栄光のペルシダー
E・R・バローズ/関口幸男訳
目 次
一 生ける屍《しかばね》
二 恐怖のたて穴
三 一縷《いちる》の望み
四 バスティのスクルフ
五 奴隷となって
六 ラ・ジャ
七 奴隷たちの逃亡
八 〈死の森〉
九 納骨洞穴
十 ゴルブス族
十一 食肉用に飼育
十二 マンモス族
十三 とらわれの身となって
十四 「やつらは死ぬのだ!」
十五 花嫁
十六 〈りこうものの白ひげ〉
十七 小峡谷
十八 牛人族
十九 クル
二十 咆哮する群れ
二十一 見すてられて
二十二 ガズ
[#改ページ]
登場人物
[#ここから1字下げ]
デヴィッド・イネス……地底帝国ペルシダーの皇帝
ジェイスン・グリドリー……イネスの友人
フォン・ホルスト……O‐220号の乗組員
ラ・ジャ……ローハール族の族長の娘
ダンガー……サリの戦士
スクルフ……バスティ族の戦士
フルグ……バスティ族の族長
ソレグ/トログ/ゴルプ……マンモス族の戦士
ムマル……ゴルプの妻
グルム/ロタイ……ゴルプの娘
マムス……マンモス族の族長
ダルグ……ゴルブス族の戦士
トルプ……ゴルブス族の族長
クル……牛人族ガナクの新族長
ダホ/ガズ……ローハール族の戦士
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
一 生ける屍《しかばね》
ペルシダーの永遠に真昼の太陽が、太古の昔以来地上世界が目撃したことのないような光景――地底世界ペルシダーのみが今日現出しているような光景――をじっと見おろしている。
何百頭という剣歯虎が無数の草食動物を、とある広大な森のなかにある空地へと追いこんでいった。これを、地上世界からやってきたふたりの白人――彼らと、はるかかなたのアフリカからやってきた少人数の黒人戦士が、見まもっている。
この男たちは、ジェイスン・グリドリーの緊急命令により、他の同種族の男たちとともに地球の最北、北極の開口部から巨大な気球に乗ってはいりこんできたのだった。しかし、その物語はすでに話しずみである。
これは、行方不明となった人の物語なのだ。
「まったく」と、グリドリーがさけんだ。「われわれの足下五百マイルには、巨大な建物がずらりとならんだ、人、人、人で雑踏する通りを自動車がビュンビュンいきかっているなんて、およそ信じられそうもないことだ。電信、電話、無線など、もうありふれてしまってとやかくさわぎたてるものはひとりもいないし、何百万、何千万という人々が自分の身をまもる武器ひとつの必要もなく一生をすごしている。なのに、それと同じときにわれわれは、こうやって地上世界では百万年も昔に絶滅してしまっているはずの剣歯虎にとりかこまれてつったっているんだからな。まったく信じられないよ」
「あれを見ろよ!」フォン・ホルストがさけんだ。「あいつらがこの空地へ追いこんだけものたちを見てみろよ。まだぞくぞくと追いこまれてくる」
剛毛におおわれ、奔放にのびた角をもった大きな、雄牛に似たけものがいた。赤鹿や大なまけものがいた。マストドンやマンモス、象に似ていながら、すこしも象らしく見えない小山のようなけものがいた。その巨大な頭部は、長さが一メートル二、三十センチ、幅一メートルになんなんとするほどもあった。みじかい強力そうな鼻をもち、下顎から太い牙が二本つきだし、その先端が内側へ、体躯のほうへまがっている。そいつの立っているときの高さは、肩部のところですくなくとも三メートルはあり、全長ゆうに六メートルはあったにちがいない。しかし、そいつが象に似ているようで似ていない原因がその小さな、豚のにそっくりの耳にあった。
ふたりの白人は、前方の光景に度肝をぬかれてその背後にいる虎のことをしばしばわすれ、たちどまってその空地内に大挙して集まってきたけものたちを驚異のまなざしで見まもった。しかしまもなく、自分たちの生命が助かりたいなら、虎たちにひきたおされるか、あるいはすでに逃げ道をもとめておしあいへしあいしているおびえた草食動物たちにふみつぶされないうちに、樹上の安全な場に到達しなければならないということがはっきりしてきた。
「わしらの前方に、まだ空地がひとつありますぜ、|だんな《プアナ》」と、ワズリ族の黒人首長、ムヴィロがいった。
「うん。そこまでひとっ走りしなければならんだろう」グリドリーがいった。「けものたちは、いっせいにこっちのほうへむかってきている。まずやつらに一斉射撃をあびせて、それから立木を求めて逃げるんだ。もしやつらが突進してきたら、各人かってに散らばること」
一斉射撃でけものたちは、一瞬むこうへむきなおった。しかし、背後にせまる大猫どもを見て、またもや男たちのほうにくるりとむきを変えたのだ。
「そら、やってくるぞ!」フォン・ホルストがさけんだ。そのひと声で、男たちは、唯一の避難所を提供してくれる立木へたどりつこうと、どっとかけだした。
グリドリーは、一匹の大なまけものに打ちたおされたが、きわどいところでたちあがり、のがれてくるマストドンの通り道をとびのいて一本の立木に到達した。いましもその立木の周囲へと、ばく進するけものたちの奔流がせまってくる。一瞬後、間一髪のところで木の枝のあいだにのがれたかれは、仲間たちをもとめてあたりを見まわした。が、だれひとり見あたらない。それに、人間のようにもろい生きものが、この跳《は》ね、突進する、恐怖にうたれたけものたちの切れ目ない大集団の下敷きになって生きていられるわけもなかった。仲間たちのなかには無事に森へ到達できたものがいたかもしれないと、かれは確信したが、ワズリ族のあとからわずかにおくれてついていたフォン・ホルストのことが気がかりだった。しかし、ヴィルヘルム・フォン・ホルスト中尉はのがれていたのだった。事実かれは、そのへんの木にのぼることもなく、わずかな距離をかけて森の中へとびこむことに成功していたのだ。かれは、のがれてくるけものたちの右手へかけさった。そしてけものたちは、仲間の連中が森へはいったあと、左手へ進路を転じたのだった。フォン・ホルストは、けものの大集団がかんだかいなき声を発し、いななき、うなり、咆哮しながら、すさまじい轟きをあげて遠くへかけさっていくのをきくことができた。
息をきらし、消耗しかけていたかれは、とある木の根方に腰をおろして息をととのえ、休息をとった。疲労|困憊《こんぱい》していたから、ちょっとのあいだだけと思ってかれは、目をとじた。太陽は、真上にかがやいている。ふたたび目をあけたときにも、太陽はいぜん、真上にあった。かれは、自分が眠りこんでいたことに気づいたが、ほんのつかのまだけのことだと思った。長いあいだ眠っていたとは知りもしなかった。どれぐらいのあいだかとなると、だれにもわからない。静止した太陽が永遠に微動もせず天頂にかかっているこの、時のない世界でどうやって時間をはかったらよいというのだ?
森は無気味に静まりかえっていた。もはや、草食動物のかんだかいなき声やいななき、剣歯虎のうなりや咆哮はまったくきこえなかった。かれは、仲間たちの注意をひこうと大声でよんでみたが、返事はなかった。そこでかれは、例の気球が繋留《けいりゅう》されてある主要キャンプの方角へ、かれらがまちがいなく行くであろうとわかっていた方角へと、ひきかえしていく最短距離だとかれが思った道を、かれらをさがしながら歩きはじめた。しかしかれは、そのつもりだった北へではなく西へ進んでいたのだった。
かれが見当ちがいをしていたのは、あるいはよいことだったのかもしれない。ほどなく人声がしたからだ。男たちが近づいてくる。かれは、たちどまってきき耳をたてた。声ははっきりときこえたが、そのことばはチンプンカンプンだった。かれらは、友好的であるかもしれない。しかし、この野蛮な世界でそう思いこむほど、かれには自信がなかった。かれは、たどってきた道をそれ、灌木の茂みの背後に身をひそませた。ほどなく、かれがその近づいてくるのをきいた男たちが姿をあらわした。ムヴィロとその戦士たちだった。かれらは、アフリカの一族のあいだで使う土民語を話していたのだ。フォン・ホルストは、かれらだとわかると道へふみだした。かれらに会えてうれしかったが、かれらのほうも同様にかれに会ってよろこんだ。これでグリドリーが見つかりさえすれば、なにもいうことはなかっただろう。しかし、長いあいだ捜索したにもかかわらず、かれらは、グリドリーを見つけることができなかった。
かれらが現在どこにいるのか、あるいはキャンプがどの方角であるのか、ムヴィロにもフォン・ホルスト同様まるで見当がついていなかった。かれとその戦士たちは、いやしくもワズリ族たるもの森のなかで道に迷うなんてことがありうるとは、と考えてすこぶるくやしがった。そして、フォン・ホルストとかれらが意見を交換しあった結果、わかれわかれになったあと、かれらが逆の方角から大きな円弧をえがくような形で進んできたのは明白のようだった。そうでなければ、かれらがめいめいひとときでもあと戻ったりしたことはないと主張しているのだから、こうやってたがいにひきあうわけの説明がつかないのだった。
ワズリ族のものたちは、一睡もしていなかったから、ひどく疲労していた。それにひきかえてフォン・ホルストは、充分に眠り休息をとっていた。だから、かれら全員がもぐりこめるような洞穴を発見したとき、かれらは、その暗がりのなかへはいっていって睡眠をとるいっぽう、フォン・ホルストは、洞穴の入口の地面に腰をおろして、将来の計画をねろうとした。そうやって黙然《もくねん》とすわっているとき、一頭のイノシシが通りすぎた。腹ごしらえをする肉が必要だと思いついたかれは、たちあがってこっそりとそのあとをつけた。しばらくすると、そいつは、とあるまがり角にさしかかり、そのむこうに姿を消した。ところが、そいつがそれほど遠くへいっているはずがないと思いはしたものの、二度とその姿をおがむことができそうもないような気がするのだった。それに、道が縦横無尽にいりみだれていたから、やがてかれは、そいつがどっちへいったのかわからなくなってしまい、ついにあきらめて洞穴のほうへひきかえしはじめた。
かなりの距離歩いてはじめて、かれは、道に迷ったことに気がついた。ムヴィロの名前を大声でよんでみたが、返事はなかった。そこで、かれはたちどまって、洞穴があるにちがいない方角をきわめて入念につきとめようとした。本能的に太陽を見あげた。あたかも、それがかれを助けてくれるかもしれないとたのみにしているかのようだった。が、太陽は、天頂にかかっている。まっすぐ頭上に、永遠にかかっている太陽のほか星のひとつもない世界で、どうやって進路を定めることができようか? かれは、ぼそぼそと悪態をついて、また歩きはじめた。あとはできるだけやってみるほかはない。
きわめて長時間と思えるあいだ、かれは、とぼとぼ歩きつづけたが、いぜんとして真昼間であることにかわりはなかった。しばしばかれは、機械的に太陽を見あげた――方角を定めてもくれなければ、すこしでも時間の経過したことを暗示してもくれない太陽を。しまいにはそのかれを嘲笑《あざわら》っているかに思える、光りかがやく球体が憎たらしくなってきたのだった。森やジャングルは、生命にみちあふれていた。花々は咲きみだれ、果実や木の実が豊富になっていた。食べて害になるのかならないのか、それがわかってさえいたら、食物の種類や量にことかくことはなかっただろう。かれは、ひどく腹をへらし、のどを渇かしていた。そして、とくにかれを悩ませたのがこの渇きのほうだった。かれには、ピストル一丁と充分な弾薬があった。だから、この獲物にみちあふれた土地では肉がほしければいつでも手にいれることができたが、水はそうはいかなかった。かれは、どんどん先へ進んだ。いまでは、仲間たちやキャンプよりもむしろ水のほうをさがしあてたかった。渇きのために苦しくなりはじめた。そして、ふたたび疲労をおぼえ、眠気を感じるようになった。かれは、齧歯類の動物を一匹しとめ、その生き血を飲んだ。それから、火をおこしてその死骸を料理した。あちこちがこげ、表面のちょっと下がやっと半分ぐらい炙《あぶ》れたにすぎなかった。ヴィルヘルム・フォン・ホルストは、しかるべく料理され給仕されたすばらしい食物に慣れた男だった。しかしかれは、みずからしとめた獲物のまずい肉を、さながら飢えた狼のようにひきさいた。これほどおいしい食物をかつて味わったことがないと思った。この前に食べてどれぐらいたっているのか、かれには見当もつかなかった。食べおわると、二度めの睡眠をとった。こんどは樹上でだった。というのも、一度ジャングルの草群を通して巨大なけもの、ものすごい牙をはやし、ランランと燃える目をしたけものを、ちらとかいま見ていたからだ。
ふたたび目をさましたとき、どれほどのあいだ眠っていたのか、かれにはわからなかった。しかし、疲れがすっかりとれているという事実が、かなりの長時間であったことを暗示していた。時間の存在しない世界では、人間が一日と一週間の区別もつかないままに眠っているということがまったく可能なような気がかれにはするのだった。一日と一週間の区別がどうやってつけられようか? そう思うと、かれは当惑をおぼえた。あの気球をはなれてから、いったいどれほどの時が経過しているのだろうかと、かれはいぶかりはじめた。仲間たちとはぐれていらい、一度ものどの渇きをいやしていないという事実がやっと、一日ないし二日以上たっているはずのないことをものがたっているにすぎなかった。もっとも、いまやかれののどは、水をもとめて火のようにほてっていたが、かれに考えることができるのは、ただ水、水、水だった。
水をもとめて、かれは歩きだした。どうしても水を見つけなければならない! 水が手にはいらないと、かれは死んでしまう――ここ、この恐ろしい森のなかでひとりさびしく死んでしまうのだ。ここが、永遠にひとりの人間にも知られることのないかれの最後の安息所となってしまうのだ。フォン・ホルストは、社会的動物だった。ことほどさように、そんなことになるのは、かれの大いに気にいらないところだった。かれは恐れてはいなかった――死ぬことを恐れてはいなかった。しかし、いくらなんでもこれでは犬死のように思えるのだった。――かれは、ごく若かった。まだ二十代なのだった。
かれは、とあるけもの道をたどっていた。けもの道は数多くあり、森じゅうに縦横無尽にいりみだれていた。そのどれかが、彼を水のあるところへみちびいてくれるにちがいなかった。しかし、どれが? かれがいまたどっているけもの道をえらんだのは、それがほかのより幅が広く、より鮮明に跡がついていたからだ。過去、数多くのけものがそれを通ったのにちがいない。それも、悠久の歳月のあいだ、深くえぐれていたからだ。そしてフォン・ホルストは、どんな道よりも多くのけものたちのたどるのが水へとみちびいてくれる道だと推量したのだった。かれの思惑は正しかった。とある小さな川へやってくると、かれは、歓喜のさけびを発して川岸へかけより、身をなげだして腹ばいになった。何度もごくりごくりと飲みこんだ。あるいはそれがかれのからだに害をおよぼすという可能性もあったが、そうはならなかった。丸石がごろごろしている砂利の底をみせて流れる清冽な小川、そのみなもととなっている山々のすがすがしさ、涼しさ、美しさをそのふところにして森へ、低地へと運んでいる澄んだ小川だった。フォン・ホルストは、流れに頭を埋め、むきだしの両腕に流れをまつわりつかせた。両手をあわせて|ひしゃく《ヽヽヽヽ》を作り、水をすくいあげて頭の上にふりかけた。かれは、水遊びに興じたのだった。これほどすてきな、これほど好ましいぜいたくをかつて経験したことがないような気がしたのだった。かれの悩みは消えうせた。これで万事がうまくいくだろう――のどの渇きが癒《い》えたのだ! もう、無事でいられる。
かれは、頭をあげた。と、その小川の対岸に、どの書物にものっていないような、その骨格がどの博物館にも展示されていないような一匹のけものがうずくまっていた。それは、爬虫類の頭をした、翼のある巨大なカンガルーに似ていた。その長い、ずらりと牙のならんだ顎《あぎと》は、翼竜《プテロダクテイル》を彷彿させた。そいつは、その冷たい、爬虫類特有の、まぶたのない目をひたとフォン・ホルストにすえ、無表情な顔つきでかれを見守っているのだった。その小ゆるぎもしない凝視には、なにか無気味な、鬼気せまるものがあった。
かれは、ゆっくりと立ちあがりかけた。と、そのとき、身の毛もよだつばかりのそのけものがにわかに活気をていしたのだ。シューッと甲高いなき声をあげ、そいつは、ひょいとひととびで小川を飛びこえたのだった。フォン・ホルストは、ホルスターからピストルをひきぬきながら、むきを変えてかけだした。しかしかれがピストルをぬくことができないうちに、逃げることができぬうちに、そいつは、かれにとびかかり、地面におさえつけてしまったのだ。それからかれを、そのかぎづめのような手でつかみあげ、目の前へさしだして、ながめまわしたのだった。そいつがそのばかでかい尻尾の上にちょこんとすわった、その直立した姿は高さが四メートル五十センチにもなんなんとしていた。その顎は、こう目の前近くにさらされてみると、いまそれを畏怖の念にかられて凝視している、この吹けば飛ぶような人間をひとのみにしてしまいそうなほど大きいように思えるのだった。フォン・ホルストは、これで一巻のおわりだと思った。こんなものすごいかぎづめにがっちりつみまあげられていたのでは、なすすべもなかった。ピストルをぬこうにも、そのきき腕は相手のかぎづめの片方でわき腹へぴったりおさえつけられてしまっているのだ。けものは、小気味よさそうにかれをながめまわしているかのように見うけられた。どうやら、まずどこからかぶりついてやろうかと検討しているらしい。すくなくとも、フォン・ホルストにはそう思えたのだった。
流れが道を分断している地点に、森の葉群《はむ》れの天蓋をうがって隙間ができていた。そこを通して永遠に真昼の太陽が、さらさらと流れる小川の上に、緑したたる草地の上に、化け物のようなけものと、その吹けば飛ぶような獲物の上にさんさんと陽光をふりそそいでいた。爬虫類は、もしそいつがそうだとしてのことだが、その冷たい目を上方に、その隙間のほうにむけた。それからそいつは、空中高くまいあがった。そうしながら、広げた翼を無気味にはばたき、さらに高く上昇した。
フォン・ホルストは、心配のあまり冷たくなった。地上世界のなにかの巨鳥について読んだことのある物語を思いだしていた。獲物を空中高々ともちはこび、それから地面へ投げだして殺してしまうのだ。これがこの世の見おさめなのだろうかと、かれはいぶかった。そして、かれのことをなげき悲しむ人間のごくすくないであろうめぐりあわせにあったことを、造物主に感謝した――保護者、扶養者をなくして路頭に迷う妻も子供もいなかったことを、かれをうしなったことをなげき、二度と帰らぬ恋人を思いこがれる愛人《ひと》のいなかったことを。
いまや、かれらは森の上空にあった。地平線のない異様な風景が四方にのびひろがり、徐々に無へとかすんでいきながら、ついには人間の視界からかき消えてしまっている。森のかなた、けものがむかっている方角にひろびろとした大地が開け、起伏する連丘、山脈《やまなみ》がもりあがっていた。フォン・ホルストは、幾条もの河や、湖、はるか遠くに、もやにけぶったかなたに広大な水のひろがりらしいもの――たぶん内海か、あるいは海図にものっていない茫洋たる大洋なのだろう――を見ることができた。しかし、どちらをむいても目にうつるのは神秘ばかりだった。
かれの現在の状況は、風景にうつつをぬかしていられるようなものではなかったが、ほどなく、かれがなにに関心をしめしていたにせよ、それは完全に払拭されてしまった。かれを運んでいたそのけものが、だしぬけにかれから片方の手をはなしたのだ。フォン・ホルストは、相手がかれを落とそうとしている、ついにくるべきものがきたと思った。ぶつぶつと祈りのことばをつぶやいた。けものは、かれを一メートルほどもちあげ、それから、そいつがあいているほうの手でひろげていた暗い、鼻をつくにおいのする袋《ポケット》のなかへおろした。そして、けものがかれをつかんでいた手をはなしたとき、フォン・ホルストは、真の闇のなかにいたのだった。一瞬かれは、自分がどのような状況にあるのか、わけがわからなかった。が、やがて、かれは有袋動物の袋のなかにいるのだということに思いあたった。暑くて、息苦しかった。窒息してしまうのではないかと、かれは思った。それに、けものの悪臭たるや、まさしく耐えがたいほどのものだった。そして、これ以上耐えていることができなくなったとき、かれは、のびあがって袋の口から頭をつきだした。
いまでは、けものは水平に飛んでいた。かれの目にうつるものは、ほとんど真下に横たわるものに限定された。かれらはまだ、森の上空にいるのだった。たれこめたエメラルド色の雲さながらにひろがっている葉群れが、やさしくさしまねいているかのように見えた。フォン・ホルストは、なぜ生きたまま運ばれているのだろう、しかもどこへもっていかれようとしているのだろうかといぶかった。なにかの巣か、あるいは棲《すみか》へ運ばれて、餌にされるのにうたがいの余地はない。たぶん、おぞましい|ひな《ヽヽ》にあてがわれるのだろう。かれは、ピストルをまさぐった。この暑い、脈打っているからだにぶちこむのは、いたってかんたんなことだ。しかし、そうやってかれになんの利益がある? ほとんど確実な死を意味するだけではないか――もし、たちまち殺されてしまうのでないとしたら、じわじわ息絶えていくことになるだろう。というのも、即死させられるのでなければ、あとは手ひどい傷を負わされるしかないのだから、ピストルを使うことを、かれは断念した。
けものは、その図体の大きさを考えあわせると、驚くほどの速さで飛んでいた。森は後方へ、視界から消え去った。いまは、木々の点在する平原の上空を矢のように飛んでいた。無数の動物がそこいらじゅうで草を食《は》んだり、休んだりしているのが見おろせた。赤い大鹿、なまけもの、剛毛につつまれた巨大な、原始時代の牛。ひとすじの河をふちどっている竹|薮《やぶ》の近くにはマンモスの群れがいた。ほかにも、フォン・ホルストには分類することができない動物がうんといた。ほどなくかれらは、その平原を後方にやりすごし、低い連丘の上を飛びすぎて、それから荒廃した、黒っぽい円錐形の丘がならぶ不毛の火山地帯の上空にさしかかった。その円錐形の丘のあいだや、丘の中腹あたりまで、ペルシダーでは当然のことである熱帯植物が奔放に繁茂していた。植物が成長していないのは、その根が足をのばすことができないところだけにかぎられているのだ。ところで、これらの円錐形の丘にかわった特徴がひとつあるのに、フォン・ホルストの注意がひきつけられた。その多くの頂上に開口部があって、小型の死火山の様相をていしているのだった。大きさはさまざまであり、高さは三十メートル程度のものから百数十メートルあたりのものまであった。かれがそうやってそれらのことを沈思黙考しているとき、捕獲者がいきなり、比較的大型の丘のひとつの真上を旋回しはじめた。それからやつは、そのあんぐり口をあけたクレーターのなかへと急降下してとびこんでいき、床におり立ったのだ。永遠に天頂にかかっている太陽のふりそそぐ陽光が、その|たてあな《ヽヽヽヽ》の床をおぼろに照らしていた。
けものの袋のなかからひっぱりだされたフォン・ホルストは、最初、クレーターの内部の見わけがほとんどつかなかった。しかし、かれの目が周囲の薄暗がりに急速になれていくにつれて、多数の動物や人間の死骸らしいものが、この中空になった火山の円形の床面にぐるりと、頭を外側にむけて放射状にならべられているのが目にとまった。この死骸の円形は、まだ完成されていなかった。一ヵ所に数メートルばかりあいているところがあったのだ。死骸の頭と、円錐火山の壁とのあいだには直径六十センチほどの象牙色をした球体がいくつもならべられていた。
こうしたことを、フォン・ホルストはちらと見ただけにすぎなかった。いきなり、宙にもちあげられて、観察の機会をうしなってしまったのだ。けものは、かれをつかみあげ、顔をつきだしてきた。かれの頭とけもののそれとがほぼ同じ高さになったとき、かれは、首のうしろ、ちょうど脳底のあたりにするどい、気分が悪くなるような痛みをかんじた。アッという間の痛みであり、吐き気も瞬間的なものでしかなかったが、それから急激に、あらゆる感覚が消えうせてしまったのだ。首から下が死骸になってしまったかのように思われた。いまかれは、壁のほうへ運ばれ、床の上に横たえられるのに気がついた。まだ、見ることはできた。首をめぐらそうとして、それができることもわかった。かれは、かれをここへ運びこんできたけものが、宙にとびあがり、翼をひろげて無気味な音をたててはばたきながら、クレーターの開口部から飛びだしていくのを見守った。
[#改ページ]
二 恐怖のたて穴
この陰気な死の穴ぐらに横たわりながら、フォン・ホルストは、自分がいまおかれている状況をとつおいつ考えた。そして、みずからをほろぼす機会とその力さえあったら、死んでしまいたいものだと思った。いまやかれは、なすすべがなかったのだ。この境遇の恐怖はしだいにつのり、ついには気が狂ってしまうのではないかと心配になってきた。手を動かそうとしたが、まるで手がないかのようだった。手があるのを感じることができなかったのだ。そればかりか、首から下の身体のどの部分もあるようには感じられないのだった。頭のみが、意識はあるというもののいかんともしがたく、土くれのなかをころがっているような気がした。かれは、首を片方へめぐらした。かれは、死骸がずらりとならべられてある円形のあいている部分の片側の末端に横たえられていたのだった。隙間の、かれとは反対側の末端には男の死骸が横たわっていた。かれは、反対に首をめぐらしてみて、自分がいまひとりの男の死骸のすぐとなりに横たえられていたことを知った。そのとき、反対側でおこった、なにかカタッというような音、バリバリひっかくような物音にかれの注意がひきつけられた。かれは、この死の広間で生きているものの正体を見きわめようと、いま一度首をめぐらした。
隙間のむかい側の端にある死骸のほとんど頭のすぐ上におかれた、象牙色した球体のひとつに、かれの視線はくぎづけにされた。その球体があちこちへ激しく動いているのだった。物音は、その内部からきこえてくるらしかった。ますます大きく、執拗になっていった。そして球体は、くるくるとあたりをころがりまわった。やがて、その表面にひび割れができ、ギザギザの穴があがたれた。と、その穴から、頭がつきだしたのだ。それは、かれをここへ運びこんできたけもののおぞましい頭を小さくしたものだった。これで、ずらりとならんでいる球体の謎がとけた――あの巨大な有袋爬虫類の卵なのだった。しかし、死骸のほうはどういうことなのだろう?
フォン・ホルストは、憑《つ》かれたようにその、身の毛もよだつようなけものの|ひな《ヽヽ》が卵からもがきでるのを見守った。ついにそいつは、首尾よくクレーターの床にころがりだした。そこでしばし、力をだしつくしたあとで休息でもしているかのように、ぐったりとして横たわっていた。やがてそいつは、四肢をおっかなびっくりためすように動かしはじめた。ほどなく、四つんばいになり、それから尻尾をささえにしてまっすぐすわった格好になって、翼をひろげた。最初は弱々しくはばたいていたが、やがてちょっとの間だけ激しく上下させた。これがおわると、やつは、卵の殻の上におおいかぶさり、食いはじめた。カラがなくなると、そいつは、ためらうことなく隙間のむこう端に横たわる男の死骸のほうにむきなおった。そいつが死骸に近づいていったとき、フォン・ホルストは、死骸が恐怖に目をまるくしてけもののほうに頭をめぐらすのを見て、ゾッとなった。シューッと甲高い鳴き声をひと声発してその邪悪なけものの|ひな《ヽヽ》は、死骸にとびかかった。と同時に、耳をつんざくような恐怖の悲鳴が、フォン・ホルストが死骸だとばかり思っていたその男の唇からほとばしった。恐怖にみちた目が、ひきつりゆがんだ顔面の筋肉が、脳を狂気のようにはたらかせているその努力を麻痺した中枢神経につたえようとし、逃げなければという意志に懸命に反応させようとしているさまを映《うつ》しだしていた。かれをがんじがらめにしている|かせ《ヽヽ》をうちやぶろうとするその努力はきわめてありありとしていた。だから、普通ならばその努力は当然むくわれていたにちがいないと思えるのだが、いかんせんかれは、完全な麻痺状態にあった。どうすることもできないのだった。
おぞましい|ひな《ヽヽ》鳥は、男の身体に身をあずけ、むさぼり食らいはじめたのだ。餌食は、苦痛を感じてはいなかったかもしれないが、その悲鳴、うめきが恐怖の円錐火山の|うろ《ヽヽ》の内部に反響しつづけていた。やがて、うたがいもなく同じ運命にみまわれるのをまっている他の連中が声をあげはじめ、血も凍るような恐怖の不協和音となってあたりにこだました。いまや、はじめてフォン・ホルストは、円形にならべられているこれらの連中がすべて生きていて、かれと同様に麻痺しているのだということを知った。かれは、目を閉じ、その身の毛もよだつような光景を見まいとした。しかし、忌まわしい、魂がしびれてしまうほどのその騒音に耳をふさぐことはかなわぬのだった。
ほどなくかれは、がつがつ食らっている爬虫類から頭をめぐらし、かれの右手に横たわる男のほうをむいた。そして、目を開いた。男が、いまや最高潮に達している恐怖の大合唱には加わっていず、落ちついた、値ぶみするようなまなざしでしげしげとかれを見守っているのに、フォン・ホルストは気がついた。男は、ハッとさせるばかりの漆黒の髪、するどい目つき、ととのった容貌《かおだち》をした青年だった。どことなく豪胆なところ、おだやかな威厳のようなものを感じさせるところがあった。それがフォン・ホルストをひきつけた。それに、好もしい印象もおぼえたのだった。というのは、男がこの広間の他の連中をとらえている恐怖のヒステリー状態にまったく屈していないからだ。青年中尉は、かれに微笑してみせ、ひとつうなずいた。一瞬、かすかな驚きの表情が相手の顔をちらとかすめた。それから、かれもまた微笑した。ついで話しかけてきたが、ヨーロッパ人のフォン・ホルストにはチンプンカンプンのことばでだった。
「残念だが」と、フォン・ホルストはいった。「きみのいうことがわからないんだよ」
こんどは相手のほうが、何をいっているのかさっぱりわからぬというように首をふった。たがいに相手のことばを理解することはできなかったが、微笑しあった。かれらは、共通の運命をまっているという点で共通のきずなにむすばれていたのだ。フォン・ホルストは、もはやひとりきりではないと感じた。友を得た、という気がしたほどだった。このような絶体絶命の状況にあってすら、たとえかぼそいものではあっても友情のきずなでむすばれるのは、たいへんな相違だった。かれがそれまでに感じていたものに比較すると、ほとんどみちたりた気持ちになっていたといってもいい。
新しくかえった爬虫類のほうへ次にかれが首をめぐらしたとき、その餌食となった男の体はすっかり食いつくされていた。骨すら残されてはいないのだった。満腹したけものは、クレーターの開口部からさんさんとふりそそぐまるい日だまりのなかへはいこんで、ひと眠りしようと身をちぢめた。
他の餌食たちは、またもとの沈黙状態にたちかえり、死者さながらにじっと横たわっていた。時がたっていった。しかし、どれほどの時かとなると、フォン・ホルストには見当すらつかなかった。飢えも渇きも感じなかった。麻痺しているせいだと、かれは推量した。しかし、眠ることはときどき眠った。一度、翼をはばたく音に目をさまされた。見あげると、いままさにあの邪悪な|ひな《ヽヽ》鳥が、そいつのかえった恐怖の巣からクレーターの開口部をぬけて飛びだしていこうとしているところだった。
しばらくして、例の成長した爬虫類が、またもや餌食を運んで帰ってきた。こんどは、一匹のカモシカだった。そのときフォン・ホルストは、かれをはじめ他の連中がどういうぐあいに麻痺させられたのかを知った。爬虫類は、そのカモシカを巨大な顎の高さまでもちあげ、首のうしろ、脳底のあたりに、その針の先のようにするどい舌をつきさしたのだ。それからやつは、その身動きのとれなくなった生き物をフォン・ホルストのとなりに横たえたのだった。
この生ける屍となってから経過した空《くう》のような時のあいだに、いくどもくりかえされたできごとになんらかの秩序があったのかどうか、それを決めるてだてはなかった。|ひな《ヽヽ》鳥がつぎつぎと卵からぬけだし、その殻を食らい、餌食をむさぼり食い(きまって、フォン・ホルストの左手にあたる隙間のむこう端にいるのがその餌食となったのだが)、日だまりのなかでひと眠りして、それから飛びさっていったのだった。そいつらは、どうやら二度と帰って来ないものらしかった。いっぽう、成長した爬虫類は、新しい餌食を運んできては、そいつを麻痺させ、隙間のフォン・ホルストに近いほうの端に横たえてさっていった。隙間は、着実に左へ左へとうつっていくのだった。それがうつっていくにつれて、フォン・ホルストは、おのれのさけられぬ運命がそれだけせまってきているのだということに気がついた。
かれと、右どなりの男は、ときどき微笑をかわした。そしてたまに、お互いのことばで語りかけあった。相手に理解することができないとはいえ、その考えをあらわしている声のひびきだけは友好的であり、心なごむものだった。フォン・ホルストは、自由に話しあうことができればどんなにかよいことだろうと思った。はてしもない孤独が、さびしさがどんなにかなぐさめられていたことだろう? おなじ思いが相手の心にもしばしば浮かんでいたにちがいない。最初にそのことを表明して、よぎなく友人になったとはいうものの、その友情を心ゆくまでわかちあうことをさえぎっている障害を克服しようとしたのは、かれのほうだった。一度、フォン・ホルストがかれのほうに目をむけたとき、相手が「ダンガー」といって、目を自分の身体のほうにさげ、顎を胸に埋めて自分自身をしめそうとした。かれは、それを数回くりかえした。
やっとフォン・ホルストは、相手のいう意味がつかめたと思った。「ダンガー?」ときいて、相手のほうに顎をしゃくってみせた。
男は、微笑してうなずいた。それから、あきらかにかれのことばで肯定をあらわすひとことを口にした。こんどは、フォン・ホルストが自分の名前を数回くりかえし、ダンガーがやったとおなじようにして自分自身をしめしてみせた。これが端緒となった。あとは、それがわれをわすれてうちこむ興味津々の|遊び《ゲーム》となった。ほかにはなにもしなかった。どちらも疲れた様子はない。ときどきかれらは眠った。しかしいまでは、たまたまどちらかが眠りたいという気分になったときでも、相手も同じ気分になるまで眠らないでまった。かくて、かれらは、たがいに自分の考えていることをどうやって相手につたえるか、その方法を会得するという新しい、魅力のある作業に、目ざめている時間をすべて投入することができたのだった。
ダンガーは、かれのことばをフォン・ホルストに教えた。フォン・ホルストはすでに、地上世界の四、五ヵ国語をマスターしていたから、男の母国語とかれが習得しているその数ヵ国語とのあいだになんらかの共通性がないとはいうものの、いま一ヵ国語を学ぶための適合性は大幅に訓練されていた。
ありていの状況のもとであれは、その進捗状況は遅々たるものか、ないしはまったくお話にならないものとなっていたように思えるのだ。しかし、是非とも友情をわかちあいたいという動機があり、かつ、ひながかえってきてむさぼり食らうときのほかはいっさい邪魔だてするものがなかったために、かれらの語学の習得は驚くほどのはやさではかどったのだった。というより、フォン・ホルストにはそのように思えたのだ。が、それも、かれが幽閉されていらい、この時間のない世界では地上世界の時間尺度で何週間か、あるいは何ヵ月か、さもなくば何年も経過していたのかもしれないと気づくまでのことだった。
ついに、かれとダンガーが比較的らくに、流暢に会話することができるようになるときがやってきた。しかし、それにさらにみがきをかけていくにつれて、生ける屍の円形の、死の運命の隙間は、しだいしだいにかれらのほうへと接近してくるのだった。ダンガーがまず最初に、ついでフォン・ホルストがその運命にみまわれるのだ。
フォン・ホルストは、ダンガーが相棒の運命を恐怖する以上に、ダンガーの運命を恐怖した。なぜなら、ダンガーがいなくなってしまえば、かれは、ふたたび一人きりになってしまうからだ。かれをまっているさけがたい運命のこと以外にかれの残された時間、あるいは心をかたむけるものが、なにもなくなってしまうからだ。かれの上にもっとも忌まわしい形で死をもたらすであろう、卵の割れる音をきいているほかはないのである。
ついに、ダンガーと隙間とのあいだに三人の餌食が残されているばかりとなった。もはや、運命の到来はそうさきのことではないだろう。
「きみを残していくことになるのが残念だよ」と、ペルシダー人がいった。
「わたしがひとりきりでいるのも、長いあいだのことではないさ」フォン・ホルストは思いださせた。
「そうだな。そう、故国から遠くはなれたこんなところでいつまでも生きているくらいなら、死んだほうがよっぽどましだよ。とはいっても、ふたりとも生きていられたらどんなにかよいとも思う。そうすれば、きみをサリの国へつれてってやることができたのに。丘がつらなり、木々がおい茂り、肥沃な谷がそこここにある、そりゃ美しい土地なんだ。そこには、獲物がうんといる。広大なルラル・アズからそれほど遠くないところにあるんだよ。ルラル・アズにはアノロック島というのがあって、おれはそこへいったことがある。ジャがその島の王なんだ。
きみは、サリが気にいるだろう。女たちは、たいへんな美人ぞろいでね。いまじゃ、そこでおれをまっている女がひとりいるんだけど、おれは、二度と彼女のもとへ帰っていくことはないだろう。彼女は、きっと悲しむにちがいない。しかし――」と溜息をついて「彼女は、悲しみに耐え、その悲しみを克服するだろう。そして、他の男が彼女をそのつれあいにするはずだ」
「そのサリとやらへいってみたいものだな」フォン・ホルストはいった。だしぬけにかれの目が驚きにまるくなった。「ダンガー? ダンガー?」とさけんだ。
「どうした?」とペルシダー人。「なにがあったんだ?」
「指の感じがもどってきたんだ! 動かすことができるんだよ!」フォン・ホルストはさけんだ。
「それに、足の指先もだ」
「ちょっとありそうもないことだな、フォン」ダンガーが信じられないというようにさけんだ。
「ところがそうなんだ。ほんとうなんだ。ほんとうなんだよ? ほんの少しだが、足の指先を動かすことができるんだ」
「そのわけをどう説明する? おれは、首から下はなにも感じることができないけどな」
「毒の影響がうすれているのにちがいない。たぶん、わたしの麻痺《しびれ》はすっかり消えてしまうだろう」
ダンガーはかぶりをふった。「ここへきていらいおれは、トロドンがその毒をもった舌先をつきさした犠牲者から麻痺《しびれ》が消えてなくなるのを一度も見たことがない。が、もしそうだとして、それがなんだっていうんだ? 少しでも事情が好転するとでもいうのかね?」
「すると思う」と、フォン・ホルストはゆっくり答えた。「ここへ監禁されてからというもの、わたしは、いろんな場面を夢に見たり、もくろんでみたり、あるいは想像してみたりするひまがたっぷりあった。この麻痺《しびれ》がわたしから消えさってしまったときのことを夢想し、そうなった場合わたしはどうしたらよいかを考えた。その計画はすっかりねってあるのだよ」
「きみと死とのあいだには三人しか残されていないんだぜ」ダンガーが思いださせるようにいった。
「うん、それはわかっている。だから、すべてはこの麻痺の消えるのがどれだけ早くやってくるかにかかっている」
「幸運を祈るよ、フォン。たとえそれがきみにやってきたとしても、おれは、それまでここにいてこの目で見ることはないだろう――おれと、おれの最期とのあいだには二人しか残っちゃいないんだから。隙間はぐんぐんせまってきている」
その瞬間からフォン・ホルストは、麻痺を克服することに全力を投入した。四肢に生命力が徐々によみがえってくるのを、かれは感じた。それでも、動かせるのは手、足の先のみだった。しかもわずかしか動かすことはできなかった。
さらに一匹のトロドンがかえり、ダンガーと死とのあいだにはいよいよ一人が残されているばかりとなった。そして、ダンガーが終われば、かれの番がやってくるのだ。その恐ろしいけものが日だまりのなかでの眠りから目をさまし、円錐火山の頂上の開口部から飛びだしていったとき、フォン・ホルストは、両手を動かし、手首をまげることに成功した。いまでは、足のほうも自由になった。だが、なんというはがゆさ。かれの力のよみがえってくるそのなんという緩慢さ。運命とは、この大きな希望をくじき、成就のあと一歩というところでかれからそれをひったくってしまうほど冷酷たりうるものであろうか? 成功の見こみをおしはかってみるとき、かれの前進に冷や汗が吹きだしてくるのだった――とても勝目がありそうには思えなかった。
かれに時間をはかることができさえすれば、卵のかえってくる間隔がわかるのだが。したがって、かれに残されている時間のおおよその見当もつくというものだ。かれは、卵がかなりひとしい時間間隔をおいてかえってくるものにちがいないと、ほぼ絶対の確信をもっていた。もっとも、じっさいにそうなのかどうか知るすべはなかったが。かれは、腕時計をつけていた。しかし、とっくの昔にとまっていたし、よしんばそうではなかったにしても、かれにその時計を見てみることはできなかったのだ。腕をもちあげることができなかったのだから。
麻痺は、ひざとひじのあたりまで徐々に消えていった。いまでは、それらの関節をまげることができたし、四肢のそれらから下は完全に正常に感じられるようになった。もし充分な時間をかけることがゆるされるなら、最後には全筋肉をいま一度意のままに動かせるようになるだろうと、かれにはわかっていた。
かれをがんじがらめにしている目に見えぬかせをうちやぶろうとふんばったとき、いまひとつの卵が割れた。その後まもなくして、ダンガーの右どなりががらあきとなった――このつぎはかれの番なのだ。
「で、きみのあとはいよいよわたしの晩だよ、ダンガー。その前に自由の身になれると思うが、ねがわくばきみを救ってあげたいものだね」
「ありがとう、相棒」ペルシダー人はこたえた。「しかしおれは、死にあまんじることにしてるんだ。こんなざまで――死んだ身体に頭をくっつけて――生きているくらいなら、死んだほうがましだね」
「長いあいだそんな格好で生きている必要はないだろうよ。そいつはうけあう」フォン・ホルストはいった。「わたしの経験からして、毒の影響というものはまちがいなく、しまいには消えてしまうものと相場がきまっている。こいつの場合も、犠牲者が|ひな《ヽヽ》鳥の餌に供されるまでに必要な時間よりもやや長めに麻痺させておけばよいわけだ。もしわたしが自由の身になることさえできたら、きみを救ってあげることができる。それはうけあってもいい」
「ほかのことを話そうや」ダンガーがいった。「おれは、生ける屍にはなりたくないね。なまじよけいな希望をいだけば、じりじりさせられるだけのことだし、どうころんだってさけられぬ最期をさらにみじめなものにするだけのことでしかない」
「ま、好きなようにするさ」肩をすくめて、フォン・ホルストはいった。「しかし、いくらきみでもわたしが考えたり、こころみたりするのをとめだてすることはできないね」
そんなわけでかれらは、サリや、美女ダイアンの生まれ故郷のアモズの国や、〈恐ろしい影の国〉や、ソジャル・アズの〈敵意ある人々の島〉のことを話しあった。ダンガーにとってなつかしの場所であるこれらの土地のことをおもいおこして、かれがすこぶる満足げであるのを、フォン・ホルストは見てとったからだ。もっとも、このサリ人がこれらの土地に徘徊する野獣や蛮人の様子を語るとき、フォン・ホルストは、こうした土地が人の住む場所としておよそのぞましからざるところであると感じたが。
そうやって話しあっていくうちに、フォン・ホルストは肩や腰を動かすことができるようになったのを発見した。こころよい生命力が全身にみなぎった。そして、このことをダンガーにつたえようとしたときのことだった。運命の卵の殻の破れる音がふたりの耳に同時にとどいたのだった。
「さようなら、相棒」とダンガーがいった。「われわれペルシダー人は、同種族以外の友人をつくることはめったにない。種族外の人間はすべて、殺すか殺されるかの敵なんだよ。きみを友人と呼べることが、おれはうれしい。見ろよ、いよいよ一巻の終わりだ!」
すでに、新しくかえってトロドンは、自分の卵の殻を食いおわり、ダンガーに視線をそそいでいた。すぐにもそいつは、かれにとびかかってくるだろう。フォン・ホルストは、もがきながら立ちあがろうとした。しかし、なにかがまだかれをとらえていた。そのとき、爬虫類は、ガッと顎《あぎと》をひっ裂いて餌食のほうへとせまってきはじめたのだ。
[#改ページ]
三 一縷《いちる》の望み
いま一度フォン・ホルストは、立ちあがろうともがいた。そしてふたたび、その努力のかいもなくしずみこんでしまった。冷汗が玉となって全身にあふれだしていた。かれは、呪詛《じゅそ》し絶叫したかったが、だまったままでいた。ダンガーもまた沈黙していた。他の連中が、死の這いせまってくるときに悲鳴をあげたように、かれは悲鳴をあげたりはしなかった。いまやそいつはかれのほうへと這いせまってくる――じりじりと。フォン・ホルストは、左ひじをついて身をもたげようとした。そしてまたしずみこんだ。しかし、そうしながらかれは、腰の拳銃をつかもうとした――それまでつかもうとしてつかめないでいた拳銃をだ。こんどはつかめた。銃把に指がからまった。かれは、ホルスターから拳銃をひきぬいた。ふたたびひじを立てて少しだけ身をもたげた。
トロドンがまさにダンガーにとびかかろうとしたそのせつな、フォン・ホルストは発砲した。耳をつんざくような悲鳴をひと声発し、そいつは、宙高々とはねあがり、一瞬翼をむなしくひろげて、それから穴蔵の床にどさりと落ちた――絶命していた。
ダンガーは、驚異と感謝の念をないまぜた目でしげしげとフォン・ホルストを見つめていた。
「やったな」といった。「ありがとう。だが、これでどうなるというんだ。この穴蔵からどうやって逃げだしたらいいというんだ? たとえ逃げ道があったとしても、このおれには、そいつを使わせてもらうことはできないんだ――指の一本すら動かすことができないおれにはな」
「さあ、そいつはあとになってみないとわからないことだよ」フォン・ホルストがこたえた。「とにかく、きみからその麻痺《しびれ》が消えたら、われわれは、逃げ道を見つけることになるだろう。ちょうどいま、わたしがそれをやってのけたようにね。だが、ちょっと前まできみは、そのトロドンからのがれるチャンスになにを賭けていただろうか? なにも賭けてはいなかった。なにひとつ賭けてはいなかったね。ところがどうだ、きみはぴんぴんしていて、トロドンは死んでいる。不可能事がなしとげられないと、どうしてきみにいえるだろうか?」
「まったくだ、きみのいうとおりだよ」ダンガーがこたえた。「二度ときみをうたがうことはしないつもりだ」
「それじゃ、時間をかせぐとしよう」フォン・ホルストはさけんだ。かれは、ダンガーをだきあげると、隙間をつっきり、親のトロドンが運びこんできた最期の餌食のとなりにかれを横たえた。そして、自分もかれのとなりに横たわり、いった。「こんどかえってくるやつは、われわれのどちらも餌食にすることはないだろう。隙間のむこう端へいくはずだからね」
「だが、親のほうは、次の獲物を運んできたとき、どう出てくるかな? われわれの場所が変わっているのをさとるんじゃないのか? それに、ひなの一匹の死骸も残っている。親のトロドンは、そいつをどうすると思う?」
「やつがわれわれに気づくとは思わないね」と、フォン・ホルスト。「しかし、よしんば気づいたとしても、そのそなえはちゃんとある。このとおりピストルがあるし、まだ弾薬もたっぷり残っているからね。そして、ひなの死骸については、すぐにしまつするつもりだ。うまく利用できるんじゃないかと思う」
それからかれは立ちあがり、その死骸を穴ぐらの片隅へひきずっていき、数個の卵の背後にかくした。そして、その皮膚にさわって綿密に調べた。どうやら満足した様子でかれは、狩猟用ナイフをぬき、死骸から皮をはぐ仕事にとりかかった。
かれはてきぱきと、だが入念に作業を進めた。全注意力をその仕事に集中していたから、クレーターの開口部からさしこんでくる陽光が一瞬さえぎられたときには、いささかハッとさせられた。
見あげると、例のトロドンがまたも獲物を運んでもどってくるところだった。間髪をいれずにかれは、穴ぐらの壁にぴったりくっついて、この目的のためにととのえておいたいくつかの卵の背後に長々と腹ばいになると同時にピストルをぬいた。
頭のてっぺんと目、それを冷たい、黒い武器の銃口のみが卵のひとつの上につきだしていた。かれは、なんの疑念もだいていないその爬虫類が餌食をダンガーのとなりに横たえるのをじっと見守った。かれの予想どおり、けものは、ペルシダー人にまったく注意をはらわなかった。一瞬後にそいつは、次の獲物を求めて開口部から消えていったのだった。
それからはなんの邪魔もはいることなく、フォン・ホルストは、ひなの皮をはぐ仕事を完了した。それから、その皮なしの死骸をダンガーが前に横たわっていた場所へひきずっていった。
サリ人が笑った。「まったくあざやかな死骸処理法だな。うまくいけばのことだが」
「うまくいくと思うね。この能なしの小悪魔どもは、まず本能にみちびかれるのだ。やつらはかならず、最初の餌にありつくためにおなじ場所へいく。そこで見つけたものならなんだって食うだろうよ。それはうけあってもいい」
「しかし、その皮でなにをやるつもりなんだ?」
「ま、しあげをごろうじろだよ。こいつは、わたしの脱出計画にとってきわめて重要な要素なんだ。いささかもってとっぴな計画であることはみとめるが、これでもわたしが具体的にねりあげることができた唯一の計画なんでね。それに、成功の望みもいくらかはある。じゃ、そろそろまた仕事にせいだすことにするかな」
フォン・ホルストは仕事にもどった。いまやかれは、その皮を外側のほうからひとつづきの細ひもに切りはじめていた。それには長い時間がかかった。そして、その仕事が完了すると、こんどは切り縁のあらい部分を手なおしし、かれがたんせいこめてはぎとった内表面のでこぼこをけずりとる必要があった。ついで、フォン・ホルストは、指のまたを使うというきわめて大ざっぱなやりかたでその皮ひもの長さをはかった。その途中のこと、かれの注意が次のトロドンのひながかえってくるのにひきつけられた。
「六十六、六十七、六十八」フォン・ホルストは、ひながおのれの卵の殻をむさぼり食っているのを見守りながら、かぞえた。「六十メートル以上あるな。これだけあればたくさんだろう」
かれが下準備をととのえ終えたころに、トロドンは、皮をはがれた兄弟の死骸へ近よった。フォン・ホルストとダンガーがともに興味津々の態で見守るうちに、そいつは一瞬のためらいもなく、死骸にのしかかって食らいはじめたのだった。
爬虫類が飛びさると、フォン・ホルストは、床をつっきっていきダンガーのとなりに横たわった。「まさしく、きみのいうとおりだったな」ダンガーがみとめた。「かわっていることなどてんで気づきもしなかった」
「やつらは、ほとんど絶対的といってよいほど本能に動かされているくらいに知能の点で低いもんだと思う。成長したトロドンですらそうではないのかな。だから、さっきの親のやつは、わたしがいなくなっていることにも、きみの位置がかわっていることにも気がつかなかったんだ。もし、わたしが考えちがいをしていないとすれば、わたしの計画には成功のかなりの見こみがあるだろう。なにか変化があるような感じはしないかい。ダンガー? 四肢に生命力がもどってきたような気が?」
サリ人は、かぶりをふった。「いんや」ややがっかりしたような口調で、かれはこたえた。「そんなことはありっこないんじゃないのかな。それにしても、どうしてきみが回復したのか、おれにはわけがわからん。説明できるかい?」
「さあ、どうかな。でも、ひとつの考えだけはまとめているんだ。トロドンの獲物はみんな皮膚のやわらかいものであるのはわかるだろう。それは、やつが毒を注入する針のような舌先がやわらかい皮膚にしかつきささらないのか、あるいはごく浅いところまでしかはいらないのか、そのどちらかじゃないかと思うんだ。わたしは、ひなの皮をはいでいるときに、皮の上衣をぬいだ。そして、その上衣を調べてみた結果、トロドンの舌先がわたしの皮膚につきささるまでに、皮と、えりの裏にぬいつけてある布の二枚の厚さのものをつきぬけていることを発見した。見ろよ、この穴をとりまく、まるい緑色のしみがわかるだろう。たぶん、毒のある部分がすいとられたのか、でなければ舌先が充分な効果を発揮できるほど深くはつきささらなかったのかもしれない。
とにかく、犠牲者がどれほどの毒を注入されようと、もっとも致死量のものでないかぎりのことだが、いずれは回復するものと、わたしは、いままでにまして確信している。きみがわたしより多量の毒を注入されていることはまずまちがいないが、きみは、わたしよりも長くここにいた。だから、回復のきざしに気づくまでには、もうそんに長くはかからないかもしれない」
「なんだか望みがでてきたようだ」ダンガーがこたえた。
「さて、こうやってぐずくずしてはいられない」と、フォン・ホルスト。「麻痺《しびれ》が消えさり、身体が完全にもとどおりの状態にもどった今では、腹もすきかげんだし、喉もかわいてきた。弱りはててわたしの計画を実行にうつせなくならないうちに、できるだけ早く機会をとらえてテストしてみなければならないだろう」
「そうだな」ダンガーがいった。「できるのなら、きみだけ脱出しろ。おれのことは考えなくていい」
「きみはいっしょにつれていくよ」
「しかし、そんなことは無理だ――きみだけでもこの穴からぬけだせるかどうか、おれは疑問に思ってるんだから」
「それでも、きみはつれていくよ。とにかくわたしは、ひとりではいかないつもりだ」
「やめろ」ダンガーが異議をとなえた。「そんなのはばかげている。おれは承知しないぜ」
「どうやってじゃまするつもりだ」フォン・ホルストは、声をあげて笑った。「万事わたしにまかせておけよ。とにかく計画は失敗におわるかもしれないのだし。だが、すぐにもそいつを実行にうつすことにとりかからなくちゃね」
かれは、穴ぐらの床を横ぎり、爬虫類の皮の細長いひもを、かくしておいた卵の背後からつかみあげた。それから、その一端に輪をこしらえた。それをかれは、親のトロドンが次の獲物を横たえるはずの地点の近くの床にひろげた。ついで、用心しながら皮ひもを卵の背後のかくし場所まではわせていき、そこへひと巻きほど残しておいて、残りをクレーターの開口部の下、だがさんさんと陽光がふりそそいでいる円のちょっと外側あたりへもっていった。ここでかれは、残っている皮ひものほとんどを、なめらかにくりだされるようにきちんと巻いた。これにはたいへんな苦労をはらった。それから、最後に残された部分をもってかくれ場所へひきかえし、気楽に腰を落ちつけて、まった。
どれほどのあいだまったのか、むろんかれには見当すらつかなかった。しかし、それは永遠のように思えたのだった。飢えと渇きがかれをせめたてた。かれの計画がはたして成功するものかどうか、その疑念と心配がつのってきた。かれは、眠るまいとした。いま眠ることは、致命的結果を生むことになるかもしれないのだ。ところが、かれは眠りこんでしまっていたのにちがいない。
ハッとして目をさましてみると、あの巨大なトロドンが日だまりのなかにうずくまり、新しい獲物の首に麻痺する毒を注入しているところなのだった。フォン・ホルストは、不意にひどく弱っているのに気がついた。きわどいところだった。たぶんもうすこしおそく目ざめていたら、かれの計画をテストするのは手おくれとなっていただろう。かれは、目の前の爬虫類がもう一度もどってくるまでもちこたえていられるかどうかあやぶんだ。したがって、万事は――かれとダンガーの生命は、最初に投ずるさいのころがりいかんにかかっているわけだ。かれはすばやく、神経をひきしめた。ふたたび落ちつき、気をとりなおした。そして、ホルスターのなかのピストルをにぎる力をゆるめ、皮ひもをにぎりなおした。
トロドンは、その麻痺した獲物を死の円形のその場へと運ぶべく、穴ぐらの床をつっきっていった。大きなうしろ肢の一本がひろげた輪の中にはいる。フォン・ホルストは、床を這う皮ひもにサッとひと波くれ、輪をけものの肢のくるぶしあたりまで浮きあがらせた。それから間髪をいれずにすばやくひっぱった。輪がすこしだけしまった。これで充分だろうか? もちこたえるだろうか? かれが予想していたとおり、けものは、皮ひもにまったく注意をはらわなかった。感じている様子がないのだった。フォン・ホルストは、そいつが皮ひもに気づいていないという絶対的な確信があった。肢に強烈な一撃でもくわえていればべつで、それぐらいでやってなんらかの感じが脳につたわるのではないかと思えるほど、そいつの神経組織はにぶいのだと、かれは信じていた。
いちばん新しい獲物をその場に横たえると、爬虫類は、穴ぐらの中央へもどってひょいと宙にとびあがり、翼をはばたいて高々とまいあがっていった。フォン・ホルストは、息をひそめた。輪がゆすぶられて、はずれてしまうのではないだろうか? そんなことのあるわけがない。もちこたえてくれた。フォン・ホルストは、パッと立ちあがり、ピストルの打ち金をおろして手にかまえ、穴ぐらの中央に走った。そして、トロドンがクレーターの開口部をぬけ、丘の頂上を飛びこえようとしたまさにそのとき、かれは、三度矢つぎばやにぶっ放した。
かれのねらいがはずれていなかったことを知るのに、傷ついたけものの身の毛もよだつような悲鳴をきくまでもなかった。その巨大な爬虫類が空中でかたむき、クレーターの縁のむこうにつっこむようにして消えさるのを目撃したからだ。それからフォン・ホルストは、皮ひもの末端部へ走り、それをつかんでぐっとふんばり、まった。
円錐形の丘の斜面をころがりくだるけものの死骸が止まらないさきに、かれの手から皮ひもをひきむしってしまうという危険がないではなかった。そこでかれは、すばやく皮ひもを身体に巻きつけ、てきぱきとむすんだ。これで生命をすてるようなことになるかもしれないが、皮ひもを手ばなしてしまうことはないだろう。つまり、穴ぐらから脱出するというこの、かれの最後のチャンスをむざむざのがしてしまうようなことはなくなるだろうということだ。しばし、皮ひものとぐろ巻きがぐんぐんくりだされていったが、やがて止まった。トロドンの死骸が停止したか、うしろ肢から輪がはずれたかのいずれかだ。どちらだろう?
フォン・ホルストは、おそるおそる皮ひもをさぐった。すぐにぴんとはりつめた。これで、皮ひもがまだけものの肢にからまっていることがわかった。はたしてトロドンは絶命しているのだろうか、という模糊《もこ》とした疑念がかれを襲った。このようなけものがどれだけねばりづよい生命力をもっているか、かれはよく知っていた。まだ死んでいなかったとしたら? その場合、どんなにか悲惨な運命がかれをまちうけていることだろう!
