恐怖のペルシダー
E・R・バローズ/関口幸男訳
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登場人物
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デヴィッド・イネス……地底帝国ペルシダーの皇帝
美女ダイアン……デヴィッドの妻
グルック……オーグの族長
グルラ……オーグの男
ルムプ……オーグの女戦士
グング……オーグの女戦士
ズォル……ゾラムの戦士
ミーザ……ジュガルの王
モコ……ミーザの息子
グーフォ……ミーザの宮殿の役人
ブルマ……ミーザの神宮
ノアク……ミーザの宮殿の家令
ロー……ノアクの腹心の部下
クリート……スヴィの女
ドゥ・ガッド……スヴィ王の甥
ヴ・ヴァル……ルヴァの戦士
ウル・ヴァン……ルヴァの戦士
ロ・タイ……ルヴァの族長
オ・ラ……ルヴァの女
ル・ブラ……スヴィの女コーヴァの奴隷
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ジェイスン・グリドリーが最近無線で連絡をとってきて、地上世界ではいま西暦一九三九年だとおしえてくれたときには、かれのいっていることがほとんど信じられなかった。それというのも、アブナー・ペリーとわたしがあの巨大な鉄のモグラに乗りこんで地殻を突き破ってこの地底世界へと送りこまれて以来、時はまったく移っていないかのように思えるからだ。ところで、この鉄のモグラというのは、地上世界の地下に埋蔵されている鉱物資源を探索する目的でペリーが発明したものである。わたしは、われわれがこの地底世界ペルシダーに三十六年間もいるのだという事実を、ガツンと一発くらわされたような思いで認識したのだった。
おわかりいただけると思うが、星も月も存在しない世界、太陽がたえず静止したまま天頂にかかっている世界には、時をはかるすべがないのである。したがって、時というようなものは存在しないことになる。わたしは、これがまぎれもない真実であると信じるようになっている。なぜなら、ペリーの身体にもわたしのそれにも、肉体的に時の経過を示す徴候がまったくみとめられないからだ。鉄のモグラがペルシダーの地殻を突き破って飛び出したとき、わたしは二十歳だった。そのときにくらべて現在、外見上ひどく年をとったようには見えないし、そんな感じもしない。
ペルーが百一歳なのだということをわたしが思い出させてやったとき、かれは、いま少しで発作を起こすところだった。まったくばかばかしいことであり、ジェイスン・グリドリーがわたしをかついでいるのにちがいないと、ペリーはいった。それから、顔を輝かせて、わたしが五十六歳なのだという事実にわたしの注意をうながした。五十六歳! なるほど、わたしがコネチカットにいるのであれば、あるいはそうだったにちがいない。しかし、この地底世界にいるわたしは、依然として二十代なのである。
この地底世界でわれわれに起こったことのすべてをふりかえってみると、たしかに一見われわれにそう思われるよりもはるかに長い時が経過しているのだということがはっきりわかる。われわれは、きわめて多くのものを見てきたし、すこぶる多くのことをやってきた。そして生活してきたのだ! 地上世界でなら、一生のうちにこれだけの多事多難の半分すら体験することはできなかっただろう。ペリーとわたし――二十世紀のふたりの人間――は、石器時代に生活してきたのであり、この旧石器時代のひとびとに二十世紀の恵みのいくばくかをもたらしてきたのである。かれらは、われわれが到来するまでは石斧と穂先のついた槍《やり》で殺しあいをやってきた。そして、わずか二、三の種族のみが弓矢を持っていたのにすぎなかった。しかしわれわれは、火薬やライフル、大砲の作りかたを教えた。かれらは、そろそろ文明の利器というものに気づきはじめている。
わたしはしかし、ペリーがはじめてこころみた火薬の実験について忘れることはないだろう。はじめて火薬を完成したとき、そのいばりようときたらたいへんなもので、かれを制止するのに苦労したほどだった。「これを見ろよ!」点検してみるようにとその小量をわたしに示しながら、かれはさけんだ。「さわってみろよ。匂いをかいでごらん。味をみてごらん。今日は、わが生涯で最高に誇るべき日だね、デヴィッド。これが文明への第一歩だ。しかも、長い一歩だよ」
たしかにそれは、外見的に火薬のあらゆる属性をそなえているかに見えた。ところが、その内面においてはなにかを欠いていたのにちがいない。燃えようとしなかったからだ。燃えないという点を別にすれば、かなりよい火薬だった。ペリーは意気消沈した。しかし、実験をつづけ、しばらく後にだれでも殺せるようなしろものを作りだしたのだった。
それから、戦闘用船隊が創設された。ペリーとわたしは、名もなき海岸で最初の船を建造したのだった。それは、巨大な棺桶《かんおけ》におどろくほどよく似た、新しい構想をとりいれた平底船だった。ペリーは科学者である。かつて船を建造したことはないし、船の設計についてはなにも知ってはいなかった。しかしかれは、科学者であるがゆえに、すこぶる有能な人物であったから、科学的な基礎にもとづいてこの問題にとりくむのがかれにはふさわしいのだと主張した。われわれは、その船を|コロ《ヽヽ》の上で建造した。完成すると、それを水際へとすべりおろしていったのだった。そして、五、六十メートルばかり先へ威風も堂々と船出したのだが、そこでものの見事にひっくりかえってしまったのだった。いまひとたび、ペリーは意気消沈したが、執拗《しつよう》に船の建造にうちこんだ。そして、ついにわれわれは、一隊の帆船を完成した。これは、この広大な、神秘につつまれた地底世界の一隅の海を支配し、文明をひろめ、ペルシダー人が度肝をぬかれるほどのすばやい死をもたらすことをわれわれに可能にしてくれたのだった。わたしがこれからお話ししようとしている、サリを離れてこの遠征に乗りだしたとき、ペリーは、毒ガスを完成させようと努力していた。かれは、この毒ガスが旧石器時代に文明をもたらす点でなによりも効果的ですらあると主張した。
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ペルシダー生まれの人間は、奇蹟ともいうべき帰巣本能を先天的にそなえている。信じていただきたいのだが、かれらにはそれが必要なのである。というのも、もしこの帰巣本能をもっていないと、この地底世界ではいずこであれ、自分のよく知っている土地の目印《ランドマーク》の見えないところまで連れてこられた場合、もはやどっちへ進んでよいのかわからなくなってしまうからだ。太陽がつねに静止したまま天頂にかかっているような世界、道ゆく人を導いてくれる月も星もないような世界、――したがって、こうしたものが存在しないがゆえに、東西南北のない世界を、あなたがご自分の目でごらんになったとき、さもありなんとおわかりいただけるものと思う。わたしがこれからお話ししようとしている数々の冒険へとわたしをいざなってくれたのが、仲間たちのこの帰巣《きそう》本能なのだった。
われわれがフォン・ホルスト捜索のためにサリを去ったとき、ちょっとした手がかりをたよりにここかしこ、ある土地から別の土地へと導かれ、ついにロ‐ハールに到達して目ざす人物をさがしあてたのだった。しかし、サリへ帰還するのに、きたときのようなまわり道をする必要はなかった。そのかわりに、できりかぎり直線コースをたどって進んだのだった。ただ、どうしても克服できそうもない自然の障害だけは迂回《うかい》しなければならなかった。
往復にたどった土地は、われわれ全員にとってまったく新しい世界だった。いつものように、おそらくはかつて人の目にさらされることの一度としてなかったであろうこれらの、いわば処女地ともいうべき土地の風景をはじめて目のあたりにして、すこぶる感動したのだった。これは、栄光の頂点をきわめる冒険だった。わたしは全身、開拓精神、探検家精神にふるいたたされたのだった。
しかし、ペリーとわたしがただふたりきりであてどもなくさまよい歩いた、この、巨大な野獣や身の毛もよだつ爬虫類、野蛮人のばっこする世界、ペルシダーでのはじめてのいくつかの経験が、まったくうそのように思えるのだ。いまやわたしは、ルラル・アズの海辺、サリの国にペリーが建てた兵器工場でかれの指揮のもとに製造されたライフルを武装するわたし自身の部下、一団のサリ人にしたがわれているのである。有史前の地上世界にかつて徘徊していた巨大なライス、つまり小山のような穴熊ですら、われわれにとっては恐れるにたらぬ存在なのだ。恐竜のもっともでかいやつでも、われわれの銃弾の敵ではなくなっている。
われわれは、ロ‐ハールを離れてから何行程もの長い行進をつづけた。これはおおよその見当で時を測定することができるといっていえなくもない唯一の方法なのだが、何回となく睡眠をとった。その間、ただひとりの人間にも出くわさなかった。われわれの横断していく土地は、野獣のみの棲息《せいそく》する楽園なのだった。カモシカ、赤シカ、巨大なボスの大群が肥沃な平原を移動していたり、あるいは公園然とした森の涼しい木陰にはいつくばったりしていた。小山のようなマンモス、負けずおとらず巨大なマホ、つまりマストドンを見かけた。そして理の当然のこととして、これだけの肉のあるところには肉食獣がいた――タラグ、つまり大きな剣歯虎、巨大な洞穴ライオン、さまざまなタイプの肉食の恐竜。狩手にとって理想の楽園だったが、狩手といってもそこにはけものを狩る他のけものしかいないのだった。この、生きた牧歌的風景に水をさすような人間のひとりとてまだ訪れてはいないのだ。
これらのけものたちは、われわれにまったく恐れを示さなかった。しかし、すこぶる好奇心が強く、ときどきわれわれは、ひじょうに多数のけものにとりかこまれ、われわれの安全がおびやかされそうなほどだった。むろんこれらは、すべて草食獣だった。肉食獣は、満腹しているとわれわれを回避した。しかしかれらはどんな場合でも危険な存在だった。
われわれは、この大平原を横断すると、そのむこう、はるかかなたに山脈《やまなみ》の望見される、とある森へ分けいった。その森の中でわれわれは二度睡眠をとり、こんどは谷へはいった。谷には、森へはいる前に目撃した山脈のふもとからその源が発している広い川が流れくだっていた。
その大川は、われわれのかたわらをどこかの見知らぬ海へとゆるやかに水を運んでいる。そこを渡る必要があったから、わたしは、部下たちに筏《いかだ》を作る作業につかせた。
ペルシダーの河川は、ことに流れの緩慢《かんまん》な大河は、渡るのにすこぶる危険である。たいていの場合、地上世界でははるかの大昔に絶滅した、身の毛もよだつばかりの肉食爬虫類が棲息しているからだ。これら肉食爬虫類の多くは、われわれの筏《いかだ》を転覆させるなど朝めし前ぐらいに大型なのである。だから、雑な造りの筏を対岸へとさおさしながら、われわれは、たえず水面から警戒の目をはなさなかった。
われわれの注意がこのようにして水面に集中されていたから、山麓からわれわれのほうへと流れくだって接近してくる、戦士の乗りこんだ数隻のカヌーに、われわれは気がつかなかった。やがて部下のひとりがかれらを発見し、警告を発したのは、すでにかれらがわずか五、六十メートルあたりにまで迫ってきてからのことだった。
わたしは、かれらを殺したくはなかったから、かれらが友好的であってくれればよいがと願った。かれらの武装ときたら原始的、お粗末そのものだったし、われわれのライフルを前にしてはいかんともしがたかっただろうからだ。そこでわたしは、和平の合図を送った。かれらのほうからも同じ合図で応じられるのを期待していたのだったが、かれらは、返答してこなかった。
かれらは、ぐんぐん迫ってきた。ついには、かれらがはっきりと見わけられるようになった。頑丈な、たくましい身体つきの戦士たちで、純潔の白人種のほとんどがあごひげをはやしていないペルシダーでは、むしろめずらしいといってもよいのだが、もじゃもじゃのあごひげをたくわえていた。
