大地 第一部
パール・バック/大久保康雄訳
目 次
大地 第一部
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主要人物
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王龍《ワンルン》……勤勉で土地を愛する貧農の息子。飢饉のとき南の都会で偶然手に入れた宝石をもとに、つぎつぎと土地を買い、大地主となる。王大人とよばれ、一家繁栄の礎をきずくが、終生土地への愛情を忘れない。
阿藍《オーラン》……大地主の黄《ホワン》家の奴隷から王龍に買われてその妻となる。無口だが性根のしっかりした働きもの。夫を助けて忍苦の半生をおくる。
叔父……王龍の叔父。怠け者で、ずるがしこい男。匪賊《ひぞく》の副頭目となる。
蓮華《リエンホワ》……町の茶館の歌妓。王龍の第二夫人に迎えられる。
杜鵑《ドチュエン》……黄家の老大人付きの女奴隷。のちに蓮華の召使として王家に入る。抜け目のない女。
梨華《リホワ》……飢饉の年に王龍があわれんで買いとった美しい女奴隷。晩年の王龍の寵をうけ、その死後は主人の白痴の娘と孫のせむしの少年のめんどうをみる。
陳《チン》……王龍の隣家の農夫。
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ヴァントゥイユは、こんなふうにしてあの短い楽節をつくったのである。この作曲家は、いろいろな楽器を用いて、この楽節のヴェールをはぎとって、それを目に見えるものとし、その構想をうやうやしくたどってゆくことに悦《よろこ》びをおぼえたのであり、しかもその手ぎわは実に愛情にみち、実に慎重で、実に繊細、また実に的確だったので、音は、何かの陰影をあらわすためには柔らかにぼかされ、何かもっと大胆な輪郭を跡づけなければならない時には活気をとりもどしながら、絶えず転調を重ねていったのだ、ということをスワンは感じとっていた。そしてこの楽節が現実に存在すると信じたとき、スワンが誤っていなかった証拠ともなるものは、もしヴァントゥイユがあの楽節の形式を見出してそれを表現するにさいして、あれだけの才能を持ち合わせず、あちらこちらに勝手な思いつきの表現をつけ加えて、おのが視覚の欠陥や手腕の不足を隠そうと努めたならば、そうしたごまかしは、すこし耳のきく音楽愛好者には、ただちに看破されたはずだ、ということである。
――プルースト『スワン家の方へ』
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一
王龍《ワンルン》が結婚する日であった。周囲にとばりをおろしたまっ暗な寝床のなかで目をさましたとき、彼には、この夜明けが、なぜいつもとちがうように思えるのか最初わからなかった。家のなかは静まりかえっていて、中の一間《ひとま》をへだてた向こう側の年老いた父親の部屋から、弱々しい、息づかいのせわしい咳《せき》が聞こえるばかりだ。毎朝、最初に聞こえるのは、この老人の咳だった。王龍は、いつもならそれを聞き流し、横になったままで、その咳が近づいてくるときと、老父の部屋の扉の蝶番《ちょうつがい》がきしむ音を聞いたときしか動かなかった。
しかし、けさはそれまで待っていなかった。とび起きて、寝床のとばりをわきへ押しやった。まだ暗くて、ほんのり赤味を帯びた夜明けである。窓がわりの小さな四角い孔《あな》に貼《は》ってある紙が破けて、ひらひらしているその紙の隙間《すきま》から、ほの明るい赤銅《しゃくどう》色の空が、ちらとのぞかれた。彼は孔《あな》のところへ行って紙を引きはがした。
「春だもの、もうこんなものはいらねえや」彼はつぶやいた。
せめてきょうだけは家をきれいに見せたいものだと思うが、しかし口に出してそう言うのは、はずかしい。その孔は、どうにか手が出せるくらいの大きさなので、彼は手を突き出して戸外の空気にふれてみた。やわらかなそよ風が、東からなごやかに吹いてくる。おだやかな、ささやくような、雨気をふくんだ風である。吉兆だ。畑がみのるには雨が必要なのだ。ここ数日間雨がなかったし、きょうもおそらく降らないだろう。しかし、もしこの風がつづいたら、二、三日うちには水が拝めるだろう。よかった。きのう彼は、こう日光が強くぎらぎらと照りつづけたら、小麦は穂がつかないだろう、と父親に話したものである。そしてきょうは、天が彼の幸福を祈ってこの日を選んだかのようだ。大地は実を結ぶだろう。
彼は野良《のら》着の青いズボンをはき、青い木綿《もめん》の帯を腰に巻きつけながら、急いで中の部屋へはいって行った。からだを洗う湯をわかすまでは上半身は裸のままだ。彼は母屋《おもや》にもたれかかっている差掛《さしかけ》小屋へはいっていった。そこが台所になっているのである。その薄暗がりの向こうにあるとなりの戸口の隅《すみ》から、牡牛《おうし》が頭を突き出し、彼に向かって低く鈍重な声で鳴いた。台所は母屋と同じように、自分の畑の土を固めた泥レンガで大きく四角に築かれており、屋根は自分たちのつくった小麦のわらで葺《ふ》いてある。カマドもやはり、いまは長年の煮|炊《た》きで焼き固められまっ黒にすすけているが、祖父が若いころ自分の土地の土でつくったものである。その土のカマドには深い丸い鉄の大|鍋《なべ》がかかっていた。
彼はそばにある土|甕《がめ》から、ひょうたんのヒシャクで水を汲《く》み入れ、この大鍋を半分ほど満たした。水は貴重なので注意深く汲み入れた。それから、しばらくためらった後、とつぜん土|甕《がめ》をもち上げて、水を全部、大鍋にあけてしまった。きょうこそ全身を洗うつもりなのだ。母親のひざに抱かれていた子供のときから以後は、だれも彼のからだを見たものはない。きょうは見られるだろう。きれいに洗うつもりなのだ。
彼はカマドの向こうへまわって行って、台所の隅《すみ》に立てかけてある乾いた草の葉や茎を一つかみとってきて、一枚の葉もむだにしないように、たんねんに焚口《たきぐち》につみかさねた。それから古い火打ち石で火を出して、わらにその火を移した。やがて火は燃えあがった。
こうして火を起こさなければならないのも、けさが最後だろう。六年前に母親が死んでからは、毎朝、彼が火を起こしてきたのである。火をつけて湯をわかし、茶わんに湯を入れて、父親の部屋へもって行く。父親は寝床にすわって咳《せき》をしながら床の上の靴を探している。この六年間、毎朝、老父は朝の咳をしずめるための湯を息子が持ってきてくれるのを待っていたのである。これでやっと父も子も楽になる。女が家へくるのだ。もう王龍は、夏も冬も、二度とふたたび朝早く起きて火を起こさなくてもすむ。彼は寝床で横になって待っていられるのだ。彼のところへも湯を運んできてくれるだろう。そして、もし豊作だったら、湯のなかへ茶の葉を浮かせることもできるだろう。数年前にそうだったように。
そして、女が年老いるころには、子供たちが火を起こすだろう。女は王龍のために、たくさん子供を生むにちがいない。この家の三つの部屋の内外《うちそと》をかけまわる子供たちのことを考えると、その考えにうたれたように彼は手を休めた。母親が死んでからは家は半ばあいてしまって、つねづね三つの部屋でも多すぎるように思えていた。家族の多い親戚《しんせき》が押しかけてくるのを、彼らは、いつもことわりつづけてきた――際限なく子供ばかり生んでいる叔父《おじ》などは、言葉巧みにこんなことを言ったものである。
「やもめふたりで、こんなにたくさんの部屋は必要ねえだろうが。父子《おやこ》いっしょじゃ寝られねえのかね。若いもんのからだのぬくみは、年寄りの咳《せき》には、たいへんいいはずだが」
しかし父親は、いつも答えたものである。「わしは孫のために寝床をとっとくのさ。孫が、わしの年老いた骨をぬくめてくれるだろうて」
いま、その孫の生まれるときがきたのだ。それも、たくさんの孫が……壁ぎわにも中の部屋にも孫どもの寝床がならぶだろう。家は寝床でいっぱいになるだろう。王龍が、この半分は空家同然の家が寝床でいっぱいになることを空想しているあいだに、カマドの火は消えて、大鍋の湯は冷《さ》めはじめた。上着を引っかけてボタンもかけぬ老人の姿が影のように戸口にあらわれた。老人は咳をし、痰《たん》をはき、息をぜいぜいいわせている。
「どうしたんだ、わしの胸をあたためる湯は、まだ沸かねえのか」
王龍は、びっくりして父をみつめ、やっとわれに返って、はずかしくなった。
「焚物《たきもの》がしめっとるで」彼はカマドのうしろからつぶやいた。「しめっぽい風が……」
老人は、ひっきりなしに苦しそうに咳をしている。湯が沸くまでは、とまりそうもない。王龍は茶わんに湯をつぎ、すこし間をおいてから、カマドの上の棚にのっている光沢のある壼をあけ、乾いて巻きあがっている茶の葉をすこしつまみ出して湯のなかに落とした。老人の目が強欲そうに開き、すぐに叱言《こごと》を言いはじめた。
「なんでそんなむだなことをするだ。茶を飲むなんて銀を食うのとおなじことだぞ」
「きょうは特別だよ」王龍は、ちょっと笑って答えた。「飲みなよ。気分がよくなるだ」
老人は、ぶつぶつ言いながら、しなびて節くれだった指で茶わんを握りしめたが、もったいなくて飲めないらしく、湯の表面で巻きあがった茶の葉がひろがるのを、いつまでもみつめていた。
「冷《さ》めちまうよ」王龍が言った。
「なるほど――そうだな」はっとして老人は熱い茶をすすりはじめた。おいしい食べものをもらった子供のように、すっかり満足そうであった。しかし、王龍が大鍋の湯を惜しげもなく深い木桶《きおけ》へあけるのを見のがさなかった。彼は顔をあげて息子を見た。
「畑に水をやらにゃいけねえだな、よく実るようにな」と老人は唐突《とうとつ》に言った。
王龍は黙って最後の一滴まで桶にうつした。
「その湯、どうするだ」老父がどなった。
「正月からおれはまるでからだを洗ってねえだよ」と王龍は低い声で答えた。
嫁に見せるためにからだをきれいにしたいのだ、と父親に言うのは恥ずかしかった。彼は急いで台所を出て桶を自分の部屋へ運びこんだ。入り口の建てつけがわるいので、戸がはずれかかっていて、きちんとしまらなかった。老人は、あぶない足どりで中の部屋にはいってきて、戸の隙間に口をあてて、わめき立てた。
「初手《しょて》から嫁にこんなふうにさせちゃよくねえだ――朝の湯には茶の葉を入れるし、おまけに洗うといえばからだ全部洗うなんて」
「たった一日だけだよ」と王龍は大声でどなり返し、それからつけ加えた。「すんだら水は土にくれてやるだ。そしたら、まるっきりむだにもなるめえ」
老人は黙ってしまった。王龍は帯をとき、着物をぬいだ。小さな孔から四角に流れこむ明りの下で、小さい手ぬぐいを熱湯にひたしてしぼり、黒いやせたからだを力を入れてこすった。空気は暖かいと思っていたが、からだが濡れると寒さを感じて、手ぬぐいを、ひんぱんに湯に入れたり出したりしながら手早くこすっているうちに、全身から、かすかに湯気が立ってきた。それがすむと母親が昔使っていた箱のところへ行って、青い綿布の新しい着物をとり出した。綿のはいった冬物でないと、きょうはすこし寒いかもしれないが、からだがきれいになってみると、急に古い綿入れを着るのがいやになったのだ。いままで着ていた綿入れは皮が破れているし、よごれてもおり、孔から灰色の古綿がはみ出しているのだ。妻となる女と、はじめて顔を合わせるのに、綿がはみ出ているようなものは着ていたくなかった。いずれは彼女が洗濯もし、つくろってもくれるだろうが、最初の日だけは、どうもまずい。
彼は青い木綿の上着を着、ズボンの上に同じ布地の長衫《チャンサ》をつけた――一年に十日かそこら、祭日にだけしか着ない、唯一の長い着物である。それから背中に垂《た》れている辮髪《べんぱつ》を手早くほどき、すわりの悪い小机の引出しから木櫛《きぐし》をとり出して、髪をすきはじめた。
父親が、ふたたび近づいてきて、戸の隙間に口をつけた。
「きょうは何も食わせてもらえねえのか」と老人は不平そうに言った。「わしみたいな年になると、朝、食うものを食わねえうちは、骨がまるで氷みてえになってるだよ」
「いま行くよ」王龍は手早く、なめらかに髪をくしけずり、それを、ふさのある黒い絹ひものように編みあげながら答えた。
そして、すぐに長衫《チャンサ》を脱ぎ、辮髪を頭に巻きつけてから、桶をかかえて外へ出た。朝食のことを、まるで忘れていたのだ。トウモロコシの粉を湯がいて、それを父親には食べさせよう。自分は何も食べたくない。敷居のところまでよろよろと桶を運び、戸口の地面に湯をあけた。そのとき彼は、からだを洗うために鍋の湯を全部使ってしまったことに気がついた。また火を起こさなければならない。父親に対して、むかむかと腹が立ってきた。
(あの老いぼれは食うことと飲むことしか考えてやしないんだ)と、カマドの焚口《たきぐち》のところでつぶやいたが、聞こえるような声では何も言わなかった。老人に食事の世話をしてやるのも、けさが最後だ。戸口の近くにある井戸から、ほんのすこしの水を桶に汲んできて大鍋に入れた。すぐ沸き立った。トウモロコシの粉を入れてかきまぜ、それを老父のところへ持って行った。
「晩にゃ米をたくだでな、おとっつぁん」と彼は言った。「だから、けさはトウモロコシだよ」
「米は、ザルにいくらも残ってねえぞ」と老人は中の部屋のテーブルの前にすわり、箸《はし》で濃い黄いろいカユをかきまわしながら言った。
「そんなら、春の祭りにゃ、すこし食うのをへらすことにしよう」と王龍が言った。しかし老人は聞いていなかった。騒々しく音を立てて、カユをすすっていた。
王龍は自分の部屋にはいり、もういちど青い長衫《チャンサ》を着て、辮髪を垂らした。剃《そ》りあげた額《ひたい》から頬《ほお》のあたりをなでてみた。新しく剃らせたほうがよくはないかな。まだ太陽は上っていない。妻になる女が待っている家に行く前に、床屋のある通りへまわって頭を剃らせる時間は十分ある。
金さえあれば剃らせようと思った。腹巻きから、灰色の布地でつくった小さなあぶらじみた財布を引っぱり出して、金をかぞえてみた。銀貨が六枚と銅貨が二つかみほどある。父親にはまだ話してないが、今夜は親しい人々を夕食に招いてある。叔父の子の従弟《いとこ》と、それに父親のために叔父と、それから近所に住んでいる三人の農夫にきてもらうことになっているのだ。町から豚肉と小魚と栗《くり》をすこしばかり買ってくるつもりである。できれば南からきたタケノコや牛肉も買って、自分の畑からとれたキャベツといっしょに煮たいとも思うが、しかしこれは、油としょうゆを買ったあとで金が残っていたらの話である。頭を剃らせたら、たぶん牛肉は買えなくなるだろう。しかし、まあいい、頭を剃らせよう、と彼は急に決心した。
老人には、なにも言わずに、彼は早朝の戸外へ出た。暗紅色の暁だが、太陽は地平線の雲をやぶって、小麦や大麦におりた露に光っていた。百姓の習性から王龍はすぐに他のことを忘れ、立ちどまって穂先を調べてみた。麦はまだ実がついていない。雨を待ち望んでいるのだ。彼は大気のにおいをかぎ、心配そうに空をながめた。暗い雲、重たげな風、雨はそこにあるのだ。彼は線香を買って、地神の小さな祠《ほこら》にそれをささげようと思った。こんな日には神様にすがりたくなるのだった。
畑のなかの小道づたいに彼は急いで歩いて行った。近くの町の灰色の城壁がつらなっていた。その城壁の楼門をはいると、黄《ホワン》家という大地主の屋敷があって、そこに彼の嫁となる女が子供のときから奴隷として使われているのである。世間ではよく「大家の女奴隷と結婚するよりは独身でいたほうがいい」などと言っている。しかし彼が父親に向かって「おれはいつまでも女房を持てねえのか」ときいたとき、父親は言ったものである。「このごろのように時世が悪くなってくると、婚礼にも、たいへんな金がかかるし、どんな女だって、いっしょになる前に金の指輪や絹の着物をほしがるだで、貧乏人は奴隷をもらうより仕方がねえだよ」
そして父親は思いきって自分で黄家へ出かけて行って、あまっている女奴隷はいないだろうかと頼んでみたのである。
「あんまり若くねえ女奴隷で、何よりもべっぴんでねえ女を」と老人は言った。
王龍は、べっぴんであってはいけない、というのが不満だった。他人が祝ってくれるような美しい女を女房にできたらどんなにいいだろう、と思ったのだ。父親は不平そうな彼の顔つきを見てどなりつけた。
「べっぴんの嫁なんぞもらってどうしようというだ。野良で働きながら家の仕事もすれば子供も生む、そういう女でなくちゃいけねえ。べっぴんの嫁で、そんなことができるか。そういう女は着るものと顔のことしか考えてやしねえだ。この家には、べっぴんはごめんだ。わしらは百姓なんだ。それによ、大家のきれいな女奴隷に生娘《きむすめ》がいるなんて聞いたこともねえだ。若旦那がたが、みんな手をつけちまうだ。べっぴんの百番目の男になるよりも、醜女《しこめ》でも最初の男になるほうがいいじゃねえか。考えてみなよ、きれいな女が、金持ちの若旦那のやわらかい手と同じように、土百姓のおまえの手をよろこぶと思うか。女を慰みものにする連中の金色の肌《はだ》と同じように、おまえの陽《ひ》やけした面《つら》を好くと思うか」
王龍だって父親の言うことは百も承知だった。それでも返事をする前に感情の高ぶるのをおさえきれなかった。やがて彼は乱暴に言った。
「いくらなんでも、|あばた《ヽヽヽ》とみつ口だけはごめんだぜ」
「どんなのがくるか、まあ、もらってからのことさ」と父親は答えた。
とにかくその女は|あばた《ヽヽヽ》でもみつ口でもなかった。それだけはたしかだが、それ以上は何もわからなかった。彼と父親は金メッキした銀の指輪を二つと銀の耳輪を買い、父親がそれを婚約のしるしとして女の所有者の家までとどけた。それ以上は、きょう行けば女をもらえるということ以外、妻となるべき女については何も知らないのである。
彼は冷たく暗い町の楼門にはいった。水を運ぶ人夫が手押し車に大きな水桶を積んで一日じゅうここを出たりはいったりして、桶から石畳の上に水をこぼすので、土とレンガでできている厚い壁の楼門のトンネルは、いつも濡れていて涼しかった。夏の日でもひんやりしていた。だから瓜《うり》の行商人は、ここの石の上にくだものを並べて、しめっぽい冷気のなかで瓜を割って食べさせるのであった。まだ季節が早すぎるので瓜商人は出ていないが、小さなかたい青い桃の籠《かご》が壁にそってならべられ、商人が叫んでいた。
「春の初物だよ――はしりの桃だよ。さあ買った。さあ食った。こいつを食って腹のなかの冬の毒気を追っ払ってくれ!」
王龍はひとりごとを言った。
(もし女が桃が好きなら、帰りに手に一杯買ってやろう)
帰りにこの門をくぐるとき、自分のうしろに女がついてくるということが、どうしても実感としてぴんとこなかった。
楼門をはいって右に折れ、ちょっと行くと、床屋ばかりの通りである。まだ早いので、あまり人はいない。早朝、市で野菜類を売るために夜のうちに荷を運んできて、これから野良の仕事に帰ろうとする農夫がすこしいるだけだ。彼らは籠の上にうつ伏せになって、ふるえながら眠るのである。いま籠はからになって彼らの足もとにおいてあった。王龍は、きょうはだれからも冗談なんぞ言われたくないので、彼らにみつからぬように避けて通った。この通りには、ずっと向こうの端まで、腰かけを前において床屋がならんでいた。王龍は一ばん遠くにある腰かけに腰をおろして、隣の男と立ち話をしている床屋に合図した。床屋は、すぐにやってきて、火鉢《ひばち》にかけてある湯沸かしからシンチュウの鉢に手早く湯を注ぎはじめた。
「全部|剃《そ》りますかね?」と職業的な口調で言った。
「頭と顔をたのむ」と王龍が答えた。
「耳と鼻の孔の掃除は?」床屋がたずねた。
「そうすると、いくら余分に出せばいいだかね?」と王龍は用心深くききかえした。
「四銭だね」黒い小布を熱湯につけて、それをしぼりながらー床屋が答えた。
「二銭にしてくれ」王龍が言った。
「それじゃ耳と鼻の孔は片方だけですぜ」床屋は即座に言いかえした。
「耳と鼻の孔は、どっち側のをやりますかね?」そう言いながら彼は隣の床屋に顔をしかめて見せた。隣の男は、げらげら笑いだした。王龍は、こいつはえらいいたずら好きの男につかまったと思った。しかし彼は、つねづね町の人たちにたいしては、なんということもなく劣等感を感じていた。だから、相手が、ただの床屋で、最下級の人間にすぎないと思っても、やはりひけめを感じて、つい早口に言ってしまったのである。
「どっち側でもいいですだ――どっち側でも――」
そして彼は、床屋がせっけんを塗ったり、こすったり、剃ったりするがままになっていた。この床屋は冗談こそ言うが気前のいい男なので、特別の料金もとりもせずに、じょうずに肩をたたいてくれ、背中の筋肉をほぐしてくれた。彼は前額部に剃刀《かみそり》をあてながら王龍に話しかけた。
「辮髪を切っちまったら、いい男前になりますぜ。辮髪を切るのが最新流行でしてね」
頭の上にまるく残っている辮髪のそばで床屋が剃刀をひらひらさせるので、王龍は悲鳴をあげた。
「おやじに聞いてからでなくちゃ切るわけにゃいかねえだよ」
床屋は笑って、そこだけまるく残して剃ってくれた。
それがすんで、床屋のしなびた水だらけの手に、料金をかぞえてわたすとき、王龍は、一瞬ぎくりとした。こんなにたくさんとられるのだ! しかし、ふたたび往来を歩きながら剃りたての皮膚にさわやかな風を感じると、彼は、ひとりごとを言った。
「たった一度のことだで」
それから彼は市場へ行って、豚肉を百五十|匁《もんめ》ほど買い、肉屋が乾いた蓮《はす》の葉でそれを包むのを見まもっていたが、やがてちょっとためらいながら牛肉を五十匁ばかり買った。葉っぱの上でゼリーのようにふるえている豆腐まで全部買いととのえてから、ローソク屋へ行って、線香を二束買った。それから、ひどくおずおずと、黄《ホワン》家のほうに歩を向けた。
黄家の門前までくると、彼は恐怖にとらえられた。どうしてひとりできたのだろう? 父親でも――叔父貴《おじき》でも――隣家の陳《チン》でもよい、だれかにいっしょにきてもらえばよかった。彼はこれまで大家の門内へはいったことがなかった。腕に婚礼のごちそうをかかえたままはいって行って、「女をもらいにきました」なんて、どうしてそんなことが言えよう。
彼は門をみつめて長いあいだ立っていた。大きな黒塗りの二つの木の門扉は、いかめしく鉄の飾り鋲《びょう》をちりばめて、ぴたりと固くしまっていた。石造の獅子が、門の両側に、この家をまもるかのように立っていた。そのほかにはだれもいない。彼は身を返して歩み去った。とてもだめだ。
急に王龍《ワンルン》はめまいを感じた。まずどこかで何か食べよう。まだ何も食べていなかった――食べることを忘れていたのだ。小さな安食堂へはいって、テーブルの上に二銭おいて腰をおろした。黒光りのする前掛けをつけた小ぎたないボーイがそばへ寄ってきた。彼はボーイに向かって言った。
「麺《めん》を二杯くれ」そして麺がくると、竹の箸《はし》でがつがつと口のなかへ押し込むようにして食べた。そのあいだボーイはまっ黒な親指と人さし指で、銅貨をいじくりまわしながら立っていた。
「もっとですか?」とボーイは、そっけなくきいた。
王龍は首を振った。すわり直して周囲を見まわした。この小さな、暗い、そしてテーブルがごたごたとおいてある食堂には知っている人はだれもいなかった。ほんの数人が何か食べたり茶を飲んだりしているだけだ。ここは貧乏人ばかりくる場所なので、彼らのなかでは彼は小ぎれいで、清潔だし、裕福そうにさえ見えた。だから通りすがりの乞食が彼を見かけて哀れっぽい声を出した。
「ご親切な旦那さま、いくらかでも恵んでやってくださいまし――腹がすいておりますんで」
王龍はいまだかつて乞食から物ごいされたこともないし、旦那と呼ばれたこともない。彼はうれしくなって、一銭の五分の一にあたる銅貨を二枚、乞食の鉢のなかへ投げてやった。乞食は爪のまっ黒な手をのばして、すばやく銅貨をつかみあげ、ぼろ着物のなかへしまいこんだ。
王龍はすわっていた。太陽が高く上った。ボーイはいらいらとそこらを歩きまわっていたが、「もう何も注文しないのなら」と、ひどく生意気な調子で、とうとう彼は言った。「席料をいただきたいんですがね」
王龍は、そのあつかましさにむっとしたが、立ちあがりたいにも、あの豪壮な黄家へ行って女をもらうことを考えると、野良で働いているときのように全身に汗がふき出すのであった。
「茶をくれ」と彼は弱々しくボーイに言った。そちらをふり向くひまもなく、すぐにボーイは茶を運んできて、じゃけんに要求した。
「銭《ぜに》は?」
王龍は気が進まぬながらも、腹巻きから、もう一銭、出すよりほかはなかった。
(まるで泥棒だ)いまいましげに彼はつぶやいた。そのとき、今夜の婚礼に招いてある近所の人が店へはいってきたのを見て、大急ぎでテーブルの上に銅貨をおくと、茶を一口に飲みほして横手の戸口からすばやく外へとび出し、もう一度街路に立った。
(行かなきゃしようがあるめえ)彼は絶望的にそう自分に言いきかせ、ゆっくりと、大きな門のほうへ歩きだした。もう正午を過ぎていた。門は半開きになっていて、食事をすませた門番が竹の小楊枝《こようじ》で歯をせせりながら、門のわきに、のんびりと立っていた。左頬に大きなほくろのある背丈《せたけ》の高い男で、そのほくろから、一度も切ったことのない長い黒い毛が三本たれさがっていた。王龍の姿を見ると、籠《かご》をかかえているので行商人だと思ったらしく、乱暴にどなりつけた。
「おい、なんの用だ?」
やっとの思いで王龍は答えた。
「わたしは百姓の王龍です」
「うん、百姓の王龍が、どうしたというんだ」と門番は、さかねじをくわせた。この男は主人と奥様の富裕な友人をのぞいては、だれにも礼儀正しい態度をとらないのである。
「わたしがきましたのは……わたしがきましたのは……」王龍は口ごもった。
「おまえがきたのはわかってるよ」門番は、ほくろの長い毛をひねりながら、もどかしそうに言った。
「こちらに女がいまして……」王龍の声は力なく低いささやきとなって消えた。
陽光に照りつけられて彼の顔は汗に濡れていた。
門番は大きな声で笑いだした。
「そうか、おまえか!」彼は大きな声で言った。「きょう花むこがくるからと言われていたが、籠なんぞかかえてくるからわからなかった」
「肉がすこしはいっていますので」王龍は門番が案内してくれるのを待ちながら弁解がましく言った。しかし門番は動かなかった。とうとう王龍は心配そうに言った。「ひとりではいって行ってもいいですだかね」
門番は大げさに恐怖の表情をして見せた。「そんなことをしたら、老大人に殺されちまうぞ」そして王龍がなんの気もつかないらしいのを見て言った。「いくらかその銀貨がものをいうというわけさ」
王龍は、ようやく、男が金をほしがっていることに気がついた。
「わたしは貧乏人ですだ」彼は訴えるように言った。
「腹巻きに何がはいっているか見せてみな」と門番が言った。
単純な王龍が、ほんとうに籠を敷石の上におき、長衫《チャンサ》をたくしあげて腹巻きから小さな財布を引っぱり出し、買い物の残りの金を左の掌《てのひら》にあけて見せると、門番は、さすがに苦笑した。銀貨一枚と銅貨十四個である。
「銀貨をもらっとくぜ」門番は平気な顔で言う。そして王龍が抗議するひまもなく、もう銀を袖のなかに入れてしまい、大きな声でどなりながら門のなかへ大股《おおまた》にはいって行った。
「花むこだ! 花むこがきた!」
王龍は、いまの銀貨のこともしゃくにさわるし、彼がきたことを大声で触れまわることも身のすくむ思いだったが、門番について行くよりほかに、どうしようもなかった。そこで籠を拾いあげて、右も左も見ずに、彼のあとについて行った。
豪族の屋敷へ足をふみ入れたのはこれが最初だが、あとになって考えても、なんの記憶もなかった。燃えるように顔をほてらせ、うつむいて、前を触れてゆく門番の声を聞き、四方から起こる笑いの声を聞きながら、いくつかの中庭をつぎつぎと通りぬけた。中庭を百も通過したように思えたころ、急に門番は口をつぐんで、彼を小さな待合室へ押しこんだ。ひとりで立っていると、どこか奥のほうへはいって行った門番が、すぐにもどってきて言った。
「老夫人がおまえを連れてくるようにとおっしゃったぞ」
王龍は歩きだした。すると門番は彼を押しとどめて、うんざりしたようにどなりつけた。
「おまえは腕に籠をかかえたまま、えらい奥様の前に出る気か――それも豚肉や豆腐のはいっている籠をよ。おまえ、どうやっておじぎをするつもりだ?」
「ごもっとも……ごもっとも……」王龍はどぎまぎして言った。しかし、何か盗まれるのが心配で、籠をおろさなかった。豚肉百五十匁と牛肉五十匁と小さな池魚と、これだけのごちそうをほしがらぬ人間がこの世にいるとは、彼には夢にも思えなかったのだ。門番は彼の心配を見抜いて軽蔑した調子で言った。
「ここのお屋敷みてえなところじゃ、そんな肉は犬に食わせているんだぜ」そして籠をひったくって部屋のなかに投げこみ、王龍を前に押しやった。
長い廊下をふたりは歩いて行った。屋敷は美しい彫刻のある柱でささえられていた。王龍がまだ見たこともないような大広間へはいった。彼の家くらいの建物なら二十くらいはそっくりはいってしまうほど広く天井も高い。彼は上を向いて、すばらしい彫刻のある、きれいに彩色されている梁《はり》を、びっくりして見あげながら歩いていたので、戸口の高い敷居につまずいて、門番が腕をとってささえてくれなかったら、あやうく倒れるところだった。門番は、するどく言った。
「老夫人の前へ出たら、いまみたいに地面にへいつくばるくらい、ていねいにおじぎをするんだぞ」
ひどく恥ずかしかったが、どうにか気を落ちつかせて、前方を見ると、部屋の中央の高座に、非常に高齢の婦人が腰をおろしていた。小柄なきゃしゃなからだを、真珠のように光る灰色の繻子《しゅす》の着物で包んでいた。かたわらの低い台には阿片《あへん》のキセルがあり、小さなランプが燃えていた。老夫人は、やせた、しわだらけの顔に、猿のように小さい鋭い、落ちくぼんだ黒い目で、彼を見た。キセルの片端を持っている手の皮膚は、かぼそい骨の上になめらかに張っていて、金箔《きんぱく》をぬった仏像のように黄いろい。王龍は膝をついて化粧|瓦《がわら》を敷いた床の上に頭をすりつけた。
「立たせなさい」老夫人は重々しく門番に言った。「そういう礼儀は必要ない。その男は女を迎えにきたのか?」
「そうでございます、老夫人様」門番が答えた。
「なんでその男は自分で口をきかないのかね!」老夫人がたずねた。
「ばかなのでございますよ」ほくろの毛をひねりながら門番が答えた。
そこで王龍は立ちあがった。そして憤慨して門番をにらみつけた。
「わたしはいやしいものでございます、老夫人様」と彼は言った。「高貴の方の前で、どういう言葉を使ったらいいか、わからねえのです」
老夫人は非常に威厳のある態度で注意深く彼をみつめ、何か言おうとしたらしいが、奴隷が差しだした阿片のキセルを手にしたとたんに、彼のことなど忘れてしまったように見えた。一瞬、身をかがめて、むさぼるようにキセルを吸うと、その目の鋭さが消えて、忘却の靄《もや》でもかかったようになった。王龍は、彼女の目がふたたび彼をとらえるまで、その前に立ちつくしていた。
「この男はここで何をしているのかね?」彼女は、とつぜん怒ったようにたずねた。まるで何もかも忘れてしまったかのようであった。門番の顔には、なんの表情もなかった。黙って何も言わなかった。
「わたしは女をいただきにきましただ。老夫人様」王龍は驚いて言った。
「女? なんの女?……」老夫人が言いはじめた。かたわらにつき添っている女奴隷が身をこごめて何かささやくと、老夫人はやっとわれに返った。「ああ、そうか、ちょっと忘れていたよ――とるにも足らぬことなのでね――おまえは阿藍《オーラン》という女奴隷をもらいにきたのだね。あれは、どこかの百姓と結婚させる約束をしたのをおぼえている。おまえがその百姓か?」
「それがわたしですだ」王龍は答えた。
「阿藍をすぐ呼んでおいで」老夫人は奴隷に言いつけた。急に老夫人は、早くこんなことを片づけてしまって、ひとり静かな広間で、ゆっくり阿片を吸いたくてたまらなくなったらしい。
すぐに、がっちりしたからだつきの、やや背たけの高い、そして清潔な青木綿の上着と|※[#「ころもへん+庫」、unicode8932]子《クーシ》をはいた女が、女奴隷に手をひかれてあらわれた。
王龍は胸をどきどきさせながら、そのほうをちらと見て、すぐに目をそらした。これが彼の妻となる女なのだ。
「こちらへおいで」老夫人は、ぞんざいに言った。「この男がおまえを迎えにきたのだよ」
女は老夫人の前に進み、頭をさげ手を組み合わせて立った。
「準備はできているのか」老夫人がたずねた。女は、こだまのようにゆっくりと答えた。「できております」
王龍は、はじめて女の声を聞き、前に立っているその背中を見た。その声は荒くもなく、やわらかくもなく、単調で、邪気がなく、感じがよかった。髪も小ぎれいにととのっており、着物もさっぱりしていた。ただ足が纏足《てんそく》していないのを見て、ちょっとがっかりした。しかし老夫人が門番にこう言いつけたので、その思いも断ち切られた。
「この女の荷物を門の外まで運び出してやって、ふたりを行かせなさい」それから王龍を呼んで言った。「話すことがあるから、阿藍の横にならびなさい」王龍が前へ出ると彼女は言った。
「この女は十歳のときこの屋敷へきて、二十歳のきょうまで、この家で育った。飢饉の年に、この子の両親が食べるものがなくて南へ流れてきたとき、わたしが買ったのです。両親は山東の北部からきて、またそこへ帰って行った。それ以後のことは何も知らない。見るとおりこの女はからだも強いし、頬もそれにふさわしく角ばっている。おまえのために野良でもよく働くだろうし、水も汲むだろうし、おまえの望むことは、なんでもやるだろう。美しくはないが、しかしそれは、おまえには必要のないことだ。気ばらしのために美しい女を必要とするのは、楽しむひまのある男たちだけだからね。この女は賢くもない。しかし、言いつけられたことはよくやるし、気立てもよい。わたしの知っているかぎりでは生娘《きむすめ》のはずだ。たとえ台所にはいりっきりでなかったとしても、わたしの息子や孫に目をつけられるほど美人ではないからね。もし何かあったとすれば、下男たちとだが、ほかに屋敷うちには美しい女奴隷がたくさんうろつきまわっているのだから、おそらくそんなことはなかったと思うよ。連れて帰ってじょうずに使いなさい。すこしのろまで、にぶいけれど、役には立つ。もしわたしに善根《ぜんこん》をほどこして来世の幸福を祈りたいという気持ちがなかったら、手もとにとめておきたいのだが、なにしろ料理のじょうずな女なのでね。しかし家族のものがあまり望まない女は、ほしいという人がありさえすれば、わたしは結婚させてやることにしている」
それから老夫人は女に言った。
「この男の言うことをよく聞いて、たくさん子供を生むんだよ。はじめての子供は見せにきなさい」
「はい、老夫人様」と女は率直に言った。
ふたりは、もじもじしながらそこに立っていた。王龍は、なんと言ったらよいのかわからず、ひどく当惑していた。
「さあ、早く行きなさい」老夫人は、いらだたしげに言った。王龍は、あわてておじぎをして部屋を出た。女がそれにつづき、そのあとに荷物箱をかついだ門番がつづいた。王龍がさっき籠をおいた部屋のところまでくると、門番はそこに箱を投げ出して、何も言わずにどこかへ行ってしまった。
このときになって、王龍は女のほうをふり向き、はじめてつくづくとその顔を見た。角ばった正直そうな顔で、平べったい団子鼻に大きな黒い鼻孔、そして口は顔を横に切りさいたように大きい。目は小さく、どんよりと黒い。そして、何か|しか《ヽヽ》とはわからぬ悲しみを漂わせている。話す言葉を知らぬかのように、習慣的に沈黙し物言わぬような顔だ。王龍がじっとみつめても、当惑したふうもなければ、感情を動かしたふうもなく、ただ率直にその視線に耐えているだけだ。その顔――黒く、平凡な辛抱強い顔に、どんな美しさもないことを彼は知った。しかし、その陽やけした皮膚には、あばたはない。みつ口でもない。耳には彼が買った金メッキの耳輸が垂れており、手には彼が贈った指輪をはめていた。それを見ると、ひそやかに満足をおぼえて彼は女から目をはなした。そうだ、おれは自分の女を手に入れたのだ。
「ここに箱と籠がある」彼は、そっけなく言った。
何も言わずに彼女は身をかがめ、箱の片端を持ちあげて肩にかつぎ、その重さによろめきながら立ちあがろうとした。彼はそれを見て急いで言った。
「箱は、おれがかつぐ、籠を持ってくれ」
そして彼は一張羅《いっちょうら》の長衫《チャンサ》を着ていることも意に介さず、箱を背中にかつぎあげた。女は依然として何も言わずに籠の把手《とって》を持った。彼は、さっき通りぬけてきたたくさんの中庭のことを思い、こんなぶざまなかっこうで、もう一度そこを通るのかと思うと、ひどく気重《きおも》に感じた。
「横門でもあるといいだが」彼はつぶやいた。女には彼の言ったことがすぐにはのみこめなかったらしく、ちょっと考えてからうなずいた。そして彼を案内して、雑草がおい茂り池の水がよどんでいる小さな荒れた中庭を抜けて行った。曲がりくねった老松の下に半円形の古びた門があった。女はその門のかんぬきをはずし、そこから街路へ出た。
一、二度、彼はふり返って女を見た。女はその幅のひろい顔になんの表情もうかべず、しっかりと大きな足をふみしめて、一生涯そこを歩きつづけているかのように、歩を運んでいた。城壁の楼門のところで彼は、あやふやな態度で足をとめ、片手で肩の箱をしっかりおさえて、片手で腹巻きのなかの、残っている銅貨をさぐった。銅貨を二枚とり出して小さな青い桃を六つ買った。
「これ、食いな」彼は、ぶあいそうに言った。
彼女は、ものも言わずに、子供がものをもらうときのように、意地きたなく桃をつかみとって手のなかにしまいこんだ。そのつぎに彼がふり返ったときには、ちょうど小麦畑の縁《ふち》に沿うて歩いていたのだが、彼女は大切そうにその桃をかじっていた。しかし彼に見られているのに気がつくと、また手で桃をかくし、口を動かさずにいた。
地神の祠《ほこら》のある西の畑につくまで、こうして歩きつづけた。その祠は人間の肩ほどの高さもない小さな造りで、灰色のレンガで築かれ、屋根は瓦《かわら》でふいてあった。げんざい王龍が耕し生活しているこの畑を、かつて祖父もまた耕していたのだが、この祠は祖父が、手押し車で町からレンガを運んできて自分で建てたのである。壁の外側には漆喰《しっくい》が塗ってあり、以前豊作の年に村の絵師を雇って、その白壁に山と竹の絵を描かせた。しかし、長年風雨にさらされているうちに、竹がかすかに鳥の羽みたいになって残っているだけで、山はぜんぜんあとかたもなく消えてしまっていた。
祠のなかには、いかめしい顔つきの小さい泥人形が二つまつってあった。近くの畑の土でつくったもので地神の男神女神である。赤と金色の紙でつくった長衫《チャンサ》を着て、男神は、人間の髪の毛でつくったひげを、まばらにたらしていた。毎年正月になると、王龍の父は、赤い紙を買ってきて、丹念に切ったり貼ったりして、二つの神さまのために新しい着物をつくった。しかし毎年、雨が吹きこみ、夏の日光がさしこむので、着物はみなだめになってしまった。
しかしいまは年が改まってまがないので、まだ着物が新しかった。王龍は、そのきちんとしたようすを見て誇らしく思った。彼は女の手から籠をうけとり、さっき買って豚肉の下あたりに入れておいた線香を、ていねいにさがした。折れてでもいたら縁起が悪いぞと心配したが、さいわいちゃんとしていた。近所の人たちがみなこの地神を崇拝してお線香を上げるので、灰がうず高くたまっていた。彼はその灰の上に二本の線香をならべて立てた。そして火打ち石をとり出して火縄《ひなわ》がわりの枯れ葉に火をうつし、その炎で線香に火をともした。
ふたりは地神の祠の前にならんで立った。女は線香の端が赤くなり、灰に変わってゆくのを、じっとみつめた。灰が長くなったとき、女は身をかがめて、人さし指で灰のさきを払った。そして悪いことでもしたかのように、にぶい目ですばやく王龍の顔をうかがった。しかし、女のその動作に彼はなんとなく好ましいものを感じた。女がこの線香をふたりのものと感じているように思えたのだ。この瞬間、彼らは結婚したのである。線香が煙をあげて灰になるまで、ふたりはならんで完全に黙ったまま立っていた。いつしか日が沈みかけていたので、王龍は箱を肩にかつぎ、ふたりは家にもどった。
家の戸口に老人が夕日を浴びて立っていた。王龍が女を連れて近づいても身動きもしなかった。女に目を注いだりしたら、こけんにかかわるのだろう。まるで雲に気をとられているようなふりをして、老人は大きな声で言った。
「新月の左角にかかっている雲は雨の知らせだ。あすの晩までにゃ雨が降るだぞ」そのとき王龍が女から籠をうけとったのを見て、老人はまた大声を出した。「おまえはまた金を使ったのか?」
王龍はテーブルの上に籠をおいた。「今夜はお客がくるだ」彼は簡単にそう言って、箱を寝室に運び入れ、自分の着物を入れてある箱とならべておいた。彼は奇妙な感じでそれをながめていた。老人が戸口のところまできて口やかましく言った。
「際限もなく、むだ使いばかりしくさる」
老人は、息子が客を招いたことを内心ではよろこんでいるのだが、新しくきた嫁に最初から浪費をおぼえさせないためには、叱《しか》るに限ると思ったのである。王龍は何も言わずに部屋を出て、台所へ籠を持って行った。女も彼についてきた。彼は籠から一つずつ食料品をとり出し、それを冷たいカマドのそばにならべて彼女に言った。
「豚肉と牛肉と魚だ。これを七人で食うだ。料理はできるだか?」
彼は女の顔を見ないようにしてしゃべった。顔を見てものを言ったりするのは、あまり上品でないと思えたからだ。女は抑揚《よくよう》のない声で言った。「わたしは黄《ホワン》家に買われたときからずっと台所働きをしていた。あそこでは食事のたびに肉を料理しますだよ」
王龍はうなずいて、彼女を台所へ残したまま、客がくるまで行かなかった。やがて、陽気で、狡猾《こうかつ》で、いつも腹をすかしている叔父やら、十五歳になる生意気ざかりの叔父の息子やら、恥ずかしそうににやにや笑っている近所の百姓たちやらで、客人がこみ合ってきた。ふたりは、王龍がとり入れのときと種まきのときに仕事を助けあう村のものだし、もうひとりは陳といって隣家の男である。陳は小柄な、静かな男で、やむをえない場合のほかには、けっして口をきかなかった。中の部屋で、礼儀正しくたがいにゆずり合って、なかなか席につかない彼らが、やっと椅子にかけたので、王龍は台所へ行って女に給仕をするように言いつけた。
「あんたがテーブルの上へならべてください。わたしは料理の皿をあんたに渡しますから。わたしは男の人たちの前に出るのは好きでねえです」
と女が言ったとき、彼はこの答えを、たいへんうれしく思った。
この女が彼のものであり、彼の前に出ることは恐れないが、他人の前には出たくないのだと思うと、王龍は非常に誇らしく感じるのであった。彼は台所の入り口で彼女から料理の皿を受けとり、それを中の部屋のテーブルの上にならべて、大きな声で言った。
「さあ、叔父貴もみなの衆も食べてくだされや」すると冗談好きの叔父が言った。「蛾眉《がび》の花嫁の顔は拝めねえのかね」王龍は、はっきり答えた。「おれたちはまだいっしょになってねえだよ。床入りがすまねえうちにみなの前に出すのは、うまくねえだで」
そして彼は、熱心にもてなした。彼らは、このりっぱなごちそうを、夢中になって口もきかずに食べた。ひとりは魚にかかっている茶色の|たれ《ヽヽ》をほめ、ひとりは豚肉の料理をほめた。言われるたびに王龍は何度も同じ返事をくりかえした。
「料理も貧弱だし――料理もへただで」
しかし内心では、この料理が得意だった。彼女は、これだけの材料に、砂糖と酢と少量の酒としょうゆをまぜて、じょうずに肉の持ち味を十分に発揮させたのである。王龍自身も、友人の家へよばれても、こんなおいしい料理を食べたことはなかった。
夜がふけて、客たちは、のんびりと茶を飲みながら冗談を言ったりして腰を落ちつけていたが、それでも彼女はまだカマドのあたりでぐずぐずしていた。そして王龍が最後のお客を送り出して台所へ行ってみると、女は牛のそばにつんである藁《わら》の上にうずくまって寝ていた。彼が起こすと、髪に藁しべがたくさんついていた。彼が声をかけると、女は寝ぼけたのか、急に、ぶたれるのを防ごうとするかのように腕を動かした。やっと目をあけて例の奇妙な無表情な目つきで彼をじっとながめた。あどけない子供と向きあっているように彼は感じた。
彼は彼女の手をとって、けさ女のためにからだを洗った部屋へ通れて行き、テーブルの上に赤いローソクをともした。この灯《あか》りの下で、彼は女とふたりきりだと気がつくと、急に恥ずかしさを感じた。そして幾度となく自分に言いきかせた。
(ここにいるこの女は、おれの女だ。どうしたって、そうしなければいけないんだ)
彼は気むずかしい顔をして着物を脱ぎはじめた。女はといえば、彼女は、とばりの隅《すみ》をはいまわって、静かに寝床の用意をととのえていた。王龍は、そっけなく言った。
「おまえが寝る前に灯りを消してくれ」
彼は横になって、肩まで厚いふとんを引き上げ、眠ったふりをした。しかし寝てはいなかった。肉体のあらゆる神経がめざめ、震えながら横になっていたのである。しばらくたって部屋が暗くなったとき、ゆっくりと静かに女がそばへはい寄ってきたのを感じると、彼は、はげしいよろこびの興奮に満たされた。暗闇のなかで彼は、しわがれた笑い声を立て、そして女をとらえた。
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二
彼の生活にも、こんなぜいたくがあったのだ。翌朝、彼は寝床に横になったまま、いまはもうすべて彼のものとなった女をながめていた。女は起きて、ゆったりした着物をまとい、ゆるやかにからだをよじらせたりくねらせたりして、のどと腰のところをぴったりと結んだ。それから布靴《ぬのぐつ》に足を入れ、かかとのところに下がっている紐《ひも》を結んだ。窓がわりの孔から日光が一すじの線のようにさしこんで、彼女の顔をおぼろげに浮きあがらせた。その顔にはすこしの変化も見えない。
王龍にとって、それは驚くべきことだった。彼自身はこの一夜ですっかり変わってしまったように感じていたからである。しかし、ここにいるこの女は、これまでもずっと毎朝そうであったように彼の寝床から起き出るではないか。薄暗い夜明けに老人の咳が不平がましく高まった。彼は彼女に言った。
「おとっつぁんは肺が悪いだで、なによりもさきに湯を一杯持ってってくれねえか」
彼女は、きのうとまったく同じような声でたずねた。
「茶の葉を入れますか?」
この簡単な質問に王龍はとまどった。できたら「茶を入れるのはあたりまえさ。乞食じゃあるまいし」そう答えたかった。この家では茶くらいなんでもない、と女に思わせたかった。もちろん黄《ホワン》家では、どの湯飲み茶わんにだって、みな緑色の茶がはいっているだろう。おそらく奴隷だって白湯《さゆ》だけ飲むなんてことはしないだろう。しかし、老父は、もし嫁が最初の日に湯のかわりに茶を入れて持って行ったら、きっと怒るにちがいない。それに彼らはじっさい豊かではないのだ。だから彼はどうでもいいような調子で答えた。
「葉か? いらん――いらん――肺に悪いでな」
そして女が火をつけ、湯をわかしているあいだ、彼はぬくぬくと寝床に横になって、すっかり満足していた。もうすこし寝ていたいと思った。いまは、それもできない相談ではないのだ。しかし、ここ数年間、毎朝早起きのくせがついているので、寝ていれば寝ていられるのに、からだのほうが寝ていないのである。そうして横になっていて、彼は、心にもからだにも、怠惰《たいだ》というぜいたくを十分に味わった。
彼は自分のものになったこの女のことを考えるのが、まだすこし恥ずかしかった。野良のこと、小麦のこと、雨さえ降ってくれればどんなに収穫があるかということ、値段の折り合いさえつけば、隣家の陳から買いたいと思っている蕪《かぶら》の種子のことなども、しばらくは考えた。しかし、毎日毎日心にうかぶそういう考えに織りこまれ、からみ合って、これからの生活のことが、新しく頭にうかんできた。
昨夜のことを思い出していると、ふいに、あの女はおれを好いているだろうか、という疑念がきざしてきた。これは彼にとって新しい疑問であった。これまでは、自分が女を好きになるかどうか、女がこの家とこの寝床に満足するかどうか、そんなことしか考えていなかった。顔は平凡でも、手は荒れていても、彼女のあの大きなからだは、やわらかくて、手つかずだ。それを思うと、彼は笑った――昨夜、短く、荒々しく闇の中で笑ったと同じように、お屋敷の若旦那たちは、この台所奴隷の平凡な顔しか見なかったのだ。彼女のからだはうつくしかった。骨組みはふとくてごつごつしているが、まるく肉づきがよくて、やわらかだった。急に彼は、彼女が夫として自分を愛してくれればよいがと考えたが、するとまた恥ずかしくなった。
扉が開いて、彼女が両手で湯気の立っている茶わんを持って、例によってなにも言わず静かにはいってきた。彼は寝床に起きあがってそれをうけとった。湯の表面に茶の葉が浮いていた。彼はすばやく彼女を見た。すぐに彼女は、おずおずと言った。
「老人には茶を入れません――あんたに言われたとおり――けれど、あんたには……」
王龍は女が彼を恐れているのをみた。そしてひどく愉快になり、彼女の言葉が終わるのを待たずに言った。「おれは好きだよ――おれは茶が好きなんだ」そして、うれしそうに大きな音をたてて茶をすすった。(この女はとてもおれを好いているのだ)
彼自身の心にさえはっきりさせるのが恥ずかしい新しいよろこびを感じた。
それからの数か月間は、彼はこの女を見ることだけに心を占められて、ほかに何もしなかったように思えた。しかし実際は、これまでどおりに働いていたのだ。鍬《くわ》を肩にして畑へ行き、小麦の畝《うね》を除草したり、牛に鋤《すき》をひかせて西の畑を耕したり、にんにくや玉ネギを植えたりした。働くことが愉快だった。太陽が真上にくると家に帰る。すると食事の用意ができている。テーブルの上はきれいにふいてあるし、茶わんと箸がきちんとその上にならべてある。これまでは、時おり父親が待ちきれなくなって、少量の麦粉をかきまぜたり、薄く小麦粉をねって焼いたパンをにんにくに巻きつけたりするが、それ以外は、どんなに疲れていても、帰れば自分で食事のしたくをしなければならなかった。それが、いまではなんでも彼のために用意されていて、テーブルの前にすわれば、すぐにも食べられるようになっているのである。土間も掃除してあるし、燃料もたくさん補充してある。妻は彼が朝畑へ出かけると、熊手《くまで》と縄をもって近在を歩きまわり、枯れ木や小枝や落ち葉をたくさん集め、昼の食事には余るほど持って帰ってくるのであった。燃料を買わずにすむのが王龍にはありがたかった。
午後になると鍬と籠を肩にして、彼女は町へ通じている本道へ行った。ここはラバやロバや馬が荷物を運んで、ひっきりなしに通った。その動物どもの糞《ふん》を拾いあつめて家にはこび、畑の肥料にするために裏庭に積んでおくのである。こういうことを、彼女は言いつけられもしないのに、黙々としてやっているのだ。一日の仕事が終わっても、台所で牛に飼料をやり、いつでも飲みたいときに飲めるように水を用意したあとでなければ、けっして休まなかった。
そして、ぼろの着物をとり出し、綿入れにつめてあった綿を竹の紡錘《つむ》にかけて自分でつむいだ糸で、たんねんに冬の着物の破れをつくろったり継いだりした。また寝床を外に出して陽《ひ》に当てたり、掛けぶとんの皮を洗濯して竿《さお》にかけてほしたり、何年もそのままにしてあったので灰色に固くなっているふとんの綿を打ち直したり、かくれている南京虫や虱《しらみ》を殺したり、そんなものを全部陽にほしたりした。毎日毎日、彼女は、つぎつぎと何かしていた。やがて三つの部屋はきれいに整頓《せいとん》され、裕福そうにさえ見えてきた。老人の咳はよくなり、南側の壁によりかかってあたたかそうに日向《ひなた》ぼっこをしながら、うつらうつらと満足していた。
しかし、この女は暮らしに必要なこと以外は何も言わなかった。王龍は彼女がその大きな足で家のなかを、しっかりした足どりで、ゆっくり動きまわるのを見ても、その鈍重そうな幅の広い角ばった顔や、無表情な、半ばびくびくしているような目を見ても、どうしても彼女を理解することができなかった。夜には、彼女の引きしまった、やわらかいからだを知っていた。しかし日中は着物が――その平凡な青木綿の上着と|※[#「ころもへん+庫」、unicode8932]子《クーシ》とが、彼の知っているものをすべておおってしまい、彼女は、まるで無口な女中のようになってしまうのである。女中以外の何ものでもなくなるのであった。「なぜおまえは口をきかないんだ?」と言ってせめるわけにもいかなかった。彼女は、やるべきことはちゃんとやっているのだから、それで十分とすべきなのだ。
ときどき彼は野良でかたい土を耕しながら彼女のことを考えた。あのたくさん中庭のある屋敷で彼女は何を見たのだろう。彼女の生活、彼の知らない彼女の生活は、どんなだったのだろう。彼は何も知らなかった。しかし彼は、彼女にたいして好奇心をもったり関心をもったりするのを下劣だと思った。けっきょく、たんに女であるにすぎないではないか。
大家の下婢《かひ》として朝早くから夜おそくまで働いていた女にとって、三つの部屋を掃除し一日二回の食事をつくるという仕事だけでは手が余った。王龍は、連日、麦踏みをしたり鍬《くわ》で耕作したり、背骨が痛くなるほど働いていたが、するとある日、彼のかがみこんでいる畔《あぜ》の上に、女の影が落ちた。鍬を肩にかついで阿藍《オーラン》が立っていた。
「夜まで家のほうの仕事は何もねえですだで」彼女はぽつりと言っただけで、あとは何も言わず、彼の左側の畔を、鍬でしっかりと耕しはじめた。
夏のはじめのこととて、太陽がはげしく照りつけ、彼女の顔から汗がしたたりはじめた。王龍は上着をぬいで、上半身はだかになっていたが、彼女は薄い着物を肩からかけているので、着物が濡れて皮膚のように肌にぴったりとはりついた。黙々と、たがいに完全に一つのリズムにのって、何時間もいっしょに働いていると、彼は彼女と一つに結ばれていることを感じ、労働の苦労もすっかり忘れてしまった。彼は何も考えていなかった。ただここにあるのは、彼らの家を形づくり、彼らのからだを養い、彼らの神々をつくるこの大地を掘り返しては陽にさらす動作の完全な一致だけであった。大地は肥《こ》えて黒ずんでいた。そして鍬のさきがあたると、かるく二つに割れた。時おりレンガの小片や木片を掘り出した。それは無であった。ある年のあるときには、そこに男や女の遺骸《いがい》が埋められた。家が建っていたこともある。家は倒れ、すべて土に帰ったのである。彼らの家も彼らの肉体も、いつかは同じように大地に帰ってゆく。すべてが順を追って土に帰る。ふたりは、ともども働きつづけた――ともども――この土地を実らせるために――ともに黙々として。
太陽が沈むと、彼はゆっくりと背をのばして女を見た。顔は濡れており、土くれで筋がついている。彼女は土そのもののように黒かった。濡れて黒ずんだ着物が、角ばったからだにくっついている。彼女は、たんねんに最後の畔を耕した。そしていつもの平板な調子で、単刀直入に言ったのであるが、この静かな夕方の大気のなかに、その声は、いつもよりも、いっそう平凡に、尋常にひびいた。
「子供ができただ」
王龍は口もきけずに立っていた。なんと言えばよいのか。彼女は身をかがめてレンガの小片を拾い上げ、畔の向こうへ投げた。それは「お茶を持ってきました」とか「さあ食べましょう」と言うのと、まったく同じような調子だった。彼女には、それと同じくらいあたりまえのことに思えるのであろう。しかし彼にとっては――彼にとっては、口もきけないほどの出来事だった。心臓が急に痙攣《けいれん》でも起こしたように高まったりとまったりした。そうだ、土に生きる彼らに、いまそのような順番がまわってきたのだ。
彼は、ふいに妻の手から鍬をひったくって言った。声がのどでかすれた。「これでやめとこう。もう日が暮れたでな。おとっつぁんに話そう」
彼らは家路についた。彼女は女らしく五、六歩はなれてあとからついてきた。老人は夕食を待ちかねて、戸口に立っていた。女がきてからというもの、老父はもうけっして自分で食事の用意をしなくなった。老人はこらえきれぬように大きな声でどなった。
「年寄りは、こんなに長く飯を待っちゃいられねえだ!」
王龍は、その前を通りすぎて部屋へ行きながら言った。「子供ができただよ」
彼は、「きょうは西の畑に種をまいただよ」とでも言うように気軽に知らせるつもりだったが、そんなわけにはいかなかった。低い声で言ったつもりが、彼自身にも、思いもかけず大きく叫んでしまったように思えた。
老人は一瞬目をぱちぱちさせていたが、やがてその意味がわかると、ふいに声を出して笑いだした。
「ふ、ふ、ふ……」そして近づいてくる嫁に声をかけた。「それじゃ収穫ももう間近じゃな!」
暗いので彼には妻の顔は見えなかったが、彼女は平板な調子で答えていた。
「すぐ食事のしたくをしますだ」
「そうだ――そうだ――飯だで……」老人は熱心に言って、子供のように嫁のあとについて台所へ行った。さっき孫が生まれると聞いて食事を忘れたように、いまは食事のことで孫のことを忘れてしまったのである。
しかし、王龍は、暗闇のなかでテーブルのそばの腰掛けにすわり、組んだ両腕に頭をうずめていた。おれのこのからだから、おれ自身のからだから生命が生まれるのだ!
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三
お産の時期が近くなると、彼は女に言った。
「そのときには、だれか手伝いの人を頼まなくちゃならねえだな――だれか女の人をな」
しかし、彼女は首を振った。夕食のあとで彼女は食器を片づけていた。老人は寝床に去り、夜の静けさのなかに、ふたりだけであった。木綿糸をよじったのを灯心にして豆油をつめた小さなブリキのランプのゆらめく炎からくる光だけが、彼らを照らしている。
「手伝い女も必要ねえというのか?」彼は驚いてきき返した。このごろ彼はこういうふうに、ひとりで会話をすることになれてきていたのである。彼女は頭や手を動かすだけであった。さもなければ、その大きな口から気の進まぬふうに時おり短い言葉がもれるだけなのだ。彼は、こんな会話にも、それほど不自由を感じなくなっていた。
「それでも家のなかにふたりの男だけじゃ、しようがねえだろう」彼は言葉をつづけた。「おふくろのときは村から手伝い女を連れてきただ。おれは、こういうことは何もわからねえだ。あの黄家には、奴隷のばあさんかなにか、おまえの知り合いで、きてくれるものはいねえかね」
彼女がきてから、黄《ホワン》家の話をしたのは、これがはじめてだった。彼女は彼のほうに向き直った。これまで見たこともないような顔をしていた。細い目は大きく見ひらかれ、顔には陰気な怒りの色がうかんでいた。
「あの家には、そんな人はひとりもいねえですだ」彼女は、たたきつけるように言った。
彼は、たばこをつめていたキセルをとり落として、びっくりして彼女を見た。しかし彼女の顔はすぐにもとへもどり、何も言わなかったように、箸をそろえていた。
「どうしたんだ」彼は、あっけにとられて言った。しかし彼女は何も言わなかった。そこで彼はさらに言葉をつづけた。「おれたちはふたりとも男で、お産の役には立たねえだ。おとっつぁんにしたところが、おまえの部屋へはいるのはまずいだろうし――おれにしたところが、牛のお産さえ見たことがねえだよ。おれが不器用な手でやったら、赤ん坊に怪我《けが》させちまうだろう。黄家なんかじゃ、しじゅう女奴隷のお産があるんだろうから、だれかあそこから……」
箸をテーブルの上にきちんと順序よくならべてから、彼のほうを向き、しばらくじっと見ていてから彼女は言った。
「わたしがあの家へ行くときには、自分の子を抱いて行きますだ。子供には赤い上着を着せ、赤い花模様の|※[#「ころもへん+庫」、unicode8932]子《クーシ》をはかせ、小さな金色の仏様を前に縫いつけた帽子をかぶせて、虎の顔の形をした靴をはかせるだ。あたしも新しい靴をはき、黒い繻子《しゅす》の上着を着て、昔働いていた台所へも行き、老夫人が阿片を吸っている広間へも行って、あたしとあたしの子供とをみんなに見せますだ」
これまで彼は、こんなにたくさんの言葉を彼女から聞いたことは一度もなかった。言葉は、のろくはあるが、しっかりと、よどみなく口から出た。こういうことを彼女は前からひとりで考えていたのだ、と彼は知った。彼とならんで野良仕事をしているときに、こんなことを考えていたのだろう。なんと驚くべき女だろう! くる日も、くる日も、黙って仕事に明け暮れていたので、彼女は子供のことなどまるで考えていないのだろう、と彼は思っていたのである。それにもかかわらず彼女は、お産のことも、子供に着物を着せることも、その子の母として彼女自身が新しい着物を着ることまで考えていたのだ。このときだけは彼のほうが言葉が出なかった。彼は親指と人さし指で、せっせとたばこをまるめていたが、やがて気がついてキセルを拾いあげ、たばこをつめた。
「それじゃ、おまえ、金がいるだな」とうとう彼は、わざとぶっきらぼうに言った。
「銀貨を三枚くだされば……」彼女は、おずおずと言った。「大金だけど、わたしは念入りに勘定してみたし、一銭もむだにはしねえですだ。呉服屋にも一分も布地をごまかされないようにしますだ」
王龍は腹巻きをさぐった。きのう、西の畑の池の葦《あし》を刈って一|荷《か》半ほど町の商人に売ったので、彼女の要求額よりもすこし余分に腹巻きにもっているのだ。彼はテーブルの上に銀貨を三枚おいた。それから、ちょっとためらったのち、もう一枚銀貨をつけ足した。これは、いつか茶館へ行った際、賭博をしたくなったときの用意にと思って、ながいことしまっておいたものだ。しかし賭《かけ》でとられるのがこわさに、彼は台のまわりをうろついたり、サイコロがころがされるのを見物するだけで、とうとう手を出さなかった。町へ出て時間があまると、きまって彼は講釈師の掛小屋で講釈を聞いた。そこでは古い昔の物語に耳を傾け、鉢が回ってきたとき銅貨一枚入れれば、それでいいのである。
「この銀貨もとっておけ」と彼は言い、言葉のあいまに、火付け紙にランプの火をうつして吹きながらたばこに火をつけた。「子供に絹の端布でも買って上着をつくってやるだな。なんというても最初の子だでな」
彼女はしばらく無表情な顔で金をみつめて立ったままで、すぐには手にとろうとしなかった。やがて半ばささやくように言った。
「銀貨を手に持つのは、わたしははじめてですだよ」
彼女は、とつぜん銀貨をとって手に握りしめると急いで寝室へはいって行った。
王龍はすわってたばこを吸いながら、いまテーブルの上においた銀貨のことを考えた。あの銀貨は土から生まれたのだ。耕作し掘りかえし労力をそそぎこんだ土から生まれたのだ。彼は自分の生命を土から得ているのである。汗のしずくが土から作物を生み、作物が銀貨を生むのだ。これまでは、だれかに銀貨をあたえたりすると、まるで生命の一部をもぎとって、それをむぞうさに人にやってしまったような気がしたものである。しかし、いま、こうしてあたえるのが苦痛でないことをはじめて知った。これは町の商人の手にわたす銀貨ではない。銀貨それ自体よりも、はるかに値うちのあるもの――自分の子供のからだを包む着物になるのだ。そして、あのふしぎな妻、何も言わず、何も見ず、ただ働いている彼女が、そういう着物を着せた子供の姿を最初に見るのだ。
お産のときがきても、彼女はだれにも手伝ってもらおうとしなかった。ある夜、まだ早く、太陽がほとんど沈みかけたころ、そのときがきた。彼女は彼といっしょに稲のとり入れの仕事をしていた。小麦がみのって、その収穫がすむと、そこへ水を引いて、こんどは稲の苗を植えた。そして今、稲のとり入れどきであった。夏の雨と初秋の豊かなあたたかい日光に照らされて、稲穗は重たくみのり、いまは刈り入れの時期であった。彼らは一日じゅうからだをかがめて、柄《え》の短い鎌で稲を刈っていた。彼女は臨月なので、からだをかがめるのが苦しく、仕事も彼よりはおくれがちで、彼の刈っている畝《うね》がずっと進んでいるのに、彼女の畝は、はるかにおくれて、そろわなくなった。昼がすぎて午後になり夕方になるにつれて、ますます彼女はおそくなった。彼は、いらいらして、ふり返って彼女をにらみつけた。彼女は足をとめて立っていた。鎌をとり落としたままだ。顔には新しい汗がながれていた。新しい苦痛の汗である。
「いよいよ生まれるだ」と彼女は言った。「わたしは家へ帰りますだ。わたしが呼ぶまで部屋へははいらねえでくだせえ。新しく皮をむいた葦《あし》をするどく切って持ってきてくだせえ。それでへその緒《お》を切りますだ」
彼女は、なんでもないように畑を横ぎって家のほうへ向かって行った。それを見送ってから彼は向こうの畑にある池のへりへ行って、細い緑の葦を選んでたんねんに皮をむき、鎌でするどく切った。暮れやすい秋の夕闇が早くもせまっていた。彼は鎌を肩にして家へもどった。
家につくと、テーブルの上には夕食があたたかく用意されており、老父はもう食べているところだった。彼女は陣痛の苦しみに耐えて食事のしたくをしたのだ。こんな女は、めったにいるものじゃない、と彼は自分自身に向かって言った。それから自分たちの部屋の前まで行って声をかけた。
「葦をもってきただ」
葦を持って部屋のなかへはいるようにと言うだろうと思って彼は待っていた。しかし、はいれとは言わなかった。彼女は扉口《とぐち》のところまできて、戸の隙間から手を出して、葦をうけとった。彼女は何も言わなかった。ただ、長い道中を走らせた家畜が発するような、はげしいあえぎが聞こえた。
老人は茶わんから顔をあげて言った。
「食べたらどうだ。冷《さ》めちまうぞ」それからまた言った。「まだ心配するにゃ早すぎる――ずいぶん長くかかるだでな。いまでもよくおぼえているだが、わしの最初の子が生まれたときは、いまごろからはじまって明け方までかかったもんだ。わしの子は――おまえのおふくろが生んだ子は――つぎからつぎと生まれたぞ――さあ、二十人も生んだか――はっきりとはおぼえてねえだが――生きているのはおまえだけだよ。なぜ女がたくさん子供を生まねばならねえか、それでわかるだろう」そして、たったいまこと新しく気がついたように老父は言った。「あしたのいまごろは、わしは赤ん坊のじいさまだな」老人は、とつぜん笑いだした。そして食事を中途でやめて、薄暗い部屋にすわって長いこと笑っていた。
しかし王龍は、扉のところに立って、苦しそうな、動物のようなうめき声を聞いていた。熱い血のにおいが戸の隙間からもれてくる。そのむかつくようなにおいが彼をおびえさせた。部屋のなかの女のうめき声は、叫びを押し殺したように、しだいに早くなり高くなった。それでも彼女は声をたてなかった。それ以上がまんができなくなって、戸を押しあけてはいろうとしたとき、細い、はげしい泣き声が聞こえた。彼は何もかも忘れてしまった。
「男か?」彼は妻のことを忘れて、せがむように叫んだ。細い泣き声が、たくましく、せきたてるように、また爆発した。「男か?」彼はもう一度叫んだ。「それだけ言ってくれ、男か?」
女の声が、こだまが返るように弱々しくひびいてきた。
「男ですだよ」
彼はテーブルのところへもどって腰をおろした。なんと早くすんでしまったことだろう! 食事は冷めてしまい、老人は腰掛けによりかかって眠っていた。それにしても、なんと早くすんでしまったことだろう。彼は老人の肩をゆり動かした。
「男の子だよ」彼は誇らしげに言った。「おとっつぁんはじいさまで、おれはおとっつぁんだ!」
いきなり起こされた老人は、眠る前に笑っていたように、また笑いだした。
「そうさ――そうさ――もちろん、そうだよ」老人はまだ笑っていた。「じいさまか――じいさまか――」そして彼は立ちあがり、まだ笑いながら寝床へ行った。
王龍は冷たくなった飯の茶わんをとりあげて食べはじめた。急にひどく空腹をおぼえ、口へ運ぶのがもどかしいほどだった。部屋のなかからは、彼女が何かを始末しているらしい音が聞こえ、赤ん坊の泣き声が、ひっきりなしに、するどく聞こえてきた。
(この家では、もうこれ以上静かになるってことはねえだろう)と彼は誇らしげに自分自身に言いきかせた。
みんな食べてしまってから、また扉口のところへ行った。彼女が呼んだので、なかへはいった。生ぐさい血のにおいがただよっているが、どこにも血のあとはない。ただタライのなかにあるだけだ。しかしそのタライも、水を注ぎこんで寝台の下に押しこんであるから、彼にはほとんど見えなかった。赤いローソクがともされ、彼女は寝台の上にきちんと横になっていた。そのかたわらに、この地方の習慣にならって彼の子が、彼の古いズボンにくるまって寝ていた。
彼は近づいて行ったが、しばらくは言葉が出なかった。胸がわくわくした。身をかがめて子供をのぞきこんだ。まるい、しわだらけの顔で、ひどく黒く見える。頭には、長い濡れた、黒い髪の毛がある。もう泣くのをやめて、目をしっかりつむって寝ていた。
彼は妻を見た。妻も彼を見かえした。彼女の髪は苦痛でまだ汗ばんでおり、細い目は落ちくぼんでいた。それ以外は、いつもと同じである。しかしそうして寝ている姿には、彼の心を打つものがあった。愛情がふたりの上に注がれた。なんと言ってよいかわからぬままに彼は言った。
「あした、町へ行って赤砂糖を一|斤《きん》買ってこよう。熱い湯にといて飲ませてやるだよ」
そして、ふたたび赤ん坊を見ているうちに、いまはじめて気がついたように、とつぜん叫んだ。
「そうだ、鶏卵を籠いっぱい買ってきて、赤く染めて村じゅうにくばるだ。そしてみんなに子供が生まれたことを知らせるだ!」
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四
子供が生まれた翌日、妻はいつものように起きて食事のしたくをしたが、王龍といっしょに畑へ行くことはしなかった。彼は昼すぎまでひとりで働いた。それから青い長衫《チャンサ》を着て町へ行った。市場へ行って鶏卵を五十個買った。生みたてではないが、まだ十分食べられる卵で、一個銅貨一枚である。それから、ゆで卵を赤く染めるために赤い紙を買った。卵を入れた籠をもって砂糖屋へ行き、赤砂糖を一斤とすこし買った。それが褐色の紙にていねいに包まれるのを見ていた。それを細い縄紐《なわひも》でゆわえて、店員は、赤い紙をそこへはさみこみ、彼と同じように微笑しながら言った。
「お産をした方にさしあげるのでしょう?」
「初産《ういざん》の男の子でね」王龍は誇らしげに言った。
「それはおめでたいことで」店員はうわのそらで答えた。彼の目は、いま店へはいってきた身なりのりっぱなお客のほうへ行っていたのだ。こういうあいさつを、店員はほとんど毎日、だれかに言っているのだが、しかし王龍には、自分にだけ言ってくれたもののように思え、その好意がうれしくて、おじぎをした。店を出るときにも、もう一度頭をさげた。ほこりっぽい往来の、つよい陽光のなかへ歩み出たとき、彼は、おそらく自分ほど幸福なものはどこにもいないだろうという気がした。
最初は非常にうれしくなってそんなふうに思ったが、やがてふと恐ろしくなってきた。この世の中で、あまりに幸福にめぐまれたら、用心しなければならない。人間の幸福を許しておかぬ悪霊が、天にも地にも満ちみちているのだ。とくに貧乏人は目をつけられる。彼は急に歩みを転じてローソク屋へ行った。そこでは線香も売っていた。家族四人にそれぞれ一本ずつの割で、線香を四本買った。それから、その四本の線香をもって地神の祠《ほこら》へ行き、かつて妻といっしょに線香を立てた、あの冷たい灰に線香を立てた。そして四本の線香によく火がついたのを見て、安心して家路についた。小さな屋根の下に静かに鎮座ましますこの二つの守護神――それはまあなんと偉大な力をもっていることであろう!