フォン・ホルストは、皮ひもをたぐってみた。びくともしなかった。それから、全体重をあずけてふりまわしてみた。前のとおりびくともしなかった。そこでかれは、なおも皮ひもを身体に巻きつけたまま、穴ぐらをつっきってダンガーのところへいった。かれは、あっけにとられて目をまるくし、かれをしげしげと見つめていた。
「きみは、サリ人として生まれつくべきだったよ」と、ダンガーは、賞賛をこめていった。
フォン・ホルストは微笑した。「さあ」といった。「きみの番だ」かれはこごみ、床からペルシダー人をかかえあげ、穴ぐらの中央、クレーターの開口部の下へ運んだ。それから、皮ひもの末端部をかれのわきの下をとおして身体にしっかりと巻きつけた。
「なにをやろうというのだ?」ダンガーがきいた。
「たったいまから、この地底世界を皮膚の薄い動物たちにとってすこしだけでも安全な世界にしてやるつもりなんだ」と、フォン・ホルスト。
かれは、穴ぐらの片隅へいくと、ピストルの銃把で卵をくだきはじめた。ふたつの卵は、かえる寸前の状態にあり、そのなかにかれは、きわめて活発なひなを発見した。この二匹のひなを殺すと、フォン・ホルストは、ダンガーのところへひきかえした。
「この連中をここへ残していくのはいやなのだが」不幸な犠牲者たちを身ぶりでしめしながら、かれはいった。「とるべき道はない。全員を連れだすわけにはいかないのでね」
「きみがひとりでもぬけだせれば、まだ運がいいというものだぜ」ダンガーが寸評した。
フォン・ホルストはニヤリとした。「われわれふたりの運がいいのだろう」とこたえた。「今日は、われわれにとって幸運の日だ」この地底世界のことばには日《ヽ》に相当する単語がない。昼も夜もないのだから。そこでフォン・ホルストは、地上世界のある国語の単語を代用したのだった。
「しんぼうしていたまえ。すぐに出られるから」
かれは、皮ひもをつかむと、手を交互に移動させてのぼりはじめた。ダンガーは、あおむけに横たわったまま、賞賛もあらたに目をかがやかせてかれを見守っていた。長い、危険な登攀《とうはん》だった。しかし、ついにフォン・ホルストは、クレーターの開口部に到達した。そして、頂上にのぼりついて下を見おろすと、例のトロドンの死骸がかれよりわずかに下にあるせまい岩棚にひっかかっているのが目にうつった。けものが絶命しているのは一目瞭然だった。それをたしかめることにしか、かれは興味をもっていなかったから、すぐさま次の仕事にとりかかった。ダンガーをクレーターの縁までひきあげることだった。
フォン・ホルストは、頑健な男だった。しかし、かれの体力はすでに、その限界までためされていた。たぶんその一部は、かれが耐えぬいてきた長いあいだの麻痺状態にうばわれていたのにちがいない。かててくわえて、クレーターの開口部のけわしいふちがていしている危険な足場があった。しかしかれは、とどのつまりは成功するのだという希望をかたときも失わなかった。遅々たる作業ではあったが、それもついにむくわれた。丘の頂上、かれのかたわらにペルシダー人の自動力のない身体が横たわるのを見守っていたのだった。
ここでかれは、ホッとしてひと休みするところだったのだが、ペルシダーでのちょっとした経験がかれに、この四周むきだしの丘の頂上はやすらぎを求めるような場所ではないと警告していた。ふもとまでおりていかなければならない。木々もすこしは見えるし、ひとすじの小川が流れているのも見える。そこまでダンガーを連れていって、しかるべきかくれ場所を見つけなければならないだろう。丘の斜面はけわしかったが、さいわいなことには、すくなくとも足場にはなる、あるかなきかの岩棚がそこいらじゅうにあった。とにかく、ほかにはおりていく道がないのだった。そこでフォン・ホルストは、幅広い肩の片方にダンガーをかついで、危険なくだりを開始した。すべったりつまずいたりしながら、かれは、ゆっくりとけわしい斜面をおりていった。そしてたえず、外敵の危険にそなえて目を光らせていた。ときどき倒れることもあったが、そのたびにんなんとか身を挺して、ふもとまでまっさかさまに落ちずにすんだのだった。
丘の頂上からみとめていた小川のわきにはえている木立のかげに、よろめきながらやっとはいりこんだときには、かれは、すっかり消耗していた。ダンガーを芝生の上に横たえてから、かれは、小川の澄んだ水で渇きをいやした。あの巨大な気球、O‐二二〇号が繋留されているキャンプをあとにしていらい、かれが水を飲むのはこれが二度めだった。どれほどの時が経過しているのか。もとよりかれには見当もつかなかった。何日も経過していたのにちがいない。あるいは何週間か、でなければ何ヵ月もすぎさっているのかもしれない。しかし、その期間のほとんどのあいだ、トロドンの不思議な毒はかれを麻痺させていただけではなかった。あの、兄弟にむさぼり食われる運命にあったはずの、ついにかえってくることのなかった|ひな《ヽヽ》の餌として適した新鮮なものにたもっておくために、かれの身体から水分がぬけるのをふせいでいたのだ。
気分が爽快になり、体力も回復したかれは、立ちあがってあたりを見まわした。程度の差はあれ、長くいられるキャンプとなりそうな場所を見つけなければならなかった。ダンガーをかついだまま、いつまでもさまよい歩きつづけていることができないのは明々白々だったからだ。かれは、なにかたよりないものを感じた。事実、この見知らぬ世界にただのひとりきりなのだった。自由にいってよいのだとしても、どの方角へ進めばいいというのだ? 羅針儀の方位もない土地で、O‐二二〇号やかれの仲間たちの所在をつきとめることを、なにをよりどころに期待することができようか? たとえ羅針儀の方位があったにしても、かれが以前にさまよい歩いた方角についてのきわめて模糊とした見当、トロドンがかれを運んでいった道筋についてのさらにたよりない見当も、とっくの昔に消えうせていた。
あの毒の影響が消えるはずのものであり、ダンガーが麻痺の|かせ《ヽヽ》から解放されたなら、たちまちかれは、行動力のある友をもつことになるばかりでなく、この野蛮な世界でかれを友好的にむかえてくれ、そこをかれの安住の地とする機会を保証してもらえるような土地へかれをみちびいてくれることができる案内人を得ることにもなるのだが。
フォン・ホルストは、その土地へいきつけば、そこでこれからの余生を送らなければならないと信じる気持ちになっていた。しかし、このサリ人といっしょにいるようにとかれをうながしていたのは、こんなことだけを考えていたからでは、ぜんぜんない。むしろ、忠実と友情の感情ゆえだった。
その小さな林と、それに隣接する土地を入念に踏査してみた結果、かれは、そこがキャンプをはるにはもってこいの場所であると確信した。新鮮な水があったし、近辺には獲物も豊富にいることを、かれはつきとめていた。林のなかは、果物や木の実がなっている木が数本はあった。それらが食べて毒にならないかという質問にたいして、ダンガーは、安全であるとうけあった。
「ここにとどまるつもりなのかい?」サリ人がきいた。
「そう。きみが毒の影響から回復するまでね」
「おれは回復しないかもしれないぜ。そのときはどうする?」
フォン・ホルストは、肩をすくめた。「そのときは、わたしもずっとここにいるさ」声をあげて笑った。
「そんなことは、たとえ兄弟にだって期待するわけにはいかん」ダンガーが反対した。「きみは、仲間の連中をさがしにいかねばならんよ」
「かれらを見つけることはできないね。もしできたとしても、身動きすらできないきみをここへひとり残してたちさるようなまねはしたくない」
「身動きすらできないおれを残してたちさる必要はないぜ」
「それはどういうことなんだ?」と、フォン・ホルスト。
「むろん、ひと思いにおれを殺《や》っちまうのさ。それこそ、慈悲のある行為というものだぜ」
「そんなことはわすれろ」フォン・ホルストは、ピシリといった。とてつもないことをいいだされて、かれはむっとした。
「おれは忘れても、そっちは忘れてはいけないんだ」ダンガーがいいつのった。「ま、かなりの回数だけ眠ったあとで、もしおれが回復していなかったら、そのときは殺してくれなくちゃこまる」かれは、かれが知る唯一の時の測定尺度を使った――つまり、眠る回数だ。一度眠ってから再び眠るまでのあいだにどれほどの時間が経過するのか、あるいは一度の睡眠がどれほどのあいだ持続するのか、もとよりかれは、それを伝えるてだてをもちあわせてはいなかった。
「そいつはさきのことさ」フォン・ホルストは、そっけなくこたえた。「当面、キャンプをはることにしか興味がないね。なにか、いい考えでもあるかい?」
「断崖の側面にあいている洞穴がいちばん安全なんだよ。でなければ、地面にあいている穴がその次によいことがしばしばあるな。そのあとは、木の枝のあいだに作られた棚、あるいは小屋だ」
「ここに断崖はない」フォン・ホルストがいった。「地面にあいている穴も見あたらない。しかし、木はある」
「じゃ、そろそろ仕事にとりかかったほうがいいぜ」ペルシダー人が忠告した。「ペルシダーには肉食獣がうんといるからな。それに、やつらはいつも飢えている」
ダンガーの提案と忠告にしたがい、フォン・ホルストは、小川のほとりのそこここにはえている竹に似た葦《よし》を使って、比較的大きな木々の一本に棚を作った。これらの葦を、かれは、狩猟用のナイフで切ったのだった。そして、これらを木の枝の上にならべ、ダンガーが丘のふもと近くに密生しているのをみとめていた長い、丈夫な草でしばりつけたのだった。
さらにダンガーの提案で、かれは、比較的小型の樹上にすむ肉食獣や、肉食鳥、肉食の有袋爬虫類から身を守るために、かこいと屋根をつけくわえた。
これだけの避難所を作りあげるのに、どれほどの時間を要したのか、かれにはこんりんざいわからなかった。仕事に熱中していたし、時は矢のように経過したからだ。何度か、木の実と果物を食べたし、数回水を飲んだが、その小屋がほとんど完了するまで眠りたいという気はしなかった。
この、かれらの原始的な住居へ出いりするのにかれが作ったあぶなっかしい梯子を、ダンガーをかかえてのぼるのは、相当に手こずったし、転落する危険もないではなかった。しかし、ついにかれは、そのお粗末な小屋の床に無事、ダンガーを横たえた。それから、かれのわきにながながと横になったフォン・ホルストは、ほとんどたちまちのうちに眠りこんでしまったのだった。
[#改ページ]
四 バスティのスクルフ
目をさましたとき、フォン・ホルストはひどい空腹をおぼえた。かたひじついて身をおこすと、ダンガーがかれを見て、ニヤリとした。
「長いこと眠ったな」と、かれはいった。「しかし、きみにはその必要があった」
「そんなに長かったかい?」と、フォン・ホルスト。
「きみが眠っているあいだに、おれは二度眠ったよ。それに、またおれは眠くなってきた」
「わたしは腹ペコだ」フォン・ホルストがいった。「ひどく腹はへってるんだが、木の実と果物はもうあきた。肉が食べたいな。肉を食べなきゃ」
「川下にいけば、獲物はうんと見つかると思う」ダンガーがいった。「きみがおれをかついで丘をくだっているあいだに、おれは、流れをちょっとくだったあたりに小さな谷があるのに気がついた。あそこには、けものがうんといるぜ」
フォン・ホルストは立ちあがった。「よし、いって一匹しとめてこよう」
「用心しろよ」ペルシダー人が注意した。「きみは、この世界じゃ他国者《よそもの》だ。危険なけものをみんな知っているわけじゃない。ぜんぜん無害のように見えて、その実そうではないものもいくらかはいるんだ。赤鹿やサグは、しばしばつっかかってきて、角でつきあげたり、ふみ殺したりする。もっとも、肉食獣ではないがね。あらゆる種類の雄鹿や雄牛、それと子供をつれているそいつらの雌に注意しろ。上のほうもつねに警戒してなきゃいけない。鳥や爬虫類がいるからな。こいつらから難をのがれるためには木のあるところ、さっきいったけものどもから逃れるためには高いところへのぼれるような場所を歩くのがいいだろう」
「すくなくともひとつだけは安心していられることがある」フォン・ホルストが意見をのべた。
「それはなんだ?」と、ダンガー。
「ペルシダーでは、手もちぶさたで死ぬことはないだろうということさ」
「それはどういう意味なんだ。|手もちぶさた《ヽヽヽヽヽヽ》とはなんのことだか、おれにはわからんが」
「ペルシダー人にはおよそわかりっこあるまいよ」フォン・ホルストは、声をあげて笑い、小屋を出て地面へおりたった。
ダンガーの指示にしたがって、かれは、このサリ人が気づいていたという谷のほうへ川づたいにくだっていった。なるたけ木の近くからはなれないように注意して、そして、いつも自分よりおとった生きものを餌食にしている肉食のけものや、鳥や、爬虫類の危険にそなえてたえず警戒していた。
さほどいきもしないうちに、谷の上手《かみて》の端が見えてき、一匹のすばらしい雄のカモシカがまるで守衛ででもあるかのようにつったっているのが目にとまった。ライフルがあればもののみごとにしとめているところだが、ピストルでまぐれあたりするにしても、これでは射程が長すぎた。そこでフォン・ホルストは、丈の高い草や、竹に似た葦や、木々が提供してくれる遮蔽《しゃへい》物を利用してさらに近くへ這いすすんだ。細心の注意をはらい、かれは獲物のほうへと、最初の一発でたおせると自信がもてるあたりまでじりじりと前進した。弾帯はまだいっぱいつまっていたが、これがなくなってしまうと補充はまったくきかないのだということを、かれは知っていた――一発一発が貴重なのだ。
全注意力がその雄のカモシカに集中され、かれは、その間危険にたいする警戒をまるでなおざりにしていたのだった。かれは、なおも這いすすみ、ついに、まだなんの気配も感じていないその動物からわずか数歩のところにはえてある丈の高いちょっとした草むらのすぐ背後までやってきた。かれは、ピストルをかまえて、慎重にねらいをつけた。と、そのとき、ひとつの影がサッとかれをよぎったのだ。つかのまにかき消えた影にすぎなかったが、ペルシダーの太陽がふりそそぐさんさんたる日光を背景にしたその影には実体がなければならない。かれは、まるで肩に手をかけられでもしたかのような気がした。そして、思わず上を見あげると、なんと、いましも一匹の身の毛もよだつような化物が紺碧の空から弾丸のように、あきらかにかれをめがけて真一文字に急降下してくるところだったのだ。かれはその巨大な爬虫類を、なかば無意識に白亜《はくあ》紀の翼竜《プテラノドン》だとみとめていた。蒸気機関車の排気さながらに、シューッとものすごいうなりをあげて、そいつは、すさまじいスピードでつっこんできた。フォン・ホルストは、本能的にピストルをかまえていた。もっとも、その恐るべき破壊の申し子を、その目標点に達しないさきに止めさせたりすることができるのは奇蹟をおいてほかにないと、百も承知はしていたが。
そのとき、そいつのねらいがかれではなかったのを知った。あの雄のカモシカだったのだ。カモシカは、一瞬恐怖にすくみでもしたかのようにつったっていたが、やがて、とぶようにして逃げだした――が、手おくれだった。プテラノドンは、カモシカめがけて急降下し、そのかぎづめでつかみかかるとふたたび空中へまいあがっていった。
フォン・ホルストは、額の汗をぬぐいながら、深く安堵の吐息をついた。「なんという世界だ!」 こんな野蛮な環境のまっただなかで、どうやって人間が生きのびてきたのだろうといぶかりながら、フォン・ホルストはひとりごちた。
いまのかれの位置からはその小さな谷の下手に数多くの動物が草を食《は》んでいるのを見ることができた。シカやカモシカ、地上世界でははるかの昔に絶滅した巨大な、剛毛におおわれた種類の牛《ボス》がいた。かれらにまじって、小型の馬に似たけものがいた。フォックス・テリアほども大きくはなく、馬の初期の祖先である始新世のヒラコテリウム(北アメリカとヨーロッパに産し前足は四本指、後足三本であった)そっくりだった。その他、地上世界の生命進化の各時代におよぶ鳥類、哺乳類、爬虫類がびっくりさせられるほどのこんぐらがりようでいりまじっていた。
その仲間の一匹がいきなりプテラノドンに襲われ、すぐ近くにいた他の動物たちはおびえた。かれらはうなり、キーキー声をあげ、みるみる谷をはねるようにしてかけくだっていった。フォン・ホルストは、ひとりその場にとり残されて、数多くのすてきなご馳走がひずめを飛ばして逃げ去っていくのをじっと見つめていた。どうしても肉が手にいれたいのなら、かれらのあとを追う以外にない。そこでかれは、谷の片側にそって曲折しながらつづいている小川のへりにならぶ木々からかたときもはなれないようにして、かれらのあとを追いはじめたのだった。しかし、さらにがっかりさせられたことには、この最初にどっと逃げだしていったけものたちがその下手で草を食んでいた群れにせまっていくにつれ、これらのけものたちにもかれらの恐怖がのりうつり、その結果後者のほうもいっしょになって逃げだしたのだった。またたく間に、あたりにはけもの一匹見あたらなくなってしまった。
大部分のけものは、そのまま谷をかけくだっていった。谷は、連丘のむこうへおれまがっていたから、その地点でかれらの姿は、フォン・ホルストの視界から消えてしまった。しかしかれは、数匹の大きな羊が近くにあるふたつの円錐火山にはさまれた峡谷へはいりこんでいくのを目にとめた。このけものたちを、かれは追跡することに決めた。そして、その峡谷にはいりこんで、かれは、そこが急にせばまっているのを知った。あきらかに、水の浸蝕《しんしょく》作用によって形成されたものにちがいない。以前に流出した溶岩が断続的に露出していた。巨大な岩塊がそこらじゅうにめったやたらにころがって、そのいくつかのはざまをせまい道がわずかに一本だけ通じていた。
羊たちは、矢のようにつっ走っていた。そして、かれとのあいだの距離がかなりあいたころ、もうかれのたてる物音がむこうにはきこえないにちがいないと、フォン・ホルストは推察した。そこでかれは、相手にさとられないように追跡するという努力をやめにして、岩塊のはざまの曲折した道をかけ足で進んでいった。やがて、道が峡谷のかなり広くなった部分へ出る地点へさしかかった。そして、かれがそこへふみだそうとしたちょうどそのとき、峡谷の上手からかれらのほうへばたばたと近づいてくる足音をはっきりときいたのだ。その方角は、かれの視界からさえぎられていた。と、そのとき、同じ方角から度肝をぬくような一連のうなり声がきこえてきた。フォン・ホルストはすでに、ペルシダーでは生命あるものすべからく、事実上潜在的に脅威をひめているものと考えてもよいということをみとめるくらいにはこの世界およびその動物群を見てきていた。そこでかれは、大きな火山岩の背後にすばやくとびこみ、まちうけた。
かれがそうやって身をかくすかかくさないうちに、ひとりの男が峡谷の上手の末端からかけつけてきた。フォン・ホルストは、この新来者がシカのような駿足《しゅんそく》のもち主であるように思われた。その男が駿足でよかった。というのも、かれのうしろにはフォン・ホルストがきいた猛々《たけだけ》しいうなり声のもち主がぴったりとくっついていたからだ。その図体といい、獰猛さといいヒョウさながらの、どでかい犬に似たけものだった。男が飛ぶようにつっ走っているにもかかわらず、けものは、徐々にかれに追いせまりつつあるのだった。フォン・ホルストには、その男が空地へ出るまでに、けものがかれに追いついてひきずりたおしてしまうのではないかという気がした。
男は、お粗末な石のナイフを一本武装しているにすぎなかった。いまかれは、そのナイフを手にしていた。もはや追跡者をひきはなすことができないとさとったとき、生命を賭して戦わんかなの決意をかためてでもいるかのようだった。しかし、フォン・ホルストも気づいていたとおり、彼の武器がいままさにかれに襲いかからんとしている強力なけものに対していかに役にたたないものであるかに、かれは気づいていたにちがいない。
フォン・ホルストの念頭には、ここで自分がどうすべきかについての疑問はまったくなかった。ひとりの人間がヒエノドンの残虐な牙で八つ裂きにされるのを、ぼんやりつったって傍観しているわけにはいかなかった。そこでかれは、男とけものから姿をかくしていた岩塊の背後からふみだした。そして、支障なくけものがしとめられるように片側にすばやくとびより、ピストルをかまえて慎重にねらい、ぶっぱなした。まぐれあたりではなかった。みごとな、完璧な一撃だった。弾丸《たま》は、けものの胸の左側をぶちぬき、その心臓にめりこんでいた。苦痛と怒りの咆哮をひと声発し、その肉食獣は前方へ、フォン・ホルストのすぐそばまではねとんできて、かれの足もとにくずれおれ、絶命した。
追跡されていた男は、息をきらしほとんど消耗しつくして、ぴたりと停止した。驚異と動転に目をまるくし、その場につったってふるえながらじっとフォン・ホルストを見つめていた。フォン・ホルストがかれのほうにむきなおると、男はあとずさり、ナイフをさらにかたくにぎりしめた。
「あっちへいけ!」うなるようにいった。「おれは殺す!」
かれは、ダンガーがフォン・ホルストに教えていたと同じことばを使った。ダンガーの説明によれば、それはペルシダーの共通語ということだった。しかし、地上世界からやってきた男フォン・ホルストは、その可能性を疑問視していたのだった。
「殺すって、なにをだ!」フォン・ホルストは問いただした。
「おまえをだ」
「なぜ、わたしを殺したいのだ?」
「おれがおまえに殺されないようにさ」
「わたしがきみを殺さねばならないわけがあるのかね?」フォン・ホルストはきいた。「いま、きみの生命を救ってやったばかりではないか。きみに死んでもらいたいのなら、あのけものにまかせておけばよかったはずだがね」
男は、頭をかいた。「それもそうだな」しばし考えてから、そうみとめた。「だが、おれにはまだよくわからん。おれは、おまえの一族のものとはちがう。だから、おまえがおれを殺す気になったっておかしくないじゃないか。おまえのような男にはまだお目にかかったことがない。これまでおれがでくわした他国者《よそもの》はどいつもこいつも、おれを殺そうとした。それに、おまえは、妙な着物で身体をつつんでいるな、きっと、遠くの国からやってきた男にちがいない」
「そのとおり」と、フォン・ホルストは得心させてやった。「しかし、当面の問題は、われわれが味方であるか、敵同士であるかということだが?」
いま一度男は、考えこむようにしてくしゃくしゃの黒髪に指を走らせた。「きわめて妙な話だ」といった。「こんなことは、いままできいたことがない。なぜ、おれたちが味方でなくちゃならないんだ?」
「それじゃきくが、なぜわれわれが敵同士にならねばならないのかね?」フォン・ホルストがやりかえした。「おたがい、相手に危害をくわえたことはない。わたしは、はるか遠くの国からやってきた人間であり、きみの国では他国者だ。きみがわたしの国へやってくるようなことがあったら、きみは歓迎されるだろう。だれひとりきみを殺そうなんていうものはいない。住むところも、食べ物もちゃんとあたえられるだろう。人々は、きみにたいして親切にする。それも、かれらが生まれつき親切だからのことなんで、なにもきみになにかの役にたってもらえるという魂胆があってのことじゃない。そこでだ、われわれが友だちになるほうがずっと実際的なんだがね。われわれは、危険なけものたちにとりまかれている。ひとりよりもふたりで身をまもるほうがうまくいくと思うのだが。
しかし、もしきみがわたしの敵でありたいというのなら、それはきみの勝手だ。わたしは自分の道をいくし、きみもそうすればいい。あるいは、もしきみがなんとしてもわたしを殺したいというのなら、これまたきみが決めることだ。しかし、わたしがこのけものをいかにやすやすと殺したか、そいつをわすれないようにするんだな。きみだって同様、かんたんに殺すことができるのだ」
「おまえのいっていることは本当だ」男がいった。「おれたちは、友だちになろう。おれはスクルフという。おまえは?」
ダンガーと会話をかわしているさい、フォン・ホルストは、かれがひきあいにだしたペルシダー人のなかでふたつ以上の名前をもっているものがひとりもいないことに気づいていた。ときには、ひとつの名前の上に|毛深い男《ヽヽヽヽ》とか、|狡猾な男《ヽヽヽヽ》とか、|殺し屋《ヽヽヽ》とか、それに類似したあだ名がつけくわえられる場合もあるにはあったが。そして、ダンガーは、たいていかれのことをフォンと呼んでいたので、フォン・ホルストは、このフォンを地底世界で使う自分の名前としてうけいれるようになっていたのだった。だから、かれがスクルフに告げた名前がこれだった。
「ここでなにをしているのだ?」男がきいた。「ここは、トロドンがいるからひどい土地なんだが」
「どうやら、そういうことらしいね」と、フォン・ホルスト。「実をいうと、わたしは、そのトロドンによってここへ連れてこられたのだ」
相手は、まさかといった顔つきでかれを見た。「トロドンにつかまったのなら、いまごろはあの世へいってるはずだがな」
「ところが、こいつはうそではない。一匹のトロドンがわたしをつかまえ、そいつの|ひな《ヽヽ》の餌にするために巣に運んでいった。わたしと、もうひとりの男とで逃げだしたのだよ」
「そいつはどこにいる?」
「川上のキャンプにいるよ。わたしが獲物を狩りしている途中で、きみにでくわしたというわけだ。私は、羊を追ってこの峡谷をのぼっているところだった。で、きみは、ここでなにをしているのかね?」
「おれは、〈マンモス族〉から逃げているところだったのだ」スクルフはこたえた。「やつらの何人かにとっつかまってね。おれを奴隷にするためにやつらの国へ連れて帰ろうとしていたんだが。おれは逃げた。やつらは、おれを追ってきたんだが、この峡谷までくればもうこっちのもんさ。マンモスが通りぬけるにはせますぎるところがうんとあるからな」
「で、これからどうするつもりなんだね?」
「やつらが追跡をあきらめたと思えるまでまって、それからおれの国へ帰るよ」
フォン・ホルストは、スクルフにかれのキャンプへきてまってはどうか、そうすれば、道が同じところまでは三人でいくことができるではないかともちかけた。が、その前になにか獲物をしとめたいといった。スクルフは、手伝いをかってでた。そして、かれの豊富な狩りの知識のおかげで、ほどなくかれらは、例の羊たちを発見した。フォン・ホルストは、一匹の若ジカをしとめた。スクルフは、ピストルの銃声と、フォン・ホルストがピストルで成就した、かれにとっては奇蹟的なその結果に深い感銘をおぼえ、すくなからず仰天した。
シカの皮をはぎ、その死骸を分割してめいめいがかつぐと、かれらは、キャンプへむかった。たいした障害にはでくわさなかったが、一度、雄のサグが突進してきた。しかしかれらは木にのぼり、そいつがたちさるまでまった。それからもう一度、剣歯虎がかれらの道を横切った。しかしそいつは、満腹していたのか、かれらには見むきもしなかった。かくて、原始の世界ペルシダーの野蛮な土地をぬけて、かれらは、キャンプへと帰っていったのだった。
フォン・ホルストが無事にもどって、ダンガーは大喜びした。この荒々しい世界にひとりの猟師をとりまく数多くの危険が存在することを、かれは知っていたからだ。スクルフを見たときにはひどく驚いていた。しかし、説明されて事情がわかると、彼を友人としてうけいれることを承知した。もっとも、この他国者との関係は、スクルフ同様かれの信条にそぐわぬものではあったが。
スクルフは、おおむねサリと同じ方角だが、ずっと近くにあるバスティとよばれる国の出身だった。そこでかれらは、ダンガーが回復したらすぐにスクルフの国まで三人で旅することにきめた。
フォン・ホルストは、羅針儀の方位を決する手段《てだて》もないのに、このふたりの男が自分たちの国のある方角をどうして知ることができるのか、理解できなかった。しかもかれらには、こうした変わった才能をもっていることのわけを、かれに説明することができないのだった。かれらは、それぞれの国をゆびさしただけなのだが、それがおおよそ同じ方角をしめしていたのだった。故国からどれだけはなれているかについては、ふたりともわからなかった。しかし、意見をかわしてみて、かれらはサリがバスティよりもずっと遠くにあるということを憶測することができたのだ。フォン・ホルストがまだ知っていなかったことは、ペルシダーの十人がすべからくそうであるように、ふたりとも、ほとんどの鳥――ことに伝書鳩の場合には顕著であるが――がもっているのと同じ帰巣本能がきわめてよく発達しているのだということだった。
何度も睡眠がくりかえされ、かれらの食肉を補給するために狩りにでかけていく必要が何回もおこってくるにつれて、スクルフは、この遅延にしだいにいらいらをつのらせてきた。かれは、自分の国へしきりに帰りたがったが、人数の多いほうがずっと安全であること、特にかなりはなれたところからでもきわめて容易に殺すことができるフォン・ホルストの奇蹟的な武器のうしろ楯があれば安全このうえないということに気づいていた。かれはしばしば、ダンガーの身体のぐあいになにか変化があるかどうかをたしかめるために、かれにそのことをきいていた。そして、サリ人がまだ首から下はまったく感覚がないことをみとめると、かれは、失望の色をぜんぜんかくそうともしないのだった。
一度、フォン・ホルストとスクルフが狩りのためにいつもより遠くまででかけていったときのことだ。スクルフは、例の自分の国へ帰りたいという問題をもちだした。そして、地上世界からきた男は、そのときはじめて相手がこんなにまでいらいらをつのらせているわけを知らされた。
「おれは、女房にしようとする女をえらんでいるんだよ」スクルフは説明した。「ところが彼女のやつ、おれが勇敢な男であり、すぐれた猟師であることを証明するためにタラグの首をもってこいといった。〈マンモス族〉どもにつかまったとき、おれは、そのタラグを狩りしていたんだ。おれがでかけてきてから、あの女は、もう何回も眠っている。すぐにも帰っていかないと、だれか他の戦士がタラグの首をもちかえり、彼女の洞穴の前におくかもしれないのだ。そのあとでおれが帰っていくことになると、おれは、女房になってくれる別の女をさがさなくちゃならんのだよ」
「きみがそうするのが適当だと思うときにはいつだって自分の国へ帰っていくがいい。それをさまたげるものはなにもない。いつ出かけてもかまわないよ」フォン・ホルストは、かれにうけあった。
「そのものすごい音をたてる小さなもので、タラグを一頭しとめてくれるわけにはいかないかな?」スクルフがねだった。
「そりゃ、やってもいいが、できるかな?」フォン・ホルストは、できるかどうかあまり自信がなかった。すくなくとも、その巨大な虎の一頭を、そいつが絶命する前にその恐るべき牙と強力な爪から死をまぬがれるほどすみやかにしとめることができるという自信はないのだった。
「おれたちが今日やってきた道は」スクルフが考えぶかげにいった。「おれの国へ帰っていく方角なんだ。このまま進むとしようや」
「ダンガーを残してか?」と、フォン・ホルスト。
スクルフは、肩をすくめた。「かれは、回復しっこない。永久にかれといっしょにとどまっているわけにはいかないぜ。おれといっしょにくれば、きみがピストルとよんでいるそいつでかんたんにタラグをしとめることができる。それからおれは、あの女の洞穴の入口にそいつをおく。彼女は、おれがそいつをしとめたと思うだろう。そのお礼に一族のものがきみを歓迎するよう、とりはからってやるよ。かれらは、きみを殺すようなことはないだろう。きみは、バスティ人となっておれたちといっしょに暮らしてもいいんだ。女房をめとることもできる。バスティには、美人がうんといるんだぜ」
「ありがとう」フォン・ホルストはこたえた。「しかし、わたしは、ダンガーといっしょにいるよ。もう、かれが回復するのもそう長くはかからないだろう。あの毒の影響は、わたしの場合がそうだったから、きっと消えるにちがいない。あんなにしつこく長びいている理由は、かれがわたしよりもずっと多くの毒を注入されたのにちがいないからだ」
「もしかれが死ねば、きみは、いっしょにきてくれるか?」
フォン・ホルストは、かれがそう質問したとき、その目にうかんだ表情が気にいらなかった。かれは、ダンガーにたいするようにはこのスクルフに親しみを感じたことがない。かれの態度は、ダンガーのようにあけっぴろげではなかったし、なにかひっかかるものがあった。いまかれは、スクルフの意図や誠実さに模糊とした疑念をいだいていたのだった。もっとも、そうと断定する具体的な根拠はなにもなかったし、この男を誤解しているのかもしれないと気づいてはいたが。
しかしかれは、スクルフの質問にたいして、あたりさわりがなく、しかもダンガーの生命を見すてることがないような返答をした。「もしかれが生きていて」と、いった。「回復したら、われわれは、きみといっしょにいくだろう」それからかれは、キャンプのほうへひきかえしはじめた。
時が経過した。どれほどかとなると、フォン・ホルストには見当すらつかなかった。一度、腕時計のねじをまきつづけ、きざみ目のある棒に日の経過をしるして時をはかろうとしたことがあった。しかし、つねに真昼の世界で、時計のねじをまいたり、時間を見てみたりするのをわすれずにいることは、かならずしも容易なことではない。のぞいて見ると、時計の止まっていることがしばしばあった。そのようなとき、むろんかれには、時計が動いていないことを発見するまでどれほどのあいだ止まっていたのか知るすべがなかった。それに、眠ったときなど、それがどれほどのあいだであったのか、かれには見当もつかなかった。そういうわけで、ほどなくかれは、そんな努力を思いとどまってしまった。というより、興味をうしなったというほうがあたっている。とにかく、時の経過をはかったってなんのちがいがあろうか? ペルシダーの住人は、時がなくても、あるであろうと同じようにすこぶる満足して生きながらえてきたのではないか? いや、むしろないほうがより満足であったことはうたがうべくもない。自分の地上世界を思いだして、かれは、時というものが、柱時計や腕時計、ラッパや警笛のまぎれもない奴隷として生涯かれをむち打ってきた血も涙もない、きびしい主人であったことに気がついた。
スクルフはしばしば、出発したいという焦慮を口にした。ダンガーは、殺してもらいたいのだが、もしそれがいやなら自分のことは考えずにその場に残してふたりでいってくれと、かれらにすすめるのだった。そんなこんなでふたりの男は、時のないペルシダーの永遠に真昼のなかで眠ったり、食べたり、狩りをしたりしたのだった。しかし、それが何時間だったのか、あるいは何年だったのか、もとよりフォン・ホルストにはわからなかった。
かれは、こうしたことに、また球形の|うろ《ヽヽ》のまさしく中央に永遠にかかっている微動もせぬ太陽に、おのれを順応させようとした。
ところで、この球形のうろの内表面がペルシダーなのであり、外表面がわれわれの知っている、かつてはかれが生まれていらい知ってきた世界なのである。フォン・ホルストはしかし、この環境にあまりにもなれていなかったので、他の環境をなにも知らないスクルフやダンガーのように抵抗なくそれをうけいれることができなかった。
あるときのこと、ぐっすり眠りこんでいたかれは、不意にダンガーの興奮したさけび声に目をさまされた。「動いたぞ!」サリ人が大声でいった。「見ろよ! 指が動かせるんだ」
麻痺は、急激に消えていった。そして、ダンガーがおぼつかない格好でふらふらと立ちあがったとき、三人の男は、さながら刑の執行延期を申しわたされたばかりの死刑囚のように、意気がたかぶってくるのを感じたのだった。フォン・ホルストにとってそれは、新しい一日の曙《あけぼの》だった。しかし、ダンガーとスクルフは、曙のなんたるかを知らなかった。だが、とにかくかれらは、しあわせそのものだった。
「これで」と、スクルフがさけんだ。「おれたちはバスティへ出発できるぞ。おれといっしょにこいよ。きみたちは、おれの兄弟としてあつかわれるだろう。一族のものは、きみたちを歓迎する。いつまでも、バスティで暮らせばいいんだ」
[#改ページ]
五 奴隷となって
黒い噴火口《クレーター》の土地からバスティの国へとスクルフがたどった道筋は、いやになるほどのまわり道だった。たえず脅威にさらされているこの世界で、しばしば必要な避難所を提供してくれる木々が河岸ぞいにならんだまがりくねった河づたいに進んだかと思うと、うっそうとした森にわけいり、そうかと思うとせまい、岩のごつごつした峡谷をぬけていくのだった。ときには、比較的ひらけた直線コースをたどれる道筋で睡眠が必要になると、そこからかなり遠くまで横道にそれねばならなかった。というのも、かれらが眠っているあいだ、けものたちの襲撃からかなり安全でいられるようなかくれ場所を見つけることが先決だったからだ。
フォン・ホルストは、この長途の長旅の最初のころにはひどく混乱し、当惑した。かれらが進んでいるおおよその方角についてすらこれっぽっちの見当もつかなかったからだ。そして、スクルフが自分の国へ帰っていく道をえらぶのがいかにもいきあたりばったりのようで、その才能をかれはしばしばうたがったのだった。しかし、このバスティ人にしろダンガーにしろ、わずかのあやまりもおかしてはいないようだった。
獲物は豊富にいた――たいていの場合、あまりにもたくさんいて、きわめて脅威的だった。だから反面、フォン・ホルストは、たえずかれらに食肉を提供するのにすこしも苦労しなかった。しかし、弾薬のたくわえは着実にへっていった。さきゆきが心配になってきたから、かれは、ピストルからかれにとって生死のわかれめを意味する文字どおりの緊急事態の場合にしか使わないよう、貴重な弾薬を節約するなにか手段を考えることにした。
かれの相棒たちは、棍棒とか石のナイフとか穂先のついた槍以上に進歩した武器についてなんらの知識ももちあわせていない。文化的にはまだ石器時代に属していた。だから、フォン・ホルストがこの不思議な武器で大型のけものすら奇蹟みたいにやすやすと、しかもかなり安全にしとめるのを見ていたかれらは、獲物を殺す仕事を万事かれまかせにしていたのだった。
自分なりのいくつかの理由で――主としてスクルフの誠実さにかんする疑念にうながされたものだが――フォン・ホルストは、かれの武器の弾薬がなくなってしまうとなんの役にもたたなくなってしまうということを、ふたりに知られたくなかった。かれらは、火器というものについてまったくの無知であったから、知らせないでおけばそこまで推論することはできなかった。したがって、狩りを他の武器で闘っておこなわねばならないとかれらを説得するためには、なにかもっともらしい口実が必要だった。
かれらがこの旅を開始したとき、スクルフは、ナイフと槍を武装していた。そしてダンガーは、材料が見つかりしだい同じものを作っていたから、かれもナイフと槍をもっていた。フォン・ホルストはといえば、ダンガーに手伝ってもらってやっと槍を作りあげた。それからまもなくして、弓と矢を作りはじめた。それができあがるかなり前に、フォン・ホルストは、ピストルを射てばその銃声がまちがいなく敵の注意をかれらのほうにひきつけるであろうから、獲物はかれらがもっている原始的な武器でしとめなければならないと主張した。ちょうどかれらは、敵の種族の狩猟隊や襲撃隊にでくわすかもしれないとスクルフが注意していた土地を進んでいるところだったから、かれもダンガーもフォン・ホルストの提案をしごくもっともなこととしてみとめたのだった。その後三人は、石の穂先がついた槍をもって獲物が近づいてくるのを横になってまった。
フォン・ホルストが仲間の穴居人たちの原始的な生活に苦もなく順応してしまったのには、当の本人ですら少なからずびっくりしたほどだった。かれが地上世界をあとにしていらいどれほどの時が経過しているのか、もとよりわからなかった。しかし、数ヵ月以上ではありえないことに、かれは、確信をもっていた。そして、それだけの時のあいだに、かれは、幾世代もかけて発達してきた文明の虚飾を事実上すっかりかなぐりすてて、おそらくは数百万年もの過去へさかのぼり、旧石器時代の男たちと共通の立場に立っているのだった。かれらが狩りをするとおりに、かれは狩りをしたし、かれらが食べるとおりに食べたのだ。そして、しばしば気づいてみると、自分が石器時代式な物の考えかたをしているのだった。
文明化された地上世界のものであるかれの服装は、徐々にはるかな太古時代のそれへと変わりはてていった。まず、ブーツが消えていた。マンモスの皮で作ったサンダルにとってかわられているのだった。着物も少しずつ裂け、ぼろぼろになってぶらさがり、ついにはかれの肌をもはやおおうどころではなくなっていた。だから、それをぬぎすてて仲間と同じ皮のふんどしをつけざるをえなくなったのだった。いまではまったく、弾帯、狩猟用ナイフ、ピストルをのぞけば、かれは、まぎれもない更新世の人間だった。
弓と多数の矢を完成したかれは、きっかり一歩だけ進歩したような気がしたのだった。そう思うと、楽しくさえなった。たぶんこれで、仲間たちより一万年ないし二万年は先行したことになるだろう。しかし、このままの状態はそう長くはつづかなかった。かれがこの新しい武器の使用に熟練するやいなや、ダンガーもスクルフも、同じ武器をしきりにほしがったのだ。かれらは、弓と矢を手にして、さながらおもちゃをもった子供のように喜んだ。またたく間に使えるようになった。ことにダンガーは、めきめき腕をあげた。だが、ピストルだけはいぜんとしてかれらの好奇心をそそるだけにおわっていた。スクルフは、フォン・ホルストにピストルを射たせてほしいとしつこくせがんだが、ヨーロッパ人は、かれにそれをさわることすらゆるそうとはしなかった。
「わたし以外これをあつかって無事でいられるものはいないのだよ」かれは説明した。「きみが手にしたら、ピストルは、かんたんにきみを殺してしまうかもしれないぞ」
「ピストルなんかこわくはないよ」とスクルフ。「きみが使っているところをよく見ていたから、おれにだって同じようにできる。やらせてみてくれないか」
しかしフォン・ホルストは、ピストルを使う知識を自分ひとりだけにとどめておくという優位な立場を維持する決意をかためていた。そして、そう決意したことが賢明な処置であったと、後になってわかるときがやってきた。しかし、この武器がフォン・ホルスト以外の人間にとって危険なのであるということをスクルフに得心させるまたとない証拠が、ほかならぬスクルフ自身によってしめされたのだった。
旅のあいだじゅうスクルフは、恋人のいろよい返事を得るためにタラグの首を故国へもちかえりたいといいつづけていた。そしてたえず、この巨大なけものの一匹をしとめてくれとフォン・ホルストにもちかけるのだった。ついには、フォン・ホルストにもダンガーにも、この男が自分の手でしとめることを考えておぞけをふるっているのだということがはっきりとわかってきた。フォン・ホルストは、この獰猛な怪物、とてつもない図体をし、一騎打ちで雄のマストドンをひきずりたおして息の根を止めてしまうといわれているほどのものすごい力とすさまじい兇猛性をそなえているこのけものを相手にして、むざむざ生命を危険にさらすつもりはこれっぽっちもなかった。
それまでかれらは、この怪物の通り道をよぎるようなことは一度もなかった。それにフォン・ホルストは、これからもそんなことはまずあるまいと楽観的だったが、偶然の法則というやつはままならぬものだ。そのときがやってきたのだった。しかし、フォン・ホルストが、かれのたずさえているお粗末な武器でもってこのはるかな過去に死滅した怪獣にたちむかう気にならなかったからといって、だれもかれを責めるわけにはいかないだろう。かれのピストルですら、このけものを激怒させる以上のことはなにもできないのだ。なにかの武器がそいつの心臓に達することができれば、そいつはいずれ絶命するだろう。しかし、おそらくそのあいだに恐るべき裂傷を受け、ほとんど確実な死をもたらされることからかれがまぬがれられるほど、すみやかに息絶えることはないだろう。とはいえ、かれがこの巨大なけものにうち勝てるかもしれないという、わずかのチャンスがかならずあることはいうまでもない。
とにかく、そいつはおこったのだ。あまりにやぶから棒であり、思いがけないことだったから、態勢をととのえている機会はなかった。三人の男は、とある森の道を一列になって歩いていた。フォン・ホルストが先頭に立ち、次にスクルフがつづいていた。やにわに、なんの前ぶれもなく一匹のタラグが、フォン・ホルストから三歩とはなれていない道の下生えからおどりだしてきたのだ。ヨーロッパ人の目にそいつは、野牛《バッファロー》ほどの大きさにもうつった。たぶん、そのとおりだったにちがいない。そいつは、顎《あぎと》をガッとひき裂き、目をランランとかがやかせ、まさしく怪獣だった。
そのタラグは、男たちの目の前で地面におりたった瞬間、フォン・ホルストめがけておどりかかっていった。スクルフがくるりとむきを変え、ダンガーをその場につきたおしてまっしぐらに逃げさった。フォン・ホルストは、ピストルをぬくひますらなかった。そいつのかれにとびかかってくるのがそれほど電光石火だったのだ。たまたまかれは、槍を右手にもち、その穂先を前へむけていた。そこで、かれのしたことが純粋に本能的な反応だったのか、あるいは、そう意図したことなのか、かれにはわからなかった。かれは、かたひざをつき、槍の石づきを地面にあてがって穂先をけものの喉にむけたのだ。それと同時に、タラグが自分のほうからやりのくしざしになったのだった。フォン・ホルストは小ゆるぎもしなかったし、槍も折れなかった。そしてけものは、そのばか力と図体にもかかわらず、かぎづめを男に近づけることができなかった。
そいつは、苦痛と激怒に槍をかきむしりながら、悲鳴をあげ咆哮し、あたりをころげまわった。フォン・ホルストは終始、槍が折れてけものが襲いかかってくるにちがいないと予期していた。そのとき、ダンガーがかけよってき、タラグのかぎづめにひき裂かれる危険などものともせずにそいつのわき腹に槍をつきさした――一度ならず二度、三度まで石のするどい穂先が巨大な虎の心臓、肺にめりこんだ。そしてついに、最後の悲鳴をあげてそいつは、死して地面に横たわったのだった。ことがすっかりおわってしまうと、スクルフが高みの見物をきめこんでいた木からおりてきて、お粗末なナイフを手に死骸のそばにかがみこんだ。そして、せっせとナイフを動かし、やっとそのタラグの首を切断したのだが、それまでフォン・ホルストにもダンガーにもいっさい注意をはらわなかった。ついでかれは、長い草でかごを編み、戦利品《トロフィー》を背にしばりつけた。かれは、これだけのことをひとことのことわりもなしにやってのけたのであり、また、それでもって連れあいをかちとりたいとねがっていた戦利品をあてがってくれた男たちに礼をのべることもしなかったのだ。
フォン・ホルストもダンガーも、そんなかれに嫌悪をもよおしたが、たぶんヨーロッパ人のほうは、怒りをとおりこしてむしろおかしくすらあったのではあるまいか。とはいえ、残る道程はみながみなむっつりふさぎこんで旅をした。とにかく、かれらのひとりとして二度とタラグの一件にふれようとはしなかった。しかし、かれらがバスティ族の国へと歩を進めていくにつれて、腐っていくタラグの首から発散する悪臭はしだいに耐えがたいものになっていった。
スクルフが自分でもピストルでなにができるかをしめす機会をあたえてほしい、と最後のうったえをおこしたあとでおこった例のタラグとの一件からまもなく、三人の男たちは、とある断崖の高みに開いた、うちすてられた洞穴に身をひそめて眠った。そのときのこと、フォン・ホルストとダンガーは、突如としておこった銃声に目をさまされたのだ。そして、パッと立ちあがったかれらは、スクルフがピストルを放りだして床にぶったおれるのを目にとめた。フォン・ホルストは、のたうちまわりうめいている男のわきへすぐさまかけよった。が、ちょっと調べてみただけでかれは、スクルフが傷ついたというより度肝をぬかれているのだと確信した。かれの顔に火薬の黒い跡が残り、かたほおの、弾丸がかすめたところに赤いみみずばれがひとすじ走っていた。あとは、神経系統に打撃を受けているだけだったが、こいつはそうすみやかに回復するものではなかった。フォン・ホルストはその場をはなれ、ピストルをひろいあげた。それをホルスターにすべりこませ、もう一度眠るために横になった。「こんどさわったら、こいつはおまえを殺すぞ、スクルフ」といった。それだけのことだった。かれは、これでスクルフも思い知ったと確信した。洞穴でこの事件があってから、しばらくのあいだスクルフは、むっつりとふさぎこんでいた。何回かフォン・ホルストは、この男がその黒ずんだ顔に陰険な表情をうかべてかれを見やるのに気づいたが、しまいにはそんな気分もおさまったのか、あるいはおさえられたのだろう。バスティへ近づくにつれて、スクルフは、ほとんどもとどおりの快活さをとりもどしていた。
「もうすぐ着くぞ」長い眠りのあとで、かれはそういった。「きみたちはいまに、すばらしい一族と会える。それに、かれらの歓待にびっくりするだろう。バスティは、すばらしい国だ。きみたちは、二度とたちさることはないだろう」
その行程で、かれらは、それまでたどってきた低地と河をあとにし、そのむこうにかなり高い山脈がつらなる低い連丘にはいりこんだ。最後にスクルフは、白亜の断崖のはざまをぬけるせまい峡谷にかれらをみちびいた。前後の見とおしがわずかしかきかない、つづら折りの峡谷だった。澄んだ小川の水が陽光をあびておどりたわむれながら、神秘をひめたかなたの海へと流れくだっていた。断崖の頂上のやせた土壌には、まばらにはえた草が微風にそよいでいる。川上から洗いながされてきた土がたまっている流れの縁にも、植物がいくらか成長していた――花をつけた草むらがわずかと、いじけた木々がちらほら。
スクルフが先頭にたっていた。ひどく興奮している様子であり、もうバスティ族の部落についたも同然だとさかんにくりかえしていた。「次の角をまがったら」と、ほどなくかれはいった。「見張りがおれたちをみとめ、警告を発するだろう」
その予言は的中した。というのも、かれらが断崖の急な角を左へまがったとき、上のほうから峡谷の上下《かみしも》へ通りぬけてひびきわたるような警告の声が発せられたからだ。「だれかくるぞ!」と、その声はさけんだ。それから、その見張りの下にいるかれらにむかって、「止まれ! さもないと殺すぞ。バスティの国へやってきたおまえたちは何者だ?」
フォン・ホルストが見あげてみると、白亜の断崖の側面にきざまれた岩棚にひとりの男が立っていた。かれのわきには、下にいる人間の上にいつでもころがし落とせるようにいくつかの岩が用意してあった。
スクルフは上の男を見あげて、返事をした。「おれたちは味方だよ。おれはスクルフだ」
「ああ、おまえなら知っている」見張りがいった。「しかし、ほかのやつらは知らん。そいつらは何者なんだ?」
「かれらを族長のフルグのところへ連れていくところなんだ」スクルフがこたえた。「ひとりは、ダンガーといって、サリとかいう国の生まれだそうだ。もうひとりのほうは、えらく遠くにある別の国からやってきたんだそうだ」
「三人のほかにまだいるのか?」見張りがきいた。
「いや」とスクルフ。「この三人だけだ」
「よし、やつらを族長フルグのところへ連れていけ」
三人は、さらに峡谷を進み、ついに周囲を断崖にとりかこまれた広い、円形のくぼ地へついた。フォン・ホルストは、その周囲の断崖の側面に数多くの洞穴がうがたれているのをみとめた。各洞穴の前には岩棚があり、ひとつの岩棚から次の岩棚へと梯子がとりつけてあって、下から上までのぼりおりできるようになっていた。どこもかしこも洞穴の入口の前の岩棚に女、子供が集まって、うさんくさげにかれらを見おろしている。見張りの警告のさけびに用心していることは明白だった。一群の戦士が洞穴のある断崖と三人の男たちとのあいだにある窪地《くぼち》をよぎって一列にひろがった。かれらも、一行の到来をまちうけていた様子だった。かれらのうわべはともかく、三人が味方なら味方として、あるいは敵なら敵としてむかえる用意をととのえていた。
「おれはスクルフだ」りっぱな御仁《ごじん》がさけんだ。「フルグに会いたい。みんな、スクルフを知ってるな」
「スクルフは、もう何回も眠る前に出ていってしまった」ひとりがこたえた。「われわれは、かれが死んでしまって二度と帰ってはこぬだろうと思っていた」
「しかし、おれはスクルフだ」男は、かさねていった。
「じゃ、こっちへこい。その前に武器をすてるのだ」
かれらは、命じられたようにした。しかし、先頭に立っていたスクルフは、フォン・ホルストがピストルをつけたままでいるのに気づいてはいなかった。三人の男は前進した。それを、バスティ族の戦士が完全に包囲する。いまや、その輪がじりじりとせばまりつつあった。
「たしかに、かれはスクルフだ」かなり接近したとき、数人のものがさけんだ。が、かれらの口調に誠意のかけらも、友情のこれっぽっちのひびきもこもってはいなかった。かれらは、ほどなくひとりの巨大漢、毛むくじゃらの男の前にたちどまった。男は、熊と虎の牙をつないだ首飾りをつけていた。それがフルグだった。
「おまえは、たしかにスクルフだ」と、かれはいった。「おまえがスクルフであるのはわかるが、こいつらは何者だ?」
「捕虜です」スクルフがこたえた。「奴隷にするためにバスティへ連れてかえってきたんです。それにおれは、自分で殺したタラグの首ももってかえりましたよ。そいつを、おれがつれあいにするつもりの女の洞穴の前におくんです。いまや、おれは偉大な戦士になりました」
フォン・ホルストとダンガーは、あっけにとられてスクルフを見つめた。
「きさまは、おれたちにうそをついたな、スクルフ」サリ人がいった。「おれたちは、きさまを信用していた。きさまの一族はおれたちの味方だと、いったじゃないか」
「われわれは、敵の味方にはならない」フルグがうなるようにいった。「そして、バスティ族のものではない連中はみんな、われわれの敵なんだ」
「われわれは敵ではない」フォン・ホルストがいった。「われわれは、何回もの睡眠のあいだ、スクルフとは友達としていっしょに狩りをしたり、眠ったりしてきたのだ。バスティ族のものはみんな、うそつきで、ずるいやつばかりなのか?」
「スクルフは、うそつきだし、ずるいやつだ」フルグがいった。「だがおれは、おまえたちの味方になるとは約束しなかった。それに、おれは族長だ。スクルフがフルグの代弁をすることはできないよ」
「われわれをおれの国へいかせてくれないか」ダンガーがいった。「きみが、おれやおれの一族と争うことはないよ」
フルグが大笑いした。「おれは、奴隷と争ったりはしない」といった。「奴隷は働くか、さもなきゃおれが殺してやる。やつらをつれてって働かせるのだ」周囲をとりまく戦士たちにむかって、かれは命令した。
すぐさま数人のバスティ族がかれらに近より、つかまえた。フォン・ホルストは、抵抗してもむだだと見てとった。ピストルがからになるまで数人はたおせるかもしれないが、とどのつまりは、相手に圧倒されてしまうのにほぼまちがいはない。でなければ、こっちのほうがよりありそうなことだが、五、六本の槍でくしざしにされているだろう。たとえそうならなくても一時的にのがれることができたとしても、峡谷の下手《しもて》にいるあの見張りが、岩棚の上からかれに岩をころがし落とすだけでよい。もののみごとにかれは息の根をとめられてしまうのだ。
「どうやら一巻のおわりのようだね」と、フォン・ホルストは、ダンガーにいった。
「――らしい」とサリ人。「スクルフのやつが、バスティに着いておれたちがどんなもてなしを受けるかきっと驚くだろうといい、二度とバスティをはなれることはないだろうといった意味がやっとわかった」
衛兵たちは、かれらを乱暴におしやりながら断崖の根方へ連れていき、梯子にのぼらせ、いちばん高い岩棚まで追いあげた。そこでは大勢の男女がおそまつな石の道具を使って、白亜の断崖の側面をそいだりけずったりしている。新しい岩棚と追加の洞穴を作る仕事をやっているところだった。かれらが奴隷なのだった。うがたれつつある新しいひとつの洞穴の入口の影に、ひとりのバスティ族戦士がしゃがみこみ、仕事の指揮をとっていた。ダンガーとフォン・ホルストを岩棚へ連行してきた男たちは、かれらをこの戦士にひきわたした。
「こいつらを捕虜として連れかえったのはスクルフなのか?」その衛兵がきいた。「ここからはやつのように見えたが、あんな臆病者にそんなまねができたとは、およそ考えられそうもないことだ」
「やつは、かれらにいっぱい食わせたのさ」相手が説明した。「やつはかれらに、ここへくれば味方としてむかえられ、歓待されるだろうといったんだ。やつはまた、タラグの首ももってかえってきた。そいつを、あの奴隷女ラ・ジャが使っている洞穴の入口の前におくつもりなんだ。やつは、彼女がほしいとフルグにたのんだのだが、族長は、もしやつがタラグの首をもちかえったら、彼女を自分のものにしていいといった。フルグにしてみれば、ちょっとした冗談のつもりで――だめだといったのと同じはずだったんだがな」
「バスティ族の男は、奴隷女を連れあいにはしない」衛兵がいった。
「ま、そりゃそうだが」と、相手。「フルグは、約束したんだし、それを守るだろうよ――ただ、おれとしては、そうと信じる前にスクルフのやつがタラグをしとめるところをこの目で見なくちゃな」
「あいつは、タラグをしとめてはいない」ダンガーがいった。
ふたりの男は、びっくりしてかれを見た。「どうしてわかる?」衛兵がきいた。
「この男がタラグをしとめたとき、おれはその場にいた。かれが槍一本であのタラグをやっつけた。そのあいだスクルフは、木にのぼっていたよ。タラグが息絶えると、やつはおりてきて、その首を切り落としたんだ」
「スクルフのやりそうなことだ」岩棚へかれらを連れてきた戦士がいった。それからふたりは、フォン・ホルストに注意をむけた。
「すると、おまえが槍でタラグをしとめたんだな?」敬意を表するひびきがこもっていなくもない口調で、ひとりがきいた。
フォン・ホルストは、かぶりを横にふった。「ダンガーとわたしがふたりでしとめたのだ」と説明した。「実際に息の根を止めたのはかれのほうだった」
ついでダンガーが、いかにしてフォン・ホルストがそのけものに単身たちむかい、槍でもってそいつをくしざしにしたかを、かれらに告げた。この話のあいだ、かれらのフォン・ホルストにたいする尊敬の念がましていったのはあきらかだった。
「運よくおまえの心臓が手にはいればいいんだがな」衛兵がいった。それからかれは、ふたりのために道具を見つけ、仕事をしている奴隷たちにかれらをくわえた。
「あいつが運よくわたしの心臓が手にはいったらいいんだがなといったのは、どういう意味だったときみは思う?」衛兵がたちさると、フォン・ホルストがきいた。
「人間を食う人間がいるのだよ」とダンガー。「そいつらの話をきいたことがある」
[#改ページ]
六 ラ・ジャ
フォン・ホルストとダンガーが仕事をすることになったほの暗い洞穴内の涼しさは、露天でうける太陽のまぶしさと炎熱をさえぎってくれた。最初かれらは、洞穴内に他の連中がいるということがぼんやりとしかわからなかったが、目がやわらげられた光になれてくるにしたがい、大勢の奴隷が壁をそいでいるのがはっきりと見えるようになった。何人かの奴隷は、そこここにかけたお粗末な梯子にのぼり、洞穴を徐々に上方へひろげているところだった。奴隷のほとんどは男だったが、女もすこしはまじっていた。そして、その女たちのひとりがフォン・ホルストのとなりではたらいていた。
洞穴内で仕事を指揮していたひとりのバスティ族戦士がしばしフォン・ホルストを見守っていた。それからかれをとめた。「おまえは、なにも知らないのか?」ときいた。「ぜんぜんまちがったことをやっている。おい!」ヨーロッパ人のとなりにいる女のほうに、かれはむきなおった。
「かれにやりかたを教えてやれ。そして、ちゃんとやっているかどうか監督するのだ」
フォン・ホルストは、その女のほうをむいた。もう、洞穴内のほの暗さに目はなれていた。彼女は、仕事の手をとめて、かれを見つめていた。彼女が若く、すばらしい美人であることが、かれにはわかった。最前見ていたバスティ族の女とちがって、彼女は金髪だった。
「わたしを見て」と、彼女はいった。「わたしのやるとおりにするのよ。仕事がおそいからといってかれらは、あなたを虐待することはないけど、やっている仕事がずさんだったりするとひどいめにあうわよ」
フォン・ホルストは、しばらくのあいだ彼女をじっと見つめていた。均整のとれた目鼻立ち、つぶらな、聡明そうな瞳をくまどっている長いまつげ、そして、ほお、首、小さなひきしまった胸のうっとりさせるような輪郭に、かれは気がついた。はじめてちらと見て感じたよりもはるかに美人であると、かれは断定した。
やぶから棒に彼女がかれのほうをむいた。「もしあなたがわたしの手と道具をよく見ていれば、もっとはやく仕事がのみこめるのに」といった。
フォン・ホルストは、声をあげて笑った。「でも、それじゃ半分も楽しくない」はっきりいった。
「ずさんな仕事をしてぶたれたいというのなら、それは、わたしの知らないことよ」
「それじゃ、いいかい」かれがうながした。「きみの横顔を見ているだけで、もうわたしの仕事がうまくなっているかどうか見てほしい」
石器のたがねとつちを使って、かれは、やわらかい白亜をそぎはじめた。それから、ややあってもう一度彼女を見た。「どう?」ときいた。
「そうね」彼女が不承不承みとめる。「うまくなっているわ。でも、|まだまだ《ヽヽヽヽ》上手にならなければいけないわ。わたしがいたくらいあなたもここにいれば、よい仕事をするのがいちばんいいんだってことがわかるでしょうよ」
「きみは、もう長くここにいるの?」
「ここへきて数えきれないほど眠ったわ。あなたは?」
「わたしは、まだきたばかりなんだ」
女は微笑した。「きたって! 連れてこられたばかりという意味なのね」
フォン・ホルストは、かぶりをふった。「ばかみたいに、わたしはやってきたのだよ。われわれは歓迎され、一族のものに友人として遇されるだろうと、スクルフがいった。かれは、われわれにうそをついたのだ」
「スクルフ!」女が身ぶるいした。「スクルフは臆病で、うそつきだわ。でも、かれが臆病で、わたしにはよかった。でなかったら、かれは、タラグの首をもちかえって、わたしが使っている洞穴の入口の前にそれをおくかもしれないのだから」
フォン・ホルストは、びっくりぎょうてんして目をみはった。「すると、きみがラ・ジャなのかい?」
「わたしはラ・ジャだけど、でもどうして知っているの?」彼女の音楽的な声音《こわね》が発せられると、その名前はすこぶるこころよくひびいた――口を大きくあけてラ、そしてやわらかくジャ、アクセントはジャにおく。
「もしスクルフがタラグの首をとって帰ってきたら、きみを自分のものにしてよいとフルグがかれに約束したんだと、ひとりの衛兵がいっていた。わたしは、その名前をおぼえていたんだ。たぶん、とてもすてきな名前だからだろうね」
彼女はこのほめことばを無視した。「それなら、まだわたしはだいじょうぶだわ」といった。
「あのたいへんな臆病者なら、タラグから逃げだしてしまうでしょうからね」
「たしかに、かれはそうした」フォン・ホルストはいった。「しかし、あいつは、タラグの首をもってかえってきたのだよ」
女は、ギョッとした顔つきになり、それから懐疑的になった。「あなたは、スクルフがタラグを殺したといおうとしているの?」ときいた。
「いや、そんなことをいおうとしているのじゃない。タラグをしとめたのは、ダンガーとわたしなのだ。しかしスクルフは、それを自分の手柄にしようとその首を切りはなし、もってかえってきたのだよ」
「わたしは、絶対かれのものにはならなくてよ!」ラ・ジャが緊張してさけんだ。「そんなことになるくらいなら、その前に自殺するわ」
「それ以外になにかできることはないのかね? かれのものになることをことわることはできないのかい?」
「もしわたしが奴隷でなければ、できるわ。でも、フルグがわたしをかれのものにしてもよいと約束したのだし。それに、わたしは奴隷なのだから、その件ではなにもいえないの」
フォン・ホルストはだしぬけに、はげしい、ひそかな関心をおぼえた――どうしてなのか、そのわけを説明することは、かれにはむずかしいことだったろう。たぶんそれは、身を守るすべを知らぬ女の苦境にたいする、男になら当然おこる反動だったのかもしれない。たぶん、彼女のすばらしい美しさがそれになんらかのかかわりをもっていたのだろう。しかし、その原因がどうあれ、かれは、彼女の力になりたかった。
「脱出できる可能性はないのかい?」と、かれはきいた。「日が暮れてから、ここをそっとしのび出ることはできないのかい? ダンガーとわたしがきみを助けて、いっしょにいくのだが」
「日が暮れてから?」彼女がきいた。「それはなんのことかしら?」
フォン・ホルストは、残念そうに苦笑した。「すっかりわすれていた」
「なにをわすれていたの?」
「ここでは日が暮れて暗くなることがないということさ」
「洞穴のなかは暗いわ」
「わたしの国では、時の半分は日が暮れて暗いのだよ。暗いときに、われわれは眠る。眠るから眠るまでのあいだは明るいんだ」
「まあ、変なのね!」彼女がさけぶ。「あなたの国はどこなの。それに、どうして日が暮れて暗くなるなんてことがありえるのかしら? 太陽は、つねにかがやいているのよ。太陽がかがやくのをやめる――そんな話ってきいたことがないわ」
「わたしの国はとても遠く、別の世界にあるのだよ。われわれの太陽は、きみたちのと同じものではない。いずれ、そのことは説明してあげよう」
「あなたは、わたしがこれまでに見たどの男たちともちがっているように思ったんだけど、あなたの名前は?」
「フォン」と、かれはいった。
「フォン――そう、これもかわった名前ね」
「スクルフやフルグよりもかわっているかい?」にやにやしながら、かれはきいた。
「そう、そうね。それらの名前にかわったところはなにもないわ」
「もしきみがわたしの名前をみんなきいたら、それこそ変にひびくかもしれない」
「フォン以外にもっとあるの?」
「もっと、うんとあるのさ」
「おしえてくれないかしら」
「わたしの名前は、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・エリック・フォン・メンデルドルフ・ウント・フォン・ホルストというのだよ」
「まあ、それをみんないうことはできないわ。フォンのほうがいいようね」
かれは、なぜフリードリッヒ・ヴィルヘルム・エリック・フォン・メンデルドルフ・ウント・フォン・ホルストが自分の名前だと、彼女に告げたりしたのかしら、といぶかった。むろん、長いあいだそれで通してきたのだから、かれにはきわめてあたりまえのことのように思えたのだ。しかし、いまはドイツにいるのではない。たぶん、それをそのままつづけたとしても意味のないことだったろう。とにかく、そんなことはこの地底世界ではどうだっていいことではないか? フォンというのは、発音しやすい名前だし、おぼえやすい名前でもある――ならば、フォンで通していくのもいいではないか。
ほどなく、女があくびをした。「ねむいわ」といった。「わたしの洞穴へいって、ひと眠りします。あなたも同じときに眠ったらどうかしら。そうすれば、わたしたちは、同じときに目をさましていられるでしょう。で――そう、あなたのお仕事のことで、わたしがおしえてあげることができるわ」
「それはいい考えだ」かれはさけんだ。「しかし、連中は、いまわたしを眠らせてくれるかな? まだ仕事をはじめたばかりなんだから」
「かれらは、わたしたちが眠りたいときに眠らせてくれるわ。でも、目がさめたらすぐに仕事にもどらなくてはならないの。女の奴隷は、共同でひとつの洞穴に眠っているんだけど、バスティ族の女がひとり見張っていて、奴隷女が目をさますとすぐに仕事にもどるかどうかを監視しているの。とても、こわいおばあさんなのよ」
「わたしは、どこで眠ったらいいんだい?」
「おいで、おしえてあげるわ。女たちの洞穴のとなりにあるの」
彼女は、先に立って岩棚へ出、その岩棚づたいにいまひとつの洞穴の入口へいった。「ここで男たちは眠るの。次の洞穴が女の眠るところよ」
「こんなところでなにをやってるんだ?」ひとりの衛兵が詰問した。
「いまから眠るところなの」ラ・ジャがこたえた。
男がうなずく。娘は、女用の洞穴へはいっていった。いっぽうフォン・ホルストは、男の奴隷に用意された洞穴へはいった。大勢の奴隷がかたい床に横になって眠っていた。すぐにかれも、そのなかにまじっていたダンガーのかたわらに身を横たえた。
どれほどのあいだ眠ったのか、もとよりフォン・ホルストには見当もつかなかった。やぶから棒におこったけたたましいわめき声に目をさまされたのだ。どうやら、洞穴のすぐ外からきこえてくるらしい。最初のうちは、きいたことばの意味がぴんとこなかったのだが、ほどなく同じことばが二度めにくりかえされて、かれは、すっかり目をさました。ことばの意味が完全にのみこめ、わめいている声がだれのものだかもわかった。
スクルフだった。かれは、何回もくりかえしていた。「出てこい、ラ・ジャ! スクルフ様がタラグの首をおまえにもってきてやったんだ。いまおまえは、スクルフ様のものなんだぞ」
フォン・ホルストは、ガバとはねおきて、岩棚へふみだした。となりの洞穴の入口の前に、くさったタラグの首がころがっていた。しかし、スクルフの姿は見あたらない。
最初フォン・ホルストは、スクルフがラ・ジャをさがしに洞穴のなかにはいっていったのだと思った。が、ほどなく、その声がしたからきこえてくることに気がついた。岩棚の縁ごしにのぞいてみると、一メートルばかり下、梯子の上にスクルフが立っていた。そのとき、ラ・ジャが洞穴から出てくるのが目にとまった。悲劇の女王を絵にかいたような表情をしていた。
フォン・ホルストは、そのわきにタラグの首がころがっている梯子のとっつきに歩みよった。ラ・ジャがあらわれた洞穴の真正面だ。彼女の態度、表情には、なにかかれをおびえさせるものがあった。かれが目にとまっている様子はない。彼女は、かれのわきをかけぬけ、断崖の縁へ進もうとした。直感的にかれは、彼女の念頭にあるものを読みとっていた。まさに彼女がわきをかけぬけようとしたせつな、かれは片腕をのばし、彼女をひきもどした。
「やめたまえ、ラ・ジャ」おだやかに、かれはいった。
彼女は、あたかも無限の境《きょう》からさめでもしたかのように、ハッとしてわれにかえった。それから、かれにしがみつき、すすり泣きはじめた。「でも、ほかに方法がないの」しゃくりあげながらいった。「わたしは、かれのものになってはいけないのよ」
「そんなことはさせないさ」フォン・ホルストはいった。それから、スクルフをにらみおろした。
「ここから消えろ。ついでに、このくさった首ももっていくんだ」かれは、そのくさった肉のかたまりを、スクルフの上に落ちるように岩棚の縁から足でおしやった。その重みを受けて一瞬スクルフは、梯子から転落したかに見えたが、さにあらず、猿のようなすばやさで、もう一度梯子につかみかかった。
「そのままおりていくんだ」フォン・ホルストが命じるようにいった。「そして、二度とここへはあがってくるな。この女性はおまえのものではない」