三十メートルあたりまで接近してくると、かれらのカヌーは、全隻が舳先をならべた。そして、その舳先にずらりと戦士が立ち並び、われわれにむかって火ぶたを切ってきたのだった。
習慣の力というのはおそろしいもので、わたしは、〈火ぶたを切ってきた〉といった。しかしかれらがやったのは、ごつい|ぱちんこ《ヽヽヽヽ》から投げ矢に似た飛び道具を射かけてきただけのことだった。部下の何人かがそれで倒れた。わたしは、すぐさま射撃せよの命令を発した。
ライフルの銃声とその効果にひげ面の戦士たちがどれほど度肝をぬかれたか、かれらの様子ではっきりと知ることができた。しかしわたしは、かれらのためにあえていいたいのだが、かれらはとてつもなく豪胆な連中だった。それというのも、その銃声と硝煙が恐るべきものであったのにちがいないのに、かれらは、ためらうことなくいままでより速いとさえいえる舟足でじりじりと接近してきたからだ。それからかれらは、わたしがこの地底世界にきて以来、あるいはそれより以前にも、まったく見たこともないようなことをやったのだった。松明《たいまつ》に火をつけ――それは樹脂を含んだ葦《あし》だと、後になって知ったのだが――そいつをわれわれの中へ投げこんできたのだ。
これらの松明は、きなくさい黒煙をもくもく発し、われわれは、目が見えなくなり、むせかえった。その黒煙がわたしにおよぼした効果からみて、きっとわたしの部下たちも同じようになったのにちがいないと思う。とにかくわたしは、自分のことしかはっきりわからないのだ。目をやられ、むせかえり、どうすることもできなかったのだから。わたしは、敵を見ることができなかった。だから、自分を守るために相手に弾丸を射ちこむことができなかったのだ。いっそのこと川の中へ飛びこんで、黒煙を逃れたかった。だが、もしわたしがそんなことをやったら、たちまちのうちに水面下で待ち伏せしている獰猛《どうもう》なけものどもにむさぼり食われてしまうのがおちなのだ。
わたしは、意識がうすれていくのを感じた。と、そのとき手がわたしをつかんだ。どこかへ引きずられていこうとしているのだとわかったが、ちょうどそのときわたしの意識はなくなった。
意識が回復したとき、わたしは、手足をしばりあげられてカヌーの底にころがっているのに気がついた。周囲には、わたしをとらえた戦士たちの毛むくじゃらの脚、脚、脚が並んでいた。わたしの頭上、両側のかなり近いところに岩の崖がのびあがっているのを見ることができた。せまい峡谷をぬけて進んでいるのだとわかった。わたしは起きなおろうとした。しかし、戦士のひとりがサンダルばきの足でわたしの顔を蹴《け》って、また押し倒してしまった。
かれらは、しゃがれた大声で戦闘について議論していた。カヌーの舳先と艫《とも》でたがいにどなりあっている。最初のひとりが、ついでふたりめが、自分のいっていることを相手にきかせようとし、ものすごい騒音とともに火と煙を発して遠くから味方を殺した不思議な武器について自説を表明しようとしているのだった。わたしの知るかぎり、ペルシダーの全人類に共通のことば――というのは、別のことばがあるにしても、わたしはきいたことがないから――でしゃべっていたから、かれらのいっていることを容易に理解することができた。たとえばどれほどへだてられていようと、ペルシダーのすべての人種、種族は、この唯一のことばを話しているのだ。そのわけはわたしにはわからない。これは、ペリーにもわたし自身にもつねに変わらぬひとつの謎なのだ。
ペリーはこれが、まったく同じ問題、情況にそなえた同じ環境に暮らしている人間が自分の考えを表現するために自然に開発されるべくして開発された基本的、原始的な言語なのかもしれないという意見を述べていた。たぶん、かれのいうとおりなのだろう――わたしにはわからないが、とにかく、他のどんな説明よりも無理のない説明だといえるのではあるまいか。
かれらは、われわれの武器について議論しつづけたが、なかなか結論が出ない。ついに、わたしの顔を蹴った戦士がいった。「捕虜が正気をとりもどした。棒切れをどういう風に作れば、煙と炎を発し、遠くにいる戦士を殺すことができるのか、かれが話してくれる」
「そう、われわれは、かれにその秘密をしゃべらせることができる」と、いまひとりがいった。
「そうすれば、われわれは、ゲフとジュロクの戦士を皆殺しにして、男たちを全員われわれのものにすることができる」
わたしは、このことばにちょっととまどった。それというのも、もしかれらが戦士を皆殺しにしたら、男はひとりも残らないように、わたしには思えたからだ。それからわたしは、ほおひげをはやし、毛むくじゃらのわたしの捕獲者たちをもっとつぶさに見たのだが、やぶから棒に、きわめて珍妙、驚くべき真実がわかったのだ。この戦士たちは男ではなく、女なのだった。
「もっと男がほしいというのはだれなんだろう?」別のひとりがいった。「わたしはいらない。いまかかえている男たちだけでも、たっぷりやっかいな目にあわされているんだから――おしゃべりはするし、口うるさくこごとはいうし、そのくせまともな仕事はちっともしやしない。狩りをしたり戦ったりのきびしい一日を過ごして家に帰ったら、こんどはかれらをぶってすっかり疲れてしまうんだよ」
「それは、おまえがわるいんだよ、ルムプ」さらに別のひとりがいった。「おまえは、男たちにあますぎるんだ。もっとかけずりまわらせてやらなきゃいけない」
ルムプというのは、わたしの顔を蹴りつけた、かのご婦人だった。心根のやさしい女だったのかもしれないが、このちょっとしたおつきあいから、わたしは、そのような印象を受けなかった。彼女は、プロのフットボール選手そこのけの脚をしていたし、砲手のような耳を持っていた。彼女がやさしい心根の持ち主であることを示すために、およそなにかでだれかをあまやかすなど、わたしには想像することもできなかった。
「うん」彼女が答えた。「ただわたしにいえることはね、フーゲ、もしわたしが、おまえの男たちがそうであるように、腰抜けのさもしい連中をかかえているのだとしたら、いまほどやっかいな目にあわずにすんでいたかもしれないということだよ。でもね、わたしは、わたしの男たちが持っているささやかな気魄《きはく》が好きなんだ」
「わたしの男たちのことをとやかくいうのはよしとくれ」と、フーゲはさけんで、ルムプの頭をねらって櫂《かい》をふりおろした。
ルムプは、ひょいと身を傾けてその一撃をかわし、また起きなおって自分のぱちんこに手をのばした。そのとき、カヌーの艫のほうからとほうもない大声があがった。「腰を落ち着けて、だまってるんだよ」
声のしたほうをふりむいてみると、両ほおにもじゃもじゃの黒ひげをはやし、目がまんなかに寄りすぎたまったくどでかいけもののような女がいた。彼女をひと目おがんだだけで、いまの騒ぎがぴたっとやみ、ルムプとフーゲが腰掛梁《こしかけはり》にすわりなおしたわけがはっきりとわかった。彼女は、族長のグルックなのだった。彼女がそのあっぱれな腕前によって現在の地位をかちえたのかもしれないことは、容易に想像できるところだった。
グルックは、その血走った目をひたとわたしにすえた。「なんという名前?」ほえたてるようにきいた。
「デヴィッド」とわたし。
「どこからきた?」
「サリの国から」
「棒切れにどうやって煙と大きな音を出させて、人を殺させるのだい?」彼女がきいた。
それまでの彼女たちの会話でわたしがきいたことから判断して、とどのつまりこの質問が発せられてくるであろうことはわかっていた。だから、それに対する返事はあらかじめできていた。彼女らに、ライフルや火薬のまともな説明をこころみたところで理解できっこないのは先刻承知していたからだ。「それは、サリの男たちしか知らない魔法によっておこなわれているのだよ」とわたし。
「かれにおまえの櫂《かい》をお渡し、ルムプ」グルックが命じた。
私は櫂を受けとったとき、てっきりカヌーをこぐ手伝いをわたしにさせようとしているのだとばかり思っていた。ところが、彼女の腹づもりはぜんぜんそんなところにはなかった。
「さあ」と、彼女はいった。「おまえの魔法を使って、その棒から煙と大きな音をださせてごらん。でも、だれも殺さないように気をつけるんだよ」
「これは、工合のわるい種類の棒なんだ」わたしはいった。「こいつではなにひとつできないね」櫂をルムプにかえした。
「それじゃ、どんな種類のならいいんだい?」
「サリの国にしかはえていないひじょうに強い葦なんだ」
「おまえはうそをついていると思うね。どうするのが自分の身のためによいかわかったら、オーグに着いてからそういう棒を見つけたほうがいいよ」
櫂をこいでそのせまい峡谷をさかのぼるうちにも、彼女らは、わたしに話しかけてきた。そのもののいいかたはきわめて無遠慮だったといっていいだろう。意見はおおむね、わたしがあまりにも女らしすぎて、男がどうあるべきかについて彼女らが抱いているその理想の線にわたしが到底達しえないということに落ち着いているらしかった。
「かれの脚や腕を見てごらんよ」フーゲがいった。「あの肉のつきかたは女そのものだね」
「セックス・アピールはまったくないよ」ルムプが意見を述べた。
「うん、かれを他の奴隷たちといっしょに働かせることはできるさ」と、グルックがいった。
「もし部落が襲撃されたら、そのときの戦いで少しは役にたつかもしれないしね」
フーゲがうなずいた。「ま、それぐらいの役にたつのが関の山というところだね」
ほどなく、その峡谷をぬけて広大な谷へはいった。広々とした平原や森がそこかしこにみとめられた。右手の川岸に接して部落があった。これがわれわれの目的地、オーグの部落、族長がグルックの部落なのだった。
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オーグは、原始的な部落だった。小屋の壁は、地面にまっすぐつったてた竹に似た葦に長い丈夫な草が編みあわせて作られていた。屋根は、大きな葉を何枚もかさねてふいてあった。部落の中央にあるのがグルックの小屋で、それをほぼ円形にとりまく他の小屋より大きかった。矢来《やらい》はなく、防備の態勢はまったくとられていないのだった。部落が原始的なら、この一族もまったく原始的で、その文化たるやすこぶる低いものだった。なんの装飾もほどこされていないわずかな土器、きわめて雑にあまれたわずかな籠《かご》。この一族最高の技術はカヌーの製作にふりむけられていたが、このカヌーですらがきわめてお粗末な出来のしろものだった。ぱちんこは、もっとも単純なたぐいの武器だった。石製の斧とナイフがわずかにあったが、これらは宝物と考えられていた。この一族のあいだで暮らしている間《かん》、なにかが作られているのを一度も見たことがないので、それらはつまり、この谷の外の国々出身の捕虜からうばったものだというのが、わたしの意見である。例の|いぶし松明《スモーク・スティック》は、あきらかにこの一族の発明になるものだった。よそでは一度も見たことがなかったからだ。しかしわたしは、彼女らが使っているそうしたものをよくもあれだけ使いこなせることができたと、いまだに不思議でならないのだ。
ペリーとわたしはよく、二十世紀の人間というのは自力でやらねばならない羽目におちいった場合、どんなにだらしないものか論じあったものだ。われわれには、スイッチをひねれば、明りがある。そのことについてはなにひとつ考慮をはらおうとしない。しかし、その明りをもたらす発電機をこしらえるのに何人の人間を必要とするだろう? われわれは、あたりまえのことのように汽車に乗る。しかし、蒸気機関を作るのに何人の人間が必要だろう? 紙、インク、あるいはわれわれが日常使っているありふれた、無数のささいな物を作るのに、どれほどのひとびとを必要とするだろうか? たとえあなたがなにかの原鉱石を発見してそれを見わけることができたとしても、それを精錬することができるだろうか? 旧石器時代の人びとが持っている道具――つまり、自分の手と石――以外に自由に使える道具がないと、あなたには石のナイフを作ることすらできないのではあるまいか?
