、自分だけの力に頼らなければならぬということを知ったのは、元にとって、きわめていいことであった。それを知ったのは、その夜、幼年時代や少年時代、護衛兵に守られて眠り、軍官学校から逃げて帰ってきたとき、ひとりすわって泣きながら眠ったあの昔の部屋に、ひとり寝ていると、例の父の老部下がそっとはいってきたからであった。それは元が眠ろうと横になったばかりのときであった。というのは父は、その夜、彼のために小宴をはり、部下の隊長をふたり招き、元の歓迎のため、みんなで飲み食いしたからであった。宴がはてると元は父に肩をかして寝室へ連れて行き、それから自分も寝床にはいったのである。
しばらくのあいだ、眠る前の寝床に身を横たえて、元は耳慣れない物音に耳をすましていた。それは父が長年本拠をかまえて住んでいるこの小さな町の夜の物音であった。(もし人にきかれたら、この小さな町は夜になると音はしないと答えるだろう)と彼は考えた。それでも、街には犬のほえる声、子供の泣き声、寝ても静まらないつぶやくような声、どこかの寺から時おり聞くこえてくる鐘の音、近くではないが、そうした物音すべてよりもはっきりと耳につく、どこかの女が死にゆくわが子のさまよう霊を呼びもどそうとして泣き叫ぶ声などが聞こえてきた。
彼と門のあいだには、しんと静まった中庭があるので、どの音も高くはなかった。それでいながら、かつてはここに住み慣れていたのに、いまでは通りすがりの旅人のような気がして、なんとなくあらゆるものに過敏になっていた元の耳には、一つ一つの物音が、はっきりと聞きわけられるのであった。
突然木の蝶番《ちょうつがい》をつけたドアがきしり、ローソクの火がさしこんだ。見ると、ドアが開き、例のみつ口の老人がはいってきて、身をかがめるとローソクを注意深く床に立て、背中がこわばっているので、すこしあえぎながら、また立ちあがり、ドアを閉め、かんぬきをかけた。この老人は何を話しにきたのだろうと、元は驚きながらも、いぶかしく思いながら彼が近づくのを待った。
彼は、おぼつかない足どりで元の寝台に近より、元がまだカーテンをひいていないのを見て言った。「まだおやすみにはならなかったのですか、若将軍さま。申しあげたいことがございますのですが」
元は、この老人のからだが膝《ひざ》まで曲がっているのを見て、やさしく言った。「じゃ腰をかけて話したまえ」
しかし、老人は身分をわきまえていて、しばらくは遠慮していたが、やがて元の親切を受けて寝台のそばの足台に腰をおろすと、裂けたくちびるから、すうすう息をもらしながら話しだした。目こそやさしくて正直そうだが、あまり醜い顔をしているので、いくら善良な老人だとはいえ、元は、まともに見る気がしなかった。
それでも、元は老人の話に驚いて、すぐにその醜さなど忘れてしまった。なぜなら、ながい、まわりくどい、きれぎれな話から、元の心は、しだいに、はっきりしたものをつかみはじめていたからである。最後に老人は両手を老いさらばえた膝におき、声をあげて言った。
「そんなわけでな、若将軍さま、おとうさまが毎年、伯父さまから借り出す借金は、重くなるばかりでな。あなたを牢屋から出すためにお金を借りたのがはじまりで、それからは、あなたが外国で苦労をなさらないようにと、毎年お借りなされましたのじゃ。それで、多くの兵隊を養うこともできず、いまでは戦争をするにも百人とはおりますまい。これじゃ戦争もできませぬ。兵隊どもは将軍さまから離れて、ほかの将軍のところへ行ってしまいました。金が目あての兵隊でございますから、給料が出なくなれば、いなくなるのはあたりまえでございます。それに、わずかばかり残しておられるのも、あれは兵隊じゃございません。もとの兵隊のうちでも、やくざな泥棒や浮浪人ばかりで、食わせておくから残っているだけでございます。軒なみにゆすって歩くので町の人から鼻つまみにされていますが、何しろ鉄砲を持っていますので、みんな泣寝入りをしているのでございます。まあ、武装した乞食というところでございます。老将軍は昔から正しい方で、部下にも戦利品として当然なもの以上にとることを許しませんし、平和なときに人民から略奪することを許しませんでした。ですから、わたしは一度、兵隊たちの悪業ぶりを申しあげたことがございます。すると将軍さまは出ておいでになって、眉をよせ、ひげをひっぱり、大声でどなりつけなさいましたが、それがなんになりましょう。やつらは将軍さまがどなっておられるあいだも、年をとって、からだがふるえているのを知っていまして、恐れ入ったような顔はしていますが、将軍さまの姿が見えなくなると大笑いして、すぐにまた物乞いに出かけてゆき、相変わらず勝手なことをしているのでございます。それ以上、将軍さまに申しあげてなんの役に立ちましょう。それよりはご心配をかけないほうがいいと思って、わたしは黙っているのでございます。そんなふうで将軍さまは毎月お金を借りておられるにちがいございません。と申しますのは、このごろは伯父さまがよくお見えになるからでございます。伯父さまはお金のことででもなければいらっしゃるようなお方ではございません。おとうさまは、どうやらやりくりをしていらっしゃるごようすですが、このごろではあまり税金も集まらず、その税金も、みんな兵隊を養うのにかかってしまって、伯父さまから借りなければ、それも足りないような始末なのでございます」
しかし、元には、それがすぐには信じられず、驚いて言った。「いまおまえが言ったように、父が兵隊の大部分を手離し、いまでは少数の兵隊を食わせておくだけなら、そんなにたくさん金がいるわけはないじゃないか。祖父から譲られた土地もあるはずだし」
すると老人は元の耳に口をよせ、声を低めて鋭く言った。
「その土地も、いまではみんな伯父さまのものでございますよ――でなくとも、それと同じことでございますよ。それよりほかに、伯父さまから借りた金を払える道理がございません。それに、若将軍さま、あなたを外国に留学させた費用が、わずかな額で足りたとお思いでございますか。将軍さまは、あなたのほんとうのおかあさまには、ほんのすこししか送りませぬし、あなたの実のお妹さまふたりは、この小さな町の商人のところへお嫁にやりましたが、毎月、将軍は、あなたの留学費を海岸の都会におられる奥さまにお送りになったのでございます」
その瞬間、元は、このながい歳月、自分がいかに子供であったかをさとった。毎年毎年、彼が必要とするものを父が払うのは当然のこととして、その金を受けとってきたのである。彼は浪費はしなかったし、賭博だとかりっぱな服装だとか、その他青年たちが親からの送金を浪費するようなことはしなかった。しかし、毎年毎年、彼の最少限の必要でも、父にとっては、たいへんな負担だったのだ。それから彼は、愛蘭の絹の衣装や結婚式や、老夫人の堂々たる洋館や、孤児ホームのことを考えた。老夫人がその父から遺産を相続したことは知っていたし、ひとりっ子だったので、その遺産が相当のものだったろうとは思うが、それで、あれだけのものがまかなえるのだろうかと元は思った。
この年月、一言のぐちもこぼさず、借りたり無理をしたりして、息子に金の心配をさせなかった父にたいして、元は感謝の念がほとばしり出るのをおぼえた。元はいまはじめて一人前になった落ちつきを見せて言った。
「よく話してくれた。ありがとう。あす、伯父やいとこに会って、よく事情を聞き、どれだけ負債があるのかたしかめてみよう」――それから、新しい考えとして急に心にうかんだように、彼はつけ加えた――「それは、ぼくの負債なのだからね」
一晩じゅう、元はこのことが忘れられなかった。幾度となく目をさまし、いずれにしろ、みんな血のつながった間柄なのだから、借金といっても、ほんとの借金とはちがうと思い返し、みずから慰めようとするのだが、あの伯父といとこのことを考えると気が重くなった。まるで人種でもちがうように、自分はあのふたりとは他人のような気がするが、それでも彼らは自分とは血縁の間柄なのだ。まっ暗ななかで、ひとりこんなことを考えていると、こうして子供のころの寝台に寝て、父の家のなかにいるのに、外国にいたときのような孤独を感じているのに気づいた。(どこへ行っても安住すべき家がないのは、どうしたことだろう)という考えが、突然、荒涼たる気持ちで心にうかんだ。そして、あの汽車の旅の日々のことや、目撃したことなどが、またしても思い出されて不愉快になり、気力がなくなった。急に彼は低い声で叫んだ。「おれには安住すべき家がないのだ!」
その叫びに彼の心臓は大きく鼓動した。というのが、それは彼には、あまりに恐ろしいことであり、その意味を理解することに耐えられなかったからである。
こうして、翌日、あの伯父といとことは、とにかく自分とは血がつながっているのだ、自分は、ほんとに彼らとは他人ではないのだ、この血が自分にひどいことをするはずがないのだ、と彼は幾度となく自分に言い聞かせた。また、父を責めようとも思わなかった。父が老齢とわが子かわいさから借金せざるをえなかった気持ちは容易に理解できるし、借金するとすれば兄弟以上にいい相手はないではないか、と自分に言い聞かせた。こんなふうにして、朝のうち、元は、みずから慰めた。そして、ひどく天気がよくて、近づく秋のそよ風のために涼しいのを、ありがたいと思った。なぜなら、日が中庭にさしこみ、風のために部屋から暑さが吹きはらわれていると、心がやすまるのも容易であるような気がしたからである。
朝食が終わると、王虎将軍は兵隊を検閲してくると言って出て行った。いまでも兵隊のことで非常に忙しいように元に見せたいのである。そして、長剣を壁からおろし、例のみつ口の老人を呼んで、きれいにふくように命じ、なぜこんなにほこりだらけにしておくのか、と言ってどなり散らした。元は思わず微笑し、また事実を知っているので、すこし悲しくなった。
しかし、父を見送ると、伯父やいとこと内密に話をするのはいい機会だと思ったので、あいさつをしてから率直に切りだした。
「伯父さん、父があなたから借金していることは、ぼくも知っています。父も年をとりましたから、どのくらい負債があるのか知っておきたいし、ぼくも責任を負いたいと思います」
元も相当の金額だろうとは覚悟していたが、これほど多額であろうとは予想していなかった。ふたりの商人は顔を見あわせ、やがて息子のほうが立って帳簿を持ってきた。どこの店でも使っている、大きな、やわらかい紙の表紙をつけた金銭出納簿で、これを息子が両手で父のほうへ差し出すと、父は受けとって開き、うるおいのない声で、王将軍が金を借りた年月日を読みあげて行った。聞いてみると、それは元が南方の学校に行った年からはじまり、今日までつづいて、金額は、そのたびに多くなり、しかも相当の利子がつくので、王二商人が最後に読みあげた総額は一万一千五百十六銀元に達していた。
これを聞いた元は、石でたたきのめされたように、じっとすわっているだけであった。伯父は帳簿を閉じて息子に渡した。息子はそれをテーブルの上におき、こうしてふたりの男は元がなんと言うだろうかと待っていた。元は、ふだんのとおりの声を出そうとつとめたが出せず、低い声で言った。「父はどんな抵当を入れているのでしょうか」
伯父は、いつものくせで、ほとんどくちびるを動かさず、うるおいのない声で一語一語慎重に答えた。「わしは兄弟じゃということを忘れないから、他人の場合のように抵当は要求しなかったのじゃ。それに、あのころはおとうさんの地位と軍隊が、わしを護ってくれたでの。ところが、いまではそうはいかなくなっている。わしの子と母親が、ああいう非業の最期をとげたのだから、わしも一歩城外に出れば、安全ではないような気がする。みんなおとうさんの勢力が昔のようでないのを知っているので、もはやだれもわしを恐れなくなった。また実際のところ、華南で革命がおこり、この華北までその脅威が迫ってきたので、どの軍閥の勢力も昔のおもかげはなくなったのじゃ。ご時勢が悪いのじゃ。いたるところに反乱がおこって、土地のことでは小作人どもが、いままでにないほど強腰になっておる。それでも、わしは、おとうさんを弟と思うから、土地を抵当にもとらなかったのじゃ。もっとも、とったところで、おまえのためにおとうさんに貸した金には、とても足りないがの」
この「おまえのために」という言葉を聞くと、元は思わず伯父の顔を見たが、何も言わなかった。彼は伯父がさきをつづけるのを待った。すると老人は言った。「わしは、おまえのために金を出したのじゃ。おまえの将来を抵当にしたのじゃよ。わしのため、おまえにできることは、たくさんある。それから、わしの息子たちのためにもな。なんといっても血がつづいているのじゃからの」
こんなふうに伯父は話したのだが、それは一門の年長者が目下のものに言う普通の言い方で、けっして冷酷そうでもないし、またよく筋も通っていた。ところが、そのうるおいのない低い声を聞き、伯父の小さなひからびた顔を見ると、元は狼狽してたずねた。「まだきまった職さえないぼくに、伯父さん、何ができるとおっしゃるんですか」
「さよう、まず職をみつけねばいかんな」と伯父は答えた。「だれでも知っとることじゃが、このごろでは、外国に留学してきた青年は、昔なら知事にならなければとれなかったような給料をとっておる。わしは、おまえのために.あれだけの金を貸す前に、華南で会計係をしている三男から、このことをよく聞いておいたのじゃ。三男の言うことによると、外国の学問は、今日では、どんな事業よりもいい商売になるそうじゃ。一ばんいいのは、政府の金の出納を扱う地位につくことじゃ。息子の話では、新政府は新しい事業をするために、いままでにないほど人民から税金を取り立てているそうで、大きな道路とか、革命の英雄の大墳墓とか、洋風の建築とか、いろいろの計画を立てているという話じゃ。おまえが金銭の出納を握る高い地位につけば、わしたちの力になるのは、やさしいことじゃよ」
老人はこんなことを言ったが、元には、なんとも答えられなかった。彼は伯父が彼のために計画した生活が、この瞬間、はっきりと目の前に見えるような気がした。しかし彼は、何も言わず、ただ伯父をじっと見ているだけであったが、目にうつるのは伯父の姿ではなく、こんな計画を立てた、せせこましい、いやしい旧時代の精神のみであった。古い法律によれば、伯父は、こんな計画を立て、元の生涯を抵当として要求することができるのを彼は知っていたが、このことに思いいたったとき、若いものの足に丸太をしばりつけて速く走れないようにするこうした旧時代のみじめな法律にたいして、元の心は、いままでにないほど燃えあがった。しかも彼は、このことを口に出さなかった。なぜならば、このことを考えたとき、すぐ父のことを考えたからである。元が必要とするだけの金を得る手段がほかになかったばかりに、王将軍は前後の考えもなく、こんなふうに息子を束縛したのかもしれぬと思ったのだ。それで元は、どっちともつかぬ気持ちで黙ってすわり、ひそかに伯父を憎んだ。
しかし老人は、この青年の嫌悪に気がつかなかった。彼は相変わらず抑揚のない小さな声でつづけた。
「おまえに頼みたいことが、まだほかにもある。わしの息子のうちふたりは仕事がなくて困っておるのじゃ。時勢が悪くて、わしの商売も昔のようではなくなったのでな。ところで、わしの兄の長男が銀行にはいって、うまくやっとるという話を聞いたが、そんなら、わしの息子でもできんはずはないと思うのじゃが、どうだろう。そこで、おまえがいい地位についたとき、わしの息子ふたりにも、おまえの下の地位をみつけてくれぬか。そうすれば、息子たちの月給の額に応じて、それだけおまえが返済したものと認めることにするがの」
そこまで聞くと、元は、もう苦々しさをおさえることができず、吐き出すように言った。「じゃ、ぼくは抵当にとられているのですね――ぼくの生涯は、あなたのものなんですね!」
しかし老人は、これを聞くと目を動かしただけで、至極おだやかに答えた。「おまえの言う意味が、わしにはようわからんな。できるだけ一門のものの力になるのが、義務というものじゃないかね。わしはふたりの兄弟のために働いてきたが、その兄弟のひとりは、おまえのおとうさんじゃ。わしは、ながい年月、兄弟たちの代理人となり、わしらの父が残した大きな屋敷を維持し、税金を払い、父からゆずられた土地のために、あらゆることをしてきたのじゃ。しかし、それがわしの義務じゃから、拒絶するようなことはしなかったが、わしのあとでは、この長男がつづけなければならぬのじゃ。しかし、その土地も昔のようではなくなった。わしらの父は土地や小作料など十分なものを残してくれたので、わしらも金持ちとして認められていたものじゃが、子供たちは、もう金持ちではなくなっている。暮らしにくい世のなかになったのじゃ。税金は高いし、小作人は、ろくすっぽ払わないで、気ばかり強くなっている。だから、わしの末の息子ふたりも、次男と同じように職を探さなければならないのだが、今度は、このいとこたちを助けるのが、おまえの義務というものじゃ。昔から一門のうちで一ばん能力のあるものが、ほかのものを助けてきたのじゃ」
こうして古い束縛が元の上にのしかかったのである。彼には答えようもなかった。彼の立場にある青年で、このような束縛を拒否し、家を出て好きなところで暮らし、これが新時代だというので、血縁の関係をすててかえりみないものがいることを、彼はよく知っていた。そして、自分もそのように自由になれたらどんなによかろうと、はげしく渇望した。こうして暗い古いほこりだらけの部屋にいて、血のつづいたこのふたりを前にしているいまでさえ、立ちあがって、「それはぼくの負債ではありません。ぼくは自分自身以外には、だれにも負債はありません」と叫びたかった。
しかし、そんなことが自分には叫べないのを、元は知っていた。孟《メン》なら主義のために叫びえたかもしれない。盛《シェン》なら笑ってその束縛を受け入れたように見せかけ、そのまま忘れてしまい、そんなことにはこだわりなく、勝手な生活をするかもしれない。しかし元は、そういうふうには生まれついていなかった。盲目的な愛から父が自分におしつけたこの束縛を、彼は拒むことができなかった。そうかといって、父を責めることもできなかった。いくら考えても、父としてこれ以外の手段をとりえたとは思えなかった。
彼は、開けたままの戸口からさしこむ四角な日の光をみつめていた。静寂ななかに、中庭の竹やぶで小鳥がけんかしているさえずりの声が聞こえた。やがて彼は憂鬱な調子で言った。
「それでは、ぼくはまったくあなたの投資の対象だったのですね、伯父さん。あなたはぼくを、あなたの老後を安楽にし、あなたの息子たちを出世させる方便にしてきたのですね」
老人はこれを聞くと、しばらく考え、茶わんにお茶をすこしばかりつぎ、それをゆっくりと飲み、それから、しなびた手で口をふいて言った。「それは幾代となくつづいた昔からのしきたりで、だれでもやらなければならぬことなのじゃ。おまえも子供が生まれれば、そうするようになる」
「いえ、ぼくはしません」と元ははねかえすように言った。この瞬間まで、彼は自分の子というものを考えたことがなかった。しかし、いまの老人の言葉は未来に生命を吹きこんだような気がした。そうだ、いつかは自分も子を持つときがくるのだ。妻となる女があり、ふたりのあいだに子が生まれるのだ。しかし、その子は――自由であらねばならない――父である自分の意図からも自由であらねばならない! 兵隊にならなければならないとか、どんなものにならなければならないとか、あるいは一家の主義のために拘束されるとか、そういうことがあってはならないのだ。
突然、彼は血縁のものが、みんないとわしくなった。伯父たちも、いとこたちも――そうだ、父さえもいとわしかった。というのが、ちょうどそのとき、王将軍が、部下の検閲でくたびれ、一刻も早く腰をおろし、お茶でも飲みながら、しばらく元の顔を見たり、彼が話すのを聞いたりしたいと思って部屋へはいってきたからである。しかし、元には、それさえ我慢ができなかった……彼は、急いで立ちあがり、ひとりきりになろうと、一言も言わずに出て行った。
昔からの自分の部屋の寝台に元は身を投げ出し、子供のころのように、からだをふるわせて泣いた。しかし、それもながいあいだではなかった。というのは、あとに残った王将軍は、ほかのふたりからすぐに事情を聞き、元のあとを追って、ドアを開け、老いた足もまだるこしげに元の寝台に近よってきたからである。しかし、元は顔を両腕にうずめたまま父のほうを見返りもしなかった。老将軍は彼のそばに腰をおろし、手で肩をなでたり軽くたたいたりしながら、熱心に、とりとめなく、約束したり、説きすかしたりした。
「いいか、せがれ、おまえは好きなことしかしなくていいのだぞ。わしはまだ老いぼれてはいない。すこし怠けすぎたのだ。もう一度兵隊を集め、もう一度戦場に軍を進め、もう一度領地を回復し、あの匪賊の頭目がわしから奪った税金をとりかえしてみせる。この前にも、あいつを負かしたことがあるのだから、今度だって負かせる。そうなれば、おまえにも不自由はさせない。わしといっしょに暮らすがいい。なんでも思いどおりにさせてやる。そうだ、好きな女と結婚するがいい。いままでは、わしがまちがっておった。もうわしはそれほど旧弊じゃないぞ――近ごろの若いものの考え方がわかったのじゃ……」
自分がなさけなくて泣き悲しんでいる元を力づけるのに、もっとも必要なことを、老将軍は言ったのであった。元は父のほうを向いて、はげしい調子で叫んだ。「おとうさん、もうあなたに戦争はさせません、ぼくは――」
元は、もうすこしのところで、「ぼくは結婚なんかしません」と叫ぶところであった。ずいぶん昔から父に向かって何度もくりかえした言葉なので、ひとりでに口まで出かかったのである。しかし、これほどみじめな気持ちのなかにあっても、彼は思いとどまった。ふいに疑問がわいてきたのである。自分はほんとに結婚を欲していないのだろうか。一時間もたたぬ前に、自分の子だけは自由にしてやると決心したではないか。もちろん、いつかは結婚する日がくるのだ。彼は出かかった言葉をのみこみ、前よりもゆっくりと言った。「そうです、いつかはぼくもぼくの欲する女と結婚します」
しかし、老将軍は元が泣きやんでこちらに顔を向けたのがひどくうれしくて、元気そうに答えた。「それがいい――それがいい――だれと結婚したいのか、相手の名まえを言うてくれ、すぐ媒酌人《ばいしゃくにん》をやって話をとりきめさせる。おまえのおかあさんにも知らせよう――だが、それはとにかくとして、わしの息子に恥ずかしくないような娘が、こんな田舎にいるかな」
元は父が話しているあいだ、その顔を見ているうちに、いままで知らなかったものが自分の心のなかにあるのをさとりはじめた。「媒酌人はいりません」と彼はゆっくり言ったが、心はその言葉の上にはなかった。一つの顔が――若い女の顔が、心にうかんできた。「ぼくは自分で話します。このごろでは、ぼくたち若いものは自分で話すのです――」
今度は王将軍が目をみはる番であった。彼はきびしい調子で言った。「勝手に男が話せるような女に、ちゃんとした相手がいるかな。そんな種類の女には気を許すなと、昔からわしが訓戒していたことは忘れていないだろうな。おまえが選んだのはりっぱな女か」
しかし、元は微笑するばかりであった。彼は負債を、戦争を、その他このごろの不愉快だったことも忘れた。ばらばらだった彼の心が、突然、これまで知らなかった一本のはっきりした道に結びついたのである。すべてを語りうる人がここにいる。そして、その人にたいして、どうしなければならないかがわかったのだ。この老人たちには、自分というものも自分の必要としているものも理解できないのだ。自分が、もはや彼らの時代のものではないことが、わからないのだ。その点、外国人と選ぶところはない。しかし、自分は自分の時代に属する女を知っている。自分は古い時代に根をおろしているので、その根を抜いて、そこで生きて行かなければならぬ新しい必要な時代に移し植えようとしても、なかなかそれができず、それで心が分裂して悩んでいるのだが、彼女は古い時代になんの根も持っていないのだ。――その女の顔が、これまで会ったどんな人の顔よりもはっきりと心にうかんできた。あまりはっきり見えるので、ほかの人の顔の影が薄くなり、目の前にいる父の顔さえぼんやりとなった。自分を自分から解放してくれるのは彼女だけだ――自分を解放し、なすべきことを教えてくれるのは美齢だけだ。手に触れるものすべてに整然と秩序をあたえる彼女である。自分が何をなすべきかを教えてくれるだろう。そう思うと、彼の心はおどり、前の陽気さにもどった。彼女のところへ帰らねばならない。彼は、急いで起きあがって、床に足をおろした。すると、父がたずねたことを思い出し、気も遠くなるような新しいよろこびにあふれて答えた。「りっぱな女がとおっしゃるのですか。そうです、おとうさん、ぼくはりっぱな女を選びました!」
彼はいままでにないほどの待ち遠しさをおぼえた。もう疑いもなければ逡巡《しゅんじゅん》もない。すぐに彼女のところへ行こう。
しかも、こうした新しい焦燥にかられながらも、父のもとに一か月は滞在しなければならないと覚悟した。なぜならば、何かここを去る口実はないかと思い、海岸の都市に用事があるから帰らなければならないと言うと、王将軍は、がっかりして、機嫌を悪くしたので、元も、つい気が弱くなって、帰ることを取り消さざるをえなかったからである。それに、このまま母に会わずに帰るのもよくないとわかっていた。
母は近年は生まれ故郷の田舎に住んでいた。母は、元を迎えにあの土の家に行って以来、子供時代過ごした田舎の生活が恋しくなり、いまでは娘ふたりも嫁に行ったことではあるし、自分の里のある村へよく出かけるのであった。実家には、一ばん上の兄がいたが、彼女が金払いはいいし、軍閥の将軍の妻として相当はでにふるまうので、兄はよろこぶし、兄嫁は村の女たちの前で肩身がひろいので、よろこんで迎えてくれた。例のみつ口の老人が使いをよこして、元が帰郷したことを知らせたが、母はのんびりと構えて一日二日と帰るのをのばしていた。
元は母に、自分の妻は自分で選ぶことをはっきり言っておきたいと思ったので、すすんでも会いたかったのだが、すでに美齢と心にきめた以上、残るのはただそのことを母に話すことだけであった。こんなわけで、彼も我慢して、その月いっぱいはここで暮らしたが、伯父親子が、まもなくあの大きな古い屋敷に帰り、父とふたりきりになったので、ここで暮らすのも、そう気づまりではなくなった。
しかし、美齢を思って心が楽しくなったので、元は伯父にたいしても丁重な態度がとれたし、また心のなかで、(彼女なら、この負債を片づける方法をいっしょに考えてくれるだろう。彼女と相談するまでは、伯父にも怒った言葉を口に出すまい)と考えて、深い安堵《あんど》をおぼえた。そう考えたので、別れるときも伯父に向かって、きっぱりと言うことができた。
「負債のことは忘れませんからご安心ください。来月になったら、ぼくもすぐに職をみつけますから、もうお金のことでご心配はかけません。あなたの息子さんたちのことは、できるだけ尽力をします」
それを聞くと、王将軍は力強く言った。
「安心するがいいよ、兄さん、借りた金は返せるよ。わしが戦争できないとしても、今度は、せがれは政府から金をとるからな。あれだけの学問があるのだから、いい官職につくにきまっている」
「さよう、元さえその気になればな」と伯父はやりかえした。しかし、いよいよ出発するとき、伯父は、「おまえが書いておいたものを元に渡しておけ」と長男に言った。すると長男は袖口《そでぐち》からたたんだ紙をとり出し、それを元に渡しながら、例のくどい調子で言った。「これはあの金額の明細書ですよ。わたしたちは、――父とわたしは、きみがはっきりした額を知っておきたいだろうと考えたのです」
そのときでさえ、元は、このふたりに腹を立てる気にならなかった。彼は心のなかでは笑いながらも、まじめな顔をしてその書類を受け取り、うわべだけは丁重に彼らを見送った。