「彼女はおれのものだ。フルグが、自分のものにしてよいといった。ようし、見てろ。この一件で、きさまを殺させてやるからな」怒り心頭に発し、口角|泡《あわ》を飛ばさんばかりだった。
「おりていけ。さもないと、こっちからいって投げ落としてやるぞ」フォン・ホルストがおどかすようにいった。
手がかれの肩にさわった。くるりとむきなおる。かれのわきに立っているのはダンガーだった。
「衛兵がくるぞ」といった。「いまや、絶体絶命だ。おれがついている。さて、どうするかな?」
その衛兵は、岩棚をやってくるところだった。かれらがひきわたされたやつと同様の巨大漢だった。うがたれつつある数ヵ所の洞穴のなかに他にも衛兵がいたが、いままでのところかれらのことに気づいているのはこいつだけのようだった。
「なにをやってるんだ。奴隷」やつは咆哮した。「仕事にもどれ! ちょいとこいつを食らわせてやる必要があるな」毛むくじゃらの右手ににぎった棍棒をふりまわした。
「そいつでわたしをなぐるわけにはいかないぞ」フォン・ホルストがいった。「そこからすこしでも近づいたら、おまえの息の根をとめてやる」
「ピストルだよ、フォン」と、ダンガーが低声でいった。
「弾薬をむだ使いすることはできない」
衛兵はたちどまっていた。奴隷がどうやって、そしてなにをもってかれを殺すつもりでいるのか、知ろうとしている様子だった。どの点から見ても、相手は、武器をもっていない。背こそ高いが、衛兵の頑丈さにくらべれば雲泥の差があった。ついにやつは、フォン・ホルストのことばがまじりけのないホラだと結論したのにちがいない。また、近づいてきはじめたからだ。
「おれの息の根をとめてやるだと?」やつはわめいた。それから、棍棒をふりかぶって突進してきた。
そいつは、あまり足のはやいほうではなかった。頭のめぐりはもっとおそかった――反応があわれなほど愚鈍なのだった。フォン・ホルストがかれをむかえうつべく、どっとおどりだしたとき、この情勢の急変にあわせて攻撃法を変えられるほどかれは敏捷ではなかったのだ。あわやぶつかる寸前にフォン・ホルストは、すばやく横へとんだ。そして、やつがかれとならんだ形になったとき、フォン・ホルストは、バスティ族の男の顎に強烈なパンチをおみまいした。まさに岩棚のわきで相手の態勢を完全にくずしてしまうほどの一撃だった。やつがその場でふらついている間に、フォン・ホルストは、さらにもう一発たたきこんだ。こんどこそやつは、ぐらっとかたむき、宙へ飛びだしていた。そして、恐怖の悲鳴を発しながら、三十メートル足下の断崖の根方へとまっさかさまに落ちていった。
ダンガーと娘は、度肝をぬかれ目をまるくして、その場につっ立っていた。「まずいことになったわ。フォン!」ラ・ジャがさけんだ。「こんどはかれらがあなたを殺すわ――それもこれも、みんなあたしのせいね」
彼女が話しているうちに、いまひとりの衛兵が岩棚のかなり先にある洞穴のひとつから姿をあらわしてきた。それから、奴隷たちの仕事の指揮をとっていた他の洞穴から、残るひとりもとびだしてきた。フォン・ホルストが岩棚からたたき落としたやつの悲鳴がかれらの注意をひいたのだ。
「わたしのうしろにまわるんだ」フォン・ホルストは、ラ・ジャとダンガーに指示した。「そして、岩棚のむこうの端まで後退しろ。やつらは、背後へまわることができないかぎり、われわれをつかまえることはできない」
「でも、それだとわたしたちにはあとがなくなるわ」娘が反対した。「あんまり明るくない、そしてかれらに岩くずを投げつけることができるような洞穴のひとつにはいりこめば、かれらをくいとめることができるかもしれないわよ。でも、そんなことしたってどうということはないわね? わたしたちがどうしようと、いずれはかれらにつかまってしまうでしょうからね」
「わたしがいったとおりにするんだ」フォン・ホルストは、ぴしりといった。「さあ、はやくしなさい」
「わたしに命令するとは、あなたは何様なの?」ラ・ジャが詰問した。「わたしは、族長の娘なのよ」
フォン・ホルストは、くるりとむきなおると、彼女をダンガーの腕のなかへおしこんだ。「彼女を岩棚のむこう端へ連れてってくれ」と命令した。そして、ダンガーがかんかんになったラ・ジャをひきずっていくのを見て、かれらに背をむけた。衛兵たちが三人のほうへ進んでくる。かれらは、なにごとがあったのか、しかとは知っていなかったが、なにか変だとは感づいていた。
「ジュルプはどこだ?」と、ひとりが詰問した。
「わたしのいうとおりにしないと、おまえたちもかれと同じところへいくぞ」と、フォン・ホルスト。
「それはどういう意味だ、奴隷! かれはどこにいる?」
「岩棚からたたき落とした。下を見てみろ」
三人の衛兵は、ひたとたちどまり、岩棚の縁から下をのぞいた。眼下にジュルプの死体が横たわっている。いまや、その周囲にむらがった人々の怒りの声、声、声がこの高みにまできこえてきた。スクルフもその場にいた。ジュルプをそんな目にあわせたのがなんであるかを推測できたのはかれだけであり、そのことを大声で周囲の連中にしゃべっていた。そこへフルグがやってきた。
「その奴隷をおれのところへ連れてこい」フルグは、岩棚の衛兵たちにむかってさけんだ。
三人はふたたび、フォン・ホルストをつかまえるために進んできはじめた。ヨーロッパ人は、ホルスターからピストルをぬいた。「いいか?」と、どなった。「死にたくないなら、わたしのいうことをよくきけ。そこに梯子がある。下へおりろ」
三人は、ピストルを見やったが、それがなんであるのかわかるはずもなかった。かれらには、たんなる黒い石のかたまりにすぎなかったのだ。たぶんかれらは、フォン・ホルストがそれをかれらに投げつけるか、でなければ棍棒がわりに使うつもりでいるものと思ったのだろう。やつらはニヤついた。そのまま、相手をさも小馬鹿にしたようにつき進んできた。
いまや、奴隷女たちを監視する女が、表の騒動にひきつけられて、その洞穴から姿をあらわし男たちにくわわった。底意地の悪そうな顔つきをした、年恰好のしかとわからぬ無愛想な自堕落女だった。フォン・ホルストは、彼女が男たちよりも手ごわくすらあるかもしれないなとにらんだが、さりとて女を射ちたおす必要にはせまられたくないと思った。実のところかれは、男女の別なくかれらのだれひとり射ちたくはなかった――しょせんは石器時代のあわれな、無知な穴居人にすぎないのではないか――しかし問題は、かれらが生きるか、あるいは、かれとダンガーとラ・ジャが生きるかの瀬戸際なのだ。
「さがれ!」と、かれはさけんだ。「その梯子をおりるんだ。おまえたちを殺したくない」
そのおかえしに、かれらは大笑いし、なおもせまってきた。そのとき、フォン・ホルストはぶっぱなした。男たちのひとりは、リーダー格のすぐうしろにいたから、この一発でかれらふたりがギャッと悲鳴を発してぶったおれ、岩棚からころげ落ちた。残る男と女がハッタとたちどまる。銃声だけでもかれらをたちどまらせるには充分だったろう。それほどかれらには恐るべきものだったのだ。ところが、仲間のふたりが岩棚から放りだされるところを目のあたりにしたのだ。かれらの単純な心は完全にひっくりかえってしまった。
「おりるんだ」フォン・ホルストは、かれらに命令した。「さもないと、おまえたちも殺すぞ。ぐずぐずしていると容赦はしない」
女は、鼻をならして躊躇《ちゅうちょ》したが、男はぐずぐずしていなかった。梯子のほうへとんでいくと、あわてておりはじめたのだ。一瞬後、女もあきらめて、そのあとにつづいた。フォン・ホルストは、ふたりがおりていくのを見守った。そして、かれらがすぐ下にある岩棚におりたったとき、かれは、ダンガーにそばへくるようにと身ぶりでしめした。「この梯子をかたづけるのに手をかしてくれないか」ふたりは、その梯子をかれらの立っている岩棚へひっぱりあげた。「これでしばらく連中をくいとめていられるだろう」
「やつらが別の梯子をもってくるまでのことだ」ダンガーが意見を述べた。
「それにはすこしぐらい時間がかかる」と、フォン・ホルスト。「――かれらが梯子をかけているところへ一発ぶっぱなしてやれば、相当もつだろう」
「さてと、こんどはどうしたらいい?」ダンガーがきいた。
ラ・ジャが柳眉をさかだて、フォン・ホルストを見すえていた。その双の瞳には怒りの炎がくすぶっていたが、ひとことも口をきかなかった。フォン・ホルストは、彼女を見て、彼女が口をきかないことをよろこんだ。その美しい、怒った顔――怒っていてすら美しかった――に、かれは苦渋の色をよみとった。
他の奴隷たちがやっと、おっかなびっくり洞穴から出てきた。衛兵たちはどこにいるのかと見まわしているが、ひとりも見あたらない。それからかれらは、梯子がひきあげられているのを見た。
「なにがあったんだ?」と、ひとりがきいた。
「このばかな人が三人の衛兵を殺して、あとは追いおろしてしまったのよ」ラ・ジャがぴしりといった。「これでわたしたちは、ここにじっとしていて飢え死にするか、あがってきたかれらに殺されるかしなければならなくなったわ」
フォン・ホルストは、かれらに注意をはらわなかった。頭上十メートルたらずの頂上までわずかにむこうへ傾斜してのびあがっている断崖の側面を見あげ、調べていた。
「かれが三人の衛兵を殺して、あとを岩棚から追いおろしたって?」信じられないというように奴隷のひとりがききかえした。
「そうだ」とダンガーがいった。「ひとりきりでやったんだ」
「すばらしい戦士だな」同じ奴隷がほめたたえた。
「おまえのいうとおりだ、ソレク」別のひとりがみとめた。「しかし、ラ・ジャのいうことももっともだぞ。これじゃ、どんなことがあろうと、おれたちをまってるのは死だけだ」
「ちょっと早く死がくるというだけのことじゃないか。なんてことはない」とソレク。「この人喰い人種の三人が殺されたってことを知っただけでも、その値打ちはあるというもんだ。おれが、この手でやったのならよかったんだがな」
「きみたちは、飢え死にするか、あるいは連中があがってきてきみたちを殺すかするまで、こんなところでじっとしているつもりか?」フォン・ホルストがきいた。
「ほかにどうしたらいいというんだ?」アムダル生まれの奴隷がきりかえした。
「われわれは、ざっとみて五十人近くいる」フォン・ホルストがいった。「ここで渇き死にするか、ねずみのように殺されるかするまでじっとしているくらいなら、下へおりていって生命をかけて戦ったほうがいいだろう。ほかに方法がないというのならな。しかし、わたしは、方法があると思うんだ」
「うん、きみのことばは、まさしく男のいうことだ」ソレクがさけんだ。「おれは、きみといっしょに下へおりていって戦うぞ」
「ほかの方法というのはなんだ?」アムダルからきた男がきいた。
「この梯子がある」フォン・ホルストは説明した。「それに、洞穴のなかにはほかにもうんとある。そのいくつかをつなぎあわせると、われわれは、あの頂上へのぼりつくことができるだろう。バスティ族のものがわれわれに追いつくまでには、かなり遠くまでのがれていられるはずだ。というのも、かれらは、この峡谷から出られる場所へいたるためにずいぶんまわり道して峡谷をくだっていかなければならないだろうからだ」
「かれのいうとおりだぞ」別の奴隷がさけんだ。
「しかし、やつらは、おれたちに追いつくかもしれん」おどおどしたいまひとりが意見を述べた。
「いいじゃないか!」ソレクがさけんだ。「おれは、マンモス族の人間だ。敵と戦うのがこわいかって? じょうだんじゃない。これまでおれは、敵と戦いどおしだった。おふくろがおれを産み、おやじがきたえてくれたのは、このためだったんだ」
「おしゃべりが多すぎるぞ」と、フォン・ホルスト。「おしゃべりでわれわれが助かるわけではない。わたしといっしょにきたいものはくるがいい。あとはここにとどまる。よし、他の梯子を運んでくるのだ。それから、なにか梯子をつなぐものを見つけてくれ」
「フルグがやってくるぞ!」ひとりの奴隷がさけんだ。「大勢の戦士をひきつれてのぼってくる」
フォン・ホルストが見おろしてみると、毛むくじゃらの族長がこの岩棚のほうへのぼってくるところだった。その背後には大勢の戦士がつづいている。地上世界からきた男はニヤリとした。かれの位置は難攻不落であり、びくともしないことを知っていたからだ。
「ソレク」と、かれはいった。「男たちを洞穴へ連れていって、岩くずを運びださせるのだ。しかし、わたしが指示するまでは、バスティ族に投げつけてはいけない」
「おれはマンモス族の人間だ」と、ソレクが横柄にこたえた。「おれの族長以外のどいつからも命令は受けないぞ」
「いまはわたしがきみの族長だ」フォン・ホルストは、ぴしりといった。「いわれたとおりにしろ。みんなが族長になろうとし、だれもがわたしの命令にしたがわないと、くさりはてるまでここにいなきゃならなくなるかもしれないのだぞ」
「おれは、おれよりすぐれていない男から命令は受けないのだ」ソレクは、しつこく食いさがった。
「かれは、なにがいいたいのだ、ダンガー?」フォン・ホルストはきいた。
「かれは、きみにしたがう前に、きみがかれと戦い、そして勝たねばならん、そういっているんだ」サリ人が説明した。
「あとの連中もみんな、かれみたいなわからずやなのかい?」と、フォン・ホルスト。「きみたちがのがれる力になってやろうというわたしを助ける前に、わたしは、ひとりひとりと戦わねばならないのかね?」
「きみがもし、ソレクを負かせば、おれは、きみにしたがうよ」アムダル生まれの男がいった。
「それなら、いいだろう」フォン・ホルストは承知した。「ダンガー、このばか者たちのなかにきみに手をかすというものがいたら、洞穴へいって岩くずを集めてきて、いまの問題がかたづくまでフルグをくいとめてくれないか。連中がこの岩棚に梯子をかけようとするのをさまたげるだけでいい。ソレク、きみとわたしは、洞穴のひとつにはいってどちらが頭目か決めるとしよう。それをここで決めようとすれば、たぶんふたりとも断崖の根方へ転落してしまうだろう」
「よかろう」マンモス族の男が承知した。「おまえはいいことをいう。りっぱな頭目になるだろう――もし、おれに勝てばのことだが。しかし、おれには勝てまいな。おれはソレクだ。マンモス族の人間なんだ」
フォン・ホルストは、これら原始人が傲慢《ごうまん》なほどの自尊心をありありと表にあらわすのがおかしくて笑いだしそうになったぐらいだった。それが大げさな形でラ・ジャにあらわれたのを見ていたし、いままた、それがソレクにあらわれたのだった。おそらくそういう点で、かれは、すこしはかれらを賞賛の目でみたのだろう――いくじのないやつにはがまんがならなかったのだ――そうはいってもその自尊心にもちょっぴりながら良識というものをかれらは働かせていたのかもしれないと、かれは感じた。しかしそれは、人類がたえずさまざまな力によって絶滅の危機におびやかされていたはずの人類の曙時代を生きぬいていくためにかれらがそなえていたにちがいないような、とほうもない自我《エゴ》を反映していた。
フォン・ホルストは、ソレクのほうをむいた。「さあ」といった。「てっとりばやくかたをつけよう。そうすれば、それだけはやく役にたつことができるようになる」しゃべりながら、かれは、洞穴のひとつにはいりこんだ。ソレクがそのあとにつづく。
「素手でやるか?」と、フォン・ホルスト。
「素手でやる」と、マンモス人。
「よし、かかってこい」
フォン・ホルストは、少年のころから、さまざまな武器を使って、あるいはなにも使わないでの、あらゆる型の攻防術に熱心にうちこんでいた。アマチュアの拳闘家、あるいはレスラーとしてずばぬけていた。これまで、そうした能力の点で、ある程度自負に似た満足をおぼえてはいても、それだけのことであり、いざ実際にその能力を活用するという点になるとその機会はほとんどなかったのだった。しかし、いまこそ存分にその力を発揮できるときがきた。肉体的にずばぬけていなくてもすぐれた人間がいるのだということを、みとめようとしない石器時代の無骨な人間たちのあいだに、不動の地位をきずくときがやってきたのだ。
フォン・ホルストのさそいにのって、ソレクは、猛牛さながらにかれにつっかかっていった。背丈こそほぼ同じだったが、ソレクのほうがよりたくましく、体重で六、七キロはフォン・ホルストをうわまわっていた。かれらの力は、たぶんほぼ互角だっただろう。もっとも、そのもりあがった筋肉ゆえにペルシダー人のほうがはるかに力もちのように見えたが、問題になるのはそのわざであり、ソレクにはわざがなかった。かれの戦術は、はずみと体重で相手を圧倒して相手を地面におさえつけ、乱打|打擲《ちょうちゃく》して人事不肖におちいらすことだった。その過程で、もしかれが相手を殺せば――そう、それは相手にとってまさしく不運というものなのだ。
しかし、かれがフォン・ホルストに身体ごとぶつかってきたとき、フォン・ホルストは、その場にいなかった。めったやたらとふりまわす相手の腕をひょいとかいくぐって、横ざまにその巨体をさけていたのだ。そして、ものすごいパンチをソレクの顎にきめていた。頭をガクンとのけぞらせ、目をまわしていたが、かれはたおれずに、むきを変えていま一度同じ目にあうべく、どたどたとせまっていった。そして、またしても同じ目にあった。こんどは洞穴の床にひっくりかえった。ふらふらと立ちあがろうとしたところへもう一発みまわれて、かれは地面にはいつくばった。ソレクにはひとかけらの勝ちめもなかった。ちょっと立ちあがろうとするところへ、パンチを食ってまたたおれふす。ついに、かれはあきらめて、その場に横になったままでいた。
「頭目はどちらだ?」と、フォン・ホルスト。
「おまえだ」ソレクがいった。
[#改ページ]
七 奴隷たちの逃亡
フォン・ホルストは、踵をかえして洞穴を出た。ソレクがふらふら立ちあがって、そのあとにつづく。大勢の奴隷たちがダンガーとともに岩棚にならび、のぼってくるバスティ族に岩くずを投げつける態勢をととのえていた。すでにバスティ族は、奴隷たちの占めている岩棚からふたつ下の岩棚に到達していた。
フォン・ホルストはあたりを見まわし、ちょうど洞穴から出てきたばかりのソレクを目にとめた。「何人か男を連れて、梯子を運んできてくれ」いま相手にしたばかりの男に、かれは命令した。
他の奴隷たちは、この命令にマンモス人がどう出るかをたしかめようと、かれのほうにすばやく視線を送った。そしてかれらは、そこに見たものにびっくり仰天した。ソレクの顔面がすでにひどくはれあがっていたのだ。目の上には切り傷ができ、鼻からは血をしたたらせていた。顔全体と、身体のほとんどが血にそまり、それがかれのあちこちの負傷をじっさいよりもひどいものに見せているのだった。
ソレクは、他の奴隷たちのほうをむいた。「何人か、おのおのの洞穴へいって梯子をもってこい」といった。「女たちには、それらの梯子をつなぎあわせる革ひもを見つけてこさせるんだ」
「だれが頭目なんだ?」指示を受けた奴隷のひとりがきいた。
「かれが頭目だ」フォン・ホルストをゆびさしながら、ソレクはこたえた。
「かれはおれの頭目じゃない。おまえもだ」男がけんか腰で反駁《はんばく》した。
フォン・ホルストは、不意に絶望的になった。こんなおろかな利己主義者たちを相手にいい争いをして、なんらかの結論を出すにはどうすればよいというのだ。なにかをなしとげるにはどうすればいいのだ? ソレクはしかし、びくともしなかった。かれは、やにわに男にとびかかり、男がにぶい頭をめぐらすひまもあたえずにかれを頭上にかかえあげて断崖から放りだしてしまったのだ。それから、他の連中にむきなおって「梯子をもってこい」といった。かれらは、すぐさまその命令の遂行にとりかかった。
いまやフォン・ホルストは、注意を足下のフルグと他の戦士たちにむけた。かれらは格好の目標となっていたから、かれがその気になれば、まもなく下へ追いおろすことができたのだが、他に計画があった。かれは、低い声で仲間たちに指示をあたえて、かれらをバスティ族がのぼってくる真上あたりの岩棚にそって一列にならばせていた。いっぽう梯子がいくつかもちだされ、女たちは、それらをふたつずつつなぐのに大わらわだった。
ラ・ジャは、ひとりはなれたところにつったってすごい目つきでフォン・ホルストをにらみつけ、女たちの仕事を手伝うそぶりも見せなかった。だが、フォン・ホルストは、彼女にまるで注意をはらわなかった。たぶんそれが、彼女のうらみと怒りをつのらせたのだろう。フルグが下の岩棚からおどかしやら命令をほえたてている。断崖の根方では、女子供が一族の男たちを大声あげて激励している。
「フォンという男を連れてこい」フルグがわめいた。「そうすれば、あとのやつらは罰せずにすませてやろう」
「あがってきてつかまえろ」ソレクが挑戦した。
「もしバティ族の男が老いた女よりもましなのなら、そこにつったってわめいてばかりいないで、もっと気のきいたことができるだろう」フォン・ホルストがなじった。そして、小さな岩のかたまりを投げつけると、それがフルグの肩先に命中した。「いいか」とさけんだ。「ここまで槍も投げてこれないほどの腰ぬけどもを蹴散らすなど、朝めしまえのことなんだぞ!」
この侮辱は、バティ族にとって効果てきめんだった。たちまち槍が飛んできはじめたのだ。しかし、奴隷たちのそなえは充分だった。槍がかれらの高さまで到達すると、その多くをかれらは、手をのばしてつかんだのだった。あとはバスティ族のいる下へ落ちていき、それらがまた投げかえされてきた。ほどなく奴隷たちは、フォン・ホルストが期待していたとおりに、槍で武装していた。
「さあ、石ぜめにしろ」と、かれは命令した。奴隷たちがかれらの敵にむかって小さな|飛び道具《ミサイル》をあびせはじめた。ついにバティ族は、その岩棚にある洞穴に避難してしまった。「かれらを出てこさせるな」フォン・ホルストが命じた。「ダンガー、きみは五人の男を連れてその場にとどまり、頭を出したバスティ族にかたっぱしから石をくらわせてやってくれ。あとのものは梯子をかけるのだ」
梯子は、あぶなっかしくゆらゆらたわみながら断崖にかけられた。先端がやっと断崖の頂上にとどくぐらいだった。フォン・ホルストは、こうなるとほぼ確信していた以上にかれの計画が効を奏したのを見てとり、安堵の吐息をついた。ソレクのほうをふりむいて、「三人連れて頂上へのぼってくれ。そして、土地がひらけていたらそうつたえてほしい。すぐさま、女たちとあとの男たちをのぼらせる」
ソレクと三人の男がのぼっていくとき、梯子はきしみ、弓なりになった。しかし、もちこたえ、ほどなくマンモス人が万事オーケーだとさけんできた。
「よし、女たちだ」フォン・ホルストがいった。女たちは、ひとりをのぞいて全員上へのぼっていった。残ったひとりというのは、ほかならぬラ・ジャだった。彼女は、フォン・ホルストを無視していたのと同様、梯子など見むきもしなかった。こんどもかれは、まったく彼女に注意をはらわなかった。やがて、ダンガーと五人の男、フォン・ホルスト、ラ・ジャをのぞく全員が無事に断崖の頂上にのぼりついた。それからフォン・ホルストは、まず五人の男をひとりずつ上へあげた。その間、かれとダンガーは、上の岩棚で何がおこなわれているかを知られないように、バスティ族の男たちを洞穴内から一歩も表へ出さなかった。かれらが洞穴内にかくしている他の梯子をもちだしてくれば、かなりの連中がかれとダンガーの守っている岩棚へのぼりついてきて、手もなくふたりを圧倒してしまうだろうと、かれにはわかっていた。
いまや、ラ・ジャがいちばんの頭痛の種だった。彼女が男だったら、そのまま残してもいけただろう。そして、かれのより冷静な判断力は、とにかく彼女をほっていくべきだとかれに告げていたが、かれにはそれができなかった。たぶん彼女は、強情な、だがかわいいばかなのだろう。とはいえ、誇りとか、しきたり、環境あるいは遺伝のいかなる風変わりな基準が彼女に親代々つたえられているのか、知るよしもないことにかれは気づいていた。彼女というものをどのように判断したらよいのだろう? かれにはいくら弁護の余地がないように見えても、彼女の態度は、彼女にとって正しく、あたりまえのことなのかもしれないのだ。
「他の人たちといっしょに上へいってもらいたいのだがね、ラ・ジャ」かれはいった。「きみがそうしないと、この三人はまたつかまってしまうかもしれないのだよ」
「いきたいのなら、自分がいけばいいわ」と、彼女が反ばくした。「ラ・ジャはここに残ります」
「スクルフのことをわすれてはいけないな」かれは、思いださせるようにいった。
「スクルフは、わたしを自分のものにすることはないでしょう。わたしは、いつでも死ぬことができます」
「それじゃ、こないんだね?」
「あなたといっしょにいくぐらいなら、スクルフとここに残ったほうがましだわ」
フォン・ホルストは、肩をすくめてその場をはなれた。娘は、自分の侮辱がかれにどのような効果をおよぼしたかを見ようとして、しげしげかれを見つめていた。そして、かれがいっこうに憤慨していないとわかると、満面に朱をそそいで怒った。
「かれらにもう二つ三つ岩をくらわせてやれ、ダンガー」と、フォン・ホルストは指示した。
「それから、なるたけすみやかに頂上へのぼるのだ」
「で、きみは?」とサリ人。
「きみのあとからいくよ」
「女は残すのか?」
「こないといってるんだ」
ダンガーが肩をすくめた。「ちょっと痛いめにあわせてやる必要があるな」
「だれであろうとわたしに手をかけたものは殺しますよ」と、ラ・ジャがいどむようにいった。
「それでも、痛いめにあわせてやる必要がある」ダンガーがかさねていった。「そうすれば、もうすこしはものわかりがよくなるだろう」かれは、石をいくつかひろいあげ、下の洞穴のひとつからあらわれた頭めがけてそれを投げつけた。それから、くるりとむきを変えて、梯子のひとつを猿のようにかけのぼっていった。
フォン・ホルストは、別の梯子のほうへ歩いていった。ラ・ジャに近づく形になった。やにわにかれは、彼女をつかまえた。「きみをいっしょに連れていくよ」といった。
「そんなこと、させるものですか」とさけんで、彼女はかれに打ちかかり足蹴《あしげ》にしはじめた。かれは、たいした苦労もせずに彼女を梯子のところまで連れていった。しかし、梯子にのぼろうとしたとき、彼女は、それにしがみついた。もがきながらかれは、横木を二段のぼったが、彼女があまり激しくあばれ、必死になって梯子にしがみつくので、かれはやがて、もしバスティ族の男たちがこの岩棚に到達したら、すぐにつかまってしまうにちがいないと判断した。
すでにかれは、下からかれらのどなり声が前よりも大きくとどいてくるのをきいていた。連中が洞穴から出てきた証拠だ。フルグが梯子をかけろとどなっているのがきこえた。すぐにも連中は、かれらにせまってくるだろう。かれは、怒れる娘の美しい顔を見おろした。彼女を下へ放りだして、バスティ族の手にゆだねることもできるのだが、かれひとりだけなら断崖の頂上へのぼりつけるだけのひまはまだあった。しかし、他に方法がなかった。しりごみしたくなるような方法だ。とはいえ、ふたりとも助かりたいなら、そうする以外にないと、かれにはわかっていた。かれは、こぶしをかためてうしろへひき、彼女の頭の横っちょにしたたかにたたきつけた。たちまち彼女がかれの両腕のなかで弛緩《しかん》した。それからかれは、動くたびにぶらぶらする失神した娘の死重《デッド・ウエイト》をかかえて、できるだけはやく上へとのぼっていった。そして、ほとんど頂上まで達したとき、下から勝鬨《かちどき》があがるのがきこえてきた。ちらと下を見やると、いましもひとりのバスティ族が梯子のおいてある岩棚へのぼりついたところだった。そいつが梯子を両手にかけることができたら、ふたりはひきずり落されて死ぬか、ふたたびつかまってしまうかするだろう。フォン・ホルストは、娘のぐったりした身体を左肩にかえあげて、ずり落ちないようにした。こうすれば、左手が自由になって梯子をつかまえていられ、右手でピストルをぬくことができる。が、そのバスティ族をねらうためにはうしろざまにふりむき、手をのばさなければならなかった。しかも、それだけのことを電光石火のはやわざでやってのけ、相手をしとめなければならないのだ。というのも、もしその最初の男が岩棚へあがってしまえば、次の男がすぐあとにつづいているだろうからだ。一発でふたりをしとめるわけにはいかないだろう。
そのバスティ族が梯子から岩棚へふみだそうとしたまさにそのとき、かれはぶっぱなした。やつがうしろへかたむく。下から悲鳴、呪詛の声がわきおこった。フォン・ホルストは、おこったことの次第を見ることができなかったが、転落していくそいつの死体が他の連中を梯子からつき落としたのだと確信した。いま一度かれは、上へいそいだ。一瞬後、ダンガーとソレクが手をのばしてかれと娘を断崖の頂上へひっぱりあげた。
「きみはついているな」ソレクがいった。「見ろよ。やつらがすぐあとにつづいている」
フォン・ホルストは、下を見た。バスティ族が、他の梯子をいくつかかけて、下の岩棚へと急速にのぼっているところだった。あるものはすでに、奴隷たちが断崖の頂上にかけた梯子をのぼっていた。奴隷たちは、フォン・ホルストの近くにつったって、バスティ族を見おろしていた。
「はやく逃げだしたほうがいい」ひとりがいった。「やつら、すぐにもあがってくるぞ」
「なぜ逃げだすんだ?」とソレク。「やつらよりもおれたちのほうが武器が多いじゃないか? やつらの槍をほとんどせしめているんだ」
「わたしに名案がある」フォン・ホルストがいった。「梯子に連中が鈴なりになるまでまて」
それからかれは、奴隷たちをよびよせて、まった。ふたつの梯子がのぼってくるバスティ族でいっぱいになるには、時間でいえば数秒のことにすぎなかった。そのとき、フォン・ホルストが命令を発した。何本もの手、手、手が梯子を断崖の側面から外側へおしやった。奴隷たちが梯子をむこう側へかたむかせたとき、運命のさだまったバスティ族の唇からてんでに恐怖の悲鳴がおこった。そして、一ダースもの身体が断崖の側面から放りだされ、女子供たちの足もとへと転落していった。
「さあ」と、フォン・ホルストがいった。「もうここに用はない」娘を見おろす。まだ、かれらが横たえた芝生の上でびくともしなかった。不意にかれは、ひょっとしたら彼女が死んでいるのではないか――かれのあたえた一撃が彼女の息の根をとめてしまったのではないかと思いついて、ギョッとなった。彼女のかたわらにひざを落とし、その胸の上に耳をおしあてた。フーッと安堵の吐息をついて、ふたたびその自動力のない身体を肩にかついだ。
「さて、どこへいく?」と、ひとかたまりになっている脱出した奴隷たちにむかって、かれはいった。
「とりあえず、バスティ族の土地を出るのが先決だ」ソレクが意見をのべた。「そのあとで案をねればいい」
道は、連丘のあいだをうねりくねり、山峡をぬけ、ついに野生の生命にみちあふれたとある美しい谷間へと出た。しばしば獰猛《どうもう》なけものに遭遇したが、一度も襲われなかった。
「おれたちの人数が多すぎるのだよ」フォン・ホルストが、あきらかにかれらがけものたちの襲撃をまぬがれた点についてふれると、ダンガーが説明した。「ときには、一族全体の人間を襲うけものもいるにはいるが、ま、たいていの場合、おれたちが大勢でいるときは恐れて近寄よらないのだよ」
かれらがその谷間に到達するずっと前に、ラ・ジャは、意識を回復していた。「わたしは、どこにいるの?」ときいた。「なにがあったの?」
フォン・ホルストは、肩から彼女をおろし、ひとりで立っていられるとわかるまでささえてやっていた。「わたしが、バスティから連れてきてあげたのだよ」と説明した。「われわれは、もう自由の身になっているのだ」
彼女は、かれを見つめ、彼女がぬけだしていたはかない記憶をよびもどそうとでもしているかのように眉をしかめた。「あなたが連れてきた!」といった。「あなたとはいっしょにこないといったでしょう。どうやって、そんなことをやったんです?」
「いや――その――きみを眠らせたのだよ」へどもどしながら、かれは口ごもった。彼女をぶったのだと思うと、恥ずかしい気がした。
「ああ、思いだしたわ」と彼女。「わたしをぶったわね」
「やむをえなかったんだよ。たいへんすまないことをしたと思っている。でも、ほかに方法がなかったのでね。あんなけだものたちのなかにきみを残してくるわけにはいかなかったのだ」
「でもあなたは、わたしをぶったんだわ」
「そう。わたしはぶった」
「なぜ、わたしを連れてきたかったの? わたしがスクルフのもとに残ろうと残るまいと、それがあなたにどんな関係があって?」
「ええと、いいかい――わたしは――でも、どうしてわたしがきみをあんなところへ残してくることができる?」
「もし、いまわたしがあなたの連れあいになるつもりでいるものと考えているのなら、とんだ考えちがいよ」語気するどく、彼女はいった。
フォン・ホルストは赤くなった。この若きご婦人は、とんでもない結論にとびつく癖《くせ》があるようだ。たしかにつつみかくしのない、きさくな女性だった。たぶん、それが石器時代の特徴だったのかもしれない。
「とんでもない」と、かれはこたえた。「きみがわたしにいったり、したりしたことを考えあわせてみて、きみがわたしの連れあいになるとか、あるいはなりたがっているだろうと信ずべき理由はまったくなかったよ」
「そうよ」彼女がぴしりといった。「そんな気、あるものですか――スクルフのほうがましよ」
「どうも」フォン・ホルストがいった。「これで、おたがい理解しあえたってわけだ」
「だからこれからは、自分の問題にだけ気をつけていればいいわ。わたしはほっておいてちょうだい」
「いいとも」かれは、かたくるしくこたえた。「きみがわたしにしたがっているかぎりはね」
「わたしは、だれにもしたがいません」
「きみは、わたしにしたがうのだ」きっぱりと、かれはいった。「さもないと、また頭をぶってやる」このことばは娘をびっくりさせたようだった。が、それよりもかれみずからのほうがはるかに驚いていた。どうしてそんなことが女にいえたのだろうか? かれは、原始時代の人種に先祖がえりしつつあるのだろうか? 実際に、石器時代の人間になろうとしているのだろうか?
そのとき、彼女がかれのそばからはなれ、女たちのところへ歩いていった。奇妙なメロディが彼女の唇をついて出た。たぶん、地球がまだ揺籃の時代に地上世界の女が星々のきらめきにあわせてハミングしていたようなものだろう。
その谷間にたどりついたとき、男の何人かが獲物をしとめた。そして、全員が腹ごしらえをした。ついで、会議をひらいて将来の計画を検討した。
だれもが、自分の国へ通じる道をいくことをのぞんだ。大勢だと安全ではあるが、他人の土地へはいりこんでいくという危険がだれにもともなうのだった。ダンガーのように、自分の国へ同行していきたいものには友好的な待遇を約束することができるというものも何人かいた。しかし、そんなあぶない橋を渡ろうとするものはまずいなかった。フォン・ホルストとダンガーは、まんまといっぱいくわされたスクルフのもっともらしい約束と、その態度をまざまざと思いだしていた。
妙な世界だなと、フォン・ホルストは思った。しかし、そのときかれは、この世界がかれのなじんだ世界よりも五万年ないし五十万年も若い、それに応じて道徳とか倫理の法則というか、そういうものの異なる世界なのだということに気がついた。とはいえかれらは、地上世界のいくつかのタイプの人々にきわめてよく似ていた。たぶん、いますこし天真らんまんで、気どったところがすくなく、そしてさまざまな感情、衝動をおさえることがたしかにかれらはすくなかった。かれらはたいていの場合、わずかに大げさな形で、きわめて古めかしい人間性をそなえた現代人のあらゆる特性を表にあらわしていた。
かれは、ラ・ジャのことを考えた。彼女に最新流行のドレスを着せたところを思いえがいてみて、かれは、ヨーロッパのどの都市でも彼女がたいへんな美人であるということのほか、なにも気づかれずにそのまま通用するかもしれない、ということに気がついた。彼女を見て、彼女が更新世の時代からぬけだしてきたのだと、夢想だにするものもいないだろう。かれはしかし、彼女とすれちがうものがなにを考えるだろうか、という点になるとあまり確信がなかった。
協議の結果、めいめいが自分の国へ帰るということに決定した。アマダルからきたものが数人いて、かれらは、いっしょにいくことになった。ゴ‐ハル生まれも数人いた。ソレクはマンモス族の国、ジャ‐ルの出身、ラ・ジャはロ‐ハール、ダンガーはサリの生まれだった。かれらの道はほぼ同じ方角にあったから、この三人は、フォン・ホルストといっしょに当分の間旅をつづけることになった。
協議のあと、かれらは眠る場所をさがし、とある断崖の洞穴にその場を見つけた。その眠りから目をさますと、かれらはめいめい、あるいは組をつくって、それぞれの国へと本能を唯一の案内人として出発していった。かれらのほとんどの国は、さほど遠くないところにあった。サリがいちばん遠かった。フォン・ホルストに見当をつけることができたかぎりでは、サリは、この野蛮な世界を半めぐりするあたりにあるらしかった。が、旅の道程をはかる時間が存在しないこのさい、距離のことなど問題にする必要がどこにある?
さよならの挨拶ひとつなかった。ともに長い幽閉の身で苦しんできた、そして、ともに戦って自由をかちとったほかの連中にひとことのことばもなく、ひとつの組が、あるいは個人が歩み去っていくのだった。わかれにさいし、悲しみの片鱗《へんりん》すらしめさなかった――こんど会ったら、おたがい生命ある敵としてむかいあうことになるのであり、相手の息の根をとめることに熱中するのだろう。そんな気配しか感じられないのだった。これは大部分のものにあてはまったが、すべてにというわけではなかった。フォン・ホルストとダンガーのあいだには真の友情がかよいあっていたし、かれらふたりとソレクのあいだにもそれに近いものがあった。ラ・ジャがどういう立場にあるのか、それは、だれにもわからぬことだった。彼女は、すこぶるつんけんしていた。たぶん、一族長の娘だったからだろう。あるいはひょっとして、その自尊心を傷つけられた、あるいは彼女の女としての直感が彼女に感じさせたある知識をそっと育《はぐく》んでいる、とても美しい若い女性だったからなのかもしれない。でなかったら、生まれながらにうちとけないタイプだったからだといえなくもない。その理由がなんであれ、彼女は、心中を決してあかそうとはしないのだった。
奴隷たちがばらばらになってから数度眠ったときのこと、ソレクが、ここでかれらと道がわかれるのだといった。「おれといっしょにジャ‐ルへきてくれればいいんだがな」フォン・ホルストにいった。「きみは、マンモス族に生まれつくべきだったんだ。おれたちは、みんなすぐれた戦士なんだよ。こんど会うようなことがあったら、友好的にやるとしようぜ」
「それは、わたしののぞむところだ」フォン・ホルストはこたえた。「われわれみんなにそうであってもらいたいな」ダンガーとラ・ジャを見た。
「サリ人は、勇敢な戦士であればだれとでも友好的になれるのだよ。きみとならいつまでも友人でいられるだろうぜ」ダンガーがいった。
「わたしは、ソレクとダンガーと友だちでいたいわ」ラ・ジャがいった。
「フォンとはそうありたくないのかい?」とサリ人。
「フォンとは友人同士でありたくないわね」
フォン・ホルストは、肩をすくめて苦笑した。「でもわたしは、きみの友だちだよ。いつもかわらずにね、ラ・ジャ」
「わたしは、あなたには友だちでいてもらいたくないの」と、彼女がこたえた。「そういわなかったかしら?」
「きみひとりだけの力ではどうしようもないのじゃないかな」
「さあ、それはそのうちにわかるわ」なぞめかしていった。
といったしだいで、ソレクはわかれていき、三人は、そのまま旅をつづけていった。フォン・ホルストには、のぞみない、目あてもない旅のように思えてしかたがないのだった。意識の底のほうでは、ダンガーにしろラ・ジャにしろ、どこへむかっているのかこれっぽっちもわかっていないのではないかと思っていた。フォン・ホルストは、自分自身が帰巣本能というものをもちあわせていなかったから、男あるいは女にそのような感覚のそなわっていることが、どうにも実感として理解できないのだった。
高い山脈にぶちあたり、かれらは、それを迂回した。神秘的な河づたいに進み、やがて渡り場にいきあわせた。それから、地上世界でははるかの昔に絶滅した無気味な爬虫類の危険にたえずさらされながらそこを渡った。
渡り場はどこもまったくひどいものだった。しかしかれらは、一度として河を泳いで渡ろうとしなかった。この土地は、フォン・ホルストはむろんのこと、ふたりのペルシダー人にもまったくの不案内であったから、かれらの前になにが横たわっているかわかったものではなかったからだ。
かれらは、低い連丘をぬけて、とあるせまい谷間へやってきた。そのはるか奥手にはうっそうとした森――フォン・ホルストがこの世界で、あるいは自分の世界でかつて見たこともないような森がひろがっていた。これだけはなれていても、その森は陰気に、なにものもよせつけぬように見えるのだった。谷間をくだっていきながら、フォン・ホルストは、かれらの道が森をぬけてつづいていなかったのをうれしく思った。広大な森の長くつづく陰鬱《いんうつ》さがどれほどの重みとなってのしかかってくるか、かれは知っていたからだ。
ほどなく、ラ・ジャがたちどまった。「あなたの国は、どっちの道なの。ダンガー?」
かれは、谷の下方をゆびさした。「この高い山脈のとっつきまではその道だ。それから、おれは右へまがる」
「わたしの道はちがうわ」ラ・ジャがいった。「ロ‐ハールは、こっちにあるの」森のある方角をまっすぐゆびさした。「それじゃ、ここでおわかれして、わたしは、自分の国へ帰らなければ」
「あの森は、どうも感じがよくないな」とダンガー。「たぶん、生きたままで通りぬけられないだろう。フォンやおれといっしょにサリへこいよ。歓待するぜ」
娘は、かぶりをふった。「わたしは、族長の娘よ」といった。「わたしは、ロ‐ハールに帰って息子を産まなくてはいけないの。父にひとりも男の子がいないから。でないと、父が亡くなったあと、父の一族を支配するりっぱな族長がいなくなってしまうでしょう」
「しかし、ひとりでいくわけにはいかないね」フォン・ホルストがいった。「生きてあそこを通りぬけることは絶対にできっこない。生命をなげすててしまうようなもんだ。そうすれば、息子を産むことができなくなってしまうし」
「わたしは、いかなければならないの」かさねていった。「でなかったら、わたしが族長の娘だってことはなんのためかしら?」
「こわくはないのかい?」フォン・ホルストがきいた。
「わたしは、族長の娘よ」あごをつんとそびやかし、ごうまんな口調でいった。しかしフォン・ホルストは、彼女の形のいい小さなあごがわなないていると思った。たぶん、それはかすかな、わななきに似たものだったのかもしれない。
「さよなら、ダンガー」ほどなく、彼女はいった。それから、むきを変えて森のほうへと歩みさっていった。フォン・ホルストにはさよならをいわなかった。かれを見ることすらもしなかった。
地上世界からきた男は、森のほうへむかって進んでいく彼女の、ととのった、すばらしい姿を見守った。その金髪の頭の動かしかた、その女王然とした身のこなし、ヒョウを思わせるそのしのびやかな、優雅な気どりを、かれは、何度も心に焼きつけた。
なにがそうさせたのか、かれにはわからなかった。かれをとりこにしてしまったらしいその衝動をなんと解釈してよいのか、かれにはわからなかった。理性を完全に超絶したなにかが、霊感にも似た、人をうき立たせるなにかが、かれをあおりたてたのだ。かれは、その理由をときあかしたくなかった。ただし、なるがままになっていたかった。
かれは、ダンガーのほうをふりむいた。「さよなら」といった。
「さよなら?」ダンガーがさけぶ。「どこへいくつもりだ?」
「ラ・ジャといっしょにロ‐ハールへいくよ」フォン・ホルストはこたえた。
[#改ページ]
八 〈死の森〉
フォン・ホルストにラ・ジャといっしょにいくと告げられたダンガーは、唖然《あぜん》としてかれを見つめた。「なぜだ?」
フォン・ホルストは、かぶりをふった。「さあ、なぜなんだかわからない」とこたえた。「ひとつだけりっぱな理由がある。こんな野蛮な土地を、あんな物騒な感じの森のなかを、娘がひとり歩きしていくのをだまって見ているにしのびないということさ。しかし、ほかにもなにか、もっと根深いもののあることはわかっている。それがわたしをかりたてるんだ。本能に似て口では説明できない、回避することのできないなにかなんだよ」
「よし、おれもいっしょにいく」ダンガーがいった。
フォン・ホルストは、かぶりをふった。「いいや、そいつはいけない。サリへ帰りたまえ。もし生きていたら、あとからきみを追っていくよ」
「きみにはサリは見つけられっこないよ」
「きみの助けがあれば、見つけられるさ」
「きみといっしょにいけないおれが、どうやって助けるというのだ?」
「道に目印を残しておいてくれればいい。木に傷をつけるんだ。地面にこういうぐあいに石をおいて、きみが進んでいく方向をしめしておいてくれればいいんだよ」かれは、いくつかの石をならべておき、矢印をつくってかれらが進もうとしていた方角をしめした。「きみの進む道は大部分けもの道だから、その主要な道の木々から枝を折っては場所をはっきりさせておいてくれさえすればいい。きみがこれだけのことをやってくれれば、わたしは、きみのあとを追うことができる。わたしのほうは、ここからどっちへいくにしても、その道に目印を残しておく。そうすれば、帰り道がはっきりわかるだろう」
「きみとはなれたくないな」ダンガーがいった。
「それがいちばんいいんだ」と、フォン・ホルスト。「サリにはきみをまっている女がいる。わたしをまっているものは、どこにもひとりもいない。ラ・ジャの国までどれだけあるのか、われわれにはわからない。そこまでたどりつけないかもしれない。ついたとしても、二度と帰れないかもしれない。きみは、このままサリへ帰っていくのがいちばんいいんだよ」
「よくわかった」ダンガーがいった。「サリできみがくるのをまっているよ。じゃ、さよなら」かれは、むきを変えて、その小さな谷間をくだっていった。
フォン・ホルストは、しばらくのあいだダンガーのうしろ姿を見送り、この、五十万年の時をへだててかれらをめぐりあわせた不思議な運命のことを考えていた。それに、かれらがおたがいにきわめて多くの共通点を見いだし、その上に永続的な友情をきずくことができたという、もっといちじるしいとさえいえる事実のことも考えた。かれは、長嘆息するとラ・ジャがたちさったほうへむきなおった。
娘は、森までの半道あたりまで進んでいた。あごをつんとそらし、一度もあとをふりかえらずにスタスタと歩いている。あの広大な森を背景にしてみると、彼女は、いたって小さなもの、だが同時にすこぶるけなげに見えるのだった。彼女を見守るうちに、なにか泪にきわめてよく似たものが一瞬、男のまぶたをくもらせた。それから彼は、彼女のあとを追って歩きはじめた。
自分がやっていることのある部分は、かれにもわかっていたが、全部ではない。かれは、決してあとをたどられることのない原始の森のなかへと娘のあとを追っているのであり、ふたりともそこから二度と出ることができないことも多いにありうるのだということ、この野蛮な世界じゅうでたったひとりの友人から、あるいは比較的安全に生きていられ、新しい友人が作れるかもしれない土地へいく機会から、みずからはなれていこうとしているのだと、よくわかっていた――それもこれも、みんなかれを忌避し、鼻であしらうひとりの女のためなのだ。しかし、かれには知るよしもなかったことは、かれをうしなった探検隊が例の気球を飛ばして北極の開口部、つまり地上世界への帰路についたとき、ジェイスン・グリドリーが決心をひるがえしてこの地底世界にとどまることにし、サリへとむかい、そこでフォン・ホルストの探索隊を編成するつもりになったことだった。かれは知らぬが仏だった。しかし、それを知っていたとしても、それでかれの決意がくつがえっていたとは、およそ考えられそうもないことだった。
かれは、森のきわまできてラ・ジャに追いついた。背後に足音をききつけた彼女は、だれが、あるいはなにがあとを追ってきているのかたしかめようと、ふりむいた。たいして驚いている様子もなかった。事実フォン・ホルストには、なにをもってしても彼女を驚かすことができないように思えるのだった。
「なんの用?」と、彼女がきいた。
「きみといっしょにロ‐ハールへいくんだよ」
「あなたがいけば、ロ‐ハールの戦士たちに殺されてしまうでしょう」小気味よさそうに予言した。
「それでもきみといっしょにいくよ」フォン・ホルストは、あとへひかなかった。
「あなたに来てとはたのまなかったわ。ひきかえして、ダンガーといっしょにサリへいったほうがよくってよ」
「わたしのいうことをきいてくれ、ラ・ジャ」かれは哀願した。「きみがかずかずの危険に直面しなければならないかもしれないとわかっているからには、ひとりきりで行かせるわけにはいかないんだ――野獣や野蛮人がうようよしているのだからね。他にだれも行くものがいないのだから、わたしが行かなければならないんだよ。どういうわけでわれわれは友だちになれないのかね? なぜ、わたしがそんなにきらいなのかね? わたしがなにをしたというんだ?」
「たとえわたしといっしょにくるとしても、わたしたちはうわべだけの友だち――ただの友だちでなければならないわ――実際に友だちであろうと、そうでなかろうとね」かれの最後のふたつの質問を無視して、彼女はこたえた。「わかるわね――ただの友だちとして、ということが?」
「わかるよ」と、フォン・ホルスト。「わたしがそれ以上のことをきみに要求したことがあるかい?」
「いいえ」ややつっけんどんにこたえた。
「これからだって同じだよ。わたしはただ、きみの無事であることだけを考えているんだ。きみがつつがなく一族の仲間入りをしたら、わたしは、きみのもとをはなれていくよ」
「あなたが逃げだせないでいるうちに、かれらに殺されなければね」思いださせるようにいった。
「なぜかれらは、わたしを殺したがらなければならないんだ?」
「他国者《よそもの》だからよ。わたしたちは、他国者はかならず殺す。反対にこっちが殺されないように、だわ――いま、かならずといったけど、たいてい、といったほうがあたっているわね。たまに、その他国者を特別気にいるような理由があれば、生かしておくこともあるわ。でもガズは、あなたを気にいらないでしょう。たとえ他の者たちが、あなたを殺さないとしても、かれはきっと殺すわ」
「ガズって、だれのこと? なぜかれは、わたしを殺そうとするのかね?」
「ガズは、偉大な戦士、とても腕のたつ猟師だわ。素手でライスをしとめたこともあるぐらいだもの」
「わたしはライスではないよ。それでもまだ、わたしにはかれがわたしを殺す気にならねばならないわけがわからないね」フォン・ホルストは、かさねていった。
「わたしたちが、それは何回も眠るあいだ、いっしょにいたということを知ったら、かれは、つむじをまげるでしょう。かれは、とてもやきもちやきなのよ」
「かれは、きみのなんなのだい?」
「わたしがバスティ族にとらえられる前、かれは、わたしと連れあいになりたがっていたわ。だから、まだかれが別の連れあいをめとっていなかったら、そののぞみをとげようとするにきまっているわ。ガズは、とても気が短かく、たいへんわるい男なの。いままでに大勢の男を殺しているわ。しばしば、人を殺してしまってから、あとでその人のことをきいたりするのよ。だから、その人が別にかれに危害をくわえるつもりがないのだということをたしかめるだけのひまをかけていれば、殺さなくてもすんだはずの人を何人も殺してしまっているの」
「で、きみは、かれの連れあいになりたいのかね?」フォン・ホルストはきいた。
彼女は形のいい肩をすくめた。「いずれ、だれかの連れあいにならなくてはいけないわ。わたしの父が亡くなったら、ロ‐ハールにりっぱな族長のあとつぎがいるように息子を産まなければならないのだから。でも、ラ・ジャは、ほんとうにすぐれた男の連れあいにしかならないわ」
「わたしは、きみがかれの連れあいになりたいのかどうかをきいたんだ――かれを愛しているのかい、ラ・ジャ?」
「わたしは、だれも愛していないわ」と、彼女はこたえた。「それに、そんなことあなたに関係ないことよ。あなたっていつも、自分にかかわりのない質問をするのね。おせっかいやきだわ。さあ、わたしといっしょにくるの、どうするの? こんなところに立っていて、つまらないおしゃべりをしていたのでは、ロ‐ハールにいきつけないわよ」
「きみに先にたっていってもらわなくてはね。ロ‐ハールがどこにあるんだか、わたしは知らないんだから」
かれらは歩きはじめた。
「あなたの国はどこなの?」と、彼女がきいた。「たぶん、ロ‐ハールのずっとむこうで同じ方角にあるんでしょうね。そうであれば、あなたには好都合だわ。もっとも、むろんあなたが生きてロ‐ハールを出ることができればのことだけど」
「わたしの国はどこにあるのだか、見当もつかないね」かれは白状した。
彼女は、眉をしかめ、唖然としてかれを見つめた。「自分の故郷へ帰る道がわからないということなの?」
「まさにそのとおり。どの方向へふみだしていけばいいのかすらも、こんりんざいわからないんだ」
「不思議なこともあるものね」と、彼女は批評した。「そんなばかげた話って、きいたこともないわ。頭のいかれたあわれな連中は別だけど。かれらは、なにも知らないのよ。でも、あまり見かけることはないわ。そんなふうになってしまうのは、頭をぶたれたせいなの。一度、わたしの知っている男の子が木から落ちて、地面に頭をぶっつけたことがあるわ。その子、二度ともとどおりにならなかった。自分をタラグだと思いこんで、四つん這いになって、ほえたりうなったりして歩きまわっていたものだわ。でも、あるときのこと、かれの父親がそれが耳ざわりになって、その子を殺してしまったの」
「わたしがその子に似ていると思うかい?」フォン・ホルストはきいた。
「わたしはまだ、あなたがタラグのまねをするのを見たことがないわ」彼女がみとめた。「でも、あなたのいろんなやりかたはとてもかわっているし、多くの点であなたは、たいへんおろか者ね」
フォン・ホルストは、微笑を禁じえなかった。そんなかれを彼女が見た。いらだっている様子だった。「それがなにかおかしいことだとでも思っているの?」と詰問した。「あら、なにをやっているのよ? そんなにあちこちの木をナイフでけずったりして? それだけでも、あなたの頭がすこしばかり変なんじゃないかと、人は思うわよ」
「われわれの通った道に目印をつけているのさ」かれは説明した。「そうしておけば、きみと別れてから帰り道がすぐに見つかるからね」
彼女は、ひどく興味をもったようだった。「たぶん、結局のところあなたの頭は、そんなにいかれているわけではないのね」といった。「わたしの父ですら、そのようなことは考えたこともなかったわ」
「きみたちペルシダー人がみんなそうであるように、容易に道を見つけることができるのなら、かれにはそんなことを考える必要はないだろう」
「おお、自分の国へ帰る道は別だけど、どこか他のところへいく道を見つけるのはかならずしもそれほどやさしいことではないのよ」と、彼女は説明した。「ペルシダーのどこにいようと、自分の国へ帰る道は見つけることができるわ。でも、わたしたちがいままでとらわれていたところへもう一度行こうとしても、その道はわからないかもしれない。あなたのそのやりかただと、行けるわね。このことを父に話さなくてはならないわ」
森の奥深くわけいっていくにつれて、フォン・ホルストは、その異様に暗い、陰気なふんいきをひしひしと感じた。木々の梢の濃い葉群れは、かれらの頭上で切れめのない天蓋《てんがい》をなし、直射日光を完全にさえぎっていた。だから、あたりは永遠の白夜のようであり、気温もかれがこれまで青空のもとで経験したどの場合よりも相当低かった――これらふたつの条件があいまって、下生えの生成がさまたげられていた。その結果、木間の地面は落葉がしきつめられているほか、あとはほとんどむきだしであった。こうした条件に根強く耐えていられる植物はわずかであり、それもほとんど色あせていた――この世のものならぬ、グロテスクなその外形。不快な森の陰気なふんいきを強めているばかりだった。
かれらが森へはいったときから、地面は急激にのぼり勾配をなし、いまやかれらは、非常にけわしい坂をのぼっていた。それから、不意にとある尾根のいただきに到達し、こんどは峡谷をくだっていった。だが森は、かれらの目路のとどくかぎり、切れめなくつづいているのだった。
ラ・ジャがその峡谷を渡って、むかいの斜面をのぼりはじめたとき、フォン・ホルストは彼女に、なぜ連丘の末端に到達するまで峡谷づたいにくだっていってもっと楽な道を見つけようとしないのかときいてみた。
「わたしは、ロ‐ハールまでの直線コースをたどっているの」
「しかし、海へでも出てしまったら、どうするんだい?」
「もちろん、その海をめぐっていくわ」と、彼女はこたえた。「でも、とにかくわたしにいけるところへは、直線コースをたどっていくわ」
「われわれの道筋にアルプスがなければいいがな」なかば声にだして、かれはいった。
「アルプスって、なんのことだかわからないわ」とラ・ジャ。「でも、他のけものはたくさんいるでしょうよ」
「われわれがこの森へは行ってから見かけたよりも、もっとたくさんのけものがいてもらわないとこまるよ。もし、腹ごしらえしなければならないのならね。わたしは、鳥の姿すら見かけなかったが」
「それは、わたしも気づいていたわ」ラ・ジャがこたえた。「それに、果実も木の実も、その他食べられるものがなにもないということにも気がついていた。この森はいやだわ。たぶん、これが〈死の森〉なのね」
「〈死の森〉ってなんのことだい?」
「きいたことがあるの。わたしの一族の人たちが話していたわ。ロ‐ハールからちょっとはなれたところにあるらしいのよ。その森には、自分たち以外の人間をみんな憎んでいる恐ろしい一族が住んでいるのですって。これがその森だわ」
「それにしても、われわれはこれまでのところ、われわれに危害をくわえられそうなものはなにも見かけていないけど」彼女を安心させるように、フォン・ホルストはいった。
かれらは、その峡谷をのぼりきり、かなり平坦な土地に出ていた。森は、いままでにもましてうっそうとしているように思えた。ほの暗い、拡散された光がかろうじて闇をやわらげているにすぎない。
不意にラ・ジャがたちどまった。「あれはなに?」低声できいた。「あれが見えた?」
「なにか動くものが見えたね。でも、なんなのかはわからない。前方、右側の木の間に消えてしまったんだ。きみが見たというのはそれのことかい?」
「そうよ。そのむこうの右手だったわ」彼女がゆびさした。「この森はどうもいやだわ。なぜだかはわからないけど、なにかいかがわしい――不潔な気がするの」
フォン・ホルストがうなずく。「まったく、気味がわるい。ここから出れば、気がはればれするだろうね」
「ほら!」ラ・ジャがさけんだ。「また見えたわ! 全体が真っ白。いったい、なんなのかしら?」
「さあね。わたしは、ちらっとかいま見ただけだから。しかし、わたしの考えでは――わたしの考えでは、なにか人間と似たものみたいだったようだが。ここはとても暗いから、すぐ近くで見ないことにはものの見わけはつかないね」
かれらは、あたりに細心の注意をはらいながら歩きつづけた。フォン・ホルストは、娘がかれのそば近くに身をよせたままでいるのに気がついた。しばしば彼女の肩先がかれの胸にふれた。かれとの接触をつうじて安心感を得ようとでもしているかのようだった。彼女といっしょにいくとあくまでも主張したことを、かれは、いまでは二重に喜んでいた。彼女がみずからこわがっていることをみとめようとしないのは先刻承知していたから、そんなことをきいてみるつもりは毛頭なかった。しかし、彼女がこわがっていることははっきりしていた。なにか説明しがたい理由から――自分にたいして説明できないのだ――彼女がそうであることを、かれは喜んだ。たぶん、それがかれの身内にある保護本能を満足させたのだろう。たぶん、それが彼女をさらに女らしく見せたのだろう。フォン・ホルストは、女らしい女が好きだった。
かれらは、例の木間をうごめく謎の生き物を目撃した地点からわずかばかり進んでいた。森のなかに、ほかには生命を案じさせるようなものはみとめられなかった。と、そのとき、咆哮と、シューッという奇妙な物音と交錯して一連の悲鳴が突如としておこり、かれらはハッとなった。ふたりは、同時にたちどまった。ラ・ジャがぴったりとフォン・ホルストに身をよせてきた。きわめてかすかだが、彼女のわなないているのが感じられた。元気づけるようにかれは、彼女に片腕をまわした。その交錯した声が急速に接近してくる。妙に人間のものらしくひびくその悲鳴は、恐れと絶望にみち、耳をつんざくように恐怖の絶頂へと高まっていった。
そのとき、悲鳴の主《ぬし》がいきなり視界にあらわれた――素裸の男、その顔が恐怖にひきつっている。髪も白かった。二本の太い犬歯が下顎へむかって彎曲《わんきょく》し、目は、ピンク色をした虹彩が血のように赤い瞳孔をとりまき、それでなくても不快きわまる容貌をさらにぞっとするばかりのものにしているのだった。
かれのうしろを、一頭の小型の恐竜《ダイノソア》が歯擦音をあげ、咆哮し、疾駆《しっく》していた。シェットランド群島原産のポニー(高さが肩のところで九十センチ内外の小さい馬。毛があらく、きわめてがん丈な品種)そこそこの図体だったが、その外観たるやまさに、もっとも剛胆な男にすら手もなく不安を感じさせていたかもしれないほどのものだった。図体を別にすればあらゆる点で、白亜紀の暴君竜の王、巨大なティラノサウル・レックスにきわめてよく似ていた。
ラ・ジャとフォン・ホルストを目にとめると、その恐竜は、やにわに進路を変え、歯擦音、咆哮を発しながら、蒸気機関車もかくやと思えるほどのものすごさでかれらめがけて驀進《ばくしん》してきたのだ。きわめて短距離だったから、木陰に難をのがれているひますらなかった。が、フォン・ホルストの反応は、訓練をつんだ人の自然な、ほとんど機械的といってよいほどのものだった。ホルスターからピストルをひきぬいて、ぶっぱなすや、突進してくるものの進路からすばやく、ラ・ジャをひきずるようにしてとびのいたのだ。
手ひどい一撃を受けた恐竜は、怒りの咆哮を発して、今すこしでたおれそうになった。そして、よろよろとフォン・ホルストのわきを通りすぎたとき、かれは、いま一度咆哮した。四十五口径の重い弾丸《たま》がけものの左肩のすぐうしろに食いこんだ。こんどはたおれたが、爬虫類の執拗な生命力について先刻承知していたフォン・ホルストは、これで危険がすっかり消えたと安心はしなかった。ラ・ジャの手をしっかりにぎって、いちもくさんにもよりの木にかけつけ、その幹のうしろに身をかくした。かれらの頭上、手の届かないところに下肢がのびている――かれらには達することのできない完璧な避難所だった。もしあの二発の弾丸が恐竜の息の根をとめていなかったとしたら、ふたたび立ちあがったそいつがすぐにはかれらを見つけられないで、とんでもない方角へたちさってしまうかもしれないという可能性に、主としてかれらののぞみはかかっていた。
その木陰からフォン・ホルストは、けものが立ちあがろうとして、密生した草の上にのびあがるのを見守った。ひどい傷を負ってはいるものの、まだまだ息の根がとまるにはほど遠いのを、かれは見てとることができた。ラ・ジャがぴったりと身をよせてきていた。わき腹に彼女の心臓の鼓動が感じられた。緊張の一瞬、ついに恐竜がふらふらと立ちあがった。しばし、今にもまたたおれこみそうになりながらゆらいでいたが、やがて鼻面をもちあげ、大気をくんくんやりながらあたりをゆっくりと一回転した。ほどなくそいつは、かれらのいるほうへやってきた――ゆるゆると、用心しいしい。いまやその顔つきは、狂気じみた突進を敢行していたときよりも、フォン・ホルストにははるかに脅威的に思えるのだった。冷酷な、ぬけめのない、有能な破壊の|申し子《エンジン》、目には目を要求する、復讐をとげるまでは決して絶命しようとしない、鼓舞された復讐の鬼さながらの印象を受けたのだった。そいつは、かれらが身をかくしている木のほうへまっすぐやってきた。幹の端からわずかにのぞいていたフォン・ホルストの頭をそいつがみとめたのかどうか、かれにはわからなかった。しかし、そいつはまごうかたなく、視力によってなのか、あるいは嗅覚によってなのか、みちびかれてかれらのほうへやってくるのだった。
フォン・ホルストには緊張の瞬間だった。その一瞬、どうすべきか、かれは、決めかねた。が、次の瞬間には決まっていた。ラ・ジャの耳もとに口をよせて、かれは低い声でいった。「けものがやってくる。われわれのうしろにあるあの木までかけていきたまえ。たえずこの木の幹にけものがかくれているように進めばいい。そうすれば、見られないですむ。あとは同じようにして、安全なところへいけるまでは木陰から木陰へと遠ざかっていくんだ。やつの息の根がとまったら、声をかけてあげるからね」
「で、あなたはどうなさるの? わたしといっしょにくるの?」
「やつの息の根がとまるのをたしかめるまでここにいる。必要とあれば、あと二、三発ぶちこんでやることもできるし」
彼女がかぶりをふった。「いやよ」
「いそぐんだ!」かれはせきたてた。「もう、すぐそばまできている。やつは、われわれをさがしてるんだ」
「あなたといっしょにここにいるわ」ラ・ジャは、きっぱりといった。
彼女の声のひびきから、フォン・ホルストは、もはやいうべきことのなにひとつないことを知った。過去の経験から、ラ・ジャの人柄がよくわかっていた。肩をすくめて、かれは、いいあうのをやめにした。そして、いま一度視線を転じ、木の数歩以内にまでせまっていた恐竜を見やった。
やにわにかれは、木陰からおどりだし、けものの前をよぎってかけはじめた。その行動にうつるのがきわめてすばやかったので、ラ・ジャは、あっけにとられて微動もできずにいた。だが、恐竜のほうはそうではなかった。フォン・ホルストが期待し、信じていたとおりの行動をとってくれたのだった。怒りの咆哮をひと声発して、そいつは、かれのあとを追ってきたのだ。かくて、そいつを娘から遠ざけることができた。所期の目的を達すると、フォン・ホルストは、くるりとむきを変えてけものに面とむかった。そして、その場に静止して、自動拳銃を矢つぎばやに連射し、相手の幅広い胸部に弾丸をたたきこんだ。それでも、そいつは進んできた。
フォン・ホルストの武器がからになった。恐竜はほとんど目の前にせまっている。ラ・ジャが休息にかれのほうへかけてくるのが見えた。たずさえている、どう見てもお粗末な槍でその怒り心頭に発した爬虫類の突進をそらつすもりでいるようだった。フォン・ホルストは、猛進してくるけものの進路からわきへとびのこうとしたが、そいつは、あまりにも近くにせまりすぎていた。うしろ肢立ちになったかと思うと、かぎつめのついた前肢でかれの頭に打ちかかったのだ。かれは、意識をうしなって地面にぶったおれた。
[#改ページ]
九 納骨洞穴
フォン・ホルストは、なにか心のやすらぎと幸福感めいたものをあじわった。長い、さわやかな眠りからさめつつあるのだということに、ぼんやりと気づいていた。かれは、目を開かなかった。きわめて心地よかったから、そうする理由もなく、むしろいま楽しんでいるとろんとした満足感がつづいてくれることをねがっている様子だった。
この、ゆったりと身をあずけていた恍惚状態が無残にも、頭が痛いという実感がつのってきて中断されてしまった。意識が回復してくるにつれ、神経組織がよみがえってきて、実際には心地よいどころのさわぎでないことがはっきりした。心のやすらぎと幸福感は、夢のようにかき消えてしまった。フォン・ホルストは、目をあけた。かれの頭の上に近々と、心配げなおももちでおおいかぶさっているラ・ジャの顔を見あげていた。かれの頭は、彼女のひざの上にのっていた。やわらかい掌《たなごころ》がかれひたいをなでている。
「だいじょうぶ、フォン?」と、低い声でいった。「死んでしまうのではないでしょうね?」
彼女を見あげてかれは苦笑した。「『おお、死神よ、何時の|とげ《ヽヽ》はいずこにありや?』」
「あいつは、あなたを|とげ《ヽヽ》で刺したのじゃないわ」ラ・ジャが安心させるようにいった。「前肢であなたをぶったのよ」
フォン・ホルストは、いま一度苦笑した。「頭が大ハンマーでぶんなぐられたような感じだよ。あいつはどこにいる? どうなった?」苦しそうに頭を片側にひねり、かれらのすぐそばで微動もせずに横たわっている恐竜の姿を、かれは見た。
「あなたをぶったとたんに死んでしまったの」娘が説明した。「あなたって、とても勇気のある人だわ、フォン」
「きみだって、たいへん勇気のある女性だよ」かれはいいかえした。「わたしを助けるためにかけてくるのを見たんだ。本当は、あんなことをしちゃいけなかった」
「だって、あなたは、あのザリスの突進を自分のほうへわざとひきつけてわたしを助けてくださったわ。そんなあなたが殺されようとするのをじっと立ったまま、ながめていられるかしら?」
「すると、あれがザリスなの?」
「そうよ、赤ん坊のザリスなの」娘がこたえた。「成長したザリスじゃなくて、ほんとによかったわ。でも、むろん森のなかで成長したザリスにでくわすことはないけど」
「ないって、どうして?」
「図体が大きすぎるというのが理由のひとつ。それから、ここでは食べ物を見つけることができないということね。成長したザリスは、人間の背丈の八倍もの長さがあるの。こうした木々のあいだをかんたんに動きまわることができないし、うしろ肢立ちになると、頭が木の枝につっかえてしまうのよ。ザリスは、サグやタンドール、その他めったに森へははいってこない――すくなくともこのような森へはね――大型のけものを殺すわ」
フォン・ホルストは、全長十五メートルになんなんとする爬虫類が、現代の牛の祖先である巨大なボスや、小山のようなマンモスを餌食にしているさまをおもいえがこうとして、軽く口笛を吹いた。「うん」と、ひとりごとをいった。「まったく、大人《おとな》のザリスじゃなく、赤ん坊のにでくわしたのはついていたな。だが、ねえ、ラ・ジャ、あのザリスが追っていた例の人間みたいなのはどうなった?」
「かれは、かけるのをやめようとはしなかったわ。あなたがピーストルとよんでいるそのもので大きな音をたてたあと、かれがうしろをふりかえるのを見たけど、たちどまりはしなかったの。ひきかえしてきて、あなたを助けるべきだったと思うわ。もっとも、かれは、逃げようとしないあなたの頭が変なんだと思ったのにちがいないけど、ザリスから逃げようとしない人は、とても勇気のある人だってことだわ」
「逃げるところがどこにもなかったんだ。あったら、いまも逃げている最中だよ」
「そんなこと信じないわ」ラ・ジャがいった。「ガズなら逃げていたでしょうけど、あなたはちがう」
「すこしはわたしを好きになってくれたんだね、ラ・ジャ?」と、かれはきいた。友情に飢えていたのだ――この、石器時代の野蛮な娘の友情ですらほしかったのだ。
「いいえ」強調するように、ラ・ジャがいった。「すこしもあなたを好きではないわ。でも、勇気のある人は見ればわかるわよ」
「なぜわたしを好きではないのかね、ラ・ジャ?」少々しずんだ声できいた。「わたしは、きみが好きだ。好きだよ――うんとね」フォン・ホルストはためらった。どれほど彼女を好きなのだろうか?