そして人々がほとんど気がつかぬうちに、もう阿藍《オーラン》は野良にいる彼のそばへもどってきた。とり入れがすむと、家の裏庭を脱穀所にして、穀物を打った。彼と妻と、たがいに力をあわせてから、さおで、たたくのである。打ち終えると、もみがらをあおぎ分ける。竹でつくった大きな平たいザルに入れて上へほうり上げ、落ちてくる穀粒をザルに受けるのである。もみがらは雲のように風に吹きとばされる。それから畑へ出て冬の小麦の種子をまいた。彼が牛に畑を耕させて行くと、そのあとから彼女が鍬《くわ》で土くれを砕きながらつづいた。
このごろになると彼女は終日、畑で働いた。赤ん坊は破けた古ぶとんにくるまって、地面の上に寝かされ、眠っていた。赤ん坊が泣くと、彼女は仕事の手を休めて、地面にすわり、胸をあけて乳を吸わせた。陽《ひ》の光がふたりの上に降り注いでいた。冬の冷気に奪われるまで、夏の暖かさをやっとつなぎとめているような晩秋の弱々しい陽光である。母も子も土のように褐色で、土でつくった人形のようにすわっていた。母の髪の上にも赤ん坊のやわらかな黒い頭にも、畑のほこりがついていた。
けれども、女の大きな褐色の胸からは、赤ん坊のための乳が、雪のように純白の乳が、いきおいよくほとばしった。赤ん坊が片方の乳房を吸っていると、片方の乳房からは泉のように乳が流れ出た。彼女はそれを流れ出るままにしていた。いくら飲もうと、幾人の赤ん坊でも養えるほど豊富にあることを知っているので、平気で流れるがままにしておいて、いっこう気にしなかった。つねに、あとからあとからと出るのである。時おり、着物をよごさぬために、地面にしぼり出した。乳は土にしみこんで、やわらかい、黒い、豊かなしみを地面につくり出した。おとなしく、まるまるとふとった赤ん坊は、母親のあたえるこのつきることのない生命をしゃぶるのであった。
冬がくるので、彼らは冬じたくをはじめた。これまでにないほどたくさんの収穫があったので、小さな三つの部屋は、はちきれんばかりであった。藁屋根の下の垂木《たるき》からは、たくさんの乾燥した玉ネギやにんにくの束が、紐でつりさがっていた。中の部屋にも老人の部屋にも自分たちの部屋にも、大きな壺のような形に編んで米や小麦をいっぱいにつめた葦の俵《たわら》が、たくさんおいてあった。ほとんど売ってしまうのだが、王龍は倹約家で、多くの村人たちのように賭博や身分不相応な飲食に金を浪費しないから、彼らのように値段の安い収穫時に売る必要はなかった。そのまま保存しておいて、雪が地上をおおうころ、あるいは正月になって町の人々がどんな値段ででもよろこんで買う時分になってから売るのである。
彼の叔父は、穀物がよくみのるたびにいつも売ってしまった。ときには、とり入れがわずらわしいといって、わずかばかりでも現金なら畑に立っているままで売ってしまうのである。叔父の妻は、でぶでぶふとった怠惰な愚かな女なので、しじゅう、おいしい食物だとか、高価なものだとか、町で新しい靴を買いたいとかいってさわいでいた。王龍の妻は、彼のも老人のも彼女自身のも子供のも、みな自分で靴をつくった。もし彼女が靴を買いたいなどと言ったとしたら、彼には、それがなんのことかわからないだろう。
叔父のぼろ家の垂木に何かがぶらさがっていたことは一度もなかった。だが王龍の家では豚の脚までつるしてあった。隣家の陳のところの豚が病気にかかったらしいというので殺してしまったのを買ったのである。肉が落ちてしまわないうちに買ったので、その脚はとても大きかった。阿藍がそれを塩づけにしてほしておくためにつりさげたのである。その上、自分のうちの鶏を二羽殺し、臓腑《ぞうふ》を抜いて内部を塩づめにし、羽をつけたままほしてあった。
だから、冬の風が、北東の砂漠から、きびしく、はげしく吹きつけてくるあいだも、彼らは何もかも満ちたりて家のなかにすわっていられたのである。まもなく赤ん坊は、ひとりで立てるようになった。彼らは一か月目の誕生日には麺《めん》でお祝いをした。寿命が長くなるようにという願いである。王龍は、結婚式のときにきてくれた人たちを招いて、赤く染めたゆで卵を十個ずつくばった。それから祝いにきてくれた村人たちには、もれなく二個ずつくばった。母親に似て頬骨の高い、大きくまるまるとふとった息子の顔を見て、人々はみな彼をうらやんだ。冬がきたので子供は畑にすわらされるかわりに家の土間にふとんをしいてすわらされた。彼らは明るい南側の戸をあけて日光を入れた。北風は厚い土壁を、むなしく吹きたたいた。
まもなく戸口のナツメの葉が落ち、畑のそばの柳と桃の葉が落ちた。ただ家の東側のまばらな竹やぶだけは、葉が竹にまといついていた。風が茎を二重にねじ曲げても、竹の葉はしがみついているのだ。
この乾燥した北風に、畑にまいた小麦の種は芽が出なかった。王龍は気づかわしげに雨を待った。ある静かな曇った日、風がやみ、大気が静まって暖かくなったとき、とつぜん雨が降りはじめた。彼らは幸福そうに家のなかにすわって、多量の雨がまっすぐに裏庭の土にしみこんでゆくのを見、戸口の藁屋根の端からしたたり落ちるのを見た。びっくりしたように雨をながめていた子供は、落ちてくる雨の銀線をつかまえようと手をのばして笑った。家族たちも、いっしょに笑った。老人は土間の子供のそばにしゃがんで言った。
「どこへ行ったってこんなはしこい子供はいねえだ。弟のとこの餓鬼《がき》どもだって、歩く前にゃ、まるっきり知恵のついた様子はなかったものな」
畑で小麦が芽を出し、濡れた黒土の上に細い緑の葉を出した。
こういうときに百姓たちは、たがいに訪問しあった。天びん棒をかついで水桶をあちこちに運び、背筋を痛くすることなどしなくても、作物に水をやれるので、天が代わって畑で働いてくれている、と考えるのである。朝から彼らは、あちこちの家に集まり、そこここで茶を飲み、畑の小道づたいに大きな番傘《ばんがさ》をさして裸足《はだし》で家から家へと歩きまわった。女は、つましい女だったら、家にいて靴をつくったり着物をつくったり、新年のごちそうの準傭を考えたりした。
しかし王龍と妻は、あまり出歩かなかった。この部落には小さな家が五、六軒散在しているが、彼らの家ほど暖かく、なんでもそろっている家はなかった。あまり彼らと親しくなると、金を貸してくれと言われるだろうと、王龍はそれが心配だったのだ。正月は間近だし、だれだって新しい着物やごちそうがほしいのだ。彼は家にいて、妻がつくろいものをしたり縫い物をしたりしているあいだに、こわれた熊手《くまで》を修繕した。紐が切れているところは、自分が手塩にかけた大麻でつくった新しい紐で編み直し、先端が折れていると新しい竹の小片でそれを器用に直した。
彼が農具の修繕をしているあいだに、阿藍は家具の修繕をした。土壼にひび割れができたりすると、他の女たちのようにそれを捨てて新しいのを買おうとはせず、土と粘土とを混ぜ合わせて割れ目を埋め、手間をかけて焼いて、まるで新しいもののようにするのである。
だから、彼らは家にいて、たがいによろこび合うだけで満足だった。もっとも彼らの会話は例によって、ほんの片言くらいでしかなかった。たとえばこんなふうだ。
「新しく植えつける大カボチャの種はとってあるか?」とか「小麦の藁を売って台所の焚物《たきもの》は豆の茎にしよう」とか、また、たまには王龍も、こんなことを言うかもしれない。
「この麺《めん》はうまく料理ができただな」すると阿藍は、それに反対して言うだろう。「今年のは粉がいいからですよ」
豊年だったので王龍は収穫物から必要以上に銀貨を手に入れた。この銀貨を腹巻きに入れておくのだが、女房以外の人に知られるのが彼は心配でならなかった。ふたりは銀貨をしまっておく場所を相談した。妻が彼らの部屋の寝床のうしろの壁に小さな穴を器用に掘った。そして王龍がそのなかへ銀貨を入れると、妻は土くれでその穴にふたをした。外から見たのでは何があるのかぜんぜんわからなかった。しかし王龍と阿藍にとっては、秘密に富をたくわえているような気持ちであった。王龍は、必要以上に多くの金をもっているという意識がいつもあるので、友だちといっしょにいるときなど、自分にたいしても全部の人々にたいしても、ゆったりした態度をとった。
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五
正月が近づき、村ではどこの家もその準備に忙しい。王龍《ワンルン》は町へ行き、幸運と富裕を祈願する金箔の文字を書いた赤い四角な紙を、たくさんローソク屋で買ってきた。そして、それを、今年も幸運がさずかるようにと、農具にはりつけた。鋤《すき》にも、牛のくびきにも、肥料や水を運ぶ二つの桶にも、一枚ずつはりつけた。戸口には、幸運の金言を書いた細長い赤紙をはった。入り口の上には、美しい花の形に切った総状《ふさじょう》の赤い紙をはった。また地神に新しく着物をつくるためにも赤い紙を買ってきた。それを老人がふるえる手で器用につくり上げた。王龍はそれを持っていって、祠の小さな二つの地神に着せ、新年を祝って神前に香をたいた。中の部屋の壁にはってある神像のためには、赤いローソクを二本買ってきた。正月の宵《よい》、その神像の下のテーブルにローソクを立てて、火をともすのである。
それから王龍はもう一度町へ行き、豚脂と白砂糖を買ってきた。阿藍《オーラン》はその豚脂をねって白くしてから米の粉とまぜ合わせ、それに砂糖を加えて、りっぱな新年の菓子をつくった。この米の粉は、必要なときには牛に引かせられるような石臼で米を挽《ひ》いてつくったものである。これが月餅《ユイピン》という菓子で、黄《ホワン》家のような富裕な家でなければ食べないものである。
いつでも蒸せるように、菓子が一片ずつテーブルの上にならべてあるのを見て、王龍は胸がはちきれるほど得意になった。金持ちが祝祭日にしか食べないような菓子をつくれるような女は村じゅう、どこにだっていやしないと思った。阿藍はその菓子の上に小さな赤い山はぜの実や緑色の乾しぶどうをあしらって、花だの、いろいろな模様をつくった。
「食べるのが惜しいだな」と王龍が言った。
老人は、子供がきれいな色を見てよろこぶように、テーブルのまわりをうろうろ歩きながら、うれしそうに言った。
「わしの弟――おまえの叔父と、あれの子供たちを呼んで見せてやればいい!」
しかし王龍は、余裕ができてからは用心深くなった。空腹な人に菓子を見せびらかしたら、菓子だけではすまないのはわかりきっている。
「正月前に他人に菓子を見せるのは縁起が悪いだよ」彼は、あわてて答えた。米の粉と豚脂で手をべとべとにしている妻が言った。
「これは、あたしたちが食べるのではねえですよ。飾りのないのを一つか二つお客に出すだけですだ。あたしたちは白砂糖や豚脂を食べる身分じゃねえですからね。これは黄家の老夫人にさしあげるためにつくりましただ。正月の二日にお屋敷へ子供を連れて行くとき贈り物に持って行くだ」
それからお菓子は、いっそう貴重なものになった。王龍は、以前彼がびくびくしながら、みすぼらしいふうをして立っていたあの大広間に、妻が赤い着物を着た子供を連れ、最上の粉と砂糖と豚脂でつくった菓子を持って、訪問客として行くことを考えると、とてもうれしくなった。
この訪問のことを思うと、正月のそれ以外のことなど、まるで無意味になってしまった。阿藍が縫った黒木綿の新しい着物を着たときにも、彼は、こうつぶやいただけだった。
(妻や子供をお屋敷へ連れて行くとき、この着物を着て行くことにしよう)
元日に叔父や近所の人たちが、おおぜい年賀にきて、飲んだり食ったり陽気に騒いだが、彼はそんなことにもあまり心をひかれなかった。彼はあの菓子を、まちがって村の連中に出したりしないようにと思って、籠のなかへ入れてしまってあったのだが、それをみんなに見せてやりたくてたまらなかった。とりわけ、飾りのない白い菓子を、豚脂や砂糖の味がいいなどと言って彼らがほめたりするのを聞くと、「もっとりっぱなのがあるんだ」と言いたくてたまらなかった。
しかし、彼は黙っていた。あの大家の門をいばってはいること以外、ほかになんの望みもなかったからである。
そして正月の二日。元日は男たちがさかんに飲んだり食ったりするのだが、きょうは女たちが年始にまわる日である。その朝、彼らは未明に起きた。妻は子供に赤い着物を着せ、手づくりの虎の顔のついた靴をはかせ、王龍が大晦日《おおみそか》に剃ってやった頭には、小さな金色の仏像を前に縫いつけて上の抜けている赤い帽子をかぶせて、寝台の上にすわらせた。王龍が手早く着物を着がえているあいだに、妻は長い黒い髪の毛をとかして、王龍が買ってやった銀メッキの留め針でたばね、彼の新しい着物と同じ布地でつくった黒い新しい着物に着かえた。二丈四尺で二人分とれるのだが、呉服屋の習慣でそれだけ買うと二尺おまけしてくれるのである。王龍は子供を抱き、阿藍は菓子のはいった籠をさげて、冬枯れの畑の小道を歩いて行った。
王龍は、黄家の大きな門の前に立ったとき、じゅうぶん報いられた思いがした。というのは、阿藍の声に応じて出てきた門番が、おどろきの目をみはり、ほくろから生《は》えている例の長い三本の毛をひねりながら叫んだからである。
「農夫の王さんだね。いつかはひとりだったが今度は三人か」そして、みな新しい着物を着ていて、おまけに男の赤ん坊まで抱いているのを見ると、さらに言った。
「去年は、だいぶ運がよかったようだね。これじゃ、今年は去年よりも幸運でありますようにという言葉なんぞ必要ねえようだ」
王龍は目下のものにあいさつするような調子で、さりげなく答えた。「豊作でね――豊作だったでな――」そして彼は門のなかへゆっくりと足を踏み入れた。
門番はすっかり圧倒されて王龍に言った。「おかみさんと息子さんを案内してくるから、そのあいだ、わしのきたない小屋で休んでいておくんなさい」
王龍は、妻と子がこの家の老夫人への贈り物をもって中庭を横ぎって行くのを見守っていた。すべてが晴れがましい気持ちであった。彼らの姿が、つぎつぎと中庭を抜けて、しだいに小さくなって、とうとう見えなくなったとき、門番の小屋へはいった。そして、あばたのある女房にすすめられて、中の間のテーブルの左にあたる上座に、当然のことのように、わるびれず腰をおろした。そして彼女のさしだす茶を、軽く会釈しただけで前におき、こんな茶は口に合わぬといわぬばかりに、口をつけなかった。
だいぶ時間がたってから、門番が妻と子供を連れてもどってきた。彼は、ちょっと妻の顔を見て、うまく行ったかどうかをさぐろうとした。当初のころは理解できなかったが、いまでは妻の無表情な角ばった顔に、どんな小さな変化でも、ちゃんと読みとれるのである。妻は、まったく満足しているらしい様子だ。きょうは何も用事がないのではいれなかったが、女ばかりいる後房でどんなことがあったのか、彼は早く妻から聞きたくなった。
だから、門番と、あばた面《づら》の女房に、かんたんにあいさつすると、急いで阿藍を表へ連れ出し、赤ん坊を受けとった。子供は新しい着物に包まれて、よく眠っていた。
「どうだった?」彼は、うしろからついてくる妻に肩ごしにたずねた。このときだけは彼女の言葉のおそいのがいら立たしかった。彼女は、そばへ寄ってきて、声をひそめて言った。
「お屋敷では、今年はどうもうまくねえらしいですだよ」
彼女の言葉には、神々が腹をすかせて困っている、と話すときのような、ありうべからざることを言う、驚きの調子があった。
「どういうわけだ?」王龍は彼女をうながした。
しかし彼女は、急いで話そうとはしなかった。言葉を一つ、また一つとつかまえては口に出すので、骨が折れるのである。
「老夫人は去年と同じ着物を着ておられただ。こんなことは、これまで見たこともねえですだよ。奴隷たちも新しい着物を着てねえだ」そして、しばらく間をおいて、彼女はさらに言った。「この子のようにきれいな、いい着物を着ているのは、老大人の後房にも、ひとりもいねえだ」
彼女の顔に、微笑の波が、しずかにひろがって行った。王龍は声を出して笑い、子供をやさしく抱きしめた。なんておれはめぐまれているんだろう――まったくうまく成功したものだ! ひどく有頂天《うちょうてん》になっていたが、やがて、ふと恐怖におそわれた。広々とした空の下を、きれいな男の子を抱いて意気揚々と歩いているなんて、こんなところを、もし偶然通りすぎる悪霊《あくりょう》にでも見られたら、どうするのだ。なんてばかなまねをしたのだろう! 彼は急いで上着をひらき、赤ん坊の頭を胸のなかにおしこんで、大きな声で言った。
「うちの子供は、なんてかわいそうなんだろう。女の子だから、だれももらい手はねえし、おまけにあばた面《づら》だ。死んじまえばいいだ」
妻も、そのことをおぼろげながら理解したので、できるだけ早口に同意した。「ほんとにそのとおりですだ――そのとおりですだ」
これだけ用心したので、ふたりは安心した。王龍は、もう一度妻をせきたてた。
「なんであの屋敷が困るようになったか聞いてきただか?」
「あたしが以前その下で働いていた料理女と、ちょっと話をしただけだが」と彼女は答えた。「よその国へ行っている五人の若様たちが、湯水のように金を使うし、おまけに買った女があきると、みんな家へ送ってよこすので、お屋敷も、ながいことはあるまいと言っていただ。それに老大人も、毎年ひとりかふたりずつ妾《めかけ》をふやすし、老夫人は毎日、金貨にしたら二つの靴にいっぱいになるほどの阿片を吸ってしまうそうでね」
「そうか」王龍は茫然《ぼうぜん》として言った。
「それから三番目のお嬢様が、この春は結婚なさるだ」と彼女は話しつづけた。「その持参金は、王様の身代金ほど莫大《ばくだい》なもので、大きな都の顕職《けんしょく》の椅子が買えるほどだということですだ。持っておいでになる衣装は全部、蘇州や漢口で特別に織らせたものばかりで、よその国の女の流行に負けないために、上海から裁縫師がたくさん職人を連れてきて仕立てるのだそうですだ」
「そんなに金をかけて、だれと結婚するんだろう?」王龍は、そんな莫大な財宝が流れ出ることに感嘆と恐怖を感じた。
「上海の大官の次男坊だそうで」と阿藍は言った。そして、しばらく黙っていたあとで、つけ加えた。「老夫人が土地を売りたいとおっしゃっていただから、よほど困っていらっしゃるのだと思いますだ――お屋敷の南の、城壁のすぐ外にある土地ですだよ。肥えた土地で、城壁をかこんでいる濠《ほり》から簡単に水がひけるので、これまで毎年米をつくっていた場所ですだ」
「土地を売るって?」王龍はくりかえした。それでやっとうなずけた。「それじゃ、ほんとうに困っているんだろう。土地は、だれにとっても肉や血だものな」
彼は、しばらく考えていたが、急に思いついて手で頭を打った。
「なんで早く気がつかなかったんだろう」と彼は妻をかえりみて叫んだ。「その土地を買おう」
ふたりは顔を見合わせた。男は、よろこびにあふれており、女は茫然としていた。
「だけど、土地は――土地は――」彼女は口ごもった。
「おれは買うだ」彼は断固として言った。「あの大きな黄家から、おれは買うだ」
「でも遠すぎるだよ」彼女は驚いて言った。「あそこへ行くまでに、午前中が半分つぶれてしまいますだ」
「おれは買うぞ」母親がほしいものをくれないときの子供のように、彼は、しつこくくりかえした。
「土地を買うのはよいことだて」彼女は静かに言った。「泥壁のなかへお金をしまっておくより、たしかにいいと思いますだ。だけど、叔父さんの土地では、なぜいけねえだかね。叔父さんは、うちの畑の西側の土地を売りたがっているじゃねえですか」
「叔父貴の土地か」王龍は声を高めて言った。「あんな土地は、ほしくねえだ。ここ二十年も、叔父貴は、肥料も豆粕《まめかす》もやらねえで、いいかげんに引っかきまわしてつくってきた畑だ。土がまるで石灰みたいになってるだでな。おれは黄《ホワン》の土地を買うだよ」
彼は、『陳の土地』――隣家の陳の土地というのと同じような調子で、思わず『黄の土地』と言ってしまったのである。彼は、あのばかな、豪奢《ごうしゃ》な、むだ使いをする黄家の人々よりも、もっと財産家になりうるだろう。銀貨を用意して行って、率直に、じか談判をしよう。
「わたしは金を持っています。売りたいとおっしゃる土地の値段はいくらですか?」老夫人の前で、執事に言っている彼自身の声が聞こえるようだ。「ほかの人たちと同じようにわたしをあつかってください。正当な値段は、いくらですか。金は持っています」
そして彼の妻は――富貴におごる黄家の台所働きの一奴隷であった彼の妻は、幾代にもわたって黄家を富み栄えさせてきた土地の一部分を所有する男の妻になるのだ。彼女にも、その考えがわかったのか、急に反対するのをやめて言った。
「それじゃお買いなさるがいいだ。いずれにしても米のとれる田はいいものだて。それに濠《ほり》が近いから毎年水に困ることもねえでしょう。それは大丈夫ですだ」
ふたたびゆるやかな微笑が彼女の顔にひろがった。しかしその微笑は、その細い黒い目の憂うつそうな色を晴ればれとはさせなかった。しばらくたってから彼女は言った。
「去年のいまごろ、あたしはあのお屋敷の奴隷だった」
そして彼らは、このことを考えながら、黙って歩いて行った。
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六
彼のものとなった土地は彼の生活を著しく変化させた。最初は、壁のなかから銀貨をとり出して黄《ホワン》家へ持参し、老大人の執事と同格に話をするという名誉を味わったのであるが、すると彼は後悔に似たような気持ちになった。さしあたり必要のない銀貨をとり出してしまって、壁の孔が空洞《くうどう》になっていることを考えると、持って行った銀貨をとり返したくなったのである。けっきょく、土地を手に入れれば働く時間が多くなるわけであるし、また阿藍《オーラン》が言ったように、そこは一里以上も離れているのだ。これを買うことについても、予期したほど満足は得られなかった。彼が黄家へ行ったのは昼ごろだが、まだ早すぎて老大人は起きていなかった。彼は大きな声で言った。
「重要な用件できたと老大人にとりついでくれ。金に関する用件だというてな!」
門番は、はっきり答えた。
「世界じゅうの金を全部持ってきたって、わしは老大人を起こしには行かないよ。老大人は三日前に手に入れたばかりの桃花《タオホワ》という妾《めかけ》と寝ておられるのだ。起こしに行ったら殺されちまうよ」そして彼は、ほくろの毛を引っぱりながら意地悪げにつけ加えた。「銀貨くらいのことで老大人が目をさますなんて考えちゃ困るね。なにしろ銀のなかで生まれてきたようなお人なんだからね」
とうとう交渉は老大人の執事とのあいだで行なわれることになった。脂《あぶら》ぎった悪者で、金銭の取り引きとなると、かならずいくらかくすねてしまうし、握ったら絶対に離さない男なのである。土地を手に入れた後も、王龍《ワンルン》は、やはり土地よりも銀貨のほうが値うちがあるのではないかと思うことがしばしばあった。銀貨の価値は、だれの目にもはっきりとわかるのだ。
しかし、ともかく土地は彼のものとなった。二月のある曇った日、彼はその土地を見に行った。まだだれも、この土地が彼のものになったと知っているものはいなかった。城壁の周囲をとりまく濠に沿うて長くのびている肥えた黒土の長方形の土地を、彼はひとりで見て歩いた。長さ三百歩、幅百二十歩と、注意深く歩測した。境界の四隅《よすみ》には、黄家の所有であることを示す大きな石標がまだ立っていた。そうだ、この石標を変えるのだ。この石標をとり去って、そのかわりに彼の名まえを刻んだ石標を立てるのだ。しかし、彼が黄家から土地を買うほど金持ちになったと世間から思われるまでには、まだなっていなかった。何をしてもさしつかえないほど金持ちになってから、彼の名まえを刻んだ石標を立てることにしよう。この長方形の土地をながめわたして彼は心のなかで思った。
「あの大家にとっては、こんな土地はなんの意味もない。だが、おれにとっては、たいせつな土地なのだ」
そのうち、ふと気が変わって、こんな小さな土地をひどく貴重に思う自分が軽蔑に値するもののように思えてきた。なぜなら、執事の前にいばって銀貨をさし出したとき、彼はむぞうさにそれをかき集めて言ったからである。
「ともかくこれで老夫人の阿片を何日分か買えるというものだ」
まだ自分と黄家とのあいだのへだたりは、いま目の前に満々と水をたたえているこの濠《ほり》のように、あるいは、その向こうに昔のままの姿で横たわっている高い城壁のように、とうてい越すことができないほど大きなものだという気持ちに、とつぜん襲われた。そして彼は、怒りに燃えて決心した。この土地なんぞ、とるに足らぬと思えるほど、黄家から、たくさん土地を買うまでは、何度でも、あの壁の孔を銀貨でいっぱいにしよう。
こうしてこの一つかみの土地は、王龍にとっては、その野心の動機ともなり、象徴ともなったのである。
雨気をふくんだ雲を吹き流す風とともに春がおとずれてきた。冬のなかばを、ほとんど何もせずにすごした王龍は、長い一日を畑で死に物狂いに働きはじめた。このごろでは老人が子供のおもりをしてくれるので、妻は夜明けから夜の影が畑に落ちるまで、彼といっしょに働いた。ある日、王龍は妻がまた妊娠したことに気がついた。そのときまず頭にきたのは、とり入れ時に妻が働けなくなるだろうという腹立たしい思いであった。労働のためにいらいらしながら彼はどなりつけた。
「またおまえは、よりによって忙しいさなかに子供を生むのか」
彼女は、きっぱりと答えた。
「今度は、なんでもねえですだよ。苦しいのは初産のときだけですだ」
これ以上二番目の子供のことは何も話をしないでいるうちに、妻の腹のふくらみがめだってきて、秋のある日、とうとう生まれるときがきた。その朝、妻は鎌を下において、はうようにして家へもどって行った。その日、空には雷雲が重々しくたれこめており、稲の穂はこぼれるばかりにみのって刈り入れを待っているので、彼は昼食にも家へ帰らなかった。日が落ちる前に、彼女はふたたび彼のところへもどってきた。腹部がぺちゃんこになり、疲れきっているらしいが、顔には、それをあらわしてはいなかった。
「きょうはもういいだ。帰って寝てろよ」と言いたかったのだが、疲れきってからだが痛んでいたので、つい気持ちが残酷になっていた。きょうは、おまえがお産で苦しんだくらい、おれだって仕事で苦しんだのだ、と自分に言い聞かせた。だから、鎌を動かす合い間に、こう声をかけただけだった。
「男か、女か?」
彼女は静かに答えた。
「また男ですだ」
たがいにそれ以上何も言わなかったが、しかし彼はうれしかった。たえず腰を曲げてかがんでいるのも、そんなにつらくは感じなかった。紫色の雲の上に月が上るまで働きつづけ、刈り入れをすませてから家へ帰った。
王龍は食事をすませ、冷たい水で日にやけたからだを洗い、茶で口をすすいでから、二番目の息子を見に寝室へはいった。阿藍は食事のしたくをすましてから、寝床で横になっていた。そのそばに赤ん坊は寝ていた――ふとって、おとなしい子で、まず申しぶんはない。ただ最初の子ほど大きくはない。子供を見て王龍はすっかり満足して中の部屋へもどった。毎年、子供がつぎつぎと生まれるのだ――そのたびに毎年赤い卵をくばるのでは、たまったものではない。あれは最初の子のときだけでたくさんだ。毎年子供がふえる。家は幸運にみたされる――この女は幸運だけをもってきたのだ。彼は大きな声で父親に言った。
「おとっつぁん、孫がまた生まれたで、大きいほうは、おとっつぁんがいっしょに寝てやってくんなよ」
老人もよろこんだ。孫の若い新鮮なからだで、年老いて冷えるからだをあたためてもらいたくて、老人は前々から孫といっしょに寝たかったのだが、これまでは子供が母親から離れなかったのである。しかし、幼児らしくまだしっかりしない足つきでよちよちしながら、長男は母親の横に寝ている新しい赤ん坊をじっとみつめていたが、やがてその真剣な目で自分の場所を占領するものができたことを納得したらしく、文句も言わずに祖父の寝床に寝るようになった。
今年も豊作だった。王龍は作物を売って手に入れた銀貨を、また壁のなかにしまいこんだ。黄家の田からとれた米は、前からもっていた畑の二倍も収穫があった。その土地は土壌がしめっていて肥沃《ひよく》なので、稲が、はえてもらいたくないところにまで、まるで雑草のようにおいしげるのであった。その田をもっているのが王龍だということは、いまではもうだれでも知っていた。村では彼を村長にしようという話さえ起きてきた。
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七
このころになると、はじめからそうなるのではないかと恐れていたように、叔父が王龍《ワンルン》の重荷になってきた。叔父は、王龍の父の弟で、もし自分や家族が食えなくなったら、王龍によりかかるのが、親戚として当然の権利だと考えていた。王龍と父親が貧乏で食うものにもこと欠いていた時分には、叔父は自分の畑から、七人の子供と妻と彼が食べるだけのものを、どうやら手に入れていた。
ところが食えさえすれば彼らはけっして働かないのである。叔母は、家の掃除もしないし、子供たちは、顔にくっついている食べものすら洗うのをめんどうがった。娘たちは大きくなって結婚する年ごろになっても、村道をほっつき歩いて陽にやけて赤茶けた髪に櫛《くし》をいれようともせず、ときには男と平気で口をきくような恥さらしなことまでした。ある日、一ばん上の娘のそういうようすを見かけて、王龍は一族の恥だとふんがいし、思いきって叔母のところまで出かけて行った。
「あんなにどこの男とでも口をきくような娘は嫁の口がねえだぞ。もう三年も前から嫁入りの年ごろになっているのに、まだあちこちほっつき歩いているだ。きょうも村の往来で、どこかののらくら野郎が、肩に手をかけるのを、平気で笑っているだ」
叔母は、からだを動かすことはあまりすばしこくないが、口だけは達者だった。その舌で王龍にまくし立てた。
「そうかね。だけど、結婚の持参金だの嫁入りの費用だの媒酌人のお礼だの、そんなものはだれが払ってくれるだね。どうしていいかわからないくらい土地があるのに、あまった銀貨でご大家の土地までを買いこめるような身分ならけっこうだけどね。だけど、叔父さんは運のわるい人なんだよ。はじめから運がわるかった。なんで叔父さんの罪なもんかね、まわり合わせが悪いのさ。天がそうきめたんだよ。ほかの人の畑はいい収穫があるのに、背中が痛くなるほど働いても、叔父さんのまいた種子は枯れちまって雑草ばかりはえるんだものね」
叔母は、たわいもなく涙を流し、自分で自分を怒りにかり立ててわめき出した。後頭部の髪の結び目をかきむしり、髪の毛をふり乱しながら、あたりかまわず声をはりあげた。
「悪運にとっつかれるということがどんなことか――おそらくおまえさんにゃわかるまいがね。よその畑は、よい米や小麦がみのるのに、うちのは雑草ばかりはえちまうんだよ。よその家は何百年もそのまま建っているというのに、うちのは地面がゆれて壁が割れてしまうんだよ。よそでは男の子が生まれるのに、あたしは、いくら男の子をはらんでも生まれてくるときには女になってしまうのさ。ああ、なんて運が悪いんだろう」
あまり大きな声でわめき立てるので、近所の女たちは、何事が起きたのかと思って家からとび出して聞いていた。王龍は辛抱づよくそこに立っていて、言いにきたことだけは言った。
「そりゃそうかもしんねえだが」と彼は言った。「それに、おやじの弟になる人に忠告するなんて、おこがましいだが、これだけは言っておきてえ。娘は生娘《きむすめ》のうちに嫁にやったほうがいいだ。牝《めす》犬を気ままに表をうろつきまわらせておいたら、きっと子を生むだからな」
そうむき出しに言って、泣きわめく叔母の声を聞きすてて家へ帰った。彼は黄《ホワン》家から今年も土地を買おうと思っていた。できたら毎年、土地をふやして行きたい。また、家を建て増しすることも考えていた。彼は、自分と子供たちは大地主になろうとしているのに、だらしのない叔父の家族たちが、自分と同じ姓を名のってそこらをうろつきまわっていることを思うと、腹が立ってならなかった。
つぎの日、彼が畑で働いているところへ叔父がきた。阿藍《オーラン》は二度目の子供を生んでからもう十か月たつので、三度目のお産が近づいており、からだのぐあいがあまりよくないので、畑へこない日が数日つづいていた。王龍は、ひとりで働いていた。叔父は、いつも上着のボタンをかけたことがない。帯をだらしなくしめて押えているだけだ。だから突風でも吹いてくれば裸になってしまうだろう。そんなかっこうで叔父は畔道《あぜみち》をつたってやってきた。王龍のそばまできて、王龍がそら豆の横のせまい畝《うね》を鍬で耕しているあいだ、黙って立って見ていた。とうとう王龍は顔もあげずに意地わるそうに言った。
「悪いけんどな、叔父さん、いま仕事から手を離すことができねえだよ。知ってのとおり、そら豆をうまくそだてるにゃ、二度も三度も耕さなけりゃならねえだ。叔父さんとこは、もう終わったんだろう。おれは仕事がおそいし――貧乏百姓だし、休むひまもなく仕事をつづけなくてはならねえだ」
叔父には王龍のあてこすりがよくわかっているが、しかし、おだやかに答えた。
「おれは運の悪い男さ。今年は豆の種子をまいたら、二十のうち一つぐらいの割でしか芽を出さねえ。そんなひどい育ち方だもの、いまさら耕してみたところで、どうにもならねえ。今年は、豆を食おうと思ったら、買わなけりゃならねえだ」
彼は深くため息をついた。
王龍は心をかたくした。叔父が何かねだりにきたことを知っているのだ。彼は、ゆっくりと、一定した調子で、たんねんに鍬を土にうちこんで、すでに耕してあるところに残っている小さな土のかたまりを、こまかく砕いて行った。豆は、秩序正しく列をなして、まっすぐに伸び、明るい日の光に、小さな総毛《ふさげ》のような影を、くっきりと土に落としていた。とうとう叔父は話しはじめた。
「うちのものが言っていたが」と彼は言った。「おまえは、うちの一ばん上のやくざ娘のことを、たいへん気にかけていてくれるそうだな。まったくおまえの言うとおりだよ。おまえは年のわりにりこうな男だ。あの娘も、もう嫁に行ってもいい年ごろさ。もう十五だし、ここ三、四年は、いくらでも子供が生めるだ。あの娘が、どこかの野良犬にでもはらまされて、おれや家名に泥を塗るようなことをしなけりゃいいがと、おれはいつも心配していただ。もしもそんなことが、家名正しいおれの一族に、おまえの叔父にあたるこのおれのところに起きたら、それこそ一大事だでな!」
王龍は力を入れて、土に鍬をうちこんだ。彼は、はっきり言ってやりたかった。こう言ってやりたかったのだ。
(そんなら、なぜ娘をきびしく監督しねえだ。なぜ、家のなかにいるようにして、掃除をしたり洗濯をしたり料理をしたり家族たちの縫い物をしたりするようにしむけねえだ?)
しかし目上のものに向かって、そんなことは言えない。だから彼は黙って小さな豆の根もとを耕しながら叔父のつぎの言葉を待っていた。
「おれがもし運さえよかったら」叔父は悲しそうに言葉をつづけた。「おまえの父親やおまえのように、働きながら男の子を生むような女房がもらえただろうが、それにひきかえ、うちの女房ときたら、からだばかりふとって、女ばかり生みやがって、おまけに、ひとりしかないやくざな男の子は、あのとおりのらくらしていて、あれじゃ、いっそ女のほうがましなくらいだ。そうでなけりゃ、おれだっておまえくらいの金持ちになっている。おれがもし、いまのおまえくらいの金持ちになっていたら、よろこんでおまえに財産を分けてやるだろうて。おまえの娘を、りっぱなところへ縁づけてやるし、おまえの息子は身許《みもと》保証金をつんで商家へ住みこませてやる。おまえの家は、よろこんでおれが修繕してやる。おまえだの、おまえのとこの父親や息子たちには、一ばん上等のごちそうを食わせてやる。なんといっても、おれたちは血がつながっているだでな」
王龍は、ぶあいそに答えた。
「知ってのとおり、わしは金持ちじゃねえ。わしはいま五人の口を養わなくちゃなんねえだ。おやじは年とって働けねえけれど、食のほうは変わりがねえだでな。それに、もうじき、また食う口が一つふえるだよ」
叔父の声は、するどくなった。
「おまえは金持ちだ。――金持ちだよ。おまえは、あの黄家から土地を買ったじゃねえか、どんなすごい値段で買ったか知らねえがよ――そんなことのできるものが、この村にいると思うのか?」
こうまで言われると、王龍の怒りは、かき立てられた。彼は鍬をたたきつけ、叔父をにらんで、とつぜん大きな声でどなった。
「もしわしが金を持ってるとしたら、それはわしと女房とが働いたからだ。だれかみてえに、畑にゃ雑草をはやすし、子供らにゃ腹いっぱい食わせもしねえのに、バクチ場に行ってのらくらしていたり、掃除もしねえ戸口でばか話をしたりしねえからだ」
叔父の黄いろい顔に血がのぼった。いきなり甥《おい》におどりかかり、その両|頬《ほお》を力まかせにひっぱたいた。
「なんだと」彼は叫んだ。「おやじの弟に向かって、なんということをぬかすだ。叔父にたいする礼儀もわきまえねえとは、きさまは神の教えを知らねえのか。人の道も知らねえのか。長上のあやまちをただすなかれという聖人の言葉を、聞いたことはねえのか」
王龍は、むっつりと、動かずに立っていた。言いすぎたことは認めるが、しかし、この叔父という男に心の底から怒りを感じていた。
「村じゅうに、おまえの言ったことをふれ歩いてやる!」叔父は、しわがれた声で、はげしくわめき立てた。「きのう、おまえはうちへきて、おれの娘は生娘じゃねえと大きな声で往来でどなったそうだ。そしてきょうは、おれに恥をかかせた――おまえのおやじが死んだら、おまえの親がわりになるこのおれに! おれんとこの娘たちは生娘じゃねえかもしれねえ。だけど、そんなことを言うやつはひとりもいねえぞ」そして彼は幾度もくりかえした。「村じゅうにふれてやる――村じゅうにふれてやる……」
とうとう王龍はまいって、しぶしぶ言った。「おれにどうしろというのだ?」
こういうことを村じゅうに言いふらされると、まったく彼の体面にかかわるのである。なんと言っても、叔父とは骨肉のつながりがあるのだ。
叔父はすぐに、がらりと態度を変えた。怒りは消え去った。微笑して王龍の腕に手をかけた。
「そうとも、わかってるよ――おまえはいい人間だ――いい人間だて――」彼はやさしい声で言った。「この叔父には、よくわかるよ――おまえはおれの息子も同然だものな。そこで、なあ、この哀れな老人の掌《てのひら》に、ちっとばかり銀貨をのせてくれんかい――そう、十個、いや、九個でもいいだ。そうすりゃ、娘の嫁入り口を頼みに媒酌人のところへも行けるというものだ。まったく、おまえの言うとおりだて。いまがその時期なんだ――いまがその時期なんだよ」彼は、ため息をついて首をふり、神妙な顔をして空を仰いだりした。
王龍は鍬《くわ》を拾いあげたが、また地面にたたきつけた。
「家へきてくれ」彼は、そっけなく言った。「おれは身分の高い人たちみたいに、いつも銀貨をもって歩いてやしねえだから」王龍は、もっと土地を買おうと思っていた銀貨が、叔父の手にわたり、日の暮れる前に、バクチ場のテーブルの上で消えるのだと思うと、口をきくのもいまいましく、何も言わずに、さきに立って歩いて行った。
家へ帰ると、戸口のところで、ふたりの子が、あたたかい日ざしに裸で遊んでいたが、かまわず彼は大股《おおまた》に家のなかへはいった。叔父は、屈託のないようすで子供たちを呼び、よれよれの着物のどこかのすみから銅貨をとり出して、一枚ずつ子供たちにやった。そして、その小さな、ふとった、健康そうなからだを引きよせ、彼らのやわらかい首筋に鼻をおしつけて、いかにもかわいくてたまらぬといったようすで、黒く陽やけしたからだのにおいをかいだ。
「うん、ふたりともいい子だ、いい子だ」彼は両手にひとりずつ抱きあげて言った。
しかし王龍は足をとめなかった。彼は、自分と妻と一ばん小さな子供が寝ることにしている寝室へはいって行った。戸外の陽ざしのなかからはいってきたので、ひどく暗く、窓がわりの孔からさしこむ光のほか何も見えなかった。しかし、そこには、よくおぼえているなまあたたかな血のにおいが漂っていた。彼は、するどく言った。
「どうしただ――生まれたのか?」
妻は、いままで聞いたことがないほど弱々しい声で寝床から答えた。
「また生まれただ。今度は、奴隷ですだ――とり立てて言うほどの値うちもねえだ」
王龍は、じっと立っていた。困ったという感じが胸をうった。女か! 叔父の家でやっかいなことばかり起こるのも、すべて女の子が原因なのだ。いまそれと同じように女の子が彼の家に生まれてしまったのだ。
彼は何も言わず、壁のところへ行って、隠し場所のしるしであるざらざらした個所を手さぐりして土のふたをとりのけた。そこにしまってある銀貨を手さぐりで九個かぞえた。
「銀貨をもち出して、なにするですだ?」妻が暗闇のなかからふいに声をかけた。
「叔父に貸さなけりゃならねえだ」彼は手みじかに答えた。
妻は、はじめ何も言わなかったが、やがて、いつもの抑揚のないたどたどしい調子で言った。
「貸すとは言わねえほうがいいですだよ。あの家では借りるということはねえだ。もらうということがあるだけだで」
「それはおれにもわかってる」王龍は、にがにがしく答えた。「血のつながりがあるというだけで、銀貨をやるのは、肉を切りとってやるようなものだでな」
そして戸口へ行って、叔父に金を投げるようにあたえると、急いで畑へもどり、大地の底まで掘りかえすような勢いで働きだした。しばらくは銀貨のことだけが頭にあった。銀貨――彼がもっと土地を買いたいと思って、苦しい思いをして、畑の作物から手に入れ、たくわえておいた銀貨が、むぞうさにバクチ台のテーブルの上に投げ出されるのを見、やくざ者の手にさらわれるのを心のなかに見るのであった。
怒りがおさまる前に夕方がきた。彼は腰をのばし、家のことや食事のことを思い出した。そして、きょう新しく養うべき口が一つふえたことを考えた。彼の家にも女の子が生まれはじめたことが重苦しく胸にきた。女の子は両親に属さないで、他家のために生まれ育てられるのだ。さっきは叔父のことを怒っていたので、新しく生まれた小さな子の顔を見ようともしなかった。
彼は鍬によりかかって、重い気分にとらわれた。近くまた土地を買いたいと思っていたのだが、つぎの収穫期がこないことには、それも買えそうもない。家では養わねばならぬ口がまた一つふえてしまったのだ。
薄暮の青白い真珠色の空を横ぎって、くっきりと黒いからすの群れが、大きな声で鳴きながら頭上を飛ぶ。からすの群れは、彼の家のそばの木立ちに、雲のように降りて行った。彼は、あとを追って行って、大きな声でどなりつつ鍬をふりまわした。からすの群れは悠然《ゆうぜん》と舞いあがり、嘲笑するように鳴きながら彼の頭上を二回ほどまわってから、暮れかかる空のなかへ飛び去った。
彼は大きな声でうめいた。凶兆なのだ。
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八
神というものは、一度人間に背を向けたら、あとはもう二度とその人のことは考えてくれないようである。初夏に降るべきはずの雨がなく、くる日も、くる日も、空は生気にみち、無情に輝いていた。土地が乾《かわ》こうが飢えようが、神々にとっては、そんなことは問題ではない。夜明けから夜明けまで空には一片の雲もなく、夜は金色の星が残酷なまでに美しく空にかかっていた。
王龍《ワンルン》は死にものぐるいに耕したが、畑は乾いてひび割れができた。春の訪れとともに、勇ましく伸びてきて実を結ぼうとしていた若い小麦は、大地からも天からも養分がこないので生長がとまり、最初は、はげしい日光の下に身動きもせず立ちつづけていたが、やがてとうとうみのらぬまましなびて黄ばんでしまった。はじめに種子をまいた苗しろは、褐色になった大地に四角形の碧玉《へきぎょく》のように残っていた。小麦をあきらめてからというもの、彼はこの苗しろに水をやるために、毎日毎日、重たい水桶を竹|竿《ざお》でかついで運んだのである。しかし肩にくぼみができ、茶わんほども大きなタコができても、雨は降らなかった。
とうとう池の水が粘土質の底を見せるほど干あがってしまい、井戸の水すら乏しくなったので、阿藍《オーラン》は、たまりかねて彼に言った。
「子供が水を飲んだり、老人が湯をのんだりしたら、作物が乾いてしまうだ」
王龍は怒ったが、彼もまた泣いていた。
「そうだ。作物が枯れたら、みんな飢え死にしなきゃならねえだ」事実、彼らの生活は全部、土地にたよっているのだ。
収穫があったのは濠端《ほりばた》の田だけであった。雨を降らせずに夏がすぎたとき、王龍は他の畑を全部あきらめて、朝から晩まで、この田だけにつきっきりで乾ききった土に濠から水をくんでは注ぎ入れたので、どうにか助かったのである。この年だけは彼も、はじめて、収穫した米をすぐ売ってしまった。そして、掌《てのひら》に銀貨をのせたとき、彼は、いどむようにそれをかたく握りしめた。神々がどうであれ、また旱魃《かんばつ》がどうであれ、決心したことは、かならずやりぬくのだ、と自分に誓った。この一握りの銀貨を手にするために、骨身をけずり汗を流したのである。これで、やろうと思ったとおりのことをやるのだ。彼は急いで黄《ホワン》家へ行き、執事に会って、礼儀も抜きにして言った。
「濠端のわしの田のつづきの土地を買う金を用意してきましただ」
この一年ほどのあいだに黄家が財政的にひどく困ってきたということを、王龍は、すでにあちこちで聞いていた。老夫人は幾日も幾日も、満足するだけの阿片が手にはいらないので、まるで老虎《ろうこ》のようにいきり立ち、毎日、執事を呼びつけては悪口雑言を浴びせ、扇で顔を打ったりして、彼の頭が変になるまで、「もう売る土地はないのか?」と言ってせめるのだそうである。
執事がよほど頭が変になった証拠には、いつもなら取り引きのたびにくすねる金まで老夫人の阿片のために提供したほどである。しかも、それでもまだ十分ではないのか、老大人は、また新しく妾《めかけ》をひとりもったのである。老大人が若いころかわいがってやった女奴隷が、妾として部屋へ入れるほどでもないので下男と結婚させたのだが、その女の生んだ娘であった。この女奴隷の生んだ娘は、まだ十六歳にしかならず、これを見ると、彼は新しい情欲を燃やしたのである。というのは、彼は年老いて、身動きも不自由なほどふとってくると、今度は、ほっそりとした、若い子供のような少女が好きになってきたらしい。
老夫人が阿片におぼれるように、彼は色欲におぼれていた。愛妾《あいしょう》たちに宝石の耳飾りをやろうにも、そのきれいな手に銀貨をやろうにも、その余裕がないということなど、老大人には理解すべくもなかった。生まれてからこれまで、いついかなるときでも、手をのばせばお金はあるものと思いこんでいるので、「金がない」という言葉の意味がわからないのだ。
親たちがこういう調子だから、若い公達《きんだち》までが、何を言っても肩をすくめるだけで、なあにまだ自分たちが死ぬまで豪奢《ごうしゃ》にやっていけるだけのものはあるだろう、などと言っていた。彼らは、財産の管理法が悪いのだという一点でだけは完全に一致して執事をせめ立てていた。だから、これまで脂《あぶら》ぎって、すべすべとふとって、満ち足りた、安楽な暮らしをしていた執事は、いまはみなからせめられて、その気苦労のために、肉は落ち、皮膚は古い着物のように垂れさがるほどたるんでしまった。
天は黄家の田畑にも雨を降らせなかった。だから収穫はぜんぜんなかった。王龍が執事のところへきて「銀貨を持っている」と言ったのは、飢えている人に向かって、「食物を持っている」と言うのと同じことだった。
執事は、すぐにとびついてきた。以前なら、値切ったり茶を飲んだりしたものだが、今度ばかりは小声で熱心に話しあい、そして用談がすむが早いか、銀貨は王龍の手から執事の手にわたり、契約書に署名|捺印《なついん》され、土地は王龍のものとなった。
肉であり血である貴重な銀貨を手離したことを、今度も王龍はつらいとは思わなかった。その銀貨で彼の渇望《かつぼう》するものを買うことができたからである。今度の土地は、最初買った土地の二倍もあった。だから彼は、いまでは良質の耕地をたくさん持つことになったわけである。だが、彼にとっては、その土地が、黒土で肥えているということよりも、それがかつては富貴を誇る一族のものであったということのほうが重大だった。今度は、だれにも、阿藍にさえ、この土地を買ったことを話さなかった。
幾月か過ぎたが、雨はまだ降らなかった。秋が近づくと、空には小さな軽い雲が、しぶしぶ寄り集まってきた。村道では人々が、することもなく憂わしげに空を見あげ、一生けんめいにこの雲を判断して、どの雲が雨を降らすだろうかなどと話しあっていた。しかし、雨を降らすだけの雲が集まらないうちに、遠い砂漠から吹いてくる乾燥した北西の風が、ほうきで床からほこりを掃き出すように、空から雲を吹き払ってしまった。そして、いたずらに晴れあがった空には、毎朝、太陽がのぼり、軌道を行進して、毎夜、孤独に沈んで行った。すると月が、光度の強い太陽のように、照り輝いた。
王龍は畑から枯れ残った大豆をわずかばかり収穫した。そして、苗しろの苗が水田に移す前に、黄ばんで枯れてしまったあとの、だめになるのを承知でまいたトウモロコシからも、そこここに、まばらに実がくっついているようなのを、わずかばかり収穫して、打穀するときも一粒もむだにできなかった。打穀場で阿藍とふたりで豆殻《まめがら》を打ったあと、ふたりの子供に落ちている豆つぶを拾わせた。トウモロコシも中の部屋の床の上で豆つぶが遠くへ飛ばないように用心しながらたんねんに実をもいだ。彼がその穂軸を燃料にするためにとっておこうとすると、阿藍が言った。
「いいえ――燃やすなんてむだなことをしてはいけねえだ。あたしがまだ子供で山東にいたころ、やはり旱魃《かんばつ》の年だったが、トウモロコシの穂軸を食べたことをおぼえてるだ。食物としては草よりもましですだよ」
彼女がそう言ったとき、彼らはみな、子供でさえ黙ってしまった。こんなにも奇妙に照りつづいて土地がみのらぬときには、だれしも何かしらおそろしい予感を感じるものである。恐怖を知らないのは、小さな女の子だけだ。母親の大きな二つの乳房が、まだその必要を満たしているからである。阿藍はその子に乳房を吸わせながらつぶやいた。
「さあ、おあがり、かわいそうな子――おあがり、飲めるうちに飲んでおくんだよ」
やがて、災禍はこれでもまだ十分でないかのように、阿藍はまた身ごもって、乳がとまってしまった。家じゅうが、食べものを求めて絶えず泣きつづける赤ん坊の声に戦慄《せんりつ》した。
もしだれかが王龍に、
「この秋はどうやって食いつなぐだかね?」ときいたら、彼はこう答えただろう。「知らねえだ――だけど、なんとか食ってくだよ」
しかし、だれもそうたずねる人はいなかった。「どうして食っているか?」と他人にきくようなゆとりのある人は、この地方にひとりもいなかった。「おれはどうしたらきょうしのげるか?」と自分にきくだけであった。そして親たちは、「おれたちはどうしたらしのげるか。おれの子供たちは?」と心につぶやいた。
王龍は、できるかぎり牛のめんどうをみていた。牛には少量の藁《わら》や蔓《つる》をあたえていたが、それがなくなると、林から木の葉を集めてきてあたえた。しかし冬がくると木の葉も手に入らなかった。耕すべき土地もなく、たとえ種子をまいたところで全部干あがってしまった。その種子もいまは全部食べてしまったので、牛を放して勝手に自分で食物をあさらせることにした。盗まれないように牛の鼻に通した綱を持たせて、長男を一日じゅう牛の背に乗せておいた。しかし、とうとうそれすらできなくなった。村の人たちが、隣家の人たちでさえ、子供をおっぽり出して牛を奪い、殺して食べてしまうかもしれないからだ。そこで戸口のところへつないでおいたが、牛は骸骨《がいこつ》のようにやせ細ってきた。
そのうち米も麦もなくなり、ほんのすこしばかりの大豆と、わずかばかりのトウモロコシしか残っていない日がきた。牛は飢えのために低くうなった。老人が言った。
「このつぎは牛を食うだ」
王龍は声を出して泣いた。彼にしてみれば、「このつぎは人間を食うだ」と言われたようなものであった。彼がまだ若いころ、仔牛《こうし》のときに買って以来、この牛は彼の仲よしだった。野良では彼の相棒であり、その日の機嫌しだいで、ほめたりののしったりしながら、いっしょに畑を耕してきたのである。
「どうして牛が食えるだ? そしたら、これからどうして畑を耕すだ?」
しかし老人は平気で答えた。
「そうか。だが、それはおまえの生命が大事か牛の生命が大事か、子供の生命と牛の生命とどっちが大事か、という問題だて。牛はまた買えるだが、人間の生命は、そうかんたんにゃ買えねえだ」
しかし王龍はその日、牛を殺そうとはしなかった。つぎの日も、またそのつぎの日もそのまま過ぎた。子供たちは食べるものを求めて泣き叫ぶが、何も食べるものはなかった。阿藍は子供たちのために懇願するような目で王龍を見た。やっと彼は覚悟をきめた。彼は、ぶっきらぼうに言った。
「そんなら殺すがええだ。だけど、おれにゃできねえ」
彼は寝室へはいって、寝床にもぐりこみ、牛の断末魔の悲鳴を聞かないように、頭からふとんをかぶった。
阿藍は、たどたどしい足どりで出て行き、台所にある大きな庖丁《ほうちょう》を持ち出して牛の頚動脈《けいどうみゃく》を切り、その生命を断ち切った。鉢をもち出してきて、料理用にするために血は鉢に受けた。それから皮をはいで、大きな肉のかたまりを小さく切って始末した。王龍は、すっかりその処分が片づき肉が料理されてテーブルの上に出されるときまで部屋から出てこなかった。牛の肉を食べようとするのだが、胸がむかむかして、どうしても食べられなかった。スープをすこし飲んだだけだった。すると阿藍が言った。
「牛は、ひっきょう牛にすぎねえだ。それに、この牛は年とってるだ。いつかは、これよりもずっといい牛を買える日もくるだで、気にせずに食べるがいいだよ」
王龍は、いくらかなぐさめられて、一口、そしてもう一口と食べた。ほかのものも、みな食べた。牛の肉は、やがてとうとうなくなってしまった。骨まで砕いてしゃぶったが、肉も骨も思ったよりも早くなくなり、阿藍が竹のわくにひろげて乾しておいた、こちこちに固くなった皮だけが残った。
最初、村人たちは、王龍が銀貨をかくして持っているし、食糧も貯蔵していると想像していたので、彼にたいする風当たりは強かった。なかでも、まっさきに食うものがなくなった叔父は、彼の戸口へきて、うるさく食物をせがんだ。事実、叔父と叔母と七人の子供たちには、食べるものが何もなかったのである。王龍は、しぶしぶ叔父の上着のなかへ大豆をすこしと貴重なトウモロコシを二握りほど入れてやった。そして、きっぱりと言った。「これがせいいっぱいだ。かりに子供がいないとしても、まず一ばんに老人のことを考えなくちゃいけねえだでな」
そのつぎ叔父がねだりにくると、王龍はどなりつけた。
「親類の義理ばかり考えていたら、おれんとこが食えなくなるだ!」そして叔父を手ぶらで追いかえした。
この日から叔父は、足蹴《あしげ》にされた犬のように彼に敵意を抱くようになった。そして村じゅうに言いふらした。
「おれの甥《おい》のやつはな、銀貨を持っているし、食物も持っているだ。それだのに、おれたちには何も分けてくれねえだ。骨肉を分けた間柄のおれや、うちの子供たちにさえくれねえ。おれたちは飢え死にするだけだ」
この小さな村では、一軒また一軒と、つぎつぎにどの家でもたくわえがつきてきて、最後の銅貨すら、品物のとぼしい市場で使ってしまった。冬の風は白刃《はくじん》のように冷たくかわききって砂漠から吹きつけてきた。村人たちの心は、彼自身の飢えと、せきたてる妻や泣き叫ぶ子供たちの飢えとで気も狂うほどになった。そんなときに王龍の叔父は、やせ犬のようにふるえながら往来をうろついて、その飢えたくちびるからささやいた。「あそこには食糧があるぞ。――あそこでは子供たちがふとってるだ」
そこで村人たちは、ある夜、棒を持って王龍の家へ押しかけ、戸をたたいた。彼が近所の人の声に戸をあけると、人々は彼に襲いかかって、戸外へ引きずり出し、おびえている子供たちまで家の外へ追い出して、どこに食物がかくしてあるかみつけ出そうと、あらゆるすみずみまで探しまわった。彼らがみつけ出したのは、わずかばかりの乾燥した大豆と、茶わん一杯ほどの乾燥したトウモロコシだけだった。彼らは、がっかりしてやけになり、テーブルや腰掛け、老人がびっくりして泣いている寝床など、家具類まで強奪しようとした。
そのとき、阿藍が彼らの前に立ちふさがって口を開いた。抑揚のない、ゆっくりした声が、高くひびいた。
「それはいけねえだ――まだいけねえですだ」彼女は大きな声で言った。「この家からテーブルや腰掛けを持って行くのは、まだその時期ではねえだ。あんたがたは、あたしたちの食物を、全部とってしまっただ。だけど、あんたがたの家では、まだテーブルも腰掛けも売ってやしないじゃねえだか。あたしたちのも残しておいてくだせえ。あたしたちの立場も、あんたがたと同じですだ。大豆でもトウモロコシでも、あんたがた以上には持ってねえだ――いいえ、あんたがたは、あたしたちのをみんなとってしまっただから、あんたがたのほうがよけいに持っているわけだて。これ以上とろうとしたら、天罰がおりるだ。さあ、これからみんなでいっしょに行って、食べられる草をさがしたり、木の皮をはいだりしようじゃねえだか。あんたがたは、あんたがたの子供さんのために、あたしたちは、あたしたちの三人の子と、それからこんなときに生まれてくる四番目の子のために」
彼女は叫びながら片手で腹部を押さえていた。人々は、もともと飢えてさえいなければ悪人ではないのだから、彼女のことばに恥ずかしくなって、ひとりひとり、こそこそと出て行ってしまった。
陳という、小柄な、もの静かな、黄ばんだ顔色の、ふだんでも猿みたいな顔つきの男が、いまはやせて気づかわしげな表情で、ひとりだけそこに残っていた。根が善良な男で、泣き叫ぶ子供を見かねてこんな乱暴をしただけなので、自分の行ないを恥じ、詫《わ》びを言いたがっていた。だが彼は、さっき貯蔵物をみつけ出したときにかっぱらった一握りの大豆を、ふところにしまっていた。詫びを言うとなると、それを返さねばならなくなる。それがこわかった。だから彼は、やつれた、なんともいえぬ目で、王龍を見ただけで、そのまま立ち去った。
王龍は前庭に立っていた。収穫期には穀物を打ってきた場所であるが、ここ数か月は使われることもなく、うちすてられてあった。――この家には、老父と子供たちを養う食物は何ひとつない。妻は、自分だけでなくそのからだのなかに生長しつつあるもう一つの生命をも養わなければならないのだが、その妻に食べさせるものも何ひとつない。この新しい、火のようなもう一つの生命は、残酷にも母親の肉や血から養分を吸いとっているのだ。彼は一瞬、非常な恐怖を感じた。だが、やがて彼の血のなかに酒のように流れるものがあって、それが彼をなぐさめた。彼は心のなかで言った。
(あいつらだって、おれから土地を奪うことはできねえだ。おれは、おれの労働と畑にみのったものとを、彼らが奪うことのできねえ土地にしておいた。もし銀貨にしておいたら、みんな持って行かれてしまっただろう。その銀貨で食料を買ってたくわえておいたとしても、それも全部持って行かれただろう。おれはまだ土地を持っている。土地はおれのものだ)
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九
戸口にすわりこんでいた王龍《ワンルン》は、どうしてもいまどうにかしなければならぬ、と心でつぶやいた。この何もない家に残って死を待つわけにはいかない。日ごとに帯をしめ直さなければゆるんでくるほど、からだはやせ細っているが、しかしそこには生きようという決意があった。男盛りの年齢に達したばかりだというのに、愚かしい運命のために生命を奪われるなんて、いやなことだ。しばしば感じるあのなんとも説明できぬ怒りを感じた。ときどきその怒りにかられ、狂気のように打穀場へとび出して、頭上に永遠に青々と澄みわたって雲もなく輝いている愚かな空に向かって腕を振りまわした。
「やい、天にいるおいぼれじじい! ばか野郎!」彼は向こう見ずにどなった。ちょっとのあいだ天罰を恐れる気持ちになるが、つぎの瞬間には、また思いかえして、いまいましげに叫んだ。「これ以上悪いことなんて起こりっこねえや」
飢えて弱りきった足を一歩一歩ひきずって、地神の祠《ほこら》へ行き、女神とともに悠然《ゆうぜん》と鎮座している小さな神の顔に唾《つば》を吐きかけたこともあった。この二つの神の前には、いまはもう線香の煙はあがっていなかった。ここ数か月、お詣《まい》りしたものもいなかった。紙の衣はぼろぼろになって、裂け目から泥肌《どろはだ》があらわれている。しかし何ものにも心を動かされず泰然《たいぜん》とすわっていた。王龍は歯ぎしりして、神を呪い、うなりながら家へ帰って寝てしまった。
起きているものは、ほとんどいなかった。起きている必要がないのだ。発作的な睡眠が、すくなくともしばらくのあいだは空腹を忘れさせてくれた。彼らはトウモロコシの穂軸をかわかして食べたり、木の皮をはいだりした。村じゅうの人が冬枯れの山々へ行って、草の根を食べあさった。動物なんぞ、どこにもいなかった。幾日歩きまわったところで、牛やロバはおろか、どんな種類の動物も鳥も見られなかった。
子供たちの腹は、何もはいっていないのに、ふくれあがっていた。このごろでは村道で遊んでいる子供はひとりもいなかった。王龍のふたりの子供は、戸口まではって行って日向ぼっこをするのがやっとだった。残酷な太陽は、無限に照らしつづけていた。まるまるとふとっていた彼らのからだは、やせて、骨ばってきて、異常にふくれている腹のほかは鶏のようにぎすぎすした細い骨があらわになった。女の子は、もう歩ける時分なのに、まだひとりですわることもできず、古ふとんにくるまって、不平を言う力もなく、幾時間でも眠りつづけていた。はじめのころは、怒って泣くその泣き声が、家じゅうにひびきわたっていたが、いまはまったく静かになって、なんでも口に入れてやれば弱々しく吸うだけで、声も立てなかった。小さな空虚な顔つきで、みんなを見ていた。小さな口は歯のない老婆のように青く落ちくぼみ、うつろな黒い目で見ているのだ。
この小さな生命が、こんなになっても生きつづけていることが、父親にはいじらしくてならなかった。もしこれが、上の子たちがその年ごろにそうであったように、まるまるとふとって元気だったら、おそらく彼はこの女の子に、まるで関心がなかったろう。ときどき彼女を見ては、彼は、やさしくあやしてやった。
「かわいそうにな――ほんとに、なんておまえはかわいそうなやつなんだ――」
一度、彼女が歯のない歯ぐきを見せて、笑って見せたときなど、彼は涙を流し、やせた固い手で彼女の小さな足を握り、そのかわいい指を手でさすってやった。それ以来、ときどき彼は、裸体のままの彼女を上着のふところに入れて、からだの熱であたためてやりながら、戸口にすわって、かわいて荒れはてた耕地を、ぼんやりとながめていた。
老人はといえば、彼は、だれよりも大事にされていた。何か食べるものがあれば、子供たちにやらなくても老人には食べさせた。王龍は死ぬまで父親への孝行を忘れなかったと、だれもが言うだろう。彼は誇らしげにそう考えていた。彼は自分のからだの肉を切りとってでも、老父を養わなければならぬ、と思っていた。老人は夜となく昼となく眠り、あたえられたものは、なんでも食べ、日が暖かく照る日の正午ごろには、まだ戸口まではって行く気力があった。彼は、だれよりも陽気だった。ある日老人は、弱い風が竹筒のなかを吹きぬけるような老いぼれた声で言った。
「これよりももっと悪い年があっただ――もっと悪い年があっただよ。一度なんざ、男や女が子供を食うのを見たことがあるだ」
「うちじゃ、そんなことだけはしねえだ」王龍は恐怖を感じて言った。
ある日、隣家の陳が人間の形とも思えぬほどやせ衰えた姿で王龍の家の戸口へきて、土のように黒くかわいたくちびるでささやいた。
「町では犬まで食ってるだよ。どこでも馬でも鳥でも手当たりしだいに食ってるだ。おれたちは畑で働かせる動物も草も木の皮も食いつくしてしまった。おまえんとこにゃ食えるものが何か残っているだかね?」
王龍は絶望的に頭を振った。胸には、かぼそい骸骨のような女の子を抱いていた。その弱々しい骨ばかりの顔と、胸のなかからたえず彼を見あげているするどい悲しそうな目とを彼は見おろした。目が合うと、女の子の顔には、ゆらめくような微笑がうかんだ。それが彼の心をしめつけた。
陳は顔を寄せてきた。
「村じゃ人間の肉まで食ってるだぞ」彼はささやいた。「おまえの叔父さんや叔母さんは食ってるそうだ。さもなけりゃ、どうしてあの人たちが生きていられるだ。どうしてそこらをうろつくだけの力が残っているだ? あの人たちが何も持っていねえことは、だれだって知っているだに」
しゃべりながら近づけてくる陳の死のような顔から王龍は身をひいた。近くで見る陳の目の不気味さに、彼はぞっとした。とつぜん王龍は何かわけのわからぬ恐怖に襲われた。彼は迫りくる危険をふりはらうように、いきなり立ちあがった。
「この村を出よう」彼は大きな声で言った。「南へ行くだ! この広い国だで、どこも飢饉だというわけはねえだ。どんなに天が意地悪でも、まさか漢民族をみな殺しにすることもあるめえて」
隣家の男は、あきらめたように彼を見ていた。「おまえは若いだものな」彼は悲しげに言った。「おれも女房も、おまえよりも年とっているだ。ほかにゃ娘がひとりいるだけだて。ぞうさなく死ねるだよ」
「おまえのほうが、おれより運がいいだ」王龍が言った。「おれは老いぼれの父親と三人の子供をかかえているうえに、もうひとり、生まれかかっているのがいるだ。人間の本性を忘れてからに、野良犬みてえにたがいに食い合うようなことをしねえためにも、この土地を出て行かなけりゃならねえだ」
すると、とつぜん彼は自分の言ったことが非常に正しいことのように思えてきた。そこで大きな声で阿藍《オーラン》を呼んだ。彼女は、もう料理をするにも食糧がないし、燃やそうにも燃料がないので、毎日口もきかずに寝てばかりいた。
「おい、阿藍、南へ行くだ」
ここ数か月、だれも彼のこんな元気な声を聞いたことがなかった。子供たちは彼を見上げた。老人は部屋からよろめき出た。阿藍も苦しそうに起きだしてきて戸のかまちにつかまりながら言った。
「それはいいですだ。死ぬのなら歩きながらでも死ねるだからね」
みごもっている腹部が、やせた腰に木のこぶのようにふくれていた。顔は肉がすっかりそがれてしまって、角ばった骨が皮膚の下に岩のように突き出ていた。「ただ、あしたまで待ってくだせえ」彼女は言った。「それまでには生まれると思うだ。動きぐあいでわかるだ」
「それならあしたにしよう」王龍は妻の顔を見た。彼自身にたいして感じていたよりもいっそう強い憐《あわ》れみをおぼえた。このかわいそうな女は、もうひとりの生命を道づれにしているのだ。
(かわいそうな阿藍、いったいおまえは、どうやって歩くつもりだ)彼は心につぶやいた。そして、まだ戸口によりかかっている隣家の陳に、言いにくそうに言った。「もし、すこしでも食物が残っているなら、うちの子供たちの母親の生命を助けると思って、ほんの一握りでいいから恵んでくれねえだろうか。そしたら、おれはおまえがおれの家へ泥棒にはいったことを忘れるだよ」
陳は恥じ入るように彼を見て、すまなさそうに言った。
「おれは、あのときから、おまえにたいして、いてもたってもいられなかっただ。犬みてえなおまえの叔父さんが、おまえが穀物をたくさん貯《た》めこんでいると言うてそそのかしたもんでな。この無情な天に誓って言うだが、おれは戸口の石の下に、ほんの一握りほど、乾した赤豆を埋めておいただよ。いよいよ最後のときに、子供もおれたちも、せめていくらかでも胃の腑《ふ》に入れてから死にてえと思ってしまっておいたのさ。だけど、おまえに分けるだよ。あした、行けたらおまえは南へ行くがいいだ。おれと家族は、ここに残るだ。おれはおまえよりも年をとっているし、男の子もいねえ。死のうが生きようが、たいしたことじゃねえだで」
陳は家へ帰って行って、しばらくすると、木綿の小布に、二握りほどの赤豆をつつんで持ってきた。豆は土のなかへ埋めてあったのでカビくさくなっていた。子供たちはそれを見るとすがりついてくるし、老人の目まであやしく光ったが、しかし王龍は今度ばかりは彼らを押しのけて、寝ている妻に食物をあたえた。彼女は、お産の時期は近づいているし、しかも何も食べていないと出産の苦痛で死んでしまうとわかっているので、申しわけなさそうに、一粒一粒、すこしばかり食べた。
王龍は、ほんの幾粒かの豆を手のなかにかくしておいて、口へ入れてやわらかくどろどろに噛《か》みくだいては口うつしに女の子に食べさせた。彼女の小さなくちびるが動くのを見ていると、自分まで食べたような気がした。
その夜、彼は中の部屋にいた。中の子供は老人の部屋に寝かし、もう一つの部屋では阿藍がひとり出産のときを待っていた。彼は、はじめて上の子が生まれたときのように、そこにすわって耳をすましていた。阿藍は、こんなときになっても、彼を産褥《さんじょく》に近づけなかった。古いタライを用意し、動物が仔《こ》を生んだときに汚れを見せないように、彼女もひとりで部屋をはいずりまわって、きれいにお産のあと始末をするつもりなのだ。
よく知っているあの小さい鋭い泣き声が聞こえてくるのを、彼は熱心に待っていた。しかし耳をすましながらも、彼は暗い気持ちになっていた。男だろうと女だろうと、いまはもう問題ではない。養わなければならない口が一つふえることが問題なのだ。
(いっそ死んで生まれてくれたらありがたいのだが)とつぶやいたとき、弱々しい泣き声――それはなんという弱々しい泣き声だろう!――が静けさを破って聞こえてきた。
(このごろは慈悲なんてものは、どんな種類の慈悲にしろ、なくなってしまったらしい)彼は、にがにがしくつぶやいて、すわったまま、なおも耳をすましていた。
泣き声は二度と聞こえなかった。家をつつむ静寂が不気味になってきた。もう幾日も、いたるところに静寂があった。人々がそれぞれ自分の家にとじこもって死を待っている静寂である。この家に満ちているのも、そのような静寂であった。急に王龍は堪えられなくなった。恐ろしくなったのだ。彼は立ちあがって阿藍の寝ている部屋の扉口《とぐち》まで行って、その隙間から声をかけた。その自分の声を聞くと、いくらか元気づけられた。
「大丈夫か」彼は妻に言った。そして耳をすました。おれがあそこにぼんやりすわっているあいだに、阿藍は死んでしまったのではないか、ふいにそんな気がしたのである。しかし彼は、かすかな物音を聞くことができた。彼女はそこらを動きまわっているようだが、やがてやっと答えた。悲しい声であった。
「はいっておくんなさい」
彼は部屋へはいった。彼女は寝床の上に寝ていた。ふとんの盛りあがりがほとんど見られぬほど彼女はやせてしまっていた。彼女はひとりで寝ていた。
「赤ん坊はどこにいるだ?」彼がきいた。
彼女は、ふとんの上に出した手を、かすかに動かした。そして彼は床の上に赤ん坊の死体が横たわっていることに気づいた。
「死んだのか」彼は叫んだ。
「死んだだ」彼女は小さな声で言った。
彼は身をかがめて、掌《てのひら》にのるほどの小さな死体――骨と皮ばかりのそれを――つくづくながめた。女の子であった。
「だけど、おれは泣き声を聞いたぞ――生きて生まれて――」そう言いそうになって、彼は妻の顔を見た。彼女は目をとじていた。皮膚は灰のようにつやのない色をして、その皮膚の下から骨があらわに出ていた――その極限までたえぬいてものもいわぬ哀れな顔を見ると、彼は何も言えなかった。なんといってもここ数か月間、彼の苦しみは彼自身のからだだけの問題だった。しかし、この妻は、なんとかして生きようともがく飢えた胎児とともに、飢えの苦しみをしのんできたのだ。
彼は、何も言わずに赤子の死体を他の部屋へ持って行って土間におき、ぼろムシロをさがしてきてそれにつつんだ。まるい頭がぐらぐらと動き、首のところに二か所ほど黒い紫のあとがついていた。しかし彼は、さっさとやるべきことをやり終えた。それから、その包みをもって体力のつづくかぎり遠くまで歩いて行き、古い墓地の窪地《くぼち》にその包みをおいた。ここは王龍の西の畑に隣接した丘の斜面で、崩れた墓や、無縁の墓や、世話するものもない墓が、たくさん立っていた。彼が死体をおくが早いか、たちまち背後に飢えた狼のような犬があらわれた。小石を拾ってぶっつけると、にぶい音をたてて横腹に当たったが、数フィートしか動かなかった。それほど犬は飢えているのだ。とうとう王龍は足が折れそうで、立っていられなくなり、両手で顔をおおってそこを立ち去った。(このままにしておくより仕方がねえだ)彼はそっとつぶやいた。このとき彼ははじめて、まったく絶望を感じた。
翌朝、相変わらず晴れた空に太陽があがると、王龍は、かよわい子供たちと弱りきっている妻と老いさらばえた父親とを連れて、この家を離れようと考えたことが、夢としか思えなかった。かりに豊かにみのる沃野《よくや》があるにしても、幾百マイルの道中を、妻や子供たちが、どうして歩けるだろう。それからまた、南へ行けば食物があるということを、だれが知っているだろう。このシンチュウのようにぎらぎらした空は無限につづいているのではないのか。おそらく、体力がつきるまで行ったところで、さらに多くの飢えている人々を見、同じように他国から渡ってきた人間を見るだけではないだろうか。それなら、自分の寝床で死ねるここにとどまっていたほうが、どんなにましかしれない。彼は、すっかり沈みこんで戸口に腰をおろして、食糧でも燃料でも、耕せばなんでもとれた畑が、いまは乾ききって固くなっているのを悲しくながめた。
いまは一文なしであった。最後の銅貨も、だいぶ前に使ってしまった。しかし、いまでは金さえなんの役にも立たなかった。金で買うべき食糧がどこにもないからだ。ちょっと前、町には食糧をたくわえているものがあって、金持ちにだけそれを売っているということを聞いたが、そう聞いても、もう彼は怒りも感じなかった。町へくれば無料で食わしてやるといわれたところで、きょうの彼は歩いて行く気にはなれなかったであろう。じじつ彼は、もはや空腹さえも感じていなかったのだ。
はじめのころは胃にはげしい苦痛をおぼえたものだが、いまはもうその時期は過ぎた。彼は畑から土をとってきて、子供たちに食べさせたが、彼自身はぜんぜん食べる気がしなかった。ここ幾日か、彼らは「慈悲深い地の女神」と呼ばれているこの土を、水にとかして飲んでいた。けっきょくはこの土で生命をつなぐことはできないが、多少の栄養分がふくまれているからだ。カユのようにして食べさせると、一時的にせよ子供たちの飢えをしずめることができたし、ともかく彼らのふくらんだ空《から》っぽの腹に何かがはいるわけである。彼は阿藍がまだ大切にしている赤豆にどうしても手をふれなかった。ときどき彼女が、一粒ずつ豆を噛んでいる音を聞くと、なんとなく気分が楽になった。
彼が何もかもあきらめ、寝床に横たわって安楽に死んでゆく楽しさを夢のように考えながら、戸口に腰をおろしていると、だれかが畑を横ぎってきた――男たちが彼のほうに向かって歩いてくるのだ。彼らが近づいてきても、彼はそのまますわっていた。ひとりは叔父で、あとの三人は見知らぬ男である。
王龍は叔父を見た。やせてはいるが、当然飢えているべきはずなのに飢えてはいないようだ。
「しばらく会わなんだの」叔父は、大きな声で、わざと上機嫌そうに呼びかけた。そして近くまでくると、同じような声の調子でつづけた。「どうやら無事に命をつないでいるようだな。どうしたね、おやじは――わしの兄貴は達者かね」王龍は、やせ衰えたからだに残っている最後の生命の力が、彼の叔父であるこの男に向かって、はげしくわき起こるのを感じた。
