大地 第二部「息子たち」
パール・バック/大久保康雄訳
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主要人物
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王一《ワンイー》……王龍の長男。王家の総領として財産保全にきゅうきゅうとしている能のない男。
王二《ワンアル》……王龍の次男。打算的で商才にたけ、豪商の王とよばれるようになる。
王三《ワンサン》……王龍の三男。幼少から父に反抗して家を出、南の軍官学校に入り、軍人となる。母阿藍ゆずりの無口で、剛毅果断の性格の美青年。王虎《ワンホウ》将軍と畏怖される北方軍閥の巨頭となる。
みつ口……王虎将軍の腹心として忠勤をはげむみつ口の男。
鷹……王虎将軍の腹心。とんがり鼻の奇怪な顔の持ち主。のちに反逆をくわだてる。
豚殺し……王虎将軍の腹心のひとり。
あばた……王虎将軍の側近に仕えるあばたの少年。王二の長男。
豹《バアオ》将軍……北方山岳地方の匪賊の頭目。
狐女……豹将軍の愛妾。後、捕われて王虎将軍の正妻に迎えられる。才知にたけた狐のような美女。匪賊に内通して王虎に殺される。
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王龍《ワンルン》は死の床に横たわっていた。畑のまんなかにある小さな、暗い、古びた土の家の、若いころ寝ていた部屋で、結婚の当夜、彼が眠ったその寝台の上に、瀕死《ひんし》の身を横たえていた。この部屋は城内にある彼の宏壮《こうそう》な屋敷の厨房《ちゅうぼう》の一つにすら及ばぬほど小さかった。その屋敷は同じく彼のものであるが、いまは息子たちや孫どもが住んでいた。しかし、死なねばならぬのなら、彼は、自分の土地のまんなかにある先祖伝来のこの古い家のなかで、粗末な、塗りのないテーブルと腰掛けのあるこの部屋の青い木綿の寝台のとばりのかげで死ぬことに満足していた。
王龍は死期がきたのを知っていたのだ。彼は、そばにつき添っていたふたりの息子をながめ、彼らが自分の死ぬのを待っていることを知った。臨終の時がきたのだ。息子たちは城内からよい医者を幾人も呼んできた。医者たちは針や薬草を持ってやってきて、ていねいに脈をとったり、舌をしらべたりした。だが最後に薬類をとりまとめて帰るときに言うのであった。
「老齢ですわい。寿命がつきたで、もうどうにもならんて」
それから王龍は、ふたりの息子がささやき合うのを聞いた。息子たちは王龍が息をひきとるまでつき添っているため、この土の家にきていたのだが、王龍が眠りに落ちているものと思って、しんけんな顔つきで、たがいに顔をみつめながら、話し合っていた。
「南へ弟を迎えに行かせなければいけないな」と長男が言う。
すると、次男が答えた。「そう、すぐ迎えにやらなければね。弟は仕えている将軍のもとで、どこをさまよっているかわからないから」
そういう話を聞いて王龍は、息子たちが自分の葬式の準備をしているのだと思った。
彼の寝台のそばには、息子たちが彼のために買い求め、彼の心をなぐさめるためにおいてくれた棺《かん》があった。それは硬質材の巨木でつくられた大きな棺で、小さな部屋をいっぱいにふさいでしまったので、部屋に出入りする人は、そのまわりをやっとすれすれに回って通らなければならなかった。この棺の値段は銀六百元に近かったが、いつもなら銭を握ったら容易に放さない次男でさえ、そんな多額の金を、すこしも出ししぶらなかった。王龍は自分がはいることになるこのりっぱな棺に非常ななぐさめを感じていたので、息子たちも銀を惜しいとは思わなかったのだ。王龍は、ときどき衰弱した黄いろい手をさしのべて、黒い、みがきこまれた棺のきめにさわってみた。内側に、黄いろい繻子《しゅす》のようになめらかに削られた棺が、もう一つあって、外側の棺と内側の棺は、人間の魂と肉体のようにぴったりと合っていた。それは、どんな人にもなぐさめをあたえるような、りっぱな棺だった。
こんなに用意ができていても、王龍は、彼の老父が死んで行ったようにたやすくは死ねなかった。彼の魂は、たしかに何度も何度も死出の道へ旅立とうとしかけるのだが、そのたびに頑強な老いた肉体が、あとへ残されることをいやがり、死期がきたことを承知しないのであった。肉体と霊魂のあいだに闘争がはじまると、王龍は身内《みうち》に感じる戦いにおびえた。彼はつねに精神よりもむしろ肉体の人であり、壮年時代の彼は、ふとった頑健な男だった。だから自分の肉体をたやすくあの世へやってしまうことができなかった。魂が、こっそりと忍び出ようとするのを感じると、こわがって、しわがれたあえぎ声で、まるで子供が泣くように言葉もなく泣き叫んだ。
彼がこのように泣き叫ぶごとに、彼のそばに昼となく夜となくつき添っている若い妾《めかけ》の梨華《リホワ》が手をのばし、若々しい手で、彼の老いさらばえた手をなでてなだめてやった。ふたりの息子たちは急いで近よってきて、王龍のために計画してある葬式の話を、くりかえしくりかえし、くわしく話して聞かせてなぐさめた。長男は、繻子の着物にくるまったふとったからだをかがめて、小さな、しなびた、瀕死《ひんし》の老人の耳もとに口を寄せて、大きな声で言うのだった。
「葬式のときには、一マイル以上も長い行列をつづかせます。わたしたちはみな、おとうさんをとむらうために行列について行きます。おとうさんの妾たちは儀式どおりの喪服をつけて泣き悲しみ、あなたの息子や孫たちも白い大麻の喪服を着て参列します。村の衆も小作人たちも、みんなきます。行列の先頭には、画家にかかせたあなたの肖像画をいれた霊の輿《こし》が行き、そのつぎに大きな、すばらしい棺がつづきます。おとうさんは、もうちゃんと用意してあるりっぱな新しい服を着て、棺のなかに皇帝みたいに横になっています。城内を通るときには、みんなに見えるように、緋《ひ》と金の刺繍をした布を棺の上にかけます」
長男は、たいへんふとっているので、これだけ大声で言うと、顔が赤くなり、息切れがした。もうすこし呼吸を楽にするために、からだをまっすぐにおこすと、次男がかわって話をつづける。次男は小柄で、黄いろい顔をした、悪がしこそうな男だった。彼の声は鼻にかかった高調子で小さかった。彼は言った。
「おとうさんの霊魂が極楽に行けるようにお経をあげるために、僧侶もまいりますよ。雇いの泣き男もきますし、おとうさんがあの世で使うために準備しておいたものを運ばせるのに、赤と黄の着物を着たかつぎ(担夫)もたのみます。紙と葦《あし》でつくった家が二つ、もう大広間に用意されて立っています。一つはこの家を、もう一つは城内の家をかたどったもので、家のなかには家具も、召使も、奴隷も、轎《かご》も、馬も、必要なものは、みな備えつけてあって、家じゅういっぱいになっています。どれも、とてもうまくできています。あらゆる色紙でこしらえてあって、これをお墓でもやして、おとうさんのあとから送れば、あの世でも、きっと、おとうさんのほどりっぱなのはないと思います。だれにも見えるように、そうしたものをみな行列のなかで運ばせるのですから、葬式の日が天気のよい日であるようにと祈っているのです」
すると老人は非常になぐさめられ、あえぎながら言うのであった。
「町じゅうのものが――くる――だろうな?」
「町じゅうきますとも」と長男は大きな声で言い、やわらかな、大きな、青白い手をひろげて大げさな身振りをして見せた。「道の両がわには見物人がいっぱい並ぶでしょう。黄《ホワン》家の全盛時代このかた、そんなりっぱな葬式はまだありませんからね」
「ああー」と王龍は言った。そして気持ちが非常になぐさめられたものだから、もういちど死ぬことを忘れ、いつも発作のように襲ってくる浅い眠りに落ちて行った。
しかしこの気休めも、いつまでもつづくわけにはいかなかった。老人が危篤になってから六日目の夜明けに臨終のときがきた。ふたりの息子たちは、若いときからずっとこんなあばら家には住んでいないので、ここの不自由な生活に慣れていず、このせまい不便な家で父の臨終を待つことにうんざりしていた。
ふたりは父親の長い危篤状態に疲れ、小さな奥の部屋で寝についていた。その部屋は父親が壮年時代、最初の妾の蓮華《リエンホワ》を家に入れたときに建てたものだった。梨華《リホワ》に容体が急変したら呼んでくれるようにと言って、宵《よい》のうちに彼らは寝に行った。かつて王龍が、とてもりっぱなものだと思った寝台、かつて情熱的な愛欲にひたったその寝台の上に、いまは、彼の長男が横になって、寝台が堅くて、古くて、がたがたすると文句を言い、部屋も暗いうえに、春のせいか、むし暑いと不平を言っていた。しかし、ひとたび眠りに落ちると、ひどく重苦しく、騒々しくいびきをかいた。短い呼吸が厚いのどにからまった。次男のほうは、壁ぎわの小さな竹の寝椅子に横になり、猫が眠るように、軽く静かに眠っていた。
だが梨華は一睡もしなかった。彼女は、いつもの静かなようすで、腰かけるとちょうど自分の顔が老人の顔のそばにくるような低い小さい腰掛けに、夜どおし、身じろぎもせずにすわって、そのやわらかい掌に、老人のひからびた手をはさんでやっていた。年齢からいえば、王龍の娘といってよいくらい若かったが、それほど若いようには見えなかった。なぜなら彼女の顔は、このうえなくふしぎな忍従の表情をたたえ、そのすることなすことが、もっとも完全な、抑制された忍耐をもってなされ、すこしも若い娘のようではなかったからだ。彼女は、自分にたいしてとても親切で、自分のこれまで知っているだれにもまして父親のような気がしていたこの老人のそばにすわっていたが、泣きはしなかった。老人が死のようにふかい静かな眠りにおちいっているあいだ、幾時間も、じっと瀕死の老人の顔をながめていた。
明けがた、暁の光のさす前の、あたりがまだ暗闇につつまれているとき、王龍は、とつぜん目を見開いた。彼は非常に衰弱したのを感じ、霊魂がすでに肉体の外へ出てしまったような気がした。目をぐるぐるまわすと、妾の梨華がそばにすわっているのが見えた。王龍は、こわいほど心細い気がしてきて彼女にささやきかけた。呼吸がのどにからまり、歯のあいだから不規則にもれた。
「おまえ――これが死ぬというものなのか?」
梨華は彼が恐怖にとらえられているのを見てとり、いつもと変わらぬ静かな声で答えた。
「いいえ、いいえ、旦那さま、あなたはよくなっていらっしゃるのです。あなたは死ぬのではありませんわ」
「そうかな――ほんとうかな」老人は梨華のいつもと変わらぬ声になぐさめられて、どんよりした目を、じっと彼女の顔に注いだ。
梨華は、つぎに必然的にきたるべきものを見てとった。死期がきたのだと思って、心臓が早鐘のように波打つのを感じながらも、立ちあがって身をかがめ、いつもと変わらぬ、やわらかい、もの静かな声で言った。
「いままでにわたしがあなたにうそを申しあげたことがございましょうか。旦那さま、ごらんなさいまし、あたしが握っているあなたのお手は、とても暖かくて、強いではございませんか。あなたは、どんどんよくなっていらっしゃるのですわ。旦那さま、あなたは、丈夫になられたのですわ。ご心配にはおよびません。心配なさらないでください。あなたは、よくなっていらっしゃるのです。よくなっていらっしゃるのですわ」
そう言って彼女は王龍をなぐさめつづけた。彼が快方に向かっていることを何度も何度もくりかえして、しっかりと暖かく彼の手を握って励ました。彼は微笑をうかべて彼女を見あげていたが、目は、しだいにかすみ、すわってきて、くちびるはこわばり、耳は彼女のしっかりと落ちついた声をとらえようと緊張していた。いよいよ死期がきたと見てとって、梨華は近くへ身を寄せて、はっきりと高く声をあげて叫んだ。
「あなたはよくなっていらっしゃるのです。よくなっていらっしゃるのです。旦那さま、死ぬようなことはありません。死ぬなんてことはありませんわ」
このように彼女は王龍をなぐさめ励ました。彼女の声音に彼は最後の心臓の鼓動をふるい起こしたが、しかし、やがてこときれてしまった。だが彼は平和には死ねなかった。気持ちをなぐさめられて息を引きとったものの、霊魂が肉体から離れるとき、彼の息絶えた肉体は、あたかも激怒したかのように大きくおどりあがり、腕と足が非常な勢いで動き、骨だらけの老いた手が宙に向かって急につき出されたので、彼の上にかがみこんでいた梨華の顔のまんなかに強くあたった。梨華は手を頬《ほお》にあててつぶやいた。
「あなたがわたしをお打ちになったのは、これがはじめてね、旦那さま」
王龍は、なんの答えもしなかった。梨華が顔を近づけて見ると、老人は身をねじらせて横になっており、最後の呼吸が一陣の烈風のように出て行くと、そのまま静かになってしまった。梨華は、そっとやさしく老人のからだにふれて、王龍の老いた四肢《しし》をまっすぐになおし、その上に掛けぶとんをきちんとかけてやり、彼女を見てももう見えない大きく見開いたままの目を、しなやかな手で閉じてやった。彼女が、けっして死ぬことはないと力づけたとき、老人の顔にうかんだ微笑が、まだ消えもせず残っていた。彼女はその微笑を一瞬みつめた。
何もかもすべてすませてから、彼女は、王龍の息子たちを呼びに行かねばならぬことは知っていたが、そのままふたたび低い腰掛けに腰をおろした。息子たちを呼ばねばならぬとは思ったが、さっき自分を打った手をとって握り、その上に頭をたれて、まだ彼のそばにひとりでいられる間に、声もなく涙を流して泣いた。しかし、ふしぎな心で、彼女は、その性格そのものが悲哀にみちており、他の女たちのするように泣いて悲しみをやわらげるということができなかった。彼女の涙は、けっして彼女に慰めをもたらしたことがなかった。それで彼女は、長くすわってはいず、立ちあがって、ふたりの兄弟を呼びに行った。
「お急ぎなさるにはおよびません。もう息を引きとられましたから」
それでも彼らは彼女の声に応じて急いで出てきた。長男の繻子《しゅす》の下の着物は、寝たためにしわくちゃになり、頭髪も乱れていたが、そのまますぐ老父のところへ駆けつけた。
王龍の遺骸は梨華の手で姿勢をととのえられて横たわっていた。ふたりの息子は、まるで初対面ででもあるかのように、なかばこわがってでもいるかのように、父の死に顔を、じっとみつめた。長男は、部屋のなかにだれか見知らぬ人でもいるかのように声を低めて言った。
「ご臨終は安らかだったかね。それともお苦しみになったかね」
梨華は、いつものもの静かな調子で答えた。
「死ぬとはお気づきにならずに亡《な》くなられました」
すると次男が言った。
「眠っているみたいだ。死んだようなようすではない」
亡くなった老父をしばらくみつめていたふたりの息子は、いくらみつめていても動かずに横たわっている父親の姿に、漠然《ばくぜん》とした、とりとめのない恐怖に満たされてくるのであった。梨華は彼らの恐怖の念を見てとって、やさしく言った。
「おとうさまのためにしてあげなければならないことが、たくさんございますわ」
そう言われて、ふたりの息子は、はっと目がさめたように、ふたたびこの世のことを思い起こさせられたのをよろこんだ。長男のほうは急いで着物のしわをのばし、顔を手でこすりながら、しわがれた声で言った。
「そうだ、葬式のしたくをはじめなければならぬ」
そしてふたりは、老父の死体の横たわっている家から出て行くのがうれしくて、急いで去って行った。
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王龍《ワンルン》は死ぬ前に、ある日、息子たちに、自分が死んだら、遺骸は自分の土地に埋葬するまで棺に納めてこの土の家においておくようにと遺言していた。しかし息子たちは、王龍の葬式の準備にとりかかると、自分たちの住む城内の屋敷から畑のなかの土の家まで行ったりきたりするのがとてもやっかいで、葬式の日まで四十九日もあることを考えるとうんざりし、もう父親は死んでしまったのだから、遺言どおりにしなくともいいのではないか、と思うようになった。
遺言は、まったくいろんな点でやっかいだった。城内の寺院から読経《どきょう》にくる僧侶は道が遠いといって苦情を言うし、遺骸を湯灌《ゆかん》し、着物を着せ、絹の喪服をつけさせて、納棺し蓋《ふた》をしめにくる人々までが、倍の料金を要求し、次男の王二《ワンアル》がふるえあがるほどの多額の料金を要求したのである。
そこで、ふたりの兄弟は、老父の棺の上で、たがいに顔を見合わせ、ふたりとも同じようなこと、「死人に口なし」ということを考えた。そこで、ふたりは小作人たちを呼んで、棺を城内の屋敷の、これまで王龍が住んでいた部屋へ運ぶように言いつけた。梨華《リホワ》は反対したが、彼らを思いとどまるように説得することはできなかった。何を言ってもむだだと知って、彼女は静かに言った。
「かわいそうな不具の娘とわたしは、二度とふたたび城内の屋敷へは行くまいと思っていたのですけれど、旦那さまがいらっしゃるのなら、わたしたちも行かねばなりませんわ」
梨華は、白痴の娘を連れて棺のうしろにしたがって行った。この白痴の娘は王龍の長女で、年はとっているのだが、いまだに白痴の子供のままだった。白痴の娘は棺のあとについて田舎道を歩きながら、季節は春であり、天気がよくて、暖かく、太陽が明るく輝いているので、よろこんで笑っていた。
梨華はこうして、王龍の存命中いっしょに暮らしたことのある城内の屋敷へ、ふたたび行った。王龍は老齢にも似合わず、からだの熱い血液が奔放にたぎるのを押さえかね、宏壮《こうそう》な屋敷内で、さびしさにたえかねていたある日のこと、梨華をともなって行ったのは、この部屋だったが、いまはここもひっそりと静まりかえっていた。大きな屋敷のすべての扉から、縁起を祝う赤い紙片が、死を悼《いた》むためにはぎとられ、道路に面した大きな門の上には、喪のしるしとして、白い紙がはってあった。梨華は王龍の棺のそばで暮らした。夜もそこに寝た。
彼女がこうして棺におさめられた王龍の遺骸のそばにつき添っていると、ある日、召使女が戸口へきて、王龍の第二夫人の蓮華《リエンホワ》が亡くなった旦那さまの霊前に礼拝にきたいということづけを伝えた。梨華は、もとの女主人である蓮華がきらいだった。しかし、礼儀上、ていねいな返事をしなければならなかった。お待ちしております、といんぎんな返事をして、立ちあがり、棺のそばにともしてあるローソクの位置を直したりしながら、蓮華のくるのを待っていた。
蓮華が王龍の行ないを知って怒ったあの日以来、梨華は蓮華に会うのはこれがはじめてだった。子供のときから自分の奴隷だった娘を王龍が妻にしたと聞いたとき、蓮華は非常に腹を立て、もうどんなことがあっても二度と梨華を見たくない、と王龍に言ってよこした。ひどく嫉妬して怒っていたので、梨華が死のうが生きようが自分の知ったことではない、というふりをしていた。ところが、王龍が死んでしまうと、彼女は召使の杜鵑《ドチュエン》に言った。
「ねえ、あの老人が死んでしまったからには、わたしもあの女も、もうけんかのたねはないのだから、あの女がどんなふうになっているか、あたし、見に行ってくるよ」
蓮華は好奇心にかられて、奴隷の肩によりかかりながら、自分の部屋からよちよちと出てきた。まだ僧侶が棺のそばで読経をはじめる前の早い時間を選んだ。蓮華は、梨華が立って待っている部屋まできた。体裁をつくろうためにローソクと香を持ってきて、奴隷のひとりに、棺の前にともすようにと言いつけた。奴隷がそうしているあいだ、蓮華は梨華から目をはなさず、梨華がどんなふうに変わったか、どんなふうに老《ふ》けてきたかを見ようと、むさぼるように観察していた。蓮華は、喪に服して、たしかに足には白い喪の靴をはき、喪服もまとってはいたけれど、顔には、なんの悲しみの色もなかった。彼女は梨華に向かって言った。
「おやまあ、あんたはあいも変わらず、小さくて、生っ白いんだね。ちっとも変わっていないよ。あのおじいさんは、あんたのどこが気に入ったのか、あたしにゃわからないよ」
彼女は梨華がひどく小柄で、見ばえがせず、派手な美しさのないのを見て安心した。梨華は頭をたれて棺のそばに立っていた。黙っていたが、はげしい嫌悪で胸がたぎり立ってくるのに自分でも驚いたくらいで、かつての女主人だった蓮華をこんなにまで憎悪するのは、まったく自分が悪いのだと、恥ずかしく思った。蓮華のほうは、もう年をとっているので、憎しみをさえ持ちつづけることができず、梨華を見ると安心して、今度は棺をながめてつぶやいた。
「息子たちも、ずいぶん金をかけたようだ」
それから彼女は、けだるそうに立ちあがり、棺に近よって、値ぶみをするために、手をふれてみた。
梨華は、自分が心をつくして見守ってきた主人の棺に、そんな汚らわしい手が触れることに堪えられず、とつぜん、鋭い声で言った。
「さわらないでください!」
そして胸の上で小さな手を握りしめ、下くちびるをかんだ。
これを聞くと蓮華は、「なんだって――おまえは、まだあのおじいさんのことを思っているのかい」と、しゃあしゃあと、ばかにした顔で嘲笑した。それからしばらくすわって、燃えゆらめくローソクを見守っていたが、まもなくそれにもあきて立ちあがり、帰ろうとして中庭へ出て行った。好奇心から方々をながめまわしているうちに、陽《ひ》のあたるところにすわっているかわいそうな白痴の娘に目がとまった。「なんだ、あの娘はまだ生きていたのかい」
それを聞くと梨華は白痴に近づき、そのそばに立った。嫌悪の思いが胸いっぱいにつきあげてきて、たえきれないほどだった。蓮華が行ってしまうと、布切れをみつけてきて、棺の蓮華が手をふれた部分を、汚らわしいものでもふくように何度も何度もぬぐった。白痴の娘には小さな甘い菓子を一つやった。白痴の娘は思いがけなく菓子をもらったものだから、よろこんで歓声をあげて食べた。梨華は、しばらくそれを悲しげに見守っていたが、思いあまって、ため息をついて言った。
「わたしに親切にしてくれ、わたしを奴隷でなく扱ってくれた、たったひとりの人のわたしに残してくれた形見は、あなただけよ」
けれども白痴の娘は、夢中で菓子を食べているだけだった。自分からは口もきかないし、話しかけられてもわからないのである。
こんなふうに梨華は葬式までの日を待ち暮らした。王龍の息子たちですら、やむをえない用事でもないかぎり近寄らなかったので、僧が読経にくる時間のほかは、毎日、ひっそりと静まりかえっていた。屋敷内に住む人たちは、精霊が残っていると考えて、不安を感じたり、恐れたりしていた。王龍は、たいへん頑強な人だったので、肉体にやどるという七つの精霊が、そうたやすく遺骸から去って行くとは思えなかったのである。あるいは、ほんとうに霊魂はまだ立ち去りはしなかったのかもしれない。というのは、屋敷には、これまでなかったような奇妙な音が満ちているように思え、女中たちは、夜寝ていると冷たい風が寝床のなかへ吹きこんできて髪を乱されてしまったとか、女中部屋の格子窓をがたがたゆすぶる音が聞こえたとか言っていたし、料理番の手から、やかんがたたき落とされたとか、奴隷が立って給仕をしていると手から茶わんがするりと落ちたとか、そんなうわさまで立っていたからである。
息子たちやその妻たちは、召使どものそういった話を聞いて、無知な愚かさだと笑ってはいたものの、内心、不安な気持ちだった。蓮華は、これらのうわさを聞いて言った。
「あの人は、いつも強情っぱりなじいさんだったからね」
しかし杜鵑は言った。「死んだ人には好きなようにさせないといけませんよ、奥さま、地下へ行ってしまうまでは死んだ人の悪口を言ってはいけません」
梨華だけは恐れていなかった。王龍が生きているあいだそのそばで暮らしたのと同じように、王龍の棺のそばに、ひとりでつき添って日を送っていた。黄衣の僧侶が読経にくるときだけ、立ちあがって自分の部屋へひきさがり、静かにすわって、僧の悲哀にみちた読経の声と、ゆっくりとたたく太鼓の音に耳を傾けていた。
王龍の遺骸にやどる七つの精霊は、すこしずつ、しだいに解き放たれて行くようであった。七日目ごとに主僧は、王龍の息子のところへ行って言った。
「また一つ精霊がはなれましたよ」主僧がきてそう報告するたびに、息子たちは報酬として銀をあたえた。
七つの霊が一つずつ、七日目ごとにはなれて行き、やがて七の七倍の四十九日が過ぎて、葬式の日が近づいた。
城内の人たちは王龍のようなえらい人の葬儀のために占い師がどの日を選んだか、みな、もうとうに知っていた。春たけなわな、夏ももう間近の葬式の日になると、母親たちは、子供たちがぐずぐずしておそくなって葬列を見られないといけないからと、早く朝食をすませるように急がせ、畑の農夫たちは、その日は野良仕事を休みにし、店の番頭や丁稚《でっち》たちは、どうしたらこの葬式の行列が一ばんよく見えるかと頭をなやました。
この地方の人々はみな、王龍が、昔は貧しい水のみ百姓だったのが、やがて金持ちになり、堂々たる屋敷をかまえ、息子たちに莫大《ばくだい》な財産を残したことを知っていたからである。貧乏人にとっては、自分たちと同じように貧しかった人間が、身を起こし産をなして死んだということは、よく考えてみなければならぬことだし、またそれは、すべての貧しい人たちのいだいているひそやかな欲望でもあった。だから貧乏な人たちは、だれもこの葬式を見たいと熱望していたのである。一方、富裕な人たちは、王龍の息子たちが巨万の富を残されたことを知っているので、どんな葬式を出すか、葬式の模様を見たいと思い、そしてこの年老いた金持ちの故人にたいして敬意を表さなければならぬと考えていた。
その日、王龍の屋敷は混乱と喧騒《けんそう》に満ちていた。これだけ盛大な葬式を秩序正しくとり行なうのは、容易なことではなく、長男は処理しなければならぬことが多いので、すっかりのぼせあがっていた。彼は家長であるから、万事を指図しなければならなかったのだ。数百人の参列者の采配《さいはい》から、みんながそれぞれ分に応じて喪につけるように指図すること、女子供に轎《かご》を雇うことにいたるまで気をくばらなければならなかった。彼は、のぼせあがっていたけれども、みんなが彼のところへきて、あれこれと指図を仰ぐので、急に自分が重要な人間になったように思えて得意になっていた。非常に興奮しているので、まるで真夏のように顔に汗が流れた。彼のきょろきょろした目が、静かに立っている次男の上にとまったとき、その弟の平静さが、のぼせきっている最中の彼のかんにさわった。彼は大きな声で言った。
「おまえは、何から何までおれにおしつけて、自分の女房子供が、ちゃんと喪服を着て、まじめな顔をしているように監督することもできないのか」
次男はこれを聞くと、そっと冷笑をうかべたが、たいへんおだやかに言った。
「兄さんは自分ですることしか気にいらないのだから、はたから手を出すわけにはいきませんよ。うちの妻にしてもわたしにしても、何をやっても兄さんや嫂《ねえ》さんの気にいらないことがわかっているから、あなたのお好きなようにさせてあげているのです」
こんなふうに、葬式の日ですら、息子たちは、いがみ合った。これは一つには末の弟がまだ帰宅しないことを、ふたりともひそかに気にかけていたからでもある。ふたりはそれぞれ末弟の帰宅がおそいのは相手のせいだと内心では思っていたのだ。長男のほうでは、次男が使いの者に十分旅費や報酬をやらなかったせいだと次男を責めているし、次男は次男で、兄がぐずぐずしていて使者を送るのを一日のばしに遅らせたためだと兄を責めていたのである。
この日、その宏壮《こうそう》な屋敷内で、ただひとり、もの静かな人がいた。それは梨華である。彼女は死者にたいする近親の順からいうと蓮華のつぎになるので、自分の地位にふさわしい白い大麻の喪服を着て、王龍の棺のそばに静かにすわって待っていた。彼女は早くから身じたくをととのえ、白痴の娘に喪服を着せた。あわれな白痴の娘は、なんのことだかわけがわからず、絶えずにこにこと笑っていて、着せられた見なれぬ衣装をいやがり、それを脱ごうとして、あちこち引っぱったりしていた。梨華は菓子をやったり、おもちゃにする赤い小布を持たせたりして、なだめていた。
蓮華のほうは、この日ほど大騒ぎをしたことはなかった。彼女は、いまでは小山のようにふとってしまったので、いつも使っているような轎《かご》では乗ることができなかった。あの轎、この轎と、いろんな轎を持ってこさせて乗ってみるのだが、どれも小さすぎてぐあいが悪かった。とうとう、「どれもだめだわ。このごろは、どうしてこんな小さい狭い轎ばかりつくるのだろう」と悲鳴をあげ、これでは亡《な》くなった主人のようなえらい人物の葬列に加わることができないのではないかと心配して、おろおろしながら泣きだす始末であった。そして白痴の娘が喪服の正装をしているのを見ると、そこに怒りを集中させ、王龍の長男に向かって苦情を言った。
「あら、あの娘も行くんですか」そして、このようなおもてだった日には白痴の娘なんぞ連れて行くべきでない、うちに残して行ったほうがよい、と異議をとなえた。
しかし梨華は、やさしいなかにも断固とした口調で言った。
「いいえ、旦那さまはわたしに、このかわいそうな娘さんから、けっして離れないようにとおっしゃいました。これは旦那さまから言いつかった命令です。あの子は、わたしの言うことならききますし、わたしに慣れています。わたしはあの子をおとなしくさせておくことができます。だれにも迷惑はかけません」
王龍の長男は、しなければならぬ多くのことに頭をなやまされていたし、また数百にも及ぶ人々が葬式のはじまるのを待っているのを知っているだけに気が気でなかったので、梨華の言うとおりにさせ、そのことはそれですんでしまった。轎《かご》人足どもは、彼の心配につけこみ、足もとをみて不法な料金を要求するし、棺《かん》を運ぶ人足は、棺が非常に重いうえに埋葬地が遠いといって苦情を述べ立てた。邸内に流れこんだ小作人や城内の風来坊どもは、ふところ手をして、あちこち突っ立って、ぼんやりと口をあけて見物していた。
この混雑の上に、さらに一つのめんどうなことが加わった。それは長男の妻が、たえず彼のやり方が悪いといって非難し、うまくことが運ばれていないといって不平をならすことだった。だから長男は、こうした混雑のなかを、もう何年も経験したことがないほどかけまわって汗だくになり、声がかれるまで大声をあげてどなりちらしていたが、しかしだれもあまり彼の言うことに気をとめなかった。
この様子では葬式がその日のうちにすむかどうか、はなはだ怪しいものであった。ところが、ここに非常に都合のよいことが起こった。それは王龍の三男、王三《ワンサン》が、とつぜん南から帰ってきたことである。じっさい最後の瞬間に帰りついたのであった。人々は彼がどんなふうに変わったかを見ようとして、彼のほうばかり見ていた。彼が家を離れてから、もう十年にもなる。王龍が梨華を妾《めかけ》にした日に家を出て以来、だれも彼を一度も見ていないのである。
あの日彼は、はなはだふしぎな熱情にかられて家を去り、それ以来一度も姿を見せなかったのだ。家を出たとき、彼は背の高い、粗野な、怒りっぽい少年であった。目の上に黒い眉《まゆ》をひそめ、父親を憎悪しながら、家を出て行った。それがいま、三人の兄弟のなかで一ばん背も高く、りっぱに成人して帰ってきたのである。あまり変わり方がはげしいので、昔と変わらぬ黒いしかめた眉と、依然として無愛想きわまるくちびるがなかったら、彼だとは気がつかないかもしれない。
三男は軍服を着て大股《おおまた》に門をはいってきた。その軍服は普通の兵隊のものではなかった。上着とズボンは、りっぱな暗黒色の布地でできており、上着には金メッキのボタンがついていて、腰の皮帯には剣をつっていた。そのうしろには、肩に銃をかついだ四人の兵隊がつきしたがっていた。兵隊は、みなちゃんとした男たちだが、ひとりだけ、みつ口だった。みつ口ではあるが、この男も体格はほかの兵隊と同じように、ふとっていて頑丈だった。
彼らが大きな門から歩調をとってはいってくると、邸内は混乱と喧騒が、はたととまって、急にしんとしてしまった。どの顔も、ことごとく王龍の三男を見ようとして、そのほうに向けられた。彼が、せいかんな面構《つらがま》えと、命令を下すことになれた威圧的な態度をしているので、人々はみな黙って静かになった。僧侶たちや、見物しようとして邸内いたるところにひしめきあっていた小作人たちや、風来坊どもの群れのなかを、彼は、しっかりした歩調で大股に歩いてきた。そして大きな声で叫んだ。
「兄さんたちはどこにいるかね?」
すでにひとりの男が、彼が帰ってきたことを、ふたりの兄たちに伝えていた。
兄たちは、この弟をどういうふうに迎えたらよいか、尊敬をもって迎えるべきか、それとも家出した弟として迎えるべきか、判断がつかぬままに、そそくさと出てきた。しかし、りっぱな軍服姿の弟と、その背後に彼の命令どおり直立不動の姿勢で立っている四人のせいかんな兵隊を見ると、急にいんぎんになり、まるで見知らぬ人にでもたいするように鄭重《ていちょう》な態度に出た。兄たちはおじぎをして、この不幸な日の悲しみを、重々しく嘆いて見せた。三男も兄たちに向かって低く頭をさげ、左右をながめまわして言った。
「おとうさんは、どこにおられますか?」
兄たちは、王龍の棺が金《きん》で刺繍した真紅のおおいにつつまれて安置してある奥の部屋へ三男を案内した。三男は部下の兵隊に中庭で待っているように命じ、ひとりで部屋へはいって行った。
敷石を踏む皮靴の音を聞いたとき、梨華は、だれがきたのかと、あわててふり向いてみて、三男だと知ると、すばやく身をかわし、壁のほうを向き、顔をそむけて立っていた。
三男のほうは、彼女を見たにしても、またそれが梨華だと気がついたにしても、それらしいそぶりは、ぜんぜん見せなかった。彼は棺の前で頭をさげ、彼のために用意してあった大麻の喪服を持ってこさせた。兄たちは、末弟がこれほど背たけがのびているとは思わなかったので、用意された喪服は、着てみると短すぎた。しかし三男は、その喪服をまとい、買ってきた二本の新しいローソクをともし、亡父の霊前にいけにえとして供えるために新しい肉を運ばせた。
用意万端がととのうと、彼は亡父の霊前に、三度、顔が地につくほど深く頭をさげて礼拝し、礼儀正しく、「ああ、お父上」と叫んで泣いた。梨華は、ずっと顔を壁に向けたままで、一度もふり向いて見ようとしなかった。三男は礼拝の義務をすませると、立ちあがり、てきぱきと早口で言った。「準備がととのったら出棺することにしよう」
ふしぎなことに、それまでは混乱と喧騒ばかりで、人々がたがいに大きな声でどなり合っているばかりだったのが、すっかり鳴りをひそめ、進んで命令に服従しようという気持ちがみなぎってきた。三男とその部下の四人の兵隊の存在そのものが、ものを言ったのである。それまでは、あんなにおうへいな調子で長男に不平をならべていた轎《かご》人足どもが、同じことを訴えるにしても、声がおだやかに嘆願的になり、言うことも、すじの通ったものとなった。それでも三男は眉をよせて人足どもをにらみつけた。すると人足どもの声は、だんだんかすかになり、やがて消えてしまった。
「仕事をしろ。そうすれば、それ相当なことはしてやる。安心して働け」三男が言うと、一言も口答えせず、まるで軍人と鉄砲とには、なにか魔術でもあるかのように、黙って轎のところへもどって行った。
めいめいがそれぞれ受け持ちの部署につくと、いよいよ大きな棺が中庭に運び出され、大麻の綱が棺のまわりに幾重にもかけられた。若木のような棒が何本も綱のあいだに通され、棺かつぎが棒の下に肩をあてた。王龍の霊をおくるための轎も用意され、そのなかには、彼の持ちもののうち、多年口にくわえていたキセルだとか、ふだん着ていた着物だとか、肖像画だとか、そんなものが入れてあった。肖像画は、それまで描かせたことがないので、病気になってから画家をやとって描かせたのだが、その絵は、すこしも王龍に似ていず、どこにでもあるような年老いた聖賢か何かの肖像画と選ぶところがなかった。それでも画家は最善をつくしたらしく、老人にふさわしい長いひげや眉やたくさんのしわが丹念に描きこまれていた。
葬式の行列がはじまり、女たちは声をあげて泣き悲しんだ。もっとも声高く泣いたのは蓮華であった。髪の毛をかきみだし、新しい白いハンカチを、かわるがわる両方の目にあてて、泣きながら叫んだ。
「ああ、わたしが杖《つえ》とも柱ともたのんだお人が亡くなられた。あの人は亡くなられた!」
道の両側には、ずっと、たくさんの人が立ちならび、いま王龍が最後に通るのを見ようとして、ひしめき合っていた。泣き叫んでいる蓮華を見ると、人々は、すっかり感心してつぶやいた。
「あの女は、なんてまあ感心なことだ。ご主人が死んだのを、あんなにも悲しんでいるだでな」
あるものは、あんなにも大きくふとった婦人が、そんなにも大きな声をあげて泣くのを見て、驚いて言った。「あの女を、こんなにふとるまで食べさせておけるとは、なんとまあ、すごい金持ちじゃねえか」そう言って王龍の財産をうらやむのであった。
息子たちの妻は、それぞれの気質どおりに泣いた。長男の妻は、上品に、ときどき目にハンカチをあてて、ほどよく泣いた。彼女が蓮華みたいに派手に泣いたりしては、作法上、穏当ではないのだ。彼女の夫がかこっている妾は、一年ほど前に新しく手に入れた、きれいな、ふくよかな若い女だったが、この女は、第一夫人を見ていて、夫人が泣くたびに泣いた。しかし、次男の田舎育ちの妻は、泣くことを忘れていた。轎に乗って、人足の肩にかつがれて町の通りを行くのははじめてであり、周囲を見まわし、かぞえきれぬほどの男女や子供たちが、往来の塀《へい》のところまでひしめき合い戸口にむらがり立っているのを見ると、つい泣くのを忘れ、かりに泣かねばならぬと思い出して目に手をあてることがあっても、すぐその手のすきまから群衆のほうをのぞくような仕儀になって、また泣くのを忘れてしまう、ということになるのである。
さて、女の泣き方は三種類にわけられる、と昔からいわれている。声を高くはりあげ涙を流すのが哭《こく》である。大きな声で嘆き、涙を流さないのが号《ごう》であり、声を立てず静かに涙を流して悲しむのが泣《きゅう》である。王龍の棺について行った葬列のなかの女たちのうち、王龍の妻たち、息子の妻たち、女中、奴隷、雇われた泣き女など、すべての女たちのうち、静かに涙を流して悲しんでいる泣《きゅう》の泣き方の人は、ただひとり梨華だけだった。彼女は轎のなかにすわり、だれにも見えないようにとばりをおろして、静かに、声もなく、涙を流して泣き悲しんでいた。
盛大な葬式も終わり、王龍は自分の土地に埋葬され、上から土がかけられた。紙でつくった家だの召使だの動物だのが、みな燃やされて灰になり、香のくゆるなかで、息子たちは最後の回向《えこう》をすませた。雇いの泣き男や泣き女は、規定の時間だけ泣いて、その料金をうけとった。すべてのことが終わり、新しい墓の上には土がうず高く盛りあげられた。万事すんでしまったのだから、泣いても、もうなんの役にも立たないわけである。だから、だれも泣くのをやめてしまったのであるが、そのときですら梨華は静かに声をしのんで泣きつづけていた。
梨華は城内の屋敷へはもどろうとせず、畑のなかの土の家へ行った。長男が、城内の屋敷へいっしょに帰って、せめて遺産の分配までは、家族とともに住むように、とすすめたが、彼女は首をふって言った。
「いいえ、わたしが旦那さまといっしょに一ばん長く暮らしたのはここです。わたしはここで一ばん幸福でした。旦那さまは、このかわいそうな娘さんを世話するようにとおっしゃって、わたしに残して行かれたのです。わたしたちがお屋敷へ行ったら、第二夫人が、この娘《こ》をうるさがるでしょうし、それに、わたしもあの人に好かれてはいないようですから、わたしたちふたりは、この旦那さまの古い家に、このままずっととどまっていたいと思います、どうぞわたしたちのことはご心配にならないでください。何か必要なときは、あなたにお願いしますけれど、でも、ほんのわずかなもので十分だと思います。さいわい年とった小作人夫婦がいっしょにいますから、ここにいても安心ですし、こうしてあなたのお妹さまのお世話ができるとすれば、それが旦那さまの遺志を果たすことにもなりますので」
「まあ、そうしたいのなら、そうなさい」と長男は、いかにも気が進まぬげに言った。
しかし彼は内心よろこんでいたのである。なぜなら、彼の妻が白痴の娘をきらって、あんなものは家におくべきではない、ことに妊娠中の女がいる奥の部屋のまわりなどをうろうろさせてはいけないと、やかましく言っていたからである。それに蓮華が、王龍がいなくなったとなると、彼の存命中には、する勇気がなかったような残酷な仕打ちを梨華たちにするかもしれず、家庭内にめんどうなことがおきるかもしれないと思っていたからである。だから彼は梨華の言うがままにさせた。梨華は白痴の娘の手をひいて、彼女が老年の王龍の世話をした土の家へ連れて行った。梨華はそこで暮らし、白痴の娘のめんどうを見ていた。家から出るのは、王龍の墓へお詣《まい》りに行くときだけだった。
その後、しばしば王龍の墓へ詣《もう》でるのは、梨華だけだった。たまに蓮華が墓詣りに出かけることがあるにしても、それは主人をうしなった第二夫人として、お義理上、どうしても亡夫の墓へ詣でなければならないときだけであった。それも、どんなに自分が亡夫にたいし貞節であるかを人々にわからせるような時間を、わざわざ選んで出かけるのであった。梨華のほうは反対に、こっそりと人目をしのんで、ときどき心が悲しみでいっぱいになり、さびしくてたまらないときには、いつも墓へ行った。
彼女は、だれも近くにいないとき、人々が家に閉じこもっているとき、夜眠っているとき、遠くの畑で忙しげに働いているときを選んで出かけるように注意していた。このような、あたりに人気のないときに、彼女はよく白痴の娘を連れては王龍の墓へ行った。墓でも彼女は大きな声を出して泣くようなことはしなかった。墓に頭をもたせかけて、ときにはすこし泣くことがあっても、一、二度、「ああ、旦那さま、そしておとうさま! わたしのたったひとりのおとうさま!」とささやくだけで、声には出さなかった。
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この大地から生まれた金持ちの老人は死んで墓へはいったけれども、息子たちは亡父にたいし、三年間の喪に服さねばならなかった。だからまだ忘れてしまうことはできなかった。老父が死んで家長となった長男は、すべて上品に、格式どおりに、手落ちなくやるように、最上の注意をはらった。自分の考えだけで心もとないときには妻に相談した。というのは、長男は小さいときから田舎育ちで、亡父が幸運にめぐまれたのと生来の抜けめのなさから金持ちになって、みんなのためにここの城内の宏壮《こうそう》な屋敷を買ってくれるまでは、畑や村のなかで成長し、町の富豪の家のしきたりを知らないからである。彼が、こっそり妻のところへ相談に行くと、妻は彼が知らないのを軽蔑するかのように、冷淡に答えた。しかしこの家で恥をかくのは彼女としても好まないので、教えることは注意ぶかく教えるのであった。
「しばらくのあいだ、おとうさまの霊魂がやどっている霊牌《れいはい》を大広間に立てたら、霊前に鉢《はち》に入れた食物を供えなければいけないわ。それから喪中には、こうして、こうして、このようにしなければいけないのよ」
彼女は、何事も、どのように行なわれねばならぬかを説明した。長男はこれに耳をかたむけた。そして、妻のところから出ると、妻に言われたことを、自分自身の命令として言いつけるのであった。こうして、第二回目の喪服を準備することになり、布地を買い、仕立屋を雇った。葬式の日から百か日のあいだ、三人の息子は白い靴をはかなければならないし、その後は、薄ねずみ色、あるいは何か生気のない色彩のものならばつけてもかまわないが、しかし、息子たちも妻たちも、まる三年たって喪があけるまでは、絹物はいっさい身につけてはならないならわしであった。三年たって、王龍《ワンルン》の霊魂の憩《いこ》いの場として最終的な霊牌がつくられ、戒名が書かれ、王龍の父や祖父の霊牌のあいだの本来の場所に安置されると、喪があけるのである。
長男の命令によって、家族一同の喪服が、それぞれ彼の言いつけどおりに用意された。彼はこの家の家長なので、口をきくにも、いつも声を張り、荘重な調子で、ものを言った。弟たちと同席するときは、つねに当然の権利として、どの部屋でも上座をしめた。ふたりの弟は、家長である彼の命令にしたがった。しかし次男は、自分のほうが兄よりも利口だとひそかに思っているので、服従はするが、心のなかでは笑っているかのように、小さな細いくちびるをゆがめていた。
王龍は、存命中、この二番目の息子に土地の管理をまかせていたので、小作人が何人いて、畑から季節ごとにどれだけの収入があがるか、というようなことを知っているのは彼だけだった。それを知っていることで、自分は兄弟たちにたいして支配力を持てると、すくなくとも彼自身の心のなかでは、そう思っていた。三男のほうは、服従の必要なときは命令に従わねばならぬということを学んだ軍人らしく、兄の言いつけに服従したが、心はここにはないかのようで、一刻も早く家を離れたいと望んでいるようであった。
じつのところ、これら三人の兄弟は、遺産の分配される日を待ちこがれていたのである。めいめい心ひそかに予定している使い道があるのだ。三人とも遺産の分けまえがほしかった。だから遺産を分配するという点については即座に意見の一致をみたのである。次男にしても三男にしても、土地がみな長男のものになって、長男だけに支配されるということになると、いやでも長男に依存しなければならなくなる。だから分配を望んだのである。
三人の兄弟は、それぞれちがった気持ちで、遺産分配の日を待ちのぞんでいた。長男は、遺産の分けまえがどのくらいの額になるか、ふたりの妻妾と多くの子供たちをかかえて、この大邸宅での生活と体面を維持して行くのに十分であるかどうか、それにまた、おのれの抑制できないひそかな快楽にまわせるくらい十分であるかどうか、それを知りたいと思って待ちこがれていた。次男は大きな穀物商店を経営しており、金を貸しつけているので、遺産の分けまえがはいったら、それを有利に回転して大きな利益をあげたいと考えて待ちこがれていた。三男は、風変わりで、黙りこくっているので、いったい何を望んでいるのか、だれにもわからなかった。その浅黒い顔は、何も語っていなかった。しかし、すくなくとも、ここでは落ちつかず、一刻も早くここを離れたがっているということだけは、だれの目にもあきらかだった。分配された遺産をどうするつもりなのかは、だれにも見当がつかなかった。まただれも、あえてきいてみる勇気がなかった。彼は三人兄弟のなかで一ばん年少であったが、そのくせ、みんなからこわがられていた。どの召使でも、彼に呼ばれると、他の人から呼ばれるときの二倍も早く、すっとんで行った。長男がいばって大きな声で呼んでも、長男のところへは、一ばんのろのろと顔を出した。
王龍は、彼と同じ世代のなかでは、最後まで生きのびたほうである。からだが頑健で、あれほどの老齢になるまで生にしがみついていたので、彼が死んだとき、同じ世代の人間は、ほとんど残っていなかった。ただひとり、従弟《いとこ》がいるのだが、これは放浪の無頼の軍人で、息子たちは、だれもその居所を知らなかった。いわば半分は軍人で、半分以上が泥棒といったような匪賊《ひぞく》に近い小部隊をひきいていて、もっとも高い賃銀をはらってくれる将軍ならば、だれにでも仕えるし、独立して略奪をやったほうが有利と見れば、だれにも仕えずに気ままに略奪をやりながら流浪する、といったぐあいであった。三人の息子は、老父の従弟に当たるこの人物の居所が知れないのをよろこんでいた。この人物については、死んだという消息以外は何も知りたくなかったのである。
しかし、他に年長の血縁がいないから、こういう場合には、昔からの風習によって、隣人のなかから尊敬に値する人物を選んで、これに頼むことになっていた。そして、そのほかに立会人として正直な善良な人々に集まってもらって、その面前で遺産を分配しなければならないのである。ある夜、兄弟たちが集まって、だれに頼んだものかと相談した。すると次男が言った。
「兄さん、穀物商の劉《リュウ》さんがいいですよ。わたしはあそこの店で商売の見習いをしたのだし、嫂《ねえ》さんのおとうさんでもあるし、これ以上に懇意で信頼できる人物はありませんよ。劉さんが正しい人だということは、だれもがみとめているし、それにあの人は金持ちだから、うらやましがるようなこともないと思う。あの人に頼んで遺産を分配してもらいましょう」
長男はこれを聞くと、自分がさきにそのことを思いつかなかったことに内心不快を感じて、重々しく答えた。
「そうさきまわりして差出口をするものではない。わたしもちょうど女房のおやじに頼んでみてはどうかと言おうと思っていたところなんだ。しかし、おまえが言いだした以上は、それでいい。劉さんにお願いすることにしよう。だが、それはそれとして、とにかくわたしもそう言おうと思っていたところなんだからね。おまえはいつも弟という身分を忘れて、口出しが早すぎるぞ」
こう非難して長男は次男をにらみつけ、厚いくちびるをつぼめて、荘重に息をした。次男は笑いだしそうになって思わず口をゆがめたが、笑わなかった。長男は、急いで目をそらし、末弟に向かって言った。
「おまえはどう思うかね」
三男は、傲慢《ごうまん》な、なかば夢みるような調子で、顔をあげて言った。「わたしはどうでもいい。ただ、どうするにしても早くしてもらいたいものだ」
すると長男は、あたかも即座に事を処理するかのように、急いで立ちあがった。だが、じつをいうと、彼は中年になってからというもの、急いで何かをするとなると、かならずまごつくのである。早く歩こうとしてさえ、手足がじゃまになるように感じられるのであった。
それでも、どうやら準備ができた。商人の劉氏は、王龍を抜けめのない人だと尊敬していたから、よろこんで引き受けてくれた。兄弟たちは立会人として、相当の暮らしをしている近所の人や、城内でも財産と高い地位で知られているようなりっぱな人を招いた。これらの人は、さだめられた日に、王家の大広間に集まって、身分の順序に座をしめた。
商人の劉氏が次男に、分配さるべき土地、現金など、すべてをふくむ財産目録を提出するよう要求した。次男は立ちあがって、すべてが明細に記載されてある書類を長男の手にわたし、長男がそれを劉氏にさし出した。劉氏はまずそれを開いて、鼻の上に大きなシンチュウぶちの眼鏡をかけ、記載事項を、自分だけにわかるように低くつぶやきながら読んで行った。人々は彼が読み終わるのを静かに待っていた。やがて劉氏は大きな声で目録を読みあげた。大広間にいる人々はみな、死んだとき、王龍が全部で八百エーカー以上もある莫大な土地を所有していたことを知った。この地方では、これほど大きな土地が一個人の名義になったことは、めったになかった。いや、一個人どころか、一家族でも、それだけ広大な土地を所有したというのはまれだった。たしかに、あの巨大な黄《ホワン》家の全盛時代をのぞいては、ぜんぜんなかったことである。
次男は、土地の管理をしていたから、すべて知っており、いまさら驚きはしなかったが、他の人たちは、体面上平静をよそおって、顔の表情を変えまいとしたが、それでもひそかに嘆声をもらさないわけにはいかなかった。ただ三男だけは、気にもかけない無頓着《むとんじゃく》なようすですわっていた。彼は、いつものように、まるで心がそこにないかのようで、早くこれが終わって自分の心のあるところへ行きたいと、いらいらしながら待っているふうであった。
この莫大な土地のほかに、王龍の所有になる家屋が二つあった。すなわち一つは畑のなかの土づくりの農家であり、一つは黄家が没落して息子たちも四散してしまったとき、瀕死の老大人から王龍が買いとったこの宏壮《こうそう》な屋敷である。家屋や土地のほかに、方々へ貸しつけてある貸金もあるし、穀物商店へ投資してある金もあるし、なんにも使われずにかくしてある袋に入れた金もあった。だから金のほうも土地の価格の半分くらいはあった。
この莫大な遺産が兄弟のあいだに分配される前に、処理されなければならぬ問題があった。二、三の小作人や幾人かの商人からの請求のほかに、もっとも主要な問題は、王龍が生前かこっていたふたりの妾《めかけ》にたいする処理である。王龍がいっしょに野良で働いた妻の肉体がおとろえて彼の情熱が満足しなくなったとき、ますます円熟した旺盛な欲望にかられて、歌妓《かぎ》をしていた蓮華《リエンホワ》の美貌にほれこみ、欲情の満足をもとめて茶館から身受けして妾にしたのと、老年のさびしさをなぐさめるために自分の家のうら若い奴隷だったのを奥の部屋へ入れた梨華《リホワ》のふたりだ。このふたりは、いずれも正妻ではなく、妾にすぎなかった。妾というものは主人が死んだ場合、まだ若さをうしなっていなければ、新しく男を求めても、あまり非難されないことになっていた。しかし、妾が出て行くことを望まないなら、これまでどおりに衣食住を保証してやらなければならなかった。そして死ぬまで家族の一員として家にとどまる権利があるのだ。
そのことを三人の兄弟は知っていた。蓮華は、年をとっているし、小山のようにふとってしまっているから、いまさら他に男を求めるといったところで無理だった。彼女は、むしろ住み慣れた自分の部屋に居心地よくとどまっていたいと思っているようであった。劉氏が蓮華を呼ぶと、彼女は戸口に近い席から立ちあがり、ふたりの奴隷に両方からささえられて、袖《そで》で涙をぬぐいながら、ひどく悲しげな声を出した。
「ああ、わたしを養ってくだすった旦那さまは亡《な》くなられましたけれど、どうしてわたしが他の男のことなど考えられましょう。わたしにどこへ行くことができましょう。行くところもありません。わたしはもう年をとっていますから、食べものも着物も、すこししかいりません。わたしの旦那さまのお子さまたちは寛大な方々でございます。どうぞわたしの悲しい心を明るくするために酒とたばこを少々くださいませ」
自分がたいへん善人で、他の人もみな善人だと思っている商人の劉は、やさしく蓮華を見た。彼は蓮華の前身をもう忘れてしまっていたし、りっぱな夫人だとばかり考えていたものだから敬意を表して言った。
「あんたの言われることは、もっともだ。いかにもあんたにふさわしい。故人は、たいへん親切な人だった。だれからもそう言われておる。よろしい、それでは、こうきめるとしよう。あんたには月々銀二十枚ずつお渡しすることにしよう。そのうえ、これまでどおりの生活をつづけてよろしい。いまおいでになる部屋に、つづけてお住みになってよろしいし、召使や奴隷も従前どおり使ってよい。食べもののほかに衣料として毎年布地を若干ずつさしあげることにしよう」
蓮華は、一語も聞きもらすまいと耳を傾けていたが、これを聞くと、目をぎらぎらさせ、息子たちの顔を順々にひとりずつながめ、悲しげに手を握りしめて、つんざくような泣き声をあげた。
「たった銀二十枚? あの――たった二十枚ですって? それっぽっちじゃ、砂糖|漬《づけ》を買うにも足りやしませんわ。わたしは、食欲もあまりないので、かたい粗末な食べものは食べられないので、どうでも砂糖漬がないと困るんですよ」
これを聞くと商人の劉は眼鏡をはずし、びっくりした顔をして、蓮華を見、おごそかに言った。
「多くの家族が、一か月二十元の収入で暮らしているのですぞ。主人が死んだあととあれば、たとえ貧しい家ではなくとも、たいがいの家では、その半分でも十分ですわい」
蓮華は本気で泣きはじめた。見栄《みえ》も外聞もなく、かつてないほど王龍の名を呼んで、はげしく泣きわめいた。
「ああ、旦那さま、なぜあなたはわたしをあとへ残して行ってしまったのです。旦那さまには先立たれ、わたしはみんなからも見捨てられてしまいました。あなたは遠いところへ行ってしまわれて、わたしを助けてくださることもできないのね」
長男の妻は、近くの絹のカーテンのかげに立っていたが、このときカーテンをあけて、蓮華のこのようなふるまいは、列席のりっぱな人たちの前で、はなはだ体裁が悪い、と夫に合図した。長男は彼女を見ないようにしていたが、見ないわけにもいかず、それに、あまり妻がやっきとなって心配しているので、椅子の上でもじもじしていたが、やがて、とうとう立ちあがって、泣きわめいている蓮華の騒々しさを圧するような声で叫んだ。
「この件を早く片づけて話を進めるために、もうすこし余分に出してやったらどうでしょうかね」
次男は、兄の言うような処置にはがまんができず、自分の席に立ちあがって叫んだ。
「もっと多く出すことにするなら、兄さんの分けまえから出すようにしてください。銀二十枚で十分です。かりに賭博をやるにしたって二十枚あれば十分すぎるくらいです」
彼がこう言ったのは、蓮華は年をとるにつれて賭《か》けごとに熱中しだし、食べたり寝たりする時間以外は、いつも賭けごとに夢中になっていたからである。長男の妻は、それを聞くと、いっそう腹を立てた。そして長男の分けまえから支出してやるなどということは絶対に拒絶しなければならぬ、とはげしく夫に合図した。そして一同に聞こえるほどの声でささやいた。
「いいえ、そんなことはできませんわ。遺産の分配の前に、第二夫人たちのことは、ちゃんときめておかなければなりませんもの。蓮華さんにわたしたちの分けまえから銀を出さなければならないというと、なんですか、わたしたちにとって、蓮華さんが、ほかの人たちにとってよりも関係が深いとでもいうのでしょうか」
騒ぎが大きくなってしまったので、温厚な老商人は狼狽して、一同の顔を、つぎつぎと見まわした。蓮華が一瞬も泣きわめくのをやめようとしないので、列席者はみな、そのような混乱に困却していた。三男が、ふんがいして突如として立ちあがり、床石を堅い皮靴で踏みならして大きな声で叫ばなかったら、その混乱は、もっともっと長くつづいたであろう。
「わたしが出す。すこしばかりの銀がなんだというのか。うるさくてたまらん」
これはなかなかよい解決法であるように思えた。長男の妻は言った。
「あの人は独身者ですから、それができますわ。わたしたちのように子供のことを考える必要がないんですものね」
次男は、ちょっと肩をすくめた。そして心のなかでこうひとりごとをつぶやいてでもいるかのように、ひそかに笑った。(それもよかろうよ。ばかで自分の財産も守れなくても、おれの知ったことじゃない)
しかし老商人は、いつも静かな家に住んでいて、蓮華のような人間には慣れていないので、三男の申し出を、たいへんよろこんで、ほっとため息をつき、ハンカチをとり出して顔をぬぐった。蓮華は、三男がすごい顔つきをしたので、これ以上騒ぐのは得策ではないと考え、とつぜん静かになり、満足して腰をおろした。口をゆがめて悲しそうな表情をしようとするのだが、すぐに忘れてしまって、列席の男たちをじろじろながめまわしはじめた。そして奴隷がささげ持っている皿から西瓜《すいか》の種子をとって、年のわりに丈夫な白い歯で、かみくだいた。ほっとした気持ちだった。
蓮華については、このようにきめられたので、老商人は、あたりを見まわして言った。
「二番目の妾は、どこにおられるかな? ここに名まえが書いてあるが」
それは梨華のことであった。しかし、だれも梨華がここへきているかどうか気にもしていなかったので、そう言われてみて、人々はいまさらのように大広間をながめまわし、婦人部屋のほうへも奴隷を探しにやったが、彼女は屋敷内のどこにもいなかった。王龍の長男は、梨華を呼ぶことをまったく忘れていたのを思い出し、大急ぎで迎えにやった。彼女がくるまで一時間ばかりのあいだ、一同はお茶を飲んだり、そのへんを歩きまわったりして待っていた。やっと梨華が下女を連れて広間の入り口までやってきた。しかし、なかをのぞいて、おおぜいの男たちが集まっているのを見ると、しばらくはいるのをためらっていた。そして、三男の軍人の姿に目をとめると、ふたたび中庭のほうへ出て行ってしまった。しかたがないので老商人は中庭の彼女のところへ出て行った。彼は梨華を恐れさせないように、正面からではなく、そっとやさしくながめ、彼女がまだ若くて、白い美しい顔をしているのを見た。
「あんたはまだお若いし、まだこれからじゃて、たくさん銀をあげるから、家へ帰っていい人と結婚するなり、なんなり好きなようになさったがよい」梨華は、ぜんぜんこのような言葉を予期していなかったので、どこかへ追い出されるものと思いこみ、恐怖で声も弱々しく、とぎれとぎれに言った。
「でも、わたしは家もありませんし、亡くなった旦那さまのあの不具の娘さんのほかには、家族もございません。旦那さまがあの白痴の娘さんをわたしに残しておいでになったのです。わたしたちは、土の家にこのままずっと住んでいられると思っていましたのに。わたしたちは行くところがございません。わたしたちは、いくらも食べませんし、それに旦那さまが亡くなられたのですから絹の着物だって着はしません。一生、木綿の着物さえあれば、それでよいのです。お屋敷のどなたにも、けっしてご迷惑はかけません」
老商人は広間へもどって長男にたずねた。
「梨華が言う白痴の娘とは、だれのことじゃの?」
長男は、ためらいがちに答えた。
「それは子供のときから頭の悪い、かわいそうな妹のことです。わたしたちの父母は、よく世間の人がするように、白痴の死を早めようとして苦しめたり飢えさせたりはしなかったので、こんにちまで生きているんです。父はこの妾に白痴の娘の世話をするように命じたのです。もしあの女がもう結婚しないというのなら、銀をやって希望どおりにさせたらどうでしょうか。あの女はおとなしくて、ほんとにだれにも迷惑はかけませんから」
これを聞くと、蓮華は、いきなり叫び出した。
「けっこうですわ。でも、あの女には、たくさんはいりませんよ。あれはこの家の奴隷にすぎなかったんですからね。旦那さまが年をとって、ぼけてしまって、あの女の白い顔に迷わされて、ばかな真似をするまでは、ひどく粗末なものを食べ、木綿の着物を着ていたんですからね。たしかにあの女が旦那さまをまるめこんだのにちがいありませんよ。あのばか娘なんぞ一日も早く.死んだほうがいいんです!」
蓮華がこう叫んだとき、三男はそれを聞くと、ひどく恐ろしい顔をしてにらみつけた。蓮華はひるんで、彼の黒い目から顔をそむけた。すると三男は叫んだ。
「これにも年とったほうと同じだけやることにしよう。わたしが出す」
蓮華は、大きな声で言うほどの勇気はなかったが、ぶつぶつ口のなかで異議をとなえた。
「年寄りと若いのが、同じように扱われるという法はないよ。それに、あれはわたしの奴隷だったんだもの」
彼女はそうつぶやき、そしてまた例の大騒ぎをはじめそうなようすなのを老商人は見てとって、あわてて言った。
「そうじゃ。そのとおりじゃ。それでは年長のあんたには二十五元、年下のほうには二十元ときめよう」
彼はそこで庭へ出て行って梨華に言った。
「さあ、安心して帰んなさい。月々二十元ずつさし上げることにしたし、あんたのいいように暮らしてもよいからな」
梨華は、ていねいに心から礼を言った。どうなることかと心配していたので、小さな青ざめたくちびるがおののき、からだもふるえていたが、これまでどおりに暮らすことができると知って安心した。
こういう事項の処理がついてしまうと、あとはそうむずかしくなかった。老商人は遺産の分配について話を進め、土地、家屋、銀を、公平に四等分し、四分の二を家長の長男に、四分の一を次男に、残る四分の一を三男に分配しようとした。するとこのとき、とつぜん三男が口を開いた。
「わたしは家も土地もいらん。子供のとき父親がわたしを百姓にしようとして畑仕事ばかりやらせたので、土地はもううんざりだ。わたしは結婚もしていないから家にも用はない。わたしの分けまえは全部銀でください。どうしても家屋や土地でもらわなければならないのなら、兄さんたち、わたしのぶんを買いとって銀にしていただきたい」
ふたりの兄は、これを聞くと、あっけにとられた。すぐなくなってしまってあとかたも残らぬ銀で遺産をもらいたい、財産として残る家屋も土地もいらぬなどという人間がいようとは、聞いたこともないからだ。長兄は、まじめに言った。
「しかしな、この世のなかで、ちゃんとした男で、一生結婚しないなどという人間は、おりはせんぞ。早晩おまえにもわたしたちが嫁をみつけてやる。それは本来なら、おとうさんのつとめだが、亡くなってしまった以上は、わたしたちがしなければならぬ。結婚すれば家屋や土地が必要になるぞ」
すると次男は、はっきりと言った。
「おまえが分配された土地をどうしようとそれは勝手だが、しかしわたしたちは買わないよ。銀で遺産をもらっておいて、みんな使ってしまって、土地も遺産も詐取《さしゅ》されたと言いがかりをつけてきて争いが起こるというような例が、世間にはたくさんある。銀は使えばあとかたも残らぬ。証文があっても、証文なんぞだれにでも書けると突っぱねられればそれまでの話だし、言葉だけでは、なんの証拠にもならない。かりにおまえが問題を起こさなくとも、息子や孫の代になって騒ぎ立てないともかぎらない。すると何代にもわたる争いとなる。土地は分配すべきだとわたしは主張する。もし、そうしてほしいというのなら、わたしがおまえの土地を管理して、毎年土地からあがる収入を銀にして送ってやってもいいが、おまえの遺産を全部銀にするということは賛成できないな」
次男のこの言葉に、人々は、それは賢明な方法だと感心した。だから三男がもう一度、「わたしは家も土地もいらん」とつぶやいても、だれも相手にしなかった。老商人だけが、ふしぎそうにきいた。
「そんなにたくさん銀を持って、どうしなさるのかね?」
三男は荒々しい口調で答えた。
「目的があるのです」
しかしそれがどういうことを意味するのか、だれにもわからなかった。しばらくして老商人は、銀と土地は分配さるべきであると決定した。もしどうしても三男が、城内のこのりっぱな屋敷をわけてもらいたくないのなら、あまり値うちはないが、わずかばかりの労力で畑の土からつくられた、あの田舎の古い土の家をとってもよいと言い、このほかにふたりの兄は、父親が亡くなったときには兄たちがそうするのが弟にたいする義務であるから三男の結婚の費用を用意しておかなければならぬ、と命じた。
三男は黙ってすわって聞いていた。ついに遺産の分配が決定し、法にしたがって、すべてが公平に分配されたとき、息子たちは列席者を饗応した。しかし、まだ喪があけていないので、絹物も着なかったし、陽気に騒ぐこともしなかった。
かくて王龍が一生をかけて買い集めた土地は分配されて、いまや息子たちのものとなった。彼が横たわっている小さな土地だけが彼のもので、それ以外は、すべて彼のものではなくなったのである。しかし彼の横たわっている小さな、ひっそりとした場所から、彼の血と肉と骨は、とけて流れて大地の深部に融合するのである。息子たちは土地の表面を好き勝手に処分するであろう。しかし彼はその奥底に横たわり、だれも奪うことのできぬ部分を依然として所有しているのだ。
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三男は遺産の分配を待ちかねていたのであった。分配が終わるやいなや、四人の部下とともに、彼がそれまでいた地方へ、ふたたび出発する準備をはじめた。
長男はこれを見て、あまり早急なのに驚いて言った。
「どうしたのだ。おとうさんの三年の喪があけるのも待たずに、もう出発するのか?」
「三年も待てるもんですか!」三男は、激した口調で答えた。そして、たけだけしい飢えたような目を兄に向けた。
「わたしがあなたやこの家から離れていさえすれば、わたしが何をしているかだれも知らないし、かりに知ったとしても、だれも関心を持ちはしないと思う」
これを聞くと長男は好奇心をそそられたように弟を見、かるい疑問をいだいてきいた。
「そんなに急ぐのは、いったいなぜかね?」
三男は腰の皮帯に剣をつるしていた手をとめて兄のほうを見た。兄は、でっぷりとふとって、顔は脂肪でふくれたるんでおり、くちびるは厚くつき出ていた。からだじゅうが青白い、やわらかな肉でつつまれていた。指を開いている手は脂肪がのって女の手のようにやわらかくて生白かった。つめが長く、手のひらは淡紅色で、厚く、やわらかかった。三男は、それらのすべてを見てとると、目をそむけ、さげすむように言った。
「お話ししてもおわかりにはならんでしょう。わたしの指揮を待っている人たちがいるから早く帰らねばならないのだと申せば、それで十分かと思います。わたしの命令ならよろこんで服従する部下がいると申しあげれば、それでたくさんかと思います」
「そんなことをしていて給料は十分にもらえるのかね?」と長兄は弟の生活をふしぎに思ってきいた。彼は自分をりっぱな人間だと思っているから、弟が自分を軽蔑しているようすには気がつかなかった。
「もらうときもあり、もらわないときもある」
長兄は報酬をもらわずに何かをする人間がいるということは考えられなかった。そこで、つづけて言った。
「部下に給料をくれないというのは、おかしな話だね。わたしがもし軍人で、部下を持った将校だったら、給料をくれない将軍なんぞやめにして、別の将軍のところへ行くだろうな」
三男は返事をしなかった。彼は出発前にしようと思っていることがあったので、次男のところへ行って、ひそかに頼んだ。
「おとうさんの若いほうの妾の梨華《リホワ》に金をきちんと忘れずにやってくださいよ。わたしに送るぶんから毎月五元ずつ差し引いて梨華にやってください」
次男はこれを聞くと、びっくりして細い目をみはった。彼は、そんな多額の金を他人にやってしまうような人間の気持ちが容易に理解できない種類の人間なのである。
「あの女に、どうしてそんなにたくさんやるのかね?」
三男は何か奇妙にあわてたようすで答えた。
「あの白痴の姉のめんどうをみてくれているんだからね」
もっと何か言いたいことがありそうに見えたが、それ以上何も言わなかった。四人の部下が、持ち物を集めて荷づくりしているあいだ、彼はひどく落ちつかなかった。どうにも落ちつけないので、城門のところまで歩いて行って、父の土地があったところや、いまは彼のものになった土の家のほうをながめた。どちらも彼にはほしくないものであった。彼はつぶやいた。
(自分のものになったんだから、一度行って見てきてもいいな)
しかし彼は、ふたたび息を深く吸いこんで頭をふり、城内の屋敷へもどって行った。それから四人の部下をひき連れて、急いで立ち去った。家を離れるのが、うれしかった。そこにいると、なんとなく、いまだに父の力に圧迫されるような感じがした。しかも彼は、どんな力にしろ、それに圧迫されるのがきらいな人間だった。
ふたりの兄たちも同じように父親の圧力から自由になりたいと望んでいた。長男は早く三年の喪があければいいと願っていた。そして、広間の正面にある亡父の霊牌《れいはい》を、他の霊牌が安置してある大広間の仏壇に移す日のくるのを待ちかねていた。父の霊牌が大広間にかざってあるのを毎日見るたびに、まるで父の王龍《ワンルン》から監視されているような気がするのである。たしかに王龍の霊魂は、その霊牌にやどっていて、息子たちを監視しているのであった。長男は、自由に快楽の生活にふけり、遺産の金を好きなように使いたいのだが、霊牌がそこにあるあいだは、財布の金を自由につかみ出して好きなところで快楽にふけるというわけにいかなかった。三年の喪が過ぎないうちは、陽気に遊ぶなどということは、子として、体面上、ぐあいがわるいのである。心でいつも秘密の快楽ばかり追っているこの怠惰な長男の上に、老王龍は依然として拘束力を持っていたのだ。
次男はどうかというと、彼もまた実現したい計画を持っていた。次男は、穀物売買の事業を拡張するつもりなので、分配された土地を売って金に替えたいと望んでいたのである。商人の劉《リュウ》氏はもう老齢だし、しかもその息子は学者で父の事業を好まないので、彼は劉氏の穀物商店を買収しようと思っていた。そこまで事業をひろげれば、この地方の穀物を一手に他の地方へ出荷することもできるし、近くの他の省へも送り出せるだろう。しかし、喪があけぬうちは、そのような大がかりなことをするのは、遠慮しなければならなかった。だから彼は、じっと辛抱して待っていた。ただ、ときどき、何気ないようすで兄にさぐりを入れてみた。
「兄さん、喪があけたら、あなたの土地をどうするつもりですか――売りますか、それとも、何かほかに?」
兄のほうもまた、わざと気がつかぬふりをして答えた。
「さあ、まだわからないな。考えてみたこともないよ。おまえのように事業をやっているわけでもないし、またこの年で新しい仕事もはじめられまいから、家族が食べて行けるだけの土地は残しておかなければなるまいね」
「しかし、兄さん、あなたには土地の管理はめんどうでしょう」と次男は言った。「地主になると小作人のめんどうもみてやらなければならないし、とり入れどきには収穫物をはからなければならないし、土地から収益をあげてそれで生活して行くとなると、わずらわしいことが、じつに多いですよ。わたしはおとうさんのかわりに、そういったことをやってきましたが、これからは自分の仕事があるから、あなたのためにやってあげるというわけにはいきませんよ。わたしは一ばんよい畑だけ残して、あとは売るつもりです。そして、その銀を利回りのいいものに投資しますよ。あなたとわたしと、どちらが早く金持ちになるか、一つ競争しますかね」
長男はこれを聞くと、ひどく弟をうらやましく思った。彼は、いくらでも金がいること、いま持っている以上に金が必要なことを知っているので、元気のない調子で言った。
「そうだね。一つやってみるかね。わたしもいままで考えていたよりも余計に土地を売って、その金をおまえに高利でまわしてもらおうか。だけどまあ、いずれよく考えてみよう」
ふたりは土地を売る話をするときには知らず知らず声を低めていた。あたかも地下にいる老父に聞かれるのを恐れるかのようであった。
こうして、ふたりは、三年の喪が終わるのが待ちきれないほどだった。蓮華《リエンホワ》もまた待っていた。待ちながら不平を言っていた。三年のあいだ絹物を着るわけにはいかず、忠実に喪に服さなければならないからだ。彼女は、木綿の着物を着ていなければならないことにあき、またお祭りだからといって他の家を訪問することもできず、こっそりとやる以外は、友だちと陽気に騒ぐこともできないのが苦痛だった。というのは、蓮華は老年になってから、相当な家の老婦人五、六人と友だちになって、おもしろく遊ぶことをおぼえ、賭けごとをしたり、ごちそうを食べたり、世間話をしたりするために、きょうはこの家、あすはあの家といったふうに、たがいに轎に乗って行き来していたからである。いずれも、もう子供の生める年配ではないし、主人が生きていても若い妾のほうに気をとられているから、もうなんの心配も苦労もなくなった連中ばかりだった。これらの老婦人のあいだで蓮華はよく王龍のことでぐちを言った。
「あたしは若いころの一ばんいい時期を、あの人にくれてやってしまったんだわ。あたしがどんなに美人だったか、うそだと思ったら杜鵑《ドチュエン》にきいてくれればわかるけれど、その若さも、美しさも、みんなあの人にやってしまったのだわ。あの人が金持ちになってここへきて、この屋敷を買うまでは、あたしは、古い土の家に住んでいて、町へ出ることもなかったのよ。それでもあたしは不平一つ言わなかった。いいえ、それどころか、いつでもあの人の気にいるようにしていたのよ。それなのに、それだけつくしてやっても、あの人には十分ではなかったのだわ。あたしが年をとると、さっそく、あたしの奴隷で、からだが弱くて、何も役には立たないけれど、かわいそうだと思ってあたしがそばにおいてやっていた青白い女を妾にしてしまったのですものね。でも、それだけあたしに苦労させておきながら、あの人が死んだとなると、ほんのすこしばかりの銀しか当てがってくれないのよ」
すると老婦人たちのだれかれが同情して、蓮華が茶館の歌妓《かぎ》にすぎなかったことなど知らぬふりをして、言うのであった。
「男はみんなそんなものよ。わたしたちが美しくなくなると、すぐにほかの女に手を出すのだわ。自分たちが、わたしたちの美しさを不注意に荒らして老《ふ》けこませてしまったくせにね。わたしたちは、みんなそうなのよ」
老婦人たちは、みな、二つの点、すなわち、男はいずれも邪悪で利己的であり、すべてをささげて犠牲になった自分たちこそ女のなかでもっともあわれむべき存在だという二つの点で、意見が一致した。そして、めいめい、どんなに自分の旦那が性悪《しょうわる》かを弁じ立ててしまうと、こんどは、ごちそうを堪能するほど食べ、賭博に興じるのであった。このようして蓮華は日をおくっていた。女主人が賭博で手に入れたもの、あるいはその一部は召使がもらうのがならわしになっていたので、杜鵑は蓮華がこうした生活をつづけるのを熱心にすすめた。
蓮華は早く喪があけて、木綿の着物をぬぎすてて、ふたたび絹物を着ることができ、そして王龍が生きていたことなど忘れてしまえる日のくることを待ちこがれていた。事実彼女は、体裁上墓まいりして泣くことが必要なときとか、墓前で故人の冥福を祈って紙や香をたきに家族が墓へ行かなければならぬときのほかは、王龍のことなど、考えたこともなかった。そして、朝、喪服を着なければならぬときと、夜ぬぐときのほかは、思い出しもしないくせに、彼のことなどぜんぜん考えなくともすむように、はやく喪服からのがれたいと願っていた。
喪のあけるのを急いでいないのは、梨華だけだった。彼女は、いつも墓に詣で、畑のなかの墓のそばで悲しんでいた。だれも見ていないときに行って王龍の冥福を祈っていたのである。
ふたりの兄弟は喪のあけるのを待つあいだ、たがいに妻子を連れて、この大きな屋敷でいっしょに暮らさなければならなかった。妻たちが、たがいに敵意をいだいていたので、これは、なかなか容易なことではなかった。長男の妻と次男の妻は、たがいに心から憎みあっていて、しかもその怒りを自分たちの胸一つにしまっておけないので、夫とふたりきりになると、いつも、ありったけのうっぷんをぶちまけた。これには、ふたりの男も、ほとほと弱っていた。
長男の妻は、気どった上品な調子で言うのであった。
「結婚して、あなたがわたしを迎えてくだすったこの屋敷のなかで、わたしが当然うけるはずの尊敬をうけられないとは、なんと奇妙なことでしょう。おじいさんが生きていられるあいだは、あのかたは、あんなに無知で、粗野で、わたしの息子たちの祖父であるというのが恥ずかしいくらいの人でしたから、しかたがないと思い、また、がまんするのがつとめとも思ってがまんしてきましたけれど、いまはもうおとうさんもお亡くなりになったのですから、あなたが家長なのです。おとうさんは無知で無学だったから、弟の妻がどんな女か、またわたしにどんな仕うちをするか、わからなかったのですけれど、あなたはわかっているはずです。あなたは家長で、そのこともよくわかっているくせに、あの女に身分をわきまえることを教えてやらないのですわ。わたしはあの女に、あの野卑で不信心な田舎女に、毎日軽蔑されているのですよ」
長男は腹のなかでうなった。そして、できるだけ腹の虫をおさえて言った。
「あの女がおまえにどんなことを言うのかね?」
「あの女の言葉だけを申しているのではありません」
彼女は、とりすまして答えた。彼女がものを言うときは、くちびるをほとんど動かさないし、声にも抑揚がなかった。
「あの女のすることなすことすべてに、それがふくまれているのです。あの女のいる部屋へはいって行くと、手のはなせない仕事をしているふりをして、立ちあがってわたしに席をゆずろうともしません。赤っつらで、大きな声でしゃべります。あの大きな声が、がまんできませんわ。いいえ、歩く姿を見るのさえがまんできませんわ」
「そうかね。しかし、おれが弟のところへ行って、『おまえの細君は、赤っつらで、大きな声でしゃべるので、うちの子供の母親はたまらないそうだよ』とも言えまいじゃないか」
長男は頭をふって、長衫《チャンサ》の下の帯のあいだにはさんだキセルをまさぐった。自分ながらうまいことを言ったものだと思い、思いきって、すこし微笑をさえうかべた。
長男の妻は、こんなとき、とっさに返答のできるような人間ではなかった。機敏に返事をしたいと思っても意のままにならないことが多かった。彼女が義妹をきらう一つの理由は、この田舎出の女が、粗野ではあるが、鋭い機知に富んだ舌を持っていることだった。都会育ちの兄嫁が、ゆっくりと威厳をもって話をはじめると、話の途中で、田舎者の弟嫁は、目をぎょろぎょろさせたり、ところどころで、すばやく言葉をさしはさんだりして、兄嫁の言葉の効果をなくし、兄嫁をばかにしてしまうので、そばにいてそれを聞いている奴隷や召使などは、笑いをかくすため大急ぎで逃げ出す始末であった。ときには、若い女中などになると、逃げるひまもなく、こらえきれなくなって、その場でふきだしてしまい、すると、ほかの女たちまでが、その若い女中のふきだしたのがおかしいといって、またふきだすというようなありさまで、町育ちの兄嫁は、それをみな田舎育ちの弟嫁のせいにして心から憎んでいたのである。
彼女は夫の言葉を聞くと、彼までが自分をばかにしているのではないかと、鋭く夫をみつめた。夫は、すわり心地のいいようにとくにつくらせた籐椅子《とういす》に腰をおろして、気楽にほほえみをうかべていた。彼女はからだをかたく引きしめ、いつも好んですわる、かたい木の椅子に背をまっすぐにして、いかめしそうに腰をかけ、目をふせ、口をきりりと結んで言った。
「あなたもわたしを軽蔑していらっしゃることはよく知っています。あのいやしい女をこの家へ入れたときから、あなたはわたしを軽蔑しているのです。父の家をはなれて嫁入ってくるのではなかったと、わたしは後悔しています。わたしは自分の身を仏さまにささげて、どこかの尼寺にでもはいりたい。子供さえなければ、いまでもそうします。わたしはあなたのこの屋敷を、ただの百姓の家よりも上品なりっぱなものにしたいと思って努力してきましたのに、あなたは、ちっともありがたいと思ってくれないのですもの」
彼女はそう言いながら、そっと袖で目をぬぐった。そして立ちあがって自分の部屋へはいって行った。やがて長男は彼女が大きな声で仏前に経をとなえているのを聞いた。彼女は近年、尼や僧侶にたよりはじめ、仏陀《ぶっだ》にたいするつとめをきちょうめんに行ない、祈祷や読経に多くの時間をついやすようになった。尼がときどき説教しにきた。彼女は厳格な誓いをしたわけではないが、ほとんど肉食をしないことを人々に見せびらかしていた。貧乏人は神仏に救いをもとめて祈らなければならないのだが、そんな必要のない安定した富裕な家のなかで彼女は仏陀に祈るのであった。
それでいま、腹が立ったときにはいつもそうするように、彼女は自分の部屋へ引きこもって大きな声でお経をあげはじめた。長男はその声を聞くと、悲しげに頭をなでて嘆息した。というのは、事実、彼が第二夫人を家へ入れたことを、彼女は、けっして許していなかったからだ。第二夫人というのは、美しい単純な少女だった。ある日、通りがかりに彼はその少女を貧乏人の家の前で見かけた。彼が通りかかったとき、少女は、小さな床几《しょうぎ》に腰かけて、タライで着物を洗っていた。たいへん若々しく、きれいだったので、彼は通り過ぎながら二度も三度もながめた。そのうえに、その道を何度も行きつもどりつしたほどだった。娘の父親は王家の長男のような金持ちのりっぱな人のところへ娘を妾に出すことをよろこんだ。長男は父親に大金を渡して娘をひきとった。ところが、娘のすべてを知ってしまったいまとなっては、あまり単純な女なので、なぜこんな女にのぼせたのかと自分でもふしぎに思うほどだった。極度に第一夫人を恐れ、個性というものがぜんぜんなく、ただもう単純なだけの女だった。夜、ときたま部屋へ呼んだりすると、彼女は、うつむいて、ためらいがちに言うのであった。
「奥さまが今晩お許しくださるでしょうか?」
彼女があまりにも気が弱いのを見て、長男はときどき腹を立て、このつぎは妻など恐れない頑丈で意地の悪い田舎娘を妾にしようと思ったりした。しかし、若い妾がおとなしく第一夫人に仕え、そばに夫人がいるときには彼の顔を見ようともしないくらいにちぢこまっているからこそ、ふたりの女のあいだに平和がたもたれているのであった。それを思うと、けっきょくこのほうがよいのだと、ひとり嘆息するのであった。こんな状態だから、いくらか第一夫人もおさまっているけれども、それでも依然として夫を責めることはやめなかった。
第一に妾をつくったということにたいして、第二に妾がどうしても必要だとしても、そんな貧しい家の女を妾にしたということにたいして、非難するのである。彼は、このような妻の非難を甘んじて受けていた。そして、まだときどきはその娘を、美しい子供っぽい顔のゆえに愛した。妻がその娘のことをひどくののしるときほど娘がいとしくなった。そして、こっそりと、いろいろ工夫をめぐらしては、その娘をかわいがった。彼女が彼の部屋へくるのを恐れたりすると、彼はこう言って安心させた。
「第一夫人は今夜は疲れていて、わたしの相手がしたくないのだから、遠慮しなくてもいいのだよ」じじつ彼の妻は情欲のとぼしい、冷たい女で、子供を生む年齢ではなくなったことを、むしろよろこんでいたのである。それでも王一《ワンイー》(長男)は、妻の第一夫人として当然受けるべき尊敬を重んじて、昼間はすべてのことについて彼女の意見を尊重した。妾の若い娘も夫人には、いんぎんで従順であった。しかし夜になると、彼の部屋へきて相手をするのは妾のほうであった。このようにして彼は屋敷のうちに同居するふたりの妻のあいだに平和をたもっていたのである。
しかし王一夫人と弟嫁のあいだのいさかいは、そうたやすく解決しなかった。王二《ワンアル》(次男)の妻も夫に訴えるのであった。
「あなたの兄さんの奥さんになっているあの白い顔の女を、わたしは死ぬほどきらいですよ。なんとか住むところを別にするようにしてくれないと、わたしはそのうち仕返しに道のまんなかであの女の悪口をわめき立てますよ。そうすれば、気どりやで、顔を合わせるたびにていねいにおじぎをしないと、ひどく気にやむような女だから、恥ずかしがって死ぬかもしれないわ。わたしだって、あんな女よりはましだわ。わたしのほうが、もっといいと思うわ。あんな女に似なくてしあわせよ。あなただって、あなたの兄さんではあるけれど、あのでぶのトンチキ野郎に似ていなくて、ありがたいと思うわ」
王二とその妻は、ひどくうまが合っていた。彼は小柄で、黄いろい顔をした、もの静かな男であるが、妻は、あから顔で、大柄で、活発だった。彼は妻のそこが好きなのである。妻が利口で一家の主婦としてもりっぱであり、むだづかいをしないのも気に入っていた。父親が百姓で、ぜいたくな暮らしには慣れていなかったが、りっぱな暮らしのできるようになったいまでも、一部の女たちのように、ぜいたくをしたがらなかった。好んで粗末なものを食べ、絹物よりも、好んで木綿を着た。唯一の欠点は、おしゃべりで人のうわさをするのが好きなことと、召使たちとしゃべるのが好きなことだった。
彼女は洗濯をしたり、雑巾がけをしたり、手を動かして働くのが好きなのだから、けっして貴婦人と呼ばれるような女でないことは事実だった。こういった調子だから、召使だって、あまり多くは必要としなかった。ひとりかふたり村の娘を使っているだけで、しかもそれを友だちのようにあつかっていたのである。これがまた兄嫁の非難の的《まと》になっていた。弟嫁は召使どものあつかい方を知らないで自分と同等にあつかっているが、それは一家の名をはずかしめるものだ、といって兄嫁は非難するのであった。両家の召使どうし、よく話しあうのだが、そんなとき、義妹の家の女中は、自分のところの女主人を自慢し、弟嫁のほうが気前がいいとか、気が向くとおいしいごちそうの残りをくれたり、靴をつくる布をくれたりする、などと言っているのを兄嫁は耳にしたのである。
王一の夫人が召使にきびしいのは事実であった。しかし彼女は、だれにたいしてもきびしかった。自分自身にたいしてすらきびしいのである。次男の妻は、色あせてすりきれた着物を着て、頭髪も乱れたまま、それほど小さくもない足で、かかとを踏みつぶした汚れた靴をはいて、どこでも平気で歩きまわるが、兄嫁は、きちんと身じまいをしなければ、けっして部屋から出てこなかった。田舎育ちの次男の妻は、立ったままでもすわったままでも、どこでもかまわず胸をはだけて子供に乳をふくませるが、王一夫人のほうは、けっしてそんなことはしなかった。
このふたりが、かつてないほど大きな争いをしたのは、この授乳ということからであった。だが、このけんかは、ついにふたりの兄弟に平和に暮らせるような解決策を講じさせるきっかけとなった。ある日のこと、ちょうど城内にある廟《びょう》の祭日だったので、王一夫人は参詣に行くため、轎《かご》に乗ろうとして、門のところへ行った。往来へ出ようとすると、門前に、田舎育ちの次男の妻が、奴隷かなんぞのように胸をはだけて、一ばん下の子に乳をやりながら、昼食用に魚を買った行商人を相手に話しこんでいた。
それはおそろしく下品な光景だった。王一夫人は見るにしのびず、手ひどく義妹をたしなめるつもりで声をかけた。
「大家の夫人ともあろうものが、わたしなら奴隷にも許さないようなことをするなんて、ほんとに恥ずかしいことですよ」
しかし、彼女のゆっくりした静かなもの言いは、次男の妻の回転の早い舌には、敵すべくもなかった。弟嫁は、まくし立てた。
「子供に乳をやらなけりゃならないことは、だれでも知っています。わたしは、乳のみ子があって、吸わせる二つの乳房があることを、恥ずかしいとは思いませんよ!」
彼女は、つつましく上着にボタンをかけるどころか、これ見よがしに子供を抱きかえて、もう一つの乳房を吸わせた。彼女の大きな声を聞いて、近所の人たちが、けんかだというので集まってきた。女たちは手をふきふき台所や中庭からかけだしてきた。通りすがりの百姓たちは、とっくり、けんかを見物しようというので、野菜かごをおろした。
王一の妻は、集まってきた陽《ひ》にやけた、いやしい顔を見ると、どうにも堪えられなくなり、その日は出かけるのをやめにして、轎をかえし、せっかくの楽しみを、すっかりめちゃくちゃにされて、また中庭へはいってしまった。
一方、田舎育ちの妻は、このような気むずかしいことを言われたのは、はじめてだった。母親というものは、どこでだろうと子供に乳を飲ませるのはあたりまえである。赤ん坊は、どこで泣き出すかわからないが、赤ん坊をだまらせる唯一の方法は乳をやること以外にないということは、だれでも知っている。そこで、彼女は立ったまま、義姉のことを、おもしろおかしく悪口を言いはじめた。群衆は腹をかかえて笑い、芝居でも見ているようなつもりで大よろこびであった。
物好きにそこへ残って聞いていた王一夫人つきの奴隷女が女主人のところへ行って、田舎育ちの弟嫁が言ったことを、忠義ぶってくわしく報告した。
「奥さま、あの人はこんなことを言っていましたよ。奥さまがすごくいばっているので、旦那さまは、命が惜しくて、そばへもよれない。奥さまがよいとおっしゃらなければ、旦那さまは妾をかわいがることもできない。それも奥さまがよいとおっしゃったあいだだけしかかわいがれないのだ、などと申すものですから、ヤジ馬どもが、おもしろがって笑っているのです」
これを聞くと夫人は蒼白《そうはく》になり、広間のテーブルのそばの椅子に、くずおれるようにすわった。そして、つぎの報告を待っていると、往来のほうへ走って行った奴隷女がまたもどってきて、息を切らして報告した。
「奥さまは子供よりも坊主や尼さんを大事にしている、そういう連中が、かげで悪いことばかりしているのは、だれでも知っている、などと、そんなことを言っています」
このような下劣な言葉を聞かされては、夫人も、がまんしきれなくなり、立ちあがって奴隷を呼び、門番に奥へすぐくるようにと伝えさせた。こんな騒ぎは、そう毎日あることではないから、奴隷はおもしろくもあり、興奮もして、すぐ走って行って門番を連れてきた。彼は王龍の畑で働いていた節くれだった老人の作男であった。年をとっても世話してくれる子供もいないし、信用のおける人間なので、門番として使われていたのである。彼も、みんなと同じように、この夫人を恐れていた。彼は夫人の前でおじぎをして、頭をたれて立った。夫人は威厳のある態度で言った。
「旦那さまは茶館へ行っておられておるすで、このみっともない騒ぎをご存じありません。弟さんもおるすで、ご自分の家の始末ができませんから、わたしが義務を果たさなければなりません。わたしは通りすがりのあんないやしいものたちに、屋敷のなかをじろじろながめさせたくありません。すぐ門を閉めてください。弟の嫁をしめだしてもかまいません。あの女が、だれが門を閉めろと言ったかときいたら、わたしが命じたと言いなさい。おまえは、わたしの言いつけどおりにしなければいけません」
老門番は、ふたたびおじぎをして一声も言わずに夫人の前を去り、命令されたとおりにした。王二の妻は、まだ門外に立っていて、自分の言葉に群衆がどっと笑うのがとてもうれしく、得意になっていたから、背後で門が静かに閉まるのに気がつかなかった。門がほとんど閉まって、ほんのわずかしか隙間がなくなったとき、老門番は、その隙間から口を出して、しわがれた声でささやいた。
「もし――奥さん!」
ふり向いた弟嫁は、門が閉まりそうなのを見てとると、大急ぎで門をおし開けて、赤ん坊に乳をしゃぶらせたままとびこんできた。そして門番をどなりつけた。
「だれがわたしを閉め出せと言ったのだい。このおいぼれ!」
老人は小さくなって答えた。
「家長の奥さまがおっしゃいました。奥さまは、あなたさまが門のところで騒いでいるから閉め出せとおっしゃったのです。それをわたしはお知らせしてあげたのです」
「この門は、あの女だけの門だと言ったのだね? そうなんだね? わたしは自分の家から閉め出されるんだね? そうだね?」
金切り声をあげて彼女は兄嫁の庭のほうへとびこんでいった。
長男の夫人はこのことを予期していたので、すでに自分の部屋へ引きこもって、扉にかんぬきをおろし、一心にお経をあげていた。弟嫁が、どんなに力をこめて扉をたたいても、けっても、内側からは、なんの返答もなかった。単調な読経の声が、よどみなく流れてくるだけだった。
その晩、兄弟は、めいめいの妻から、ことの一部始終を、いやになるほど聞かされた。翌朝、兄弟は、茶館に行く途中、暗い面持ちで顔をあわせた。それでも弟は、ゆがんだ笑いをうかべて口をきった。
「どうやら女房どもは、わたしたちまで仇《かたき》同士にしてしまいそうだ。しかし、わたしたちは敵になるわけにもいきますまい。女たちを別々にわけたらどうですかね。兄さんは、いま住んでいるところと大通りに面した正門をおとりになる。そしてわたしは、わたしがいま住んでいるところをいただいて、横へ門をつけることにします。そうして別々に平和に暮らしたほうがいいでしょう。もし末弟が帰ってきたら、おとうさんが使っていたところと、蓮華が死んだら蓮華の部屋をやればいいですよ」
長男は前夜、細君から事件のてんまつをくりかえしくりかえし聞かされ、さんざん責められていた。一家のなかで尊敬さるべき家長の妻が、目下《めした》であり、従順であるべき弟嫁から、こんな無礼なふるまいをされたのであるから、こんどこそ、おとなしく譲歩したりせずに、家長として適切な処置をとることを誓わせられたのである。いま弟の言うことを聞いて、彼は前夜、妻からさんざんあぶらをしぼられたことを思い出し、弱々しく非難をこめて言った。
「だが、おまえの嫁も、あんないやしい人間がおおぜいいるところで、義姉の悪口を言うなんて、はなはだよろしくないぜ。このままではすまされないよ。一つ二つ、なぐってくれ。いいか、一つ二つ、なぐってやったほうがいい」
次男は小さな鋭い目を光らせ、兄をなだめて言った。
「わたしたちは男ですよ、兄さん。あなたとわたしは男同士だ。女がどんなものか、わたしたちは知っているはずです。一ばんできのいい女でも、無知で、単純なものです。男は女たちの問題などにかかずらってはいられませんよ。わたしたちは男で、たがいに理解しあってます。わたしの妻は、たしかにばかなことをしました。ほんとに田舎者で、何も知らないばか女です。わたしがそう言って女房のかわりにあやまっていたと嫂《ねえ》さんに言ってください。あやまっても、べつに金はかかりませんからね。そして女や子供を別にしようじゃありませんか。そうすれば、めんどうがなく平穏に暮らせますよ。用事のあるときは茶館で会って相談すればいいですから、家庭のほうを別々にしましょう」
「しかしな――しかし」長男はどもりながら言った。彼は、そんなにすばやく円滑には頭が働かないのである。
次男は利口なので、兄がどういうふうに妻をなだめたらいいかわからずに困っているのだなと、すぐにみてとって、すばやく言った。
「ねえ、兄さん、嫂さんにはこういうふうにおっしゃればいいですよ。『弟一家とは交際を断ったから、もうおまえも迷惑することはあるまい。やつらを罰してやったのだ』とね」
兄はよろこんだ。彼は笑いながら、ふとった青白い手をこすり合わして言った。「そうしよう――そうしよう」
次男は言った。「では、きょうすぐ石工を呼ぶことにしましょう」
こうして兄弟は、ふたりとも妻の心を満足させた。弟は妻に向かって言ったのである。
「もう、あのいやに気どった高慢ちきな町育ちの女になやまされることもなくなったよ。おれは兄に、あの女と同じ屋根の下に住めない、と言ってやったのだ。おれも一家の主人だ。この屋敷を別々に区切ることにきめたよ。おれも、もう兄貴の機嫌をとらなくてもいいし、おまえも、あの女の言いなりにならずにすむ」
兄のほうは夫人のところへ行って大きな声で言った。
「すっかり始末をつけたよ。うんと罰してやったから、安心しなさい。わしは弟に言ってやった。『おまえも、おまえの女房や子供も、おれの家から縁を切る。おれたちは、いままでどおり正門のほうにいるから、おまえは東のほうの横町に小さな門をつくって、そこから出入りしろ、おまえの女房は、うちの妻に迷惑をかけないようにしろ。おまえの女房が豚みたいに往来で子供に乳を飲ませたかったら、自分のとこの門の前でやれ、そうすればみんなの恥にはならんから』そう申しわたしたのだ。安心しなさい、もうあの女の顔を見なくてもすむからな」
このようにして、兄弟は、それぞれ妻たちを満足させたのであった。彼女らは、どちらも、自分が勝って相手が負けたと思いこんでいた。ふたりの兄弟は以前にもまして親密となり、自分らは、かしこい人間で、女というものを知っている、と思って、得意でもあり、たがいに上機嫌であった。そして、喪が早くあけるのを待っていた。そうしたら、日をきめて茶館で会い、売るべき土地の相談をしようと待ちこがれていたのである。
みんながちがった思いをいだいて待ちかまえているうちに、三年の歳月がたって、ついに王龍の喪のあける日がきた。喪のあける儀式を行なうのに暦をくって適当な日が選ばれた。儀式の準備をするために長男はまた夫人に相談した。彼女は、こういうことは、なんでも心得ているのである。長男は夫人に言われるとおりに実行した。
王龍の息子たち、その妻たち、近親など、この三年間喪服を着ていた人たちは、みな派手な絹物に着かえた。女たちはどこかに赤の色合いを身につけた。そのうえに、これまで着ていた木綿の喪服をひっかけて、この地方の習慣どおり、正門の前に集まった。そこには金紙や銀紙でつくった紙銭が山とつまれ、そのそばに僧侶たちが立っていて、紙銭に火を点じた。その燃える炎に照らされながら、王龍のために喪服を着ていた人々は、喪服をぬぎ、下に着ている、はなやかな着物になった。
儀式が終わると、みな屋敷のなかへはいって悲しみの日の終わったことを祝いあった。いままでかざってあった古い霊牌は焼いてしまうことになっているので、新しくつくられた王龍の霊牌の前にぬかずき、酒や調理された肉をそなえた。この新しい霊牌は、いつまでも残るものなので、りっぱなかたい木でつくられ、小さな厨子《ずし》のなかにおさめることになっていた。この霊牌ができあがると、王龍の息子たちは、高価な黒い塗料を塗らせ、そこに王龍の名と銘を書かせるために城内でもっとも学識のある人をさがした。
城内随一の学者といえば、王龍の息子たちが子供のころ習った儒教の老学者の息子以外にはない。その老先生は若いとき科挙《かきょ》の試験を受けに行って落第したが、落第したとはいえ、ぜんぜん受けられない人よりは、ずっと学識があった。彼は自分の学識を息子に伝えたから、息子もまた学者であった。息子の学者は、このような名誉ある仕事に招かれると、学者のつねとして、長衫《チャンサ》をひらひらさせ、眼鏡を鼻のさきにかけ、いかめしい足どりで歩いてきた。まず幾度も霊牌に拝礼してから、霊牌の前のテーブルのそばに腰をおろし、長い袖《そで》をまくりあげ、ラクダの毛でつくった細い穂のとがった筆のさきをととのえて、書きはじめた。このような場合には、すべて新しいのを使う習慣だから、筆も墨も硯《すずり》も、みな新しかった。書いていた彼は、やがて最後の一句のところへくると、筆をおいて、目をつぶり、じっと考えこんだ。この最後の一句に王龍の全面目をとらえたいと思い、よい句のうかぶのを待ったのである。しばらく思いをこらしていると、「王龍の肉体と精神の富は大地から生まれた」という句がうかんだ。この句を思いついたとき、彼はこの一句に王龍の存在の真髄をつかみえたと思った。これを書けば王龍の霊はこの霊牌のなかに安住するであろうと感じた。彼は筆に朱をつけて牌の上に最後の句を書きつけた。
こうして霊牌が完成すると、長男がそれを両手にうやうやしくささげ持ち、一同がそのうしろにしたがって、霊牌が安置してある仏間へのぼった。そこには農夫だった王龍の父親と祖父の霊牌がまつってあった。おそらく彼らは生前、こんな豪奢《ごうしゃ》な霊牌をつくってまつられるとは夢想だにしなかったであろう。もし死後のことを考えたことがあるとしても、すこしばかり字を知っているものが死者の名を紙片に書き、畑のなかの家の土の壁にはりつけ、しばらくすればそれもはがれてしまうのが関の山だと思ったことであろう。しかし王龍は、城内のこの屋敷へうつり住んだとき、先祖代々ここに住んでいたかのように、ふたりの霊牌をつくらせたのであった。もっとも彼らの霊魂が、はたしてそこにとどまっていたかどうか、それはだれにもわからないことだが。
ここに王龍の霊牌もまた安置された。ふたりの息子は儀式のすべてが終わって、仏間の扉を閉めて下に帰ってきたとき、ほっとして内心よろこんだ。
いまや、客を招き、盛宴をはり、歓楽をつくすときである。蓮華は、年をとってふとったからだには、やや派手すぎるような、あかるい青地に花模様のある絹の衣装をつけて宴会の場へあらわれた。彼女がどんな人間かは、みんな知っているので、だれもとがめなかった。一同、宴席につき、酒を飲みながら笑い興じた。長男は盛大な愉快な会合が好きだから、大いにはしゃいで、何度も大きな声で言った。
「さあ、乾杯してください――底まで飲みほしてください」
彼は、すごく飲んだ。酒がまわるにつれて、肌が暗赤色になり、頬と目が血走ってきた。
他の部屋に婦人たちといた彼の夫人は、彼が酔いつぶれそうになっていると聞いて、女中をよこして注意した。
「まだ酔いつぶれたりしてはいけません。こういう席で酔うのは不体裁です」それで彼は正気にもどった。
この日は、次男でさえ陽気になっていて、あまりけちけちしなかった。彼はこの宴会をいい機会《しお》に、来客のなかの幾人かとこっそり話をして土地を買う気はないかどうか打診してみたり、また彼がよい土地を手放したがっているということが話題になるように仕向けたりしていた。喪あけの日は、このようにして過ぎて行った。兄弟は、土のなかに眠る亡父から拘束されていた絆《きずな》がたち切られたので満足した。
ただひとり、この盛宴に出席しない人がいた。それは梨華であった。彼女は、自分の世話している白痴の娘が、すこしぐあいが悪いようだから失礼したい、と言ってことわってきたのである。梨華がこなくてもだれも気にしないので、長男は、出席しなくともよい、と言ってやった。だから彼女だけは、その日、喪服をぬがず、喪の白い靴もぬがず、頭髪をたばねる白い糸もとらなかった。彼女は白痴の娘にも、それらの悲しみのしるしをとらせなかった。他の人々が盛宴をはってうち興じているあいだ、彼女は自分の好むことをしてその日を過ごした。白痴の娘の手をひいて、王龍の墓へ連れて行ったのである。
墓地でふたりは腰をおろした。自分をかわいがってくれる人のそばにいることに満足して白痴の娘が遊んでいるあいだ、梨華はすわったまま、あたりを見まわした。小さく区切られた緑の畑が、すきまもなくつらなって、見わたすかぎり何マイルとなくひろがっていた。春の小麦の上に背をまげてかがみこんでいる農夫の姿が、ここかしこに青い点のように見え、それが静止したり動いたりしていた。昔、王龍も自分の畑から収穫する時期になると、背をまげて、地上の作物を刈り入れたものだった。そして晩年の王龍は、梨華の生まれない以前、彼が畑で働いていたころのことを思いおこしては、この畑を耕したものだとか、あの畑に種子をまいたものだとか、そんなことを彼女に話してきかせるのが好きだった。梨華は畑をながめながら、その思い出にひたっていた。
王龍の家族にとって、このようにして時がたち、喪あけの日も過ぎて行った。しかし、王龍の三男は、喪あけの日にも帰ってこなかった。どこにいるにせよ、彼はその地をはなれず、家族の人々とは、ぜんぜん別の、彼独りの生活に没頭していたのである。
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巨大な老木の頑丈な幹から、枝がわかれて出て、それぞれ伸びひろがり、根は一つだが、幹からも他の枝からも離れて、めいめい自分勝手に生長する。王龍《ワンルン》の三人の息子たちも、この枝のようであった。三人のうちで、一ばん強くて、わがままなのが王三《ワンサン》であった。王龍の末子である。王三は南へ行って軍人になっていた。
王三は父の危篤の知らせを受けとった日、彼の仕えている将軍の居住する都会の城外にある、ある寺院の前に立っていた。寺院の前には原っぱがあるので、そこで兵士たちを訓練し、あちこち行進させたり、敵をだまし討つ練習だの、戦場にのぞんだときの身構えなどを教えていたのである。そこへ兄からの使者が息せききって駆けつけてきた。使者は使命の重大さに、息もつかず、あえぎあえぎ報告した。
「若さま――おとうさまが――老大人が――危篤でございます」
王三は、父親が老年になってから、子飼いの若い奴隷女の梨華《リホワ》を部屋へ引き入れたのを怒って家をとび出して以来、父親とは交渉をたっていた。彼は父親が梨華を妾にするまで、自分が彼女を愛していたことに気がつかなかった。父が梨華を妾にしたことを聞いてから、彼は終日ふさぎこんでいた。そしてその夜、思いあまって、父親と梨華のいる部屋へとびこんで行った。すごく猛烈ないきおいで、暑い夏の夜の暗闇のなかから、その部屋へとびこんで行ったのである。そこに彼女は青白い顔をして、静かにすわっていた。彼は自分こそ彼女を愛しえたのに、と思った。すると父親にたいする憤怒《ふんぬ》が怒濤《どとう》のように高まり、おさえることができなかった。彼はすぐ怒りに身をまかすような性格だったので、もしこのまま家にとどまっていたら、心臓が憤怒ではり裂けてしまうだろうと思い、その夜すぐ家を出てしまった。
かねてから彼は冒険にあこがれ、軍旗のはためく戦場の英雄になりたいと熱望していたので、持ちあわせの銀を旅費にして、南へ向かって、できるだけ遠くまで行った。そして当時、反乱軍のなかで勇名をとどろかせた将軍のもとに仕えることになった。王三は背が高く、強健で、せいかんな若者だった。白い歯の上に、きりりとくちびるを結んで、色は浅黒く、鋭い顔をしていたので、将軍はすぐ彼に目をつけて、自分のそばへおき、普通よりもずっと早く昇進させた。それは一つには、彼が無口で、むら気のない、意志の強い青年なので、将軍に信頼されたのと、また一つには、非常にはげしい怒りっぽい性質で、猛然と怒りだすと人を殺すことをなんとも思わぬばかりか、殺されるような危険をおかすことも恐れなかったからである。傭兵《ようへい》のなかには、こんなに勇敢なのは、あまり多くはいないものなのだ。それ以外にも昇進の早かった理由がある。それは戦争があったためだ。戦争は、軍人を早く昇進させるものである。王龍の三男も、そうであった。上官が戦死したり、罷免《ひめん》されたりすると、将軍は彼をどんどんばってきして高い地位につかせた。だから、またたくまに彼は、一兵卒から多くの部下を指揮する部隊長にまで昇進した。父の家へ帰ってきたときは、そういう地位にいたのだった。
三男は使者の伝言を聞くと、部下を帰営させ、原のなかをひとりで歩いた。使者は、遠くはなれて、あとからついてきた。それは早春の日だった。こんな日には、父親の王龍は、大いに元気になって外へ出かけ、土地を見まわったり、鋤《すき》をとって麦畑の畝《うね》のあいだを掘りおこしたりしたものであった。そこに新しい生命のいぶきのきざしがあることは、まだだれの目にも見えなかった。だが王龍の目にだけは、土がふくらみ、変化を見せて、土地から生まれる新しい収穫を約束しているのが見えるのであった。いまごろ父は死んでいるかもしれない。しかし三男は、このような早春の日、人が死ぬことがあろうなどとは想像することもできなかった。
三男もまた彼なりに春を感じていたのだ。父親が落ちつかぬ気持ちになって畑へ出て行ったと同じように、彼もまた春ごとに心の落ちつきをうしない、ひそかにいだいている計画を実現したいという衝動にかられるのであった。その計画というのは、将軍のもとをはなれて、彼がひるがえす旗のもとに集まってくる兵をひきいて独立し、彼自身の戦いをしてみたいということだった。春がくるたびに、この計画は実現可能なことに思え、ついには、ぜひとも実現せねばならぬことのように思えてきた。毎年どういうふうにして実現しようかと考えをめぐらしているうちに、それは夢となり、野心となり、しかも非常に大きなものになった。それゆえ、この春こそは計画を実行にうつさねばならぬと決心していた。老将軍のもとにおける生活には、もはや堪えられなくなっていたのだ。
事実、王三は老将軍にたいして、いまはきびしい批判の目を向けていた。彼がはじめて将軍に仕えたとき、将軍は暴虐な支配者に抗して戦う革命軍の指導者であった。将軍は当時まだ若かったので、とうとうと革命を語った。革命がいかにすばらしいものであるかを語り、すべての勇敢な人間は、りっぱな大義のために戦わねばならぬと説いた。将軍の声は朗々とひびきわたり、言葉が、よどみなく口をついて出た。将軍はまた、話を聞いている人は気がつかなかったが、自分が感じている以上に人々をあおって感動させるすべを心得ていた。
王三は単純な心の持ち主なので、これらの美しい言葉を聞いたとき、非常に感動した。そして、かかるりっぱな主義を持つ将軍と生死をともにしようと誓い、彼の心は、その使命達成の念にわき立った。
それゆえ、戦いが反乱軍の勝利に帰して、革命が成功に終わったとき、将軍が戦場から帰還して、このゆたかな平野を占領してここを居住地とさだめ、戦場においては英雄であったこの男が、現在のような安逸|奢侈《しゃし》の生活をはじめたのを見て、王三は驚きあきれた。王三は将軍が逸楽にわれを忘れているのを許すことができなかった。ふしぎなことに、何かよくはわからぬが、何かを盗まれたような、何かをだましとられたような気がするのであった。かつて戦争のとき全身全霊をささげて戦った将軍のもとを去って、自分は自分の道を行こうという考えが、はじめて頭にうかんだのは、こういったにがい思いをなめたからであった。
最近は、将軍は年老いて威力がなくなり、怠惰無気力となって、土地からとり立てるもので生活し、もはや戦争にも行かなくなった。彼は肥満して巨大なからだとなり、毎日、一ばん上等の肉を食べ、胃腸をやけただれさせるような強い外国酒を飲んでいた。戦争のことなど、すこしも口にせず、話すことといったら、この料理番は海でとれた魚の上に、こんなソースをつくってかけたとか、あの料理番は帝王の食膳《しょくぜん》に出しても恥ずかしくないような料理をつくるとか、食べもののことだけだった。たらふく食べると、彼が知っている唯一の楽しみは女道楽であった。
五十人以上の妻妾を持っていて、あらゆる種類の女を集めるのが彼の趣味だった。白い肌に、緑の目、赤い麻のような髪の毛の外国女まで、どこからか買ってきてかこっていた。その女は、なにが不満なのか、いつも不機嫌で、まるで呪文でもとなえるように、だれにもわからぬ生国の言葉で、ぶつぶつひとりごとを言うので、将軍も彼女を恐れてもいたが、時には、ひどくおもしろいとも感じていた。そして、妻妾のうちに、そのような外国女までまじっているのを自慢していた。
こんな将軍の下では、部将たちも惰弱になり放埓《ほうらつ》になった。彼らは人民からしぼりとっては酒色にふけっていたから、人民はみな将軍とその部下を心から憎んでいた。若い勇敢な兵隊たちは、何もしないでいることに焦燥《しょうそう》を感じ、息づまる思いであった。王三は、酒色におぼれている連中から超然と身を持し、女など、ふり向きもしなかった。だから、いつしかこういう若い人たちが目を向けるようになり、心酔者が、ひとりふえ、ふたりふえ、この集団も、あの集団もと、彼に慕いよってくるようになった。彼らは仲間同士でよく言いあった。
「あの人は、われわれを指導してくれるだろうか」そして王三に期待の目を向けるのであった。
王三が夢の実現に邁進《まいしん》するのを躊躇していたただ一つの理由は軍資金がないことだった。父親の家を出てからは、月末に将軍からもらうすこしばかりの俸給のほかには何もなかった。ときどき、その俸給すら、もらえないこともあった。将軍は、彼自身たくさんの金を必要としたうえに、五十人の妻妾が欲ばりで、涙や手練手管で老将軍から宝石や着物をせしめようと競争して、あくことを知らぬありさまだったので、その費用も、たいへんなものだった。部下の給与すら満足に払えなくなることも、めずらしくなかったのである。
王三は、だから、目的を達するためには、一時|匪賊《ひぞく》にでもなるよりほかはないと考えていた。多くの人がやったことであるが、部下をひきいて略奪でたんまりと資金をかせぎ、戦争の好機を待って、どこかで正規軍か軍閥とでも契約を結び、赦免を条件に政府軍に編入してもらうのである。
しかし王三は、匪賊になるのは、どうも気が進まなかった。飢饉や戦争のときには、匪賊になるものもあるが、父の王龍は、正直な人間で、けっしてそんなことはしなかった。三男はもう数年ほど辛抱して機会を待とうと思った。というのは、あまりながいあいだ夢にえがいていたので、それはまるで天のさだめた運命の必然であるかのようにも思われ、ただ、時期の到来を待って、好機をつかみさえすればよいのだ、と思っていたからである。
しかし彼は、辛抱強い性格ではなかった。好機の到来を待ちきれないものにした一つの事情は、彼がいま住んでいる南国がきらいになってしまったことである。彼は自分の生国である北方へ行きたいと熱望した。南方人が好んで食べる白い米がとてもいやで、もう飲みこむこともできないような気がした。にんにくの茎をまんなかに入れて巻いた、醗酵剤のはいっていない堅い小麦のパンを、大きな白い歯で思いきり噛んでみたいと思った。彼は南方人のなめらかな礼儀正しさを心から憎んでいた。いつもいつも、柔和な、如才《じょさい》のない態度をとるというのは、人間の本性に反するもので、どんな場合にも柔和にしているのは狡猾《こうかつ》だからだと思い、南方人にたいしては、わざと荒々しく大きな声でどなったりした。南方人のように小さな猿のようなからだではなく、背が高くて、言葉すくなく、かざり気のない、心のきびしい、まっすぐな北方の人々のいる自分の生国へ帰りたいとあこがれていたので、南方人にたいしては、いつも、しかめづらをしたり、どなりつけたりしていたのである。