もし、初の蒸気機関が奇蹟的創意の所産であると考えるとすれば、石のナイフを思いついてはじめてそれを作るためには、もっとはるかに多くの創意を必要としたにちがいない。
旧石器時代の人間をあまり見くだしてはいけない。なぜならかれらの文化は、それ以前にあったものとの程度を比較すれば、あなたの文化よりもずっとすぐれたものなのだから。たとえば、はじめて火というものに思いつき、それを人工的に成功|裡《り》におこした人間の、その発明の才のいかにすばらしいものであったにちがいないかを考えてみていただきたい。その忘れられた時代の名もなき人物は、エジソンよりも偉大なのである。
部落のある川岸にわれわれのカヌーが近づいたとき、わたしは、いましめを解かれた。そして接岸すると、荒っぽく岸へひっぱりあげられた。他のカヌーがわれわれのにつづき、川岸へ引きあげられた。多数の戦士が、われわれを迎えにおりてきていた。その背後に男、子供たちがかたまっている。どいつもこいつも、大声でどなっている女戦士をいささかこわがっているように見えた。
わたしは、かれらのちょっとした好奇心をそそったにすぎなかった。前にわたしを見ていなかった女たちが、どちらかといえば軽べつしたようにわたしをじろじろ眺めまわした。
「かれはだれのものだい?」ひとりがきいた。「まる一日の遠征にしては、たいした収穫じゃないね」
「かれはわたしのものだよ」グルックがいった。「わたしは、かれを見たから知っているけど、かれは戦うことができる。それに、女と同じように働くことができるはずだよ。かなりがっちりした大男だしね」
「かれはあんたのものだよ」相手がいった。「わたしの小屋には、かれのはいる余地がないだろうからね」
グルックが男たちのほうをふりむいた。「グルラ」とさけぶ。「こいつを連れておいで。名前はデヴィッドというんだよ。畑で働かせるんだね。食物をおやり。そして、よく働くように監視するんだよ」
いかにもひ弱そうな、毛のない小男が進みでた。「わかったよ、グルック」蚊のなくような声でいった。「かれが働くよう、監視する」
わたしは、グルラのあとについて部落のほうへいった。男と子供たちのあいだを通りぬけたとき、三人の男と三人の子供がわれわれについてきた。かなりばかにしたような目つきで、わたしをじろじろと眺めまわしていた。
「こいつらは、ルムラ、フーラ、ギーラという」と、グルラがいった。「みんなグルックの子供なんだ」
「あんたは、あんまり男みたいじゃないな」ルムラがいった。「もっとも、われわれが谷の外でとらえるどんな男も男みたいじゃないけどな。谷の外というのは不思議な世界にちがいないね、男が女みたいで、女が男みたいなんだから。しかし、女よりも図体が大きくて強くなれるというのは、まったくすばらしいことにちがいないだろうね」
「うん」と、ギーラがいった。「もしおれがグルックよりも大きくて強かったら、彼女を見かけるたびに棒でぶんなぐってやるんだが」
「おれだってそうするさ」グルラがいった。「あのでかいけものをぶっ殺してやりたいくらいのもんだ」
「きみたち、グルックをあまり好きじゃないようだね」
「女を好きな男にあったことがあるのかい、あんた?」と、フーラがきいた。「おれたちは、あんなけものどもは大きらいだね」
「それなら、なぜどうにかしようとしないのだ?」とわたし。
「おれたちになにができる?」とフーラ。「女どもに対してあわれな男たちになにができるというんだい? 口ごたえをしただけでも、おれたちはぶんなぐられるんだぜ」
かれらは、わたしをグルックの小屋へ連れていった。グルラが入口のすぐ内側の一点をゆびさした。「あそこに寝床をつくったらいい」といった。上等の位置は、どうやら入口からいちばん遠い奥のほうらしかった。この理由は、のちになって知ったのだが、男たちはみんな侵略者がはいりこんできて拉致《らち》されるのを恐れ、ドアの近くで眠るのをいやがっている、というのだった。オーグにおける自分たちの試練、苦しみがどんなものであるか、かれらは知っていた。しかし、この谷にある他のふたつの部落、ゲフあるいはジュロクに連れていかれたらこれ以上みじめな思いをせずにすむかもしれないということはわからなかったのだ。オーグをふくめた、この三つの部落は、三者三つ巴《どもえ》で常に争っており、男と奴隷を求めて侵略しあっているのだった。
小屋の中にある寝床は、ただ草を積んだものにすぎなかった。グルラはわたしといっしょにきて、寝床を作るための草を集めるのを手伝ってくれた。それからかれは、わたしを部落のつい表へつれだし、グルックの畑を示した。ひとりの男がそこで働いていた。廉直《れんちょく》な感じのする人物で、あきらかに谷の外からとらえられてきた捕虜だった。かれは、先のとがった棒で畑をすいていた。グルラが同じお粗末な道具をわたしに手渡し、その奴隷のわきで仕事をするようにといった。そしてかれは、部落へとってかえしていった。
かれがいってしまうと、わたしの相棒がこっちをむいた。「わたしの名前はズォル」といった。
「わたしはデヴィッド。サリからやってきたんだ」
「サリか。きいたことがあるな。ルラル・アズの近くにあるんだろう。わたしは、ゾラムからやってきた」
「ゾラムのことは何回もきいたことがある」わたしはいった。「〈シプダールの山々〉の中にあるんだったね」
「だれからゾラムのことをきいた?」
「〈ゾラムの赤い花〉のジャナからだ」わたしは答えた。「それに、彼女の兄のソアからもきいたな」
「ソアは、わたしの親友だよ」ズォルがいった。「ジャナは、彼女の男と別の世界へいってしまった」
「ここへきてから何回も眠ったのかい?」
「そりゃ何回もね」とかれ。
「脱出する方法はないのかい?」
「彼女らの警戒はひじょうにきびしいのだ。部落の周囲はつねに歩哨がおかれている。いつ襲撃があるかわからないからだが、その歩哨たちがついでにわれわれも警戒しているというわけなんだよ」
「歩哨がいようといまいと」わたしはいった。「これからの余生をここで送るつもりはない。いずれは、脱出できるかもしれない機会がやってくるにちがいない」
相手は、肩をすくめた。「まあね」といって、「だが、どうかな。そうはいっても、万一そういう機会があったら、わたしは、きみといっしょにいくよ」
「いいだろう。ふたりで、その機会のおとずれを、よく注意してまっていよう。われわれは、なるたけ行動を共にしたほうがいい。眠るのを同時にしよう。そうすれば同じときにおきていられるからね。きみは、どの女のものなんだ?」
「ルムプだ。あいつは、雌ジャロクだよ、そんなのがいるとすればだがね。で、きみは?」
「わたしは、グルックのものだ」
「彼女は、もっとひどい。彼女があの小屋の中にいるときは、できるだけ出ているようにしたほうがいいな。彼女が狩りか、他部落の襲撃に出はらっているあいだに、眠るようにするんだね。奴隷は少しでも眠る必要はないものと、彼女は思っているらしい。きみが眠っているところをみつかったら、彼女は、きみを蹴ったりぶんなぐったり、半殺しのめにあわせるだろうよ」
「なかなかおやさしい人のようだな」わたしは寸評した。
「彼女たちはみんな、大なり小なりよく似ている」ズォルが答えた。「女なら当然持っている感情を、彼女らは、まったく持ち合わせていない。持っているものといえば、男の中でも最低の、もっとも残忍なタイプの性格なんだよ」
「彼女らの男たちはどうなんだね?」
「ああ、まことにもってつつしみ深い連中さ。生命あっての物種《ものだね》だからな。きみも、ここにそう長くいないうちに、かれらがそうであるのはもっともだとさとるだろう」
われわれは、働きながら話していたのだった。というのも、歩哨たちの目がほとんど常時われわれにむけられていたからだ。これらの歩哨は、部落が奇襲攻撃を受けるすきがないよう、それと同時に、畑で働いている奴隷が全員常時監視下におかれているように、周囲にくまなく配置されていた。これら女戦士の歩哨は、なさけ容赦ない現場監督であり、畑をすいたり除草したりの骨のおれる退屈な仕事からかたときでも手を休めることをゆるさなかった。もし奴隷が主人の小屋へいって眠りたかったら、まず歩哨のひとりから許可を得なければならない。たいていの場合は拒否されるのだった。
わたしは、族長グルックの畑でどれほどのあいだ働いたのか、見当もつかない。充分な睡眠をとる許可は得られなかった。だからわたしは、つねに疲労のため半死の状態にあった。食物は、お粗末そのもので、われわれ奴隷には雀の涙ほどしかあてがわれなかった。
一度、餓死寸前になったわたしは、畑をすいているあいだに掘り起こした球根をつかみあげ、いちばん近くにいた歩哨に背をむけてそいつをかじりはじめた。かくそうと努力はしたのだが、その歩哨は、わたしを見てどたどた近寄ってきたのだった。彼女は、わたしからその球根をひったくり、あんぐりあけた自分の口の中へつっこんだ。そして、もしもろに受けていたならわたしを昏倒させていたであろうような一撃をくわえてきた。しかし、それはあたらなかった。わたしは、ひょいと身をこごめてかわしたのだ。おかげて彼女は、カッとなって、ふたたび打ちかかってきた。またしても、ものの見事にはずしてやった。こんどは彼女は、怒り心頭に発し、アパッチ・インディアンさながらに大声をあげ、ペルシダー語でまにあうありとあらゆる罵詈《ばり》雑言をあびせた。
彼女のさわぎようはたいへんなものだったから、他の歩哨、部落内の女たちの注意をひかずにはいなかった。やにわに彼女は、骨で作ったナイフをぬきはなち、目に殺意をみなぎらせてつっかかってきた。このときまでわたしは、彼女の打撃を避けるにとどめていたのだった。ズォルから、この女たちのひとりを襲うと、まず死をまぬがれることはないだろうときかされていたからだ。しかし、いまや事情は変わった。彼女はあきらかに、わたしの息の根を止めるつもりだった。だからわたしは、なんとか手をうたなければならなかったのだ。
彼女のようなのがたいていそうであるように、彼女は、ぶきっちょで、筋肉が肥大して弾性をうしない、反応が緩慢《かんまん》だった。とろうとする行動がちくいち、前もってわたしには読めるのだった。だから、彼女がわたしに打ちかかってきても、それをかわすのはぞうさもないことだった。しかし、今度ばかりはかわしているだけですますつもりはなかった。そのかわりに、渾身の力をこめた右を彼女の顎《あご》の先端にたたきこんだのだ。彼女は、昏倒し、ぴくりとも動かなくなった。
「逃げたほうがいい」ズォルが低声でいった。「むろん、逃げだせっこはないがね。しかし、すくなくともやってみることはできる。それに、ここにじっとしていたら、殺されることはまちがいない」
わたしは、逃げるチャンスがあるかどうかを判断するために、ちらっとすばやくあたりを見まわした。チャンスは皆無だった。部落からかけだしてきた女たちは、ほとんど目の前にまでせまりつつあった。ぱちんこの射程外に逃げだせるはるか前方で、彼女らは、わたしを射倒《いたお》してしまうことができただろう。だからわたしは、女たちがどたどた迫ってくるのを、じっとその場に立ちつくしてまちうけた。その先頭にグルックがいるのを見てとったわたしは、前途の見とおしがややわびしいことに気がついた。
わたしがなぐり倒した女は、意識を回復して、立ちあがった。まだ少々ふらついていた。グルックがわれわれの前で停止し、わけを話せとくってかかってきた。
「わたしは球根を食べていた」と、わたしは説明した。「そのとき、この女がやってきて、わたしからその球根をふんだくり、そしてわたしを不意になぐろうとしたんだ。なぐりかかってくるのをわたしが避けているうちに、彼女は、癇癪《かんしゃく》をおこしてわたしを殺そうとした」
グルックは、わたしが昏倒させた女のほうにむきなおった。「おまえは、わたしの男のひとりをぶとうとしたのかい?」
「かれは、畑から食物を盗んだんだ」女がさけんだ。