「どうして食ってるだ――どうして食ってるだ」彼はぶつぶつとつぶやいた。見知らぬ人たちのことも、その人たちにたいする礼儀も何もいまは念頭になかった。彼の目は骨の上にまだ肉がついているこの叔父だけしか見ていなかった。叔父は目を大きく見開き、両手を上にあげた。
「食ってるだと!」と彼は叫んだ。「わしの家を見てくれ! すずめがついばむほどのものもありゃしねえ。女房にしても――あいつがどんなにふとっていたか、おまえも知ってるだろう。どんなにりっぱで、ふとっていて、色つやがよかったか、おぼえているだろう。それがいまは、物干竿にぶらさがっている着物みてえになってるだ――肉も何もねえ骨ばかりで、そいつが皮の下でぶつかり合って、かたかた音を立てているありさまだ。子供は四人しか残っていねえ――小さいのは三人とも死んじまった――死んじまっただよ――それからわしだが、わしはこのとおりだ」
叔父は着物の袖で、入念に両方の目の隅をふいた。
「あんたは食ってるだ」王龍は、ぼんやりとくりかえした。
「わしは、おまえとおまえの父親、つまりわしの兄貴のことしか気にかけてなかっただよ」叔父は口早にまくし立てた。
「いまその証拠を見せてやる。わしは町の旦那方がこの村の土地を買いたいとおっしゃるので、何か食わせてくれたら元気が出るから、そしたらお手伝いしましょうと約束して、ようやく食いものにありついたばかりだよ。それで、まっさきに思いついたのは、おまえの土地だ。わしの兄貴の子であるおまえの土地だよ。この旦那方は、おまえの土地を買うためにおいでになっただ。そして、おまえに金をくださるために――金があれば食うものが買えるだ――食うものがあれば生命が助かるだぞ!」
叔父は、それだけ言うと、あとへさがり、よごれてぼろぼろの長衫《チャンサ》の袖をひるがえして、手を組み合わせた。
王龍は動かなかった。立ちあがりもせず、来訪者たちに会釈《えしゃく》しようともしなかった。顔をあげて彼らを見ただけである。たしかに町からきた人たちで、よごれた絹の長衫を着ていた。やわらかい手をしていて、爪を長くのばしていた。十分に食って、はなはだ血のめぐりのよい顔つきである。とつぜん彼は、この男たちにたいして無限の憎悪を感じた。うちの子供らは飢えて畑の土まで食べているというのに、町からきたこの男たちは十分に飲み、かつ食らっているのだ。しかも彼らは彼の困窮につけこんで、彼の土地を奪おうとしてやってきたのだ。彼は、いまいましげに彼らを見あげた。目は深く落ちくぼんでおり、顔はドクロのようであった。
「土地は売らねえだ」彼は言った。
叔父が前に進み出た。このとき、王龍のふたりの男の子のうちの小さいほうが、足の膝ではって戸口のところまできた。このごろは体力がなくなって、赤ん坊のときに逆もどりして、はって歩くのである。
「これがおまえの子か?」叔父が叫んだ。「この夏わしが銅貨をやった、あのふとった子がこれか?」
人々はみなこの子を見た。日ごろぜんぜん涙を見せたことのない王龍が、このとき、とつぜん声もあげずに泣きはじめた。涙は、のどもとの大きな苦痛のかたまりを集めてあふれ、あとからあとからと頬をつたわって流れた。
「いくらで買ってくれるだ?」とうとう彼はきいた。三人の子は、どうでも養わなければならぬ――子供たちと、そして老人だけは。自分と女房だけなら、自分で墓の穴を掘って、そこへ横になって死ぬこともできる。だが、子供たちがいる。
町からきた男のなかのひとりが口をひらいた。この男は片目がつぶれて落ちこんでいた。彼は調子よく言った。
「お気の毒ですな。腹をすかしている子供さんを助けるつもりで、この際、どこへ売るよりもいい相場で買いましょう。値段は……」彼はすこし間をおいてから荒っぽく言った。「一町歩について銅貨百枚さしあげることにしよう」
王龍は、にがにがしく笑った。「なんだって?」彼は言った。「それじゃ、まるでただで上げるも同じだ。おれはその二十倍も出して買っただよ」
「だが、おまえさんが買った相手は飢え死にしかけてはいなかっただろう」と、もうひとりの町からきた男が言った。この男は、小柄で、やせていて、鼻が高くとがっているが、思いもかけぬような大きな、下卑《げび》た、因業《いんごう》な声を出した。
王龍は三人の男を見た。こいつら、まるでもう買ったつもりでいやがる! 飢えた子供たちと老父とをかかえているからには、どうにでもなると思っているのだ。弱気になっていた王龍は、これまでの生涯にかつてなかったほどの怒りを感じた。彼はとびおきて、獲物に襲いかかる犬のように彼らに立ち向かった。
「土地は売らねえだぞ」彼はどなりつけた。「すこしずつ畑を掘って、その土で子供を養うだ。子供らが死んだら、その土地に埋めてやる。おれも女房も、それから老人も、おれたちを生んでくれたこの土の上で死ぬだ」
彼は、はげしく泣いた。怒りは突如として風のように消え、彼は立ったまま身をふるわせて泣きつづけた。人々は、うす笑いをうかべて立って見ていた。それにまじって叔父も平気で見ていた。王龍の話の調子が狂気じみているので、怒りがおさまるまで待とうというわけである。
このとき、ふいに阿藍が戸口のところへ出てきて、彼らに話しかけた。例によって抑揚のない、平凡な声で、こんなことは毎日ありふれているといったふうな調子であった。
「土地は売れねえだよ」と彼女は言った。「土地がねえと、南から帰ってきたときに養ってくれるものがねえですからね。テーブルと寝台二つとふとんと腰掛けを四つと、それから料理用の大鍋なら売ってもいいだ。しかし馬鍬《まぐわ》と鋤《すき》は売らねえだ。土地も売らねえだ」
彼女の声は落ちついており、王龍の怒りよりも、もっと力があった。叔父は半信半疑できいていた。
「ほんとに南へ行くだかね?」
とうとうしまいに片目の男が他の男たちに何か言った。彼らだけで、こそこそと話し合っていたが、やがて片目の男が、ふり向いて言った。「みんな、がらくただから、まあ焚《た》きつけにしかならねえな。全部で銀貨二枚なら買おう。それでよければもらうし、いやならやめる」
彼はそう言って、軽蔑するように背を向けた。阿藍は静かに言った。
「それじゃ寝台一つの値段にも当たらねえだ。けれども銀貨を持っているなら、さっさと銀貨を渡して品物を持って行ってもらいてえだ」
片目の男は腹巻きをさぐって、阿藍のさし出した手に銀貨を渡した。三人は家のなかにはいって、テーブルや腰掛けや、それから王龍の部屋からふとんごと寝台を戸外に運び出した。カマドにかけてある大鍋も持ち出した。しかし老人の部屋へはいったときだけは、叔父は外で待っていた、兄に見られたくなかったし、それに老人を床の上に寝かせて、寝台を運び出す現場にはいたくなかったのだ。すっかり片づいて、中の部屋の片隅に二本の馬鍬と二本の鍬と鋤しか残らず、家のなかががらんとなったとき、阿藍は夫に向かって言った。
「二枚の銀貨があるうちに出発することにしよう。垂木《たるき》まで売ったりするようなことになると、帰ってきたとき、はいこむ穴もなくなるだからね」
王龍は沈んだ声で言った。「うん、行こう」
しかし彼は、畑を横ぎってしだいに遠ざかって行く町の人々の姿を見ながら、何度もつぶやいた。
「すくなくとも土地だけはある――土地だけは持っているだ」
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十
出発といっても、木の蝶番《ちょうつがい》でとめてある戸を固くしめて、鉄の鍵をかけるだけである。あるだけの着物は全部身に着けていた。阿藍《オーラン》は子供たちの手にそれぞれ飯の椀《わん》と箸《はし》を持たせたが、子供たちは、すぐに食事が待ってでもいるかのように、それを固くしっかりと握りしめていた。このようにして彼らは出発した。このわびしい小行列は、いつになったら町の城壁まで行きつくだろうかと思えるほどのろのろと畑を横ぎって行った。
女の子は王龍《ワンルン》が胸のなかへ入れて連れて行ったが、老人がつまずいてころぶのを見ると、その子を阿藍に渡して、老人をおぶって行くことにした。老人は、やせ衰えて風のように軽いが、それでも王龍はよろめいた。彼らは、ぜんぜん口もきかずに、例の小さな地神を祭ってある祠《ほこら》の前を通り過ぎた。地神は何が通ろうと無関心であった。風が身を切るように冷たいのに、体力の衰えている王龍は、ぐっしょりと汗をかいていた。風は休みなく、まっこうから吹きつけてきた。ふたりの子供は、その冷たさに泣き声をあげた。王龍は、ふたりをなだめて言った。
「おまえたちは、ふたりとも、もう大きいんだぞ。そして南へ行く旅人なんだ。南へ行けば、気候はあたたかいし、毎日、食うものがある。みな白い飯が食えるだ。おまえたちも食えるだ。いくらでも食えるだぞ」
ちょっと歩いては休みながら、それでもやがて楼門までたどりついた。いつか王龍はここで、その涼しさをよろこんだものだが、いまは、絶壁と絶壁のあいだを氷のような水が流れ入るように、冬の寒風がすさまじい勢いでこの通路を吹き抜け、彼はその寒さに歯をくいしばった。足の下の泥は深く、氷の針が足を突き刺すようだ。子供たちは歩けないし、女の子を抱いている阿藍は、自分のからだを動かすのがやっとだった。王龍は老人をおぶってよろめきながら、そこを通り抜け、老人を下へおろしておいてから、また引き返して今度は子供たちをひとりずつかかえあげて運んだ。やっとそれがすんだときには、汗が雨のように流れ、力がつきはてて、彼は長いあいだ、湿っぽい城壁にもたれて休んだ。目をとじて、せわしなく息をはずませていた。そのあいだ家族のものは、寒さにふるえながら彼をとりまいて待っていた。
やがて黄《ホワン》家の門前にさしかかった。しかし、威厳にみちた門の鉄扉は固く錠がおりており、その両側にある石造の獅子は灰色になって寒風にさらされていた。門前には、みすぼらしいかっこうの男女が数人うずくまって、その閉ざされた門を、ものほしそうにながめていた。みじめったらしい王龍の小行列が通りかかると、そのなかのひとりが、かすれた声でどなった。
「金持ちどもの心は、神々の心のように無情だ。やつらは、まだ食べる米を持っているし、おれたちは飢え死にしそうだというのに、いまだに余分な米で酒をつくっていやがるだ」
別の声が、うめくように言った。
「おれのこの手に、すこしでも力があったら、おれはこの門と、この屋敷と、それから中庭にも火をつけてやる。たとえその火で焼け死んだってかまわねえ。こんな子孫を生んだ黄家の先祖どもは千度も呪われるがいいだ」
しかし王龍は、ぜんぜんそれにとり合わず、黙って南をさして歩いて行った。
歩くのが非常におそいので、彼らが町を通り抜けて南側へ出たときには、もう暮れ方で夕闇がせまっていた。彼らは、南をさして行く人々の大群を見た。王龍は、みんなが身を寄せあって眠れるような場所が、どこか城壁の隅にでもないかとさがしているとき、とつぜん、彼も家族たちも、その群衆のなかに巻きこまれてしまった。彼はこちらへ押されてきた男にたずねた。
「このおおぜいの人たちは、どこへ行くだかね?」
男は答えた。
「みんな飢え死にしかけている連中だよ。汽車をつかまえようとしているだ。それに乗って南へ行くだ。汽車は、あそこの建物から出る。おれたちみたいな貧乏人は、小さい銀貨一枚よりも安い料金で乗れるだ」
汽車! だれでも聞いて知っていた。王龍も以前、茶館で人々が話をしているのを聞いたことがあった。鉄の鎖でつないで、人間でも獣でもない、龍のように火と水を吐き出す機械が引っぱるのだそうだ。休みの日に一度見に行こうと何度も思ったものだが、野良仕事で何かと忙しかったし、それに彼は町の北方に住んでいるので、見に行くひまがなかった。それに王龍は、知らないことや理解できないことは、いつも信用しないことにしていた。それに人間は日々の生活に必要なこと以上は、何も知る必要はないのだ。
しかしいまは、妻のほうをふり向いて迷ったように問いかけた。
「おれたちもその汽車というやつで行くかね?」
彼らは老人と子供たちを、動いてゆく群衆の横へ引き出し、心配そうに、そして恐ろしそうに顔を見合わせた。ちょっとでも一息入れさせると、老人はすぐに地面にすわりこんでしまうし、子供たちは通り過ぎる群衆に踏みつけられる危険もかまわずに、すぐにほこりのなかへ横になってしまうのである。女の子はまだ阿藍に抱かれていた。だが、頭を母親の腕にたれ、目をとじて、まるで死んだように見えた。そこで王龍は他のことはすべて忘れて叫んだ。「そのチビ助はもう死んだのか?」
阿藍は頭をふった。
「まだだ。まだ息があるだ。けれども今夜は死ぬだろうて。あたしたちもみな、もしかすると――」
それ以上言葉をつづけることができないかのように、彼女は彼を見た。その角ばった顔は、疲れて、憔悴《しょうすい》しきっていた。王龍は、なんとも答えなかったが、もう一日、こんなふうにして歩いていたら、晩にはみな死んでしまうだろうと思った。彼は、できるだけ元気な声を出して言った。
「さあ、子供たち、起きろ。そして、おじいさんを起こしてやれ。これからおれたちは汽車に乗るだ。歩くかわりにすわったままで南へ行くだ」
しかしそのとき暗闇のなかから龍のほえるような音を立て、大きな二つの目から火を吐き出して汽車がばく進してこなかったら、彼らは動けたかどうかわからない。汽車を見ると、だれもが悲鳴をあげてかけだした。彼らは、たがいに離れ離れにならぬよう必死にかたまり合って、あっちへ押されこっちへ押されて前へ進んでいるうちに、さまざまな人の声が叫んだりわめいたりしている暗闇を抜けて、開いている小さな扉口から小箱のような部屋に押しこまれた。そして絶えずほえたけりながら、汽車は彼らを腹に入れたまま、いきおいよく夜の闇のなかをばく進して行った。
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十一
銀貨二個で王龍《ワンルン》は百マイルほどの里程の乗車賃を払った。車掌はそれをうけとって、おつりに一握りの銅銭をくれた。つぎの駅で汽車がとまるが早いか、窓から焼き物の盆をさし出す立ち売り人から、小さなパンを四個と女の子に食べさせるためにカユを一|椀《わん》買った。ここ幾日か、一度にこんなにたくさん食べたことはなかった。食いものに飢えているにもかかわらず、口までもって行くと食欲がなくなってしまうので、子供たちに食べさせるには、なだめたりすかしたりしなければならなかった。老人だけは歯のない口でパンを根気よくかじっていた。
「人間は食わなくちゃだめだ」老人は周囲の人たちに、親しげに話しかけた。汽車が揺れたり動いたりするので、そのたびに老人は人々から押された。「わしの胃袋はばかなやつで、このごろあまりすることがないので、だいぶ怠けてきたようだが、なあに、そんなことは苦にならんて。働かせるだよ。胃袋が働きたがらないからというて、わしが死ぬわけにもいくまいて」
人々は、まばらな白いひげを顔いっぱいに生《は》やしたこのしわだらけの小柄な老人が微笑するのを見て、急に笑いだした。
王龍は銅銭を全部、食べものに使ってしまいはしなかった。南へついたとき、小屋がけのムシロを買うくらいの金はとっておいた。汽車のなかには、以前南へ行った男女もたくさんいた。毎年、南の富裕な町へ行って、労働したり乞食をしたりして食い扶持《ぶち》をかせいでくるというような人もいた。王龍は、自分の乗っているこの汽車というものの驚異や、車窓に移り変わる土地をながめる驚きになれてから、周囲の人々の話に耳を傾けた。南へ行ったことのある人たちは、何も知らぬ人たちに向かって、得意そうに大きな声で話していた。
「まず最初にムシロを六枚買うだ」ひとりが言った。|らくだ《ヽヽヽ》のようにくちびるの垂れさがった下品な男である。「ムシロ一枚が銅銭二個だ。ただしそれはおまえさんがたが、いっぱし目端《めはし》がきいていればの話で、田舎者と見られたら、まず銅銭三個はとられる。もちろん三個も出す必要はねえさ。大丈夫だよ、おれはよく知ってるだから。おれは南の町の人間にばかにされるようなことはねえだ。相手が金持ちだって、ばかにはされねえだ」彼は頭をふり立て、賞賛を求めるように周囲を見まわした。
「それからどうするだな?」王龍はさきをさいそくした。この車室は木でつくった箱のようなものでしかなく、腰かけるものもなかった。彼は床に腰をおろして話を聞いていたのだが、その床の隙間からは風とほこりが舞いあがってきた。
「それからだな」男は、さっきよりももっと大きな声で言った。鉄の車輪のすさまじい轟音《ごうおん》に負けぬように、声を高くしたのである。「ムシロを結んで小屋がけができたら、つぎには乞食をするだよ。それにはまず泥だの汚《きた》ないものをからだにぬりつけて、できるだけ哀れっぽいかっこうをすることだて」
王龍は生まれてこのかた、だれにも物ごいをしたことがない。それに南の見知らぬ人々に物ごいをするのは、どう考えてもいやだった。
「どうでも乞食をしなければならねえのか?」彼はくりかえしたずねた。
「そうだよ」口もとのいやしい男は答えた。「しかしそれも何か腹に入れてからの話さ。南の人たちは米をたくさん持ってるだ。だから、毎朝、公設食堂へ行くと、銅銭一つで白い米のカユを腹いっぱい食えるだよ。そこで腹ごしらえをしてから乞食にとりかかるというわけだ。そうして豆腐でもキャベツでもにんにくでも買うだよ」
王龍は、すこしうしろへさがって、壁のほうを向き、そっと手を腹巻きへつっこんで残っている銅銭をかぞえた。ムシロを六枚買い、銅銭一個ずつ出してみんなでカユを一椀ずつ食っても、まだ銅銭が三個あまる勘定になる。このぶんなら新しい生活をはじめることができる。彼は急に安心した。だが、鉢《はち》を手にもって通行人に物ごいをするというのは、どうにも困る。老人や子供や、あるいは妻にさえ、それはたいへんいい仕事かもしれない。しかし彼は二本の腕をもっているのだ。
「手を働かせるような仕事はねえだかね?」とつぜん彼は、ふり向いて男にたずねた。
「なに、働く仕事だと?」男は軽蔑したように言って、唾《つば》を床にはいた。「おまえさんが好きなら金持ちを乗せて人力車を引くだな。そして駆けながら血の汗を流すだよ。客待ちをしていると、その汗が凍って氷の着物を着ているみてえになるだ。おれは乞食のほうがいいと思うがな」そう言って、その男は大きな声で悪態をつきはじめたので、王龍は、それ以上つっこんできかなかった。
だが、それだけでも、その男から聞いたことは王龍にとってありがたかった。というのは、やがて汽車が終点につき、彼らを地上におろしたとき、王龍はすっかり計画ができていたからである。大きな屋敷をとりまいている長い灰色の石塀《いしべい》のそばに老人と子供をすわらせ、妻にその番をたのんでムシロを買いに出かけた。市場の所在がわからないので、あっちできき、こっちできいた。ところが、南の人の言葉は、非常に早くてするどいので、はじめのうちは何を話しているのかほとんどわからなかった。何度くりかえしても聞きとれないので、しまいには、きかれたほうが、かんしゃくを起こした。そこで彼は、たずねようと思う人の顔を観察して、なるべく親切そうな人を選ぶことをおぼえた。南の人は気短かで怒りっぽいのだ。
やっと町はずれでムシロを売っている店をみつけた。品物の値段をよく心得ている人のように、黙って銅銭を勘定台の上において、巻いたムシロをかついで店を出た。家族のものを残した場所へもどってくると、みなそこに立って待っていたが、子供たちは父親の姿を見ると安心して泣きだした。家族たちはみなこの見知らぬ土地に恐怖を感じているらしい。老人だけは、何を見ても驚いたり、よろこんだりしていた。老人は王龍に低い声で言った。
「おまえだって気がついとると思うが、南の人は、みなようふとってるだな。皮膚が白くて脂《あぶら》ぎっとるだ。毎日豚を食ってるせいだて。きっとそうだ」
通り過ぎる人は、王龍やその家族たちをふり向きもしなかった。人々は市へ通じる舗装道路を、忙しそうに往《い》き来していて、乞食に目をとめるような人はひとりもいなかった。ちょっと間をおいては、ロバの一隊がその小さな足でじょうずに石畳をふんで通り過ぎた。ロバどもはみな家を建築するためのレンガを入れた籠《かご》を背中に乗せ、あるいは穀物を入れた大きな袋を両側にぶらさげていた。それぞれの隊商の一ばん最後の一頭にロバ使いが乗っていて、大きな鞭《むち》を手にしていた。そして大きな声でどなりながら、ロバの背の上で、その鞭をふりまわした。鞭は、すさまじいうなりをあげた。王龍の前を通り過ぎるたびに、ロバ使いたちは、さげすむような高慢なようすを見せた。道ばたにぽかんと立っているこの小さな集団のそばを通り過ぎるとき、この粗末な仕事着姿の男どもは、どんな貴顕《きけん》にも負けぬほど威張ったようすを示すのであった。
彼らは、王龍や家族のもののようすから、ひどい田舎者と見てとり、その前を通り過ぎるとき、わざと鞭をぴしりと鳴らし、空気を鋭く切る鞭の音に、びっくりしてとび上がるのを見て、それをひどくおもしろがった。そして、みんなをとび上がらせては、大笑いした。こんなことが二、三回つづくと王龍は怒ってしまい、彼らに背を向けて、小屋をつくる場所をさがしはじめた。
彼らがよりかかっていた石塀《いしべい》に立てかけて、すでに小屋がいくつかできていた。その塀の内側に何があるかはだれも知らないし、また知るすべもなかった。ただ灰色の高い塀が長くのびており、その下にムシロ小屋がいくつも、犬の背にたかった蚤《のみ》のように、へばりついているのだ。王龍は、ほかの小屋にまねて、なんとかムシロで小屋掛けをしようと、いろいろにくふうしてみたが、ムシロは葦《あし》をさいてつくったものだけに固くて始末がわるく、なかなかうまくいかなかった。とうとう絶望して投げ出してしまうと、阿藍《オーラン》が言った。
「あたしがやりますだ。子供のときにやったことがあるだでね」
彼女は女の子を地面におろし、ムシロをあれこれいじくって、丸型にした屋根のムシロをそのまま地面まで垂らして、中はおとなが頭を打たずに楽にすわれるほどの小屋をつくった。地についているムシロの端にはレンガをのせて押えた。そして子供たちにレンガをたくさん拾ってこさせた。つくり終わると彼らは中へはいった。使わずにとっておいた一枚のムシロを下に敷いて床にした。ここにすわっていれば風雨だけはしのげるというものである。
こうしてすわって顔を見合わせていると、きのう、家や土地をすて、そしていまは数百マイル離れたここにいるということが、うそのような気がした。もし何週間もかかるほど長いあの道程を歩きつづけたとしたら、ここへつくまでに何人かは死んだことであろう。
だれも飢えているもののいないこの豊かな土地に、彼らはすっかり安心した。
王龍が、「さあ、公設食堂をさがしに行こう」と言うと、彼らは元気に立ちあがり、もう一度、外へ出た。子供たちは箸《はし》で茶わんをたたきながら歩いて行った。もうすぐ何かがこの茶わんを満たしてくれるからだ。なぜこの長い塀に沿うて小屋がいくつも立っているのか、そのわけはすぐにわかった。この塀の北のはずれからすこし向こうに一つの通りがある。その通りを、おおぜいの人が、からっぽのどんぶりや鉢《はち》やブリキの容器を持って歩いて行った。みな公設の貧民食堂へ行く人々なのだ。食堂は、その通りの突き当たり、それほど遠くないところにあるのだ。王龍と家族たちも、その人々にまじって、いっしょに歩いて行った。とうとうムシロがこいの大きな二つの建物の前へ出た。だれもが、建物の端の開いている入り口からなだれこんで行った。
どちらの建物にも、その奥のはしに、王龍がこれまで見たこともないほど大きなカマドがあり、その上に小さな池ほどもある鉄の鍋《なべ》がかかっていた。大きな木のふたをあけると、すばらしいまっ白な米が煮え立っていて、よいにおいの湯気が雲のように立ちのぼった。かぐわしい米ガユのにおいをかぐときほど貧民にとってうれしいことはない。彼らは大きな集団となって、そこへ押しよせた。男たちは叫び、母親は子供たちが踏みつぶされるのを恐れてわめき、赤ん坊は泣き立てた。大鍋のふたをとった男が大きな声でどなった。
「みんなに渡るだけ十分にあるから、順々にきてくれ!」
しかし何ものも飢えた男女の集団をとめることはできなかった。彼らは食いものにありつくまでは野獣のようにいがみ合った。そのなかへ巻きこまれた王龍は、老父とふたりの子供をつかまえて、はなればなれにならぬようにしているのがやっとだった。大鍋のところまで押されて行くと、彼は鉢をさし出してカユを盛ってもらい、銅銭を一枚わたした。事がすむまで押し流されないように立っているのが、なかなかたいへんだった。
通りへ出て、立ったまま米ガユを食べた。腹がいっぱいになったが、鉢にまだすこし残っていた。彼は言った。
「これは家へもって帰って晩に食うことにしよう」
すると、そばに立っていた、たぶんここの番人か何かだろう。青と赤の制服を着た男が、するどく言った。
「それはいかんぞ。腹に入れたもの以外、何も持ち出してはならんのだ」
王龍はびっくりしてきき返した。
「そうかね、おれが自分の銭を出して払った以上、それを腹のなかへ入れて持ち出そうが腹へ入れずに持ち出そうが、おまえさんの関係したことじゃないだろう?」
その男は言った。
「そういう規則になっているのだ。というのは、なかにはひどいやつがいて、貧民にあたえられるこの米ガユを買いにくるんだ――銅銭一個でこんなに食わせるところなんて、どこにもないからな――そうして家へ持って帰ってから豚に食わせるのだ。この米ガユは人間に食わせるためのもので、豚に食わせるためのものではないんだ」
これを聞くと王龍はあきれて叫んだ。
「そんなひどいやつがいるだかね」それからまた言った。「だけど、なぜ貧乏人に、こういう施しをするだね? だれがめぐんでくれるだね?」
男は答えた。
「この町の富豪や貴人が施しをなさるのだ。来世の幸福のために善根をつまれる方もある。つまり多くの貧しい人間を救って、天のお慈悲にあやかろうというわけだ。それからまた、あの人はりっぱな人物だと世間から言われるために施しをする人もいる」
「だけど、どういうわけからにしろ、ともかくりっぱなことだな」王龍は言った。「すると、なかには、べつにやさしい気持ちからするわけでもねえ人もいるだね」男が返事をしないので、自分の意見を弁護するために、さらにつけ加えた。「すくなくとも、そんな人だって、いくらかはいるだね?」
しかし、男は彼を相手にしゃべっているのがわずらわしくなったのか、向こうを向いて、いいかげんな調子で鼻歌をうたいはじめた。子供たちが王龍の手をひっぱるので、彼はみんなを連れて、手づくりの小屋へもどった。みんなで横になって翌朝まで寝た。というのは腹いっぱい食べたのは、この夏以来はじめてであり、腹がはると、はげしく睡魔《すいま》がおそってきたからである。
翌朝、朝の食事に最後の銅貨を使ってしまったので、どうでも銭が必要になってきた。王龍は、どうしたらよいかと相談するように阿藍を見た。しかし、荒れ果てた畑で彼女の顔を見たときのようには絶望していなかった。この町では行ったりきたりしている人たちが、みな肥えふとっていた。市場には肉もあれば野菜もある。魚市場では生簀《いけす》に魚が泳いでいる。彼も子供たちも、ここで飢えるようなことは、まずあるまい。何も品物がなくて銅貨を持っていても食うものも買えない故郷の土地とはちがうのだ。阿藍は、こんな生活にはなれきっているかのように、しっかりした調子で答えた。
「あたしと子供たち、それからおじいさんも乞食をするだ。あたしには恵んでくれない人も、おじいさんの白髪《しらが》には恵んでくれるだよ」
彼女はふたりの子を呼んだ。ふたりは子供らしく、腹いっぱい食べたことと、見知らぬ土地へきていることのほかは何も忘れて、道路へ走り出て、目の前を通るものを熱心に見ながら立っていたのである。彼女は子供たちに言った。
「ふたりとも自分の茶わんを持つだ。――それを、こんなふうに持って、そして、こんなふうに言うだ――」
彼女は、からの茶わんを手にしてさし出し、哀れっぽい調子で呼びかけた。
「お情け深い旦那さま――お情け深い奥方さま! お慈悲でございます――来世のために善根を積んでくださいまし! いくらでもけっこうでございます――銅銭を一枚、お投げくだすって――ひもじい子供をお助けくださいまし」
子供たちは、びっくりして母親をみつめていた。王龍もそうだ。どこでこんなことを習ったのだろう。彼女の人生には、彼の知らない面が、なんとたくさんかくされていることであろう。彼女は彼の目に答えて言った。
「子供の時分にこう言って生命をつないでいたことがあるだ。そして今年のような飢饉の年に、あたしは奴隷に売られただ」
それまで眠っていた老人が目をさました。彼にも茶わんを渡し、四人は乞食をするために往来へ出た。阿藍は哀れっぽく呼びかけては道ゆく人々に茶わんをさし出した。彼女は女の子を、じかに胸に抱いていた。女の子は眠っていた。阿藍が、あちこちへ茶わんをさし出して動くたびに、その子の頭がぐらぐら動いた。彼女は物ごいをしながら、その子を指さして言った。
「旦那さま、奥方さま、恵んでくださらぬと、この子は死んでしまいます――あたしたちは飢えているのです――飢えているのです」
じっさいその子は頭があっちへぐらり、こっちへぐらりと動いているので、死んでいるように見えた。しぶしぶビタ銭を投げて行く人もいくらかいた。
しかし、しばらくすると、子供たちには乞食が遊びごとのようになってきた。長男のほうは、恥ずかしそうに、きまり悪そうににやにや笑いながら、ほどこしを乞《こ》うていた。それを見ると母親は、小屋のなかに引き入れ、あごにはげしく平手打ちをくわせてから、怒って叱言《こごと》を言った。
「口で飢え死にしそうだと言いながら笑っている。なんてばかなんだろう。そんならほんとに飢え死にするがいい!」そして、手が痛くなるまで何度も何度もふたりの子供を打った。子供たちの顔から涙が流れた。彼らは泣きじゃくった。彼女は、ふたたび子供たちを外へ追い出した。
「それでどうやら乞食になれる。また笑ったら、もっとひどいよ」
王龍は王龍で、町を歩いて行って、そこここできいて、やっと貸し人力車屋をみつけた。そこへ行って、一日の借り賃として円銀半分を夜になってから支払うという条件で人力車を借り、それをひいて、おもてへ出た。
車輪が二つついている木製の車をひいていると、道を行く人たちにばかと見られているような気がした。牛がはじめて犂《すき》をつけられたときのように、不器用に梶棒《かじぼう》のあいだにはさまって、ほとんど歩けなかった。それでも生活費をかせぐためには走らなければならない。ここでもあそこでも、いたるところで、多くの車夫が客を乗せて町なかをかけぬけていた。彼は、しもたやや住宅ばかりで商店のないせまい裏通りへはいって、しばらく自分を車に慣らすために走ってみた。すっかり絶望して、いっそ乞食になるほうがましだ、と自分自身につぶやいたとき、一軒の家の玄関が開いて、眼鏡をかけ、儒者のような身なりをしたひとりの老人が出てきて彼を呼んだ。
はじめ王龍は、梶棒を握るのははじめてで、とても走ることはできない、と言ってことわったが、老人は、つんぼで王龍の言うことがわからず、手まねで梶棒をさげさせ、乗りこんでしまった。王龍は相手が何を言っても聞こえないし、どうしてよいかわからず、老人のりっぱな身なりや学識の深そうなようすに気押されて、やむなく命令にしたがった。
「孔子廟《こうしびょう》まで行ってくれ」老人は端然と落ちつきはらって腰をおろしている。その端然とした態度は、彼に口を開かせるすきもあたえなかった。孔子廟がどこにあるかすこしも知らなかったが、ともかく他の車夫と同じように、まっしぐらにかけだした。
走りながら道をきいた。やがて道は混雑した大通りへ出た。籠を背負った行商人が行きかい、市場へ買い物に行く女たち、馬にひかせた車、彼のひいているのと同じ人力車などが、ごったがえし、たがいに押しあっていた。とても走ることなどできなかった。しかたがないので、できるだけ早く歩いた。うしろの車体のがたがたするのが、たえず気になった。彼は背中に荷物をかつぐことは慣れているが、車をひくのはやったことがなかった。孔子廟の塀が見えるあたりまでくると、腕は痛み、手にはマメができてしまった。鍬《くわ》と梶棒とでは当たり場所がちがうからである。
王龍が孔子廟の門前について梶棒をおろすと、老儒者は人力車をおり、ふところをさぐって、小さい銀貨を一枚とり出して王龍にあたえながら言った。
「これ以上は払わぬよ。文句を言うてもむだだぞ」そして彼は背を向けて廟のなかへはいって行った。
王龍は、こんな銀貨は見たこともないし、銅銭幾枚に当たるかも知らないので、苦情を申し立てることなど思いもしなかった。両替をしてくれる近くの米屋へ行くと、銅銭二十六枚に替えてくれた。王龍は、南ではなんて簡単に金がかせげるのだろうとびっくりした。近くにいたひとりの人力車夫が、銅銭をかぞえている王龍をのぞきこんで言った。
「たった二十六枚か。あの老いぼれを、どこから乗せてきたんだ?」王龍が答えるのを聞くと、その男は叫んだ。「ひでえじじいだ。それじゃ半値だぜ。乗せるとき、いくらと言って掛け合ったのか?」
「掛け合いなんぞしなかっただよ」王龍が言った。「のっけろと言うから、のっけてきただ」
その男は、さげすむように王龍を見た。
「おい、みんな見ろよ、まだ豚のしっぽをぶらさげている田舎者がいるぞ」彼はまわりの人たちに大声で言った。「のっけろ、と言われたから、乗せてきたんだとよ。掛け合いもしねえでさ。ばかのなかのばかとは、この野郎のことだ。乗せる前に、いくらちょうだいできますかってきくもんだ。よくおぼえとけ、ばか野郎め! 掛け合いをしねえで乗せていいのは外国の白人だけだ。あいつらは気が短いが、行けと言われたら信用して乗せて行っても大丈夫だ。あいつらは、ばかで、まぬけで、ものの値段を知らねえ。そのくせポケットから銀貨を水みてえに流し出すんだ」
聞いていた人たちは、みな笑った。
王龍は何も言わなかった。この南の都会の人たちのなかにいると、何も知らないので、まったく身のちぢむ思いがする、と思った。彼は一言も返事をせず、車をひいて立ち去った。
(だけど、これであすは子供らに食わせられるだ)彼は心で肘《ひじ》を張ってそう考えたが、そのときふと、夜になったら車の損料を払わねばならないことに気がついた。これでは損料の半分にも、まだ足りないのだ。
彼は朝のうちに、もうひとり、お客を乗せた。このときは、ちゃんと掛け合って値をきめてから乗せた。午後はふたり客があった。しかし、夜になって車の損料を払ってしまうと手に残ったのは銅貨一枚であった。とり入れのときに一日じゅう働いたよりもはげしい労働をして、たった銅貨一枚しかかせげなかったのかと、ひどく情けない気持ちで小屋へもどった。そのとき、ふと故郷の土地の思い出が、あふれるように身をつつんだ。めずらしい体験をしたこの日一日じゅう、故郷の土地のことは一度も思い出さなかったが、いま思い出してみると、ひどく遠方にはちがいないが、そこには彼を待っている彼自身の土地があるのだ。そう思うと気分がやすまり、彼は小屋へはいった。
小屋にはいると、阿藍は一日の乞食かせぎでビタ銭四十枚ほどもらっていた。銅銭にすると五枚に足りない額である。子供たちは兄がビタ銭八枚、弟が十三枚で、全部合わせればあすの朝の米代には十分である。ただ、それをいっしょにしようとすると、弟のほうは泣きわめいて、どうしても出したがらなかった。自分で乞食をしてかせいだ銭を大事にして、夜も手のなかにしっかり握りしめて眠る始末であった。そして翌朝、自分の米ガユを買う段になって、やっと手ばなした。
老人は、ぜんぜんかせぎがなかった。一日じゅう、言いつけどおり道ばたにすわっていただけで、物ごいをしなかったのだ。居眠りをし、目をさますと目の前を人が通り過ぎるのをながめ、疲れるとまた眠った。老人だから、文句を言うものもいなかった。老人は自分のわんに何もはいっていないのを見て、こう言っただけだった。
「わしは畑を耕し、種子をまき、収穫をとり入れ、そうしてわしの飯茶わんを満たしてきただ。そのうえ、わしには子供もあれば、孫もおる」
子供もあり孫もあるのだから、当然彼らに養ってもらえるのだ、と子供のように信じこんでいるのである。
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十二
もう王龍《ワンルン》は飢えに苦しめられることはなくなった。子供たちにも、毎日何か食べさせられた。毎朝、米ガユの食える見込みもついたし、毎日の彼の労働と阿藍《オーラン》の乞食のかせぎとで食い扶持《ぶち》を払える見込みもついた。そのような生活にもなれてきた。すると彼は、自分たちがそのへりにへばりついて生きているこの都会について考えはじめた。毎日、人力車をひいて町じゅうかけまわっているのだし、この町の事情も一日じゅう勉強しているわけである。そこここに秘密の遊び場があることも知っていた。朝、人力車に乗せるのが女だったら、市場へ行くのだし、男だったら、学校か商業地区にきまっていた。しかしそれがどういう種類の学校であるかは知るすべもなかった。門からなかへはいったことがないので、ただ「泰西大学」とか「中国大学」とかいう名前を知っているだけだった。門をはいったりしたら、だれかに、何しにきた、ととがめられるにきまっている。また彼が客を乗せてゆく商業地区にしたところで、それがどういうところかは知らなかった。ただ、そこまで乗せて行って賃金をもらうだけであった。
夜になって、客を送って行くのは、豪壮な茶館や歓楽の場所である。歓楽の場所では、音楽の調べが往来まで流れていた。テーブルの上で象牙と竹でつくった牌《パイ》でさかんにバクチが行なわれている音も聞こえた。その向こうには秘密な快楽が秘められているのにちがいない。しかし、それらの快楽がどういうものか、王龍は一つも知らなかった。彼の足は自分の小屋以外の敷居をまたいだことがないし、彼の道程は、いつも門前で終わっているのだ。この富める都会にいても、飢えは金持ちの家にいるねずみのようなものであった。投げすてられるくずで露命をつないで、あちこちにかくれ住み、その家の真の生活の一部では絶対にないのである。
百里の道は千里より短いし、陸路は水路ほど遠くはないけれど、それでも王龍や彼の妻や子供たちにとって、この南の都会に住むのは、外国にいるようなものだった。なるほど道を行く人々にしても、王龍や彼の家族たちや故郷の人たちと同じように、髪も目も黒い。話す言葉にしても、わかりにくくはあるが、よく聞けば、聞きとれないことはない。
しかし安徽《あんき》は江蘇《こうそ》ではない。王龍の生まれた安徽では、言葉がおそくて、重くて、のどから出てくる。ところが彼らがいま住んでいるこの江蘇の都では、くちびるから、舌の先から、音を発するのである。また王龍の故郷では、四年に二回、小麦と米を収穫すると、あとはトウモロコシや豆やにんにくをすこしばかりつくるだけで、のんびりと畑を使うが、ここの土地では、米のほかに、いろんな野菜をつくるので、絶えず人糞《じんぷん》肥料をほどこしては土地を肥やして、畑を遊ばせないようにしていた。
王龍の故郷では、上等の小麦パンとにんにくがあればりっぱな食事で、それ以上は何もいらないが、ここの人たちは、豚肉だの、だんごだの、たけのこだの、鶏肉入りの栗《くり》の煮つけだの、鵞鳥《がちょう》のはらわただの、各種の野菜だのを常食にしていた。そして、りっぱな人が、にんにくのにおいでもさせていると、人々は鼻をひくひくさせているのである。
「いやなにおいのする辮髪《べんぱつ》の北人がいるぞ」にんにくのにおいをさせていると、呉服屋の店員でさえ、外国人にたいするときと同じように値をつりあげるのである。
しかし、石塀に立てかけてつくったこの小屋がけの村は、都会の一部でもなかったし、都会のはずれにひろがっている田園の一部でもなかった。一度王龍は孔子廟の片隅で群衆に演説している青年の話を聞いたことがある。そこは勇気さえあれば、だれでも演説できる場所であった。その青年は、中国は革命を起こさなければならぬ、にくむべき外国人に対して立ちあがらなければならぬ、と叫んでいた。王龍は、びっくりして、こそこそと逃げだした。この青年があんなにはげしく攻撃する外国人とは自分のことではないだろうかと思ったからである。また別のある日、彼は別の青年が演説するのを聞いた。――この都会には演説する青年がいたるところにいるのだ。――その青年は街頭に立って、中国は団結しなければならぬ、みずから教育しなければならぬ、と叫んでいた。王龍は、中国人といわれても自分のことのようには思えなかった。
彼がその意味を知ったのは、ある日、絹市場の通りで客をさがしているとき、彼よりもさらに外国人らしい人間がこの都会にいることに気がついたときである。絹を売っている店からは、しばしば婦人の客が出てきて、車代もはずんでくれるので、その日その店の前を通りかかると、ふいに店のなかから、彼がこれまで見たこともない種類の人間が出てきた。男か女かも判断できないが、背たけが高くて、何やらあらい布地の黒い長い着物を着て、首に死んだ動物の毛皮を巻きつけていた。彼が通りかかると、急にその男か女か得体の知れない人物は、するどく、梶棒をおろせ、と合図した。彼はそのとおりにした。彼がどうなることかとびくびくしながら立っていると、おぼつかない中国語で、橋通りへ行け、と言う。彼は何をしているか自分でもほとんどわからずにあわててかけだしたが、すると途中で、仕事の上で顔見知りの車夫に出あったのできいてみた。
「見てくれ――おれがひいているのは、いったいなんだい?」
その男はどなりかえした。
「外国人だよ――アメリカの女だ――かせげるぞ」
しかし王龍は、背後のふしぎな人間が恐ろしくて、夢中になって走った。橋通りについたときには、疲れきってしまって、汗をぼたぼた垂らしていた。
女は車からおりると、前と同じおぼつかない中国語で言った。「死ぬほどかけることはないのに」
そして彼の手に銀貨を二枚おいた。普通の賃金の二倍だ。
これで王龍は、これこそほんとうの外国人であり、この都会では彼よりもさらに外国人なのだとさとった。けっきょく、毛髪と目の黒い人は同種族なのであり、明るい髪と明るい目の人間は、別の種族の人間なのだ。彼もこの都会では、それほど外国人ではないことを知った。
その夜、もらったまま、まだ手もふれずにいる銀貨を持って小屋に帰ったとき、彼は阿藍にその話をした。すると彼女は言った。
「あたしも見たことがあるだよ。銅貨のかわりに銀貨をくれるのは、あの人たちだけで、あたしはいつももらうことにしているだ」
しかし王龍にしても妻にしても、外国人が銀貨をくれるのは、親切ごころからではなくて、何も知らないからだろう、乞食にやるには銀貨よりもビタ銭のほうが適当なのだということを知らないからだろう、と思っていた。
それでも王龍はこの経験で、あの演説の青年が教えなかったこと、彼が黒い髪と黒い目をもっている種族に属する人間だということを学んだのである。
この大きな、繁華な、富裕な都会の裾《すそ》に、こうしてしがみついてさえいれば、すくなくとも食うにことかくことはないようだ。王龍一家があとにしてきた故郷では、ひでりになると、土地がみのらず、食物がなくなり、人々は飢えた。銀貨を持っていても役に立たない。ないものは買えないからだ。
ところがこの都会では、いたるところに食いものがあった。魚市場の丸石を敷いた道路の両側には、大江から夜とれた大きな銀魚が、大きな籠に入れて並んでいた。池に網を投げてとったぴかぴか光る小魚の桶もあった。びっくりして不満そうに脚をうごかしている黄いろい蟹《かに》の山もあった。美食家の珍味とされている鰻《うなぎ》がにょろにょろしていた。穀物市場では、人間をそのなかに入れてかくしてしまったら、だれも気づかぬほど大きな穀物の籠があり、白い米、褐色や暗黄色や淡い黄金色の小麦、黄いろい大豆、赤い豆、緑色のそらまめ、カナリヤ色の粟《あわ》、灰色のゴマなどが、その籠に入れて積んであった。肉市場では、大きな豚が、まるごとつるしてあって、腹をさいて赤い肉や厚いあぶら身や厚いやわらかな白い皮まで見せていた。家鴨《あひる》の店には、くしざしにして、とろ火でゆっくりと褐色に焼きあげた家鴨や、白く塩漬にしたのや、臓腑までが入り口から天井まで、いくつとなくぶらさがっていた。そのほかに鵞鳥《がちょう》を売る店もあれば雉《きじ》を売る店もあり、あらゆる種類の鳥肉を売る店もあった。
野菜はどうかというと、人間がこの土地に栽培できるものならなんでもあった。赤くつやつやと光っているニンジン、あなのある白いレンコン、山いも、緑色のキャベツ、セロリー、もやし、褐色の栗、香気のあるタガランなど。この都会の市場の通りへ行けば、人間の食欲をそそるもので、ないものはなかった。そして、いたるところに行商人が、菓子、くだもの、木の実、油で揚げたあたたかいさつまいも、豚肉を小麦粉でまるめて味をつけてむしたもの、米でつくった砂糖菓子などを売り歩いていた。都会の子供たちは手にいっぱいビタ銭を握って行商人のところへかけよってはそれを買い、皮膚が砂糖と油で光るほど食べるのであった。
さよう、この都会では、飢えているものなどひとりもいないとだれもが言うであろう。
それでも、毎朝、夜が明けるとすぐ、王龍と家族たちが茶わんと箸を持って小屋から出ると、そこにはやはり小屋から出てきて長い行列をつくる人々の群れがあった。薄い着物で、しめった河霧の寒さに身をふるわせながら、冷たい朝風に背中をまるめて、銅銭一枚で茶わん一杯の米ガユを食べさせる公設食堂へ歩いてゆくのである。
王龍が人力車をひいてかけまわり、阿藍が乞食をしても、自分の小屋で米をたくほどのものはかせげなかった。貧民食堂の飯代に払うほかに、銅銭一枚でもあまると、キャベツをすこし買った。しかし、なんといってもキャベツは高くついた。阿藍が二つのレンガでつくったカマドで料理するためには燃料がいるが、その燃料は、ふたりの子供がさがしに行かなければならない。町の燃料市場へ葦や雑草を運ぶ農夫の荷から、かっ払ってくるのである。ときどきつかまっては、ひどい目にあわされた。兄のほうは弟よりも気が弱くて盗みをすることを恥ずかしがったが、ある夜、農夫にぶたれて、目があかぬほどはれ上がらせて帰ってきたことがあった。弟のほうは、だんだんうまくなって、乞食よりも、コソ泥《どろ》をやることのほうが、はるかにうまくなった。
阿藍にとっては、こんなことは、なんでもなかった。子供たちが笑ったり遊んだりして乞食ができないのなら、腹を満たすために盗みをさせてもいいと思っていたのだ。王龍は、妻がそう言うのに、なんとも返事はしなかったが、息子が盗みをするのは、たまらなくいやだった。だから長男が次男よりも盗むのがまずくても、叱言《こごと》を言う気にはなれなかった。この巨大な石塀の陰で暮らす生活を、王龍は好いてはいなかった。土地が彼を待っているのだ。
ある夜、彼がおそく帰ってくると、豚肉のかたまりを煮こんだキャベツの煮汁があった。肉を食べるなんて、うちの牛を殺して以来はじめてであった。王龍の目は大きく見ひらかれた。
「きょう外国人からでももらったのか」彼は阿藍に言った。彼女は、いつものくせで何も言わなかった。次男のほうは、知恵を働かすほどの年ではないし、腕のいいところを自慢したくて言った。
「おいらがとってきたんだよ――これは、おいらの肉だよ。肉屋が台の上で大きな肉からこいつを切りとって横を向いたときに、おいら、買いにきていたおばあさんの腕の下にかくれていて、盗んでやったんだ。これをつかんで、横町へかけこんで、兄さんがくるまで、裏門のからっぽの水がめのなかにかくれていたんだ」
「そんな肉は、おれは食わねえ」王龍は怒ってどなった。「買った肉か、もらった肉なら、おれは食う。だけど盗んだ肉は食わねえ。乞食はしていても、おれたちは泥棒じゃねえだ」彼は二本の指で鉢から肉をつまみ出して、次男が泣き叫ぶのもかまわず地面に投げすてた。
すると阿藍は、例のもっそりとしたものごしで、その肉を拾いあげ、水で洗って、煮立っている鍋のなかへ、もう一度入れた。
「肉は肉だでな」阿藍は静かに言った。
王龍は何も言わなかった。しかし怒りはしずまらなかった。そして心のなかで、こんなところで育ったら子供たちは盗人《ぬすっと》になるのではないかと恐れた。阿藍が、やわらかく煮えた肉を箸でとりわけたときも、何も言わなかったし、一ばん大きなかたまりを老人にあたえ、子供たちにもやり、女の子の口にさえ入れてやり、そして自分も食べるのを見ても何も言わなかった。しかし彼自身は肉には手をつけず、買ったキャベツだけで満足した。食事の後で、彼は次男を往来へ連れ出し、妻には聞こえない家の陰で、子供の頭を腕でおさえつけておいて、はげしくなぐりつけた。どんなに子供が泣きわめいても、なぐるのをやめなかった。
「泥棒すると、こうだぞ! いいか!」彼はどなりつけた。「こうだぞ! いいか!」
泣きじゃくる子供を家へ帰したあとで、彼は心でつぶやいた。
「おれたちはあの土地へ帰らなけりゃいけねえだ」
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十三
くる日も、くる日も、王龍《ワンルン》は、この都会の富裕の底に住む多くの貧民のなかのひとりとして暮らしていた。市場には食料品が満ちあふれていた。絹商人の商店街には、商品を宣伝するために、黒や赤やオレンジの輝くばかりの絹の旗がひるがえっていた。金持ちは繻子《しゅす》やビロードを身につけていた。そのやわらかな肉体を絹でおおい、その手はやわらかく、香水のにおいがし、安逸《あんいつ》の美しさがあって、花のようであった。それらすべてのために都会は帝王の都のように美しかった。しかし王龍が住んでいる界隈《かいわい》には食いものが十分ではなく、残酷な飢えがあり、骨をおおうに十分な衣服もなかった。
一日じゅう人々は金持ちの饗宴《きょうえん》のためにパンや菓子をつくり、子供たちは夜明けから夜半まで働いて、油によごれ、つかれた顔で、床の上に敷いた粗末なワラのなかに眠った。そして翌日はまた、よろめきながら、カマドのところへ行って仕事にとりかかった。しかも彼らは他人のためにつくるパンの一片を買うにも足りないほどの賃金しかもらえないのである。男や女の職人たちは、冬は厚い毛皮を、春は軽い毛皮を、裁断したり、くふうしたりした。市場で飽食する金持ちのために、厚い錦織りの絹を裁って、豪奢《ごうしゃ》な衣装を縫いあげた。しかも彼ら自身は、粗末な青木綿の布地を苦労して手に入れて、大急ぎで縫いあげて身にまとうのであった。
他人のぜいたくのために労働しているこれらの人々のあいだで暮らしている王龍は、奇妙な話を耳にすることがあったが、べつに気にもとめなかった。年老いている男女は、事実だれにも何も言わなかった。白髪《しらが》あたまで人力車をひき、手車を押して、石炭や薪をパン屋やその他のところへ運ぶ老人たちは、丸石を敷いた道の上を重い荷に行きなやんで、背中の筋が荒縄のようにあらわれるほど背をまげ、貧しい食べものを食べて、夜の眠りさえ短いが、しかし、黙々としていた。この老人たちの顔は、みな阿藍の顔に似て、無表情で、あまり口をきかなかった。彼らの心の底は、だれにもわからなかった。口をきけば、食いものか銅銭のことだけであった。銀貨という言葉は、めったに口にのぼらなかった。銀貨などを手にすることは、めったにないからだ。
休んでいるときの彼らの顔は、怒っているのではないが、怒っているようにゆがんでいた。何年となく、手にあまるほどの重荷を扱わされてきたので、上くちびるがめくれあがって、かみつきそうに歯がむき出しになっているのだ。この重労働によって目や口のまわりには深いしわがきざまれていた。しかも彼らは自分たちがどんなかっこうの人間になっているかを知らなかった。彼らのひとりが、いつか家具を運ぶ荷車が通り過ぎたとき、その上にあった鏡に自分の姿が映ったのを見て、こう言ったことがある。「みっともねえ野郎がいるぜ」他の人々が大きな声で笑ったが、当人は、なんでみんなが笑ったのかわからず、おずおずと自分も笑って、だれかの気を悪くしたのではあるまいかと、急いでまわりを見まわした。
王龍の小屋の周囲には、そういう人たちの住んでいる小屋がならんでいた。女たちはたえず子供を生み、子供に着せるためにぼろを縫ったり、百姓の畑からキャベツを盗んできたり、穀物市場から一握りの米を盗んできたり、年じゅう近くの山から草の根を集めてきたりしていた。収穫時には鶏のように刈る人のあとについて歩いて一粒でも穀物や豆を落としたら拾おうと、刺すように目を光らせていた。これらの小屋で子供たちは成長して行った。生まれ、死に、また生まれ、幾人生まれて幾人死んだのか、母親や父親すら知らなかった。げんざい幾人生きているのかさえほとんど知らなかった。ただ養わなければならない口としてしか子供たちを考えていないのだ。
これらの男たち、女たち、そして子供たちは、市場や呉服屋の店さきを出たりはいったりしたり、近くの郊外をうろついたりしていた。男たちは、わずかばかりの銅銭のために、どんな労働でもやった。女や子供は盗みをしたり、乞食をしたり、かっ払いをしたりしていた。王龍と妻と子供たちは、こういう人たちのあいだにまじっていたのである。
年老いた男女は、こういう生活を不平もなく受けとっていた。しかし、男の子がある年齢、おとなでもなく、子供でもない年ごろになると、彼らは不満でいっぱいになった。若い連中のあいだには、口をひらけば怒りや呪《のろ》いの言葉がとび出した。しかし、やがて一人前のおとなになり、結婚をすると、家族のふえることに心を奪われて、若いころの漠然《ばくぜん》とした怒りは、はげしい絶望と、言葉にも出せぬほどの深い反抗とにかたまってきた。というのは、一生涯牛馬よりも過酷な労働をつづけ、しかも、わずかのくずで腹を満たすしかないからだ。ある夜、そういう話に耳を傾けながら、王龍は、彼らが小屋をかけているこの大きな石塀の内側のことを、はじめて耳にしたのであった。
ながい冬の日々もようやく終わりになり、もう一度春を迎えられるという期待が、はじめてもてるようになった。小屋のまわりは、まだ雪どけでぬかるみ、小屋のなかまで水がはいってくる始末なので、小屋の住人たちは、あちこちからレンガを拾いあつめてきて、その上に寝た。しかし、しめった土が不愉快ではあるが、この夜、大気のなかには、なごやかな春の気配があった。なんとなく心が落ちつかず、王龍は、いつものように食事のあとすぐ寝てしまう気にもなれないので、道の端まで出て行って、ぼんやり立っていた。
ここは老父がいつも石壁によりかかって、あぐらをかいている場所である。子供たちが騒いで小屋がはちきれそうなので、いまも、茶わんを持って、そこへ出ていた。老人は、阿藍が腹巻きをさいてつくった布のひもで女の子を結わえ、片手でその端を握っていた。女の子は倒れもせずに、ひもの長さの範囲内を、よちよち歩いていた。もういまでは、阿藍がふところに入れて物ごいをするにはじゃまになるほど大きくなったので、毎日、老人がおもりをしているのである。それに阿藍はまた妊娠しているので、大きな子にしがみつかれたりすると、苦しくてたまらないのだ。
王龍は老人がひもを握って子供を遊ばせているのを見ていた。子供は、倒れたり、はったり、また倒れたりしていた。こうして、なごやかな夕暮れの風に顔を吹かれて立っていると、故郷の土地への渇望《かつぼう》が、はげしく心にわいてきた。
「こんな日には」彼は父親に大きな声で言った。「畑を掘りかえして麦づくりができるだな」
「おおよ」老人は静かに言う。「おまえの考えてることは、わしにもようわかっておる。わしは、若い時分に四度も今年みたいな目にあってるだ。畑をすててしもうてからに、今度は新しく種子をまこうにも種子がねえ始末よ」
「それでもとっつぁんは、いつも帰っただね」
「土地があるだでな」老人は単純に答えた。
そうだ、おれたちも帰ろう、今年だめなら、来年、と王龍は心のなかで言った。土地があるかぎり、きっと帰る! 春の雨に豊かに肥えて彼を待っている土地を思うと、はげしい渇望に満たされた。彼は小屋へ帰って行って乱暴に妻に言った。
「もし何か売るものがあれば、そいつを売って、おれは自分の土地へ帰りてえ。老人がいるので困るだが、それさえなきゃ、飢え死んでも歩いて帰るだ。だけど、老人や子供に百里の道がどうして歩けるだ。それに、おまえは身重だでな」
阿藍は、わずかな水で茶わんを洗っていたが、いまそれを小屋の隅に重ねて、うずくまったままで彼を見上げ、鈍重な調子で言った。
「売るものは女の子のほかにゃ何もねえだよ」
王龍は息をつまらせた。
「おれは子供は売らねえだ」彼は大きな声で言った。
「あたしは売られただよ」彼女は、きわめてゆっくりと言った。「あたしを黄《ホワン》家に売ったので両親は故郷に帰れただ」
「だから、おまえは、あの子を売ろうというのか?」
「あたしだったら、売る前に殺してしまうだよ……あたしは奴隷のそのまた奴隷だった。死んだ娘は一文にもならねえだ。あんたのためなら、あの子を売ってもいいだ――あんたを故郷へ帰すためならね」
「おれは売らねえ」彼は、がんこに言い放った。「この荒野みてえなところで一生を終わることになっても売らねえぞ」
しかし、ふたたび外へ出ると、これまで考えたこともないその考えが、意志に反して彼を誘惑するのであった。老父にひもの端を持たれて、よちよち歩きまわっている小さな女の子を彼は見た。毎日食べものをあたえられているので、非常に育ちはよい。まだぜんぜん口はきけないが、それでも、それほど大事にされているわけでもないのに子供らしくむくむくとふとっていた。老婆の口のようだったくちびるも、笑いをふくんで、つやつやしかった。大きくなるにつれて、彼と顔が合うと、ひどくよろこんだ。いまも子供は彼に笑いかけた。
(あの子をふところに抱いたこともなく、そして、あんなふうに笑いかけたりしなければ、売るかもしれねえだが)と彼はひとりごとを言った。
そしてまた故郷の土地のことを考え、思わず大きな声で言った。
「おれはもう二度と故郷へ帰れねえのか。あれだけ働いても乞食をしても、その日食うだけのことで、ほかに何もありゃしねえ」
そのとき、暗がりのなかから、彼に答える声があった。たくましい深い声だ。
「それはおまえさんだけじゃねえ。この町にゃ、おまえさんみてえなのが何万人といるんだ」
その男は短い竹のキセルをくわえて近づいてきた。それは王龍の小屋から二つおいたさきどなりの小屋のあるじである。この男は、日中は、ほとんど姿を見せなかった。昼間は寝ていて、夜、あまり大きすぎて車馬の往来のはげしい日中は町なかを通れないような重い荷車を、夜通し運搬するのである。ときどき王龍は夜明けに、この男が、すっかり疲れきって息をぜいぜいいわせ、筋骨たくましい肩をがっくりと落として、はうようにして小屋へはいるのを見かけたことがある。夜明けに、そんなふうに行きあうのは、王龍が人力車をひいて出て行くときであるが、ときには夕方、夜の仕事にかかる前に、表へ出てきて寝に行こうとしている近所の連中と立ち話をしているときに顔を合わせることもあった。
「そうかね。それで、いつまでも帰れねえだかね?」王龍は、なさけない調子で言った。
その男はキセルを三度ほど強くぷっと吹き、地面に唾《つば》を吐いた。
「いや、いつまでもというわけじゃねえ。金持ちがあまり富みすぎると、それには道がある。貧乏人があまり貧乏になりすぎると、そこにも道がある。去年の冬は、おれは娘をふたり売って食いつないだ。うちの女房は、また腹が大きいだが、生まれるのが娘だったら、この冬は、それも売ろうと思っている。女の子は、ひとりしか手もとに残っていねえ――はじめに生まれた娘だけだ。生まれて息をする前に殺すやつもいるようだが、おれは殺すよりも売るほうがいいと思っている。貧乏人があまりに貧乏になりすぎたときの一つの道はこれさ。金持ちがあまりに富みすぎても道があると言ったが、おれの見るところにまちがいがなければ、その道はもうすぐくるだ」彼はうなずいて、キセルで背後の高い石塀をさした。「この塀の内部を見たことがあるか?」
王龍は彼の顔を見ながら頭を振った。男は言葉をつづけた。
「おれは娘を売りに行って見てきた。この屋敷で、どれだけの金が出たりはいったりするか、おれが話しても、おまえさんは信用しねえだろう。いいか、これだけ言っておく――下男でさえ銀で飾った象牙の箸で食べているんだ。奴隷の女でさえ、硬玉や真珠の耳かざりをつけ、靴に真珠のかざりを縫いつけている。そして、靴にちょっとでも泥がついたり、おれたちなら破れたなどと言わぬようなちょっとした破れができても、そのまま真珠ごと捨ててしまうんだ」
男はキセルを強く吸った。王龍は口をあけたまま熱心に耳を傾けていた。この塀の内側には、ほんとうにそんなことが行なわれているのだろうか。
「人間、あまりに富みすぎても道がある」男はそう言って、しばらく黙っていたが、やがて、そんなことを言ったことなど忘れたように、そっけない調子で言った。
「まあ、せいぜい働くこった」そして夜の闇のなかに消えた。
しかしその夜、王龍は、彼が身をもたせかけているこの塀の向こう側の金や銀や真珠のことを考えて寝つかれなかった。掛けるべきふとんもないので、彼は毎日毎夜、同じものを着たまま、レンガの上にムシロを敷いて寝ているというのに。ふたたび子供を売りたい誘惑にかられて、彼は心で言った。
(あの子が美しくなって、大家の若旦那に気に入られたら、うまいものは食えるし、宝石も飾れるから、売るなら金持ちのところへ売ったほうがいいだな)しかし、そういう希望に対してみずから答えながら、また考えた。(だけど、あの子を売ったとしても、あの子の目方だけの黄金やルビイは手にはいるまい。故郷へ帰れるだけの金に売れても、牛やテーブルや寝台や腰掛けは、どうして買ったらいいだ? ここで飢え死にするかわりに故郷へもどって飢え死にするために子供を売るのか。畑にまく種さえないじゃないか)
さっきあの男は、「金持ちがあまり富みすぎると、そこには道がある」と言ったが、どんな道があるのか、彼は見当もつかなかった。
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十四
この小屋がけの村にも春がおとずれてきた。これまで乞食をしていた人々は、山や墓地へ、貧弱な新芽をふき出した小さな緑の雑草や、タンポポやナズナなどを掘りに行った。もうそこここで野菜をかっ払ってくる必要もなくなった。ぼろを着たきたない女や子供が毎日小屋を出て、ブリキだの、さきのとがった石だの、折れた小刀などを持ち、竹の小枝や、葦を裂いてつくった籠を手にして、金を払わずとも、物ごいをせずとも手に入れられる食いものをさがして、郊外や道ばたを歩きまわった。阿藍とふたりの子供も、毎日、この群れに加わった。
だが、男たちは働かねばならない。王龍はいままでどおりに働いた。一日一日と日がのびてあたたかくなり、日光は輝き、時おりにわか雨が降った。すると人々の胸には欲望と不満がみちてきた。冬のあいだ、彼らは黙々として働いていた。素足で、あるいはワラジで雪や氷を踏みつけるつらさを根強く辛抱し、暗くなってから小屋に帰り、その日の労働と乞食によって得た食物を黙って食べ、男も女も子供たちも、その貧しく乏しい食物では摂取できない栄養をつけるために、ぐっすりと眠った。これが王龍の小屋の生活であり、どこでも同じようであった。
しかし、春のおとずれとともに、心のなかにとじこめられていたものが言葉になって湧《わ》き出しはじめ、口から流れた。たそがれどきが長くなった。夕方になると彼らは小屋から出て集まっては話をした。王龍は、近所に住んでいながら、冬のあいだは知らなかっただれかれとも知るようになった。もし阿藍が世間話をするような女だったら、たとえば女房をなぐるのはこんな男だとか、ライ病で頬《ほお》の落ちてしまったのはあの男だとか、匪賊《ひぞく》の頭目はあの男だとか、いろんなことを聞いていたことであろう。だが彼女は、かんたんな受け答えをするだけで、例によって何も言わなかった。だから、王龍は、車座になった人々の隅のほうで、小さくなって話を聞いていた。
これらみすぼらしい人々は、ほとんどその日ぐらしの労働者か乞食ばかりである。王龍はいつも自分が彼らと同じ種類の人間だとはどうしても思えなかった。彼は土地を持っており、その土地は彼を待っているのだ。この人たちは、どうしたらあしたは魚が食えるだろうかとか、どうしたら怠けられるかとか、あるいはまた、どうしたら銅銭一枚かそこらで小さなバクチができるだろうかとか、そんなことを考えているのである。毎日が同じように苦しく、そしていつも貧しいが、しかし、どんなに絶望していても、ときには手なぐさみをしてみたいのである。
しかし王龍は土地のことばかり考えていた。そして、どうしたら故郷へ帰れるかと、遠のく希望に心を痛めながら、あれこれと思いわずらっていた。彼はこの金持ちの屋敷の塀の下に小屋がけしている貧乏人の仲間にも属していなければ、金持ちの屋敷に住む人間でもなかった。彼は大地に生きる人間であり、足の下に大地を感じ、春には牛を追うて畑を耕し、秋には鎌を手にとり入れをするのでなければ、生きがいを感じることができないのだ。だから、その連中から離れて、黙って彼らの話に耳を傾けていた。自分は土地を持っている。先祖から受けついだ小麦畑がある。黄《ホワン》家から買った肥沃《ひよく》な田がある、という考えを、いつも心の奥に秘めていたからである。
この連中が、いつも好んで口にするのは金銭のことであった。一尺の小布を買うのにいくら払ったとか、小指ほどの小魚を買うのにいくら払ったとか、日にいくらかせげるとか、そして、いつもけっきょくは、この塀にかこまれている屋敷の人が金庫のなかに持っているほどの金を手にしたら、自分たちは何をするだろうか、というところに話は落ちた。毎日、彼らの話は、こうして終わるのであった。
「やつの持っている黄金が、おれのものになり、やつが毎日腹巻きに入れている銀貨も、おれの手が握り、妾《めかけ》どもが身につけている真珠も、奥方が身につけているルビイも、おれのものになったら……」
こういうものをすべて手に入れたら彼らはどうするか、聞いていると、話は食うことと寝ることばかりで、これまで食べたことのない山海の珍味を食ってみたいとか、どこそこの豪勢な茶館でバクチをしてみたいとか、きれいな女を買ってみたいとか、そういうことにつきるのである。そして、けっきょくだれにも共通していることは、この塀のなかに住む金持ちが、けっして労働なんかしないのと同様に、彼も、けっして労働はしないだろう、ということであった。
そのとき王龍は、とつぜん大きな声で言った。
「もしおれが金銀財宝を持っていたら、おれは土地を買うだな。いい土地をな。そうすれば、うんと作物がとれるだ!」
連中は口をそろえて王龍をやっつけ、叱りつけた。
「豚のしっぽを垂らした田舎者にゃ都会の生活はわからねえし、金の使い方もわからねえよ。牛やロバの尻《しり》にくっついて、ただもう奴隷みたいに働きたがっているんだ」彼らはみな、おれたちは金の使い方をよく知っているから、王龍よりも金持ちになる資格があると思っているのである。
しかし、侮辱されても王龍の気持ちは変わらなかった。彼は他の連中に聞かせるために大きな声で言うかわりに、心のなかで言った。
(なんと言われても、おれは金銀財宝があれば、りっぱな肥えた土地を買うだ)
毎日そんなふうに考えているうちに、すでに彼のものとなっている土地への渇望に、どうにもがまんできなくなってきた。
自分の土地のことばかり考えつづけていると、毎日この都会で起こっていることがらが夢のようにしか思えなかった。
どんなふしぎなこともそのまま受けいれて、なぜそうなのかと疑うこともせず、ただきょうはこんなことがあった、と思うだけであった。たとえば、あちこちで人々がくばっている紙きれのことがあった。ときには彼にさえも、そんな紙きれをくれた。
王龍は子供のときから、字を習ったことがない。だからこの都の城門や城壁にはってあるビラを見ても、わずかの金で売ったり無料でくれたりするビラを見ても、読むことができなかった。そんなビラを彼は二度ほどもらったことがあるのだ。
はじめてもらったのは、ある日彼がいやいやながら人力車に乗せて走った外国人からである。彼にビラをくれたその外国人は男で、非常に背たけが高く、木枯らしに吹きさらされた木のようにやせていた。目が氷のように青く、毛深い顔で、王龍に紙を渡すときに見ると、その手も毛深く、そして皮膚が赤かった。そのうえ、船の舳《へさき》のような巨大な鼻が頬からつき出ていた。王龍は彼からもらうのは恐ろしかったが、その異様な目と、恐ろしい鼻を見ると、拒むのはもっと恐ろしかった。さし出されたものを受けとり、その外国人が行ってしまったあとで、勇気を出してその紙片を見た。
白い皮膚の男が十字架にかかっている絵がかいてあった。腰のまわりに、わずかばかり布をまとっているだけで裸であり、あごひげをはやした顔を肩にたれ、目をとじている。どう見ても死んでいるらしい。王龍は、この絵の人を見ると、気味も悪いが、だんだん気をひかれてもきた。下に字が書いてあるが、彼には読むことができなかった。
夜、家へもって帰って老人に見せた。だが老人も字が読めなかった。そこで王龍と老人とふたりの子供と、みんなで、おおよその意味をつかもうとこころみた。ふたりの子供は興味と恐怖とから、大きな声で叫んだ。
「あれ、横っ腹から血が流れているよ」
老人が言った。「はりつけになっとるところを見ると、きっと、えらい悪人なのだろうよ」
しかし、王龍はこの絵が恐ろしかった。なぜ異人はこの絵を彼にくれたのだろうか、あの異人の兄弟がこんな目にあわされたので復讐するつもりなのだろうか、などと思いまどった。だから、その異人と出あった通りを避けるようにしていたが、数日たつうちに、その紙片のことなど、すっかり忘れてしまった。阿藍は、あちこちから集めてきた紙片を縫いこんで、靴の底をじょうぶにするのだが、この絵も、それといっしょに縫いこんでしまった。
そのつぎに、王龍に紙片をくれたのは、身なりのりっぱなこの都会の青年だった。彼は、物見高く集まってきた町の群衆に紙片をくばりながら、大きな声で叫んでいた。この紙片にも血にそまった死人の絵がかいてあるが、しかし今度のは皮膚の白い毛の深い人間ではなく、王龍と同じように、黄いろく、やせていて、髪も目も黒い貧民で、ぼろのさがった青い着物を着ていた。この死人の上に、大きなふとった男が立ちはだかって、手にした長いナイフで何度も何度もその死人を突き刺している絵である。王龍は、それを見ているうちに、下に書いてある字の意味が知りたくなり、かたわらの男にきいた。
「この恐ろしい絵は、なんだね。字が読めるなら、どんなことが書いてあるだか、教えておくんなさい」
その男は言った。
「静かにして、あの若い先生の言うことを聞くがいい。みんなに説明してくれている」
そこで王龍は耳を傾けた。青年の話は、まだ一度も聞いたことのない話だった。
「死んでいるのは諸君だ」若い先生は声をはりあげて演説する。「殺されても何も知らずに死んでいる諸君を、なおも突き刺している犯人は金持ち階級である。資本家である。彼らは、諸君が死んでしまっているのに、まだ突き刺している。諸君は貧しく、そして下積みにされている。なぜか。金持ち階級がすべてを強奪《ごうだつ》しているからだ」
王龍は自分が貧乏なのは、知りすぎるほど知っていた。しかしそれは天が雨のほしい季節に雨を降らせてくれず、ほしくないときに、幾月でもつづけて雨ばかり降らせるせいだと、天をうらんでいた。ほどよく雨が降り、日が照り、畑にまいた種子が芽を出し、みのるなら、彼は自分を貧乏だなどとは思わないだろう。雨のほしい季節に天が雨を降らせなくても、金持ちはそういうことができるのだろうかと、彼は興味をもって話のつづきを聞こうとした。青年の話は、とうとうとつづけられるが、王龍が一ばんききたいと思っていることについては、いっこうにふれなかった。王龍は大胆になって質問した。
「先生、おれたちを圧迫している金持ちどもは、おれたちが畑で働けるように雨を降らせることもできるだかね?」
青年は、これを聞くと、軽蔑したように彼を見おろして答えた。
「きみは、いまだに長い辮髪をつけている。なんという時代おくれだ。だれも雨を思いのままに降らせることはできない。しかし、それとこれと、なんの関係があるのか。もし金持ちどもが、やつらの持っているものをわれわれに分配したら、雨が降ろうが降るまいが、そんなことは問題ではないではないか。われわれは金と食物を手にすることができるのだ」
聴衆のなかから、さかんなどよめきが湧き起こった。だが王龍は満足せずに引き返した。そうかもしれない。しかし土地の問題があるではないか。金も食物も、使えばなくなってしまう。日光や雨が不順だったら、また飢えるではないか。それでも、阿藍がいつも靴の底につめる紙に困っていることを知っているので、紙片だけは、よろこんでもらった。小屋へ帰ってから、その紙片を阿藍に渡して言った。
「靴の底につめるものがあるだよ」そして前と同じように働いた。
夕方になると、小屋の連中といっしょに彼も話しあうのだが、なかには、あの青年の演説を熱心に聞いた人がたくさんいた。彼らは、この塀の向こう側には金持ちが住んでいることを知っており、彼らとその富とのあいだには大きなレンガの塀があるだけであり、この塀だって、彼が毎日重い荷物をかついでいる天びん棒で二、三度突けばすぐくずれてしまうにちがいないと知っているので、よけい熱心に聞いていたのである。
春の不満に加えて、いまや新しい不満がひろまってきた。それは、あの青年やその仲間が、自分たちの持っていないものを金持ちどもが持っているのは不当だという意識を、この小屋の住人たちの心にひろめたからである。彼らは毎日このことを考えるようになり、夕方になると集まってそのことを話しあった。そのうえ、毎日、毎日、いくら働いてもかせぎはすこしもよくならないので、若い連中や元気な男たちの心には、雪どけの水にあふれ流れる大河の潮のように、狂暴な欲望をたたえた潮が、さからうことのできない勢いで、満ちあふれてきた。
しかし王龍は、このありさまを見、彼らの話を聞いて、彼らの怒りに、なんともいえぬ不安を感じたが、しかし、もう一度この足で故郷の土地を踏みたいと思う以外に、なんの望みもなかった。
王龍はこの都会で、たえず何か新しいことにぶつかるが、するとまた理解しがたいことにぶつかった。ある日、空車をひいて客をさがしていると、そこに立っていたひとりの男が、武装した兵士の一隊につかまえられた。男が抗議すると、兵隊たちは、その顔の前で銃剣をひらめかした。王龍がびっくりして見ていると、ひとり、またひとりと、つぎつぎにつかまっていった。つかまった男たちが、みな自分の腕でかせいでいる貧乏人であることが王龍にもわかった。そのうちに、またひとりつかまった。この男は、彼と同じ塀の下の、しかもすぐ隣の小屋に住んでいる男であった。
ぼうぜんとしていた王龍は、このときふいに、その男たちが、なぜ自分たちは好む好まないにかかわらず、うむを言わさず逮捕されるのか、彼ら自身にさえわかっていないのだ、とさとった。王龍は、つぎには自分もやられるかもしれぬと不安になり、大急ぎで車を横町にひき入れてそこにおき、湯を売る店へとびこんで、兵士たちが通り過ぎるまで、大釜のうしろにうずくまってかくれていた。
それから、いまの顛末《てんまつ》は、いったいどうしたわけだろうかと店の主人にきいてみた。商売道具の銅製の釜から立ちのぼる湯気でしなびている老人は、平気な顔で答えた。
「またどこかで戦争があるのだよ。なんで、あちこちで戦争があるのか、それはだれも知らないがね。わしが子供の時分から戦争はあった。わしが死んだあとでも、やはりあるだろう。ようわかっている」
「それにしても、しかし、どうしておれの隣の男が連れて行かれただかね。おれと同じで、新しい戦争のことなんか、まるで知らねえのに」びっくりして王龍はきき返した。老人は釜のふたをがたがたいわせながら答えた。
「あの兵隊どもは、どっか戦地へ出て行くのだよ。だから寝具や銃や武器を運ばせる人夫が要《い》る。それで、おまえさんたちみたいな労働者を連れて行くのだ。だけど、おまえさんは、どこからきなすったのかね? あんなことは、この町では、ちっとも珍しくないのだがね」