元にとって、前のように混乱したものは、何もなかった。伯父たちにたいしても丁重な態度がとれたし、彼らが帰った後も、毎晩、父が戦争や手柄話をながながと語るのを、辛抱強く聞くことができた。息子に聞かせるために、王将軍は過去の絵巻物をくりひろげ、戦争の自慢話をするのだが、話しているあいだも、眉をいからせ、もじゃもじゃの頬ひげをひっぱり、目を輝かせ、とにかく、息子に話して聞かせていると、自分がじつに輝かしい生涯を送ってきたような気がしてくるのであった。しかし、おとなしくすわって、父が豹《バアオ》将軍を刺し殺したありさまを示すために手を突き出しながら、眉をいからせたり、叫び声をあげたりするのを、ほほえみながら元は聞いていたのであるが、どうしてこの父が昔はこわかったのだろうと、ふしぎに思われるばかりであった。
しかし、そのうちに、日のたつのが、そうおそく思われなくなった。というのは、美齢への思慕があまり唐突に訪れたために、しばらくそれだけを考えて暮らす必要があったからである。だからここにひきとめられていることや、じっとすわって父の話を聞いているふりをしている時間を、かえってうれしく思うことすらあった。自分の感情に鈍感で、いままでそれに気づかなかったことが、彼には内心ふしぎに思われた。愛蘭の結婚式の日、結婚の行列をながめて愛蘭の美しさを認めながらも、美齢の姿をみつけて、愛蘭よりも美しいと思ったとき、すでに気づいていなければならなかったのだ。その後も、家のなかで美齢の姿を見かけ、すべてをきちんと整理する彼女の手を見、召使に指図する彼女の声を聞いたとき、幾十度となくそれに気づいているべきだったのだ。しかし、さびしさにひとり泣くまで、彼はそれに気づかなかったのである。
こうした美齢への夢想をやぶって、王将軍の幸福そうな声が聞こえてきた。しかし元は、おとなしくそれを聞いていることができた。この新しい愛が心のうちにはぐくまれていなかったら、とてもそんなことはできなかったのだが、彼は夢ごこちで父の話を聞き流し、昔の戦争の話か、父がこれからはじめようと計画している戦争の話か、それすら区別がつかないほどだった。父は相変わらず話しつづけた。
「わしにはまだ、あの兄からもらった養子の息子から、すこしは収入がある。だが、あいつは将軍にはなれん。ほんとの将軍にはな。わしはあまり信頼しておらん。おどけるのが好きで、怠けてばかりおる――生まれつきの道化者だから、きっと死ぬまで道化者だろう。自分では、わしの代理だと言うているそうだが、税金は、ほんのわずかしかわしのところによこさん。わしももう六年ばかり行きもしないがな。来年の春は行かなきゃならん――そうだ、来年の春は、ぜひとも戦争をはじめよう。あの甥《おい》のやつ、わしにはよくわかっているが、敵がくれば、すぐにも降参しかねないやつだ。わしの敵とさえ手を握りかねない男だ――」
父の話を半分しか聞いていない元は、そんないとこのことなど気にもかけなかった。昔伯母が好んで「わたしの息子は、北方で将軍になっているのですよ」と言っていたのを漠然と記憶している程度で、ほとんど思い出すことができなかったからである。
時おり父の話の相手になりながら、いまでは愛していると知った美齢のことを考えるのは楽しかった。そして、考えていると、いろいろと心がやすまってきた。美齢になら、この将軍公署を見せても恥ずかしい思いをしないですむだろう。なぜなら、彼が恥ずかしいと思う気持ちを理解してくれるだろうから、と彼は自分に言い聞かせた。ふたりは同じ人種なのだ、どんなに恥多い国であろうと、これはふたりの国なのだ。彼女になら、(父は愚かな老いぼれた軍閥の将領です。自分でも、うそかほんとかわからなくなったような話ばかりしています。たいしたこともなかったくせに、自分を偉大な人物だと思っているのです)と言うこともできるような気がした。そうだ、彼女になら理解してもらえることがわかっているから、どんなことでも話せるのだ。彼女のあの率直さを思うと、うわべの恥ずかしさなど消えてゆくのをおぼえた。ああ、早く彼女のところへ行き、いまのような支離滅裂な自分ではなく、あの大地の上で暮らした数日間、祖父の土の家で暮らした数日間のように、孤独で自由だった自分自身をとりもどしたい。彼女とともにいれば、孤独で自由で、ふたたび単純な自分になれるのだ。
ついに、彼は彼女の前で心のなかを打ち明けようということ以外何も考えられないようになった。彼女が力になってくれるだろうことを確信したので、やっと母がもどってきたときも、すこしも心を動かさずに、息子として当然のあいさつをすることができた。自分の母親でありながら、精神的なつながりはまったくなく、話しあう事柄もないなどと考えて苦しむこともなかった。血色のよい健康そうな顔はしているが、いま見る母は、しわだらけで、きわめて平凡な田舎の老婆にすぎなかった。このごろ歩くときにいつも使っている杖《つえ》によりかかって、彼のほうを見あげたが、その目は、いぶかしそうに、(これが息子だといっても、わたしになんの関係があるのだろう)とでも言っているようであった。
洋服を着て背の高い元は、旧式な黒い木綿の外出着を着た老婆を見おろしながら、心のなかで思った。(自分は、ほんとにこの婆さんの胎内から生まれたのだろうか。どうも血がつづいているとは考えられない)
しかし、こんな母がいることが、もう苦痛でもなければ、恥ずかしいとも思わなかった。もし、あの白人の女を愛していたとしたら、彼女に向かって、(これが母です)と言うのは、非常に恥ずかしかったであろう。しかし、美齢になら、平気で(これが母です)と言えるであろうし、彼女のほうも、このような母親から彼のような男が幾千人となく生まれたことを知っているから、すこしもふしぎだとは思わないであろう。なぜなら、彼女にとっては、ふしぎなものはないからである。彼女にとっては、それが事実だというだけで十分なのだ……愛蘭にこの母を紹介するとなると多少は気がひけるだろうが、美齢に向かってなら、さっぱりした気持ちで言える。心の中をさらけ出して見せても恥ずかしい気がしなかった。こんなふうに心がきまると、いらいらしているときでも気持ちが落ちつき、その後、ある日、彼は母に向かって率直に言った。「ぼくは婚約しているのです、いや、婚約したも同様なのです。ぼくは自分で選んだのです」
すると老母は、おだやかに答えた。「おとうさんから、そのことは聞きましたよ。わたしも知り合いの娘さんのことを二、三人、話したことがあるのだけど、おとうさんは、いつもおまえの好きなようにさせるのだとお言いなのでね。昔からおまえはおとうさんの子で、わたしの子とは言えないくらいだったし、おとうさんは、あのとおり昔からはげしいご気性なので、わたしには何もできなかった。あの愛蘭のおかあさんは、うまくおとうさんのかんしゃくから逃げ出したけど、わたしは残っておとうさんのかんしゃくのお相手をつとめてきたわけですよ。でも、その娘さんがちゃんとした人で、着物も仕立てられれば、お魚もりっぱに焼けて、わたしのところへも、ときどききてくれるとありがたいのだがね。とは言っても、いまの新しい時代は、いいかげんなもので、若い人は勝手なことをして、昔はそんなことはしなかったが、嫁といったって、主人の母親に会いにもこないことは、わたしもよく知っているけどね」
しかし母は、息子の嫁のことで自分が動きまわる必要がなくなったのをよろこんでいるようで、じっと、いつものようにぼんやり目の前をみつめていたが、やがて目とあごをちょっと動かしたかと思うと、目の前にいる息子のことも忘れて、静かに眠った。でなければ眠ったふりをした。この母と子の住む世界はちがっているのである。自分がこの母の子であることが、彼には無意味に思われた。事実、いまの彼には、美齢にふたたび会うこと以外は、すべて無意味に思われたのである。
いよいよ両親と別れるときがくると、元は、いかにも別れがつらいとでもいうように、つとめて丁重にあいさつし、ふたたび南方行きの汽車に乗ったが、ふしぎなことに、今度は、ほかの乗客のことが、ちっとも気にならなかった。彼らが無作法にふるまっていようがいまいが、彼には同じことであった。なぜなら、彼には美齢のことしか考えられなかったからである。
彼は彼女のことで知っているかぎりのことを思い返してみた。彼女の手が小さかったのを彼は思い出した。強そうではあるが、手のひらがせまく、指も細く、あんな手で、すばやく断固として、人間の肉体のなかにある病患を切りとることができるのだろうかと思った。彼女のからだ全体に、なよやかな力がみなぎっていた。それは白いきめのこまかい肌の下に組みあわされた見事な骨格の力であった。彼女が、あらゆる面ですぐれていること、召使たちが彼女を頼りにしていること、愛蘭などは上着の縁がちゃんとなっているかどうか美齢に見てもらわなければ承知しなかったこと、老夫人の気に入るようにできるのは美齢だけだったことなど、彼は、くりかえしくりかえし思い出した。そして、元は、こう考えて、うれしく思った。(彼女は二十だが、十も年上の多くの女より、なんでもできる)
というのは、考えてみると元にとって美齢は二重の魅力を持っているからである。彼女には、母と呼んでいる老夫人とか、伯母とか、そのほか昔風に育てられてきた年配の婦人のような落ちつきと品格があった。それでいて、男の前で、はにかみもせず、黙ってばかりもいない新しいものも持っていた。どんな場合でも率直にはっきりと言い、愛蘭とはまたちがっているが、愛蘭と同じように、こだわりなく話した。こんなふうに、混雑した汽車のなかにいて、窓外に平野や町が過ぎて行っても、彼の目には、何もうつらなかった。ただ、じっとすわって美齢の夢ばかりえがき、彼女のちょっとした言葉や、ちょっとした表情を集め、心のなかで貴重な一枚の絵をつくりあげていた。
思い出せるだけのことを思い出すと、彼の心は一足とびに彼女と会う瞬間のことを考え、なんと話そうか、どんなふうに愛をうちあけようかと思った。まるでそのときになったように、彼が話しているあいだ、じっと自分を見守っている彼女のまじめな美しい顔が、目に見えるような気がした。そして、そのあと――いや、彼女がまだ若く、大胆な男ずれのした娘ではなく、しとやかな無口な娘であることを思わないわけにはいかなかった。それでも、あの小さな手をとることくらいのことはありはしないだろうか。あの落ちついた、やさしい小さな手を……
しかし、時というものは自分の思いどおりにはならないものだし、どんな恋人でも、その時がきたとき、自分がどんなことをするか、予知できるものではない。汽車のなかでは、あれほどすらすらと言葉が出せた元の口が、いよいよそのときになると、ぜんぜん思った言葉が出せないのである。玄関にはいったとき、家のなかは、しんと静まりかえって、召使がそこに立っているだけだった。その静けさが悪寒のように彼を戦慄させた。
「美齢はどこにいるかね?」と彼は召使に言ったが、すぐに思い返して、すこし静かに言った。「奥さんはどこにいるかね。おかあさんは?」
召使が答えた。「おふたりとも孤児院のほうへいらっしゃいました。また捨て子があって、それが病気なのでございます。お帰りはおそくなるとおっしゃっていました」
それなら、待って心を落ちつけるよりしかたがない。彼は待って、あれやこれや、ほかのことを考えようとしたが、頭が自由に動かなかった――いつのまにか、その大きな希望へと帰ってゆくのであった。夜になってもふたりは帰ってこず、召使が食事を知らせてきたので、元は食堂へ行って、ひとりで食事をしたが、料理は綿をかむように味がなかった。ながいあいだ待ちに待っていた瞬間を、こんなにおくらせる捨て子のことが憎らしくなったほどだった。
食事がのどを通らないので食卓から立とうとしたとき、ドアが開いて、老夫人が、ひどく疲れきった、がっかりした顔つきではいってきた。美齢も、そのあとからはいってきたが、彼女も、いままで見たことがないほど黙って悲しそうにしていた。彼女は元のほうを見たが、まるで彼の姿が目にうつらないようで、一か月も別れていた人を迎える表情は、どこにもなかった。彼女は低い声で彼に向かって言った。「赤ん坊が死んだのです。できるだけ手をつくしましたけれど死にました」
老夫人は、ため息をついて腰をおろし、やはり悲しそうに言った。「お帰りなさい……あんなかわいい赤ん坊は見たことがありません――三日ほど前、玄関先にすててあったのです――いずれにしろ、貧乏人の子ではありません。着せてあった服が絹でしたもの。はじめは丈夫な子だと思っていたのですけど、けさになって急に痙攣《けいれん》をおこしました。赤ん坊にとりついて、十日とたたないうちに命を奪う、あの昔からある病気です。かわいい丈夫な子供が、まるで毒気を吹きかけられたように、そのために死んでゆくのを、わたしは幾度も見たことがあります。あれには手のほどこしようがありません」
美齢は、じっとそれを聞いていたが、食物に手をつける気にはなれないようすだった。
彼女は、細い手をテーブルの上で握りしめ、怒りをこめた声で叫んだ。「原因はわかっています。避けられることなのです」
彼女の怒りにふるえる顔を見て、いままでにないほど感動した元は、彼女の目に涙があふれているのをみとめた。この怒りとこの涙は、彼の熱した心に氷をのせたようなものだった。なぜならば、それらのために、美齢の心が彼に向かって閉ざされていることがわかったからである。彼は彼女のことのみを考えているが、この瞬間の彼女の心には、彼のことなど、まったくないのだ。ながいあいだ会わなかったのだが、彼女は彼のことなど考えていなかったのだ。それで、彼は老夫人が父の家の模様をたずねるのを黙って聞いて、静かに答えた。しかし美齢が、老夫人の質問も、彼の答えも、まるで聞いていないのを、彼は見ないわけにはいかなかった。彼女は両手を膝《ひざ》におき、かわるがわるふたりの顔を見ているのだが、一言も口をきかず、妙にぼんやりと腰かけているのであった。ただ、時おり目から涙があふれ出るだけであった。彼女の心が自分から遠く離れているのを知ったので、その夜は、元は、何も口に出せなかった。
しかし、そのことを口に出さずにいて心がやすまるわけはなかった。ひと晩じゅう彼はきれぎれな夢を見た。ふしぎな恋の夢だが、いっこうにはっきりしない恋であった。
翌朝、彼は夢に疲れて目をさました。夏から秋に移るころの曇天の日であった。起きて窓の外を見ると、いたるところ灰色一色で、どんよりした灰色の空が、味気ない灰色の街をおおい、灰色の街々を地上の小さな灰色の人間が、のろのろと動いていた。この生気のなさを見ると、彼の情熱は消えてしまい、美齢のことなどを夢みていた自分が、ふしぎに思えるほどであった。
こんな気分で彼は朝食の食卓に向かい、きょうは料理さえ塩気も香気もないような気がするので、ぼんやりと口だけ動かしていると、そこへ老夫人がはいってきた。
そして食事もはじめず、ろくろく朝のあいさつもかわさないうちに、どこか元がいつもとちがうのに気づいた。それで夫人は、いろいろとやさしく問いただしはじめた。元は美齢への恋を打ち明けることはとてもできないので、そのかわり、父が伯父からたいへんな借金をしていることを語った。すると夫人は、ひどく驚いて言った。「おとうさんは、そんなにお金に困っていることを、どうしてわたしに打ち明けてくださらなかったのでしょうね。わたしのほうは、もっと倹約できたのに。美齢の学資は、わたしのほうのお金を使ってよかったと思います。わたしは、妙な誇りを持って、そんなことをしたのです。父は死んだとき男の子がなかったものですから、十分な財産をわたしに残し、安全な外国銀行に全部預金してくれていました。その後ずっとその銀行に預けてあります。父はわたしを非常に愛していて、先祖から伝わった土地までも売って、わたしのために現金にかえておいてくれたのです。そういう事情を知ってさえいたら、わたしのほうでもなんとか都合したでしょうに――」
しかし、元は力ない声で言った。「なんであなたがそんなことをなさる必要があるでしょう? ぼくは、ぼくの学問が役に立つ職をさがし、できるだけ給料から貯金して、それを伯父に返します」
そう言ったとたん、もうそんなことをすれば、結婚をしたり家を持ったり、そのほか若いものならだれでも望むようなことをする費用が出ないのではあるまいか、と思った。昔なら息子は父とともに同じ家に暮らし、息子の妻も子供も同じ釜のものを食べたものである。しかし、新しい時代に生まれた元は、そんなことをする気になれなかった。王将軍が住んでいる将軍公署や、美齢の姑《しゅうと》となるべき老母のことを思ったとき、あんなところで美齢と暮らすのはいやだと思った。どこかに自分たちだけの家がほしかった。壁には絵がかけてあり、すわりごこちのいい椅子があって、隅々《すみずみ》まで清潔な、元がすでに心に求めているような家がほしかった――そして、ふたりきりで住んで、好きなようにするのだ。こんなことを考えているうちに、彼は老夫人の前も忘れて、うっとりとなってしまったので、老夫人は非常にやさしく言った。「あなたは、まだわたしに話していないことがありますね」
すると、ふいに元の心は爆発した。顔はまっ赤になり、目はまぶたの下で焼けるのではないかと思われるほど熱くなった。彼は叫んだ。
「もっとお話ししたいことがあるのです――もっとあるのです。どうしたのか、ぼくは彼女を愛するようになったのです。彼女がぼくのものにならなければ、ぼくは死にます」
「彼女ですって?」と夫人は、いぶかしそうにたずねた。「彼女とは、だれのことですか?」そう言って夫人は心のなかで考えてみた。すると元が叫んだ。「美齢以外にだれがいるのです?」
それを聞くと老夫人はめんくらってしまった。美齢は、夫人にしてみれば、まだほんの子供だし、それも、ある寒い日に街から拾いあげて自分の家にひきとった子供なのだから、こんなことが起ころうとは夢にも思っていなかったのである。夫人は元をじっとみつめ、しばらく黙っていたが、やがて思慮深く言った。
「あの子はまだ若いし、いろいろと自分でも計画しています」それから夫人はまた言った。「あの子は両親もわからないのです。もし捨て子だと知れたら、おとうさんが、なんとおっしゃるでしょう」
しかし元は、もう辛抱しきれなくなって叫んだ。「父だって、この問題については何も言えないはずです。もうぼくは父なんかの古いしきたりには束縛されていません。自分の妻は自分で選びます」
老夫人は、おとなしくこれを聞いていた。愛蘭が口ぐせのように言っていたので、もういまでは、こうした言葉には慣れっこになっていたし、世間の親たちの話でも、このごろの青年男女は、みな同じことを言うと聞いているので、年寄りは、できるだけ辛抱するよりほかはないと、あきらめていたからである。それで夫人は、ただ、「それで、あの子にはもう話しましたか」ときいただけだった。
すると元は、たちまちそれまでの大胆さを忘れ、古い時代の恋人のように、はにかんで言った。
「いえ、どう話していいか、ぼくにはわからないのです」そして、ちょっと考えてから言った。
「いつも美齢は自分の仕事のことばかり考えているような気がします。ほかの女は、なんとなく、目だとか、手を触れるとかして、きっかけをつくってくれるものです、すくなくともそんな話を聞いていますが、美齢は、けっしてそんなことをしないのです」
「そうですとも」と老夫人は誇らしげに答えた、「美齢は絶対にそんなことはしませんよ」
がっかりしてすわっているうちに、ふと元の心に、こんなことがうかんだ。自分のかわりに夫人から話してくれるように頼んだらどうだろう。そのほうが、たしかにいい、と、すぐさま彼の心は言った。美齢にしても、彼女が愛しかつ尊敬している老夫人の話なら耳をかすだろうし、それならば自分にとって悪いはずはないと思ったのだ。
そんなふうで、新しい時代ではあるが、これは自分の口からは言わないほうがいい、と急にそんな気がしてきた。これは新時代と旧時代を折衷した方法であるから、まだ若い美齢には、このほうがいいかもしれない。そう考えて、元は真剣な調子で言った。「ぼくのかわりに、おかあさんから話してくれませんか。ぼくが話すと、美齢はびっくりして――」
老夫人は、ちょっと笑顔を見せ、元をやさしくみつめながら答えた、「美齢が、あなたとの結婚を承知し、おとうさんもお許しになったら、結婚するがいいでしょう。でも、わたしはあの子に強制はしませんよ。それだけは絶対にしません――相手がどんな男だろうと、娘に結婚を強《し》いることだけは、わたしはしないつもりです。新しい時代が女性にもたらしてくれた唯一の偉大な善は、このことだけなのです――女性が強制的に結婚させられることがなくなったことです」
「そうです、そうです」――と元は叫んだ。
しかし、女が結婚するのは自然なのだから、強制する必要があろうとは、元は夢にも思っていなかった。
ふたりで話をしながら食事を終わったとき、美齢がはいってきた。学校に行くときに着る紺色の絹の服を着て、短い黒い髪を耳のうしろにかきあげている。いつも宝石をつけていないと裸体のような気がする愛蘭とはちがって、耳にも手にも宝石をつけていない彼女は、見た目にも新鮮で清潔であった。表情は静かで、目は冷静で落ちつきがあり、口は愛蘭のようにそう赤くはなく、頬は白くて、きめがこまかい。美齢の顔は、けっして血色のいいほうではないが、健康ではちきれそうな、すきとおった金色の肌をしていて、それは、いかにも美しくなめらかであった。彼女は、ていねいにあいさつしたが、元が見ると、一夜の眠りできのうの悲嘆はすっかり洗い去られ、ふたたび、おだやかさをとりもどし、きょうはもう元気になっていた。
彼女が食卓について茶わんをとりあげるのを見守っていると、老夫人は、くちびると目にちょっと微笑をうかべながら話しはじめた。突然元は、できるものなら老夫人をとめたいと思った。せめて、ほかの時にしてもらいたかった。なんとかして、この瞬間をさきにのばしたかったが、急に恥ずかしさがさきにたち、目を伏せ、いたたまれない気持ちで全身をほてらせながらすわっていた。しかし、老夫人は話をきり出したが、元の様子に気づいているので、目には、ひそかな笑いがうかんでいた。
「美齢や、あなたにききたいことがあります。この元は、ひどく新しがり屋で、自分の妻は自分で選ぶと言っているくせに、いよいよ最後の土壇場になると気おくれして、昔のしきたりにもどり、けっきょく、媒酌《ばいしゃく》人を頼むことになりました。わたしがその媒酌人です。申し込まれた相手はあなたです。この申し込みを受けますか?」
こんなふうに、まるで言葉に衣《きぬ》をきせず、うるおいのない切り口上で夫人が話すので、元は、これ以上悪い方法はないような気がした。これでは、どんな女でもおびえてしまうような気がした。元は夫人が憎らしくなったほどだった。
事実美齢は驚いていた。茶わんと箸《はし》をそっとおき、なんと答えてよいかわからず、じっと老夫人をみつめていた。しかし、すぐに低い蚊《か》のなくような声で、「わたし、どうしても承知しなければならないのでしょうか?」と言った。
「いいえ、そんなことはありません」と夫人はまじめな顔になって答えた。「いやなら承知する必要はありません」
「では、おことわりします」と美齢は安心したように顔を輝かせながら、うれしそうに答えた。それから言葉をつづけた。「同級生にも結婚させられた人がいて、みんな学校をやめたくないと言って泣いています。それで、わたしもびっくりしたのです。ありがとうございます、おかあさま」そう言うと美齢は、いつも静かでひかえめなのに、急いで立ちあがると、感謝をあらわす昔からのしきたりどおり、夫人の前に身を投げ出して、おじぎをした。しかし夫人は彼女を助けおこし、片手をからだにまわして抱きよせた。
それから夫人が元のほうを見ると、彼は顔から血の気がうせて蒼白《そうはく》になり、泣くまいとして歯でかみしめているくちびるまでが蒼白だった。夫人は彼が気の毒になり、娘のほうを見て、やさしく言った。「こんなことがあっても、あなたは元がきらいにならないでしょうね」
すると彼女は、急いで答えた。「もちろんですわ、おかあさま。元はわたしの兄さんなんですもの。好きですけど、結婚したくないだけです。わたしはだれとも結婚したくありません。学校を卒業して医者になりたいのです。いくらでも勉強したいのです。女はみな結婚します。でも、わたしは、ただ家や子供の世話をするだけのような結婚はしたくありません。わたし医者になる決心をしています!」
美齢がこう言ったとき、夫人は勝ちほこったように元のほうを見た。元もこのふたりの女を見たが、彼女らが同盟して自分に当たっているように感じた。女が組んでひとりの男に当たっているのだという気がして、我慢できなくなった。そして、けっきょく、古い風習にもいいところがあるのだと思った。女が結婚して子供を生むのは、自然な正しいことであって、美齢も当然結婚を望むべきであるのに、それをいやだというのは、どこか変態なところがあるのではなかろうか。彼は男性として、こうした女たちに腹が立ったので、心に思った。(いまの女がみんなこんなふうだったら、それこそ常軌を逸している。適齢になっても結婚しない女なんて聞いたこともない。若い女が結婚を欲しないとは奇怪千万だ――国家にとっても、次の世代にとっても悲しむべきことだ!)けっきょく、どんなに賢くても女は愚かなものだ、と彼は思い、目をやると美齢のおだやかな目と視線が出あった。そして、そんなにおだやかに落ちついていられるのは無情冷酷だと考え、怒りをこめて彼女を見やった。しかし、老夫人が美齢にかわって、はっきりと言った。「自分から望むようになるまで美齢は結婚するにはおよびません。自分で一ばんいいと思う生活をするのです。ですから、元も辛抱しなければいけません」
ふたりの女は、彼女らが得た新しい自由のなかにたてこもり、敵意さえこめて彼を見やった。若い美齢は老いた夫人の両手に抱かれて……そうだ、我慢するよりしかたがないのだ!
その憂鬱な日、しばらくしてから、元は寝台に身を投げ出していたが、やがて部屋を出て、ふたたび混乱した心をいだいて街をさまよい歩いた。彼は苦しさに泣いた。心臓が熱くなるかと思えば冷たくなり、鼓動さえもしなくなって、現実に痛みをおぼえた。
これからどうしたらよいのか? 元は、わびしい気持ちで考えた。あちらこちらと、人々に押されたり押したりしながら、人の姿も目にうつらず、街から街へとさまよい歩いた……だが、よろこびは消えたにしても、まだ義務は残っていた。彼には負債があるのだ。いかになんでも負債くらいひとりで返せると思った。考えてやらねばならぬ老いた父もいるが、はたして自分に何がやれるだろうか? 働いて生活して、給料をためて借金を払うような職は、どこへゆけばあるだろうか? かならず義務は果たしてみせると、彼は決心した。そして、自分が、じつに苛酷な取り扱いを受けているのを感じた。
こうして日暮れに近づいたが、彼は市中いたるところをさまよい、だんだんこの都会がいとわしく思われてきた。街で出あう外国人の顔、同国人が着ている外国の服、自分が着ている服でさえ、すべてこの都会の外国臭がいとわしかった。すくなくともこのときだけは、古い風習のほうがまさっているような気がした。彼は自分の冷えきって鼓動のとまった心臓に向かって憤然とどなった。(わが国の女性をあのように頑固にし、自由などと叫ばせ、自然の法則などそっちのけにして、娼婦でなければ尼僧のような極端な生活をさせているのは、みなあの外国の風習のせいではないか!)そして、とくに嫌悪をおぼえながら、アメリカ留学中の下宿屋の娘の淫《みだ》らさや、すぐにくちびるを許したメアリのことを思い出し、彼女らを憎悪した。そして、ついには道で出あう外国の女を見ると、ことごとく憎悪を感じるので、どうにも我慢ができなくなってつぶやいた。(なんとかしてこの都会から離れよう。外国のものも新しいものも目にうつらない地方へ行って、わが国のほんとうの生活をしよう。外国へなど行かなければよかった。あの土の家から離れなければよかった!)