「あなたは頭が変だから好きではないの。それがひとつの理由。もうひとつ、あなたは、わたしの一族の人ではないからよ。そのうえ、わたしがあなたのものでもあるかのように、わたしに命令しようとするからなの」
「たしかに、いまわたしの頭は変だ」と、かれはみとめた。「しかし、それはわたしのいい性格だとか、あるいはその他の堅実な資価になんらの影響もおよぼすものではない。そして、わたしがきみの一族のものでないというのは、これはどうしようもないことだ。それでわたしが好きでないなんて、むちゃだね。わたしの父と母がペルシダー生まれでなかったのがちょっとしたまちがいだったのさ。だからといって、実際には、わたしの父母をせめるわけにもいかない。ことに、かれらがペルシダーのことなどきいたこともないという点を考慮すればね。それから、ラ・ジャ、きみに命令をするということだが、わたしは、そうするのがきみにとっていいとき以外、命令したことはない」
「それに、ときどきあなたの話しかたが気にいらないわ。どうも、ことばの裏に無言の軽蔑がふくまれているのよ。あなたがわたしを嘲笑しているのはわかっているわ――あなたのやってきた世界がペルシダーよりもずっとよいところで、そこの人々がもっといい頭をしていると思っているから、わたしのことをからかっているんだわ」
「で、きみは、いずれわたしのことを好きになれるときがくるとは思わないかね?」きわめて厳粛になって、かれはきいた。
「思わないわ」と彼女。「わたしにそうなれるときがきたとしても、そのころにはあなたがこの世にいないでしょう」
「さしづめガズは、そうねがうところだろうね?」
「ガズや、あるいは一族の他の何人かの男がそうだわ。もう立ちあがれるかしら?」
「すこぶる気持ちがいい。こんなすてきな枕を使ったことは一度もないよ」
彼女は、きわめてやさしくかれの頭をとり、地面の上に横たえた。それから、立ちあがった。
「あなたはいつも、ことばでわたしを嘲笑なさるのね」
かれは立ちあがった。「冗談をいってるんだよ、ラ・ジャ。嘲笑しているのじゃない」
彼女は、かれのことばをかみしめてでもいるように、じっとかれを見つめた。暗にこめられたなにか裏の意味をかれのことばからおしはかろうとしているのだなと、かれは確信した。しかし、彼女はひとこともいわなかった。
「歩けると思う?」そういっただけだった。
「サラバンドを踊るような気分にはあまりなれないけど、だいじょうぶ、歩けると思う。さあ、ロ‐ハールとお上品なガズのもとへ案内してくれないか」
かれらは、話を再開し、いんうつな森のさらに奥深くへわけいっていった。たえず前方に展開しているけわしい坂を苦労しながらのぼっていたから、めったに口をきかなかった。そしてついに、かれがそれ以上まっすぐ前進するのを完全に遮断しているきりたった断崖にぶつかった。ラ・ジャは、左へ折れ、断崖の根方ぞいに進んだ。ためらいもしなかったし、これっぽちの疑念すらいだいていない様子だったから、フォン・ホルストは、右側へ折れないで左側へ折れたのはどういうわけかと、彼女にきいた。
「まっすぐいくことができない場合、そのいちばんの近道を知っているのかい?」
「いいえ」と彼女。「でも、その人の考えがわからずに、その頭のよさについていくことができないときには、いつも左へそれてその人の心を追うべきだと思うわ」
よくわかったというように、かれはうなずいた。「わるくはない考えだね」といった。「すくなくとも、それでむだな考えをめぐらすことから救われるというものだ」ちらと断崖の岩肌を見あげ、なにげなくその高さを目測した。崖縁近くまで、この森とまったく同様の巨木がはえているのが見え、そのむこうにもまだまだ森がつづいているのだということをしめしていた。そのほかにもなにか見たものがあった――動いているのをちらとかいま見たのにすぎなかったが、その正体をみとめたと、かれは確信した。「われわれは監視されている」とかれはいった。
ラ・ジャが上を見た。「なにか見たの?」
かれはうなずいた。「例の白髪の友人のように見えたが、あるいはかれにそっくりの別人かもしれない」
「かれは、わたしたちの友人ではないわ」融通のきかないラ・ジャが異議をとなえた。
「さっきもいったとおり、これも冗談なんだよ」かれは説明した。
「わたし、あなたが好きだったらよいのに」
かれは、びっくりして彼女を見た。「そうだったらよいのだけど、なぜそんなふうに考えるのだい?」
「危険に直面しても、笑っていられる人が好きになりたいからだわ」
「なるほど、どうぞためしてみるんだね。ところで、ほんとうにあいつが危険なやつだと思うのかい? やつが森の自由をザリスに提供しているのを見たかぎりでは、さほどの危険人物には見えなかったが」
彼女は、眉をくもらせ、当惑げな表情をうかべてかれを見つめた。「ときにはあなたも、ほかの人たちとまったく同じに見えることがあるわ」といった。「そんなときに、あなたがなにかいう。すると、あなたの頭がすごく変になっていると気がつくの」
フォン・ホルストは、声をあげて笑った。「二十世紀|産《ブランド》ユーモアが、更新世の時代にそんなに|うける《ヽヽヽ》とは思えないな」
「ほら、まただわ!」と、彼女がぴしりといった。「とても頭のよいわたしの父ですら、あなたのいっていることの半分はわからないでしょうね」
断崖の根方ぞいに進みながら、かれらは、なおも監視されていたり、あるいは尾行されていたりする気配がないかと、かた時も警戒をおこたらなかった。
「この白髪の男が危険なやつだと思うのは、どういうわけなんだい?」
「かれがひとりきりなら、わたしたちにとって危険ではないかもしれない。でも、ひとりいるところには、きっと一族がいるにちがいないわ。そして他国者《よそもの》はどの一族でも、わたしたちにとって危険な存在となるのよ。わたしたちは、かれらの土地のなかにいるのだし、かれらは、どこでわたしたちに襲いかかって殺すのがいちばん簡単か、その場所をよく心得ているわ。わたしたちはといえば、視界をちょっとでもこえてしまうと、なにがどうなっているのか見当もつかないのだから。
もし、これが〈死の森〉だとすれば、ここに住んでいる一族は、ほかの人々とちがうからとても危険なの。そういわれているのをきいたことがあるわ。現在生きているわたしの一族のなかでここへやってきたものはひとりもいないけど、〈死の森〉でおこった不思議な話がいくつも、父から息子へと語りつたえられているの。わたしの一族は勇敢だけど、だれひとりその森へはいっていこうとするものはいないわ。ペルシダーには戦士が武器をもって戦うことができないようなこともあるのよ。〈死の森〉にそのようなことがあるのは、よく知られているわ。もし、わたしたちが、本当にそのなかにいるのだとすれば、生きてロ‐ハールに帰りつくことはないでしょうね」
「かわいそうなガズ!」フォン・ホルストはさけんだ。
「それはどういう意味?」
「わたしを殺したり、きみを自分の連れあいにしたりする楽しみがなくなってしまうのだから、かれが気の毒なんだよ」
彼女は、うんざりとしたような面持ちでかれを見て、だまったまま歩きつづけた。ふたりはともに、あとをつけていると確信していた尾行者の気配に注意をはらうのをおこたらなかった。しかし、この〈死の森〉のような静寂を破る物音ひとつしなかったし、かれらの確信を裏づけるものも何ひとつ認められなかった。そういうわけで、ついにかれらは、断崖の頂上に見かけたものがなんであるにせよ、それは行ってしまったのであり、かれらを悩ませることはないだろうと、思いこむようになっていた。
ふたりは、断崖のある洞穴の入口へやってきた。しばらく眠っていなかったから、フォン・ホルストは、なかへはいってしばらく休息しようと提案した。まだ頭が痛かったし、眠る必要があると、かれは感じた。洞穴の入口はきわめて小さかったので、なかを調べてみるのにフォン・ホルストは、四つん這いになってはいりこまねばならなかった。槍を前方にさしだし、内部の暗闇のなかにけものが寝ころがっていないことをたしかめ、と同時にその洞穴がふたりはいって休息するだけのひろがりがあるかどうかを知るためにあたりをさぐってみた。
これらの点に満足すると、かれは、洞穴のなかへはいりこんだ。しばらく後にラ・ジャもはいってきた。ざっと調べてみたところでは、かなり奥深い洞穴だったが、かれらには、とにかく横になって眠れるだけの場所があればよかった。だからかれらは、入口の近くに横になった。フォン・ホルストは、入口のほうに頭をむけ、眠りを中断させるやもしれない闖入者をつきさすべく槍をそなえていた。ラ・ジャは、かれから一メートルほどはなれて、洞穴の奥のほうへ横たわった。非常に暗く、静かだった。新鮮な大気が微風にのって入口からそそぎこんできて、フォン・ホルストがどの洞穴にも例外なくつきものだと思うようになっていた湿った、かびのようなにおいを消散させてくれた。
フォン・ホルストが目をさましたとき、頭痛はなくなっていた。それに、きわめて爽快な気分になっていた。あおむけになると、のびをし、あくびをした。
「おきたの?」とラ・ジャ。
「うん、きみ、元気は回復した?」
「うっかり。いま目がさめたばかりなの」
「おなかはすいた?」
「ええ、それに喉も渇いているわ」
「それじゃ、そろそろでかけるとしよう」と、フォン・ホルストは提案した。「食物を見つける前に、この森から出なければならないようだね」
「わかったわ」と彼女。「でも、こんなに暗いのはどういうわけなの?」
フォン・ホルストは、ひざ立ちになり、洞穴の入口のほうをむいた。なにも見ることができなかった。森のいんうつさまでがかき消されてしまっていた。かれは、眠っているあいだに頭と足がいれかわり逆の方向にむいているという可能性もあると思った。しかし、どの方向にむこうと、まったくかわりのない、あやめもわかぬ真の闇が目の前にあるばかりだった。それからかれは、両手でさぐりながら這い進んだ。入口があるべきはずとかれが思っていたところに、大きな丸石の表面が見つかった。周囲をぐるりとなでてみると、土がつめこんであった。
「入口をふさがれてしまったよ、ラ・ジャ」
「でも、わたしたちの目をさまさせないで、何者にそんなことができたのでしょう?」
「さあね」と、フォン・ホルストはみとめた。「見当がつかないが、なんらかの方法で洞穴の入口が丸石と土でぴったりとふさがれてしまった。われわれがはいってきたときのように、いまはさわやかな微風がそそぎこんできていない」
かれは、丸石をおしやろうとしたが、そいつはびくともしなかった。そこで、土をけずりとろうとしたものの、そのけずりとったものより多くの土が表から入りこんでくるのだった。ラ・ジャがかれのわきへやってきた。かれらは、ふたりぶんの体重をかけ、力をあわせて丸石を動かそうとつとめたが、むなしかった。
「われわれは、わなにかかったねずみのようにここへとじこめられてしまった」フォン・ホルストがひどくうんざりしたような口調でいった。
「それに、空気の流通が断たれているから、ほかに脱出口を見つけないと窒息してしまうわ」とラ・ジャ。
「ほかに出入口があるにちがいない」フォン・ホルストがいった。
「なにを根拠にそう考えるの?」
「われわれがはいってきたとき、表からさわやかな微風がふきこんでいたのをおぼえている?」
「ええ、そうね。そうだったわ」
「そこでだ。この入口から微風がそそぎこんでいたのなら、それは、ほかのどこかの出口からぬけだしていたにちがいない。その出口がわれわれに見つかれば、たぶんわれわれもぬけだせるだろう」
「その白髪の男とその一族のものがこの入口をふさいだのだと、あなたは思う?」ラ・ジャがきいた。
「と思うね」フォン・ホルストがこたえた。「ま、なんらかの種類の人間にちがいない。けものなら、われわれの目をさまさせないほど静かにこんなまねができるはずがないからね。むろん、同じような理由から地震も問題にならない」
「なぜこんなことをしたのかしら?」娘が考えこんだ。
「たぶん、自分たちの土地へはいりこんできた他国者《よそもの》を殺す、てっとりばやいと同時に安全な方法なんだろう」フォン・ホルストが意見を述べた。
「わたしたちを餓死させるか、窒息死させさえすればよいわけね」うんざりしたように娘がいった。「そんなことをするのは臆病者だけよ」
「ガズなら、そんなことは決してしないだろうな」フォン・ホルストがいった。
「ガズ? かれは、素手で大勢の人間を殺したわ。ときには、相手の頚動脈を食いちぎって出血死させたり、一度などある男の頭をのけぞらせて、とうとうその首の骨を折ってしまったの」
「ほう、こいつはすばらしい遊び友だちになれるぞ!」
「ガズは遊んだりしないわ。かれは、殺すことが好きなの――それがかれの遊びなのね」
「よし、かれに会いたいのなら、まずここをぬけださなくてはならない。洞穴の奥へ進んで別に入口があるかどうかたしかめてみよう。ぴったりくっついてきたまえ」
フォン・ホルストは、ゆっくりと立ちあがり、洞穴内の高さをはかった。直立できることがわかった。それからかれは、片手を壁にあてがい、もう一方で手さぐりしながら用心しいしい奥へと進んでいった。足をふみだし、ふみしめる前にそこにしっかりした地面があるかどうかたしかめながら、おもむろに前進した。さほど行きもしないうちに、フォン・ホルストは、足下に木の枝や木の葉らしきものを感じた。かれは、かがみこんで手でさわってみた。枯れた木の葉がまだくっついている枯れ枝や、長い草だった。洞穴のこのあたりには、それらがびっしりとしきつめられてあるのだった。
「なにかのけものか、あるいはひょっとして人間の眠る場所だったのにちがいない」と意見を述べた。「明かりがほしいな。こんなぐあいに暗闇のなかを手探りで進むのは気にくわない」
「火打ち石をもっているわ」とラ・ジャ。「なにか|ほくち《ヽヽヽ》があれば、これらの草のひとつかみに火をつけることができてよ」
「よし、ほくちを作ろう」フォン・ホルストがいった。
かれは、かがみこんで床から草や木の枝をどかし、地面の一部を露出させた。それから、枯れた木の葉を何枚か集め、それを掌のなかでこなごなにくだいて、露出した地面にほくちの小さな山を作った。
「さあ、やってみてごらん」と、かれはいった。「ここだよ」彼女の手をそのほくちのほうへみちびいてやった。
ラ・ジャは、かれのかたわらにひざまずき、ほくちの山のすぐ上で石を一度だけカチリと打ち合わせた。ほくちがかがやきはじめる。ラ・ジャは、その上に低くこごみ、静かに吹いた。ほくちが急に燃えあがる。フォン・ホルストは、その目的のために集めていた草をひとつかみ手にしてまっていた。一瞬後には、燃えあがる松明《たいまつ》がかれの手のなかにあった。
その松明の明かりをたよりに、かれらは、周囲を見まわした。かれらは、その洞穴をひろげて作った大きな広間のなかにいるのだった。草や木の枝がしきつめられている床のそこここにかみくだかれた骨々がちらばっていた。これがけもののすみかなのか、それとも人間のそれなのか、フォン・ホルストにはわからなかった。しかし草や木の枝の敷き方のぐあいからみて、かれは人間のすみかだと判断した。とはいえ、ぬぎすてた衣類だとか、こわれた、ないしはうっちゃられた武器、あるいは道具などがあたりに見あたらないし、瀬戸《せと》かけなどもみとめられなかった。人間がここに住んでいたのだとしたら、きわめて低級な人間だったのにちがいない。
その松明が燃えつきないまでに、かれらは、草を集めて松明の予備をいくつも作っておいた。だから、相当のあいだ、明かりをたやすことなく進みつづけることができた。広間をぬけてせまい回廊へはいる。回廊はうねりくねって、断崖の中心部へとつづいていた。ほどなくかれらは、別の、もっと広いとさえいえる部屋へやってきた。これまた、なにものかのすんでいた形跡がみとめられた。しかし、ここの場合、その形跡はぞっとするばかりになまなましかった。床のそこいらじゅうに、人間の骨、頭蓋骨がちらばっているのだった。腐敗しつつある肉のむかつくような悪臭が、この地下納骨室の空気にしみこんでいた。
「ここから出るとしよう」フォン・ホルストはいった。
「わたしたちがはいってきた入口のわきに三つ出口があるわ。どれをいくことにします?」とラ・ジャ。
フォン・ホルストは、かぶりをふった。「三つともためしてみなければならないかもしれない。右手のいちばん端にあるやつからはじめよう。それだってほかのと同様あてずっぽうみたいなもんだから。ようするに、どれに決めたって、せいぜいがあてずっぽうにすぎんのだよ」
その間に部屋へ近づいていくにつれて、かれらは、そこからつたわってくる悪臭にほとんどあっとうされそうなほどだった。しかし、フォン・ホルストは、脱出手段のあらゆる可能性を調べてみる決意をかためていた。そこでかれは、その開口部をぬけて小さな部屋へふみこんだ。そして、目の前の光景にハッとなってたちどまった。いちばん奥の壁にたてかけて、十二人ばかりの死骸がつみかさねられてあったのだ。ちらと一瞥しただけで、その部屋から表へと通じている通路のないことが、フォン・ホルストにはすぐわかった。そこでかれは、そうそうにその場をはなれることにした。
その広間からつづく残るふたつの開口部のひとつは煙でくろずんでいた。開口部のすぐ前の床には、たくさんの薪をたいたあとの灰や消し炭が残っていた。その状況からフォン・ホルストに、名案がひとつ思いうかんだ。かれは、二番めの開口部へ歩いていき、そこへ煙をだしている松明を近づけたが、煙はゆらぐことなくたちのぼっていた。それからかれは、その前で焚火のされていた開口部へよっていった。いまや、かれの松明からたちのぼる煙は、一様に開口部のなかへとひきこまれていったのだ。
「こいつは、表へ通じる開口部にちがいないぞ」かれはいった。「そして、この通路は、かれらが饗宴《きょうえん》の料理を作るさい、煙突の役目をはたしてもいたのだよ。この洞穴に住んでいた連中がだれであるにせよ、なかなか思いやりのある連中だ。わたしは、ガズが好きになると思うよ。この開口部をためしてみよう、ラ・ジャ」
せまい通路が急勾配でのぼりになっていた。すすで真黒になっており、たえずただよい昇ってくる通風には、下の恐怖の部屋々々からの悪臭がしみこんでいた。
「頂上までそんなにないはずだ」フォン・ホルストがいった。「この断崖は、高さ十五メートル以上あるようには思えなかったし、この洞穴へはいってからわれわれは、ずっとすこしずつでものぼっていたのだからね」
「前のほうに明かりが見えてきたわ」と、ラ・ジャがいった。
「ほんとうだ、やっぱり出口があったんだ!」フォン・ホルストがさけんだ。
頂上から三メートルほどのところでかれらは、いまのぼっている通廊《シャフト》の両側にひとつずつ開いている、回廊かないしは部屋への開口部をやりすごした。しかし、周囲にたちこめるくさい空気からのがれることに夢中になっていたかれらは、それらの開口部に気づいてはいなかった。だから、そのつい奥の暗がりのなかにひそんでいる姿、姿、姿に気づいてもいなかった。
ラ・ジャは、フォン・ホルストのすぐうしろにいた。その危険を最初に発見したのは彼女だった――が、手おくれだった。フォン・ホルストがそのそばを通りすぎたちょうどそのとき、開口部のひとつから手がのびだしてきて、かれをつかまえ、なかへひきずりこむのを、彼女は見た。アッと警告のさけびをひと声あげた。が、その瞬間、彼女もつかまえられ、反対側の開口部にひきずりこまれてしまったのだった。
[#改ページ]
十 ゴルブス族
フォン・ホルストは、身をもがいて自由になろうとあらがった。そしてラ・ジャに、かれらが前方に目撃した開口部まで走っていって、表へぬけだすようにと大声でさけんだ。かれは、ラ・ジャもまたとらわれの身となったことを知らなかった。かれの腕にはそれぞれ一ダースずつもの手がからみついているように思われた。かれは、力の強い男だったが、のがれることもできなければ、腕をふりほどいてピストルをぬく間《ま》だけでも自由にすることもできないでいた。槍は、つかまえられた瞬間にもぎとられていた。
かれは、その回廊をひきずられていった。急なくだり勾配になっていて、きわめて暗かった。だから、かれをつかまえた連中がはたして人間なのか、あるいはけものなのか、フォン・ホルストには見わけることができなかった。とはいえ、かれらが口こそききはしなかったものの、人間であるとかれは確信していた。ほどなく回廊が急に曲折し、かれらは、とある照明された部屋へはいった――多数のたいまつに照らされた広大な地下の広間。そしてここで、フォン・ホルストははじめて、かれがその掌中におちた連中の正体をおがませてもらったのだった。かれらはフォン・ホルストがザリスからのがれようとしているのを見た例の男と同一種族だった。ほとんどが男だったが、なかにはわずかに女がいたし、子供もたぶん十二人ぐらいいただろう。すべて白い肌、白髪をし、それにそれ自体決して胸が悪くなるというのではない、ピンクや赤い目をもっていた。かれらを身の毛もよだつばかりに見せているのは、その兇猛な、畜生のような面相だった。
全部で七百人はいたにちがいないこの集団のほとんどのものは、おおむね円形のこの大広間の壁ぎわにすわったり、しゃがんだり、横になったりしていた。したがって広間の中央部が大きくあいていた。このあいたところへフォン・ホルストはひきずりだされた。そして、うしろ手にしばりあげられ、足首をいましめられ、地面に放りだされたのだった。
わき腹を下にして寝ころがって、この身の毛もよだつばかりの集団の見られるだけを見ようとしているうちに、かれの心がやぶから棒にしずんだ。かれがこの部屋へつれこまれてきた通廊とは反対側にある通廊の入口から、ラ・ジャのひったてられてくるのが目にとまったのだ。かれらは、ラ・ジャをかれがころがっている空所へ連れてきて、かれをしばりあげたと同じように、彼女をしばりあげた。ふたりは横になった格好で、おたがいの顔を見つめあった。フォン・ホルストは、微笑しようとしたが、それにはあまり感情がこもっていなかった。かれらがこれらの一族を見たり、かれらのしきたりを憶測したりしたところから判断して、かれらが洞穴のほかのふたつの部屋のなかで目撃したあの胸のわるくなる残物とまったく同じ運命からのがれられるという希望はこれっぽっちもひきだせなかった。
「寒さのきびしい冬みたいな感じだ」と、フォン・ホルスト。
「冬? 冬ってなんのこと?」彼女がきいた。
「一年の、ある季節のことだよ――おお、きみはしかし、一年がなんのことすら知らないんだったっけね。でも、それがなんの役にたつだろう? なにかほかのことを話すとしよう」
「なぜわたしたちは、話さなくてはいけないの?」
「なぜだかはわからないが、わたしは話すよ。ふだんはあまりおしゃべりのほうじゃないけど、いまは話していないと気が狂いそうなんだよ」
「じゃ、いうことに気をつけてね」彼女が低い声でいった。「もし、あなたが脱出の方法を話そうと考えているのなら」
「この連中にわれわれの話す内容がわかると思うかい?」
「ああ、おれたちは、おまえらのいうことがわかるぞ」かれらの近くに立っていたこの化物のひとりがうつろな、陰気な口調でいった。
「それでは、なぜわれわれをとらえたのか話してくれ。われわれをいったいどうしようというのだ?」
そいつは、黄色い歯をむきだして、声なき笑いを顔面にうかべた。「おれたちがやつらをどうするつもりでいるのかだとよ」大声でどなった。にもかかわらず、その声高《こわだか》な調子には、それゆえに墓場のような陰気さを暗示させるものがあった。
聞きてたちが、声なき笑いをうかべてゆれうごいた。「おれたちがやつらをどうするかって?」数人がおうむがえしにいった。それからかれらは、不意にぞっとするような、陰気な笑い声をいっせいにあげた。墓場のように静かな笑いだった。
「もし、やつらが知りたいのなら、いま教えてやろうじゃないか」ひとりが意見を述べた。
「そうだ、トルプ」いまひとりがいった。「いまだ、いまだ」
「やめろ」トルプといわれた男、フォン・ホルストに最初に口をきいた男がいった。「おれたちにはすでにうんといるのだし、そのうちの多くは、いまじゃ年齢《とし》をとりすぎているんだ」かれは、捕虜たちのほうへ近より、かがみこんでかれらの肉をつねった。それから肋骨のあいだにきたならしい人さし指をつっこんだ。「ふとらせる必要があるぞ」と、ぬかした。「しばらくのあいだ、こいつらを飼っておく。木の実をたっぷり、果実を少々食わせれば、肋骨のあたりに汁気《しるけ》の多い肉がつくことだろう」両手をこすりあわせ、たるんだ上下の唇を舌なめずりした。「何人かこいつらを連れていき、あそこの小部屋にとじこめて、木の実と果実をあてがってやれ。こいつらはふとるまで飼っておくんだ」
かれが話しおわったとき、この化物一族のいまひとりが上へ通じている通廊の一本から広間へはいってきた。ひどく興奮した様子で、この地下洞窟の中央までかけこんできた。
「どうした、ダルグ?」と、トルプがきいた。
「ザリスに追われたんだ」ダルグがさけんだ。「ところが、それだけじゃない。女をつれた奇妙な人間《ギラク》が黒い小さな棍棒で何回も大きな音をたてたんだ。すると、ザリスがひっくりかえって死んじまったのよ。その奇妙な人間は、ダルグの生命を救ってくれた。だが、どうしてかはわからん」
フォン・ホルストとラ・ジャがふとらせられることになった部屋へかれらを連行していくために、周囲に集まってきた男たちは、かれらの足首からいましめを解き、かれらを立ちあがらせていた。そのとき、ダルグはちょうど話をおえていた。だからかれは、いまはじめてかれらを見ることになったのだ。
「ああ、そこにいる!」と、興奮の態《てい》でかれはさけんだ。「ダルグの生命を救ってくれた当の人間《ギラク》だ。かれらをどうしようというんだ、トルプ?」
「かれらにはふとってもらうのさ」トルプがこたえた。「やせすぎているからな」
「かれらは、おれの生命を救ってくれたのだから、いかせてやってくれ」ダルグがうながした。
「その男がとんだまぬけだから、いかせてやらねばならんのか?」トルプが詰問した。「もし、やつがすこしでもりこうなら、おまえを殺して食っていただろう。やつらを連れていくのだ」
「かれは、ゴルブス族のひとりを救ったのだ!」なみいる一族のものたちにむかって、ダルグはさけんだ。「なのに、かれをむざむざ殺させてもよいというのか? 断じて、かれらを自由の身にしてやるのだ」
「かれを自由の身にしてやれ!」何人かがさけんだが、それよりも大勢のものが金切り声をあげた。「やつらをふとらせろ! ふとらせるのだ!」
かれらが監禁されることになった部屋の入口へと、男たちにこづかれながらひったてられていく途中、フォン・ホルストは、ダルグが憤然たる面持ちでトルプにくってかかっているのを見た。
「いつかおまえを殺してやるぞ」ダルグがすごみをきかせた。「おれたちには立派な族長が必要だ。おまえはなっていない」
「おれは族長だ」トルプが絶叫した。「殺されるのはおまえのほうだ」
「おまえがおれを殺す?」ダルグがうんざりしたとでもいうようにつめよった。「おまえは女しか殺せなかったのじゃないか。女を七人殺したが、男はひとりも殺《や》っていない。おれは四人殺ってるんだぞ」
「毒をもってな」トルプがあざけった。
「ちがう!」ダルグが金切り声をあげた。「三人は肉切り包丁で、ひとりは短剣で殺ったんだ」
「背中からか?」とトルプ。
「ちがう、背中からではない、この女殺しめ」
フォン・ホルストがその大広間から、隣接する小部屋の暗がりのなかへおしこまれたとき、ふたりのゴルブスはまだいさかっていた。かれは、きいたことをとつおいつ考えてみた。かれらのことばの異様さも、ダルグの使ったふたつの英語――|肉切り包丁《クリーヴァー》と短剣《ダガー》――にくらべれば、たいして強い印象を受けたというほどではなかった。
ダルグが英語を使ったということは、それ自体驚くべきことなのであり、しかもどんな形の武器ももちあわせていない、あきらかに進化段階のきわめて低い一族のひとりの唇から、そんなことばがもれたというのであればなおさらのことだった。肉切り包丁などという単語をどうやってきくことができたのだろうか? 短剣とはどんなものなのか、ダルグにどうして知ることができたのだろうか? そして、それらを表わす英語の単語をどこでおぼえたのであろうか? フォン・ホルストは、こうした謎をとく鍵をどうしても見つけることができなかった。
ゴルブスたちは、ふたりを小部屋に監禁するとたちさった。ふたたび足首をいましめるというめんどうははぶいたが、手のほうはいぜんうしろ手にしばりあげられたままだった。床には木の葉や草がびっしり敷いてあり、ふたりのとらわれ人は、なるたけ気楽にした。大広間からさしこんでくる松明の光が、かれらの牢獄の闇をやわらげ、床に敷きつめられたかびくさい寝床の上にすわっているかれらに、おたがいの姿をぼんやりとだが見ることを可能にしていた。
「これからどうするつもり?」ラ・ジャがきいた。
「さしあたってわれわれになにができるのか、見当もつかないね」と、フォン・ホルスト。「でも、どうやらわれわれは、のちになって食べられることになっているらしい――もっとも肉づきがよくなったときにだ。もし、連中が充分に食物をあたえてくれるのなら、できるだけふとるように努力してやらなければいけないだろう。おさらばするときには、きわめてよい印象を残していくべきだからね」
「そんなのばかげているわ」と、ラ・ジャがぴしりといった。「そんなばかなことを考えるなんて、やっぱりあなたの頭はひどい病気《シック》なのにちがいないのね」
「たぶん〈|にぶい《スイック》〉ということばのほうがもっとぴったりなんじゃないのかな」フォン・ホルストはいって、声をあげて笑った。「ねえ、ラ・ジャ、まったくひどいもんだね」
「なにがひどいの?」
「きみにはユーモアのセンスがないということがさ」フォン・ホルストはこたえた。「もしあれば、われわれはもっと楽しくやってこれたんだがね」
「あなたは、いつがまじめなのか、いつが冗談をいっているのか、ちっともわからないわ」と、彼女はいった。「もし、あなたがいおうとすることがおかしいことなのなら、そういってちょうだい。そしたら、たぶんわたし、笑うことができてよ」
「きみの勝ちだよ、ラ・ジャ」フォン・ホルストは、彼女にうけあった。
「なにが勝ちなの?」
「きみにあやまると同時に、敬意を表する――たとえそうとはわからないまでも、きみにはユーモアのセンスがあるんだよ」
「ちょっと前におっしゃったわね」ラ・ジャがいった。「さしあたってわたしたちになにができるのか見当もつかないって。あなたは逃げたくないの? ここにじっとしていて、食べられてしまいたいというの?」
「むろん逃げだしたいさ」フォン・ホルストはこたえた。「しかし、あの化物たちが大洞窟にいるかぎり、もっかのところ、脱出の可能性がこれっぽっちも見あたらないのだよ」
「あなたが|ピーストル《ヽヽヽヽヽ》とよんでいるものは、いったいなんのためにあるの?」嘲笑のひびきがこもっていなくもない口調で、ラ・ジャがきいた。「あなたは、それでザリスをたおしたわ。このゴルブス一族ぐらい、ずっとかんたんに殺すことができるでしょうに。そうすれば、わたしたちはゆうゆうと逃げだせるわ」
「人数が多すぎるよ、ラ・ジャ」かれはこたえた。「たとえ弾丸《たま》をすっかり射ちつくしたとしても、われわれが確実に逃げだせるようになるだけ大勢のかれらをたおすことはできそうもないことだ。なおいけないことには、わたしはうしろ手にしばりあげられている。しかし、手の自由がきくようになったとしても、ピストルを使うのは、最後の土壇場《どたんば》まで待つつもりだよ。しかし、ま、きみに安心してもらってもよいと思うのだが、やつらがわれわれのどちらかをいよいよ食おうなんて気をおこしたときには、その前にちょいとばかりぶっぱなしてやるつもりだ。わたしのねらいとしては、やつらがこの銃声にびっくりぎょうてんし、おびえたあまり、逃げようとやっきになって将棋《しょうぎ》だおしになることなんだよ」
かれが話しおわったとき、ひとりのゴルブスがかれらの小洞穴にはいってきた。ダルグだった。小さな松明《たいまつ》をもっていたが、その光が内部を照らし、荒い壁や、敷きつめた木の葉と草や、両手をしばりあげられ、居心地わるそうにころがっているふたりの姿をうつしだした。
ダルグは、しばらくだまったままかれらを見おろしていたが、やがてかれらの近く、床の上にしゃがみこんだ。「トルプは、とんでもない強情な、まぬけだ」うつろな声でいった。「きみたちを自由の身にすべきなのに、そうしようとしない。かれは、きみたちを食べてしまおうと決心したんだよ。ま、そういうことになるだろうと思う。それにしても、ひどいといえばあまりにひどすぎる。以前、ゴルブスの生命を救ったものはひとりもいない。聞いたこともないことだ。もしおれが族長なら、きみたちをいかせてやるんだが」
「いずれにせよ、われわれに手をかしてくれることはできるかもしれないぞ」
「どうやって?」とダルグ。
「どうすれば逃げだせるのか、おしえてくれ」
「逃げだすことはできないよ」力をいれてダルグは断言した。
「あの連中は、四六時中あの広間にじっとしているわけじゃないのだろう?」フォン・ホルストがきいた。
「もしかれらが立ちさるとしても、トルプは、きみたちが逃げださないよう見張りのひとりはここへおいていくさ」
フォン・ホルストは、しばし考えこんだ。やがて顔をあげ、醜怪な訪問者を見つめた。「きみは族長になりたいと思うかね?」
「シーッ!」と、ダルグが警告した。「そんなことをいうところを人にきかせてはいけない。だが、どうしてわかる?」
「わたしは、いろんなことを知っている」低い声でフォン・ホルストはこたえた。
ダルグは、なかばびくついてかれを見やった。「きみがほかの人間《ギラク》たちと同じじゃないっていうことはわかっていた」といった。「きみはちがっているよ。たぶん、あの別の生命を受けついでいるのだろう。あの別の世界で生まれたのではないのかな。それについて、ゴルブス族は、ほとんどわすれはてた記憶のうすぼんやりした背景から、ちらりちらりとかいま見ているのだよ。そう、かれらはわすれてしまった。ところが、かれらのなかにはつねに思いださせるやつがいて、たえずわれわれを悩ませているんだ。おしえてくれ――きみはだれなのかね? どこからやってきた?」
「わたしはフォンという。そして、地上世界――この世界とはたいへんちがった世界だが――からやってきた」
「おれは、そこを知っておる!」ダルグがさけんだ。「別の世界があるというのはまちがいない。われわれゴルブス族はかつてそこに住んでおった。幸せな世界だった。しかしわしらは、しでかしたことのためにそこから追いだされ、この暗い森のなかでみじめに、ふしあわせに暮らさねばならなくなったんだ」
「話がよくわからんが」と、フォン・ホルストがいった。「きみは、わたしの世界からきたのじゃない。あそこにはきみのような人間はひとりもいない」
「あそこでは、われわれはちがっていた」とダルグ。「われわれはみんな、ちがっていたと感じている。あるものには、その記憶がほかのものにとってよりずっとはっきりしているが、だからといってなにからなにまで鮮明というわけではない。ちらりちらりとかいま見ることはできても、それらを充分に解明したり、あるいはわれわれの記憶のなかにはっきりと固定させることができないでいるうちに、たちまちぼやけ、もやもやになって消えうせてしまうのだよ。われわれにはっきり見えるのは、われわれが殺した連中だけなんだ――かれらと、かれらを殺した方法は見ることができるのだが、かんじんの当時のわれわれの姿がまるで見えないのだ。ごくまれに見えることもあるが、そんなとき、その幻はぼんやりかすんで、やっと見えるか見えないかというにすぎんのだよ。しかし、当時のわしらはいまのわしらと同じじゃなかったということは、わかっておる。まったくじれったいことだ。見えないも同然、思いだせないも同然――気が狂ってしまいそうだよ。
おれは、肉切り包丁で殺した三人を見ることができる――おれのおやじとふたりの兄弟だ――かれらのもっているものが手にはいるかもしれないと思ったんで殺《や》ったんだが、それがなんだったかはわからん。かれらはおれのじゃまになった。だからおれは、かれらを殺した。いまじゃおれは、人間を食って生きている、まる裸の一ゴルブス人なんだ。われわれのなかには、こうやってわれわれが罰を受けているんだと考えているものもある」
「肉切り包丁についてなにを知っている?」相手の無気味な話と、それが含むさまざまな意味あいにたいへん興味をひかれたフォン・ホルストは、そうきいた。
「肉切り包丁については、おれがおやじとふたりの兄弟を殺ったのが肉切り包丁だったということ以外、なにも知っちゃいないのだよ。短剣では、男をひとり殺った。なぜかは知らんがね。おれは、かれを見ることができる――苦痛にゆがんだ顔は鮮明だが、あとはすこぶるぼんやりしている。ピカピカのボタンがついた青い服を着ていた。ああ、かれが消えてしまった――顔をのぞいた全部がね。その顔がおれをにらみつけている。そのときおれは、なにかを――服を、ボタンを手にいれるところだったんだ! 服だの、ボタンだの、いったいなんなんだ? わかりかけていたんだが――いまじゃ、見込みはない。なんということばだった? なんということばを、おれはいまいったんだっけ? それらも消えちまった。いつもこういう調子なんだ。おれたちは、ぼやけた絵にいじめられ、その絵がまたすぐにもぎとられてしまうんだ」
「きみたちはみんな、こんなふうに苦しんでいるのかね?」と、フォン・ホルストはきいた。
「そうだ」とダルグ。「おれたちはみんな、殺した連中が見えるんだ。そいつらが、おれたちにいつまでも残っている唯一の記憶なんだよ」
「きみたちはみんな、人殺しなのかね?」
「そうだ、おれは、そのなかでも最高のひとりでね。トルプの殺った七人の女はどうということはない。そのうちの何人かは抱きあっている間《ま》に殺ったんだ――首をしめたり、息をつまらせたりしてね。そのひとりなど彼女の髪でしめ殺したんだ。トルプのやつ、いつもその女のことを自慢にしている」
「どうしてかれ、その女の人たちを殺したの?」ラ・ジャがきいた。
「彼女たちのもっているなにかがほしかったんだ。われわれはみんなそうだったんだ。おれがおやじとふたりの兄弟を殺ったとき、おれのほしかったものがなんだったのか、いまさら想像もつかないね。ほかの連中だってなにがほしかったのかわかりもしない。ま、なんだったにせよ、おれたちは、とどのつまりほしかったものを手にいれやしなかった。ここでなにひとつ持っちゃいないことでそれがわかる。いまじゃおれたちのほしいものはただひとつ、食物なんであり、そいつはたっぷりとある。とにかく、食物のために殺しあうなんてことは金輪際《こんりんざい》ないだろう。それがまた不満でね。胸くそがわるくなってくる。われわれは、もし食わないと死んじまって、ここよりもっとひどい場所へいくものと信じているから食ってるんだ。おれたちは、そのここよりひどい場所へいくことをおそれているのだよ」
「きみたちは、食べることを楽しんではいないのだね?」と、フォン・ホルストはきいた。「楽しみはなんなのかね?」
「なにもないのさ。〈死の森〉のなかに幸せはないのだよ。あるのは、寒さと絶望と、吐き気と恐怖ばかり。おお、そうだ。憎しみがあった。おれたちは、たがいに憎みあっている。たぶん、そのことからある程度の満足を得ているだろうが、たいしてじゃない。おれたちはみんな憎んでいる。だいたいが、ほかの連中もみんなやってることをやって、大きな喜びを得ようなんてできることじゃない。
おれは、きみたちを自由の身にしようと望むことですこしばかり喜びを得た――こいつはちがっていた。めったにあることじゃないからだ。おれがこれまでに経験したはじめての喜びだった。むろん、喜びとはどんなものなのか、はっきりとはわからん。しかし、おれがそれを経験しているあいだは、寒さや絶望や吐き気や恐怖をわすれていたから、そういう気持ちが喜びなんだなとわかったような気がしたよ。人になにかをわすれさせるものがあるとすれば、それは喜びなのにちがいない」
「あなたたちはみんな、人殺しなの?」ラ・ジャがきいた。
「われわれはひとりひとり、なにかを殺しているのだよ」ダルグはこたえた。「ほら、あそこで両手に顔をうずめてすわっている婆さんが見えるかね? 彼女は、ふたりの人間の幸せを殺した。そのことをきわめてはっきりとおぼえているのだよ、彼女は。ひとりの男とひとりの女。かれらは、熱烈に愛しあっていた。かれらのねがいはただ、そっとしておいてくれて幸せでいられればそれでよかった。
それから、彼女のすぐむこうに立っているあの男だが。かれは、生命よりももっと美しいものを殺した。愛情だよ。かれは、奥さんの愛情を殺したんだ。
そう、おれたちはひとりひとり、なにかを殺してるんだ。しかしおれは、殺したのが人間で、幸せや愛情ではなかったのがせめてものなぐさめだと思っている」
「たぶん、きみのいうとおりだろう」フォン・ホルストがいった。「この世には人間があまりにも多すぎるが、幸せや愛情となると、とてもそうはいかないからね」
そのときにわかに、表の洞窟内で騒動がもちあがり、それ以上話をつづけることができなくなった。ダルグがパッと立ちあがり、ふたりのそばをはなれた。フォン・ホルストとラ・ジャは、表をのぞいてみた。いましもふたりの捕虜が洞窟内にひきずりこまれてくるところだった。
「肉部屋への追加食糧だよ」フォン・ホルストがいった。
「それに、かれらはそれを食べて楽しくすらないんですからね」ラ・ジャがいった。「ダルグのいったことは本当なのかしら――殺人のことよ。それと、かれらがぼんやりとしか思いだせないもういっぽうの人生のこと」
フォン・ホルストは、かぶりをふった。「さあね。しかし、もしそれが本当だとしたら、地上世界の、何世代にもわたって人間を悩ませてきたある質問に、それがこたえてくれている」
「見て」ラ・ジャがいった。「かれらは、捕虜をこっちへ連れてくるわ」
「肥育室のほうへね」と、フォン・ホルストはいって、ニヤリとした。
「ひとりのほうはとても大きな男だわ、そうじゃない?」ラ・ジャがいった。「かれをこっちへこさせるのに大勢のゴルブス人がかかりっきりよ」
「あの男には見おぼえがあるぞ」フォン・ホルストがいった。「大男のほうじゃなく、もういっぽうのほうだよ。こうも大勢のゴルブス人が周囲にひしめいていたんでは、どうもはっきりと見ることができないね」
新手《あらて》の捕虜たちは、この小洞窟へと連れてこられ、荒っぽくおしこまれた。そのあまりの荒っぽさのために、かれらはすんでのことに、すでにそこにいたふたりの上にたおれかかってきそうになったほどだった。大男のほうはさかんにどなりちらし、すごみをきかせていたが、もういっぽうの男は、あわれな声でぶつくさ不平をならしていた。内部のうすくらがりのなかで、相手の顔かたちを見わけることは不可能だった。
かれらは、フォン・ホルストにもラ・ジャにも注意をはらわなかった。ふたりのいることに気づいていたのにちがいないが、フォン・ホルストは、大男が声高にどなりちらしているのは立ちさっていくゴルブス人たちに強い印象をあたえるためのものだと確信した。その相棒は、どう見ても人に印象をあたえたがっているタイプに属しているようではなかった。かれが腰ぬけであることはきわめて明瞭であり、恐怖のあまり青くなってふるえあがっているのだ。おびえてほとんどわけのわからぬことをぶつくさいい、〈死の森〉へかれをみちびいてくることになった運命を呪い、悲しんでいた。しかし、相手の男は、そんなかれにいっさい注意をはらわなかった。したがって、ふたりはたがいに、相手のことを勝手にとりとめもなくぼやいているかたちとなった。
フォン・ホルストがおもしろ半分にかれらのいうことをきいていると、数人のゴルブス人が果実や木の実をもって小洞窟へ近づいてきた。そのひとりが松明をたずさえていたのだが、その男が洞窟のなかへはいってきたとき、松明の光が内部を照らしだした。そのちらつく光に捕虜たちの顔がたがいに相手の前にさらけ出されたのだった。
「おまえは?」フォン・ホルストにその目がとまったとき、どなりちらしていた大男が文字どおり絶叫した。大男はフルグであり、その相棒はスクルフなのだった。
[#改ページ]
十一 食肉用に飼育
ことのなりゆきの重大さがはっきりとフォン・ホルストの前にさらけだされたとき、かれは、笑ってよいものなのか、それとも呪うべきなのか、まよってしまった。それでなくとも、かれらの境地はお先まっ暗だったのだ。ところが、このふたりが姿をあらわしたことで、それがさらに、無限にひどいものとなるかもしれないのだ。フルグがかれらをみとめたときにしめした反応は、けっして先行きが明るくなるようなものではなかった。とはいえ、たとえその事実が険悪であるとしても、それは同時に笑いをさそわれるものでもあった。だからフォン・ホルストは、どでかい穴居人が興奮しているさまをじっと見守りながら、微笑したのだった。
「あの女もいるじゃないか!」スクルフがさけんだ。
「そうだ」と、フォン・ホルスト。「ふたりともそろっているよ。この思いがけない訪問の喜びをなんのおかげにしたらよいのかな? われわれはてっきり、きみがバスティでなにごともなく焚火の前で肉でも料理しているものとばかり思っていた。それがここで、他人の食べる肉として料理されるのを待つことになったとは! ああ、それにしても人生は思いがけないことに満ちみちているとは思わんかね? あるものはよろこぶべきことであり、あるものは――その――それほどよろこばしいことではないが」
「もしおれが、このいましめをといておまえに手をかけることができたらな!」フルグがさけんだ。
「それで? そのときはどうしようというのだね、相棒?」と、フォン・ホルスト。
「おまえのそっ首を折って、その顔をくしゃくしゃにつぶして、それから――」
「ちょっとまってくれ」フォン・ホルストがおねがい申しあげた。「わたしにそのちがった順序について意見をのべさせてほしいな。きみが今いったように、まずわたしの首の骨を折ることがきみのつもりなら、わたしの顔をくしゃくしゃにつぶすことで、きみは、楽しみをひきだすことはぜんぜんできないよ。なぜって、わたしは死んでしまうだろうし、したがってきみが私にやっていることのなんたるかをすこしも味わうことができないのだからね。フルグ、ほんとうにきみというのは、あまりおりこうじゃないようだな。こんな知能程度の低い人間がどうしてバスティの族長にえらばれるようなことになったのか、わたしにはさっぱりわけがわからない。が、たぶんきみは、頭蓋骨の大きさよりもむしろ筋骨のたくましさで選ばれたのだろう」
ゴルブス人たちは、かなりの量の果実と木の実を洞窟の床にどさりとおろして、たちさっていた。洞窟はふたたびうす暗がりにもどっていた。フルグはなおも、いましめをとこうともがいている。スクルフは泣き声をあげ、悲しんでいた。フォン・ホルストは、食物をじっと見つめていた。「比較的やわらかい果実は、うしろにまわされてしばりあげられている手でなんとか食べて食べられないこともないが」と、ラ・ジャにいった。「これら木の実の殻をわれわれがどうやって割ればよいと、やっこさんたちは考えてるんだろう」
「たぶんわたしたち、手を自由にできるわ」と、ラ・ジャがほのめかした。「ころがってわたしのほうへ近づいてきて。そして背中をわたしの背中にくっつけて、それから、わたしの手首をしばってある皮ひもをほどいてみてちょうだい。もし、わたしの手が自由にできれば、こんどはかんたんにあなたの手を自由にしてあげられるわ」
フルグとスクルフがこの提案をききつけて、フォン・ホルストと彼女が自由になる前に、これを実行にうつしてはいけないから、彼女は、低声で話していた。ヨーロッパ人は、のたくりながら女の身体のうしろ近くへ自分の身体を移動させた。それから、彼女の手首のいましめをときにかかった。自分のやっていることを見ることができないのと、自分の手を使うことがすこぶる制限されているためとで、仕事は思うようにはかどらなかった。が、永遠とも思えるほどの後に、かれは、結びめがゆるむのを感じた。あとはなれてきて手ぎわがよくなり、まもなく第二の結びめがかれの不屈の努力にかぶとをぬいだ。結びめはあといくつかあった。しかし、いよいよ最後の結びめが屈服した。ラ・ジャの両手が自由になったのだ。すぐさま彼女は、身体のむきを変え、かれの背中のほうをむいた。フォン・ホルストは、彼女のはしっこい指が結びめの順序をさぐりだしていくのを感じることができた。彼女がかれの手や腕にふれると、彼にはかつておぼえのない妙なわななきが身体じゅうにつっ走るのだった。以前にも彼女の肉体にふれることはあったが、そんなとき彼女はいつも、怒ったり、うらんだりし、ときにはすこぶる荒っぽくなることもあった。だからかれは、すこしもこころよい反応を経験したことがなかったのだった。それが今はちがっていた。はじめて、彼女がかれに力をかしていたのであり、彼女自身の自由意志にしたがっていたからだ。
「おまえたち、なにをやってるんだ?」フルグが詰問した。「えらくおとなしいじゃないか。やつらがもってきた食物をみんな食ってしまおうなんてつもりでいるのなら、いっておくが、そんなまねはしないほうがいい。しようとしたら、殺してやるからな」
「わたしの首を折る前にかね、あとでかね?」フォン・ホルストがきいた。
「もちろん、前にだ」フルグがぴしりといった。「いや、あとでだ。いや――どっちだって同じことだろう? ばかみたいなことをいうのはよせ」
「そして、きみがわたしを殺してわたしの首を折ってからか、あるいはわたしの首を折ってわたしを殺してからか、ま、最終的にどちらの順序でいくか決めたとして、そのどちらであろうと、きみとスクルフがその食物を食べるのにうたがいの余地はない。そのとおりかね?」
「むろん、そのとおりだ」フルグがうなるようにいった。
「で、きみは、その食物がどういう目的のものと考えられているのか知っているのかね?」フォン・ホルストはきいた。
「おれたちが食うためだ、あたりまえのことだろう」
「しかし、われわれが食べるか食べないか、なぜやっこさんたちが心配しなければならない?」ヨーロッパ人はきいた。「きみは、連中がわれわれの幸せであるとか、あるいはみちたりているとかについて、すこしでも気をくばっているという妄想をいだいているのかね?」
「それじゃ、なぜかれらは食物を運んできた?」スクルフがきいた。
「われわれをふとらせるためだ」フォン・ホルストは説明した。「連中、自分たちの食肉がふとるのをおこのみらしい。というか、たぶんわたしにいわせれば、ふとって新鮮であることは連中にとって吐き気をもよおさせるような味がすくなくなるのじゃないかな」
「おれたちをふとらせる? おれたちを食うのか?」スクルフがあえぐようにいった。
フルグはなにもいわなかったが、フォン・ホルストには、かれがいましめから自由になろうとする努力を倍加しているのがわかった。しばらく後に、ラ・ジャが最後の結びめをとくのに成功した。フォン・ホルストは、手首からひもがすべり落ちるのを感じた。かれは、おきなおって果実をひとつかみとり、それをラ・ジャに手渡した。それからかれは、フルグのほうをむいた。
「わたしの手は自由になった」といった。「これから、きみのいましめをといてやるつもりだ。そうすれば、きみは、スクルフの手を自由にしてやれる。わたしを殺そうなんて気をおこしてはいけないね。もし、きみがそうしようとするなら、わたしは、きみを殺す。わたしはまだ、それでもってわたしが多数のけものを殺すのをスクルフが見た、そしてきみ自身の戦士の何人かが殺されるのをきみが見た、例の武器をもっている。きみの手を自由にしてやるのにはふたつの理由がある。そのひとつは、きみが食べられるようにしてやるためだ。もうひとつは、あまりいい理由ではない。きみが、わたしの評価しているよりももっと頭がよくないかぎりはね。最善を期待しているが、そのへんはどうも懐疑的だよ」
「おれの頭はだいじょうぶだ」フルグがうなるようにいった。「おれたちを自由にするというふたつめの理由はなんなんだ?」
「われわれはみな、同じようにここで窮地にさらされている」フォン・ホルストは思いださせた。
「われわれは、逃走しなければ殺され、食われてしまうだろう。協力すれば、まんまと逃げだせるかもしれない。おたがいに殺しあおうとしたり、殺されないように警戒していようとしたりしてもたもたしていると、だれひとり逃げられやしない。さあ、きみとスクルフはそれについてどうするつもりだ? きみの判断にまかせよう。とにかく、きみの手を自由にしてやるよ。が、もしきみがわたしを殺そうとしてわたしに手をかけようものなら、そうできないでいるうちにわたしは、きみを殺す」
フルグは頭をかいた。「おれは、おまえを殺すと誓った」といった。「おれをこんなめんどうにまきこんだのはおまえなんだぞ。もし、おまえがバスティから逃げだしていなかったら、おれは、こんなところにいやしない。おれたちがつかまったのは、おまえの跡を追っている最中のことだ。おまえは、おれの戦士を何人か殺した。おれたちの奴隷をみんな自由にしてしまった。それなのに、おまえを殺さないようにと、おれにたのみこむとは、虫がよすぎるぞ」
フォン・ホルストは、肩をすくめた。「きみは、事実をまちがってしゃべっている」といった。「わたしは、殺さないでくれときみにたのみこんでいるのじゃない。わたしにきみを殺させるような羽目におとしこまないでくれとたのんでいるんだよ。フルグ、わたしがこの武器をもっているかぎり、きみがわたしを殺すチャンスはこれっぽっちもない。というより、きみのほうがあの世いきだというべきかな」
「かれに約束してくれよ、フルグ」スクルフが哀願した。「かれのいうとおりなんだ。仲間うちで争っていたんじゃ、逃げだすことはできない。すくなくともあんたとおれはだめだ。かれにおれたちをふたりとも殺すことができるからだよ。おれは、かれがあの小さな黒い棍棒で殺すのを見た。殺したいと思うものに近づいていく必要がぜんぜんないんだ」
「よくわかった」とうとうフルグが同意した。「ともかく、この連中からのがれるまで、おたがい殺しあおうとすることはやめにしよう」
フォン・ホルストは、バスティの族長のところへよっていき、かれの手首からいましめをといてやった。それからフルグがスクルフの両手を自由にした。スクルフをのぞいた他の三人は、たちまち食べにとりかかった。スクルフは、ひとりはなれたところにすわって、断固として食物から頭をそむけたままでいた。
「なぜ食べないのだ?」フルグがきいた。
「そして、なぜふとろうとしないのだ、とききたいのか?」スクルフが泣き声でいった。「あんたたちは、ふとって食われればいい。しかし、おれはやせさらばえたままでいて、だれもおれを食おうとしないようにするよ」
時が流れた。時の存在しない世界ですら時は流れなければならないからだ。かれらは、食べ、眠った。しかし、フォン・ホルストとラ・ジャは、決して同時には眠らなかった――フルグとスクルフがピストルに絶大な興味をしめしていたからだ。フォン・ホルストが眠っているときには、ラ・ジャが警戒した。ダルグがかれらと話をするためにときどきやってきた。つねに友好的なようだったが、トルプがかれらにさだめた運命をいずれはのがれられるかもしれないという熱望をかれらにいだかせることがかれにはできなかった。
フォン・ホルストはしばしば、かれらがあてがわれている果実や木の実がどこからくるのだろうかといぶかった。かれとラ・ジャがぬけてきたこの無気味な森に、そのどちらかが実っているのをちらとも見かけなかったからだ。かれは、おそらく森のはずれがそれほど遠くではないのだろうという説をたてた。そして、これをはっきりさせたかった。かれは、脱走の希望を決してすててはいないのだった。ダルグに、ゴルブス人たちがかれらのための食物をどこで手にいれているのかときいたとき、フォン・ホルストは、それが〈死の森〉のはずれ近く、たいして遠くないところに実っているのだと教えられた。これは、フォン・ホルストがいちばんききたいことだった。かれはまた、かれらが果実を集めにいく方角も知った。しかし、かれらの脱走のこころみに加勢してほしいとダルグを説得しようとしたとき、かれは、あっさりことわられてしまった。結局ダルグの説得を思いとどまり、それからはすこぶる気をつかってダルグに、かれが脱走の考えをすっかり捨ててしまったという印象をあたえた。
食物をふんだんにあてがわれるのと、運動不足は、まもなくその効果をあらわしはじめ、脂肪がしだいに厚くなっていった。スクルフのみがげっそりやせたままで、生命をささえるにことたりる以上のものを食べることをかたくなに拒否しつづけた。フルグは、フォン・ホルストあるいはラ・ジャよりも目に見えて急速に脂肪をつけていった。
とうとうスクルフが、かれの注意をそのことにむけさせた。「やつらはまず、あんたから食うだろう」と予言した。「えらくふとったからね」
「そう思うか?」と、族長は、腰のまわりにだぶついているぜい肉をさわりながらきいた。どうやらうろたえているようだ。「おれはてっきり、おれたちが脱走をこころみているのだと思っていたんだが」と、フォン・ホルストにむかっていった。
「わたしは、ゴルブス人たちがしばらくのあいだ出ていってくれればよいのにと、それをのぞんでいた」ヨーロッパ人がこたえた。「しかし、一度にわずか数人のものが出ていくだけにすぎん」
「いまは大部分のものが眠っているわ」と、ラ・ジャがいった。「松明の多くが消えてしまってるもの」
「そのとおりだ」フォン・ホルストは、表の広間をのぞきながらいった。「こんなに多くの連中が一度に眠っているところを見るのはこれがはじめてだよ」
「かれらは食事したばかりなんだと思うわ」とラ・ジャ。「わたしが最後の眠りからさめていらい、かれはひっきりなしに少人数の組を作って出ていってるわ。たぶん、かれらが眠くなってるのは、食事したためよ」
「さらに何本かの松明が消えかかっている」フォン・ホルストが低い声でいった。「いまでは、燃えているのはわずか二、三本にすぎない」
「そして、あとのゴルブス人はみんなコックリ、コックリやっているわ」ラ・ジャは、興奮をかくすことができなかった。「もしかれらがみんなぐっすり眠りこんでしまったら、わたしたちは逃げだすことができてよ」
しかし、かれらはみんな眠りこんでしまったわけではなかった。ひとりだけ、松明を消さないように注意しながらおきていたのだった。それがトルプだった。ついには、かれは立ちあがり、捕虜たちの監禁されている小洞窟へ近づいてきた。かれがやってくるのを見ると、かれらは、両手が自由になっているという事実をかくせるような格好で横になった。それまでも、ゴルブス人が近づいてくると、いつもそうしていたのだった。トルプは、松明をかざしてなかへはいってきた。入念にかれら全員をながめまわす。最後にスクルフを足でこづいた。「おまえは、ふとるのをまっていてもむだのようだな」と、不平を鳴らした。「この眠りがおわったら、おまえは殺すことにしよう。そうすれば、これ以上食物をあてがう必要がなくなるからな」
「他のものたちを最初に殺《や》ってくれ」スクルフは哀願した。「かれらは、おれよりずっとふとっている。おれにチャンスをくれ。そしたら、おれもふとるから」
トルプがあくびをした。「全員を同時に殺してやろう」そういって洞窟から出ていこうと踵をかえした。
フォン・ホルストは、かれのむこうを見やり、表の広間の松明がすっかり消えてしまっているのを知った――そのあたりは真の闇にとざされていた。それからかれは、音をたてぬようにさっと立ちあがり、そうしながらピストルをぬいていた。そして、ピストルをふりあげざま、トルプの脳天にただの一撃、はげしいのをくらわせた。ひとことも発せずにトルプは、その場にくずおれた。フォン・ホルストは、かれの松明をつかんだ。
「きたまえ!」低声でいった。
四人は、しのびやかに大洞窟をつっきって出口のひとつのほうへ走った。そして、けわしい傾斜路をのぼり、外の世界へと通じている回廊へ出た。やがて、この地下大洞窟のぼんやりほの暗い内部からとびだしたとき、その気味のわるい陰気な森ですらが、いままでの体験にくらべると、明るく美しく見えるのだった。
どれほどのあいだ監禁されていたのか、フォン・ホルストには見当すらつかなかった。しかし、長いあいだだったにちがいないという気がした。眠った回数も、わからなくなるほど多くをかさねていた。それに、スクルフを別にして三人はみんな、かなり体重がふえていたから、これでもかれらの幽閉が長いあいだのものであったことがわかる。かけ足でかれらは、〈死の森〉のいちばん近いはずれへつづくと思った方角へ進んでいった。というのもかれらは、脱走が発見されるまでに、かれら自身とゴルブス人の洞窟とのあいだの距離をできるだけ大きくあけようときめていたからだ。
体調が良好の状態にある場合、ペルシダー人は、たいへんな距離をすこしのおとろえも見せぬかけ足で踏破することができる。しかし、それほどでないうちにスクルフをのぞく全員が体力を消耗してあえぎはじめていた――かれらが長いあいだ監禁されていたのだということをしめす、いまひとつの証拠である。ついにかれらは、かけ足をゆるめて歩かざるをえなくなった。
「いつ、おたがいの殺しあいをはじめることにする、フルグ?」フォン・ホルストがきいた。「この協定は、われわれが逃げだすまでつづくものということにすぎなかった――というわけで、われわれは逃げだしたんだが」
フルグは、ホルスターのなかのピストルに視線をやり、物思わしげにあごひげをひっぱった。
「この森を出て、わかれわかれになるまでまつことにしよう」と提案した。「それから、ふたたび会うようなことがあったら、おれは、おまえを殺してやる」
「きみのためを思っていうが、二度と会うようなことがないように願おうじゃないか」フォン・ホルストは、声をあげて笑った。「しかし、それまでのあいだ、きみとスクルフがその協定を守るかどうか保証のかぎりではないな。ことにスクルフは、信用できる点がぜんぜんない」
「スクルフを信用しているやつはひとりもいないよ」フルグがこたえた。「しかし、おれたちがわかれてしまうまでは、おれがおまえたちのどちらかを殺すようなまねはしないってことは約束するよ。そしてスクルフには、もしやつがそんなまねをしたら、おれがやつを殺してやると、はっきりいっておく」
こんなあいまいな了解でフォン・ホルストは満足しなければならなかった。が、フルグのことばにある程度信用できるものがあると、かれは感じた。この男の気性自体が、表裏ふた心をもっているという可能性をいっさいしめだしているように思えたからだ。かれは、残虐で野蛮だったが、それと同時にあけすけで正直だった。もしかれに人を殺すつもりがあるのなら、かれは高いところにあがってそのことを世間に公言することだろう。ある男に背後からしのびよって、背中をつきさすようなタイプの人間ではなかった――これは、むしろスクルフにあてはまることだった。
といったわけで、かれらは先をいそいだ。そして、ついには予期していたよりもずっとはやく、森がうすくなり、木々の種類が変わってきた。やがて、あらたな世界ではないかと思えるようなところへ出た。いまひとたび真昼の太陽が、ひろびろとした森の樹間に生《は》えている青々とした植物の上に陽光をふりそそいでいた。花が咲き、鳥が歌っている。ほどなくかれらは、森の外縁に立った。むこうに広大な平原がひらけている。追跡されている気配はまったくなかった。ペルシダー人たちは、ゴルブス族があえてかれらの陰気な森から陽光ふりそそぐ中へと出てくることはまずないだろうと確信していた。
「やつらがこんなところまでおれたちを追ってくることはないだろう」フルグがいった。「これまで〈死の森〉の外でゴルブス人に会ったものはひとりもいないからな」
「では、眠る場所を見つけようじゃないか」フォン・ホルストが提案した。「休息が必要だ。それから、また先へ進み、どこかでわかれればいい」
「どちらへいく?」とフルグ。
フォン・ホルストは、うたがわしげにラ・ジャを見やった。「どっちへだい?」ときいた。
娘は、平原のむこうをゆびさした。
「そっちのほうへわたしもいくのだよ」と、フォン・ホルストはいった。
「おれたちは、こっちへまがる」フルグが左のほうをゆびさしていった。「森のへりぞいに進んでやりすごすつもりだ。二度と、〈死の森〉へははいらないだろう」
「じゃ、眠ったあとでわかれるとしよう」フォン・ホルストがいった。
「よし」とフルグ。「おまえを殺してやれるようにすぐに再会したいもんだな」
「きみというのは、そのめぐりのわるい頭のなかにひとつの考えがうかぶと、えらくそのことにこだわっているんだな」フォン・ホルストは、苦笑をうかべて批評した。
「眠る場所をさがすとしよう」バスティの族長がいった。「この断崖に洞穴があるかもしれん」
かれらは、その断崖をおりていけるような場所を発見した。そして、とある自然に形成された岩棚の上に岩層がはりだしてい、その下が浸食作用によって大きくえぐりとられてできたくぼみを見つけた。十二人ほどの人間が熱い陽光をしのぐことができたかもしれないほどの場所だった。
「きみが先に眠るんだ、ラ・ジャ」フォン・ホルストはいった。「そのあいだわたしが見張っている」
「わたし、ねむくないわ」と彼女。「あなたがさきに眠ったら。最後に眠ったのはわたしがあとだったもの」
フォン・ホルストが手足をのばしたのは、とある岩棚だった。はるかな過去の先祖にとっては寝心地のいいベッドだったかもしれないが、スプリングのきいた箱寝台と毛ぶとんとは雲泥の差があった。しかし、文明の虚飾をきわめてあっさりとぬぎすて、原始人へと先祖がえりしてしまったフォン・ホルストは、このむきだしの岩場にすこぶる満足しているようであり、たちまちのうちに眠りにおちてしまっていた。
目をさましたとき、かれは、長いあいだ眠っていたのにちがいないと感じた。完全に疲れがとれていたし、爽快この上ない気分だった。まず豪勢にのびをし、それからラ・ジャに声をかけるためと他の連中が目をさましているかどうかをたしかめるために寝返りをうった。と、何ということだ! あたりにはかれ以外のだれひとりいないのを発見した。フルグもスクルフもたちさってしまっていたし、ラ・ジャの姿も見あたらないのだった。
かれは、洞穴の前の岩棚の端へよっていき、平原のむこうを、左を、右を見わたした。人っ子ひとり見あたらない。最初、ラ・ジャがかれから逃げていったのだと、かれは思った。が、やがて、フルグとスクルフが彼女をかどわかしたのだと思いあたった。そのことばを信じきっていたバスティ族の族長の欺まんを思い、怒りと痛恨の念が胸中にどっとわきあがってきた。
そのとき、やぶから棒に別の考えがうかんできた。結局のところ、フルグは約束をやぶったことになるのか? かれは、殺さないと約束しただけにすぎないのであり、誘拐はやらないという約束はしなかったのだ。
[#改ページ]
十二 マンモス族
ひざの高さまでの青々とした草が一面に繁茂した平原が、その洞穴のある断崖の根方からのびひろがっていた。そして、フォン・ホルストは、いま立っているその高見から、つい最近ふみしだかれた新しい道が左のほうへつづいているのをみとめた。それは、フルグとスクルフがバスティへ帰るのに〈死の森〉をさけるためにたどるのだとフルグのいっていた方角だった。平原をつっきってロ‐ハールへむかっていく方角の草はふみしだかれていなかった。左手へただ一本、はっきりと道が残されているばかりなのだ――丈の高い草のあいだをぬけているかぎり、跡をたどるのが容易な道だった。
フォン・ホルストは、どれほどのあいだ眠ったのか知りたかった。そうすれば誘拐者たちがいつ出発したかについて、ある程度の見当がつけられるかもしれなかった。いまや、かれは、かれらが誘拐者であると確信していた。ラ・ジャがみずからすすんでかれらといっしょにバスティへひきかえしていくなど、およそ考えられないことだったからだ。その道筋は上からだと、きわめてくっきりとついているように見えたが、断崖の根方に到達してみると、それほどはっきりしたものではないことがわかった。よく調べてみると、三人が通って実際にふみつぶされたり、折れたりした草のみがたおれたままになってその道をとどめているのであり、あとはすべてもとの状態にもどっていることがはっきりした。この発見でフォン・ホルストは、たいへんな心配を感じた。ふたりの男と娘がかれよりかなり先へ進んでいることをしめしているように思えたからだ。
断崖の根方に、何か所か争ったあとを残していた。かなりのひろさにわたって草が折れ、つぶれていた。フォン・ホルストは、ここでなにごとがあったのか思いえがくことができた。ラ・ジャは、捕獲者たちから逃がれようとして、おそらくはかなりの抵抗を見せたものの、とどのつまり圧倒され拉致《らち》されたのだ。
かれはつったったまま、その、新たな未知の土地へとつづいているぼんやりついた道筋をながめやった。その道筋はサリからはずれており、かれには見当すらつけることのできない、いかに多くの未知の危険をはらんでいることか。その跡をたどるべきか? そして、なんのために? 三人に追いつける見込みはほとんどなかった。もし、かれらがバスティへ到達したら、かれに娘を救出できる可能性はまずなかった。なにゆえに、自分の生命を賭《と》してまで彼女を救おうとねがわねばならないのか。――失敗に帰すことはほぼ確実なことなのだ。彼女は、かれをきらっていた。注意してその事実をかくそうとするつつしみぶかさをしめしたことは一度もない。そして、たとえかれが彼女を救出したとしても、それだけの苦労の代価として野蛮な彼女の一族のものに殺されるのが関の山ということになるのだろう。かれは、ガズのことを考えた。何人もの男から素手で生命をうばったという恐るべき男なのだ。
もし反対の方角にまがれば、森のあの末端ぞいにいってダンガーのたちさった道をたどれるかもしれない。ダンガーのことが思いだされ、サリでかれをまっているあたたかい歓迎ぶりがさぞや楽しいものだろうと期待され、かれは、あこがれでいっぱいになった。道連れがほしかった。もう一度、友の手のぬくもりを感じ、あたたかい明るい微笑《えみ》を見たかった。冷淡や、うらみや、憎悪にはうんざりしていた。長嘆息してフォン・ホルストはむきを変えて左のほうへ、ぼんやりついた道筋をたどっていった。目の前のどこか遠くに、豊かな黄金色の髪をしたきゃしゃな姿がちらついていた。たぶん、かれを運命へとさそいこんでいく鬼火《ヽヽ》なのだろう。
「なぜ、こんなことをするのだろう」と、かれは、なかば声にだしていい、それから肩をすくめて未知の土地へと威勢よく進んでいった。
過去の経験や、ダンガーから受けた訓練が役にたち、かれは、ペルシダーの大地を徘徊する獰猛《どうもう》なけものにおびやかされた場合を考慮して、安全を求めるべきなんらかの避難所からあまり遠のくことがないように進む必要があると、たえず考えつづけていた。かれの身を守る方法で主要な要素となっていたのは、立木だった。かつて、これほど大きく立木というものがかれの意識のなかにあらわれたことはなかった。そして、実にしばしば木のあいだに避難所を求めなければならなかった。いまかれを避難所へ追いあげたのが巨大な洞穴ライオンだったかと思えば、こんどはどでかいタラグ、あるいは忘れれさられた時代のなにか恐ろしい爬虫類だった。
かれがたどった道筋に一ヵ所フルグとスクルフとラ・ジャの眠った形跡がみとめられた。かれもその場所で眠った。食物は、鳥や爬虫類の卵、道筋ぞいにある木々や灌木に実った果実、ダンガーあるいはラ・ジャがかれに見つけられ、それと見わけのつくように教えた、いろいろな食用球根などが手にはいった。野牛や穴熊といっしょに地上世界をかけまわっていた祖先の原始人がやっていたようにして、かれは、火をおこした。また、貴重な弾薬を浪費しないで肉が得られるように新しい弓と矢を作った。がんじょうな槍もこしらえ、その穂先を矢尻と同様に|やき《ヽヽ》をいれた。
かくて失われた時間を、かれは、はてしない真昼のなかをぐんぐんつき進むことでとりもどそうとした。そして、これ以上どうしようもなく疲労すると、やむなく停止して睡眠をとった。眠りから次の眠りまでのあいだしばしば、かれがあとを追っていた連中の眠った場所を一ヵ所、ときには二ヵ所そのままやりすごすことがあった。徐々にかれらに追いついているのだというこの確信は、かれを元気づけ、かりたてたが、それでも、かれの捜索がまったく絶望にように思われ、失意のどん底につき落されてしまうようなときもあった。
その広大な森は果てしもなくつづいているように見えたが、ついに横ざまに走る荒い低い山岳地帯の根方でおわっていた。ここでかれらの道筋をたどるのがめんどうになってきた。地面は、もはや丈の高い草が繁茂しているのでなく、しばしばかたく、石質の土地だったからだ。
山岳地帯のむこうにまた、別の平原が起伏し、そのあいだを大きな河がひと筋蛇行していた。かれは、最初その平原を、幾星霜《いくせいそう》の歳月のあいだ人間やけものの足で深くえぐられてきた古い道にそって山岳地帯をぬけ、たどっていた峠の頂上から望見した。森の周辺が河っ縁にまでせまり、かれの右手にどこまでものびひろがり、はるかかなたで大洋の青とも思えるようなものととけあってしまっている平原のそこいらじゅうに、こんもりとした林が散在していた。はるか前方では別の森が平原の境界をなし、いっぽう左手では連丘がぐるりと彎曲してい、遠くでその森と会《かい》していた。そして、目路のとどくかぎり、どこまでもけものの点在しているのが望見された。比較的手前のほうでは、野牛、赤鹿、カモシカ、バク、羊、草食の恐竜数種類の見わけがついた。
いっぽう、河っ縁にせまっている森の周辺にはマンモスの小山のような姿や、巨大なナマケモノがみとめられた。原始的な美をたたえ、興味をひく景観だったので、フォン・ホルストは、そのすばらしさに魅せられ、うっとりして数分間つっ立ったままでいた。その間《かん》かれは、眼下の景色以外のすべてをわすれていた。しかし、ほどなくかれのからっぽになった胃がかれをきびしい現実へひきもどしたのだった。だから、平原へむかってしのびやかにくだっていったのは、純粋に美のみを追求する人では決してなく、石器時代の原始的な狩人だった。連丘の根方に到達すると、かれは、森の周辺をなしている木々が提供する格好の遮蔽《しゃへい》を利用しながら河づたいに進んだ。森の端近くで数頭の羊が食んでいたのだが、かれは、その一頭が手にはいるかもしれないと思ったのだ。しかしかれは、羊がいかに用心深く、近くへしのびよるのがいかに困難か、よく知っていた。
河は、大きく彎曲してうねりくねって流れていた。フォン・ホルストは時を節約するために、その河がちょうど海へむかってなめらかにすべっていく大蛇さながらに、うねうねと大きく彎曲しているそのへりをめぐっている低い小丘をつっきって近道をした。小丘の中腹あたりにいると、かれには羊も見えなかったし、羊にもかれが見えなかった。それでもかれは、小丘のむこう側の斜面でどんな危険がかれをまちうけているかわかったものではなかったから、たえず用心をしながら先へ進んだ。このあたりはけもののふんだんにいる土地であり、そして草食動物のいるところ、かならず肉食獣がいるのである。
ひとつの小丘の頂上にのぼりつめたとき、かれは、やぶから棒にハタとたちどまされるようなものを目のあたりにした――横ざまにころがってうなっている巨大な、毛におおわれたマンモスだった。そいつは河のそば、どうやらけものの水飲み場か渡り場とおぼしきあたりのせまい平地に横たわっていた。そして、そいつが苦しんでいるということをしめしているのは、そのうなりのみでなく、同時にその巨躯が苦痛にふるえていることだった。フォン・ホルストも知っていたとおり、こうした巨獣はきわめて危険であるという事実にもかかわらず、一般的にかれらの外観にはきわめて人好きのするおだやかさがあり、その巨躯と堂々としたものごしにはどこかたよりになり、ものわかりのよさを暗示させるものがあったから、かれらを目のあたりにしていると、きまってかれは安心感をおぼえるのだった。もともと彼の内部には、これら現代の象の毛深い祖先にたいして、かなりの好意と尊敬の念をよびさまされていたのだった。
その一頭がこうやって苦しんでいるのを見て、かれは、そいつにたいする同情でいっぱいになった。そしてかれの、より冷静な判断力はよせと警告していたが、かれは、もっと近くへよっていって調べてみたい衝動をおさえることができなかった。
とはいえ、かれになしとげられるかもしれないことは、せいぜいどうみても念頭で漠とした憶測をめぐらす程度のことにすぎないが。かれがさらに近よったとき、そいつの小さな目がかれを発見した。頭をもちあげ、ラッパさながらの声をあげて怒ったように鳴いた。しかし、立ちあがろうとはしなかった。かくて、そいつがどうしようもない状態にあると確信したフォン・ホルストは、ずっと近よっていって、そいつを調べてみた。そうしているうちに、かれは、そのけものが横たわっている河っ縁の土の表面に何本もの先のとがった竹の切れ端が一インチかそこいらつきだしているのを見つけた。だから、かれは、その上をふみつけないようにたいへんな注意をはらって動かねばならなかった。
ほとんどすぐにかれは、そのけものがなすすべもなく苦しんでいる原因をつきとめた――これらの竹の切れ端が数本、おのおのの巨大な足の裏につきささっていたのだ。だから、そいつが立ちあがろうとすれば、それはたいへんな苦痛をあじわわずにはいられなかっただろう。その鋭い|くい《ヽヽ》が人間によって植えられたのはあきらかだった。その目的もきわめて明瞭だった。原始的な武器しかもたない旧石器時代の人類が大きなマンモスをたおし、なすすべもない状態におとしていれて安全に息の根をとめてしまうのに、これ以上てっとりばやい方法があるだろうか?