「かれが何をしたか、そんなことは関係がない」グルックがうなるようにいった。「何人《なんびと》といえどもわたしの男をぶつことはできない。そんな真似をしたら自分が痛い目にあうんだよ。わたしの男たちがぶたれたほうがよいと思えば、自分でそうするさ。これでおまえも、わたしの男たちはそっとしておくべきだとわかるだろう」そういって彼女は、腕をうしろに引いたかと思うと、相手をなぐり倒していた。それから、ついと歩み寄ると、ころがっている女の腹といわず、顔といわず蹴りはじめた。グングという名前のその女は、グルックの脚の片方をつかみ、彼女を転倒させようとした。つづいて、わたしがそれまでに目撃したもっとも凄惨《せいさん》な闘いが展開された。さながら三人姉妹の復讐の女神(ギリシャ神話)のうちの二人のように、たがいになぐり、蹴り、爪をたて、引っかきあった。その残虐非道ぶりに、わたしは胸がむかついた。もしこれらの女が、女を奴隷の身分から解放したり、あるいは女を男と同等の地位にまで高めようとしたりしたための所産であるとするなら、わたしの思うに、彼女たちやその世界は、彼女らが奴隷にもどれるのなら、そうしたほうがうまくいくのではあるまいか。だいたい、両性のうちどちらかが支配者的立場に立たなければならないのであり、そうなると、女よりも男のほうが気質的に適しているように思えるのだ。たしかに、もし男を完全におさえてしまった結果、女がこんな程度にまで堕落し、残忍になるものだとしたら、女たちがつねに男に対して従的な立場にとどまっているように、われわれは厳に注意していなければならない。男が支配者的立場に立つ場合、その心情はたいていやさしさや同情心でやわらげられるものである。
目まぐるしく上になったり下になったりのそのとっくみあいは、しばらくのあいだつづいた。グングは最初から、相手の生命をうばわなければ自分が殺《や》られるのだということを知っていた。だから彼女は、追いつめられたけものさながらに猛烈に戦った。
この恥じっさらしの、みっともない場面については、これ以上話したくない。ただグングが現実に、力の強い残虐なグルックに対してこれっぽちの勝ちめもなかったといっておけば充分だろう。やがて彼女は、死して横たわったのだった。
グルックは、相手が絶命したと確信すると、立ちあがってわたしのほうにむきなおった。「この原因はおまえだよ」といった。「グングは、立派な戦士、すぐれた狩人だった。それがいま、彼女は死んでしまった。男のために、こんなばかなことがあってはいけないんだ。彼女におまえを殺させてしかるべきだった。だから、このまちがいをたださなくてはいけない」彼女は、ズォルのほうをむいた。「棒を何本か持っておいで、奴隷」と命令した。
「なにをするつもりなんだね?」わたしはきいた。
「おまえをなぐり殺してやるのさ」
「あんたはばかだよ、グルック」わたしはいった。「すこしでもあたまがあるなら、わるいのはまるっきりあんただということがわかるはずだ。奴隷に充分な睡眠をとらせない。かれらをこき使いすぎる。そして、ろくに食物をあたえない。にもかかわらず、かれらが食物をぬすんだり、自分を守るために闘ったからといって、かれらをぶんなぐって殺してしまうべきだと、あんたは思っている。かれらにもっと睡眠をとらせ、食物をあたえるんだね。そうすれば、かれらはもっと身をいれて働いてくれるよ」
「おまえの考えていることなど、わたしがおまえを始末してしまったあとではたいしたちがいはもたらしはしないよ」グルックがうなるようにいった。
ほどなく、ズォルが棒切れをかかえて引きかえしてきた。その棒切れの中からグルックは、重そうなのを一本選んで、わたしのほうへ近寄ってきた。たしかに、わたしはサムソンのように大力無双の男ではないが、さりとて弱虫というのでもない。しじゅう自分のめんどうが見られないようでは、三十六年間も石器時代の危険やさまざまな変化を生きのびてこられるものではないといっても決してほらにはならないと、わたしは思うのだ。わたしがこれまで送ってきた、この地底世界での奮闘的な生活は、地上世界を去ったさい、すでにほぼできあがっていたわたしの身体をたくましくしてくれたし、それに旧石器時代の人物――むろん女を含めて――がきいたこともないようなテクニックを二、三もちこんできていた。だから、彼女がずかずか近寄ってきて、わたしにくわえようとした最初の一撃をかわし、と同時にその手首を両手でつかみ、くるりとむきを変えて完全にわたしの頭上をこえる、物の見事な一本背負いをくわせてやったのだった。彼女は、片方の肩からずでんどうと地面に落ちたが、むっくり起きあがるとほとんどすぐにつっかかってきた。怒り心頭に発して、口角泡《こうかくあわ》をとばさんばかりだった。
わたしが投げとばしたとき、彼女は、それでわたしをなぐり殺すつもりだった棒を落としていた。わたしは、こごんでその棒をひろいあげた。そして、彼女がわたしにつかみかかることができないうちに、わたしはその棒をサッと一閃、ものすごい一撃が彼女の脳天をまともに襲っていた。彼女は転倒した――ひっくりかえって気をうしなった。
他の女戦士たちは、しばし呆然たる面持ちで傍観していたが、やがてそのひとりが近寄ってきた。つづいて数人が迫ってくる。彼女たちが怒髪《どはつ》天をつくばかりであるのを知るのに、わたしにむかって浴びせているその石器時代の罵詈《ばり》雑言をきく必要はなかった。わたしは、こっちの勝ちめがきわめてうすいのに気がついた。事実、これだけの敵をむこうにまわして勝ちめは皆無だった。わたしは、そくざにきわめてすばやく思考をめぐらさねばならなかった。
「まってくれ」わたしは、かれらからあとずさりながら、「きみたちはいま、グルックが彼女の男たちを虐待する女をどうするか見たばかりじゃないか。どうするのがきみたちのためになるかわかれば、彼女の意識が回復するまでまて」
効果があった。これで彼女たちは躊躇《ちゅうちょ》したのだ。やがて、わたしにむけていた注意がグルックのほうへ移された。彼女は、ぴくりともせずに横たわっていたから、殺してはいないという自信はなかった。だがほどなく、彼女がもぞもぞしはじめた。しばらくすると、起きなおった。ちょっとの間《ま》ぼうっとしてあたりを見まわしていたが、やがて彼女の目がわたしに止まった。わたしを見て、何事が起こったか、彼女は、思いだした様子だった。ゆっくりと立ちあがり、わたしのほうにむきなおった。わたしは、まだ棒を持ったまま身がまえ、まちうけた。すべての視線がわれわれに吸い寄せられている。しかし、動くものはひとりもいなかったし、なにかいおうとするものもいなかった。やがて、ついにグルックが口をきった。
「おまえは、女になるべきだったよ」といい、くるりと踵《きびす》をかえすと、すたすた部落のほうへひきかえしはじめした。
「かれを殺すつもりはないのかい?」
「たったいま、りっぱな戦士をひとり殺《や》ったばかりさ。もっとりっぱな戦士を殺すつもりはないね」グルックがぴしりといった。「戦いが起こったら、かれは、女たちに加わって闘うだろうよ」
女たちがみんないってしまうと、ズォルとわたしは、畑の仕事を再開した。ほどなくグングの男たちがやってきて、彼女の死体を引きずって河のほうへくだっていった。かれらは、河の中へ死体をころがしこんだ。オーグでは埋葬はいともかんたん、葬式に虚飾はぬきなのだ。葬儀屋や花屋は、オーグでは餓死するだろう。すべてがすこぶる実際的だった。ヒステリーをおこすものもひとりもいない。彼女の子供の父親たちは、いともあっさり彼女の毛深い脚をつかんで引きずっていきながら、笑ったり、しゃべったり、みだらな冗談をとばしたりしているのだった。
「あれが、人間のおちこめるもっともふさぎこんだ、もっとも悲しい状態なのにちがいない」と、わたしはズォルにいった。「人は、とむらってくれるもののひとりもいないままに墓場へいくわけか」
「おっつけ、あんたが河へ運ばれていくことになるだろうよ」ズォルがいった。「しかし、きみにはとむらってくれるものがひとりいると約束するよ」
「おっつけ、わたしが河へ運ばれることになると考えているのは、またどういうわけでだね?」
「グルックがきみを殺《や》るんだよ」
「そうは思わんね。あんなひどい目にあって、かなりみっともないざまをさらしたんだから」
「かなりみっともないざまなんて、どうということはないよ」かれは、まぜっかえした。「もし彼女がきみを恐れていなかったら、気がついたとたんにきみを殺していただろう。彼女は、相手が弱いとみてとると強くなるんだ。そういう連中がみんなそうであるように、彼女は臆病者なんだよ。いつかきみの眠っているときに、彼女は、そっときみにしのびより、その脳天をかち割るだろうね」
「このうえなくけっこうな寝物語をやってくれるじゃないか、ズォル」わたしはいった。
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しばらくのあいだズォルとわたしがかわしあったもっとも主要な話題は、むろんわたしとグルックとの争いと、わたしがすでに死んだも同然――事実、生ける屍《しかばね》にすぎない、というズォルの予言に関してだった。しかし、わたしが二回睡眠をとり、そしてそのわたしになにごとも起こらなかったあとは、話題は自然に他のことに移っていった。ズォルは、どういうわけでかれがゾラムから遠くはなれることになり、オーグの女戦士にとらえられる羽目におちいったのか、わたしに話してくれた。
ズォルは、ゾラムのある娘にひどく首ったけだったようだ。その娘があるとき、部落からあまり遠くまで出かけていって、他の土地からやってきた一隊の略奪者につかまってしまったのだった。
ズォルはただちに、誘拐者たちの跡を追って出かけた。かれらの跡をたどってかれは、あちこちの見知らぬ土地を、かれらをさがして歩きまわった。その間《かん》、何百回となく眠ったとかれは推定した。
むろん、どのあたりまでやって来たのか、知るのは不可能だった。しかし、とてつもない距離を踏破したのにちがいない――多分、二、三千マイルか。しかし、娘を誘拐した連中に追いつけなかった。そのうちにかれは、大きな森の奥にあった、矢来にかこまれた部落に暮らす一族にとらえられてしまったのだった。
「そこにいるあいだに何回も眠ったよ」と、かれはいった。「わたしの生命はたえず危険にさらされていた。というのは、やっこさんたち、〈オガル〉という何者かを満足させるために、しょっちゅうわたしを殺すとおどかしていたからなんだ。ところが、まったくやぶから棒に、ぜんぜんはっきりした理由もなく、わたしは、捕虜のかわりに賓客《ひんきゃく》となってしまったのだよ。どういうわけなのか、わたしにはいっさい説明されなかった。部落の出入りは意のままにしてよいとのゆるしが出たんだ。したがって当然、おれは、その機会をちょうだいしてすぐ逃げだしてきたよ。もっとも、その森にはこれらジュカン族の部落がほかにいくつもあったから、そういう連中にとらえられるのが心配でその方角へいくことをためらった。そこで、大きくまわり道をするもりで谷をのぼってぬけだした。しかし、山をくだってその谷へはいりこんでから、つかまってしまったという次第さ」
「〈ジュカン族の谷〉はどこにあるんだね?」とわたし。
「あっちだ」と、かれはいって、谷の片側に接している雪をいただいた山脈《やまなみ》のほうをゆびさした。
「そっちは、サリへ到達するのに進んでいかねばならない方角だと思う」わたしはいった。
「思うだって?」かれがきいた。「はっきりしないのかい?」
わたしは、かぶりをふった。「わたしは、ペルシダー人特有の、例の、かならず自分を自分の故郷へ導いてくれる本能を持っていないのでね」
「それは奇妙だ」とかれ。「たとえどこにいようと、自分の故国へまっすぐいくことができないなんて、ちょっと想像できないな」
「うん、わたしはペルシダー人ではないのだよ、わかるだろう」わたしは説明した。「だから、わたしにはその本能がないのさ」
「ペルシダー人ではない?」と、かれはきいた。「でも、この世にペルシダー人でない人間はひとりもいないよ」
「ペルシダーのほかにも世界はあるんだ、ズォル。たとえきみがそれらについてきいたことがないとしてもね。わたしは、そうした他の世界のひとつからきたのさ。そこは、われわれの足の真下にあるんだ。たぶん二十回眠ったらいけるぐらいの距離かな」
