夢見た騎士 Knight Dreams
スーザンバークレー Suzanne Barclay
柊羊子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)主《あるじ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)疲労|困憊《こんぱい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)やから[#「やから」に傍点]
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◆主要登場人物
ガブリエル・ド・ローラン……南仏クレンリーの領主の娘。愛称ガビィ。
オーデル・ド・ローラン……クレンリーの領主。ガビィの父親。
ベルナール・ド・ローラン……オーデルの息子。ガビィの異母兄。
フェリス・ボーフォール……ガビィの侍女。
ルーアーク・サマーヴィル……サマーヴィル家三男。ウィルトン領主。
ジェフリー・サマーヴィル……ウィンチェスター伯爵。ランスフォード領主。サマーヴィル家当主。
キャサリン……ウィンチェスター伯爵夫人。サマーヴィル三兄弟の母親。
ガレス・サマーヴィル……サマーヴィル家嫡男。
アレクサンダー・サマーヴィル……サマーヴィル家次男。貿易船船長。愛称アレックス。
ウィリアム・ド・レーシィ……ルーアークの幼なじみで腹心の家臣。
フィリップ……ルーアークの従者。
ブライアン・カーマイケル……ルーアークのまたいとこ。ホルトンヒース領主。
エドマンド・ハーコート……サマーヴィル家の仇敵の現当主。ハートコート領主。
ジェスリンとヒュー……エドマンドの娘と息子。双子。
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プロローグ
一三五六年九月
フランス、ポワティエ
秋の太陽が地平線から顔をのぞかせた。先週の戦いで奪い取ったフランス軍の華麗な絹の大天幕の上にも、まわりを囲む無骨で実用的なイギリス製の天幕の上にも、黄金の光がさしていく。
早朝の水浴びをすませて金色の髪に滴をきらめかせ、上半身をあらわにした姿で川から戻ってきたウィルトンの領主ルーアーク・サマーヴィルは、小高い丘の上で足を止めた。「これはどういうことだ?」
副将ウィリアム・ド・レーシイは、いまは主《あるじ》である幼なじみの視線の先に目を走らせた。天幕の間で重騎兵たちが傷んだ鎧《よろい》と武器を脇《わき》に積み上げて眠っている。そのかたわらで従者や従僕が眠り、弓兵たちも大弓と矢を手にしたまま眠りをむさぼっている。戦利品を満載した荷車のまわりで寝ずの番にあたる槍兵《やりへい》にも変わった動きはなかった。
「何ごともなく眠っているように見えるが」
「すでに起きて、出立の準備をしていてもいい時刻だぞ」ルーアークが言う。
ウィリアムはそっとため息をついた。幼少のころから困難に耐えて目的を果たすよう祖父サー・ロジャー・ド・リヴァーズに訓練されたルーアークと違って、兵士たちは食事にも休養不足にも不平を言う。しかし、ド・リヴァーズ卿《きょう》の望みどおりの屈強な戦士に成長したルーアークが、サマーヴィル一族の心優しい気質を隠しもっていることをウィリアムは知っている。彼は言った。「あの者たちが身を休ませるのも無理はない。勝利をおさめたあと、こう休みもとらずに帰路を急がされては」
「理由あってのことだ」ルーアークはきっぱりと言い放った。彼も、できるなら疲労|困憊《こんぱい》した兵をせきたてることはしたくなかった。「戦いに勝ったとはいえ、ボルドーまで何マイルも危険な土地を旅しなくてはならないのだ。道筋にはフランス軍の残党がうろついて、我々イギリス人の血を一滴でも多く流そうと狙《ねら》っている」ルーアークは丘をくだりはじめた。二十四歳の若者に似合わぬ頑強な口元の表情が彼を実際より年上に見せ、噂《うわさ》どおりの冷徹な人間に思わせる。
ウィリアムは彼を追った。「兵の数は、我々と戦利品の安全を保つには充分ではないか」
ルーアークは異議を唱えながらも、瞳に満足げな表情を浮かべていた。エドワード黒太子とともにフランスに渡って三年。数々の戦いに勝ってきた。富が目的ではないが、山をなす戦利品はその証《あかし》だ。
ド・リヴァーズ卿はポワティエの戦いにおける孫息子の働きを喜んでくださるだろうか? ルーアークは祖父が望むとおりの者になりたいと願ってきたが、根っからの勇士である祖父と違って、彼を戦いへとかりたてるのは熱い血潮ではない。義務感であり、祖父の死の枕辺《まくらべ》でたてた誓いだった。
「次の戦いは?」ウィリアムが尋ねた。
「王太子殿下に謁見を賜ってから決めるつもりだ。もっとも、兵士が奮起してこのままボルドーへ向かってくれると仮定しての話だが」
ルーアークはフランス製の大天幕に入る前にふと足を止めた。七年前にド・リヴァーズ卿が他界して以来、戦いに明け暮れてきた。連勝に継ぐ連勝にルーアーク・サマーヴィルの名は高まるいっぽうだが、それでも、常に次の戦いに目を向け続けた。
冷酷なところがド・リヴァーズ卿にそっくりだと言う者もあれば、富と名誉がほしいだけだと噂する者もある。夜ともなれば、彼にも絶望感と疲労が押し寄せる。彼がそれを押して戦う本当の理由を知る者はほとんどいない。
ルーアークは自分の生き方を嫌い、自分のなしてきた行為を憎んでいたが、誓いを果たすまでは剣を休めるわけにはいかなかった。その誓いは、彼にとっては五十ポンドの鎧よりさらに重い存在なのだ。
ときには重荷を捨てて別の人間として生きていきたいと思うこともある。領主であり騎士であり戦士であるルーアーク・サマーヴィルではなく、ただのひとりの男として。
ルーアークは深く息を吸った。ゆうべ見た夢のなかでは自分がそういう男になり、緑の野を駆けていた。踏みしだくのは累々たる敵の屍《しかばね》でなく咲き匂《にお》う花々で、手のなかにあるのは剣でなく柔らかな女の手だった。女の黒髪が軽やかに風に舞い、その瞳は愛に輝いていた。菫《すみれ》色の瞳だ――そう思ったとき、自分のうめき声で目覚め、闇《やみ》のなかでひとり目を開けたのだった。
ローナ。
そよ風が絹の天幕を吹き過ぎて彼女の名をささやく。
ルーアークの脳裏に忘れがたい美しい顔がよみがえった。魅惑的な菫色の瞳。あれから一年ほどもたつのに、短剣で切り裂かれるように胸が痛い。ローナの死を思うと、彼の心は悲しみで満ちた。
彼は頬にさす朝の日差しの温《ぬく》もりを感じた。この温もりも凍《い》てついた心を温めてはくれない。だが、わたしは生きていかねばならないのだ。なんとしてでも、祖父にたてた誓いを果たさなくてはならないのだから。ローナがいなくても生きていく方法を見つけなくては……。
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1
一三五六年九月
フランス、アルル
クレンリーの天守はさほど広くないが、小さな宝石のような秋の陽《ひ》のもとに美しく輝いていた。石灰塗料を塗ったばかりの壁が、森の木々の緑に映えてまばゆいばかりに白い。
清潔で整然とした光景だ。
ガブリエル・ド・ローランは吐息をもらし、城壁で囲まれた中庭でくり広げられている騒ぎをよそに、疲れた背中をのばした。「収穫の季節って好きだわ。だって、クレンリーが生命にあふれているように感じられるんだもの」
侍女のフェリス・ボーフォールが言う。「ほんの一瞬、惨めな現実を忘れさせてくれますからね」
ガブリエルはため息をついた。「そうね。フェリスの言うとおりだわ」クレンリーの美しさは、壁に塗られた石灰塗料の美しさだ。表面は清らかに見えても、下に邪悪なものが隠されている。ガブリエルは失望を隠すように、あたりに視線をめぐらせた。冬に備えて保存する林檎《りんご》や梨《なし》、プラムが積み上げられた長い台を前にして、料理人たちが忙しく働いている。午餐《ごさん》用の牛肉の大きな塊は、燃えさかる火にあぶられて香ばしい香りをたてていた。
「ガビィさまは少し働きすぎですよ」フェリスが言った。誰の目から見ても、ガブリエルが負わされている荷物は十八歳の細い肩には重すぎる。
「あなたたちほど働いてはいないわ」
「でも、ガビィさまはこのお城の姫君なんですよ」
「あなたたちと同じよ」
フェリスは顔をくもらせた。ガブリエルの言葉は事実だった。ガブリエルは、暴虐な父オーデル・ド・ローランのために城を居心地よくするよう、一日じゅう働いている。だが、身を粉にして働いても、陋劣《ろうれつ》な領主が娘の存在を思い出すのは不都合が生じたときだけだった。
「忙しいほうが好きなの。ほかのことを考えないでいられるもの」
「そうでしょうとも。ご自身の結婚のことも、さぞお気がかりでしょう。イギリスとの戦争が終われば、きっと例の騎士さまが現れて……」
「ばかなことを言うのはやめて!」ガブリエルはほかの者に聞かれなかったかと、あたりを見まわした。「こんなところに来るわけがないわ。少なくとも、まともな騎士は。わたしたちがどんなに城を磨きたて、お父さまがどんなに調度にお金を使おうと、ド・ローラン一族にまつわる悪名は隠せやしないわ。ああ、あなたに夢の騎士のことを話したりしなければよかった」
「夢を見るのは悪いことではありませんわ。望みをもつということですもの」
「夢は愚かな者が見るものよ。それに、わたしの夢なんて、かなうわけがないわ」それでもガブリエルは心の底では夢の騎士を信じていた。それどころか、騎士は絶望感に襲われたときの大切なよりどころだった。自分のなかの現実的な一面がどう否定しようと、クレンリーの城門に馬で乗りつける騎士の姿をくり返し夢に見た。騎士はガブリエルをひと目見て恋に落ち、呪《のろ》われたド・ローランの血をものともせずに彼女を守る誓いをたて、クレンリーから連れ出してくれる。そして、ふたりを待つ幸福に満ちた平和な暮らし……。
しかし、朝になるたびにガブリエルは自分の愚かさを恥じた。もし、騎士が現れても、わたしのような娘を愛してくれるはずがないのにと。
そのとき、鋭い悲鳴が響いた。ガブリエルはとっさにあたりを見まわしたが、悲鳴の主は中庭にはいない。まもなく鞭《むち》の音がして二度目の悲鳴が聞こえた。前庭の方角だ。
クレンリーで日常茶飯事となっている刑罰の音と気づいたガブリエルは身ぶるいした。「フェリス、薬を前庭に運んで。料理人頭、料理人の半分をいつもの仕事に戻して食事の用意を急がせてちょうだい」そう命じて、前庭に続く門へと向かう。
「誰でしょう?」フェリスがガブリエルを追いながら言った。
「きっとユースタスだわ。昨日、お父さまの森で彼が兎《うさぎ》を捕ったと密告した者がいるの」領主オーデルに逆らうすべもないクレンリーの領民はかばい合うのが常だったが、なかには貧苦に耐えかねて裏切る者もいた。ガブリエルはため息をついた。「昨晩のお酒で忘れてしまわれたことを願っていたんだけれど」
見物人がガブリエルに気づいて道をあけた。鞭打ち用の柱に縛りつけられたユースタスの顔はすでに血だらけで、怯《おび》えきった妻と五歳の娘もかたわらの柱につながれている。
神さま、わたしに力をお授けください。ガブリエルは祈りながら、それぞれの椅子でくつろぐ父オーデルと異母兄ベルナールに近づいた。
「お父さま」
ガブリエルが怒りを抑えて静かな口調で呼びかけると、オーデルは笑みを浮かべながら淡い灰色の瞳を向けた。端整な面立ちで背が高く、ほっそりとした優雅な姿ではあるが、なかに宿るのは邪悪な魂だ。「なんだ、娘よ?」
自分に同じ血が流れていると思うと、いとわしさに身がふるえる。父がことあるごとに娘よ≠ニ呼びかけるのは、もしかしたらこの気持を知っているからかもしれないとガブリエルは思っていた。
「おまえも見物に来たのか?」そう言うベルナールの目には邪《よこしま》な輝きが宿っていた。二十歳になったばかりの兄も、背丈こそおよばないが、父に似て整った容貌《ようぼう》の持ち主だ。ふたりは銀糸で縞《しま》の縫いとりをし、半貴石をつけた豪奢《ごうしゃ》な赤いビロードのサーコートを身につけていた。
ガブリエルは嫌悪感を隠して言った。「午餐の用意が整いました」
ベルナールが不服そうに答える。「早すぎるぞ。まだ女たちの刑が残っているのに」
「そのあとでは肉が焼きすぎになります」ガブリエルはそう言って、オーデルの答えを待った。ふたりがいまここを離れればユースタス一家を助けられるかもしれない。昼寝から覚めるまでに熊《くま》いじめ≠ゥ闘鶏を用意してほかの娯楽に気を向けさせることができれば、彼らのことを忘れる可能性があった。
「こんな不手際はそなたらしくないぞ、娘よ」
ガブリエルは簡素な茶色のドレスのひだの陰で拳《こぶし》を握りしめた。「思いのほか火の勢いが強くて」
「よかろう」オーデルは冷たい目でガブリエルを一瞥《いちべつ》すると、息子に笑みかけた。「行こう、ベルナール。待たせておけば、それだけ恐怖心も募る。その間に母親が先か娘が先か、ゆっくり決めるがいい」
ベルナールは娘をかばおうとしているユースタスの妻を見やった。「娘のほうでしょう」
オーデルは娘の手をとって自分の肘に置いた。ガブリエルの背筋を寒気がかけ下りる。
うまく運ぶようでも油断はできなかった。ふたりとも、いつ残忍なことを言いはじめるかわからない人間だからだ。
なんとかしてユースタス一家を助けようとガブリエルは思った。これが唯一、わたしにできる罪滅ぼしだ。
石段をのぼり、広間に入ると、ガブリエルはユースタス一家のようすを見るようフェリスに目配せし、広間全体に注意を走らせた。部屋の空気は春の朝のようにかぐわしく、石灰塗料を塗ったばかりの壁は真っ白で、彼女が図案を考えた明るい色の掛け布が美しく映えている。床の灯心草も先週、敷き替えたばかりだ。架台に板を渡した長い食卓が整然と列を作り、清潔な布の上に皿代わりの固い敷きパンが置かれている。彫刻を施したついたての向こう側で、こざっぱりした服装の給仕たちが一列に控えていた。
ガブリエルは父親の右隣に座り、給仕頭にうなずいた。案の定、運びこまれた肉は、皿から逃げ出してもおかしくないくらいの生焼けだった。疑われないかと心配したが、オーデルとベルナールは血のしたたる肉をとり、ナイフで切り裂いてはがつがつと口に運んだ。ベルナールの指から肘へと流れる血がテーブルの上にたまっている。ガブリエルは飢えた獣のような兄の姿に嫌悪感を覚えながら、ゆでた鶏肉《とりにく》を食べ、静かにワインを飲んだ。
料理を堪能《たんのう》したオーデルが水で指をすすいだとき、ボウルを捧《ささ》げもつ従者の少年の痣《あざ》の数が増えていることにガブリエルは気づいた。あとで手当をしてやらなくてはならない。
「肉が生焼けだったぞ」
オーデルに言われてガブリエルは反射的にうつむき、謝罪の言葉をつぶやいた。オーデルは気に入らないことがあると、娘にも農奴に対するように容赦なく不満をぶつける。しかし、自分が打たれてユースタスの一家が救われるのなら、それでもいいとガブリエルは思った。
「顔を上げてこちらを見るのだ、娘よ。そなたはこれまで城の女主人としてよくやってくれた」オーデルは鋭い視線を向けながら続けた。彼は理由もなく言葉を口にする人間ではない。ねぎらいの言葉のあとには必ず何かがあるはずだった。「領地の管理の腕も、なかなかのものであった」
オーデルが言葉を切って息をつぐ。ガブリエルは心のなかで身構えた。
「これだけの才のある者を失うのは実に残念だ」
「失う? どういう意味でしょうか?」ガブリエルは驚いて尋ねた。てのひらに汗が浮かぶ。肉が生焼けだっただけで実の娘を殺すというのだろうか?
「ひと月ほどのうちにそなたを嫁がせねばならぬ」
「ど、どなたのもとに?」希望と不安が同時にガブリエルを襲った。クレンリーを出て自分の家庭をもつことを望んできたのは事実だが、いったい誰と結婚させられるのだろう?
「いまは誰とも言えぬ。シノンで開かれる武術大会にでかけ、招かれた客のなかでそなたに最も高い値をつける者を見つくろうつもりだ。そなたを裸にしてフランスじゅうの男に見せて歩くわけにもいくまいからな」オーデルは憤るガブリエルを見て肩を揺らして笑い、鼠《ねずみ》をもてあそぶ猫のように、長い指で頬をなでた。「この白いなめらかな肌。よくぞ、ここまで美しく育ったものだ」
ガブリエルは身をふるわせた。娘にこんなことを言うなんて、きっと正気でないに違いない。オーデルの父親は狂死し、兄はガブリエルが生まれる数年前に自分でつけた火にまかれて死んでいる。ド・ローラン一族にかけられた呪いの現れだ。
「この目は男を虜《とりこ》にするだろう。もっとも、その男がそなたの美しいからだから目を移すことができたらの話だがな。そなたはどう思う、ベルナール? そなたの妹は魅力的か?」
ベルナールはガブリエルの胸から唇へと視線をたどらせ、舌なめずりした。「ええ」
ガブリエルはおぞましさに身をすくめた。ベルナールは物陰からじっと彼女を見ていたり、兄らしからぬしぐさで触れてきたりしてガブリエルを驚かすことがしばしばあった。
「娘よ、そなたはわたしの命じるとおりに結婚するのだ」オーデルが言った。
「なぜです? クレンリーには、もはやわたしは必要ないのですか?」いつかは結婚するものと思っていたが、愛の代わりにお金を捧げる見知らぬ相手と結婚するのはいやだ。そういう人は、きっとオーデルやベルナールと同じ種類の人間に違いない。
「これまでのそなたの働きは褒めてとらすに値する。だが、いまは傭兵《ようへい》の数を増やすことが先決だ」
オーデルはイギリスのエドワード黒太子の報復を恐れていた。オーデルらは、黒太子がフランス国王の軍勢と戦っている間に、フランス国内の黒太子の領土の一部を我がものにしようと企てたことがあったからだ。いっそのこと、黒太子が父を捕らえてくれたらいいのに、とガブリエルは思った。善良な民を傷つけず、火を放たないで捕らえてくれるなら。
「父上はわたしにも財産つきの妻を娶《めと》らせてくださるおつもりなのだ。うんと若い娘がいいな」ベルナールが言った。
「お金のために売られるのはいやです」ガブリエルは立ち上がった。
「わたしの言うとおりにするのだ。さもなければ、あの者たちが苦しむことになるぞ」オーデルは戸口の方角に合図を送った。
現れた衛兵の手にはフェリスと、ガブリエルの小姓マーランが捕らえられていた。フェリスはふっくらとした顔を死人のように青くし、唇の端に血をにじませていたが、それでも黒い瞳に怒りの炎を燃やし、歯をくいしばっていた。九歳のマーランは首を垂れてふるえている。脚の悪いあの子をいじめるなんて、悪魔の所行としか思えない。
「どうだ?」重い銀の杯を握ったオーデルの長い指で指輪がちかりと光った。
「お入り用なのはどのくらいの額なのでしょう? もしかしたら、わたしがご用立てを……」ガブリエルは言いかけて言葉を切った。父はわたしに懇願させて、それをはねつけて楽しむつもりだろう。わたしが自制心を失えば、それを理由に治産権を剥奪《はくだつ》すると言うこともできる。結局、何をしようと、父が選んだ男に嫁がされるのだ。
ガブリエルは力なく腰を下ろした。昔から、この城に彼女を守ってくれる者はいなかった。母は彼女が生まれたときにこの世を去っている。救いの手をさしのべてくれる血縁はなく、フェリスと数人の召使い以外、友もいない。教会も救ってはくれないだろう。そもそも、女は所有物にすぎないのだ。娘であるうちは父親の、結婚してからは夫の。
逆らっても得るものはない。ここではお父さまが全権をもっているけれど、クレンリーを出れば新たな道を見つけることもできるかもしれない。そうだわ。同意するふりをして、フェリスやマーランや侍女たちを連れていけるよう交渉しよう。彼女たちをここに残してはいけないわ。
「わかりました」ガブリエルはささやくような声で言った。
「そう答えると思っていた」オーデルの目は正気とは思えない光を放っていた。
お父さまはわたしを憎んでいる。でも、いったいなぜ?
これまで身を粉にして懸命に働いてきた。かつては父の愛情を得ることを夢見て、近年は寂しさをまぎらわすため、そして領民を父の怒りから守るために。
実の父親が娘を売ることなどできるのかしら?
一応の解決策を見いだしはしたものの、ガブリエルの胸は不安でいっぱいだった。
アルルからの山越えの道は険しく、ヴィエンヌ川の岸辺に広がる森と草地に達して北上しはじめたとき、ガブリエルは初めて息をついた。ここなら狩りで獲物がとれるかもしれない。オーデルは新鮮な肉がないことにいらだち、誰彼かまわず打たせたり、通りすがりの村を戯れに襲って金品を略奪させたりしていた。早急に手を打つ必要があった。
ガブリエルが猟師を森にさし向けようとしていたとき、一行は南に向かうフランス軍の兵士の群れにでくわした。
「ド・ローラン卿《きょう》のお通りだ。道をあけろ!」オーデルの家臣が叫んだ。
「我々はポワティエの戦いで疲れ、傷ついているんだ。そちらこそ、道を譲るべきだろう!」指揮官らしき男が言葉を返す。
「汚いごろつきどもが」
ガブリエルはオーデルのつぶやきに耳を疑った。命を賭《と》してイギリスの軍勢と戦った人々に何を言うのだろう? お父さまとベルナールは臆病《おくびょう》風に吹かれて召集に応じず、戦乱と他者の不幸に乗じて利をむさぼっていただけではないか。
オーデルは兜《かぶと》の下の顔を真っ赤にし、目に怒りの炎を燃やしてどなった。「即座に道をあけよ! さもなければ蹴散《けち》らすまでだ」
たちまちド・ローランの家臣たちが鬨《とき》の声をあげながら兵士に襲いかかった。
「やめて!」ガブリエルは駆け寄ろうとしたが、馬が驚いて足並みを乱し、思うようにあやつれなかった。ようやく体勢を立て直して目を向けたときには、オーデルと家臣は劣勢にまわっていた。
このままでは負けると悟ったのだろう。オーデルは、やにわに馬の首を返して森へ向かった。
それを見て、兵士の指揮官があとを追った。疾走する馬上で腰を浮かし、剣をふりかざしてオーデルに迫る。オーデルが肩ごしに怯えた視線を投げた。
そのとき指揮官の剣が日の光を浴びてきらりと光り、オーデルの首はどうと切り落とされた。
ガブリエルは目を見開いて悲鳴をあげた。世界がまわりはじめ、視界が暗くなっていく。
「お気をしっかり! 馬から落ちてしまいます」フェリスが馬を寄せて主人の頬をたたいた。
ガブリエルは馬のたてがみに指をからめて身を支え、息を吸った。意識を保とうとする彼女の耳にフェリスの嘆く声が聞こえてくる。「ああ、神さま! わたしたちが負けるとは!」
逃げまどうオーデルの家臣を兵士たちが次々と倒し、勝利の凱歌《がいか》を挙げている。
少し離れたところに馬を止めていたベルナールは、一瞬ガブリエルと視線を合わせ、にやりと笑った。「さらば、妹よ」彼はそう言い残し、森へ向かった。
「待って、お兄さま! わたしたちも連れていって!」ガブリエルは叫んだが、ベルナールはふり向かなかった。ここに置き去りにされたらたいへんなことになる。彼女はフェリスを促した。「早く行かないと……」
そのとき、誰かの手がガブリエルの膝をつかんだ。見下ろすと、すぐ近くにぞっとするような恐ろしい顔がある。ガブリエルの唇から鋭い悲鳴がもれた。
ルーアークは前方から聞こえてくる戦いの音に気づいた。ローナへの思いから覚め、たちまち五感が活発に動きだす。
彼と目を合わせたウィリアムが行く手に広がる森を不安げに見やった。
ルーアークは名剣アヴェンジャ――復讐する者――を抜いて馬に拍車を入れた。「先に行くぞ。ウィリアム、おまえはここにとどまって荷を守ってほしい。アレン、来い!」彼は従者を呼び、生え抜きの騎士ふたりに命じた。「デヴァレル、フィールディング、供の者を率いて続け。ようすを見てこよう」
「罠《わな》かもしれないぞ」ウィリアムが言った。
ルーアークは白い歯を見せて笑った。「だからおまえをここへ残していくのだ。友よ、まさかのときには助けてくれ」彼より二歳年上のウィリアムは、生まれつき備わった思慮深さのせいでさらに年かさに感じられる。
ルーアークはウィリアムが止めるのも聞かずに馬を駆り、森へと向かった。十五騎があとを追う。アレンの手には主人の兜が抱えられていた。
ウィリアムは心配するが、祖父に兵法をたたきこまれたルーアークが、やみくもに危険な状況に飛びこむわけはなかった。彼は入り口に十騎を待機させ、残る五騎とともに注意深く暗い森に分け入った。そっと進むうちに武器が打ち合う音と叫び声が近くなってきた。
やがて、木立の向こうに戦いの場が見えはじめた。いや、戦いの跡というべきだろうか。屍《しかばね》や瀕死《ひんし》の男たちが横たわっている。ルーアークは供の者に止まるよう合図を送った。
血なまぐさい殺戮《さつりく》の場の向こうに数人の女がいた。なかでも着ているものから身分卑しからぬと思われる馬上の貴婦人に、鎖|帷子《かたびら》に血染めのサーコートをつけた大男が近づいていく。敵か、味方か?
そのとき、貴婦人が悲鳴をあげた。
よし、決まった。
「ウィルトンの名にかけて!」ルーアークはアヴェンジャーを構えて突進した。彼の宣言を聞きつけて、蹄《ひずめ》の音を大地にとどろかせながら十五騎が従う。
ガブリエルは目を上げた。黄金の髪を風になびかせ、輝く銀の鎧《よろい》に身を包んだ騎士がまっすぐこちらへ向かってくる。胸の鼓動が高鳴り、大男が逃げたのにも気づかなかった。
わたしの夢の騎士だわ!
ルーアークが近づくのを見て、男たちは枯れ葉が舞い飛ぶように逃げ去ったが、彼はほとんど気にとめなかった。彼が見つめていたのは自分を待っている貴婦人の姿だった。しだいに顔の輪郭がはっきりと見えはじめた。
黒い髪、ほっそりとした白い顔、そして……菫色の瞳。なんということだ! ローナに生き写しではないか。
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2
ガブリエルは騎士だけを見つめていた。
巨人のように背が高く、髪は実った麦の色、日に焼けた肌は深い蜂蜜《はちみつ》色だ。がっしりした顎がかすかにふたつに割れ、典雅な口元が驚きに似た表情を浮かべている。彼は風を読むかのように鼻孔をひくつかせ、黒いまつげに縁取られた漆黒の瞳をじっと彼女に向けていた。
まるで悲しみをたたえたふたつの黒い湖だ。ガブリエルはその湖のなかに自分が沈んでいくような錯覚を覚えた。その傷ついた魂に引き寄せられるかのようだ。彼女は一度避けようとした視線を戻した。
その必要はないわ。だって、この方はわたしの夢の騎士なのだもの。
ガブリエルは深い安堵《あんど》を覚えた。とうとうわたしを見つけてくださったんだわ。もう、耐える必要も、自分を偽る必要もない。この方が守ってくださる。そう思ったとき、六日間の睡眠不足も手伝って、すさまじい疲労感が押し寄せてきた。
騎士が何ごとか叫び、馬上で揺らぐガブリエルのからだを抱き止めて自分の鞍の上に引き寄せた。馬と汗の匂《にお》いが彼女を包んだが、不思議といやな気持はしなかった。力強い腕に抱かれて吐息をもらし、瞳を閉じる。
朦朧《もうろう》とした耳に騎士の心臓のにぶい鼓動の音が聞こえてくる。ガブリエルは馬に揺られて夢と現実の間をさまよいながら、これが夢でないことを祈った。
やがて馬の動きが止まり、あたりが騒がしくなった。彼女の騎士が叫び、誰かがそれに答えている。どこからかフェリスの泣き声も聞こえてきた。
ガブリエルは目を開け、身を起こそうともがいた。
ブロンドの騎士は彼女をしっかりと抱いたまま、何か言った。ガブリエルは身を硬くした。聞いたことのない言葉だ。もしかして、フランス人ではない? 彼はもう一度、さっきよりゆっくり話しかけてきた。やはり意味はわからなかったが、気持は少し落ち着いた。きっとフランス北部の人なのだ。北方の言葉は南部に比べるとずっと荒く、むしろイギリス人の言葉に近いと聞いている。
「わからないわ」
「安全だ。あなたの、身は、もう、安全だ」騎士は言った。
少なくとも、ガブリエルは彼がそう言ったと思った。意味がわかりづらいのは、深みのある彼の声を聞いて心臓が高鳴り、耳のなかで血液がどくどくと音をたてているからかもしれない。
「ありがとう」
騎士は身を起こそうとするガブリエルをぐいと胸に引き寄せ、再び安全なのだ≠ニくり返した。
「ええ」ガブリエルは息ができなかったが、理解したことを伝えようとかすかに笑みかけた。
それを見た騎士の顔に、はっとするほど美しい笑みが広がった。彼はガブリエルを見つめたまま家臣に何かを命じた。医者≠ニワイン≠ニいう言葉をかろうじて聞きとって、安心したガブリエルは侍女たちのことを思い出した。「フェリス、無事ですか?」
「はい……ガビィさまは……?」
「泣くのはおやめなさい。わたしは無事だし、この方はわたしたちが元気になることを望んでいらっしゃるのよ」騎士に視線を戻したガブリエルは、彼がまだ熱いまなざしで見つめていることに気づいた。騎士が貴婦人に捧《ささ》げる愛の礎は、崇拝だ。彼女はゆっくりときいた。「どうか、あなたの、お名前を、教えてください」
「ルアク」
ガブリエルはそれを咳払《せきばら》いか何かだと思って、さらに答えを待った。
「ルーアーク。ルー……アー……クだ」
変わった名前だわ。騎士の名はギーかローランかランスロットと決まっているのに。
「そなたの名は?」
ガブリエルが答えると、騎士は整った顔に驚きの表情を浮かべた。彼女ははっとした。
悪名高きド・ローラン一族の者であることを知られたのは失敗だったわ。軽蔑《けいべつ》されるに決まっている。
「ローラン……名前まで似ている」騎士はそう言い、彼女の額に唇をつけた。
ガブリエルはド・ローランの名に嫌悪感を示されなかったことがうれしくて、彼がつぶやいたことを気にとめなかった。押しつけられた唇から、乾いた大地に雨がしみ渡るように温《ぬく》もりが広がっていく。心の奥に小さな希望の灯がともるのがわかった。この方は命を救ってくれただけではない。わたしに好意をもってくださっているんだわ。
騎士がためらいがちに何かを言い、馬から降りて彼女を腕に抱いたまま絹の天幕に入った。
なかは広く、たくさんの蝋燭《ろうそく》の光がまたたいていた。騎士はガブリエルを一度クッションの山の上に下ろし、失った子供をとり戻した母親のように胸に抱きしめた。
鋼の腕《かいな》に守られ、優しく響く言葉を聞くうちに、ガブリエルは胸の灯がしだいに明るく輝き、虚《うつ》ろだった部分に温もりが満ちていくのを感じた。いままで誰にもこんなふうにしてもらったことはない。幼いころの、冷たく義務的な乳母の抱擁とも違う。
「ルーアーク」
外から呼ぶ声を聞き、騎士はもう一度ガブリエルの額にキスをすると彼女を横たえ、出ていった。
ガブリエルはよるべない気持で深く息を吸った。空気にかびの匂いが混じっているのは藁《わら》のマットのせいだろう。きっと手入れの方法を知らないのだ。少なくとも、わたしは汚れた布を清潔にしたり、彼の陣営を居心地よくすることはしてさしあげられる。そう思うと、労働意欲が疲労を追いやった。
ガブリエルはフェリスが天幕に入ってくるのに気づいて身を起こした。「気をつけて。そのクッションは不潔よ」
フェリスが太い茶色の三つ編みを乱したままの姿で嘆いた。「オーデルさまが命を落とされ、ベルナールさまに見捨てられたあげく、捕らわれの身となるなんて! しかも、あんなならず者に……」
「ならず者ではないわ。騎士よ」
フェリスは水にひたした布でガブリエルの顔をぬぐいはじめた。「汚いし、無秩序で、大声でがなりたてて、農奴にどなるみたいに命令するやから[#「やから」に傍点]ですよ。それに、言葉は半分もわかりません」
「たぶん、パリかシャンパーニュのような北部の人たちなんだと思うわ」地理はダミアン神父から学んで知っていた。領民にごまかされることを嫌ったオーデルが、読み書きや計算とともに学ばせたのだ。ガブリエルはフェリスが落ち着きをとり戻し、得意の毒舌をふるいはじめたのがうれしかった。フェリスがつらい思いをしているのに、自分だけが幸福そうな顔をしているわけにはいかないからだ。もっとも、何者であるかを知られた時点で終わる幸福ではあるけれど。「わたしたちの氏素性が知れるようなことを言ってはだめよ」
「もう遅いですわ。お名前こそ明かさなかったものの、ガビィさまが貴い身分の姫君で、ご婚約のためにシノンへ向かわれる途中だということは話してしまいました。どのみち、それ以上のことを話すほどの相手ではありません。あの人たちはむさくるしくて、食べ物といったら、干し肉と酸っぱいワインだけ……」フェリスはガブリエルの手を握った。「本当におけがはないんですね、ガビィさま? あの兵士がガビィさまに近づいたときは生きた心地がしませんでした。それに、あの騎士は確かに暴漢を追い払ってはくれましたが、そのあとガビィさまをさらうようにしてここへ連れこんでしまって……」フェリスは外で立ち話をする騎士と、ウィリアムと呼ばれた背の高い武将をちらりと見てから声をひそめた。「もしや……彼は何か無礼なことを?」
ガブリエルは胸がいっぱいになった。フェリスはオーデルに仕える騎士であった父親を亡くしてからもガブリエルのもとにとどまり、こうして心を砕いてくれている。「わたしはだいじょうぶよ。ほかの皆は?」
「怯《おび》えておりますが、無事です。生きのびた男たちはベルナールさまを追って逃げ、動けずに残った侍女とマーラン、わずかな数の召使いが、荷馬車とともにここへ連れてこられました。小さな天幕を与えられて休んでおります」
ガブリエルはほっとして顔を輝かせた。「まあ、よかった。それなら衣服と食べ物をここの方々と分け合えるわね。きっと、国王陛下の軍勢の一派でしょう。だから何ももっていないんだわ」
フェリスがうなずいたとき、ガブリエルを救った騎士が大声で命じるのが聞こえた。「即刻、準備するんだ!」
ブロンドの騎士は激昂《げっこう》してさらに何かを言ったが、黒髪の武将はただならぬようすで黙して引き下がらない。
やがて騎士は天幕のなかに戻ってきて、フェリスに命じた。「下がれ」
ガブリエルが口をひらく前にフェリスが言った。「いいえ。我がご主人さまのお世話をしなくてはなりません。ご主人さまはお疲れです」
ルーアークはレディ・ローラン[#「レディ・ローラン」に傍点]の菫《すみれ》色の瞳に恐怖の色が浮かんでいることに気づいた。この瞳を二度と失いたくない。感情を抑えなくては。「失礼した、レディ」彼は片方の膝をつき、彼女の手をとった。柔らかくて華奢《きゃしゃ》な手がかすかにふるえている。まるで、幼いころ父上とふたりで森で見つけた兎《うさぎ》の赤ん坊のようだ。わたしが追いつめると、父上は身をかがめ、逃がしておやりと優しい声で言った。
遠い日の思い出がルーアークの胸を満たし、ローランを初めて見た瞬間から彼をかりたててきた情熱の疾走を少し和らげた。結婚のためにシノンへ行く途中らしいとウィリアムから聞いてからは、よけいに我がものにしたいという気持を抑えられなくなっていた。
こういうとき、祖父ド・リヴァーズ卿《きょう》によって駆逐されてしまった、サマーヴィル一族特有の優しく穏やかな気質が自分にあったらどんなにいいだろう。だが、彼女を失いたくないという気持は変わらない。なんとしてでもローナの代わりに花嫁にして、味気ない人生に別れを告げるのだ。「疲れているなら休まれるがいい。眠っている間、わたしがそなたを守ろう」
騎士が乱暴な物言いを後悔していることはガブリエルにもわかった。なぜ、彼がフェリスを打つなどと思ったのだろう。手に伝わる温もりがゆっくりと恐れをとり去っていく。
ルーアークは彼女が手を払いのけなかったことにほっとして腰を下ろし、侍女に言った。「下がりなさい」
「いえ、下がれません!」
「心配はない」自分でもむちゃなことを言っていると知っていたが、早くローランとふたりきりになりたくて気がはやってしかたがなかった。「出ていくのだ! いますぐ!」
女主人がうなずくのを見て、侍女は出ていった。入り口の掛け布がかすかな衣擦《きぬず》れの音をさせて下りる。
ローラン……。クッションの上に身を横たえてこちらを見つめている彼女に目を向けると、熱い思いがからだをかけ抜けた。腕に抱いたときの感触がよみがえり、彼女を求める気持が痛いほどにふくれ上がる。ローナとは死によって引き裂かれた。縁あってめぐり合ったこの菫色の瞳の乙女との間は、たとえなんであろうと、じゃまはさせない。
ルーアークは身ぶるいし、息を吸って欲望をねじふせた。誇り高きサマーヴィル家の者が婚礼前に花嫁と床をともにするなど、あるまじきことだ。わたしは父のような洗練された有徳の士ではないが、彼女と我が身の名誉のために、いまはじっと耐えよう。
「お眠り」騎士は低い声で言った。黒い瞳にガブリエルには読みとれない感情がうずまいている。「眠るんだ。わたしが、そなたを、守る。ずっと、守っているから」
ガブリエルは、言われるままにうっとりと目を閉じた。心に決めたレディを守るのは騎士道の定め。わたしの騎士がわたしを傷つけるはずがないわ。
ルーアークは固い椅子に座って、蝋燭の明かりが照らし出すほっそりとした繊細な顔を見つめていた。彼女を自分のものにしたいという気持は高まるばかりだ。
わずかに上がった目尻、黒い眉。かぶりものからのぞいている髪と同じ色だ。布をとって絹糸のような髪に触れたくて、指がうずうずしている。知ってか知らずか、ローランは長いまつげをふるわせて、恋人の口づけを待つようにかすかに唇を開いた。
彼が思わず身をのり出しかけたとき、ウィリアムが肩に手を置いた。「ルーアーク」
ルーアークはびくりとして、それから心配そうにローランに視線を戻した。茶色の旅行用マントに包まれた胸が静かに上下している。どうやら起こさずにすんだらしい。彼はウィリアムとともに外に出た。
「司祭は到着したか?」
ウィリアムは顔をくもらせた。「ルーアーク、やはり、このようなことは……」
「司祭はどうしたときいている」
「まもなくやってくる」ウィリアムはため息をついた。ルーアークを止める手立ではない。問題が生じることは、先触れで戻ったアレンが、助けた貴婦人を絹の天幕に迎える準備をするようにと告げたときからわかっていた。「あの姫について何かわかるまで待ってはどうだ? 氏素性のことになると、侍女たちは口をつぐんで話さない。もしも、すでに夫ある身だったらどうする? そればかりか、本当の貴婦人ではないかもしれない」
「知りたい情報はすべて得ている」
「瞳の色のほかに、いったい何を?」
「気をつけろ、ウィリアム。おまえは我々の友情を試そうとしているぞ」
ウィリアムは再びため息をつき、まっすぐな黒髪を指でなで上げた。「フランス人の花嫁など連れ帰ったら、ご家族はどう言われるか……」
「忘れたのか? サマーヴィルは元はフランスの出だ。始祖はノルマンディー公ウィリアムとともにイギリスに渡ったのだ」
「そしてほどなく、捕らえたサクソンの姫君を妻にした」ウィリアムが続けた。サマーヴィル家は領地の広さでこそイギリス一とはいえないが、名誉と誇りにかけては他の追随を許さない名門だった。
ルーアークはにやりと笑った。「問題はない。朝、暴漢から救った姫君とその日のうちに結婚したと報告するさ。一族の華々しくもロマンティックな結婚史に逸話がひとつ加わるだけだ。ローナをかわいがっていた母上は泣かれるかもしれないが、兄上たちは、またしても美しい姫君を見つけたわたしをうらやむだろう」そしてルーアークは心のなかで自分に問うた。妻を娶《めと》ったと報告したら、父上はわたしに対する失望を少しは和らげてくださるだろうか。
ウィリアムは、ルーアークがいまも自分を妖精《ようせい》にとり替えられた子供のように感じていることを知っていた。ロマンティックな気質ぞろいの一族のなかで、戦士であるルーアークは異分子のような存在だった。初代のルーアーク・サマーヴィルにちなんで名づけられた彼にも、本当は温和な一族の血が流れている。そういう彼を異分子に仕立て上げたのは、祖父ロジャー・ド・リヴァーズだった。彼は若くして嫁いだ娘キャサリンのために、末の孫を比類なき戦士に育てて娘の夫ジェフリー・サマーヴィルに返したのだ。
「今度のことに関しては、あなたは理性でものを考えていない。理性ではなく……」
「心配はいらない。妻を娶るだけのことだ」
「姫君の意思は? まだ話していないのでは?」
「これから話す」
「こんなに婚儀を急ぐとは、ルーアークらしくない。無理強いはよくない。レディ・ローナ・カーマイケルのことがあったというのに……」
「わたしが同じ過ちをくり返すと思うのか?」ローナの死の記憶から逃れたいルーアークは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。「くり返しはしない。二度と」
腕のなかで大きな瞳に信頼と称賛をたたえて自分を見上げていたローランのまなざしがよみがえる。ローナは一度たりと、あんな視線を向けてくれたことはなかった。彼女は求愛するたびにルーアークを拒絶して、とうとう彼を思いきった手段に走らせ、自らの死という終幕へ向かって運命の歯車を進ませていった。
ルーアークは挑むようにウィリアムを見た。「彼女はわたしに逆らわない。司祭はどうした?」
「命令どおり、近くの村に使者を遣わした。葬儀が終わりしだい、こちらへ向かうと返事が……」
「葬儀のあと、まっすぐに、か」ルーアークは瞳に笑みをたたえた。「深刻な顔はよして、笑ってくれ、友よ。わたしは今日からしあわせな男の仲間入りをするのだから」そうとも。ローランを妻に迎えたら、次はド・リヴァーズ卿の敵討ちだ。
いまは亡き祖父と新しい妻に喜んでもらえると思うと、これまで以上に力がわく気がする。裕福な領主であり勇猛な騎士である男との結婚を望まない乙女が、この世にいるわけがない。ローナですら、わたしがもっと富を得、伯爵の位でも授けられたら考えてもいいと言っていたではないか。
「問題は、あなたが自分の力を……あるいは弱点を知らないことだ」
ルーアークは笑った。「目下の弱点は、花嫁のことをほとんど知らないことかな? 言葉すら理解できないんだ。きっと南部の姫君なのだろう。通訳ができる者を探してくれ、ウィリアム。ただし、ガスコンの出の者はだめだ。息がにんにく臭いからな」
「婚儀の夜に通訳を同席させるつもりでもあるまい?」ウィリアムが珍しく軽口をたたく。
ルーアークは理性を失う前に司祭が到着することを祈りながら天幕に戻った。
「結婚を望まれている、ですって? わたしと?」ガブリエルがボルドー出身の若い従者が通訳した言葉に驚いてからだを起こすと、触れんばかりのところに騎士がいた。
彼は言った。「そうだ」
黒玉石の瞳にじっと見つめられて、ガブリエルは息が止まりそうになるのを感じた。しばらくして、ようやく頭が働きだした。父オーデルと兄ベルナールから自由になれたのはいいけれど、強い保護者が必要なことも確かだった。はい≠ニひとこと答えれば、夢に見た騎士が自分のものになる。この世で最も強く美しい騎士が、永遠の献身と庇護《ひご》を誓ってくれるのだ。夢が実現するときがきたんだわ。さあ、答えるのよ、ガブリエル。わき上がる喜びに、からだがふわふわと軽い。さあ……。「はい」
ささやいたとたんに大きな声がとどろいたのでガブリエルは驚いたが、それは騎士の笑い声だとわかった。彼はガブリエルの手をとって、てのひらにキスをした。
「そ、それで、婚礼はいつ?」
「いますぐだ」
ガブリエルは目をしばたたいた。「ドレスを着替えなくてはなりません。それに、婚姻前継承不動産契約が必要ではありませんか。結婚の予告も三週間前に行わないと。それなりの準備も……」
フィリップという名の少年が通訳している間も、騎士はしっかりとガブリエルの手を握りしめていた。
「すべての準備が整っているとは、どういうことでしょう? それに、衣装はどうするのです?」いくらなんでも、血糊《ちのり》のついたドレスと泥まみれの靴を身につけたまま花嫁にはなれない。
ルーアークは衣装のことを聞いてため息をついた。服など、婚儀がすんだらすぐに必要なくなるものを。しかし、彼女の瞳からプロポーズを承諾したときの幸福そうな輝きが消えていることに彼は気づいた。もう一度、あの顔を見たい。少し待つだけで見られるなら、安いものだ。「では、十五分後に」彼はそう言い残して出ていった。
驚いて後ろ姿を見つめるガブリエルのもとに、入れ違いに入ってきたフェリスが駆け寄った。「いったいどうなされたのです? まさか、ご承諾なさったのでは……」
「ええ、したわ」ガブリエルは声をはずませた。「あの方と結婚するのよ。十五分後に。ああ、わたしほどしあわせな娘がいるかしら? 紫色のドレスはどこ? お料理はどうなっているの? 司祭さまは?」
フェリスは何も言えなくなった。こんなにうれしそうなガブリエルは見たことがない。ルーアーク卿のことはわからないけれど、婚礼の準備を指図しているサー・ウィリアムは信用できそうな人物だ。彼が仕える主人なのだから、きっと悪い人ではないのだろう。「たった十五分では、何も……」
「でも、それだけしかないのよ。ねえ、脱ぐのを手伝って……いいえ、いいわ。どうせもう着ないんだもの」ガブリエルは血のついた服を引き裂き、フェリスの手からドレスを受けとった。「あの方とご家臣が召し上がるのにふさわしい食べ物はあるの?」
フェリスはガブリエルのヴェールをとり、髪をほぐした。「幸い、祝宴に出席するのは騎士の位をたまわっている者だけということですから、間に合うでしょう。他の者にはエール五|樽《たる》をふるまうことにいたしましょう」
ガブリエルはうっとりした表情でうなずいた。「ねえ、あんなに広い肩を見たことがあって?」
「どなたの肩のことです?」
「あの方のよ」
フェリスはうす汚れたクッションを足ではねのけ、ガブリエルの髪をくしけずった。「あの方のご領地はどちらなのですか?」
「北のほうでしょう。きっと大きなお城なのだわ。だって、この家臣の数をごらんなさいな。それだけのお城をきりもりするのはたいへんでしょうけれど、きっと……」
「ええ、たいへんでしょうとも。この天幕のなかのありさまから察するに。宴《うたげ》の間に、ここをどうにかできないか考えておきます」
ガブリエルはほほえんだ。「ねえ、あれほど美しい目を……」
「何をお考えでもけっこうですが、じっとしてらしてくださいな。さもないと、支度ができませんよ」
ゆうに一時間はたってから天幕を出たガブリエルは、いつのまにか夜になり、満天の星がまたたいていることに気づいた。ひんやりとしたそよ風が陣営じゅうにたかれた篝火《かがりび》の炎を揺らし、影を躍らせている。
急ごしらえだが、宴らしく準備が整えられていた。ガブリエルはフェリスに伴われ、フィリップとウィリアムに導かれて、円形に篝火が配された場所に向かった。篝火の外側には人々がひしめいている。
ガブリエルは、今朝の戦いのことも、知らない相手と結婚する不安も忘れて期待に胸をふくらませ、異教の姫君になったように感じながら、光の輪のなかで待つ騎士と司祭のもとへ歩を進めた。
すばらしい。ルーアークは近づいてくる彼女を見て思った。銀で縁取りされた紫色の絹のチュニック。その上に星とみまごうばかりの銀糸の縫いとりを施した灰色の薄絹のサーコートをつけ、アメジストの飾りをつけた銀色の帯を巻いている。細い銀の頭の輪飾りとヴェールの下から輝く黒髪がこぼれて、背中から腰をおおっている。輝く頬は薔薇《ばら》色だ。
もうすぐ彼女が自分のものになると思うと、血がたぎった。司祭を待つ間にワインの杯を重ねたルーアークの頭のなかは、すでに彼女を腕にいだきたいという思いでいっぱいになっていた。
「恐れながら、式はとりおこないかねます」
ルーアークは司祭の声で我に返った。「今度はなんだ? 教会への寄進が不充分だとでも?」
「け、決してそのようなことは。ただ……」
「それなら、進められることだ。早く!」
ガブリエルは目をしばたたいた。なぜ司祭さまにどなるの? それに、司祭さまがわたしに向ける嫌悪に満ちたまなざしは何? 式をのばして、ダミアン神父にここへ来ていただくほうがいいんじゃないかしら。
だが、ひとたび騎士の黒い瞳に見つめられると息がつまって何も言えず、ガブリエルは彼とともにひざまずいて、司祭のラテン語に耳を傾けた。
永遠の献身と庇護を誓ってくれたこの方のよき妻となり、愛し、お仕えしていこう。
そして、わたしが誰であるか、それを明かさずにおかなくては。
ガブリエルは自分の手を握る騎士の手に力がこめられたのに気づいて顔を上げた。ふるえる足で立ち上がり、サーコートの裾《すそ》を踵《かかと》で後ろにまわして口づけを待つ。
そのとき、騎士がいきなり彼女を胸に抱き寄せた。息もできないほど強く抱きしめたまま唇を押しつけてくる。結婚式のキスとは思えないほど激しく、おまけに息が酒臭かった。これでは、まるで暴力だ。
いくら身をよじっても彼の腕から逃れることはできない。ガブリエルは恐ろしさに身をふるわせた。どうしたの? なぜ、こんなことをするの?
抱擁がゆるめられたと思った瞬間に、彼女は高々と抱き上げられていた。騎士は彼女を抱えて夜の闇《やみ》のなかを歩きだした。ガブリエルは彼の肩にしがみついた。
「下ろして!」
「そのときがきたら下ろす」騎士はヴェールに顔をうずめ、喉元に唇を押しつけた。
ガブリエルは彼の肩を押しやったが、騎士はゆうゆうと天幕に入り、クッションの上に彼女を下ろした。
「どうか……」ガブリエルは泣きそうな声で言いかけたが、キスで唇をふさがれた。一瞬のうちにドレスがかき分けられ、騎士のからだがのしかかる。
ガブリエルは下腹部に鋭い痛みを感じて悲鳴をあげた。わたしのからだをばらばらにするつもりなの? ガブリエルは拒もうとしたが、痛みは何度もくり返し彼女を襲った。
そのうちに彼が上体を引きつらせたかと思うと頭をそらし、聞いたことのない名前を口にした。「ローナ」
次の瞬間、彼はガブリエルの上にくずおれていた。
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ガブリエルがそれ以上乱暴なことをされるのが怖くてじっとしているうちに、騎士はかたわらに横になり、寝息をたてはじめた。
唇もからだもずきずきと痛んだが、一番痛むのは心だった。
やはり、夢の騎士は夢のなかの存在にすぎなかったんだわ。現実の騎士は優美な外見とうらはらに残忍な人間だった。これではお父さまと同じだ。ガブリエルは泣くことすらできないほど深く傷ついていた。男のひとを信用したからこういうことになったのね。もう、誰も信用しないわ。
胸のなかで夢が死に、あとに空隙《くうげき》が残った。ガブリエルはこみ上げる悲しみと怒りを抑えようと拳《こぶし》を握りしめた。自分を哀れんでいてもなんの解決にもならない。どう行動すべきか、冷静に考えなければ。
「出ていくべきだわ」彼女は闇《やみ》のなかでつぶやいた。彼が目覚める前に侍女たちを集め、荷物をもって逃げるのだ。しかし、問題は残る。ならず者や賊、英仏の両軍からはぐれた兵士が横行する土地を女だけで旅をして、また乱暴されたらと思うとぞっとする。だいいち、どこへ行ったらいいのだろう? クレンリーへ戻ることはできない。ベルナールが主《あるじ》になった城なら、地獄のほうがまだましだ。
ガブリエルは泣き出すまいと拳を口にあてた。ひどく惨めな気持だったが、やがて理性が働きはじめた。わたしは弱くはないわ。これまで、お父さまにどんな仕打ちをされても耐えてきたんだもの。
勇気が芽生えるのを感じたガブリエルは、そっと拳を離した。そうよ。わたしが今朝のわたしと別人になったわけではないわ。悲しい経験をして少し賢くなっただけよ。きっと、生きていく方法を見つけられるはずだわ。
そのとき騎士が寝返りをうち、ガブリエルは藁《わら》のマットの上で反射的に身を遠ざけたが、彼がまだ眠っていると知って安堵《あんど》の息をついた。
このひとを信じてはいけない。いまは暗くて何も見えないけれど、からだが大きくて獣のように粗野で、夢の騎士とはほど遠い存在だもの。それなのに、わたしが軽はずみな行動をとったばかりに、いまはこのひとがわたしの主なのだ。かつて、お父さまがそうであったように。
でも、希望がないわけでもない。もしこのひとの食事を管理し、すべてを清潔に保ち、日々の暮らしのわずらわしさから解放してあげることができたら――つまり、ほかのことで満足させることができたら、あんな暴力はもうくり返さないかもしれない。
ガブリエルは頭のなかですべきことを並べ上げ、太陽の最初の光がさすのと同時に起き上がった。
そっと自分の荷物を探って働きやすい服を身につけ、息を殺して騎士の足元をまわった。眠っていても雄牛のように猛々《たけだけ》しい印象は変わらない。広くて厚い胸、幻の餌食《えじき》を捕らえようとするかのようにのびた、たくましい腕。顔はこんなにも美しく、天使のように穏やかで優しく見えるのに……。
ガブリエルは心に浮かんだ思いを払うように首をふって天幕の外へ出た。だが、そのとたんに何かにつまずいた。
「レディ・ローラン」驚いて立ち上がり、よろけるガブリエルを支えたのは、通訳役のフィリップだった。
「ありがとう、フィリップ」ガブリエルはフィリップが目をそらすのに気づいた。彼は昨夜のわたしの悲鳴を聞いたのだろうか? 思わず視線が落ち、頬がかっと熱くなる。ああ、だめよ。こんな態度を見せてはいけないわ。戒めを受けた尼僧のようにうつむいて頬を赤くする女主人に、家臣が従うはずがないもの。
ガブリエルは毅然《きぜん》と頭を上げた。昨夜のことは忘れよう。昨日は昨日、今日は今日よ。「あなたが目を覚ましてくれて、よかったわ。しなくてはならないことが山ほどあるの。その前に、まずこの陣のようすを見て歩きたいわ」
フィリップは、スカートをつまんで歩きはじめようとするガブリエルの肘をそっとつかんだ。「みんなが起きるまで、歩くのは無理ですよ」
ガブリエルは目を丸くした。いたるところに男たちが横たわっている。捨てられたおもちゃのように、ぴくりとも動かない。「生きているのよね?」
「もちろん。ただ、死んでいるも同然です。ご婚礼の宴《うたげ》でふるまわれたワインとエールを飲みすぎて」フィリップは笑みを消し、爪先《つまさき》で地面をつついた。
やはり、悲鳴を聞いたんだわ。ガブリエルはわき起こる羞恥心《しゅうちしん》を必死に抑えた。「そろそろ起きる時間なのではないかしら? ミサは何時?」
「従軍の司祭さまはポワティエの戦いで亡くなりました。昨日、来てくださった司祭さまは……まだお休みです」
あの太った司祭も飲みすぎたのだ。「わかったわ。わたしが司祭さまにおうかがいするから、その間にみんなを起こしてちょうだい」
「イギリス人たちは、ひと晩じゅう飲んだあとは熊《くま》みたいに機嫌が悪いので、たぶん……」
「イギリス人ですって?」ガブリエルは驚愕《きょうがく》した。
「はい」フィリップも驚いてごくりと喉を鳴らす。「ご、ご存じのものとばかり……。身なりも言葉もわたしたちフランス人とは違いますから」
ガブリエルは手で胸を押さえた。「北部フランス人だと思っていたのよ」粗野に思えて当然だったのだ。イギリス人なのだから。ああ、なんということなの? フランスを侵略しに来た野蛮人と結婚してしまったなんて。悪夢なら覚めてほしい。さもなければ、死んだほうがましよ。「司祭さまの天幕は?」
司祭はいびきをとどろかせていたが、揺り動かされて赤い目を開けた。「ああ、あなたでしたか」
「なぜ式をとりおこなわれたのです? 相手はイギリス人だというのに」
司祭は不快げに目を細めた。「あなたが子供を身ごもっておられるとの話でしたからな」
ガブリエルはよろよろとあとずさりした。「なんということを。昨日、初めて会ったひとなのですよ」
「では、わたしをわずらわせる前にご自身に問うべきですな。会ったばかりの男となぜ結婚したのかと」司祭はそう言うなり、寝具にもぐりこんで再びいびきをかきはじめた。
司祭を蹴《け》りつけたいと思うのは、からだに流れるド・ローランの血のせいだろうか。ガブリエルは司祭の天幕を出た。
わたしはなぜ、あんなに急いで結婚してしまったのだろう?