くいの植えられていることは、人間が近くにいることを暗示していた。そして、フォン・ホルストはすでに、この野蛮な世界の人間がすべからく敵であると確信するに充分な証拠をにぎっていた。注意深く四方に目をくばってみたが、人っ子ひとりいる気配はみとめられなかった。そこでかれは、ふたたび注意を窮境に陥《おとしい》れられたけもののほうにもどした。もしかれに、その竹の切れ端をとりのぞいてマンモスを立ちあがらせてやることができたとして、その苦しみさいなまれたけものからなにを期待することができるだろう? フォン・ホルストは、おぼつかなげに髪に指を走らせた。そのとき、けものがふたたびうなった。とても悲しそうだったから、かれは、えいままよとばかり、そいつの苦しみをやわらげてやるためにできるだけのことをしてやろうと決心した。
にょきにょき突きだしているくいのあいだをつたってその大きな足のほうへさらに近づいていきかけたとき、かれは、けものがすでに痛めつけられているくいをとりのぞかれたあとで立ちあがったとき、他の地面から突きだしているくいをふみつけるだけのことにすぎないということに気がついた。そこで、かれは、くいがつきだしているあたり一帯、河へとつづく道をよぎって幅六メートルばかりの地面からそれらの先のとがったくいをぬく仕事にとりかかったのだった。かれがそうしているあいだ、マンモスの目はたえず、かれのほうにむけられ、かれの一挙一動を見守っていた。
フォン・ホルストは、その巨獣の頭の近くでくいをぬいていたとき、そいつの片ほおに人間の手の幅ぐらいの範囲に白い毛が生えているのに気がついた。マンモスは数多く見てきたけれども、このように|しるし《ヽヽヽ》のついたのにはまだお目にかかったことはなかった。それは、まるでそいつが白い大きなほおひげをたくわえてでもいるかのように、そいつに族長然とした奇妙な表情をあたえていた。
フォン・ホルストは、くいをぬく仕事を進めているときになにげなく、その奇妙な|はん点《ヽヽヽ》に気づいたのだが、かれの関心はもっぱら、この巨獣が立ちあがることができたとき、なにをしでかすであろうかという問題を考えることに集中されていた。くいの何本かは、そいつの強大な鼻の近くに植えこまれていたが、フォン・ホルストは、他のと同じようにこれらもぬいた。自分のおかしている危険にはまったくとんちゃくしていなかった。そして、その小さな目はかれの一挙一動にすえつけられたままでいたが、それが陰気な憎しみからなのか、油断のない好奇心からなのか、かれには見当もつかなかった。
ついに、かれらにつきとめられたかぎりで最後のくいをひきぬくときがやってきた。つぎは、そいつの大きな足裏につきささったくいをぬいてやらねばならない。一瞬の躊躇《ちゅうちょ》もなくフォン・ホルストは、マンモスのうしろ肢のほうへ歩いていき、一本ずつ、その苦痛をあたえている竹の切れはしをぬいてやった。それから、前肢へいった。起伏する鼻を大きな、ギュッと彎曲した牙が容易にとどく範囲だった。きちょうめんにかれは、前足の裏から竹の切れはしをぬきはじめた。強力な鼻が大蛇さながらにかれの頭上で波打っていた。それがかれにさわるのを感じた。ぬれた鼻の先端がかれのむきだしの肌をはいずっている。やがてそれがかれをひと巻きしたが、かれは、そのことに注意をはらわなかった。なまじ慈悲をしめしたばかりに死をまねいたのだ。もはや相手の意のままだった。鼻がかれの胴をつつんでいる――そっと、ほとんど愛撫するように、決してしめつけてはこなかったし、かれの仕事のじゃまはしなかった。しかしかれは、自分にこれっぽっちでも変な動きがあったら、たちまちしめつけてくると感じた。死は目の前にせまっているように思われた。
最後のくいをひきぬいて、かれはゆっくりと身をたてなおした。しばしじっとしていて、それからごくおだやかに、そいつの鼻をつかんでかれからはずそうとした。なんらの抵抗もなかった。あわてずに、きわめて慎重に、かれは動作した。しかし、神経が極度に緊張していた。そして、ついに胴から鼻をはずし、ゆっくりと遠のいた。たちどまらずに、かれがそのマンモスを発見したときむかっていた方角へ、河づたいに進みつづけた。一瞬、かけ出したい――そいつが立ちあがれるまでになるたけ距離をあけておきたいという強い衝動にかられた。しかし、そうはしなかった。ときどき背後をちらとふりかえり、ゆっくりとなにげない様子で前進した。
けものは、しばらくのあいだじっと横になったままでいた。それから、その巨躯を地面からおもむろにおこしはじめた。ためすように、その体重を前肢にかけようとする。そうやってしばし動かずにいたが、やがてむっくりおきあがり、地面に四つ足立ちになった。二、三歩あるく。どうやら、足の痛みはたいしたことがないようだった。鼻をふりあげ、ラッパのような泣き声をあげた。それから、そいつはフォン・ホルストの道筋をたどってあるきはじめたのだった。
最初かれは、そいつがかれのあとをついてくるのではなく、ほどなきわきへまがって自分のいきたいところにいくのだとみずからにいいきかせた。しかし、そいつはそうはしなかった――フォン・ホルストの歩いている速さをかなりうわまわる速さでじりじりとかれのあとを追ってくるのだった。かれは、あきらめたように肩をすくめた。なんという感傷的なとんまだったことか! この野獣が感謝の念など感じることができるわけがないと、知っていてもよさそうなものだったのだ。あのままほったらかしておくか、さもなくば急所に弾丸《たま》を一発ぶちこんで苦しみをとりのぞいてやればよかったのだ。
いまとなっては、それも手おくれだった。いまにそいつは、かれに追いつき、かれをつきとばすだろう。道筋をたどりながら、そんな思いをめぐらしていた。そいつがかれに追いついた。くねった鼻がやぶから棒にかれにまわり、かれは地面からうきあがっていた。「これで」と、フォン・ホルストは思った。「一巻のおわりかな」
マンモスは、たちどまってかれをうしろのほうへ、そいつの右側へ移し、そこでかれを地面へおろした。しかし、鼻はそのまま軽くかれにまわしたままで、かれをそいつの横腹にむかせていた。フォン・ホルストがそこに見たものは、このけものが聡明であるということをかれにさとらせたのだった。そいつがさっき下にして横たわっていたからだのこちら側に、かれが足裏からぬきとってやったと同じ竹の切れはしがびっしりつきささっていたのだ。マンモスは、こちらのほうもこの男にぬきとってもらいたかったのである。
フォン・ホルストは仕事にとりかかりながら、安堵の吐息をついた。そしてやりおえると、いま一度、たどっていた道筋を進んでいった。目のすみからかれは、マンモスがその場でくるりとむきを変え、反対の方角へ去っていくのを見た。しばらくすると、けものは見えなくなった。フォン・ホルストは、涙もろい感傷的なことだとみずからに評していた感情がかれをおとしこんだ険悪な状態からなにごともなくぬけだせたという気がした。しかし、すっかりおわってしまい、巨獣の姿が見えなくなってしまったいま、かれは、そいつを助けにいってやってほんとうによかったと思った。
ふたたび例の羊への接近を開始したとき、一時的にわすれていた空腹がよみがえってきた。小丘の頂上からかれは、羊たちを見やった。いま一度かれは、更新世の原始的な狩人だった。弾帯と四十五口径のみが、かれを石器時代の祖先たちと外観の点でちがって見させているにすぎなかった。ところが、河をへだてた右手の奥に、かれは、なにか他のものを目撃した。最初の一瞥でかれは、それが山ろくの連丘からゆるやかな傾斜でひろがっている平原を、河のほうへと近づいてくる一群のマンモスだと思った。しかし、すぐさまそれだけではないことを知った――その巨獣のそれぞれの首のあたりにひとりの男がまたがっているのだった。
それを見てフォン・ホルストは、ジャ・ルのマンモス族、ソレクのことを思いだした。かれらはきっと、そのマンモス族なのにちがいなかった。たぶんかれのむかっている土地がジャ・ルだったのだろう。しかし、かれがソレクとなかよくやっていたという事実は、だからといってこの以前の奴隷仲間の野蛮な一族からの歓待を保証するものではない。そう期待するのは、はなはだしい錯覚である。かれの思慮分別は、目撃されないようにしろとかれに忠告した。そこでフォン・ホルストは、用心しながら丘をくだって河のほとりに生えている林のほうへ進んでいった。そこだと、かれらから見られないように身をかくし、自分のほうからは一行の近づいてくるのを見張っていることができる。
その林に到達したとき、かれは、まだ赤いキャンプの焚火のおきをそこにみとめて、心臓がおどるのをおぼえた。いまや、そのあとを追ってきたラ・ジャとその誘拐者に接近しているとわかったからだ。ここからかれらはどっちへいったのだろう? かれらがそう遠くにいるはずはない。たとえいくら時の存在しないペルシダーが人間の感覚をあざむくとしても、燃焼の法則までおかしくすることはできない――火は、地上世界の場合と同様の早さで木を燃焼させ、そのおきはおなじぐらいの長さのあいだ赤い状態をたもつはずで、それ以上長いということはないだろう。
かれは、そのキャンプされたあたりの地面をいそいで調べた。その間、ラ・ジャは近くにいるのだという思いに、津波のようにおしよせてくるフルグとスクルフにたいする怒りに、マンモス族たちのことはわすれ去ってしまった。誘拐者たちへの怒りは、いまや復讐心にまでたかめられていた。ホルスターにおさまった拳銃をすぐぬけるようにゆるめた。相手が命ごいしてもゆるすことはないだろう。二頭の狂犬を射ちたおすようにかれらを射ちたおすだろう。いまかれが思いをめぐらしている行為の妥当性については疑問の余地がない。これほどあっさりと人間というのは、うわべだけのうすっぺらな抑制などかなぐりすててしまうのだ。教養がそうした抑制で人間の基本的な本能や特性をかくすことはできても、すっかりなくしてしまうというわけにはいかないのである。ここには、自分なりにつくりあげたもの以外に自分にあてはまる掟《おきて》はないのだった。
つぶさに調べてみて、かれは、河っ縁のやわらかい地面にさがしもとめている人たちの足跡を発見した。すべてかれらのものであるとの見わけがついた――男たちの大きな、ぶかっこうな足跡、小さく、完璧な形のラ・ジャのそれら。足跡は河へとつづき、ひきかえしてはいなかった。それで、かれらが河を渡ったのだということがわかった。かれは、その方角を見やり、いましもじりじりと接近してくるマンモス族たちに目をとめた。いまではずいぶんと近づいており、その軽快な大またの足どりでマンモスたちはみるみるこっちへやってくるところだった。
ずっとむこうの河岸に木々や灌木の茂みがあり、あたかもだれか腕のよい造園技師の手で植えられでもしたかのように、他とは切りはなされた木立ちとなって生長していた。こうした茂みの二つのあいだにはいってしまうと、まだマンモス族の姿を見ることはできるが、右ないしは左手をあまり遠くまで見とおすことができなくなる。求める連中のあとを追って河を渡りたかったが、さりとてマンモス族の注意をかれにひきつけるようなことはしたくなかった。用心しいしいかれは、むこう岸にある灌木の茂みが接近してきつつある戦士からかれを見えなくしてくれるところまで、流れをくだっていった。それから、ひょっとしたらいるかもしれない危険な爬虫類のことなど気にもかけないで、流れのなかへ飛びこんだ。河幅は広くもなかったし、水流も速くはなかった。力強く数回水をかいただけでむこう岸についていた。そこでふたたび、三人の道筋をさがした。たいして手間をかける必要はなかった。ほとんどすぐに、かれらの道筋がマンモス族のやってくる平原へとつづいているのを発見したからだ。
すぐさまその跡をたどることは、接近してくる戦士たちに自分の姿をさらすことになる。かれらは、すでに四分の一マイルとはなれていないところまできていたから、いまかれが姿をさらしたら、かれらがかれを見のがすことはありえないだろう。かれらは、わずかばかり進路を変えて、いまでは河の流れにほぼ平行して河上へと移動していた。ほどなくかれのわきを通りすぎていくだろう。そうすれば、発見される危険もなくラ・ジャの捜索を再開できる。灌木の茂みの背後に身をかくし、顔をちょっとだけのぞかせて、かれは待機した。かくて、マンモス族をじっくりと見守ったのだった。かれらは、一様の速度で自分たちの進路を移動していた。まるで、その単調さがあふれるばかりの元気をも、しゅんとしぼませてしまう行軍をつづけている、年齢がまちまちの軍人たちのようだった。
ところが、にわかに変化がおこった。河のほうを見やっていたひとりのマンモス族が、やぶから棒にマンモスを止めて、仲間たちにさけんだ。フォン・ホルストが身をひそめている地点のわずかに下手にあるらしいなにかをゆびさしている。すぐさまそいつは、乗っているマンモスの速度をのっしのっしと歩く状態から早駆けへと移しながら、ゆびさしたほうへ進みはじめた。かれのあとを、残る連中が一団となってついていく。
その戦闘好きな一行の姿は、フォン・ホルストにとってきわめて野蛮で、原始的に見えた――絶滅したマンモスの背にまたがる、はるかな過去の男たち。野蛮な力の生気あふれる記念碑。ヨーロッパ人は、戦慄がつっ走るのをおぼえた。と同時に、好奇心もわいた。その戦士は、なにを目撃したのか? かれらが接近しつつあるのは、あるいは追跡しているのはなんであるのか? 発見される危険をおかしてフォン・ホルストは、マンモス族がいましも近づきつつある方角の谷を見おろすことができるところまで、身をかくしていた茂みのはずれをめぐってこっそりと移動した。
最初、かれにはなにも見えなかった。塚といってもさしつかえないくらいの小さな丘がかれの視界をさえぎっているのだった。マンモス族の注意が、なんであるにせよかれらの前方にある獲物にひきつけられ、かれらが自分に気づくことはないだろうと確信したフォン・ホルストは、その塚のほうへと這い進み、頂上からそのむこうが見えるところまで斜面をのぼった。かれが前方に見たものは、かれの心臓を口までとびあがらせるほどのものだった。
[#改ページ]
十三 とらわれの身となって
フォン・ホルストは、そのかくれ場からおどりだし、平原へかけだしていった。そうしながら拳銃に手をのばしたが、ホルスターはからになっていた。ひきかえして、武器をさがしているひまはなかった。河へとびこむ前にホルスターのなかで拳銃がすぐぬけるようにゆるめたのを思いだした。そのときに拳銃は落ちてしまったのだと、かれは推論した。まったく悲劇的な損失だったが、だからといってかれにはそれをどうするすべもなかった。それに、かれが眼前に目撃したものは、他のあらゆる考慮をうしろのほうへ追いやってしまうのだった。平原にとびだして河のほうへかけていった。いま、マンモス族に追跡されているのは、三人の人間だった。フォン・ホルストは、瞬間的にかれらがラ・ジャとその誘拐者たちだとわかった。
河の両岸に点在している木々は、つい前方でやや濃密になり、小さな森を形成していた。いましも三人は、そのほうへかけていくところだった。スクルフがラ・ジャの手をつかんでいて、彼女をひっぱっていた。いっぽう、フルグがその背後にぴったりくっついている。ラ・ジャはかけてはいたが、スクルフの手をふりほどこうとしているのはあきらかだった。そんな彼女をフルグは、ずしりとした木の枝でなぐりつけ、もっと速く走らせようとあおりたてているのだった。もし、かれらに遅延をきたさせるものがなにもなかったら、三人がマンモス族に追いつかれない先に森へ到達するのはたしかのようだった。もっとも、間一髪のきわどいところではあろうが、たぶんそのときは、かれらはのがれられるかもしれない。しかし、ラ・ジャは、かれらをおくらせようとしていた。フォン・ホルストに想像することができるかぎりにおいて、理由はひとつ、バスティ人たちの捕虜のままでいるくらいならマンモス族にとらえられるほうがましだと、彼女が考えていることだった。
フォン・ホルストの胸中に、娘に打ちかかっているどでかいけものにつかみかかりたいという強烈な欲望がつきあげてきた。生まれてこのかた、これほど圧倒的にひとりの敵を殺してやりたいという本能がかれを支配したことは一度もない。はげしい憎悪と、血への渇望に、かれは、つき進んでいるマンモス族の脅威をわすれてしまってすらいた。
かれは、横手のちょっと後方から斜めに三人に近づいていったが、かれらは、おたがいのことと逃げることに集中していたあまり、フォン・ホルストがほとんどかれらに追いせまってフルグに女を打つのをやめよとぶっきらぼうにどなるまで、かれを見なかった。スクルフの目にすでに現われていた恐怖の表情に、あらたな恐怖の色がくわわり、ラ・ジャの目にパッと新たな希望の表情がうかんで、その唇に歓喜のさけびがのぼった。ただのひとこと「フォン!」と声にだした。そのただの一音節のことばに、どれほど大きな安堵と希望がこめられていたことか! フォン・ホルストの命令に、うなるようにおまえかとこたえたフルグの口調には驚きと怒りがこもっていた。ふたたびラ・ジャを打擲《ちょうちゃく》することで、かれにたいするあざけりをあらわした。そのとき、ちょうど森のはずれで、フォン・ホルストはかれにとびかかり、脳天をねらった。ふたりは、どうと地面に倒れ、花の咲きみだれる芝生の上をころげまわった。たがいに、このはたしあいで相手を死へ追いやろうとねがっていた。
ふたりとも、甲乙つけがたい力持ちだったが、フルグは、体重で十五キロほど相手をうわまわっていた。しかし、この有利な条件も、フォン・ホルストの敏捷さと技《わざ》とで帳消しにされた。たがいの念頭にあるのは、相手の息の根をとめてやろうということだけだった――あとはすべてわすれ去られていた。ふたりは、相手の喉もとにつかみかかろうとたたかい、相手の顔面に痛烈な打撃をくわえた。洞穴男は、不平をならし呪詛《じゅそ》した。フォン・ホルストは、だまって戦った。そうしているうちにマンモス族がやってきて、かれらをとりまいていた。巨大なマンモスから十二人ばかりがとびおり、ふたりに襲いかかった。かれらもまた、力のある男たちだった。組み打っているふたりをひきはなし、捕虜にしてしまった。
フォン・ホルストがラ・ジャはいずこと周囲を見まわす機会を得たのはそのときだった。彼女の姿はどこにも見あたらない。スクルフも見えなかった。マンモス族のリーダー格の男もふたりをさがしていたが、かれらがいなくなっているのを知ると、その捜索のために部下の何人かを河むこうに渡らせた。あとのものは、巨獣の二頭にフォン・ホルストとフルグをおのおの頭部、乗り手たちの前部へもちあげさせてから、めいめいのマンモスに乗った。それから、でかけていったラ・ジャとスクルフの捜索隊の帰りをまつこともなく、かれらは、三人を発見して行進が休止させられた時点で進んでいた方角へとふたたび移動しはじめた。
マンモス族は、自分たちにたいへんな自信をもっているようだった。だから、捕虜の手首をしばりあげることすらしなかった。逃げようとしてもむだだといっているのも同然だ。フォン・ホルストは、まさしくそのとおりであるということをこれっぽっちもうたがわなかった。リーダーと、他の何人かがかれに質問した。名前をきき、どこからやってきたか、どこへいくつもりだったのかと質問した。かれらは、粗野で思いやりのない男たちだった。他国者《よそもの》を例外なく憎んでいるということをさとるのは、ぞうさもないことだった。ペルシダー人のこうした特質にはきわめてよくなれていたフォン・ホルストだったから、自分が友好的で、道理をわきまえていて、正義を重んじる人間だということをかれらに納得させようとの努力はしなかった。そんなことをしたところで、エネルギーと呼吸《いき》を空費するのがせきの山ということになっていただろう。
河をさかのぼっていくうちに、かれらはやがて、前方に一頭の巨大なマンモスの姿をみとめた。完全に見とおしのきく平原にいたから、そいつにしのびよることはできなかった。が、あきらかにかれらは、そいつを特別手にいれたがっていた。
「あいつだぜ」と、ひとりがいった。「やつは、目に見えるかぎりすぐにやつだとわかる」
「あのわなにはかからなかったようだな」リーダーがいった。「やつは、えらくりこうだから、わななんぞにかかるわけがない」
「おれたちがもしやつをつかまえたとして、やつがなんの役にたつ?」別のひとりがきいた。
「物騒なやっかいものだぜ。すでに、おれたちが知っているだけでもやつを狩ろうとした十人の男を殺してるんだ。もうやつは調教できやしない。年をとりすぎてるからな」
「アムスがやつをほしがっている」とリーダーがいった。「それで充分よ。アムスは族長なんだ。かれは、あの小峡谷でやつを使うのだろう。おれたちをたっぷり楽しませてくれるだろうぜ」
その巨獣は、かれらが最初みとめたときには平原をつっきってむこうへ進んでいたのだが、いまやむきを変えて、かれらのほうをむいていた――マンモス族が乗っているどのマンモスよりも大きかった。
「たしかにあいつだ」フォン・ホルストがその前方に同乗させられている戦士がいった。「アー・アラ、マ・ラーナだ」
フォン・ホルストがはじめてそのけものの左ほおにあるかなり広い白い毛の部分に気づいたのはそのときだった。「アー・アラ、マ・ラーナ。〈りこうものの白ひげ、殺し屋〉か」フォン・ホルストはしみじみいった。殺し屋! いまにしてかれは、その巨獣にのこのこ近づいていったりして、なんというむこうみずなことをしていたかをさとった。とはいえかれは殺されなかった。という事実は、その巨獣が相当の知能をさずけられているのみならず、感謝するという感覚もかなり発達しているということを暗示していた。かれがいまだに生きいるのをこう説明つけるほかはなかった。
一行のリーダーは、いくつか指示を発した。戦士たちが散開し、〈りこうものの白ひげ〉を包囲しはじめた。マンモスは、かれらのほうをむいたまま、いっこうに逃げようとしない。
「トログがやつを狩りたてようとしている」フォン・ホルストといっしょにいる戦士がいった。
「もし、アー・アラを連れ帰ることができれば、かれは、偉大な男になるだろう」
「そうできるかな?」と、フォン・ホルスト。
戦士は、肩をすくめた。「陽光にさらされた十人の戦士の骨が、生きたやつの口よりもぴったりした返事をくれている」
戦士たちはおもむろに、半円をえがき、それからアー・アラの背後へとまわっていった。やがて、むこう側で横列隊形をしき、かれらは前進した。いっぽう獲物は、またむきを変えてかれらに面とむかった。小さな目がかがやきを発し、頭が左、右にゆれる。それにつれて、鼻がゆっくりと波打った。戦士たちが、喚声をあげ、槍をしごきはじめた。さらにつめよる。けものがむきを変えて逃げだそうとしないのが信じられないことのように思えた。しかし、そいつはそうしなかった――アー・アラは、その場につったったままでいた。
にわかにそいつは、鼻をふりあげ、甲高い鳴き声をあげて突進した。横列隊形――切れめのない線列の中央めがけてまっしぐらにつき進んだ。マンモスたちは、たがいに横腹をふれあうようにしてならんでいたのだった。アー・アラは、頭を低くたれた。そして、ぶちあたっていったとき、二頭のマンモスがうちたおされていた。そいつらのわきを通りすぎざま、かれは、乗り手のひとりをつかみあげ、十五メートルも先へほうりなげた。ついで、そのわきをとおりすぎるとき、かれは、その男をふみつぶした。そのあとかれは、一行にはぜんぜん注意をはらう様子もなく、じゃまされる前に進んでいた方角へ悠然と歩いていった。その風情《ふぜい》全体がフォン・ホルストには、あえてかれの前進を遅延させた人間たちにまっこうから軽侮《けいぶ》をたたきつけているように思えるのだった。
トログは、無念そうにかぶりをふり、河のほうをむいた。倒れた二頭のマンモスが立ちあがった――その一頭には乗り手がいなかったが、そいつは、他のマンモスたちのあとについてきた。平原にくしゃくしゃになって横たわる戦士にすこしでも注意をはらうものはひとりもいなかった。たぶん、かれは死んでいたのだろうが、あるいはひょっとして死んでいなかったかもしれないのだ。これらの人間が人命をきわめて軽視し、同情心というものをまったくもっていないことが、フォン・ホルストにはっきりとわかった。ソレクが、ふたたび会うようなことがあったら、ふたりは友だちとして会うことになるだろうとほのめかしていたことを思いだすだろうかと、かれはいぶかった。いまや、かれはソレクの仲間たちの捕虜となっているのだから、かれとあいまみえることがありそうだったからだ。いっしょにバスティ族のもとからのがれた男のことを思いだしたかれは、背後に乗っている戦士のほうをふりむいた。
「ソレクを知っているかね?」
「ああ、どうしてやつのことを知っている?」
「われわれは友だちなんだ」
戦士は、声をあげて笑った。「他国者は、マンモス族の友だちであることはできない」
「ソレクは、バスティから帰ったのかね?」フォン・ホルストがきいた。
「いや」それからやぶから棒に、「おまえの名はなんという?」
「フォンだ。もしソレクがここにいたら、かれは、われわれが友だちだというだろう」
「うん、たぶんソレクは、おまえの友だちなんだろう。しかし、他のマンモス族のものはそうはならんだろうな。他国者と友情をわかつというのは、戦士の弱点なんだ。他国者は殺されるべきものなんだよ。そういう運命にあるからこそ、他国者ともいえる。もし他国者がいなかったら、仲間をのぞいて殺せる人間がひとりもいなくなる。そいつは、一族にとってよからぬことだろう。おれたちはおっつけ、仲間うちで殺しあいをおっぱじめる。人間というのは、戦い殺さねばならんものと相場がきまっている。それが戦士の活力というものだ」
ほどなくかれらは、河へやってきた。そして、本来の渡り場よりわずかに上手を通ってその河を渡った。それからトログと他の何人かがマンモスからおり、河へとつづいていく道筋の地面を調べた。フォン・ホルストは、興味|津々《しんしん》としてかれらを見守った。その場所がどこだか先刻承知していたからだ。男たちがそこで発見したことに驚き、怒り心頭に発するのがかれにはわかった。
「アー・アラはここに倒れていたんだ」トログがさけんだ。「血があるぞ。しかし、|くい《ヽヽ》はどこへいったんだ? みんなぬかれてしまってる」
「やつは、おれたちの布陣を突破したとき、おれのそばを通ったんだが、そういえばやつの右脇腹に泥と血がついていたぜ」ひとりの戦士が意見をのべた。
「やっぱり、やつは、ここに倒れてたんだ」トログがうなるようにいった。「おれたちは、やつを手にいれたんだが、それにしてもどうやって逃げだすことができたんだ?」
「やつは、年をくってるし、それにりこうだからな」ひとりがいった。
「いや、足の裏からくいをぬいたり、脇腹からぬいたり、地面からそっくりひっこぬいてしまったりするほど年を食っちゃいなかったし、りこうでもなかった。そんなわけがない」トログが異議をとなえた。「こんなまねは、人間にしかできないことだ」
「ここに人間の足跡がある」ひとりの戦士がさけんだ。
「しかし、どこのどいつがあえてアー・アラに近づき、やつからくいをぬいたのだ? 人間がやったんだとすれば、そいつの死骸がどこかそのへんにころがってるはずだ」トログがかぶりをふった。「どうもよくわからんな」
かれらは、フォン・ホルストがほうりなげたところにそれらの|くい《ヽヽ》を発見した。そして、いま一度河の対岸に細心の注意をはらって植えこみ、巧妙に隠蔽《いんぺい》した。それからかれらは、マンモスに乗り、フォン・ホルストがはじめてかれらを目撃したとき、かれらがやってきていた方角、低い山岳地帯へとひきかえしていった。
「ま、そのうちにやつをつかまえるさ」フォン・ホルストといっしょの戦士がいった。
「どうやって?」と、ヨーロッパ人。
「くいが足につきささると、その痛みは立っていられないほどすごいもんだ。タンドールの足裏は厚いが、非常に敏感だからな。またやってきてやつが倒れているのを発見すると、おれたちは、マンモス皮のごついひもをやつの首にひっかける。このひもで三頭のマンモスをやつの側面にしばりつける。こうした仕事むけに調教したマンモスだ。それからおれたちは、やつの周囲の地面と、やつの足の裏からくいをぬいて、やつを立ちあがらせる。そのあとはなんということはない。息のつまるのがいやだという気になるまで、六頭のマンモスがやつをひっぱりまわすんだ。そのあとはおとなしくいうことをきく」
「もしきみがアー・アラを手にいれたら、かれを調教することができるかね?」フォン・ホルストがきいた。
戦士がかぶりをふる。「やつはきわめて危険なやつだ。マムスは、やつをあの小さな峡谷へとじこめるだろう。おれたちを大いに楽しませてくれるぞ」
「どうやって?」
戦士は、フォン・ホルストを見てニヤッとした。「おっつけおまえにもそれはわかるさ」といった。
一行は、山麓の連丘に到達すると、こんどは広大な台地へとのぼり勾配でつづいている、かなりふみならされた道を進んでいった。大地には、そのむこうの山脈からいくつかの壮大な峡谷がのびている。そして、一面に青草が生い茂り、峡谷の入口から発している幾筋かの流れが交差していた。トログは、峡谷のひとつへその野蛮な部下たちをみちびきいれた。峡谷内のその荘厳華麗な景観は、すこぶる印象的であり、その間フォン・ホルストは、絶体絶命の状態にある自分の立場などほとんどわすれはてていたほどだった。入口はせまかったが、中へはいってみるとその峡谷は、周囲をきりたつ断崖にかこまれた非常に広大な美しい谷間をなしていた。周囲の断崖は、ところどころ小さな谷へとつづく入口で分断されている。峡谷の底部を流れがひと筋くだっていて、木々や、花をつけた潅木が奔放に生い茂り、川では魚がはね、有史前の無気味な形や色あいをしたさまざまな鳥が木から木へと飛びかっている。
フォン・ホルストは、溜息をついた。「なんという美しいところなんだ」と思った。「ここにラ・ジャとふたりきりでいれるのだったらな」
ラ・ジャ! 彼女は、いったいどうなったのだろう? スクルフからのがれただろうか。それともまだかれにつかまったままでいるのだろうか? それぐらいなら、ここに、マンモス族といっしょにいるほうがよかっただろう。すくなくとも、わるくなるということはない。彼女にとってスクルフほどいやな人間はどこをさがしてもいるはずがなかったからだ。すくなくとも、彼女がここにいれば、たとえ彼女のために何ひとつしてやることができなくとも、信頼のおける友がひとりはいるのだ。
フォン・ホルストは、溜息をついた。二度とラ・ジャには会えないだろうという予感がした。それゆえにこの野蛮な世界が、いままでとはくらべものにならないくらい生きるのにきわめてきびしい場所になろうとしていると、かれはやぶから棒に感じたのだった。なにをもってしてもおきかえることのできない何かが、かれの生命からぬけだしてしまっているのに気がついた。そしてたぶん、自分にたいしてすらそれをみとめることがかれの自負心を傷つけたのだろう。あの娘はたしかに、かれというものが彼女にとってこれっぽちの意味をもっていないのだという|あかし《ヽヽヽ》をいろいろな場合にたっぷりと示した。しかし、かれは、マンモス族がかれらを永遠にひきはなしてしまう直前、彼女がかれをみとめてよびかけたとき、その声にこもっていたあわれをさそう、請《こ》い求めるようなひびきをわすれることはできなかった。
こんな悲しいおもいにふけり、意気消沈したかれにとって、このさき自分がどうなるのかといった問題はなんの意味あいもないように思えてくるのだった。マンモス族がかれになにをしようと、いっこうに気にならなかった。手っとりばやくかたづけば、それだけ世話がなくてよいというものだ。心配してやらねばならぬ相手のひとりもいないのだから、死のうが生きようがかわりはない。たとえいまの窮境からのがれることができたとしても、地上世界へ帰れるチャンスはこれっぽっちもないのだし、サリへいきつける可能性も、ほぼ同様にないといっていい。
かれがこうしたみじめな思いに心をうばわれているうちに、一行は、小峡谷のひとつへと進路を転じた。その後まもなく、高い断崖の表面にいくつもうがたれているマンモス族の洞穴が前方に見えてきた。かなり大勢の男、女、子供たちが断崖の根方、木立ちが真昼の太陽の強烈な光をさえぎっているその下に集まっている。女のあるものは、料理用の焚火の周囲でいそがしくたちはたらいており、またあるものは、サンダルや腰布をせっせと作っていた。男たちは、石をそいで武器を作ったり、槍の柄《つか》をけずって形をととのえたりに熱中しているものもいれば、ただのらりくらりしているものもあった。一行が帰ってきたのを目撃すると、かれらは、なんであるにせよいままでうちこんでいたことを中止して、捕虜たちを点検し、ついたばかりの戦士たちと雑談するために周囲に集まってきた。
トログがすこぶるもったいぶった格好で、「マムスはどこだ?」ときいた。
「自分の洞穴で眠っているよ」ひとりの女がいった。
「いっておこしてきてくれ」とトログ。
「自分でいったら」と女。「わたしは殺されたくないわ」
一行の他の戦士たちといっしょにマンモスの背からおりていたトログは、その女のすぐそばに立っていた。そして彼女がことわるや、かれはすばやく槍を一閃させ、その柄で彼女をなぐって昏倒させた。やおら、いまひとりの女のほうにむきなおる。「いってマムスをおこしてこい」といった。
女は、かれに冷笑をあびせた。「グヴァには男がいないわ」といった。「でも、わたしにはいる。その槍でわたしをなぐりたおすことはできないでしょう。グヴァにだって男がいたら、あんたは、彼女をなぐりたおしなんかしなかったはずよ。自分でいって、マムスをおこしたらいいわ」
「おれは、おまえの男など恐れちゃいない」トログがうそぶいた。
「じゃ、どうしてわたしをなぐりたおさないの」女がなじった。「わたしは、マムスをおこしにいく気などないのよ」
周囲に集まっていた連中がトログを嘲笑しはじめ、かれの狼狽と怒りをあおりたてた。顔面に朱をそそぎ、かれは、その場につったって槍をひらひらさせながら、周囲の連中を次々に見やっている。
「なにをさがしてるんだい――男のいない女、それとも親のない子供?」
「おぼえていろよ」トログは、うなるようにいって、それからフォン・ホルストに視線をむけた。
「いって、マムスを起こしてこい」命令口調でいった。
ヨーロッパ人は苦笑した。「どこにいるんだ?」ときく。
トログは、断崖の中途あたりにある洞穴の入口をゆびさした。「あそこだ」と、うなるようにいった。「さあ、いってこい!」槍をふりあげ、フォン・ホルストに打ちかかった。捕虜はひょいと身をひいて、とんできた槍をつかんで相手からひったくってしまった。それからかれは、そいつをひざにあてがってふたつにし、マンモス族の足もとの地面にたたきつけた。
「わたしは、女でも子供でもない」といって、かれは、むきを変えて断崖のほうへ、マムスの洞穴のほうへといきはじめた。かれの耳に一族の叫ぶのや笑うのがこだました。
「殺してやる!」と、トログがさけんで、石のナイフをぬきながらかれのあとを追いかけた。
フォン・ホルストは、くるりときびすをかえし、マンモス人間の猪突《ちょとつ》猛進をまちうけた。ナイフを頭上にふりかぶり、トログはどっとつっかかってきた。相手がナイフをふりおろした瞬間、フォン・ホルストはその手首をつかまえ、と見るや身をひねりざま低くこごみ、相手の腕を肩にまわして頭上ごしに投げとばした。トログは、どうと地面にたたきつけられていた。フォン・ホルストは、そのまま断崖のほうへと歩みつづけ、マムスの洞穴へとつづいている荒造りの梯子《はしご》をのぼっていった。肩ごしにちらとふりかえってみると、トログは、たおれたその場にまだころがっていた。どうやら気をうしなっている様子で、群集がてんでに大声をあげて笑っている。フォン・ホルストには、かれの行為がかれらに毛ぎらいされていないこと、トログがあまり人望のあつい人物でないらしいことが、それでわかった。
フォン・ホルストは、マムスをおこしたとき、かれの出方で自分がどれだけの人気者になるだろうかと思った。というのも、かれがいまきいたばかりのことから判断して、マムスというのは、眠りから目ざめさせられるのがお好みのようではなかったし、それに、これらの人々がいかに原始的、つまりそぼくであるか、かれらが自分たちの気性を制御することがいかにすくないか――そぼくな人間はどこの場合も同じであり、教養がゆたかだと思われていても、そぼくな心をもった人なら、やはりその例にもれないのだが――たったいま、目のあたりにしたばかりだったからだ。ついに洞穴の入口に到達したフォン・ホルストは、なかをのぞきこんだ。しかし、内部の暗さゆえに、なにひとつ見ることができなかった。マムスの名前を大声で呼んで、まってみたが、返事はない。下の笑い声はやんでいた。かれらは、上をじっと見つめ、フォン・ホルストの向こう見ずぶりの結果がどう出るのかと期待をこめて、緊張してまちうけていた。
フォン・ホルストは、もう一度呼んだ。前よりも大声をだした。こんどは返事があった――雄牛の咆哮さながらの返答だった。そして、内部で身動きする物音がした。それから、まさしく小山のような男が洞穴から姿をあらわした。髪はくしゃくしゃ、あごひげはもつれ、眼はねむたげでもうろうとし、血走っている。フォン・ホルストを見ると、ハッとして立ちどまった。
「おまえはだれだ?」ときいた。「なぜマムス様をおこした? 殺されたいのか?」
「わたしは捕虜だ」と、フォン・ホルスト。「トログは、きみをおこすのを自分でやるのが恐いから、わたしをよこしたのだよ。それから、殺されるということに関するかぎり、どうやら、わたしはそのために捕虜にされたようだね」
「トログがおまえを寄こしただと?」マムスがきいた。「やつはどこにいる?」
フォン・ホルストは、断崖の根方、まだトログがころがっているほうをゆびさした。マムスがそっちを見おろす。
「やつはどうしたのだ?」
「短剣でわたしを殺そうとしたので」と、捕虜は説明した。
「で、やつを殺《や》ったのか?」
「いや、そうではないと思う。ただ、気をうしなっているだけのことだろう」
「やつは、おれになんの用があったんだ?」
「かれが連行してきたふたりの捕虜を見せたかったのだよ。わたしがそのひとりだがね」
「そんなことでおれの眠りをさまたげたのか?」マムスは不平をならした。「これでおれは、もう眠ることはできん」梯子をゆびさす。「おりろ」
フォン・ホルストは、命じられたようにした。マムスがそのあとにつづく。かれらが下へおりついたころには、トログが意識を回復しつつあった。マムスが近より、かれの上に立ちはだかった。
「ソ・ホ!」と、かれはさけんだ。「きさまは、自分でやってきてマムスをおこすのがこわくて、あるいは洞穴のなかへそっとしのびこんで、眠っているマムスを殺していたかもしれない捕虜をよこしたのか。きさまはまぬけだ。それに、この捕虜に頭をなぐられて、正気をうしなってしまうとはな。おまえは、りっぱな族長代理だよ。なにがあったのだ?」
「やつは、おれの見ていないうちに大きな石かなにかで頭をぶんなぐったのにちがいない」トログがいった。
「そうじゃないわ」ひとりの女がさけんだ。「トログは、槍でその捕虜をぶとうとしたの。すると捕虜がトログから槍をひったくって、ふたつに折ってしまったのよ。ほら、そこにあるわ。トログはそこで、その捕虜をナイフでもって殺そうとしたの。捕虜は、トログをつかみあげて、頭ごしに投げとばしたのよ」
女ができごとを回想しているうちに、大勢の男が笑いはじめたが、さすがにマムスの面前ではさほど大声で笑うわけにはいかないようだった。
族長は、さぐるようにフォン・ホルストを見やった。「するとおまえは、トログの槍を折って、それから頭ごしに投げとばしたのだな」と、マムスはさけんだ。「もうひとりの捕虜はどこだ?」
「ここです」フルグを見張っていた戦士たちのひとりがいった。
マムスは、そのバスティ人を見た。「こやつのほうがそいつより図体がでかいようだな」かれはいった。「こやつらは、あの小峡谷で大いにわれわれを楽しませてくれるぞ。やつらを連れされ。ゴルプ、こいつをおまえの洞穴へ連れていって、逃げださないようよく注意していろ」フォン・ホルストのほうに指をつきだしてみせた。「トゥルス、おまえはもういっぽうをひきうけろ。マムスがやつらを入用なときには、いつでもまにあうようにしておいてくれ。トログ、きさまはもう、族長代理ではない。マムスは、もっとできる男を選ぶつもりだ」
[#改ページ]
十四 「やつらは死ぬのだ!」
ゴルプは、ずんぐりむっくりした中年男で、濃いほほひげをたくわえ、小さな目が真ん中によっている。フォン・ホルストは、その男がちらとでも本性をあらわす前にすでに下卑たやつだと判断した。そしてほどなくやつは、その本性をあらわした。捕虜を連れていくようにとマムスに指示されるやいなや、そいつは、つかつかとフォン・ホルストに歩みより、肩を荒っぽくつかまえて、断崖の根方、いちばん近くにある梯子のほうへかれを追いたてたのだった。
「さあ、いくんだ!」うなるように、やつはぬかした。「ぐずぐずするな」
それから、純粋に残虐なという以外に理由もなく、槍の穂先で捕虜の背中をこづいた――はげしいつきであり、血が流れたほどだった。地上世界からきた男の胸に無念と怒りの炎が燃えあがり、急にきた痛みがかれをあっという間の行動にかりたてていた。くるりとむきなおって、身を低くかまえた。ゴルプは、手むかいを感じとったか、いま一度槍でつきをくれてきた。しかし、フォン・ホルストは、それをわきへはらいのけ、やつにとびよってその頭を右わきの下にかかえこんだ。それからかれは、その場で回転しはじめた――しだいに早く速く。ゴルプの足が地面をはなれ、身体がほとんど水平に、円盤さながらになってぐるぐる回転した。ややあってフォン・ホルストは、腕の力を急にぬいた。男は、回転しながら地面へ落ちた。
マムスがどっと大声をあげてばか笑いした。他の観衆がそれに唱和した。ゴルプがふらふらと立ちあがる。しかし、完全に直立しないうちに、フォン・ホルストは、またしてもやつの頭を小わきにかかえてぐるぐるまわし、放りだした。目くらめきながらふらふらと、ゴルプが立ちあがったとき、相手は、かれの上に立ちはだかっていた。両のこぶしがかためられ、片腕は、このマンモス族の男を永久に眠らせてしまったであろう一撃をひげもじゃの顎におみまいすべく、うしろへひかれていた。しかし、そのときかれの怒りが、生じたとき同様、きわめてだしぬけに消えてしまったのだ。
「今度いまのようなまねをしようとしたら、ゴルプ、わたしは、おまえを殺してやる」といった。「槍をひろっていくんだ。わたしがあとをいく」
フォン・ホルストは、仲間のひとりがいためつけられたことで他のマンモス族がかれにたいしてどう出てくるかについて、まったく考慮をはらっていなかった。また、気にかけてもいなかった。しかし、かれらの哄笑は、かれらがゴルプの完敗を楽しんでいるということをかれに確信させた。おそらくかれらは、ゴルプがだれであったとしてもその完敗を楽しんでいただろう。ゴルプはちょっとの間、躊躇《ちゅうちょ》してつったっていた。仲間の哄笑と罵言《ばげん》をきいた。怒り心頭に発してわなないていたが、かれを襲った男を見つめ、ふたたび襲われるのをまってでもいるようにつったっているばかりだった。かれの勇気は、どうやら怒りについていかないようだった。
ゴルプは、槍をひろうべくそっちのほうへよっていった。フォン・ホルストのわきをすりぬけるとき、低声でいった。「おぼえていろ、そのうちに殺してやるからな」
ヨーロッパ人は、肩をすくめてかれのあとにしたがった。ゴルプは、梯子のところへいき、のぼりはじめた。「やつになにごともないよう、注意するんだぞ、ゴルプ」マムスがどなった。
「そいつは、あの小峡谷でのお楽しみにもってこいのやつだからな」
「いいか」と、フォン・ホルストはいった。「マムスとわたしのあいだに立って、きみがわたしを丁重にあつかうのがきみの健康にいちばんよいことだろう」
ゴルプは、第三段めの洞穴へとのぼっていきながら、ひげにかくれて見えない口でもぐもぐいった。フォン・ホルストがそのあとについてのぼっていく。第三段めのところで、マンモス族の男は、広い岩棚を右手へと進み、とある大きな入口の前で止まった。入口の内側に三人の女がうずくまっていた。ひとりは中年で、他のふたりはずっと若かった。このふたりのうち、年上らしいほうの女は、ゴルプに似てずんぐりむっくりしていて、人相のわるい顔つきをした無愛想な女だった。年下のほうは、ほっそりしていてスタイルがよく、きわめて美しい顔だちをしていた。彼女たちが身につけている衣装といえば、みすぼらしい腰布のみだった。
「それはだれなの?」中年の女がきいた。
「養ってやらにゃならんやつさ」と、ゴルプが不平をならした。「トログが連行してきた捕虜のひとりなんだ。おれたちは、かれをやしない、見張っていなきゃならんのよ。だが、かれがこの崖からおっこちたって、おれのせいじゃないだろうぜ」
ふたりの娘の年上のほうがニヤリとした。「おっこちてしまうかもね」といった。
ゴルプは、年下の娘のほうへ歩いていって、彼女を蹴った。「食うものをもってこい」うなるようにいった。「ぐずぐずするな」
娘は、ちぢみあがってあわてて洞穴の奥へとはいっていった。ゴルプが他のふたりの女のかたわらにうずくまる。中年女は、マンモスの足裏の皮でサンダルを作っていた。いまひとりは、なにをするでもなくぼんやりと宙を見つめていた。
ゴルプが彼女を見やって、眉をしかめる。「いったいいつになるまで、おれは、おまえのために狩りをしてやらねばならんのだ、グルム?」と、かれはきいた。「なぜ、男を手にいれようとせん? だれひとりおまえに見むきもしないのか?」
「やめて」グルムがうなるようにいった。「もし男たちが見むきもしないのなら、それはわたしがあんたに似ているからよ――わたしがあんたに似ているからだわ。もしあんたが女だったら、あんたにも連れあいはいなかっただろうよ。あんたが憎い」
ゴルプは、身をかたむけて彼女の顔面をなぐった。「ここから出てうせろ!」とさけんだ。
「自分で男を手にいれろ」
「ほっといてやりなさいよ」年増女がうんざりしたようにいった。
「さしで口はやめろ」ゴルプが警告した。「でないと、横っ腹をけりあげてやるぞ」
女が溜息をついた。
「ムマルがするのはそれだけなんだから」グルムが嘲笑した。「ただすわって溜息ついて――彼女と、あの猿みたいな顔をしたロタイはね。いつかはふたりとも殺してやるわ」
「おまえはわるい娘だよ」ムマルがいった。「実をいえば、おまえを産んだときがわるかったんだね」
「出ていけ!」ゴルプがうなった。「出ていけといっただろう」かれは、ずんぐりした指をグルムにつきつけた。
「わたしを追いだそうとしてごらん」娘がぴしりといった。「目玉をほじくりだしてやるから。男を手にいれてちょうだい。あんたがすこしでもよい父親なら、ふたりの娘の両方に男を獲得してくれるはずよ。あんたは臆病なんだ。わたしたちのために男と戦うのがこわいんだよ」
「もしおれがある男におまえなんぞめあわせていたら、そいつは、森のなかでおれの背後にこっそりしのびよって、最初のチャンスがありしだい、おれの息の根をとめていただろうぜ」
「わたしは、その男に手をかしていただろうよ」
「ロタイ!」ゴルプが咆哮した。「食いものはどこなんだ?」
「もうすぐよ!」洞穴の奥から年下の娘がさけび、しばらくして彼女は、乾肉をひとつかみもって姿をあらわした。そして、その肉をゴルプの前の地面にぽいと放りだして、入口のいちばん隅のほうへひっこんだ。そこに腰をおろし、みじめそうにちぢこまった。
ゴルプは、飢えた狼のように肉にむしゃぶりつき、強力な歯のあいだで大口に食いちぎってはまるごとのみこんでしまった。
「水だ!」食いおわると、そうどなった。
ロタイとよばれた娘は、たちあがってまた洞穴の奥へとあわててひっこんでいった。ややあって、ひょうたんをもってもどってくると、それをゴルプに手渡した。
「それだけよ」と、彼女はいった。「もう水はないわ」
ゴルプは、それを飲みほしてたちあがった。「さてと、ひと眠りするぞ」といった。「おれをおこしたやつは、だれかれの区別なしにぶっ殺してやる。ムマル、おまえとグルムとで水をくんでこい。ロタイ、おまえは捕虜を見張っていろ。もし逃げだそうなんてまねをしたら、さけぶんだ。おれが出てきて――」
「出てきて、どうなんだ?」と、フォン・ホルストがきいた。
「おれがいったとおりにするんだ」ゴルプは、フォン・ホルストの質問を無視して、女たちにいった。そして、肩をいからせて洞穴の奥へ消えた。
年上のほうのふたりの女は、かれのあとからなかへはいり、すぐにおのおの大きなひょうたんをかかえてもどってきた。それから彼女たちは、水をくみに梯子をおりていった。フォン・ホルストは、かれを見張るために残された若い娘を見た。他のものたちがいってしまったいま、それまで彼女の顔をくもらせていた緊張した表情が消え、前よりも一段と美しくなっていた。
「しあわせな一家だね」と、かれは皮肉をいった。
彼女は、物|問《と》いたげにかれを見つめた。「そう思う?」ときいた。「たぶん他の人たちは、しあわせなんでしょう。とてもそうは見えないけど。わたしがそうじゃないことは、わたしにはわかっているわ」
またしてもフォン・ホルストは、石器時代の融通のきかない精神にでくわした。ラ・ジャのことを思いだした。
「わたしは、冗談をいっただけなんだよ」かれは説明した。
「おお」と彼女。「わかったわ。ほんとうは、わたしたちがしあわせじゃないと思ってるのね?」
「いつもこういう調子なの?」
「ときには、もっとひどいこともあるわ。でも、ムマルとわたしだけだと、わたしたちはしあわせよ。グルムは、わたしがきれいで、彼女がそうじゃないから、わたしをきらっているの。ゴルプは、だれもかれもきらってるわ。自分までがきらいなんじゃないかしら」
「きみに連れあいがいないのは変だね」フォン・ホルストはいった。「きみはとても美人なのに」
「ゴルプが主張すれば、グルムもめとらなければならなくなるでしょうから、わたしをめとる男の人はいないわ――それがマンモス族の掟なのよ。わかるでしょうけど、彼女のほうがわたしより年上。だからわたしよりさきに男をもつべきなの」
「グルムは、ゴルプがきみたちのために男と戦うのをこわがっているといってたけど、あれはどういう意味?」
「もしわたしたちが、望みの男を選んだとするわね。そして、もしゴルプがかれらと戦って勝ったら、その男たちは、わたしたちをめとらなければならないの。でも、わたしは、そんなことをしてまで男をほしいとは思わないわ。むしろ、とてもわたしを望んでくれていて、わたしを手にいれるために戦ってくれるような男の人がほしいのよ」
「すると、グルムが連れあいを手にいれるにはそれしか方法がないのかい?」と、フォン・ホルスト。
「ええ、彼女のために戦う男の兄弟、ないしは友だちがひとりもいないから」
「つまり、彼女のために戦う男はだれであれ、彼女を連れあいとすることができるというわけなのかい?」
「ええ、そうよ。でも、だれがそんなことするもんですか?」
「友だちか」と、フォン・ホルスト。「きみをひどく望んでいる男の人さ」
彼女は、かぶりをふった。「それほどかんたんなことじゃないわ。もし彼女の父親あるいは兄弟じゃない男が、彼女のために戦い、そして負けたら、その男は彼女を自分の連れあいにしなくちゃいけないの。それにグルムは、連れあいにしたい男としてホルグを選んで、ことはいっそうやっかいなことになっているのよ。ホルグを負かせられる男はひとりもいないわ。一族のなかではいちばん大きくて、いちばん強い男なの」
「連れあいを選ぶには、まことに心もとない方法だね」フォン・ホルストは、しみじみいった。
「きみの男が負けたとすると、きみは、その男を連れあいにすることができる。しかし、死体と連れあうことになるかもしれないのでは?」
「いいこと」と、彼女は説明した。「勝負は、どっちかが降参するまで素手であらそわれるの。ときにはひどい傷を負うこともあるけど、死者の出ることはめったにないわ」
かれらは、すわったまましばらくだまっていた。娘はしげしげと男を見つめている。フォン・ホルストは、ラ・ジャのことを思い、彼女の上にいかなる運命がふりかかったのだろうかといぶかった。彼女が永遠にかれの人生から消えてしまったと思うと、かれは悲しかった――かれを憎んだあの、高慢ちきで横柄な小柄の奴隷娘が。ほんとうに彼女は、かれを憎んでいるのだろうか、と不意に思った。憎んでいるとうたがったときも何回かあった。かれは、かぶりをふった。だれに女が理解できようか?
ロタイが身動きした。「あなたの名前は?」ときいた。
「フォン」とかれ。
「あなたって、とてもすてきな人だと思うわ」
「それはどうも。きみは、たいへんすてきな女性だと思うよ」
「あなたって、これまでわたしが思ってきたどの男ともちがうわ。わたしが信頼できる男の人じゃないかしら。わたしをぶったりすることはないでしょう。いつも親切にしてくれるでしょうし、男が男に話すように、わたしに話してくれるんじゃないかしら。わたしたち一族の男は、決してそうはしないわ。たぶん最初のうちこそ、かれらもすてきでしょうけど、すぐに、口をきくといえば、命令するかしかりとばすか、それぐらいしかなくなるでしょうよ。おお、でも中にはそれほどひどくない人もすこしはいるわ」と、彼女はつけくわえた。「わたしの考えでは、父のゴルプが最低ね。とてもひどいわ。わたしたちのだれにも、楽しいことのひとこともいったことがない。そして、他のものよりもわたしにつらくあたるわ。ぶったり蹴ったりするのよ。わたしが憎いのじゃないかしら。でも、それはいいのよ。わたしもかれが憎いのだから。
とてもすてきな男がひとりいたわ。かれが好きだったけど、出ていったきり帰ってこないの。死んだのにちがいないわ。とても大男で、偉大な戦士だったわ。でも、女や子供には親切だった。よく笑っていたし、明るかったわ。女はみんな、かれの連れあいになりたいと思っていたでしょうよ。でも、かれは、いつもかれの洞穴で暮らす連れあいをめとりはしなかったわ。その点でソレクはちがっていたわ」
「ソレク?」フォン・ホルストはさけんだ。「かれはジャ‐ルに帰ってはいなかったのかい?」
「かれを知っているの?」とロタイ。
「われわれは、バスティ族の捕虜だったんだけど、いっしょに脱出したんだよ。われわれは友だちだった。とっくにここへ帰りついていなければならないんだがね。われわれが別れてから、わたしは、ずいぶん歩いたし、何回も眠った。かれになにかあったのにちがいない」
娘は、溜息をついた。「かれは、とてもすてきな男だったわ。でも、だからといってそれがどうちがうかしら? わたしむきの人ではなかったわ。わたしは、ゴルプのような男の連れあいになって、生涯蹴られたりぶたれたりしておわるのね」
「ジャ‐ルの女は、たいへんつらい思いをしなければならないんだね」フォン・ホルストはいった。
「みんなというわけではないわ。ムマルやわたしのような女だけよ。なかには、大きくて強くて、争うのが好きな女もいるの。蹴られると蹴りかえす。こんな女の人たちはしあわせにやってるわ。ムマルやわたしはちがっているの。ムマルは、ジャ‐ルの生まれではないわ。ゴルプが別の一族のもとからさらってきたのよ。わたしは彼女に似て、グルムはゴルプに似ているのね。わたしたち、できれば逃げだして母の故郷へいきたいのだけど、そこはとても遠く、危険も多いわ。サリへいきつくはるか手前で殺されてしまうでしょうよ」
「サリ」フォン・ホルストは、しみじみいった。「ダンガーがやってきた土地だ。そこは、わたしがここを逃れられたら、いきたいと思っているところなんだよ」
「こんりんざい逃《の》がれられはしないわ」ロタイがいった。「あなたはいずれ、あの小峡谷へいくことになり、二度と出てこれないわ」
「その小峡谷のことを何回となくきいたけど、なんのことなんだい?」
「もうすぐわかるでしょうよ。マムルとグルムが水をくんで帰ってきたわ。グルムとゴルプの前で、わたしたち、あんまりおしゃべりしてはいけないわ。わたしが捕虜と仲よくやっているとかれらが考えたら、ますますわたしを蹴ったりぶったりするようになるでしょうからね」
ふたりの女の姿が見えてきた。水のはいった重そうなひょうたんを頭の上でバランスをとりながら下から梯子をのぼってくる。ムマルは、疲れたようで元気がなさそうだった。グルムは、興奮していらだち、下卑た顔がむっとしたようにひきつりゆがんでいた。彼女は、洞穴の入口の内側で立ちどまった。
「わたしは眠るわ」と、彼女がいった。「物音をたてないように注意するんだよ」そして洞穴の奥へ消えた。
ムマルは、ロタイのかたわらを通りすぎるとき、ひょいとこごんで彼女の髪をなでた。「わたしも眠るよ、ロタイ」
「わたしだって眠りたいのだけど」ふたりとも洞穴へはいってしまったあと、ロタイがいった。
「じゃ、なぜ眠らない?」と、フォン・ホルスト。
「あなたを見張っていなければならないわ」
「きみがわたしを見張っているあいだは、逃げだしたりはしないと約束するよ」と、かれは、彼女にうけあった。「なかへはいって眠るといい。わたしも眠りたいね」
彼女は、長いあいだしげしげとかれを見つめていたが、やがて口をきった。「あなたは、逃げないと約束したら、逃げだそうとはしないでしょうね。信じるわ」といった。「でも、わたしが洞穴のなかで眠っているあいだに、もしゴルプがここであなたを見つけたら、わたしにとってはあなたが逃げてしまいでもしたようにひどいことになるでしようね。でも、わたしが眠っているあいだ、あなたがなかへはいって出てこなければ、どうということはないでしょう。わたしたち、洞穴のいちばん奥へいって眠ることができてよ。そうすれば、かれらにわずらわされることもないし」
フォン・ホルストは、非常に疲れていた。だから、相当長いあいだ眠っていたのにちがいない。目がさめたとき、ロタイは、その場にいなかった。洞穴の前の岩棚に他の連中といっしょにいるところを発見した。かれらは、乾燥した鹿肉を食べていた。水をがぶのみしてはその鹿肉を流しこんでいる。ゴルプとグルムは、けもののように騒々しい音をたてて食べていた。
だれひとりフォン・ホルストに食物をあたえようとするものはいなかった。鹿肉は、それがつつんであった一枚の皮の上に小さくもりあがっており、いかにもきたならしく、悪臭をはなっていたが、食物にはちがいなかった。それに、フォン・ホルストは腹ぺこだった。かれは、ゴルプのそば近くにおいてあるそのほうへ歩みより、すこしばかりつかもうとかがみこんだ。かれがそうしたとき、ゴルプがかれの手をはらいのけた。
「この上等の食物は、奴隷のためのものじゃない」うなるようにいった。「洞穴の奥へいってみろ、そこにくずや骨がおいてある」
洞穴のなかで気づいていたあのいやなにおいから、フォン・ホルストは、かれに意図されている食物の、現実に飢えているのでなければおよそ食べる気になどなれない食物の正体を推測することができた。かれは自分の、こうした連中とのこれからの生活が、いかに短いものであろうと、あるいは長いものであろうと、いまかれがとる態度に大いにかかわりをもってくるだろうと思った。いま一度食物のほうへ手をのばした。そして、またしてもゴルプは、かれの手をぶとうとしたが、こんどはフォン・ホルストは、相手の手首をむんずとつかみ、荒っぽくひきずり立たせてその顎に痛烈なパンチをおみまいした。ゴルプは、その場にひっくりかえった。フォン・ホルストは、鹿肉をひとつかみとりあげ、ひょうたんにはいった水をもって入口の反対側のほうへつっきっていった。そこではムマルとロタイが目をまるくして、ふるえていた。かれは、腰をおろして食べはじめた。
グルムは、ひとことも口をきいていなかった。いま彼女は、すわったままじっとフォン・ホルストを見つめている。しかし、この野蛮人の黒ずんだ脳の回転部にどんな思いがよぎっているのか、だれにも見当すらつかない。他国者《よそもの》がその父親をなぐりたおしたことで、彼女は、怒りにみたされているのだろうか? かれが食物をとったことにより、自分の分がそれだけすくなくなったことを憤慨しているのだろうか? それとも、ひそかにかれの勇気と、力と、わざを賞賛していたのだろうか?