「それで、それからどうなるだね」王龍は息をはずませて言った。「賃金は、いくらくれるだね――帰してはくれるのかね?」
老人は非常に年をとっており、この湯釜のこと以外には、なんの興味もなく、またなんの望みももっていないので、あっさりと答えた。
「賃金はくれないが、パンを一日に二片くれるそうだ。水は池から飲むんだ。目的地へついて、二本の足さえいうことをきくなら、うちへも帰れるだろうて」
「そうかね。だけど、そうなると家族たちはどうなるだね――」王龍は青くなった。
「だれがそんなことまで気にするものかね。兵隊どもの知ったことじゃないよ」老人は吐きすてるように言って、手近にある釜のふたをとり、沸いたかどうかを見た。湯気が雲のように老人を包み、釜をのぞきこんでいるしわだらけの顔が、ほとんど見えなくなった。それでもこの老人は親切だった。その湯気のなかから出てくると、王龍のかくれているところからは見えなかったが、もう働けそうな労働者は全部かくれてしまった大通りを、もう一度、兵隊どもが人夫をさがして近づいてくるのをみつけた。
「もっと低くしゃがんでいなされ」老人は王龍に言った。「兵隊どもがまたきたでな」
釜のうしろで王龍は、ちぢこまった。兵隊どもの靴の音が、丸石の舗道の上を西のほうへ遠ざかって行った。靴の音が聞こえなくなると、王龍はそこからとび出して空《から》の人力車の梶棒をひっつかみ、大急ぎで小屋へ走りもどった。
ちょうど、阿藍は道ばたで集めてきた草や根や葉を料理しようとしていたが、その阿藍に向かって彼は、いましがた起こったこと、ほとんど逃げられそうもないとまで思ったことを、とぎれとぎれに息をはずませて話しているうちに、また新しい恐怖が心にわいてきた。戦場へ引きずって行かれ、残された家族を飢え死にさせるばかりでなく、彼も戦場に血を流して横たわり、故郷の土地も二度と見られなくなるのだと思うと、しんから恐ろしかった。彼は、おびえた目で阿藍を見て言った。
「おれももうじっさい、あの小さな娘を売って郷里へ帰りたくなっただよ」
しかし、じっと耳を傾けていた阿藍は、しばらく考えてから、いつもの平板な無感動な調子で言った。
「まあ、五、六日待ってみることだて。妙なうわさを聞いてるだでね」
彼は日中は、けっして外へ出ようとしなかった。その日は、借りた人力車も長男にひかせて返しにやった。そして夜になるのを待って商店へ行き、これまでの半分の賃金で、夜通し、箱をいっぱい積んだ大きな荷車をひくことにした。一つの荷車に十二人ほどついて、うめきながらひくのである。箱のなかには絹や綿や香りの高いたばこが、いっぱいつまっていて、その香りが箱の隙間から漏れてきた。油や酒のはいっている大ガメもあった。
まっ暗な街路を、夜どおし彼は一生けんめいに綱を引っぱった。裸のからだには汗が流れ、夜露にぬれた道路の丸石のために、はだしの足がすべった。夜道を照らすために、タイマツを持った少年が、さきに立って行った。タイマツの光に、男たちの顔も、からだも、ぬれた丸石も、一様に光っていた。そして夜明け前に王龍は家へ帰ってくるが、つかれきっていて、一寝入りしないことには、食事をする気にもなれなかった。しかし、兵隊どもが人夫をかり集めるために街路を歩きまわっている日中は、小屋の一ばん奥の隅で、阿藍が遮蔽《しゃへい》用につみ重ねたワラのうしろにかくれて安全に眠った。
どんな戦争なのか、だれが戦っているのか、王龍は知らなかった。しかし春が深まるにつれて、この町は恐怖と不安に満たされて行った。毎日、馬車が富豪連中や彼らの所有物である衣類、繻子《しゅす》の寝具、美しい愛妾《あいしょう》たち、宝石などを積んで河岸《かし》に運び、そこから船でどこかへ運ばれて行った。あるものは汽車で他の土地へ去って行った。王龍は昼間はけっして外へ出なかったが、息子たちがもどってきては、大きくひらいた目を輝かせて言うのであった。
「おれたち、こんな人も見たよ。あんな人も見たよ。なかには、神さまみたいにふとっておっかない人もいたよ。からだに、だぶだぶの黄いろい絹を巻きつけて、指にガラス玉みたいな緑の石のついた大きな金の指輪をはめてるんだ。そして、あぶらっこい、うまいものばかり食べてるから、からだが光っていたよ」
すると、こんどは長男のほうが言う。
「荷物の箱が、たくさんあったよ。何がはいっているんだろうと思ってきいてみたらね、『金や銀がはいっている。だけど金持ちは、持っているもの全部はとても持って行けない。だから、それはいつかみんなおれたちのものになるんだ』って、そう言っていたよ。それ、どういうことだろうね、おとっつぁん?」子供は好奇心にあふれた目で父親を見た。
だが、王龍が、「町のなまけものの言うことなんぞ、知るもんか」と、そっけなく言ったので、子供は、ものほしそうに叫んだ。
「もしそれがおいらのものだったら、これからでも行って、すぐにとってくるんだがな。おいら、うまい菓子が食いてえんだ。上にゴマをふりかけた上等の菓子なんて、食ったことねえもの」
この言葉に、老人は夢からさめたのか、まるでひとりごとみたいに低い声で言った。
「豊作の年にゃ、わしらも秋の祭りにそんな菓子をつくったものだ。そういう菓子をつくるために、ゴマを売る前に、すこしとっておいたもんだよ」
王龍は、いつか正月に、阿藍が米の粉と豚の脂《あぶら》と砂糖とでつくった菓子のことを思い出した。すると口に唾がたまり、胸が痛むほど過ぎたあのころがなつかしくなった。
「あの土地に帰れさえすればな」彼はつぶやいた。そしてふいに、もうこれ以上一日でもこのぼろ小屋にいるのがいやになってきた。からださえ十分にのばせない小屋のなかでワラのうしろにかくれているのもいやになったし、肉にくいこむ引き綱にからだを折り曲げて、夜どおし丸石の道を重荷をひいて行くのもいやになった。その丸石の一つ一つを彼は敵とみなしたものである。だから、丸石と丸石とのあいだのすべらないところへくると、からだの肉が一片、助かったような気がした。まっ暗な夜など、とくに雨が降って、いつもよりも街路がぬれているときなどは、足の下の丸石に対して全身の憎悪が注がれた。それらの丸石は無情に重い荷車の車輪にくっついてしまって離れないのではないかとさえ思われた。
「ああ、あの土地!」とつぜん彼はそう叫んで泣き出した。子供たちはびっくりしてしまった。老人も驚いて、母親が泣くのを見て顔をゆがめる子供のように、あごひげのまばらな顔を、さまざまにゆがめて彼を見ていた。
阿藍が、ふたたび例の平板な調子で言った。
「もうすこしすれば、きっと何かが起こるだよ。もうどこでもその話でもちきりだでな」
小屋にかくれていた王龍は、幾時間もつづけて表を通り過ぎる足音を聞いた。戦場へ行く軍隊の足音である。ときどきムシロをすこし持ちあげて、その隙間に片目をあて、皮の靴をはき巻脚絆《まききゃはん》をつけた足が、つぎからつぎへと、幾千となく進んで行くのを見た。夜、荷をひいているときにも、さきに立って行くタイマツの光で、暗闇のなかを進んでゆく兵隊の顔を、一瞬ちらと見ることがあった。彼は兵隊のことについては、だれにも何もきかなかった。ただ一心に重い荷物をひき大急ぎで飯を食べて、日中は小屋のなかのワラのうしろで眠った。
このごろではもうだれも人に話しかけたりするようなことはしなかった。この都会全体が恐怖にふるえていた。だれもが、どうでもしなければならぬことを手早く片づけると、大急ぎで家へとびこんで戸をしめてしまった。
この小屋がけの村でさえ、夕方になっても、むだ話をするものはいなかった。かつては食料品が豊富にならんでいた市場の商店にも、いまは何もおいてなかった。絹店でも派手なのぼりをひっこめ、大きな商店はみな頑丈な厚い扉を固くしめていた。日中、町なかを通ってみても、どこも寝静まっているかのようであった。
敵軍が近づきつつあるといううわさが、いたるところでささやかれ、どんな物でも、物を持っている人は、おびえていた。しかし王龍はおびえなかった。小屋がけの住人たちもおびえていなかった。彼らはだれが敵なのかも知らなかったし、なくして惜しいようなものも持っていず、生命をなくしたところで、たいした損害だとは思っていなかった。敵がくるならくるがよい。彼らにとって、現在以上に悪いことなんて、あるはずがないのだ。しかし、そう思って、これまでどおりに過ごしていながらも、だれも、あまりむだ話をするようなことはしなくなった。
やがて各商店の支配人たちは、河岸から方々へ商品の箱を運んでいた労働者に向かって、もうくる必要はない、と言いわたした。このごろでは小売店の商売が、まったくお手上げになってしまったのである。
王龍も仕事にあぶれて、昼も夜も小屋のなかで、のらくらと寝てばかりいた。彼は死んだ人のように眠りつづけた。はじめのうちは、そうして休養のとれるのがうれしかった。というのは、いくら寝ても、これで十分からだが休まったとは思えなかったからだ。かせがなければ収入はない。四、五日で、残しておいた銅銭もなくなってしまい、にっちもさっちも動きがとれなくなった。そして、彼らの頭上に降りかかる苦難はこれでもまだ足りないというかのように、公設食堂までが戸をとざしてしまい、私財を投じて貧民を救済していた人々も、みな自宅に引きこもってしまった。食いものもなければ仕事もなく、乞食をしようにも町を往来する人影さえなかった。
王龍は小さな女の子を腕に抱いて、小屋のなかにすわり、その顔を見ながら、やさしく言った。
「おまえはあの大きな屋敷へ行きたくはねえか。あそこに行けば、食いものもあれば飲みものだってあるだ。おまえのからだをたっぷり包める着物だってあるだぞ」
彼女は父の言ったことがわからないままに、笑顔を見せ、小さな手をのばして、彼女をみつめている父親の目を、ふしぎそうに、さわろうとした。彼は堪えられなくなって、阿藍に呼びかけた。
「おまえも黄家でなぐられたことがあるだか?」
彼女は平板な調子で重々しく答えた。
「毎日ぶたれただよ」
彼はまた言った。
「革《かわ》でぶつのか、それとも竹とか縄のようなものでぶつのか?」
阿藍は同じように重苦しい調子で答えた。
「ラバの馬具の革ひもでぶたれただ。それが台所の壁にかかっていただよ」
おれが何を考えているか阿藍のやつは知っている、と思ったが、王龍は、思いきり悪く、もう一度念を押した。
「この子は、いまでも器量がいい。器量のいい奴隷でも、やっぱりぶたれるのか?」
彼女は、そんなことはどっちにしたって同じことだというように、冷淡に答えた。
「そうだとも。ぶたれるか、男の寝床に連れて行かれるか、どっちかだて。しかも、その男ひとりだけではなくて、ほしがる男には、だれにでも連れて行かせるだ。若い公子たちときたら、この奴隷だとか、あの奴隷だとか、けんかずくでとりあったり、交換しあったりして、『それじゃ今夜はきみが連れて行け、あすはぼくだ』なんて言ってるだよ。公子たちが、その奴隷にあきてくると、今度は下男どもが、そのお下がりをとりあうだ。それが奴隷がまだ子供のうちからはじまるだで――奴隷が美しければな」
王龍は嘆息し、女の子を抱きしめて、何度もくりかえして、やさしく言った。「かわいそうに――かわいそうに」しかし心のなかでは、洪水に押し流された人間が考える余裕もなく叫ぶように、「ほかに仕方がねえだ――どうしようもねえだ――」と叫びつづけていた。
彼がそうしてすわっていると、そのときとつぜん天がさけたような大音響がした。人々はみな思わず地面に伏して顔をおおった。そのすさまじいとどろきは、彼らをつかみあげてたたきつぶすかとさえ思われたからだ。王龍は、この恐ろしい轟音から、どんな恐るべきことが起こるかもしれないと思い、手で女の子の顔をかばった。老人が王龍の耳に口を寄せて言った。
「生まれてこのかた、こんな音を聞いたことはねえだ」ふたりの子供たちは、おびえて泣きわめいた。
急に静かになった。すると阿藍が顔をあげて言った。
「あたしの聞いていたことが起こっただよ。敵が町の城門をぶちこわしただ」だれも、なんとも答えぬうちに、市をおおう叫喚《きょうかん》が聞こえてきた。この叫喚は、最初は近づいてくる嵐の前ぶれの風のようにかすかだったが、しだいに深い叫び声を集めて高くなり、町々をおおうほどのどよめきとなった。
小屋の床に半身を起こしてすわっていた王龍は、言いようのない恐怖が、からだじゅうをはいまわり、髪のつけねがうずくのを感じた。だれもが身を起こしかけてすわったまま、見当もつかない何事かが起こるのを待ちつつ、たがいに目を見合わせていた。しかし、人々の集まる物音と、叫び立てる声が聞こえるだけであった。
そのとき、小屋からほど遠くない塀の向こうで大きな門の錠前のきしむ音と、むりやりこじあけるような鈍い音が聞こえてきた。ふいに、いつか夕暮れどきに王龍と話したことのある、短い竹のキセルをくわえていた男が、小屋の入り口から顔を突っこんで叫んだ。
「まだこんなところにいるのか。時がきただ――金持ちの門がおれたちのために開かれただぞ」阿藍は、どなっている男の腕の下をくぐり抜けて、魔術のように姿を消した。
王龍は、のっそりと、なかば茫然《ぼうぜん》として立ちあがり、女の子を下において外へ出た。富豪の家の巨大な鉄門の前には、無数の人々が集まって押しあいながら、口々にわめいていた。さっき聞いた猛虎の咆哮《ほうこう》のようなどよめきは、彼らの叫び声であったのだ。その声は町々をうずめつくしていた。これまで飢え、押しひしがれていた無数の男女が、いま何をしても自由な時がきたとばかり、恐ろしい叫び声をあげて、町じゅうのあらゆる富豪の門前に押しよせているのだ、と王龍はさとった。巨大な鉄門は開かれていた。
人々は、足は足を踏み、からだはからだを押しあって、全集団が一つのかたまりとなって進んで行った。前へ出ようとあせる人々にうしろから押されて、王龍も群衆のなかに巻きこまれてしまった。こうなると、いやでもおうでも前へ進むよりしかたがない。もっとも彼は、このとつぜんの事件に度をうしなって、自分でも自分の気持ちがわからなかったのである。
こうして彼は巨大な門の内側へ押し入れられた。群衆にはさまれて足も地につかないありさまであった。怒れる野獣の咆哮に似た群衆の叫びが、まわりから起こっていた。
つぎつぎと中庭を通って王龍は、一ばん深い奥庭まで押し流されていった。この屋敷に住んでいる人の姿は、男も女もひとりも彼は見かけなかった。まるで無人の宮殿のようであった。しかし庭園の岩間には早咲きの百合が咲いているし、早咲きの春の木も、まだ黄葉もない枝に金色の花を咲かせていた。それに室内のテーブルの上には料理の皿が出ているし、台所には火が燃えていた。群衆は富豪の屋敷のようすをよく知っていて、召使や奴隷たちが住んでいるところや料理場のある前方の建物には手もふれず、まっすぐ奥のほうにと進んで行った。そこには公子や婦人たちの豪奢《ごうしゃ》な寝台もあるし、彼らの絹の衣装を入れた箱もあった。黒や朱や金色に塗った美しい箱もあるし、彫刻をほどこしたテーブルや椅子もたくさんあり、壁には掛け軸がかかっていた。群衆は、これらの財宝に襲いかかり、箱や戸棚をあけては、なかにあるものを手当たりしだいにつかみ出し、奪いあい引っぱりあった。衣装や寝具やカーテンや皿が、手から手へと渡り、他人の持っているものを、また別の手がつかんだ。自分の持っているものを見る余裕はなかった。
この混乱のなかで、王龍だけは何もとらなかった。彼はこれまで他人のものをとったことがない。だから、とっさにはそれができないのだ。はじめ彼は群衆のまんなかにいて、あちこち押しまわされていたが、そのうちに、どうやら意識をとりもどして、根気よく人々をかきわけて端のほうへと進み、やっと群衆の外側へ出ることができた。急流が渦《うず》を巻くと、その端に小さな渦ができるものだが、そのような小さな渦に押されて立っていた。それでも自分がどこにいるのかという判断はついた。
彼がいるのは、婦人たちのいる後房の裏手だった。裏門は開かれていた。その門は、こうした場合の避難用として、幾世紀も昔から金持ちがつくっている門で、非常門と呼ばれていた。屋敷の人たちは、きょう、この門からのがれて、町のそこここに身をかくし、屋敷のなかの叫び声に耳をすましていることであろう。ひとりだけ、ふとりすぎているせいか、それとも酔って寝こんでしまっていたためか、逃げおくれた男がいた。群衆がなだれこみ、そして出て行ってしまった奥のだれもいない部屋で、王龍は、その男とばったり出あった。秘密の場所にかくれていてみつけられずにすんだので、もうだれもいないと思って、逃げようとはい出してきたのである。たえず群衆の背後へとまわっていたので、王龍はそのときひとりきりだった。
その男は非常に肥満した大柄の男で、老人でもなければ、若くもなかった。うたがいもなく美女を擁して裸で寝ていたものにちがいない。身にまとっている紫繻子の長衫《チャンサ》から、あらわに肌《はだ》が見えた。黄いろい肉が、胸や腹に層をなしており、頬も山のようにもりあがっていて、目は豚の目のように小さく、沈んでいた。彼は王龍を見ると、ふるえあがって、小刀でからだを突き刺されでもしたように悲鳴をあげた。武器は持っていなかったが、王龍はそれを見ると、おかしくなり、笑いだしそうになった。ふとった男は跪《ひざまず》いて、頭をタイルの床にすりつけて哀願した。
「生命《いのち》だけはお助けを――生命だけはお助けを――どうぞお助けください。金ならさしあげます――いくらでもさしあげます――」
ふいに王龍の心を明るくしたのは、この『金』という言葉であった。金! おお、ほしいものはそれなのだ!(金さえあれば――子供が助かる――自分の土地へ帰れる!)声に出してはっきりそう言われたように、その言葉が耳にきた。
とつぜん彼は、そんな声が出せるとは思ってもいなかったようなすさまじい声でどなりつけた。
「そんなら金を出せ」
ふとった男は立ちあがって、泣き泣き何かわからぬことをつぶやきながら、長衫のかくしをさぐって、黄いろい手に銀貨をいっぱいつかみだした。王龍は着物の裾《すそ》でそれを受けとった。そしてまた、他人の声のような奇妙な声でどなった。
「もっと出せ」
ふたたび男は銀貨をつかみ出して、泣き声を出した。
「もうありません。このみすぼらしい生命以外、何もありません」そして彼は泣き出した。ふとって垂れさがっている頬を、涙が油のようにつたって流れた。
身をふるわせて泣いている男を見ているうちに、ふいに王龍は、これまで感じたことのない、はげしい嫌悪《けんお》を感じ、その嫌悪の思いに駆られてどなりつけた。
「消えてなくなれ。行かねえと殺すぞ、この百貫デブめ!」
牛も殺せないほど気の弱い王龍が、こうどなったのである。男は野良犬のように、どこかへ逃げて行った。
王龍は銀貨を持って、ひとりのこされた。勘定する余裕もなく、急いで銀貨をふところへねじこみ、あけはなしてある非常門から外へ出て、細い裏道を通って小屋へもどった。まだ他人のからだのぬくもりが残っている銀貨を胸に押しつけて、彼は何度も、ひとりごとを言った。(故郷の土地へ帰るのだ――あしたは故郷の土地へ帰るのだ)
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十五
かなりの日数ここを留守にしていたのに、王龍はこの土地を離れたことがうそのように思われてきた。実際心のなかでは離れたことがなかったのだ。彼は銀貨六枚で南から麦や米やトウモロコシの上等な種子を買ってきた。そのうえ、金があるので、けちけちせずに、これまで植えたことのないセリや、池に植えるれんこんや、お祭りの料理をつくるときに豚肉といっしょに煮る大きな赤大根や、小さな赤い香りのいい豆のようなものまで買ってきた。
銀貨十枚で、畑で耕作している農夫から牡《お》牛を買った。まだ自分の故郷につく前のことである。途中で彼は、その男が畑で働いているのを見て足をとめた。老人や子供や阿藍《オーラン》は、早く家へ帰りたくてたまらなかったが、みな立ちどまって牛を見た。王龍は、そのふとい頑強な首に心を動かされ、木の軛《くびき》をひいている頑丈な肩に気をひかれたので、声をかけた。
「値うちのねえ牛だな! 銀貨何枚で売るだね? 見るとおり、おれは牛を持ってねえで困ってるだで、どんなのでも仕方がねえだよ」
すると農夫は答えた。
「この牛を売るくらいなら、女房を売るだよ。まだ三歳だで、働き盛りだ」
そして王龍を無視して牛を追って耕しつづけた。
王龍は、世界じゅうに牛はたくさんいるだろうが、自分の牛はこの牛でなければならぬ、という気がした。彼は阿藍と老人とに問いかけた。
「あの牛はどうかね?」
老人は、つくづくと牛を見て言った。「うまく去勢してあるし、よさそうな牛だて」
阿藍は言った。「あの人が言うより一つだけよけいに年をとってるだよ」
しかし王龍は、土を耕すたくましい力といい、黄いろいつやのある毛並みといい、暗黒色の目といい、すっかりほれこんで、もう買うことにきめていたので、それには返事をしなかった。この牛があれば、畑を耕すこともできるし、肥料をまくこともできる。ひき臼につければ穀物を挽《ひ》くこともできる。彼は農夫のあとを追いかけて行って言った。
「かわりの牛を買ってもあまるほど金は出すだ。おれはこの牛がほしいだよ」
けんかのように口争いをするやら、かけひきをするやらのあげく、とうとう農夫は、この地方の牛の相場からいうとまだ半分も高い値段で売りわたすことにした。だが、この牛を見ると、王龍には銀貨など問題ではないように思えた。農夫の手に銀貨を渡し、軛《くびき》をはずすのを待ちかねるように、王龍は、牛の鼻に通した綱を握ってひいて行った。この牛を自分のものにしたことで、うれしさに心が燃えたつようであった。
家へついてみると、戸はこわされ、草ぶきの屋根も持ち去られ、残しておいた鍬《くわ》や馬鍬も盗まれてしまって、むき出しになって梁《はり》と土の壁とが残っているだけだった。その土の壁さえ、冬から早春にかけての雪や雨にうたれて手ひどく破損していた。しかし、そんなことも、最初は驚いたが、王龍にとっては、たいした問題ではなかった。すぐに彼は町へ行って、強い木でつくった鋤《すき》と馬鍬と鍬を二本ずつ買ってきた。それから、屋根は秋の収穫のあとで葺《ふ》くことにして、それまでのつなぎにムシロを買ってきて屋根をおおった。
その夕暮れ、彼は門口に立って、自分の土地を見わたした。凍りついた冬から解放されて、土は砕け、いきいきとして、すぐにも種子まきができるようになっていた。春もたけなわとなり、浅い水たまりでは、のどかに蛙《かえる》が鳴いていた。家の隅の竹やぶは、やさしい夕風に静かにゆれていた。たそがれの光に、近くの畑の境にある木の列が、ぼんやりと見える。桃の木だ。淡紅色のつぼみをつけている。そして柳の木は、しなやかな緑の新芽をのばしていた。やがてその静かな土地から、月光のような銀色の靄《もや》がほのかに立ちのぼり、木々の幹にまつわりついた。
はじめは、かなり長いあいだ、王龍は人間と顔を会わせる気になれず、ひとりで畑にいたかった。彼は村のどこの家も訪《たず》ねず、だれかこの冬の飢饉をしのいで生き残った村人が訪ねてきたりすると、彼は機嫌がわるくなった。
「いったい、だれがおれの家の戸をこわしただ? だれが馬鍬や鍬を盗みやがっただ? だれが屋根をむしって、たきつけにしてしまっただ?」彼らの顔を見ると、こんなふうにわめきちらした。
すると村人たちは、いかにも人倫の道を心得ているといったふうに首を振った。あるものは、こう言った。「おまえの叔父さんだよ」別のひとりは言った、「飢饉だとか戦争だとか、こんな災難つづきの年だで、匪賊《ひぞく》や泥棒が荒らしまわっているだよ。だから、あの人が盗んだ、この人がやったなんてことは言えねえだ。飢えれば、だれだって盗みくらいするだでな」
隣家の陳が、はうようにして王龍に会いにやってきた。「この冬のあいだじゅう、泥棒どもがおまえの家を根城にして、手のおよぶかぎり村や町を荒らしていただよ。おまえの叔父さんは、これはうわさだが、正直な人ならそういうこともあるめえと思うだが、やつらとつきあっていたそうだ。だけんど、こんな時節だで、どれが本当かうそか、わかりゃしねえだ。どんな人間でも、とがめることはできねえだよ」
陳は、まるで影のようだった。皮膚が骨にひっつくほどやせ細って、まだ四十五歳にもならないというのに、髪はまっ白になっていた。王龍は、しばらくその顔をながめていたが、やがて急に気の毒になってきて、言葉をかけた。
「おまえさんは、おれたちよりも、ひどかったようだな。何を食っていただね?」
陳は、ほっとため息をついて、ささやくように言った。
「おれの食わなかったものはねえだよ。町で乞食をしてたときには、犬みてえに道ばたにすててある魚のはらわたまで食っただ。死んだ犬の肉を食ったこともあるだ。女房が死ぬ前に肉汁をつくってくれただが、それが何の肉か、おれはきく勇気がなかっただ。女房は、けものを殺すほどの度胸はねえだから、どこかで拾ってきたんだろうと思って食っただよ。女房はおれよりも、こらえる力がねえだで死んじまってな。だが、女房が死んだあと、娘も飢えて女房のあとを追いそうなので、見ていられなくて、兵隊にくれてやっただよ」彼は息をついで黙りこみ、しばらくしてから口を開いた。「もし種子がすこしでもあれば、すぐにもまきてえだが、その種子もねえだでな」
「こっちへきてくれ」王龍は、あらあらしく言って、彼の手をとって家のなかへ引っぱりこみ、ぼろぼろになった上着の裾《すそ》をひろげさせて、そのなかへ南から買ってきた種子を入れてやった。麦と米とキャベツの種子である。そして言った。
「あしたは、おまえさんの畑を、おれが牛をひいてって耕してやるだよ」
ふいに陳は泣きだした。王龍も目をこすりながら、怒ったような声で言った。「いつかおまえさんが豆を一握りくれたのを、おれが忘れるとでも思っているだか」しかし陳は答えることもできず、とめどもなく泣きながら帰って行った。
王龍にとってうれしかったのは、叔父がもうこの村にいないことであった。どこにいるのか、だれもはっきりとは知らなかった。あるものは、町へ行ってしまったのだ、と言い、またあるものは、妻子を連れて遠い国へ行ってしまったのだ、と言った。村にある叔父の家には、だれも残っていなかった。娘たちは、値が張るので一ばんきれいなのからさきに売り出し、しまいには、あのあばたのある娘まで、戦場へ行く途中ここを通りかかった兵隊に、一握りの銅貨で売ってしまったという。この話を、王龍は、はげしい憤りを感じて聞いた。
王龍は土のなかで、泥まみれになって働いた。食事や睡眠の時間さえ、家で過ごすのは惜しかった。パンとにんにくを畑へ持ってこさせて、野良で立って食べながら、「ここへ|ささげ《ヽヽヽ》をまいて、あそこへ苗しろをつくって」などと計画したり考えたりするのが楽しかった。日中、あまり疲れてくると、畔《あぜ》の上に横になり、土地のあたたかみを肌に感じながら眠った。
阿藍も家にいて怠けてはいなかった。自分の手でムシロを梁《はり》にうちつけてじょうぶな屋根をつくり、畑から土をとってきて水で練って壁を修繕した。カマドを新しく築き上げ、雨に洗われて穴のできた土間を平らにした。
それがすむと、ある日、王龍といっしょに町へ行って、寝台とテーブルと腰掛けを六個と大きな鉄鍋を買い、道楽に黒い花模様のある赤い土瓶《どびん》と、それに合う模様の茶わんを六個買った。最後に香を売る店へ行って、中の部屋のテーブルの上の壁にかける福の神の像と、白鑞《はくろう》製のローソク立てと、香の壼と、神前にともす赤いローソクを二本買った。そのローソクは牛のあぶらでつくったふとい赤いローソクで、なかに細い葦の芯《しん》がはいっていた。
これらを見ると、王龍は祠《ほこら》にまつってある二つの小さな地神を思い出したので、家へ帰る途中、そこへ寄ってのぞいてみた。雨に洗われて神の顔は目も鼻もなくなり、紙の衣装はぼろぼろに破れて、土の肌がむき出しになっていて、あわれな姿であった。こんな恐ろしい年には、おまいりするものもなかったのであろう。王龍は、ざま見ろ、と満足してながめていたが、やがて罰を受けている子供にでも言うように、声をはりあげて言った。
「人間に災難をかける神さまは、いつかはこうなるだぞ」
とはいうものの、家がまた家らしくなり、輝くような白鑞製のローソク立てに赤いローソクがともり、土瓶と茶わんがテーブルの上にあり、寝台と寝具がおかれ、寝室の窓がわりの孔《あな》に新しく紙がはられ、新しい扉もできてみると、王龍は、この幸福が気がかりになった。阿藍は、新しい子をみごもっていた。子供らは茶色の仔犬のように、家のまわりを騒ぎまわっていた。老人は南側の壁によりかかって、満足そうに居眠りしながら微笑していた。田では稲が碧玉《へきぎょく》のように、いやもっと美しく緑色に育ち、豆の芽は殻《から》をかぶったまま、土のなかから頭を出した。銀貨も、すこし倹約すれば、収穫どきまで食うものに困らない程度残っていた。彼は頭上の青空を見あげた。白雲が流れている。耕した土にも、自分のからだにも、適度に降り注がれる日光と雨とを感じることができた。しぶしぶ王龍はつぶやいた。「あの小さな祠の神さまにも、線香をあげなければいけねえだろうて。なんというても土の神さまだでな」
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十六
ある夜、王龍は、いっしょに寝ている妻の乳房のあいだに、何か男の握りこぶしほどの大きさの固いかたまりがあるのに気がついた。彼は言った。
「そのからだにくっつけてるものはなんだ?」
彼は手をのばしてさわってみた。さわるとくりくりと動く固いもので、布に包んで、きっちりとしばってあった。最初彼女は、はげしく渡すことをこばんだが、彼が奪いとろうとしかけると、さからうのをやめて言った。
「どうでも見たいんなら見てもいいだよ」そして首にかけてあったひもを切って、その品物を彼に渡した。
ボロ布で包んであった。彼はそのボロ布を破った。すると、いきなり彼の手のひらに、たくさんの宝石がこぼれ落ちた。王龍は茫然《ぼうぜん》としてながめた。こんなにおびただしい宝石が一か所に集まっているとは、だれしも夢にも思えないだろう。西瓜《すいか》の実のような紅、小麦のような黄金色、春の若葉のような緑、大地から湧き出る泉のように澄んだのなど、色さまざまな宝石である。これまで宝石などというものは名まえを聞いたことも見たこともなかったので、それがなんという名の宝石なのか王龍は知らなかった。しかし、その陽《ひ》やけした黒いごつごつした手にのせて、なかば暗闇の部屋のなかでさえきらめき光るのを見ると、王龍は、すばらしい財宝を手にしたことを知った。彼はその色彩と形に酔わされて、身動きもできなかった。彼と妻は、ともに彼の手にあるものをみつめていた。やっと彼は息をはずませてささやいた。
「どこで――どこで――?」
彼女も同じように低い声でささやき返した。
「あの富豪の屋敷でだよ。きっとお気に入りの妾《めかけ》のものにちがいねえだ。あのとき、壁のレンガがゆるんでいたので、だれかに見られて分け前をとられねえように、そっとそこへ近づいてレンガを抜くと、光っているものがあるだで、袖のなかへかくして、持ってきただよ」
「どうしてそこに宝石があると知っていただ?」彼はすっかり感心して、また低い声でささやいた。彼女は、けっして目にはあらわさない微笑を口もとにうかべて答えた。
「あたしが金持ちの屋敷に住んだことがねえとでも思っているだかね。金持ちは年じゅうびくびくしてるだよ。ずっと前、ひどい災難の年に匪賊《ひぞく》が黄《ホワン》家の門をこわして押し入ったのを見たことがあるだが、そのときには奴隷も妾たちも老夫人までが、あちこち逃げまどっただ。そしてあたしは、だれもがそれぞれ宝物をかくす秘密の場所を用意していることに気がついただ。それで、あのときも、レンガがゆるんでいるのを見て、すぐにそれとわかっただよ」
そしてまたふたりは黙りこんだまま、この宝石の山を驚異の目でみつめていた。しばらくしてから、王龍は息を深く吸いこみ、決心したように言った。
「これほどの財宝を手もとにおいとくわけにはいかねえだ。売りはらって安全なものに代えなくちゃいけねえ――土地がいいだ。土地よりほかに安全なものはねえだでな。もしだれかに知られたら、あすともいわずおれたちは殺されて、宝石は匪賊に持って行かれてしまうだろう。きょうのうちにも土地に変えとかねえことには、おれは眠ることもできねえだよ」
話しながら彼は、もう一度宝石をボロ布に包み、ひもでしっかりと結わえて、ふところにしまいこもうとして、なにげなく阿藍を見た。彼女は寝床のすそのほうに足を組んですわっていたが、感情をあらわしたことのないその重厚な顔は、宝石に心を動かされているらしく、かすかに口をあけて、首を宝石のほうにさしのばしていた。
「なんだ? どうしたというだ?」彼は、いぶかしげにたずねた。
「それ、みんな売るだかね?」彼女は、しわがれた声で言った。
「売らねえでどうするだ?」彼は驚いて答えた。「泥壁の百姓家に、こんな宝石をおいといてどうするだ?」
「あたしは二つだけとっておきてえだよ」すっかりあきらめたような、沈んだ声で言った。まるで、王龍は子供に玩具《がんぐ》や菓子をねだられたときのように心を動かされた。
「そうか、どうしてだね!」彼はびっくりして言った。
「二つ持っていられたらありがてえだ」彼女は、おずおずと言った。「小さいのを二つだけでいいだ――小さな白い真珠を二つだけでいいだから……」
「真珠だと!」彼は、あっけにとられて言った。
「あたしは持っていてえだよ――飾るためではねえだ」彼女が言った。「ただ持ってるだけでいいだ」彼女は目を伏せて、寝具のほころびをいじくりながら、ほとんど返事をあきらめている人のように、辛抱づよく待っていた。
王龍は、この女の心を――なんの報酬もなく奴隷として働きつづけ、他の女たちが宝石を飾るのを見ながら、自分はそれに手をふれたこともない、この鈍重で忠実な女の心を――理解したのではないが、この一瞬のうちにかいま見た。
「そうすれば、ときどき手に持ってみることができるだでな」阿藍はひとりごとのように言った。
王龍は自分でもわからない感情に動かされて、ふところから宝石をとり出し、包みをほどいて黙って彼女に手わたした。彼女は陽《ひ》やけのした頑丈な手で、ためらいがちに、注意深く、光りかがやく宝石のなかをかきまわして、つやつやした白い真珠を二つさがし出した。それだけとると、残りはまた包んで彼に返した。そして着物の裾《すそ》を裂きとってそれで真珠を包み、胸にしまいこんだ。それで彼女はすっかり満足した。
だが、王龍は阿藍の態度が半分しか理解できず、びっくりして彼女をながめていた。その後、彼は折りにふれてこのことを考え、彼女をみつめては心のなかで言うのであった。
(女房のやつは、まだふところにあの真珠をしまっているのだろうか)
しかし阿藍が真珠をとり出してながめているのを見たことはなかったし、ふたりはそれについては公然と話をしたことがなかった。
自分の手にある宝石をどうしようかと、あれこれ迷った末、ともかく黄家へ行って、まだ売る土地があるかどうかたしかめてみよう、と決心した。
黄家へ行ってみると、ほくろの長い毛をひっぱりながら訪れる人を横柄な態度で見くだしていた例の門番は、もういなかった。大きな門は閉ざされていて、王龍は力まかせに拳《こぶし》でたたいてみたが、だれも出てこなかった。門前を通りかかった人々が、これを見て声をかけた。
「そうそう、もっとどんどんたたいてみるがいいだ。老大人が目をさましていたら、やっこさんが出てくるだろうし、迷い犬みてえな奴隷女がそこらにいたら、気が向けばあけてくれるかもしれねえだでな」
やっと、門前に、ゆっくりとした足音が聞こえた。立ちどまったり、歩いたり、たどたどしい、力のない足音である。そして門を閉ざしている鉄のかんぬきをゆっくりとはずす音がして、扉がきしみ、低いしわがれた声がした。
「だれだね」
王龍はびっくりして、声を高めて答えた。
「わしですだ。王龍ですだよ」
すると怒ったような声が聞こえてきた。
「王龍というのは何者だ?」
王龍はその権柄《けんぺい》ずくな調子から、老大人その人にちがいないと感じた。召使や奴隷たちを顎《あご》で使うことになれている人の口調だからだ。だから王龍の口調は前よりももっとていねいになった。
「御前さま、ちょっとした用事があってまいりましたのですが、なあに御前さまご自身をわずらわすこともございませんので、執事の方にお目にかかってお話ししてえと思いまして」
老大人はそれ以上門を開けようとせず、隙間から口をとがらせて答えた。
「あの業《ごう》つくばりかい。あのムク犬めは、もう何か月も前にどこかへ行ってしもうたよ。もうここにはおらん」
これを聞くと、王龍はどうしたらよいかわからなくなった。あいだに人をおかずに直接老大人と土地を買う話などできるものではない。ふところに入れてある宝石は火のように燃えており、早くなんとかしなければならなかった。土地を手に入れたいと思う願望は、もっと強かった。現在手持ちの種子だけでも、いまもっている土地の二倍の面積にまくくらいは十分ある。彼は黄家の肥沃な土地がほしかった。
「わずかばかりの金のことでまいったのでごぜえますが」彼は、ためらいがちに言った。
すると、たちまち老大人は門扉を閉じてしまった。
「わしのところに金はない」彼の声は前よりも高くなった。
「あの匪賊野郎で泥棒野郎の執事めが全部ぬすんで行きおった――あいつの母親も、母親の母親も地獄へ行くがいい――借金は払えんぞ」
「そうではないんで――ちがいますだよ」王龍はあわてて言った。「わしは金を払うためにまいりましたんで、取り立てにまいったのじゃねえですだ」
すると、王龍がまだ聞いたこともないようなするどい叫び声がして、女の顔が、ふいに門の外へあらわれた。
「まあ、ずいぶん長いことそんな言葉は聞きませんでしたよ」女は、きんきんする声で言った。王龍は自分を見ている美しい利口そうな、あでやかな女の顔を見た。
「おはいりなさい」彼女は、きびきびと言って、王龍が通れるだけ門を開け、彼が門のなかへはいっておろおろしているうちに、うしろへまわって、またしっかりとかんぬきをかけてしまった。
老大人は咳《せき》をしながら王龍を見て立っていた。うすよごれた灰色の繻子の長衫《チャンサ》を着て、裾から毛皮の裏が出ていた。繻子の厚さやなめらかさから見ても、前にはさだめしりっぱな着物であったにちがいないとだれにもわかるが、いまは方々に汚点がついており、しわだらけなのは、これを着たまま寝るからであろう。王龍も老大人を見返した。好奇心もあるが、こわい気もした。これまで大家の人というと、なんとなくこわい気がしていたからだ。だから、評判の高い老大人がこの老人であろうとは、どうしても思えなかった。彼の父親よりも威厳がないのだ。彼の父親は、もっとさっぱりとして、いつもにこにこしていた。老大人は、以前はふとっていたが、いまはやせさらばえて、皮膚がたるんでいた。顔を洗うことも剃《そ》ることもしないようだ。手は黄いろくしなびて、顎をなでたり、しまりのない老いたくちびるを引っぱったりするときには、ふるえていた。
女は、すばらしく美しかった。高い鼻、するどく輝く黒い目、引きしまった白い皮膚、そして頬とくちびるはあざやかに赤く、鷹の美しさを思わせる美人で、ケンのある、するどい顔立ちである。みどりなす黒髪は、黒い鏡のように、つややかに光っている。だが、口のきき方から、ここの家族でないことがわかった。声がするどく、言葉に毒があるところ、だれが見ても奴隷だと知れる。以前は男や女や子供たちが、あちこち走りまわって働いていたこの屋敷に、いまはこの女と老人のほかだれもいないらしい。
「ところで、お金のことというのは?」とがった声で女は言った。王龍は躊躇《ちゅうちょ》した。彼は老大人の前ではうまく話せなかったのだ。すると女は、王龍が何も言わぬのに、いちはやくその気持ちを察して、かん高い声で老大人に言った。
「向こうへ行ってください」
老人は黙って、よろめきながら歩み去った。ビロードの古靴がぬげそうで、踵《かかと》をばくばくさせていた。しきりに咳《せき》こみながら去って行った。女とふたりきりになった王龍は、どう言っていいか、どうしたらいいか、わからなかった。屋敷内があまりに静かなので茫然《ぼうぜん》としてしまったのである。彼は中庭をのぞいて見たが、そこにも人はいなかった。塵芥《じんかい》や屑が山のように積んであり、ワラや竹の小枝、枯れ松葉、枯れた花の茎などが散らばっていた。長いことだれも掃除をしたことがないのだろう。
「さあ、どうしたの。まだるっこい人ね」女の声は、いっそうするどかった。その声の調子に、王龍はとびあがった。それほど思いもかけぬかん高い声だったのだ。「おまえさんの用事というのは、なんなの? お金を持っているなら見せてごらんよ」
「いや」王龍は用心深く言った。「わしは金を持ってるとは言わねえだ。用事があると言ったんで」
「用事ってお金のことでしょう」女は言い返した。「お金がはいるか出て行くか、どっちかでしょう。この屋敷にはもう出て行く金はありませんよ」
「だが、わしは女の人とでは話ができねえですよ」王龍は、おだやかに抗議した。こんな状態では何もできやしない。なおも彼はあたりをきょろきょろ見まわしていた。
「なぜ話ができないの?」女は怒って言い返した。そしてふいに彼をどなりつけた。「ばかね、この屋敷には、だれもいないということを知らないの?」
王龍は信じられないように、おずおずと彼女の顔を見た。彼女はまたどなった。「あたしとあの老大人とのほかには、だれもいないのよ」
「それじゃどこへ?」王龍は、あまりにびっくりして、しどろもどろのことを言った。
「老夫人は死んだわ」女は説明した。「匪賊が屋敷へ押し入って、奴隷や品物を引っさらって行ったいきさつを、おまえさんは町で聞かなかったかい? 老大人のおやゆびをしばってつるしあげて、なぐりつけたり、老夫人を椅子にくくりつけてさるぐつわをはめたり、それでみんな逃げてしまったけど、あたしだけは残ったわ。半分水がはいっているカメのなかへはいって上からふたをしてかくれていたのよ。出てきてみると、もう賊はいなかったけれど、老夫人は、椅子の上で死んでいたわ。賊が手をくだしたのではなくて、恐ろしさのあまり死んでしまったのよ。老夫人のからだは、阿片のために腐った葦のようになっていたので、恐怖に堪えられなかったのさ」
「それで召使や奴隷たちは?」王龍は息をはずませていた。「それから門番は?」
「ああ、あの連中かい」彼女は気にもとめぬふうである。「だいぶ前に逃げちまったわ――歩けるものは全部ね。なにしろ冬の中ごろには食べるものも、お金も、まるでなくなってしまったものだからね」彼女は声を低めた。「ほんとうをいうとね、匪賊のなかには、うちの下男たちが、たくさんまじっていたんだよ。あの門番のムク犬ね――あいつが案内してきたのを、あたしは見たよ。あいつ、老大人の前では顔を横にそむけていたけど、ほくろの長い三本の毛は、かくしようがないからね。ほかにもたくさん仲間にはいっていたわ。それでなければ、宝石のかくし場所や、秘密の財宝のありかなど、どうしてわかるもんかね。あの執事だって、同類だと思うよ。ただあいつは、ここの家の遠い親戚に当たるもんだから、さすがに体面を恥じて匪賊といっしょに顔は出さなかったけれどね」
女は口をつぐんだ。屋敷内の静寂は、生命のぬけた静寂のように重く沈んでいた。やがて女は言った。
「だけど、それにしたって、ここで急に起こったわけじゃないよ。先代の時代から、この家の没落は、はじまっていたんだよ。その時代から土地の管理は執事にまかせきりで、金は湯水のように使うし、いまの老大人の代になると、土地にたいする執着がなくなって、すこしずつ手ばなすようになったしね」
「若旦那がたは、どこにいるだね?」王龍は、そう言って、あたりを見まわした。この話が、どうしてもほんとうとは思えなかったからだ。
「あちこちへ行ってるわ」女は冷淡に言った。「この事件がおこる前に、ふたりのお嬢さまが結婚されたのが、まあせめてもの幸運さ。一ばん上の若旦那が両親が没落したのを聞いて、使者をよこして老大人を迎えにきたけれど、あたしが行かないようにすすめたのよ。『それじゃだれがこの屋敷にいるんですか。女のあたしだけでは、とても留守はつとまりませんよ』と、そう言ってね」
彼女はそう言いながら、つつましやかにその薄紅色のくちびるをすぼめ、気の強そうな目を伏せた。そして、しばらく間をおいてから、また言葉をつづけた。「そのうえ、ここ二、三年というもの、老大人は奴隷のあたしにたよりきっていたし、あたしとしても、ほかに自分の家もないのでね」
王龍はつくづくと彼女をながめ、すぐに視線をそらせた。この女は死にかかっている老人にくっついていて、最後のものまでしぼりとろうとしているのだと、ようやく事態がわかりかけてきた。彼は軽蔑したように言った。
「おまえさんが奴隷だとすると、おまえさん相手に取引きはできねえだな」
すると彼女はまた声を荒らげた。「あたしの言うことなら老大人はなんでもきくんだよ。普通の奴隷とは格がちがうんだからね」
王龍は、この言葉を聞くと、どうしようかと迷った。そうだ、土地はあるのだ。おれが買わなかったら、別の人がこの女から買ってしまうだろう。
「土地はどのくらい残っているだかね?」気は進まなかったが、彼はそうたずねた。女はすぐに彼の目的を見ぬいた。
「土地を買いにきたのなら」すぐに彼女は言った。「売地はあるわよ。西に四十町歩と南に八十町歩ほどね。一か所にかたまってはいないけれど、みんな広いところだわ。全部売ると思うわ」
即座に女は答えた。この女は老大人の持っているものは、なんでも、最後の一尺の土地まで知りつくしているらしい、と王龍は感じた。しかし、まだ信じかね、この女を相手に取引きをする気にはなれなかった。
「老大人は、息子さんたちに相談もせずに一族の土地を売るようなことはなさらねえのじゃねえかね」と彼は突っこんでみた。
しかし、女は、やっきとなって答えた。
「そのことだったら、心配はいらないわ。売れたら売るようにって、息子さんたちも老大人に言っていたからね。この土地で生活したいなどと思っている息子さんはひとりもいやしないわ。凶年になると匪賊が荒らしまわるので、みんな言っているわ。『こんなところに住めやしない。土地を売って、その金を分けることにしよう』ってね」
「それじゃ、金はだれに払えばいいだ」王龍は、まだ信用できなかった。
「老大人によ。ほかにだれがいるの?」女は、すらすらと答えた。しかし王龍は、金は老大人の手からこの女の手に渡るのだ、と思った。
彼はそれ以上この女と話しあう気になれず、「またくるだ――いずれそのうちな」と言いすてて門のほうへ歩きだした。すると、女があとを追ってきて、往来へ出た彼に背からするどい声で言った。
「あすのいまごろ――いまごろか午後なら――いつでもいいわよ」
王龍は返事もせずに往来を歩いて行った。彼はいま聞いた話に、ひどく気持ちが混乱して、すっかり考えこんでしまった。小さい茶店にはいって、安い茶を注文した。小僧が如才《じょさい》なく彼の前に茶わんをおいて、彼の払った銅銭を、こましゃくれたかっこうで、上にほうり上げたり、手で受けとめたりしていた。しかし王龍は物思いにふけっていた。彼が生まれてからはもちろん、彼の父の代、祖父の代を通じて、長いあいだこの町の権力と栄光であった、あの偉大な富貴をきわめていた一家が、いまや没落し離散したということが、考えれば考えるほどふしぎであった。(土地を離れたから、こういうことになってしまったのだ)惜しいことだと思った。そして春の若竹のようにすくすくと育っているふたりの子供のことを考え、きょうからは日向《ひなた》で遊ばせてばかりいないで、畑で働かせようと決心した。小さいうちから彼らの骨と血に、足の下にふむ大地を感じさせ、手にかたい鍬《くわ》の柄を感じさせよう。
だが、そのあいだじゅう彼は、ふところの宝石が熱く重くからだを圧迫し、絶えず恐怖を感じていた。彼のきたない着物の下から、その光が輝き出して、だれかが、「見ろ、この貧乏人は皇帝の宝物を持ってるぞ!」と言って叫ぶのではないかという気がした。
これを土地にかえるまでは気がやすまらなかった。彼は店の主人が手のすいているすきを見て声をかけた。
「こっちへきて茶を一杯飲まねえかね。おごるだよ。町のようすでも聞かせておくんなさい。わしは冬じゅう、よそへ行ってたもんだからね」
茶店の主人というものは、いつでもこういう話には事欠かないものである。とくに他人に金を払わせて茶を飲むときにはそうだ。彼はすぐに王龍のテーブルヘきて腰をおろした。イタチのように顔の小さな男で、左の目がゆがんでやぶにらみであった。上着もズボンも、前のほうが脂《あぶら》で黒くかたまっていた。茶のほかに食べものも自分でつくって売っているからだ。彼は好んで、『よい料理人は、けっしてきれいな服装をしていないという格言がある』などということを口にするだけあって、服装のきたないのが、正当でもあり、また必要だとも思っていた。彼は、すわるとすぐに話しはじめた。
「飢饉でみんなの口が干あがってしまったが、こいつは話題にもなりゃしねえ。まあ一ばんの話っていうのは、黄家をおそった強盗事件でしょうな」
それこそ王龍の聞きたいことだった。主人は得意になって話しはじめた。どんなふうに残っていたわずかばかりの奴隷が泣き叫びつつ拉致されたか、どんなふうに強盗どもが略奪をほしいままにしたか、どんなふうに残っていた愛妾《あいしょう》たちが手ごめにされ、追い出され、あるいは拉《らっ》し去られたか、というようなことをくわしく物語ってから、だからあの家にはいま人がぜんぜん住んでいないのだ、と語った。
「だれもいませんよ」彼はこう結んだ。「いるのは老大人だけでね。老大人もいまは杜鵑《ドチュエン》という名の奴隷の言いなりほうだいになっていますわ。なかなかの利口もんで、だから、ほかの女はみな出たりはいったりしているのに、杜鵑だけは長いあいだずっと老大人につきっきりなんですよ」
「それじゃ、その女が、いまではなんでもきりまわしているんだね?」王龍はそう言って、熱心に相手の返事を待った。
「当分、あの女の思いどおりでしょうな」と主人は答えた。「だから、いい潮時とばかり、あの女は握れるものはなんでも握るし、くすねられるものは、なんでもくすねていますよ。もちろん、そのうちには、よそへ行っている若旦那方が向こうでの仕事が片づき次第、帰ってくるでしょうし、そうすれば、いくらあの女が忠義ぶったところで、ごまかしきれないでしょうがね。追い出されますさ。だけど、かりに百年生きるにしても、生涯食うだけのものは、もうためこんでいるでしょうよ」
「それで土地はまだ残っているだかね?」焦慮のあまりふるえながら、やっと王龍はたずねた。
「土地ですって?」主人は、真意をつかみかねたように言った。この主人にとっては、土地など、まったくなんの意味もないからだ。
「売るだかね?」王龍はもどかしそうに言った。
「ああ、土地かね?」主人はどうでもよいことのように答え、お客がはいってきたので、立って向こうへ行きながらつづけた。「売るってことですよ。ただし一族の人たちが六代も前から埋まっている墓地だけは売らないそうだけどね」そして向こうへ行ってしまった。
王龍も、ききたいことだけはきいたので、外へ出て、もう一度、黄家の門に近づいた。女が門を開けてくれたが、彼はなかへはいらずに言った。
「これをはじめに聞いておきてえだが、老大人は証文に判こを押してくれるだかね?」
女は目を彼に注いで、熱心に答えた。
「押すさ――押すとも――あたしの生命にかけても押させるよ」
王龍は露骨に言った。
「土地を売るについちゃ、おまえさんは銀貨と宝石とどっちがいいだかね」
彼女は目を輝かせて言った。
「宝石で売るわ」
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十七
いまでは王龍《ワンルン》は、ひとりの人間と一頭の牛だけでは、耕作しきれないほど土地もふえ、ひとりの人間では間にあわぬほど収穫もふえてきたので、ロバを一頭買い、小さな部屋を建て増して、隣家の陳に言った。
「おまえさんの持っている土地をおれに売って、ひとりじゃさびしいだで、家へきて、おれの畑を手伝ってくれねえだかね」陳は、よろこんで、この申し出に応じた。
天は雨のほしい季節に雨を降らせてくれた。稲の苗がのびた。小麦を刈ってとり入れをすませると、そのあとへ水をひいて、ふたりは稲の苗を植えた。王龍は、この年ほどたくさん稲をつくったことはない。雨が多かったので、これまで乾いていた畑が、稲作に適する田になった。やがて、とり入れの時期がきたが、彼と陳だけでは手が足りないほどのすばらしい豊作だったので、王龍は村の男をふたりやとって、とり入れをすませた。
黄《ホワン》家から買った土地で働いていると、没落した大家の、ぐうたらな若旦那たちのことが思い出された。彼はふたりの子供にきびしく言いつけて、毎朝かならず畑へ連れ出し、牛やロバをひくような、小さい手でもできることをやらせた。たいした仕事はできないにしても、せめて日光の暑さや畔《あぜ》を行ったりきたりする疲労だけでもおぼえさせたかったのだ。
しかし阿藍《オーラン》が畑へ出ることはやめさせた。もう彼も貧乏人ではないからだ。今年のように、これまでにないほどゆたかな収穫があるからには、そうしたいと思えば作男をやとうこともできる身分になったのだ。彼は収穫物を入れておくのに、また一部屋、建て増しした。さもないと、家のなかが、歩くことさえできなくなってしまうのだ。さらに、とり入れのときにこぼれる穀粒を食べさせるために、豚を三頭と鶏を数羽買った。
阿藍は家にいて働いていた。みんなに新しい着物と新しい靴をつくり、また、みんなの寝床に、あたたかい花模様のふとんをつくって、なかに新しい綿をつめた。全部できあがってみると、これまでになかったほどゆたかに着物や寝具がそろった。そして阿藍は今度もまたお産の床についたが、やはりだれも近づけようとしなかった。だれでも気に入ったものをやとうことができるのに、ひとりのほうがいい、というのである。
今度のお産は長くかかった。王龍が夕がた家に帰ると、老父が戸口のところに立っていて、笑いながら声をかけた。
「今度の卵は黄身が二つだて」
王龍が奥の部屋へ行ってみると、阿藍は生まれたばかりのふたりの赤ん坊といっしょに寝ていた。男と女の双生児《ふたご》で、二粒の米のようによく似ていた。王龍は、このお産に陽気に笑い、何か冗談が言いたくなった。
「それでおまえは、ふところに宝石を二つもしまっていただかよ」
そして自分の冗談に、また笑った。阿藍は愉快そうな彼のようすを見て、例の鈍重な、苦しそうな微笑を見せた。
王龍は、もう気がかりになるものは何もなかった。気になるのは、はじめて生まれた女の子が、もう口をきかなければならない年ごろなのに、口もきかなければ、それらしいようすも示さないことだった。王龍の顔を見ると赤ん坊のような微笑を見せるだけだった。生まれた年の悲惨な生活のためか、飢えのためか、あるいは他に何かあるのか、月日の流れるのとともに王龍は、最初の言葉が彼女の口から出るのを待っていたが、赤ん坊が親を呼ぶときに最初に発するダダという言葉さえ出てこなかった。言葉は出ず、ただ、かわいらしい、空虚な微笑をうかべるだけだった。この子を見ると、彼は思わずため息をもらした。
「かわいそうなチビ――かわいいチビ――」
そして心のなかで言った。
(あのときこのチビ助を売っていたら、やつらは、あとで不具だと知って、殺してしまっただろう)
そして、売ろうとしたことの償いをするように、彼はこの子をかわいがった。時には野良へも連れて行った。彼が声をかけたり、顔を見たりすると、にこにこ笑って、おとなしく彼のあとについてきた。
王龍も、彼の父も、父の父も住んできたこの地方では、飢饉が五年おきくらいにやってきた。お慈悲深い神さまのおぼしめしで、七年か八年に一度、まれには十年に一度ということもあった。これは、雨が降りすぎるか、ぜんぜん降らないか、北方の大河が氾濫するかが原因であり、遠くの山々に降った雨や雪がなだれこんで、何世紀ものあいだ人間が築いてきた堤防を破って、田畑を一面に水びたしにしてしまうのである。
人は幾度となく土地をはなれて去り、そしてまた帰ってきた。しかし王龍は、災厄の年がきても二度と土地を離れることなく、豊作の年のたくわえによって、つぎの年がくるまで生活していられるほど、しっかりと財産を築きあげようと決心した。そういう決心を神もご照覧あってか、七年間も豊作がつづいた。毎年、王龍は、やとい入れた作男たちとともに食べ料をはるかに上回るほどの穀物をとり入れた。やとい入れる作男の数も一年ごとにふえ、いまでは六人にもなったので、古い家のうしろに新しい家を建てた。庭を前にして大きな部屋が一つと、その両側に庭のほうへ鍵の手に小さな部屋が一つずつついている家である。屋根は瓦ぶきにしたが、壁は畑の土をかたくねり固めたものでつくり、ただその上に漆喰《しっくい》を塗った。まっ白で、きれいであった。この新しい家に家族のものが移り、作男とその監督格の陳を、古いほうの家に寝起きさせることにした。
このころになると、王龍は、陳にいろんな仕事をやらせてためしてみた結果、彼が正直で信用のおける人物であることを見ぬき、陳に雇人の監督と土地の管理をまかせ、食い扶持《ぶち》のほかに、毎月、銀二枚ずつ支給することにした。だが王龍が、いくらたくさん食べるようにすすめても、陳のからだは、ちっとも肉がつかず、いつになっても小柄で、やせて、たいへん生《き》まじめであった。しかも、夜明けから暗くなるまで、黙々と、よろこんで、じつによく働いた。言わなければならないことがあると、しょうことなく、かぼそい声で話をするが、しゃべる必要がなく、黙っていられるなら、彼にとっては、それが一ばん幸福で、一ばん好ましかったのである。幾時間でも彼は鍬《くわ》をふり上げ、ふりおろししていた。そして夜明けと夕暮れには、野菜の畔《あぜ》にやる水や肥料を、桶に入れて畑に運んだ。
王龍は、作男のなかで、だれが毎日ナツメの木の下で昼寝ばかりするか、だれが共同の食事を割当て以上に食うか、だれが、とり入れどきにそっと女房や子供を呼んで、からさおで脱穀している穀物を一つかみ持って帰らせるか、そんなことまで、みんな知っていた。年の終わりに、収穫祝いのごちそうを食べるときに、陳は王龍に向かって、ひくい声で言うのであった。
「あの男とあの男は、来年は、やとわねえほうがいいだ」
いつか交換しあった一握りの豆と種子とが、このふたりを兄弟のようにしたのである。ただ、年下の王龍が兄貴分になっていることと、陳が自分は雇人であり、他人の家にやっかいになっていることを忘れていない点がちがうだけだ。
五年目の終わりになると、王龍は自分が畑へ出て働くことは、ほとんどなくなった。土地がふえたので、生産物の取引きや使用人の指図などで、一日つぶれてしまい、野良へ出るひまがなかったのだ。ひどく困ったのは読み書きができず、紙に毛筆と墨で書いた字が読めないことであった。とくに恥ずかしいのは、穀物の売買をする穀物商のところで、小麦や米の契約書を幾通も幾通も作成するときに、町のおうへいな商人に、頭をさげてこう言わなければならないことだった。
「旦那、すみませんが読んでくれねえだかね、わしは読めねえだで」
契約書に署名しなければならぬというときになると、これがまた恥ずかしかった。下っぱの店員でさえ、筆に墨をふくませて王龍の名まえを代筆するときには、軽蔑したように眉《まゆ》をあげるのであった。一ばん恥ずかしくなるのは、代筆を頼んだ男が大きな声で冗談を言うときだった。
「ワンルンのルンというのは龍《りゅう》のルンかね、それとも聾《つんぼ》のルンかね?」
王龍はおずおずと答えなければならない。「どっちでもいいですだよ。わしは無学で自分の名まえもよくわからねえだで」
ある年の収穫時に、穀物商で、やはりそんなふうにからかわれたことがあった。ちょうどお昼どきで、退屈して何かおもしろいことはないかと待ちかまえていた店員どもは、大きな声ではやし立てた。自分の息子といくらもちがわないような小僧にまで笑われたので、彼は怒って家へ帰った。そして自分の畑を通りながら、ぷんぷんして言った。
(あの町のばかどもは一尺の土地も持ってねえくせに、おれが紙に書いた筆の字が読めねえからといって、鵞鳥《がちょう》みたいに笑いやがる)しかし、ふんがいがおさまると、思うのであった。(しかし読み書きができねえというのは、恥ずかしいことにはちがいねえだな。長男のほうは、畑へ出さねえで、町の学校へあげて勉強させよう。そして、穀物市場へ行くときには、あいつを連れて行って読み書きの代理をさせてやろう。そうすれば、大地主のおれを笑うやつもいなくなるだろう)
うまい思いつきだと思った。そこで、その日すぐに長男を呼びつけた。長男は、もう十二歳になる。すらりと背たけの高い少年で、頬骨《ほおぼね》が広く張っているところや、手足の大きなところは母親に似ているが、すばしこそうな目は父親のものだった。前へ立った少年に王龍は言った。
「きょうからおまえは畑へ出なくてもいい。おれが町へ行って恥をかかねえためにも、契約書を読んだり、おれの名まえを書いたりする学者が、うちでもひとりほしいだ」
子供は陽《ひ》にやけた顔を赤く染め、目を輝かした。「おとっつぁん」と彼は言った。「おいら、二年も前から行きたかっただ。だけど、言い出せなかっただ」
すると次男はこれを聞きつけて、泣きながらかけこんできて不平を言った。自分も学校へ行きたい、というのである。この子は、ものを言いはじめたころから、おしゃべりで、やかましくて、なんでも兄と平等でないと承知せず、すぐに泣きわめくのである。このときも彼は父親に泣いてせがんだ。
「そんなら、おいらだって、畑へなんぞ出ないからいいや。兄さんが机にすわって勉強してるのに、おいらは作男みたいに働かなきゃならねえなんて、そんなのひどいや。おいらだって兄さんと同じにおとっつぁんの子じゃないか」
王龍は、この子にうるさく泣きせがまれると、どうにもまいってしまって、なんでもいうとおりになるのだった。そこで彼は早口に言った。
「わかった、わかった。ふたりとも行くがいい。そうすれば災難でひとりとられても、もうひとりがおれの仕事を手伝ってくれることになるだで」
ふたりに着せる長衫《チャンサ》の布地を買いに、息子たちの母親を町へやり、それから自分で文房具屋へ行って紙と筆と、硯《すずり》を二個買ってきた。こういうものには、なんの知識もなく、知らないというのは恥なので、店員が見せるものは、全部、一応うたぐってみることにした。それでも、やっと全部買いととのえて、城門の近くの、何年か政府の試験をうけて落第ばかりしている老人が開いている小さな学校へ通わせる手続きをすませた。この老先生は、自宅の中の部屋に腰掛けと机をおき、盆と暮れに、わずかばかりの謝礼をもらって、子供たちに経書を教えているのだが、子供たちが怠けたり、朝から夕方までかかって習ったところが読めなかったりすると、大きな扇子《せんす》で生徒をなぐった。
春のあたたかい日と夏だけは、生徒たちも一息つけた。というのは、そういう日には、老先生は、昼食のあときっと居眠りをするからである。その小さい部屋は、雷のようないびきに満たされるのであった。すると子供たちは、ひそひそ話をしたり、ふざけたり、いたずら書きの絵を見せあったり、あごを垂れ口を開いている老先生の、その口のあたりを飛んでいる蝿を見てくすくす笑ったり、はたしてその蝿が先生の口のなかへとびこむかどうか賭《かけ》をしたりした。しかしこの老先生は、ときどきふいに目をさました――眠ってなんぞいなかったかのように、すばやく、そっと目を開いた――子供たちが気がつかずにいると、そばにおいた扇子をとりあげて、騒いでいる子の頭を、ぴしゃぴしゃたたいた。その音と、生徒たちの泣き声を聞いて、近所の人は、こんなことを言った。
「なんというても、りっぱな先生だて」王龍が子供の勉強にここをえらんだのも、そのせいであった。
最初の日に子供たちを連れて行くとき、王龍は子供たちよりも数歩さきに立って歩いた。親子が並んで歩くというのは、礼儀にかなっていないからである。彼は生みたての鶏卵を青いフロシキに包んで持って行き、老先生の前に出たとき、それをさし出した。王龍は、老先生の大きなシンチュウぶちの眼鏡と、ゆったりした黒い長衫《チャンサ》と、冬でも手からはなさぬ扇子に威圧された。彼は老先生に頭をさげて言った。
「先生、このふたりは、うちのやくざ小僧ですだ。シンチュウみてえな石頭でごぜえますだで、なぐりつけてたたきこまねえことには何も覚えねえですだ。うんとなぐって教えこんでいただければ、たいへんありがたいですだ」ふたりの子は立ったまま、腰掛けにすわっている生徒たちを見ていた。生徒たちのほうでも、ふたりを見ていた。
ふたりの子供をそこへ残して、ひとりで帰りながら、王龍は誇らしさに胸がはちきれそうだった。あの部屋のなかに、彼の子供ほど背たけが高くて、たくましくて、元気のいい顔をしている子は、ひとりもいなかったように思えた。楼門《ろうもん》のところで村からきた近所の人と出あったとき、どこへ行ってきたのかときかれたので彼は答えた。
「きょうは息子たちの学校へ行った帰りだよ」その男が驚くのを見て、なんでもないことのように言った。「もう野良で働かせる必要もねえだで、腹いっぱい字を習わせることにしただよ」
そして、行き過ぎてから、心のなかでつぶやいた。
(長男のやつが学問してえらい人物になっても、おれはふしぎとは思わねえだ)
これまでは、ふたりの子供は単に長男、次男としか呼ばれなかったが、この日、老先生から名まえをつけてもらった。老先生は父親の職業をたずねてから、長男に農恩《ノンエン》、次男に農温《ノンウォン》という名をつけた。農というのは、その人の財産が土から生まれたことを意味するのである。
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十八
王龍《ワンルン》は、こうして一家の財産を築きあげた。すると七年目に、北のほうの大河が氾濫した。水源地の北西部に大量の雨と雪が降ったため、水があふれて堤防を破り、この地方一帯の平野に流れこんできたのである。しかし王龍は心配しなかった。自分の土地の五分の二が、人間の肩よりも深い湖になってしまっても、彼は恐怖を感じなかった。
晩春から初夏にかけて、水かさはまし、とうとう大海のようになってしまった。雲や月や、なかば水中に没した柳や竹の影を鏡のようにうつして、美しくもむなしいながめである。そこここに、住む人が逃げてしまった土造の家が立っていた。これらは幾日か水にひたっているうちには、徐々にもとの水や土にかえってしまうのであった。王龍の家のように丘の上に立っている家でないと、みなそうなるのである。それらの丘は、大海のなかの島のように見えた。人々は小舟や筏《いかだ》に乗って町とのあいだを往復した。そして、いつかのように、また飢えるものが出てきた。
しかし王龍は心配しなかった。穀物市場には売掛け金があるし、倉庫にしている部屋には過去二年間の収穫がたくわえてある。それに家は水面からはるかに高い丘の上に立っているのだ。すこしも心配することはなかった。
しかし、大部分の土地が種まきができなくなったので、これまでの生涯になかったほど、からだがひまになった。何もせずにぶらぶらして食べものを十分食べ、眠れるだけ眠り、さて、するだけのことをしてしまうと、どうにもわが身の処置がつかなくなった。それに、一年契約でやとった作男たちがいた。彼らを働かせないで、のんべんだらりとむだめしを食わせて水のひくのを待っているのは、ばからしい。そこで、彼らに古い家の屋根を葺《ふ》かせた。新しい家の屋根瓦の雨漏りのするところを直させた。それから鍬《くわ》や馬鍬や鋤《すき》の手入れをさせた。家畜の世話をさせ、家鴨《あひる》を買ってこさせて水にはなし、麻で縄をよらせた――かつて彼がひとりで土地を耕していた時分には、こんなことは全部自分でやったものである――だが、いまは何もすることがなく、からだの扱い方に困った。
一日じゅうすわって、田畑をおおっている湖水をながめてばかりいるわけにもいかなかった。腹がいっぱいになったのに、それ以上、一度に食べられるものでもない。眠るといったところで、眠りにも限度がある。じっとしていられなくなって、あちこち歩きまわったが、家のなかはまったく静かであり、彼のように活気にあふれたものには、あまりに静かすぎた。老父は、このごろでは、もうすっかり弱ってしまって、目もかすみ、耳もほとんど聞こえなかった。寒くはないか、腹はすかないか、お茶でも飲まないかと、きくこと以外には、話すこともなかった。老父は、息子が金持ちになったことが、どうしても理解できず、茶を持って行くと、「湯がすこしあればいい。茶を飲むのは銀貨を食うようなものだ」などと、いまもって叱言《こごと》を言うのが、よけい王龍をいらいらさせるのであった。
しかし老父は、何をきいてもすぐ忘れてしまうので、何も言わないことにしていた。老父は、自分だけの世界に引きこもって、若いころのことを夢み、自分だけの世界に満足し、周囲に起きるできごとなど、ほとんど気にもとめないようであった。
何も言わないのは、老父と上のほうの女の子であった。いまもって、まるで口のきけない彼女は、何時間でも祖父のそばにすわって、小さな布をひろげたり、折ったりして、ひとりでにこにこ笑っていた。このふたりは、活気にあふれた、元気のいい王龍に向かっても何も言わなかった。王龍が老父に茶をつぎ、女の子の頬をなでてやると、かわいらしい、うつろな微笑を見せるが、すぐにそれは消えて、もとのどんよりとした、輝きのない目の顔になってしまった。彼はこの娘を見るたびに悲しくなり、ちょっと気分が沈むが、そうするとすぐに他のふたりの幼い子供をさがした。阿藍の生んだ男女の双生児は、このごろではもう戸口のあたりを楽しそうにかけまわっていたのだ。
しかし小さい子のいたずらの相手をしていたところで満足できるものではない。すこしばかり笑ったりからかったりしても、子供たちは子供たちだけで遊びたがって、どこかへ行ってしまった。王龍は、つくねんと、とり残される。すると彼は妻の阿藍をながめた。あきるほど知りぬいているからだであり、それについて知らぬことがないほど身近につれ添ってきた女であってみれば、何かの期待や望みをかけるほどの目新しさもなかった。
王龍にとっては、阿藍をつくづくながめるのは、これがはじめてのように思われた。だれが見ても、他人にどう見えるかなどということは考えもせず、黙ってとぼとぼと人生を歩きつづける鈍重で平凡な女としか言いようがあるまい、ということを、はじめて知った。髪は、ばさばさで、赤ちゃけており、油気もない。顔は大きく平べったくて、皮膚は荒れており、目鼻立ちが大きすぎて、美しいとか、明るいという要素がまったくない、といまさらのごとく思った。眉毛《まゆげ》はうすく、髪はすくなく、口は大きく、手足は大きくてたくましい。これまでとちがった目で彼女をながめていた彼は、いきなりどなりつけた。
「だれでもおまえを見たら貧乏百姓の女房だと思うだぞ。作男を何人も使っている地主のかみさんだとは、だれも思わねえだ」
彼女がどう見えるかということを口に出したのは、これがはじめてである。彼女は、例の鈍重な、苦しそうな笑いで、これに答えた。
阿藍は腰掛けにすわって長い針で靴底を縫っていたのであるが、針をはこぶ手をとめ、口をあけて黒い歯を見せて笑ったのである。そして、このときになってやっと彼が自分を女として見ているということをさとったらしく、高い頬骨《ほおぼね》の上まで赤くしてつぶやいた。
「あの双生児を生んでからというもの、からだの調子がわるくてね。ときどきお腹《なか》が火で焼かれるように痛むことがあるだ」
七年間も子供を生まないので、それで怒っているのだろうと、彼女が単純に思っているらしいことが王龍にもわかった。彼は自分でも意外なほど乱暴な口調で言った。
「おれの言うのはな、ほかの女たちのように、なぜ髪につける油を買わねえのか、なぜ新しい着物をつくらねえのか、ときいているんだ。第一、おまえのはいているそんな靴は地主のかみさんのはくものとしたら、みっともなさすぎるじゃねえか。おまえは地主のかみさんなんだぞ」
彼女はなんとも答えず、ただ、おずおず彼の顔をぬすみ見て、われ知らず足を、かさねてすわっている腰掛けの下にかくした。心のなかでは、長いあいだ犬のように忠実に彼のあとにしたがってきたこの女を責めるのは酷《こく》だとも思い、彼がまだ貧乏で畑で働いていたころ、彼女がお産の直後ですら起きてきて、いっしょに畑で麦を刈ったことも忘れなかったが、それでも胸のなかのむしゃくしゃはおさえられず、内心の気持ちに反して冷酷に言うのであった。
「おれは働いて金持ちになった。自分の女房に小作女みてえな身なりをさせたくねえ。それに、おまえの足ときたら――」
彼は言葉を切った。何から何までみっともない阿藍のなかで、一ばんみっともないのは、だぶだぶの布製の靴をはいているその大きな足だった。彼がさげすむようにその足をみつめるので、彼女は腰掛けの奥のほうに足をかくした。
しまいに、やっと彼女は低い声で言った。
「あたしは子供のときに売られたで、母が纏足《てんそく》をしてくれなかっただ。だけど、娘の足には纏足してやるだよ――小さいほうの娘には纏足するだよ」
彼は彼女を怒りつけたのを恥じていたが、そのくせ彼女が、おどおどするばかりで何を言っても怒らないのが、かえって憤《いきどう》ろしくなった。そこで新しい黒い長衫《チャンサ》をひっかけて、いらだたしく言った。
「これから茶館へ行って、耳新しいことでもあるかどうかきいてくるだ。おれの家にゃ、ばかと老いぼれと子供しかいねえだでな」
町のほうへ行くにつれて、ますますむしゃくしゃしてきた。というのは、もし阿藍があの金持ちの家から一つかみの宝石をとってこなかったら、そして、もし彼の言うとおりにその宝石を彼に渡さなかったら、この広大な土地は一生かかっても買えなかっただろうということを、このときにふいに思い出したからである。だが、それを思うと、よけい腹立たしくなってきて、まるで頑固に自分の心に楯《たて》つくかのように、ひとりごとを言った。(だがあの女は、自分のしたことの意味を知らねえだ。子供が赤や緑の菓子をとるように、ただほしいからとっただけなのだ。もしおれがみつけなかったら、いつまでもふところへしまいこんでおいただろう)
まだ阿藍は乳房のあいだに、あの真珠をしまっているだろうか、と彼は考えた。以前は、そのしまい場所が、なんとも奇妙に思え、ときどきは考えてもみたり、心に思い描いてもみたりしたものだが、いまは軽蔑を感じるばかりだった。というのは、彼女の乳房は、何人も子供を生んだため、しなびて垂れさがり、美しさなどまったくないからだ。そんな乳房のあいだに真珠をかくしておくなんて、ばかばかしくもあり、むだなことに思えた。
それでも、もし王龍がまだ昔のような貧乏百姓だったら、また、もし洪水が彼の畑を水びたしにしなかったら、これはなんでもないことであったかもしれない。しかし、彼は金を持っているのだ。壁のなかに銀貨がかくしてあるし、新しい家の床下にも銀貨の袋が埋めてある。妻といっしょに寝る寝室にも布に包んだ銀貨が箱にはいっているし、敷きぶとんにも縫いこんである。腹巻きにも銀貨がいっぱいはいっている。金には不自由しないのだ。それで、むかし金を手ばなすのは身を切られるようにせつなかったが、いまは腹巻きのなかに手を入れると、指がやきつくかと思われるほどで、早く使ってみたくてならなかった。金を大事にする気持ちがなくなり、男ざかりを享楽したいと思うのであった。
どんなものでも、昔ほどよく見えなかった。昔は貧乏な田舎者として、びくびくしながらはいって行った茶館も、いまは、うすぎたなく、みすぼらしいものに見えた。そのころは彼のことを知っているものなどひとりもいず、給仕の小僧もおうへいだったが、このごろでは彼がはいって行くと、人々がひじで突つきあって、ささやきをかわすのであった。
「あれは王村の王という人だよ。あの大飢饉の年、老大人が死んだ冬に、黄《ホワン》家の土地を買いとった人だ。いまじゃ、えらい金持ちだ」