すると、突然、昔知り合いになって、鍬《くわ》の使い方を教えてくれた老農夫のことを思い出した。彼は行ってその老農夫に会い、外国人やその風習に汚されていない自分と同じ民族の血を感じたくなった。
すぐにそうきめて、彼は道を急ぐために電車に乗り、終点までくると、それからさきは歩いた。その日、彼は、昔彼が種子をまいた農場や、あの農夫の家を探して遠くまで歩いた。しかし、道が変わっているし、家が立てこみ、にぎやかになっているので、夕方近くなっても探し出すことができなかった。ようやく見おぼえのある場所へきたが、そこはもう畑ではなくなっていた。ほんの数年前まで作物が勢いよく育ち、あの農夫が、先祖代々、何百年となく住んできたのだと誇らしげに語っていたあの大地に、いまでは絹織物の工場が建っているのである。
それは大きな新しい建物で、昔の一つの村くらいの大きさがあり、レンガは新しく赤く、屋根には、たくさんの窓が開き、煙突からは黒い煙がもうもうと立ちのぼっていた。元が見ていると、かん高い汽笛がひびいて、さっと鉄の門が開き、その大きな口から、一日の労働に疲れはて、あすも、それからつぎの日も、またつぎの日もきょうのように暮らさねばならぬことを知っている重い心をいだいて、男や女や小さい子供の群れが、ゆっくりと流れ出てきた。着ている着物は汗にまみれ、まゆのなかで死んでいるサナギの悪臭が、強く彼らのまわりに漂っていた。
元は、これらの人々の顔をながめ、そのなかにあの農夫もいるにちがいないと思った、彼の土地が飲みこまれたように、彼もこの新しい怪物に飲みこまれたにちがいないと、なかば夢のように考えていたのである。しかし、農夫の姿は、そこにはなかった。それは、朝になるとあばら家からはい出し、夜になるとそこへ帰る、顔色の青い町の人々ばかりであった。農夫はどこかへ行ってしまったのだ。彼も妻も牛も、ほかの土地へ行ってしまったのだ。もちろん、そうにちがいない、と元は自分に言って聞かせた。どこかで彼らは、昔のように力強く、自分たちの生活をいとなんでいるのだ。彼らのことを考えて、元は、ちょっとほほえみ、そのあいだ自分の苦しみを忘れ、考えにふけりながら家へと帰った。自分も、なんとかして自分自身の生活を発見しなくてはならない。
[#改ページ]
翌日、元《ユアン》の生活を決定づける二つの事件が起こった。朝早く老夫人が彼に言った。
「当分のあいだ、あなたはこの家にいないほうがいいのじゃないでしょうかね。美齢《メイリン》にしても、あなたの心がわかっていながら、毎日顔をあわさなければならないことが、どんなにつらいか、考えてやってください」
これにたいして、きのうの怒りが残っているので、元は腹立たしそうに答えた。「よくわかっていますよ。ぼくだってそうなのですから。ぼくも毎日美齢と顔をあわせなくてすむところへ行きたいと思っています。美齢の姿を見、声を聞くたびに、結婚をことわられたことを思い出さずにすむところへ行きたいのです」
元は、こうした言葉を、はじめは威勢よく、怒りをこめて言ったのだが、おしまいごろになると声がふるえてきた。なんとかして怒りを持ちこたえ、美齢の顔が見えないところへ行きたいのだと言おうとするのだが、そのことを考えると、じつは、何ものにもまして彼女の姿が見え、彼女の声が聞けるところにいたいのだと知っているので、みじめな気持ちになった。しかし、けさの老夫人は、またもとのおだやかな婦人にかえっていて、いまはもう美齢をかばう必要もないし、男性にたいする女性の大義名分を守る必要もないので、やさしい、寛大な気持ちになっていた。だから、元の声がふるえているのもわかったし、彼が急に言葉をまぎらし、急いで茶わんのほうへ目をやるのにも気づいていた。ふたりが顔をあわせたのは食卓でのことで、美齢はその席にいなかったのだ。それで、老夫人は彼を慰めて言った。
「これはあなたのはじめての経験ですから、さだめしつらいことだろうと思います。あなたの性質はよく知っていますが、おとうさんそっくりで、おとうさんはまたそのおかあさんにそっくりだと、みんなが言っていました。おばあさんというのは、まじめな、おとなしい方でしたが、愛するものには強く執着なさったと聞いています。愛蘭はおじいさんのほうに似ていて、いつも笑っているような目が、おじいさんそっくりだと、伯父さんが言っていました……ところで、あなたはまだ若いのだから、一つのことにそんなに執着できるものではありません。この家を出て、好きな土地へ行って気に入った職をみつけ、伯父さんの負債を返したり、若い人たちにつきあってみたらいいでしょう。そして、一年たったら――」夫人は、ここで、言葉を切って、元をみつめた。元も夫人の顔を見て、あとの言葉を待った。「一、二年たったら美齢もかわるでしょう。これは先のことですけれどね」
しかし、元は希望が持てなかった。彼は頑固に言った。「いいえ、美齢は変わりませんよ、おかあさん。美齢は、ぼくがきらいなのです。美齢こそ自分の求めている女だと、あるとき、ふとぼくはさとったのです。ぼくは外国風の女はほしくありません――きらいなのです。でも、美齢は、ぼくの理想の女です。ぼくの好きなタイプなのです――なんとなく新しくて、しかも古いところがあって――」
ここまで言うと、元は、またふいに言葉を切り、飯を口いっぱい詰めこんだが、のどが涙のためこわばっていて、飲みこめなかった。恋のために泣くなんて子供っぽいような気がして、そんなことは気にかけていないと見せたいので、涙を流すのが彼には恥ずかしかったのである。
老夫人は彼の気持ちがすっかりわかっているので、しばらくそのままにしていたが、やがておだやかに言った。「いまは、このままそっとしておきましょう。そうして待つことにしましょう。あなたは若いのだから、待てないはずはないし、それに負債もあることです。あなたには子としての義務があることを忘れないでください。どんなことがあろうと義務は義務ですからね」
老夫人がこんなことを言ったのは、意気消沈している元に元気を出させるためだったが、その効果は、てきめんであった。というのは、彼は、やっとのことで口のなかのものを飲みくだすと、いきなり叫びだしたからである。それはすでに彼がきのう決心したことではあるが、こう言われてみると、どうにも辛抱できなかった。「そうです。みんなそう言いますが、ぼくはもう聞きあきました。ぼくは、いつも父にたいする義務を果たしています。それにたいして父は、なんで報いたでしょうか。ぼくを無教育な田舎ものの妻に結びつけ、永久に束縛しようとしました。しかもそれがぼくにとってどんなことであるかを知らないのです。そして今度はまた伯父に結びつけました。こうなれば、ぼくは昔にかえります――孟《メン》の運動に加わって、旧時代の人たちが義務と呼んでいるものをぶちこわすために身命を投げうちます――ぼくはまたあの運動をはじめます――父に悪気がなかったからといって、そんなことは言い訳になりません。こんなにぼくを傷つけて、しかもそれを知らないということが、そもそも罪悪なのです――」
元も自分が筋道の立たないことを言っていることを知っていた。王将軍は彼を束縛しようとはしたが、また一方、かき集められるだけの金を集めて、彼を牢獄から解放してくれたではないか。そこで、彼は怒りに火を注ぎ、老夫人がこのことを切り出しても、真正面からぶつかる心構えをしていた。ところが、夫人は案に相違して静かに言った。
「新しい首都へ行って孟といっしょに生活するのもいいことかもしれませんね」夫人のほうから議論にしないので、元は驚いて、言うべき言葉もなく、この問題は、そのままになって、ふたりはそれきり何も言わなかった。
たまたま、ちょうど同じ日に、また元にあてて孟から手紙がきた。封を開いてみると、まっさきに返事をよこさないのは不都合だとなじってから、孟は性急な調子でこう書いていた。
「やっとのことで、きみのためにこの地位を確保して、きみがくるのを待っているのだ。このごろでは、このくらいの地位になると、百人もの候補者があるからだ。きょうすぐ出発してくれ。きょうから三日目に、その大学は開かれるので、こんなふうに手紙を往復しているひまはないからだ」そして孟は熱のこもった調子で、こう結んでいた。「だれでもこの新しい首都で働く機会を持てるわけではないのだ。このごろでは、仕事を待ち望んでいるものが、たくさんいる。全市が面目を一新しつつある――大都市に必要なものは、すべて新しくつくられつつある。古い、曲がりくねった道路は、ぶちこわされ、あらゆるものが新しくされているのだ。きみもきて自分の役割を果たしたまえ!」
この元気な言葉を読んだ元は、心臓がおどるのをおぼえ、手紙をテーブルの上に投げ出すと、大きな声で、「よし、行こう」と叫んだ。そして即座に本や衣服やノートや書いたものをとりまとめ、彼の人生のつぎの段階へ移る用意をしはじめたのであった。
昼食のとき、彼は孟の手紙のことを夫人に話した。「ぼくにとっては首都へ行くのが一ばんいいと思います。万事そうしなくてはならぬようになってきたのですから」
老夫人は、おだやかに、それに賛成し、それ以上どちらも話さなかった。ただ夫人は、ふだんのとおりの態度ではあるが、目の前のことを、ある距離をおいてながめているようであった。
ところが、その晩、元がいつものように夫人といっしょに食事をしていると、夫人はいろいろと世間話をした。愛蘭《アイラン》は夫と北京に一か月の予定で遊びに行ったが、もう半月になるから、あと半月もすれば帰ってくるだろうとか、孤児院に風邪がはやって、つぎからつぎへと子供に感染し、きょうで八人もそれにおかされたというような話をした。それから夫人は、おだやかに言った。
「美齢は一日じゅう孤児院へ行っていて、外国人がやるように、針で薬を血のなかに注ぎこんで予防しています。でも、あなたが今夜にも立つかもしれないから、せめて今晩だけはみんないっしょにいたほうがいいと思って、今夜は家へ帰ってくるように伝えておきました」
きょうは一日じゅう、ほかに考えごとや計画が山ほどあったのに、元は幾度となく、もう一度美齢に会えるだろうかと考えていた。会わないほうがいいと思うこともあったが、また、彼女の気がつかないときに、もう一度その姿を見たい、声は聞こえなくとも、表情や動作を見ていたいと、ほとばしるような情熱をもって思った。しかし、会ってほしいと頼むわけにはいかなかった。うまく会えればそれに越したことはないが、帰りがおそくなって会えなければ、我慢するよりしかたがないと思っていた。
この芽をつまれた元の愛情は、彼のうちで酵素のような働きをした。部屋のなかで、彼は一日のうちに幾度となく荷造りの手を休め、寝台に身を投げかけて、美齢が自分をこばんだことを考えて憂鬱になったり、だれも見ていないので泣いたりした。また時には、ふらふらと窓ぎわへ行き、そこに身をもたせて、陽気な女のように彼のことなど気にもかけないこの都会の姿に目をやったり、暑い陽光の輝きをながめたりし、自分のほうでは愛していながら、愛されなかったことを、心のなかで憤った。自分が法外な仕打ちをされたような気がしていたのだが、そんなことをしているとき、ふと、それまで忘れていたことが心にうかんできた。それは、これまでに二度女に愛されながら、一度も、その愛に報いなかったことだ。このことを思い出すと、彼は非常な恐怖を感じ、心のなかで絶叫した。(おれが、あの女たちを愛さなかったように、美齢も、おれを愛せないのではなかろうか。おれが彼女らの肉体をきらったように、彼女も、おれの肉体をきらっており、どうにもおれをきらわずにはいられないのではなかろうか)しかし、この恐怖は、あまりにも大きく、とても忍びえなかったので、彼は、急いで考えた。(それは場合がちがう――彼女らは、おれをほんとに愛したのではなかった――いまおれが彼女を愛しているように愛したのではなかった。おれのように愛したものが、いままでにいるものか)それからまた誇らしげに考えた。(おれは、このうえもなく純粋な、高貴な心で愛しているのだ。彼女の手に触れようなどと考えたこともない――いや、ほんのちょっと、そんなことを考えたことはあったが、それは、彼女がもし愛してくれたら、というときにかぎっていたのだ――)そして、彼女にたいする彼の愛が、いかに大きくて純粋であるかを、彼女もぜひ理解すべきだと思い、もう一度彼女に会って、彼女からこばまれても、なお彼がこんなに毅然としているところを見せなければならぬと思った。
しかもいま、夫人が言った言葉を聞くと、彼は顔から血の気がうせるのをおぼえ、一瞬間、彼女が帰ってこなければいい、出発する前に会いたくない、と熱にうかされたように思った。
しかし、部屋を逃げ出す口実を考え出せないでいるうちに、美齢が、ふだんのとおり、静かにはいってきた。最初、彼は彼女をまともに見ることができなかった。彼女が腰をおろすまで立っていたが、彼女の暗緑色の絹の服と、それから、彼女の肌と同じ色の象牙の箸《はし》を、細い手でとりあげるのが見えた。彼は口がきけなかった。それを見た夫人は、まったくふだんのとおりの調子で美齢に言った。「お仕事は、すっかりすみましたか」
美齢も同じように、ふだんのとおりの調子で答えた。「はい、ひとり残らずすみました。もう咳《せき》をしてる子もいますから、予防としては手おくれになったものもいるかもしれませんが、でも手当をしただけのことはあるでしょう」それから、ちょっと低い声で笑って言った。「おかあさま、みんなが『がちょう』とあだ名をつけている六つになる子をご存じでしょう。わたしが注射針を持って近づくと、あの子は大きな声をあげ、泣きながら言うのです。『おばさま、あたいに咳をさせといて――あたい咳のほうが好きなの――ほら、こんなに咳が出るでしょう!』そして出もしないのに、わざと大きく咳をしてみせるのです」
夫人と美齢は、その子のことをおもしろがって笑い、元も、ちょっと笑った。そして笑っているうちに、元は、いつのまにか美齢の顔を見ていた。恥ずかしいことに、一度彼女を見ると、目が離せなかった。口こそきかなかったが、目は彼女にすいつけられ、息をのんで、目で彼女に訴えていた。彼女の白いすきとおった頬が赤くなった。それでも彼女は彼の視線をたじろぎもせずに受け、いままでにないほど早い、せきこんだ調子で言った。彼のほうでは何も口に出さないのだが、彼女のほうでは彼に質問されたことに答えるような調子であった。
「でも、わたしはお手紙はさしあげますわ。元さん、あなたもお手紙くださるでしょう」それだけ言うと、もはや彼の視線に耐えられぬように、急に恥ずかしそうにして、夫人のほうを見た。その顔は、まだ燃えるように赤かったが、顔は、高く雄々しくあげていた。「許してくださいますかしら、おかあさま」と彼女は言った。
これにたいして、老夫人は、まるで普通のことでも言うように、静かな声で答えた。「かまいませんとも。兄と妹の手紙ではありませんか。たとえそうでなかったにしても、いまの時代ですもの、とめるわけにはいかないでしょう」
「そうですわね」と美齢は幸福そうに言って、輝く目を元のほうへ向けた。元も彼女の目を見て微笑したが、一日じゅう悲しみに閉じこめられていた彼の心は、突然、よろこびの門が開かれたのを感じた。(美齢にならなんでもうちあけられる)と彼は思った。これまでなんでもうちあけられるような相手はひとりもいなかったので、それはまさに狂喜に近かった。そして、彼女にたいする愛情は、いままでにもまして強くなった。
その夜、汽車のなかで、彼はひとり思った。(美齢をなんでもうちあけられる友だちにすることができるなら、おれは一生涯、恋愛などしなくてもすませそうだ)せまい寝台に身を横たえた彼は、かつて彼女のわずかの言葉で意気消沈したように、いまはまた彼女の一言で自分が高い純粋な気持ちにあふれ、愛によって浄《きよ》められ、強い勇気に満ち、天にものぼる気持ちになったのであった。
翌朝早く、汽車は出たばかりの日の光に緑もあざやかな一群の丘陵のあいだを走っていたが、やがて大きな古い都の城壁の下を、一マイルか二マイルばかり、大きな車輪のとどろきを反響させながら走って、突然、灰色のセメントでつくった外国風の大きな新しい建物のそばで停車した。窓がわにいた元は、その灰色の壁を背にして立っている男の姿を認め、すぐにそれが孟《メン》であることを知った。日の光が、彼の長剣に、腰にさしたピストルに、シンチュウのボタンに、白い手袋に、やせた頬骨《ほおぼね》の高い顔に降り注いでいた。そのうしろには一隊の護衛兵が各自ピストルのケースに手をかけて、きちんと整列していた。
このときまで元は普通の旅客にすぎなかったのだが、一歩汽車から降り、この勇ましい士官に迎えられるのを見ると、たちまち群衆は彼のために道をあけ、他の旅客の荷物をかつごうとして客の奪いあいをしていたいやしいボロを着た苦力《クーリー》どもは、いっせいにほかの客をすてて元のほうへかけより哀願しはじめた。しかし、彼らの騒ぎを見た孟は、大きな声で「あっちへ行け、この犬ども!」とどなりつけ、それから部下をふり返り、鋭い声で命令した。「おれのいとこの荷物を持ってこい!」そう言いすてると、彼は元の腕をとって群衆を押しわけて行きながら、昔と変わらぬ性急な調子で言った。
「きみは来ないんじゃないかと思っていたよ。どうしてぼくの手紙に返事をよこさなかったのだ。だが、まあいいや、来たのだから。ぼくはとても忙しくてね、それでなければ、きみが帰朝したとき、船まで出迎えに行ったのだが――元、きみは、じつにいいときに帰ってきたよ。きみのような人物を非常に必要としているときなのだ。国内いたるところで人材を必要としているのだ。国民は羊のように無知で――」
このとき、彼はひとりの役人の前に足をとめてどなった。「部下がおれのいとこの荷物を持ってくるから、そのまま通してくれ」
すると、臆病で気が小さくて、最近この職についたらしい役人が言った。「阿片、武器、反革命文書の持ち込みをふせぐため、荷物はすべて開けて検査するように命令されているのですが」
すると孟は怒り出し、目をかっと開き、黒い眉《まゆ》をあげ、おそろしい声でどなりつけた。「おれを知らんのか。おれの将軍は党の最高幹部で、おれはその第一部隊長だ。そして、これはおれのいとこなのだ。普通の旅客にたいするわずかな規則をたてに、おれたちを侮辱するのか」そして、そう言いながら、孟は白い手袋をはめた手をピストルにあてたので、小役人は、あわてて言った。「お許しください。どなたか存じませんでしたもので」
ちょうどそのとき兵隊たちがきたので、小役人は荷物に検査済のしるしをつけ、調べもせずに通した。群衆は、おとなしく道をあけ、口をぽかんと開けて、彼ら一行が通るのを見送っていた。乞食までが黙ってこそこそと向こうのほうへ行ってしまい、彼が通り過ぎるまで物乞いをやめていた。
こうして群衆のなかを通って、孟は元を待たせてあった自動車へと連れて行った。ひとりの兵隊がドアを開けると、孟は元を先に乗せ、それから自分も乗りこんだ。たちまちドアが閉まり、兵隊たちがステップにとび乗り、自動車は非常な速度で走り出した。
早朝だったので、町は、たいへんな人込みであった。たくさんの百姓が野菜を籠《かご》に入れ、天びん棒で肩にかついできていたし、大きな米の袋を背に積んだロバの一隊がいるし、近くの川からくんできて城内に運び、それを市民に売るための水をいっぱいに乗せた手押し車もあるし、仕事に出かける男女、朝食を食べに茶館へ行く男、その他各自の仕事をしているあらゆる種類の人々がいた。自動車を運転している兵隊は非常にうまくて、おまけに大胆で、大きな音を立てて警笛をのべつに鳴らし、強引に群衆のなかをつっ走るので、人々は、まるで暴風に吹きとばされるように自動車の両側へわかれ散り、ロバをひき殺されまいとあっちこっち引っぱりまわしたり、女は子供をひっかかえてさけたりした。元は恐ろしくなり、おびえている市民のあいだを行くときには、もっとゆっくり走らせるように命令するかと思って、孟のほうを見やった。
ところが、孟は速いのには慣れているらしかった。彼は、しゃんと胸をはり、まっすぐに正面を見、ひどく得意そうに、いろいろなものをさして説明した。
「この道路を見たまえ。一年前までは四フィート足らずの道幅で、自動車は通れなかった。通れるのは人力車と轎《かご》、それだけだった。一ばん広い道路でも、ほかに乗り物といえば一頭立ての小さな馬車だけだったのだからね。ところがどうだ、この道路を見たまえ」
「見ているよ」と元は答え、兵隊のからだのあいだから見ると、広い、かたい道路であって、両側にはその道路をつくるためにこわされた家だの店舗だのの残骸があった。それでも、その残骸の端には、すでに廃墟のなかから新しい店舗や新しい家が建てはじめられていて、大急ぎで建てられた速成の建物ではあるが、見たところ西洋式で、明るいペンキを塗り立て、大きなガラス窓があって、なかなか景気がよい。
ところが、この新しい広い通りを横ぎって、突然影がさした。見ると、それは高い昔ながらの城壁であった。そこに城門があって、城壁の下、とくにくぼんでいるところには、むしろをかけた小さな小屋がむらがっていた。そのなかには、とくべつひどい貧乏人が住んでいた。もう朝なので、みんな起きていた。女たちはレンガを四つほど集めてつくったカマドの上に鍋《なベ》をのせて、とぼしい火をたきつけ、ごみためから拾ってきたキャベツの葉っぱを煮て、食事のしたくをしていた。子供たちは、裸のまま、洗ったこともないからだで走り出し、男どもは、まだ疲れたようすで出てきた。これから人力車をひくか土工をしに行くのであろう。
孟は元の目の行き先を見ると、いらいらした口調で言った。「来年はあんな小屋は取りはらうことになっている。あんな連中をうろうろさせておくのは、われわれの恥だからね。新しい首府なのだから、外国のえらい連中がくるのは当然だが――皇族だってくるだろう――あんなものを見せるのは恥ずかしいからね」
元にも、そのことはよくわかったし、このような小屋が、そんなところにあってはいけないという孟の意見に賛成であった。実際、こうした男女は、見ただけでも下等で、なんとかして彼らを見えないところに追っ払わなければならないと思った。元は、しばらくこんなことを考えていたが、やがて言った。「あの連中をなんとかして働かせたらどうかね」すると孟は爆発するように言った。「もちろん故郷の畑に送りかえして働かせることもできるわけだ。そうすれば、彼らは――」
そこまで言うと、昔の不愉快な記憶を呼び起こしたのでもあろうか、孟の顔色が変わった。そして、ひどく激越な調子で言った。「わが国の発展を妨げているのは、この連中なのだ。ぼくは国家の大掃除をして、若いものだけで建てなおしたい! こんな町は、すっかりとりこわしたい――弓矢で戦うのではなし、大砲で戦争をする時代なのだから、こんな城壁は、まったく無用の長物というものだ。飛行機から爆弾を落とす時代に、城壁がなんの役に立つだろう。そんなものはこわしてしまい、そのレンガで工場や学校や、その他若いものが働いたり勉強したりする施設をつくるがいいのだ。だが、この連中は、なんにも理解しない――城壁をとりこわさせようとはしないのだ――彼らは、無理にも――」
孟がそんなことを言うのを聞いて、元はたずねた。「だが、きみは昔は貧乏人の同情者だったと思うがね、孟。貧乏人が圧迫され、外国人や警官からなぐられると、きみがよく怒っていたのを、ぼくはおぼえている」
「いまだってそうだよ」と孟が急いで言って、元の方を見たので、元には彼の視線がいかに怒りに満ち、火と燃えているかがわかった。「たとえどんな貧乏な乞食だろうと、外国人が手でも触れようものなら、ぼくは昔と同じように、いや、もう外国人なんかこわくはないのだから、それ以上に怒るよ。そして、ピストルで射ち殺してしまうよ。だが、ぼくは、昔は知らなかったことがわかってきたのだ。われわれの事業の最大の障害は、そのためにわれわれが働いているこの貧乏人だということがわかったのだ。彼らはあまりに多すぎる。彼らに教えることはだれにもできない。彼らにたいしてはなんの希望も持てないのだ。だから、ぼくは言うのだ。飢饉でも洪水でも戦争でもいいから、彼らを追っ払ってくれるといい。われわれは彼らの子供だけを育てて、革命に役立つように教育するのだ」
こんなふうに孟は意気けんこうたる調子でまくしたてたが、それを聞いて、例によってゆっくりと考える元には、彼の言うことにも道理があるような気がした。彼は、外国の牧師が好奇的な人々を前にして立ち、こうした悲惨な光景を示したことを、思い出した。そうだ、この新しい大都会の、この広い通りの、けばけばしい店舗や家々のあいだにも、あの牧師が示したような光景があるではないか。――目の見えない乞食や、病気におかされた乞食がうろついているし、貧民のいる横町では、汚物が入り口の前を流れているので、このさわやかな朝の大気さえ、すでにその悪臭にそまっている。すると、あの外国の牧師にたいする腹立たしい屈辱が、ふたたび元の心にわきあがった。それは苦痛で刺しつらぬかれた怒りであった。彼は孟が声をあげて叫んだのに劣らぬはげしさで、心のうちで叫んだ。(なんとかしてこの不潔さを追い払わなければならない!)そして元は、孟の言うことは正しい、とはっきり思った。この新しい時代に、こんな希望も持てない無知な貧乏人が、なんの役に立とう。自分はいつも気が弱すぎた。孟のように非情になることをおぼえ、こんな役にも立たぬ貧乏人のために感情を浪費しないようにしなければならぬ。
こうして、彼らはついに孟の軍営に着いた。元は軍人ではないので、そこに住むわけにはいかなかったが、孟がすでに近くの宿屋に部屋を借りておいてくれた。狭くて暗くて、あまり清潔ではないので、元が妙な顔をしているのを見ると、孟は、なんとなく弁解するように言った。
「この都会は近ごろ人間がふえて、いくら金を出しても、なかなか部屋がみつからないんだ。家は、そうてっとりばやく建たないしね――町は、どうしても追いついていけないほどの勢いで発展しているのだ」これを孟は得意そうに言ったのだが、それからさらに得意そうに言った。「この不自由も主義のためだよ、元――新しい首府を建設するあいだは、どんなことでも我慢できるよ」そこで元は元気を出し、どんな不自由もよろこんで忍ぶし、部屋はこれでけっこうまにあう、と言った。
その夜、自分が暮らすことになった部屋の、一つしかない窓の下の小さな机の前に、元はひとりすわって、美齢にあてた最初の手紙を書きはじめた。なんと書き出したらいいか、ながいこと考え、あの在来の形式の丁重なあいさつからはじめるべきだろうかと迷った。しかし、きょう一日を終わった彼のなかには、何かしきたりにとらわれない気持ちが生じていた。残骸となって横たわっている古い家、小さな、けばけばしい新しい店舗、古い町をなさけ容赦なく貫通している広い未完成の道路、孟の熱のある大胆な怒りをこめた話などが、彼をそんな気持ちにしたのであった。
彼は、ちょっと考えてから、しゃれた外国風の書き出しではじめた――「親愛なる美齢よ――」そして、それだけを黒くはっきり書くと、さきを書く前に彼はその言葉を考え、それをみつめ、その言葉には愛情がこもっていると思った。「親愛なる」――これは愛するということではないか――そして、美齢とは――それは彼女のことなのだ――彼女がそこにいるのだ……それから、ふたたびペンをとりあげると、彼は調子の早い文章で、きょう彼が見たもの――新しい都会、青年の都会が、廃墟のなかから建設されつつあることを述べた。
この新しい都会は、元《ユワン》をその生命のなかに巻きこんでしまった。こんな忙しい、そして幸福なことは、これまでになかった。すくなくとも彼はそう思った。いたるところに仕事があり、その仕事には楽しみがあった。働いている瞬間瞬間が、多くの人々の将来にたいして重大な意義のあることなのである。孟《メン》が紹介してくれた人々のあいだにも、仕事と生活にたいする同じはげしい熱意が感じられた。
この国の新しく鼓動をはじめた心臓部にあたるこの都会のいたるところに、元よりいくらも年上でない人々が、自分たちのためではなく、国民のために計画を立て、生活の方法を立案していた。新首都の都市計画に従事している人々もいた。その長官は、せかせかと口をきき、せかせかと歩き、小さな美しい子供のような手を動かして語る、情熱的な南人であった。彼も孟の友人で、孟が元のことを、「これはぼくのいとこです」と言って紹介すると、それだけであとは聞きもせず、元に向かって都市建設計画を滔々《とうとう》としゃべり、あのばかばかしい城壁をとりこわし、そのレンガを利用することや、レンガは幾百年もたった現在でも美しくて石の塊のように強くて、このごろつくるレンガよりも、よほど上質だというようなことを話した。彼が小さな目を光のように輝かせながら語るところによると、このレンガで、政府の新しい中央官庁にするりっぱな洋式の大きな建物をつくるということだった。
そしてある日、彼は元を自分の役所へ連れて行ったが、それは古い傾いた建物のなかにあって、ほこりやクモの巣だらけだった。彼は言った。
「こんな古い部屋は、手を入れたってむだですよ。新しい建物ができるまでは、ここで辛抱していて、新建築ができたら、この家はとりこわして、この敷地は、また新しい建物のために使うのです」
そのほこりだらけの部屋部屋には、たくさんの机があって、その机に向かって、たくさんの若い人々が、設計図を描いたり、紙の上の線をはかったり、図面の屋根や、蛇腹《じやばら》を明るい色で塗ったりしていて、部屋は古びて荒れてはいるが、こうした若い人たちの意気と設計図の色彩で生気があふれていた。