彼らは、王三のこのはげしい怒りっぽい性質を、みな恐れ、そのしかめた黒い眉と、気むずかしげな口もとをこわがって、眉や口もとのようすや白い歯から虎を連想して、王虎《ワンホウ》とあだ名をつけた。
夜、小さな居室で、王三は、かたい、せまい寝台の上に寝ころびながら、夢を実現する計画や方法を考えた。もし父親が死ねば、その遺産がはいることはよく知っているが、父親は、なかなか死にそうもなかった。歯ぎしりしながら王三は、深夜、つぶやくのであった。
(老父は、おれが壮年期を過ぎるまで生きているだろう。早く死んでくれないと、おれがえらくなりそこねてしまう)
それで、ついにこの春、いたずらに待っているよりも、目的達成のためには、不本意ながらも匪賊にならねばならぬ、と決意するにいたったのであるが、ちょうどそのとき、父親危篤の報に接したのであった。
いまこの知らせを受けて、野原を横ぎって帰りながら、彼の胸はふくらみ、高鳴った。自分の進むべき道が、はっきり開けてきたのを感じ、匪賊にならないですむということが、とてもうれしかった。もし彼が無口の人間でなかったら、大声で叫びだしたであろう。それほどのよろこびであった。そうだ、何にもまして強く頭にきたのは、おれは運命を見まちがってはいなかった、遺産ですべてをまかなえることになったのは天の加護というべきだ、おれが偉大な人物になるのは天命だ、いまやおれは、果てしもなく栄えゆくおれの運命の第一歩を踏み出すことができるのだ、ということだった。
しかしこの歓喜、この興奮も、彼の顔色には、ぜんぜん出なかった。そのせいかんな顔には、どんな表情もうかんだことがなかった。母親ゆずりのしっかりした目と、きりりと結んだくちびる、岩のようにがっしりした顔つき、顔の筋肉そのものが岩のようにかたいのだ。彼は一言も言わずに自室へもどり、北方へのながい旅の準備をととのえた。四人の信頼のおける兵を選んで自分についてくるように命じた。簡単な準備が終わると、彼は老将軍が接収して住んでいる城内の大きな屋敷へ行き、衛兵に自分の来訪をとりつがせた。衛兵はすぐにもどってきて、おはいりください、と言った。
王三は部下に戸口で待っているようにと命じ、老将軍が昼食を食べている部屋へはいっていった。老将軍は、食卓の上にかぶさるようにして、ふたりの妾に給仕させながら食べていた。将軍は、からだも洗わず、ひげもそらず、着物をだらしなくひっかけて、ボタンもかけていなかった。老境にはいるにしたがって若いころの習慣にもどり、からだを洗うこともせず、ひげもそらず、身なりもかまわなくなったのである。それというのも、もとをただせば身分の低い、いやしい苦力《クーリー》であったからだ。そのころ彼は、あまり働きもせず、匪賊のようなことをしていた。戦争の混乱に乗じて匪賊をやめてから、どんどん出世するようになった。しかし彼は気持ちのよい、愉快な老人で、向こうみずに、無責任なことを平気で放言した。彼はつねに王三を歓迎した。いま自分が、老いて、ふとって、怠惰になってしまって、処理できないことを王三が代って始末してくれるので、尊敬もしていたのである。
王三は、はいってきて敬礼をしてから言った。
「ただいま父危篤の知らせをもって使者がまいりました。兄たちがわたしの帰るのを待っているそうです」
老将軍は心地よげに椅子の背にもたれて言った。
「行くがよい。父親にたいする義務をはたしたら、またわしのところへ帰ってきてくれ」それから腹帯をまさぐって一つかみの銀をとり出した。
「これをきみにあげる。旅行中はあまり無理をせんようにな」
それから、いっそう深く椅子にもたれかかった将軍は、いきなり奇妙な叫び声をあげた。虫歯の穴に、なにかはいったというのである。妾のひとりが頭髪にさしていた長い細い銀のピンを抜いて渡すと、老将軍は、忙しげに歯をほじりはじめ、王三の存在を忘れてしまった。
こうして王三は父の家へ帰り、胸のうちにたぎる焦燥をもてあましながら、遺産が分配され、早く老将軍のところへもどって行ける日を待っていた。しかし喪のあけるまでは計画を実行にうつすまいと考えていた。彼は、できることなら義務にしたがったほうがよいと考える慎重な人間であったから、喪に服して実行のときを待っていたのである。もはや夢の実現は確実である。だから、待つことも、それほど苦しくはなかった。彼は三年の喪の期間に、手落ちなくあらゆる手段をしらべあげ、銀をたくわえ、部下にしたいと思う人間をよく吟味して選んだ。
必要なものをもらってからというもの、父親のことは、枝が、生え出てきた幹のことを考える程度以上には、思い出さなかった。三男がこの程度以上には父のことを考えなかったというのは、いつも彼は物事をせまく深く考えるたちで、一時に一つのこと以外考えるゆとりがなく、心にただひとりの人のことを考える余裕しかなかったからである。そのひとりというのは、いまは、ほかならぬ自分自身のことであり、自分の一つの夢をのぞいては何も夢みていなかった。
その夢は、しぜんと大きなものになってしまった。
兄たちの家でぶらぶらしているあいだに、兄たちにあって自分にはないものを一つ見いだして、兄たちをうらやましく思った。彼がうらやんだのは女でもなく金でもなく道具でも裕福な暮らしでもなかった。どこへ行ってもみんなから、うやうやしくおじぎされることでもなかった。彼が一つだけうらやましく思ったのは、彼らが息子たちを持っていることであった。彼は兄の息子たちが遊んだり、けんかをしたり、さわいだりするのを、じっとながめていた。すると、とつぜん生まれてはじめて、おれも息子がほしい、と思った。戦野におもむく将軍が自分自身の息子を持っていることは望ましかった。いくら血縁といっても自分の息子ほど信頼できるものはない。息子があればよいと思った。
しばらくそのことを考えていたが、そんな気持ちは、すくなくとも現在はだめだ、とふりはらった。いまは女などにかかずらっているときではないのだ。彼はあまり女に心をひかれなかった。冒険をはじめるこのときにあたって、女などは、じゃまものにすぎなかった。妻にできぬようないやしい女など、求めたくなかった。息子がほしいために女を持つ以上は、正妻をめとって、りっぱな嫡子《ちゃくし》がほしい。それで当分は、この望みは心の奥に深くしまっておいて、遠い将来の問題とすることにした。
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王三《ワンサン》がついに南方から脱出して、独立の準備を進めているころ、ある日、王二《ワンアル》は兄に向かって言った。
「あすの朝おひまでしたら紫石街の茶館へきてくれませんか。ご相談したいことが二つあるのです」
長男は、弟がこう言うのを聞いて、いぶかしく思った。土地のことを相談しなければならぬのはわかっているが、もう一つのことというのはなんだろう。見当がつかないので、きいてみた。
「かならず行くよ。しかし、なんだね、もう一つの相談というのは?」
「末弟からふしぎな手紙がきたんですよ」と王二は言った。「わたしたちの息子を、よこせるだけよこしてくれと言ってきているんです。なにか大きなことをもくろんでいるらしく、そばに肉親の人間がほしいのだが、自分には子供がないから、というのです」
長男は、びっくりして、大きな口を開け、弟の顔をみつめながら、くりかえした。
「おれたちの息子を!」
王二はうなずいた。
「どうするつもりか、わたしにもわかりませんがね。とにかくあす、おいでになってください。よく相談しましょう」
そう言って家路を急ぎかけた。王二は穀物商店の帰りに道で兄を呼びとめたのである。
王一《ワンイー》は、なにごとも即座に片づけてしまうことのできないたちだった。また、いつでも出来事に応じられるひまな時間があるうえに、このごろは財産が自分のものになったので、陽気な気分になっていた。
「自分の息子をつくることくらい、男だもの、ぞうさもないじゃないか。あいつに嫁をさがしてやろうじゃないか」
彼は目を細め、何か気のきいたことを言おうとして、顔にいたずらっぽい表情をうかべた。王二はこれを見ると、ほんのかすかに笑い、例の陰気な調子で言った。
「しかし兄さん、あなたみたいに、そうお手軽に女をつくる人間ばかりもいませんからね」
言いすてて、さっさと彼は歩み去った。兄が道路に立ったまま、だらしない話なぞやりはじめて、通る人に足をとめて聞かれでもしたら困ると思ったからである。
翌朝、兄弟は茶館で会い、一隅のテーブルをみつけて腰をおろした。ここなら、茶館のなかは一目でながめられるが、他から話を聞かれる心配がない。
王一は、上座である内がわの椅子を、当然の権利としてしめた。それから給仕を呼んで、料理を言いつけた。甘い熱い菓子と、朝の食欲を刺激するために食べる塩からい肉と、熱い酒と、朝早くから飲んでも悪酔いしないための肉料理も注文した。美食家の兄が、気の向くままに注文するのを、王二は黙って聞いていたが、こんなにぜいたくな品ばかり注文して、その割前を払わされるのかどうかわからないので、それが心配で、もじもじしていたが、やがて、とうとうたまりかねて言った。
「兄さん、そんなにたくさんごちそうしてくださっても、わたしはいりませんよ。わたしは節制家で、小食なんです。ことに朝は食欲がないんです」
長男は、おうように言った。
「おまえは、きょうはおれのお客さんだ。心配しなくともよい。おれが払うから」
彼はそう言って弟を安心させた。料理がはこばれると、王二は、割前を払う必要がないと知ったので、安心して、できるだけたくさん食べた。いくら金があっても、できるだけ貯蓄するように心がけ、ふところを痛めなくてすむものなら、どんなものでも、できるだけ多く手に入れずにはいられないというのが彼のくせなのだ。他の人は古い衣服や、いらぬものは召使にやるが、彼は、そんなことはしなかった。ひそかに質屋へ持って行って、すこしでも金にかえるのである。彼は、やせていて、胃袋も小さいが、他人のごちそうとなると、詰めこめるだけ詰めこまないと気がすまなかった。一日か二日は食べなくてもいいように、無理をしても食べられるだけ食べるのである。それが、そんなことをしなくとも、すこしも困らぬほど金持ちなのだから、ふしぎである。
けさも王二は、食いだめでもするように、さかんに詰めこんでいた。兄弟は食べているあいだは、ぜんぜん口もきかず、食べることに夢中になっていた。そして召使が新しい料理を持ってくるのを待つあいだは、黙って腰かけて、部屋をあちこちながめまわしていた。食べている最中に、しかつめらしく用件を相談したりすると、食欲がなくなり、胃がふさがって、食べるものがはいらなくなってしまうからである。
彼らは知らないが、この茶館は、かつて王龍《ワンルン》がきて、歌妓の蓮華《リエンホワ》をみつけ出し、妾にするために身うけしたところである。王龍には、ここがすばらしいところに見えた。壁に、きれいな女を描いた絹の掛け軸がかかっていて、まるで魔法のように神秘な美しさに満ちたところに思えた。しかし、ふたりの息子にとっては、いつもくる平凡な場所にすぎず、ここが亡父にとってなんであったかなどということは夢想だにしたこともないし、父が町の人間のあいだにはさまって、自分の百姓姿に気がひけ、びくびくしながらはいってきたところだというようなことは、ぜんぜん知らなかった。ふたりの息子は、絹の着物を着て、ここにすわり、ゆったりと、あたりを見まわしていた。人々はみな彼らを知っているので、視線があうと、急いで立ちあがっておじぎをした。召使は、給仕をするために、急いでとんでくるし、茶館の主人までが、みずから熱い酒を運ぶ給仕人といっしょにやってくるのであった。
「これは新しく口をあけた酒ガメのものでございます。旦那さまがたのために、てまえみずから封印をあけましたもので」そして何度も、お気に召したかどうか、とたずねた。
息子たちはこういった調子だが、遠くはなれた一隅には、若いころの蓮華を描いた絹の掛け軸が、まだそのままかかっていた。若いすらりとした姿で、小さい手に蓮《はす》のつぼみを持っている絵である。かつて王龍は、この絵姿を見て、胸をとどろかせ、心を乱したものであった。いまは、王龍はすでになく、蓮華は老いてしまっている。彼女の若かりしころを描いた掛け軸は、煙で黒くなり、ハエの糞《ふん》が点々としみついたまま、そこにかけられたままになっているが、いまはもうかえりみる人もなかった。「あの隅《すみ》にかかっている絵は、どこの美人かね?」とたずねる人は、さらになかった。
王龍のふたりの息子ですら、その絵が蓮華であり、かつては蓮華も美しかったのだなどとは夢にも思わなかった。
ふたりはここで、人々から尊敬を受けながら、すわって食べつづけていた。王二は、どんなに努力しても、兄のように長く食べつづけることはできなかった。王二が、できるだけ多く、自分の限度以上に詰めこんで、これ以上はいらなくなってしまっても、兄のほうは、まだ元気に食べつづけていた。酒を飲み、酒のかおりを舌つづみをうちながら味わい、そしてまた食べるのである。さすがに、しまいには、からだに汗がふき出し、顔が脂《あぶら》でぎらぎらしてきた。さすがの大食家も、もうこれ以上ははいらないほど食べてしまうと、椅子の背にもたれかかった。給仕が熱湯でしぼったタオルを持ってきた。彼らは顔から首、手から腕まで順々にふいた。そのあいだに給仕が、食べ残しの皿や酒を運び去り、テーブルの上に散らかっている骨や食物のかけらをきれいにふきとって、新しい緑茶を持ってきた。こうして、やっと要談をはじめる準備ができたのである。
この時刻になると、午前もなかばを過ぎ、茶館は、家庭の妻子からはなれて、しずかに食事しようという男たちでいっぱいになる。彼らは食べ終わると、茶をすすりながら、友人と話をしたり、最近に見聞したことを語りあったりするのである。女や子供のいる自分の家では、気が落ちつくはずがない。女は泣いたりわめいたりするし、子供は泣いたりさわいだりする。女といい、子供といい、そういう天性なのだから、しかたがない。しかしこの茶館は男ばかりである。話をしてはいるが、みな低い声で話している。まったく平和な場所なのだ。このおだやかな、平和なふんいきのなかで、王二は、やせた胸のあいだから手紙を引き出し、封筒のなかの書面を兄の前のテーブルの上においた。
王一はそれをとりあげ、大きく咳ばらいし、ぶつぶつと口のなかで音読した。はじめに、ありきたりの、簡単なあいさつの言葉が、申しわけばかりに書いてあった。王三の字は、まことに彼らしく、率直で、黒々として、大胆奔放に書いてあった。手紙の本文は、つぎのようであった。わたしの銀を、できるだけ全部送っていただきたい。みんな必要なのだ。このほか、もしわたしに銀を貸してくださるなら、わたしが目下着手しつつあることに成功したあかつきには、高利をつけて返済する。十七歳以上の息子がいたら、それもわたしのところへよこしていただきたい。その子たちを、あなたがたが夢想する以上に出世させる。いま遂行しようとしている大事業には、ぜひとも身辺に信頼できる肉親のものが必要なのだ。わたしには子がないから、あなたがたの子をよこしてほしいのだ。銀を送ってくれるよう頼む。
長男はこれを読んで、弟の顔を見た。弟は、兄の顔を見た。兄は、いぶかしそうに言った。
「南方の将軍に仕えて軍隊にいると言っていたが、そのほかに何か言っていたかね。われわれの息子をどうするつもりなのか、それを言ってよこさないのは変じゃないか。なんだかわからないことに息子を投げこむような人間はいやしないよ」
彼らは、しばらく黙って、そこにすわったまま茶を飲んでいた。めいめい心のなかで、どこかわからぬところへ息子をやるのは乱暴なことだと思いながらも「息子を出世させる」という言葉にこだわっていた。ちょうどその年ごろの息子がいるから、ひとりくらい手放して出世の機会をつかませてもよいと考えていたのである。
王二は用心ぶかく言った。
「兄さんのところには十七歳以上の息子がいるでしょう」
兄は答えた。
「うちには十七歳以上のせがれが、ふたりいるから、次男だったら送ってもいいよ。子供たちを将来どうするか、まだ何もきめてないのだ。わしと同じで、うちではみんなしごくのんきに育ってきたものでね。長男は、あととりだから外へ出すわけにはいかぬが、次男は手放してもいい」
王二は言った。
「うちでは、一ばん上が女の子で、つぎが男だから、あの子を手放しましょう。兄さんのところの長男が家にいれば家名はついでもらえますからね」
それぞれすわったままで、自分たちの子供のうえに思いをはせ、彼らがどんな子供であり、その生活が親の自分にどんな価値を持つかを考えてみた。王一は第一夫人とのあいだに六人の子をもうけたが、そのうちふたりは子供のときに死んでしまった。妾とのあいだにも、ひとりいるし、あと一、二か月もすれば、もうひとり生まれる予定になっていた。これらの子供たちは、みな丈夫に育っているが、三番目の息子だけは、まだ生まれてほんの二、三か月の赤ん坊のときに奴隷があやまって床に落としたため、背骨がまがって、肩のところにこぶのようなかたまりができ、せむしになってしまった。それに頭がばかでかくて、ちょうど亀が頭を甲羅《こうら》にひっこめたように、その頭が肩のこぶのあいだにめりこんでいた。王一は、その子を診《み》てもらうために、あれこれと医者を呼んでみたり、ふだんは不信心のくせに、この子を直してくだされば、りっぱな着物を献上すると観世音に祈ってみたりしたが、ききめはなかった。この子は死ぬまで、その重荷をしょっていることになるだろうから、何もしてくれない観音さまにたいして着物をささげなかったことだけが、せめてものなぐさめであった。
王二は全部で五人の子持ちであった。三人が男で、一ばん上と一ばん下が女の子である。妻はまだ若いから、つぎつぎと子供が生まれた。からだも、すごく頑丈だから、中年になっても、まだまだ生みつづけることだろう。ふたりは、しばらく考えているうちに、こんなにたくさん子供がいるのだから、息子のひとりやふたり手放してもいい、と思えてきた。
とうとう王二は頭をあげて言った。
「弟に、なんと言ってやりましょうか?」
長男は、なかなか煮えきらなかった。長年、妻にばかりたより、なんでも妻にきめてもらって、妻に言われたとおりのことを言うことになれているので、自分の意見で、てきぱき決定することができないのである。
王二は、それを知っているから、じょうずにもちかけた。
「それじゃ、息子を両家でひとりずつ送る、また銀もできるだけたくさん送る、と言ってやりましょうか」
王一は、そう言われると、よろこんで答えた。
「そうだ、そうしよう。そうきめよう。よろこんで息子を送るよ。うちは子供たちでいっぱいで、大きい子は、けんかをするし、小さい子は泣きわめくし、すこしも静かに休むことができないのだ。おれは次男を送るから、おまえは長男を送るがよい。万一のことがあっても、うちの長男が残っていて家名をつぐから心配はない」
相談がきまって、ふたりは、しばらく茶を飲んで休み、今度は土地の話をはじめた。こうしてすわって、小声で土地を売る話をしていると、ふたりの胸には、強烈な思い出がまざまざとよみがえってきた。それは王龍の生前、ふたりが土の家のそばの畑のなかで、はじめて土地を売る相談をした日のことである。父親は老衰しているから、ふたりの話を聞くために出てくるような気力などよもやあるまいと思っていたのに、王龍はあとを追って出てきて、ふたりの「土地を売る」という言葉を聞きつけ、激怒してどなったものである。
「なんだと――土地を売るだと、このろくでなしの怠け者めが!」
はげしい怒りに身をふるわせて王龍は、両がわから息子たちにささえられなかったら、おそらく倒れてしまったことだろう。「いやいや、絶対に土地は売らんぞ――」と、くりかえしくりかえしつぶやいていた。父は、そんなはげしい怒りには堪えられぬほどの老齢だったので、息子たちは老父をなだめるために、けっして土地は売らないと約束しなければならなかった。しかしふたりは、うなずいている王龍の老いた頭の上で、たがいに顔を見あわせて笑った。土地を売る目的で会って相談をするこの日がくることを予知していたからである。
この日、ふたりは、土地を売って金をもうけたい気持ちはやまやまであったが、畑のなかへ出てきたあの日の老父の記憶がまだあまりにも鮮明なので、どうも考えていたほど気やすく土地を売る相談ができなかった。父の意見が、けっきょくは正しかったのかもしれぬと、心のなかに、売りたい欲望をおさえ、慎重な態度をとらせる気持ちがはたらいて、それぞれ、一度に全部売るようなことはしまい、たとえ不況がきて事業が不振となっても、食べて行くに十分な土地だけは手に残っているというようにしておかなければならぬ、と決心していた。このような時代には、いつ戦争が近くで起こるかもしれず、いつまた匪賊《ひぞく》にこの地方を占拠されるかもわからない。何かの災害に襲われるかもわからない。何が起こっても、なくならずに残るものを持っているほうがよい。しかしまた一方では土地を売った銀を高利に回したいという欲もあった。いろんな欲望で、ふたりは、どうしてよいかわからず、思いなやんでいた。
それゆえ、「どの土地を売りますか、兄さん」と王二が言うと、王一は、彼にしてはめずらしく用心ぶかく答えた。
「けっきょく、おれはおまえみたいに事業をしておらぬから、地主でいるよりほかにしかたがない。さしあたり必要な現金を手に入れられるだけの土地を売るだけにしよう。全部売るわけにはいかんと思う」
すると王二は言った。
「土地を見に行きましょう。わたしたちの持っている土地がどれだけあるか、どこにどのようになっているか、遠くへ散らばっているのも全部見てこようじゃありませんか。おとうさんは中年のころ、土地というと夢中になって、飢饉の年に安いのがあると、どこそこかまわず買っておいたから、この地方一帯にひろがっていて、なかには、ほんの二、三歩の小さな畑もあります。兄さんが地主になるなら、土地を近いところへまとめたほうが管理しやすいですよ」
これは合理的な名案に思えたので、王一は飲食物の勘定をすませ、給仕にチップをやった。そしてふたりは立ちあがった。長男がさきに立って歩いて行くと、部屋のそこかしこで、人々は席を立ってふたりにおじぎをした。このふたりのような城内の富豪とちかづきであることを誇示したいのである。王一のほうは、このように人々からちやほやされるのが好きなので、おうようにほほえんで会釈をかえしたが、王二は、目をふせて、ちょっと頭をさげるだけで、だれの顔も見ようとしなかった。うっかり親しくしようものなら、呼びとめられて金の無心でも言われはせぬかと、恐れているようであった。
こうしてふたりの兄弟は土地を見に出かけた。兄が肥満していて、からだが重く、歩き慣れていないので、弟のほうは、兄のおそい歩調にあわせて、ゆっくり歩くようにした。城門までくると、歩きつけぬ兄は、もう疲れてしまった。ロバに鞍をおいて客待ちしている連中がいたので、ふたりはロバに乗って城門を出た。
その日、ふたりは一日じゅう土地を見て歩いた。路傍の飯店で昼食をとり、あちこちに散在した畑を見るために遠くまで出かけ、広範囲にわたって歩きまわった。ふたりは地質から小作人の働きぶりまで、詳細に観察した。小作人たちは、このふたりの新しい地主の前で、おどおどと腰をかがめた。王二《ワンアル》はよく売れそうな土地を選定した。三男の土地は、土の家の周囲にあるすこしばかりの畑以外は全部売ることにした。しかし、ふたりは申しあわせたように土の家の近くへは行かなかった。また、大きなナツメの木の下に父親が埋葬されている小高い丘へも行かなかった。
夕方、疲れたふたりはロバに乗って、ふたたび城内へもどってきた。城門のところでロバを降りて、約束の賃銀を払った。馬方は、終日ロバのあとについて走って疲れているし、それに、だいぶ遠いところまで長時間歩かされて靴もいたんだから、すこし割増しをしてほしいと要求した。王一がやろうとすると、王二は言った。
「おまえたちには、払うだけのものは、ちゃんと払ったのだ。靴がどうなったところで、それはこちらの知ったことじゃない」
そう言いすてて立ち去り、馬方どもがぶつぶつののしる声には耳もかさなかった。ふたりは、別れてめいめいの家へもどるとき、共通の目的を持つ人間らしく、たがいに顔を見あわせた。王二が言った。
「兄さんさえよければ、きょうからかぞえて七日目に息子たちを弟のところへやりましょう。わたしが自分で連れて行きます」
王一はうなずいて、疲れた足どりで、自分の家の門をくぐった。彼は一生を通じて、この日ほど働いたことはなかった。だから彼は、地主の生活というのも楽ではない、なかなか骨の折れるものだ、と思った。
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予定の日になると王二《ワンアル》は兄に言った。
「兄さんとこの次男は用意ができましたか。うちのは、したくができていますから、あすの朝早く、わたしが子供たちを連れて、弟のいる南の都へ行って、引き渡してきます。あとは弟がなんとかするでしょう」
その日|王一《ワンイー》は、二番目の息子を面前に呼んだ。ふだん、あまり気をつけて見たことがないから、どんな子か、末弟が言ってきた目的にかなうような子かどうかを、よく見ておきたいと思ったのである。次男は、呼ばれるとすぐやってきて、待っていた父の前に立った。この少年は背が低く、柔弱そうで、神経質な顔をしていた。美しくもないし、臆病で、ものおじするたちで、手はたえずふるえているし、掌は、いつもしめっていた。いま父の前に立って、彼は無意識に、ふるえる手をくねらせていた。顔をふせているが、ときどきちらと上目づかいに父を見ては、また頭をたれた。
王一は、この子が他の子供たちと離れてひとりでいるのを見るのは、これがはじめてなので、しばらくじろじろ見ていたが、やがてふいに、ちょっと思案しながら言った。
「おまえと長男が入れかわるとよかったな。長男のほうがおまえよりも体格がいいから、将軍になるのに向いている。おまえはひどく弱々しい。馬に乗れるかどうかわからんな」
これを聞くと、急に次男は膝を折り、わなわなふるえている指を組みあわせて父に哀願した。
「ああ、おとうさん、軍人になるなんて、思っただけでもいやです。わたしは本が好きなので、学者になるつもりでいました。おとうさん、わたしを、おとうさんやおかあさんのそばにおいてください。学校へやってくださいとは申しません。ひとりで、できるだけ読んだり勉強したりします。軍人にすることだけやめてくだされば、何もご迷惑をかけないようにします」
このことについては、何もまだ自分はしゃべってないのに、どうしてもれてしまったのだろう、と王一は思った。王一は、何ももらさなかったと言いきれるかもしれないが、事実は、彼は、なにごとも自分の胸につつんでおけないたちの人間だった。だからいつも、何か考えがうかんだり、秘密の計画を立てたりしても、自分でも気がつかぬうちに、ため息をついたり、半分言いかけてやめてみたり、異常な顔つきをしたりして、感づかれてしまうのである。彼は、だれにも話さなかったと誓うだろうが、実は、長男に話し、夜、寝室で妾《めかけ》に話し、最後に、その同意を得るために、やむをえず妻にも話したのである。妻には言葉たくみに話したので、彼女は息子がいますぐにも将軍になれるように思いこみ、内心では夫が軍人に向かぬように、この息子も軍人には不向きだと感じていながら、よろこんで同意したのであった。長男は、いつもわざと怠惰な、ふまじめな態度をしていて、何も知らないようなふりをしているが、実は利口な若者で、みんなが想像する以上によく物事を知っているので、そっと弟をつかまえては、いじめたり、からかったりしていたのである。
「おまえはあの乱暴な叔父さんの尻にくっついて下っぱの兵隊にされるんだぞ!」
二番目の息子は、鳥が殺されるのを見ても逃げ出し、嘔吐《おうと》をもよおすような子だった。胃が弱くて、肉はほとんど食べることができなかった。彼は兄にそう言われると、恐怖にわれを忘れ、どうしていいかわからなかった。半信半疑ではあったが、夜も眠れなかった。なにごとも手につかず、ただ父に呼ばれるのを待っていた。それでいま、父の前に身を投げ出して慈悲を乞《こ》うたのであった。
しかし王一は、次男がこんなふうにひざまずいて哀願するのを見ると腹が立ってきた。彼は自分が権力の位置にあると知ると、おそろしく頑固になったり、すぐにかんしゃくを起こしたりする人間なのである。いまも彼は床瓦の上で足を踏みならしてどなりつけた。
「おまえは行かなければならん。これは、にがすことのできない好運なんだぞ。おまえの従弟《いとこ》も行くのだ。よろこんで行くのがあたりまえだ。おれが若くてそんな機会にめぐまれたとしたら、さだめしよろこんだことだろうが、おれの若いころには、こんな機会はなかった。おれは、なんでもないのに南へやられたことがあるが、そこにも、すこししかいなかった。母親が死んで、父親に呼びもどされたのだ。父の命令にそむくなどということは、かりそめにも思ったことがなかった。いいか、夢にも思わなかったのだぞ。おれは、叔父の高い地位のおかげでえらくなるなどという好機にはめぐまれなかったのだ」
そう言って王一は、急にため息をついた。なぜなら、もし自分がこの息子のような好機にめぐまれていたら、いまごろは、どんなにえらくなっていたことだろう、と思ったからである。金ピカの軍服を着て、大きな背の高い軍馬にまたがり――将軍というものは、そんなようすをしているものと、彼は思っていたのである――どんなにりっぱに見えたことだろう! おれは将軍にふさわしい巨大な体躯《たいく》をしている! そう彼は自負していたのである。彼は、もう一度ため息をつき、そして目の前の小さな、みじめな息子をながめた。そして言った。
「叔父のところへやるには、もうすこしましな息子がほしいと思うが、おまえ以外には、ちょうど年ごろの子がいないのだから、しかたがない。長男はあととりだし、家族のなかで、おれのつぎの身分だから、家を離れるわけにはいかない。おまえの弟は、せむしだし、そのつぎのは、まだほんの子供だからだめだ。だから、おまえが行かなくてはならんのだ。泣いたってしかたがないぞ。どうしてもおまえが行かなくてはならんのだからな」
彼は立ちあがり、この息子のことで、これ以上わずらわされたくないので、急いで部屋から出て行った。
王二のほうの息子は、こんな子ではなかった。陽気で、騒々しい少年で、あばたづらなので、名まえのかわりに、だれからも、両親からさえも、「あばた」というあだ名で呼ばれていた。天然痘にかからぬようにと、三歳のときに、この地方の習慣で母親が患者のかさぶたをもらってきて鼻のなかへ入れたところ、あまり強すぎたので、かえって発病して天然痘にかかってしまい、それ以来ずっとあばたが残っているのである。
王二は、この子を呼んで言った。
「あす、おとうさんといっしょに南へ行くんだから、衣類をまとめておきなさい。おまえを軍人の叔父さんのところへ連れて行ってやる」
この子はいつも新しいものを見たり、自分の見たことを、いばってふれまわるのが好きなたちだから、これを聞くと狂喜してとびあがり、そこらを走りまわった。
母親は台所の戸のそばで、小さなコンロの火にかけた鍋をかきまわしていたが、そのことは初耳だったので、顔をあげて大きな声で叫んだ。
「大事な銀を使って、なんのために南へなんぞ行くんですか」
王二はそこで妻に話して聞かせた。彼女は、依然鍋をかきまわしながら聞いていたが、その目は鶏料理をしている女中のほうにも向けられ、女中が肝臓や腹のなかの卵をこっそり盗みはしないかと監視していたので、耳にはいったのは夫の言葉の最後の部分だけだった。夫は言っていた。
「冒険かもしれないよ。子供を出世させるというのが、どんな意味か、わしにもよくわからんのだ。しかし商売のほうをつがせるには他に息子もいることだし、うちでは、十七歳以上というと、この子だけだからね。兄貴のところでも、ひとりやるんだ」
妻はこの最後の言葉を聞いたとき、即座に息子をやる決心をした。そしてすぐに言った。
「兄さんとこの息子も行って、高い身分に出世させてもらうというのなら、わたしたちだって、ぜひとも息子を行かせなければいけませんよ。そうしないと、しょっちゅう、嫂《ねえ》さんが軍の英雄になった息子のことを自慢するのを聞かなければなりませんからね。この子は、からだばかり大きくなって、ふざけて騒いでばかりいて困りますから、もうそろそろ何かさせなくてはならないころなんです。あなたがおっしゃるように、店のほうは、ほかに子供がいますから、思いきってやりましょうよ」
あくる朝、王二は、それぞれ衣類をたずさえたふたりの少年を連れて出発した。王一の次男は自分の持ち物を豚皮で張った箱に詰め、気むずかしく、くよくよしていた。彼の目はまだ赤く泣きはれていたが、箱のなかに入れてある本がひっくりかえってめちゃめちゃになったり、下男が上下をまちがえたりしないで、ちゃんと箱を運ぶように気をくばっていたので、いつまでもぐずぐずしていた。王二の息子は本など一冊も持っていなかった。すこしばかりの衣類を大きな青い木綿の風呂敷につつんでもらって、自分でそれを持っていた。そして、走ったり、何かみつけると大きな声で叫んだりして、歩いて行った。
明るく晴れた春の日であった。町の通りには、はしりの野菜がいっぱいならんでおり、忙しげに売買されていた。この子にとっては、よい年であり、そしてよい日であった。はじめての旅行に出かけるのだし、それに、けさは母親が好物のごちそうをつくって食べさせてくれたので、とても元気であった。もうひとりの少年は、気どったふうをして、のろのろと、黙って歩いていた。うつむいて、従弟のほうなど、ほとんど見向きもしなかった。青ざめたくちびるが、ひどくかわいらしく、ときどき舌でなめてしめしていた。
王二は、子供に注意を払うようなたちではなかったので、ふたりの少年と歩きながらも、自分のことばかり考えていた。町の北の停車場までくると、王二は金を払って汽車に乗りこんだが、王二は、子供にはこれでたくさんだといって一ばん安い切符を買ったので、王一の次男は、たいへん恥ずかしい思いをした。にんにくの悪臭のしみこんでいる洗ったこともない木綿の着物を着て、ひどく貧乏たらしいにおいのする人たちのすわっている車へはいっていって、そういうきたない、いやしい人々のあいだに絹の着物を着てすわらねばならないからである。しかし彼は叔父から心のなかで軽蔑されるのを恐れて、何も言わずに席につき、隣にすわっている農夫とのあいだに荷物箱をおき、ここからもどって行かねばならぬ下男を悲しげに見送った。それでも彼は叔父には何も言えないのであった。
王二とその息子は、こんな貧乏人のなかに立ちまじっても、ちっとも目立たなかった。あまりりっぱなかっこうをしていて末弟に実際以上に金持ちとみられると困ると思って、王二は朝起きたときに、木綿の着物を着こんできたからである。また、息子のほうは、まだ絹の着物などを持っていなかった。彼が着ている丈夫な木綿の着物は、大きくなってからも着られるようにというので、母親が、だぶだぶに、うんと大きくつくってくれたものだった。王二は兄の子を見て、意地悪そうに言った。
「おまえの着ているようなりっぱな着物で旅行するのはよくないな。その絹の着物はぬいで、たたんで箱へ入れておきなさい。下着のままがいい。着物はとっておくのだな」
すると少年は小声で言った。
「これよりももっといいのがあります。これは毎日家で着ているふだん着です」しかし彼は叔父にさからおうとはせず、立ちあがって言われたとおりにした。
こうして彼らはその日一日じゅう汽車で陸路を旅した。王二は、通過する町や畑を、値ぶみでもするかのように熱心にみつめていた。王二の長男は新しいものを見るたびに歓声をあげ、停車するたびに、呼び売り人が持ってくる菓子を食べたがったが、父親は何も買ってくれなかった。王一の次男のほうは、汽車の速度が早いものだから酔ってしまって、まっさおな顔をしてふるえていた。そして、荷物箱の上に頭をもたせかけて、一日じゅうものを言わず、食べものをやっても頭をふるだけで食べようとしなかった。
それから彼らは小さな混みあった船に乗って、二日間長江を旅し、ついに目的の町へ到着した。船から降りて陸にあがると、王二は人力車を二台雇い、一台にふたりの少年を乗せ、一台に自分が乗った。少年たちが乗った人力車の車夫は、ふたりも乗ったから倍も重いと言って、ひどく苦情をならべた。王二は、このふたりは、まだほんの子供で大人《おとな》ではないのだし、それに、ひとりはこんなに青ざめて、やせていて、病気のために標準よりも軽いのだから、と主張し、とうとう押し問答のすえ、もうすこし賃銀を増すことにして、やっと車夫を納得させた。それでも、もう一台雇うよりは、ずっと安あがりだった。
王二は、命じた場所に人力車がつくと、ふところから手紙をとり出して、手紙の住所と門に書かれた標札が同一であるかどうかをたしかめた。それから人力車を降り、ふたりの少年も降りさせた。そして、車夫が言ったほど距離が遠くなかったので、またさんざん値ぎっては、はじめ約束した賃銀をまけさせた。それから荷物箱の片隅を持ち、向こうの隅をふたりの少年に持たせて、両側に石でつくった獅子が立っている大きな門をはいって行った。
すると獅子のそばに立っていた兵隊がどなった。
「なんだ。勝手にこの門をはいって行っていいと思っているのか」
兵隊は肩から銃をはずし、銃床で石の上をどんとついた。その兵隊が獰猛《どうもう》な粗野な顔つきをしているので、三人はびっくりして立ちどまった。王一の息子はふるえだし、あばたづらの少年でさえ、そんなに近くで銃を見たことがないので、一瞬、厳粛な顔になった。
そこで王二は、急いで弟の手紙をふところから出して番兵に渡し、読んでみてくれるようにと言った。
「この手紙に書いてある三人がわたしたちです。これが何よりの証拠です」
ところが、その番兵は字が読めなかったので、大きな声で、もうひとりの兵士を呼んだ。その兵士がやってきて、しばらく三人をみつめていたが、やがて話を全部聞き終わると手紙を手にした。しかしこの男も字が読めなかった。それで、しばらくながめたのち、それを持ったまま、どこか、なかのほうへ姿を消した。ながいことたってから、もどってきて、親指でなかをさして言った。
「ほんとうだったよ。隊長殿の親類だから入れてもいいそうだ」
そこで彼らは、ふたたび荷物箱を持ちあげて、石でつくった獅子の横を通ってはいって行った。銃を持った兵隊は、まだ通すのが気が進まぬような顔をして、うさんくさそうに見送っていた。別の兵隊のあとについて、十|棟《むね》ほどの営舎を通り抜けた。どの営舎内も、兵隊がごろごろしていた。食べたり飲んだりしているものもいるし、裸で日向《ひなた》ぼっこしながら衣服についている南京虫や虱《しらみ》をとっているものもいた。眠っていびきをかいているものもあった。そうしたなかを歩いて行くと、奥まったところに建物があり、そこの中央の部屋に王虎《ワンホウ》がすわっていた。王虎はテーブルの前に腰をおろして彼らを待っていた。あらい外国製の黒っぽい布地でつくった上等の服を着ていた。上着の胸は記号のついた金ボタンでとめてあった。
彼は兄の一行を見ると、すぐ椅子から立ちあがり、部下に酒と肉を持ってこいと大きな声で命じておいてから、兄に向かっておじぎをした。兄もおじぎを返して、ふたりの少年にもあいさつするようにと注意した。それから長幼の順序にしたがって席についた。王二が上座をしめ、そのつぎが王虎で、ふたりの少年は下座のテーブルの横のほうにすわった。従兵が酒を持ってきた。従兵が、みんなの杯《さかずき》についでまわっているあいだ、王虎は、ふたりの少年をながめていたが、やがて、だしぬけに、例の荒々しい声で言った。
「赤づらのほうは丈夫そうだが、そのあばたづらのうしろに、はたして知恵があるかな。道化者のようだな。兄さん、おどけものじゃないでしょうな。笑ってばかりいるのは、わしはあまり好かんのでね。兄さん、あなたの子ですって? そういえば母親似のところがあるようだ。もうひとりのは――上の兄さんは、どうしてもっとよい子をよこすことができなかったのかな」
王虎がそう言うと、青ざめた顔をした長兄の息子は、さらにいっそううつむいてしまった。上《うわ》くちびるに冷たい汗がういているのが見えた。それを少年はこっそりぬぐったが、顔だけは強情に、ずっと下に向けたままであった。王虎は、黒い、いかつい目で、少年たちをじっと見すえていた。するとついには、めったにまごついたことのないあばたの少年ですら、目のやりばに困って、あっちを見たり、こっちを見たり、足をもじもじ動かしたり指のつめをかんだりした。王二は、わびるように言った。
「まったく、できのわるい子供たちさ。おまえの親切に値するだけのよい子がいなくて、兄さんもわたしも残念に思っている。しかし、兄さんのところでは、この子の上は、あととりだし、下の子は、せむしだからね。このあばたの子は、うちの長男だが、つぎのは、まだほんの子供だし、ほかにいないから連れてきたのだよ。現在のところ、このふたりが、まあ一ばんましなのだ」
少年たちをつくづく観察してしまうと、王虎は従兵を呼んで、ふたりを別室へ案内させ、そこで食事をさせるようにした。そして、呼ばれなければこの部屋へくるには及ばない、と言った。従兵が案内しようとすると、長兄の息子は悲しげな顔をして、ふりかえって叔父を見た。王虎は少年がためらっているのを見て大喝《だいかつ》した。
「なにをぐずぐずしているか!」
少年は立ちどまって弱々しい声で言った。
「荷物箱を持って行ってもいいでしょうか」
王虎が見ると、入り口のところにりっぱな豚皮の箱があった。彼は軽蔑をこめた口調で言った。
「持って行け。しかし、そんな着物などやめて、がっちりした軍服を着るのだから、箱などいらなくなるぞ。絹の着物で戦争はできんからな」
これを聞くと少年の顔は鉛色になった。しかし彼は黙って出て行った。あとには兄と弟だけが残った。
王虎は儀礼的に話をしたりする人間ではなかったから、ながいあいだ黙ってすわっていた。とうとう兄のほうが口を切った。
「何をそんなに深く考えこんでいるのかね。あの子供たちのことか」
王虎はゆっくりと答えた。
「いや、そうではないですよ。ただ、わたしくらいの年配のものは、たいてい育ちざかりの息子を持っている。さぞ楽しいことだろうと思っただけです」
「なに、おまえだって早く結婚すれば、もう大きい子がいるはずだ」王二はすこし笑いながら言った。「しかし、ながいあいだ、おまえがどこにいるのか、わしたちにも、おとうさんにもわからなかった。だから、おとうさんも、おまえを結婚させることができなかったのさ。今度は、わしたちがよろこんで嫁をさがすよ。結婚費用は別にとってあるからな」
王虎はそんな考えをきっぱりと払いのけて言った。
「兄さんは奇妙だと思うでしょうが、わたしは女がきらいなんです。ふしぎなことに、女を見ると、いつも――」ちょうどそう言いかけたとき、従兵が料理を持ってはいってきたので、中途で話をやめ、兄弟は、もうそれ以上何もしゃべらなかった。
食べ終わって、皿がかたづけられ、茶が運ばれると、王二は、弟が銀を全部と甥《おい》たちを使って何をするつもりなのかをきこうとしたが、どういうふうに切り出していいかわからず、うまい文句を考えているうちに、王虎が、だしぬけに言った。
「われわれは兄弟だ。あなたとわたしは、たがいに理解しあっていると思う。わたしはあなたを信頼しています」
王二は茶をすすって、用心ぶかく、おだやかに言った。
「兄弟の間柄なのだから、信用してもらって結構だ。しかし、おまえのためにどうしてやればよいか、ともかくおまえの計画を知りたいものだ」
すると王虎は、身をのり出して、強い声を低めて語りだした。早口な言葉がほとばしり出て、呼吸が熱風のように王二の耳に吹きつけた。
「わたしには忠実な部下がいる。百人以上います。彼らはここの老将軍がいやになっている。わたしもいやになっています。わたしは自分自身の領土がほしいのです。わたしはもうこんなちっぽけな黄色い顔の南国人を二度と見たくないと心からそう思っているのです。わたしには忠実な部下があります。わたしが合図すれば、彼らは闇にまぎれてわたしとともに脱出します。われわれは北方の山岳地帯に向かうつもりです。そして、ずっと北のほうへ進む計画です。もし老将軍が追撃してくれば山を根拠に塹壕《ざんごう》を掘って革命のために戦うつもりです。しかし将軍は、年をとっているし、酒色におぼれているから、兵を動かすようなことはしまいと思う。わたしの百人の部下は、将軍の麾下《きか》の軍隊のうちでも、一ばん優秀な、一ばん強い精鋭をよりすぐったものです。南方人ではなく、もっとせいかんな、もっと勇敢な連中です!」
王二は、小柄な、平和な人であり、そして商人であった。彼も絶えずどこかで戦争が行なわれていることは知っていたが、ただ一度革命軍の兵隊が父の家に宿営したときをのぞいては、戦争とはなんの関係もなく、戦争がどういうふうにしてはじめられるものか、どういうふうに戦われるものか、何も知らなかった。ただ知っているのは、近くで戦争があると穀物の値があがり、遠ければ、さがるということだけだった。彼は戦争というものを近くで見たことはなかった。それなのに、自分の家族のなかへ、いま、いきなり戦争がはいりこんできたのである。彼は、せまい口をぽかんと開け、小さい目をみはって、ささやきかえした。
「わしのような平和な人間が、それを手伝うには、どうすればいいかね」
「それはこうです。わたしはいくらでも銀がほしい。わたしの分ばかりでなく、ほかに、あなたがうけとる分も、わたしが自立するまで、低利で貸していただきたい」彼のささやく声は、鉄と鉄とがきしみあうようなひびきを立てた。
「だが、担保は?」王二は息もつかずにきいた。
「それはこうです」と弟はふたたびくりかえした。「わたしは故郷の北方にあるどこかの地方を根拠として大軍を集め、全省を支配しようと思っています。そのときまで、わたしが必要とする銀と土地からの収入とを、わたしに貸してください。全省の支配者になれば、戦っては領地をひろげ、戦うごとに、だんだん大きく、偉大になって、ついには――」
そこで彼は言葉を切った。遠い将来にきたるべき時代を、どこかの遠い国を眼前にはっきりと見ているかのような面持ちであった。王二は、つぎの言葉を待っていたが、待ちきれなくなって言った。
「それで最後には?」
王虎は、いきなり立ちあがった。
「最後には、全国土にわたしよりも偉大なものがいなくなるまで戦います」そう言ったとき、彼のささやき声は、まるで絶叫するかのように聞こえた。
王二はびっくりしてきいた。
「そうなると、おまえは何になるんだね」
「わたしがなろうと思うものになります」と王虎は叫んだ。とつぜん、彼の黒い眉《まゆ》が目の上に鋭くさか立ち、彼は平手でどんとテーブルをたたいた。王二は、そのどんという音にとびあがった。ふたりは、たがいに顔を見あわせた。
これは王二がいままで聞いた話のうちで、もっとも奇怪な話だった。彼は偉大な夢を夢みるような性質ではなかった。彼のもっとも大きな夢は、夜、帳簿を持ってすわりこみ、その年の売りあげをしらべ、翌年商売をひろげる安全確実な方法を計画することであった。だから彼は、驚いてすわりなおして、弟の顔をしげしげとみつめた。まったく弟は背が高く、色が黒く、尋常でなかった。両眼は虎の目のように輝き、黒い眉が一文字に目の上に幟《のぼり》のようについていた。
見ているうちに、彼は弟が恐ろしくなったほど、心が動いてきた。弟の目は、なかば狂気じみた光りかたをしているが、同時に、非常に力強い、威圧的な輝きがあった。だから彼は、弟の意に逆らうことを言いだす勇気がなかった。王二のしなびた心にさえ、弟であるこの男の威力が感じられたのである。しかし彼は用心ぶかい性質だった。なにごとにも用心する習慣を忘れることができなかった。それで彼は、かわいた咳《せき》ばらいをして、うるおいのない、細い声で言った。
「そうなったとしても、それでわしや、わしたちに、どんな利益があるのかね。かりに、わしが銀を用立てるとして、何が担保になるのかね」
すると王虎は兄の上に目をすえて厳然と答えた。
「わたしが高い地位についたとき、自分の兄弟やその息子たちを忘れると思うのですか。あなたは、わたしの兄であり、あなたの息子は、わたしの甥《おい》ではありませんか。偉大な軍閥の領袖《りょうしゅう》が、自分の地位があがるにつれて、一門のものを取り立てて出世させなかった例がありますか。帝王《ヽヽ》の兄になるということが、あなたには、なんでもないことなのですか」
そう言って彼は兄の目をのぞきこんだ。次兄は、こんな奇怪な話は、聞いたこともないので信じたくはなかったが、このとき急にこの弟の言うことを、なかば信じるような気持ちになった。だが彼は分別くさい例の調子で言った。
「ともかくおまえの分の銀は出すことにしよう。もしおまえの言うように出世ができるというならね――世のなかには、自分ではそう思っても、思うほど出世のできない人が多いものだが――わしの分も、できるだけ用立てることにしよう。すくなくとも、おまえの分だけは、かならず送るよ」
火のようなものが、とつぜん王虎の目から消えた。彼は腰をおろして、くちびるをかたく一文字に結んだが、やがて言った。
「あなたは用心ぶかい。まったく用心ぶかい人だ」
その声が、非常にかたく、冷ややかに聞こえたので、次兄は、すこし恐ろしくなって言いわけをした。
「わしは家族があって、子供が多い。女房もまだ若いし、たくさん子供を生むたちだから、将来のことも、あれこれと考えておかねばならぬ。おまえは独身だから、おおぜいのものを養って、何かにつけてたよられるということが、どんなにたいへんなものかわかるまいが、食糧や着物の値段は毎年高くなるし、まったく容易ではないのだよ」
王虎は肩をすくめて横を向いた。そして、無造作に言い放った。
「わたしには家庭のことなどぜんぜんわかりません。ともかく毎月、兄さんのところへ、わたしの信頼する人間を使いに出します。みつ口の男ですから、すぐわかります。そいつに、運べるだけたくさんの銀を渡してください。できるだけ早く、できるだけいい値に、わたしの土地を売ってください。わたしは月に銀一千枚はいるのです」
「一千枚!」と王二は叫んだ。あまりびっくりしたので、声はしわがれ、目はにぶく、まるで白痴の目のようになった。
「いったい、そんなに何に使うのかね」
「百人の部下を養い、軍服を着せ、武器を買い入れなければなりません。武器を早くぶんどることができなければ、部隊を増強する前に銃を買わなければなりません」王虎は早口に言った。そして、急に腹を立てた。「あれこれと質問する必要はない」大きな声でどなって、またテーブルをたたいた。「わたしはなすべきことを知っている。わたしが身を立て、一地方の領主になるまでは銀がいるのだ。そうすれば思うままに税金がとれる。だが現在は銀がいるのだ。わたしを助けて力になってくれれば、相当な報酬があるはずです。わたしを見すてるなら――よろしい、わたしもあなたが肉親だということを忘れよう」
この最後の言葉を言い放ったとき、彼は自分の顔を兄の顔のすぐ近くまで突き出した。兄は弟の濃い黒々とした眉の下の恐ろしい目を見て、あわてて身をひき、咳ばらいして言った。
「もちろんわしは助けるよ。兄弟だもの。ところで、いつからはじめるのかね」
「いつわたしの土地が売れますか」
「そうだな。小麦のとり入れどきまで、もういく月もないな」王二は考えながら、ゆっくりとそう言って、ためらった。弟から聞いた話で、頭がぼんやりしてしまったのである。
「そのときになれば農家に銀がありますね。それでは稲作のはじまる前に、きっといくらかは売れますね」と王虎は言った。
それはたしかにそのとおりだし、それに王二はこの奇妙な弟が恐ろしくなっていたので、すこしも弟の言葉に反対しようとはしなかった。なんとか弟の言うようにとりはからわねばならぬと考え、立ちあがって言った。
「そんなに急ぐのなら、すぐ帰ってとりかからねばならぬ。百姓というものは、収穫の銀はすぐ使ってしまって、すぐにまた貧乏ったらしく、けちくさくなるのだよ。そうなると、種まきをしたり働いたりするのは、これまでの土地だけでいっぱいで、これ以上とても新しい土地など買えない、というふうに考えてくるのだ」
王二は、そこらじゅうに恐ろしい兵隊や小銃や武器のあるこの場所から、早く立ち去りたいと考えていたので、すぐ帰ることにした。帰る前に子供たちが入れられている別室へ行ってみた。ふたりの少年は、小さな、白木のままのテーブルを前にして、腰掛けにかけていた。テーブルの上には、王二と王虎の食べ残した肉がのっていた。王虎は子供たちは残りものでたくさんだと考えたらしい。王二の息子は、茶わんを口にあてて、よろこんでかきこんでいたが、長兄の息子は神経質で、他人の残したものなど食べたことがなく、もっとおいしいものばかり食べつけているものだから、残りものの肉には手もつけず、米飯をすこしばかり箸《はし》でつまんでいた。王二は、ふたりの子供を、とくに自分の子供を、ここへ残して行くのは、妙に気の進まぬ、いやな思いだった。息子を連れてきて、ここへおいておくのは、危険なことではないかと、しばし疑う気持ちになったが、しかしすでに第一歩は踏み出されたのである。いまさら、あとにひくことはできないと思いかえして、陽気に言った。
「わしは帰る。ただ一つおまえたちふたりによく言っておくが、叔父さんの命令には、なんでも服従するのだぞ。叔父さんは、はげしい気性で、気短かだから、さからうと許してくれないぞ。叔父さんの言うとおりに従順にすれば、おまえたちの知らないほど高い地位に出世させてくれる。叔父さんは出世する天命を受けているのだからね」
彼はそう言って、すばやく背を向けて出て行った。息子を残していくのが予想していたよりも気がかりになって、どうにもやりきれなかった。自分をなぐさめるために、彼は心のなかでつぶやいた。
(こんないい機会は、どの子にもあるというものじゃない。機会としては絶好の機会なのだから、もし弟が成功すれば、いつまで普通の兵隊にはしておかないだろう。すくなくとも将校にはとり立てるだろう)
彼は、弟を成功させるためにできるだけつくさねばならぬ、自分の息子のためにも弟の成功に尽力しなければならぬ、と決心した。
青い顔をした長兄の息子は、叔父が立ち去るのを見て、泣きはじめた。声を出して泣きつづけるので、王二は、急いで部屋を出て行ったが、泣き声は、いつまでも彼のあとを追ってきた。泣き声が聞こえなくなるように、彼は石の獅子のある営門へと急いだ。
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このふしぎな計画は、しだいにその緒についてきた。もし王龍《ワンルン》の魂が、どこか遠い国にいるのでなかったら、この計画は王龍を怒らせ、地下に眠っている肉体を起きあがらせてしまったことだろう。王龍は存命中、戦争と兵隊を、何よりもきらっていたからである。それなのに、いま、彼がもっとも嫌悪していたもののために、大事な土地が売られようとしているのである。しかし彼は地下に眠りつづけていた。息子たちのしていることをやめさせるものは、だれもいなかった。梨華《リホワ》だけは、これを知れば、やめさせようとしただろうが、その梨華も、息子たちのしていることを、ながいあいだ知らなかったのである。息子たちは、梨華が亡夫にたいして貞節であるので、彼女を煙《けむ》たく思い、自分たちの計画をかくしていたのだ。
王二《ワンアル》は帰宅すると、茶館で落ちついて相談するために、長兄をさそい、ふたりは例によって茶をすすりながら話しあった。こんどは、王二は、窓口も戸口もない、二つの壁にかこまれた、奥まった、ひそやかな一隅を選んだ。ふたりは人がくればすぐ見えるような位置に腰をおろし、人が近づくと、テーブルの上に顔をつきあわせて、とぎれとぎれの、暗示的な言葉をつかってささやいた。
王二は長兄に弟の計画を説明するのだが、話をしている彼自身にとっては、自宅へ帰り自分のいつもの生活にもどってしまったいまとなっては、軍人である弟の計画は、まったく夢であり、しかも実現不可能の夢としか思えなかった。ところが、聞いている王一《ワンイー》のほうは、王二の語る末弟の遠大な計画にすっかりほれこんで、すばらしい、しかも容易に実現しうる計画だと考えた。からだは肥って大きいが、子供っぽいところのある長兄は、次弟の話によって末弟の計画が眼前に展開されてくるにつれて、すっかり夢中になり、興奮して、この上もない高い身分――帝王の兄という地位にのぼった自分の姿を空想しているのであった。
彼は学問もあまりなく、知恵は、もっとわずかしかなかった。しかし、芝居を見るのが大好きで、昔の伝記の英雄が、ありふれたいやしい身分から身をおこし、武力や知略によって立身出世し、ついに帝王となり、王朝のいしずえを築いたというような筋の時代劇をたくさん見ているので、そうした英雄の肉親としての自分、いや、単なる肉親ではなく、長兄としての自分を思い描いて、興奮していたのである。彼は目を輝かして、しわがれた声で次弟にささやいた。
「あの弟は、ほかの人間とはちがうと、おれは前から言っていたのだ。おやじが百姓にしようとするのをやめさせて、家庭教師を雇い、大地主の息子として恥ずかしくないように教育を受けさせたのは、このおれなんだ。あれも、おれのしてやったことは忘れていないだろう。もしおれがいなかったら、いまごろは、おやじの畑で働いている農夫にすぎなかったろうからね」
彼は満足げに、紫の繻子《しゅす》の長衫《チャンサ》の上から大きな腹をなで、自分の次男の将来だの、家門の繁栄を思った。自分も貴族くらいにはなれるだろう。弟が皇帝になれば、自分も貴族になれることは疑いない。そんな話を本でも読んだことがあるし、芝居でも見たことがある。
王二のほうは、自分自身の生活にもどって落ちつけば落ちつくほど、弟の計画が疑わしくなってきた。この静かな町にいると、弟の壮大な計画も、はるかに遠いことのように思えた。しかし長兄の心が将来にとんで、弟の計画の成功を夢みているのをさとると、彼は、ねたましくなり、万一計画が成功した場合に、自分だけがとり残されては損をすると思った。
(ひょっとして弟の計画は成功するかもしれないから、ここのところは慎重に考える必要がある。成功したときに、おれだけがとり残されて割前がとれなくなったらたいへんだ)と考え、大きな声で言った。
「わたしは弟に軍資金を出してやらなければなりません。わたしがそれをやってやらないと、弟は何もできないのです。自立の基礎ができるまで、莫大《ばくだい》な資金がいるらしいのですが、どうやってその金を都合してやればいいかわからないのですよ。わたしは、ほんの小金《こがね》持ちで、大富豪にくらべたら、もののかずではありません。最初の二、三か月は、弟の土地を処分して調達してやりますが、それからあとは、わたしとあなたの土地を一部分売ることにしましょう。しかし、そうまでしてやっても弟が成功できなかったら、そのときにはどうしましょうかね」
「おれが助けてやる――おれが助けるよ――」と長兄は、あわてて言った。彼は、他の人間に自分よりも多く末弟を援助させたくなかったのである。ふたりは共通の利益を欲ばる気持ちから、急いで立ちあがった。王二は言った。
「もう一度、土地を見に行きましょう。そして今度は売る交渉をしましょう」
こんどもまたふたりは、土地を見に出かけて行くとき、梨華のことを思い出し、土の家の近くへは寄りつかなかった。城門のところで客待ちしているロバのなかから二頭を選んで乗り、畑のなかの、せまい畔道《あぜみち》を進んで行った。馬方の少年は、うしろについて走りながら、早く歩かせるために、さかんにロバの腿《もも》をたたいたり声高くしかりつけたりしていた。こうして彼らは北に向かって進み、土の家と、その周囲の畑のそばを通ることを避けた。王二の乗ったロバは、元気に進んだが、王一の乗ったロバは、その重みにたえかねて、細い脚をよろよろさせていた。彼は月ごとに肥満してくるので、もう十年もたてば、城内からこの地方一帯にかけて、もっとも肥満した驚くべき存在となるにちがいない。まだ四十五歳になったばかりのこんにちでさえ、べんべんたる巨腹をつき出して、頬の肉はこぶのように厚く、たれさがっていた。こんな重荷を背にして歩きなやんでいるロバのために、王二のほうは歩調をゆるめて待ってやらねばならなかったが、それでもその日一日のうちに、土地を売りつけてやろうと|めぼし《ヽヽヽ》をつけていた小作人のところだけは、すべて回ることができた。王二は、これらの小作人のだれに向かっても、いま耕している土地を買う気はないかどうかときき、もし買う気があれば、いつごろ買うか、いつまでに支払いができるか、などときいた。
王虎《ワンホウ》は最初から銀をほしがっていたので、早晩土地を銀にかえるため、城内から一ばん遠いところにあって一ところにかたまっている広い面積の土地を王虎には分配しておいたのである。そこは、ひとりの農夫が借りて耕していた。その農夫は、まじめで実直で、相当暮らし向きもよかった。もとは王龍の畑で働いていた作男であるが、その後、城内の王龍の屋敷にいた奴隷女を嫁にもらった。この嫁は、丈夫で、正直で、おしゃべりであるが、よく働く女だった。子供も、つぎつぎと生んだ。それに、自分がよく働くばかりでなく、ひとりで放っておいたら、とてもそんなに働くまいと思われるほど亭主をもはげしく働かせた。彼らは、だんだん豊かになり、毎年、王龍の土地を借り増して、いまでは作男を雇って働かせるほど、広い土地を耕作していた。しかし彼ら夫婦は、倹約な人間だったから、自分たちも、いまだに畑へ出て働いていた。この日、ふたりの兄弟は、この男のところへやってきた。王一は彼に向かって言った。
「わしたちは土地があまっているのだが、他の事業をするために銀が必要になったのだ。おまえは、いま耕している土地を買いたくないかね。買いたいなら売ってあげるよ」
農夫は牝牛のようなまるい目を見開き、そっ歯の口を開けた。彼がものを言うと、声が歯のあいだからもれて、唾《つば》がさかんに飛んだ。生まれつきだからどうにもしようがない。
「あなたのおとうさまは、あんなに土地を大事にしていらっしゃったのに、もうあなたがたは土地をお売りなさるのかね。わしは、そんなことは夢にも思いませなんだ」
王一は厚いくちびるをひきしめて、むずかしげな顔をして言った。
「おやじは土地が好きだったが、たいへんな重荷をわしたちに残して行った。わしたちは、おやじの残したふたりの妾《めかけ》を養わねばならないのだよ。どちらも、わしたちの母親ではないが、年上のほうは、うまい酒や、ぜいたくな料理が好きで、毎日、賭けごとばかりしている。それも勝ちでもすればいいのだが、頭が悪くて、しょっちゅう負けてばかりいるのだ。土地からの収入は、はいってくるのがおそいうえに、天の気まぐれで、天候によって、よいときと悪いときとがある。わしたちのような屋敷に暮らしていると、費用も容易ではない。父親の生きているときよりも貧乏くさい、けちな生活をすれば、息子として恥ずかしいし、体面にもかかわる。土地を一部売って、生活費にあて、体面を保たなければならないのだよ」
王二は長兄のもったいぶった言葉を聞きながら、気をもんでそわそわし、咳ばらいしたり、眉《まゆ》をひそめたりしていた。売りたいと思って一生けんめいになると、足もとを見られて値ぎられることはわかっているのに、あんなことをくだくだしゃべって、長兄は、ばかではなかろうかと思った。それで、急いで口を出した。
「土地を買いたいという問い合わせが、方々からたくさんきているのだ。おやじが買った土地が、このへんでは一ばんよいということが、よく知れ渡っているのでね。もしおまえが、いま使っている土地がいらなければ、すぐ知らしてくれ。他に待っている人がおおぜいいるのだから」
そっ歯の農夫は、自分がいま耕作している土地を愛していた。その土地については、すみずみまで知っていた。土の状態から、傾斜ぐあいから、収穫を確実にするためのみぞの掘り方まで、ぜんぶ心得ていた。それに、この土地には、よい肥料も、どっさりつぎこんである。家畜や家族の糞便だけでなく、遠く城内まで出かけて行って、苦心して肥料を運んできたのである。幾度も幾度も、朝早くから起きて、城内へこやしをとりに行ったものだ。彼は、自分が苦労して運んだ臭気のひどい重い荷物のことや、この土地につぎこんだ自分の労力を考えると、この土地を人手には渡したくなかった。彼は、ためらいがちに言った。
「この土地を自分のものにしようと思ったことはありましねえだ。わしのせがれの代にでもなったら、売ってくださるかもしれねえなどと考えてましただがね。いまお売りなさるのなら、どうすればわしに買えるか、ようく考えてみて、あすご返事いたしますだ。それにしても、値段は、いくらでがしょうな?」
兄弟は顔を見合わせた。王二は兄が安いことを言っては困ると思って、兄が口を開かぬうちに、すばやく答えた。
「値段は世間の相場どおり公平な値段にしよう。一段銀五十枚の割りではどうかね」
これはたしかに高すぎた。城内からこんなに遠く離れた土地にしては、だれが見ても高すぎて、相談になるものではない。しかしその値段を土台にかけひきがはじまるのである。農夫は言った。
「わしは貧乏だで、そんな高い値段では買えねえですだよ。ようく考えてみて、あすご返事しますだ」
王一は早く銀がほしいので言った。
「すこしくらいなら負けてもいいぜ」
王二は怒った目を兄のほうに向けた。もっとばかげたことを兄が言うと困るので、兄の袖を引っぱって、そこを立ち去りかけた。すると農夫が、うしろから声をかけた。
「よく考えてから、あすまいりますだ」
彼がそう言ったのは、女房と相談しなければならぬという意味だったが、女房の意見を尊重するなどと言えば、男として値うちがさがるような気がしたので、自尊心を保つために、こう言ったのである。
農夫は、その夜、女房と相談して、翌日、王兄弟の住む城内の屋敷へ行った。そして、取引きの交渉をし、一生けんめい値ぎった。それはちょうど王龍が、かつて黄《ホワン》家のものだったこの屋敷へきて、黄家の土地を値ぎって買ったのと同じようであった。黄家は没落し、離散して跡かたもなく、いまはただその全盛時代に築いたこの屋敷のレンガや石が、そのなごりをとどめているにすぎない。ついに値段が折り合った。王二の言った値段より三分の一ほど安い値段であったが、場所柄からいえば、まず公正な値段というべきであった。農夫はちょうどそれくらいの値段以下ならば買ってもよいと女房に言われていたので、よろこんで買うことにきめた。
「代金は銀で払いますだかね。それとも穀物で払いますだかね」と農夫はきいた。王二は即座に言った。
「半分銀で残り半分は穀物にしてくれ」
穀物で受けとれば、倍か二倍に売って、いくらか余分の銀をかせぐことができる。そうしたところで、けっしてそれは弟のものを盗んだことにはならないだろう。穀物がすこし高く売れたところで、それは、だれにも関係のないことで、利益は、彼の労力に対する報酬として、当然、彼のものである。そう胸算用して、半分穀物でと言ったのであった。すると農夫は言った。
「そんなにたんとは銀がありましねえだよ。いま三分の一だけ銀で払って、三分の一は穀物で払いますだ。あとの三分の一は、来年の収穫物から払う約束にしてくだせえ」
すると王一は、居丈高《いたけだか》に目をぎょろつかせ、足を踏み鳴らし、大広間の椅子を蹴って立ちあがった。
「来年の天候がどうなるか、どんな雨が降るか、収穫がどうなるか、どうしてわかるのだ?」
農夫は、地主である城内の富豪の前に、おずおずとかしこまっていた。彼は、しゃべる前に舌でそっと歯をなめて、辛抱づよく言った。
「わしら百姓は天のなさるままですだよ。ご心配なら、あの土地を抵当にしてくだされ」
とうとう土地を抵当にすることにきまった。三日目に百姓は銀を持ってきた。それも一度にでなく、三回にわけて持ってきた。いつも棒状にしばった銀を青い布に包んで、ふところの奥ふかくかくして持ってきた。三回とも、ゆっくりと銀をとり出し、銀を手ばなすことに何か肉体的な苦痛を感じているかのように、顔をしかめ、悲しげなようすで、しぶしぶテーブルの上におくのであった。この銀には、長年の辛苦が、何貫目かの彼の肉そのものが、彼の筋肉の力が、はいっているのだ。すこしずつ、あちこちにかくして貯蓄してあったのをかき集め、足りないぶんは借りられるだけ借りてきたのである。この銀のたくわえすらも、血のにじむような、苦しい、つましい生活によって、やっと生み出したものなのだ。しかし、ふたりの兄弟には、そんなことはわからず、銀だけしか目にはいらなかった。ふたりが領収書に捺印《なついん》すると、農夫は、ため息をついて帰って行った。そのあと、王一は、さげすんだ調子で言った。
「百姓はいつも、生活が苦しいとか、すこししか儲けがないとか言って愚痴《ぐち》ってばかりいるが、あの男のように銀がたまるものなら、だれだってよろこんで百姓をする。あの男だって、そう生活が苦しいわけでもあるまい。土地から、こんなに銀がたんまり取れるのなら、これからは、おれも小作人からもっとしぼってやろう」
彼は絹の長い袖をまくりあげ、ぶよぶよした青白い手をさすり、銀をつまみあげて、女の指のように関節にえくぼのあるふとった指のあいだから銀を落としてみた。王二は銀を取りあげ、もうすでに数えてあるのだが、もう一度、慣れた手つきで、すばやくかぞえあげ、十個ずつに分けて、店員がするようにきれいに紙に包んだ。王一は、この銀が自分のものにはならずに出て行ってしまうので、不機嫌そうに王二のすることをながめていたが、やがて、「全部送らなければいけないのかね」と、ものほしげにきいた。
兄は銀がほしくなったのだと見てとって、王二は冷淡に答えた。
「全部送らなければなりません。いま送らないと弟の計画は失敗します。わたしは穀物を持って行って、すぐに売らなければなりません。弟の使者がくるまでに銀を用意しておかなければならないですからね」
彼は穀物をすこし高く売ろうと思っていることなど、兄には言わなかった。兄は商人のこうした金もうけの術を知らないから、眼前にある銀の包みが弟に持ち去られるのを見て、ただ嘆息しているだけだった。王二が去ってからも彼は、しばらくそこにすわっていた。銀を盗みとられでもしたような気がして、なんだか、ふところ寒い、憂うつな気持ちだった。
梨華は、兄弟たちのあいだで、どんなことが行なわれているかを、いつまでも知らずにいたことだろう。王二は、ずるい男で、自分のしたことをおくびにも出さなかったし、毎月おきまりの手当を持って行くときですら、そぶりにも示さなかった。王虎に固く言われたとおり、王二は毎月、銀二十五枚ずつ梨華のところへとどけた。はじめてそれをとどけたとき、梨華は、おだやかな声で言った。
「二十枚だけいただくことになっていたと思いますが、あとのこの五枚は、どうしたお金なのでございましょう。旦那さまの残されたこのおかわいそうな娘さんさえいなければ、二十枚もいらないのですけれど。この余分の五枚のことは聞いておりません」
王二は答えた。
「受けとっておきなさい。末弟が、あなたにも二十五枚さしあげるようにと言って行ったのですよ。この五枚は弟の分け前のなかから出ているのです」
梨華はこれを聞くと、小さな手をぶるぶるふるわせながら、大急ぎで五枚の銀をかぞえ、やけどでもするのが恐ろしいかのようなふぜいで、わきへ押しやった。
「これはちょうだいできません――いいえ、わたしの分以外はいただけません」
はじめ王二は無理にも受けとらせようと思った。しかし、弟の計画のために自分が金を出している危険を思い、弟のために土地を売ったり銀を調達してやっているのに、その努力に対して、なんの報酬ももらっていないことを思い、また弟の壮挙が万一失敗するかもしれぬことをも念頭にうかべた。あれこれと思いめぐらして、梨華が横へ押しやった銀を注意深くかき集めて、自分のふところへしまいこんだ。そして例の小さな静かな声で言った。
「そうだな。そのほうがいいかもしれないね。あなたよりも年上の蓮華《リエンホワ》さんが二十五枚なのだから、年下のあなたは、それよりもすくなくしておくのが当然かもしれない。弟に、そう言ってやりましょう」
しかし、彼女の気質を飲みこんでいるので、彼は、いま彼女が住んでいるこの家だって末弟のものだということは黙っていた。この家で梨華が白痴と暮らしているほうが、万事都合がよいからである。もし、この土の家も末弟のものであると知らせたなら、梨華はそこに住まなくなってしまうかもしれない。だから彼は、それ以上何も言わずに立ち去った。
梨華は、ときどき何かの用事で会う以外は、城内の屋敷に住む家族たちとは、ぜんぜん会わなかった。ただ季節の変わりめごとに王一の姿を見かけるだけであった。春になると、彼は、地主のつとめとして、小作人に種子をはかってあたえなければならないので、畑へ出てくるのである。しかし、そんなときでも、尊大な、高ぶったようすで立って見ているだけで、自分は何もせず、雇ってある代理人にはからせていた。秋のとり入れの前にも、畑のみのりぐあいを見に出てきた。小作人が、ああだ、こうだと泣きごとをならべ、凶年だとか、雨がすくなかったとか言って、小作料をへらしてくれと訴えるときに、うそを言っているのかどうか知っておく必要があったからである。
このように、王一は年に二、三回は城内から出てくるが、畑を見まわる仕事は、どうも気が進まないらしく、いつも不機嫌で、汗をかき、暑がっていた。だから梨華の姿を見ても、ぶつぶつと口のなかでぶあいそうにあいさつするだけだった。梨華のほうは、彼を見ると、ていねいにおじぎをしたが、しかし、できるだけものを言わないようにしていた。というのは、彼はひどく自堕落になっていて、女とみれば、こっそりと妙な目つきをするくせがあるからである。
梨華は、王一がこんなふうに往来するのを見ていたので、土地は以前のとおりであって、王二は自分の土地と三男の土地とを管理しているものとばかり思っていた。だれも彼女には何も教えなかった。梨華は、気やすくうわさ話の相手になるような女ではなかったからである。子供に対する以外は、静かな、うちとけない態度をとっていて、おだやかではあるが、なんとなく人を近づかせないものがあった。彼女には、ひとりも友人がなかった。ただ最近は、ほど遠くないところにある尼寺の尼さんたちと親しくなっていた。緑の柳の垣《かき》にかこまれた、灰色のレンガづくりの尼寺に住んでいる数人の尼さんたちであった。この尼さんたちが、梨華に忍従の教えを説きにくると、彼女は、よろこんで迎えて、その教えに耳を傾け、尼さんが帰ってからも、いつまでもその人たちのことを考えていた。王龍の魂の冥福《めいふく》を祈ることができるように、仏の道に仕えたいと望んでいたからである。
そんな事情だったから、王龍の息子たちが土地を売っていることなど、まるで知らなかったのである。王一のせむしの子が、例の小作人がはじめて土地を買った年の秋、遠くからみつからぬように父親についてきて、みのった畑に出てこなかったら、いつまでも知らずにいたかもしれない。
このせむしの子は、ひどく変わった子で、屋敷の中庭で遊んでいるどの子にも似ていなかった。彼の母親は、だれにもわからぬ理由で、彼が生れ落ちた瞬間から、彼を嫌悪していた。他の子供たちにくらべて、青ざめた、みにくい顔をしているためかもしれないし、あるいは、子供を生むのがいやになって、生まれる前からその子をきらっていたのかもしれない。ともかく母親がきらっていたので、その子は、生まれ落ちるとすぐ奴隷女の手で育てられ、奴隷の乳を飲まされた。その奴隷女は、主人の子に乳を飲ませるために、自分の乳のみ子をよそへやられてしまったので、それをうらんで、何も知らぬ赤ん坊の彼をにくんでいた。そして、赤ん坊に似合わない悪賢そうな目をしているとか、赤ん坊がそんな目をしているのは凶兆だとか、とても意地の悪い赤ん坊で、乳を飲むとき、わざと乳房をかむとか、いろんな苦情を言っていた。あるとき、中庭の木かげにすわって、乳をふくませていた奴隷女は、悲鳴をあげて敷石の上に赤ん坊を落とした。人々が何か凶事でも起きたかと見にくると、奴隷女は赤ん坊が血の出るほど乳房をかんだと言って胸を開いてみんなに見せた。なるほど乳房からは血が流れていた。
その日から、この子は、せむしになった。彼の成長力は、すべて背中の大きな|こぶ《ヽヽ》のなかに集まってしまったかのように、そこだけが高くなった。だれもが彼をせむしと呼んだ。両親ですらそう呼んだ。あわれな不具者になってしまった彼は、他にも兄弟がおおぜいいるものだから、だれからも、ちっともかまわれず、ほったらかしにされ、字も習わせられず、何もさせられなかった。彼は早くから人目につかぬ場所にいることをおぼえ、とくに彼の背中のこぶのことを残酷にからかう子供たちから見えぬところにいるようになった。彼は背中に大きなこぶを背負い、びっこをひきながら往来をうろついたり、ひとりで遠くの畑のほうまで行ったりした。
このとり入れの日にも、彼は、だれからも姿を見られぬようにして、父親のあとをつけてきた。畑へ行かなければならぬ日には、父親は機嫌が悪いのをよく知っているので、父親にみつけられぬように気をつけた。そうして、土の家のところまで父親について行った。父親はそこを通り過ぎて、畑のほうへ行ってしまった。せむしは、土の家の戸口にすわっているのはだれだろうと立ちどまって見た。戸口にいたのは王龍の忘れ形見の白痴の娘だった。いつものように日向《ひなた》ぼっこをしていたのである。からだはすっかり成長して大人であるばかりでなく、年齢ももうほとんど四十歳に近く、髪には白髪がまじっていたが、頭脳は相も変わらず白痴の子供同然で、顔をしかめながら、小さな布切れをたたんで遊んでいた。せむしは、この白痴を見るのは、これがはじめてなので、ふしぎそうにながめていたが、やがて例の意地悪根性を出して、白痴をからかいはじめ、白痴の真似をして、しかめっ面をして見せたりした。せむしが白痴の鼻の下でぽきっと大きな音を立てて指をならしてみせると、白痴の娘は、びっくりして悲鳴をあげた。
梨華が、なんだろうと思って小走りに出てきた。せむしの子は梨華を見ると、びっこをひきながら逃げだして、竹やぶのなかにもぐりこんだ。そして竹やぶのかげから、小さな野獣のように目を光らせていた。梨華は相手がだれであるかを見てとると、やさしい、さびしげなほほえみをうかべて、ふところから小さな菓子をとりだした。白痴の娘が何かのはずみで、急に強情になって、言うことを聞かないようなときに彼女をなだめすかすために、いつも菓子を用意していたのである。
その菓子を梨華は、せむしの子のほうへさし出した。せむしは、はじめのうちは、ただじっと梨華をみつめていたが、やがて、とうとうはいだしてきて、菓子をつかみとると、いっぺんに口へ押しこんだ。せむしの子をさそって、梨華は戸口の腰掛けの自分のそばへすわらせた。少年が、からだをねじ曲げるようにして、やっとすわるのを見、その背中の大きなこぶの下に、小さな疲れたような顔があり、目は深い悲しみの色をたたえており、からだが小さいという以外、大人だか子供だかわからないような表情をしているのを見ると、梨華は腕をのばして少年のねじ曲がったからだを抱いてやり、情愛のこもった、やさしい声で言った。
「あなたは、わたしの旦那さまのお孫さんね。あなたみたいなお孫さんがいると聞いていたけれど」
すると少年は、いきなり彼女の腕をふりはらい、うなずいただけで、立ち去ろうとした。梨華は、それをなだめて、もう一つお菓子をやり、やさしくほほえみながら言った。
「あなたの口は、わたしの亡くなった旦那さまに似たところがあるわ。旦那さまはいま、あそこのナツメの木の下のお墓に眠っていらっしゃるのよ。わたしは旦那さまが亡くなってしまって、とてもさびしいの。あなたは、どこか旦那さまに似ているところがあるから、ときどき遊びにきてくださいね」
せむしの子は、そんな親切なことを言われたのは、はじめてだった。金持ちの子として生まれたのに、兄弟たちからのけものにされ、召使たちですら、母親が彼をきらっていることを知っているので彼には無関心だし、給仕をするときでも彼を一ばんあとまわしにした。いつも、じゃまものあつかいにされることに慣れているので、またきてほしいなどとやさしく言われると、少年は悲しげな顔をして、じっと梨華をみつめた。少年のくちびるがふるえはじめ、なぜか自分でもわからぬうちに、とつぜん涙が流れて、わっと泣きだした。
「ぼくを泣かせちゃいやだ――どうして泣けるのか、わからないけど――」
梨華は、こぶでまがった背中に腕をまわして、なぐさめた。少年には、言いあらわそうと思っても言いあらわせなかっただろうが、梨華の腕にさわられると、これまでに味わったこともないほどやわらかいやさしい感じがして、なぜか知らぬが、言いようもなく心をなぐさめられるのであった。しかし梨華は、そういつまでも彼をあわれんではいなかった。彼女は、少年の背中がまっすぐで、ほかの子と同じように丈夫であるかのように彼をあつかったのである。
せむしの子は、彼のことなど、どこへ行こうが、何をしようが、だれもかまわないので、しばしばこの土の家へ遊びにきた。毎日のようにきて、ついに少年の心は、すっかり梨華に結びついてしまった。梨華は少年の扱いかたが、じつにうまかった。少年をたよりにしているように見せかけ、白痴の娘のめんどうをみるのにどうしても少年の助力が必要であるようなふりをした。それまでは、だれもこの子に手伝いを頼んだこともなく、いつも無用のものとしてあつかわれていたので、彼はそれですっかり自信をつけて、静かなおとなしい子になり、意地悪な、ひねくれた気持ちが、月日がたつにつれて消えて行った。
もしこの子がいなかったら、梨華は、土地が売られていることなど、知るよしもなかったであろう。少年としたら、いつも頭にうかんだことを、なんでもみな梨華に話すので、土地を売る話をしたとは気がつかず、無意識のうちにしゃべったのである。ある日、あれこれしゃべっているうちに、せむしの子は言ったのである。
「ぼくには兄《にい》さんがいるけど、ぼくの兄さんは、えらい軍人になるんだよ。そのうち大将軍になる叔父さんのところへ行って、軍人になる勉強をしているんだ。叔父さんは、いつか王さまになるんだってさ。そうなれば兄さんは大将になるんだって、おかあさんが言ってるのを聞いたよ」
少年がそう言ったとき、梨華は戸口の腰掛けにすわっていた。彼女は、畑のはるかかなたに目をやりながら、いつもの静かな声で言った。
「叔父さんは、そんなにえらいの?」彼女はそこで言葉を切って、しばらく黙っていたが、ふたたび言った。
「軍人は残酷だから、叔父さんも軍人なんかでないといいと思うわ」
しかし少年は、すこしいばって言った。
「叔父さんは一ばんえらい将軍になるんだよ。いさましくて強い英雄なら、ぼくは軍人になるのが一ばんいいと思うな。叔父さんがえらくなったら、ぼくたちも、みんなえらくなるんだ。毎月、うちのおとうさんと、二番目の叔父さんが、軍人の叔父さんがえらくなるために、銀を送っているんだよ。恐ろしいみつ口の兵隊が銀をとりにくるよ。銀は、いつかは叔父さんがみんな返してくれるんだって、おとうさんがおかあさんに言っていたよ」
梨華は、この話を聞いているうちに、かすかなあやしい疑いが心のなかにわいてきた。彼女は、ちょっと考えてから、さりげなく、ただつまらぬ好奇心からのように、やさしくきいた。
「そんなにたくさん銀が、どこからくるんでしょうね。二番目の叔父さんが、お店から借りてくるのかしら?」
少年は自分の知っていることをしゃべるのが得意のようで、無邪気に言った。
「そうじゃないよ。おじいさんの土地を売ってるんだよ。百姓が毎日のようにやってきて、ふところから包みをとり出すんだ。それがみんな銀なんだ。おとうさんの部屋のテーブルの上におくと、お星さまみたいにきれいに光るよ。ぼくは何度も見たよ。ぼくは小さくて、なんの値うちもない人間だから、ぼくがそばで見ていても、だれもなんとも言わないんだ」
梨華は、急に立ちあがった。いつも静かなやさしい物腰の人なのに、あまり急に立ちあがったので、少年はびっくりして、ふしぎそうに彼女をながめた。梨華は自分をおさえて、非常にやさしい調子で言った。
「ちょっと用事を思い出したのよ。わたしの留守のあいだ、わたしのかわりに、かわいそうな白痴の娘を見ていてくださいね。あなたのように信頼できる人はいないんですものね」
せむしの子は誇らしい気持ちで、梨華のために白痴の番をした。いままでしゃべっていたことなど、すっかり忘れてしまい、梨華が出かける準備をしているあいだじゅう、白痴の娘の上着の端を誇らしげに握ってすわっていた。このふたりのかわいそうな姿には、急いでいても、一瞬、足をとどめてふり返らせるほどの哀れさがあった。彼女は心をひかれて、悲しい、やさしいほほえみをくちびるにうかべた。ほかにだれも愛するもののいない梨華は、このふたりを、いとおしくながめたが、しかしいまの彼女の心には、吐き出さねばならぬ大きな怒りが渦巻いていた。
彼女は道を急いだ。それは静かな怒りであったが、強い怒りでもあった。彼女の怒りは、いつも静かな怒りだった。彼女は、兄弟のところへ行っても、父から受けついだ大切な土地、幾世代も王家に伝わるように、けっして手ばなしてはならぬと亡父が遺言していった土地を、事実どう処分しているのかを知るまでは、心を安んじることができなかった。
彼女は畑のなかの細い畔道《あぜみち》を急いだ。道を歩いているのは彼女ひとりであった。青い木綿の野良着を着た農夫たちが、かがみこんで働いている姿が、はるか遠くのほうにちらほら見えるだけで、ほかには人影もなかった。このごろ涙もろくなっていて、畑や農夫の姿を見ながら歩いていると、目に涙があふれてきた。王龍のことが思い出された。王龍は、この畔道をよく歩いたものだった。彼は心から土地を愛していた。だから、ときどき立ちどまっては、一握りの土を手にとって、指のあいだでかきまぜてみたりしたものだった。彼は、土地をいつまでも自分のものにしておきたいので、けっして一年以上の小作契約を結ばなかった。それなのに息子たちは土地を売っているのだ!
王龍は死んでしまったけれど、梨華にとってはまだ生きていた。彼の魂は畑の上を飛びかけっているのだ。畑が売られれば、きっと王龍にはわかるにちがいないと梨華は感じていた。昼でも夜でも、急に冷たい風が顔にあたったら、魂が通り過ぎるのだといわれていた。だから、そのような小さなつむじ風が道を吹きぬけたりすると、いつも梨華は顔をあげて、ほほえむのであった。彼女にとっては父親のようであり、自分を王龍に奴隷として売りつけた実の父親よりもずっとなつかしい老王龍の魂がきたのかもしれないと思ったからである。
王龍の存在を感じながら、彼女は急いで畑道を通って行った。畑は美しく、ゆたかなみのりを見せて横たわっていた。五年間ほど飢饉がなかった。今年も凶作ではないだろう。畑はよく手入れがゆきとどいて、よくみのっていた。刈り入れにはまだすこし早い青い背の高い小麦が波のようにゆれていた。麦畑のそばを通ると、麦のあいだから、そよ風が起こった。そして、まるでだれかの手でなでられたように、麦はさざなみを立て、銀色になめらかにそよいだ。彼女はほほえんで、どうした風だろうといぶかりながら、ふたたび風が麦のなかに沈んで静かになってしまうまで、しばし足をとめて見守っていた。
行商人が果物などの店をひろげている城門のところへくると、うつむいて、目を地上に落とし、顔をあげて人と目を合わせるのを避けた。人々も彼女に、なんの注意も払わなかった。彼女は小柄で、ほっそりしていて、もう以前のように若くもないし、黒っぽい上着を着て、顔には白粉《おしろい》もはかず紅《べに》もつけず、際《きわ》立って人目をひくようなところはなかった。こうしてうつむいて急ぎ足で行く梨華の静かな青白い顔を見ても、大きな深い怒りが胸に燃えていて、はげしく勇敢に兄弟たちを非難しようと、いちずに思いこんで歩いているとは、だれしも夢想だにしなかったであろう。
城内の屋敷の大門までくると、案内もこわずに通り抜けて行った。老いた門番が、敷居のところに口を開けて居眠りしていた。その口のなかから、まばらに残っている歯が三本ばかり見えていた。彼女が通ると、驚いて目をさましたが、梨華であることがわかると、また居眠りをはじめた。彼女は考えてきたとおり、まっすぐ王一の家へ行った。彼女は王一を心からきらってはいたが、王二の欲ふかな心よりは、まだしも王一の心のほうが動かせる望みがあると思ったからである。王一は、めったに意識的に不親切なことをすることはなかった。間が抜けているかもしれないが、どうかすると、だらしないほど親切な心情の持ち主で、その瞬間あまりめんどうがかかることでなければ、親切なこともできる人だと知っていた。しかし王二のほうの冷酷な細い目は彼女も恐れていた。
第一の中庭にはいると、きれいな若い奴隷がぶらぶらしていた。中庭で用をしている若い下男の目を引こうとして、奥から抜け出してきているのである。梨華は、その奴隷に、ていねいに言った。
「奥さまに、ちょっと用事があってまいりましたが、お目にかかれますかどうか、うかがってください」
王一の第一夫人は、王龍の死後、梨華にたいして、いくらか好意を持つようになっていた。蓮華にたいするよりも、ずっと親しみを見せていた。蓮華は下品で、言葉につつしみがないが、梨華は、しとやかだったからである。法事か何かで家族が集まった儀式のとき、梨華に会って、第一夫人は、こんなことさえ言ったのである。
「あなたとわたしは、ほかのだれよりも近いものを持っているようです。わたしたちの心の目は、ほかの人たちよりも、ずっとこまかくて繊細なのですわ」
最近、彼女は、こうも言った。
「お話にいらしてください。尼さんや坊さんたちが神仏について教えてくださることを話しましょうよ。ここの家で信心ぶかいのは、あなたとわたしだけですわ」
梨華が土の家からほど遠くない尼寺から尼さんを呼んで説教を聞いていると聞いたので、そう言ったのである。
それで梨華は、まず第一夫人に会おうと思ったのである。まもなく、さっきのきれいな奴隷が出てきた。若い下男がまだそこにいるかどうかと気にして目をきょろきょろさせながら言った。
「大広間へおはいりになってお待ちくださるようにと奥さまが申されました。いま、毎朝あげることになっているお経をあげておられますが、すんだらすぐ出ていらっしゃるそうです」
梨華は、はいって行って大広間のほうの椅子に腰をおろした。
長男は、前夜、城内のりっぱな料亭で宴会があったために、この日は、たまたまおそくまで寝ていた。豪華なすばらしい宴会だった。一ばん上等の酒が出て、客のうしろには歌妓《かぎ》がひとりずつはべっていた。そして、それぞれ客にお酒をついでやったり、歌をうたったり、おしゃべりをしたり、なんでも客の言うがままになっていた。王一は、たらふく食べて、いつもよりたくさん酒をすごした。彼のところにはべった歌妓は群をぬいてきれいな若い少女で年もまだ十七を出ないであろうのに、まるで十年以上も男に接し慣れた女みたいに媚態《びたい》を示すのがうまかった。王一は、あまり酒を飲みすぎて、ゆうべどんなことが起こったか、けさになっては何も記憶になかった。彼は顔にうす笑いをうかべ、あくびをしたり、のびをしたりしながら、そこに梨華がいるのにも気がつかず、大広間へはいってきた。
たしかに、けさの彼は頭の回転がだいぶにぶいようであった。にやにやしながら、心のなかで、ゆうべの若い歌妓のことを考えていた。彼がからかうと、女が彼の上着の首のところに小さな冷たい手をすべりこませたりしてふざけたことを思いうかべていたのである。そして胸のなかで、ゆうべの宴会の主人役だった友人に、あの女がどこに住んでいるのか、どこの茶館に属しているのか聞いてみて、もう一度会ってやろうと考えていたのである。
大きなあくびをして、両手をぐっと頭の上にのばし、目をさますために両腿《りょうもも》をぴしゃぴしゃたたいてから、絹の下着を身にまとっただけで、素足に絹のスリッパをつっかけて、ふらふら大広間へはいってきた。やがて彼の目は梨華の上にとまった。梨華は、灰色の着物を着て、まっすぐに、静かに、まるで影のように立っていた。しかし、この男がきらいなので、かすかに身をふるわせていた。彼は梨華がそこにいるのを見ると、びっくりして、急いで腰をおろし、あくびを半分でかみころして、ぼんやりと彼女をみつめた。ほんとにそれが梨華であると知ると、気まり悪さを、せきばらいでごまかしながら、ていねいに言った。
「ここにどなたかいらっしゃるとは知らなかった。家内は、あんたがおいでになったことを知っていますか?」
「はい、お知らせしてあります」と梨華は言って、頭をさげた。そして、ちょっとためらっていたが、(いま言ったほうがよい。この人がひとりでいるときに、言わねばならぬことを言ってしまったほうがいいだろう)と考えて口を開いた。いつもよりずっと早口に、言葉があとからあとから追いかけてくるように、忙しく、せきこんで言った。
「わたしは家長であるあなたさまにお目にかかりにきたのです。わたしは、とても心配しています――信じられないことです。大旦那さまは、土地を売ってはならない、とおっしゃいました。それなのに、あなたは売っていらっしゃる――あなたがお売りになっているのを、わたしは存じております」
梨華は、めずらしく、頬にだんだん血がのぼってくるのをおぼえ、とつぜん、はげしい怒りがつきあげてきて、涙が出てくるのを、かろうじておさえた。くちびるをかんで、きっと目をあげ、王一の顔をみつめた。見るのもいやなほど大きらいなのだが、王龍のためと思って、がまんして、じっとみつめていたのである。上着のボタンがはずれたところから、ぶよぶよにふとった、黄いろい、いやらしい首が、のぞいていた。目の下の肉が袋のように垂れさがっており、青ざめたくちびるが厚ぼったくつき出ている。まったく見るに耐えぬほど嫌悪の思いがわき起こってきた。梨華にみつめられると、女の怒りがこわくてしかたのない彼は、すっかりまごついて、礼儀上ボタンをはめなければならないようなふりをして、うしろを向いてしまった。そして肩ごしに、あわてて、彼女の言葉をうち消して言った。
「あんたは、いいかげんな話を聞いたのだ。夢でも見ているんじゃないかね!」
すると梨華は、いままでついぞなかったほどのはげしい口調で言った。
「いえ、夢ではありません――ほんとのことを言う人の口から聞いたのです」
だれに聞いたかということは言わなかった。せむしの子の名を出して、この男になぐられでもしたらいけないと思ったからである。彼女は言葉をついだ。
「わたしの旦那さまの息子さんとして、亡きおとうさまのお言いつけにそむきなさるとは、まったく驚いたことです。わたしはかよわい、つまらない人間ですけれど、これだけは申しあげずにはいられません。言いつけを守らないと、きっと旦那さまからの復讐を受けますよ。旦那さまは、あなたが思っていらっしゃるほど遠くにおられるのではないのです。旦那さまの霊は、いまでも土地の上をさまよっています。土地が売られるのをごらんになったら、父の命にそむく不孝の息子たちに、きっと復讐なさるにちがいありません」
彼女の言葉は、不気味なひびきをおびていた。目は大きく見開かれ、真剣な色となり、その静かな声は低く冷たくひびいた。王一は漠然とした恐怖に襲われた。大きな図体にもかかわらず、彼は、すぐ恐ろしがるたちだった。どうしても夜はひとりで墓場へ行けなかった。幽霊についていろいろ伝えられる話を彼はひそかに信じていたのだ。豪傑笑いをして気にしないふうをよそおってはいるものの、内心では幽霊の話を信じて恐れていたのである。だから梨華にこう言われると、あわてて言った。
「末の弟の分を――ほんのすこし売っただけだよ。彼は銀が入用なのでね。軍人には土地は必要ないのだ。しかし、もう売らないよ。約束します」
梨華は口を開こうとしたが、まだ声が出てこぬうちに、王一の第一夫人がはいってきた。夫人はけさは、悲しげなようすをし、夫にたいしていら立っていた。昨夜、夫が酔っぱらって帰ってきて、宴会で会った若い女の話を、あれこれと、ろれつのまわらぬ舌でしゃべるのを聞かされたからである。夫人は夫を見ると、さげすむような目つきをしたので、彼は、あわてて微笑をうかべ、何事もないように平気そうにうなずいて見せたが、内心は心配で、ひそかに妻のようすをうかがっていた。彼は梨華がここにいることをよろこんでいた。第一夫人は気位が高いので、彼ひとりのときでないと、心にあることを、ありったけ言ってしまったりしないからである。彼は、にわかにべらべらしゃべりはじめ、テーブルの上の茶瓶《ちゃびん》が熱いかどうかさわってみたりして、さかんにはしゃぎ出した。
「ああ、子供たちのおかあさんがきた。お茶の加減はこれでよろしいかな。わしはまだ朝食前なのだ。これから茶館へ行って茶を飲むところです。すぐ行くから、おじゃまはしませんよ――ご婦人方には男に聞かせたくない話があることはよく知っていますからね」
そう言って機嫌をとろうとするが、夫人が、依然として高慢な沈黙と、こわばった表情をつづけているのに不安を感じて、うつろなひびきを立ててつくり笑いをしながら、おじぎをして、あわてて出て行った。ふとっている肉がぶよぶよとゆれ動いた。彼がそこにいるあいだ、夫人はひとこともしゃべらなかった。背を椅子の背からはなして、まっすぐに腰かけていた。腰かけても、けっして椅子によりかかるということをしない人であった。毅然《きぜん》として腰をおろして、夫が出て行くのを待っていた。申しぶんのない貴婦人に見えた。まだ午前中で、たいていの貴婦人は、寝台のなかで腹ばいになって、朝の最初のお茶を飲もうと茶わんに手をさしのべているころだというのに、彼女はもう、なめらかな青灰色の繻子《しゅす》の衣裳をつけて、髪をくしけずり、きちんと巻いて油をつけ、きれいに結いあげているのである。
夫が出て行ったのを見て、夫人はため息をつき、まじめな顔で言った。
「あの男と暮らすわたしの生活がどんなものか、だれも知りません。わたしは若さも美しさも、あの人にやってしまいました。わたしは、いつもがまんして、けっして愚痴を言ったりはしません。あの三人の子を生んだあとでも、夫が、いやしい身分の娘を――わたしの女中にしてもいいようないやしい身分の娘を――妾《めかけ》にしたときも不平を言ったことはありません。夫が何をしても、がまんして耐えてきました。あの人のような下品なやり方には、まったく慣れていないのですが、それでも耐えしのんできたのです」
梨華は、外面、夫人がどんなふうによそおっていようと、ほんとうは心から悲しんでいるのだとわかったので、なぐさめるために言った。
「あなたが、どんなにいい奥さんであるかは、わたしたちみな知っております。尼さんが、これまで教えたどの人よりも早く経典をおぼえなさると感心しておりましたわ」
「ほんとうにそうおっしゃいまして?」と夫人は、たいへんよろこんで叫んだ。彼女はそこで、自分はどういうお経をあげるとか、日に何度仏前に祈りをあげるとか、ときどき肉食を絶つ戒律を実行するとか、そんな話をはじめた。そして、人間は一度は死なねばならないのだから、まじめに来世のことを考えねばならぬ、すべての魂の最終の憩いの場は、極楽と地獄しかなく、輪廻《りんね》というものがあって、よきものはむくいられ、あしきものは罰せられる、などと説きつづけた。
梨華は夫人の話を、心にとめずに聞き流していた。彼女の心は半分、「もう土地を売らない」と言った王一の言葉を信じてよいかどうかと迷っていた。彼が真実を言ったとは、容易に信じられなかった。急に彼女は夫人のおしゃべりがやりきれなくなり、夫人が茶をすすめるために口をつぐんだ瞬間をとらえて立ちあがった。
「ご主人さまがどんなことを奥さまにおっしゃっているか存じませんが、おとうさまのご遺言がどういうことであったか、土地を売ってはならぬというご遺言であったことを、ときどきご主人さまに思い出させるようにしてくださいまし。亡くなられた大旦那さまは、百代の子孫まで生活が栄える基礎をつくるために、生涯をかけて働いて、土地をお集めになったのです。その土地を早くも売ってしまうというのは、ほんとうによろしくないことです。奥さまのご助力をお願いします」
夫人は、どのくらい土地が売られたのか、聞いていなかったが、なんでも知っているふりをするのが、いつもの習慣だったので、いかにも確実らしい口ぶりで答えた。
「ご心配にはおよびません。主人に、みっともないことはさせないように、よくわたしが注意いたします。かりに土地を売ったところで、それは末の弟に分配された遠くとびはなれた場所だけですわ。あの弟は将軍になって一門の名をあげる計画をしていますので、土地よりも銀が必要なのです」
梨華は、王一からと夫人からと、同じことを二度言われたので、やや安心した。同じことを二度聞いたのだから、真実にちがいないと思い、心がすこしやすらかになったので、帰ることにした。彼女は、ていねいにおじぎをし、いつものしとやかな静かなものごしで、鄭重《ていちょう》に別れのあいさつをした。梨華の敬意をこめた態度に夫人はすっかり自己満足を感じ、上機嫌になった。こうして梨華は土の家へ帰った。
王一は茶館へ行って次弟に会った。次弟は、ちょうど昼食を食べているところだった。王一は次弟がひとりですわっているテーブルのそばの椅子に、重たげにどっかり腰をおろし、不機嫌に言った。
「男というものは、女がぎゃあぎゃあうるさく責めたてるのから、まぬかれることはできんものらしいな。自分の家だけでたくさんなのに、おやじの妾の梨華のやつまでやってきて、土地を売ったといううわさを聞いたというので、おれに土地を売らない約束をしろと、やかましくわめき立てるんだ。まったくいやになるよ」
王二は兄を見て、なめらかな、やせた顔を、ちょっとほころばせて言った。
「あんなものの言うことを、兄さんは、なんでまた気にかけるんですか。言わしておけばいいですよ。あの女は家のうちでは一ばん権力がなく、何にたいしても口出しする権利はないんです。あの女の言うことなど、とり上げることはないですよ。土地のことを言ったら、土地以外のことばかりしゃべってやるんです。ほかのことばかりあれこれ言って、おまえには、なんの力もないのだ、だから、おまえの言うことなど、こちらは歯牙《しが》にもかけぬ、というところを見せつけてやるんですよ。あの家に住むことを許されて、毎月やしなわれているんだから、それだけでも十分よろこんで感謝していいはずなんだ」
そのとき、給仕が勘定書を持ってきた。王二はそれを油断なくながめ、暗算して、正確かどうかをたしかめた。それから、必要なだけの銀貨をとり出すと、まるで勘定書がどこかまちがっていると抗議するかのように、しぶしぶと、ゆっくり料金を払った。彼は兄に軽く一礼して出て行った。
長兄は、ひとり茶館にとどまっていた。次弟からああ言われても、やはり憂うつな気持ちだった。老父は死んだけれども、そんなに遠くにいるのではない、と言った梨華の言葉を、恐怖の念をまじえて思い返していた。考えているうちに、ひどく不安になってきたので、給仕を呼んで、ぜいたくな、おいしいカニ料理を注文した。気をまぎらして、不愉快なことを忘れようとしたのである。
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二度、三度と、王虎《ワンホウ》は自分の信頼する部下のみつ口を兄のもとへ使いにやった。そのたびにみつ口は隊長のところへ銀を持って帰ってきた。みつ口は青いふろしきに銀をつつんで、自分の貧しい持ち物であるかのように、背中にしょってきた。道中、彼は粗末な青い上着とズボンといういでたちで、素足にわらじをはいていた。そんな姿で、背中に包みをしょって、ほこりにまみれて街道をとぼとぼ歩いているみつ口を見たら、だれもこの男が莫大な銀をしょっているとは夢にも思わないだろう。だれかが、もっと注意ぶかく彼の姿に目をとめて、あんな小さな荷物をしょっているにしては、奇妙に汗をかいているのに気づいたとしても、ただ貧乏人くらいにしか思わないであろう。
けれども、彼をそんなに注意ぶかくながめる人はいなかった。貧しげな服装をし、口がみつ口だという以外は、なんの特徴もなく、一日に幾百人となく街道で見かける、ありふれた百姓づらをしていたからである。一瞬、彼に気づく人があっても、それは彼の醜悪なくちびると鼻のしたからはえている二本の歯に驚くだけのことであった。
こうして安全に、この忠実な部下は、隊長のところへ銀を運んできた。王虎は独立するまでの三か月のあいだ維持できるだけの銀をテントの下へ埋めてしまうと、独立のために行動を起こす日どりをきめた。彼は秘密の指令を発した。合図の言葉が、彼とともに出発しようとしている兵士たちのあいだにゆきわたった。稲の刈り入れが終わったのち、まだ北方から寒風が吹きよせてこない前の一日、明け方になってやっと空に片鎌月《かたかまづき》がかかるまでの月明かりもないある夜、腹心の兵士たちは寝台からはい出し、いままで仕えていた老将軍の軍旗のもとから離れ去った。
その暗夜、全部で百人ばかりの兵士たちが、しのび出てきた。どの兵士も物音一つ立てずに起きあがった。寝具をまいて背中に結びつけた。銃があるものは銃を持った。隣に寝ている兵士の目をさますことなく盗んでこられる場合には、隣の兵士の銃も持って出た。しかし、これはなかなかむずかしかった。どの兵士も、もしだれかが銃を盗もうとして動かせば、すぐに目をさまして大声で叫べるように、銃をからだのしたに敷いて寝る習慣だったからである。というのも銃はたいへん貴重なもので、売ればいい値になったから、兵士たちのなかには、ときどきひどく賭《かけ》に負けたり、戦争も略奪もなくて銀がはいらず、何か月も給料がもらえなかったりすると、銃を高く売りとばすものがいたからである。銃は遠い外国から輸入されてくるので、銃を失うことは兵士たちにとって重大なことであった。その夜、しのび出た兵士たちは、できるだけたくさんの銃を持って出ようとしたが、ほかの兵士たちが、みな後生大事に銃をまもって寝ているので、自分たちの銃以外には二十|挺《ちょう》しか持ち出せなかった。二十挺でもよかった。二十人だけ兵をふやすことができるからだ。
これら百人の兵士たちは、老将軍のもとで歴戦したもっとも強健な精鋭であった。部隊のなかでも、もっとも勇猛果敢で、戦闘の経験のある不死身な若者ばかりであった。南方人はすくなく、ほとんどすべてが、野蛮な奥地に生まれたもので、大胆、無法、死をものともしない連中であった。そういう連中は、王虎の背の高い、すらりとしたからだつきや傲然《ごうぜん》とかまえた風貌に容易にひきつけられ、彼の寡黙《かもく》、唐突な怒り、そのたけだけしさに心服していた。
いまでは老将軍は、いたずらにふとってしまって、ふたりがかりで足を持ちあげなければ馬にも乗れぬありさまなので、尊敬に値する点がすこしもなくなってしまっただけに、彼らは、いっそう王虎を敬慕するようになった。老将軍には、もはや若者の血をわきたたせるようなものは何もなかった。だから彼らは老将軍をすてて、進んで新しい英雄にしたがう気になったのである。
王虎にしたがう予定の兵士たちは、深夜、合図とともにとび起きることになっていた。その合図というのは、右の頬に三度、軽くさわられることであった。合図を受けたら、ただちにとび起きて、小銃と弾薬に身を固め、馬のあるものは馬に乗り、ないものは徒歩で、五マイル離れた山頂の浅い谷間をなした地点に集合しなければならなかった。そこには荒れはてた寺があり、頭のぼけてしまった老隠者が、ただひとり、その廃墟に住んでいるだけであった。寺は、まったく荒廃しきっていて、かろうじて雨露がしのげる程度であったが、王虎は、自分にしたがってくる兵士たちを統制ある軍隊に整備し、自分の好む場所に連れて行くまで、そこをかくれ場所としたのである。
王虎は、あらかじめそこにすべての準備をととのえておいた。数日前に、彼は腹心のみつ口とあばたの甥《おい》をやって、寺内に幾カメかの酒を用意させ、生きた豚や鶏や三頭の肥えた牡牛を、がらあきの僧庵にかこわせておいた。これらのものは近隣の百姓から買いとったのである。軍隊によっては、貧しい百姓から徴発して金も払わないものもいるが、王虎は、りっぱな正しい人間だったから、ちゃんと代金を支払ったのである。彼は、みつ口に命じて、時の相場に近い値段で買い入れさせ、山の上の寺まで運ばせたのであった。あばたの甥が、その番をする役目であった。
みつ口はまた三つの大きな鉄鍋《てつなべ》を買いこみ、一つずつ頭にのせて山上に運んだ。そして、こわれた古レンガを集めて築いた小さなカマドの上に、それをのせた。しかし王虎は、それ以外のものは買わせなかった。できるだけ早くこの地を去って、老将軍の追討の手のとどかない北方へ移動するつもりでいたからである。だが、彼は北方の都の近くへ行く気はなかった。それは王虎のようにひとり立ちをくわだてる軍閥にたいしては、政府軍が討伐にくることがあるからである。まだ準備もととのわないのに政府軍と戦っては勝ち目がなかった。しかし彼は、実をいうと将軍も政府軍も、さして恐れてはいなかった。ちかごろ老将軍は腹を立ててもすぐに忘れてしまうので、おそらく追討軍は出さないだろうし、政府のほうとしても、一つの王朝がほろびて、それにかわる新しい王朝がまだ確立されていないときなので、国家の力は弱く、各地に匪賊がはびこり、軍閥が覇《は》をきそい、彼らをおさえるものもないありさまだったからだ。
その暗夜、王虎は青白い長兄の子を連れて、この廃寺へやってきた。臆病で、いくじのないこの青年を、どうすればよいか、彼はしばしば迷った。あばたのほうは、冒険が好きで、命令されたことをよろこんでやるが、このほうは目につかないようにかくれてばかりいるのである。今夜も、ついてこいとどなられて、ふるえながら王虎のあとについてきたのであった。王虎が、燃えているタイマツで照らしてみると、この青年は、ぐっしょりと冷や汗をかいていた。王虎は、さげすんだ調子で、どなりつけた。
「どうしたのだ。何もしないのに汗をかいているじゃないか」
そして、返事も聞こうともせず、暗闇のなかを大股に歩きつづけた。青年は、たどたどしい足どりでついてきた。
山頂から廃寺にいたる道の途中で、王虎は岩の上に腰をおろし、青年だけ、食事の手伝いをするようにと言って寺へ行かせた。彼はそこにひとりとどまった。約束した兵のうち、幾人が、その夜、彼の旗のもとに馳《は》せ参じたかを見ようとして、待っていたのである。やがて兵士たちは、ひとりずつ、あるいは八人、十人とかたまって、やってきた。王虎は、だれを見てもうれしく、そのひとりひとりに声をかけた。
「やあ、きたな。おまえは義理がたい、りっぱな男だ」
寺のこわれた石段をのぼって彼のもとに集まってくるものどもの足音を聞くたびに、彼は、手に持ったいぶっているタイマツに息を吹きかけ、燃えあがる炎で兵士たちの顔を照らした。この男もきた、あの男もきたと、信頼する兵士たちが集まるのを見て、彼は狂喜した。こうして百人集まった。人数をかぞえ、予定していたものが、みな集まったところで、王虎は牛を殺すように命じた。鶏も豚も殺させた。久しくうまい肉に飢えていたので、兵士たちは、よろこんでその仕事にとりかかった。あるものは、カマドの下の火をたきつけ、あるものは近くを流れる谷川から水をくんできた。あるものは牛や豚を殺して皮をはぎ、肉をこまかく切った。鶏は羽毛をぬいてしまうと、寺のかたわらの木から股になった枝を切ってきて、やき串のかわりにし、これに鶏をさして、たき火のところで丸焼きにした。
すっかり用意がととのうと、ごちそうを寺の前にある石の台の上にならべた。そこは古い敷石のあいだから雑草がはえ出て、石と石とが離れ離れになってしまっていた。中央には、人の背たけよりも高い大きな鉄の|かなえ《ヽヽヽ》があったが、長い年月にさらされて赤くさびつき、ぼろぼろになっていた。その時分には、もう夜が明けて、新しくのぼった太陽の光が、兵士たちの上に降り注いでいた。ひんやりした、さわやかな山の大気が空腹を感じさせた。人々は笑いさざめきながら、湯気の立っているごちそうのまわりに熱心に集まってきた。そして、腹いっぱいになるまで、たらふく食べた。この若い勇敢な新しい首領のもとで、新たなすばらしい日がはじまるのだと思うと、彼らの胸は、よろこびにあふれた。新しい首領は、食物や女や、血気さかんな兵士たちの必要とするあらゆるものがいくらでもある新しい土地へ、自分たちを連れて行ってくれるのだ、と彼らは信じていた。
一応空腹をみたしたところで、食べなおしをする前に、酒ガメの封を切り、めいめい持っている茶わんに酒をついで飲んだ。飲んで、笑って、騒いだ。あれこれと、いろいろなもののために彼らは、たがいに乾杯したが、何よりも新しい首領のために、もっとも多く乾杯した。
あわれな頭のぼけた隠者は、竹やぶのかげから、驚きのあまりわれを忘れて、このありさまをながめていた。あの連中は悪鬼かもしれぬ、とひとりつぶやきながら、兵士たちがさかんに飲み食いしているのを、じっとながめていたが、煙の出ている肉を引きさくのを見て隠者はよだれを流した。だが、みんなが食べているところへ出て行こうとはしなかった。この三十年間、ちっぽけな畑を耕しながら、ただひとり住んできたこの静かな谷間に、このように突然やってきたのは、どういう悪鬼かと、気味が悪かったからである。
隠者がながめていると、ひとりの兵士が、たらふく食って飲んだので、ねむけをもよおし、しゃぶっていた牛のももの骨を投げすてた。骨は竹やぶのそばに落ちた。すると隠者は、やせて筋ばった手をのばして、急いでそれをひろい、そっと物かげにはいった。そして、骨を口へ入れ、しゃぶったり、かじったりした。この三十年間というもの、肉食をしたことがなく、肉がどんなにおいしいものか味を忘れていた彼は、あやしく身ぶるいした。頭はぼけていたけれども、彼は肉食が戒律を破る罪悪であることを知っているので、心のなかで苦しんだ。それでもまだ、肉のついた骨を、しゃぶったり、かじったりしないではいられなかった。
兵士たちは、もう食べられないというところまで食べて満足した。食べ残りが、あたりに散らばっていた。そのとき、王虎は、すっくと立ちあがり、かたわらにある古い巨大な石亀《いしがめ》の上にとびあがった。この石亀は大きなむろの老木の根もとにあって、石の台よりもすこし高かった。これは、その昔有名だった人の墓をしめすためにおかれたもので、かつては、その故人の徳をたたえる大きな石碑が背後に立っていたのであるが、むろの木の不屈な成長力が、この石碑をかたむけ、ついに倒してしまったのである。石碑は割れたまま地上に横たわり、おもてに刻まれた文字は、長年の風雨にすりへらされ、消えてしまっているが、木のほうは、いまなおさかんに繁茂していた。
王虎は、この石亀の上に立って、部下の兵士たちを見おろした。彼は片手で刀のつかを握り、片足で亀の頭を踏みしめ、傲然と部下を見わたした。濃い眉は一文字に引きよせられ、目は、らんらんと射るように輝いていた。こうして自分の部下になったこの兵士たちを見ているうちに、彼は胸の鼓動が高まり、身うちに熱い血潮がたぎってきた。彼は心のなかで思った。
(これがみなおれの部下なのだ。おれと生死をともにすると誓ってくれた部下なのだ。おれの時はきた!)