かれは、かぶりをふった。「きみは、ひょっとしてジュカン族のものではあるまいね?」かれがきいた。「かれらも、まったく妙な考えをいくつも持っているんだ」
わたしは笑った。「いや、わたしはジュカン族のものではない」わたしは、かれにうけあった。それから、地上世界についてかれに説明をこころみた。しかし、むろんかれの理解をはるかにこえていることだった。
「わたしは、きみがサリからきたものとばかり思っていた」とかれ。
「いまはサリ人だよ。そこが、わたしの選んだ第二の故郷なんだから」
「ジュカン族の中にサリ出身の女がひとりいた」かれがいった。「わたしのいた部落でとらわれていたんじゃなく、ちょっとはなれたところにある別の部落にいたんだ。かれらが彼女のことを話しているのを小耳にはさんだのだがね。オガルを満足させるために彼女を殺すことになってるんだと、いっているのもきいた。かれらは、このオガルという人物を満足させるためにつねになにかをやっていた。ひどく恐れられている人物だったね。そのころわたしは、彼女が女王になるんだという話をきいたんだ。かれらはいつも、こんな工合に気が変わりやすんいだよ」
「その女の名前はなんというんだね?」とわたし。
「きかなかったな」と、かれはいった。「しかし、大変な美人だといううわさだった。いまごろはもう死んでるだろうがね。かわいそうに。しかし、むろんジュカン族のことだから、なんともいえないが。彼女を女王にしているかもしれないし、殺してしまっているかもしれない。さもなければ、逃がしているかもしれないしね」
「ところで」わたしがいった。「サリの方角はどっちだね? きみも知ってのとおり、わたしは、それについてはあて推量しているだけのことだから」
「きみのあて推量はあたっていた。たぶん無理だろうが、それでも万一脱出することができたら、あそこの山脈をこさなくちゃならない。必然的に、〈ジュカン族の谷〉へはいることになる。ということは、いまと変わらないくらいあぶなっかしい状態が依然としてつづいているわけだ。もし脱出できたとしても、わたしも、ラナを誘拐した連中のあとをたどるために同じ道をいかねばならないのだよ」
「それなら、いっしょにいこうじゃないか」
ズォルは笑った。「きみというのは、なにかを思いつくと、決してあきらめたりはしないんだね?」
「脱出するという考えは、たしかに捨ててはいないよ」わたしは、かれにいった。
「うん、考えるのはとても楽しいことだけど、このひげづらの雌ジャロクどもがひとり残らず、目を皿のようにして終始見張っていたんじゃ、考えているだけがせいぜいだろうな」
「機会はかならずやってくるさ」
「それはそれとして、あそこをやってくるものを見ろよ!」と、かれはさけんで、谷の上手をゆびさした。
わたしは、かれが示した方角を見やった。不思議な光景が展開していた。非常に遠くだが、それらは、人間がその背に乗っている巨大な鳥たちだと、わたしには認められた。
「ジュロク族だ」ズォルがいった。それからすぐに、大声で歩哨を呼び、ゆびさして示した。たちまち警報が発せられ、わが女戦士たちが陸続《りくぞく》と部落からくりだしてきた。ナイフ、ぱちんこ、煙幕をはりめぐらすために火をつけた葦などを手にしていた。十人にひとりぐらいの割で、他の戦士たちが葦に火をつけるための松明をたずさえていた。
グルックが部落から出てきたとき、彼女は、われわれのめいめいにナイフとぱちんこを一丁ずつ投げてよこし、煙幕用の葦を手渡してくれた。そして、部落を防御するために女戦士たちに加われといった。
われわれは、敵をむかえ撃つべく散兵線と表現してよいかもしれない隊形に散開した。敵はいまや、はっきりと見わけがつくあたりにまで接近してきていた。オーグの部落の戦士たちと同様、相手も、もじゃもじゃのあごひげをはやした下卑《げび》た女たちだった。そして、彼女たちの乗っているのがダイアル、地上世界ではその化石が発見されている中新世のパタゴニア巨鳥、フォロルハコスにきわめてよく似た巨鳥だった。立ち姿の高さが二メートルから二メートル五十センチあり、その頭は馬よりも大きく、首は馬とほぼ同じくらいの太さである。長い強力な肢の先には三本指の足がくっついている。そのごついかぎ爪をふりまわすと、雄牛を倒してしまうほどの力をひめている。いっぽう、大きくて強力なくちばしは、地底世界でももっとも恐るべき哺乳類の肉食獣、恐竜の何種類かをむこうにまわしてひけをとらないだけの兇猛さをこの鳥にあたえている。かれらの翼は発育不全なので、空を飛ぶことはできない。が、かれらは、その長い肢をあやつって、驚くべき速度で地面をかけることができる。
ジュロクの女戦士の人数は、わずか二十人を数えるほどしかいなかった。最初はゆっくりとわれわれのほうへやってきたが、やがて、ほぼ百メートルあたりまでくると、突撃してきたのだった。ただちにわがほうの女たちは、葦に火をつけ、進んでくる敵に投げつけた。これにつづいて、ぱちんこから投げ矢に似た飛び道具を射込んだのだった。葦は最初に全部投げつけられたわけでなく、数多くが残されていた。敵は、この目つぶし煙にさらに接近してきた。いま彼女らは、われわれに襲いかかってきた。わたしは、わが女戦士たちが恐れることなく、むこう見ずに、はげしく大立まわりを演じるのを見物させてもらった。彼女たちはパッと肉薄していき、ダイアルを刺し殺そうと、あるいはその背から乗り手を引きずりおろそうとした。
煙は、敵に対して奏効したかわりに、同じ程度でわれわれに害をもたらした。わたしはまもなく、息がつまりむせかえり、ほとんどいかんともしがたくなった。ズォルがわたしのかたわらで戦っている。しかしわれわれは、どちらもぱちんこの使いかたに堪能でなかったから、この戦闘でたいして役にはたたなかった。
ほどなく、ひどい煙の中から乗り手を失った一頭のダイアルがとびだしてきた。その手綱である皮ひもが地面にひきずられている。とっさに、名案が思いうかんだ。わたしは、その巨鳥の手綱をつかみあげた。
「急ぐんだ!」わたしは、ズォルにさけんだ。「たぶんこれが、われわれの待ちにまっていた機会だ。こいつに乗れ!」
かれは、一瞬も躊躇しなかった。わたしの助けをかりて巨鳥の背にはいあがった。巨鳥は、吸いこんだ煙にろうばいし、どうしようもなくなっていた。そのとき、ズォルが上から手を差しのべ、わたしは、かれのうしろに引きあげられていた。
われわれは、この鳥の制御のしかたをなにひとつ知らなかったが、やみくもにそいつの首をわれわれの行きたい方角にぐいとむけ、サンダルばきの足でそのわき腹を蹴りあげた。最初はゆっくりと、さぐるように煙をぬけて進んでいたが、やがて、煙がかなり晴れているところへ出てくると、そいつは、この刺激性の煙から逃れられるチャンスがつかめたと感じたのにちがいない。いきなり、おびえた兎さながらにかけだしたのだった。ズォルもわたしもたいへんな苦労をしてそいつの背にしがみついていた。
われわれは、そのむこう側にジュカン族の部落がある山岳地帯をめざして一直線に進んでいった。闘いが終わって煙がすっかり晴れてしまうまで、われわれが逃げだしたことが発見される心配はほとんどなかった。
たいへんな乗りものだった! いま一頭のダイアルか、さもなくば急行列車か、それ以外のものではとてもわれわれに追いつくことはできなかっただろう。巨鳥はおびえて、さながら稲妻のようにつっ走った。われわれはしかし、われわれのいきたい方角へ依然としてそいつを導くことができたのだった。山麓に到達したあたりで、そいつは疲労して、速度をおとさざるをえなくなった。その後は、穏当な足なみで背後にひかえる山脈へとのぼっていったのだった。山脈のなんと高いこと! 万年雪をいただく山巓《さんてん》がわれわれの前方に高々とのびあがっていた。ペルシダーではめずらしい自然の姿だった。
「こいつは、陸地をいく理想的な乗りものだな」と、わたしはズォルにいった。「わたしはこれまで、ペルシダーでこんなに速く旅をしたことはないね。このダイアルがつかまったというのは、ほんとに運がよかった。こいつのためになにかいい餌《えさ》をみつけてやりたいものだが」
「そういう問題が起こってくると」ズォルが答えた。「このダイアルは自分でその問題を解決するだろうよ」
「それはどういう意味だ?」
「こいつは、われわれを食っちまうということさ」
実は、このダイアル、われわれを食べなかった。それに、われわれは、そんなに長いあいだそいつの背に乗ってはいなかった。というのも、雪のあるところへ到達するとたちまち、そいつは、頑としてそれ以上先へ進もうとしなかったからだ。気が荒くなり、われわれにたてついてくるようになったとき、そいつを放してやったのだった。
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ペルシダーの気候は、ほとんど常時春のようである。だから、この地底世界に住む人びとの衣服はきわめてうすい。腰布、サンダル以外になにかを着けることはめったにない。地上付近の大気は、遠心力の関係で地上世界のそれよりわずかに濃密である。しかし、同じ理由でその大気圏は、地上世界よりもずっと浅い。その結果、高い山の山巓《さんてん》近くはきわめて寒冷である。したがって、ズォルとわたしがそんな高所の雪の中でぐずついていなかったことは容易におわかりいただけると思う。
ズォルは、例の〈ジュカン族の谷〉をぬけてくるときに、この同じ山道を通って山ごえしていたのだった。だから、われわれが今回山ごえするのに、必要以上のおくれをきたすことはなかった。
澄みきった空から太陽が陽光をふりそそいでいた。しかし、それでも寒さはきびしかった。ほとんど裸に近い状態のわれわれは、ぐずぐずしていたら長くは生きていられなかっただろう。だから、分水嶺の頂《いただき》をこえてむこう側の斜面をおりはじめたときには、正直いって心底ホッと安堵《あんど》の吐息をついたのだった。われわれは、かなり暖かみを感じる高度に達するまでに寒さのため身体がまひしてしまっていた。
われわれのたどった道筋は、谷から谷へ移動していくけものが作ったものだった。われわれが樹木限界線の上にいるあいだ、どんな種類の肉食獣も一度も出くわさずにすんだのは好運だった。その後はむろん、けものから逃れる樹木という逃げ場があった。われわれの武器は、まるで無用の長物だった。というのも、石のナイフは、穴ぐま、この地底世界の巨大なライスを相手にするのはおよそお粗末なものだったからだ。こいつは、肩の高さが二メートル五十センチ、体長ゆうに三メートル五十センチもあり、疑いもなく旧石器時代人と同時期に地上世界を徘徊していた洞穴熊とまったく同種のけものだった。ぱちんこは、われわれのぜんぜん不得手《ふえて》な武器だったから、およそ役にはたたなかった。
ほとんど丸裸、事実上|徒手空拳《としゅくうけん》の状態でこの野蛮な世界をさまよって人がどんなに絶望的な思いをするか、たぶんあなたにはわかっていただけるのではないかと思う。この地底世界であろうと、地上世界であろうと自然からきわめてお粗末な攻防の武器しかさずかっていない人間が絶滅しなかったことに、わたしは、しばしば驚かされるのである。種《しゅ》の進化には環境が大きな影響をおよぼすものだといわれている。だからわたしには、もしこれが真実であるとすれば、この世界の人間がカモシカのような駿足をまったくさずかっていないということがいつも不思議に思えてならないのだ。この環境で長い歳月生きつづけてきた人間は、目ざめているあいだの相当の部分をなにか――このうえないくらいとっぴな想像を働かせても、人間が遭遇して素手で、あるいは棍棒、ナイフでもってすら、倒すことができたとはとても思えないようなさまざまな巨獣――から逃げてすごしてきたにちがいない。わたし個人としては、どうも人類が、たえず人間を餌食にしていたにちがいない恐ろしいけものから逃れるすべを人間に提供する手ごろの樹木がかならず近辺にあるような、立木に富んだ土地で進化してきたのにちがいないという気がする。