長官が大きな声で呼ぶと、部下のひとりが急いでとんできた。すると長官は威張った調子で、「新庁舎の設計図を持ってこい」と言った。設計図がくると、長官は元の前にそれをひろげてみせた。それには、古いレンガで建てた上品な高層建築がずらりとならんでいる図が描いてあって、どの屋根にも新しい革命旗がひるがえっていた。また、両側に青々とした並み木のある道路も描いてあって、歩道にはりっぱな服装をした男や女が歩いているし、車道には、ロバの列とか手押車とか人力車とか、そのほか、いま見られるような貧弱な車はなく、赤や青や緑に明るく塗り、裕福そうな人が乗っているりっぱな自動車ばかりであった。それに、乞食の姿などひとりも描いてなかった。
元はこの図面を見て美しいと思わざるをえなかった。彼は、うっとりして言った。「いつ完成するのですか」
若い長官は確信ありげに答えた。「五年以内にやります。いまではなんでも仕事は早いですからね」
五年間! そんな年月は、なんでもない。元は自分のうすぎたない部屋へ帰り、考えながら、いま設計図に見たような建物が一つもない街々を見渡した。そこには並み木もなければ裕福そうな人々もなく、貧乏人はいまだにわめき騒いでいた。しかし、五年ぐらい、わけはない、と彼は思った。もうできあがったも同様だ。その夜、彼はこの設計のことを美齢《メイリン》に知らせた。そして、新しい都会が完成したときの図を詳細に書いているうちに、いっそう、もう完成したも同様だという気持ちになった。なぜならば、計画はすべてはっきりとできあがっているので、屋根の色も明るい青の瓦《かわら》ときめられているし、並み木も葉が青々としげっているように塗ってあるし、革命の英雄の銅像の前には噴水さえあったのをおぼえていたからである。自分では気がつかないで、彼は美齢に、まるですべてが完成したもののように書き送った。「上品な建物もあります――大きな門もあります――広い通りの両側には並み木もあります――」
ほかの多くのことでも同様であった。人のからだから病患を切りとる外国の医術を学び、父祖伝来の医術を軽蔑している若い医師たちは、大病院の計画を立てているし、国じゅうの子供に教育をさずけ、全土から文盲をなくするために大きな学校を計画しているものもあるし、国民を統治するための詳細な法律を起草しているものもあるし、この法律に違反したものを入れる監獄の設計をしているものもあった。それからまた、自由な新しい手法で、いたるところに男女間の新しい自由な恋愛をおりこんだ新しい小説を書こうと計画しているものもあった。
こうした計画のなかに、新しい形の軍閥があった。彼らは新しい軍隊、新しい軍艦、新しい戦争方法を計画し、いつかは新しく大戦争をはじめ、いまや自分の国も諸外国に劣らず強大になったことを世界に示そうと計画していた。元の昔の家庭教師であり、後には軍官学校で彼の隊長になり、いまでは孟の上官である将軍も、その軍閥のひとりであった。元が裏切られて獄に投ぜられたとき、孟がひそかに逃げこんだのは、この将軍の軍隊であった。
孟の上官の将軍がこの人であると知ったとき、元は不安を感じ、将軍が自分にどのくらい反感を持っているかはっきりしないので、ほかの人だったらよかったのにと思った。しかし、将軍から孟を通じて招かれると、彼はことわることができなかった。
そこである日、元は孟といっしょに行った。平気な落ちついた顔をしていたものの、心の奥では不安であった。
それでも、きちんと勇ましい服装をして、みがきたてた銃をいつでも射てるように構えた衛兵が立っている門を通り、掃除のゆきとどいた中庭を抜け、部屋にはいり、テーブルに向かっている将軍の姿を見たとき、心配するほどのことはなかったのだと思った。この昔の家庭教師が、彼にたいして、古い不満を口にするつもりはないことを、元は、たちまち見てとった。最後に見たときよりも老《ふ》けていて、いまでは革命軍の名だたる指導者であったが、笑顔も見せず、親しみやすい情けぶかそうな顔ではなかったものの、それは怒っている顔ではなかった。元が部屋にはいったとき、彼は席を立たず、椅子のほうへ、あごをしゃくってみせただけであった。昔はこの男の生徒だったので、元は椅子の端のほうに腰をかけた。見ると、よくおぼえている鋭い二つの目が西洋風の眼鏡の奥から彼のほうを見ていて、おぼえのある、荒々しい、そのくせ不親切でもない、ぶっきらぼうな声が聞こえた。「けっきょく、わしらのところへ帰ってきたわけだな」
元はうなずき、子供のころのように率直に、「父がぼくを革命主義者にしたのです」と言って事情を話した。
すると将軍は鋭く彼をみつめながら、またたずねた。「だが、きみはまだ軍隊が好きにならないのか。あれだけ教育してやったのに、軍人にはならなかったのか」
元は、ちょっと昔のようにどぎまぎして躊躇《ちゅうちょ》したが、すぐに、大胆になろう、こんな男は恐れまい、と強く決心して言った。「いまでも戦争はきらいです。でも、ほかの方面で力をつくせると思っています」
「どうしてか?」と将軍はたずねた。それで元は答えた。「収入の道を講ずる必要がありますから、当分、ここの新しい大学で教鞭《きょうべん》をとります。それから、どう道が開けるか自分の進路をきめるつもりです」
将軍は、そわそわしはじめ、軍人にならないのなら元なんぞに興味はないとでもいうように、机の上にある外国製の時計を見やった。それで元は立ちあがったが、待っているあいだに、将軍は孟に向かって言った。「新兵舎の設計はできているか。今度の兵制によれば、各地方から徴募して兵員を増加することになっているが、新兵は一か月後に入隊するぞ」
将軍の前だから立っていた孟は、直立不動の姿勢をとり、いきおいよく敬礼をして、はっきりした誇らしげな声で言った。「設計は、できております、閣下。御印をいただくばかりになっておりますから、いただければ、すぐに着手できます」
こうして短い会見は終わった。戦争の練習をしていた練兵場から隊伍《たいご》をととのえて帰ってくるたくさんの兵隊のあいだを通るとき、嫌悪の念が、強く心にわきおこったにもかかわらず、これらの兵隊が、だらしなく笑ってばかりいる父の部下とは非常にちがっていることを、元は、認めざるをえなかった。ここの兵隊は、みんな若く、すくなくとも半分は二十歳以下であった。それに彼らは笑わなかった。王将軍の部下は、いつも、騒いだり笑ったりしていて、練兵がすんで休息に帰るときなど、おたがいに押しあったり、どなったり、冗談をとばしたりするので、中庭は陽気な荒々しい声でいっぱいになったものだった。元は、父とともに奥に暮らしていた少年のころ、遠くでどなったり笑ったりする彼らの騒ぎで、毎日食事の時間がわかったくらいである。ところが、ここの若い兵隊たちは粛々と帰ってきて、歩調がおごそかなほどそろっているので、その足音はひとりの巨人の足音のようであった。笑い声一つしなかった。元は、つぎからつぎと彼らに出会ったが、その顔は、みんな若くて単純でまじめそうであった。これが新しい軍隊なのだ。
その夜、彼は美齢への手紙のなかで書いた。「彼らはあまり若くて兵隊とは思えないくらいでした。そして、その顔は田舎の少年の顔でした」それから、ちょっと考え、その顔を思いうかべながら、また書いた、「しかも、その顔には兵隊の表情があります。ぼくのような生活をしたことがないから、あなたにはわからないでしょう。彼らは単純な顔をしています。あまり単純なので、見ていると、飯でも食べるように人を殺すことができるのが、ぼくにはわかるのです――死のように恐るべき単純さです」
この新しい都会で、元は自分の生活と仕事とを見いだした。彼は本類を入れた箱を開き、書棚を買ってきて本をならべた。また、彼がアメリカで実らせた植物の種子も幾種類かあった。種類別に袋に入れてあるその種子を見ながら、この黒い重い土にまいて、はたして育つだろうかと不安になった。彼は一つの袋をやぶって、種子を手のひらへのせて見た。彼の手に握られているのは、大きな金色の、土におろされるのを待っている小麦の粒であった。これを試作する土地をまず手にいれなければならないと思った。
いまや彼は、つぎつぎと迎えては送る日と週と月の車の回転にまきこまれた。彼は毎日学校で日を送った。朝になると学校へ行く。校舎には新しいのもあれば古いのもあった。新しい校舎はセメントと貧弱な鉄筋の急ごしらえの西洋式の殺風景な灰色の建物で、壁はすでにはげ落ちていた。しかし元の教室は古い校舎のほうにあって、建物が古いので、学校の当局者は、こわれた窓さえ修繕しようとしなかった。秋の日ざしは、暖かく黄金色に奥のほうまでさしこんできた。ドアが古くなってこわれて役に立たなかったが、はじめのうちは元も、なんとも言わなかった。しかし、冬が近づくとともに秋もきびしくなり、十一月が、北西の砂漠から吹いてくる強風の翼に乗って咆哮《ほうこう》しながら訪れ、こまかい黄砂が、あらゆる隙間《すきま》から吹きこんできた。元は、外套にくるまってふるえている学生の前に立ち、まちがいだらけの英作文をなおしたり、砂をまじえた風に髪を吹かれながら黒板に作詩の法則を書いたりした。しかし、いくら教えても、ほとんど効果はなかった。学生の心は服のなかでからだをちぢこめることだけに向けられていたからである。しかも、多くの学生は、服が薄いので、いかにちぢこまっても、寒さが防げなかった。
最初、元はこのことについて学長に書面で報告した。学長は七週間のうち五週間は海岸の大都会へ行っていて、そんな手紙には一顧もあたえなかった。それというのが、彼は多くの官職を持っていて、そのおもな仕事は給料を集めることだったからである。そこで元は憤慨し、直接に教育の最高首脳部に会って、窓ガラスがこわれていることや、床板に裂け目ができているので足のあいだからはげしい風が吹きこんでくることや、ドアが閉まらないことなど、学生の窮状を訴えた。
しかし、教育関係ばかりでなく他にもたくさんの職務を持っているその要人は、うるさそうに言った。「しばらくの辛抱だ――しばらくの辛抱だよ。あるだけの金は新築のほうにまわさなければならないのだ――古いむだなものの修繕には使えないのだ!」これは、この新首府のいたるところで耳にする言葉であった。
元は、その言葉ももっともだと考えた。そして、新しい校舎や、寒さがはいる隙間もない、暖房装置の教室を近い将来に想像することはできたが、さて眼前の事実としては、冬が深まるにつれて寒さは日一日と強くなって行った。できるものなら、元は自分の給料をさき、大工を雇って、一つだけでも寒風の吹きこまぬ教室をつくりたかった。なぜなら、しばらくするうちに、彼は現在の仕事が好きになり、教えている青年たちに愛情を感じてきたからである。
ここの学生は、あまり金持ちの子弟はいなかった。というのは、金持ち連中は、外国人教師がたくさんいて、教室には暖房装置があり、食事のぜいたくな外国人経営の私立学校へ子弟をやるからであった。しかし、新政府によって開かれたこの国立の学校は、すべて官費なので、小商人の息子だの、貧乏教師の息子だの、土地にしがみついている父親よりも出世しようと思って入学してくる田舎出の秀才などが多かった。みんな若く、服装も貧しくて、栄養も悪いが、元は、彼が教えることを理解しようと一生けんめいになっている彼らがかわいかった。もっとも一生けんめいになっているとはいうものの、たいていの場合、彼らはなかなか理解できないようであった。なぜなら、学力に多少の差はあったが、要するにみな程度が低いからである。彼らの青白い顔や、熱心に見守る目を見ていると、教室を修繕するだけの金が自分にあったら、と元は思った。
しかし、彼には余裕がなかった。給料さえ、きちんとはもらえなかった。というのは、彼より上の連中がさきに各自の給料をとってしまうからである。軍費とか要人の官舎新築のためとか、あるいは、ひそかに自分のふところを肥やすものがいたりして、その月、予算が不足すると、元をはじめ新参の教師は、じっと我慢して待っていなければならなかった。元は伯父にたいする負債から解放されたいので、我慢しなかった。すくなくとも一つのほうの負債からは解放されたいと思った元は伯父に手紙を書いた。
「ご子息たちについては、小生には、いかんともできません。小生はここでは勢力はないのです。自分の地位を保っているだけで精いっぱいのありさまです。しかし、父がお借りした金を皆済するまで、毎月、給料の半分をお送りいたします。ご子息にたいする責任だけは負いかねます」こうして新しい時代のおかげで、すくなくとも血縁の束縛からだけは解放されたのであった。
こんなわけで、彼は学生のために教室を修繕してやるだけの余裕がなかった。彼は美齢に手紙を出して、教室を修繕したいことや、ひどく冬が寒くなってきたが、どうにも方法がないというようなことを書いた。彼女から、そのときだけはすぐに返事がきた。「そんな古ぼけた役にも立たない教室から、学生たちを、暖かい戸外に連れ出して教えてはいかがですか。雨の日や雪の日でなかったら、日のあたるところで教えることができると思います」
彼女の手紙を手にしたまま、いままで自分がこのことに思いおよばなかったことを、元はふしぎに思った。冬は乾燥していて晴れた日が多かったからである。それ以来、彼は二つの建物をかこんでいる煉瓦塀《れんがべい》の隅《すみ》に日のあたるところをみつけて、そこで授業することにした。通りがかりの人が笑っても、彼は勝手に笑わせておいた。とにかく日の光は暖かかったからである。美齢が、新しい校舎ができるまでのつなぎの、ほんのちょっとした思いつきを、こんなにすぐに考え出したことで、彼は、なおさら彼女を愛せずにはいられなくなった。こんなにすぐに返事がきたことが、彼に一つのことを教えた。彼が自分ではどうしてよいかわからないことをたずねてやると、いつも彼女からは、すぐに返事がきた。そこで彼もずるくなって、困ったことがおきると、いっさい彼女に相談した。恋愛めいたことには彼女はけっして返事をよこさないが、処置に困るようなことを相談すると、熱心に意見を書いてよこした。それで、やがてふたりのあいだには、秋風に吹かれる木の葉のように、しげしげと手紙がとりかわされるようになった。
初冬のこのごろの寒さに対抗して血を温かくする方法を彼は、ほかにも発見した。それは学生たちに畑で労働させて、外国種の小麦の種子を植えさせるという方法である。学校では、生徒の数に比較して教師がすくないので、元は、いろいろのことを教えなくてはならなかった。いたるところに大きな新しい学校が、これまで教えられていなかったあらゆる新しい外国の学術を教えるために開設され、青年たちは、あらそって入学したが、新時代の知識にあこがれる学生のすべてに教えるためには教授の数が足りなかった。それゆえ、外国に留学していたというので、元は、かなり名誉ある待遇を受け、知っていることはなんでも教えるようにと言われ、こうして受け持った学課の一つに、農業技術の指導があった。
城外の小さな村落の近くに付属農場をあたえられて、そこへ彼は学生たちを軍隊のように四列縦隊にして連れて行った。彼はみずから列の先頭に立って市中を行進したが、ただ彼らは小銃のかわりに彼が購入した鍬をひとりひとり肩にかついでいた。市民は彼らを見て目をみはり、仕事の手を休めて見物するものもあった。「これはいったい、どういう趣向かね?」とふしぎがって叫ぶものもあった。人力車をひいている正直そうな男がこう言っているのを元は聞いた。「ほう、このごろは毎日のように新しいものが見られるが、鍬をかついで戦さに行くとは、こいつは一ばん珍しいや!」
これを聞くと、元は、にやりと笑って、答えた。「これが革命の最新式の軍隊なのだ」
この思いつきが気に入ったせいもあって、彼は冬の日ざしのなかを勢いよく歩いた。たしかにこれは一種の軍隊だ。おれが指導をしたいと思う唯一の軍隊、大地に種子をまくために出動する若人たちの軍隊だ。歩きながら、彼は自分でも気がつかずに、父の軍隊のなかで子供のときに習いおぼえた軍隊式の歩調をとって足を運んでいた。すると彼の足音が高く、はっきりとひびくので、ぞろぞろと歩いていた学生たちも、自然と彼と歩調をあわせて足並みがそろった。まもなく、その行軍の歩調が彼の血行にもリズムをあたえ、暗い城門の苔《こけ》むしたレンガのアーチに足音を反響させながら、それをくぐって郊外に出ると、このリズムは元の精神にも脈うちはじめて、短い簡勁《かんけい》な詩句を生みはじめた。
じつに長いあいだ、こうしたことが彼には起こらなかった。あるいは長い混乱をようやく切り抜けて、やっと仕事によって平静にかえり、魂が澄んで、詩となって結晶したのかもしれぬ。息をこらして彼は言葉のうかぶのを待ち、それがうかんでくると、あの土の家ですごした数日間の忘れられぬよろこびに似た気持ちのなかで、それを捕えた。詩句は、やがてはっきりと三行にまとまったが、四行目が出てこなかった。気がつくと行軍は終わりに近づいて、農場が向こうに見えてきたので、急にいらいらして、無理に詩句をまとめようとしたが、どうしても頭にうかんでこなかった。
そのうちに彼は詩のことなど考えている余裕がなくなった。というのは、ついてくる学生たちのなかから、不平や苦情が起こりはじめたからである。みな呼吸をはずませて、先生の歩き方が早すぎるから、とてもついてゆけないとか、鍬が重いとか、われわれはこんな労働には慣れないのだとか、がやがや言いだしたのである。
それで元も詩のことなど考えてはいられなくなり、学生たちをなだめるために大声で叫んだ。
「もう着いたぞ。ここが農場だ! すこし休んでから仕事にかかろう」
学生たちは、めいめい畑のそばの畔道《あぜみち》にへばりこんでしまった。なるほど彼らの青い顔からは汗がだらだら流れ、息ぎれで、からだが大きく波うっていた。農村からきた二、三人の若者だけが、たいして苦しくもなさそうな顔をしていた。
やがて、一同が休んでいるうちに、元は彼が外国から持ち帰った種子の袋を開いた。学生たちに両手で椀《わん》をつくらせ、その手のなかへ黄金色の小麦の種子をいっぱいに入れた。この種子は、いまの彼には非常に貴重なものに思われた。一万マイルの海のかなたで、異国の土に自分が育てた穀物である。そのころのことを思うと、あの白髪の恩師を思い出す。つづいて彼にくちびるを押しあてたアメリカ娘を思い出さずにはいられない。ひとりひとりに穀物をわけながら、あの瞬間が、ふたたび彼の心によみがえった。あんなことがなければよかったと彼は思った。だが、あの瞬間がけっきょくおれを救って、美齢を発見するまで、おれはひとりぼっちの孤独に耐えていられたのだ。彼は手ばやく鍬をとりあげて、それを大地へ振りおろした。
「いいかね」彼は見ている学生たちに叫んだ。「鍬は、こういうふうに振るんだ! 鍬の持ち方が悪いと、力をむだに使うことになる――」
あの老農夫が教えてくれたとおりに、彼は鍬を振り上げては打ちおろした。鍬のさきが陽光に光った。ひとり、またひとりと、青年たちは立ちあがって彼のやったように鍬を振るった。だが最後に、のろのろと立ってきたのはふたりの農村青年で、鍬の振り方をよく知っているくせに、彼らは、ひどくつまらなそうに、しぶしぶやっていた。元はそれを見ると、鋭く声をかけた。「きみらは、どうしてしっかりやらないのだ?」
はじめ若者たちは答えようとしなかったが、とうとう不機嫌な調子でつぶやいた。「ぼくは生まれてからずっと故家《うち》でやってきたことを習うために大学へ入学したのではありません。もっと気のきいた生活の方法を勉強するためにきたのです」
これを聞くと元は腹が立ったので、ずけずけとどなった。「そうだ、きみたちが、どうやればうまく栽培できるかを勉強すれば、もっと収入を増すために故郷を離れなくてもよかったのだ。優秀な種子を合理的に栽培すれば、作物もたくさんとれて、生活も向上してくるのだ」
ところで、すこし前から、数人の村の農夫たちが、元と学生たちの近くに集まって、いったい若い学生が鍬と種子とをどうするのだろうと、ふしぎそうに見物していた。はじめ彼らは遠慮して黙っていたが、まもなく学生たちが、うまく土に鍬を打ちこめないのを見て笑いだした。元のいまの言葉を聞くと、彼らは気が楽になったとみえて、ひとりがどなった。「それはちげえますぜ、先生! どんなに一生けんめい働こうと、どんないい種子をまこうと、作物はお天気しだいですぜ!」
だが元は、学生たちの前で自分の言葉にさからわれるのがおもしろくなかったので、この無知な男に返事をする気になれなかった。何も聞かないふりをして、彼は学生たちに種子のまきかたや、種子の上にどのくらい深く土をかぶせたらよいかを教え、それぞれ畝《うね》のはしに種子の種類やまいた日付け、まいた者の名まえを示す札を立てさせた。
これらのことを農夫たちは驚いて口を開いて見ていた。あまり仕事が念入りなのを茶化し、遠慮もなくげらげら笑い、「おまえさんがた、種子を一粒ずつ数えたかよ?」とか、「種子にいちいち名まえを書いたかね。種子の色も書いたがいいだよ」とか、「こんなに念を入れていたら、とりいれは十年に一度しかできめえな!」とか、口々にわめいていた。
だが学生たちは、このような下品な冗談を軽蔑しているから相手にならなかった。なかで一ばん憤慨したのは例の農村出の学生で、「これはみな外国産の種子で、おまえたちの畑でまいてるような、つまらないのとはちがうんだぞ!」と、どなった。そして百姓たちにあざけられたために、学生たちは先生に激励された以上に仕事に精を出した。
しかし、しばらくすると、見物していた百姓たちは興味をなくして、みんなつまらなそうな顔つきになって黙ってしまった。そして、ひとりまたひとりと、言いあわせたように唾《つば》を吐いて、村のほうへ帰って行った。
しかし元は幸福だった。ふたたび種子をまき、両の手に大地の感触を味わえるのがうれしかった。土は密度が濃く、ゆたかに肥えている。黄いろい異国の種子にくらべて黒い土だ……こうしてその日の仕事は終わった。元は快い疲労で爽快《そうかい》な気分になり、青年たちを見ると、血色の悪い連中までが生き生きした健康な表情になり、寒い風が西から吹きつけているのに、みな温かそうにしている。
「これが温まるのに一ばんいい方法だ」微笑しながら元は言った。「火にあたるより、ずっといい」青年たちは元を敬愛しているので、彼の気に入るようにいっしょに笑った。だが農村出のふたりだけは、元気な赤い顔になってはいても、まだ気むずかしい表情をしていた。
その夜、自分の部屋にひとりになったとき、元はきょうの一部始終を美齢に書き送った。飲食と同じように、このごろでは一日の終わりに彼女にその日の出来事を書き送るのが、欠くべからざる日課になっていたのである。書き終えると、彼は立って、窓辺へ行って市街を見渡した。黒っぽい瓦屋根の古い家々が、月光のなかに黒くつらなっている。だが、それらにまじって、いたるところに新しい赤屋根の洋風の四角い建物が高くそびえている――その無数の窓に灯火が輝いている。大きな新開道路が、市街をつらぬいて、ひろびろと光の帯をつくり、月の光をうばっている。
この変貌しつつある市街をながめながら、しかし元は、ほとんどその光景を見ていなかった。彼が何よりもあざやかに見ていたものは、美齢の顔であった。じつにあざやかに、若々しく、彼女の顔がそこにあり、市街は、その顔の背景にすぎなかった。すると、急に未完の詩の第四句が心にうかんで、まるで印刷されたようにその詩はできあがっていた。彼は机に走り寄って、いま封をしたばかりの手紙をとりあげ、封を破って、つぎの言葉を書き加えた。「この四行の詩は今できたものです。最初の三行は畑でできたのですが、最後の結句がうかばないままで家へ帰り、そしてあなたのことを考えました。すると、まるであなたがぼくに口授してくれたように、すらりとできてしまったのです」
こうして元は、この首府に住み、昼は教職で忙しく、夜は美齢への手紙で忙しかった。彼女は、それほど数多く手紙をよこさなかった。彼女の手紙は、つつましくて、言葉もすくなく、むだがなかった。しかし言葉がすくないために意味が豊富で、だからすこしも退屈ではなかった。彼女は、愛蘭が一か月の旅行の予定がその何倍にも伸びて、やっとこのごろ夫婦で帰ってきたことを知らせてきた。「愛蘭は、ますます美しくなりましたが、どこか温かみが薄れたようです。たぶん赤ちゃんが生まれたら、もとにもどるでしょう。もう一と月とたたないうちにお産があるはずです。もとのベッドのほうが、よく眠れるとおっしゃって、このごろはよくこちらへ泊まりにいらっしゃいます」また、「きょう、わたくしは、はじめてほんとうの手術をしました。それは子供のころから纏足《てんそく》した婦人の足に壊疽《えそ》ができたので、足首を切断したのです。恐ろしくはありませんでした」また、「わたくしは孤児院へ行って捨て子たちと遊ぶのが楽しみです。わたくしも、そのひとりだったのです。みんなわたくしの妹です」そして彼女は孤児たちが話す愉快な子供らしいことをよく書いてきた。
あるときの手紙には、「あなたの伯父さまの家では、留学中の盛《シェン》さんに帰国するようにと言ってやったそうです。近ごろではあまり小作料もはいってこないのに、盛さんが、あまりお金を使いすぎるからだそうです。盛さんのお兄さまの給料から滞在費を送ることは奥さまがおきらいになるのだそうです。そうかといって、ほかにそんなたくさんのお金の出どころはないし、これ以上学資を送らないそうですから、盛さんもけっきょくお帰りになるよりほかはないのでしょう」
元はそれを読んで考えた。最後に盛に会ったとき、すばらしい新調の服を着て、小さなステッキをひらめかせながら、あの異国の大都市の真夏の街を歩いていた姿を思い出す。なるほど、あの美貌を大切にする以上、たくさんの金を使っただろう。しかし今度は、どうしても帰らぬわけにはゆくまい――彼を帰国させるには、これよりほかの方法がないこともたしかだ。それから彼は例の彼に媚《こ》びていた女のことを思い出した。(帰るのが盛のためにはいいだろう。やっとあの女に別れることになったのが、おれはうれしい)
元が手紙で質問すると、美齢はたんねんに欠かさず返事をよこした。真冬になるにつれて、彼女は、着物を厚くして、十分にものを食べ、よく眠るようにして、あまり無理して働いてはいけない、と注意してきた。古い校舎の隙間風に気をつけるようにと幾度も書いてきた。だが彼の手紙に彼女のけっして答えないことが一つあった。彼は手紙のたびごとに書いた。「ぼくの心は変わりません。あなたを愛しています――ぼくは待っています」これについては彼女は返事を書かなかった。
それにもかかわらず元は、彼女の手紙に満足していた。月に四度、確実に彼女から手紙がきた。その日になると、夜、自室へ帰った元は、細長い封筒に彼女がやや細い楷書《かいしょ》で宛名を書いた手紙が机にのっているのを知っていた。一と月のうちで、この四日が、彼の祝日になった。それを確かめるだけの楽しみのために彼は小さな暦を買ってきて、彼女の手紙がくるはずの日に、あらかじめしるしをつけておいた。赤いしるしをつけた日が、新年までに全部で十二日あり、正月には休暇があるから、家へ帰って彼女の顔が見られるわけである。そのさきの月にしるしをつけなかったのは、彼にひそかな希望があるからであった。
こうして元は一週、また一週と、授業のほかは、どこへも行こうと思わず、さびしくはないので友だちもほしいと思わずに暮らした。
それでも孟が、ときどき来て外へ連れ出すので、どこかの茶館で、孟やその同志たちが、性急な不平をならべるのを聞かされることもあった。どうも孟は、はじめの様子ほど得意ではなかった。聞いていると、孟は相変わらず憤慨していて、せっかく新時代になったのに、相変わらず時代にたいして不平満々であった。こうしたある晩、新市街の新開店の茶館で、元は孟やその同僚の四人の青年大尉といっしょに食事をしたが、この連中は何事にたいしても不満のようであった。テーブルの上の電灯が明るすぎるといって怒るかと思うと、つぎには明るさが足りないと文句を言い、料理の出るのがおそいといって叱るかと思うと、わざとこの店にない種類の洋酒を持ってこいと言ったりした。孟や友人たちのあいだで給仕は汗だくになり、腰のベルトにぴかぴかの武器をぶらさげている青年将校の機嫌を損じるのを恐れて、汗をふきふき、うろうろしていた。歌妓《かぎ》たちがきて、新流行の西洋風のダンスをしたが、それでもまだ青年将校たちは満足しなかった。こいつの目は豚みたいに小さいとか、あいつの鼻はニラネギみたいに低いとか、あれはふとりすぎている、これは若くないと文句ばかりつけて、しまいには歌妓たちもくやしがって目に涙をうかべる始末だった。元は彼女たちを美しいとは思わなかったが、気の毒になって、とうとう口を出した。「いいじゃないか。この連中だって飯を食うためなのだからね」
すると、ひとりの若い大尉がどなった。「なに、こんなやつらは飢え死にしたほうがいいんだ」そして若々しい乱暴な高笑いを残して、彼らは佩剣《はいけん》をがちゃつかせながら、やっと席を立って別れた。