それは彼が夢の騎士だと思ったからだ。そして、それが間違いだったとわかったいま、求婚されて一度喜びに高鳴った心臓は、氷の塊のように胸のなかに冷たく横たわっている。ガブリエルはあふれようとする涙を抑えて頭を上げた。とりあえず、彼の家臣や兵士の衣食を整え、身のまわりを清潔にさせよう。忙しくからだを動かして実利的なことをしていれば、失ったものの大きさを考えなくてすむ。
「わたしの侍女のところへ連れていってちょうだい、フィリップ」
寝返りをうったルーアークは、マットの端から地面に落ちた。両手で頭を抱え、うめき声をあげながら目を開ける。なぜ、こんなところにひとりで寝ているのだろう? しかも、夜の間にフランス軍にからだを踏みつけにされたような気分だ。
記憶の断片を探っていたルーアークははっとした。そうだ、ローナ――いや、違う。ローランだ。妻はなぜここにいない?
彼は、がばっと起き上がった。まだ視界が揺らいでいるが、天幕のなかの物がきれいさっぱりなくなっていることはわかる。眠っている間に何者かに盗まれたのだろうか? 新妻も含めて?
すぐさま立ち上がり、剣に手をのばしたが、それも消えている。
「なんたることだ」彼はつぶやいた。残されたのはマットと毛布だけか? ローランの身のことを思うと、じっとしてはいられない。ルーアークは腰に毛布を巻きつけてウィリアムの天幕へと急いだ。
なかへ入ろうとして、ウィリアム当人にぶつかった。彼もマントで腰をおおっている。
「ウィリアム、おまえも服をとられたのか? レディ・ローランはどこだ? けがを負った者はいないか? 襲ったのは何者だ?」
「奥方だ。眠っている間に服をもっていかれた。鎧《よろい》と武器もだ」
「ローランが? なぜ、このようなことを?」
「全員に衣服を洗うようお命じになられた。それから、鎧と武器を磨くようにと」
確かに戦いが終わったら早く鎧や武器の手入れをしておくにこしたことはないが、行軍中にする者はいない。ローナなら、そんなことはしない。彼女と結婚したら清潔できちんとした暮らしは望めないと母上が警告したほど家政に関心のない娘だった。きっと、それはローランも同じだ。
たぶんウィリアムが勘違いをしているのだとルーアークは決めつけた。ローランが妻になったと思うと頬がゆるむ。これからは、いつでも彼女を腕に抱けるのだ。だが、まずは義務を果たさなくてはならない。「服をもっていった痴《し》れ者をなんとかしよう。それから新妻といっしょに朝食だ」むろん天幕でふたりきりで、と心のなかで続ける。
「笑いごとではない。もっていったのは奥方だ」
「ばかなことを言うな」
「では、その目で確かめるがいい」ウィリアムはさっさと歩きはじめた。
毛布を押さえながらルーアークが続く。だが、彼の笑みは二歩目で消え、四歩目で表情が険しくなった。陣中に何百人もいるはずの部下の姿がわずかしか見えない。その者たちも皆、毛布をからだに巻き、恥ずかしそうに彼の目を避けている。
「ほかの重騎兵はどこへ行った? 弓兵は? 槍兵《やりへい》はどこだ?」
「重騎兵は小川にいる。奥方の命令でからだを洗っていると聞いた。槍兵は槍を磨いているが、弓兵のことは知らぬ。奥方が何をお命じになったことやら」ウィリアムが答えた。
「命じる?」ルーアークはウィリアムの腕をつかんだ。「なぜ、彼女がわたしの家臣に命じる? 女にそんな権利はないはずだぞ」
ウィリアムは腹立たしげに肩をすくめた。「奥方はただの女ではない。暴君だ。それに、奥方の侍女の茶色の目の小娘は魔女だぞ。ひとの魂を盗みとるつもりだ」
ルーアークはこんなに怒ったウィリアムを見たことがなかった。「いったい何をされたのだ?」
「一日じゅう笑顔でつきまとっていたくせに、床で休む段になったら……」
ルーアークはにやりとした。「おまえがいきりたっている理由がわかったぞ、友よ。しかし、だからといって、このありさまを我が妻のせいにする理由はあるまい」
「あなたにもすぐわかる」
陣の端まできたルーアークの目の前に、我が目を疑わせるような光景が展開していた。
草地に何箇所か火がおこされて大鍋《おおなべ》がかけられ、召使いたちがかきまぜている。天幕を畳んでいるはずの者たちだ。出発に備えて主人の身支度を整えているべき従者が座りこんで鎧や武器を磨き、重騎兵たちは輪になって、のんびりと何かを食べていた。
「誰がこんなことを許した?」急ぎボルドーに戻れとの、わたしの命令を無視したのは誰だ?
アレンが馳《は》せ参じた。「だんなさま、ここにお座りください。すぐに兎《うさぎ》の肉をもってまいります」
「兎? 干し肉ではないのか?」ルーアークは驚いてあたりを見た。鹿《しか》をあぶっている焚《た》き火がふたつあるほかに、野鳥を焼いている焚き火と、侍女たちが大きな魚を焼いている焚き火があった。「どこから食料を調達した? このあたりの村の食料は、王太子殿下の軍勢がポワティエに向かったときにすべて奪われているはずだ」
「レディ・ローランのご命令で早朝に起き、教えられた場所で狩りをいたしました」アレンが答えた。
「レディ・ローランの命令で?」
「はい。どうぞ、お座りください」
「いや。レディ・ローランのところへ連れていってくれ」
一刻も早く真相をつかみ、一日がむだにならないうちに家臣に身支度をさせて出発しなくてはならない。ルーアークは染みのついた茶色の服を着て灰色のヴェールをかぶった女のそばを通りすぎた。
「レディ・ローランはどこだ? 時間がないんだぞ」
「わたしはここですわ、だんなさま」その女が言い、フィリップが即座に通訳した。
ルーアークは目をしばたたいた。白い顔、菫《すみれ》色の瞳。信じがたいが、まさしくローランだ。「なぜ農民のようななりをしている?」
ガブリエルは彼の腰を包む毛布を見て頬を染めた。神さま、抗《あらが》う力をお与えください。このひとはからだが大きくて、男らしくて、他者に脅威を与える。胸に走る傷跡は長年、戦士としてたたかってきた証《あかし》だ。対抗するには、勇気と知恵をしぼるしかない。しっかりしなくては。ガブリエルは唇を湿らせ、挑むように顔を上げた。
ルーアークは眉根を寄せた。なぜあんな冷たい目をしている? 昨日のローランはどこへ行ってしまったのだ?「これはそなたが?」彼は優しい声で尋ね、フィリップに通訳するよう合図した。
「はい」
それだけか? 釈明も謝罪もないのか?「なぜ、こんなことを?」
ガブリエルには彼が歯を噛《か》みしめているのがわかった。どうして怒っているのだろう?「あなたと家臣の方々のお世話をするのはわたしの務めです」
彼女は表情を閉ざしている。何を考えているのだ? ルーアークはいらだった。「城のなかならともかく、行軍中にこのようなばかげたことをしている余裕はない」
「ばかげたこと?」このひとはお父さまよりひどい感謝知らずだわ。夜明け前からずっと働いていたというのに、ばかげたことですって? ガブリエルは彼の頬を平手打ちしたいという衝動にかられた。
服の下で小刻みに上下しはじめた胸を見て、ルーアークのいらだちが消えた。あの粗末な服をはぎとりたい……。そして、ふと気づく。遠慮することはないではないか。彼女は妻だ。ルーアークはふくらむ期待に笑みを浮かべ、胸から唇、唇から腰の曲線へと視線をたどらせた。抱き上げて天幕へ運び、服を脱がせることを思うと情熱にからだがうずく。
「ウィリアム、一時間以内に全員に出発の準備をさせろ」
ガブリエルは二、三歩後ろに下がって彼の熱い視線から逃れようとした。このひとはわたしを求めているわ。なんとかしなくては。「まだ朝食を召し上がっていないのでは?」
「あとで食べることにする」ルーアークは、顔を真っ赤にしたフィリップが彼の言葉を伝えるとすぐに彼女の手をとった。だが、その手はなぜかふるえていた。「どうしたのだ?」
あなたがいやなの。あなたが怖いのよ。ガブリエルはそう叫びたかったが、首をふり、唇に指先を押しあてた。
「たぶん、空腹でいらっしゃるのでしょう。ずっと、働きづめでいらしたので」フィリップが優しい女主人のために助け船を出した。
「空腹なのか?」ルーアークはどうしても昨日のローランを呼び戻したかった。
ガブリエルはうなずいた。
「わかった。料理を運んでこい。いますぐにだ」
ガブリエルは緊張した面持ちのフェリスのほうへふり向いた。ほかの侍女もマーランも、息をつめて見つめている。彼がもう少し眠っていてくれたら、完璧《かんぺき》にできたのに。
彼女は声をひそめて命じた。「フェリス、お料理と飲み物を運んでちょうだい。エールに眠り粉を入れるのを忘れずに。あと何時間かあれば、清潔な衣類と温かい食事、殿方の好きな遊びを用意できるわ。ただし、このあたりで熊が見つかるかどうかわからないから、熊いじめは無理かもしれないわね。でも、同じように鎖でつないで犬をけしかけるなら、猪《いのしし》でもかまわないでしょう」
ガブリエルは大きなクッションをいくつももってこさせたが、同じクッションに座るようにルーアークに言われて、しかたなく端に腰を下ろした。
彼はすぐに腰に手をまわして引き寄せた。「そなたは美しい」
ガブリエルは彼の息遣いをこめかみに受けながらじっと耐えていた。服の上からゆっくりと触れられて脇腹《わきばら》がむずむずする。もしかしたら、わたしはいじめられているのかしら?
そのとき、ウィリアムがやってきて、大きな声で何かを言った。ルーアークも立ち上がり、声を荒らげて言い返す。
大声の言い争いはうるさくて頭が割れそうだったが、彼に触れられているよりずっとましだった。やがて、彼女はフィリップを通じて尋ねられたことに答えた。「ええ、すっかり乾くのは明日の朝でしょう。この先、適当な川が見つかるかどうかわからなかったから、全部、一度に洗ったのです」
ルーアークの顔が怒りで紫色になった。彼の言葉を聞いてフィリップがすくみ上がる。しばらくしてフィリップは、鎧を干し、武器を磨いている最中に敵に襲われたらたいへん危険だとだけ伝えた。
かわいそうなフィリップ。そう思いながらも、ガブリエルは反論した。
フィリップが彼女の言葉を伝え終わらないうちに、ルーアークとウィリアムが再びどなりはじめる。
ガブリエルは嫌悪感を隠そうと目をふせた。イギリス人は、どうしてどなったり叫んだりしてばかりなの? 彼女の脳裏に、去年の夏、ボルドーからナルボンヌへかけての地域を襲ったイギリス人の蛮行がよぎった。焼き討ち、略奪、殺戮《さつりく》、暴行……。ガブリエルの喉がこくりと鳴る。どなり声など、ましだと思わなくては。凶暴な血を目覚めさせるわけにはいかないわ。
「ガビィさま」フェリスが銀の杯をふたつ、さし出した。「ウィリアムさまにも同じものを用意しました。ルーアークさまほどはどなりませんが、扱いにくい方ですから」フェリスは、昨晩、彼をはねつけたときのことを思い出していた。
「ありがとう、フェリス」ガブリエルは、激昂《げっこう》して言葉のやりとりを続けているふたりの男に杯を手渡した。もし飲まなかったらどうしよう。
やがて、ルーアークが怒りに満ちた目でガブリエルを一瞥《いちべつ》し、肩をすくめて言った。「なんたることだ」そして、それをきっかけに、ふたりは渇いた喉をエールでうるおしはじめた。
「お座りになって」ガブリエルはほほえみ、自分でも腰を下ろした。
しばらくして視線に気づいて目を上げると、ルーアークが燃える瞳で見つめていた。
彼は皿を置いて立ち上がり、ガブリエルの腕をつかんだ。「食事はもういい。いっしょに来るんだ」
腕を痛いほど強く握られて、逃れることができない。彼女は思わず小さな悲鳴をあげた。
「悪かった」ルーアークは意外にも腕を放し、そっと手をとり直した。「何も危険なことはない」
危険じゃない、ですって? 充分に危険だわ。「まだ、しなくてはならないことがたくさんあります。もう少し召し上がって……」
「もういい! さあ、天幕に戻ろう」彼の声が情熱をおびて低く響く。
ガブリエルは身ぶるいして目をそらした。熱い瞳の奥にひそむ何かに引き寄せられそうだ。それに、このひとはなぜ眠らないの? フェリスに言ってエールのお代わりを運ばせるべきかしら?
「なぜふるえている? 恐れる理由はないだろう? わたしはそなたを傷つけたりしないし……」
「傷つけたりしないですって?」ガブリエルは思わず我を忘れた。「嘘《うそ》よ。昨日の夜――」
そう言いかけたとき、ルーアークがあくびをして前かがみになった。手を放して頭をふり、足元をふらつかせている。「どうしたことだ。ウィリアム……」そう言いながら、がくりと膝をつく。立ち上がろうとしたが、そのまま地面にくずおれ、重く垂れていくまぶたの下からガブリエルを見た。「何を……した……?」
ガブリエルは真っ青になった。疑われるとは思っていなかったのだ。
「まさか、おふたりの命を?」フィリップが茶色の目を丸くして彼女を見た。
「いいえ、眠っただけよ」ほかの家臣に対する手も打たなくては。「フィリップ、みんなに説明してちょうだい。ルーアーク卿《きょう》とサー・ウィリアムは疲れて眠ってしまわれたと。それから、誰かに命じてふたりを寝所に運ばせてね」
「ルーアーク卿が目を覚まされたら、わたしたちは殺されます」
「ばかなことを言わないで」即答したものの、一日分、足どめされたことに気づいたときの彼の怒りを思い出すと、神に祈るしかなさそうだった。「お目覚めになるときまでにすっかりきれいにして、喜ばせてさしあげましょう」
フィリップは首をふった。「ル、ルーアーク卿はご自分ですべてを把握していないと気がすまない方ですから……」
「違うわ。殿方というのは雑用を嫌うものよ。おいしい食事と清潔な衣類と住まい、そして狩りやその他の娯楽を用意するのがわたしたちの役目。そうそう、弓兵が戻ってきたら、猪を見かけなかったかきいておいてね」
「猪?」
「ええ。娯楽に使うの」
「え?」
「言われたとおりにしてちょうだい、フィリップ。することがたくさんあるのに時間がないのよ」
しかたなく、フィリップは歩きはじめた。猪をどうしようというんだろう? 優しいレディ・ローランの言葉とも思えない。ぼくも猪狩りに行こう。目を覚ましたルーアークさまの怒りのとばっちりを受けるより、猪のほうがまだましだ。
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暗く冷たい森に足を踏み入れたガブリエルは身ぶるいした。なんとかしてルーアークの興味をほかに向けないと、昨夜の悪夢が再び我が身にふりかかり、召使いたちも烈火の怒りにさらされる。そう思ってルーアークの家臣をせかして森へ来たけれど、本当は自分の過ちで陥ったこの状況から抜け出す方法を考える時間が必要だった。
イギリス人の騎士と結婚してしまったなんて。
でも、きっと何か方法があるはず。教会が離婚を許さなくても、わたしがこれからの一生を粗野で残酷なイギリス人の騎士とともに過ごすことが神さまのご意思であるはずがないわ。いままで、お父さまとベルナールの仕打ちに耐えてきたというのに。
フィリップが馬を並べた。「レディ・ローラン、サー・ギルバートがここでお待ちくださいと言っています」
「フィリップ、サー・ギルバートとサー・マイルズがおっしゃることはわかるわ。でも、わたしがいっしょに行かなかったら、かわいそうな猪《いのしし》が殺されてしまうかもしれないでしょう?」
フィリップは当惑した。「かわいそうだと思われるのなら、なぜつかまえさせるのですか?」
「あの方の楽しみのために必要なの」クレンリーでも、何度こうして獲物を捕らえさせたことだろう。クレンリーの家臣は物事をわきまえていたけれど、イギリス人ときたら、これでよくフランス国王軍を打ち負かしたと思うほど頑迷だ。何か命じても、言い終わらないうちに拒否するので、圧力をかけるか、さもなければあの手この手でなだめて、やっと従わせるというありさまだ。
ガブリエルの返事を聞いたサー・ギルバート・ペリンが頬を真っ赤にし、口髭《くちひげ》をひくひくさせている。ガブリエルは毅然《きぜん》とした視線を返した。連れていかないならひとりで行くと脅して、やっと同行を認めさせたといういきさつがある。少しでも弱みを見せたら連れ戻されるに決まっていた。
サー・ギルバートの号令のもとに、弓をもった兵士たちが猪を求めて散っていった。ガブリエルも騎士や重騎兵に混じってあとを追う。だが、見つかったのは鹿《しか》が一頭と雉《きじ》が二羽だけだった。
目の前の茂みが揺れる。今度こそ、猪かしら? しかし、飛び出してきたのは小さな兎《うさぎ》だった。
そのとき、前方から叫び声が聞こえた。枝が折れる音と獣の荒い息遣いも聞こえてくる。猪だわ! ガブリエルは音の聞こえる方角に馬の首を向けた。
「危険です」フィリップが轡《くつわ》をとろうと手をのばす。
「行かせて、フィリップ。どうしても生け捕りにしなくてはならないのよ」
息を弾ませて駆けつけると、鎧《よろい》に身を固めた四人の男たちが網のなかで暴れる猪をとり押さえようとしていた。
「殺してはだめよ!」ガブリエルは、輪になって声援を送る男たちのうしろから叫んだ。
アレンと呼ばれる少年も格闘に加わった。蹄《ひづめ》に輪縄をかけられた猪は、小さな赤い目を燃やして狂ったように牙《きば》をふり立てる。たちまち鋭い叫びがあがり、血をほとばしらせたふたりの男が運び出された。その間に、残った者の手で猪の四肢と口が縛り上げられた。
ガブリエルはほっとして馬から降りた。緊張と睡眠不足で足がふらついている。
フィリップが肘を支えた。「どうなさったのです? ご気分でも悪いのですか?」
「いいえ」ガブリエルは首をふった。「けがをしたひとのようすを見なくては」
「レディ・ローラン、我々は戦士です。仲間のけがには慣れていますので、どうか……」
「手当をするのは、女主人としてのわたしの義務です」
そのとき、背後で枝が折れる音がした。
「レディをお守りしろ!」サー・ギルバートが顔色を変えて叫び、馬に飛び乗って、十名ほどの部下とともに音の方角へ向かう。
サー・マイルズ・デヴァレルはガブリエルを馬に乗せ、残る部下といっしょに彼女をとり囲んだ。
「きっと熊《くま》だわ」ガブリエルは首をのばして見守った。
やがて、サー・ギルバートと部下が蹄の音を響かせながら戻ってきた。
まんなかにいるのは熊ではない。ルーアークだ。ガブリエルの血が凍りついた。
獲物を追う金色の熊さながらに頭を上げてあたりを見まわしたルーアークは、ガブリエルを見つけると怒りに口をゆがめて近づいてきた。
まるで、火を吹こうとするドラゴンのようだわ。ガブリエルは胸の動悸《どうき》を抑えて待った。
ルーアークは妻の前で馬を止めた。「なぜだ?」
彼女は怯《おび》えている。当然だろう。なぜ薬を盛ったのだ? 逃げるためか? いままで誰にもこんな目に遭わされたことはない。憤りが強すぎて、ルーアークは妻に拒否された心の痛みすら感じなかった。
ルーアークはフィリップを呼んだ。「なぜ逃げたのかきいてくれ」
「レディ・ローランは逃げたのではありません。狩りに来られたのです」
「狩り? 陣には食べきれないほど食べ物があふれているのに、これ以上何を捕るというのだ?」
「猪です」
ルーアークは縛られた猪と負傷した男たちを見て顔色を変えた。「猪を生け捕りにする愚か者がどこにいる?」
「ガブリエルさまが、ご主人さまのためにと」
ルーアークはローランの美しく冷ややかな顔を見て、疑いに眉をひそめた。わたしが眠る天幕に猪を放とうとでも思ったのだろうか? ルーアークはさらに馬を近づけ、彼女の顎をつかんで自分のほうを向かせた。
顔に血の気がなく、ふるえている。だが、まぶたをふせる前に菫《すみれ》色の瞳にあったのは、恐れではなく、憎しみだ。
「彼女がわたしと家臣にしたことは、鞭《むち》打たれてもしかたのない所行だと伝えるんだ」
そう聞かされても、彼女は表情を変えない。なんの感情も宿さない瞳で前を見つめているだけだ。
くそ。ルーアークは片手で髪をかき上げた。このままでは、生まれて初めて婦人をののしってしまいそうだ。いったい、どうしたらいい? 温かく優しい妻との暮らしを夢見たが、もしかしたら、祖父ロジャー・ド・リヴァーズが言ったとおり、我々のような戦士は女性とのかかわりや生活の温《ぬく》もりを求めるべきではなかったのかもしれない。
そのときふと気づいたことがルーアークの怒りに暗い陰を落とした。ローランはわたしを求めていない。ローナより、はるかに。だが、傲然《ごうぜん》とまなざしを返している彼女は、まぎれもなくわたしの妻なのだ。
彼女といっしょにやっていくのは容易なことではないだろう。冷たくて怒りっぽく、油断ならない女だ。なお悪いことに、彼女の女性らしからぬ強い意志と思いがけない反応がわたしをいらだたせる。ローナを失って以来、愛する者を求めてきたのに、やっと見つけたと思った相手からこのように拒否されようとは。
顎にかけた指がゆるんだので、彼女は顔をそむけた。それを見たルーアークは胸のなかで何かが壊れたような気がした。
「陣に戻る」彼はそう言い、フィリップに命じた。「レディ・ローランが逃げないように見張るのだ」
家臣たちが彼のあとを追った。
サー・ギルバートが尋ねた。「猪は?」
「殺せ。レディ・ローランがわたしにというなら、今宵《こよい》にでも食そう」
ガブリエルは絹の天幕のなかをいらいらと歩きまわっていた。戻ってから何時間もたつのに、ルーアークが罰しに現れない。もしかしたら、ほかの者に怒りを向けたのだろうか? 悲鳴も鞭の音も聞こえなかったけれど。
「ガビィさま」フェリスがそっと天幕に入ってきた。
「教えてちょうだい、フェリス。いったいどうなっているの? 誰か罰せられたの?」
フェリスは運んできた盆を置いた。「いいえ、誰も」彼女は悔しそうにため息をついた。「あの猪はルーアークさまとご家臣が食べてしまいました。せっかくの座興の獲物でしたのに」
「いいのよ、フェリス。きっと、座興より舌を満足させるほうがよかったのでしょう。わたしもうれしいわ。いじめられて苦しむのを見るより、ひとおもいに殺すほうがましだもの」
「もしかしたら、ルーアークさまはオーデルさまやベルナールさまとは違う方なのかもしれません。薬を盛ったことが発覚したのに、ガビィさまを罰しようとはされないんですもの」
「鞭打ったら、床をともにできなくなるからでしょう」
「でも、わたくしどもにもおとがめありません。それに、オーデルさまは床をともにするからといって鞭打つのをやめるような方ではありませんでした」
ガブリエルは低くうめいた。
フェリスがあわてて肩を抱く。「よけいなことを言ってしまいました。あの方がここまで歩いてこられないほど酔っ払うといいですけれど」
「そんなことがあるはずないわ」
「また、あの方のエールに薬を……」
「だめよ、フェリス。危険すぎるわ。わたしならだいじょうぶ。彼が来ても平気よ。それより、けが人の具合はどう?」
「イギリス人たちはわたくしどもを信用しないので、手を出せずにいるのです。放《ほう》っておいたら化膿《かのう》して死んでしまうかもしれません。ひとりは、まだとても若いのに」
ガブリエルは真っ青になった。「誰?」
「アレンです」
「フェリス、なんとしても助けましょう。あとで――夜になって、みんなが寝静まってからにでも」
「見張りがいますが、やってみましょう」
「いいえ、無理はだめ。ここの見張りは遅くなると眠るだろうから、そのあとならなんとかなるわ。フェリス、食事を運んできてくれたのでしょう?」
ガブリエルは鶏の肉を食べながら、明日の旅に備えて食料のことを尋ねた。「あぶった肉と燻製《くんせい》の魚はどのくらい残っているかしら?」
「普通なら二日分はたっぷりと。でも、イギリス人は目にしたものを皆食べてしまうのです」
「では、玉ねぎとローズマリーとワインを加えて煮た豆を最初に出しておなかをふくれさせましょう」
「まあ、なんて賢い!」フェリスはガブリエルの杯にワインを注《つ》いだ。
本当に賢かったら、彼と結婚などしていないわ。ちらりとそう思ったが、ガブリエルは変えられない事態をぐずぐずと思い悩む人間ではなかった。クッションに背を沈め、薔薇《ばら》の香りをかぐ。「ああ、なんていい香り」
彼女は疲労を追いやるように目を閉じた。あまりに長く恐怖にさらされてきたので、いつのまにか怯えた気持を処理するすべが身についていた。
ガブリエルはほどなく眠りはじめた。
目覚めたとき、あたりは暗かった。しばらくして自分がどこにいるのかを思い出したとき、彼女ははっとした。
あのひとはどこ? 一瞬にして肌が粟《あわ》立つ。ガブリエルは息遣いが聞こえないかと耳をそばだてた。何も聞こえない。そっと手をのばして探ってもみたが、隣には誰もいなかった。
ガブリエルは安堵《あんど》の息をついてからだを起こした。なぜ、罰を与えに来なかったのかしら? わたしが眠っていたから、そのまま立ち去ったの? いいえ、そんなに思いやりがあるはずがない。きっと、飲みすぎて動けなかったのよ。
けが人の手当をしなくてはいけないとガブリエルは思った。たいしたけがでなくても、傷口が不潔になっていると化膿が起こり、数日で死にいたることがある。
ガブリエルは闇《やみ》のなかで薬箱を探し出し、外のようすをうかがった。思ったとおり、見張りは眠っている。クレンリーの部屋の外に眠っていたのは護衛だったが、ここにいるのは見張りなのだ。
外に出たガブリエルはフェリスから聞いていた天幕の前まできた。なかをのぞくと、心もとなげに揺れる獣脂|蝋燭《ろうそく》の炎で横たわるふたりの負傷者が見えた。アレンのかたわらに足を組んで座っている男がいる。その男は手で顔をおおっていた。
広い肩幅、日にさらされた金髪――ルーアークだ。
ふり向いた彼と視線が合ったとき、ガブリエルはさらなる驚きに目をみはった。疲れ果てた面持ちで、瞳を打ち沈ませている。彼は、ずっとここにいたのだろうか? けがをした従者のために。
「手当をしにまいりました」ガブリエルはささやくような声で言った。
身をかがめてアレンの肩に触れようとしたとき、ルーアークが目を険しくさせ、低い声で何かを言った。どうやら、アレンのけがの責任が彼女にあると叱責《しっせき》しているらしい。そのことなら、ガブリエルも自責の念にかられている。言葉が通じないのがはがゆかった。
だが、いまはアレンのからだの熱のほうが気がかりだった。ガブリエルはルーアークを無視して薬箱を開け、アレンの脚に巻かれた不潔な布を切るために短剣を出した。
それを見たルーアークは、驚いて彼女の手首をつかんだ。力をこめると彼女は短剣を落とした。だが、悲鳴はあげない。どうなっているのだ? 彼女は石でできているとでもいうのだろうか?
しかし、肩をつかんで引き起こそうとしたとき、ルーアークは確かな温もりを指先に感じた。たちどころに怒りが消え、自分が何をしようとしているのかさえ、わからなくなった。彼女を求める気持が嵐《あらし》のようにかけめぐる。自分を殺そうとした女なのに、どうしたというのだ?
気配を感じとったガブリエルは動揺に襲われ、身を硬くした。過酷な試練に耐える力を与えてくれるよう、神に祈る。
彼女がふるえているのに気づくと、ルーアークの情熱に冷たい雨が降り注いだ。なぜだ? 何がいけない? わたしの何が彼女を怯えさせる? 彼はぎりぎりと奥歯を噛《か》みしめ、手を放した。
たちまち部屋のすみへ逃げるのだろうと思った彼女は、じっと座ったまま、ルーアークが短剣を拾い、帯にはさむのを見つめている。なぜなんだ? 彼は言葉の壁を呪《のろ》った。
そのとき、かたわらでアレンがうめいた。
それを聞いたローランが恐怖などもともとなかったかのように彼を押しのけてアレンの頬に触れ、顔をくもらせた。
「短剣を」彼女が片手をさしのべた。
「え?」ローランが何か言っている。わたしに助力を求め、とまどっているわたしをののしっているのではないだろうか?
ガブリエルは思った。このひとは他人に何かを命じられたことがないのだろう。ましてや、女性には。彼女はルーアークの帯から短剣を抜きとり、アレンの上に身をかがめた。
「やめろ!」
ガブリエルは彼の手をふり払い、険しい視線を向けた。「ばかなことを言うのはやめて」彼女が布を切り裂くと、アレンの脚に走る傷口から血液まじりの黄色い液体がしみ出ているのが見えた。
脚が腫《は》れている、とルーアークは思った。皮膚が張って赤く輝いているのは、すでに救いがたく病毒におかされている証拠だ。からだじゅうに毒がまわるのを阻むには脚を切断するしかない。だが、そうしたところで、死をまぬがれるかどうか……。
ローランが短剣をもったまま、さらに身をかがめた。もしや、自分の手で切断しようとしているのでは?「わたしがする」ルーアークはかすれた声で言い、短剣をもぎとった。
彼女は眉根を寄せ、首をかしげてこちらを見ている。
ルーアークは動揺を抑えようと目を閉じた。考えまいとしても思いがかけめぐる。他の従者たちから庶子であることをからかわれていたアレン。彼をかばい、軍勢に加え、固い信頼の絆《きずな》を築いてきたのに、少年の輝かしい未来の夢が、こんなふうに絶たれてしまうとは。
再びアレンがうめくのを聞いて、もはや待てないと覚悟したルーアークは目を開け、短剣を構えた。金臭い恐怖の味が口のなかに広がり、からだに悲しみが満ちていく。
「やめて!」ガブリエルはアレンの脚の上に身を投げ出した。
ルーアークは驚いて短剣を下ろした。「なんだ?」
「わたしが、助けます。だから、どうか……」
「助ける? どうやって?」
ガブリエルは薬箱を開けた。「治すのです」
彼は眉をひそめた。
「ここが、汚い、でしょう?」ガブリエルは傷口を指さし、表情で示した。
ルーアークは蝋燭の明かりに揺らぐ、ほの白い顔を見つめた。すでに冷静な表情に戻っている。このとりすました繊細そうな婦人にアレンを助けることができるのだろうか? だが、彼女は自分がローナよりずっと強いことをすでに示している。いや、知っているどの女性より強いかもしれない。
あきれたひとだわ。はやまった行動を止めたのに、感謝もしないのね。ガブリエルは片手をさしのべた。「短剣を」
明日になったらフィリップに頼んで言葉を教えてもらおう。このひとはわたしの言葉を覚えてくれるほど器用に見えないもの。言葉が通じるようになれば、威厳ある態度を保てる。こんなふうに単語を口にするだけでは、わたしまで粗野な人間の仲間入りをするようなものだわ。それに、みんなを危険な目に遭わせることにもなりかねない。
彼はまなざしに警告をこめながら短剣を返した。
ガブリエルは静かにからだの向きを変え、意識を集中して、粗雑に縫い合わされた糸を切って傷口を開いた。案の定、洗浄が充分でない。「水をちょうだい」
ガブリエルは彼から水の入った鉢を渡されて、初めて、かたわらにいるのがフェリスでないことを思い出した。
ふたりの目が合った。彼のまなざしはさっきより柔らかくなっているが、読み解けない表情を宿している。そう思ったとき、何かがからだを走り、炎のように揺れて奥へと沈んでいった。いいえ、こんなときに注意をそがれてはいられないわ。
「ありがとう」そう言って呼吸を整え、作業にもどる。
彼女が手際よく傷を洗浄し、黄色い粉をふりかけて細い絹糸できれいに縫い合わせるのを見て、ルーアークは舌を巻いた。彼が新たに運んできた水とつぶした葉で湿布剤を作って塗り、清潔な亜麻布を巻いていく。
巻き終わると、目を上げる間もなくもうひとりのけが人の手当にとりかかった。負傷者に向かった瞬間、厳しい横顔が同情で和らげられる。そして、ルーアークがさし出す水を受けとるたびに驚いたような表情を見せる。いったい、どういう女性なのだろう? あの冷たい仮面の下に、昨日の彼女が隠されているというのか? どっちが本物の彼女なんだ?
この従者は上腕を骨折していた。ガブリエルは治療にともなう痛みを懸念して睡眠薬を調合したが、のませようとすると顔をそむけた。「支えて」
ルーアークが求めに即座に従うのに気づいて、彼女ははっとした。
負傷者が眠るのを待って、肘から手首におよぶ傷を洗浄し、縫い合わせる。
「棒が、二本、いります」
ルーアークは彼女の身ぶりを見て無言で立ち去り、荷馬車の横木を二本、携えて戻ってきた。
ガブリエルはうなずいた。「ここを押さえて。それから、ここを」
ルーアークの力を借りて折れた骨をまっすぐにしていく。「そう、そのまま……そうよ」
ガブリエルは骨があるべき位置におさまったのを確認して添え木をあて、包帯で固定した。
ルーアークは、ほっとして身を退ける彼女を見つめた。顔は青白く、目の下に陰が浮かんでいる。彼のなかのサマーヴィルの血が彼女の手をとらせた。「休んだほうがいい」
なんて華奢《きゃしゃ》で柔らかな手なんだろう。それなのに、信じ難いほど有能だ。
手をとられたガブリエルは驚き、優しい声に潜む情熱のせいで、保ってきた平静がくつがえされるのを感じた。彼に触れられたら嫌悪感をいだくはずなのに、腕のなかに身を投げたい思いにかられるなんて。ガブリエルはぱっと手を引き、薬箱を抱えて天幕を飛び出した。
ルーアークは彼女のあとを追った。いったいどうしたんだ? 激怒して叫んでも、脅しても動じなかった彼女が、手をとられただけで逃げ出すとは?
寝所の天幕に戻って薬箱を置いたガブリエルは、そのとき初めて彼が追ってきたことを知った。脈拍が速まり、呼吸が乱れていくのがわかる。ルーアークが彼女の名前を呼んだ。いや、名前だと思っている一族の姓を。
ローラン。その名は彼女の悲惨な過ちの象徴だった。彼にそう呼ばれるたびに自分と侍女たちの立場を思い知らされた。もしも、ド・ローランの者であると知れたら、最悪の事態が訪れる。
ド・ローランの一族の血が不吉なできごとと狂気に魅入られているのは、父オーデルの祖父が火刑にした呪術《じゅじゅつ》使いの女に呪われたからだった。名のある家柄の人々はド・ローランの者が通った場所の一マイル以内に近づかないと聞く。そして、オーデルとベルナールは、その非道な行いによって、神ならぬ悪魔に創《つく》られた人間だとささやかれていた。
ルーアークが噂《うわさ》を聞いているどうかはわからないが、イギリス人なので、父が黒太子の領地を奪おうと企てたことは知っているに違いない。それらの不安と結婚式の夜の記憶があいまって、ルーアークへの恐怖となっているのだ。でも、彼に触れられたときの、あの感覚は……。
わたしはきっと病気なんだわ。ガブリエルはそう決めつけ、心を鎧で武装してからふり向いた。
ルーアークはため息をついた。長い間、鍛練を積み、自己を磨いてきたというのに、ローランを怒らせてしまったのか? それに、本当の彼女を知ろうとする気持をさえぎられた気がして、ひどく不愉快だった。
「おやすみなさい」ガブリエルは冷ややかな声で言った。
ローナをはるかに越える冷たい拒絶だった。すでに矛盾する自分の気持に混乱していたルーアークは、ぞっとするような一瞥《いちべつ》を残して天幕を出た。口のなかで毒づきながら地面で眠る兵たちを踏み越えて大股で歩いていく。
負傷者を収容している天幕の近くまできてやっと速度を落とし、拳《こぶし》を握りしめた。ローランはなぜ、わたしを拒否する? シノンで待つ結婚相手のためか? だが、それなら、どうして、あんなに喜んで結婚の申し込みを受けたのだ?
くそ。ルーアークは髪をかき上げた。ウィリアムの言葉が正しかったのだろうか? 結婚する前に、もっと彼女のことを知っておくべきだった。だが、ひとりでいることにあきあきしていた上に、彼女があまりにローナを思い出させる存在だったのだ。
ルーアークはふと疑念に目を細めた。実際にローランに会っている間は、あの菫色の瞳を見てもさほどローナのことを思い出さない。それはなぜだ? それに、ふたりが似ているのは姿形だけで、中身は全く違うようだ。
女というのは、どうなっているんだ?
彼女はただの女ではなく暴君だと言った件に関しても、ウィリアムは正しかったらしい。いや、暴君どころか魔女かもしれない。憤怒《ふんぬ》とわけのわからない激しい情熱でわたしの頭をいっぱいにさせる。
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翌朝、目覚めたルーアークは天幕の入り口のあたりにローランの幻を見たような気がして再びまぶたを閉じた。いよいよ魔力の呪縛《じゅばく》にとらえられたのだろうか? 寝ても覚めてもローランが見える。
「おはようございます、だんなさま。お目覚めならすぐに天幕をたたませましょう。夜明けと同時に出発とのご意向でしたが、すでに時刻は過ぎております」幻のはずの彼女がしゃべり、かたわらに控えたフィリップが急いで通訳した。
ルーアークは驚き、次に耳を疑った。このわたしに命令するとはどういうことだ?「今度はなんのじゃまだてだ?」
彼の激昂《げっこう》した言葉のなかにはガブリエルにわかるものもあった。感謝してしかるべきことを、じゃまだてですって? 彼女はわざと穏やかな声を作ってフィリップに言った。「早いということは承知ですと伝えて。でも、身支度をして食事をとっていただかないと。ほかの者はすでに天幕をたたんで荷物を積み、馬に鞍《くら》を置いて控えています」
ルーアークは腰布をつけただけの姿で飛び起き、低い声で何か言った。
ガブリエルは息をのんだ。ルーアークの裸の胸は記憶よりずっと広く、猛々《たけだけ》しい。すらりとした長い脚、引きしまった腰。彼女はこくりと喉を鳴らして視線を引き上げた。「だんなさまはなんと?」
「そ、それは……申せません」
ルーアークは視線をガブリエルに移して言った。「なぜこんなことを?」
ガブリエルはわずかに眉を動かしたが、冷静な表情を変えなかった。「雑事のわずらわしさを少しでも減らしてさしあげられたら、と」早朝に彼の家臣を起こし、出発の支度をさせるのは容易なことではなかったわ。いったい、何がいけないの? お父さまなら喜んだはずだ。
「城にいるわけではないのだぞ。これは軍隊なんだ。わたしの[#「わたしの」に傍点]軍隊だ」彼はフィリップが通訳した言葉を聞いて言った。
「同じではありませんか。食事もしなければならないし、洗濯や掃除も……」
「ウィリアム!」ガブリエルの言葉が終わらないうちに彼が叫ぶと、長身のウィリアムがたちどころに姿を現した。常に近くに控えているに違いない。ガブリエルはあまりいい気持がしなかった。
ふたりの騎士はしばらくやりとりをし、そのうちにルーアークが態度を軟化させたように見えたので、ガブリエルはフィリップにささやいた。「もうだいじょうぶかしら?」
「はい。レディ・ローランが仕事に手出しなさったことに立腹なさっているだけです」
「へんね。殿方というのは、余暇や娯楽に時間を費やすことが好きなものだけれど」
「戦いに明け暮れてきたご主人さまには、そういう時間はなかったんです」
「そう」ガブリエルは、彼のことが少しわかりかけてきたような気がした。「それで怒ってばかりいるのね。ゆっくりとおいしいお料理を食べて熊《くま》いじめを楽しめれば、もっと穏やかでいられるわ」
フィリップは青くなった。もしかしたら、今度は熊を生け捕りにしてこいと命じられるのだろうか?「レディ・ローラン、ルーアーク卿《きょう》はそのような遊びは……」
そのとき、ルーアークがフィリップのほうに手をのばした。ガブリエルが反射的に少年をかばおうと進み出る。ルーアークはけげんそうに顔をしかめて歩み寄り、そのままフィリップの細い肩に手を置いた。「どうしたんだ?」
主人と話すうちに、フィリップの顔から緊張が抜けていった。
「どういうことだったの?」ガブリエルはルーアークが去ったあとで尋ねた。
「サー・ウィリアムが、すべて指示しようと思ったとおりになっていると進言されたので、まだレディ・ローランがなさったことを快く思っていらっしゃらないものの、怒りをおさめられたようです」
ガブリエルはルーアークがなぜ理解できないふるまいをするのか、知りたいと思った。あんなに気分にむらがあっては、侍女たちにも危険がおよぶ可能性がある。無事に隊が出発したら、おりをみて、彼のことをもっとフィリップからきき出そう。予備知識があれば備えられる。
「それから、レディ・ローランがおっしゃる時刻に今日の行程を終えるつもりはないとのことです」
「今日の夕食の食料は充分だけれど、明日の分を調達しなくてはならないのに」ガブリエルはそう言い、食料を確かめようと早足で歩きだした。
問題が起きなければいいが。フィリップは不安を覚えながらあとを追った。
燕《つばめ》が餌《えさ》を求めて低い空を行き交う光景を見て、フィリップは笑みを浮かべた。夕日が岸辺の木々の梢《こずえ》を透かして光を投げかけ、ドロンヌ川の流れを黄金に染めている。
ルーアーク卿がレディ・ローランを助けてから二日。いまのところ、ルーアーク卿とレディ・ローランは顔を合わせるのを避けているので、心配したほど険悪な事態にはなっていない。ただし、さっきレディ・ローランがルーアーク卿のことを尋ねたときには、だんなさまは険しい視線を投げていた。
ほんの一年足らず前に花嫁となるひとを失ったばかりだというのに。そう思うと、フィリップはルーアーク卿が気の毒でならなかった。そのいっぽう、やっかいな口論に立ち会わずにすんでいることがありがたくもあった。
もしレディ・ローランがもっとノルマンフランス語を教えてほしいと言い出さなければ、通訳としての一日の仕事ももうすぐ終わる。それにしても、ルーアーク卿もレディ・ローランもふだんはあれほど理性的なひとなのに、いっしょになると火と油のようにお互いの怒りをかきたて合うのはなぜだろう?
ふとガブリエルに視線を向けたフィリップの顔から笑みが消えた。レディ・ローランが前かがみになって鞍の上でからだを左右に揺らしている。横顔を隠すヴェールがそのたびに翻っていた。
「レディ・ローラン?」
ガブリエルが急にからだを起こしたので、馬が驚いてあとずさりを始めた。フィリップはマーランを追い抜いてレディ・ローランの馬の轡《くつわ》をとった。
「ルーアーク卿に休止してくださるよう、お願いしてまいります」
「いけないわ」
「でも、鞍の上で眠っておいででしたよ」
「わたしならだいじょうぶよ」
「いまにも落馬しそうですわ」フェリスも言う。
ガブリエルは背中をのばした。「あなたたちより疲れていないわ」
「召使いは馬車のなかで眠っていますし、マーランもわたくしも夜はよく眠りましたが、ガビィさまはふた晩とも、ほとんど眠っていらっしゃらないんですもの。これでは病気になってしまいます。せめて、馬車のなかで眠られては」
「いやよ。揺られて、気分が悪くなってしまうわ」
「お願いです、レディ・ローラン」フィリップも勧める。
「大騒ぎしないで」そう言ったとき、ガブリエルの背中に緊張が走った。見なくてもわかる。きっと、ルーアークがこちらへ視線を向けたのだ。
目を合わせてはだめ。そう思いながら抗《あらが》えずに顔を上げると、やはり、先頭にいるルーアークが首をめぐらせてこちらを見ていた。兜《かぶと》にさえぎられて表情はわからないが、仮借《かしゃく》ないまなざしがつきささってくる。それは、狐《きつね》に追われる兎《うさぎ》のように彼女を怯《おび》えさせるまなざしだった。
ガブリエルは脈拍が速まるのを感じながら視線をそらした。「フィリップ、レッスンを続けて」
フィリップは気が進まないながらガブリエルとフェリス、マーランを相手にノルマンフランス語のレッスンを再開した。
「そろそろ野営することを考えねば」ウィリアムがルーアークに言った。
「なぜだ? 女たちとその大荷物のおかげで、今日はまだ数マイルしか進んでいないのだぞ」
「我々の荷馬車と、負傷者を乗せた馬車もあるしな」
ルーアークは友をにらんだ。こういうときのウィリアムには本当にいらいらさせられる。「彼女がいなければ、負傷者は少なくとも二名、少なかったはずだ」
「そして、焼きたての肉とパンの代わりに、干し肉とかび臭いクッキーで腹を満たしていたわけだ」
「食べ物ごときで敵に懐柔されたのか?」
「奥方は敵なのか?」ウィリアムが勝ちほこったように言う。
そうとも。だが、それはわたしではなく彼女の意向だ。ルーアークはそう答えたかったが、結婚が失敗だったことを認めるのも悔しかった。「彼女がわからないんだ……。だから言っただろう≠ネどと言ったらしめ殺すぞ」
ウィリアムは肩を揺らして笑った。「いや、思ってもみなかった展開だよ。実際、奥方には驚かされた。婦人がもつべき柔順の美徳には欠けるものの、辛抱強くて、これほど行軍に伴うのに適した貴婦人には会ったことがない。ふたりともだ。おいしい食事と清潔な衣服は文句なくありがたいはずだぞ」
「ふたりとも? さては、とうとうレディ・フェリスと?」
「いや、まだだ。あのときは……会ったその日の夜に迫ったのが、わたしの間違いだったんだ。レディ・フェリスはそういう種類の女性ではない」
「愛を胸にいだいたというわけか?」ルーアークが皮肉な口調で言う。
ウィリアムは考えこむように眉を寄せた。「愛がどんなものなのか、わたしにはわからない。だが、わたしはレディ・フェリスに感服している。奥方に対するのと同じくらい」
「あの魔女め、おまえまで魔力にとらえたか」
「わたしは魔力にとらえられてなどいない。少なくとも、奥方には」ウィリアムはほほえんだ。「初めは腹を立てたが、奥方は必要なことを要領よく進めていく方だということがわかった。皆が従うはずだ。侍女ばかりか男の家臣や召使いも使い慣れていると見た」
「彼女の命令で猪《いのしし》をつかまえに行ったせいで、ふたりの者が命を落とすところだったんだぞ」
ウィリアムは顔をくもらせた。「やれやれ、あなたは少しも態度を和らげないのだな。
菫《すみれ》色の瞳に惹《ひ》かれて結婚したのではないのか? 立腹する事態が起きたせいで気持まで冷えてしまったか。だが、我々にとっては喜ばしい事態だったぞ。奥方にはあのローナ・カーマイケルの何倍もの価値が……」
「やめろ、ウィリアム。さもなければ、ともに育ったことを忘れるぞ」
ウィリアムの緑の瞳が、氷塊に封じこめられた木の葉のようにきらめいた。「仰せのとおりに、閣下」
今度はルーアークがため息をつく番だった。ウィリアムにまでそっぽを向かれては困る。「ローランは、なぜかわたしを恐れているのだ」
「あなたが大声でどなるからではないのか?」
「いや、手で触れたら怯えた雌馬のように逃げたのだ。なぜだかさっぱりわからない」わたしに、いけないところでもあるのだろうか?
こんなに理不尽な思いをするのは、初めて会う祖父のもとにあずけられた五歳のとき以来だ。あのときは、泣くのをやめて祖父ロジャー・ド・リヴァーズの暮らし方に自分を添わせ、ついには父ジェフリーが説く温厚な生き方より、勇猛果敢な戦士として生きるほうが男としてふさわしいと思うようになった。だが、温かい両親から厳格な老人の腕に引き渡されたときの当惑はいまも忘れない。誰にも気づかれないよう、慎重に隠してはいるが。
ウィリアムが咳払《せきばら》いをした。「婚礼の夜、奥方に優しくしなかったのではないか?」
「どういう意味だ?」
「あなたは司祭の祝福がすむやいなや、奥方を抱き上げ、トルコ人の急襲のように天幕に向かっただろう? 誰も何も言わないが、侍女たちのひんしゅくを買ったことは確かだ。かなりワインを飲んでいたし、じりじりしていたことは知っているが、まさか、花嫁を傷つけるようなことはなかっただろうな?」
ルーアークは一度息を肺にため、すうっと吐き出した。「そのようなことはない。神かけて」彼はそう言ってから苦しげに声をひそめた。「ローナのことがあったのだ。わたしが無理強いや乱暴などするわけがないではないか。だが、正直言えば、あの夜のことはあまり覚えていないのだ」
「奥方は間違いなく自らの意思で結婚されたのだな?」
ルーアークはとぎれとぎれの断片になっている最初の日の記憶をたどった。「求婚したら、彼女は驚いたが……」そうだ。彼女は深い菫色の瞳を見開いたのだ。「ほほえんで承諾した」
「翌朝は?」
ルーアークは深いため息をもらした。「親しく語り合うべきだったのだろうが」しかし、ほとんど何も話をしてくれない彼女に、どうやってそんなことをきくのだ? 祖父の訓練には、そういう繊細な問題の対処の仕方は含まれていなかった。
「フィリップが、三人ともずいぶん我々の言葉が上達したと言っていた」
「それでは、おまえもレディ・フェリスと話ができるというわけだ。おまえ、レディ・フェリスに尋ねるのか? その……何が起きたのかを」
「まさか」
「頼む。尋ねてくれ。それから、ローランのことを知りたい。家族や故郷《くに》についても」
ウィリアムはルーアークの顔を見つめた。断れるわけがなかった。ローナの死に苦しんできたルーアークに二度とあんな思いはさせられない。「承知した。ところで、もう軍を止めるのだろうな?」
「いや。レディ・ローランが疲れていることは知っているが、それは彼女の責任だ。我々は、敵の残党がどれだけ潜むかわからない土地でぐずぐずしているわけにはいかない。レディ・ローランらを抱えたいま、なお安全をはかる必要がある」
それから、あなたの傷ついたプライドも守る必要があるのだろう? ウィリアムは心のなかでつぶやいた。ふたりとも、なぜ、意地をはって、打ちとけようとしないのだ? だが、ふたりが人知れず相手に向ける視線には、おおいに望みが含まれているように思える。ボルドーのエドワード黒太子の城に着いて部屋をともにするようになれば、自《おの》ずと好転することだろう。
夕食のあと、ウィリアムはフェリスの天幕を訪ねた。レディ・ローランとほかの侍女が負傷者の世話をしに行ったので、彼女はひとりでいるはずだった。
「元気かな?」
フェリスは繕いものから目を上げた。サー・ウィリアム。拒んだにもかかわらず、敬意をもって接してくれる感じのいい騎士だ。「毎晩、そうしてじっと顔をごらんになるのは、健康を気遣ってくださるからですの?」
ウィリアムは頬を染めた。もう一度、初めからやり直したいんだ。そう言いたかったが、彼女の美しさを前にすると口が動かなかった。彼はフェリスのそばのスツールに座った。「いや。そなたのことを知りたいんだ。アルルから来たとフィリップに聞いた。故郷や家族が恋しくはならぬか?」
ほうら、質問が始まったわ。「城は焼失し、家人も失いました」クレンリーでの日々の鍛練のおかげで嘘《うそ》もそれらしく聞こえるようになっている。
ウィリアムは同情を示す言葉をつぶやいた。
このひとに嘘をつくのは心が痛むけれど、出自を伏せるようにと言われているのだからしかたがないとフェリスは思った。婚礼の翌朝、ガブリエルは侍女たちを集めて言った。安全な場所を見つけるまで、ルーアーク卿の保護を受けましょう。でもド・ローラン一族の者と知られたら放《ほう》り出されます。さもなければ黒太子につき出されるでしょう
ウィリアムがフェリスに尋ねた。「レディ・ローランのご家族も?」
「ええ、父君が。母君はレディ・ローランが生まれたときに亡くなっています」
ウィリアムはゆっくりと頭をふった。「では、ご両親も資産も失われたのだな?」
フェリスは迷った。そこまで詳しい打ち合わせをしていなかったのだ。「ええ。でも、価値ある家具や食器をおもちですわ」
「なるほど」ウィリアムは馬車に積まれた荷の多さを納得した。「資産がないとなると、レディ・ローランがシノンで結婚するはずだったお相手は、よほどの愛を捧《ささ》げておられたのだろうな」
サー・ウィリアムは賢いひとだわ。危険なほどに。「シノンで初めてお会いすることになっていたのです。お話がまとまれば結婚の契約を交わすことに」
「ほう」これで、危惧《きぐ》したことが少なくともひとつ減った。「レディ・ローランは家政にたけていらっしゃるらしい。このタペストリーのみごとさはどうだ。だが、母君のお導きがなかったとなると、婚礼の床での作法などは……」
「心得ていらしたはずですわ。少なくとも知識は」
では、やはりルーアークが……。さらに踏みこんで尋ねようとしたとき、侍女たちが戻ってきて、会釈したりくすくす笑ったりしはじめたので、ウィリアムはそうそうに天幕を逃げ出した。
婚礼の夜のガビィさまのようすをわたしからきき出そうとするなんて、愚かなことを。フェリスは彼の広い背中を見送ってから立ち上がり、ガブリエルを捜しにでかけた。
ウィリアムは、マイルズ、ギルバートとともに火のそばに座ってエールを飲んでいるルーアークを見つけた。
マイルズが声をかけた。「ウィリアム、ここに座れ。英仏の鎧《よろい》の利点を比較検討していたところだ」
「なぜふさぎこんでいる?」ルーアークがきいた。
ウィリアムは考えた末にレディ・ローランの身の上について語り、それからルーアークを伴ってその場を離れた。
「わかったことはふたつだ。まず、レディ・ローランはシノンの男に会ったことはない」彼は、ルーアークが安堵《あんど》のため息をもらすのを聞きながら先を続けた。「ふたつめはあまりいい知らせではない。レディ・フェリスによれば、婚礼の夜、あなたの花嫁に対する思いやりは足りなかったということだ。しかも、おそらくはわたしの推測をはるかに超えるほど。あとは自分で考え、事態を改めることだ」
ルーアークは目に怒りを宿して彼を見た。「わたしは戦士だ。婦人のことを理解できるわけがない」
「あなたにはサマーヴィル一族の血が流れている。わかるはずだ」
わかるだろうか? わたしのなかのサマーヴィル一族特有の優しさは、祖父によってすべて駆逐されたのではないのか? かつてローナに優しさを示そうとして失敗している。もう一度、危険をおかして試みようとは、ルーアークにはなかなか思えなかった。
翌日、ガブリエルは皆が同情といたわりに満ちた目で自分を見るのに気づいた。
「フェリス、少しおおげさに話しすぎたのではなくて? 詮索《せんさく》されないようにするだけでよかったのよ」
「城と家族を失われたことを話さないほうがよかったとおっしゃるのですか? ここの方たちはオーデルさまやベルナールさまとは心根が違います」
ガブリエルも彼らが普通の戦士と違うのを不思議に思い、フィリップにこう尋ねたことがあった。「フランスの土地や民にひどいことをする野蛮なイギリス人を、あなたたちはなぜそんなに慕うの?」
フィリップは目をしばたたいた。「ボルドーはアキテーヌの一部です。アキテーヌはヘンリー二世とエリナー王妃の御世から、ずっとイギリスのノルマン人騎士が治めてきた土地ですよ」
歴史的事実はどうでもいい。ガブリエルが心配しているのは自分の召使いたちの今後だった。「でも、ルーアーク卿率いるイギリス人たちは、わたしたちの国土を略奪しているのよ?」
「いいえ。だんなさまは略奪したり民家に火を放ったりすることを許しません。戦いは騎士と兵士たちどうしの間でなされるものだとおっしゃって」
では、暴力をふるうのは妻にだけなのかしら? ガブリエルはフィリップがルーアークの勇気と叡智《えいち》を称《たた》えるのを聞きながら思った。いずれにしても、この少年の言葉だけで判断することはできない。
「フェリス、サー・ウィリアムからわたしの……」彼女は夫と言いかけて声をつまらせた。「あの方のことを何か聞かなかった?」
「いいえ。ガビィさまのことをお話ししたあと、すぐに侍女が戻ってまいりましたから」
「あなたにばかり負担をかけて、許してね」
「おはよう」
突然の声に驚いてふり向くと、いつのまにか先頭を離れたルーアークが馬を並べていた。
「おはようございます、だんなさま」
「言葉が上達したね」彼は尊大な笑みを浮かべた。
「簡単な挨拶《あいさつ》ですもの」
ルーアークは唇を引き結んだ。家族を失った悲しみは想像するにあまりあるが、当人からけんもほろろに切り返されたのでは、思いやりをもとうという決意も萎《な》えるではないか。「疲れているようだね。昨晩もよく眠れなかったのだろう。馬車のなかで眠るといい」
疲労で平静を保ちきれなくなっていたガブリエルは菫色の瞳に怒りをうかべた。「けっこうです」
「なんと強情な! 言われたとおりにしたまえ」
ガブリエルは声に冷静さをとりもどした。「強情をはったのではなく、現実を見てお答えしたのです。馬車に揺られたら気分が悪くなってしまいますわ」
ルーアークはがっかりした。「好きにするがいい。馬から落ちても、助けるために隊を止めたりはしないぞ」
ルーアークは先頭に戻っていった。自分を抑制できなくなるとは情けない。彼女の前に出ると、どうしてこうなってしまうのだろう?