彼は声をはりあげて叫んだ。その誇らしげな声は、静かな森にひびきわたり、荒廃した寺の中庭にこだました。
「兄弟諸君、わたしがどんな人間であるかを話そう。わたしは諸君と同じいやしい生まれだ。わたしの父は土地を耕した。わたしも農民の子だ。しかし、わたしには土地を耕す以上の運命があった。わたしは少年のときに家出した。そして老将軍の下で革命軍の一兵士となった。
兄弟諸君、わたしは最初、腐敗した統治者にたいする正義の戦いを夢みていた。老将軍が大義のための戦いだと称していたからである。しかるに老将軍は、あまりにたやすく勝利を得た。そして、われわれの知っているとおりの人間になってしまった。わたしは、もはやあんな人間に仕えていることはできない。将軍のとなえた革命戦は、わたしの夢みたような成果をもたらさなかった。時代は腐敗しきっている。どの人間も私利私欲のためにのみ戦っている。それを見てわたしは天命を感じた。老将軍のもとにいて給料ももらえず、焦燥のうちにむなしく日を送っている諸君を呼び集めて、われわれ自身で腐敗なき天地を切り開くのが、わたしにあたえられた天命なのだ。
いまさら言うまでもないが、正しい統治者はひとりもいない。統治者は民衆を慈父が子供にたいするように扱わねばならない。しかるに民衆は統治者の残虐と圧制に泣いている。昔から民衆はこんな状態だった。五百年前にも、義憤にもえる勇敢な人々が一団となって、富貴をこらし、貧民を救うために戦ったことがある。われわれもまた大義のために立ちあがろう。勇敢で忠実な諸君よ。わたしは諸君に訴える。わたしの行くところにしたがえ! われわれは生死をともにすることを誓おうではないか!」
彼は凛然《りんぜん》たる声で叫んだ。目はきらきらと光って、敷石の上にうずくまっている兵士たちを、いなずまのように射た。眉は引きさげられて一文字になったかと思うと、ひるがえる旗のようにはねあがって彼の顔を明るくした。眉の上がり下がりが、一瞬ごとに顔の表情を変えるのである。
彼の言葉が終わると、部下は、いっせいに立ちあがって、力強い叫び声をあげた。
「われわれは誓う。隊長ばんざい! ばんざい!」なかに、おどけた男がひとりいて、金切り声で叫んだ。
「隊長は、黒い眉毛の虎にそっくりだ」
王虎は、まったく虎のように見えた。すらりとして背が高く、からだを敏捷に動かすところ、あごがせまく頬骨が高いところなど、虎に似ていた。両眼は猛獣のようにたけだけしく、油断なく光っていた。そのうえに、長くて黒い眉があり、その眉をひそめると、洞穴《ほらあな》のなかから外をうかがっている虎の目のように見えるし、眉をあげると、その下から、目が輝き出て、まるで虎がとび出してきたときのように、顔全体が、とつぜん明るくなるのである。
兵士たちは、これを聞くと、みなどっと笑い、いっせいに叫び声をあげた。
「そうだ。そうだ。まさしく虎だ。黒い眉毛の虎だ!」
頭のぼけたあわれな隠者には、谷間にこだまするこの「虎だ! 虎だ!」の叫びが、どういう意味かわからなかった。このあたりの山々には、たしかに虎が出没していた。隠者は、何よりも虎を恐れていたので、この大きな叫び声を聞くと、竹やぶのなかをきょろきょろしながら逃げ出した。そして、寺のうしろの、小さな、みすぼらしい庵室に身をかくした。戸口に粗末なかんぬきをかけ、寝台にもぐりこみ、ぼろぼろの掛けぶとんを頭のうえからひっかぶった。彼は、ふるえながら身を横たえ、ああ、肉など食べなければよかった、と後悔して泣いていた。
王虎はまた用心ぶかい点でも虎に似ていた。彼は自分の冒険がまだ緒についたばかりで、前途に何が起こるか、慎重に考えなければならないことを知っていた。彼は兵士たちを酒の酔いがさめるまで眠らせておくことにした。そして彼らの寝ているあいだに、利口で策略にとんだ三人の部下を選び出して、変装を命じた。そのひとりには上着をぬがせ、ぼろぼろの下ばきだけをつけさせ、泥や汚物を顔に塗って乞食の姿に化けさせた。そして、乞食に変装したこの部下に、老将軍の軍営のある町の近くの部落を歩いて物乞いをしながら、老将軍が追い討ちをかけるつもりで準備しているかどうかさぐり出し、聞きこんでくるようにと命じた。
ほかのふたりには、市場へ行って、質屋で農夫の着物と、てんびん棒と、かごを買い、野菜を仕入れて行商人になり、城内を歩きまわって、人々がどんなうわさをしているか、彼の脱出のことを話しているものがあるかどうか、部下の精鋭に逃げられた老将軍の出方を人々がどう思っているかを、聞き出してくるようにと命じた。山のいただきには、腹心のみつ口を配置して、その地方一帯を、鋭い目で監視させた。もしどこかに数名以上の人間が一団となって動いているのを発見したら、即刻、隊長まで報告せよ、と命じた。
命令を受けたこれらのものが出発したあと、眠っていた兵士たちが酒の酔いをすっかりさまして起きあがると、王虎は、げんざい所有している兵力と資材をしらべてみた。人員、銃の数、弾薬の量、被服の状態、靴の状況など、つまり遠距離の行軍に堪えうるかどうかをしらべて紙に書きとった。そして、部下に自分の前を歩かせてみて、ひとりひとり丹念に観察した。彼のもとには、ふたりの甥《おい》をのぞいて、百八人の血気さかんな兵士が集まっているのがわかった。年をとりすぎているものはひとりもいなかった。ありふれたただれ目やカイセンのような軽いものを病気のうちにかぞえないとすると、病気のあるものは、ごくわずかしかいなかった。
彼の部下は、こうして彼の前をゆっくりと歩いて通り過ぎながら、彼が紙の上に字を書いているのを見て、ひどくびっくりした。彼らは、ほんの二、三人をのぞいては、たいてい読むことも書くこともできなかったからである。彼らは、王虎が武勇にすぐれているばかりでなく、紙の上に字を書くことができ、また字を読んでその意味をさとることもできる知恵をもあわせもった隊長であるのを知って、いまさらながら畏敬《いけい》の念をいだいた。兵士たちの表情を見て、王虎も彼らの感情の動きをさとった。
これらの部下のほかに、王虎は百二十二|挺《ちょう》の銃があることを知った。どの兵もみな革帯を弾薬でいっぱいにしていた。さらに王虎は、老将軍の弾薬庫に出入りが自由だったので、十八箱の弾丸を持ち出していた。これをみつ口に一箱ずつ運ばせ、本堂のこわれかかった古い仏像のうしろに積んでおいた。そこは屋根が一ばんましなところで、雨もりも一ばんすくなかった。破れて口のあいた正面の扉から吹きこむ雨は仏像が防いでくれていた。
被服については、いま着ているだけで、寒風が吹きすさぶようになるまでは十分しのげた。寝具は各自が持っていた。
王虎はこれらすべてに満足した。あと三日、彼らを食べさせるだけの食糧は残っている。三日目の夜に、できるだけ早く行進を起こし、北方の新しい領地をめざして出発するつもりであった。よしんば南国がきらいでないにしても、どうしても他の地方へ移らなければならなかった。というのも、老将軍がこの地方を占拠してから十余年になるが、そのあいだ老将軍は怠惰《たいだ》、逸楽《いつらく》の生活を送って、この土地から動かず、住民には払いきれないほどの重税を課し、農作物まで納めさせたので、住民は窮乏の極に達し、もうこれ以上しぼりとる余地がなくなっていたからである。王虎は新しい豊かな土地をさがさなければならなかった。
王虎は、重税でしぼりとって何も残っていないこのような土地を手に入れるために老将軍と戦うつもりは、まったくなかった。彼は自分の故郷に近い地方へ移って行くつもりだった。その地方は、西北方に丘陵地帯があって、部下を駐屯させて根拠地とするのに好都合であった。また万一、急に追い討ちされるような場合には、もっとけわしい地帯に退去することのできる地の利もあった。この地帯は、けわしい山岳が、重畳《ちょうじょう》としてそびえたち、住民は未開野蛮で、軍閥すらも、敗北の結果、匪賊にでも身を落とすときでなければ、めったに行かないようなところであった。
しかし、現在、王虎は敗退のことなど考えていたわけではない。彼にとっては、前途は洋々と開けており、ただ勇猛果敢な前進があるのみであった。彼は、彼の威名を全土にとどろかそうという大望に燃えていたのだ。
そのうち内偵にやった兵士たちがもどってきた。ひとりが言った。
「どこでも、古い蜜蜂の巣がわれて新しい群れがとび出したという評判で持ちきりです。さんざんしぼりとられて、もうすっからかんになっているので、これ以上、二つの蜜蜂の群れは養えないと言って、人々はみな心配しています」
乞食に姿をかえた男は言った。
「わたしは軍営のなかをうろついてきました。顔に泥や垢《あか》を塗って行ったので、だれにも気づかれませんでした。どうぞおめぐみくださいと泣き声を出しながら、耳を傾けてようすをうかがっていたのですが、軍営じゅう大騒ぎです。老将軍は、どなったり金切り声をあげたりしながら、あれこれと命令をくだしたと思うと、すぐまたそれをとりけして、ほかのことを言いつけたりして、いやもう狼狽しきってます。怒りのために顔が紫色にはれあがっています。わたしが度胸をすえてそばまで行くと、こんなことをどなっていました。――あの黒眉毛の悪鬼めがわしを裏切るとは、夢にも思わなんだ。すっかり信頼してまかせきっておったのに。世間では、北方人は、わしらよりも正直だと言うじゃないか。あいつを銃剣で刺しつらぬいてやる。呪われた泥棒め! 泥棒の小せがれめ!――そうどなりながら、そのあいまに、早く武装して追討しろ、と叫んでいる始末です」
そこで言葉を切って、彼は、くすくす笑いだした。これは王虎のことを虎だと言ったあのひょうきんな男で、きいきい声で冗談を言うのが好きな人間だった。
声を一段と高めて、泥のついた顔でにやにや笑いながら、彼は言った。
「けれども、兵士はひとりもみこしをあげませんや」
これを聞いて、王虎は、すごみのある笑いをうかべた。何も恐れるものがないことを確信したのである。老将軍の部下は、ほとんど一年近くも給料をもらっていない。それでも将軍のもとを離れずにいるのは、ただ怠けて遊びながら食っていけるからである。もし戦争するのなら、まずその前に給料を払わなければ、だれも動こうとはしないだろう。そうなっても老将軍が給料を払わないだろうことを、王虎は知っていた。一日、二日のうちに、老将軍の憤怒は、さめてしまうだろう。しかたがないと肩をすくめて、また女遊びにふけるだろう。部下は日向《ひなた》で居眠りをし、食事どきになると目をさますが、食べ終わるとまた居眠りをするだろう。
王虎は顔をあげて、はるか北方の空をのぞみ、もう恐れるべきものがないことを確信した。
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王虎《ワンホウ》は部下に、三日間つづけて、酒宴を許した。兵士たちは、たらふく食い、酒ガメがからになるまで飲んだ。何か月もありつけなかったごちそうを腹いっぱい食べてすっかり満足し、もうこれ以上は眠れないほど寝足りてしまうと、みな非常に元気になり、気が立って、張りきってきた。
王虎は長年、兵士のあいだで暮らしてきたので、彼らの気持ちをよく知っていた。頑強で、平凡で、無知な兵士たちをどう扱うべきか、その連中の気持ちを察して、それをどう利用すべきか、自由にさせているように見えても、いざとなれば自分の意志どおりに動かすにはどうしたらいいかを知っていた。兵士たちは、けんか早くなった。眠ろうとして、ながながとのばした足に、だれかがつまずいたというようなつまらないことで、たがいにけんかをはじめたりした。また、あるものは女のことを考えはじめ、女遊びをしたがっていた。そういうありさまを見て、王虎は、いまこそ新たな艱難《かんなん》にぶつかるべきだとさとった。
そこで王虎は、ふたたび古い石亀《いしがめ》の上にとびあがって腕を胸に組み、そして叫んだ。
「今夜、太陽が山麓の平野に沈んだら、新しい領土に向かって行進を開始する。その前に各自よく考えるがよい。もし老将軍のもとに帰ってのらくらと寝て暮らすほうがいいと思うものは、いまのうちに帰れ。殺しはせん。しかし、おれとともに行軍を開始してから誓いにそむくものがあれば、一刀両断だ。そのときは、おれの剣がものをいうぞ」
そう言い終わるがはやいか、王虎はすばやく、黒雲をつんざくいなずまのように、さっと長剣を抜き放ち部下のほうへ鋭く突き出した。彼らは驚いてしょうぎ倒しとなり、ふるえあがって、たがいに顔を見あわせた。王虎は石亀の上につっ立ったまま、ぎょろりと目を光らせて待っていた。すると年かさの兵士が五人、不安そうに顔を見あわせたり、王虎の突きつけている長剣のきらめきをながめたりしていたが、そっと立ちあがると、こそこそと山を降りて行った。そして、やがて見えなくなった。王虎は、彼らの立ち去る姿を、じっと見守っていたが、輝く長剣を手にしたまま、みじろぎもせずに叫んだ。
「もう、ほかにいないか?」
深い沈黙がみなぎった。だれも、しばらくは身動き一つしなかった。とつぜん兵士の集団の端のほうで、腰をかがめた人影が動いた。急いで、こっそり逃げ去ろうとする姿だった。見ると、青ざめた王一《ワンイー》の次男だった。王虎は、どなりつけた。
「貴様はだめだ。バカな青二才め。貴様の命は父親からもらったのだ。貴様は自由ではないぞ!」そう言いながら剣を鞘《さや》におさめ、さげすんだ調子でつぶやいた。
「このりっぱな剣を、貴様のような弱虫の血でけがすのはまっぴらだ。子供をしかるときのように鞭《むち》でうんとこらしてやる」
すると、この青年は、しょんぼりして、いつものように頭をうなだれてしまった。王虎は、ふだんの調子にかえった。
「それでは、小銃の手入れをしろ。靴のひもをしっかり結び、帯をしめなおせ。今夜から強行軍だ。われわれの行進を気どられぬよう、昼間は寝て、夜、行進する。軍閥の占領している土地を通過するときは、いつもその将軍の名を教えておくから、もし人にきかれたら、われわれはその将軍の部下になるために移動しているのだと言えばよい」
太陽は沈んだ。昼間の薄明かりはかすかに残っているが、月はない。星がまたたきはじめると、兵士たちは三々五々、組をなして山を下った。どの兵士も腰に剣を帯び、背中に包みをせおい、銃を肩にしていた。王虎は余分の銃を、もっとも信頼のおけるものだけに持たせた。この百余人の新しい部下のうちには、まだ気心のよく知れないものもいるので、銃を持ち逃げされると困るからである。彼にとっては兵士よりも銃のほうが貴重だった。馬のあるものは山麓まで手綱を引いておりた。山をおりきって、北へ向かう街道に出たとき、王虎は、きびしい語調で命令した。
「おれの号令があるまで、だれも休んではならぬ。明け方、おれの選んだ村に着くまで、長い休息は許さん。村に着いたら、好きなだけ飲み食いするがいい。代金はおれが支払う」
そう言って、彼は馬にとび乗った。蒙古の平原で生まれた赤毛の馬で、骨格ががっしりしていて背が高く、全身の毛が渦を巻いていた。疲れを知らぬ頑丈な馬だ。今夜は、こういう強い馬が必要だった。王虎は、多額の銀を馬につけていたからである。持ちきれない銀は、腹心のみつ口に持たせ、信頼できるそのほかの部下にも、もっと少額にわけて持たせた。銀を持つと人間は気が変わりやすくなるから、たとえそういう誘惑にまけて持ち逃げするものがあっても、こうして分けておけば、大きな打撃をこうむらないですむわけである。
馬は強かったが、王虎は馬をどんどん進ませはしなかった。彼は思いやりのある性質なので、馬に乗らずに徒歩で進まなければならない兵士のことを思いやって、手綱を引きしめ、ゆっくり進ませたのである。彼の両側には、ふたりの甥が、彼に買ってもらったロバにまたがって進んだ。ロバの脚は短いから、馬が早く走れば追いついて行けなかった。三十余人が馬に乗り、あとは徒歩だった。王虎は騎馬兵を二隊に分けて、一隊を徒歩の兵士の前におき、一隊をあとにおいた。
彼らは静まりかえった夜の闇をついて、何マイルも行軍して行った。王虎が小休止の号令をかけたときだけ休み、彼が行進の命令を出すと、また進軍をつづけた。部下は元気で、すこしも不平を言わなかった。王虎に大きな期待をかけていたから、忠実に彼の命令に服した。王虎は、この部下たちが気にいった。もし彼らが自分の期待にそむかなければ、自分も彼らの期待にそむかないようにし、大望成就のあかつきには、この最初の部下たちのひとりひとりに高い地位をあたえてその功にむくいてやろう、と心に誓った。子供がかわいがってくれる人になつくように、部下たちが彼に信頼をよせ、彼に生死をまかせているさまを見ていると、王虎の心には、部下にたいする愛情がわいてくるのであった。彼は、心のなかでは、こういうやさしいところがあり、部下に親切だった。雑草のはえている原や、墓の近くにあるむろの林などにくると、すこし長い休息の時間をあたえて、部下を寝そべらせた。
こうして二十夜以上も行進をつづけた。日中は王虎のきめた村で眠った。しかし、どの村にはいる前にも、王虎は、そこを領有する軍閥がだれであるかを確かめることを忘れなかった。だから万一、この一隊はどこの所属で、どこへ行くのか、ときかれることがあっても、彼は、よどみなく答えることができた。
どの村でも、彼らが行進してくるのを見ると、村民たちは深く嘆息した。こういう流浪の部隊は、いつまで滞在するものやら、食糧に何を徴発するやら、どんな女をほしがるやら、わからないからである。けれども、そのころの王虎は、高遠な理想に燃えていたので、部下をきびしくとりしまった。自分自身が女にたいしてふしぎなほど冷淡だったせいか、部下の連中が女のことに熱中しているのを見ると、いっそう気短かになり容赦しなかった。彼は言った。
「われわれは匪賊ではない。おれは匪賊の頭目ではない。おれは、もっとりっぱな道を切り開いて偉大になるのだ。われわれは正々堂々たる手段と武勇によって勝利をおさめるのだ。民衆のものを略奪するようなことはしない。おまえたちも必要なものがあれば買え。代金は、おれが支払う。給料は、毎月かならずやる。金で自由になる女以外は、けっして手を出すな。どうにもがまんができなくなったら、商売女と遊べ。だが、ぼろ買いはするな。恐ろしい病菌を持っている女にぶつかって悪い病気をしょいこむと、たいへんなことになるぞ。用心しろ。もしおれの部下のなかに、無法にも貞淑な人妻や生娘を犯すものがあったら、容赦はせぬ。言いわけもきかずに即座に殺してしまうぞ」
彼がこう言うのを、部下はじっと聞いていて、肝に銘じて忘れなかった。黒々とした眉の下に二つの目がぎらぎらと輝いていた。この隊長は、根はやさしいが、人を殺すことなどすこしも遠慮しないはげしさを持っていることを、部下はよく知っていた。若い兵士たちは彼を賛美して、「虎だ。黒い眉毛の虎だ」とつぶやいた。そのころの王虎は、まったく彼らの英雄だった。こうして彼らは強行軍をつづけ、王虎の命令があってはじめて足をとどめるだけであった。すべての兵士が王虎に服従した。なかには不平のものもあったろうが、すこしも顔には出さなかった。
王虎が故郷に近い土地に落ちつこうとした理由は、いくつもあるが、そのうちの一つは、兄たちの近くにいれば、彼がひとり立ちして領地の住民から税をとることができるようになるまでのあいだ、兄たちから銀を確実に受けとることができるし、遠路を運ぶうち盗賊に奪われたりする危険がなくてすむからであった。また、往々にしてあることだが、天運に見すてられ、大きな敗戦の非運に襲われたような場合には、兄たちのところへ逃げこむことができる。彼の実家は富裕だから、彼の身は安全だろう。そういうわけで、彼は兄たちの住む町をめざして一路北上したのであった。
故郷の町の城壁が、あすは望めるであろうその前日のことである。王虎は部下の行進の速度がにぶったので、いらだった。夜になって、出発を命じたが、彼らはなかなか腰をあげそうになかった。なかには、ぶつぶつ不平を言っているものもあるのを、王虎は耳にした。ひとりは言っていた。
「功名よりも、もっといいものがあらあな。こんな乱暴で殺伐な人間のあとについてきたおれたちは、けっきょくばかなことをしたのかもしれんぞ」
こんなことを言うものもあった。
「食うものはすくなくても寝られたほうがいいや。こんなに歩かされると、足がひざまですりへっちまうぞ」
事実、これらの兵士たちは、非常に疲れていた。彼らは、こんな強行軍に慣れていなかったのだ。というのも、老将軍は、ここ何年間も安逸をむさぼっていたので、部下のあいだにも、その軟弱なふうがしみこんでいたからである。無知な人間の心が、どんなに移り気なものかを知っているので、王虎は彼らが北の地方へ近づいてきたいまになって不平を言いはじめたことを、心のなかで罵倒《ばとう》した。王虎は自分ではこの北の生国に帰ってきたことをよろこび、かたく焼いたパンを買うことができるし、強いにんにくの香りをふたたび味わうことができるので、みち足りた気持ちになっていたが、こういったものは、兵士たちにとっては、まだなじめないものであることを彼は忘れていたのである。深夜の休憩のとき、彼が、むろの木の下で休んでいると、腹心のみつ口が近づいてきて、ひそかに告げた。
「どこかで三日ばかり兵士たちを休ませてはどうでしょう。酒宴をもうけてやり、銀をすこしばかりよけいにやらなければいけないようです」
王虎は、とびあがって叫んだ。
「どいつだ、ぐずぐず言うのは。ここへ連れてこい。背中を弾丸でぶちぬいてやる」
しかし忠実なみつ口は、王虎をわきへ引っぱって行って、おだやかな調子でささやいた。
「いやいや、隊長。そんな言いかたをなすってはいけません。怒るのはおよしなさい。この兵士たちは、みんな子供みたいなものです。目の前に何かすこしでもうれしい望みがありさえすれば、信じられないほどの力を出すものです。肉のごちそうとか、一杯の新しい酒とか、バクチをして遊べる休暇とか、ちょっとしたことでいいのです。彼らは単純ですから、そんなことで、たやすくよろこんだり、うらんだりするのです。隊長、あの連中の心の目は、あなたのように開いてはいません。だから、目先のことしか考えることができないのです」
腹心のこの男が、こうして王虎をいさめているあいだ、ほのかな月光が彼を照らし出していた。新月であった月が、行軍しているあいだに、いつしか、まどかな満月になっていたのだ。月光を浴びたみつ口の顔は、おそろしく醜悪に見えた。しかし王虎は何度もためしてみて、みつ口が誠実な分別のある人間であることを知っているので、この男の裂けたくちびるも気にならなかった。ただ彼の善良な、平凡な褐色の顔と、忠実な謙遜な目をしか見なかった。王虎は彼を心から信頼していた。この男の素姓も経歴も知らなかったが、王虎は信頼しきっていた。この男は自分のことについては、なに一つ語らなかった。しいてきかれると、こう答えるだけだった。
「わしは遠い国の生まれです。わしの生国の名を言っても、遠いからご存じないでしょう」
しかし彼は、犯罪の前科がある、とかげで言われていた。うわさによると、彼には美しい妻があったらしい。この若い妻は彼の醜い顔に耐えられず、別に恋人をつくった。みつ口は妻が恋人といっしょにいるところを見つけ、ふたりを殺して逃亡したのだという。このうわさの真偽は、だれも知らなかったが、この男が、はじめて王虎に敬慕の思いをいだくようになった理由は、何よりも王虎が若くて、たけだけしい美青年であるためだったのは事実である。王虎は美青年であったがゆえに、このあわれな醜い男にとっては驚異であった。王虎は、この男が自分にたいして愛情を持っているのを感じていた。そして、地位や利益を求める気持ちがなく、ただ王虎のそばにいたいということ以外には、なんの報酬も求めないこの男の奇妙な愛着のゆえに、彼は他のだれよりもこの男を高く評価していたのであった。
そういうわけで、王虎は、みつ口の忠実さをたよりにし、彼の意見をよく聞いた。このときも彼は、みつ口の言うことが正しいと思ったので、部下がむろの木の下でからだをのばし、疲れ果てて黙りこくっているところへ行って、内心よりもやさしい調子で言った。
「兄弟諸君、おれの故郷の町は目の前にある。おれの生まれた村は、すぐそこだ。おれは、このあたりの道は、すみずみまで知っている。諸君はこの困難な苦しい日夜を、勇敢に疲れも見せずに行軍してくれた。いまこそ諸君に褒美をやることができる。おれは諸君を、おれの村のまわりにある部落へ案内しよう。ただこの付近は、おれの親しい人間ばかりで、あまり迷惑をかけたくないから、一つの村に全部が宿営するのは遠慮したい。おれは牛を買い、豚を殺し、家鴨や鵞鳥をあぶって諸君に腹いっぱい食わせるつもりだ。酒も飲ませる。この地方で一ばんいい酒は、ここが産地だ。金色に輝いた強い酒だ。すぐ酔いがまわるぞ。それから、めいめいに銀三枚ずつ褒美をやる」
すると、兵士たちは急に元気になった。みな立ちあがって、笑いさざめきながら銃をかつぎ、その夜のうちに町まで行進した。王虎は町を通り過ぎ、自分の生まれた村の向こうにある部落へ部下を連れて行った。そこで、四つの小部落を選び、部下を宿営させることにした。しかし彼は軍閥がやるような傲慢《ごうまん》な態度はとらなかった。朝まだき、最初のカマドの煙が戸口からやっと立ちのぼるころ、彼は自分で、部落から部落を歩いて村長に会い、鄭重に頼んだ。
「費用はすべて銀でわしが支払う。部下には商売女以外には手を出させない。二十五人だけ宿営させてもらいたい」
しかし彼がこうして鄭重に頼んでも、村の年寄りたちは、いい顔をしなかった。いままでにも軍閥のそういう連中は、約束をしておきながら支払ったためしがないからである。彼らは横目でそっと王虎のほうをぬすみ見ながら、あごひげをなでて、戸口でぼそぼそ相談していたが、とうとう王虎に向かって、それがほんとうなら手付けがほしいと言いだした。
王虎は相手が同郷の人だから、惜しげもなく、たくさん銀をつかみ出して、年寄りたちの手に渡した。そして、部下が割りあてられた村に行く前に、彼はよく言ってきかせた。
「ここの村の人は、おれのおやじの友人であることを忘れないでくれ。ここはおれの故郷だ。おまえたちの行動を見て人はおれのことを判断する。ていねいな言葉をつかえよ。代金を払わずに物を取ったりしてはならぬぞ。かたぎの女に手をつけたら容赦しない。即座におれが殺す」
彼のはげしい気性を知っている部下は、もし隊長の命令にそむけば、どんな天罰でも受けると言って、口々にそれを誓った。兵士たちが、それぞれ分宿し、食事の用意ができると、王虎は村人たちのしぶい顔を笑顔に変えるほどの銀を払ってやった。すべてが、とどこおりなくすむと、王虎は、ふたりの甥をかえりみて、故郷に帰れたうれしさに、荒っぽい上機嫌なようすで言った。
「さあ、行こう。おやじたちが会いたがっているぞ。この一週間はおれも休もう。戦争をま近にひかえているからな」
彼は馬を南へ向けた。土の家のわきを通ったが、わざと立ち寄らず、通り過ごした。ふたりの甥はロバに乗って、叔父のあとからついてきた。町が近くなった。なじみ深い城門を通って、家に帰った。長兄の息子の頬には、幾月ぶりかで、はじめてうれしそうな色がうかんだ。彼は、いそいそと自分の家にはいって行った。
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十一
七日七夜、王虎《ワンホウ》は城内の宏壮《こうそう》な屋敷に滞在した。兄たちは彼にごちそうをし、賓客として彼をもてなした。四日四夜は、長兄の家で過ごした。長兄は弟をよろこばせるために、できるだけのもてなしをした。しかし彼の知っているもてなしかたは、自分が楽しいと思うことを弟にもさせようとすることであった。長兄は、夜ごと弟のために酒宴をはり、歌妓《かぎ》や琵琶をひく女のいる茶館へ案内したり、劇場へ案内したりした。まるで弟をよろこばせるよりも、自分自身が楽しんでいるようなものだった。
というのも、王虎は一風変わった人間だからだ。彼は空腹を満たすに必要なだけしか食べようとせず、ほかの人がまだ食べているのに、もう箸《はし》をおいてすわっていた。酒も自分の気のむくだけ飲むと、もう飲もうとはしなかった。
だれでも宴席では愉快に飲んだり食ったりして、しまいには汗をかいて長衫《チャンサ》も下着もぬいでしまわなければならないほど陽気に騒ぐものである。なかには、もっと食べたいばかりに、わざわざ庭に出て胃のなかに詰めこんだものを吐いてから、また改めて食べはじめるものもいるのに、王虎は、そういう酒宴の席でも黙ってすわっていた。空腹さえ満たしてしまうと、おいしい吸い物にも、珍しいので高価な海蛇の肉にも、箸をつけようとしなかった。甘い菓子も口にしない。たいていの男が、どんなに腹いっぱいのときでも食べるくだものや砂糖づけのはすの実や蜂蜜などにも、いっさい手を出そうとしなかった。
女と遊んだりたわむれたりする茶館へ長兄に連れられて行っても、王虎は身を固くし、まじめくさって、剣を皮帯からつるしたまま、ゆるめようともせず、例の黒い目で無表情にながめているだけだった。べつだん不愉快そうにも見えないが、さりとて、よろこんでいるようにも見えなかった。声が美しいとか、顔が美しいとかいって、とくにどの歌妓に目をつけるということもなかった。歌妓のうちには彼に目をつけ、その浅黒いたくましさと、りっぱな風貌に心をひかれて、そばへ寄っては、しなやかな手をかけたり、なまめかしい、ものうげな流し目を送ったりして、しきりに気をひこうとつとめるものもいたが、王虎は、いっこうに無関心で、身じろぎもせず、じっとすわっていた。どの歌妓にも、みな同じような口を向けるだけで、口もとは、あいかわらずきりりと結んだままだった。たまに口をきいても、きれいな女たちが耳にしたことのないようなことばかりだった。平気で、ずけずけと、「なんだ、その歌は。かけすが鳴いているみたいじゃないか」などと言ったりした。
厚化粧をした色っぽい小柄な女が、意味ありげに彼の顔を見ながら、小声で歌をうたいはじめた。すると彼は、「もうあきあきしてしまった」と叫んで席を立ち、茶館から出て行った。長兄は、これからがおもしろいのにと思い、残念がったが、弟のあとを迫って出ないわけにはいかなかった。
事実、王虎は母親ゆずりで口が重く、必要なこと以外は、めったにしゃべらなかった。そのかわり、いざとなると、歯に衣をきせず、思ったことをずけずけ言ってのけるので、一、二度そんな経験をしたことのある人は、彼のくちびるがちょっと動くのを見ただけで、恐れをなした。
ある日、長兄の夫人が王虎のところへきて、何かとおせじをならべて自分の息子のためにとりなしをしようとしたときにも、彼は、いつもの調子で、ありのままのことをぶちまけた。午後のことだった。王虎が茶を飲み、長兄が小さなテーブルで酒を飲みながらすわっている部屋へ、夫人がはいってきた。彼女は、しとやかに足を運ばせ、つつましやかにうつむいてはいってきて、あいそ笑いをうかべながら、うやうやしくおじぎをした。彼女は男たちのほうをながめはしなかった。しかし長兄は、彼女がはいってくるのを見ると、急いで顔をぬぐい、錫《すず》の徳利にはいっている熱い酒のかわりに、あわてて茶わんに茶をついだ。
夫人は悲しげなようすをして、纏足《てんそく》の足でたどたどしく歩きながら、当然すわるべき場所よりも低い席についた。王虎は立ちあがって、もっと高い席につくようにすすめたが、弱々しい声で辞退した。近ごろ彼女は、怒ったり、われを忘れたりしたとき以外は、いつもこんな弱々しい細い声を出すのであった。
夫人は言ったのである。
「いいえ、わたくしは自分の席をわきまえております。わたくしは弱い、とるに足りない女でございます。もしわたくしがそのことを忘れますと、主人は、ほかの女をたくさん、わたくしよりもすぐれた値うちのあるものとして引きいれてみせ、わたくしに、そのことを思い出させるのですわ」
彼女は遠まわしにそう言って、夫を横目でにらんだ。長兄は、すこし汗をかいて、気の弱そうな調子で言いわけした。
「わしが、いつそんなことを――おまえ――」
そう言いかけて、彼は近ごろ何かとくに自分のしたことで、運悪く妻の耳にはいったようなことがあるかどうか、それとなく思いめぐらしてみた。いつか宴会で会って以来気にいった若い歌妓に目をつけて、せっせと通いつめ、月々きまった仕送りをしはじめていたのは事実であった。気にいった女ができて、しばらくはどうしても自分だけのものにしておきたいが、そうかといって新しく妾《めかけ》として家にいれると、めんどうなことがおこるというようなときには、だれでも金を出してどこかへかこっておくものだが、長兄もまた、その女を城内のさるところにかこいたいと思っていたやさきであった。
女の母親はまだ達者で、たいへんなごうつくばりであった。長兄の申し出た金額では、娘を手放しそうにないので、このことはまだ実現していなかった。実行もしないうちに、妻の耳にはいるわけはないと思い、袖で顔をぬぐって妻から顔をそむけ、大きな音を立てて茶をすすった。けれども夫人は、そのとき彼のことなど考えてはいなかった。夫人は、彼のつぶやいた言葉など気にもかけないで言った。
「わたくしは、いやしいとるに足りない女でございますが、母親といたしまして、あなたのところへうかがって、とるに足りないうちの次男のためにあなたがお心にかけてくださったことにたいし、お礼を申しあげなければならないと考えました。わたくしのようなものの感謝など、あなたにとっては、物のかずでもございませんでしょうが、お礼を申しあげるのが、わたくしの義務でございますし、わたくしのよろこびでもございますので、いろいろと苦労の重荷やさげすみをしのびながらも、こうして出てまいったわけでございます」
そう言って彼女は、またしても夫のほうを横目でにらんだ。夫は頭をかき、まぬけた顔で妻を見た。妻が何を言いだすか見当がつかないので、からだじゅうに冷や汗をかいていた。あまりふとっているものだから、なんでもないことに汗をかくのである。夫人は言葉をつづけた。
「いくえにもお礼を申しあげます。わたくしのようなつまらぬもののお礼ではありますが、まごころから出ております。あなたのご親切に値する子がいるとすれば、あの子こそ、それでございます。あの子は、一ばんやさしくて、おとなしい、頭のよい子でございます。わたくしは、あの子の母親でございまして、母親というものは子供にかけては目のない親馬鹿と申しますが、それでもわたくしどもとしましては、一ばんよい子をあなたにさしあげたのだということを、かさねて申しあげます」
夫人が話しているあいだ、王虎は、じっと夫人をみつめながらすわっていた。彼は、いつも人が話しているときには、無表情な顔で、じっと相手をみつめるくせがあった。あまり無表情なので、聞いているのかいないのか、返答があるまでは、わからなかった。
彼は歯に衣を着せない、ぶっきらぼうな調子で答えた。
「もしあの子が一ばんよい子なら、わたしは兄さんと嫂《ねえ》さんに同情します。いままでにあんな臆病な、いくじのない子をわたしは見たことがありません。胆《きも》っ玉が白いめんどりの胆ほどもない。いっそ長男のほうをよこしてくださればよかったと思いますよ。あれは、なかなか頑固な青年です。あの子ならば、訓練ひとつで、わたしにだけは従順だが、ほかのだれにも屈しないような意志のつよい人間にしてみせます。あの次男のほうは、いつも泣いてばかりいて、まるで水のもるヒシャクを持って歩いているようなものです。ぜんぜん素質がないから、訓練のしようがないですよ。りっぱにしてやりたくても、それができません。あなたの息子にも、つぎの兄さんの息子にも、失望しています。あなたの次男は、軟弱で、臆病で、泣き虫のわからずやだし、もうひとりのほうは元気はいいが、乱暴で、無考えで、笑ってばかりいる道化者です。道化者が、どのくらい高い位置にのぼれるものか、わたしにはわからない。息子が必要なときに自分の子がないというのは、いやいや、残念なことです」
こんな露骨な言葉にたいして、夫人がどう答えるか、だれにも見当がつかなかったが、長兄は、夫人が他人からこれほどあけすけに、無遠慮に、ものを言われたことがないのを知っているだけに、どうなることかとふるえていた。夫人の顔は、さっと紅潮し、鋭い返事をかえそうとして、くちびるが動いたが、彼女の声がまだ言葉にならないうちに、かくれて立ち聞きしていた長男が、とばりのかげからいきなり走り出て、夢中で叫んだ。
「行かしてください、おかあさん。ぼくは行きたいのです」
彼は青春の美しさと情熱にあふれて、一同の前に立った。そして、ひとりひとりの顔を、すばやく見まわした。若い貴公子たちが好んで着る孔雀の羽の色をした明るい青色の服を着て、外国製の皮靴をはき、指にはエメラルド(翠玉)のはいった指輪をはめ、髪は最新の流行型に刈り、香油でなでつけていた。労働や、日にやける必要のない富豪の家の青年らしく、青白い顔をして、手は女のようにきゃしゃであった。しかし、青白い美しさにもかかわらず、その風貌には、どこか活発そうなところがあり、いきいきとした気短かそうな目をしていた。そのころ、城内の青年たちのあいだでは、ものういような、何事にも無関心な態度をとることが流行していたが、彼は何かに熱中してくると、もうそういう態度をよそおっていることができなかった。いまもいまとて彼は、いつものものうげな態度をすて、欲望の炎にもえあがっていた。しかし母親は、鋭い声でそれをさえぎった。
「なんてばかなことをいうのです。おまえは長男ですよ。おとうさんの跡をついで家長になるのですよ。どうしておまえを戦争にやれるものかね。戦死しないともかぎらないじゃありませんか。おまえのためには、なんでもしてやったじゃありませんか。この町の学校という学校を卒業させたし、学者を家庭教師にして勉強もさせました。南の学校へ行かせないのは、おまえを、かわいく思うからなのですよ。それを、どうして戦争になぞやれると思うのですか」
夫は黙って頭を垂れてすわっていた。夫人はそれを見て、きつい声を出した。
「あなた、こんな重大な責任を、わたしだけに負わせるつもりですか」
すると、長兄は弱い声で言った。
「おかあさんの言うとおりだよ。おかあさんは、いつも正しい。そんな危険のあるところへ、おまえを出すわけにはいかないよ」
長男はもう十九歳にもなっているが、まるで子供が|だだ《ヽヽ》をこねるときのように、じだんだ踏んで泣きわめきはじめた。彼は走って行って戸口の横木に頭をぶつけながら叫んだ。
「ぼくの好きなようにさせてくれなければ、毒をのんで死にます」
両親は驚いて立ちあがった。夫人は、若旦那づきの下男を呼べ、と大きな声で叫んだ。下男が驚いてとんでくると、夫人は言った。
「若旦那を、どこかへ連れて行って遊ばせておいで。なんとかなだめて、気が静まるようにしておくれ」
王一《ワンイー》は、急いで帯のあいだから一握りの銀をとり出して息子に押しつけた。
「おい、これを持っておいで。なんでも好きなものを買うがいい。バクチでもなんでも好きなことに使っていいよ」
最初、青年は、銀をはらいのけて、そんな手にはのらないといったふりをしていたが、下男がうまくなだめすかしたので、しばらくすると、しぶしぶそれを受けとった。そして、またひとしきり|だだ《ヽヽ》をこねて、「ぼくは行くんだ。叔父さんといっしょに行くんだ」と叫びながら、下男が手をひっぱるままに、そこを出て行った。
この騒ぎが一段落すると、夫人は椅子にくずおれるようにすわり、悲しげにため息をついて言った。
「あの子は、いつもあんなに強情っぱりで、どう扱っていいのかわかりません。あなたにさしあげた次男よりも、よっぽど教育するのがむずかしいのです」
王虎は、にこりともせずに、さきほどからのありさまを見ていたが、このときになって、やっと口をひらいた。
「強情でも、意志のないものよりは、意志のあるもののほうが教育しやすい。いまの子を、わたしにまかしてくださったら、なんとかりっぱなものにして見せますよ。しつけを怠るから、あんなみっともない騒ぎになるんです」
夫人は腹が立ってたまらなくなった。自分の息子のしつけが悪いなどと言われては、その場にいる気がしなかった。そこで、気どった態度で立ちあがり、頭をさげながら、「おふたりでお話しになることもたくさんおありでしょうから」と言って出て行った。
王虎は、なさけない男だというような顔つきで長兄をながめた。しばらくのあいだ、ふたりは何も言わなかった。長兄はまた酒を飲みはじめたが、酒の味もうまくなさそうだった。彼は悲しげな顔をしていたが、とうとう、いつもに似ず考えこんで、口を開く前に重々しくため息をついてから、述懐した。
「わしにはわからぬ謎がある。それはこうだ。女は若いときは、すなおで、やさしくて、男の思うとおりになるが、年をとるにつれて、まるで別人のようになってしまう。がみがみ叱言《こごと》ばかり言う。うるさくてしようがない。まったくのわからずやになってしまい、相手になっていると、こっちが気が変になってしまいそうだ。ときどきわしも女と縁を切ろうと思うことがあるよ。妾だって、そのうちにあれと同じ真似をするようになるだろう。女はみんなそうなのだ」
彼は、なんとなく弟がうらやましくなり、大きな子供みたいに泣き出しそうな目つきで、弟をながめた。そして悲しそうに言った。
「おまえは、しあわせだよ。わしよりも、しあわせだ。おまえは女にも土地にも束縛されていない。わしは土地と女で、二重にしばられている。わしは、おやじの残してくれたこの呪わしい土地にしばられている。わしが管理しなければ、何も収益をあげることができない。小作人というものは、どろぼうみたいなもので、地主とみれば、どんなに正しい善良な地主にでも、徒党をくんで刃向かってくるのだ。執事は雇ってあるが、執事で正直な男というのは、聞いたことがないからな」
彼は厚いくちびるをひきさげ、もう一度ため息をつき、ふたたび弟をながめてくりかえした。
「おまえは、しあわせだ。おまえは土地を持っていないし、女にもしばられていないからな」
王虎は思いきり軽蔑をこめて答えた。
「わたしは女なんてものはぜんぜん知りませんよ」
四日たって、次兄の家に移ることができたとき、王虎は、うれしかった。
次兄の家に移った王虎は、こうまで家庭の空気がちがうものかと思って驚いた。次兄の家でも、子供たちが同じように口論したりけんかしたりしていたが、ここには、ほがらかさがあふれていた。この騒がしさも、ほがらかさも、次兄の田舎出の妻を中心としてわきおこっていた。彼女は騒がしい、がさつな人間で、いつも家じゅうになりひびく大きな声で話をするし、赤ら顔で無遠慮な女だった。彼女は一日に何回となくかんしゃくをおこし、けんかしている子供たちの頭をつかまえて鉢合《はちあわ》せをさせたり、袖を二の腕までまくり上げ、手をふりあげてぴしゃりと平手で子供の頬をひっぱたいたりするので、家のなかには、朝から晩まで怒号や泣きわめく声が絶えなかった。召使たちも主婦におとらずがさつで、大きな声を立てていた。
しかし次兄の妻は、がさつではあるが、子供好きであった。そばを通りかかる子供をつかまえては、ふとった首っ玉に鼻をすりつけてかわいがった。彼女は自分ではとても倹約だったが、子供たちが行商人の売りにくるアメとか、あつい甘い飲み物とか、砂糖づけのさんざしの棒などを買いたがって銭をせがむと、いつもふところの奥ふかく手をいれて小銭を出してやった。
このにぎやかで、ほがらかな家のなかにいて、次兄は、もの静かな落ちついた態度で、いつも商売上の算段ばかりしていた。彼は、家じゅうのものにたいして、いつも上機嫌であった。この夫婦は、たがいに気があっているのである。
この家にきてはじめて王虎は、功名を急ぐ計画を、しばらくのあいだ忘れた。部下は休養して飲食にふけっていた。王虎も次兄の家でのんびりすることができた。この家は、なんとなく居心地がいいのである。彼は、あのあばたづらの甥《おい》が自分の手もとへきたとき、愉快そうに笑ってばかりいた理由が、はじめてわかったような気がした。そして長兄の子が、いつも臆病でおどおどしている理由も、わかったような気がした。彼は次兄夫婦の満足しているようすを感じた。子供たちの、満ち足りた心も感じとった。子供たちは、あまりたびたびからだを洗ってはもらえないし、召使もただ毎日子供たちに食事をさせ、夜はどこかへ寝かせてしまうといった程度にしか子供たちのめんどうを見なかったが、それでも子供たちは満足していた。
子供たちが家のなかを陽気にはねまわっているのをながめていると王虎は妙に心を動かされた。一ばん王虎の目をひいたのは、まるまるとした顔の五歳ぐらいのきれいな男の子であった。王虎は、なんとなしに、その子がかわいくてたまらなかった。王虎がその子のほうにそっと手をさし出したり、小銭をみつけて握らせようとしたりすると、急にまじめな顔つきになり、指をくわえ、王虎のいかめしい顔を、じっとみつめてから、頭をふりふり逃げて行った。
王虎は笑って、気にしないふりをよそおっているが、心のなかでは、大人から拒絶されたように苦痛を感じるのだった。
こうして王虎は休養の七日間が過ぎるのを待った。何もせずに、こんなにのんびりしていることなど、めったにないので、彼は、いつになく考えこみがちになった。子供たちがいっぱいいるこの二軒の家を見るにつけても、自分の血につながる息子のいないことが、いまさらのようにさびしく感じられてきた。彼は、もの思いにふけった。そして、いくらか女のことも考えた。妻や女中や若い奴隷女たちが、あちこち走りまわっているような家庭のなかに、のんびりと日を送ったのは、彼にとっては、これがはじめてだったからかもしれない。すらりとした女中が仕事をしている後ろ姿などを見ると、ときどき、ふしぎな甘い心のときめきをおぼえた。梨華《リホワ》が、かつてこの家で、そんな姿をしていたことが、思い出されるのであった。しかし、女中がふり向いたとき、その顔を見ると、昔の夢はさめてしまった。彼は青春の日に、ほとばしる感情の泉を、ことさらに閉ざしてしまったことがあるので、いまでも女の顔を見ると、急に感情の流れがとまってしまい、自分から遠ざかって行くのだ。
のんびりと、何もせず、しかも、かすかな心のときめきをおぼえながら、次男の家で日を送るうちに、ある日の午後、彼は、どうしても心が落ちつかず、蓮華《リエンホワ》のところへあいさつに行こうと思いたった。昔、もっとも多く梨華の姿を見かけたのは蓮華の部屋だった。だから、もう一度、蓮華の部屋と中庭を見たいと心ひそかに願ったのである。まず召使をさきにやって訪問を予告させておいてから、彼は蓮華をたずねた。蓮華は、同じような年配の老婦人たちと賭けごとをやっていたが、立ちあがって彼を迎えた。しかし彼は、ながく落ちついてはいられなかった。室内を見まわすと、昔の思い出がよみがえってきたが、それと同時に彼は、こなければよかったと後悔した。彼は立ちあがった。またしても心が動揺した。ながくすわっていられなかった。蓮華には、なぜ王虎がふさぎこんでいるのかわからなかったので、引きとめようとした。
「もっとゆっくりしていらっしゃいませよ。砂糖づけのしょうがもありますし、甘い蓮《はす》の実や、お若いかたの好きなものがどっさりありますよ。わたくしは、こんなに年をとってふとってしまいましたけれど、お若いかたのお気持ちがどんなものか忘れてはいませんよ。あなたがたの年ごろのことは、よくおぼえておりますわ」
彼女は王虎の腕に手をおき、親しげに笑いをうかべて媚態《びたい》を示した。王虎は、とつぜん彼女に嫌悪を感じ、からだをかたくして頭をさげ、失礼しますと言って、急いでそこを出た。賭けごとをしている老婦人たちのかん高く笑う声が、中庭を通って帰る彼の耳に、追いかけるように聞こえてきた。
次兄の家にもどって行きながらも、彼の思い出は、ますます心を動揺させた。自分はここにいてはいけない。自分の生活は、ここには縁がない。自分は自分の道を行かなければならない。彼は気持ちをひきしめようとして、自分にそう言いきかせた。父の墓参をすましたら、すぐにこの家を去って壮途につこう。墓参は子としての大事な義務であるし、ことに大冒険の門出のことであるから、おろそかにはできない。それをすましたならば、一刻も早く出発しよう、と決心した。
翌朝、六日目の朝、彼は次兄に言った。
「おとうさんのお墓におまいりして、お線香をあげてきたら、すぐに出発します。ながく滞在していて、部下がぐうたらになってはたいへんです。まだこれからさき長くけわしい道があるのですから。わたしに必要な軍資金については、なにかお考えになっていることがありますか」
すると次兄は答えた。
「毎月きめただけのものは送るよ。ほかには考えていない――」
王虎は、いらいらして叫んだ。
「借りたものは、かならずお返しします。わたしは、これからおとうさんの墓へ行ってきます。ふたりの子供に、したくをさせておいてください。明朝早く出発しますから、今夜は飲みすぎたり食いすぎたりしないように注意してください」
そう言いおいて彼は出かけた。長兄の息子は連れて行きたくないものだと心のなかでは思ったが、両家のあいだに、おもしろくないことが起こってもいけないので、ことわることもできなかった。出がけに、家にしまってある線香を持ち出して、父の墓へ向かった。
この父と子のふたりは、父の存命中から、ひどく気持ちがかけはなれていた。父は王虎を無理に百姓にしようとして、いつも畑で働かせたので、王虎の少年時代は苦い思い出ばかりであった。王虎は土地を憎悪しながら育った。いまでも彼は土地を憎悪していた。王虎は、いまは自分のものになっている例の土の家に近づいたが、そばまで行かずに、わざとまわり道をした。子供のときに育った家ではあるが、彼にとっては永久に解放されることのない牢獄のような家であり、いまだに憎悪の念をぬぐい去ることができなかった。彼は小さな茂みをくぐりぬけて、一家の墓地である小高い丘に近づいて行った。
足を早めて近づくと、だれかが泣いているような低いやわらかいひびきがきこえてきた。いったい、だれが王龍《ワンルン》の墓で泣いているのだろう? 彼は、ふしぎに思った。蓮華は賭けごとで夢中だったから、蓮華であるはずはない。彼は、しのびよって、そっと木かげからのぞいてみた。そこには、いままでに見たこともないような異様な光景がくりひろげられていた。
父の墓に、梨華が頭をもたせかけて泣いているのである。彼女は草のうえにうずくまり、だれも人がいないので安心しきってさめざめと泣いているのであった。梨華のそばには、ひさしく会わなかった白痴の姉が秋の日ざしをあびてすわっていた。頭はほとんど白髪になり、顔はしなびて小さくなっていた。白痴の姉は赤い布切れをたたんだり、ひろげたりしていた。そして、日の光を受けて布切れが赤く光るのを見て、よろこんでにこにこ笑っていた。さらに、そのかたわらには、小さなせむしの男の子が、白痴の娘の上着のすそをしっかりとおさえてすわっていた。子供は好きな人から用事を頼まれると一心になって言われたとおりにするものだが、その子も、せむしのからだをねじまげて、白痴の上着のすそをおさえていた。けれどもその顔は、泣いている梨華のほうを悲しげに見守り、自分もくちびるをかんで、梨華のために泣きたいのをこらえているようであった。
王虎は驚いてその場にたたずんだ。からだのもっとも深いところから悲しみがほとばしり出てくるように慟哭《どうこく》する梨華の低いやわらかい声に、彼はみじろぎもせず耳を傾けていたが、とつぜんたまらなくなった。父親にたいするかつての怒りが、にわかにはげしく燃えあがってきた。彼は自分をおさえることができなかった。足もとに線香を投げすてるがはやいか身をひるがえしてそこを立ち去った。われ知らず、いくたびも深いため息が彼の口からもれた。
彼は畑を横ぎって急いだ。この土地から――梨華から――一刻も早く離れて、自分の仕事に邁進しなければならないと、そのことばかり考えていた。彼は秋の強い陽光をあびて帰りを急いだ。その陽光のもとに畑が美しく照りはえていた。しかし彼の目には何もうつらなかった。畑の美しさなど、まったく目にはいらなかった。
朝まだき彼は起きて赤毛の馬にまたがった。馬は冷たい朝風のなかで、勇みたってとびはねた。ひづめの音が、石を敷いた道にひびきわたった。朝飯をたらふく詰めこんだあばたがロバに乗ってあとにつづいた。ふたりは王一の次男を連れて行くために長兄の家の門に乗りつけた。すると下男が門内から走り出て、こう叫びながら、どこかへかけて行った。
「なんて不吉なことだ――この家は呪われているだ」
王虎は、むらむらと短気を起こしてどなった。
「何が呪いだ。しょうがないやつだ。もう太陽がのぼるというのに、おれはまだ出発できないのだぞ」
けれども下男は、あともふり向かず一目散にかけて行ってしまった。王虎は、心の底から怒りを発し、あばたに向かって言った。
「あの呪われたおまえの従弟《いとこ》は、まったく重荷だ。これからさきも重荷になるばかりだろう。行ってさがしてこい。早くこなければ、おいて行くと言え」
あばたは、すぐに小さなロバからすべりおりて、門内へ走って行った。王虎は、ゆっくりと馬からおりて門のところへ行き、門番に手綱を渡して、出てくるまで手綱を持って待っているようにと命じた。しかし、門内に一歩足を踏み入れると、あばたが幽霊のように蒼白《そうはく》な顔で、まるでかけ足で城壁を一まわりしたあとのように息をはずませて出てくるのに出あった。あばたは、あえぎながら言った。
「従弟はもうきません――首をつって死んでいます」
「なんだと! あの小猿めが」と叫んで、王虎は長兄の家におどりこんだ。
屋敷のなかは大混乱で、おおぜいの男女や召使が、中庭に出て、何かをとりかこんで騒いでいた。この騒ぎとわめき声をつんざいて、女のかん高い泣き声が聞こえた。それは死んだ子の母親の泣き声であった。王虎が人の群れを押しわけていくと、その中央に長兄がいた。ふとった顔が古いローソクのように黄ばんで、涙でゆがんでいた。腕のなかに二番目の息子の死体をささえていた。少年の死体は、照り輝く朝の空のもとに、ぐんなりとのびて中庭に横たわり、ささえている父親の腕から頭がだらりと仰向けに垂れていた。兄といっしょに寝ていた部屋の梁《はり》に帯をかけて首をつったのである。兄のほうは、前夜、宴会で酒を飲んでぐっすり寝入っていたものだから、朝、目をさますまで知らずにいた。明け方の薄明のなかで目を開き、梁からぶらさがっているものを見たとき、はじめは、着物だろうと思った。だが、どうしてこんなところに着物がさがっているのだろうと不審に思った。もう一度見直したとき、彼は、きゃっと悲鳴をあげた。それから家じゅうのものを起こした。
ひとりが王虎にこの話をしていると、そばから、おおぜいのものが口を出して、がやがやしゃべっていた。王虎は立ったまま、少年の死体を見おろしていたが、すると、ふしぎな感情に襲われてきた。生きているあいだは、すこしも感じなかった憐憫《れんびん》の情が、小さなやせた死体となって横たわっているこの子にたいして、わきあがってきたのである。
長兄は顔をあげて、そこに弟が立っているのを見ると、泣きながら言った。
「この子が、おまえといっしょに行くことをきらって死を選ぼうとは、夢にも思わなんだ。この子が死ぬほどおまえをきらうのは、よっぽどおまえが虐待したからだろう。おまえがわしの弟でなかったら、わしは――わしは――」
「いや、兄さん」と王虎は、いつもよりずっとやさしい調子で言った。「虐待なんぞするものですか。この子より年下のものが歩いているのに、この子はロバに乗せたくらいです。それにしても死ぬほどの勇気があろうとは夢にも思わなかった。そうと知っていたら、なんとか鍛練してものにすることができただろうに。それが残念です」
彼は立ったまま、しばらくみつめていた。すると、さっきどこかへ走って行った下男が、占い師や僧侶を連れてもどってきたので、ふたたびあたりが騒がしくなった。こんな非業《ひごう》の死をとげたものがあるとき悪魔ばらいにくる人々が太鼓をたたいてやってきたのである。この騒ぎを避けて、王虎は、ひとり部屋で待っていた。
こういう不幸があった家の弟としてなすべきことをなし終えると、王虎は、ふたたび馬にまたがって出発した。行くほどに、彼の心は、いままでなかったほど悲しみに満たされてきた。自分は一度もあの子を打ったこともないし、虐待したこともない、あの子が自殺するほど絶望していたとは、だれも知らなかった、と、いくたびも思いかえしては、みずから心をなぐさめなければならなかった。天命だったのだ、だれも天命を避けることはできない、すべての人の寿命は天によって定められているからだ、王虎は自分にそう言いきかせた。彼は青ざめた少年のこと、父の腕にだかれて頭をぐったりとたれていた少年の姿を、無理にも忘れようとつとめた。
「息子を持つということも、よいことばかりはないかもしれぬ」そう言って、自分自身をなぐさめると、いくらか気持ちが楽になった。彼は元気をとりもどして、あばたに向かって言った。
「さあ、行こう。前途はながい。その一歩を踏み出すのだ」
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十二
王虎《ワンホウ》は皮を編んだ鞭《むち》を馬にあて、全速力で走らせた。馬は翼があるかのように田舎道を疾駆した。その日は、王虎のくわだてているような大冒険の第一歩を踏み出すには、まことにふさわしい日であった。空には一片の雲もなく、身を切るように冷たい強い風が、木々をざわめかせ、枝をたわめ、わずかに枯れ残っている葉を散らし、道路の砂ぼこりを舞いあげ、刈り入れのすんだ穀物畑のうえを渦巻きながら吹きまくった。
王虎の胸には、この風にも似た不敵な勇猛心がわいてきた。彼は、わざと例の土の家から遠く離れた道を選び、梨華《リホワ》の住んでいるところを、はるかにまわり道した。そして心のなかで言った。(すべての過去は終わった。おれには偉大と栄光の前途があるのみだ)
こうして一日がはじまった。太陽は畑のかなたにのぼった。彼は、またたきもせず巨大な輝かしい日輪をながめた。天が彼の門出を祝してこのような日をあたえてくれたかのように思われた。おれは偉大になる、偉大になることこそ、おれの天命なのだ、と彼は思った。朝のうちに彼は部下を宿営させた小部落に着いた。みつ口が出てきて彼を迎えた。
「隊長どの、ちょうどいいときにもどられたものです。兵士たちは、うんと休息し、食物もたらふく食ってたんのうしたので、もっと自由をほしがってじりじりしているところです」
王虎は叫んだ。
「そうか。朝飯が終わったら集合させろ。すぐ出発だ。あすじゅうに目的地までの半分は踏破するのだ」
次兄の家にいるあいだに、王虎は自分が領有すべき土地を、どこにさだめようかと思いめぐらしていた。賢明で用心ぶかい次兄にも相談した結果、隣の省の境界線を越えた地方が最良であり、もっとも目的にかなっているという結論に達したのであった。その土地は、王虎の故郷からかなり離れているので、必要に迫られてどうしても略奪をしなければならなくなったときにも故郷の人々に迷惑をかけないですむし、また離れているといっても、万一敗戦のうきめをみたときに、避難できないほど離れているわけではなかった。そのうえ、独立するまでは、ぜひとも必要な軍資の銀を運ぶにも楽であるし、盗難の危険もすくなかった。
土地そのものも豊かなことで有名であった。飢饉もめったにおこらなかった。地勢からいうと、高地あり平地あり、また退却してかくれるに便利な山岳地帯もあった。そればかりでなく、街道が南北に通じているので、旅人の往来もしげく、旅人から通行税をとり立てて収入源とすることもできた。また町も二つ三つあるし、小さいながらも都会もあるので、農民にばかりたよらなくてもすむわけである。もう一ついいことには、酒造用の米の名産地で、それを方々に送り出しているから、住民は、それほど生活に困っていなかった。
こうした利点は多いが、ただ一つ障害があった。それは、すでにその地方が一軍閥によって占拠されていることだった。二つの軍閥をささえうるほど豊かな土地はないから、もし王虎がその地方で覇をとなえようと思えば、まずその軍閥を追い払わなければならなかった。現在、勢力をふるっている軍閥が、なんという人物か、どんな経歴の男か、また、どのくらいの兵力を持っているのか、王虎は知らなかった。兄たちにきいても、ひたいが豹《ひょう》の頭のように傾斜しているので豹《バアオ》将軍と呼ばれていること、きびしく税をとりたてるので住民からうらまれていること以外には、たしかなことはわからなかった。
そこで王虎は、大胆に隊列を組んで正面から乗りこんで行くのでなく、目立たぬように、こっそり侵入しなければならないと考えた。さして危険のない脱走兵ぐらいにしか見えないように、部下を小さい群に分散させておく。山岳地帯に隠れ場所をつくっておき、地の利を自分のものにしてから少数の腹心の部下とともに情勢を探る。天命によって彼の支配すべき土地としてさだめられている土地を奪取するためには、どんな軍閥の将と戦わなければならないかを探り出すことが必要であった。
彼は計画どおり実行に移った。
彼の部下は、分宿した村の家から、ぞくぞく集まってきた。太陽がのぼって暖かくなってくるのと競《きそ》うかのように、冷たい風が吹いてきた。兵士たちは朝の寒さをしのぐために、腹いっぱい食事をし、酒も飲んでいた。王虎は、すべての費用を支払ってから、村民にきいた。
「部下が何か不埒《ふらち》なことをしなかったか」
村民はその場で答えた。
「いや、そんなことはねえです。兵隊がみんなあんたの部下のようだといいんでがすが――」
王虎は非常によろこんだ。彼は村からすこし離れた場所に部下を集合させ、これから連れて行く地方の情勢をくわしく説明した。みな起立したまま耳を傾けていた。
「あれだけ豊かな土地はどこにもない。一つの軍閥と戦って追っぱらいさえすればいいのだ。そこには、おまえたちが飲んだこともないようなうまい酒もある」
それを聞くと部下はよろこび勇んで叫んだ。
「連れて行ってください。隊長どの、みんな、そんな土地へ行きたがっているのです」
王虎は、不気味な笑いを見せて言った。
「そう簡単にはいかん。まず敵の兵力を探らねばならぬ。もし敵の兵力がわれわれよりもすぐれていたら、なんとかしてこちら側へ寝返りをうたせるようにせねばならぬ。おまえたちひとりひとりがスパイになったつもりで敵の内情を探り出してくれ。われわれがどんな目的でやってきたかをさとられてはならぬ。けどられたら、おしまいだ。おれが一足先に行って陣地をきめておく。和平谷と呼ばれる省境の部落に、みつ口を残しておく。部落のはずれに宿屋がある。酒の旗が立っている宿屋だ。みつ口がそこで待っていて、おれの選んだ集合場所を、おまえたちに知らせることにする。それから、おまえたちは、三人、五人、多くて七人ぐらいずつにわかれて、脱走兵をよそおい、あとからぶらぶらやってこい。もしどこへ行くのかときかれたら、豹将軍に仕えたいと思って探しているのだが、将軍はどこにおられるのか、と言え。各自に銀三枚ずつ支給する。つぎに会うまでの費用だ。しかし厳重に申し渡しておくことが一つある。もし、おまえたちのうちで、貧乏人に害を加えたり、娼婦《しょうふ》でない女をおかすものがあれば、おれの耳にはいりしだい、だれかれの容赦なく、ふたりずつ即座に殺すから、そのつもりでおれ」
すると列のなかから、ひとりの兵が叫んだ。
「隊長どの、われわれはいつになっても、ほかの兵隊のするようなことができないんですか」
王虎は、どなりつけた。
「勝手なことをしていいときには、おれが命令する。貴様たちは、まだおれのために戦ってもおらんじゃないか。戦いもしないで、戦いのあとの報酬をもらう気か」
兵士は恐れをなして黙ってしまった。王虎は、いったん怒ると、いきなり手を刀にかけて即座に殺してしまうからである。機知にとんだ言葉や、うまいことを言っても、心を動かす人ではなかった。しかし彼は正しい人間として部下から仰がれていた。また彼の部下も善良で、要求の限度を心得ていた。彼らは事実まだ戦っていないのだ。だから、夜食を支給され、手当をもらっているかぎり満足して、自由行動の許されるまで、よろこんで待つつもりになった。
王虎は彼らが小さな組に分散するのを見とどけたうえで、めいめいに銀をあたえた。それからロバに乗ったあばたの少年と、村で買ってやったロバにまたがったみつ口のふたりだけを連れて、北西に向かって進んだ。
王虎は、かねて聞いていた省境までくると、さる豪族の大きな高い塚《つか》の上に赤毛の馬をのぼらせ、その高所から、この地方を見おろした。それは彼がそれまでに見たうちで、もっとも美しい土地だった。ところどころに小高い丘が波のうねりのように横たわり、ひろい平野は新しく芽を吹いたばかりの冬の小麦で、一面に淡緑色の海のように、かすんで見えた。北西にかけては、なだらかな丘が急にけわしい山岳地帯となり、幾多の断崖が輝かしい秋空にくっきりと切り立っていた。
そして民家が大小の部落をなして散在していた。たいていは、きれいな土造の家で、朽ちかかったような家はない。その年の収穫のワラで新しく屋根をふきかえた家もある。レンガづくり、瓦ぶきの家も、二、三見える。目のとどくかぎり、どの農家の戸口にも稲ワラが積んであり、卵をうんだめんどりの鳴き声が遠く聞こえてきた。ときどき畑を耕しながら歌う農夫の歌声が風のまにまに流れてきた。
まったく豊かな土地であった。その豊かさを目のあたり見て、彼の心はおどった。しかし彼は、いま武装のまま赤毛の馬にまたがってそこへ乗りこんだのでは、住民のあいだに、すぐ戦争のうわさが立つので、まずい、と考えた。こうしてながめているあいだに彼は、自分や部下が一時潜伏し、だれにも気づかれずに敵の兵力を探ることができるような山間の場所に目をつけ、そこへのぼって行く道を考えた。
この高い塚のほかにも、多くの塚が集まっているこの小高い丘のふもとに、小さな部落があった。これは王虎が部下に話した省境の部落で、街道にそって数町ばかりつづいていた。王虎は、あばたの甥《おい》とみつ口をしたがえて、その部落のほうへ馬を進めた。農夫たちが市場から部落へもどってくる朝の時刻なので、村の茶店は、うどんやそばを食ったり、茶をすすったりしている農夫でいっぱいだった。彼らは、からになった籠《かご》をそばにつみ重ねたまま飲み食いしていた。街道に馬蹄《ばてい》の音が聞こえると、びっくりして顔をあげ、ぽかんと口を開けて王虎らの通るのを見あげた。王虎も、この地方の農夫たちが、どんな人間であるかを知りたいので、彼らをながめかえした。
みんな善良そうで、筋骨たくましく、日にやけて、元気だった。それを見て王虎はよろこんだ。こんな人間を育てうる土地を選んだのは幸いだったという思いを新たにした。しかし王虎は、彼らに一べつを投げただけで、いつになく温和な態度で通り過ごした。どこか遠くへ行く旅人が、この村を通り過ぎるようなようすだった。
村はずれに、かねて聞いていた酒亭《しゅてい》があった。王虎は、ふたりに外で待つように命じ、馬からおり、入り口ののれんを分けて店にはいった。客用のテーブルがただ一つおいてあるだけの狭い部屋で、だれもいなかった。王虎は腰をおろし、手でテーブルをたたいた。すると少年が走り出てきたが、王虎の顔つきが恐ろしかったとみえて、すぐひっこんで父親に知らせた。入れかわりに亭主が出てきて、破れた前掛けでテーブルをふきながら、ていねいに言った。
「旦那さま、お酒は何を召し上がりますだね」
「何があるかね」
「この地方でできる新しいコウリャン酒がありますだ。一ばん上等のお酒でして、全国に送られていますだ。都の皇帝さまのご飲料にもなっているそうで」
これを聞いて王虎は、ちょっと軽蔑したような笑いをうかべた。
「こんな小さな村に住んでいると、もう皇帝はおられぬといううわさも聞かないのかね」
すると亭主は顔に恐怖の色をうかべて声をおとした。
「知らねえだ。聞いたことがねえですだよ。いつおなくなりになったのかね。それとも、だれかに位を奪われたのだかね。そんなら、新しい皇帝さまは、どなたですだ」
王虎は、こんな無知な男もいるものかと驚いて、すこし軽蔑した調子になった。
「新しい皇帝は、まだいないよ」
「それでは、だれがわしらをおさめていなさるだね」と亭主は、知らぬまに新しい災難がふりかかったかのように、驚いてたずねた。王虎は言った。
「いまは争いの時代なのだ。群雄が割拠し、だれが最高の地位を得るかわからない。だれでも力さえあれば皇帝の地位にのぼれるのだ」
そう言っているうちに、彼は身うちにみなぎる大望が、うつぼつと高まってくるのを感じた。
(風雲に乗じて皇帝になるのが、このおれでないともかぎらない)と心に叫んだが、口に出しては言わなかった。彼は塗りのない小さなテーブルのそばに腰をおろして、酒のくるのを待っていた。
亭主は酒|瓶《びん》を持って出てきた。いま王虎から聞いたことが気がかりらしく暗い顔をしている。
「阜帝さまがおられねえとなると、どえらいことですだな。人間のからだに頭がなくなったようなものですて。乱世ですな。わしらをみちびいていく人が、ひとりもいねえということだてな。旦那さまは、縁起でもねえことを聞かしてくださっただ。知らせずにおいてくださればよかったですわい。いったん聞いたら忘れられねえだからな。こんな田舎者でも気になりますだ。いまは平和でも、いつなんどきこの村がひっくりかえるかと思うと、毎日おちおちしていられませんわい」
亭主は、うちしおれたようすで熱い酒をついだ。しかし王虎は相手にならなかった。こんないやしい男の心配など眼中になかった。彼としたら、この乱世こそ歓迎するところなのだ。彼は酒をついで息もつかずに杯をほした。熱い酒が血のなかにひろがった。頬がほてり、頭がぐらぐらするのを感じた。彼は、それ以上あまり飲まずに勘定を払い、酒をもう一杯買って、表で待っているみつ口のところへ持っていってやった。みつ口は大よろこびで、両手で杯を受けて、こぼさないようにすすった。まるで犬が飲むときのようなかっこうで、ぴちゃぴちゃなめた。それから仰向いて、底にたまった残りを、のどに流しこんだ。上くちびるがさけているので、うまく飲めないのである。
王虎は、ふたたび酒亭にひきかえして亭主にきいた。
「このあたりをおさめているのは、なんという人だね」
亭主は、あたりを見まわし、だれもいないのをたしかめてから、声をひそめた。
「豹《バアオ》将軍と呼ばれる匪賊の頭目ですだよ。残忍な、ひどいやつでして、税金を払わないと、ならずものの部下をひきいて襲ってきましてな。からすの群れのように、きれいにさらって行ってしまうですだ。なんとかして追っぱらえねえものかと、みんな困っていますだよ」
「戦うやつはいないのかね」と王虎はきいた。さりげないようすで彼はまた腰をかけた。そして、無関心をよそおって亭主に言った。
「薄茶を一杯くれないか。酒で、のどがやけるようだ」
亭主は茶を運んでから答えた。
「だれも戦うものはねえですだよ、旦那さま。もし、それでききめのあるものなら、豹将軍のことを、お上のお役人に訴えてえのですがね。一度この地方で一ばんえらい県長さまのいらっしゃる県公署に願い出たことがありましただ。わしどもの実状を訴えて、豹将軍を討伐する兵隊を送っていただきてえ、県長さまの兵隊だけで足りなければ、もっと上のほうから借りてきて、わしどもをひどいめにあわせている豹将軍を退治していただきてえ、とお願いしましただよ。
ところが、いざ兵隊がきてみると、どれもこれも、たいへんな野郎ばかりで、わしどもの家には泊まりこむ、娘たちには手をつける、食べものは食いちらして代金も払わねえ、といった始末で、かえってわしどもに、えらい重荷になってしまいましただ。そのくせ臆病者でして、いくさのにおいをかぐと、たちまち逃げ出してしまうので、匪賊どもは、ますます横暴になるばかり。ほとほと困りはてて、また県長さまにお願いして、やっと兵隊を引きあげてもらったようなわけでしてな。
ところが、それだけではすみませんで、兵隊どもは、長いあいだ給料をもらえねえ、食わずにはいられねえと申して、大部分が匪賊の手下になっちまいましただ。なにしろ、やつらは鉄砲を持っていますだで、わしらは、いままでよりも、もっとひどい目にあうようになりましただよ。なお、それだけではすまず、県長さまは、そのあと収税吏をよこして、わしら農民にも商人にも重税をかけましただ。わしらを保護するのに、役所は、たいへんな費用を使っただから、わしらにその費用を負担しろというわけでしてな。
お役所というのは、県長さまの阿片の飲みしろのことだと、いまでは、だれでも知っていますわい。それ以来、もう役所には、なんにも頼まねえですだ。それよりも、お祭りごとに豹将軍に銀をおさめて、乱暴させねえようにしたほうが安あがりだでね。さいわい、このごろは飢饉もねえので、なんとかやっていますだ。だけど、ここのところ、あまり豊作がつづいたで、お天道さまも、そろそろ凶年に変えなさるんじゃねえですかな。きっとまた凶作つづきですわい。そうなったら、どんなことになるやらわからねえですだよ」
王虎は茶を飲みながら、この長話を注意ぶかく聞いていたが、亭主の言葉がとぎれるのを待って言った。
「その豹将軍とやらは、どこに住んでいるのかね」
すると亭主は、王虎の袖《そで》をひいて、店の東側の小さな窓のところへ連れて行った。そして、酒で色のついた曲がった人さし指で山のほうを示した。
「あすこに峰が二つ並んでいるでしょうが。双龍峰と申しましてな。二つの峰のあいだに谷がありまして、そこが匪賊の山塞《さんさい》になっていますだよ」
これこそ王虎が聞きたいと思っていたことだった。彼は、なおもそしらぬふうをよそおい、口をなでながら、気がるに言った。
「そうかね。それではあの山には近寄らぬことにしよう。おれは北のほうの家へ帰るところだ。さて、出かけようか。茶代はここへおくよ。この酒は、なるほどおまえさんの言うとおり、強くて、うまい酒だね」
王虎は外へ出て、ふたたび馬にまたがり、ふたりをしたがえて、部落を通らないように回り道をしながら進んで行った。曲がりくねった、さびしい山道ばかり選んで馬を進めた。しかし、このあたりは部落が多くて、山腹の傾斜地までも耕してあるので、人里からそう遠くは離れられなかった。彼は双龍峰から目を離さなかった。そして、その南のかた、一部分、松林におおわれた、やや低い山をめざして、馬を急がせた。
一日じゅう、彼らは黙々として進んだ。王虎から話しかけないかぎり、みつ口も、あばたも、急な用事以外には口を開かないからである。一度、あばたは沈黙にたえかねて、低い声で唄《うた》をうたいだしたが、王虎にしかられて口をつぐんでしまった。王虎は、そんな唄がおもしろく聞けるような軽い気分にはなれなかったのだ。
その日おそく、太陽の沈む前になって、一行は数時間もぶっつづけに進んで山のふもとについた。王虎は疲れきった馬からおりて、山頂につづく荒れはてた石段をのぼりはじめた。みつ口とあばたも、ロバからおりてついてきた。石がごろごろしているので、馬やロバは行きなやんでいた。
のぼるほどに道はだんだんけわしくなってきた。ときには断崖に沿い、ときには岩や木のあいだから流れ出る渓流を渡った。雑草が深くおい茂っていた。石段の上には、なめらかな苔《こけ》がはえているが、そのまんなかに、いつか、だれかが通ったらしいあとが残っているだけであった。太陽が沈むころ、一行は、この山道の終わるところまで達した。そこには荒けずりの石で築いた寺があった。断崖を背にしているので、まるでそれが寺の内側の壁をなしているようなぐあいであった。寺は木々の茂みで、ほとんどかくされているが、色あせた赤い壁が夕陽《ゆうひ》に照らし出されたので、寺のあることがわかった。小さな古い荒れ果てた寺で、山門は閉ざされていた。
王虎は近づいて扉に耳をあてて、なかのようすをうかがった。なんの物音もしない。鞭《むち》の柄で扉をたたいてみた。いつまで待っても、だれも出てくるようすがない。彼は腹を立てて、はげしくたたいた。すると、扉をすこし開けて、頭のはげた、ひげのない老僧が顔を出した。皺《しわ》だらけの、しなびた顔である。王虎は言った。
「一夜の宿をお願いしたい」
王虎の声は、深山の静けさのなかに、鋭くひびいた。
けれども老僧は前よりもちょっと余計に扉を開いただけで、細い声で言った。
「ふもとの村に宿屋や茶店がございましょうがな。ここには世捨て人が数人おるだけで、食物は肉のない粗末なものばかり、飲むものは水じゃて。とてもお宿はいたしかねまする」
老僧は王虎を見ながら、法衣の下で膝《ひざ》をがたがたふるわせていた。
王虎は無理に扉を押し開け、老僧をしりめに、あばたとみつ口に声をかけた。
「これこそわれわれが探していた格好の場所だ」
王虎は僧侶たちには目もくれず、ずかずか奥へはいって行った。本堂に足を入れると、仏像や菩薩の像が立っていたが、それも寺と同じように古びて金箔《きんぱく》がはげ落ちていた。王虎は仏像などには一顧もあたえなかった。本堂を通り抜けると、僧侶たちの住む庫裏《くり》である。そのなかで、わりにきれいな、近ごろ掃除したらしい小さな部屋を自分の場所ときめ、そこで帯剣をはずした。みつ口は、あちこちさがして食物を持ってきた。もちろん、すこしばかりの飯とキャベツだけである。
その夜、王虎が寝ていると、仏像のある本堂から低い泣き声が聞こえてきた。なにごとだろうと起きて見に行った。すると本堂に、五人の老僧と、ふたりの若い僧が――これは農民の子で仏陀《ぶっだ》に祈った願《がん》がかなったとき、親たちが寺にささげたのである――仏像の前にひれふし、仏に救いをもとめて、泣きながら祈っているのであった。仏陀は大きな腹を突き出して、本堂の中央に鎮座していた。タイマツが燃えて、その炎が夜風にゆらめいた。ゆらめくその炎の光に照らされながら、彼らは、ひざまずいて祈っているのであった。
王虎は立ったままながめていると、彼らの声が耳にはいった。彼らは、王虎の手から救いたまえと祈っているのであった。
「助けたまえ――この匪賊の難を払いたまえ――」
それを聞くと、王虎は怒ってどなりつけた。思いがけぬ怒声に驚いた僧侶たちは、うろたえて逃げようとしたが、長い法衣が足にからまり、ばたばた倒れてもがいていた。住職の老和尚だけは、最後の日がきたのだと覚悟をきめて、顔を地にすりつけていた。王虎は声をはりあげた。
「おれは、おまえたちに害を加えはせんぞ、このおいぼれのはげあたまめ。よく見ろ、おれは、こんなに銀を持っている。なぜ、おれを恐れるのだ」そう言いながら、彼は腰につけた財布を開いて、そのなかの銀を見せた。そこには僧侶たちが見たこともないほどの銀がはいっていた。彼は言葉をつづけた。
「このほかにも、おれは、もっと銀を持っている。だれだって困ったときには、寺に泊めてもらうことができるはずではないか。おれは、しばらくここに泊めてくれと言っているだけなのだ」
僧侶たちは銀を見て、やっと安心した。たがいに顔を見あわせて、ひそひそ語りあっていた。
「あの人は、殺してはならぬ人を殺した軍人かもしれんて。それとも、将軍のご機嫌を損じて、しばらく身をかくさなければならなくなったのかもしれん。よくあることじゃ」
王虎は僧侶たちに勝手に想像させておいて、すごいうす笑いをうかべた。そして、ふたたび寝についた。
翌朝、夜が明けるとともに、王虎は起きて、山門まで出て行った。霧の深い朝で、雲は谷間をみたし、山頂をおおい、あたりは白一色であった。彼は下界から隔絶され、孤独であった。だが、山の冷気は彼に冬の近いことを思わせた。きびしい冬に向かって衣食住のすべてを彼にまかせている部下たちのために、雪の降ってこない前に、してやらなければならないことが、たくさんあった。そこで彼は、急いで寺にもどり、みつ口とあばたの寝ている台所へ行った。
彼らはワラをかぶってまだぐっすり寝入っていた。みつ口のさけたくちびるから寝息がもれて、口笛のような音を立てていた。すでにひとりの若い僧がレンガで築いたカマドの下にワラをくべ、大きな鉄鍋《てつなべ》のふたからは湯気がふいているのに、ふたりとも実によく寝入っているのである。若僧は王虎の姿を見ると、あわてて姿をかくした。
しかし、王虎は若い僧など気にしていなかった。彼は、みつ口に声をかけながら肩をゆすぶって起こし、すぐ食事をすまして、きのうの酒亭に行き、けさ部下がやってくるかもしれないから、そこで待っているようにと命じた。みつ口は手で顔をこすり、大あくびをして、やっと眠りからさめると、着物についたワラしべを払い落とし、大鍋のなかに煮えたぎっている、あついカユを大きな椀《わん》にしゃくって食べ、それから山をくだって行った。後ろ姿だけ見ると、りっぱな男である。彼を見送った王虎は、いまさらながら彼の忠実をとうといものに思った。
このさびしい場所に部下の集合するのを待っているあいだ、王虎は今夜の行動の計画をねった。それから彼の片腕となり相談相手ともなるべき腹心の人間を選んだ。そしてスパイになるもの、食糧徴発係、燃料を集めるもの、炊事当番、武器の手入れなど、共同生活における部下の持ち場を割りふった。彼は部下の統制を厳重にしなければならぬと思った。賞罰を厳正にし、自分の命令には絶対に服従させなければならない。生殺与奪の権を一身に握らなければならない、そう彼は決意した。
そのほか、戦闘の日がきたとき、ものの役に立つように、毎日、一定の時間、戦闘の方法を訓練する予定を立てた。弾薬がとぼしいから、実弾射撃の練習はできないけれども、できるだけのことを教えておかなければならない。
彼は、はやり立つ心をおさえつつ、その静かな山頂で待った。日の暮れるまでに、山道をわけて彼のところまで到着したものは五十名をこえた。その翌日さらに五十名ばかりが加わった。落伍《らくご》したものが数名あったが、それは変心して逃げたものらしい。王虎は、あと二日ほど待ったが、ついにこなかった。彼は兵士に未練はなかったが、兵士たちの持っていた小銃と弾薬が惜しくてならなかった。
こんなに多数の兵士が平和な寺のなかに集まってくるのを見た老僧たちは、すっかりうろたえて、どうしていいかわからず、まごまごしていた。しかし王虎は老僧たちをなぐさめて何度もくりかえした。
「費用は全部わしが払うから、心配しないがいい」
けれども老住職は弱々しげに答えた。よほどの高齢で、肉は落ち、しわだらけであった。
「支払いのことばかり心配しとるのではござらん。金銀ではつぐなえないものがござるでな。当寺は名も聖和寺と申すくらいで、静かな霊場でござって、わしども少数のものが世を捨ててここに長年住んでおりますのじゃ。それがいま、がつがつした元気な兵隊さんに、どやどやはいりこまれて、平和も何も吹きとんでしまいましたわい。あの人たちは勝手に本堂へ踏みこんで、どこでもつばをはく、仏さまの前でもつっ立ったままでいる、ところかまわず小便をする、乱暴|狼籍《ろうぜき》にもほどがござるて」
そこで王虎は言った。
「兵隊だから、やむをえない。兵隊たちの行ないをあらためさせるより、あんたがたが仏像をかついで引っこしたほうが簡単だ。あの一ばん奥の部屋に仏像を移してはどうか。そこへは絶対に行くなと命令する。そうすれば、あんたがたも静かにしていられるわけだ」
ほかに方法がないので、老住職は言われたとおりにした。菩薩の像をすべて台のまま奥へ運んだ。ただ金箔のはげた仏陀の像だけは、大きすぎて運べないので、そのままにした。もし落としてこわしでもしたら、それこそ災厄がふりかかるだろうと恐れたからである。そこで兵隊たちは本堂の仏像のかたわらで寝起きすることになった。兵隊は、どんな罪を犯すかわからない。それを仏陀が見て怒るとたいへんだというので、老僧たちは本尊の顔を布でおおった。
王虎は部下のなかから三人を腹心として選んだ。第一はみつ口である。そのつぎは、鷹《たか》というあだ名を持っている男で、やせた細い顔に奇怪なかぎ鼻があり、口がたれさがっていた。もうひとりは、豚殺しと呼ばれる男である。この豚殺しは、ふとった、赤ら顔の大男で、まるで製造中に鼻を手でおしつけたように平べったい大きな顔をしていた。元気なたちで、昔は、たしかに豚殺しだったのだが、けんかして近所の男を殺してしまった。そのことを、ときどきこう言って彼は後悔した。
「あのときおれが箸《はし》を持って飯でも食っていたら、殺しはしなかったのよ。ところが、おれは肉切り庖丁《ぼうちょう》を持っているときに、あいつが、けんかをふっかけてきやがったんだ。庖丁が勝手に手からとび出したようなものさ」
いずれにしても相手の男は出血がひどくて死んでしまった。彼は法律の手からのがれるためにかくれなければならなかった。この男は一つ奇妙な芸当を持っていた。からだつきは武骨で粗野だが、手だけは、すばしこく、箸を持たせれば、とんでいる蝿《はえ》を一匹、また一匹と、つまむことができた。仲間はおもしろがって彼にこの手並みをやらせては、かっさいした。彼はこの正確な腕まえで人間を突き刺し、一時にどっと血を流させて殺す妙技もこころえていた。
この三人は読み書きこそできなかったが、抜けめのない男ばかりだった。彼らのような生活には、本から得る知識は必要がなかった。また彼らも学問が役に立つなどとは夢にも思っていなかった。この三人を選んだとき、王虎は彼らを自室に呼んで言った。
「おまえたち三人を、おれの腹心とする。みんなの上に立って、おれの命令にそむくもの、裏切るものがないかどうか、監視してくれ。おれが志を得たあかつきには、かならずむくいる」
それから鷹と豚殺しを室外に去らせ、残ったみつ口にたいして、きびしい調子で言った。
「おまえを、あのふたりの上におくから、彼らが、おれにそむくようなことがないかどうか監視してほしい。それがおまえの任務だ」
それから三人を集めて言った。
「おれという人間は、すこしでも疑わしいものがあれば、容赦なく殺す人間だ。吸う息がまだ空中に残っているうちに、ずばりと斬《き》る」
みつ口は、おだやかに答えた。
「隊長どの、わしのことはご心配におよびません。あなたの右の手が、あなたを裏切っても、わしは大丈夫です」
あとのふたりも熱心に忠誠を誓った。とくに鷹は声を一段と高めて言った。
「兵卒からひきあげてくだすったんですから、その恩義は忘れません」
彼も王虎の将来に希望をかけていたのである。
そこで三人は、服従と忠誠を示すために、王虎にうやうやしく敬礼した。これが終わると、王虎は部下のなかから気のきいたすばしこいものを選んで、敵情を探らせるために、付近の各方面へ派遣した。
そのとき彼は、こう命令した。
「寒気がきびしくならぬうちに根拠地をつくらなければならないから、大至急、敵情を探ってこい。豹将軍には、どのくらい部下がいるか、まずそれを探り出すことだ。もし彼の部下に出会ったら、どの程度まで頭目に心服しているか、買収できるかどうか、それとなく探り出してくれ。なんとかして話をするきっかけをつくって、うまく聞き出すのだ。おまえたちの生命は、おれにとっては飯よりも大切だから、おれは敵をできるだけ買収するつもりだ。銀で買えるものなら、むざむざ生命を落とさせたくない」
命令を受けた彼らは、軍服をぬぎ、古いぼろぼろの下着だけを身にまとい、普通の上着を買う銀を王虎からもらって、山をくだって行った。ふもとの村の質屋へ行けば、農夫や労働者の古着が、いくらでもある。すこしばかりの銀のために質にいれたのだが、貧乏人のことだから容易に受け出すことができないのだ。そういう質流れの古着が安く買えるのである。そこで思い思いに変装した彼らは、この地方一帯に散らばり、宿屋でごろごろしたり、時間つぶしにやっているバクチのテーブルのそばに立って見物したり、街道筋の茶屋で休んだり、あちこちで人々の話に耳を傾けたりした。そして、こうして得た情報を、すっかり王虎に報告した。
これらの部下が聞きこんできたことは、王虎が酒亭のあるじから聞いたのとほぼ似たようなことであった。住民はこの匪賊の頭目、豹将軍を非常に恐れ、きらっていた。というのは、その要求が年ごとに増大し、それに応じないと、家や畑を荒らし、略奪をほしいままにするとおどすからである。豹将軍のほうでは、ほかの匪賊から住民を守ってやっているのだから、税金をもらうくらい当然であり、また年ごとに部下が増加しているから、その費用を徴集するのはやむをえない、というのである。
事実、彼の部下は年々増加していた。この地方のならずもの、労働をきらうもの、何か犯罪を犯したものは、みな双龍峰の山塞《さんさい》に逃げこんで、豹将軍の部下になるのであった。勇敢で役に立つものは大いに歓迎された。弱虫で臆病なものも、山塞では雑役をさせるためにやしなっていた。女でも山塞に加わるものがあった。亭主に死別し、世間の評判など気にしない大胆な女たちである。また、亭主といっしょに山塞にきたものもあり、人質として連れてこられた女、男の慰みものとしてやしなわれている女もあった。豹将軍が、この地方一帯に、ほかの匪賊を近づけないと豪語するのも事実であった。
それにもかかわらず、住民は豹将軍を憎んでおり、何もみつぎたがらなかった。しかし、いやがったところで武力には勝てないから、みつぎものを出さないわけにはいかなかった。昔なら民衆のほうでも鎌や庖丁や熊手など、ありあわせの簡単な道具を持ってでも反抗し蜂起《ほうき》することができたが、いまの匪賊は、外国製の銃を持っているから、そんな道具はなんの役にも立たなかった。撃《う》てばすぐ死ぬ銃の前では、勇気も怒りも役に立たないのだ。
豹将軍の部下の兵力については、スパイに出したものたちの報告が奇妙にまちまちであった。五百と聞いたというものもあれば、二千から三千ぐらいだというものもあり、なかには一万以上というものもあった。どれが本当か、王虎にはわからなかった。ただ確かなことは、王虎のひきいる部下よりも、はるかに優勢だということだけであった。そこで王虎は、つくづく考えた。――こいつは策略を用いなければならぬ。銃は最後の決戦までとっておかなければならぬ。できれば銃をとって戦うことを避けなければならぬ。彼はすわって、そう考えながら、スパイにやった部下の報告を聞いていた。勝手にしゃべらしておくと、こういう無知な連中は、自分ではそれと知らずに役に立つことをしゃべるものである。王虎は、それをこころえていた。以前、隊長に黒い眉毛《まゆげ》の虎というあだ名をつけた例のひょうきんな男は、黄いろい声をはりあげて、得意になってしゃべっていた。
「わしは、こわいもの知らずだから、県公署のある、この地方でも一ばん大きな町に行ったんです。そこでも、みんな豹将軍のことをこわがっています。豹将軍は毎年、祭日になると銀を出せと要求し、出さねば町を略奪すると言っておどし、商人から途方もない銀をまきあげるんだそうです。わしは話をしてくれた男に言ってやったんです。その男は豚の肉だんごを売っているんですが、そりゃうまいですよ。隊長、この付近の豚は、めっぽううまいですな。肉のなかに、にんにくをいれただんごですが、こういううまいものがあると、この土地に、いつまでもいたくなります。それでわしは言ってやったんです。どうして県長は住民のために兵隊を出して匪賊を討伐しないのだ、とね。
すると、肉だんご売りは……こいつはいいやつでしたよ。つぶれただんごをまけてくれましてね……こう言うんです。ここの県長さまは阿片ばかりのんどって、自分の影がこわいような臆病ものだし、県長の軍隊の司令官ときたら、一度も戦争に行ったことがなく、鉄砲の持ちかたさえも知らねえやつでさあ。わしら人民のことなどよりも、吸い物の味ばかり気にしている口やかましい男だ。県長さまが、どんな人間か、護衛兵を見ればわかるだ。護衛兵が自分を裏切ったり買収されたりしてはたいへんだと心配して、まるで冷えた茶を地面にすてるみたいに惜しげもなく銀をやってるだ。そんなにしていても、豹という名を聞いただけでもふるえあがるほどで、追っぱらいてえと思いながら、手をつかねているようなありさまだ。豹将軍をそっとしておくために、毎年、やつに払う銀をふやしていくんだからやりきれねえ。
――肉だんご売りは、そんなことを言っていました。わしがだんごを食べてしまうと、もうまけてくれそうもないんで、わしは歩き出しました。今度は、壁のあいだの日だまりでシラミをとっていた乞食に話しかけました。こいつは利口な年寄りで、一生その町で乞食をしていたんだそうです。なかなかかしこい老人で、シラミの頭を一つ一つ噛みくだいているんですが、まったくの話、あれだけシラミがいれば、栄養になりますからね。いろんなことを話しているうちに、乞食はこう言いました。――県長がこの地方に匪賊をのさばらせているということが上の役人の耳にはいったので、ことしは県長さまも何かなさるじゃろう。この土地は豊かで税収入も多いから、県長の地位をねらっているものも多い。そういう連中が、ここの県長は職務怠慢だと言って高等裁判所に告発しようとしているだ。また町の人たちは、いまの県長さまが免職になるのを心配しとるだ。県長さまも若いときは強欲だったが、年とって、いくらかましになったところなのに、また新しい強欲な県長にこられたんでは、はじめからやりなおしだと言って、それを心配しとるのだよ――」
こんなふうに王虎はスパイに出した部下どもに勝手にしゃべらせて、黙って聞いていた。彼らは無知な人間のつねとして、聞いたことは、なんでもしゃべり立てるし、げらげらばか笑いをして陽気だった。彼らは大きな希望を持ち、自分たちの隊長を信頼していた。また彼らは、行ってきた土地や部落で、思うぞんぶん食ったり楽しんだりしてきたのだ。この地方は、県長と豹将軍の両方からしぼられているが、土地が豊かだから、民衆もまだ余裕があり楽に暮らしているのである。王虎は部下に、いくらでもしゃべらせた。彼らのしゃべることは、たいてい愚にもつかぬことばかりだが、それでもしゃべっているうちに、王虎の知りたいと思っていることが、口からもれることがあった。王虎は彼らよりも聡明《そうめい》だから、モミがらのなかから小麦をよりわけるように、値うちのあるものをよりわけることができるのである。
この男のかん高いおしゃべりが終わると、王虎は、部下が最後に言ったことをとらえた。県長がその地位をうしなうことを恐れているという事実について彼は深く考えこんだ。ここに自分の冒険の鍵があるのではあるまいか? そのいくじなしの老県長をうまくあやつれば、この地方一帯を支配する力を握ることができるのではあるまいか? 部下の報告を聞けば聞くほど、豹将軍の兵力は、思ったほど強くないような気がしてくるのであった。しばらく考えていた彼は、豹将軍の山塞にスパイをしのびこませて、その兵力の数と質を探らせようと決意した。
その晩、王虎は部下が夕食を食べているところをながめまわした。部下は、あぐらをかいて、めいめい堅いパンをかじり、鉢《はち》でカユをすすっていた。彼は、だれをスパイに選ぶかきめかねた。どれを見ても間がぬけていて、頭が働きそうもなかった。ふと彼の目は、いつもそばにいるあばたの甥《おい》のうえに落ちた。あばたは、ちょうど頬がふくらむほど食物をほおばって一生けんめい飲みくだそうとしているところだった。王虎は、なんにも言わず自分の部屋へもどった。あばたは王虎につきそうのが義務なので、すぐあとからついてきた。王虎は、話があるから戸を閉めろと命じてから口を切った。
「あることを命じたいのだが、おまえにその勇気があるか」
あばたは、まだ食物をほおばって口をもぐもぐさせていたが、きっぱりと答えた。
「ためしてください、叔父さん」
「よろしい。では、ためしてみよう。子供が小鳥を打つのにつかうパチンコがあるな。あれを持って、おまえは双龍峰へ行くんだ。日が暮れる時分、そのへんをうろついて、道に迷ったふりをして、山にいる野獣がこわくてたまらぬように泣きながら、山塞の門へ逃げこむのだ。なかへ入れてくれたら、自分は谷の向こうの百姓の息子で、小鳥をさがしに山へのぼったが、こんなに早く日が暮れようとは思わなかったので、道に迷ってしまった。一晩だけこの寺に泊めてくれ、と言って頼んでみろ。どうしても泊めてくれなかったら、せめて道のあるところまで連れて行ってくれと頼んで、そのあいだに目はしをきかせて、みんな見てくるのだ。何人ぐらい部下がいて、銃はどのくらいあるか、豹将軍はどんな男か、できるだけ探り出して、おれに報告するのだ。やってのけるだけの度胸があるか」
王虎が例のまっ黒な目でじっと見すえると、少年の赤らんだ顔から血の気が失《う》せ、皮膚のうえに、あばたの痕《あと》がはっきりとうき出て見えた。少年は、すこしあえぎながらも、はっきりと答えた。
「できます」
「おまえには、いままで何もやらせたことはない」王虎は、きびしい調子で言った。「しかし、今度こそ、おまえのおどけた性質が役に立つだろう。もしおまえがまごついて頭が働かなかったり、敵に見破られたりしたら、それはおまえが悪いのだ。おまえは気楽な、まのぬけた面《つら》をしている。だが、おまえは見かけよりも利口だ。だから、おまえを選んだのだ。ばかの真似さえしていれば、おまえは安全だ。もし敵につかまったならば……黙って死ぬだけの度胸があるか」
すると、少年の顔に、ふたたび血がのぼった。彼は粗末な青い着物を着ていたが、きりっとした態度で言った。
「ためしてください、隊長どの」
王虎はその意気に満足した。
「おまえは勇敢だ。これが試験だぞ。もしうまくやりとげることができれば、もっと高い地位にのぼる資格があるのだ」
彼は甥の顔をみつめて微笑をもらした。怒るときのほかは、ほとんど動かない彼の心も、この若者を前にして、このときはすこし動いた。しかしそれは、この甥のためにではなかった。またこの若者を愛するからでもなかった。自分の息子がいたら、という漠然とした願望が胸をかすめたからである。だがそれは、この甥のような息子ではなかった。強くて真実で沈着な、自分の息子がほしいのだ。
王虎はあばたに百姓の子のような着物を着せ、腰に手ぬぐいをまかせた。かなりの道のりがあるし、けわしい岩をよじ登らなければならないから、素足に古いすりへった靴をはかせた。あばたは二股《ふたまた》になっている木の枝を切って、子供が持つようなパチンコをつくった。それができあがると、彼は、いそいそと山をおりて、松林のなかに姿を消した。
あばたが出かけてから二日のあいだ王虎は、かねての計画どおり部下たちに仕事を割りあて、だれも怠《なま》けたり遊んだりできないようにした。また信頼のおける部下に命じて食糧を買い入れさせた。彼らは方々へ散らばって、肉や穀物を、すこしずつ買い入れたから、だれも百人あまりの集団のために集めているのだとは気づかず、あやしむものもなかった。
二日目の夕方、王虎は、もう甥が帰ってきそうなものだと、外へ出て心待ちにしながら、石段を見おろした。心の奥では甥のことを心配していた。もしや悲惨な殺されかたをしたのではあるまいかと思うと、いいようのない憐憫《れんびん》とも悔恨ともつかぬ思いがわいてくるのであった。あたりが暗くなり新月がのぼりはじめると、彼は双龍峰のほうをながめて嘆息した。
「殺しても惜しくない男をやるのだった。甥をやるのではなかった。もし、むごたらしく殺されでもしようものなら、兄貴にあわせる顔がない。そうかといって、肉親のものでなければ、こんな秘密をまかせるわけにいかない」
部下は、とっくに寝静まっていた。王虎はまだ、じっと見守っていた。月も中空高くかかった。それでも甥は帰ってこない。夜風が寒く身にしみた。王虎は、とうとう部屋へもどったが、いままで味わったことのない感情が胸に迫り、心が重かった。あの子は、どこか陽気でひょうきんなところがあって、本気では怒れなかった。それがもう帰ってこないのだと思うと、なんとなくせつなかった。
王虎は夜半過ぎまで眠れなかった。明け方近くなって、山門をたたく低い音が聞こえた、彼は、はねおきて、門まで急いだ。かんぬきをはずすと、あばたの甥が立っていた。疲れ果てて苦しそうだが、気持ちだけは弱っていなかった。びっこをひきながら門のなかへはいってきた。ズボンが腿《もも》のところから裂けて血の流れたあとが足にこびりついていた。それでも彼は元気だった。
「叔父さん、帰ってきましたよ」
彼は疲れた細い声で言った。王虎は何も言わず、急に笑いだした。心からうれしかったのだ。しかし彼は荒っぽくきいた。
「腿の傷はどうしたのだ」
「なんでもないです」少年は、こともなげに答えた。
すると王虎は、めったに言わない冗談を口にした。それほど彼はうれしかったのだ。
「まさか豹《ひょう》のつめでひっかかれたんじゃあるまいな」
少年は叔父がしゃれをとばしたのだとわかったので、大声で笑った。そして本堂にのぼる石段に腰をおろした。
「いいえ、豹じゃありません。苔《こけ》が雨でぬれていたのです。それで、すべって、いばらの上に転んだのです。いばらの木ですりむいただけです。叔父さん、わたしは腹がぺこぺこです」
「そうだろう。こっちへきて食うがいい」と王虎は言った。「食って、飲んで、寝るさ。そのあとで話を聞こう」
彼は若者に本堂へ行って休んでいるようにと言い、大声でひとりの兵士を呼びおこし、きょうだけ特別に甥のために食事の用意をさせた。王虎の声を聞いて、兵隊どもは目をさまし、月光に照らされている本堂の前庭に集まってきた。あばたの首尾を聞きたくて待っていたのである。あばたは食うだけ食い、飲むだけ飲んでしまっても、眠くなるどころではなかった。冒険に成功したうえに、話を聞こうとして待ちかまえているみんなの顔を見ると、急に重要人物になったような気がして、すっかり興奮していた。夜明けもま近であるし、王虎はそれを見てとって言った。
「それじゃ、さきに話をして、あとでゆっくり寝るさ」
若者は壇にのぼり、顔におおいをかけた仏像の前に腰かけて話をはじめた。
「叔父さん、わたしはどこまでものぼって行きました。あの山は、ここの二倍もあります。山塞は山のうえの皿みたいなまるい窪地にあるんです。いまにこの地方を占領したら、あそこを取りたいものです。小さな村みたいに、そこには家でもなんでもあります。わたしは叔父さんの言いつけどおりにやりました。日が暮れてから、パチンコで打った小鳥をふところにいれて、びっこをひきひき、泣きながら山塞の門のところへ行きました。あの山には、めずらしいきれいな色の小鳥がいますよ。わたしが打ったのは金みたいに明るく輝いた黄いろの鳥でした……ここにまだ持っています。とってもきれいなんです」
彼は、ふところから黄いろい小鳥を出して見せた。小鳥は彼の手のなかで死んだままぐったりしていた。一つかみの金のようだった。王虎は一刻も早く少年の報告を聞きたくてたまらなかった。死んだ小鳥のことなど話しているのが、じれったくて腹が立ったが、自分をおさえて、あばたの思うように話を進めさせた。彼は大事そうに小鳥をそばにおいて話を聞いている兵士たちの顔を見まわした。祭壇の香炉の灰のなかに王虎が立てさせたタイマツの炎が、少年の横顔を照らしていた。少年は話をつづけた。
「……門をたたくと、なかから出てきたやつが、はじめは、ほんのすこし門を開けて、だれがきたのかとのぞくのです。わたしは、あわれっぽい声で泣きながら言いました。おら、うちから遠くまできちゃって……道に迷っちまっただ。日が暮れるし、森のけだものがこわいだよ。どうかこの寺に泊めてくんねえか。……すると門を開けたやつが、すぐ門を閉めて、走って、だれかにききに行ったから、わたしは、ここだとばかり声をはりあげて悲しそうに泣きました」
そこで少年は、どういうふうにやったかを一同に示すために泣いてみせた。兵士たちはどっと笑い、あちこちから感嘆の声が起こった。
「小猿《こざる》め、うまいぞ。あばたの化けもの、よくやった」
彼は得意満面になり、あばたづらの相好《そうごう》をくずして、話をつづけた。
「やつらは、やっとわたしをなかへ入れてくれました。わたしは、できるだけばかみたいな顔をしていました。パンとカユを食べたあとで、急にこわくなったようなふりをして、ここがどこだか、やっと気がついたように、また泣きだしました。……うちへ帰してくれよう、ここは山賊がいるからこわいよう、豹がこわいようってね……泣きながら門のところまで走って行って、外へ出してくれと言わんばかりに、けだものに食われたほうがましだ、と言って泣き叫びました。
するとやつらは、わたしがあんまりバカみたいなので、おもしろがって慰めてくれました。おまえみたいな子供を相手にするかい、大丈夫だよ、朝まで待ちな、心配しないでも帰してやるよ。そう言うので、わたしは、しばらくして、ふるえるのも泣くのもやめて、やっと落ちついたふりをしました。すると、おまえは、どこからきたんだ、ときくのです。山の向こうにあると聞いていた村の名まえを言うと、おれたちの評判はどうだ? と、またたずねるのです。そこで、おじさんたちは何も恐れない勇士だと聞いていたよ。おじさんたちの頭目は人間じゃないんだってね。からだは人間でも頭は豹だというけど、ほんとうかね。見たいのは見たいが、おら、おっかねえだ、そう言うと、みんな大笑いしました。そのうちのひとりが、ついてこい、頭目を見せてやるといって、わたしを窓のところへ連れて行ってくれました。暗い庭から窓のなかをのぞくと、タイマツが燃えていて、頭目がすわっていました。ほんとに、おっかない怪物ですよ。頭が平たくて、額が豹みたいに斜めになっているのです。若い女といっしょに酒を飲んでいました。すごい女です。だけど、きれいな女です。ふたりで一つの酒瓶《さかびん》から酒を飲んでいました。頭目が飲むと、あとから女が飲むんです」
「兵士は、どのくらいおったか、銃はどんなものだったか」
「たくさんいましたよ、叔父さん」あばたは真顔で答えた。「兵士たちは、こっちの三倍ぐらいです。そのほかに雑役夫がたくさんいます。女もいるし、子供も、あっちこっちかけまわっていました。わたしくらいな若者もいたので、そのひとりに、おまえのおとうさんはどれだときくと、おとっつあんは、ひとりじゃないからわからない、おっかあなら知ってる、と言うのです。まったく変ですね。兵士はみな銃を持っていますが、雑役夫は鎌とか庖丁ばかりです。そのかわり山塞のまわりの崖の上には、まるい岩が、いっぱい積みあげてあって、敵が攻めてくると、切って落とす仕掛けになっています。山塞へ行く道は一つしかなく、まわりはみな崖になっています。道の入り口には、いつも番兵が立っています。わたしがはいりこんだときは、ちょうど寝ていたので、そっとすりぬけました。すぐそばの岩の上に銃を投げ出したまま、いびきをかいて寝ているから、銃を盗もうと思えば盗めたけど、取らずにきました。へたをすると化けの皮があらわれると思ったからです」
「兵士のからだつきはどうか。強そうだったか」
「強そうでした。大きいのも、小さいのも、いましたよ。食事のあと仲間同士でしゃべっていました。わたしは若者たちの仲間にいたので、だれも気にとめずに話していましたけど、聞いていると豹将軍のことで不平を言っているのです。かしらは山賊のおきてどおりに獲物をわけてくれない。自分ばかりたくさん取る。きれいな女がいると自分でひとり占めして、あきがくるまで部下のほうにまわしてくれない。仲間同士でわけあうのがほんとうなのに、あんまり欲ばりすぎる。自分を、よっぽどえらい人間だと思っているのだ。百姓の子で、読み書きもできないくせに、あんなにいばられては辛抱できない。そんなことを言ってこぼしていました」
王虎はこれを聞いて非常によろこんだ。あばたはまだあれこれの話をし、山塞で何を食べたとか、どんなに自分が抜けめなくやったかとか、自慢たらしくしゃべっていたが、王虎はじっと考えこんで計画をねっていた。しばらくすると、あばたは残らず話しつくしてしまい、また同じことをくりかえしてしゃべっていた。いつまでも聞き手を感心させるために、からっぽになった頭をしぼっているのであった。それに気づいて王虎は、立ちあがって、あばたには疲れたろうから寝ろと言い、部下には、もう夜明けだから各自の仕事につけ、と命じた。タイマツは燃えつくして、かすかな炎が、のぼる朝日に心もとなくゆらいでいた。
王虎は自分の部屋にもどり、三人の腹心を呼んだ。
「おれは十分に考えて計画を立てた。ひとりの生命、一挺《いっちょう》の銃もうしなわずに成功しうると信じている。あの山塞には、われわれよりもずっと優秀な兵力があるらしい。だから戦闘は避けねばならぬ。むかでを殺すには、まず頭をつぶすことだ。頭さえつぶしてしまえば、百本の足はまごついて何もできなくなる。われわれはまずこの匪賊の毒のある頭を殺すことからはじめよう」
この大胆なもくろみに腹心たちはびっくりした。豚殺しは粗野な声をあげた。
「隊長、それはたいへんけっこうですがね。むかでの頭をつぶすにゃ、まず第一に、むかでをつかまえにゃならんでしょうが」
「そうだ。おれがつかまえてみせる」王虎は平然と答えた。「おれの計画はこうだ。おまえたちも力をかしてくれ。まず、われわれは、だれが見ても勇士だと思うような、りっぱな武装をして、この地方の老県長のところへ行くのだ。そして、われわれは天下を旅する勇士だが、県長の近衛兵《このえへい》として仕官いたしたい、と申し出る。そして県長のために、かならず豹将軍を殺してみせる、と誓うのだ。県長は、いま自分の地位をうしなうことを恐れているから、よろこんでわれわれの助力を受けるだろう。それからが策略だ。県長から豹将軍に和睦《わぼく》を申しこませ、盛宴をはって豹将軍とその腹心を招待させるのだ。宴たけなわのとき、機を見て県長が手から酒杯を落とす。杯の割れた音を合図に、おれやおまえたちが隠れ場所からおどり出して匪賊どもを襲い、斬りすてる。一方、部下を町じゅうに散らばしておき、おれに服従しない小匪賊どもを倒す。こうすれば、むかでの頭はつぶせる。けっして困難なことではない」
三人は、これならうまくいきそうだと思って、すっかり感嘆し、協力を誓った。どのように実行するかについて、しばらく相談したのち、王虎は彼らを去らせ、部下を本堂に召集した。僧侶たちが近くで立ち聞きするといけないから、三人の腹心に見はりをさせながら、集まった兵士たちに計画を話して聞かせた。兵士たちは熱狂して叫んだ。
「ばんざい。ばんざい。黒い眉毛《まゆげ》の虎ばんざい」
王虎は、おおいをかけた仏像の前に立って、部下の歓声を聞いていた。彼は何も言わなかった。誇らしげに、超然と部下の歓呼を見おろしていた。しかし、かくまで部下を動かしうる自分の力を感じて、目を伏せ、厳粛な面持ちで立っていた。
部下は、ふたたび静かになった。王虎が何を言い出すかと待ちかまえた。
「おまえたちは十分飲み食いするがいい。それから武装はするが、なるべく目立たないかっこうで銃を持って、県公署からあまり遠くない市中に散らばっておれ。おれが召集の笛をならしたら、すぐ集まるのだ。だが呼ぶまでは幾日でも待っているのだぞ」
それから彼は、みつ口に向かって言った。
「酒や食物や宿泊の費用として、ひとりに銀五枚ずつ渡してやれ」
分配が終わると、部下は、すっかり満足した。王虎は三人の腹心を呼んで、りっぱな服装をさせ、短刀をふところにかくし、銃を手にして、ともに出発した。
僧侶たちは、こんな野蛮な連中が下山するのを見て、たいそうよろこんだ。王虎は僧侶たちのよろこぶのを見て言った。
「まだよろこぶのは早い。もどってくるかもしれんぞ。しかし、もっといい場所がみつかったら、もうこないがね」それにしても、王虎は僧侶たちに十分、銀を支払った。かかった費用のほかに銀一封を老住職に贈った。
「屋根を直すなり家を修理するなりしなさい。そして、みんな新しい衣を買うがいい」
僧侶たちは王虎の寛大さにすっかりよろこんだが、老住職は、きまり悪そうなようすで言った。
「あんたは、けっきょく善人じゃったのう。わしは仏さまに、あんたの幸福を祈りますわい。そのほかには、お礼のしようもないじゃてな」
王虎《ワンホウ》は答えた。
「仏さまにめんどうをかけるにはおよばないよ。わたしは、あまり神仏を信仰しておらんのだ。だが、将来、王虎将軍という名が世に出たら、せいぜいよく言ってくれ。王虎将軍はよくしてくれたとな」
老住職は茫然《ぼうぜん》として王虎の顔をみつめたまま、どもりながらくりかえした。「そう申しますわい。そう申しますわい」そして受けとった銀を大事そうに両手でしっかり胸に押しあてた。
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十三
三人の腹心をしたがえた王虎《ワンホウ》は、まっすぐに県公署のある町へ急いだ。町につくと、そのまま県公署に向かった。王虎は公署の門のところまでくると、石の唐獅子《からじし》にもたれてのらくらしている衛兵に、大胆に声をかけた。
「お通し願いたい。県長どのに内密の話があってまいったのだ」
王虎が心づけの銀を出さないものだから、衛兵は、ぐずぐず言った。王虎はそれを見ると、大喝《だいかつ》した。たちまち腹心の部下がとびだして、衛兵の胸に銃口を突きつけた。衛兵は青くなって、あとずさった。王虎らは靴音高く中庭へはいって行った。門の付近にぶらぶらしてなりゆきを見ていたものが幾人もいたが、ひとりとして向かってくるものはなかった。王虎は例の黒い眉を寄せて、荒々しく大喝した。
「県長はどこにいるか」
だが、だれひとり動こうとしなかった。王虎は急に腹を立て、銃をとって、一ばん近くにいた男の腹を突いた。驚いてとびあがったその男は、ふるえながら言った。
「ご案内します。ご案内します」そして足音をばたばたいわせながら、さきに立って走った。王虎はその男の恐怖のさまを見て、声を立てずに笑った。
こうして彼らは、その男のあとについて、中庭をいくつも通り抜けた。王虎は、あちこち見まわしたりはしなかった。顔をまっすぐ向けて、いかめしい顔をしていた。三人の部下も、できるだけ王虎の真似をしながら進んだ。やっと、一ばん奥の中庭へ出た。池があり、ぼたんの花壇があり、老松があり、美しいながめであるが、建物の窓は、すべて窓かけがおろされていて、物音一つせず、ひっそり静まりかえっていた。案内の男が敷居のところで立ちどまって咳《せき》をすると、ひとりの従者が窓から顔を出した。
「どんな用ですか。閣下はお休みになっておられます」
王虎は大きな声を出した。彼の声がその静かな建物のなかで爆発するように鳴りひびいた。
「それなら、すぐ起こすがよい。非常に重大な用件だ。県長の地位に関係のあることだから、すぐ起こせ」
従者は、どうしてよいかわからず、半信半疑で王虎たちをみつめていたが、王虎の顔が堂々として威厳にみちているので、省政府かどこか上の役所からの使者にちがいないと推測し、すぐ奥へ引っこんで老県長をゆり起こした。老県長は夢からさめて起きあがり、顔を洗って長衫《チャンサ》をまとい、広間にすわって、王虎たちを通すようにと命じた。王虎たちは大胆に大きな足音を立ててはいって行き、老県長に向かって、しかるべく敬礼をしたが、それは、けっして鄭重《ていちょう》なものではなく、頭も、それほどは低くはさげなかった。
老県長は前に立った人のたけだけしさに、すっかり恐れをなした。彼は、あわてて立ちあがって彼らを席に招じ、従者に命じて菓子やくだものや酒を持ってこさせた。県長は賓客を迎えるときのような言葉づかいであいさつを述べたが、王虎は、できるだけ手短かに礼を返した。初対面のあいさつが終わると、王虎は、ずばりと言った。
「われわれは閣下の上におられる人々から、閣下が匪賊のために苦しめられておられると聞き、われわれの武器と腕前をもって閣下を助け匪賊を討伐するためにまいったのです」
王虎たちが、なんの目的できたのかわからず、ふるえていた老県長は、それを聞くと、しわがれた、おどおどした声で言った。
「わしが匪賊に苦しめられておるのは事実じゃが、わしは武人でなく、文官なので、どうしてよいのかわからぬのじゃよ。司令官もおるが、なにせ給料が省政府から出るので、司令官は戦争を好まんのじゃ。またこの地方の住民は、わがままで愚かものでしてな、戦争がはじまると匪賊に味方して政府に刃向かうかもしれんのですわい。すこしばかりの正当な税金にも、すぐ不平をならべるのですからな。しかし、あなたは、どなたですかな。ご尊名を伺わせていただきたい。先祖代々のご郷里は、どちらですかな」
けれども王虎は、こう答えただけであった。
「われわれは天下を旅する剣侠《けんきょう》の勇士で、必要ある場合に、いたるところで、われらの武勇を役立てるのを本分といたしております。われらは、この地方が匪賊に荒らされていると聞き、仕官を求めにまいりました。われらには匪賊討伐の妙案がありますが、おまかせくださるか」
これが普通のときならば、老県長がこのような初対面の人たちの言に耳をかしたかどうか疑わしい。だが現在の彼は、地位をうしない、生計の道をうばわれることを恐れていた。子供もなく、老齢に達したいまとなっては、新たに生計の手段を求める望みもなかった。彼は老妻がひとりいるだけであるが、百人にもちかい貧しい一族があり、これらがみな彼とその地位に依存して暮らしているのである。無能な老人になってしまったこんにちになって、貪欲な強敵があらわれたものだから、この難局からのがれるためならば、ワラをもつかみたい気持ちになっていたのだ。
そこで彼は、数人の護衛を残しただけで、あとは人ばらいをして、王虎の語る計略に耳を傾けた。王虎の計画を聞きながら、彼は非常に乗り気になった。ただ一つ心配なのは、もし計画が失敗して豹《バアオ》将軍を殺しそこなったら、さだめし残虐な復讐を受けるだろうということだった。老人の恐れているわけをさとった王虎は、こともなげに言い放った。
「豹《ひょう》を殺すことくらい、わたしにしてみれば猫を殺すようなものです。やつの首を切り落として、血をしたたらせてみましょう。誓って言いますが、わたしの手は断じてひるみはいたしません」
老県長は黙って考えこんだ。自分はもう老齢だ。部下の兵士は意気地なしで臆病だ。この企てを逸しては、ほかに機会がない。彼は承諾した。
「ほかに方法がないてのう」
そこで彼は、従者を呼んで、肉や酒を運ばせ、饗宴の用意をするように命じた。そして王虎とその腹心の部下を賓客としてもてなした。王虎は計画の実行について、老県長とともに、綿密に検討した。そして、二、三日のうちに、この計画を実行に移した。
老県長は双龍峰に使者を送って、こう言わせた。
――自分は老齢なので、近く県長の地位を退くことになる。後任者が県長の任務を引きつぐことになろう。いまこの地位を退くにあたって、敵対感情を残したくない。だから豹将軍や重だった諸賢を招き、別れの宴会を催して、こころよく話しあい、新県長にもおひきあわせしたい――。
それを聞いても豹将軍は容易に信用しなかった。王虎は、疑われることを予期していたので、老県長の口から近いうちに任を去ることを言いふらさせておいた。そういううわさは、すぐ八方にひろがる。匪賊どもは民衆からも同じ話を聞いたので、やっと信用した。彼らはこの機会に新県長をおどかして、自分たちのほうに抱きこみ、いままでどおりの金額を出させることができれば、戦争をしないですむし、好都合だと考えた。そこで、老県長の申し出た和睦を受け入れることにし、月のないある夜、招待に応じて参上するという返事をよこした。
ちょうどその夜は雨が降った。まっ暗闇で、霧が深く、風が加わった。それでも匪賊たちは約束どおりやってきた。りっぱに着飾り、鋭く、ぴかぴかした武器をたずさえていた。連れてきた護衛のものどもは、公署の庭にいっぱいになり、門外の道路にまであふれていた。万一の場合を警戒しているのである。しかし老県長は、たくみに芝居を演じた。老いてしなびた彼の膝が長袍《チャンパオ》の下でふるえていたにしても、彼の顔色はおだやかで、言葉もていねいであった。彼は自分の部下に、いっさいの武器をはずさせた。匪賊は自分たち以外に武器を持っているものがないのを見て、安心した。