その晩は孟が元を宿まで送って行こうというので、ならんで街を歩いた。歩きながら孟は不平をぶちまけた。「じつはぼくたちは領袖《りょうしゅう》連がぼくたちを正当に扱わないから、みんな憤慨しているんだ。革命原理からすれば、われわれはみな平等で、平等の機会をあたえられるべきなのだ。ところが、いまでも領袖連はおれたちを押えつけている。ぼくの部隊の司令官――きみは知っているだろう。あの男に会ったね。あいつときたら、まるで昔の督軍みたいに威張っていたじゃないか。彼は、この地区の軍司令官として、毎月、莫大な俸給をとっているが、ぼくたち若いものは、いつまでたっても昇進の機会がないんだ。ぼくは大尉まではすぐに昇進した。だからぼくは希望に燃えて、革命の成功のためには身命をすててやる気になっていた。もっと昇進するものと思ってだ。ところが、いくら働いて身を粉にしても、そのまま大尉だ。ぼくたちは大尉より上へは昇進できないんだよ。なぜだか、わかるかい? それは領袖連がぼくたちを恐れているからさ。ぼくたちが将来、彼ら以上の地位につくのが、こわいのだ。ぼくたちは若いし、彼らよりも有能だ。だから押えつけておくのさ。これが革命の精神かね?」
そして孟は、街灯の下に立ちどまって、元に、はげしい質問をあびせた。元は、孟の顔が、いつもぷりぷりしていた少年時代の彼とそっくりなのを見た。そのときはもう二、三の通行人が、あやしんで横から様子を見ていた。孟は彼らに気がつくと声を落として、また話しつづけ、最後にひどく不愉快そうに言った。
「元、これは真の革命ではない。もう一度やらなければだめだ。いま領袖連は、ぼくたちのほんとうの指導者じゃない――やつらは昔の軍閥と同じように利己的だ。元、ぼくたち青年はもう一度はじめからやりなおすのだ――民衆はいままでと同じように抑圧されてる――彼らのために、ぼくたちは、もう一度、事を起こさなければいけない――現在の領袖たちは、民衆の幸福をまったく忘れ去って――」
だが、さすがの孟も、ここで言葉をとぎらせて、向こうを見た。そこの有名なダンス・ホールの入り口でけんかがはじまったのだ。ダンス・ホールの明かりが血のように赤く輝いているが、その光に照らし出されたのは、見るにしのびない光景であった。この新首府のそばを流れている長江に停泊している外国軍艦の水兵が、酔っぱらって、彼をこのダンス・ホールまで車に乗せてきた人力車夫を、乱暴にも拳骨《げんこつ》でなぐっているのだ。水兵は酔ったまぎれの怒声をはりあげながら、ぶざまによろけている。
孟は、白人が自国の民を殴打しているのを見ると、いきなり走りだした。元もあとを追った。近づくと、水兵が口ぎたなく人力車夫をののしっているのが聞こえた。水兵がやろうとしたよりも余分の車賃を要求したというのである。水兵のほうがからだが大きくて強いから、車夫は殴られながら意気地なく腕をあげて身をかばっていた。酔った勢いで打ちおろす拳《こぶし》は、見るに耐えないほど残酷だった。
孟はその場へかけつけると、外国水兵に向かって叫んだ、「何をするか――きさま!」おどりかかって水兵の腕をとらえ、うしろから押えつけた。だが水兵は容易に静まらなかった。彼にとっては孟が大尉であろうと何であろうと、そんなことは、すこしも問題ではなかった。彼にとっては自分と人種のちがう人間は、みな同じことで、同じように軽蔑すべき人間なのである。だから猛烈に孟をののしりかえした。そしてふたりは、おのおの民族的憎悪にかられて、いまにも格闘をはじめようとしたところへ、元と車夫が割ってはいり、ようやく引きわけた。元は懸命に、「酔っぱらいだ――こいつは――下等な水兵だ――無茶をするな」と孟をなだめておいて、水兵をダンス・ホールの入り口からなかへ押しこんだ。水兵はけんかのことは忘れて、なかへはいって行った。
それから元はポケットヘ手を入れて、なにがしかの銅貨をとり出し、車夫にやって、けんかのけりをつけた。車夫は小柄な、ろくに食事もしないらしい、しなびた老人だったが、こんなふうに事件をおさめてもらったのに満足して、おせじ笑いをしながら言った。「旦那は、もののよくわかるお方だ! 昔からいうとおり、子供と女と酔っぱらいとは相手になれませんよ」
さっきから火のように腹を立てて、息をはずませながらそこに立っていた孟は、その怒りを水兵に向かって十分にぶちまけることができなかったので、まだ大半はくすぶっていて、そのために彼は自制をうしなっていた。だから、なぐられた車夫が、わずかな銅銭で、わけもなくおとなしくなったのを見ると――そして車夫の卑屈な笑いと古くさい格言をふりまわすのを聞きくと、孟はもう我慢がならなかった。自分の同胞にたいする外国人の侮辱への清潔な正しい憤りが、何か奇妙なかたちで毒されたような気がして、かっと燃えあがった目で人力車夫をにらみすえると、一言も言わずに、いきなりその顔の口のあたりをなぐりつけた。それを見て元は、「孟、何をする!」と叫んだ。そして、急いでまた銅貨を出して、この乱暴のつぐないをしようとした。
だが車夫は銭を受けとらなかった。彼は、あっけにとられて立ちすくんでいた。あまり唐突になぐられたので、また、あまりに思いがけなかったので、彼は口を開けてぽかんと立っていた。口の隅《すみ》から血がすこし出てきた。急に彼は身をかがめて車の梶棒《かじぼう》をとり、元に向かって言った。「いまの拳骨は外国人のよりも痛かったようですよ」そして彼は行ってしまった。
孟はなぐりつけたあと、さっさと歩きだしていた。元は、あとから追いかけた。追いつくと、なぜなぐったのかと言おうとしたが、その前に孟の顔を見ると、口がきけなくなった。明るい町の灯火の光で、孟の頬に涙が流れているのを見たからである。涙を流しながら、孟は、じっと前方をみつめていた。やがて彼は、はげしい怒りを口に出してつぶやいた。
「こういう民衆のために、どんな理想を抱いて戦ったところで、それがいったいなんの役に立つのだ? 圧制者を憎むことすらできない卑屈な民衆だ――わずかな金で、あれほどの侮辱を受けても、あっさり辛抱してしまうのだ――」そして彼は、その瞬間に元と別れて、あいさつもなく暗い横丁へ消えていった。
元は、ちょっと迷って、立ちどまっていた。孟がこれ以上もっと腹立ちまぎれに乱暴をしないように、あとをついて行かなくてもいいのだろうか。だが彼は早く部屋へ帰りたかった。ちょうど土曜日の夜で、例の細長い封筒を机の上に発見できるはずだったから、孟がひとりで勝手に腹を立てて歩きまわるのを引きとめないことにした。
とうとう歳末が近づいた。四、五日うちには休暇がおとずれて、美齢に再会できるだろう。そのころの日々は、彼は何をするのも、ただ自由になる日まで待つための方便にすぎないような気がした。仕事は、できるだけよくやったけれども、学生たちすら彼にとってはなんの生命も意義も持たなくたり、彼らがよくできてもできなくても、また彼らが何をしても、どうでもよくなっていた。夜が早く過ぎるようにと思って、早くから床についた。一日が、早くたつようにと思って朝は早くから起きた。それでも、時間は、まるで時計がとまったように進みがおそかった。
一度、彼は孟を訪《たず》ねて、同じ汽車で帰省する打ち合わせをした。今度は孟も休暇がとれることになったからである。孟はいつも口ぐせのように、自分は革命家だから二度と故郷を見ることができなくてもかまわないのだと言っていたが、このころの彼は、ひどく不平満々で、やりたいこともできないので、帰省する気になっていたのである。彼は、あの下等な車夫を殴打した晩のことは、二度と口にしなかった。いま彼は、また一つ新しく怒ることができたので、あの事件のことは忘れているらしかった。
それというのは、民衆が生意気にも政府のきめた日に新年の祝いをすることをいやがっていることであった。民衆は太陰暦に慣れているのに、新政府の若い指導者たちは西洋諸国と同じように太陽暦に改めたので、せっかくの新年に民衆は興味が持てなかったのだ。ちょうど街には新暦の新年を祝えという命令が告示されていたが、人びとはそのまわりに集まって、読めないものは群衆のなかの学者に読んでもらって聞いていた。人々はいたるところで不平を言っていた。「どうして、こんなふうにして一年をきめるのかね? もし竈《かまど》の神さまに一と月早くお供えものをしたら、神さまはなんと思うだろう? 神さまは外国の太陽で計算なさるはずはない」こうして民衆は頑《がん》として従おうとせず、女たちは菓子をつくろうとしないし、男たちは戸口に幸運を呼ぶために貼《は》る標語を書いた赤い紙を買おうとしなかった。
そこで若い新指導者たちは、民衆の強情に大いに立腹し、彼ら自身で標語をつくった。昔風のばかげた神の言葉ではなく、革命の標語である。それを人を雇って戸ごとに強制的に貼り出させた。
元が訪ねていった日、孟はこの問題に熱中していて、大得意でこの話をした。「そういうわけで、彼らの好むと、好まざるとにかかわらず、民衆は教育さるべきであり、旧弊な迷信は追放さるべきなのだ!」
だが元はなんとも答えなかった。彼には両方の立場が理解できるので、なんと言ってよいかわからなかったからである。
それからの二日間、元が見ると、なるほどどこの家の戸口にも新しい標語が貼り出してあった。それにたいして民衆は何も言わなかった。男も女も自分の戸口に貼り出された標語をながめながら、無言のままであった。なかには笑っているものもあり、地面へ唾《つば》を吐くものもあった。口に出して言いたくないことが腹のなかにいっぱいあるようなようすで歩いて行くものもあった。しかし男も女も、どこでも平常と変わりなく働いていて、今年は一年じゅうどこにも祝日はないかのようだった。家々の戸口にだけは、はなやかな赤い紙が貼ってあるが、民衆は何も見えないような顔をして、わざと平生どおりに平生の仕事に精を出していた。元は、孟の立腹にも理由はあると認めるし、もし人からきかれたら民衆は政府の命令に従うべきだと認めるだろうとは思うが、腹のなかで苦笑しないではいられなかった。
しかし、このごろ元が、どんな些細《ささい》なことにも、すぐににこにこするのは、美齢にはきっと前とちがった愛情がわいているにちがいないと思っているからであった。彼女は元の書き送る愛の言葉には一言の返事もしてくれないけれども、すくなくともそれを読んでいることはたしかだし、それを一つ残らず忘れてしまうとは信じられなかった。彼にとっては、すくなくとも今年は生まれてから一ばん幸福な、一ばん朗らかな年であった。なぜなら彼はこの年に大きな希望をつないでいたからである。
このような期待のうちに休暇がはじまったので、元には孟の憤慨さえもなんの暗影を投じることができなかった。もっとも海岸の大都市へ行く汽車のなかで孟は元と、もうすこしでけんかしそうになった。孟は内心に猛烈な不満を抱いているので、何を見てもおもしろくなかった。だから、汽車のなかでも、ひとりの金持ちが毛皮の敷物を座席二人分のひろさにひろげ、そのためにひとりの貧乏人らしい男が立たされているのを見ると、すぐに怒りだした。一方またその貧乏人が、黙って辛抱しているのにたいしても同じように怒った。しまいに元は微笑をおさえかね、孟をちょっとつっついて、ふざけ半分に言った。「きみは何を見ても気に入らないらしいね。金持ちは金持ちだから気に入らないし、貧乏人は貧乏だというので気に入らないようだ」
しかし孟は、内心のいらだちが、あまりはげしいので、自分のことで茶化されるのを聞いて黙ってはいられなかった。彼は猛然と元に向かって、低い声で、はげしい調子で言った。「そうだよ。きみにたいしても同じだ――きみはなんでも我慢する――きみのように、なまぬるい男は見たことがない――きみは絶対にほんとうの革命家にはなれないだろう!」
孟の攻撃のはげしさに、元も、つい表情をかたくした。しかし周囲の乗客がみな孟をじろじろ見ているのでなんとも答えなかった。孟は声を低めていたからなんと言っているのか他の乗客にはわからなかったけれども、怒気のあふれる顔をして目がらんらんと燃え、ベルトにピストルをさしこんでいるので、みな物騒でたまらないと思っているのだ……だから元は黙ってしまったのである。しかしその無言のなかで、孟の言葉に真実を認めないわけにはいかなかったので、すこし気持ちを傷つけられた――もっとも孟は他におもしろくないことがあるから怒っているので、元が憎いわけではないとはわかっていた。
こうして元は、汽車が谷や丘や畑を縫って進むあいだ、しばらく興ざめして座席にかけていたが、やがて深く思いにしずんで、自分はいったい何者であり、何をもっとも欲しているのかと反省しはじめた。なるほど、たしかに自分は偉大な革命家ではない。また将来といえども大革命家にはなれないだろう。それは孟のようには憎悪を長く持ちつづけていられないからだ。そうだ、自分は一時は怒ることもある、瞬間的には憎むこともある。しかし長くつづかない。ほんとうに自分のほしいものは、平和のうちに仕事をすることだ。そして自分の一ばん好む仕事は、いま自分のしている仕事だ。自分の過ごしえた最良の時間は、学生たちに授業をする時間だった――恋人に手紙を書く時間をのぞけば……
その瞑想《めいそう》を破って、孟が冷笑的に言うのが聞こえた。「何を考えているんだ? まるでばかな子供が口のなかへ菓子を押しこまれたように、黙ってにやにやしているじゃないか!」
これには元も恥ずかしそうに笑うよりほかはなかった。孟は、いま自分が考えているようなことを話せる相手ではないから、顔にのぼってきた赤い色を元は心のなかでのろった。
しかし、どんな再会も、それを夢みているほど、うるわしいものであろうはずがない。その日の夕方、家へ帰りつくと、元は表の階段をとびあがって、家のなかへはいった。だが、今度もまた家のなかはひっそりしている。やがて女中が出てきて出迎えのあいさつをしてから言った。「奥さまのおっしゃいますには、伯父さまのお宅で二番目の若さまが外国からお帰りになったので、ご親類がたの宴会がございますから、あなたさまにも、すぐおいでくださるようにとのことでございました。奥さまはあちらでお待ちになっていらっしゃいます」
盛が帰ってきたという知らせよりも、元にしてみれば、美齢も老夫人といっしょに行っているのかどうかということのほうが、ずっと知りたかった。しかしいくら、それを知りたくても、女中に彼女のことをきいてはまずい。召使たちのあたまほど、男と女の関係によく気のつくものはないからである。だから、ともかくも伯父の家まで行って、自分の目で美齢がいるかどうかを見るまでは、おどる心を押えておくより方法がなかった。
この数か月というもの、元は美齢との再会の場面を夢にえがいていたが、それは彼女とふたりきりで会う場面ばかりであった。ふたりは、奇跡のようにふたりきりで、彼が家のなかへ足を踏み入れた瞬間に、扉の内側で会うことになっていた。どういうわけかは別として、とにかく彼女はそこにいるはずであった。ところが彼女はいなかった。伯父の家で会えるにしても、ふたりだけで会うことは望めない。一門の人々のいる前では、とりすまして行儀よくしているよりほか、自分にはどうすることもできないだろう。
事実そのとおりであった。伯父の家へ行って、豪華な西洋風の装飾品や椅子を飾りたてた広間へはいってみると、一門の人々が、みな集まっていた。孟は元よりさきにきていて、元が行ったときには人々は孟の歓迎のあいさつを終わったところだった。そこへ元がきたものだから、また改めてあいさつをかわさなければならなかった。彼はまず伯父の前へ行って、おじぎをした。伯父はふたりをのぞいて息子たちがみな集まったので、元気が出て、上機嫌であった――ふたりというのは、首をつって自殺した息子と、僧侶になったせむしの息子で、このふたりは伯父も伯母も子供のうちに数えていなかった。
老夫妻は盛装をして、ならんで椅子にかけていた。老夫人は堂々たる貫禄をみせて、重々しいようすで水キセルを吸っていた。そばに立った女中が、一度か二度キセルを吸うごとにたばこを詰め替えている。夫人は手に念珠《ねんじゅ》をかけていて、指のあいだで、たえずその茶色の珠数《じゅず》をつまぐりながら、相変わらず伯父が何か冗談を言うごとに、それの埋め合わせに何か道徳的なことを言うようにつとめている。元のあいさつに応じてから、伯父は皺《しわ》だらけの、たるんだ顔の相好《そうごう》をくずして大声で言った。「ところで、元、外国へ行っていたうちの次男も、まるで女の子のように美しくなって帰ってきた。西洋人の嫁を連れて帰るのではないかと心配しておったが、その心配も不用じゃった……ひとりで帰ってきたでな!」
すると老夫人が、ひどく落ちついた調子でたしなめた。「あなた、盛は利口な子でございますから、そんなよこしまなことは考えもいたしません。お年にも似合わぬようなつまらぬことは、どうぞおっしゃらないでくださいまし」
だがきょうばかりは老人も老妻の舌を恐れていなかった。彼は一族の長者であり、この豪華な邸宅に集まっているりっぱな若い男女がみな彼の目下なのだと思うと、ひょうきんなことが言いたくてたまらない。みんなの前なので大胆になって彼は叫んだ。「なんじゃ。息子の結婚の話をするのがなんで間違っておるのじゃ。盛だって、いずれ嫁をもらうのではないのか?」夫人は、これにたいして厳然として答えた。
「近ごろの新しい世のなかでは、どうするのがよろしいか、わたくしは十分心得ております。母親に無理おしつけをされて気にそまない嫁をもらわせられたなどと、息子に苦情を言われるようなことは、わたくしはけっしていたしません」
元は、この老夫妻の口あらそいを、笑いながら聞いていたが、そのとき、ふしぎなことにぶつかった。盛が、冷たい、悲しげな微笑をうかべて、こう言ったのである。「いいえ、おかあさん、ぼくはけっしてそれほど新時代じゃありませんよ。おかあさんの気に入るようなお嫁さんでけっこうです――それでかまいません――どこの女も、みんなぼくには同じです」
すると愛蘭が笑って言った。「盛、そんなことを言うのは、あなたがまだ若いからよ――」それでほかの人々も彼女と声をあわせて笑ったので、その場はすんだが、元だけは盛の表情を忘れなかった――ほかの連中の笑い声のなかで、にこやかに笑顔を見せつづけているその目の色を。それは何事についても、どうでもよい、自分の結婚の相手さえ、だれでもたいしたちがいはないと思っている人間の表情であった。
とはいえ、この晩の元が、どうして盛のことを深く心配することができたろう? 伯父夫婦へのあいさつをする前に、もう彼の目は美齢を探していた。第一番に彼は、彼が母と呼んでいる夫人のそばにしとやかに立っている彼女の姿をみつけた。ほんの一瞬ではあったがふたりの目と目が出会ったが、微笑をかわすひまはなかった。だが、とにかく彼女はいた。彼が夢に描いたとおりではなくても、さすがに完全に失望することはなかった。この部屋に彼女がいてくれるだけで十分だ、一言も話しかけることさえできなくても――いまはそんな気持ちであった。ふたりのほんとうの再会はあとのこととしよう、どこかほかの場所でのこととしよう。
――ところが、元のほうでは何度も彼女を見たけれども、あの最初の一瞥《いちべつ》のあとでは、一度も彼女の視線をとらえることができなかった。けれども彼が母と呼んでいる夫人は心からうれしそうに彼にあいさつした。そして彼がそばへゆくと、夫人は彼の手をとって、軽くたたいてからその手を離した。元が夫人のそばにいると、美齢は何か忘れたものを取ってくると口実をつくって、その場をはずしてしまったけれども、彼は、しばらく夫人の相手をしていた。元は、ほかの人々と談笑していても、美齢がそこにいると思うだけで心が温まった。そして折りさえあれば、美齢がお茶をついだり子供に菓子をやったりする姿を目で追いかけていた。
今夜の話題やあいさつの中心は、大部分が盛であったから、孟と元とは、まもなくおおぜいの親類のなかのひとりたるにすぎなくなった。盛は以前よりもさらに美貌になり、美貌の上に万事に洗練されていて、言うこともすることも気がきいているので、元は、昔からそうだったように彼の前に出ると恥ずかしくなった。そして、盛がこのように老成していることを思うと、やっぱりおれは若いと思った。だが盛はけっしてそんなひけ目を元に感じさせてはおかなかった。彼は、なつかしそうに元の手を握って、なかなか離さなかった。まるで女のようにすべすべした優雅な指の感触は、快くはあったがなんとなくいやらしかった。きょうの彼の目の表情の感じがそれであった。見かけは、いかにも包みかくしがなく調子がよいけれども、現在の盛の顔や挙動には、どこか、あまりにもあでやかに咲きほこった花の濃厚すぎる香りのように、悪魔的なものがあった。だが、それがなんであるかは、元にはわからなかった。うすうす想像がつくようにも思うが、やはりよくわからなかった。というのは盛は、よく笑い、よくしゃべって、にぎやかな調子は、いつも度をすごさず、つぼをはずさないし、また彼の声は、高くもなく低くもなく、鈴のようだとでも言おうか、じつにやわらかな調子であるし、親戚同士の、どんな雑談にも、すぐに仲間入りして、愉快そうに相手になっているように見えたからである。
――しかも、こうした調子であるのに、元の感じでは、本人の盛自身は、まるでそこにはいなくて、ずっと遠いところにいるようであった。盛はあるいは帰国したくなかったのではあるまいか――元はそういう疑問を抱かずにいられなかった。それで彼は盛が近くにきた機会をつかまえて、そっときいてみた。「盛、きみはアメリカを離れるのがつらかったのではないか?」
彼は答えを求めて盛の顔をみつめたが、その顔にはなんの影も屈託もなかった。輝くばかりの微笑をたたえて、目は黒い硬玉のように澄んでいて悩みのかげさえ見えなかった。盛は例のあつらえたような美しい微笑を見せて答えた。「いや、そんなことはないよ。ぼくはもう帰る気になっていたのだ。どこにいても、ぼくには同じなんだ」
つづけて元はたずねた。「あれからも詩は書いたかね?」盛は無造作に答えた。「うん、詩集を一冊印刷したよ。きみに見せたのもすこしはいっているが、大部分はきみが帰ってからの作だ。なんなら今晩、きみが帰る前に一部進呈しよう」そして元が、ぜひもらいたいと言うと、微笑しただけで何も言わなかった……もう一度、元は質問した。「きみは、ここで暮らすつもりかい、それとも新しい首府へくるかい?」
すると盛は即座に、そしてそれだけは彼にとっていくらか関心があるらしい口ぶりで答えた。「もちろん、ここで暮らすつもりだ。ずいぶん長く向こうにいたから、近代的な生活は、もうたくさんだ。もちろんぼくには、新首府のような荒っぽい都会には住めそうもない。孟からすこし話を聞いたがね。新しい道路だの建築だのといって威張るから、ぼくが質問したら、近代的な浴場の設備もないし、これという遊び場も、優秀な劇場もない――要するに教養ある人間の享楽できるようなものは一つもないことを、しぶしぶ認めていた。ぼくは言ってやった。『きみは、えらくご自慢のようだが、そうすると新首府には何があるんだ』とね。そうしたら先生、例によってふくれっ面《つら》をして、黙ってしまったよ! 孟は、ちっとも変わらないね!」――これらのことを彼は英語で話した。英語を、きわめて楽に、流暢《りゅうちょう》に話せるので、自国語よりも、そのほうが早く出てくるのである。
しかし盛の兄嫁は彼がじつにりっぱになったと言い、愛蘭やその夫もそう言った。この三人は盛をいつまでながめていても飽きないようすであった。そして愛蘭は、ちょうど妊娠中であったが、近ごろの彼女には珍しく、昔のように朗らかに笑い、盛と遠慮なくふざけられるのが、とてもうれしそうだった。また盛も彼女の洒落《しゃれ》や機知に、ぬけめなく応酬し、彼女からほめられると、お返しのお世辞を忘れないし、愛蘭はまたそれをよろこんで受けていた。そして事実、身重ではあっても彼女は相変わらず美しかった。たしかに、ほかの婦人ならば顔がむくんだり黒ずんだり、血行がにぶったりするのに、愛蘭は、ただもう日向《ひなた》に咲きほこる満開のばらの花のように豊艶《ほうえん》であった。元には兄として元気よくあいさつしたが、盛には微笑と機知とをふんだんにあたえた。彼女の夫は、のんびりと無頓着《むとんじゃく》にそれをながめていて、嫉妬するようすはなかった。
この男は盛がいかに美男であっても、自分のほうがもっと美男で、どんな女からも好かれる、いわんや自分が選んだ女性は、なおさらのことだと思っているらしいのである。嫉妬をするにはあまりに自分を愛しすぎているのだ。
こうして、にぎやかな談笑のなかで酒宴が開かれ、一族の人々は昔のように老人組と若いものというふうに席を別にせず、みないっしょのテーブルをかこんだ。いまの時勢では、そんな差別はもうなくなったのである。伯父老夫妻は上座についたが、愛蘭と盛をはじめ、めいめいが投げかわす冗談や笑いの渦巻《うずまき》のなかで、夫妻の声は聞こえなくなった。まことに和気あいあいとした一刻の盛宴で、元は、これらの人々がみな自分の血族であると思うと、誇らしさでいっぱいになった。みな富裕でりっぱな服装をしている。女たちはひとり残らず最新流行のデザインの繻子《しゅす》の華麗な長衫《チャンサ》を着ているし、男子は、老主人をのぞいては、みな洋服姿で、孟だけが大尉の軍服でそりかえっていた。子供たちまでが絹服を着て、西洋風のリボンをつけていた。食卓には、あらゆる種類の西洋料理、西洋菓子、西洋酒がならべられていた。
そのときふと元は一つのことに思いあたった。一族の人は、ここにいるだけで全部ではない。そうだ、海岸から遠く離れた土地に、昔のままに当の自分の父、王虎《ワンホウ》将軍がいるし、二番目の伯父、富商の王二《ワンアル》やその息子や娘もいる。彼らは外国語を話さない。彼らは西洋の料理を食べない。先祖と同じように暮らしている。もし彼らが、この部屋へ連れてこられたら、勝手がちがって、きっと居ごこちわるく感じることだろうと思う。
王将軍は、わが家でやりつけているように自由に床に、唾《つば》が吐けないので、すぐに機嫌が悪くなるだろう。この広間には花模様の絹の敷物がしいてあるが、王将軍は貧乏人ではないけれども、せいぜいレンガかタイルの床の家に住み慣れているのだ。また商人の伯父にしても、この部屋の絵画や繻子の椅子や西洋の置き物、さては婦人たちの身につけている外国風の指輪や宝石などに使った莫大な金を考えて嘆くことであろう。
逆にまた、ここにいる王龍《ワンルン》一門の半数の人々は、王虎のような生活、あるいは王二の住んでいる家、つまり王龍が息子たちのためにあの旧《ふる》い町に残した家の生活にさえも、堪えられないだろう。これらの孫たちは、こんな下等なところには暮らせないと言うだろう。冬は南側の日のあたるところのほかは寒いし、天井はないし、近代式の設備もないから、われわれの住居には向かないと言うだろう。あの土の家にいたっては、豚小屋も同然で、第一、あの家があることすら忘れているだろう。
しかし元は忘れなかった。西洋式に白布におおわれたテーブルを見まわしながら、この酒宴のさなかに、ぱっと思いもよらぬ記憶がひらめいて、あの土の家のことが頭にうかび、それを思い出すと同時に彼は思った。やっぱり、どうしてもおれはあの家が好きだ……。おれは、ここにいる連中の仲間にはなりきれないのだ――おれは愛蘭とも盛ともちがうのだ……彼らの西洋式な態度や動作を見ると、彼自身そうである以上に自分が非西欧的でありたくなる。とはいえ、彼はいまあの土の家に住むことはできなかった――あの家がどことなく好きではあるけれども、いまの自分は、昔祖父の王龍があの家に住んで満足し、それをわが家と思っていたようには、あそこへ住むことができなかった。彼は宙ぶらりんであった。この外国式の家と土の家との中間に迷っていた。彼はさびしかった。安住する場所がないのである。ここにも住めなければ、あそこにも住めない、おれは孤独な魂なのだ。
彼の視線は、一瞬、盛のうえにとまった。あの金色の肌、あの黒い、つりあがったような目をのぞけば、盛は完全に西洋人であった。身のこなしまでが、いまでは西洋風だし、口のきき方も西洋人と変わらない。愛蘭が感心しているのはその点なのだ。盛の兄嫁もそれが好きなのだ。盛の長兄までが、盛は非常に新しくて時代の先端にいるように思い、ひけ目を感じて、口数すくなく、なんとなく美しい気もして、それをまぎらすために黙々と料理ばかり平らげていた。
そのとき、すばやく、こっそりと、元は美齢のほうを見た。愛蘭の瞳《ひとみ》に盛への賛美を読みとったとき、美齢はどうだろうかと考えて、嫉妬を感じたのである。ほかのおおぜいの若い女たちのように、美齢もまた盛ばかり見ていて、盛が彼女たちを笑わせようとして何か言うたびごとに笑い、賛美の色を瞳に見せているだろうか? 彼は美齢が冷静に盛をながめ、なんの興奮もみせずにふたたび目を離すのを見て、ほっとした。待てよ、美齢はおれに似ているのではないだろうか! 美齢もまた、旧時代と離れてはいるが、完全に新時代になりきれぬ、中間の存在なのだ。あこがれに胸を熱くしながら、彼は、ふたたび彼女を見た。談笑の波が寄せては返すのを頭からかぶりながら、一瞬、彼は、おのが目で彼女のすべてを満喫した。
彼女は老夫人の隣席に腰をおろして、すこし前にからだを乗りだして中央の大皿から一片の白い肉を箸《はし》で上品につまみ、それを老夫人の小皿の上においてにっこりと老夫人の顔を見あげて笑った。ああ、彼女と愛蘭とは、竹林の下の野|百合《ゆり》と庭につくった椿《つばき》の花ほど異なっている――元は、はげしい情熱に心をたかぶらせながら心のなかで言った。そうだ、彼女も中間の存在なのだ――してみれば、おれはひとりではないのだ!