これを聞きながら王龍は、わざと平気らしく腰をおろすが、内心では現在の自分が誇らしくてならなかった。しかし、妻をしかりつけてきたきょうは、いくら待遇されても、おもしろくなかった。彼は、気むずかしい顔で茶を飲み、前からそう思っていたように、人生には、よいことなんて、そんなにあるものではないと思った。そして、とつぜんこんなことを思いついた。(なんでおれはこんな店で茶を飲むのか。ここの主人は、やぶにらみのイタチみてえな男で、そのかせぎは、おれの畑で働く作男よりもすくないというのに。地主で、学校へ行っている息子を持っている王ともあろうものが)
彼はさっと立ちあがり、銭をテーブルの上に投げ出して、だれが声をかけるひまもなく外へ出た。自分が何をしたいのか、自分でもわからず、彼は町の通りを、ぶらぶら歩いて行った。一度は、講釈師の掛け小屋の前を通りかかったので、ちょっとのあいだ、おおぜい人のたかっている腰掛けの端のほうに腰をおろし、知勇兼備の英雄が活躍する三国志の物語に耳を傾けた。しかし、気持ちが落ちつかないので、ほかの人たちのように講釈に夢中になれず、講釈師がたたく小さなシンチュウのドラの音に気をくさらせて、また立ちあがって歩きつづけた。
そのころ、南からきたその道のしたたか者が、町に大きな茶館を新しく開いていた。ここでは賭けごとや、遊興や、いかがわしい女のために、どんなに莫大《ばくだい》な金銭が費消されることだろうと、空おそろしく感じながら王龍は以前この前を通ったことがあった。しかしいまは、無為の生活からくるむしゃくしゃした気持ちにかられ、また妻に悪いことをしたという自責の思いからのがれたいために、彼はこの場所に足を向けた。何か新しいことを見るか聞くかしないかぎり、気持ちが救われないのだ。
こうして彼は新しい茶館の敷居をまたいだ。往来に面した、輝くばかりの大きな広間には、テーブルがいっぱいならべてあった。彼は、いばってはいって行ったが、しかし元来気の小さな人間で、しかもほんの数年前までは、いつも銀を一枚か二枚しか持ったことのない貧乏人でしかなく、南の都会で人力車をひいてかせいだことまであるのを思い出すと、つい元気を出して、もっといばろうと思った。
はじめのうち彼は、その大きな茶館では、静かにお茶を注文してそれを飲み、めずらしそうに周囲を見まわす以外、まったく口をきかなかった。すばらしく大きな広間で、天井は金色に輝き、壁には美人画の絹の掛け軸が、いくつもかかっていた。王龍は、その絵姿を、ひそかに、つくづくとながめた。夢の国の女ででもあろうと思った。地上では見たこともなかった。最初の日は、その絵をながめ、静かに茶を飲んで帰った。
その後、田畑が水びたしになっているあいだ、彼は毎日この茶館へ行った。そして、ひとりで黙ってお茶を飲んでは美人の絵をながめた。野良でも家でも、しなければならぬことが何もないので、日一日と、そこにすわっている時間が長くなった。方々に銀をかくし持っているものの、彼の風采《ふうさい》はまだ田舎者で、この豪奢《ごうしゃ》な茶館で絹でなく木綿を着ているのは彼ひとりだけだし、辮髪を背中から垂らしているものも町にはいなかったから、本来、いつまでもこのままの状態がつづくはずであった。ところが、ある晩、彼が広間の奥のテーブルで茶を飲みながらながめていると、二階に通じるせまい階段を降りてきたものがあった。
この町で二階があるのは、西の門の外にある西塔と呼ばれる五重の塔と、この茶館だけだった。西塔は上に行くにしたがってせまくなっているが、この茶館の二階は、階下の建物と同じ大きさであった。夜になると、女たちの高い歌声や、陽気に笑う声や、少女たちの手が優美にかなでる美しい琵琶の音が、上の窓から流れてきた。夜がふけると、楽の音が往来にまで流れ出るが、しかし王龍がすわっているところでは、茶を飲んでいる人の談話や騒音と、麻雀《マージャン》の牌《パイ》をもてあそぶ音と、サイコロをころがす音のみが聞こえた。
その夜、いつものようにそこにそうしてすわっていた王龍は、背後に、せまい階段を降りてくる女の足音がしたのに気がつかなかった。肩に手をかけられたので、びっくりして、ふり返った。こんなところに知っている人がいようとは思いもかけなかったのである。見あげると、細面《ほそおもて》の、あでやかな女の顔があった。杜鵑《ドチュエン》であった。黄家の土地を買ったとき、彼がその手に宝石を渡し、そしてその手が老大人のふるえる手をしっかりと持ちそえて売買契約書に印判を押させた女である。彼を見ると彼女は笑った。その笑い声は、するどいささやきに似ていた。
「あらまあ、農夫の王さんね」彼女は農夫という言葉を、いやがらせのように、わざと引っぱって発音した。「こんなところでお会いしようとは思わなかったわ」
王龍は、自分が単なる田舎者ではないということを、どうでもこの女に示してやりたいと思い、大きく笑ってから、高すぎるほどの声で言った。
「おれの金は、ほかの人のみてえには通用しねえのかね。このごろは、おれも金に不自由はしねえだよ。さいわいと運がよくてな」
杜鵑《ドチュエン》はこれを聞くと笑うのをやめた。目は細くなり、蛇の目のように変わった。音声は壼から流れ出る油のようになめらかになった。
「だれでも知っていますよ。あり余るお金を使うには、ここほどいいところはないわ。ごちそうを食べたり遊んだりして、お金持ちが楽しみなさるのも、優雅な貴人たちが楽しみをなさるのも、みんなここですものね。お酒だって、ここほどいいのはないし――飲んでみましたか、王龍さん?」
「まだ茶しか飲んでいねえだ」王龍は答えた。そして、ちょっと恥ずかしくなった。「おれは酒にもサイコロにも手をふれたことがねえだよ」
「お茶ですって!」と彼女は言って、かん高く笑った。「ここには、虎骨酒《フウクウチュウ》でも焼酒《シャオチュウ》でも香りのいいお米のお酒でもなんでもあるのよ――それなのに、どうしてお茶なんか召しあがるの?」
王龍はうつむいた。すると彼女は、やさしく、思わせぶりな調子で言った。
「それじゃあなたは、ほかには何もごらんにならないのね。そうでしょう――美しい小さな手も、においのいい頬も」
王龍は、いっそう顔をうつむけた。血が顔へのぼってきた。周囲にいる人々がみなあざけりの目で彼を見、女の言葉を聞いているような気がした。しかし勇気を出して、顔を伏せたまま周囲のようすをうかがうと、彼に関心をよせているようなものはだれもいなかった。牌《パイ》の音が新しくまた起こった。彼は、どぎまぎしながら言った。
「なんにも――見ねえだ――おれは、なんにも――茶だけで――」
女はまた笑って、絹の掛け軸の美人画をさして言った。
「あれがそうよ。あの絵がそうなのよ。お気に召したのがあったら、どれでも選んで、あたしに銀を渡してくだされば、あなたの前へ連れてくるわ」
「あれが!」王龍は驚いて言った。「おれは、夢の国の女、講釈師に聞いたことのある崑崙《こんろん》山の仙女かと思っただよ」
「そうよ、夢の国の女よ」杜鵑《ドチュエン》は諧謔的《かいぎゃくてき》にじょうずにうまを合わせた。「けれどもこの夢の女は、わずかの銀で生身の人間になるのよ」彼女はそう言って歩み去りながら、近くに立っている召使にうなずいて目くばせし、王龍のほうを指さして、そっとささやいた。「田舎できのカボチャよ」
しかし王龍は、新しい興味をもって、それらの絵をながめていた。このせまい階段をあがって行くと、頭上の部屋に、ちゃんと血の通っているこういう美人たちがいて、男たちがそこへ行くのだ――もちろんそれは彼ではない、だが男たちだ。もし彼が善良で、勤勉で、妻子のある男でなかったとしたら、もしもそういうことをするとしたら、どの絵の女を選ぶだろうか。彼は、まるで実物を見るような熱心さで、それらの絵の顔を、一つ一つ、しげしげとながめた。どれもみな同じように美しく見え、選択の余地はなさそうであった。
しかし、選ぼうと思ってよくよく見ると、より美しいものが目につく。彼は二十ばかりある絵のなかから、もっとも美しいと思うのを三人選び、この三人のなかから、さらにひとりを選んだ。小柄で、華奢《きゃしゃ》で、竹のようにすんなりとしたからだつき、仔猫のようなかわいらしい顔、片手に蕾《つぼみ》のついた蓮《はす》の茎をもっているが、その手は、のびたわらびの巻きひげのようにしなやかだった。
彼は血管に酒がまわったように熱くなって、じっとその絵姿をながめていた。
(まるでマルメロの花のようだ)彼は思わず大きな声で言い、その自分の声を耳にすると、恥ずかしくなってあわてて立ちあがり、金をそこにおいて外へ出た。日が落ちた暗闇のなかを家へ向かった。
野と水の上を、月の光が銀霧の網のようにおおっていた。そして彼のからだのなかでは、血が、ひそやかに燃えたぎって、すばらしい速度でかけめぐっていた。
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十九
いま、もし王龍の土地から水がひいて、太陽に水蒸気をあげて土がかわいたとしたら、焼けつくような夏の数日間に、土を鋤《す》き、馬鍬《まぐわ》でならし、種子をまかなければならないので、王龍は二度とあの宏壮《こうそう》な茶館に行くことはなかっただろう。あるいは、もし子供が病気になったり、老人が不意に死んでしまったりしたら、王龍はそれにかかりっきりになり、あの軸に描いてあるくっきりした顔や、竹のようにすんなりした女のからだを、忘れてしまったかもしれない。
だが水は満々として、日没の夏の微風にさざなみが立つ以外は動かなかった。老人はうつらうつらとまどろみ、ふたりの子供は夜明けとともに学校へ行き、夕方まで帰ってこない。王龍は落ちつかずに、家のなかをあちこち動きまわり、椅子にすわったかと思うと、阿藍《オーラン》のいれた茶を飲もうともせず、火をつけたたばこを吸おうともせずに、すぐ立ちあがったりして、そのようすを悲しそうに見ている阿藍の視線を避けていた。七月のとりわけ長いある日の暮れ方、かすかなそよぎに湖が微妙にざわめき、暮れなずむたそがれに、彼は家の戸口に立っていた。ふいに彼は何も言わずに身を返して部屋へはいり、阿藍が祭日用につくった、まるで絹のように光り輝く黒い布の新しい着物を着て、だれにも言葉をかけずに、水辺の細い道を、楼門《ろうもん》の暗がりまで、畑づたいに歩いて行き、門をくぐり、街路を通って新しい茶館までやってきた。
海岸の見知らぬ都会でしか買えないような、明るい石油ランプが全部あかあかとともされ、灯りの下で人々が飲んだり話したりしていた。彼らは夕方の冷気に長衫《チャンサ》をひろげ、そこらじゅうで扇が左右に動き、笑い声が音楽のように街路に流れてきた。王龍が野良仕事からはけっして得たことのない、あらゆる陽気さが、この家のなかにはあった。ここには男たちが遊ぶために集まり、けっして働きはしなかった。
入り口で王龍はためらって、開いている戸口から流れ出る明るい光に照らされて立っていた。いまでも心のなかに恐れと臆病があるために、血は血管を破裂させるほどからだじゅうをかけまわってはいるものの、そこに立っているだけで彼は帰ってしまったかもしれない。だが、光の端に物影から、ひとりの女が出てきた。それは入り口にぼんやりよりかかっていた女であった。杜鵑《ドチュエン》だ。彼女は男の姿を見ると、近づいてきた。この家の女たちに客をつけてやるのが、彼女の仕事なのだ。男が何者であるかがわかると、彼女は肩をすぼめて言った。
「なんだ、お百姓か」
王龍は、彼女が鋭く言いすてたのにぐっと胸を刺され、急に怒りをおぼえたが、かえってその怒りに勇気づけられて彼は言った。
「わしがこの家にはいってはいけねえのかね。ほかのもんと同じようにしてはいけねえだかね」
彼女はまた肩をすぼめて笑って言った。
「あんたがほかの人と同じように銀貨を持っていれば同じようにしたってかまわないわよ」
彼は、自分も好きなとおりにやれるくらいの大旦那であり、金持ちであることを、彼女に見せなければならなかった。そこで、手を腹巻きに突っこむと、銀貨をいっぱいつかみ出して言った。
「これで足りるかね? まだ足りねえだかね?」
彼女は、その一握りの銀貨に目をみはると、もうそれ以上ぐずぐずしていなかった。
「こっちへきて、どれがお望みかおっしゃいよ」
王龍は自分の言葉も上の空でつぶやくように言った。
「いんや、どれがいいのかおれにはわからんけど」と言いながら、欲望に打ち負かされて、ささやいた。「あの小さいの――あのとがったあごに小さな顔をした、白と桃色のマルメロの花みたいな顔の、手に蓮《はす》の蕾《つぼみ》を持ってるあの女だ」
女は簡単にうなずくと、彼を手招きして、こみ合っているテーブルのあいだを縫って進んで行った。王龍はすこし間をおいて彼女にしたがった。最初のうちは、みんなが自分を見上げているように思えたが、勇気を出して見まわしてみると、だれも自分になんの注意も払っておらず、ただひとりかふたり、大きな声で、こんなことを言っただけであった。「もう女のところへしけこむほどおそいのかな」すると、また別の男が言った。「こう宵の口からはじめなければならねえとは、えらく元気のいいやつがいるもんだな」
しかしこのときには彼らは、せまい、まっすぐな階段をのぼっていた。王龍は家の階段というものをのぼったことがないので、ひどくのぼりにくかった。それでも二階へあがってみると、そこは平家となんの変わりもなかった。ただ、窓のところを通りがかりに空をのぞきこむと、すばらしく高いように思えた。女は狭苦しい薄暗い廊下を案内して、歩きながら声をかけた。
「今夜はじめてのお客さまだよ」
廊下に沿った扉がいきなり全部開いて、まだらな光のなかに、あちこちから若い女たちが頭をのぞかせた。日光をあびて葉鞘《はざや》から咲き出た花のようであった。しかし杜鵑は冷酷に言った。
「あんたじゃないよ――あんたでもないよ――あんたたちをお望みじゃないんだよ。こちらさんは、あの蘇州《そしゅう》からきた桃色の顔をしたちびさんがお目当てなんだよ――蓮華《リエンホワ》さ」
さざめきが、ざわざわとあざけるように廊下を流れた。ざくろのように赤い顔をした小娘が大きな声で言った。
「蓮華にはお似合いだわ――この人、泥くさくて、にんにくのにおいがするわ」
王龍は自分がありのままの百姓に見えることを恐れていたので、この言葉は短刀のように彼を突き刺したが、しかし彼はとり合わなかった。腹巻きにある銀貨を思い出したので、びくともせずに歩きつづけた。やっと女は、閉まっている扉を平たい掌《てのひら》で容赦なくたたき、待ちもせずに、なかへはいった。部屋のなかには、ほっそりした若い女が、花模様の赤い掛けぶとんをかけた寝床に腰をかけていた。
だれかがこんなに小さな手があると彼に話しても、彼は信じなかっただろう。それほど小さな手と、華奢な骨組みと、濃いバラ色の蓮の蕾の色に染めた長い爪の指とであった。また、もしだれかがこのような足があると話しても、信じられなかったであろう。それほどに小さな足が男の中指ほどの長さしかない桃色の繻子《しゅす》の靴をはいていたのだ。そして寝床の端で子供のようにその足をぶらぶらさせていた。
彼は彼女をみつめながら、寝床のそのかたわらにぎこちなく腰かけ、この女はあの絵のようだと思った。その絵を見ただけに、もし彼女と出あっても、すぐにそれとわかったことだろう。だが、他の何よりも彼女の手は、あの絵にかかれた手にそっくりであった。なよやかで細く、乳のように白かった。両手を桃色の絹の服の膝のところでからみ合わせていた。彼は、その手にふれ得ようとは、夢にも思わなかった。
彼は絵を見ているかのように、女をながめていた。ぴったりした短い上着につつまれた竹のようにすんなりとした姿を見やった。白い毛皮でふちどった高い襟《えり》の上にある描いたような美しいとがった顔をながめた。目が、あんずのようにまるく、講釈師が春の美人のあんずのような目を賛美する意味が、いまやっとのみこめた。彼には、この女が生身でなく、絵に描いた女のように見えた。
このとき彼女は小さな、なよやかな手をあげて、彼の肩におき、彼の腕を、ゆっくりとなでおろした。彼は、こんなにもかるくやわらかに触れるものを知らなかったし、もし見ていなかったら、なでられたことも気がつかなかっただろう。それでも彼は、そのなでおろしてゆく小さな手をみつめた。それはまるで通ったあとから炎を点じるかのようであり、袖のなかまで焼け、腕の肉が燃え上がるようだった。その手は袖口まできて、彼のむき出しの手首のところで、一瞬技巧的にためらい、やがて彼のかたい黒い手のなかにすべりこんできた。彼は、それをどううけとってよいのかわからず、ふるえはじめた。
そのとき、風にゆれる塔の銀鈴のように、軽やかに、せわしげにひびく笑い声を聞いた。そして笑っているような、かれんな声が言った。
「まあ、ずいぶんうぶなのねえ。大きななりをして。じっとみつめたまま、ここで夜を明かすつもり?」
これを聞くと、彼は両手で彼女の手を握った。だが、その手は熱くかわいている枯れ葉のようにくずれやすく思われたので、そっと握った。そして何を言っているか自分でもわからず、ただ懇願するように言った。
「おれは何も知らねえだ――教えてくれ」
彼女は教えてやった。
いまや王龍は、どんな男もかかったことのないような、たいへんな重い病にとりつかれた。彼はやけつく陽光の下の労働に苦しみ、きびしい砂漠のかわいた風の冷たさに苦しみ、凶作のときの飢餓に苦しみ、南の都市の街路で希望もなくやけのように働くことにも苦しんできたが、このかぼそい女の手にいま苦しんでいる苦悩にくらべれば、そんなものは、ものの数ではなかった。
日ごと、彼は茶館へ通った。彼女が迎え入れるのを待って、夜ごと、彼女の部屋に入りびたった。毎夜、彼は部屋にはいり、また夜ごと、何も知らぬ田舎者として戸口でふるえ、彼女の横にぎこちなくすわり、彼女の笑うのを待っていた。そして熱病にかかったようになり、はげしい飢えに満たされて、女が摘まれるのを待つ開ききった花のように彼の抱擁に身をまかすその最後の瞬間まで、彼女の開花のときを奴隷のように唯々諾々《いいだくだく》として待つのであった。
それでも彼女をことごとく把握することは、どうしてもできなかった。たとえ彼女が思いのままになったとしても、そのために彼の熱病と飢えはなくならなかった。阿藍が家へきたとき、それは、彼の肉体に健康をあたえた。彼はけだものが雌を求めるように荒々しく彼女を求め、満足して、彼女のことを忘れ、存分に働いた。しかし、いまこの女にたいする彼の愛には、そんな満足はなかった。彼女には彼にとってなんの健康さもなかった。夜、それ以上相手をしたくないと思うと、彼女は、いきなり小さな手で彼の肩をつき放し、遠慮えしゃくなく扉の外へ押し出して、彼の銀をふところに入れた。彼は飢えたまま、きたときと同じように帰って行った。それは言ってみれば、のどの渇きで死にそうな人が海の塩水を飲み、なるほどそれは水にはちがいないが、そのためかえって血をかわかし、渇きを増して、塩水を飲んだために発狂して、ついには死んでしまうのにも似ていた。彼は彼女の部屋にはいり、再三再四、彼女を意のままにしながらも、満たされぬまま帰って行った。
やけつくような夏のあいだじゅう、王龍はこの女をこんなふうに愛しつづけた。彼女がどこから来たのか、前に何をしていたのか、彼はまるで知らなかった。ふたりでいっしょにいるとき、彼は、ほとんど口をきかなかった。彼女が明るく、子供のような笑いをまぜてしゃべりつづけるのも、ほとんど聞いていなかった。ただ彼女の顔や手や、姿態や、大きな愛くるしい目の意味をみつめながら、彼女を待っているだけであった。そして彼女を存分に自分のものにしたことがなく、魂の抜けたように不満足のまま明け方に家へ帰るのであった。
一日がひどく長かった。彼は部屋のなかが暑いという口実を設けて、自分の寝床にもう寝ようとしなかった。竹やぶのなかにムシロを敷き、とろとろとまどろんでは、はっと目がさめた。竹のするどい葉影をみつめながら横になっていると、自分でもわからないなやましい病のような痛みを胸におぼえた。
もしだれか、妻か子供かが話しかけたり、あるいは陳がきて、「もうすぐ水がひくだが、種子まきの準備は、どうしたらいいだかね」などとたずねたりすると、彼は大きな声で言う。
「勝手にしてくれ」
そして、この女に満足できないので、しじゅう彼の心は爆発しそうだった。
このように日々が過ぎ、そして夕方のくるのを待って昼間を過ごしているだけの生活を送っているので、彼は心配そうな阿藍の顔や、遊んでいても彼の姿を見ると急にまじめな顔をする子供たちの顔を見る気がしなかった。老父の顔すら見ようとしなかった。父親は彼をのぞきこんで言うのであった。
「これはいったいどういう病気かの。かんしゃくばかり起こしておるし、皮膚も土みたいに黄いろくなっておる」
こうした昼間が過ぎて夜になると、蓮華《リエンホワ》は彼を思いのままにあやつった。彼女が辮髪を笑って、「南の人は、いまごろそんな猿の尻尾《しっぽ》をつけてやしないわ!」と言うと、毎日かなりの時間をかけて編んだり、櫛《くし》をあてたりしているにもかかわらず、彼は何も言わずに出かけて行ってそれを切らせてしまった。これまでは、だれが笑っても軽蔑しても、そうするように彼を説得することはできなかったのに。
辮髪を切り落とした彼を見たとき、阿藍は狼狽して叫んだ。
「あんたは自分の生命を切ってしまっただね」
だが彼はどなりつけた。
「いつまでも時代おくれのまぬけなかっこうをしなければいけねえのか。町の若い男たちは、みな短く切ってるだぞ」
しかし、心のなかでは、自分のやったことを恐れていた。そのくせ、もし蓮華がそうしろと命じたり望んだりしたら、彼は自分の生命を断っただろう。彼女は、彼が女のなかに望む美しさを、ことごとく備えていたからだ。
以前は自分のりっぱな褐色のからだを労働の清潔な汗が、ふだんにはいっこうさしつかえのない程度に洗ってくれていると思っていて、たまにしか洗わなかった。それがいまでは他人のからだのように念入りにしらべだし、毎日洗うのであった。そこで妻は気がかりになって言った。
「そんなに洗ってばかりいると死んでしまうだ」
彼は外国製のかおりのよい赤い石けんを店で買い求め、それをからだにこすりこんだ。また、どうしてもにんにくを食べようとしなかった。以前は大好物だったのが、彼女の前で、くさい息をはきたくなかったからだ。
彼の家では、だれもこういうことをどうしてよいのかわからなかった。
また彼は服の新しい布地を買った。いつもは阿藍がたっぷりと幅ひろく長く布地を裁ち、じょうぶなように、しっかりと念を入れて縫うのが常だった。いまはその彼女の裁ち方や縫い方をさげすんで、町の仕立屋に布地を持って行き、町の人々が着ているような明るい色の絹の服をからだにぴったり合わせてつくらせ、その上に黒繻子《くろじゅす》の馬甲《マコー》を着た。また、生まれてはじめて女の手づくりでない靴を買った。それは黄《ホワン》家の老大人が、かかとをぱたぱたいわせながらはいていたような黒いビロードの靴であった。
だが、さすがにこういうりっぱな服を、とつぜん阿藍や子供たちの前で着るのははずかしかった。彼は茶色の油紙に包んで、顔なじみになった茶館の番頭にあずけ、いくらかの金をやって奥の部屋へこっそり入れてもらい、二階へ上る前にそれらを身につけた。そのうえ、彼は金メッキした銀の指輪まで買いこんで指にはめ、以前そり上げていた前額のあたりに毛がのびてくると、一|瓶《びん》が銀貨一枚もする外国製の香りのよい油でなでつけた。
阿藍は驚きの目で彼をながめたが、こういうことを、どうしてよいのかわからなかった。ただ、ある日、昼飯を食べながら、長いことじっとながめたあとで、ぽつりとこう言っただけだった。
「あんたを見ていると黄家の若旦那を思い出すだ」
王龍は大きな声で笑って言った。
「金持ちになったのに、いつまでも雇人みたいなかっこうをしてなければいけねえのか!」
だが心のなかでは非常によろこんで、その日だけは近ごろにないほど彼女にやさしくしてやった。
財貨は、銀貨は、いまやどんどん家から流れ出て行った。あの女といっしょにいる時間だけに金を使うのではなく、彼女がかわいらしいようすでねだるものにも金を使った。彼女は手に入れたいものがあると、いまにも胸がはりさけんばかりの調子で、ため息まじりにつぶやくのであった。
「ああ、あたし――あたしったら」
すると、やっと彼女の前で口をきくことをおぼえた彼がささやく。「なんだね、かわいいおまえ」
彼女は答える。「きょうはあなたから、なんのうれしいこともしてもらえないのね。お向かいの部屋の黒王《へイワン》さんは恋人から金のヘヤピンをもらったわ。あたしは、ずっと前からいつも使っているこの古い銀のピンしかないのよ」
彼は彼女の長い小さな耳たぶの耳を見ようと、つややかに黒く波うっている髪をおしわけた。そして生命にかけてもささやかずにはいられなかった。
「だったら、おれの宝石《ヽヽ》のようにたいせつなこの髪のために金のピンを買ってやるよ」
彼女はこういう愛人の呼び名を、子供に新しい言葉を教えるように彼に教えた。彼に自分をそういう言葉で呼ばせるのである。彼はこれまで種子まきや収穫や日光や雨のことばかり話してきた男なので、率直にうまく言えず、口ごもりながら言うのであった。
このように銀貨は壁からも袋からも出て行った。昔の阿藍だったら、わだかまりなくこう言えたであろう。「なぜお金を壁から出すだね?」しかしいまは何も言わず、ただ悲しそうに彼をながめていた。何か自分からは縁のない、いや、土地からさえも縁の遠い生活を彼が送っていることだけは十分わかったが、それがどういう生活かは知らなかった。彼女が髪も容姿も美しくなく、足も大きいと彼が知ったときから、阿藍は彼を恐れていた。いつ怒られるかもしれないという恐怖から彼女は何もたずねなかった。
ある日、王龍は畑を通って家へもどる途中、池で彼の着物の洗濯をしている彼女に近づいて行った。しばらく黙って突っ立っていたが、やがて乱暴に言った。恥ずかしさをおぼえながらも、その恥ずかしさを内心ではみとめようとしなかったので、つい突っけんどんな態度をとった。
「おまえの持ってた真珠は、どこにあるだ?」
彼女は池の端の平たいなめらかな石の上で彼の服を打ちながら、彼を見上げて、びくびくしながら答えた。
「真珠かね? 持ってるだよ」
彼は彼女の顔を見ずに、ただそのしわだらけの濡れた手を見ながら、つぶやくように言った。
「なんにも使わずに真珠を持ってるなんて、むだだな」
彼女は、ゆっくりと答えた。
「いつか耳飾りにしようと思っていただ」彼が笑うのを恐れて、また言った。「末の娘が結婚するときのために持っていようと思うだ」
彼は無理に心をかたくして大きな声を出した。
「なぜだ。土みたいにまっ黒な女が真珠をつけることはねえ。真珠は美しい女のためにあるだ」そしてすこし黙っていたが、やがて、とつぜん叫んだ。「おれによこせ――真珠がいるだ」
ゆっくりと彼女は濡れたしわの寄った手をふところに入れ、小さな袋をひき出して彼に渡し、彼がそれをあけるのを黙ってみつめていた。真珠は彼の手の上にのり、太陽の光をやわらかくいっぱいに受けて輝いた。彼は笑い声をあげた。
しかし、阿藍は彼の服をたたきはじめ、目からゆっくりと大粒の涙が落ちても、手でふこうともしなかった。ただ、石の上にひろげてある服を、木の棒で、しっかりとたたくばかりだった。
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二十
こうして銀貨をすっかり使いはたすまでつづくかと思われていたところへ、とつぜん、王龍《ワンルン》の叔父が、これまでどこで何をしていたのかもいわずに、ふらりともどってきた。まるで天から降ってきたかのように戸口に立った。ぼろ服には相も変わらずボタンをかけず、帯をだらしなくしめていた。顔も以前と変わりなかったが、日光や風にさらされてしわがより、固くなっていた。みんなが朝早く飯を食べているところへ、彼は口を大きくあけて、にやりと笑いかけた。
王龍は叔父が生きていることなど忘れてしまっていたので、死人がもどってきたような気がして、唖然《あぜん》としてすわっていた。老父はまばたきをして、じっとみつめていたが、叔父が口を開くまでは、だれがきたのかもわからなかった。
「やあ、兄貴、それに甥《おい》とその息子たちと嫁御どん」
王龍は心のなかでは愕然《がくぜん》としたが、顔にも声にも鄭重《ていちょう》さをあらわして立ちあがった。
「これは叔父さん、食事はすんだかね?」
「まだだよ」叔父は気軽に答えた。「いっしょに食べるだ」
彼はそこにすわって、茶わんと箸《はし》を引き寄せ、テーブルの上の飯や塩にした干魚や塩漬の人参やかわいた豆を、気ままに自分でよそった。そして、がつがつと飢えているように食べた。だれも口をきかないでいると、彼は魚の骨や豆のシンを歯で性急に噛み砕いて、米ガユを三杯も音高くすすりこんだ。食べ終わったとき、当然の権利であるように、さりげなく言った。
「さて、眠るとするかな、なにしろ三晩も寝ていないのでな」
王龍は茫然《ぼうぜん》として父親の寝床に叔父を案内するより仕方がなかった。叔父は掛けぶとんを持ちあげて、りっぱな布地と清潔な新しい綿を手でさわり、老父の部屋のために彼が買った木の寝台や、りっぱなテーブルや、大きな木の椅子などをながめて言った。
「おまえが金持ちになったことは聞いたが、こんな金持ちになったとは思わなかっただな」そして寝床に横になり、暑い夏なのに、肩までふとんをかけ、すべてをわがもの顔に使って、それ以上何も言わずに眠ってしまった。
王龍は、どぎもをぬかれて中の部屋へもどった。叔父は、自分が養ってもらえると承知してしまった以上、もう二度と出て行くことはあるまい、ということがよくわかったからである。王龍はこのことを考え、叔父の妻のことを考え、彼らがこの家にやってくるつもりでおり、しかも、だれもそれをとめることができないということに思いいたると、恐ろしくなった。
彼が恐れていたとおりのことが起こった。昼もだいぶまわってから、やっと叔父は寝床の上で伸びをして、大きな声を出して三度もあくびをし、服をかきよせながら部屋を出てきた。彼は王龍に言った。
「女房と息子を連れてくるだよ。おれたち三人の口だて、おまえのこの大きな家で、おれたちの食うぐらいのものや着るぐらいのものが足りねえということはねえだろうて」
王龍は、しぶい顔をするだけで、ことわれなかった。というのは、むだ使いをするほどものがありながら、父親の兄弟とその息子を家から追い出すのは恥とされていたからである。もし、めんどうをみなければ、その富のためにみなから尊敬を受けているこの村で、彼の面子《めんつ》が立たなくなるのだ。だから彼は何も言おうとしなかった。彼は使用人を全部古い家に移し、門のかたわらの家をあけた。その日のうちに、夕方叔父が妻と息子を連れてその家にはいった。王龍は非常に怒っていた。しかも、それを腹のなかに押さえて、微笑をもって、この親戚を歓迎しなければならないので、怒りはそれだけ強かった。叔父の妻の、ふとったぶよぶよした顔を見ると、怒りが爆発しそうになったし、やくざな、ずうずうしい息子の顔を見ると、つい引っぱたきたくなって手をあげそうになった。
三日間というもの、この怒りのために町へ行かなかった。
彼らがこの事件にすっかりなれたとき、阿藍《オーラン》が彼に言った。「怒るのはやめなされや。がまんしなければならねえことだで」王龍は、叔父と叔母と息子が食事や住居のために、ばかていねいな態度をとるのを見ると、気持ちが前よりもさらにはげしく蓮華《リエンホワ》に動いて、ひとりつぶやいた。
(家が野良犬でいっぱいになったら、よそに平和をさがさなけりゃなるめえて)
そして前の熱病と苦痛が、またも心のなかに燃えあがった。しかもまだ愛欲は満ち足りることを知らなかった。
阿藍は単純だし、老父はもうろくしているために、また、陳は友情のために気がつかなかったが、叔母は、すぐに見抜いて、目に皮肉な笑いを見せて言った。
「王龍はどこかで花を摘もうとしたがっているだね」阿藍はその意味がわからず、おとなしく叔母の顔をながめていた。すると彼女はまた笑って言った。「あんたには、瓜《うり》を割って見せなけりゃ、種子が見えねえのだね。はっきり言うと、おまえの亭主は、ほかの女に夢中なんだよ」
王龍は、中庭の彼の部屋の窓の外で叔母がこう言っているとき、愛欲のために消耗しきって、早朝から自分の部屋で横になって居眠りをしていた。彼は、はっとなって目をさまし、この女の慧眼《けいがん》に唖然として聞き入っていた。そのふとったのどから、油が流れるように、だみ声がやかましくひびいた。
「あたしゃ、いろんな男を見てきただ。急に男が髪の手入れをしたり、新しい着物を買いこんだり、ビロードの靴をはきたいなんて言いだすときには、新しい女ができた証拠さ。ほんとだよ」
きれぎれに阿藍の声がしたが、王龍には聞こえなかった。叔母はまた言った。
「どんな男でも、ひとりの女で十分満足していると考えてはいけないよ。ばかだね。男のためにあくせくからだをすりへらして働いて、疲れた働きものの女がいたにしても、男はそれだけじゃ満足しないものさ。男の空想は、さっさと、あらぬほうへ迷いだしていくんだよ。おまえは、いっぺんだって男の空想にぴったり合ったことはないし、男の労働のためには牛よりはいくらかましというところさね。男がお金を出してほかの女を家へ連れてきても、不平を言うじゃないよ。ほかの男は、みなそうしているだし、うちの老いぼれののらくら亭主だってそうさ。ただあの人は一生、自分ひとりも満足に養えなかったけれどね」
彼女は話しつづけていたが、寝床にいた王龍は、それ以上聞きとれなかった。いま彼女の言った言葉に、ぴたりと彼の考えはとまったからだ。いま、とつぜん彼は蓮華にたいする飢えや渇《かわ》きをいやす方法を見つけたのだ。あの女を買って家へ連れてきて、だれもほかの男が彼女のもとにやってこないよう、自分だけのものにしようと思ったのである。そうすれば、いくらでもむさぼるように食って、満足できるではないか。彼はすぐに寝床から起きあがり、外へ出て、そっと叔母に合図をして、門の外のナツメの下まで彼女を連れ出した。そこなら、だれにも聞かれる心配はなかった。
「あんたが庭で言ってたことを聞いただが、たしかにあんたの言うとおりだて。おれは女房以外にも、女がほしいだ。みんなを食べさせるだけ土地を持ってるだから、女くらい持っていけねえわけはねえだろう」
叔母は、ぺらぺらと熱心に答えた。
「いけないわけがあるものかね。金持ちは、みんな持ってるだもの。一つの茶わんから飲まなければならないのは貧乏人だけさ」
彼女はこう言った。彼がつぎに言うことはわかっていた。はたして彼女が思ったとおりに彼は言った。
「だけど、だれが仲にはいって交渉してくれるだね。男じゃ、女のところへ行って、おれのところへこいなんて言うわけにはいかねえだで」
すぐに叔母が答えた。
「あたしにまかせておくれじゃないか。どの女だということだけ言ってくれれば、あたしがうまくやってあげるよ」
王龍は、これまでだれの前でも女の名まえを口に出したことがないので、気が進まず、びくびくしながら言った。
「蓮華《リエンホワ》という女だて」
彼はこの夏のつい二か月ほど前までは、彼女が生きているということすら知らなかったのも忘れて、だれでも蓮華という名まえを聞いて知ってるはずだと思った。だから、叔母がつぎのようにたずねたとき、彼はいらだった。
「どこにいるのかね?」
「どこだって?」彼は荒々しく答えた。「どこって、町の目抜き道路にある、あの大きな茶館のほかにあるとでも思うだか」
「花楼《かろう》というとこかい?」
「ほかにどこにあるだよ」王龍は言い返した。
叔母は、すぼめた下くちびるを指で引っ張りながら、しばらくじっと考えこんでから、やっと口を開いた。
「あすこにゃ、だれも知ってる人はいない。道をつけなければならないね。その女の取締りは、なんという名まえだい」
彼が黄《ホワン》家の奴隷だった杜鵑《ドチュエン》だと言うと、彼女は笑って言った。
「ああ、あれかい? 老大人があの女の寝床で死んだあと、そんなことをしているのかい? あの女のやりそうなことだよ」
また彼女は、しわがれた声で「へっへっへ」と笑って、あっさりと言った。
「あの女かい! それじゃ話は簡単だね、ほんとうに。なんでもはっきりしてるよ。あの女かい! 銀貨を掌に握らせさえしたら、最初からなんだってする女だよ。山を築くことだってするだろうて」
王龍はこれを聞くと、ふいに口のなかが、からからに渇ききって、上ずった声で言った。
「銀貨だと! 銀貨だろうと金貨だろうと、おれは土地を売り払ってでもつくるだ」
奇妙な矛盾した愛欲の熱病から、王龍は話がきまるまで、二度と大きな茶館へ行こうとしなかった。彼は、ひとりごとを言った。
(あの女が家へきてくれず、おれだけのものにならなかったら、おれは、のどをかき切ってでも、二度とあの女に近づくまい)
しかし、「もし彼女がきてくれなかったら」という言葉を思うと、恐怖で心臓がとまりそうになった。だから彼は、たえず叔母のところへかけつけては、こう言うのだった。
「金はいくらでも出すだよ」また、こうも言った。「おれが思いどおりになる金銀を持っているということを杜鵑《ドチュエン》に言ってくれたかね」また彼は言った。「家へきたら何も働かなくていいし、着物は絹のだけ着て、お望みなら、毎日でも鱶《ふか》のひれが食べられると、そうあの女に伝えてくれ」ついにふとった女はうるさくなって、目をむいて彼にどなった。
「もうたくさん。たくさんだよ。あたしは阿呆なのかい。それとも、男と女をとりもつのは、これがはじめてとでも思っているのかい! ほっといておくれよ。そしたら、やってあげる。何度もちゃんと言ってるじゃないか」
そこで、彼は爪をかみ、蓮華がいずれは見るかもしれないと思って、ふと家をながめたりするほかは、何もすることがなかった。彼は阿藍をせき立てて、いろんなことをさせた。掃除や洗濯をさせたり、テーブルや椅子を移させた。このあわれな女は、彼が何も言わなくても、わが身にふりかかることをいまはよく知っていたので、ますますおびえて行った。
王龍は、阿藍とはもうこれ以上いっしょに寝る気がしなかった。ふたりの女が家にいるとなれば、もっと部屋も中庭もなければならないし、自分が愛人といっしょに行ける離れた場所もなければならないと考えた。そこで叔母が話をつけるのを待っているあいだ、使用人たちを呼んで、中の部屋のうしろにも中庭をつくるよう命じ、またその中庭のまわりに大きな部屋を一つと、両側に小さな部屋を一つずつ、つくるように命じた。使用人たちは返事をせず、彼をみつめていたが、彼は何も言おうとしなかった。自分で彼らに指図したので、彼が何をしているかさえ陳に話す必要はなかった。男たちは畑から土を掘ってきて、壁をつくって固めた。王龍は町に使いを出して屋根瓦を買いこんだ。
部屋ができあがり、土間を平らにならすと、彼はレンガを買わせた。男たちは、それをびっしりと敷きつめ、石灰で隙間を埋めた。蓮華が使う三つの部屋には、りっぱなレンガの床ができあがった。王龍は赤い布を買って戸口のとばりにし、新しいテーブルと、その両側にならべる彫刻のある椅子を二脚と、テーブルのうしろの壁にかける山水の掛け軸を二本買った。また蓋《ふた》つきのまるい赤漆《あかうるし》の菓子|鉢《ばち》を買って、なかにゴマ菓子と揚げ菓子を入れ、箱をテーブルの上においた。そして、小さな部屋には大きすぎるほどの幅の広い深い彫りのある寝台を買い、そのまわりにかける花模様のとばりを買った。こういうことを阿藍にやらせるのは、さすがに恥じた。そこで、夕方になると叔母がやってきて、寝床のとばりをかけ、不器用な男の手にはあまる用事をたしてやった。
全部終わって、何もすることがなくなり、一と月ばかりたったが、話はまだまとまらなかった。王龍は蓮華のためにつくった新しい小さな中庭を、ひとりでぶらぶら歩いていたが、ふと中庭のまんなかに小さな池をつくることを思いついた。そこで、人夫をひとり呼んだ。人夫は三尺四方の池を掘り、レンガを張った。王龍は町へ行き、池に放す金魚を五匹買ってきた。もうほかにする用事は何も考えつかず、またもいらいらし、熱に浮かされたような思いで待ちこがれた。
子供たちがはなをたらしているとしかりとばすとか、阿藍が三日以上も髪の手入れをしないとどなりつけるとか、それ以外、このあいだは、だれとも口をきかなかった。そこで、とうとう阿藍は、彼がこれまでどんなときにも、飢えていたときでさえ見たことがなかったほど涙を流し、声をあげて泣いた。彼は苛酷《かこく》に言った。
「なんだ、馬の尻尾《しっぽ》みたいな髪をしてるから、とかせと言ったぐらいのことで、何を騒ぐだ」
彼女は何度もうめくように言うだけだった。
「あたしは、あんたのために男の子を生んだだ――息子を生んであげただ――」
彼は黙りこみ、落ちつかなかった。さすがに彼女の前では恥ずかしかったので、ぶつぶつひとりごとを言うだけで、彼女をそっとしておいた。法の前では、妻に文句をつけることは何もなかった。彼女は彼のために三人のりっぱな息子を生んでおり、いずれもみな生きていた。愛欲というほかに口実がないのだ。
こんなことがつづいているうちに、ある日、叔母がきて言った。
「話がまとまったよ。茶館の取締りの女には一時金として銀貨百枚。あの女にはヒスイの耳飾りと、ヒスイの指輪と金の指輪と、繻子《しゅす》の服二枚と絹の服二枚、靴を十二足、寝台の絹の掛けぶとん二枚、それでくることになったよ」
この話のうちで王龍は、「話がまとまった――」という言葉しか聞かなかった。彼は大きな声で言った。
「そうしてくれ――そうしてくれ――」彼は奥の部屋へかけこみ、銀貨をとり出してきた。何年間もの豊作の結果が、こんなふうに消えて行ってしまうのを、だれにも見られたくなかったので、そっと静かに彼女に渡して言った。
「あんたも銀貨十枚とってくんな」
叔母は、ことわるまねをして、ふとったからだを引っこめ、頭をぐるぐる振って、ささやいていた声を大きくして言った。
「いいえ、あたしはいらないよ。あたしたちは身内のことだし、おまえはあたしの息子、あたしはおまえの母親なんだからね。銀貨のためなんかじゃない。おまえさんのためにやったことだよ」しかし、王龍は、叔母が口ではそう言いながらも手をさしのばしたのを見て、その手のなかに銀貨を渡した。彼は、じょうずに金を使ったように思った。
彼は豚肉と牛肉と鮭《さけ》とタケノコと栗《くり》とを買い、吸い物にするために南からきた燕巣《えんそう》と干した鱶《ふか》のひれと、それから彼の知っているかぎりの菓子を買って待った。この焼けるような、たえまないいらだたしさを、|待つ《ヽヽ》と呼ぶとすれば。
もう夏も終わりとなる八月の、日光が照りつける灼熱《しゃくねつ》のある日、蓮華《リエンホワ》はやってきた。彼女がくるのを、王龍は遠くから見ていた。女は、男たちが肩にかついでいる竹製の箱型の轎《かご》に乗っていた。彼は畑に沿ったせまい道を轎があちこちに揺れながらくるのを見ていた。そのあとについている人影は杜鵑《ドチュエン》であった。一瞬、彼は恐ろしくなり、ひとりごとを言った。
(おれは何を家へ連れこんでいるのだ?)
ほとんど無我夢中で、彼は長年妻と寝ていた部屋にかけ入り、扉を閉め、部屋の暗がりのなかでおろおろしていた。ついに、だれか門のところにいるから出てくるようにと叔母が大声で呼ぶのが聞こえた。
恥ずかしさのあまり、彼は、はじめてこの女と会うかのように、りっぱな服を着てうつむき、あらぬ方を見やり、一度も前方を見ずに、ゆっくりと出て行った。だが杜鵑は、はしゃいだようすで彼に呼びかけた。
「こういうことになろうとは思いませんでしたわ」
彼女は男たちがおろした轎《かご》に近づき、とばりを上げ、舌を鳴らして言った。
「蓮華、出てらっしゃい。さあ、あんたの家ですよ。あんたのご主人ですよ」
王龍は、にやにや笑っている轎かきの顔を見て、困ってしまった。彼は心のなかで思った。(どうせ町の道ばたで拾った人足どもじゃないか。くだらないやつらさ)彼は自分の顔がほてって赤くなるのをおぼえて腹立たしくなり、一言も口を開こうとしなかった。
とばりが上げられた。われを忘れてみつめると、轎の隅に、化粧をして、百合の花のようにひっそりと、あの蓮華がすわっていた。彼は、なにもかも、にやにや笑っている町の人足どものことすら忘れてしまい、自分だけのものにするためにこの女を買ったのだということと、この女が死ぬまでこの家に住むためにきたのだということだけを思った。彼は固くなり、ふるえながら、彼女が風にそよぐ一輪の花のように優美に立ちあがるのを見ていた。見とれたまま、目をそらすことができないでいるうちに、女は杜鵑に手をとられて轎を出ると、頭を下げて目を伏せながら、小さな足で、おぼつかなげに杜鵑にもたれて歩んできた。彼の前を過ぎるとき、彼には何も言わず、ただ杜鵑に向かって弱々しくささやいた。
「あたしの部屋はどこなの?」
そのとき叔母が、彼女のもう一方の側へ寄ってきた。そして両側から彼女をささえ、中庭を通って王龍が建ててやった新しい部屋に案内した。王龍の家族は、だれも彼女が通るのを見たものはなかった。作男たちと陳は遠くの畑へ仕事にやってあるし、阿藍は、ふたりの小さい子を連れて彼の知らないどこかへ出かけてしまっていたし、少年たちは学校に行っており、老人は壁によりかかって眠っていて、何も聞かず、何も見ず、また白痴の娘は出入りするものなどには目もくれず、それに両親の顔以外は、だれの顔も知らないのであった。それでも蓮華がなかへはいってしまうと、杜鵑は彼女のあとからとばりを引いた。
しばらくして叔母が、どこか意地悪そうに笑いながら出てきた。彼女は手にこびりついたものでもふり払うかのように、手をはたいた。
「香水や白粉《おしろい》のにおいがぷんぷんしてるよ、あの女は。あれじゃまるで女郎だね」彼女はもっと悪意をこめて言った。「おまえ、あの女は見かけより年をとってるよ。はっきり言ってもいいけどね、そうそう男がふり向かなくなる年ごろでなかったら、ヒスイの指輪や金の指輪や絹と繻子《しゅす》くらいで百姓の家にくる気になったかどうかわからないね。いくら金持ちの百姓だと言ったところでさ」そしてこの露骨すぎる言葉に王龍の怒りがあらわれるのを見て、あわててつけ足した。
「だけど美人だね。あんな美人は見たことがないよ。長年あの黄家の骨太の女奴隷を相手にしてきたあとじゃ祭日の八宝飯のようなごちそうだろうよ」
王龍は何も答えず、家のなかをあちこち歩きまわって、聞き耳をすました。じっと落ちついておれなかったので、ついに思いきって赤いとばりをあげて蓮華のためにつくった中庭へはいって行き、彼女のいる薄暗い部屋へはいった。そして夜まで一日じゅう彼女のそばにいた。
このあいだ、阿藍はすこしも家に近よらなかった。夜明けに壁から鍬《くわ》をとり、子供たちを呼んで、キャベツの葉に包んだ冷たいわずかばかりの飯を持って出て行ったきりだった。それでも夜になると家にはいりこんできた。口もきかず、土まみれになり、疲れてものうげだった。子供もだまって彼女のあとについてきた。彼女は、だれとも口をきかず、台所にはいって食事のしたくをし、いつものようにテーブルにならべて、老父を呼び、手に箸《はし》を持たせ、白痴の娘に食べさせてから、子供たちといっしょに、ほんのわずか夕飯を食べた。彼らが眠ってしまい、王龍がまだ夢心地でテーブルに向かってすわっていると、彼女は寝るためにからだを洗い、やっと住みなれた自分の部屋にはいって、ひとりで眠った。
王龍は夜も昼も愛欲におぼれきっていた。毎日毎日、蓮華がぼんやりと寝床に横になっている部屋へ行き、彼女のそばにすわって、彼女のすることを、一から十まで見まもっていた。初秋の暑さに彼女は外へ出なかった。杜鵑がぬるま湯で彼女のすんなりしたからだを洗い、油をすりこんで、髪に香水と油をつけるあいだ、横になっていた。杜鵑は、蓮華が、ぜひとも自分の召使としてとどまるようにと言い、しかも、気前よく金をくれるので、ひとりで十二人分の世話をする気になったのである。彼女と女主人の蓮華とは、他の人と離れて、王龍がつくった新しい中庭に住んだ。
一日じゅう、女は涼しい薄暗い部屋にいて、砂糖菓子やくだものをかじり、腰のところまで切れこんだ小さなぴったりした上着と幅の広いクーツという緑色の夏の絹物一枚しか着ていなかった。こうして王龍は、女のところへくると、そんな彼女の姿を見いだした。そして彼は愛におぼれた。
夕方になると、彼女は、いじらしげにすねて、彼を外へ追い出した。すると杜鵑が湯浴《ゆあみ》させ、もう一度香水をつけて、やわらかな白絹の肌着に、王龍があたえた桃色の外袍を着せてやった。足には小さな刺繍をした靴をはかせた。やがて女は庭を歩き、五匹の金魚が泳いでいる小さな池を見る。王龍は自分のものとなったこの驚異に見とれた。彼女は小さな足をおぼつかなげに踏みしめていた。王龍は彼女のさきのとがった小さな足と、まろやかな、可憐な手の美しさを絶品だと思った。
彼は愛におぼれ、ひとり楽しんで満足した。
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二十一
一つ屋根の下に女がふたりいると平和はないといわれるが、王龍《ワンルン》の家にきたこの蓮華《リエンホワ》という女と、その召使の杜鵑《ドチュエン》が、なんの騒ぎも不和もなしにみなとうまくやって行くことができるとは考えられなかった。しかし王龍は、これを予知しなかった。阿藍《オーラン》の不愛想な顔と杜鵑のとげとげしさとによって、何かうまくいっていないとは読みとれたが、それを気にかけようともしなかった。彼は自分の欲望にたけり立っているかぎり、だれにも関心を持たなかった。
それでも、昼が夜となり、夜が暁と変わるとき、王龍は、太陽が朝になるとのぼるのも、蓮華がここにいるのも、真実だと思った。月はその周期に応じてのぼり、彼が抱きしめたいと思うのに応じて彼女はそこにいるのだ。彼の愛のかわきがやや満足してくると、前にわからなかったことが、しだいに見えるようになってきた。
たとえば、阿藍と杜鵑のあいだに、すぐにいさかいが起こったことである。
こんなことが起ころうとは、王龍は思ってもいなかった。夫が第二夫人を家へ連れこむと、梁《はり》から紐《ひも》で首をつったり、そんなことをした夫をしかりとばして、ふぬけのようにしてしまったりする女のことを、彼は何度も聞いているが、阿藍は無口な女なので、自分に向かって、なんと言っていいかわからないのだろうと、彼は、よろこんでいたのである。阿藍が蓮華を憎むだろうと予期してはいたが、実際は蓮華のことについては黙っていて、杜鵑に怒りのはけ口をみつけようとは、思ってもみなかったのだ。
いまでは王龍は蓮華のことしか考えていなかった。あるとき、彼女は彼にこう頼んだ。
「杜鵑をあたしの召使にしてもいいでしょう。あたしはこの世の中でひとりぼっちなのよ。あたしがまだ口がきけないうちに両親は死んでしまって、叔父はあたしが美しくなるとすぐに、これまで送ってきたような生活に売ってしまったので、あたしはひとりぼっちなのよ」
彼女はこう言いながら、美しい目の隅から、いつもたくさん用意してあるきらきら輝く涙を流した。こんなようすで彼女に見上げられると、彼は彼女の頼みを拒みかねた。そのうえ、女に召使がひとりもいなかったということも事実だし、彼女がこの家ではひとりだということもほんとうだった。阿藍が妾《めかけ》のめんどうをみるとは、まるで考えられないことだった。彼女は蓮華に話しかけもしなければ、この家に彼女がいるということも、まったく黙殺していた。そうなれば、ほかには叔母がいるだけだが、叔母がのぞき見したり、せんさくしたり、自分のことを話しに蓮華に近づくと思うだけで、彼はがまんできなかった。だから、杜鵑でもけっこうだと思ったし、ほかに召使にくるような女をだれも知らなかった。
だが、杜鵑を見るときの阿藍は、王龍がかつて見たこともないし、また彼女にそんな面があるとも知らなかったほどの深い不機嫌な怒りで腹を立てた。杜鵑は王龍から給金をもらっているのだし、また自分が黄《ホワン》家で老大人の部屋づきであり、阿藍は、おおぜいの台所奴隷のひとりにすぎなかったことを忘れてはいなかったが、阿藍と仲よくする気は十分にあった。彼女は、はじめて阿藍に会ったとき、ていねいに呼びかけたものである。
「まあ、なつかしい。また同じ家に住むようになったわね。あんたが主人で第一夫人――あたしのご主人というわけだわ――変われば変わるものねえ?」
しかし、阿藍は彼女をじっとみつめていたが、この女がだれで何者であるかがわかってくると、何も言わず、運んできた水ガメを下におろし、王龍が愛欲の中休みをしている中の部屋へはいって行って、はっきりと言った。
「あの奴隷女は、この家で何をしているだかね?」
王龍はあちこちに目をそらせた。彼は主人としてしっかりした声で言いたかった。(これはおれの家だぞ。おれがはいってよろしいと言ったものは、だれだろうと、やってくるだ。そういうおまえは何者なのだ?)しかし、阿藍が前にいると、なんだか恥ずかしくて言えなかった。彼は、恥ずかしさに腹が立った。恥を感じなければならぬ理由は何もなかった。使いたいだけの金を持っている男がする程度のことしか何もやっていないからだ。
それでも彼は何も言えず、右や左を見るだけだった。たばこをしまい忘れたふりをして、腹巻きをさぐってみた。だが阿藍は、その大きな足で、どっしりとそこに立って待っていた。彼が何も言わないでいると、また同じ言葉で、はっきりとたずねた。
「あの奴隷女は、この家で何をしているだかね?」
彼女があくまでも答えを待っているのを見て、王龍は弱々しく言った。
「それがおまえに、なんの関係があるだ?」
阿藍は言った。
「黄家であたしが若かったころ、あの女は、おうへいな顔をして、あたしをいじめただ。日に何十回も台所へかけこんできて、ご主人にお茶をすぐとか、ご主人にご飯を大急ぎで、とかどなっていただ。そして、しじゅう、これは熱すぎるの、冷たすぎるの、料理がまずいの、あたしが醜くすぎるの、のろますぎるの、ああしすぎるの、こうしすぎるのと言って――」
しかし王龍は、なんと言ってよいのかわからず、返事をしなかった。
阿藍は待っていた。彼が何も言わないでいると、熱い涙がわずかにゆっくりと彼女の目ににじみ出てきた。まばたきをしてその涙をおさえたが、ついに青い前掛けの端をとって目をふき、やっと言った。
「こんなことを、あたしの家でやるなんてあんまりだ。あたしには、この家を出たくても郷里《さと》がねえだで」
それでも王龍が黙りこんで、ぜんぜん返事もせずに、腰をおろしてキセルに火をつけ、なおもおし黙っていると、彼女は情けなさそうに、口のきけぬ動物のような奇妙なぼんやりした目で彼を悲しげにみつめてから、涙で目が曇ってしまったため、手さぐりで、はうように扉のほうへ去って行った。
王龍は彼女が去って行くのをながめ、ひとりになったのをよろこんだが、まだ彼は恥ずかしく、また恥を感じるのが腹立たしく、だれかと言い争いでもしているかのように声を出し、いらいらと、ひとりごとをつぶやいた。
(なあに、ほかの男だってすることだ。おれはあの女に十分よくしてやっただ。おれよりもっと悪い男もいるだでな)そして最後に、阿藍は、がまんすべきだ、と言った。
しかし、阿藍はこれで終わりにしなかった。彼女は黙って自分のやり方でやって行った。朝、彼女は湯をわかし、老父にあたえ、王龍が奥の中庭へ行っていなかったら、彼にも茶を出してやった。だが、杜鵑が彼女の主人のために湯をくみに行くと、大鍋は空っぽになっていて、いくら大声で不平を言っても、阿藍は、ぜんぜんとりあわなかった。だから杜鵑は、主人のための湯をほしいと思えば、自分でわかすより仕方がなかった。だがまた、こういうときもあった。朝のカユをつくっているので湯をわかす鍋がなく、杜鵑が大声でわめいても、阿藍は返事もせずに平然と料理をしていた。
「あたしのかわいいご主人が、朝のお湯が飲みたくて、渇きのために寝床で死にそうになっていても、かまわないの?」
だが阿藍は耳もかさず、昔一枚の葉も炊事のために貴重だったころとすこしも変わりなく、注意深く倹約して、カマドに葉やわらを入れるだけであった。そこで杜鵑が王龍に大きな声で苦情を言いに行くと、彼は自分の愛人がこんなことのために困らねばならないのを怒って、阿藍のところへ行って、彼女を責め、どなりつけた。
「朝、すこし余分に湯をわかすことができねえのか?」
しかし彼女は前よりさらにきびしい渋面をつくって答えた。
「すくなくとも、あたしは、この家では奴隷ではねえだ」
彼は、がまんしかねて腹を立て、阿藍の肩をつかまえ、はげしくゆさぶって言った。
「ばかなことを言うな。あの召使のためではなくて、あの女主人のためなんだぞ」
彼女は彼の乱暴をこらえて、彼をみつめ、簡単に言った。
「あの女に、あんたは、あたしの真珠を二つやっただね」
すると彼の手が肩から落ち、言葉も出ず、彼は怒りも消えて、恥じ入りながら去って行き、杜鵑に言った。
「カマドを別につくって、もう一つ台所をつくろう。第一夫人は、あの花のような第二夫人のからだに必要なごちそうや、おまえの好きなものを知らねえのだ。新しい台所でおまえの好きなように料理すればいい」
彼は雇人たちに、小さな部屋と、そのなかに土のカマドをつくるように言いつけ、上等の鍋を買った。「そこでおまえの好きなように料理すればいい」と彼が言ったので杜鵑はよろこんだ。
王龍のほうは、やっと事件がおさまり、女たちも静かになって、これで自分の愛欲を楽しめると自分に言いきかせていた。これが彼に新鮮な気分をそそったらしく、蓮華に飽きることを知らず、彼女が大きな目のまぶたを百合の花弁のように伏せてすねたり、彼をちらりと見ながら目に笑みをきらめかせたりするのにも倦《う》むことを知らなかった。
だが、けっきょくこの新しい台所の問題は、杜鵑が毎日町へ行き、南の都会から輸入した高価な食物をあれこれと買ってくるので、わが身を刺すとげとなった。茘枝《れいし》の実、ナツメの蜜漬《みつづけ》、米粉でつくった珍しい菓子、くるみ、赤砂糖、海のサヨリ、その他のあれこれ、いずれも、王龍など聞いたこともないものばかりだった。しかもそれらは、彼が渡す額よりも、ずっと高価なものだった。杜鵑が言うように、それほど安くはないと思ったものの、それでも、「おまえはおれの肉を食べてるだ」と言ったら、彼女が気を悪くして怒るだろうし、蓮華もいやな顔をするだろうと、それがこわさに、いやいやながら腹巻きに手を突っこむよりほかはなかった。毎日これが彼の苦痛の種だった。愚痴を言う相手もないので、苦痛はますますひどくなってきた。これは蓮華への愛欲の炎を、いくらか冷ますことになった。
この問題から、さらに別の小さな苦痛の種がふえた。それは美食家の叔母が食事どきに奥庭へ頻繁に行くことだった。彼女はそこで気ままにふるまった。王龍は蓮華が自分の家のなかからこの女を友人に選んだのがおもしろくなかった。三人の女たちは、奥庭でよく食べ、たえまなく、ひそひそ話をしたり、笑い声をたてたりしていた。蓮華は叔母のどこかが好きらしく、三人とも幸福そうだったが、王龍は、これをいやがった。
しかし、それでもどうにもならなかった。彼は、やさしくなだめて言った。
「蓮華、あんなふとっちょの鬼婆《おにばば》に親切にするのはむだだよ。おれにやさしくしてくれ。あのばばあは嘘つきで信用できねえ人間だで。朝から晩まであんなのが、おまえのそばにつきっきりというのは、うれしくねえだな」
蓮華は、ぷりぷりして、くちびるをとがらせ、顔をそむけて、わがままを言った。
「あたしにはあなたのほかには、だれもいないのよ。ひとりも友だちがいないのよ。あたしは、これまで、にぎやかな家に住みなれていたのに、あなたの家族といっても、第一夫人は、あたしを憎んでいるし、子供たちは、うるさくて困るし、だれもいやしないのよ」
彼女は奥の手を使い、その夜は、どうしても彼を部屋へ入れようとせず、不平を言った。
「あたしの幸福を思わないんなら、あたしを愛していないのだわ」
王龍は、おとなしくなり、気をもんで、言いなりになり、後悔して言った。
「おまえのいいようにするがいいだ。いつまでもな」
彼女は女王のように彼を許した。彼女の望むことにたいして、どういうふうに叱るにしろ、彼はこわかった。それからあとというもの、彼が蓮華のところへきても、叔母と茶を飲んだり菓子を食べたりしているときだと、彼に待つように命じて、彼のことなど気にもかけなくなった。そして、ほかの女がそこにいるところへ彼がはいって行くと、いい顔をしないのに怒りをおぼえ、彼は大股《おおまた》でその場を去った。こうして、自分では気がつかなかったが、彼の情熱は、すこしさめた。
そのうえ、彼が怒ったのは、蓮華のために買った高価な食物を叔母が食べて、以前よりもふとり脂ぎってきたことである。しかし、叔母は利口で、彼に鄭重な態度をとっていたし、おせじも言うし、彼が部屋へはいってくると立ちあがるので、彼は何も言えなかった。
このように、彼の蓮華にたいする愛情は、かつてのように、心身ともに、まったく渇望《かつぼう》にたえかねたようなおぼれきりのものではなくなった。ささいな怒りを忍ばなければならなかったし、いまは阿藍とも生活がわかれてしまっていて、気軽に話しにも行けなかったので、それらのささいな怒りは、ますます鬱積《うっせき》するばかりで、しだいに身にしみてきた。
野原の茨《いばら》が一つの根からあちこちにひろがっているように、王龍にも、なやみが、ますます多くなってきた。ある日、もう年老いてぼけてしまっているので、いつも何もわからない老父が、日向《ひなた》で居眠りをしていたが、とつぜん目をさまし、息子が七十歳の誕生日に買ってあたえた龍頭《りゅうとう》の杖にすがって、王龍と蓮華の歩く中庭とのあいだに垂れている幕の戸口まで、よろよろと歩いて行った。老人はこれまでその戸口に注意したこともなかったし、いつ中庭がつくられたかも知らなかった。だれがこの家を建て増したかも、知らないようであった。王龍は、「女をもうひとり持った」と老人に言ったことがなかった。新しいことや老人の考えてもいなかったことを話しても、老人は何も聞こえないほど耳が遠くなっていたのである。
だが、きょうは、どういうわけか老人はこの戸口をみつけて、それに近より、幕をあけた。夕方だったので、王龍は蓮華と中庭を散歩して、池のそばに立ちどまり、金魚を見ていた。しかし王龍が見ていたのは蓮華であった。老人は、息子が、ほっそりしたからだつきの化粧した女のそばに立っているのを見て、かん高い割れたような声で叫んだ。
「家には淫売《いんばい》がいるだぞ」蓮華は怒ると金切り声の悲鳴をあげて手をたたくのであった。王龍は彼女が怒りはしないかと心配したが、老人は黙らなかった。そこで王龍は歩みより、老人を表の庭へ連れて行って、なだめるように言った。
「静かにしておくれよ、おとっつぁん。あれは淫売じゃなくて第二夫人だよ」
しかし老人は静まろうとせず、聞こえたのか聞こえないのか、ただ大声で何度も言うのだった。
「ここに淫売がいるだぞ」彼は王龍がそばにいるのを見ると、とつぜん言った。「わしの女はひとりだった、わしの父親の女も、ひとりだった。わしらは百姓なんだぞ」そして、すこしたってから、また声をはりあげた。「あれは淫売だ!」
こうして、老人は老年のうとうとした眠りからさめると、蓮華に狡猾《こうかつ》な怒りを向けるようになった。奥庭の入り口に行っては、いきなりわめき出すのである。
「淫売!」
さもなければ、入り口の幕をあけて、荒れ狂ったように床に唾をはいた。そして小石を拾って弱々しい腕で小さな池に投げこんで、金魚をびっくりさせた。いたずらっ子のようなつまらない方法で彼は怒りをあらわすのであった。
これは王龍の家をひどく騒々しくした。老父をしかるのは恥ずかしいが、蓮華が簡単に起こすかわいらしいかんしゃくの気質を知ってからというものは、彼女が怒るのもこわかった。彼女に、なんとか父親のことを怒らせないようにしむけるための心労は、彼をうんざりさせた。これは彼の愛欲が重荷になってきたもう一つのたねであった。
ある日、後房のほうに悲鳴が聞こえた。蓮華の声だったので、彼は大急ぎでかけつけた。双生児の男の子と女の子が、年上の白痴の姉を間にはさんで立っていた。白痴の姉は別として、四人の子供たちは、後房に住んでいるこの女に絶えず好奇心をもっていた。上のふたりは彼女がそこにいるわけや、父親との間柄を知っているので、ふたりだけでこっそり話しあうだけだった。うすうす感じているだけに、顔を見たりするのが、きまり悪かったのである。しかし下のふたりは、そこをのぞいたり、びっくりしたり、女の用いている香水のにおいをかいだり、杜鵑が食後に運び去る皿に指をつっこんでなめたりするだけでは満足しなかった。
蓮華は、子供たちがうるさくてたまらないと何回も王龍に言い、彼らをこさせないでくれるようにと頼んだ。しかし彼は、そうしようとせず、冗談にまぎらして言った。
「あいつらも、おやじと同じように、きれいな顔が見てえだよ」
そして子供たちには、奥庭へはいってはいけないと申し渡しただけだった。子供たちは、彼が見ているときにははいらないが、見ていないと、こっそりと出入りしていた。しかし、白痴の姉は何も知らず、ただ表の庭の壁によりかかってにこにこ笑いながら、よった小切れをもてあそんで日向ぼっこをしていた。
ところが、この日、上のふたりが学校へ行くと、そのあと、下のふたりは、この白痴だって、やはり後房の女を見たいのにちがいないと思い、ふたりで姉の手をとって奥庭に引っぱって行き、蓮華の前に立った。蓮華はこの娘を見たことがないので、すわったまま娘をじっとみつめていた。白痴の娘は、蓮華の着ている輝くような絹の長袍《チャンパオ》や、光っている耳飾りの宝石を見ると、ふしぎなよろこびを感じたらしく、その美しい色彩をつかもうと手をのばして、大きな声で笑った。ただの音だけの、意味のない笑いだった。それに驚いて蓮華が悲鳴をあげ、そうして、王龍がかけつけてきたのである。蓮華は怒りに身をふるわせ、小さな足で地だんだ踏んで、笑っている白痴の娘を指さして叫んだ。
「こんなものがそばへくるなら、あたしはこの家を出て行くことよ。こんな白痴をがまんしなければならないなんて、ぜんぜん聞いていなかったわ。知っていたら、だれがくるものですか。なんてきたならしい子供たちでしょう!」そして、かたわらの、ぽかんと口をあけて双生児の女の子の手をつかんでいる男の子を突きとばした。
子供たちをかわいがっている王龍は、怒りに燃えて荒々しく言った。
「子供たちの悪口を言うたら承知せんぞ。相手がだれであろうと承知できん。この白痴の娘の悪口だって、聞くのはいやだ。子供を生んだこともないくせに、おまえなんか、何が言えるというだ」彼は子供たちを集めて言った。「さあ、行くだ。もうこの女のところへくるじゃないぞ。この女は、おまえたちをきらっているだでな。おまえたちを好きでねえということは、おまえたちの父親も好きでねえということだで」そして白痴の姉娘に彼は、たいへんやさしく言った。「さあ、あの日向ぼっこの場所へおいで」
娘は微笑した。彼は娘の手をとって連れ出した。彼は、この白痴の娘の悪口を言い、ばか呼ばわりをした蓮華のことを、ひどく怒った。そして、この娘を思う新しい苦痛の重荷が心にのしかかった。そこで、その日も、つぎの日も、彼は蓮華のところへ行く気にならず、子供たちといっしょに遊び、町へ行って白痴の娘に、まるい大麦の菓子を買ってやり、この甘いべとべとする菓子によろこぶ彼女の赤児のようなようすに、心をなぐさめられた。
ふたたび彼が蓮華のところへ行ったとき、彼が二日間こなかったことについては、ふたりとも口に出さなかった。しかし彼女は、彼を歓待するために、とくべつ気をつかった。彼が行くと、ちょうど叔母を相手に茶を飲んでいたが、「主人がきたわ。あたしは主人の言いつけにしたがわなければならないのよ。そうするのがうれしいんですもの」そう言って自分から席を立って叔母を帰したほどだった。
それから、王龍のもとに進みより、彼の手をとって顔に押し当て、愛撫を求めた。彼は、ふたたび彼女をまた愛しはしたが、しかし以前ほど深くは愛さなかった。その愛しかたは、以前のような全的なものとは、二度とならなかった。
夏が終わるころのある日のことだった。早朝の空はすっきりと澄み渡り、寒々として、海のように青く、さわやかな秋風が耕地を荒々しく吹き渡った。王龍は眠りから目ざめたように、われに返った。わが家の戸口に出て畑をながめまわした。水はひき、田畑は、かわいた冷たい風と烈日の下に輝いているのが目に映った。
声が彼の心の奥底から叫んだ。内部から叫ぶ愛欲よりも、もっと腹の底からわき出る、土地に向かって叫ぶ声である。彼の生活のどんなほかの声よりも一段と強い叫びである。彼は長衫《チャンサ》をかなぐり捨て、ビロードの靴と白い靴下をむしり取るようにぬぎ、クーツを膝までまくりあげ、たくましく勢いこんで立ち上がり、大きな声で叫んだ。「鍬《くわ》はどこだ。鋤《すき》はどこにあるだ。小麦の種子は、どこにあるだ? おい、陳さん、きてくれ――みんなを呼んでくれ――野良へ行くだ!」
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二十二
大地は、南の都会から帰ってきたとき、彼の心の病をいやし、そこで耐えてきた苦しみを慰めてくれた。今度もまた王龍《ワンルン》は田畑の黒々とした大地によって愛欲の傷をいやされた。足の下にしっとりとした土を感じ、小麦をまくために掘り起こす畔《あぜ》から立ちのぼる土のにおいをかいだ。彼は作男たちを使って、あれこれと働かせ、ここかしこと耕して、終日はげしく働いた。王龍は最初のうちは、牛のうしろに立って、背中に鞭を鳴らし、鋤が土のなかを進むにつれて、掘り起こされる土の深いうねりを見ていたが、やがて陳を呼ぶと、彼に手綱を渡し、自分から鍬をとってその掘り起こされた土をくだいて黒砂糖のようにやわらかにした。土はまだ濡れていて黒かった。彼は、その必要があるからではなく、ほんとうのよろこびのためにこれをしたのであった。疲れると地面に横たわって眠った。大地の息づかいが、からだのなかにしみわたり、愛欲の傷をなおしてくれた。
夜が近づき、一点の雲もない空に、輝く太陽が沈むと、からだは、ずきずき痛むほどに疲れていながら、勝ちほこった気持ちで大股に家へ帰ってきた。とばりを横に引き、奥庭へ行くと、蓮華《リエンホワ》が絹の長衫を着て歩いていた。彼女は彼を見ると、その土まみれの姿に叫び声をあげ、彼がそばへ寄ると身ぶるいした。
しかし彼は笑って、泥だらけの手で小さいなよなよした手を握り、また笑って言った。
「おまえの主人は、ただの百姓だということがわかっただろう。おまえは百姓の女房なんだぞ」
すると彼女は勢いこんで叫んだ。
「あなたがなんであろうと、あたしは百姓の女房じゃないことよ」
彼はまた笑って、あっさりと彼女から離れて行った。
以前のように土でよごれたまま夕飯を食べ、いやいやながら寝るまえにからだを洗った。そして、からだを洗いながら、彼はまた笑った。からだを洗うのも、いまはもう女のためではないからだ。彼は愛欲から自由になったのをよろこんだ。
こうなると王龍には長いこと自分が家を離れていたように思えてきた。やらなければならない仕事が、いきなり山のようにたくさん出てきた。土地は、早く耕して種まきをせよとせがんで叫び声を上げていた。彼は毎日そのために働いた。夏の愛欲生活のために白くなったからだは陽にやけて黒くなり、愛欲の怠惰のためにたこの皮がむけてしまっていた手も、鍬や鋤の柄のあたる部分が、また固くなってきた。
昼食も夕食も、彼は阿藍が用意してくれた米やキャベツや豆腐やにんにくを入れてつくった小麦のパンを食べた。彼が行くと蓮華は、その小さな鼻を手でおおって、にんにくの臭気に苦情を言うが、彼は笑ってとりあわず、彼女に、わざとにんにく臭い息を荒っぽく吐きかけたりした。彼はいまはもうなんでも好きなものを食べるつもりでいるのだから、辛抱しなければならないのは彼女のほうであった。彼はふたたび健康に満ちあふれ、愛欲の病から開放された。だから彼女のところへ行っても、すませると、さっさとほかの用事に心を向けることができるようになった。
こうなると彼の家で、このふたりの女の位置は、おのずときまった。蓮華は彼の玩具であり、快楽のためのものであり、その女性的な美しさや、なよなよしさをもって、そしてまた性の魅力をもって彼のよろこびを満たす。阿藍《オーラン》は彼の労働の伴侶であり、息子たちの母親であり、家をきりまわし、自分や老父や子供たちの食事の世話をする。王龍が誇らしく思うのは、村人たちが後房の女を、うらやましそうに話すことであった。それは、貴重な宝石、あるいは高価な玩具と同じことで、それ自身はなんの役にも立たないが、しかし衣食のみに汲々《きゅうきゅう》とせざるをえない身分のものにとっては、望むがままに快楽に金を使いうるということのしるしであり象徴でもあった。それで村人たちはうらやましがったのである。
村人たちのなかで彼の富裕を口をきわめて宣伝してまわるのは叔父であった。最近の叔父は、こびへつらい、恩恵を求める犬のようであった。彼は言った。
「わしの甥は、わしらのような平民が見たこともないような美人を楽しみのためにかこっているだ」そしてまた言った。「あの男は、御大家の婦人のように絹や繻子《しゅす》の長衫《チャンサ》を着た美人をかこっているだよ。わしは見たことはねえが、女房が知ってるだて」また彼は言った。「わしの甥は――わしの兄貴のせがれじゃが――えらい財産をつくりあげたわ。あそこの子供たちも、金持ちの子じゃで、一生働かねえでも過ごせるだよ」
だから村人たちは、ますます敬意をもって王龍を見た。そして、彼に向かって話すにも、大きな家に住んでいる旦那として扱い、自分たちと同格には扱わなかった。人々は利息を払って金を借りにきたり、息子や娘たちの縁談について意見を求めにきたりした。畑の境界のことで争いが起きたりすると、王龍はその解決を依頼され、しかも彼の決定は、どんなことでも文句なく受けいれられた。
以前の王龍は愛欲に多忙をきわめていたのだが、いまはそれに心をとらわれることなく、いろんなことに多忙をきわめていた。雨は順調に降り、小麦は芽を出し、そして伸びた。その年も冬に変わると王龍は収穫物を市場へ持って行った。値があがるまで穀物を貯蔵しておいたのである。今度は長男を連れて市場へ行った。
自分の長男が紙に書かれた文字を声高く読んだり、筆に墨をふくませて他人にも読める文字を書いたりするのを見るのは親として、はなはだ誇らしいものである。王龍はいま、そのような誇らしさを感じた。彼は誇らしげに、長男が読んだり書いたりするのを見、以前には自分をばかにした店員が、「お若いのに見事な筆跡ですね。利口な子供さんですな」と言って感嘆の声を発したが、しかし王龍は、うれしそうに顔がほころびるのをおさえつけていた。
そして、息子が、「この字は三水《さんずい》偏でなければならないのに木偏になっています」と、きびきび言ったときにも、自分がこんな息子を持っているのは当然だといったふうをよそおっていた。それでも王龍は誇りで胸がはちきれそうになったので、横を向いて咳《せき》をし、唾を吐いて、やっとにやにやしたい気持ちをおさえつけた。字の誤りを指摘した息子の利発さに店員たちのあいだから驚きのつぶやきが起こったときも、ただなにげなく、こう言っただけだった。
「それなら書き直してくれ。字のちがっている契約書に名まえを書くわけにゃいかねえでな」
彼は、息子が筆をとって誤りを直すのを誇らしげに立って見ていた。
それがすみ、息子が穀物の売買契約書と代金の領収書に父の名を署名し終わってから、父と子は、いっしょに家へ帰ってきた。父親は心のなかで言った。(おれの息子も、もう一人前になった。おれの息子として恥ずかしくないだけのことはしてやらなきゃなるまい。まず息子の嫁になる女を選んで婚約しておくことだ。おれの息子は金持ちの地主の息子だで、昔のおれのようにどこかの大家へ行って、だれもほしがらねえ残りものを払い下げてもらう必要はねえだ)