老県長は、料理人に命じて、最上級のごちそうをつくらせた。頭目たちのためには奥まった広間をあてがい、そこにごちそうをならべさせ、また護衛にあたっている匪賊には中庭で飲食させる手はずにした。やがて用意ができると、老県長は頭目たちを宴席に案内し、豹将軍を賓客として名誉ある上座につかせようとした。将軍も礼儀だから何度も謙遜し辞退したあとで、ようやくその席についた。老県長は主人役の席についた。しかし彼は、あらかじめ自分の席は扉の近くになるようにきめておいた。機に臨んで合図の酒杯を落としたら、すぐ室外へ逃げ出して、事が終わるまでかくれていようという計画だった。
饗宴がはじまった。はじめのうち豹将軍は警戒しながら飲んでいて、部下の頭目たちが調子にのって飲むのを目でしかっていた。しかし、うまい酒だった。この地方でも最上の酒である。また、出される肉の料理は、のどがかわいて酒が飲みたくなるように巧妙に味つけがしてあった。いつも粗末なものばかり食っている匪賊たちは、こんな珍味を口にしたことがなかった。もともと、いやしい生まれで、ごちそうなど食べつけない連中なので、こんな舌もとろけるようなかずかずの品は、夢にも見たことがないのだ。とうとう遠慮も何もなくなり、さかんに飲み食いしはじめた。中庭の護衛たちは、頭目ほど用心ぶかくないから、牛飲馬食のていたらくであった。
王虎と三人の腹心は、戸口のそばの窓かけのうしろにかくれて待っていた。機会がきたら、その戸口からおどりこむ手はずであった。めいめい長剣を抜き放ち、いつでも襲撃できるように身構えて、酒杯の落ちる音に聞き耳立てていた。宴会はもう三時間以上もつづいて、酒は泉のように痛飲されていた。召使は料理や酒を運ぶのに忙しかった。匪賊たちは腹いっぱい肉や酒を詰めこんで、胃の重さで動くのもだるそうに見えた。とつぜん、老県長がふるえ出した。顔色は灰のようになった。彼はうめいた。
「胸がなんだか急に苦しくなった」
彼は急いで酒杯をとりあげた。しかし手がふるえた拍子に、その美しい酒杯は、すべって床の上に落ちた。彼は、よろめきながら立ちあがり扉の外に出た。
驚いた人々が息つくひまもないうちに、王虎は笛を吹きならし腹心のものに大呼して戸口からなだれこみ、匪賊の頭目たちに襲いかかった。彼らは王虎が前もってきめておいた相手をめがけて斬りつけた。王虎は、みずから豹将軍にあたった。
県長の召使たちは、もし騒ぎが起こって叫び声が聞こえたら、すべての戸口を閉めて、かんぬきをおろしてしまえと命じられていた。豹将軍は刺客襲撃と見るや、とびあがって、いま老県長の逃げ出した戸口めがけて走りだした。王虎は、すかさず追いついて豹の腕を刺した。豹将軍は、とびあがったときに手にしていた短剣だけで、長剣を持っていなかった。戦うにも戦いかねていた。三人の腹心は、めざす相手に斬りかかり、広間はたちまち叫喚《きょうかん》と罵声《ばせい》に満ち、凄惨な死闘が展開された。腹心たちは、めざす相手の息の根をとめるまでは、ほかのほうをふり向く余裕もなかった。しかし匪賊たちは泥酔《でいすい》しているので、容易に殺されてしまった。相手を殺すやいなや、彼らは王虎を助けるために近づいて行った。
豹将軍は敵としてあっぱれであった。なかば酔ってはいたけれども、動作がすばしこく、足で蹴ったり短剣ではらったりして巧みに防ぐので、王虎は思ったように一刀のもとに切りすてるわけにいかなかった。しかし彼は、単身、豹将軍を殺したという栄誉がほしいから、部下の加勢をこばんだ。豹将軍がこんな小さな短剣だけで勇敢に必死となって戦うのを見て、王虎は感嘆せざるをえなかった。勇者は、たとえ敵でも勇士にたいして感嘆を惜しまない。王虎は、こんな勇者を殺すのが残念であった。しかし殺さねばならない。彼は長剣をふるって豹将軍を一隅に追いつめた。豹将軍は食いすぎていたし、酒も飲みすぎていたので、全力を発揮できなかった。そのうえ豹将軍の武術は自己流だから、軍隊であらゆる戦闘の姿勢や技術を教えこまれた王虎にはかなわなかった。とうとう豹将軍は、はげしく斬りこんでくる王虎の長剣を防ぎきれなくなった。王虎の剣は豹将軍の腹部を突き刺した。ぐっとえぐると、血と酒が、いっしょにほとばしり出た。
しかし、倒れて死ぬとき、豹将軍は王虎が一生涯忘れることのできないほどたけだけしい、すごみのある顔つきで王虎をにらんだ。まったく豹のような顔つきであった。普通の人間のような黒い目でなくて琥珀《こはく》のような淡黄色であった。彼が倒れて動かなくなり、淡黄色の目だけが虚空をにらんでいるのを見たとき、王虎は、これがほんとうの豹だと思った。目だけが豹に似ているのではない。顔も、上が平たく、下が奇妙に獣のように傾斜しているのだ。腹心のものは隊長のまわりに集まってきて、ほめそやした。だが王虎は血のしたたる長剣を手にしたまま、それをぬぐうのも忘れて、倒れている死骸を見おろしながら感きわまって言った。
「こんな勇士は殺さずにおきたかった。まったく、剽悍《ひょうかん》な勇士だった。これこそは英雄の目だ」
王虎が、これほどの勇士を殺さなければならなかった悲運をかこちながら立っていると、豚殺しが、豹将軍の心臓はまだ冷たくなっていない、と叫んだ。そして、どうするつもりなのかと思っていると、彼は手をのばしてテーブルの上の鉢《はち》をとり、その武骨な手にふしぎにもかくれている巧妙なすばやい手並みで、豹将軍の左の胸を切り開き、肋骨《ろっこつ》をつまみあげると、そこから豹将軍の心臓をつかみ出した。彼はそれを鉢に受けた。事実、心臓はまだ冷たくなっていなかった。鉢のなかで、一、二度、ぴくぴく鼓動した。豚殺しは手にした鉢を王虎のほうへ差しのべて、陽気に大声で言った。
「隊長、どうですか、一つ。昔から言われていますよ。勇敢な敵の心臓を暖かいうちに食うと、自分の心臓が二倍も勇敢になるってね」
しかし王虎は手を出さなかった。顔をそむけて傲然《ごうぜん》として言った。
「そんなものはおれはいらない」
彼の目は、豹将軍が宴会のとき腰かけていた椅子のそばの床の上にとまった。そこには、豹将軍の長剣がぴかぴか光っていた。彼は近づいて拾いあげた。このごろでは鍛えられないようなすばらしい名刀であった。一巻きの絹をもつらぬくほど鋭利で、雲を二つに裂くことができるほど冷たい光をはなっていた。王虎は、かたわらに倒れている匪賊の着物の上から、ためし斬りをしてみた。すこしの力も加えないのに、骨まで溶けるように切れる。王虎は言った。
「この長剣だけは、おれのものにする。このような名刀は、いままでに見たことがない」
そのとき、そばで吐くような音がした。豚殺しのすることをじっと見ていたあばたが、急に気分が悪くなって吐いたのである。彼は、いままで人を殺すのを見たことがなかった。だから王虎は、やさしく言った。
「いままで気分が悪くならなかったのは感心だ。庭へ行って涼しい風にあたってくるがいい」
しかし、あばたは出て行こうとしなかった。がんばってそこに立っていた。王虎はほめた。
「おれが虎なら、おまえは虎の子だ」
あばたは、うれしがって笑った。血の気のない蒼白《そうはく》な顔に、歯だけが光った。
老県長に誓ったことを果たした王虎は、部下が匪賊の雑兵どもをどう片づけたかと、中庭へ出てみた。雲の低い暗い夜だった。闇のなかに何やら黒く動いている影が彼の部下であった。彼らは王虎の命令を待っていた。王虎はタイマツを点じさせた。そのゆらぐ光に照らし出されたのは、数個の死骸だけであった。みだりに敵を殺さぬよう、もし勇士がいたら、こちらの味方に加わる機会をあたえるようにと命じておいたのだ。王虎は敵の死者がすくないのを見てよろこんだ。
王虎の仕事はまだ終わっていなかった。敵の山塞《さんさい》は、いまがもっとも弱いときだ。彼は残る匪賊が防備をかためないうちに急襲しようと決意した。彼は老県長に会う時間も惜しんだ。
「毒蛇の巣を掃蕩《そうとう》しつくすまでは報酬を求めない」と老県長に伝言した。そして部下を集めると、暗闇のなかを田野を越えて双龍峰へ向かった。
部下は、今夜すでに一戦したのだから、彼の命令がおもしろくなかった。双龍峰までは道のりにして三マイルはある。それに、もう一度戦わなければならないかもしれないのだ。彼らは一戦した賞与として、町の略奪を許してもらいたいと思っていた矢先だった。だから苦情が出た。
「せっかく命がけで戦ったのに、略奪を許してくれないって法があるもんか。こんな気むずかしい隊長には仕えたことがない。兵隊が戦って略奪も許されないなんて、聞いたこともない。女に手を出してはいかんという。戦うまでは辛抱していたが、戦ったのだから、ちっとは自由にさせてくれてもよさそうなものだ」
はじめのうち、王虎は黙って聞いていた。ところが、そういう苦情が、みんなの口から出たので、とうとうがまんがしきれなくなった。ここで心を鬼にしておさえつけなければ、部下はそむくかもしれない。王虎はそう思ったので、いきなり長剣を抜き放って空中で振りまわし、部下をどなりつけた。
「おれは豹将軍を殺したのだ。貴様たちなど束にして殺すのはわけはない。おまえたちは、どうしてそうわからずやなのだ。これから根拠地としようとしている町を略奪して、最初の晩から住民に憎まれたらどうするのだ。ばかなことを言うのはよせ。山塞をおとしいれたら略奪でもなんでもするがいい。ただ女を強姦することだけはならんぞ」
部下は、ちぢみあがった。ひとりの男が、おどおどしながら言った。「隊長、われわれはただ冗談を言っただけですよ」もうひとりの男は、なかば不審そうに言った。「隊長、不平を言ったのは、わたしではありませんが、あの山塞を略奪してしまったら、われわれは、どこに住むのですか。山塞を根拠地にするのだとばかり思っていましたが」
王虎は、まだ怒りがおさまらないので、にがにがしそうに答えた。
「われわれは匪賊ではないのだ。おれは匪賊の頭目ではない。おれには策がある。おまえたちは、ばかを言わずにおれにまかしておけ。あの匪賊の山塞は根こそぎ焼きはらってしまう。そして匪賊の難をこの地方から追いはらうのだ。住民がこわがらずに暮らせるようにしてやるのだ」
これを聞いて部下は、いよいよ驚いた。腹心でさえ驚いて、そのひとりが代表になってきいた。
「それでは、みんなどうなるんです」
「われわれは軍人になるのだ。賊になるのではない」と王虎は声をはげました。「われわれは山塞などには住まん。市中に住む。県公署のなかに住むのだ。われわれは県長の軍隊になる。そうすれば官憲の名のもとにいるのだから、何者も恐れる必要はない」
部下は隊長の聡明さにおそれ入って黙ってしまった。不平は風のように散ってしまった。彼らは、ほがらかに笑って、隊長に心服した。そして山塞にはいる山道を一気に登った。霧が深く立ちこめて山々をおおい、彼らの手にするタイマツは冷たい夜気のなかでいぶった。
山塞につづく道の入り口に、とつぜん彼らの姿があらわれた。番兵はうろたえて逃げることもできなかった。部下のひとりがふざけて、いきなり番兵を剣で突き刺したが、声を立てるひまもなかった。王虎はこれを見ていたが、いまはこの男をしからなかった。みだりに人を殺すなと命令してあるが、殺したのは、わずかひとりであるし、無知な乱暴者をあまり厳格に拘束すると、反抗して、刃向かってくるからである。番兵の死体をそこにすてて、彼らは山塞の門へ進んだ。
まったくこの山塞は一つの村落も同様であった。山から切り出した石を粘土と石灰でかためた頑丈な塀《へい》をめぐらし、ここかしこに、いかめしい鉄骨の門があった。王虎は門をたたいたが、どれも厳重に閉ざされていて、なかからは、なんの答えもなかった。いくらたたいても、なんの応答もないところをみると、内部のものは頭目の急変を知っているのであろう。きっと匪賊のうちのだれかが逃げ帰って知らせたのであろう。だから彼らはみな山塞から逃げ去ったか、あるいは家のなかにとじこもって襲撃にそなえているのであろう。
そこで王虎は、山塞のまわりの乾いた秋草で新しいタイマツを燃やすように命じた。部下は、乾いた草をひねって火をつけた。門の木の部分を焼いて穴をあけた。やっと人のからだが通るくらいの穴があくと、ひとりがそこからすべりこみ、すばやく門のかんぬきをはずした。部下は、いっせいになだれこんだ。王虎は先頭に立って進んだ。
山塞は依然として死んだように静かであった。王虎は立ちどまって耳をすましたが、なんの物音もしない。そこで彼は、タイマツの火を燃えあがらせ、片っぱしから家に火をつけろと命じた。部下は歓声をあげて命令にしたがった。かや葺《ぶ》きの屋根が見るまに火を吹き、山塞全体がたちまち炎上しはじめると、彼らは喚声をあげてよろこんだ、燃えあがる家々から人々が蟻《あり》のようにはいだしてきた。男、女、子供、たくさんの人間が流れ出て、かなたこなたへ逃げまどった。王虎の部下は逃げるやつらを剣で突きまくった。見るに見かねた王虎は、逃げるものは逃がしてやれ、家のなかに侵入して略奪してもいいぞ、と叫んだ。
王虎の部下は、まだ火の手のまわっていない家々にとびこんで略奪をはじめた。絹や木綿や衣服など、ひきずり出せるだけのものをひきずり出した。金や銀をみつけたものもあった。酒瓶や食料をみつけたものもあった。彼らは血まなこになって飲み食いしはじめた。あまり夢中になって、自分たちのつけた火のなかで焼死するものも出た。部下が子供のように愚かなのを見た王虎は、部下が危難に近づいて、むだに命をうしなうことのないよう、腹心に命じて監視させた。
王虎は騒ぎから離れて、すべてをじっと見守っていた。彼は甥を自分のそばから離さず、略奪に加わらせなかった。彼はさとした。
「おれたちは匪賊ではない。おまえはおれの一族だ。おれたちは略奪はしない。あいつらは無知ないやしい人間だ。一度は思いどおりにやらせないと、おれにも忠実にしたがわなくなる。ここで自由にあばれさせておくのだ。おれは、あいつらを道具として使わなければならぬ。おれが偉大になるまでの手段だ。しかしおまえは、あいつらとはちがう」
そう思うから王虎は少年をひきとめておいたのであった。何が幸いになるかわからないものだ。というのは、思いがけない出来事がふってわいたからである。王虎が銃を杖《つえ》にして立ったまま、焼け落ちた家が煙をあげてくすぶっているのをながめていると、ふいに、あばたが大きな叫びをあげた。王虎がふり向くと、空を切って、長剣が彼をめざして飛んできた。いきなり彼は長剣を抜いてそれを払いのけた。白刃はすべって彼の手をかすめた。ほんのかすり傷であった。白刃は地上に落ちた。
しかし王虎は、虎よりもすばやく暗闇めがけてとびかかった。そして何者かをつかまえて火の光のほうにひきずり出した。見れば女である。腕をとらえていた王虎は驚いた。あばたが叫んだ。
「豹将軍と酒を飲んでいたのは、この女です」
王虎が口を開く前に、女は身をもがいて、彼の手からのがれようとした。だが、しっかりつかまえられていて、とても自分の力ではのがれられないと知ると、女は頭をうしろに引いて、王虎の目に唾を吐きかけた。いままで王虎は、そんな目に出あったことがなかった。そんなけがらわしいまねをされて腹を立てた王虎は、手をふりあげて、いたずら小僧をぶつように、平手で女の頬を打った。手に力がこもっていたので、女の頬に紫色のあとがついた。
「どうだ、牝虎め」
牝虎という言葉は、王虎の口からわれ知らずほとばしり出たのであった。女は毒々しげに言った。
「おまえを殺しそこねて残念だよ。呪われた野蛮人め――わたしはほんとに殺すつもりだったのだ」
王虎は腕に力をいれて、すごい声で言った。
「それは知っている。このあばたがいなかったら、いまごろおれは頭をまっ二つに割られて死んでいただろう」
彼は部下を呼んで、縄をさがしてきてこの女をしばれ、と命じた。その女をどう処置すべきか心がきまらないので、ひとまず門のそばの木にしばりつけておくことにした。
部下は女を非常にきつくしばりつけた。女は力いっぱいもがいたが、皮膚がすりむけ肉が切れるだけで、縄はすこしもゆるまなかった。女は、もがきながら人々をののしった。ことに王虎を呪った。その呪ったりののしったりする言葉は、めったに聞けないほど豊富で辛辣《しんらつ》だった。王虎は部下が女を木にしばりつけるのを立ってながめていた。彼らは女をしっかりと堅くしばると、ふたたび略奪の快楽をもとめて向こうへ行ってしまった。王虎は女の前を行きつもどりつした。前を通るたびに彼は女の顔を見た。じっと見れば見るほど、感嘆せずにいられなかった。女はまだ若かった。目鼻だちのきりりとした明るい、あでやかな顔をしていた。くちびるは薄くて赤い。額はひいでて、なめらかに、目はするどく輝いて怒りに燃えていた。細おもてで、狐のようにひきしまったさかしげな顔である。王虎が通るたびに憎悪で顔をゆがめ、呪詛《じゅそ》の言葉をはいたり唾を吐きかけたりするが、それでいて美しい顔なのだ。
王虎は気にもとめなかった。ただ黙って歩きながら、彼女をじっとみつめるだけであった。やがて、夜闇もうすらいで明けがたの色がただよいはじめた。女は疲れてきた。あまり強くしばられているので、苦痛がはげしく、堪えきれなくなってきたのである。ののしる声が出なくなると唾を吐くだけになった。そのうち、いよいよ苦しくなったらしく、唾を吐く気力もなくなった。とうとう、あえぎあえぎ、くちびるをなめながら訴えた。
「すこし縄をゆるめてください。苦しくてたまらない」
しかし王虎は、その言葉も気にとめなかった。女がだますのだと思ったので、こわばった笑いをうかべただけであった。彼がそばへ行くたびに、女は縄をゆるめてくれと嘆願したが、彼は答えなかった。やがて女は頭を垂れて黙ってしまった。彼はあまり近寄らなかった。また唾を吐きかけられてはたまらないし、眠ったふり、気絶したふりをしているのだろう、と思ったからである。しかし、いくら女の前を通っても動かないので、あばたを呼んで見にやった。あばたは、そばへ行って女のあごに手をかけ、仰向かせてみた。女は、ほんとうに気絶していた。
そこで王虎は女のそばへ近づいて、つくづく顔を見た。消えかかった火の、にぶいゆらめく光のなかで見たときよりも、ずっと美しい。まだ二十五を越してはいまい。百姓の娘や、身分の低い女とは見えない。どんな身分のものだろう。どうしてここへきたのだろう。いったい豹将軍はどこでこんな女をみつけてきたのだろう。王虎は不審の思いにうたれるばかりであった。彼は兵士を呼んで縄を切らせた。こんどは、木にしばりつけずに、もっとゆるくしばって、地面にころがしておいた。彼女は、まだ気絶したままであった。彼女が気がついたときには、もう夜が明けて太陽の光が朝霧のあいだからはいよっていた。
このときになって王虎は部下に号令した。
「もう時間が切れた。やめろ。まだ仕事が残っているのだ」
略奪品のことで争っていた部下は、それをやめて、しぶしぶ集まってきた。王虎が大きな恐ろしい声で号令し、銃を手にして、従わないものを銃殺する身振りを示したからである。部下が集まってくると彼は言った。
「小銃と弾薬をみんな集めてこい。それはおれのものだ。それがおれの分けまえだ」
集めてきたのをかぞえると、小銃が百二十挺に、かなり多くの弾薬があった。銃のなかには古くてさびついて役に立ちそうもないものもあった。王虎は、それらの古い銃を別にしておいて、もっとよいのがみつかりしだい、捨てることにした。
焼け落ちてまだ煙の立っている山塞《さんさい》のまんなかで、部下のものどもは、略奪品を大小の包みにくくった。王虎は銃をかぞえなおして信用のおけるものに持たせた。それが終わってから、やっと王虎は、しばってある女のほうをふり向いた。女はすでに気がついて、地上に横たわったまま目を開いていた。王虎が彼女をながめると女は怒ってにらみかえした。彼は、きびしい調子で女に言った。
「おまえは何者だ。家はどこだ。送りかえしてやってもいいぞ」
しかし女はひとことも答えなかった。返答のかわりに、唾を吐きかけた。その顔は怒った猫のようであった。王虎は、すごく腹を立てて、ふたりの部下に命令した。
「この女を縄に棒をとおして県公署までかついで行け。あそこの牢獄にぶちこんだら、たぶんなんとか口を割るようになるだろう」
部下は命じられたとおり、棒を容赦なく縄のあいだに突き通して、棒の両端を肩にかついだ。女は、しばられたまま棒からぶらさがった。
すべての準備が終わったころ、太陽はすでに山の端からのぼっていた。王虎は先頭に立って山をくだって行った。山塞の焼けあとから、かすかに煙が立ちのぼっていた。王虎はふりかえっても見なかった。
こうして彼らは田舎道を行進して、ふたたび町へ向かった。行きあう人々は、この異様な行列を横目で見た。ことに、しばられて棒にぶらさがっている女を、いぶかしげに見た。狐に似た美しい顔が血の気をうしなって灰色になり、死んだようにぐったり頭を垂れているのだ。みんな好奇心にかられたが、めんどうなかかりあいになるのを恐れて、あえてきこうともしなかった。一度、ちらりとながめるだけで、あとは目を伏せて、せっせと仕事をしていた。王虎と部下が城門に着いたときには、太陽は高くのぼって、日光が明るく野原に降り注いでいた。
王虎が城壁の暗い通路を抜けるとき、腹心のみつ口が近よってきて、王虎を城門のそばの木のうしろに連れて行き、熱心のあまり、せきこみながらささやいた。
「隊長どの、言わずにいられないから申しあげます。あの女にはかかりあわないほうがいいと思います。あの女は狐の顔と狐の目をしています。あのような女は、なかば人間で、なかば狐なのです。魔法を使います。わたしの短刀でぐっさりやって片づけてしまいましょう」
王虎も半人半狐の女の伝説はしばしば耳にしているが、大胆な男なので、高笑いして相手にしなかった。
「おれは人間も幽霊も恐れない。たかが女じゃないか!」
そして彼は、みつ口を払いのけて、ふたたび先頭に立って進んだ。
みつ口は、ぶつぶつつぶやきながら王虎のあとにしたがった。彼はこんなことをつぶやいていた。「こいつは女だから、男よりも邪悪だ。それに狐だから、女よりも邪悪なのだ」
[#改ページ]
十四
前夜、あれほどの騒ぎを演じた県公署に、ふたたび王虎《ワンホウ》がもどってきたとき、あとにつづく部下は疲れ果てて歩調も乱れていた。公署のなかは、すっかり掃き清められ、もとどおりの状態になっていた。死体は運び去られ、血は水で洗い清められていた。衛兵も召使も、それぞれの部署についていた。王虎が門内にはいってくるのを見ると、彼らは恐れをなして粗忽《そこつ》のないようにつとめた。王虎は帝王のように威風堂々とあらわれた。みんな、あわただしく敬礼した。
彼は傲然《ごうぜん》と身をそらし、いくつもの庭や広間をずかずかと横ぎって奥へ進んだ。浅黒い顔には尊大な誇りがあふれていた。彼はこの地方一帯が自分の掌中に落ちたことを知っていたのである。彼は、そばに立っているひとりの衛兵に向かって命じた。
「あのしばってある女を連れて行って、公署の牢獄へ入れておけ。警戒をきびしくしろ。食事その他の待遇はよくしてやれ。あれは、わしの俘虜《ふりょ》だ。処罰は、わしのしたいときに、わしがする」
彼は俸でかつがれた女が連れ去られるのを見ていた。女も憔悴《しょうすい》しきって、蝋《ろう》のように白い顔をしていた。赤かったくちびるも、いまは色あせていた。まっ青な顔のなかで目だけが墨のように黒かった。そして、息苦しそうにあえいでいた。それでも女は大きなすごみのある黒い目を動かして王虎のほうを見ることができた。王虎が自分を見守っているのに気づくと、女は顔をゆがめて憎々しげな表情をした。唾《つば》を吐こうにも口が乾いていて出ないのだ。王虎はこんな女を見たことがないので、まったく驚いた。これほどおれを憎み、これほど復讐心の強い女を、けっして放免してやるわけにはいかない。それでは、どう始末すればよいのか。彼は思案にくれたが、いまはまあそのことは考えまい、あとで解決することにしよう、と思いなおし、県長に会いに行った。
老県長は夜の明けぬうちから王虎を待っていた。彼は礼服をつけ、ごちそうの用意をして待っていたのである。王虎がはいって行くと、彼は、すっかりおどおどしてまごついた。彼は王虎がしてくれたことにたいして感謝しているが、これほどの人が報酬を求めずに他人のために力をつくすはずがないと思っていた。もし王虎が莫大な報酬を要求して、豹《バアオ》将軍以上の重荷になったらどうしようと心配していたのである。
老県長は、恐ろしく不安な気持ちで待っていたのだ。王虎が帰ってきたとの知らせがあり、やがて王虎が英雄のように悠然と大股ではいってきた。それを見ると、老県長は、すっかり恐れ、あわてふためいた。自分の手足をどうしてよいかわからぬありさまで、われ知らずぶるぶるふるえ、手足は彼の意志とは無関係にそれ自身の生命を持っているかのように動いていた。しかし、ともかく彼は王虎を席に招じた。王虎は礼儀正しく返礼した。儀礼的なあいさつが終わり、王虎は頭を下げた。しかし、あまり下げすぎはしなかった。老県長は、茶や酒や肉を運ばせた。そこでふたりは、やっと席について、まず何気ない話からはじめた。
しかし、やがて当面の問題にふれなければならないときがきた。老県長は東を見たり、西を見たり、王虎のほうを避けて視線を動かしていたが、やっと口を開いた。王虎は老県長の話しやすいように水を向けたりはしなかった。彼は、いっさいの力が自分にあることを知っていた。老県長の心の状態も見とおしていた。だから彼は、この神経質な老人のうえにじっと目を注いでいるだけであった。こうしていれば老県長がこわがることを知っていたからである。底意地の悪いところを持っている王虎には、それがおもしろかった。ようやく老県長は、せかせかした、かぼそいしわがれ声で、ささやくように言いはじめた。
「あんたの昨夜の働きを、わしは、けっして忘れはせん。長年わしが苦しめられていた匪賊を退治してくださったので、わしも、これでやっと老後を安穏に送れるというものじゃ。どんなにお礼しても足りることではない。わしを救うてくださったあんたに、なんというてよいか、どうお礼をしたものか、あんたの部下への報酬はどうしたものか。あんたをわしは息子よりも大事に思うとる。なんなりとおっしゃっていただきたい。わしの県長としての地位さえ、お望みならばさしあげてもよいと思っておりますじゃよ」
彼は、ふるえて人さし指の爪を噛みながら王虎の返答を待った。王虎は静かに落ちついて、老県長の言葉が終わるのを待っていたが、ていさいのいい返事をした。
「わたしは、けっして報酬を望みません。わたしは若いときから、邪悪な人間をこらしめるために力をつくしているもので、今度のことも、民衆を苦しめるやつらを除いただけのことです」
そこで言葉を切って王虎はふたたび黙った。老県長がなんとか言わなければならない番である。
「あんたは英雄の心を持っていなさる。いまどき、あんたのような人がおられるとは夢想だにしませなんだ。しかし、なんらかの方法で感謝の気持ちをあらわさぬかぎり、わしは死んでも平和に目をつぶれませんわい。どうか、どうすれば御意に召すかおっしゃってくだされ」
こういった調子で、ふたりはかわるがわる話をつづけた。どちらも上品で鄭重《ていちょう》な言葉をかわしているうちに、ふたりは、ようやく要点に近づいてきた。王虎は遠まわしな言いかたで、豹将軍の旧部下のなかでこちらの部下になりたいと志願するものがあれば部下に入れてもよいと思っていることを知らせた。すると老県長は恐怖に襲われ、彫刻した椅子の両肘《りょうひじ》につかまって立ちあがった。
「そうすると、あんたは豹将軍のかわりに匪賊の頭目になりたいと言われるのじゃな」
そして老県長は心に思った。(もしそうだとすれば、自分はいよいよ破滅だ。どこからきたとも知れぬこのふしぎな背の高い黒い眉毛《まゆげ》の男は、見たところ、豹将軍よりも精悍《せいかん》だし、ずっと謀略にたけている。すくなくとも、豹将軍の正体はだれでも知っていたし、彼の要求する金額は見当がついていた。しかしこの新来の男は……)そう考えていると、県長の口から、われ知らずうめき声に似たため息がもれた。
だが王虎は率直に語った。
「ご心配にはおよびません。わたしは匪賊になる気はない。わたしの父は莫大な土地を持っていたりっぱな人物で、わたしも父の遺産をうけついでいる、貧乏ではないから盗賊をする必要はない。そのうえ、わたしのふたりの兄は金持ちで正しい人間です。わたしが偉大な人物になるための道をきり開くとすれば、わたしは軍人としての腕前だけでやって行こうと思う。匪賊のような卑劣なまねはしたくない。わたしが、あなたに要求したいことは、それだけです。あなたの県公署のなかに、わたしの部下を駐屯させ、わたしをこの地方の軍隊の司令官に任命していただきたい。わたしとわたしの部下は、あなたの随員の一部になる。わたしは、あなたやこの地方の住民を匪賊から守る。あなたは租税の一部で、われわれを給養してくださればよろしい。そうすれば、国家の名において、あなたはわれわれを保護することができる」
老県長は聞きながら当惑の色を示したが、やがて力なく言った。
「じゃが、いまの司令官をどうすればよいかな。あちらも、なかなか辞職はせんだろうから、わしは、あいだにはさまって困った仕儀になるわけじゃ」
王虎は大胆に答えた。
「名誉ある軍人として、われわれは決闘すればいいと思う。もし彼が勝てば、わたしは部下と小銃を彼にひき渡して、ここを去ろう。だが、わたしが勝ったら彼が兵と武器をひき渡して去って行く」
県長はうなった。そして嘆息した。彼は学者で、聖人の教えを奉じている人間だから、平和を愛していた。しかし、やむを得ず司令官を迎えにやった。やがて司令官がきた。いばりかえった小柄の男で、腹ばかり突き出ていた。りっぱな外国製の軍服をつけ、あごにちょびひげをはやし、うすい眉を逆立てて、いかにも強そうなようすをつくっていた。長い剣をかかとまで引きずり、一足ごとに力をこめて踏みしめながら歩いてきた。おじぎをするにも腰から上をまっすぐにまげるだけで、なるべく強そうに見せようと苦心しているらしい。
老県長は口ごもったり、汗をかいたりしながら、どうにか一応の事情を説明した。王虎は冷然とその場にすわったまま顔をそむけ、まるでほかのことでも考えているように見えた。やっと語り終わった県長は、黙然として頭をたれた。こんなくらいなら、死んだほうがましだと思った。このふたりのあいだにはさまれて、自分はすぐに殺されてしまうだろうと考えた。彼は司令官が、ちょっとしたことにも、すぐかんしゃくを起こすので、恐ろしい人間だと思っていたが、王虎は、それ以上に怒りっぽく、腹を立てたら何をするかわからない人間であることは、顔を見ただけでもわかるからである。
腹ばかりふくらんだこの小柄な司令官は、県長から話を聞くと、憤然として、ふとった小さな手を長剣にかけて王虎にとびかかろうとした。そのとき、中庭のぼたんの花壇をながめているように見えた王虎は、司令官の手が動くよりも早く、彼のほうをかえりみて大きな口をひきしめ、黒々とした濃い眉を寄せ、腕を組み、この小柄な司令官を、ぐいとにらみつけた。すさまじい眼光なので、司令官は、あわてて思いなおし、できるだけ怒りをこらえた。彼も、ばかではなかった。王虎と決闘しても勝算がないと見てとった彼は、いまが辞職のしおどきだと思いあきらめて、老県長に言った。
「わたしも父親が年をとったし、それに、わたしはひとり息子なので、久しい以前から、辞職して郷里に帰り、老父に孝養をつくさねばならんと考えておりました。しかし、この公署での職務が多忙で、一日も離れられなかったので、思うに任せませんでした。孝養をつくさねばならぬというほかに、わたしは腹部に持病を持っておりまして、ときどき痛むのです。閣下は、わたしの持病をご存じでしょうな。匪賊討伐もやりたいと思いながら、この持病のために果たせなかったようなわけで、天命とはいいながら、残念でなりませんでした。これを機会に職を退いて田舎に帰り、老父に孝養をつくし、かねて持病の療養もいたすことにしましょう」
彼はそう言うと、しゃちこばって頭をさげた。老県長も立ちあがって礼を返しながら、低い声で言った。
「長いあいだ、よくぞ忠実に任務をつくしてくださった。十分にお礼はします」
去って行く司令宮の小柄な後ろ姿を老県長は名残惜しげに見送って、ため息をついた。彼は匪賊こそ退治できなかったが、しごく扱いやすい軍人で、食べ物や飲み物の些細《ささい》なことからかんしゃくを起こしたりしたものの、それ以外は公署にいても別にむずかしい人間ではなかった。だが、王虎は若いし、乱暴で、精悍で、気むずかしそうだ。老県長は王虎のほうをぬすみ見て、これからさきが思いやられるわいと思ったが、しかし、おだやかな調子で言った。
「さて、これでお望みどおりになりましたな。引っ越しがすんだら、これまで老将軍の使っていた公邸をお使いくだされ。そして兵隊の指揮に当たってくだされ。だが、もう一つやっかいなことがある。司令官を交替させたことが上級官庁に知れたら、なんと弁解したものでしょうかな。それに旧司令官が告訴しないともかぎらんでの」
王虎は聡明だから即座に答えた。
「かえってあなたの名声があがるばかりでしょう。上のほうには、あなたから、勇士を雇って匪賊を退治させた、そしてその勇士を護衛隊長に任命した、と報告なさい。それからいままでの司令官に辞職願いを書かせ、後任者として、わたしを指名させるのです。わたしが、うしろ楯《だて》になりますから、強制的に書かせればよろしい。そうすれば、あなたは勇士を雇って匪賊を退治させたということで、その名誉はあなたのものになる」
老県長は気が進まなかったけれども、それが名案であることをみとめた。彼は、すこし気が楽になったが、それでもまだ王虎がこわかった。この男のほこさきが今度は自分のほうに向けられるのではないかと心配した。県長をこわがらせておいたほうが王虎には都合がいい。彼は冷やかに笑いをうかべているだけであった。
王虎は司令官の公邸に移った。北方からきびしい冬が襲ってきた。王虎は冬のくる前に事をなしとげたことをよろこんだ。部下の衣食は確保された。租税がはいってくるようになったので、部下のために防寒用の衣類も買うことができた。彼らは暖をとることができたし給与も十分であった。
部下のために、冬の準備をととのえてしまうと、やがて極寒の季節になった。毎日が同じように、なんの変哲もなく過ぎてゆく。ある日、王虎は、なすこともなくぼんやり過ごしていると、このときふいに牢獄に入れたままになっている女のことを思い出した。思い出すと、ひそかに残酷な笑いをうかべて、衛兵に命じた。
「六十日ばかり前におれが牢獄へ入れた女を連れてこい。おれを殺そうとした女だ。まだ刑罰をきめていなかったのを忘れておった」
彼は声を立てずに笑ってから、また言った。
「いまごろはもうおとなしくなっているだろう」
どのくらいあの女がおとなしくなったかを見るのが楽しみなので、興味を持って待っていた。彼は司令官の広間にただひとりすわっていた。かたわらには大きな鉄製の火鉢《ひばち》があり、炭火が赤々とおこっていた。外には、雪が降りしきって、中庭を埋め、木の枝にも重くつもっていた。風のない日であった。降りしきる雪の湿気が凍《い》てついて、身がうずくように寒い。あたりは、しんと静まりかえっている。王虎は火鉢によって暖まりながら、のんびりと待っていた。彼は羊の毛皮でつくった上着を着ていた。椅子の背には寒気をさえぎるために虎の毛皮がかけてあった。
一時間もたってから静かな中庭に騒がしい物音がした。彼は戸口のほうを見た。さっきの衛兵が囚人を連れてきた。ほかに、ふたりの衛兵が加勢しているが、それでも女は、からだをあちこちとねじまげ、縄をほどこうとしてあばれていた。衛兵たちは、やっとのことで女を室内に入れた。その騒ぎで、雪が戸口から吹きこんできた。ようやく女を王虎の前に引きすえた衛兵は、おそくなった言いわけをした。
「連れてくるのがおそくなって申しわけありません。この女を一足ずつ無理やりに歩かせなければならなかったのです。こいつは寝台に素っ裸で寝ていますので、風紀上、われわれは、はいって行くことができなかったのです。われわれは何しろ妻子のあるれっきとした身分の男なのですから。そこで、ほかの女囚を呼んで、無理やりこいつに着物を着せました。こいつは、噛みついたり引っかいたりしてあばれましたが、とうとう着物を着させられてしまったので、われわれはやっと中にはいることができました。こうして、しばって引きずってきました。気ちがいです。たしかに気ちがいです。こんな女は見たことがありません。牢屋のなかでも、こいつは女じゃない、悪魔が何か邪悪な目的で狐を女にしたのだろうとうわさしています」
それを聞くと、女は顔におおいかかる髪をゆすって、うしろへ払いのけた。彼女の髪は一度短く切られたのだが、いまではまた肩のあたりまでのびていた。女は、鋭い声を出した。
「気ちがいではない。その男が憎いのだ」
彼女は王虎のほうへあごを突き出して悪態をつき、いきなり唾を吐きかけた。しかし王虎は、すばやく身を引いた。衛兵も気がついて縄をぐっとうしろへ引きもどしたので、無事にすんだ。唾は火鉢のなかの熱い火の上に落ちてじゅっと音を立てた。驚いた衛兵は、ふたたび確信に満ちたようすで叫んだ。
「ごらんのとおり気ちがいです、将軍閣下」
しかし王虎は、なんとも答えなかった。彼はこの奇怪な手におえない女にじっと目を注ぎ、彼女の言葉に耳を傾けた。ののしっているときですら、いやしい無知な女の言葉ではない。彼は、つくづく女をながめた。もともとほっそりしたたちで、いまでは骨の出るほどやせてはいるが、それでも美しく、気品があった。どうしてもただの田舎女とは見えなかった。けれども足は大きかった。纏足《てんそく》したことがないらしい。良家の女子ならば纏足するのが習慣だが、それをしていないのだ。いろいろ矛盾だらけなので、王虎には、どんな身分のものか、さっぱり見当がつかなかった。彼は、ただじっと彼女をみつめていた。憤怒をおびた目の上に美しい眉がつりあがり、ふてくさった薄いくちびるのあいだからは白いなめらかな歯がのぞいていた。ながめているうちに、王虎は、こんな美しい女は、ついぞ見たことがないと思った。青ざめ、やつれ、憤怒に満ちた顔をしているのに、なんと美しいのだろう。ついに王虎は、ゆっくり口を開いた。
「おれは、おまえをまったく知らないのだ。なぜこのおれを、そんなに憎まねばならないのか」
女は、はげしく答えた。すんだ、すきとおるような声であった。
「おまえはわたしの主人を殺したではないか。復讐をせずにはおかないぞ。たとえ殺されても、仇《あだ》をとるまでは、わたしは目をふさがないぞ」
衛兵は、驚き怒って、剣をふりあげた。
「どなたに向かって口をきいているのか、この牝狐《めぎつね》めが」
衛兵は女の口を剣の平で打とうとしたが、王虎は女にふれるなと制して、静かにきいた。
「豹将軍は、おまえの主人だったのか」
女は、さっきと同じ、すんだ、はげしい声で答えた。
「そうだ」
王虎は、ゆったりと前へのりだして、静かな、しかし見さげたような調子で言った。
「豹を殺したのは、おれだ。おまえには新しい主人ができたのだ。それはおれだ」
すると女は、王虎にのしかかって息の根をとめようとするほどの勢いで、おどりあがった。ふたりの衛兵が、女に組みついておさめた。身動きのできないように女をひきすえた。彼女のこめかみからは汗が流れていた。女は息をはずませ、なかば泣きながら、くやしそうに王虎をにらんだ。王虎は彼女のはげしい視線を受けとめて、じっと見すえた。女は挑《いど》むように、にらみかえした。まるで王虎などすこしも恐れていないといわんばかりに、目をそらそうともしなかった。王虎が先に目を伏せるまでは、金輪際《こんりんざい》、目を伏せまいと決意しているかのようであった。しかし王虎は平然として、怒りを顔にあらわさず、強い静かな忍耐をもって彼女を見すえていた。かんしゃくを起こしたときでないかぎり、彼は、どんなに深く怒っていても、それをおさえる忍耐力を持っていた。
女は長いあいだにらみつづけていた。しかし王虎がじっとみつめているので、とうとう女はまばたきをして、叫び声をあげた。彼女は衛兵に向かって言った。「わたしを牢獄へ帰らしておくれ」そして二度とふたたび王虎のほうをふり向こうとしなかった。王虎は例のすごい笑いをうかべた。
「わかったか。おまえには新しい主人ができたと言ったはずだ」
女は、ひとことも答えようとしない。急にうなだれて、くちびるを開き、かすかにあえいでいた。王虎は、ついに、女を牢獄へもどせと命じた。彼女は王虎の面前から早く去りたいので、今度は抵抗もせずに連れられて行った。
あの女は、どういう素姓のものだろうか、どうして匪賊の山塞などへくるようになったのだろうか、王虎はそれを知りたいという好奇心にかられた。彼は女の経歴をしらべてやろうと思った。やがて衛兵が帰ってきて、頭をふりふりつぶやいた。
「いままで、ずいぶんと乱暴なやつもあつかったが、あんな牝虎みたいなのにぶつかったのははじめてです」
王虎は衛兵に命じた。
「典獄にそう言って、あの女の素姓と、どうして山塞へくるようになったかをしらべてもらってくれ」
すると衛兵は答えた。
「あの女は、いくら尋問しても口を開きません。ひとことも言わないのです。牢獄へきてから変わったことといえば、はじめは何も食べなかったのが、いまでは、がつがつ食べるようになったことだけです。それも腹がすくからではなく、何か目的があって、じょうぶになりたいから食うといったようすです。自分の素姓は、だれにも話しません。ほかの女囚たちが知りたがって、いろいろとかまをかけてきき出そうとしても、何も言わないのです。拷問にでもかければ、しゃべるかもしれませんが、あんな気の強い意地っぱりな女ですから、それもどうかわかりません。拷問にかけてもいいでしょうか」
王虎は、しばらく考えていたが、やがてきっとなって言った。
「ほかに方法がなければ、拷問してもいい。あの女はおれに従わねばならんのだ。しかし死ぬほど拷問してはならんぞ」
しばらくして、彼は言葉を添えた。
「骨をくじいてもいかん、肌を傷つけてもいかんぞ」
その日の夕刻、衛兵は報告にきた。そして、あきれはてたように言った。
「将軍閣下、骨をくじかず、肌を傷つけないようななまやさしい拷問では、あの女に口を開かせることは不可能です。あいつは、われわれをあざわらっています」
王虎は沈んだ面持ちで衛兵を見て言った。
「それでは、しばらくほうっておけ。酒や肉をやるように言え」
女をどう処分したらよいかを思いつくまで、このことは心の奥にしまっておくことにした。何か名案がうかぶのを待っているあいだに、王虎は、みつ口を故郷へ使いにやって、兄たちに、いままでの出来事、自分がどんなに成功したか、部下をあまりうしなわずにどんな大勝利をえたか、どのようにしてこの地方に地盤をつくったかを報告させることにした。出発の前に、みつ口に、これだけの注意をあたえた。
「おれのやったことを、あまり大げさに吹聴《ふいちょう》してはならんぞ。この小さな地方と、この県公署などは、おれの前にそびえている功名の高い山にのぼる第一歩にすぎないのだ。おれが望みどおりに立身出世したなどと兄たちに思われては困る。息子を引き立ててくれと、たよってこられてはかなわんからな。おれには自分のほしい息子はいないが、あんな息子をしょわされるのはごめんだ。だから、おれの成功をなるべく内輪に話せ。兄たちが話を聞いて乗り気になり、これからさき必要な軍資金をもっとおれに出す気になるように話してくれ。いまでは五千人の部下がいる。これに衣食をあたえなければならん。あの連中ときたら、狼みたいに食うからな。兄たちにこう伝えてくれ。おれは第一歩を踏み出した。近くこの県全体をおれの支配下におく。それが成就したら、もっと多くの県に進出する。おれの進む道には限界がないのだ」
みつ口はそれを忠実に伝える約束をした。彼は遠い地方の寺院にお詣《まい》りに行く貧しい巡礼の姿をよそおって出発した。
王虎はそれから部下の組織編制に着手した。たしかに彼はこのたびの成功を誇ってしかるべきであった。彼は、りっぱに独立したのである。匪賊の頭目としてではなく、堂々と県公署のなかに、省の政府の一部としての地位を得たのである。王虎の名声は、この地方のすみずみまでひろがった。いたるところで民衆は王虎のうわさをしていた。彼が兵士を募集すると、多くの人間が彼の旗じるしのもとに仕えたいと志願して集まった。王虎は厳重に人選し、年とったもの、不適格なもの、病弱なもの、片目のもの、低能なものは、受けつけなかった。また彼がひきついだ県の兵隊のなかで、能力のない弱虫どもは、金をやって罷免《ひめん》した。というのも、ただ飯にありつきたいために兵隊になっているものが多かったからである。こうして王虎は、若くて強い、戦闘に適した精鋭ばかり八千人も麾下《きか》に集めた。
匪賊との戦闘で殺されたものや、山塞で焼け死んだ少数のものをのぞいて、王虎は、はじめから自分にしたがって出発した百人の部下たちを、大尉や軍曹に昇進させ、新しい部下の上においた。
この編制がすんでしまっても、彼は、そういう地位の人間にありがちな安逸や飲食にふけることをしなかった。この厳冬にも彼は朝早くから起きて、部下を教育し訓練した。自分の知っているかぎりの戦闘の術、奇襲にはどうすればよいか、攻撃はどうするか、伏兵はどうするか、損害なしに退却するにはどうすればよいかを教えこんだ。いつまでも県公署のこんなところに満足している気はなかったから、部下を、できるだけ教育しておこうと決心した。彼の大望は胸のなかでふくれあがった。彼はその夢をできるだけ大きく育てあげた。
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十五
王虎《ワンホウ》のふたりの兄は、弟の計画が成功したかどうか知りたいと思ってやきもきしていたが、表面にあらわれた態度は、それぞれちがっていた。長兄は自分の息子が縊死《いし》したので、弟のことには、なんの関心も持たないふりをしていた。そして弟のことを思うたびに、死んだ息子のことが思い出されて悲しくなるのであった。彼の夫人も息子の死を悲しんでいたが、彼女の悲しみは、夫に対して不平を言うことでなぐさめられていた。彼女は、しばしば言うのだった。
「わたしは、はじめから、あの子をやってくださるなと申しました。わたしたちのような家柄にとっては、あんないい息子を兵隊に出すのは、よくないことだと、わたしは、はじめから言っていたのです。兵隊なんて、いやしい下品な生活です。いつもそう言っていたじゃありませんか」
はじめ王一《ワンイー》は、おろかにも夫人をたしなめた。
「はてね、おまえがいやがっていたとは知らなかったよ。普通の兵隊じゃなし、弟が出世するにつれて高い地位に引きあげてくれるというので、よろこんでいたじゃないか」
夫人は自分の言ったことを、どこまでも押しとおすつもりであった。だから、はげしい勢いで叫んだ。
「あなたには、わたしの気持ちなどおわかりにならないのです。いつもほかのこと――女のことや何かを考えていらっしゃるのでしょう。わたしは何度もはっきりと、あの子をやってはならないと申しました。あなたの弟さんは、いやしい軍人にすぎないじゃありませんか。わたしの言うことを聞いてさえくださったら、あの子は、いまでも生きていて元気だったでしょう。あの子は、一ばんいい子でした。りっぱな学者になるように生まれついていたのですわ。わたしの言うことは、この家では、だれにも尊重してもらえないのだわ……」
彼女は嘆息して、世にも悲しげな顔をした。王一は、うっかりしゃべった言葉から、このような嵐を呼びおこしたのに困惑して、西を向いたり東を向いたりしながら、ひとことも答えなかった。黙っているほうが、妻の怒りが早くおさまるだろうと思ったからである。実をいうと、夫人は次男が生きているときは、しかったり、欠点ばかり見えたりして、長男のほうがずっとよい子だと考えていたのだが、死んでからは、あの子が一ばんよい息子だったと言っては、その死を嘆くのであった。
このごろでは長男も彼女の思うようにはならなかった。そう思うと、なおさら死んだ息子のほうが、よく見えるのである。三男のせむしの子もいるが、この子が梨華《リホワ》といっしょに暮らしたいと言いだしてからは、夫人は、ついぞ自分から三男のことを口に出したことがなかった。もし、だれかにたずねられると、こう答えるだけであった。
「あれは、からだがじょうぶでないので、田舎へやってあります。そのほうが、からだのためにいいものですからね」
それでも夫人は、息子のめんどうをみてもらっているお礼のつもりか、ちょっとしたつまらないものを、ときどき梨華に送ったりした。花模様のついた小さな陶器の鉢《はち》だとか、梨華がとても身につけそうもない、派手な花模様の、安い絹まがいの布地だとか、そんなものを送ったのである。けれども梨華は、どんなものをもらっても、うれしそうにお礼を言った。そして新鮮な鶏卵とか畑の作物などを返礼にして、もらいっぱなしにしなかった。それから、もらった反物は、白痴の娘にやったり、白痴をよろこばすために派手な上着や靴をつくってやったりした。陶器の鉢は、せむしがほしがれば、せむしにやるし、また土の家にいっしょに住んでいる農夫の妻が彼女の使っている青と白の陶器よりも花模様のついた町の品がいいと言えば、すぐにその女にあたえた。
王二《ワンアル》は彼らしいやりかたで、弟の消息を知りたいと待っていた。彼は、それとなく、あちこちのうわさ話に耳を傾けていた。そのうちに、北方の匪賊の頭目が新来の若い勇士に殺されたといううわさがつたわってきた。しかし、それが事実かどうか、またその勇士が自分の弟かどうかは、わからなかった。そこで彼は、銀をたくわえて弟の腹心がくるのを待っていた。彼は、いい時機を見はからって弟の土地を売り、その代金を高利で運転していた。こっそりと一、二度よけいに回転して金利を得たところで、それは自分の労力にたいする正当な報酬であり、弟に損をかけることにはならないわけである。自分が王虎のためにつくしてやったほどには、だれもしてやれないではないか、という肚《はら》であった。
しかし王虎の腹心のみつ口が家の玄関に姿をあらわしたとき、王二は、みつ口から報告を聞くのが待ちどおしかった。彼は、いつになく熱意を顔にあらわして、みつ口を自分の部屋に呼び、自分で茶をついでやった。やがて、みつ口は一部始終を報告した。王二は、ひとことも言葉をさしはさまず、終りまで聞きいった。最後に、みつ口は王虎に言われたとおり、うまく話を結んだ。
「あなたの弟さんに当たる将軍は、こう申されました。あせってはだめだ。高い山にのぼる第一歩をはじめたばかりだ。まだわずかに一県を手に入れたにすぎない。自分が夢みているのは天下の諸州だ――」
王二は息をのんで聞いていた。
「あんたは、どう思いなさるかな。わしの銀を弟につぎこんでも危険はないだろうかね」
すると、みつ口は答えた。
「あなたの弟さんは非常に聡明な人です。たいていの人なら、匪賊の山塞《さんさい》を占領してその地方を略奪し、すこし高い生活ができれば、それで満足するところです。けれども将軍は賢明ですから、そんなことはなさいません。帝王になるためには、匪賊などしていてはだめです。だから、ちゃんと政府の権力をうしろだてにしておられるのです。いまのところは小さな県公署ですが、それでも政府です。あのかたは、れっきとした政府の将軍です。やがて春になれば何か口実をもうけて他の軍閥と戦うことになるでしょうが、そのときにも、あのかたは反乱軍としてではなく、政府の権威ある将軍として出征されるわけです」
こういう慎重な弟のやりかたは次兄を大いによろこばせた。もう正午近くだった。彼は、いつもより上機嫌で、みつ口に向かって言った。
「何もごちそうがなくてお気の毒だが、家のものといっしょに昼食を食べてくださらんか」
そして、みつ口を案内して家族の食卓につかせた。
次兄の妻は、みつ口を見ると、例のへだてのない調子であいさつしてからきいた。
「うちのあばたのチビはどうしていますか?」
みつ口は立ちあがって、息子さんは元気で、たいへんよくやっておられる、将軍が、いつもそばから離さないから、いまにきっと出世なさるでしょう、と答えた。しかし、みつ口が、そのさきを言い出さないうちに、次兄の妻は、そんな他人行儀に立ってなどいないで、すわってから話してください、と大きな声で言った。
そこでまた腰をおろしたみつ口は、あばたの少年が匪賊の山塞にしのびこんで、どんなに首尾よく任務をはたしたかを話そうと思ったが、ふと思いなおした。女というものは妙なもので、気分が変わりやすい。ことに母親は妙なもので、子供のこととなると、なんでもないことまで恐れたり心をいためたりするものである。そう考えたので、みつ口は、次兄の妻のよろこびそうなことだけ話して、あとは何も言わずに黙っていた。
彼女は二、三分もたつと、いま自分が聞いたことを、みんな忘れてしまった。いろんなことで忙しかったからだ。あちこちとかけまわり、食器を持ってきて、テーブルの上にならべる。そうして働きながらも、片手に赤ん坊を抱いて乳をふくませる。赤ん坊は、やすらかに乳を吸っている。片方のあいている手で、食べものを、客や主人やお腹をすかしてわめいている子供たちによそってやる。子供たちはテーブルのところで食べようとせず、茶わんと箸《はし》を持って戸口に立ったり、往来に出て食べたりしていた。そして茶わんがからになると、また飯や野菜や肉をよそってもらいにかけてくるのであった。
食事がすみ、食後の茶を飲んでしまうと、次兄は、みつ口を長兄の家の門まで連れて行った。茶館でゆっくり話をするために長兄を呼び出してくるまで、みつ口に、そこで待っているようにと言った。夫人に姿を見られると、夫人の長話を聞かされてめんどうだから、かくれているようにと言いおいて、次兄は、なかへはいり、庭づたいに兄の部屋へ行った。昼食をすませた長兄は、炭火がかんかんおこっている火鉢のそばの長椅子の上で、いびきをかいて寝入っていた。
腕を軽くゆすられたので、長兄は大きな鼻息を一つして眠りからさめた。ちょっとのあいだ寝ぼけていたが、用件がわかると、やっと身をおこし、かたわらにおいてあった毛皮の長衫《チャンサ》をひっかけて、足音をしのばせながら、弟のあとについて外へ出た。彼らが出ていくのに気づいたのは、きれいな若い妾《めかけ》だけであった。彼女は、だれが通って行くのかと扉から顔を出した。王一は黙っていろと手で合図した。妾は気が弱くて第一夫人を恐れていたが、根が人のいい親切な女なので、知らぬ顔をしていてくれるのである。もし夫人にきかれても、好意的にうそをついて、姿を見かけなかったと言ってくれるだろう。
彼らは、うちつれて茶館へ行った。そこで、みつ口は、もう一度、はじめから話をした。長兄は話を聞きながら、自分には王虎のところへやる息子がないことを残念がり、次兄の息子がうまくやっているのをねたんだ。しかし、その感情をおもてにはあらわさず、みつ口にたいして、いんぎんにその労をねぎらい、末弟のところへ送ってやる銀については、すべて次弟の意見に賛成した。そして家にもどるまで感情をおさえていた。
だが、家に帰ると、急に、ねたみの感情がせきを切ってあふれ出した。彼は、まっすぐに長男の部屋へ行った。長男はとばりをおろした寝台の上に、ものうげに寝そべりながら、顔をあからめて『三美人』という好色本に読みふけっていた。父親がはいってくるのを見ると、彼は驚いて本を長衫の下にかくした。父親は自分の気持ちだけでいっぱいで、それには気がつかなかった。自分の言いたいことを、せきこんで口に出した。
「おい、おまえは、いまでも叔父さんのところへ行って出世したい気持ちがあるかね」
けれども青年は、もうそういう人生の一時期を過ぎてしまっていた。彼は気どって軽いあくびをした。そのとき開いた彼のくちびるは、少女のくちびるのようにきれいで赤かった。彼は父親の顔を見て、ものうげに笑った。
「兵隊になりたいなんてばかなことを、ぼくは言ったことがあったかしら」
「兵隊になるんじゃない」父親は気をつかいながらすすめた。「はじめから兵隊よりもずっと上になるのだ。叔父さんのつぎの地位になるのだ」父親は、それから声を低めて、なだめすかすように説いた。「叔父さんはもう将軍になったのだ。わしが聞いたこともないようなすばらしい計略で成功したのだ。苦しい時期はもう過ぎたのだ」
青年は寝台に横になったまま強情に首を振った。父親は、なかば腹を立て、なかば情けなそうに息子をながめた。その瞬間、彼は息子の真実の姿をはっきりと見た。上品で、気むずかしく、怠惰で、快楽を追う以外には、なんの野心も持たない若者であった。知りあいの他の青年たちよりもいい服装をすること、流行におくれないようにすることだけを気にしている若者であった。父親は寝台の絹の掛けぶとんの上に寝そべっている息子を、つくづくとながめた。肌着まで絹をもちい、足には繻子《しゅす》の靴をはいている。皮膚は美女の肌のようにきめがこまかく、油をすりこんで香水をにおわせていた。頭髪は外国製の香油でなでつけてあった。この青年は、なんとかしてからだを美しくしようと苦心していたのである。自分のからだのしなやかさと美しさを、崇拝にも似た感情で愛しているのであった。そのために、夜ごと賭博場や劇場でいっしょに遊ぶなかまのみんなから感心されていたのだ。
どこから見ても、彼は富豪の家に生まれた貴公子であった。彼の祖父が王龍《ワンルン》という土百姓だったとは、夢にも思うものはいないだろう。長兄の頭のなかは、いつもつまらない雑多なことで、ぼんやりにぶっていたが、この瞬間だけは、自分の長男の真実の姿が見えた。そして息子の将来が心配になった。そこで彼は、いつものおだやかな調子とはちがう鋭い声で言った。
「わしは、おまえのゆくすえが案じられる。おまえは、ろくなものにはなれんだろう。それが心配だ」そして、いままでにないはげしい調子で言った。「おまえも世間へ出て、なんとか自分で生きる道を切り開かなければいけない。ここでのらくらして遊んでばかりいたのでは、おまえの一生は台なしだぞ」
長兄は自分でもなぜかわからぬ一種の恐怖の念にかられて、この子が野心にもえていたあの瞬間をとらえて思いどおりにやらせればよかったと後悔した。しかし、もうおそい。機会は去ったのだ。
父親の声が、いつになく鋭いので、青年は、なかば恐れ、なかばすねて、とつぜんベッドの上に起きなおった。
「おかあさんはどこでしょう。ぼくをよそへお出しになるかどうか、おかあさんにきいてきます。おかあさんが、ぼくをうちから追い出したいのかどうか、よくきいてみましょう」
そう言われると、父親は、またもや平常の自分にかえり、あわてて、なだめるように言った。
「まあ、いいさ。おまえは、わしのあととりなのだから、おまえの好きなようにするがいい」
ふたたび彼の頭は曇り、透徹した瞬間は去った。彼は、ため息をついて考えた。まったく貴公子は、いやしい生まれの青年のようにはやれないものだ。弟の女房は、いやしい生まれの女だから、あのあばたの息子も王虎の従卒ぐらいがいいところなのだ。そう思って漠然と自分をなぐさめながら、息子の部屋から、のっそりと出てきた。青年は絹でおおった枕の上に、ふたたび仰向けになり、頭の下で両手をくんで、ものうげに笑った。しばらくすると、さっきかくした本を手さぐりでひっぱり出し、また熱心に読みはじめた。それは友人がすすめてくれた好色本であった。
けれども長兄は漠然とした失望の気持ちを忘れることができなかった。いつまでも、それが心につきまとっていた。彼は生まれてはじめて、自分の生涯は思っていたほど幸福なものではないような気がした。そのうちに、みつ口は巡礼のずだ袋に銀をいっぱいつめ、腰にも帯が重くなるほど銀をつめ、背中にもしょいきれぬほどの銀の包みをやっと背負って、もどって行った。それを見たとき長兄は、これほどまでにしてやっても、自分が王虎からむくいてもらうことが何もないのを思うと、内心はなはだ憂うつだった。自分には、王虎にあずけて出世させる息子もいない。あるものは、いやだけれども、手ばなすことのできない土地ばかりだ。
そう思うと、まったく憂うつで、世のなかがおもしろくなかった。しまいには、夫人さえそれと気づくほど彼の憂うつはひどくなった。思いあまって、彼は自分のなやみを夫人にうちあけた。困ったときには、夫人に相談すれば、いつでも彼女がうまく解決してくれるのである。人にきかれたら強く否定したにちがいないが、内心では、ひそかに妻のほうが自分よりかしこいと信じていたくらいだった。だが、こんどは夫人に相談しても、なんにもならなかった。というのも、弟がどんなにえらくなったかを夫人に話そうとすると、彼女は、かん高く笑って、さげすむように言ったからである。
「小さな県の将軍など、大軍閥とはいえませんよ。あなたも老いぼれましたね。そんなものをうらやむなんて、あなたもどうかしていますわ。あの人が省を支配する督軍になったら、そのとき、うちのチビをやればいいでしょう。まだ乳を飲んでいる一ばん下の子で、ちょうど間にあいますよ」
長兄は黙ってしまった。しばらくは、じっとひきこもったまま、以前ほど気がるに遊びにも出かけなくなった。友人たちと談笑しても、もとのようにおもしろくなかった。彼はひとりぽつねんとすわっていた。もともと彼は、そんなたちの人間ではなかった。むしろ、人があちこち走りまわっている騒がしい場所が好きだったのだ。たとえ家のなかで、召使が行商人とかけあっている声が聞こえたり、子供たちが泣いたりわめいたりするような、日常生活の喧騒であっても、そのほうが好きだった。ひとりでぽつんとすわっているよりは、そのほうがよかったのだ。
しかしいまは暗澹《あんたん》とした気持ちですわっていた。なんとなく人生が空虚に感じられた。もう自分もいままでのように若くはない。知らぬまに年をとりつつある。それなのに自分はまだ人生の幸福をつかんでいない。もっとえらくなるはずだったのに、たいしてえらくもなっていない。彼が漠然と感じているこの悲嘆のうちで、もっとも大きい悲嘆は、けっして漠然としたものではなかった。それは父から受けついだ土地である。それは彼にとって唯一の生計の道であるとともに、ひとたび管理をおこたれば、妻子もろとも食うことができなくなるという点で、まったく呪わしい存在であった。
土地には何か邪悪な魔法がひそんでいるように思われてならなかった。やれ種まきだ、やれ肥料をやる季節だ、やれ刈り入れだと、そのたびに出て行かなければならないのだ。暑い太陽に照りつけられながら、穀物をはからなければならない。それがすむと追いかけるように小作料を集めなければならない。それにまた、あのいやな土地の見まわりがある。生まれつき閑人《ひまじん》で仕事がきらいなのに、いやでも働かなければならないのだ。もちろん代理人を雇ってはあるが、この代理人は、どこかずるそうなところがあって、気にいらなかった。代理人が自分をごまかして私腹をこやすかと思うと、がまんできないのである。そこで季節ごとに、いやいやながら自分で足を運んで監視しなければならなかった。
彼は、ひとりで自分の居間にすわっていた。また冬の日ざしが暖かいときには中庭へ出て木の下に腰をおろした。くる年もくる年も畑に行かなければならないのだ、そうしないと、泥棒のような小作人たちは何も納めなくなるだろう。そう考えて彼はうなった。いつもいつも小作人たちは泣きごとばかり言うのであった。「今年は洪水がありましたで」とか、「今年はひどい旱魃《かんばつ》でごわしてな」とか、「イナゴの多い年でして」などと、こぼしてばかりいた。そして、小作人も代理人も、地主の彼をごまかすことばかり考えていた。そういう連中と争うのがわずらわしいので、彼は土地を忌《い》みきらっていたのである。彼は王虎がえらくなって、その長兄である自分がもう寒暑に耐えて畑に出て行かなくてもいいときがくるのを待ちこがれていた。
「わしは王虎の兄だよ」そう言えば万事がすむような日が早くくればいいと思っていた。はじめて「地主の王さん」と人から呼ばれたとき、彼はうれしかった。いまでも彼はそう呼ばれているが、しかしその名誉ある名も、現在では、あまりありがたいとは思えないのである。
実をいうと、父親の王龍の存命中は、いるだけの金を自由に父親からもらっていて、収入を得るために自分で苦労したことは一度もなかった。それだけに、いまの生活がつらいのである。父の遺産が分配されてからは、いままでとちがって仕事をしないわけにはいかなくなった。しかも、そういう慣れない仕事をしても、ほしいだけの銀は、はいってこないのである。息子たちも妻妾《さいしょう》も、彼がそんなに働いていることに、まるで無関心であった。
息子たちは、なんでも最高の品を身につけなければ承知しなかった。冬には厚い毛皮がいるし、春秋には、長衫の裏につける優美な軽い毛皮が必要だった。季節ごとに、あらゆる種類の絹の着物がいるのである。その年の流行よりも、すこし長すぎたり、裁断がすこしだぶついているような上着を着なければならないとなると、胸もつぶれるばかりの思いであった。息子たちは若い遊び仲間から嘲笑《ちょうしょう》されるのを、何より恐れていたからである。
いままでは長男だけであったが、このごろでは、四番目の息子まで兄のまねをはじめた。まだやっと十三になったばかりなのに、もう着物の仕立てに好みがあり、指には指輪をはめ、頭髪には香油をつけなければ気がすまなかった。家にいるときには、専用の下女を使い、外出するときには下男を連れて歩いた。母親の秘蔵っ子なので、母親は悪魔にさらわれることを恐れ、片方の耳に金の耳輪をつけさせていた。悪魔をごまかして、女の子だからさらってもしかたがないと思わせるためであった。
また夫人は、うちには以前ほど銀がないと、どんなに夫が説明しても、なかなか承知しなかった。彼女がまとまった額の銀がほしいと言いだしたとき、もし夫が、「そんなにないから、さしあたり五十元しかやれないよ」とでも言おうものなら、夫人は、えらいけんまくで言うのであった。
「お寺の本堂の屋根を新しくするために寄進すると約束したのです。もしそれだけ寄進しなければ、わたしの面目は、まるつぶれです。あなたにないはずはありません。バクチやら、かこっているいやしい女たちのために、あなたが湯水のように金をつかっていらっしゃるのを、ちゃんと知っていますよ。この家のなかで霊魂や神仏のことを心にかけているのはわたしだけです。いまにわたしは地獄に落ちたあなたの霊魂を救い出すために祈らねばならなくなるでしょう。そのときになって、寄付しておかなかったのをくやんでも追いつきませんよ」
地主の王一は、こう言われると、なんとかして銀を工面《くめん》しなければならなかった。それにしても彼は自分の貴重な銀が、あの口のうまい陰険な僧侶たちの手に渡るのが、不愉快でたまらなかった。彼は僧侶が大きらいで、僧侶を信用していなかった。彼は僧侶の悪い評判を耳にしていた。けれども彼は、僧侶たちが、ふしぎな魔術を心得ているのではないかと思うこともあった。また神仏などは女の信仰するものだと強がりを言っているが、神仏に霊妙な力がないと確信しているわけでもなかった。この点についても彼の頭は混乱していた。
最近、夫人はますます深入りして、神仏や寺院やそんな種類のものと、きわめて親密になったことから、われながら神聖な人間になったと思いこんでいた。あちらこちらと毎日おまいりに長い時間をついやしていた。貴婦人のように侍婢《じひ》の肩につかまって寺の門をはいると、僧侶たちや住職までが、いんぎんに出迎えて、おじぎをしたり追従《ついしょう》を言ったり、まるで夫人を仏陀《ぶっだ》の寵児、在家の尼僧、「道」を身に体した貴婦人などと言っておだてるのが、夫人にはこのうえもないよろこびであった。
僧侶たちがこうしておだてると、彼女は、しとやかにほほえんで目を伏せ、一応謙遜してみせるのだが、自分でも気がつかないうちに、あれこれと寄付の約束をしてしまうのであった。それも自分が思っているより以上の金額を約束してしまうことがしばしばあった。しかし僧侶たちは、彼女をどこまでもほめあげるようにつとめた。彼らは、すべての信者の模範として彼女の名まえを方々に書いておいた。ある寺では、朱塗りの額に彼女の名を書きしるし、彼女がいかに信心ぶかく仏の道にいそしんでいるかを示した金文字の額の上につらね、本堂ではないが多くの参詣人の目をひくところにかかげた。
こんなことがあってから、夫人の態度は、いっそう誇らしげになり、神聖で信心ぶかくなった。彼女は、いつも静かにすわり、手を組むように心がけた。ほかの人たちが、うわさばなしや、つまらないことに興じているときにも、彼女は数珠《じゅず》をつまぐり、経文を口ずさんだりしていた。自分がそのように神聖になってしまったので、彼女は夫にたいして、けっして容赦しなかった。自分の体面をたもつために、必要な銀は、どんなにしても夫から取りあげた。
夫人が彼から銀をもらうと、若い妾《めかけ》までが自分の分け前として銀をほしがった。妾は夫人の意を迎えるためにお経を習っていたが、神仏にささげるわけでもないのに、やはり銀をほしがるのであった。彼女は、美しい花模様の絹の着物を買うわけでなし、宝石を身につけるでなし、頭髪や衣服に金の飾りをつけるわけでもないのに、いったい何につかうのか、地主の王には、さっぱり見当がつかなかった。しかも彼のやった銀は、彼女の手もとから、すぐ流れ出てしまうのであった。それでも彼は、とやかく言わなかった。妾が夫人のところへ行って泣いて告げ口などしたら、夫人は妾をおくからには相当のことをしてやらなければなりません、と言って彼をとがめるにきまっているからである。このふたりの女は、どちらも妙に冷淡でありながら、たがいに気のあったところがあるらしかった。何かほしいときは妻妾一致して主人に向かってくるのである。
ある日、地主の王は、真相を発見した。彼は若い妾が裏門からしのび出て、ふところから何かとり出し、そこに立っている男にそれを渡しているところを見たのである。のぞいて見ると、それは彼女の父親だった。彼は、にがりきって心に思った。
(おれはいままであの老いぼれ一家を養っていたわけか)
彼は居間へ帰って腰をおろし、ため息をついた。にがにがしい気持ちになり、われ知らずうなった。しかし、なんの役にも立たなかった。妾が主人からもらった銀は、いったんもらった以上、女の好きな菓子や着物につかおうと、里《さと》の父親にみつごうと、それは彼女の自由であった。女は嫁した夫の家を第一と心得るべきではあるが、自分のものは好きなようにつかう権利があるのだ。干渉すれば、けんかになる。彼は争う気持ちになれないから知らぬ顔をするよりほかはなかった。
そのうえ、地主の王がなやんでいたのは、自分の情欲をおさえきれないことであった。もう五十歳に近くなったから、これまでのように女遊びに銀をつかうまいと本気になってつとめてみたが、だめだった。生まれながらの弱点が、いまでも彼につきまとっていたのである。いったんこの女と思いこむと、けちだと見られたくないので、つい派手につかってしまうのだ。家にいるふたりの妻妾のほかに、彼は城内の別のところに、いつかの歌妓を当座の妾という約束でかこっていた。その女は美しいがヒルのように執念ぶかく、彼がすぐあきてしまって別れようとしても、世のなかで一ばん愛しているのはあなただとか、すてられれば自殺するなどと言っておどすので、いまだに手が切れなかった。胸にすがって泣かれたり、ふとった首に小さな指のつめを立ててぶらさがられたりすると、彼は、どうしていいか思案にあまってしまうのである。
おまけに、その女には老母がいた。それがまた欲の深い業《ごう》つくばりで、何かというと娘にとって代わって大きな声でがなり立てるのであった。
「いまさらどうするというんですかね。あたしの娘は何もかもおまえさんにささげたんですよ。おまえさんにかこわれてからというもの、芝居には出ないし、声も落ちたし、代わりの女が舞台に出ている今となっては、どうして暮らせるんですか。おまえさんが娘をすてるなら、あたしだって黙ってひっこんではいませんよ。県長さまに訴えてやります」
これには王地主もちぢみあがった。法廷でこの老婆から口ぎたなくののしられたり、悪口雑言をはかれたりしたら、町じゅうのいい笑いものになるだろう。それが彼にはこわかった。あわてて、あるだけの銀をあたえて、機嫌をとるのである。ふたりの女は彼がこわがるのを見てとったので、何かというと泣いたりわめいたりするようになった。そうすれば、彼があわてて銀をくれることがわかったからである。ふしぎなことに、こんなわずらわしい目にあいながら、このふとった気の弱い男は、欲情から自由になることができなかった。いまだに、どこかの宴会へ行って新しい歌妓を見ると、つい欲情に負けて多額の銀をやってしまうのである。そして家へ帰り、翌日、正気にもどってから、ばかなことをしたものだとくやんでみたり、われながら多情だと、われとわが身を呪ったりするのであった。
こうして憂うつな数週間のあいだ、彼はそれらのことを考えていたが、自分が何事にも興味をうしなっているのに気づいて、にわかに驚いた。食事も、いままでのように進まなかった。彼は食欲のおとろえたことを知ったとき、自分はまもなく死ぬのではないかと心配した。そして自分の苦労をすこしでも軽くしなければならないと思った。そこで大きな土地を売りはらって、その金で生活しようと決心した。自分のものを自分でつかうのだから、かまうことはない。息子たちに一生暮らせるだけのものが残らないとしても、息子は息子で、なんとかすればいいのだ、と彼はひそかに思った。
子孫のことを考えてつましくするのはつまらないことだ。急にそう思われてきた。彼は心をとりなおして立ちあがり、王二のところへ行った。
「わしは地主のようなめんどうな暮らしには向かない。わしは町の人間だ。遊んで暮らすように生まれついているのだ。こうふとって年をとってくると、やれ種まきだ、刈り入れだといって畑へ出て行くのは大儀でたまらん。こんなことしていると、暑さ寒さにあたって急にぽっくり死んでしまうかもしれない。それにわしは小作人のようないやしい人間たちといっしょに暮らしたことがないから、いくら骨をおっても、知らぬまにごまかされるのだ。それで、おまえに頼みたいのだが、わしの代理人になって、わしの土地を半分だけ売ってくれまいか。そして、わしの必要なときに金を渡してくれ。あとは人に貸して利子をかせいでもらいたい。わしはこの呪われた土地から解放されたいのだ。土地も半分だけは息子たちにゆずるために残しておこうと思うが、あの子たちは、ひとりとして土地の仕事を手伝ってくれない。たまに長男に、わしのかわりに畑へ行ってくれというと、やれ友だちと会う約束があるの、やれ頭痛がするのと、口実をもうけて逃げてしまう。こんな調子でいくと、わしの一家は、いまに餓死するだろう。土地でもうけるのは小作人ばかりだ」
王二は兄の顔をつくづくながめて、心のなかでさげすんだが、口では、ていねいな言葉をつかった。
「わたしは弟ですから、売ってあげても、手数料なんかいただきませんよ。一ばん高い値で売ってあげます。しかし最低価格だけは言っておいてくださいよ」
長兄のほうは、早くその土地にきりをつけてしまいたいので、急いで言った。
「おまえは、わしの弟だ。おまえが公正だと思う値段で売ってくれれば、それでいいよ。おまえのことだもの、信用しているさ」
長兄は上機嫌で帰って行った。これで重荷を半分にへらすことができる。そして、当分のあいだ気ままに生活ができて、ほしいときに銀がはいってくる、と思ったからである。けれども夫人には土地を手ばなす話はしなかった。話せば、人まかせにしたと言って騒ぎ立てるにきまっているからだ。売るのなら、なぜ自分で売らないのか、宴会でいっしょになった富豪とか友人として深いつきあいをしている金持ち連中のだれかに、自分で直接売るがいい、夫人はうるさくそう言うだろう。
彼は兄貴風を吹かせているものの、内心では弟のほうが自分よりかしこいと思って信用していたから、自分で売ることを望まなかった。弟にまかせてしまうと、彼の心は、ふたたびはればれとして、また以前のように食欲も出てきた。そして、ふたたび自分の人生が満足なものに思われてきた。自分よりも、もっと苦労している人がいるのだと思うと、彼は、いっそう元気になった。
王二のほうは、すべて自分の手にまかせられたものだから、以前にもまして満足な気持ちだった。兄の土地の一ばんよい部分は自分が買うことにした。彼は世間にありがちな不正直な人間ではなかったから、公正な代価を支払った。彼は一ばんよい土地は王家一門のものとして残しておきたいから、自分がすこし買っておいた、と兄には話した。しかし兄は、どれだけの土地が弟の手に渡ったのか知らなかった。王二は兄がすこし酔っているときに土地売却の書類に署名させたので、兄は買受人の名まえをよく見なかったのである。酔った機嫌で、弟がすぐれた人間に見え、すっかり信用してもさしつかえないように思えた。
おそらく彼も自分の土地の大部分が弟の手に渡ったのを知ったら、あまりいい気持ちはしなかったであろう。そこで弟は、小作人やその他ほしい人たちに売ったあまりよくない土地のほうを、せいぜい利用した。事実、弟は多くの土地を、そういうふうにして売ったのであった。しかし亡父の王龍は賢明な人だったので、いい土地ばかり買いこんでおいた。だから兄の土地の始末が終わったとき、次弟とその子孫の所有に帰したのは、亡父の遺産のうちでも、もっともいい、よりぬきの土地ばかりであった。彼は末弟の土地を処分するときにも、一ばんいい土地は自分で買いとった。彼はすべての土地からとれる穀物を自分一手で販売し、金銀のたくわえをふやす計画を立てていたのである。彼は城内やその地方での有力者となり、みんなから、「豪商の王さん」と呼ばれるようになっていた。
しかし、それを知っている人でなければ、だれもこの小柄な貧相な男が、そんな富豪であるとは夢にも思わなかったであろう。豪商と呼ばれるようになっても、相変わらず粗末な食物で満足していた。たいていの人間は金持ちになると、見栄《みえ》だけのためにせよ、妾を家に入れるものだが、彼はそんなこともしなかった。着物も、いままでと同じで、昔から着慣れた、じみな色の、こまかい柄の着物ばかり着ていた。
家のなかでも、新しい家具など買い入れはしなかった。中庭にも花のようなむだなものは何もなかった。以前に、すこしばかりあった草木も、いまでは枯れてしまった。彼の妻が、家計の節約に飼っている鶏のために荒らされてしまったのである。鶏は傍若無人に部屋のなかまではいってきて、子供たちのこぼす食物のかけらをひろったり、中庭をかけまわって、草や木の葉を片っぱしからついばんだりするので、庭には二、三本の老松が残っているだけで、むき出しの土が、こちこちに固まっていた。
豪商の王は、自分の子供たちにも、むだづかいをさせなかったし、のらくらに遊ばせてはおかなかった。それぞれの息子に計画を立ててやり、二、三年ずつは学校へやって読み書きそろばんを習わせた。しかし学者になるほど長くは学校へやっておかなかった。というのも、学者は労働をきらうからである。彼は息子たちを外へ見習い奉公に出し、商売をおぼえさせて、いずれは自分の仕事を手伝わせるつもりでいた。あばたの息子は弟にやってしまったものと考えていたので、次男を土地の管理人にしようと考えていた。あとの子供は十二歳になったら見習い奉公に出すつもりであった。
土の家では、梨華が、ふたりの「子供」といっしょに暮らしていた。彼女の生活は、くる日もくる日も同じであったが、彼女は、毎日が無事で過ぎてゆくこと以外には何も望んでいなかった。土地のことも、もう心配していなかった。死んだ主人の長男の姿こそ近ごろ見かけなくなったが、次男のほうが、とり入れ前になると穀物の出来ぐあいを見まわりにきたり、種まきのときは種子をはかりにきたりするのを、彼女は見ていた。それに、豪商の王は町の人間なのに、地主としては兄よりずっと敏腕だといううわさも耳にはいっていた。
彼は作物がまだ青いうちに、どのくらいの収穫があるかを見つもって、ほとんど狂いがなかった。彼の小さな細い目は、いつも鋭く光り、小作人が重量をごまかすために秤《はかり》をこっそり足でふんだり、米や小麦のかさをふやすために水をかけたりしても、たちまち見破ってしまった。彼は穀物問屋で長年働いているあいだに、田舎の農夫が町の商人をごまかすのにどんな手を用いるかを、すっかり心得てしまったのである。農民と商人は、もともとかたき同士だからである。しかし、農夫のごまかしをみつけたとき彼が怒ったのを見たことがあるかと梨華が農夫たちにきいてみると、彼の怒ったところは、だれも見たことがない、と言って、みんな不本意ながら感心していた。彼は何があっても顔色を変えなかった。落ちついているのだ。それでいて、だれよりもよく頭が働いた。その地方一帯で彼につけられたあだ名は「ころんでもただでは起きない男」というのだった。
そのあだ名には憎悪と非難がふくまれていた。この地方の農民はみな豪商の王を憎んでいた。だが彼は、すこしも気にかけなかった。自分のあだ名を知って、むしろよろこんでいた。あるとき農夫の女房が秤にかける穀物の籠《かご》のなかへ大きな丸い石を入れたことがあった。彼がうしろを向いているときにやったのであるが、みつかってしまった。女はくやしがって、そのあだ名をどなった。それで彼も自分のあだ名を知ったわけである。
農夫の女が彼をののしったのは一度や二度ではなかった。気の強い女のほうが、男よりも大胆なものである。男ならば、ごまかしを発見されると、むっつりしたり、うつむいたりしてしまうが、女となると、こんなふうにののしったり、わめいたりするのだ。
「おめえさんのとっつぁんもおっかあも、わしらとおんなじに畑でまっ黒になって働いて、ひもじい思いをしただのに、おめえさんはもう一代でそれを忘れてしまったのか。それを忘れて、わしらの血をすすり、骨までしゃぶるつもりなのか」
地主の王は、ときどき農民たちが反抗すると、おびえてしまった。ふだんは辛抱強く、卑屈な農民も、ひとたび憎悪にもえると、相手を八つ裂きにしかねないほど大胆で非情なまねをする。だから金持ちは貧乏人を恐れてしかるべきだと地主の王は思っていたのだ。しかし豪商の王は、何も恐れなかった。ある日、梨華が彼の通るのを呼びとめて、こんなことを言ったが、それでも彼は意に介しなかった。
「あなたがもうすこし小作人たちを大目にみてやってくださると、わたしもうれしいのですが――あの人たちは、あんなに働いても、貧乏で、ときには子供みたいにわからずやなのです。わたしの主人の息子さんであるあなたのことを、あの人たちがひどく言うのを聞くのはつらいですわ」
彼はただ微笑して通り過ぎた。十分にもうけがあるかぎり、彼らがなんと言おうと、何をしようと、彼は平気だった。彼には力があり、何もこわいものがなかった。自分の富に自信を持っていたからである。
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十六
王虎《ワンホウ》が占拠したこの地方の冬は、長くて寒さがきびしかった。身を切るような風が吹きすさび吹雪が荒れ狂っているようなときには、王虎は県公署の公邸にひきこもって、ひたすら春のくるのを待つよりほかなかった。しかし彼はそのあいだにも着々と勢力をかため、八千人の部下を維持してゆくために県長にいろいろな税を取り立てさせた。
なかには彼のためにすべての土地に課する「政府軍による護民税」というものさえあった。政府軍といっても、事実上は王虎の私兵である。王虎はこの兵士たちを訓練し、ひとたび風雲が動けば、いつでも自分の勢力を拡張することができるようにしておいた。この地方一帯の農民は、それぞれその所有する土地の広さに応じて、王虎のために税を払わなければならなかった。しかし匪賊は掃蕩《そうとう》され、山塞《さんさい》は焼きはらわれて、もはや豹《バアオ》将軍を恐れる必要はなくなったので、民衆はこぞって王虎をほめたたえ、十分に税を払うつもりであった。だが、彼らは、どのくらいで十分であるかは、まだ知らなかった。
このほかにも、王虎は自分のために県長に税を徴収させた。あらたに店舗税、市場税を課した。またこの町は南北の交通の要路にあたるので、そこを通る旅人には通行税を課した。商人が販売もしくは物々交換の目的で運搬する商品にも税を課した。こうして王虎のふところには、多額の金銀が、たえず人目につかぬすじみちから流れこんできた。彼は聡明《そうめい》だから、税金が自分の手もとにはいってくるまでに、あまり多くの人手をへないように心がけた。自分が扱っただけの銀をそっくりそのまま通過させるような人間はすくないことを彼は知っていたからである。彼は自分の腹心を徴税の監視にあたらせ、ものやわらかに人に接するように命じると同時に、不正な収税吏を厳罰に処することのできる権限をあたえた。そして腹心にたいしては、もし不正があれば、自分が直接処罰すると申し渡した。人々は彼の容赦しない性格を知って恐れていたから、彼は、ほとんど裏切られる心配がなかった。また、部下は王虎が公正な人間であることも知っていた。彼らは王虎が、むやみになぐさみ半分で人を殺す人間でないことを知っていた。
こうした成功にもかかわらず、王虎は冬の去るのを待っているあいだ、焦燥にかられていた。県公署のこんな生活が彼には合わないのである。友だちもできなかった。彼は人々から恐れられているかぎり、自分の地位を保つのは容易であることを知っていたので、だれとも親しく交わろうとしなかった。彼はまた生まれつき宴会や友だちづきあいのきらいなたちであった。身辺の用事をさせるために、いつもそばにおいているあばたの少年と、衛兵長であるみつ口のほかは、だれも近づけず、ひとりで暮らしていた。
県長はもう老齢であるうえに阿片に耽溺《たんでき》しているので、政務はとどこおり、県公署内は派閥争いや嫉妬で充満していた。何もせずにのらくらと安易な生活を送っている吏員やその同類が、公署にむらがっていた。そういう連中が、たがいに反目したり、仕返しをしたり、けんかのたえまがなかった。そういうことを老県長の耳に入れても、彼は阿片を吸って、ほかのことばかり考えていた。自分には何も解決できないことを知っているからである。彼は奥の建物に老妻とふたりきりで住んでいて、よくよくのことでないかぎり出てこなかった。しかし、それでも政務だけは果たそうと努力していた。訴訟を聞く日になると、朝早くから官服をつけて政庁にあらわれ、壇上の席について事務を裁いた。
彼は根が善良で親切な人間なので、できないながらも最善をつくしていた。自分では、訴えにくる人々に公正な裁判をしているつもりであった。しかし彼は、自分の前に訴えに出てくるには、門番に相当のわいろを使わなければ、どの門も通してもらえないので、銀のないものは、この政庁までくることさえできないし、県長の前にならんでいる陪席判事たちでさえ、それぞれ分け前を受けとっているなど、夢にも知らなかった。
老県長は自分が陪席判事の言いなりになっているくせに、それさえ気がつかないでいた。もうろくしているので、すぐ頭が混乱し、訴訟の要点をつかめないことがしばしばあったが、それでも、恥ずかしいから、わからないとは言えなかった。また弁論が一時間もつづくと居眠りをして聞きそこねることもあったが、無能だと思われるのが心配で聞きなおすこともしなかった。だから、いつも自分をおだててくれる陪席判事たちの意見にしたがわないわけにはいかないのである。判事たちが「あの男が悪い。この男のほうが正当です」と言うと、老県長は、あわてて同意し、「わしもそう思うておった。そう思うておったのじゃ」と言うし、また判事たちが、「あの男は法律に違反したから笞刑《ちけい》にすべきだ」と言えば、「そうじゃ。笞刑に処することにしよう」と声をふるわせて言うのであった。
冬のあいだの、ひまで退屈な日に、王虎は、ときどき政庁へ行って裁判を傍聴しながら時間をつぶした。あばたとみつ口を身辺の護衛に立たせておいて、一隅《いちぐう》に腰をおろし、裁判を聞いているうちに、彼は、そういうすべての不正を見てとった。はじめのうちは、そんな問題には自分は容喙《ようかい》すべきではない、自分は軍人なのだから内政のことにはかかわりあうまい、と自分に言い聞かせていた。自分は部下が公署のなかのだらしのない怠惰なふうに染まぬように注意していればいいのだ、と思っていた。政庁で不正をまのあたりに見て腹が立ったときには、彼は外へ出て行って、どんなに風が吹いていようと、部下に強行軍をさせたり、戦闘訓練をさせたりして、胸中の怒りを発散させた。
しかし彼は正義感の強い人間だった。何度もくりかえし不正が行われるのを見ているうちに、耐えられなくなってきた。老県長の判決を左右する判事たちにたいし、ことに首席判事にたいして、いきどおりをおぼえた。しかし彼は弱い老県長に何を言ってもききめがないことを知っていた。それでも、裁判を傍聴していて不正が百回もくりかえされるのを見ると、席にいたたまれなくなり、立ちあがって大股に外へ出て行った。そして何度も心のなかでつぶやいた。
(早く春がきてくれぬと、不本意ながら、おれは人を殺すことになるだろう)
判事たちも王虎を好いていなかった。第一、彼が多額収入を得ているのが気にくわなかった。また彼らは、学問や教養の点で一段と劣る粗野な人間として彼のことをばかにしていた。
王虎の怒りは、ある日、とつぜん彼自身も予期しなかったようなかたちで爆発した。大暴風雨が、ほんのすこしばかりの風と雲から生じることがあるように、この事件も、ほんのささいなことからはじまった。
新年も間近なある日のことだった。暮れのこととて、借金取りは、貸した金を取り立てに歩いていた。借りたほうは、正月になれば債鬼もこないのが習慣だから、なんとかして、みつけられないようにかくれまわっていた。その日は今年の最後の訴訟だというので、老県長が壇上に着席していた。王虎は、たまたま退屈のあまり、むしゃくしゃしていた。部下の兵士たちに見られるといけないからバクチもやらなかった。小説や物語は幻想や色恋|沙汰《ざた》ばかりで人間を軟弱にするから、あまり読む気もしなかった。そうかといって、学者ではないから、聖賢の書をひもとくほどの考えもなかった。もんもんとして夜も眠れないので、朝起きると、すぐさま護衛を連れて政庁に行き、きょうは、どんな訴訟があるかと待っていた。しかし彼の心は鬱々《うつうつ》として、春の到来を待ちかねていた。ことにこの十日ばかり、寒さがきびしく、ひっきりなしに大雨が降りつづき、部下も兵営の外に出ることをいやがったので、彼の憂うつは、いっそうつのっていた。
彼は政庁で待っているうちに、自分の生活ほどわびしいものはないと思った。死のうが生きようが、心にかけてくれるものは、ひとりもいないのだ。そんなことを思いながら、沈んだ気持ちで、いつもの席についていた。まもなく、以前見たことがあって顔をおぼえているひとりの金持ちがはいってきた。この町の高利貸で、つるりとした顔の、ふとった男であるが、小さな、なめらかな黄いろい手をしていて、しゃべりながら絹の袖《そで》をまくりあげては、いやらしく手をふりまわした。王虎は、その男が手をふりまわすのを何度も見た。そして、それが小さくてやわらかそうな、肉づきのいい手で、指先がとがっていて長いつめがはえているのを知っていた。王虎はその男の言葉を聞いていないときでも、その手からは目がはなせなかった。
その日、高利貸は貧しい百姓をひっぱってきた。こわがっておびえている百姓は、慈悲を乞《こ》うために、老県長の前に身を投げて、土間に顔をすりつけ、ものも言わずに平伏していた。高利貸は言い分を述べはじめた。土地を|かた《ヽヽ》に、この百姓に金を貸したというのである。二年前のことである。いまでは貸した金の元利を合わせると、土地の価格より上まわってしまったという。
「それにもかかわらず」と、高利貸は絹の袖をまくりあげ、なめらかな手をふりまわした。ねちねちした声を一段とはりあげ、非難をこめた調子で言うのであった。「県長閣下、こいつは、いまだにその土地から立ち退《の》かないのです」そして小さな目をぐるぐるさせて百姓をにらみつけた。百姓は何も言わなかった。顔を伏せたまま、ひざまずいて両手をついていた。ついに老県長がきいた。
「なぜ金を借りておいて払わないのか」そこで百姓は、ようやくすこし顔をあげ、県長の足台に目を注ぎ、ひざまずいたまま、おそるおそる言った。
「県長さま、わしはいやしい貧乏人でごぜえまして、あなたさまのようなお方の前で口をきいたことがごぜえませぬ。わしは村の村長さんより上の人には口をきいたことがねえだで、どんなものの言いかたをしてよいやらわかりましねえだが、貧乏だもんで、だれも代言をしてくれるものがいねえですだ」
老県長は、やさしく口をはさんだ。「心配することはない。遠慮せずに話すがよい」
百姓は、一、二度、口をあけてから、やっと話しはじめた。それでもまだ目をあげなかった。やせたからだが、綿のはみ出たぼろぼろの着物のなかでふるえていた。この寒いのに素足に葦《あし》で編んだ靴をつっかけていた。それがぬげて、堅い豆だらけの足指が、冷たい床石に、じかについていた。しかし、それにも気がついていないらしい。農夫は弱々しい声で話しはじめた。
「県長さま、わしには先祖代々のちっとばかりの土地がありますだ。やせ地で、わしらみなが食って行くにゃ足らねえほどの土地ですだ。それでも両親が早く死にまして、わしと家内のふたりだけのあいだは、食べられねえでも、それですみましただが、男の子が生まれ、それからあと女の子が生まれましただ。まだそいつらの小さいうちは、なんとかやってましただが、息子が大きくなって嫁をもらうと孫が生まれましただ。考えてみてくだされ。土地はわしら夫婦だけでも足りなかっただに、息子夫婦と孫のほかに娘も養わにゃなりましねえだ。娘はまだ年がいかず嫁にやるわけにもいかねえので、なんとか養ってきましただ。
二年前でごぜえましたが、近くの村で女房をなくした年寄りが嫁にほしいと言いますで、娘をやることにしましただが、嫁入りの衣装を買ってやることができましねえ。それで銀を十元だけ借りましただ。世間の人から見れば、はした金でしょうが、わしには大金でごぜえます。それを、この人から借りたのですが、一年もしねえうちに、十元が、ひとりでに二十元になりましただ。十元だけしかつかわねえのに。二年たつと、これが四十元になりましただ。死んだ銀が、どうしてそんなにふえるのでがしょうか。わしには土地しかありましねえ。金貸しの旦那は出て行けと言わっしゃるけれど、これからどこへ行けますだ。そんなら、追い出してくれと言うほかはねえだ。ほかに言うことはねえですだよ」
百姓は、やっとそれだけ言ってしまうと、また黙りこんだ。王虎は、じっと農夫をみつめていた。ふしぎなことに農夫の足に目がとまり、そこから目をそらすことができなかった。農夫の顔は、やつれて青黒く、生まれてから腹いっぱい食ったこともない悲惨な生活を物語っていた。しかし、それにもまして彼の足は多くのことを語っていた。節くれだったコブのある足指、乾いて水牛の皮のようになっている足の裏は、何よりも雄弁に彼の生活を物語っていたのである。王虎は胸にこみあげてくるものを感じた。しかし彼は老県長がなんと言うだろうかと待っていた。
ところでこの高利貸は、城内でも有力者のひとりで、幾度も県長を宴会に招待していた。裁判も何度かしたことがあって、そのたびに上のものにも下のものにも袖の下をつかっていたから、公署中のものに受けがよかった。老県長は農夫の言うことにすこし心を動かされたらしいが、ためらっていた。彼は首席判事に向かってきいた。
「あんたのご意見は、どうじゃな」
首席判事は、県長に近い年齢だったが、年のわりに頑丈で、まっすぐなからだつきをしていた。顔はなめらかで、まだきれいだったが、両|頬《ほお》と、あごの三か所にはえているあごひげは薄くて白かった。この男は白いあごひげをなでながら、いかにも正しい裁決をくだそうとしているかのように、ゆっくりと口を開いた。しかし彼の掌《てのひら》には、まだ銀のぬくもりが残っていたのである。
「この農夫が金を借りておいて、返済しなかったことは、はっきりしています。借りた金に利子がつくことは、法律も認めていますから、反駁の余地はありません。農夫が土地で生活すると同じように金貸しは貸した金の利子で生活しているのです。農夫が土地を貸して地代をもらえなかったら訴えて出るでしょう。金貸しはそれと同じことをしただけです。金を貸したのですから、返済を受けるのが当然だと思います」
老県長は、ときどきうなずきながら、熱心に耳を傾けていた。彼はこの言葉にも動かされたらしい。すると、とつぜん農夫は、はじめて目をあげて、なみいる人々の顔を茫然《ぼうぜん》とながめまわした。王虎は農夫の顔つきも目つきも見なかった。彼はただ二つの裸の足が苦痛のあまり重なりあって動いているのを見た。とつぜん彼は、がまんができなくなった。無量の怒りが、ほとばしり出た。王虎は立ちあがって両手を強く打ち、割れるような声でどなりつけた。
「貧乏人から土地を奪うべきではない」
このどなり声を聞いて、政庁のなかに集まっていた人々は、いっせいに彼のほうをふり向いた。王虎の腹心が即座にとんできて彼の周囲を守り、銃を構えて立った。その猛烈な勢いに、だれも尻ごみして黙ってしまった。怒りがひとたび爆発した以上、もうおさえることができなかった。彼は高利貸を指さしながら、大声でどなった。彼の指は空間を突き刺すように鋭く、黒い眉《まゆ》が上下にぴくぴく動いた。
「このふとった毒虫が、これと同じような話でここへきているのを、おれは何度も見た。こいつは上のものから下のものにまでわいろをつかって、勝手なことをしているのだ。顔を見るのもいやだ。殺してしまえ」そして護衛のほうをかえりみて叫んだ、「銃剣で突き殺してしまえ」
この叫びを聞くと、人々は王虎が急に発狂したのではないかと思って命からがら逃げ出した。なかでも一ばん早かったのは高利貸である。彼は、だれよりも早く門まで行きつき、猫のつめをのがれたネズミのように、あやうく門外にとび出した。彼は足が早いうえに、曲がりくねった路地を知りぬいていたので、王虎の腹心たちが追いかけたが、たちまち見失ってしまい、いくら探してもみつからなかった。よほど遠くまで追っかけたあとで、彼らは立ちどまって茫然と顔を見あわせ、しばらくは息ぎれを休めるばかりだった。それからまたすこし探してみてから、腹心たちはあきらめて、町じゅうにまきおこった騒ぎのなかを帰って行った。
県公署へもどってみると、なかは、たいへんな騒ぎである。やりはじめたからには、大胆に徹底的にやる王虎は、部下を集めて命令した。
「この公署のなかから、みんな追い出してしまえ。呪うべき寄生虫どもはもちろん、そいつらのけがらわしい妻子もみんな追い出すのだ」
部下は熱心に命令を遂行した。人々は火のついた家からネズミが逃げ出すように、みんな逃げ出した。一時間もたたないうちに、公署内に残ったのは王虎とその部下と、奥の建物にひきこもっている老県長夫妻と二、三人の召使だけになった。老県長のところは手をつけないでおくようにと王虎が命じたからである。
これだけのことをやってのけると――王虎は、かんしゃく持ちではあるが、こんなに怒りを爆発させたことは、いままでになかった――彼は自室に帰り、テーブルによりかかって、しばらくは重い息づかいをしていた。それから自分で茶をくんで、ゆっくりと飲んだ。
しばらくするうちに、これだけのことをした以上、なんとしてもやりとおさなければならぬと思った。しかし考えれば考えるほど後悔の思いはなかった。憂うつも煩悶《はんもん》も、けし飛んでしまったのを感じた。彼は気も軽々となり、勇気がわき出て奔放なよろこびに満ちあふれた。やがて、みつ口が何か用はないかと、そっとようすをうかがいにきた。あばたもまた、王虎のために酒瓶《さかびん》を持ってはいってきた。そのとき彼は、ふたりに向かって事もなげに笑いながら言った。
「とうとうおれは毒蛇《どくじゃ》の巣を掃除したぞ」
公署のなかのこの粛正のうわさが城内に伝わると、すべての人々が公署の腐敗ぶりを知っていただけに大よろこびだった。なかには王虎がこんどは何をするだろうかと恐れるものもあったが、多くの人々が公署の門前まで押しかけてきて、みな口々に、お祝いをしろとか、囚人を釈放しろなどと叫んで、歓声をあげた。この騒ぎで一ばん得をしたのは、あの貧しい農夫だったが、群衆のなかには、その姿は見あたらなかった。彼は今度の難儀は助かったものの、幸運が自分のほうに向いてこようとは思えなかったので、高利貸が逃げおおせたと聞くと、がっかりして自分の土地へ逃げもどった。彼は家に帰ると寝台のなかにもぐりこんだ。そして、だれかがきて、どこにいるかとたずねても、妻や息子に、どこへ行ったかわからない、と答えさせた。
王虎は群集の要求を聞いたとき、牢獄のなかに十数人の人間が無実の罪で投獄されているのを思い出した。彼らは貧しくて保釈金もつめないので、出獄の望みもないありさまだった。そこで王虎は、こころよく民衆の願いを聞き入れて、腹心のものに囚人を釈放することを命じた。また部下に命じて、三日間の祝宴を民衆に約束してやり、県公署の料理人を呼び集めて大きな声で命じた。
「おまえたちの故郷の一ばんうまい料理をつくれ。酒の肴《さかな》になるような、うんとコショウのきいた料理や魚の料理もつくるのだ。みんながよろこぶものは、なんでもつくってやれ」
彼は上等の酒を用意させた。花火や爆竹やそのほか民衆のよろこびそうなものを用意した。だれもが大よろこびだった。
腹心のものが牢獄の囚人を釈放する命令を実行しに行く前に、王虎は、ふとあることを思い出した。それは牢獄に入れておいたあの女のことだった。この冬のあいだ、彼女を釈放してやろうと思ったことが、いくたびもあった。しかし彼は女をどう処置してよいかわからぬままに、ただ食物を十分にあたえよ、ほかの囚人のように鎖につなぐな、と命じただけであった。いま囚人を釈放することを考えたとき、ふと女のことを思い出し、どういうふうにして自由の身にしてやろうかと自問した。
王虎は女を自由にしてやりたい気持ちと同時に、どこかへ行ってしまうほど自由にしてやりたくない気持ちがあった。女の去就に関心を持っている自分の心を知って、われながら驚いた。自分の心に驚いたのである。思案にあまった彼は、ひそかにみつ口を寝室に呼んだ。
「山塞《さんさい》から連れてきたあの女を、どうしたものだろうな?」
みつ口は、まじめくさって答えた。
「そうそう、あの女がいましたね。豚殺しに命じて、のどくびに短剣を突き刺し、あまり血の出ないようにして殺させたらいいと思います」
しかし王虎は顔をそむけて、ゆっくり言った。
「たかが女のことだからな」そして、しばらくしてから、また言った。「とにかく、もう一度あの女に会ってみよう。そうすれば、どうしたらよいかわかるだろう」
みつ口は、ひどくがっかりしたようすで何も言わずに出て行った。王虎はそのうしろから、みつ口に声をかけた。「政庁に行って待っているから、すぐに女を連れてこい」
政庁にあらわれた王虎は、一種ふしぎな虚栄心にかられ、壇上にのぼって老県長の席についた。ほかの席よりも一段高くて彫刻の飾りのついたその椅子にすわっている自分の姿を、女に見せたい気持ちがあったのだ。だれも、それを制するものはいなかった。老県長は下痢のため出てこられないという伝言をよこして、部屋にひきこもっていた。王虎はその椅子に傲然《ごうぜん》とそりかえって腰をおろし、いかにも英雄らしい泰然自若たる顔をした。
やっと女は、ふたりの看守にはさまれて連れられてきた。木綿の無地の上着に、普通の紺色のズボンをはいている。しかし彼女が変わったのは服装のせいではなかった。栄養がよかったと見え、骨ばっていたところがなくなり、すんなりとしているが、肉づきがよくなっていた。顔は、けんがあって可憐《かれん》とはいえないが、きりりとして美しい。彼女は、しっかりした足どりで悪びれずにはいってきて、王虎の前に立ち、静かに待っていた。
王虎は、このような変化を予想もしていなかったので、ひどく驚いて女をながめ、看守に向かって言った。
「この前は、あんなに気ちがいじみていたのに、どうしてこんなにおとなしくなったのだ」
彼らは頭を振って肩をすくめた。
「どうもわかりません。この前隊長のところから連れて行ったとき、悪霊が抜けたのでしょうか。急にしおれておとなしくなりました。それ以来ずっとこんなふうなのです」
「なぜそれをわしに報告しなかったのか」と王虎は低い声で言った。「釈放してやったのに」
看守は驚いて言いわけがましく言った。「将軍がこの女のことを気にかけていらっしゃるなんて、どうしてわたしどもに考えられましょう。わたしどもはあなたさまのご命令を待っていたのです」
(おれは気にかけていたのだ)という言葉が、もうすこしで王虎の口から出るところだった。だが看守たちやこの女の前で、どうしてそんなことが言えよう! 彼は、やっと自分をおさえた。
「縄をといてやれ」とつぜん彼は叫んだ。
黙って看守は縄をといた。女は自由になった。女がどうするかと一同は身構えていた。王虎も待っていた。女は、まだしばられているかのように、身じろぎもせずに立っていた。王虎は女に向かって声を鋭くした。
「おまえは自由の身だ。どこへなりと行くがいい」
しかし女は答えた。
「どこへ行けましょう。帰る家などない身の上です」
そう言って女は頭をあげた。急に女は、しおらしい顔つきになって王虎を見た。
それを見たとき、王虎のうちで長年せきとめられていた感情の泉が、せきをきってあふれ出した。熱情がほとばしり出て血のなかをかけめぐった。彼は軍服のしたで、からだをふるわせた。今度は、彼のほうがさきに目を伏せることになった。そうなると女のほうが彼より強かった。長い年月のあいだせきとめられていた情熱があふれ出て政庁の広間にみなぎった。部下たちは不安そうにからだを動かし、たがいに顔を見合わせた。とつぜん王虎は彼らがそこにいることを意識して、どなりつけた。
「出て行け。みんな出て行け。戸の外へ立っていろ」
一同は驚きあきれて室外へ出て行った。身分の高い男であれ、低い男であれ、同じように起こる心の変化が、いま隊長の心にも起きたのを、彼らは、はっきりと見てとった。彼らは室外へ出て敷居|際《ぎわ》で待っていた。
室内に女とふたりきり残されたとき、王虎は天蓋《てんがい》つきの椅子から身をのり出して、かたい、しわがれた声で言った。
「女よ、おまえは自由の身だ。行きたいところを言え。部下に送らせるぞ」
女は、例の不敵な態度をすっかりすてて、単純に、しおらしげに、しかも彼の目をじっとみつめながら言った。
「わたしの心はすでにきまっています。わたしはあなたの奴隷になります」
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十七
もし王虎《ワンホウ》が粗野ないやしい男で、法律や礼法についての観念がなければ、父も母も保護者もないその女を即座に自分のものにし、思うままに扱ったことであろう。しかし、彼の心に打撃をあたえたあの青年時代の出来事ゆえに、彼にはまだ男女関係にたいする気むずかしいまでの潔癖さが残っていた。女を正式な妻としよう。それまでは、欲情をおさえて待っているほうが、楽しみも大きい。さらにまた彼には、女自身にたいする愛情に入りまじって、彼女によって自分の子供を、長男を持ちたいという願いがあった。正式の妻のみが嫡出の長男をもうけうるのだ、だから彼女を正式の妻にしたいと望んだ。
人知れず彼女を想《おも》う王虎の情熱の半分は、この息子を持ちたいという願望であった。強い力、背の高い大きな体躯《たいく》、天賦《てんぷ》の資質を持つ自分と、狐のような美しさと、恐れを知らぬ精神とを持ったこの女とのあいだに、どのような息子をもうけることができるかという思いが半分だったのである。王虎はそのことを想像すると、まるでもう息子がすでに生まれているかのようにさえ思えてきた。
彼は、急いでみつ口を呼んで命令した。
「兄貴のところへ行って、おれの結婚資金として残してある銀がほしいと言ってくれ。おれは、この女と結婚することにきめたから、即刻、銀が必要なのだ。女に贈り物もやらねばならぬし、部下のために大宴会をはり、おれも結婚式には新しい服を用意せねばならぬ。だから、銀を千元よこすように言ってくれ。もし八百元しかくれなければ、それでもよい。残りの二百元を出させるために手間どったりせずに、すぐもどってこい。兄たちにも、婚礼に列席してくれるよう、まただれでも好きな人を連れてきてもよいと伝えてくれ」
みつ口はこれを聞いて、びっくりした。下あごを、みにくく下げて、ひどく苦しみながら、どもりどもり言った。
「ああ、将軍――隊長どの――あの狐とですか――あの女を相手になさるのは、一日だけか、ほんの一時のあいだだけになされたらいかがで。結婚なんて――とんでもない――」
「黙れ、バカもの!」王虎は椅子から立ちあがって、みつ口にとびかからんばかりに、どなりつけた。
「おまえの意見なぞきいてはおらん。命令にしたがわねば、いやしい罪人のように笞刑《ちけい》に処するぞ」
みつ口は頭を垂れて、黙ってしまった。目に涙がたまっていた。あの女は、ご主人に凶事だけしかもたらさないと感じていたから、気の進まぬ重々しい足どりで、それでも使命を果たすべく出発した。
道を歩きながら、彼は何度もつぶやいた。
(おれはあんな狐みたいな女を幾人も見たことがある。あんな女にかかわりあうと悪いことが起きるといって忠告しても、将軍は信じようとされない。ああいう狐女は、きまって一ばんりっぱなよい男にとりつくものだ。いつもそうだ)
乾燥しきった冬の、日ごとに厚くつもったほこりを、歩くたびにかき立てながら、彼は夢中でつぶやいたり、思わず知らず頬を涙でぬらしたりしながら、進んで行った。道ゆく人々が、奇妙な顔をして、いぶかしげに彼をみつめても、ぜんぜん気にもとめず、自分の思いにばかりひたっていた。だから人々は彼を気ちがいだと思って、道をよけて、なるたけ道の端のほうを通り抜けるようにした。
みつ口が豪商の王の家に着くと、不在だという。そこで穀物店へまわってみると、王二《ワンアル》は帳場のうしろの一隅にすえた机に向かって帳づけをしている最中だった。みつ口が王虎の伝言を伝えると、この次兄は、すっかり驚いて、平常の冷静さをうしない、ペンを手に持ったまま、顔をあげて当惑げに言った。
「現金はみな貸し出してあるので、そんなに急には取り立てることはできないよ。弟も婚約したら、まず第一番に知らせてくれればよいのに。すくなくとも一年か二年前に知らせてこなければだめだ。そんなに急なことを言ったって困るよ。それに、結婚をそんなに急ぐのは、あまり品がよくないと思うがね」
王虎は、この次兄の性格をよく知っていた。次兄が金を手ばなすのをいやがるだろうと見越していたので、みつ口の出発前に、よく言いふくめておいたのである。
「もし兄貴が、ぐずぐず言うようだったら、どうしても銀が必要なのだから、おれが自分で取りにきてでももらって行く、と言って強要しろ。おれは、おまえがもどってきてから三日以内に結婚式をあげる。おまえは、いまから五日以内にもどってこい。急ぐ必要があるのだ。いつ上の省政府から追討軍がくるかわからん。省長が、この公署でおれのやったことを知ったら、黙って見のがすはずはない。かならず、おれを討伐するために軍隊を派遣するだろう。粛正のことが省政府に知れぬはずはないからな。討伐軍がくれば戦う。戦争になれば宴会も結婚式もないじゃないか」
たしかに、王虎が暴力で行なった粛正にたいしては、省政府の裁きを予期せねばならなかった。また彼が罰せられるかもしれぬということも事実だった。だが、彼がこんなにも急ぐもっと深い真の理由は、この女を渇望《かつぼう》するあまり、やむをえぬ日数以上は待ちきれなかったことである。女を無事に自分のものにしてしまわないと心を安んじて戦うこともできず、武人としての価値を発揮することができないことを知っていたのだ。だから彼は、みつ口をせき立てて、はげしく強く命令しておいたのである。
「あの商人の兄は、きっと、銀はみな人に融通してあるから、すぐには間に合わんとほざくだろう。おまえは兄の言うことなんぞ、きく必要はない。ただ、王虎はまだ、豹将軍を殺したときにやつから奪いとった名剣を持っている。鋭利このうえもなく、たちまち人をあやめる剣だと言ってやれ」
みつ口はこの恐喝《きょうかつ》を最後の手段としてとっておいて、はじめのうちは用いなかった。しかし次兄が、またもう一つ別の理由、つまり、そんな家も家族もないような女は娼婦にちがいない、そんな女と正式に結婚して家へ入れては家門の恥だという理由から、結婚費用を出ししぶったので、とうとうそのおどしを使うことにした。みつ口は、その女は匪賊の山塞《さんさい》にいた女だということは、心の底では言いたかったのだが言わなかった。なんらかの方法で、その女と王虎が結婚するのを中止させたい誘惑にかられ、兄たちに助力を頼もうかとも思ったが、王虎が自分の思い立ったことは、なんでもやりとげる性質であるのを知りぬいているので、その誘惑をおさえて、おどしを使うことにしたのである。
これを聞くと次兄は、あちこちとびまわって、貸し出してある銀を、できるだけ集めにかからねばならなかった。融通してある銀を、そんなに急に引きあげるとなると、利息が損になるので、残念でたまらなかった。だから彼は、陰うつな面持ちで長兄のところへ行って言った。
「末弟が結婚費用をすぐほしいと言うのです。わたしたちが聞いたこともないような、娼婦だかなんだかわからぬ女と結婚するのだそうです。あの弟も、わたしよりは兄さんに似ているようですね」
長兄は、そう言われて頭をかき、何か言いかえしてやろうと言葉を考えていたが、けんかをするのはやめにして、おだやかな調子で言った。
「おかしいね。結婚の世話をするべきおやじは死んでこの世にいないのだから、弟が結婚して身をかためる必要を感じたら、まずおれたちのところへ婚約やなんかのことを頼みにくるものとばかり思っていたがね。ひとり、ふたり、わしは候補者も考えておったのだ」
彼は心のなかで女をよく知っていると自負していたし、城内でも指折りの令嬢たちを、すくなくともうわさでは知っていたので、だれよりもよい嫁を選んでやれたのにと、それが残念だったのだ。
次兄は利子を損しなければならぬ危急の場合だと考えていらいらしていたので、長兄ののんきな話をせせら笑った。
「たしかに兄さんのことだから、ひとりやふたりの女のことは、いつも心に考えていたことでしょうよ。しかし、そんなことは、わたしにとっては問題ではない。問題は、弟の要求してきている銀千元のうち、兄さんがどのくらい出せるかということです。こんなにいきなり言われたのでは、わたしの財布からは、とてもそんな大金は出せませんからね」
長兄はこの言葉を聞くと、暗い表情をうかべて弟をながめた。それから、ふとった膝《ひざ》の上においた手をみつめながら、しわがれた声で言った。
「わしの財布は、おまえが知っているはずだ。わしには現金は何もない。わしの土地をまた売ってくれ」
商人の王二は、すこし嘆息した。ちょうど正月前で、土地を売るにはよい時期ではないし、それに、いま畑に植わっている小麦の収穫を見こんでいたからである。しかし店へ帰って、そろばんをはじき、損得を計算してみると、高利で貸しつけてあるところから銀を引きあげるよりも、土地を売ったほうが得だということがわかった。そこで彼は土地を売ることにした。よい土地を売ると広告すると、買い手はいくらでも集まった。千元あまりに売れた。みつ口には九百元だけ渡し、王虎がまた要求してくるときの用心に残りは手もとへとっておくことにした。
みつ口は単純な男だから、主人の王虎から、百元やそこらのために手間どってはならぬと言われたことを思い出し、渡されただけのものを持って帰って行った。王商人は、残りの銀を、急いで高利で回し、とにかくこれだけでもたくわえることができたと考えて気持ちをなぐさめた。
この土地売却の取引きにあたって、一つだけわずらわしいことがあった。というのは、土の家からあまり遠くないところの土地を、一つ二つ売ってしまったからである。たまたま売買のために畑に人が集まっているとき、梨華《リホワ》が家の前の打穀場へ出てきた。そして、人が集まっているのに気がついて、手を額にかざして見ると、まばゆい日光を通して、土地を売っているらしいようすがうかがわれた。彼女は、急いで王商人のところへ行き、彼をわきへ呼んで、非難をこめた目で言った。
「また土地を売るのですか」
王商人は、ほかにたくさんめんどうな用事があるので、梨華などにわずらわされたくなかった。だから彼は不愛想に答えた。
「弟が結婚するのでね。土地を売らなければ結婚費用が出ないのですよ」
すると梨華は、ふしぎにも、急にしょんぼりとして黙ってしまった。彼女は家に向かって、ゆっくりと足を運んだ。その日以後、彼女は、いっそう生活をせばめて行った。ふたりの子供――白痴とせむしのことを、いつも子供と呼んでいたのである――その子供たちの世話する時間のほかは、訪《たず》ねてくる尼さんの話を熱心に聞き、これからは毎日きてくれるようにと頼んだ。朝、尼さんを見ると不吉だといわれていて、昼前に道で尼さんに出あったりすると縁起が悪いといって唾を吐きかけるならわしになっているのだが、梨華は平気で、朝であろうと、いつでも尼さんたちを歓迎した。
彼女は、一生肉食をしないことを誓った。これは彼女にとっては、むずかしいことではなかった。生きているものを殺して食べる肉を彼女はけっして好きではなかったからである。蛾《が》が夏の夜、灯《ひ》をめがけてとびこんできて、ローソクの炎でやけ死ぬのを見ても、かわいそうだといって、蛾の生命を助けるために窓格子《まどごうし》を閉めるほどなのだ。彼女が、もっとも熱心に祈ったのは、白痴が自分が死んだあとまで生き残ってくれないように、ということであった。自分がめんどうをみてやれるうちに死んでくれるのが望ましかった。そうすれば、梨華が死ぬとき白痴を残していくのはかわいそうだから殺してくれと王龍《ワンルン》から頼まれている、あの白い毒薬を使わなくてもすむわけである。
彼女は尼たちから教えを聞き、夜はおそくまでお経をあげていた。いつも手首に香木でつくった小さな数珠《じゅず》をかけていた。これが梨華の生活のすべてであった。
みつ口が帰って行ったあと、商人の王二と地主の王一は、弟の結婚式に出席すべきかどうかを相談した。弟の成功のようすを見たいとも思うが、みつ口が省政府から討伐軍がくるかもしれぬから急がねばならぬと強調していたことも気にかかった。彼らは、王虎がどれほど強いのかもわからないので、もし王虎が戦いに敗れて重罪に処せられるようなことにでもなれば、実兄である自分たちも、巻きぞえをくって罰せられるかもしれないと恐れたのである。とくに長兄のほうは、末弟がどんな女と結婚するのか見たいと思うので、結婚式に行きたがっていた。みつ口が彼の好奇心を刺激するようなことを言って帰ったからである。しかし彼の夫人は、王虎の結婚式のことを聞くと、おごそかな顔で引きとめた。
「県公署から役人を追い出したなどということは、めったにない奇怪なことです。もし弟が反逆罪に問われたら、わたしたちまでが、みんな罰せられることになりますよ。国家にたいして反逆の罪をおかしたものは、一門一族みな死刑になると聞いています」
たしかに、昔国王や皇帝が国内から反逆者を駆逐しようと努力していたころには、そういう過酷《かこく》な刑罰が実施されたことがあるのだ。長兄は芝居で、そういった筋のものを見たことがあった。また、ひまつぶしに好んで聞きに行く小屋掛けの講釈師の物語でも聞いたことがあった。いまはもう身分が高くなったから、そんな小屋で、いやしい群衆にまじって、講釈を聞くなどということはできないが、それでも大好きなものだから、流しの講釈師が茶館へきたりすると、呼びこんで熱心に聞くのであった。だからいま、夫人からそう言われると、以前聞いたそんな話を思い出して、恐怖で青くなった。そして次弟の王商人のところへ行って言った。