急に元の愛情は、いちずに燃えあがって、もはや美齢が自分と同じ気持ちになれないとは信じられなくなった。彼の心は、このただ一つの愛情となって流れ、さまざまの愛情は、ただ一すじに、ひたむきに、その流れにまきこまれてしまった。
その夜、彼はベッドヘはいってから、なかなか寝つかれず、あすはどうして美齢とふたりきりで話をしようかと思案した。彼女の心は、もう確実に自分のほうへ向かっているにちがいないと思った。あれほどたくさんの手紙を書いたのだから、きっと彼女の気持ちに熱情を呼び起こしたにちがいないと思った。どんなふうにしてふたりきりで話しあおうか。いっそ外へ連れ出していっしょに歩いたほうがいいかもしれない。近ごろでは娘たちが信頼のおける若い男とふたりきりで外を歩くことなど普通になっている。もし彼女がためらったら、ぼくは要するにあなたの兄弟みたいなものではないか、と言ってやろうとも思ったが、すぐにまた考え直して、そんな口実を使うのはやめようと思った。断固として彼は自分に言った。(いや、おれは彼女の兄ではない。どんなことがあっても、兄でだけはないのだ)彼は、やっと眠りについたが、夢はみなとぎれとぎれであった。
だが、その夜、愛蘭の子供が生まれようとは、だれが予言できたであろうか? だが、それは事実であった。朝、元が目をさましてみると、家じゅうは大騒動で、女中たちが、ばたばたと走りまわっていた。彼が起きて顔を洗い、着がえをすませて食堂へ行くと、食事のしたくはまだ半分しかできていなかった。ひとりの女中が、眠そうな目をして、だるそうに動きまわっていた。そして食堂に出ているのは愛蘭の夫だけで、彼は昨夜の服装のまま食卓についていた。元がはいって行くと彼は晴れやかに声をかけた。
「元君、妻が新しい女性だったら、父親にはなるものじゃないぜ。ぼくは、まるで自分が子供を生むような苦しい目にあったよ、つらかったね――徹夜さ。愛蘭が大きな声を出して苦しがるもんだから、死ぬのではないかと思って心配したよ。医者と美齢が安産だと言ってくれたので安心したがね。新時代の女性には、お産はよっぽど苦しいらしいね。幸い男の子だった。いまも愛蘭がぼくを枕許《まくらもと》へ呼んで、もう二度と子供は生まないと誓ったところなんだ」彼は、ちょっとさびしそうな顔で、また笑った。それから、ものすごい食欲で女中がおいて行った皿のものを平らげだした。彼はもう幾度も父になった経験があるので、そう大したこととは思っていないのである。
こうして愛蘭はこの家でお産をし、家じゅうが夢中になって、そのために忙しがっていたから、元は、あちこちでちらと姿を見かけるほかは美齢を見ることもできないありさまであった。一日に三度、医師が往診したが、なんでも西洋のものでなければ承知しない愛蘭なので、医師も背たけの高い赤髪のイギリス人で、診察のあと美齢と老夫人とに産婦の食事のことや安静日数などについて指図《さしず》をして行った。子供の世話にも手がかかったが、愛蘭はそれを美齢に人まかせでなくやってほしいと頼み、美齢はそのとおり実行した。はじめに雇った乳母《うば》の乳が十分でなかったので、子供はよく泣いた。それで乳母を探してとりかえなければならなかった。
それというのも、近ごろの彼女のようなタイプの婦人によくあるように、自分の乳で子供を育てると乳房が大きくなりすぎて容姿をそこなうので、愛蘭は母乳をふくませるのをいやがったからである。美齢は、このことについて、はじめて愛蘭と大きないさかいをした。彼女は愛蘭を責めて言った。
「あなたは、こんなかわいい坊やを持つ資格がありません! 丈夫な子だから、おなかがすいて乳をほしがるのです。それをご自分のお乳がそんなにいっぱいあるのに、飲ませてやろうとしないのですもの! 恥を知りなさい、愛蘭!」
すると愛蘭は腹を立てて泣き、同時に自分をみじめに思って、言い返す。「あなたなんかなんにも知らないんだわ――子供を生んだこともないあなたに何がわかるもんですか。何か月も子供をおなかに持って、おかしなかっこうをしているのが、どんなにつらいか、あなたにはわからないのだわ。あんなに苦しい思いをしたあとで、また一年も二年も、みっともないかっこうができると思うの? いいえ、そんな下等なことは乳母でけっこうよ! わたしはいやです――いやですとも!」
愛蘭が、いくら泣いても、美しい顔をまっ赤にしてにらんでも、美齢はなかなか引きさがらなかった。元がこの口論のことを聞いたのはそのためで、美齢が愛蘭の夫のところへ話を持ちこんできたときに、元はその席にいたのである。彼女が子供の父親に訴えているのを、元は恍惚として聞いていた。それほど美齢が、まごころがあり、美しい気質を持っているのを、彼はこれまで見たことがなかったからである。彼女は、つかつかとはいってきて、ぷりぷりしながら、元のほうは見向きもせずに、むきになって子供の父親に訴えた。「あなたはこれでいいと思っていらっしゃるのですか? 愛蘭が自分のお乳を赤ちゃんにやらなくても、かまわないおつもりですか。赤ちゃんがおなかをすかせているのに、愛蘭はお乳をやろうとしないのですよ!」
しかし愛蘭の夫は、事もなげに笑って、肩をすくめながら答えた。「愛蘭がいやだということを、これまでだれが愛蘭に強《し》いることができましたか? すくなくとも、ぼくはやってみたことがない。そんな勇気は、ぼくにはないですよ。絶対にありません。愛蘭は近代女性ですからね!」
彼は笑って、元のほうを、ちらと見た。だが元は美齢のほうを見守っていた。相手の薄ら笑いをしている顔をみつめているうちに、美齢の灰色の目は大きくなり、すきとおるような青白い顔が、いっそう青白くなって、うちひそめた声で早口に、「道にはずれたことです――道にはずれています」と言って、そのまま部屋から出て行った。
美齢が行ってしまうと、愛蘭の夫は、男同士のあいだだけで話すときの気のおけない調子で元に言った。「要するに、ぼくには愛蘭を責められないですよ――赤ん坊に乳をやるのは大きな束縛ですからね、一時間か二時間おきに、いつも家にいるように強制されるわけで、そんなふうにして快楽を犠牲にしてくれとは、ぼくとして言えないし、それに、ぼくだって愛蘭に美人でいてもらいたいですよ。赤ん坊のほうは乳母の乳だって育つんですからね」
だが、これを聞くと元は、猛然と美齢を弁護したくなった。美齢の言葉も行動も、すべて正しいのだ! もともと、どういうものかあまり虫の好かないこの男のそばを離れたくなって、彼は、だしぬけに立ちあがった。「ぼくに言わせると」彼は冷たく言い放った。「ときとしては、女はあまり近代的になるのもどうかと思いますね。いまの問題では愛蘭はまちがっていると思います」そして彼は自分の部屋へ行く途中で美齢に会えるかと思って、わざとゆっくり歩いたが、会えなかった。
こうして、一日一日と彼の休暇は過ぎてゆくが、一日として美齢と十分もいっしょにいられることがなく、ふたりきりになる折りはまったくなかった。美齢と老夫人とは一日じゅう赤ん坊をのぞきこんでばかりいた。夫人としたら、やっと待ちこがれた男の子を得たのだから、うれしさに気がそぞろになるのも無理はなかった。夫人も新時代のやりかたになじんではいたけれど、二、三の点では、旧式なしきたりに従うことに、半ば恥ずかしいと思いながらも、甘いよろこびを見いだしていた。彼女は玉子を赤く染めたり、銀製の小さな飾りものを買ったり、まだずっと間があるのに一か月目の誕生日の祝いのしたくをしたりした。そして、どんな計画を立てるにしても、夫人は美齢と相談しなくてはならないので、まるで愛蘭が子供の母親であることを忘れたように、何から何まで養女のほうを頼りにしていた。
しかし、この誕生日のくるずっと前に、元は新首府で働くために帰らなくてはならなかった。日がたつにつれ、毎日が空虚に過ぎてゆくので、まもなく彼は不機嫌になった。何もそうまで美齢ばかり忙しがらなくても、その気になれば自分のところへ話にきてくれるくらいの時間はありそうなものだと思った。そして帰る日が間近に迫ると、ますますこういう気持ちが正当に思われて、きっと美齢は自分とふたりきりにならないように、わざとあんなことをしているのだと思いこんだ。老夫人までが初孫を得たよろこびにおぼれて、元のことも、元が美齢を愛していることも忘れてしまったかのようだった。
いよいよ帰らなくてはならない日がくるまで、こんな調子がつづいた。その日、盛が非常に朗らかそうにやってきて、元と愛蘭の夫とに向かって言った。「ぼくはきょうとても愉快な催しに招待されたのだが、ひとりかふたり、男の数が足りないのだ。一つすまないが、きみたちも年齢を忘れ、もう一度若返ったつもりで、きれいなお嬢さんたちの相手をしてやってくれないかね」
愛蘭の夫は、よろこんで行こうと笑いながら答えて、この二週間というもの、愛蘭につきっきりだったので、楽しみというものを忘れてしまったようだと言った。だが元はどうも気が進まなかった。そういう夜会には、愛蘭といっしょに出歩いたころ以来、もう何年も行ったことがなく、知らぬ女と遊ぶことを思うと、昔のままの気恥ずかしさを感じた。だが盛は、どうしても来いと言って、ふたりがかりで元を口説いた。元は、はじめは煮えきらなかったが、やがて無分別な気持ちが起こって、こんなふうに考えた。「なんで行ってはいけないのだ? この家にじっとしていて、きもしない機会を待ってるなんて、ばかげた話だ。おれが遊びに行ったって、美齢が何を気にするというのだ?」この考えにうながされて、彼は言った。「じゃいい、ぼくも行くよ」
ところで、この日ごろ、美齢はあまり忙しかったので、まるで元を相手にしていないように見えたが、その晩は、彼がいつも夜会のときに着る黒の洋服を着て室から出てきたとき、偶然に彼女が眠っているかわいい赤ん坊を抱いて通りかかった。彼女は、あやしむようにきいた。「どこへいらっしゃるのですか?」彼は答えた。「盛や愛蘭の婿さんといっしょに舞踏会へ行くんです」
その瞬間、彼は美齢の表情がちょっと変わったような気がした。だが、たしかにそうだとは思えなかったし、すぐに自分の思いちがいだと思った。というのは美齢は眠っている赤子をゆすりあげて、「そう、じゃおもしろく遊んでいらっしゃいな」と静かに言って、そのまま行ってしまったからである。
元のほうは、勝手にしろというように歩きだした。よし、じゃおもしろく遊んでやろう。今夜が最後なのだから、どのくらいおもしろく遊べるか、やってみてやる。
そして、そのとおり実行した。その夜、元は、それまでしたこともないようなことをしたのである。いくらでも、平気で、乾杯をすすめられるままに酒を飲んだ。いっしょに踊っている相手の顔がはっきりわからなくなるほど飲んだのである。とにかくだれかが自分に抱かれていることだけしかわからなかった。飲み慣れない西洋酒を飲みすぎたので、一面に花を飾った大ホールの色彩と光のきらめきのなかを泳いでいるような気がした。しかも、それほど酔っていながら、彼は酔態を表に出さないようにしていたので、本人のほかにはだれもそれほど彼が酔っているとは思わなかった。盛までが感心して叫んだ。「きみは運のいい男だな。われわれ酒に弱いものは赤くなるが、きみは青くなるほうらしい。目を見なければ、だれもきみが酔っているとは思わないだろう。だが目だけは火のように燃えている!」
この夜の酒宴で、彼は、どこかで前に会ったことのある女性と会った。盛が、その女性を連れてきて言った。「この人は、ぼくの新しい友たちだ。一度だけ、きみにゆずるから、踊りたまえ。そうして、この人以上にダンスのうまい人がいるかどうか、あとで報告してくれ」そこで元は彼女を抱いて踊っている自分に気がついた。まっ白な、よく光る長い洋風のドレスを着た、すらりとした小柄な女性だった。ふと、その顔を見おろしたとき、元は、この人を知っていると思った、まる顔の、色が浅黒く、くちびるの厚いのが情熱的な感じで、美人ではないが、どこか異様な、一度きりで目を離せる顔ではなかった。容易に忘れられない顔である。すると彼女のほうでも、いぶかしそうに言った。「おや、あなたでしたの――船がいっしょでしたわね、お忘れになった?」それで、熱している頭を働かせてみると、たしかにおぼえていたので、彼はほほえみながら言った。「そうそう、自分はいつも自由でありたいと叫んだのは、あなたですね」
すると、彼女の大きな黒い目が急にまじめになり、濃い口紅をまっ赤に塗ったくちびるを突き出すようにして、彼女は答えた。「この国で自由な生活をするのは容易なことではないわ。わたしは自由は自由ですけれど――ものすごく孤独なのよ――」急に彼女は踊りをやめて、元の袖《そで》を引っぱって叫んだ。「どっかへ行ってすわってお話ししましょうよ。あなたは、わたしみたいにみじめではなかったでしょうね……わたしは末っ子で、母はもう亡くなりました。父はいま、この市で二番目の役人です……妾《めかけ》が四人もいて――みんな芸者あがりですの……あなたは、わたしがどんな生活をしているか、想像できますか? わたしはあなたの妹さんを知っています。美しい方ね。でもほかの人たちと同じですわ。昼間は賭けごと遊び、夜はゴシップとダンス――それだけですわ! これじゃわたしは生きてる気がしません――何かをしたいんです――あなたは何をしていらっしゃるの?」
こんな真剣な言葉を、その色どられたくちびるから聞こうとは、あまりに思いがけなかったので、元は心を動かされた。元は新しい首府のこと、そこでの自分の仕事のことを語った。また自分がそこで小さな地位をみつけて、ちょっとした仕事を(そう彼は思っていた)するようになったいきさつについても話した。女は息もつかずに聞いていた。やがて盛がきて彼女の手をとって踊りにさそうと、彼女は盛の手を払いのけ、口をとがらせて食ってかかった。「じゃましないでちょうだい! わたしはこちらとまじめなお話をしているのよ――」
盛は笑って、からかうように言った。「元、この令嬢がもし何かにまじめになる人だったら、ぼくも妬《や》くのだがね」
だが彼女はもう元のほうへ向き直って、夢中で胸いっぱいの不平を語りはじめた。まるい肩をすくめたり、かわいらしい肉づきのいい手をしきりに動かしながら、真剣に、からだ全体で彼に訴えていた。「わたしは、ほんとにいやでたまらないんです――あなたは満足できますか? もう二度と外国へも行けません――父が学資を出してくれないのです――おまえのためにもうむだ使いする金は一銭もないって父は言うんです――それでいて妾たちは朝から晩まで賭けごとばかりしています! もうこんなところにいたくないわ! わたしが男の人と遊び歩くといって、妾たちはみんなでわたしの悪口を言うんです!」
元はこの娘をすこしも好きになれなかった。彼女のむき出しの胸、西洋風の衣装、赤すぎるくちびるなど、みな彼の心を反発させた。だが、それでいて彼女の真剣さは理解できた。気の毒な境遇だと思った。「どうして何か仕事を深さないのですか?」
「わたしに何ができるでしょう?」彼女は反問した。「あなたは、わたしが大学で何を専攻したか、ご存じ? 欧米家屋の室内装飾よ! 自分の部屋は、もうやってしまいました。お友だちの家を二、三装飾しましたけど、それは無報酬でした。ここでわたしの技術を必要とする人がいるでしょうか? わたしはこの国の人間になりたいのです。自分の国ですもの。でも、わたしは、あまりに長く外国にいすぎました。もうどこにもわたしの住むところはありません――自分の国がなくなってしまったのです!」
そのときもう元は、今宵《こよい》は遊びにきたのだということを忘れてしまっていた。それほど、このあわれな娘の窮境に同情していたのである。彼の憐みの目の前に、娘は、あでやかな夜会服姿で、化粧した目に、涙をいっぱいためて、すわっていた。
だが何か慰めの言葉を言おうとして考えているうちに、盛がまたもどってきた。今度は、ことわられても引っこまなかった。彼女の涙は、盛の目にははいらないようであった。彼女の腰に腕をまわして、何か笑いかけながら、旋回する音楽のなかへ姿を消してしまった。元は、ひとり残された。
もうダンスをする気持ちになれなかったし、やかましいホールにいても陽気な気分はすっかり消えてしまった。一度、例の娘が盛に抱かれたままもどってきたが、彼女の顔は盛を見あげていて、元に話したような打ち明け話など一度もしたことがないように、晴れ晴れと空虚な顔をしていた……彼は、かなり長いあいだひとりですわって考えこんでいた。そのあいだにボーイに命じて、何度も杯に酒をつがせた。
その歓楽の夜も果てて、家へ帰るころには、飲んだ酒が熱病のように体内で燃えていたが、それでも元は、まだしっかりしていた。もうひとりでは歩けないほど酔っている愛蘭の夫を肩によりかからせても平気なほど、しっかりしていた。愛蘭の夫はまっ赤な顔で、おろかな子供のように、よだれをたらしていた。
元が家へはいろうとして扉をたたいたとき、扉が急に内側から開かれた。そして、それを開いた下男のわきに美齢その人が立っていた。愛蘭の夫は彼女を見た瞬間に、ふと元と美齢とのことを思い出したらしく、急に叫んだ。「美齢さん――あんたも行けばよかった――あんたの競争相手の美人がいたよ――それが元をなかなか離さないんだ――物騒な話じゃないか――ええ?」そう言ってばか笑いをしながら、ごろりと倒れてしまった。
美齢は答えなかった。二人の姿を見ると、彼女は冷ややかに下男に命じた。「お姉さまのご主人を寝室へ連れて行きなさい。ひどく酔っていらっしゃるようです」
だが、下男が行ってしまうと、彼女は急に燃えるような視線で元をその場におさえつけてしまった。こうして、とうとうふたりはふたりきりになった。元は美齢の大きな目で見すえられているのを感じると、急に寒い北風に吹きつけられたように酔いがさめた。身うちのほてりが、みるみる去ってゆくのがわかり、一瞬、彼は美齢が恐ろしくさえなった。それほど彼女は長身をまっすぐにして、まともに腹を立てていたのである。元はものが言えなかった。
だが彼女は黙っていなかった。この日ごろ、ほとんど彼に話しかけなかった彼女が、いまこそ口を開いたのである。言葉は、おどるようにほとばしった。「あなたもやっぱりほかの人たちと同じでしたのね――ばかで怠けものの王家の人たちと! わたしはばかでした。『元だけはちがっている――あの人は西洋かぶれののらくら男ではない、お酒を飲んだりダンスをしたりして、大切な若いときをむだに過ごす人ではない』――わたしは、そう思っていたのです! でも、やっぱり同じでした――同じでしたわ! ごらんなさい、その姿を! そのみっともない洋服を――お酒のにおいがします――あなたも酔っていらっしゃるのね!」
だが元は、この攻撃に腹を立てて、少年のように不機嫌になり、不平を言った。「あなたはぼくになんにもあたえてくれないではないか――ぼくがどんなにきみを待っていたか、知っているくせに――つぎからつぎと口実ばかりつくって――」
「口実なんかつくりません!」彼女はそう叫んだかと思うと、自制をうしなって地だんだを踏み、前へ乗りだして、まるでききわけのない子供にするように、元の顔をはげしく平手でたたいた。「わたしが忙しいのは、ご存じのはずです――いま言っていた女とは、だれのことなのです?――今夜はあなたの最後の晩でしたのに――わたしだって考えていたことがあったのに――ああ、わたしはあなたを憎みます!」
そして彼女は、わっと泣きだしながら走り去ってしまった。元は、憎むという美齢の一言のほか、何を言われたのかすこしもわからず、ただもう胸をしめつけられながら立ちすくんだ。こうして、彼のあわれな休暇は終わった。
翌日、元は職場へもどった。孟は元より休暇の日数が短いので、さきに帰っていたから、彼はひとりだった。晩冬の雨季がはじまっていたので、汽車のなかは薄暗く、雨が窓ガラスに流れているので、濡《ぬ》れそぼった平野の風景は、乗客の目には、ほとんど見えなかった。どの町も街路には泥水があふれていた。駅々は、よほどの急用か、役目で仕方なしにどこかへ行く人々がふるえているほか、がらんとしている。朝早く家を出たし、美齢は別れのあいさつにも出てこなかったので、とうとう彼女の顔を見ないできてしまったことを思い出しながら、元は、(これが自分の一生のもっともわびしい時間だ)とつぶやいた……。
とうとう雨ばかり見ていることにあき、わびしさはつのるばかりなので、元は鞄《かばん》のなかから、最初の日に盛からもらったまま、まだ読まずにいた詩集をとり出して、たいして読もうというほどの気もなく、漫然と厚い象牙紙のページをひるがえしはじめた。どのページにも、鮮明な黒い活字で、短い行数の、いかにも典雅らしい一連の詩句が印刷されているので、やがて興味を感じだした元は、悩みもいくらか忘れて、もう一度ていねいに読んでみた。ところが、盛の作にかかるこれらの短詩は、どれも単なる形式だけであることがわかった。それらはみな流麗な調子で書かれているので、内容の空虚さを忘れさせるほどであったが、あるのは、むなしい形態だけで、そこには何もなかった。ことごとく典雅ではあるが空虚な愛らしい小さな形態にすぎなかった。
彼は美しく銀色に装幀《そうてい》された書物を閉じて、かたわらにおいた。……外では、雨のなかに暗くうずくまった村々が、すべり過ぎてゆく。家々の戸口には、頭上の藁《わら》屋根にしみこむ雨をむっつりとながめている男たちがいた。晴れた日なら、これらの農民は獣と同じように戸外で生活し、どうにか楽しく繁殖してゆくことができるのだが、雨の日には豚小屋のような住家に閉じこめられ、そして長雨が降りつづくと、寒さと窮乏と口論とで明け暮れて、半狂人のありさまに追いこまれるのである。そして、いま彼らは、この長雨を送る天をうらみながら外をながめているのであった……。
盛の詩は、美しく、甘く、繊細なものばかりをうたっていた。死んだ女の金髪を照らす月の光、公園の氷の張った噴水、鏡のような青海原《あおうなばら》にうかぶ白砂の妖精のいる小島……それが彼の詩であった。
野獣のような顔をして雨をうらんでいる農夫を見たとき彼の胸は痛んだ。(おれはどうか。おれは何も書けない。しかし、もしおれがここにある盛の詩のようなものを書くとすれば――それは典雅で美しいとは思うが――つぎの瞬間には、おれは、ああいう暗い顔や、豚小屋や、そのほか盛が何も知らない、知ろうとも思わない下層階級の生活のあらゆるものを思い出す。それでもおれは、そういう下層の生活をも書くことができない、おれはなぜ、こう何も表現できずに悩んでばかりいるのだろう?)
それから彼は黙想に落ちた。おそらく、どこであれ充実した生活の場を持たない人間は、何も創造することができないのだろう、と考えた。古きものと新しきものとの中間にいる自分について、あの宴会の席で考えたことを、彼は思い出した。それから彼は悲しい微笑をしながら、自分は孤独ではないと思った。おれは、なんというばかだったろうと思った。おれは孤独なのだ……。
旅が終わるまで雨は降りつづけ、薄暮の雨のなかで汽車から降りると、雨のなかに古都の城壁は、陰惨に、黒く高くそびえていた。彼は人力車を呼んでもぐりこみ、すべりやすい街をひいてゆく乗りもののなかで、さびしく、寒く、ちぢこまっていた。一度、車夫がつまずいてころんだので、起きあがって息をあえがせながら、ずぶぬれの顔をふいているあいだに、元は外をのぞいて、例の小屋がけが、まだ城壁の下にまつわりついているのを見た。雨が小屋のなかにあふれて、みじめな救いのない人々は水のなかにすわって黙々と天候の変わるのを待っていた。
彼にとって最良の、もっとも幸福な年となるだろうと思っていた元の新しい年は、こうして憂鬱のうちにはじまった。最良どころか、あらゆる種類の凶事が、つづいて起こった。雨は春まで、あらゆる忍耐の限度をこえて降りつづいた。各寺院の僧侶たちは雨やみの祈祷をしたが、あらゆる祈祷も犠牲も、新しい凶事のほか何も呼ぶことができなかった。こうした迷信は、革命の英雄以外にはいかなる神々も信じない若い指導者たちを激怒させた。彼らは支配下の地域にある寺院の閉鎖を命じ、無慈悲にも兵士たちをそのなかに宿営させて、僧侶らを一ばん悪い小さい部屋へおしこめてしまった。すると今度は、これが農民たちを怒らせる種になった。農民は、その同じ僧侶たちが、いろいろの理由をつけて喜捨を求めると腹を立てるくせに、こんなことをして神仏を怒らせてはたいへんだと心配して、これほど長雨がつづくのは新政府が悪いのだと騒ぎ立て、今度ばかりは農民と僧侶とがいっしょになって、政府を攻撃した。
一か月のあいだ雨はつづいたが、まだ降りやまなかった。長江の水はみなぎって支流や運河に流れ入り、人々はいたるところで大昔から変わりのない大洪水の到来を予見しはじめた。洪水があれば飢饉になる。人民はなんとなく新しい時代がくれば、それといっしょに天地も新しくなるものと信じていたのに、天は昔と変わらず気まぐれなことばかりするし、地もまた、昔同様、洪水や旱魃《かんばつ》で作物をみのらせてくれないことがわかった。そこで人々は、新政府はだめだ、古い支配者とくらべて、ちっともいいことはないとわめきだし、新しい時代がくるという新しい希望でしばらく静まっていた昔ながらの不平不満が、またもや高まってきた。
元もまた、またしても自己の分裂を感じた。孟は、このところ、ずっと狭い営内に閉じこめられて、いつものように練兵ができないので若い精力をもてあましていたから、よく元の部屋へ遊びにきた。そして、何か元が言うと、すぐに食ってかかった。雨をのろい、司令官をのろい、日ごとに利己的になって人民の幸福を無視することがはなはだしくなったと言って新政府の領袖《りょうしゅう》たちをのろった。孟が、あまり無茶なののしり方をするので、元も我慢ができなくなり、ある日、なるべくおだやかに言ってみた。「雨がたくさん降るからと言って政府を攻撃するのはおかしいじゃないか。また洪水がこれから起こるにしても、それも領袖たちの責任ではないと思うよ」
だが孟は乱暴にわめいた。「どんな理由があろうと、ぼくは彼らを攻撃する。彼らは真の革命家ではないからだ!」それから彼は声を落として、不安そうに言った。「元、だれも知らないことを、きみに話そう。しかし、それを話すのは、きみはじつに意気地《いくじ》がなくて、いっこう煮えきらない男だが、それでもやっぱりいいところがあるし、誠実だし、いつも態度が変わらないからだよ。よく聞いてくれ……いつかぼくが姿を消しても、びっくりしないでくれ! そうして、うちの両親に、心配するなと伝えてくれ。じつは、この革命のなかに、もう一つの新しい革命が新しく成熟しているのだ――より正しい、より本物の革命だ! それでぼくは、四人の同僚とともに、それに加わることにきめたのだ――信頼しうる同志を率いて、いまその革命の気運がもりあがろうとしている西のほうへ行くつもりだ。すでに何千という熱烈な青年同志が秘密に参加している。そうなればぼくも、ぼくを下積みにしておさえつけている司令官の糞《くそ》じじいと戦うチャンスがあるというものだ!」
そして孟は、すこしのあいだ空をにらんでいたが、やがて急に彼の暗い顔が明るくなった――といっても、もともと気むずかしい顔だから、その程度の明るい顔になったにすぎないが、今度は何か考えこんで、いくらかおだやかに言った。「真の革命というものは、人民の幸福を目標とするものでなければならない。国家権力を握ったら、ぼくたちは民衆の幸福のためにそれを維持するつもりだ。そこにはもう金持ちもなければ貧乏人もない――」
こうして孟はしゃべりつづけ、元は、なかば悲しい気持ちで黙って彼にしゃべらせておいた。おれはそういう言葉を昔からどこかで聞いている、だが依然として貧乏人はなくならないし、そういう言葉もなくならない――と元は、暗い気持ちで思った。あの富めるアメリカですら貧民がいることを彼は思い出した。そうだ、貧乏人というものはなくならないのだ。彼は孟にしゃべりたいだけしゃべらせて、やっと孟が帰ってしまうと、窓辺へ行って、雨のなかの人通りのすくない街をしばらくながめた。孟が、雨のなかでも昂然《こうぜん》と頭をもたげて大股《おおまた》に歩いてゆくのが見えた。だが頭をもたげているのは孟ひとりだった。あとは、すべりやすい石だたみの上を苦しそうに走ってゆくずぶぬれの人力車夫ばかりである。……彼は、またもや、どうしても忘れきれない一つのことを頭にうかべた。美齢が一度も手紙をくれないことである。彼のほうでも手紙を出していなかった。それは――ただそう自分にあっさり言い聞かせただけにすぎないかもしれないが――(彼女がそれほどおれをきらいだというなら、手紙を出してもむだだ)と思ったからであった。そしてこのことが、その日の悲しみを完全なものにした。