「首尾のほどは?」すぐにウィリアムがきいた。
「道化を演じたようなものだ。あんな小娘にわたしが手を焼いていると知ったら、祖父ド・リヴァーズ卿が墓のなかで目をまわすだろう」
ウィリアムはそっとほほえんだ。ルーアークは認めないだろうが、彼のレディ・ローランへの気持は確実に変化している。サマーヴィル一族特有の、女性に対する保護欲をかきたてられているらしい。「この調子なら、あと一日でボルドーに着くのではないかな」
「早く着くにこしたことはない」その先の予定はたっていないが、イギリスに戻ることだけはないだろう。自分を嫌っている妻を家族に紹介するのは気がひける。サマーヴィルの一族は愛ゆえに結婚するのが常だからだ。情熱のみならず、魂と魂を結ばれた永遠の愛情による結婚だ。家族の皆は、末息子があの冷たい目をしたローランと結婚したと知ったら、きっと頭がどうかしたのだと思うだろう。たぶん、本当にどうかしてしまったに違いない。
ドロンヌ川の岸辺をたどるルーアークの気持は沈んだ。ポワティエを離れて以来恵まれていた空模様すら、あやしくなりはじめたではないか。
そう思ううちに、やにわに暗くなった空に稲光が走り、草原に雷鳴がとどろいた。風がうずまいて、冷たい雨も落ちてくる。最初の雨粒を顔に受けたとき、彼が案じたのはローランのことだった。ふり返るとフィリップが毛布を着せかけていた。
ローランの姿が迷い子のように心もとなく華奢《きゃしゃ》に見えて、守ってやりたいという気持がわきおこった。「ウィリアム、早急に避難場所を探さねばならない。さもないとローランがぬれてしまう」
ウィリアムはほほえんだ。「向こう岸に茂った木立がある」
「川は深いのか?」
「流れは速いが浅そうだ。この先に、渡るのにかっこうの場所がある」
「よし。わたしはギルバートとともに女たちを連れて先に渡る。他の者たちと荷馬車を頼むぞ」
ルーアークが愛馬グラディエイターに同乗するようにと言うと、ガブリエルは寒さにふるえながら答えた。「いいえ、馬には慣れています」
ルーアークは顔をしかめた。「それでは、せめて雨具を」
「ありがとう」
前もって放った斥候から、流れは速いが川床はしっかりしていると聞いたルーアークは、命を発した。「わたしとレディ・ローランが川を渡り終えるまで、騎馬の者は上手《かみて》に列を作って流れを弱めよ。フィリップ、おまえはレディ・フェリスを乗せるのだ。ギルバート、五名を率いて召使いの馬車を先導せよ」
ガブリエルはいやがる馬を駆って流れに分け入った。初めは馬の膝までだった水がしだいに深くなり、服の裾《すそ》を引き、膝をぬらしはじめる。
そのとき彼女を乗せた馬が足をすべらせた。バランスを失ったガブリエルは鞍の前橋《くらぼね》をつかんだが、後ろから捕らえようとしたマーランといっしょに川のなかに放り出された。
口にも鼻にも水が入り、肺が焼けるように痛い。ガブリエルはもがいた。
誰かが腕に抱えて助け出してくれたが、ガブリエルは咳《せ》きこみ、もがき続けていた。
「暴れるのはやめなさい。もうだいじょうぶだ」彼女を胸に抱き寄せたのはルーアークだった。
「マーラン!」ガブリエルは反射的に彼を押しのけ、息をはずませた。
「とにかく、岸へ上がろう」ルーアークはしっかりと彼女を抱きかかえた。
ふたりは川の中ほどにいた。ルーアークは胸まで水につかり、流れに逆らって立っている。ガブリエルは彼が助けに来てくれたことに驚き、彼に対する恐怖を忘れて水しぶきにぬれるまつげに囲まれた黒い瞳をまっすぐに見つめた。「助けたりしないとおっしゃっていたのに、なぜ来てくださったの?」
「そなたに危険がおよぶのを、わたしが黙って見ていると思うのか?」
ガブリエルは大きな声に身をすくませたが、彼が自分の安全に責任を感じてくれていると思うと少し気持が楽になった。「マーランは?」
ルーアークはわずかにほほえんだ。
「いっしょに水に落ちたが、いまはわたしの背中に猿のようにしがみついているよ」肩ごしにマーランが小さな顔をのぞかせた。
「マーランまで助けてくださって、ありがとう」
「わたしがほしいのは礼の言葉ではない」
ガブリエルは背筋にぞくりとするものを感じた。「では、なんですの?」
「そのことは服を乾かし、暖まってから話し合おう」
馬がいななき、家臣たちが叫びながらふたりを助けに近寄ってくる音が聞こえた。
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「レディ・ガ……あの、レディ・ローランのおかげんは?」マーランはフィリップに尋ね、隣に腰を下ろした。
「侍女たちがおそばについてるよ。サー・ウィリアムはルーアーク卿《きょう》が即座に助けたからだいじょうぶだとおっしゃっていた」
マーランは息をつき、口のなかで祈った。
「きみの具合は?」
「ぼくはただの小姓だもの。レディ・ローランはだいじなご主人さまだ」
フィリップはうなずいた。「ぼくも家族がいないんだ。レディ・ローランも父君が恋しいだろうな」
オーデル卿を? マーランはあわててとりつくろった。「そ、そうだね」
「父君は急にお亡くなりになったのかい?」
脳裏に凄惨《せいさん》なオーデルの最期がよみがえり、マーランはごくりと喉を鳴らした。「うん」火のそばに寄りながら彼は迷った。もっとつけ加えるべきなんだろうか?「疫病に……
疫病にかかって」
フィリップが驚いて目を向けたのを見て、マーランはうまい嘘《うそ》だったとほくそえんだ。ペストやその他の疫病は昔から何度も猛威をふるってきた。ひとたび流行《はや》ると、一族が死に絶えたり、町じゅうのひとの命が奪われることもある恐ろしい病だ。
マーランは、レディ・ローランが献身的な看護を続けながら、ひとり、またひとりと家族を失ったようすを語って聞かせた。病が広がることを恐れた人々に城を焼かれ、もてるだけの荷物とともに追い出されたと聞かされて、フィリップの顔が驚きに呆然《ぼうぜん》となった。
「では、疫病と火事があったというのかい?」マーランが大きくうなずくのを見て、フィリップはそそくさと立ちあがった。「よ、用事を思い出した」
「だんなさまの馬に乗せていただくつもりはありません」翌朝、ガブリエルは言いはった。
ルーアークはほほえんだ。「形勢は逆転したんだよ。隊はすでに出発の用意が整っている。寝坊していたのはきみだ」
「寝坊ですって?」この言葉はフィリップに通訳してもらわなくてもわかった。「まだ四時だわ。真っ暗ではありませんか」
「きみは早く出立することの有益性を知っていると思ったが」
ガブリエルは松明《たいまつ》に照らされた人々の顔を見た。皆、笑っている。フェリスもだ。彼が昨日からどならなくなったからといって、危険でなくなったことにはならないのに。
「さあ、我が妻よ、わたしが連れていこう」抱き上げたルーアークは彼女が身を硬くしたのを知って傷ついたが、平静を装った。彼女の秘密をフィリップから聞いたいま、同情が心を満たしている。
「いっしょの馬には乗りたくありません」ガブリエルは必死でノルマンフランス語を使った。
ルーアークは愛馬グラディエイターの脇《わき》で足を止めた。「きみはわたしの妻なのだから、わたしの言葉に黙って従うんだ。ただし、今回だけは理由を説明してあげよう。こうするのは、きみのからだが昨日のことで弱っているからだよ」ガブリエルは怒りに呼吸を荒らげたが、ルーアークはとり合わなかった。「再び川を渡らなくてはならない。もう一度、きみを助けてずぶぬれになるのはいやだからな」
「ご厚意に感服いたしますわ」ガブリエルは皮肉を言った。
「きみのためなら、なんなりと」ルーアークは満足げな笑みを口元に浮かべて、ふたりの従者に轡《くつわ》をとらせたグラディエイターの背にまたがった。
ルーアークの大きなからだがしっかりとガブリエルを包み、彼の温《ぬく》もりが温めた蜂蜜《はちみつ》のように肌に伝わってくる。かたくなに守ってきた何かが少し揺るがされた気がして彼女は身をふるわせたが、川を渡りはじめると別の恐怖が襲ってきた。
「心配しなくていい。きみを危険な目には遭わせない」
深みのあるその声に、なぜかわずかに緊張を解くうちに、馬は対岸の岸に着いた。
「それほど乗り心地悪くはなかっただろう?」ルーアークが尋ねた。
ガブリエルは肩をすくめてみせたが、彼の温もりとまなざしを再び意識して、あわててからだを起こした。「わたしの馬が来たら、すぐに……」
「今日はこのままきみを乗せていくことに決めた」ルーアークはさらりと言い、愛馬を歩かせはじめた。
フィリップは近くにいないかしら? サー・ウィリアムでもいい。わたしの馬を連れてきてもらおう。ガブリエルは見まわしたが、彼らはずっと遅れた位置にいた。
「め、めまいがしますの。馬車に乗せていただきたいわ」
「病だろうか? では、静かに馬を進めよう。わたしに寄りかかるといい。落としたりはしないよ」
ガブリエルは唇を噛《か》んだ。彼に触れている部分がぞくぞくし、彼の鼓動を感じるたびに脈が速まる。一日じゅうこんな状態でいるなんて、とても耐えられないわ。一瞬、食事用のナイフをつきつけて馬から飛び降りようかとも思ったが、あまりに愚かしい考えなのでやめた。黙ったまま進むうちに、背後に人々の声や車輪のきしむ音が聞こえだした。
「あそこをごらん」
「えっ?」
「驚かなくてもいい。日の出の兆しだ」
顔を上げたガブリエルは空が明るくなりはじめていることに気づいた。「雨があがったのですね」
「それだけかい? ほら、まだ姿を見せない太陽の光が消え残る雲に届いて、金と薔薇《ばら》色に染めている」
ガブリエルはあっけにとられた。このひとに詩人の魂が宿っていたとは。
つい、父上が口にするようなことを言ってしまった。ルーアークはそう思って頬を染め、咳払《せきばら》いをしてから尋ねた。「きみにはどう見える?」
ガブリエルは雲を眺め、しばらくして、おもむろに言った。「騎士――馬に乗った騎士よ。光の槍《やり》を手にしているの」
「どこに?」ルーアークは目をこらしながら兜《かぶと》を脱ぎ、彼女の膝の上に置いた。
無礼なことを。ガブリエルは一瞬、そう思ったが、不思議と怒りはわかなかった。
「騎士はどこだ?」
「あそこよ。光の槍が見えるでしょう?」知らず知らずのうちに、彼女はルーアークの胸に頭をもたせかけていた。
「よくわからないな」
頭をめぐらせたガブリエルは、彼の顔がすぐ近くにあることに気づき、脈が急に速まるのを感じた。黒い瞳が熱く輝いている。
ルーアークは身を引き離そうとするガブリエルの顎を優しくとらえた。「教えておくれ。騎士を見たい」
ガブリエルの心臓は捕らえられた小鳥のようにふるえた。
「楽にして」ルーアークの声は静かだった。
そのとき太陽が地平線に顔を出し、彼の髪をきらめかせ、頬に黄金の輝きを加えた。夢の騎士そのものだわ。そう思ったとき、ガブリエルは心のなかの氷が解けていくのを感じた。
ルーアークの唇に笑みが浮かぶのが見える。彼はわたしの心の動きを知っているんだわ。黒い瞳に見つめられて唇がちりちりとうずいた。「騎士はあの雲の上よ……」
ガブリエルの言葉はそっと押し当てられた彼の唇にさえぎられた。軽く優しくくり返される口づけがからだを熱くし、めまいを起こさせる。
「きみはもう少しけいこを積む必要があるな」
「ええ……えっ?」ガブリエルは当惑して視線をそらしたが、彼は顎をとらえて再びキスをした。
「前に雲に白昼夢を描いたのはいつのことだ?」
白昼夢ですって?「いつも忙しくて、とてもそのような……」
「愚かなこととは言わないでくれよ。わたしは少年のとき以来だが、それでも、きみよりはうまい」
「では、わたしの見ている夢をあててみて」
「うむ。では、あてくらべをするかい?」
ガブリエルはつんと顎を上げた。「受けてたつわ」
ルーアークは笑いをこらえて肩を揺らした。わたしの小さな暴君は負けず嫌いとみえる。「何を賭《か》ける?」
「わたしが勝ったら、ひとりで馬に乗るわ」
「では、わたしが勝ったら口づけをしよう。本物の口づけを」
ああ、マリアさま。さっきのキスでさえ、あんな思いをしたのに。「わたしが勝つわ」
ルーアークは彼女の唇に視線をさまよわせた。「本物の口づけがどんなものか知りたいだろう?」
「わたしの唇には、結婚の誓いの口づけでできた痣《あざ》がまだ残っているのよ」
ルーアークの瞳に後悔の色が浮かんだ。「あれは口づけではない。わたしが悪かった」
しばらく、ふたりはさほど言葉の壁にじゃまされることもなく、雲を見て想像力を競い合った。
やがて、ガブリエルが言った。「だめね。ほかのひとの夢をあてることなどできないわ」
「それはどうかな? きみは、とある騎士を夢に見ているんだろう? どの雲も、その騎士に見えるらしいからな」
「あなたには戦いと武器に見えるのね」
ルーアークは悲しげにほほえんだ。「子供のころから戦士となるよう、訓練されたからね」
「でも、雲を見ていたのね」ガブリエルにとっては意外な一面だった。
「幼少のうちだけだ。実戦に出るようになると、いやでも現実的になる。このことは秘密だよ。きみを信用してもいいかい?」
「どうして秘密にしなければならないの?」
「ぼんやりと雲を眺める騎士に従いたいと思う兵士がどこにいる?」
彼女はほほえんだ。それはルーアークが見た初めての純粋なほほえみだった。まるで太陽が彼女に宿り、からだの内から肌を輝かせているかのようだ。瞳は露にぬれた童《すみれ》だ。美しい。こういう彼女を見ていたい、彼女の自由で生き生きとした魂といつもいっしょにありたい、と彼は思った。
ルーアークの胸を強い欲求がつきさした。固く閉ざされた彼女の殻をこじ開け、信頼を得ることができたら。柔順以上のものがほしい。彼女のいままでの人生のすべてを知りたい。
「秘密を守ったら、わたしに勝ちを譲ってくださる?」
「いっしょに馬に乗るのがそんなにいやか?」
「触れられるのがいやなの」
「雲を見ているときは楽しげに思えたが」
「え……いえ、わたしは……」
「なぜわたしと結婚した?」
ガブリエルは一瞬にして口が乾くのを感じた。頭のなかが真っ白になって、あらかじめ用意しておいた答えが思い浮かばない。夢の騎士のことも父や兄のことも話せないので、最初に思いついたことを口にした。「命を助けてくださったから」
「恩を感じて?」
「ええ」
「恩があるから、嫌っている男のために奴隷のごとくつくすというのか?」
「き、嫌ってはいない、と思うわ」
「だが、好いてもいない。その理由を知りたいものだね」
ガブリエルは追いつめられて切り返した。「あんなふうにわたしを傷つけておいて、どのような好意を期待していらっしゃるの?」
「傷つけた? いつのことだ?」
「婚礼の夜」
「何をしたというのだ?」
「乱暴……乱暴なことを」
ルーアークは、ふるえている彼女を引き寄せ、耳元でささやいた。「わたしは覚えていないのだ。きっと酒を飲みすぎたせいだと思う」
声に満ちる苦悩が言葉が真実であると語っていた。覚えていないというのは本当かもしれない。でも、なぜ、あんなことをしたの? いっぽう、彼女は自分のなかに彼の抱擁に身を任せたいと思っているもうひとりの自分がいることにも気づいていた。
「泣きたまえ。泣いて、わたしを責めるがいい」
ガブリエルは顔を上げてまっすぐに見つめた。「いいえ。涙はとっくに涸《か》れましたわ」
ルーアークは眉根を寄せて彼女を見つめた。乾いた瞳。年齢よりずっとおとなびて悲しげな瞳だ。もしかしたら彼女は、婚礼の夜に知らずにわたしが負わせた苦しみをしのぐ何かを抱えているのかもしれない。「わたしもずいぶん長い間、泣いていない。だが、きみの苦しみが薄らぐというなら、喜んで涙を流そう」
ガブリエルは黒い瞳ににじむ深い同情に驚いた。こんな優しさを示せるひとだとは知らなかった。
「気分は? ボルドーに着いたら医者を呼ぼう」
ガブリエルは頬を染めた。「その必要はありません」
「それはよかった」ルーアークは彼女の手をつかまえて唇に押しつけたが、彼女が身を硬くするのに気づいて言った。「噛みつきはしない」
ガブリエルは手をひっこめようとしたができなかった。胸の鼓動が速いのは恐怖のためばかりでない。そのことを、彼女は心のどこかで認めていた。
「二度と傷つけない。信じてくれ」
信じることはできない。でも、情報を得るチャンスだ。「あなたはなぜわたしと結婚したの?」
「きみがほしかったから」ルーアークは即座に答えた。彼はすでにローナに似ていたから惹《ひ》かれたという事実を忘れていた。覚えているのはふたりの間に散った熱い火花だけだ。「それはいまも同じだ」
ガブリエルが驚くのを見て、彼はほほえんだ。
ルーアークは傷を負った者に接するのに慣れていた。傷は目に見えるものだけではない。祖父の教育が厳しかったにもかかわらず、いや、だからこそ、フィリップのようなつらい目に遭った少年や、庶子として生まれ、心に目に見えない痛手を負ったアレンのような少年に対する、彼一流の温かい対処の仕方が身についていた。
しかし、きちんと女性に接した経験はほとんど皆無に近かったので、結婚を急いだときも初夜の床で花嫁を傷つけたときも、身の内にわきあがる衝動をどう処したらいいかわからなかったのだ。とにかく、信頼をとりもどすには忍耐と優しさ、覚悟が必要だと彼は思った。
しかし、ローランの過去には依然として腑《ふ》に落ちないものがあった。言葉の壁のせいと思えば思えなくもないささいなことだが、なぜか気にかかる。
腕のなかの彼女の横顔を眺めながら、ルーアークは考えこんだ。過去のつらいできごとを尋ねるのは残酷だ。ましてや、心を開いてくれるのを待っている、こんなときに。いまはがまんしておこう。信頼を勝ち得れば、自《おの》ずと語ってくれるはずだ。
ボルドーの城に着いてすぐルーアークに案内された豪華な部屋には、大きな木製の湯船が置かれていた。湯気のたつお湯は魅力的だが、ガブリエルはなかなか部屋着を脱ぐ気になれなかった。
「お風呂でございます、奥さま」年配のがっしりとした体格の侍女が言うのは、これで二度目だった。奥さま≠ニ言うときに苦々しげに口をすぼめる。
湯船を囲む見知らぬ侍女たちの顔を見渡して、ガブリエルはゆっくりと息を吸った。ここは自分の部屋で、これからはふたりの部屋だと彼は言ったが、見知らぬ家の見知らぬ部屋で見知らぬ人々に囲まれているのは妙な感じだった。
ガブリエルは身をふるわせた。そろそろ床につく時刻になる。彼はここに戻ってくるのだろうか?
「フランス人は野蛮だから、お風呂の入り方を知らないのよ」
侍女のひとりがノルマンフランス語でささやくのを聞いて、ガブリエルのプライドが頭をもたげた。彼女はさっと帯をほどき、部屋着を脱ぎ落として湯船に入った。そして完璧《かんぺき》なノルマンフランス語で命じた。「石鹸《せっけん》と布をください」
お湯は温かかったが、心のなかは冷たかった。ルーアークが立ち去ってから何時間たつだろう。自分の侍女たちの顔も見ていない。一度、廊下でフェリスの声が聞こえたような気がしたが、部屋の番兵が誰もなかに入れなかった。
立ちあがって泡をすすぐお湯をからだに受け、湯船から出ようとしたとき、ガブリエルは足をすべらせた。縁に頭を打ちつけ、あっという間にお湯のなかに転倒する。やっと頭を起こし、咳《せ》きこみながらぬれた髪を顔から払った彼女は、侍女たちが誰も助けようとしなかったことに気づいた。皆、作り笑いをしたり、冷笑したりして見ているだけで、湯船を出るガブリエルに手を貸そうともしない。
ガブリエルは冷静を装って布をとり、からだに巻きつけた。こんな無礼な侍女はすぐにいとまを出すべきだわ。でも、ルーアークの妻であると同時に捕らわれ人でもあるわたしの立場では、それは言えない。いくら優しそうな態度を示しても、彼がこの部屋にわたしを閉じこめたことにかわりはないのだ。
そうはいっても、都市のなかで我が身と供の者の安全を確保するのは旅の最中よりさらにむずかしい。それに、彼の大きな城は防壁のなかにあるのでクレンリーのように野や丘に囲まれてはいないが、ひと目見たときから気に入っている。夢の騎士と結婚できないのだとしたら、せめて城の女主人になる夢がかなえられてもいいはずだわ。それにしても、フェリスたちがいなければ城のなかの仕事にとりかかることもできない。
「下がってけっこうよ」彼女は侍女に言った。ひとりになると、手早く着なじんだドレスを身につけ、髪を一つに編んで、窓から下のようすを眺めた。よかった。下の屋根まであまり距離がないから、うまくったえば地面に下りられる。
そのとき、部屋の扉を開けたルーアークは、石造りの窓枠から身をのり出している妻の姿を見つけた。「何をする!」
ガブリエルはからだをすくませたひょうしにバランスを失い、さらに、窓枠をつかもうとして指をすべらせた。からだが大きく傾いて悲鳴とともに落ちかけたとき、ルーアークががっしりとウエストをとらえて内側に引き下ろした。
「なぜだ?」耳元で声がした。痛いほど固く抱きしめられている。
「息ができないわ」
腕がゆるめられ、息を吸うと、煙と革と彼の香りが鼻腔《びこう》に満ちた。しばらく見知らぬ人々に囲まれていたせいか、彼に抱きしめられていても、不思議といやな気がしない。
「なぜ飛び下りようとした?」
ガブリエルは顔を起こした。「飛び下りたりしないわ。つたって下りるつもりだったのよ」
「どこへ? どうしてそのようなことを?」
「フェリスたちを捜したかったの」
「その者たちなら休んでいる」
いいえ、牢屋《ろうや》に捕らえられているのよ。侍女たちを自由にするのと引き換えにあなたが何を要求するつもりかはわかっているんだから。
「疲れただろう……ベッドへおいで」
ルーアークは彼女を抱いていき、天蓋《てんがい》つきの大きなベッドに横たえた。部屋に入ったときからガブリエルの心を重くしていたベッドだ。彼女は衝撃に耐えようと身構えた。
「ドレスを脱ぐかい?」ルーアークは腰に手をあててベッドのかたわらに立っている。表情は陰になって見えなかった。
「ええ。ベッドに入ってきたあなたに引き裂かれるよりましだもの」
ルーアークは白い歯を見せて苦笑いした。「きみがひどく合理的なひとだということを忘れていたよ。わたしにベッドに入ってきてほしいのかい?」
ガブリエルの青白い顔はさらに色を失い、溺《おぼ》れる者が岩にすがるように青いビロードのベッドカバーをつかんで、彼女は小さな声で言った。「ええ」
「どうして?」
「フェリスたちを自由にしてもらいたいから」
「まったく」ルーアークは髪をかきむしった。「わたしを女子供を打擲《ちょうちゃく》する非道な怪物だと思っているのか? 酒と欲望のせいで軽はずみにもきみを傷つけたせいで?」
「男のひとは……欲望をたぎらせているときは……理性を失うものよ」
「そのようなことを誰が教えたか知らないが、わたしは別だ。そのうちにきっとわかる。祖父の魂に誓ってもいい」
ガブリエルはベッドカバーを放してゆっくりうなずいた。いずれにしても我が身を犠牲にしなければならないことにはかわりない。
ルーアークは彼女の召使いたちに対する愛情の深さを知り、自分もそのように愛されたいと思った。「なんでも好きなものに着替えて床に入りたまえ。いいと言うまでふり向かない」彼はそう言い、背を向けて窓辺に立った。
ガブリエルは着替えをすませて再びベッドに入り、上掛けを顎まで引き上げた。「い、いいわ」
彼は一度タイツを脱ぎかけたが、考えた末、身につけたまま、部屋のなかをまわって蝋燭《ろうそく》の明かりを次々と吹き消した。枕元《まくらもと》の一本だけを残して全部消すと、自分に身を捧《ささ》げたつもりの乙女の隣に身を横たえた。
いや、もはや乙女ではない。できることなら、時間を戻してやり直したいと彼は思った。もしもそうなら、苦しい夜を過ごさなくてすむのに。
「早くすませてください。待っているのはたえられないわ」彼女の声はふるえている。
「眠りたまえ。きみには触れない」低い声が雷鳴のように静かな部屋に響いた。
ガブリエルは頭をめぐらせて彼を見た。彼は両手を頭の下に組んでビロードのベッドカバーの上に横になっていた。まるで黄金の神のようだ。「わたしの召使いたちは?」
「無事だと言っただろう? いいかげんに信じたまえ」
「どこにいるの?」
「さあ、わたしは知らない。牢獄につないだとでも思っているのか?」ガブリエルは何も答えなかったが、彼はふり向いた。「なんてことだ。そう思っているんだな? わたしをそんな怪物だと思っているんだ」
「あ、あなたのことはそれほど知らないわ」
「きみはわたしの妻ではないか」
「ええ。でも、前に言ったように……」
「感謝の念から怪物との結婚にも同意した?」
「同意したときにはあなたはそうでなかったわ。結婚したとたんに変わったのよ。なぜ、怒るの?」
「きみがわたしを怪物だと思っているからだ」ルーアークは肘をたてて身を起こし、怒りに満ちた目で見据えていたが、ふいに飛び起きた。「なんだ、これは?」彼が枕の下から出したのは短剣だった。
ガブリエルは頬を染めた。「なんでもないわ」
「どうして大きな声を出す?」
「それはあなたのほうよ。いつものことだわ」
彼は眉をわずかに上げたが、短剣を元に戻した。「きみの言葉の使い方はどうもわからない。わたしが大声でどなるというのか?」
「ええ」
「きみの耳が敏感すぎるのだ。どなっているのではない。声が太いのは祖父の訓練の結果だ」ルーアークはベッドを出た。「びくびくしなくていい。食べ物が運ばれてきたはずだろう? ああ、あった」彼は盆をもってベッドに戻り、中央に置いて覆い布をとった。
「食べるといい」
「空腹ではありません」そう言ったものの、鶏肉《とりにく》の冷製はさっきよりおいしそうに見えた。
「おなかがすいているはずだ。きみはわたしなど恐れていないんだろう、小さな暴君どの?」
「わたしは暴君ではありません」
「そう。そして、わたしを恐れてもいない。さあ、食べたまえ」
「空腹ではないわ」
「嘘をついてはいけない」彼は肉から骨をはずし、チーズを割ってひと塊をふた口で食べた。それから、彼女の口元に鶏肉をつきつけた。「さあ」
食べかけたとき、彼が手を離したので、肉が口からぶら下がった。驚いて手でつかみ、食べはじめると、思いのほかおいしい。
「ほら、ごらん」彼はチーズに手をのばすガブリエルを見て笑った。
いやなひと。ガブリエルはチーズを返し、ワインを飲んだ。
「食べてしまうといい」
「なぜ? 食べたあとはどうするの?」
「眠るのさ」
「あなたは?」
「ここに横になって、きみを抱く気持にならないよう、自分を抑える」
「ほかの場所で眠ることもできるわ」
「きみは妻だ。サマーヴィル一族は、夫婦はともに眠ることになっている」
彼の気持が変わらないと知ったガブリエルは、落胆を隠すために顔をそむけた。
「きみを傷つけて悪かったと思っている。ことに、きみの過去を聞いてからは」
ガブリエルの心臓が鳴った。「過去を?」
「火事で家族と城を失ったばかりだと、ウィリアムから聞いた」
「ええ」彼女はほっとした。
「火事はどのようにして起きたのだ?」
困ったわ。昔、火事があったことは事実だけれど、よくは知らない。でも、何か言わなくては。「敗残兵に襲われて」
「疫病も恐れず、襲ってきたのか?」
疫病? フェリスはそんなことは言わなかった。どうしたらいいの?「そうと知らずに」
ルーアークは思った。疫病のことをわたしに知られたら追い出されると思って黙っていたのだろう。確かにほとんどの者がそうするかもしれない。だが、わたしは彼女が他者に危険をおよぼす人間でないことを知っている。「いまはもう疫病の危険はないんだろう?」
「ええ」
「父君は疫病で亡くなられたのか? それとも襲撃のおりに?」
「た、戦いで」少なくとも、これは嘘ではない。
ルーアークはゆっくりうなずいた。「そこにいて、きみを助けてやれなかったことが悔やまれる」
ガブリエルは返答につまった。
「このことを話すのは、もうよそう」
火事と父君の死の一件は、何か釈然としないとルーアークは思った。いくぶんか嘘が含まれているのではないだろうか。知りたいことはまだたくさんあるが、無理はすまい。彼女からきき出せないなら、召使いの誰かにきけばいいのだ。
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7
火が燃える音を耳にして目を開けると、フェリスが部屋の暖炉に薪《まき》をくべていた。「おはようございます、ガビィさま」
ガブリエルは驚いてからだを起こした。かたわらには誰もいない。「フェリス、昨日はどこにいたの?」
「旅の疲れをとるようにとのルーアークさまのご命令で休んでいました。本当に変わった方ですこと」フェリスは扉を開けて着替えや水、食事を運ぶ侍女たちを部屋に入れた。「たとえるならメロンでしょうか。皮は固いのに、なかは甘くて柔らかい」
ガブリエルはベッドから飛び出してローブをはおった。「フェリスったら、わたしが受けた仕打ちを忘れたの?」
「もしや、また……?」
ガブリエルは頬を染めた。「いいえ。ゆうべは手を触れなかったわ。でも、あなたたちを牢屋《ろうや》に閉じこめたと……」
「そんなことをおっしゃったのですか?」
「あのひとは否定したけれど……」
「ガビィさま、ご心配をおかけして申しわけありません。昨夜はウィリアムさまといっしょに夕食をとったのです。ルーアークさまのお言葉を信用なさるべきでしたわ」
「何度も信用しろと言われたわ」ガブリエルは窓辺に置かれた小さな食卓の前に座った。
向かい側の椅子に腰を下ろしたフェリスがそれぞれのパンにバターを塗った。「あら、召し上がらないのですか?」
「昨日……夜遅くなってから食事をしたのよ」
「おひとりで食事を? おいたわしい」
「違うの。あのひともここにいたのよ」
「ひと晩じゅう?」
「ええ、まあ……」ガブリエルは話題を変えようとした。「今日はわたしたちの新しいお城を……」
「ずっと? ずっと同じベッドに?」
「ええ」ガブリエルはしかたなく答えた。
「それなのに、手も触れずに?」
「それより、お城よ。もしこの部屋に閉じこめられなかったら、お城のなかを……」
「ルーアークさまはどうしていらしたのです?」
「言ったでしょう? いっしょに食事をしたの」
「ベッドのなかで?」フェリスはうっとりとほほえんだ。「なんてロマンティックな……」
「ロマンティックなんかじゃなかったわ。あのひとはわたしの口に食べ物をつっこんだのよ」
「まあ、手ずからお料理を! ロマンティックだわ。ルーアークさまは優しくて風雅な一族のご出身だとウィリアムさまに聞いてはいましたが」
「では、きっとあのひとは一族の血に潜む粗暴なものだけを受け継いだんだわ」
「それはお母さま方のおじいさまのせいだとか。ご幼少のころから猛々《たけだけ》しくあられるよう、それは厳しく教育なさったそうです」フェリスはエールを飲みながらガブリエルのようすをうかがった。
ガブリエルは父オーデルのような顔をした白髪の老人が金髪の少年の背中を打つ姿を想像した。雲を見て想像力をふくらませたという話も、幼い日々へのなつかしげな述懐も、これで説明がつく。
フェリスはカップを脇《わき》に置いた。「詩の一節を引用なさいませんでしたか?」
「詩を? やめてちょうだい、フェリス。あの荒々しい声で? 想像もできないわ」そう言いながらも、信頼してほしいと言ったときの静かな声が脳裏によみがえってくる。たちまち胸の鼓動が速まり、からだが熱くなりはじめた。
違うわ! そんなはずはないわ! しかし、いくら否定しようと思っても、彼に対する嫌悪感や彼が父や兄と同類の人間だという確信が崩れていくのは止められなかった。そのうちに、信頼に足るかどうかの決断をせまられるときがくるだろう。夫であるあのひととは、結局、生涯をともに過ごさなくてはならないのだから。
「あなたのお城には、いくつ部屋があるの?」ガブリエルが菫《すみれ》色のサーコートの裾《すそ》をつまみ、早足であとを追いながら尋ねるが、ルーアークは肩をすくめるだけで答えない。なんて傲慢《ごうまん》なひとなのだろうと彼女は思った。
二十分ほど前、フェリスとふたりで新しい城の掃除にとりかかろうと最も簡素な服に着替えたところへ入ってきて、彼はいきなり腕をつかんだ。「起きたのか? それはよかった。王太子妃殿下のご意向で謁見を賜ることになった」
「王太子妃殿下の?」王家の方が滞在なさっているなどという重大事を、なぜいままで教えてくれなかったのだろう? 彼が言うからにはイギリス人の王太子妃――エドワード黒太子の奥方だろうが、ルーアーク卿《きょう》の妻として、またこの城の女主人として、昨日部屋で身を休める前にお目通りを賜って礼をつくさなくてはならなかったのに。
ルーアークは彼女の憤りを理解しないばかりか、服を着替える時間も宝石をつける時間も与えずに、強引に部屋から連れ出した。農夫の妻のようなかっこうで妃殿下にお目にかからなくてはならなくなったのは、全部彼の責任だ。
ガブリエルは再び尋ねた。「この城には部屋はいったいいくつあるのですか、だんなさま?」
ルーアークはふいに立ちどまり、両手をつかんで静かに彼女を見た。「わたしには名前がある」
ガブリエルは目をふせた。名前で呼んだら、親しくなるのを認めるようなものだ。「わかりましたわ。それでは……ウィルトン卿」
意外にもルーアークはほほえんだ。「それは夫と妻の間には不似合いだね。名前を呼びたくないなら、それなりの呼び方があるだろう? ダーリンとか、|いとしいあなた《スイートハート》とか」
彼の息遣いを感じて、ガブリエルは喉元がぞくぞくするのを覚えた。キスをするのかしら? 期待に近い恐れだった。「そんな言葉で呼べないわ」
「それなら、ルーアークだ。恥ずかしがってはいけないよ、いとしいきみ」
「わたしはあなたのいとしいひとではないわ」
「いとしいひとだよ。自分で認めるのを拒んでいるだけだ」ルーアークはキスの衝動を抑えた。彼女の唇は、どんな戦よりぞくぞくさせる。
「わたしをあざけっているのね」
きらめく菫色の瞳がルーアークの欲望に火をつけた。背中に手をまわしてぐっと引き寄せると、ガブリエルが息をのんでからだをよじった。
いけない。性急すぎただろうか。ローナのときもこうだった。ルーアークは抱擁をゆるめた。「乱暴なことはしないよ。ゆうべわかっただろう?」
「いいえ」
「なんと強情なひとだ。だが、そのうちにきっとわかる」そう言いながらも、彼はそろそろ作戦を変えなければならないときだと思っていた。「さあ、行こう。妃殿下がお待ちだ」ルーアークは彼女の手をとって再び歩きはじめた。
ふたりが王太子妃のいる居間に入ると、話し声や笑い声が急にひそめられた。いくつものまなざしがやにわに険しさをおびてガブリエルに注がれる。
「これは、ウィルトン卿。奥方を伴ってご帰還と聞きましたが」中央にいる美しい貴婦人が声をかけた。
「はい、妃殿下」ルーアークが進み出て頭を垂れた。「これが妻のローランです」
ガブリエルが顔を上げたとき、着飾った人々の間に驚きがさざ波のように広がっていった。十字を切っている者もいる。
ルーアークが手に力をこめた。何かしら? ガブリエルの胸に不安が押し寄せた。
「妻がおそば近くにお仕えすることをお許しいただけるものと確信しております、妃殿下」ルーアークは眉をひそめた婦人たちをねめつけた。どうあっても、ローナのことでローランに特別な視線を向けさせるわけにはいかない。
「ポワティエの戦いの英雄の奥方を歓迎しないはずがないではありませんか」ジョーン王妃はほほえんだ。「さあ、こちらへいらして。ウィルトン卿のようなすばらしい方を射止めたあなたのお顔を、よく見せてちょうだい」
ルーアークは居心地悪そうに身じろぎした。ローランのためには、言葉の障壁はあっても、一日じゅう部屋にこもって過ごすよりいいのだが、このままひとりでここに残したら怯《おび》えた馬のように逃げ出さないとも限らない。「妃殿下、妻はフランス南部の出ですので、言葉が……」
ジョーン王妃の頬にえくぼが浮かんだ。「まあ、うれしい! わたくし、南部の言葉を習っているところなのよ。お勉強の成果を試したいわ」彼女は隣に座っていた黒衣の婦人に言った。「マーガレット、レディ・ローランのために席をあけてちょうだい」
ルーアークはローランが王太子妃の庇護《ひご》のもとにおかれたのに安堵《あんど》して部屋から退出した。スペインとの戦の噂《うわさ》を耳にしたのだ。すぐに真偽を確かめなくてはいけない。
ガブリエルはマーガレットと呼ばれた女性がいやいやあけた席に座った。美しきジョーン≠ニして知られる王太子妃が温かく迎えてくれていることはわかったが、他の貴婦人たちは依然として不機嫌なままだ。もしかしたら、わたしがド・ローランゆかりの者であることを知っているのかしら? いいえ、それはありえないわ。もしそのことがルーアークか黒太子の耳に入っていれば、とっくに投獄されているはず。
それからすぐにジョーン王妃が南部フランス語で次々と質問を浴びせはじめたので、ガブリエルはほかのことを考える余裕がなくなった。ジョーン王妃の言葉はありったけの想像力を駆使しないと意味がわからないし、自分のことを答えるときには細心の注意を払わなくてはならないからだ。彼女は火事のことは話したが、疫病のことは口にしなかった。
ジョーン王妃がワインとパイに気をとられはじめて、ガブリエルがほっとひと息ついたとき、左側からささやき声が聞こえてきた。「レディ・ローランとは、聞いてあきれるわ。遊び女とたいしたかわりはないじゃないの。あの服をごらんなさいな。サーコートの下のコトアルディの、なんと貧相で余裕のないこと」
そう言ったのは太った貴婦人で、だぶだぶの黄色のコトアルディに明るい緑色のサーコートと黄色の胴着を重ねていた。
ガブリエルは部屋にいる貴婦人たちが、フランスでは何年も前に流行した、ふくらませたスタイルの服を着ていることに気づいた。やはりイギリスは遅れているんだわ。ガブリエルは劣等感をぬぐい去り、顔を上げた。
「あの見下したような傲慢なようす。奥方といっても、戦利品のようなものでしょうに。金の杯や、紅玉の首飾りと同じ。ウィルトン卿が、なぜ結婚するおつもりになられたことやら」
「わたくしは理由を知ってますわ」マーガレットが言った。
ガブリエルは聞こうとすまいと思いながらも、息を殺して耳をそばだてた。
「あなたがここにいらっしゃる前の年に、ウィルトン卿はほかの方を連れていらしたのよ。彼女はその方にそっくりだわ。それで夢中になられたのよ。たぶん、無理やり……」急に声がひそめられた。
いくら耳をすましても聞こえない。そっと頭をめぐらせると、ふたりは窓辺の椅子に座り、顔を寄せて話をしていた。誰? いったい誰にわたしが似ているの? それに、ルーアークが無理やりどうしたというの?
いいわ。そのひとのことは、あとでルーアークにきこう。そう決めたガブリエルは、侍女たちが彼女以外の客にワインとパイをとりわけて渡し、残りを置いていったテーブルに歩み寄った。侍女のうちふたりは沐浴《もくよく》のときに見た顔だった。
もう少し召使いに目を光らせなくてはいけないわ。そう思いながらワインを口に含んだガブリエルは、その味に驚いた。これではまるで酢ではないか。
もうがまんできないわ! ガブリエルはあとも見ずに部屋を出て、戸口の外の番兵に命じた。「すぐに厨《くりや》へ案内して」
「わ、わたしはここを離れることはできない。妃殿下をお守りするのがわたしの役目なのだ」
「何か危険が迫っているの?」
「いや。でも……」
「それなら、案内して。皆さまがあんな毒を盛られる前に手を打たなければ……」
「毒? それはたいへんだ。きっとフランス軍の陰謀だ。すぐに隊長にお知らせしなくては」彼はガブリエルの腕をつかみ、大きな広間を通り抜け、石の階段を下りて前庭へ出た。
「どうして部署を離れた?」隊長がとがめた。
「妃殿下に毒を盛ろうという陰謀を押さえました。たぶん、王太子殿下にも……」
隊長は顔色を変え、ガブリエルのもういっぽうの腕をつかんだ。「この娘が?」
「この者の話では……」
「よくやった、サイモン。尋問はわたしが行う」
「待ってください。この者は……」
「手を離しなさい!」ガブリエルは言った。ふたりの言葉をすべて理解できたわけではなかったが、誤解が生じていることだけはわかった。まず、ふたりを落ち着かせなくては。
ガブリエルは腕の痛みをこらえて隊長の顔を直視した。「離しなさい。あのワインとミートパイをもってきます。そうすれば、すぐにわかるはずよ」
「わたしを毒殺する気か? 来い!」
「待って……話を聞いて!」ガブリエルは抗《あらが》った。
そのとき、大きな声がとどろいた。「すぐにわたしの妻から手を離すのだ!」
隊長はガブリエルの腕をつかむ手にさらに力をこめ、片手を剣の柄《つか》へと動かしたが、声の主が激怒したルーアーク・サマーヴィルだと知って、あわてて手を離した。「こ……これはルーアーク卿。わたしは……いえ、こちらが……」
「どうしたというのだ?」
ガブリエルはルーアークの腕にすがりたい衝動を抑えて、ふるえる自分のからだを抱きしめた。
「ローラン、だいじょうぶか?」
「だいじょうぶよ」彼女は彼の胸に飛びこむ代わりにあとずさりした。
「どうした? きみが挨拶《あいさつ》もなしに部屋を出たので、何かあったのかと妃殿下がお心を痛めておられる」
「部屋を出るのにご挨拶が必要とは知らなかったわ。ワインとお料理があまりにひどかったので……」
「料理の話など聞いていない。この者たちは、なぜきみに触れた?」
「わからないわ」
ルーアークは隊長に向き直った。「なぜ妻の腕を捕らえた?」
縮み上がって早口で説明する隊長の言葉はガブリエルには理解できなかった。
「この者は、きみが王太子殿下に毒を盛ろうとしたと言っている」
ガブリエルは慎重に言葉を選んだ。「誤解だわ。わたしは、あんなまずい食べ物をお出しするのは、毒を盛るようなものだと言いたかったのよ。あなたの召使いに指示を与えようと部屋を出てきたの。そうしたら……」
「彼らはわたしの召使いではない」
ガブリエルは驚いた。「でも、この城はあなたの……」
「ここはわたしの城ではない。頼むから、おとなしくしていてくれ」
「あんなにたくさんの部屋を使っているのに?」
「エドワード殿下のおはからいだ。わたしは厩《うまや》でも眠れるのだが……」
「これがあなたの城でないなら、あなたの住まいはどこなの?」
「我と我が身のあるところ、それがわたしの住まいだ」彼はガブリエルの手をとった。「すなわち、きみのいるところでもある」
ガブリエルにとっては足元の地面がくずれるような衝撃的な言葉だった。「でも、あなたは裕福で家臣もたくさんいるわ。どこかにお城があるのでしょう?」
「イギリスに、祖父から受け継いだウィルトンの城がある。いつか、かつての壮麗な姿をよみがえらせるつもりだ。祖父に誓ったことのひとつだからな」
ガブリエルは小さな希望の灯を見いだした。「では、イギリスに帰るの?」さっきの貴婦人が言っていたことは本当かもしれない。ルーアークはわたしを戦利品としてしか見ておらず、帰国するときにはフランスに残していくのではないだろうか?
「いや、祖父の死に際して誓ったことを達成するまでイギリスには帰らない。わたしたちはスペインへ行くのだ」
「スペイン?」イギリスより、さらに悪い。子供のとき、聞きわけがないと、恐ろしいスペイン人に鼻を切られると乳母に脅かされたものだ。
「戦があるのだ」彼は一度肩をいからせ、それからガブリエルの唇をじっと見下ろした。「庭園でも散歩しないか? ほかの話をしよう」
しかし、ガブリエルは自分が直面している重大事を理解するまでどこへも行くつもりはなかった。彼は確かにわたしは≠ナはなく、わたしたちは≠ニ言った。「あなたは戦のためにスペインへ行くのでしょう? わたしはどうするの?」
「もちろん、わたしに同行するのだ」ルーアークはそう言い、召使いにお茶とお菓子を庭園に運ぶよう命じて彼女の手をとった。「さあ」
ガブリエルは手をひっこめた。「なんですって?」
ルーアークはほほえんだ。「むずかしいことではない。もちろん、敵地にいるときには命令に従ってもらわなくては困る。だが、きみならすぐに順応して、足手まといになるどころか力強い助けになってくれるだろう。宮廷の退屈な生活を離れることができると思うと、すでに心が躍る」
ガブリエルは口を開けたが、言葉が出てこなかった。わたしに天幕で暮らして、敵地で日々の食料を調達しろというの? これで、残るひとつの夢も消えたことになる。わたしは我が家に住み、平和な暮らしを楽しむこともできないのだろうか?「わたしはフランスに残ります」
「だめだ」ルーアークはいきなりガブリエルのからだを抱えこんでぎゅっと抱きしめた。「きみはわたしの妻だ。離れることはない……永遠に」
「痛いわ。放して」
「悪かった」ルーアークは彼女を下ろし、顎を支えて目を見つめた。「だが、ここに残ることは許さない。きみを失いたくないんだ」親指でそっと顎をなでる。「きみはわたしにとって大事な存在だ」
「スペインの戦に出向くために?」魅惑的な黒い瞳に見つめられ、ガブリエルは思わず、それ以上に大事な存在でありたいと望んでいた。「もしも行かないでとお願いしたら?
それでも行くの?」
彼は暗い瞳に悔恨の色をうかべて首をふった。「スペインに行かなくても、ほかの戦地に行くだろう。戦わなくてはならないんだ。それも祖父に誓ったことのひとつだから」
「わたしは誓っていないわ」ガブリエルはあふれる涙を抑え、服の裾をつまんで走り去った。
「では、いまわたしに誓ってくれ、いつもわたしのそばにいると」ルーアークは彼女の背中に向かって叫んだが、声はむなしく石の壁にこだまするだけだった。
その夜、ガブリエルは毅然《きぜん》と頭を上げ、ルーアークの腕に手を添えて広間に入った。彼がどう言おうと、ここにとどまるつもりだった。食事の間じゅう彼を無視して抗議しようと決めている。ルーアークに導かれて上段の席につきながら、彼女は広間を見わたした。
「美しいよ」ルーアークがささやいたが、ガブリエルは聞こえないふりをして杯をとった。
純白の絹のコトアルディも黒貂《くろてん》の毛皮で縁取りされた孔雀《くじゃく》のような青い色のビロードのサーコートもフェリスにせきたてられて身につけたものだった。髪は、金糸と真珠で縁を飾ったエメラルド色のヴェールでおおわれ、真珠をちりばめた胴着が脇のスリットからのぞいている。いやいや身につけたのに、いまはイギリス製の衣装の豪華さが彼女の自信の支えになっていた。
フェリスといっしょに見つけたこの衣装は、色も大きさもガブリエルにぴったりだった。召使いの話によれば、昨年亡くなったルーアークのまた従妹《いとこ》のものだという。フェリスがルーアークの承諾を得てきてせかすので、その姫君はわたしに似ていたのかもしれないと思いつつ袖を通した。
視界の隅に、隣に座るルーアークの真紅のサーコートが見えた。金髪と深い蜂蜜《はちみつ》色の肌が引きたち、はっとするほど美しい。
着替えに部屋に戻ったルーアークは元気がなかった。わたしがスペインについていくのを断ったことで、なぜ傷つかなくてはならないのだろうとガブリエルは思った。わたしは彼のせいで夢を全部、失ったというのに。
いずれにせよ、彼とも明日でお別れだ。彼女は午後の間じゅう、窓からボルドーの町並みを眺めながら、侍女を連れて逃げる計画を練っていたのだ。
紫色のサーコートに身を包み、重い金鎖をつけた男性が左隣の席に座った。漆黒の髪が、彼がエドワード黒太子であることを告げていた。「そなたがレディ・ローラン――ルーアークの新しい花嫁だな? なるほど。だが、そなたのほうがずっと美しいぞ」
大きな声だ。イギリス人は皆、こうなのかしら?
後ろに立ったフィリップが通訳してくれたが、なぜか意味がつかめなかった。やはり、誰かと比べられているようなのだが……。
「エドワード殿下、妻のローランです」
黒太子は目をしばたたいてみせた。「そなたが急いで結婚した理由はわかるぞ。美しいからな」
次は歯を見せろというんじゃないかしら? ガブリエルは怒りをこらえてほほえんだ。
黒太子は笑い声をとどろかせ、さらに何か言いながら小姓が捧《ささ》げもつボウルの水で指を洗った。
フィリップはそれを訳さず、身を硬くしている。下品な冗談でも言ったのかしら?「フィリップ、下がっていいわ」
「いいえ、それはできません。ほかでもない、王太子殿下の隣に座っていらっしゃるのですから」
ルーアークの命令のせいね。かわいそうなフィリップ。
「これは鹿《しか》の肉か?」ルーアークが給仕に尋ねた。
焼いた肉がソースのなかに浮いている。肉の悪臭が脂っぽいソースのおかげでどうにか隠されているというありさまだった。
「わたしたちには鳥の肉を」ルーアークはガブリエルが首を横にふるのを見て給仕に命じ、彼女にささやいた。「そなたの判断のとおりだ。銀の皿にのってはいても、豚の餌《えさ》に等しい料理だ」
給仕が鶏肉《とりにく》だと言って運んできたものは、羽根をむしらずに焼いたのかと思うほど匂《にお》いがきつかった。
結局、ルーアークがしぶしぶ妥協したのは、あぶった肉に大量のマスタードソースをかけたものと、ゆですぎて形が崩れた野菜と玉ねぎに粒のあるクリームソースを添えた料理だった。
「この調子では餓死するかもしれないな」彼はデザートの皿から林檎《りんご》を三つとチーズの塊をとった。「きみのせいだぞ。きみらの料理を口にするまでは、あんなしろものでも喜んで食べていたのだ」
ガブリエルは褒められて顔を赤くした。
「頬が薔薇《ばら》色だ」ルーアークはいつもより静かな声で言った。「その服に映えるきみの美しさを称《たた》えたら、もう一度頬を染めてくれるだろうか?」
「また従妹という方の衣装をくださったことに感謝しなくてはいけないわね」
改めて衣装に目を落としたルーアークの顔から笑みが消えた。そうだ。ローナのものだったのだ。ローナはこれを着たことがあっただろうか? 彼はよみがえるはずの苦痛に身構えたが、感じたのはぼんやりした悲しみだけだった。ローランの存在によって記憶が薄らいだのかもしれない。
ローナより美しく、より生き生きとして、聡明《そうめい》で舌鋒《ぜっぽう》の鋭いローラン。だが、ローナとのことを思い出せば、ローランとは慎重に向き合わなくてはならない。しかし、スペインに彼女を同行させることについては、これ以上検討の余地はない。
ガブリエルはルーアークが林檎を握る手に力をこめるのに気づいた。衣装のことを後悔しているのかしら?「ドレスはお返しするわ」
ルーアークは青い服のせいでさらに美しく見える象牙《ぞうげ》色の肌と菫色の瞳を見つめた。「それはきみのものだ。口づけの報奨だよ」
ガブリエルは思わず彼の唇を見た。キスの記憶がよみがえって、たちまちからだが熱くなる。
ルーアークは夢見るような表情をたたえた菫色の瞳を見つめた。刺すような欲求がからだに走り、彼女以外のものが意識から消えていく……。
「ルーアーク!」黒太子の声がとどろいた。「そなたの花嫁にそなたの欠点や逸話を披露するぞ」
ガブリエルはフィリップの通訳をとおして聞く黒太子の言葉に耳を傾け、さまざまなことを知った。ルーアークを育てた祖父が歴戦の勇士であり、クレシーの戦いの英雄であったこと、ルーアークが騎士に叙せられたのは一三四九年、ブリタニーの戦いで休戦を偽って近づいたフランス人に切りつけられて死の床にあった祖父の手によってであること……。
「ロジャー・ド・リヴァーズ卿の死は、我と我が民と若きルーアークにとって、最も悲しむべき損失であった。その日、ルーアークはわずか十六歳ながら、卿の敵を討つために手練《てだれ》の戦士さながらに戦ったのだ」
ガブリエルの胸に熱いものがこみ上げた。愛する祖父を奪われたとき、ルーアークはまだ少年だったのだ。わたしたちにはそんなそぶりを見せないけれど、さぞフランス人を憎んでいることだろう。
いったいどういうひとなのかしら? 猛々しくふるまい、大きな声でどなるけれど、そのいっぽう、親切で優しい。わたしを傷つけはしたけれど、その事実を知ったときには涙を流さんばかりだった。ひとつの床に横になりながら、自分を制してわたしに触れはしなかった。もし彼がこれ以上いさかいをしようとしないなら、もしかしたらやり直せるかもしれない……。
黒太子がルーアークに言った。「そういえば、今日、そなたの仇敵《きゅうてき》オーデル・ド・ローランが討ち取られたことがわかったぞ」
その名を聞いて、ガブリエルは戦慄《せんりつ》した。我が身に流れる悪《あ》しき血を糾弾され、椅子から引きずり下ろされて猟犬の餌食《えじき》か火刑にされる――そのときがとうとうきたのだろうか?
「誰がド・ローランの首を?」ルーアークが険しい表情で言った。
「やつの息子だ。父親の首を槍《やり》の先につけて褒美をもらいに来おった」
ガブリエルはあまりのことに息もできなかった。
「やつらは皆、正気じゃない」誰かが言い、たくさんの声が同意した。
ガブリエルは死んだようにじっと動かず座っていた。服の下でからだがふるえている。
「それで、褒美を与えられるのですか?」
ルーアークの問いに、黒太子はワインを注《つ》ぎ足すよう従者に合図を送りながら答えた。「しかたなかろう?」
「そのような者に褒美を……。やつらの一族がこれ以上はびこらぬよう、わたしが必ず毒蛇の巣を一掃してごらんにいれます」
わたしの一族がこれ以上はびこらないように……。ガブリエルは唇を噛《か》んだ。
そのとき、家令が黒太子に近づき、耳元で何ごとかささやきはじめた。
「だいじょうぶか? 顔が真っ青だぞ。それに、生まれたての子馬のようにふるえている」ルーアークがガブリエルを気遣って優しく尋ねた。ほんの数秒前に兄ベルナールを殺すと宣言したルーアークが。兄だけではない。わたしも殺すと言ったのだ。ああ、神さま、どうか気づかれませんように。
「ルーアーク、そなたの父君がイギリスから使いをよこされたようだ。そなたと話したいと言っている。すぐに行くがよい」
ルーアークはガブリエルの手をとって立ち上がった。「失礼いたします、殿下」静かな声だったが、ガブリエルは彼の動揺を感じとった。
彼は恐れている。お父上の用件を聞くのが怖いんだわ。彼女の背筋を不安がかけ抜けた。
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8
ガブリエルは部屋に入るなり音高く扉をしめた。
「あのひとはイギリスに呼び戻されることになったわ。それで、いっしょに行けというのよ。わたしたちは行かないわ。ね、そうでしょう?」
暖炉の前に座って上着にサマーヴィルの紋章を刺繍《ししゅう》していた侍女たちは困惑して顔を見合わせた。
しばらくしてフェリスが言った。「でも、ルーアークさまはガビィさまのご主人さまなのですから、同行されるのは当然では?」
「わたしはいやよ」ガブリエルは窓に駆け寄り、下を見下ろした。「これが逃げ出すチャンスだわ」
侍女たちは驚きの声をもらした。フェリスが歩み寄った。「ルーアークさまの保護を捨てて危険に身をさらされるのですか?」
「保護ですって? あのひとといっしょにいても、安全でも平和でもないわ。イギリスでお父上の敵を討ったら、すぐにわたしたちを連れてスペインへ行くつもりなのよ」
「なぜ、スペインへ行かれるのでしょう?」
「なんだか知らないけれど、おじいさまにたてた誓いがあるんですって」ガブリエルは自分でワインをついで一気に飲みほした。質の悪いワインが空の胃へ下りていく。「まったく、イギリス人ときたら。フランスで最もおいしいワインを産する土地で、なぜ、こんなものを飲まなくちゃならないの?」
フェリスはほほえんだ。頼もしいガビィさまは健在だわ。
「わたしのお父さまのことなんだけれど……」ガブリエルが兄ベルナールがしたことと、ルーアークがド・ローランを根絶やしにしようとしていることを語ると、侍女たちは声をあげて泣きだした。
「どうなさるのです?」フェリスが尋ねる。
「皆、静かにして。考えるのよ。ルーアークがここを発《た》ったら、しばらくこの町に身を潜めていましょう。それから仕事を探すの。例えば、糸紡ぎとか」我ながら、実にあやふやな計画だ。
「それは危険すぎます」フェリスが慎重に言葉を進めた。「ウィリアムさまのお話では、ルーアークさまはイギリスにお城をおもちだとか」
「ええ。でも、わたしはあのひとたちのなかでやっていく自信はないわ」ガブリエルの頭のなかには昼間会った貴婦人たちの姿があった。
「その必要はありませんよ。ルーアークさまはイギリスで戦に出られ、そのあとスペインへ向かわれるのでしょう? 女主人として、留守の城を守っていればいいのではありませんか?」
ガブリエルは深く息を吸った。「わたしが城の女主人の役目を立派に果たせることを証明すれば、置いていってくれるんでしょうけれど」永遠に離れることはないと彼は言ったが、騎士が戦いに妻を連れていくなどという話は聞いたことがない。
「スペインに連れていくとおっしゃったのは、フランスが安全な場所でないからでしょう。あの方たちは粗暴だけれど、屈強で頼もしいお人柄ですもの」
「サー・ウィリアム・ド・レーシィのことね? あの方が好きだから、出ていきたくないのね」
「いいえ」フェリスは強く否定した。
「でも、わたしがド・ローランの人間であることを知られたら、どうするの?」
「わたくしたちは決して秘密をあかしません。死をかけて誓ってもけっこうです」ほかの侍女たちもうなずく。
「そうはいっても、もう、くい違いが出ているのよ。誰か、クレンリーが火事と疫病にみまわれたと言った者がいるらしいの」
「それはマーランです。すでに注意しておいたので、誰かに聞かれたら、熱があったので妙なことを口走ったと答えるはずです」
ガブリエルはうなずき、考えこんだ。町には無法者やごろつきがいっぱいいるだろう。それに、もし逃げてルーアークにつかまったら、どんな罰を受けるかわからない。たとえ殺されても、誰もとがめだてはできない。妻や召使いは、馬や猟犬と同じように単なる財産にすぎないのだ。
「ルーアーク卿《きょう》についてイギリスへ行きましょう」
ガブリエルの決意を聞いて侍女たちは安堵《あんど》の息をつき、口々に言った。「ご心配にはおよびません。ご家臣は優しい方ばかりですもの」
「わたくしたちは、決してガブリエルさまのお名前をあかしません」
「わかったわ。この決意を後悔しなくてすむよう、神に祈りましょう。でも、イギリスでは敵に囲まれて暮らすことになるわ。それを覚えておいてね」ガブリエルはフェリスに向き直った。「しなくちゃならないことが山ほどあるの。ルーアーク卿の兄君が船をよこされたから、明日の夜明けまでに出発の準備をしなくてはならないのよ」
荷物をまとめ上げたころ、サー・ウィリアムが荷馬車が下で待っていると伝えに来た。
トランクや椅子などが次々と運び出され、部屋に残るのはベッドとルーアークのまた従妹《いとこ》のものだという小さな衣装箱だけになった。
フェリスが言った。「この箱はどうしましょう?」
「置いていくにしのびないわね」しかし、もうこの世にいないひとの持ち物だと思うと、迷いがないわけではない。「いらない物を整理して、代わりにわたしの物を入れてもっていくことにするわ。さあ、もういいわ。あなた方はお部屋に戻って、それぞれの荷物をまとめてちょうだい」ガブリエルはこめかみを押さえて言った。頭痛がしはじめたのは疲労と緊張のせいだろうか?