「弟が戦いに負けて罰せられるようになったとき、おれたちや息子たちが巻きぞえをくわないように、あの弟は不孝者だから勘当したというような書類か何かをつくっておいたほうがよくはないかね」
長兄は自分の息子が王虎のところへ行きたがらなかったことは、けっきょくよかったと思い、次弟の長男が行っているのをあわれむことに愉快を感じて言った。
「おまえの息子は、そんな危険なところへ行っていて、まったく気の毒だな」
次弟の王商人は、これにはただ笑っただけであったが、しばらく考えているうちに、勘当したという書類をつくっておくことは、なるほど周到な賢明な方法かもしれぬと考えた。そこで、さっそく、虎とあだ名された王龍の三男は、かくかくしかじかの不孝者なので縁を切った、もはや当家の人間ではない、という書類をつくって、まず兄に署名させ、それから自分も署名して、こっそり城内の役所へ持って行って、わいろをつかって官印を押してもらった。彼は、この証書を持って帰り、必要が起こるまではと、だれにもわからぬところへしまいこんだ。
こうして、このふたりの兄は安心した。茶館で会ったとき、ふたりは、たがいに顔を見合わせて言った。
「もう安全だから王虎の結婚式へ行って愉快にごちそうになってこようじゃないか」
しかし彼らは容易に旅行のできる年齢ではなかった。決心がつきかねて、ぐずぐずしているうちに、その地方一帯に、たいへんなうわさが口づてに伝わってきた。それは、なかば匪賊であり、なかば軍人で、それも南方の将軍のもとから脱走してきた成り上がりの田舎者が、某県公署を暴力で占領したので、省長が立腹して、討伐軍を派遣することになった、といううわさであった。省長は、その地方全体の治安に関して責任を負っているので、そのままにしておくと省長が責任を問われるのだという。
このうわさは、道ばたの飯店や茶館などから流れてきた。ふたりの兄のところへも、おもしろがって、このうわさを伝えにきたものがあるのは、事実であった。商人の王二と地主の王一のふたりは、弟の結婚式に出席する計画を即座に中止し、しばらくは、めいめい家のなかにひっこんでいた。弟が出世して高い地位にいるなどと自慢しなくてよかったと思った。弟を勘当したという書類をつくって署名し、官印ももらってあると思うと、心がやすまった。
彼らの前で、だれかが末弟のことを言うと、長兄は大きな声で言った。
「あいつは子供のときから腕白で、乱暴で、家を出てしまったんだ」
商人の王二は、うすいくちびるをひきしめて言った。
「なんでも好きなことをさせておくさ。もう兄でも弟でもないんだから、おれたちには関係ないよ」
このうわさが王虎のところに達したのは、三日つづいた婚礼の大宴会のさなかであった。王虎は宴会のごちそうに牝牛や豚や鳥を殺すことを命じ、それぞれ代金を払った。いまや彼は、この地方では権勢ならぶものがなかった。代金を払わずに好きなものを徴発しても、だれもなんとも言わなかったであろうが、王虎は正しい人間であった。どんなものにでも、きちんと代金を払った。この公正な態度に、住民はひどく感動し、感心して語りあった。
「おれたち人民をおさめるのに、もっと悪い軍閥がたくさんあるだ。あの人は強くて、匪賊を追っぱらってくれただし、自分のためには税をとり立てるだけで略奪もしねえだ。この天が下では、これ以上のことは望めねえだよ」
しかし人々は、このころはまだ、それほど公然と王虎に心服する態度を示さなかった。この討伐のうわさを聞いて、はたして王虎将軍が戦いに勝つかどうかと待っていたのである。もし戦いに敗れた場合には、あまり公然と忠誠を示したりすると、あとがこわいのだ。そこで、勝ったのを見きわめてから忠誠を示そうというわけである。
大宴会を開いて一度におおぜいの客人にごちそうするのだから、その材料を提供するのは相当の負担ではあったが、しかし住民たちは、王虎の必要とするものを、よろこんでさし出した。婚礼のときだけは、王虎は大いにおごった。自分のため、花嫁のため、腹心の部下のため、また花嫁につき添う女たちのために、最上のものを準備させた。この女たちというのは、公署につとめている典獄その他の小役人の細君たち十人ほどであった。その亭主の小役人どもは、王虎が大粛正を行なった翌日、またこっそりもどってきた連中である。だれに仕えようと、いっこう平気で、食べさせてさえくれれば、だれにでも忠誠を誓う連中で、いま王虎の下で働いているのである。王虎は、それらの細君どもを花嫁につき添わせた。そして礼儀を守って、結婚式がすむまでは、花嫁のそばに近づかなかった。夜など、彼女を思い、彼女がどんな身の上の女かといぶかってみたり、また彼女を求める情熱に眠られぬこともしばしばあったが、しかし、それよりも彼女を彼の子の尊敬すべき母にしたいという思いのほうが強かった。自分の行動を注意ぶかくつつしむことこそ、自分と彼女とのあいだに生まれるべき子にたいする自分の義務であると思って抑制したのである。
彼女は梨華とはまったくちがった女であった。若いころ記憶にきざみこまれた梨華のおもかげのゆえに、彼はいつも、自分はもの静かな、可憐な女が一ばん好きなのだと思っていた。しかし、いまは何も気にならなかった。あの女が、だれであろうと、何ものであろうと、そんなことは、いっこうかまわなかった。彼女を自分のものにし、子を通じて永久に自分に結びつけさえすれば、それで十分だ、と思っていた。
結婚直前の数日間は、部下たちはだれも、たとえ用事があっても、王虎のそばへ近づかなかった。腹心たちは、王虎が情念に身をゆだねているのを見ているから、なんぴともそばへよせつけなかったのだ。討伐のうわさも聞いていたので、ひそかに相談して、とにかく結婚式を急ぐことに全力をあげたのである。結婚式を早くすませて、彼の情欲の火をしずめ、いつもの彼にかえって、必要なときにはいつでも部下をひきいて戦闘できるようにするためであった。
だから、結婚の祝宴の準備は、王虎が望んだよりも早くととのった。典獄の妻が花嫁の介添えになった。県公署は開放され、ごちそうにありつきたいもの、式を見たいものは、みな迎え入れられた。しかし、城内に住むものは、あまりこなかった。ことに女はすくなかった。王虎の運命がまだどうなるかわからないので、恐れていたのである。
浮浪人や住所不定のもの、何があっても損する心配のない連中は、みな押しよせてきて、たらふくごちそうを食べ、この一風変わった花嫁の顔を、たんのうするまでながめた。
王虎は、老県長に賓客の席についてもらうつもりで、部下を迎えにやったが、下痢で寝ていて起きられないから残念ながら出席できない、という返事であった。
王虎にとっては、結婚の日は一日じゅう、まるで夢のなかをさまよっているようで、まったく無我夢中であった。時間のたつのが、あまりにもおそく、わが身をどう処理してよいのかわからなかった。ひと息つくにも一時間もかかるような気がして、太陽はなかなか真上までのぼらず、のぼりきると永久にそこにとどまっているように思えた。結婚式には人は陽気になるものだが、王虎は陽気なたちではないので愉快に騒ぐこともできなかった。ただいつものように黙りこくってすわっていた。彼に向かって冗談を言うものもいなかった。一日じゅう、のどがかわいてたまらないので、酒はたくさん飲んだ。だが、何も食べられなかった。うんと詰めこんだあとのように胸がいっぱいに詰まっている感じなのだ。
中庭の宴会場には、貧しい、みすぼらしいふうをした群衆が、男も女も集まってきて、飲んだり食ったりした。往来の犬どもまでが、たくさん集まってきて、残った骨などを拾っていた。王虎は自室に黙然とすわり、夢見心地で、かすかにほほえみをうかべながら、時間のたつのを待っていた。とうとう日が暮れて夜になった。
介添えの女たちが新婚の床をととのえると、彼は花嫁の部屋へはいって行った。そこに彼女はいた。彼女は王虎の知った最初の女であった。十八歳のとき父の家をとび出して軍人になった男が、三十を越すまで女を知らないというのは珍しい。あまり世間でも聞いたことがない。しかし、それほど王虎の情熱の泉はおさえつけられていたのである。
しかし、いまや、その情熱の泉は、せきを切って奔放にほとばしり出た。もう何ものもそれをせきとめることはできなかった。女が寝台の上にすわっているのを見て、彼は鋭く、息をのんだ。その音に女は目をあげて、真正面から彼を見た。彼は女に近づいた。夫婦のまじわりにおいては、女は無言ではあったが、情熱的で、大胆であった。彼は女を熱烈に愛撫した。他に女を知らない彼には、彼女が完全なものに思えた。
真夜中に、一度、女に向かって、かすれた声で言った。
「わしは、おまえの身の上をすこしも知らないのだが」
女は、静かに落ちついて答えた。
「わたしは、ちゃんとここにこうしているのですもの、そんなこと、どうでもいいじゃありませんか。いつかはお話ししますわ」
王虎は、それ以上、追求しなかった。そのときは、それで満足していた。ふたりとも世間なみの人間ではなく、これまでのふたりの生活もまた世間なみの生活ではなかったからである。
腹心たちは結婚の初夜だけは王虎をのんびりとさせた。だが翌朝は早くから待っていた。王虎が落ちついた、さわやかな面持ちで新婚の部屋から出てくるのを見ると、みつ口は敬礼して言った。
「閣下、きのうはおめでたい日でしたので申しあげませんでしたが、北からのうわさによりますと、省長が、今度の粛正事件を耳にして、討伐軍をさしむけるということです」
鷹《たか》が、みつ口に代わって言った。
「あちらの方面からきた乞食の話では、一万人の軍隊が進んでくるのを見たということです」
豚殺しが、あわてて厚いくちびるで、どもりながらつけ加えた。
「わしも……わしも、それを聞きました。ここでは豚をどういうふうに殺すのかと思って市場へ見に行ったとき、豚殺しから聞いてきたのです」
王虎は、すっかり気分がなごやかになり、のんびりとしていたので、生まれてはじめてこのときだけは戦争のことを考える気になれなかった。彼は軽く笑って言った。
「おれは部下を信じる。討伐軍がくるならこさせるさ」そして、朝食前の茶を飲むために、窓のそばのテーブルの前に腰をおろした。もう太陽がすっかりのぼって、明るい日だった。
とつぜん一つの思いが彼を襲った。毎日、日が暮れると夜になる、これまでの彼の生涯の夜々は、昨夜をのぞいて、なんと意味のない無味乾燥なものであったろう。はじめて彼はそう思ったのであった。腹心たちが言ったことを聞いたものが、彼のほかに、ひとりいた。新妻がカーテンのかげに立って隙間からのぞいていたのである。彼女は、王虎が何か自分ひとりの楽しげな思いにふけっているのを見て、腹心の部下たちががっかりしているようすを見てとった。そこで、王虎が立ちあがって部屋を出て朝食をとりに行ってしまうと、彼女は、すんだ声で、みつ口に呼びかけた。
「あんたの聞いてきたことをくわしく話してください」
みつ口は、女に関係のないことを女などに話すのはいやだった。だから、ぶつぶつつぶやいていて何も言うことはないようなふうをした。すると女は怒って、はげしい調子で言った。
「わたしをばかにするんですか。わたしは大人になって以来ずっと、この五年間というもの、戦争や争いや血ばかり見て暮らしてきたんですよ。話しなさい」
普通の女なら、ことに新婚の翌朝といえば、恥ずかしげに目を伏せるものだが、この女の異常に大胆な目に見すえられて、みつ口はたじろいだ。そして、まるで彼女が上官ででもあるかのように、彼らが心配していることを話しはじめた。王虎の軍隊よりも優勢な討伐軍が近づきつつあること、王虎の軍隊の大部分は、まだ戦いによって忠誠をためされたことがないから、いざ戦争となると、どうなるか心配だ、というようなことを話した。女は、聞き終わるとすぐ、みつ口に王虎を迎えにやった。
王虎は、だれに呼ばれたときよりも早くあらわれた。顔には、だれも見たことのないようなやさしいほほえみをうかべていた。彼女は寝台に腰をおろした。王虎は、そのそばに腰かけて、女の袖の端を手にとってもてあそんでいた。彼女よりも、むしろ王虎のほうが、恥ずかしげであった。微笑をうかべながら目を伏せていた。女は、すんだ、ややかん高い声で、早口に言った。
「戦争があるとしても、わたしは、あなたのじゃまになるような女ではありません。討伐軍がくるそうではありませんか」
「だれがそんなことを言った。おれは三日間は何にもわずらわされたくない。この三日間だけは自分の時間ときめたのだ」
「もし、その三日のうちに敵が攻めてきたら、どうなさいますか」
「三日間で二百マイルの行軍は、できはしないよ」
「でも、いつ討伐軍が出発したかわからないじゃありませんか」
「事件がそんなに早く省政府に知れるはずがない」
「知れたかもしれませんわ」女は、すかさず言った。
これはまたふしぎなことだった。これらふたりの新婚の男女が、愛とはまったくかけはなれたことを語りあっているのである。しかも王虎は、夜のまじわりよりも、さらに緊密に彼女と結びついているのを感じた。女にこんな話ができるとは、彼には驚異だった。彼は、これまで女と話したことがない。女というものは、からだこそ大きくなっても、きれいな子供にすぎないといつも思っていたのだ。女たちの思っていることがわからず、何を話してよいか見当がつかないことも、彼が女をきらっていた一つの理由であった。こんなふうだから、彼は、兵隊たちがよく相手にする商売女にすら近づかなかった。女と話すことを恐れていたことが、実は、彼が女というものを避けていた半分の理由であった。けれども、いま彼は、ここにすわっているこの女と、まるで女が同性ででもあるかのように、気やすく話ができるのである。彼女が言葉をつづけると、彼は熱心に耳を傾けた。
「あなたの軍隊は、省の討伐軍より劣勢のようです。味方の軍隊が敵より劣るとしたら、策略を用いなければなりませんわ」
これを聞いて彼は声を立てずに笑い、率直に答えた。
「それはおれもよく知っている。さもなければ、いまごろおまえは、わしのものになっていなかったろう」
この言葉を聞くと彼女は、自分の目のなかにあらわれるかもしれない何ものかをかくそうとするかのように、すばやく目を伏せ、下くちびるのはしをかんで答えた。
「人ひとりを殺すことは、いとも簡単な策略です。けれども、殺すには、まずつかまえなければなりません。同じような簡単な策略では、こんどはだめですよ」
王虎は誇らしげに言った。
「おれの部下は三倍の討伐軍にも立ち向かうことができる。おれはこの冬じゅう部下を訓練し、教育してある。拳闘、競走、剣術、あらゆる戦いの方法を教えて鍛えあげてあるから、ひとりとして死を恐れるものはいない。省政府軍の兵の質は知れている。あいつらは、いつも強いほうに寝返りをうつのだ。ここの省兵だって、ほかと同じように、ろくな給与をもらってはいまい」
しかし彼女は、彼女の袖口をもてあそんでいる王虎の指先から袖を引いて、もどかしげに言った。
「それにしても、あなたには計画がありませんわ。お聞きなさい――お話ししているあいだに、よい計画を思いつきました。あなたが守ってやっている老県長がいるでしょう。あれを一種の人質として利用するのです」
彼女があまり熱心に話すので、王虎も耳を傾けた。耳を傾けながら、自分がこんなに彼女の意見を熱心に聞いているということに驚いた。彼は他人の意見を聞くような人間ではなく、これまでいつも自分の考え一つでやってきたからだ。それがいまは彼女の意見を傾聴しているのである。彼女は言葉をつづけた。
「あなたは兵をひきいて出動するのです。そして県長をいっしょに連れ出し、あなたの命令するとおりのことを言わせるのです。命令どおり言うかどうかを監視するため、あなたの腹心を県長の両側につき添わせて、討伐軍の司令官に会いにやるのです。腹心に刀の用意をさせ、もし県長が命令どおり言わないときには、即座に刀を抜いて県長の腹を突き刺すことにし、それを戦いの合図とします。県長の胆《きも》っ玉は、めんどりの胆よりも小さいくらいですから、おそらく命じられたとおりに言うと思います。ところで県長には、こう言わせるのです。――すべては県長の承諾のもとに行なわれたことである。反逆のうわさというのは、県長自身の司令官が反逆したのであって、もし王虎が救ってくれなかったら、県長の生命は奪われ、国家の官邸も盗み去られていただろう――」
この案は、王虎には、すばらしい計略のように思えた。彼女が話しているあいだ、じっと彼女の顔に目をすえていたが、計略の全貌《ぜんぼう》がまのあたりにほうふつとすると、彼は立ちあがり、なんというかしこい女であろうと感心して、静かに笑った。そして彼女の提案を実行するために出て行った。女も、すぐあとからついてきた。腹心のひとりに、県長を謁見の間へ呼んでくるようにと命じた。女は茶目気を出して、ふたりで謁見室の壇上に腰をおろし、老県長を自分たちの前に立たせよう、と言いだした。王虎は老県長をおどかす必要があると思ったので、それに賛成した。ふたりは壇上にのぼった。王虎は彫刻をした椅子に腰をおろし、女は、かたわらのもう一つの椅子に腰かけた。
まもなく老県長が、ふたりの兵に両側からつき添われて、よろめきながらはいってきた。どうにか長衫《チャンサ》を引っかけているが、からだをぶるぶるふるわせていた。老人は、なかば朦朧《もうろう》とした状態で、謁見室のなかを見まわしたが、知っている顔は一つもなかった。事件のときに一度逃げ出して、また帰ってきた彼の召使でさえ、彼がはいってくるのを見ると、顔をそむけ、あれこれ口実をもうけたり他の用事にかこつけたりして出て行ってしまったのである。
謁見室の壁際《かべぎわ》には兵隊の顔ばかり並んでいた。どれも銃を持ち、王虎にたいして忠誠な兵ばかりであった。青ざめたくちびるをふるわせながら、壇上を見あげた老県長は、びっくりして口を開け、目をこらした。そこには王虎が、濃い眉《まゆ》を寄せ、たけだけしい、見るのも恐ろしい顔つきで腰をおろしており、そばには、見たことも聞いたこともない、どこからきたのか想像もつかぬ、ふしぎな女が腰かけていた。彼は、おびえて身をふるわせ、死を思った。彼は平和を愛する儒学者であり、自分の生涯の終末がきたように思えたのである。
王虎は、礼儀を無視した、乱暴な、若々しい口調で言った。
「貴殿の生命はいまおれの手中にある。もし生命が惜しいと思うなら、おれの命令に従わねばならぬ。われわれは討伐軍と戦うために、あす出発する。貴殿もわれわれといっしょに行かなければならぬ。討伐軍に接近したら、貴殿は、おれのふたりの腹心とともに、さきへ行って討伐軍の司令官と会い、――王将軍を司令官に任命したのは自分である。王将軍こそ、公署の反乱をしずめ、県民の生命を救ったのであって、県長の懇願によって王将軍はここに滞在しているのだ――と言うのだ。おれの腹心が、そばについていて貴殿の言うことを聞いている。もし一語でもまちがったら生命はないぞ。おれの命令どおり言わねば最後だと思え。しかし、いま言ったとおりのことをやるなら、ここへもどってきて、いままでどおり、この壇上の席をしめてよろしい。貴殿の面子《めんつ》は立ててやる。ここで、ほんとうに実権を握っているのは、だれかということを明らかにする必要はない。おれはこんな小さな県の県長になどなる気はないし、貴殿が、おれの命令に従いさえすれば、他のものを貴殿の地位にすわらせる意志もない」
弱い老県長は、王虎の命令を実行すると約束するよりしかたがなかった。彼は、うめきながら言った。
「わしはあんたの槍の先にかけられているのも同様だ。あんたの言われるとおりにしよう。わしは年寄りだし、息子もない。生きながらえたところで、どうなるものでもない」
彼は背を向けて、よろめき、うめきながら、自分の部屋へもどって行った。そこには一歩も外へ出たことのない老妻がいた。この妻は、ふたりの子供を生んだが、ふたりとも、ものも言わぬうちに死んでしまって、子がないというのは事実だった。
王虎の計画が、はたしてそのとおりにうまく運ばれるかどうかは、だれにもわからなかったが、運命は、ふたたび彼を助けた。外には春の陽光が満ちあふれ、柳が、ここかしこに芽をふき、桃は、蕾《つぼみ》がほころびたと思うと早くもかわいい花を咲かせていた。農夫たちは、重い冬の着物をぬぎすて、ふたたび背中をむき出しにして、野良で働きはじめ、なごやかな春風と、おだやかな、暖かい春の陽《ひ》ざしを、血の循環の悪くなった肉体に浴びて楽しんでいた。軍閥連も春のおとずれとともに目をさました。落ちつかぬ春のいぶきに国じゅうが動揺しはじめた。軍閥はみな好戦的になり、たがいに戦って相手を倒そうという欲望に燃えていた。古い問題をむし返したり、古いのでも新しいのでも手当たりしだい、すべての紛争を荒立てて、春の過ぎぬうちに、なんとか新しい地歩を開拓しようと野望に燃えていたのである。
そのころ中央政府の首席の地位は、弱い、優柔不断な人物によって占められていた。この地位をものほしそうにながめ、これを奪取することくらいわけないと考えている軍閥の将領が、たくさんいた。あるものは、じゃまになるものを倒そうとして、たがいに同盟を結び、どうすれば一国の実権を握ることができるかを相談した。他の軍閥のすえたこの意気地なしの無能なカイライ総統を廃して、自分たちの目的にかなうような、都合のよい人物を選んでその地位につけようと画策していたのである。
そういった軍閥のなかにあっては、王虎ごときは、まだほんの小さな存在にすぎず、大きな軍閥のあいだでは、ほとんど名も知られていなかった。ただ、何かの会合や宴会の場所などで、ときどきうわさに出る程度であった。
「もと自分が仕えていた老将軍の麾下《きか》をはなれて、しかじかの地方に拠《よ》って独立した若い軍人のことを聞いたことがあるかね。非常に勇敢な人物だということだ。たけだけしくて、精悍《せいかん》で、眉毛が黒々としているので、虎と呼ばれているそうだ」
そういった席上で、王虎の住む地方の軍閥の将領も、王虎のことを耳にした。そして王虎が豹《バアオ》将軍を殺し、匪賊を掃蕩《そうとう》したと聞いて感心した。この将領は、全国でも有数の軍閥のひとりで、できれば現在の弱い支配者を倒して自分がその地位につきたいと考えていた。もし自分がつくことが不可能なら、自分のカイライをその地位につかせ、全国の税収入が自分の手に流れこむようにしたいという野望を持っていたのである。
こういうわけで、この春は、いたるところで風雲急を告げ、ふしぎな野望の花が、けんらんと咲き開いた。都市の城門や城壁、その他、人々がたくさん通過するようなところには、どこにも大きな布告の紙がはられた。いずれも、その地方の軍閥の将領が出した布告である。布告の概略は、「現在の支配者は、邪悪で、民衆は圧迫されている。天下にこのような圧制、罪悪が公然と行なわれるのを、われわれは見るにしのびない。自分は知力も武力もない人間であるが、民衆を救うために敢然と立たざるをえない」というような趣旨のものであった。こういう布告を各所にはりつけると、軍閥は戦争の準備に全力をあげるのである。
民衆のほうはどうかというと、読み書きのできるものは、ほとんどいないから、自分たちを救ってくれると言っているのだ、というようなことは、ぜんぜん知らなかった。新しい税が、土地にも収穫にも荷車にもかけられ、町では店舗や品物にもかけられるので、うなっているだけであった。民衆が高い声でうなったり、不平を言ったりすると、軍閥の手下に聞かれて、どなりつけられた。
「自分たちが救ってもらうのに税金を払いたくないとは、貴様たちは、なんという恩知らずだ。貴様たちのために戦ってくれ、貴様たちを安全に守ってくれる兵隊の費用を、貴様たちが払わないで、だれが払うのだ。貴様たちが払うのがあたりまえじゃないか」
民衆は、いやいやながらも税を払った。払わなければ軍閥の怒りを買うのが恐ろしかった。また、いまの軍閥が負けると、新しい軍閥が乗りこんできて、自分たちを征服し、戦勝の勢いに乗じて、もっとひどくしぼり取るかもしれぬと思うと、それもこわいのであった。
この地方の軍長は、戦雲に乗じて勢力を拡張する決意をしていたので、小さくても私兵を擁《よう》して独立している隊長や将軍を、すべて自分の傘下《さんか》に引きいれたがっていた。だから王虎の反逆のうわさを聞くと省長に言った。
「あの王虎とかいう小さな新しい将軍を、あまり手ひどく弾圧しないように頼む。なかなか勇猛な男だそうだ。そういう男を部下にしたいと思っているのだ。この春は、たぶん全国は二つに分裂するだろう。もしこの春でなければ、来年か、そのつぎの年には、かならず分裂する。北方の軍閥が南方の軍閥にたいして宣戦する。王虎という男には手心を加えてほしい」
官制によれば、軍長は省長に従うことになっているが、武器を有する武装せるものに実権を握られるということは、わかりきった話で、これは歴史的にも証明されていた。いかに正しくとも、武力のないものは、同じ地方にいる武器と兵力を有する軍長に対抗することはできないのである。
この春、王虎を助けた運命というのは、それであった。討伐軍が近づいてきたとき、王虎は兵をひきいて進軍した。さきに老県長を轎《かご》に乗せて、省軍の司令官と会見させるために送った。失敗したときにそなえ、多くのえりぬきの精鋭を近くに伏せておいた。会見の場所に着くと、老県長は轎から降り、王虎のふたりの腹心の部下に両側からささえられながら、田舎道のほこりのなかを、よろめきつつ歩を運んだ。県長は官服を身にまとっていた。省軍の司令官が進み出た。儀礼的なあいさつをかわした後、老県長は口ごもりながら言った。
「司令官閣下、貴殿は誤解しておられるようじゃ。王虎は、匪賊ではなく、わしが新しく任命した司令官、公署を守る新しい将軍なのじゃ。わしの部下が反乱を起こしたとき、反乱をしずめて、わしを救ってくれたのですわい」
省軍の司令官は、スパイから事実を聞いて知っていたので、それをそのまま信じはしなかった。だれも信じなかった。しかし司令官は、王虎を怒らせてはならぬ、より大きな戦争にそなえて、いくらでも銃を必要とするときに、こんな小さな争いのために一兵でもうしなうことはならぬ、と命令されていたので、ただおだやかに県長を非難しただけだった。
「それならば、もっと早く報告すべきだった。報告がないから、われわれは反逆だと思って、膺懲《ようちょう》のために、わざわざ大金をつかって、軍を動かしてきたのではないか。無用の手間と出費をかけた罰として銀一万元の罰金を出していただきたい」
王虎は、先方の要求がそれだけだと聞くと、非常によろこんで、意気揚々と兵を引きあげて帰還した。そして岩塩にたいする税金を増額し、六十日たたぬうちに一万元以上の収入を得た。この地方は岩塩を多く産し、国内の他の地方のみならず、外国へまで輸出していたほどであった。
罰金を払ってしまうと、王虎の権力は、いっそう確固たるものとなり、一兵もうしなわずに、地盤はますます強固なものとなった。この名誉は、妻のおかげだと思い、いっそう妻の知恵を尊敬した。しかし彼は、まだ妻がどんな身分の女であり、どんな素姓の女であるか知らなかった。彼女とともに過ごすときは、相変わらず情熱に燃えていたが、それでもときどき彼女の身の上を知りたいと気になった。ところが、いくらきいても妻は、こう言ってはぐらかしてしまうのであった。
「話せば長くなりますわ。ですから、いつか、戦争も何もない冬の日にでも、ゆっくりお話ししましょう。いまは春です。戦うときであり、あなたの勢力を拡張なさるときです。つまらぬ話などしているときではありませんわ」
妻は、きらきら輝く強い目をして、いらだたしげに彼の質問をそらしてしまうのであった。
王虎は妻の言うことが正しいと知っていた。十年このかたなかったほど大きな戦争が、この春は軍閥のあいだに戦われるだろうといううわさが、この地方一帯にひろまっていたからだ。戦争は、あそこではじまるとか、ここで勃発《ぼっぱつ》するとか、いろんなうわさがとび、どこから軍隊がはいってくるかわからないので、民衆は恐れまどっていた。いくら戦争のうわさがとんでも、農民は食うためには土地を耕さないわけにはいかないから、みな落ちつかぬ気持ちで耕作に従事していた。町の商人たちにしても、妻子を養い、生計の道を立てなければならないから、つづけて店を開いて商売をやっていた。それぞれ一家の生計のために働いてはいるが、近づく戦争の恐ろしさを思うと、みな嘆息した。
この地方のすべての人々の目は王虎に向けられていた。彼の支配は、もう公然と確立されていて、税金も彼の手で徴収されることが知れ渡っていたからである。政府の体面を保つために、老県長をすえてはおくが、それはただの幻影にすぎず、実権は王虎が握っており、すべての裁可決定が王虎によってきまるのであった。謁見室においてすら、王虎は県長の右側にすわった。
裁決のときには老県長は、かならず王虎の意見を求めた。これまで陪席判事の手にはいっていたわいろの金は、いまや王虎と腹心の手にはいるようになった。だが王虎は、昔のままの公正な人間であり、金持ちからは金をとったが、貧乏人がくると、思うぞんぶん自由にしゃべらせた。だから貧民のあいだに彼は非常な人気があった。この春、すべての人々は、王虎はどうするつもりかと注目していた。もし王虎が戦争に参加するとなれば、彼の必要とする兵隊の給与を支払わなければならないし、銃も買わなければならないからである。
王虎も戦争参加の問題を熟考した。ひとりでも考えてみたし、妻とも、あるいは腹心とも相談してみたが、どうするのが一ばんよいのか判断がつかなかった。この地方の軍長は、小さくても軍隊をひきいて独立している隊長や将軍たちのところへは、すべて使者をやって伝えさせた。
「部下をひきいて、わが傘下に馳《は》せ参じてもらいたい。いまやまさに戦いの潮流に棹《さお》さして前進するときである」
王虎はこの招きに応ずべきかどうか決心しかねた。どちら側が勝つか見とおしがつかなかったからだ。もし敗けるほうに名をつらねたら、彼のように新しく地位を築きあげたばかりのものは、後退を余儀なくされ、悪くいけば身の破滅ともなろう。彼は考えあぐねた末、八方にスパイを放ち、どちら側が強くて勝目があるかをさぐらせた。スパイが内偵《ないてい》してもどってくるまでは、どちら側へもつかず、態度をはっきりさせずに待つつもりであった。戦いが終わりに近づくまで参戦しないでいて、最後の大きな波に乗って頂《いただき》にのぼることにしよう、そうすれば兵力も銃もそこなわずに目的が達せられるだろう、そう彼は打算して、スパイの帰るのを待っていた。
夜になると王虎は妻とこのことについて語りあった。妻への愛情と彼の野心とは、奇妙なつながりを持っていた。彼は情欲の渇《かわき》をいやすと、やすらかに横たわり、これまでの生涯にだれとも語ったことのないような調子で妻に語るのであった。自分の持っている夢や野心や計画を、ことごとく妻に話し、その実現を約束して、寝物語を結ぶのに、きまってこう言うのがつねであった。
「おれは、きっとやりとげるぞ。おまえが息子を生んでくれたら、それですべてが完成するのだ」
彼女は王虎のこの願望にたいして、けっして答えようとしなかった。彼が、しいて返事をうながすと、いらだたしげに、何かほかの日常のことを話題にして、話をそらせてしまった。そして、こんなことばかり何度もくりかえしてきいた。
「最後の戦いに参加する準備はできていますか。策略こそ最上の戦術です。そして最良の戦いは、勝敗が決する最後の戦いに、勝つほうへつくことです」
彼は自分があまりにも情熱に燃えていたので、彼女の持つ冷たさには、ぜんぜん気がつかなかった。
春じゅうずっと彼は待っていた。待つことは、いつも彼をいらだたせるのだが、新妻がそばにいるために、こんどは耐えることができた。静かな平野の暑い陽《ひ》ざしのなかに、|からさお《ヽヽヽヽ》の音がひびきわたった。小麦が刈りとられたあとに、コウリャンが丈《たけ》高くしげり、もう穂を出しはじめた。
王虎が待っているあいだに、各地で戦いがはじまった。北方の軍閥も南方の軍閥も、それぞれ同じように同盟を結んだ。しかし王虎はまだ動かなかった。彼は南方の軍閥が勝っては困ると思っていた。南方のあの小柄な、色の浅黒い、ひねこびた将軍たちと手を握ることを考えると、へどが出るほどいやになった。だから、ときどき彼は憂うつになった。南方が勝ったら、しばらく山中にかくれて、つぎの機会を待つことにしよう、と不機嫌にひとりごとを言った。
しかし彼は、ぜんぜん何もせずに待っていたわけではない。新しい熱意をもって部下を訓練し、そして、なおいっそう兵力の増強をはかったのである。多数の勇敢な青年を、新しく軍に編入した。古い兵を昇進させ、士官にして、新兵を指導させた。こうして彼のひきいる軍隊は膨張して一万にも達し、この軍隊を養うために、酒税、塩税、通行税を増額、徴集した。
このころ、彼が直面した唯一の難問題は、小銃が足りないことだった。この不足を補うためには、二つの方法のうち、どちらか一つを実行しなければならぬ、と考えた。策略によって銃を手に入れるか、それとも近くの微力な軍隊と戦って銃や弾薬を奪いとるか、そのいずれかである。それというのも、小銃は外国から輸入されるので容易に手に入れることができないからである。王虎は、奥地に根拠をさだめたとき、このことまでは考えなかった。彼の支配下には海港がないのだ。他の海港は警備が厳重で銃を密輸入する望みはなかった。彼は外国語を知らなかった。身辺にも外国語を知っているものはいなかった。だから外国の商人と取引きするわけにいかないのである。銃を持たぬ部下が多くて困るので、けっきょく、銃を手に入れることを目的にして、どこかで小さな戦争をして、戦利品としてぶんどるよりほかに方法があるまいと考えた。
ある夜、このことを妻に語った。このごろでは、彼が話をしても、ときどき妻は、つまらなそうにしていて、注意して聞いていないことがあったが、この小銃の話には、急に興味を示して、彼といっしょになって熱心に考えた。しばらく考えてから妻は言った。
「あなたには商人のお兄さんがいるとおっしゃいましたね」
「いるよ。しかし兄は銃を取引きする商人ではない。穀物商だ」と王虎は、妻の気持ちをはかりかねて言った。
「あなたはわからない人ね」彼女は、いつものいらだたしげな、高飛車な調子で言った。「お兄さんが商人で、海岸地方と取引きがあれば、銃を買い入れて、なんとかそれを兄さんの商品のあいだにかくして密輸することもできるじゃありませんか。どういう方法でするか、わたしにはわかりませんけれど、とにかく何か方法があるはずですわ」
王虎は、しばらくこの案を考えてみたが、実に頭の働く女だと感心し、その案を実行する計画を立てた。翌日、さっそく、あばたの甥《おい》を呼んだ。あばたの少年は、最近急に背がのびて、若者らしくなっていた。いつも特別の用事をさせるために、そばにおいて使っていたのである。
「おまえのおとうさんのところへ行ってきてくれ。みんなには、ちょっと休暇をもらって帰省したというふうに思わせるのだ。おとうさんとふたりきりのときに、おれが銃がなくて困っている、三千挺ばかりなんとかしてほしい、と話してくれ。兵はどこにでもいるが、兵に持たせる銃はなかなかないのだ。めいめい銃を持っていないかぎり兵隊は役に立たん。おとうさんは海岸地方とも取引きのある商人だから、なんとか方法を考えてくれといって頼むのだ。これは秘密の事柄だから、おまえを使いにやるのだ。おまえは、おれの血縁の人間だからな」
若者は家に帰れるのがうれしくて、熱意をこめて秘密を守ることを誓った。彼は、あたえられた使命を誇りに思った。ふたたび、あばたの帰りを待つ日がつづいた。待っているあいだ、兵を募集して、麾下《きか》の軍隊に、どんどん新しい兵を編入した。死を恐れぬかどうか、胆力を試験してみて、注意ぶかく選び出し、すぐれた勇敢な若者のみを採用するようにつとめた。
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十八
一方、あばたは、わが家をめざして田舎道をたどった。軍服をぬいで、農夫のせがれが着るような服をまとっていた。粗末な青い木綿の着物を着て、日にやけたあばたづらの彼は、水のみ百姓だった王龍《ワンルン》の孫として、まことにふさわしく、ありふれた農村青年としか見えなかった。彼は年とった白いロバにまたがり、ぼろになった上着をたたんで、それを鞍《くら》のかわりにしていた。ときどきロバの腹を素足の足で蹴りつけて急がせた。はだしでロバに乗り、暑い夏の日ざしのなかを、ときどきうつらうつらと居眠りしながら田舎道をゆくあばたの若者が、このおだやかな平和な地方に三千挺の銃をもたらす使命をおびているとは、夢にも思えないだろう。歌が好きなので、眠っていないときは、戦争や兵隊の歌を歌った。彼がそういう歌を歌うと、畑で働いている農夫たちは、不安そうに彼を見上げた。一度、ひとりの農夫が彼のうしろからどなったことがある。
「兵隊の歌なんか歌いやがって。またぞろ死人をならべて黒いカラスをわしらのまわりに集めてえのか」
けれども若者は陽気で、農夫の言葉など、いっこう気にかけなかった。なんと言われても、歌いたければ歌うんだ、といわんばかりに、ほこりだらけの街道に唾《つば》を吐き散らすだけであった。じつは彼は、こわいもの知らずの、たけだけしい兵隊ばかりのあいだで、あまり長いあいだ暮らしてきたので、ほかの歌を知らないのである。兵隊が、静かな畑で働いている百姓の歌と同じ歌を歌うはずがない。
三日目の昼ごろ彼は家にたどりついた。わが家の門のある横丁の曲がり角でロバを降りると、ちょうどそこに、王一《ワンイー》の長男がぶらぶらしていた。彼は、あばたを見ると、出かかったあくびをとめて呼びかけた。
「やあ、きみはまだ将軍にならないのかい」
するとあばたは、静かに、だが負けずに言いかえした。
「まだだよ。しかし士官の試験はりっぱに通っているんだぜ」
あばたがそう言ったのは、この従兄《いとこ》をからかうためであった。王一とその夫人は、この息子を学者にするのだといって、いつも自慢していて、来年こそ某大学の入学試験を受けさせ、すばらしい学者にするのだと吹聴《ふいちょう》していたのを、だれでも知っていたからである。試験の季節がきては過ぎ、一年、二年と年はたっても、この息子は試験を受けに行かなかった。あばたは、この従兄が、いま起きたばかりで、これから学校ならぬ茶館に行くところであり、どこかでゆうべ夜ふかしをした疲れで、からだがだるいのだ、と見てとった。王一の長男は、あばたの言うことなど気にしない、気どった、おしゃれな青年だから、相手の姿を、上から下まで軽蔑したようにながめまわした。
「士官になっても、きみんとこの大将は絹の着物を着せてくれないと見えるね」
そう言って彼は返事も待たずに歩き去った。
柳の新芽に似た緑色の絹の長袍《チャンパオ》が、歩くたびに優雅にゆれるように心をくばりつつ、彼は貴公子然と歩いて行った。あばたのほうは、にやりと笑って、従兄の背中に向かって舌をぺろりと出し、自分の家の門をくぐった。
中庭に足を踏み入れると、すべてが昔のままだった。ちょうど昼飯どきで、扉は開け放してあって、父親だけが食卓に向かって食べていた。子供たちは、例によって、そこらじゅうを走りまわり、てんでに好きな場所で食べていた。母親は戸口に立って、口に茶わんをあてがって、箸《はし》でかきこんでいた。食べものを口いっぱいに入れてかみながら、何か借りにきた隣家の細君と話をしていた。前夜、魚の干物を高梁《たかはり》につりさげておいたのに猫にとられてしまった、というような話をしているのであった。母は、あばたを見ると大きな声で叫んだ。
「ご飯に間に合うように帰ってきたね。うまいときに帰ってきたものだね」
そう言って隣家の女房とおしゃべりをつづけていた。若者は、にやにや笑って、おかあさん、と言っただけで、部屋のなかへはいって行った。父は、ちょっと驚いたようだが、ただ黙ってうなずいただけであった。息子のほうも、おとうさんとあいさつしただけで、それっきり何も言わず、茶わんと箸をさがしてきた。そして、食卓の上にある食物をとりわけて、目上の人といっしょに食事をする場合の作法どおり、父の横手の、壁に沿ったところへ腰をおろして、食べはじめた。
食べ終わると、父は、飯茶わんに茶をすこしついだ。なんでも倹約して、けちけちするたちだから、茶までけちけちとすこしつぎ、それを、すこしずつすすりながら、息子に声をかけた。
「何かことづてでもあるのかね」
「ええ、あります。でも、ここでは言えません」
弟妹たちが、まわりに集まってきて、久しぶりに帰ってきた兄を珍しがり、黙ったまま、ふしぎそうにながめていて、兄が何を言うかと、熱心に耳をすましていたからである。
戸口にいた母親も、茶わんがからになったので、飯をよそうためにもどってきた。彼女は大食で、夫が食事をすませて、食卓をはなれたあとでも、いつまでも残って食べていたのである。彼女は息子を珍しそうにながめて言った。
「おまえ、十インチは背がのびたね。どうしてそんなボロ服を着ているんだい。叔父さんは、もっといい服をくれないのかね。何を食べて、そんなに大きくなったんだい。きっと上等の肉を食べたり酒を飲んだりしているんだろう」
息子は、ふたたびにやにや笑って言った。「服もあるんですが、今度は着てこなかったんです。肉は毎日食べています」
これを聞くと商人の王はびっくりした。異常な関心を示して言った。
「なんだって、弟は兵隊に毎日、肉を食わせているのか」
あばたは、あわてて答えた。「いいえ、兵隊は毎日じゃないんです。だけど、いまは、戦争の準備をしているので、兵隊が勇敢に元気で戦えるようにというので、肉を食べさせているのです。ぼくは、普通の兵隊といっしょじゃないから、いつでも肉を食べているんです。ぼくと、叔父さんのそばにいる腹心の部下は、叔父さん夫婦の食卓に残った肉を食べるんです」
すると母親は、王虎の妻に興味をもってきて、熱心にききたがった。
「叔父さんの奥さんの話をしておくれ。結婚式に、わたしたちを招《よ》ばなかったのは、おかしいじゃないかね」
「招んだよ」こういう話がはじまったら、いつまでもきりがないと思ったので、王商人は、あわてて言った。「招待してくれたのだが、おれがことわったのさ。行くとなると、費用だってたいへんだからね。行く段になったら、おまえは、やれ新しい着物がほしいの、あれがいるの、これがいるのと、いろいろたいへんだから、ことわったのだよ」
すると妻は怒って大きな声を出した。
「けちんぼじじいめ、わたしはこれまで、どこにも行ったことがないし――それに――」
王商人は咳《せき》ばらいして息子に言った。
「ここはやかましくて、落ちついて話もできん。いっしょにおいで」
そう言って立ちあがって、まといついてくる子供たちをしずかに払いのけて、出て行った。あばたも、父のあとについて行った。
王商人は、あばたの少年のさきに立って道を急ぎ、いつもあまり行かない小さな茶館へ行って、静かな一隅のテーブルを選んで腰をおろした。茶館のなかは、ほとんどがらあきだった。農夫は品物を売りさばいてしまって家へ帰るし、城内の客が午後の茶を飲みにくるにはまだ早いし、一ばん客足のすくない時刻なのである。静かな場所で、息子は彼に託された使命を父に語った。
王商人は注意ぶかく耳を傾け、息子が話し終えるまで一言も言わなかった。話し終えても、顔色一つ変えなかった。地主の王一なら、びっくりして目をまるくし、そんなことはとてもできないと言ったであろうが、王商人は、人の知らぬ間に、たいへんな富豪になっていたので、彼にとっては、けっして不可能なことはなかったのである。もし躊躇《ちゅうちょ》することがあるとすれば、それは、ことが成就した場合、はたして利益があるかどうかを考えるためであった。彼は、あらゆる方面に資本を投じ金を融通していた。いろんな人が彼から金を融通してもらって、各種の事業を経営しているのである。彼は仏寺の僧侶にまで寺院の土地を担保に金を融通していた。このごろは、人々が昔のように信心ぶかくなくなって、仏に心をうちこむのは、婦人、それも老婆だけだから、多くの寺院は貧乏して、所有地を処分したがっていたのである。彼は河川や海岸を航行する船舶にも投資しているし、鉄道にも投資していた。城内の大きな淫売窟《いんばいくつ》にも、かなりの額を投資していた。彼自身は、けっして自分が投資している淫売窟へは行かなかった。長兄は、一年ほどまえに開いたこの新しい女郎屋へよく遊びに行ったが、それが弟の資本で経営されているとは夢にも知らなかった。女郎屋は、利回りのよい事業だからやっているので、王商人は男の共通の弱点に目をつけてもうけようとしただけなのである。
このように彼の資本は数百の秘密の水路を通って流れ出ていた。もし彼が、いきなりその資金を回収したら、困るものは数千人にものぼるであろう。これほど財をなしても、彼は、昔と変わらぬ粗末なものを食べ、衣食住に余裕のある人ならだれでもやる賭けごとさえもしなかったし、子供たちに絹の着物も着せなかった。
彼の風采《ふうさい》と暮らしむきを見て、彼が巨万の財を擁《よう》しているとは、だれも夢にも考えないであろう。彼は莫大な財産を持っているから、三千挺の銃の話を聞いても、長兄なら胆《きも》をつぶすことだろうが、まるで驚きもしなかった。もし、だれかが道でこのふたりの兄弟に出会ったなら、金づかいが荒く、肥大しきった巨躯《きょく》を絹や繻子《しゅす》の長衫《チャンサ》や毛皮などに包んでいる王一のほうが大金持ちだと思うだろう。長兄は息子たちにもみな絹の着物を着せているから、そう思われるのも当然であった。ただ、梨華《リホワ》といっしょに住んで、彼女のそばで静かに成人し、日ましに忘れられてゆくせむしの息子だけは例外だった。
王商人は、しばらく黙って考えていたが、ついに口を開いた。
「銃を調達するには、莫大な金がいる。その金にたいして何を担保にすると叔父さんは言っていたかね。小銃を買うのは法律で禁じられているのだから、よほどちゃんとした担保がないと困るのだ」
若者は言った。
「叔父さんはこう言いました。『税金がはいりしだい払うつもりだが、もしおれの言葉が信じられないなら、残っているおれの土地全部を担保にしよう。この地方の税収入は全部おれの手にはいるが、一度に巨額の課税をして住民を苦しめるわけにはいかない』」
「土地はもうほしくないよ」王商人は考えながら言った。「この地方は今年は凶作で、飢饉に近いので、土地は安い。叔父さんの残っている土地だけでは足りないな。結婚費用がうんとくいこんでしまったのでね」
そこで若者は小さな黒い目を輝かせ、熱心に言った。
「おとうさん、叔父さんは、ほんとうにえらい人なんです。みんなが、どんなに叔父さんを恐れているか、一度お目にかけたいくらいです。だけど叔父さんはいい人です。人を殺すにしても、けっして、むやみやたらに殺したりはしません。省長でさえ叔父さんをこわがっているんです。叔父さんは何も恐れていません。――それでなかったら、みんなが狐と呼んでいるあの恐ろしい女と、どうして結婚するもんですか。もしおとうさんが銃を都合してあげたら、叔父さんの勢力は、いまよりもずっと強くなるんです」
この息子の言葉は、たいして父を動かしはしなかったが、それでも、そこには真実のひびきがあった。王商人の決意をうながしたのは、強力な軍隊をひきいる弟を持つことは好都合でもあるし得にもなる、ということだった。近来とかくうわさのある大戦争が、ほんとうに起こって、戦線がこの地方にまでおよんだとき――戦争となれば、どこが戦場になるかわからない――彼の莫大な財産が敵兵によって、敵兵でなくとも貧民の無頼漢どもによって没収されたり、略奪されたりしないともかぎらない。王商人の富財はいま土地だけに集まっているのではない。土地などは、彼の所有しているたくさんの家屋、店舗、金融事業などにくらべたら、ものの数ではない。ほしいままに略奪でも行なわれた日には、こんな種類の富は、ただちにめちゃくちゃにされてしまうだろう。だから、いつ起こるともわからぬ凶変にそなえて、危急を救い保護してくれる秘密の武力をどこかへ持っていないことには、富めるものも一朝にして貧窮となるのは必定である。
彼は、これらの銃が他日、自分を保護してくれることになるかもしれぬと思い、一肌《ひとはだ》ぬぐことにした。しばらくのあいだ彼は、銃をどういうふうに購入し、どのようにして密輸入しようかと考えた。彼は近くの諸省へ米を運ぶために二|隻《せき》の小さい船を持っていた。だから密輸は不可能ではなかった。船で米を省外へ売るのは法律で禁じられているが、莫大な儲《もう》けが得られるので、あえて彼はやっていたのである。官憲にわいろをやったところで、大いに儲かるのである。官憲は、だらくしているから、わいろをつかませれば、王商人が故意に小さくつくった二隻の船を見のがしてくれるのだ。そして、外国船だとか、その他、彼らのふところを肥えさせない船にたいしてのみ、取り締まりをきびしくするのである。
王商人は、自分の船が帰るときには、まったく荷のないときもあり、半分くらいしか積んでいないこともあるのを考えた。綿布や外国製の雑貨などを多少積んでくるだけだから、その荷のなかに外国製の銃をかくして密輸入することは、けっして困難ではない。見つかったら、各方面にわいろを使えばよい。ふたりの船長にも金をやって黙らせれば、もみけすことができる。そうだ、これはたしかにできる、そう思って彼は、あたりを見まわし、他の客も、おせっかいな召使も、まわりにいないのを見すましてから、くちびるを動かさずに歯のあいだから低い声で言った。
「海岸か、あるいは叔父さんのところへもっとも近い鉄道の沿線までは、銃を送ることができる。しかし、それからさきはどうするのだ。歩いて背負って行くか、馬の背中につけて行くしか方法はないぞ。それも一日では行けないところを、どうして運ぶのだ」
王虎《ワンホウ》は、このことについては、あばたに何も言っていなかった。だからあばたは、まのぬけたようすで頭をかいて、父親の顔を見て言った。
「それは帰ってきいてみないとわかりません」
すると王商人は言った。
「銃は、なんとか他の商品のなかにかくして密輸することができる。他の品物の名をつけて荷造りをして鉄道で叔父さんの住んでいるところに一ばん近い地点までは、送ることができる。だが、そこからさきは、そちらでやってくれるように叔父さんに言ってくれ」
若者はこの返事を持って、翌日、王虎のもとへ帰って行った。しかし、その夜は自分の家に泊まった。母親が彼の好物の、豚肉とにんにく入りの湯気の立ったおいしいギョウザをつくってくれた。彼は母親の心づくしを腹いっぱい詰めこみ、残ったぶんは途中で食べるつもりで、ふところに入れた。それからロバにまたがって、ふたたび王虎のところへ帰るべく出発した。
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十九
その翌月、自分の管下の治安状態に自信を持って傲然《ごうぜん》とかまえていた王虎《ワンホウ》にとっては、人からそうと聞かされても容易に信じられないような事態が起こった。大軍閥が対立して、国が二つに割れるといううわさが伝わると、戦争熱にうかされて、全国いたるところに好戦気分がみなぎった。怠惰で働くのがきらいなもの、失業者、冒険好きなもの、親をきらっている青少年、賭けごとに負けた賭博師、その他、人生に不平のある連中が、この機会をつかんで、うごめきはじめたのである。
げんざい王虎が老県長の名の下に支配しているこの地方でも、そういう反抗的な連中が一団となって、頭に黄いろい布を巻き、黄鉢巻団《きはちまきだん》と称して、農村を荒らしはじめた。はじめは、おそるおそる小規模にやっていた。農家から食物を強要したり、村の飯店で飲食をして代金を払わなかったり、またはほんの一部だけ払って、あとはすごみをきかせて、飯店の主人にけんかをふっかけておどかし、泣きねいりさせるといった程度であった。
そのうち黄鉢巻団は、団員がふえるにつれて、しだいに大胆になってきた。軍隊から逃げ出してきて団員になった脱走兵くらいしか銃を持っていないものだから、彼らは銃をほしがりはじめた。都や町のそばには近づかなかったが、村々や部落にあらわれては、大っぴらに略奪するようになった。農民のなかで勇気のあるものが王虎のところへ訴えて出た。そして、ますます略奪がはげしくなる模様を報告した。ぜんぜんとめるものがいないので、いまはのさばる一方で、夜、農家へ押し入って、略奪するものがないと、平気で一家のものをみな殺しにする、というようなことを訴えたが、王虎はこの話が信じられなかった。というのは部下を内偵にやっても、臆病で気の弱い農夫たちは、恐れて、そんなことはないと言って、ほんとうのことを言わなかったからである。王虎は大戦争に参加する機会をつかむことにばかり心を奪われていたので、略奪の問題を、あまりたいしたこととは考えず、しばらくは、なんの処置もとらなかった。
暑気がおとずれ、夏もさかりとなると、南方に向かって進んでいく軍隊の数が多くなった。進軍中に匪賊にさそわれて、脱走して匪賊団に加わる兵もすくなくなかったので、黄鉢巻団は急激に勢力を増し、やり口も大胆になってきた。この季節には、この地方はコウリャンが丈《たけ》高くおいしげり、匪賊には、かっこうのかくれ場所を提供していた。匪賊は街道にまで出没するようになり、危険なので旅人はおおぜい集まって隊伍《たいご》を組まないことには旅行もできないありさまだった。
王虎は、事態がそんなにまで悪化しているとは信じていなかったのかもしれない。スパイにやった部下や腹心の報告をそのまま受けとるだけであったからだ。しかもこの連中は、王虎の気に入るようなことばかり言い、この地方で彼にそむくようなものは、ひとりもいないし、治安も完全に維持されていると思わせていたのである。ところがある日、西のほうから、ふたりの農夫の兄弟が麻の袋をさげてたずねてきた。彼らは、この袋のなかのものをだれにも見せなかった。どんなにきかれても、「これは将軍さまにさし上げますだ」と答えるだけであった。
王虎に贈り物を持ってきたのだと思って衛兵は門を通してやった。ふたりは謁見室へ行った。ちょうど王虎が謁見室にいる時間であった。ふたりは王虎の前に進み出て、うやうやしく敬礼し、何も言わずに麻袋をあけて二本の腕をとり出した。一本は老婆の手であった。労働でかたくなったやせた手で、日にやけた黒い皮膚が荒れてかさかさに乾いていた。もう一本は年とった老人の手で、長年|鋤《すき》の柄をつかんで働きつづけた掌《てのひら》は、かたく、たこだらけになっていた。これらの手を、ふたりの兄弟は、血がどす黒く乾いている切り口のほうをつかんで、王虎の前へさし出した。角ばった正直そうな顔をした中年の兄のほうが、真剣な、怒りにもえた口調で言った。
「これはわしらの年をとった両親の手でごぜえますだ。二日前に匪賊がわしらの村を略奪しまして、年とったおやじが何もないと叫びますと、あいつらは、おやじの手を切り落としましただ。おっかあが、ひるまずにののしりますと、こんどは、おっかあの手を切り落としましただ。わしら兄弟ふたりは畑へ行っていましただが、すると、わしらの女房が、助けてくれと言うて悲鳴をあげて逃げてきましたので、熊手を持ってかけつけましただ。しかし、そのときは匪賊はもうおりませなんだ。そんなにおおぜいでなく、八人から十人くらいでごぜえましただ。わしらの両親は年をとっていますだのに、村のものは、だれも助けてくれませなんだ。将軍さま、わしたちはあんたに税を払っていますだ。省政府に払うほかに、土地税だの、塩税だの、売買物品税だのを、あんたに払っていますだ。それもみんな盗賊から守っていただきたいと思えばこそですだ。どうしてくれますだ」
そう言って彼らは、両親のやせた硬直した腕を高くふりかざした。
こんな不遠慮なもの言いをされれば、彼のような地位にある人間だったら、おそらくだれでも怒ったであろう。しかし王虎は怒らなかった。彼は、それを聞いてびっくりした。農夫が勇敢に真実を語ったからではなく、自分の支配する地域にそんな残虐なことが起こりうるということにたいして腹を立てたのである。彼は大きな声で部下の隊長たちを呼びつけた。ひとりふたりと集まってきて、約五十人ほどが謁見室に並んだ。
王虎は石だたみの床の上に無残に横たわっている手を拾いあげ、それを一同に見せて言った。
「この手は、白昼、息子が野良で働いているあいだに匪賊に襲われた年寄りの農民の手だ。この非道な略奪者を討伐するために、だれがまっさきに出動するか」
隊長たちは目をみはって、このむごたらしく切りとられた手をみつめ、義憤の情をかきたてられた。匪賊どもが自分たちの勢力範囲を荒らして非道をはたらくのを許してはおけぬと猛然と立ちあがった。つぶやきの声が、あちこちに起こった。
「われわれが第一番の権利を持っているこの土地に、こんなことを二度と行なわせてはならぬ」「呪われた泥棒どもを、われわれの土地に跋扈《ばっこ》させてはおかないぞ」等々。
やがて彼らは大きな声で、いっせいに叫んだ。
「討伐に出動させてください」
王虎は、ふたりの農夫に向かって言った。
「安心して家へ帰るがよい。あす、部隊が出動する。匪賊の首領がだれであるかさがし出して、豹将軍を殺したように、そいつを殺すまでは中止しない」
すると弟のほうの農夫が言った。
「将軍さま、まだ匪賊には首領がねえですだよ。ただ黄鉢巻団という名まえがあるだけで、みんなばらばらで、小さな隊になって、うろついていますだ。頭目として、みんなを一つにまとめてくれる強い人をさがしているのだそうですだ」
「それなら」と王虎は言った。「追い払うのは、いっそう簡単だ」
「そのかわり根こそぎ退治するのはむずかしいでがしょう」兄のほうが不遠慮に言った。
ふたりの兄弟は、帰ろうとせず、まだ何か言いたそうで、しかもどう切りだしたらよいかわからぬといったようすで、もじもじしていた。いつまでも、ふたりがぐずぐずしているので、いら立ってきた王虎は、農夫兄弟が自分を信用しないのだと思って、とうとう、いささか腹を立てて言った。
「おまえたちを二十年間も苦しめていた匪賊の首領の豹将軍を殺した、このおれの力を疑うのか」
兄弟は、たがいに顔を見合わせた。兄のほうが、唾《つば》を飲みこんでから、ゆっくりと口を開いた。
「将軍さま、そうではありましねえ。わしらは秘密に将軍さまにお話し申しあげてえことがごぜえますだ」
王虎は、まだそこに立っていた隊長たちに、謁見室から出て行って、すぐに兵に出動の準備をさせるようにと命じた。いつも身辺においておく一、二の部下をのぞいて全部が去ってしまうと、兄のほうは平伏して、三度、床に頭をつけた。そして話しはじめた。
「将軍さま、お怒りにならねえでくだせえまし。わしらは貧乏人だで、お願いするにしても、わいろをさし上げることもできましねえだ。ただもう手ぶらでお願いするだけでごぜえますだ」
王虎は驚いた。
「何を言うのだ。おれにできることなら、なんでもしてやる。わいろなど必要ではない」
農夫は哀願する調子になった。
「きょうここへわしらがまいりますとき、村の連中はとめましただ。もしわしらがお願えしたために、兵隊が匪賊退治にくるようなことがあると、匪賊よりも始末がわるい。わしらは貧乏人だで、食うために働かにゃならねえだ。匪賊はすぐに行ってしまうだが、兵隊は、いつまでもわしらの家にいて、娘には手を出す、冬のためにたくわえた食物は食べてしまう。それでも兵隊は武器を持っているだで、いやとは言えねえ。それでな、将軍さま、そんな兵隊なら、いっそやめていただきてえのですよ。わしらは匪賊のほうをがまんしますだ」
王虎は善良な人間なので、これを聞いて、烈火のごとく怒った。立ちあがると、隊長たちに、もう一度集まれ、とどなった。彼らが、ふたり、三人と連れだってはいってくると、彼はすごい顔をして、眉《まゆ》を寄せてどなった。
「おれの支配している地方はせまいから、兵を出動するにしても、三日あれば往復できるはずだ。かならず三日以内にもどらなければならぬ。ひとり残らず三日以内にもどること。もし民家に泊まったりすれば死刑にする。匪賊を首尾よく征伐し掃蕩《そうとう》すれば、褒美に銀と酒食をあたえる。おれは匪賊の首領ではない。おれの軍隊は匪賊団ではないのだ。だから民衆を苦しめてはならぬぞ」
そう言って、すごい顔でにらみつけた。隊長たちは、あわてて、命令に服する旨を誓った。
王虎はこうして村民に負担をかけぬことをふたりの兄弟に約束して村へ帰してやった。ふたりは四肢《しし》の完全にそろったもとのからだのかたちにして両親を葬るため、両親の腕をうやうやしく麻袋へ入れて持って帰った。ふたりは心から王虎をほめたたえて村へもどった。
王虎は農夫兄弟を帰らせた後、時間がたってから、自分が約束したことを考えてみると、すこし親切心におぼれて行きすぎたような気がして、ろうばいを感じた。匪賊などを相手の戦いに、大切な兵隊や銃をうしないたくなかったのである。自室にすわりこんで厳粛な面持ちで考えこんでいた。どんな軍隊にもいるような、怠惰で、働くのがいやで、楽をしたがる兵が自分の隊にもいることを彼は知っていた。そんな連中が誘惑されて匪賊に加わり、銃を持ったまま脱走するかもしれない。あの兄弟の農夫が持ってきたむごたらしい証拠品に、あまりにも心を動かされすぎて、軽率な約束をしてしまったと後悔した。
彼が鬱々《うつうつ》として部屋にすわっていると、使者が一通の手紙を持ってはいってきた。それは兄の王商人からであった。王虎は封を切って手紙を読みはじめた。婉曲《えんきょく》な言いまわしで、銃が手にはいった、某日、某地まで送りつける、北方の大工場で製粉するために輸送する穀物の袋にかくして某地においておく、という文面だった。
この銃を、なんとかして運んでこなければならないが、あいにくと部下は匪賊退治のために各地に出動中である。王虎は非常に困った。日が悪かった、とのろっていると、そこへ愛する妻がはいってきた。暑い真夏の日ざかりなので、いつになくものうげに、やさしく見えた。白い絹のうすものの上着とズボンをつけていた。上着の襟《えり》のボタンをはずし、白いのどがあらわに見えた。首筋は肉づきがよく、なめらかで、顔よりも白い。
王虎は、困惑して、にがりきっているところであったが、妻がはいってくると、その美しい首筋にひきつけられて、しばらく、いらだたしい気持ちを忘れた。白い、やわらかな首に手をふれたくなり、彼女が近づくのを待った。彼女は近づいてきて、テーブルによりかかり、王虎が手にしている手紙をのぞきこんだ。
「そんなこわい顔をしてぷんぷんしていて、何かいやなことでもありましたの」そして、小さな、かん高い声で、ちょっと笑った。
「あたしのことを怒っていらっしゃるのじゃないでしょうね。そんなこわい顔をしていらっしゃると、それだけで、あたしは殺されそうよ」
王虎は黙って妻に兄の手紙を差し出した。彼の目は妻のあらわな白いのどと、のどからつづく胸のなだらかな起伏に吸いよせられていた。彼女におぼれている王虎は、結婚してからまだ日も浅いのに、何もかも妻に打ち明けて相談していた。妻は手紙を手にとって読みはじめた。彼は妻が字を読むことができることを誇らしく感じた。すこし前かがみになり、うすい、輪郭のはっきりしたくちびるを、かすかに動かしながら、手紙を読んでいる妻の姿を、この上もなく美しいものに思った。彼女は髪に香油を塗って、なめらかにとかしつけ、襟のところでたばねて、黒い絹糸のネットをかぶせていた。耳には金の耳輪がゆれていた。
彼女は手紙を読み終わると封筒にもどし、テーブルの端においた。やさしい、しなやかな、敏捷に動く手を、王虎はながめていた。
「その穀物の袋を、どうして運んできたらよいかと思案しているのだ。策略を用いるか武力を用いるかしなければならぬと思うのだが」
「困難なことはないでしょう」と妻は平静に、こともなげに言った。「策略も武力も簡単なことですわ。手紙を読みながら考えましたけれど、部下の一隊を、いまどこでもうわさしてる匪賊に変装させて、穀物袋を略奪させればいいと思いますわ。だれも、あなたが関係しているとは思いませんわ。そうすれば、だれにもわからずに運べるじゃありませんか」
王虎は妻の言葉を聞いて、なんと巧妙な方法だろうと感心し、いつものように声を立てずに笑った。妻がはいってくると、衛兵はいつも室外へ出ることになっているので、部屋にはだれもいなかった。彼は妻を引きよせ、そのごつい手で妻の柔らかい肌にふれて満足した。彼は言った。
「おまえのようにかしこい女はいない。おれは豹将軍を殺した日を祝福するよ」
満ち足りた気持ちになって室外に出た王虎は、鷹《たか》を呼んで命じた。
「ほしいと思って待っていた銃が、ここから三十マイルほどはなれた鉄道の交差点まできている。北方の工場へ送るために、そこで積みかえる小麦袋の荷のなかにかくしてあるのだ。そこでおまえは、部下を五百名ばかり連れて匪賊に変装してそこへ行き、小麦袋を略奪して、どこか匪賊のかくれ家にでも運ぶように見せかけるのだ。そして、近くへ荷車やロバを用意しておいて、その袋を小麦もろともここまで運ぶのだ」
鷹は利口な男で、機知や策略を得意としているし、豚殺しのほうは、どんぶりほどもある大きな二つの拳《こぶし》を得意としていた。このような機知を必要とする仕事は、鷹の好むところだった。鷹が敬礼すると、王虎は、さらに言葉をつづけた。
「銃を無事にここまで運んできたら、おまえをはじめ部下にもそれぞれ手柄に応じて報酬をあたえるぞ」
命令を終えると、王虎はふたたび自室へもどった。妻はもういなかった。彼は彫刻をほどこした肱掛椅子に、ゆったりと腰をおろした。腰をかけるところは涼しいように葦であんであった。おそろしく暑くなってきたので、剣帯をはずし、上着の襟《えり》もとを開けた。すわって休息をとりながら、あらためて妻の白い襟もとと、のどから胸にかけての曲線を思いうかべ、肉があんなにもやわらかく、肌が、あんなにもすべすべとなめらかなことが、いったい、ありうるのであろうかと、妻の美しさをたたえる思いに満たされていた。
兄の手紙がなくなっていることには一度も気がつかなかった。妻が持っていってしまったのである。妻が、王虎の手さえとどかぬ服の下の胸の奥深くへかくして立ち去ったのだ。
鷹が出発して数時間の後、王虎は、寝る前のひとときを、涼しい夜風にふかれながら、ひとりで歩いていた。道路に向かって開いている裏門に近い庭内を散歩していたのである。そこのせまい道路は、昼間ほんのすこし人が通るだけで、夜はほとんど人通りがなかった。こおろぎの鳴く音が聞こえた。自分の夢にふけっていたので、はじめはぜんぜん注意もしなかった。しかし、こおろぎがいつまでも鳴きつづけているので、ふと、いまはこおろぎの鳴く季節ではないと気がつき、ただ、たわいもない好奇心から、どこにこおろぎがいるのだろうと、あたりを見まわした。門のところから聞こえてくるように思えた。目をこらしてみると、だんだん濃くなってゆく暗闇のなかに、だれかうずくまっているのが見えた。刀のつかに手をかけて、身構えながら近づいて行くと、門のところにうずくまっていたのは、あばたの甥《おい》であった。暗闇のなかに青ざめた顔をうきあがらせて、あばたは息をはずませてささやいた。
「静かに、叔父さん、声を出さないでください。叔母さんにわたしがここにいることを言わないで外へ出てください。このさきの最初の十字路のところで待っています。お知らせしたいことがあります。急用です」
若者は、影のように、すばやく暗闇のなかへ消えて行った。王虎は、ひとりで散歩していたのだから、そのまま即座に甥の後について外へ出た。王虎のほうが一足さきに十字路へ着いた。あばたは、土塀《どべい》の暗いところにへばりついて、足音をしのばせて近づいてきた。王虎は驚いて言った。
「いったい、どうしたのだ。けんかに負けた犬みたいに這《は》って歩いたりして」
若者はささやいた。「静かに――わたしはここから遠くはなれたところへ使いにやられたことになっているんです――叔母さんに見つかったら、たいへんです――叔母さんは利口な人ですから、だれかにわたしのあとをつけさしているかもしれません――しゃべったら殺すと言いました。殺すとおどかされたのは、でもこれがはじめてではないんです」
王虎は、この言葉に、驚いて口がきけなかった。彼は、あばたをかかえるようにして袋小路の暗がりへ連れこみ、わかるように話せ、と命じた。若者は王虎の耳に口をあてて言った。
「叔母さんは、わたしにこの手紙をとどけるようにと言って使いに出したのです。だれにあてたものか、封を切らないからわかりません。叔母さんはわたしに字が読めるかとききました。わたしが、とんでもない、田舎者だから読めないと言いますと、この手紙を、今夜、北の郊外の茶館でわたしを待っている男に渡してくれと言って銀をくれたのです」
彼は、ふところへ手を入れて、一通の手紙をとり出した。王虎は無言でそれを受けとった。そして黙って大股に袋小路を出て、せまい往来で老人がぽつねんと湯を売っている小さな店のそばへ行き、壁に釘で打ちつけてある小さな豆油のランプのゆらめく光のもとで封を切って読んだ。読むにつれ、陰謀のたくらみが、はっきりとわかった。彼女は――王虎の妻は――何者かに三千|挺《ちょう》の銃のことを相談しているのである。ひそかに何者かと会って話しあっていることが、明らかに読みとれた。そして、これが最後の通報のようであった。
「銃が手にはいり、人員が集まったら、わたしは行きます」
この手紙を読んだとき、王虎は、足もとに踏まえている大地がぐるぐるまわり、のたうち、天が落下してきて彼を押しつぶすかと思った。彼は妻を心から熱愛していた。だから、よもや妻が裏切ろうとは夢にも思っていなかったのだ。彼は腹心のみつ口の警告も忠言も、すべて忘れて一顧だにしなかった。みつ口が、このごろずっと元気がなく、憂うつそうなようすをしているのにも気がつかなかった。彼はすっかり妻におぼれきっていた。唯一の気がかりは子供が生まれないことであった。彼は何度も何度も、熱心に、妻に妊娠したかどうかをたずねた。あまりにも妻を熱愛していたので妻が心のなかで彼を裏切っていようとは夢にも思わなかったのだ。いまのこのときですら、愛する妻の寝室へ行くべきときを、夜の愛撫の時間を待ちこがれていたのだ。
いま彼は、妻は自分を愛していないことを、はっきりと知った。彼が、たくみに戦機をつかんで大きく前進しようとしているこの大事なときに、妻はこのように、自分を裏切る陰謀をたくらんでいながら、終夜、彼のしとねに身を横たえ、子供のことをきかれると悲しげなようすをして見せていたのだ。突如、息もつけぬほど怒りが胸につきあげるのをおぼえた。例のものすごい怒りが、いままでにないほど、はげしくわきたった。心臓は、はげしく鼓動し、耳ががんがん鳴り、目がくらんだ。彼は痛くなるまで眉《まゆ》を寄せた。
甥は、彼のあとを追ってきて、戸口の暗いかげに立っていた。王虎は、一言もものを言わず、甥を押しのけて帰ろうとした。若者は、はねとばされて、石のごろごろしている往来に倒れたが、怒りに夢中になっている王虎は気がつかなかった。
怒りにかられて、足早に大股で自分の部屋へもどった彼は、歩きながら長剣のさやをはらい、刃をぬぐった。豹将軍の遺品の、みごとな名剣である。
まっすぐに寝室へ行った。妻は寝台に横たわっていた。暑いので、とばりは引いてなかった。満月が、庭をめぐる土塀《どべい》の上高くかかって、明るく照りはえていた。月の光が寝台に横たわっている彼女の姿に降り注いでいた。涼をとるためか、彼女は肌もあらわに、片手を投げ出して寝ていた。片手は、すこしまげて、寝台の縁に、なかば開いた形でおかれていた。
王虎は、ためらわなかった。だが、この期《ご》に及んでも、彼は、妻をじつに美しいと感じた。月光をあびて、まるで石膏《せっこう》の彫像のように美しかった。彼は怒りの下に死にもまさる苦しみを感じていた。だが、ためらわなかった。妻がいかに自分をあざむき、いかに自分を裏切ったかを思って怒りをかきたて、長剣をふりあげて、枕の上に仰向いている妻ののどをめがけて突き立てた。巧みな、あざやかな一突きであった。突き刺した長剣を鋭くひねってえぐり、さっと抜き取って、血のしたたる長剣を絹の掛けぶとんでぬぐった。
妻のくちびるからは一声もれただけだった。あふれ出る血が、のどをふさいだので、それも何を言ったのかわからなかった。彼女は長剣がのどに突き刺さった瞬間に動いただけだった。その瞬間、腕や足を動かし、両眼を見開いた。そして、すぐに死んだ。
王虎は自分のしたことを考えてみる余裕もなかった。大股で庭へ出て、大きな声で呼んだ。部下がかけつけてきた。まだ消えぬ怒気をそのままに荒々しく命令した。寸刻も早く鷹の応援に出動し、匪賊に盗まれないうちに銃を手に入れなければならなかった。彼は残留部隊を集めて、みつ口を隊長にした二百名だけをあとに残し、あとのものを、みずから率いて出発した。
門を出て行こうとすると、門番の老人が、あくびをしながら寝床から起き出してきて、思いもかけぬ騒ぎに茫然として立っていた。王虎は馬にまたがって老門番のそばを通りながら声をかけた。
「おれの寝室に何かある。外へ運び出して、運河か池にすててしまえ。おれが帰るまでに始末しておけ」
王虎は馬にまたがり、怒りを抱きながら、さっそうと進んで行った。だが傲然《ごうぜん》と構えてはいても、胸のなかでは心臓からひそかに血がしたたり、中枢部を血でぬらしているようであり、どんなに怒りをかき立ててみても、内部では、ひそかに心が傷つき、たえまなく血を流していた。ほこりだらけの道路を急ぐ馬のひづめの音にかき消されて、だれにも聞こえはしなかったが、いらだたしげに、何度も何度も彼は、うめき声をもらした。王虎自身、自分がうめいていることに気がつかなかった。
その夜と翌一日、王虎は部下を率い、鷹のゆくえを探して田舎道を進んだ。夜が明けると、風がないので、日の光がやけつくようにあつかった。自分の心のうちに休息を許さぬものがあるので、王虎は部下にも休息させなかった。その日の夕暮れ、北から南へ走る街道で、歩いてくる一団の兵の先頭に立ってくる鷹に出会った。鷹は、王虎に命じられたとおり、部下に軍服をぬがせ、ぼろぼろの服を着て、頭に布をかぶせ、匪賊に変装させているので、はじめ王虎は、この連中がはたして自分の部下であろうかとうたぐった。何者か見きわめがつくまで近づくのを待つことにした。
彼らが自分の部下であるとわかると、王虎は、赤毛の馬からおりて、道ばたのナツメの木の下に腰をおろした。精神的に気力をうしなっているので、こうしてすわって、鷹の近づいてくるのを待っていたのである。王虎は時間がたつにつれて怒りが消えてゆくのを恐れた。恐ろしいほどの苦痛をもって、いかに女に裏切られたかを、無理にも思い起こして怒りを燃えつづけさせた。彼の怒りと苦しみのひそかな根は、自分で妻を殺しはしたが、殺した妻をまだ愛しているということだった。彼女を殺したことをよろこびながら、同時に熱情をもって彼女を恋慕していたのである。
この苦しみは彼を不機嫌にした。鷹が前にくると、目をほとんど眉の下にかくしたまま上げもせずに、うなるように言った。
「どうだ、銃を取りそこねたろう」
鷹は、とがった顔をしているが、弁は立つし、敏捷で自尊心が強かった。自尊心の強さと怒りっぽい性格が、彼を勇敢にしたのである。彼は興奮した口調で言いかえした。
「匪賊がこっちよりもさきに銃のことを知っているなどと、どうしてわたしにわかるもんですか。スパイか何かから銃の話を聞いて先まわりしたのです。あなたがわたしに命令する前に匪賊が知っていたのだから手はないじゃありませんか」
彼はそう言って、自分の銃を地面に投げ出し、腕を組み、おれが悪いんじゃない、といったふうに挑戦的に王虎将軍の顔をみつめた。
王虎も、鷹の言うのがもっともだと考えるだけの冷静さをまだ持っていた。王虎は腰をおろしていた草のなかから、ものうげに立ちあがり、ナツメの木の肌の荒い幹によりかかって、皮帯を強くしめなおし、沈痛な口調で言った。
「おれがせっかく取りよせた銃は、それじゃみな奪われてしまったのだな。これをとり返すには匪賊と戦わねばならぬ。よろしい、戦わねばならぬのなら戦うまでのことだ」彼は、いらだって武者ぶるいし、唾《つば》をはいてみずからをはげまし、語調を強めて言葉をつづけた。「さあ、これから匪賊を探し出して強襲するのだ。おまえたちの半分が死体となって身を横たえても、おれはやる。どうでも銃をとりもどさねばならぬ。たとえ一|挺《ちょう》の銃をとりもどすのに十人の兵の命がうしなわれてもしかたがない。一艇の銃があれば、十名の兵がつのれる。銃にはそれだけの価値があるのだ」
ふたたび彼は馬にまたがった。水々しい草をはんでいたところを引き離された馬が怒ってとびはねるのを、強く手綱を引いてしずめた。不機嫌そうに立って見ていた鷹が口を開いた。
「匪賊のいる場所はよく知っています。双龍峰の昔の山塞に集まっているのです。銃もきっとそこにあります。どんなやつが頭目か知りませんが、この二、三日、やつらはみんなあそこに集まって、おかげでこの地方は、たいへん静かでした。双龍峰のもとの山塞に集まって、どうやら頭目を選ぶらしいです」
王虎は、だれが首領になるはずであったか、よくわかっていた。だが何も言わず、ただ部下に双龍峰めがけて進めと命令しただけであった。
「双龍峰に到着したら、いっせいに射撃しろ。射撃がすんだら説得をはじめる。小銃を持って帰順するものは、わが隊に編入する。銃をみつけたら持ってこい。銃一挺につき銀一枚ずつあたえる」
王虎は、ふたたび馬上の人となり、曲がりくねった谷間の道を通り、低い丘をこえて、双龍峰をめざして進んで行った。部下のものも元気でついてきた。畑で働いている農夫が顔をあげて、ふしぎそうに一行をながめていると兵たちは叫んだ。
「匪賊退治に行くんだぞ」ある農夫は、「それはありがたい」と、心からよろこんで答えたが、たいていのものは兵隊が小麦やキャベツや瓜《うり》の畑を踏み荒らして行くので、渋面をつくって何も言わなかった。みな兵隊には泣かされており、兵隊のすることに、ろくなことはないと信じているのであった。
王虎は、なだらかな丘をのぼりきって、双龍峰のふもとまできた。そこから切り立つような絶壁のあいだを縫って細い小道が通っているだけであった。彼は馬を降りた。馬に乗っていた部下も彼にならって馬を降りた。彼は部下には、いさいかまわず、身をかがめて、まるでひとりきりで歩いているかのように山道をのぼって行った。心では妻のことばかり思っていた。自分が女を愛するようになった奇怪な運命を思い、殺してしまったいまでも、まだ愛しつづけて心に慟哭《どうこく》していることを思って、石段をおおっている苔《こけ》すら目にはいらないほどであった。だが女を殺したことを悔いる気持ちはなかった。妻にたいする愛情は冷《さ》めてはいなかったけれど、心の奥底では、あのほほえみと率直な明るさで彼の情熱を受け入れながら、あんなにも完全にあざむきうるような女は、殺す以外にない、あんな女は死んではじめて真実になれるのだ、とさとっていたのである。彼はつぶやいた。(けっきょくあれは狐だったのだ)
彼は休まずに部下を導いて山をのぼって行った。山頂近くまできたとき、鷹と五十人の兵をさきにやって情勢を探らせた。松の木の茂みの木かげで王虎は待っていた。太陽が、はげしく照りつけた。一時間もたたぬうちに鷹はもどってきて、山塞のまわりを一まわりしてきたことを報告した。
「みんな山塞の建て直しに夢中になっています。すこしも防備などしておりません」
「だれか頭目らしいのを見かけたか」と王虎はきいた。
「いや、見かけません」と鷹は答えた。「やつらの話が聞こえるところまで、しのび寄ってみました。みんな無知で、ろくな匪賊になれそうもありません。通路さえ警戒していないんですからね。焼け残っている家を奪い合ってけんかをしています」
これはよい情報だった。王虎は大きな声で部下に攻撃を命じ、先頭に立って、せまい道をかけのぼった。走りながら、大きな声で、「山塞におどりこんで、おのおのひとりずつ匪賊をやっつけろ。ひとり殺したら、いったん手を引け。おれが説得する」と命じた。
部下は命じられたとおりにした。王虎は片側に立って監視していた。山塞になだれこんだ部下は、まず一発ずつ発射した。匪賊は算を乱して倒れた。即死するもの、苦悶するもの、悲鳴をあげるもの、瀕死で横たわるものなど、山塞は修羅場《しゅらば》と化した。たしかに彼らは無防禦で無知な連中で、ここに家を建てて住むことばかり考えていたのだ。まるで蟻塚《ありづか》にむらがる蟻のように、三、四千人のものが、この山塞に集まって、土壁を築いたり、材木を運んだり、屋根をふくワラを運んだりして、将来の遠大な計画のために夢中になっていたのである。だから、王虎の軍隊に急襲されると、あわてふためき、やっていた仕事を放り出して、右往左往、逃げまどった。
王虎は、この匪賊どもを指導する頭目もいなければ、さだまった指導者もいないのを見てとった。はじめて王虎の心に、かすかな慰めの弱い光がさしてきた。早晩、愛する女を頭目とする匪賊団と戦わねばならない運命だったのだ。そうとすれば、あのように女を殺してしまってよかったのだと思いついたのである。
そう思うと、自分は天の使命をおびているのだという昔からの信念が、ふたたび新しい力をもってわきあがってきた。彼は威風堂々と部下に射撃中止を命じ、生き残った匪賊どもに呼びかけた。
「おれはこの地方を支配する王虎将軍である。おれの支配する地域に匪賊どもが跋扈《ばっこ》するのを許すことはできぬ。おれは殺すことも恐れぬし、殺されることも恐れぬ。おれに刃向かうなら、貴様たちはみな殺しだ。しかし、おれには慈悲がある。恥を知るもののためには立ち直る道を開いてやる。これから、おれは県公署の陣営に帰るが、いまから三日以内に小銃一|挺《ちょう》を持って自首するものは、おれの軍隊に編入する。小銃二挺以上を持ってきたものには銀をあたえる」
大きな声でそれだけ言ってしまうと、王虎は部下に鋭く号令をかけて、いっせいに下山させた。匪賊のなかに大胆なものがいて射撃してくると危険だから、数名の部下に銃をかまえさせつつ後退させた。しかし実際のところ、これらの匪賊は無知な烏合《うごう》の衆にすぎず、匪賊のもとの首領の豹将軍の情婦だった王虎の妻の陰謀におどらされて銃を奪ってはきたものの、小銃の扱い方を知っているのは、ほとんどいなかった。ほんの少数の脱走兵あがりの匪賊だけは銃の使い方を知っていたが、王虎めがけて射ってくるものはなかった。たとえ射ったにしたところで、それこそ虎のひげをなでるようなもので、虎がふたたび襲いかかってくれば、みな殺しにされてしまうだろうと恐れていたのである。
山塞はしんと静まりかえって、なんの物音もしなかった。松の木々を吹きならす風の音と、梢《こずえ》でさえずる鳥の声のなかを、王虎は部下を率いて山道をおりて行った。そして、ふたたび畑のなかを通って帰路を急いだ。道々いたるところで兵たちは、農民に向かって得意げにどなった。
「三日以内に匪賊は全部いなくなるぞ!」
農夫のあるものは、よろこんで感謝したが、大部分のものは、顔にも言葉にも警戒の色を示し、王虎がどんな要求をするか、よろこんだり感謝したりするのは、それからにしようとさし控えていた。なぜなら軍閥は農民のために匪賊を討伐してくれても、その報酬として、かならず重税を課してくるからである。
王虎は公署にもどると、部下にそれぞれ銀をあたえ、慰労のために泥酔しない程度の酒を出し特別のごちそうを食べさせた。そして三日間の帰順期限の過ぎるのを待った。
ひとり、ふたり、五人、八人、十人と、いたるところから匪賊どもが銃を持って公署へ集まってきた。銃を二挺持ってくるのは、めったにいなかった。一挺以上を手に入れたものは、その数だけ友だちとか兄弟だとかを連れてきたからである。当時は多くの人間が貧乏で、食物も十分に食べられぬありさまだったから、どこでも、どんな指導者のもとでも、衣食住さえ保証されれば、よろこんで集まってきたのである。
王虎は、あまり、年をとりすぎてさえいなければ、全部、軍隊に編入することにした。不適格者には、銃だけとりあげて、相当の銀を払ってやった。軍隊に編入したものには、食物をあたえ衣服を支給した。
三日間が過ぎると、王虎は、帰順の日限を、もう三日のばすことにした。その後さらに三日のばした。この三日のあいだにも、毎日引きつづき帰順するものがあらわれて、とうとう公署も兵営も新しく編入された兵隊であふれるようになってしまった。そこで城内の民家にも彼らを分宿させなければならなかった。ときどき民家から苦情が出た。家じゅうが兵隊でいっぱいで、家族のものは一部屋か二部屋に押しこめられている、などといって訴えてきた。王虎は、それが若いものだったり、横柄な人間だったりすると、頭からどやしつけた。「しかたないじゃないか。がまんしろ。それともおまえは、この地方が匪賊だらけになって略奪されているほうがいいのか」
だが、訴えにくるものが老人だったり、あるいは、礼儀正しくやってきて、静かにものを言うときには、鄭重《ていちょう》にあつかってやって、銀やその他の贈り物をあたえ、いんぎんに言った。
「もうすぐ戦争へ連れて行くので、ほんのすこしのあいだだから、がまんしてもらいたい。わしは、こんな小さな県におさまって満足している人間ではないのだから」
妻はもういないのだと思うと、兵隊が女といっしょにいることを考えるだけでも不愉快でたまらず、彼は女に関しては猛烈にきびしかった。
王虎は、いたるところで、あらゆる人に向かって言った。「もしおれの部下で、商売女以外の婦人に手を出すものがあったら、死刑にする」新しく編入した兵は自分にもっとも近い家に宿営させ、良家の子女に横目を使ってもおどしつけた。
彼は、どの兵にも約束しただけのものは払った。兄に購入してもらった三千挺の銃は、二千挺あまりしかもどらなかったが、匪賊から帰順したものは四千名以上にのぼった。だから支出がふえて困ったが、それでも全部にきちんと給与を払って満足させた。この厖大な数の兵を養うためには、何か新しい課税の方法でも考えなければやっていけなかった。すでに彼は、たくわえておいた秘密の軍資金にも手をつけはじめていた。経常収入だけでまかなっていないと、一朝、戦いに破れて、どこかへ退却しなければならない場合に、部下を養う資金がなくなってしまうから、これは軍閥の将にとっては、危険なことだった。王虎はそこで新しい増税のことを考えはじめた。
夏も終わりに近づいたころ、王虎が南北対立の情勢を探らせるために各地へ放ったスパイが、みなもどってきた。だれもが同じような情報をもたらした。今度も南方の軍閥の旗色が悪く、北方が勝利を得つつあるというのである。最近、数週間ほど、省の軍長からの出兵の要請が、以前ほどはげしくないところから考えて、王虎はこの情報を真実だと判断した。
そこで即座にみつ口とあばたを省政府の所在地に派遣して、軍長に手紙を送った。これまで管内に跋扈《ばっこ》する匪賊の討伐に手間どって出兵がおくれたが、北方軍に参加して南方軍鎮圧に力をつくしたい、という意味の書簡と贈り物とをとどけさせたのである。
運命は、ここでふたたび、きわめて巧みに王虎を助けた。ふたりの使者が王虎の手紙を持って首都に到着したその日に、南北の休戦が成立し、南方軍は再起を計るために南方へ退き、北方軍が勝利を占めたのである。そして北軍の兵は勝利の報酬として一日の略奪を許されたのであった。忠誠を披歴《ひれき》した王虎の書簡を受けとると、軍長は鄭重な返事をよこした。この戦争は終わりを告げて秋とはなったが、春はふたたびめぐりきたり、そして戦争はふたたび起こるであろう、そのときに備えて戦いの準備を怠らずにいてもらいたい、という意味の返書であった。
みつ口とあばたのふたりの使者は、この返書を持って帰ってきた。王虎は、ひとりの兵も一挺の銃もうしなうことなく、部下の大軍に、なんの損傷もうけずに、彼の名が、勝利を博した北方側の将領のひとりとして天下に喧伝《けんでん》されることを知って大いに満足した。
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二十
黄金の秋風は西からさわやかに吹いてきて、農民たちは収穫に忙しい。満月は中空にさえわたり、人々は中秋節の近づくのをよろこんで、天に感謝をささげる準備をしていた。近年、一、二回、不作の年はあったが、大きな飢饉もなく、匪賊もふたたび鎮圧され、戦禍もこの付近まではおよんでこないので、人々はそれをよろこび感謝しているのである。
王虎《ワンホウ》も自分の地位や業績をかえりみ、去年よりも勢力が増していることを知った。城内や城外に宿営させてある部下を計算すると、現在彼のもとには二万人の兵がおり、銃は一万二千|挺《ちょう》あった。その上、彼はいま軍閥の将領のひとりと目され、その名を世間に知られるようになった。戦後もどうやら主権者としての地位にとどまることができた例の弱い名ばかりの大総統は、現政府をくつがえそうとする南方軍と戦って彼の地位を守るために援助してくれた北方軍の将領に感謝状を送った。王虎も総統から感謝状と官位を贈られたひとりであった。王虎に贈られた官位は、あまり高いものではないが、ながながしい官名でりっぱそうに聞こえるし、ともかく総統からの官名である。王虎はこの栄誉を、一戦もまじえず、一銃も失うことなく、かちえたのである。
しかし、ただ一つ、大きな問題が残っていた。中秋節は貸借勘定を精算する時期である。王商人から、銃の代金を催促されて困っているから、至急、支払ってもらいたい、と再三言ってきていることだ。うるさくなって王虎は、けんか腰になって、使者を王商人のところへやって、銃が途中でなくなったのだから、代金全部は払えない、と言わせた。
「ほんとうの受取人かどうかたしかめもせずに最初に取りにきたものに渡したりせぬよう注意をあたえておくべきではないか」使者にこう伝言させた。
この非難にたいして王商人は筋の通った返事をした。
「わたしの自筆の手紙を証拠として持ってきて、しかも、おまえのところからきたと言ったというのだから、どうしてそれをおまえの部下ではないと拒むことができよう」
そう言われると王虎としても返答に困った。しかし彼には頼みとする軍隊の力がある。そこで彼は強気に言った。
「損害の半分は負担しよう。しかしそれ以上は払えない。それがいやなら一文も払わないだけだ。このごろわたしは自分のやりたくないことはしないですむ身分になっているのだ」
王商人は思慮の深い男で、どうにもしようがないとすれば、あきらめのよい人であった。だから、王虎の申し出た条件を承知して、損害を半分引きうけた。自分が管理している王虎の土地の地代を引き上げ、拒絶されないとわかっている金融の利子をあげさえすれば、それくらいのものは、すぐ埋め合わせがつくのだから、彼にとっては、けっきょくたいしたことではないのである。
一方、王虎は、たとい半分の代金にしても、最初は払う方法が思いつかなかった。厖大《ぼうだい》な軍隊の維持に莫大な費用がかかるので、毎月、いや毎日のように、おびただしい銀がはいってきても、すぐにまた流れ出てしまうのだ。
彼は腹心のものを部屋に呼んで、ひそかに言った。
「これまでにないような新しい徴税の道はないか」
腹心のものは頭をかいて、たがいに顔を見合わせたり、あちこちをながめたりしていたが、何も考えつかなかった。みつ口が言った。
「食べるものや日常品に重税をかけると、人心が離反しますからね」
それは王虎もよく知っていた。あまり重税をかけて、上から押えつけて食えないようにすると、民衆というものは命がけで反抗してくるものである。王虎はこの地方に相当の勢力をはり、地盤もかためたが、民衆をまったく無視できるほど強大なところまでは行っていなかった。だから、現在以上に大衆の負担にならないような新しい課税方法を考え出さなければならなかった。そこで、この町の主要産業である酒ガメの製造に目をつけた。この地方でできる酒ガメ一個について銅銭一個か二個を課税するのである。
この地方の酒ガメは有名だった。みごとな陶土をねって、青いうわぐすりをかけ、酒を入れ、同じ美しい陶土でふたをして密封し、銘を入れるのである。この銘は、美しいカメにはいっている銘酒として全国に名が通っているのだ。王虎はこれを考えついたとき、腿《もも》を打ってよろこんだ。
「酒ガメの製造業者は、いい儲《もう》けをして、毎年、富をふやしている。ほかのものと同様に税を負担しないという理屈はないじゃないか」
腹心たちも、これは名案だと、よろこんで賛成した。王虎は、その日ただちにこれを施行することにした。施行にあたって、彼が主要な酒ガメ製造業者に、いんぎんに伝達させた説明の趣旨は、つぎのようなものであった。――王虎将軍は酒ガメの製造業者を保護した。酒の原料であるコウリャン畑が無事でありえたのは王虎の努力のおかげである。もし将軍がコウリャン畑を保護しなかったら、コウリャンは荒らされ、酒ガメに入れる酒はつくれず、酒がなければ酒ガメの需要もなかったであろう。保護をするには巨額の経費を必要とする。警備の兵隊を訓練し、武装させ、給与しなければならぬからだ。この費用を捻出《ねんしゅつ》するために税金を徴収しなければならないのである――。
説明の言葉はいんぎんだが、その背後には、二万人の兵力と銃剣がひらめいていた。酒ガメ製造業者は、ひそかに会合して、大いに憤慨してみたり、反抗の方法をいろいろ考えてみたりしたが、しかし王虎には思いどおりのことをする実力がある。けっきょく、これは拒否できないだろうということになった。王虎よりもたちの悪い支配者もたくさんいることだから、とあきらめたのである。
どうしても仕方がないということになると、彼らは進んで税金を出すことを承知した。そこで王虎は腹心を派遣して月々の生産を見つもらせ、税額をとりきめた。この税収入は、かなりの額にのぼり、王虎は三か月ほどのうちに、王商人に約束の銀を支払うことができた。こうして税の必要度は一時ほどさし迫ったものではなくなったが、そのころには酒ガメ製造業者もこの課税に慣れてきて苦情も言わなくなったので、その必要がなくなったとはけっして彼らに言わなかった。まったく、入手できるものは、いくらでも彼は取った。大望を果たす日まで、まだ道は遠いのだ。彼は野心にもえて、落ちつかず、あれこれと多忙な日々を送っていた。
この地方の住民から、もうこれ以上税をとることはできない。これ以上とると人心が離反するとみてとったとき、彼は器《うつわ》の大きな自分には、いま占拠している地方は小さすぎる、来春には、支配する地域をもっとひろげねばならぬ、と思った。天は、いつ無慈悲に凶作をもたらすかもしれぬ。大飢饉にでもなれば、こんな小さな地域を支配しているだけでは没落してしまう。王虎がきてから、この地方一帯では、二、三か所、小さな凶作があっただけで、全面的な大飢饉は一度もなく、運がよかったが、さきざきのことはわからない。
やがて戦争のできない冬がおとずれてきた。王虎は、暖かい冬ごもりの準備をととのえた。はげしい風雨の日でないかぎり、彼は部下を外へ出して訓練させた。部下のうち、もっとも優秀なものをみずから訓練し、この連中に他のものを訓練させるのである。王虎が、とくに心を用いたのは銃の管理であった。毎日、数と種類を記入した帳簿を手にして、自分の目の前で、検査させた。検査のときに一|挺《ちょう》でも紛失しているようなことがあれば、その責任者を、ひとりでもふたりでも三人でも死刑にすると、つねに警告していた。だれも命令にそむくものはなかった。あんなにも愛していた妻をさえ、怒ると一刀のもとに斬り殺したことを知っているので、人々は以前にもまして王虎を恐れた。そんなにまで怒ることができると思うと、彼の怒りが、ふるえるほどこわかったのである。王虎が黒い眉《まゆ》を寄せただけでも彼らは恐れてとび上がった。
きびしい北方の風が冬を送ってきた。外にも出られず、部下を外へ連れ出して訓練することもできないような陰《いん》うつな冬の日々がつづいた。とうとう王虎は、かねて予期していたもの、忙しくすることによって避けてきたものに、ぶつかってしまった。何もすることがなく、しかも彼は孤独であったのだ。
他の男たちのように、賭けごとに熱中したり、酒を飲んだり、宴会をして騒いだり、女を求めたりすることで心のうさを忘れることができたら、どんなにいいだろう、と彼は思った。しかし彼にはそれができなかった。彼は、にぎやかな宴席のごちそうよりも、簡素な食事のほうが好きだった。女は、考えただけでも胸くそが悪くなった。一、二度、賭けごともやってみたが、賭けごとに向くような性分ではなかった。サイコロをやってみても、うまくは振れないし、いい機会をつかむのが下手《へた》だった。そして負けると腹を立てて長剣に手をかけた。だから、いっしょに勝負をしている連中は、彼の眉がぴくぴく動きはじめたり、口もとが不機嫌そうにしぶくなると、びくびく恐れ、彼の大きな手が刀のつかにたれるのを見ると、あわてて王虎に勝たせてしまうのである。これではおもしろいはずはない。彼は退屈してどなる。「いつもそう言っているように、こんなものはばかもののすることだ」王虎は勝負をしても、気持ちが晴れることもないし、心が落ちつくこともないから、ぷりぷりしてそこを出てしまうのである。
昼間よりも夜は、なおつらかった。しかも夜は、かならずくるのである。夜は、ひとりで寝た。ひとりで寝なければならないから、昼よりも夜をきらった。もっと大きな苦労がありながらも、なんとか人生に楽しみを見いだして生きてゆく人もあるが、王虎は、そういう人のように歓楽を味わうことのできないたちで、苦痛の多い心の持ち主であった。王虎のような人間にとって、日夜、孤独に、さびしく暮らしているのは、けっしてよいことではなかった。また彼のような強健な肉体を持っている人間にとって、ひとり寝の床もまた、けっしてよいことではなかった。しかも友とすべきものはひとりもいないのである。
もちろん老県長は、まだ生きていて、肺病で死にかかっている老妻といっしょに奥のほうの建物に住んでいた。彼は人としては善良で学識のある老人であった。しかし王虎のような人物には慣れていないから、こわくてならず、王虎の前へ出ると、老いた両手を組んで、王虎が何か言うと、急いで、「そうですよ、閣下――そのとおりですよ、将軍」と言うだけだった。
王虎は、こんな調子でやられると、がまんできなくなって、恐ろしい顔で、にらみつける。すると老県長は、青くなって、やせてひからびたからだにまとった色あせた長衫《チャンサ》を引きずりながら、できるだけ早く逃げ出してしまうのである。
それでも王虎は公正な人間で、老県長ができるだけのことをしているのは知っているので、なるだけ、かんしゃくを起こさぬように注意していた。かんしゃくが起きて、思わず自分の手がとんで老県長に危害を加えるようなことがあっては気の毒だと思い、かんしゃくが起きないうちに、急いで老県長を目の前から去らせることも、しばしばあった。
そのほか腹心の部下もいる。三人とも、りっぱな勇士である。とくに鷹《イン》は、知謀にかけては、一千人の兵隊よりも役に立つ。けれども、けっきょく彼は無知な人間にすぎない。話題にすることといったら、武器の持ち方とか、拳《こぶし》の使い方とか、敵に応接のいとまをあたえぬように左右の足を交互に蹴あげる方法とか、戦場で敵をあざむくための詐術《さじゅつ》とか、そんなことばかり、くりかえしくりかえし語るだけだ。どこそこの戦場で、ああしたとか、こうしたとかいう話を何度も聞かされているので、王虎は鷹の価値を尊重してはいても、話相手としては退屈なのである。
豚殺しは体当たりで大きな門を押し倒すほど巨大なからだと、大きなすばしこい両挙を持ってはいるが、図体ばかり大きくて、気がきかず、訥弁《とつべん》で、冬の夜の話の相手としては、好適ではない。みつ口は戦闘にかけては、あまり優秀ではないかもしれないが、一ばん誠意のある忠実な腹心で、使者として派遣して用を弁じさせるには最適任者であった。しかし割れたくちびるから息をもらし、唾《つば》をとばしながらしゃべるので、冬に語る相手としては、けっして愉快ではない。あばたの甥《おい》は、一世代若いから、まともな話相手にはならない。
王虎はまた兵隊たちにまじって宴会で飲んだり騒いだりするようなこともしなかった。将軍がそんなことをして部下に同じ人間だと思わせ、弱点をさらけ出したり泥酔したところを見られたりすると、戦場にのぞんだときに尊敬もしないし、命令にも服従しなくなるかもしれないからである。だから王虎は、いかめしい軍装に身をかため、いまでは愛してもおり憎んでもいる例の鋭い長剣を帯びなければ、けっして兵隊たちの前にあらわれなかった。まさしくこの世に匹敵するもののない鋭利な名剣であった。彼は、ひとりでいるとき、よくその長剣を抜き放っては思いにふけった。それは黒雲を真二つに斬るだろうとさえ思われた。妻ののどは、あの夜、雲のようにやわらかだった。そしてその夜、この長剣は妻ののどを刺しつらぬいたのである。
かりに王虎に、日中、語りあう友がいたところで、一日の終わりには、かならず夜がくるのである。夜は、どうしてもひとりでいなければならない。ぽつねんと寝台に横たわるしかないのである。冬の夜は、長く、そして暗い。
そのような暗い長い冬の夜、ときどき王虎は、ひとり寝ながらローソクをともして、少年時代に愛読し、功名心をかき立ててくれた三国志や水滸伝《すいこでん》を読んだ。それに似た勇壮な物語を、いま彼はいくつか読んだ。けれども際限なく読んでいられるものではない。ローソクが芯《しん》まで燃え落ちるときがくる。彼は寒くなる。そして、暗い、つらい夜を彼はひとりで寝なければならないのである。
この時間を、毎夜なんとかして延ばそうとするのだが、やはり避けられなかった。愛する妻を思い出す時間である。彼は悲しかった。しかし、悲しみながらも、彼女が生きていてくれたらとは、けっして望まなかった。彼女が、けっして彼が信じ胸襟《きょうきん》を開いて心底から愛しうるような女でないことは、もう知っているし、たえずそのことを自分に言いきかせていたからだ。かりに彼が妻を許し、殺さずにおいたとしても、つねに彼は妻を恐れていなければならなかっただろう。そして、そのような恐れは彼の心を分裂させたであろうし、引きさかれた半分の心で栄達への道を進んだところで、彼の大望を成就することはできないであろう。
夜、彼は自分にこう言いきかせるのであった。しかし、それにしても普通の匪賊にくらべていくらかましなくらいの、ただの無知な男にすぎない豹《バアオ》将軍が、どうして、あのただものとは思えぬ女の愛をかちえたのであろうか。豹将軍が死んだのちまでも、彼女は豹に愛着を持っていた。生きている自分が、あれだけ愛したにもかかわらず、女は死んだ彼を忘れなかったのである。そう思うと胸が痛んだ。
というのは王虎は、妻が自分を愛していなかったとは信じられないからである。彼がいま横たわっているこの寝台の上で、いかに彼女が情熱的で奔放であったかを、いくたび彼は、むさぼるように思い起こしたことであろう。愛のないところに、あのような情熱がわき出てくるとは信じられなかった。生きている自分が、死んだ豹ほども彼女の心をとらえ得なかったとすると、これだけの地位があり誇りを持っていても、どこか自分は、自分が殺した豹将軍よりも人間として劣っているのではあるまいか。そう思うと、気持ちが沈み、気分がめいってきた。もちろん自分が豹将軍よりも劣っているとは思えなかった。しかし、そうにちがいないと感じないわけにはいかないのである。
自分で思っていたほどの人間ではなかったと感じると、自分の前途が、いたずらに長く無意味にひろがっているような気がしてきて、はたしてえらくなれるのかどうか、疑わしくなってくる。かりにえらくなったところで、その偉業を伝えるべき子供がない以上、すべては死とともにうしなわれ、持っているものは他のものの手に渡ってしまうのだから、なんの役にも立たない。戦場で戦ったり、策略をめぐらしたりしてまで、何かを残したいと思うほど、兄や兄の子供たちを愛してはいない。彼は暗い静かな部屋のなかでうめいた。苦しいうめき声がもれた。
「おれはあの女を殺したときふたりを殺したのだ。ひとりはおれが持つはずであった子供だ」
それから彼は、ふたたび思い出す。すると、きまって妻の死んだ姿が目にうかんでくる。白い美しいのどを突き刺され、傷口から真赤な鮮血がほとばしり出ている、その光景が彷彿《ほうふつ》として、いつまでも瞼《まぶた》から去らないと、彼は、たまらなくなってきて、急にこの寝台に寝ていられなくなるのであった。もちろん寝台は洗い清められ、塗りなおしてあるから、どこにも血のあとはないし、枕も新しい。また、だれにもこの寝台の上で起こったことを語らないし、妻の死体がどこで処分されたかも王虎は知らないが、とにかく寝ていられなくなるのである。起きて、ふとんにくるまって、暁の弱い光がほの白く窓からさしこむまで、みじめな気持ちで椅子の上でふるえているのであった。
こうして冬の夜は、毎夜、同じように過ぎて行った。とうとう王虎は、これではやりきれないと心に叫んだ。こうした悲しい、わびしい夜がつづくと、しだいに気が弱くなり、大望も消えてしまう、と気がついたからである。彼は自分で自分が恐ろしくなってきた。何にたいしても興味が持てず、そばへくる人にたいしても、いらいらして、すぐかんしゃくを起こすからだ。とくに、あばたの甥にたいしては、かんしゃくをおこしてつらくあたった。彼は苦々《にがにが》しげに言った。
「こいつが、おれの縁つづきでは一ばんましな人間なのだ。この、にやにやした、おどけたあばた猿が――この商人の子――これが自分に一ばん近いのだ」
ついに、ほとんど発狂するのではないかと思われたときになって、彼の心に一つの転機がおとずれた。彼は、ある夜、ふと思った。もしあの女が生きていれば、きっとそうしたであろう破滅への道、死んでしまったいまも、なお彼女がたくらんだとおりの破滅への道を自分は進んでいるのでないか。そう気がついたとき、彼は突如として立ち直った。そして、妻の亡霊にいどむかのように心のなかで言った。
どんな女だって子は生めるではないか。おれは女よりも子供がほしいのだ。そうだ、子供をもうけよう。子供ができるまで、ひとりでもふたりでも三人でも妻を持とう。いつまでもひとりの女に恋着しているなんて、おれは、ばかだった――最初は父の家の奴隷の梨華《リホワ》だった。よく知りもしないし、奴隷に話すような断片的な言葉をかわしたことしかないあの女を思いつづけて、ほとんど十年近くも胸をいため苦しんだ。そのつぎは、どうしても殺さねばならなかったあの女だ。この女もまた、いつまでも忘れることができずに、あと十年間も未練に苦しむのか。十年も苦しんでいたら、子供もできない年寄りになってしまうではないか。いや、おれも、ほかの男のようになる。ほかの男のように自由になれるかどうか、ためしてみよう。女を手に入れて、気にいらなければ、いつでもすてるのだ。
あくる朝、王虎は、みつ口を自分の部屋へ呼んで言った。
「おれは女が必要だ。まじめな女なら、どんなのでもよい。兄のところへ行って、妻が死んだから、新しい女房をさがしてくれるように頼んでくれ。いずれ春になれば戦争がある。おれはその準備で忙しい。それ以外のことで気を乱したくないからと言って頼んでくるのだ」
みつ口は、よろこんでこの使命を帯びて出発した。彼は王虎将軍の苦しむようすを嫉妬深い目で見て、いくらかその原因を察していたから、これはよい治療法だと思ったのである。
王虎は、運命と兄たちとが、どんな妻をみつけてくれるか、ただ待つだけであった。待っているあいだ、彼は戦いの計画に没頭し、勢力を拡張する方法を思いめぐらした。夜、疲れて眠れるように、うんと頭を酷使したのである。
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二十一
みつ口は、彼のような特長のある人間が、あまりしばしば往復すると人目について怪しまれると思うので、間道伝いに旅をつづけて城内へはいり、王家の兄弟が住んでいる宏壮《こうそう》な屋敷へたどりついた。ほとんど昼近い時刻で、王商人は事務所のほうへ行っているということであった。一刻も早く使命を伝えるために、すぐ事務所へ急いだ。王商人は市場に面した自分の事務所の小さな暗い部屋で、船に積んで出荷した小麦の利益を、ソロバンではじいていた。彼は顔をあげて、みつ口の話に耳を傾けた。聞き終わると、びっくりしたように細い目をみはり、うすいくちびるをすぼめて言った。
「いまなら嫁をみつけるより銀を用立てるほうが楽だよ。どうすればさがせるか、わしはぜんぜん心あたりがない。せっかくもらった嫁を亡《な》くすとは、まずいことをしたものだ」
みつ口は、自分をわきまえていることを示すために、低い椅子に、ななめにへりくだって腰をおろし、丁重《ていちょう》に言った。
「わたしがお願いしたいのは、将軍にめんどうをかけないで、将軍に愛されるような婦人をさがしていただきたいということでございます。将軍は、ふしぎなほど一途《いちず》な性質で、一つのことを思いこむと、まるで狂気のようにうちこんでしまうのです。亡くなった奥方を愛しておられて、いまだに忘れないのです。もう幾月にもなりますが、いまもって忘れられずに思いなやんでおられるのです。そんなに思いつめては、おからだにさわります」
「弟の嫁は、どうして死んだのかね」王商人は好奇心にかられてたずねた。
みつ口は、もうすこしでほんとうのことを答えそうになったが、王虎《ワンホウ》に忠実で、思慮の深い男だから、すぐに思いとどまった。軍人ならともかく、戦争に慣れていない人は、殺すとか死ぬとかいうことには堪えられず、吐気《はきけ》をもよおすだろう。兵隊は敵を殺すのが仕事で、殺さなければ、知謀をもって逃《のが》れぬかぎり、自分が殺されてしまうのである。だから殺すことをなんとも思わないのだ。そこで、みつ口はただ、「とつぜん出血して死なれたのですよ」と簡単に答えただけだった。王商人は、それ以上きかなかった。
彼は店員を呼んで、みつ口を小さな宿屋へ案内し、飯と豚肉をごちそうするようにと言いつけた。ふたりが行ってしまうと、彼はすわって思案した。
(さて、これはおれよりも兄貴のほうがよく知っている問題だ。兄貴が知っていることといえば女のことだけだからな。おれは女といったら自分の女房しか知らん)
王二《ワンアル》は、兄の王一《ワンイー》に会いに行くために立ちあがって、壁の釘にかけてある灰色の絹の着物を着た。この着物は、外出するときには着るが、事務所にいるときには、もったいないので、ぬいでいるのである。彼は兄の家へ行って、門番に、主人は在宅かどうかときいた。門番が案内しようとすると、王二は門のところで待っているから、と言った。門番がはいって行って奴隷女にきいてみると、賭博場へ行っていらっしゃいます、という返事だった。王商人はこれを聞くと、さっそくそこへ向かった。夜のうちに降った雪がまだ残っている寒い日だった。食うために出歩かねばならぬ行商人とか、兄のように遊びのために出て行く連中の通ったあとが、往来の中央を踏みかためて細い小道をつくっていた。王二は、まるで猫が石のごろごろした道をひろい歩くように、用心して歩いた。
彼は賭博場へ行って、そこにいる男に兄のいる部屋をきいた。扉を開けると、火鉢《ひばち》に炭をかんかんにおこして温かくした小さな部屋で、数人の友人たちと賭けごとをやっていた。
王一は、弟が扉から首を出したとき、勝負を途中でやめて席をはずせる口実ができたことを内心ひそかによろこんだ。中年から賭けごとをはじめたので、彼はあまり勝負がじょうずではないからだ。父の王龍《ワンルン》が生きていれば、息子たちに町の賭博場で賭博をすることなど許さなかっただろう。王一の長男は子供のときからやっているから頭もよく働くし、じょうずだった。二番目の息子でさえ、勝負に加われば、たいてい勝って銀をもうけてくる腕前を持っていた。
だから王一は、弟がなかば開かれた扉のあいだからのぞきこむと、よろこんで立ちあがり、あわただしく友人たちに向かって言った。
「弟が何か用事があるそうだから、やめなければならない」部屋が温かいのでかたわらへぬいでおいた毛皮の上着をとりあげて、王商人の待っているところへ出て行った。しかし、ちょうどいいところへきてくれてありがたい、とは言わなかった。賭けごとは頭のいいものが勝つものと思っているので、勝負に負けたとは、面子《めんつ》の上からも言えないのである。彼はただ、「何か用事かい」と言った。
王商人は例によって、よけいなおしゃべりはしなかった。
「ここに話のできるところがあるなら、そこへ行きましょう」
王一は茶を飲むテーブルのならべてある部屋へ案内した。すこし離れたところにある静かなテーブルを選んで腰をおろした。王一は茶と酒を命じた。そして時刻に気がついて肉やその他の料理を注文した。そのあいだ王二は黙って待っていた。給仕が向こうへ行ってしまうと、王二は、すぐさま用件を切り出した。
「末の弟が、女房が死んだから代わりがほしいというんですよ。今度はわれわれのところへ頼んできたわけです。こういうことについては、わたしよりも兄さんのほうが適任だと思いましてね」
こみあげてくるひそかな笑いをおさえるために、王二は、くちびるをひきしめた。しかし王一は、それには気がつかず、大きな声で笑った。ふとった頬の肉がゆれた。
「まあ、おれの知っていることといったら、その方面のことだけだろうな。おまえの言うとおりだよ。家内の前でそんなことを言われちゃ困るがね」
彼は笑って、こういうことを話題にするとき男たちがよくやるように、妙な目つきをした。王商人は、兄の冗談の相手をしようともせず、黙って待っていた。王一も、まじめになって言葉をつづけた。
「ちょうどいいときに言ってよこしたよ。おれは、うちの長男の嫁をさがすために城内の娘たちのことを調べていたところなんだ。これはと思うような娘は、たいてい知っている。うちの長男には県長の弟の娘で十九になるのと婚約させようと思っているんだ――善良な、いい娘だよ。もう家内も、その子の刺繍《ししゅう》やなにかを見たんだ。美人ではないが、貞女らしい。ただ一つ困っているのは、長男のやつめ、自分の妻は自分でみつけるなどというばかな考えを持っていることだ――南のほうでは、そんなことがはやっているのだそうだね。おれは長男に言ってやった。ここでは、そんなことをするわけにはいかん、好きなのがあったら、正妻とは別に第二夫人にすればいいじゃないか、とね。せむしの子は、家内が家族のなかから、だれか僧侶にしたいと言っているので僧侶にしようと思っている。からだのりっぱな、ちゃんとした子を坊主にするのはもったいないからね」
王商人は兄の家庭のそういった事柄にはぜんぜん興味を持っていなかった。どの息子でも、早晩、結婚しなければならないのはあたりまえで、自分の息子だって、そのとおりである。だが息子の結婚のことなどに彼は時間を浪費したくなかった。そんなことは妻の責任だと考えているので、すべて妻にまかせているのである。ただ、嫁として迎える女は、健康で、働きもので、貞節でなければならない、とだけ言ってある。王商人は兄の長話にがまんができなくなって言った。
「その娘たちのなかに、弟の嫁としてふさわしいのがいますか。弟みたいに一度結婚したことのある男に、よろこんで娘を嫁にやる親がいるでしょうかね」
けれども王一は、こういう風流な問題については、けっしてせきこんだりはしなかった。あれこれと、彼自身が見たのや他人から聞いた娘たちの記憶をゆっくりと思いめぐらしてかち、やっと返事をした。
「たいへんいいのがいるよ。それほど若すぎるというほどではない。学者の娘だ。その学者は男の子がいないので、自分の学問をだれかに伝えたいというので娘に教えこんだのだそうだ。このごろ世間でいう新しい女だね。学問があって、纏足《てんそく》もしていない。そんなふうで、ちょっと変わっているので婚期がおくれたのだ。こういう女を嫁にもらうと家庭にめんどうなことが起きはしないかと心配して、みんな敬遠するわけさ。しかし南のほうには、こんな女が、たくさんいるそうじゃないか。ここは、小さな古い町だから、そういう女を理解しないのだろうね。その娘は、どんどん町へも出てくるよ。おれも一度見たことがあるが、とても上品で、あたりをきょろきょろ見まわしたりなどしない。学問のある女は、みっともない顔をしていると思われがちだが、それほどみにくくはないよ。若くはないといっても、まだせいぜい二十五、六だ。弟は、そんな一風変わった女を好くだろうかね、どう思う?」
これにたいして王商人は、にえきらぬ返事をした。
「その女は、よい主婦となって弟の役に立ちそうですか。弟も普通には読み書きができるし、かりにできなくても、必要なときには学者を雇えばいいのだから、妻の学問を必要とするとは思えませんがね」
給仕人が何度も料理を運んでくるので、自分の皿へそれをとり分けるのに忙しい長兄は、瀬戸物のさじにスープをすくって持ち上げた手を途中でとめて、大きな声で言った。
「弟は召使でも下女でも雇える。女がいい女房になれるかどうかは、何ができるかということじゃないよ。かんじんなのは、男の気に入るかどうかということさ。ことに弟のように女道楽をしないやつには、それが大事なんだ。おれはときどき思うのだが、夜寝るときに、女房がそばにすわって、詩や恋物語を読んでくれたら、愉快じゃないかね」
しかし、そんなことは王商人の性《しょう》に合わなかった。彼は栗《くり》といっしょに煮た鳩の料理をじょうずに自分の皿にとりわけ、箸《はし》で注意深く骨のあいだの肉をつまみ出して食べながら言った。
「わたしなら、家計のやりくりがじょうずで、子供を生んで、むだづかいをしない女が好きだ」
王一は急に腹を立てた。彼は子供のときから、なんでもないことに腹を立てるわがままなくせがあるのだ。ふとった顔が暗赤色に変わった。王商人は、兄と自分とは、この点ではけっして一致することがないと見てとった。どんなに風変わりでも、女は女であるにすぎず、けっきょくのところ、男に奉仕することに変わりはない、こんなことで議論して貴重な時間を浪費するのは、もったいないのだ。そう思って王二は、すぐに言った。
「よくわかりました。あの弟は貧乏じゃないのだから、妻をふたり選んでやりましょう。兄さんは、兄さんが一ばんいいと思うのを選んでください。その女とまず結婚させましょう。そのあとでわたしが選んだのを送りましょう。一方が気に入って他のほうはいらぬというなら、それはまあ弟の自由ですが、とにかく弟くらいの地位にあるものは、女房がふたりいたところで多すぎはしませんよ」
こうしてふたりは妥協した。王一は自分の選ぶ女が正式の妻になることに満足した。だが、よくよく考えてみると、長兄であり家長である自分のきめた女が正妻になるのは、あたりまえの話で、王二は自分の選んだ女はあとから送るなどと譲歩したようなことを言っているが、どんな男でも、結婚当夜、ふたりの妻と寝るわけにはいかないのだから、けっきょく、たいした譲歩ではないわけである。ともかく、こうして話し合いがつくと、ふたりは別れた。王一は、さっそく自分のひきうけた仕事にとりかかることにし、一方王商人は女房と相談するために家へ帰った。
家に着くと妻は門前の雪の残っている往来に立っていた。両手を前掛けの下に入れて温めているが、ときどきその手を出しては、行商人が売りにきた鶏の胃袋にさわってみている。雪が降ると鶏は自分でエサをさがすことができない。だから、鶏の値が下がるのである。もう二、三羽ほしいと思っていたところなので、王二の妻は、夢中になって鶏のほうばかりながめていて、夫がそばへきても顔もあげなかった。王商人は家へはいろうとして妻の横を通り過ぎながら声をかけた。
「おい、それがすんだら話がある」