ほどなくゴルプの意識が回復した。目を開け、片ひじついて身をもちあげた。けげんなおももちであり、あきらかに、何事がおこったのかその糸をたぐりよせようとしている。かれは、フォン・ホルストと、かれが食べている鹿肉をじっと見つめた。やがて、顎をこすり、その顎の骨が折れていないか知ろうとでもするように、おっかなびっくりおさえてみる。それから、また食いにかかった。これだけのことがおこったあいだ、だれひとり口をきかなかった。しかし、フォン・ホルストは満足した――二度と食物をこばまれることはないだろうし、その事実を言葉でたしかめてみる必要もないことが、かれにはわかっていた。
ペルシダーのはてしない真昼が過ぎていった。フォン・ホルストは、食べて眠った。ゴルプは、狩りにでかけ、ときには獲物の死骸ないしは仲間たちと狩ったけものを切断した一部をもって帰ることもあったし、ときには手ぶらのまま帰ってくることもあった。フォン・ホルストは、マンモス族が群れをなしてその大型のけものに乗って出ていったり帰ってくるのを何度も見かけた。ロタイやムマルと話した。たまにグルムが会話にくわわることがあったが、たいていの場合彼女は、すわったままじっとだまってフォン・ホルストを見つめているのだった。
かれは、自分の運命がどうなろうとしているのか、それがいつわかるのか、いぶかった。時の存在しないペルシダーは、時間の推移をはかる基準をなにひとつ提供してはくれない。ペルシダー人が実にしばしば悠長に思えるのは、このためなのだとかれは判断した。ここで「すぐに」というのは、地上世界の太陽時《ソラータイム》で一時間か、あるいは一日の時が経過していてもおかしくないかもしれないし、考えてみれば、もっとはるかに長い時間の経過でも、|すぐに《ヽヽヽ》で通りそうである。たぶんマムスは、ふたりの捕虜の運命をそのうちに死でもってかたづけるつもりでいたのだろう。しかし、フォン・ホルストには、そのときがいつまでたってもこないように思われた。フルグには、断崖の根方でわかれわかれにされていらい、一度も会っていなかった。ふたたびかれを見ることがないのだとすれば、フォン・ホルストにとってもそのときは意外と早くやってくるのではあるまいか。
一度フォン・ホルストは、洞穴の入口の前を走る岩棚にすわって、よくやるようにラ・ジャのことを考え、はたして彼女が生きているのかどうかといぶかっていた。かれはひとりきりだった。ゴルプは、狩りにでかけていたし、ムマルとロタイは、ジャガイモに似た球根をとりに峡谷をのぼっていっていた。グルムは、洞穴のなかで眠っていた。フォン・ホルストは、グルムあるいはゴルプが目の前にいて家内で小言をいったり、残酷なしうちをしたりの不愉快から解放され、その孤独を楽しんでいた。そして、白日夢にふけり、さまざまな記憶をよびさまし、過ぎし日々の友人たちの――二度とあいまみえることのないであろう友人たちの顔や姿をおもいうかべていたのだが、こうしたことは、特にかれを悲しませはしなかった。過去のしあわせな事ごとをおもいおこすのはなつかしいことだった。そのとき、洞穴内でおこったサンダルの床をひきずるような足音にかれの白日夢は中断された。グルムが目をさましたのだ。ほどなく彼女が岩棚に姿をあらわした。しばしのあいだ、じっとかれを見つめて彼女はつっ立っていた。
「あんたは、わたしのいい連れあいになれてよ」といった。「あんたがほしい」
フォン・ホルストは笑った。「わたしがいい連れあいになると考えたのはどういうわけだ?」
「あんたがゴルプを手玉にとったのを見ていたわ」と彼女。「トログにしたこともきいたわ。あんたに連れあいとなってもらいたいのよ」
「しかし、わたしは他国者《よそもの》だし、だいいち捕虜だ。この一族の女は他種族の男を連れあいにすることができないと、きみたちのだれかがいっていたと思うがね」
「そのことでわたし、マムスに会って話すわ。たぶん承知してくれるでしょう。あんたは、マムスのりっぱな戦士になれるわね」
フォン・ホルストは、気持よさそうにのびをして、ニヤリとした。かれには確信があった。「マムスは絶対に、きみのいうことを承知しないね」といった。
「じゃ、ふたりして逃げたらいいわ」グルムは、しゃあしゃあとしていった。「ここで暮らすのにあきあきしたわ。かれらがみんな大きらい」
「計画はちゃんとできあがっているのかい?」
「ええ、おぜん立てはととのってるわ」と、グルムはこたえた。
「しかし、わたしがきみの連れあいになりたくないとしたら?」かれはきいた。
「死ぬよりはましでしょう」彼女は、かれに思いださせた。「もしこのまま、ここにとどまっていたら、あの小峡谷であの世行きということになるのよ」
「われわれは、のがれることはできない。もし脱出が可能だったら、わたしは、とっくのむかしにそうしていただろう。わたしは、たえずチャンスをねらってたんだ」
「わたしたち逃げることはできるわ」グルムはいった。「あんたの知らない逃げ道を、わたしは知ってるのよ」
「ホルグのことはどうなんだ?」と、かれはきいた。「きみはホルグをほしいと思っていたんだろ」
「そうよ、でも、かれを手にいれることはできないの」
「もしわたしが、ホルグを手にいれるべくきみに手をかしたら、きみは、わたしが脱走するのに手をかしてくれるかい?」かれの心のなかで急にまとまった名案だった。
「わたしのために、どうやってホルグを手にいれてくれるの?」
「わたしにできるいい考えがあるんだ。われわれがいっしょにマムスのところへいくことができ、わたしをきみの連れあいにさせてくれと、きみがたれにたのんだとしても、かれはつっぱねるだろう。そこでわたしは、ホルグをきみのものにしてやれるような計画をかれに説明する。かれはそいつを気にいるだろうと思うね」
「そうしてくれる?」
「わたしの逃走に手をかしてくれるかい?」
「かすわ」彼女は約束した。
そうやって話しているとき、フォン・ホルストは、一隊のマンモス族がその巨大な乗りものに乗って部落へひきかえしてくるのを見た。凱旋戦士さながらに、高らかに笑い喚声をあげながら帰ってきたが、そのなかにひとりの戦士の背後に相乗りしている戦士がいた。その戦士は、マンモスからおり立つやいなや、身ぶり手まねよろしく早口にしゃべっている一族の大勢のものにとりかこまれた。地上世界からきた男は、ほとんど興味という興味もなく、ただちょっとしたなにげない好奇心からかれらを見守った。かれらの興奮している原因がなんなのか、かれには見当もつかなかった。
戦士たちの帰還後まもなくして、フォン・ホルストは、断崖の根方の林の中がかなり活況をていしているのに気づいた。料理用の焚火が広場のそこここにおこされつつあった。料理はたいていの場合、個々の家族がその洞穴の前の岩棚で作られていたから、これは尋常ではなかった。
「|カルオー《ヽヽヽヽ》がおこなわれるんだわ」グルムがいった。「わたしたちは、みんなおりていって、たらふく飲んだり食べたりするのよ」
「カルオーってなんのことだい?」と、フォン・ホルストはきいた。これまでにきいたことのない単語だった。
グルムは、それがなにか注目にあたいするできごとを記念して催され、一族のものが全員参加する祝宴なのだと説明した。彼女は、今回のカルオーのわけについてはなにも知らなかったが、帰ってきた一隊が成就したなにか重要なことを祝うのにちがいないと判断した。
「わたしたちは、ゴルプが帰ってくるか、ムマスがわたしたちをむかえにこさせるかするまで、下へおりていくことはできないのよ」と、彼女はいった。「わたしの受けている命令は、ここにとどまっていて、あんたを見張っているということだからなの。でも、ゴルプがくれば、かれは、あんたを下へ連れておりるわ。そうでなければ、わたしたちのひとりがここにあんたといっしょにとどまっていなければならず、おかげでお祝いには参加できないの。あんたってやっかい者だわね。死んでしまえばいいのに」
「そうなれば、きみはホルグを手にいれられないぞ」かれは、彼女に思いださせた。
「いずれにしたって、かれはわたしのものにはならないわ。わたしのためにかれを手にいれてくれるといっても、あんたにできることはなにもないわよ。そのかわりに、わたしは、あんたを連れあいにしなければならなくなるわ。でも、あんたは、ホルグとはちょっとちがった男ね。かれを見るときがくれば、それがわかるわ。あんたとくらべると、彼はタンドールで、あなたはサグみたいなものね。それに、かれにはすごい頬ひげがはえているの。かれの顔は、女みたいにつるりとしたあんたの顔のようじゃないわ。あんたはいつも、その奇妙なピカピカ光るナイフでひげをそりおとしているわね」
ほどなくロタイとムマルが洞穴に帰ってき、つづいてまもなくゴルプが帰ってきた。かれは、しとめたカモシカの死骸をかついでいる。女たちは、球根をどっさり集めてきた。こうしたものを洞穴内におさめると、ゴルプは、全員下へおりるようにとかれらに命じた。広場には、相当の人間、数百人の男、女、子供が集合していたが、フォン・ホルストは、これがこの一族の全構成員なのだろうとにらんだ。大いにしゃべり、笑いさんざめいていた――お祭り気分がくまなくいきわたっているようであり、普段のかれらのふるまいと奇妙な対照をなしていた。例の未知の戦士は、まだすこぶる大勢の人たちにとりかこまれていたから、フォン・ホルストは最初、かれをちらとでもかいま見ることすらできなかった。フルグは、とある樹木の幹に背をもたせかけ、やるせなげにうずくまっていた。いっぽうフォン・ホルストはつったったまま、かつて見てきた真に原始人的な人々の最も大きな集団を興味のまなざしで見守っていた。この捕虜たちにほとんど注意は払われなかった。
ほどなくマムスがかれを見つけた。「こっちへこい!」とさけんだ。それから、注目の的《まと》となっていたらしい戦士のほうにむきなおった。「ここに、いままでだれも見たことのないような捕虜がいる。かれをちょっと見てくれ。女みたいにつるんとした顔をしており、髪は黄色いのだ。トログとゴルプをまるで赤ん坊のように投げとばした。おい、ここへこい!」とかれは、いま一度フォン・ホルストに命じた。
捕虜が近づいていくと、例の戦士がかれを見るために群集をかきわけて姿をあらわした。しばし後にかれらは、たがいに面《つら》つきあわせて立っていた。
「ソレク!」フォン・ホルストはさけんだ。
「なんだ! なんだ!」マンモス族の戦士は、どなるようにいった。「フォンじゃないか。すると、これがトログとゴルプを投げとばした男なんだな? 意外でもなんでもないことだ。おれは、かれらのどっちも投げとばすことができるし、フォンは、おれを投げとばしたんだからな」
「かれを知ってるのか?」マムスがきいた。
「知ってるかだって? われわれは友だちだよ。いっしょに奴隷たちを連れてバスティから逃走した仲なんだ」
「友だちだと!」マムスがさけんだ。「かれは他国者だ。マンモス族は、他国者を友だちにはしないのだぞ」
「おれはした。それにかれは、よい友だちになった」ソレクは反駁《はんばく》した。「そういうわけでかれは、マンモス族全員の友情を受けてしかるべきだと思うがね。かれは偉大な戦士であり、われわれといっしょに暮らし、一族の女のなかから連れあいをめとることをゆるされるべきだ。さもなくば、だれにもじゃまされることもなく行きたいところへ行くことをゆるされなくてはいけない」
マムスの生気のない顔にしわがより、陰気にゆがんだ。「だめだ!」とさけんだ。「やつは、他国者であり敵だ。マンモス族の敵がすべてそうあらねばならぬように、やつは死ぬのだ。マムスは、小峡谷行きとしてやつをいままで生かしてきた。マムスの用意がととのえば、やつはそこへいく。マムスがいってるのだからまちがいない」
[#改ページ]
十五 花嫁
死刑の宣告がなされた。しかしフォン・ホルストは、ショックをうけなかった。別に驚きもしなかったからだ。もし脱出しなかったら、このとらわれの身の最後にはなんらかのかたちで死がおとずれるものと、終始考えていたことだった。この、時の存在しない世界で、それがいつやってくるかは、憶測の域を出るものではない。ソレクは怒った。しかし、友人を救うためになにひとつすることができなかった。マムスが族長であり、かれのことばが掟《おきて》だったからだ。ソレクは、むっつりとふさぎこみ、ぼそぼそと不平をならしていたが、宴がはじまると、あとの連中ともども食べはじめ、やがて飲食の享楽に悲しみをわすれてしまったようだった。フォン・ホルストとフルグは、この祝宴に参加することをゆるされた。そして、すすめられた酒を味わってみて、フォン・ホルストは、人間が悲しみ以上のことすら忘れられるために、この酒の多くを飲む必要はないという結論に達した。これは女たちが醸造するもので、野生のトウモロコシ、数種の薬草、そしてはちみつを混合した酒である。およそ口あたりがよいという|しろもの《ヽヽヽヽ》ではないが、そのききめはたいへんなものだった。フォン・ホルストにはひと口味わってみるだけで充分だった。男女ともにこれを大いにのみ、その影響がいろいろな形であらわれた。あるものは多弁、陽気になり、またあるものは不機嫌に、けんかっ早くなった。だから、たいてい村のどこかで取っくみあいがおこなわれていた。ぜんぜん飲まないものもいくらかいたが、ロタイとマムルがそのなかにはいっていることにフォン・ホルストは気がついた。それと対照的に、グルムはあきらかに、男そこのけの大酒のみだった。そして酔いがまわっていくにつれて、彼女のきわだった性格が強調されてきて、だから彼女は、好戦的に、横柄に、独断的になっていった。
フォン・ホルストは、そんな彼女を見守っていたのだが、それには多少おもしろ半分という気持ちがないではなかった。グルムは、ひとりの小山のような男に近より、その首の周囲に両腕を巻いた。数杯ひっかけた酔いにまかせて、おのれの思いを表にあらわしているのだ。こうして愛情を表現しているグルムは、こっけいの域《いき》に達していた。相手の大男も、あきらかにその点について同じように感じたのだろう。首の周囲から彼女の両腕を荒っぽくほどくと、彼女をはげしくつきとばした。彼女は、たまらず地面にはいつくばってしまったのだが、カッとなってすぐさまおきあがった。その顔が怒りにひきつりゆがんでいる。フォン・ホルストは、彼女がこの女にやさしくない男に襲いかかっていくのではないかと思った。が、彼女はそうはせずに、マムスにくってかかった。
「わたしは、連れあいがほしいのよ」金切り声をあげた。「ホルグがほしい」
マムスが例の大男のほうにむきなおる。
「ホルグはどう思う?」
するとこいつがホルグだったのか。フォン・ホルストは、その男をつくづくながめ、いやなグルムのためにかれと戦うことをかってでなければよかったと思った。そいつは巨人だった。百五十キロ近い体重があったにちがいない。それに、筋肉隆々としている。
ホルグは、大声をあげてばか笑いした。「その雌虎《タラグ》を連れあいにするだと?」と、咆哮した。「それぐらいなら、すぐにもマハールを連れあいにするよ」
「きいたな」と、マムスがグルムにいった。「さあ、カルオーにもどってこの男をひとりにしておいてやれ。ホルグは、おまえさんを望んでいないのだ」
「かれは、わたしのものよ」グルムが絶叫した。「わたしのためにホルグと戦う戦士がいるわ」
みんなの視線がゴルプに走った。そのあとに哄笑のうずがつづく。
「やれ、やってみろ、ゴルプ」ひとりの戦士がどなった。「どうやってホルグを負かすかおれたちに見せてくれ。だが、息の根をとめちゃいかんぞ」
ホルグが呵々大笑した。「かかってこい、ゴルプ」とどなった。「もしおまえがおれを負かしたら、おれは、グルムをひきうけてやるよ。そして、おまえがいくら彼女をやっかいばらいしたがっているからといって、おまえを責めやしないぜ」
「彼女《あいつ》はトゥマルをのみすぎてるんだ」ゴルプがうなるようにいった。「あいつのためにホルグと戦うなんて約束したおぼえはない。ホルグはおれの友だちだ。かれを傷つけたくない」
これでまた、哄笑がわきあがった。ホルグは、ゴルプのいったことがあまりにおかしかったので、なぐさみに何かわめきながら地面のそのへんをころげまわってやろうかと思ったほどだった。グルムは、なにもいわなかった。しばしだまったまま、ホルグとゴルプを見守っていたが、やがてマムスをふりむいた。
「ゴルプがわたしのためにホルグと戦ってくれるとはいわなかったわ。ゴルプは弱虫よ。なにか得になるようなことがないと、かれは戦ったりはしないわ。わたしには、ホルグと戦う男の中の男がいるのよ――しかも、それをいまやってくれるわ」
「それはだれなのだ?」とマムス。
フォン・ホルストは、みぞおちのあたりで気分がめいっていくのをはっきりと感じた。すぐに何がくるかわかっていた。
グルムがぶかっこうな、きたない指でかれをさし示した。「そこにいるわ」大きな声でいった。
「あいつはマンモス族のものではない」マムスが異議をとなえた。「どうしてかれが、おまえのために戦うことができるのだ?」
「ほかにだれもいないからよ」とグルム。
マムスは、かぶりをふったが、はっきりだめだと声にだしていうことができないでいるうちに、ホルグが口をきった。
「やつにおれと戦わせてやれよ」といった。「いまやってるのはカルオーなんだ。余興ってものが必要だ」
「あいつを殺してしまわないと約束するか?」マムスがきいた。「あいつは、例の小峡谷用にとっておいてあるんだからな」
「殺したりはしないよ」ホルグはうけあった。
フォン・ホルストは、ふたりのほうへ歩みよって、「で、わたしがきみを負かしたときには」と、かれはきいた。「グルムを連れあいにするのだろうな?」
「それがマンモス族の掟なんだ」マムスがいった。「かれは、グルムを連れあいにしなければならんだろう。が、おまえがかれを負かすなんてことはないだろう」
「おれを負かすだと!」ホルグが咆哮した。「やつと取っくませてくれ」
「どういうふうに戦うのだ?」フォン・ホルストはきいた。「何か規則《ルール》でもあるのかね?」
「けもの流に戦うのだ」マムスが説明した。「武器は使えないし、石も棒も使えない。片方がもはやそれ以上戦えなくなるか、あるいは降参するまで戦うのだよ」
「よかろう」と、フォン・ホルスト。
「おまえはいいか、ホルグ?」マムスがきいた。
ホルグはむとんちゃくな、さも軽蔑したような笑い声をあげて「ああ、けっこうだ」といった。
「では、勝負しろ!」
ふたりは、たがいに接近しあった。そして、この戦いを見物しようと、一族のものたちがかれらをとりかこむように円陣を組んだ。ホルグはごきげんだった。それまでに飲んでいたトゥマルがその原因の一部だったが、おおむね、楽に勝てるという自信がそうさせていたのだった。フォン・ホルストとグルムをからかって、かれは、友人たちと冗談をとばしあっていた。どちらかといえばあけすけな冗談であり、およそお上品なものではなかった。しかし、だれもそんな冗談をひどく楽しんでいた――つまり、グルム以外のだれもがということだ。彼女は、怒り心頭に発しているのだった。
「わたしがあんたを手にいれるまで、そんなこというのはよしたほうがいいよ」と、彼女は、金切り声をあげた。「生まれてこなければよかったと思うようになるんだから」
フォン・ホルストは、このマンモス族の男ホルグが負けたら、どんな生活がかれをまちうけているかをあれこれ想像しながらニヤリとした。死がいちばん気楽なのではないだろうか。
だしぬけにホルグがフォン・ホルストめがけて突進した。たくましい腕、肉のかたまりみたいな手がかれにつかみかかろうとせまってきた。が、フォン・ホルストは、ひょいと身をこごめ、その両手をかいくぐっていた。ついで、くるりとむきなおり、ホルグの顎に一発おみまいした。ホルグがよろめく。それから立ちなおれないでいるうちに、もう一発パンチをくりだした。またしても、かれの頭がぐらりとゆれた。いまやホルグは、怒髪《どはつ》天をつくばかりだった。もはや冗談のひとつもかれの口からとびだしてはこなかった。怒《いか》った象さながらに咆哮し、ふたたび突進してきた。こんどもフォン・ホルストは、かれをかわした。小山のような男は、たちどまるまでに十二、三歩もたたらをふんだ。
ホルグがむきなおったとき、フォン・ホルストがかれをめがけて突進してくるのが目にとまった。これこそ、かれの望むところだった。これで相手をつかまえることができる。そして、いったんつかまえてしまえば、相手が降参しないかぎり自分がそう望むなら、相手をおしつぶしてその骨をくだいてやることができる。
彼は、その場で両肢を開き、両腕をひろげてまちうけた。フォン・ホルストは、ホルグのほうへ真一文字につっ走った。そして、かれにとどく直前、フォン・ホルストは、パッと宙にとびあがり、ひざの関節をまげて足を尻のほうへひいた。それから、突進のいきおいにささえられた渾身の力をその両足にこめて、ホルグの顔面をまともに蹴りつけたのだ。その結果は驚嘆すべきものだった――特にホルグにとっては。うしろざまに完全なとんぼがえりをうち、頭から地面に落ちて泥の中にうつぶせになってころがった。
なかば意識をうしない、ふらふらになったホルグは、ゆっくりとよろめきながら立ちあがった。フォン・ホルストは、かれがそうするのをまちうけていた。「どうだ、まいったか?」ときいた。かれは、いまのような状態になっている男をこれ以上いためつけてやりたいとは思わなかった。群集は、黄色い声をはりあげてかれをあおりたてた。気まぐれというか、残酷というか、かれらは、ふっとばされたチャンピオンをやじり、あざけっていた。グルムは、おのれの望みが現実のものとなろうとしているのを知って、声をかぎりにわめきたて、もはや、ほとんどいかんともしがたくなった男をやっつけてしまえと、フォン・ホルストをせきたてるのだった。ダウン寸前のホルグは、それでも降参しようとしない。たぶんグルムの声をきいて、死んだほうがましだと思ったのだろう。けものさながらの咆哮《ほうこう》をあげ、おのれより軽量の相手めがけて突進した。
「殺してやる!」と絶叫した。
かくてフォン・ホルストは、さきをつづけなければならなかった。ホルグが決してこけおどかしをいっているのではないということがわかっていたからだ。もし相手がそのごつい両手をかれにかけることができ、がっちりつかまえることができたら、やつは、かれの息の根をとめてしまうだろう。しかし、フォン・ホルストは、前方へのばされた相手の手首の片方を両手でむんずとつかまえ、すばやくくるりと身をひねってパッと前こごみになったと見るや、その大男を頭ごしにほうりなげていた――あっけにとられた観衆の目にうつるより、はるかにかんたんな柔術《ジュウジュツ》のわざなのだ。ホルグは、どうとばかりに地面にたたきつけられ、そのまま動かなくなった。フォン・ホルストはかれらのそばに近より、その上に立ちはだかった。
「殺《や》っちまえ! やつを殺ってしまえ!」というさけび声が交錯した。これら原始的な野蛮人の血への渇望が、おそらくはかれらの飲んだトゥマルによって刺激され、喚起されたのだろう。
フォン・ホルストは、マムスのほうをふりむいた。「わたしが勝ちなのか?」ときいた。
族長がうなずく。「そうだ、おまえの勝ちだ」といった。
勝者は、グルムを見た。「そら、きみの連れあいだ」といった。「きて、連れていけ」
女はとびだしてきて、ながながとのびたホルグに襲いかかり、打擲《ちょうちゃく》し蹴った。フォン・ホルストは、うんざりしてその場をはなれた。あとのものたちは、笑いながら食物やトゥマルにもどった。
ソレクがやってきて、フォン・ホルストの背中をポンとたたいた。「きみが偉大な戦士だと、かれらにいっておいたよ」得意げにいった。
「それはどうも」フォン・ホルストは、ニヤリとしていった。
「さあ、きてカルオーにくわわれよ」ソレクがいった。「いままで何ものみ食いしていなかったんだろう。そんなのは|お祝い《カルオー》のしかたじゃない」
「なぜわたしがお祝いをしなくちゃいけないんだ?」フォン・ホルストはきいた。「第一、なんのお祝いなんだか、わたしは知らないんだよ」
「〈りこうものの白ひげ〉、つまり〈殺し屋〉をつかまえたんだ。こいつは、大いにお祝いすべきことだぜ。あんなかしこい老いぼれマンモスはいなかったし、あれほどでかいやつもいなかった。この次に眠ったあと、おれたちは、やつの調教にとりかかる。やつの調教がすむと、マムスが乗りまわすことになる。やつは、族長にふさわしいマンモスなんだ」
「そいつが調教されるのを見物したいな」フォン・ホルストがいった。もし〈りこうものの白ひげ〉が調教をがんとしてうけいれなかったら、興味あることになるかもしれないと思ったからだ。それに、そのマンモスが調教をうけいれないだろうと、フォン・ホルストは確信していた。
「きみがきてもよいかどうか、マムスにきいてみよう」ソレクがいった。「たぶん次に眠ったあとのことになるだろう。カルオーがすんだら、みんな眠りたくなるだろうからな」
ふたりはしばらくのあいだ話をかわし、わかれて以来かれらにおこったさまざまなことを知らせあった。それからソレクは、仲間たちと飲むためにたちさった。フォン・ホルストは、ロタイをさがしあて、ふたりして祝宴の模様を見物した。祝宴はこのころには、荒れもようのどんちゃんさわぎとなっていた。口げんか、とっくみあいはそこここでおこなわれた。笑い声は耳をろうさんばかりだった。普段は威厳のある老戦士がばかばかしい道化を演じ、自分で大声あげてばか笑いしているのだった。女たちの多くは、ろれつがまわらなくなり、どんよりくもった目をしていた。かれらを見守っているうちに、フォン・ホルストは、人間性というものが石器時代から現代にいたるまでほとんど、ないしはまったく変化をとげていないというきわめて明白な事実に心をうたれたのだった。ことばと衣装を別にすれば、この人々は、地上世界の現代のどこの国からきた人々だといってもおかしくないかもしれなかった。
ほどなくフォン・ホルストは、グルムがおぼつかない足どりで近づいてくるのに気がついた。そのときの彼女は、やっとわがものにした連れあいにたいする監視の目をゆるめていたのだ。フォン・ホルストは、彼女の注意をひき、手まねきした。
「なんの用?」と彼女。
「われわれの取り引きをわすれてしまったのかい?」フォン・ホルストがきいた。
「どんな取り引き?」
「きみのためにホルグを手にいれてやったら、わたしが逃走するのを助けることになっていた」
「ああ、そのこと。カルオーがおひらきになってみんな眠ってしまったら、その道を教えてあげるわ。だけど、いまいくわけにはいかないわ。タラグどもに襲われてしまうでしょうからね。捕虜たちがあの小峡谷へ連行されたあとなら、タラグはいなくなってるわね。そうすれば、あんたは行くことができるわ」
「それでは、手おくれということになるだろう」と、かれはいった。「というのは、わたしもその小峡谷とやらへいくことになってるんでね。いろいろきいたことから推測するに、それが正しいものとすれば、わたしは二度ともどってくることはないだろう」
「そうね」と、肩をすくめて彼女はみとめた。「もどってくることはないわね。でも、どうすれば逃げだせるか、その手法を教えてあげるとは約束したわ。それは、わたしの知っているただひとつの方法なの。あなたにそれが使えないからといって、それはわたしのせいではないわ」そういって、彼女は、ホルグをさがしによろよろとたちさっていった。フォン・ホルストは、ふたたびロタイのほうにむきなおった。
祝宴はつづけられた――はてもなく、フォン・ホルストにはそう思えた。しかし、ついにまだ歩ける人々が眠るために自分の洞穴へ千鳥足でもどっていった。
ホルグは酔いつぶれてしまっていた。そしてグルムが、かれを懲らしめるためなのか、しっかりさせるためなのか、たぶん殺してしまうためなのか、フォン・ホルストにはそのいずれなのか見当もつかなかったが、棒切れでかれの頭を打擲している。
ロタイ、ムマル、ゴルプは、自分たちの洞穴へと断崖をのぼっていった――ゴルプは、ぐでんぐでんに酔っていたから、かれが岩棚へと梯子をのぼっていくのは、ほとんど自殺行為にもひとしいように、フォン・ホルストには思えるのだった。
ヨーロッパ人は、グルムのそばへよっていった。「みんな洞穴へ眠るために帰っているぞ」低い声でいった。「いまがわたしに教えてくれる好機だが」
「ゴルプの洞穴の前の岩棚へいって、わたしがいくのをまっていて」
岩棚へと梯子をのぼっていくとき、フォン・ホルストは、グルムがホルグを打擲しながら、がみがみ小言をいっているのをきくことができた。かれは、旧石器時代の人々と現代の文明化されている人々とのあいだの類似性をつらつら考えてみながら微笑《わら》った。相違があるとすれば、主としてそれはさまざまな感情の抑制という点にあるように思われた。かれは、地上世界にもグルムにも似た女たちのいることを知っていた――彼女たちの考えることにはとげがあった。
かれは、岩棚に腰をおろした。まったくのひとりきりだった。あとはとっくに洞穴へひっこんで眠っている。ロタイのこと、彼女とムマルの送っている悲惨な生活のことを考えた。ラ・ジャのことも思った。こうした思いは、やるせないものだった。このいたいけな野生の娘が、かれの人生のなかで、彼女のいない将来が単調で灰色のように思えてくるようなそんな位置を占めていたとは、不思議な気がしてならなかった。彼女を愛しているということが、はたしてありうるだろうか? このような仮説を論破できるように、かれは、自分の感情を分析してみようとした。しかし、とどのつまりは、深い溜息をつくしかなかった。どんな理屈をつけてみても、現在ラ・ジャがかれの生活からきりはなされているということが、痛みをともなったむなしさしか残していないという事実にはっきりと気づいたのだった。
ほどなくグルムがやってきた。その小さな目は血ばしり、それでなくてもだらしない髪がこの上なくだらしなかった。彼女は、肉体的にも精神的にも、いわば悪臭を擬人化したような女だった。
「ねえ」と、彼女がいった。「これでホルグも、連れあいをめとったんだってことがわかったと思うわ」
「なぜかれをぶったりしたのだ?」と、フォン・ホルスト。
「最初がかんじんだからね。そうしなくちゃいけないのさ」彼女が説明した。「ほんのこれっぽちでも弱みを見せたら、負けだよ。ムマルがいい例さ」
かれは、グルムの処世術がよくわかったというようにうなずいた。またしても、地上世界に彼女そっくりの女たちがいることを知っていたからだ。たぶん彼女たちのやり口はもっと巧妙ではあろうが、ねらいは同じなのだ。彼女たちにとって結婚は、女上位を達成するためのあくなき戦いを意味していた。彼女らのたくらみは、結婚にこぎつけるまでが五十で、結婚してからが五十というわけだ――最初の五十をつかんでしまうと、他の五十を要求してかかる。
「ところで」と、フォン・ホルストはいった。「逃走する方法を教えてくれないか」
「ゴルプの洞穴の奥に穴がひとつあるの」グルムが説明した。「一メートル下へおりると地下道に通じてるわ。わたしがまだ子供のころ、ゴルプがわたしをせっかんしたことがあったの。わたしは、ゴルプからのがれてその穴にかくれたわ。かれがわたしのあとをついてこようとしないのはわかっていたの。この地下道が〈モロプ・アズ〉につづいているのだと、いつもかれがいっていたからよ。ゴルプは、わたしを追いかけてつかまえようとし、この穴のなかへはいりこんできたわ。そこでわたしは、かれをのがれるために地下道の奥のほうへ移動しなければならなかった。かれは、わたしが出てきたら殺してやるとおどかしたわ――もっとも、わたしが〈モロプ・アズ〉に落ちこんで焼け死ななければのことだけどね。
子供のころのわたしは、ゴルプがとても恐ろしかった。このことがあったとき、かれはトゥマルをずいぶん飲んでいたのよ。だから、わたしが出ていったら、かれは本気でわたしを殺してしまうだろうとわかっていたわ。で、わたしは、かれが眠ったと思われるまでその場にじっとしていることに決心したの。
そのときわたしは、〈モロプ・アズ〉のことを考えていたわ。たぶん、その地下道をずっと奥までいってその〈モロプ・アズ〉を見て、それから無事にもどってくることができるだろうと思ったわ。とどのつまり、そのなかへ落ちこんだところで、わたしにはたいした違いはありゃしなかったのだから。ゴルプは、とても冷酷だったし、おそかれ早かれ、かれはわたしをまちがいなく殺してしまう。わたしは、そうと確信していたわね。そこで、〈モロプ・アズ〉までいってみる危険をおかしたってどうということはないって思ったの。子供でもあったし、とても好奇心が強かったのね。そのことを考えれば考えるほど、調べてみたいという気持ちがつのっていったわ。ついに、地下道をつたっていって、その〈モロプ・アズ〉なるものを見てやろうと決心したの」
「〈モロプ・アズ〉というのはなんのことだい?」と、フォン・ホルスト。
「その丘にペルシダーが浮かんでいる、火の海のことよ。わたしたちにはそれがわかっているの。だって、〈モロプ・アズ〉から地面をつきぬけて火や煙のたちのぼっているところがペルシダーにはあちこちにあるからだわ。それに、とけた岩をふきあげている穴がそこいらじゅうの山にあるの。
死んだ人は地面にうめられ、小悪魔によってすこしずつ〈モロプ・アズ〉へ運びさられ、そこで焼きつくされてしまうのよ。うずめられた死体を掘りおこしてみると、その一部分が運び去られているのに出くわすから。その点については疑問の余地がないわ――たぶんそっくり運びさられてしまうのでしょうね」
「で、その〈モロプ・アズ〉というのを見つけたのかい?」
彼女は、かぶりをふった。「いいえ。その地下道は〈モロプ・アズ〉へはつづいていなかったわ。あの小峡谷へ出たのよ。あるときをのぞいて、そこからだとかんたんにジャ‐ルを脱出することができるわ。峡谷をのぼって、上手《かみて》の断崖をこえるだけでいいのよ。そのむこうから別の峡谷へおりていくことができるし、そのままわたしたちの土地を出て、マンモス族がいくとしてもめったにいかない土地へとはいれるわ」
「ありがとう」フォン・ホルストはいった。
「でも、いますぐにいくわけにはいかないわ。タラグどもが襲いかかってくるわよ。地下道のむこう端にたむろしているの。捕虜たちが小峡谷へ連行されるまでそこにいるでしょう」
「その小峡谷というのはなんなのだ?」
彼女は、唖然としてかれを見つめた。「小峡谷は小峡谷よ。ほかのなんだというの?」
「そこでなにがあるのかね?」
「あんたにも、もうすぐわかることよ。さて、ホルグのところへもどるわ。あんたは、わたしのためにかれを手にいれてくれた。わたしは、あんたに約束を守った。ホルグがこれだけの面倒にあたいする男かどうかはわからないけど、でも、すくなくともわたしは、これから自分の洞穴に住むことができるわ」そういって彼女は、踵《きびす》をかえしてその場をたちさった。
「すくなくとも、わたしは、これから自分の洞穴に住むことができるわ! か」フォン・ホルストは苦笑した。どうやら、女が家族からのがれるために結婚するのは太古からの習慣のようだった。
[#改ページ]
十六 〈りこうものの白ひげ〉
フォン・ホルストがひと眠りして洞穴から出てきたとき、眼下では木々の葉群れが微風にそよいでいた。大気はさわやかに澄み、微風《かぜ》はひんやりして、あたかも万年雪にとざされた山脈《やまなみ》をわたって吹いてきでもしたかのように、天頂にかかる太陽の熱をやわらげていた。男は、あたりを見まわし、このマンモス族の断崖部落にふたたび活気がもどっているのを知った。下から名前をよばれているのが聞こえ、見おろしてみるとソレクがおりてこいというように手まねきしていた。ゴルプは、まだ洞穴から出てきていなかった。そこでフォン・ホルストは、下へおり、断崖の根方にいるソレクのところへいった。大勢の戦士たちが集まっている。マムスもその場にいた。フォン・ホルストを見やったが、すこしも注意をはらわなかった。
「いよいよ〈りこうものの白ひげ〉を調教することになった」と、ソレクがいった。「きみもいっしょにきてよいとマムスがいっている。おれのマンモスに同乗させてやるからな」
ほどなくマンモスの群れがあらわれた。それらの巨獣の上に乗った牧夫たちがかれらを上手に御している。かれらはみんな、よく調教されたマンモスで、おっとりと従順に歩いていた。戦士たちが全員その背にまたがると、マムスが先頭に立って、今いる大峡谷を上手《かみて》へと進んでいった。この大峡谷へと切れこんでいるいくつもの山峡は、ほとんどせまく、その岩だらけの側面がけわしかった。そうした山峡のひとつの入口の前でマムスが停止した。その山峡への入口は、ひじょうにせまく、しかもそこには、かなり太い木を横ざまにならべた柵がはめこまれていた。いちばん上の横木が、長い草をなって作られたごつい綱でその場にしっかりと固定されている。戦士たちはその綱をほどいた。マンモスの二頭がその牧夫によって誘導され、柵をとりはずした。それから一行は、隊伍を組んでその山峡にくりこんだ。
入口をはいると山峡は、ぐっと広くなってその底部もたいらだった。かれらがそこをわずかな距離だけのぼったとき、フォン・ホルストは、一頭の巨大なマンモスが木陰に立っているのを見た。太い四つ足で立ってはいたが、前後左右にゆれていた。頭と鼻がゆれる胴体の調子にあわせてうねっている。左ほおに白い毛の部分がみとめられた。〈りこうものの白ひげ〉、つまり〈殺し屋〉なのだった。フォン・ホルストは、その巨獣が数百頭の同類のあいだにまじっていたとしても見わけがついていただろう。
一行を見たとたんそいつは、鼻をふりあげ甲高い鳴き声を発した。この巨獣の警告に周囲の岩が、ごつごつした連丘が、震撼《しんかん》した。そいつがかれらのほうへ進んでこようとする。そのとき、フォン・ホルストは、そいつの肢の一本に太い丸太がゆわえつけられているのを知った。そいつは、あたりを動きまわることはできたが、その丸太が、そいつが敏捷に動作するのをさまたげていたのだった。二頭のマンモスが〈りこうものの白ひげ〉の両側に乗りつけられた。そいつが鼻をふりあげて乗り手をつかまえようとしたとき、その鼻を他の二頭が自分たちの鼻でとらえて、おさえてしまった。そうするためには、二頭分の力をくみあわせる必要があったのだ。
いまや、三人めの戦士が近くに乗りつけ、そのよく飼いならされたマンモスたちの一頭の背越しに〈りこうものの白ひげ〉の首に乗りうつって、そこにまたがった。その男にこう近々とくっつかれて、捕《と》らわれのけものはカッとなった。甲高い鳴き声をあげ、咆哮し、そいつは、両側からぴったりくっついてくるけものからのがれようとした。鼻をふりあげて自分の首から人間をつかみおろそうとあらがいながら、太い丸太をうしろにひきずってその山峡の平地をあてどもなくよろめき、かけまわった。
殺し屋の〈りこうものの白ひげ〉は、年齢《とし》をくっているだけに賢明だった。力づくではなにもできっこないとさとったとき、そいつは、急におとなしく、一見羊のように従順になった。それから、そいつの調教がはじまった。首にまたがっている戦士が、そいつの首、自分のすわっているすぐうしろを掌《てのひら》でピシャリとはげしくたたいた。と同時に、そいつの背後にいる一頭のマンモスと両側のマンモスたちがそいつを前方へおしやった。前へ進めの合図だ。乗り手の前方、そいつの頭への一撃は止まれの合図だった。三頭のどでかい調教用マンモスは、そいつを止めた。何回となくこれらの動作がくりかえされた。それから、ほおの反対側にひと蹴りをくわえることで右あるいは左へまがることを教えられた。〈りこうものの白ひげ〉は、のみこみが早かった。マムスはごきげんだった。ここにまさしく、族長のまたがるにふさわしい力のある、聡明なけものが誕生したのだ。調教師たちは、〈りこうものの白ひげ〉の耳、尻尾、鼻、目を注意深く見守った。これらは、そいつの気性をしめすものだからだ。そして、それらはすべて、あきらめと従順をあらわしていた。
「野生のマンモスがこうもあっさりとおとなしくなったり、あるいはこうも飲み込みが早かったりするのを見たことがない」マムスがさけんだ。「もう調教はおしまいだ。他のマンモスをはずしてひとりで進ませてみろ。そのあとで丸太をはずそう」
三人の乗り手たちは、おのおののマンモスを〈りこうものの白ひげ〉からちょっとだけ後退させた。巨獣は、つっ立ったまま鼻を静かに前後左右にゆすっている。満足と従順を絵にかいたようなものだった。そいつにまたがっている若い戦士がそいつの背をはげしくたたき、前進しろの合図をした。と、蛇が襲いかかるときのすばやさで〈りこうものの白ひげ〉は、鼻をふりあげて、乗り手をつかまえた。それと同時に、憎悪と怒りに狂いたつ悪魔と化していた。
甲高い激怒の鳴き声を発しながら、〈りこうものの白ひげ〉は、のたうちもがく戦士を頭上高々とさしあげた。それから目の前の地面に力いっぱいたたきけたのだった。そいつの調教を手伝っていた三人の戦士たちは、あわてて自分のマンモスをそっちのほうへかりたてたが、手おくれだった。〈りこうものの白ひげ〉は、たたきつけた戦士の上に太い足をのせ、ふみつけ、地面にめりこませてしまった。それからそいつは、いちばん近くにいたマンモス上の乗り手をつかまえて山峡のむこうへほうりなげた。そのあいだじゅう、そいつは甲高い鳴き声をあげ、咆哮していた。戦士のいまひとりをつかまえようとつっかかっていったとき、そのふたりは、マンモスのむきを変え、退却した。だが、〈りこうものの白ひげ〉は、重い丸太をうしろにひきずりながら、そのあとを追った。これで、その巨大なとらわれのけものの調教はおしまいだった。失望と怒りこもごものマムスは、全員に山峡から退出するよう命令した。横木の柵がもとにもどされた。かれらは、マンモスの背にまたがり、峡谷をくだって部落のほうへひきかえしていった。
フォン・ホルストは、それまでのことのなりゆきを興味津々のていで傍観していたのだった。かれの興味は、その〈りこうものの白ひげ〉との以前のなまなましい経験ゆえに、いや増していた。そのマンモスに情がうつっていたというのか、心中ひそかに、かしこい〈りこうものの白ひげ〉が捕獲者たちをものの見事にあざむき、甘んじて受け忍ばねばならなかった苦痛や怒りにすくなくともいくばくかの復讐をはたしたそのやり方に快哉《かいさい》をさけんでいたのだった。
フォン・ホルストはまた、マンモス族がその御《ぎょ》しがたいけものを乗物用として役立つように制御していくのに採用している方法を学ぶのに興味をおぼえた。そこで、山峡をあとにしたとき、かれはソレクに、いまふたりが乗っているマンモスの扱いをゆるしてもらえまいかとたのんでみた。ソレクは、そいつはおもしろいことだといって同意した。かくて、フォン・ホルストは生涯で学んできたどんなことよりも文句なしに無益と思えるような技能を習得したのだった。
「〈りこうものの白ひげ〉を馴《な》らすことができるだろうか?」と、かれはきいた。
「まずだめだ」
ソレクは、かぶりをふった。「マムスが気ちがいででもないかぎりはね」とこたえた。「そうなら、あのけものにまた別の戦士の生命をかけるだろうからさ。あいつは、生まれながらの殺し屋なんだ。ああいうのは決して馴れることはないだろう。これまでにも大勢の戦士を殺してきたし、だからわれわれを殺すことがいともかんたんなことだと知っているので、やつも無事ではすまされないだろうな」
「どうなるんだ?」
「息の根をとめられるだろう。しかし、その前にやつは、われわれ一族のものをちょいとばかり楽しませてくれることになる」
かれらは、黙々として先へ進んだ。フォン・ホルストの想念は記憶の槽の中をひっかきまわし、数多くのなかばわすれかけていた事々が思いおこされてくるのだった。なかでもラ・ジャの姿は、奔放で、なまなましく鮮明だった。かれは、顔をちょっとだけソレクのほうにむけた。
「ロタイというのはいい娘だね」
ソレクはハッとして、それから眉をしかめた。「ロタイのなにを知っているのだ?」ときいた。
「わたしは、ゴルプの洞穴で寝泊まりしていたのだよ」
ソレクがぶつくさいった。
「ロタイは、だれかりっぱな戦士を連れあいにするだろうな」フォン・ホルストは、あえていってみた。
「そいつは、おれと戦わねばならんだろう」とソレク。
フォン・ホルストは微笑した。「グルムは連れあいをめとったし」といった。「だから、ロタイを自分のものにする男は、グルムまでかかえこむという必要はなくなった。その男は、きみと戦いさえすればいい。しかし、きみにその気があるとは、わたしは知らなかったね。ロタイだって、きみにその気があると知ってはいないんだ」
「どうしてわかる?」
「彼女がそういってたんだ」
「きみは、彼女がほしいか!」ソレクがきいた。
「たいへん望ましい人ではあるけど、彼女にはほかに愛している男がいるのだよ」
「で、きみは、そいつと戦うのがこわいのか?」
「いいや」フォン・ホルストはこたえた。「そいつと戦うのはこわくない。わたしはすでに、そいつと戦って負かしているのでね」
「で、彼女を連れあいにしたのか?」ソレクの口調は、けもののうなりのようにひびいた。
「いや。わたしは、彼女がそいつを愛しているのを知っているんでね」
「そいつはだれだ? 彼女をそいつにわたしゃしないぞ。そいつを殺してやる。そいつはだれだ! いってくれ」
「きみだよ」ニヤニヤしながら、フォン・ホルストはいった。
ソレクがばかまるだしの顔つきになった。「なに、ほんとうか?」ときいた。
「まちがいない。彼女は、わたしにそういったんだ」
「この次眠る前に、マムスにたのんでみよう。ロタイをおれの洞穴へ連れていく」
「マムスにたのまなければならないのか?」
「そうだ。かれは族長だからな」
「それなら、いまたのめよ」フォン・ホルストはすすめてみた。
「そうだな。いまだってあとだって同じことだ」ソレクはみとめた。そして、マンモスを急《せ》きたてて、マムスのそれとならべた。
「おれは、ゴルプの娘ロタイを自分の洞穴へ連れていきたいのだが」と、かれはいった。
マムスが渋面を作って「だめだ」といった。
「なぜ?」ソレクがきく。「おれは、すぐれた戦士だ。連れあいがいない。だから、ロタイがほしいのだ」
「おれもそうなのだ」とマムス。
ソレクの顔がさっと赤らんだ。そして、かれが何かいいかえそうとしたとき、フォン・ホルストは、自分の唇に警告するように指をあてがい、マンモスの歩速をゆるめた。ふたたび隊列のもとの場所へもどった。
「わたしに名案がある」と、フォン・ホルスト。
「どんな名案だ?」と、ソレクがきく。
「ロタイを手にいれると同時に、彼女をたいへん幸福にしてやれるようなことができる、そういう名案だ」
「で、具体的にいうと?」
「彼女と、その母親ムマルは、ここにいるとひどくみじめなんだ。ムマルは、ゴルプが彼女をさらってきた土地、つまりサリへ帰りたがっている。それに、ロタイは彼女についていきたいそうだ」
「なるほど。で、おれがどうすればいいというんだ?」ソレクがきいた。
「ふたりとも、きみがひきうけるのさ。ロタイを手にいれるにはそれしかない」
「ふたりともひきうけるわけにはいかないな」ソレクがいった。「ふたりを連れて部落をぬけだすなんてことは、ちょっと無理な話だ」
「もしできたら、ふたりといっしょにサリへいくつもりはあるかね?」
「サリの男たちに殺されるのがおちだぜ」
「サリ族のものは、きみを殺すようなことはしない。ムマルはサリ人だ。わたしにはダンガーという友人がいて、かれがきみをサリの一族にむかえいれてくれる面倒をみるはずだ。わたしのたのみはなんだってきいてくれる男でね」
「そんなのだめだよ」と、ソレクがつっぱねた。「ふたりの女を連れて部落をはなれるなんて、こんりんざいできっこないことだ」
「それができたら、やるかね?」フォン・ホルストがきく。
「ああ。もしロタイがついてくるというなら、おれは、どこへでもいくよ」
「ゴルプの洞穴の奥に地下道へつづく穴があるんだ」
「ああ。そのことは知っている。そいつは、〈モロプ・アズ〉へ通じてるんだぜ」
「どっこい、それがあの小峡谷へつづいてるのさ。むこう端にたむろしているタラグどもがいなくなったら、ロタイとムマルを連れてその地下道をぬけ出ればいい」
「そいつがあの小峡谷へ通じていると、どうして知っているのだ?」ソレクがきいた。
「タラグのいるあたりまでいってきたことがあるという、ある人物からきいたのさ」
ソレクは、しばらく口をつぐんでいたが、やがてまた話しはじめた。一行は、部落へ到達し、マンモスからおりたった。牧夫がマンモスたちを連れ去る。マムスはいらだち、むっつりふさぎこんでいた。フォン・ホルストのほうにむきなおり、「ゴルプの洞穴へもどれ」と命令した。「あそこでじっとしているのだ。たぶんこの次に眠る前に、おまえをあの小峡谷へ連れていくことになるだろう」
「それでおまえさんも一巻のおわりだよ、相棒」ソレクがいった。「気のどくなことだ。きみにもおれたちといっしょにサリへいく方法を見つけてやれるかもしれないと思っていたが、あの道はふさがれたままだろう。きみが小峡谷へ連れていかれるあとまで、タラグどもががんばっているだろうからな。つまり、手おくれということだ」
フォン・ホルストは肩をすくめた。「その点については、だれにもいかんともしがたいことだよ」といった。
「まったく手のほどこしようもない」ソレクがおっかぶせるようにいった。
かれは、フォン・ホルストと並び、上のゴルプの洞穴へとつづいている梯子のほうへ歩いていった。「たぶん、おれたちが話しあうのもこれが最後だろう」
「あるいはね」と、フォン・ホルストがみとめた。
「ロタイにことづてをしてくれないか?」
「いいとも。なんていう?」
「おれといっしょにサリへいくかどうか、きいてみてくれないか――ムマルも連れてのことだが。もしいくといったら、この次におれを見たとき、太陽にむかってまっすぐ右腕をあげてくれ。その逆なら、左腕だ。おれは、よく注意して見ているはずだから。もし彼女たちがいくとしてのことだが、その場合、他の部落の連中が小峡谷へおもむく際には、かれらはかくれなければならないとつたえてくれ。おれもそうする。そして、全員がでかけてしまったあとで、おれたちは地下道にはいり、タラグがいるあたりまで進んでいればよい。一族のものが小峡谷からたちさると、おれたちは表へ出て、サリをさがしもとめて旅をはじめるという寸法だ」
「さよなら」フォン・ホルストがいった。ふたりは、梯子の根方に到達していた。「さよなら。うまくやれよ。できるだけ早くロタイにつたえてやるからな」
フォン・ホルストは、ロタイとムマルがふたりきりで洞穴の前にいるのを見つけ、すぐさまかれとソレクが協議した計画を説明して聞かせた。ふたりの女は喜んだ。そうやってかれらは、腰をおろして長いあいだ将来の計画をねった。ほどなくゴルプが出てきて、食物を要求した。いつもの例にもれず、かれは気むずかしく残忍だった。フォン・ホルストをハッタとにらみつけ、がみがみいった。
「二度ときさまに食い物はやる必要がなくなるだろう」といった。「マムスがそういっていたからな。まもなく、おれたちはあの小峡谷におもむく用意がととのうだろう。おまえは、他の捕虜たちといっしょにあそこへ連行され、二度ともどってくることはない」
「きみと会えなくなってさみしいな、ゴルプ」フォン・ホルストはいった。
マンモス族の男は、ポカンとしてかれを見つめた。「おれは、ちっともさみしかアない」といった。
「私は、きみのいろんなことの好ましいやり方だとか、きみの手厚いもてなしに接することができなくなって残念だよ」
「おまえはばかだ」ゴルプはいった。食物をがつがつ食らい、立ちあがる。「洞穴へいってひと眠りする。小峡谷へでかけるという指示があったら、おこしてくれ」
洞穴へはいるべく岩棚をつっきっていく途中、かれは、ロタイをねらって意地悪くひと蹴りくれようとした。しかし、彼女は、すばやく身をころがしてそれをさけた。
「なぜ男を手にいれようとせん」と、かれはきいた。「あたりにおまえがいるのを見ると胸がわるくなる。おまえに無駄めしを食わすのは、もううんざりだ」そういって、ずかずか洞穴へはいっていった。
三人は、だまってすわっていた。かれらは、立ち聞きされるという恐れがあったから、あえて逃走の計画をねったりはしなかった。女たちの理念は、幸せにみたされていた――脱出のこと、サリのこと、愛のこと、幸せのこと。男は、将来のことではなく過去のこと――自分の生まれた世界のこと、友人たちのこと、家族のこと、かれの人生にわずかにかかわりをもった、だが、かれの人生を決してみたすことのなかったある美貌の女性のこと。かれには将来はなかった――ただつかの間の不確定な期間と、それから死。ひとりの青年が、ゴルプの洞穴の岩棚へとましらのように梯子をのぼってきた。青年は、たちどまると三人を順にながめ、ロタイに視線を休めた。
「おまえは、マムスの洞穴へいくことになった」と、かれはいった。「かれは、おまえを連れあいにえらんだのだ」
ロタイは、顔面蒼白になった。まるく見張った目に恐怖の色がみなぎった。口をきこうとするが、あえぎが出るばかり。指がのどもとをかきむしっていた。
フォン・ホルストは、その使いのものを見やった。「ロタイは病気だと、マムスにつたえてくれ」といった。「だが、やがてそのうちにいくだろうとな」
「ぐずつかないほうが彼女の身のためだぞ」男は警告した。「痛い目にあわせられたくなかったらな」
その青年がたちさると、三人は、そのまましばらくのあいだ低声で話しあった。やがて、ロタイがたちあがり、洞穴へはいっていった。フォン・ホルストとムマルは、ちょっとのあいだその場にじっとしていた。それから二人も、強い眠気を感じたから、洞穴へはいっていった。
フォン・ホルストは、洞穴の表でわきおこった大声に目をさまされた。そのとき、ゴルプがロタイをよびながらはいりこんできた。返事はなかった。フォン・ホルストは、おきなおった。
「ロタイは、ここにはいない」と、かれはいった。「そんな大さわぎをするのはよしてくれ。わたしは眠いのだよ」
「彼女《あいつ》はどこだ?」ゴルプはきいた。「ここにいるはずなんだ」
「あるいはな。しかし、彼女はいない。マムスが彼女に自分の洞穴へくるようむかえをよこしたのだ。マムスのところへいって、彼女がどこにいるのかきいてみるんだな」
ふたりの戦士が洞穴にはいってきた。「彼女は、マムスの洞穴へはやってこなかった」そのうちのひとりがいった。「彼女を連れてくるようにと、われわれはマムスに派遣されたのだ」
「たぶん彼女になにかあったんだ」フォン・ホルストが意見をのべた。
ふたりの戦士は、ゴルプといっしょに洞穴を捜索した。ムマルに質問を発したが、彼女は、フォン・ホルスト同様、マムスが彼女をむかえに使いのものをよこしたと答えただけだった。ついにかれらはいってしまった。あとのものがかれらについて岩棚へ出る。ほどなくフォン・ホルストは、大勢の戦士が部落の捜索を開始するのを知った。洞穴という洞穴をかたっぱしから調べたが、ロタイは発見されなかった。フォン・ホルストは、断崖の根方の林のなかに立っているマムスの姿を見ることができた。その身ごなしから、かれが怒り心頭に発しているらしいなと、フォン・ホルストはにらんだ。図星だった。やがて、族長みずからゴルプの洞穴へやってきて、捜索した。そして、ゴルプ、ムマル、フォン・ホルストを訊問した。かれらのひとり、あるいは全員のせいにしたがったが、それをささえる証拠がなかった。険悪な表情で、かれは、フォン・ホルストの前にたちどまった。
「おまえはついていないな」といった。「だが、もうすぐおわる――すぐに小峡谷へでかけるからな」
あの小峡谷へ! ペルシダーでの、かれの冒険のおわりが近づきつつあった。だが、それがなんだというのだ? 人は死なねばならないものなのだ。それがいつだろうと、より楽に死ねるということはほとんどない。よぼよぼの老人や望みなきものですら生命に執着する。そうしたくはないのかもしれないが、どうしようもないのだ――それは不変の、自然の法則のいまひとつにすぎないのだが。
フォン・ホルストは、戦士たちのあとについて断崖の根方へと梯子《はしご》をおりていった。そこに男、女、子供の一族郎党が集合していた。一群のマンモスが部落内へ追いこまれてくるところだった。やがて、これらの巨大なけものたちは、その背に、男、女、子供を鼻を使って乗せるのだった。フォン・ホルストは、あたりを見まわしてソレクをさがした。しかし、かれの姿は見あたらない。
そうこうするうちに、一頭のマンモスの背に乗るように命じられ、かれは、ひとりの戦士のうしろに腰をおちつけた。フルグが別のけものの背に乗っているのが目にとまった。他の捕虜たちも同様だった。アマダル、ゴ‐ハル、ロ‐ハールからきた男たちだ。フォン・ホルストは、フルグをのぞいて他の捕虜たちには会ったこともなかった。しかし、かれらのことについてはムマルや、グルム、ロタイからきかされていた。かれは、ロ‐ハールからきた男と話せたら、たいへん喜んでいたことだろう。というのもロ‐ハールは、ラ・ジャの生まれ故郷だったからだ。そのことゆえにかれは、その男により親近感をおぼえたのだった。恐るべきガズにですら心ひかれる思いがしたかもしれないのだ。
ほどなく、ソレクの姿が目にとまった。林のなかの片側に立って、じっとフォン・ホルストを見つめていた。そして、地上世界からきた男は、かれの目をとらえた瞬間、右腕を真上に、太陽にむかってさしあげた。ソレクは、うなずいてその場を去った。その後すぐに、マムスがその小山のようなけものの背に乗って進みはじめた。あとのものたちがそれにつづく。女、子供をともなった毛むくじゃらの戦士、かれらを乗せている怪獣は、なにか不吉なものを内包しているにもかかわらず、フォン・ホルストの血肉をわかせおどらせる、原始時代の蛮性をえがいた一枚の絵画ともいうべきだった。それはまさしく、死への勇壮な前奏曲だった。かれは、自分の周囲を見まわした。かたわら、ほとんどかれとならぶようにして、ゴルプが単身自分用のマンモスの背に乗って進んでいるのに気がついた。
「ムマルはどこにいる?」フォン・ホルストがきいた。
ゴルプは、かれを見て眉をくもらせた。「病気なんだ」といった。「あんなやつ死ねばいいんだ。そうすりゃ、おれは、いい連れあいが手にいれられるからな」
ほどなく道は、峡谷の側面をうねりくねってのぼり、いまひとつのけわしい斜面の峡谷に平行して走る尾根の頂上へとつづいていた。この頂上で一族のものは、マンモスからおりて、そのけものを牧夫にひきわたした。その後で、男、女、子供がずらりと、眼下に円形闘技場を形成しているその峡谷の縁にならんだ。
「これが」フォン・ホルストが同乗していたマンモスの背の上の戦士がいった。「例の小峡谷だ」
[#改ページ]
十七 小峡谷
その峡谷の縁は岩棚をなしていて、その岩棚にそって一族のものたちが、十メートルたらず足下の、峡谷の底部が見おろせるようにひしめきあっていた。峡谷の上手のはずれに頑丈な囲《かこ》い柵が作られており、そのなかに数頭のマンモスがいた。そして、見物人たちの真むかいの岩壁にひとつ、洞穴の入口がポッカリ開いていて、やや細目の横木の柵でふさがれていた。フォン・ホルストがその場にじっとたって、小峡谷を見おろしていると、ホルグが一本の綱をもってやってきた。綱の一端には輪がつくられている。
「このなかに片脚つっこめ」と、フォン・ホルストにいった。「そして、かたく締めるんだ」
さらにふたりの戦士が近づいてき、最初のやつといっしょになってその綱をつかんだ。「あの端までいくのだ」ホルグが命じた。「いやな思いをするのも、ほんのちょっとの間《ま》だぜ。おれの気分としちゃ、おまえとかわってやりたいくらいのもんだ」
フォン・ホルストはニヤついた。「けっこうだ」といった。「こんなけっこうなことを人にかわってもらったんじゃな」
「底へついたら、綱をはずすんだ」ホルグが指示した。それから二人は、峡谷の底へとかれをおろしはじめた。
かれらがおろした綱をふたたびたぐりあげると、石のナイフと石の穂先がついた槍が一本ずつ投げおとされた。ついで、また別の捕虜がひとりおろされた。フルグだった。
バスティの族長は、フォン・ホルストをにらみつけた。「とんだけっこうなごたごたにまきこんでくれたな」うなるようにいった。
「もっともらしいことをいうじゃないか、相棒」フォン・ホルストがいいかえした。「アメリカの友人たちがいみじくもいっていたことばをかりれば、きみもまた自分が悪いのを人のせいにするタイプのようだな。で、このことははっきりと、わたしがいだいていたひとつの意見ということを強めてくれている――つまり、ほおひげや山高帽子の型はかわっても、人間性は永久《とわ》にかわらずということだよ」
「なんのことをいってるのか、さっぱりわからんな」
「きわめて精神的な問題だからね。もしわたしの目がいくらかでもきくとすれば、われわれがこんな谷底で言ったり考えたりするようなことは、だれにとっても、われわれ自身にとってすらまったく取るにたりないもんだってことがいえるのじゃないかな」
上からフルグがもつべき武器が投げおとされた。それから、ひとりずつ、残る三人の捕虜がおろされ、武器があたえられた。いまや運命のさだまった五人の男は、小さなかたまりをつくって立ちつくし、死をまちうけていた。どんな形で死神が姿をあらわすのだろうかと、かれらはいぶかった。五人が五人とも、強くて勇敢な男たちだった。おのおの、できうるかぎり生命と自由を勝ちとるチャンスがあたえられるかもしれないとのかすかな希望を、かれらがいだいていたのに疑問の余地はない。
フォン・ホルストは、以前に見かけたこともなかった三人をしげしげと見つめていた。「ロ‐ハールからきたのはどの人なんだね?」ときいた。
「おれがそうだが」三人のうちでいちばん若いのがいった。「それがどうした?」
「わたしは長いこと、ロ‐ハール出身の娘といっしょにいたんだが」と、フォン・ホルスト。
「われわれは、バスティで奴隷にさせられていたんだが、そこからのがれてきた。そして、ロ‐ハールへむかう途中でバスティからきたふたりの男が、わたしの眠っている間に彼女をさらっていってしまったのだ」
「その娘とはだれのことだ?」ロ‐ハール出身の男がきいた。
「ラ・ジャ」
男は、驚いてヒューと口笛をふいた。「族長、ブルンの娘だ」といった。「ふーん、きみは、彼女といっしょに無事ロ‐ハールに到達していたとしても、いまここでひどい苦境に立たされているのとまったく同じことになっていただろう」
「なぜ?」フォン・ホルストはきいた。「それはどういう意味なのだ?」
「つまり、ここでは殺される以外のことはありえないというわけだ。そして、もしきみがラ・ジャを連れてロ‐ハールに到達していたとしたら、ガズがきみを殺していただろう。かれは、ラ・ジャが姿を消してからというもの、気負いたっているんだ。だれが彼女をさらったのかかれが知らないのは、バスティ族のものにとってついていたな。ガズは、たいへん強い男で、バスティ族のようなのは単身で全滅させてしまうだろう」
またしてもガズか! フォン・ホルストは、この剛胆な戦士にあいまみえる機会をついにもちえぬ運命におちいったのがすこぶる残念だった。
かれは、フルグのほうをむいた。「ロ‐ハールからきた男は、きみたちバスティ族のもののことをたいして考えてはいないぞ」と、あざわらった。
「かれは、バスティ族のものなのか?」ロ‐ハール一族のものがきいた。
「かれは族長なんだ」フォン・ホルストは説明した。
「おれは、ロ‐ハールからやってきたダホという」青年戦士がさけんだ。「きさまがおれの族長の娘をかどわかしたのか、この人食いめ。殺してやる!」
かれは、フルグにとびかかった。石の穂先のついた槍を、さながら銃剣を装着したライフルのようにかまえていた。フルグは、その最初の突きをはらいながら、とびさがった。上の岩棚にいならぶ野蛮人の観衆から、やれ、やれといっせいに大声でさけぶのがきこえてきた。ふたりの男はそのとき、仮借ない、情容赦のないはたしあいに突入した。フルグは、体重で三十キロたらず相手をしのいでいたが、相手には、若さと敏捷さという利点があった。フルグは、ダホめがけてとびこみ、たんに肉体的な重量のみによってかれを圧倒しようとした。しかしダホは、フルグにとってあまりにも身軽でありすぎた。相手がとびこんでくるたびに、かれは、ひょいとわきへ身をかわしていた。そして、フルグが三度めにとびこんできたとき、前と同様わきへとびのきざますばやく反転し、槍をバスティ人の脇腹へつきさした。
マンモス族たちが大声でけしかける。「殺《や》ってしまえ! 殺ってしまえ!」
フルグは、怒りと苦痛に咆哮《ほうこう》をあげ、くるりとむきを変えてどたどたとダホにせまっていった。ロ‐ハール族の青年は、こんどはその場につったち、フルグがほとんどつかみかかってくるところまで待うちけた。それから、いきなりひょいと身を低め、のびてきた相手の武器をかわして自分のそれをフルグの腹へはげしくつきあげた。フルグは悲鳴を発しながら地面にぶったおれ、のたうちまわった。ダホは、そんな相手の腹から槍をひきぬき、こんどはそれを心臓にめりこませた。かくて、バティの族長フルグは死に、ラ・ジャは、その一族のひとりによって復讐をとげてもらったのだった。
マンモス族の大喚声うずまくなかで、アムダル出身の男がさけんだ。「見ろ! タラグだ! そら」峡谷のむこう側のほうをゆびさした。
他のものともどもフォン・ホルストは、そっちを見やった。洞穴の入口の前にあった格子戸が、上から戦士たちによってもちあげられており、いまや五頭の巨大なタラグが峡谷へとのそのそはいだしてくるところだった。――五頭のどでかい剣歯虎。
「タンドールだ!」ゴ‐ハル出身の男がさけんだ。「やつらは、タンドールをおれたちにけしかけようとしている。タラグとタンドールをむこうにまわして戦うのに槍とナイフを一本ずつしかあてがってくれないとは」
「かれらは、われわれのことをすご腕の戦闘士だと思ってるのさ」フォン・ホルストがにやにやしながらいった。峡谷の上手の端にちらと視線をむける。柵囲いからすでにマンモスたちのはなたれているのが目にとまった。
五頭の雄のマンモス、調教することのできない殺し屋ども。そのなかで一頭、ぬきんでてでかいのがいた。タラグと人間のにおいをかぎつけると、怒り狂ったように咆哮した。五頭は、峡谷の中央めざして地ひびきたてて近づいてきた。いっぽう巨大な猫どもは、いまや絶体絶命の四人の男のほうへ真一文字にやってくる。かくて、両者のけものは、その進んでくるぐあいからみて、タラグが男たちに到達する手前で確実にはちあわせてしまうように見えた。しかし、タラグの一頭が他をひきはなしてかけてきていた。だから、そいつがマンモスたちの前方をよぎって、なんのじゃまもなく四人の捕虜に到達するもののように思えるのだった。
フォン・ホルストは、マンモスとタラグの両方の性向をきわめてよく知っていた。両者は、たがいに相いれぬ敵であったから、はちあわせすればかならず相手に襲いかかっていくであろうことを、かれは知っていたのだ。これがかれ自身と他の捕虜たちにどんな意味をもつことになるかは、あとになってみなければわからない。だが、たぶんかれらのかなりの数がつづいておこる戦いでは使いものにならなくなり、四人の男は、息の根のとまらなかったけものたちをしとめることができるのではないだろうか。それでかれらの立場がすこしでもよくなるのかどうかは、かれにはわからなかった。生き残ったものが釈放されるということもありうる。かれは、そのことについてロ‐ハール生まれのダホにきいてみた。
「マンモス族というのは、いくらそうできたとしても、捕虜をのがすようなことはしない」ダホはこたえた。「このけものどもに殺されなかったとしても、おれたちは、なにか別の方法で殺されるだろう」
「もし、あの上手の端までいきつくことができれば」と、フォン・ホルストがいった。「われわれは、脱出することができるかもしれない。柵囲いのわきから頂上まで細道のつづいているのが見えるが、われわれがあそこを通ってのがれることができれば、マンモス族は追跡してこないだろうときかされている。あの道をいけば、なにかの理由でかれらが決してはいろうとしない土地へ出てしまうからだそうだ」
「タラグとタンドールがあれだけいたんじゃとてもあの上手の端へいきつくことはできないな」ダホがこたえた。
先頭に立っていたタラグは、いよいよとびかかってくる態勢をととのえつつあった。いまや低く身をすくめ、はい進んでくる。まがりくねった尻尾が神経質にふるえている。そのらんらんと燃える目が、仲間のものたちよりちょっとだけ前に立っていたフォン・ホルストにひたとすえられていた。このタラグの背後では、他のタラグどもがタンドールとはちあわせしていた。たがいに相手にいどむけものどもの咆哮、ラッパのような鳴き声、甲高いうなりに峡谷は震撼《しんかん》した。
「峡谷の上手へむかって走れ」フォン・ホルストは、うしろにいる仲間たちにさけんだ。「だれかは逃げられるかもしれない」
そのタラグがつっかかってきた。唇がめくれあがり、太い剣歯を歯ぐきまでむきだしにしてぞっとするようなうなりを発している。顎ががっとひきさかれている。咆哮を発しながらやつは、もろい人間めがけてつっかかってきた。以前、一度だけフォン・ホルストは、石の穂先のついた槍一本でタラグの猛襲をくいとめたことがあった。そのときは、たぶんに幸運《つき》もあった。そのようなつきに今度もめぐまれるとは、考えられそうもないことだった。だが、それにしてもあのときのことは、全部が全部つきだけだったのだろうか? わざ、力、鉄の神経が、かれの勝利につながる要因となったのではないだろうか。だから今度も、そうしたものがこの悪魔の形相をしたけものをくいとめるのではあるまいか?
タラグが最後の跳躍にかかり、宙に浮きあがったとき、フォン・ホルストは、片ひざついて槍の石づきを地面にしっかりつき立てた。稲妻のようなすばやさで動かねばならなかったが、きわめておちついていたし、慎重だった。剣歯虎の幅広い、白い胸をねらって槍の穂先を前方へかたむけた。そして、けものがぶちあたってきたとき、男は片側へ転倒し、と見るや、すっくとたちあがっていた。
槍はタラグの胸にふかぶかとつきささった。身の毛もよだつばかりの悲鳴を発し、けものは、峡谷の地面にぶったおれた。しかし、すぐさまおきあがって兇猛なうなり、恐ろしい咆哮をあげながら深傷《ふかで》をおわせた主《ぬし》をさがしもとめた。険悪な目をフォン・ホルストにむけ、かれに接近しようとした。しかし、地面にめりこんでいる槍の石づきが、その穂先をそいつの身体にさらに深くめりこませた。そこでけものは、ふみとどまってその不快をあたえるものにつかみかかった。いまや、その咆哮は耳をろうするばかりだった。しかしフォン・ホルストは、そいつの力が弱り、騒音をたてる以外まったく脅威とはなりえなくなったのを見てとり、あたりを見まわして、峡谷の上手の端へ到達するのにどのような危険をおかさねばならないかとたしかめた。仲間たちは、その方角へかけていくところだった。かれの右手ではタラグとマンモスが壮烈な闘いをくりひろげている。タラグの三頭がマンモスのいちばん小さいやつを集中的に攻撃していた。他の四頭のマンモスは、小さなかたまりをなして尻尾をくっつけるようにしてつっ立っていた。そして残るタラグ、五頭のうちでいちばんでかいやつがその周囲をぐるぐるめぐっていた。
フォン・ホルストは、峡谷の上手の端のほうへ進んでいった。けものどもに気づかれぬよういければと望んだが、四頭のマンモスをめぐっていたどでかいタラグに見つかってしまった。そいつは、かれを見やりながらその場にたちどまった。それから、かれのほうへやってきた。もはやその、牙とかぎつめをそなえたけものとの衝突の結果をいずれかに決めるべき槍はなかった。
その結果は、いまやはじめからわかりきっていた。
フォン・ホルストは、峡谷の末端までの距離をはかった。巨大な肉食獣がかれに追いつくまでにそこまで到達することができるだろうか? 自信はなかった。そのときかれは、最前気がついていた一番でかいマンモスが四頭の小さなかたまりからはなれ、あたかもそのタラグの進路をはばもうとでもするかのようにこっちへやってくるのを見た。そのタンドールは、大猫が自分からのがれようとしているのだと思い、だから大胆になり、あとを追い襲いかかろうとしているのだとフォン・ホルストは推察した。
これで、ささやかながらのがれられるチャンスが生まれるかもしれない。もし剣歯虎がフォン・ホルストに追いつく前に、マンモスが剣歯虎に追いついたら、あるいはもし、剣歯虎の突進がそのマンモスの驚異的な攻撃にそらされたら、かれは、なんなく強国の上手の端に到達できるだろう。峡谷内のけものどもは、どいつもこいつも相手の敵にかかりきりなのだから、このはかない希望にうながされて、かれはかけはじめた。しかしタラグは、この手軽な餌食をむざむざのがしてしまうつもりはなかった。マンモスにはこれっぽちの注意もはらわずに、フォン・ホルストをそのまま追いつづけた。肩ごしにちらっとふりかえったかれは、その巨大なマンモスのものすごいスピードに度肝をぬかれた。サラブレッドさながらに、そいつは、肉食獣をたたきつぶすべく疾駆してくる。タラグは、みるみるフォン・ホルストとの距離をつめていた。いずれがさきにかれに到達するか、それは疑問だったが、フォン・ホルストにとっては、自分の死にかたが変わるぐらいのものでしかないように思われた。あの恐るべきかぎつめに内臓をかっさばかれて死ぬのだろうか。それとも、中空たかだかとほうりあげられて、それからその有史前のけものの数トンもの肉のかたまりにふみつぶされるのだろうか?
峡谷の縁の岩棚の上では、野蛮な穴居人たちがこのスリルある死の競争に大喜びし、やんやの喚声をあげ、けしかけていた。マムスは、捕虜の三人が峡谷の上手の道にたどりつき、自由の身になろうとしているのに気がついていた。その道が警備されていなかったのは、マンモス族が自分たち以外そのことをだれも知らないと信じていたことに起因していた。その道は、峡谷の岩壁のうえにきわめてかすかに跡がついているだけなので、それがあるということを知らないものにはとても発見できないはずなのだ。
しかし、いまその三人が峡谷の末端に到達し、そこをのぼりはじめたのを見てとったマムスは、三人を阻止すべくあわてて戦士たちを派遣した。かれらが峡谷の上手におもむいて首尾よく所期の目的を達成できるかいなかは、はなはだおぼつかないところだった。
眼下の谷底では、例のタラグがフォン・ホルストにつかみかかろうと、とぶように疾駆していた。野獣は、いまやならんでかけているマンモスがきわめて接近していることなどまるで意に介していないのか、あるいはその競争相手をけおとして獲物をわがものにしようとしているのか、そのいずれかだった。
そのとき、奇妙なことがおこった。マンモスの鼻が稲妻のような速さでとびだし、タラグの身体をとりまいてその跳躍を宙で停止させたのだ。大力無双の巨獣は一度、甲高い咆哮を発し、前後肢をめったやたらとふりまわしているけものを横ざまにふり、それから、その大力のすべてを傾注して片側へ、空の高みへとほうりなげたのだった。
意図してなのか偶然なのか、マンモスは、そのタラグを峡谷の縁、観衆のただなかへ投げこんだのだ。マンモス族は、四方へちりぢりになった。怒り心頭に発した、かすり傷しか受けていないタラグは、逃げまどう一族のただなかにとびこんでかれらを右に左にはねとばした。
しかし、このことをフォン・ホルストは、まるっきり見てはいなかった。おのれ自身のきわどい冒険に一意専心していた。事態は、まさにきわどい感じだった。というのも、タラグをしまつするやいなや、マンモスは、その強力な鼻をフォン・ホルストの身体にまきつけ、かれを中空にもちあげたからだ。フォン・ホルストにはそれが一巻のおわりを意味した。すぐおわりますように、苦しみがありませんようにと、かれは黙とうした。そして、けものがくるりと反転したとき、かれは、上の岩棚の乱闘をちらとかいま見た――狂いたつタラグ、その兇猛な攻撃を雄々しくむかえうとうと集まっている二十人ほどの槍をかまえた戦士たち。ついでかれは、三頭のタラグと四頭のマンモスが凄絶な闘いを演じているのを見た。ラッパのような鳴き声、悲鳴、うなり、咆哮がごっちゃになってあたりにとどろいている。耳をろうさんばかりだった。
かれをかかえあげたマンモスは、そうしたまま足をひきずるようにして峡谷を真一文字にかけくだっていた。フォン・ホルストは、なぜそいつがかれをほうりあげ、ふみつぶそうとしないのかといぶかった。かれをおもちゃにして、その苦しみを長びかせようとしているのだろうか? この重々しい怪獣は、そのかしこい頭でなにを考えているのだろうか? いまやその鼻がうしろへそった。フォン・ホルストのびっくり仰天したことには、かれは、そのけものの首に静かにおろされたのだ。そしてしばらく、かれをその首の上で身体の均斉がとれるまでおさえたままでいた。それから鼻ははずされた。
狂ったように闘っているけものたちのわきをぬけ、マンモスは、フォン・ホルストを乗せて小峡谷の下手の端へむかってかけていった。フォン・ホルストは、身体がぐらつかないようにそのささえとしてつかんでいた大きな耳のうしろで、もっとしっかり身体をおちつけようとした。そうしたとき、たまたま下を見やった。なんと、マンモスの左ほおに白い毛のはえているところがあるではないか!
アー・カラ、マ・ラーナ――りこうものの白ひげ、殺し屋! このどでかいけものが、かれを見わけたということがありうるのだろうか? これが、かれのつくしてやったことの恩がえしだというのだろうか? フォン・ホルストは、信じることができなかった。しかし、そうでないとしたら、かれを殺そうとしないのはなぜなのか? かれを助けようとしているのでないとしたら、このけものは、いったいなにをやっているのだろうか?