そこで息子の嫁さがしをすることになったが、王龍は普通の平民の娘では満足しないので、これはなかなか簡単なことではなかった。ある夜、彼は陳とふたり、中の部屋へ残って、春の種子《たね》まきには、なんの種子を買うか、手持ちの種子は、どのくらいあるかというようなことを相談したとき、この話を持ち出した。陳が単純すぎるのを知っていたから、たいした助けにもなるまいとは思っていたが、それでもこの男が主人に忠実な犬のように信用できる人柄であるのを知っているので、話してみる気になったのである。こういう男に、心に思いあぐねていることを話すだけでも気休めになるのだ。
陳は、へり下って、テーブルに向かってすわっている王龍の前に立って話していた。いくらすすめても、王龍が金持ちになったいまは、対等のものとして彼の前で腰かけようとはしなかった。王龍の息子とその配偶者の話に耳を傾けていた陳は、やがて王龍が話し終えると、ため息をついて、ささやくように、ためらいがちに言った。
「わしの娘が元気でここにいたら、ご恩返しに、ただでさしあげるのだが、どこにいるのかもわからねえし、もしかすると死んでるのかもわからねえだでね」
王龍は彼に感謝はしたものの、じつは、善良ではあるが単なる雇われ百姓にすぎない陳のようなものの娘よりも、もっと身分の高い娘を嫁にしたいと思っていたのである。しかし、さすがに思ったことを口にするのはさしひかえた。
そこで、王龍は、茶館でどこかの娘のことが話題になったり、年ごろの娘を持っている町の金持ちの話が出たりすると、熱心に聞き耳を立て、自分の胸のなかだけで、あれこれと考えていた。叔母には、警戒して、自分の意向については、何も話さなかった。叔母は茶館の女を求めたときで、もうたくさんだ。叔母はそういうことをまとめるには、うってつけの女だった。だが、長男にふさわしいような娘を叔母が知っているとは思えもしないし、息子のことは、叔母のような女には頼みたくなかった。
年が押しつまって雪が降り、きびしい冬となって、やがて正月がきた。人々は飲んだり食ったりした。村からばかりでなく、町からまで、多くの人々が新年のあいさつにきた。
「息子さん方はいるし、奥さん方はいるし、お金もあれば土地もある。これ以上おめでたいことは望めませんね」
王龍は絹の長衫を着こみ、両側にりっぱな長衫を着せた子供たちをならばせ、菓子や西瓜の種子やくるみをテーブルの上におき、一陽来福《いちようらいふく》を祈る赤い聯《れん》を戸口のいたるところにはりつけて、おのが果報を、しみじみと感じた。
年は春となった。柳は淡い緑となり、桃のつぼみは色づいたが、まだ息子のためにさがしている嫁は見つからなかった。
春も日が長くなってあたたかくなった。すももや桜の花が咲きかおり、柳は葉を長く開いてのばし、木々は緑になり、ぬれた土は陽炎《かげろう》を立てて農作に備えていた。そのうちに王龍の長男は急に子供でなくなった。ふさぎこみ、怒りっぽくなって、あれもこれも食べようとせず、書物にも飽きてきた。王龍は驚いて、どうしてよいかわからず、医者にも相談してみた。
この若者には、どうにも手の下しようがなかった。父親が「さあ、肉や飯を食べるんだ」と、やさしくなだめすかしてみるが、それもききめはなく、息子は、かたくなになり、ますますふさぎこんで行った。王龍が、ちょっとでも怒ると、彼は泣き泣き部屋からとび出してしまった。
王龍は驚いて度をうしない、何が何やらわけがわからず、息子のあとを追って行って、できるだけやさしく言うのであった。
「わしはおまえの父親だ。なんでも胸のなかにあることを話してくれ」しかし息子はすすり泣き、はげしく首を振るばかりであった。
そのうえ、老先生をきらって、王龍がどなりつけたり、なぐりつけでもしなければ、朝、学校へ行くために寝床から起きあがろうともしなかった。そういうときには、彼は、ふてくされたように出て行くが、ときには町をうろつきまわって一日じゅう怠けていた。ある夜、弟のほうが帰ってきて意地悪く父親に言いつけたので、王龍は、はじめてそれを知ったのであった。
「きょう兄さんは学校へこなかったよ」
王龍は長男に向かってどなりつけた。
「月謝をむだにさせるだか?」
彼は怒って竹で息子を打った。母親の阿藍がこれを聞きつけて台所からかけつけ、父と子のあいだに立ちふさがったので、少年を目がけて打ちおろした竹の鞭は、はげしく母親を打つことになってしまった。奇妙なことに、ちょっとした叱言《こごと》にも泣きそうになる息子が、この竹の鞭の折檻には、木像のように顔をひきしめ、まっ青になって、声一つ立てずに、ふりおろされる鞭の下に立っていた。王龍は日夜この息子のことが気にかかったが、どうすることもできなかった。
ある夕方、夕食の後で、彼はこのことを考えていた。その日も、長男が学校へ行かないので、なぐりつけたからだ。彼が考えていると、阿藍が部屋へはいってきた。静かにはいってきて王龍の前に立った。彼は妻が何か言いたいことがあるのだなと察した。そこで彼は言った。
「なんだ。言ってみるがいい」
彼女は言った。「あんたのように子供を打ったところで、なんの役にも立たねえだよ。あたしは黄《ホワン》家にいたとき、あそこの公子《わかとの》たちがふさぎこんでいるのを見たことがあるだ。そんなとき、公子たちが自分で女奴隷を探せねえと、老大人が選んで当てがってやっただ。それで簡単にすんじまっただよ」
「そうとばかりも言えねえだぞ」王龍は反対した。「わしが若いときにゃ、あんなにふさぎこんだり、泣いたり、かんしゃくを起こしたりはしなかっただ。奴隷だっていなかったしな」
阿藍は王龍の言葉が終わるのを待って、ゆっくりと答えた。「あたしも、若い公子たちのほかには、あんなになったのは見たことがねえだ。あんたは畑で働いていただ。だけど、あの子は、若い公子たちと同じで、仕事なんぞなんにもやらねえだでな」
王龍はしばらく考えこんでいたが、やがて妻の言ったことがほんとうだとさとってびっくりした。その年ごろには彼は未明から起きて牛のめんどうをみ、畑を耕し、とり入れどきには背中が痛くなるまで働かねばならなかった。ふさぎこむひまなどなかった。泣いたにしても、泣くのを聞いてくれる人など、ひとりもいなかった。息子が学校から逃げるように畑から逃げだすこともできなかった。逃げれば、その報いとして食いものがなくなるからだ。働かないわけにはいかなかったのである。こういうことを思い出して彼は考えた。
(しかし、おれの息子は、そうじゃねえ。あれは、昔のおれのように丈夫じゃねえだ。おれの父親は貧乏だったが、あれの父親は金持ちだ。おれが畑で働いてるだで働く必要もねえだ。それにまた息子みてえな学者に鋤を持たせるなんて、そんなこと、できる道理のもんじゃねえ)
そして彼は、こんな息子を持ったことに、ひそかに誇りをおぼえた。そこで阿藍に言った。
「まあ、あの公子たちと同じだとしても、そいつは別の話だな。しかし、わしはあれに奴隷女を買って当てがってやるわけにゃいかねえだよ。婚約させて、早く結婚させよう。それが一ばんいいだ」
そう言って彼は立ちあがり、後房へ行った。
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二十三
蓮華《リエンホワ》は、王龍《ワンルン》が自分のいる前でも何かに気をとられて自分の美しさ以外のことを考えているのを見て、すねながら言った。
「一年にもならないのに、あたしを見ても、目にうつらなくなるとわかっていたら、あのまま茶館にいればよかったわ」こう言いながら彼女は顔をかしげて、ながし目に彼を見た。彼は笑って彼女の手をとり、顔に押し当てて、そのにおいをかぎ、そして答えた。
「そうさ、男というものは、着物に縫いつけてある宝石のことばかり、そういつも考えているわけにゃいかねえだよ。だけど、それがなくなると、惜しくてならねえのさ。このごろ長男のやつが色気がついて、落ちついていねえので困ってるだ。結婚させなけりゃならねえだが、適当な相手をみつけるのに苦労しているだ。村の百姓の娘をもらうのも気が進まねえし、みんな同じ王という姓ばかりだで、そいつもおもしろくねえ。それに『娘さんをうちの息子に』と言えるほど親しい人が町にいねえだし、仲人《なこうど》を商売にしているやつのところへ行くのもいやだでな。不具や白痴の娘を持ってる親と取引きされても困るだでな」
蓮華は、長男が背の高いりっぱな若者になったので好意を持っていた。彼女は王龍の言ったことに気をそらされて、考えながら答えた。
「茶館にいたころ、あたしのところへきた人がいたけど、その人がよく自分の娘のことを話していたわ。その娘さんは、まだほんの子供だけど、あたしに似て小柄で美しいんだそうよ。『おまえをかわいがっていても妙に落ちつかない気持ちなんだ。なんだかおまえが自分の娘のような気がするのでな。あんまり似すぎているので、それが気持ちのじゃまをするんだな』そう言って、いちばんあたしを愛していたのに、柘榴《シーリュウ》という名の大きな赤い顔の女をひいきにしていたわ」
「どんな人だい、その男は?」王龍はきいた。
「いい人よ。銀はたくさん持っているし、約束すればきっと払ってくれるし、けちけちしないで、あたしたちはみんな好意を持っていたわ。ときどき女が疲れたりすると、だまされでもしたように大きな声でわめいたりする人がいるのに、その人は、まるで王子か学者か貴族みたいに、いつもやさしく言ってくれるのよ。『さあ、銀はここへおいて行くよ。ゆっくりお休み。ふたたび愛の花が咲くまでな』って。とても言葉づかいのきれいな人だったわ」蓮華が考えこんでしまうと、王龍は急いで彼女を呼びさました。彼女が昔の生活を考えるのを好まなかったからだ。
「そんなにたくさん銀を持っていて、商売はなんだ?」
彼女は答えた。
「穀物商店の主人だと思うけど、よくは知らないわ。杜鵑《ドチュエン》にきいてみましょう、あの人は男のことなら、それからその人の財産のことなら、なんでも知っているから」
彼女が手をたたくと杜鵑は台所から急ぎ足にはいってきた。火で頬《ほお》と鼻が赤くほてっていた。蓮華がたずねた。
「あの、ほら、あたしのところへきて、ほんとはあたしが好きなんだけれど、娘さんに似ているというので困って柘榴さんにした人ね、りっぱな大きな人さ、あの人、なんて言ったかしら?」
杜鵑はすぐに答えた。「ああ.穀物商の劉《リュウ》さんですよ。いい人でしたわ。いつでもあたしを見かけると銀をくれたものよ」
「店はどこだね」王龍は女の話なので、あてにはならないと思ったが、ともかくきいてみた。
「石橋街ですわ」杜鵑が答えた。
彼女が言い終わらぬうちに、王龍は、よろこんで手をうって言った。
「わしが穀物を売る店だ。こいつは幸先《さいさき》がいいだぞ。きっとうまくいくだ」はじめて彼は関心をもった。穀物を売る相手の家の娘を息子の嫁にするのは、好都合だと思えたからだ。
やらなければならないことがあると、ねずみが脂《あぶら》のにおいを嗅ぎつけるように、杜鵑は、その仕事に金のにおいを嗅ぎつけた。彼女は、前掛けで手をふいて急いで言った。
「ご用なら、すぐにいたしますが」
その悪がしこい顔をながめると、王龍はどうにも信用できなかった。しかし蓮華は陽気に言った。
「そうだわ、杜鵑が劉さんのところへ行ってきいてくればいいわ。あの人は杜鵑をよく知っているし、この話はまとまることよ。杜鵑は頭がいいし、うまくいったら、杜鵑に仲人料をあげることにすればいいわ」
「うまくまとめてみせますよ」杜鵑は熱心に言った。謝礼の銀をたんまりもらえると思うと、ついにこにこしたくもなる。彼女は腰から前掛けをはずして、忙しそうに言った。「すぐ行ってきます。肉はちょっと手をかければいいようになっているし、野菜は洗ってあるから」
しかし王龍は、まだ納得がいくまでこのことを考えていないし、そんなに早くは決定しかねた。
「いや、わしはまだ何もきめていねえだ。二、三日よく考えてみなくちゃなるまい。そのうえでまた相談しよう」
杜鵑は銀貨ほしさに、蓮華はこの新しい事件がどう発展するか、その話がおもしろいので、ふたりともじれったがった。しかし、王龍は、「いや、わしの息子のことだで、ゆっくり考えることにしよう」そう言って出て行った。
彼は、あれこれと考えこんで、むなしく日をついやしてしまいそうであったが、ある日の朝早くのこと、長男が酔って顔を赤くほてらせて、夜明けごろに家へ帰ってきた。息がくさく、足もともよろよろしていた。彼が庭でつまずく音を聞いて、王龍は、だれだろうととび出してみた。長男は彼の前で嘔吐した。家で米を醗酵させてつくる薄く弱い酒しか飲みなれていなかったからだ。そして、犬のように、吐き散らした地面に横たわってしまった。
王龍は驚いて阿藍を呼び、ふたりで長男をかかえあげた。それから阿藍がよごれを洗ってやり、彼女の部屋の寝床に寝かせた。母親がすっかり始末し終わる前に長男は眠ってしまい、死人のようにぐったりとなり、父親が何をきいても、返事一つできなかった。
王龍は兄弟ふたりがいっしょに寝ている部屋へ行った。弟はあくびをし、伸びをしながら、学校へ持って行く風呂敷に本を包んでいた。王龍は弟に言った。
「昨夜、兄さんは、おまえといっしょに寝ていなかったのか?」
子供は、しぶしぶ答えた。
「うん」
何かびくびくしているようなようすだ。王龍はそれを見ると乱暴にどなりつけた。
「兄さんはどこへ行っただ?」子供は答えようとしなかった。すると彼は首をつかまえて小突きまわし、もう一度どなった。「やい、言わないか、このちんころめ!」
これにおびえて、弟はすすり泣きはじめ、泣きながら言った。
「兄《にい》さんが父さんに言っちゃいけないって言ったんだ。もし言ったら、なぐりつけて、焼火箸《やけひばし》をくっつける、言わなかったら、銭をくれるって言ったんだ」
これを聞くと王龍は、われを忘れてどなった。
「言え。言わないと殺すぞ」
子供は父を見あげ、言わないとほんとうにしめ殺されるかもしれぬと見てとって、やけっぱちになった。
「兄さんは、これでもう三晩もいなかったよ。だけど、何をしてるんだか、叔父さんの子といっしょに行くことだけしか、おれは知らないよ」
王龍は首をつかんでいた手をゆるめて、弟を突きとばし、大股に叔父たちのいる部屋のほうへ歩いて行った。そこでは叔父の息子が、やはり長男と同じように、酒でほてった赤い顔をしていた。しかし足はしっかりしていた。長男よりも年上でもあり、遊びなれているからである。王龍は大きな声でどなりつけた。
「おまえはうちの子をどこへ連れて行っただ?」
若者は、せせら笑うように王龍を見て言った。
「お宅の息子は、案内なんか必要ないですよ。ひとりで、いくらでも行けるもの」
しかし王龍は、もう一度言った。いまにもこの生意気な、ずうずうしい叔父の息子を自分が殺すのではないかと思いながら、恐ろしい声でどなった。
「昨夜、うちの子は、どこへ行ってたんだ?」
叔父の子は、彼の声の大きいのにびっくりして、むっつりと生意気そうに目をそらせながら、しぶしぶ答えた。
「昔の黄《ホワン》家の中庭に住んでいる淫売の家へ行ったんです」
これを聞くと、王龍は大きくうなった。その淫売のことは、だれでも知っていた。もう相当の年の女で、貧乏人や、下っぱの男たちを相手に、わずかな銭で春をひさいでいる淫売だ。彼は食事もとらずに門を出て畑を横ぎった。畑の作物の状態にも目をとめず、みのりぐあいも目にはいらなかった。息子の問題に心を占められていたのである。彼は自分の心だけをみつめて歩いて行き、町の楼門をくぐって以前の黄家の屋敷あとへ行った。
重い門は開かれたままだった。いまはもうその厚い鉄のかんぬきをかけるものもいなかった。このごろは、だれでも自由に出入りできるのである。なかへはいってみると、庭にも部屋にも、部屋借りしている貧しい人々の家族たちでいっぱいだった。あたりは、すっかりきたなくなっていて、庭の老松も、あるいは切り倒され、残っているのは枯れかけていた。庭の池は塵芥《じんかい》で埋まっていた。
しかし王龍は何も目にはいらなかった。庭に面しているとっつきの家できいてみた。
「淫売の楊《ヤン》という女は、どこにいるだね?」
そこでは女が三本足の腰掛けに腰をおろして靴底を縫っていた。彼女は顔をあげて、横手の中庭に通じる入り口のほうをあごでさし示して、また縫い仕事をはじめた。しょっちゅう同じようなことをきかれているのだろう。
王龍は、そこの部屋へ行って扉をたたいた。すると中から、いらいらした声がひびいてきた。
「帰っておくれ。今晩はもう商売はおしまいだよ。一晩働いたんだから、もう寝なくちゃならないんだよ」
彼は、もう一度たたいた。中から、大きな声でどなりかえした。「だれだい?」
彼は返事をせずに、またたたいた。どうあっても会うつもりだった。やっと引きずるような足音が聞こえ、女が扉を開けた。あまり若いとはいえない女だ。疲れた顔をして、厚いくちびるが垂れさがり、額《ひたい》のあたりの白粉《おしろい》がまばらで、口紅も頬紅も洗い落としていなかった。女は彼を見ると、鋭く言った。
「夜まではだめよ。よかったら夜になってから、すこし早目にきておくれ。これから眠らなくちゃならないんだから」
しかし王龍は乱暴に言葉をさえぎった。女を見ていると、たまらなくなってくるのだ。息子がこの女と、と思うと、がまんができなかった。彼は言った。
「わしのことじゃない――わしは、おまえみたいな女に用はない。息子のことできたのだ」
ふいに、息子のために泣きたくなり、涙のかたまりが咽喉《のど》につかえた。女がきき返した。
「おまえさんの息子がどうしたというの?」
王龍は声をふるわせて答えた。
「ゆうべここへきただ」
「昨夜は、いろんな家の息子がきたよ」と女は答えた。「どれがおまえさんの息子か、あたしは知らないよ」
王龍は懇願するように言った。
「よく考えて思い出してくれ。やせぎすの若者だ。年のわりに背の高い、まだ一人前になってねえやつだ。あれが女を買うなんて夢にも思っていなかっただ」
女は思い出した。
「そういえば、ふたり連れのがいたよ。ひとりはひどくえらぶった、なんでも心得ているような目をした若い男で、帽子を横っちょにかぶって、ひとりは、おまえさんが言うような背の高い、柄《がら》の大きな、早く一人前の男になりたくてうずうずしているような若い衆だったよ」
「それだ――それだて――それがそうだ――それがうちの息子だ」
「それで、そのおまえさんの息子がどうしたっていうの?」と女がきいた。
勢いこんで王龍は言った。
「つまりな、今度やつがきたら、追い出してもらいてえだ――大人しか相手にしねえとかなんとか――口実はなんでもかまわねえだが――そのかわり、あの子を追っ払ってくれたら、そのたびにわしは二倍の銀を払うだよ」
女は笑って本気にしなかったが、急に興味を感じたらしく、言った。
「働かなくてお金をもらえるとなったら、だれだって、いやだなんて言う人いないわよ。あたしだって、もちろんそうだわ。事実、あたしのほうだって、大人ならおもしろいけど、子供はおもしろくないもの」
彼女は、そう言いながらうなずいて見せて、色っぽく王龍を見た。彼は、そのみだらがましい表情に気色が悪くなって、急いで言った。
「それじゃ、そうしてくれよ」
彼はさっさと切りあげて家へ帰った。歩きながらも、その女を思い出すと不愉快になり、何度もぺっぺっと唾をはいた。
その日、彼は杜鵑に言った。
「おまえの言ったとおりにしよう。穀物商のところへ行って話をしてきてくれ。持参金は多いに越したことはないが、娘さえうちの嫁としてりっぱな女なら、そして話をまとめるためなら、そんなに多くなくてもいいだ」
杜鵑にそう言ってから、彼は部屋へ帰って眠っている息子のそばに腰をおろした。そして、そこに寝ている息子の、きりりとした、若々しい姿を見、若さにひきしまってすべすべした静かな寝顔を見た。あの疲れきった厚化粧の女と、その厚いくちびるを思い出すと、彼は不快と怒りで胸が張り裂けそうになり、心のなかで愚痴をこぼしながら、そこにすわっていた。
彼がすわっているところへ阿藍がはいってきた。立ったまま長男をみつめ、肌に汗が流れているのを見ると、黄家で若様たちが酔いつぶれたりするといつもそうするように、湯のなかに酢を入れてきて、やさしくふきとってやった。その可憐《かれん》な、まだ子供っぽい顔を見、汗をふいてやっても目をさまさないほど酔っているのを見ると、王龍は急に叔父に怒りを感じて立ちあがり、叔父の部屋へ行った。いまは叔父が父の弟であることを忘れた。ただ自分の息子を堕落させた、あの怠け者の、生意気な青年の父であるということしか頭になかった。部屋へはいると、いきなり彼はどなりつけた。
「おれは恩知らずの蛇の巣をかくまっているだ。その蛇めが、おれに咬《か》みつきやがっただ」
叔父はテーブルにかぶさるようにすわって朝飯を食べていた。しなければならぬ仕事がないので、彼は昼にならないと起きてこなかった。叔父は王龍の言葉に、ちょっと顔をあげ、ものぐさそうに言った。
「どうしたというだね?」
王龍は息をつまらせながら、一部始終を話した。しかし叔父は笑っただけだった。
「そうかい、だけどおまえ、息子が大人になるのをとめるわけにもいくまいて。さかりのついた牡犬を、牝犬から離しておけるもんじゃねえだよ」
王龍は叔父の笑い声を聞いたとき、この叔父のためにひどい目にあったことを一度にみんな思い出した。あの飢饉の年、この叔父は、土地を売れといって、どんなに彼に強制したことか、この親子三人が、いまどんなに彼にやっかいになって、仕事もせずに飲んだり食ったりしているか、叔母がどんなに蓮華のために杜鵑が買ってくるぜいたくな食物を食っているか、彼のりっぱな息子を、どんなにこの叔父の息子が堕落させてしまったか。彼は舌をかみかねないほど意気ごんで言った。
「みんな家から出て行ってくれ。たったいまから、だれにももう一粒の水もやりはしねえぞ。怠けものの恩知らずを住まわせておくくらいなら、この家を焼いてしまったほうがましだ」
しかし叔父は平然としてすわって、あちこちの皿に手を出しては食事をつづけていた。王龍は血が燃えたぎった。そして、叔父が彼のほうを一顧《いっこ》だにしないのを見ると、こぶしを振りあげて迫った。すると叔父は向きなおって言った。
「追い出せるものなら追い出してみろ」
「よし――なんだと――なんだと――」王龍が、意味のないことをどもりながら叫ぶと、叔父は上着の胸を開いて裏についているものを見せた。
王龍は、口もきけず、からだをこわばらせて立ちすくんでしまった。そこに赤いつけひげと赤い布とを見たからである。王龍はこれを見ると、怒りが水のように流れ去り、まるで気力をうしなって、ふるえ出した。
この赤いつけひげと赤い布は、そのころ北西部を荒らしまわっていた匪賊団のしるしなのだ。彼らのために、多くの家が焼かれ、女が略奪された。多くの百姓が自分の家の戸口に縄でしばりつけられた。そして、翌日、人々がみつけたときには、生きていれば、気が狂ってとりとめのないことを口走っていたし、死んでいれば焙《あぶ》り肉のように焼かれていた。王龍は、目の玉がとび出すほどそれをみつめ、やがて身を返して何も言わずに立ち去った。歩きながら、叔父がまた茶わんをとりあげて低く笑うのを聞いた。
王龍は、いままで夢にも思わなかった渦中《かちゅう》に巻きこまれている自分に気がついた。叔父は相変わらず、ゴマ塩のあごひげをまばらに生やした顔に薄笑いをうかべ、例によって長衫《チャンサ》の上にだらしなく腹帯をまきつけて、出たりはいったりしていた。王龍は叔父を見ると冷や汗が出たが、何をされるか、あとのたたりがこわいので、ていねいな言葉で応対するほか、何も言えなかった。事実、ゆたかにとり入れのあった年も、あるいは収穫物が不足だったり、ぜんぜんなかったりして、人々が家族とともに飢えになやんだ年でさえ、彼は匪賊に襲われるのを心配して、夜はかならず戸に厳重にかんぬきをかけたりしたものだが、家も田畑も一度も匪賊に襲われたことがなかった。愛欲の生活がはじまった夏の前までは、わざと粗末な着物を着て、金持ちらしく見えるのを避け、村で匪賊の話を聞いたりすると、家へ帰っても、おちおち眠ることもできず、ちょっとした物音にも、聞き耳を立てたりしたものである。
しかし、匪賊に襲われることもなく過ごしているうちに、だんだん気をつかわなくなり、大胆になって、自分には天の加護があるのだ、自分は幸運にめぐまれているのだと信じこむようになった。なんにも気をつかわず、地神に線香を上げることもなくなり、自分自身のことと畑のことしか考えなかった。そして、とつぜんいま彼は、自分が安全であった理由、叔父一家三人を養っているかぎり安全である理由を知ったのである。それを思うと冷や汗が出た。彼は叔父が上着の裏にかくしてあるものを、だれにも話す勇気がなかった。もはや叔父にこの家から出て行けとは二度と言わなかった。叔母にも、できるだけちやほやした。
「奥の部屋で好きなものを食べなされ。この銀は、すこしだがお小遣《こづかい》だで」
叔父の息子にたいしても、この若者を見ると胸が悪くなるほどしゃくにさわるのだが、それでも言った。
「すこしだが、この銀をやるだ。若い者は遊びてえだろうからな」
しかし自分の息子には注意して、日が暮れると家から出さなかった。長男は怒って、あばれ、むしゃくしゃして意味もなく弟をなぐったりした。王龍は、いろんな心配ごとにとりかこまれていたのであった。
王龍は、身にふりかかったこういう心配ごとを考えると、はじめのころは仕事も手につかなかった。彼は、あれこれと思案した。(叔父を追い出して町の城壁のなかへ引っ越そうか。あそこでは賊にそなえて毎晩城門を閉めるから、そうすれば匪賊に襲われることもあるまい)しかし考えてみると、毎日、野良へ働きにこなければならない。たとえ自分の土地だといっても、なんの保護もなく働いていれば、どういうことが起こるかわかったものではない。そのうえ、町や、町なかの家には、とても住む気になれない。自分の土地から離れて暮らすくらいなら、死んだほうがましだ。それに、そのうちいつかはまた凶作がくる。かつて黄家がやられたように、そうなったら町にいたって盗賊を防ぐことはできはしないのだ。
町の役所へ行って役人に訴えることもできる。
「わしの叔父は赤ひげ団の一味です」
だが、かりにそう言って訴えたにしても、だれが彼の言葉を信ずるだろう。父の弟をざん訴する彼の言葉を、だれが信ずるだろう。叔父が処刑されるよりも、彼のほうが不孝の罪によって鞭打たれそうである。しかも、匪賊団の連中が、このことを耳にしたら、復讐のために自分の生命をつけねらうだろう。そうすると自分は一生、生命の危険におびえていなければならない。
そのうえ、杜鵑がもたらした穀物商からの返事も彼を困惑させた。婚約の話はうまく運んだのだが、穀物商人の劉は、娘はまだ十四歳で結婚するには若すぎるから、三年待ってもらうことにして、この際はただ婚約書をとりかわすだけにしたい、というのであった。これ以上三年間も息子が怒ったり怠けたり、うつろな目をしたりするのを見るのかと思うと、どうしてよいかわからなくなった。息子は、このごろでは十日のうち二日は学校を休んだ。その夜、食事のとき彼は阿藍《オーラン》に言った。
「あとの子供たちは、なるべく早く婚約させることにしよう。早ければ早いほどいいだ。色気がつきはじめたら、すぐ結婚させよう。こんなことを、あと三回もくりかえされたら、たまらねえだよ」
その晩は一晩じゅう、ほんの浅い眠りをとっただけで、翌朝になると彼は、長衫《チャンサ》を脱ぎすて、靴もけとばして、鍬を持って畑へ出た。家庭内の事件が手におえなくなると、いつも彼はそうするのである。表の庭を通り抜けようとすると、白痴の長女が、にこにこ笑いながらすわっていて、小布を指に巻きつけたりほごしたりしていた。彼はつぶやいた。
(あの子は、ほかの子供たちよりもずっとおれをなぐさめてくれる)
その後ながいあいだ彼は、毎日毎日、畑へ出た。
土は、ふたたび彼を治癒してくれた。太陽は頭上に輝いて彼のなやみをいやし、夏の暖風は、おだやかに彼を抱擁してくれた。そして、彼のわずらわしい心痛を根こそぎとり払ってくれるかのように、ある日、南の空に、小さな軽い雲があらわれた。最初は風に吹かれる雲のようにあちこち漂うこともなく、小さく、かすみのように静かに地平線にかかっていたが、やがて、しだいに扇形にひろがってきた。
村人たちは、それを見ては語りあい、恐怖に襲われた。南からイナゴの大群が襲ってきて畑の作物を食いつくすことを恐れたのである。王龍も、いっしょに立って、それをながめていた。ながめているうちに、彼らの足もとへ風に吹かれて落ちてきたものがあった。ひとりが急いで身をかがめて、拾いあげてみた。それは、あとから押し寄せる生きた大群を思わせる死んだイナゴであった。
王龍は、これまで心をなやましたことを何もかも忘れてしまった。女のことも子供のことも叔父のことも忘れた。そして驚いている村人たちのあいだをかけまわり、大きな声で叫んだ。
「さあ、おれたちの畑のために、空からくる敵と戦うだ!」
しかし、なかには、はじめから望みを捨てて頭を横にふるものもいた。
「いや、何をしてもむだだて。天命で、今年は飢えるようになってるだよ。どうで飢えるとわかっているだで、戦ってみたところで、くたびれもうけさ」
女たちは祠《ほこら》の地神にささげる線香を買うために泣きながら町へ行った。あるものは天の神をまつってある町の大きな社堂へ行って祈りをささげた。こうして人々は天地の神々に祈願をこめたのであった。
しかしイナゴの大群は空いっぱいにひろがり地上をおおった。
王龍は作男たちを呼び集めた。陳は黙って彼のそばに立って命令を待っていた。そこには、よその若い農民たちもいた。彼らは、自分たちの手で畑に火をつけて、ほとんど熟して刈りとるばかりになっている小麦を焼き、それから幅の広い濠《ほり》を掘って、井戸から水を流しこんだ。みな不眠不休で働いた。阿藍は王龍たちに、他の女たちもそれぞれ自分の家の家族たちに弁当を運んだ。男たちは畑で立ったまま、野獣のように大急ぎで食物を飲みこみ、日夜ぶっ通しに働きつづけた。
やがて空はまっ暗になり、大気は、たがいに羽をぶっつけあう深い沈んだようなとどろきでいっぱいになった。そして畑の上へ落ちてくるのだ。イナゴが飛び過ぎた畑には被害はないが、いったん舞い降りたが最後、その畑は冬枯れのように、丸裸になってしまうのである。人々は、ため息をついて言った。「天命だて」しかし王龍は狂気のようにたけり立ち、イナゴの群れを打ち払い、あるいはたたき落とした。使用人たちも、からさおをふるって打ち落とした。イナゴは火に落ちて焼け死ぬのもあれば濠の水におぼれて死ぬのもあった。何百万となく死んだが、イナゴの大群にとっては、ものの数ではなかった。
それでも王龍には、戦っただけの報いがあった。田畑の一ばんいい部分が被害をまぬがれたのである。イナゴの雲が過ぎ去って、やっと一息つきながら調べてみると、収穫のできる小麦がまだ相当残っており、稲の苗しろも助かっていたのだ。彼はそれに満足した。多くの人々はイナゴをあぶって食べたが、王龍は食べなかった。畑を荒らしたと思うと不潔な気がして食べる気になれなかったのだ。しかし、阿藍がイナゴを油であげると、使用人たちは、歯でかみくだいて食べ、子供たちも、その大きな目をこわがりながらも器用に引き裂いて食べたが、彼は、なんとも言わなかった。しかし彼自身は食べようとしなかった。
それでもイナゴは彼の心をいやした。七日間というもの彼は畑を守ること以外は考えず、おかげで心労も恐怖もぬぐい去られてしまったのである。静かに彼は自分に言いきかせた。
(人間は、だれでも心配ごとを持っているだ。おれも、できるだけ、なんとでもして暮らして行くくふうをしなけりゃならねえ。叔父は、おれより年上だで、そのうちに死ぬだろう。長男も、なんとか三年待つがいいだ。おれが自殺するほどのこともねえだて)
小麦のとり入れがすみ、雨がきた。水を引いた田に稲の苗を植えた。そしてまた夏になった。
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二十四
家内は平安だ、と王龍《ワンルン》はひとりごちたのだが、その後、ある日のこと、彼が昼食に畑からもどってくると、長男が、そばへきて言った。
「お父さん、もしぼくが学者になろうとするのなら、町の老先生からは、もうこれ以上何も学ぶことがないんだけど」
王龍は台所の大釜から湯をくみ出して、手ぬぐいをひたし、それをしぼって顔にあてていた。
「なるほどな。それでどうしたというだな?」
若者はためらったが、言葉をつづけた。
「それで、学者になるのなら、南の都へ行って、勉強したいだけのことを教えてくれるどこかの大学へはいりたいと思うんだ」
王龍は手ぬぐいで目と耳をふいて、顔から湯気を立てながら、荒々しく息子に答えた。野良仕事で、からだが痛かったからだ。
「ばかばかしい。おれは行かせないぞ。しつこく言ってもむだだ、行くことはならん。このあたりの人間としたら、いままでくらい勉強すれば、もうたくさんだ」
父親はまた手ぬぐいを湯にひたしてしぼった。
青年はそこに立ったまま、父親をうらめしそうににらんで、何やらつぶやいた。王龍は何を言ったのか聞きとれなかったので、怒って息子をどなりつけた。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
父親の声が乱暴なので、若者は、かっとなって答えた。
「いいよ。それなら、ぼくは行くから。南へ行くんだ。こんなくだらない家で、だれが子供みたいに監督されてられるもんか。まるで田舎の村と同じような、こんなちっぽけな町に、だれがいられるものか。ぼくは出て行って、何か勉強して、ほかの土地を見てくるんだ」
王龍は息子をみつめた。それから、自分自身を見た。息子は夏の暑さよけの薄くて軽い銀鼠《ぎんねずみ》色のリンネルの長衫《チャンサ》を着ていた。くちびるの上には、うすくひげが生えそめ、肌はなめらかにつやつやしていた。長い袖から出ている手は、女のようにやわらかく、ほっそりしていた。目を移して王龍自身を見てみると、頑丈で、土まみれで、腰から膝までの青い木綿の半ズボンしかつけていず、上半身は裸で、この若者の父親というより、むしろ下男のようであった。この考えが彼に、背の高いほっそりとした息子の姿への軽蔑心を起こさせた。彼は腹を立て、荒々しい声でどなった。
「そんなら、まず畑へ行って、からだに土をこすりつけてこい。女とまちがわれねえようにな。そして、食い扶持《ぶち》ぐらいは自分で働くことだ」
王龍は、かつて息子の字のうまさや勉強のよくできることを誇らしく感じたことを忘れて、外へ出て行きながら素足を踏みならし、床にペッと唾を吐いた。息子の上品ぶったようすが勘にさわったのである。若者は立ったまま、うらめしげに父親をながめていたが、王龍は彼が何をしているのか、ふり返ろうともしなかった。
その夜、王龍は後房へ行って蓮華《リエンホワ》のそばにすわった。彼女は寝台にムシロを敷いてその上に横になり、杜鵑《ドチュエン》に扇であおがせていた。すると蓮華が、さりげなく、ともかく話しだけはしておこうといった調子で、口を開いた。
「あの大きい息子さんは思いなやんでいるようね。家から出たがっているのだわ」
王龍は息子にたいする怒りを思い出して、はげしい調子で答えた。
「そうかね。だけど、それがおまえに、なんの関係があるだ。あの年ごろの子供を、わしは、こんなところへこさせたくはねえだがね」
蓮華は、あわてて打ち消した。「いいえ――そうじゃないわ――あたしは杜鵑から聞いたのよ」すると杜鵑が急いで言った。「あの息子さんがいい青年になって、何もせずに考えこむだけで暮らすにしては大きくなりすぎたということくらい、だれにだってわかりますよ」
王龍は、うまくはぐらかされたが、息子にたいする怒りは、まだ残っていた。
「いや、あの子は行かせねえだ。おれは自分の金をそんなばかげたことに使いたくねえだよ」
王龍はそれ以上のことは口にしなかった。蓮華は彼がまだぷりぷりして不機嫌なのを見て、杜鵑を去らせ、彼をひとりきりにしておいた。
それからしばらくのあいだは、別にどうということもなかった。若者は、急にまた落ちついてきたようだ。ただ、学校へ行こうとはしなかったが、王龍もこれは許した。長男は、やがて十八歳である。母親に似て、がっちりしたからだつきになってきた。父親が家にいるときは、自分の部屋で読書していた。王龍は安心して、心のなかで考えた。
(あれは若いものにありがちの気まぐれだったのだ。自分のほしいものが、まだわかっていねえのだ。あとほんの三年間だで、もし特別に銀をすこし奮発すれば二年でいいかもしれない。いや、うんと奮発すれば一年でいいかもしれん。収穫が順調にすみ、冬麦の種まきが終わり、豆の手入れでもすませたら、一つ、かけあってみよう)
やがて王龍は息子のことを忘れてしまった。というのは、イナゴに荒らされたところを別とすれば、すばらしい豊作で、蓮華のために使った費用くらいは彼はもう手に入れてしまったからである。だが彼は、ふたたび金銀が惜しくなった。ひとりの女に、よくまああんなに平気で使ったものだと、ひそかにあやしむときもあった。
それでもまだ、はじめのころほど強くではないが、彼女に魅力を感じることがあった。叔母がいつか言ったように、彼女は小柄な見かけほどには若くもなく、子供を生めない女だということもわかっていたが、それでも彼女を所有しているということに誇りを感じた。彼には息子も娘もあるのだから、子供を生めないことは、すこしもさしつかえなかった。彼女があたえる楽しみのために、よろこんで彼女をおいておこうと彼は思っていた。蓮華は年とともに美しくなってきた。以前の彼女に欠点があるとすれば、馬のようにやせているので、小さな顔の線が鋭くなりすぎ、こめかみにふくらみがないことだった。しかしいまは杜鵑のつくる料理を食べ、ひとりの男だけが相手ののんびりした生活を送っているので、からだもやわらかく丸味をおびてきたし、顔も福々しくなり、こめかみあたりもなだらかになってきた。大きな目と小さな口もとのために、ますますかわいらしい仔猫みたいになってきた。彼女はよく眠り、よく食べて、やわらかい、なめらかな肉をからだにつけた。
もう蓮《はす》のつぼみではないとしても、満開の花の盛りを過ぎてもいなかった。若くはないにしろ、老《ふ》けてはいなかった。若いという感じも、老けたという感じも、ともに彼女からは遠かった。
彼の生活は、ふたたび平穏になり、子供も落ちついているので、王龍は満足していたが、ある夜、ひとりですわって、トウモロコシと米とをどれだけ売ったらいいかと指で勘定しているところへ、阿藍が静かに部屋へはいってきた。彼女は、年とともにやせ、やつれ、顔の骨が岩のようにつき出て、目は落ちくぼんでいた。どうしたのかと、だれかにきかれても、彼女は、こんなふうにしか答えなかった。
「お腹《なか》のなかが火で焼かれるみたいだて」
この三年間、彼女の腹部は妊娠でもしたみたいにふくれていたが、子供は生まれなかった。しかし彼女は日の出とともに起きて、自分の仕事をした。王龍は、テーブルや椅子や庭の樹木を見るのと同じような目で、彼女を見ていた。頭を垂れている牛や、食欲のない豚を見るほどにも注意を払わなかった。彼女は、ひとりで働いていた。王龍の叔父の妻とは、やむをえないとき以外には口をきかず、杜鵑とは、まったく話をしなかった。後房には一度も行こうとせず、たまに蓮華が奥庭から外へ出て歩いていたりすると、阿藍は自分の部屋へとじこもって、だれかが「もう行ってしまっただよ」と知らせるまでは出てこなかった。黙々として食事のしたくをしたり、冬のさなかでさえ厚く凍った氷を割って池で洗濯したりした。だが王龍は、「もうべつに銀貨を節約する必要もねえだで、なぜ人を雇うなり奴隷を買うなりしねえだかね?」とは、けっして言おうとしなかった。
そんな必要はない、と王龍は思っていたのだ。もっとも彼自身は、作男を雇って、野良仕事をさせたり、牛やロバや豚の世話をさせたりした。夏になって川の水がいっぱいになってくると、水の上で飼う鴨《かも》や鵞鳥《がちょう》の世話をさせるために人を雇うこともあった。
その夜も、彼が白鑞《はくろう》製の燭台に赤ローソクをともして、ひとりですわっていると、阿藍はその前に立って、しばらくもじもじしていたが、やがて口を切った。
「お話ししてえことがあるだ」
彼は驚いて彼女をみつめながら答えた。
「なんだ。言ってみるがいい」
王龍は、つくづくと彼女を見た。その顔の、影になってくぼんでいる部分を見た。この女には、なんと美しさがないのだろう、この女を求めなくなってから何年になるだろう、と彼は思った。
すると彼女は、ざらざらした声でささやいた。
「長男が、しょっちゅう後房へ行くだ。あんたがいなくなるとすぐ出かけて行くだ」
彼女が何をささやいているのか、王龍はしばらくのあいだわからなかった。彼は、あっけにとられて、半身をのり出しながら言った。
「なんだって?」
彼女は無言で長男の部屋を指さし、厚いかわいたくちびるで後房へ行く入り口を示した。しかし王龍は信じられず、まじまじと彼女をみつめていた。
「おまえは夢でも見てるのだろう」やっと彼は言った。
阿藍は頭を振った。言葉が出なくて困っているようであったが、やがて、さらに言葉をつづけた。
「一度、ふいに帰ってきてみなされ」しばらく黙りこんでから、またつづけた。「南でもいいから、ともかくどこかへ行かせたほうがいいだよ」それから彼女はテーブルに近づき、彼の茶わんをとり、さわってみてからレンガの床に冷えた茶をこぼし、熱い茶をもう一度ついで、きたときと同じように静かに出て行った。彼は茫然としてすわっていた。
そうだ、あの女は嫉妬しているのだ、と彼は思った。長男は落ちついて、毎日自分の部屋で本を読んでいる。心配する必要はあるまい。彼は立ちあがって笑った。女は小さなことをくよくよするものだな、と笑い、いま聞いたことを忘れようとした。
しかし、その夜彼が蓮華の部屋へ行って、彼女のそばで横たわろうと寝台へのぼると、彼女は苦情を言い、機嫌が悪く、彼を押しのけて言った。
「暑いわ。それにあなたは、いやなにおいがするわ。あたしのそばへくるときには、からだを洗ってからにしてちょうだい」
蓮華は寝台の上にすわりなおして、顔にかかる髪の毛をいらだたしげにかきあげた。王龍が、引き寄せようとしても、肩をゆすっただけで応じないし、なだめても言いなりにならなかった。彼は静かに横になって、このところ幾夜か、彼女がしぶしぶとしか彼の要求に応じなかったことを思い出した。これまで彼は、彼女の気まぐれか、けだるい晩夏の重苦しい熱気のせいで気分がすぐれぬのだろう、と思っていたのだが、いま、阿藍の言葉が急にはっきりしてきた。彼は荒々しく立ちあがって言った。
「それじゃ、ひとりで寝るがいい。わしだって、うかうかして寝首をかかれたら事だでな」
彼は部屋をとび出した。母屋《おもや》の中の部屋へ大股に歩み入り、椅子を二つ並べて、その上へからだをのばした。しかし眠れないので、立ちあがって門の外へ出て、土壁に沿うた竹やぶのあいだを歩きまわった。熱いからだを冷たい夜風に吹かれた。そこには近づく秋の冷気があった。
それから彼は、蓮華が南へ行きたがっている長男の望みを知っていたことを思い出した。どうして知っているのだろう? そしてまた、長男が近ごろは家を出ることを口に出さず、落ちついているのを思い出した。なぜだろう? 王龍は荒々しく心のなかでつぶやいた。
「よし自分で調べてやるだ」
そして彼は自分の畑の霧の上に、暁がバラ色に近づいてきたのを見た。
夜が明けて、平野の端を太陽が黄金色にいろどった。彼は家へはいって食事をし、とり入れどきと種まきどきの習慣で、作男の仕事を見まわるために外へ出た。畑をあちこちまわって、最後に家のなかにいるだれにも聞こえるような大きな声で叫んだ。
「おい、これから町の濠《ほり》のそばにある田へ行ってくる。帰りはおそくなるだぞ」そして町へ向かった。
しかし、途中まで行って、小さな祠《ほこら》のところまでくると、彼は、だれからも忘れられている古い無縁墓のある道端の小高い雑草の上に腰をおろした。草を抜いて指に巻きつけながら考えこんだ。真向かいに小さな地神の像があった。その神様が彼をにらんでいること、そして、かつては自分がそれらを敬いおそれていたことを、心の表面で、ちらと考えた。しかし、いまは金持ちになっていて、神を拝む必要もなく、したがって祈ることもなかった。しかし内心では、彼はくりかえしくりかえし考えていた。
「もどってみようか?」
そのとき、とつぜん彼は、昨夜蓮華が彼を押しのけたことを思い出した。彼女のために、どれだけ多くのことをしてやったかと考えて彼は腹立たしくなり、自分自身に言った。
(あの女は、あのまま茶館にいたら、とても長持ちはしなかっただろう。おれの家にいるからこそ、食べるものも食べ、ぜいたくなものを身につけることもできるのだ)
怒りにまかせて立ちあがると、彼は別の道から家へ引き返し、そっとなかへはいった。そして奥庭へ通じる扉口にかかっているカーテンのかげに立った。耳をすませると、つぶやくような男の声が聞こえた。長男の声であった。
資産がふえて、人々が金持ちの旦那と呼ぶようになったこのごろの彼は、若いころのような田舎者の臆病さがなくなり、ささいなことにでも、とつぜん腹を立てることがしばしばあって、町にいてさえ傲然《ごうぜん》としていたのではあるが、それにしても、このとき王龍の心にわきおこった怒りは、かつて経験したことのないほどはげしいものだった。この怒りは、愛する女を盗んだ男にたいする男としての怒りであった。しかも、その盗んだ男が自分の息子だと思いかえしたとき、彼は、へどが出そうな不快さでいっぱいになった。
彼は歯をくいしばって外へ出ると、竹やぶから、ほっそりした、しなやかな竹を選び出して、先端が細く弾力性のある細紐《ほそひも》のような小枝だけを残して枝をはぎとり、葉をむしりとった。それから、そっと家にはいって、いきなりカーテンを引きあけた。長男は庭に立って、池の端においた小さな床几《しょうぎ》に腰かけている蓮華を見おろしていた。蓮華は桃色の絹の長衫を着ていた。朝のうちから、こんな身なりをしている彼女を、彼は見たことがなかった。
ふたりは何か語りあっていた。女は明るく笑い、首をかしげて、流し目に青年を見あげていた。ふたりとも王龍に気がつかない。彼はその場に立ったまま、じっとそれを見ていた。顔はまっ青になり、くちびるがまくれあがって、歯をむき出し、手にはかたく竹を握りしめていた。ふたりはまだ彼に気づかない。そのとき杜鵑が家から出てこなかったら、いつまでも気がつかずにいたかもしれない。杜鵑は王龍を見ると、びっくりして悲鳴をあげた。ふたりは、やっと王龍に気がついた。
王龍は、おどりかかって長男を打ちすえた。長男は父親よりも背たけこそ高いが、王龍は、がっしりと成熟した肉体の上に、野良仕事できたえられているから、長男よりも力が強かった。王龍は長男の顔から血が流れるまで打ちつづけた。蓮華が悲鳴をあげて王龍の腕にとりすがったが、彼は乱暴にそれを振り放した。そして、またしても彼女が悲鳴をあげてしがみついてくると、こんどは彼女をも打った。彼女は逃げ去った。王龍は長男を打ちつづけた。とうとう長男は両手で傷ついた顔をおおって地面にかがみこんでしまった。
王龍は打つのをやめた。くちびるのあいだから笛のような音を立てて息がもれた。汗が、びしょびしょになるほど全身に流れ、彼は、病気のときのように弱ってしまった。竹を投げすてて、あえぎながら長男に言った。
「自分の部屋へはいって、おれが言うまで出てくるじゃねえだ。出てきたらぶち殺すだぞ」
若者は何も言わずに立ちあがって去った。
王龍は、蓮華のすわっていた床几《しょうぎ》に腰をおろし、頭を両手にうずめ、目を閉じて息をはずませていた。だれも彼に近寄ろうとはしなかった。彼は呼吸が落ちつき、怒りがしずまるまで、ひとりでそうしてすわっていた。
やがて大儀そうに立ちあがると、部屋へはいった。蓮華は寝台の上で声をあげて泣いていた。彼は寝台へあがって彼女を引き起こした。彼女は横になったまま彼を見あげて泣いた。その顔には鞭うたれたあとが、紫色にはれ上がっていた。
彼は沈痛な声で言った。
「おまえはいつまでたっても淫売だ。おれの息子にまで春を売ろうとするのか」
すると彼女は、いっそう声をはりあげて泣いた。そして抗議した。
「いいえ、そんなことないわ。あの子は、さびしいのできたのよ。あの庭の、あなたが見たところよりも近く、あたしの寝台のほうへ、きたことがあるかどうか、杜鵑にきいてみたらわかるわ」
彼女は恐ろしげに、哀れっぽく王龍を見あげた。彼の手をとって、顔のみみずばれの上に当てて、すすり泣いた。
「あなたが、あなたの蓮華に、どんなことをなさったのか、見てちょうだいな――この世で男はあなたひとりなのよ。あの子がいるにしたところで、それはただ、あなたの息子にすぎないじゃないの。あたしにとって、あの子がなんでしょう」
彼女は彼を見あげた。その美しい目を、清らかな涙でうるませていた。彼はうなった。この女はどうしようもないほど美しかった。愛してならぬときでも、愛さずにいられなかった。とつぜん彼は、長男と蓮華のあいだにどんなことがあったかを知るのは耐えられないと思った。いっそ知りたくないと思った。知らないほうがいいと思った。そこで彼は、ふたたびうなって、そこを出た。長男の部屋の前を通るとき、なかへはいらず声をかけた。
「持ち物を箱につめて、あす南へ行くんだ。したいことをするがいい。呼びにやるまで帰ってくるじゃねえぞ」
そして彼は歩み去った。阿藍はすわって彼の着物を縫っていたが、彼が通っても何も言わなかった。彼が打った音や悲鳴を聞いたはずだが、そんなようすは、すこしも見せなかった。彼は外へ出て畑へ行った。空高く真昼の太陽が輝いていた。一日じゅう働きつづけたときのように疲れていた。
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二十五
長男が行ってしまうと、王龍《ワンルン》は家から大きな不安を追い払ってしまったように感じて、ほっとした。家を出たことは長男にとってもいいことだ、と王龍は自分に言いきかせた。これからは、ほかの子供たちにも気をつけよう。これまでは自分にも心配ごとがあったし、それに、ほかにどんなことが起ころうと、時期がくれば種まきやとり入れをしなければならない野良仕事に追われて、長男以外の子供たちのことは、ほとんど気をくばる余裕もなかった。彼は次男を早く学校をやめさせて商売の見習いにやり、長男の場合のように、男としての目ざめにすさんで家のやっかいものになったりせぬように気をつけようと決心した。
多くの家庭の息子たちがそうであるように、王龍の次男も長男とは似ていなかった。長男は北の国の人間らしく、背が高く、骨太で、顔が赤く、母親に似ていたが、次男は背も高くないし、華奢《きゃしゃ》で、皮膚が黄いろかった。わるがしこくて、ユーモラスな目をして、場合によって意地悪なことでもしそうなところのあるのを見ると、王龍は老父に似ていると思うのであった。王龍は思った。(そうだ、この子は、りっぱな商人にしよう。学校をやめさせて、穀物商店へ見習いに出すことにしよう。おれが収穫物を売る店へ、この子をおいておくのは都合がいい。注意して秤《はかり》を見ていて、多少目方をごまかしてくれるだろう)
そこで、ある日彼は杜鵑《ドチュエン》に言った。
「長男の許婚《いいなずけ》の父親のところへ行って、わしが話したいことがあると伝えてくれ。ともかく、これからわしたちは縁つづきになるのだで、いっしょに一杯飲むのがほんとうだろうて」
杜鵑は帰ってきて言った。
「いつでもお目にかかるそうです。きょうお昼にでも一献《いっこん》かわしにいらっしゃるなら、それもけっこうだし、都合でこちらへ伺ってもよい、とおっしゃいました」
しかし王龍は、町の商人であるこの男に、自分の家へはきてもらいたくなかった。あれこれ用意をしなければならないので、たいへんだと思ったからである。そこで彼は、からだを洗い、絹の薄物を着て、畑を横ぎって出かけて行った。彼は杜鵑に教わったとおり、まず石橋街に行き、劉という名の書いてある門の前で足をとめた。字は読めないが、橋を渡って右側の二軒目といえばここだろうと推察し、通りがかりの人にきいて、それが劉という字であることをたしかめたのであった。木でつくった堂々たる門である。王龍は手のひらで門をたたいた。
すぐに門が開いて女の召使があらわれた。濡れた手を前掛けでふきながら、どなたですかとたずねた。彼が名まえを言うと、彼女はつくづくと彼をながめてから、男だけの住居になっているとっつきの建物の一室に案内し、椅子をすすめてから、この家の娘の婚約者の父親と知って、もう一度つくづくと王龍の顔をながめた。それから主人を呼びに行った。
王龍はそっと周囲を見まわした。立ちあがって、入り口のカーテンの布地に手をふれて見たり、テーブルの用材を調べたりした。そして、相当の生活はしているが、それほどぜいたくはしていないことを知って安心した。金持ちの嫁は、とかく生意気で強情で、衣食についても、あれこれとやかましく、息子を両親から引き離しがちなものだ。それでは困るのである。王龍は、また腰をおろして待っていた。
ふいに重々しい足音がして、でっぷりふとった年配の男がはいってきた。王龍は立ちあがって、おじぎをした。ふたりは、たがいにそっと相手を観察しながらおじぎをし、そして、たがいに相手がりっぱな裕福な人物であると知って、敬意を感じ、好意を持った。ふたりは椅子に腰をおろして、女の召使がお酌《しゃく》をする熱い酒を飲みながら、作物の状態だの価格だの、もし今年が豊作なら米の価格はどのくらいになるだろうなどと、ゆっくりした調子で話しあった。しまいに王龍が言った。
「ときに、わしはお願いがあってまいったのですが、いや、しかし、もしお気が進みませんでしたら、別の話をいたしましょう。あなたのお店で小僧がご入用でしたら、わたしに二番目の息子がおりますのですがな。気のきいたやつでしてね。もっとも、ご入用でなければ、これはもう打ち切りにして、ほかのことを話しましょう」
商人は、たいそう機嫌よく言った。
「そうですか、わたしのほうでも気のきいた子供をひとりほしいと思っておったところですよ。読み書きができないと困るが」
王龍は得意げに答えた。
「うちの息子は、ふたりとも勉強家でしてな。どちらも、まちがった字でもあると、木偏が正しいか、さんずいが正しいかというようなことを、すぐ指摘しますだよ」
「それはけっこうですな」劉が言った。「もし本人にそのつもりがあるなら、およこしなさい。賃金は、最初商売をおぼえるまでは食べるだけ、一年たって成績がよければ毎月銀一枚、三年目からは銀三枚、それからあとはもう見習いではありませんから、商売の能力に応じていくらでもとれます。この賃金とは別に、買い手や売り手から、いくらかせごうと、これは本人の腕しだいで、わたしは何も申しません。お宅とは縁組みしている間柄ですから、お子さんを店に入れるについても保証金はいりませんよ」
王龍は、ひどくよろこんで立ちあがり、笑って言った。
「ご懇意にしていただいたので申しますがな。わしのところの二番目の娘をもらってくれるような息子さんはいませんでしょうかね?」
商人は笑ったが、ふとっていて、食べものもよいので声までが福々しかった。
「十歳になる次男がおりますよ。まだ婚約はしておりませんが、お宅の娘さんは、おいくつになりますな?」
王龍も笑って答えた。
「つぎの誕生日で十歳になります。花のように美しい娘ですだ」
ふたりの男は声を合わせて笑い、商人は言った。
「すると二重の縄で結ばれるわけですかな」
王龍は、それ以上言わなかった。これ以上は、面と向かって相談できる事柄ではないからだ。そこで、おじぎをして、すっかりよろこんで帰ってきた。そして心のなかでつぶやいた。(これはまとまるだろう)家へ帰ると、その娘を見た。美しい子だった。母親が纏足《てんそく》させているので、小さく優美な歩きかたをしていた。
しかし、つくづくと娘を見ると、その頬に涙のあとがあった。顔は青白くて、年にしてはませていた。彼は娘の手をとって引き寄せた。
「なんで泣いたりするだ?」
彼女はうつむいて、上着のボタンをもてあそびながら、恥ずかしげに、なかばささやくように言った。
「毎日かあさんが足の布をきつく巻くものだから、夜になって眠れないの」
「でも、おまえの泣くのを聞いたことはねえだがね」王龍は、いぶかしげに言った。
「そうよ」娘は単純に答えた。「かあさんが、声を出して泣いちゃいけないって言うんですもの。とうさんは、やさしすぎて気が弱いから、纏足《てんそく》するのやめなさいって言うだろうって言うのよ。纏足しないと、かあさんが、とうさんにかわいがられないように、あたしも、かわいがってもらえなくなるって言うのよ」
娘は子供が物語を話すように単純に言った。王龍は、自分がこの子の母親の阿藍《オーラン》をかわいがっていないと阿藍が娘に話したと聞いて、心が刺すように痛んだ。彼は急いで言った。
「そうかい。きょうはな、おまえのりっぱなおむこさんをみつけてきただ。杜鵑に話をまとめさせようじゃないか」娘は微笑して、うつむいた。不意に、もはや子供ではなくなり、女になったかのようであった。その夜、後房にいたとき、王龍は、杜鵑に言った。
「まとまるかどうか、一つやってみてくれ」
しかしその夜、蓮華《リエンホワ》とともに寝ていても、気持ちが落ちつかず、目をさましては考えこんだ。自分のいままでの生活や、阿藍が彼の最初の女だったことや、彼女がいかに忠実に彼にかしずいてきたかというようなことを考えた。そして娘の言ったことを考えて、みじめな気持ちになった。阿藍は、ぼんやりしているようには見えても、ちゃんと彼のほんとうの心を見ぬいていたのだ。
それから数日の後、彼は次男を町へやり、次女の婚約書に署名し、持参金をきめ、結婚式の贈り物の布地や宝石のことなども話をきめた。王龍は、ほっと一安心して、心のなかで言った。
(さて、これで子供たちにはみな何不足なくしてやっただ。あの白痴の娘だけは、小布を持って日向《ひなた》ぼっこでもさせておくよりしかたがねえだ。末の男の子は畑で働かせることにして、学校へあげるのはよそう。読み書きのできるのがふたりいれば、もうたくさんだて)
ひとりは学者、ひとりは商人、ひとりは百姓と、三人の男の子を持っていることを彼は誇らしく思った。彼は満足して、それ以上子供たちのことを考えるのをやめにした。しかし、彼のためにこれらの子供たちを生んだ女のことは、いやおうなく心にきた。
ながい年月、阿藍といっしょに暮らしてきて、はじめて王龍は、彼女のことを真剣に考えはじめた。彼女が、はじめて嫁入ってきたときでさえ、彼は彼女の身になって考えたことがなかった。彼女が女であり、自分が知った最初の女であるということだけしか考えなかった。あれこれと忙しかったので、考えるひまがなかったようにも思える。いま、子供たちの身のふりかたもきまった。畑は手入れが行きとどいて、近づく冬空の下で静まりかえっている。蓮華との生活にも、しめしがついて、彼が打ってからは、ひどく従順になった。やっと自分のことを考える時間ができたようである。すると、頭にくるのは阿藍のことであった。
彼は、つくづくと彼女をながめた。こんどは、女としてでもなく、みにくくて、やつれていて、皮膚が黄いろいからでもなかった。ある種の奇妙な悔恨の思いでながめたのである。そして彼女が、すっかりやせて、皮膚がかさかさで、黄いろくなっているのを見た。彼女は、もともと肌が白いほうではなかった。野良仕事をしていたころは皮膚が赤黒く、陽《ひ》やけしていた。しかし、いまは、もう長いこと野良へも出なかった。二年ほど前までは、とり入れどきにだけは畑へ出たが、世間から「そんなに金持ちになったというのに、お宅の奥さんは、まだ野良仕事をしてるだかね」と言われるのがいやさに、彼がやめさせたのである。
それでも彼は、なぜ彼女が自分から野良へ出る気がなくなったのか、なぜ動作がだんだんとにぶくなったのか、それも考えたことはなかった。いま考えてみると彼女は、ときどき、朝寝床から起き出るときや、かがみこんでカマドに火をつけるときなどに、苦しそうにうなることが、よくあった。そして彼が「どうしただ?」ときくと、うなるのをやめてしまった。
いま、彼女をながめ、下腹部が異常にふくらんでいるのを見ると、なぜかわからぬながら、悔恨の思いに責められるのであった。彼は自分に言いきかせた。
(だが、第二夫人をかわいがるように女房をかわいがらないからといって、それはおれの罪じゃない。世間の男は、みんなそうなのだ)そして、こうひとりごとを言って、みずから慰めた。(おれは阿藍をなぐったこともねえし、ほしいと言われれば銀もやっただ)
それでもやはり、娘の言ったことが忘れられなかった。胸を刺すのである。考えてみても、自分は阿藍に対していつもよい亭主だったと思う。世間なみ以上によい亭主だったと思うのに、どうして悔恨を感じるのか、彼はその理由がわからなかった。
阿藍に対するこうした自責の気持ちが去らないので、彼女が食事を運んだり、あちこち動きまわったりするようすから、目をはなすことができなかった。ある日、食事がすんでから、阿藍がレンガの床を掃いていたとき、彼女の顔が苦痛のために灰色になった。彼女は口をあけて、あえぐように呼吸し、下腹を手でおさえていたが、それでも身をかがめて掃きつづけた。彼は、鋭くたずねた。
「どうしただ?」
彼女は顔をそむけて遠慮がちに答えた。
「なんでもねえだ。前からよく腹が痛くなることがあったで、それですだよ」
彼は、じっと彼女をみつめていたが、やがて末娘に言った。
「おまえが掃くだ、おかあさんは病気だでな」
そして阿藍に、ここ数年来なかったほどやさしく言葉をかけた。「寝床へ行って横になるがいいだ。あとで娘に湯を持って行かせるだでな。起きててはいけねえだ」
阿藍は何も言わず、のろのろした動作で、言われたとおりに自分の部屋へ行った。何かごそごそする音が聞こえたが、やがて横になったらしく、静かにうめき声をあげていた。そのうめきを聞いていると、彼はどうにもじっとしていられず、立ちあがって医者を探しに町へ行った。
次男がいる穀物商の店の番頭にすすめられた医者の家へ行った。医者は所在なげに茶を飲んでいた。長い白ひげをはやした老人で、鼻の上にふくろうの目のように大きなシンチュウ縁の眼鏡をかけていた。手がすっかりかくれるほど袖の長い、よごれた灰色の長衫《チャンサ》を着ていた。王龍が妻の容態を話すと、彼は、くちびるを結んで、テーブルの引出しをあけ、黒い布の包みをとり出した。
「それじゃ、すぐまいりましょう」
ふたりが阿藍の寝床へくると、彼女は、うつらうつらと眠っていた。上《うわ》くちびると額に露の玉のような汗をかいていた。老医師は、それを見ると首をふった。そして、猿のようにひからびた黄いろい手を出して、阿藍の脈をとった。長いあいだ脈をみていたが、やがて沈痛に頭を振って口を開いた。
「脾臓《ひぞう》がはれとるし、肝臓も悪い。腹部に人間の頭くらいの石がある。胃にも潰瘍《かいよう》ができておる。心臓はやっと動いておるが、あるいは虫がいるのかもしれんな」
そう言われて王龍は心臓がとまるほどびっくりした。彼は恐ろしくなって、怒ったように叫んだ。
「それじゃ薬をやってくだせえ。やってくれますだね?」
王龍の叫び声に阿藍は目をさましたが、苦痛のために意識が乱れ、王龍がなぜ叫んだかもわからず、ものうげに、ふたりを見た。老医師はまた言った。
「難病ですわい。全快の保証はいらんとおっしゃるなら、銀十枚で薬草と乾した虎の心臓と犬の牙の処方をしてさしあげる。それをいっしょに煎《せん》じて飲ませるのじゃな。だが、全快の保証をお望みなら、銀五百枚いただきたい」
阿藍は、『銀五百枚』という言葉を聞くと、とつぜん昏睡《こんすい》からさめて、弱々しい声で言った。
「やめてくだせえ。あたしの生命に、そんな値うちはねえだ。それだけ出すなら、りっぱな土地を買えるだに」
王龍はその言葉を聞くと、前々からの呵責《かしゃく》の念に一度に責められる思いがした。彼は、はげしく言った。
「家から葬式なんか出したくねえだ。それくらい、おれは払えるだよ」
医者は「払える」と聞くと、ものほしそうに目を輝かしたが、もし彼の言葉どおりに全快せずに病人が死んだ場合には法律によって罰せられるので、残念そうに言った。
「いや、病人の目が白いところを見ると、誤診かもしれんの。全快の保証は銀一千枚でなければできんて」
王龍は医者の言う意味がわかったので、何も言わず、悲しげに医者を見た。土地を売らなければ、それだけの大金は払えないが、売ったにしたところで、なんにもならないことがわかったのだ。率直にいえば、医者は「この病人は死ぬ」と宣言したのも同様なのである。
そこで彼は医者とともに外へ出て銀十枚を払った。医者が去ってしまうと、王龍は阿藍がその生涯の大部分を過ごした薄暗い台所へ行った。彼女のいない、そして、だれも見ているもののないそこで、すすけた壁に向かって泣いた。
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二十六
しかし阿藍《オーラン》は急には死ななかった。まだやっと人生の航路の半ばを過ぎたばかりなので、その生命は容易に肉体から離れようとせず、彼女は幾月も寝床に横になっていた。長い冬の幾月か、ずっと阿藍は瀕死の身を寝床に横たえていた。そして、王龍《ワンルン》と子供たちは、はじめて、家庭において彼女がどんな存在であったかを知った。みんなどんなに阿藍の世話になっているかを、それまで彼らは知らずにいたのである。
枯れ葉をたきつけてカマドの火を燃やすにはどうしたらよいか、魚をくずさずに鍋に移すにはどうしたらいいか、どうすれば魚を焼くとき片側をまっ黒こげにしないですむか、野菜を揚げるにはゴマ油がいいのか大豆油がいいのか、だれも知らなかった。食物のかすや落ちこぼれがテーブルの下に落ちても、だれも掃こうとしなかった。臭気がひどくなると、がまんしかねて、犬を呼んで食べさせるか、末娘をしかって掃き出させた。
末娘は母親のかわりになって祖父のめんどうを見た。祖父は年をとって、まるで幼い子供のように他愛がなかった。阿藍が茶や湯を持って行くこともできなくなったし、起きたり寝たりするのに手を貸すこともできなくなったということを、老人はどうしても理解しなかった。老人は、どんなに阿藍を呼んでもきてくれないので、だだをこねて、まるでわがままな子供のように茶わんを地面にたたきつけたりした。とうとう王龍は老人を阿藍の部屋へ連れて行って、彼女の寝ているようすを見せた。老父は、目がかすんで、なかば見えないのだが、それでも、じっと阿藍を見て、おぼろげながら何やら悪いことがあると察したらしく、口のなかで、もぐもぐと何かつぶやいて、涙を流した。
白痴の娘だけは何も知らなかった。ただ微笑しているだけで、にこにこ笑いながら小布をもてあそんでいた。しかし、だれかが彼女のめんどうをみなければならなかった。夜になれば寝かせ、食事をさせ、昼間は日向《ひなた》へすわらせ、雨が降ったら家のなかへ入れなければならなかった。これだけのことは、だれかが覚えていなければならないのだが、王龍でさえ、忘れてしまうことがあった。一度など、一晩じゅう彼女を家の外へ出しっぱなしにしていたことがあった。翌朝、かわいそうに彼女は、明け方の寒さにふるえて泣いていた。王龍は怒って、子供たちに、かわいそうな白痴の姉を忘れたことをしかった。しかし、いくら母親のかわりをしようとしても、それが子供たちにできるはずはあるまい、そう思って彼もあきらめ、それからは白痴の娘のめんどうは、朝晩、自分で見ることにした。雨や雪が降ったり、冷たい風が吹いたりすると、家のなかへ入れて、台所のカマドの前の、あたたかい灰のなかにすわらせたりした。
阿藍が瀕死の身を横たえていた暗い冬の幾月かのあいだ、王龍は畑のことをいっさいかまわなかった。冬の仕事も使用人の指図も陳にまかせきりであった。陳は忠実に働いた。朝晩には、かならず阿藍の寝ている部屋の扉口まできて、例の笛のようなささやき声で、彼女の容体をきく。それにたいして王龍は毎朝毎晩、「きょうは鶏のスープをすこし飲んだ」とか、「きょうは米ガユをすこし食べた」とか答えるしかなかった。だが、しまいには、それがわずらわしくなってしまった。
そこで陳に、もうききにきてくれなくてもいい、仕事さえ満足にやってくれれば、それで十分だと、ことわった。
寒い暗い冬のあいだ、王龍は寝床のそばにつきっきりだった。彼女が寒いと思えば火鉢に炭をつぎ、寝床のそばにおいて暖めてやった。そのたびに彼女は弱々しくつぶやいた。
「もったいねえだ」
ある日、彼女のそういう言葉にがまんできなくなって、言った。
「そんなことを言うでねえだ。もし、おまえをなおすことさえできるなら土地をすっかり売り払ったって惜しくねえだ」
彼女はこれを聞くと弱々しく微笑して、あえぎながらささやいた。
「いんや、それはいけねえだ。あたしは死ぬ身だで――どっちみち、いつかは死ぬ身だで。でも、土地は、あたしが死んでも残りますだ」
しかし彼は、彼女の口から死ぬなどという言葉を聞きたくなかった。そこで彼女がそのことを言いだすと、彼は立ちあがって外へ出た。
それでも彼女が死ぬにちがいないということはわかっていた。そこで彼のつとめとして、ある日、町の棺桶《かんおけ》屋へ出かけて行き、売りものとして陳列してある棺を一つ一つ見てまわって、重たい堅い木でつくった良質の黒ぬりの棺を選んだ。彼が選ぶのを待っていた主人は、抜けめなく言った。
「二つ買ってくだされば、値段の三分の一だけお引きいたします。あなたの分も買っておかれたら、あとあとご安心じゃございませんか」
「いや、わしのは息子たちがやってくれるだろうて」と王龍は答えたが、ふとそのとき、まだ老父の棺を買ってないことに気がついて、はっとした。そこで言葉をついだ。「だが、年とった父親がいるだ。もう足も弱ってるし、耳も聞こえねえだし、目もほとんど見えねえだ。まもなく死ぬだろうて。だから二つ買うことにしよう」
主人は、もう一度棺をよく塗りなおしてから王龍の家にとどける約束をした。王龍は、このことを阿藍に話した。阿藍は彼が自分のために気をつかってくれたこと、そして死ぬ準備ができたことをよろこんだ。
こうして彼は一日の大部分を彼女のそばにすわって過ごした。彼女が弱っているので、ふたりはあまり口をきかなかった。それに話すこともあまりなかった。彼が静かに黙ってすわっていると、彼女はしばしば、自分がどこにいるかを忘れてしまうようであった。ときどき子供のころのことなどをつぶやいた。はじめて彼女の心のなかを見たような気がした。彼女のつぶやく言葉は、きわめて断片的なものであった。
「入り口までしか、あたしはお料理を運ばねえですよ。あたしはみっともねえだで、りっぱな方の前には出られねえですだ――」またあえぎながら、こんなことも言った。「打たねえでくだせえ――もう二度とつまみ食いはしねえだ――」そしてくりかえしくりかえし言った。「おとうさん――おかあさん――おとうさん――おかあさん――」そしてまた何度も言った。「あたしは、みにくいだで、かわいがってもらえねえことは、よくわかってるだよ――」
阿藍のそういう言葉を、王龍は聞いていられなかった、彼は、死んでしまった人間の手のようにこわばった大きな、ごつごつした彼女の手をとってなでてやった。彼女の言ったことはほんとうだと思い、自分のやさしい気持ちを伝えたいと心から願って彼女の手をなでてやっているのに、蓮華がすねたように口をすぼめたときほども愛情や感動がわかないのが、ふしぎでもあり、悲しくもあった。彼はそれを恥じた。そのこわばった、死にかかっている手をとっても、すこしも愛情がわかないし、かわいそうだと思う気持ちさえ、何かしらそれに反発するものがあって妨げられてしまうのである。
そういうことがあるので、彼は彼女に対して、いっそう親切をつくした。特別な食べものを買ってきてやったり、白魚とキャベツの芯《しん》でつくったうまいスープを飲ませたりした。そのうえ、蓮華のところへ行っても楽しめなかった。長いことつづいている死の苦悶に絶望した心をまぎらせようと蓮華のところへ行っても、阿藍のことが頭をはなれず、阿藍を思うと蓮華を抱いていても、手が離れるのであった。
阿藍の意識がはっきりして、周囲のことに気がつくときが、たまにあった。そんなとき、一度彼女は杜鵑を呼んだ。王龍がびっくりして杜鵑を連れてくると、阿藍はふらふらしながら腕をついてからだを起こし、率直な調子で話しかけた。
「おまえは黄家の老大人につき添っていたし、美人だと言われていたけれど、あたしは、ひとりの男の妻になって、息子を生んだ。おまえは、いまでも奴隷なんだね」杜鵑が怒って何か言い返そうとしたので、王龍は彼女をなだめて外へ連れ出した。
「あれはもう何を言ってるのだか自分でもわからねえだで」
部屋へもどると、阿藍はまだ手に頭をもたせかけていた。彼女は言った。
「あたしが死んでも、あの女や、あの女の主人に、あたしの部屋へはいったり、あたしのものに手を触れたりさせねえでくだせえよ。そんなことをしたら、あたしは幽霊になって呪《のろ》いますだよ」
彼女は、うつらうつらと眠りはじめ、頭を枕に落とした。
しかし、正月が近づいたある日、ローソクが消える前にぱっと輝くように、阿藍は不意によくなった。いままでになかったほど意識がはっきりして、寝床にすわり、自分で髪をたばね、茶を飲みたいと言った。王龍がくると、彼女は言った。
「お正月がくるだが、まだお菓子もごちそうも用意してねえでしょう。あたしは考えただが、あの奴隷を、あたしの台所へは入れたくねえだ。長男の嫁を呼んでくだせえ。あたしはまだ嫁に会ったことはねえだが、嫁がきてくれたら、どうしたらいいか、あたしから話すだ」
王龍は、お正月のことなどどうでもよいと思っていたのだが、彼女に気力が出たのを見てよろこんだ。彼は杜鵑を使いに出して穀物商人の劉にさし迫った事情を伝えさせた。劉は阿藍が春まではおそらく生きられまいと聞き、それに娘ももう十六になったことだし、それより若くても嫁入りする場合だっていくらもあるので、こころよく承知した。
だが、阿藍が病気なので、べつに仰々しい祝いごとはしなかった。娘は母親と老女中とに付き添われただけで、轎《かご》に乗って、ひっそりとやってきた。母親は娘を阿藍に引き渡すとすぐに帰ってしまい、老女中だけが娘の世話に残った。
子供たちが寝室に使っていた部屋をあけて、その部屋を嫁に明け渡した。万事うまく片づいた。王龍は作法どおり嫁とは口をきかず、彼女がおじぎをすると、重々しく頭をさげるだけであったが、しかし嫁が自分の役目をよく心得ていて、家のなかを歩くにも、伏し目がちで、しとやかなので、王龍はよろこんだ。その上、心のやさしい娘で、器量もよく、しかも器量を鼻にかけるようなこともなかった。注意深く、立居振舞も礼儀にかなっていた。阿藍の部屋へ行っては、やさしく看病した。嫁が阿藍のそばにつきそっていてくれるので、王龍は妻にたいする心痛もいくらかやわらげられた。阿藍も満足していた。
阿藍は三日ほど満足していたが、やがて何か考えついたらしく、王龍がある朝、容体を見にはいって行くと、彼に向かって言った。
「死ぬ前に、もう一つお願いがあるだ」
彼は怒って答えた。
「頼むから死ぬなんてこと言わねえでくれ」
彼女は、ゆっくりと微笑した。目へ行くまでに消えてしまう例の笑いである。そして答えた。
「死ぬだよ。からだが死を待っているのがわかるだ。けれども長男が帰ってきて、この嫁と結婚するまでは死ねねえだ。まったくいい娘だで。あたしによく仕えてくれるだ。湯を入れたタライを、しっかりと持っていてくれるし、あたしが苦しくて汗を出すと顔をふいてくれるだ。どうせあたしは死ぬだで、その前に長男を家へ呼びもどして、この娘と結婚させてえと思うだ。おまえさんにとっては孫、お祖父さんにとっては曽孫《ひまご》ができるようにしておいてから、あたしは安心して死にてえだ」
健康なときでさえ、彼女は、こんなにたくさん話したことは、あまりない。それに、こんなにしっかりと話をしたのは、ここ数か月来はじめてのことである。王龍はその声の強さと、してもらいたいことを望むその気力とを、うれしく感じた。彼は、長男の結婚式を、もっとあとにのばしてやりたかったのだが、妻の言葉にさからおうとはしなかった。そこで妻に同意して、はっきりと言った。