彼女は、急いで二羽のめんどりを選んだ。行商人が脚をしばってはかりにかけるとき、目方のことでちょっとやり合ったのち、やっと値段がきまって、家のなかへはいってきた。めんどりを椅子の下に投げこみ、夫の話を聞くために、その椅子の上に、ななめに腰をおろした。
王商人は、そっけない、事務的な調子で言った。
「弟の家内が急に死んだので後妻をほしがっている。おれは女のことは何も知らんが、おまえはこの二年間、息子たちの嫁をさがすために一生けんめいになっている。弟の嫁にいいようなのがあるかね」
彼の妻は誕生、葬式、結婚というようなことには非常に興味を持っていて、いつもそんなことばかり話題にしているので、即座に答えた。
「わたしの実家の隣の家に、よい娘がいます。もう少し若かったら、うちの長男の嫁にほしいくらいいい娘です。気立てのよい、倹約な娘で、何もいうところはないんですが、欠点は子供のときから歯が虫くいで黒くなっていることです。ときどき抜けるようです。でも、恥ずかしがって歯を見せないように口を結んでいますから、ちょっと気がつきませんよ。口を結んでいますから、あまりおしゃべりもしないし、大きな声も出しません。父親も、そう貧乏ではなく、土地も持っています。すこし婚期がおくれていますから、そんなよい結婚ができれば、父親もきっとよろこぶと思いますよ」
王商人は無愛想に言った。
「口数が多くないというのは、それだけでもたいしたことだ。その話を進めてみてくれ。兄貴の選んだ女との結婚式がすんでから、その娘を弟のところへ送ろう」
そして、ふたりの妻を選ぶことになった話をすると、妻は声を高めて言った。
「兄さんの選んだ人をお嫁さんにするなんて、気の毒ね。だって兄さんは変な女しか知りませんもの。もしまた嫂《ねえ》さんが口を出したら、尼さんみたいな女を選ぶでしょうよ。このごろ嫂さんは、坊主や尼さんに血道をあげて、家じゅうのものにお経ばかりあげさせているんですとさ。病気で熱があるとか、子供が生まれないとか、そんなときにはお寺へ行くのもいいでしょうけれど、神さまだって仏さまだって、人間と同じようなもので、年じゅう、うるさく、あれこれと祈ってばかりいるような人間はきらいですよ」
彼女は床に唾《つば》をはき、足でこすりつけた。そして、椅子の下へ入れておいためんどりのことを忘れて、足をうしろへ引いた。めんどりは、その足にけられて、けたたましい鳴き声をあげた。王商人は立ちあがって、いらだたしげに言った。
「こんな家は見たことがない。家じゅうどこにでも鶏を飼っておかなくちゃならないのか」
妻は、あわてて椅子の下からめんどりを引っぱり出しながら、いかに安く買ったかを説明しはじめた。王商人は、それをさえぎって言った。
「もういい――もういい――おれは取引所へ帰らなければならん。いま言ったことは、おまえがやってくれ。きょうから二か月目に娘を弟のところへやることにしよう。費用のことは、よく気をつけて、おぼえていてくれ。二度目の結婚の費用を負担する必要は法律上ないんだからな」
こうしてふたりの娘が選ばれて王虎と婚約することになり、書類が作製され、王商人は、それに要した費用を全部、注意深く帳簿に記入した。結婚式の日どりは一か月後と決定された。
結婚式にさだめられた日は年末にあたっていた。このことを通知された王虎は、二度目の結婚のために兄の家へ行く準備をした。気は進まぬが、しかし結婚する決心はしているから、もろもろの思いや心の迷いをふり切って、腹心に留守をまかせることにし、留守中にもしめんどうなことが起こったら、あばたの甥《おい》を急使として派遣するように、彼をあとに残すことにした。
したくがすむと、王虎は形式上、老県長に、結婚式のために五日と往復の旅行に六日の休暇を願い出た。老県長は即座に許可をあたえた。王虎は、留守中に県長が王虎の地位をくつがえす陰謀などたくらむ気を起こさないように、軍隊と腹心を残して行くことを故意に強調しておいた。
一ばんりっぱな礼服は、つつんで鞍につけ、二ばん目の礼服をつけて、王虎は故郷めざして南へ向かった。多くの軍閥の将領たちは、こういうときには、数百人の護衛兵がとりまいて警備に当たるのが普通であるが、大胆な彼は、わずか五十名の護衛兵を連れているだけであった。
冬枯れの田舎道を王虎は馬にまたがって進んで行った。夜は村の宿に泊まり、明ければまた霜に凍りついた道を急いだ。春のきざしは、まだどこにも見えなかった。灰色の土地が荒蓼《こうりょう》として横たわっていた。灰色の土で築き、灰色のワラでふいた農家が、まるで土地の一部であるかのように見えた。北から吹いてくる風とほこりに痛めつけられた農夫たちの顔も同じように灰色であった。王虎は、この三日間、生まれ故郷の家に向かって馬を進めながら、心になんのよろこびもわいてこなかった。
故郷の町へ着くと、まず結婚式をあげることになっている長兄の家へ行った。簡単なあいさつがすむと、結婚する前に、子としての義務として亡父の墓に詣《もう》でてきたい、と言った。みんなこれに賛成した。ことに王一の第一夫人は熱心に賛成した。王虎は遠いところにいて、家族が法事をするときにも出席できなかったのだから、墓参は子として当然の義務なのである。
王虎は、もちろん子としての義務をわきまえている。墓参できるときには、いつもするのであるが、しかし、いま墓参を思い立ったのは、それだけの理由ではなかった。どうしてかわからないが、心が落ちつかず、さびしくてたまらなかったからである。兄の家に何もせずにすわっているのも耐えられなかった。また近づく結婚式をよろこんでいる兄のおしゃべりの相手になっているのもたまらなかった。兄の家にいても、わが家のような気持ちもせず、何か胸が圧迫されるような重苦しい思いなので、外へ出て彼らから離れる口実を考えなければならなかったのである。
部下に命じて、紙銭や線香など墓参に必要なものを買わせ、馬にまたがり、銃をかついだ部下をしたがえて城外へ出た。道ゆく人々が目をみはって彼の姿を仰ぎ見るのに、いささかなぐさめを感じた。何も見ず何も聞かぬように、昂然と顔を正面に向けて進んでいたが、部下が荒々しく叫ぶ声が耳にはいってくる。「道をあけろ。将軍さまのお通りだぞ」人民どもが、あわてて身をちぢめ、ぴたりと塀《へい》によりそったり、びっくりして門に逃げこんだりするのを見て、自分が人民どもにとって、そんなにえらく見えるのかと思うと、いささか得意になり、いよいよ威風堂々たる態度をつくって進んで行った。
やがてナツメの木の茂る亡父の墓地に着いた。王龍が、はじめてここを墓地とさだめたころには、このナツメの木は、まだしなやかな若木であったが、いまは曲がりくねって、こぶだらけであった。そして根もとから、幾株もの若木がわかれて出ていた。王虎は亡父に敬意をあらわすために、墓地からずっとはなれたところで馬を降り、ゆっくりとナツメの木に歩みよった。部下のひとりが赤毛の馬の手綱《たづな》を持って立っていた。王虎は、うやうやしい態度で、静かに亡父の墓の前へ行き、三拝の礼をした。紙銭や香を運んできた部下が、前に進み出て、王龍の墓にその大部分を供え、ついで王龍の父、王龍の弟、それから王龍の妻――王虎が母としてかすかにおぼえているにすぎない阿藍《オーラン》の墓の順に供えた。
王虎はふたたび、うやうやしい態度で、静かに墓前に進み、線香に火をつけ、紙銭を焼き、ひざまずいて頭をさげて、順々にどの墓の前でも同じことをくりかえした。それがすむと、立ったまま、身じろぎもせずに物思いにふけっていた。火が燃えて金や銀の紙銭が灰となった。線香の煙は冷たい大気のなかに、鋭い香りをただよわせた。陽《ひ》もささず、風もない、雪もよいの、灰色に曇った寒い日である。線香の細い煙が、うす暗い空に、くっきりと立ちのぼった。将軍が亡父をしのんで物思いにふけっているあいだ、部下は物音一つ立てずに待っていた。
やがて王虎は身を返して馬のところへ行き、馬上の人となって、もときた道をもどって行った。物思いにふけっていたとき、彼はすこしも父の王龍のことを考えていたのではなかった。自分のことを考えていたのである。彼が死んで地下に横たわっても、子として墓に詣《もう》でてくれるものがひとりもいなかったらどうであろうか、と思ったのだ。そう思うと、結婚することにしてよかったと思った。やがて子ができるだろうという希望が、心のさびしさを、いくらかなぐさめてくれるのである。
王虎が馬を進ませて行く道は、例の土の家に沿うて、表の打穀場の前を過ぎる。梨華《リホウ》といっしょに住んでいたせむしが、馬の音や兵隊の足音を聞きつけて、ころぶようにかけ出してきて、目をまるくしてながめていた。彼は王虎を知らなかった。むろんそれが叔父だとはわからないので、道ばたに立って、黙ってながめていた。もう十六歳で、成人する日も近いはずなのに、まだ六、七歳の子供くらいの背たけしかなく、背中が鉤《かぎ》のように曲がっていた。王虎は、せむしを見て驚いた。そこで馬をとめてきいた。
「おれのこの土の家に住んでいるおまえは、いったいだれだ」
それで若者は叔父だと知った。将軍になっている叔父のことは、かねて聞いていた。何度もその叔父を夢み、どんな人だろうと思っていたのである。だから、いま言葉をかけられると、なつかしそうに叫んだ。
「叔父さんですか」
そう言われて王虎も思い出した。仰向いている少年の顔を見おろして言った。
「そうそう、兄のところにおまえのような子供がいると聞いたことがある。おれたちはみな、まっすぐなからだで、丈夫だし、死んだ父は、年をとってからも達者で腰も曲がらなかったのに、おまえのような子が生まれるとはふしぎだ」
「ぼくは落とされたんです」と少年は、そういう質問には、もう慣れっこになっているらしく、こともなげに答えた。答えながらも、叔父と赤毛の馬をむさぼるように見ている。やがて彼は王虎の銃のほうへ手をのばした。奇妙な老人のような顔に、悲しげにくぼんだ小さな目が、好奇心にもえている。
「ぼく、外国製の銃を持ったことがないんです。ほんのちょっとでいいから持たせてくれませんか」
のばした少年の手は、老人のようにやせて、ひからびて、しなびていた。王虎は急にこの背中の曲がった子がかわいそうになり、銃を渡してやった。そして、少年が満足するまでながめたりさわったりさせるつもりで待っていると、戸口へだれかが出てきた。梨華であった。王虎は、すぐに梨華だとわかった。以前よりもやせてはいるが、あまり変わっていないからだ。青白い瓜実顔《うりざねがお》をしていたが、いまも糸のように細い皺《しわ》が白い皮膚にうすくきざまれているだけである。髪の毛は昔と同じように黒くて、なめらかだ。王虎は馬からは降りずに、ぎごちなく、しかしていねいにおじぎをした。梨華も軽く礼をした。もし王虎が声をかけなかったら、すばやく家のなかへかくれてしまったことだろう。
「白痴の姉はまだ達者ですか」
梨華は例のやわらかい低い声で答えた。
「達者でございます」
王虎は、ふたたびきいた。
「毎月のものを、ちゃんと受けとっていますか」
彼女は同じような調子で答えた。「ありがとうございます、いただいております」梨華は顔を伏せ、打穀場のすりへった土間をみつめていたが、答え終わると、急いで身をひるがえして家のなかへはいってしまった。王虎はだれもいない戸口をながめていた。
やがて、とつぜん少年に向かって言った。
「おばさんは、どうして尼さんみたいな着物を着ているのかね」王虎は自分でも気がつかぬうちに梨華の灰色の着物が尼のように首のところできっちりと合わされているのを見ていたのである。
せむしは、一心に銃をなでたりさすったりしていたので、自分の言うことをあまり考えもせず、口から出るままに答えた。
「白痴が死んでしまったら、おばさんは、この近くの尼寺へ入って尼さんになるんです。いまではおばさんはぜんぜん肉を食べません。お経をたくさん知っていて、もう尼さんと同じです。けれども、おじいさんから白痴の世話を頼まれているので、白痴が死ぬまでは髪も切らないし、世を捨てないんです」
王虎は、これを聞くと、なんとなく心に痛みを感じて、しばらく黙っていた。それから少年に向かって気の毒そうにたずねた。
「おばさんが尼寺へ行ってしまったら、せむしのおまえは、どうするのかね」
すると少年は答えた。「おばさんが尼寺へはいったら、ぼくはお寺へ行って坊さんになるんです。ぼくはまだ子供だから、これからさき、まだまだ長生きすると思います。ですからおばさんは、ぼくが死ぬまでは待っていられないんです。でも、坊さんになれば食べていけますし、病気のときは――この背中のこぶのために、ぼくはよく病気するんですけど――親類ですからおばさんが看病にきてくれます」少年は、こともなげに言った。すると急に声の調子が変わり、熱情にあふれて、なかばむせび泣いているような調子になり、王虎を見あげて叫んだ。「そうだ、ぼくは坊さんになるんだ――まっすぐなからだだったら、兵隊になりたいんだけど――もし叔父さんが兵隊にしてくださるなら――」
せむしのくぼんだ暗い目のなかには、火のように燃えるものがあった。王虎は心を動かされた。彼は根は情にもろいたちなので、悲しげに答えた。
「叔父さんは、よろこんで兵隊にしてやりたい。だが、おまえのそのからだでは、かわいそうだが坊さんにでもなるしかないだろうな」
少年は奇妙な形に肩のなかに沈みこんでいる頭をたれて、小さな低い声で言った。
「わかっています」
少年は何も言わずに王虎に銃をかえし、背を向けてびっこを引きながら、打穀場の土間を横ぎって家のなかにかくれた。王虎は結婚式をあげるために、そこを立ち去った。
こんどの結婚式は王虎にとっては奇妙なものだった。ぜんぜん心が燃えないし待ちこがれるという気持ちもなかった。夜も昼も同じであった。かんしゃくをおこしたときをのぞけば、何事についても、いつもそうなのだが、この結婚式も、彼は静かに礼儀正しくやってのけた。しかし、死んでいる心には、愛も怒りも、ひとしく遠いものとしか思われなかった。赤い衣装をつけた花嫁の姿も、自分とはまるで関係のない、遠くはなれた、ぼんやりとしたもののように思われた。来客の姿も、兄たちやその家族たちの姿も、杜鵑《ドチュエン》の肩にもたれた蓮華《リエンホワ》のおそろしく肥満した姿も、すべて同じであった。しかし一度は蓮華のほうを見た。彼女は、ふとりすぎて、呼吸するにも苦しげにあえいでいた。兄たち、花嫁の付き添い人、客人、その他、こうした儀式において、おじぎをしなければならない人たちにたいして立っているあいだも、蓮華の苦しげな息づかいが耳にはいってきた。
やがて結婚の宴に移ったが、彼はほとんど、どの料理にも箸《はし》をつけなかった。たとえ再婚ではあっても、愉快にすべきがほんとうだから、王一は、さかんに冗談を言いはじめた。来客は笑い声を立てるが、王虎がむずかしい顔をしているものだから、せっかくの笑いが弱々しく消えてしまうのであった。王虎は自分の結婚の宴なのに、一言も、ものを言わなかった。酒がくると、まるでのどが乾ききっているかのように、急いで杯《さかずき》をあげた。しかし、ちょっと味をみると杯を下において、苦々《にがにが》しげに言った。
「こんな酒しかないと知っていたら、おれの地方の酒を持ってくるのだった」
幾日にも渡る結婚の儀式をすませると、王虎は、ふたたび赤毛の馬にまたがって帰途についた。花嫁は女中といっしょにラバにひかせた馬車に乗り、とばりをおろして、そのあとにしたがったが、王虎は一度もそのほうをふりかえらなかった。きたときと同じに、ひとりで旅をしているようなようすで、部下をすぐうしろに、さらにそのうしろに馬車を従えて、馬を進めて行った。こうして王虎は、彼の支配する地方へ花嫁を連れてきた。それから一、二か月の後、次兄の選んだ娘が、父親に連れられてきた。王虎は、この娘もそのまま受け入れた。彼にとっては、ひとりもふたりも同じことなのである。
新年とその祝賀の祭日が近づき、そして過ぎていった。木々の枝には、まだ春のきざしは何も見えないが、大地の下には、すでに春が動きはじめていた。冷たい灰色の日に雪が降ることがあっても、長くは積もっていないで、南から気まぐれのように吹いてくる暖かい風のために、積もる間もなくとけてしまうほどで、どことなく春のきざしが感じられた。畑の小麦は、まだ伸びるところまでは行っていないが、あざやかな緑になってきた。いたるところで百姓たちは、何もしない冬ごもりから抜け出して、農具の手入れをしたり、よく働かせる用意に牛の飼料を増したりしていた。路傍には雑草が芽を出しはじめた。子供たちは、小刀を持ち、小刀のないものは、とがった木片や金属のかけらを持って、いたるところをうろつき回っている。青い草の芽を食料にするために掘るのである。
軍閥の将領たちも冬ごもりからさめて動きはじめた。兵隊は飽食したからだをのばし、賭けごとにも、けんかにも、駐屯している町を歩きまわることにもあきてしまって、この春の、きたるべき新しい戦争における自分の運命は、よいだろうか悪いだろうか、などと考えていた。どの兵士にも、いくらかの夢がある。自分より上のものが戦死して、自分がその地位に昇進するのを望んでいるのである。
王虎もまた、これからやりたいことを考えていた。彼は一つの計画を持っていた。それはすばらしい計画であった。心身をさいなみ消耗させる情熱も死んだから、いまはその計画に一心にうちこむことができた。その情熱は、かりに死んでいないにしても、どこかへ葬られていた。その記憶になやまされると、彼は、ふたりの妻のどちらかのもとへ行った。そして肉体のおとろえを感じると、元気をつけるために、さかんに酒をあおった。
彼は公平な人間だから、どちらか一方をとくに寵愛するようなことはしなかった。ふたりの妻は、それぞれ非常にちがっていた。ひとりは学問があり、清楚《せいそ》で、静かで、落ちついていて、そこが好ましかった。ひとりは、どことなく田舎びていて粗野な感じがするが、しかし貞淑で親切だった。この女の最大の欠点は、歯の黒いことと、そばへ寄ると息がくさいことだった。王虎にとって幸運なのは、このふたりの妻がけんかをしないことであった。これは王虎の公平な態度のせいもあったろう。この点については彼はひどくきちょうめんで、ふたりのところへ交替に行くのであった。じつをいうと、ふたりとも彼にとっては同じなのである。どちらも好きではないのだ。
もはや自分が欲しないかぎり、ひとりで寝る必要はなくなった。ただ、どちらの妻とも、うちとけた間柄にはならなかった。いつも不愛想に彼女たちのところへ行き、さだまった目的を果たすだけで、話もしなかった。どちらにたいしても、殺した妻にたいしたときのような、うちとけたところがなく、けっして気を許すようなことはしなかった。
ときどき、男が女にたいして、どうしてこうもちがった感情を持ちうるのであろうか、と考えさせられた。考えているうちに、死んだ妻は自分にたいして、けっしてうち明けたところがなかったではないか、と苦々しげに自分に言い聞かせた。娼婦のように奔放な情熱を示したときですら、そうではなかった。いつか彼を裏切る計画を胸にひそめていたのだ。そう思うと、ふたたび王虎は心を閉じて、欲情だけをふたりの妻によって満足させた。そして、すくなくともふたりのうち、どちらかが子を生むであろうと考え、それが彼の野心への新しい光明と希望とを燃え立たせた。この希望によって、彼の栄光への夢は、もう一度鼓舞された。この年、この春こそ、どこかと大きな戦争をして、権力と広大な領土とをかちとるのだと心に誓った。すでに勝利は彼のもののように思えた。
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二十二
春もたけなわとなり、白い桜の花や淡紅色の桃の花が、軽やかな雲のように、緑なす野にたなびいている。王虎《ワンホウ》は腹心の部下を集めて戦争の協議をした。彼らは二つのことを待っていた。第一は北と南の軍閥のあいだに、新たに戦争がはじまるかどうか情勢を知ることである。前年、彼らのあいだに成立した休戦は脆弱《ぜいじゃく》な一時的なもので、風や雪や泥のなかで戦う不便さから結んだ冬のあいだだけの休戦にすぎない。
それを別にしても、南と北の軍閥は本質的に相容《あいい》れないものを持っている。北方人は、からだが大きく鈍重ではあるが、勇猛だ。南方人は、敏捷で、策略にとみ狡猾《こうかつ》である。そのように気質がちがうばかりでなく、人種的にも言語の点からも異なっているから、長期間の和平は、まずむずかしい。王虎とその腹心が待っているもう一つのことは、新年|早々《そうそう》各方面へ出したスパイがもどってくることである。待っているあいだに、王虎はどの地方を攻略して領土をひろげるかについて、腹心のものと相談した。
腹心たちは、王虎が自分の居間にしている大きな部屋に集まって、階級にしたがって席についた。鷹《イン》が言った。
「北は攻められませんね。北とは同盟を結んでいますからね」
すると豚殺しが大きな声で言った。彼は、鷹よりも利口でないと思われるのはいやだが、そのくせ容易に新しい案がうかぶような人間ではなかった。だから、何事についても、鷹が何か言うと、粗野な山びこのように、そのあとについてどなるのがくせなのだ。
「そうだ。それに、土地が貧しくて、やせていて、豚だって、やせた、ひどいのばかりで、あんなのは殺しても役に立ちませんよ。わしも見ましたがね、背骨が鎌《かま》みたいにとんがっていて、牝豚なんぞ、子が生まれる前から腹の子がかぞえられるほどだ。戦争してまで取りたい土地じゃないね」
王虎は、ゆっくりと言った。
「しかし南へ進出するわけにはいかん。南へ出れば、おれの故郷だ。故郷の連中から、自由に、平気で、重い税金をとり立てるなどということは、だれしもできはせんからな」
みつ口は、あまりしゃべらなかった。他のものが言うだけ言ってしまわないと、けっして意見を述べなかった。このときも、みんなが意見を述べてしまったので、はじめて口を開いた。
「かつてわたしの故郷だった地方があります。いまではわたしにとってはなんでもありません。ここから南東にあたり、ここと海との中間にあるのです。非常にゆたかな土地で、一端が海に面しています。海に注ぐ大河にそうてひろがっている土地で、田畑が多く、低い丘陵もあり、川には魚がたくさんいます。ただ一つの大きな町は県公署の所在地ですが、そのほかに村や市場のある町がたくさんあり、住民は勤勉で富んでいます」
王虎は、これを聞いて言った。
「そうか。しかし、そんなよい土地を軍閥が占拠していないはずがない。どんな人物がいるのか?」
みつ口は、ある将軍の名をあげた。その将軍は、かつて匪賊《ひぞく》の首目であり、つい去年、南方軍に投じたのである。その将軍の名まえを聞いたとき、王虎は即座に、その匪賊の首目に戦いをいどむことにきめた。彼は、こんにちにいたるまで、いかに自分が南方人を嫌悪していたか、南方の、やわらかい米の飯や、コショウをかけた肉類が、どんなにまずかったか、どんなに歯ごたえがなかったかをおぼえていた。南で過ごした青年時代の不愉快な歳月をおぼえていた。彼は大きな声で言った。
「それこそ望む土地だ。その男こそ望む相手だ。おれの勢力も拡張できるし、戦争の大局から見てもすこぶる有利だ」
こうして計画は立ちどころに決定された。王虎は大きな声で従兵に酒を持ってくるようにと命じた。彼らは酒をくみかわした。王虎は、兵の出動準備をととのえておくこと、この春にはじまるはずの戦争の情勢をさぐりに行ったスパイがもどってきしだい、新しい地方めざして進撃することを命じた。
やがて腹心たちは席を立って、いま受けた命令を実行するために出て行った。鷹だけが、あとに残った。彼は身をかがめ王虎の耳に口をよせてささやいた。声に殺気があり、吐《は》く息が王虎の頬に熱かった。
「戦争のあとでは、習慣にしたがって兵隊に略奪を許してやらなければいけません。彼らは仲間うちで不平を言っています。王虎将軍はきびしくて、ほかの軍閥であたえられるような特権が得られないと、ぶつぶつ言っているのです。略奪を許さなければ彼らは戦わないでしょう」
最近王虎は、かたい黒い口ひげを立てていた。そのひげをかみながら、彼は、しぶしぶながら言った。鷹の言うことも道理だと知ったからである。
「よろしい。では勝利のあかつきには三日間の略奪を許すことにしよう。そのように兵に伝えてくれ。それ以上はいかんぞ」
鷹は、すっかりよろこんで立ち去った。しかし王虎は、しばらく不機嫌にそこにすわっていた。彼は民衆のものを略奪するなどということはきらいなのだ。しかし略奪という報酬なしには兵が生命を賭《と》して戦わないとすれば、それもやむをえないではないか。略奪に同意はしたものの、民衆の苦しむさまが目に見えるようで、しばらくは気分が悪かった。おれは軍人になるには、あまりにも気が弱いのだと思い、自分自身をのろった。けっきょく、いかに略奪されたところで貧乏人は何もとられるものはないのだし、もっとも多く失うのは金持ちだが、金持ちは略奪されてもなんとかやっていけるのだから、それほど苦にすることはないではないか、と自分に言い聞かせて、無理にも気を引き立てた。彼は気の弱いことを恥じた。民衆の苦痛を見るにしのびないような態度を見せたら、部下の軽蔑を招くだけであるから、絶対にそんな気持ちを部下には見せてはならない、と思った。
まもなくスパイが、ひとり、またひとりと、もどってきた。そして、かわるがわる王虎将軍に報告した。それによると、まだ戦争ははじまっていないが、南方の軍閥も北方の軍閥も、さかんに外国から武器を購入し、軍隊を拡充強化しているから、戦争はさけられまい、ということだった。この報告を聞くと、王虎は、躊躇《ちゅうちょ》なく彼自身の戦争をはじめる決心をかため、その日すぐ部下に、城門の外の野原へ集合するようにと命じた。
あまり兵の数が多くて城内では集合するだけの広場がないのである。その集合地点へ、王虎は赤毛の馬にまたがり、護衛を従えて乗りこんで行った。右側には、あばたの少年がつき従っていた。あばたも、王虎に昇進させてもらって、いまはもうロバではなく、駿馬《しゅんめ》にまたがっているのだ。王虎は、しゃんと胸を張り、さっそうと馬上にかまえていた。部下は静かに彼を仰ぎ見た。王虎の堂々たる風采《ふうさい》、濃く、りりしい眉《まゆ》、新しく立てた口ひげは、四十歳という年齢以上の貫禄をあたえており、世にもまれな勇姿だからである。彼は部下の前に身じろぎもせずに立って、しばらくは部下が自分を仰ぎ見るのにまかせていたが、やがて、とつぜん声をはりあげて呼びかけた。
「わが兵士、英雄諸君、あすから六日目に、われわれは南東に向かって進軍を開始し、新しい地方を占領する。それは大河に沿い海に面した豊饒《ほうじょう》にして肥沃《ひよく》なる土地だ。その土地を手に入れたら、戦果を諸君とともにわかちたいと思う。まず軍を三分し、うち二隊は、それぞれふたりの腹心のものの指揮下にはいる。すなわち、鷹を部隊長とする一隊は東より、豚殺しを部隊長とする一隊は西より進む。わしは精鋭五千をひきいて北に待機する。二隊は東西両側面より攻撃を加えて、迅速にその地方の中心たる県城を攻略する。わしは最後の一撃をあたえて敵を撃砕する。その地方にも軍閥はいるが、ただの匪賊にすぎない。諸君は、すでに匪賊討伐において、すばらしい戦績を見せてくれた。立て、勇敢なる兵士諸君!」
彼はそれから、ひどく気が進まぬながらも、無理に心を無慈悲にして、つけ加えた。「勝利を博したあかつきには、その県城において、三日間、自由行動を許す。しかし四日目の日の出とともに自由行動の期間は終わる。合図にラッパを吹かせるが、そのラッパを聞いてすぐに集合しないものは死刑にする。おれは死ぬことも恐れぬが、殺すことも恐れぬ。これが命令だ。胆《きも》に銘じておいてもらいたい」
部下は歓呼してどよめいた。王虎が行ってしまうと、彼らは欲心にかられて、熱心に出動準備をはじめた。各自、武器をしらべ、剣をとぎ、銃をみがき、持っている弾丸をかぞえた。酒が飲みたかったり、女が買いたかったりして、金に困ると、彼らは、その好きなものを手に入れるために、弾丸を抵当に金をかりたり、売ったりするものが多かった。だから、こういう場合になると、そのほうの始末をつけなければならないのである。
六日目の夜明け、王虎は大軍をひきいて城門を出た。大軍ではあるが、全軍の半数にやや足りないほどの兵員は残してあった。出動する前に王虎は老県長に会った。県長は老衰して、このごろでは寝台に寝たままで、起きることができなかった。王虎は、県長と県公署を保護するために兵力を残しておく、と言った。県長は、自分の策動をおさえるために軍隊を残して行くのだと知ってはいたが、弱々しい声で、いんぎんに礼を述べた。残留部隊の隊長は、みつ口であった。残留組は、とり残されて略奪に行けないのを不満に思っているので、これはなかなか容易ならぬ地位であった。王虎は残留部隊の不満をおさえるために、忠実に留守中の職務を果たしたら賞与を出すこと、またこのつぎの戦争にはきっと出征させることを約束せざるをえなかった。これで彼らは、いくらか満足した。すくなくとも不満がいくらかおさまった。
出動するにあたって、この軍の指導者である王虎は、南方から侵略してくる敵を撃退し、民衆を守るために出兵するのだ、と告げさせた。民衆は敵の襲来を恐れて、熱心に王虎の壮挙を歓迎した。商業組合は相当の軍資金を集めて王虎に贈り、多くの市民が軍隊の出発を見送りにきた。そして市民たちは、王虎が軍旗を立て、香をたき、豚を殺していけにえとし、武運を天に祈るのを、遠くからながめていた。
これがすむと王虎は、意気|軒昂《けんこう》として、さっそうと征途についた。彼はこの戦争には、部下と武器をたずさえたのみならず、巨額の銀をもたずさえてきていた。彼は将軍として、やみくもに戦闘に猪突《ちょとつ》するような人間ではなく、聡明な知謀にすぐれた軍人だった。だから、戦う前に敵を買収するつもりなのである。かりに、はじめは買収がきかないとしても、包囲戦が長びくうちには銀の力で要人を買収して、城門を開かせることができるかもしれない、と思っていたのである。
春もなかばで、幾マイルとなくつづく畑には、小麦が二フィート以上ものびて穂を結ぼうとしていた。駒を進めながら王虎は、みどりの野に、はるかに目をはせた。そして、おのれの支配する土地の美しさと豊かさに誇りを感じ、国王が国土を愛するような愛情をおぼえた。この土地の美しさを愛してはいても、しかし彼は、これだけで満足することはできなかった。厖大《ぼうだい》な軍隊を維持し、軍資をたくわえるためには、他に新しい地方を手に入れて、税金を徴収しなければならなくなっていたのである。
こうして彼は自分の支配する地方を離れた。はるかに南下すると、ザクロの木の林があった。曲がりくねった灰色の枝に、他の木よりもおくれて出た炎のような色の小さな新芽が出ているのを見て、新しい土地へきたことを感じた。四方をながめると、どこを見ても、よく耕された豊かな畑がつづき、家畜は肥え、子供たちもふとっているので彼はよろこんだ。それらのすべてに満足した。けれども彼が部下をひきいて進んでゆくと、畑で働いている農夫たちは、頭をあげて彼らを見ると、顔をしかめた。それまでおしゃべりをして世間話に興じていた女たちは、急に黙ってしまって顔色を変え、兵隊の姿に目をみはった多くの母親たちは、兵隊の姿など見せまいとして、あわてて子供たちの目を手でふさいだ。
行軍のときによく歌う軍歌を兵隊がどなりはじめると、畑の農夫たちのなかには、静かな田園の空気を歌声でかき乱されるのをきらって、大きな声でののしるものもあった。部落を通ると、犬が見慣れぬ兵隊の姿をあやしんで、猛烈に吠《ほ》えついてくるが、あまりにも厖大な軍勢に驚いて、しっぽを腹にまいて、こそこそと逃げ去った。ときどき牛が兵隊の足音にびっくりして、つないである牛は綱を切って逃げだすし、畑で働かされている牛は農夫や農具まで引きずってかけだした。兵隊たちは大きな声で哄笑《わら》ったが、王虎は、そんなときには農夫が牛をつかまえるまで、いんぎんに行進をとめて待っていた。
町や村にさしかかると、腹をすかしている兵隊たちは、茶や酒やパンや肉などを求めて、大きな声で笑ったり騒いだりしながら門をはいって行った。住民は、それを見ると、黙りこくって、恐れおののいていた。商人たちは品物をただで持って行かれるのではないかと心配して帳場で顔をしかめる。なかには昼日中なのに店をしまって戸をおろしてしまうものもある。しかし王虎は、前もって代金を払わずに物をとったり食べたりしてはならぬ、と部下に注意し、飲食その他、必要なものに支払うための銀を、各人に渡しておいた。とはいえ、どんな優秀な将軍といえども、幾千という乱暴者の集団を完全に統制できるものではないことを、彼はよく知っていた。部隊長に責任を負わせるとは言ってあるが、ある程度の狼籍《ろうぜき》が行なわれるであろうとは、覚悟していた。そこで、「乱暴狼籍を働くものがあれば斬り殺すぞ」とおどかすだけで、こうしておどかしておけば、すこしはおとなしくするだろうと考えていた。そして、そのようなうわさは、なるべく耳に入れないようにしていた。
王虎は、部下をある程度統制する方法を考え出した。町へ近づくと、部下の軍隊を郊外に待たせておき、まず、みずから二、三百の手兵をひきいて町へはいって行って、その町でもっとも富裕な商人をさがし出す。それがみつかったら、町じゅうの商人を集めるようにと命じておいて、その富裕な商人の店で待っている。商人たちが、恐れ、かしこまって王虎の前へ集まると、王虎は、いんぎんな態度で言う。
「わしはけっして不当な要求をするのではないから、心配しないでいただきたい。部下が数千人、郊外へきていることは事実である。そこで、この行軍費用の一部として、ほんの相当額だけ、あなた方において負担していただきたい。そうすれば、この町では一晩宿泊するだけで明朝出発する」
商人たちは、蒼白《そうはく》な顔をして、おじけづき、代表者を選んで、ある金額をおずおずと申し出る。王虎は、それが彼らの提供しうる最少の額であると知っているので、冷ややかに笑うだけで、とりあわない。笑いながらも、例によって眉《まゆ》を寄せて言うのである。
「この町には、油屋、呉服屋、穀物屋など、ずいぶんりっぱな商店があるようだ。町の人たちも、栄養状態もよし、みなりもよい。道路もりっぱだ。それなのに、これくらいしか負担できないとは、あなた方の町は小さくて貧しいと泣きごとを言いたいのですか。それしか出せないとは、あなたがた自身をはずかしめるものです」
こんなふうに、いんぎんに、金額をせり上げてゆく。軍閥のなかには、かくかくの金額を出さなければ兵に略奪させるなどと言っておどかしたり、どなりつけたりするものもあるが、王虎はけっしておどかすようなことはしなかった。商人たちも生活して行かなければならないのだから、彼らが出せる以上のものを不法に要求すべきではない、とつねづね言っているほどで、自分が公正だと思う方法しかとらないのである。こうして、いんぎんな態度をとる結果として、けっきょく、王虎は要求しただけのものは手に入れるし、商人のほうは、案外たやすく王虎とその軍隊の略奪をまぬがれることができたと思ってよろこぶ、ということになるのである。
こうして王虎は部下をひきい、海をめざして南東に進んで行った。町へ着くたびに、商人たちから相当の金を集めて、翌日の早朝には出発した。一晩しか泊まらないから町の人たちは大よろこびであった。貧しい部落や小さな村では、ほんのわずかの食物とか、必要かくべからざるものしか要求しなかった。
七日七夜、こうして王虎は軍を進めた。七日目の終わりになって計算してみると、銀は出発のときよりもいくらか多くなっていた。部下はみな意気軒昂として、食物も十分行き渡り、希望に燃えていた。七日目の終わりに、この地方の中心部として攻略すべく計画していた都市へ、あと一日足らずの距離にまで到達した。
王虎は低い丘の頂に馬を進めて、ながめやった。その都市は城壁にとりかこまれ、緑に波うつ平野のなかに、宝石のようにちりばめられていた。王虎は、この晴れた空の下に、かくも美しく輝く都市を見て、よろこびに心がおどった。話に聞いていたとおり川が流れており、都市の南門は、その流れに接している。都会は、この流れのために、銀のくさりにかけた宝石のように見える。急いで王虎は、一千の兵をもってこの都市を守備している軍隊に使者を送った。そして、この都市を占拠している将軍に、こう言わせた。「王虎という将軍が、住民を匪賊の害から救うために北方からきた。一定の金額を出すから、匪賊は平和|裏《り》に退散するがよい。立ち去らねば王虎将軍は数万の勇敢な武装せる兵をもって都市を攻略するであろう」
その都市を占拠していたのは、匪賊あがりの、非常に獰猛《どうもう》な老将軍だった。すごく顔の黒い、おそろしく醜悪な顔つきをしているので、寺の門のところに立っているおそろしくまっ黒な守護神に似ているところから劉門神《リュウメンシン》とあだ名されていた。王虎の送ったこの大胆不敵な宣言を聞くと、烈火のようにいきり出して、しばらくは言葉も出ず、ただ怒号しているだけであったが、やっとすこし落ちつくと、こうどなった。
「帰って主人に言え。やりたければやってみろ、とな。だれが恐れるものか。王虎などという犬っころなど、名も聞いたことがないわ」
使者は帰って、王虎に、一言一句そのとおりに報告した。こんどは王虎のほうが烈火のように怒る番であった。劉門神が王虎という名まえなど聞いたことがないと言ったことが、極度に彼の誇りを傷つけたのである。そして、おれは自分が思うほど世間で認められていないのか、と内心うたぐってみた。しかし、そんな感情は外へは出さず、歯をくいしばり、黒い口ひげをかんで、部下に命じ、その日のうちに都市まで軍を進め、城壁のまわりに陣をしいた。城門が、かたく閉ざされていて、はいることができないので、王虎は部下に命じて、夜が明けるまで野営することにした。城壁の外濠《そとぼり》に沿うて天幕をはり、敵の行動を偵察させるために監視哨《かんししょう》をおいた。
明け方に王虎は起きだして護衛兵を起こし、太鼓をたたき、ラッパを吹いて部下を集合させた。集合した部下に向かって、王虎は、たとえ一か月、あるいは二か月待機することになろうとも、命令一下ただちに戦えるよう準備しておけ、と命じた。それから護衛兵を連れて、市の東側にある丘の上にのぼった。そこには古びた五重の塔があった。部下を、護衛の目的と、そこの寺にいる数人の僧侶の行動を監視させるために下へ残して、ただひとり塔の上にのぼった。あまり大きな都市ではない。人口は五万そこそこであろうか。しかし家々はりっぱなつくりだし、暗色の屋根が魚のうろこのように重なりあっている。彼は塔をおりて部下のところへもどった。部下をひきいて濠《ほり》を渡ろうとすると、高い城壁の上から弾丸が雨のように降り注いできた。王虎は、急いで退却した。
王虎は待つよりほかに方法がなかった。部隊長を集めて協議した。彼らはいずれも包囲戦を主張した。人間食わねば生きられないから、包囲し兵糧《ひょうろう》攻めにしたほうが戦闘よりも効果的だというのである。王虎にも、それが得策であると思えた。もし、いますぐ攻撃すれば、多くの部下の生命を失うことになろう。城門は頑丈で巨大な横木に鉄板がうちつけてあるから破壊する方法がない。厳重に閉ざされたいくつかの城門を見張っていて食糧が運びこまれるのを防げば、一、二か月のうちには敵は糧食つきて降服するだろう。いま戦っても、敵はまだ元気で、体力が旺盛だろうから、勝利がどちらに帰するかわからない。そう王虎は考えた。こうして彼は、戦うに有利なときまで待ち、勝利が確実となってから戦うほうがよいと結論したのである。
そこで彼は部下に命じて全城壁を包囲させた。敵弾のとどく射程外に陣を張らせたので、敵の射ってくる弾丸は、むなしく濠のなかへ落ちるだけであった。こうして城壁の周囲をかためてから、城内への出入りはぜんぜんできなくなった。王虎の兵士たちは、付近の畑の作物を徴発し、穀類、野菜、くだもの、鶏などを、たらふく食べていた。きちんと代金を支払わせるから農民も反抗するようなことはしなかった。王虎軍の食料は十分に行き渡っていた。やがて夏がきた。土地は豊作に恵まれている。この地方では、夏は乾燥しすぎもしなければ、雨が降りすぎもしない。あの連山の西のほうでは、雨が降らないので、ひどい凶作らしいといううわさである。王虎は、このうわさを聞いたとき、こんな豊かな地方へ大軍をひきいてきたというのも天佑《てんゆう》のしからしめるところであろうと、ひそかにその好運をよろこんだ。
かくて一か月たった。王虎は天幕のなかで毎日待っていたが、だれひとり、閉ざされた城門から出てはこなかった。また二十日待った。だんだん焦燥にかられてきた。部下もいらだってきた。しかし敵は依然として頑強で、濠を渡ろうとすると、城壁の上から弾丸をあびせてくる。王虎は、ふしぎに思い、また腹立たしくもなった。
「まだ武器を持つ力があるとは、あいつら、いったい何を食っているのだろう」
そばに立っていた鷹は、頑強で勇敢な敵に感心して、地面に啖《たん》をはき、手で口をぬぐって言った。
「もう犬も猫も、けものと名のつくものは、みんな食いつくしたにちがいありません。家のなかのネズミまで食ってしまったことでしょう」
一日一日と日は過ぎて行ったが、包囲された城内には、夏にはいって二か月目の終わりまで、何の変わったきざしも見られなかった。すこしの変化でも見のがすまいと、毎日出て見る王虎は、ある朝、彼が陣を張っている北門の上に白旗がなびくのを見た。胸をおどらせて、急いで部下に命じて、こちらからも白旗をかかげさせた。いよいよ包囲戦も終わりだと思って、彼は非常によろこんだ。
やがて北門が、人ひとり通れるくらい、ほんのすこし開いた。そして、すぐにまた閉まった。鉄のかんぬきをおろす音が聞こえた。王虎は彼の天幕のある濠《ほり》のこちら側で、息をつめて待っていた。若い男が、竹ざおのさきに白旗をつけて、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。彼は部下を整列させ、そのうしろに立って使者を待った、使者は声のとどく距離まで近づくと、こう言って呼びかけた。
「和平の交渉にきました。平和に撤退してくだされば、われわれは持っているだけの銀をさしあげます」
王虎は例によって声を立てずに笑って、嘲弄《ちょうろう》するような調子で答えた。
「おれが銀だけのために、はるばるここまでやってきたと思うのか。銀はおれの領土へ行けば、いくらでもある。そんなものはいらぬ! おれはこの都市とこの地方全体がほしいのだ。おれの領土に加えるのだ。おまえの将軍に、降伏して開城しろと言え」
若い男は旗ざおにすがって、死人のような目で王虎を見て哀願した。
「お慈悲です、撤退してください」男は王虎の前にひれふした。
王虎は、ものごとが思いどおりにならないと、いつもそうなのだが、いまも怒りがわき起こってくるのを感じた。彼はどなりつけた。
「この地方が自分のものになるまでは断じて撤退しないぞ」
すると男は立ちあがり、昂然《こうぜん》と頭をあげて言った。
「それなら、いつまででもいるがよい。一生いるがよい。われわれは困らない」そう言うと、それ以上何も言わず、身をひるがえして城門のほうへ歩み去った。
王虎は黒い怒りがむらむらとわきあがるのをおぼえた。あの執拗な敵が、あんな礼儀すらわきまえぬ無礼な使者をよこすとは、どうしたことであろう。あんな生意気な若僧は見たことがない。考えれば考えるほど腹が立ってきた。とつぜん彼は怒りを制しきれなくなり、怒りに前後を忘れて叫んだ。
「あいつを射て!」
部下は即座に命令を実行した。射撃は正確だった。使者は、濠の上のせまい橋の上にうつぶせに倒れ、白旗は水中に落ちた。旗ざおは濠の水面にむなしくうかんでいるが、旗の白さは泥水によごれてしまった。王虎は、その男を引きずってこい、と命じた。部下は、城壁の上から射たれぬように、すばやくかけよって、死体をひきずってきた。ところが敵は一発も射ってこない。どうしたことであろうと、王虎は、すこし敵の態度が不審であった。しかし、もっと王虎をふしぎに思わせたのは、いま目の前に横たえられた若い男の死体だった。刻々と死の色を呈してくるが、しかしそこには、ぜんぜん飢えているようなようすは見られないのだ。王虎は部下に死骸の着物をはがさせた。はだかにされて横たわっている若者の死体は、ふとってはいないが、かなりよく肉がついている。何か食べていたことは明白である。
王虎は、これを見ると、なんとなく打撃を受けたように感じ、一瞬、失望して叫んだ。
「こいつが、こんなにふとっているとすると、彼らはいったい何を食って、こんなに長くおれに抵抗できるのであろうか」王虎は城内の兵を呪って叫んだ。「よろしい。あいつらがいつまでも抵抗をやめぬなら、おれは一生包囲してやる」
腹立ちまぎれに王虎は、この日から軍規をゆるめ、部下を楽しませた。そのとき以来、市の近郊の農民や商人から部下が食物や品物を略奪するのを見ても、かつてのようにとめようとしなかった。農民が苦情を言いにきても、兵隊が個人の家へ押し入って乱暴をしたと、だれが訴えて出ても、彼は不機嫌に言った。
「貴様らは憎むべきやつらだ。貴様らが、ひそかに城内へ食糧を送っているのだろう。それでなければ、こんなに長く食糧が持ちこたえられるはずはない」
農夫たちは、けっして食糧など送ってはいないと誓ってから、多くの場合、哀れっぽく言うのであった。
「どんな将軍さまでも、わしらはかまわねえです。わしらに高い税金をかけてとり、ひもじい思いをさせているあの匪賊の頭目を、どうしてわしらが慕う道理がありますだ。あなたがお慈悲をもって兵隊たちに悪いことをさせねえようにしてくだされば、あなたがあの劉門神にとって代わられることを、わしらは、大歓迎しますだよ」
夏の日が過ぎるにつれて、王虎は、だんだん不機嫌になって行った。彼は暑気をのろい、おびただしい兵隊の糞便《ふんべん》から発生する無数のハエをのろい、よどんだ濠《ほり》からわく蚊をのろった。彼の公署があり、ふたりの妻が待っている町のことを思うと、ここにこうしているのが、がまんできなかった。怒りが彼をいつもより残忍にした。だから、部下の乱暴はだんだんひどくなってくるが、それをとめようともしなかった。
土用にはいってからのある夜、非常に暑く、月が明るく照る夜であった。王虎は眠れぬまま、涼を求めて、天幕を出て外を歩いた。半分居眠りながら、あくびをしいしいついてくる護衛をひとりだけ従えて、あちこちと歩きまわった。いつものように彼は城壁をながめた。月の光のなかに、それは高く、黒々とそびえていた。征服できそうもなく見えた。見ているうちに、ふたたび怒りが燃えあがってきた。このごろの彼は怒りのしずまっているときがなかった。おれに、これだけの苦しみをさせたのだから、戦勝のあかつきには城内の男も女も子供たちまで、思いきり苦しめてやろう、と心に誓った。
そのとき、ふと、黒々とした城壁の上に、動くものが見えた。城壁よりもさらに黒いものが、下へ向かって動いて行くのだ。王虎は、立ちどまって、じっと目をこらした。はじめは、わが目が信じられなかった。しかし、いつまでもそうして目をこらしているうちに、何か小さい黒いものが、古い城壁にからみついているツル草や生《お》いしげった灌木《かんぼく》のあいだをぬって、カニのようにはいおりるのが見える。やっと、それが人間であることがわかった。その男は、城壁の下までくると地上におり、月光のなかへ出てきた。王虎は、その男が白旗を振っているのを見た。
王虎は部下のひとりに白旗を持たせてその男を迎えにやり、おれの前に連れてこい、と命じ、そこに立って待っていた。そして、どんな男か見さだめようと目をこらした。男は王虎の前までくると、足もとにひれふして慈悲を乞《こ》うた。王虎は大きな声でどなった。
「その男を立たせろ。どんな男か見たいのだ」
ふたりの兵が進み出て男を立たせた。王虎は、つくづく見ていたが、見ているうちに、のどがふさがるかと思うほど、はげしい怒りがこみあげてきた。この男も飢えているようすがないのだ。骨ばって、やせて、色は黒いが、飢えてはいない。王虎はどなった。
「開城するためにきたのか」
男は答えた。「いえ、そうではありません。わたしのところの将軍は、まだ食糧があるから、城を明け渡しはいたしません。わたしどものように将軍の側近にいるものは、毎日食物をあたえられています。住民が飢えているのは事実ですが、それは飢え死にさせるだけのことです。わたしたちは、まだしばらくは、もちこたえることができます。ひそかに南方へ使者をおくって救援を頼みましたから、援軍がくることに希望を持っております」
王虎は、ひどく不安を感じたので、できるだけ怒りをおさえて、疑わしげに言った。
「降伏するのでないとすると、いったい何しにきたのだ」
男は陰欝《いんうつ》に答えた。「単にわたし自身のことでまいりました。わたしの仕えている将軍はわたしをよく待遇してくれません。彼は粗野な、憎むべき動物です。乱暴で無学です。わたしは上品な家庭の生まれです。父は学者でした。わたしは礼節正しく育てられました。それなのに彼は、わたしの部下の面前でわたしをひどく侮辱しました。人は、たいがいのことを耐えしのぶものですが、侮辱をしのぶことはできません。それはわたしにたいする侮辱であるばかりでなく、わたしが代表している祖先にたいする侮辱でもあります。彼は祖先のことなど知りはしないでしょうが、彼の祖先はわたしの祖先の下僕程度のものでしょう」
「どんな侮辱を受けたのか」ひそかに、ことのなりゆきに驚いて、王虎はきいた。
男は陰欝な熱情をもって答えた。「彼はわたしの銃の持ち方をけなしたのです。射撃はわたしのもっとも得意とするところで、ねらったものは、はずしっこありません」
王虎は、やっと事情がわかりかけてきた。嘲弄とか侮辱とかが、人の心に、たとえ友人の間柄でも、はげしい憎悪を生むことを、彼はよく知っていた。侮辱されると、人は復讐のために何ものをもいとわないものである。とくに、この男のように家柄のよい人間であれば、なおさらである。見たところ、たしかにこの男は名門の出らしい。
王虎は率直に言った。
「いくらほしいのか、それを言うがよい」
男はあたりを見まわした。王虎の護衛兵が口を開けたまま聞いている。
男は身をかがめてささやいた。
「あなたの天幕へ連れて行ってください。そこでお話しいたします」
王虎は、大股に自分の天幕へはいって行って、部下に、その男を連れてくるようにと命じた。その男の裏切りを警戒して、五、六人の護衛兵だけを残し、あとのものはみな外へ出した。しかし、この男は、王虎をおとしいれる意図などなく、ただひたすら劉門神にたいする復讐の念に燃えていることは明らかであった。彼が、つぎのように言うのを聞いて、王虎は、そうさとったのである。
「わたしは劉門神にたいする憎悪と怒りがあるだけです。もう一度、城内へもどって、あなたのために城門を開けてあげたいと思います。わたしのお願いしたいことは、ただ一つだけです。わたしとわたしに従っている少数の部下を、あなたの部下として保護してください。もし劉門神を殺しそこねたら、彼は凶悪な敵ですから、わたしはさがし出されて殺されてしまうでしょう」
しかし王虎は、それだけの援助をしてもらって、それくらいの報酬ですませるような人物ではなかった。彼は、ふたりの兵士のあいだにはさまれて立っているその男を、しっかりと見すえて言った。
「きみは、じつに男らしい人間だ。侮辱はしのべるものではない。りっぱな人間は侮辱をしのぶべきではない。きみのような勇敢なりっぱな人物を部下にすることは、わしとしても望むところだ。帰って、きみの部下やその他の兵に、銃を持って降伏してくるものは、ひとりも殺さず、わが軍に編入すると伝えるがよい。きみは、わが軍の大尉に任命する。そして銀二百元を賞与としてあたえる。銃を持ってきみに従ってくるものには、それぞれ銀五元ずつあたえよう」
ゆがめていた男の顔が急に明るくなった。彼は熱情をこめて言った。「あなたこそ、わたしがこれまでの生涯にさがし求めていた将軍です。もう、まもなく夜が明けます。きょうこの太陽が中天にのぼったとき、かならずわたしは閣下のために城門を開きます」
男は、そう言うと、いきなり身をひるがえして帰って行った。王虎は立ちあがって天幕から出て行き、男が敏捷に巧妙に城壁をよじのぼるのを見守っていた。彼は猿のように、木の根や、曲がりくねった枝につかまってのぼって行き、やがて城壁の向こうに姿を消した。
いま太陽はのぼって、地平線のかなたの空と接するあたりを、あかね色に染めた。音を立てたりして、敵に、何か新しい計画があるのではないかと感づかれてはまずいので、静かに部下を起こした。しかし部下の多くは、すでに城内からひそかに人がきたことを知っていて、夜中から起きだして、タイマツもともさずに、そっと戦闘準備をととのえていた。月光が明るくさえていたので、薄日ほどの光があり、引き金のぐあいから、靴のひもを通す穴まで、はっきりと見えた。太陽がすっかりのぼるころには、すべての兵が部署についていた。王虎は士気を鼓舞するために、彼らに肉を食わせ酒を飲ませた。酒や肉に気をよくした兵士たちは、進軍の太鼓の鳴るのを待っていた。
やがて太陽は中天高くのぼり、息もつけぬほどの熱気を、都市をとりまく平野に注ぎこんだ。王虎は立って大きな声で号令をかけた。部下は、かねて命じられたとおり、長い六列縦隊をなして集合し、王虎の号令を聞くと、ひとりひとりがときの声をあげ、どよめきが高くこだました。
ときの声をあげながら、兵士たちは手にした武器をふりあげた。めいめい銃剣をひらめかして突進した。あるものは橋を伝って濠を渡った。しかし大部分は浅瀬を歩いて渡って、水をしたたらせながら向こう岸へはいあがった。そして城壁の下に沿って北門に殺到した。部隊長たちは、ゆうべきたあの男の言葉が真実であるかどうか、計略ではないかと、まだうたぐっていたので、王虎を前線へは出さなかった。しかし王虎は、憎悪がつもれば、かならず復讐するものだと知っているので、男の言葉を信じていた。
こうして彼らは待っていた。城内からはなんの物音もしない。城壁から射ってくる銃の音もしない。やがて太陽が中天高くのぼった。王虎は緊張して城門をみつめた。そして大きな鉄門がすこし開いたのを見た。だれかそこからのぞいているらしい。門の上のほうから、ほそい光がさしている。王虎がひとたび叱咤《しった》すると、部下は、いっせいに突進した。王虎もともに突き進んだ。門にぶち当たった。門は大きく開いた。せきを切った激流のように、城内の街路へなだれこんだ。包囲は終わったのである。
王虎は瞬時も躊躇しなかった。匪賊の頭目の本拠へ突入せよ、と命じ、匪賊の頭目を発見するまでは部下に自由行動を許さぬと大きな声で叫んだ。一時も早く略奪したい欲望から、兵士たちは、そこかしこにおびえながら立っている市民に道をききながら、敵の本拠へと突き進んで行った。王虎が、太鼓をたたきラッパを吹きならして、劉門神のいる豪奢《ごうしゃ》な宮殿へ攻め入ったとき、なかはもぬけのからで、すでに彼は逃げてしまっていた。
どうして彼が部下の裏切りを知ったのか、それはわからぬが、王虎の部下が北門からなだれこんだとき、すでにこの老匪賊は、腹心の部下とともに南門からのがれ出で、いまや平野を越えて遁走《とんそう》中だったのである。彼とともに逃げ出して行かなかった敵の兵隊からそれを聞くと、王虎は南の城壁へかけつけ、はるかに遠くを見渡した。はるか向こうに一団の砂ぼこりを見ることができた。王虎は追跡しようかどうしようかと、しばらく迷ったが、しかし彼がほしいのは、この地方の心臓部であるこの県城であり、それをすでに手中におさめたのだから、たかが匪賊の頭目や、すこしばかりのその部下など、ものの数ではないと考えて、追跡を思いとどまった。
王虎は城壁をおりて、見すてられた宮殿へもどってきた。残留していた敵兵は降伏して保護を求めてきた。王虎は、中央の広間にすわって、多数の敵兵が降伏してくるのを見てよろこんだ。飢饉の年でもなければ見られぬような、やせほそった敵兵が、十人、二十人とかたまって、続々とやってくるのである。しかし、みな銃を持っていた。王虎の前にひざまずいて、降伏の意を示すために手をさしのべると、王虎は彼らを許し、食べられるだけ食べさせ、銀五元ずつをあたえた。やがて敵将を裏切った男が部下の一隊をひきいてはいってくると、王虎は約束の銀二百元を手ずから渡し、大尉の軍服を持ってこさせて、その場で支給した。こうして王虎は、その男が彼のためにつくした功労を忘れず、約束どおりに報酬をあたえ、部下に加えたのである。
すべてが一段落すると、王虎は、部下に約束したことを実行せねばならぬときがきたのを知った。略奪を、できるだけ長くおさえてきたのだから、これ以上おさえることはできなかった。そこで心ならずも自由行動を許す旨の命令を発した。奇妙なことに、欲していたものを手に入れてしまうと、彼は、市民にたいする怒りが消え、略奪によって市民を苦しめるのがためらわれてきた。しかし部下にたいする約束は果たさねばならぬ。そこで三日間白由行動を許可すると、宮殿に閉じこもって四つの門を閉ざし、護衛兵以外のものを近づけなかった。
ところが、この百名内外の護衛兵も略奪に行きたくて、じっとしていられない。交替で行かしてくれと要求するので、とうとう他の兵を呼びもどして交替させた。帰ってきた連中は、略奪に興奮しているから、目は血ばしり獣欲にすさんだ顔は赤黒く光っている。王虎は目をそむけ、市中で行なわれていることを考えまいとつとめた。いつもそばにおいている甥《おい》のあばたが、好奇心にかられて町へ見物に行きたがっているのを見ると、王虎は、いくらどなりつけても文句の出どころのない相手をみつけたものだから、ここぞとばかりに怒りをぶちまけた。
「おれの血縁のものが、あんないやしい下等な連中といっしょに略奪なんぞしてよいと思うのか」
彼は甥を、つねに目のとどかぬところへは行かせなかった。そして、あれをとってこい、これを持ってこい、それ酒だ、それ食物だ、衣服を着替えるから持ってこい、と、寸時もひまがないように用事を言いつけた。ぴっちりと閉めきった宮殿の奥まで、かすかに市中の叫び声が聞こえてくると、王虎は、いっそう声を荒らげて、あばたにどなりつけた。叔父がかんしゃくを起こしているので、あばたは、ぐっしょりと汗をかきどおしだった。しかし彼は一言も口答えしようとしなかった。
事実、王虎は怒っていなければ残酷になれないのである。怒っているときでなければ人が殺せないというのは、人を殺すことが栄達の手段である軍閥の将領にとっては、まさに弱点であった。冷酷に、あるいは無造作に、あるいは主義のために、人を殺すことができないのは自分の弱点だと王虎は知っていた。市民にたいする怒りを持ちつづけていられないのは、その弱点のあらわれだと思った。市民は、王虎のために城門を開ける方法を考えるべきなのに、頑固で、ばかで、ついにそれをしなかったのだから、彼らを憎みつづけているのがほんとうなのだ、と自分に言い聞かせた。兵隊たちが、おずおずと糧食の給与を願い出ると、彼は憤怒と苦痛の入りまじった混乱した気持ちで叫んだ。
「なんだと、略奪を許しているのに、そのうえおれは食物まで提供しなければならないのか」
これにたいして兵士たちは答えた。「市中に一握りの穀物もないのです。金や銀や絹は食えません。そんなものはあるのですが、食べものはないのです。百姓は、まだこわがっていて作物を売りにこないのです」
部下の言うことは事実にちがいない。王虎は市民をかわいそうだと思い、そして不機嫌になった。しかし、ともかく部下に糧食をあたえなければならない。それで糧食の給与を命じたが、それはひどく不機嫌そうな調子であった。ひとりの粗野な兵士が、こんなことを言っているのが聞こえた。
「そうなんだよ、女どもは、みんなやせこけていて、まるで羽根をむしった鶏みたいなんだ。あれじゃなんの楽しみもねえよ」
これを聞くと王虎は、とつぜん自分の生活が耐えられなくなった。ひとり別室へ行き、そこへすわって、ふたたび心を鬼にする前に、しばらくうめいた。しかし二度と彼の心は強くはならなかった。手に入れたゆたかな土地のことを考えてみたり、いかに彼の勢力が強大になったかを考えてみたり、この戦争によって支配する領土が倍以上にひろがったことを考えてみたりした。これが自分の仕事であり偉大になる手段なのだ、と自分自身に言い聞かせてもみた。最後に、そしてもっとも彼をなぐさめたのは、ふたりの妻を思い、その妻のどちらかに子供が生まれるであろうということであった。彼は心のなかで叫んだ。
(生まれる子供のために、おれは、ただの三日くらい、他人の苦しむのをがまんできないのか)
彼は、こうして三日間、心を鬼にしていた。そして部下との約束を守った。
四日目の早朝、彼は、やすらかならぬ寝台から起き出て、城内いたるところで、ラッパを吹かせた。自由行動の期間が終わったから帰れという合図である。王虎はその朝、いつもよりもいっそうたけだけしく、すさまじい顔をしていた。例の黒い太い眉が目の上でしきりと動いていた。だれもこわがって命令にそむくものはなかった。
ただひとり、命令に従わないものがいた。この三日間、きっちりと閉ざされていた門を開いて王虎が出て行こうとすると、近くの横町から弱々しい叫び声が聞こえてきた。こういう叫び声に敏感になっていた王虎は、何事だろうと大股に近づいて行った。ひとりの部下が軍営にもどる道すがら、行きずりの老婆の指に金の指輪を発見した。老婆は労働者の妻か何かで金目のものを持っているはずはなく、その指輪も、細い、貧弱なもので、たいして値うちもないのだが、兵士は、とつぜん略奪の最後の獲物としてその小さな金の指輪を強奪したい欲望にかられ、老婆の腕をねじ上げた。老婆は泣いて訴えた。
「この指輪はもう三十年もはめています、どうしていまさら手ばなすことができましょう」
集合の合図のラッパが鳴っているものだから、兵士は気がせいていた。王虎の目の前で彼は短剣を抜いて老婆の指を切り落とした。老婆の弱い乏しい血にもまだ流れ出すだけの力はあった。兵隊はあわてているので王虎に気がつかなかった。王虎は大喝《だいかつ》した。長剣を抜いてとびかかり兵士の胸を刺した。なるほどそれは王虎の部下ではあった。けれども王虎はこれを刺した。目の前で、あわれな飢えた老婆に、そんなむごたらしいことをするのを見て、はげしい怒りが突き上げてきたからである。兵士は声も立てずに倒れた。血が真紅《しんく》に流れとなってほとばしり出た。老婆はといえば、彼女は、自分を救うためとはいえ、あまりのすさまじさに恐れをなし、傷ついた指を前掛けでまいて、どこかへ姿をかくした。王虎は二度とその老婆の姿を見なかった。
王虎は兵士の上着で長剣をぬぐった。自分のしたことを後悔するといけないと思い、すぐにその場をはなれた。すでに殺してしまったのだから、後悔したところではじまらない、と思ったのである。王虎はただ、護衛兵のひとりに、殺した兵士の銃を持てと命じただけであった。
王虎は市中を歩いてみて、市民がみじめに弱りはてているのと、その数がきわめてすくないのに驚いた。彼らは戸口まではい出してきて、敷居ぎわの腰掛けに大儀そうに腰かけていた。王虎が、輝く秋の日ざしを浴びて悠然と歩を運び、うしろにつき従う護衛兵が武器をきらめかして靴音高く通って行っても、人々は頭をあげて見るだけの気力もないのだ。まるで死んだように、無感覚に、じっと身動きもしない。王虎は、何か奇妙な恥ずかしさと驚きとを心に感じて、足をとめて声をかける気にもなれなかった。彼は頭を高くあげて人々の姿などは見ず、店舗だけを見ているふりをした。それらの店には、王虎が見たこともないような品物が、たくさんならんでいた。その都市は南に大河が流れており、その河は海に注いでいるので、こんな品物がはいってくるのである。まったく王虎が見たこともない外国製の珍しい品物であった。しかし、いずれも無造作にならべられていて、ひさしく買う客もなかったらしく、みなほこりをかぶっていた。
この都会で、見られないものが二つあった。どこにも食糧品を売っているところがないのである。市場はがらんとして静まりかえり、どこの町でも往来をにぎやかにしている食糧品の行商人や呼売り人もぜんぜんここにはいない。それから小さい子供の姿が見あたらなかった。王虎は、はじめのうちは、どうして往来がこう静かなのか、気がつかなかった。やがてそれに気がつくと、なぜこうも静かなのだろうと、ふしぎになった。ふつうなら、どの家にも子供たちの騒ぐ声や笑う声があふれているし、道を走ったり駆けまわったりしているのだが、それがないから静かなのだと、やっと彼にもわかった。急に彼は、生き残っている男女の、やせおとろえた、暗い、無感覚な顔を見るのが、たまらくなかった。しかし彼は他の軍閥がやっていることをやったにすぎないのだ。彼の栄達への道は、それ以外にないのだから、罪悪だとみなすことはできない。
だが王虎は、軍人としては、あまりにあわれみ深かった。彼は、いま彼の手にはいったこの都市の悲惨を見るにしのびず、中途から引き返してしまった、陰欝《いんうつ》な気分になって、ひどく機嫌が悪く、部下を見るとどなりつけて、目のとどかぬところへ行かせた。略奪に満足した彼らの高い笑い声や、満足して輝いている目が、耐えられないのである。彼らが指にはめている金の指輪や、ぶらさげている外国製の時計を見ると腹が立った。ふたりの腹心の部下ですら金の指輪をはめているのを見た。鷹のごつい指には金の指輪があるし、豚殺しのふとい頑固な指の関節には、ヒスイの指輪がひっかかっている。もっと奥へはめようとしてもはまらず、中途でとまっているのだが、それでも彼ははめているのである。王虎は、自分が彼らのすべてから非常にかけはなれているのを感じた。あいつらは、下劣な、いやしい、野獣みたいな連中だ、と心のなかでつぶやき、骨にしみとおるような深い孤独を感じた。そして、ひどく気むずかしくなって自室へ閉じこもり、だれかがそばへくると、なんでもないことをとりあげては、どなりつけた。
王虎は一日か二日、こうして閉じこもっていた。兵士たちは王虎がすごく気持ちを高ぶらせているのを見て、すっかりおじけづき、いくらか落ちついてきた。王虎は、ふたたび心をかたくして、これが戦争のつねだ、これが自分の選んだ道であり、自分にあたえられた天命なのだ、はじめたからには、どうでもなしとげねばならぬのだ、と自分に言い聞かせた。彼は起きて顔と手を洗った。この三日間ほど、怒りに身をまかせて顔も洗わなければ、ひげもそらなかったのである。衣服をあらためてから県長のところへ使者を送り、すぐ出頭して帰順するようにと言ってやった。それから宮殿の客間へ行き、腰をおろして県長のくるのを待った。
県長がきたのは、一、二時間後であったが、それでも彼は、できるだけ急いでやってきたのであった。幽霊のようにやせて、青ざめた顔をして、ふたりの従者によりかかってはいってきた。王虎の前で一礼し、王虎の言葉を待っていた。王虎は、その上品な風貌から、家柄のよい学者だと見てとった。だから彼も椅子から立って礼をかえし、まず県長に椅子をすすめてから、自分も腰をおろした。しかし腰をおろしたまま相手をみつめているだけで、言葉も出なかった。県長の顔や手が、あまりにも奇怪な、またとない恐ろしい色をしていたからだ。一日か二日乾燥させた肝臓のような色なのである。しかも、皮膚が骨にくっついたと言ってもいいほどやせているのだ。
あまりのことに驚いて王虎は思わず叫んだ。「どうしたというのか――あなたも食べるものがなかったのですか」
県長は率直に答えた。「そうです。市民が飢えていましたからね。しかし、これがはじめてではありません」
「しかし、最初に和平交渉にきた使者は、ふとっていたようだが」
「そうですよ。あれは、はじめから使者に出す目的で、とくべつに食物をあたえてふとらせておいたのです。まだ食糧が十分あって長期間もちこたえるとあなたに思わせるためです」
王虎は、その策略のうまさに感心しないわけにはいかなかった。感心しながらも、ふしぎに思ってたずねた。
「しかし、そのつぎに出てきた大尉も飢えてはいなかった」
県長は率直に答えた。「兵隊には、できるだけ食べさせるのですよ。最後まで、できるだけ食べさせるようにしていました。しかし市民は飢えていて何百人となく餓死しました。虚弱なもの、老人、子供は、みんな死にました」
王虎は嘆息して言った。「道理で、どこにも赤ん坊の姿を見かけなかった」王虎は、しばらく県長の顔を見ていたが、やがて思いきって言わねばならぬことを口にした。
「わがほうに帰順していただきたい。わたしはあの軍閥に代わって、彼がこれまで支配していたあなたおよびこの地方全体を支配する権利を得たのだ。これからはわたしが統治者である。わたしはこの地方を、北方にあるわたしの領土に加える。この地方の租税収入は、以後、わたしの手にはいるべきであるから、毎月一定額と、その他、税収入の比率に応じて増加額を要求したいと思う」
王虎は最後に、二、三、いんぎんな言葉をつけ加えた。彼は礼儀を知らない人間ではないからである。県長は弱々しい、うつろな声で答えた。乾いたくちびるを動かすと、その落ちくぼんだ口には、大きすぎ、白すぎる歯があらわれた。
「われわれは貴下の権力下にあります。ただ、ここ一、二か月、われわれがこの打撃から回復するまでご猶予いただきたいと思います」ここで言葉を切って、しばらく待っていたが、やがて、ひどく苦々しい調子で、ふたたび言葉をつづけた。「われわれは、平和さえ得られるなら、また、仕事につき、生計を立て、子供を養うことさえできるなら、だれが統治しようと問題ではない。あなたが他の軍閥をよせつけぬほど強力で、われわれ一代のあいだ安全に生活させてくださるなら、わたしも住民も、よろこんで税をはらうことを誓います」
これだけが王虎の知りたいと思っていたことだった。県長の弱々しい息苦しい声を聞いていると、彼は憐憫《れんびん》の思いに動かされた。彼は部下に大きな声で命じた。
「酒と食べものを持ってきて、この方にさしあげろ。この方についてきた人たちにもごちそうしろ」酒食が出されると、彼は腹心の部下を呼んで命令した。「兵を連れて農村へ行き、農夫たちに穀物や野菜を市中へ持ってくるよう強制しろ。こんなみじめな戦いのあとだ。市民が食物が買え、それを食って体力を回復できるようにするのだ」
こうして王虎が民衆のためを思う公正な処置を示すと、県長は心から彼に感謝した。そして王虎の思いやりに感動した。一方、王虎は、県長の、礼儀正しい、上品な育ちに感心した。というのは、彼は餓死しかかっており、そして目の前の食卓にならべられたごちそうに異様に目を光らせはしたものの、ぐっと欲望をおさえつけて、ふるえる手をしっかと握りしめ、来客が主人側にたいして述べなければならぬ儀礼上の辞退のあいさつを礼儀正しく述べ、王虎が主人の席につくまでは遠慮して箸《はし》もとらなかったからである。
食事にかかってからも、がつがつしたようすを見せないように自制している。王虎は、ひどく気の毒になって、とうとう用事があるからと口実をもうけて席をはずしてしまった。そして県長がひとりで遠慮なく食べられるようにしてやった。県長の従者は別室で食べていたのである。あとで王虎は、部下が、彼らの茶わんも皿も洗う必要がないほどきれいになっていた、と言ってふしぎがっているのを耳にした。
市場にふたたび野菜類がいっぱいになり、往来の両側には行商人がかごに食物をならべはじめたのを見て、王虎は心からよろこんだ。日ましに市内の男女はふとってきた。顔から暗い鉛色が去り、健康な、すんだ血色をとりもどした。冬じゅう王虎は城内にとどまって、税制の改廃をしたり、行政上の改革をしたりした。城内ではまた子供が生まれはじめた。母親が赤ん坊に乳をふくませはじめたのを見て王虎はよろこんだ。しかも、そのような情景は、なぜかわからぬが王虎の心の奥を刺激した。ただわかったのは心に家へ帰りたいという思いがわいたことだった。はじめて彼は、ふたりの妻のうえに思いをはせた。そして、年末には家へ帰ろうと計画を立てた。
王虎が包囲戦を終わったころ、他地方へ出してあったスパイがもどってきて、北方軍と南方軍のあいだに、ふたたび大きな戦争が行なわれている、と報告した。ついで、またしても北軍の勝利に帰したとの知らせがもたらされた。そこで王虎は、すかさず一団の使者を省の軍長のもとに送り、銀や絹の贈り物に書簡を添えてとどけさせた。軍閥のなかで読み書きのできるものはすくないので、王虎は自分が読み書きできるのが、いささか得意であった。だからこの手紙も自分で書き、いまはこちらの勢力も大きくなっているので大きな赤い印章を押した。自分は南方の一将軍と戦ってこれを滅ぼし、この大河に沿うた領土を北方のために占拠した、というようなことを書いた。
軍長からは王虎の成功にたいして賞賛に満ちた、ねんごろな返事がきた。そして、非常にりっぱな官位を王虎に贈った。軍長の要求は、毎年、省軍のために、ある額の銀をとどけてもらいたい、ということだけだった。王虎は、これを拒絶するほど自分がまだ強力でないのを知っているから、これを承諾し、省軍の一勢力としての地位を確立した。
年末が近づくにつれ、王虎は自分のこの年間の業績を調べてみた。領土は二倍以上になっている。しかも、若干の不毛の山岳地帯をのぞいては、土地は肥《こ》えていて、豊富に麦や米を産し、塩や落花生、ゴム、大豆を多量に産する。そのうえ、海への通路も開かれているから、海外から必要なものを買い入れることもできる。銃がほしいときにも、もう兄の王商人をわずらわさなくてもすむわけだ。
王虎は外国製の大砲がほしくてならなかった。あの匪賊の老頭目が残して行ったもののうちに、王虎が見たこともないような珍しい大砲が二門あったものだから、いっそうその欲望を刺激されたのである。その大砲はりっぱな鋼鉄製のもので、キズもなければ穴もあいていなかった。そして、こんなになめらかにできているところを見ると、よほど腕のいい鍛冶屋がつくったものにちがいない。大砲は非常に重かった。十人以上の兵隊が力をあわせなければ動かすことができないほど重いのである。
王虎は、この大砲にひどく好奇心をそそられ、ぜひ発射するところを見たいものだと思った。ところがだれも発射する方法を知らない。それに弾丸も見あたらないのである。しかし、とうとう二つの大きな弾丸が古い倉庫にかくされていたのをみつけ出した。王虎は、これが大砲の弾丸だと気がついて、非常によろこび、大砲を裏手にひろい空地のある古寺の前の広場へ運び出させた。最初は大砲を発射させてみようとするものがひとりもいなかったが、王虎が多額の褒賞《ほうしょう》を出すというと、敵を裏切った例の大尉が進み出た。彼は褒賞もほしいし、王虎に気に入られたいのである。それに彼は大砲を発砲するところを一度見たことがあるので、弾丸を詰めこみ、長いさおのさきに器用にタイマツをしばりつけて、遠くから導火線に火をつけた。煙が出はじめるのを見ると、遠くまで逃げて行って待っていた。
大砲は砲丸を発射した。大地はゆれ動き、空はどよめき、煙と火がほとばしった。王虎ですら、よろめき、一瞬、恐怖で心臓がとまったと思われるほどだった。轟音《ごうおん》がしずまってから見ると、古寺は瓦礫《がれき》の山と化してしまっていた。王虎は例によって声を立てずに笑った。こんなよいおもちゃ、こんなすばらしい武器を手に入れたことがうれしかったのである。
「こんな大砲さえ持っていたら、城門くらい、わけなくぶちぬけるのだから、包囲戦などやらなくてもすんだのにな」そして、ちょっと考えてから、大尉にきいた。「どうしておまえのもとの将軍は、この大砲をわれわれに射ちこまなかったのかね」
大尉は答えた。「思いつかなかったのです。この大砲は、わたしがもと仕えていた将軍を劉門神が破ったとき、戦利品として持ってきたものなのです。ここへ持ってきたものの、一度も発射したことがありません。弾丸があることさえ知りませんでした。県公署の門のところに、ながいあいだおいてあったのですが、この大砲が武器だとは、すこしも考えなかったのです」
王虎はこの大砲をひどく大事にした。もっと弾丸を買い入れようと思った。そして彼がいつでも見られる場所へ大砲を運ばせておいた。
この一年間に成就したことをかえりみて、王虎は大いに満足し、家へ帰る準備をはじめた。大軍を市中に残して、これには従来の部下をその指揮にあたらせ、新しく加えた将兵は自分がひきいて帰ることにした。しばらく考慮したのち、信頼できるふたりのものを市の最高指揮者として残すことにした。鷹とあばたのふたりである。あばたは、いまは成人して、りっぱな青年となっていた。背たけこそあまり高くないが、肩幅が広く、あばたということさえのぞけば、風采もそう悪くはない。あばたは老年になって死ぬまで消えないだろう。
王虎は、このふたりを残すのが一ばんよいと思った。あばたは若すぎて、ひとりでは任が重すぎるし、鷹は全面的に信用しきれない。そこでふたりを組み合わせたわけである。王虎は、ひそかにあばたを呼んで言った。
「もし鷹がすこしでもあやしいと思ったら、昼夜兼行で急報するのだぞ」
青年は命令どおりにすると約束した。こんな高い地位について、叔父から離れてとどまるのだから、よろこびに目を輝かしている。王虎も肉親のものなら信用できるから、安心して出発できるわけだ。すべての手はずをとどこおりなくととのえると、王虎は彼の根拠地に凱旋した。
この市の住民たちは、着々と戦争で破壊されたものの再建に従事していた。店に商品をみたし、絹や木綿をつくり出す|はた《ヽヽ》も動きはじめた。みな商売に没頭し、過ぎたことは過ぎたこととして、天のさだめた運命とあきらめ、再建のことしか口にしなかった。
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二十三
王虎《ワンホウ》は帰郷の旅を急いだ。自分では留守部隊が前のように平穏かどうか心配だから、と言っていた。それが主要な理由だと彼が思っていることも事実だった。だが、彼が急ぐのは、それよりも深い理由があった。それは子供が生まれているかどうか早く見たいためであるとは、自分にもよくわかっていなかった。彼は一年のうち、ほとんど十か月近くも家を離れていた。そのあいだに、学問のあるほうの妻から、二度、手紙を受けとった。二通とも礼儀正しい手紙で、尊敬に満ちた言葉がつらねてあったが、家内じゅう無事息災だということ以外には、別に何も書いてなかった。
しかし、意気揚々とわが家の庭に足を踏み入れたとき、彼は一見して、天佑《てんゆう》は自分の上にある、好運はまだ自分についている、と見てとった。風もなく南の陽光が暖かく降り注いでいる庭に、ふたりの妻が、めいめい赤ん坊を抱いてすわっていたのである。赤ん坊は、どちらも、頭のさきから足のさきまでまっ赤な着物を着せられ、まだすわりの悪い小さな頭には、てっぺんのぬけたまっ赤な帽子がかぶせてあった。無学な妻のほうは、赤ん坊の帽子の上に、小さな金色の仏像を一列にぬいつけていたが、学問のあるほうの妻は、そんな幸運のまじないなど信じていないので、花を刺繍してやっていた。この相違以外には、ふたりの赤ん坊は、まったく同じように見えた。王虎は、驚いてまばたきしながらみつめた。ふたりも赤ん坊が生まれていようとは思わなかったのだ。それから、やっとどもりながら言った。
「ど――どうしたのだ――どうしたというのだ――」
学問のある妻が立ちあがった。彼女は動作がすばしこくて、ものの言いかたも優美だった。いつも美しい、なめらかな言葉づかいで、古詩や古典から引用した学問的な文句を間にはさむのである。彼女は光った美しい歯を見せてほほえみながら言った。
「お留守にわたしたちが生んだ赤ん坊です。頭のさきから爪《つま》さきまで丈夫で申し分のない子供たちです」そう言って彼女は、自分の子をさし出して王虎に見せた。
もうひとりの妻も負けてはいなかった。自分の生んだのは男の子で、学問のある妻のほうのは女の子だったからだ。まっ黒な歯と、歯の抜けた隙間を見せたくないので、めったに口をきかないのだが、いまは黙っていられず、立ちあがって口をすぼめながら言った。
「旦那さま、わたしのほうは男の子です――そちらは女の子です!」
王虎は、なんとも答えなかった。自分のものであるふたりの子供ができるということは、いったいどういうことか、さっぱりわからなかったので、口がきけなかった。彼はそのふたりの小さな生きものを、じっと無言でみつめた。赤ん坊のほうでは彼のことなど、ちっとも見てはいないように思われた。王虎を、まるで木か壁か、つねにそのへんにいつもある物ででもあるかのように、静かにみつめていた。
赤ん坊たちは、陽光をあびて、まぶしそうにまばたきした。男の子のほうが、からだに似あわぬ大きなくさめをした。王虎は、そんな小さな肉塊から、よくもそんな大きな息が出てくるものだと驚いた。女の子のほうは、子猫のように口を開けて、大きなあくびをした。父親は、そのありさまをびっくりして見守っていた。彼はこれまで一度も赤ん坊というものを腕に抱いたことがない。だから、自分の子にも触れてみる気にならなかった。いつも戦争のことばかり話しているものだから、こんな場合に、このふたりの妻に、なんと言ってよいのかわからなかった。彼についてきた部下たちは、将軍に子供が生まれたことをよろこんで感嘆の叫び声をあげたが、彼は、すこしこわばった微笑をうかべただけだった。しかし、部下たちのあげる歓声を聞いて、王虎は深いよろこびを感じながらつぶやいた。
(まあ、女というものは子を生むものさ!)胸がよろこびでいっぱいになり、急いで自分の部屋へはいって行った。
自室で、からだを洗い、食事をとり、堅苦しい軍服をぬいで、濃紺の絹の長衫《チャンサ》に着かえた。着がえをすると、もう夕方である。霜夜が静かにひんやりとおとずれた。炭をおこした火鉢《ひばち》のそばに腰をおろして、ひとりで、過ぎさった過去をふりかえってみた。
あらゆる点で好運にめぐまれているように思える。成就できないことは、何もないようにさえ思える。いま子供が生まれたので、彼の持つ野心にも意義が加わり、彼の行なう行動にも目的が生じた。そう思うと、胸がよろこびにふくらみ、いままでのすべての悲しみもさびしさも忘れ、部屋の静寂に向かって、ふいに叫んだ。
(あの息子を、おれは真の勇士に育てあげるのだ!)彼は立ちあがり、あまりのうれしさに腿《もも》をぴしゃぴしゃとたたいた。
われ知らず微笑をうかべて部屋のなかをしばらく大股に歩きまわった。彼は思った、自分自身の子供を持つということは、なんと楽しいことだろう! もう兄の息子たちにたよる必要はない。死後に生命をついで、軍事的勢力を拡大してくれる息子が自分にもできたからだ。すると、もう一つの考え、自分には娘もあるのだ、という考えがうかんだ。娘をどうしようか、としばらく考えていた。格子《こうし》窓のそばに立ってひげをいじりながら、黙然として女の子のことを考えた。ついに確信のない調子でつぶやいた。
(時期がきたらりっぱな軍人と結婚させるのだな。娘にはそうしてやれるだけだ)
この日から王虎はふたりの妻にたいして、新しい目的を抱いて接した。もっと多くの息子を生んでもらいたいのである。血のつづいていないもののように裏切ることのけっしてない、真実な、孝行な息子が、妻たちから、もっと生まれてくるだろうと期待したからだ。彼はもはや、心の憂悶《ゆうもん》と肉体の要求のためだけに妻に接するということはしなかった。息子を一目見たときに、彼の心のもだえは、からりと晴れわたってしまった。そして自分の肉体から多くの子供が生まれ出ることのみを望んだ。自分が老齢に達して心身がおとろえたとき、そばにいて自分をささえてくれる、忠実で勇敢な武人としての息子たちを欲した。ふたりの妻は、自分こそ王虎の寵愛《ちょうあい》を手に入れようと、ひそかに努力していたが、彼は、公平にふたりのところへかよった。ふたりのどちらの妻にも、それぞれ、そのままのあり方で満足していた。ふたりから同じ一つのことしか求めていなかったし、どちらにたいする要求も同じであった。息子が生まれた以上、妻を愛していないなどということは、もう彼にとっては問題ではなくなったのだ。
こうして満ちたりた気持ちのうちに冬が過ぎて行った。新年の祝賀の日がきた。多幸だった旧年を感謝して、王虎は例年よりも愉快に新年を迎えた。部下には酒や肉をごちそうし、褒賞として銀をあたえた。また、彼らがほしがっている煙草《たばこ》、タオル、靴下などのこまごましたものをもあたえた。妻にも贈り物をやった。祝賀の日には、家じゅうが大にぎわいだった。ところが一つだけ不吉なことが起こった。それは祝日のあとに起こったので、歓楽はさまたげられなかった。
老県長が睡眠中に死んだのである。寝ぼけて阿片を吸いすぎたか、阿片を吸引してうつらうつらしているうちに凍死でもしたのか、原因はわからなかった。ともかく県長の死の知らせを受けると、王虎はりっぱな棺を注文し、温厚な老紳士のために葬式の準備万端を命じた。準備がすっかり終わって、この町の生まれでない県長の棺を生まれ故郷へ送り出すばかりにしたとき、県長の老妻が、亡夫の残した阿片を飲んで、自殺して亡夫のあとを追った。その老夫人は病身で、部屋からそとへ出たことがないので、王虎は一度も会ったことがなかった。だれもあまり悲しまなかった。王虎は、もう一つ棺を注文し、すべての用意ができると、三人の従者につきそわせて、二つの棺を隣の省の彼らの生まれ故郷へ送らせた。
王虎は老県長の死を正式に書類にしたためて監督官庁へ報告することにした。みつ口に数人の兵をつけて報告書を託して出してやるとき、ひそかにみつ口を呼んで言った。
「口から耳へでなければ言えぬことがある。だから報告書には書かなかったが、機会があったら伝えてくれ。新しい県長の選定には、おれの意見も聞いてもらわねばならぬ、とな」
腹心の部下は、これを聞いてうなずいた。王虎は安心した。こんな混乱した時代には新しい県長の来任など、なかなか行なわれるものではない。王虎は自分ひとりでりっぱに統治することができる。彼は新県長のことなど忘れてしまって、老県長が住んでいた一ばん奥まった部屋に、妻たちを連れて移り住み、自分一家以外のほかのものがこの部屋に住んでいたなど、間もなく忘れてしまった。
ふたたび春が近づいてきた。今年は、すべての点で幸運である。新しい領土からは、よい報告がきているし、いろいろな税の収入も順調で、多額の銀が流れこむし、兵士たちは十分に給与をうけて満足し王虎をほめたたえている。そこで王虎は、この春の清明節には、故郷の亡父の家へ帰り、兄たちといっしょに祭日を祝おうと決心した。そうするのが豪家としてはふさわしいことなのである。どこでも子供が集まって亡夫の墓を修理する時期であるからだ。そのうえに、王虎は墓参のほかに次兄との貸借関係を整理する必要があった。この際、借りた銀をすっかり返済して、せいせいしたかった。だから王虎は、数人の兵士を使者として兄たちのところへやり、いんぎんな言葉で、妻子と召使を連れて祭日までに訪問することを伝えさせた。これにたいして、王一《ワンイー》、王二《ワンアル》のふたりの兄たちは、丁重に、歓迎するという言葉を伝えてよこした。
やがて、すべての準備がととのうと、王虎は背たけの高い赤毛の駿馬にまたがり、護衛兵をしたがえて出発した。しかし今度の旅では、ラバのひく幾台もの馬車に妻子や女中たちが乗ってゆくのだから、どうしてもゆっくりと進まなければならない。王虎は、ゆっくりと進んで行った。こういう事情で徐行するのが誇らしかった。妻子をしたがえた行列の先頭に立って馬を進めて行くうちに、自分が先祖代々つづいている系譜のなかに一つの確固とした位置をしめたことを感じた。柳が芽をふき、桃の花がほころびそめ、のどかな春の趣が一時に動きだしたこの日、自分の領土が、かつてないほど美しく豊かに思えた。
どの谷間にも、どの丘にも、若緑と淡紅の色が入りまじっており、黒褐色《こくかっしょく》の湿った土が掘り起こされて春の陽光を浴びているのを目にして、ふと王虎は父親を思い出した。春ごとに亡父は、柳の小枝や花咲く桃の枝を手折って、手に持って歩いたり、土の家の戸口の上にかけたりするのが好きだったことを思い出した。亡父と自分の息子の上に思いをはせると、王虎は、連綿とつづく長い生命の流れのなかに、自分の位置をえたのを感じた。かつてのように、ひとりかけ離れて孤独ではなかった。このときはじめて、青年時代に父親にたいしていだいた深い怒りを完全に許す気持ちになった。ただし、許したとは自分では気づいていなかった。怒りっぽかった少年時代以来、ずっと彼の胸にまつわっていた苦々しさが、さわやかな風に吹き払われてしまったことだけがわかっていた。とうとう自分の心が平和になったのを感じた。
こういう気持ちで王虎は父の家に帰ってきた。末っ子として、あるいは末弟としてではなく、相当の事業を成就し、息子の父親にもなったりっぱな権利のある男として、意気揚々と帰ってきたのである。人々は彼のなしとげた業績を心から認め、兄たちは賓客を遇するように彼を歓迎した。兄たちの妻は、どちらが歓迎の言葉をすらすらと豊かに述べるかと、たがいにきそっているようだった。
じつをいうと、兄たちの妻は、王虎とその家族を、どちらの家に泊めるかということについて暗闘していたのである。王一夫人は、王虎の名声があがってきたものだから、王虎を客として迎えるのは名誉なことだと思い、王虎を自分の家に泊めるのが当然であり、自分の権利でもあると考えた。彼女は言った。
「わたしたちが王虎さんの正妻を選んであげたのですから、家へ泊まるのが当然ですわ。あの奥さんは学問があって、気持ちのよい人ですから、王二さんのところの無知な田舎者の妻といっしょにはとてもいられません。もし泊めたいなら第二夫人のほうを泊めればいいわ。王虎さんと第一夫人は、ぜひとも、うちへお泊めしなければいけません。王虎さんがわたしたちの息子のどれかに目をつけてなんとか引き立ててくださるかもしれません。すくなくとも王二夫人から悪口を聞かされたり、欲の深いもくろみをされたりする心配はありませんもの」
しかし、王商人の妻も、何度も執拗《しつよう》に夫をせめたてて、断じて初志をひるがえそうとしなかった。
「嫂《ねえ》さんは、王虎さんたち一行をお泊めしたところで、そんなにおおぜいの人にごちそうする方法を知りませんよ。尼さんや坊さんたちに粗末な精進料理を食べさせてばかりいるだけですからね」
この宿泊の問題についてのおたがいの憤激は、面と向かってののしり合うまでに発展した。清明節が近づくにつれて、だんだん大声で口論するようになり、解決のしようがなく、めいめい面子《めんつ》を重んじて、ゆずり合おうともしない。このありさまを見て、双方の夫たちは、例の茶館の待ち合わせ場所で落ちあって相談した。この兄弟は、両方の妻がつのつきあわせていると、ほかの場合にはけっして見られないほど仲よくなるのである。いつもさきに名案を考え出す王商人が、兄に向かって言った。
「兄さんの言われることも、もっともですがね、おとうさんが使っておられた建物に、弟とその一行を泊まらせたらどうでしょう。いまは蓮華《リエンホワ》のものになっていますが、蓮華はすっかり年をとってしまって、このごろでは賭けごともやらないので、ぜんぜん使っていないんです。あそこへ泊めることにすれば、費用もわたしたちふたりで折半できるし、この費用の二等分ということを理由にすれば、女房たちも、おとなしくなるでしょうからね」
若い時代なら王一は自分の思いついた考えをあくまで主張したでもあろうが、いまは年をとってふとりすぎてしまったので、すべてがひどくおっくうになり、一日のうち大部分はねむくて、めんどうなことはいっさいさけたかった。それで、この案はたいへん都合がよいように思えた。彼は権勢の強くなった末弟の好意を得たい気持ちはあったが、次弟が自分以上の好意を得さえしなければ、それもあまり問題ではなかった。かつては家へ客を招くことが好きであったが、いまでは、だんだん怠惰に日をおくるようになり、客などは呼ばないほうが、せいせいするのである。家に客があると、たえず礼儀正しくしていなければならず、疲れてしまうからだ。それゆえ次弟のこの案に、よろこんで賛成した。
ふたりは、それぞれ家に帰り、妻にこの案を話した。これは一同にとってまったくよい妥協案であり、双方の妻は、いずれも面目をうしなわずにすんだ。そしてふたりとも、自分こそ責任をもって王虎たちが居心地よく滞在できるようにつとめようと、ひそかに決心した。なお酒やごちそうや召使たちへの祝儀などの莫大な費用が折半されるということも、妻たちの気にいった。そしてこれはじつにだれにとっても道理にかなったものと思えた。
そこで、王龍《ワンルン》が中年以後に住んでいた建物は掃除され、調度が入れられ、きれいにされた。蓮華はそこをまったく使用していなかった。女中が、たまにすわって休むくらいのものである。蓮華は老いてすっかり肥満してしまい、杜鵑《ドチュエン》と奴隷たちだけを相手に暮らしていた。年をとるにつれて目がかすみ、しまいにはサイコロさえ見えなくなり、他の好きな賭けごとの数字も見えなくなってしまったので、もうそれらの遊びもできないのである。よく彼女のところへ遊びにきていた老婦人たちも、つぎつぎに死んでしまったり、老衰で寝床から出られなくなってしまって、もうだれもこなかった。蓮華はひとりで召使だけを相手に暮らしていたのである。
蓮華は奴隷をひどくこき使った。視力が衰えるにつれて、毒舌は、ますます鋭くなってきた。女中たちは、その毒舌にたえかねて居つかないので、王兄弟は高い賃金を彼女らに出さねばならなかった。買われてきたので勝手に暇をとることのできない奴隷たちのほうは、蓮華の虐使にたえかねて、ふたりまで自殺した。ひとりは安物のガラスの耳飾りを飲み、ひとりは自分が働いている台所の梁《はり》に首をつって死んだ。
蓮華は女中たちに、聞くにたえぬような悪態を金切り声であびせかけるばかりでなく、ひどくつねるくせがあった。彼女から他のすべての美しさが消えてしまったいまでも、老いて、ぽちゃぽちゃした手だけが、ふしぎに美しさを保っていて、なめらかでつやつやしていたが、なんの実用にも役立たぬその手で、蓮華は、若い女の腕を、血が紫色に皮膚ににじむほどつねるのである。それでも満足できないときは、キセルから火をとって奴隷のやわらかい若い肌に押しつける。彼女がこんな虐待を加えないのは杜鵑だけだった。杜鵑は、何かにつけてたよりにしていたので、一目おいていたのである。
杜鵑は昔とすこしも変わっていなかった。彼女もひどく年をとり、以前よりもいっそうやせて、ひからび、しなびていたが、その老いた肉体には、若いころとほとんど変わらぬ気力を蔵しているらしかった。目もまだきくし、舌は辛辣だし、顔じゅう皺《しわ》だらけだが、頬は赤かった。また、昔にかわらず欲ばりだった。ほかの召使たちが蓮華のものをちょろまかしたりしないように見張っていたが、もっともさかんにちょろまかすのは彼女自身だった。
蓮華の目がかすんでしまって見えないので、彼女はなんでも好きなものを蓮華から盗んで、自分の内緒の持ち物をどんどんふやして行った。蓮華は年をとって、もうろくして、どんな宝石を持っていたか、どんな毛皮を持っていたか、繻子《しゅす》や絹の着物はどんなのがあったか、みんな忘れてしまっているので、杜鵑が何を盗んだのかも知らなかった。蓮華が急に何か思い出して、それをほしいと言ったりすると、杜鵑は、できるだけ主人の気をほかのことにまぎらして忘れさせるようにした。蓮華が、いつまでも強情をはって、忘れようとしないときには、しかたなく自分の箱からそれをとり出してきて、蓮華に渡した。そうして蓮華が一、二度さわってみて、それで気がすみ、また忘れてしまうと、ふたたびそれをとって自分の箱にしまいこんでしまうのである。
奴隷も女中も、そのことは、口には出さなかった。杜鵑が、ここの事実上の女主人だったからだ。王兄弟も彼女には一目おいていた。杜鵑に代わりうる人間をみつけることができないと知っているので、なるべく怒らせないようにしていた。だから杜鵑が、蓮華からあれももらった、これももらったと言っても、召使たちは知らぬふりをしていた。それというのも、杜鵑は冷酷で邪悪だから、かれこれ言ったりすれば、平気で食物の椀のなかへ毒を入れるくらいのことはやりかねない、ということを知っていたからである。杜鵑は召使たちをこわがらせるために、自分は毒殺の技術に通じていると、おりおり自慢していた。
蓮華はというと、盲目になるにつれて何から何まで杜鵑にたよるようになった。いまは肥満して、おそろしく重いからだになってしまって、たいてい寝台の上で過ごしていた。彫刻した黒檀の大きな椅子に午後からすこしばかりすわることがあるだけで、またすぐ寝台へもどってしまうのである。椅子と寝台のあいだの短い距離でさえ、四人以上の奴隷にささえられなければ歩けなかった。かつては竹のようにすんなりとして、王龍に熱愛されたからだも、いまでは怪物のように巨大になり、かつては王龍が誇りとし、うつつをぬかしていたきれいな、きゃしゃな纏足《てんそく》の足も、いまや巨躯《きょく》におしつぶされた丸太ん棒のようになってしまっていた。
ある日、蓮華は隣の建物に騒がしい音を耳にして、何事かときくと、王虎が妻子を連れて清明節に父親の墓参をしにやってくるということだった。蓮華はすねて言った。
「ここへ子供を連れてきてはいやですよ。わたしは昔から子供は大きらいですからね」
それは事実だった。蓮華は子のない女で、いつも小さな子供にたいして妙な憎悪をいだいていた。ことに老年になってからはそうだった。次弟といっしょにきた王一が、なだめて言った。
「いや、いや、向こうの門を開けますよ。そして、あんたのところへは、ぜんぜん近よらせないようにします」
蓮華はまだぶつぶつと不機嫌に言った。
「王虎というのは、わたしの主人の息子でしたっけね。忘れてしまいましたよ。わたしの使っていた青白い顔の奴隷を、いつもじろじろ見ていた、あの子ですね。あの子なら、うちのおやじさんが、その奴隷を妾《めかけ》にしたときに家出したはずじゃありませんかね」
ふたりの兄弟は愕然《がくぜん》として顔を見合わせた。こんな話を聞いたことがないので、びっくりしてしまったのである。蓮華は、年をとるにつれて、みだらなことを平気でしゃべるようになったので、ふたりとも子供らをそのそばへ近づかせないようにしていた。上品なことと下品なこととの区別がつかず、口をついて出てくるにまかせて過去の若い時代のことをしゃべるのである。
王商人は、あわてて言った。
「そんなことは、ちっとも知らなかったですね。弟は、いま有名な軍閥になっているんですから、そんなことを聞くと名誉を傷つけられたと言って怒りますよ」
蓮華は、それを聞くと笑って、石だたみの床に唾《つば》をはいて、声を高めた。
「あんたがた男は、名誉、名誉と、えらそうに一生けんめいになっていますけど、その名誉の正体がどんなにつまらぬものかを、わたしたち女はよく知っていますのさ」
彼女は、自分の言葉に杜鵑も笑うかと耳を傾けてようすをうかがい、「ねえ、そうだろう、杜鵑や」と言った。いつも蓮華のそばについている杜鵑は、細い、かん高い声を立てて笑った。このふたりは、どちらも、まじめくさった尊大な中年男が狼狽《ろうばい》するのを見るのがおもしろかったからだ。兄弟は、歓迎の準備を下男に指図するために、急いで去って行った。
準備万端ととのったころ、王虎が家族を連れて到着して、亡父がかつて住んでいた部屋にしばらく滞在することになった。その部屋は、すっかりきれいに掃除されていて、昔の思い出となるものは何も残っていなかった。自分と息子以外のだれかが、かつてここに住んでいたことなど、忘れてしまうほどだった。
やがて清明節が屋敷全体に訪れ、みんな自分の個人的な恨みごとなど、このときばかりは忘れた。王一と王二の妻でさえ、一家じゅう集まった席では、たがいに礼儀正しく、いんぎんにあいさつした。すべてが古来から定められたしきたりにしたがって整然と行なわれた。この時期には、王龍の息子として、亡父の王龍にたいして果たさねばならぬいくつかの義務があった。
ちょうど清明節の二日前が王龍の誕生日にあたっていた。彼がこんにちまで生きていれば、九十歳になっているはずである。息子たちが集まっている際なので、亡父の追善を行なうことにきまった。王虎は、自分の息子を持って以来、父にたいする昔の怒りが自然になくなっており、父から子、子がさらに父になって子を残すという長い系列のうちに自分の位置をしめたいと熱望していたので、欣然《きんぜん》としてこれに加わった。
それで、王龍の誕生の日に、息子たちはおおぜいの客を招いて、父親が生きていればこうしたであろうと思うほどの宴会、一大盛宴を張った。歓喜があふれ、祝賀が交わされ、誕生日を祝うにふさわしいあらゆるごちそうが出された。席上に王龍の位牌をかざって、一同礼拝し、彼の生まれた日に敬意を表した。
その日、長兄の王一は、おおぜいの僧侶を呼んで莫大なお布施をした。弟たちも、それぞれ喜捨をした。僧侶たちは王龍の霊を、このめでたい屋敷に祀《まつ》り、なぐさめるために、あらゆる経をあげ、神聖な標章や経の文句を書いた紙などで大広間をかざりつけた。半日のあいだ、大広間は抑揚のある読経の声と、木魚《もくぎょ》のにぶい奥ぶかい音で満たされた。
これだけのことを王龍の記念のためにとり行なうと、息子たちは妻子を連れて先祖の墓へ行った。彼らは、どの墓をもよく清め、新しい盛り土で塚《つか》を築いて、まっすぐに、なめらかにならすようにと心をくばった。どの墓も塚の頂上をとがらせ、その上に一塊の土くれをおいた。器用に細長く切った白い紙が土くれでおさえてあった。白い紙きれは、かぐわしい春風のなかにひらひらとそよいでいた。王龍の息子たちは墓の前に低く頭をたれ、線香をあげた。自分の息子たちにも拝礼をさせた。
もっとも誇らしげだったのは王虎である。彼は美しい息子を抱いて小さな頭をさげさせた。この子、この長男を通じて、王虎は父や先祖たちとも兄たちとも血縁で結ばれているのを誇らしく思ったのである。
家に帰る道すがら、墓のあるところでは、どこでもかならず人々が、彼らがきょう王龍のためにしたと同じことを、先祖のためにしているのを目にした。祖先を追憶する日だからである。王一は、いつもに似ず感慨にうたれて言った。
「これからは、いままでよりももっと規則正しく父の供養をすることにしよう。供養するのも、あと十年しかないんだからね。あと十年でおとうさんは百歳になられる。そうすれば、他のからだに宿って、ふたたびこの世に生まれかわるのだ。するともう誕生日も祝えない。新しく誕生するわけで、どこへ誕生するか、おれたちにはわからんからな」
父になった王虎は厳粛な面持ちで言った。「そうです。供養すべきです。わたしたちが死んだとき、わたしたちだってやはり息子たちに供養してもらいたいですからね」
彼らは、だれも、いつもよりも、おたがいのあいだの緊密な絆《きずな》を感じながら、沈黙のうちに、厳粛に、家路をたどった。
これらのつとめが終わると、みんな祝いの歓楽にふけった。祝祭の日も暮れて、夕方になると、大気が思いがけず暖かく、かぐわしくなり、琥珀色《こはくいろ》に澄んだ、小さい、すっきりした満月が空にかかった。この夜、一同は蓮華の住む建物の中庭に集まった。蓮華がとつぜん、ぐちを言いはじめたからだ。
「わたしは、さびしい年寄りです。だれもわたしのそばにきてくれないし、わたしをすこしも家族のひとりとして扱ってくれない」
こう言って彼女は悲しみ、不自由な老いの目から涙を流したので、杜鵑が兄弟たちのところへ行って話すと、兄弟は、この日は父親や父親に関係あるものにたいして意外にやさしい気持ちになっていたものだから、彼女に譲歩して、王一の庭で王一夫人が催すことになっている宴会を、蓮華の中庭で開くことにしたのである。それは大きな美しい庭だった。一隅には南から持ってきたザクロの木が植えてあり、中央には八角形の小さな池があって、新しい小さな月が水面に映っていた。彼らは菓子を食べたり酒を飲んだりした。子供たちは月明をうれしがって走りまわり、木のかげへはいってかくれんぼをしたり、出てきたりして、ときどき走って行ってはお菓子を食べたり、すこしばかり酒をすすったりした。
一同は湯気の出ているできたてのおいしいごちそうを腹いっぱい食べた。細かく切った豚肉を詰めたのや、赤砂糖でつくってあってとてもおいしいのや、祭日にふさわしいいろいろな菓子類を、たらふく食べた。ごちそうが豊富にあったものだから、奴隷たちもぞんぶん食べたし、給仕している召使たちも、扉のかげにかくれたり、酒をもっと取りに行くと見せかけて、さかんに食べた。彼らがどんなにぬすみ食いしても不足しないのだ。また夫人たちの鋭い目がそれをみつけても、叱言《こごと》でその夜の興をそぐことを恐れて、今夜だけは何も言わなかった。
みんながこうして飲み食いしているうちに、音楽のじょうずな王一の長男が笛を吹きだし、器用なかぼそい指をしたつぎの息子が竪琴《たてごと》をとって二本の細い竹の棒で弦《げん》をかきならして合奏した。ふたりは春に寄せる古典的な調べをかなで、そのあとで、明月に訴えた閨秀《けいしゅう》詩人の悲歌を歌った。合奏がたいへんすぐれているので、母親の王一夫人は、すっかり得意になり、たびたび大声でほめたて、一曲終わるやいなや、声高く叫んだ。
「もう一曲、何かやってごらん! 宵月《よいづき》の下でこうして演奏するのは美しいものです!」
そして彼女は息子たちのすらりとした美しい容姿を自慢に思った。
しかし自分の子が無趣味な育ちで音楽などもてあそばないので、王商人の妻は、大きなあくびをしたり、そちこちの人に声高に話しかけたりしていた。とくに彼らが王虎のために選んでやった妻に向かって、しきりに話しかけた。この弟嫁ばかりちやほやして、学問のあるほうの弟嫁を露骨に無視する態度をとった。王虎の娘のほうなど見向きもせず、男の子ばかり頬ずりをしたり、抱きよせたりして、いつまでも手放そうとしなかった。知らぬ人は、その子が男に生まれたのは、まったく彼女の手柄であると思ったかもしれないほどであった。
けれども王一夫人は、王二の妻に不快の思いのこもった視線を何度も投げた。王二の妻は、それに気がついても知らぬふりをするのをおもしろがってはいたが、しかし、はっきり口に出して口論はしなかった。ほかの人はだれも気がつかないようであった。そのうち王一は、はっと気がついて、召使に命じて晩餐の食卓を室内に移させた。それからが本式の宴会である。給仕人たちは、つぎからつぎへと、おいしい料理を運んできた。この饗宴《きょうえん》を設けるのにあれこれと指図して王一が精根をからしてしまったほどすごいごちそうである。王一も王二も一度も聞いたことのないような多くの料理が出た。アヒルの舌を香料で煮たのや、黒い皮をむいてしまったアヒルの脚など、とても食欲をそそるような、さまざまの豪華な料理があった。
その夜は、みんなたらふく飲み食いしたが、だれもその旺盛な飲食ぶりにおいて蓮華におよぶものはなかった。彼女は食べるほど、ますますはしゃいできた。例の大きな彫刻のある椅子によりかかり、つきそいの奴隷があらゆる料理を彼女の皿へとり分けてやるのだが、ときには自分ですくおうとした。そうすると別の奴隷が彼女の手を持ちそえて陶器のさじで料理をすくわせた。すると彼女は一生けんめいにふるえる口のなかへ入れ、大きな音を立ててぴしゃぴしゃすするのであった。肉類でもなんでも食べた。歯はいまでも丈夫で健全なのである。
それから蓮華は、だんだんうれしくなってくると、ときどきちょっと食べるのを中止して、一つか二つ、みだらな下品な話をする。若い人たちは、長者の前なので、あまり大笑いするわけにはいかないが、それでも控えめに笑わずにはいられなかった。ところが彼女は、彼らがかみころしている笑い声に耳をすまして待っていて、それを聞きつけると、得意になって、いくらでもそんな話をした。王一自身すら、まじめな顔をしてはいられないくらいだが、そばに夫人が厳然と無言でひかえているので、その顔をながめて、やっと威厳を保っていられる始末であった。しかし、赤ら顔の王二夫人は遠慮なく高笑いした。義姉がすましていて笑わないのを見ると、ますます大声でげらげら笑った。王一の第二夫人さえも、夫人が笑わないから、くちびるをかんで笑いたいのをがまんしているが、袖《そで》で顔をかくしてしのび笑いをせずにはいられなかった。
そのうちに蓮華は、みんなが笑うのを聞いて、いよいよ図にのってきた。こうなっては、いくらなんでもみっともないから、黙らせなくてはならない。そこで王一と王二は、酒でもりつぶし、眠らせてしまおうとした。彼女が王虎のことでなにかみだらなことでも口にして王虎を怒らせてはたいへんだと思い、そうしようとしたのである。彼らは王虎のかんしゃくを恐れていた。彼らはまた、この蓮華の舌がうるさいので、梨華《リホワ》には、この一族の祝宴へくることを、しいてもすすめなかったのだが、梨華が白痴の世話をすてて行くわけにはいかぬからと使いのものに返事を託してきたときには、蓮華の記憶を呼びさまさないためには、梨華がいないほうが上分別であると考え、梨華の思うとおりにさせたのであった。
こうして、楽しい夜はふけて行き、真夜中になった。月は中天にゆらめいている。淡い雲が出てきて、月をあちこちゆらめかせているようだ。赤ん坊たちは母親の胸に眠っている。どこの家の幼いものも、とっくに母の胸を求めて眠っているころである。ただ王一夫人の末の娘だけは起きていた。彼女は、今年十三歳になったばかりの少女だが、すらりとして、気が勝っており、最近婚約がきまったので、おとなびていた。王一の第二夫人は、やさしい母親で、ふたりの子供を抱いていた。ひとりは一年以上になるが、もうひとりは生まれてやっと一か月をすこし過ぎたばかりである。王一は、いまも変わらずこの女を愛しているのである。王虎の妻たちはというと、これもおのおの自分の子を抱いていた。男の子は頭を母の腕によせかけて眠っており、満月の光が、その顔にいっぱいに降り注いでいる。王虎は、その小さな眠り顔を、何度も何度も、あかずながめていた。
夜半を過ぎると歓楽はつきた。王一の息子たちは、ひとりずつ席から姿を消して行った。彼らには、ほかに楽しいことが待っているし、年長者たちの前に長くかしこまってすわっているのは退屈だったからだ。彼らは気がねせずに平気で立って行ったが、王商人の次男は、うらやましそうにそのあとを見送っていた。父親がこわいので、思いきってついて行くことができないのだ。召使どもも疲れて早く休みたがっていた。彼らは席から姿を消し、そちこちの戸口にもたれかかって、あくびをしたり、たがいにぐちをこぼし合ったりしていた。
「小さい子たちが夜明けから起きたので、朝っぱらからその世話をしなければならなかったよ。だのに、あの大人《たいじん》たちは、真夜中まで飲みあかそうっていうんだからね。だから、まだ用事があるんだよ。わたしたちを寝かさないつもりかね」
けれども、ついに宴《うたげ》もおひらきになった。それより前に、王一は酔いつぶれてしまっていたので、彼の夫人は給仕人どもを呼んで、夫を彼らの肩によりかからせ、寝室まで送りこませた。王虎でさえ、かつてないほど酔ったが、自分の部屋まで歩いて行くことはできた。ただ王商人だけは、相変わらず柔和そうに、きちんとしていて、皺《しわ》のよった黄いろい顔は、すこしも変わっていなかった。赤くなってさえいないのだ。彼は、たくさん飲めば飲むほど、顔色が蒼白になり、しんみりと沈んで行くたちなのである。
しかし、そのうちでも、蓮華ほどさかんに飲み食いしたものはいなかった。いまはもう七十八歳に近い老齢なのだから、じっさい飲み食いの度が過ぎたようである。真夜中と夜明けの中間のころ、彼女は、うなり声を発して苦しみだした。飲んだ酒の酔いが一時に発して、全身が熱くなり、まるで激烈な熱病にでもかかったようであった。食べた肉や油っこい料理が、すべて石のように重く腹のなかにわだかまっていた。彼女は頭を枕の上であちこちと動かしてみたが、どうにもぐあいが悪い。茶だの水だのを持ってこさせたが、それでもすこしも楽にならなかった。とつぜん彼女は奇妙な、しわがれた悲鳴をあげた。杜鵑がとんできた。杜鵑の叫び声を聞くと、蓮華は何事かつぶやき、かすんでいる目を開けてみつめようとした。そして手と足を動かしたが、急に静かになってしまった。彼女のふとった年とった顔は暗紫色になり、からだはこわばり、呼吸はせまり、吸う息はとぎれがちで、ひどく高い音を立てるので、それが、隣の部屋まで聞こえるほどであった。王虎が、ふだんの習慣よりも飲みすぎて前後不覚に熟睡していなかったなら、たぶんそれを聞きつけたことであろう。
しかし彼の学問のあるほうの妻は、いつも眠りが浅いので、叫びを耳にすると、とびおきて駆けつけた。彼女は医者であった父親から多少の漢法医薬の知識を教わっていた。急いで窓掛けを引き開けると、まだ早い黎明《れいめい》の光が蓮華の恐ろしい顔の上にさした。びっくりして彼女は叫んだ。
「酒や肉を吐かせなければ死んでしまいますよ!」
そして、熱湯だの、ショウガだの、知っているかぎりの薬品をとり寄せて、それらを残らずこころみた。けれども、むだであった。蓮華の耳は、もうあらゆる呼び声も悲嘆も受けつけなかった。黒ずんできた歯を無理にこじあけようとしても、歯は内側へとくいしばって開かせなかった。こんな老体になっても、彼女の歯は依然として丈夫で、白く、役に立ったということは、じつにふしぎだが、じつはその歯が彼女の命とりとなったのである。というのは、歯がどこか抜けているとか欠けているとかすれば、どうにかして薬を流しこめるし、杜鵑は口移しにしてでも飲ませることができたはずだからである。けれども、丈夫な完全な歯が堅くかみしめられているので、それができなかったのだ。
こうして蓮華は、翌半日のあいだ、鼻から呼吸をしながら、横たわっていた。そして、これが彼女の最期だと気づかぬうちに、ぽっくりと死んでしまった。紫色をしていた顔が色あせて青白くなり、古い蝋《ろう》のように黄いろくなった。こうして清明節は、この蓮華の死をもって終わりを告げた。
王一と王二のふたりは彼女の棺をつくらせたが、ふつうのものの二倍も大きな棺が必要であった。しかし、そんな大きな出来合いはどこにもないので、一日二日のあいだ死体を寝台の上にそのままにしておくほかはなかった。
棺を待っているあいだ、杜鵑は、ながい年月ずっと仕えてきたこの人を心からいたみ悲しんだ。そうだ、たしかに哀悼《あいとう》したことは事実である。ただ、そこらじゅうを歩きまわり、手箱をあれこれ開け、すこしでも値うちのあるものは残らずとり出し、まだ蓮華が持っていたものはことごとく集めて、ひそかにだれも知らぬ裏門からその収得品を送り出していた。だから、蓮華を棺に納めるときになると、着せて葬るべき適当な衣装さえ、ほとんどなくなっていた。蓮華の召使たちは驚き、あやしんだ。蓮華は近年は賭けごとからも遠ざかっていたのに、王龍の未亡人として持っていたはずの相当な額の銀を、いったいどうしてしまったのだろうと、だれもがふしぎに思った。
しかし、そんな盗みをはたらいたにしても、やはり杜鵑は悲しんだ。そして、ほんのわずか涙を流した。その涙は、たとえわずかではあっても、彼女が他人のために流したただ一度の涙であった。蓮華の死体は、すぐ悪臭をはなちはじめたので、石灰を詰め、ふたを閉め、葬式の日がきまるまで寺院へ預けることにした。王一の家の門からそれがかつぎ出されたとき、杜鵑は歩いて棺のあとについて行き、棺が寺院のがらんとした一室に、すでにそこにおいてあるほかの多くの棺といっしょに安置されるまで、おとろえた弱い足で、おくれまいと急いだ。それがすむと、杜鵑はそのまま、以前から彼女が自分のものにしておいたどこかの家へ行ってしまった。そして、それっきり王家の屋敷へは顔を見せなかった。それでも彼女としては、心から、せいいっぱい心から、蓮華の死をいたみ悲しんだのであろう。
滞在を予定していた十日間が過ぎぬうちに、王虎は兄たちやその息子たちがいとわしくなってきた。あの祝祭の日に感じた肉親の親しみは消えうせてしまった。それでも彼は逗留していて、ときどき兄たちの家へ行っては、その息子たちが出たりはいったりするのを見守っていた。
それらの息子たちは、みんな意気地なしで、たいして見込みがないように王虎には思われた。王二のところのふたりの息子は、商店の番頭以上の能力はなさそうだし、なんの野心もなかった。父親がそばで見張っていないと、帳場でぶらぶら怠けていたり、ほかの店員たちと笑ったり、世間話をするだけである。十二歳になったばかりの末の子まで見習いとして店に入れてあるが、すこしでもひまがあると往来へ出て、ほかのいたずら小僧どもと銅銭を投げる賭けをしている。その腕白小僧どもは店の戸口のところで集まって彼を待っているのである。彼は何しろ主人の息子だから、だれも彼の気にさわるようなことは言わないし、また彼が銅銭をほしがってやいやい言えば、だれかが店の銭箱から一つかみ取り出してやるのである。そして、みんなでよく見張っていて、王商人の姿が見えると、あわててその子をそっと店に走り帰らせるのである。王虎は、この兄がもうけにばかり熱中していて、息子たちのことはすこしもかまわないのを知った。彼がそんなに熱心に集めた財産を、いつか子供たちが同じ熱心さで浪費するだろうということも、また、子供たちが店員づとめを辛抱しているのは、父の死を待っているのであって、父さえ死ねば、働かずにのんきに暮らせると思っているのだということを、この次兄は、すこしも考えつかないのだ。
また王虎は、長兄の息子たちが、いかに気むずかしく、おしゃれであるかを知った。夏は涼しい絹、冬は温かい毛皮というふうに、肌ざわりのいい上等のものでなければ身につけないのである。青年だから、なんでもさかんに食うべきだのに、ろくに食べもせず、ぶらぶら歩きまわり、これは甘すぎるの、あれは辛すぎるのと文句を言い、つぎつぎと料理の皿をつき返し、奴隷たちを、ああでもない、こうでもないと奔命に疲れさせるのであった。
こうしたありさまをながめていると、王虎は憤らずにはいられなかった。ある晩、彼が亡父のものだった庭を歩いていると、女のくすくす笑う声が耳にはいった。ふいに、どの奴隷かの子である小さな娘が、庭のまるい門を駆け抜けようとした。驚いて、息をきらしている。王虎がいるのに気がつくと、身をかがめてすり抜けようとした。王虎は彼女の小さな手をつかまえて、大きな声できいた。
「女の笑い声がしたが、あれはだれだ?」
女の子は、彼のぎらぎらした眼光におびえて、逃げようと身を引いた。しかし王虎がしっかとつかまえているので、ふりはなせなかった。それで彼女は目を落して、おどおどして答えた。
「若さまが、あたしの姉さんを向こうへ連れて行ったんです」
王虎はきびしくきいた。
「どこへ?」
女の子は、隣の庭の向こうの、あいている一室を指さした。それは蓮華が穀物部屋として使っていたもので、いまは何も入れてなく、大きなかんぬきで、ゆるく閉じてあるだけだった。女の子の手をはなすと、彼女は兎《うさぎ》のように一目散に走って行ってしまった。王虎は彼女が指さした部屋まで大股に歩いて行った。見ると、かんぬきはゆるくて、扉が一尺近くも開いている。やせた若者なら楽に出入りできるだろう。王虎は暗闇のなかにたたずんで、耳をすましていた。女のくすくす笑う声が聞こえ、ついでささやく声が聞こえた。何を言っているのかわからないが、熱っぽく、息苦しそうで、男ののどからほとばしってくるもののように思われた。すると、情欲にたいする昔のような嫌悪が彼の胸にこみあげてきた。彼は扉をたたこうとしたが、ふと思いかえした。そして自嘲《じちょう》の気持ちにおそわれた。
(この屋敷に、昔と同じように、いまでもあんなことが行なわれているにしても、それがおれになんの関係があるのだ?)