「お召し替えなさいますか?」侍女が尋ねた。
「いいわ。ひとりでします」本当はこのまま眠りたかったが、ルーアークがいまにも現れるかもしれないと思うとそれもできなかった。何世代にもわたるサマーヴィル家とハーコート家の確執と争いが再燃したことを黒太子に説明したらすぐに戻ると、彼は言った。戦いに備え、一族で唯一の戦士であるルーアークが父ジェフリー卿に呼び戻されたのだ。
ガブリエルは今夜のことを思って身をふるわせ、気分を変えようと、衣装箱を開けた。コトアルディ二着は自分にも着られそうだが、アンダードレスはあまりにからだにぴったりしたデザインなので無理だろう。
最後に残った宝石つきの胴着を手にとったとき、ガブリエルは箱の底に隙間《すきま》があることに気づいた。自分の胴着から食事用のナイフをとり出して底板をこじ開け、蝋燭《ろうそく》の明かりを近づけると、底の部分に革表紙の小さな書物がおさめられているのが見えた。
彼女はそっと手にとり、扉を開けた。これはたぶん、日記だ。最初のページに稚拙な筆跡でM・L・カーマイケルと記され、その下に一三五〇年十二月二十八日とある。六年前の日付だ。
ルーアークのまた従妹の日記かしら? ガブリエルは唇を噛《か》んだ。読みたい。でも、亡くなったひとがひそかに書きつづったことを盗み見るのは罪深いことだわ。
そう思いつつも指をページのすみにかけたとき、扉が勢いよく開いてルーアークが入ってきた。彼女は急いで日記を服のひだの陰に隠した。罪の意識で心臓が激しく打っている。
「荷造りをしたんだね?」ルーアークは大きな声で言い、つかつかと歩み寄ったが、彼女が身をすくませるのに気づいてかたわらに膝をついた。「どうして兎《うさぎ》のように怯《おび》えるんだ? わたしを恐れる理由などないだろう?」
「ノックもせず、いきなり入ってきて大声を出すんですもの。誰だって驚くわ」
ルーアークはほほえんだ。「自分の部屋に入るのにノックはいらないだろう? だが、それなら怯えずに、静かにしろと言ってもらいたいね」彼は人差し指でガブリエルの鼻先をつついた。「わたしも驚いたんだよ。荷造りしたということは、いっしょにイギリスへ行ってくれるんだろう?」
「ええ」
ルーアークは彼女の手をとり、優しい声で言った。「家族に会うのを怖がる必要はないんだよ」
「少し前まで、あなたに家族がいることも知らなかったわ」
「話に出なかったのは、わたしにとっていないも同然の存在だからだろう」
このひとは家族を愛していないのかしら? そして、家族もこのひとを? 誰かを愛し、愛されるというのはどういう感じなのかしら? 昔から憧《あこが》れてきたことのひとつだ。「ご家族に会うのがうれしくないの?」
「父とわたしは……相容《あいい》れないんだ。父は温厚なひとで、戦士であるわたしを疎んじている。戦に必要なとき以外はね」彼は髪をかき上げて立ちあがった。「もう寝よう。明日は早い」
「わ、わたしはこれを片付けてしまわないと」
「厳格な女主人だね」彼は目の際に優しそうなしわを浮かべて笑った。「母は自分に似た嫁の出現を喜ぶだろうな。よかろう。仕事をすませることを許す。ただし、わたしを名前で呼んで頼むならね」
「傲慢《ごうまん》なひとね」
「それはわたしの名前ではないぞ」
ガブリエルは頬が熱くなるのを感じた。こんなに気をつけているのに、見つめられるだけで理性が揺らぐ。「わたしは……」
「ともに寝ることすら強いていないんだ。夫としてのささやかな要求だよ。これも拒否するのか?」
ガブリエルは彼の声に落胆がにじんでいる気がしてはっとした。彼を傷つけたのだろうか? わたしにそんな力が? それは違うわ。フェリスによれば、彼はまれにみる寛容な夫ということだし。でも、彼の城に暮らしたいと思っているいま、口論をするのは得策ではない。「わたしは荷物を片付けてしまいたいわ、ル、ルーアーク卿」
彼はほとんど黒に近い鳶《とび》色の瞳のまわりをしわだらけにして温かくほほえんだ。「卿≠ェなければ完璧《かんぺき》だ。ふたりだけでいるときだけでも、卿≠とってもらいたいものだな」
本当に傲慢なひとだわ。「では、ルーアーク」
彼は広い肩を揺らして笑いをこらえていたが、ガブリエルを抱き寄せた。「さあ、わたしの小さくて強情な暴君をどうしようか?」
ガブリエルは身を硬くしたが、抗《あらが》わなかった。いいえ、彼の腕を心地よいなんて思っていないわ。大きくて力が強いひとだから怖いのよ。
ルーアークは彼女の背中をなでた。「ほら、だいじょうぶだろう? わたしたちは、やり直せないだろうか?」
ルーアークの深い声はガブリエルの肌の上を誘惑するようになでていった。彼に身をあずけたいのに、いつもの恐怖と新しい不安がじゃまをしている。
残念だが、膠着《こうちゃく》して引き分け試合というところか? ルーアークは身をこわばらせたままの彼女に優しい声で尋ねた。「何を思い悩んでいるんだい?」
彼女がはっとして目を合わせ、顔をそむけるのを見て、ルーアークは一瞬、気持が通じたのではないかという気がした。
「いつか話してくれるね。さあ、寝る支度をしなさい」彼は立ちあがり、窓辺へ行った。
背後で小さな足音が聞こえ、衣擦《きぬず》れの音がして、やがてベッドがきしむ。彼はそれを確認してからふり返り、蝋燭の火を吹き消した。
今夜はなるべく眠っておかなくてはいけない。兄アレックスの船サマーヴィルの星≠ノは船室はひとつしかない。ベッドもひとつ――しかも、ひどく狭い作りつけの寝台だ。
もしわたしが紳士なら彼女にベッドを明け渡して甲板で眠るのだろうが、あいにくわたしは紳士ではない。船室のベッドにもぐりこみ、服を着て眠る妻を見つけて歯がみするのだろう。ああ、最低の男だ。
ガブリエルの頬を朝の潮風がなでていた。海岸線がしだいに遠くなっていく。さようなら、フランス。わたしに優しくしてくれなかった故国。はたしてイギリスはどうだろう? そう思うとからだがふるえた。
「寒いのか?」
突然、ルーアークに声をかけられて、ガブリエルは手すりをつかんだ。いつのまにそばに来ていたのかしら?「いいえ。心地いい風だわ」彼女は頭をふり上げて、ヴェールに風をはらませた。
わたしの愛撫《あいぶ》もそんなふうに受けてくれる日がくるのだろうか? ルーアークはそよ風に嫉妬《しっと》した。いっしょにいればいるほど、彼女を自分のものにしたいという気持が強くなってくる。からだだけでなく、火のように激しく大胆で賢明な彼女のすべてがほしいのだ。「故郷を去るのはつらくないか?」
「いいえ。あまり楽しい思い出はないもの」すなおに答えたのは信頼しているからでなく、知るにつれて彼が怖くなくなってきたからだ。そう思ったガブリエルははっとした。それは彼が粗暴なひとであり、ド・ローラン一族を根絶やしにしようとしている人間であることを忘れかけているということかしら?
ルーアークは手すりに置かれた彼女の手に自分の手を重ねた。「誰なんだ?」
「なんのことかしら?」
「きみを打ったり理不尽な扱いをしたのは、きみの父君なのか?」
ガブリエルは戦慄《せんりつ》した。「なぜ、そんなことを言うの?」恐るべき洞察力だ。
「父君の死を悼んでいないように見えるからね。それに、きみは男を憎んでいる。わたしが乱暴を働いたせいばかりでもあるまい。フィリップの話の断片をつなぎ合わせてみると、きみは、男はすべて怠惰で、熊《くま》いじめのような血なまぐさい遊びを好む愚か者だと思っているらしいからね」
ガブリエルは何も言えなかった。
「祖父はそういう遊びを楽しんだが、わたしは戦いの場でエネルギーを発散させるほうがいい。きみの父君はどのような方だったのだ?」
「残忍なひとだったわ」
ルーアークは顔をくもらせた。サマーヴィル一族にとって、女性に手を上げる男は獣に等しい。「わたしはきみを従わせるために暴力をふるったりしないから、安心するがいい」彼女が何も答えないのを知って、ルーアークはため息をついた。「どうやら、わたしたちは同じ苦しみを負っているらしいな。わたしの父は……優しすぎるのだ」
このひとに、そんな悩みが? ガブリエルは、彼が自身のなかに父の分身を見いだしてくれることを祈った。「あなたのお城までどのくらいかかるの?」
「ウィルトンの城ではなく、直接、両親の居城ランスフォードへ行くつもりだ」自分を見上げるローランの顔を眺めていると、船首を返してこのままスペインへ向かいたくなる。今回のイギリスへの旅は気が重かった。
欲深いハーコート家がサマーヴィル家の拝領したウィンチェスター伯の爵位を狙《ねら》い続けて三百年がたつ。度重なる戦いで多くの命が失われたが、この数年は平穏に過ぎていた。ハーコート家の現当主エドマンドが実戦より謀略をめぐらすのを得意とするからだ。ハーコートがいくらサマーヴィルの名を汚し、爵位を奪おうと画策しても、国王の友人であり、平和を愛する父ジェフリーはそれを無視してきた。それなのに、突如、戦とは、いったいどういうことだろう?
〈ランスフォード城の伯爵夫人である母の従姉《いとこ》、レディ・キャサリン・サマーヴィルから、初めてサマーヴィルの人々といっしょに過ごす降誕祭の贈り物としてこの日記帳をいただいた。わたしはこれに心の底にある思いや小さな願い、望みをしたためることにする〉
奔放な筆跡で記されたノルマンフランス語を読み解くのはむずかしい作業だった。丸い形の母音はなかが黒々とインクで塗られ、しの小文字のいくつかは中央に横線が引かれているし、何度も訂正してこすりとられ、羊皮紙が薄くなっている箇所もある。
港を離れて何時間たっただろうか。近づく嵐《あらし》のせいで甲板に出るのを禁じられたため、ガブリエルは退屈していた。侍女たちは船酔いでふせり、男たちは皆、嵐に備えて忙しく働いている。
船が激しく揺れては、作りつけの燭台《しょくだい》にたてられた蝋燭から溶けた蝋を飛び散らせる。ガブリエルは手で日記をかばいながらページをめくった。
〈今年の降誕祭は、この日記以外、見るべき贈り物がなかった。サマーヴィル家もわたしの生家と同じくらい豊かだと思っていたのに、つまらない。お父さまは、どうしてイギリス人との戦に加わったりなさったのだろう? スコットランド人の数は初めからイギリス人の三分の一だったのだから、負けるのは予測がついていたはずだと乳母のメグが言っていた。わたしがここへ引き取られたのもメグの働きのおかげ。いとしいひとともいっしょにいられる。でも、彼は、お互いの気持を誰にも悟られないようにしなければならないと言う〉
ページをめくろうとしたとき、扉の外に足音が聞こえた。ガブリエルは日記を衣装箱に放《ほう》りこみ、踵《かかと》で押しやった。その瞬間に扉が大きく開いて、マントの水滴を払いながらルーアークが入ってきた。ガブリエルは船室が急に狭くなったような気がした。乱れた巻き毛を整えてあげたい衝動にかられるのは、きっと、ディナーで飲んだワインのせいだわ。
ルーアークはマントを脱ぎ、ベッドに座る彼女の隣に腰を下ろした。まつげについた水滴が明かりに照らされてダイヤモンドのように光っている。そしてその下の強く輝く魅惑的な瞳。ガブリエルはあわてて視線をそらした。
「わたしの顔を見てうれしく思ってくれるのかい?」
ガブリエルは否定したかったが、激しく打つ脈のせいで言葉が出てこなかった。
「暑いだろう? ヴェールをとりたまえ」彼はガブリエルのヴェールをとり、耳の上に輪の形にとめつけていた三つ編みからピンを抜いた。「女というのは、どうしてこんなに固く髪を結うのだ?」彼は髪をほぐしながら言った。
なんて心地いいのかしら? ガブリエルは思わず瞳を閉じて首を傾けた。
「気分はどうだい、子猫ちゃん?」ルーアークはつぶやき、からだをかがめて軽く唇を合わせた。おや、彼女は拒否しない。それに、なんていい香りがするのだろう? 甘くかぐわしい春の庭の香りだ。
ガブリエルは身をふるわせた。彼を押しのけたいと思っているのに、夢見ごこちで口づけを受けているのはなぜ? まるで、からだのなかにもうひとりの自分がいるみたいだ。
「気に入ったかい?」ルーアークがささやいた。
「いいえ」ガブリエルはそう答えたが、動こうとせずに、彼の舌先が唇に触れるのを待った。なめらかな感触がからだの奥に火をともし、しだいに息遣いが速く浅くなっていく。
彼女もわたしを求めている。そう思ったとき、激しい欲求がルーアークのからだに走った。「もう一度、口づけをするかい?」
彼の声を聞いて、ガブリエルの心臓はさらに速く打ちはじめた。もし、いま、悲鳴をあげたり抗ったりしたら、彼はすぐに身を引くだろう。彼が自分を抑えているのがよくわかった。「ええ」
「腕をわたしの背中にまわして」ルーアークはささやいた。
ガブリエルは言われるままに腕をまわしてゆっくりと唇をつけた。彼の唇は固く、夜気でひえて冷たかった。
「うーん。きみの唇はおいしい」
「あなたもよ……」
彼が唇を寄せる気配がするだけでガブリエルの胸はときめいた。両手はいつのまにか彼の肩をしっかりとつかんでいる。
「怖くないと言ってくれるね」
「ええ。怖くないわ」
ルーアークは聖杯を捧《ささ》げもつように両手で彼女の頬を包み、さっきより少し情熱的に唇を重ねた。
「いつかこうなると思っていた」彼女がキスに応《こた》えるのを知ってささやき、さらにキスを深める。
いけないわ。あまりに性急すぎる。ガブリエルは身を離した。
「緊張しないで」ルーアークは彼女の額の髪をかき上げた。「きみを傷つけるようなことはしない。口づけだけだ」しかし、彼女のからだのうちに燃える情熱の炎がわたしを待っていることは確かだ。それを知りながら自分を抑えることができるのだろうか?
ガブリエルは濃いまつげの陰から彼を見た。熱い嵐がうずまく瞳、荒い息。それなのに、頬を包む手は優しく、声も静かだ。彼が自分を抑えているのに、わたしが抑えられないなんて。
「心のままにふるまえばいい。さあ、身を横たえて」
ガブリエルは恐れと期待にふるえた。彼を求めたくない。それなのに、深められていく彼の口づけに自分が応えているのがわかる。
ルーアークはゆるめられた彼女の唇の間に舌先をすべりこませた。からだがふるえ、熱い衝動が身をつらぬく。急いではいけない。彼は自分と闘った。
ガブリエルはからだから力が抜けていくのを感じた。もう抵抗することができなかった。見知らぬ感覚が彼女を包み、火のように熱い血液が全身を脈動させて流れている。初めて知る喜びにもっと身をひたしていたかったが、自分を失う寸前に理性が警鐘を鳴らした。
彼女が胸に手をついて押しやるのを知って、ルーアークは立ちあがった。背を向けて、扉に両手をつく。彼女の熱い反応のせいで、つい我を忘れてしまった。自分でも怖くなるほどの激しい欲求だった。
ガブリエルは取り残されたような心もとない気持で自分の腕を抱いた。まるで船酔いをしたときのような、いやな気分だった。
ふり向いたルーアークは、泣いていると思った彼女が苦しげに眉根を寄せているのに驚いて尋ねた。「どうしたのだ?」彼女は妻でありながら、わたしを受け入れない。こんなに求めているときでさえ……。耐えるんだ。耐えなくてはいけない。
「熱があるみたいなの」ガブリエルは小さな手をほてる頬にあてた。
ルーアークは虚《うつ》ろな笑い声をたてた。「それでは、退散しよう。ゆっくり休むといい」
ルーアークが甲板に戻ると、ウィリアムがふり向いた。「奥方に話したのか?」
「何をだ?」
「ローナ・カーマイケルのことだ」
ルーアークは空を仰いだ。雨がやんで、雲の切れ間に星がまたたいている。「話したところでなんになる? ローナは死んでいるんだぞ」
「奥方はローナのことを知りたがっている。ローナがどんなふうに死んだのか、誰かの口から耳に入るのも時間の問題だ」
ルーアークはため息をついて髪をかき上げた。「いろいろ複雑で……簡単にはいかないのだ。ローランは、やっとわたしを信頼してくれはじめている。いまはまだ、危険をおかしたくない」
「時機を失することになるぞ」
「そうかもしれない。だが、話せるようになるまで待つつもりだ」
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9
「少しお休みになってください、ガビィさま」手桶《ておけ》をもってその場を離れるガブリエルにフェリスが声をかけた。後甲板の内壁に三段にとりつけられたベッドに横たわる彼女は、まだ顔色が悪い。
ガブリエルはうなずいた。二日続きの看病のせいでからだが疲れきっているのは事実だった。
「では、きれいなお水を誰かに運ばせるわね」ガブリエルがそう言い残して壁に片手をつきながら揺れる薄暗い階段をのぼりかけたとき、下りてきたルーアークとぶつかりそうになった。
「ここで何をしている?」ルーアークは言い、中身がこぼれないように手桶を押さえた。
彼の顔を見上げようとしたガブリエルの視界がぐるぐるとまわりだした。現実が灰色の霧の彼方《かなた》に遠ざかっていく。
「これを頼む」ルーアークはすばやく手桶をフィリップにあずけ、彼女のからだを支えた。なんということだ。羽根よりも軽い。いつのまに、こんなにやせてしまったのだろう?
ルーアークは彼女を抱え上げてふたりの船室に運び、繊細なガラス細工を扱うように、そっとベッドに横たえた。「いったい、どうしたんだ?」頭の両側に手をついたまま尋ねる。
ガブリエルは身をすくませた。「大きな声を出すのはやめて。頭痛がするわ」
「大声など出していない。頭痛の原因はなんだ?」蒼白《そうはく》な顔のなかで、ふたつの瞳だけが異様に輝いている。彼は最悪の事態を思い浮かべた。
「頭を打ってから、どのくらいたつ?」彼は、嵐《あらし》で頭を強打した水夫がこんこんと眠り続け、ついに死に至るのを見たことがあった。ふるえる手でヴェールをとり、髪からピンを引き抜いて、小さな頭をまさぐる。
「頭など打っていないわ。わたしは侍女たちの看護をして疲れただけよ」
「なぜ、そのようなことを?」
「皆、船酔いをしてしまって……」
「あの者たちの具合が悪いことは聞いていたが、きみがひとりで看護をしているとは知らなかった」
「あなたはずっと、お顔を見せてくださらなかったから」あのキス以来、とガブリエルは心のなかでつけ加え、あふれそうになる涙を押しとどめた。キスをしたあと、放《ほう》っておかれたのがなぜこんなに悲しいのか、自分でもわからなかった。離れているときには、さほどではなかったのに。
「心にかけなかったわけではない。嵐と戦っていたんだ。そんなに驚かなくてもいいではないか? さあ、目を閉じて、少し眠るんだ。きみは恐ろしく疲れた顔をしている」
「それはあなたも同じよ」
ルーアークは安堵《あんど》の笑みをもらした。「そうだね。たぶん、きみは疲れているだけなのだろう。そして、わたしも同じだ」嵐に巻きこまれてからは、指揮をしたり帆を気遣って索具にのぼったりする合間に短い睡眠をとっただけだ。「では、わたしも横になろう」彼はぬれた服を脱ぎはじめた。
ガブリエルはあわてて目を閉じた。「ここは狭いから、無理よ」
「心配はいらない。どうせ、疲れていて、何もできないよ」彼は毛織物のローブの紐《ひも》を結び、隣に身を横たえてふたりを厚い毛布でくるんだ。
ガブリエルは壁のほうへ身を寄せた。「でも、狭いわ……」
「だいじょうぶだよ」ルーアークは眠そうな声でつぶやき、彼女を引き寄せて頭を自分の肩にのせた。「おやすみ、小さな暴君」彼の声は軽やかな寝息のなかに消えていった。
ガブリエルは身を離そうとしてみたが、彼の腕から逃れることはできなかった。我が身の疲労の重さを実感してため息をつく。しかし、彼のからだの温《ぬく》もりはしだいにガブリエルをものうい気分にさせ、不思議な安心感を与えていった。もう逃れようとは思わない。
ガブリエルは静かに目を閉じた。
翌朝、ガブリエルはきれいになった侍女たちの居場所を満足そうに眺めていた。フィリップとアレン、マーランの助力のおかげで床が磨かれて不潔な寝具がとりのぞかれた。ふんだんにハーブをまいた石炭の火鉢が空気を暖め、いい香りで満たしている。侍女たちは、まだ具合の悪いひとり以外は全員、肩から毛布を巻いて椅子に座り、スープを飲むまでに回復していた。
「どうぞ、お休みになってください。まだ、お顔の色が冴《さ》えませんもの」フェリスが空になったカップをかたわらに置きながら言った。
「だいじょうぶよ」ガブリエルはすっかり体力をとりもどしていた。昨日までは彼女たちを連れてきたことに罪悪感を覚えていたのだが、天候が回復に向かって船酔いが治ったのでいまはそれもない。「よく眠ったのよ」そして、目覚めたとき、彼はすでに船室にいなかった。いっしょにいたくないひとの姿がないことを寂しく感じたとは、我ながら不可解だった。
「ふた晩お眠りにならなかったんですもの。あと一日、ゆっくりお休みにならなくては。これで、新鮮な空気とお風呂があれば、わたくしたちはもっと元気になりますのに」
「そうね」
「ルーアークさまのお話では、午後になったら甲板に出てもいいだろうということですけれど」
「どうして、それを知ったの?」
「今朝早く、わたくしたちを見舞ってくださいました。本当にお優しい方ですこと」
「お会いしたら、お礼を言っておくわ」ガブリエルは言った。でも、いつになることやら。
「どういたしまして」
背後から聞こえた声にふり向くと、開け放たれた戸口にルーアークが背をもたせかけて立っていた。くつろいだ面持ちで腕を組み、長い脚を交差させている。髭《ひげ》を剃《そ》り、服も着替えていた。魅惑的な口元に笑みが浮かんでいる。昨夜、夢に現れ、熱い思いでガブリエルを目覚めさせた唇だ。
「見てのとおり、湯浴《ゆあ》みをしたんだよ」
ガブリエルは頬を染めて視線をそらした。彼は磁石のようにわたしを引きつける。なぜなのかしら? 急にこんなことになってしまったのはキスのせいだわ。そして、あの夢のせいだ。船に乗ってから、秘密を守ることには成功しているのに、気持は押しとどめられなくなるいっぽうだ。
「湯船はまだわたしたちの船室にある。フィリップとアレンに湯を運ぶよう、命じておいた」
「わたしのために?」
「負担に思う必要はないんだよ」彼は通路をあけながら言った。
「わたし……わたし、誰かに世話されることに慣れていないのよ」
彼女の言葉を聞いて、憐憫《れんびん》と名状しがたい柔らかな感情がルーアークの胸にあふれた。「慣れることだ。いつも健やかなきみを見ていたいからね。湯浴みをしたまえ。そして、夕食まで眠るんだ。このままでは自分の健康をそこねてしまう」
「湯浴みはさせていただくわ。でも、そのあとは食事の差配をしなくては。それに、林檎《りんご》酒にシナモンを入れて……」
ルーアークがやにわに彼女を抱き上げて後甲板を出た。「シナモンなんて放っておくんだ。きみは他人の食事のことしか考えられないのか? これ以上てこずらせるなら海に放りこむぞ」
ガブリエルはもがいた。「お食事はだいじなことよ。それに、林檎酒は……」
「林檎酒など、どうでもいい。暴れるのをやめたまえ」
「思いどおりになるものですか。下ろして!」
「すぐに下ろしてやる」
「いま、下ろして。さもないと首をしめるわよ」
「できもしないことを言うんじゃない」彼はそう言って船室への階段を下りていった。
ルーアークが扉を蹴《け》り開けると、フィリップが楢《なら》材の湯船にお湯を注いでいた。
「お湯はもういい」ルーアークはガブリエルをベッドの上に放り出した。「彼女にさせるのは湯浴みだ。溺《おぼ》れさせるわけではないからな」
「わたしはひとりで入浴するわ!」
ガブリエルが叫ぶのを聞いて、フィリップがあわてて部屋を出ていく。
「どうして頭にさわるの?」ガブリエルは、ヴェールをとって髪からピンを抜きはじめたルーアークをなじった。
「頭を結い上げたまま湯を使うのか?」ルーアークは彼女の抵抗をものともせずに髪をほぐした。黒髪が白い顔をふちどり、豊かに波打って背中へ流れ落ちる。美しい、と彼は思った。それに、なんて長いのだろう? 今夜こそ、この絹のような髪に顔をうずめるのだ。
そう思うと、早くもからだが備えるのがわかったが、そしらぬ顔をして彼女のドレスの紐をほどきはじめた。
戦いや城の攻略の作戦を練るのは眠っていてもできるが、女性を誘惑する作戦にかけてはまるで経験がない。しかし、直接的でない穏やかな方法のほうが彼女の堅固な守りを突破して冷ややかな仮面の下の情熱を解き放つのに有効だということくらいは想像がつく。つまり、優しい誘惑が必要なのだ。
「自分でできるわ!」ガブリエルは再び叫んだが、彼は手を止めなかった。
「わたしは手荒なことはしないよ。まだ、わからないのかい?」
明かりは片すみに置かれた火鉢の炎だけだったので、ガブリエルには彼の表情が見えなかった。大きくて男らしくて生命力にあふれるルーアーク。でも、わたしはもう、彼が情熱をほとばしらせることを恐れていない。それどころか、彼の腕のなかで溶けてしまいたいとさえ思っている。いいえ、だめよ。自分の身の内の炎は抑えなくては。
ルーアークは彼女の髪に指をすべらせて吐息をついた。「さあ、湯浴みを手伝おう」
ガブリエルは驚いてベッドから下りたが、すぐにつかまえられてしまった。
「きみには湯浴みが必要だ。それに、ひとりで湯浴みをするのは無理だろう?」
「無理じゃないわ。お願い、放して!」
ルーアークはとうとうドレスを脱がせて床の上に放り、片手で彼女の顎をつかんだ。「落ち着くんだ。単なる湯浴みではないか」
「ふ、服を脱がせるなんて……」
「湯につかるのだから当然だろう? さあ、おいで。それとも、赤ん坊のように泣きわめくかい?」
その言葉がプライドに響いたらしく、彼女は不機嫌そうに目を細めて顔を上げた。
誇り高く鮮烈な野生の血が流れる女性なのだとルーアークは思った。彼女ならきっと、戦うがごとく荒々しく、堂々と愛するのだろう。いかなる困難があろうと彼女の愛を勝ち得たい。「あとは手伝わなくても脱げるね?」彼は静かな声で言った。
ガブリエルはうなずいた。
「では、早くしたまえ。湯がさめて風邪をひくよ。わたしが出ていくのを待ってもだめだ。髪を洗うのを手伝い、すすぎの湯をかける者が必要だろう?」
「ずっとそこにいるつもり?」
「ああ」
ガブリエルは唇を噛《か》んだ。
ルーアークはベッドの縁に腰を下ろし、身をよじって背を向けた。「三分以内に湯船に入るんだ。そうしたら手伝う」
「見ないと約束してくださる?」
「目をつぶって髪を洗うのは無理だ。何もしないと約束するよ。それで充分だろう?」彼は返事を待った。「あと二分だ」
なんというひとなの? ガブリエルは恐れと怒りで身をふるわせ、彼の後ろ姿を見据えながらシュミーズを脱いで湯船に入った。湯は思ったよりもずっと気持がいい。こうして膝を抱えれば、彼から見えるのは背中だけだわ。
ふり向いたルーアークの目に、彼女の肩から腰へかけての美しい曲線が映った。もっとも、ほとんど黒髪のカーテンの陰に隠れているというのが事実ではあるが。深刻な過ちをおかす前に出ていくべきだという考えが脳裏をかすめるいっぽう、熱い炎が燃え上がってくるのがわかる。
「もう、ふり向いてもいいわ」彼女はささやいた。
ルーアークは咳払《せきばら》いをしてやっとの思いで立ち上がった。膝が力を失い、ほかの部分は呼吸をしたら壊れそうなくらいにはりつめている。何か、別のことを考えるんだ。そうだ、戦のことを考えよう。幾千の死のことを思うんだ。彼は深呼吸をして手桶をとり、彼女の髪に湯をかけた。
温かいお湯を背に受けて、ガブリエルが小さな吐息をもらす。ルーアークにとっては拷問も同然の状況だった。できる限り離れた位置に膝をつき、石鹸《せっけん》を手にとって長い黒髪を洗う。
いっぽう、ガブリエルは少しずつ緊張をほぐしていた。次々と優しさを示してくれる彼。そのうちに信頼できるようになって、好きになるかもしれないわ。いいえ、やはり、だめ。障害が多すぎるもの。
それでも、ガブリエルは彼の力強い指で肌に触れられたらどんな感じだろうと想像せずにはいられなかった。彼の手が髪からうなじへ、うなじから肩へとたどるさまを思い浮かべる。そして腕へ、胸へと……。
彼女がほほえみ、小さな吐息をもらすのを聞いて、ルーアークのからだを熱いものがつらぬいた。せめて、顔を引き寄せて唇だけでも奪いたいが、そんなことをしたら、そこで止められなくなってしまうだろう。優しく穏やかに、少しずつ魅了する――それが女性の心の扉を開く鍵《かぎ》だ。少なくとも吟遊詩人の歌を聞く限り。そして、彼女は万難を排して手に入れるに値する女だ。ただし、棘《とげ》を大目に見るならば。いや、棘をとりさるという方法もある。
のぞいてみると、温かな湯のためか、それとも髪に触れられているためか、彼女の表情が和らいでいた。いつも怒ってばかりいる小さな暴君が、結婚したときの彼女に戻ったかのようだ。うっとりとした面差しが、いっしょに雲を見たときに気づいたことを思い出させる。本当のローランは、優しくロマンティックな女なのだ。
たぶん、暴虐な父親のせいで強さと忍耐力を育ててきたのだろう。だが、彼女を守る夫がいるいま、それらはすでに無用の長物だ。
今夜、もしローランが壁をとりさってわたしの腕にとびこんでくれたら、妻をとうとう自分のものにすることができる。
こんなことなら吟遊詩人の歌にもっと耳を傾けておけばよかったと、絹のような髪に湯をそそぎながらルーアークは後悔した。誇りがじゃまをして、ウィリアムにさえアドバイスを求めることができない。そもそも、妻は、馬やその他の財産と同じように夫の持ち物で、床をともにするのを拒むなどもってのほかという定めなのだから、妻の心を得ようとする夫など、さぞ滑稽《こっけい》に見えることだろう。
ルーアークは手桶を置いて立ち上がりながら思った。いままで、祖父にたてた誓いのせいで無理をして戦いの場に身を置いてきたのだ。せめて床のなかでは争いたくない。そのうえ、ローランを戦地に伴って忍耐を強いることになるのだから、彼女のためにもそんなことがあってはならない。「少し眠りたまえ。あとで夕食をいっしょにとろう」
扉が静かにしまる音を聞いたガブリエルは額を膝につけて肩をふるわせた。彼を嫌ったり怖がったりするほうが、ずっと楽だわ。もし、彼に触れたいと願ったり、触れてほしいと願ったりする思いに負けたら、わたしはどうなってしまうのかしら?
ガブリエルは髪を三つ編みにして背中に垂らしたまま、閂《かんぬき》がかけられた扉をたたいた。「開けて!」
やがて扉の外に足音が近づき、ルーアークの声が聞こえた。「眠りなさい」まるで子供に昼寝を命じるような口調だ。
「眠らないわ。外に出してと言っているのよ」
「なんでもお言い。だが、夕食まで外には出られないよ。起きている必要もないだろう? からだを休めないと、わたしが用意させている食事がおいしく食べられないよ」
「食事の差配はわたしの仕事の領分だわ」
「しばしばわたしの領分を侵害するのはきみのほうだよ。一度くらい逆があってもいいだろう」
「いやよ!」ガブリエルは扉をたたき、ついでに脚で蹴った。「痛っ! まったくもう!」
「サマーヴィル家の花嫁ともあろう者がはしたないぞ。あとで迎えに来る」
ルーアークの面白そうな笑い声が足音とともに遠ざかっていく。ガブリエルは、一昨日、彼が頭をのせた枕《まくら》を壁に投げつけた。布が裂け、白い羽毛が雪のように小部屋のなかに舞う。
羽毛がゆっくりと床に落ちていくのを見ているうちに怒りも薄らいでいった。こんなことをしても、なんにもならないわ。唇についた羽毛を息で吹き飛ばすと、からだに残っていた最後の緊張も消えた。怒りを発散させるのも悪くはないのね。そうだわ。ここにいなければならないのなら、あの日記を読もう。
ガブリエルは衣装箱から日記を出し、羽毛だらけのベッドに座った。昨夜、侍女たちの看病の合間に十ページほど読んだので、M・L・カーマイケルのほぼ三年分の生活を知ったことになる。
初めの二年間は、新しいドレスのことやランスフォード城が迎えた男性の訪問者のことが、ほんの少し書かれているだけだった。よほど両親に甘やかされて育った娘なのだろう。異母兄弟のブライアンと彼女が従兄《いとこ》と呼ぶ、また従兄――サマーヴィルの息子たちが城に姿を現す日以外は、退屈して暮らしている。お祭り騒ぎと贈り物と自分が話題の中心になることが喜びだったらしい。それが、ある日を境に筆の運びが変わり、生き生きとした大胆な調子に転じている。
〈一三五三年十二月十日
お兄さまと従兄たちがついに戻ってきて、わたしに生命を吹きこんでくれた。広間の向こうからいとしいひとの熱いまなざしを受けて炎が燃え上がった。今度こそ、息もできないくらいにキスをして、抱いてくれるに違いない。
そう思うとからだがふるえた。
レディ・キャサリンは病と勘違いして、早く休みなさいと言った。彼は目でわたしを追っていたから、きっとすぐにここへ来るはずだわ。
からだが燃えるように熱い〉
一週間前のガブリエルなら、M・Lの言葉を理解することができなかっただろう。だが、いまはキスがどんなふうにからだを熱くするかを知っている。M・Lは愛の営みに痛みや屈辱が伴うことを知っていたのかしら、と彼女は思った。たぶん、知っていただろう。十二歳までに結婚し、十三歳で母になることも少なくないのだから、十五歳の彼女は立派なおとなだ。だが、ガブリエルには、彼女がなぜか子供っぽく感じられた。
M・Lは城の女主人としての仕事を学ぼうとしていない。興味を示すのは自分自身のこととドレス、宝石、自分の称賛者、そしていとしいひと≠セけだ。いとしいひと≠ニいう言葉は日記をつけはじめたころから登場しているのに、名前が書かれていたことはない。秘密にするのは、きっと身分違いの人物だからだろう。たぶん、彼女の兄ブライアンかサマーヴィルの息子たちの、家臣の誰かなのだろうとガブリエルは思った。
彼女は再びページに目を落とした。M・Lは本当にルーアークのまた従妹《いとこ》なのかしら? なぜ亡くなったのだろう? いつのことかしら? 少し軽薄ではあるが、生き生きと人生の喜びを享受するこの少女が若くして世を去ったとは考えにくい。
〈一三五三年十二月十一日
彼は遅くなってから部屋に来た。すべては夢見ていたとおり――いいえ、それ以上に熱く、甘美で、荒々しかった。
彼は初め、またしても弱気になって、わたしたちの間柄が近いとか、わたしが年若いとか、わたしの名を汚すかもしれないなどと言った。この夏、彼とふたりで草地へ行ったときと同じせりふだ〉
ガブリエルは目を閉じた。揺れる花々の海に身を沈め、キスをしたり、胸に手を触れさせようとしたりして恋人を誘うM・Lの姿が見えるようだ。刹那《せつな》の愛に酔いしれるM・L、自責の念にかられてそれ以上進めまいとする恋人。このページを読んだ夜、ガブリエルは自分がM・Lとなって恋人のルーアークと口づけを交わす夢を見た。
やめたほうがいいと思いながらも、彼女は先を読まずにはいられなかった。
〈今回は、わたしはどうすればこの愛をつらぬけるかわかっていた。お酒を飲ませ、いくじなしと笑ってみせてからキスをしてじらすと、彼はとうとうわたしのからだに腕をまわして愛撫《あいぶ》を始めた。
彼の裸身は神のように美しかった。彼もわたしを女神のようだと言った。彼のために守ってきたものを捧《ささ》げたときには少し苦痛があったけれど、彼は優しくキスをしてくれた。息もできないほどの胸のときめき。彼とひとつになったとき、いままで味わったことのない激しい喜びがからだのなかで渦を巻き、このまま死んでしまうのではないかと……〉
そのとき、遠慮がちなノックの音が聞こえ、ガブリエルは驚いて顔を上げた。長い距離を走ったあとのように呼吸が乱れ、脈拍が速くなっている。彼女は唇を湿らせてから返事をした。「はい」
「フィリップです、レディ・ローラン。湯浴みはおすみでしょうか?」
ガブリエルの頬はさらに熱くなった。こんなときに汚れを知らない少年と顔を合わせるのは、いたたまれない気持がする。彼女は衣装箱の衣類の下に日記を隠し、毛織物のローブのしわをなでつけた。「いいわよ、フィリップ。入ってちょうだい」
フィリップとアレンが湯船から手桶に湯を汲みはじめたとき、ガブリエルはふと気づいて足音を忍ばせて船室を出、外から扉の閂をさした。ローブの裾《すそ》をつまみ、片手を壁にたどらせて薄暗い階段をのぼりかけたとき、船室のなかで騒ぎが起き、扉をたたく音が聞こえたが、甲板が近づくにつれて波音と帆のはためきに消されて聞こえなくなった。
甲板に出ると、水平線に没しようとする太陽の光が斜めに目を射る。ガブリエルは目をしばたたきながら身を隠す場所を探したが、なかなか見つからなかった。そのうちに、背後から話し声が聞こえてきた。そっとようすをうかがうと、舵《かじ》のまわりで数人の男たちが夕日を見ながら話しこんでいる。
船首に置いてある乗降用の小船に隠れよう。そう思って身をかがめ、手すりにそって進んだガブリエルは、船首楼の上にルーアークの天幕のひとつが張られていることに気づいた。きっと、乾かしているのだろう。ガブリエルは急いでなかにもぐりこんだ。
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10
これは夢? それとも現実かしら? ガブリエルは温かい毛布に包まれて、金色に輝く夢と現実の間《あわい》にたゆたっていた。こめかみに夢のなかの恋人の唇の温《ぬく》もりさえ感じながら。
ゆったりとした船の揺れと時おり聞こえる索《つな》のきしみ、かすかな吐息。意識をおおう霧がしだいに薄らいでいく……。
目を開けたガブリエルは、すぐ近くにルーアークの顔があることに気づいて驚きの悲鳴をあげた。
逃げようとする彼女をルーアークが抱き止めた。「しいっ、静かに。何もしないよ」
「どうしてわたしがここにいるとわかったの?」
「きみのこととなると、第六感が働くんだ」
彼の言葉はガブリエルを神経質にさせた。「悪魔のお仲間というわけね? わたし、眠っているところを誰かに見られるのは好きじゃないのよ」
ルーアークが尊大な笑みを浮かべると、顎の割れ目が広がった。「いつだってきみを見守っているよ。わたしの恋人なんだから」
「あなたの恋人になんか、なりたくないわ」
「なるさ」彼はなだめるように唇を重ねた。
キスが小さなささやきのように感覚にさざ波をたてる。これは予感なのだろうか? 心臓が高鳴りはじめたのは恐怖のせい? それとも、情熱のせいだろうか? 彼を押しのけようと胸についた手に同じ速さの鼓動が伝わってくる。
「緊張しないで。手荒なことはしない」ルーアークは唇を寄せたままささやいた。「最初からやり直そう。いままでに、少しはわたしを信頼するようになってくれたんじゃないのかい?」
「さあ、わからないわ」ガブリエルは彼の瞳に後悔がにじむのに気づいた。それだけではない。彼が強く自分を求めていることもわかった。誰かを愛し、愛されることが、ずっとわたしの憧《あこが》れだったんじゃなかったの? ガブリエルはそれ以上彼を押しやることができなかった。
ルーアークが安堵《あんど》の息をつき、祈りを捧《ささ》げるように目を閉じた。なぜ、祈るの? 初めてのときのように力ずくで抱くこともできるのに。そうしても、誰も責める者はいないわ。
彼は目を開けてほほえんだ。「まだ疑っているようだね。今夜こそ、信頼を勝ち得てみせるよ」ルーアークは彼女の鼻先にキスをして抱き上げ、クッションの上に座らせた。
ガブリエルは驚いて見つめた。「何を……?」
ルーアークは優しい笑みを向けた。「おなかはすいていないかい? 喉は?」返事も待たずに低いテーブルの前に身をかがめてワインを杯に注《つ》ぎはじめた。蝋燭《ろうそく》の明かりが揺らめく彼の影を天幕の内側に映し出す。
まるでアラビアのおとぎ話のように幻想的な光景だ。あちこちにともされた上質の蝋燭の炎が皿にためられた水に反射して、ちらちらとまたたいている。「ずいぶんたくさんの蝋燭ね」
ルーアークは彼女の隣に座った。「暗闇《くらやみ》のなかできみを目覚めさせたくなかったんだ」
思いやり、かしら? 彼が思いやりのあるひとだと、なぜ、いままで気づかなかったのだろう? 杯を受けとる彼女の手がふるえた。
「怖くはないだろう?」ルーアークの声は沈んでいた。
彼はからだの温もりと石鹸《せっけん》の香りが感じとれるほど近くに座っている。それがガブリエルを落ち着かない気持にさせ、黒ずんでいく彼の瞳が彼女を怯《おび》えさせたが、彼自身には脅威を感じなかった。感じるのは期待だけだ。ガブリエルは彼の問いにうなずきながら、そういう自分に驚いていた。
「ありがたい」ルーアークは彼女の杯をかたわらに置き、手をとった。「あれは過ちだった。最初の夜のことは、過ちだったんだ」
以前にも同じことを聞いた気がする。「どういうこと?」
ルーアークは燃える瞳に希望を宿して顔を上げた。「きみがほしかったんだ。司祭の到着を待つうちに酒を飲みすぎ、いざそのときがきたら自制心を失ってしまった。それ以上一秒も待てないほど待ち焦がれていたんだと思う。司祭の言葉がどういうふうに終わったのか思い出せないところをみると、正気も欠いていたはずだ。きみに言われるまで何があったのか――自分が何をしたのか、知らなかった」
ガブリエルは唇を噛《か》んだ。彼はうぬぼれが強く、傲慢《ごうまん》で、騒々しくて、ひとを支配したがるけれど、嘘《うそ》をつくひとではない。それに、怒らせようとしても、ののしりも罰しもしなかった。誇り高い戦士で、祖父の死のせいでフランス人を憎んでもいいはずなのに、彼女の召使いにもつらくあたらない。
彼に対する気持はとっくに和らいでいたのだが、彼を信じるには危険があった。もしド・ローラン一族の者であることを知られたら、心ばかりか命まで失うことになるからだ。「どうお答えしたらいいのか、わからないわ」
「何も言わなくていい。きみの美しさを見せてくれるだけで」
ガブリエルの胸がどきんと鳴った。M・Lの恋人がルーアークなら、彼女に愛を捧げていたひとなのだ。「いやだと言ったら、放してくださる?」
「そんなはずはない」
「ずいぶん傲慢なのね」
「そんなつもりはないよ。いやなのかい?」
「約束してほしいだけよ。もし、わたしが……」
「約束する。これで安心だろう?」ルーアークはそっと唇を近づけ、軽い口づけをくり返した。やがてガブリエルが唇をふるわせ、瞳をうっとりとさせた。「どうだい?」
ガブリエルはためらいがちにうなずき、彼が身をのせかけるのを待った。
しかし、ルーアークは優しく彼女を横たえ、かたわらに横になって肘に頭をのせた。「きみの肌は蝋燭の明かりに映えて、まるで陶器のように美しい。髪も見せてくれるね」
彼に三つ編みに触れられて、ガブリエルの心臓が高鳴りはじめた。彼が誘《いざな》っていることは本能的にわかった。五感が鋭くなっていく。こういうときには本当に息ができなくなるんだわ。M・Lが書いていたことが初めてわかったような気がした。
ルーアークは彼女の髪に指をさしいれてほぐした。絹のように柔らかな漆黒の髪がクッションの上に広がり、白い顔を縁どる。見開かれた菫《すみれ》色の瞳、唇を噛む小さな歯。美しい。だが、彼女は怯えている。そう思ったルーアークは動揺にみまわれた。いま、わたしは初めてのときと同じくらい、いや、それ以上に彼女を求めている。こんな状態で、慎重にゆっくりと彼女を誘うことができるのだろうか?
「ルーアーク?」
「きみは美しい。まるで黒絹と象牙《ぞうげ》でできているようだ」
ルーアークがこめかみにかかった髪をなでつけると、彼女は夢見るようにほほえんだ。
思ってもみないほほえみだった。望んだとおり、彼女は心を開き、優しく女らしい本来の自分をのぞかせはじめたのだ。
「力を抜いて。わたしを信頼したまえ」彼は約束の印に優しくキスをした。
彼の瞳に見つめられたガブリエルは、抵抗することができなかった。なぜかわからないが、抵抗したいと思っていなかった。夏のそよ風を思わせる優しいキスを受けて、からだが蝋のように溶けてしまいそうだ。気づいたときには手がひとりでに彼のうなじをなで、唇がキスに応《こた》えていた。
ルーアークは充分に時間をかけて少しずつキスを深めていった。彼女が吐息をもらして身を寄せると欲望が彼を苦しめる。かつて、ひとりの女をこれほど求めたことがあっただろうか?
ローブの紐《ひも》をほどいたとき、彼女が身を硬くしたのにルーアークは気づいた。「わたしは何か手荒いことをしただろうか?」
「いいえ、今度はとても優しいわ」
ルーアークは彼女の顎に口づけをしながら言った。「きみのすべてが見たい。胸に触れて、ふたりの鼓動を重ねたいんだ」
わたしの胸の鼓動は、こうしていても聞こえるくらい高鳴っているのに。ガブリエルがそう思ううちに、肩がひとりでに動いて片方の胸をローブからのぞかせていた。
「いけない娘だね」ルーアークが指で触れると彼女は身をふるわせた。「ところが、わたしもいけない男なのでね」彼は低くつぶやき、ローブに手をすべりこませて、すっかり肩をあらわにした。
ガブリエルは無防備にされていくことに心もとなさを感じたが、怖くはなかった。それどころか、胸をときめかせながら触れられるのを待っていた。彼の大きなからだや荒々しい声からは想像がつかない、思いがけない優しい愛撫《あいぶ》だった。詩的といってもいいほどロマンティックで典雅な愛撫だ。
「きみはわたしが思っていたよりさらに美しい」ルーアークは情熱に黒ずんだ彼女の瞳にほほえみかけ、なめらかな腰のあたりにてのひらでゆっくりと円を描《か》いた。ひとつかみにできそうなくらい華奢《きゃしゃ》なウエスト。この繊細なからだのどこに、あの不屈の意志を生む強さが宿っているのだろう?