「よし、ではそうしよう。きょうさっそく南へ人をやって息子をさがさせよう。そして、家へ連れもどして結婚させることにしよう。だからおまえも、もう一度元気を出して、死ぬなんて心細いこと言わずに、きっとよくなると約束してくれなくちゃいけねえ。おまえがいねえと、この家はまるで獣の住む洞穴《ほらあな》みてえだでな」
王龍は彼女をよろこばせるために言った。阿藍はそれ以上何も言わなかったが、それを聞いてよろこんだ。かすかにほほえみながら目を閉じて横になった。
そこで王龍は使いのものを南へ走らせた。
「若旦那に言うだ。母親が死にかけている。おまえの顔を見、結婚するのを見るまでは気持ちがやすまらねえようだ。おまえが父や母や家をたいせつに思うなら、すぐに帰ってこい。きょうから三日目には宴会を開いて客を招き、結婚式をあげる、そう言うてくれ」
王龍は用意をはじめた。杜鵑に、できるかぎり最上の宴会を用意するように命じ、町の茶館から料理人を手伝いに呼ばせた。彼は、たくさんの銀を杜鵑に渡して言った。
「こういう場合に黄家でやるのと同じようにやってくれ。銀はまだたくさんあるだでな」
それから村へ行って知っているものを全部客に招き、ついでに町へ行って、茶館や穀物商店で知りあった人たちなど町の知人を全部招いた。また叔父にも言った。
「長男の結婚式には、叔父さんの懇意な人も、お宅の息子の友人も、みんな招《よ》んでくだせえ」
叔父の身分をいつも心にとめていたので、彼はこう言ったのである。王龍は叔父に対して鄭重な態度をとり、尊敬すべき客としてもてなしてきた。叔父の身分を知ったそのときから、彼はそうしてきたのである。
結婚式の前夜、長男が帰ってきた。彼は、さっそうと部屋へはいってきた。王龍は、彼が家にいたとき、自分をどんなに困らせたかということなど、すっかり忘れてしまった。この息子と別れてから、もう二年以上になる。そして、いまここにいる息子は、もはや少年ではなかった。背たけの高いりっぱな一人前の男であった。からだも大きく、がっちりしているし、頬も赤味をおびているし、黒い髪を短く刈って油で光らせていた。彼は、南の都の店などで見かけるような繻子《しゅす》の暗紅色の長衫に、短いビロードの背心《ベーシン》を着けていた。王龍は自分の息子の姿を見て、誇りに胸がふくらんだ。そして、りっぱになった息子のこと以外、他のことは何も忘れて、母親の部屋へ案内した。
青年は母親の寝床のそばにすわった。病みほうけた母親の姿を見ると目を涙でうるませた。しかし明るくこう言っただけで、あとは何も言わなかった。「みんながいうより二倍も元気そうに見える。死ぬなんてとんでもない」
しかし阿藍は単純に答えた。
「おまえが結婚するのを見てから死ぬだよ」
許婚《いいなずけ》の娘は、むろん、その前に相手の男に顔を見せてはならなかった。蓮華は結婚のしたくをさせるために許婚の娘を後房へ連れて行った。こういうことにかけては、蓮華と杜鵑と叔母は、ちょっと真似手《まねて》がないほど手なれていた。三人は娘を連れて行き、結婚式の朝、この三人は、許婚の娘を頭から足さきまできれいに洗って、新しい白布で纏足《てんそく》を巻き直してから新しい靴下をはかせた。蓮華は娘の肌に自分のかおりのいい巴旦杏《はたんきょう》の油をすりこんだ。そして娘が実家から持ってきた衣装を着せた。
まず白い花模様の絹の肌着を、その美しい純潔な肌に着せ、その上に、すばらしく上質の羊毛の軽い袍《わたいれ》を着せかけ、さらにその上に婚礼用の赤い繻子の礼服を着せたのである。そして額《ひたい》に石灰水をすりこみ、よりをかけた絹糸で器用に生えぎわの生毛《うぶげ》を抜いて垂れ髪をかきあげ、彼女の新しい身分にふさわしく、額を高く、四角に、なめらかに見えるようにした。それから白粉をはたき、紅をさし、刷毛《はけ》で眉を長く細く描き、頭に花嫁の冠と玉すだれのついているヴェールをかぶせ、その小さなかわいい足には刺繍をした靴をはかせ、指のさきを染め、手には香水をつけた。こうして、結婚のしたくはととのった。娘は、おとなしく、されるままになっていたが、生娘らしく、恥ずかしげな、気が進まぬそぶりだった。
王龍と叔父と老父と客人たちは、中の部屋で待っていた。花嫁は老女中と叔母とに両方からささえられてはいってきた。顔を伏せて、つつましく、礼儀正しく、だれかにささえられなければ結婚の席へなど、とても出られそうにもないような歩きぶりであった。それは彼女のしとやかさをあらわすものであり、王龍はよろこんで、これはいい嫁だと思った。
そのあとから、王龍の長男が、紅《あか》い長衫に黒い背心《ベーシン》を着けてはいってきた。髪をなでつけ、顔を新しく剃っていた。そのうしろから、ふたりの弟がはいってきた。王龍は彼らのようすを見、自分の肉体の生命を受けつぐりっぱな息子たちを持った誇りで胸がはち切れるようであった。老父は何が起こっているのか、ぜんぜん知らなかった。大声で言われたことも、ほんのすこししか耳にはいらなかった。しかし、いま急に納得が行ったらしく、しゃがれた声で大きく笑い、何度も何度も笛のような調子でくりかえした。
「婚礼だて。結婚して、また子供たちが生まれるだ。孫どもが生まれるだ」
客の人がみな彼のよろこびようを見て笑ったほど、老人は心の底から笑った。王龍は、これで阿藍が寝床から起きてさえいたら、どんなにめでたい日になったことだろう、と心のなかで思った。
ずっと王龍は、息子が嫁をどんな目で見るかと、ひそかに、鋭く観察していたが、青年はただ一度、横目で彼女を見ただけだった。それだけで十分だった。というのは、よろこびの色が、そぶりにあらわれていたからである。王龍は誇らしげに心のなかで言った。
(どうだ、おれの選んだ相手は気に入っただろうが)
長男と嫁は、老父と王龍におじぎをしてから、阿藍の寝ている部屋へ行った。阿藍は上等の黒い長衫に着かえていて、ふたりがはいってくると寝床の上に起きあがった。両頬が、火のように赤く、それは王龍が健康になったものと思いちがえて大きな声で、「これならよくなるだぞ」と叫んだほどであった。
ふたりが近づいておじぎをすると、阿藍は寝床を軽くたたくようにして言った。
「ここに腰かけて、婚礼の酒を飲み、ご飯を食べておくれ。あたしはそれが見たいのだよ。この寝床は、もうじきあたしが死んで運び去られたあとは、おまえたちの結婚の寝床になるだでな」
阿藍がそう言うと、だれもなんとも返事ができなかった。ふたりは、恥ずかしそうに黙ったまま並んで腰をおろした。ふとった叔母が、もったいぶったようすで、熱くした酒の杯を二つ持ってはいってきた。ふたりはまず別々に口をつけてから、二つの杯の酒をまぜ合わせて、もう一度飲んだ。ふたりが一体になったことを意味するのである。それからふたりは飯を食べ、それをまぜ合わせた。これはふたりの生命が一つになったことをあらわす。こうして、結婚の式は終わった。ふたりはまた阿藍と王龍におじぎをして出て行き、そこに集まっている客人たちにおじぎをした。
披露の宴がはじまった。部屋も庭も、テーブルとごちそうのにおいと笑い声とでいっぱいになった。王龍が遠近を問わず諸々方々から客を招いたからでもあるが、なかには彼が金持ちで食べものも豊富にあることを知っているので、こんなときには物惜しみせずにごちそうしてくれるだろうというので、招かれもしないのにきている連中もいた。
杜鵑は祝宴の準備に町から料理人を連れてきていた。農家の台所では、したくできないようなごちそうが、たくさん必要だったからである。町の料理人は、すでに料理してあって、あたためればすぐに出せる料理を、大きな籠《かご》へ入れて運んできていた。彼らは、自分たちの働きぶりを見せるために、油のついた前掛けをして、熱心に、あちこち歩きまわっていた。すべての人が、いやが上にも食べ、腹いっぱい以上に飲み、そしてみな、ひどく陽気であった。
阿藍は、人々の騒ぐ声や笑い声が聞こえるように、それから、ごちそうのにおいが嗅《か》げるように、すべての戸とカーテンを開けさせた。そして、しばしばようすを見にくる王龍に、幾度となくきいた。
「お酒は、みんなに行きわたっているだかね? 食膳のまんなかにある八宝飯は熱くなっているだかね? 脂《あぶら》と砂糖と果実が八つ、きちんとはいっているだかね?」
彼が、すべておまえの注文どおりになっていると返事をすると、阿藍は安心して、横になって騒音に耳を傾けていた。
祝宴が終わり、客が去って、夜になった。陽気な騒ぎが静まり、家のなかが静かになると、阿藍は疲れて、急に弱ったようであった。阿藍は結婚したふたりをそばに呼んで言った。
「これでやっと安心しただよ。もう死んでもいいだ。息子や、おまえはおとうさんとおじいさんのめんどうをみておくれよ。そして嫁御や、おまえの夫と夫の父親とお祖父さんと、それから庭にいるあの白痴の娘のめんどうを頼みますぞ。それ以外のものには、つくすべき義務はねえだでな」
この最後の言葉は、彼女がこれまでけっして口にしたことのない蓮華を意味していた。ふたりは、母親がもっと何か言うだろうと待っていたが、阿藍は発作的に昏睡状態に落ちていったようであった。そして、もう一度目をさまして口を開いたときには、彼らがそこにいることも、自分がどこにいるかもわからないようすで、目を閉じて、あちこちに頭を向けながら、つぶやくように言った。
「あたしはみにくいかもしれねえだ。けれどもあたしは子供を生んだ。あたしは奴隷だった。だけど、いまあたしの家には、りっぱなあと取りがいるだ」そしてまた不意に言った。「あの女は、あたしがやってきたように、旦那の食事の用意をしたり、めんどうをみたりすることができるだろうか? 美しいだけでは子供は生めねえだで」
彼女は、ふたりがいることも何も忘れて、寝ながらつぶやいていた。王龍は、ふたりに去るように合図をして、阿藍が眠ったりめざめたりする間、そばにすわってみとっていた。阿藍が死にかけているいまでさえ、紫色の大きなくちびるから歯が出ているのを、みにくいと感じる自分を憎んだ。彼が見まもっていると、やがて阿藍は目を開けたが、ふしぎな霧でも目にかかっているかのようで、王龍がだれだかわからないらしく、目をいっぱいに開いて、いぶかしげに、もう一度じっとみつめていた。ふいに彼女の頭が丸い枕から落ちた。そして身を震わせた。それが最期だった。
ひとたび死んだとなると、王龍はどうしても阿藍のそばへ近よる気になれなかった。叔母を呼んで、葬式のために死体を洗わせたが、それがすむと、もう二度とそばへ行く気がなかった。死体を寝床から出して彼が買っておいた大きな棺《かん》へ入れるのも、叔母と長男と嫁とにやらせた。気分をやすめるために町へ行って習慣どおりに棺を密封させるのに人を呼んできたり、占師をたずねて葬式によい日どりをきいてきたりした。占師が占った結果は、三か月もさきで、それより早い日はないということだった。王龍は占師に礼金を払って町の寺院へ行き、院主とかけ合って、三か月間棺を安置しておく場所を借りることにし、棺を運んで葬式の日までそこへあずけることにした。王龍は家のなかの目に見えるところに棺をおいておくのが、とてもたえられなかったのである。
王龍は死人のためになすべきことは、全部きちんとやった。そうして自分も子供たちも喪に服した。喪の色である粗《あら》い白布でつくった靴をはいて、くるぶしに白布を巻き、女たちはみな白いひもで頭髪をたばねた。
その後、王龍は阿藍が死んだ部屋で寝るのがいやなので、手まわり品を持って蓮華のいる後房へ移り、長男に言った。
「嫁といっしょに、おふくろが暮らして死んだあの部屋へ行くがいいだ。おふくろが、おまえをみごもって生んだのもあの部屋だし、おまえもあそこでおまえの子供を生むがいいだ」
ふたりはそこへ移り、そして満足した。
ひとたび死が訪れると、死は、なかなかその家から去って行かぬようである。王龍の老父は阿藍のかたくなった屍体《したい》を棺に入れるのを見てから気がおかしくなっていたが、ある夜、寝台へ横になって、そのあくる朝、次女がお茶を持ってはいって行って見ると、まばらに生えた老いのひげを上に向け、頭をのけぞらして寝台の上で死んでいた。
次女はそれを見ると悲鳴をあげ、泣きながら父親のところへ走った。王龍がかけつけてみると、なるほど老父はすでに死んでいた。その枯れた、軽い、こわばった、年老いた肉体は、乾からびて、冷たく、そして節くれだった松の木のようにやせていた。だいぶ前に、おそらく寝台へ横になるとすぐに息を引きとったのであろう。王龍は自分で老人の死体を洗い、かねて買っておいた棺に静かに寝かせて密封した。
「ふたりとも同じ日に埋葬することにしよう。おれの土地の、小高い、いい場所を選んで、そこへいっしょに埋めるだ。おれが死んだときも、そこへ同じように埋めてもらうだ」
彼は、そうしようと思ったままを言い、そして言ったとおりにした。彼は老父の棺にふたをして、中の部屋に腰掛けを二つならべてその上に安置し、指定された日がくるまで、そこへおいておいた。たとえ死んでも、そこにいたほうが老父は心が慰められるだろうと思えたし、王龍も、棺にはいっている老父を身近に感じることができた。老父は高齢で天寿を全《まっと》うしたのだし、また長年半分死んだも同様の状態であったから、死んでもそれほど悲しくはなかった。
占師がきめた埋葬の日は、その年の春もさかりのころであった。王龍は道教の寺院から多くの道士たちを招いた。彼らは黄いろい衣を着て、長い髪の毛を頭上にたばねてやってきた。仏教の寺からも僧侶を呼んだ。彼らは灰色の長い衣を着て、頭を刈り、九つの聖なる護符を身につけてきた。僧侶たちは一晩じゅう死者のために太鼓をたたいて読経《どきょう》した。読経の声が消えそうになると、そのたびに王龍は銀貨をつかませた。すると彼らはまた息をついで、読経の声をはり上げ、そしてこの読経の声は明け方までやむことがなかった。
王龍は丘のナツメの下の畑の一部を墓地に選んで、陳に穴を掘らせ、その周囲に土壁をつくらせた。その土壁のなかには、王龍と、子供たちやその妻たち、さらにその子供たちのぶんまで場所がとってあった。この土地は高台で小麦をつくるにはもってこいの場所なのだが、王龍は惜しいとは思わなかった。なぜならそれは、彼らの土地に彼らの家族がしっかりと根をおろしたことのしるしだからである。彼らは死んでからも生きているときも、自分の土地で憩《いこ》うのである。
葬式の日、僧侶たちが夜の読経を終わってから、王龍は白い喪服を着た。叔父にも叔父の息子にも、息子たちにも、長男の嫁にも、ふたりの娘にも、それぞれ喪服を着せた。そして、貧乏人や普通の百姓のように埋葬の場所まで歩いて行くのは体面にかかわるので、町から轎《かご》を呼んで、みなそれに乗って行くことにした。はじめて彼は人の肩にかつがれて阿藍の棺のうしろにしたがった。老父の棺のうしろへは叔父が、やはり轎でつづいた。阿藍が生きていたあいだは、その町へ出られなかった蓮華でさえ、阿藍が死んだいまは第一夫人に忠実であったことを他人に見せるため、轎に乗って行列に加わった。叔母や叔父の息子にも轎を雇ってやり、喪服を着せてやった。白痴の娘にまで喪服をつくり、轎を雇って、それに乗せたが、この娘は、ただもうびっくりし、茫然としてしまって、泣かなければいけないこの場合にも、かん高い声で笑っていた。
かなしみ嘆く泣き声を高くあげながら、彼らは墓地へと進んで行った。使用人と陳とは白い靴をはいて歩いてそのあとにしたがった。王龍は二つの墓のかたわらに立った。寺院から運ばれた阿藍の棺は、まず老父の棺が埋められるまで地面の上におろされていた。王龍は立ってそれを見まもっていた。悲しみは涙もかれるほどきびしかったが、彼は、ほかの人たちのように声をはりあげて泣くことはしなかった。当然起こるべきことが起こったのにすぎない。だれだって、これ以上のことはしてやれまい、と彼は思ったからである。
しかし、上から土をかけて土《ど》まんじゅうができあがると、彼は轎をさきに帰し、ひとりで黙々として歩いて帰った。その沈痛な悲しみのなかに、ふしぎにも、はっきりした一つの思いが浮きあがって彼の心を苦しめた。それは、阿藍が池で彼の着物を洗濯していたとき、二つの真珠を彼女からとりあげたこと、そのことであった。あんなことをするのではなかった。蓮華があれを耳に飾るのを、自分はもう二度と見るにしのびないにちがいない。
こうして心重くひとりで歩きながら、彼は心のなかでつぶやいた。
(あのわしの土地に、わしの前半生が、いやそれ以上のものが埋められているのだ。わしの半身が埋められたような気がする。もうこれからは、ちがった人生なのだ)
とつぜん王龍は、すこし涙を流した。彼は子供のように手の甲で目をこすった。
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二十七
この間ずっと王龍《ワンルン》は、結婚式やら葬式やらで、ひどく忙しかったので、収穫のことも、ほとんど考えるひまがなかった。するとある日陳がきて言った。
「祝儀、不祝儀もすみましたので畑のほうの相談をしてえと思いますだがね」
「言うてくれ」王龍は答えた。「ここのところずっと死んだものの葬式のことばかり考えていたで、畑があることすら忘れていただよ」
陳は、王龍の言葉に敬意を表して、しばらく黙っていてから、静かに言った。
「天のお加護でどうなるかわからねえだが、今年は、いままでにねえ洪水がきそうですだ。まだ夏にもならねえのに、もう増水しはじめているだでな。こんなに水がふえるなんて、すこし早すぎますだよ」
王龍は強い調子で言った。
「わしは天のおいぼれ神から恩恵なんぞ受けたことはねえだ。線香をあげてもあげなくても、あいつは悪いことばかりしやがる。さあ、これから行って田畑を見まわってこよう」
彼はそう言って立ちあがった。
陳は、おどおどした小心者なので、どんな凶年でも、王龍のように神をののしるようなことはしなかった。ただ、「神のおぼしめしですわい」と言って、洪水でも旱魃《かんばつ》でも率直に受けいれたのである。しかし王龍はそうではなかった。彼は田畑をあちこち歩きまわって、陳の言ったとおりなのを見た。黄《ホワン》家の老大人から買った濠にそった田畑はしめって、底からにじみ出てくるたくさんの水のためにぬかるんでいるので、麦の色があせて黄いろくなってしまっていた。
濠は湖のようになり、溝は渦巻き流れる急流のようになっていた。夏の雨がまだこないのにこの有様では、今年は恐ろしい洪水になるだろう。そして男も女も子供たちも、また飢えるだろう。それはどんなおろかなものの目にも明白だった。
王龍は田畑をかけずりまわり、陳は黙々として影のようにそのあとからついてきた。ふたりは、どの田に稲を植えられるか、どの田が苗を植える前に水びたしになってしまうか、と見さだめあった。すでに岸すれすれにあふれそうな溝を見ながら、王龍は天を呪って言った。
「天の老いぼれじじいが、よろこんでいやがる。人間どもが、おぼれたり飢え死にしたりするのを見てえのだろう。あのごうつくばりの好きそうなことだて」
彼が大きな声で怒って言うと、陳は、身ぶるいして言った。
「もしそうだとしても、天の神は、わたしたちのだれよりもえれえだよ。旦那、そんなことを言っちゃいけねえだ」
しかし王龍は金持ちになってからは、だれにも気がねせず怒りたいだけ怒った。田畑や作物が水びたしになるのを考えて、家に帰る途中も、ぶつぶつ不平を言っていた。
すべて王龍が予想したとおりになった。北方にあたる川が堤防を、まずいちばん遠い堤防を決潰《けっかい》させた。それを知った人々は急いで修築費を集めにかけまわった。すべての人が、できるだけ金を出した。堤防を守るのは彼らの利害に関するからだ。その金を、この地方の新任の長官に委託した。この長官は貧しい男で、こんな大金を見たのは生まれてはじめてだった。それに、彼の父親が自分の財産と借金とで彼にいまの地位を買ってやったから今度長官に昇進できたわけである。だから、この地位を利用して、彼の一家は一財産をつくらねばならなかった。川がふたたび堤防を破ると、人々はわめきたてながらこの長官の館に押し寄せて行って、堤防修繕の公約不履行を責めたてた。
彼は三千枚もの銀を自分の家のために使ってしまったので、どこかへかくれてしまった。民衆は腹いせに、彼を殺せとわめきたてながら邸内に乱入した。彼は自分がのがれがたいことを知ると、水に身投げしておぼれ死んだ。人々の怒りは静まった。
しかし、金はなくなり、もうもどってはこなかった。川はみなぎりあふれて、つぎつぎと堤防をこわして行き、この地方をのこらず手におさめぬうちは満足しないかのようであった。そのうち、その地方のすべての堤防がおし流されてしまって、かつてどこに堤防があったのか、だれにもわからないようになってしまった。川は水かさを増し、田畑の上を海流のように進んで行った。小麦と稲の苗は水底になってしまった。村々は、つぎつぎと島になり、人々は水の高まるのをみつめていた。戸口まであと二尺のところまでくると、人々はテーブルや寝台をいっしょに結びつけ、戸をとりはずして筏《いかだ》にし、寝具や着物や女や子供を、できるだけこの筏の上に積みこんだ。水は家のなかにまではいってきて、土壁をやわらかくして、ばらばらにくずし、水にとかしてしまって、もはやその形も残さなかった。また、地上の水が天井の水を引きよせるかのように、猛烈な勢いで雨が降りつづいた。毎日毎日、雨が降った。
王龍は戸口にすわって水を見渡した。高く広い丘の上に立っている彼の家からは、まだ水はだいぶ下だった。田畑は一面に水におおわれていた。新しくつくった墓地が水の下になりはしまいかと、そこに目をやった。黄いろい粘土をふくんだ水が、死者の周囲を飢えているようにひたひたとなめていたが、水はかぶっていないようである。
この年は収穫がぜんぜんなかった。いたるところで人々は飢え、腹をすかして、ふたたび彼らにふりかかったこの災難を呪っていた。あるものは南へ行った。あるものは図太くなり、天を呪い地を呪った末、やけになって匪賊団に加わって南方の田舎を荒らしまわった。匪賊は、だんだんはびこって、町をおそいに行こうとしたが、町の人々は、西の水門と呼ばれる小さな城門一つだけ開いて、他は全部門を閉めきり、その西の水門も兵隊が守って夜は閉めてしまった。匪賊になるものもあり、また以前王龍が父と妻と子供たちを連れて乞食をしに行ったように南へ働きに出かけるものもいたが、陳のように、年老いて疲れ、臆病になり、子供もない人々もいた。そういう人たちは、この地にとどまったが、飢えて、草や高地でみつけた葉を、どんなものでも食べた。そして、たくさんの人々が地の上、水の上で死んだ。
未曾有《みぞう》の飢饉がいよいよ襲ってくるだろう、と王龍は思った。冬の小麦の種まきどきになっても水は引かなかった。これでは来年も収穫がない。彼は家計に注意し、金や食べものを浪費しないように監督した。杜鵑《ドチュエン》がずっと以前から町で毎日肉を買っていたのをまだやめないので、むきになって文句を言ったが、そのうち洪水が家と町とのあいだを遮断し、杜鵑は行きたくても市場へ行けなくなった。やっと王龍はよろこんだ。というのは、彼の命令がなければ小舟を出すのを許さず、陳が彼の言いつけを守って、杜鵑がいかに言葉鋭く弁舌をふるっても断じて承知しなかったからである。
王龍は冬になるまで自分の命じた量以外は穀物の売買を許さず、持っているものを倹約した。ただ、嫁に、その日うちで必要な食料をあたえるだけだった。彼は使用人をぶらぶら遊ばしておくのがきらいだったが、使用人の入用な分だけを陳に渡した。陳は使用人たちを遊ばしておくのが苦痛でたまらず、寒い冬がきて水がこおると、南へ出かけて行って、乞食をしたり働いたりして、春になったらもどってくるようにと言い渡した。ただ、蓮華《リエンホワ》にだけは、そっと砂糖や油をあたえた。彼女は窮乏生活には慣れていないからだ。正月になっても、彼らは湖で自分たちが釣った魚を一尾と、飼育場で殺した豚を食べただけだった。
王龍は見かけほど貧乏ではなかった。当人たちは知らないが、長男と嫁が寝ている部屋の壁に銀をかくしてあるし、湖の底になっている一ばん近い畑の下にも銀の壺が埋めてあるし、竹やぶの根元にも、いくらかかくしてあった。また市場で売りのこした昨年の穀物もあった。彼の家には餓死の危険はなかった。
しかし、彼のまわりは窮民ばかりだった。彼は以前黄家の門前を通ったときに耳にした飢えている人々の叫びを思い出した。彼がまだ自分や子供たちが食べて行ける食べものを持っているので、多くの人々が自分を憎んでいることも知っていた。そこで彼は門を閉じて、見知らぬものは入れないようにした。こんなに用心しても、叔父がいなければ、こんな時勢では匪賊や無法者どもに対しては防禦《ぼうぎょ》ができないこともよく知っていた。叔父がいなかったら、食べものも金も女どもも盗まれていただろうと、十分承知していた。だから叔父一家には、いんぎんにし、彼ら三人は彼の家の賓客のようだった。彼らは、だれよりもさきに茶を飲み、食事のときには一ばんさきに皿に箸をつけた。
王龍が自分らを恐れていることを、彼ら三人はよく知っていたので、しだいに増長して、あれこれと要求するようになり、飲み物や食べ物の不平を言うようになった。ことに叔母は、後房で食べていたごちそうがなくなったので、夫にぐちを言い、三人で王龍に苦情をならべた。
叔父は年老いてものぐさになり、むとんちゃくになっているので、ほうっておけば文句を言わないだろうと王龍は思ったのだが、その息子と妻が叔父を責めたてるのである。ある日、王龍が門口に立っていたとき、ふたりが老人をそそのかしているのが聞こえた。
「あの男は食べものも金もあるんだから、銀をもらうことにしようじゃないか」今度は妻が言った。「あいつをとっちめるのに、こんないい機会は二度とねえだよ。もしあんたがあの男の叔父でなかったら、この家は匪賊に襲われて洗いざらい略奪されたうえ、火をつけられて焼け野原になってしまうことも、あんたが赤ひげ団の副頭目だということも、あいつは知ってるだからね」
王龍はそっとこれを立ち聞きして、肌がはり裂けるほど無念だった。彼は懸命にこらえ、この三人をどうしてくれようかと考えたが、別にこれという名案も浮かばなかった。それゆえ、叔父が、翌日きて、「甥御《おいご》や、キセルとたばこをすこし買うだが、銀を一握りほどくれねえだか。女房も着物がぼろになって新しいのがいるだでな」と言ったときには、心のなかでは歯がみをしたが、腹巻きからとり出した銀を五枚渡しただけで、何も言えなかった。昔、貧乏で金がなかったころでも、こんなに不愉快な気持ちで、人に金を渡したことがないような気がした。
二日もたたぬうちに、また叔父がやってきて、銀を請求した。とうとう王龍はどなりつけた。
「そんなにしたら、すぐ食えなくなるだが、それでもいいだかね?」
叔父は笑って平気で言った。
「おまえは運がいいだよ。おまえよりも貧乏なくせに、自分の家の梁《はり》からつりさげられて焼き殺されたやつが、幾人もいるだでな」
王龍はそれを聞くと、冷や汗がからだをつたわった。彼は何も言わずに銀を渡した。家のものは肉を食べずにすましたが、叔父一家では、かならず肉を食った。王龍が、ほとんどたばこを吸わないのに、叔父は、たえずキセルをふかしていた。
王龍の長男は結婚生活に心を奪われていて、家のなかの出来事をほとんど知らず、叔父の子に新妻を見せないように嫉妬ぶかく警戒してばかりいた。このふたりは、もう親友ではなく敵だった。王龍の長男は、従兄《いとこ》が叔父といっしょに外出してしまってからでなくては妻を部屋から出さなかった。そして日中は部屋に閉じこめておいた。しかし叔父の一家が父に対してわがままな仕打ちをするのを見ると、王龍の長男は気短かな性質なので、怒って言った。
「あなたの息子や、あなたの孫の母親になるべき嫁よりも、あの三匹の虎をたいせつにするなんて、そんなおかしなことがありますか。わたしたちはどこかへ別居しますよ」
そのとき王龍は、これまでだれにも言わなかったことを、かくさず長男に話した。
「わしも、あの三人ほど憎いものはねえだよ。もし何かいい方法があればやっつけてやるだが。しかし叔父は獰猛《どうもう》な匪賊団の副頭目だでな。養って大事にしておけば、わしたちも安全なのだ。だれも、やつらを怒りつけるわけにゃいかねえのだよ」
長男はこれを聞くと、とび上がるほどびっくりしたが、しばらく考えているうちに、前よりももっと腹が立ってきた。
「こうしたらどうですか。夜、やつらを水のなかへ突き落としてしまうんです。叔母は、ふとっちょで弱々しいし、からだも自由にならないから、陳だって突き落とせるでしょう。従兄《いとこ》のやつは、いつもわたしの女房ばかりのぞいて、いやなやつだから、わたしがやります。おとうさんは叔父さんを投げこめるでしょう」
しかし彼は殺せなかった。自分の牛を殺すよりも、むしろ叔父を殺すほうが楽だと思ったが、どんなに憎んでいても、殺す気にはなれなかった。
「いや、かりにも父親の弟だで、水に突き落とせたにしても、そうしてはいけねえだ。もしほかの匪賊どもがそれを聞いたら、わしたちはどうなるだ。あの男が生きてさえいれば、わしたちは安全なのだ。もしあの男がどこかへ行ってしまったら、このごろみてえな時勢では、いくらか物を持っている人たちと同じような危険な目にあうだでな」
ふたりとも、どうしようかと思い迷って黙りこんだ。青年は父親の言うことが道理だと思った。殺すなどという簡単な方法では、この問題は解決できない。何か別の方法があるにちがいない、とさとった。とうとう王龍は思案しながら、口に出して言った。
「もしあいつをここにおいたままで、めんどうなことが起こらねえようにする方法があったら、どんないやなことでもいいだが、しかし、そんな魔法は、とてもあるまいて」
そのとき長男は両手を打って叫んだ。
「いいことがある。おとうさんがいまおっしゃったので気がつきましたよ。阿片を買って、あいつらに吸わせましょう。金持ちがやるように存分に楽しませるんです。わたしはまた従兄と仲よくして、町の茶館へさそい出して阿片を吸わせます。叔父夫婦にも阿片を買ってきてやりましょう」
しかし王龍は自分が最初にこのことを思いつかなかったので、あやぶんだ。
「しこたま金がかかるだろうてな」と彼はゆっくり言った。「阿片はヒスイと同じくらい高価なものだでな」
「そうです。でもいまのようにさせておいたら、ヒスイよりも高くつきますよ」青年が反駁した。「その上に、あいつらのずうずうしさや、従兄のやつがわたしの女房をねらうのをがまんするなんて、とても辛抱できませんよ」
しかし王龍は、すぐには同意しなかった。簡単にできることではないし、袋一杯ほどの銀がいる。ここにもしある事件が持ちあがらなかったならば、その方法が果たして実行されたかどうかあやしいものである。おそらく洪水が引いてしまうまで、そのまま過ぎたことだろう。
それは叔父の息子が、彼の従妹、彼にとっては妹も同様な王龍の次女に目をつけたことである。王龍の次女は非常に美しい娘で、商人になった次男とよく似ていたが、もっと小柄で、明朗で、次男のような黄いろい肌をしていなかった。皮膚が白くて巴旦杏《はたんきょう》の花のような薄色をしていた。鼻は小さく、こぢんまりしており、くちびるは薄く赤く、足は小さかった。
ある夜、彼女がひとりで台所から庭を通って行ったとき、従兄が彼女をつかまえた。従兄は彼女を乱暴につかまえて、手を胸のなかへ入れた。彼女は悲鳴をあげた。王龍がかけだして行って彼の頭をなぐりつけた。しかし彼は盗んだ肉をくわえた犬のように離そうとしなかった。王龍は娘を引きはなした。彼は、ぼんやりと笑って言った。
「ほんの冗談だよ。妹じゃないか。妹に悪いことができるかい」しかし、そう言いながらも彼の目は情欲に燃えていた。王龍は、ぶつぶつ言い、娘を連れて帰って彼女の部屋へ入れた。
その夜、王龍はこの話を長男にした。長男は、真剣になって言った。
「あの子を町の許婚の家へやらねばなりますまい。劉さんが結婚には凶年で都合がわるいと言っても、引き取ってもらわねばなりません。でないと、あんなさかりのついた虎みたいなやつが家のなかにいては、あの子を無垢《むく》にしておいてやるわけにはいきません」
王龍も同意した。彼は翌日、町の商人の家へ行って言った。
「わしの娘も、もう十三になりましたで、子供ではねえですだ。そろそろ結婚してもよい年ごろですだよ」
しかし劉は気が進まないらしい。
「今年はわたしのところは不景気でしてね、こんな年に新家庭を持たせたくないですな」
王龍は「家には叔父の息子がいましてな、そいつが無法者でして」と言うのが恥ずかしかったので、ただこう言っただけだった。
「あの娘のめんどうが、わしには見きれなくなったですだよ。母親は死んでしもうたし、美しくはなったし、それに年ごろになりましたでな。わしの家は大きくて、何やかやごたごたしておりまして、あの子のことで目のとどかぬこともありますだでね。あの娘は、どうせお宅の家族になるのだで、まちがいのねえようにしてえと思いますだよ。婚礼の時期はお好きなときになさってけっこうですだで」
寛大で親切な商人が答えた。
「そうですか、そういう事情でしたら、娘さんをおよこしなすってくだきい。家内に話しましょう。よこしてくだされば家内にまちがいないように預からせます。来年の収穫時あたりには婚礼させられると思いますよ」
こうして事件は解決し、王龍は、たいへん満足して帰った。
陳が船を浮かべて待っている楼門まできたとき、たばこと阿片を売っている店の前を通りかかった。毎夕キセルにつめる刻みたばこをすこし買うためになかへはいった。店員がそれをはかっているとき、あまり気が進まないようなふうで店員にきいてみた。
「阿片はいくらかね。もしお宅にあればの話だが」
店員は答えた。
「店頭で売るのは最近法律で禁じられていますので、お売りしません。もしご入用なら、そして銀をお持ちなら、このうしろの部屋で扱っております。一オンス銀一枚です」
王龍はそれ以上考えもせずにすぐ言った。
「六オンスもらおう」
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二十八
次女を家から送り出してしまい、彼女のことで気をつかわずにすむようになると、王龍《ワンルン》は、ある日、叔父に言った。
「あんたは、わしの父親の弟だで、あんたに、いいたばこをさしあげますだ」
彼が阿片《あへん》の壼を開けると、中身はべとべとして、甘いにおいがした。叔父はそれをとってにおいをかぎ、うれしそうに言った。
「これはいい。前に吸ったことがあるだが、そんなにしじゅうやったわけじゃねえだ。なにしろ高いだでな。しかし、おれは大好きだよ」
王龍は何げないふりをして答えた。
「おやじが年をとって夜眠れなかったとき、一度ほんのすこしばかり買っただよ。きょう使い残りをみつけたでね。わしは考えただ。『父親の弟なら、おれよりさきに吸うべきだ。おれは叔父さんよりも若いだで、まだいらねえだ』とね。お持ちなせえ。吸いてえときや心配事のあるときに吸いなさるがいいだ」
叔父は、がつがつとそれを取った。というのは、においがいいし、金持ちしか吸っていないものだからだ。彼はキセルを買い、一日じゅう寝床に横になって阿片を吸った。王龍もキセルを何本も買ってあちこちにおき、彼も吸っているようなふりをした。しかし部屋にキセルを持って帰るだけで、ほんとうにはけっして吸いはしなかった。またふたりの息子にも蓮華《リエンホワ》にも、高価であるのを口実にして阿片に手をふれさせなかったが、叔父と叔母とその息子にはすすめた。家じゅう煙の甘美なにおいでいっぱいになった。これに使う銀を王龍は惜しまなかった。彼はそのために平和を得たからだ。
冬が去り、水がひきはじめたので、王龍は方々の畑を見にまわることができたが、するとある日、長男がついてきて、誇らしげに言った。
「おとうさん、まもなくもう一つの口がふえますよ。おとうさんの孫の口です」
これを聞いて王龍はふり返り、笑って両手をこすりあわせて言った。
「じつにいい日だて。まったくいい日だ!」
もう一度彼は笑った。そして陳をさがして、町へ魚やうまい食べものを買いにやらせ、それを息子の妻にあたえて言った。
「これを食べてな、からだのしっかりした孫を生んでおくれよ」
この春のあいだじゅう、王龍は孫が生まれるのを楽しく思い暮らした。他の仕事で忙しいときにも、このことを心に思いうかべた。心が苦しいときにも、これを考えてなぐさめられた。
春が過ぎて夏になるにつれて、洪水のために土地をはなれた人たちが、冬に疲れはてて、ひとりまたひとり、あるいは一団また一団ともどってきた。彼らの家があったところは、いまは何もなかった。ただ水びたしの黄いろい泥ばかりなのに、彼らは、もどってきたことをよろこんでいた。この泥から、家はふたたび築けるのだ。しかし屋根にするムシロは買わねばならない。多くの人たちが王龍のところへ金を借りにきた。彼は高利で金を貸した。借りたい人が、じつに多いのを知っていたからだ。そして抵当は、かならず土地でなくてはいけないと言った。彼らは借りた金で、水がかわいて肥沃《ひよく》になった土地に種子をまいた。牛や種子や鋤《すき》が必要なのだが、それ以上借金できないときは、人々は土地を売り、田畑の残った部分に種子をまいた。王龍はこういう田畑を、どんどん手に入れた。しかし人々はどうしても現金が必要だった。だから彼は安く土地を手に入れることができた。
しかし田畑を売ろうとしない人々もいた。彼らは種子や鋤や牛を買う手段のない場合には娘を売った。彼らのなかには、王龍が金持ちで、勢力家であり、そして親切な人だと知っているので、彼のところへ娘を売りにくるものもあった。
彼は、まもなく生まれる孫のことを考え、息子たちがみな結婚したら、ぞくぞく孫が生まれてくることを考えて、奴隷を五人買った。ふたりは十二歳で、大きな足と、たくましいからだつきをしていた。それよりも若い娘ふたりは家族一同の手伝い女にし、ひとりは蓮華につきそわせた。杜鵑《ドチュエン》が年老いてきたし、末娘がいなくなってから家のなかで働くものがいなくなったからである。ある日、彼はこの五人を一度に買ったのであった。決心したことはすぐ実行できるほど彼は裕福だったからである。
それからまもなく、ある日、ひとりの男が七歳かそこらの小さな弱そうな女の子を抱いて売りにきた。王龍は、その子があまり小さくて、弱々しいので、最初は、ほしくないと言ったが、蓮華がこの子を見て気に入ってしまい、だだをこねるように言った。
「あたし、この子がほしいわ。こんなにきれいなんですもの。いま使っている子は下品で、いやなにおいがするので、好かないのよ」
王龍も、よく見ると、美しい、おびえたような目をしており、痛ましいほどやせていた。王龍は半分は蓮華の機嫌をとるために、また半分はこの子に食をあたえてふとらせたかったので、言った。
「うん、そうしてえのなら、そうしてもいいだ」
そこで彼は銀二十枚でその子を買い、後房へ住まわせて、蓮華の寝床の足もとに寝かせることにした。
やっとこの家も平和になったような気がした。水がひき、夏がきて、畑に種まきをしなければならない季節になると、彼はあちこちと歩いて全部の畑を見まわった。そして、それぞれの場所の土質のことや、肥えた土とやせた土とに応じた作物の選定などについて陳と相談した。彼は畑へ行くときには、いつも末の息子を連れて行った。末の息子には畑のほうを継がせるはずで、見習いをさせているのだ。王龍は子供がどんなようすで聞いているか、あるいは聞いているのかどうか、見もしなかった。子供は、うつむいて、不機嫌そうな顔つきをして歩いていた。何をこの子が考えているのかわからなかった。
黙って父親のあとについて歩いていることは知っているが、彼が何をしているのか王龍は知らなかった。すっかり計画を立て終わると、王龍は安心して家に帰った。心のうちで彼は言った。
(おれももう若くねえだ。野良には作男がおるし、息子たちもおる。それに家は平穏無事なのだから、これ以上おれが自分で働く必要はねえだ)
それでも、一歩家のなかへ足を踏み入れると、平和はなかった。息子を結婚させ、みんなの用をさせるために奴隷を買い、叔父夫婦には終日楽しんでいられるように、たっぷり阿片をあたえてあるにもかかわらず、平和ではなかった。叔父の息子と長男のために、ふたたび平和でなくなったのである。
王龍の長男は従兄に対する憎しみと、従兄が悪党ではないかという邪推を捨てきれなかったようである。彼は青年のころ、この従兄が、あらゆる悪事をはたらいていることを目で見ていたのだ。長男は従兄が茶館に行かなければ自分も行こうとはせず、たえず監視していて、彼が行くときだけ行くようにしていた。彼は従兄が奴隷や後房の蓮華とさえ悪いことをしているとうたぐった。しかし、それは根も葉もないことだった。というのは、蓮華は日ましにふとって老いてき、だいぶ以前から食物と酒以外には興味を持たなくなっていたからである。そばへ近づく男を見ても問題にしなかった。王龍が年をとって、彼女のところへ通うのがだんだんまれになるのをよろこんでさえいたのだ。
いま王龍が三男と畑から帰ってくると、長男が彼を片隅へ引っぱって行って言った。
「あの従兄のやつが、この家のなかをのぞきまわったり、着物にボタンもかけずにのらくらしていたり、いやらしい目つきで奴隷たちをみつめたりするのを、わたしはもうこれ以上がまんしていられません」彼は思っていることをこれ以上口に出せなかった。「おとうさんの愛妾《あいしょう》のいる後房をさえねらっているんですよ」と言いたかったが、彼は自分もこの父親の愛妾のまわりをうろついたことがあったので、うしろめたかった。それに、いま蓮華がふとって年とっているのを見ると、そんなことをしたとは夢にも思えなかったし、たいへん恥ずかしくもあるので、父親に思い出させたくなかったのだ。そこで彼は、このことにはふれず、ただ奴隷のことだけ言ったのである。
水が引いて、空気がかわいて暖かくはあり、また三男がいっしょに行ったことがうれしかったので、王龍は愉快に畑から帰ってきて、たいへん機嫌がよかったのだが、家内のこの新しいいざこざを聞くと、怒って答えた。
「いつまでもそんなことばかり気にしていて、おまえもばかなやつだて。おまえは女房に惚《ほ》れただ。惚れすぎただよ。みっともねえだぞ。親のきめてくれた女房なんぞを世界じゅうで一ばん大事にするやつがあるか。まるで女房を淫売《いんばい》でもかわいがるみてえに、ばかげたうぬぼれた愛情でかわいがるなんて、男のすることじゃねえだぞ」
青年はこの父親の非難に気を悪くした。まるで彼がつまらぬ無知な人間ででもあるかのように、まちがったふるまいをしたといって非難されることを、彼は、なんにもまして恐れていたのである。彼は急いで言った。
「わたしは女房のことを言っているんじゃないです。おとうさんの家にこんなことは似つかわしくないからです」
しかし王龍は耳をかさなかった。彼は怒って考えながら、また言った。
「家のなかに雄と雌とのいざこざの終わるときはねえだかね。わしも老年にはいってきて、血も冷えて、やっと欲望もなくなって、これからすこしのんびりしようと思っていただ。だのにわしは、息子の欲望だとか嫉妬だとか、そんなものにわずらわされなきゃならねえだか」そして、ちょっと間をおいて、またどなった。「それでおれに、どうしろと言うだ」
青年は父親の怒りが静まるのを、じっと待っていた。言いたいことがあったからである。王龍もそれをはっきり知っているので、「おれにどうしろと言うだ」とどなったのである。青年は、しっかりと答えた。
「この家から引っ越して、みんなで町へ行って住みたいんです。作男みたいに田舎に住みついているなんて、わたしたちには似つかわしくないと思うんです。わたしたちが町へ行って、叔父一家をここへ残しておきましょう。町の城壁のなかでなら安全に過ごせると思うんです」
長男が言うのを聞いて、王龍はちょっと苦笑した。とるに足らぬものとして長男の願いをはねつけ、考えてみようともしなかった。
「これはわしの家だ」王龍は力強く言って、テーブルに腰かけ、たばこを手もとに引きよせた。
「おまえが、ここに住もうと住むまいと、それは勝手だ。これはわしの家、わしの土地だでな。土地のおかげがなかったら、他の人々みてえに、わしたちもみな飢え死にしてしまうだ。おまえだって、しゃれた着物を着て、学者のようにのんびりと歩きまわってなんぞいられやしねえだぞ。この土地があるからこそ、おまえだって百姓の小伜よりはちっとはましな男になれただぞ」
王龍は立ちあがって中の部屋へはいり、足音あらく歩いたり、乱暴な身ぶりをしたり、床に唾《つば》を吐いたりして、まったくの百姓のようにふるまった。王龍は、一方では息子の洗練された風采《ふうさい》をよろこんでいたが、他面では、その柔弱さを軽蔑していたのである。そして内心では息子を自慢していた。それは、だれが見ても、この息子が土地を離れて一代しかたっていないとは、とても想像できないからである。
しかし長男は、この考えをあきらめようとしなかった。彼は父親のあとを追いながら言った。
「もとの黄《ホワン》家の大きな屋敷があります。表のほうの建物は貧乏人どもが幾人も住んでいますが、奥のほうは閉めきりで、静かです。あそこを借りましょう。あそこなら平和に暮らせます。そうすれば、おとうさんと末弟は田畑を方々見まわることができるし、わたしはあの従兄の犬畜生に憤慨しなくてもすみます」彼は熱心に父親を説いた。目に涙をうかべ、頬《ほお》にまでつたわらせ、それをぬぐいもせずに、言葉をつづけた。「わたしはいい息子になろうと心がけています。バクチもしないし、阿片も吸いません。おとうさんの選んでくれた女で満足しています。そしてわたしは、いまほんの小さなお願いをしているのです。わたしの願いは、これだけなんです」
王龍は涙だけで動かされたのかどうか自分にもわからなかったが、息子の言った『黄家の屋敷』という言葉に心を動かされた。
王龍は、昔あの屋敷へおずおずとはいって行ったこと、そこに住んでいた人たちの前で恥ずかしい思いをしたこと、門番にまでおびやかされたことを、忘れたことはなかった。一生の恥ずかしい思い出として残っていたのだ。その思い出を彼は憎んだ。これまでの生活を通じて、彼は町の住人たちから、自分たちよりも一段低い人間だという目で見さげられているのを意識してきた。それを一ばん痛切に味わったのは、黄家の老夫人の前に立ったときであった。だから、長男に「あの屋敷に住みましょう」と言われたとき、つぎのような考えがひらめくように心にうかんだのであった。そして、その光景を眼前に見るような気がした。
(あの老夫人が、おれを農奴《のうど》のように前に立たせてすわっておったあの椅子に、今度はおれが腰をかけてやるのだ。あそこにすわって、おれの前へ、だれでも呼びつけられるのだ)彼は、じっと考えてから、ふたたびひとりごとを言った。(やろうと思えば、そうできるのだ)
そして彼はその考えを楽しみながら、黙ってすわっていて、長男に返事をしなかった。キセルにたばこを詰め、火のついているつけ木で火をつけ、たばこを吸い、したいと思えばできる事柄を、あれこれと想像した。息子のためでも叔父の子のためでもなく、自分が黄家の屋敷に住めたら、と夢想したのである。あの家は、彼にとっては、いつまでも豪壮な邸宅として心に思い描かれるのであった。
彼は最初は、町へ行こうとか、現状を変えてみようとか、そんなことは口に出さなかったが、それでもその後は、だらしのない叔父の子が、前よりもいっそう不愉快に思えた。よくよく気をつけて見ると、甥が女に目をつけているのは、どうやら事実のようであった。王龍は、心でつぶやいた。
(もうこんなさかりのついた犬みてえなやつと一つ屋根の下には住めんわい)
彼は叔父を見た。叔父は阿片を吸うので、めっきりとやせほそり、肌《はだ》が阿片のために黄いろくなり、腰が曲がって老いが目立ち、咳《せき》をすると血を吐いたりした。叔母のほうはというと、彼女はキャベツのように丸くふとり、阿片のキセルを手からはなさず、しじゅう眠そうにしていた。ふたりとも、もうめんどうなことはほとんどなかった。阿片が王龍の望みどおりの役目をはたしてくれたのだ。
だが、叔父の伜《せがれ》がいた。この若者は、まだ結婚もしていないし、欲望で野獣のようになっていた。ふたりの老人のように簡単に阿片に負けもせず、夢だけで情欲を忘れてしまおうともしなかった。王龍はこの若者に嫁をもらってやろうとはしなかった。こんな男はひとりでたくさんだ。子を生まれたりしたらたまらない、と思ったのだ。夜、彼がついやす時間を労働と言わないならば、彼は何もしなかった。働く必要がないし、だれも彼を働かせようと強《し》いるものはなかったからだ。それも、このごろでは、あまり頻繁《ひんぱん》に出かけないようになった。というのは、人々がこの土地へ帰り住むようになると、村にも町にも秩序が回復して、匪賊《ひぞく》どもは北西の山岳地帯へ退却してしまったからである。彼は王龍の恩恵にたよっているほうがいいので、彼らとともに行こうとしなかった。こうして彼は一家の頭痛のたねとなり、しゃべったり、怠けたり、あくびをしたりしながら、家のなかをどこでもうろついていて、正午になっても着物をきちんと着ているようなことはなかった。
それで、ある日王龍は、穀物商店につとめている次男に会いに町へ行ったとき、次男に相談してみた。
「なあ、もし黄家の屋敷の一部が借りられたら、町へ移りてえと、おまえの兄さんが言うだが、どう思うだ?」
次男は、もうすっかりいい青年になっていた。あいかわらず小柄で、肌が黄いろく、悪がしこそうな目つきをしていたが、他の店員と同じく、人ざわりのよい、小ぎれいな男になっていた。彼は、すらすらと答えた。
「そりゃ、たいへんけっこうですね。わたしにも好都合です。わたしもその屋敷で結婚して妻を持つことができるし、大家族が一つ屋根の下にみんないっしょに住めるわけですからね」
王龍は、この息子の結婚については、なんの配慮もしていなかった。次男は冷静な若者で、女にたいする興味などあるようなそぶりは見せなかった。だから王龍は、ほかの多くの雑事に気をとられて、次男の結婚などということは考えてもいなかったのである。しかしいま、これまで次男にたいして、さっぱり心づかいをしてやれなかったことが恥ずかしくなって、彼は言った。
「おまえの結婚ということについては、長いこと心にかけてはいただが、あれやこれやで時間がなかったり、飢饉でごちそうができなかったりでな。しかし、また食べて行かれるような世の中になっただし、その件は、なるべく早くとり運ぶことにしよう」
王龍はどこから嫁をさがしてこようかと、あれこれ心のなかで考えた。そのとき次男が言った。
「そうですか。そんなら結婚しましょう。もともといいことなんだし、ヒスイなどに金を使うよりも、必要なことに使うほうがいいですからね。なんといっても人間は子供を持つのがほんとうですよ。しかし兄さんのように町の女はもらわないでくださいよ。実家のことを、いつまでも口に出したがるでしょうし、それに亭主に金を使わせるでしょうからね。わたしはいやですね」
王龍はこれを聞いて驚いた。というのは、長男の嫁を、立居《たちい》振舞《ふるまい》の正しい、しとやかな女で、容貌も美しいと思っていただけで、そんな一面があるとは知らなかったからだ。しかし次男の言ったことは、まことに賢明で、この次男が金をためることにも鋭敏で抜けめがないことを知って、たいへんうれしく思った。じっさい彼は、この次男については、ほとんど知らないといってよかった。活発な兄のかげで弱々しく育ち、高い声でもはりあげて話さないことには、少年時代も青年時代も、たいして人から関心を払われなかった。次男が町の商店へ行ってからは、王龍は彼のことを日一日と忘れて行った。ただ、だれかに子供が何人あるときかれると、「三人ですだ」と答えて思い出すくらいのものであった。
いま、青年となった次男を見ると、彼は髪を短く刈り、油でよくなでつけて、小さな模様の灰色の絹の清潔な長衫《チャンサ》を着て、きびきびとふるまい、目はしっかりして、ひそかに相手を見抜くようであった。彼は驚いて心のなかで考えた。
(うむ、これもおれの子か!)それから彼は声に出して言った。「どんな女がいいだかね?」
若者は前々から考えておいたかのように、よどみなくきっぱりと言った。
「農家からもらいたいな。相当な地主の娘で、貧乏な親戚がなくて、持参金が相当あって、顔は、まずくもきれいでもなくて、料理がじょうずで、台所におおぜい召使がいても監督できるようなのがいい。それから米を買うにしても、十分なだけは買うが、一つかみも余分には買わず、布地を買っても、着物を裁つときに掌をかくすほどの半ぱの布端《ぬのはし》も出ないようにする、そんな女がほしいですね」
王龍はこの話を聞くと、いっそう驚いた。彼自身の息子であるのに、この次男の生活を、よく見たことがなかったからだ。若いころの頑丈《がんじょう》だった彼の体内にも、また長男のからだにも、こんな気質は流れていなかった。王龍は次男のかしこさに感心し、笑って言った。
「よし、そういう娘をみつけることにしよう。陳をやって村々をさがさせよう」
笑いながら彼は次男とわかれ、黄家のある町の通りを歩いて行った。石造の獅子《しし》のあいだでちょっとためらったが、だれもとめるものもないので、彼は屋敷のなかへはいって行った。前庭は、長男のことを心配して娼婦に会いにきたときを思い出させるほどで、以前とすこしも変わっていなかった。木々には洗濯物がかかっており、女たちが、いたるところにすわって、長い針をあちこち動かして靴底を縫いながら世間話をしていた。子供たちは裸《はだか》でころげまわり、庭の床瓦の上でほこりまみれになっており、没落したこの大きな庭に満ちている貧乏人どもの臭気が、そこら一面に悪臭を放っていた。彼は例の娼婦が住んでいた部屋の扉を見たが、扉は開いていて、いまは他の老人が住んでいた。これを見ると王龍はよろこんで、どんどんなかへはいって行った。
むかし、あの豪家の黄家がここに住んでいたころは、王龍も、これらの貧乏人たちのひとりとして、黄家をなかば憎み、なかば恐れていたものだ。しかしいま、土地を持ち、金や銀を安全にかくし持っている彼は、そこら一帯に群れている貧乏人どもを軽蔑した。彼らが、ひどくきたなく思えて、そのなかを通り抜けるときには顔をそむけ、彼らの悪臭をかがないように息を深く吸いこまずに通った。彼らを軽蔑し、自分も黄家の一員ででもあるかのように彼らをきらったのである。
彼は、別に借りるときめたわけではなく、なんということもない好奇心だけで、その庭々を通り抜けて行った。奥のほうに、別の中庭にはいる、かんぬきのかかった門があり、そのそばで老婆が居眠りをしていた。よく見ると、以前門番をしていた男の女房で、例のあばた面《づら》の女だった。彼はひどく驚いて、つくづくと女をながめた。彼がおぼえているのは、小ぶとりの中年女だったが、いまは、やつれて、しわがより、白髪になって、黄いろいそっ歯が抜けそうになっていた。こうしてその女をみつめていると、その一瞬間に彼がまだ若者で、最初に生まれた子供を抱いて連れてきたときから、いかに多くの歳月が、いかに速やかに流れ去ってしまったかということを、まざまざと見せつけられるようであった。生まれてはじめて王龍は、そっと忍びよってくる老いを感じた。
彼は老婆に、すこし悲しそうに話しかけた。
「起きて、わしを門のなかへ入れてくれねえだか」
すると、老婆は目をしばたたきながら急に起きあがり、かわいたくちびるをなめて言った。
「奥のほう全部を借りてくださる方のほかには、門を開けてはならぬと言われておりますので」
急に王龍は言った。
「よし、借りるよ、気にいったらな」
彼は自分が何者かを言わず、女のあとから、なかへはいった。道をはっきりと思い出しながら、女について行った。奥庭はひっそりしていた。彼が結婚のごちそうの籠《かご》をおいた小部屋もそこにあった。こちらには、美しい朱塗りの柱にささえられている長い回廊があった。彼は老婆について大広間にはいった。この家の奴隷との結婚を待ってここに立っていたときから過ぎ去った歳月を、一瞬のあいだに心のなかでふり返った。彼の前には彫刻のある大きな台座があり、そこには銀色の繻子の着物を着て、ほっそりとした老夫人がすわっていたのだ。
彼は、ふしぎな衝動にかられて前へ進み、老夫人がすわっていたところへ腰をおろした。手をテーブルにおき、その高い位置から、彼が何をするのだろうと黙ってまばたきをしながら待っている、うすぼんやりした老婆を見おろした。すると、これまで知らず知らずあこがれつづけてきた満足感が心のうちにわきあふれてきた。彼は手でテーブルをたたいて、とつぜん言った。
「よし、この家を借りるだ!」
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二十九
このごろ王龍《ワンルン》は物事をきめてしまうと、早くそれを実行しなければ気がすまなくなった。年をとるにしたがって、用事を早く片づけて、その日のあとの部分を、のんびりとすわって夕日をながめたり、田畑を歩きまわったあとで昼寝をしたりするのが、たまらなく好きになったのである。
そこで長男に黄家の屋敷を借りることにきめたことを話して、その手続きをすませるように命じ、次男を呼びよせて移転の手伝いをさせた。用意が終わって、ある日、彼らは引っ越した。蓮華《リエンホワ》と杜鵑《ドチュエン》が奴隷や品物といっしょにいちばんさきに行き、そのつぎに長男夫婦が召使や奴隷を連れて行った。しかし王龍自身は、すぐには行かなかった。彼は、しばらく末の息子といっしょにとどまっていた。生まれた土地を離れるときがきても、前に考えていたほど、そう容易に立ち去るわけにはいかなかったのだ。息子たちが早くうつるようにすすめたとき、彼は言った。
「それじゃ、わしひとりだけの居間を用意しといてくれ。行きてえと思った日に行くだから。孫が生まれる前には行くだ。そして帰りてえときには、この土地へ帰ってくるだ」
ふたたび彼らが無理にすすめると彼は言った。
「それもそうだが、あの白痴の娘がいるだでな。あの子を連れて行こうかどうしようかと、じつは弱ってるだよ。だが、連れて行くよりほかはねえだな。わしがいないと、だれもあの子のめしの世話をしてくれるものがねえだで」
王龍は長男の嫁をいくらか非難する意味で、こう言ったのであった。嫁は白痴の娘がそばへ寄るのを、ひどくいやがった。彼女は、ひどいひがみやで、気むずかしやであった。
「あんな子は死んだほうがいいのよ。あの子を見るとお腹《なか》の子に悪い影響があるわ」と言っていた。王龍の長男は、嫁が白痴の娘をきらっていることを思い出したので黙ってしまい、それ以上何も言わなかった。王龍は、非難めいたことを言ったのを後悔して、やさしく言った。
「次男の嫁がみつかったら行くだよ。すっかり話がきまるまで、陳のいるここにいたほうが好都合だでな」
そんなわけで次男もすすめるのをやめてしまった。
それで、この家に残っているのは、王龍と三男と白痴の娘のほかには、叔父と叔母とその息子と陳と使用人たちだけだった。叔父一家は蓮華が住んでいた奥の部屋へ移って、そこを自分たちの住居にしてしまった。しかし王龍は、そのことをそれほど苦にしなかった。叔父の余命が、もうそれほど長くはないと思っていたし、なまけものの老人さえ死んでしまえば、長上の人間にたいする義務もなくなり、その息子がいうことをきかなかったら家から追い出したところで、王龍は、だれからも非難されないだろうからである。陳と使用人たちが外側の部屋へ移り、王龍と末の息子と白痴の娘が中の部屋に住むことになった。王龍は自分たちの用をさせるために頑丈な女を雇った。
王龍は、よく眠り、休息をとって、何ごとにも気をつかわなかった。急にひどく疲労を感じたからであり、また家がまったく平和になったからでもある。もう王龍は、だれにもわずらわされなかった。三男は黙りこくっていて王龍に近づこうとしないし、王龍は彼がどんな性質の子なのか、ほとんど知らなかった。三男は、たいへん無口な子だった。
やっと王龍は陳に次男の嫁をみつけさせようと心が動いてきた。
陳はもう年とって衰え、葦のようにやせていた。王龍はもう彼に鍬《くわ》を持たせたり、牛を使って畑を鋤《す》かせたりしようとはしなかったが、しかし彼にはまだ忠実な老犬のような気力があった。いまだに他の雇人を監督したり、穀物の目方や容積をはかるときそばで監視したりするので、役に立った。彼は王龍の希望を聞くと、からだを洗い、青木綿の上等の着物を着て、あちこちの村を歩きまわり、たくさんの娘を見てきて、もどってから報告した。
「息子さんの嫁としてよりも、わしが若ければ、わしのほうがもらいてえようなのがありましたわい。ここから三つ向こうの村でな。気立てのよい、肉づきのよい、よく気のつく娘で、まあ、きずといえば、よく笑うことぐらいだて。父親はこちらと縁組みをすることを、たいへんよろこんで、えらく乗り気でしてな。持参金も、この節《せつ》としたらよいほうだし、父親は地主ですわい。あなたにきいてからでないと、わしは約束ができねえと返事をしておきましただがな」
王龍には、これで十分のように思えた。早く片づけたくなったので、約束をし、結婚契約書がくると、印をおして、ほっとして言った。
「もうひとり息子が残っているだけだて。嫁をもらったり、やったりするのも、もうすんだようなものだ。やっと楽ができるようになれて、ありがてえことだて」
手続きがすんで、結婚の日どりがきまると、彼は気がらくになって日向《ひなた》にすわり、かつて老父がしていたように、居眠りをはじめた。
最近は、陳も老齢のため弱ってきたようだし、王龍自身も年をとって食事のあとなど何をするのもおっくうで眠くなるようなありさまだし、そうかといって三男は責任を持たせるにはまだ若すぎるので、一ばん遠くはなれた畑は村の人々に貸すのが上策だと考えられてきた。それを実行することにしたので、近くの村人たちが、おおぜい王龍のところへ土地を借りにきて小作人になった。地代は、つぎのような条件だった。収穫物の半分は地主である王龍が、他の半分は労働の報酬として小作人がとること、ほかに双方がやらねばならないことは、王龍がたくわえている肥料や豆粕《まめかす》や、ゴマをひいたあとに残るゴマ粕を小作人にあたえるかわりに、小作人は一定の作物を王龍の家の用にさし出すこと。これまでのように自分で土地を管理する必要がなくなったので、王龍は、ときおり町の長男たちのところへ行き、彼のために用意させてある部屋で眠った。しかし夜明けになると、暁とともに開く町の城門を通って、畑へ歩いて帰ってきた。彼は畑の新鮮なかおりをかいだ。畑へ帰ってくると、強いよろこびを感じるのであった。
そのとき、あたかも神が格別の配慮をもって老年の彼に平安をあたえようとはからってくれたかのように、一つのことが起こった。しんかんとした家のなかには、いまは雇人の妻である頑丈な召使の女しかいなかった。叔父の息子は落ちつかなくなり、北のほうに戦争があると聞いて、王龍に向かって言った。
「北のほうに戦争があるという話です。わたしも行って加勢したり見物したりしたいと思うのですが、軍服と、寝具と、肩にかつぐ外国製の鉄砲を買う銀をくれませんかね」
王龍の心はよろこびでおどった。たくみによろこびをおしかくし、反対するようなふりをして言った。
「おまえは、わしの叔父さまの一人息子だぞ。おまえのほかに、だれが叔父の血を伝えるだ? 戦争に行くと、どんなことが起こるか、知っているだかね?」
しかし若者は笑って答えた。
「わたしはばかじゃない。危険なところへなんか行きはしません。戦いがあったら、それが終わるまで、わたしは逃げていますよ。あまり老いぼれないうちに、ちょっと旅をして、気分をかえたり、よその土地を見ておいたりしたいんです」
そこで王龍は、すぐにこの若者に銀をあたえた。このときばかりは彼に銀をやるのがつらくはなかった。その男の手に銀貨を落としてやりながら、彼は心で思った。(よし、こいつは好きで行くだ。家じゅうのきらわれ者が、これでいなくなるだ。戦争は、国のなかのどこかで、いつもあるだでな)そしてまた心で言った。(もしおれの運が強ければ、あいつは死ぬだろう。戦争では、ときどき死ぬものも出るだでな)
彼は顔に出るのをかくしていたが、ひどく上機嫌だった。叔母が息子が旅に出ると聞いてすこしばかり涙を流したので、彼はなぐさめた。彼は叔母に、もっと阿片をやり、キセルに火をつけてやって言った。
「きっとあの子は将校になるだよ。家門の名をあげるにちげえねえだよ」
田舎の家では眠ってばかりいる叔父夫婦がそばにいるだけなので、やっと平和になった。町の家では孫の生まれる日が近づいていた。
そのときが近づくにつれて、王龍は町の家にいる日が多くなった。彼は庭を歩きまわったり、世の移り変わりというものを考えないわけにはいかなかった。黄家の人たちが住んでいたこの部屋部屋に、いま彼が第二夫人と息子たちと息子の妻たちといっしょに暮らし、もうすぐ三代目の孫が生まれようとしている。それを考えると、じつにふしぎでたまらなかった。
彼はどんなものでも買えるだけの金があるので、気持ちがゆったりと、おうようになってきた。彼はみんなに繻子《しゅす》と絹の長い着物を買ってやった。彫刻のある椅子だの、南国の黒檀《こくたん》の彫刻のあるテーブルなどのあるところに、ありふれた木綿の着物では、見た目にうつりが悪いからだ。奴隷たちにもボロの着物を着せておく必要はないので、青や黒の上等の木綿の長い着物を買ってやった。そういうふうにして、彼は長男が町で知りあった友人たちでもたずねてくると、たいへんよろこび、その人たちに邸内のようすを見せるのが自慢であった。
王龍は、ぜいたくな食べものばかり食べたがった。昔の彼は、にんにくの茎で巻いたパンで、けっこう満足していたのであるが、いまは朝もおそくまで眠り、野良仕事をしないので、ありきたりのごちそうでは容易によろこばなかった。冬のタケノコ、小エビの卵、南国の魚、北海の貝、鳩の卵など、富裕な人たちが、おとろえた食欲を増進させるためによく食べるものを食べた。息子たちも食べたし、蓮華も食べた。こういうふうに万事変化したのを見て杜鵑《ドチュエン》が笑って言った。
「まるであたしが昔このお屋敷にいたときと同じになりましたね。ただ、あたしのからだがしなびて、水気がなくなってしまって、老大人のお相手さえできなくなったのがちがうだけですわ」
そう言いながら彼女は王龍を、そっと流し目に見て、また笑った。彼は杜鵑の好色そうな言葉を聞こえぬふりをしていたが、それでも、彼女が自分を黄家の老大人とくらべたことを、ひそかによろこんだ。
こんな怠けほうだいのぜいたくな生活をしながら、起きたいときに起き、寝たいときに寝て、彼は孫の生まれるのを待っていた。ある朝、彼は女のうめき声を聞いた。長男の居間へ行くと、息子は彼を迎えて言った。
「いよいよ生まれます。しかし杜鵑が言うには妻はほっそりしているから、時間がかかって難産だろうということです」
そこで王龍は自分の居間へ帰って腰をおろし、産婦のうめき声に耳をすました。彼は、ここ長年のあいだになかったほど心配になってきて、神の加護を求めなければならぬ、と思った。立ちあがって、線香を売る店へ行って線香を買い、金色の厨子《ずし》のなかに観世音菩薩を祀《まつ》った町の寺院へ行った。のんきそうな僧侶を呼んで布施《ふせ》をあたえ、線香をあげさせた。
「男のわしがこんなことをするのはまずいだが、初孫が生まれようとしていますでな。母親は町の女で、腰が細いだで、どうやら荷が勝ちすぎますだよ。伜《せがれ》の母親は死んでしもうたで、線香をあげる女がいねえですだ」
僧が仏前の香炉の灰のなかに線香を立てるのを見て、彼はふいに恐怖に襲われた。(もし孫が男でなくて女だったら?)それで彼は急いで大きな声で言った。
「生まれるのが男だったら、新しい赤い着物を納めますだ。だけんど、もし女だったら何も奉納しねえですだよ」
孫が男でなく女の子かもしれぬということは考えていなかったので、彼は、いらいらして外へ出た。暑い日で、街路には埃《ほこり》が一尺ちかくもつもっていたが、彼はもう一度線香を買い、二柱の地神を祀ってある村の小さな祠《ほこら》へ行って線香を立て、火をともし、神前で小さな声で言った。
「いいだか、わしの父親も、わしの息子も、みなおまえさん方のめんどうをみてきただ。いまわしの息子から子が生まれようとしておる。それがもし男の子でなかったら、もうおまえさん方に何もしてやらねえですだぞ」
彼として、できるだけのことをしてしまうと、へとへとに疲れきって部屋へもどってきた。テーブルの前にすわって、奴隷に茶を持ってこさせ、顔をふくために熱湯でしぼった手ぬぐいを持ってこさせようと思ったが、手をたたいても、だれもあらわれなかった。だれも彼のことなど気にとめず、あちこち走りまわっていて、どんな子が生まれたのか、いったいもう生まれたのかどうか、それをきこうにも呼びとめることもできなかった。彼は埃まみれになり、疲れきって、そこにすわっていた。だれも彼に言葉をかけなかった。もうまもなく夜になると思われるころまで長いこと待っていると、やっと蓮華が、からだが重いので杜鵑によりかかって、小さな足でよたよた近づいてきた。彼女は笑って大きな声で言った。
「さあ、男のお孫さんが生まれましたよ。母子とも、ぴんぴんしています。赤ちゃんを見ましたが、きれいな丈夫そうな赤ちゃんです」
王龍も笑って立ちあがり、両手を打ちあわせて、また笑って言った。
「そうか。わしにはじめて息子が生まれるみたいで、どうしてよいやらわからず、何から何まで心配で、わしはここにすわっとったのだよ」
蓮華が自分の部屋に帰ってしまうと、彼はまた物思いに沈んだ。彼は心で思った。
(そうだ。阿藍がはじめて総領の息子を生んだときは、こんなに心配しなかった)彼は黙って考えこみながら、あの日のことを心に思いかえした。阿藍がひとりで小さな薄暗い部屋へはいって行ったこと、彼女がだれの助けも借りずにひとりで息子を生み、また、いく人も息子や娘を黙々と生んだこと、そして、すぐ畑に出てきて彼のそばで働いたことなどが思い出された。それなのにいま、長男の嫁は苦しいといって赤子のように泣きわめき、奴隷たちを家じゅう走りまわらせ、夫を戸口のそばに立たせておくのだ。
彼は、遠い昔の夢を思い出す人のように、阿藍が畑仕事の合間をぬすんでは、子供にたっぷりと乳を飲ませ、白い豊かな乳が胸からほとばしり出、地上にこぼれる情景を思いうかべた。それは事実であったのが疑わしいほど遠い昔のことに思えた。
そのとき長男がほほえみながら、もったいぶったようすではいってきて大きな声で言った。
「男の子が生まれましたよ、おとうさん。乳母《うば》を探さなければなりません。妻が授乳で美しさが台なしになったり、体力が弱ったりしないようにしたいですからね。町の身分のある女は、みなけっして自分の乳を飲ませませんよ」
王龍は悲しそうに答えたが、なぜ悲しいのか、自分でもわからなかった。
「そうしなけりゃいけねえものなら、そうするがいいだ。自分で自分の子が育てられねえのならな」
子供がまる十日になると、その父親である王龍の長男は、誕生の祝宴を開いて、町から妻の両親や町のお歴々を、ことごとく招いた。数百個の鶏卵を赤く染めて、お客さん全部と、それから祝い物を持ってきた人々にくばった。祝宴が開かれ、よろこびが家じゅうにあふれた。子供は、よくふとって、早くも生後十日目が過ぎ、もうなんの心配もなかった。人々は、よろこび祝った。
祝宴が終わると、長男がやってきて王龍に言った。
「わたしたちの家も三代目になったんですから、大家《たいけ》らしく先祖の霊牌《れいはい》を飾らなければいけないでしょうね。家の基礎がさだまったのだから、祝祭には位牌を立てて拝まなければなりますまい」
王龍は、たいへんよろこんで、そうするように命じ、そしてそう実行された。大広間には、たくさんの位牌がおかれた。その一つには、彼の祖父の名が書かれ、ついで父の名もあり、そして王龍や息子たちが死んだときのために、それだけの余地も残されていた。
長男は香炉を買ってきて位牌の前に供えた。それがすむと王龍は、観音様に約束した赤い着物のことを思い出したので、寺院に行ってその代金を納めてきた。
その帰路、神が惜しみなくあたえるのをいやがり、贈り物のなかにトゲをかくしておくように、刈り入れどきの畑から、ひとりの男がかけてきて、陳がとつぜん危篤になったから臨終に立ち会ってくれるようにと伝えた。あえぎあえぎかけてきた男の言葉を聞いて、王龍は怒って叫んだ。
「町の観音様に赤い着物を奉納したで、あの祠《ほこら》のふたりの地神が嫉妬しただな。あいつらは土地を支配するだけで、子供の誕生には、なんの力もねえのを忘れやがっただ」
そして昼食の用意ができていたのだが、彼は箸《はし》もとらず、蓮華が夕方になるまで待つようにと大きな声で言うのもかまわず出て行った。蓮華は、彼が自分の言葉を耳にも入れないと知ると、奴隷に番傘《ばんがさ》を持たせて、彼のあとを追わせた。さすがの頑丈な女中でも、傘をさしかけてついて行くのが困難なほど、王龍は速く走った。
王龍は、すぐに陳が寝ている部屋へはいり、大きな声でそこにいるものに言った。
「どうしてこんなことになっただ」
部屋は使用人たちでいっぱいだった。彼らは、どぎまぎして、あわてて答えた。
「陳さんは自分から進んでクルリ棒を使ったでなあ――」「年とってるからいけねえと言ったのに――」「新米の作男がいて――」「そいつがうまくクルリ棒が使えねえもんだで、陳さんが教えようとして――」「老人には無理だで――」
王龍は恐ろしい声で呼びたてた。
「その男を前に出せ!」
彼らは王龍の前にその男を引き出した。男は、むき出しの膝をがたがたさせ、ふるえて立っていた。大柄の、赤ら顔をした、粗野な田舎の若者で、そっ歯が下くちびるの上に大きく突き出し、牛のようにまるい鈍重な目をしていた。しかし王龍は、かわいそうだとは思わなかった。彼は若者の両頬をぴしゃぴしゃたたき、奴隷の手から傘をとって若者の頭を打った。だれもとめようとはしなかった。老人だから、さからうと怒気が血管のなかにはいって毒だと心配したのである。
田舎者は泣きながら、そっ歯をなめて、神妙に立っていた。
そのとき、寝床に横たわっている陳がうなり声をあげた。王龍は傘を投げすてて叫んだ。
「ばかをなぐっているうちに、陳が死んじまうだ!」
王龍は陳のそばにすわり、彼の手をとって握りしめた。しぼんだ槲《かしわ》の葉のように軽く、かわいて、小さかった。そのなかに血が流れているとは信じられないほどかさかさして、軽くて、熱かった。しかし、ふだんは青く黄いろい陳の顔が、いまは薄黒くなり、乏しい血でまだらになっていて、なかば開いた目はかすんで見えず、呼吸も乱れていた。王龍は身をかがめて彼の耳に口をつけて大きな声で言った。
「わしがいるだぞ。棺はわしの父親のに劣らぬほどりっぱなのを買ってやるだぞ!」
しかし陳は耳が血でいっぱいになっていた。主人の言葉が聞こえたにしても、なんの反応もあらわさなかった。彼はあえぎながら死の床に横たわっているだけであった。そして陳は死んだ。
彼が息を引きとると、王龍は彼の上にかがみこんで、父親が死んだときよりも、もっとはげしく泣いた。
棺は一ばん上等なのを注文し、葬式のために僧侶をたのみ、自分は白い喪服を着て、そのあとにしたがった。彼は長男にまで、親類が死んだときと同じに足首に白ひもをつけさせた。長男は苦情を言った。
「陳は使用人の頭《かしら》にすぎないじゃないか。召使のために喪に服するのは妥当ではないですよ」
しかし、王龍は、三日のあいだ、それを強《し》いた。王龍の希望では、父親と阿藍を埋めた土壁の内側に陳も埋めてやりたかった。けれども息子たちは承知せず、不平を言った。
「おかあさんやおじいさんといっしょに使用人を葬るのですか。わたしたちも死んだら陳といっしょにならなければいけないのですか」
王龍は彼らと争うわけにはいかないし、老年のため、家のなかにもんちゃくを起こしたくなかったので、陳を土壁の入り口のところへ埋めた。そうしたことで彼は自分をなぐさめて言った。
(そうだ、これでいいだ。あの男は、いつもわしを災難から守ってくれた守り神だったでなあ!)