フォン・ホルストは、これらの巨大なけものの非常にかしこいこと、〈りこうものの白ひげ〉についてマンモス族のものたちが話していた異常な知能のことをよく知っていた。これを知っていたのと、たえずわいてくる希望とがあいまって、かれは、もっと賢明な判断をおしのけ、自分が忠実な友、巨大な盟友を得たのだということを確信しないではいられなくなっていた。しかし、それがかれにとってなんの益になるだろうか? かれらはいぜんとして、血に狂ったけものどもが死闘を演じている小峡谷のなかにとじこめられたままなのではないか。これが峡谷の上手の端にいるのであれば、あの道をつたって逃れることができたかもしれない。しかし、かれは、そこにいるのではなかった。――丸太をつみかさねたずしりとした柵でさえぎられている下手のほうへと運びやられているのだった。
〈りこうものの白ひげ〉がこちらの方角に、峡谷からの逃げ道を求めようとしていることがまもなくあきらかになった。足をひきずるようにして、その柵のほうへまっすぐかけよっていった。接近するにつれて、走る速度をました。そして、柵から十五メートル以内までやってきたとき、かれは頭を低くして突進していった。
フォン・ホルストは、度肝をぬかれた。目の前に、柵の丸太に衝突した瞬間、かれら両者の死が横たわっているのだ。かれは、突進するけものの背からよっぽどすべりおりようかと思った。しかし、なぜ? 大猫の牙やかぎつめにさいなまれる死は、つい前方にあるそれ――すさまじい衝撃と、そして忘却――よりもはるかにおぞましいものであるかもしれないではないか。目の前に横たわる死には、すくなくとも苦しみはない。
マンモスというのは、動きの緩慢な、ぶざまな動物のように思えるが、どっこいそれは大ちがいだ。いまや〈りこうものの白ひげ〉は、その突進に全力をかたむけ、急行列車の速度で丸太の柵めざしてまっしぐらに疾駆した――はかりしれない力をひめた生ける破城づちさながらだった。フォン・ホルストは、両腕をけものの大きな耳の下へまわして、そいつの首にぺったりはりついた。かれは、おのれの最期をまちうけた。O‐二二〇号を下船していらい、野蛮なペルシダーでかずかずの危険に身をさらしてきたフォン・ホルストであったから、いまや目の前にせまった死をたいして憂慮してはいなかった。おそらく、ラ・ジャをうしなったいま、生き残るためのたえざる戦いをやめるのは、歓迎すべきことではあるまいか。とどのつまり、人生というのはそんなたえまない苦しみを苦しむだけのねうちがあるのだろうか?
万事は、あっというまにおわってしまった。巨大な頭蓋がずしりと思い柵に激突した。丸太がさながらマッチ棒のようにくだけ、四方に飛びちった。巨獣は、低くなった丸太の柵をのりこえながらよろめいてひざをつき、すんでのことに男をふり落としそうになった。が、身をもちなおして、小峡谷から自由へと飛びだしていったのだった。
[#改ページ]
十八 牛人族
フォン・ホルストには、自分が自由の身になったことがとても信じられそうもないことのように思えた。正真正銘の奇蹟が、このでかい生命の恩人にたいするあのときのかれの情ある処遇の返礼として、奇蹟でなくてはおよそかれを救えなかったであろうような窮境でかれの救出を成就させたのだ。しかし、このさきはどうなる? 乗りものはできたが、それでどうすることができるだろう? そいつは、かれをどこへ連れていくのだ? かれは、そいつの制御ができるだろうか?
そいつからのがれることすらできないのではないか? できたとしても、どこへいったらよいというのだ? もうかれは、サリを見つけられるかもしれないという望みが事実上皆無であることをよく知っていた。たとえ、〈死の森〉まであと戻ることができたとしても、ダンガーの道をたどっていくためにはその森をぬけなければならないのだ。あの陰気な、禁断の森へはいりこむのは自殺行為であることを、かれは知っていた。
かれは、むしろロ‐ハールへの道を進みたかった。そこがラ・ジャの国だったからだ。〈死の森〉をあとにした地点からだとロ‐ハールの大体の方角はわかっていた。そこでかれは、ふたたび自分の足で動きまわれるようになったら、ラ・ジャの国をさがしあてようと決心した。すくなくとも彼女がロ‐ハールへの道を進んでいるという望みをいつもいだいていられるかもしれない。しかし、この奇怪な、そして恐ろしい危険にみちみちたきびしい土地を踏破して彼女にそれができたかとなると、その可能性がわずかというより、ほとんど不可能に近いというほうがあたっているように思われた。
そして、たとえちょっとした偶然でかれが正しい道筋をたどることができたとしても、どうやってロ‐ハールに到達することができるというのだ? おびている武器といえば、マンモス族が投げだしてよこしたお粗末な石のナイフ一丁、それにいまでは無用の長物と化していた弾帯。これは、捕獲者たちがかれからはぎとらなかったからというような、ほとんどわけらしいわけもないまま身につけていたのだった。
かれがペルシダーですごした期間と、この世界の物事のありように関する知識のふえたことが、自分の身を処する能力の点で自信を深めてくれたことはたしかだが、同時にまた、かれの前に立ちはだかるにちがいないと承知していたかずかずの危険を決して軽視してはいけないということを心に銘記させてくれてもいた。先のことはこれぐらいにしておこう。それより、現在はどうだというのだ?
〈りこうものの白ひげ〉は、速度を減じ、ゆっくりした足どりで大峡谷をくだっていった。しだいに、マンモス族の部落と小峡谷から遠ざかっていく。追跡が展開されている気配はこれっぽちもなかった。フォン・ホルストは、たぶんこのことは、一族のものがかれらのただなかであばれまわる剣歯虎に集中するあまり、〈りこうものの白ひげ〉とかれ自身のだしぬけに去っていたことに気づくことができなかったのだと思った。
ほどなくマンモスは、山麓の連丘をこえ、川のほうへと道をくだっていきはじめた。その河岸でかれは、そいつに遭遇したのだし、そのあともマンモス族にとらえられたのだった。おだやかな傾斜をなして前方にひろがる草原には、草を食んでいる動物たちの姿が点々としていた。それを見てフォン・ホルストは、武器としての唯一の石のナイフでどうやって食物を手にいれたらよいかという疑問が胸にうかんだ。かれはまた、〈りこうものの白ひげ〉のいきつく先にかんしても憂慮していた。こんなだだっぴろい草原でおきざりにでもされたら、これら大群のけものを通りぬけて河っぷちの木々に到達することはできないだろう。それに、生き残るためのひとかけらのチャンスでもほしかったら、ともかく木々に安全の場を求めなければならないのだ。万全とはとてもいえないまでも、かくれ場を見つけることができるし、この野蛮な世界において人間の全存在の本質をなす、生きるためのたえざる戦いをやりぬくためにもっていなければならない弓矢、槍の材料で手にはいる。
しかし、いまや〈りこうものの白ひげ〉は、左手へそれ、河に平行して進んでいた。フォン・ホルストは、その方角へはいきたくなかった。土地がひろびろとひらけ、目路のとどくかぎり木々がまばらにしかはえていなかったからだ。木々が、ふんだんに生えている水ぎわの木々のほうへ、かれは行きつかなければならなかった。
フォン・ホルストは、〈りこうものの白ひげ〉の調教のこころみが不首尾におわったのを自分の目で見ていた。あのとき、乗り手を殺してしまう前に、この巨獣がそいつの合図にしたがっているのを目撃していたから、ひょっとして教えてもらったことをおぼえているかなと、かれは思った。というより、かれにしたがう気があるのなら思いだすだろう。そしてたぶんこのマンモスを制御しようとすれば、かれの捕獲者たちがかれにうっせきさせた怒りや、最後の乗り手をしまつしたやり方を、かれは思い出すことになるだろう。
フォン・ホルストは、しばし躊躇した。それから肩をすくめて、〈りこうものの白ひげ〉を左足で蹴った。なにごともおこらない。そこでかれは、同じことを数回くりかえした。いま、けものは、その進路を左手へ転じた。フォン・ホルストは、そいつがまっすぐ河のほうをむくようになるまで蹴りつづけた。その後は、かれがマンモス族から学んだ合図を使ってけものがこの進路からはなれないようにつとめたのだった――両方とも、この程度までは学んでいたのだ。
河に到達すると、フォン・ホルストは、〈りこうものの白ひげ〉の頭のてっぺんにするどく一撃をくわえた。けものが停止する。それから、フォン・ホルストは、地面へおりたった。けものがどう出てくるだろうか。かれはいぶかったが、そいつは、なにもしなかった――鼻を左右にふりながら悠然とつったっていた。フォン・ホルストは、そいつの肩の前へと歩みよって鼻をなでた。「いい子だ」と、乗り手が馬に話しかける調子でおだやかにいった。〈りこうものの白ひげ〉が鼻を男の周囲にそっとまきつけ、それからほどいた。フォン・ホルストは、その場をはなれて木々のたちならぶ河のほうへと歩いていった。かれは河っぷちに腹ばいになり水を飲んだ。マンモスがかれのわきへやってきて、やはり水を飲んだ。
フォン・ホルストは、どれほどのあいだその河岸の木立のなかにとどまっていたのか、わからなかった。魚をつかまえて、木の実や果実を集めて食べ、眠った。これを数回くりかえした。それから、弓矢と頑丈な槍を作った。この槍のほうは、タラグを念頭においてこしらえた。かつてかれが持ったどの槍よりも長かったが、かといって長すぎはしなかった。ずしりと重かった。その材質は、木目が長くしなやかなものだった。そうたやすく折れることはないだろう。
かれがそこにいるあいだ、しばしば〈りこうものの白ひげ〉を見かけた。巨獣は、フォン・ホルストがその枝のあいだに雑な小屋をかけた木からわずかな距離しかはなれていない河のわきにある、かなり大きな竹やぶのなかで餌を食べた。餌を食べていないときはしばしば、フォン・ホルストが小屋をかけている木のところへやってきては、つったっていた。そのような場合、フォン・ホルストはつねに、そいつをもてなし、話しかけてやることにしていた。というのも、かれにとってともかくつきあいというものを提供してくれるのはそいつしかいなかったからだ。
しばらくするとかれは、〈りこうものの白ひげ〉のやってくるのを期待するようになり、あまり長いあいだごぶさたされているように思えると、少々心配になったりするのだった。ひとりの人間と一頭のマンモスとのあいだにかわされた奇妙な友情だった。この友情のなかにフォン・ホルストは、太古の昔、地上世界で動物を飼いならすことの端緒となったようなできごとに類似したものをみとめたと思った。
武器の製作も終了しフォン・ホルストは、いよいよロ‐ハールをさがしての旅につく決心をした。そこへたどりつけると期待してはいなかったが、とにかく目標をもたなければならなかった。偶然サリへいきつけるという可能性も、ロ‐ハールへいきつけるのがはなはだおぼつかないのと同程度のものでしかない。しかし、だからといって今いるその場にただべんべんといすわって、事故死するか老衰死するのをまっているわけにもいかなかった。かててくわえて、好奇心もさることながらユーモアの感覚が、およそ実在の人物とは思えないような途方もないガズにあってみたいという気持ちをかりたてるのだった。
〈りこうものの白ひげ〉が、真昼の太陽の熱をさえぎっている、とある近くの木の下につったち、かすかに身体をゆすっていた。フォン・ホルストは、そいつのそばへつかつか歩みよった。最後のわかれの愛撫をしてやるためだ。このどでかい友、というか相棒を心底から好きになっていたからだった。
「おまえとわかれるのがさびしいよ、白ひげくん」と、かれはいった。「おまえとわたしとは、あちこちでいっしょになったし、いろんなことをやったな。無事を祈るよ!」そして、そのざらざらした鼻を最後にピシャリとたたいて踵をかえし、のぞみなき探索を開始すべく未知の土地へとふみだしていった。
かれの目が、人間の視界の最大限のかなたでとけこむようにその輪郭がふんわりとぼやけている、広大な地平線のないながめを見はるかしたとき、五百マイルの足下に交通地獄になやまされ、そしてそれぞれのやり方を持し、むこうみずの運転手あるいは舗道に不注意に投げすてられたバナナの皮以上の脅威にさらされることなく日々の生活を送っている、かれと同様の無数の人々がおりなすさまざまな事件にみちみちた一都市があるかもしれないと思うと、この自然のままの世界の、まったきまでの原始的な姿がピンとこないのだった。そのままうけいれることが困難なのだった。いまかれの友人たちがかれを見たら、腰布以外なにも身にまとっていない小ざっぱりした、きどったフリードリッヒ・ヴィルヘルム・エリック・フォン・メンドルフ・ウント・フォン・ホルスト中尉を、洪積世のひとりの人間――人間が存在していたとしての話だが――を見ることができたとしたら、かれらはなんというだろう? そう思うと、かれは楽しくなってくるのだった。が、やがてかれの想念は、ペルシダーとラ・ジャのことにたちかえった。彼女がなぜあんなにかれをきらったのかと、かれはいぶかった。そういぶかったことが、きわめて痛烈な実感をともなってせまってきた。かれはたじろいだ。それを否定し、意識下へたたきおとしてしまおうとするのだが、それは、傷ついた意識のかたくななまでの執拗さでまといついてくるのだった。|かれは《ヽヽヽ》、|彼女を愛していたのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。指をあらう鉢同様、アルファベットの存在も知らない、この野蛮な小娘を愛していたのだ。
フォン・ホルストは、深い物思いにしずんでとぼとぼと先へ進んだ。しかし、きわめて鋭敏であるか、でなければきわめて無感覚でいなければならないような世界のペルシダーを物思いにしずんでいくのは、かしこいやり方ではない。そいつがかれのあとをつけているのがかれにはきこえなかった。そいつの足裏がやわらかく音のしなかったのもさりながら、フォン・ホルストがロ‐ハールのラ・ジャのことを考えていたからだ。
そのとき、だしぬけに周囲のことがパッと意識にのぼってきて、たえず警戒をしていなければならないのだという気持ちがよみがえってきた。しかし、手おくれだった。なにかがかれの腰をとりまき、地面からかれをすくいあげたのだ。宙高々ともちあげられたかれは、身もだえしながら下を見おろした。と、そこに〈りこうものの白ひげ〉の毛むくじゃらの顔があった。それからかれは、そいつの太い首の上へ静かにおろされた。安堵のあまり大声をあげて笑いだしそうになった。たちまち、将来にたいする新たな希望がわきあがってくるのを、かれは感じた――道づれがあるというのはよいものだ。たとえ物いわぬけものの道づれであっても。
「ちくしょうめ!」と、かれはさけんだ。「あんまりびっくりさせるなよ。ふんどしがおっこちそうになったじゃないか。だが、おまえと会えてうれしいよ! おまえも孤独なんだな、えっ? われわれはどちらも、友だちが多くないようだな。ようし、おまえがそのつもりでいるかぎり、われわれはくっついていよう」
そうでなければ生命にもかかわっていたにちがいないようなかずかずの危険をのりこえ、〈りこうものの白ひげ〉は、この奇妙な愛着をおぼえるようになっていた人間を乗せて先へ進んでいった。巨大なタラグですら、マンモスの通り道からすごすごはなれていったほどだ。野牛の大群のあいだを通りぬけていっても、一頭としてかれらに襲いかかってはこなかった。一度シプダール――成長した雄の野牛を運びさることができるほどの、白亜紀の大|翼竜《プテラノドン》――が頭上を旋回した。六メートルになんなんとするそのひろげた翼の影の下を、かれらは進んだ。マンモスは意に介せずに、フォン・ホルストはやきもきしながら。しかし、そいつは襲いかかってはこなかった。
かれらは、適当な間隔で休止して食物をとり、水を飲み、睡眠をとった。しかしこの、時の存在しない世界で時間はまったく意味がないのだから、フォン・ホルストは、時間の経過をはかろうなどとはしなかった。ジャ‐ルからずいぶん遠くまでやってきたにちがいないということしかわからなかった。しばしばかれは、筋肉をほぐすために歩いたが、そんなとき、〈りこうものの白ひげ〉があまりぴったりくっついてくるので、その毛深い鼻がいつも男の裸体にふれているほどだった。
フォン・ホルストは、気晴らしにいくつかのことをけものに教えた――命令でかれを頭上にさしあげること、地面におろすこと、ひざをつくこと、横になること、合図どおりに歩いたり、かけたり、突進したりすること、いろいろな物をもちあげ運ぶこと、樹木に頭をあてがい、押し倒したり、あるいは鼻をまきつけて根こぎにしたりすることなど。
〈りこうものの白ひげ〉は、学ぶことを楽しみ、次々におぼえていくのを誇りに思っているようだった。かれがなみなみならぬ知能のもち主であることは、フォン・ホルストもとっくに気づいていたが、そのことをうたがいの余地のないまでにはっきりと証明して見せるひとつの特性が、この巨獣にはあるのだった。それは、〈りこうものの白ひげ〉のユーモアのセンスだった。かんちがいなどありえないほど、きわめてよく発達しているのだった。自分のやった冗談がよくわかっていてニヤニヤしているときなと、フォン・ホルストに断言できるような場合がしばしばあった。たとえば、フォン・ホルストのうしろからかれの足首をつかまえ、かれを宙へふりあげる。しかし、決して彼を落したり傷つけたりすることはない。いつもふんわりと地面へおろしてくれるのである。さらには、フォン・ホルストがあまり長く寝すぎていると思うと、片足をかれの上にのせて、そっとおさえつけながらかれをふみつぶすふりをする。あるいは、鼻いっぱいに水をふくませて、かれにあびせかけるのである。フォン・ホルストは、なにごとがおこるか、またそれがいつおこるか見当もつかなかったが、まもなく〈りこうものの白ひげ〉が決してかれに危害を加えないということがわかった。
どれほど旅をつづけてきたのか、もとよりフォン・ホルストにはわからなかったが、それが相当の距離であるにちがいないとは思っていた。にもかかわらず、部落のひとつもやりすごさなかったし、人っ子ひとり見かけなかった。かれは、野獣の跋扈《ばっこ》するがままにまかせた。ひとひとり住んでいない実に広大な大地のえんえんとつづいているのに度肝をぬかれた。地上世界もかつてはかくのごとくであったのだろう。とはいえ、現在のもろもろの状態を考えるとき、それは、およそ信じられそうもないことだった。
いままでよりもロ‐ハールに近づいているのかどうか、かれには見当もつかなかった。しばしば、この探索の旅が軽率このうえないものであり、絶望的なものであるように思えるのだった。しかし、だからといってほかにかれにどうするすべがあっただろう? 進んでいる方角が正しかろうとまちがっていようと、そのまま進みつづけるのもよかろうというものだった。かれに人間の道づれがいたら――ラ・ジャがいっしょだったら――かれが渡ってきた多くの美しい谷間のどれかにあまんじて住みついていたかもしれない。が、たえずひとりきりで一ヵ所で暮らすことは考えられないことだった。だからかれは、進みつづけ、かれのほかはおそらくだれも知らないような新世界を探索したのだった。
かれの進路にのぼり勾配《こうばい》の土地がせまってくるたびに、未知のものにたいする熱意がたかまってくるのだった。その頂上のむこうにはなにがあるのだろうか? 眼前にどのようなかわった景色が展開されるのだろう?
そんなあるとき、〈りこうものの白ひげ〉がわずかにのぼり勾配の土地を重々しく進んでいた。男の念頭には、かれらの接近しつつある頂上のむこうになにが横たわっているのだろうという憶測がうずまいていた。どんな景色が展開されるのだろうという期待、その熱意はどうやらおとろえそうもなかった。そのとき、野太い咆哮がひと声きこえ、つづいて次々にそれがわきおこってきた。それらには人間の声もまじっているように思えた。
フォン・ホルストにとって、人間は敵を意味した。だから、石器時代式の反応の仕方にそっくりそのまま自分の身をならしていたのだった。しかしかれは、これらの人間をひと目見てやろうと決心した。たぶんロ‐ハール族のものなのだろう。ひょっとして、かれは、ロ‐ハールに到達しているのかもしれない! その物音の性質からして、男たちは、多数の雄牛をまじえた牛の群れを追っているようだった。というのも、咆哮の野太いひびきが、その頂上のむこうにいるのが主として雄牛ばかりらしいとかれに信じさせたからだ。
〈りこうものの白ひげ〉の背からすべりおり、フォン・ホルストは、その巨獣にその場にじっとしているようにと命じた。それからかれは忍びやかに匍匐《ほふく》前進した。屋根の頂上へ気づかれずに達したいと思った。
思いどおりにいき、しばらく後には、およそ自分の目を疑いたくなるような光景を見おろしていた。かれは、低い崖の縁に腹ばいになっていた。眼下には、とても悪夢からぬけだしてきたとしか思えないような四個の化物がいた。かれらの姿は人間だった――ずんぐりして、頑丈そうな男たちだ。顔、肩、胸が、長い褐色の毛におおわれている。額の両側からは、野牛の角にそっくりの短い、太い角がつきだしていた。そしてかれらは、先端にふさふさした毛のついた尻尾をもっていた。かれらの喉からは、フォン・ホルストが最前きいた雄牛のような咆哮と、それから人間のことばも発せられているのだった。
かれらは、武器をもっていなかった。そして、フォン・ホルストが腹ばいになっている崖がオーバーハングしているために、かれの視界からさえぎられているなにか生きもの、あるいは生きたものたちをかれらが追いつめ、はむかわれているのは明瞭だった。というのも、かれらが崖のほうにより接近しかけようとするたびに、岩のかたまりがとびだしてきてかれらを追いかえしていたからだ。かれらは、追いかえされるとカッとなって咆哮を発していた。ときにはそのどいつかが片足で地面を蹴たて、土をはねあげることもあった。どうみても、狂った雄牛そのままだった。そこでフォン・ホルストは、そのときからかれらのことを牛人と考えた。
この化物どもの獲物によって、岩のかたまりがかれらに投げつけられているという事実から、フォン・ホルストは追いつめられているのが人間だと推察した。むろん、ペルシダーでは人間といっても、人間ともけものとも区別のつきかねる奇妙な変種なのかもしれないが。ただしかれらが牛人であるということには、かれは疑問をもった。四人のどいつもおかえしに岩のかたまりを投げつけていないことに気づいていたから、もしかれらにそれだけの知能があれば、当然そうしていただろうと、確信してもまちがいはないと思った。
ときどきフォン・ホルストは、その四人がたがいにかわしあっていることばのひとことふたことをとらえた。そして、かれらがペルシダーの人類が使う共通語を話していることを知った。ほどなく、かれらのひとりが声をあらげた。なにかはわからぬが、かれらが断崖の根方に追いつめているものにどなりかけた。
「岩を投げるのはよせ、人間《ギラク》」と、そいつはいった。「そんなことをすれば、おれたちにつかまったときによけいひどい目にあうことになるだけだぞ。それに、おれたちはきっと、おまえらをつかまえる――ぜったいにな。おまえらには、食物も水もない。だから、おまえらは出てくるか、飢え死にするかしなきゃならん」
「おれたちになんの用がある?」断崖の根方から声がきいた。
「その女に用があるのだ」いま口をきいた牛人がこたえた。
「おれに用はないのか?」声がきいた。
「おまえには死んでもらうだけだ。しかし、もしその女をこっちへよこせば、おまえの生命は助けてやるぞ」
「おまえたちが約束を守ると、どうしておれにわかる?」
「おれたちは、うそはつかない」と牛人。「女をここへ連れてこい。そしたら、おまえはいかせてやる」
「よし、彼女を連れていく」下から声が告げた。
「下衆《げす》め!」フォン・ホルストは、息をひそめてはきすてるようにいった。
ほどなくかれは、ひとりの男が女の髪をつかんでひきずりながら、オーバーハングした崖の根方から姿をあらわすのを見た。その瞬間かれは、恐怖と怒りにみたされてパッと立ちあがっていた。ちらとひと目見ただけで、かれらがだれなのかわかったからだ――フルグとラ・ジャなのだった。
足下の地面まで十二、三メートル、ほぼ垂直に落ちこんでいる崖は、つかの間かれを絶望状態におとしいれた。しばしかれは、なすすべもなくその場に立ちつくしたまま、眼下の悲劇を見おろしているばかりだった。それから、弓に矢をつがえたが、スクルフは、女の身体になかば身をかくす位置にあった。フォン・ホルストは、彼女を危険にさらしてまで矢をはなつことはできなかった。
「ラ・ジャ!」と、かれはさけんだ。女は、かれの声がしたほうに首をめぐらそうとした。スクルフと牛人が崖の頂上につったっている男の姿を見あげた。「かたほうへよるんだ、ラ・ジャ!」と、フォン・ホルストはさけんだ。「かたほうへよるんだ!」
すぐさま彼女は、スクルフをわきへおしのけるようにして右側へとんだ。その結果、スクルフは、すでに弓をひきしぼっている弓使いに全身をさらすことになった。弓の絃《つる》がぶーんと鳴った。スクルフがギャッと悲鳴を発して、身体にふかぶかとめりこんだ羽のついた矢柄をつかみ、ぶったおれた。たおれる拍子にラ・ジャの髪をつかんでいた手をはなした。
「かけるんだ!」フォン・ホルストが命じるようにさけんだ。「崖にそって走れ。わたしは、下へおりる道が見つかるところまでついていく」
すでに、最初の驚きから回復していた牛人たちが、彼女のほうへかけよっていくところだった。しかし、彼女がすこしだけ早かった。運がよければ、かれらをよせつけないでいられるかもしれない。かれらの鈍重そうでずんぐりした体形は、どうやらスピードむきのようではなかった。
フォン・ホルストは、ふりむきざま〈りこうものの白ひげ〉についてくるようにとさけんでおいて、崖の頂上にそってラ・ジャのちょっとうしろからかけていった。ほとんどすぐにかれは、牛人たちの外観がかれらの敏捷さを隠蔽《いんぺい》していたことに気がついた――ラ・ジャとの距離をつめつつあったのだ。ふたたびかれは、弓に矢をつがえた。ほんのつかの間、かれは停止した――先頭をいく牛人にねらいをつけ、矢をはなつだけの間だ。それからかれは、また飛び出したが、もはやとりもどすことができないほどのおくれをとっていた。とはいえ、ラ・ジャと追跡者たちのあいだの間隔を一時的でもひろげてはいた。というのも、先頭の牛人が矢を背中にめりこませ、前のめりにぶったおれたからだ。
他の牛人たちがしだいに追いせまる。ふたたびフォン・ホルストは、たちどまって矢を射ざるをえなくなった。前と同様、娘にいちばん近い追手が地面に前のめりに倒れた。そいつは、そのへんをころげまわったが、それが止まったときには、ぴくりともせずに横たわっていた。いまや残るはふたりだったが、またしてもフォン・ホルストは、水をあけられていた。ちぢめようとはしたものの、そうすることができなかった。ついにかれは、停止して残る牛人たちに背後からさらに二本の矢を送った。うしろのやつは倒れたが、いまひとりにはあたらなかった。その後、二度矢をはなった。しかし、最後のやつにはとどかなかった。男が矢の射程外に出たのだと、かれは知った――射程の外に出、みるみる獲物に追いせまっている。逃げていく娘のつい前方に巨木の森がひろがっていた。もし彼女がそこに到達することができれば、追手をまけるかもしれない。それに、彼女は駿足でもあったし。
三人は、沈黙したまま疾駆した。崖の上をいくフォン・ホルストは、ほとんど距離をちぢめることができないでいた。そのとき、ラ・ジャが巨木の幹のあいだに姿を消した。一瞬おくれて、牛人がそのあとにつづく。フォン・ホルストは血迷った。はてしもなくつづく崖には下へおりる道がない。そのようなところが見つかるまでそのまま進みつづけるほかどうしようもないのだ。だが、そのあいだにラ・ジャはどうなってしまうのだろう?
かくも思いがけなく彼女にいきあたったこと、あんなに近いところにいた彼女をまたうしなってしまったこと、それを思うとかれは、心が痛み、絶望の淵に投げこまれる思いがした。それでも、いまは彼女が生きているのだとわかった。それがいくぶんかのなぐさめにはなった。
そのとき、かれのすぐうしろで〈りこうものの白ひげ〉のききなれたラッパのような鳴き声がした。一瞬後に毛深い鼻がかれをとりまき、ひょいともちあげ、いまではすわりなれた座席となっている、大きな頭のうしろのくぼみへおろされた。
森のはずれをわずかにやりすごしたあたりで、かれらは急斜面にできた割れ目にいきあたった。ここでマンモスは、あぶなっかしい足かがりをさがすようにして用心しながら下へとおりていった。フォン・ホルストはかれをラ・ジャが姿を消した地点まであともどりさせた。しかし、ここでかれは、マンモスの背からおりざるをえなくなった。森の木々があまりにもくっついてはえているため、この巨獣がはいっていくことができなかったからだ。それに、いくら〈りこうものの白ひげ〉でも太い木を根こぎにしたり、おしたおしたりすることはできなかった。
〈りこうものの白ひげ〉を残して森へわけいったとき、フォン・ホルストは、かれの忠実な友であり、盟友であるそのマンモスを見るのもこれが最後ではないかという予感をおぼえた。そして悲しい思いにうちしおれて、陰気な、禁断の森の奥へと進んでいった。
〈りこうものの白ひげ〉のことを思う気持ちで胸がいっぱいであったのは、ほんのつかの間のことでしかなかった。というのも、遠くからかすかな悲鳴がきこえてきたからだ。それにつづいて、かれの名前を二度呼ぶ声がした――「フォン! フォン!」――かれが愛する女《ひと》の声だった。
[#改ページ]
十九 クル
遠くからきこえてきたかすかな悲鳴の記憶をたよりに、フォン・ホルストは、森の奥へと進んでいった。こんな太い樹木がこれほど接近して生えているのをいままでに見たことはなかった。たがいにあまり寄りすぎているため、かれがやっと通りぬけられるほどの間隔しかない場合がしばしばあった。道はなかった。それに、どうしてもジグザグに進まざるをえなかったので、ほどなくかれは、方向感覚をまったくうしなってしまった。二度、ラ・ジャの名前をさけんでみた。彼女の返事を得て、それで彼女のいる場所へいきつく手がかりにしようと期待していたのだが、返事はかえってこなかった。かれは、自分のしたことがラ・ジャの捕獲者に追跡されているということを知らせ、かくてそいつに警戒心をおこさせるだけの役にしかたたなかったことに気づいた。だから、できるかぎり急いで先へ進んではいたが、用心だけはおこたらなかった。
いそいそと先へ進んでいくにつれて、挫折感と探索のむだだという気持ちがしだいにつのっていった。そのへんをぐるぐるめぐっているのであり、どこへもいきつけないということも大いにありうるのだと感じていた。ラ・ジャのもとへ間にあってたどりつき、彼女のためになにか役立ってやるということは、いわないとしても、ひょっとしてこの陰気な森の迷路からこんりんざいぬけだせないのかもしれないと、強く感じるようにすらなっていた。かくて、かれの心があれこれと疑心暗鬼にさいなまれているおりもおり、かれは、だしぬけに森のはずれにきていたのだった。かれの眼前には、低いが岩のごつごつした連丘へとわけいっている峡谷の入口があった。ここには、すくなくとも道があった。はっきり道だとわかるうねりくねった道で、峡谷の奥へつづいていた。
希望も新たにフォン・ホルストは、その道がどこへいたるのだとしても、たどっていこうと度胸をすえて踏みだした。ざっと調べてみただけでも、かれの、いまでは肥えた目がつい最近この地点で何者かが峡谷にわけいったということを告げていた。未知の地面にかすかに、小さな足跡が残されているのをかれはみとめた。その峡谷は、連丘のはざまを蛇のようにうねりくねって走っている、岩のごつごつしたせまい山峡にすぎなかった。そして、かれが先へ進んで行くうちにも、適当な間隔をおいてこの山峡へはいりこんでいる他の同じように山峡の入口をいくつか通りすぎた。しかし、いま進んでいる道はくっきりとついていたし、かれは、そのまま進みつづけた。いまでは、まもなくラ・ジャとその捕獲者に追いつけるにちがいないと確信していた。
山峡へわけいってしばらくいき、まがり角をまがるたびに前方に求める連中の姿がみとめられずに失望を新たにし、焦燥を感じはじめるようになっているときのことだった。背後に物音をきいたのだ。さっとふりかえってみると、ひとりの牛人がしのびやかにかれのあとをつけていた。発見されたとさとった瞬間そいつは、怒れる雄牛の喉から発せられたといってもいいような咆哮をひと声あげた。と、それに応答する雄叫びが山峡の上下《かもしみ》からおこり、やがて、前と後ろから牛人たちが急速に姿をあらわしてきた。
フォン・ホルストは、二進も三進もいかなくなった。両側には峡谷の崖があり、高くはないが、登攣は不可能だった。背後は、牛人たちが退路をさえぎっていたし、前方は、やはり牛人たちが効果的に進路をふさいでいた。いまやかれらは、てんでに咆哮をあげていた。山峡の岩壁は、その挑戦の威嚇の兇猛な、怒りにみちた咆哮の合唱を反響させた。連中は、かれをまちかまえていたのだ。フォン・ホルストは、いまにしてそれを知った。やつらは、かれがラ・ジャにさけびかけたのをきいていた。かれがあとをつけているのを知っていた。そして、かれが通過してきた山峡のひとつに身をひそめてまっていたのだ。やつらは、なんとやすやすとかれをわなにかけたことか。とはいえ、それをふせぐためにかれになにができていたであろうか? ラ・ジャをさがすのに、彼女のいった先へあとをたどることなく、他にどんな方法があるだろうか?
いまかれは、どうすべきか? 牛人たちは、じりじりとかれのほうへ接近してきていた。どうやら、かれには一もくも二もくもおいているような様子だった。フォン・ホルストはふと、はじめてこの奇妙な人間《ギラク》と出くわした四人の牛人をむこうにまわしてかれが演じた大あばれのことを仲間のものたちに告げるだけの時間的余裕、ないしは機会がラ・ジャの捕獲者にあったのだろうかといぶかった。これがこの地底世界のじれったくなるような特徴のひとつなのだ――つまり、経過した時間の長さをこんりんざい知ることができないのである。それがわかれば、生と死との相違を容易に評価できるのだが。
「おれたちの土地でなにをやっているのだ?」いちばん近くにいた牛人が詰問した。
「女のことがやってきた」と、フォン・ホルストはこたえた。「彼女はわたしの女なんだ。どこにいる?」
「おまえは何者だ? おまえのような人間《ギラク》は見たことがない。遠いところから小さな棒切れで死を送ってよこすことができるようなやつはな」
「女を渡してくれ」フォン・ホルストは要求した。「さもないと、おまえたちみんなに死を送ってやるぞ」矢筒から矢を一本ぬき、それを弓につがえた。
「おれたちを皆殺しにすることはできない」と、そいつはいった。「ガナクがいるだけ多くの棒切れを、おまえはもっちゃいないぜ」
「ガナクとはなんのことだ?」と、フォン・ホルスト。
「おれたちがガナクだ。おまえをドロヴァンのところへ連行する。もしかれが、おまえを殺すなといえば、おれたちは、おまえを殺しはしない」
「女はそこにいるのか?」
「そうだ」
「よし。それならいこう。彼女はどこにいる?」
「おまえの前にいるガナクたちのあとについて山峡《たに》をのぼるのだ」
それから、かれらは全員、フォン・ホルストがむかっていた方向へ進んでいった。ほどなく、わりと見とおしのきく広い谷間へ出た。おだやかに起伏する土地のそこかしこに木々が絵さながらに点在していた。その草原のちょっと前方に、周囲に矢来《やらい》をはりめぐらした円形の部落らしきものがみとめられた。そのほうへ牛人たちは進んでいった。
かなり近よったとき、フォン・ホルストは、部落の外に青々と茂った穀物畑があり、その畑で男や女の働いているのを見た――かれと同様の人間であり、ガナク族ではない。しかし、大勢の牛人ガナクがあたりをうろついていた。かれらは、労働しているのではなかった。
土製の小屋をほぼ完全な円形にならべた部落へはいるのに、一ヵ所だけ小さな入口がついていた。この入口のある地点だけを別にすれば、小屋はとなり同士連結されていた。小屋の前には、その円形をぐるりととりかこむように樹木が生えていて、それらが日よけの役目をはたしている。このかなり大きな部落の中央に、一群の小屋があり、ここにも日よけの樹木が生えていた。
これらの中央にある小屋のほうへ、案内人たちは、フォン・ホルストをみちびいた。その日陰にひとりの図体のどでかい牛人がつっ立ち、先端に毛の房がついた尻尾で肢から蠅《はえ》を追いはらっているのがみとめられた。かれの前には、ラ・ジャがその捕獲者といっしょに立っていて、そしてかれらをなかばとりかこむようにして好奇心にかられたガナクのものがむらがっていた。
新たな一行が近づいていくと、このどでかい雄牛がかれらのほうを見やった。堂々たる角を生やし、顔や肩や胸の毛は黒々としていた。小さなまるい目は、端へはなれすぎ、赤でふちどられていて兇猛な色をたたえている。おどかすようにフォン・ホルストをにらみすえた。頭は低くたれ、けものの仕草にきわめてよく似ている。
「こいつはなんだ?」と、フォン・ホルストをゆびさしながら、そいつがきいた。
「こいつは、おれといっしょにいた三人を殺した人間ギラクです」と、ラ・ジャの捕獲者がいった。
「やつがかれらをどうやって殺したのか、もう一度いってみろ」どでかい雄牛が命令した。
「細長い棒切れを送って殺したのです」と相手。
「細長い棒切れで殺しはできないぞ、トルン。おまえはばかか、うそつきだ」
「細長い棒切れがたしかに、おれといっしょにいた三人と、もうひとりそこにいたやつ――人間ですがね――を殺したんですよ。おれは、棒切れが殺すのを見たんだ。ドロヴァン、あれが見えますか? あいつの背中のあの物のなかにはいってるのがそうなんです」
「奴隷をひとり連れてこい」ドロヴァンが命じた。「あんまり上等でない老いぼれたやつをな」
フォン・ホルストは、その場に佇立してラ・ジャを見つめていた。かれの周囲でおこなわれていることがほとんど目にも耳にもはいってはこなかった。ラ・ジャもかれを見つめている。顔にはほとんど表情があらわれていなかった。
「やっぱり、あなたは生きていたのね」と彼女。
「きみがわたしを呼ぶのがきこえたよ。ラ・ジャ」かれがいった。「できるだけ早くやってきたんだ」
彼女は、あごをつんとそびやかした。「わたし、あんたなんか呼ばなかったわ」横柄にいいはなった。
フォン・ホルストは唖然《あぜん》とした。彼女が呼ぶのをはっきりと二度きいていたのだ。にわかにかれはカッとなった。顔面に朱を注いだ。「おろかな人だ、きみは」と、かれはいった。「きみにはまるで、感謝とかありがたみというものがないのだね。救ってあげるねうちはない」それから、彼女に背をむけた。
すぐにかれは、いまいったことを後悔した。しかしかれは傷つけられていた――生涯でかつてなかったほど傷つけられていた。しかも、かれは、いってしまったことを撤回するにはあまりに自尊心が強すぎた。
ひとりの牛人が、老婆の奴隷を連れて近づいてきた。そいつは、彼女をドロヴァンの前へみちびいた。族長が手荒く彼女をひとつきする。
「あそこへいって立て」と命じた。
老婆は、ゆっくりと歩いていった――腰のまがった、よるべない老婆。
「それぐらいでいいだろう」ドロヴァンがどなった。「そこに立て。その場だ」
「おい!」フォン・ホルストをゆびさして、やつは咆哮した。「名前はなんという?」
フォン・ホルストは、昂然と半人半獣をにらみすえた。怒り心頭に発していた――おのれ自身とこの世にたいしてカンカンに怒っていた。「わたしに口をきくときには、わめくのはよせ」といった。
ドロヴァンは、カッとなって尻尾で肢を打ち、まさに突進しようとする狂った雄牛さながらに頭を低くした。フォン・ホルストのほうへゆっくりと二、三歩つめよった。そしてたちどまり、片足で地面を蹴たて、咆哮した。しかし、フォン・ホルストは後退しなかった。恐れの色すらしめさなかった。
だしぬけに族長は、最前命じたようにかこいのなかにじっと立っている奴隷の老婆に目をやった。それから、もう一度フォン・ホルストをふりむいた。そして、老婆のほうをゆびさした。
「もしおまえの棒切れが殺しをやるというのなら」といった。「彼女《あいつ》を殺してみろ。だがおれは、そんなものが殺しをやるとは信じちゃいないぞ」
「わたしの棒切れは殺せるぜ」フォン・ホルストがいった。「ガナク族にわたしの棒切れが殺しをやるところをおがんでもらおうじゃないか」
かれは、かこいのなかへ、奴隷の老婆のほうへ数歩あゆみより、弓に矢をつがえた。それから、ドロヴァンのほうにむきなおってラ・ジャをゆびさした。
「わたしのこの細長い棒切れが殺しをやるのをきみにしめせば、その女とわたしを自由の身にしてくれるか?」と、かれはきいた。
「いいや」と、族長がうなるようにいう。
フォン・ホルストは、肩をすくめた。「勝手にするさ」といった。そして、羽のついた矢をひきしぼり、だれかがかれの意図をそれとさとって邪魔にはいることができないでいるうちに、その矢をドロヴァンの心臓に射こんでいた。
たちまちかこいの中が、咆哮する雄牛でごったがえした。フォン・ホルストが二の矢を弓につがえることができないうちに、かれらは襲いかかり、数にものをいわせてかれを地面にひきずり倒して打擲《ちょうちゃく》し、角でつき刺そうとした。しかし、あまり人数が多すぎて、かえってたがいに相手のじゃまになった。
フォン・ホルストがほとんど半殺しの目にあわされたとき、威厳のある者がかれに打ちかかってくる連中の注意をひいた。「やつをたたせろ。おれさま、族長クルの命令だ」
たちまち雄牛どもは、フォン・ホルストをほったらかして、口をきいたやつのほうにむきなおった。
「クルが族長だとだれがきめたのだ?」ひとりがきいた。「ドロヴァンが死んだいま、族長になるのはおれ、タントさまだ」
この議論の最中に、フォン・ホルストは、ふらふらとたちあがっていた。しばらくは、意識がなかばもうろうとしていたが、やがて正気がもどってきた。すばやく弓をさがし、見つけた。リンチされているあいだに矢筒から落ちた矢もその何本かをさがしあて、回収した。いまやかれは、用心をおこたらなかった。自分の周囲を見まわす。雄牛どもは全員、族長の権利を主張するふたりを見守っていた。しかし、かれらのうちにはタントよりもクルのほうに味方するものが何人かいた。数人のものがためらいがちにタントの側につく。フォン・ホルストにはクルのほうが有利のように見えた。かれは、クルの周囲に集まろうとしている連中の近くへ歩みよった。
こっそりとかれは、弓に矢をつがえた。いちかばちかのあぶない橋を渡ろうとしていることはわかっていた。冷静な判断力は、人のお節介はやくなと告げていた。しかしかれは、まだ怒っていたし、自分が生きようと死のうとどうでもかまわなかった。いきなりかれは、身をたてなおした。「クルが族長だ」とさけんだ。と同時に、弓につがえた矢をタントの胸に射こんだ。「クルを族長としてみとめないものがほかにもいるか?」ときいた。
タントの周囲に集まっていたものの何人かが、かれの息の根をとめようとかけだしてきた。雄牛さながらに頭を低くたれて突進してきたのだ。しかし、クルのまわりにいたものたちがどっと進みいで、かれらをむかえうった。そしてかれらが闘っているあいだに、フォン・ホルストは、じりじりと後退して、族長の小屋に背中をくっつけてつっ立った。かれの近くにラ・ジャがいた。彼女にはまるで注意をはらわなかった。もっとも、かれが彼女の存在に気づいていることは彼女にはっきりわかっていたが。
フォン・ホルストは、これら半人半獣の奇妙な戦法に注意をうばわれた。組みうっていない場合、かれらは、頭を低くして相手の腹めがけてとびこみ、そのごつい角ではらわたをかっさばこうとした。そして、しばしばかれらは、すさまじい力で頭と頭をぶつけあい、ともにどうとばかりに地面にぶっ倒れるのだった。組みうった場合は、たがいに相手の両肩をつかみ、そして押したり引いたりして、たがいに相手の顔、首、胸を角でつこうとした。
凄惨、残酷このうえない光景であり、それがあい争うもの同士の咆哮、うなりでさらにすさまじいものとなっていた。しかし、それもすぐにけりがついた。クルに反対するものは、その数がすくなく、統率者もいなかったからだ。生き残ったものはひとりまたひとりとその場をはなれて逃げていき、あたりにはクルに反対するものがひとりもいなくなった。
新族長は、おのれの地位にいい気になって、もったいぶってあたりを歩きまわった。かれは、すぐさまドロヴァンとタントの女たちを呼びにやった。三十人ばかりいた。そのうち半数を自分のものとして選んだのち、残った女たちを、くじでわけろと子分どもにくれてやった。
いっぽうフォン・ホルストとラ・ジャは、牛人どもにまったく気づかれることなく、うしろのほうにじっとしたままでいた。それに、雄牛どもがついいましがたおこったこと、血を見、そのにおいをかいで狂気じみた興奮状態に達しているのがありありとしていたから、自分たちのほうからかれらの注意をひくようなまねもしなかった。しかし、ほどなくひとりの老齢の雄牛がかれらを見やった。胸の奥深くで低い咆哮をあげ、地面を蹴たてはじめた。まさに突進してこようとでもしているように、頭を低くたれてかれらのほうへ近づいてきた。フォン・ホルストは、弓に矢をつがえた。雄牛が躊躇した。が、やがてかれは、クルのほうへむきなおった。
「この人間《ギラク》どもだが」と、かれがいった。「こいつらをぶっ殺すか、それとも仕事につかせるのはいつのことなんです?」
クルが、この口をきいたやつのほうをむいた。フォン・ホルストは、族長の返答をまちうける。やつが恩に着てくれることに望みをかけていたのであり、それこそ、かれ自身とラ・ジャが自由の身になれるためのかれのねがいの基本的な条件なのだった。なんといってもかれは、まだこの娘の身の安全を考えていたし、いくら彼女が感謝の念をしめしてくれないとしても、彼女の安全を考えないでいることができないということを、かれはさとっていた。そのとき、かれはふと、もし彼女がこれっぽちの感謝の念をしめさないとすれば、この残虐非道の牛人からいったいどれほどの感謝の念が期待できるだろうかといぶかった。
「さて、と」と、老齢の雄牛がいった。「この人間どもを殺すんですか、それとも畑で働かすんですか?」
「女のほうは殺すのよ!」女たちのひとりがいった。
「いや」クルがうなるようにいった。「女のほうは殺さない。やつらを連れていって小屋に放りこみ、見張りをつけておけ。あとで、男のほうをどうするか、クルが決める」
フォン・ホルストとラ・ジャは、とあるきたならしい小屋に連行された。手足はしばられなかった。男の武器がうばわれなかったのは驚きだが、かれに推察できたかぎりでは、捕獲者たちはすこぶるつきの低能で、そのような予防策をこうじる必要を感じることができないほど頭のめぐりがわるいのだった。ラ・ジャは、小屋の片隅にいって腰をおろした。フォン・ホルストがその反対側にいく。おたがいに口をきかなかった。男は、女のほうを見むきもしなかった。しかし、女の目はしばしば、かれの上にそそがれていた。
かれは、みじめであり、ほとんど絶望的な思いがしていた。もし彼女がやさしくしてくれれば、お愛想のひとつでもいい、いってくれれば、その気になって闘う値打ちのある将来を思いえがくことができたかもしれないのだが。しかし、彼女の愛を期待できない現在、すべてが無のように思えるのだった。自分が彼女を愛しているのだとわかっていることは、自己を軽侮する念をかきたてるばかりだった。あたりまえなら、誇りの源泉となっていてもよいはずなのに、かれは、ラ・ジャが女だからという理由で、彼女にたいしてぼやっとした義務感をいだいているにすぎなかった。彼女を救うための努力はおこたるまいと思っていた。彼女のために戦うだろうとはわかっていたが、いっこうに意気があがらないのだった。
ほどなくかれは、横になって眠った。夢を見た。きれいなベッドでさわやかなシーツにはさまれて眠っているのだが、目をさましたとき、清潔な下着と充分にプレスのきいた着物をきて、すっかり支度のととのったテーブルで豪華な夕食をとるために階下《した》へおりていく、という夢だった。料理ののった盆を運んでいる給仕がかれの肩にぶつかった。
目をさましてみると、ひとりの女がかれのかたわらにつっ立っている。彼女がかれの肩を蹴ったのだ。「おきるんだよ」と、彼女はいった。「ほれ、おまえの餌だよ」
ひとかかえの、刈りとったばかりの草といくばくかの野菜を、かれのかたわら、きたない床の上にどさりとおいた。「女のぶんもはいってるよ」と、彼女がいった。
フォン・ホルストは、起きなおってその女を見た。ガナク族のものではなく、かれと同じ人間だった。「その草はなんのためのものなんだ?」かれがきいた。
「食べるためのものさ」と女。
「われわれは、草は食べない」と、かれはいった。「それに、野菜のほうは、ひとり分の食事にもたらないくらいのものだ」
「ここでは草を食べるんだよ。でなきゃ、飢え死にするんだね」女がいった。「われわれ奴隷は、野菜を充分に食べることはゆるされていないんだよ」
「肉のほうはどうなんだ?」フォン・ホルストはきいた。
「ガナク族は、肉を食べないんだよ。だから、ここには食用の肉はない。あたしは、ここへきて、もう思いだせないくらい何回も眠ったけど、そのあいだに肉を食べているものなんてひとりも見かけたことがないわ。しばらくすれば、おまえも草になれるよ」
「連中は、捕虜を全員畑で働かしているのかね?」と、フォン・ホルスト。
「連中のやることは、まるっきりわからないね。原則的には、女は生かしておいて、年齢《とし》をくいすぎて働けなくなるまで畑で働かし、あとは殺してしまうんだよ。奴隷が手不足だと思うと、しばらくは男も生かしておくわね。でなきゃ、男はすぐに殺してしまう。かれらは、あたしをもう何回も眠るあいだ生かしてきた。あたしはスプレイのものなの。この女は若いから、かれらは、彼女をだれかにくれてやるんだろうね。あんたのほかは、たぶんすぐに殺されるわ。いまは、奴隷もうんといることだし――口べらしをしたいくらいじゃないのかな」
女がいってしまうと、フォン・ホルストは、野菜をかき集めてラ・ジャのかたわらにおいた。娘がかれを見あげる。目がキラッと光った。
「なぜ、そんなことをするの?」と、彼女がきいた。「あなたには、なにもしてほしくないの。わたし、あなたを好きになりたくないわ」
フォン・ホルストが肩をすくめる。「その点、きわめてうまくいってるのじゃないかな」そっけなくいった。
彼女がなにごとかつぶやいたが、かれにはわからなかった。やがて、彼女がその野菜をふたつにわけはじめた。「これはあなたのぶん、わたしはこれを食べるわ」といった。
「ひとりぶんにしたって充分じゃないのだから、ふたつにわけるなんて、きみがみんなとっておいたほうがいいよ」と、かれはいいはった。「とにかく、わたしは、生野菜というのはあまり好きじゃないから」
「それなら、そのままほうっておけばいいわ。わたしは食べないわよ。野菜が好きでないのなら、草を食べるといいわ」
フォン・ホルストは、まただまりこんでしまい、一個の球根をかじりはじめた。なにもないよりはましだ――それについては、およそそのぐらいのことしかいうことができなかった。ラ・ジャは、食べながらときどきフォン・ホルストのほうをこっそりとぬすみ見していた。一度かれは、ちらと見あげ、かれにすえられている彼女の視線をとらえた。が、彼女は、すばやくその目をそらしたのだった。
「なぜきみは、わたしがきらいなんだ、ラ・ジャ?」と、かれはきいた。「わたしがなにをした?」
「そのことについては、話したくないわ。とにかく、あなたとはぜんぜん話したくないの」
「きみはフェアじゃないね」かれはいさめた。「わたしがなにをしたのか、それがわかれば、あらためることができるかもしれない。われわれが友だちなのなら、そうするほうがずっと気持ちがいいと思うんだが。なにしろ、ロ‐ハールへ着くまでは、おたがいしょっちゅう顔をあわしていなければならないんだからね」
「わたしたち、こんりんざいロ‐ハールへは着けないわ」
「望みをすてちゃいけないな。ここの連中は低能だよ。だから当然、われわれは、連中をだしぬいて逃げることができるはずだ」
「だめだわね。たとえそうなったとしても、あなたは、ロ‐ハールへいくことにはならないでしょうね」
「わたしは、きみのいくところならどこへでもついていくつもりだよ」頑強にかれはいった。
「なぜ、ロ‐ハールへいきたいの? 殺されるのがおちよ。ガズがあなたをまっぷたつにしてしまうわ。でも、とにかくどうしていきたいの?」
「きみがいくからだよ」と、かれはいった。ひとりごとでもいっているかのように、ささやきよりも低い声だった。
彼女はしげしげと、物問いたげにかれを見つめた。彼女の表情がやっと見とめられるかどうかの変化を受けたが、かれは、それに気づかなかった。彼女を見てはいなかったからだ。一歩もゆずらぬという頑固さがややうすらいだかに見える変化だった。花崗岩(強情という意味がある)と氷とのあいだの相違があった――氷は非常に冷たく、堅いが、とけるものである。
「わたしがなにをしたのか、それをいってくれさえしたら」かれはいいつのった。「なぜきみはわたしがきらいなのか――」
「それは――自分の口でいうことはできないわ」彼女がこたえた。「あなたがばかでないなら、わかるはずよ」
かれは、かぶりをふった。「残念だが」といった。「どうやらわたしはばからしい。だから、話してくれないか。おねがいだ。わたしは、すこぶるつきのばかなんだから」
「いや」語気するどくこたえた。
「手がかりでもおしえてもらえないかい――ほんのちょっとした暗示《ヒント》でいいんだが?」
彼女は、ちょっと考えた。「たぶんそれぐらいならできるわ」といった。「あなたは、わたしをたたいて力づくでバスティからわたしを運んだときのことをおぼえていて?」
「きみによかれと思ってやったことだよ、あれは。でも、あやまったじゃないか」かれは、思いださせるようにいった。
「でも、やったことはやったことよ」
「そりゃそうだ」
「で、それについてあなたは、なにもしなかったわ」彼女はいいつのった。
「なにをいってるのか、さっぱりわからんね」絶望的に、かれはいった。
「それが信じられれば、ゆるしてあげられるかもしれないわ。でも、だれであれそんなばかになれるものとは信じられないことよ」
この謎をとくなにか説明を見つけようと、かれは、思案をめぐらした。しかし、いくら頭をしぼっても、なにひとつ思いつけなかった。それについて、かれになにが|できて《ヽヽヽ》いたというのだ?
やがてラ・ジャがいった。「たぶん、わたしたちは、おたがい理解しあっていないのね。ともかく、あなたがわたしといっしょにロ‐ハールへいくつもりだと主張しているのはなぜなのか、はっきりいって。そして、もしあなたの理由が、ひょっとしてそうではないのかなとわたしが思いはじめていることなら、なぜわたしがあなたを好きでなかったかを話してあげるわ」
「きっとだね?」と、男はさけんだ。「わたしがロ‐ハールへいきたいのは、それは――」
ふたりの牛人が小屋のなかへとびこんできて、かれの話をさえぎってしまった。
「来るんだ!」かれらが命じた。「クルがいよいよおまえを殺すことにきめたぞ」
[#改ページ]
二十 咆哮する群れ
ふたりのガナクがラ・ジャについてくるようにと身ぶりでしめした。「クルはおまえも呼んでいる」と、かれらはいった。「しかし、おまえのほうは殺さない」ニヤニヤしながらつけくわえた。
部落をぬけて族長の小屋へと進んでいくとき、大勢のガナクがこの部落内に生えている多数の木のかげに横になっているのがみとめられた。奴隷たちの刈りとった草を食べているものもいる。また、なかば目を閉じてまどろみながらのんびりと反芻《おいがみ》しているものもいた。子供たちのうちには、あそこでひとりこちらでひとりというぐあいに孤立してつまらなそうに遊んでいるものもいたが、大人は、遊んでもいなければ、笑いも会話もしていなかった。かれらは、典型的な反芻動物であり、どう見ても低能としか思えなかった。装飾品のひとつ、着物の一枚もつけていず、武器もまったくおびてはいなかった。
かれらが武器をもっていないというのがそもそも、その低能ぶりとあいまって、かれから武器をとりあげなかった事実の原因なのではないかと、フォン・ホルストは思った。かれはまだ、弓矢とナイフをもっていた。槍のほうは、ドロヴァンを倒したあとの乱闘の最中に落としたまま、回収することができないでいた。
捕虜たちは、クルの面前に連行された。かれは、自分の小屋――といっても、つい最近まではドロヴァンのものだったのだが――の上に枝をのばしている大樹のかげに寝そべっていた。赤くふちどられた目でかれらを見つめたが、ほとんどラ・ジャを見ていた。
「おまえはおれのものだ」と、やつは彼女にいった。「おまえは族長のものなのだ。もうすぐ小屋のなかにはいるが、いまは表にいて、この雄の人間《ギラク》が死ぬのを見物しろ。クルを怒らせたら、そのときのおまえの死に方がわかるのだぞ」それから、かれのわきに横になっている雄牛のほうをむいた。「スプレイ、奴隷たちのところへいって、|踊りの水《ヽヽヽヽ》と|死の木《ヽヽヽ》をもってくるようにつたえるんだ」
「どういうつもりだ?」フォン・ホルストがきいた。「なぜわたしを殺さねばならないのだ? わたしがいなかったら、きみは、族長になってはいなかっただろう」
「雄の奴隷どもが多すぎるのだ」クルが不平をならした。「やつらは、よく食うからな。|踊りの水《ヽヽヽヽ》はうまいし、|死の木《ヽヽヽ》はおもしろいぞ」
「だれがおもしろがるのだ――わたしがか?」
「いんや、ガナクがおもしろがるのだ。人間なんかがおもしろがるのじゃない」
ほどなく、スプレイが大勢の奴隷をつれてもどってきた。数人の男が、枝をはらった小さな木を一本かかえている。他の男や女たちは、多量の木切れ、なにかの液体をみたした、不細工な造りのつぼやひょうたんをかかえていた。
かれらをみとめると、部落の四方八方から牛人たちがぞろぞろ集まってきはじめた。かれらの女たちもやってきたが、子供は追いはらわれてしまった。かれらは、族長の小屋の前にあるその大木の周囲に大きな輪をえがくように車座を作った。ひとりの奴隷がその車座のなかのひとりにつぼを渡す。そいつは、ぐっとひとのみして、そのつぼをとなりのやつにまわす。かくてつぼは、車座をめぐりはじめた。他のひょうたんやつぼをもった奴隷たちは、車座のすぐ外側をそのつぼについて移動していった。つぼがからっぽになったとき、その場で次のつぼが渡され、こんどはそれがまわっていくのである。
小さな木の幹をかかえていた男の奴隷たちは、族長の小屋と部落の入口とのあいだにある空地の地面に穴を掘った。その穴がかなりの深さにまで達すると、そのなかに木を直立させその周囲に土を埋め、固めた。木は地面から約二メートル弱つきだしていた。そして、この作業が進められているあいだにも、数多くのひょうたんやつぼが車座の連中に渡されていた。いまでは男も女もほえるようにわめいていたが、ほどなくひとりの女がたちあがり、踊りのつもりなのか、たいへんみっともない不細工なざまでとび、はねまわりはじめたのだ。すぐに他の男や女がそれにくわわり、ついには部落の大人が全員、敷地内をとびまわり、よろめき、ふらついているのだった。
「|踊りの水《ヽヽヽヽ》か」フォン・ホルストは、苦笑してラ・ジャにいった。
「そうね。人間の頭を狂わせてしまう水だわ。ときには臆病者を勇敢にし、勇敢なひとをけものにすることもあるけど、いつも、すべての人間をおろかにするものだわ。ガズは、人を殺す前にこの水をうんとのむのよ」
「あそこの、あれが|死の木《ヽヽヽ》なのにちがいないね」フォン・ホルストは、奴隷たちが立ておわっていた若木のほうへ顎をしゃくってみせた。いま奴隷たちは、その若木の周囲に乾草や木の葉、木切れを積みあげているところだった。
「|死の木《ヽヽヽ》!」ラ・ジャがささやくようにいった。「なんのためなのかしら?」
「わたしのためさ」と、フォン・ホルスト。
「でも、どうして? わたしにはわからないわ。まさか、かれらがそのような……。おお、ちがう。まさか、かれらが――」
「でも、そうなんだよ、ラ・ジャ。それが変なのかい?」
「なにが変なの?」
「きわめてけものに近いこれらの半人半獣が、まさかこんなことを自分たちの頭で考えつき、そしてそれを実行したりすることはできないはずだってことさ。あらゆる動物のなかで人間だけが、楽しみのための拷問を考えだす能力をもっているのだからね」
「わたし、そんなことを考えたこともないわ」と彼女はいった。「でも、そのとおりね。それに、人間の頭を変にしてしまったり、人間をけもののようにしてしまったりする飲み物を作るのも人間だけということ、これもほんとうのことね」
「けもののように、ではないよ、ラ・ジャ――もっと人間らしく、ということにすぎない。というのも、その飲み物は、人間からさまざまな制約のわくをはずしてしまい、その人間本来の姿をさらけ出させてしまうからだよ」
彼女は、それにはこたえないで、敷地の中央に立てられた若木の柱を憑《つ》かれたように見つめていた。フォン・ホルストは、彼女の愛らしい横顔を見守り、そのなかば野蛮人の、小さな頭のなかをどのような考えがよぎっているのだろうかといぶかった。かれは、急速に最期が近づきつつあるにちがいないとわかってはいたが、奴隷たちがかれのためにおぜんだてしている恐ろしい死からのがれる手段をこうじてはいなかった。もし、自分のことだけを考えていればよかったのなら、あるいは逃げだして討ち死にすることもできていただろう。しかし、現実にはラ・ジャがいた。自分が助かりたいと思う気持よりも彼女を救いたいという願いのほうがはるかに大きかった。
かれらの周囲一面で牛人一族は、踊り、わめいていた。クルのさけぶのがきこえた。「火だ! 火だ! 火をたけ! そのまわりで踊るんだぞ。踊りの水はどうした! 踊りの水をもっともってこい、奴隷ども!」
奴隷たちがからになったつぼやひょうたんを満たしにいっているあいだに、他の奴隷たちが柱の近くに大きな焚火をおこした。たちまち、わめき咆哮する一族の群れがその焚火をとりまきはじめた。焚火の炎が大きくなっていくにつれて、牛人たちのふるまいは、ますます目にあまるものに、ますます乱暴に、ますます獣的なものになっていった。そして、新たに注ぎこまれた飲み物の刺激がくわわって、かれらは、いっさいの分別をかなぐりすててしまった。
右でも左でも地面に倒れるものが続出した――立っているものも、へべれけに酔っぱらっていたから、ふらふらしながらかろうじて立っていられるというにすぎなかった。そのとき、だれかがどなり声をあげた。「あの人間《ギラク》だ! やつを死の木にしばりつけろ!」
そのことばが、四周のまだ口をきくことができる連中からおうむがえしにはねかえってきた。やがて、クルがよろめきながらフォン・ホルストのほうへやってくる。
「やつを死の木へしばりつけろ!」やつは咆哮した。「女!」とわめいた。そのときかれの目が彼女にとまるまで、彼女のことは忘れていたかのようだった。「おれといっしょにこい! おまえはクルのものだ」彼女につかみかかろうと、きたない手をのばしてきた。
「そうあわてるな!」ふたりのあいだに踏みこみながら、フォン・ホルストがいった。それから、クルの顔面にパンチを一発おみまいしてかれをぶっ倒し、ラ・ジャの手をつかむや部落の入口めざしてどっとかけだした。その入口は、奴隷たちが火刑柱やたきぎを運びこんできたさいあけっぱなしになっていた。かれらの背後では、牛人一族が、捕虜たちの逃げだそうとしている事実がかれらのぐでんぐでんに酔っぱらってもうろうとした意識を通じてわかりはじめ、怒り心頭に発して咆哮をあげていた。かれらの前方には奴隷たちがいた。かれらを阻止しようとするだろうか? フォン・ホルストは、ラ・ジャの手をはなし、いまでは無用の長物と化していた弾帯をはずした。無用! まるっきりそうではなかった。ひとりの奴隷がかれのゆく手をはばもうとした。フォン・ホルストは、その弾丸のつまったベルトをひと振りし、相手の頭を横ざまにはらってぶっ倒した。
それと、フォン・ホルストの顔をひと目見ただけで、あとの奴隷たちは、あわててかれの進路から逃げだしたが、いまや牛人の何人かが追跡を開始していた。とはいえ、ちらと一度ふりむいてみただけでフォン・ホルストは、かれにしろラ・ジャにしろ、かれらをひきはなしたままでいられるとすぐに確信した。とにかく立ったままでいることが困難なくらいだから、よたよたやってくるほかどうしようもない。そんな連中が追跡を思いつくなどこっけいのきわみとしかいいようがない。それにもかかわらず、かれらはやってきた。入口はまだずっ先にある。フォン・ホルストがうんざりしたことには、数人の牛人がわりとしっかりしているのがわかった。しかし、連中の邪悪な飲み物は、ほとんどのものをどうしようもない状態におとしこんでいた。ところがいまもいったとおり、数人の牛人は、正気を回復し、まさに脅威的な一団を形成してふたりの逃亡者を追跡してきた。
「連中になにかわれわれ以外のことを考えさせてやろう」フォン・ホルストがいった。そして、ごうごうと音をたてて燃えている火のそばを通過するとき、かれは、持っていた弾帯をそのなかに投げこんだ。
入口に近づいたとき、かれは、ふたたびラ・ジャに話しかけた。「きみはそのままかけて」という。「わたしは、ちょっとの間かれらをくいとめてみよう」それからかれは、くるりと踵をかえし、接近してくる牛人たちに面とむかった。おのれの行動を制御し、一定の目的におのれを指向させておくことができるほど正気をとりもどした牛人は、かぞえるほどしかいなかった。あとはすべて火の周囲でうろうろしたり、なすすべもなく地面にころがったりしているのだった。正気をとりもどした、かぞえるほどのやつらですらが、千鳥足でふらついていた。
フォン・ホルストは、追手のいちばん先頭のやつに矢を放った。矢は、そいつの腹につき刺さり、悲鳴と咆哮をないまぜたさけびをあげて転倒した。第二の矢がふたりめを倒す。残る連中は、いまではかなり追いせまってきていた。追跡ごっこを楽しむには近すぎた。フォン・ホルストは、次の矢を三人めに送った。それでやつらは、すくなくとも一時的に停止した。そのとき、火のなかに放りこんだ弾帯が爆発しはじめた。その最初の爆発で逃亡者たちを追跡している連中は、この度肝をぬかれるばかりの轟音の原因がなんであるのかたしかめようとふりむいた。と同時にフォン・ホルストは、またむきなおって入口をめざしてかけはじめた。
かれは、すぐうしろにラ・ジャがつっ立っているのを発見した。しかし、かれがかけていこうとしているのを見てすぐに、彼女もむきなおり、かけだした。
「かけつづけるようにといったと思うけど」かれがいった。
「あなたがふたたびとらえられたり、殺されたりしたら、そんなことをしたってなんの役にもたたなかったでしょうよ」と彼女。「かれらは要するに、またわたしをつかまえていたにすぎないわ。でも、そんなことしたってかれらは、がっかりしたでしょうね。わたしは、クルのものになってなんかいなかったはずだから」
そのときかれは、ラ・ジャが手に石のナイフをにぎっているのをみとめた。彼女を不憫だと思う気持ちから、喉もとにかたいもののこみあげてくるのをおぼえた。けなげな彼女を両腕にかき抱きたいと思った。しかし、目の前にせまった死から逃げているときに、自分がきらわれている女を両腕に抱くことなど、およそできる芸当ではない。
「しかしきみは、あわよくばのがれてロ‐ハールへ帰りつけていたかもしれないよ」と、かれは異議をとなえた。
「世の中には、ロ‐ハールへ帰りつくこと以外にもいろんなことがあるわ」謎めいた返事だった。
かれらは、いま入口を通りぬけた。背後では、弾薬の次々と爆発する轟音、牛人たちの狂った咆哮がわきおこっていた。前方には、木々の点在する広々として起伏する谷間がひろがっている。左手には広大な森、右手には、木々におおわれた低い断崖と、その根方にそって林立している木々。
フォン・ホルストは、右手へむかった。
「森のほうが近いわ」と、ラ・ジャが意見をのべた。
「それは方向ちがいだ」かれはこたえた。「ロ‐ハールはいま進んでいる方角にあるはずだが。そうじゃないかね?」
「そう、およそこの方角だわね」
「しかし、もっと重要なのは、あの広大な森へいったんはいったが最期、たちまちわれわれが道に迷ってしまうということなんだ――どこへ出てしまうかわかったものではないからね」
ラ・ジャがうしろをちらとふりむく。「かれらがしだいに距離をつめてきているように思うわ」といった。「とても足がはやいわね」
フォン・ホルストは、かれらが追っ手をふりきって断崖へ到達することはないだろうとさとった。自由を求めてのかれらの逃亡は、避けられぬ運命をわずかにおくらせただけのことでしかなかったのだ。
「矢はすこししか残っていない」かれはいった。「やつらに追いつかれるまでは、このまま逃げつづけられるし、その間になにかおこるかもしれない――奇蹟が。奇蹟でなければならないだろう。もしなにもおこらないなら、われわれみずから活路を見いだすことができる。やつらの何人かの息の根をとめて、他の連中をおびえさせ、ひるませることができるかもしれない。そのあいだに、やつらをひきはなして断崖へむかえばいいんだ」
「そんなチャンスはこれっぽちもないわ」ラ・ジャがいった。「部落の近くをふりかえってごらんなさい」
フォン・ホルストは口笛を鳴らした。新手の戦士たちが続々と入口からくりだしてくるところだった。あきらかにクルは、立っていられるものを総動員して追跡につぎこんでいるのだ。
「こいつはきびしい冬みたいに見えるな。やりにくくなってきた」
「冬?」ラ・ジャがきいた。「わたしには、ガナク族しか見えないわ。その冬というのはどこにあるの?」一生懸命かけてきたために、彼女は、息をきらしていた。だから、彼女のことばは、ややあえぎ気味に口をついて出た。
「うん、そんなのは気にしなさんな。かけるためのほうへ息を節約するほうが身のためだよ」
それ以後かれらは、牛人をひきはなすことに全精力を傾注したが、望みはなかった。じりじりと追いせまられているのだった。しかし断崖と、それをなかばかくしている森のちょっとした外べりは、もうすぐそこだった。
フォン・ホルストは、もしその断崖に到達できたら助かるかもしれないと、なぜそれほどまでに確信していたのかわからなかった。しかしかれは、そうと確信していたのだ。牛人たちができるだけ早くかれらに追いつこうとやっきとなっているらしい事実が、このかれの判断を正当化しているようだった。もし逃亡者たちが断崖に到達したあとですらのがれることはできないのだと、かれらにわかっていたら、あんなにあわてたり、興奮の色をしめしたりしてはいなかっただろうし、もっとゆっくりと、かつ、はるかに労力をセーブして追跡していただろうと推論してもおかしくはないと思われた。
ほどなく、ラ・ジャがつまずいて転倒した。フォン・ホルストは、すぐにむきを変えて彼女のかたわらにひきかえしていた。彼女を助けおこしたとき、ひどく弱っているらしいのがわかった。
「むだだわ」と、彼女がいった。「もういけない。長いことスクルフからのがれきたけど、そのあいだじゅう食物も休息も充分にとれなかった。それで身体が弱っていたのね。わたしを残していってちょうだい。あなただけならかんたんに逃げられるわ。もう、わたしのためにしてもらえることはなにもないのよ」
「そんな気は使わないで」かれはいった。「ここにふみとどまって抵抗しよう。ともかく、おそかれ早かれそうしなければならなかったんだ」
かれは、ちらとふりむき、せまってくる半人半獣どもを見やった。すぐにもやつらは、矢の射程距離にはいってくるだろう。全部で九人いたが、矢は六本しか残っていない。追っ手の六人をしとめることができたとして、残る三人もなんとかしてかたづけることができるかもしれないが、いま部落からくりだして峡谷を奔流となってかけのぼってくるやつらに、どう立ちむかったらよいというのだ?