むしゃくしゃと、胸が悪くなって、彼は自分の住居のほうへ帰って行った。しかし、奇妙に強い嫌悪の思いが彼を落ちつかせなかった。また庭を歩きまわった。待つうちに、おそい月がのぼった。まもなく例の奥のあき部屋から若い奴隷が、かんぬきのかかった扉のあいだをすべり出てきた。彼女は髪をなでつけ、月光をあびて、にっこり笑っている。それから彼女は、すばやくあたりを見まわし、まえに蓮華がいた、タイルの敷いてある人気のない部屋を通って、布靴《ぬのぐつ》だから音も立てずに、急ぎ足に去って行った。ただ一度、ザクロの木の下で立ちどまった。ゆるんだ帯を直すためだった。
しばらくすると――そのあいだ王虎は身動きもしないで立っていたが、なかば胸のむかつくような、なかば甘美な一種の嫌悪の情が胸につきあげていた――ひとりの青年がぶらぶら散歩するようなかっこうであらわれた。まったく散歩で、宵《よい》の気分を味わう以外には、なんの目的もないかのようであった。ふいに王虎は呼びかけた。
「だれか?」
のんきな、軽快な、愉快そうな声が答えた。
「わたしです、叔父さん」
なるほど長兄の長男である。王虎はひどく淫蕩を憎んでいた。とくに肉親のものの淫奔を、がまんがならぬほど憎んでいるので、胸がむかついてきて、その青年にとびかかろうとした。しかし兄の子を殺すわけにはいかないし、いったん感情をゆるめると、どこまでやるかわからないことを知っているので、両手をわき腹へあてて自制した。そして大きく鼻から息を吹き出しただけで、目をつぶって自分の居間へ帰り、ぶつぶつ言った。
(こんな屋敷からは早く立ち去らなければだめだ。ひとりの兄貴は守銭奴《しゅせんど》で、ひとりの兄貴は漁色家《りょうしょくか》だ。こんな空気は息苦しい。おれは自由の人間だ。戦陣の人だ。女どもといっしょに家のなかにばかり住んでいる男たちみたいに、かんしゃくをおさえつけてがまんすることはできないのだ!)とつぜん彼は、正義のためにだれかを殺して血を流す必要が起こればよい、という奇妙な願望におそわれた。そうでもしなければ、えたいのしれないこの胸の重荷をさっぱりと払いのけることはできないだろう、と思ったのである。
そこで気をしずめるために、彼はしいて自分の長男のことに考えを向けようとした。彼は子供が母親といっしょに寝ている部屋へそっと行って、子供の顔を見おろした。妻は田舎生まれの女の常として、ぐっすり眠っていた。口を開けていて、吐く息がとてもくさかった。幼い息子の上に身をかがめるときにも、王虎は手で鼻の孔《あな》をおさえないわけにはいかなかった。しかし子供は平気で、すやすやと眠っている。その静かな、まじめくさった寝顔をながめながら、王虎は、この息子こそ断じて兄たちの息子のようには育てぬ、と心に誓った。いや、けっしてあんなふうには育てない。この子は小さなときから鍛えあげてりっぱな軍人に仕立てあげるのだ。その道のあらゆる技《わざ》を教えこみ、そして一かどの人物にするのだ。
そこで、その翌日、王虎はふたりの妻と子供たちと、随行してきたもの全部を引き連れて、別れを告げた。その前に近親者一同と別離の宴を張った。別れの宴にのぞんでも、王虎は、今度の訪問によって、けっきょく、以前よりも兄たちから気持ちが遠く離れてしまったのを感じた。長兄を見れば、いつも眠そうで、気楽で、ふとった肉のなかに埋もれていて、どんよりした目は何か淫《みだ》らな話を聞くときにだけ光を発するのである。次兄のほうはと見れば、顔は年とともにますますとがってくるし、目はだんだんずるそうになってくる。ふたりのようすを見ていると、自分がどういう人間か、子供をどんなふうに育てたか、すこしもわかっていないらしい。まるで、めくらで、つんぼで、唖《おし》のようなものだ。そうとしか王虎には思えなかった。
しかし彼は何も言わなかった。眉をひそめ、黙々としてすわっていた。ただ自分の息子のことにのみ思いをはせて大きな誇りを感じ、将来どんな人物に仕上げようかと思いめぐらしていた。
こうして彼らは別れた。表面上は何事もなく、丁重をきわめ、たがいに深く頭をさげて、あいさつをかわした。ふたりの兄や、その妻たちや、下男や女中まで、門外へ出てきて、何度も何度も声高に一路平安を祈った。けれども王虎は、当分、亡父の遺《のこ》したこの屋敷へは来まいと、心のうちで考えた。
だから、自分の領地へ帰ると、彼は、このうえもなく大きな満足をおぼえたのであった。その領地は、どこよりも一ばん肥沃で、民衆は一ばん強壮で善良であるように思われた。自分の家こそ真にくつろげる家庭なのであった。すべての部下が彼を歓迎した。そして、彼が到着すると爆竹の音を立てた。どこにも歓迎の微笑があふれていた。彼が赤毛の馬から降りると、屋敷の付近にいた二十人ばかりの兵士が、彼がすてた馬の手綱を受けとろうと、あらそって駆けだしてきた。そのような光景も王虎をよろこばせた。
春がだんだんたけて、いたるところ初夏の景色になると、王虎は、あらたに部下を募り、毎日訓練した。また各地にスパイを送り、新しく併合した地方の状況を視察するために人を派遣した。また税金を徴収させるために信頼する部下を各地へやり、その莫大な銀が無事に自分の手もとまでとどくよう、十分に武装した護衛兵をつけてやった。というのは、この時分には、以前のようにひとりで袋に入れて肩にかついでくることなどとてもできないほど収入がふえてきたからである。
忙しい日中が終わって、日暮れになると、なま暖かい春の宵のなかに、王虎は、居間にただひとり、ぽつねんとすわっていた。こんなときには、世の多くの男たちは、心が迷ってういた気分になり、情事とか、またそれまで知らなかった方面に向かってあこがれるものだが、王虎は、わが子のことばかり思っていた。彼は赤ん坊をあやすすべも知らず、自分の子の扱いかたさえ知らないのだが、それでも、しょっちゅう子供を自分のところへ連れてこさせた。そして子供をよく見える場所へすわらせるよう乳母に命じ、子供の手足の動きや、顔にひらめくかわりやすい表情などを、一つのがさず、一心にながめてすわっていた。子供が歩けるようになると、王虎はうれしさでじっとしてはいられなかった。夜になって、だれも見ている人がいないと、乳母が子供の腰のまわりに結びつけた紐《ひも》を手にとって、庭のなかをぐるぐる歩きまわらせるのが、楽しみだった。子供のほうは紐の輪を腰につけて、はあはあ息をきらしながら、えっちらおっちら、よろめき歩いていた。
もしだれかが王虎にたいして、その男の子をながめているあいだ何を考えているのか、とたずねたら、彼は大いにあわてることであろう。何を考えているのか、自分でもわからないからだ。ただ彼は権力と栄光の偉大な夢が頭のなかにわきあがってくるのを感じるだけであった。そして、ときどき、その夢が頭のなかに満ちあふれてくると、こんな時代だから、もし相当な武力があり人を畏服《いふく》させることができさえすれば、どんな権力のある顕栄の身分にでものぼることができる、いまは皇帝も王朝もない時代だから、だれでも奮闘して運命を切り開くことができる、というようなことを思いふけるのがつねであった。心中にそんなことを感じてくると、王虎は、おのれのひげに向かって、つぶやくように言うのであった。
(その人間は、おれなのだ!)
王虎がこんなにも長男にたいして愛情をいだいているということから、一つの奇妙な事件が起こった。それはこうだ。
学問のあるほうの妻が、長男が毎日彼のところへ召されることを聞いて、ある日、自分の娘を飾りたてて彼のところへ連れてきたのである。はなやかな新しい衣装を着せていた。その色は、じつにあざやかな淡紅色で、手くびには小さな銀の腕輪まで巻きつけ、黒い頭髪をピンクのリボンで結んでいる。こうして娘の父の注意をひこうとしたのである。王虎は困ってしまい、女の子にはどう言ってやったらよいかわからないで、目をわきへそらせると、妻は気持ちのよい声で言った。
「この小さい娘も、あなたに見ていただきたいと願っています。この子は、あの男の子にちっとも劣らず丈夫で、美しゅうございます」
王虎は、順番で彼が夜の闇のなかを訪れるときの彼女しか知らないので、こんなことを言う彼女の勇気に、いささかたじたじとなって、義理で、つぶやくように言った。
「女の子としては、かなりきれいだな」
しかし娘の母親は、それでは満足しなかった。彼は、ほとんど娘の顔も見ないで言うのだから、なおさらである。そこで彼女は、さらに一押しした。
「いいえ、旦那さま、ちょっとでも、この子を見てやってくださいまし。この子は、ありふれた子ではございません。あの男の子よりも三月も早く歩きましたし、二年足らずですのに、四つの子ぐらいの口がきけます。わたしがあなたにお願いしたいことは、この子にも勉強させて、あの男の子と同じように、あなたのあとをつがせていただきたいことでございます」
王虎はびっくりして言った。
「女の子は軍人にすることはできんじゃないか?」
すると娘の母親は、しっかりした、気持ちのよい声で言った。
「軍人にできなければ、学校へやって何か芸を習わせましょう。このごろは、そういう学校がたくさんあるのですから、旦那さま」
とつぜん、王虎は「旦那さま」という、ほかの女はだれも使わない言葉で呼ばれたことに気がついた。この妻はほかの女たちのように彼を「ご主人さま」とはけっして呼ばないのだ。彼は、まごついて、なんと答えたらよいか考えつかず、あわてて子供のほうへ目をやった。まったくかわいらしい子である。まるまるとふとって、ちいさな赤い口を動かして微笑している。目は大きく黒いし、手はふっくらしているし、爪《つめ》はほっそりとして非のうちどころがない。彼が爪に目をとめたのは、母親たちがよく、愛する子供にそうしてやるように、この母親もまた娘の爪を赤く染めてやっていたからだ。足には小さなピンク色の絹の靴をはかせている。子供が母親の手の上でとびはねるので、母親は一方の手で両足をおさえ、片手を胸のあたりにまわしている。王虎が女の子をながめているのを見て、母親は、静かに言った。
「纏足《てんそく》はさせまいと思います。学校へやって、このごろあちこちにあらわれたような近代的女性にしたいと思います」
「そんな娘は嫁にもらってくれる人があるまい」 王虎は、きもをつぶして言った。
母親は落ちつきはらって、それに答えた。
「そういう娘は、きっと好きな人と結婚すると思います」
王虎は、これを聞くと、すこし考えこみ、妻の顔を、しげしげとながめた。これまでは、妻なんぞ自分の目的を助けてくれればそれで十分だと思って、ろくに顔も見なかったのである。しかし、ながめているうちに、彼は、はじめて知った。妻は聡明なりっぱな顔をしているのだ。態度も沈着に見え、思うことはなんでもやりとげそうに思える。そして、彼がみつめても、別にあわてもせず、もうひとりの妻だったら口をすぼめたり忍び笑いをするであろうのに、この妻は、落ちついて彼を見かえしているのだ。彼は心のなかで感嘆した。
(この女は、おれが考えていたよりも利口者だ。おれはこれまで気がつかなかったのだ)そして座を立ちながら、こんどは声に出して、やさしく言った。「その時期になって、そうするのがいいと思えたなら、おれはおまえの言うことに反対はしないよ」
王虎の知っているかぎりでは、この妻は、つねに冷静で、生活に満足しているように思えた。ところがいま、いつもそっけない夫のこのやさしさに接すると、ふしぎに感動したらしい。これは奇妙なことだった。頬に血の色がのぼってきた。だまって熱情をこめて彼の顔を見あげていた。目にはあこがれがひそんでいる。しかし、彼女のこうした変化を目にすると、彼の胸のなかには女性にたいする古い反感がわいてきて、口をきくのがいやになった。やらねばならぬ仕事を忘れていた、と小声に言いながら身をひるがえし、心のなかで動揺しながら急いでその場を去った。妻に、そんなふうに見られると、妻がいとわしくなるのだ。
しかし、このときの結果として、彼が男の子を呼びにやると、学問のあるほうの母親は、さっそく奴隷に抱かせて女の子を彼のところへよこすようになった。ふたりの子供がいっしょになった。王虎も、女の子だけ帰らせろとは言わなかった。最初、彼は、女の子の母親があらわれはしないか、そして彼と話をする習慣ができはしないか、と心配したが、そんなこともないので安心した。彼は女の子をしばらくそこにいさせてながめていた。あちこちと、よちよち歩いている幼児にすぎないにしても、女性なるがゆえに彼はこの女の子に何かくつろげぬものを感じた。
それにしても、じつにかわいらしい。しばしば彼はこの子を見守っていた。そして彼女が怒ったり笑ったりするのを見、片言を言ったりするのを聞くと、声のない笑いをもらした。男の子のほうは、大柄で、むっつりしていて、めったに笑わないが、女の子のほうは小柄で、すばしっこくて、元気で、その目は、つねに父の目を追い求めていた。そして、だれも見ていないと、男の子をいじめたり、彼の持っているものを引ったくったりした。それほど敏捷なのだ。王虎も知らず知らずのうちに、ある仕方で彼女のことを気にかけるようになった。奴隷が彼女を抱いて門前の群集のなかにまじって往来の出来事を見ているようなときでも、すぐわが子だと見わけられたし、ときとしては足をとめてその小さい手にさわったり、彼女が彼のほうへ視線をなげてほほえむのを、楽しく感じたりするのであった。
こうして女の子のほほえみを見たあとで自分の居間へ帰ると、すっかり満ち足りた気持ちになった。ついに、もう孤独は感じなくなった。自分自身のもの――わが妻たちと子供たち――にかこまれているのだと、しみじみ思うのであった。
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二十四
息子のために地盤をひろげ地位を確立せねばならぬという考えは、つねに王虎《ワンホウ》の頭を離れなかった。そのことを彼は、しょっちゅう自分に言い聞かせ、またその実現のための計画を立てていた。このつぎ全国的な大乱が起こったときには、それに参加して最後の勝利をおさめよう、ひでりや洪水で民衆が困っている凶年に乗じて江南に進出して一、二の省を奪取しよう、などと心をくだいていたのである。しかし、数年間は全国的な戦乱はなく、暗愚な人間が、つぎつぎと中央政府の元首の地位にのぼって、安定した平和はなかったが、それかといって大きな動乱の勃発も見られなかった。こんな時節には、軍閥の将領といえども、あまり思いきった行動には出られないのである。
もう一つ大事なことは、息子のためにいろいろと将来の計画を立ててやったり心をつかわなければならないので、以前のように領土拡張の野心に専念することができなかった。それに、軍務もあるし、老県長の後任がまだ赴任してこないので領内の行政の仕事もある。一、二度、新県長候補の名が通達されてきたが、王虎は県長がこないほうが都合がよいから、すぐに拒否した。このごろでは、息子も、すでに赤ん坊ではなく少年期にはいっている。あと数年ほど県長の地位をそのままあけておけば、長男が大きくなって軍隊の指揮がとれるようになるだろう。そのころには自分も老いて征戦は苦しくなるだろうから、県長の職を占めよう。そうすれば万事好都合である。
時おり彼は、そんなふうに考えていたのである。しかし、それを公表するには、まだ時期が早すぎる。だから、そのことはだれにも話さず、心のなかにだけしまっておいた。そして、じっさい少年は、まだやっと六歳になったばかりなのである。王虎は、息子が一人前の男になるのが待ち遠しかった。だから、ときには歳月の過ぎるのが、ひどく早く思われたが、またときには、ひどくのろのろして、すこしも過ぎて行こうとしないようにも感じられた。そして息子をながめていると、まだ小さい少年である事実は目にうつらないで、自分が希望している若い軍人の姿がちらついてくるのであった。そのために彼は、自分では気づかないうちに、無理なことを子供にしいるようなことになったのである。
息子がやっと六歳になると、王虎は彼を母親の手から引き離し、後房から連れ出して、自分の居間に自分とふたりで暮らすようにさせた。そうしたのも、一つには、子供が女たちの愛撫や、ものの言いかたや、しぐさなどの感化で柔弱になることをおそれたためでもあるが、また一つには、二六時中、子供といっしょにいたいと急いだためでもあった。最初のうち、子供は恥ずかしがって父になじまなかった。そして、おびえたような目の色をして、あちこち歩いていた。王虎がなじませようと骨を折って、抱こうとして手を出すと、かたくなって身を引き、抱かれようとしないのである。王虎にも、子供が恐ろしがっているのはわかった。しかし非常にかわいく思っているので、何か話しかけようにも、さてどう言ったらよいかわからず、だまって勝手にさせておくよりほかに方法がなかった。
はじめ王虎の計画では、子供の生活を、母親とか女の生活とかいうものから、きれいさっぱりと切り離すつもりであった。だから子供のそばに兵士ばかりおいて世話をさせたのである。だが、じきに、そんな思いきった隔離は、まだ年のいかぬ頑是《がんぜ》ない子供には堪えられないことが明らかになった。子供は、すこしも|だだ《ヽヽ》をこねるようなことはなかった。口数のすくない、辛抱強い子で、やむを得ないことは、じっとがまんしていた。けれども、明るい顔には、けっしてならなかった。父が呼べば、そばへ行ってすわっている。自分の部屋へ父がはいってくれば、すぐに礼儀正しく席を立つ。毎日教えにくる家庭教師について本を習う。しかし言わなければならないこと以外には、どうしても口をきこうとしないのである。
ある晩、王虎は夕食のときに、息子の食べるところを、じっと見ていた。子供は父が見守っていることを感じて、低く皿の上に頭をかがめて、食べているようなかっこうはするが、何ものどを通らなかった。それを見て王虎は腹立たしくなった。事実、この子のために、考えられるかぎりのことを、これまでしてやってきたのである。その日も、彼は子供を連れて部下の検閲に行った。子供を鞍の前輪に乗せて進んで行くと、部下は息子を「小将軍」と呼んで歓呼した。彼の胸はうれしさでいっぱいになった。しかし子供は、かすかに微笑しただけで、頭をわきへ向けていた。王虎は叱《しか》った。
「頭をちゃんと高くあげろ――みんなおまえの部下なのだ――おまえの兵士どもなのだ――いつかおまえが指揮して戦争に行くのだ!」
気合をかけられて、子供は頭をいくらか高くもたげはしたが、頬は、燃えるようにまっ赤になっていた。王虎が身をのりだして見ると、子供はすこしも部隊を見ていなかった。部隊が行進している地面のはるか向こうの野原に目をやっているのである。王虎が何を見ているのかときくと、息子は指をあげて、向こうの畑で水牛の背中に寝そべって兵隊の勇壮な行進を見ている日にやけた裸の少年をさした。そして言った。
「ぼくも、あの子みたいに水牛の背中で寝てみたいんです」
王虎は、こんなつまらぬ、いやしい希望を息子が持っているのを知って、不愉快になって、きびしい調子で言った。
「そうか。おれの息子が牧童ふぜいになりたいと思っているとは知らなんだ。もっと高い志をいだいたほうがよいぞ」
そして彼は声を荒らげて、よく軍隊を見ろ、行進するところ、方向転換をするところ、銃を高くあげて射撃するところを、よく注意して見ろ、と命じた。子供は従順に父の言うとおりにし、二度と牧童のほうを見なかった。
わが子がそんな願望をいだいているということで、王虎は一日じゅう心をなやまされていたのである。そのあげく、いま夕食のとき、彼がながめていると、しだいに子供は頭を下にたれてしまった。食事がのどを通らないのも無理はない。すすり泣いているのである。そのとき王虎は、もしや病気になって苦しいのではないかと急に心配になってきた。そこで立ちあがって子供のそばへ寄り、手を握って大きな声できいた。
「熱でも出たのか?」
しかし、小さな手は冷たくしっとりとしていた。子供は頭を振るだけで、王虎がなんと言ってたずねても返事をしなかった。ついに王虎は、信頼している部下のみつ口を呼びよせ、彼の助けをかりることにした。みつ口がきたとき、王虎は、心配と恐怖で、やきもきしていた。それに、子供があまり頑固なので、多少腹を立ててもいた。彼はみつ口に向かって叫ぶように言った。
「おい、このバカな小僧をあっちへ連れて行ってくれ! そして、どこがぐあいがわるいか見てやってくれ!」
まだ子供はひどくしゃくりあげていた。頭を下げ、両手で顔をかくしてすすり泣いているのだ。王虎は怒っているが、彼自身も泣きたいような気持ちになり、無理にいかめしそうにしてひげをひねっていた。腹心の部下は子供を抱きあげ、どこかへ連れて行った。王虎は子供が食べなかった料理の皿をみつめながら、しばらくのあいだ、苦しい思いで、じっと待っていた。みつ口がもどってきたときには、子供を連れていなかった。王虎は、うなるように言った。
「早く言え! すっかり話してくれ!」
ためらいがちに部下は言った。
「病気ではありません。さびしくて、ご飯が食べられなかったのです。これまで、ひとりきりでいたことがないので、遊び仲間もほしいし、おかあさんや妹さんたちにも会いたがっているのです」
「だが、もうぶらぶら月日を空費していてよい年じゃない。母親を恋しがるなんて、もってのほかだ」王虎は、ほとんどわれを忘れ、ひげを引っぱり、椅子の上で身をもみながら叫んだ。
みつ口は主人の気性をのみこんでいるので、すこしもこわがらなかった。彼は落ちついて答えた。
「それはそうです。しかし、ときどきおかあさんのところへ行けるようになさったらよいと思います。それともお嬢さんが遊びにくるようにするかですね。まだほんの子供なんですから、そうすれば坊っちゃんも、ひとりでいることに、だんだん慣れてくるでしょう。それでないと、ほんとに病気になりますよ」
王虎は、しばらく黙ってすわっていた。そして、はげしい嫉妬になやまされていた。彼の殺した妻が、彼よりも死んだ匪賊を愛していたということで彼を苦しめたとき以来、一度も味わったことがないような猛烈な嫉妬にさいなまれていたのである。今度のは、わが息子が自分ばかりを愛しているのではなく、父親以外の他のものを恋しがっているということへの嫉妬であった。自分は、わが子によろこびと誇りを感じているのに、息子のほうでは、そんなに大きな愛情にも満足していないし、それをありがたいとも思っていないのだ。父の愛情につつまれているにもかかわらず、母親を慕っているのだ。そのことが王虎を苦しめるのであった。王虎は心のなかで、(おれはそれだからすべての女を憎むのだ)と、はげしく叫んだ。そして短気に椅子から立ちあがり、みつ口にどなりつけた。
「そんな弱虫なら母親のところへ行かせろ! 兄貴たちの子供のようになるなら、どうしようとおれはかまわん。勝手にするがいい!」
みつ口は、おだやかに答えた。
「将軍さま、あなたはあの坊っちゃんがまだ小さな子供だということをお忘れになっています」
王虎は、ふたたび椅子に腰をおろして、しばらくのあいだうなっていたが、やがて言った。
「そうだな。わしはいま母親のところへやってもよいと言ったように思うが……」
それからというもの、五、六日に一度くらいずつ子供は母親のところへ行くことになった。彼が行くたびに王虎はすわってひげをかみながら待っていて、もどってくると、子供が見たこと聞いたことを、あれこれとたずねるのであった。
「あっちでは、みんな何をしていたか?」
すると子供は父の目にあらわれている熱烈な感情に驚いて、きまってこう答えた。「おとうさん、なんにもしていませんよ」
けれども王虎は、あくまで追及をやめず、大きな声でたずねるのだった。「女たちは賭けだとか、縫いものだとか、なにかしていただろう? 女どもは、何もしないですわっているときには、きっとうわさ話をしている。うわさ話をするのも、なんにもしていないということにはならんのだ」
すると子供は一心になって考え、眉をよせて、苦しそうに重い口で答える。
「おかあさんは、赤い花模様のついている布で、ぼくの妹の着物をこしらえていました。ぼくとおかあさんのちがう一ばん上の妹は、そばにすわって、どのくらい字が読めるか見せるために本を読んでくれました。ぼくはあの妹が好きです。ぼくの言うことをわかってくれるし、ほかの人たちのようになんでもないつまらないことを笑ったりしないからです。あの妹は、とても大きな目をしていて、髪の毛は編んで垂らすと腰の下までとどきます。しかし、あまり長くは本を読んでいないんです。ちっとも落ちついていないで、おしゃべりするのが好きなんです」
これを聞くと王虎はよろこんだ。そして、うれしそうに言った。「女というものは、みんなそうしたものだ。やつらは、くだらぬことを、いつも夢中になって話しているのだ」
王虎の胸にあるのはじつに奇妙な嫉妬心であった。それは彼をしだいに家族のものから引き離して行った。ふたりの妻のどちらへも、ますますたまにしか近づかないようになった。そして月日が過ぎて行くとともに、この子だけがほんとに唯一の男の子ということになるのではないか、と思われてきた。というのは学問のある妻は最初の娘を生んだだけでその後はないし、無学の妻は数年おきにふたり生んだが、いずれも女の子であった。そして王虎は、血が冷たくなって女色に興味がないのか、それとも長男にたいする愛ですっかり満足してしまったのか、しまいには妻たちのいる後房へは、さっぱり行かないようになってしまった。その理由の一つは、子供が彼の部屋でいっしょに寝るようになってからというもの、夜おきあがって女のところへ通うのは、子供のてまえきまりがわるいという一種の強い羞恥心《しゅうちしん》からであった。
多くの軍閥は富強になってくると、後宮にたくさんの美女を集め、山海の珍味に飽くことを知らぬのであるが、王虎は、いつになっても断じてそんなことはしなかった。巨万の富は、ことごとくあげて小銃の購入と兵士の給与に当てた。ただ、いつふりかかるかもしれぬ危難の年にそなえて、一定の金額を貯蓄し、そして徐々にそれを増額して行った。そして彼自身は、きびしい質素な生活をおくり、長男以外のものは近づけず、孤独に暮らしていた。
ときたま王虎は、長女を呼んで彼女の兄である長男と遊ばせた。それが彼の居間へはいってくる唯一の女性であった。最初の一、二回は母親がついてきて一、二分ほど腰をおろした。しかし王虎は、彼女にそばにいられると、気まずくて落ちつかなかった。それに彼は、この女が何かのことで自分を責めている、と感じていた。自分に何かを望んでいる、何かわからないが不満を持っている、そう感じられるのである。だから彼女がくると、口さきだけは、ていねいに逃げ口上をつくって、その場をはずしてしまった。とうとう彼女も、彼に何かを期待するのをあきらめたらしくて、ふっつり姿を見せなくなった。まれに長女が呼ばれて遊びにくるときにも、連れてくるのは、いつも奴隷の女だった。
しかし、一、二年すると娘もこなくなった。娘の母親から、娘を学問させるためにある学校へ行かせたいと、ことづてをよこした。王虎はよろこんだ。というのは、きわめて厳格な生活を送っている居間へ彼女がはいってくると、彼の気持ちをかき乱すからである。娘は、あまりにはでな着物を着ており、赤いザクロの花や、芳香の強い白いジャスミンの花を髪にさしてくるのだ。とくに彼女は肉桂《にっけい》の小枝を編んだ髪にさすのが好きであった。王虎は肉桂の香《かお》りには耐えられなかった。非常に甘く、強烈で、彼はそういうにおいが大きらいなのだ。彼女はまた陽気で、わがままで、いばりやで、王虎が女性についてきらう性質を残らずそなえていた。彼がもっともきらったのは、この娘がはいってくると、長男の目に生き生きとした光が輝き、くちびるに微笑がうかぶことであった。彼女だけが長男を陽気にさせ、庭じゅうを駆けまわらせ、遊ばせることができるのである。
王虎は自分の心が、ただただ息子にのみ夢中になっていて、長女にたいしては閉ざされており離れて行くのを感じた。彼女が赤ん坊だったときに感じた、かすかな愛の衝動は、彼女がすらりとした少女になり、一人前の女になる気配を見せてくるにつれて、いまや消えうせてしまった。だから、母親が学校へ入れる準備をしていると聞くと、彼はよろこんで、気持ちよく銀を出してやり、すこしも物惜しみしなかった。いまこそ息子を独占できると思ったからである。
彼は息子がまたさびしがってはいけないと思い、そんなひまがないように、その生活の日課をいっぱいに満たすようにしてやろうと思った。彼は長男に言った。
「いいか、おれたちは、おまえもおれも、男なのだぞ。だから、おまえもおかあさんの居間へ行くのはやめたがいい。ただし、子としてご機嫌うかがいに行かねばならぬときは別だ。女どもといっしょにいると、たとえ母や妹といっしょであっても、一生をうかうか遊んで暮らしてしまう。まったく、あいつどもの生活といったら、のんきな、ぬらりくらりした生活法だからな。女は、しょせん女だ。無知で、おろかなものだ。おれはおまえに軍人としてのあらゆる技術を習わせたい。昔のも今のも両方ともにな。おれの腹心の部下たちから、昔の武技について知るべきことは、なんでも習うがよい。拳《こぶし》と足の使い方は豚殺しから、剣術や棒の使い方はみつ口から教えてもらえる。新式の戦術については、おれは耳に聞いただけで一度も見たことがないから、海岸地方へ人をやって、おまえのために新しい家庭教師を雇うことにした。その先生は外国で兵法を修業してきたので、あらゆる外国の兵器や戦術に通じている。その先生に、まずおまえの教育をやってもらう。もし時間があれば部下の訓練もやってもらうつもりだ」
子供は、なんとも答えなかった。父から、何か言われるときには、いつでも完全な沈黙をもって父の言葉を受け入れるのであった。王虎は情愛深く子供の顔をながめたが、そこには彼が求めているような表情のしるしも見えなかった。彼は、しばらく待っていたが、やがて子供は、ただこう言っただけであった。
「もうあっちへ行ってもいいですか」王虎はうなずいた。そしてなぜだか自分でもわからない嘆息をもらした。あるいは自分が嘆息したことさえ知らなかったかもしれない。
息子に訓戒した王虎は、わが子の一日の生活を、食事と睡眠の時間をのぞき、あとの時間はすべて何かの訓育でいっぱいにふさがるようにした。早朝に起きて腹心の部下とともに武術の稽古をさせる。終わって朝食がすむと、午前中は読書をさせる。昼の食事がすむと、新しい軍事教官が午後いっぱいあらゆることを教えこむ、といったあんばいである。
この軍事教官は、王虎がかつて見たこともないような型の若い軍人であった。西洋式の軍服をつけ、鼻眼鏡をかけ、すらりとした敏捷なからだを持っていた。走ることも、跳躍も、剣術もできるし、あらゆる外国製の武器の射撃法も知っていた。手で持って投げると爆発して火炎を発する武器もあった(手榴弾《しゅりゅうだん》である)。小銃のように手で引き金を引く砲もあった(迫撃砲である)。そのほか、いろんな武器があった。王虎は長男といっしょに腰をかけて、これらすべての戦法を学んだ。そして口にこそ出したくなかったけれども、王虎は、これまで見聞したこともない多くのことを学んだのであった。そして、彼が持っていた二門の砲、ただ二門しかない大きな砲を、これまであんなに自慢にしていたことが、まことになさけないことに思われてきた。
そうだ、彼は自分が戦争についてさえじつに無知であることをさとった。彼がこれまで夢想もしなかった、しかもどうでも知る必要のある多くのことがあるのを知ったからである。彼は毎夜おそくまで起きていて、わが子の教官と語りあった。そして、さまざまの巧妙な殺人法をきいた――空中から人間の上に落ちてくる爆弾、海底からうかびあがってくる潜航艇、目もおよばない距離を飛んで落下し、敵の頭上に炸裂《さくれつ》する大砲弾など。そういう話に王虎は驚異の思いをもって聞きいった。
(外国ではじつに戦争の技術が発達したものだ。わしは知らなかった)
王虎は思いにしずんだ。そして、ある日教官に言った。
「わしの領有している地方は肥沃でな、飢饉というのは十年か十五年に一回くらいしかない。わしも多少の軍資金は積み立ててある。どうもわしは自分の軍隊に満足しすぎているようだ。ところで、うちの息子が、こういう新式の戦法を残らず学ぶ以上、そういうことに熟練した軍隊を持つべきだと思う。これからわしは外国で使用されている武器を購入することにしよう。わしの息子が大人になって、それを指揮するようになるまでに、わしの部下を訓練して、息子にふさわしい軍隊を養成してくださらんか」
青年教官は、すばやくひらめくような微笑をした。そして、非常によろこんで答えた。
「わたしは将軍の軍隊を訓練してみようと思ったのですが、忌憚《きたん》なく真実を申しあげると、彼らは、いわばならずものの集まりであって飲食だけで満足しています。しかし将軍が新式の武器を購入して、訓練の時間をさだめてくださるなら、はたして彼らを新式の軍隊に養成しうるかどうか、一つやってみたいと思います」
しかし王虎は、長い年月、部下の訓練に精進してきたつもりなので、彼の言う「忌憚のない真実」を聞いて、内心あまり愉快ではなかった。だから、こわばった声で言った。
「まず、わしのせがれを教育していただきましょう」
「十五歳になられるまでは、わたしがお教えしましょう」と若い教官は言った。「将軍のような高い身分の方に忠告を申しあげることをお許しくださるならば、十五歳以後は南方の軍官学校へ留学させられたほうがよいと思います」
王虎は、ふしぎに思った。
「なに、戦争を習わせる学校があるのか?」
「あります」と若い教官は答えた。「そこを卒業したものは正規軍の大尉に任用されます」
しかし王虎は、それを聞くと、いたけだかになって言った。「わしのせがれは自分の軍隊があるのだから正規軍の大尉のようなつまらん地位をさがす必要はぜんぜんない」そして、しばらくして王虎はまた言った。「それに、南方に学ぶようなことがあるとは思えぬな。わしも若いとき南方の将領のもとに仕えていたことがある。その将領は、怠け者で、女好きで、部下の兵隊といったら猿のようなやつばかりだった」
教官は王虎の機嫌をそこねたことに気づくと、微笑してその面前を去った。王虎は、いつまでもすわりつづけて、息子のことを考えていた。たしかにこれまでも、わが子のために、できるだけのことはなんでもしてやってきた。しかし自分自身の少年時代の気持ちを痛ましい思いでたぐってみると、かつて自分の乗馬をほしがったことがあるのを思い出した。その翌日、彼はわが子のために一頭の小さい黒馬を買った。蒙古の平原に産する強壮な名馬で、よく知っている馬商人から買いとったのである。
その馬を息子にあたえるとき、「おまえに買ってやったものがあるから庭へ見にくるように」と呼びにやった。息子が出て見ると、そこに、その小さい黒馬が立っていた。赤い新しい皮の鞍をおき、シンチュウの鋲《びょう》の打ってある赤い手綱をつけ、馬丁がそれをとって控えていた。馬丁はきょうからこの馬の専属になるので、手に皮で編んだ新しい鞭《むち》を持っていた。王虎は、自分が少年時代に夢みたのは、こんな馬だった、と思った。あまりりっぱすぎて生きているとは思えない。そう思って内心得意になった。そして、わが子の目のなかに微笑となってあらわれるにちがいないよろこびの色をみつけようと、一心に息子の顔をながめた。
しかし少年は、いつもの冷静さを、すこしも変えなかった。彼は馬のほうを見て、いつものような落ちついた調子で言った。
「おとうさん、ありがとうございます」
王虎は待っていた。しかし子供の顔には、はれやかな色すらあらわれてこなかった。とんで行って手綱をつかもうともしなければ、鞍へまたがってみようともしなかった。一刻も早く、その場を去ってもよいという許しが出るのを待っているかのようであった。
はげしい失望を感じて、王虎は、くびすをめぐらし、自分の部屋へ帰り、扉を閉めて腰をおろし、両手に顔をうずめた。子供のことを思うと、自分の愛にこたえてくれないのが、苦々しく、腹立たしくてならなかった。それでも、しばらく悲嘆にくれたあとで、ふたたびいつものように気が強くなって、頑固に自分に言い聞かせた。(あの子は、これ以上、何がほしいというのか。おれがあの年ごろにほしいと思ったもの以上を、すでにおれはあたえている。そうだ、あんな腕のある教官を召しかかえたではないか! あんな精巧な外国製の小銃をあたえたではないか。そして今度は、あんな輝くような黒馬と、赤い鞍と、赤い手綱と、銀の柄のついている鞭をあたえたではないか!)
そう考えて彼は自分をなぐさめた。そして軍事教官には、遠慮なく厳格にわが子を教えてくれるようにと命じた。子供が遊びたがっても遠慮することはない。発育ざかりの子供は、みな遊びたがるものだから、そんなことにかまわずに仕込んでくれ、と言ったのである。
しかしながら、夜半、目がさめて寝つかれないときなど、同じ室内で寝ているわが子の静かな寝息を聞いていると、胸がうずくほどの愛情が、ひたひたと胸を満たしてくるのであった。そして彼は、くりかえしくりかえし心に思いつづけるのであった。
(この子のために、もっともっとしてやらなければならぬ――もっとしてやれることを考えねばならぬ!)
こんなふうに王虎は子供のことにばかりかかずらって、数年の月日を、むなしく過ごしてきた。それほど息子のことで頭がいっぱいになっていたのだから、ある事件が起こらなかったら、知らず知らずのうちに、ずるずると老境にすべりこんでしまったことであろう。しかし、その事件は彼を、このあまりにも度をこした溺愛のなかから奮起させ、ふたたび征戦と運命の道へと彼を駆り立てたのであった。
それは息子がほぼ十歳になった春の一日のことであった――このごろ王虎は歳月を息子の年齢でかぞえるならわしになっていた――彼は若芽をふきだしているザクロの木の下に息子と腰かけていた。子供は炎のように燃えている小さな若芽を夢中になって見ていたが、そのとき、とつぜん叫んだ。
「この小さな火のような若芽は花よりもきれいだ。ほんとにぼくはそう思う!」
王虎は、息子がきれいだと感じるように自分も見たいと努力しながら、それをながめていた。そのとき、門前が騒がしくなった。ひとりの兵士が駆けこんできて、だれかの来着を報告しようとした。しかしその従卒が口を開かぬうちに、王虎は、あばたの甥《おい》がよろめきこんでくるのを見た。日に夜をついで馬を飛ばしてきたので、彼は足を引きずり、やつれ、疲れていた。深いあばたの穴にほこりがたまっているので、まことに奇怪な顔になっていた。王虎は怒ったときでないと言葉が早く出てこないので、ぼんやり青年の顔を見守っているだけだった。青年は、あえぐように言葉を吐き出した。
「重大事件を報告するために、日夜、馬を飛ばしてきました。鷹《イン》はあなたから独立しようとくわだて、あなたの軍隊を自分のものに改編し、あなたが攻略した県城を根拠地にしています。数年来、復讐の機会をねらっているあの匪賊の頭目と通謀していたのです。ここ数か月、鷹が税収入を着服しているのをわたしは知っています。こんなことが起こるかもしれぬと心配していましたが、はやまって騒ぎたてると鷹がわたしを暗殺するだろうと思い、たしかな証拠を握るまで待っていたのです」
これらの言葉が石をころがすように青年の口から出てきた。王虎は深い目をぎらぎら光らせた。太い眉毛《まゆげ》が重々しく下へ寄ると、目は額の下になお深くかくれるように見えた。彼は激烈な怒気がわきおこってくるのを感じてどなった。
「あのいまいましい犬め! ぬすっとめ! おれが一兵卒から引き上げてやったのじゃないか! 何もかもおれのおかげではないか! そのおれにそむくとは、あいつ、まったく野良犬だ!」
強い好戦的な憤怒が、しだいに心のなかに燃えさかってくると、王虎は息子のことを忘れて、腹心や部隊長らの住んでいる営舎へと大股に急いだ。そして大きな声で五千人の兵士に午前中に出動準備をととのえることを命じ、それから自分の乗馬と鋭利な細身の剣の準備をも命じた。いままで春にふさわしく静かで、のんびりとしていた営舎も、すみずみまで波立つ池のようになった。後房からは、子供らや奴隷どもが、武器の音や出征の騒ぎにおびえた目をのぞかせているし、軍馬さえ興奮して、営舎の敷瓦の上でヒズメをがたがたいわせたり、はねあがったりしていた。
王虎は彼の命令どおり万事が動いてゆくのを見さだめてから、疲れている使者をかえりみて言った。
「あっちへ行って、食ったり飲んだりして、休息してくれ。よくやってくれた。報酬として進級させてやる。若いものの心には、いつも反逆の気がひそんでいる。若いものは反乱に参加したがるものだということは、おれも十分承知している。だのに、おまえは血縁のきずなを忘れず、よくぞわしの味方をしてくれた。きっと進級させてやるぞ!」
するとあばたは、あたりを見まわして、ささやくように言った。
「はい。しかし、叔父さん、鷹を殺してくれますか。あなたが攻めてゆくのを見ると、あいつはわたしの内通をさとるでしょう。わたしは病気だからしばらく母親のところで静養すると言ってきたのですが」
すると王虎は大きな猛烈な声でどなって約束した。
「そんなことを、おれに頼むにはおよばぬぞ。あいつの肉で、おれの長剣をみがいてやるのだ!」
青年はすっかり安心して、そこを去った。
王虎は三日間強行軍をつづけて新しい領地に着いた。引率したのは従来からの信頼できる部下だけで、以前の、包囲戦のとき投降したものたちや劉門神《リュウメンシン》を裏切った部隊長は残留させた。今度は自分を裏切るかもしれぬと、それを恐れたのだ。彼は引率してきた部下たちに、勇敢に戦ってくれれば、略奪してもよろしい、そのうえ、一か月分の給料を特別賞与として銀で支給する、と宣言した。だから兵士たちは勇躍して突進したのである。
彼らの行動は迅速をきわめた。だから鷹は、自分の非運をすこしも気どらぬうちに、王虎がすでに身近に迫ってくる物音を聞かねばならなかった。真相をいえば、鷹は、王虎の甥《おい》であるあばたの青年が、どんなにかしこく、かつ詭計《きけい》に富んでいるかを知らなかったのである。この青年は、いつも陽気で、言葉は軽いし、それに、そのあばたづらは、どこから見ても無知そのものに見えるし、いつも兵士を相手に冗談を言ったり、から騒ぎをしたりしているので、鷹は自分の密謀を知られているとは思わなかったのである。だから、あばたが、どうも肝臓がぐあいが悪いから母親のところで静養してくる、と言うと、むしろよろこんだくらいなのだ。あばたがいなくなったら、独立の宣言を発し、どんな連中が自分に忠誠かをしらべ、従わぬものどもを死刑にしようともくろんでいたのであった。反逆に荷担するものには城内の略奪を許す約束をしていた。
そこで鷹は籠城《ろうじょう》の準備をし、食料を城内に運びこませた。王虎の性質が、事態を黙って放任しておくほどなまぬるいものでないのを、よく知っていたからである。あわれな民衆は恐怖にふるえながら、またしても攻囲される覚悟をした。王虎が城門をはいった当日も、おおぜいの農民が二、三十人ずつ、肩にかけた天びん棒に燃料をつけて運んでいた。ロバやラバは穀物を背なかに積んでいた。人々は鳴きわめく鶏を籠《かご》に入れ、牛の群れを追い、脚をしばった豚を棒でつるしてかついでいた。鶏だの、逆さにつるされた豚だのは、けたたましい悲鳴をあげていた。その情景を見て、王虎は歯をくいしばって憤った。もし密謀の情報を早く知らされなかったら、これだけの食糧をたくわえた県城の攻囲戦は、非常に困難になるであろうということを知っていたからである。また鷹は無知な劉門神よりもずっと手ごわい敵であることも知っていた。
鷹は、抜けめのない男で、勇猛でもあり、そのうえに例の二門の外国製の大砲があるから、あれを城壁の上にすえて攻囲軍の頭上にぶっぱなすこともできたろう。王虎がそれらのことを考え、いかにきわどいところで危機を脱しえたかをさとったとき、怒りは心頭に発し、目は血ばしり、彼は、ひげをかんで怒り狂った。怒りの燃えさかるにまかせつつ馬を駆り、大きな声で、鷹の営舎めがけてまっしぐらに突撃せよ、と部下に命令した。
そのとき、王虎がすでに押し寄せてきたから万事休したと鷹に報告したものがあった。鷹は青天から落ちてきたような絶望にたたきのめされた。彼は一瞬間、なんとか奇策によってこの場を切り抜けられないものか、あるいは秘密の通路によって脱出できないものかと、迷いためらっていた。王虎が、そんな大軍を引き連れて来た以上、彼の部下があえて味方をしてくれようとは、とうてい望めなかった。彼は孤立無援であると知った。だが、この一瞬のためらいが彼の運命をけっした。そのとき王虎が馬をおどらせて営門のなかへ突入してきたのである。彼は、おれが自分で殺すのだから鷹を捕えろ、と大喝《だいかつ》した。そして叫びながら鞍から降りると、王虎の部下は、わっと喊声《かんせい》をあげ、ひしめき合って営舎内になだれこんだ。
いよいよ最後だと観念した鷹は、逃げて身をかくそうとした。彼も勇士ではあったが、このときには逃げだして炊事場の枯れ草の山のなかにかくれた。けれども、鷹を発見して懸賞金を得ようと狂奔する、この多数の兵士の目から、どうしてのがれえよう。また鷹は、同志が救ってくれることも期待していなかった。ただ彼らだけは、自分のかくれているのを発見しても、見のがしてくれるだろう、とは思っていた。そう念じつつ草のなかにかくれていた。かくれてはいたが、ふるえてはいなかった。彼もまた一個の勇士なのであった。
しかし彼は発見されないわけにはいかなかった。賞金ほしさに兵士たちは、すみからすみまでさがしまわった。表門から裏門、非常門まで見張りがついていた。しかも営舎の城壁は非常に高い。とうとう鷹は五、六人の兵士にみつけられた。彼らは彼の藍色の着物の一端を枯れ草の下にみつけたので、走り出て戸口をおさえ、ほかの兵を呼んだ。五十人ぐらいの兵士が駆けつけた。みんな用心しながら炊事場へはいった。鷹がどんな武器を持っているかしれないからである。ところが彼は武器を持っていなかった。朝の食事をしているところを急襲されて、あわてふためいて逃げ出したのであるから、小さな短刀しか持っていず、これでは多数を防ぐ役には立たなかった。兵士らは一団となって彼をおさえつけ、羽がいじめにして、将軍のところへ連れてきた。
鷹は恐ろしい顔をして、目は凶悪な光を放っていた。ワラが頭髪や着物についている。こうして彼は王虎が待っている大広間へ連れてこられた。王虎の長剣は抜きはなたれて、一条の細い銀の蛇《へび》のように膝に光って横たえられていた。彼は例の黒い眉の下から目を怒らして鷹をにらみつけ、声をあらげて言った。「とうとうきさまも謀反《むほん》したのだな! きさまを一兵卒から引き上げて現在の地位にしてやったおれにたいして裏切ったのだな!」
鷹は王虎の膝に横たわっている、輝く長剣から目を離さずに、不敵な声で答えた。
「大将に謀反することをおれに教えたのは、てめえじゃねえか。てめえは、たかが家出した小せがれじゃねえか。いったい、あの老将軍のほかに、だれがてめえを引き上げてくれたというのだ」
こんな暴言を聞くと、王虎はがまんができなかった。まわりにむらがって、かたずをのんで見物している兵士たちに向かって、大声で命じた。
「おれは、おれの剣でこいつを刺してやろうと思っていた。しかし、そんないさぎよい最期は、こいつにはもったいない。あっちへ連れて行って、重罪人、凶悪犯人、不孝の子、不忠の臣を処罰するように、こいつの肉をずたずたに引き裂いてやれ!」
けれども最後の覚悟をした鷹は、だれも制止するひまもなく、小さな短刀をふところから出し、ずぶりと自分の腹に突き立てて深くえぐった。そして、突き立てたまま、一瞬よろよろと立っていたが、息も絶え絶えに王虎のほうをにらみつけ、強い不敵な調子で言った。
「おれは死ぬのを恐れてはいない。もう二十年たてば、ほかの人間のからだに宿って、もう一度生まれてくる――また英雄になってくるんだ!」そして短刀を腹に突き立てたまま倒れた。
王虎は息もつけぬとっさのあいだに起こったこの出来事を、目をみはってながめているうちに、怒りが心から潮をひくように、うすれてゆくのを感じた。彼としては裏切者への復讐の機会をはぐらかされたことになるのだが、それにもかかわらず、謀反人とはいえ、こんな勇士をうしなったことが惜しかったのである。彼は、しばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「左右の人たちよ。この死骸をどこかへ葬ってやってくれ。ひとりものだからな。父親もせがれも家族のものもいないだろうからな」すこし間をおいて、またつづけた。「おれも、こいつが勇敢なやつだとは知っていた。しかしこれほど勇敢だとは思わなかった。りっぱな棺に入れてやれ」
王虎は、しばらく椅子にかけて、悲しみに沈んでいた。そして、その悲しみが彼の心をやさしくした。だから、前に約束した略奪のことも、一時制止していた。彼が考えこんでいるところへ、城内の商人たちが謁見を願いにきた。引見して願いのすじをたずねると、民衆がひどくこわがっているから、兵士たちに略奪を許さないようにお願いするために、敬意を表しかたがた多額の銀をささげにきたという。王虎も、ちょうど気が弱くなっていたさいなので、その銀を受けとり、略奪品のかわりにそれを部下にわけてやる、と約束した。商人たちは感謝して、こんなにも慈悲ぶかい将軍をほめたたえながら引きさがって行った。
しかし王虎は兵士たちをなだめるのにひどく骨が折れた。一同に、かなりの金額を払ったり、祝宴を張ってさまざまな酒を飲ませたりして、ようやく彼らの不機嫌な顔をなだめることができた。そこで王虎は彼らの忠誠心に呼びかけ、いつか、つぎの戦闘のときには、かならず略奪の機会をあたえる、と約束したので、彼らは、やっと心がしずまり、失望ののろいの言葉をはなつのをやめた。そのかわり王虎は二度も商人たちのところへ使いをやった。そして多額の金を出させて問題はおさまったのである。
そこで王虎は凱旋の準備をした。非常にあわただしく出動してきたので、留守中の息子の日課もきめてやらずにきていたので、一刻も早く息子に会いたかったのだ。この県城の守備司令には甥《おい》を任命することにして、その着任まで腹心のみつ口に司令代理として兵隊をつけて守備させることにした。そして鷹の部隊は自分が引率して帰り、そのかわり出陣のときに従ってきた老練な部隊を駐屯させた。そして万一の場合の用心として、王虎は例の二門の外国製の大砲を持って行くことにした。鷹が城内の鍛冶屋に命じて弾丸をつくらせ、射撃するための火薬まで用意しておいたことを発見したので、また自分に向けて発射されるような心配をなくするために、持ち去ることにしたのである。
王虎が、ふたたび城内の往来を行進して帰路についたとき、ながめていた人民は、彼に憎悪のまなざしを投げかけた。彼が兵士たちに行賞を行なうためと、今回の遠征の費用をまかなうために、巨額の金額を調達せねばならず、そのため各戸に税金が課せられたからである。けれども王虎は、そんな目つきなど気にもとめなかった。しいて心を鬼にして、もし自分が救助にこないで、鷹とその一味の手で支配されたならば、民衆は非常に苦しんだであろうから、平和の代償として、よろこんで人民は金を出してもよいはずではないか、と考えていた。鷹は、まったく冷酷残忍な男で、子供のときから戦争のなかで育っているのだから、男でも女でも、人間の命など、なんとも思っていない。ほんとうをいえば、この人民たちは自分にたいして不当であるとすら彼は感じていたのである。自分は何日間もこんなに困難な行軍をやってきて救助してやったのに、彼らはその恩を知らない、そういう肚《はら》なのだ。彼は、憤慨していた。
(彼らは何にたいしても恩を知らない。そして、おれはどうも気が弱すぎる)
そう考えて彼は気を強くした。そしてこのときから、一般民衆にたいして、二度とこれまでのような温情を示さなくなった。そして、さらに心が偏狭になって、鷹の地位には、ほかのどの腹心の部下をもすえることができなかった。肉親のものでなければ、だれをも信用することはできない、と心のうちで悲しくも考えるのであった。こういう偏狭さのために、いっそうわが息子の上に望みをかけるようになり、みずからなぐさめて言うのであった。
(おれには息子がある。あの子だけは断じておれにそむくことはない)
彼は馬を早め、行軍を急がせ、一刻も早く息子の姿を見たがった。
王虎の甥《おい》は、鷹が殺されたと聞くまで休養していたが、その報告を聞くと、急に快活に陽気になり、数日、父母の家へ帰った。そして、会う人ごとに、いかに自分が勇敢で知略に富んでいるか、またいかにあの老獪《ろうかい》で父のような年配の鷹でさえ、自分には太刀《たち》打ちできなかったかというようなことを吹聴《ふいちょう》した。いたるところで彼は自慢話をした。兄弟姉妹たちは彼をとりかこんで感心して聞いていた。母は叫んだ。
「この子は、わたしの乳を吸っていたときから、なみの子でないと思っていたよ。乳を吸うのにも、しっかりしていて、元気だったからね!」
しかし父の王二は、にやにや笑いを顔にうかべたまま、腰かけて耳をすましていた。心のなかでは息子を自慢していたが、口ではほめないで、こんなことを言った。
「それにしても、よくおぼえておくとよい、三十六計逃ぐるにしかず、ということもあるからね」
また、こうも言った。
「りっぱな兵器よりりっぱな知謀だ」
そして、何よりも彼をよろこばせたのは息子の知謀であったのだ。
あばたが王一夫妻に敬意を表しに行ったついでに、ここでも例の武勇伝を一席やると、王一は、ふしぎなねたましさを感じた。一つには死んだ息子のことを考えてねたましく、また一つには残ったふたりの息子のことを考えてねたましかった。ふたりの息子の貴公子然たる風采や動作を彼は感嘆していたのだが、どことなく、もの足りない漠然たる不安も感じていたのである。
それで王一は、この弟のせがれのあばたづらの物語に、ていねいに耳を傾けているようすはしていたが、じつは、あまりよく聞いてはいなかった。そして、あばたが熱心にしゃべっている途中で、茶を持ってこいの、キセルはどこだの、日が沈んで冷えるから、うすい毛皮の長衫《チャンサ》を着せてくれなどと、召使に用ばかり言いつけていた。
夫人のほうは、礼儀の許すかぎり甥に頭をさげないようにして、熱心に刺繍をとりあげ、たいへん忙しそうなふりをしていた。絹のきれをヒナ型にあわせてみたり、ときどき大きなあくびをしたり、あれこれと家事上のことや、まだ残っている土地の小作人のことを夫にたずねたりするのである。とうとう青年も、彼女が自分をうるさがっているのだと気がつき、話を切りあげ、すこしがっかりして、いとまを告げた。すると、あまり遠くまで行かぬうちに、夫人が声を張りあげてこう言うのが耳にはいった。
「うちの子はひとりも軍人になっていないことをうれしく思うわ。とても下等な生活ですものね。若いものを粗野に平凡にしてしまいますよ」
王一は、そわそわして答えた。「そうだな――おれはちょっと茶館へ行ってくる」
あばたは伯父夫妻が死んだ息子のことを思い出して、そっけない態度をしたのだとは知りようがなかった。すっかりしおれかえって門のところまできた。すると、そこに王一の第二夫人が立っていた。最近生まれた赤ん坊を両手にだいている。彼女も青年の話を聞いていたのであるが、席をはずして、彼よりもさきに門のところへきていたのであった。彼女は、なつかしそうに彼に言った。
「たいへんけっこうな勇ましいお話でしたわ」
青年は、すっかり気をよくして母親のところへ帰った。
三十日間、あばたづらの甥は自分の家に滞在した。彼の母親が、この機会を利用して、許婚《いいなずけ》の娘と結婚させたからである。その娘を母親は、彼のために数年前に選んでおいたのである。嫁は近所で絹織物をしている人の娘で、その父親は、貧乏でもなく、他人に使われる労働者でもなかった。紡績機を持っていて、二十人ほどの徒弟を使って、さまざまな色の繻子《しゅす》とか花模様の絹布などの反物を製造しているのであるが、町に同業者がすくないので、相当に繁盛していた。娘も、その職業に精通しており、春さきの寒さが、いつまでもつづいたりすると、自分の温かい肌《はだ》でカイコをかえしたり、また徒弟たちがつんでくる桑の葉でカイコを育てたり、マユから糸を繰《く》ったりすることもできるのである。
この家族は、一代前に他郷から移り住んできたので、こんな技術を知っているのは、町でもすくなかった。なるほど彼女と結婚する青年には、そんな技術は必要ではないが、それでも、嫁がそういう知識を持っていることは、けっしてむだにはならない、おそらく彼女を倹約勤勉にさせるであろう、と母親は見こんでいたのである。
あばたの青年としては、その娘が何を知っていようと問題ではなかった。ただ嫁をもらうのがうれしかった。もう二十四歳になっていたから、ときどきは情欲になやまされる。彼女が、さっぱりとした、十人並みのきりょうで、たいして我《が》を張るたちでもないのがうれしかった。彼女がそういう娘であることだけで彼には満足であった。
そこで、はなばなしくはないが、しかし相当りっぱな結婚式が終わると、新婚の妻を連れて彼は、王虎が任命してくれた県城へとおもむいたのであった。
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二十五
長い冬が過ぎて春になるごとに、王虎《ワンホウ》は大戦乱への野望が心のなかにわきおこってくるのを感じた。そして毎春、彼は自分の周囲の形勢に目をつけ、領土拡張のために何か打つべき手はないかと考えるのであった。全国的な動乱の情勢は今年はどうか、その大動乱にたくみに乗じて和戦両面の手を打つべく、スパイを諸方にはなった。そして、スパイが帰るまで待つのだ、暖かになるまで待つのだ、運命の招きを感じるときまで待つのだ、と自分に言いわけばかりしていた。
しかし、ほんとうの理由は、彼が若さの時期を過ぎ、子供があるので、それにひかされ、それに満足して、彼を駆り立て戦争に向かわしめたあの昔のじっとしていられないような気持ちが消えたからである。春を迎えるごとに王虎は、愛する子のために、彼が生涯の目的としてさだめた全国制覇を達成するために出陣せねばならぬと心に誓ったが、そのたびごとに、その征戦を翌年までのばさねばならない目前のもっともな理由が出てくるのであった。また彼の青年時代のような全国的あるいは局地的な動乱もなかった。全国にわたって、おのおの小さな領土を持っているおおぜいの小さな軍閥が割拠《かっきょ》していて、彼らを凌駕《りょうが》するような大英雄はひとりもいなかった。この理由のためにも王虎は来年まで待ってもさしつかえないと感じるのであった。春が過ぎて、やがてその年も行く。また一年は過ぎる。それでもなお彼は、いつか運命の日がくれば、思うがままの勝利を得るために出動するという決心だけは捨てなかった。
息子が十三歳に近づいたある春のこと、兄たちの使者がやってきた。その使者の趣《おもむき》は、きわめて重大であった。それはつまり、こういう次第であった。王一《ワンイー》の長男が、その町の監獄に入れられて苦しんでいるので、兄たちは、その青年を釈放してもらうために、法廷において、弟である王虎の援助を得たい、という依頼であった。王虎は、その話を聞くと、これは省政府における自分の権力と、その省の軍長にたいする自分の勢力とをためす絶好の機会であると考えた。それゆえ彼は、かねて考えていた征戦を、さらにもう一年延期して、兄たちに頼まれたことを実行すると引きうけた。それには兄たちが弟たる自分に懇願してきたという得意さもないではなかった。また、兄たちの息子が監獄に入れられるとは不名誉のいたりで、自分の善良な息子の上にはけっしてそんなことは起こるまいという、いくらかの軽蔑の気持ちも、ないではなかった。
さて事件は以上のとおりであるが、王一の息子が監獄に入れられるようになった原因は、つぎのとおりである。
王一の長男は、もう二十八歳にもなっていたが、まだ結婚していなかった。婚約さえもしていないのである。どうしてこんな奇怪なことになったかといえば、彼は、もっと若いころ、一、二年、町の新式の学校へ通ったことがある。そこで彼は、いろいろなことを習ったのであるが、そのなかの一つに、こういうのがあった。青年が父母の選んだ妻と結婚するというのは、旧時代の習慣への、いやしい奴隷的屈従であって、いやしくも青年たるものは、みな女性と交際して、愛しうる娘と結婚すべきである、というのである。だから王一が、あらゆる結婚適齢期の娘を調べ、長男のためにこれならと白羽の矢を立てたのがあっても、長男は、てんで受けつけず、あざ笑ったり、口をとがらしてすねたりして、自分の妻は自分で選ぶ、と言うのであった。
最初、王一夫妻は、その考えに憤慨した。このときばかりは一つの事件にたいする夫妻の意見が一致した。夫人ははげしい調子で息子に言った。
「おまえは、どうして良家のお嬢さんと話をしたり、その人を好きだとかきらいだとかわかるほど近づけると思うの。おまえを生み、おまえの気持ちも性質もよく知っている両親よりほかに、だれがおまえの妻を選べると思うのです?」
けれども長男は非常に雄弁で、ひどいかんしゃく持ちであった。長い絹の袖口《そでぐち》をまくり上げ、白いすべすべした腕を出し、青白い額にたれる黒い髪の毛をかきあげながら、母に負けずに大声で答えた。
「おかあさんもおとうさんも、すでに死んでいる旧時代の習慣よりほかには、なにもご存じないのです。南のほうでは、富豪や知識人たちは、自分の息子に自分で妻を選ばせているのをご存じないのでしょう」父と母は顔を見合わせた。父は袖口で額の汗をふき、母は口をすぼめた。それを見ると息子はまた叫んだ。
「いいです。そうしたければ、わたしに婚約させなさい。わたしは家を出て二度とあなたがたにお目にかかりません!」
その言葉は、とてつもなく両親を驚かした。王一は、あわてて言った。
「おまえの好きな娘はだれだか言ってごらん。できるものなら、まとめてやりたい」
ほんとうをいうと、長男は妻として愛せるような女性をひとりも知っていなかったのだ。彼が知っているのは金でたやすく買えるような女だけであった。それでも、愛するに足る女性を知っていないとは、けっして白状しようとしなかった。ただ、赤いくちびるをつき出し、不機嫌そうな顔をして、きれいな爪ばかりみつめているだけだった。しかし、その顔つきが、両親には、ひどく怒っていて強情そうに見えるので、このときばかりでなく、いつも結婚の話になると、きまって最後には、「よしよし、話はこれまでとしよう!」と、何度も何度も彼をなだめるようなことになるのであった。
じっさい、王一は二度も、わが子のために交渉をはじめた娘との縁談を、あきらめなければならなかったのである。というのは、長男はそれを聞くと、弟のように梁《はり》に綱をかけて首をつると断言したからである。これが父母を恐怖させるので、いつも息子に譲歩してしまうのであった。
けれども、月日がたつにつれて、王一夫妻は、わが子の結婚を、いよいよ熱心に望むようになってきた。彼は彼らの長男でもあり、後継者でもあり、その子は孫のうちでも第一位になるはずだからである。長男が、あちこちの茶館へ通って、むなしく青春を過ごしていることは、父の王一も十分知ってはいる。また、衣食のために額に汗する必要のない青年は、みなそうして遊び暮らしていることも知ってはいるが、王一も、ようやく血気がおとろえて、おだやかな老境にはいりかけるにつけ、この長男のことが心配でならなくなってきたのである。それに王一も夫人も、もし息子が早く結婚しないと、そのうち茶館あたりの女を連れてきて妻にするかもしれないと、それも心配だったのだ。そういう女は妾《めかけ》とするのはさしつかえないが、妻にするのは家門の恥だからである。
しかし青年は、両親がそういう心配を口に出すと、遠慮えしゃくもなくまくしたてた。「新時代の男女は両親の支配から解放されている」「男女は自由で平等である」等、等、そういうたわいもないことを並べたてるのである。そして弁舌さわやかで、よどみがないから、口をはさむひまもなく、だまって聞いているよりほかはない。それに両親は、老夫婦の一方から一方へときらきらする目を投げかけ、一瞬ごとに長髪を白いやわらかい手でかきあげなでおろしながら、長男が火のような不満をはき出すときには、黙っているのが最良の策であることを、早くから教えられていたのである。
しかし、そうした長広舌のすんだあとでは、彼はまた出かけて行く。ひどくそわそわとして、一ところに長くいない。長男が行ってしまうと、夫人は、うらめしそうに夫の顔を見て言う。
「あなたがご自分のじだらくな生活をお見せになって、あんなことをあの子に教えてしまったのです。あの子が貞淑な女性よりも、はすっぱな女を気に入るようになったのは、みんなあなたから習いおぼえたのです」
そう言いながら彼女は目に袖をあて、涙を一粒ずつふく。そして自分がひどい目にあわされていると思う。王一のほうは、しどろもどろにうろたえる。夫人が、こんなふうに言いはじめるときは、しまいには大嵐になりがちだということを知っているからである。夫人は年をとるにつれて、ますます厳格になり、意地悪くなってきたのである。彼は、そそくさと立ちあがって、たいへんやさしくなだめながら、逃げ出す用意をする。
「おれも、いまでは年をとってきて、もう昔のようなわけにはいかぬのは、おまえも知っているとおりだ。おまえの意見は、なんでも聞くようにするよ。このやっかいな問題をきり抜ける方法があれば、きっとおまえの意見に従うよ、約束する」
じつのところ夫人にしても、この手におえぬ息子をあやつる方法を思いついたわけではない。しかし、うっぷんをだれかにもらさずにはいられなかったのである。王一は彼女の気持ちが高ぶりはじめたのを見てとると、大あわてで家をとびだした。庭のところを通ると、妾が日向《ひなた》で子供をあやしているのが目にとまった。彼は口ばやに彼女に言った。
「奥さんがおこりかけているから、何か持って行ってあげておいてくれ。お茶でも、お経の本でも、なんでもよい。それから奥さんをほめるんだ。あれこれの坊主たちが、ああ言ってほめた、こう言ってほめました、てなことを言って、おだてておいてくれ!」
妾は、言われたとおり従順に、子をだいて立ちあがり、向こうへ行った。王一は往来へ出て、どっちへ行こうかと迷いながらも、この妾にはじめて会った日を、ありがたいと感謝した。もし夫人とふたりだったら、とてもやりきれない生活だろうと思うからである。彼の妾は年をとるにつれて以前よりもいっそう温厚で穏和になってきた。この点で王一は、まったく運がよかった。とかく妻妾が同居していると、しばしばけんかしたりして、家庭生活がやかましいものである。とくにその一方か、あるいは両方が主人を愛しているときは、めんどうなものなのだ。
しかしこの第二夫人は、いろいろこまかい事柄で王一をなぐさめてくれ、召使たちがしようとしないことまでしてくれた。召使どもは、この王一の屋敷の実権はだれが握っているかを心得ているから、王一が男か女の召使に大きな声で何か命令すると、「はい、はい」と返事するだけで、ぐずぐずしていて出てこなかったりした。そして王一が怒ると、「奥さまのご用がございまして――」と弁解して、彼を黙らせてしまうのである。
しかし妾は内々でよく彼に仕えた。彼をなぐさめるのは彼女であった。わずか残っている田畑を見まわって、疲れて不機嫌になって王一が帰ってくるとき、彼女は熱い茶を飲ませたり、夏であれば井戸で冷やしておいた西瓜《すいか》を出したり、食事のとき彼を扇であおいでやったり、足を洗う水を持ってきてやったり、靴下や靴をとりかえてやったり、いろいろと世話をやくのであった。また彼も、心憎く思うことや、ぐちなどをもらすのも彼女にたいしてだけだった。一ばんひどいのは小作人にたいするぐちであった。彼は、そのうっぷんを、こう言って彼女にぶちまけるのであった。
「そうだ、きょうも、西の畑をつくっている小作人の歯抜け婆《ばばあ》が、小麦の目方をはかるのに水を入れておいた。それを代理人は知らずにいるのさ――あいつは、ばかだ。それともいくらか袖《そで》の下をもらって見のがしているのかな。それなら悪党だが――とにかくおれは秤《はかり》がぴんとあがりすぎるのに気がついたのだ」
それを聞くと妾は、なだめるように答える。
「そんなことをしても、たいしてあなたをごまかせはしないでしょうがね。あなたは、とても賢くていらっしゃいますもの。わたしが知っているかぎり、一ばん賢い方ですもの」
長男の反抗に手をやいている悲痛な気持ちも、妾に、すっかりうち明けた。彼女は、これについても何かと彼をなぐさめた。だから、いま往来を歩きながら、いかに第一夫人が自分を無情に責めたかを、あとで彼女に話そうと考え、彼女の情味深い返答を、いつまでも味わっていた。そういうことは、これまでにも幾度もあるので、いつもなぐさめの言葉は同じであった。
「わたしから見ますと、あなたほどりっぱな方はございません。わたしは、けっして不足はございません。奥さまは男というものをご存じないのです。男のうちであなたが一ばんりっぱな方だということも、ご存じないのですわ。ほんとうですわ!」
息子や夫人からなやまされ、まだ思いきって全部は売ってしまえずに残っている田畑のことでわずらわされているいまの境涯から脱け出そうとして、彼はこの妾にとりすがるのである。これまで相手にした女たちのうちで、この女が一ばん気持ちがよい相手だと心のなかで思い、つぎのようにつぶやくのも、まんざら理由のないことではなかった。(おれが養っているすべての人間のなかで、おれの価値をほんとに認識しているのは、この女だけだ!)