だから、仕事にうちこむよりほか仕方がなかった。そこで仕事だけに全力をうちこもうとしたのであるが、ここでもこの年は彼には悪いことばかりだった。不満の風潮は学園のなかにもひろまり、学生たちは校則にたいして反抗した。青年の血気にまかせて権利ばかり主張し、学校当局や教師と争い、授業を拒絶してストライキをやった。元が隙間風の多い教室へ出てみると、なかはからっぽで、教えるべき相手はひとりもいなかった。やむをえず部屋へ帰って、前に読んだ古い本を読み返したりした。給料の半分を、伯父への負債の返済のために、きちんきちんと送っているから、新しい本が買えないのである。長い雨の夜々には、あの負債がいつなくなるか、いつか見た美齢の夢のように絶望的に思われてくるのであった。
ある日、一週間つづいて出席者のいない無人の教室へ通いつづけた彼は、あまり退屈なので、雨と泥濘《でいねい》のなかを歩いて、いつか外国種の小麦の種子をまいた農場へ出かけて行った。だが、そこにも失望が待っていた。収穫の見込みはないのだ。外国種の小麦は、こんな長雨には耐え得ないのか、それとも黒くて重い粘土質の土壌《どじょう》が、あまりに水分をふくんでいて根を腐らせるのか、とにかくどこに欠陥があったものか、水びたしの地面の上で腐っていたのである。発芽の状態もよく、どんどん生長して、元気よく伸びていたのに、地味や天候がちがうので、深い根をおろすことができず、倒れ、そして腐っていったのであろう。
元がそこに立って、この希望もまた消えたことを悲しみながらながめているところへ、ひとりの農夫が彼をみつけて、雨もいとわず走り出てきて、意地の悪いうれしさをかくそうともせずに声をかけた。「やっぱりよその小麦はだめだってことがわかっただかね。伸びるのは早いが、生き抜く力がねえだ。あのときにおらが言ったとおり、こんな大きな白っぽい種子は、この土地にはむかねえだよ――おらの麦を見なせえ――あんなに水びたしになっても死なねえだ!」
黙って、元は見た。まったくそのとおりだった。隣の畑では、背の低い強い小麦が、育ちは悪いが、泥におおわれたなかで、がっしりと立っていた。枯れてはいなかった……彼は返事ができなかった。その農夫の野卑な顔、うれしそうな愚かな笑い声が、我慢できなかった。一瞬、孟があの人力車夫をなぐった気持ちが理解できた。だが元は、人をなぐることはできなかった。彼はただ黙って踵《きびす》をめぐらし、もときた道を引き返した。
この憂鬱な春の失望が果たしてどこで終わるものやら、彼は自分でもわからなかった。その夜、横になって、あまりのわびしさにベッドのなかで涙をこぼした。いろんなことが重なってきて、耐えきれなくなったのである。むせび泣いているうちに、自分が悲しいのは、時代があまりにも希望がないからだ、と思った。貧乏人は相変わらず貧しく、新首府は未完成のまま雨のなかで泥まみれになっているし、小麦は腐るし、革命政府は弱体化して新しい戦争の脅威があるし、学生のストライキで授業はできないし、元にとって悩みの種でないものはなかった。けれども、もっとも深い悩みは、四十日間、美齢から一通の手紙もこないことであった。彼女の最後の言葉が、それが叫ばれた瞬間と同じ鮮明さで、いまでも耳に残っていた――「わたしはあなたを憎みます!」そう言われてから、彼はまだ彼女に会っていないのである。
一度、母と呼んでいる夫人からは手紙がきた。元は、とびつくようにして、美齢の名がそこに出てくるかと思って読んだが、出てこなかった。夫人は愛蘭の子供のことばかり書いていた。愛蘭は夫の家へ帰ったけれども、育てるのがやっかいだというので、子供を母親の手もとへおいて行ったので、そのことを夫人はよろこんで、うれしそうに書いていた。「愛蘭が自由に遊びまわるのが好きなおかげで、孫がわたしの手もとにいられると思うと、娘のわがままがうれしくなるほど、それほどわたしは孫に目がなくなっています。愛蘭の態度がまちがっていることはわかっていますけれど……でもわたしは朝から晩まで孫を抱いています」
暗いさびしい部屋のなかで横になって、この手紙のことを考えると、また一つの小さい悲しみが加わった。新しく生まれた子供が老夫人の愛をことごとく奪ってしまったので、夫人までが、もう元を必要としなくなったことである。自分が急にあわれに思えてきた。彼は思った。(おれはどこまで必要とされない男なのだろうか!)そして彼は泣き寝入りに眠った。
まもなく不平不満の風潮は全国いたるところにひろがり、新首府の孤独生活にしばられている元の想像もおよばぬほどひろくひろまった。彼は月に一回、かならず忠実に父へ手紙を出し、王虎も二か月に一通のわりで、かならず返書をよこした。けれども元は、あれ以来父を訪ねなかった。それは一つには、忠実に仕事にうちこみたいためでもあった。このように移り変わりのはげしい時代だから、職務に忠実な人間は、たくさんはいなかった。それだけに元は、できるだけ職務に忠実であろうとしたのである。そして、年末の短い休暇には、だれよりも美齢に会いたかったので帰郷しなかった。
父の手紙では、その地方のようすは、すこしもわからなかった。なぜなら老人は自分では気がつかずに同じことを幾度でも書いているからである。手紙のたびごとに、春になったら大攻勢に出て、地方の匪賊の首領どもをやっつけてやる、匪賊が目にあまるほどはびこってきたから、自分は善良な民衆のために、忠実な部下をひきいて彼らをかならず平らげてみせる、と勇ましい言葉を書きならべてくるのだった。
こうした大言壮語を元はもうほとんど相手にしなかった。老いた父のこういう言葉を聞いても、彼はもう腹も立たなかった。多少の反応があるとすれば、かつてはこうしたはったりにおびやかされたものだが、いまでは哀れな空言《そらごと》にすぎないことを知っているので、さびしい微笑をもらすだけのことだった。ときどき彼は考える、(父も老いこんだものだ。夏休みには見舞いに行かなくてはならない)またあるときは、むしゃくしゃして、(いま思えば、このあいだの休暇に行ってきてもよかったのだ)とも思った。また彼は、いまのわりでゆくと夏までに借金がどのくらい払えるかを計算して、ため息をついた。こうした困難な時代には給料がとどこおったり支払い停止になったりしがちなものだが、そんなことのないようにと思わずにはいられなかった。
そんなわけで、王虎からの手紙は、突発した事件について、息子になんの心の用意もさせていなかったのである。
ある日、元がまだ起きたばかりで、いつも朝の冷たい湿った空気を温めるために自分で火を起こす小さなストーヴのわきで顔を洗いかけていると、ドアをノックするものがあった。おずおずと、だがつづけざまにたたいている。「おはいり!」と彼は叫んだ。はいってきたのは、こんなところにあらわれようとはだれよりも予想されない人物――彼の田舎の従兄弟《いとこ》、伯父の王二商人の長男であった。
元はすぐに、何か悪いことが、この苦労にやつれた従兄弟の身の上に起こったらしい、とさとった。そのやせた黄いろい咽喉《のど》には黒いあざがあり、小さなしなびた顔には血のにじんだ深い掻《か》き傷がある。右手の指は一本なくなっていて、その指の根に、きたない血だらけの包帯をしている。
そのむごたらしいありさまを見て、元は、あまりの驚きに、言うべき言葉がなく、考える力もうしなって立ちすくんでいた。小柄な従兄弟は、元の姿を見ると、息をひそめ、声を立てずに泣きだした。元は何か恐ろしい事件があったのだと察した。そこで、急いで服をつけ、従兄弟を椅子にかけさせて、土瓶《どびん》に茶を入れてストーヴの上の薬罐《やかん》から熱湯をついだ。それから、やっと彼は言った。「話ができるようになったら、何が起こったのか、話してください。きっと何か恐ろしいことがあったのだと思いますが」そして彼は待った。
やがて従兄弟は息をひそめて、だが、たびたびドアのほうをふり向いてはだれかきはせぬかとたしかめながら、小声で語りだした。
「九日前の夜のことです。匪賊が町へ押しよせたのです。これは、あんたのおとうさんのあやまちだった。叔父さんはわたしの父の家へきて、旧正月のあいだ滞在しておられたのだが、老人らしく、すこし言葉をつつしんでくださるとよかったのです。わたしは、いつも、あまりしゃべらぬようにしてくださいと頼んでいたのだが、叔父さんは、どこへ行っても、春になったら早速匪賊の頭目を討伐にゆくつもりだ、そうしていままでと同じように今度もやっつけてやる、と、いばって吹聴《ふいちょう》していたのです。小作人どもは、どこでも地主を恨むものだから、土地にはわたしたちの敵が多いのです。それで、きっと匪賊どもに告げ口をして、そそのかしたものにちがいありません。とうとう匪賊の頭目が腹を立てて、おれたちは老いぼれた牙のない虎《とら》なんぞこわがってはおらん。春まで待つことはないから、いますぐ戦争をはじめて王虎や一門のやつらを、みな殺しにしてやる、と言いふらしました。……それでも、まだ彼奴《きやつ》をおとなしくさせておくことはできたはずなのです。それというのは、このうわさを聞くと、父とわたしとは、急いで大枚の銀をとどけ、そのほか二十頭の牛、五十頭の羊も、どうぞ召しあがっていただきたいと言ってとどけてやって、あんたのおとうさんのために詫《わ》び、老人の言うことだから気にしないでいただきたいと頭目にあやまりました。だから、町に騒動が起こりさえしなかったら、どうにか無事にすんだはずなのです」
ここで従兄弟は言葉をとめると、急にふるえだした。元は、しっかり彼を抱いてやりながら言った。「まあ急がないで、熱いお茶でも飲んでください。心配なさることはありませんよ。どんなことでもしますから。話ができるようになってから、また話してください」
それで、従兄弟は、やっとふるえをとめて、話がつづけられるようになった。まだびくびくしていて、ささやくような小声でつづけた。
「まったく、新しい時代の問題は、わたしにはわからないことばかりです。近ごろはわたしの町にも革命党の学校ができて、青年たちがみな行っているが、歌を歌って、壁にかけてある新しい神様の画像の前でおじぎをしています。古い神々は、みんなきらわれているようです。まあ、それだけなら大したことではないが、そのうちに彼らは、出家をして僧になったわたしらの従兄弟のせむしの男を、仲間に引き入れました――あなたは、むろんそのせむしの従兄弟はご存じないでしょう」ここで従兄弟が言葉を切ったので、元は沈痛に答えた。「ずっと前に、一度会ったことがあります」
そしてあのせむしの少年の姿を頭にうかべると同時に、父が、あの少年は軍人の魂を持っていると彼に話したのを思い出した。あるとき王将軍が土の家へ立ち寄ったとき、せむしが将軍の外国製の小銃をほしがるので、持たせてやると、まるで自分のもののように、うれしそうに、あちこちを調べていた。それで王虎は、「あれがせむしでさえなければ、わしは兄に頼んで養子にするのだが」と言ったものである。そうだ、たしかにおぼえている。「それで――それからどうしました?」と元はうながした。
小男の従兄弟は、また話しだした。「この僧侶になった従兄弟までが、気ちがいじみた革命騒ぎに引っぱりこまれたわけです。近くの尼寺にいた養母が、二年ほど前に、咳《せき》の出る長わずらいをして死んでからというもの、従兄弟が、ひどく気が荒くなっているという話は、わたしたちも聞いていました。養母の生きているころは、着物を縫ってくれたり、ときには豚の脂肉を入れた餅《もち》をとどけてくれたりして、従兄弟も静かに暮らしていたそうですが、養母が死んでしまうと、お寺でも手におえなくなり、とうとう、ある日逃げ出して、わたしには何が何やらわからんが、小作人どもをけしかけて土地をぶんどらせようとする新しい団体の仲間にはいってしまいました。そしてこの団体と匪賊とがいっしょになったからたいへんです。城内も城外も、いままでにない大騒ぎで、しかもやつらは、ひどいことをどなって歩きます。とても口にできないようなことばかりで、両親を憎め、兄弟を憎め、だれか殺さねばならぬときには、まっさきに家のものを殺せ、と叫ぶのです。そこへもってきて今年は、いままでにもないえらい大雨が降ったから、百姓はみな、洪水になって、そのあとは大飢饉だと知っているし、世のなかがこのとおりで役人の力が弱いから、ますます気が荒くなって、義理も人情も忘れてしまっているのです――」
話があまり長くなったので、疲れたとみえて、従兄弟はまたふるえだしたが、元は、いらいらしてきて、待っていられず、話をつづけるようにうながした。「わかっています――こっちも同じ状態で大雨ですよ――それから、どんなことになったのですか?」
従兄弟は沈痛な調子になった。「それが――とうとう匪賊と革命党と農民とがいっしょになって、わたしたちの町を襲って、あらいざらい略奪しました。わたしの父や兄弟や妻子は、手に持てるものだけ持って逃げました――わたしの一ばん上の兄の家へ避難したのです。この兄は、あなたのおとうさんの勢力下にある町を支配しているのです――だが、あなたのおとうさんだけは逃げなかった――相変わらず、ばかげた大きなことばかり言って、城外の畑のなかに、おじいさんの住んでいた土の家があるでしょう、あそこまでしか避難しなかったのです」
ここで一息ついてから、前よりもはげしくふるえながら、息もつかずに彼は語った。「だが、暴徒はすぐに、あの家へ押し寄せました――頭目にひきいられた匪賊の一団です――そして、あなたのおとうさんをつかまえて、親指をしばり、中央にある部屋の梁《はり》につるして、何もかもみんな略奪して行きました。叔父さんが、あんなに大切にしていた長剣まで持って行ってしまいました。叔父さんの兵隊は、みんな逃げてしまって、あのみつ口の老人だけが井戸のなかにかくれていて助かりました――話を聞いてわたしがこっそり行ってみたら、また知らぬ間にやつらがもどってきて、わたしをつかまえて、指を切り落としたのです。わたしは身分を明かさなかったので助かったが、さもなければ殺されるところでした。やつらはわたしを下男だとでも思ったのでしょう、『行って王虎の息子に父親がここでつるされていることを知らせろ』と言いました。それでわたしはここへ来たのです」
そして従兄弟は、はげしくむせび泣きをはじめ、急いで指の血まみれの包帯をほどいて、あらわになっている骨と、ぎざぎざになっている肉とを元に見せた。傷口から、みるみるまた血が流れはじめた。
元は気が転倒して、その場に頭をかかえてすわりこんだ。これからどうすべきかを、できるだけ迅速に考えようとした。まず父のところへ行かなくてはならない。だが父がすでに死んでいたら――いや、あのみつ口の老人がそばにいる以上、ともかく希望を持つべきだ。「匪賊どもはもういないのですか?」急に頭をあげて彼はきいた。
「いません。何もかも略奪してしまったら、もういません」と従兄弟は答え、また改めて泣きだした。「しかしわたしたちの大きな屋敷は焼かれて何も残っていません。小作人どものしわざです――やつらは、わたしたちを助けなければならぬのに、匪賊の味方をして――わたしたちから何もかも奪ってしまった――おじいさんの遺《のこ》した家まで焼いてしまったのです――やつらは土地をとりかえして、みんなで分けるのだと言っています――わたしはこの耳で聞きました――だが、その後どうなったか、とても見には行けません」
これを聞くと元は、父が迫害されたこと以上に苦痛を感じた。もし土地も残っていないとすれば、自分と自分の一族は、まったくすべてを奪われたことになるのだ。この恐ろしい事実の前に呆然《ぼうぜん》として、彼は力なく立ちあがった。
「ぼくはすぐ父のところへ行きます」と彼は言った――そして、すぐにそのさきを考えて、また言った。「あなたは、海岸の都会へ行って、ぼくの家を訪ねてください。ところは、いま書いてあげます。そして母に会って、ぼくは父のところへ行ったと知らせてください。そしてもし母も行くと言ったら、連れてきてください」
元は、このように決断して、従兄弟が食事をすませて出発すると、自分もその日のうちに父のもとへ向かった。
二日二晩の汽車の旅では、今度の出来事が、まるで昔の小説に出てくる残虐な物語のような気がした。こんな古めかしい惨事が起こるなんて、いまのこの新しい時代に、どうして昔行なわれたような残虐が行なわれうるであろうか、と思った。治安のゆきとどいた平和な海岸の都会を思った。そこでは盛が怠惰な楽しい日々を過ごし、愛蘭が安逸|放埓《ほうらつ》に嬌笑《きょうしょう》をまきちらしながら日を送っている。こんな物語のような事件のあったことを、愛蘭は――そうだ、一万マイル離れた外国で暮らしているあの白人の娘メアリと同じように、何も知らないのだ――彼は深いため息をもらして、車窓から外をながめた。
新首府を出発する前に、彼は孟を訪ねて、ある茶館の一隅《いちぐう》にさそい出して、このいきさつを話した。孟は一門のために憤慨して、いっしょに行こうと言うかもしれぬという、はかない希望があったからである。
だが、孟は行こうとは言わなかった。彼は話を聞くと、黒い眉《まゆ》をあげて、こんなふうに論じた。「ほんとうのことを言うと、ぼくの伯父さんたちは民衆の抑圧者だった。だから彼らが苦しむのも仕方がないのだ。ぼくは伯父さんたちの罪悪に責任はないのだから、関係したくない」さらに彼は言った。「ぼくの考えでは、きみのやり方はばかだと思うよ。なぜ生命の危険をおかしてまで、もう死んでいるかもしれない老人のために出かけて行くのだ。きみのおとうさんは、きみに何をしてくれたのだ。ぼくは老人たちのことは、どうなろうとちっともかまわん」
それから、この新しい災難に気落ちして、しょんぼりとしている元を、しばらく見ていたが、孟は無情な人間ではないから、身を乗り出してテーブルの上の元の手をとり、声を低めて言った。「それよりも、元、ぼくといっしょにこないか。きみは革命に参加してくれたが、本気ではなかった――今度こそわれわれの新しい主義に本気で加わらないか。これこそほんとうの革命だ!」
だが元は、手だけはそのままにしていたが、首を振って拒絶の意を示した、すると孟は、いきなり手を離して立ちあがった。「では、これでお別れだ。きみが帰ってくるころには、おそらくぼくはいないだろう。もう会えないかもしれん……」汽車のなかで、元は孟の姿を――背の高い軍服姿の凛々《りり》しい精悍《せいかん》な風貌を、別れの言葉を残してたちまち消えて行った彼の姿を、思い出していた。
その午後もずっと汽車は揺れながら走りつづけた。元はため息をついて、あたりを見まわした。いつでも汽車の乗客は似ているような気がした。絹と毛皮にくるまった肥満した商人、軍人、学生、泣き叫ぶ子供を抱いている母親。だが通路をへだてた席に兄弟らしいふたりの青年がいた。外国から帰ってきたばかりだとすぐにわかった。服装は新調の最新式の西洋風の仕立てである――ゆるい短いゴルフ・ズボン、はでな長いストッキング、黄いろい皮靴――そして毛糸で編んだ厚いセーターの胸には西洋文字が縫いつけてあり、皮の鞄《かばん》も新しく、てらてら光っている。ふたりは、朗らかに笑いながら、流暢に外国語をあやつっていた。ひとりはヴァイオリンを持っていた。それを弾いてふたりで外国の歌を合唱したりしている。その音に乗客はみな目をまるくしていた。彼らの話していることは、元にはよくわかったが、知らぬふりをしていた。疲れてもいるし、気がめいっているので、話をする気になれないからである。一度、汽車がとまったとき、ひとりが言うのを聞いた。
「工場を建設するのは早ければ早いほどいい。そうすれば、こういうみじめな連中を働かせることができるからね」また一度は、もうひとりのほうが、ボーイが肩にかけた布で茶わんをふくその布が黒くなっているので、不潔だと言って叱《しか》っているのを聞いたし、元の隣にいる商人が咳《せき》をして床に唾《つば》を吐いたときには、ふたりとも、ひどく不快そうな目でにらみつけた。
そういう態度も、しかし元には理解できた。みな彼が、かつて口に出し、そして感じたことばかりである。しかし、現在の彼は、肥満した男がさかんに咳をしたあげくに床に啖《たん》を吐きちらすのを見ても、勝手にさせておいた。それを見ても恥ずかしさも腹立たしさも感じないで、知らぬ顔をしていることができた。自分ではそういうことはできないが、他人にはそうさせておくことが、このごろは平気でできるのだ。ボーイの布巾《ふきん》が黒いのを見ても、それをどなりつける気にはならないし、駅ごとの物売りの不潔さも、すくなくとも黙って辛抱することができる。神経が麻痺しているのかもしれない。なぜそうなったかはわからないが、ただ、これほどたくさんの人間を改善させうる見込みはないとあきらめているのも一つの理由である。それでも彼は盛のように自分の快楽のためにのみ生きることはできないし、孟のように父親にたいする義務を忘れることもできない。あのふたりのように、すっかり新しくなって、奔放に自分の道を進み、見たくないものを見ず、不愉快な束縛を感じなくなったら――そうなれたら、さぞ楽しいだろうと思う。しかし自分はやはり自分であり、父はやはり彼の父なのである。古い時代は自分の過去でもあり、自分の一部でもあるのだから、どうしても古い時代の伝統をふりすてることはできなかった。こうして彼は、長い旅路が終わるまで、じっと辛抱していた。
とうとう汽車は土の家の近くでとまった。元は汽車を降りて、急ぎ足で町を通り抜けた。立ちどまったり、あたりを見まわしたりはしなかったが、つい最近まで匪賊に占拠されていたあとは、ありありとわかった。住民はおびえきって、ひっそりとしていた。あちこちに焼かれた家があった。いまごろになって住民たちが、やっと勇気を出して帰ってきて、悲しそうに焼け跡をしらべていた。しかし元は伯父の屋敷のあとさえ見ようとせずに大通りをまっすぐに通り抜け、城門を出て、畑のなかを記憶のある村のほうへ進んで行き、ふたたびあの土の家へたどりついた。
ふたたび彼は身をかがめて中央の部屋へはいった。そこの壁には、まだ彼が書きつけた詩が残っていた。だが、いまはそれを見て過去をしのぶゆとりはなかった。声をかけると、ふたりの老人が出てきた。ひとりはあの老小作人で、いまでは見る影もなく老いぼれて、歯もなくなり、老妻もすでに死に、ひとりぼっちで死を待つばかりのようであった、もうひとりは例のみつ口の老人であった。ふたりは元を見ると、驚きの声をあげた。みつ口の老人は、よほど気がせくと見えて、あいさつもせずに元の手をとって、元が前に寝室にしていた奥の室へ連れこんだ。そこの寝台に王虎将軍は横たわっていた。
王虎は、こわばったからだを長くのばして、じっと横たわっていた。だが死んではいなかった。目を一点にすえて、たえず何かつぶやいていた。元を見ても、すこしも驚いたようすを見せなかった。あわれな子供のように、老いさらばえた両手を持ちあげて、一言、「元、この手を見てくれ」と言った。さんざんに傷つけられたその手を見て、元は、あまりの痛ましさに声をあげた。「おとうさん!」そのとき老人は、はじめて苦痛を感じたらしく、涙に目をくもらせ、嗚咽《おえつ》して、うめくように言った。「やつらが、やりおった――」元は老父のはれあがった親指にやさしくさわって、慰めるために、幾度もくりかえして言った。「わかっています――匪賊がやったのですね――わかっています――」
そして彼は声をのんで泣いた。老王虎も泣いている。こうして父と子は、ともに泣いていた。
しかし元は、泣くよりほか、何ができよう? 王虎の死が近づいていることは明らかだった。恐ろしい黄いろい不吉な色が全身にあらわれ、泣いているあいだにも息が切れるので、元はびっくりして、安静にしているようにとすすめた。しかし王虎にはまだ話さずにはいられぬ問題があった。彼はまたしても元に向かって叫んだ。「やつらは、わしの名剣を奪って行った――」そのとき、くちびるがふるえだし、昔からのくせで手でそれを押えようとしたが、手が痛んで動かせないので、そのまま元の顔を見あげた。
生まれてから、元は、このときほど父親にたいしてやさしい気持ちになったことはなかった。彼は過去のすべてを忘れ、父がいつも、いまのこの単純な子供のような気持ちでいたような気がした。くりかえし、くりかえし、彼は父を慰めた。「なんとかしてぼくがとりかえしますよ、おとうさん――銀をやって買いもどしましょう」
そんなことができないのは、元も知っているが、あすまでこの老人が生きていて剣のことを考えていられるのかどうか怪しいと思ったので、父の気休めのためなら、どんなことでも約束したのである。
だが、慰めたところでなんになるだろう? 老人は、いくらか安心したとみえて、やっと眠った。元がそばにすわっていると、みつ口の老人が足音を忍ばせて元のために食べものを運んできた。そして、病む主人の浅い眠りをさますまいとして、無言でまたそっと出て行った。元は黙然とそこにすわっていたが、老人の眠りを見守りながら、じっとすわっているうちに、かたわらのテーブルの上に頭をのせて、うとうととまどろんだ。
夜が近づくころ、元は目をさました。からだじゅうの関節が痛いので、立ちあがって伸びをした。そして音を立てないように隣の部屋へ行くと、みつ口の老人がいて、泣きながら、元がすでに聞いて知っているいきさつを、くりかえした。老人は、つけ加えて言った。「なんとかして、この土の家を出なくてはなりません。このあたりの百姓は、みな将軍をうらんでおりますし、将軍が弱っていらっしゃることを知っておりますから、いつなんどき襲ってくるかもわかりません――若将軍さま、あなたがおいでにならなかったら、とうに押しよせてきたと思います。あなたがお見えになって、若くて強そうなので、しばらく用心してようすをみておるのでしょう――」
すると老小作人が口をはさんで、心配そうに元を見ながら言った。「若旦那さま、西洋の服はお召しにならねえほうがようございますよ。百姓たちは、洋服を着た若い新しがりの連中を、えらく憎んでおります。あの連中が、これからはよい世の中になると約束したのに、この大雨で、洪水が出ますだで、それで憎んでいますのだよ。ですから、ああいう連中と同じ西洋の服をお召しになっていますと――」そのまま老人は外へ出て、自分の一張羅《いっちょうら》の青の木綿の服を持ってもどってきた。継ぎは一か所か二か所しか当たっていない。そして老小作人は、なだめすかすような調子で言った。「わたしどもを助けるとおぼしめして、これをお召しになってくだせえまし。靴もごぜえます。そうすれば百姓どもに見られても――」
そこで元は、その農民の着物に着かえた。重態になっている父親を動かすことはできないからここで死ぬよりほかはないと知っているので、いくらかでもこれで安全になれるならと思って着たのである。だが彼はそのことを口には出さなかった。みつ口の老人が、ひどく死という言葉を気にしているからである。
元は二日間、父のそばにすわって、看護した。しかし王虎は死ななかった。そうしているあいだに、元は、彼が母と呼んでいる夫人がはたしてくるだろうかと幾度も考えた。あれほどかわいがっている孫の世話をしているのだから、たぶんこないだろう、と思った。
だが老夫人はきた。二日目の夕方近く、もはや食物をとるときとか動かすときに起こされるほかは昏睡《こんすい》状態のようになっている父のそばに、元はすわっていた。皮膚の色は、ますます黒ずみ、化膿《かのう》した患部が腐臭を放って、かすかな悪臭が室内にただよっていた。戸外には早春が訪れているが、元は外へ出て天も地も見なかった。彼は老小作人の言葉をおぼえていた。自分が村のものに憎まれている以上、新しくその憎しみをかき立てるようなことがあってはならぬと思っていたのである。それは、せめてこの古い家で平和に死なせてやりたい父のためであった。
こうして彼は寝台のわきに腰をおろして、さまざまのことを思った。何よりも頭を去来するのは、自分の生涯が、いかに奇怪であり、いかに混乱に満ち、しっかりした希望がないことであった。これらの老人たちは、みなその壮年時代に、はっきりとした単純な希望を持って生きてきた――金、戦争、享楽――それらは彼らが全生涯を賭《か》けるに値するものであったのだ。またあるものは、彼の伯母のように、また太平洋の彼方の老教授夫妻のように、神々にすべてをささげた。どこでも老人は同じだ。子供のように単純で、何もわかっていないのだ。しかし若い世代は――自分のような青年は、みななんと混乱していることだろう――古い神々にも、物質的な利得にも、ほとんど満足することができないのだ! 一瞬、彼はメアリを思い出し、彼女はどんな生活を送っているだろうかと考えた――おそらく自分の生活と、たいして変わりはないであろう。何のはっきりした大きな目標も持てずにいることだろう……自分の知るかぎり、たったひとり、美齢だけが例外のようである。しっかりと、自覚的に、自分の欲するものを握って進んでいる。もし美齢と結婚できたら……。
そのとき、このようなむなしい黙想をやぶられて、彼は一つの声を聞いた。それは母と呼んでいる夫人の声であった! 夫人がきたのだ! その声に励まされて、彼は、すばやく立ちあがって外へ出た。自分でも思いもかけぬほど、彼は夫人のくるのを待ちこがれていたのだ。そしてそこに老夫人はいた――老夫人のそばにいるのは美齢であった!