両手で胸のふくらみを包み、感じやすい頂を親指で愛撫すると、彼女は小さく声をもらした。
「いやではないんだね?」彼女の髪に顔をうずめて尋ねる。
「ええ。でも……こんなに急に……」
「わたしたちが呼び合うからだよ。さあ、自分を解放して、わたしに身をあずけたまえ」
熱く唇を求め合ったあと、彼は胸元へ唇をたどらせていった。舌が頂に触れたとき、ガブリエルは息をのみ、彼の肩に爪をたてて身を寄せた。彼女は自分が自制心を失ったことを悟っていた。望みさえすれば離れられるのに、そういう気持は起こらない。
これ以上、耐えられないとルーアークは思った。自分がこれほど求めていたとは知らなかった。彼女は呼吸と同じくらい大事な存在なのだ。彼は自分のローブをかきわけて肌を重ねた。
小麦色の肌と象牙色の肌、固い肌と柔らかな肌が、もともとひとつのものであった片割れを求めるかのように引かれ合う。彼女はかすかなうめき声をもらしてからだを添わせた。野の花の香りがルーアークを酔わせる。奔放に情熱をほとばしらせる彼女――思い描いたとおりのローランだ。
嵐《あらし》に舞う木の葉のように激しい情熱に翻弄《ほんろう》されながら、ガブリエルは彼と視線を合わせた。だが、次の瞬間、うっとりするような金色の霞《かすみ》に何か鋭いものが入りこんでくるのを感じた。「やめて……お願い」
「力を抜いて」
ルーアークは自制心が崩れ落ちるぎりぎりのところで歯をくいしばって言った。ローランはこんなにも華奢だ。最初の夜、彼女をどんなにつらい目に遭わせたかと思うとからだがふるえる。
「さあ、楽にして」ルーアークは優しい言葉をかけ、誘うようにキスをして彼女の不安と緊張をほぐした。
やがてガブリエルのからだに情熱と力が満ち、不安が少しずつ喜びにかわっていった。
再び吹き荒れる嵐のなかで彼を求め、彼の唇の熱さに身をふるわせ、誘われて押し寄せる奔流を越え、雲も星もおよばない高みにのぼっていく。
ふと不安に襲われて最後の一歩をためらったとき、情熱を顔にみなぎらせ、瞳を輝かせたルーアークが言った。「さあ、わたしが与えるこの喜びを受けとりたまえ」
そのとき、ガブリエルは初めて本当に心を開いた。そして喜びを受けとり、すべてを与えて高みにのぼりつめた。
ガブリエルはルーアークが身じろぎする気配に目を覚ました。「どうしたの? まだ夜明けではないでしょう?」
「ここは寒い。きみが風邪をひかないうちに船室へもどろう」
ガブリエルは目を閉じた。「狭苦しい船室よりここで眠るほうがいいわ。それに、わたしは寒くないわよ。あなたといっしょにいたら、燃えさかる炎のなかにいるようなものだもの」
「燃えさかる炎かい?」ルーアークは彼女を守るように身を寄せ、そっとからだをなでた。
その手が胸のふくらみをおおい、親指が頂を愛撫しはじめるのを知って、ガブリエルは言った。「何をしているの?」胸の鼓動が速まり、すでにからだが応えはじめている。
「冷たくないか、たしかめているんだよ」
「胸は冷たさを感じとるのが一番むずかしい場所なのよ。それを知るためには、ひと晩じゅう、その大きな無骨な手をあてていなくちゃならないわ」
彼は笑った。引き寄せられた脇腹《わきばら》に彼の温もりと振動が伝わってくる。彼が再び熱くなりはじめているのもあきらかだった。
「さっきは大きな無骨な手≠ェ気に入って、もう一度触れて≠ニ言っていたのに?」
ガブリエルはからだが熱くなるのを感じた。彼の片手がウエストから下腹部へとさまよっていく。
「どうだい? これでも、まだ無骨な手≠ニ言うかい?」ルーアークは彼女が吐息をもらすのを聞いて愛撫を止めた。「まだ、きみが思っていることを聞いていないよ」
いくらなんでも、こんなことは言えないわ。プライドがガブリエルを沈黙させた。
「強情だね、きみは」彼は再び愛撫を続けた。
ガブリエルは呼吸を乱し、からだをふるわせて、とうとう口を開いた。「あなたは……あなたは、やはり、た……体格がよすぎるわ」
「そのうちに慣れるよ。時間はたっぷりある」彼は返事を待たずに愛撫を再開した。
ガブリエルの意識から再び現実が遠のいていった。ルーアークは彼女自身すら知らなかった秘密を一夜にして知りつくしてしまったのだろうか? ガブリエルは身をよじり、たくましい腕に深く爪をたてた。からだの内で情熱が暴れだし、彼のささやきを聞いて、さらに荒れ狂っていくのがわかる。
ルーアークはしだいに我を忘れ、いつのまにか激しく彼女を愛撫していた。そのいっぽう、身も心も解き放ったガブリエルが与えてくれるものが彼を謙虚で神聖な気持にさせる。なんだか、自分が強くたくましい大男になったような気分だった。彼女はずっと夢見てきた恋人――いや、それ以上の存在だ。
彼女は突然、全身をふるわせてからだを弓なりにし、ルーアークの名を呼びながらしがみついた。彼は炸裂《さくれつ》する光と熱に幻惑されながら、いとしい妻をひしと抱きしめた。
まるで魔法のようだわ。しばらくして、彼のたくましい腕に抱かれて横たわったガブリエルは思った。こうしていると守られていると感じる。これは愛なのだろうか? そうかもしれない。彼女は初めて知った思いの余韻に浸されながら心のなかでつぶやいた。
でも、彼の気持はどうなのだろう? ガブリエルは眠る彼の顔を眺めた。誇り高い顔だ。そう。ふたりともプライドが高すぎるのだ。そして、強情で主導権をとることに慣れすぎている。でも、それがお互いの気持の障害になるとは限らないわ。
ガブリエルはため息をついた。別の人間になれたら――ルーアーク・サマーヴィルの愛を受けるに値する人間になれたらいいのに。
三日目の昼間、ガブリエルはとうとう怒りを爆発させてドレスの紐をしめながらベッドを出た。「わたしは疲れてなんかいないわ! 夕食の指図も繕い物もしないでじっとしているのはもういやよ」
「何を言っているんだ! そんなことは船酔いが治った侍女たちに任せておけばいい」
「あなたはどうぞ、お昼寝をなさって」
「きみが疲れているから休もうと言ったんだ」
「それで、いっしょに横になるうちに、誘惑するつもりになったというの?」
「わたしはいつだって――一日二十四時間でも、こうしていたい。きみは違うようだが」ルーアークはちらりとベッドに視線を投げた。
ガブリエルのうなじに熱が這《は》いのぼってくる。ルーアークは彼が本当の初夜≠ニ呼ぶ夜以来、ほとんど強迫観念ともいえるほどの熱意を彼女に向けていた。何度となくくり返される熱い時。愛情を与えられずに育ったガブリエルにとって彼の気持がうれしくないわけではない。しかし、心からしあわせだと思えるわけではなかった。ものごとは、そう簡単にはいかないのだ。
ふたりの距離は肉体的な面では、これ以上ないほど近づいたが、ほかのこととなると雲を見たとき以上には近づかない。ルーアークはあいかわらず大きな声でものを言い、どなりつけて、すべてを思うとおりにしようとする。いかにしてルーアークの気分を害することなく自分の意志をとおすか。それがガブリエルが抱える目下の問題だった。
ルーアークは剛胆な勇士であると同時に剃刀《かみそり》のように鋭い知性をもち、激しやすい気性を強靭《きょうじん》な自制心で抑えている。だが、いま必要なのは彼の情熱を和らげることなのだとガブリエルは思った。
ガブリエルはM・Lが日記に書いた方法を実行してみることにした。
「ルーアーク」彼女は静かに呼びかけた。名前を呼ぶだけで、彼は機嫌をよくする。「けんかをしながらなんて、いやよ」
ルーアークの肩から力が抜けた。「ここへおいで、ダーリン」腕でガブリエルを包み、頭に顎をのせる。「わたしはきみのためを思っているんだ。それなのに、きみはわたしを横暴だという。そして、我が身を危険にさらすようなことをするんだ」
危険なのはあなたの魅力よ、とガブリエルは思った。だが、ここで議論をくり返すのは賢いやり方ではない。「食事の用意の指図をしたり上陸に備えて荷物をまとめさせたりするのは別に危険なことではないわ。あなたはわたしを毛織物の毛布でくるんで……」
「そうだ。きみを守るためなら、いつもわたしのそばに置いておく」
「何から守るの?」
一瞬、ルーアークの顔に謎《なぞ》めいた表情がよぎった。「すべてからだ。きみに何かが起きてはならないんだ。きみはわたしのものだ」
それを聞いてガブリエルは憤然とした。父とはまったく種類が違うが、彼のこういう専横なところは受け入れがたい。「わたしはあなたのものではないわ。わたしは……」
「きみはわたしの妻だ。愛しているんだ。そして、きみに何ごとも起きないように守るつもりだ」
愛している? ガブリエルのからだがふるえた。「わたしを、愛しているの?」
「そうだ。これを認めると立場が弱くなるが」
ガブリエルは初めて彼の気持を理解した。この胸にある思いを告白したら、わたしも不利な立場にたたされるだろうか? だが、髪や目の色を変えられないのと同じくらいに明白な事実なのだ。彼は完璧《かんぺき》な人間ではない。腹立たしいくらいに不完全だ。でも、引きつけずにはおかない力と優しさともろさをもっている。「わたしもよ。わたしも愛しているわ。けんかはするけれど」ガブリエルはささやいた。
「けんかになるのは、きみが聞きわけがないからだよ」
「あなたが理不尽なことを言うからだわ。わたしは夕食の支度の差配をしたいの」
「また、風が強くなってきたんだ。ぬれた甲板に出たら、足をすべらせて船から落ちるかもしれない」
ガブリエルは唇を噛んだ。どうして、こうなってしまうの? 一瞬、目の前に現れかけた黄金の時はどこへ行ったの?「せっかくのものをだいなしにするのはやめて。わたしは、ずっと、誰かを愛することを夢見てきて、やっとあなたを見つけたわ。それなのに、どなったり命令したり……」
「どなってなどいない! きみの耳が……」彼はガブリエルの耳にキスをした。「敏感すぎるんだよ」
ガブリエルはため息をついた。「こんなふうだとは思っていなかったわ」
「現実はおうおうにして望みと違っているものさ。わたしたちが出会えただけでも幸運なんだ。さあ、ここで荷造りをしたまえ。明日は陸に着く」
ガブリエルは顔を輝かせた。「あなたの住むお城へ行くのね?」
彼の目の奥に、一瞬、不可解な表情が浮かんだ。「言っただろう? 祖父にたてた誓いを達成するまで、戦地が我々の住まいなんだよ、ローラン」
「あなたは何を誓ったの?」
ルーアークは少し当惑した表情を見せた。「誰かに話して聞かせるようなことではないんだ」
「わたしにも?」
「そうだ」彼はしばらくしてからつけ加えた。「きみにはわかるまい。戦士と戦士の間の誓いだ」
「でも……」
「甲板に用事がある」ルーアークはマントをとり、そそくさとキスをして船室を出ていった。
まったく、男のひとというのは! ガブリエルは扉を蹴《け》りたい衝動にかられた。でも、やはり、彼の誓いがなんなのか、知っておく必要はある。わたしの夢をじゃまするかもしれないんだもの。
少ししてルーアークが戻ってきた。あいかわらず、質問はいっさい受けつけないという顔つきだったが、意識はしているらしく、丁重な態度でガブリエルを伴って調理場へ行った。風が強くなったせいで料理を運べないので、皆が代わり合って調理場で食事をしているのだ。
食事のあと、ガブリエルが侍女たちに荷造りの指図をすると言うと、彼はほとんど抱えるようにしてぬれた甲板を通って後甲板へ連れていった。
船室に戻るなり、彼は言った。「あとひと晩だというのに、この荒れ具合だ。風邪をひかないうちにぬれた服を脱ぎたまえ」彼はマントを脱がせ、ドレスの紐をほどきにかかった。
「あなたもよ」ガブリエルも彼の帯に手をかける。
「わたしは上陸に備えてウィリアムと話し合わなくてはならないんだ」ルーアークはあわただしくキスをして船室を出ていった。
ガブリエルはため息をついた。いつか、ふたりの気持がぴったり合うときがくるのかしら? ルーアークと会って以来、わたしは動揺のしどおしだ。愛を宣言されて天にのぼる思いをしたかと思うと、次の瞬間には謎の誓いのせいで絶望の淵《ふち》につき落とされる。
彼女はもう一度ため息をついてからローブに着替えた。
ふたりを隔てているのは彼の誓いとド・ローランの血だけではないわ。ルーアーク・サマーヴィルの妻として平穏に過ごすには、彼の腕にすべてをゆだね、彼の意思に抗《あらが》わないでいることが必要だ。でも、おあいにくさま。わたしは挑戦せずにはいられない性格なのよ。それに、苦労することには慣れているわ。ときには苦労のおかげで、思いがけない賜物《たまもの》がもたらされることもある……。
その賜物のことを考えるとガブリエルのからだはほてった。ひとを愛するというのは、お酒に酔うのと似ているのね。笑ったり踊ったりしたくなる。そして、この喜びを高らかに歌いたくなるんだわ。
彼女は笑みを浮かべ、M・Lの日記を手にしてベッドに座った。
〈一三五四年四月十日
フランスに着いた。わたしは有頂天になっている。ジョーン王妃はわたしをおそば仕えに加えてくださった。これこそ、わたしに運命づけられていた暮らしだ。一週間もすれば、あちこち歩きまわって、宮廷のようすもわかってくるだろう。殿方はきっと、こぞってわたしに求愛するだろう。でも、わたしはいとしいひとを裏切らない。
彼もフランスにいる。黒太子の軍に加わって戦地に。もうすぐ再会できるかと思うと、胸がはずみ、からだがふるえる。陰気な親族に囲まれて暗く憂鬱《ゆううつ》なランスフォード城に暮らしていたわたしにとって、フランスはまるで太陽の光そのものだ〉
ガブリエルはページから目を上げた。ルーアークのまた従妹《いとこ》はボルドーで亡くなったんじゃなかったかしら? なぜ亡くなったかについてはウィリアムが話さなかったとフェリスから聞いている。妙なことに、フィリップもそのことを語るのを避けるのだ。
同じ日付で、追記がぞんざいな筆跡でしるされていた。
〈わたしのいとしいひとは嫉妬《しっと》深い。ある裕福で美貌《びぼう》の持ち主の騎士がわたしに関心を示していて、わたしはそれを楽しんでいるけれど、その騎士といっしょのところを見かけると彼はひどく嫉妬する。嫉妬されるのはうれしいけれど、あの強い所有欲を怖くも感じる。彼にあんなに激しい一面があるなんて知らなかった〉
わたしがほかの男性に目を向けたらルーアークはどうするかしら? そう思うと、ガブリエルのからだはふるえた。
[#改ページ]
11
嵐《あらし》をついての翌朝の船の接岸と荷物の陸揚げ作業は、勇気と忍耐力、熟練の度合いが試される試練の場だった。ガブリエルのマントにも凍てつく西風が吹きつけ、波しぶきが千の針となって頬を打つ。それでも、ルーアークと家臣は昼までにすべてのひとと馬、荷物を無事に降ろし終えた。
「ボルドーでの平和な暮らしですっかりからだがなまってしまったようですわ」ガブリエルの隣に馬を並べて進むフェリスが言った。「ランスフォードのお城までたったの五マイルほどで助かりました」
「なぜそんなことを知っているの?」
フェリスは女主人に推し量るような視線をさっと向けた。「どうかなさったのですか? おふたりは仲むつまじくていらっしゃるように見えましたのに」
「彼はわたしに何も教えてはくれないわ。少なくとも、彼の家族についてと、おじいさまにたてたという誓いについては。ランスフォード城に何が待っていることかと思うと怖いわ」ガブリエルはM・Lの日記の文面のことを考えていた。
「ルーアークさまのご両親はすばらしい方々だとウィリアムさまが言っていました。それから、ルーアークさまには父君のご領地を受け継がれるガレスさま、商船団を率いられるアレクサンダーさまというお兄さまがいらっしゃるそうです」
「どんな方々なの?」
「わたくしが聞いたのは、いまお話ししたことですべてです。そうそう、それから、ルーアークさまはご自身で思っていらっしゃるより、ずっとご家族似でいらっしゃるとか」
「どういう意味かしら?」ガブリエルは尋ねたが、フェリスは肩をすくめるだけだった。「ルーアークが出陣したら、すぐにウィルトンの城へ行きましょう。きっと、そのほうがいいわ」
「まあ、戦いに送り出すのを待つかのようなお口ぶり。ご心配だとばかり思っていましたのに」
「心配はしているのよ」ルーアークに愛していると言ったときには、確かに言葉どおりの気持だった。だが、これだけ根本的なことで行き違いが多いと、ひとつになった気持でいられるのは床のなかだけかもしれないという気がしてくる。もしかしたら、単なる肉体の求めを愛情と勘違いしているのではないだろうか? そのいっぽう、愛し合うたびに思いが強くなっていることも確かだった。そして、彼の思いが、より勝っていることも。
いずれにせよ、彼が死の危険に身をさらして戦うと考えると、耐えられなかった。「戦いに行ってほしくないわ。でも、イギリス人のなかに残されるのもいや。自分の家族と我が家をもつことがわたしの唯一の夢だったのよ」もちろん、夢はそれだけではない。だが、ルーアークと本当の意味でお互いの心を寄り添わせることができなかったら、それで満足しなくてはならないのだ。「結婚生活は、わたしが望んだとおりではないのよ」
「現実は夢のようにはいきません。たとえ完璧《かんぺき》ではなくても、ルーアーク卿《きょう》はすばらしい点をたくさんおもちではありませんか。ハンサムで清廉潔白で、頼りになって、優しくて……」
「子供と馬にはね」ガブリエルがそう言って目を上げると、まだ脚に包帯を巻いたまま馬に乗るアレンにルーアークが笑みかけるのが見えた。「そうね。わたしのだんなさまはかなり秀でたひとかもしれない。でも、やはり男なのよ。そして、戦いとか誓いのような、愚かな男の意地に固執しているの」
「愛はひとを変えるとも言います」
ガブリエルは苦笑した。「努力しているつもりよ。でも、夫の命令に従うおとなしくて柔順な妻でいるのは容易なことではないのよ」
フェリスは笑った。「ガビィさまがおとなしくて柔順な……?」
「彼はそうさせようと努力しているみたいなの。ふたりともむだな努力はしないほうがいいのに。ああ、彼が戦いに行くのをやめてくれさえすれば……」
先頭にたつルーアークがランスフォード城が近いことを告げてまもなく、鬱蒼《うっそう》とした森を抜けたガブリエルの目にランスフォード城の姿が映った。
「まあ、なんだか亡霊でも出そうな……」フェリスがつぶやく。
城は小さな村を見下ろす崖《がけ》の上に黒々とそびえていた。夕闇《ゆうやみ》に浮かぶ城壁が、まるで黄泉《よみ》の国の怒れる神が天に向かってつき上げた巨大な拳《こぶし》のように見える。
列の先頭に来て並ぶようにとルーアークに言われ、ガブリエルはしかたなく従った。
城を囲む壁の厚みが十二フィートもあるところをみると、ランスフォード城は戦いを目的として築かれた城なのだろう。たくさんの弓兵と槍兵《やりへい》が城壁を守り、入り口のアーチの手前と向こう側に、敵の侵入を防ぎ、侵入者を閉じこめる機能をもつ鉄の落とし格子を備えつけている。前庭も武装した兵士でいっぱいだった。ルーアークの軍旗に気づいた彼らは、歓喜の声をあげて集まってくる。
ガブリエルは騒々しさと汗の匂《にお》いに鼻を押さえてルーアークに身を寄せ、二番目の城門塔を通り抜けて中庭へ入った。
百フィートを超す高い円塔が四隅に配されている。その壁に切られているのは窓でなく、矢を射るための細い矢狭間《やはざま》だ。ガブリエルは思った。この城は住まいではない。石造りの大きな要塞《ようさい》だわ。
濠《ほり》からたちのぼる悪臭をこらえながら天守に足を踏み入れると、なかは思ったより清潔だった。かびと煤《すす》の匂いはするが、ボルドーの城よりずっとましだ。少なくとも、石の床に泥が滞積していることはない。
ふたりはほの暗い広間に入った。奥行きは五十フィートほどあるだろうか。湿気をおびた石の壁が年月と煤ですっかり黒ずんでいる。すりきれた軍旗が垂木《たるき》から下げられ、重々しい印象の家具がいくつか置いてあるのが見えた。
「ルーアーク!」
軽やかな女性の声が響いたとたんにルーアークが身を硬くした。奥にある大きな暖炉の前の三つの人影のうち、ひとつが動いてこちらへ近づいてくる。それは深い青のビロードのサーコートを身につけた貴婦人だった。若くはないが美しく、わずかに不安の陰りをおびた温かな笑みをたたえている。
「母上」ルーアークは冷ややかな声で言い、さし出された手の甲に形式的に口づけをした。
その貴婦人――レディ・キャサリン・ド・リヴァーズ・サマーヴィルが淡い灰色の瞳に一瞬、苦悩をにじませるのを見て、ガブリエルはなぜか母のことを思った。
レディ・キャサリンは再び明るく笑み、暖炉の前へ戻っていく。「こちらへ来て何か召し上がれ」
ルーアークが緊張しているのがガブリエルにもわかった。
「心配ない。誰もきみに危害を加えたりしない」
しかし、ルーアークの言葉はガブリエルを不安にさせるばかりだ。歩を進めるにつれて暖炉の火と獣脂|蝋燭《ろうそく》のぼんやりとした明かりに照らされて三人の顔が見えてきた。
年配の男性はルーアークとよく似ている。金髪に白いものが交じっているが、黒い瞳の鋭さと堂々たる体躯《たいく》はルーアークとまったく同じだ。若いほうの男性はほっそりとして夜の闇のように髪が黒く、天使を思わせる顔つきをしている。脚が不自由らしく、左側に杖《つえ》をたずさえているのが見えた。
「母上、父上、ブライアン、こちらが妻の……」
ガブリエルはローランと呼ばれる前に進みでた。「お目にかかれて光栄……」
「ローナ!」
三人が一度に叫んだので、ガブリエルは驚いてお辞儀を途中で止めた。その名前はどこかで聞いたことがあるような気がした。
「そなた、みまかったと聞いていたが」ジェフリー卿が息をのんだ。
「ローナ、あなたなの?」レディ・キャサリンは瞳に涙をきらめかせ、ふるえる手をさしのべる。
ガブリエルはあとずさりして本能的にルーアークに寄り添った。
ルーアークはからだが冷たくなるのを感じた。彼女の信頼を得る前に、恐れていたことが起きてしまった。「つ、妻の名前はローランです」
凍りつくような沈黙のあと、ルーアークのまた従兄《いとこ》のブライアンが足を引きずって近づき、ガブリエルの顎に指をあてて光のほうへ向けた。「ローナと似ているから花嫁にしたのか?」
早急に彼女をどこかへ連れていかなくてはならないとルーアークは思った。「どの部屋を使わせていただけるのですか、母上?」
「以前と同じ部屋よ。でも待って。その前に……」
ルーアークはガブリエルの手をつかみ、広間を出て北の塔の階段を二段ずつ駆けのぼった。
彼女は何も言わない。生気のない目をして、不自然に黙りこんでいるだけだ。
「話を聞いてほしい」彼はガブリエルをベッドに座らせ、隣に腰を下ろして腕に抱いた。
ガブリエルは身をふるわせた。ローナという名前をどこで聞いたか、思い出したのだ。
結婚式の夜、ルーアークが叫んだ名前だった。「誰なの?」
ルーアークは安堵《あんど》の息をついた。少なくとも、彼女は話を聞いてくれるつもりらしい。「また従妹《いとこ》だ。ブライアンの妹で、ふたりは両親を亡くしてここに引きとられた。ローナはわたしと結婚することになっていたが、他界した」
「フルネームはなんというの?」
「マーガレット・ローナ・カーマイケルだ。母親がマーガレットと呼ばれていたので、ローナと」
M・L・カーマイケルがローナ? そう思ったガブリエルの胸を鋭い痛みがつきさした。では、M・Lの恋人はルーアークということになる。そして、彼はわたしがローナと似ているから結婚したのだ。「わたし……なんだか気分が……」
ガブリエルは、彼が急いでベッドの下からとり出した壺《つぼ》に嘔吐《おうと》した。
「きみは疲れているんだ。それに動揺が重なったんだろう」ルーアークは彼女をベッドに横たえて手をとった。「ローラン、わたしは……」
「ひとりにして」
ルーアークは目を閉じた。なんということだろう。両親とブライアンの反応はわかっていたはずなのに、やはり最悪の事態になってしまった。いまは外見が似ていることなど忘れるほどふたりの違いを認識しているというのに。そのことを彼女に知らせなくてはいけない。「話したいことがあるんだ」
「いまはやめて。疲れているの」
「傷ついているんだろう? 説明したい」
「わたし、その方に似ているの?」
「ああ、だが……」
「そう」ガブリエルは唇を噛《か》み、顔をそむけた。
ルーアークは彼女から手を離した。しばらくして息遣いが静かになったので、眠ったことがわかった。彼は、まるで我が身が引き裂かれるかのような痛みを感じながらガブリエルの顔を見つめていた。こういう思いをするのは、五歳で両親に祖父のもとに置き去りにされたとき以来だ。その後、自分を御する技を学んできたつもりだったが、ローランに拒絶されたら、どうしたらいいのかわからない。あきらめるのはいやだ。彼女はわたしの妻なんだ。しかも、わたしを愛してくれている。
明日になったら説明する方法が見つかるかもしれないとルーアークは思った。
ガブリエルは眠っていなかった。彼に見つめられていると思うと、からだじゅうの神経が張りつめた。ローナに似ているから結婚したという事実を知りながら彼を愛し、彼のそばにいることなどできない。ここを出る方法を考えなくては。
ブライアン・カーマイケルはひとり厩《うまや》の外壁に身をもたせかけ、馬に乗ったルーアークらが武術の訓練を行うのを見ていた。こうしていると、目は憎しみに燃え、唇は嫌悪にゆがむ。
ルーアークと再会したら自責の念にかられるかと思ったが、そうでもなかった。おかげでこのまま計画を進められる。すでに、引き返すには遅すぎるところまできているのだ。
ルーアークは夜明けとともに馬に乗り、サマーヴィルの家臣たちの気概と技量を確認しはじめた。過酷な戦いの日々を過ごしてきたはずなのに、たくましい体躯には少しの陰りも見えない。
わたしもあの事故があるまではそうだったとブライアンは思った。
「わたしの兵士たちをどう思う?」馬から降りたルーアークが、召使いがさし出した布で顔の汗をぬぐいながら尋ねた。
ブライアンは柔和な笑みを作った。「彼らなら一瞬のうちにハーコートを倒せる。わたしも馬に乗って軍に加われたらと思うよ」少なくともこれは嘘《うそ》ではなかった。そうできたら、ルーアークと一対一で戦い、必ず倒してみせるものを。それが不可能だと知っているから、別の復讐《ふくしゅう》の仕方を探すのだ。
ルーアークはばつが悪そうに、折れ曲がったまた従兄の脚から、剣と盾を手に訓練にはげむ兄のガレスのほうへと視線を投じた。
自分の所行が見るに堪えないとでも言うのか? ブライアンは心のなかで言い捨てた。
「ガレスの戦い方はまるで農民だな」
「そうでないなら、ジェフリー卿がきみを呼び寄せるわけがないだろう?」
ブライアンの毒舌はあいかわらず健在だ。「たしかに」ルーアークは苦笑した。彼は、まだ父と話していなかった。だが、父との間がそう簡単に変わらないことも承知している。「アレックスはどうしている? アレックスのこととなると、なぜ皆、口を閉ざすのだ?」
「アレックスはガレスに女をとられたといって、怒って城を出た」
「まさか、ガレスがアレックスから?」
ブライアンはうなずいた。「彼が結婚したいと思っていたレディ・エミリーが、ガレスと婚約した」
父ジェフリーに似て温厚なガレスがそんなことをするとは、ルーアークには信じられなかった。
「女といえば、花嫁殿はどうしている?」
ブライアンに尋ねられて、ルーアークは血が凍る思いがした。妹が座るはずだった座にほかの女性が座るのを見るブライアンは、さぞつらいだろう。「わたしが起きたときは、まだ眠っていたが」
「よほど柔順な女性とみえるな。たぶん、頭がよくて、きみを怒らせないのだろう」ブライアンはふたりが共有する悪夢のなかにルーアークを残したまま脚を引きずって去っていった。
フェリスはガブリエルの部屋をめざして階段を駆けのぼった。「ガビィさま、もっと早く来ようと思ったのですが、ウィリアムに止められて。おかげんはいかがです?」
「なんとか生きているわ」ガブリエルは青い顔でローブの袖《そで》に腕を通した。
フェリスは目に涙をためた。「ご結婚にいたった理由はどうであれ、ルーアーク卿はいまはガビィさまを愛していらっしゃるのですから」
ガブリエルはフェリスの優しさがかえってつらく感じられて壁に作られた矢狭間に近づき、細い隙間《すきま》から訓練する男たちを眺めた。「いつ、出陣するのかしら?」
「明日だそうです」
明日にはルーアークの身が危険にさらされる。そう思っただけでからだがふるえた。何を心配しているの? 彼のことなど放《ほう》っておけばいい。いくらそう言い聞かせても、深まるいっぽうの彼への愛に胸がしめつけられるように痛む。
「皆のようすは? ウィルトン城へ旅立てるかしら?」
「ガビィさま、まさか……」
「ここにはいられないわ」
ガブリエルの白い顔を見て、フェリスは反論するのをやめた。「何をいたしましょう?」
「ウィルトン城の場所をきき出してちょうだい」ガブリエルは静かに言った。フランスでさえ旅には危険が伴うのに、ここは野蛮なイギリス人が住む見知らぬ土地だ。しかし、これ以上ローナの亡霊が住む城にいるのもいやだった。「ランスフォード城の見張りはどの程度かしら?」
「ご自身で確かめられたほうがいいでしょう」
ガブリエルは急いで服を着て、フェリスとともに暗い城のなかを歩きまわった。出会った者は誰も彼女を止めなかったが、一様に驚いて青ざめ、そそくさと去っていく。
「ランスフォード城に亡霊が出るのだとしたら、それはわたしのことだわ」
「ガビィさま……」
「気にしないで、フェリス。わたしはだいじょうぶよ。過去は忘れ去るのが一番いいのよ」
どの衣装箱にも物がつめられ、食料が蓄えられ、武具は皆、磨き上げられている。
「代々のサマーヴィルの人々は、城を住みやすくするより戦いに備えるほうに関心があったみたいね」前庭に出たガブリエルはまぶしさに目を細めながらささやいた。「石灰塗料を塗れば、壁も見違えるようになるのに」
だが清潔さでは劣るものの、守備は驚くほど堅固だった。「これでは鼠《ねずみ》一匹、通り抜けることはできないわね」ふたりは北の塔の階段をのぼった。
「ルーアークさまにウィルトン城でお帰りを待ちたいとおっしゃったら案内してくださるのでは?」
「しっ!」ガブリエルは慌てて部屋の扉をしめた。「ルーアークはきっと、ここにいるほうが安全だと言うわ。それに……」
そのとき、勝利の前祝いの宴を知らせる鐘が鳴った。
「この話はまたあとにしましょう。着替えを手伝ってちょうだいね。エメラルド色のサーコートがいいわ」ガブリエルはドレスの紐《ひも》をほどきながら言った。
「お席につかれるのですか?」
「しかたがないもの」ローナの親族の好奇の目、とくにブライアンの菫《すみれ》色の目にさらされながら食事をすると思うとぞっとするが、ここにひとりでいるよりましなはずだ。
ルーアーク――いったい、どういうひとなの? ひとりにさせられるたびに彼への思いが燃え上がる。わたしを包むもろい鎧《よろい》はいつまでもちこたえられるのかしら。
ルーアークとガレスの間の席についたガブリエルは眼前の光景に目をみはった。
ジェフリー卿の招集に応《こた》え、旅装束に身を固めて一堂に会したサマーヴィルゆかりの男たちが大きな広間にあふれ、笑い、叫び、背中をたたき合っている。すでに三つほどいさかいが起こり、まわりに押さえられた。肩を組んで歌を歌っている者もいる。
ガブリエルは彼らの屈託のなさに奇妙な憧《あこが》れを感じた。良きにつけ悪《あ》しきにつけ、なんと心地よさそうに感情をぶつけ合っていることだろう。
自分たちの食卓のようすをそっとうかがうと、レディ・キャサリンがジェフリー卿に熱心に話しかけてはルーアークに視線を注ぐのが見えた。ふたりの間を修復しようとしているのだろうか? もしジェフリー卿がその石のような表情のとおりのひとなら、頑強なことにかけては息子にひけをとらないだろう。しかも、しつこく話しかける妻にどなりも手を上げもしないところを見ると、驚くべき寛容な人物であるらしい。
ガレスはずっと婚約者と話していたが、やおら席をたった。「失礼、レディ・エミリー。ちょっと話をしなければならない相手がいる」
彼が立ち去るやいなやレディ・エミリーはため息をつき、あいた席ごしにガブリエルに話しかけた。「ガレスはまじめすぎるわ。でも、爵位を継ぐのは彼でしょう? 宝石の趣味もいいし、領地の話を始めない限り、そこそこに楽しませてくれるの」
ガブリエルは眉根を寄せた。彼女はガレスが嫌いではなかった。彼の領地に対する愛情もルーアークの戦への執着よりむしろ好ましいと思う。あの繊細で知的なガレスがなぜエミリーのような軽薄な女性を妻にしようとしているのだろう? この金髪の華奢《きゃしゃ》な娘は食事の間じゅう、宝石の話をしていた。これではまるでM・Lのようではないか。
「もう少しでアレクサンダーと結婚するところだったの。彼が次男だと気づいてよかったわ」
「食べないのかい?」ルーアークが尋ねた。それはさっき広間に入ってきたガブリエルを暗い瞳で迎えたきり、石像のように黙して隣に座っていた彼が初めてかけた言葉だった。
ガブリエルはナイフをもち、焼きすぎてソースも多すぎる豚肉を敷きパンに取ってみたが、とても食べる気にならなかった。
「おいで。わたしたちはもう充分食べたようだ」ルーアークは彼女の手をつかんで立ち上がり、歩きはじめた。
「もっとここにいたいわ」むろん、本心ではない。彼とふたりきりになるのがいやなのだ。
「話し合っておくことがある」ルーアークは広間を出、ふたりの部屋に入って扉をしめた。彼女を炉辺の椅子に座らせ、自分もかたわらの椅子に腰を下ろした。
彼がため息をつき、目頭を指で押さえるのを見て、疲れているのだろうとガブリエルは思った。もう少しで同情してしまいそうな苦悩の表情だ。
「初めきみに惹《ひ》かれたのは、きみがローナに似ていたからだった。それは事実だ。だが、そのあとでいかに違うかを知った。ローナなら、わたしの兵に命じて何かさせたり、わたしに反抗したりしなかったはずだ」ルーアークはわずかにほほえんだ。「いま思えば、そのうちに退屈したかもしれない。だが、きみは何ごとにも挑む、気概のある女性だ」瞳に温かいものが宿っている。
「つまり、戦いに連れていくのに便利だということね。わたしは戦いはきらいよ。平和に暮らしたいの。城の女主人として」
ルーアークはため息をついた。「わたしが誓いを達成したあかつきにはそういう日もこよう。出発は明日の朝だ。きみの荷馬車をいくつか残していかなくてはならないが、ここなら安心だ」
「わたしは行かないわ」ガブリエルはきっぱりと宣言した。
ルーアークは驚いて目をみはった。「行くんだよ。わたしの妻なんだから」
「いやよ」
ルーアークは彼女のかたわらに片方の膝をつき、手を握った。「お願いだ。説明すれば、わたしが愛しているのはきみだとわかる」
「やめて! わたしは残るわ」
彼は燃えるような瞳でガブリエルを見つめた。「きみもわたしを愛しているんだろう?」
「愛していたわ。過去のことよ」ガブリエルは手を抜きとって立ち上がった。「あなたを信頼したわたしが愚かだったの。あなたもほかの男のひとと同じ。自分の傲慢《ごうまん》な望みのために女を利用することしか考えていないのよ」矢狭間のところまで歩いていき、ごつごつした石の壁に背中をもたせかける。「わたしは、これ以上あなたに……利用されないわ」
ルーアークはゆっくり立ち上がった。彼女の言葉の重みがのしかかってくる。彼の瞳に孤独に生きてきた者の痛みと悲しみが満ちていった。
彼はわたしを求めている。そう思ったガブリエルのからだはふるえた。
ルーアークは手を広げた。「ローラン……」
「ガブリエルよ。わたしの名前はガブリエルよ!」彼女はいたたまれなくなって叫んだ。
部屋を静寂が支配した。
「嘘をついていたのか?」
「いいえ」
「ローランだと言ったではないか?」
「ミ、ミドルネームがローランなの。言葉の違いのせいで、あなたが聞き間違えたのよ」
「どうして訂正しなかった?」
どう答えたらいいのだろう?「なんだか……なんだか恥ずかしくて……」ああ、妙な言いわけだわ。
「恥ずかしくて、だって? 兵士たちの服をはぎとったきみが?」
ガブリエルは頬を染めたが、ルーアークが近づいてもその場を動かなかった。彼女は嘘をついている、と彼は思った。理由はいずれわかるだろう。ふたりの間がこんなにも不安定なのに、いま無理強いをしたら出ていってしまうかもしれない。
ルーアークはあとずさりした。つらいことだが、彼女に時間を与えなくてはならない。「わたしは怒っているのではなく、驚いているのだ。きみが残ることを望むのなら、母にあずけていこう」
ガブリエルは冷ややかな目で見つめ返すだけで何も言わない。ルーアークはため息をついて戸口へ向かった。「戦いから戻ったときに真実を語ってくれることを期待している。
それから、明日の朝、普通の妻のようにキスをして見送ってくれることも」
扉がしまったとたんにガブリエルはしゃがみこんだ。わたしはなんということを言ってしまったのだろう。秘密に触れずに、どうやって弁解すればいいの?
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12
ガブリエルは見送りに行かなかった。ルーアークもまた、部屋へ来なかった。細い矢狭間《やはざま》から見下ろすと、前庭に集う兵士たちのなかに彼の姿があった。彼は馬に乗る前に、淡い朝の光のなかで一瞬、北の塔を見上げたが、兜《かぶと》のせいで表情はわからなかった。
ガブリエルは蹄《ひづめ》の音と武具が触れ合う音が聞こえなくなるまでその場にじっとしていて、それから、階下に下りた。ルーアークが行ってしまったと思うと奇妙な喪失感が襲ってくる。本当に愛されてもいないのに彼を愛したわたしがいけないのだ。これもド・ローランにかけられた呪《のろ》いのせいかもしれない。
「いっしょに朝食をとらないかい?」ブライアン・カーマイケルが優しく尋ねながら近づいてきた。「ほかの者は皆、戦士たちの無事を祈りに礼拝堂へ行ったんだ」
フェリスもウィリアムのために祈っているのだろう。ガブリエルはしかたなくブライアンと同席することにした。落ち着かない気分になるのは、彼の妹の日記を読んだ罪悪感のせいだろうか。
料理が運ばれてきたが、少しも食べる気がしなかった。
「気に入らないならほかの料理を運ばせるよ」彼女が焼き林檎《りんご》をもてあましているのを見てブライアンが言った。「さっきは見送りに下りてこなかったね」
ガブリエルは皿にスプーンを置いた。「ええ」
「ローナの身代わりにされたことを怒っているのかい? それでサマーヴィルの逆鱗《げきりん》に触れて殺されでもしたらつまらないよ」
「少し、お口がすぎるんじゃなくて?」
「事実を言っているまでさ。きみはルーアークを愛しているのかい?」
ガブリエルは警戒しはじめた。「わたしたちは知り合ってからまだ間がないから」
ブライアンはほほえんだ。「きみが自分の視点をしっかりもっているひとでよかった。ルーアークは女性につらくあたることがあるだろう?」
「妹さんのことを言っていらっしゃるの?」
「そう。妹とは仲のいいきょうだいだった。彼女に起きたことを思うと、いまでも……」ブライアンは杯を握りしめた。苦悩に顔がゆがんでいる。
やはり彼に日記を渡すのはやめようとガブリエルは思った。そんなことをしたら、ブライアンの悲しみを強めるばかりだ。「お気の毒に。お若くして亡くなられたのでしたわね」
ブライアンの顔に影がよぎった。「殺されたんだ」
「殺された?」ガブリエルの肌が粟立《あわだ》った。「誰に?」
ブライアンは答えないが、意味ありげに目を光らせた。
「まさか、ルーアークが?」
ブライアンは息をついた。「彼はローナに執着していたが、ローナは、結婚相手には領主の三男では不服だと思っていた。ローナはボルドーでたくさんの男から求愛された。彼女がほかの男と親しくしているのを見て怒ったルーアークが、有無をいわさず翌日結婚すると言い渡した」
ガブリエルはうなずいた。強引な彼ならそうするかもしれない。でも、殺人というのは……。
「ローナは動揺して侍女たちを連れて黒太子の城を出てペリギューの修道院へ向かった。ルーアークが次に出陣するまで身を隠そうと思ったのだろう」
わたしと同じようなことを考えたのだ。ガブリエルは耳をおおいたい気分だった。
「わたしはそれを聞いてすぐにあとを追い……」彼は目を閉じた。「小さな草地の倒木に頭をのせて横たわるローナを見つけた。初めは休んでいるのだと思ったんだ。だが、近づいてみると、あたりは血の海で……」
「盗賊のしわざでは?」
「いや。宝石はそのままだったし、馬も近くにいた。憎しみによる殺しだ。何箇所も刺されていた」
ガブリエルは息をのんだ。「ルーアークは?」
「彼がわたしを見つけたんだ。わたしは血の海から――悲しみから夢中で逃げ出し、めちゃくちゃに馬を走らせて馬ごと崖《がけ》から落ちた。どのくらいたったかわからないが、気づいたときには脚がこのとおりだった。そして、服と剣に血糊《ちのり》をつけたルーアークが近づいてくるのが見えた。彼はローナの服をはごうとしていた盗賊らしき男五人を切ったと言った」
「ルーアークの言葉を信じていないの?」
「ローナを殺した者がわたしに気づいて身を隠し、あとで目当てのものを取りに戻ったということも考えられるだろう。わたしにはわからない」
そうよ。きっとそうに違いないわ。「脚のことは、本当にお気の毒に」
「ああ」彼は自分の脚に視線を投げた。骨が複雑に折れて、元に戻らない――そういう骨折だったことがガブリエルにもわかった。
ブライアンは寂しげに笑った。「しばらく熱にうなされてから、イギリスに戻る船に乗せられた。もう戦士として役に立たないので、レディ・キャサリンのもとで過ごすほうがいいとルーアークが判断したんだ。用無し扱いさ」彼は杯を一気に飲みほし、音をたてて置いた。「きみがまだルーアークの魔力にとらえられていなくてほっとしたよ。彼は粗暴なくせに女性には、妙な力をおよぼす。もっとも、サマーヴィルの男たちは皆そうだが」
それは否定できなかった。いままで何度、魅了されたことだろう。でも、力を使うこともできるはずなのに、どんなに怒らせても、彼は一度も手を上げなかった。昨夜ですら……。
「おはよう、ローラン」レディ・キャサリンが背後から声をかけた。「あら、ごめんなさい。あなたはガブリエルと呼ばれるほうが好きだとルーアークが言っていたのに」そう言ってからブライアンに向き直り、優しくほほえむ。「新しい家族にさっそくサマーヴィル家の内幕をふきこんでいるの?」
「警戒は警備なりといいますからね、レディ・キャサリン」
「少しお酒を飲みすぎたようね、ブライアン。眠ったほうがいいわ。そうでないと、明日、ホルトンヒースへ戻る道中がつらいわよ」
レディ・キャサリンの鋭い瞳の輝きがガブリエルをはっとさせた。
ブライアンは肩をすくめ、ふたりに挨拶《あいさつ》をして、脚を引きずりながら去っていった。
レディ・キャサリンが立ち上がろうとしたガブリエルの腕を押さえた。「ちょっと待って。少しおしゃべりをしましょう」
ガブリエルは眉根を寄せた。「わたしは……」
「ランスフォードを出てどこへ行くつもりなのか、それから話してちょうだい」レディ・キャサリンの優しい声には鋼が隠れていた。
「なぜ……?」
レディ・キャサリンは笑った。「ジェフリーは、わたしは頭の後ろにも目があって、耳は臭《ふくろう》のようだと言うけれど、本当は、あなたの侍女がこっそり旅支度をしているのに気づいただけなのよ」
「お止めになってもむだです」
レディ・キャサリンは楽しそうに目を輝かせた。「男たちが戦いに出ていき、城を守るのにか弱い女がひとり残されたから?」
「そんなところです」
「あなたはか弱い女かしら?」
「いいえ。自分のことは自分でできます」
「それはけっこうね。あなたの侍女もそう言っていたわ。あら、彼女たちの忠誠を疑わないでね。秘密をもらしたわけではないから。ただ、あなたのすばらしさを語ってくれただけなの。末の息子が有能な花嫁を選んだことを知ってうれしいわ」
「彼が選んだのはわたしではありません」
レディ・キャサリンは顔をくもらせた。「どういうことにせよ、ルーアークは幸運な子よ。わたしは従妹《いとこ》の娘であるローナを愛していたけれど、あの娘はサマーヴィルの妻にはふさわしくなかったわ」
「わたしはふさわしいとお考えなのですか?」
「ええ」レディ・キャサリンは夢見るような瞳を向けた。「あなたは生き生きしているもの。そして、あなたを見るルーアークは、まるで出会ったころのわたしを見るジェフリーのよう。自信と傲慢《ごうまん》、女性に対する所有欲、保護欲が混ぜ合わされているのがサマーヴィルの男たちの魅力よ。わたしはたちまち魅せられてしまったわ」
ガブリエルは頬が熱くなるのを感じた。
「あら、強引に話をしてしまって、ごめんなさい。長い間に、わたしもサマーヴィルの気質に染まったようね。つまり、ルーアークが愛するひとを見つけてくれて本当にうれしいと言いたかったの。ガレスはわたしに似て領地を愛し、アレクサンダーはジェフリーに似て学問を、そして海を愛しているわ。でも、ルーアークはわたしたちに捨てられたという気持を抱えたまま……」
ガブリエルはルーアークの話を聞きたくなかった。「失礼ながら、用事がございますので」
「そうね。ルーアークのことは、また今度話しましょう」レディ・キャサリンの洞察力はガブリエルを驚かせた。「あなたのことを話してちょうだい。それから、ご家族のことを。フランスのアルルの姫君がどうしてヒースの茂る土地へやってきたかを」
ガブリエルは話しはじめたが、レディ・キャサリンが相手ではまるで流砂を踏むようで、少しも油断できなかった。「母は……スコットランド人でした」父は資産めあてで力ずくで母エルスベスと結婚したが、その資産も母がガブリエルを産んで他界するとともに失われた。
「わたしにもスコットランド人の血が流れているのよ。お母さまはお亡くなりになったの?」
「はい。両親とも」
「そう。ご家族はほかにいらっしゃらないの?」
「ええ、ひとりきりです」
「それなら、わたしたちの家族にあなたをお迎えしても問題はないのね?」レディ・キャサリンは目を輝かせ、召使いにワインを運ぶよう合図した。
「わたしたちの?」
「サマーヴィルの者は少し威圧的なの。わたしも結婚したてのころは一族の集まりが苦手だったけれど、少しずつ受け入れてもらったわ。怒りっぽく見えても、実は優しくて感じやすいひとたちなのよ」
優しい? ガブリエルは喉まで出かかった異論の言葉をワインで飲み下した。
「そうそう、忘れていたわ。あなたはルーアークとの問題から逃げたいのだったわね」
「逃げてはいません!」
「ええ、わかっていますよ」
「わたしが出ていくのを妨げるおつもりですか?」
「ド・リヴァーズの娘のわたしをみくびらないでね。ジェフリーは書物と統治に情熱を捧《ささ》げているから、ランスフォード城内のことはわたしに任されてきたの。それに、領民はとても忠実よ。わたしの許可なく出ていこうとしてもむだですよ」
ガブリエルはほっそりとしたレディ・キャサリンを見つめた。「サマーヴィル家の冷酷さがルーアークに受け継がれているのだとは、思いたくありませんけれど」
レディ・キャサリンは笑った。「あなたをますます好きになるわ。美貌《びぼう》と勇気と知性をかねそなえているのね。それから、スコットランド魂も」
ガブリエルはレディ・キャサリンに惹《ひ》かれていく気持を否定した。サマーヴィルの人間に好意をもってどうするの?
「まだ、心を開いてくれるつもりがないのね。いいわ。でも、わたしは、あなたがこのランスフォード城を出てさまようのを認めるわけにはいきません。何かあったらルーアークがわたしを許さないでしょうからね。そこで、どうかしら? ウィルトンに父がルーアークに遺《のこ》した城があるのよ」
ガブリエルが身をのり出したので、レディ・キャサリンはほほえんだ。
「ルーアークは数回しか戻っていないけれど、父の代から戦利品を保管しているわ。もし侍女たちが言うように、あなたが城を居心地のいい住みかにする意思をおもちなら、少し荒れているのでたいへんだと思うけれど、ウィルトンへ行きますか? ウィルトンにとどまり、フランスへ逃げ帰らないと約束してくれるなら、護衛をつけて送り届けましょう」
「ルーアークはウィルトンが嫌いなのですか?」ガブリエルは呆然《ぼうぜん》としながら尋ねた。
「あの子は家族や財産に執着がないのです」レディ・キャサリンはため息をついた。「わたしの父には息子がなかったので、孫のルーアークを自分の思うとおりに育てたのでしょう。ガブリエル、あなたの結婚生活をおびやかすものはローナの亡霊ではなく、ルーアークの戦いへの執着かもしれないわ。そして、あの子がわたしの父にたてた誓いかも」
「どういう誓いなのでしょう?」
「あの子は決して明かさないでしょうね。わたしたちを愛してくれていることにかわりはないと信じているものの、父のもとにあずけて以来、なぜかよそよそしく感じられて。ジェフリーの平和を重んじるやり方があの子をいらだたせるのでしょう。きっと、戦いが好きなのね。父がそうであったように」
翌朝、ガブリエルは日がのぼるのと同時にウィルトンへ向かって出発した。レディ・キャサリンはできれば同行したいと言ってくれたが、結局、用事があってランスフォードを離れることができなかった。
代わりに送るのを買ってでたのは、武装した三十名の家臣を連れてウィルトンから五マイル先にある自分の城ホルトンヒースに戻るブライアンだった。
ブライアンはいままでのところ、ガブリエルと同じく、緑の野のいぶきを吸い、明るい葉の輝きと花々をちりばめた草地に目を遊ばせることに満足し、昨日の陰気な気分を忘れているようだった。
やがて、ブライアンが口を開いた。「サマーヴィルはもうハーコートとぶつかったと思うかい?」
ガブリエルは思わず身ぶるいした。父が死んだときの戦いが脳裏に浮かぶ。「戦いにはならないかもしれませんわ。ガレス卿《きょう》が、ジェフリー卿がウィンチェスター伯爵になられてからは、両家の間に実戦はなかったとおっしゃっていたもの」
「ガレスか。あの臆病《おくびょう》者め。跡継ぎの身でありながら、なぜ率先して戦わん。わたしに彼の脚があったら、戦陣に加わっているものを」
「女を送り届ける役目などしないで?」
「いや、きみの安全はわたしには重大事だ。それはわかっているだろう?」
「この両家の争いについて教えてくださらない?」
ブライアンは皮肉な笑みを浮かべた。「勝手に愚かな争いを続ければいいんだ。三百年ほど前、イギリスに渡ったウィリアム征服王が、互いに縁戚《えんせき》関係にあるふたりの若者に、ソールズベリ近くの重要な城の攻略を命じた。戦利品は分け合うようにということだった。ふたりは軍を率いてたちまち城を攻め落とし、戦利品の分配にかかった。ところが、城にいた姫君を見たサマーヴィルは――くしくもルーアークという名だったが――ひと目で彼女に惚《ほ》れこんだ。ハーコートは姫君をも平等にふたりのものとするべきだと主張したが、サマーヴィルは、自分の女にほかの人間が触れるなどとんでもないと逆上し、彼女をさらって逃げた。ハーコートはそれを不服として主《あるじ》に訴えた。それがことの起こりだ」
「逃げたふたりはどうなったの?」
「姫君は当然のように、サマーヴィル一族特有の魅力にころりといった。彼女はそこから三十マイルほど離れた場所、現在のランスフォード城があるところに砦《とりで》をもっていて、サマーヴィルはそこに兵を集めてハーコートの襲撃に備えた。やがて、サマーヴィルは姫君とウィンチェスター伯の爵位を、ハーコートはウィンチェスターの城を得よというウィリアム公のお沙汰《さた》があった。いまもサマーヴィルはランスフォード城に住んで妻と平和に暮らすことに満足し、ウィンチェスター城をハートコート≠ニ改名したハーコートは、より多くの領地と城を獲得しようとやっきになっている。本当は爵位もほしいのだが、それを公にする勇気をもたない臆病者なのさ」
「ジェフリー卿が平和を愛する方で、ハーコートが臆病者だとしたら、どうしていま突然、争いが表面化したのかしら?」
一瞬、奇妙な表情がブライアンの顔に浮かんで消えた。目はあいかわらず熱をおびて光っている。「ハーコートの現領主のエドマンドが祖先より少しずるくて行動力のある男だっただけだよ。サマーヴィルの農地を襲って作物を焼き、農民を殺しておいて、サマーヴィルが報復を理由に攻撃するために自分でしたことだと国王に嘘《うそ》をついた。だが、農民が見ている。ジェフリー卿は、ここで止めないとランスフォード城も包囲されかねないと判断したんだ」
「それでルーアークが呼び戻されたのね」
「そうだ。さあ、ごらん、あれがウィルトンだ」
ブライアンが示した先を見たガブリエルは落胆した。荒れているなどというなまやさしいものではない。ウィルトン城はほとんど廃墟《はいきょ》に近かった。
夕闇《ゆうやみ》迫る時刻だというのに塔に明かりひとつ見えないし、高い城壁の上には見張りや槍兵《やりへい》の人影もない。ブライアンが城門塔に到着を告げてから長い間待って、落とし格子がきしみながら上げられた。
ガブリエルは城門をくぐって広い前庭に入った。周囲をとりまくあばら屋はかつて厩《うまや》や兵舎だったのだろう。中庭の奥の城壁の近くに厨《くりや》の建物があった。屋根より高く積まれた厨芥《ちゅうかい》にうずもれて暮らしている豚の一家だけが、この城に生活が営まれている証《あかし》だ。ガブリエルは呆然とした。レディ・キャサリンに聞いてはいたが、まさか、これほどとは。
くずれかけた階段をのぼって広間に入ったガブリエルはその場に立ちつくした。それは、まるで洞穴のようにぽっかりと口を開けた暗い部屋だった。腐った食べ物とすえたエールの匂《にお》いがたちこめている。目を凝らしてみると、奥の炉辺に男がひとり座っていた。両方の膝にそれぞれ女性をのせている。
あれが城代かしら? なんということだろう。ガブリエルは怒りにつき動かされてつかつかと歩み寄った。「ここで何をしているのです?」
「大声を出すなよ!」男が女の喉元から顔を上げた。女たちは上半身の肌をほとんどあらわにしている。そして、男の顔はルーアークにそっくりだった。
でも、ルーアークではない。一度止まりそうになったガブリエルの心臓が再び動き出した。このひとはルーアークよりひとまわり小柄だし、もっと柔和な顔をしている。肩までの長さに切りそろえた金髪もルーアークとは違うわ。
「いいところに来た。退屈しかけていたところなんだ」彼はふたりの女を押しやり、手をのばした。
飛びのいたガブリエルは、遅れてきたブライアンに抱き止められた。「アレクサンダー!」
「じゃまをするな、ブライアン。先に目をつけたのはわたしだぞ」
「何を言っている、アレックス。これはルーアークの奥方だ」
ガブリエルは、またローナと似ていると言われると思って身を硬くした。
「ふむ、ルーアークの? ガレスはもうエミリーと婚礼を挙げたのか?」
「それでここに来て、お酒と自己|憐憫《れんびん》にひたっていらしたの?」ガブリエルは女たちを一瞥《いちべつ》で下がらせて言った。「レディ・エミリーには、あなたがそんなに悲嘆にくれる価値はないわ」
「彼女の話はしたくない」
「ええ、話題にする価値もないでしょう。でも、兄弟のいさかいの種となると話は別です」
「わたしの兄弟はハーコート討伐にでかけているルーアークだけだ」
ガレスも、こういうアレックスを相手にするならハーコート討伐に加わったほうが楽だったかもしれない。サマーヴィル家はどうなってしまうのだろう、とガブリエルは案じた。そして、ルーアーク――彼の身に何も起こらないといいけれど。
四日目の朝、ガブリエルは疲労感に包まれて目覚めた。夜明けから日没まで働きつづけているのに、城の状況は少しも改善されたように見えない。
もっとも、六人の女と脚の不自由な少年ひとりにできることなど、最初からたかが知れている。レディ・キャサリンが遣わしてくれた衛兵に床を磨けとは言えないし、もともといる召使いたちは仕事が遅くてほとんど役に立たなかった。
ガブリエルはうめき声をあげて寝返りを打った。こんなことなら、ブライアンの助力の申し出を受けておけばよかったわ。でも、意地でも独力でやりとげなくては。英語しか話せないむっつりした召使いばかりだと思うと無力感が押し寄せる。唯一の慰めは通訳を引き受けてくれた村の司祭だが、彼も優しいひとではあるものの、相当なのんびり屋だ。
事態をさらに悪くしているのは彼女自身の寝不足だった。忙しい日中はさほど思うわけではないのだが、夜になると必ずルーアークが夢に現れる。
あるときはベッドのなかで愛を交わしている夢を見てひとり目覚める。またあるときには無事ウィルトンに凱旋《がいせん》したルーアークが城を居心地よくした彼女をねぎらい、片膝をついて許しを請い、ずっとここに暮らそうと誓う。目覚めると、頬をぬらす喜びの涙が苦いものに変わり、幸福が夢にすぎなかったことを思い知らされるのだった。
ガブリエルはよろよろと起き上がった。木の床が足に冷たい。時間がないわ。冬になる前に広間の屋根を葺《ふ》き替え、納屋を建て直さなくては。費用はどうしよう? 父オーデルのお金はいままでに食料を買い入れたり、召使いたちの服装を整えるのにほとんど使ってしまっている。
冷たい水で洗顔をすませて広間に下りたが、そこには誰の姿も見えなかった。上の階の部屋はまだ手をつけてもいなかったが、少なくともここの床だけはきれいにして新しい灯心草をまき終えている。
フェリスの名を呼んだが、返事をするのは虚《うつ》ろなこだまだけだった。彼女は広間を抜け、空の食料庫の前を素通りして階段をおり、中庭へ向かった。
床と壁は磨いたが、炉にこびりついた油脂の匂いがまだ鼻をつく厨。ここにも誰もいない。
どうしたのだろうと不安になりはじめたとき、菜園のほうから声が聞こえてきた。人々が片すみに集まって騒いでいる。「何があったのですか?」彼女はサイモン神父に尋ねた。
心配そうな顔をした神父の通訳の助けを借りて料理番のメイヴが訴えた。「レディ・ガブリエル、孫娘が古井戸に落ちて……」
のぞきこむと、井戸の底に小さな白い顔が見えた。横たわったまま動かない。
「この井戸はいつから使っていないの? なぜ、蓋《ふた》をしておかなかったのです?」
召使いが二年前から使っていないと答える。
ガブリエルは命じた。「綱をかして!」
そのとき、城代のウォルターが姿を現した。「レディ、たかが使用人の子供のことですよ」
ガブリエルは怖い顔で詰問した。「なぜ井戸に蓋をしなかったのです?」
「わ、わたしは……」ウォルターは額に汗を浮かべてのどぼとけを上下させた。
「いいわ。あなたの責任ではないんですもの。あなたがもう少し細かったら、井戸に下りてもらうんだけれど。ドナルド?」彼女はレディ・キャサリンに遣わされた衛兵隊長を呼んだ。
「はい、ここに、レディ・ガブリエル」
「わたしが井戸から出てくるまで、マスター・ウォルターを見張っていてちょうだい。少し、ききたいことがあるの。それから、兵士に剣の手入れをさせてね。腐った木を切り倒さなくてはならないから」ガブリエルは召使いたちを見わたし、神父に頼んだ。「いまのことを皆に伝えてください」
彼女はウエストに綱を巻きつけ、束になったほうをドナルドの部下にわたした。
下りはじめてみると井戸は思ったより狭かった。ところどころの突起に腕がこすられるのもつらかったが、それよりも苦痛なのは闇だった。子供のころ、子供っぽいいたずらをするたびに、罰として父に何時間もチェストに閉じこめられた恐怖がよみがえってくる。
底に足がついたころには、めまいがして、からだじゅうがふるえていたが、ガブリエルはかがみこんで子供のようすを調べた。頭にこぶがあり、かすり傷がたくさんできているが、骨は折れていない。彼女は子供に綱を結びつけて、引き上げるよう合図を送った。
子供のからだが上がっていき、ひとりになった彼女は襲いくる恐怖と闘った。やがて、再び下りてきた綱の端をふるえる指で自分の腰に巻きつけた。地上に出るまでの時間がひどく長く感じられる。人々の手に助け上げられたとき、ガブリエルは涙が出そうになるほどほっとした。
フェリスが泣きだした。「ガビィさま! 狭くて暗い場所は昔から苦手でいらっしゃるのに」
メイヴも膝に抱きついてすすり泣く。
サイモン神父が説明した。「感謝しているのですよ。娘がこの子のお産で死んだので、彼女にとって、ただひとり残された家族なのです」
「どきなさい」ドナルドが引き離そうとする。
「いいのよ、ドナルド。誰か、わたしの薬箱をもってきて。この子のけがの手当をするわ」
手当を終えるころ、ガブリエルは召使いたちがうってかわって、けんめいに働きだしたことに気づいた。建てかけの納屋のほうから、とぎれることなく槌音《つちおと》が響いてくる。
メイヴが泣きはらした目をして言った。「申しわけございませんでした、レディ・ガブリエル。わたしたちは、いままであなたさまがなさることに従わず……」彼女はちらりとウォルターを見た。
何かあると思ったガブリエルはドナルドに命じた。「マスター・ウォルターを部屋に……」
「いけません、奥さま。それでは逃げてしまいます」そう叫んだメイヴがウォルターの悪態を受けて身をすくめた。
「ドナルド、マスター・ウォルターを地下の物置に連れていって監視してちょうだい」
ドナルドの部下の四人が暴れるウォルターをとり押さえて引きずっていった。
ガブリエルはメイヴに向き直った。「話してくれるわね?」
サイモン神父の手を借りてメイヴが語ったところによれば、ウィルトンの使用人にレディ・ガブリエルの命令を無視するようにと命じたのはウォルターだという。
「なぜ、そんなことを?」
「あなたさまの意志をくじくためです。ド・リヴァーズの方々もサマーヴィルの方々も、この城に長く滞在なさることはありませんでした。それなのに、あなたさまが改築や掃除をはじめられたので、追い出したかったのです」
神父はため息をついた。「それはわたしも知らなかった」
「マスター・ウォルターは何を企《たくら》んでいるの?」
「ウィルトンの富を我がものにしようとしていたんです、レディ・ガブリエル」
「富?」ガブリエルは眉根を寄せた。「意味がわからないわ」
「お城の財宝のことです」
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13
「まあ、驚いたわ!」三階の一室の扉を開けたフェリスが叫んだ。
ガブリエルも吐息をもらした。金の鎧《よろい》、銀の皿、宝石がはめこまれた銀の杯……。窓のない小さな部屋の台に山と積まれ、箱からあふれている贅沢《ぜいたく》な品々が、メイヴがかかげもつ松明《たいまつ》の炎に燦然《さんぜん》と輝いている。「これはいったい……?」
メイヴの言葉をサイモン神父が通訳する。「わたしもこれほどとは思いませんでした。ロジャー・ド・リヴァーズさまは外国へ遠征してたくさん富をおもち帰りになったと、先の城代だったわたしの父から聞いたことがあります。それに、ルーアークさまも、お帰りになるたびに荷車を伴っていらっしゃいました。でも、荷ほどきはウォルターが真夜中にひとりで行っていました」
ガブリエルは金とルビーで縁取りされた銀の手鏡を手にとった。「マスター・ウォルターがどんな男かを考えると、こんなに残っていたのは驚きね」
「教会への寄付は一度もありませんでしたぞ」サイモン神父が茶色の目を見開いた。
村の若い未亡人の家にマスター・ウォルターが美しい服や宝石をもって訪れるという噂《うわさ》があるし、彼自身も王のように装い、飲み食いしているとメイヴが言った。「彼がいま着ている粗末なチュニックやすり減ったブーツは、アレクサンダーさまがウィルトンの門をくぐられたときに着替えたものです」
これはルーアークと彼の祖父が戦いで得た品々なのだとガブリエルは思った。なかにはたまたま通り道にあった館《やかた》から奪いとったものもあるだろう。戦いがもたらした血塗られた富だ。
父オーデルはしばしばクレンリーの近くの街道を行く旅行者を襲わせて金品を略奪していた。ガブリエルの母も、そういう略奪品のひとつだった。親族を訪ねる若い騎士が襲われて死に、その場に残された妻をオーデルが無理に我がものにしたのだ。
鏡を箱に返したとき、大粒の真珠の首飾りが転がり落ちたが、少しも美しいと思えなかった。彼女は皆を部屋から出し、扉をしめて階下へ向かった。
「財宝をおさめた部屋はまだございます」
メイヴが言ったが、足を止めたくなかった。少しでもあの財宝から遠くへ離れたい。彼女は自分の部屋へ入り、閂《かんぬき》をかけて扉に寄りかかった。
小さなノックの音がして、フェリスが尋ねた。「ガビィさま、だいじょうぶですか?」
「少し……少し、休みたいの」
ガブリエルはベッドに横になり、上掛けを顎まで引き上げて天井を見つめた。重荷が石臼《いしうす》のようにのしかかってくる。
フェリスは扉の外で首をかしげた。休むですって? ガビィさまらしくないわ。ともかく、上の部屋の財宝のことで心を悩ませているらしいことは確かなようだ。フェリスはほかのふたりに向き直って言った。「あの財宝のことは誰にも言ってはなりません。レディ・ガブリエルが何かなさっても、口をとざすのです」
ふたりは無言でうなずいたが、階下に下りてからサイモン神父が尋ねた。「レディ・ガブリエルは、いくぶんかでも教会への寄付をお考えだろうか?」
フェリスは曖昧《あいまい》な返事をし、スパイスを加えたワインをもって再びガブリエルの部屋を訪ねた。
「いったいどうなさったのです?」扉を開けさせることに成功したフェリスは、暖炉の近くのテーブルに盆を置いた。
「考える時間がほしいのよ」ガブリエルは椅子に座り、杯を受けとった。
「何についてですか?」
温めたワインからたちのぼる香りが気持を落ち着かせていく。口に含むと、凍えたからだに温《ぬく》もりが広がった。「あの財宝はただルーアークの手のなかに転がりこんできたものではないわ。彼と彼のおじいさまは、そのために人殺しをしているのよ」
フェリスはため息をついた。「そんなことではないかと思っていました。でも、ガヴイさまがお心を痛められてもどうしようもないではありませんか」
「わかっているわ」ガブリエルは唇を噛《か》んだ。「ねえ、あの財宝の由来を知りながら、ウィルトンの城を直すのに使うのはいけないことだと思う?」
フェリスは思わず大きな声をあげそうになった。この方はこれほどつらい目に遭いながら、どうして会ったこともない人々をこんなにも思いやるのだろう? そういえば、タフで現実的なこの方が優しい心の持ち主であることを、わたしはつい忘れてしまっている。「いいえ。もちろん、必要のほうが優先です。ガビィさまが守るべく責任を負っておられるのはガビィさまの領民です。戦いに負けた側ではありませんわ」
ガブリエルは目を閉じてゆっくりとワインを飲んだ。そして再び開かれた彼女の瞳には、決然とした光が宿ってていた。「手をつける前に、まず神父さまに祝福を与えていただかなくちゃいけないわね」
フェリスは笑った。「一部を教会か、あるいは神父さまのワイン倉か食料庫に寄進すれば、きっとかなえてくださいます」
ガブリエルも肩を揺らした。「そうね。ちょっと司祭さまらしくないけれど、いい方だわ。それに、アドバイスも適切よ。あなたの言うとおり、しなければならないことは山ほどある。そして、ありがたいことに資金のめどもついたわ」
ガブリエルはすぐに行動を開始した。まず、重い物を運ばせるためにドナルドの部下ふたりを選び、フェリスとサイモン神父に手伝わせて目録を作りはじめたが、夕方までかかってもひと部屋の半分しか把握できなかった。
「すごいものね」ガブリエルは私室でフェリスといっしょに目録の内容を検討した。金と銀の杯の詰まったチェスト、甲冑《かっちゅう》十二組、馬の防具十組。イギリス人はキルティングのチュニックの上に鎖|帷子《かたびら》を着て、胸と手足に別々の金属版をとりつけるだけだから、これらのフランス製の甲冑にはさぞ驚いたことだろう。
「甲冑を売るおつもりですか?」フェリスが尋ねた。
「ええ。わたしには使い道がないもの」ガブリエルは、暮らしに必要がないと思われるものは売るか交換するかして、改築と食料の買い入れにあてるつもりだった。
「ルーアークさまが必要とされるかも……」
「それなら、すでに使っているはずよ」ルーアークのこととなると、つい、口調が荒くなる。どんなに努力をしても、幸福なときの思い出が頭を去らないのだ。彼が愛していると言ったあの言葉は嘘《うそ》だったんだわ。みんな、嘘だったのよ。「すでに身につけているものもあるんじゃないかしら」彼女は言葉を続けた。寂しいなんて思わない。それに、心配だって、するものですか。そう思っていれば、いつか本当にそうなるわ。「だいいち、彼が戦いで何を身につけようと、わたしにはなんの関心もないわ」言葉にしたあとに苦い思いが残った。彼は間違った理由でわたしと結婚したばかりか、ばかばかしい誓いのために戦地で天幕暮らしをするよう要求したのだ。わたしはいやよ。自分の家で平和に安全に暮らしたいわ。もっとも、これは夢の一部にすぎないけれど。
翌日、ガブリエルはドナルドと彼の五人の部下を伴ってシェルビーの町へでかけたが、町の門を入るやいなや、人々の険しい視線に囲まれた。
ドナルドが居心地悪そうに言った。「このまま帰ったほうがよろしいのでは?」
「何を言っているの? こんなことでくじけるわけにはいかないわ」ガブリエルは自分をふるいたたせて鞍《くら》の上で背筋をのばし、堂々と先を見据えながらぬかるむ大通りに馬を進めた。
やがて、サイモン神父に聞いた町一番の資産家ロバート・アプルトンの家の前に着いた。ドナルドが、ガブリエルが馬から降りるのに手を貸しながら言った。「ごいっしょします」
「いいえ、ここで待っていて。サイモン神父のお話では、マスター・アプルトンはフランス語が堪能《たんのう》だそうだから」彼女は、わざと選んで身につけた粗末な茶色のマントの裾《すそ》をつまんで入り口の階段をのぼった。胸がどきどきと鳴っている。断られたらどうしよう? ロンドンまでは、とても行けないわ。
寒い戸口でいやになるほど待たされてから小さな部屋に通された。イギリスの建物の特徴なのか、この部屋も暗くて湿っぽく、せっかくともされた明かりまで薄暗い。暖炉の火も勢いがなかった。
案内した召使いが火のそばに座っている顔色の悪いやせた老人に何かを告げた。
「ごきげんよう、サー」ガブリエルは挨拶《あいさつ》し、名前と身分を告げた。
「わしはフランス語が話せんのでな」老人はノルマンフランス語で言った。
「でも……サイモン神父からあなたがフランス語をお話しになるとうかがっています」
少年が美しい銀の杯をのせた盆をさし出したので、彼女はそれをとろうと手をのばした。
アプルトンが英語で何かを叫び、少年がびくりと身をすくませて盆をひっこめる。しかし、ガブリエルはそのまま杯をつかんでアプルトンのそばの椅子に腰を下ろした。少年は目を丸くして彼女を見つめ、アプルトンは口を開けた。
ガブリエルは挑戦するように部屋の高価な調度に視線を向けた。もしかしたら、このなかにルーアークの戦利品だったものもあるかもしれない。
アプルトンは咳払《せきばら》いをしてノルマンフランス語で言った。「何をお探しかな、レディ?」
「取り引きのお話をしにまいりましたの」ガブリエルは質の悪いワインの杯を脇《わき》に置いた。
「あいにくだが、女とは取り引きしないのでね」
「そうですか」ガブリエルは彼のようすをうかがった。サイモン神父の話では、アプルトンは一介の石工からのたたき上げで、多くの石工と大工を抱える親方になった抜けめない男だという。長年の仕事で指は節くれだち、髪は半白だが、鋭い眼光が彼がただの老人でないことを語っている。「残念ですこと。ウィルトンの城に手を入れるのに、近くで取り引きができたらと思っていましたが、これではロンドンまで行かなくてはなりませんね」
「なんですと? 城に手を入れる? だが、ウォルターは……いや、巷《ちまた》の噂では、ルーアーク卿《きょう》はあの城には住まないと……」
「では、マスター・ウォルターはルーアーク卿が結婚してウィルトンを居城にすると決めたことを言わなかったんですね?」
アプルトンは顔を赤くして目をそむけた。
「美しいものがお好きですのね」ガブリエルは彼のエメラルドと真珠をちりばめた金の帯に目をやった。たぶん、これもルーアークの戦利品だったのだろう。「本当に残念ですこと。城に、その帯とまるで対に作られたような金鎖がありますのよ」
「レディ、わしは知らなかったのだ……」
ガブリエルは笑みを浮かべた。「なんのこと?」
「フランス人の女性がウィルトンに滞在していると聞いてはいたが、建物に手を入れるというのは……。だいいち、費用はどうされる?」老人は神経質に帯に手をあてた。
そういうことなのかとガブリエルは気づいた。イギリスではフランス人は毛嫌いされている。だから、町の門を入ったときに、あんな視線を受けたのだ。ウィルトンの城のなかで成功したように、これから少しずつでも人々の信頼と尊敬をかち得ていかなくてはならないと彼女は思った。強迫観念に近い思いだが、そうすることで、少しでもド・ローランの呪《のろ》いから解放されるような気がするのだ。
ガブリエルは立ちあがった。「おじゃましました、マスター・アプルトン。わたしはさっそくロンドンへ発《た》ちます。冬の備えもしなくてはなりません」
「ロンドンへ? だが、近くで取り引きをまとめたいのでは?」
「ええ。でも、あなたは女と取り引きしないという方針なのですから、しかたありませんわ」
あわてたアプルトンは、ルーアーク卿が遠征中なのだから特例を認めると言ってガブリエルを引き止めにかかった。信頼できる相手とは言いがたいが、彼に頼むのが一番いいだろう。それに、彼女自身がクレンリーで得た知識も多少はある。サイモン神父に教えてもらってイギリスでの事情や費用の相場を学べば、だまされることもないはずだ。
彼女は着々と夢の実現へ向かって進みつつあった。
ルーアークは農民の小屋の薄汚れた藁《わら》布団に足を組んで座り、うっとうしい雨音を聞いていた。
ハーコートは正面から戦うことを拒み、サマーヴィル領内の農地や小村を襲い続けていた。知らせを聞いて急行しても、燃える小屋や無残な殺戮《さつりく》の跡があるだけだ。六週間もこうしているのに、まだ一度も敵と剣を交えていない。そればかりか、姿を見てもいなかった。ハーコートはいったい何を考えているのだろう? 砦《とりで》に相当な数の兵を結集して守っていると聞くのに。ルーアークは日々、いらだちを募らせ、ガブリエルのことばかりが頭に浮かんだ。
ハートコート城を攻めようと提案するたびにジェフリー卿が言った。「斥候の報告では守備は鉄壁だというではないか。長期に包囲する装備や人員の備えはないのであろう?