そして彼の心は、きょうは長男にたいするいつにない痛烈な苦々しさでいっぱいだった。こんなに悩みの多い父に、さらに新しいめんどうをかけるとは、じつにいまいましい子である。
そんなことを思いふけりながら往来を歩いているとき、彼の長男もまた友人の家に訪問に行く途中であった。そこで彼は、じつに奇妙なふうに恋しうる娘にめぐりあうことになった。長男が会いに行った友人は、この町の警察署長の息子であった。そのころ賭博《とばく》を禁止する新法制が発布されたので、王一の息子は、いつもその友人とばかり賭けごとをしていた。みつかって問題になっても、警察署長のような有力者の息子なら、のがれられるだろうし、その友人もまた罪にはならないだろう、と思ったからである。この日、王一の息子は両親といがみあったので、そのむしゃくしゃした気持ちをしずめ、気を晴らすために、ほんのちょっと一勝負するつもりで、その友人を訪問したのであった。
玄関が開いたので、召使に名を言うと、応接間へ通された。両親とのいざこざを考えてむしゃくしゃしながらすわって待っていた。とつぜん内側の扉が開いて、すぐれて美しい若い女が出てきた。ふつうの娘なら、若い男がひとりですわっているのを見ると、袖で顔をかくし、急いでひっこんでしまうのがつねである。だが、この娘は、そんなことはしなかった。落ちついて王一の息子を見ていた。平気で、ゆっくりと見ていた。しなもつくらないし、すこしも恥ずかしがらない。この落ちついた凝視に会って、息子のほうがさきに目をふせてしまった。大胆ではあっても、礼儀にかけるところはなく、新時代に属する女性だとは、彼のみならず、だれの目にも見てとれた。黒い髪を首のところで切って、纏足《てんそく》もしていなかった。新時代の女性が好んで着る長いぴっちりした袍《パオ》を着ていた。晩春のことで、その衣装は鵞鳥《がちょう》の綿毛のような色をした、やわらかい絹であった。
口でこそえらそうなことを言っているが、じつは王一の長男は、結婚したいと思うような女性に出会う機会が、ほとんどなかったのである。賭博をしたり、飲み食いしたり、いろいろ遊んだりするあいまには、彼は恋愛小説を耽読《たんどく》していた。それも古典小説ではなく、男女間の自由な恋愛をえがいた新作の恋物語を熱心に読みふけった。だから、彼の夢みる女性は、娼婦なんぞではなく、家柄がよくなければならなかった。しかも、男の前へ出て、恥ずかしがったり、口もろくにきけないようではいけない。男同士のように対等に談笑ができ、それでいてやはり娘らしくなければならない。そういう女性を彼はさがし求めていたのである。しかし彼はそういう女性をひとりも知っていなかった。そんな男女交際の自由は、小説の世界にこそあるが、現実にはないからだ。ところが、いまここに、彼があこがれていた女性が、じっさいにあらわれたのである。だから彼の心は、彼女のすました大胆な視線にあうと、たちまち燃えあがった。なぜなら、彼の心は、炎々たる大火事になるために積まれてタイマツを待っている薪《まき》のようなものであったからだ。
一目見た瞬間にぼうっとなってしまったほど、彼はその女性に心をうばわれてしまった。彼が一言も口に出せないうちに彼女は通りすぎてしまったが、それでも彼は、ぼんやりしていた。やがて友人があらわれると、彼は、あえぐように言った。口はかわき、心臓は裂けるばかりに胸の骨にぶつかっていた。
「いま通った女の人は、どなたかね?」
友人は、むぞうさに答えた。「ぼくの妹だよ。海岸の町の外国人の学校へ行っているんだが、春休みで帰ってきたのだ」
王一の長男は、どうしてもきかずにいられないことがあった。やっと口ごもりながら彼は言った。
「それでは、まだ結婚してないんだね?」
娘の兄は笑って言った。「いや、まだだ。あいつほど強情な女もいないね。そのことで、いつも両親とけんかばかりしているんだ。親の選んだ男とは断じて結婚しないと言うんでね」
王一の長男は、それを聞くと、かわいた口に一杯の美酒を注がれたような気がした。それっきりそのことは言わずに、例の賭けごとの勝負をはじめた。しかし勝負をやっていても、心ここにあらずというありさまであった。炎が心臓のあたりにめらめらと燃えあがって、全身が火のように熱い。まもなく口実をつくって急いで家へ帰り、自室の戸を閉めきって、ひとりになって、自分はあの女性と浅からぬ因縁で結ばれているのだと思った。彼女もまた自分と同じように両親になやまされているらしい。だが、旧時代の人間というものは、なんと恥ずべきなのであろう、と口のなかでつぶやいた。そして自分は、この自由な時代の男女にふさわしい方法によって彼女に接近しよう、と考えた。断じて仲だちは求めまい、両親にも、彼女の兄にも世話になるまい、という決心なのである。熱にうかされたようになって、あわただしく幾冊かの愛読の小説を開いて、自由恋愛の主人公は恋人にどんな手紙を書くのであろうかと研究した。それから彼は、それに似た手紙を書いた。
その手紙を彼は娘にあてて書き、終わりに自分の名をしるした。手紙は礼儀ただしい巧妙な言葉ではじまっていた。それから、自分は自由な霊魂であるとか、あなたもそうだと思うとか、だからあなたはわたしにとっては太陽の光にほかならないとか、あなたは牡丹《ぼたん》の花の色であり笛の美しい音《ね》であるとか、あなたは、あのせつなにわたしの胸から心臓を摘みとってしまったのだとか、そんなふうなことを書きつらねた。手紙を書きあげると、彼は自分の専属の下男を使いにして彼女のところへとどけさせた。そして、その返事を熱病にでもかかったみたいになって待っていた。両親が病気ではないかと心配したほどである。やがて下男は、返事はあとからおとどけするそうです、と言って帰ってきた。彼は待つよりほかはなかったが、待つのは、とてもいやな気持ちだったので、家じゅうのものが、しゃくにさわった。弟や妹がそばにくると容赦もなくなぐりつけた。召使どもを叱《しか》りとばした。気のよい父の妾でさえ、「あなたは気が狂いかけている野良犬みたいです!」と叫んで、自分の子を彼の手のとどかぬところへ連れて行ってしまったほどであった。
三日後に使いのものが返事を持ってきた。その三日間、返事を待ちかねて門のあたりをうろうろしていた長男は、それをひったくって、自室へとんで帰り、封を切ろうとして、あまりあわてて、二つに裂いてしまった。それをつなぎ合わせて、どうにか判読できた。彼女の筆跡は力強く美しかった。はじめに儀礼的な文句があり、つぎに、なぜ大胆にもそのような手紙を出すか、その理由が説明してあった。「わたくしもまた自由な魂です。何事においても父母に強制されることをこばみます」
これは遠まわしに彼にたいする愛情を表現したものであった。彼はよろこびのあまり、われを忘れるほどであった。こんなぐあいで恋愛がはじまった。そのうちにふたりは、どんなにさかんにやりとりしても、手紙だけでは満足できなくなった。なんとかして会いたい。そこで一、二度、娘の家の裏門で会った。ふたりとも顔には出すまいとしているが、じつは恐ろしかった。だから、会ってもあわただしく別れてしまった。ひんぱんに手紙を往復したり、召使にたくさんの金をやって口どめしたり、手紙に変名を使ったりなどしているうちに、この恋は、ますます燃えさかってきた。ふたりとも、ほしいものはがまんできない性質だから、恋愛でも、のんびりとかまえてはいられなかった。三度目のあいびきのとき、青年は熱情をこめて言った。
「もうぼくは待てない。あなたと結婚しないではいられません。だから父に打ち明けます」
彼女も、それにたいして、しっかりと答えた。
「あたしも父に、もしあなたと結婚できなければ毒を飲んで自殺すると申します」
そこでふたりは、それぞれ父親に話した。王一のほうは、長兄がそのような良家の少女を好きになったのをよろこんで、すぐにこの縁組みをまとめるつもりになったが、娘の父親のほうは頑固で、あんな男には娘はやれぬと強硬であった。彼は警察署長という職掌がら、スパイを諸所に放ってあるから、王一の長兄の素行について他人の知らないことをたくさん知っていたのである。そこで彼は娘にどなりつけた。
「何を言うか! おまえは魔窟《まくつ》でばかり日を暮らしているろくでなしの道楽息子と結婚するつもりか」
そして彼は、娘が学校へもどるまで彼女の部屋へ閉じこめておくようにと召使たちに命令した。彼女は気ちがいのようにとんで行って、父親にくってかかったり、哀願したりしたが、父親のほうは、すこしも相手にしなかった。彼は、きわめて冷静な男で、娘がまくしたてているあいだ、詩を口ずさんだり、書物を読んだりしているのであった。娘が憤怒のあまり、娘として言うまじき言葉を吐くと、彼女のほうをふり向いて言った。
「おれは最初からおまえを学校へやらずに家におくべきだと思っていた。このごろの娘を悪くするのは学校教育だ。もし、もう一度やりなおせるものなら、おまえもおまえの母親のように、字が読めなくても貞淑に育てて、早く善良な男のところへ片づけたいくらいだ。そうだ。いまからでもそうするぞ!」とつぜんどなりつけられたので、娘は気がひるみ、父親が恐ろしくなった。
それからふたりの男女は、ひどく美しい、絶望に満ちた手紙を、たがいに書き合った。そして両家の召使たちは買収の金でふところをあたためながら、はげしく往復した。けれども青年は家にばかり閉じこもってくよくよするばかりで、賭博にも遊びにも行かなかった。両親は、彼が悶々《もんもん》と思いわずらうのを見ても、どうしたらいいかわからなかった。王一は間接に警察署長にわいろを贈ろうとした。署長は、わいろはすぐ受けとるほうだが、今度ばかりは手を出そうとしなかった。みんな絶望した。長男は食事もしない。首をくくって死んでしまうなどと口ばしるありさまであった。王一も、まったく気が気でなかった。
ある夕方、青年が愛する人の家の裏のあたりをうろうろしていると、非常門が開いて、愛人の手紙をとどけにくる役の小間使が、そっと出てきて、彼を手招きした。彼はどぎまぎし、恐ろしかった。しかし情熱にかられて門をくぐると、そこの小さい庭に愛人が立っていた。彼女は、すっかり覚悟ができていて、気が強く、いろいろな案を持っていた。けれども、顔を合わせると言葉は容易に出てこない。紙に書く言葉のようにはいかないのである。青年のほうは、けっしてくるべきでないところへきているのだから、みつかったらたいへんと、びくびくしていた。しかし娘のほうは気が勝っているし、それに学問があるから、あくまで願望を貫徹しようとしていた。彼女は言った。
「わたしはもう旧式な人々にはかまいませんわ。どこかへいっしょに逃げましょう。わたしたちがいなくなったのがわかると、世間体があるから、きっと結婚を許しますわ。父はわたしを愛しているのよ。わたしはひとり娘で、母はなくなっていますの。あなたは長男でしょう。だから、なんとかしてくれますわ」
しかし青年が彼女の情熱にこたえてかけ落ちする前に、庭に面した扉が開いて、不意に警察署長があらわれた。娘の使いをする小間使にきらわれた下男が復讐のために密告したのである。署長は従者たちに命令した。
「あの男をしばって牢へ入れろ! おれの娘の名誉を台なしにしようとした男だ!」
恋人の父が警察署長で、だれでも監獄へほうりこめるということは、王一の長男にとって不運のきわみであった。これが他の人だったら、そんな権力もなかろうし、金でもつかわないかぎり彼を牢屋へぶちこむわけにはいかなかったろう。しかし署長の命令だから、従者たちは青年を引っぱって行こうとした。娘は悲鳴をあげ、彼の腕に身を投げかけて、ほかの人とはだれとも結婚しないとか、指輪を飲んで死んでしまうとか、泣き叫んだ。
しかし冷静な老人である彼女の父は、召使たちのほうを向いて言った。
「よく娘に気をつけてくれ。目を離してはならぬ。もし万一、娘がいま言ったようなことをしたら、おまえたちにその死の責任を持たせるぞ」
そして娘の悲鳴も泣き声も聞かないふりをして、その場を立ち去った。女中たちは責任が恐ろしいので令嬢のそばを離れなかった。だから娘は死ぬこともできなかった。
警察署長は、王一のところへ使いをやり、貴殿の長男が自分の娘の名誉をけがそうとしたから牢屋へ入れた、と通告した。通告をしてから、彼は広間に腰かけて待っていた。王一の屋敷では大騒ぎである。王一は、まったく周章ろうばいしてしまって、どうしてよいかわからなかった。とりあえず手もとにあるだけの銀を集めて相当なわいろを贈ることにし、最上等の着物を着こんで、みずから署長のところへ謝罪に出かけた。しかし署長のほうは、そう簡単に事件を解決する気持ちはなかった。そこで、こんな大きな心配のために病気になっているので、だれにも面会するわけにはいかない、と言わせて玄関ばらいをくわせた。そして、わいろが持ちこまれたときには、王一氏は自分の人格を誤解している、自分は金のために誘惑されるような人間ではない、と威張って、突っかえさせた。
王一はうなって、家に帰った。彼は、わいろの金額がすくなすぎたとさとったが、あいにく小麦の収穫前で、現金がとぼしかった。弟の助力を借りねばなるまいと思った。また監獄へ入れられている長男のこともある。そのほうも心配だ。不自由させないように食糧や寝具も入れてやらなければならない。その手続きがすむと、王商人を呼びにやり、居間にすわって弟のくるのを待っていた。夫人のほうは半狂乱のていで、彼の部屋にははいらない習慣を忘れて、彼が頭をかかえてすわっているところへはいってきた。夫人は彼女が忍ばねばならぬ苦難を訴えて、いろいろな神仏に祈った。
夫人が、どんなに泣き悲しもうと、どんなに責めようと、このときの王一は、いつものように心を動かされなかった。長男が、こんなふうに警察署長の権力の手に捕えられてしまったことで心の奥底までおびえきっていたからだ。そのうちに王二《ワンアル》が、すこぶる落ちついてやってきた。そんな事件はまるで知らないといったふうな涼しい顔をしている。けれども、この話は、すでにいたるところにひろがっていた。手ごろの問題なので、召使たちが、みんなしゃべってしまったのだ。王二の妻も知っていて、彼にすっかり話した。いや、すっかりどころか、尾ひれをつけて話したのであった。彼女は、ひどく悦にいって、幾度も幾度もくりかえした。
「あんな母親の子ですし、おやじさんは、あんな道楽者ですもの、ろくなことはありゃしませんよ。わたしにはよくわかっていたんです」
しかし王一の居間の椅子に腰かけた王二が、兄夫妻がこもごも語る話を聞くと、ふたりは息子の罪は、きわめて軽微なもののように言っている。王二は裁判官みたいに落ちつきはらい、青年の無罪はあたりまえだと信じているような顔をして、ただ彼を釈放させる手段を考えているようなふりをしていた。けれども彼は、兄が大金を借りたがっているのだと最初から知っていたのである。どうすれば貸さずにすむかを一生けんめい思いめぐらしていたのだ。とうとう話は終わり、夫人は手ばなしで泣いている。王二は口を開いた。
「どこでも役人たちとの交渉には金がものを言うのは事実だが、それよりも、もっとよいことがある。それは武力です。大金をつかう前に弟に頼んでみましょう。弟も、いまはもうりっぱな将軍ですからね。弟に一肌《ひとはだ》ぬいでもらって、省政府を動かして、ここの県長のところへ天《あま》くだりの命令を出させ、県長からあの子を釈放させる命令を署長に出させる、というぐあいにしてはどうでしょう。そうしてから、各方面にわいろを使って、事が早く運ぶように促進させましょう」
これはだれにもすばらしい名案と思われた。王一は、どうしてそれが自分には思いつかなかったのだろうと、ふしぎに思った。彼らは時をうつさず王虎に使者を送った。こうして王虎は事件を知ったのである。
さて王虎は、弟として兄たちを助ける義務のほかに、これは自分の威望をためすよい機会だと見てとった。そして彼は隣省の軍長にあてて、ていねいに、辞を低くして手紙を書き、贈り物を用意し、腹心の部下にそれを持たせ、匪賊の害を避けるために護衛隊をつけて出発させた。贈り物を受けとり、手紙を読んだ軍長は、しばらく考えていたが、これは戦争の場合に王虎を自分の味方にするのに役に立つと考えた。この恩恵をあたえれば、王虎は恩義を感じるだろう。ひとりの青年を監獄から解放するくらいのことで王虎の好意を得られるなら、おやすい御用だと思った。一小都市の警察署長のごときつまらぬ人物は眼中にないのである。そこで王虎の依頼を省長に話した。省長から県長へ命令がくだった。県長はまた王一家の住んでいる町の役所へその命令を伝達した。
王商人は、いつもよりも策謀にとみ、かつ抜けめがなかった。彼は要所要所にわいろを使ったが、事件に関係したすべての人がありがたいと思うだけ贈って、もっとほしがる欲心を起こさせないように用心した。釈放命令が、今度は署長のところへ到達した。王兄弟は署長がそれを受けとる時刻を、よく気をつけていた。彼らはだれでも面子《めんつ》がつぶれることには堪えられないことを承知していた。だから、命令がきたころを見はからって、何も知らない顔をして警察署長を訪問し、かなりの贈り物を贈り、何度も謝罪して、長男の釈放を願った。きわめて腰を低くして、相手を慈悲深い人として懇願した。とうとう署長は、むぞうさに、そして恩にきせるような横柄な態度で、わいろを受けとった。それから長男を牢から出させ、説諭を加えて放免した。
王兄弟は警察署長のために盛宴を張った。これで事件は解決した。青年は、ふたたび自由の身となった。しかし彼の恋情は、入獄のために、いくらか冷却した。
けれども娘のほうは相変わらず強硬で、またやかましく父を責めたてた。今度は署長も、いくらか心が動いてきた。この王一家が、いかに有力であるか、兄弟のひとりが、いかに強力な軍閥であるか、王商人が、いかに莫大な金を持っているか、ということがわかってきたからである。彼は媒酌人を立てて王一のところへ申し入れた。
「ふたりを結婚させて両家の交誼《こうぎ》をいっそうかためようではありませんか」
こうして交渉はどんどん進んだ。婚約が結ばれ、きたるべき最初の吉日を選んで婚礼がとり行なわれることになった。王一夫妻はほっとして、うれしさでいっぱいであった。花婿のほうは、この急激な事態の好転に、ちょっとぼんやりしていたが、以前の情熱がよみがえってきて、これも心から満足していた。花嫁は勝利に酔っていた。
王虎にとっては、この事件そのものは、あえて重要ではなかったが、つぎの諸点が明らかになったのは収穫であった。――すなわち彼は隣省にまで実力者としてみとめられていること、軍長も彼の実力をみとめ、彼の好意を得ようと欲していることなどを知ったのである。彼の心は誇りでいっぱいになった。この事件が片づくころは、春もすでに去り、夏にはいっていた。王虎は春を多忙のうちに過ごしたし、時機ももうおくれたから、年来の計画たる地盤拡張戦を、もう一年延期しようと考えた。地位が確立されたことを知ったので、一年くらいの延期は気にならなかったのだ。さらに、もう一つの原因としては、夏のはじめになって、各地に放っておいたスパイが帰ってきて、南方で戦争のうわさがさかんにとんでいることを報告したことである。けれども、それはどんな戦争なのか、だれが盟首なのか、まだ不明らしい。それを聞くと王虎は、隣省の軍長にとって自分の軍隊がどんなにたいせつか、また、なにゆえに軍長が自分の好意を得ようと望んだかが理解できた。どんな形勢が展開してくるか、来春まで待ってみることにした。
相変わらず王虎は息子とばかり暮らしていた。子供は、まじめにあたえられた課業をはげんでいた。子供の黙々たる態度を見るのは王虎のよろこびであった。彼は、たえずわが子の顔をながめ、あどけないうちにも青年らしいところがあらわれてきたそのまじめな顔を、いつまでも飽かずにみつめていた。わが子が勉強したり、何か仕事をしたりしているときに、しげしげとその顔を見ていると、頬骨《ほおぼね》の高く秀《ひい》でたところや、口もとのしっかりしたところなどが、ふしぎに、だれかに似ていると思われてくることがしばしばあった。それは美しい口もととは言えなかった。しかし少年にしては、じつにしっかりとしていて、かたく結ばれているのだ。
ある夜、息子の容貌は彼の祖母、すなわち王虎自身の母親に似ているのだ、ということに思いいたった。そうだ、自分の母の面影がそこにあらわれているのだと気がついたのである。もっとも王虎は、母の臨終のときの顔しか、はっきりとはおぼえていない。そのときは死が迫っていたので、青い顔をしていたが、それとは、わが少年の紅顔は、まるでちがっている。けれども、わが子の動作は母の落ちついた静かなようすにそっくりであり、母の重々しさは息子のくちびるや目つきにあらわれているのだという感じが、どんな他の明らかな記憶よりもいっそう深く王虎の心のなかにひそんでいた。おぼろげになった母のなつかしい面影を息子のうちに見いだした王虎は、心がますます温まるのをおぼえ、いっそう深く息子を愛するようになった。しかし王虎は、どういうわけか、息子がさらにいっそうしっかりと自分にこそ結ばれているのだとは考えつかなかった。
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二十六
義務はなんでも忠実にはたす、命じられたことは、かならず実行する――王虎の息子は、そんなふうな少年であった。教官が教えるとおりに戦術や剣術も勉強するし、王虎ほど自由自在ではないが、馬も相当乗りこなす。だが、何をするにも楽しそうでなく、すべてのことを任務としてしいてやっているというふうであった。王虎が軍事教官にわが子の成績をたずねると、教官は、ためらいがちに答えた。
「不成績だとは言えないですね。ある点まではりっぱにやります。やるべきことは、きちょうめんにやります。しかしそれ以上はけっしてやりません。気のりがしない、とでもいうのでしょうか」
この返事は王虎の心を非常に痛ませた。というのは、彼も前から気がついていることであるからである。息子は怒ったことがない。何ものをも憎むことがないし、ほしがるということもない。何をさせても、きまじめで、辛抱強い。軍人は、そんな性質であってはつとまらないことを王虎は知っていた。いや、軍人は闘志が必要なのだ。はげしい怒りも、我意の強さも、熱しやすいところも持たねばならない。それを彼は残念に思っていた。そして、どうしたらその性情を矯《た》めることができるかと思いまどっていたのである。
ある日、王虎は庭で、わが子のそばに腰かけて、教官の指導のもとに短銃の射撃を練習するのを見ていた。少年は沈着にかまえる。手をあげるのもすばしこい。そして号令があると、ためらわずに、しっかりと引き金をひく。しかし王虎には、わが子が、しいてつとめているように思えてならなかった。きらいだけれどもせねばならないからと、内心で無理に気を引き立ててやっている表情が、少年のなめらかな顔にあらわれているように思われるのであった。そこで王虎は少年に呼びかけた。
「せがれや、もっと熱心にやってくれ。そうするとわしはうれしい」
少年は、はっと父の顔を見あげた。手にはまだ硝煙の出ている短銃を握っている。その目には、なんとも言いようのない色があらわれ、もの言いたげにくちびるを開いた。けれども、そこにはいかめしい王虎がすわっていた。彼は、いくらやさしい顔をしようとしても、できないのである。眉《まゆ》は太く黒い。こわく黒いひげにかこまれた口は、そうするつもりはないのに、不機嫌らしく見える。少年は、また目をわきへそらして、小さなため息をつき、例の辛抱強い調子で言った。
「はい、おとうさん」
王虎は漠然とした苦痛の感じをもってわが子を見た。王虎は顔つきこそきびしくいかめしいが、心はやさしかった。ただ、心を開いてうちとけて語る方法を知らないのである。しばらくして、彼も嘆息して、練習が終わるまで、無言で見守っていた。すると少年は、ためらいながら父の顔を仰いで言った。
「おとうさん、もうあっちへ行ってもいいですか?」
そのとき王虎は、わが子がよくどこかへひとりで出かけることがあるのを思い出した。たびたび抜け出すのであるが、どこへ行くのか知らなかった。ただ、どこへ行くにもつきそうように命じてある従兵が、かならずついて行くだろうとわかっていただけだ。しかしきょうにかぎって彼は心に一つの疑惑をうかべて子供を見た。わが子も、もはや子供ではないから、足を踏み入れてはならないところへ行くのではあるまいか、と疑ったのである。そして、とつぜん嫉妬に襲われて、できるだけ声をやさしくしてたずねた。
「しかし、どこへ行くのかね?」
しかし少年は、もじもじして頭をたれた。しまいに、なかば恐れているように言った。
「別にきまっていないんです。城壁の外側へ出て、ちょっとのあいだ畑のまわりを歩きまわるのが好きなんです」
少年が魔窟《まくつ》へ行くと言っても、王虎は、この言葉を聞いたときほどびっくりしなかったであろう。あっけにとられて彼は言った。
「そんなところに軍人が見てためになるようなものがあるのか?」
すると少年は目をふせたまま、剣帯をいじりながら、例の辛抱強い調子で、低い声で答えた。
「なんにもありません――でも静かで、今はくだもののなる木の花が咲いていて、気持ちがいいんです。それに、ぼくは、ときどき百姓と話をして作物のつくりかたを聞くのが好きなんです」
王虎は、すっかり驚いてしまった。こんな子をどう取り扱ったらよいかわからなかった。彼は心のなかでつぶやいた。(軍閥の子としては変わっている。おれは小さいときから百姓の暮らしが大きらいだったのに)そこで彼は怒る気はなかったのだが、自分でもわけのわからぬ失望を感じたので、思わず、あらい言葉を出してしまった。
「それならおまえの好きなようにしろ、おれはかまわん」
少年は籠《かご》から放たれた小鳥のように、すばやく父のそばを離れて、すべるように行ってしまった。王虎は重い気分ですわりつづけていた。
悲痛な思いで考えこみながら、彼はいつまでもすわっていた。それにしても、なにゆえそんなに心が痛むのかわからなかった。しまいには、いらいらしてきた。そこで、しいて気を引き立て、みずからなぐさめた――あの子は不良ではないし、言われたことはよく守るのだから、それで満足すべきではないか。それで王虎は、その心配をもう一度心から払いのけてしまった。
この数年間、ある新しい大きな不満がどこかで戦乱となってあらわれるだろうという流言が、しきりに流されていた。王虎のスパイたちは、南方の学校にいる青年男女が武器をとって立ちあがろうとしているし、田畑に働いている一般農民が戦争の準備をしているという報告をもたらした。これは前代未聞のことである。そういうことは軍閥の仕事であって、一般庶民には無関係なはずなのだ。王虎はびっくりしながらも、彼らは、なにゆえに立つのであるか、またどういう名目で戦うのであるか、とたずねたが、スパイたちは知らなかった。そこで王虎は、学生が武装するのは悪いことをした教員を排斥するためであろう、一般民衆が戦うのは、悪い役人にいじめられて、もうがまんできなくなり、そいつを殺して問題を片づけるつもりだろう、などと想像していた。
それにしても、ともかくこの新しい戦争がどんなふうに展開するか、自分はそれにどんなふうに対応すればよいか、その見通しがつくまで、王虎は自分一個の戦闘は行なわないことにした。彼は租税を貯蓄して大いに武器を買い入れた。いまでは王虎も河口の港が領内にあるので、兄の王商人の助力を乞う必要がなくなったのである。その港を自分の手に収め、船を雇い、武器を外国から容易に密輸入することができるのだ。省政府では、その密輸入をかぎつけても、彼を味方の将軍だと心得ているから、見て見ぬふりをしている。それに、いつかは起こるにちがいない戦争に際して、王虎の持っている武器は、みんな自分らのためになると知っていたからである。
こうして形勢を観望しているうちに、王虎の兵力は強大となってきた。彼の愛する息子も大きくなって、十四歳の春をむかえた。
王虎が偉大な軍閥の領袖《りょうしゅう》となってからの十五年以上のあいだ、彼は、いろいろな点で幸運であった。そのうちの主要な点は、彼の領内では全般的な大飢饉がなかったということである。もちろん、無情な天の下にあってはまぬがれられないことで、部分的な小さな飢饉は、あちこちにあったが、彼の領地全体におよぶようなのはなかった。だから、一地方が飢えれば、その地方からは税金をとり立てないでも、人民が飢えていないか、あるいはそれほどひどくは困っていない他の地方から税金を集めることができたのである。そうすることが彼の気に入っていた。なぜなら、彼は公明正大な人物で、他の軍閥のあるもののように、死にそうな民衆から金をあらいざらいしぼり取るというようなことは、いさぎよしとしなかったからである。そのために民衆は、ありがたがって、彼をほめていた。領内で多くの人々は言った。
「そうだとも、王よりも悪い軍閥がいくらもあるだでな。どうせ軍閥がいる以上は、あの男にあたったのは運がいいというものさ。あの男は税金を兵隊のために使うだけで、ほかの軍閥みてえに宴会だの女だの、連中の好きないろんなもののために捨てやしねえだものな」
王虎が、できるだけ民衆にたいして公平であろうとしたのは事実であった。まだ、こんにちにいたっても、もとの老県長の後任として新県長が着任していなかった。じつは、ある人物が任命されたのだが、王虎が非常に猛烈な人物であると聞いて、父が年をとっているから天命を終わり葬式がすむまで孝養をつくしたい、という口実のもとに、わざと赴任をのばしていたのである。だから王虎は、しばしば法廷へ出て裁判のことまで司《つかさど》ったが、そういうときには、その信ずる正義公道にしたがって、貧民たちのために有利にとりはからい、富豪や高利貸を痛めつけた。
事実、王虎は富豪たちを恐れる必要がなかった。だから、もし彼らが必要な銀を納めなければ、容赦なく監獄にぶちこんだ。いきおい地主、高利貸、富豪などは、王虎を非常にきらって、なんとしてでも彼の裁判を受けないように逃げまわっていた。しかし彼らがどんなにきらっても、王虎には強大な武力があり、彼らを恐れる必要がないから平気であった。彼は兵士たちに規則ただしく、十分に給与をはらった。軍規を乱すものがあると、ときとして苛烈《かれつ》であるが、給料だけは、きちんとあたえた。この点は多くの軍閥のくわだておよばないところであった。多くの軍閥は略奪によって部下を養っているのであるが、王虎は部下のために、しいて戦わされるということもなく、好きなだけ戦わずにもいられるのである。したがって、その地方の民衆や部下のあいだの彼の地位は、非常に堅固で確実なものとなっていた。
しかし、いかに人間が安定を欲しても、つねに意地の悪い天を相手にしなければならないのだから、思うようにはならなかった。王虎といえども、それをまぬがれることはできなかった。息子が十四歳の年、来年は軍官学校へ送ろうと準備しているところへ、彼の全領地にわたって大飢饉が起こったのである。それは一地方から他の地方へと悪疫《あくえき》のようにひろがっていった。
その年の春には降るべき時期に雨が降った。しかし、やむべき時期がきてもやまず、雨天がつづいた。一日また一日、一週また一週、そして夏にはいっても、まだ降りつづいていた。伸びた小麦は水の下になって腐った。美しい畑は泥沼となった。それまで静かな流れだった小川も水かさを増し、ごうごうたる奔流となって、両岸の堤防をつき破ってあふれだし、いたるところの濠《ほり》に浸入してそれをこわし、あらゆるものを押し流して泥を海中に注ぎこんだ。そのため紺碧《こんぺき》の海も数マイルの沖合いまで黄土の色に変じた。民衆は、はじめは机や寝台を水よりも高いところへ移して、家のなかに住んでいた。しかし水が屋根にとどくほど高まると、土壁がくずれてくる。彼らは舟や、タライや、わずかに水上に残っている堤防、高地などにのぼって、そこへ住んだ。そういうところに避難したのは人間ばかりではなかった。野獣や野の蛇までが集まった。蛇どもは木々に群がり、枝にぶらさがり、ついには人間をこわがることを忘れ、人間のあいだに這《は》いこんできていっしょに住みはじめた。人間は、洪水と蛇と、どちらがよりこわいかわからなくなってきた。日は過ぎても、水はへらなかった。そこには、もう一つ新たな恐怖が待っていた。それは餓死の恐怖であった。
ここに王虎は、これまで知らなかった一大苦難に耐えねばならないことになった。彼の立場は、ほかの多くのものよりも困難であった。なぜなら、他の人々は自分の家族だけを養えばよいが、彼は彼にたよっているおおぜいの軍隊をかかえているからである。兵士どもは非常に無知で、すぐに不平をならべる。食糧と俸給が十分ならば満足し、受けとるべきものがあたえられているあいだだけ忠実なのである。王虎の領地の各地方からは、しだいに税収入の集まりが悪くなってきた。洪水は夏じゅう氾濫していたから、秋になっても収穫はすこしもなかった。したがって、その年の冬になると、この地方へ密輸入される阿片の税金以外は、税収入が皆無となった。しかも、人々に購買力がないから、密輸商人は、その品物を他の地方へ持って行く。だから、その阿片税までが非常に減少する。洪水が塩田を洗い流してしまったので、塩税さえもとれなくなった。その年の新酒をつくるどころではないから、陶工たちも酒ガメの製造を中止した。
王虎の困窮は、なみなみではなかった。この地方の軍閥として支配しはじめて以来はじめて、その年の末に、彼は部下の給料が払えなくなった。その事態を見て、王虎は、これを切りぬける唯一の方法は冷酷無情よりほかにはないことをさとった。弱味と見てつけこまれてはならないから、なまじ慈悲|憐憫《れんびん》を示してはいけないのだ。彼はそこで部下の将校たちを呼び集め、大きな声で彼らをどなりつけた。あたかも彼らが悪事をはたらき、彼が憤慨しているようなぐあいであった。
「この数か月というもの、世間は飢えている。しかし、おれはおまえたちに食べさせてきた。給料も払った。おれの銀はもうない。この季節が過ぎなければ、租税は一文もはいらない。今後は、おまえたちの給与は食糧だけにしなければならない。いや、それさえむずかしい。あと一か月もすれば、食糧を買う銀すらなくなるかもしれぬ。おまえらを飢えさせず、おれもせがれも飢えないようにするためには、どこかで莫大な負債をしなければならんのだ」
そう語りながら王虎は、ものすごい顔をした。眉《まゆ》の下からぎらぎら光る目で彼らをにらみつけ、怒っているように手荒くひげを引っぱった。しかし、ひそかに将校たちの挙動を気をつけて見ていた。なかには反抗的な顔も見えた。一同が黙々としてその場を去ると、そのなかから、すぐ彼のところへもどってきた数人の将校があった。スパイとして王虎が側近におく連中である。
「給料をもらわなければ戦場には出ないと言っています」
スパイが低い声でそう言うのを聞くと、王虎は、憂鬱になり、しばらく広間にすわっていた。彼は人の心というもの、それがいかに恩知らずなものであるかを考えた。こんな凶年で民衆は飢えて死ぬものさえあるというのに、自分は彼らを平常どおりに給養してきたではないか。そのおれにたいして彼らは愛情も何も持っていないではないか。一度か二度、おれは内緒でたくわえてある軍資金の一部を給料にまわそうとまで考えたことさえあるのだ。その銀は、戦争で負けて山岳地帯へ退却したような場合のためにしまってあるのだが、こうなっては、たとえ部下が飢え死にしても、だれのためにも、自分の息子のものであるあの金を出してはやらぬ、と思うのであった。
依然として飢饉はつづいていた。その地方一帯が水びたしになっていた。餓死する人々は多いが、乾いた土地がないから、葬るわけにもいかなかった。死体は水中に投げこまれて浮いていた。なかでも小さな子供の死体が多かった。小さな子供たちは、なぜ食物がないかを言ってきかせてもわからないから、腹がすくと泣き叫んで、いつまでも泣きやまなかった。それを聞く親は、たまらなくなってしまう。そうして、一部の親たちは暗夜に乗じて子供を水のなかに投げこむのである。そのほうが苦しみが短く、わりに楽に死ねるだろうからといって投げこむ親もあった。また、わずかに残っている食物をへらす口をすくなくするためにそうする親もあった。子供がふたり残っていると、弱いほうを殺すほうが、得策だが、どちらのほうが強いかと考える夫婦もあった。
新年がきたが、だれもそれを慶賀すべき日であるとは思い出せなかった。王虎は部下の食事を半減させた。彼自身も肉を食わないで、カユのような貧弱なものばかり食べていた。ある日、彼は居間にすわって、げんざい追いこまれている窮境を思い、運命の神に見はなされたのではないかと疑っていると、日夜入り口を警戒している護衛兵のひとりがきて言った。
「ただいま、六人の兵士がお目にかかりたいと申しております。軍隊の代表者だと言っています。何か申しあげたいことがあるそうです」
「武装しておるか?」
護衛兵はそれに答えた。
「武装してはいないようです。しかし心のなかまではわかりません」
王虎の息子が、同じ部屋のなかで、小さな机を前にして、何かの書物の上にかがみこんで熱心に勉強していた。王虎は別室へ行かせようと思って、そのほうを見た。すると少年は、その瞬間に立ちあがって、出て行きそうなようすをした。その機敏な態度を見ると、王虎は、にわかに気が強くなった。反抗する野蛮な人間の取り扱いかたを、わが子にも見せておく必要があると思い、大きな声で言った。
「そこにいろ!」少年は、合点《がてん》がいかないふうで、ゆっくりと腰をおろした。
王虎は護衛兵のほうを向いて命令した。
「護衛兵を全部呼んで、おれのまわりに立たせろ。すぐ攻撃できるように銃を用意してくるように言え。それから六人の兵士を連れてこい」
王虎は大きな古い肘掛椅子に腰をおろしていた。かつて老県長の所有だった椅子である。その背には、保温のために虎の毛皮がかけてある。その椅子に王虎は、どっかと腰かけた。護衛兵がはいってきて、彼の左右に整列した。王虎は、ひげをなでた。
六人の兵士がはいってきた。いずれも若い。青年のつねとして、強壮で、感動しやすく、大胆である。彼らは護衛兵と、さきが頭のあたりできらきら光っている銃剣とに守られて将軍がそこにすわっているのを見ると、丁重に敬礼した。そして、代表として選ばれた一兵士は、うやうやしくもう一度敬礼してから、口をきった。
「慈愛深い将軍閣下、わたしたちは、もうすこし食糧を増していただくように陳情するために、同僚たちによって選ばれてまいりました。まったくわたしたちは食糧が足りません。こんな時勢ですから給料のことは申しません。とどこおっている給料のことも、いまは申しません。しかし食糧が足りないのは困ります。わたしたちは日に日に体力が衰えるばかりです。わたしたちは兵士ですから、自分のこのからだだけが唯一の資本なのです。わたしたちは毎日一片の餅《もち》を支給されているだけです。閣下の公正な処置をお願いしたいと思います」
王虎は、無知な人間はどういうものか、またこういう連中は威圧しておかなければならないこと、さもないと指導者の命に服さなくなることを、よく承知していた。そこで彼は、はげしくひげをひねった。そして胸のなかに怒りが燃えあがるのを待った。彼は思った。いかに自分は部下にたいして、かずかずの親切をつくしてやったか。いかに戦争のときにもいたわってやったか。いかに自分の意志に反してまで攻囲戦のあとで略奪を許可してやったか。いかに、つねに給料を払い、被服をあたえてきたか。いかに自分自身は、ほかの多くの将軍とはちがって、善良であり、酒色にもふけらず、強欲でもなかったか。これらのことを思うにつれて、十分な怒りが心のうちに燃えあがってくるのを感じた。現在の苦難をおれといっしょに堪えて行けないというのか! この苦難は天意であって、何もおれの責任ではないのだ! そう思えば思うほど、彼は怒りをあおりたて、そして、ますますその怒りを燃えあがらせようとした。彼はいつも憤怒らしいものが燃えあがるのを感じると、大急ぎでその火力を利用しようとするのである。彼はいま、どんな処置をとるべきかは、すでに決心していたのである。やがて彼はどなった。
「貴様らは猛虎のあごひげを引っぱりにきたのか。おれが貴様らを餓死させると思うか。かつて餓死させたことがあったか。おれはすでに計画を立てているのだ。もうすぐ外国から食糧がくることになっている。しかし、いや、貴様らは反乱兵だ――おれを信頼せぬのだ!」
そして渾身《こんしん》の激怒をふるいおこして、大音声を張りあげて護衛兵に命じた。
「この六人の謀反《むほん》人どもを殺せ」
すると六人の若い兵士たちは地に頭をつけて命|乞《ご》いをした。けれども王虎としては助命できなかった。もし彼が、いったん部下にたいする統制力をうしなえば、彼らは躊躇《ちゅうちょ》なく暴行をはたらきはじめるであろう。息子のため、家族のため、さらに地方一帯の民衆のため、彼らを許してはならない。憐憫の情にほだされてはならぬ。彼は大きい声で叫んだ。
「射《う》ち殺せ! 片っぱしから射て!」
護衛兵たちは、いっせいに発射した。大きな部屋のなかが、全部、銃声と硝煙に満たされた。硝煙が晴れると、六人の兵士は死体となって横たわっていた。
王虎が、すぐに立ちあがって命令した。「この死骸を運んで行って、この者どもを代表としてよこしたやつらに言え、それがこの回答だとな!」
しかし護衛兵が若者たちの死体を引き起こそうと身をかがめる前に、一つの奇妙なことがおこった。王虎の息子は非常に落ちついた子で、平生、自分のまわりに起こる事柄は、ほとんど見向きもしないように見えるのだが、いま彼は、父もはじめて見るほどの凶暴な無我夢中なようすでおどり出した。そうして若者の死体の一つの上に顔をふせて、しげしげとみつめ、それから一つずつ、すばやくあちこちさわってみたり、大きく見開いた狂気じみた目でながめたり、ぐったりしている手足を凝視したりしていたが、やがてきっと父の顔を見て、父に向かって大きな声で言った。自分のやっていることがわからないようすであった。
「あなたは殺してしまった――ひとり残らず死んでいます――この兵士は、ぼくも知っています――ぼくの友だちです」
そして、とつぜん王虎がなんともいえない恐怖をおぼえたほど絶望的な目を、父の目に釘《くぎ》づけにしていた、息子の目の色には、父をぞっとさせるものがあった。父は目をそらし、弁解じみた口調で言った。
「こうしないわけにはいかないのだ。そうしなければ、ほかのものを扇動し暴動を起こして、おれたちを殺すようになるのだ」
しかし少年は涙で息を詰まらせて、やっとかすかに言った。「この人たちは、ただ食糧を要求しただけなのに――」ふいに彼の顔はくしゃくしゃとなって、すすり泣きをはじめ、部屋の外へとび出した。父親は呆然《ぼうぜん》として見おくった。
護衛隊は命じられた任務を履行した。あとにただひとり残った王虎は、自分のそばを日夜離れずにいるふたりの従兵さえも室外へ遠ざけて、ひとりになって頭を両手にうずめ、一、二時間ほど思いにしずんだ。うなって、あの六人の青年を殺さなければよかった、と思った。あまり思いつめて苦しさに堪えきれなくなったので、息子を呼びにやった。しばらくすると少年は、ゆっくりはいってきた。顔をふせ、目をそらせて父のほうに向けなかった。王虎は、そばへくるようにと言った。そばへやってくると、王虎は、少年の細いが丈夫な手をとり、いままでにないほどそれをやさしくなでながら、低い声で言った。
「おまえのためにやったのだ」
しかし少年は答えなかった。一心に感情をおさえて、黙って、固くなって、父の愛撫をがまんしていた。王虎は嘆息して、わが子を去らせた。彼は、わが子になんと言えばよいか、どうすれば息子にわが愛情を理解させることができるか、その方法を知らなかったのである。王虎の心は痛んでいた。この広い世間に自分ほど孤独なものはないと思った。そして、一、二日ほど、悶々《もんもん》としていた。それから、どうすればよいかわからないから、この事件もそのままにしておこうと思い、無理に心を引き立てた。そして、わが子にも事件を忘れさせるために何かしてやろうと考えた。そうだ、外国製の時計とか、新式の小銃とか、何かそうしたものを買ってやったら、子供の心を、また自分のほうへ引きもどせるだろう。こうして彼は気を引き立て、またみずからをもなぐさめたのであった。
それはともかく、この六人の兵士が部隊の代表として陳情にきたことは、事態がどの程度まで暗い危険にさし迫っているかを王虎に教えた。すなわち、自分の軍隊をしっかりと維持してゆくつもりなら、どうでも食糧を手に入れる方法を講じなければならないことを彼はさとったのである。外国から食糧がすでにくることになっていると言ったのは、一時の言いのがれであるが、こうなっては、どこかへ出かけて行って、食糧を手に入れてこなければならない。彼は、ふたたび兄の王商人のことを思った。こんなときにこそ兄弟は助け合うべきだ。一度故郷へ帰って、亡き父の残した家の状態がどんなふうになっているか、どのくらいの援助が得られるか、頼んでみよう、と思い立った。
そこで彼は銀と食糧を手に入れてきて給与を豊富にすると兵士たちに約束した。彼らは、すっかり元気になり、期待に胸をふくらませ、彼にたいして信頼の情を新たにし、忠実になった。彼は部下の精鋭をすぐって屋敷を警備させ、護衛隊に旅行の準備を命じた。出発の当日には、たくさんの小舟を集めさせ、息子や護衛隊や馬を全部その舟に乗りこませ、水上を渡って、堤防がまだ水に没しないでいるところまで行った。そこで一行は馬に乗り、王虎の兄たちの住む町へ向かった。
せまい道路の上を、彼らの騎馬は、のろのろと進んで行った。両側は水が海のようにひろがり、道路には避難民が押し合いへしあいしながら、いっぱいにむらがっていた。人間ばかりでなく、鼠、蛇など、さまざまな野生の動物までが、乾いた土地を求めて人間と争っていた。これらの野生の動物は人間にたいする恐怖も忘れ、弱い力をふりしぼって場所をとろうときそっていたのである。けれども人間に残っているかすかな活気は、蛇や動物があまり多くなり、あまりうるさくつきまとうときに、心にわきあがる瞬間的な弱々しい怒りに、わずかにそのしるしが見えるだけであった。しかし、ときとしては動物をはらいのける気力もなかった。蛇などが勝手なところをはいまわっているが、人間は、まるでぼけたように、うつらうつらと横になっているだけであった。
そのなかをぬって王虎は馬を進めた。まったく武装した護衛隊と銃が必要であった。それがなかったら、この窮民どもは死にものぐるいになって襲撃してきたであろう。警戒がきびしいので、あちこちで、ときどき男や女が起きあがって、無言の絶望のうちに、かすかな最後の希望をもって王虎の乗馬の脚にかじりつき、物乞いするにすぎなかった。王虎も心のなかで彼らに同情した。彼らを馬蹄《ばてい》にかけるにはしのびないので、馬をとめて、護衛兵のなかのだれかが駆けつけてその窮民をひき離し、地面に投げ出すまで、じっと待っていた。それから、あとも見ずに馬を進めた。投げ出された窮民のうちには、そのままぐったりと倒れているものもあり、またなかには、すさまじい叫び声をあげて水のなかにおどりこんで、みずからの生命と苦痛を絶つものもあった。
途中ずっと少年は父と馬をならべて進んで行った。彼はひとことも口をきかなかった。王虎も話しかけなかった。あの六人の兵を銃殺して以来、ふたりのあいだには感情のみぞができてしまっていた。そして王虎はわが子に口をきくのが気がひけるのであった。少年は、たいてい顔をふせているが、ただときどき、そっと目をそらして飢えている難民を見た。すると彼の顔には、なんとも言えない恐怖の表情がうかんできた。王虎は見るに忍びなくなって、ついに声をかけた。
「彼らはまったくの下層階級の人間だ。五、六年に一度くらい、こんな目にあっているから、慣れっこになっている。こんな人間は何万となくいるのだ。いくら死んでも、五、六年もたてば、また生まれてきて、世のなかは人間にことかかない。稲がみのるように、またひょこひょこ生まれてくるのだ」
すると少年が、とつぜん口をきいた。感情が、はげしくこみ上げてきたのだが、父の面前では泣くまいとこらえているので、その声は、いつもとちがって鶏の雛《ひな》のようなぴいぴい声になった。
「それでも、この人たちも、わたしたちや、えらい役人などと同じように、死ぬのはつらいことでしょう」
そう言って少年は口をきっと結ぼうとした。しかし、じつに悲惨な光景であった。いくらつとめても、くちびるのふるえはとまらなかった。
王虎は、なんとかなぐさめの言葉をかけようとしたが、わが子の言葉があまりに意外だったので、口がきけなかった。こんな下層民が自分と同じように苦しみを感じることがありえようとは彼は夢にも思ったことがなかった。人間は生まれたときからそれぞれちがっている、身分をとり替えることはできないのだ、そう彼は思っているのである。苦難になやむ人間にたいする同情など殺すことができないような弱い気持ちでは、とても軍閥にはなれないのだ。王虎は息子の言った言葉に全面的に賛成するわけにはいかなかった。したがって、慰めの言葉が考えつかなかったのである。いま食うものにありつけるのは、洪水の上を大きな輪をえがいて悠々と舞っているカラスの大群ぐらいなものであろう。王虎はこれだけ言った。
「われわれは、この残酷な天意のもとでは、だれでも同じなのだよ」
それからのち王虎は、わが子に何も言わなかった。少年の考えがわかったので、もう何もたずねなかった。
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二十七
故郷へ行く途中、王虎《ワンホウ》は、息子をあとへ残してくればよかったと何度も思った。けれども、じつをいうと、六人の兵士を殺したことをうらんで復讐をくわだてているものが部下のうちにいるかもしれないので、それもできなかったのである。しかし彼は、わが子が殺害されるのを恐れると同じくらい、兄たちの家に連れて行くことも恐れた。長兄の子たちは柔弱であり、次兄の子たちはいやしく金銭ばかり愛している。それで、同道してきた軍事教官と腹心のみつ口とに、若い主人のそばを離れないように命じ、そのほか十人の老兵に日夜つきそわせ、わが子には、家にいたときと同様に勉強するようにと言いつけた。
この数年、王虎がわが子を自分の部屋に引きとって以来、女はひとりも近づけなかった。女中も、奴隷も、いわんや娼婦などは影も見せなかった。少年は自分の母親と妹とのほかは、いっさい女を知らなかった。それも近年になってからは、少年が礼儀として、たまに母親を訪問するときでも、王虎は、けっしてひとりでは行かせず、従兵について行くように命じた。こうして王虎は、わが子を女性から守護したのである。彼はわが子にたいして、人が愛する女性にたいするよりも、もっと嫉妬深かったのである。
そういうひそかな心配はあっても、わが子と馬首をならべて長兄の家の門に乗り入れたときは、王虎にとって得意満面たる瞬間であった。彼は洋服屋に命じてわが子の服装を自分のとまったく同じにつくらせてよろこんでいたから、外国製の生地の上着から、金ボタンから、肩章から、帽子から、徽章《きしょう》まで、そっくり同じであった。また少年の十四歳の誕生日に、人を蒙古へやって、毛並みのまったく同じな大小二頭の馬を求めさせた。どちらも毛色は暗赤白で、白い目を輝かせている強壮な名馬であった。だから馬までもそろいなのである。人々が部隊の通るのを往来に立ちどまってながめ、こう叫ぶのを聞いたときは、王虎の耳には、それがもっとも甘美な音楽としてひびいた。
「あそこへ行く大将軍と小将軍とをごらんよ! まるで二本の前歯のように似てるじゃないか!」
王虎父子が王一《ワンイー》の門内に馬を乗り入れると、少年も父にならってひらりと馬からとびおり、佩剣《はいけん》のつかを握り、父とならんで堂々と歩を進めた。けれども彼は、それらの自分の動作が、そっくり父と同じだとは気がついていなかった。兄の屋敷に迎え入れられ、ふたりの兄と、その息子たちをはじめ、王虎の来着を聞き伝えて続々とあらわれた人々が、あいさつのために室内へはいってくると、王虎は、みんなの顔を見まわした。そして、どの顔にもわが子にたいする賛嘆の表情があるのを認めた。それが彼には、のどの渇いたときの美酒のように心地よかった。
その後、この屋敷に滞在しているあいだ、彼は無意識に兄の息子たちを熱心に観察していた。わが子が彼らよりもはるかに優秀なことをたしかめたくてたまらず、そして自分のひとり息子によって心を慰めたくてたまらなかったのである。
事実、王虎は多くの慰めを見いだすことができた。まず、王一の長男は、まだ子供こそできないが、結婚生活に落ちついて、夫婦で親たちと同じ屋敷のうちに住んでいた。この長男は、もう腹がふとってきて、きゃしゃだったからだには、やわらかく厚い脂肪がついてきていた。もういくらか父に似てきたのである。しかもまた疲れた顔をしている。事実、疲れるだけの理由があるのだ。なぜなら彼の妻と彼の母とのあいだが円満にいっていないからである。彼女は新知識があるので、生意気で、ふたりきりのとき彼が意見したりすると、夫に向かって堂々と反駁《はんばく》した。
「なんとおっしゃるの。あんな年とったごうまんな女性に召使のように仕えねばならないとおっしゃるの。現代の若い女性は、自由で、姑《しゅうと》になんか仕えなくてもいいということを、おかあさんは知らないのかしら」
また事実この若い嫁は姑などぜんぜん眼中においていなかった。だから老夫人は、例のとりすました態度で、こんなあてこすりを言うのであった。
「わたしの若い時分には、なすべき義務として姑に仕えたものです。毎朝わたしは姑のところへお茶をささげて行って、あいさつをしたものです。そうするようにしつけられたものです」
すると嫁は断髪の頭をうしろへそらし、纏足《てんそく》もしてない美しい足で床をけって、ひどく無遠慮な調子で言うのである。
「しかし、わたしたち現代の女性は、だれの前でも無意味に頭をさげたりはしませんわ!」
こんな争いが絶えないので、夫は、くさりきっていたのだ。以前のように歓楽によって気晴らしをすることもできなかった。妻が監視しているし、彼女はあらゆる遊び場所を知ろうとするからである。彼女は彼の行くところへはどこでもついてくる大胆さがあり、平気であとを追って往来まで出てきて、わたしもいっしょにまいりますわ、とか、現代の女性はけっして家にばかり閉じこもっているものではありませんわ、とか、男女は同権ですわ、とか、大声でとうとうとまくし立てるのであった。往来の人々は、それをおもしろがって黒山のように集まってきた。ひどく体裁が悪いし、妻は大胆でどこへでもついてくると思うので、若い夫は、遊里からいっさい遠のいてしまった。
またこの若妻は非常に嫉妬心が強くて、夫の以前からの習慣を打ちこわし、自然の欲望をもさまたげた。きれいな奴隷に色目をつかうことも許さなかった。友人にさそわれて魔窟《まくつ》へでも行こうものなら、帰るやいなや、すさまじい勢いで、泣いたりわめいたりして、屋敷じゅうの大騒動になった。彼が友人にぐちをこぼすと、友人はこう忠告した。
「妾《めかけ》を持つと言っておどかしてみろよ――どんな女でもおとなしくなるぜ!」
ところが、彼がそのとおりやってみると、妻はおとなしくなるどころではなかった。まるい目をぎらぎらさせて彼をにらみつけ、大きな声でどなりつけた。
「いまどき、われわれ女性が、そんなことをがまんできると思うのですか!」
そして、彼がうっかりしているまに、小さな両手をひろげて、子猫のように彼の両頬をひっかいた。あとにあざやかに赤い爪の傷あとが四つできた。どうしてできたかだれが見ても明白なので、きまりが悪くて、彼は五日ほど家のなかに閉じこもっていた。妻の兄は友人だし、父は警察署長で町の勢力家だから、妻を公然とはずかしめることもできなかった。
それでも夜になると彼はやはり彼女を愛した。彼女は、やさしそうに彼にまつわりついて、猫なで声で機嫌をとるし、彼につらく当たったことを、さもさも後悔しているようなようすを示すので、彼は、しんからいとおしくなり、とろけたようになって、彼女の口説《くぜつ》に聞きほれるのであった。
そういうときに、彼女の睦言《むつごと》の最後のきまり文句は、父親から相当な額の金をもらってふたりだけで別居しようということであった。海岸地方の開港場の都会へ行って、自分たちと同じような新時代の人々のあいだで、新しい型の生活をしようというのである。その美しい腕をのばして彼に抱きつき、蜜《みつ》のような言葉でくどくのである。彼がきかないと、怒ったり泣いたりして、寝床から起きてこないし、食事もしなかった。種々さまざまな方法で彼を困らせ、承知させるまでは、どうしてもやめないのである。やむなく承知して父に話すと、王一は、どんよりしている老眼をあげて言うのである。
「おまえの言うような大金がどこにあるのだ。おれには都合できないよ」近ごろ王一は、毎日たいてい眠そうにして、怠けて暮らしているが、いまも居眠りしてしまったのかと思うと、すこし間をおいて、またつづけた。「男というものは女にたいして辛抱するのがかんじんだ。どんな善良な女でも、争いやけんかばかりしたがるものだからな。学問があろうが、なかろうが、みんな同じだ。何もこわいものがないから、学問のあるほうが、始末が悪いだろう。家のなかのことは女にまかせろ。男はどこかよそでのんびりすればいい――これがおれの方針だ。おまえもそうしなくてはなるまいよ」
けれども若い妻は、そう簡単には問題を片づけさせようとしなかった。何度でも夫を責め立てて父親のところへ懇願に行かせた。あまりうるさいので、王一も、とうとう降参して、なんとかしてやろうと約束した。なんとかするといっても、これまで手ばなさずにいた土地の大部分を売るよりほかに手はないことは、よくわかっているのである。ところが若妻は、そんなあまり当てにならない約束を聞いただけで、もうさかんに言いふらしはじめた。そして向こうへ行ってからのいろんな生活の設計をしゃべりちらした。その海岸の都市では、どんなにたくさんの歓楽の方法があるかとか、どんなに女の服装が華美であるかとか、彼女がいま着いている服などはボロ同然で、こんな田舎くさい土地で着られるだけだから、新しい婦人服や毛皮の上着を買わねばならぬとか、そんなことを、たえず弁じたてた。こんなにしゃべりまくるのは、夫が彼女の話すいろんなすばらしいものを見たくなって、家を出ることに熱心になるようにたきつけるためであった。
王一の二ばん目の息子も、もう一人前になっていた。この息子はなんでも兄のあとについて進んできた。彼は、ただ一つのことに熱心であった。それは、兄の持つものはかならず自分も持とうということであった。彼は美しい兄嫁にたいして、ひそかに強い賛美の心を抱いていた。そして、心のうちで、兄が家を出たら、どうあっても自分もそのあとを追って、兄嫁のような美しい新時代の女性がたくさんいるというその都会へ行くつもりであった。しかし利口なところがあるから、兄の別居が実現するまでは、この計画については何も口外しないことにして、ただ家でぶらぶらしてその日のくるのを待っていた。そして、その海岸の都会が、どんな驚嘆すべきところであるか、どんなに新式の事物と外国式の教養のある新しい人々で満ちあふれているかを兄嫁から聞き知って、これまで持っていたものや見聞したものを、すべて軽蔑していた。そして、王虎の長男をすら、心のなかでは、ばかにしながら見ていた。王虎は、そのそぶりに気がついているから、この青年がきらいだった。
しかし王商人の家では、息子たちは外見だけでも王一の息子たちよりも謙譲《けんじょう》であった。夜になってみんな店から帰ってくると、はしのほうの席について、いとこをみつめていた。この商人育ちのいとこたちがわが子に投ずる感嘆のまなざしを見るのが、王虎にとっては、ひそかなよろこびであった。わが子がおびている小型の黄金をちりばめた佩剣《はいけん》を、彼らが珍しそうにじろじろ見ているのに気がつくと、王虎は、それをとって膝の上に横たえてながめたり指でさわったりさせてよろこんでいた。
そんなとき王虎は、わが子のことがひどく誇らしく、息子が自分に冷ややかであることも忘れていた。息子は教官に教えられたとおり、動作がきびきびしており、父や伯父がはいってくると立って敬礼し、長者が席につくのを待って行儀ただしく腰をおろす。そんなことを見ているのが王虎にはうれしいのだ。いとしくてたまらないように、ひげをなでながら息子を見ているのである。息子は、年こそすくないが、商人の兄と息子たちよりも背たけも高いし、筋肉も堅くしまっている。姿勢もまっすぐで、いとこたちのようにぐにゃぐにゃしたり、曲がっていたり、顔が青ざめたりしていない。それを見ていると、彼は、これまでの生涯にかつてなかったほど愉快になってくるのであった。
兄たちの家に滞在しているあいだじゅう王虎は細心の注意をもってわが子を愛護した。会食のときは自分のそばにすわらせ、わが子の飲む酒には気をつけて、給仕が三杯つぐと、あとはけっしてつがせなかった。いとこたちが、どこかへ遊びにさそうと、軍事教官、みつ口、十人の老兵に、どこへでもついて行かせた。毎晩、何か口実をつくっては自身で息子の寝室へ出かけて行って、少年がすやすやとひとりで眠っており、入り口のところに衛兵がひとりひかえているのを見さだめるまでは、どうしても心が落ちつかなかった。
ふたりの兄が安楽に暮らしている亡父ゆずりのこの家のなかにいると、王虎は、この地方に飢饉があることも、大洪水が収穫期の田畑をおおっていることも、窮民が餓死しかけていることも、まるでうそのように思われた。しかし王一も王二《ワンアル》も、彼らの平和な屋敷のそとでは、どんな悲惨なことが起こっているかを、十分に知っていた。だから、王虎が自分の窮状を述べ、来訪の目的を話し、「わたしをこの危機から救うことは、あなたがたにとって利益です。わたしの武力があなたがたを安全に守っているのですから」と最後に言ったときには、ふたりとも、弟の言葉が真実であると知っていた。
というのは、この町の外側でも、飢えかかっている農民がたくさんあって、彼らは王家の兄弟をひどく憎んでいたからだ。彼らが地主の王一を恨むのは、彼がまだ土地を所有しているので、その田畑で小作している百姓たちは、自分たちが土地からやっとしぼり取った血の出るような収穫を、すこしも労働しない彼と半分ずつに分けなければならないからである。彼らから見れば、農民は寒暑をおかし、晴雨にかかわらず背骨を曲げて田畑を耕すのだから、土地もその収穫も自分らに属するのがほんとうだと思えるのである。収穫時には、その辛苦の結晶の半分を、町の屋敷ですわって待っている人間に渡さねばならないということ、しかもどんな凶年にもやはり納めなければならないということが、じつにつらいのだ。
王一が大地主として、まだ売るべき土地をたくさん持っていたころでさえ、彼がけっして寛大な地主でなかったことは事実である。気の弱い、意気地《いくじ》のない人間のくせに、ひどくののしったり言い争ったりするのだ。そして、土地にたいする嫌悪を、その土地の上で彼のためにあくせくと働いている小作人の頭上にあびせかけるのである。このごろでは土地がきらいなために小作人を憎むのみではない。家族の費用や自分のこづかいにもときどき困ることがあるので、彼が亡父から受けついで当然彼に属すべきはずのものを、小作人どもが故意によこさないのだとひがんで、いっそう小作人に残酷にあたった。だから、彼の姿を見ると、小作人たちは天を仰いでこうつぶやくほど険悪な情勢になってきていたのである。
「悪魔が出てきただ。雨になるべえよ!」
ときとしては面と向かって口ぎたなくののしるものさえあった。
「あんたは親御さんには似もつかねえ子じゃて。親御さんは、年をとられてからも情け深い人で、ご自分もわしらのように骨折って働いたことを忘れずに、小作料を催促したこともなけりゃ、凶作の年には年貢も取らなかったものだ。だのに、あんたは、苦労したことがねえだで、慈悲というものが胸に生まれたことがねえのだろうて!」
そんなに恨まれていたのである。それがこの凶作になって露骨に表面にあらわれてきたのだ。夜になって、王一の屋敷の門が閉められると、そこへきて門をどんどんたたいたり、石段の上に横たわったり、聞こえよがしに、うなったりする連中もあった。
「わしらは、ひぼしになりかけているのに、あんたのとこにゃ、まだ食う米があるだ。酒をつくる米まであるだ!」門前を通りながら往来でどなるものもあった。白昼でも遠慮しなかった。
「ああ、こんな金持ちをぶち殺して、やつらがわれわれからひったくったものを取り返してやりてえ!」
はじめのうちは王一も王二も、あまり気にかけなかった。しかし、しまいには町の兵士を数人雇って門番に立たせ、無用のものを追い払わせることにした。凶年には、いつもそうだが、ことしも匪賊が発生し、だんだんその数がふえ、自暴自棄になってきたので、年がおしつまるにつれて、城内でも城外でも、彼らに襲われる富豪が多くなった。しかし王龍《ワンルン》のふたりの息子だけは、兵士をおおぜい部下に持っている警察署長の娘を嫁にもらってあるし、王虎が軍閥としてあまり遠くないところにひかえているしするので、まったく安全だった。窮民らは王家の門前で、ただうなったり、ののしったりするだけのことしか、あえてしなかった。
また窮民は、王家の一族は憎んでいても、王家の所有に属するあの土の家は襲わなかった。そうだ、その家は、ようやく引きかけている洪水のなかの丘の上に立っていて、梨華《リホワ》が、白痴とせむしといっしょに、まったく安全に、つらい冬をしのいで暮らしていたのであった。梨華の慈悲深いことは、だれ知らぬものもなかったし、彼女が王家に乞うて窮民に食糧をほどこしたりすることも知っていた。だから多くの罹災《りさい》者が、小舟やタライを浮かべて彼女の家へ泣きついてきた。彼女は彼らに食をあたえた。一度、王商人が彼女のところへきて言った。
「こんな物騒な世の中になってきたから、あんたも城内へ移って、大きな家でみんなといっしょに暮らしたらどうですかね」
しかし梨華は例の落ちついた調子で答えた。
「いいえ、そうはできません。べつに恐ろしいこともありませんし、わたしをたよりにしている人たちもあることですから」
しかし、冬が深くなり寒さがつのってくると、彼女でさえ、ときどき恐ろしくなることがあった。まだ舟の中に住む人々や、木の枝にかじりついている人々は、飢えにさいなまれ、凍った水面をわたる寒風に吹きさらされて、野獣のようになってきて、梨華がまだ白痴とせむしを養っているのさえ腹立たしくなってきたのである。彼女からもらった食べものを手にしながら、彼女の面前でも、ぶつぶつ言うのであった。
「こんなものをまだ生かしておくのかな。ちゃんと五体の満足な人間が、ちゃんとした子供をかかえて死にかけているというのに!」
そんなつぶやきがたびかさなり、しだいに高くなってゆくので、不具者のくせに満足に食べているという理由でいつ殺されるかもしれないし、弱い自分には防ぎようがないから、城内の屋敷へ連れて行こうかと思案しているうちに、かわいそうな白痴は――もう五十歳を過ぎていながら彼女は精神はまだ子供のままであった――急に、あっけなく死んでしまった。ある日、白痴は食事をすますと、いつものように赤い布きれをもって遊んでいたが、やがて、ふらふらと門の外へ出て行った。そして、一面に水が氾濫していて、いまは彼女が毎日すわっていた乾いた土ではないとは知らないのだろう、ざぶざぶと水のなかへはいって行った。梨華が追いかけて引っぱり出したときには、すでに氷のような水にすっかりずぶ濡れになって、がたがたふるえていた。それがもとで悪感《おかん》がはじまり梨華の手あつい看護のかいもなく、数時間のうちに死んだのである。白痴は生きているあいだ何事にも意志というものを示したことがなかったが、死ぬときもきわめて安らかであった。
そこで梨華は城内の屋敷へ通知して、棺を送ってくれるように頼んだ。王虎も滞在中であったので、兄弟三人そろってきた。王虎は息子をも伴ってきた。彼らは、あわれな白痴が納棺されるのを見守った。白痴はそこに、死のみがあたえうる威厳をもって、生まれてはじめて、利口そうな、重々しい顔をして横たわっていた。心から悲しんでいる梨華は、わが子同様の白痴のその表情に、いくらか慰められたのであろう、彼女特有の、あの静かな、つぶやくような口調で言った。
「死んでこの人の病気は直りました。とうとう利口な人になったのです。もうわたしたちと同じです」
しかし白痴はいままで日かげものだったから、兄弟たちは表だった葬式はやらなかった。王虎は、わが子を土の家に残し、兄たちといっしょに、梨華や、小作人の女房や、作男を連れて、小舟で一族の墓のある向こうの小高い丘まで漕いで行き、そして、一段低いが土の囲いの内側のところへ白痴を埋めた。
埋葬がすみ、土の家へもどって、兄弟たちが町へ帰るしたくをしているとき、王虎は梨華の顔を見た。そして、落ちついた冷たい声で、あの昔の家出以来はじめて梨華に話しかけた。
「これから、あなたはどうします?」
梨華も顔をあげて王虎を見た。こんな勇気が出たのは生まれてはじめてであった。彼女も髪の毛が白くなり、顔ももう昔のように若くなめらかではないことを自分で知っていた。
「わたしはずっと前から、あの子が死ねば、すぐそこの尼寺へはいることにしていました。尼さんたちは、わたしが行くのを待っていてくれます。もう何年も尼さんたちと親しくしてきましたし、修業もつんでおります。尼さんたちは、わたしの気心をよく知っていてくれますから、あそこでたいへん幸福な余生が送れると思います」それから彼女は王一のほうを向いて言った。「あなたは奥さまとご相談のうえ、すでに、このお子さんの将来の方針はきめてあるそうでございますね。このお子さんをお入れになるお寺は、わたしの尼寺のすぐそばですから、これからも何かとお世話できると思います。わたしも、もうこんなに年をとって、このお子さんの母親といってもよい年ですから、さしつかえないでしょう。よく病気をしたり、熱を出したりするのですが、そんなときには駆けつけて看病できるでしょう。それに僧侶と尼僧は、毎日、朝夕の読経をいっしょにいたしますから、たとえ口はきかないでも、一日に二度はお目にかかれるわけです」
三人の兄弟は梨華のそばにいるせむしをながめた。彼も梨華といっしょに世話をした白痴が死んでしまったので、悲嘆に暮れていた。彼ももう大人《おとな》である。みんなに見られて、悲しそうに微笑した。王虎は、この子のことについては、これまで何も知らなかったので、いまさらのように驚いた。それにくらべて自分の子が、じつに背たけが高く強健そうなのを見て、せむしが気の毒になった。そして、わが子が親しそうにせむしにほほえみかけているのに気がつくと、やさしくせむしに声をかけた。
「気の毒にな。どうか幸福に暮らしてくれ。からださえ達者だったら、おまえのいとこと同じように、よろこんでおれのところへきてもらうのだが。そして、おまえのいとこにしてやったように、おまえにもよくしてやれるのだが。しかし、そのからだでは何もしてやれない。おまえの行くお寺へ納める奉納金を、おれも出してやろう。梨華さん、あなたのほうの尼寺へも、寄進してあげよう。金はどこでも力がある。お寺でも同じだと思う――」
けれども梨華は、やさしいが、はっきりした調子で答えた。
「わたしは何もいただきません。何も必要がないのでございます。尼さんたちとは、おたがいに気心を知り合っていますから、いっしょに生活するようになれば、わたしの持っている財産は、みんなのものと同じです。けれども、この子の分はいただきましょう。役に立つでしょうから」
彼女がそう言ったのは、王一にたいする、かるい非難の気持ちをふくめてのことであった。というのは、王一夫妻がわが子の生涯を僧侶にするときめたとき、寺に奉納した金額は、まことに軽少であったからである。しかし王一は彼女の言葉を非難とさとっても、知らぬ顔をしていた。彼は腰かけて、弟たちが帰ろうと言うのを待っていた。非常に肥満しているので、立っているのが苦痛なのである。しかし王虎は、まだせむしから目を離さなかった。彼は、もう一度きいた。
「お寺よりほかに行きたいところはないのか」
すると、それまで王虎の息子の姿をむさぼるようにみつめていたせむしの青年は、急に目を離し、うつむいて、自分の背の低い、曲がった肉体をながめて、ゆっくりと答えた。
「そうです。こんなからだですから、ほかに方法はありません」それから一瞬、言葉を切ってから、沈んだ調子で言った。「僧侶の法衣は、たぶんわたしのせむしをかくしてくれるでしょう」
せむしは、もう一度いとこの姿をながめた。すると急に、いとこの姿や金をちりばめた佩剣《はいけん》を見るのに耐えられなくなったのであろう、目をふせ、向こうを向いて、びっこをひきながら、部屋の外へ出て行ってしまった。
その夜、兄たちの家にもどった王虎は、例のとおりわが子の寝顔を見に行った。すると息子は、まだ眠らずにいて、熱心な口調で父にたずねた。
「おとうさん、あの土の家もお祖父《じい》さんのものだったんですか?」
王虎は意外の質問に驚いた。「そうだ。おれも子供のときにはあそこに住んでいたのだ。それからこの家を買って、みんなでここへ移ってきたのだ」
少年は寝台の上に仰向いて、両手を枕と頭のあいだに入れて組み合わせていた。父の顔をじっと見あげて、熱意のこもった声で言った。
「ぼくはあの家が好きです。あの土の家のように畑のまんなかにある家に住んでみたいんです。とても静かで、木がたくさんしげっていて、牛がいる!」
王虎は、いらいらした。なぜいらいらしたのか自分でもわからなかった。けっきょく、わが子は別に自分の気にさわるようなことを言ったのではないとわかっていたからである。
「おまえは自分の言っていることの意味がわからないのだ。おれにはよくわかる。おれは子供のとき、あそこで暮らした。いとうべき無知の生活だ! おれは二六時中それから逃げ出すことばかり考えていたものだ!」
しかし少年は、ふしぎに頑強であった。
「ぼくは好きです! 好きだとわかっています!」
これらの数語を少年は非常に熱意をこめて言った。あまり熱意があふれているので、王虎は、わけのわからぬ怒りがこみあげてきて、すぐ立ちあがってその部屋を出た。しかし少年は、そのまま横たわっていて、その夜の夢に、あの土の家が自分の家になって、そこに畑にかこまれて住んでいる自分を夢みたのであった。
梨華は尼寺へ行き、せむしは寺へ行ってしまった。長年のあいだ三人が暮らしていた古い土づくりの家は住む人がなくなった。王龍の一家|眷属《けんぞく》のうち、だれひとり土に生きるものがいなくなったわけである。そこには小作人の老夫婦だけが残って、ひっそりと暮らしていた。長年のあいだ梨華に仕えて、やさしく物静かな梨華を尊敬していた老婆は、ときどき、土のなかにうずめておいたしなびたキャベツとか、大事にしまっておいた一握りほどの肉などを風呂敷につつんで、梨華に渡そうとして尼寺へ行った。まったく、こんな苦しい時節だというのに、老婆は、その乏しい食糧をさいて持って行くのであった。門のところで梨華の出てくるのを待っていると、いまは灰色の法衣姿になった梨華があらわれた。老婆は彼女の耳に口をよせてささやいた。
「いまでも一羽残っている鶏が卵を生んだでな、持ってきましただよ」
そして、ふところに手を入れ、小さな卵をとり出し、手に握って梨華のほうへさし出し、無理にも受けとらせようとして、小声で、あれこれと機嫌をとった。
「奥さま、食べてくだされ! 肉食しないという誓いをなされても、平気で肉を食べなさる尼さんも多いだでな。肉を食べたり酒を飲んだりなさる坊さんだって幾人もいますだで。ここで、だれにも見られないように、新しい生み立てのやつを召しあがってくだされ。あんたは青い顔をしていられますでな!」
けれども梨華は、どうしても食べようとしなかった。しんじつ彼女は五戒を守っていたのである。灰色の帽子をかぶった剃《そ》った頭を振って、老婆の手を静かに払いのけ、おだやかに言うのであった。
「いいえ、あなたが食べなさい。あなたこそ、わたしよりも食べなくてはなりません。わたしは必要なだけは十分いただいています。また、たとえ十分食べていなくても、五戒にそむくから、それはいただくわけにはいきません!」
しかし老婆は納得しない。梨華の法衣の胸のところへ押しこんでおいて、乗ってきたタライのなかへ駆けもどる。そして、それを漕いで、急いで寺の門を離れてしまうのである。梨華も水のなかまで追いかけて行くわけにはいかない。老婆は満足して、にこにこ顔で帰る。けれども梨華は、半時間もたたぬうちに、水のなかから寺の門まではいよってきた、あわれな、飢えている女にその卵をやってしまった。やせた赤ん坊を抱いている母親であった。もとは、ゆたかに、まるまるとしていたであろうが、いまは皮ばかりになった一つまみの乳房を、死にそうな赤ん坊に吸わせていた。恵みを乞う弱々しい声を聞きつけて出てきた梨華に、女は自分の胸を指さして見せた。
「わたしのこの胸を見てください! 以前は、まるまるとふっくらしていました。この子もふとって神さまのように福々しかったのに!」
そう言って、乳のかれた乳房にしがみついている瀕死の赤ん坊を、じっと見おろした。梨華は、ふところからさっきの卵をとり出し、その女にあたえた。そして、こんなによいものをあたえることができたのを、たいへんうれしく思った。
梨華は、それから後、こういう平和な生活を送って、その生涯を終えた。王虎は二度と彼女を見る機会がなかった。
王商人は、その気にさえなれば、王虎の窮境を救うことくらい、なんでもなかった。事実、彼は穀類を大いにたくわえていたのである。飢饉は多くの人に貧窮をもたらすが、王二やその同類の商人たちには、巨大な富を提供するのである。彼は凶年になりそうな形勢を見てとると、莫大な量の穀物を買い占めて貯蔵しておき、購買力のある金持ちには、ときどきこちらでさだめた高い値段で売りはするが、その上になお小麦粉とか米とかを他の地方から買いこんだ。代理人を近くの他の省まで派遣してそういう品を買いこませるから、彼の多くの倉庫は穀物であふれていた。
彼は前よりもずっと多くの銀を持っていた。買い占めておいた穀物を、ここの金持ち、かしこの市場へと売り込むから、莫大な銀が流れこんでくるのである。その年には、銀をどう始末すればよいか、どうすれば安全にたくわえておけるかと迷ったほど、銀の重荷になやまされた。彼は商人だから土地は入用ではないが、こんな年に彼から借金しようとする農夫は、水びたしになっている土地以外には提供すべき担保がなかった。彼は、危険をおかすのだからと言って、非常な高利で金を貸し、将来とれる収穫を担保にとった。洪水がひいて、ふたたび耕作できるようになれば、その地方一円の収穫全部が王二の倉庫へ流れこんでしまうほど、手きびしい担保をとったのである。けれども、いかに彼の富が莫大なものであるか、だれひとり知らなかった。彼は息子たちにまでこづかい銭に不自由させていた。子供たちの前では不景気そうな顔をして、店や市場で番頭として働かせていた。だから、王虎のところへ行っている長男をのぞけば、息子たちはひとり残らず、早く父が死ねばよいと待っていた。おやじが死んだら、店や市場で働くのをやめ、おやじが着せてくれないりっぱな着物を着たり、歓楽のために金を使ったりしてやろうと、みんなが待ちかまえていたのである。
王二のひどい扱いを恨んでいるのは、その息子たちだけではなかった。付近一帯の農民のなかにも多かった。そのなかのひとりで、王龍の死後、大きな土地を買ったそっ歯の農夫などは、その土地の大部分が水びたしになったので、非常に困り、食糧がなくなって子供が餓死しかけるようになったが、それでも王商人に借りようとはしなかった。彼は、洪水がひくまで、南の都会で乞食でもして待っていようと、一家を連れて南へ去って行った。王商人にわが土地を握らせるよりは、そんな暮らしでも、まだましだと思ったのである。
しかし王商人は自分では正当なことをしていると思っていた。こんな窮乏の時節に借金したり穀物を買ったりするのに、平常どおりの利子や価格を期待するのはまちがいであって、そうでなければ、商人たるもの、どうして儲《もう》ける機会があろうか、と自分でも考えていたし、借りにくる人にはだれにでも公言していた。だから、みずから正当だと信ずること以外のことはけっしてやっていないわけである。
しかし彼は、かなり賢明なところがあった。こんな時節には、人々は正義などということは気にもかけないことも、自分が深く恨まれていることも知っていた。王虎が軍閥であるという事実だけでも自家の安全に相当に寄与していることも知っていた。だから彼は奮発して、王虎に大量の穀物を送ることと巨額の銀を貸すことを約束した。利子も二割以上は取らないことにした。ある日、茶館で三人のあいだでこの交渉が成立したとき、立ち会った王一は、深いため息をついて言った。
「おれも王二のように金があるといいんだがな。じっさいおれは年々貧乏になってゆくばかりだ。王二みたいに商売はやれんし、すこしばかり貸しつけてある金と、すこしばかりしか残っていない親ゆずりの土地しかないのだ。しかし兄弟に金持ちがあるというのは、けっこうなことだな!」
これを聞いて王商人は、ひどくしぶい顔をして、苦笑を禁じえなかった。そして、あからさまに言った。彼は婉曲《えんきょく》な言いまわしや、上品な機知など持ちあわせない男であった。
「わたしにいくらかの財産があるとすれば、それは、働いてかせいだからですよ。子供らは店で働かせるし、絹物はいっさい着せません。それに女といえば女房だけですからね」
王一は近年あまりかんしゃくを起こさなくなっていたが、こう露骨にやられては、がまんできなかった。ふたりの息子の望みにまかせて海岸地方へ行かせるために、残っていた土地の大部分を売却してしまったことを、王二が非難しているのだとわかっているから、しばらくは心のなかでむずむずしていたが、とうとう奮然として言った。
「そうか。おれは信じているよ、親は子を養わねばならぬものだとな。おれは子供らを、おまえよりもいくらか大切に考えている。帳場なぞで貴重な青春の力をむだに過ごさせたくはないのだ。おやじの孫を大切に思えば、みじめな生活を送らせていいはずはあるまい。おれの子供らを養うのは、おれの義務だ。そう思っている。ただし、おれの子を貴公子のようにさせておくのが、おれの義務かどうか、それは知らんがね」
彼は、それっきり言葉がつづけられなかった。このごろは、しわがれた咳《せき》が、たえず彼をなやますのである。いまも、それが胸から猛烈にこみあげてきて彼を苦しめた。しばらく言葉が出ないので、ただすわって憤慨していた。目は、ふとった両頬のあいだに奥深くくぼみ、厚いくびすじには、しだいに血がのぼってきた。王二のほうは、やせてしなびた頬に、かすかな微笑をうかべていた。あてこすりが兄によく通じたので、もうこれ以上何も言う必要がないのだ。
その交渉が成立したとき、王商人は借用証書をつくるために、いろいろな条件を文書にして、それに王虎の署名を求めた。王虎は、たけり立った。
「なんですって――兄弟の間柄じゃありませんか」
すると王商人は弁解するように言った。「わしひとりの心おぼえのためだ――わしは、このごろひどく忘れっぽくなったのでな」
そうして筆をつきつけるので、王虎も、やむなく署名しないわけにはいかなかった。王二は、まだ笑いながら言った。
「印章も持っているだろうね」
王虎は、つねに皮帯につけて持っている大きな石印を取り出して証書におさないわけにはいかなかった。それがすむと、王商人は書類を受けとって、ていねいにたたみ、腰の袋にしまいこんだ。それを見守っていた王虎は、ひどくしゃくにさわってきた。必要なものを手に入れることはできたが、早くどうにかして領地をひろめて、二度とふたたび兄の世話にはなるまい、と心のなかで誓った。この数年間をむなしく過ごしたことが、かぎりなく残念であった。
けれども、兄のおかげで王虎は、さしあたり部下に給養をあたえることができるのである。彼は、わが子や護衛兵たちに出発の準備をはじめさせた。もうかなり春が近づいて、洪水はぐんぐんひいていった。いたるところで農民は水面からあらわれた畑に新しい種子をまくのに忙しかった。だれもかれも、悲惨だった冬や、死んだ人のことは忘れて、ふたたび希望を春にかけていたのである。
王虎もまた前途の希望が新しくよみがえるのを感じて、兄たちに告別の言葉を述べた。兄たちは彼のために送別の宴を張ってくれた。宴が終わると、王虎は父祖の霊牌《れいはい》を祀ってある小楼《しょうろう》にのぼって線香をともした。息子にも線香をあげさせた。濃い香煙が、ゆるく立ちのぼるなかで、王虎は父祖の霊に頭をさげた。わが子にも礼拝させた。礼拝しているわが子の勇ましい姿を見守っているうちに、王虎は胸のうちに、よろこばしい誇りが強くわきおこるのを感じた。そして、父祖の霊たちがそこにあらわれて、そば近く寄りあい、自分らの血統から、こんなすぐれた人間が生まれたことを嘆賞しているような気がした。そして、王氏の一族のなかにあって、自分もまた、なすべきことを果たしたのだと考えた。
出発の準備は、残りなくととのった。香炉のなかの線香は灰になった。王虎は馬にまたがった。息子も馬に乗った。そして護衛隊を引きつれて、いまはすっかり水がひいて乾いている大地を、彼ら自身の根拠地へと馬を駆《か》った。
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二十八
王虎《ワンホウ》の息子が満十五歳になった春、わが子のために雇っておいた軍事教官が、ある日、王虎がひとりで庭を散歩しているところへきて言った。
「将軍閣下、わたしは小将軍にわたしが教えられることは全部教えてしまいました。これからあとは、軍官学校へ行って、おおぜいの同僚たちといっしょに軍事学を学ばれる必要があります」
王虎は今日あるを予期してはいたが、十年あまりの歳月が手をひるがえすうちに過ぎてしまったように感じた。彼は庭へくるようにとわが子を呼びにやると、急に老《ふ》けて疲れが出たような気がして、庭のネズの木の下にある石に腰をかけて、わが子を待った。やがて少年は庭と庭とのあいだの円形の門をくぐって、ややゆっくりした力強い歩調であらわれた。王虎は、いまさらのようにわが子を見た。まったく少年は大人くらいの背たけがあり、顔には精悍《せいかん》な曲線が出ており、口をきりりと結んでいた。もう子供の顔ではなくて、りっぱに大人の顔である。
王虎は、このひとり息子の顔をつくづくながめているうちに、かつてこの子の成人するのが待ち遠しくてならず、赤ん坊の時期が無限につづくのではないかと思ったことを、一種ふしぎな気持ちで回想するのであった。それが今日になれば、赤ん坊の時期から一足飛びに若々しい大人の時代に飛びこんだような気がする。王虎は嘆息して考えに沈んだ。
(その学校が南方でないといいのだが――あんな小柄な南方人といっしょに勉強させたくはないのだが――)
そばに立って上くちびるにはえている短いまばらなひげを引っぱっている教官に向かって、王虎はきいた。
「やはりその学校へ留学させたほうがよいと思うかね」
教官はうなずいて賛成の意味をあらわした。王虎は、つらそうに少年をみつめていたが、とうとうたずねた。
「そしておまえも行きたいだろうな」
いったい、王虎がわが子の意見を問うことは、きわめてまれであった。わが子のためになすべきことは自分が一ばんよく心得ていると信じていたからである。しかしこのときは、子供が行きたくないと言いはしまいか、言ったらそれを口実に行かせずにすむ、というかすかな希望をいだいていたのであった。しかし少年は、ネズの下に咲いている一群の白百合《しらゆり》を見ていた目を、すばやく上に向けて、父の顔を見て答えた。
「行くのでしたら行きますが、ほかの学校へ行けたら、たいへんうれしいです」
この返事は王虎にはおもしろくなかった。彼は太い眉《まゆ》を寄せ、ひげを引っぱりながら、気むずかしげに言った。
「軍官学校よりほかに、おまえの行くべき学校があるか。軍閥にならなければならんものが、本ばかり読んで、なんの役に立つのか」
少年は低い声で、つつましやかに答えた。「人から聞いたのですが、このごろは畑の耕作法や農業に関するいろいろなことを教える学校があるそうです」
王虎は、こんなばかばかしいことを聞いて驚いた。そんな学校があるとは、聞いたこともなかった。にわかに彼は、どなりだした。
「そんな学校があるとすれば、じつに、たわけたことだ! そうか、このごろの百姓は耕したり種子をまいたり刈り入れたりすることを学校で習うというのか。よくおぼえているが、おれの父は言ったものだ。百姓は習うことはいらん、隣の人のやることを見ていればたくさんだ、とな!」それから王虎は、きびしく冷淡につけ加えた。「しかし、そんなことが、おれやおまえに、なんの関係があるのだ。おれたちは軍閥だ。おまえは軍官学校へ行かねばならん。ほかの学校へはけっしてやらぬ。いやなら、ここにいて、おれの軍隊をうけつぐがよい」
息子は嘆息をもらした。そして、すこししょんぼりした。父がどなりつけると、いつもそうなるのである。そして、ふしぎなほどの辛抱強さで、静かに答えた。
「それでは軍官学校へまいります」
この辛抱強い態度が、どことなく王虎には不満なのである。彼は、ひげをしごいてわが子をながめた。もっと思ったことをどんどん遠慮なく言えばよいのに、と思った。しかし同時に、わが子が胸のうちにあることを自由に言うのを聞いたら、自分はさぞ怒るであろう、とも気がついていた。むしゃくしゃして彼はどなった。
「旅行の準備をしなさい。あす、出発だ!」
少年は教官から教えられたとおりに敬礼し、一言も言わず回れ右をして父の面前から去った。
その夜、部屋にひとりですわっているうちに、王虎は、わが子をそんな遠くへ手離すことを考えると、一種の恐怖が心を襲ってくるのを感じた。南方人はずるくて信頼しがたい。わが子の上にどんなことが起こるかわからない。そこで彼は腹心のみつ口を従兵に呼ばせた。そして、その醜怪だが忠実な面貌《めんぼう》をながめながら、主人が家来に言うようにではなく、なかば頼むような口調で言った。
「おれのたったひとりしかないあの子が、あす、軍官学校へ行くことになっている。軍事教官が行くが、彼は長年外国に留学していた男だ。どうして心の底までその人物がわかろう。目は眼鏡でかくれているし、口はひげでかくされている。おれの息子を、あの教官だけにまかせるとなると、心もとない。なあ、おまえもいっしょに行ってくれぬか。おれはおまえを知っている。おまえほどよくおれが知っている人間はいない。おまえはおれが貧乏で孤立無援のときにおれを助けてくれた。そして、おれが強大になったいまと同じように昔も忠実だった。おれの息子は、おれの一ばん大切な宝なのだ。おれのかわりについて行って監督してくれ」
すると意外なことが起こった。王虎のこの言葉を聞くと、みつ口は頑強に反対したのである。言葉が歯のあいだからもれて、ひゅうひゅうと鳴るほど熱心に反対したのであった。
「将軍、わたしはこのご命令だけは従えません。わたしはおそばにとどまります。小将軍が留学なさるなら、わたしが信頼できる若くない部下を五十名選んでお伴させましょう。彼らの任務は、わたしがよく教えておきます。しかし、わたしはあなたのところを離れません。あなたは忠実な人間が身近にいることがいかに大切か、ご存じないのです。これだけの大きな軍隊になりますと、かならず内部に不満があり、暗闘があり、憤慨しているものもあれば、他のよりよい将軍のうわさをしているものもあります。南方になんだかふしぎな戦争が起こりかけているという奇怪な流言が、さかんに飛んでいるさいですから、わたしはここを去りません」
王虎も頑固に答えた。
「おまえは自分をあまり買いかぶっている。おまえがいなくてもまだ豚殺しがいるではないか」
すると、みつ口は非常に軽蔑する態度になった。興奮しているので、醜い顔が、おそろしいほどゆがんだ。
「あの――あのばかですか。そうです、あの男は飛んでいるハエを打つのは名人です。わたしがだれを、いつ打てと命令すれば、大きなげんこで一発くらわせることができます。しかし、じつに目はしがききません。これを見るのだと言われなければ、あいつは、なんにも見えないのですからね」
みつ口は断固としてゆずらなかった。ほかの人間が命令を拒否すれば、けっして容赦しない王虎だが、彼の反抗だけは辛抱して、何度も懇願した。
「よろしいです。そんならわたしは自殺します。よろしいです。ここに剣もあり咽喉《のど》もありますから」
けっきょく、こんな頑固な男には譲歩しないわけにはいかない。王虎も命令を引っこめることにした。すると、みつ口は、一瞬間前までは悲しんで自殺するなどと言っていたのが、急に元気になった。そして駆け出して行って、その夜のうちに、寝ている部下のなかから五十人を選んでたたき起こし、営庭に整列させた。彼らが寝ぼけて、あくびをしたり、寒い春の夜の空気にふるえたりしているのを、みつ口は、さんざんののしって、裂けたくちびるから大きな声を出して命令した。
「いいか、小将軍の歯が痛んでも貴様らの責任だぞ。この死にぞこないめ! 貴様らの職務は小将軍の行かれるところへは、どこへでもついて行って警護することだけだ。夜は小将軍の寝台のまわりに寝るんだぞ。そして昼間は、何者をも信用するな。何者の命令もきくな。いや、小将軍の命令もきくにおよばん。もし小将軍がわがままを言うて、貴様らがいるとうるさいからどこかへ行けと言われたら、こう答えろ。『われわれは、あなたの父上、老将軍の命令をきくだけです。老将軍がわれわれに給料をくださるのです。だから老将軍にだけ服従すればいいのです』とな。そうだ、貴様らは小将軍の意志に反してでも警護するのだぞ」そしてみつ口は五十人の部下にたいして、彼らの責任がいかに重大であるかを銘記させるために、さんざんにののしって、すっかりおどかしてしまった。それから最後に言った。「そのかわりおまえらが忠実に職務を果たしたら、十分に褒美《ほうび》をやる。われらの老将軍ほど寛大な方はほかにはいないのだからな。おれがおまえらのためにお願いしてやる」
兵士たちは大きな声で、任務を完遂することを誓約した。王虎将軍にもっとも信頼され接近しているのは、彼の息子をのぞけば、この腹心たるみつ口であることを彼らは知っているからである。それに、じつをいうと、知らぬ土地へ行って珍しいものが見られることも彼らにはうれしかったのだ。
翌朝になると、王虎は眠られずに過ごした寝床を出て、わが子を出発させた。そして別れるに忍びず途中まで見送った。けれども、それはほんのひとときの気休めで、いよいよというときを若干引きのばすだけにすぎなかった。しばらく息子と馬をならべて進んだとき、王虎は手綱をとめて、ふいに言った。
「なあ、古人の句があるな。友われを送って伴うこと三千里、ついに一別あり。わしにしても同じだ。さらばじゃ!」
王虎は馬上に厳然と姿勢を正した。そして息子の敬礼を受けた。それから、わが子がふたたび馬にまたがり、五十人の部下と軍事教官をひきいて離れ去るのを見送っていた。やがて馬首をめぐらして、もうわが子のほうをふりかえろうとはせず、からっぽになったような気のするわが家へと帰った。
三日間、王虎は悲しみたいだけ悲しみに沈んだ。使者としてわが子といっしょに送った部下のものが報告にくるまでは、何事にも手をつける気にならないし、何事も考えられなかったのである。使者は、三、四時間おきに、途上のいろいろな場所から、それぞれの報告をもたらしてきた。ひとりの使者は言った。
「小将軍さまは元気です。いつもよりも快活なくらいです。二度ほど馬から降りて百姓のいる畑のところへ歩いて行かれて話をなさいました」
「百姓などと、何を話したのか」と、驚いて王虎はきいた。
すると使者は記憶していることを忠実に報告した。
「小将軍さまは、何をまいているのか、ときかれて、種子をごらんになりました。また牛に黎《すき》をつけるところをごらんになりました。護衛隊の人々は、おもしろがって笑いましたが、小将軍さまは気にもとめられず、いつまでもじっとながめておられました」
王虎は不審にたえないで、ひとりごとのように言った。「軍の首領となるものが、牛に黎をつけるところとか、種子は何かなどということを見たがってなんになるのか!」
しばらくたって、いらいらしてきいた。
「もう報告することはないか」
使者は、ちょっと考えてから言った。「その晩、宿屋へ泊まりました。小将軍さまは、まんじゅうと、肉と、米飯と、魚とを、おいしそうに召しあがり、小さな杯《さかずき》で酒を一杯お飲みになりました。わたしはそこでお別れして報告に帰ったのであります」
ひきつづいて使者がくる。小将軍が何をしたか、何を飲み食いしたかを報告するのである。三日目の終わりに、少年は船に乗るところへ着いた。それからは長江を下って海に出るのである。その日からは手紙を待つよりほかはなかった。使者もそこからさきへはついてゆけないからである。
わが子のいなくなったさびしさに王虎が耐えてゆけるかどうかは、王虎自身にもわからなかった。けれども、二つの事件が起こって、彼の心を散じさせ、まぎれさせた。一つは、南方から帰ったスパイどもが、奇怪な情報をもたらしたことである。
「非常にふしぎな戦争が南方で起ころうとしているらしいです。それは、いままでのような軍閥と軍閥のあいだの戦争ではなく、一種の現状打破、革命の戦争だそうです」
王虎は、すこしばかにしたように答えた。このごろ彼は、機嫌が悪かった。
「それは何もめずらしいことじゃない。おれも若かったころ、革命戦争ということを聞いて、りっぱなことだと思って参加して戦ったものだ。ところが、けっきょくは、ただの戦争だった。軍閥たちが一時連合して帝政を倒したが、成功すると、また四分五裂になってしまった」
王虎がそう言ったにもかかわらず、帰ってくるスパイは、みんな同じ話をした。
「いいえ、どうも変わった戦争のようです。国民軍と呼ばれて国民全体のための戦争だと申しております」
「どうして人民どもが戦えるのか」と、王虎は眉をよせて、おろかなスパイどもをしかった。「彼らが小銃を持っているか。棍棒や、板切れや、熊手《くまで》や、鎌で戦争がやれるつもりなのか」そしてぎらぎらした目でスパイたちをにらみすえたので、彼らはちぢみあがって、咳《せき》をしたり、おたがいに顔を見合わせたりした。最後にひとりが、けんそんに答えた。「われわれは聞いたことを申しあげるだけでございます」
すると王虎は、おうように彼らを許した。
「そうじゃ。それがおまえたちの任務だ。しかし、くだらんことを聞いてきたものだな」
彼は自分の前からスパイたちを去らせた。それにしても、彼らの言ったことをすっかり忘れてしまうわけにはいかなかった。どんな戦争が起こるか、その真相をよく見守る必要があると思ったのである。
けれども、そのことをあまり考えるひまもないうちに、もう一つの事件が領土内に起こって、彼の心に襲いかかり、ほかの考えを、みな追い払ってしまった。
夏が近づいてきた。人間の頭上をおおっている天ほど変わりやすいものはない。去年とは、うって変わった美しい夏であった。晴雨よく調和し、洪水はひいて、あとには肥沃な耕地が残った。そして、いたるところで、農民は、あるかぎりの種子を集めて、陽光をあびて水蒸気を立て、はあはあ息づいているような、温かい土にそれをまいていた。生命は土のなかからほとばしり、ゆたかな収穫が、すべての人に約束されていた。
しかし収穫の時期を待っているあいだにも、やはり飢えていなければならない人が多かった。その夏には王虎の領内にも、これまでにない悪性の匪賊がはびこった。じつに、王虎が大軍を養っているこの地方においてさえも、やけくそになって、匪賊団を結成し、王虎を無視する人間があったのである。しかも、王虎が軍隊を派遣して捜索させると、かげも見せないのだ。出没自在、まるで幽霊の一団に似ていた。スパイは、しきりと被害を知らせに駆けもどってくる。
「きのう匪賊は北にあらわれて秦《チイン》家の屋敷を焼きました」あるいはまた、こんなことも報告した。「三日前に一隊の匪賊が商人たちを襲って、みな殺しにして阿片や絹をうばいました」
こんな不法行為が行なわれているのを聞いて、王虎は大いに怒った。ことに彼が怒ったのは、王二にたいする借金を早くかえしたいのに、その財源たる商人からの税収入を匪賊どもにかすめ取られるからであった。彼は自分の手で匪賊の首をはねてやりたいとまで思った。そこで彼は営庭に突っ立ち、大声で部隊長を召集し、それぞれ部下をひきいて全領土に出動するよう命じた。そして匪賊の首一個とってきたものには銀一元の賞金をあたえることにした。
その賞金ほしさに匪賊を捕えに勇躍出動した部隊は、しかしひとりの匪賊も発見できなかった。それも当然であって、これらの匪賊は、その大部分が、ふつうの農民であり、軍隊に追及されないときだけ出現するのである。彼らは軍隊のくるのを見ると、畑で土を掘ったり草を取ったりしていて、いかに彼らが匪賊団に苦しめられたかを兵士たちに哀訴する。ただし、けっして自分らのことは言わなかった。ほかの匪賊団のことばかり訴えるのである。もしほかのだれかが彼らのことをばらそうとすると、ぽかんとばかづらをして、そんな匪賊のことは、聞いたことも見たこともない、と、|しら《ヽヽ》をきる。しかし王虎が賞金を約束したために、欲の深い部下のうちには、手あたりしだいに農民を殺し、その首を匪賊のだと言って持ってくるものもあった。こんなわけで、罪なくして殺されたものも、たくさんあったわけである。けれども、みな黙っていた。王虎が軍隊を出動させたのは、りっぱな合法的な名目によってであることを知っているし、またうっかり不平を言うと、兵士に目をつけられたり彼らの感情をそこねたりして、ここにも首があるなと思われて銀一元にされてはかなわないからである。
真夏となり、コウリャンが人の背たけよりも高くのびてくるころになると、火がぱっと燃えあがるように、急に方々に匪賊があらわれる。この数年間出動したことのない王虎は、非常に憤慨して、ある日、みずから匪賊の討伐に出動した。ある村に小さな匪賊団がいると聞いて、スパイに偵察させると、その村民全体が、昼間は農夫をしていて、夜になると匪賊になるという事実が明らかになったからである。それらの村民たちの土地は、非常に低くて、一つの大きな窪地《くぼち》をなしているので、ほかよりも播種がおくれ、去年の冬から今年の春まで餓死をまぬがれてきた人々も、いまだに食糧にありつけないようなありさまだったからかもしれない。
王虎は、その村の人々が、夜になると他の村々へ行き、食糧をうばい、抵抗するものを殺すという凶悪な行動の確証を握ると、大いに激怒して、みずから部下を引き連れてその村へ行き、部下に命じて村を包囲させ、ひとりも逃げられぬようにかためさせた。それから、他の部下とともに村のなかへ突入して、村民をひとり残らずしばりあげた。老若あわせて百七十三人であった。彼らを縄でしばりあげてしまうと、王虎は彼らを村長の家の前の広い穀物乾し場に連れてこさせ、馬上からにらみすえた。彼らのなかには、泣いてふるえているものもあった。顔が土気色に変じたものもある。しかし、なかには、やけになって平然としぶい顔をしているものもある。ただ老人たちだけは、冷静であった。運命に忍従しているのである。もう年老いているから、殺されることをあきらめているのだ。
目前の匪賊どもをにらみまわしているうちに、王虎は殺意が消えてゆくのを感じた。彼は以前のように、容赦なく人を殺せなくなっていた。そうだ、あの六人の兵士を殺したときのわが子の目つきを見てからというもの、人知れず、しだいに気が弱くなってきたのだ。その弱気をかくすために、彼は例の太い眉を寄せ、口をすぼめ、すごい声でどなりつけた。
「貴様らは死罪に相当する! ひとり残らずな! 長年のあいだおれの領内には盗賊を許さなかったのを知らんのか。だが、おれは、なさけを知る人間だ。貴様らの年とった親や幼い子供たちのことを思いやって、今度だけは殺さないでおいてやる。このつぎ、おれの言うことをきかずに盗みをしたら、そのときこそ、かならず死刑にするぞ!」それから村人をとりかこんでいる部下に命じた。
「おれがいま言ったことを、いつまでも記憶させるいましめとして、剣をといで、こいつらの耳をそぎ落としてしまえ!」
兵士たちは進み出て、靴の底皮で剣をとぎ、匪賊どもの耳を切りとって、王虎の前の地面に積みあげた。王虎は匪賊どもを見た。どの人間の頬にも二条の血の流れが走りくだっている。彼は冷ややかに言った。
「この耳のことを、よくおぼえておけ!」
そして馬首をめぐらして馳《は》せ去った。馬を走らせてゆくあいだに、王虎の胸のうちには、あの匪賊どもをきれいさっぱりと殺して、わが領内を清め、他のものへの見せしめにしたほうがよかったのではないかという疑いがわいた。そしてまた、こんな寛大すぎる処置をとったのは、自分が年をとって、やきがまわったせいではなかろうかという懸念がきざしてきた。しかし、こうも思ってみずからなぐさめた。
(彼らの生命を助けたのは、わが子のためなんだ。今度あの子に会ったら、おまえのために百七十三人の生命を助けたと話してやろう。さぞあの子はよろこぶことだろう)
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二十九
こんなふうにして王虎《ワンホウ》はわが子の去ったあとの孤独と空虚とをまぎらせていた。領内の匪賊も平定することができ、収穫期がきて民衆も食えるようになって、王虎も、ほっとしたところで、その秋、吹く風もまだ寒からず、照る日の光ももう暑くないころを見はからって、彼は一隊の人馬をひきいて、領内の巡視を行なった。いまにわが子がもどってくるから、領内の秩序をよく維持しておこうと思ったのである。いま王虎は、わが子が留学から帰ってきたら、この地方の軍隊の指揮権をゆずり、巨大な軍隊を引き渡し、自分は少数の護衛隊だけつれて隠居しようと計画していた。そのとき彼は五十五歳になるであろう。息子は二十歳で、一人前の大人になるであろう。
こんな夢想をしながら、領内を見まわった。心の目では、わが子の末の末まで見通し、そとの目では、人民と土地を見、収穫はどんな成績か、どのくらいの税収入があるだろうかと、よく注意しているのであった。洪水の去ったあと、土地の人も、二年にわたる凶作の影を、なおとどめてはいるが、しかし着々と回復の緒《ちょ》についていた。土地はまだ十分みのりを生むまでにはいたっていないし、人はまだ頬がこけ、老人と赤ん坊は、ほとんど見当たらなかった。けれども生気はふたたび一面にあふれはじめた。妊娠している女も多いようだ。そうした光景を見ると、王虎はよろこんで、心のうちで思いふけった。
(あの飢饉は、ありがたいことに、天がおれを天命にめざめさせるために送ってくれたのであろう。近年おれは、あまりに安逸《あんいつ》をむさぼりすぎた。現状に満足しすぎていた。あの飢饉は、おれを奮い立たせるために送られたのであろう。後継者として、あんなりっぱなせがれがいるのだから、おれはもっと偉大な功績を立てねばならないのだ)
彼の老父は生前、素朴《そぼく》で土の神を信じていたが、王虎はもっと聡明で、そんなものは信じていなかった。けれども王虎も運命と天とは信じていた。自分の身にふりかかるこんな事柄も、けっして偶然によるのではなく、生きるのも死ぬのも、みな天意であり、天命であると信じていたのである。
晩秋九月の日に、王虎は、勇み立っている部隊の先頭に立って馬を進めて行った。いたるところで彼は多少の歓迎を受けた。彼が長年にわたって公平な統治をしてきた権力者であることを、だれもが認めていたからである。彼らは微笑をうかべて彼を迎えた。彼が泊まるところでは、町や村の有志が酒宴を張った。ただ、いんぎんでなかったのは、田畑で働いている農民だけであった。多くの農夫たちは、軍隊のくるのを見ると、街道に背中を向けて、むちゃくちゃに仕事をつづけ、通り過ぎてしまうと、うっぷんを晴らすために、さかんにつばをはいた。兵士のうちのだれかが、なぜつばをはくか、と怒って詰問すると、きょとんとした、ばかのような顔つきをして、こんなことを言った。
「いまたくさんの馬が通ったでな、口じゅうほこりだらけになったからですわい」
しかし王虎は、町でも村でもだれにも注意を払わなかった。
この巡視の旅の途中で、王虎は彼がかつて攻囲した県城へきた。この数年来、甥《おい》のあばたが彼の代理として警備司令官をしている都市である。王虎はまず、あばたに使者を送って、彼の来着を知らせた。そして、この県城が甥の支配のもとで、どんな状態になっているかと、鋭く目を四方にくばりながら入城した。
あばたも、いまは青年ではない。一人前の男になって、絹製造者の娘であった妻とのあいだに子供が一、二人生まれている。彼は、叔父がやってくる、城内まできたと聞くと、大あわてにあわてた。というのは、この男はここで長年平和な生活を送り、じつにのどかに暮らしてきたので、自分が軍人であることさえ、ほとんど忘れていたからである。彼は、いつも陽気で、気さくで、遊び好きで、新しいもの好きであった。彼は自分の生活が気に入っていた。なぜなら、この城内第一の権力を持っているから、人々は彼を尊敬するし、税金を受けとる以外には、あまりたいした仕事もなかったからだ。それで、すこし肥満してきた。近年は軍服さえぬいでしまって、ゆるやかな長衫《チャンサ》ばかり着ているので、裕福な商人といった風采である。
事実、彼は城内の商人たちと、きわめて親密だった。商人たちが王虎への税金をあばたに渡すと、あばたは、すこしうわまえをはねた。それも商人らしいやり口である。それから、ときどき叔父の名をかたって自分で何か新税を取り立てたりした。しかし商人たちは、そんなことに気がついても、だれも彼をとがめだてはしなかった。だれだって、彼の位置についていれば、そうするだろうと承知しているからである。彼らは、あばたが好きで、ときどき贈り物をした。そうすれば、あばたが叔父のほうへうまくとりなしてくれて、あまりひどい目にあわないですむだろうとの下心である。
それゆえ、彼の生活は、ほがらかであった。彼は、あまり道楽者でもないから、妻とも仲がよかった。だれか友人が特別盛大な宴会を開いて、美しい歌妓《かぎ》が興をそえるという晩でもなければ、めったに家の閨房《けいぼう》から誘い出されることはなかった。そういう宴会へは、ちょいちょい招かれたが、それは一つには地位が地位だからでもあるが、一つには彼の人柄のためでもあった。彼はじつに頓知《とんち》のきくおどけ者で、当意即妙の舌を持っていたから、人を笑いころげさせるのである。ことに、すこし酔ってくると、おもしろい言葉が口をついて出てくるのである。
彼は、叔父が来着すると聞くと、あわてて妻に、どこかの箱へつっこんでおいた軍服をさがし出させた。そして部下の兵士に召集を命じた。この部下たちも、あまり安楽な生活を送っていたので、兵士というよりは、彼の下男のようなかっこうになっていた。彼は、ふとった足をズボンに入れながら、よくもこんな窮屈な軍服をしんぼうして着た時代があったものだと感心した。彼の腹もまた青年時代よりはずっと太くなっていて、上着の前が合わないので、腹にひろい帯をまいてごまかすことにした。それでも、ともかく軍服をつけた。部下も、ともかく整列した。そうして一同は王虎の入城を待った。
二、三日で王虎は城内のようすをすっかり見てとった。商人たちが自分と警備司令官のために設けてくれた豪奢な宴会の意味もわかった。また彼は、甥が軍服を苦しがって汗をかいていることもよく知っていた。ある日、風がなくて、陽光がひどく暑いので、あばたは、がまんできずに広い帯をといた。すると、軍服の前がはだけているのが見えた。王虎は、冷ややかに考えた。
(おれの兄貴の子だから、こいつも、つまるところ商人なのだ。ありがたいことに、おれの子はこんなのではない。あれがりっぱな貴公子であるのがうれしい!)
そして、あばたを相手にせず、ほめもしなかった。ただ冷淡に言った。
「おまえが、おれのかわりに訓練してくれている兵隊は、鉄砲の操作も忘れてしまったようだな。どうも、もう一度戦争をさせる必要があるようだ。来年になったら、おまえが先頭に立って指揮をして、あいつらを戦争にふれさせるようにしてはどうかね」
それを聞くと、あばたは、へどもどして汗をかいた。じっさい彼は臆病ものではないし、いったんさだめた軍人の道をつづけていれば、戦争もできるであろうが、部下を指導したり威服させたりできるがらではなかった。それに現在の生活が好きでたまらないのである。王虎は彼の当惑するのを、例のとおり声を立てずに笑っていたが、とつぜん剣のつかをたたいて雷のような声を出した。
「よし! おまえも暮らしが楽だし、城内も裕福だから、税金をあげてもいいな! おれもせがれのために費用がかかるのだ。南方へ留学させてあるし、あれの帰るまでに、あれこれ用意しておいてやりたい。おまえにも、すこし犠牲になってもらって、ここの税金を二倍にしよう!」
ところが、もし老将軍が税金をあげようとしたら、町が貧乏だとか不景気だとか泣きごとを言って、老将軍にあきらめさせてほしい、それに成功すれば相当な金額をさしあげるという密約が、すでに商人たちとのあいだに、できていたのである。だから彼は泣き声になって叔父の心をひるがえさせようとした。しかし、どんなに哀願しても、叔父は動かされなかった。叔父は、ついに荒々しく言いはなった。
「おれはこの町の情勢をよく知っている。おれにそむく道は鷹《イン》のやった道ばかりではないと見る。しかし、おれのやる根本療法は、いつも同じだ!」
莫大な銀をとりにがしたので、しょげきった顔をしたあばたは、このことを商人たちに報告した。彼らは代表を選んで王虎に陳情した。
「税金は閣下にさしあげるものばかりではございません。市税もあり、省税もあります。閣下にさしあげるものが、いまでは一ばん高くなっております。これでは、どんな営業をいたしましても利益がございません」
王虎は丁重な言葉であいさつしてから、剣の威力を示すべきときがきたと見てとって、ぶっきらぼうに言った。「そうだ。しかし、わしには権力がある。ていねいにお頼みしてもいかんとなれば武力でちょうだいするだけだ」
こんなぐあいにして王虎は甥《おい》を懲らしめて、またその地位にすわらせ、また同じようにして、その県城および彼の全領土にたいする支配力を確保したのであった。
全領土が確保され、治安が維持されるのを見とどけると、彼は、わが屋敷へ帰り、冬の終わるのを待った。そうするうちに、来春になったら大規模な征服戦をはじめようとの夢想がわいてきて、四方ヘスパイを放ったり、いろいろ作戦計画を練ったりするのに毎日忙しくなった。そして年こそ老いてきたが、まだこの全省をわが手におさめて、わが子にゆずることぐらいは多分できるであろう、と空想に心をおどらせるのであった。
まったく、その長い冬のあいだじゅう、その夢想にばかり王虎はとりすがっていたのだ。しかし、じつにさびしい冬だった。あまりさびしいので、ときどき、ついわれを忘れて、女たちのいる後房へ行きかけたほどだった。けれども、そこへ行ったところでしかたがない。学問のない妻とその娘たちがいるばかりで、何も彼らに話すことはなかった。だから、ひとりで、憂鬱そうにすわっているだけで、自分と彼らとはなんの関係もないと思っていた。
ときどき彼は、学問のあるほうの妻はどうしているだろう、と考えた。彼女は娘を海岸のほうの学校へ入学させるために連れて行って、娘の学校の近くに住みつき、それっきり帰ってこないのである。一度、彼女は娘といっしょに撮った写真を送ってきたことがあった。そのとき王虎は、しばらくそれをながめていた。娘の、美しい、こましゃくれた、小さな顔が、断髪の下から、ほがらかな黒い目をして、画面から大胆にこちらを見ていた。王虎は、どうしてもわが娘とは思えなかった。彼女はきっと、近代的とかいうおしゃべりな、陽気な少女のひとりなのであろうと思って、唖《おし》みたいにながめていた。それから学問のある妻を見た。まったく彼は、この妻のことは何も知っていなかった。夜、彼女をおとずれた当時でさえ、ぜんぜん知ってはいなかった。彼は娘よりも妻のほうを長くながめていた。写真のなかから彼女は彼を見かえしていた。いつも妻の前にいるときに感じた不安を、ふたたび味わった。彼の聞きたくないことを言い出しそうだ。彼のあたえたくないものを要求しているようだ。写真を目に見えないところへ押しやって、彼はひとりでつぶやいた。
(人間は一生のあいだに、そうなんでもするほどひまがあるものではない――おれは忙しかったのだ――女のことに使う時間がなかったのだ)
彼は、みずから気を引き立てて、この幾年ものあいだ、妻たちにすら近づかなかったのは、自分の一つの美徳であると思った。彼は、すこしも彼女たちを愛していなかったのである。
もっともさびしい時間は、火鉢《ひばち》のそばに、ただひとりすわっているときであった。日中はなんとか忙しく時間を過ごすことができる。しかし、また夜がやってくる。かつて彼が過去においてしみじみ味わったように、夜は暗く悲しく彼の心におおいかぶさってくるのであった。そんなときには彼は自分自身を疑い、自分が老いこんでしまって、来春になっても、なんら新規の大征戦が実現できないのではないかと思った。そして痛ましい微笑を火鉢の炭火に向け、あごひげをかみながら、悲しげに考えこんだ。
(だれだって、自分がしようと思ったことを、しとげるものはないのだろう)しばらくたつと、またこうも考える。(人間は、子供が生まれると、三代さきのことまで自分の生涯にやろうとして、いろいろ計画を立てるものかもしれぬ)
そこには王虎の古い腹心のみつ口がいて、いまでも絶えず老主人の身のまわりのことに心をくばっていた。王虎が日中、部下の訓練に興味をうしなって、彼らを気ままに遊ばしておいたり、夜、火鉢の火にかがみこんで、くよくよと思いわずらっているのを見ると、この老いた腹心は、あまりものを言わずに、一瓶《ひとびん》の熱い上酒と、酒をおいしくさせる塩のきいた肉とを持って部屋へはいってきて、彼の気持ちが楽になるように、あれこれとこまかなことに気をつかうのであった。すると王虎は物思いからさめて、すこし酒を飲む。杯《さかずき》をかさねているうちに心地よくなって、よく眠れる。こうして飲んだときは、眠る前に考える。
(まあいいさ。おれにはりっぱな息子がある。おれが生涯にできなかったことは、あの子がやってくれる)
その冬、王虎は自分で気がつかぬまに、酒量が非常に進んだ。そのことは王虎を愛するみつ口にとっては、たいへんうれしいことであった。たまに王虎が酒杯に手をふれないでいると、もう老人になっているみつ口は、王虎をなだめすかすように、熱心にすすめるのであった。
「召しあがれ、将軍さま。人は、だれでも年をとってきますと、楽をしたり、楽しんだりしなければならんもんです」
すると王虎は、みつ口の忠告を尊重していることを示して彼をよろこばせるために、酒杯をとりあげる。こうして気が休まるので、このさびしい冬の夜でも熟睡することができた。そして酔ってくると、彼は、わが子と自分とのあいだに性格の相違があるということも忘れてしまって、ただひたすらにわが子に熱烈な希望をかけるのであった。そういう日には、わが子の夢は自分の夢とは同じでないかもしれないなどという考えは、すこしも王虎の心にうかんでこなかった。こうして彼は、たちかえってくる新春を待っていた。
まだ春にならない一夜であった。王虎は自分の居間で、こころよい酔いがまわって温かく、なかば夢ごこちで、椅子によりかかっていた。酒杯は、すぐそばのテーブルで冷えていた。彼の長剣は腰からはずされて、酒瓶《さかびん》のわきに立てかけてあった。
とつぜん冬の夜の静寂を破って、馬蹄《ばてい》のひびきがとどろき、兵士どもが乱入して門内で停止する足音が聞こえた。どの部隊だろう、あるいは自分は夢を見ているのだろうか、と疑いながら、王虎は椅子の腕に手をかけて、なかば立ちあがった。立ってしまわないうちに、だれかが駆けこんできて、うれしそうに叫んだ。
「ご令息の小将軍さまのお帰りです!」
その晩は寒かったので、酒量をすごした王虎は、急には頭がはっきりしなかった。手で口をぬぐってから、つぶやいた。
(敵の襲撃だと夢のなかで思っていたが)
それから、やっと骨折って睡魔を払いのけて立ちあがり、大きな門から庭へ出た。そこは、おおぜいの人々が手に手にタイマツをふりかざしているから、昼のように明るかった。その光のまんなかに愛するわが子の姿が見えた。青年は馬から降りて、しばらく立って待っていた。父の姿を見ると頭をさげたが、そのとき彼は、一種異様な、なかば敵意のこもったような視線を父に投げた。王虎は寒さに外套《がいとう》のえりをかきあわせ、すこしためらってから、驚いたような調子で、わが子にきいた。
「おまえの教官はどこにいるのだ――どうして帰ってきたのだ」
青年は、ほとんどくちびるを動かさないで答えた。
「わたしたちは離れました。わたしはあの人と別れたのです」
それを聞くと、王虎は酔っていたのがいくらかはっきりしてきて、何か事件があったのだな、とさとった。兵隊たちが、まわりに集まっていた。けんかならばいつでも見物しようと待ちかまえている、こんな連中の前では、うっかりしたことは言えない。そこでふたりは王虎の部屋へはいった。すべての人を遠ざけて、親子水入らずになった。けれども王虎はすわらなかった。息子もすわらない。王虎は、わが子をはじめて見るかのように、頭から足のさきまで、しげしげとながめた。しばらくして、ゆっくりと言った。
「おまえは妙な軍服を着とるな」
青年は頭を昂然《こうぜん》とあげ、静かな頑固な調子で答えた。「これは新興革命軍の軍服です」青年は、くちびるを舌でなめ、父の言葉を待った。
その一瞬に、王虎は、わが子が何をしでかしたか、いまどういう身の上かをさとった。この軍服こそ、彼がうわさに聞いている新しい戦争における南方軍の軍服なのではないか。彼は声をはげまして言った。
「おれの敵軍の服だな!」
そして、とつぜん彼は腰をおろした。急に息苦しくのどがつまったからである。すわっているうちに、あの六人の兵士を殺して以来はじめて、血に飢える残忍な感情が胸にわきあがるのを感じた。そこで、そばにある細身の鋭利な長剣をとって、昔からの、どなるような口調で言った。
「おまえはおれの敵だ――殺さねばならんな」
王虎は苦しげにあえぎはじめた。というのは、このたびは憤怒の爆発のぐあいがじつに早く、そして奇妙で、急に胸が悪くなったからである。彼は幾度も幾度も、自分では気がつかずに、つばを飲んでいた。
しかし青年は子供のときと変わらず、いまもたじろがなかった。静かに、しかし断固として、そこに立ったまま、両手をあげて上着をひろげ、なめらかな胸を父の前にあらわにした。そして思いつめた痛ましい声で言った。
「おとうさんはわたしを殺すだろうと思っていました――それがおとうさんの旧式な唯一の解決策なのですからね」
青年は目をじっと父の顔に注いだまま、すこしも感情を声に示さないで言った。「さあ、殺してください」彼は覚悟をきめて待っていた。ローソクの光で顔がくっきりと堅くひきしまって見えた。
しかし王虎には、わが子は殺せなかった。自分には殺す権利がある、だれにも彼に反逆する息子を殺す権利がある、それは正義公道にかなうものと見なされるであろうとは知ってはいたが、それでも殺せなかった。彼は怒りの流れをせきとめられたような気がした。怒気が心から消えて行った。彼は長剣をがらりとレンガ張りの床に投げすて、ふるえるくちびるをかくすために手を口にあてて、つぶやいた。
「おれは気が弱すぎる――いつも弱すぎた――軍閥としては弱すぎるのだ――」
青年は、父が長剣を投げすて手で口をおさえてすわったのを見ると、上着のボタンをかけ、老人をさとすような調子で、静かに、落ちついて説いた。
「おとうさん、あなたにはおわかりにならぬと思います。前時代の人は、だれも理解してくれません。あなたは、わが国が全体として、いかに微力であるか、いかに軽蔑されているか――」
しかし王虎は笑った。彼独得の例の声のない笑いをやめて、声に出し、大きな声で笑った。ただし手は口から放さなかった。
「昔もそんな話がなかったとでもいうのか。おれの若いときにもな――おまえたち若いものは――おまえたち若いものは、自分らがはじめてだと――」
王虎は息子がこれまで聞いたこともないような、奇妙な、耳新しい笑いを爆発させた。それが、珍しい武器かなんぞのように青年の心をいきり立たせた。そして父親がかつて見たこともない怒気を燃え立たせた。青年は急に叫んだ。
「われわれはちがいます! われわれが、あなたをなんと呼んでいるか、あなたは知っていますか。あなたは国家の反逆者です――反逆者の頭目です。わたしの同志が、あなたのことを知っていれば、あなたを裏切り者とののしるでしょう――しかし彼らは、あなたの名まえも知らない――あなたのような田舎の小軍閥の名は知らないのです」
王虎の息子は言った。これまでの生涯をしんぼうし通してきた息子は、ついに、こんなはげしい言葉をはいたのである。そして父の顔を見ると、にわかに恥ずかしくなった。彼は黙りこんでしまった。首筋がまっ赤になってきた。彼は目をふせて、ゆっくりと皮の弾帯をはずし、床に落とした。銃弾がころがった。彼は口をつぐんだ。
しかし王虎は一言も答えなかった。口を手でかくし、椅子にすわったまま、動かなかった。わが子の言葉が納得がゆくと、急に気力が心からひいてゆくのを感じた――永遠におとろえてしまうような気がした。わが子の言葉が自分の心のなかで反響しているのが聞こえるようだ。そうだ、おれは小軍閥にすぎないのだ――片田舎の、けちな小軍閥なのだ! 王虎は口に手をあてたまま、古くからの習慣ででもあるかのように、弱々しい声で、つぶやいた。
「しかし、おれは匪賊の頭目ではなかった」
彼の息子は、今度はほんとに恥ずかしくなって、早口に答えた。
「そうではありません――そうではない――けっして、そんなことはありません――」そして羞恥《しゅうち》の念をかくそうとでもするかのように青年はつづけて言った。「おとうさん、わたしは申しあげなければなりません。わが軍が勝利をめざして北上してくるときには、わたしは身をかくさなくてはならないのです。あの教官は、この長い年月、わたしをよく訓練してくれました。あの人はわたしに望みをかけていたのです。あの教官が、いまのわたしの部隊長です――おとうさん、わたしはあなたを選びました。わたしがあなたを選んだことを、彼は容易に許さないでしょう――」青年の声は急に低くなった。ちらと父を見た。その視線には一脈の温情がこもっていた。
けれども王虎は一言も答えなかった。何も聞こえないかのようにすわっていた。青年は語りつづけた。そして何かを嘆願するかのように、おりおり父の顔に目を注いだ。
「わたしがかくれるには、あの古い土の家がよいと思います。わたしはあそこへ行きましょう。もし彼らがさがしにきてわたしを発見しても、平凡な百姓になっていれば、まさか軍閥の子だとは思わないでしょう」青年は、この自分の言葉に、すこしほほえんだ。そのはかない冗談で父の心をなだめ、父の心をやわらげようと希望しているかのようであった。
けれども王虎は一言も答えなかった。「おとうさん、わたしはあなたを選びました」と言った息子の言葉の意味がわからなかったのだ。王虎は、黙ってじっとすわっていた。生涯の苦痛が彼の心を一面におおっていた。長いあいだ濃霧のなかを歩いていた人が急に晴れ渡ったところへ出るように、その瞬間、王虎は生涯のあらゆる夢からさめたのである。彼はわが子をながめた。そこにいるのは彼の見知らぬ青年であった。彼は、わが子を夢み、その夢にそっくり合うように彼を育ててきた。だが、いまここに立っているその息子は、彼の見知らぬ青年であった。平凡な百姓になるというのか? 王虎はふたたびわが子をながめた。そしてながめているうちに、わけのわからぬ、いつかも味わったことのある奇妙な心細さが、ふたたび心にしのびよるのを感じた。それは少年の日に、あの土の家が牢獄と思われたときに感じたのと同じ、なやましい心細さであった。大地のなかに埋まっている彼の老父が、ふたたびその土の手をさしのべて彼の息にふれたのである。王虎は、わが子をななめに見て、口に手をあてたままつぶやいた。
「――おまえは軍閥の子ではない!」
とつぜん王虎は、いくら手でおさえても、くちびるのふるえがとまらないのだ、と思った。泣きたかった。その瞬間に扉があいて、腹心の老いたみつ口がはいってこなかったら、声をはなって泣いたことであろう。みつ口は酒瓶《さかびん》を持ってきた。酒は新たに燗《かん》をしたもので、立ちのぼる香りが、かんばしく鼻をうった。
この忠実な老人は、昔の習慣どおり、扉を開けるやいなや、すぐに主人のほうへ目を向けた。そして王虎の顔色を見ると、大急ぎでかけより、卓上にからになっている杯に熱い酒をついだ。
すると王虎は、手を口から離して、はげしい勢いで酒杯をとり、口につけて、ぐっと飲みほした。うまい――熱くて、とてもうまかった。彼は大杯をつき出してささやいた。
「もう一杯くれ」
――けっきょく、彼は泣きたくなかったのだ。(第二部 完)