元は、一度たりとも美齢が来ようとは思ったこともなく、希望もしなかった。あまり驚いたので、美齢の顔をみつめるばかりで、口も容易にきけなかった。「ぼ、ぼくは――赤ん坊はどうしてあるんです?」
美齢は、つねに変わらぬ平静な、しっかりした声で答えた。「わたしから愛蘭に、今度だけはきて赤ちゃんを見てやらなくてはいけないと言いました。そうしたら運よく愛蘭はご主人がある女性とあまりしげしげ会いすぎるというので大げんかをしていたところでしたので、四、五日おかあさまのほうにいるほうが好都合だったわけなのです。あなたのおとうさまはどこにいらっしゃいますの?」
「すぐにお目にかかりましょう」と老夫人は言った。「美齢ならば容態がわかるだろうと思ったので、連れてきました」元も、いまは猶予せずにふたりを案内した。三人は王虎の枕頭《ちんとう》に立った。
話し声が高かったためか、それとも、聞き慣れぬ女の声がしたためか、とにかく王虎は、ふと昏睡からさめた。彼の重いまぶたが開くのを見て、老夫人は、やさしく言った。「旦那さま、わたくしがおわかりですか?」すると老いたる虎は答えた。「うむ、わかる――」そのまま、またうとうとと眠りに落ちたので、彼がほんとうにわかったのかどうか、それはだれにもわからなかった。しかし間もなく彼は、もう一度目を開けて、今度は美齢をみつめ、夢みるように、「わしの娘じゃな――」と言った。
元は娘ではないと説明しようとしたが、美齢はそれをとめて、気の毒そうに言った。「わたしを娘と思わせておいてあげなさい。もうご臨終が迫っていますから、お心を乱さないように――」
父の視線がまた彼のほうへ動いたが、元はだまっていた。王虎が、いま言ったことをはっきり意識しているわけではないにしても、美齢を娘と呼んでくれたのはうれしいことだった。こうして三人は、ふしぎに一つの心に結ばれて、最後のときを待って立っていた。けれども王虎は、ただ昏々《こんこん》と深く眠りに沈んで行くばかりであった。
その夜、元は老夫人と美齢と三人で、どうすればよいかを相談した。美齢は重々しく言った。「わたしのまちがいでなけれぱ、今夜は越せまいと思います。この三日間、生きていらしったのが奇跡です――よほど心臓がお丈夫なのでしょう。でも、いくらお丈夫でも、自分が敗北したことを知った打撃に堪えられるほど強くはありません。それに、手のお傷が化膿《かのう》して、毒が血のなかにはいったので、お熱が高いのです。傷口を洗って包帯をかけたときに、それがわかりましたわ」
王虎の半死の昏睡のあいだに、美齢は熟練した技術で老人の患部を洗滌《せんでき》し、手当をしたのである。小さくなってそばで見ていた元は、このやさしい娘が怒って自分を大きらいだとののしった女性と同じ人間であろうかと疑わずにはいられなかった。粗末な田舎家のなかを、彼女は、まるで昔からそこに住んでいたように自然に動きまわって、乏しいなかから手当に必要なものをなんとか探し出してきた――王虎が寝台の板の上に寝ているのを見ると、藁《わら》をたばねてマットにしてからだの下へ入れたり、池の縁から拾ってきた小さなレンガを土竈《どがま》の熱い灰のなかで熱して病人の冷えた足を温めたり、粟《あわ》ガユを味よくつくって病人に食べさせたり、元には夢にもそんなふうに使えるとは思わぬような品物を利用するのであった。病人は何も言わなかったが、もう前ほど苦しそうなうめき声を出さなかった。元は自分がこうしたことを何一つしなかったのをみずから責めながら、じつは、したくてもできなかったことを謙譲《けんじょう》に認めた。彼女の強い細い手は、じつにやさしく動くので、骨ばかりになった老人の大きなからだを動かしているようには思えなかったが、それでいて病人の苦痛をやわらげていたのであった。
いまでは彼女が何か言うと、元は、そのすべてを信頼して、よくそれに従った。ふたりは計画を立てた。老夫人は、村民の悪感情が日ましにはげしくなっているから、臨終を見とどけたら、すぐに引きあげたほうがいいというみつ口の老人の言葉に耳を傾けた。そこへ老小作人も口を出した。「そのとおりでごぜえますだ。いまもわしが歩いていますと、どこへ行っても、がやがや言うていますだ。若さまがここへおいでになったのは、土地を取り返すためじゃなどと言っていますだよ。しばらくここを立ちのきなすって、この悪い時世が静まるまでお待ちになったほうがよろしゅうごぜえます。わしと、このみつ口じいさんとが、この村に居残りまして、村の衆と仲ようするように見せかけながら、そっとあなたさまのおためをはからいますだよ、若さま。土地の掟《おきて》を破るというのは、悪いことでごぜえます。もし掟をないがしろにするようなことをすれば、神々さまのたたりがありますだ――畑の神さまはほんとうの持ち主がだれだか、よくご存じでごぜえますだでな」
こうして相談がきまった。老小作人は町へ行って粗末な棺をさがし、村人が眠っている夜のうちにそれを運ばせた。身分の低いものが使うような粗末な棺を見て、みつ口の老人は、このなかに主人を横たえなければならぬ不運を嘆いて涙を流した。彼は元をとらえて訴えた。
「若将軍さま、どうぞ今度おいでになったときには、将軍のお骨を掘り起こして、りっぱな二重の柩《ひつぎ》に入れて将軍らしいお葬いをしてくださいまし。きっとこの老人に約束してくださいまし――あんな勇敢な将軍は、ほかにはございません。おまけに、いつもやさしくしてくださいました!」
元は、そんなことができるかどうかあやぶみながらも約束した。なぜなら、あすの日がどうなるか、だれにもわからぬ時世ではないか? いまの世では確実ということは、もうないのだ――王虎がまもなく彼の父親のそばに眠るであろう土地すらも確実ではないのだ。
このとき叫び声が聞こえた。王虎の声だった。元が駆けこむと、美齢があとにつづいた。王虎は目をさまして、もの狂おしくふたりを見た。そして、はっきりした声で言った。「わしの剣はどこにある?」
だが彼は答えを待たなかった。元が、きっと取り返しますという約束を言い終えないうちに、父は二つの目を閉じて、また眠りに落ち、もはやものを言わなかった。
夜ふけて、父を見守っていた椅子から、元は立ちあがった。落ちついてすわっていられなかった。彼は、まず父のそばへ寄って、ちょっとのどに手をあててみた。まだ、かすかに息が通っている。まったく心臓が丈夫なのだ。魂は去ったが、心臓はまだ鼓動しているのである。あと数時間は鼓動しつづけるだろう。
あまり落ちつけないので、すこし外へ出てみようと思った。きょうで三日、この土の家に閉じこもっていたのだ。そうしよう。そっと前庭へ行って、いい空気を吸ってこよう。
外へ出ると、心の重荷にもかかわらず、夜の空気がさわやかに感じられた。彼は畑を見まわした。父が死ねば、このまわりの畑は、法律上、彼のものであり、この家も、彼のものになる。それは祖父が死んだあと、ずっと昔に、そう割り当てられているのだ。それから彼は、農民たちの土地への要求がいかにはげしくなっているかを語った老小作人の言葉を思い出した。ずっと以前にも彼らは自分に敵意を持っていた。そのころは、それほど痛切には感じなかったが、彼らは自分を異郷人視していたのである。こんな時代には確実なものは一つもない。彼は恐ろしかった。この新しい時代では、だれが、何を、自分のものだと言えるだろう? たしかに自分のものだと言えるのは、自分の二本の手、自分の頭脳、愛する心のほかにはない――そして自分の愛する人を、おれは自分のものとは呼べないのだ。そう思っているとき、ふと彼は低い声で自分の名が呼ばれるのを聞いた。見ると、そこの戸口に美齢が立っていた。急いで近寄ると、彼女は言った。「あなたのおとうさまは、もっとお悪いのかと思っていました」
「咽喉《のど》でしている呼吸が手を触れるたびに弱くなります。明け方が心配です」と元は答えた。
「では、わたしも眠らずにいましょう」と彼女は言った。「ごいっしょに待ちましょう」
この言葉を聞いたとき、元の心臓は、一、二度、はげしく鼓動した。「ごいっしょ」という言葉が、これほどこころよく、うれしく使われるのを、聞いたことがなかったからである。けれども彼はなんと言ってよいかわからなかった。無言で彼は泥の壁にもたれかかった。そして戸口に立っている美齢とふたりで、暗澹《あんたん》と、月下の畑を見渡した。ちょうど月のなかばなので、月はまるく冴《さ》え渡っていた。ながめているうちに、ふたりのあいだの沈黙がしだいに堪えられなくなってきた。とうとう元は胸が燃え立って、ずんずん彼女のほうへ引き寄せられそうになったので、何か平凡なことを言って彼女の答えを聞きたいと思った。さもないと自分は、うっかり手をのばして、この自分を憎んでいる女にさわってしまうかもしれない。それで、すこしどもりながら彼は言った。
「よくきてくれましたね――おかげで父はずいぶん楽になりました」すると彼女は静かに答えた。
「お手伝いができて、うれしいと思います。わたしは、きたかったのです」そして彼女は、さっきと同じように落ちついていた。そこで、元はまたなんとか話をつづけなければならなかったので、夜にふさわしく声を低くして言った。「あなたは――あなたは、こんなさびしいところで暮らすのは恐ろしいでしょうね? ぼくは、こういうところに住みたいと――子供のころには思っていました。しかし、いまはわかりません」
彼女は銀色に輝く野面《のづら》と小さな部落の藁《わら》屋根とを見まわしながら、何か考えているような調子で言った。「わたしは、どこででも暮らせると思いますわ。けれども、わたしたちのようなものは、新しい首府で暮らすほうがいいんじゃないでしょうか。わたしはいつも新首府のことを考えています。あそこで働きたいと思います――いつかは、あそこにも病院がつくられるでしょう――新首府の新しい生活に自分も参加したいのです。わたしたち――わたしたち新しい人間は、あそこに属しているのではないでしょうか――」
彼女は言葉がもつれて言いやめた。それから急に小さい声で笑ったので、その笑い声を聞いて元は彼女のほうを見た。ふたりの目が合ったとき、ふたりはどこにいるかを忘れた。死にゆく老人を忘れ土地が確実でないことを忘れた。ひたと合わせている視線のほかいっさいを忘れた。やがて元が、まだ彼女の視線をとらえたまま、ささやいた。「あなたは、ぼくを憎むと言いましたね?」
すると彼女は息をひそめて言った。「ええ、あなたを憎みました――あの瞬間だけは――」
元をみつめながら、彼女のくちびるがすこし開いた。まだふたりの目は、さらに深く相手の目の奥をのぞきこんでいた。元は、もう目を動かすことができなくなっていたが、彼女が小さく開けているくちびるを小さな舌でなめるのを見ると、彼は一心にそのくちびるをみつめた。急に彼は自分のくちびるが燃えるのを感じた。一度はひとりの女のくちびるが自分のくちびるに触れて、自分を不快にしたことがあった……だがおれはこの女性のくちびるには触れたい! これまで何ものをも熱するほど求めたことのない彼は、このとき突然、この一つのことを欲した。もはや、この一つのことをせねばならぬということ以外には何も考えられなかった。彼は、すばやく身をかがめて、くちびるを彼女のくちびるにあてた。
彼女は身動きもせず、まっすぐに立って、くちびるを彼にまかせた。この肉体は、おれのものだ――おれと同じ種族なのだ……彼は、やっとくちびるを離して女を見た。彼女はにっこりと彼を見返した。だが月光のなかでも、頬が赤く染まり、目が輝いているのが彼にはわかった。やがて彼女は、いつもの調子になろうと努力しながら言った。「その長い木綿の服を着ていらっしゃると……ほかの人のようですわ。わたし、見慣れないので……」
ちょっと彼は返事ができなかった。彼女に触れたあとで、こんなにもこの人は自分をうしなわずに話ができるのだろうかと、ふしぎでならなかった。こんなにも落ちついて、両手をうしろで組みあわせたまま立っていられるとは――。彼は、あわてた調子で言った。「きらいですか? 百姓みたいでしょう――」
「好きですわ」とあっさり答えて、それからゆっくり彼のようすを見ながら言った。「似合いますわ――洋服よりも自然ですわ」
「あなたが好きなら、いつでもこればかり着ていましょう」彼は熱意をこめて言った。
彼女はまた微笑して首を振った。そして答えた。「いつでもではなく――ときにはあれを、ときにはこれをと、その場合に応じたほうが――人はいつでも同じではいられませんもの」
またしてもふたりは、いつのまにか無言で顔を見あわせていた。ふたりは完全に死につつある人を忘れていた。彼らにとって、もはや死は存在しなかった。だが元は、また何か言わなくてはならなかった。何も言わずにいることに、どうして耐えられよう?
「あの――あの、いまぼくがしたのは――あれは西洋の習慣です――もしあなたがきらいなら――」なおも彼女を見守りながら彼は言った。もし彼女がきらうのなら、ひざまずいても、許しを求めるつもりだった。それにしても彼女は接吻の意味を知っているのだろうか? だが彼はそのことは口に出せなかったので、相手の顔をみつめたままで口ごもった。
すると、静かに彼女は言った。「西洋の習慣が、みな悪いとはかぎりませんわ!」そして急に彼女は彼を見ようとしなくなった。うつむいて地面を見ていた。このときの彼女は、どんな古風な娘にも負けないくらい、はにかんでいた。彼女のまぶたが一、二度またたくのが見えた。彼をあとに残してここを立ち去ろうとして、ためらっているように見えた。
しかし彼女は行かなかった。元気を出して、からだをまっすぐにしてしゃんと立ち、顔をあげて、じっと彼を見返した。微笑をうかべて、待っていた。それを元は知った。
彼の心臓の鼓動は高まった。全身が早鐘《はやがね》をつく心臓になったかと思われた。彼は夜気をふるわせて声をあげて笑った。さっきおれは何を心配していたのだろう?
「ぼくたちは」と彼は言った。「ぼくたちふたりは――何も恐れる必要がないのだ」
(完)
[#改ページ]
パール・バック年譜
一八九二年六月二十六日 ウェスト・ヴァージニア州ヒルスボロに生まれる。両親はプロテスタントの宣教師。生後三か月、父母にともなわれて父の任地中国に渡る。揚子江沿岸鎮江で育つ。英語よりさきに中国語をおぼえ、中国人の子供たちと遊び、その家庭に出入りして、中国の風習に親しむ。
一九〇〇年(八歳)北清事変おこり、暴徒に家を襲われ、あやうく難をのがれる。
一九〇一年(九歳)中国人の小学校へ入学。
一九〇七年(十五歳)上海のアメリカ人経営の女学校へ入学。
一九〇九年(十七歳)ヨーロッパおよびアメリカに学ぶ。
一九一〇年(十八歳)ヴァージニア州ランドルフ・メイコン女子大学に入学のため、ロシア経由でアメリカヘ帰る。大学在学中は、級長として学生活動を指導する。上級学年で二つの文学賞を受ける。
一九一四年(二十二歳)ランドルフ・メイコン女子大学を卒業し、一学期間母校で心理学を講じていたが、母病気の知らせをうけ、中国にもどる。
一九一七年(二十五歳)南京大学で教鞭をとっていた中国農村経済学者ロッシング・バックと結婚。五月十三日、夫とともに華北に居住(五年間)。この華北の風物は『大地』にいきいきと描写されている。
一九二一年(二十九歳)南京にて女児出産。
一九二二年(三十歳)南京大学に招かれ英文学を講義する(十年間)。長老教会の宣教師の地位につく。
一九二三年(三十一歳)中国の生活に関するエッセイ『中国にて』を「アトランチック・マンスリー」誌一月号に発表。
一九二四年(三十二蔵)『中国における美』を「フォーラム」誌三月号に発表。『中国人学生の心』を「ネイション」誌十月号に発表。
一九二五年(三十三歳)南京の南東大学で、英文学の講座を担当(三年間)。夫とともにアメリカヘ帰り、コーネル大学およびイェール大学で、英文学を研究し、マスター・オブ・アーツの学位をとる。
一九二六年(三十四歳)『中国と西洋』と題する論文により、ローラー・メッセンジア賞(歴史部門)を受ける。中国にもどる船の中で『東の風・酉の風』の原型ともいうべき物語『一人の中国婦人は語る』を書き、「アジア」誌に発表。
一九二七年(三十五歳)三月、北伐軍が南京に侵入、七人の外人を殺害する。バック一家は、あやうく難をのがれて来日し、夏から秋へかけて長崎、雲仙に滞在する。秋、上海へ帰る。
一九二八年(三十六歳)南京に帰る。北伐軍の略奪のため、小説の原稿は紛失していたが、母の生涯をえがいた伝記の草稿は無事であった。南京の中央大学で英文学の講座を二年間担当。
一九三〇年(三十八歳)南京で『大地』を書き始める。『東の風・西の風』出版。
一九三一年(三十九歳)三月、『大地』(The Good Earth)を出版。二十一か月間ベストセラーをつづけ、三十以上の外国語に翻訳される。『大地』ピューリッツァ賞を受ける。
一九三二年(四十歳)『大地』デイヴィス父子によって劇化される。『若き革命家』(The Young Revolutionist)出版。『息子たち』(Sons)出版。コーネル大学で勉強するため、七月、アメリカヘ帰る。十一月、ニューヨークにおける講演が原因で、長老派教会外国伝道委員から非難され、宣教師の地位を辞す。
一九三三年(四十一歳)中国にもどり『水滸伝』の英訳を完成、『万人すべて兄弟』(All Men are Brothers)と題して出版。短編集『第一夫人その他の物語』(The First Wife and Other Stories)出版。
一九三四年(四十二歳)アメリカに帰る。
小説『大地の母』(The Mother)出版。
一九三五年(四十三歳)『大地』が一九三〇〜三五年に出版された最もすぐれたアメリカ小説と認められ、アメリカ芸術院ハウエルズ・メダルを受賞。『分裂した家』(A House Divided)出版。『大地』『息子たち』『分裂した家』の三部作をまとめて『大地の家』(The House of Earth)として出版。ロッシング・バックと離婚し、ジョン・デイ出版社杜長「アジア」誌主筆リチャード・ウォルシュと結婚。
一九三六年(四十四歳)『母の肖像』(The Exile)出版。『戦える使徒』(The Fighting Angel)出版。前者は母、後者は中国における宣教師としての父の生涯をえがいた伝記小説。この二著は『大地』とともにのちにノーベル文学賞を受ける大きな理由となった。
一九三八年(四十六歳)小説『この心の誇り』(This Proud Heart)出版。十二月、ノーベル文学賞受賞。ノーベル賞選考委員会は、その推薦文で「彼女の小説は、中国の農夫の生活をゆたかに、真に叙事詩的に描いたものとして、大変すぐれたものである」と書いている。評論『中国の小説』(The Chinese Novel)出版。
一九三九年(四十七歳)小説『愛国者』(The Patriot)出版。
一九四〇年(四十八歳)小説『他の神々』(Other Gods)出版。
一九四一年(四十九歳)東洋と西洋(とくにアジア人とアメリカ人)の相互の理解と友情を深めるために「東と西の会」を設立した。石垣綾子なども加わった。短編集『いつまでも新しく』(Today and Forever)小説『結婚の肖像』(The Portrait of a Marriage)出版。
評論『男性と女性について』(Of Men and Women)出版。
一九四二年(五十歳)小説『龍子』(Dragon Seed)出版。評論『アメリカの統一とアジア』(American Unity and Asia)出版。
一九四三年(五十一歳)小説『約束』(The Promise)出版。『アメリカは私にとってどんな意味をもつか』(What American Means to Me)
一九四四年(五十二歳)『母の肖像』『戦える使徒』とを一冊にまとめ、『精神と肉体』(The Spirit and the Flesh)として出版。
一九四五年(五十三歳)『大衆に語れ』(Tell the People)出版。
一九四六年(五十四歳)小説『女の館《やかた》』(Pavilion of Woman)出版。
一九四七年(五十五歳)評論『それがどうして起こったか』(How It Happens)出版。小説『牡丹』(Peony)出版。
一九四八年(五十六歳)『大津波』(子供向)(The Big Wave)出版、アメリカ児童研究会賞を受賞。
一九四九年(五十七歳)アメリカ人と東洋人との間の混血児を収容するウエルカム・ハウスを設立し、混血児十数人をひきとる。小説『郷土』(Kinfolk)出版。小説『黙ってはいられない』(American Argument)出版。
一九五〇年(五十八歳)「レディズ・ホーム・ジャーナル」五月号に知能教育のおくれた自分の娘の物語を書き、のちに『母よ嘆くなかれ』(The Child who Never Grew)として出版。
一九五一年(五十九歳)アメリカ芸術院会員に選ばる(五十人の終身会員のうち、ただふたりの女性のひとりである)。小説『神の人々』(God's Men)出版。
一九五二年(六十歳) 小説『かくれた花』(The Hidden Flower)出版。日本の娘とアメリカ兵とのあいだに生まれた混血児をあつかったもの。小説『シルヴィア』(Silvia)を「レッド・ブック」誌に発表。
一九五三年(六十一歳)リンカーン大学で名誉学位を受ける。『来れ、私の愛するもの』(Come, My Beloved)出版。
一九五四年(六十二歳)『いくつもの私の世界』(自伝)(My Several World)出版。
一九五六年(六十四歳)『帝王たる女性』(Imperial Woman)出版。
一九五七年(六十五歳)小説『北京からの手紙』(Letter from Peking)出版。
一九五九年(六十七蔵)小説『朝を支配せよ』(Command the Morning)出版。原爆製造にたずさわる若い科学者の悩みと恋愛をテーマにしたもの。
一九六〇年(六十八歳)五月二十四日、『大津波』映画化にあたり、シナリオ執筆のため来日したが、二十八日、夫ウォルシュの訃報に接し、急遽帰国。八月下旬再訪。
パール・バックは一九七三年三月六日、ヴァーモント州ダンビーで八十一歳の生涯を閉じた。
[#改ページ]
パール・バックとアジア
パール・S・バックとアジアとの結びつきは、遠く彼女の幼年時代に――いや、その出生以前に、すでにはじまっている。というのは、彼女の父親のアンドリュー・サイデンストリッカーは、若くして伝道のために中国へ渡った宣教師で、その地でパールの母親のケアリーと結婚しているからである。
ケアリーが、アメリカからはるばる海を越えてアンドリュー・サイデンストリッカーのもとへ嫁いだのは、二十三歳のときであった。彼女は四人の子供を生んだが、風土病のために、そのうち三人まで幼いうちにうしなった。医師は彼女に、心身の休養のため故郷のウェスト・ヴァージニアヘもどることをすすめた。パールが生まれたのは、母親の二か年にわたるこの休養期間の終わりに近いころ、正確にいえば一八九二年六月二十六日であった。ヒルスボロという町のコロニアル・スタイルの家が彼女の出生の場所である。母のケアリーはオランダ系、父のアンドリューはドイツ系で、どちらも南北戦争以前にアメリカヘ定住した移民の出である。
パールが生まれて三か月ほどして、母親の健康が回復したので、一家はふたたび海を渡って中国へおもむいた。それ以後一九一〇年に、ヴァージニア州のランドルフ・メイコン女子大学へ入学するため父母にともなわれてアメリカへ帰るまで、その生涯の最初の十八年間を、彼女は中国で過ごしたわけである。少女時代、「アジアはわたしにとって現実の世界であり、わたしの本国は、わたしの夢の国、善き人々の住む美の夢幻境と見えた」と、自伝風の記録『わたしのいくつかの世界』(一九五四年)のなかで彼女が語っているのは、おそらく真実であろう。
この十八年間は、中国にとっては、まことに多事多端な期間であった。彼女が生まれた一八九二年は、孫文が興中会を設立した年であり、その翌々年の一八九四年には日清戦争がはじまっている。一八九五年の北京条約によって戦争が終結してからは、日本も加えて先進諸国が、中国における利権獲得のために、たがいにしのぎをけずった。彼女の祖国アメリカも、米西戦争が終わると間もなく、中国に対する門戸開放、機会均等をとなえて、この競争に参加した。こうした外国人の侵略に対する中国民衆の反感は、一九〇〇年、山東山西における義和団の蜂起となって爆発し、各地で多くの宣教師が殺された。諸外国は連合軍を組織して天津より北京に入り、巨額の賠償金を要求した。一九〇四年には満州を舞台に日露戦争がはじまり、一九〇八年には西太后が没し、それにつづく国内の動揺は、一九一二年の辛亥革命《しんがいかくめい》による中華民国の成立へと導かれて行った。
これらの政治的な動きが、少女時代のパールに、なんらかの影響をあたえたことは疑いない。とりわけ義和団事件は、彼女の魂のなかに、ぬぐい去ることのできぬ深い印象としてきざみつけられた。事件当時サイデンストリッカー一家は揚子江沿岸の鎮江に住んでいた。パールは九歳で、中国人の小学校へ入って、皮膚の色を異にする中国の子供たちと机をならべて勉強していたが、乳母のワンの忠実さと、母親のケアリーの大胆さがなかったら、後年のノーベル賞作家の生命は、このときうしなわれていたにちがいない。蜂起した中国民衆が、外国人の住民を襲う準備をととのえた夜、パールの父親は奥地へ行っていて不在だった。ワンからの情報で、夜半に群集が押しよせてくることを知ったケアリーは、食堂をきれいに掃除し、テーブルの上にお茶とお菓子を用意した。子供たちには一ばん上等の晴着《はれぎ》を着せ、一ばん上等のおもちゃを持たせた。夜半の十二時、手に手に棍棒《こんぼう》や鍬《くわ》を持って群集が押しかけてきたとき、ケアリーは、こちらからすすんで玄関の扉を開け放ち、落ちついた静かな声で呼びかけた。「さあ、どうぞおはいりください。お茶の用意ができております」群集は、はじめは、どぎもをぬかれたかたちであったが、やがてどやどやはいりこんできた。ケアリーはオルガンの前に腰をおろして賛美歌をひき、子供たちは、これに合わせて歌った。
「おまえさん、恐ろしくはねえのか」と群集のひとりが言った。
「だって、みんな同じ町のお友だちではありませんか」とケアリーは答えた。
やがて、お茶を飲み、菓子を食べ終わると、群集は、はりあい抜けがしたように、ひとり去り、ふたり去りして、ついに彼女たちの家には、すこしも手をかけなかった。
このときの事情は、『母の肖像』(一九三六年)のなかに詳しく語られているが、「親のせいで子供が殺され、その親はまた、どこか遠くのほうで、ほかのまったく見知らぬ白人が残虐で極悪だったために殺される」(『黙ってはいられない』のなかの一節)ということは、たしかに彼女の魂にとっては大きな恐怖だったにちがいない。個人と社会の関連の問題、民族の対立と敵視の問題、その他、政治的社会的にスケールの大きな問題に対して、バック女史が、つねにいきいきした関心をうしなわないことの原因は、この恐怖の体験のうちに、すでにふくまれていたとも考えられるのである。
しかし、バック女史が政治家にも社会評論家にもならず、作家になったということの背後には、彼女の素質のみならず、少女時代の体験の別の面が、強くはたらいていると見なければならない。
伝道のために父親がほとんど家を留守にしていた彼女の家庭では、子供の教育の責任は、まったく母親の双肩にかかっていた。その母親は、中国の貧しい人々のために自分の居間まで解放するほど心の寛大な婦人であったが、同時に、一般の中国人の、アメリカ人の目から見れば怠惰な、だらしのない生活が、子供たちに感染することを極度におそれる潔癖さをも持っていた。そのために、パールの兄のエドウィンに新聞をつくらせて、中国の各地に散在している外国宣教師の家庭から購読者を募らせたりしたが、また、読み書きのきびしい教育を、みずから手をとって子供たちに授けた。子供たちのための蔵書には、古典の文学作品もはいっており、パールは七歳のころからディケンズを読みはじめたという。母親はまた、開拓者として雄々しい生涯を送った自分たちの先祖(といっても、ほんの二代ほど前の人々であるが)のことや、南北戦争についての物語を、くりかえし子供たちに話して聞かせた。異国の風物のなかに孤立した家のなかでの、こうした母親の感化が、知的な好奇心の強い子供を文学的な方面に向かわせたのは、あるいは当然かもしれない。
幼いパールに大きな感化をあたえた女性が、もうひとりいる。乳母のワンである。「彼女は魔法の話を、まるで無尽蔵に知っていた。それはおもに彼女が仏教や道教の坊さんたちから聞いてきた話だった。仏教の話というのは、小さくすれば耳のなかにでも目のなかにでもかくすことができ、いざというときには長く鋭くなって即座に殺人剣となる不思議な短剣の物語とか、地獄極楽の物語などだった。わたしは竹林の下に何時間も横たわりながら、死んだあと、このつぎは何に生まれてこようかなどと考えていた」」「しかし実際はわたしは道教の話のほうが好きだった。それは悪魔や精霊の話で、木や石や雲などには、すべて霊が宿っているということや、海に棲《す》む竜、嵐や風に棲む竜などの物語だった。東のほうに塔があって、その下には竜が頭をくぎでとめられてつながれているはずだった。そして、もしその竜があばれ出したら、川は水かさをまして氾濫し、みんな溺《おぼ》れなければならないはずだった」と後年バック女史は書いている。そして、この乳母のワンが死んで葬られたとき、彼女はこう言っている。「あの女はわたしたちのなかに、白人の子供のなかに、何か一部を残して行った。母親が子供の一部をなしているように、乳母の一部が、わたしたちのなかに入りこんで行ったのだ。だから彼女の国が、わたしたちには、永久に自分のもののように思えるのである。愛し、そして理解した国として」(『若きシナの子』)
中国の古いそれらの物語と、朝夕聞こえてくる仏教寺院の鐘の音、目の前にひろがる中国風の瓦の家並み、連山、竹やぶ、遊び相手の中国人の子供たち、それらが幼時の彼女をとりまく環境であった。英語のセンテンスをおぼえるよりさきに、中国語の文章をおぼえたといわれる幼いパールは、やや長ずるにおよんで、あらゆる種類の中国の書籍を読みあさった。十七歳になって郷里のヴァージニアヘ帰るとき、自分がまるでひとりぼっちの中国留学生のように感じられた、と言っているのは、おそらく誇張ではあるまい。
一九一三年、彼女は大学を卒業して、ふたたび中国へもどった。一九一七年、中国の農業経済を専攻するロッシング・バックと結婚、華北に住み、五年ほどして南京へ移った。彼女は、プレスビテリアン教会の宣教師の仕事をするかたわら南京大学で英文学を講じた。このころから中国の社会的動向について評論を書きはじめた。一九二五年には、夫とともに、いったんアメリカへ帰ったが、そのときの船のなかで、のちに『東の風・西の風』と題して出版された処女作の原型にあたる物語風の文章を書き、「アジア」誌に送った。これが彼女の作家としての活動の最初のものであった。
しかし、一九三〇年ごろからの旺盛な作家活動は、それに先立つ彼女の二つの大きな体験を抜きにしては考えられない。その一つは、国共合作がやぶれて国民軍が南京へ侵攻したとき、七人の外国人が彼らの手で殺されたことである。かつての義和団事件のときと同様に、このときも彼女は、ある中国婦人の忠実かつ機敏なはたらきによってあやうく生命を救われた。しかし彼女たちの家は焼かれ、持ち物は、そのころ彼女が書きかけていた小説の草稿もふくめて、いっさいうしなわれた。母国語と同じように中国語を話し、中国人のあいだに多くの友人を持っているにもかかわらず、皮膚の色の相違だけのために群集から暴行を加えられねばならぬということは、彼女に、いやおうなく多くのことを教えた。
いま一つの体験は、彼女の最初の子供が不幸にも精神薄弱児だったということである。特殊な教育が、その子には必要だった。そのためには費用がかかる。後年、『大地』を書いたころを回顧して、「わたしはあの当時、たくさんの金がほしかった」と述べているが、この体験は、単にそういう経済的な創作動機を彼女にあたえたばかりでなく、精神薄弱児もまた人間であるということの体験を通じて、あらゆる人間を、皮膚の色、職業、階級の差別を抜きにして見るという決意を彼女の魂の内奥に植えつけたものと言ってよかろう。
一九六〇年夏 大久保康雄