ところで、われわれはやっと、比較的暖かい、樹木が奔放に林立しているところまでくだってきた。樹木があることは、これまたわれわれにとって幸運だった。それというのも、それまでたどっていた峠を通りぬけてはじめて出くわした生き物がタラグ、しま模様のある巨大な猫だったからだ――地上世界では絶滅して久しい、かの剣歯虎とまったく同種のやつである。
大型のけものにしては、かれらは、きわめて足が速い。そして、獲物を目にとめたときの動作がすこぶる敏捷だからだ。逃れる道がすぐそばに開けているとか、ねらわれた獲物が充分に堅固な武装をしていて、かつ注意おさおさおこたりないか、こうした場合でないかぎり、結果は最初から目に見えている――タラグが満腹するということだ。ペルシダーの他のあらゆる肉食獣がそうであるように、タラグは、つねに腹をすかしているように見える。たえず動きまわっていることで消費されるエネルギーを回復するために、そのとてつもなくでかい図体が大量の食物を要求するのである。かれらは、休むことなくそのへんをうろつきまわっている。わたしには、タラグが横になっているのを見かけたという記憶がない。
われわれが出くわしたタラグは、たまたまズォルとわたしは同時にそいつをみとめたのだが、まったく同じ瞬間にわれわれを見た。そいつは、一瞬の躊躇もしなかった。そのまま、信じられないほどのスピードでわれわれめざして突進してきたのだった。ズォルとわたしは、たがいに警告の声を発して木へのぼった。
そのタラグが突進してきたとき、わたしは、そいつの真正面にいた。ランランたる目をひたとわたしにすえたまま、そいつはとびかかってきた。そして、いま少しでわたしにつかみかかるところだった。だが、わたしのあとを追って宙高くとびあがったとき、そのかぎ爪がわたしのサンダルの片方をかすめただけだった。
ズォルは、となりの木にのぼってわたしを見やり、微笑した。「あぶないところだった」といった。「今後はもっと気をつけないといけないな」
「それもそうだが、なにか武器を手に入れなくてはならないね」とわたし。「こっちのほうが大事だよ」
「どこでそれを手に入れるつもりなのか、知りたいもんだな」
「わたしが作るのさ」
「どんな武器を?」
「ああ、まず最初に弓ふた張りと矢を何本か、そして短めの頑丈な投げ槍二本だ」
「弓矢とはどんなものなんだい?」
わたしは、なるたけわかりやすく弓矢についてかれに説明した。しかしかれは、かぶりをふった。「わたしは、自分で槍を作るよ」といった。「ゾラムの男たちは、その槍でライスやシプダールだって殺すんだ。そいつと、それからナイフ、わたしが必要な武器はそれだけだよ」
しばらくすると、タラグは、あきらめてすごすご立ち去った。われわれは、地面におりた。それからしばらくして、小さな流れのほとりに野宿するのにかっこうの場所を見つけた。そのような場所をさがすのにそれほど苦労せずにすんだのは幸運だった。なぜならペルシダーで野宿する場所というのは、眠る場所という意味であると同時に、獲物を求めてうろつきまわっているけものから安全でいられるようなところでなければならないからだ。であれば、通常、野宿に格好の場所とは、入口をふさぐことができるような洞穴《ほらあな》ということになる。
ペルシダーは、大きな世界であり、生きていくことがたいへんな事業である。しかし、結局のところたえず餌食にされようとしていることになれてくるものだ。最初は神経をはりつめっぱなしでいがちだが、しばらくすると、ちょうど地上世界のあなたがたが交通事故だとか、ピストル強盗、その他、文明が数かぎりなく生みだしてくる、あなたがたの生命をおびやかす一般的なことごとをあたりまえのこととして認識しているのと同じように、気にならなくなってしまうのである。
われわれは、この谷川の水に洗われている岩肌の水面より一メートルたらず上にポッカリ開いたその洞穴を見つけた。谷川の水は冷たく、澄んでいて、危険な爬虫類がひそみかくれている気配がまったくないとわかった。その洞穴へたどり着くために谷川を渡っていかねばならなかったから、この事実は、われわれにとってきわめて重要だった。理想的な場所だった。ふたりとも女戦士たちのとらわれの身となって以来まともに睡眠をとってはいなかったから、すっかり元気を回復するまで安全に横たわっていられる機会を持てて大いに喜んだ。
その洞穴内を調べ、そこが棲《す》み手のいない、われわれふたりがゆったりしていられるに充分なひろがりがあって乾燥していることを知ってから、われわれは、木の葉や草を集めてきて寝床を作り、まもなく眠った。
どれほどのあいだ眠ったのか、わたしにはわからない。地上世界の時間測定尺度で一時間だったかもしれないし、あるいは一週間だったかもしれない。しかし重要なことは、目ざめたとき、疲れがすっかりいやされていたということだ。それともうひとつつけ加えさせていただければ、ペコペコに腹がへっていたこと。
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日常生活でちょっとした便利な小物のありがたみを感じるのは、えてして、そうしたものがなくてなんとかしなくてはならない羽目におちいってからのことが多いものだ。あなたがたなら、たまたまポケット・ナイフを持っているとか、どこか家の周辺、あるいはガレージのどこかにたがねや鋸《のこぎり》、粗《あら》かんな、斧、あるいは手おのがあるとか、当然そういうことになるだろう。そして、あなたがたのような文明人でも、こうしたすべての刃物を持っているという事実にもかかわらず、しかもたとえ、程度の差はあれあなたがたが必要としている手ごろなサイズに切られた材料を選べるような材木置場が近くにあるとしても、使いやすい弓とそれにぴったり合う矢をこしらえるのに実にいやなときをすごすことになるかもしれないということも、大いにありうるのだ。また、食料品室や冷蔵庫にはふんだんに食料があるだろう。そして、あなたがたをまちうけている大型の、むこう見ずな肉食獣は一匹もいない。さまざまな条件は理想的だし、必要とする時間はそっくりそのまま使うことができる。しかし、それでもあなたがたにとってはたいへんな仕事になるだろう。そこで、あなたがたが石のナイフ一丁、あなたがたの素手、そしてあなたがたにいわせればまだ生きているということになる材料、つまりそのへんに生えている切りとられる以前の樹木しか使うことができない事態を考えてみていただきたい。それに加えて、あなたがたはお腹《なか》がすいているということ、そのお腹を満たすことができるかどうかは弓矢を所有していることに大きく左右されるということを忘れないでいただきたい。ましてこの弓矢が、あなたの肉体を食ってしまいたがっている無数の野獣からの襲撃を防いでくれることはいうまでもない。
わたしは、長い眠りから目ざめてのち、この最後の事態におとしこまれることになったのだ。しかし、だからといって実際には、やみくもに心配させられたわけではない。わたしもこのころには、石器時代の人生の浮き沈みになれきっていたからだ。ズォルは、わたしよりちょっとあとで目をさました。そこで、ふたりして武器を作る材料をさがしに出かけた。どのような材質のものがほしいのか、われわれにははなからわかっていた。ペルシダーには、どちらかといえば硬質の樹木が少ないという事実にもかかわらず、青々と奔放に繁茂した植物のあいだに目ざすものを発見するのに長くはかからなかった。
一種の|タクサス《ヽヽヽヽ》科の植物は、程度の差はあれペルシダー全土に広範に分布している。わたしはかねて、この幹が弓にいちばん適していることを発見していた。矢のほうには、乾燥するときわめて堅くなる、まっすぐの、中空になった葦を使った。この葦の先端にさしこむ矢尻は、木製でいぶして堅くしてある。
文明化された地上世界の現代弓術家は、このとき〈ジュカン族の谷〉のはずれでわたしが作ったお粗末な弓など一笑にふしてしまうだろう。もしかれがイチイ材の弓を使うとすれば、その材料は、弓に姿をかえられるまでに三年間の乾燥期間がゆるされているのである。しかも、弓に作られてからもおそらく、さらに二年間使用されることはない。しかしわたしは、腹を満たすまでに五年もまっているわけにはいかないのだ。だから、その樹木から選んだ枝を石のナイフで気が遠くなるような思いをして切り落とし、皮をはいで両先端をとがらせた。わたしは、長さ一メートル八十センチ、重さ約三・五キロの弓と、長さ一メートル弱の矢を好んで使っている。この世界で出くわすけものには、きわめて図体がでかく、このうえなく兇猛なやつがいるからだ。しかし、もちろんわたしの弓がたちまちこれだけの力を発揮できたのではなかった。火を焚《た》くたびに、少しずつ乾燥させていったのだった。その結果、徐々にそのもてるだけの効果をあげるようになっていたのだ。弓の弦《つる》には、長い繊維の数種の植物を利用することができる。しかし、これらのうち最良のものでも長もちはしない。だから、しょっちゅう張り変えなければならないのだ。
わたしが弓と矢を作っているあいだに、ズォルがゾラムの戦士の使っているような短い、重い槍を二本こしらえた。きわめて恐るべき武器だが、有効射程は三十メートル以下にすぎない。この距離で、しかもすこぶる力のある男が投擲《とうてき》した場合にかぎられる。いっぽうわたしの矢は、ゆうに三十メートルあるいはそれ以上の距離で最大のけものの心臓を射抜くことができる。
こうして武器の製作を進めているあいだ、われわれは、木の実や果実で飢えをしのいだ。しかし、武器が完成するやいなや、肉を求めて出発した。このためにわれわれは、大部分が濃密な森に包まれている谷へとくだっていったのだった。そして、獲物を発見した。そいつはいささか用心深かった。かつて狩りをされた経験があるということだ。したがって、人間を目にしたことがあるものと想像される。わたしはついに、はなはだお粗末な狙いを定め、矢を放ったのだが、それは、一頭のカモシカを傷つけたにすぎなかった。そいつは、わたしの矢をつきさしたまま、森の中へ逃げこんでしまったのだった。その傷がいずれはそのカモシカを倒すにちがいないと確信していたし、それにわたしは、傷ついたけものをそのままうっちゃらかして苦しませるのを好まなかったから、ズォルともども、その獲物のあとを追って森へかけこんだ。
追跡は容易だった。道筋の、カモシカの通ったあとに血が点々としたたっていたからだ。ついにわれわれは、手負いのカモシカに追いつき、わたしがとどめの矢をそいつの心臓に送りこんだ。
その獲物のうしろ半分とその他の上肉の部分を切りはなしているあいだ、われわれの警戒心はゆるんでいたものと、わたしは思う。というのも、ひとりの男が口をきいてくるまで、われわれふたりきりでないとは思ってもいなかったからだ。
「よおう」と、声がいった。サッとふりむいてみると、われわれの背後の木の間から、ゆうに二十人の戦士が姿を現わしてきた。
「ジュカン族だ」ズォルが低声でいった。
かれらの顔つきには、どことなくびっくりしているようなところがあった。二、三センチの長さに大ざっぱに刈りこんだ髪が、頭蓋《ずがい》からまっすぐ上にのびていた。しかし、わたしの思うに、かれらが一種異様な人相をしているそのわけは、他のどんな特徴よりもかれらの目にあるのではあるまいか。だいたいにおいて、虹彩がきわめて小さく、眼球の白い部分がその周囲をぐるりととりまいているのだった。口は、唇にしまりがなくだらんとして、いつも開きっぱなしなのだ。
「おれたちの森で狩りをしているのはどういうわけだ?」最初に口をきいたやつがいった。
「腹ぺこだからだよ」とわたし。
「そうか、それなら食わせてやるから、おれたちといっしょに部落へこい」かれがいった。「おまえたちは、わが王ミーザの部落で賓客としてむかえられるだろう」
かねてズォルがこの一族についてわたしに話してくれていたところから、わたしは、かれらの部落のいずれかへいってみたいという気はさらさらなかった。かれらの部落があるこの森は迂回し、かれらを避けて通りたいものだと思っていたのだった。しかし、いまやわれわれは、のっぴきならない羽目においこまれていた。