それに、これは罠《わな》かもしれぬ」
そのジェフリー卿も、先週、事態を憂慮する国王の召喚を受けて宮廷へ旅立った。翌日にでもハートコートを攻撃してしまおうかと思ったが、今度はアレックスとウィリアムが反対するのだった。
「やはり、明日、決行することにしよう」
彼がそうつぶやいたとき、小屋の扉が開き、巻き物を手にしたアレックスが入ってきた。「ランスフォードからだ」
ルーアークははやる心を抑えて煙たい獣脂|蝋燭《ろうそく》の明かりのもとで羊皮紙を広げたが、母の筆跡と知って落胆した。我ながら愚かな期待をもつものだ。ガブリエルが手紙をくれるはずがないではないか。
陣に現れたアレックスから、ガブリエルが勝手にウィルトンへ行ったと聞いたときには驚いて、即刻ランスフォードへ戻って、わたしが帰るまで動かぬように≠ニ書状を送ったが、返事はなかったので、それきり手紙は書かなかった。いや、書いたが届けさせなかった。ルーアークは文章が得意ではなかった。それに、残ると言い張ったのは彼女だし、あの日のいさかいの原因を作ったのは彼女の嘘なのだ。
「母上はなんと?」アレックスが尋ねた。
ルーアークは手紙に目を走らせた。ガレスの結婚式が数日のうちに行われるので、できたら戻ってきてほしいと書いてあるが、アレックスの気持を考えると読み上げるわけにはいかなかった。だが、最後につけ加えられた言葉を読んだルーアークはうなり声をあげた。途中でウィルトンに立ち寄ってください。ガブリエルもあなたといっしょなら式に出席してくれると思います
では、彼女はまだウィルトンにいたのだ。ルーアークは拳《こぶし》を握りしめて立ちあがった。「ウィリアムはどこだ? すぐにウィルトンへ向けて発つ」
アレックスは目をしばたたいた。「陣はどうするんだ?」
「おおかたの兵はフィールディングとデヴァレルに任せてここに残しておく。ハーコートが攻撃をしかけてきたら、すぐに連絡をくれるだろう。いまは妻をしつけるほうが先だ」
ガブリエルは厩《うまや》の扉を開き、満ち足りた気持でウィルトンの城内を見渡した。皆に無理だと言われたが、新しい厩と買い入れた食料を保存する小屋もこうして完成した。アプルトン自身が指揮に当たって改築が進められ、居間と寝室の壁を切って、本物のガラスをはめた窓まで実現した。費用も莫大《ばくだい》にかかったが、まるで奇跡が起きたようなできばえだった。
冷たい風が枯れ葉を散らして整然とした前庭に吹きこみ、彼女の毛織物のマントをはためかせて、ここが南フランスでないことを思い出させるが、白い石灰塗料を塗った壁も整然とした建物もあたりに満ちる香りも、すべて故郷のクレンリーにそっくりだ。
フェリスがガブリエルの薬箱をたずさえて現れた。「骨身に染みる寒さですこと。メイヴの予測では、今週中に雪が降りはじめるとか」
「ウィルトンの備えは万全よ」
「わたくしはごめんこうむりたいですわ。それに、戦地の方々はどうなるのです? 天幕で眠るのはさぞ寒いでしょう」
「わたしが強制しているわけではないわ」ガブリエルは農夫の老馬の額を包んでいた布をとりながら答えた。だが、言葉とうらはらに、寒さと疲労に悩まされるルーアークの姿が脳裏に浮かぶ。
一度でもルーアークのことを考えると、もう幸福感を呼び戻すことはできなかった。
平和で整然とした美しい城。でも、ルーアークがいないとこんなにも寂しい。
厩の戸口が開いてブライアンが声をかけた。「やあ、いたね、ガビィ。きみはここだと聞いたので」
「ええ」ガブリエルは馬の脚の打撲に軟膏《なんこう》を塗りながら答えた。ブライアンは頻繁にウィルトンを訪れ、彼女を助けていくつかの仕事を監督し、夕べには英語を教えてくれていた――不承不承。
どうせ身分の高い者は英語を使わないのだから、通訳ができる小姓がいれば、不自由はないじゃないかとブライアンに言われるたびに、彼女はこう答えてきた。でも、わたしは領民と話ができるようになりたいの。
厩に入ったブライアンはかたわらに立って顔をしかめた。「なぜ、こんなことをするんだい?」
「ジムにとってはだいじな馬なのよ。それに、この馬が苦しんでいるのを放《ほう》っておけないわ」
「優しいにもほどがあると思うが」ブライアンは厩のなかを見まわした。二列に並んだ房はさまざまな動物でいっぱいだった。罠で脚を痛めた子鹿《こじか》、母鳥を殺された鷹《たか》の雛《ひな》、脚を骨折した犬、母を失った子羊……。
ガブリエルは指についた軟膏をふきとった。「こういうことが楽しいのよ」手当を受けに来るのは動物だけではない。それは、とりもなおさず、彼女に対する領民の信頼の証《あかし》だった。
ブライアンは話題を変えた。「明日、狩りをしようと思っているんだ。いっしょに行かないかい? きみには少し気晴らしが必要だよ」
「新しい機織りを備えつけたところだから、明日はここにいて図案を考えなくては」ブライアンの親切な申し出を断るのは気がひけた。彼はお酒を飲んで不機嫌にならないかぎり、優しい好人物だった。
「ガビィ……」ブライアンが言いかけたとき、再び扉がばたんと開いて、村人が駆けこんできた。
「奥方さま、立派な身なりのお方が森で倒れてます!」
「まさか、ルーアークが?」
「いや、見たこともねえお方です。崖《がけ》から落ちて、頭が血だらけだ。動かさねえほうがいいと思って」
ガブリエルはルーアークでないことに息をつき、荷馬車で追うよう命じて馬を駆けさせた。
少年は岩だらけの険しい崖の下にうつぶせに倒れていた。血がすでに乾きかけている。ガブリエルは急いで喉元に手をあてた。弱々しいが脈はある。それに、深刻な傷も骨折もなさそうだ。
「毛布を取ってきて担架を作ってちょうだい」
人々がすぐに作業にとりかかり、ぴくりとも動かない少年を急ごしらえの担架に乗せ、到着した荷馬車に横たえた。
「よそ者を連れて帰るのかい? 盗賊や殺人者かもしれないんだぞ」ブライアンが言った。
ガブリエルはそうは思わなかった。上質な緑色のタイツ、落ちたときに裂けて汚れてはいるが、なめらかな革の丈の短いサーコート。家柄をしめす紋章は見当たらないが、洗練された顔だちは少年が身分卑しからぬ者であることを語っている。「けがをして助けを必要としているのよ。誰かが世話をしないと」ガブリエルは自分も荷馬車に乗りこんだ。
「きみでなくてもいいだろう?」
つぶやくブライアンをあとに、荷馬車は走りだした。
城ではフェリスと侍女たちが寝室と熱い湯、清潔なシーツを用意して待っていた。
「服を切って脱がせてね。そっとよ」
ガブリエルが自分の手を洗っていると、フェリスが小さな声をあげた。「ガビィさま」
「どうしたの?」
「女の方ですわ」
胸に巻かれた布の下からふくらみが現れたのだ。ガブリエルは近づいて見下ろした。ほっそりした首、とがった小さな顎、真珠のような歯の並ぶ口元、繊細な鼻、長く豊かな黒いまつげ……。「どうしてわからなかったのかしら」
「頭巾《ずきん》の下には、きっと美しいおぐしがありますよ」フェリスが請け合う。
「手当を急ぎましょう」ガブリエルもかたわらに座って手伝いはじめた。「美しい姫君だわ。でも、どうして男のなりをしているのかしら?」
「姫君ではありませんよ」フェリスが言う。
侍女のリリィも指摘した。「ええ、手に剣士のようなたこがありますもの。とはいえ、農民の手のように荒れているわけでもありませんけれど」
血のこびりついた頭巾に鋏《はさみ》を入れ、慎重に取り去ると、シナモン色の髪が現れた。
「三つ編みにして襟足のところでとめつけてあったのですね」
髪をほどきかけたガブリエルは手を止めた。「豊かな巻き毛だわ。このままにしておきましょう。そのほうが手当がしやすいわ」
少女は翌日になっても眠り続け、ガブリエルにこのまま目覚めないのではないかという懸念をいだかせた。しかし、三日目、領民のもめごとの訴えを聞いている最中に、少女が目を覚ましたと侍女が知らせに来た。
ガブリエルはうめき声をあげて輾転《てんてん》する少女のそばに腰を下ろした。「痛みが和らぐまで、静かにおやすみなさい」
少女は動くのをやめて、恐怖に満ちた緑色の目を見開いた。
「だいじょうぶよ。誰も危害を加えないわ」ガブリエルはとっさにノルマンフランス語を使った。
少女の唇がゆっくりと動く。「ここはどこ?」
「ウィルトン城よ。ご存じかしら?」
「いいえ。わたしの城ですか?」
ガブリエルは首をかしげた。「あなたはどなた?」
「わたし……」緑の瞳に涙があふれた。「わからない」
「覚えていないの?」
少女は苦しげに眉根を寄せた。「ええ、何も」
何か理由があって嘘をついているのかしら? ガブリエルは少女の帯にはさんであった四角い布をとり出した。「これを見て、何か思い出さない? 緑の絹糸でJの文字が縫い取りしてあるの。あなたのイニシャルではないかしら?」
少女はしばらく縫い取りを見つめていたが、首をふった。「わからない。何もわからないわ」
ガブリエルは困惑した。この少女を連れてきたのは間違いだったのかしら? 悪魔かもしれないのに。でも、そう思うわたしにも呪われた血が流れている。ド・ローランの呪いが証明される前にわたしが正気を失ってしまいそうだわ。
「頭の傷が治ったら、きっと思い出すわ」ガブリエルは笑みを向けた。「それまで、あなたのことを、そうね……ジャネットと呼ぶことにしましょう。いいかしら?」
少女はぼんやりと目を見開いたままうなずいた。
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「ウィルトンまで、あとどのくらいだろう?」ウィリアムの声を強風が吹き散らす。
ルーアークはたたきつけるみぞれのなかで目をこらした。「暗くてよくわからないが、一マイルほどだと思う」
朝早く陣を発《た》ち、馬を急がせ続けてすでに真夜中になっていた。こんな思いをして嵐《あらし》のなかを進むのは、妻を罰して命令に従わせ、ランスフォードに戻らせたいからだ。
ガブリエルめ! ルーアークは怒りと不眠、長旅の疲れにさいなまれながら、何年も前に訪れたウィルトンの記憶をたどった。壁は攻撃に耐えられるほど頑丈だっただろうか?
もし誰かに――仮にハーコートとしよう――包囲されたらどうするか、ウォルターは心得ているのだろうか?
ガブリエルの身を案ずるうちに、彼女に再び拒絶されるのではないかと不安になってくる。
ガブリエルをランスフォードに残して旅立つのにも、駆け戻りたいという衝動を抑えるのにも、並々ならぬ自制心が必要だった。それなのに、いま、こうしていそいそと彼女のもとへ向かっている。彼女のこととなると、どうして、こうも、だらしなくなってしまうのだろう?
「見えたぞ!」ウィリアムが叫んだ。
ルーアークは目の上に手をかざした。すでに胸の鼓動が高鳴りはじめている。「ああ、明かりが見える」彼は愛馬を駆りながら天に誓った。「わたしが彼女そのものを求めていることを、きっと悟らせてみせる」身も心もすでに抑えきれないところまできていた。もし彼女が受け入れてくれなかったとしても、行動に責任はとれないぞ。
ガブリエルは寝返りをうった。夢がまた黄金の蔓《つる》をのばしてわたしをとらえようとしている。いつもこんなふうに夢はやってくるのだ。うっとりと、しかし熱く仮借なくからだを焦がし、やがて、わたしを見知らぬわたしにしてしまう。
ガブリエルが名を呼ぶと夢の恋人がささやき返した。「ガブリエル」
たくましい腕に抱きしめられて胸が高鳴り、からだじゅうがふるえる。そして、しだいに深められていく口づけ。
今夜の夢はいつもと少し違った。いつもより熱く、いつもより鮮やかだ。彼女自身も、いつもより激しく彼を求めていた。彼の愛撫《あいぶ》と熱い唇は、まるで巧みな楽士が楽器を奏でるように自在にからだの内の炎を燃えたたせる。
彼女が身を添わせたとき、夢の恋人は喉の奥から声をもらした。
「お願い……」ガブリエルはささやいた。この夢から覚めるのはいや。目を開けて、ひとりでベッドに横たわる自分を見つけたくない。彼女は喜びの吐息をもらしながら彼を内に迎え入れた。
嵐がもたらした甘美な旋風にのみこまれ、渦を巻いて歓喜の極みにのぼっていく。しばらくして舞い下りたガブリエルはぐったり疲れていた。
「おやすみ……いとしいひと」
夢の恋人のささやきを聞きながら、ガブリエルは混沌《こんとん》とした眠りの淵《ふち》へ沈んでいった。
ルーアークは顔にさしこむ日の光を感じて目覚めた。ここはどこだ? まるで戸外のように明るい。目を見開いたルーアークは純白の壁と色とりどりの壁掛けを見て驚いた。ここはウィルトンではなかったのか?
ベッドから飛び起きようとした彼は、かたわらからかすかなうめき声が聞こえるのに気づいた。間違いない。ここはウィルトンだ。ウィルトンでガブリエルといっしょにいるのだ。ルーアークは緊張を解き、彼女を抱き寄せた。
昨夜のガブリエルは、同じ激しさでわたしを求めていた。そう思うとひとりでに笑みが浮かぶ。ルーアークは情熱が再び頭をもたげてくるのを感じて彼女の喉元に唇をつけた。
誰? ガブリエルは驚いて目を覚ました。「ルーアーク!」驚きの声がうめき声に変わっていく。では、あれは夢ではなかったのね。わたしは彼に自分を与えてしまった。完全に。
「おはよう、ダーリン」ルーアークは唇を重ねた。
ガブリエルのからだのなかでたちまち危険な炎が燃えあがり、それを知って理性が警鐘を鳴らす。六週間、避けようと思いつめてきたのに、無防備なときをとらえられてしまうなんて。
「やめて」ガブリエルは彼の胸を押しやった。
「いったい、どうしたんだ?」
彼の美しい顔を前にすると否定の言葉が出てこない。ああ、神さま。このひとを愛しても傷つくだけなのです。「わ、わたしは……」
ルーアークは心配そうに顔をくもらせた。「手荒だっただろうか?」
「そういうことを言っているんじゃないわ」
彼はガブリエルの肩をつかんだ。「では、どういうことなんだい?」
「あなたはわたしを求めていると言うけれど、結婚したのはわたしがローナと似ているからなのよ」
「ローナはわたしたちのこととは無関係だよ。わたしたちがいっしょにいるということは特別なことなんだ。きみが認めようと認めまいと、わたしが求めているのはきみだ。きみだけなんだ」ルーアークは彼女を引き寄せた。
「ベッドのなかで求めるだけではだめよ。こんなこと、してほしくないわ」
「ゆうべはきみが望んだんだよ」
「からだを求め合うだけでは充分じゃないわ!」
「もちろん、それだけではない。知っているだろう? わたしはきみを愛している。こんなことを言ったのはきみにだけだ」
嘘《うそ》よ。嘘を言っているんだわ。確かな証拠があるんだもの。
そのとき、大きく扉がひらき、ジャネットが駆けこんできた。「ガビィ! 変なひとが広間に……」彼女は驚いてふたりを見つめた。「ご、ごめんなさい。わたし……」
「いいのよ、ジャネット」ガブリエルはちょうどいいときにじゃまが入ったことに感謝しながらローブに腕を通した。
「少しもよくないぞ。おまえは誰だ? どうしてここにいる?」ルーアークは巻き毛の少女に尋ねた。
ジャネットが答える前に戸口にアレックスが現れた。彼がジャネットにつかみかからんばかりの勢いで近づくので、ガブリエルは前に立ちふさがった。
「どいてくれ」アレックスは言ったが、追ってきたウィリアムも彼を止めにかかった。
「いったい、どうしたのです?」ガブリエルが尋ねると、皆がいっせいに話しはじめた。
「うるさい!」ルーアークの声が窓ガラスをふるわせた。「これはなんの騒ぎだ?」彼は腰にシーツを巻きつけて、居並ぶ顔を見わたした。「ウィリアム、説明してくれ」
ウィリアムは咳払《せきばら》いした。「アレックスどのが手当をしようとけがをした猟犬を広間に入れたところ、この少女が外に出すよう言い張って」
ルーアークは驚いて、真っ赤な顔のアレックスと怒っている少女を見比べた。女性は皆、アレックスに気に入られようとするものなのに、この娘は違うのか。
ガブリエルが言った。「自己|憐憫《れんびん》から立ち直ってレディ・エミリーのことを乗り越えられたのね。よかったわ。でも、ウィルトンの決まりは守っていただかなくては」
「なぜわたしがエミリーのことをもうなんとも思っていないとわかるのだ?」
「だって、お顔が悲しそうではないもの。意地さえはっていらっしゃらなければ、もっと早くに、ご自分で気づかれたはずよ。それから、わたしたちは城の建物のなかへ動物を入れないことにしましたの。犬はどこに? 手当ならわたしがしますわ」
「ガブリエル、わたしたちの話はまだ終わっていない」ルーアークが腕をつかもうとした。
ガブリエルは胸の高鳴りを抑えながら彼の手をすり抜けて部屋を出た。「フェリス、ジャネット、手伝ってちょうだい」
わたしはいま、彼に腕をつかまえられることを期待していたんだわ。階段を駆け下りるガブリエルは背中がぞくぞくするのを感じていた。
ふり向いたアレックスは面白そうな視線をルーアークに向けた。いつも無表情な弟があからさまに動揺した顔をしている。「何かあったのか?」
ルーアークはぼそぼそと何かつぶやきながら服を着はじめた。ガブリエルが自分の欲望に気づいて逃げ出したのだとしたら、これまでの件は解決したと考えてもいいかもしれない。たいした慰めにはならないが、彼女の弱みを知りつつあることは確かだ。
「いいだろう」ルーアークはブーツをはいた。彼女はまだわたしを求めている。いますべきなのは、信頼を回復することだ。「そんなところに突っ立って何をにやにや笑っているんだ、アレックス? 猟犬を見に行けよ」
「改善されたこの部屋に対する意見を拝聴したいと思ってね」
改善≠ニいう言葉を聞いて、ルーアークはぴくりと頭を上げ、室内を見まわした。この部屋は……まるで外国の部屋のようだ。明るすぎるし、開放的すぎる。だいいち、あの窓はなんだ。
「くそ!」ルーアークは窓に近づきながら拳《こぶし》を握りしめた。「敵がふたり並んで入ってこられるではないか。誰が矢狭間《やはざま》をこんなふうにしろと彼女にふきこんだ? これでは城は守れない」
「ルーアーク」アレックスは戸口へ向かおうとする彼を引き止めた。
「はっきりさせてやる。ウィルトンの守備をだいなしにした者の責任を問わねばならない」
アレックスが前にまわって肩をつかんだ。「聞け。隣の居間にも窓があるぞ。わたしが思うに……」
「なんてことだ! これではまるで……」
「そう、まるでフランスだ。おまえの奥方はウィルトンを南フランスの城の様式に造り直したんだ。ずっと住み続けるつもりの自分の家にしたんだよ」
怒りが急激に冷めていく。ルーアークはフランスにいたときの記憶をたどった。忙しくて城や調度のようすを気にする余裕もなかったが、この空間の雰囲気はどこか見覚えがある。
「許しも得ずに改築したんだぞ。だが……もう、してしまったんだから……」ルーアークはわずかにほほえんだ。少なくとも、遠征から戻ったときには心地よく過ごせるだろう。
アレックスは弟の肩をたたき、驚いているウィリアムに目配せした。「よし、笑えるようになったな? 城を見て歩きながら義理の妹にあたりちらしてほしくないからな」
「いつからガブリエルの信奉者になったんだ? 遅れて軍に加わったときには、あれほど悪く言っていたのに」
アレックスはため息をついた。「彼女の言葉は厳しかったからな。だが、六週間も暇があって考えているうちに、彼女が正しいことがわかった。女のために人生をめちゃめちゃにしようとしていた自分がばかだったよ」
ルーアークは苦笑いした。ガブリエルはわたしの人生をめちゃめちゃにする力をもっている。「それがわたしたちサマーヴィルの弱点だ。それで、ガレスを許す気になったのか?」
アレックスの顔から笑みが消えた。「いや」
ルーアークはアレックスの気持がわかるような気がした。もしもガブリエルが、と考えると、それだけで耐えられない。「城のほかの部分もこんなありさまか?」
「ありさま? わたしは気に入っているがね。この広々とした感じは船の甲板にいるときを思わせる。建物のなかにいながら初めて呼吸ができたような心地がするよ」
ルーアークは窓に視線を投げて肩をすくめた。「わたしには無防備だとしか思えない。できれば、煉瓦《れんが》でふさいでしまいたいね」
「それはどうかな? ガブリエルにとって何か大切なことなんじゃないかという気がする。ウィルトンを改築したことで、彼女を責めるつもりか?」
ルーアークはため息をついた。「いや」
アレックスは口元に笑みを浮かべた。「おまえにも熱い血が通っていると知ってほっとしたよ。それに……恋人を失ったわたしとしては、ぜひとも彼女を手放さないでもらいたいね」
「本当に気の毒だったと思うよ、アレックス。この話は、もうよそう。顕現日までの間、ここに滞在するだろう?」
「ああ、そうしたいね。ランスフォードへ戻ってエミリーとガレスの姿を見るのはごめんだからな」
その日の夜、広間に集った家臣たちを見てルーアークは驚嘆していた。ほとんどの者が沐浴《もくよく》をし、清潔な衣服を身につけるようになっている。
清潔にするのは悪いことではない。自分でも、昨夜、ガブリエルのベッドへ行く前に、寒いにもかかわらず厩《うまや》で湯を使ったくらいだ。だが、この広々した空間と染みひとつない白い壁は、なぜか彼を落ち着かない気持にさせた。そして、磨き上げられた床を歩いたり、芳香漂う厠《かわや》で息をついたりすると、まるで、神聖な場所を汚しているような気分にさせられるのだ。
残念なのは、ガブリエルに感想を求められたとき、つい、失言してしまったことだった。
彼女が小さな顎を上げて反論した瞬間に、すでに後悔していたのだが。「あなた方イギリス人のお好みも知らないわけではないけれど、洗練されたひとたちは豚みたいに穴蔵に住んだりしないのよ」
「きみはわたしの妻だ。だから、きみもイギリス人なんだよ」
「いいえ、わたしはフランス人よ。それから、動物のように暮らすのもお断りよ」
「ああ、頑固なきみが従うとは、わたしも思わないよ」
改築の費用に何があてられたかを知るにいたって、事態はさらに悪化した。宝石や金貨ならかまわない。しかし、よりによって甲冑《かっちゅう》を処分したとは……。
「フランスの甲冑を?」ルーアークはそれだけ言うと、とり返しがつかないことを口走る前に妻の前から立ち去った。背中に非礼をののしる声を受けながら。
ルーアークは寂しげな笑みを浮かべた。少なくとも、彼女がわたしに無関心でないことだけは確かだ。ふたりの間には、昨日の夜、ふたりを焦がした火がまだ燃えている。そして、それをどう導けばいいのか、わたしは知っているのだ。
そのとき、彼はガブリエルが広間に入ってきたことに気づいた。頭を高くかかげ、頬を真っ赤にして、上段の席に向かって進んでくる。
彼女はまだ怒っているのか?
ルーアークは騎士らしく立ちあがって彼女を出迎え、席に座らせた。背に手をあてたとき、彼女がわずかに身をふるわせるのがわかった。
ガブリエルは膝の上で拳を握りしめて広間を見わたした。料理は指示したとおりに運ばれている。
ルーアークの家臣たちは料理の質が飛躍的に改善されたことに驚き、大喜びで食べている。そこここでお代わりと叫ぶ声があがり、料理の味を称《たた》えて乾杯する声が響く。
ガブリエルはルーアークとの間に置かれた木皿に目を落とした。ルーアークがおいしそうな料理をとって彼女のそばに置いてくれたのだが、どれを食べても、まるで味がしなかった。反対側にアレックスが座っていたが、彼女の目にはルーアークしか入らない。
目が合うたびに彼の瞳に太陽に焦がされる岩のように情熱がにじみ、それに応《こた》えて自分のからだのなかに危険な炎がともるのがわかる。炎を消せるなら、なんでもするわ。たとえ、口論になろうとかまわない。
「あなたは陣へ戻る前にランスフォードへいらっしゃるんでしょう? わたしはここに残るわ」
「だめだ」
「わたしは、自分の城で降誕祭のお祝いをするつもりよ」
ふたりの間でワインを注《つ》ごうとしていたフィリップが驚いてあとずさりした。
「どうしても行かなくてはならないんだよ、ガブリエル」彼の低い声がガブリエルの胸の鼓動を速めた。「わたしたちが結婚式に出なかったらガレスとエミリーが悲しむ。来年の降誕祭はここで祝おう……きみがそれを望むなら」
おざなりな弁解だったが、黒い瞳に燃える情熱は真実だ。
「おいで」彼はガブリエルの手をとって立ちあがった。「読んでもらいたいものがある」
ガブリエルは断る口実を求めてあたりを見まわしたが、侍女たちはそれぞれの意中のひとに気持を向けていたし、アレックスはにやりと笑って杯をかかげてみせるばかりだ。
広間を出ると、ガブリエルは腕をふりはらった。「ベッドに入るのはいやよ」
ルーアークは面白そうに彼女を見下ろした。「まだ、そんなことは言っていないよ」彼は、頬を染めたガブリエルの鼻先を人差し指でそっと突いた。「見せたいものがあるんだ。寝室がいやなら居間へ行こう」
居間に入ったルーアークが彼女の手の上にのせたのは、羊皮紙の束だった。
「これは何?」
「手紙だ。きみ宛《あて》に書いた恋文だよ」
黒いビロードの服に身を包み、片手を暖炉の上に置いてこちらを見ているルーアークは屈強で男らしく、とても恋文を書くような人物に見えなかった。恋文ですって? わたしへの?「なぜ届けさせなかったの?」
彼は肩をすくめた。表情は陰になって見えない。「怖かったんだ」
「怖かった? あなたが?」
「そう、怖かったんだ。もし、きみが返事をくれなかったらと思うと、耐えられなかった」彼が炎を見つめたので、美しい顔が金色の光に照らし出された。嘘をついているようには見えない。
ガブリエルは胸のなかで何かが息を吹き返すのを感じた。ランスフォードでローナのことを知ったときに失われた何かだ。彼が顔形だけのことでわたしと結婚したのなら、わたしに拒絶されるくらいでそんなに傷ついたりしないはずだわ。
「読んでほしい」
彼女がうなずくのを見て、ルーアークは部屋を出ていった。
ガブリエルが手紙から目を離し、ゆっくりと窓辺に近づいたのはそれから一時間後のことだった。窓ガラスに頬をつけて、初めて涙が伝っていたことに気づく。
彼女は吐息をついて涙をぬぐった。すっかり夜の帳《とばり》が下り、眼下に、夜の警護をするために集まった兵士の松明《たいまつ》の明かりがまたたいている。彼女が城壁に配そうと思っていた人数の倍はいるだろう。
わたしの警戒不足に気づいて、すぐにおぎなってくれたルーアークは信頼できる人物だわ。
信頼できる?
二度とわたしを傷つけないと信じることができるかしら?
手紙には、愛しているとも永遠の献身を約束するとも記されていなかった。そのかわり、初めて出会ったときのこと、ローナに似ていて驚いたこと、結婚を決意したこと、結婚式の夜の自分の行いに対する嫌悪と悔恨がつづられていた。
ことに、彼女がアレンのけがの手当をした夜のこと、船酔いをした侍女の介抱をすると言いはったときのことが丁寧に書かれていた。たとえ強情で激しい性格であっても――いや、そうであるからこそ――ルーアークがそこに描いた女性に深く心を寄せていることは明らかだった。
わたしは本当に、ここに書かれているほど強くて心優しく、有能な女性なのだろうか、とガブリエルは思った。自分がイギリスでやっていけるのかどうかと疑いを抱いた日々もあった。この六週間はとくにそうだった。文化の開けた南フランスに比べると、かなり遅れていて人口も少ないイギリス。ジェフリー卿《きょう》がいくら心を砕いても、結局、歩み寄りと外交手腕ではなく、厚い城壁と強い武器に頼る日々の暮らし。
しかし、いまガブリエルの目の前にある問題は、ルーアークを信じるか否かだった。
そのとき、扉が開いてルーアークが入ってきた。燃える瞳で見つめながら、征服者のように堂々と近づいてくる。彼はからだの温《ぬく》もりが感じとれるほど近くまで歩み寄ってから尋ねた。「どうだい?」
「わたし……」ガブリエルはこわばったルーアークの顔を見上げた。瞳に宿る真実が胸を打つ。呼吸を止めることができないのと同じように、彼を愛するのをやめることはできないと彼女は思った。でも、信じていいのかしら? ガブリエルは彼の目の奥を探った。本当にわたしを愛しているの? それとも、ローナを失ったからわたしを求めているの?
ルーアークは彼女の頭から金の輪飾りとヴェールをはずして胸に引き寄せ、髪に顔をうずめた。
「少し早かったかな?」
ガブリエルはうなずいた。「ええ。もう少し時間を……」
「もう一度、わたしを信じてほしい」彼は深く息をついた。
何枚もの布を隔てて重なり合うふたつの心臓が鼓動を速めていくのがわかる。彼はわたしを求めているんだわ。そして、わたしも彼を。
ガブリエルは身を引こうとしたが、窓ガラスにはばまれて、それ以上下がることはできなかった。
「きみがほしい。わたしの気持はわかるだろう? だが、無理強いはしたくない」ルーアークは彼女の顎を指でささえて目を見つめた。黒い瞳に松明の明かりが映っている。「わたしが愛していることがわかったと言ってくれるね? いまはそれだけを尋ねよう」
わたしは愚か者かもしれない。でも、彼を信じたい。彼を愛したい。「ええ。愛してくれていると信じるわ」
ルーアークは笑い声をたて、彼女を抱き上げた。
「下ろして!」ガブリエルは声をあげた。
「いやだ。このまま寝室に行く。明日は朝早くランスフォードに向かうのだから」
「明日? わたしには用事が山ほどあるのよ!」
「すでにフェリスと話した。すべて、侍女たちでなんとかするそうだよ」彼は寝室の扉を肩で押し開け、ベッドの上に彼女を下ろした。「ただし、わたし以外はね。わたしはきみのものだ」
「わたしの指示が必要なことがあるわ!」
「あとにしたまえ。きみはいま、忙しい」ルーアークは左耳に唇をつけた。
「何をするつもり? ああ……」ガブリエルは必死で理性にすがった。「マスター・ウォルターのことはどうするの?」
「絞首刑だな」
ガブリエルは飛び起きた。「だめよ! 殺人を犯したわけではないのよ。そんなことになったら、わたしが良心の呵責《かしゃく》を感じなくちゃならないわ」
「わかった。では、着る物だけもたせて追放することにしよう。ところで、わたしたちは一からやり直さないか? 憎しみもなし、秘密もなしだ。いいね?」彼はささやくように言い、しばらくしてもう一度尋ねた。「いいね?」
「ええ」ガブリエルはかすれた声で答えた。秘密もなし。本当にそうできたら、どんなにいいだろう。
「口づけを」ルーアークがささやいた。「ゆうべのように情熱的な口づけをわたしに。それを約束の印としよう」
ガブリエルの不安は熱い炎に追いやられて意識の裏側へ消えていった。
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15
ブライアンはランスフォードの広間の暖炉の前に座り、到着したばかりのガブリエルとルーアークを囲む人々を眺めていた。
「お追従を楽しむのもいまのうちだ」彼はつぶやいたが、しあわせそうに笑み交わすふたりの顔を目撃して皮肉な笑みを消した。
彼女はやつを愛しているのか。サマーヴィル一族の男の魅力にまどわされないよう、ガブリエルの耳にさんざん作り話を吹きこんだはずなのに、なぜなんだ? どうやら、あのふたりの間に新たな楔《くさび》を打ちこまなくてはならないらしい。それも早急に。計画のほかの部分は大詰めへ向かって突き進んでいるのだから。
昨日、ランスフォードへ着いたブライアンは、宮廷から戻ったジェフリー卿《きょう》が珍しく怒りをあらわにして言うのを聞いた。「エドワード陛下は我々の正当性を認めてくださらぬ。陛下は平和を望むとおっしゃるが、農地を焼かれながら、どうやってハーコートと平和にやっていくのだ? そのうえ、陛下は許可なくことを進めてはならぬとおっしゃる」
「陛下はなぜ、そのような不公平なことをおっしゃるのだろう? 父上の友人でもあるお方が」ガレスが嘆く。
「陛下は黒死病で多くの臣民の命を失われた。これ以上、失いたくないとお考えなのだ」
「いっぽうではフランスとの戦いで華々しい戦果を上げておいでなのに」と、ガレス。
「どうなさるおつもりですか?」家臣に混じって耳を傾けていたブライアンが尋ねた。
「息子たちと協議して決めよう」ジェフリー卿は答えた。むろん、息子たちのなかにブライアンは入っていない。
ブライアンはエドマンド・ハーコートとともに企《たくら》んだ陰謀を思って、ひそかにほくそえんだ。数日のうちにサマーヴィル家の色の服を着せた彼の家臣がハーコートの農地を襲うだろう。無慈悲に凶暴に襲えと命じてある。正直な話、自分の民にそこまで残忍になれるハーコートには驚かされた。彼はこう言った。わたしが報復せざるをえないと思わせる襲い方をしてほしい。国王陛下がサマーヴィルを罰し、ウィンチェスター伯の爵位をわたしに与える決意をせざるをえないような襲い方を
ブライアンは軽蔑《けいべつ》の笑みを浮かべた。ジェフリー・サマーヴィルの爵位が自分のものになるとハーコートに思いこませたのはわたしだ。今度は、ガビィにルーアークを嫌わせる方法を探さなくては。
策略をめぐらすことに気をとられていたブライアンはふり向きざまに召使いの少年にぶつかった。
「お、お許しください」少年が慌てて許しを請う。
ブライアンは少年の緑色のお仕着せを見て、ふり上げた拳《こぶし》を下ろした。ガビィの小姓だ。ウィルトンで見かけたが、脚の悪い者への近親憎悪のせいで故意に意識から排除していたのだ。「名はなんという?」
「マーランです、だんなさま。レディ・ガブリエルの小姓です」マーランは誇らしげに答えた。
「おまえの脚は、ずっとそんなふうなのか?」
「はい。母はわたしを産んだときに命を絶とうとしたのですが、レディ・ガブリエルがお許しにならなかったのです」
ブライアンの薄い唇に珍しく純粋な笑みが宿った。「ガビィのそばに長く仕えているのだろう? おいで。ここに座って、彼女のことを聞かせてくれないか?」
「でも、もしご用があったら……」
「呼ばれたら聞こえるだろう。わたしはガビィと親しいんだ。実は、彼女に贈り物をしたいんだよ」
ガブリエルはルーアークを囲む男たちの輪の外にいた。離れている分だけ所有欲をかきたてられるのだろうか。ルーアークは常に彼女を視界のなかにとらえている。
ガブリエルはマーランがブライアンの椅子の足元に座って話しこんでいるのを見てほほえんだ。
そのとき、レディ・キャサリンがガブリエルの手をとった。「ガブリエル、とてもきれいよ。あなたに会えてうれしいわ」
「こちらこそ、光栄でございます、レディ・キャサリン」ガブリエルは、この六週間ではぐくんだレディ・キャサリンへの感謝と好意をどう表現していいかわからず、ただ形式的に答えた。
レディ・キャサリンは笑った。「あなたは、まだサマーヴィルの気さくな接し方に慣れないようね」彼女は窓辺の椅子に誘った。「むくつけき男たちにじゃまをされないように、ここに座りましょう」
「そんなふうには思っていません。ただ……」ガブリエルははっとした。クレンリーでの生活や、男のひとといっしょにいるとくつろげないという事実を話すことはできないのだ。
「あなたは心の殻を閉ざして静かに人生を送ってきたひとなのね。わたしが口をさしはさむことではないけれど、あなたとルーアークがふたりの間の問題を解決してくれることを願っているのよ」
ガブリエルは目を伏せて困惑を隠した。「どうお答えしたらいいのか、わかりません」ルーアークに対する愛情にふたりの違いが影を落としていることはたしかだ。彼をよく知る誰かに相談したいとは思っていたが、レディ・キャサリンはルーアークの母親なので、きっと、わかってくれないだろう。
「結婚する前にどのくらいおつき合いがあったか知らないけれど、世のなかには司祭さまの前に立って初めて顔を合わせる夫婦も少なくないわ。ローナと婚約していたことやあなたがローナに似ていることを話さなかったルーアークが正しいとは言わないけれど、男と女は、えてして尊からざる理由で結婚し、それでもしあわせや愛情を見つけるものだわ」
「ええ。そうだと思います。でも……」
「相手に嘘《うそ》をつかれているのは誰しもいやなものよ。そして、誰しもが愛されたいと願う。なかには、より強く愛を必要とする者もいるのよ」
レディ・キャサリンはわたしが認識している以上のことを知っているのだとガブリエルは思った。「ルーアークはわたしが彼を愛するのと同じ強さでわたしを愛してくれていると思っています。でも、わたしがウィルトンでしたことを喜んでくれないのです」ガブリエルは窓を見たときと甲冑《かっちゅう》を売ったことを知ったときのルーアークの反応を語った。「食事だけは評価してくれたらしいのですが、建物がきちんと機能し、部屋が清潔になったことをなんとも思わないようなのです」
「困ったものね、男のひとは」レディ・キャサリンは首をふった。「しばらくしたら、すねるのをやめると思うけれど」
「ルーアークが怒っても怖くありません。どなったりしかりつけたりするだけなら、耳をふさぐことができますもの。怖いのは……」ガブリエルは迷ったが、レディ・キャサリンの優しい瞳を見たとき、言葉がひとりでに口をついて出た。「ウィルトンに住めないことなんです」
ガブリエルからスペイン遠征の話を聞いたレディ・キャサリンは一笑にふした。「ルーアークは結婚したばかりのあなたと離れたくなくて、そんなことを口走っただけでしょう。危険な戦地に妻を伴う男はいないわ。とくに妻や恋人を大切にするサマーヴィル家の男には」
「対ハーコートの出陣のときも、いっしょに来るようにと」
「そう言ったかもしれないわ。でも、実際には連れていかなかったでしょう? これからだって、きっと、そうよ」レディ・キャサリンは断言した。
ガブリエルはこの数週間で初めて、心からほほえむことができた。「では、ルーアークをウィルトンに落ち着かせればいいのですね」
「あの子があなたに送る視線を見ていると、強いられてもしない限り、あなたのそばを離れないと思うわよ。さあ、もうやめましょう。ウィルトンをどう変えたのか、手早く話してちょうだい。ほかのお客さまともお話ししなくちゃならないから」
翌日、ガブリエルが目覚めたとき、部屋はまだ暗かった。
「起きたのかい?」ルーアークは組み合わせた手の上に頭をのせて天井の梁《はり》を見ていた。
「ええ」小さな声で答えると、彼の温かな脚がそっと触れた。
「以前はこの部屋がこんなに狭いとは思わなかったのだが」
「イギリスの部屋はたいていこういうふうだわ。それに皆、匂《にお》いにも無頓着《むとんじゃく》ね」
「それから食べ物。料理のことを考えると、ウィルトンに戻りたくなるな」
「お料理のことなど、一度も褒めなかったのに」
「文句も言わなかっただろう?」
彼がふたり分以上食べていたことをガブリエルは思い出した。「甲冑のことで文句を言うのに忙しくて気づかないのかと思っていたわ」
彼はため息をつき、顔をガブリエルのほうへ向けた。「もう、よそう。きみとは仲よくしていたいんだ。気づかなかったことを――いや、すべてについて謝るよ」
ガブリエルは笑った。「謝り方がよかったら、許してさしあげるわ」
ルーアークは片肘をついて身を起こし、彼女の手をとって唇をつけた。「いかようにも謝りますよ、奥さま」彼は指の一本一本に丁寧にキスをした。
「わかったわ」
「母の料理人頭にミートパイの作り方を教えてやってくれないか? そうすれば、少なくともひとつ、まともな料理が出ることになる」
「いつも食べ物のことしか考えていないのね」
「違うよ。知っているくせに」
ガブリエルは彼に見つめられてからだがふるえはじめるのを感じた。「さあ、何かしら?」
「ふたりのことだよ」ルーアークは唇を合わせた。
たちまちガブリエルのからだが熱くなり、唇から吐息がもれる。ルーアークはほほえみ、彼女を引き寄せて、うっすらと開けられた唇の間に舌をすべりこませた。
ガブリエルは彼の瞳に燃える炎を見つめた。わたしと同じ激しさで燃えている。いつか、愛がふたりの隔たりをうめてくれる日がくるだろう。それまではこうしているだけでいい。彼女はルーアークの首に両腕をまわして引き寄せた。「愛してちょうだい」
「ガビィ!」ルーアークは喉元に顔をうめ、しっかりと抱きしめた。「きみがほしい」
「わたしもよ」ガブリエルもからだを添わせた。
ルーアークははじけ飛ぼうとする自制心にとりすがった。こんなにも華奢《きゃしゃ》で繊細な彼女がこれほど自分を狂おしい気持にさせるのは、彼女が肉体だけでなく、すべてを自分に与えてくれているからだ。そう思うと、ルーアークはふるえた。
ふたりを包んだ炎は経験したことがないほど強く激しく、まるで森を焼く山火事のようだった。やがて、ルーアークは彼女を腕に抱いたまま静かにかたわらに身を横たえた。彼女は自分の一部のような気がしていた。ぜったいに手放せない、重要な一部だった。
ガブリエルはしだいに静かになっていくふたつの心臓の音を聞いていた。圧倒的な力で喜びをもたらしてくれる彼。わたしはいつまで秘密を守ることができるのかしら?