彼は自分が死んだら陳と一ばん近いところへ埋めるよう息子たちに言いつけた。
それからというもの、王龍は、土地を見に行くことが前よりもすくなくなった。陳が死んでから、ひとりで行くのは心が刺されるように痛んだからである。彼は、働くことに疲れた。ひとりで、ごつごつした畑地を歩くと、骨が痛んだ。そこで彼は、できるかぎり多くの畑を小作に貸すことにした。そこが、たいへん肥沃《ひよく》な土地だということが知れ渡っているので、人々は、争って借りたがった。王龍は一尺の土地でも売るという話はぜんぜんしなかった。一年かぎりの契約で値段を協定して貸すだけだった。このようにして彼は、それが全部自分のものであり、依然として自分が手のなかに握っていることを感じた。
そして彼は雇人のなかのひとりに命じて、家族とともに田舎の家に住まわせ、阿片の夢にばかりふけっている叔父夫婦のめんどうをみさせた。三男の憂うつそうな目つきを見て、彼は言った。
「さあ、おまえもわしといっしょに町へ行くだ。白痴の娘も連れて行こう。わしのいる居間でなら、あの娘も暮らせるだろう。陳が死んでしまったで、おまえもこの家ではさびしすぎるだろう。陳がいないでは、だれもあの子に親切にしてくれるものはあるまい。あの娘が打《ぶ》たれたり粗末なものを食わされたりしても、だれも叱言《こごと》を言うてくれるものはないだろう。陳がいなくなったで、だれもおまえに畑のことを教えてくれる人がいねえだ」
そこで王龍は三男と白痴の娘とを町の屋敷へ連れて行った。それ以後、田舎の家へは、長いあいだ、ほとんど行かなかった。
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三十
王龍《ワンルン》には、もういまの状態でけっこうで、この上の望みはないように思えた。白痴の娘のそばで日向《ひなた》にすわり、水ギセルを吸って、安楽に暮らせた。田畑は手入れが行きとどき、気にしなくても田畑からはお金がはいってくるのだ。
だが、万事好都合というわけにもいかなかった。というのは、長男が、まわりがうまく納まっていると、どうもそれに満足できないで、何か事件を探し出さずにはいられないようなたちの人間だったからだ。長男は父親に言った。
「この家には欠けているものがいろいろあります。この屋敷に住んでいるからといって、わたしたちが大家《たいけ》になったと考えるべきではないですよ。あと半年足らずのうちに弟の結婚式をあげなければならないが、そうすると、客用の椅子も足りないし、茶わんもテーブルも部屋の調度品も足りません。それに、お客さまを招くのに、くさくて騒々しい貧民どもがうようよいるあの大門を通すのは恥ですよ。弟が結婚して、弟にも子供が生まれると、あの中庭も必要になってきます」
王龍は、りっぱな衣装をまとってそこに立っている息子をながめて、目を閉じ、キセルを強く吸って、うなるように言った。
「それからなんだ? そのつぎはなんだ? おまえはいつまでそんなことばかり言ってるだ!」
長男は、父親が自分の言葉にうんざりしているらしいのはわかっていたが、意地をはって言った。彼はすこし声を高めた。
「表側の部屋も、わたしたちのものにしなければまずいと言っているんです。金も土地もうんとある家にふさわしいものを、わたしたちは持つべきですよ」
王龍はキセルをながめてつぶやいた。
「そうか。だが土地はわしのものだ。おまえはそれに手をふれたこともねえだろうが」
そう言われると、長男はどなりかえした。「そのとおりです。だけど、おとうさん、わたしを学者にしようとしたのはあなたですよ。わたしは地主の息子にふさわしくしようとつとめているのに、それをあなたは軽蔑して、わたしや妻を雇人並みにしようとするんですか!」
そして若者は身をひるがえし、庭の曲がりくねった松に脳天を打ちつけようとした。長男が、かんしゃく持ちであるのを知っているだけに、怪我でもしては困ると思い、彼は大きな声で言った。
「よし、よし――いいようにしろ――ただ、わしにめんどうをかけるなよ」
これを聞くと、長男は非常によろこんで、父親の気が変わらないうちにと、すばやく立ち去った。そして、できるだけ早く、彫刻してある精巧なテーブルと椅子を蘇州から買いいれた。それから入り口にかける赤絹のカーテンを買い、大小の花瓶《かびん》を買い、壁にかける美人画の掛け軸を買えるだけ買い、南の地方で見たような築山《つきやま》を庭につくるために、さまざまの奇岩を買った。こうして長いあいだ彼は忙しがっていた。
こういうことのために彼はほとんど毎日出入りをするので、表側の中庭を日に何回も通らなければならなかった。彼は、そこに住んでいる貧民どもが、くさくて、がまんがならなかったので、彼らのあいだを鼻をおさえて通り抜けた。彼らは長男が通り過ぎたあと、笑って言った。
「あいつは、おやじの家の戸口の前の肥料のにおいを忘れただ」
しかし彼が目の前を行くときには、だれもそんなことは言わなかった。金持ちの息子だからだ。そのうちに祭日がきて家賃がきめられることになった。すると貧乏人どもは、部屋や中庭の借り賃が、たいへん値上げされたことを知った。ほかに、もっと高くても借りたいという人たちがあるから、ということだった。彼らは引っ越さなければならなかった。そして、そうしたのが長男のさしがねだと人々は知った。もっとも長男は利口だから何も口に出さず、他の省にいる黄家の息子と手紙をやりとりして、そうとりはからったのであった。黄家の息子は、どういう方法でも、ともかくこの古い家から、いくらでも余計に収益があがればよかったのである。
そこで、貧民は引っ越さなければならなかった。彼らは金持ちが勝手なまねをすることを嘆き、呪《のろ》いながら引き移って行った。がらくた道具をまとめ、怒りにあふれて、金持ちがあまり金持ちになりすぎると貧乏人が攻め寄せるものだが、おれたちも、いつか攻め寄せてみせるだぞ、とつぶやきながら去って行った。
しかし、王龍はこういうことを、ぜんぜん知らずにいた。彼は奥の部屋にいて、めったに外出しなかった。眠ったり食べたりして、寄る年波で、のんびりと暮らしており、百事、長男の手にまかせていた。長男は腕のいい大工と石工を呼び、貧民どもが乱暴な生活で住みあらした部屋と、庭と庭とのあいだの中門を修理させ、いくつも池を掘り、緋鯉《ひごい》と金魚を泳がせた。その工事がすんで、彼が気にいるだけ美しくなると、今度は蓮《はす》や百合《ゆり》を池に植えインドの赤い実のなる竹を植え、南の地方で見たことを思い出しては、なんでもそのとおりにまねさせた。彼の妻も、彼の仕事ぶりを見物に出てきた。ふたりで全部の庭を見てまわり、妻があれこれと足りない点を発見すると、彼は彼女の言うことを非常な注意をもって聞き、さっそく、そのとおりに実行した。
人々は町の街路で、王龍の長男が屋敷の手入れをしたことを聞き、富裕な人間が住みついたからには、黄家の大邸宅が、どんなにりっぱに面目を改められるであろうかと、語り合った。これまで農夫の王といっていた人々も、いまでは王大人とか王富人とか呼ぶようになっていた。
これらすべてに要する費用は、すこしずつ王龍の手から出て行った。彼は、どれだけ出たか、ほとんど知らなかった。長男は、王龍のところへやってきては、こう言うのである。
「銀が百枚入用です」「あの門を新しくするのに、すこし金がいりますよ」「あそこに長いテーブルをおかないとまずいですね」
王龍は自分の部屋でたばこを吸ってのんびりしながら、すこしずつ長男に銀を出してやった。毎年の収穫時や必要なときには、いつも土地から容易に銀がはいってくるので、わけなくあたえることができた。彼は、どのくらい長男にやったか知らないが、ある朝、太陽がまだ壁の上に高くささないうちに、次男がやってきて言った。
「おとうさん、いいかげんに金を使うのをやめたらどうですか。御殿に住む必要があるんですか。あれだけ多くの金を二割で貸したら、何貫も銀がはいってきますよ。池だとか、実もならない花の咲く木だとか、徒花《あだばな》の百合だとか、あんなものが、なんの役に立つんです」
王龍は、ふたりの兄弟が、こんなことでけんかでもしたらたいへんだと思い、騒ぎが起こらないようにと、急いで言った。
「そりゃな、おまえの結婚式を盛大にするためだよ」
すると次男は、ずるそうにほほえみ、うれしそうなようすも見せずに答えた。
「結婚式の費用が花嫁の十倍もかかるというのはおかしな話ですね。おとうさんが死んだあとでわれわれの分ける遺産が、兄さんの虚栄心のためだけで使われてしまうのではやりきれませんよ」
王龍は次男の決意を知った。話しだすとどこまでもきりがなくなるのがわかっていたので、あわてて言った。
「よし――よし――もう使わせん――おまえの兄さんに話して銀を出さないことにするだ。もうたくさんだでな。おまえの言うとおりじゃよ」
次男は、兄が使った金を残らず表に書いた紙をとり出した。王龍はその表の長いのを見て、急いで言った。
「わしはまだ飯を食べてねえだよ。わしの年になると、朝飯を食べるまでは元気が出ねえだ。この話は別のときにしてくれ」王龍は向こうを向いて自分の部屋へはいってしまい、次男をそこへおきっぱなしにした。
その日の夕方、彼は長男に言った。
「家を塗ったりみがいたりするのも、もうおしまいにしたがよかろう。もうたくさんだで。なんというたところで、けっきょくわしらは田舎者だでな」
しかし長男は誇《ほこ》らしげに言った。
「いや、そうではないですよ。町の人たちは、わたしたちのことを偉大な王《ワン》家と呼びはじめています。この名まえにふさわしい暮らしをするのは当たりまえだと思います。もし弟が銀をただ銀としてしか見ることを知らないのなら、わたしたち夫婦が家名を保つことにしましょう」
王龍は人々がそう言っていることも知らなかった。彼は老いてきたので、茶館にさえ、ほとんど行かなくなっていたし、穀物商店のほうは次男が彼の代理をして仕事をしているので、そこへもやはり行かなかったからだ。彼は、そう言われると、内心ではうれしかった。
「そうかな。だけど、たとえ大家《たいけ》でも、土から出て土に根を張ってるものじゃよ」
だが、長男は気のきいた答えをした。
「そうです。しかし、いつまでも土にとどまってはいません。枝がわかれ、花を咲かせ実をつけます」
王龍は息子がこんなにすらすらとすばやく答えるのが気に入らなかった。
「わしの言うたことは取り消さんぞ。銀を湯水のように使うのはやめたがいいだ。根というものは、実を結ばせるには十分に土のなかに張らせにゃならんでな」
夕暮がせまったので、王龍は早く長男に庭から自分の部屋へ行ってもらいたかった。自分をただひとりたそがれのなかで平和にしておいてもらいたかった。この息子がそばにいるのでは心の平和が得られなかった。この息子は、部屋の修理も庭の手入れも満足のゆくまで進んだので、すくなくとも当分は父親の命令にしたがう気持ちになっていたが、するとまた言いはじめた。
「では打ち切りにしましょう。しかし、まだもう一つ話したいことがあるのですが」
王龍はキセルを地面にたたきつけて、どなった。
「まだうるさく言うだか!」
青年は強情に言いつづけた。
「わたしやわたしの息子のことではないんです。わたしの末の弟、あなたの三男のことです。あれを無学のまま大きくするのはよくないと思います。学問をさせるべきだと思います」
王龍は耳新しいことなので、びっくりして目をみはった。王龍は、ずっと以前から、末の弟を何にするか、その将来をきめていたのだ。
「字を腹いっぱいつめこんだやつは、もうこの家にはいらねえだよ。ふたりでたくさんだ。あいつは、わしが死んだら、畑仕事のほうをやらせることにしてあるのだ」
「ですから、そのためにあの子は毎晩泣いているんです。あれが青い顔をしてやせているのは、そのためなんです」
王龍は三人のうちひとりだけは百姓をやらせると決心していたので、王龍は、三男に何になりたいかきいてみようとも思っていなかった。だから、いまこの長男の言葉を聞くと、いきなり眉間《みけん》をなぐられたように感じて黙ってしまった。彼は、ゆっくりとキセルを地面から拾いあげ、三男について考えこんだ。末弟は他の兄弟のだれにも似ていなかった。母親に似て無口な子だったので、だれも彼には注意を払わなかった。
「おまえは、あの子が自分でそう言ったのを聞いたのか?」と王龍は、おぼつかなげに長男にきいた。
「おとうさん、ご自分できいてごらんなさい」青年が答えた。
「それもそうだが、しかしひとりは畑に残らにゃならねえだ」王龍は急に反駁《はんばく》するように言った。声が高くなった。
「なぜですか」と青年が応酬した。「なにも息子を農奴みたいにする必要はないじゃありませんか。体裁がよくないですよ。世間はあなたを、さもしい人間だと言いますよ。『自分は王侯のような暮らしをしているのに、息子を作男にするんだとさ』――みんながそう言いますよ」
長男は、父親が世間のうわさをたいへん気にするのを知っているので、たくみに言った。そして、さらに言葉をつづけた。
「家庭教師を呼んで学問をさせることもできるし、南の学校へ入れてもいいでしょう。家にはわたしがいておとうさんの手伝いをしますし、商売のほうは次男がやっていますから、あの子には好きなようにさせようではありませんか」
とうとう王龍が言った。
「あの子をここへ呼んできてくれ」
しばらくすると三男がきて父親の前に立った。王龍は三男がどんな子供なのかを知ろうとして、じっとその顔をみつめた。三男は背の高い、ほっそりとした子供で、母親を思わせる沈着さと無口のほかは、父にも母にも似ていなかった。しかし母親よりも美しかった。美しさだけは、すでに結婚してこの家にはいない次女をのぞけば、子供たちのうちで一ばんすぐれていた。しかし、額《ひたい》を横ぎる黒い眉《まゆ》が、若々しい白い顔にしては、あまり太く黒すぎて顔の美しさをそこねているようであった。彼が顔をしかめると――彼はすぐに顔をしかめるのだが――この太い、黒い、二本の眉がくっついて一直線になるのである。
王龍は、つくづく三男を見て言った。
「兄さんが言ってたがな、おまえは勉強したいそうだな」
少年は、ほとんどくちびるを動かさずに答えた。
「はい」
王龍はキセルをはたいて親指でゆっくりと新しいたばこをつめた。
「そうか。つまり野良仕事をしたくねえというだな。わしには息子が何人もいるのに、畑に残る息子は、ひとりもいなくなるわけか」
彼は、にがにがしげに言ったが、少年は何も言わなかった。夏のリンネルの長い白い着物を着て、黙って立っていた。ついに王龍は、その沈黙にむかむかして、どなりつけた。
「なんで黙っとるだ。野良仕事をしたくねえというのは、ほんとうか?」
三男はまた、たった一言、「はい」と答えた。
この息子を見ていると、考えこまずにはいられなかった。老齢の自分には、こんな子供たちは手におえない。苦労の種だ。重荷だ。どう扱ったらよいか見当もつかない。まるで子供たちからひどい目にあわされているような気がする。そこで彼は、またどなった。
「おまえが何をしようと、わしの知ったことじゃないわい。あっちへ行け」
少年は、さっさと姿を消した。王龍はひとりですわり、けっきょく息子たちよりも、あのふたりの娘のほうがよかった、と心のうちで考えた。ひとりは、白痴ではあるが、ほんのすこしの食物と、おもちゃにする小ぎれしかほしがらないし、ひとりは結婚して家にはいないからだ。夕闇《ゆうやみ》が部屋に忍び入り、ただひとり部屋にいる彼をつつんだ。
それでも、怒りがおさまると王龍はいつも息子に思うようにさせるのが常だったが、今度も彼は長男を呼んで言った。
「三男がそうしたいと思うなら、家庭教師をたのんでやれ。好きなようにさせるがいいだ。ただ、このことでおれにめんどうをかけねえようにしてくれよ」
そして彼は次男を呼んで言った。
「畑仕事をする息子がいなくなったで、小作料や、とり入れどきに田畑からはいる銀は、おまえが管理してくれ。おまえは目方も計れるし、枡目《ますめ》もわかるだで、わしのとこの管理人になるだ」
これは、金の出入りがすくなくも自分の手を経なければならないことになるので、次男は非常によろこんだ。彼は父の収入の額が知りたかったのである。それに、もし一家の費用が必要以上になれば、父親に文句も言えるわけだ。
王龍には、この次男が、他の息子たちよりも、いっそうふしぎに思えた。というのは、結婚の当日でさえ、彼は肉や酒に使う金を倹約して、料理の値段を知っている町の人たちには一ばんよい肉を、そして招かねばならない小作人や田舎の人たちには、庭にテーブルを並べて、あまり上等でない肉や酒を出す、というふうに食卓を別にしたからである。百姓たちは毎日粗食しているから、ほんのすこしよいものでも、たいへんなごちそうになるというのであった。
また次男は贈られた祝儀の金や品物にもよく注意していたし、また奴隷や召使たちにも、これ以上すくなくはできないという最小限度の金をあたえた。杜鵑にも、わずか銀貨二枚をやっただけなので、彼女は、せせら笑って、多くの人のいる前で聞こえよがしに言ったものである。
「ほんとの大家というものは、銀なぞにけちけちしないものですよ。この一家が、この屋敷に住む柄だとは、だれにも思えませんね」
長男はこれを聞いて恥ずかしく思い、また彼女のしんらつな舌が恐ろしいので、別にそっと銀をあたえ、弟のことを憤慨した。このように、結婚の当日、客がテーブルにつき、花嫁の轎《かご》が庭にはいってくるまで、彼らはいがみ合っていた。
長男は弟の結婚にはあまり身分の高くない少数の友人を招いただけだった。弟の吝嗇《りんしょく》が恥ずかしいし、嫁が田舎女だからと考えたからである。彼は軽蔑して傍観していた。
「おやじの地位からいえば玉《ぎょく》の杯《さかずき》が手にはいるのに、弟は土のかわらけを選ぶんだからな」
弟夫婦が長上に対する礼儀として彼ら夫婦におじぎをしたときも、彼は固苦しく、ほんのちょっとうなずいただけだった。長男の妻も、とりすまして、おうへいに、立場上この場合にしなければならない礼儀だけのおじぎをした。
さて、この屋敷に住んでいる人間で、王龍の孫のほかには、まったく平和で何一つ不足がないというのは、ひとりもいなかった。王龍自身でさえ、蓮華の部屋と庭つづきの自分の大きな彫刻のある寝台で目をさますと、ときにはあの質素な、薄暗い、土壁の家に帰っている夢をみた。あそこでは、冷たい茶をどこにこぼしても、彫刻のある家具をよごすことはないし、一歩外に出れば自分の畑なのだ。
王龍の息子たちは心やすまるときがなかった。長男は金の使いかたがすくなくて世間からさげすまれはしまいか、町の人が訪問にきているときに村人が大きな門を歩いてはいってくると、恥をさらしはしまいかと、そんなことばかり心配していた。次男は、むだな浪費で金がなくなるのが心配だし、三男は、農家の子として無益にすごした歳月をとり返そうとがんばっていた。
だが、あちこちをよちよちとかけまわり、自分の生活に満足しているものがひとりいた。それは長男の息子であった。この子供は、この大きな家以外の場所は考えたこともなかった。彼にとっては、これが大きくも小さくもない唯一の彼の家なのであった。その家に、母親と父親と祖父とがおり、みんなが自分に仕えるためにだけ生きているようなものであった。王龍は、この子といると心がなごんだ。彼はこの子を見守ったり、笑いかけたり、倒れるのをだき起こしたりして、いつまでも飽きなかった。彼は自分の父親のしたことを思い出して、倒れないように子供に綱をつけて歩かせたりしてよろこんでいた。祖父と孫は庭から庭へと歩き、子供は池ではねる魚を指さし、あれこれとわけのわからぬことを叫び、花をむしり、何事にも気ままにふるまった。まったくこの孫から王龍は平和を得たのであった。
孫は、この子ひとりだけではなくなった。長男の嫁は貞節で、規則的に、忠実に、はらんでは生み、はらんでは生んだ。どの子供にも、生まれるとすぐに奴隷をつけた。このようにして年ごとに子供がふえ、奴隷がふえた。だれかが、「ご長男の部屋に、またひとり生まれますよ」と言うと、王龍はただ笑って言うのであった。
「まあ、よかろう。土地があるだで、幾人になっても、米は十分まにあうだ」
彼は次男の嫁が子供を生んだときもよろこんだ。
次男の嫁は最初に女の子を生んで、ちょうど兄嫁に敬意をはらうようなかっこうになった。王龍の孫は五年間に男の子四人と女の子三人になり、孫どもの笑い声と泣き声が屋敷じゅうにあふれた。
五年の歳月は、幼児や老人以外の人々にとっては、ほんのつかのまである。王龍は、このあいだに七人の孫を得、年老いた夢想家の叔父をうしなった。叔父夫婦にたいしては、食べて、着て、阿片をほしいだけ吸えるようにしてやってはいたが、じつは叔父のことは、ほとんど忘れていた。
五年目の冬は非常に寒く、三十年来の寒さであった。城壁の周囲の濠《ほり》が凍って、その上を人々が歩いて行き来できるというのは、王龍の記憶でも最初であった。氷のような寒風が北東から絶えまなく吹きつけてきて、山羊の皮や毛皮の服を着ても寒さを防ぎきれなかった。屋敷じゅうどの部屋でも火鉢《ひばち》に炭をおこしたが、それでも吐く息が白く見えるほど冷たかった。
叔父夫婦は久しい以前から阿片のために、からだの肉がすっかり落ちて骨ばかりになり、明けても暮れても、枯れ朽ちた二本の棒のように寝台に寝ていた。彼らのからだには、すこしもあたたかみがなかった。王龍は、もう二度と叔父が寝台から起きあがれなくなったこと、身動きをすれば血を吐くということを聞いて、見舞いに行った。そして老叔父が、あと数時間しかもつまいということを知った。
王龍は、あまりりっぱではないが相当よい棺を二個買ってきて、叔父の寝ている部屋へ運びこませた。老人がそれを見て、死後の休息所があると知って、安心して死ねるようにするためである。叔父は、ふるえるささやき声で言った。
「ありがとう。おまえはわしの息子だ。家を外にうろつきまわっている実の子よりも、ずっとよくめんどうを見てくれただ」
すると叔母が口を開いた。叔母は叔父よりもまだしっかりしていた。
「せがれが家へもどる前にわたしが死んでしまったら、せがれにも子供ができるようにいい嫁さんをさがしてくれると約束しておくれでないか」
王龍は約束した。
王龍は、叔父がいつ死んだのか知らなかった。ある日の夕方、召使の女が汁《しる》のはいったわんを持って部屋へはいってみると、すでに叔父は死んでいたのである。風が地上一面に雪を雲のように吹きちらした厳寒の日、王龍は叔父の棺を埋めた。家族の墓所のなかで、かたわらの父の墓よりはすこし低く、自分用に予定している場所よりは上に埋めた。
王龍は家族全部を喪に服させた。彼らは一年間喪章をつけた。彼らに、めんどうばかりかけていたこの老人が死んでしまったことを、心から嘆き悲しんだわけではないが、大家では、親戚のものが死ぬと、そうするのが体面上、当然だからである。
王龍は叔母だけをひとりそこへ残しておくわけにもいかないので、町の屋敷へ引き取って、一ばん遠い中庭のすみに一室をあたえ、叔母の世話をする奴隷を杜鵑に監督させることにした。叔母は阿片を吸い、日夜眠って、まったく満足して横たわっていた。王龍は、棺を叔母の寝床のそばにおいて、いつでもそれを見ては安心できるようにしてやった。
王龍は、ふしぎでたまらなかった。大柄で、ふとっていて、あから顔で、怠けもので、声の大きい田舎女として、昔は恐れていたのに、いまそこに横になっている叔母は、没落した黄家の老夫人のように、しなびて、黄いろくなり、ひっそりとしていたのである。
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三十一
王龍は、これまでの長い生涯のあいだ、しじゅうそこかしこの戦争の話を聞いていたが、若いとき南の都会で冬を過ごしていたときのほかは、身近に戦争を見たことがなかった。子供のときから、「今年は西のほうに戦争がある」とか、「戦争は東か北東のほうだ」とか、そういううわさは、いつも聞いていたが、あのとき以上に身近にせまってきたことは一度もないのだ。
彼にとっては、戦争というものは、地や空や水みたいなもので、なぜあるのかは、だれも知らないが、とにかく存在するものなのである。
時おり、人々が「戦争へ行こう」などと言うのを耳にすることがあった。彼らがこう言うときは、餓死しかけていて、乞食になるよりはまだ兵隊になったほうがましだというときであり、ときには叔父の息子のように家にいても落ちつかないからという場合もあった。それでも戦争はいつも遠い場所で行なわれていた。ところがあるとき、天から吹きおくる無法な一陣の狂風のように、とつぜんその戦争が起こったのである。
王龍が最初に聞いたのは次男からであった。ある日、次男が昼食に穀物商店から帰ってきて、父親に言った。
「急に穀物の値段があがりましたよ。南のほうに戦争が起こって、日一日とこっちへ近づいてくるからです。軍隊が近づくにつれて値段があがりますから、当分のあいだ穀物を売らずにしまっておいたほうがいいと思います。そうすれば、あとでいい値で売れますからね」
王龍は飯を食べながらこれを聞いて言った。
「そうか。珍しいことだな。わしは戦争を知らねえだで、戦争が見られるとはうれしいだ。これまで話には聞いたことがあっても見たことがねえだでな」
かつて、むりやり、つかまえられて戦争に引っぱられることをこわがったことがあるのを思い出した。しかし、いまは老人で使いものにならないし、それに第一、金持ちだ。金持ちは何も恐れるには及ばない。だから彼は、すこしばかり好奇心が起きただけで、たいして気にもしなかった。王龍は次男に言った。
「穀物はおまえがいいと思ったようにするがいいだ。おまえにまかせてあるだで」
その後、彼は、気がむけば孫たちと遊び、よく眠り、よく食べ、たばこを吸い、そしてときどき中庭の一隅《いちぐう》にすわっている白痴の娘を見に行った。
すると、初夏のある日、北西のほうから、イナゴの大群のように、おおぜい軍隊が押し寄せてきた。王龍の孫は、ある晴れた朝、未明に通る軍隊を見物しようと、男の召使といっしょに門のところに立っていた。長い行列をつくって行進して行く灰色の軍服を着た兵隊を見ると、孫は祖父のところへかけもどってきて、大きな声で言った。
「兵隊が通るのを見てごらんよ、おじいさん!」
王龍は子供の機嫌をとるために、いっしょに門のところまで出てきた。兵隊は街路にあふれ、町にいっぱいになっていた。歩調を合わせて、音高く軍靴《ぐんか》を踏みならして町を通って行く多数の灰色の兵隊で、空気や日光が、とつぜんさえぎられてしまったように王龍は感じた。よく見ると、みな妙な武器のさきに剣をつけてかついでいた。どの顔も、野蛮で、たけだけしく、荒々しかった。なかには、ほんの子供といってもいいような少年もいるが、やはり同じような顔をしていた。王龍は、それらの顔を見ると、急いで子供を引きよせて言った。
「さあ、なかへはいって門に錠をかけよう。見ていいような人間どもではねえだよ、坊や」
しかし彼が身を返す前に、いきなり兵隊の列のなかから彼をみつけて大声を出したものがあった。
「あれ、あれはおれのおやじの甥《おい》だぞ!」
王龍がその叫び声を聞いてそちらを見ると、それは叔父の息子だった。彼も同じようなほこりまみれのうすよごれた軍服を着ていた。顔は他のだれよりも野蛮で獰猛《どうもう》そうであった。彼は、がさつに大きく笑って仲間に呼びかけた。
「おい、戦友、ここで泊まろう。この家は金持ちだし、おれの親戚なんだ!」
王龍が、恐ろしくなって身を動かすこともできないでいるうちに、おおぜいの兵隊が彼のそばをかけぬけて、どっと門内へなだれこんだ。彼は、まんなかにとりかこまれて、どうするすべもなかった。兵隊たちは、悪意にみちた下水の水のように屋敷のなかになだれこみ、あらゆる庭のすみや隙間《すきま》にあふれ、床に寝そべったり、池から水をすくって飲んだり、剣をりっぱなテーブルの上に乱暴にほうりだしたり、ところかまわず唾《つば》をはいたり、たがいにわめき合ったりしていた。
この情景に、王龍は、あわてふためき、孫といっしょに長男をさがしにかけもどった。長男は部屋で読書していたが、父親がはいってくると立ちあがった。王龍が声をはずませて一部始終を語るのを聞くと、彼はうなって外へ出た。
しかし父の従弟《いとこ》を見ると、ののしるべきか、ていねいに迎えるべきか、わからなかった。ただ従弟の顔をみつめるだけで、背後にいる父親に向かって、うなるように言った。
「みんな剣を持ってる!」
そこで彼は、いんぎんになった。
「やあ、よくきてくれたですね」
父の従弟は歯をむいて、げらげら笑った。
「兵隊をすこしばかり連れてきたよ」
「どなたでも歓迎しますよ、あなたのお友だちでしたら」と王龍の長男が言った。「出発する前に食べられるように食事の用意をしましょう」
依然として従弟は、げらげら笑いながら言った。
「そうしてくれ。しかし急がんでもいいぜ。おれたちは戦闘がはじまるまで、ここに宿営することにするから。そう、五、六日か、一と月か、一年か、二年か、ともかく泊めてもらうよ」
王龍と息子は、これを聞くと、ろうばいをかくしきれなかった。しかし庭じゅういたるところに剣がひらめいているので、平気をよそおわなければならなかった。王龍と息子は、やっと苦しそうな笑顔をつくって言った。
「光栄です――光栄ですよ――」
長男は歓迎の準備をするために行かなければならぬというようなふりをして、父親の手をとって奥の部屋へかけこみ、扉にかんぬきをかけた。父と子は、あまりの驚きに、たがいに顔を見あわせ、どちらも、どうしてよいのかわからなかった。
そのとき、次男がかけてきて戸をたたいた。戸を開けると、次男は倒れるように転げこんできて、あわてふためき、息せききって言った。
「どこの家でも――貧乏人の家でさえ兵隊がいっぱいです――さからってはいけません。わたしは、そのことを言いに帰ってきたのです――というのは、きょう、うちの店員で、わたしもよく知っている男ですが――毎日帳場でわたしと机を並べている男です――それが、ようすを聞いて家へ帰ってみると、妻が病気で寝ている部屋にまで兵隊がいるので文句を言うと、あいつらは、まるであぶら身でも刺すように、その男を剣で刺してしまったのだそうです――簡単に、ぷすりと――背中まで刺し通したのだそうです。やつらがほしがるものは、なんでもやったほうがいいです。なるべく早く戦争が他の地方へ移るよう祈ることにしましょう」
三人は陰気に顔を見合わせ、自分らの妻のことと、このたくましい飢えた兵隊たちのことを思った。長男は、きれいで上品な妻のことを考えながら言った。
「女たちを集めて一ばん奥の部屋へ入れ、昼も夜も監視して、門にかんぬきをかけ、裏門をゆるめておいて逃げだすときにすぐ開けられるようにしておいたほうがいい」
そして彼らは、そのとおりにした。これまで蓮華《リエンホワ》が杜鵑《ドチュエン》や女中とだけ暮らしていた一ばん奥の部屋へ、女中と子供を全部入れて、不便や混雑を辛抱させた。長男と王龍は日夜見張りをし、次男も、こられるときにはきて、夜も昼も、細心の注意をして、番をしていた。
ところが、従弟は親戚だから、さえぎるわけにはいかなかった。慣習上、入れないわけにはいかないのだ。従弟は扉をたたいて開けさせ、どこへでもはいってきては、ぎらぎら光る抜き身の剣を手に持って、家じゅうどこでも歩きまわるのであった。長男は、にがにがしさを満面にあらわして、あとをついてまわるが、それでも何も言えなかった。ぴかぴかする抜き身の剣のためである。従弟は、女たちをひとりひとりながめまわしては批評した。
彼は長男の妻を見ると、野卑な笑いかたをして言った。
「おい、とりすました上品な女じゃないか。町の女だね。蓮《はす》のつぼみみたいに小さな足をしている」それから次男の妻に言った、「こりゃ田舎できの丈夫そうな赤大根だ。たくましい赤肉だな」
彼がこう言ったのは、次男の妻が、ふとって、あから顔で、骨太で、しかも、みにくくはないからであった。長男の嫁は、彼にみつめられると尻《しり》ごみし、袖《そで》で顔をかくしたが、次男の嫁は上機嫌で、ほがらかで、笑いながら生意気そうに答えた。
「でもね、熱い赤大根や赤肉の好きな人だっているんですよ」
従弟は、すかさず言い返した。
「おれも好きだよ」そうして彼女の手をとるような身ぶりをした。
長男は、言葉をかわすべきでない男女間の、この道にはずれたふざけかたを見るのが、恥ずかしくてならなかった。自分よりずっと上品に育ってきた妻の手前、従弟と義妹の醜態を恥じて、妻の顔をちらりと見た。従弟は、彼の妻への気がねを知ると、意地悪く言った。
「そうだな、いつだっておれは、あんな冷たくて味もそっけもない魚の肉よりも、赤肉のほうを、ごちそうになりたいよ」
この言葉に長男の妻はつんとして立ちあがり、奥の部屋へ引っこんでしまった。従弟は不遠慮に笑って、そこで水キセルを吸っている蓮華に言葉をかけた。
「町育ちの女は気むずかしすぎるようですな、そうじゃありませんかね、老夫人」彼はつくづくと蓮華をながめて言葉をつづけた。「じっさい老夫人さまだ。こんな肉の山みたいになったおまえさんを見ると、従兄の王龍が金持ちになったのがわかるというものだ。さだめしふんだんに食べたんだろうて。金持ちの女房でなけりゃ、そんなに堂々としたようすはしておらんものな」
蓮華は、老夫人と呼ばれたので、非常によろこんだ。それは大家の貴婦人だけにささげられる称号だからである。彼女は、ふとったのどの奥をごろごろいわせて、深い声で笑った。キセルから灰を吹き落として、奴隷につめかえさせ、杜鵑に向かって言った。
「この人、下品ね、冗談を言ったりしてさ」
そう言いながら王龍の従弟に、あだっぽく、流し目を使った。しかし、色目を使ったところで、いまでは目も大きくないし、頬《ほお》も、ふくれたアンズのような形をしていた昔のおもかげがないので、以前のようないじらしさはなかった。従弟はその秋波を見ると、大きな声で笑って言った。
「ばあさんになっても相変わらずだな!」そして、また大きな声で笑った。
そのあいだじゅう、長男は怒った顔をして、黙っていた。何もかも見てしまうと、従弟は母親に会いに行った。王龍が案内して連れて行った。叔母は息子がはいってきても目をさまさないほど、寝台の上でよく眠っていた。息子は寝床の頭のほうの床のタイルを銃床でがちんとたたいた。叔母は目をさまし、夢うつつでながめた。彼は、じれったそうに言った。
「おい、息子がきてるんだぜ。いつまで眠ってるんだ?」
叔母は寝床の上に身をおこし、もう一度息子をみつめて、ふしぎそうな顔で言った。
「息子だって――これが息子――」長いこと彼をみつめていたが、しまいに、ほかにどうしてよいのかわからぬように、阿片のキセルを彼にさし出した。阿片をすすめるよりほかに、いいことが考えつかぬかのようであった。叔母は、つきそっている奴隷に言った。
「すこし詰めてあげておくれ」
彼は母の顔を見返した。
「いや、いらないよ」
王龍は寝床のそばに立っていたが、この男が自分に向かって、「母親がこんなにしなびて、黄いろくなって、骨と皮ばかりになってしまったというのは、いったいどんなことをきさまはしたのだ?」と言いはしまいかと急に心配になった。
そこで王龍は急いで言った。
「もっとすくない量で満足してくれるといいだがな。この阿片のために毎日銀一握りほどもかかるだでな。しかし、この年では、さからうこともできねえだし、いくらでもほしがるだで」
彼は話しながらため息をつき、そっと叔父の息子の顔をぬすみ見た。
しかし彼は何も言わず、ただ母親のようすをみつめていた。そして母親がまた眠りこんでしまうと、立ちあがって銃をステッキのように振って、足音をあらく出て行った。
王龍と彼の家族は、表側の部屋にいる怠け者の大群よりも、この従弟を、もっとも憎み、かつ恐れた。兵隊たちは、樹木や、李《すもも》や、花の咲いている巴旦杏《はたんきょう》の灌木を、傷つけたり、折ったり、大きな皮靴で、みごとな彫刻のある椅子を踏みつけたり、緋鯉《ひごい》や金魚の泳いでいる池を汚物でよごしたりした。魚は死に、水面に白い腹をさらして浮かび、腐ってしまった。
従弟は気の向くままに、奥へはいったり出たり、奴隷女に目をつけたりした。王龍と息子たちは、ほとんど睡眠がとれず、やつれて、くぼんだ目で、たがいに顔を見合わせた。すると杜鵑が、これを見て言った。
「たった一つだけ方法があります。ここにいるあいだ、あの人をなぐさめるために、奴隷女をあてがうことですよ。さもないと、手を出してはいけないところにまで手を出しますよ」
もうこのうえめんどうなことに耐えられそうもなくなった王龍は、杜鵑の意見に賛成した。
「それがいいだ」
彼は杜鵑を従弟のところへやって、彼が見た奴隷女のうちで、どれが一ばん気に入ったかをたずねさせた。
杜鵑がもどってきて答えた。
「奥さまの寝台のそばに寝ている小さな色の白いのがよいと言っています」
この色白の奴隷は梨華《リホワ》と言って、飢饉の年に、小さく哀れっぽいようすで、ほとんど飢え死にしかけているのを、王龍が買った子だった。かぼそく弱々しい子なので、みんながふびんがって目をかけ、杜鵑の手伝いをして、蓮華のためにキセルにたばこを詰めたり、茶を入れたり、軽い用事だけをさせておいたのである。そんなわけで従弟が目をつけたのであろう。
みんなが奥の部屋に集まっている前で、杜鵑はこの報告をしたが、梨華は蓮華のために茶を注ぎながらこれを聞くと、わっと泣きだして、きゅうすをとり落とした。きゅうすはタイルの床に落ちてこなごなに砕け、茶が一面に流れだしたが、梨華は夢中で気がつかなかった。ただ蓮華の前に身を投げふし、頭を床に打ちつけ、悲しげな声で叫んだ。
「奥さま、わたしは――わたしはあの人が恐ろしくて――わたしは死んでもいやでございます――」
蓮華は不機嫌になり、気むずかしげに答えた。
「あれだって、ただの男だよ。女にかかれば、どんな男でも同じことさ。みんな変わりはないよ。なんでそんなに騒ぐのだい」そして杜鵑に言った。「この女を連れて行って、あの男に引き渡しなさい」
梨華は悲しそうに両手を組みあわせ、恐怖のために死んでしまうほど泣いた。小さなからだが恐怖でがたがたふるえていた。彼女は泣きながら哀願するように一同の顔をつぎつぎとみつめた。
しかし王龍の息子たちは、父の妻にたいしては、さからうようなことは言えなかった。彼らが黙っていれば、彼らの妻たちにしても何も言えない道理である。三男も何も言うことができず、ただそこに立って腕ぐみをし、黒いまっすぐな眉《まゆ》をよせて、彼女をみつめていた。子供や奴隷たちも、ものもいわずに黙ってながめていた。そして、この若い娘の、おそろしそうな、おびえた泣き声だけがひびいていた。
しかし王龍は落ちついていられなくなった。蓮華に怒られるのはいやだが、しかし彼は、つねにやさしい心を持っていた。だから、いまも心を動かされて、どうしようかと迷いながら奴隷の少女を見た。彼女は王龍の顔にそのような心があらわれたのを見てかけより、両手で彼の足にすがり、足もとに頭をすりつけて、はげしくすすり泣いた。彼は下を向いて彼女の小さな肩がふるえているのを見た。そして、だいぶ前に中年を越した従弟の大きな、がさつな野蛮なからだを思い出すと、あんなやつにこの少女をあたえるのがたまらなくいやになってきて、やさしい声で杜鵑に言った。
「そうさな、こんな若い女をむりにやるのはよくねえだな」
彼は、かなりおだやかに言ったのだが、すると蓮華は、すぐさま鋭く叫んだ。
「この子は言われたとおりにするのがほんとうよ。こんなに泣きわめくなんて、ばかげたことですよ。おそかれ早かれ、どんな女だって知らなければならないことなんだものね」
だが王龍は、情けぶかく、やさしかった。彼は蓮華に向かって言った。
「ほかになんとか方法を考えよう。もしおまえが望むなら、ほかの奴隷を買ってやってもいいだし、なんでもほしいものを買ってやるだ。ほかの方法を考えることにしよう」
蓮華は、前から舶来の時計と新しいルビイの指輪がほしかったので、急に黙ってしまった。王龍は杜鵑に言った。
「叔父のせがれのところへ行って、あの子は悪い不治の病を持ってる。それでもよかったら行かせるが、わしたちと同じようにそれがこわければ、別の丈夫なのをやると、そう言ってくれ」
そして彼は、まわりに立っている奴隷女たちを見わたした。奴隷たちは顔をそむけてくすくす笑い、恥ずかしそうなようすをしていたが、そのなかの二十歳を過ぎたかと思われる、がっしりとした田舎娘が、顔を赤らめて笑いながら言った。
「わたしはそういうことは何度も聞いていますし、わたしでよかったら行ってみたいと思います。あの人は、そんなにこわがるような人ではありません」
王龍は、ほっとして答えた。
「それじゃ行ってくれ!」
杜鵑が言った。
「わたしのあとにぴったりついておいでよ。なにしろ相手は、そばにくる女なら、見さかいなしに引っつかむような人だからね」そして、ふたりは出て行った。
梨華は泣くのをやめて、事件の推移に耳をすましていたが、依然として王龍の足にしがみついたままだった。蓮華はまだ梨華のことを怒っていたので、立ちあがると何も言わずに部屋を出て行った。王龍は、静かに少女を引き起こした。彼女はうなだれて、青ざめた顔で彼の前に立った。彼はその小さな、やわらかい、卵形の、たいへんきゃしゃな、色白の顔と、小さな、ほんのり紅《あか》いくちびるとを見た。彼は、やさしく言った。「なあ、奥さんの怒りがおさまるまで、二、三日離れてるがいいだ。それに、あの男がはいってきて、またおまえをほしがるといけねえだで、かくれているがいいぞ」
梨華は情熱のこもった、大きく見開いた目で彼をながめ、影のように静かにそこを立ち去った。
叔父の息子は一か月半ここで過ごし、気が向くと田舎女を抱いた。彼女は彼の子を身ごもって、それを屋敷じゅうにふれまわった。そのとき、とつぜん戦争がはじまり、兵隊の大群は、もみがらが風に吹きちらされるように、急に去って行ってしまった。あとに残ったのは、汚物と、彼らのやった破壊のあとだけだった。叔父の息子は、腰に剣を帯び、銃を肩にして、家族一同の前に立ち、ばかにするような調子で言った。
「おれは二度ともどってこないかもしれないが、そのかわりおれは、おれの二代目――母親の孫を残して行く。一月か二月滞在したところへ子供を残して行くなんてことは、だれにもできる芸当ではないぞ。そこが兵隊生活のありがたさだ――まいた種子が、あとから芽を出すと、他人が育ててくれるのだ!」
そして、みんなに高笑いをあびせて、仲間といっしょに出て行った。
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三十二
兵隊たちが去った後、王龍と長男と次男とは、はじめて今度だけは意見が一致した。それは兵隊の乱暴ろうぜきのあとを、きれいにぬぐい去らなければならぬということについてであった。そこで大工と石工を、もう一度呼ぶことにした。下男には庭を掃除させ、大工には、こわれた彫刻物やテーブルをうまく修理させ、また池には、汚物をさらいだして清い新しい水を入れさせ、長男が緋鯉や金魚を買ってきて、そこへ放した。それから、ふたたび花の咲く木を植え、残っている傷ついた木の枝を手入れした。
それで一年もたたぬうちに、屋敷はまた以前のようにみずみずしくなり、ふたたび花が咲き乱れるようになった。息子たちは、いずれもまた自分の部屋へ帰り、こうしてすべてはもとの秩序にもどった。
従弟の種をやどした奴隷女には、余命いくばくもない叔母に死ぬまで付き添い、死んだら棺《かん》に納めるようにと命じた。この奴隷女が生み落とした子は女だった。王龍は、それをよろこんだ。もし男の子だったら、奴隷女は威張って家族の一員としての地位を要求するだろうからである。しかし女の子だったら、これは奴隷が奴隷を生んだだけのことで、彼女の身分は前とは変わりがなかった。
それでも王龍は、だれに対しても公平であったように、この女に対しても公明正大な態度をとった。だから、叔母の死後、彼女が望むなら、叔母の部屋を彼女のものとしてもよいし、寝台もやってもいいと約束した。この屋敷には六十もの部屋があるのだから、部屋一つに寝台一つぐらいは、ものの数にはいらないのだ。王龍はまた、銀をすこし彼女にあたえた。奴隷女は、ただ一つのことさえのぞいたら、十分に満足した。王龍が銀をあたえたとき、奴隷女は、その一つのことを言いだした。
「旦那さま、その銀は、わたしの結婚の持参金にするために、そちらであずかっておいてくださいまし」と彼女は言った。「それで、もしごめんどうでなかったら、百姓か人のよい貧乏人とでも結婚させておくんなさいまし。恩に着ますだ。男といっしょに暮らしたら、ひとり寝はつらくなりましたで」
王龍は気軽に約束した。そして、そのことを請けあったとき、こんなことが頭にひらめいた。おれはこの女を貧乏な男に嫁《とつ》がせる約束をした。そのおれも、以前は貧乏な男で、女房をもらおうとして、この屋敷へはいってきたことがあるのだ。この半生のあいだ彼は阿藍《オーラン》のことを考えたことがなかった。そしていま彼女のことを思うと、悲痛というよりは心の重い淡い哀愁を感じた。はるか昔のことで、いまはあまりに彼女から離れてしまっていた。彼は、ものうく言った。
「あの阿片を吸っているばあさんが亡《な》くなったら、亭主をさがしてやるだ。もう長いことではあるまいからのう」
そして王龍は謂け合ったとおり実行した。ある朝、女がきて言った。
「さあ、約束どおりにお願いしますだ。おばあさんは、けさ早く亡くなりましたで、棺へ納めておきましただよ」
王龍は自分の田畑で働いている男でだれかいないかと考え、陳の死の原因をつくって泣いていた若者を思い出した。歯が下くちびるの上に突き出ている若者だ。彼は言った。
「そうだ、あの男がいい。あの一件にしても、やつは別にそうするつもりでやったんじゃねえだ。ほかの連中と同じように善良な人間なのだて。わしはいまあの男しか思いつかんでな」
そこで王龍は、その若者を呼びにやった。やってきたのを見ると、彼はもうりっぱに一人前の男になっていたが、相変わらずぶこつで、そっ歯だった。王龍は気まぐれを起こして、大広間の台座にすわり、ふたりを前に呼んだ。このふしぎなめぐりあわせの快い気分を心ゆくまで味わおうと、ゆっくりと言った。
「いいかな。この女のことだがな、もしよければ、おまえのものにしてもいいだぞ。わしの叔父の息子以外は、だれもこの女を知ってはいねえだ」
男は礼を言って彼女をもらった。女は丈夫な田舎女で、気立てもいいし、それに彼は貧乏なので、こういう女とでもなければ結婚できなかったからである。
王龍は台座からおりた。彼の人生が、いま一めぐりしたような気がした。彼は自分の人生でなしとげてみせると言ったことは全部なしとげた。夢にもなしうると思わなかったようなことまでなしえたのだ。それらのことが、どうして全部成就したのか、自分でもわからなかった。ただ、いまやほんとに平和な日がめぐってきて、のんびりと日向《ひなた》で寝ていられるようになった、と思うだけだった。彼はもう六十五歳に近かったし、孫どもは彼のまわりで若竹のように育っていた。長男の息子は三人で、一ばん上が十歳だし、次男の息子もふたりいた。そうだ、まもなく三男の結婚する日がくる。それさえ過ぎれば、生涯に、心にかかるものは、もう何もないのだ。彼は平和に暮らせるだろう。
それでいて、すこしも平和にはならなかった。兵隊どもが押しかけてきたことが、どこにでもトゲの跡を残してゆく野生の蜂《はち》の大群が襲来したかのようであった。長男の妻と次男の妻は、それまでは非常に礼儀正しく交際していたのだが、兵隊がきたために同じ部屋へ住むようになってからは、おたがいに、ひどい憎しみをもって、反目し合うようになった。双方の子供たちが、いっしょに暮らして、遊んだり、犬や猫のようにけんかしたりするので、母親たちまでが、かずかずのつまらぬいさかいを引きおこした。それぞれの母親は、すぐに飛びだして行って自分の子供をかばった。相手側の子供は思うさま平手でたたいてせっかんするくせに、自分の子供はしからなかった。自分の子供は、どんなけんかでも、つねに正しいのである。ふたりの女は、こうして反感を持ち合うようになった。
そのうえ、例の従弟が田舎女の妻をほめ、町女の妻をあざけったことが、忘れられない事件として心に残っていた。長男の妻は、義妹の前を通るときには、尊大にそりかえった。ある日、義妹とすれちがったとき、彼女は大きな声で夫に言った。
「あつかましくて育ちの悪い女が家族のなかにいるというのは、たまりませんね。男に赤肉だなんて言われても、笑っているんですからね」
すると、次男の妻も負けていずに大きな声で言い返した。
「姉さんは男から冷たい魚肉だと言われたもんだから、わたしをやいているんでしょう」
こうして、ふたりは怒って、たがいに相手を憎み合った。けれども兄嫁は、自分の礼儀正しさを誇っているだけに、ただ黙って相手を軽蔑し、注意ぶかく弟嫁の存在を無視した。だが、自分の子供たちが、部屋から外へ出ようとすると大声で呼びとめた。
「育ちの悪い子と遊んではいけませんよ」
隣の庭に義妹が立っているのが見えるので、つらあてに言ったのである。すると義妹のほうは義妹のほうで、自分の子供たちに言うのであった。
「蛇《へび》と遊んではいけませんよ。かまれるからね」
ふたりの女は、たがいにますます憎み合い、その憎悪が、いよいよ深刻になって行ったのは、一つには夫たちが、たがいに十分愛しあっていないのも原因だった。長男は、町育ちで自分より生まれのよい妻の目に、自分の生まれと家族たちとが見下げられるのを、つねに恐れていたし、次男は、兄の金づかいの荒いことと、なんでも自由になる総領としての身分によって分割しない前に財産を浪費されてしまうのを極度に心配していた。なお、そのうえに長男にとって屈辱なのは、次男が、父親にいくら金があって、いくら使ったかということを、すべて知っていることだった。土地からあがるすべての金は次男の手を通って王龍の手にはいり、そしてまた出て行くので、次男はその金額を全部知っているのである。しかし長男にはわからなかった。長男は父親のところへ行って、子供のように、あれこれとねだらなければならなかったのである。そこで、ふたりの妻が憎み合うと、その憎しみが夫たちにも伝わり、双方の部屋は怒りに満ちていた。王龍は、家のなかに平和がないので、うめき声をあげて嘆いた。
王龍自身にも、蓮華の奴隷を従弟の手から救ってやったあの日以来、蓮華とのあいだに、ひそかないざこざがあった。あの日以来、少女は、すっかり蓮華の機嫌をそこねてしまったのである。少女は黙々と忠実に、何やかや蓮華にかしずき、終日彼女のそばにいて、キセルにたばこを詰めたり、あれこれと物を運んだり、夜、彼女が眠れないといって不平を言うと、起きてきて足やからだをさすって慰めたりしたけれど、蓮華はそれに満足しなかった。
蓮華はこの少女に嫉妬していたのである。だから、王龍がはいってくると、少女を部屋から出してしまい、彼が少女に見ほれたといっては彼をなじった。しかし王龍にとっては、以前恐怖から救ってやったことのある哀れな小娘ぐらいにしか思っていず、白痴の娘をいたわる程度の気持ちしかなかったのである。だが蓮華があまり責めるので、ついその気になってよくよく見ると、この少女は、なるほど梨の花のように美しく色が白いということを知った。そして、ここ三十年以上もしずまっていた老いの血のなかに、何ものかがわき動いてくるのであった。
そこで彼は蓮華に笑いかけて言った。「なんだって――わしにまだ色気があるとでも考えているだか。年に三度もおまえの部屋へこないわしじゃねえだか」それでも彼は、横目で梨華《リホワ》を見ながら、心をかき立てられていた。
蓮華は無知な女だったが、男女間のことについてだけは精通していた。彼女は、男が老境にはいってから、ほんのすこしの期間、青春がよみがえってくることを知っていた。だから梨華に対して怒り、茶館へ売ってしまうと言ってはおどかしたりしたのである。しかし蓮華は、少女がよく仕えて快適に過ごさせてくれるので、かわいがってもいた。杜鵑《ドチュエン》は年老いて動きがにぶくなっているが、少女は、てきぱきと蓮華の身のまわりの世話をしてくれ、蓮華が自分で気づく前に彼女の必要なものを察するといったぐあいで、蓮華は少女を手離すのは気が進まなかった。しかも、あえて手離そうと考えていた。この慣れない心の葛藤《かっとう》に迷い苦しんだため、蓮華はますます怒りっぽくなり、手もとへおいていっしょに暮らすのが、いっそういやになるのだ。王龍は、楽しみたいと思っても、彼女の気分があまりにも険悪なので、長いあいだ彼女の部屋に足を向けなかった。彼は、いずれ機嫌が直るだろうと思って待つことにしたが、そのあいだにも、自分で思ったよりももっと深く、あの美しい少女のことを考えていた。
そのとき、ひねくれている邸内の女たちのわずらわしさだけではまだ足りないかのように、王龍の三男の問題までが加わってきた。この息子は、非常に静かで無口な若者で、読書にばかり没頭していたので、彼については、いつも書物を脇《わき》の下にかかえている葦《あし》のようにすらりとした青年であることと、いつも彼のあとに老いた家庭教師をしたがえていることしか、だれも考えていなかった。
だが、この青年は、屋敷に宿営していた兵隊たちのあいだで暮らし、彼らの戦争や略奪や交戦の話を、夢中になって、黙って聞きほれていた。そして彼は老教師から三国志や水滸伝《すいこでん》をもらって読んだ。彼の頭は夢でいっぱいになっていた。
そこで彼は父親の前に出て言った。
「わたしは志を立てました。軍人になって戦争へ行きます」
王龍はこれを聞くと、すっかりどぎもを抜かれた。そして周章ろうばいしながら、これまでに彼の身にふりかかった事件のうちで最悪のものであると思った。王龍は大きな声で叫んだ。
「まるで狂気の沙汰《さた》だて! いつになってもわしは息子たちのことで苦労せにゃならんのか!」
彼は息子を説きさとした。息子の黒い眉《まゆ》が寄って一直線になったのを見ると、やさしく親切に話してやろうとした。「息子や、昔から『よい鉄は釘《くぎ》にせず、よい人は兵隊にせず』という格言があるじゃねえだか。おまえは、わしの一ばんいい、一ばんかわいい末っ子だ。おまえが戦争であちこちさまよっているというのに、どうしてわしが夜寝ていられるだ?」
しかし三男は断固として決心をかためていた。父親を見ながら、黒い眉をおだやかにして、彼はこう言っただけだった。
「いや、わたしは行きます」
王龍は、なだめすかすような調子で言葉をつづけた。
「好きな学校に行かしてやる。南の大学にだって入れてやる。外国の学校にだって行かせてやろう。珍しいことを習うためにな。軍人にさえなるのでなかったら、好きなところへ勉強に行かしてやろう。わしのように金も土地もあるものが、せがれを兵隊にしたとなると、ひどい恥じゃでな」三男がまだ黙っているので、彼はまた、なだめるように言った。「なぜ兵隊になりてえのか、おとうさんに言うてみるがいい」
すると、三男は、だしぬけに言った。目が眉の下できらきら輝いていた。
「これまで聞いたこともないような戦争が起こるのです――いままでにないほどの革命や戦闘や戦乱が起こるのです。そして、われわれの土地は自由になるのです」
王龍はこれまでに三人の子供たちから驚かされたうちで、一ばんびっくり仰天させられながら、三男の言葉に聞き耳を立てた。
「なんのことかわしにはぜんぜんわからん」王龍はあやしんで言った。「わしたちの土地は、もう自由になっとるじゃないか。すべての土地が自由だ。貸そうと思うものに、わしは貸すだし、そうして、わしには銀や穀物がはいる。おまえが食べているのも、着ているのも、そのおかげだぞ。おまえはもう自由を持ってるだ。それなのに、なおそのうえにまだほしがるというのが、わしにはわからんわい」
だが三男は、にがにがしくつぶやいただけだった。
「おとうさんにはわかりません――おとうさんは年をとりすぎています――おとうさんには何もわかりませんよ」
王龍は、つくづく思案しながら、この息子を見た。その悩んでいるような顔を見て、ひそかに思った。
(わしはこの子になんでもあたえた。生命までもあたえたのだ。この子は、わしからなんでももらっている。田畑のめんどうをみるあとつぎの息子がいないのに、土から離れることまで許してやった。家族のうちに読み書きのできるものがふたりもいて、これ以上は必要がないのに、読み書きを習わせた)そして彼は考えこみ、また三男をみつめながら、心のなかで考えつづけた。(何もかもこの子はわしから得ておる)
彼は息子をつくづくとながめた。まだ青年で、ほっそりしてはいるが、背の高さは、もう一人前になっていた。しかも、情欲のきざしは、まだまったくあらわれていないので、彼は迷いながら、なかば声に出してつぶやいた。
「そうだ。もう一つ不足があるだろうて」彼は声に出してゆっくりと言った。「よろしい、もうすぐ結婚させてやろう」
だが三男は、しかめた眉の下から火のような視線を父親のほうに投げて、軽蔑して言った。
「そしたら、ほんとうにわたしは逃げ出します。わたしにとっては、一ばん上の兄さんのように、女が万事の解決ではありません」
王龍は、自分が三男を見そこなっていたことを、すぐにさとったので、あわてて弁解するように言った。
「いや――そうじゃねえだ――結婚させようというわけじゃねえだよ――わしの言うのは、もしおまえの好きな奴隷女がいるなら――」
少年は腕組みをして、昂然《こうぜん》たる態度で言った。
「わたしは、ありきたりの青年ではありません。わたしには夢があります。わたしは光栄を望みます。女なんて、どこにでもいます」そのとき彼は忘れていた何かを思い出したように、ふいに、いかめしい態度をやめ、腕をだらりと垂れ、ふだんの声で言った。
「それに、家にいるのは不器量な奴隷女ばかりです。もし、わたしがほしいと思ったとしても――ほしがりなぞしませんが――そうですね、美しいのは奥の部屋にいる人に仕えている小さな色の白い女ぐらいなものです」
王龍は、彼が梨華のことを言っているのだと知ると、ふしぎな嫉妬を心のうちに感じた。彼は急に自分が実際よりも老《ふ》けてしまったような気がした。腹帯を、いまよりも厚くまいて、白髪頭になっている現在よりも、もっと老いこんだような気がした。そして、ほっそりした若者として三男を見た。この一瞬、彼らは父子ではなかった。老人と青年のふたりの男だった。王龍は腹立たしいように言った。
「奴隷に手をつけてはならねえだぞ――わしの家では大家の若さまみたいな腐ったやりかたは許さねえだ。わしらは善良で健康な田舎の人間だ。行儀正しい人間だ。この家では、そんなことは許さねえだ!」
三男は目を見開き、黒い眉をあげて、肩をすくめた。
「最初におっしゃったのは、おとうさんのほうですよ」そして彼は身をひるがえして去った。
王龍はテーブルのそばにひとりですわって、わびしさとさびしさを感じ、心のうちでつぶやいた。
(家じゅうどこにも平和がねえだな)
彼の心のなかでは、いろいろな怒りが渦《うず》を巻いていた。なぜだか理解できなかったが、それらの怒りのうちで一ばんはっきりと感じられるのは、息子が小さな色の白い少女に目をとめて、彼女を美しいと認めたそのことであった。
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三十三
三男が梨華《リホワ》について言ったことを、王龍はいつまでも考えつづけた。梨華が出入りするときには、いつも彼女を見まもっていたし、自分でも気づかぬうちに彼女のことで心がいっぱいになった。まったく彼女に心を奪われていた。しかし、このことは、だれにも言わなかった。
その年の初夏のある夜、かぐわしいかおりをふくんだ暖かい霧が、厚くしっとりと立ちこめていた。彼は庭の桂皮樹《けいひじゅ》の花の咲いている下で、休んでいた。あまい、ものういような花のかおりが彼をつつみ、そこにすわっていると、若者のようにからだじゅうを血がかけめぐるような気がした。その日は、昼間のうちから、そんな感じがしていた。畑へ行って靴も靴下もぬいで、じかに足に大地を感じながら歩いてみたいと思っていたのであった。
しかし、そうは思ったものの、彼は、いまは城内に住んでいる身で、もはや百姓ではなかった。地主で、しかも金持ちなのだ。そんなところを人に見られたらまずい。そこで一日じゅう落ちつかずに庭のなかを歩きまわっていたのだが、蓮華が木陰《こかげ》で水キセルを吸っている庭のほうには、ぜんぜん足を踏み入れなかった。蓮華は男の心理を見抜くのがうまいので、落ちつかない原因を見破られるのが恐ろしかったからである。それで彼は、ひとりでぶらついていたのだ。けんかばかりしている嫁たちにも、会いたくないし、いつもは顔を見るのが楽しみの孫たちをさえ見る気がしなかった。
それゆえ、その一日は、とても長く、そして、さびしく感じられた。血がたぎり立って皮膚の下をかけめぐっていた。背が高く、すらりとして、若者らしくきびしく眉を寄せて立っていた三男の姿が、念頭を去らなかった。それからまた、あの少女のことも忘れられなかった。彼は心のうちに思った。
(ふたりとも年ごろだな――三男はもう十八にはなっているが、娘のほうは、まだ十八にはなっていないようだて)
彼は自分がまもなく七十歳になることを思い出して、かけめぐる血が恥ずかしかった。彼は考えた。(三男にあの娘をあたえるのが上乗じゃて)彼は何度も何度もそうひとりごとを言った。口に出すたびに、すでに痛みをおぼえているからだが、突き刺されるように痛んだ。だが、そう思わずにはいられなかったし、苦痛を感じずにはいられなかった。
このように、その一日は彼にとって、たいへん長く、そしてさびしかった。夜になっても、彼はまだひとりで庭に腰かけていた。友だちのように親しく話しに行ける相手も、この家にはいなかった。夜の空気は花のかおりでしっとりと、やわらかく、暖かだった。
樹下の暗がりに腰をおろしていると、その木のあるところに近い庭の門のあたりを、だれかが通った。すばやく目をやると、それは梨華だった。
「梨華!」と彼は呼んだ。その声は、ささやくように低かった。彼女は、とつぜん立ちどまり、首をかしげて耳をすました。
彼は、もういちど呼んだが、声が、ほとんどのどから出なかった。
「ここへおいで!」
それを聞くと彼女は門を通っておずおずと近よってきた。暗いので、彼には彼女の姿がほとんど見えなかった。しかし、そこに彼女がいるのを感じると、手をのばして彼女の着物をつかみ、なかば息をつまらせて言った。
「なあ、おまえ」
彼の言葉はそこでぷつりと切れた。自分が老人であり、この娘に近い年ごろの孫たちがいるのに、人として不面目なことだと思った。彼は彼女のかわいい上着に指をかけていた。
そのとき、王龍の言葉を待っていた梨華は、彼の血の熱を感じとると、花が茎の上でしぼむように地面にくずおれ、王龍の足をかかえて倒れた。彼は、とぎれとぎれに言った。
「娘や――わしは老人だ――たいへん年をとっている――」
彼女は口を開いたが、その声は桂皮樹の木の息づかいのように暗がりから聞こえてきた。
「わたしは老人が好きです――老人が好きです――老人はみな親切です――」
彼は、すこし彼女のほうへ身をこごめて、やさしく言った。
「おまえのような若い娘は、背のすらりと高い若い男のところへ行くべきじゃ――おまえのような若い娘はな」そして心のなかでつけ足した。(わしの三男のような若い男にな)だが口に出しては言わなかった。なぜなら、彼女にそう思わせるのは、彼には耐えられなかったからだ。
けれども彼女は言った。
「若い人は親切ではございません――はげしいだけです」
小さな子供っぽいふるえ声が足もとから聞こえてくると、この少女に対する大きな愛の波が、彼の胸のなかにみなぎってきた。彼は、やさしく彼女を抱きあげて部屋へ連れて行った。
すんでみると、この老境の愛は、以前のいかなる情熱よりも彼を驚かした。彼は梨華をたいへん愛しはしたが、これまでに知った女たちに対したときほど夢中にはならなかった。
彼は梨華を静かに抱いて、自分の老いたにぶいからだに彼女の若々しい青春を感じるだけで満足した。昼間は彼女を見ているだけで満足であり、その着物に手をふれるだけで満足であった。そして、夜は彼女のからだがかたわらに静かに休んでいるだけで満足であった。こんなに深く愛していて、しかも、ただそれだけで容易に満足できる老年の愛というものが、彼には、ふしぎであった。
梨華はというと、彼女は情熱のない女であった。父親に対するように彼にすがっていた。じっさい彼にとっては、彼女は女というよりも、むしろ子供であった。
王龍のこの行ないは、すぐには知れなかった。彼が何も言わなかったからである。この家の主人である彼が、だれにことわる必要があろう?
まっさきにこれを発見したのは杜鵑の目であった。杜鵑は夜明けに娘がそっと王龍の部屋から出てくるのをみつけ、娘をつかまえて笑った。その老いた鷹のような目が光った。
「おやおや」と彼女は言った。「まるであの黄《ホワン》大人の二の舞いだね!」
部屋のなかでこれを聞いた王龍は、手早く着物をまとって出てきて、きまり悪そうに、また、なかば誇らしげに笑いながら、つぶやくように言った。
「どうじゃな。わしは若い男のほうがよかろうと言うたんじゃが、梨華は老人がいいと言うのでな」
「奥さまに話したら、たいへんなことになりますよ」杜鵑は目を意地悪そうに光らせた。
「どうしてこんなことになったのか、わしにもようわからんのじゃよ」と王龍は、ゆっくりと言った。「このうえさらに女をわしの部屋へ入れるなんて、そんな気はなかったのじゃが、自然とそういうふうになってな」
「そうですか。でも奥さまには、どうしてもお話ししなければなりませんわ」と杜鵑が言うと、王龍は蓮華に怒られるのが何より恐ろしいので、杜鵑に頼んだ。
「話したければ話すがいいだ。じゃが、蓮華が面と向かってわしに怒らないようにとりなしてくれれば、銀貨を一握りおまえにやるだよ」
杜鵑は笑いながら頭を振っていたが、やがてそれを承知した。王龍は自分の部屋へはいって出て行かなかった。しばらくすると杜鵑がもどってきて言った。
「一件をお話ししましたら、奥さまは、えらくご立腹でしたよ。しかしあたしが、だいぶ以前からほしがっていらっして、あなたが買ってあげると約束なさった舶来の時計のことを持ち出しますとね、その時計と、それに両手に一つずつはめるためにルビイの指輪が二つと、ほかにも何か思いついたものが二、三あって、それがほしいとおっしゃっていましたわ。そして梨華のかわりの奴隷がほしいそうですわ。それから、梨華はもう二度とそばへこないように、あなたも、顔を見るのがいやだから、しばらくおいでにならないようにと、そうおっしゃっていました」
王龍はよろこんで承知した。
「ほしいものはなんでもやるだ。わしは物惜しみはせんよ」
彼は、蓮華のほしいものをなんでも買ってやって、彼女の怒りがしずまるまで、蓮華と顔を合わせる必要がないのがありがたかった。
しかし、まだ三人の息子に話すことが残っていた。自分のしたことを彼らに知らせるのが、奇妙に恥ずかしかった。彼は、なんども自分に言いきかせた。
(わしはこの家の主人じゃねえだか。わしが自分の金で買うた奴隷女をどうしようと、だれに気がねすることがあるだ!)
だが、やはり恥ずかしかった。しかし、ただもう老人あつかいしている周囲のものに、自分がまだ情熱があり、男として役に立つということを示せると思うと、いささか自慢したい気持ちもないではなかった。彼は息子たちがくるのを部屋で待っていた。
彼らは、ひとりずつ別々にきた。最初にきたのは次男だった。次男は、田畑のこと、とり入れのこと、今年の夏はひでりだから収穫が三分の一しかないだろうというようなことを話した。しかし王龍は、このごろでは雨やひでりのことなど、ぜんぜん気にしていなかった。以前からたくわえてある銀もあるし、部屋にもたくさんおいてあった。穀物商店にも貸金が相当にあるし、次男が高利で貸して集めてくる金も、たいへんな額になっているから、畑の上の空の模様のことなど気にする必要はなかったのだ。
次男は、こんな話をつづけた。そして話しながら、そっと部屋のなかをあちこち見まわしていた。彼の聞いた話がほんとうかどうかを知ろうとして女の姿をさがしているのだなと王龍は気づいた。彼は寝室にかくれている梨華に声をかけた。
「茶を持ってきてくれ。わしの息子にもな」
出てきた彼女は可憐《かれん》な白い顔を桃のように赤らめ、うつむいて小さな足で静かに歩いてきた。次男は、これまで聞いてはいたが信じてはいなかったというふうに、彼女の姿をみつめた。
しかし次男は、田畑がどうとか、あの小作人は阿片を吸っているから作物の出来が悪いとか、どの小作人は今年の暮れには変えなければいけないとか、そんな話しかしなかった。王龍が孫たちはどうしているかときくと、百日ぜきにかかったが、もう暖かくなったから、たいしたことはない、と答えた。親子は茶を飲みながら、こんな話をやりとりしただけだった。次男は自分の目ではっきりと見とどけたことに満足して帰って行った。王龍は次男については安心した。
同じ日の午後、長男がやってきた。彼は背が高く、男前がよく、成熟した年配なので、意気さかんであった。王龍は、その軒昂《けんこう》たる意気が気になって最初は梨華を呼ばず、たばこをふかしながら潮時《しおどき》を待っていた。長男は、もったいぶって、ぎごちなく腰をかけ、礼儀正しく父親の健康や何やかをたずねた。王龍は無事息災のよしを早口に静かに答えたが、長男を見ているうちに、彼を恐れる気持ちが、しだいに消えて行った。
というのは、長男がどういう人間であるかを彼はよく知っていたからだ。からだこそ大きいが、町育ちの妻を恐れ、高貴の生まれと見えないことを何よりも気にしている男なのだ。王龍は、自分で気づかぬうちに、大地から生まれた頑強《がんきょう》な力が心のなかにみなぎってきた。彼は前ほど長男のことが気にならなくなった。そのもったいぶった堂々たる態度にも、いっこう無関心になって、とつぜん気軽に梨華を呼んだ。
「なあ、もうひとり、息子がきたで、茶を入れてくれんかね」
今度は彼女は、まるでとりすまして、静かに出てきた。その小さなうりざね顔は、彼女の名の梨の花のように白かった。彼女は目をふせて、静かに言われたことだけをして、また部屋から出て行った。
ふたりは、彼女が茶を入れるあいだ、黙っていたが、彼女が去り、茶わんをとりあげたとき、王龍は長男の目を正面から見た。息子の目には、はっきりと感嘆の色があらわれていた。それは、ひとりの男が、ひそかに他の男をうらやむ目の色であった。茶を飲み終わると、最後に長男は、重苦しい、落ちつかぬ声で言った。
「そうとは信じませんでしたよ」
「なぜだかね?」王龍は平然と答えた。「ここはわしの家だからの」
息子は、ため息をついて、しばらく黙っていたが、また言った。
「おとうさんは金持ちですから、思うとおりのことができます」そしてまたため息をついた。「どんな男でもひとりの女では満足しないでしょうね。いつか時がくると――」
彼は言いかけて口をつぐんだ。しかし、うらやましさをおさえきれない目つきだった。王龍はそれを見て、心のうちで笑った。欲望のさかんな長男が、いつまでも町育ちの上品な妻に尻《しり》にしかれているはずはない、いつかきっと男の本性が首をもたげてくるだろう、と王龍はよく承知していたからである。
長男は、それ以上何も言わず、何か思いついたようなふうで出て行った。王龍は腰をおろして、たばこをふかし、こんな老人になって、なお思いどおりのことができたと思うと、誇らしい気がした。
三男がきたのは、夜になってからだった。彼もひとりできた。王龍は庭に面した中の部屋で、赤いローソクを卓上にともし、腰をおろして、たばこをすっていた。梨華は手を膝《ひざ》のうえにかさねて、その向こう側に静かにすわり、ときどき、子供のようにこびも示さず、まともに王龍を見た。王龍も彼女をながめていた。自分のしたことが彼は得意であった。
そのとき、とつぜん暗い中庭から、三男がとびこんできて、彼の前に立った。ふたりとも、くるまではそれに気づかなかった。三男も、何も考えるいとまもなくとびこんできたらしく、動物が獲物をねらうようなかっこうで父親の前に立った。王龍は一瞬われ知らず、以前村人たちが山岳地方でとらえて運んできた若い豹《ひょう》のことを思い出した。その豹は、しばられてはいたが、いまにもとびかかろうとして身をすくめ、目をらんらんと輝かしていた。この若者も、きらきらと光る目を、じっと父親に注いでいた。そして、若者にしては重苦しく陰気すぎる眉《まゆ》を、けわしく黒く寄せていた。しばらくそのまま立っていたが、やがて彼は、ひくい力をこめた声で言った。
「こんどこそ、わたしは軍人になります――軍人になります――」
彼は父親だけに目を注ぎ、梨華のほうは見ようともしなかった。王龍は、長男や次男はすこしも恐れなかったが、生まれてからこのかたほとんど気にとめたことのないこの三男に、いまふいに恐怖を感じた。
王龍は口ごもりながら何かつぶやいた。はっきり言うつもりでキセルを口から離しても声が出なかった。ただじっと三男をみつめているだけであった。三男は、なんどもくりかえして言った。
「こんどこそ軍人になります――こんどこそ軍人になります――」
急に三男はふり返って梨華を見た。彼と目のかちあった彼女は、身をふるわせて、三男を見ないように両手で顔をおおった。三男は梨華から目をはなすと、いきなり部屋からとび出して行った。王龍は、暗い夏の夜に向かって開け放たれている扉の向こうの四角に見える暗闇に目をやった。息子の姿はなく、あたりはしんとしていた。
やっと王龍は梨華のほうをふり向き、けんそんな気持ちでやさしく言った。深いかなしみに満たされ、誇らしい気持ちは消えていた。
「なあ、梨華や、わしはおまえには年をとりすぎているのだ。自分にもようわかっているのじゃ。わしは非常に年をとりすぎているだよ」
少女は顔から手をはなし、これまで聞いたことがないほどの情熱をこめて叫んだ。
「若い人は残酷です――わたしは老人が一ばん好きです」
あくる日の朝になると、三男はどこにもいなかった。だれもその行くえを知らなかった。
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三十四
秋が深まって冬になる前に、夏かと思わせる小春|日和《びより》があるものだが、梨華《リホワ》に対する王龍の熱愛も、ほんのつかのまであった。その短いあいだの情炎は過ぎ去り、情熱は消えうせた。彼は梨華が好きではあったが、はげしい情熱はもうなかった。
この情炎が消え去ると、彼は急に老年の寒さを感じ、老人になった。それでも彼は梨華が好きで、部屋でそばについていて、忠実に、また若いに似合わず辛抱づよくかしずいてくれるのがうれしかった。彼も、いつも彼女に申しぶんなくやさしくした。彼の愛情は、しだいに父の娘に対する愛情に変わって行った。
彼女は王龍のために、あわれな白痴の娘にも親切にした。これは彼をたいへんよろこばせた。だから彼は久しく自分の心だけに秘めていた秘密を梨華に話した。長いあいだ王龍は、この白痴の娘の将来について悩んできたのであった。彼が死んだあとは、この白痴の娘が生きようが餓死しようが、だれもめんどうをみなくなるだろう。そこで彼は、薬屋で白い毒薬を一包み買っておいて、自分の死期が近づいたら、白痴の娘に飲ませようと思っていたのである。しかしそれは、彼が死ぬよりも、もっと恐ろしいことだった。いま梨華に信頼がおけるとわかったので、彼は、たいへんよろこんだのである。
そこである日、彼は梨華を呼んで言った。
「わしが死んだあと、あの娘をたのめるのは、おまえだけだ。あの娘は心になんの苦労もねえだし、病気もねえだ、心配ごともねえだ。わしがいなくなっても何年も何年も生きるじゃろう。しかし、わしがいなくなったら、食事の世話をしてくれるものもいねえだし、雨の日や寒い冬の日には家に入れ、暖かい日には日向《ひなた》に出してくれるものもいねえだ。これまではずっと、あの子の母親とわしとがめんどうをみてきただが、そういうことになれば、おそらくは往来へ追い出されて、方々ほっつき歩くことになるだろうて。あの子が安全になれる道は、この包みのなかにあるだ。わしが死んだら、これを飯にまぜてあの子に食べさせてくれ。そうすれば、あの子も、わしのあとについてこられるだ。わしも安心できるというものだて」
しかし梨華は、彼が手に持っているものから身をひいて、やさしく言った。
「わたしは虫でさえ殺すことができません。どうして人の命を断つことができましょう。いいえ、旦那さま、わたしはあの娘さんを自分の娘としてめんどうをみます。あなたは、わたしに親切にしてくだすったのですもの――生まれてはじめて、だれよりも親切にしてくだすったのですもの」
王龍はそう言われると泣きたくなった。これまで、これほど彼の恩義を感じてくれたものは、ひとりもいなかった。彼の心は梨華にすがりつかんばかりになった。
「ともかく、この包みを持っていてくれ。おまえよりほかに信用できるものはいねえだでな。こんな不吉なことは言ってはならねえだが――おまえだとて、いつかは死ぬときもあるだ――おまえがいなくなったらだれがいるだ――いや、だれもおらん――息子の嫁たちは、自分の子供たちのことや、けんかのことで忙しいだし、息子たちは男だから、あの子のことなど考えてはおられぬでな」
梨華は彼の言葉を聞きわけて、包みをうけとり、二度とこのことについては何も言わなかった。王龍は彼女を信用していたので、白痴の娘の運命について後顧の憂いがなくなって安心した。
王龍は、ますます老いこみ、ほとんど白痴の娘と梨華の三人だけで暮らした。時おり、ちょっと気になって梨華を見、心配してきくことがあった。
「こんな生活は、おまえには静かすぎはしねえだかな」
しかし彼女は、心から感謝して、やさしく答えた。
「静かで安全ですわ」
ときどき彼はまた言った。
「わしは、おまえには、すこし年をとりすぎてるだ。すっかり老いぼれてしもうたでな」
しかし彼女は、いつも感謝して答えた。
「あなたには、とても親切にしていただいています。これ以上のことは、だれからも望めませんわ」
あるとき彼女がそう言うと、王龍は、好奇心をおこして、きいてみたことがあった。
「おまえみたいな若い年ごろで、どうしてそんなに男をこわがるだかね?」
どう答えるかと彼女の顔を見ていると、梨華は目にはげしい恐怖の色をうかべ、両手で顔をおおって、ささやくような声で言った。
「あなたのほかは、どんな男でもいやです――男はみんないやです。わたしを売った父親をすら、わたしは憎みます。わたしは男の悪いことばかり聞いていました。男はみなきらいです」
彼は、いぶかしく思って、たずねた。
「おまえはわしの家で、静かに気楽に暮らしてきたとばかり思っとったのにな」
「いいえ、いやなことばかりでしたわ」と彼女は横を向いて言った。「いやなことばかりで、だれもきらいです。若い男の人は、みんなきらいです」
彼女はそれ以上何も言わなかった。彼は考えた。蓮華が自分の過去の生活のことをあれこれと話して聞かせて、彼女をおびえさせたのだろうか。あるいは杜鵑《ドチュエン》がみだらなことでもしゃべって彼女をびっくりさせたのだろうか。それとも彼には言えないような秘密が起こったのだろうか。それとも何かほかのことだろうか。彼にはまるで見当がつかなかった。
彼は、ため息をついて、それ以上考えを追うのをやめた。いま彼は何ものにもまさって心の平和が得たかった。そして、この部屋で梨華と白痴の娘を相手に暮らすことだけが望みだった。
こうして王龍はすわっていた。一日一日、一年一年と老いこんで、かつて彼の父親がそうであったように、日向でうつらうつらと眠り、自分の一生はもう終わったのだと考えて、満足していた。
まれではあったが、ときどき、彼は他の部屋を訪れることもあった。さらにまれだが、蓮華を見にゆくこともあった。彼女は梨華のことは、けっして口にしないで、彼が行くと、よろこんで迎えた。彼女も、いまは年をとって、好きな酒や食べものに満足し、また求めに応じて彼があたえる銀に満足していた。彼女と杜鵑とは、ながい年月、主人と召使というより、まるで友だちのようになって暮らしていた。あれこれとしゃべり合っていたが、その話の大部分は、昔の男との情事ばかりだった。大きな声で話せないことは、こそこそとささやき合い、よく食べて、飲んで、眠って、目がさめるとしゃべり合って、それからまた食べたり飲んだりするのであった。
非常にまれだが、王龍は息子たちの部屋へ見にゆくこともあった。彼らは鄭重《ていちょう》に父親をもてなし、あわてて茶を出した。彼は最近生まれた孫が見たいと言ったりした。そして、ひどく忘れっぽくなっているので、同じことを、何度もきいたりした。
「わしの孫は何人になったかな?」
だれかがすぐに答える。
「男の子が十一人に女の子が八人ですよ」
彼は、おもしろそうに笑って言う。
「一年にふたりずつふえて行くのじゃな。わしにも数がわかるて。そうじゃろうが?」
彼は、しばらくそこに腰をおろして、周囲をとりまいている孫たちを見まわした。孫たちはもう背の高い少年になっていた。彼は、これらの孫どもを、どんな子だろうとながめて、ひとりごとをつぶやいた。
「あの子は、わしの父親に似ているな。あの子は劉さんにそっくりじゃ。この子はわしの子供のときと同じじゃて」
そして孫たちにたずねた。
「みんな学校へ行っとるのか?」
「行っていますよ、おじいさん」みんな、さまざまな声でいっしょに答えた。彼は、またたずねた。
「四書を習っているか?」
孫たちは、この頭の古い老人を軽蔑して、若々しい澄んだ声で笑った。
「いいえ。おじいさん、革命が起きてから、だれも四書なんか勉強しませんよ」
彼は、ちょっと考えてから言った。
「うむ、革命のことは、わしも聞いたことがあるだ。しかし、わしは、ひどく忙しくて、革命に気をひかれるひまもなかっただ。いつも畑仕事があったでな」
子供たちは、くすくす笑った。そして王龍は、息子たちの部屋では、つまるところ客でしかないのに気づいて、腰をあげるのであった。
その後、彼は二度と息子たちの部屋へ行かなかった。それでも、時おりは杜鵑にたずねてみた。
「もう長年になるのだから、あの嫁たちふたりも仲よくやっているのじゃろうな?」
杜鵑は床に唾《つば》を吐いて言った。
「あの人たちですか? まるで猫がにらみ合っているみたいに平和ですよ。ご長男は奥さまがあれこれ不平ばかりならべるので、すこしもてあましておられるようですわ――あの奥さまは、あの旦那さまには、すこし上品すぎるようで、いつも実家ではどうだこうだと、そんなことばかり話しておられますわ。あれじゃ男のほうでもうんざりしますよ。旦那さまは妾《めかけ》をお持ちになるといううわさですわ。このごろは、しじゅう茶館へおいでになりますよ」
「そうかい」と王龍が言った。
そのことを考えようと思っても、そんなことの興味はうせて、知らず知らずのうちに、茶がほしいとか、早春の風は肩にうすら寒いというようなことに考えが移ってしまうのであった。
また別のときは、彼は杜鵑に言った。
「だいぶ前にどこかへ行ってしまった三男のたよりを聞いたものはねえだかな」
すると杜鵑は答えた。この屋敷のことで彼女の知らないことはないのである。
「だれのところへも手紙はよこしませんが、このごろ南からくる人から、ちょいちょいうわさは耳にはいります。あのかたは革命とかいうもののなかで、いまは将校になられて、たいへん羽振りをきかしているそうですわ。革命って、なんのことか知りませんが――たぶん何かの商売なのでしょうね」
また王龍は「そうか」と言った。
三男のことを考えようと思ったが、もう夕方になり、日が沈んで、うすら寒くなったので、骨の節々が痛んできた。彼の心は気の向くままに、あちこちにただよい、一つことを長くつづけて考えてはいられないのだ。からだがおとろえているので、食べものや熱い茶が何にもましてほしくなっていた。だが、寒い夜がくると、いっしょに寝る梨華が若々しく暖かいので、彼女の暖かさで、寝床のなかの彼はなぐさめられた。
このようにして春がいくたびか過ぎて行った。年が過ぎて行くごとに、春のくるのがおぼろげになってきた。だが、ただ一つ彼の心にはっきりと残っているものは、土への愛情だった。彼は土をはなれて町へ住居をうつし、そして金持ちになった。それでも彼の根は大地に張っていた。何か月も何か月も大地を忘れているが、毎年春がくると、彼は、かならず畑へ出て行った。もういまでは鋤鍬《すきくわ》を手にすることはできず、ほかの人たちが耕すのを見るだけだが、それでも彼はぜひにと望んで出かけて行った。
おりおりは、召使を連れ、寝床を持たせて行って、昔の土でつくった家の、息子たちが生まれ阿藍《オーラン》が死んだ寝床で眠った。夜が明けると寝床から起きて外へ出て、ふるえる手をのばして芽ぐむ柳や花のついている桃の小枝を折り、終日それを手に持っていた。
こうして、そろそろ夏も近い晩春のある日、ぶらぶら畑の小道を歩いていた彼は、彼が墓地として選び、死者を葬った低い丘の上の、土壁をめぐらした場所へ出た。ふるえるからだを杖《つえ》にすがって墓をながめていると、死んで行った人たちが、ひとりひとり思い出されてきた。それらの死んだ人たちが、いっしょに家で暮らしている息子たちよりも、白痴の娘と梨華をのぞけば、だれよりも、はっきりと心にうかんできた。
彼の心は何十年か昔にかえり、すべてがはっきりとよみがえってきた。だいぶ久しく消息を聞かない次女のことまで心にうかんできた。心にうかぶ彼女は、あかい、うすいくちびるをした、まだ家にいたころの美しい少女で――彼にはその娘も、ここの土のなかに眠っている人々と同じように思えるのだった。しばらく考えにふけっていた彼は、やがて急に思いついた。
「そうだ、つぎはわしの番だて」
彼は墓所のなかへはいって行って、父親と叔父よりは下位で、陳よりは上位の、阿藍の墓に近い、自分が葬られるべき場所を、じっとながめていた。この自分の横たわる小さな場所を見ていると、このなかにはいって永久に土にかえる自分の姿が見えるような気がした。彼はつぶやいた。
(棺を用意させなければいかんな)
忘れないように痛いほど心にきざみつけて彼は町の家に帰り、長男を呼んで言った。
「言っておかねばならねえことがあるだ」
「おっしゃってください、うかがいます」と息子は答えた。
しかし言おうとすると、なんのことだったか、どうしても思い出せなかった。痛いほど心にきざんでおいた用件だったのに、意地悪く頭から逃げて行ってしまったのである。彼はくやしくて涙が出てきた。そこで梨華を呼んで言った。
「なんじゃったろうな、わしの言いたかったことは?」
梨華は、やさしく言った。
「きょうは、どちらへおいでになりましたか?」
「畑へ行っただよ」梨華の顔をみつめて答えを待ちながら彼は言った。
「畑のどこでしたか?」
ふいに記憶がよみがえった。王龍は目に涙をにじませたまま笑って叫んだ。
「そうじゃ、思い出したわい。せがれや、わしは、わしを埋める場所を選んできたのじゃよ。父と叔父の下、陳の上で、おまえの母親の隣だ。それでわしは、死ぬ前に棺を見ておきたいのじゃがな」
長男は、孝行の義務をまもって、礼儀正しく、大きな声で言った。
「死などということはおっしゃらないでください、おとうさん。おっしゃるとおりにはいたしますけど」
そこで息子は、香木の巨材をえぐりぬいて彫刻をほどこした棺を買ってきた。その香木は鉄のように固くて持ちがよく、人骨よりも長く朽ちないので、葬儀用だけに用いるものであった。王龍は安心した。
彼はその棺を部屋へ運びこませて毎日ながめていた。
ある日、ふいに彼は思いついて言った。
「そうじゃ、この棺を昔の土の家に持って行かせよう。あそこで短い余生をおくって死にてえだ」
彼の決心がかたいので、家族のものは望みどおりにさせた。彼は梨華と白痴の娘と必要な召使を連れて、彼の土地の上にある土の家へ帰っていった。こうして彼は、ふたたび彼の土地の上に住居をさだめ、彼が土台をきずいてやった町の家には家族を残しておいた。
春が過ぎ、夏が過ぎて、とり入れどきとなり、冬がくる前の暖かい小春日和になると、王龍は、昔彼の父親がすわっていた壁によりかかってすわっていた。彼は食べることと飲むことと畑のこと以外は何も考えなかった。しかし畑のことといっても、とり入れの予想とか、まく種子の選定とか、そんなことではなく、ただ畑それ自体を考えているだけであった。ときどき、彼は身をかがめて、少量の土を手にとり、それを握ってすわっていた。指のあいだで、土は生命に満ちているように感じられた。そういうふうに土を握っていれば彼は満足であった。土の家のことや、そこにおいてある棺のことも、ちらと考えることがあった。慈悲深い大地は、彼が土にかえる日を急がずに待っていた。
息子たちは礼儀正しく、毎日か、あるいは一日おきぐらいにやってきた。そして老人向きのおいしい料理をとどけてよこしたが、彼が一ばん好んだのは、彼の父親と同じで、小麦粉を湯にかきまぜた汁《しる》をすすることだった。息子たちが毎日こないと、ときどき彼は、いつもそば近くにいる梨華に向かって不平を言った。
「なあ、どうして息子たちはこんなに忙しいのじゃろうかな」
しかし梨華は答えた。「あの方たちは働きざかりで、たくさんご用があるのですわ。ご長男のほうは、金持ちのあいだで選ばれて町のお役におつきになり、そして新しい奥さまをおもらいになりました。ご次男のほうは、ご自分で大きな穀物商店をお開きになりました」すると王龍は耳をすまして聞いてはいるが、何も理解できず、畑をながめると、すぐに何もかも忘れてしまうのだった。
しかし、ある日、しばらくのあいだ頭のはっきりした日があった。ちょうどふたりの息子たちがきていた日で、彼らは、ていねいに父親にあいさつし、外へ出て、家のまわりの畑を歩いていた。王龍も黙ってあとからついて行った。彼らが立ちどまったので、王龍は、ゆっくりと彼らに近づいて行った。兄弟は、やわらかい土の上を歩く父親の足音も杖《つえ》の音も気づかなかった。王龍は、次男が例の用心ぶかい調子で言うのを聞いた。
「この畑とあの土地を売って、ふたりで平等に分けようじゃないか。兄さんのぶんは、わたしが高利で借りましょう。線路が開通したから、海岸まで米を送ることができるし――それにわたしは――」
老人の耳にはいったのは、この「土地を売る」という言葉だけだった。彼は大きな声で叫んだ。あまりの怒りのために、声がふるえて、調子はずれになるのを、どうおさえることもできなかった。
「ばかめ! こののらくらものめ! 土地を売るだと?」彼は息がつまって倒れそうになった。
息子たちが両側からささえた。彼は泣きだした。
兄弟は父親をなだめて言った。
「いいえ――いいえ――けっして土地は売りはしませんよ」
「土地を売りはじめたら――一家はおしまいだぞ」と彼はとぎれとぎれに言った。「わしらは土地から生まれてきただ。そして、また土地にかえらねばならねえだ――土地を持っていれば生きて行かれる――土地は、だれにも奪われることがねえだ――」
老人は老いて乏しくなった涙が、頬の上でかわき、塩っぽいあとをとどめるのにまかした。彼は身をかがめて土を一握りつかみ、それを手に握って、つぶやいた。
「もしおまえたちが土地を売ったら、それが最後だぞ」
ふたりの息子は両側から彼の腕をとって、ささえていた。彼は、暖かい、やわらかな土を手にしっかり握っていた。兄弟は彼をなんどもなだめた。長男も次男も、くりかえして言った。
「安心してください、おとうさん。安心してください。土地は、けっして売りません」
しかし彼らは、老人の頭ごしに顔を見合わせて微笑し合った。(第一部 完)