「どうやらわれわれには、諸君の部落を訪問させていただく以外、どうしようもないように思えるが」わたしはいった。「しかしわれわれは、たいへん急いでいるし、進んでいる方角が別なんだよ」
「おまえらは、おれたちの部落へくるんだ」リーダー格はいった。いきなり興奮して声が大きく、甲高くなった。わたしは、ちょっと意思をのべただけでもやつを怒らせるのだということがわかった。
「そうだ、そうだ」他の数人がてんでにいった。「おまえらは、おれたちの部落へくるんだ」かれらもまた、癇癪《かんしゃく》をおこしかかっているように見えた。
「ああ、むろんのこと」わたしはいった。「きみたちがくるように望むのなら、われわれは、よろこんでおともさせていただくよ。しかし、あまり諸君にめいわくをかけたくなかったのさ」
「そいつは、けっこうなことだ」リーダーがいった。「さあ、そろそろ部落へ帰って、食って楽しくやろうぜ、みんな」
「いよいよ、絶体絶命のようだな」戦士たちがわれわれの周囲をとりまき、われわれをさらに森の奥へと導いていくとき、ズォルがいった。
「やっこさんたち、いまの調子で友好的なままでいてくれるかもしれない」ズォルがことばをついだ。「しかし、やつらの気分がいつ変わるか、まったくだれにも見当がつかんのでね。ま、わたしに思いつけるかぎりでは、できるだけやっこさんたちの機嫌をとっているのがいい。というのは、やっこさんたちにこれっぽっちでもさからうようなことを口にすれば、やっこさんたちがどんな工合になるか、きみもいま見たばかりだからさ」
「よし、では道中にさからうのはよしにしよう」わたしはいった。
わずかな距離だけ進むと、われわれは、とあるせまい空地に、不細工な矢来をめぐらした部落のあるところへやってきた。入口に立っていた戦士たちは、われわれの護送者連を確認し、すぐさま我々は、中へはいることを許可された。
部落の矢来の内部は、異様なたたずまいを呈していた。あきらかに、なんらの計画もなしに建設された部落だった。家は、その持ち主めいめいの気まぐれで並んでいるようだ。その結果、めったやたらと入りみだれていた。われわれがそうと了解している意味での通りといったようなものはないのだった。小屋と小屋とのあいだの隙間がおよそ通りと呼べるしろものではなかったからだ。ときには、五、六センチほどの幅しかないかと思うと、あるときには五、六メートルもの幅があり、いずれも小屋二軒分の長さもまっすぐにはつづいていない。小屋のつくりは、これまたその位置と同様まったく気まぐれだった。同じ設計にもとづいて建てられた小屋は二軒とないようだった。丸太づくりのもあれば、編み枝に土を塗ったもの、樹皮をはりめぐらしたものもあったが、多くは、かんたんな枠組みを作ってその全体に草をかぶせたものだった。形は、丸いの、四角いの、楕円形の、円錐形のと、雑多だった。ひとつだけ、ゆうに六メートルの高さにのびあがった塔のような建物が特にめだった。そのとなりに、地面から一メートルほどの高さしかない草を編んだ小屋があった。入口はひとつだけあって、それも持ち主が四つん這《ば》いになって出入しなければならないほど小さなものだった。小屋と小屋のあいだのせまい空地では腕白そうな目をした子供たちが遊び、女が料理を作り、男たちがぶらぶらしていた。だから、われわれの護送者は、たいへんな苦労をし、押し分けかき分けるようにして部落の中央へと進んでいったのだった。われわれはたえず、男、女、子供たちをまたいだり、あるいは迂回していったのだが、だれひとりわれわれに注意をはらおうとするものはいなかった。しかし、かれらに触れたりすると、いきなり癇癪を起こすのだった。
部落を通りぬけて短いみちのりのあいだに、われわれは、いくつか奇妙な光景に出くわした。自分の小屋の入口の前にすわっているひとりの男が、自分で自分の頭を石で力いっぱいたたいた。「やめろ」と、かれはわめいた。「さもないと殺すぞ」「おお、やるのか?」と自分に答えている。それからかれは、もう一度頭をぶった。こんどは、その石を投げ捨てて、自分の首をしめはじめたのだ。
この|ひとりげんか《ヽヽヽヽヽヽ》の結末が如何《いかが》あいなったのか、わたしは知らない。かれの小屋の角を曲がって、かれが見えなくなってしまったからだ。
さらにちょっと進んで、われわれは、ひとりの女に出くわした。彼女は泣きさけぶ子供を押さえつけて、その喉もとを石のナイフでかっさばこうとしているのだった。それは、わたしの耐え忍びうる限界をこえていた。だから、危険なこととわかってはいたが、彼女の腕をつかんで子供の喉もとからナイフをはなしたのだった。
「なぜ、そんなことをする?」と、わたしはきいた。
「この子は病気をしたことがない」彼女が答えた。「だから、それに関係があるなにかがあるにちがいないことは、わたしにはわかっている。そんなみじめなことがあったんじゃいけないから、わたしがそいつをとりのぞいてやろうとしているところなのさ」そういいざま、彼女はいきなり目をランランと輝かせ、パッと跳びあがってナイフでわたしに斬りかかってきた。
わたしは、その一撃をかわした。それと同時に護送者のひとりが槍の柄《え》で女をなぐり倒し、別のひとりがわたしを手荒にこづき、せまい路地を先へ進ませた。「おせっかいをやくのはよせ」と、金切り声でいった。「さもないと、おまえがやっかいなことになるんだぞ」
「しかし、女があの子供を殺すところをだまって見ているわけにはいかないだろう?」わたしはきいた。
「なぜ、彼女のじゃまをしなきゃならんのだ! おれだって、いつかだれかの喉をかっさばきたくなるかもしれんのだ。そうなると、おれのおたのしみを人にじゃまされたくはないな。おまえたちの喉を引っさいてやりたくなるかもしれんぞ」
「おお、わるかァない思いつきだ」別の戦士が口をはさんだ。
われわれは、その小屋の角を曲がった。その直後、またあの子供の悲鳴をきいた。だが、わたしにはそれをどうすることもできなかった。いまや、自分の喉の心配をしなければならなかったのだ。
ほどなく、とある低い、むやみと四方に建てました、見てくれもへったくれもない建物に面した広場へやってきた。この建物こそ、王ミーザの宮殿なのだった。宮殿の前の広場の中央に、半人半獣の生き物を示す巨大な醜怪な、みだらな像が立っていた。その周囲に何人かの男たちがいて、なんとかれらは〈とんぼがえり〉をうっていたのだった。広場にはきわめて大勢の人間がいたが、そのだれひとりとしてかれらにこれっぽっちの注意もはらってはいなかった。
像のそばを通りすぎるとき、護送者が口々に「ごきげんよう、オガル!」といい、宮殿のほうへ進んでいった。かれらは、ズォルとわたしにも、そのおぞましい立像に同じような挨拶をさせた。
「あれはオガルだ」護送者のひとりがいった。「おまえたちは、ここを通りすぎるとき、つねにこの方に挨拶しなくてはいけない。われわれはすべて、オガルの子孫なのだ。万事この方のおかげなんだぞ。この方が、いまのわれわれの姿をつくりたもうたのだ。われわれに偉大な知恵をさずけてくださったのだ。この方は、われわれをペルシダーでいちばん美しく、いちばん豊かで、いちばん力の強い一族にしてくださったのだぞ」
「あの周囲ではねまわっている男たちは何者なんだね?」わたしはきいた。
「オガルの僧侶たちだ」と、その戦士は答えた。
「で、かれらは、なにをやっているのだい?」
「部落全体のためにお祈りをやってるんだ。かれらが、われわれのお祈りをするというめんどうをはぶいてくれているのさ。もし、かれらが祈ってくれないと、われわれは、いやでもやらなくちゃならん。お祈りちゅうのは、なかなか骨のおれる、疲れる仕事だからな」
「たしかに、そのとおりだと思うよ」とわたし。
われわれは、ミーザの宮殿に招じ入れられた。わたしがかつて見たこともないような、異様な、気ちがいじみた建物だった。そこで、われわれの護送者のリーダーは、別のジュカン人、その宮殿の役人にわれわれを引き渡したのだった。
「ここには」と、そのお役人はおっしゃった。「ミーザのご機嫌をうかがい、貢物《みつぎもの》を献上するためにやってきたきわめてりっぱな友人たちがおる。まちがっても、かれらの喉をかっさばいたり、他のものにそんな真似をさせたりしてはならん。ミーザと会話することがむずかしくなるといけないのでな。わしの了解しておるところでは、ミーザは、かれらの話をききたがっておいでなのだ」
われわれがはいったとき、その宮殿の役人は床の上にすわっていた。立ちあがりもしなければ、いまやっている仕事の手を休めもしなかった。護送者たちを解散させ、ズォルとわたしにそばへきていっしょにすわれといった。
かれは、ナイフの切っ先で床に穴を掘っていたのだった。そして、この穴の中へ水を注ぎこんで、かい出した土くずを入れて混ぜあわせ、粘土細工ができるぐらいのやわらかいかたまりにこねあげたのだった。それから彼は、片手の掌にその粘土を少々つまみあげて、それを丸い形にこねてから平たくし、それを用心しながら自分のかたわらの床の上においた。
かれは、頭をわれわれのほうに傾け、手をふって穴にわれわれの手を出せというような仕草《しぐさ》をした。「さあ、わしといっしょにやってみんか」といった。「こいつは、きわめておもしろいばかりでなく、すこぶる啓発的で特異な作業だということがわかるだろう」そういうわけでズォルとわたしは、この宮殿のお役人といっしょになって、土せんべいを作ったのだった。
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われわれが身柄をあずけられたこの宮殿の役人グーフォは、われわれがきたこと、われわれのした仕事にひどくよろこんでいる様子だった。かれのいうには、この仕事はきわめて重要なもので、なんでも近いうちにペルシダーに改革をもたらすほどの技術的な発見なのだそうだ。かれがそうわれわれに告げおわると、かれは、土くれをみんな穴の中へすくい入れ、床と同じ高さになるようにその表面をならしたのだった。
「さて、さて」かれがいった。「なかなかのご馳走だった。とっくり味わってくれたと思うが」
「ご馳走?」わたしは、なにげなくいった。腹ペコだったからだ。最後に眠ってから、一度も食べてはいなかった。
かれは、まるでなにかを思いだそうとでもしているように、眉根を寄せた。「わしらは、いまなにをやっていた?」ときいた。
「土せんべいを作っていた」とわたし。
「ちょっ」と、かれがいった。「記憶力がすこぶるわるいんだな。しかしわれわれが、すぐにそれをなおしてやるよ」かれは、手を打ち合わせ、それからなにごとかわたしにはわからないことをさけんだ。すぐさま三人の女がとなりの部屋からはいってきた。「すぐにめしを持ってこい」グーフォが命じた。
ややあって女たちが、食物のはいった鉢《はち》を持って現われた。肉、野菜、果実など。たしかにおいしそうだった。わたしは、もうお腹《なか》がぐうぐうなってよだれがたれそうなほどだった。
「下へおろせ」グーフォがいった。三人の女は、鉢を床の上に置いた。「さあ、食べろ」彼女たちにいった。三人の女は、従順に腰をおろして、食べはじめた。
わたしは、ちょっとだけ彼女たちのほうににじり寄り、一片の肉に手をのばした。するとグーフォがわたしの手をぴしりとはたき、さけんだ。「だめ、だめ」
かれは、女たちが食物を食いつくしていくのをしげしげと見守っていた。「みんな食べるのだぞ」といった。「ひとつ残らずだ」女たちは、かれが命じたとおりにした。いっぽうわたしは、わたしの食事が消えていくのを憂うつな思いで眺めていた。
女たちが食事をおわると、かれは、彼女たちに部屋から出るようにと命じた。それから、わたしのほうをむいて、小ずるそうに片目をつぶって見せた。「彼女たちにはたちうちできないほど、わしはりこうだからな」
「それは疑問の余地がないところだよ」わたしはみとめた。「しかし、なぜあんたが女たちにわれわれの食物を食べさせたのか、わたしにはわからないね」
「そこが、そもそも肝心なところなんだ。毒が盛ってないかどうか、知りたかったのでね。いま、そうではなかったということがわかった」
「しかし、わたしの腹ペコに変わりはないが」