ルーアークはガブリエルの緊張を感じとって、さらに近くへ引き寄せた。きっと、愛していると言ってくれるのだろう。彼女のような女性は心が伴わなかったら、自らをゆだねたりしないのだ。だが、いつまで待っても彼女が何も言わないので、ルーアークはため息をついた。これ以上近づけないほど近づいているのに、彼女がどこかに隔たりを作っている――そんな気がした。
ふたりがまどろみはじめたとき、激しく扉をたたく音が響いた。
「誰だ? 立ち去れ!」ルーアークが叫び、ガブリエルが身を寄せた。
音はますます激しくなり、叫び声も聞こえてくる。
「アレックスか?」ルーアークは服と剣をとり、ガブリエルに言った。「ウィルトンに何かあったのだ。さもなければ、アレックスがガレスの結婚式の日にランスフォードへ来るはずがない」
「部屋へ入れないで」ガブリエルはふるえる声で言い、唇を噛《か》んだ。
服を身につけていたルーアークは手を止めて彼女を見つめた。ガブリエルは何を神経質になっているんだ? もしかしたら……。「アレックスをここに来させるために何かしたのか?」
「彼のためなのよ」
「どういうことだ?」
「エミリーが自分にふさわしい女性でないことがわかるまで、アレックスの心に平和はもたらされないわ。ガレスのほうはもう婚約してしまったから、打つ手はないけれど、でも、領地に囲まれて暮らすガレスなら、虚栄心が強くてわがままな妻といっしょでもやっていけるかも……」
「ルーアーク!」扉の外でアレックスが叫ぶ。
「アレックスは自ら進んでここへ来たのか?」
「彼を……荷馬車に乗せて……」
「無理に連れてきたのか? ちょっと待ってくれ、アレックス!」
ガブリエルは挑戦するように顎を上げた。「あなたの家族を守るためだわ」
「何かのませてアレックスを眠らせたのか? そうなんだな? なんという女だ」
「ルーアーク、開けろ! さもないと蹴破《けやぶ》るぞ!」
「きみはここにいるんだ、ガブリエル」ルーアークは鋭い視線を投げた。「なんとかしてみる。妻に手を上げさせるわけにはいかないからな」
ガブリエルは気性の激しいサマーヴィルの男がふたりになったときのすさまじさに驚きながらローブをはおった。
「落ち着けよ、アレックス」ルーアークは扉を片手で押さえながら少しだけ開けて呼びかけた。
「彼女はどこだ?」
アレックスはからだのあちこちに藁《わら》をつけ、髪をふり乱して立っていた。怒りに燃える目とうっすらと頬に浮かんだ髭《ひげ》のせいで海賊のように見える。
「ガビィは悪かったと言っている。だが……」
「悪かっただと?」アレックスの声は二オクターブも高くなった。「厩《うまや》で寝たせいで痣《あざ》だらけだ。もう少しで凍えるところだったぞ。母上に見つかったらめんどうなことになるので、直接ここへ来たんだ」
まったく、女というものは。ルーアークはため息をついた。「気持は察するよ」
「おまえにわかるものか! ガブリエルは初め、戦地にいる高徳な弟の手助けにも行かずに自己|憐憫《れんびん》にひたる酔っ払いとわたしをののしって……」
「高徳な弟? わたしのことか?」
「そうとも。あの毒舌家で口の減らない暴君め!」アレックスは数日前に崇《あが》めたことをすっかり忘れて毒づいた。
「おい、その言葉は撤回しろ」
「するもんか。彼女はがみがみ女だ」
「撤回するんだ! ガビィは兄上のためを思ってしたんだぞ、愚か者め」
「なんだって?」アレックスは拳を固めた。
ルーアークがアレックスを突き倒し、怒れる獣のように飛びかかるのを見て、ガブリエルは口を手でおおいながら悲鳴をあげた。薄暗い廊下で取っ組み合いのけんかが始まった。狭いのが幸いして、いまのところどちらも深刻な状態にはなっていない。
ガブリエルは水差しを握りしめ、ふたりの顔に水を浴びせかけた。「おやめなさい! やめないと、火かき棒を背中につけるわよ」
ふたりはぶつぶつ言いながら顔をぬぐったが、アレックスが先に我に返り、起き上がってガブリエルににじり寄った。「なぜあんなことを……」
「入ってちょうだい」ガブリエルはくるりとからだの向きを変えて部屋に戻った。
「くそっ! 彼女に怖いものはないのか?」
「わたしが知るかぎり、ないな」ルーアークが誇らしげに答える。
ベッドのなか以外でルーアークがわたしを認めてくれるなんて、めったにないことだわ。ガブリエルは暖炉の火をかきたててふたりを座らせ、三つの杯にワインを注《つ》いだ。
「あなたにレディ・エミリーの本当の姿を知ってもらいたいかったの。それでここへお連れしたのよ」
「彼女のことは、もうなんとも思っていない」アレックスが嘘をついているのは明らかだった。
「でも、ガレスがあなたから彼女を奪ったわけではないことを、ちゃんとわからないといけないわ」
アレックスはワインを飲んだ。「それは無理だ」
「あなたのようなお顔の方なら、女性に不自由はしないでしょう。なのに、ガレスをまだ恨んでいる。初めて会ったとき、ご自分でそうおっしゃったでしょう? それに、小さな子供のようにすねて姿を隠すなんて、なお悪いわ」アレックスはうなるような声をたてたが、サマーヴィルの男は皆、こういうものらしいとわかってきたガブリエルは気にしなかった。「そんなことをしていたら、家族も家臣も分裂しなくてはならなくなるわ。ルーアークとジェフリー卿の問題よりずっと深刻よ」
それまで面白がって聞いていたルーアークが背を起こした。「おいおい、父とわたしのことは……」
「あなたとジェフリー卿はとても違うけれど、お互いに愛情をもっているわ。でも、アレックスとガレスの間に憎しみが残ったら、数年のうちにサマーヴィル家は崩壊してしまうでしょう」
「なぜそんなにそのことを心配するんだ?」アレックスが尋ねた。
「わたしの家族だからよ。それに、わたしは平和に暮らしたいの」それは事実だった。そして、兄弟を仲直りさせることで、汚れたド・ローランの血を一族にもちこんだことを贖《あがな》えればと思っていた。
アレックスはため息をついた。「わかった。階下《した》へ下りて、ガレスと握手しよう」
ガブリエルは首をふった。「形だけではだめ。心から、ガレスがレディ・エミリーを奪ったのではないと認めなくては。こうなったら、彼女が本当は軽薄で欲の深いひとで、アレックスを愛していたわけではないという証拠をわたしがお見せするしかないわね」
「どうしてそんなことが言えるのだ? 彼女とは二、三度しか顔を合わせていないだろう?」ルーアークが尋ねた。
ガブリエルは迷った。ここでエミリーの言葉を語ってもなんにもならない。それに彼女自身、エミリーが真の悪女だとは思っていなかった。
「わたしは女だから、女のことには勘が働くの」
ふたりは椅子の背にもたれ、しばらく無言で考えこんでいた。ぱちぱちと薪《まき》が燃える音だけが響く。
「証拠を見せると言ったね?」アレックスが口をひらいた。
ガブリエルはうなずいた。すでに侍女たちがそれとなくエミリーの過去を調べているはずだった。「わかりしだい、お知らせするわ」
その日の夜に催された結婚式に参列したガブリエルは二重のつらさにさいなまれていた。
ひとつは、レディ・エミリーについてすでに知っていた以上の情報が集まらなかったという事実だった。経済的に困窮した家の出だということはわかったが、それは彼女が不誠実である証《あかし》とは無関係だ。
もうひとつは、いやがおうでも、自分の結婚式と恐ろしい夜の記憶を呼び覚まされることだった。彼女は二度、ルーアークが悲しみをたたえた目を向けたことに気づいた。彼もあの夜のことを思っているのだろう。
やがて祝宴も終わり、食卓が片付けられて新郎新婦のファーストダンスが始まった。美しい衣装に身を包んだふたりがうやうやしく挨拶《あいさつ》を交わすと、明るい色の金髪が蝋燭《ろうそく》の明かりに輝いた。ガレスは巧みに花嫁をリードして踊り、エミリーは花婿に笑みかける。その姿を見てガブリエルは胸をなで下ろした。このふたりはなんとかやっていけそうだ。
招かれた客がダンスに加わりはじめ、広間のあちこちで笑い声があがった。ガブリエルも加わりたかったが、ルーアークがダンスはしないと宣言し、彼女に向けられた誘いも断ってしまった。
しばらくして、ガブリエルはエミリーがアレックスに近づいてダンスに誘うのを見た。彼女はすでに数分前にルーアークに声をかけ、フロアに連れ出すのに成功していたが、いくらもたたないうちにエミリーが脚を引きずり、ルーアークが詫《わ》びながら戻ってくる結果に終わっている。
「見て」ガブリエルはルーアークの耳元でささやいた。アレックスとエミリーの姿はすぐに踊る人々のなかにのみこまれていった。
「ああ。だが、きみの勘ははずれているんじゃないのかな? 彼女ははっきりと神に誓ったし、父とわたし、それからアレックスとダンスを踊るとき以外は、かたときもガレスのそばを離れなかった」
「彼女の瞳に浮かんでいる表情がわからないの?」
ルーアークは肩をすくめた。「アレックスにほほえみかけているだけじゃないか」
なぜわからないのだろう? あの大きな青い瞳に秘められた冷たい計算が。ひとりよがりな勝利の笑みが。
「証拠を見つけたのかい?」
「いいえ。でも……」ガブリエルは、曲の途中でアレックスがフロアを離れるのを見て言葉を切った。エミリーが袖《そで》に追いすがっている。
ガブリエルとルーアークは前を通り過ぎるふたりのようすに顔を見合わせた。
「お願い。あなたはわたしの言葉を誤解しているわ。わたしは……わたしはただ、お友達でいたいと言いたかっただけなのよ」エミリーは目に涙をためている。
アレックスは彼女の手をふりはらい、低く毒づきながら前庭へ続く扉のほうへ歩いていった。
エミリーは取り残されて呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。
「やあ、ここにいたのか」ガレスが陽気に歩み寄り、彼女のウエストに腕をまわした。
エミリーはびくりとし、その瞬間に嘆きの表情を喜びの表情に変貌《へんぼう》させた。「なあに、あなた?」
「もう一曲、踊ろう」ガレスは耳元で何かをささやき、頬を染めるエミリーを伴ってフロアに戻っていった。
ふり向いたガブリエルは、ルーアークがいないことに気づいた。人々の間をぬって庭に出、あちこち捜すうちに、厩の片隅からひそめられたアレックスの声が聞こえてくるのに気づいた。
「彼女は言ったんだ。本当に好きなのはわたしなのだと。だが両親が、爵位の後継者でより多くの財産を継ぐガレスと無理に結婚させたのだと。そして、時々密会しようとほのめかしさえした」
ルーアークは嫌悪をあらわにした。「それで、なんと答えたんだ?」
「わたしの兄を裏切ったら殺してやると」
「では、わかってくださったのね?」
ふたりはガブリエルの声に驚き、うしろめたそうな顔を見せた。
「ああ。あなたには感謝している」アレックスはいやいやながら認めた。
「今日でなくても、いつかわかったはずよ」
「だが、ガレスはどうする?」ルーアークとアレックスが同時に尋ねた。
ガブリエルは肩をすくめた。「ガレスはサマーヴィル家の男性よ。サマーヴィルの男性はベッドでは申し分のない恋人だと聞いたわ。いったん床をともにすれば、彼女も裏切ろうなどと思わなくなるのではないかしら」
「だと聞いた、だって?」ルーアークはうなり、アレックスは苦笑した。ルーアークはいきなりガブリエルを抱え上げ、麦袋のように肩にのせた。「アレックス、この生意気な姫君はどうやらワインを飲みすぎたらしい。少しお仕置が必要だ。また明日、狩りのときに会おう」
惨めな気持で始まったガブリエルの一日の終わりには、至福の時が用意されていた。
翌朝、目覚めたガブリエルは、かすかな悪心を感じた。頭痛もする。
「ワインを飲みすぎたせいだよ」ルーアークがからかった。
「酔わせたのはあなたでしょう?」
「文句を言うのかい? 昨晩は言わなかったのに」
「ご自分の荒い息遣いのせいで聞こえなかったのではなくて?」
「そうかな? きみだって、城じゅうに響き渡るような声を……」
「いじわるね!」ガブリエルは燃える頬を毛布に隠した。
ルーアークは笑って額にキスをした。「今日は休んでおいで。一日、狩りをすることになっているんだ。それから、エミリーのことは他言無用だよ」
「もちろんよ。ガレスに内緒にしましょうと言ったのはわたしですもの」
「アレックスの脅しが効いて、エミリーがガレスを裏切らないでいてくれることを望むよ。もしも、そんなことがあったら、わたしが許さない」
「わたしもよ。でも、エミリーにはガレスに隠れて恋人を作る勇気はないんじゃないかしら」
「どういう意味だい?」
「エミリーは、ただアレックスを自分の崇拝者にしておきたかっただけではないかと思うの。あるいは肉体的に惹《ひ》かれているのかもしれないわ。アレックスはハンサムですもの」ガブリエルはルーアークがむっとするのを見て、くすくす笑った。「でも、エミリーは鞭《むち》打たれるような危険はおかさないと思うわよ。それどころか、一瞬の情熱のために未来の伯爵夫人の座を棒にふってしまうかもしれない。エミリーの生涯の恋人はエミリー自身ではないかしら」
きみの生涯の恋人は誰だとルーアークは聞いたかった。わたしは、いまもきみの生涯の恋人なのだろうか? だが、こんな質問をして驚かせて、せっかく保たれている和やかな状態をだいなしにするのもいやだった。
「エミリーのことは、もうガレスに任せよう」ルーアークは身をかがめて、もう一度キスをした。「行ってくるよ、いとしいきみ」彼女の唇にはうっすらと痣が残っていた。わたしのものだという証拠だ、とルーアークはいじわるく自分に言い聞かせた。アレックスがハンサムだと言ってからかったりするからだぞ。
ガブリエルは戸口へ向かうルーアークの絵のような姿にうっとりと見とれた。サーコートの上にはおった革の上着が広い肩幅をさらにきわだたせている。「愛らしい森の妖精《ようせい》に心を奪われないでね」
「わたしが一マイル以内に近づくのを許す妖精はきみだけさ」ルーアークは片目をつぶってみせ、口笛を吹きながら部屋を出ていった。
ガブリエルも口笛を吹きたい気分だった。昨夜のルーアークの情熱と優しさ。彼の愛は確実に深められつつある。こんなに幸福な気持なのに、なぜ胃の具合が悪いのかしら? きっと、昨日食べた猪《いのしし》肉のせいだわ。部屋に備えつけられている壺《つぼ》に嘔吐《おうと》し終えたころ、着替えを手伝いに侍女たちがやってきた。
その日はあわただしく時間が過ぎていった。客のもてなしに忙しいレディ・キャサリンは、厨《くりや》の差配を受けもとうというガブリエルの申し出を大喜びで受けた。幸いにも意図には気づかれなかったようなので、ガブリエルはほっとした。これで、レディ・キャサリンの気持を傷つけずにすむ。
料理人頭と助手たちは、料理をする前に鍋《なべ》を磨くようガブリエルが命じ、ミートパイと焼いた鶏肉《とりにく》、鹿肉《しかにく》と牛肉用のソースを教えるとおりに作るようにと言ったときには、面白くなさそうな顔をした。だが、できあがった料理を味見した料理人頭は満足げにほほえんだ。
「これならレディ・キャサリンも驚かれる」
「ええ、きっと」
「胸にしっかりと刻みつけておきます」
ルーアークも喜ぶだろう。ガブリエルはそう思いながら、晩餐《ばんさん》のための着替えをしに部屋へ戻った。彼はこの数日、くつろいでいるように見える。楽しそうに見えると言ってもいいほどだ。そろそろ、あの計画を進めるときがきたのかもしれない。きっと、ルーアークは誓いのことを忘れ、ずっとウィルトンに暮らしてくれるわ。
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16
「なぜだ?」アレンとフィリップから兵舎で沐浴《もくよく》と着替えをすませるよう告げられたルーアークは尋ねた。
「わたしがはからったことなんだ」狩りに参加しなかったガレスが兵舎から顔をのぞかせた。すでに白いチュニックと森を思わせる緑色のサーコートをつけている。「わたしが着替えのじゃまになるとエミリーが言うんだ。そう言われてみれば、上の階は女たちと侍女でいっぱいだ。だから、男はここで着替えるのが良策だと思ったんだよ」
アレックスがルーアークにささやいた。「それほどわがままをさせることはないと思うが」
ルーアークはうなずいた。あのガブリエルだって、こんなことは言わないだろう。「エミリーは恥ずかしがっているのだろう。ガレスは彼女がそれを克服するまで待ってやるつもりなんじゃないか?」
「ハーコートのことはどうするんだ?」兵舎で待っていたガレスが入ってきたルーアークに尋ねた。
大きな木製の湯船のなかで湯が注がれるのを待っていたジェフリー卿《きょう》が代わって答えた。「我々の農地を襲うのをやめるようにという国王陛下のお達しにエドマンド・ハーコートが返答するのを待たねばならぬのだ」
「返答しだいでは、軍勢を引き揚げることも?」ガレスがうれしそうに言った。
「とんでもない!」ルーアークが叫ぶ。
「だが、戦いは領地に甚大な被害をもたらすんだぞ。作物も牧草もだめになる」ガレスが言った。
「もし報復しなければ、ハーコートは我々を意気地なしと思うだろう。そもそも、そう思っているから襲ったりするのだ」ルーアークが言った。
ジェフリー卿がため息をついた。「ルーアーク、平和を望むのは意気地なしではない。おまえは、わたしに国王陛下のご意向に逆らい、ランスフォードの領地と爵位を失う危険をおかすことを勧めるのだろうな?」
父上はわたしがはい≠ニ答えるものと思っている。祖父ド・リヴァーズ卿もそう思ったはずだ。しかし……。ルーアークはアレンが用意した湯船に入りながら考えこんだ。この数週間、何かが心のすみにひっかかっている。
「わたしのなかの戦士の血は、そうですと答えています。しかし……まず、ハーコートが何を考えているのかを知らなければ」
「我々を滅ぼして爵位を奪うことに決まっているだろう?」アレックスが息巻いた。
「そうだろうか? では、なぜ、ランスフォードを討たない? 我々が農地を守ろうと走りまわっているというのに」
「確かに妙ですな」ウィリアムが同意した。
「報復を恐れているのであろう」とジェフリー卿。
「兵士の数では我々に勝る」ルーアークが言う。
「おまえの評判を聞いて怖がっているんだよ、ルーアーク」ガレスが言い、騎士たちがうなずいた。
父も誇らしげに見える。そう思うとルーアークはうれしかったが、自分の名声が重荷にも感じられた。ド・リヴァーズ卿に、あんな誓いさえたてなければ……。「ハーコートが熊《くま》にほえかかる猟犬のような方法で我々をいらだたせるのは、おびき出す罠《わな》のような気がするんだ」
ジェフリー卿がうなずいた。「そうだね。エドマンド・ハーコートは国王陛下とわたしの友情に嫉妬《しっと》している。我々が耐えかねてハーコートを討ったら、陛下がわたしを罰することになる」
「そして、ハーコートが父上から奪われた爵位を得る。必要なのは、ハーコートに自ら企てを捨てさせることです」ルーアークがすすぎの湯を背中に受けながら言った。
「ハーコートの手の者を捕らえて、白状させてはどうだ?」アレックスがチュニックに首を通しながら提案する。
「それなら、かっこうの捕虜が……」
言いかけたルーアークにジェフリー卿が釘《くぎ》を刺した。「拷問は許さぬぞ」
ルーアークは顔をしかめながら黒いビロードのサーコートを着、真珠を縫いつけた金色の帯を手にとった。「父上のそういう優しさが、領地と我々の生活を危うくさせるのです」
「おまえの無慈悲さに魂を危うくさせられるよりましであろう?」
そのとき、角笛の音が響いて、まもなく晩餐《ばんさん》が始まることを告げた。
少し離れたところにいたブライアンは、皆が急いで服を着ながら作戦を練るのを聞き、そっとほほえんだ。いよいよ、サマーヴィルが動き出す準備を始めた。ちょっときっかけを与えれば、雪崩を打って破滅へと突き進む。ハーコートは戦いに勝っても国王によって罰せられ、領地を没収されるだろう。残るのは、このブライアン・カーマイケルだけというわけだ。サマーヴィルの領地と爵位を継ぐ唯一の者として。
降誕祭からどんより曇ったまま、ときどき雨を降らせていた空は、新年が明けるとともに晴れ上がった。太陽は明るい光を投げかけているのに、空気は冷たく、地面は固い霜におおわれている。
ガブリエルはルーアークとともに厩《うまや》へ向かいながら狐《きつね》の毛皮で裏打ちされたマントの襟をかき合わせた。「いったい、イギリスに温かい日というのはあるのかしら?」
「七月まで待てば、外套《がいとう》のいらない日が二日ほどある」
ガブリエルは笑顔を返した。朝日のなかを歩む彼を見るだけで胸が躍る。降誕祭の贈り物として彼女が作ったバーガンディ色のビロードのサーコートに濃い蜂蜜《はちみつ》色の肌がきわだち、髪が黄金のオーラを放つ。ガブリエルは愛が胸にあふれるのを感じた。
ルーアークが厩の扉を開けながら身をかがめて彼女の冷えた唇にキスをした。
「マントがよく似合うよ。わたしが贈った物のなかで一番気に入ったというのは本当かい?」
美しいドレス、首飾り、指輪……。降誕祭の朝以来、目覚めるたびにベッドの足元に贈り物が用意されていた。品々の高価さもさることながら、ひとつひとつにこめられた彼の気持に胸を打たれる。そのいっぽう、日夜、作戦会議に明け暮れる罪滅ぼしのつもりではないかという疑いも否めない。
「贅沢《ぜいたく》といったら真紅のドレスとルビーを縫いつけた金の帯でしょうけれど、わたしは、この実用的なマントが好きよ」
「では、実用的なことが好きな妻にキスを」ルーアークは厩のなかに彼女を引き入れ、腕に抱いた。
だが、厩の匂《にお》いを感じたとたんに、ガブリエルはまた悪心をもよおした。今朝は胃の不快感もとれたと思っていたのに、いったいどうしたのだろう。
「悪かった。きみが恐ろしく嗅覚《きゅうかく》がいいということを忘れていたよ」
「ランスフォードの厩はつらいわ」ガブリエルは胴着につるしていた丁字を刺したオレンジのポマンダーの香りをかいだ。
「厩というのはこういうものだよ。ウィルトンが特別なんだ」
「清潔な厩のほうが動物たちも健康に過ごせるわ」
「そして、きみも気分がいいというわけだね」ルーアークはポマンダーを押しのけて鼻先にキスをした。「長くは引き止めない。ここへ連れてきたのは、今年初めての贈り物を見てもらうためなんだ」
もしかしたら、馬かしら? ガブリエルは彼に連れられて奥へ進みながらほほえんだ。
初めての贈り物はこれからの一年を暗示する。ふたりで馬を並べてウィルトンの野を駆けたり、領地を見まわったりする姿が彼女の脳裏に浮かんだ。
ルーアークが一番奥の房の扉を開けた。「これだよ」
ガブリエルは驚いて立ちつくした。防具をつけた黒い大きな馬だ。しかも、壁際に人間用の小さな鎧《よろい》のひとそろいまで置いてある。
「戦に……同行しろということ?」
「いや、道中の安全のためだよ」
「道中の? わたしは行かないわ。ウィルトンはどうするの?」
「ときには戻って滞在できる」ルーアークは彼女の反応に落胆した。わたしたちも徐々に親しくなり、彼女が警戒心を忘れて瞳を愛に輝かせるときもあったような気がするが、あれは幻だったのだろうか? 彼女が何か隠していることには気づいていた。だが秘密がなくなり、彼女の心を取り巻いている壁がなくなれば、完全にわたしのものになると思っていた。どうやら、わたしは何か間違っていたらしい。
ガブリエルは唇を噛《か》んだ。ルーアークはわたしがどんなにいやがっても戦地へ連れていくつもりなんだわ。いやよ。ぜったいに行かないわ。
「今年初めての贈り物を……ありがとう。わたしの贈り物も喜んでくださるといいけれど」ガブリエルはマントの下から金房つきの赤い紐《ひも》をかけた羊皮紙の巻き物を出した。「ウィルトンの隣のサー・アドニスのご領地を買いとったの。卿がお亡くなりになったあと、お世継ぎもいらっしゃらなくて、奥さまがお金に換えることを望んでいらしたので」
「このうえ土地を?」ルーアークは毒蛇でも見るかのように巻き物を見つめた。
「ふたりでなら、新しい城を築……」
「わたしは城を築くほどこの地に腰を据えることはできない。わたしは戦士なのだ。ハーコートの一件が片付いたらすぐにスペインへ向かう。むろん、きみもいっしょだ。そのことは前にも言ったはずだが」
「わたしは行かないわ! あなたの領地も家族もウィルトンにあるのに、なぜスペインへ行くの?」
「ウィルトンなど、なんの意味ももたない。わたしは祖父にたてた誓いのために戦っているんだ」
「何を誓ったの? 復讐《ふくしゅう》? おじいさまを陥れた敵を討つこと?」だが、ルーアークは首を横にふるばかりだ。ガブリエルはいたたまれない気持になった。「なんなの? 何をしようとしているの? 教えて、ルーアーク。秘密にされていると怖いわ」
「祖父は他人に打ち明けてはならないと言った。知られると、じゃまをされる恐れがあるからな」
「わたしは他人ではないわ。あなたの妻よ。わたしたちが普通の生活をするのを妨げるものがなんなのか、知る権利があるんじゃないかしら?」
ルーアークはため息をついた。目は遠くを見つめている。しばらくしてやっとガブリエルに視線を戻した。「わかった。だが、誰にも言わないと約束してほしい。わたしは、キリスト教世界で最も偉大な騎士になるという祖父の夢を継ぐと誓ったんだ」
なんですって? ガブリエルは笑い出しそうになるのを必死でこらえた。「からかっているんでしょう?」
「この五年間、そのために精進してきたつもりだ」
「なんて愚かなことを」
「女のきみに誓いの意味がわかるものか」ルーアークは頬を染めて言った。
「世界で最も偉大な騎士になるために、自分の命や家臣の命を危険にさらすばかりか、領地や城まで捨てるなんて……」
「価値ある目標ではないか。それに、祖父の魂に誓ったことだ。放棄するつもりはない」
「わたしだって、あなたの愚かな誓いのために戦地を渡り歩く暮らしをするつもりはないわ」
「きみはわたしの妻だ。わたしに同行するんだ。それから、誓いをけなすことも、誰かに話すことも許さない」
「最も偉大な騎士ですって? 誰かに話していたら、あなたはとっくに笑い物だわ……」
「黙れ!」
ふたりは一瞬、見つめ合い、お互いの瞳のなかに悲しみを読みとった。だが、誇りとかたくなさが溝に橋をかけることを許さない。
この溝は愛でうめられるのかしら? ガブリエルは毛皮のマントに包まれながら身ぶるいした。
「戻ろう。すぐに食事が始まる」ルーアークが力ない声で言った。
ルーアークはいつものようにガブリエルを席につかせ、祝日の朝のために用意された料理の皿から彼女が好みそうな肉とチーズ、果物をとってくれた。このうえなく優しくふるまいながら、どこかよそよそしく、まともに目を合わせようともしない。
ガブリエルは惨めな気持で座っていた。便宜上結婚した夫婦がいやいや同席しているかのように、言葉も交わさないでいるなんて。あんなに赤々と燃えた情熱の炎は――あんなにふたりの胸を熱くした愛は、どこへ行ったの?
食事が終わると、ルーアークはキスもしないで席を立ち、ウィリアムと話しはじめた。
「ガビィさま」ふり返ると、彼女の背後にマーランが立っていた。目を伏せて、もじもじとチュニックの裾《すそ》をいじっている。「お、お話ししなくてはいけないことが……」
「マーラン、あの件ならわたしが話そう」ブライアンがやってきてマーランの肩に手を置き、ガブリエルを見つめた。「ガビィ、ちょっといいかい?」
ガブリエルは笑みを向けた。ブライアンはいつも優しいが、ときどき、いっしょにいるのがつらく感じることがあった。ブライアンは機会をとらえてはルーアークの残忍な一面を認識させようとし、ローナの死に彼がかかわっているように思わせようとする。どんなに仲違《なかたが》いをしていても、ガブリエルには、ルーアークに殺人ができるとは思えなかった。
ブライアンも笑み返したが、なぜか、その笑顔には背筋をぞっとさせるものがあった。「マーランに狩猟用の鷹《たか》や隼《はやぶさ》の扱い方を教える許しをもらいたいんだ。そういう知識はおおいに役立つからね」
ガブリエルは疑いを恥じた。足の不自由なブライアンだからこそ、気づいたのだろう。たしかに、鷹や隼を扱えれば、マーランにとってとても有利だ。そういえば、このごろブライアンがマーランに近しく接する姿をよく見かける。境遇がふたりを近づけるのかもしれないとガブリエルは思った。
ブライアンはいまもローナを思っているのだろうか? ルーアークはどうだろう? ローナなら、きっとスペインへついていくのだろう。そして、誓いをばかにしなかったに違いない。
「ご親切なお申し出じゃない、マーラン?」
マーランは靴の先を見つめている。
「マーランがいやなら、わたしが教えていただきたいわ」ジャネットが言った。「刺繍《ししゅう》をしたり噂《うわさ》話を聞いたりしているより、ずっと楽しそうだもの」
ガブリエルはため息をついた。ジャネットの過去は依然として謎《なぞ》に包まれたままだった。話し方や物腰から身分の高い生まれであることがうかがわれるのだが、普通の姫君が受ける教育を受けていないし、好奇心を抱く対象もまったく違う。結婚すれば名前と身分が手に入るのに、結婚というものにまるで興味を示さず、それよりも武術訓練を見たり、戦の話を聞いたりするほうが好きだった。
ルーアークの家臣のギルバート・ペリンが心を寄せているのだが、ジャネットは即座にはねつけてしまった。あの方は堅苦しくて、いらいらするんだもの℃ゥ分自身の結婚生活がままならないガブリエルには、意にそまぬ結婚をジャネットに押しつけることなどできなかった。
「いいわよ。いっしょに教えていただいてちょうだい、ジャネット」
しばらくして扉が開き、ランスフォード城の家令が、いつになくおおげさなようすで告げた。「だんなさま、お客さまがおみえでございます」
皆の目が戸口に注がれた。新しい年に初めて迎える客によって一族の一年の運命が占われるからだ。最初に入ってきたのは、厚いマントに身を包んだ背の高い男だった。続いて、恰幅《かっぷく》のいい老人が入ってくる。
「まあ、アーサー・カムデン卿だわ。エドワード陛下の御使者よ。いい知らせをもってきてくださっているよう、お祈りしましょう。でも、あの背の高い方はどなたかしら?」ガブリエルはレディ・キャサリンがつぶやくのを聞いた。
ジェフリー卿が出迎えた。「アーサー、よく来てくれた。さあ、外套をこれへ」召使いを呼び寄せる。「すぐにワインとパンの用意を」ジェフリー卿は再びカムデン卿に向き直った。「まず、ひと息いれてくれ。それから話をうかがおう」
人々がどっとカムデン卿を取り囲み、挨拶《あいさつ》をしたり、質問を浴びせたりしはじめた。カムデン卿はぬれたマントをとり、泥がはねたままのチュニック姿で杯を手にして笑っている。いっぽう、先に足を踏み入れた男は新年にふさわしい明るい黄色とルビー色の服に身を包みながら、険しいまなざしをしていた。
そのとき、ひとりが彼の服の紋章に気づいて叫んだ。「ハーコートだ! ハーコートが我々の最初の客に!」
広間に驚きが走る。「なんと不吉な!」
「アーサー、これはどういうことだ?」ジェフリー卿が尋ねた。三人の息子が即座に脇《わき》を固める。
カムデン卿はハーコートの男を招き寄せて話しはじめた。「ジェフリー、エドマンド・ハーコートと話してみたが、そなたの農地に火が放たれた件についてはあずかり知らぬと言っておるぞ」あちこちから異議の声があがったが、彼はそれを無視してジェフリー卿の顔を見据えたまま続けた。「サー・マルコム・グラハムをお連れした。さあ、ハーコート卿の文《ふみ》を」
「義理の兄からこれをお読みいただくようにといいつかってまいりました」マルコムは帯から羊皮紙の巻き物をとり出してジェフリー卿に手わたした。
手紙に目を通したジェフリー卿の顔色が変わった。「我々で検討させていただきたい」彼は家令を呼んだ。「客人を居間にお連れして、お召し替えいただくように」
カムデン卿とマルコムが広間を出るやいなや、ジェフリー卿と息子たちは暖炉の前に集い、額を寄せて手紙に見入った。残りの者たちは三々五々かたまって、ささやき交わしながら彼らを見ている。
ざわめきが大きくなってきたころ、ガブリエルはつめていた息をはいた。父オーデルや兄ベルナールなら、すぐに敵を討てと命じるだろう。カムデン卿とマルコムの命すら危ない。
「どうしたの? 顔が真っ青よ。だいじょうぶ?」レディ・キャサリンが彼女の冷たい手をとった。
「はい。ただ、ちょっと……」
「あなたの目には、わたしたちはさぞ粗野に見えるでしょうね」レディ・キャサリンは夫と息子たちを見つめながら言った。ルーアークが、険しい顔のジェフリー卿にかなりの剣幕で何かを言っている。
「いいえ、そんなことは」サマーヴィル一族はド・ローラン一族に比べたら羊のように穏やかだ。知れば知るほど好きになる。ただし、もしも……。
「サマーヴィル家は誇り高くて傲慢《ごうまん》で血の気の多い一族なの。でも、それが自慢でもあるのよ」レディ・キャサリンはふたりの杯にワインを注《つ》いだ。「さあ、お飲みなさい。こうして見守っているのがつらいことは知っています。とくに、ルーアークとジェフリーのやりとりはね。あのふたりはとても似ているの。同じようにエネルギッシュで頭がよく、短気だわ。ふたりとも心で考え、心で行動するタイプなのよ」
ガブリエルもふたりを見つめた。ふたりとも、大きく活力に満ちていてしぐさのすみずみにまで威厳があふれている。違いといえば、ジェフリー卿のほうが穏やかで平和論者であるということだけだ。
「でも、いまではなかなか似ているようには見えないわね。ルーアークをわたしの父にあずけさえしなければ、事態は違っていたはずなのだけれど」
「ルーアークはド・リヴァーズ卿を崇拝していますから」
「そうね。わたしと宥和《ゆうわ》政策者のジェフリーとの結婚は、父の意に反したものだったの。それで、父はルーアークを戦士に育て上げたのね。そのうえ、ジェフリーのことを臆病《おくびょう》者とあの子にふきこんで、ずっと戦士でいることを約束させたのよ」
「なぜ、そのようなことに?」
レディ・キャサリンは苦い思い出に銀の杯を握りしめた。「ジェフリーがエドワード陛下の命を受けて、わたしを伴い、ナポリ王国へ特使として向かうことになったとき、二年の予定だったので、当時九歳のガレスはノーフォーク公爵に、七歳のアレクサンダーは宮廷の王太子殿下のおそばにおあずかりいただくことになったんだけれど、ルーアークはまだ五歳だったので、血のつながった祖父にあずけたの。ところが二年の予定が六年になって、帰国したときにはわたしたちは末息子を失ってしまっていたの。あの子は戦うことしか知らない、愛し方を知らない人間になっていたわ」
ガブリエルは胸にこみ上げるものを感じた。愛に囲まれずに育つつらさはよく知っている。でも、レディ・キャサリンは間違っているわ。ルーアークはすでに愛し方を学んでいる。少なくとも、わたしを愛していると言っているわ。そして、ガブリエルはいまもその言葉を信じていた。
「ルーアークがときどき別のひとのように思えるわけが、これでわかりました。でも、ルーアークは自分が家族の大切な一員であることを知っています。自ら絆《きずな》を絶つようなことはできないはずです」
「あの子があなたに出会ってくれてよかったわ。ひとを愛し、愛されることを知ったあの子に、わずかながら変化が見えるもの。そのうちにわたしたちの愛情にも気づいてくれるでしょう」
ガブリエルはうなずいたが、心底同意することはできなかった。愛情だけの問題ではない。ド・リヴァーズ卿がルーアークにたてさせた誓い。それがあるかぎり、彼は戦い続けるだろう。ますます激しく、ますます身を削って、命を落とすまで。
「あの子のお相手があなたで、本当によかったと思っているのよ。ローナが亡くなったときにはとても悲しかったけれど、あの娘がルーアークに合っていると思ったことは一度もなかったわ。あなたが男の子が好きだと、なお喜ばしいのだけれど」
「男の子が?」
「サマーヴィル家には長い間、男の子しか生まれていないの。ハーコート家にはすでに世継ぎの男子がひとりいるのよ。あなたの赤ちゃんも、きっと男の子だと思うわ」
ガブリエルは驚いて椅子から立ち上がった。「あの……」
「気づいていなかったの?」レディ・キャサリンが優しい瞳で見つめている。
「たいへんだわ。そうなると、問題が……」
「問題? 子供を望んでいないの?」
「いいえ、違います。でも、こんなに早く……」ガブリエルは動揺していた。考えるのを避けてきた事実が、真っ向から彼女に襲いかかってきた。ド・ローランの者であるとわかったら、ルーアークはわたしを憎むだろう。殺すかもしれない。子供も殺すだろうか? サマーヴィルの血がド・ローランの血で汚されるより、子供を殺すほうを選ぶだろうか?
「誰でも初めは当惑するものよ。いつからおなかに?」
ガブリエルは記憶をたどった。「二カ月になると思います」
「では、結婚式を挙げてすぐの子供ね」レディ・キャサリンは彼女の手を握りしめた。「知り合ってから間もないけれど、サマーヴィル家の男たちは皆、心根がいいということがわかったでしょう? すべてはいい方向へ向かっているわ。ルーアークはあなたをとても愛しているもの」レディ・キャサリンの顔にルーアークとそっくりの笑みがこぼれた。「ジェフリーの喜ぶ顔を見るのが待ちきれないわ」
「待ってください。わたしはまだ、ルーアークにも……」
「ええ、あなたもいま、知ったんですものね。ご心配なく。ルーアークとあなたのことはそっとしておくわ。そのうちに、あなたのお世話をしにウィルトンに行かせてね。もしよければだけれど」
ガブリエルはうなずいた。「お願いします」心に一条の光がさしこんだような思いだった。子供がいれば、ルーアークもスペインへついてこいとは言わないだろう。もし、言われても、断ることができる。ガブリエルはそっとおなかに手を触れて祈った。たとえド・ローランの血が流れていても、この子には何ごともありませんように。
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「ハーコートはなんと?」ガブリエルは晩餐《ばんさん》の着替えに部屋に戻ったルーアークに尋ねた。
「きみは争いごとには関心がないと思っていたが」
「争いごとが終わることに関心があるのよ」いまは子供のために、さらに強く平和を望んでいる。
「ハーコートは、数週間前から行方知れずになっている娘ジェスリンについて何か知らないかと尋ねてきた。我々が居場所を知っているのではないかとほのめかしている。もしそうなら、我々がとっくに和平の交渉に使っていると思わないのだろうか」
「使うの?」
「もちろんだよ。それから、ハーコートは、サマーヴィルの農地を焼いたのは自分ではないと言っている」ルーアークは乱暴に服をはぎ取った。
「丁寧に扱ってください。ビロードは高価なのよ」
「きみがアレンとフィリップを下がらせたのがいけないのだ」ルーアークが背を向けたまま言う。まだ怒っているのだろう。
「何を待っているの?」
「降誕祭の日に着た黒いビロードのサーコートだ」
「それならベッドの上よ」ガブリエルは彼が落とした服を拾った。「陣にいる家臣を呼び戻すの?」
ルーアークは彼女の背後から腕をまわしてうなじに鼻をすりつけた。「きみの後ろ姿が実に魅惑的だと言ったことがあったかな?」
ガブリエルはからだがとろけそうになるのを感じながら、腕から逃れようと身をよじった。「ルーアーク、わたしはまじめな話をしているのよ」
「わたしもまじめさ、ダーリン」彼はそう言って、ますますガブリエルを引き寄せた。
「あ、あなたはまだ今朝のことを怒っているんでしょう? 話し合うべき問題がたくさんあるのよ」
「我々の間に解決できない問題はないよ」
「でも、もうお食事が……」そう言いつつも、彼女の絹のコトアルディの下で胸がうずきはじめている。
「きみがほしい、ガビィ。いますぐに」
「わたしもよ」ガブリエルはささやいた。ベッドに横たえられたガブリエルは気持が和らいでいくのを感じていた。たとえどんなことがあろうと、この情熱だけは確かに存在するのだ。
ルーアークのキスと愛撫《あいぶ》は火のように熱く、ガブリエルを焦がし、たちまち情熱の坩堝《るつぼ》のなかに引きこんだ。やがて、ルーアークは彼女をそっと抱き寄せた。「ずっとこうしていたい」
「ええ、そうね」ガブリエルはささやいた。「ハーコートとのいさかいは決着するの?」
「そんなに気になるかい?」
「だって、決着したら、あなたはスペインへ行くんでしょう? とても耐えられないわ」
「つまり、きみは来ないということなんだね?」
ガブリエルは首をふった。「行けないわ。夫をもつことと我が家をもつことが長い間の夢だったの。あなたがどうしても戦地へ行くというなら、住まいだけでも守ることにするわ」
「どうせ夢の半分で妥協するなら、なぜ夫に同行するほうをとらないのだ?」
いよいよ子供のことを話すときがきたわ。ガブリエルは彼の顔が見えるように肘をついて半身を起こした。「なんと言って説得してもだめよ。常に脅威にさらされる生活を思っただけで、心臓がすくんでしまうわ」
「きみの父君のせいか?」
「それもあるけれど……」
「もう亡くなられたのだろう? それに、きみの安全はわたしが守る」
「あなたに何かが起きたらどうするの?」ガブリエルの瞳に涙があふれた。「ある日、不覚にも敵の剣に鎧《よろい》をつらぬかれたら……? 裏切りに遭うこともあるわ。そんなことになったらどうするの?」
ルーアークは顔をしかめた。考えてもいなかったに違いない。「家臣が代わってきみを守る」
「子供のことは?」
ルーアークは目を見開き、顎をふるわせたかと思うと大きく口を開けた。「まさか……」
ガブリエルはうなずいた。
「いつだ?」
「この子が生まれるのは……」
「違う。いつ身ごもったのかときいているんだ」彼の顔は真っ青だ。
ガブリエルは考えこんだ。「たぶん、船の上で……」
「ああ、よかった。神よ、感謝します」ルーアークは止めていた息をはいた。「結婚式の夜だったらどうしようと思ったんだ。あんな状況でわたしたちの子供を授かるわけには……」
「過去のことだわ。赤ちゃんを喜んでくださる?」
「もちろんだよ」
「わたしがいっしょに行けないと言う理由もわかったでしょう、ルーアーク?」
「だが、わたしは祖父にたてた誓いを破るわけにはいかない」
ガブリエルは寒さと恐怖に身をふるわせた。これから先の人生に、愛にも幸福にも見放された荒涼とした風景がひろがっているように思えたからだ。これもド・ローランの血の呪《のろ》いのせいなのだろうか? 冷たい氷が心臓を包む。
もしも自分は夢をあきらめて彼についていくとしても、今度は子供のしあわせのことを考えなくてはならないのだ。
「冷えないうちに服を着たほうがよさそうだ。今回のハーコートとのいさかいはとうぶん決着しないよ。だから、わたしはまだしばらくここにいる。きみもむだな涙を流すことはない」
「泣いてなんかいないわ」ガブリエルはまばたきをして涙を押しやった。
晩餐の席についたブライアンはリュートの弦のように神経を張って聞き耳をたてていた。ジェフリー卿《きょう》と息子たちはどういう結論を出したのだろう?
もし彼らがハーコートの手紙を信じたとしてもあわてることはない。二日後に、家臣がハーコートの農地を襲い、ハーコートに復讐《ふくしゅう》のきっかけを与えることになっているからだ。問題は、ジェフリー卿が清廉の士として知られていることだった。休戦の間にそんなことをしても、彼の仕業とは思われにくい。疑惑を招くのは免れないだろう。
「なんてお似合いの美しいカップルだこと!」隣の席の老婦人が嘆息をついた。
目を上げると、ルーアークがガブリエルの腕をとって広間をこちらへやってくるのが見えた。彼の黒いビロードの服と金色の髪が、ガブリエルの白絹の服と黒髪に美しいコントラストを描いて調和している。ブライアンは彼のまっすぐな脚が妬《ねた》ましいのと同じくらい、彼がガブリエルの心をとらえていることが妬ましかった。上段の席についたガブリエルはルーアークに優しく笑みかけている。いままでふたりがどんな時を過ごしていたか一目|瞭然《りょうぜん》だ。
ブライアンは杯を握りしめた。あんなに忠告したのに、ガブリエルは聞いていなかったのだろうか? それとも、すでに忠告を気にとめないほど彼を愛していたのか? ブライアンの胸に怒りの炎が燃えあがった。マーランからきき出したあのことを有効に使う方法が見つかれば、ふたりの間を裂くことができるだろう。
ともかく、両家の戦いが起きる前にガブリエルをルーアークから引き離さなくてはならない。
ガブリエルの右隣にルーアーク、左隣にマルコム・グラハムが座っていたが、彼女はふたりを無視して料理を食べながら考えこんでいた。ルーアークに彼の名誉を傷つけることなく誓いを放棄させる方法はないだろうか? アレックスかウィリアムなら知っているかしら?
召使いが食卓の上を片付けたころ、彼女はレディ・キャサリンがしきりに視線を合わせようとしていることに気づいた。ルーアークに子供のことを告げたか、知りたがっているのだ。しかし、ルーアークの同意を得てから、明日にでも家族だけにそっと知らせたいというのがガブリエルの気持だった。
ルーアークがアレックスと話しはじめたので、ガブリエルはマルコムに注意を向けたが、敵の家族にひとり交じって緊張して座っている彼に何を話したらいいのか判断がつかなかった。
「ハーコートの方々は、皆、あなたのようでいらっしゃいますの?」
「え?」
「あなたは、焼き討ちをしたり、略奪したりするような方に見えませんもの」
「ハーコート卿はわたしの姉の夫ですから、わたしは正確にはハーコート家の人間ではないのですよ。エドマンドはもともと戦士ではありません。彼の戦いの武器は機知や言葉です。とはいえ、勝利を求める冷徹さは人一倍だが」
冷徹に勝利を求める? それでは和平は望めないかもしれない。「多くの兵をおもちとか」
「財産を……強盗から守るために必要ですから」
「そして、敵の農地を襲わせるために?」
「エドマンドはそんなことはしていません」彼は即座に答えた。
ガブリエルは彼の顔を見つめた。いかにもまじめそうな人物だ。「お言葉を信じます。
お嬢さんが行方不明になられたときのことを聞かせていただけますか?」
マルコムはため息をついた。「馬ででかけたきりでした。あの子――ジェスリンは双子のかたわれのヒューといっしょに育てられたので、女らしいことより乗馬や狩りが好きなのです」
ガブリエルの脳裏をジャネットの姿がかすめた。「最後にお嬢さんの姿が見られたのは?」
「あの子はケルティの荘園《しょうえん》を出てシェルビーの村へ……あつらえておいた短剣をとりに向かったのです。だが、結局シェルビーへは着かなかった」
ジャネットがジェスリン・ハーコートなのだろうか? ウィルトンとシェルビーの間は五、六マイル。ジェスリンが街道を離れて森を行くうちに、足をすべらせてあの谷に落ちたのだとしたら……。ジャネットはフェリスらといっしょに座っていた。マルコム・グラハムに会わせてみればすぐにわかることだが、広間でふたりを会わせるわけにはいかない。もしジャネットがジェスリンでないことがわかったらがっかりするふたりの姿を衆目にさらすことになる。それに、たとえ当人であっても彼女が自分が誰であるかを思い出せない場合はさらに悲惨だ。
ガブリエルはマーランを呼んだ。マーランはやはり目を合わせなかったが、ガブリエルにそれを気遣う余裕はなかった。「ジャネットにジェフリー卿の書斎へ来るようにと伝えてちょうだい」彼女は小声でささやいた。
ガブリエルはマルコムにジェフリー卿の蔵書を見ないかと誘った。彼は興味がないと言いたげに肩をすくめたが、ガブリエルは強く誘って席を立った。
ジェフリー卿の書斎の扉を開けると、一本だけともった蝋燭《ろうそく》が棚に並ぶ書物にぼんやりとした光を投げかけていた。
「すぐに明かりをつけますわ」ガブリエルはマルコムを招き入れて扉をしめた。
「伯爵がすばらしいコレクションをおもちだと聞いてはいましたが」マルコムは革の背表紙を指でたどった。
「ええ」ガブリエルは燭台《しょくだい》の蝋燭に火をともし、棚を見わたした。教会や修道院以外の場所に書物があること自体、まれだというのに、ジェフリー卿ほど多数の蔵書を所有する者がほかにいるだろうか。息子たちが書物に興味をもたないことを嘆く伯爵夫妻は、ガブリエルが文字を読めることを聞いて、いつでも書斎を使うようにと言ってくれた。それ以来ランスフォードで最も好きな部屋になっている。
そのとき扉が開き、マルコムが身を硬くした。
「だいじょうぶです。わたしの侍女ですわ」ガブリエルはジャネットに手招きし、光のほうへ引き寄せた。「サー・マルコム、ジャネットです」
「ジェスリン!」マルコムはいっきに部屋を横切り、少女の肩をつかんで抱擁した。
「放して!」ジャネットはマルコムの足を思いきり踏みつけて腕をすり抜け、火かき棒をとって身構えた。
「お待ちなさい!」ガブリエルはジャネットの手をしっかりとつかんだ。「この方はサー・マルコム・グラハムといって、行方不明の姪《めい》ごさんを捜していらっしゃるの。あなたが、その姪ごさんではないかとおっしゃってるのよ」
ジャネットは目を見開いた。「本当に?」
マルコムはうなずいた。「いったいどうしたのだ? わたしはそなたが生まれたときから知っているんだぞ。そなたは間違いなくジェスリン・ハーコートだ」
「ハーコート?」彼女は怯《おび》えた視線をガブリエルに向けた。「ご一族の敵の名ではありませんか?」
マルコムは彼女の前に立った。「そなたがなぜここにいるのだ?」
「わたしがハーコートの者であるはずがないわ」
「ここの者たちに捕らえられていたのだな? カムデン卿にお話しして、すぐにここを出る用意をしよう」
「捕らえたのではありません」ガブリエルは言った。「ウィルトンの領内で傷ついて倒れていたのです。記憶を失って、自分の名さえわかりませんでした」
「いまもわからないわ。それに……なぜ……」ジャネットはマルコムの豪華な衣装を見つめた。「この方がわたしをジェスリン・ハーコートだとおっしゃるのかも」
マルコムは疑わしげに目を細めた。「サマーヴィルに否定しろと強要されているのか?」
ガブリエルは言った。「けがをして倒れていたと申し上げたはずですわ。頭を打ったせいで記憶を失ったのです。そうでなかったら、どうして敵の城にいられましょう?」
「それは彼女がスパイだからだ」低い声が部屋に響いた。
ふり向くと、戸口にルーアークが立っていた。
「違うわ!」ガブリエルはかばうようにジェスリンの前に出た。
「これまではずっと彼女の言葉を信じるしかなかった」ルーアークは険しい顔でにらみつけている。
ジェスリンはふるえながらも、きっぱりと言った。「まだ思い出せないのです、ルーアーク卿」
「彼女はわたしの姪だ。即座に解放することを……」
「とんだ新年の贈り物だな」ルーアークに続いて書斎に入ってきたブライアンが言った。
「我々の軍の情報を父親に伝えていたに違いない」
ルーアークの言葉を聞いて、ガブリエルは怒りがこみ上げるのを感じた。「ばかなことを言わないで。わたしですらあなたの居場所を知らなかったのに、彼女に何がわかったというの?」
「そんなことはどうでもいい」ブライアンはジェスリンの腕をつかんだ。「ハーコートを意に従わせるための手段が必要なのだろう? 彼女がそれさ」
ガブリエルはルーアークが否定してくれるのを待った。だが、彼は黙ったままだ。「だめよ。女性を人質にするなんて、騎士のすることではないわ」
ルーアークは驚いてガブリエルを見つめた。わたしがそんなことをすると、本気で思っているのだろうか?
「人質だと? すぐにカムデン卿にご報告しなくては」マルコムが叫んだ。
「わたしたちからご報告しよう。ブライアン、カムデン卿と父上をお連れするまで、サー・マルコムといっしょにここにいてくれ。ガブリエルはジャ――ではない、レディ・ハーコートと我々の部屋へ行き、結論が出るまで待っているんだ」
ガブリエルは真っ青になった。「ルーアーク、あなたはまさか……」
「わたしに指図するな。スパイの疑いのある彼女を牢屋《ろうや》でなくきみにあずけることに感謝するんだ」ルーアークはぞっとするような視線を投げた。どうして夫を疑うのだ? ガブリエルに疑われたことは、さっきブライアンに聞かされたことよりさらに強く彼を打ちのめした。大切に絆《きずな》をはぐくんできたのではなかったのか? 自らの意志で愛を交わし、子供を身ごもったことを喜んでいたのではなかったのか? それなのに、どうしてわたしを信頼できない?
「これこそ待ち望んだ事態だ」ルーアークが部屋を出てからブライアンが満足そうに言った。
廊下で彼の言葉を聞いたルーアークは意外に思った。ブライアンがこれほどサマーヴィルの争いに親身になっていたとは知らなかった。
ガブリエルは寝室の扉をしめ、窓辺と暖炉の間を行ったり来たりしていた。ルーアークの裏切りを悲しむより、憤るほうがまだましだ。
ジェスリンはいつもの元気を失い、椅子に座って不安げにガブリエルを見ている。
ガブリエルはとうとう口を開いた。「すぐにここを出たほうがいいわ」
「でも、どこへ行ったらいいのかしら?」
「ハートコートのお城よ。まずあなたをランスフォードから逃がしてかくまい、サー・マルコムと落ち合うように計画しなくてはならないわね。ここがウィルトンなら、領民が協力してくれるのだけど」ガブリエルはジェスリンの椅子のかたわらにひざまずいた。「なんとか、ハートコートへの道を思い出さないかしら? そうしたらひとりで行けるわ」
「無理だわ。自分がジェスリン・ハーコートだということすら思い出せないのに」
「手がかりはあるでしょう? あなたがもっていたハンカチ、サー・マルコムの反応……。まだ思い出さない?」
「サー・マルコムのお顔は見覚えがあるような気がするわ」ジェスリンはゆっくり言った。「それから、断片的なものが少し。丘の上に立つ大きなお城、赤い髪の美しい女のひと、わたしと同じ緑色の目の大きな男のひと……」
「ご両親かしら?」
「ええ、たぶん。でも、自分がハーコートの者だなんて思いたくないわ。ずるくて嘘《うそ》つきで、利益のためなら自分の母親ですら売る一族だとみんなが言ってたわ。ウィンチェスターの爵位ほしさに罪もないひとを殺したり襲ったりしたと。そんなひとたちの一員だなんていやよ」
オーデルとベルナールを家族にもつガブリエルに彼女の気持がわからないわけではない。しかし……。「家族を選ぶことはできないのよ。でも、あなたといっしょにいた間、あなたのことをずるいと思ったことも欲深いと思ったことも、一度もなかったわ」
「記憶が戻ったらきっとそうなるんだわ」
「いいえ。あなたはそういうひとではないわ。さあ、時間がないわ。早くここを出ないと、牢屋に閉じこめられてしまうかもしれない。わたしがマーランを見つけてくる間に、最小限の荷物をまとめてちょうだい」
ジェスリンが寝室にしていた小部屋に駆けこむのを見届けて、ガブリエルはマーランを呼んだ。
「ガビィさま、お話ししなければならないことが……」マーランが言った。
「時間がないのよ。あとにしてちょうだい」ガブリエルは廊下に目を走らせた。「必要なものがあるの。馬とチュニックと外套《がいとう》よ。フィリップの服なら大きさが合うでしょう。でも、靴だけは本人のものでないと……」
「ガビィさま、大切なことなんです……」
「わかったわ、マーラン。従者に扮《ふん》したレディ・ジェスリンが無事にここを出るのを見届けたら、話を聞きましょう」
ジェフリー卿から奥方への贈り物をとりに行く用事を言いつかったと言えば、門衛はジェスリンを通すだろう。うまくいきますように。そして、森の入り口で無事にサー・マルコムに会えますように。もしかしたら、ルーアークはしばらく気づかないかもしれないわ。
ジェスリンを逃がしたことを知ったルーアークの怒りは夏の嵐《あらし》よりすさまじかった。
「説明させて――」
「このうえ、まだ嘘を重ねる気か?」
「嘘? どういうこと?」
「ローランというのはきみのミドルネームではない。名字だろう? 正確にはド・ローランだ」
彼は知っていた。なぜ? マーランの怯えた顔が頭をよぎった。たちまちからだが冷たくなっていく。「ご……ごめんなさい」ガブリエルはかすかな声で言った。ごめんなさい。わたしはあなたの愛を受けるに値する人間ではないわ。
「では、認めるんだね?」ルーアークの目のなかに悲しみと怒りが宿っていた。
逃げるわけにはいかない。わたしはド・ローランに対するどんな罰も受けよう。でも、その前に、マーランや侍女にとがめがおよばないことを確かめなくては。「侍女たちを許してくださるなら、わたしはどのようにしていただいてもけっこうよ」
「何を許すというのだ? わたしが何をすると思っているんだ、ガブリエル? それがきみの本当の名前だからといって、いったい何を?」
「ええ、それがわたしの名前です。あなたはわたしを殺すんでしょう? 王太子殿下に誓ったとおりに、わたしの一族を残らず……」
「殺す?」ルーアークの大きな声が部屋に鳴り響いた。握りしめた拳《こぶし》がふるえている。「もう、耐えられない。これ以上ここにいたら、きみを殴ってしまいそうだ」彼はそう言って部屋を出ていった。
ガブリエルはベッドに身を横たえ、この数時間の緊張ですっかり混乱した頭で彼が残した奇妙な言葉の意味を考えはじめた。
まもなく扉が開いたので驚いて身を起こすと、部屋に入ってきたのはレディ・キャサリンだった。
「いったい何があったの? ルーアークが胸に矢を受けたような面持ちで出ていったけれど」
ガブリエルは目を閉じた。すでに母のような存在になっているレディ・キャサリンの顔にド・ローランの血に対する嫌悪があるのを見たくなかったからだ。「そのことは……お話しできません」
「レディ・ジェスリンをひとりで行かせたのは間違いだったわね。サー・マルコムがあなたからの伝言を聞いて一時間後にあとを追ったけれど、女性が夜、ひとりで旅をするのは危険だわ。だいたい、そんな必要はなかったのよ。ジェフリーはすでに彼女をサー・マルコムに託すことに同意していたの。ルーアークを信じるべきだったわ」
「わたしはよけいなことをしてしまったのですね」ガブリエルは小さな声で言った。もうルーアークに会うこともないだろう。事態は悪くなるいっぽうだ。
「がっかりしないで。ルーアークは信頼されなかったことに傷ついているけれど、きっと許すはずよ」
「いいえ、許してくれないわ」
「あの子はあなたを愛しているもの」
「いいえ、それももう……」
ガブリエルが壁へ顔を向けたので、レディ・キャサリンは額にキスをして部屋を出ていった。
ガブリエルは眠れないまま、ひとり部屋の闇《やみ》を見つめていた。まるで未来を暗示するような真の闇だった。それでも、どうしてもルーアークが自分を殺すとは思えない。サマーヴィルの血が流れる彼が女性を――しかも、自分の子供を身ごもっている女を殺すとは。
いつのまにか空が白みはじめていた。おなかのなかにサマーヴィル一族の子供が眠っている。ルーアークはこの子を愛してくれるのかしら? それとも、ド・ローランの子供だとして拒絶するのかしら?
ふと気づくと、ブライアンがベッドの脇《わき》に立っていた。「きみをウィルトンに連れていくために迎えに来た」
ガブリエルの胸に短剣で刺されたような痛みが走った。とうとう、この時がきた。ルーアークの命令なのね。彼女は深く息をした。もう望みはない。そう思ってもまだ、彼に拒絶されたことがつらかった。
ガブリエルは荷づくりをしたが、ルーアークからの贈り物はすべて残していくことにした。自分がそれらにふさわしいと思えないからだ。半ば期待し、半ば恐れながら彼が別れを言ってくれるのを待ったが、早朝の城は静まりかえったままだった。ガブリエルは鉄の落とし格子の下をくぐってから最後にもう一度ランスフォードを振り返った。侍女たちとルーアークの顔が胸に浮かぶ。
太陽は雲に隠れ、やがて冷たいこぬか雨が一行をぬらしはじめた。彼女は物思いに沈みながら、ブライアンの家臣に轡《くつわ》をとられて馬の背に揺られた。永遠に続くかと思われた旅が終わり、ブライアンが到着を宣言したのは真夜中に近い時刻だった。
ゆっくりとフードをはずしたガブリエルは驚いて叫んだ。「ここはウィルトンではないわ!」
ブライアンがほほえみながら言った。「そうさ。ホルトンヒースへようこそ、いとしいきみ」
ブライアンの城だ。「ルーアークがここへと?」
ブライアンは瞳を光らせた。「あんな冷たいやつのことは忘れるんだ、レディ・ド・ローラン」
「ルーアークが話したの?」
「反対さ。わたしが彼に話したんだ」
「でも……どうしてあなたがそれを?」
「どうということはない」ブライアンは下ろされた木のはね橋を渡って彼女の馬を中庭まで連れていった。「最初の問いに答えると、ルーアークはきみがここにいることを知らない。もっとも、ランスフォードではすでに誰かがきみがいないことに気づいているだろうがね」
「嘘をついたの? ルーアークの命令ではなかったの?」
「ルーアークは今朝、わたしがきみの部屋へ行った一時間前に陣へ戻っていった」
「では、なぜ、わたしをここへ連れてきたの?」
「きみの身の安全をはかるためだ。ハーコートとサマーヴィルはまもなく全面戦争になる」
「どうして、そんなことがわかるの?」
「わたしが画策したからだよ」ブライアンは誇らしげに答えた。
「どういうこと?」
「いさかいを起こしたのはわたしだ。昔の禍根をあおって炎を燃え立たせたんだ。両家はこれで終わりだよ。サマーヴィルの農地を焼いたのはわたしの家臣だ。だが、ジェフリー卿があまりに手ぬるいので、ルーアークを呼び戻すようにさせた。ところが、今度はルーアークまでがおよび腰だ。そこで、思いきった手を打つことにしたんだ」
「わたしをさらって?」
「さらう? それは聞き捨てならないね、いとしいきみ。きみの安全をはかると言っただろう? ハーコートとは話がついているんだ」
「ハーコート?」
ブライアンはうなずいた。「いまごろ、わたしの家臣がハーコートの農地に火を放っているだろう。サマーヴィルを示す色の服を着てね。それがハーコートに宣戦布告の理由を与える。そして、戦いが終わったとき、わたしたちふたりが、唯一サマーヴィルの領地を継ぐ者として生き残るというわけさ」
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ホルトンヒースは陰気でじめじめとした岩塊のような城だった。内部は殺風景で、床の灯心草も隙間《すきま》風を防ぐ掛け布もない。だが、ガブリエルが閉じこめられた部屋だけはようすが違っていた。
塔の上にあるその部屋にさしこむ外光は細い矢狭間《やはざま》の隙間を通ってくるだけなので、昼間でもたくさんの蝋燭《ろうそく》の明かりが必要だった。埃《ほこり》っぽい外国製の厚い敷物が床をおおい、タペストリーがところ狭しと壁をうめつくしている。暖炉の火は熱いほど勢いよく燃えていた。
ガブリエルは部屋の息苦しさにめまいを感じてベッドに身を投げた。ブライアンがテーブルに置いていった料理にもワインにも手をつける気がしなかった。なんとかここを逃げ出したいのだが、疲れていて考えがまとまらない。少しだけ横になって疲れを取ろう。そう思った瞬間に彼女は眠りに落ちていた。
翌朝、遅く目覚めたガブリエルは、体力と気力が戻っていることを感じた。脱出の機会をとらえようとようすをうかがったが、昼過ぎにブライアンがやってくるまで、部屋の近くを通る者の足音は聞こえなかった。
「ずっと部屋にいると息がつまるわ。少し、歩きたいの」
ブライアンは彼女の要求をすんなりと受け入れ、いっしょに部屋を出て螺旋《らせん》階段を下りた。下に下りるまでに誰の姿も見なかった。これは希望をもてるかもしれない事態だった。
「きみがここにいるなんて、信じられないよ、いとしいきみ」ブライアンは彼女の手を握りしめた。
わたしはあなたの恋人じゃないわ。ガブリエルは叫びたかったが、彼の目の異様な輝きを見ると、何も言えなかった。
ブライアンは狭くて暗い広間を抜けて外へ向かった。前庭には陶器の破片が散らばっていた。建物の姿を仰ぎ見たとき、ガブリエルの希望は打ち砕かれた。塔にある彼女の部屋は、ゆうに三階に相当する高さにある。これでは逃げることはできない。
「口をきかないね」広間に戻ったブライアンが言った。
ガブリエルは無理に笑みを作った。「少し疲れたの。でも、あなたのお城を見せていただいて、楽しかったわ」
「こんなものはわたしの城じゃない。サマーヴィルがいなくなったら、ランスフォードに暮らすんだ。今度こそ、わたしたちがいっしょにいるのをとがめる者はいないんだよ、ローナ。もうすぐ、ルーアークとサマーヴィル一族に復讐《ふくしゅう》が果たせる」
ガブリエルは息をのんだ。彼は確かにローナと呼んだ。もしかしたら、ブライアンとローナは……。いいえ、そんなことがあるはずないわ。でも、そう考えると、ローナが恋人の名を記さなかったり、ふたりの恋が許されないものだった説明がつく。
ローナの謎《なぞ》の恋人はルーアークではなく、兄のブライアンだったのだ。
では彼女を殺したのは誰?