かれは、こんな圧倒的に不利な状態で相手にたいしてささやかな、愚にもつかぬ抵抗をこころみることのいかにむなしいものであるかを考えていた。そのときなにかしら、不意にかれをふりむかせ、ラ・ジャのほうを見つめさせるものがかれに働いた。それは、われわれのほとんどが経験したことのある、さまざまな不可思議な心理現象のひとつだった。これをその道の専門家たちは鼻の先でせせら笑う。しかし、フォン・ホルストをふりむかせる原因となった力は、ほとんど心理的なものであったようだし、しかもそれは、きわめて強力に、圧倒的にかれに作用したのだった。そしてふりむいた瞬間、かれは、あっと驚きのさけびをあげ、ぱっとおどりだしてラ・ジャの右の手首をつかまえた。
「ラ・ジャ!」かれはさけんだ。「きみを見てよかった」
かれは、彼女の指のあいだから石のナイフをもぎ取り、それから彼女の手をおろした。かれの全身に冷汗がどっと吹きだして、小刻みにわなないている。
「どうしてそんなことを? ラ・ジャ、どうしてそんなことを?」
「いちばんよいことよ」彼女はいった。「わたしが死ねば、あなたは逃げられるかもしれなくてよ。すぐにかれらは追いついてくるわ。そうすれば、わたしたちはふたりとも死んでしまうでしょう。かれらは、あなたを殺すでしょうし、わたしは自殺しますから。クルなんかのものにはなりたくないもの」
「そうだ」かれがいった。「そのとおりだよ。でも、希望がすっかりなくなるまではまってみるんだね」
「もうないわ。すでにあなたは、わたしのためにずいぶんいろいろなことをしてくださった。だから、せめてわたしにできることといえば、あなたが助かるためにわたしが足手まといにならぬようにすることぐらいなの。そのナイフをかえして」
かれは、かぶりをふった。
「でも、もしかれらがわたしをとらえ、わたしにナイフがなければ、どうやってクルからのがれればいいというの?」
「かえしてあげよう」とかれ。「ただし、わたしが死ぬまではそれを使わないと約束してくれるならね。わたしが生きているかぎりは、望みがある」
「約束するわ」彼女がいった。「わたし、死にたくはない。ただ、あなたを助けたかっただけなのよ」
「わたしをきらいだから?」なかば微笑《わら》いながら、かれはきいた。
「たぶん」彼女は、にこりともしないでこたえた。「たぶん、好きではない人からいろいろお世話を受けたままでいるのがいやなのね――それとも、たぶん――」
かれは、ナイフを彼女にかえした。「約束は忘れないようにね」彼女に思いださせるようにいった。
「約束は守るわ。ほら、かれらがあんなに近くまでやってきたわよ」
かれは、そっちへ視線をやった。牛人たちがほとんど矢の射程内までせまっていた。フォン・ホルストは弓に矢をつがえ、待機した。かれらはそれを目撃し、速度をおとした。いまや、かれらは大きく散開した。かれが狙うのをやっかいにしようとの魂胆だ。やつらにそれほどの知恵があるとは、かれは思ってもいなかった。
「あの何人かをしとめてやる」ラ・ジャをふりむいて、かれはさけんだ。「きみには断崖めざしてかけてほしい。できると思うけど。わたしは、しばらくのあいだはやつらをくいとめていることができる――まちがいない」
娘は返事をしなかった。かれは、彼女をちらとふりむきはしたものの、そういつまでも牛人たちから目をはなしているわけにはいかなかった。かれの弓がひきしぼられた。牛人がひとり、悲鳴を発して転倒した。
「うん、われながら、この弓のあつかいも一流の域に達しつつあるな」声にだしてかれは、そう自分の腕前を評した。死の瀬戸際にありながら、こんな子供みたいに得意になっていられる自分に、ふとおかしさがこみあげ、かれは微笑した。もし故郷にいるのなら、町のお祭りでこの腕前を披露してやれるのだがと思った。たぶんかれは、以前ライフルの名手がやっていたのを見たように、鏡に写ったまとを見てうしろに射るわざさえおぼえることができたかもしれない。思えば、愉快でたまらぬことだった。同僚の将校や友人たちが、「弓術世界選手権保持者、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・エリック・フォン・メンデルドルフ・ウント・フォン・ホルスト中尉。入場料二十五ペニッヒ(ドイツの銅貨一〇〇分の一マルク)」の到来を告げる大きな、色つきの石版を見て、はたと当惑するさまを思いえがいてみた。
かれは、次の矢を放った。「入場料はもっと高くすることになるだろうな」ふたりめの牛人が横転すると、かれは、ふざけ半分にいった。「われながら、かなりの腕前だ」
かれがこうして冗談めいた思考をめぐらしていると、ラ・ジャが絶望的なさけび声をあげた。
「タンドールがやってくるわ、フォン。わたしたちのほうへやってくる。尾をぴいんと立てて、まっすぐわたしたちのほうへやってくるわ。頭が変になった雄のタンドールにちがいないわね。雄のタンドールが狂うと、こわいのよ」
フォン・ホルストは、ちらとそっちを見やった。たしかに一頭のマンモスがやってくるところだった。矢のように一直線にかれらのほうへやってくるのだった。そいつがかれらを見つけ、襲うために急いでかけてくるのに疑問の余地はありえなかった。ずっと接近してくれば、そいつは、ラッパのような鳴き声をあげ、尾、鼻、耳をぴんと立てることだろう。そして、暴走する機関車のようにかれらめがけ突進してくるだろう。もはや絶体絶命だ。前方には牛人ども、後方には狂ったマンモス!
「われわれにとって、あんまり運のよい日ではないようだね」とかれ。
「日?」ラ・ジャがきいた。「日ってなんのこと?」
牛人たちは、そのマンモスを見守っていた。その背後に、かれの仲間たちが急速に近づいてきていた。ほどなく、そのあたりにはゆうに百人の牛人が集まっているだろう。フォン・ホルストはふと、かれらがマンモスの襲撃に立ちむかうだろうかといぶかった。かれらは、武器をおびていない。どうやってかれらは、自分たちの身を守るのだろう? そのときかれは、ちらとマンモスをふりかえってみた。そして、かれの心臓はおどった。そいつは、もうすぐそこまでせまってきており、襲いかからんかなの態勢にあった。かれは、そいつの左のほおに白い毛の部分をきわめてはっきりと見ることができた。フォン・ホルストは、その巨獣がすっかりききなれていたさけび声を発した。それと同時にそいつは、太い鼻をふりあげ、地面を震撼させるほどのものすごい鳴き声をあげた。
〈りこうものの白ひげ〉は突進してきた。フォン・ホルストは、ラ・ジャを両腕にかき抱き、その場の巨獣の進路に立っていた。〈りこうものの白ひげ〉にかれの見けがつかないということがありうるだろうか。それとも本当に狂ってしまい、だれかれを問わず、ただ殺すという目的のためだけに殺しをやるようになってしまっているのだろうか?
娘は、男にしがみついた。かれは、彼女の両腕が首にまわり、若々しいひきしまった胸がかれの身体におしつけられるのを感じた。そして、そのいい感じにふけっていた。もしこれが最期なのなら、かれはこれ以上しあわせな最期――愛する女の両腕に抱かれて――を選ぶことはできなかっただろう。
甲高い怒りのさけびをあげながら、〈りこうものの白ひげ〉は、かれらをほとんどはねとばさんばかりのそば近くをかすめ去り、牛人たちめざしてせまっていった。かれらは散ったが、逃げたのではなかった。以後フォン・ホルストは、牛人たちのこの巨大なタンドールにたいする戦法を見物させてもらうことになったのだった。
とびのいてはまたとびこむ。そして、かすめ去りながら、かれらは、巨獣の側面や腹を角でつき刺すのだ。かれらは、ぶちあたった衝撃ではねとばされたが、すぐさまむっくり起きあがった。一団のガナク族が〈りこうものの白ひげ〉をある方向へよびきよせていく。そうしながら、五十人ほどのかれらが側面や後方からとびこんで、そのごつい角でそいつを八つ裂きにしようとするのだった。
たぶん他のマンモスであったら、かれらは、この戦法で圧倒していただろう。かれらはその様子からして、いつものなれた手順をふんでいるのは明白だったからだ。しかし、〈りこうものの白ひげ〉は、なみのマンモスではなかった。二、三度ごつい側面からひき裂かれるのを感じると、かれは、突進を中止した。二度と、敵を背後にまわすようなことはしなかった。かれは、ゆったりとかれらのほうへ近づいていった。フォン・ホルストは、それを見物していて、巨大な猫が鳥にしのびよっていくのを思いだしていた。牛人たちは、相手が突進してきたらわきへとびのき、すぐさままたとびこんで角をつき立ててやろうと、かまえをとって、タンドールの突進してくるのをまちうけた。しかし、かれは突進しなかった。近くまでゆっくりとせまると、みじかい距離を電光石火のすばやさでとび、ひとりの牛人をつかまえるや頭上高々もちあげて、ものすごい力でそいつを仲間のただなかへ投げこんだのだ。十二、三人のものが転倒した。そして、牛人たちが気をとりなおすことができないでいるうちに、〈りこうものの白ひげ〉は、かれらのあいだにおどりこみ、あたるをさいわい踏みにじり、宙へ放り投げたのだった。ついには、なんとかかれにさわられないですんだ連中がほうほうのていで部落めざしていちもくさんに逃げ帰っていった。
マンモスは、かれらのあとをちょっとだけ追い、二、三人の落伍者をつかみあげて、はるか前方をいくおびえた、わめき声をあげている群れのただなかへ投げこんだ。それからかれは、くるりとむきなおり、そのゆったりとして大またの歩き方でフォン・ホルストと娘のほうへ近づいてきた。
「こんどは、わたしたちを殺すわよ!」と、彼女がさけんだ。「そのチャンスがあるあいだに、どうして逃げようとしなかったの?」
[#改ページ]
二十一 見すてられて
「かれは、われわれには危害をくわえないよ」フォン・ホルストは、彼女にうけあった。
「どうして、そうとわかるの? かれがガナク族にしたことを見たばかりでしょう?」
「われわれは友だちなんだよ、〈りこうものの白ひげ〉とわたしとは」
「冗談をいっているときではないわ」と彼女。「たいへん勇気のあることだといいたいけど、あまりかしこいことではないわね」
マンモスは、かれらに近づきつつあった。ラ・ジャは、思わずフォン・ホルストによりそった。かれは、保護するように腕を彼女にまわし、さらに彼女を近よせた。かれがきらいだと何度もくりかえし断言している彼女だ。なのに、いまの彼女の態度はどう見てもそのことばと裏腹だということに、かれは気がついた。恐怖がこんなにもすみやかに彼女の自尊心をくじいてしまえるものだろうかといぶかった。これは、まるでラ・ジャらしくないことのように思われるのだった。かれは、わけがわからなかったが、かといって彼女をかれの両腕のなかへはいるようにした事情をそれほど強く問題にしているわけではなかった。いまの事実だけで充分だった。かれにできることといえば、これでまた〈りこうものの白ひげ〉に報いてやらねばならぬ恩義がひとつふえたなということをみとめるぐらいのことだった。
マンモスは、かれらの前でたちどまった。娘のいることが解せない様子だった。フォン・ホルストがただひとつ心配していたのは、その巨大な野獣が彼女を受けいれないかもしれないということだった。人間の友はひとりしか知らなかったのだ。あとはすべて殺すべき敵なのだ。男は、かれに語りかけ、そして娘のほうへためすようにのびつつある鼻をなでてやった。それからかれは、ふたりを背中へ乗せるようにとマンモスに命令をあたえた。その敏感な鼻の先端がラ・ジャの頭上へゆっくり動いていったとき、一瞬のためらいが見られた。娘はしりごみしなかった。フォン・ホルストは、そのことを感謝した。なんという健気《けなげ》な娘! 鼻がかれらに巻きつくと、ふたたび娘の両腕が男の首にまわった。〈りこうものの白ひげ〉は、巻きつけた鼻をさらにしめつけた。フォン・ホルストがもちあげるようにと、命令をくりかえした。かれらは、ふわっと地面からもちあげられ、その大きな頭のすぐうしろにおろされていた。男の合図で、マンモスは、ロ‐ハールの方角へ進みはじめた。
ラ・ジャは、なかばあえぎともとれる小さな溜息をついた。「わたしにはわからないわ」といった。「野生のタンドールにあなたがするようにと告げたことを、いったいどうやってさせることができたの?」
フォン・ホルストは、そこで〈りこうものの白ひげ〉との最初の出会いから、以来おこったことの一部始終を話してきかせた――マンモス族のものたちにとらわれていたこと、小峡谷でのこと、最後の逃走のことなど。
「わたし、あなたがフルグに襲いかかっていくのを見たわ」と彼女。「そのとき、スクルフがわたしを河のむこうへひきずっていったの。あなたがフルグに殺されたのか、マンモス族に殺されたのかどうか、あるいはとらえられたのか、なにもわからなかったわ。
スクルフは、河のそばの洞穴にわたしをかくしたの。そして、さるぐつわをかませたものだから、わたし、大声をあげてマンモス族の注意をひくことができなかったわ。かれらがわたしたちをさがしまわっているのがきこえたわ。わたしは、バスティへ連れもどされるくらいなら、かれらにつかまったほうがましだと思っていたし、スクルフもそれを知っていたの。わたし、あなたもマンモス族につかまってしまうかもしれないと思ったし」
考えなしにしゃべっていたとでもいうように、彼女は、すばやく立ちなおった。「むろん、気にはとめていなかったけど。マンモス族の国のほうがバスティよりもずっとロ‐ハールに近いというだけのことにすぎないの。あれだけの道中をバスティまで連れもどされるなんて、考えるだけでもいやだったわ。
わたしたち、長いことその洞穴にかくれていたの。それから、いよいよでかけたのだけど、最初の睡眠をとったとき、わたしは逃げだしたわ。スクルフがわたしをしばった皮ひもの結び目はとてもゆるかったから、たいして苦労もせずに手をぬくことができたの。
わたし、ロ‐ハールへむかって逃げたわ。相当の距離をいって、もうだいじょうぶだと思った。なんども眠ったわ。だから、ずいぶん遠くまできたのにちがいないとわかったの。とても運がよかったわ。肉食獣には二、三度しか出くわさなかったし、その場合もきまって、かくれる場所があったの――木や、入口のとてもせまい洞穴がね。ずっと人間には会わなかったけど、一度低い丘の頂上からうしろをふりかえって見たら、スクルフがわたしのあとを追ってきているのがわかったの。まだずっと遠くにいたけど、すぐにかれだとわかったわ。かれは、わたしを見たの。そうであることははっきりしていたわ。急にたちどまって、しばらくじっと立っていたけど、いきなりこんどはかけだしたからよ。わたしも、むきなおってかけだしたわ。かれをまくためにわたしは、わたしの知っているだけの方角をためしたのだけど、ずいぶんたってから、うまくいったんじゃないかと思ったわ。ところが、そうではなかったの。わたしが眠っているあいだにとびかかってきて、またまたバスティへひきずってでも連れもどそうとしたわ。そのときよ、牛人たちがわたしたちを見つけたのは。あとはあなたも知っているとおりよ」
「えらくつらい目にあったんだね、ラ・ジャ」フォン・ホルストはいった。「よくこれまで生きぬいてこれたもんだね。わたしには解せないよ」
「いいえ、とても気楽にやってきたように思うわ」彼女がこたえた。「だって、バスティ族にさらわれた女で、かれらからのがれられるものはごく少ないのよ。多くは殺されてしまうし、あとのものだって、気にいらない男の連れあいに無理矢理させられてしまうのだもの。わたしは、そんなことにはならないわ。まず、自殺してしまうわね。だからわたしは、とても運のよい女だと思っているわ」
「しかし、きみがこれまでに直面しなければならなかった数々の危険や苦難のことを考えてもみたまえ」と、かれは主張した。
「おお、そうね」と、彼女がみとめる。「単身でつねに敵といっしょにいるというのは、なまやさしいことではないわね。楽しいことではないわ。でも、危険にはそれほど出くわしたわけではないわ。なかでもゴルプス族が最低ね。かれらはいやだったわ」
フォン・ホルストは唖然とした。ひとりの女がそうした体験を神経のこれっぽっちもおかされることなくくぐりぬけてくることができたとは、とても信じられそうもないことだった。しかし、ラ・ジャは、それをすべて当然のこととみなしている様子だった。彼女を、かれ自身の世界の女たちと比較しないでいるのは、かれにとって困難なことだった。そして、彼女の経てきた状況のいかにとほうもないものであったかは、忘れるわけにはいかないのだった。もっとも、地上世界の女たちが安心して歩いているところへ彼女がいけば、ちょうど彼女たちが、ペルシダーでふるえあがるであろうと同じように、ふるえあがってしまうかもしれないのだが――とはいえ、どんな状況下にあろうとラ・ジャのふるえあがっている様を想いえがくのは、たやすいことではなかった。
フォン・ホルストは、しばしば彼女を地上世界へ連れ帰ることを夢見ていい気持ちになっていた。かれにはありふれたものであっても、きっと彼女を動転させるであろうものがそれこそ無数にあった――はじめて乗る列車、自動車、飛行機、はじめて目のあたりにする巨大な建物、巨船、大都市。かれは、かつてこうしたものを見たこともない、その存在を夢想だにしたこともない、それらを産みだした文明のことなど考えもおよばない人が、どのような反応をしめすものか想像してみようとした。
彼女は、数多くの愚にもつかぬもの、実際的でないものに遭遇するだろう。かかとの高い靴をはけば、彼女の足はしめつけられてしまうだろう。寒くもないのに毛皮を着るのはばかげていると、彼女は思うだろう。日中には暖かく着こみ、夜には半裸の服装《みなり》ででかけるのもしかりだ。衣服はすべからく、彼女の頭痛の種になるだろう。きっと気にいらないにきまっている。しかしあの、彼女の顔や姿の美しさ、その自負心、その女らしさをもってすれば、おっつけ衣装というものを好きになってしまうであろう。これについては、フォン・ホルストは、かなりの確信があった。
ああ、かわいそうなラ・ジャ! どんな罪があって彼女を文明に染まらせ、だめにしてしまわねばならないというのだ。とはいっても、その点かれにはすこしも心配することはなかった。彼女は、ペルシダーですらかれを受けいれようとはしないのだし、それに、かれが二度と地上世界の土を踏みしめることのないであろうことは大いにありそうなことだった。まして、彼女にしろ他のだれであるにしろ、いっしょに連れ帰る可能性のさらに小さなことはいわずもがなである。
こうした空想や、ラ・ジャのとりとめのないやりとりでひまをつぶしているあいだ、〈りこうものの白ひげ〉は、かれらを乗せてロ‐ハールの方角へと進んでいった。かれらがその途中で出くわした比較的大型の肉食獣ですら、この巨大な雄のマンモスの進路からこそこそ遠ざかっていった。だから、かれらの旅は平穏無事だった。ふたりが徒歩で進んでいたのなら、たえず悩まされていたであろうさまざまの獰猛なけもののたえざる脅威をまったく経験せずにすんだのだった。
ラ・ジャがロ‐ハールに近づいていると告げたとき、それまでかれらは、三度眠り、すくなからず食事をとっていた。かれらは、休息と睡眠をとるために停止した――ロ‐ハールに到着するまでの最後の睡眠となるだろう。ラ・ジャは、有頂天になっていると同時に落胆してもいるようだった。この最後の旅のあいだじゅう、彼女は愛想がよかったし、いい道連れであったから、フォン・ホルストの期待は高まっていた。とはいっても、彼女がかれに嫌悪をもたずにつきあっていたという以上のつきあい方をしていたと信ずべき根拠を、彼女はいぜんとしてかれにあたえていないということを、いやでもみとめないわけにはいかなかったが。
しかし、かれはすこぶるしあわせだった――かれがこの不思議な世界へはいりこんできていらい味わったことのないしあわせ、たぶん生涯でいちばんしあわせだったのではないだろうか。それというのも、かれは、以前に一度も恋をしたことがなかったからだ。
かれらは、キャンプを張った。フォン・ホルストは、草原へでかけていって、矢一本で小型のカモシカをしとめてもち帰った。いまかれらは、その切り身をささやかな焚火の上であぶっていた。〈りこうものの白ひげ〉は、若木の林へ重々しい足どりで歩いていき、みるみるその葉を裸にしはじめた。真昼の太陽は、かれらがそのかたわらにキャンプを張り、そこここでけものの群れがしばし獲物を求めてのし歩く肉食獣にわずらわされることなく、のどかに草を食《は》んでいる草原にさんさんと陽光をふりそそいでいる。
フォン・ホルストは、まるで夏の海の空に浮かぶ白雲のように、あたりにたちこめたのどかで、みちたりたふんいきを感じた。かれの気分は、かれをとりまく周囲と調和していた。その目をラ・ジャの上にすえ、むさぼるように見つめていた。その唇は、身体じゅうにみちあふれている情熱をいまにも告白しようとしていた。
たまたま彼女が視線を動かし、彼女にすえられているかれの目をとらえた。一瞬、交錯したままだった。それから、彼女が視線をはずし、草原を見やった。そしてゆびさした。
「こんど出発するときには」と彼女はいった。「あの方角へいくわ――ひとりで」
「それはどういう意味?」かれはきいた。「そっちは、ロ‐ハールへの方角じゃないよ――ロ‐ハールは、まっすぐ前方、いままでわれわれがたどってきた方向にあるのじゃないか」
「わたしたちの左手に大きな湖があるわ」彼女が説明した。「それをめぐって迂回していかねばならないの。その湖は、周囲を断崖にかこまれた深い盆地にあるから、ここからでは見えないのよ」
「きみをひとりではいかせないよ」と、かれがいった。「わたしもいっしょにいく」
「あなたはいっしょにきてほしくないと、何度もはっきりいわなかったかしら? わたし、あなたを好きではないと、何回いわなければならないの? わたしをひとりでいかせてほしいの。なにもいわないで、一族のもとへわたしを帰らせてちょうだい」
フォン・ホルストは赤くなった。うらみがましいことばが喉もとにこみあげたが、おしもどした。かれはただ、こういっただけだった。「わたしは、きみといっしょにいくよ。なぜなら、わたしは――なぜかといえば――それは、きみがそのままひとりでいくわけにはいかないからだよ」
彼女がたちあがった。「あなたにきてもらう必要はないわ。あんたなんかに用はないの」そういうと、眠るために木陰へいって、横になった。
フォン・ホルストはその場に坐したまま、やるせない思いでじっと考えこんでいた。〈りこうものの白ひげ〉が食事をおえて、キャンプわきの川から水を飲んでひきかえしてき、近くの木の下につっ立って居眠りをはじめた。フォン・ホルストは、かれがその場にとどまって、どんな人間よりもたのもしい見張り役をつとめてくれるだろうとわかっていた。そこでかれは、その場にごろりと身を横たえると、まもなく眠りこんでしまった。
かれが目をさましたとき、〈りこうものの白ひげ〉はまだ、その場につっ立っていた。毛深い大きな図体がかすかに左右にゆれている。広大な草原ではけものの群れがやはり草を食んでいた。永遠に真昼の太陽もいぜん、そののどかな景色にさんさんと陽光をふりそそいでいた。かれは、地上世界の時間でいえば、一分とは眠っていなかったのかもしれない。いや、あるいは一週間ものあいだ眠っていたのかもしれないと、かれは思いついた。かれは、ラ・ジャの姿を求めた。かれが最後にその姿を見た場所に、彼女はいなかった。にわかに、悪い予感がおそってきて、かれは、パッとたちあがった。すばやく四方を見まわした。娘の姿はどこにも見あたらない。何度も大声で彼女の名前をよんでみた。しかし、返事はない。
それからかれは、すぐさま彼女の眠っていた場所へかけつけて、その近辺とそれからキャンプを張ったあたりの地面を調べた。かれら以外の人間ないしはけものの近づいてきた形跡はみとめられなかった。しかし、これはかならずしも変というのではなかった。けものの群れが短く食いちぎった草は、生きものが通った跡をのちのちまでとどめていることはなかったであろうからだ。
ほどなくかれは、ラ・ジャがけものないしは人間に力づくで連れ去られたのだという可能性をしりぞけた。そのような場合には、彼女は、かれに助けを求めてさけんでいただろうし、それに、〈りこうものの白ひげ〉が闖入者からキャンプを守ってくれていたことはまちがいない。納得のいく説明はひとつしかない――ラ・ジャは、かれを避けてひとりでいってしまったのだ。かれにいっしょにきてほしくないと、彼女はいっていた。ともかくいっしょにいくとかれがくいさがったことで、彼女には、こうしてやってのけたこと以外にとるべき方法が残されていなかったのだ――つまり彼女は、かれから逃げていったというわけなのだ。
かれの誇りは傷つけられた。しかしその傷は、心の痛みにくらべれば無も同然だった。気力は、完全にくじけてしまっていた。この世で将来をたのしみにまつべきものはなにもないように思われた。どうしたらよいのか? どこへいけばよいというのだ? サリがどこにあるのか見当もつかなかった。この広大で野蛮な世界でサリにだけはひとりの友人を見つけだせる希望を抱けるかもしれないのだが。しかし、かれの決断がつかなかったのは、ほんの一瞬のことでしかない。かれは、〈りこうものの白ひげ〉を呼んだ。かれの命令で、けものは、かれをその背に乗せていた。マンモスが歩きだすと、フォン・ホルストは、眠りにつく前にラ・ジャの指摘していた方角へとそいつを誘導した。かれは、決意をかためていた。ロ‐ハールへおもむくつもりだった。生命あるかぎりは、愛する女をかちとる希望をすてる気は毛頭なかった。
かれは、ひょっとして女に追いつけるかもしれないと、〈りこうものの白ひげ〉を急《せ》きたてた。どれほどのあいだ眠ったのかわからないかれには、彼女がどれだけ先へいっているのか見当もつかなかった。彼女の話してくれていたところによれば、ロ‐ハールは、かれらの最後のキャンプ地からわずか一行程ほどのところにあるとのことだった。にもかかわらず、フォン・ホルストが疲労困憊のあまり半死の状態になるまで、かれらは先へ進みつづけた。そして、ついには〈りこうものの白ひげ〉が休息をとらずにはそれ以上先へ進むのをいやがるしまつだった。それでも、ラ・ジャの姿はおろか、どんな部落も、かれらが迂回しなければならないと彼女のいっていた大きな湖すら見えてはこないのだった。
かれは、はたして正しい方角をさがしながら進んでいるのだろうかといぶかった。というのも、ロ‐ハールの部落が進行方向の右ないしは左のいずれかに横たわっているというのは、むろんありうることだったからだ。しかし、人の姿をちらとでも見かけないで部落のすぐそばを通過しているなどということがあるとすれば、これは奇妙なこととしか思えない。狩猟隊がいつも遠出している。だから、他国者《よそもの》の姿をみとめれば、かれらは、そいつを調べあげ、たぶん息の根をとめてしまうことになっていただろう。フォン・ホルストはしかし、ラ・ジャと知りあいであることをたのみとしていた。つまり、一族にむかえいれてもらうつもりのある場合、彼女の父親であり、族長であるブルンにおだやかにききとどけてもらうためである。
ついにかれは、〈りこうものの白ひげ〉に腹ごしらえさせ、休息させるために停止せざるをえなくなった。しかし、とある河のほとりにやっと落ちついてはじめて、かれは、自分もまたどれだけ食物と睡眠を必要としているかに気がついた。最後のキャンプでしとめたカモシカの肉を少々、そいつからはいだ皮に包んで携行してきていた。この肉と果実のいくばくかでかれは、長いあいだの断食におさらばした。それから眠った。
相当の時間、かれは眠ったのにちがいない。というのも、ひどく疲労していたからだ。〈りこうものの白ひげ〉が見えるところにいて警戒の目を光らせてくれているので、安心しきってかれは、ぐっすりと眠った。目をさましたとき、なにかが胸にさわっていた。かれは、すぐには目を開かなかった。というのも、かれにはそれがむきだしの肌にふれる〈りこうものの白ひげ〉の鼻のしめり気をおびた先端の感触であることがわかったからだ。かれはただ、目ざめつつある状態と完全に意識をとりもどすまでのあいだにある、あのちょっとしたけだるいひと時の感覚的なよろこびに身をまかせてじっと横たわっていた。しかし、五官の制御力をとりもどしつつ意識がはっきりしてくるにつれて、かれは徐々に、〈りこうものの白ひげ〉のにおいとはちがったにおいに気がつくようになった。強烈な、にがっぽいにおいだった。ゆっくりとかれは、まぶたを開いた。
かれのむきだしの肌の上で動いているそのしめった鼻づらでかれの身体をくんくんやりながら、のしかかるように立っているその生き物をみとめた瞬間、にわかに全身がまひ状態におちいった。そいつは、ペルシダーのあらゆる肉食獣のうちでももっとも巨大で、恐ろしいライス、地上世界では絶滅して久しい大穴熊なのだった。
かれは、ふたたび目を閉じ、死んだふりをした。というのも、熊というのは、そいつが殺したのでないかぎり死骸を八ツ裂きにするようなことはないときかされていたからだ。かれは、そんなことが真実だとは信じていなかったが、おぼれたものはわらをもつかむの心境であり、しかもただ一本のわらだった。かれにできることといえば、その場にじっと横たわり、せいぜい最善を期待するしかどうしようもないのだった。
鼻づらがかれの身体からはなれた。けものの息づかいのほか物音はしない。やつは、なにをやっているのだろう? そのどちらつかずの不安な状態は、気を狂わせるほどのものだった。ついにかれは、それに耐えることができなくなった。熊は、かれの上にのりだすようにしてつっ立ち、頭を片方にまげて、そっちを見やりながら、鼻をくんくんさせ、きき耳を立てている。フォン・ホルストは、枝を大きくはりだした樹木の下の浅いくぼみに横たわっていた。熊の見やっている方角はわずかな距離しか見とおせなかった。熊にしても、フォン・ホルストが横になっている河岸の、おだやかに傾斜している土手の頂上より先は見ることができなかった。しかし、そいつは、なにか近づいてくるもののにおいをかぎ、物音をきいたのにちがいない。
フォン・ホルストは、それがもどってくる〈りこうものの白ひげ〉にちがいないと思った。いつもよりずっとキャンプから遠出してしまったのだろう。かれがもどってきて、友人をおびやかしているライスを目にしたとたん、すばらしい闘いが展開されることだろう。男は、〈りこうものの白ひげ〉がなにものをも恐れぬことを知っていた。また、巨大な穴熊の恐れを知らぬことと、その獰猛さにかけての評判も先刻承知していた。この巨獣がマンモスをそのものすごい前肢のただの一撃で絶命させてしまうことができるのだと、かれはきかされていた。しかし、〈りこうものの白ひげ〉は、なみのマンモスではなかった。その図体と兇猛さと巧妙さにかけて、かれに匹敵するマンモスはこんりんざいいないと、マンモス族の連中はいっていた。
そのとき、ひとりの男がむこう側から土手をのぼりつめ、熊とフォン・ホルストにその姿をすっかりあらわした。かれは、土手の斜面をななめにくだっていたから、かれらのほうにまっすぐむいてはいなかった。それにかれらは、木のかなり暗いかげのなかにいたから、かれにはかれらの姿が見えなかった。
男は、斜面をなかばまでくだった。フォン・ホルストは、熊がその男をやりすごさせてしまうのだろうと思った。と、そのとき、男がかれらの姿を見た。同時に、フォン・ホルストにはかれがだれであるかがわかった。マンモス族の土地、ジャ‐ルの小峡谷で会った、ロ‐ハール出身の若き戦士、ダホなのだった。
ダホは、熊をみとめるや、もよりの木をさがしもとめた。立木はこのようなけものから人間が身を守る唯一の防衛手段なのだ。かれがかけだそうとしたとき、熊が耳をろうさんばかりの咆哮を発して、かれをめがけてどっとかけだした。フォン・ホルストは、パッとたちあがった。そのまま助かろうと思えば助かっていた。というのも、いまや熊がむきを変えてかれに襲いかかってくる前に、わきの木の上にのぼることができたからだ。しかし、ダホはどうなる? かれにいちばん近い木は、あきらかに、熊がかれに追いつくまでに到達することは、いささか遠すぎた。しかしダホは、それに到達しようと身体じゅうの筋肉をひきしめていた。
フォン・ホルストは、たちあがりながら、かれのわきの地面においてあった弓矢をつかみあげていた。その弓矢に、ダホを救う可能性ありと、かれは見ていたのだった。矢を弓につがえると、狙いをつけて放った。矢は、熊のしりに深々とつきささった。怒りと激痛の咆哮をひと声発し、およそその図体からは想像もつかぬほどかろやかな身ごなしでくるりとむきなおり、あえてそいつに攻撃をしかけるとんでもない生き物をさがしあてた。その瞬間、間髪をいれずにそいつは、フォン・ホルストめがけて突進してきた。
ダホは救ったが、おそらくは自分自身の立場の安全性を過小評価していたのではあるまいか。こんな図体のライスに、驚くばかりの敏捷さと速度がそなわっていようとは、かれの思いもかけていないことだった。
最初の矢を放った瞬間、かれは第二の矢をつがえ、いまやその矢尻がかれの親指にあたるところまでひきしぼられていた。そして、それを放つと、かれは、弓を放りだしてかれの真上の枝にとびついた。
この矢が命中したのかどうかはわからなかった。熊はとまらずに、地ひびきを立てて追いせまってきた。かれが木の安全な場へと脚をひっぱりあげたとき、その脚をねらってさっと宙をかすめた熊のかぎつめの起こした風を、彼は感じた。どう見ても絶望的な状況からのがれられたことにたいする感謝の念が、深い安堵の溜息となってあらわれた。
下を見おろすと、かれの真下に熊がつっ立って、胸の左側からつきだしている羽のついた矢を前肢でかきむしっていた。咆え声をあげていたが、いまやそれほど力強いものではなかった。口からは血がしたたり落ちている。フォン・ホルストは、最後の矢が、たぶん致命傷とまではいかないまでも、かなりの重傷を負わせていたことを知った。これら巨大な、有史前のけものどもは、きわめて生命力が旺盛なのだ。
熊は、めったやたらと矢柄をかきむしっていたが、やがてどっと前のめりにぶっ倒れ、けいれん的にもがいていた。そして、ほどなくぴくりともしなくなったのだった。フォン・ホルストは、そいつがみずから矢をおのれの心臓におしこんだのか、あるいはねじこんだのだろうと推察した。しかし、すぐにおりていくという危険はおかさなかった。かれは、ダホがどこにいるのか目で追ってみようとしたが、濃密な葉群れにさえぎられて見ることができなかった。そこでかれは、相手の名前を大声で呼んでみた。
「おまえはだれだ?」返事がかえってきた。
「マンモス族の連中は、わたしのことをフォンと呼んでいた。われわれは、あの小峡谷で会ったんだ。どうだね、わたしを思いだしたか?」
「ああ、きみのおかげで、あのときおれは、死をまぬがれることができたんだ。きみのことは忘れようにも忘れられないな。その熊はどうしたんだ? 横になっているが、まるで死んでるようじゃないか。しかし、なにがそいつを殺すことができたのだ?」
「そいつが死んでいるかどうか、わたしがたしかめる。それまで木からおりるのはまて」フォン・ホルストは、用心をうながした。「もし死んでいるとしたら、おりるとしようや」
かれは、石のナイフで木から枝を一本切りとり、それを熊に投げつけた。けものがそれを感じた気配がまったくなかったので、フォン・ホルストはやっと、そいつが絶命しているものと了解し、満足して地面へすべりおりた。
かれが武器を回収していると、ダホが愛想のいい微笑を顔じゅうにうかべて近づいてきた。
「またまた、おれの命を救ってくれたね」と、かれがいった。「おれたちは、同じ一族のものじゃないのだから、おれには、その理由がよくわからんが」
「われわれは、同じ種族だよ」と、フォン・ホルスト。「きみもわたしも人間《ギラク》さ」
ペルシダー人は、肩をすくめた。「だれもそんなふうに感じれば、ペルシダーにはあまりにも大勢の人間《ギラク》がいすぎることになる。またたくまにけものはそっくり絶滅してしまうだろうよ」
フォン・ホルストは、ほんのひとつかみの住人を擁するこの広大な面積をもった地底世界と、地上世界のたくさんの人間が住んでいる都市の貧民街のことを考えながら、微笑した。
「ペルシダーの人間《ギラク》の幸福のために」と、フォン・ホルストはいった。「きみは、説得されて人と兄弟の間柄になるつもりなど、まずないのだろうね」
「いったいなんの話をしてるのか、おれにはさっぱりわからんが」と、ダホがみとめた。「しかし、おれがわかりたいのは、あのライスの息の根をとめたのがなんであるかということだよ」
フォン・ホルストは、その死骸からひきぬいた、血染めの矢をかれにしめした。「胸につきささったこっちのほうが、やつの生命をうばった。心臓を破裂させたんだよ」
「そんな細長い棒切れがライスの息の根をとめただって!」ダホはさけんだ。
「それには、|つき《ヽヽ》もうんと働いたことはたしかだ」フォン・ホルストはみとめた。「しかし、もしこの一本をどんな生き物でもいい、その心臓につっこんだら、それでそいつの生命はおしまいになるだろう」
「なるほど。だが、どうやってそいつをやつの心臓につっこんだんだ? やつに殺されないでそいつをやつの心臓につっこむほど近くへはよりつかなかったはずだがな。見たところ、とても軽すぎて槍を投げるような調子で投げつけることもできそうじゃないが」
フォン・ホルストは、弓をかれにしめして、その使い方を説明した。ペルシダー人はたいへん興味をしめした。しばらく弓をためすがめつしてから、フォン・ホルストにかえした。
「ここからはなれたほうがいい」ダホがいった。「あのライスは、平原で獲物をあさるためにおりてきたんだ。やつの連れあいがどこかこの近辺にいるかもしれない。やつが姿をあらわさないと、雌のほうがやつのにおいをたよりにやってきて、やつを発見する。ここは、おちついていてもいいような場所じゃないぜ」
「きみは、どこへいくというのだ?」と、フォン・ホルストはきいた。
「ロ‐ハールへさ」とダホ。「おれは、ジャ‐ルからの道中、そりゃ数えられないほど眠ったが、いまじゃ、あと三回か四回眠りゃ着くだろう」
「三回か四回? もうロ‐ハールはすぐそこだとばかり思っていたんだが」
「いいや」とダホ。「ところで、きみはどこへいく?」
「ロ‐ハールへさ」フォン・ホルストはこたえた。
「なぜ?」
「ほかにいくところがない。わたしは、別の世界の人間であり、そこへはとても帰ることができそうもないのだよ。サリにはわたしの友だちと呼べる男がひとりいるのだが、サリへいく道がわからないのでね。ロ‐ハールには、わたしをきらいではないはずの人間がふたりいる。わたしは、ロ‐ハールへいってブルンに一族にくわえてもらうようたのむつもりなんだ」
「きみがロ‐ハールで知っているのはだれなんだ?」とダホ。
「きみとラ・ジャだ」
ダホは、頭をかいた。「ブルンは、たぶんきみを殺すように命じるだろう」といった。「よしんばかれがそうしないまでも、ガズがきみを殺す。しかし、きみがロ‐ハールへいきたいというのなら、おれが連れていってやる。ロ‐ハールで死んだって、どこで死んだって同じだからな」
[#改ページ]
二十二 ガズ
フォン・ホルストがそれまでやってきた方角へあともどること長途の三行程、かれとダホは、ラ・ジャがフォン・ホルストをおきざりにしたキャンプ地へたどりついた。これでフォン・ホルストも、娘が故意にかれにまちがった道筋を進ませようとしたのだと確信した。この事実を知ったことは、〈りこうものの白ひげ〉が姿を消したこととあいまって、かれを意気消沈させた。ラ・ジャのあとを追っていくことのいかにむなしいかがしみじみ思われ、いっそのことやめてしまおうと真剣に考えたほどだった。しかし、ふたりが睡眠をとったあと、いよいよダホが出発しようとする土壇場になって、フォン・ホルストは、かれにくっついていくことにしたのだった。しかしそれは、ロ‐ハールへの道筋が、ラ・ジャがかれをまちがった方角へ進ませようとしたときまでふたりのたどっていた方角そのままでよかったのだと知ると、かれの重い気分をさらに重くしただけだった。
長目の一行程ほど進んで、かれらは、ロ‐ハールの砂岩の峡谷と断崖住居に到達した。ダホは、フォン・ホルストがそれまでペルシダーの人間たちがあらわすのを見てきたどんな場合よりも熱狂的で、好意にみちた雰囲気のうちにむかえいれられた。しかし、フォン・ホルストにたいしては用心深くうたがい深かった。ダホは、この他国者《よそもの》が自分のとらわれているところを自由にしてくれ、二度生命を救ってくれた友人であると、何度となくくりかえし説明した。ところがかれらは、敵意にみちた目でかれを値ぶみしているのだった。
「そいつは、ロ‐ハールになんの用があるのだ?」最初にかれらを部落から安全な距離だけはなれたところで停止させた歩哨が詰問した。そしてこの質問は、部落内を進んでいくうちにも他の連中から始終くりかえされた。
そのたびにダホは、フォン・ホルストが別の世界からやってきた偉大な戦士で、ロ‐ハールへきて、一族に仲間入りしてくらすことを希望しているのだと説明した。そして、そのあいだじゅうフォン・ホルストは、かれのことでひそひそささやかれたり、文句をならべられたりしているのにはぜんぜん注意をはらわずに、目を皿のようにしてラ・ジャの姿をさがし求めた。
「ブルンはどこにいる?」ダホがきいた。「この他国者がロ‐ハールにとどまるかどうか、かれが決定するだろう」
「ブルンはここにいない」ひとりの戦士がこたえた。
「どこなんだ?」
「たぶん死んだんだろう。娘のラ・ジャがさがしにでかけてから、何度も睡眠をとったからな」
「じゃ、いまだれが族長をやっている?」とダホ。
「ガズだ」と相手。
ダホが当惑の表情になった。「かれは、戦士たちに選ばれたのか?」
相手はかぶりをふった。「いや。じゃまをするやつは殺すとおどして、みずからその地位についたのだ。ガズは強力な男だからな。いままでのところはだれひとりかれの権利に異議をとなえるやつはいない。もっとも、恐れていなかったら、大勢のものがそうしているだろうがね。というのも、ガズのもとでみんなみじめな生活を送っているからな」
「やつはどこにいる?」ダホの視線が部落をぐるりとなめまわす。
「ラ・ジャのあとを追っていってしまったよ」
フォン・ホルストはそのとたんサッと緊張し注意を集中した。「彼女はどこへいったんだ?」と、かれはきいた。
その戦士とダホのふたりが同時にけげんな面持ちでかれを見やった。フォン・ホルストのラ・ジャにたいする愛についてはなにも知らなかったからだ。「なぜそんなことが知りたい? 他国者?」戦士がうさんくさげにきいた。
「その女がどこへいったかわかれば、その男のほうも見つけだせるだろう」
ダホと戦士がうなづく。「そのとおりだ」と、ダホがいった。そしてフォン・ホルストは、きいてはみたかったが、あえてそうしてはいなかった質問をした。「ガズはなぜ彼女のあとを追っていったのだ? 彼女が姿を消してから何回も睡眠がとられている。それに、彼女の父親がすでに彼女をさがしにでかけているのじゃないか。もしガズに彼女をさがしにいくつもりがあるのなら、やつは、なぜもっと早くそうしなかったのだ?」
「おまえにはわからんのだ」戦士がいった。「ラ・ジャは、二、三回睡眠をとる前に帰ってきたのだ。そして、ガズが彼女を連れあいにするといいだした。しかし、彼女は、こんりんざいかれの連れあいになろうとはしなかった。そこでやつは、彼女を無理矢理、自分の洞穴に連れこむつもりだったのだろう。だが、彼女は、やつをかわして逃げてしまったのだ」
「で、ガズは?」と、フォン・ホルスト。
「彼女のあとを追った。いまごろはまちがいなく、彼女をつかまえている。そして彼女は、やつの連れあいになっているよ。ひとすじ縄でいかない女というのは、いいもんだ。ことにそれが族長の娘ともなりゃな。それだけにかえってガズのやつ、彼女が気にいるのだろう。あまりすんなりと手にはいるような女は、すぐにあきられてしまうからな。たぶんラ・ジャは、部落の連中から見られないですむところまで逃げだして、ガズのやつをまっていただけのことかもしれん。女っていうのはよく、こうするものなんだ」
「彼女はどっちへいった?」またフォン・ホルストが質問した。その声はしわがれ、喉の奥にからまっている感じだった。
「もしおまえに、どうするのがいちばん身のためになるかがわかれば、いまはやつのじゃまをしないで、帰ってくるまでまつだろうよ。だが、やつが帰ってきたら、おまえは相当にひどいめにあうぞ。もし、おれがおまえだったらな、他国者、ガズが帰ってくるまでになるたけロ‐ハールから遠ざかっているだろうよ」
「やつのいった方角は?」フォン・ホルストは、かさねてきいた。
戦士がかぶりをふって、「あっちだ」と峡谷の上手をゆびさしながらいった。「峡谷の奥の屋根のむこうに美しい谷があるんだ。男が女を連れていくような――というか、女がその男をおびきよせるような、そんなところだよ」
フォン・ホルストは身ぶるいした。それから、ひとことも発せずに峡谷の奥、女がその男をおびきよせるような美しい谷のある方角へむかって歩きだした。
戦士とダホは、かれのうしろ姿を見送っていた。ダホがかぶりをふる。「まずいことになった」といった。「かれは、偉大な戦士であり、いい友だちなんだ」
戦士が肩をすくめた。「どんなちがいがある?」ときいた。「ガズは、ちょっと早くやつを殺すってだけのことだ。それだけのことさ」
フォン・ホルストは、峡谷のいちばん奥のけわしい坂をのぼっていった。希望とおそれと、そして情熱――愛と憎しみの――が心のなかでにえたぎっていた。幾世紀にもおよぶ文明の最後のなごりが消えさり、かれは、石器時代の正真正銘の穴居人となっていた。太古の昔、地上世界のだれか祖先の原始人がやったかもしれないように、かれは、胸に殺意をたぎらせて恋がたきをさがし求めた。かれが熱望してやまない女については、いまでは彼女が望もうが望むまいが、おのれのものにしてしまうつもりだった。
頂上にのぼりつめ、かれは、かつて目のあたりにしたもっとも美しい谷を見おろした。が、ちらと一瞥したにすぎなかった。かれの視線が求めるものは、もっとはるかに美しいなにかだった。ふたりがいった方角をしめすなにかしるしはないものかとさがし求めながら、かれは谷底へとくだっていった。そしてついに、かなたのもやをついてかすかに見わけられるかなり大きな川へ蛇行してくだっている小川のわきをうねうねとつづく、きわめてはっきりついたけもの道にその跡を発見した。ところどころに、サンダルばきの小さな足跡がみとめられ、それらにしばしば、大男につきもののばかでかい足跡がかさなっていた。
フォン・ホルストは、その道をかけだした。娘の名前を大声だして呼びたかった。しかし、たとえきこえても、彼女は返事をしないと、かれにはわかっていた。というのは、かれのしめしているような愛は、それ相応の感情を喚起することができるものではないということを、彼女はことあるごとにはっきりしめしていたのだから。
かれは、自分をきらう女のあとを追い、かつ彼女の意志にかかわりなく力づくでも彼女を自分のものにしてしまうという気になったなんて、自負心はいったいどうなってしまったのだろうと、ぼんやりいぶかった。みずからを恥じるべきだと思ったが、そうはしなかった。しばし、とまどっていたが、やがて、自分が変わったのだと気づいた――どれほど昔のことなのか神のみぞ知るだが、この地底世界へはいりこんできたときのかれと同じかれではなくなっているのだ。環境がかれを変えてしまった――野蛮なペルシダーは、かれをおのれの世界の一員だと主張したのだ。
ガズのことを思うと、むらむらと怒りがこみあげてくる。そうと知るよりもずっと前からこの男を憎んでいたことに、かれは気がついた。死を恐れてはいなかったと同じように、この男を恐れてはいなかった。ガズを恐れずにすんだのは、たぶん死を恐れていなかったためだろう。というのも、かれがそれまでにガズについてきかされたすべてから判断して、かれは、死神の代行者だったからだ。
一定の速度で、かれはかけつづけた。どれほど先にかれらがいるのか、かれには知るすべもなかった。かれをこの道にむかわせた戦士のことばにどれほどの信憑《しんぴょう》性があるのか、見当すらつかなかった――かれらのことを思うと、いきついてはみても、それが手おくれだったりするのではないかと思うと、かれは気が気ではなかった。しかし、もっとみじめでさえあったのは、ラ・ジャが嬉々としてやってきて、まっていたのではないかという懸念がつきまとっていることだった。強大な戦士の連れあいになるのが彼女の義務なのだと、彼女はいっていた。ならば、ガズでいけないわけがどこにある? フォン・ホルストは、うなり声をあげ、速度をはやめた。地獄の責苦にさいなまれる男があるとすれば、それはかれだった。
道がわかれているところへさしかかった。かれの右手にある流れのほうへ直角に、ややせまい、あまり踏みならされていない道がつづいていた。ちょっとのあいだ丹念に調べてから、かれは、さがし求めるふたりが、この細いほうの道を進んだのだと結論した。そして、渡河点の両岸の土にふたたび足跡を発見した。こんどはくっきりとついていた。そこから道は、まっすぐに横手の小峡谷の入口へとつづいていた。以後かれは、その小峡谷を奥へとわけいっていけばよかった。ほどなく、前方からさわぎがきこえてきた。男が胴間声でさけんでいるのだった。なにをいっているのか聞きとれはしなかったが、その声は、峡谷のまがり角のむこうからきこえてきた。だから、声の主は見えなかった。
それから先かれは、用心しながら進まねばならなかったのだが、そうはしなかった。警戒のけの字もせずに、前よりも早くすらある速度でかれはつき進んだ。かくてかれは、やぶからぼうにガズとラ・ジャに出くわしたのだった。ラ・ジャは、高い崖の岩肌につきだした小さな岩棚にあぶなっかしくしがみついていた。両足をこのせまい岩棚の上にささえて身体を崖の側面にぺったりはりつかせ、両腕をひろげて両手でかたい岩をしっかりとつかんでいる。ガズは、崖をのぼることができずに、下の地面につっ立ってラ・ジャにおりてこいとどなっているのだった。ふたりと、ことのなりゆきをきわめて雄弁にものがたっているかれらの位置を見て、ジョン・ホルストは、安堵の吐息をもらした――手おくれではなかったのだ!
突然ガズは、石ころをつかみあげラ・ジャに投げつけた。「おりてこい!」とわめく。「さもないとたたき落としてやるぞ」石ころはラ・ジャの頭のすぐわき、崖の岩肌にあたった。ガズは、次の石ころをひろうためにこごんだ。
フォン・ホルストは、かれにむかってさけんだ。男はギョッとなってくるりとむきなおった。地上世界からきた男は、弓につがえる矢を取ろうと肩に手をのばした。お粗末な槍と石のナイフでしか武装していない男を射殺することに、これっぽちの気のとがめも感じていなかった。しかし、驚いたことには、矢筒が空になっているのを知ったのだ。矢はどこへいってしまったのだろう? 部落へはいったときには、まだもっていたことはたしかだった。そのときかれは、部落の連中がかれの周囲をうろうろしたり、ぶちあたってきたり、押したり引いたりしていたのを思いだした。そのとき何者かがかれの矢をぬいてしまったのにちがいなかった。
ガズは、いざ戦わんかなの意気ごみでかれのほうへやってきた。「おまえはだれだ?」と誰何《すいか》した。「なんの用があってきた?」
「おまえに用があってきたのだ」と、フォン・ホルスト。「おまえの息の根をとめて、あの女を自分のものにするためにやってきたのだ」
ガズは、咆哮しながら突進してきた。どんな戦士であれ、かれの絶大の力に挑戦しようとは、たいへんな冗談だとやつは考えていた。ラ・ジャは、かなり首をうしろへめぐらしていたから、下を見おろすことができた。そして、フォン・ホルストをみとめたとき――たちまちかれだとわかったにちがいないのだが――彼女は、どんな感情にとらわれただろう? それがだれにわかるだろうか? 実際、彼女は、かれを見たということすら、これっぽちもしめしはしなかった。しかし、そのすぐあと一度、ガズから一瞬視線をそらしたとき、フォン・ホルストは、彼女が下へおりようとしているのを見た。どういうつもりなのか、かれには見当もつかなかった。いまにも火花を散らさんとしているはたし合いでみずからの選んだ男に加勢しようとしているのかもしれないし、あるいはふたりの男がたたかいに気をとられている隙に乗じて、もう一度逃げ出そうというつもりなのかもしれない。
「おまえは何者だ?」ガズがかさねてきいた。「いままでに会ったことはないぞ」
「わたしはフォン・ホルストだ。そして、ラ・ジャは、わたしの女なのだ」と、相手はうなるようにいった。
「おれさまがだれなのか、知ってるのか?」
「きみは、わたしが殺すためにはるばるやってきた当の本人だ」と、フォン・ホルスト。「きみはガズだろう?」
「逃げて!」ラ・ジャが金切り声をあげた。「ガズに殺されないうちに逃げてちょうだい。あなたに用はないわ――たとえあなたが千人のガズを殺すとしても、あなたなんかに用はないの。逃げて! できるうちに逃げて!」
フォン・ホルストはガズを見つめた。まさに怪物のような人間、体重ゆうに百五十キロもありそうな、どでかい、あごひげのあるやつだった。でかいこともさることながら、その外観の点でも野卑で、醜怪で、獰猛だった。フォン・ホルストめがけて突進しながらうなり、むきだしになったその乱ぐい歯。フォン・ホルストは恐れなかった。これまでも、石器時代の戦士の何人とも立ちむかったことがあった。かれらは、わざがなかった。そのうちには何人か、その毛むくじゃらの堂々たる体躯が、実際にもっているよりもはるかにものすごい力を暗示している場合があった。フォン・ホルストは、これまで出くわしただれよりも自分が力の点ですぐれていたことを発見していた。かれらは、体重の点で有利だったのにすぎず、しかも、それはかれらの敏捷さをそぐ原因となっていたから、かならずしも体重の多いことが有利というわけではなかった。
フォン・ホルストのラ・ジャにたいする忍耐は、限界に達していた。かれは、できるかぎり早くガズをしまつしてしまいたかった。そうすれば、それだけ早くこの女を掌中にすることができるからだ。かれは、ラ・ジャを存分にひどい目にあわせてやろうとすら考えていた。彼女はそうされても当然だと、かれは思った。石器時代的ものの考えかたをしているのだった。
ガズがどっとばかりにとびかかってきたとき、フォン・ホルストは、相手の顔面にものすごいパンチをおみまいし、ぶつかってくる巨体を避けるべくひょいとかたわらにとんだ。ガズは、たたらを踏んで怒りの咆哮を発した。そして、ふたたびフォン・ホルストに襲いかかろうとむきなおったとき、かれは、ふんどしから石のナイフをぬいていた。かれもまた、このはたし合いをてっとり早くかたづけたかった。というのも、この自分より小さな男に挑戦され、戦闘を開始し最初の打撃を食わされた痛恨に逆上していたからだ――それも、自分の連れあいにしようと選んだ女の目の前で。こんなことを相手になんどもくりかえされていたのでは、かれは、部落じゅうの笑い者になってしまうだろう。
フォン・ホルストは、ガズの手ににぎられた石のナイフを見て、自分もぬいた。こんども、かれがじっとまちうけた。ガズがゆっくりとせまってくる。そして、フォン・ホルストにかなり接近すると、その胸元めがけてサッとナイフをふりかぶっておどりこんだ。フォン・ホルストは、とんでくるガズのナイフをにぎった手首を左腕ではらい、自分のナイフで相手の脇腹をねらった。そしてとびのく。しかし、とびのきざま、地面につきだしている石に足をひっかけて、どうとばかりに転倒した。間髪をいれずにガズは、倒れた相手の体の上に、その巨躯をまともにぶっつけ、のしかかってきた。ばかでかい片手がフォン・ホルストの喉もとにとどく。もういっぽうの手が石のナイフをかれの心臓につき立てようとする。
ヨーロッパ人は、相手の手首をつかみ、おりてこようとするナイフを停止させた。しかし、もういっぽうの手でガズは、かれの息の根をとめようとする。それと同時にナイフをにぎる手をふりほどいて自由にし、その武器をフォン・ホルストの胸につっこもうとするのだった。フォン・ホルストは、倒れた拍子に自分のナイフを落としていた。いまや、ガズのナイフが身体にさわるのを阻止するいっぽう、かれは、すぐそばの地面を手さぐりし、自分のナイフを求めた。が、ときどき手さぐりするのをやめてガズの顔面に強烈なパンチをあびせた。そのたびに、フォン・ホルストの喉もとをおさえている相手の手の力がゆるみ、かれは、ひと口ずつでも新鮮な空気をすいこむ機会をうることができたのだった。しかし、地上世界からきた男は、急速に体力が消耗しており、自分のナイフが見つからないと、すぐに一巻の終わりになってしまうと気がついた。
かれは、もう一度ガズをはげしく打擲《ちょうちゃく》した。そして、自分のナイフを手さぐろうとおろした手がすぐに、それにさわったのだった。あたかもだれかがそれをにぎらせようとでもしたかのようだった。しかし、そのときのかれは、そのわけを考えつこうとぐずついたりはしなかった。事実、問題はただひとつ、そのナイフを手ににぎることしかなかった。
フォン・ホルストは、ガズがうしろをふりかえるのを見た。かれの呪詛するのがきこえた。そのときかれは、手にしたナイフを穴居人の左脇にずぶりとつき刺した。ガズは悲鳴をあげ、フォン・ホルストの喉元につかみかかった手をはなして、こんどはかれのナイフをもつ手につかみかかろうとした。しかし相手はそれをかいくぐって、二度、三度、四度と、鮮血のほとばしるガズの脇腹に石のナイフをつき立てたのだった。
やがてガズはたちあがってフォン・ホルストからはなれようとした。しかし相手が、かれのあごひげをつかみ、逃がそうとはしなかった。フォン・ホルストは、なさけ容赦なくくりかえし相手を刺しつづけた。ガズのわめき声、悲鳴がか弱くなっていった。身体の力がぬけてのしかかってきて、やがて最後のけいれんと同時に、勝者の身体の上にのびてしまった。
フォン・ホルストは、ガズの死体をおしのけ、たちあがった。ハアハアあえぎ、全身血みどろとなっていた。女――いまやかれの女――を求めてあたりを見まわした。信じられないというように目を大きく見張って、彼女は、すぐ近くに立っていた。ゆっくりとかれのほうへやってくる。
「ガズを殺したのね……」と、畏怖の念のこもった低声でいった。
「で、それがどうしたというのだね?」
「あなたにそんなことができるとは思わなかったわ。かれのほうがあなたを殺してしまうと思っていたの」
「どうも、がっかりさせてわるかったね」ぴしりといった。「どういう意味なのか、きみにわかるだろうかしら」
「わたし、がっかりなんかしてないわ。で、どういう意味なの?」
「きみをわたしのものにしようとしているという意味さ。わかったかい? きみはわたしのものなんだ!」
疑念という雲をついてさしてくる日光のように、ゆっくりと微笑がひろがった。
「わたしは、ほとんど最初のころからあなたのものだったのよ」彼女がいった。「でも、あなたって、とんでもないまぬけでそれがわからなかったんだわ」
「なんだって?」とんきょうな声をあげた。「それはどういう意味なんだい? きみは、わたしをきらうことしかしなかったし、わたしを遠ざけようとしていたじゃないか。わたしにまちがった道筋をたどらせるようにしておいて、わたしが眠っている間《ま》に逃げだして、おいてけぼりをくわせたんだね」
「そうよ」と彼女。「おっしゃるとおりのことをみんなやったわ。でも、あなたを愛していたからこそやったのよ。わたしがあなたの愛にむくいて、それがあなたにわかっていたら、あなたはわたしについてロ‐ハールにくるでしょうし、そしてもし、あなたがここへくれば殺されるだろうと思ったの。あなたにガズを殺すことができると、どうしてわたしに想像できて? いままで何人《なんびと》もかれを殺すことができなかったんですもの」
「ラ・ジャ!」かれは、ささやくようにいって、彼女を両腕に抱いた。
ラ・ジャとフォン・ホルストは、ロ‐ハールの部落へもどった。戦士や女たちがかれらの周囲にむらがった。「ガズはどこにいる?」と、かれらはきいた。
「ガズは死んだのよ」と、ラ・ジャがいった。
「それじゃ、われわれには族長がいないことになる」
「あなたたちの族長はここにいるわ」片手をフォン・ホルストの肩にかけながら、娘がこたえた。
戦士のあるものは笑い、あるものは不平を鳴らした。「かれは他国者だ。かれが族長になるような、いったいなにをやったというのだ?」
「わたしの父、ブルンがでかけてしまってから、あなたたちは、ガズを族長にさせたわね。それは、かれを恐れていたからだわ。あなたたちは、かれを憎んでいる。そして、かれはひどい族長だったけど、あなたたちのだれひとりとして、かれを殺そうとするだけの勇気をもってはいなかった。フォンは、ナイフを使って尋常な勝負でガズを殺したわ。そして、あなたたちの族長の娘を連れあいとしてめとったのよ。父のブルンが帰ってくるまで、あなたたちのなかでどの戦士が族長となるのにフォンよりももっとふさわしい資格をもっているというの? もし不服のあるものがいたら、前へ出て、フォンと素手で戦いなさい」
というわけで、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・エリック・フォン・メンデルドルフ・ウント・フォン・ホルスト中尉は、ロ‐ハールの断崖穴居人たちの族長となったのだった。しかも、きわめて賢明な族長だった。それまでにかれが知りえた穴居人心理に、別世界のあらゆる重宝な知識を組み合わせたのだった。フォン・ホルストは、かれらにとって神にも近い存在となった。かれらは、もはやブルンのいなくなったことを悲しまなかった。
それからしばらくしてのこと、南からのぼってきたとつたえられる不思議な人々のうわさが流れてきた。かれらは、人間もけものも耐えていられない武器をもっているとのこと――大きな音を発し、煙をはきだして遠くから殺すことのできる武器なのだ。
フォン・ホルストは、このうわさを耳にしたとき、興奮に全身がわなないた。そういう人々なら、ほかならぬ巨大な気球O‐二二〇号で地上世界からやってきた乗組員――つまりかれの友人たち――としか考えられなかった。かれらがかれを捜索していたのに疑問の余地はない。フォン・ホルストは、戦士たちを呼びよせた。「わたしは、いまうわさとなっているこの他国者《よそもの》たちに会いにいってくるつもりだ。かれらは、わたしの友人たちではないかと思っている。しかし、万一そうでなかった場合、かれらを殺すためにわれわれが充分に近づけないでいるうちに、かれらは、もっているといわれている武器でわれわれの大勢を殺すことができるだろう。おまえたちのうちのどれだけのものがわたしといっしょにいきたいと思うかね?」
ひとりのこらず志願したが、フォン・ホルストは、そのうち約五十名だけを選んだ。ラ・ジャがかれらに同行した。そして、出発にさいしては、きわめて曖昧模糊としたうわさをたよりに進んでいかねばならなかった。しかし、南へいくにつれて、そしてその途上でとらえた他種族の男たちの話をきくうちに、うわさの全貌がしだいにはっきりしてきたのだった。
やがてついに、フォン・ホルストの尖兵が最前線からとってかえしてきた。わずかばかりのところに位置する河岸にキャンプしている一隊の男たちを目撃したと報告した。
フォン・ホルストにひきいられ、ロ‐ハールの穴居人たちは、他国者たちのキャンプへしのびよった。ここでかれは、ライフルと弾帯を武装した男たちを目撃した。キャンプの配置や統制のしかた、歩哨のおきかた、その軍隊式のふんいきからフォン・ホルストは、かれらが文明と接触をもってきた連中であると確信した。しかし、たとえそのなかに顔見知りの人間がいるとしても、それを見わけるにはまだまだ遠すぎた。ただ、かれに断言できたことは、かれらがO‐二二〇号の乗組員ではないということだった。
かれは、ちょっとの間戦士たちに低声でなにごとかつたえ、それからひとり立ちあがってゆっくりとキャンプのほうへ歩いていった。しかし、見晴らしのきくところへ出て二、三歩いくかいかないうちに歩哨がかれを発見し、警告を発した。フォン・ホルストは、キャンプの四周で男たちが立ちあがり、かれのほうを見やっているのに気づいた。かれは、別にあばれるつもりはないということを示す合図として両手を頭上にさしあげた。そして、なだらかな地面をつっきってキャンプのすぐそばまでいくあいだにも、だれひとり口をきくものはいなかった。そのとき、ひとりの男が歓喜のさけびをあげてとびだしてきた。
「フォン!」
かれの名前を口にしたのがだれなのか、フォン・ホルストがみとめるのに一瞬もかからなかった。それはダンガーだった。ダンガーのうしろには、ソレクがいる。ロタイがいる。そしてムマルもいた。フォン・ホルストは、びっくり仰天した。この連中がいっしょにやってきたのはどういうわけなのか? あの武装した男たちは、いったい何者なのか?
ほどなくひとりの、長身の端正な容貌《かおだち》の男が進みでた。「きみがフォン・ホルスト中尉なのですか?」とかれはきいた。
「そうです。で、あなたは?」
「デヴィッド・イネスです。O‐二二〇号が地上世界へいよいよ帰還することになり、ジェイスン・グリドリーもそれに乗って帰る決心をしたとき、かれは、わたしにひとつの約束をさせたんですよ。つまり、わたしが遠征隊を組織して、きみの徹底的な捜索をするということでした。わたしは、サリへもどるとただちにその実行にとりかかりました。そのうちに運よく、部下のものが長いあいだ出はらっていて久しぶりにサリへ帰ってくる途中のダンガーに会ったんです。かれがわれわれを〈死の森〉へ案内してくれました。ところが、そこを通りぬけたあと、われわれは、どの方面を捜索してよいものやらまったく見当もつかなくなったんです。そんなときに、マンモス族の土地からのがれてきたソレク、ロタイ、ムマルに会ったんです。
かれらは、きみがのがれたものと信じ、たぶんロ‐ハールをさがし求めて進んでいるのではないかと思うと、話してくれました。ロ‐ハールのことはきいたこともありませんでしたが、われわれは首尾よく、その土地のある方角に通じている男をとらえました。その後、きみが矢で傷を負わせたスクルフと名乗る男にでくわしたのです。われわれは、かれを保護してやると約束し、かれに牛人一族の部落に案内してもらいました。もう、かなりロ‐ハールには近づいていたものの、まだまださがしあてるのは困難でした。こうした連中は、ロ‐ハールのある方角をだいたいのところしか知らなかったのです。われわれの唯一の希望は、ロ‐ハール人をとらえることでした。そして、最近の睡眠をとる前にそれができたのです。かれはいま、われわれといっしょであり、かれの土地へと案内してくれているのですが、そうすることは、大いにかれの意志に反しているようです。というのも、かれは、われわれがかれとかれの一族に敵対するものと考えているからです」
「かれはだれなんです」と、フォン・ホルストはきいた。
「ブルンといって、ロ‐ハール族の族長なんです」とイネス。
フォン・ホルストは、一族のものたちにキャンプへやってくるようにと合図を送った。それから、イネスにブルンを連れてきてはくれまいかとたのんだ。イネスは、一族のものが会いにきているからという伝言をもたせてブルンを呼びにやった。しかし、ブルンがやってきてフォン・ホルストを見たとき、かれは、きわめて誇らしげに胸をはり、背をむけた。
「この男は知らない」といった。「ロ‐ハールのものではないな」
「ほら、いまやってくる連中を見るんだ、ブルン」フォン・ホルストがうながした。「みんな顔見知りのはずだよ、とくにラ・ジャはね」
「ラ・ジャだって!」族長はさけんだ。「死んでしまったものとあきらめていたんだ。わしは、娘をさがし求めてペルシダーを歩きまわってたんだ」
ロ‐ハールの男たちは、サリ人たちと友好的にキャンプをともにした。食べ放題食べ、四方山《よもやま》話に花が咲いた。かれらは、同じキャンプで二回睡眠をとり、キャンプをひきはらうことに決めた。
「きみは、われわれといっしょにサリへきますか、中尉?」と、イネスがきいた。「いつなんどき、グリドリーが次の探検をやるために舞いもどってくるかもしれませんよ。きみが地上世界へ帰る唯一のチャンスだといえるでしょうね。かれをまつのが」
フォン・ホルストは、肉のついた骨をかじっている小柄な、黄色い髪をした石器時代の女をちらと見やった。
「どうもわたしにはあまり自信がないのですよ、地上世界へ帰りたいと思っているのかどうかね」と、かれはいった。(完)