ガブリエルはからだがふるえだすのを感じた。ブライアンだわ。ブライアンが妹を殺したのだ。そしていま、彼はわたしをローナだと思っている。落ち着くのよ、ガブリエル。
彼を刺激してはだめ。彼は普通ではないわ。
ブライアンが異様な輝きを宿した目で見つめた。「どうしたんだい? 幽霊のように真っ青だよ。ワインを飲むといい。部屋に連れていってあげるから、夕食までお休み」
ガブリエルはひとりになるとすぐにローナの日記を出した。ルーアークが自分と結婚した理由を知って以来、ページを開いていなかったが、新たな目で読み直してみると疑いがますます確かなものになっていく。彼女は初めて開くページまで読み進んだ。
〈一三五五年四月一日
いとしいひとはとても正気だと思えない。彼の子供がおなかにいることを話すつもりはなかったのに、あの粗野な田舎者のルーアークと結婚しなくてはならない理由を納得させようとしているうちに、つい、口走ってしまった〉
ガブリエルはベッドに横になった。事実だったんだわ。ルーアークがローナの恋人でなかったことにはほっとするけれど、もし、ブライアンが実の妹を殺したとすると……。
ガブリエルははっとした。彼女の名を呼ぶルーアークの声が聞こえたような気がしたのだ。まさか、ルーアークがここに?
彼女は急いで矢狭間にかけられた布を脇《わき》に寄せ、爪先立《つまさきだ》って下を見下ろした。
夕闇《ゆうやみ》のなかに松明《たいまつ》がいくつもまたたき、男たちが険しい顔をして集まっていた。雪が降っていたが、ガブリエルにはブライアンの家来に取り囲まれているルーアークの姿が見えた。英雄のように堂々と馬にまたがり、高くかかげた頭をめぐらして建物のほうを見ている。激しい怒りが顔にみなぎっていた。
「ガブリエル!」ルーアークは再び彼女の名を呼んだ。
矢狭間に身を寄せて答えようとしたガブリエルは彼がひとりであることに気づいた。「逃げて、ルーアーク! ブライアンは……」
その叫びが終わらないうちに男たちが六人でルーアークに飛びかかり、馬から引き降ろした。
さらに多くの者たちが拳《こぶし》をふり上げ、雪を蹴散《けち》らして殴りかかっていく。ガブリエルは悲鳴をあげた。しばらくして、輪になって立つ男たちの足元に血を流して横たわるルーアークの姿があった。
マーランは恐怖で動けないまま厩《うまや》の陰に隠れ、男たちがぐったりしたルーアークを引きずっていくのを見ていた。
一団が重い扉のなかに消えて、初めて頭が動きだす。サー・ブライアンはなぜ、ルーアーク卿《きょう》をあんな目に遭わせたのだろう? これはぼくのせいだ。ぼくがサー・ブライアンにド・ローランのことを言わなかったら、こんなことにはならなかったんだ。
そのとき、塔の上からかすかに泣き声が聞こえてきた。女のひとの泣き声だ。レディ・ガブリエルに違いない。マーランはのびあがってあたりを見まわした。塔だ。塔のなかにいるんだ。
彼女のもとに急ごうとしたマーランを何かが引き止めた。そんなことをしたら、ぼくがここにいることがサー・ブライアンに知れてしまう。
サー・ブライアンは優しくしてくれた。でも、それはレディ・ガブリエルのことをきき出すためだったんだ。サー・ブライアンの家臣がルーアーク卿にあんなことをしたのはなぜだろう? そして、レディ・ガブリエルはなぜ泣いている? 何があったんだろう。ぼくはいったい、どうしたらいい?
やがてマーランは決意した。クレンリーでは足音をたてないようにして歩いたものだった。あのときの技術がいま、役にたつ。
マーランはマントのフードを目深にかぶって建物に忍びこんだ。広間にうずまく悪臭と酒に酔った男たちの荒い言葉や笑い声に一瞬ひるみながらも、レディ・ガブリエルをこんなところにおいておけないと決意を新たにする。マーランは影に溶けこむようにして進んでいった。
そろそろ真夜中だろうか。ガブリエルはそう思ったが、教会の鐘の音も聞こえてこないので、見当がつかない。
彼女は服を着たまま横になっていた。ブライアンはここへ来るのかしら? わたしは、自分を守ることができるだろうか?
「ああ、ルーアーク。あなたはどこにいるの?」
そっとささやいたとき、扉の閂《かんぬき》がかすかにきしんだ。ブライアンだろうか? 簡単に餌食《えじき》にはならないわ。ガブリエルは帯から食事用のナイフをとり、戸口の脇に身をひそめた。
扉が半分ほど開いたとき、彼女は身を躍らせて侵入者に刃をつきつけた。
「ガビィさま! ぼくです。マーランです」
「まあ、マーラン!」ガブリエルはがくりと膝をついた。「なぜあなたがここに? でも、会えてよかったわ」
「サー・ブライアンが閉じこめたんですね?」
「ええ。ルーアークのほかのお供の者は城壁の外にいるの?」
「わかりません。ルーアーク卿はおひとりでおいででした」
ガブリエルは眉根を寄せた。「では、あなたはなぜここにいるの?」
「ガビィさまがサー・ブライアンといっしょにランスフォードを出ていかれるのを見たんです。おそばにいるのがぼくの務めですから、あとを追いました。そして、偶然にもこちらの家臣が入るために門が開いたので、その機に乗じて入りこみました。そうしたら……」
「ルーアークが来たのね?」
マーランは悲しげにうなずいた。「みんなぼくのせいです。もしぼくが秘密を話さなかったら……でも、サー・ブライアンは優しくしてくださって、ガビィさまのことが心配だからとおっしゃったので……」涙が頬を伝って流れ落ちた。「まさか、ルーアーク卿に話すなんて……」
「あなたのせいではないわ。ルーアーク卿がどうしているか、教えてくれる?」
「牢《ろう》に閉じこめられておいでです」
ガブリエルはマーランの肩をつかんだ。「見たのね? 無事なの?」
「扉の割れ目からのぞいたんです。鎖につながれておいででした」
「鎖に……」
「鞭《むち》で打たれて。ぼくに止めることができたら……でも……」
「マーラン」ガブリエルは少年を抱きしめた。「無理よ。あなたのせいじゃないわ」
「サー・ブライアンはお優しい方だと思っていたんです。でも、変わってしまわれた。目を見ればわかります。オーデル卿と同じ目だ」マーランは涙をぬぐった。「あなたをここからお逃がせするのがぼくの役目です」
小雪の降りしきるなか、ガブリエルとマーランはあたりを警戒しながら丘の上にのぼった。追ってくる者はいない。ホルトンヒースの住人は皆、眠っている。ただひとり、ルーアークをのぞいて。ふたりはルーアークを残してこざるをえなかったのだ。
塔を出るとき、マーランは言った。「塔の衛兵が酔いつぶれて眠っています。このすきに外へ出ましょう。牢の鍵《かぎ》を探していたら、きっとつかまってしまいます。まず、ガビィさまをお逃がせすることがぼくの任務ですから」
ガブリエルはホルトンヒースから目を離し、馬の手綱を握りしめた。「さあ、ランスフォードへ急がなくては。途中でジェフリー卿にお会いできることを祈りましょう」
ことは一刻を争う。晩餐《ばんさん》の最中にハーコートが動きだしたとの知らせを受けたブライアンがこう言ったからだハーコート軍がランスフォードへ向かったぞ。明日になったら、将を欠いたサマーヴィル軍が惨敗するようすを見物に行こう。ルーアークなしでは烏合《うごう》の衆だからな。やつをここに捕らえられるとは、予想外の報酬だった
ガブリエルとマーランは夜を徹して馬を走らせた。マーランが道を覚えていると言って先にたった。ガブリエルがもっと急ごうと言うと、闇のなかで馬がつまずいて放《ほう》り出されるよりましだと答える。
「まったく、男というのは」ガブリエルはそう言いながらも同意せざるをえなかった。おなかに子供がいるのだから、落馬は避けたい。まだ動くのを感じたことはなかったが、子供は少しずつ現実感をもった存在になりつつあった。もし、ルーアークと離れて暮らすことになったとしても、少なくとも彼の一部とともにあると思うと慰めになる。
ランスフォードまで数マイルの地点で前方に光が見えた。金属が触れ合う音も聞こえてくる。
「サマーヴィルとハーコートが戦っているのかしら?」ガブリエルは小高い丘に駆けのぼった。眼下に広がる雪におおわれた草地に戦旗をはためかせて、両軍が向かい合っている。その中央で馬から降りたふたりの男が剣を交えて戦っていた。
「ジェフリー卿と……もうひとりはハーコートの誰かでしょう。たぶん、大将どうしの一騎打ちです。これで勝敗を決めるつもりでは……」マーランが言った。
「でも、ジェフリー卿は戦士ではないのに」
「たくさんの命が奪われるよりましとお考えなのです、ガビィさま」
ジェフリー卿は家臣の命を守るためにこの方法を選んだのだろう。だが、戦うこと自体がハーコートの罠《わな》なのだ。「止めましょう」
「無理ですよ! すでに戦いを始めているんです。何を言っても、聞き入れるわけがありません」
「ブライアンがしたことを話せば、きっと剣をおさめてくださるわ」もしサマーヴィルが負けたら、ルーアークを助ける者がいなくなる。それに、ハーコートが女子供をどう扱うか、それもわからない。「もう一滴だって血が流されるのを見るのはいやよ。男のひとの愚かな意地のはり合いはたくさんだわ」
「でも、武器もないのに」
「不意打ちするんですもの。だいじょうぶよ」ガブリエルは馬の腹を蹴り、丘を駆け下りはじめた。
蹄《ひづめ》の音が雪にかき消されたため、兵士たちは彼女がすぐ近くに来るまで気づかなかった。頭をめぐらした者が大きく口をあける。武器に手をかける者もいたが、ガブリエルの馬は風のように駆け抜けていった。マーランだろうか? 背後に一騎、追ってくる馬の蹄の音が聞こえる。だが、ふり向いて確かめる余裕はない。
馬の首に上体を伏せたまま駆け抜けると、中央に甲冑《かっちゅう》に身を固め、剣と短剣を手にしてにらみ合うふたりの男が見えてきた。
呆然《ぼうぜん》としていた兵士が武器をとり、押し寄せてくる音が聞こえる。もう、馬から降りる時間も、名のる時間もない。ガブリエルはそのままふたりの間に乗りつけ、手綱を強く引きしぼった。馬が鋭くいななき、棒立ちになって前肢で空をかく。
「何ごとだ!」数歩うしろへしりぞいたジェフリー卿はガブリエルの姿を認めて、驚いて馬の轡《くつわ》を押さえた。「ガブリエルではないか。いったいどうして……」
「ルーアークの身が危ないのです!」
「そうかもしれぬ。あの痴《し》れ者が、すっかり頭に血がのぼり、ひと言も言いおかずに、ひとりでそなたのあとを追っていきおった」
「お願いです、聞いてください。ブライアンに殺されそうなのです。急いで助けに行かないと……」
「何をしている?」大きな声がとどろいた。ふり向くと雄牛のように大きな男がにらみつけている。「戦いのじゃまをするのは誰だ?」
エドマンド・ハーコートだわ。ブライアンと結託した……。ガブリエルは喉まで出かかった叫びを押しとどめた。
「どけ!」ハーコートは冷たい緑色の目でガブリエルを見据え、剣をふり上げた。
「待って!」そのとき、ほっそりしたからだを緑色のサーコートと鎖|帷子《かたびら》に包んだジェスリンが、彼の前に立ちはだかった。「彼女は命の恩人です」
ガブリエルはほっとした。なんとありがたい援軍だろう。ジェスリンはすっかり記憶をとり戻したのかしら? でも、いまはそんなことをきいている場合ではない。
「女どもにじゃまをされるとは」ハーコートはそう言いながらも剣を下ろした。「わかった。早くその女を脇へ連れていけ。サマーヴィルとわたしは戦いを続けねばならぬ」
ガブリエルはジェフリー卿に懇願した。「やめてください。ブライアンが自分の家臣にあなたの家臣を装わせてハーコートの農地を襲わせたのです。ブライアンとハーコートの策略です」
「何を言う!」ハーコートが叫んだ。
「本当です。ブライアンがそう言いました」
「やつは嘘《うそ》をついているんだ。女のたわごとや、あんな男の言葉を本気にするつもりか? 誓いを破って逃げ出すのか?」ハーコートはジェフリー卿に言った。
「確かに、一騎打ちで勝敗を決しようと約束した。だが、もし息子がわたしの助けを必要としているのなら……」
「そうなんです! 時間がありません。急がないと……」ガブリエルが言う。
「待て! 貴公は爵位をかけて戦うと言ったのだぞ」
「爵位だろうと城だろうと、なんでも取るがいい。許しをもらえるなら、わたしはいますぐ戦いを放棄して息子を助けに行きたいのだ」
「そういうことなら、いいとも、喜んで許そう」
ガブリエルは耳を疑った。伯爵はルーアークを助けるために、父祖が守ってきたものすべてを投げ出そうというのだろうか? サマーヴィルの家臣たちが驚きの声をあげ、ガレスとアレックスが父に代わって戦おうと進み出た。
「約束はあくまでそなたらの父とわたしの間で交わされた。したがって、爵位はわたしのものだ」
カムデン卿が姿を現した。「国王陛下がそなたに軍を動かすことを許されたのは、ジェフリー卿が先制攻撃をしかけたとの訴えがあったからだ。だが、それも疑わしくなった。サマーヴィルへの恨みがないのなら、もともと戦う理由がないのではないか? 陛下は、このような形で爵位が移されることをお許しにならないだろう」
「陛下のご意向がなんだというのだ? こんなことに口出しなさるとは、気まぐれに政《まつりごと》をされている証拠。これを知ったら、フランスとの戦いから軍勢を引き揚げる者が続出しようぞ」
カムデン卿は静かに言った。「信ずるとおりになされるがいい。ただし、陛下はこのたびのいさかいの再燃には疑念をおもちだ。たとえば、貴公が多数の傭兵《ようへい》を雇っていながら、今日まで交戦を避けていたのはなぜだ?」
ハーコートは目を見開いた。「わたしは、そのようなことは……」
「裁決を下されるのは陛下だ。ともかく、わたしもジェフリー卿に同行しよう。サー・ブライアン・カーマイケルを伴ってロンドンへ戻り、尋問しなくてはならぬ」
ハーコートは喉を引きつらせた。「カーマイケルが己の身をかばうために嘘をついていたら、どうされる?」
「ご心配は無用だ、ハーコート卿。わたしがきき出すのは真実のみ」カムデン卿はそう言い、馬を引くよう命じた。
ハーコートも馬を呼び、家臣に命じる。「全速力でハートコートへ戻れ!」
ガブリエルは、また会える日があることを祈りながらジェスリンに感謝のまなざしを送り、ホルトンヒースへ向かった。
「カーマイケルは城を出る準備をしています」斥候がホルトンヒースを臨む丘で待つジェフリー卿に報告した。
「もし、その前にルーアークが殺されたら……」ガブリエルが声をもらした。
「わたしもこうして待っているのはつらいのだ、ガブリエル。だが、このまま城に攻め入ったら、ルーアークは確実に殺されてしまうだろう」
ルーアークの留守をあずかるウィリアムが、ランスフォードへ向かう道筋の木陰に部隊を分散して配置した。
やがて、近くの丘の上からブライアンと家臣たちが雪におおわれた谷をたどって進むのを見たガブリエルは、列のなかにルーアークの姿を認めて安堵《あんど》の息をついた。腕を前で縛られて馬に乗せられているが、確かに生きている。すぐにも丘を駆け下りたいという強い衝動にからだがふるえた。
列の最後が谷に入ったとき、静寂を破る叫び声とともに両側の森からサマーヴィルの家臣が襲いかかった。淡い冬の日差しを浴びて剣が光り、サマーヴィルの青い戦旗が揺らめく。
ガブリエルは口から出かかる悲鳴を抑えた。ああ、神さま、ルーアークをお助けください!
そのとき、ブライアンの家臣にホルトンヒースへ戻ろうとする動きが見られた。
「行きなさい。そして、ルーアーク卿を見つけて。わたしはだいじょうぶよ」ガブリエルはかたわらで歯がみしていた十名の護衛に叫んだ。
兵士たちは勇んで丘を下りていく。
ガブリエルは彼らを目で追いながら、同時にルーアークを捜した。鞍《くら》の上でのびあがった彼女の目に、混乱から逃れて斜面をのぼっていく二騎の姿が映った。遠いけれど、あれは確かにブライアンとルーアークだ。
まわりを見まわしたが、誰もいない。ガブリエルは馬の首を右に向けて腹を蹴った。森づたいに進んで先まわりをしよう。
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ルーアークはブライアンに引かれていく馬の上で奥歯を噛《か》み、膝をしめて騎座《きざ》だけでバランスをとっていた。足首を馬の腹の下で縛られているため、落馬したら岩に頭を打ちつける。乗せられたのが愛馬グラディエイターだったことがせめてものなぐさめだ。グラディエイターなら、決して主人をふり落とすことはない。
森のなかに入り、ブライアンが速度をゆるめたのでルーアークは息をついた。ブライアンの家臣に殴られ、短剣をつきたてられて、からだは傷だらけだった。衰弱のせいでめまいが襲ってくる。脇腹《わきばら》の傷から、また出血しているのだ。
疲れきって凍りつきそうに寒かったが、祖父に教えこまれた不屈の意志が彼を支えていた。
こんなことには負けられない。ガブリエルを捜し出さなくてはならないのだ。彼女のことを思うと弱りかけた脈が力を持ち直す。彼は頭を上げてブライアンの細い背中に視線を投じた。陰謀が失敗に終わったというのに、何をするつもりなのだろう?
ブライアンは正気を失っている。状況がこれほど切迫していなかったら――そして、ガブリエルと子供が無事なら――彼を哀れに思ったかもしれない。
ガブリエルがホルトンヒースを脱出したことだけは、かろうじてわかっていた。数時間前、ブライアンが彼を蹴《け》り起こして言ったのだ。ローナがいない。ローナに何をしたんだ?#゙は熱にうかされたようにしゃべり続けた。最もやっかいな障害物であるルーアークを消したら、すぐにサマーヴィル一族を追い出して、ローナと結婚するのだと。
頭が朦朧《もうろう》としていたので、ブライアンがローナと言ったのがガブリエルのことだと気づくのにしばらくかかった。ガブリエルが逃げたのか?
ガブリエル?<uライアンは虚《うつ》ろな面持ちでくり返した。彼が正気を失っていることにルーアークが気づいたのはそのときだった。
ブライアンが馬を止めた。
「小用だ。ここで待っていろ」彼は馬を降り、手綱を樫《かし》の木に結びつけた。
「わたしも、もよおしているんだが」ルーアークは言った。ガブリエルが怯《おび》えながらどこかをさまよっていると思うと、心配で胸がつぶれそうだ。なんとしてでも自由になって、彼女を見つけなくては。
ブライアンはグラディエイターの引き綱も木に結びつけた。「おまえの縄をとくほどばかではない。どうせ、すぐに何も感じなくなるさ」
殺すつもりなのか。そう思っても、なんだか他人に起きていることのように現実感がない。ブライアンと殺人という行為も結びつかなかった。「わたしをここで殺すつもりなのか?」
「小用をすませたらな」
「なぜだ?」
「おまえがローナにしたことの報いだ」
いいぞ。ブライアンに話を続けさせるんだ。ルーアークは手首を揺り動かした。くそっ。なんて、固く縛ってあるのだ。「いまになっても、彼女が死んだことでわたしを責めるのか?」
「ローナは死んでいない」
「死んだのだ。ローナは死んだのだ。見ただろう……?」
「そう……血の海だった。おびただしい量の、真っ赤な……あんなに血が流れるなんて……」ブライアンは焦点の定まらない目を彼に向けた。「ローナはおまえと結婚の約束など、すべきじゃなかったんだ」
「ローナはわたしとの結婚を望んでいなかった。だから逃げ出したんだ。そう、彼女を追いつめ、殺されるような事態に追いこんだのはわたしの責任だ」罪の意識は残っているが、遠い昔のできごとのような気がするのはなぜだろう? 結局、わたしはローナを愛してはいなかったのだ。ガブリエルへの愛を知ったいま、はっきりとそれがわかる。
「ローナはわたしのものだ。ずっと、わたしのものだ。子供もだ。おまえなどに奪われるものか」ブライアンの目に暗い影がさした。「おまえがいなかったらわたしたちは仲違《なかたが》いをすることもなかった。ローナはずっとわたしのものだったんだ」ブライアンは恐ろしいまなざしで一瞥《いちべつ》すると、茂みのなかへ姿を消した。
なんということだ。ブライアンとローナは恋人どうしだったのか。ショックで吐き気が襲ってきた。ブライアンがローナを殺したのだ……。
そういう人間なら、じゃま者と思っているわたしなど、ためらいもなく殺すだろう。
そのとき、グラディエイターが落ち着きなく動きはじめた。「よしよし……」からだを前に倒して縛られた手で首を愛撫《あいぶ》しようとしたとき、ルーアークは足にかけられた縄がリズミカルに振動していることに気づいた。
誰かが縄を切ろうとしている。ブライアンが戻ってこないことを確認しつつ下を見ると、ガブリエルの白い顔があった。
「何をしているんだ!」ルーアークは声をひそめた。「父上とアレックスはどこだ?」
「ふたりともお忙しいので、わたしが来たのよ。さあ、脚の縄が切れたわ」ガブリエルは立ち上がった。
「ガビィ、そのナイフをわたしに渡して、すぐに立ち去るんだ」片手に食事用の小さなナイフが渡された。「早く行け。ブライアンがここへ戻ってくる前に――」
「頭から血が出ているわ。それに、ふるえている……そんな状態では、とても太刀打ちできないわ」
「時間がない。早く行くんだ」ルーアークはナイフをもち直して縄に刃をこすりつけた。「ブライアンが戻ってこないうちに行け。ブライアンは……」
「ええ、正気ではないわ」ガブリエルは爪先立《つまさきだ》ちして彼の手からナイフをとり上げ、必死に切りはじめた。「いっしょに逃げましょう」土気色の顔を苦痛にゆがめているルーアークは、戦えるような状態にみえない。「ブライアンはあなたを殺そうとしているのよ。そんなことはさせられないわ。いっしょに逃げるのよ」
「ローナ」
ガブリエルは驚いてナイフを落とした。後ろにブライアンが立っていたのだ。
「来てくれることはわかっていたよ、ローナ。前のときのことも、非難などしないね? あれは皆、ルーアークのせいなんだ」ブライアンは憎しみに燃える目をルーアークに向けて剣を構えた。「仕返しをしてやる。きみは下がっているんだ」
ガブリエルはブライアンの前に立ちはだかった。「あなたといっしょに行くわ。あなたがルーアークへの恨みを忘れるなら」
「なぜルーアークを助けようとする? いつも、粗野な田舎者だと言っていたじゃないか。洗練さのかけらもない求愛の仕方を、ふたりで笑っただろう?」
ガブリエルはうなずいた。ルーアークの気持を傷つけたくはないが、いまはしかたない。「ええ、覚えているわ」彼女はかつて父オーデルやベルナールに向けていた偽りの笑みを浮かべた。「いまも無骨だと思っているわ」
ブライアンが静かに言った。「そいつを生かしてはおけないんだ。長い間サマーヴィルと暮らしてきたから、やつらが女のこととなると強い所有欲を発揮することを知っている。生かしておいたら、きっときみをとりもどしに来る」
「そのとおりだ」ルーアークは言った。彼は必死で手首に力をこめていた。ブライアンが動きだす前に縄を引きちぎらなくてはならない。少なくとも、切れ目は入っているはずだ。
「どうやら、脚が自由になったようだな。よし。馬から降りるんだ」
ルーアークは動かない。ガブリエルははらはらして彼を見つめた。いまは、ブライアンを刺激しないことが大切なのに。
「降りろ」ブライアンは剣の先をルーアークの喉元につきつけた。
「お願い、従って、ルーアーク」
「降りるから剣をどけろ」ルーアークは従うことにした。ガブリエルの言うとおり、いまブライアンを刺激したら、何が起こるかわからない。
ぎこちない動作で馬を降りたルーアークが、しびれた脚のせいで雪のなかに仰向けに倒れるのを見てブライアンは笑った。「無骨なばかりか、ぶざまというべきだな」
ガブリエルはルーアークに駆け寄りたい気持を抑えた。
「動くな、ルーアーク。見ておいで、ローナ、サマーヴィルがどうやって滅びるかを。ハーコートは失敗したが、わたしはわたしのやり方でランスフォードと爵位を自分のものにする。まずはこいつの始末からだ」ブライアンは剣を高くふり上げた。
空を切って剣がふり下ろされる。
その瞬間に、ルーアークはすばやく横に転がった。耳のなかでガブリエルの悲鳴と、岩を打つ剣の音が鳴り響く。危機のせいでからだに力が満ちたのか、手首の縄もはじけて切れた。彼は立ち上がり、反射的に身構えた。脚はまだしびれているし、腕は丸太のように重い。だが、ともかくも立つことはできた。再び倒れるときはブライアンもろともだ。
「かかってこい、ブライアン。おまえの言うとおり、わたしは所有欲が強いのだ。妻をおまえに奪われるわけにはいかない」
ブライアンは顔を真っ赤にした。「彼女はわたしのものだ」そう叫ぶと同時に頭上に剣をふりかざして前へ進んだ。
ガブリエルは悲鳴をあげ、雪の上からナイフを拾ってブライアンを追った。
間に合わない!
ブライアンの剣が大きく弧を描いてふり下ろされる。
「ルーアーク!」ガブリエルは叫び、そのまま突進した。
彼女の目に、ルーアークがすいと身をかわすのが見えた。ほとんど同時に彼の拳《こぶし》がブライアンの腹を強打する。
ブライアンの脚が萎《な》えて、彼が後ろに倒れかかった。ちょうど、ガブリエルが手にしたナイフのほうへ。それは一瞬のできごとだった。ナイフがブライアンの鎧《よろい》の上の首のところに深々と突きささり、恐ろしい叫び声が冷たい空気を引き裂いた。ブライアンは剣を落とし、ふるえる手でナイフをつかんで引き抜いた。
ほとばしりでる血がみるみる雪を染めていく。ブライアンのから。だはゆっくりとくずおれた。痛みに黒ずんだ目がガブリエルを捜している。
「きみを傷つけるつもりはなかったんだ、ローナ……愛している」彼はそうささやいて息絶えた。
「ああ、ルーアーク!」恐ろしさに耐えきれずにふり向いたガブリエルの目に、前のめりに倒れるルーアークの姿が映った。
意識を取り戻したとき、ルーアークは雪のなかに横たわり、妻の膝に頭をのせていた。
白い頬に伝う涙をぬぐってやりたいと思ったが、どうしても腕がもち上がらなかった。
「きみは、無事か?」
「ええ」
「泣いているのか? 泣くな」
「ええ。わたしはだいじょうぶよ」
彼はブライアンのことを思った。「ブライアンは自分で死を招いたんだ」そう言うと、ガブリエルがかすかにうなずいた。「城に帰ろう。ここは寒い。きみが凍えてしまう」彼は弱々しい声で言った。
ガブリエルが顔を上げて命じた。「誰か、担架を」
「そんなものは必要ない。わたしは馬に乗れる」ルーアークは起き上がろうと身じろぎした。
「無理よ」
やがてウィリアムとアレックス、ガレスがやってきて、彼を担架に乗せた。
最も偉大な騎士をめざす者にとって、よほどの屈辱だったのだろう。ルーアークは何度も降ろせと言ったが、誰も耳を貸さなかった。
「ハーコートはどうした?」ルーアークがアレックスに尋ねた。
「戦いの話はやめて」ガブリエルがさえぎった。彼女はウィルトンへ戻ろうと主張していた。
「ホルトンヒースのほうが近いぞ」ジェフリー卿《きょう》が指摘する。
「あそこには清潔な包帯も薬草もありません。あの不潔な牢獄《ろうごく》で過ごしたんですもの。きっと熱を出すはずです」
ルーアークは苦笑した。「あきらめたほうがいいですよ、父上。彼女は一度決めたら心を曲げない暴君ですから」
ウィルトンへの道中のことはルーアークはあまり覚えていなかったが、目を開けるたびにガブリエルが笑み、はげましてくれていた気がする。いまも、彼女はそばにいた。だが、彼が横たわっているのは担架ではなく、ウィルトンの温かく心地よいベッドだった。
「ガビィ?」
かたわらの椅子でうたた寝していた彼女がびくりとして目覚め、冷たい手を彼の額に当てた。蝋燭《ろうそく》の光に照らされて、顔がいっそう白く見える。目の下に青い影も浮かんでいる。
「気分はいかが?」
「見た目よりはいい」
「自分の顔は見えないくせに」彼女はルーアークの顎に指をたどらせた。
「どのくらいたったのだ?」
四日目だと聞いてルーアークは驚いた。初めの三日は高熱にうなされ続けたという。「ずっとそこに座っていたのか? おばかさんだね……」
「ひとのことは言えないはずよ。あなただって、ひとりでホルトンヒースへ行ったでしょう?」
「きみも、ひとりでブライアンについていった」
「ブライアンが、わたしをウィルトンに連れていくよう、あなたに頼まれたと言ったんですもの」
「そんな言葉をなぜ信じたんだ?」
「だって……あなたが、わたしを遠ざけたいのだと思ったから」ガブリエルは顔をそむけた。
誇り高いガブリエルが、なぜ、怯えた召使いのような態度を見せるんだろう? 何かがおかしい。「何を言っているんだ? 神経がたかぶっているんだな。おいで。ここに横になるといい」彼は毛布の縁を上げた。
「いいえ、ちゃんとお話ししなくては。だって、わたしはあなたの敵なんですもの」
「敵? 何を言っているんだ?」
「わたしはド・ローランの娘よ」
「それがなんだというんだ?」
ガブリエルは驚いて彼を見つめた。瞳に涙があふれてくる。「ド・ローランの一族を根絶やしにすることを誓ったんでしょう? だから、あなたは子供が生まれるのを待って……」
「ばかなことを言うんじゃない」ルーアークは手をつかんで彼女を引き寄せ、からだの下に組み敷いた。「さあ、最初から話すんだ」
ガブリエルはごくりと喉を鳴らした。顔色が青く、髭《ひげ》はのびているけれど、なんて美しい顔なのかしら? わたしはこの美しく剛胆な騎士と結婚したのだ。わたしはこのひとを愛している。失うのはどんなにつらいだろう。
ガブリエルは彼に促されるままにすべてを語った。クレンリーでの暮らしのようすを聞いたとき、ルーアークは彼女をぎゅっと抱きしめた。
「父が亡くなっても悲しいとは思わなかったの」
「そして、自分にも同じ冷たい血が流れているから悲しくないのだと思ったんだね?」
ガブリエルは目をそらした。「父親の死を悲しまない娘はいないはずなのに」
「いや、そのような父親なら当然だ。まさか、ブライアンの死に責任を感じてはいないだろうね?」
「わたしのナイフで彼が命を落としたことはつらいわ。でも、彼でなかったらあなたが死んでいたと考えると、しかたがなかったと思うしかないわ」
ルーアークは彼女の顎をとらえて瞳を見つめた。「そう思うのは自然なことだよ。きみに欠点があるとしたら、それは他人に起きたことに心を痛めすぎることだ。きみがあまりに善良なので、わたしはときどき、自分があさましくて思いやりのない人間に思えるほどだ」
「あなたはド・ローラン一族を根絶やしにすると誓ったのでしょう? あなたにとって誓いはとても大切なものだと聞いたわ」ガブリエルは小さな声で言った。
「きみを憎むことができるわけがない。たとえきみの兄でも、ベルナールは殺すかもしれない。もしも彼が王太子殿下を脅かすならね。だが、きみは本当にベルナールの妹なのだろうか? 本当は妖精《ようせい》に取り替えられたジプシーの子供かもしれないよ」
「そうだったら、どんなにいいかしら。わたしたちの子供にも呪《のろ》いがおよぶかと思うと怖いわ」
「呪いなんて信じてはいけない。オーデルはその父親を見て育ち、ベルナールはオーデルを見て育ったんだ。若枝が曲がっていると、木はそれなりにしか育たない。わたしたちの息子がもし間違った方向へ枝をのばそうとしていたら、いくらでも剪定《せんてい》してやることができるじゃないか。それに、もしサマーヴィルの血が濃く現れれば、兄やわたしのように優しい男になるだろう」
「優しい? あなたが?」ガブリエルは彼が自分の資質を認めたことに驚いていた。
「そうだよ。祖父はわたしの優しさを追い払おうとしたが、無理だったようだ。ときには、戦いや殺し合いがつくづくいやになることがある」
「愛しているわ、ルーアーク」ガブリエルは思いの丈をこめて言った。
ルーアークの瞳に静かな喜びがあふれた。「ガビィ、わたしもきみを愛している」そっと重ねた唇がしだいに熱をおびていく。
「いけないわ……傷口がひらく……」
「それに、きみが疲れているということを忘れていた」彼の手足も、気持とはうらはらに石のように重かった。「さあ、ここでお眠り。せめて腕に抱いていよう」
ガブリエルが隣に身を横たえるとルーアークは髪をなでた。束ねられていない髪が枕《まくら》の上で漆黒の戦旗のようにつややかに波打っている。野の花の香りが鼻孔をくすぐった。
「愛している、ガブリエル。もう一瞬たりとも離れたくない」
とうとう、ド・リヴァーズ卿にたてた誓いを考え直してくれるときがきたのかしら? ガブリエルは温かな腕に包まれて彼の言葉を待った。ド・ローランの血を無視するほど愛してくれているんだもの。きっと、わたしたちの幸福の最後の障害も消えたんだわ。「では、スペイン遠征をやめてくださるのね?」
「スペイン?」彼は眠たげに言った。「むろん、行かねばならない。行きたくはない……だが……しかたない……のだ……」
「まったく、男のひとというのは」ガブリエルは彼の寝息を聞きながらつぶやいた。彼はガブリエルが気持を変えることを期待しているのだ。彼女が夢を捨て、安全な我が家を離れて、いたいけな赤ん坊を連れてついてくることを。
もちろん、気持は変えないわ。夢が価値あるものなら、そのために戦うのは当然のことよ。さて、作戦を練らなくては。
ウィルトンを改築するとき、ガブリエルは天守の二階にかなりの広さの私的な居住部分を設けていた。階下の広間と違い、家族だけでくつろぐことのできるサロンと寝室だ。眠るルーアークを寝室に残してサロンに入ると、そこにレディ・キャサリンとジェフリー卿、アレックスが待っていた。
伯爵が即座に立ち上がって尋ねた。「具合はどうだね?」
「ずいぶんよくなりました」
「さあ、ここに座って」レディ・キャサリンはワインを注《つ》ぐガブリエルにもどかしげに言った。「本当に回復しているの?」
「今朝がた、熱が下がりましたし、傷も治ってきています」
「それなら何を悩んでいるの?」レディ・キャサリンがきく。
「このことはどなたにもお話ししないと約束したんです。でも……」ガブリエルは唇を噛んだが、思いきって伯爵に尋ねることにした。「騎士の誓いというのは、どのくらいの拘束力があるものなのでしょうか?」
「誓いの種類によって違うだろうな」
「それが死にゆくひとの枕辺でなされたものだとしたら?」
「父がルーアークにたてさせた謎《なぞ》の誓いのことを言っているのね?」レディ・キャサリンが言う。
「実は、何が誓われたかを知っているんです」ガブリエルは勇気をふるうためにワインを口にふくんだ。ルーアークは怒るだろうけれど、わたしたちと子供の未来を愚かな誓いのためにだいなしにさせるわけにはいかないわ。「サー・ロジャー・ド・リヴァーズは、ずっと、王国一の偉大な騎士になることを夢見ていらしたのだそうです。そして、志半ばで息を引きとられるときに、その夢をルーアークに託されたのです」
三人は驚いてガブリエルを見つめた。
レディ・キャサリンが息をつく。「なんということでしょう! ルーアークは本気でそんなことがかなうと思っているのかしら?」
「これはド・リヴァーズ卿の復讐《ふくしゅう》だ。父に背いたそなたと、そなたをさらったわたしへの。偉大な騎士? 何を尺度に測るのだ? いったい誰がそれを判断する? わたしたちの息子は生涯をかけて見果てぬ夢を追うことになるぞ」
「ルーアークを止める方法を考えなくては」ガブリエルが言った。
「ルーアークを止める? そんなことができるかな」アレックスが笑った。
「誓いを撤回することはできないのですか?」
アレックスが首をふった。「名誉を失うことになる。ルーアークにはできないだろうね」
力なくワインの杯を口元に運んだガブリエルは思わず身ぶるいした。ワインの赤い色が血のように見える。「ルーアークが偉大な騎士≠ノなる方法はないのでしょうか?」
「ううむ」ジェフリー卿はマントルピースに片手をのせ、炎を見つめて考えこんだ。
ガブリエルは落胆したが、あきらめるつもりはなかった。「そのような名誉を授けられるのはどなたなのですか?」
「それだ!」ジェフリー卿がふり向いた。
ルーアークは順調に回復し、一週間もすると身をもてあますようになった。だが、雪が厚く降り積もっているから家臣の武術訓練などもってのほかだとガブリエルが言う。
仲違いをしたくなかったので、しばらくおとなしく室内にいたが、数日であきてしまった。皆、忙しそうに立ち働いている。そこで、彼は城壁の補強をしようと決意した。
だが、ガブリエルが言った。「あなたの家臣は狩りに行っています」
「誰がそんなことを命じた?」
「わたしです。新鮮な鹿肉《しかにく》が食べたかったので」
「昨日は鶉《うずら》だったぞ。わたしたちの息子は妙なものを所望する」彼はガブリエルを腕にだき、緑色のドレスにおおわれたおなかのふくらみを見下ろした。「しかし、食卓では鶉の料理を見なかった気がするが」
「き、気が変わったんです」
ルーアークはため息をついた。すべてがこの調子なのだ。城に暮らした経験はあまり多いとはいえないが、それにしても、ウィルトンのようすはどこかがおかしい。
ひとつには、徹底した大掃除が続けられていることだ。大掃除は春にするものではないか。もうひとつは、ガブリエルが彼のサーコートを新調すると言って寸法をとったことだった。すでに立派なものが三着と、まだ着られるものが山ほどあるのに、なぜ必要なのだろう?
ウィルトンに滞在している両親やアレックスによい印象を与えるためだろうか? わたしが危機を脱したというのに、彼らはなぜ帰らない? いや、そもそも、ガブリエルはそんなことを気に病むタイプではないはずだ。
奇妙だった。そういう彼女は、ベッドのなかの申し分のない彼女とあまりに違いすぎる。昼間は緊張した面持ちで神経質に侍女や召使いに仕事の差配をしていながら、寝室に戻るやいなや、満面に温かな笑みをたたえて寄り添ってくる。
母上はおなかの赤ん坊のせいだと言うが、何か隠しているのではないかという疑いを捨て切れない。だが、何を隠しているというのだ? すべてを語り、ローナの日記まで見せてくれたというのに。
わたしが日記に興味をもったのは、最初にあなたがわたしに惹《ひ》かれたのが彼女と似ているせいだと知ったからなの。そして、ローナの恋人があなただと思いこんで傷つき……嫉妬《しっと》したのよ<Kブリエルは言った。
過ぎたことは忘れるのが一番いい#゙はそう言い、いっしょに日記を焼いて、ブライアンとローナの関係も誰にも言わずに忘れようと約束し合ったはずだった。
ルーアークは雑念を追い払った。「明日は狩りに行こうと思う」
「それはすてきな考えだわ。ぜひ」ガブリエルは爪先立ちして唇を合わせ、ハミングしながら去っていった。
ルーアークはその魅力的な後ろ姿を見つめた。女というものは、どうしてこうも不可解なのだ?
翌日、ルーアークの一行が狩りから戻ったのは日がとっぷりと暮れ、再び雪が舞いはじめたころだった。脇腹の傷が少し痛み、疲労も感じていたが、ルーアークは壮快な気分だった。はね橋を渡って城壁のなかに入ったとき、いいしれぬ思いが胸にあふれた。我が家の明かりが温かくまたたいて出迎えてくれているではないか。
そしてガブリエルが走り出てくるのを見たとき、にぶい痛みが胸を刺した。ああ、これがあるべき姿なのだ。子供が無事に生まれてからスペインへ向かおう。彼女がいっしょに来るにせよ、そうでないにせよ。
ルーアークは馬を降りてガブリエルに向かって両腕を広げた。たったいま胸にあいたこの空隙《くうげき》を満たしてくれるものは彼女の抱擁とキスだけだ。
「遅かったのね」ガブリエルは胸にとびこむかわりに手をとってなかへと誘った。「さあ、早く。お客さまをお迎えしているのよ」
「きみが緊張しているところをみると、大切な客人なんだな?」
「国王陛下よ。すでに広間においでなの」
「エドワード陛下がここに?」ルーアークは驚いて広間のほうへ足を向けた。
「待って。まず着替えなくては。寝室のベッドの上に新しいサーコートがあります。アレンがお湯を用意して待っていますから」
「わたしに命じるな。わたしはきみの侍女ではないぞ。湯浴《ゆあ》みはするが、それは礼儀だからだ。服は気に入っている黒のビロードを着る。あれならどんな客人にも礼を失しないからな。たとえ国王陛下でもだ」
ガブリエルは顔色を変えた。「ルーアーク、お願いだから……」
「……わかった。きみの言うとおりにしよう。ただし、今回かぎりだぞ。あやつられるのはごめんだ」
「急いで……十五分以内にいらしてね」ガブリエルはキスをし、大急ぎで広間のほうへ歩いていった。
寝室に入ったルーアークは唖然《あぜん》とした。金色のチュニック、ルビー色のタイツ、貂《てん》の毛皮で縁どりされた真紅のサーコート。これではまるで国王の装いではないか。ほかのものを着ようと思ったが、どういうわけか、部屋にあった衣装箱がひとつも見当たらない。
もしも広間でお待ちなのが国王陛下でないなら、汚れた狩りの装束を再び身につけていたところだ。ルーアークは憤りながら階段を下りた。彼の機嫌は広間をうめる自分の軍旗とサマーヴィルゆかりの者たちを目にしても直らなかった。
「ルーアーク卿だ!」誰かが叫ぶと、騒々しかった広間が一瞬にして静まり、彼の前に道ができた。人々の絹のサーコートやドレスに縫いつけられた宝石、豪華な金鎖が百を超す蝋燭の光にきらめき、絢爛《けんらん》さを競っている。
エドワード陛下は広間の奥に据えた玉座に座っていた。わざわざ玉座を運ばせたのだろうか。金色の髪にイギリス王国の王冠をのせ、高貴な白いアーミンの毛皮で縁どりされた紫のローブを身につけている。右手は剣の柄《つか》を握っていた。
「これはいったい……?」
「拍車です、閣下」一番いい服に身を包んだウィリアムがひざまずき、ルーアークのブーツに黄金の拍車をつけた。
そのとき背後でトランペットの音が鳴り響いたので、ルーアークは驚いて身をすくませた。
「剣だ、息子よ」右側で待っていたジェフリー卿が彼の腰にアヴェンジャーをつるした。
再びトランペットが鳴り響く。
ルーアークは目をしばたたきながら小声で尋ねた。「いったい、これはなんなのです?」
ジェフリー卿がささやき返す。「騎士叙任式……まあ、そのようなものだ」
「わたしはすでに騎士に叙せられていますが」
「陛下がおまえに名誉を授けてくださるのだ」
たぶん、土地を加領してくださるのだろうとルーアークは思った。少なくともガビィは喜ぶだろう。
国王の脇に立っていたアーサー・カムデンが少し下がって言った。「ウィルトン領主ルーアーク・サマーヴィル、前へ出られよ」
ルーアークは父とウィリアムを見た。「この儀式は、いったい……?」
トランペットが鳴り、エドワード国王が立ち上がった。広間にいる者が深々と頭《こうべ》を垂れる。
「行きなさい。陛下をお待たせしてはいけない」ジェフリー卿が促した。
ルーアークは進み出ながら、人々の間にガブリエルの姿を捜した。驚いたことに、彼女は国王の左側に立っていた。皆と同じく頭を垂れていたが、顔は上げている。彼女は瞳を輝かせてルーアークを見つめ、愛しているわ、と唇を動かした。手に黄金のメダルを捧《ささ》げもっている。
ルーアークは国王の前で立ちどまり、紫色のビロードのクッションに片膝をついた。
「カムデン卿、書状を」国王が言う。
するすると巻き物が開かれ、カムデン卿が読み上げた。「長きにわたり、戦いでめざましい働きをし、我と我が王国につくしてくれた者に名誉を授ける。カレーの戦いに初陣を飾ったのはわずか十四歳のときであった……」カムデン卿は名の知れた戦いから小競り合いまで、細大もらさず、彼がかかわった戦いの名を挙げていった。延々と読み上げられるなかにはルーアーク本人すら覚えていない戦いもあった。それぞれがエドワードの筆で麗々しくうたい上げられている。
ルーアークの膝が痛くなりはじめたとき、やっとカムデン卿が羊皮紙をまるめた。トランペットが鳴り響いて朗読の終わりを告げる。
「ルーアーク卿、我が王国の騎士よ。立って、そなたの国王のねぎらいのしるしを受けるがいい」
ルーアークは立ち上がって頭を垂れた。首に金鎖がかけられる。金鎖に下がったメダルに何かが刻まれていた。ラテン語だ、とルーアークは思った。
人々の祝福の声に包まれながらルーアークは胸に視線を落とした。ラテン語は得意ではないが、こう書いてあるようだった。ウィルトン領主ルーアーク・サマーヴィル、そなたは我が王国で最も偉大な騎士であることをここに記す
「どういう意味だろう?」
ルーアークがつぶやくのを聞いて、ガブリエルがそっと腕に寄り添い、頬にキスをした。「それはね、あなたがおじいさまへの誓いを果たしたということだわ」
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エピローグ
六月二十四日、ヨハネ祭の前日のウィルトンを囲む丘は緑の草におおわれていた。果樹はたわわに実をつけ、作物は密に生い茂って、豊かな収穫を約束している。
ガブリエルは吐息をつき、ウィルトンの中庭でくり広げられている騒ぎをよそに背中をのばした。「無事に六月の終わりを迎えられてよかったわ」
「そうだね」ルーアークは彼女のおなかのみごとなふくらみを見下ろした。「きみは働きすぎだよ」
ガブリエルはほほえんだ。以前に、フェリスとこれと似た会話をしたことがあった。たった十カ月前のことだとは、とても思えない。
「ほかならぬフェリスとウィリアムの婚礼ですもの。あなたのお母さまのご助力もあったし、侍女たちもよくやってくれたわ」
「式が始まるまで横になっておいで」ルーアークはガブリエルの頬にキスをした。
「いいわよ。ただし、あなたが抱いていってくれるならね。もう、階段の上り下りはできない気がするの」
「いいとも。きみがグラディエイターなみの体重だろうともち上げてみせるよ」
ガブリエルは結局、そのまま広間で休み、礼拝堂へ行って式に参列したが、その間に陣痛が訪れはじめた。
「別に朝食に悪いものを食べたわけではないのよ」身も世もなく心配するルーアークを落ち着かせるために、彼女は小声でささやいた。しかし、ルーアークが険しい視線を投げるので、気の毒なサイモン神父は大急ぎで式をすませなくてはならなかった。
「さあ、寝室へ行くんだ」新郎新婦を先頭にたてて前庭に入るとすぐにルーアークが言った。
「ここにいるわ」ガブリエルは言いはった。自分のときの覚えがないので、フェリスの祝宴を楽しもうと決めていたのだ。
食卓はできるだけ多くの者が席につけるように前庭に並べられていた。
彼女が自分の席についたので、ルーアークもしかたなく隣に座った。「わたしの息子を前庭で産むことになっても知らないぞ」
「きっと、娘よ」ガブリエルは笑った。
「サマーヴィルにはずっと男の子しか生まれていないんだ。それに、息子でなければ、授けられた名誉にお報いして陛下の名前をいただくわけにいかないではないか」
陛下はメダルをくだされた。でも……。ガブリエルはふと彼の胸元を見た。メダルがない。「メダルはどこ?」
「石工を呼んで、祖父の墓におさめさせた」
「なぜ?」
「あれは祖父の夢だったんだ。わたしのではなく」
「じゃあ、あの儀式のことも気にしてらっしゃらない?」
「あのときはまいったよ。きみがわたしを愛するあまりにしたことだと知っているから許すが」
彼にウィルトンを出ていってほしくない一心でしたことなのだが、彼がとどまるつもりなのか、遠征するつもりなのか、ガブリエルにはいまもわからなかった。冬の間、ふたりは愛し合い、笑い合い、お互いのことを少しずつ学びながら楽しい日々を過ごした。ふたりとも頑固で主導権をとりたがるのでけんかもしたが、理解し、歩み寄り、和解する楽しみも覚えた。
それでも、いままで子供が生まれたあとのことは一度も話題にしなかったのだが。「ルーアーク、わたし……」ガブリエルが切り出した言葉は刺すような痛みにかき消された。
ルーアークはすぐに彼女を抱えて寝室へ運び、レディ・キャサリンとフェリスを呼び、召使いにお湯を用意させた。
ガブリエルが何度も部屋を出ていくようにと言ったが、ルーアークは聞く耳をもたなかった。「わたしはここにいる」そう言って、一日じゅう彼女のもとを離れず、汗をふいたり、こわばった筋肉をもみほぐしたりして世話をやいた。
夜の帳《とばり》が下りるころには、彼の腕はガブリエルの爪痕《つめあと》でいっぱいになり、顔は心配のあまり真っ青になっていた。それに気づいたガブリエルはとうとう言い渡した。「ルーアーク、下へ行って、お酒を飲んでいてちょうだい」
レディ・キャサリンが優しく彼を外に出す。ルーアークはしばらく部屋の外にいたが、扉ごしに妻の悲鳴を聞いているのは耐えがたい状況だった。
「おいで、ルーアーク」ジェフリー卿《きょう》が彼を広間に連れていった。
花婿や男たちの間に座らされ、手渡されたエールの杯を気むずかしい顔でじっと見つめていたルーアークは、やがて父が自分に話しかけていることに気づいた。「なんでしょう?」
「こういう時間を過ごすのは男の宿命だと言ったんだよ」伯爵はくり返した。「おまえが生まれた日のことを思い出す。あの小さなしわだらけの赤ん坊が、こんなに立派な……名高い騎士になると、誰が思っただろう」
ルーアークは低くうめいた。
「わたしはおまえを誇りに思っている」
ルーアークの胸のなかで昔の痛みがうずいた。「でも、幼いころは……」
「あのころも誇りに思っていたとも。ずっとだ。サー・ロジャー・ド・リヴァーズとわたしの確執を話そう。そうすれば、おまえも理解してくれるだろう」
ガブリエルはドレスを着替え、髪をくしけずって疲れきった身を横たえていた。眠る我が子に片手を添えながら。目を閉じていても眠ってはいなかった。
やがて扉が開き、彼女が待っていた足音が遠慮がちにベッドに近づいてくる。「ガビィ?」ルーアークがベッドのかたわらにひざまずいた。暖かい息遣いを感じたかと思うと、そっと唇が触れた。「愛しているよ」
「わたしもよ」瞳を開いたガブリエルは、彼のやつれた顔とくしゃくしゃの髪を見て、思わずほほえんだ。「ずいぶんつらい時を過ごしたようね、だんなさま」
「きみは……だいじょうぶか?」
「もちろん、だいじょうぶよ」
「わたしの息子は?」そう言いつつ、布にくるまれた赤ん坊のようすをうかがう。
「ご自分の目でたしかめたらいかが?」ガブリエルは面白そうな笑みを浮かべた。
ルーアークは思ったより巧みに赤ん坊を腕に抱いてベッドの端に座り、膝の上で布をほどきはじめた。「この手をごらん」彼は感嘆の声をあげた。小さな手が彼の指をしっかりとつかんでいる。布をとりさったルーアークは、しばらく感動して見入っていたが、やがて眉根を寄せてガブリエルを見た。「何か……足りないものが」
「まあ」ガブリエルは少し身を起こして、自分も子供を見るふりをした。「わたしの目には足りないものなどないように見えるけれど」
「だが……彼には……」
「彼女[#「彼女」に傍点]よ」ガブリエルは枕《まくら》の上に頭を戻し、声をたてて笑った。
エドウィナ・キャサリン・エルスベス・サマーヴィル――国王の名とふたりの祖母の名を戴《いただ》いた姫君のおかげで、サマーヴィルは大混乱だった。ひさかたぶりに一族に誕生した女の子をひと目見ようと、遠くはスコットランドやフランスから縁者が押し寄せてくるのだ。
だが、小さなキャット≠ニ呼ばれるその子は何があろうと動じず、どんなにまわりが騒がしくても、ものともせずに眠っていた。いやな顔をしたのはルーアークだった。
「やれやれ、これで最後だ」大叔母を見送ったルーアークが言った。「永遠に出ていかないのかと思ったよ。さあ、少し眠るといい」
「わたしもこの子もガラスでできているわけじゃないわ。だいじょうぶよ」
ルーアークは身をかがめて生後一週間の我が娘にキスをした。「すばらしいじゃないか? 女の子だよ。サマーヴィルの歴史始まって以来のことだ」
「がっかりしているのではないの?」
「とんでもない。瞳はきみの菫《すみれ》色、髪はわたしの金色だ。おまえはママと同じくらい美しい姫になるぞ、キャット」彼は人差し指を頬にあてがって考えこんだ。「すぐに求婚者に悩まされるようになるだろうな。そいつらを寄せつけないように、家臣の武術の腕を磨いておかなくては」
「では、ここに暮らしてくださるの?」
「もちろんだよ」彼は驚いたようにガブリエルを見た。「もしかしたら、この数カ月、そのことをずっと気にしていたのかい?」
「ええ」
「どうして言ってくれなかったんだ? 国王陛下にお願いする前に、なぜ、わたしにひとこと……?」
つまり、それだけ有効だったということかしら? あなたの命を守り、そばにいてもらうためなら、何度でも同じことをするわ。「戦地に比べたら、ここの暮らしは退屈でしょうね」
「ところが、忙しいんだよ、ガブリエル。ふたりのレディを守らなくてはならないし、卑怯《ひきょう》者のハーコートもいる」
「国王陛下のおとがめはないの?」
「ブライアンがいないいまとなっては、ハーコートが陰謀を企てた証拠がないからね」
「また戦いがあるのかしら?」
「当面は平和が続くだろう。ただし、国王陛下のお召しがあれば、わたしは駆けつけて戦わなくてはならない。だが、これだけは言っておく。わたしはきみを愛している。これからもずっとだ。きみを残して遠征するときがきたら、さぞつらいだろう」
「ああ、ルーアーク。それをうかがったら、もう望むものは何もないわ」
「夢の城に連れていってくれる輝く鎧《よろい》を身につけたハンサムな騎士のことは?」
ガブリエルはまっすぐに彼を見つめた。「もういいの。だって、あなたを見た瞬間に、夢の騎士はあなただとわかっていたんですもの」
ルーアークは優しく唇を重ねた。黒い瞳で永遠の愛を誓いながら。
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底本:「夢見た騎士」ハーレクイン文庫、ハーレクイン
2006(平成18)年5月1日第1刷
入力:
校正:
2008年12月22日作成