「そいつはすぐに解消してやるよ」グーフォがいった。ふたたび、かれは手をたたき、さけんだ。
こんどは女たちのひとりだけがはいってきた。きりっとした容貌《かおだち》の、聡明そうな感じの娘だった。表情はまったく正常だったが、とても悲しげだった。
「わしの友人たちがお眠りだ」グーフォがいった。「かれらを寝室へ案内してさしあげろ」
わたしは、なにかいおうとした。しかし、ズォルがわたしの腕に手をおいた。「食物のことでこれ以上しつこくするのはよせ」わたしのいおうとしていたことをぴたり推測して、かれはいった。「この連中の気分をでんぐりがえすのは、わけはないのだ。そうなると、かれらがなにをやらかすか見当もつかないだろう。もっかのところ、このグーフォが友好的だから、われわれは、大いに運がいいということなんだぜ」
「ふたりでなにをひそひそやっておる?」グーフォがききとがめた。
「いや、わたしの友人が」と、わたしがいった。「われわれは、眠ったあとでまたあんたと楽しくやっていくことができるのかどうか、それを知りたがってね」
グーフォが、うれしそうな顔をした。「むろんだとも」といった。「だが、そうはいっても、おまえたちに見張りだけはつけておきたい。いいかね、この部落には変人がひじょうに大勢いるから、言動にはくれぐれも注意しなくてはいかん。忘れるなよ。ここでは、たぶんわしだけが正気の人間ではないかな」
「ご忠告かたじけないね」わたしはいった。それからわれわれは、女のあとについてその部屋を出た。となりの部屋では、あとのふたりの女が食事の用意をしていた。それを見、そのにおいを嗅いで、わたしは、ほとんど気が狂いそうになった。
「われわれは、もう長いこと食べてないんだ」わたしは、われわれについてきてくれた女にいった。「腹ペコでひっくりかえりそうなんだよ」
彼女は、ひとつうなずいた。「好きなように食べたらいいわ」
「それで、きみたちはやっかいなことにならないのかい?」
「だいじょうぶ。グーフォはたぶん、あなたたちを寝室へ送ったことなどすでに忘れてしまっているでしょう。たとえかれがはいってきて、あなたがたが食べているところを見たとしても、そうさせるようにいいつけたのは自分だと考えますわ。この女たちは、あなたがたがここにいたこと、ここで食べていたことなど、あなたがいなくなってしまったらたちまち忘れてしまうでしょう。低能と変わるところがないの。事実、この部落の人は、わたしをのぞいてあとはみんな気ちがいなんだわ」
彼女が自分でいっていることは真実だという印象をわれわれにあたえたと信じているのがわかって、わたしは、このあわれな娘に同情を禁じえない思いだった。彼女が気ちがいには見えなかったことを、わたしはみとめる。しかし、自分をのぞくとあとのものがみんな気ちがいだと信じることは、そもそも気ちがいの徴候のひとつなのである。
「きみの名前は?」われわれが床の上に腰をおろして食べはじめたとき、わたしはきいた。
「クリート」と、彼女はいった。「で、あなたは?」
「デヴィッド」とわたし。「そして、こちらはわたしの友人で、ズォル」
「あなたたちも気ちがいなの?」
わたしは、かぶりをふってニコッとした。「そんなことは絶対にないよ」
「それは、みんながいう科白《せりふ》よ」彼女はかくのたもうた。それから、やぶから棒にハッとして、いうべきではなかったなにごとかを口にしてしまったとでもいうように、あわててつけ加えた。
「もちろん、あなたがたが気ちがいじゃないということはわかっていましたわ。そっと入口をのぞいてみたんだけど、グーフォといっしょに土で仕事していたんだものね」
わたしは、ひょっとして彼女はわたしをちょっとばかりからかっているつもりなんだろうかといぶかった。が、すぐに、彼女のあわれな、バランスのくずれた精神にはわれわれの最前やっていたことがまったく自然で道理にかなったことのように思えるのかもしれないということに気がついた。溜息をついてわたしは、食事をつづけた――かわいそうに、こんなかわいい娘を支配しているゆがんだ頭脳《あたま》に対してついた溜息だ。
ズォルとわたしは、腹ペコだった。クリートは、われわれの食べていく食物の量に感嘆して、こっちを見つめていた。他のふたりの女は、われわれにいっさい注意をはらわずに、さらに食物を用意する仕事をつづけていた。ついにさすがのわれわれも、もうこれ以上食べることができなくなるところまできた。するとクリートは、われわれを暗い部屋に案内してくれ、出ていった。われわれは眠った。
われわれがミーザの宮殿にどれほどのあいだいたのか、わたしには見当もつかない。たいへんな回数、眠ったことだけはわかっている。われわれは、ぜいたく三昧な暮らしをやった。クリートがそのめんどうを見てくれたのだった。彼女は、どういうわけかわれわれに好意を持っているようだった。宮殿でわれわれがなにをやっているのか、知っているものはひとりとしていない様子だった。しかしかれらは、われわれがあたりにいるのを見慣れてしまうようになってからは、もはやわれわれにいっさいの注意をはらおうとはしなくなっていたのだ。もっとも、この建物を出ることだけは許されていなかった。むろん、それはとりもなおさず、われわれの逃亡が不可能だということを意味するものだった。しかし、われわれは、そのときをまっていた。いつかは、われわれが今か今かと手ぐすねひいてまち望んでいる機会がひょんなことで生まれてくるかもしれないのだ。
当宮殿の家令、グーフォは、われわれがなぜ宮殿内にいるのかこんりんざい思い出すことができなかった。わたしはよく、かれが坐ったまま、あの当惑げな表情を顔に浮かべてしげしげとわれわれを見つめているのにお目にかかったものだ。われわれがなにものなのか、なぜわれわれが宮殿内にいるのか、かれが思い出そうとしているのが、一目瞭然だった。
時がたつにつれて、わたしは、クリートがあたりまえの知能の持ち主であるのを徐々に感じるようになっていった。すばらしい記憶をそなえていたのだ。われわれが出くわした他の連中に比較すると、彼女は、文句なしに正気だった。ズォルとわたしは、機会のあるたびに好んで彼女と話したものだ。彼女は、この一族のしきたりや宮殿のうわさなどをよく話してくれた。
「あなたがたはどの部落からきたの?」あるとき、彼女がきいた。
「部落? なんのことかわからないが」わたしはいった。「ズォルは、ゾラムという土地の出身で、わたしはサリの国からやってきた」
彼女はちょっとの間《ま》、当惑の表情を浮かべた。「あなたがいってるのは、あなたがたが別の部落からきたジュカン族ではないという意味なの?」
「そのとおり。われわれが他の部落からきたジュカン族だと考えたのはどういうわけ?」
「グーフォが、あなたがたはかれの友だちだから、丁重にもてなすようにといってたからよ。だからわたしは、あなたがたが捕虜ではない、したがって、別の部落からきたジュカン族だとばかり思いこんでいたの。でも、あなたがたは、とてもあたまがよいからジュカン族であるはずがないように思えたから、実をいうとわけのわからないところもあったのよ。あなたがたは、もうまちがいなく知っているでしょうけど、ジュカン族は、みんな気ちがいなのよ」
そのとき、わたしの心にひとすじの光がさしはじめた。「クリート、きみはジュカン族のものではないのだね?」わたしはきいた。
「たしかに、おっしゃるとおりよ。わたしは、ここにとらわれているの。出身はスヴィの土地なんです」
わたしは、それをきいて笑い出さないではいられなかった。すると彼女、なぜ笑うのかときいた。
「しじゅうわたしがきみのことを気ちがいだとばかり思っていて、きみはきみでわれわれが気ちがいだと思っていたからだよ」
「わかるわ」彼女がいった。「とても変な話ね、ほんとに。でも、ここでしばらく暮らしていると、だれが気ちがいで、だれがそうじゃないか、わからなくなってしまうんだわ。ジュカン族の中にも完全に正気に見え、また、そのように行動する人もいるのよ。そしてかれらこそ、気ちがいの中の気ちがいなのかもしれないわね。いまでは、王のミーザもその息子のモコも、低能のようには見えないわ。そう、はっきりいって、かれらはどちらも低能ではないわね。無責任で残酷で、いつでもすぐに殺したがる、最低のタイプの気ちがいだわ」
「グーフォは、それほどひどいやつのようには思えないね」とわたし。
「そう、かれは毒にも薬にもならないというところかしら。あなたたちがかれのもとに引き渡されたのは幸運だったのよ。あなたがたが宮殿に連行されてきたときに、かれの代理役のノアクが勤務についていたら、事情はずいぶんちがっていたかもしれないわ」
「きみは、ここに長くいるの、クリート?」とわたし。
「ええ、きてから何回かおぼえていないほど眠ったわ。事実、わたしがかれらの一族のものではないということを、かれらが忘れてしまっているほど長くいるのよ。かれらは、わたしがジュカン族のひとりだと思っているわ」
「すると、きみなら逃亡するのはかんたんなことにちがいないよ」と、わたしはほのめかした。
「ひとりで逃げだしても、わたしにとって決してよい結果にはならないでしょうよ。ひとりきりで、しかもなんの武器もなしにスヴィに到達できるチャンスがどれだけあるというの?」
「われわれが、そろって脱走すれば、できるかもしれない」わたしがいった。
彼女は、かぶりをふった。「わたしがここへきてから、三人の人間がこころみたのだけど、宮殿から逃げ出せて、部落から脱出できそうな機会はただの一度だってなかったわ。ここには捕虜が大勢いるけど、ひとりでも逃げだしたという話はきいたことがないのよ。ところで」と、彼女はつけ加えた。「あなたは、サリからきたのだといってたわね?」
「そうだよ」と、わたしは答えた。
「ここにはサリからきた捕虜がひとりいるの。女よ」
「この部落に?」わたしはきいた。「ジュカン族の部落のどれかにサリの女がひとりとらわれているということはきいていた。でも、ここにいるのだとは知らなかったな。彼女の名前を知っている?」
「いいえ」とクリート。「それどころか、見たこともないわ。でも、その女《ひと》、とても美人だということはわかっているの」
「どこにいるんだい?」
「宮殿のどこかだわ。高僧が彼女をかくしたままでいるのよ。わかるでしょう、ミーザは、彼女を連れあいのひとりにしたいのだわ。その息子のモコも彼女をほしがっている。そして高僧は、彼女をオルガへの生贄《いけにえ》にしたがっているのだわ」
「最終的に、いま言ったうちのだれが彼女を手に入れるだろう?」とわたし。
「高僧は、すでに彼女を手に入れているのよ。でもかれは、ミーザを恐れているの。ミーザはミーザで、オルガの逆鱗《げきりん》にふれて頭がおかしくなるのを恐れて、高僧から彼女を奪うのをはばかっているというわけ」
「とすると、当座は彼女、安全でいられるということか」とわたし。
「ミーザ王の宮殿にはいって、安全でいられたものはひとりもいないわ」クリートは答えた。
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ミーザ王の宮殿にいるあいだ、われわれの主としてやることといえば眠ることと食べることだった。これが反復されていたのだった。およそ、ふたりの戦士にとって活気のある生活とはいいがたい。退屈の虫が徐々にわれわれを狂気へと追いやっていった。
「そろそろここを出ていかないことには、われわれもここの連中と同じように気が変になってしまうぜ」ズォルがいった。
「さて、どうしたものかな。なにかいい案でもないだろうか」とわたし。
「たぶんグーフォを説得すれば、われわれを都《まち》へ出してくれるのじゃないかな」ズォルが意見を述べた。「少なくとも、それで少しは運動になるし、ここでの退屈な生活に変化をあたえてくれるというものだよ」
「それと同時に、われわれに脱出の機会をあたえてくれるかもしれん」わたしがいった。
ズォルは、立ちあがって大あくびをし、のびをした。かれは、次第に肥えていき、鈍重になっていった。「よし、かれをさがしにいこう」
われわれがその部屋を出ようとしたときのこと、突如として悲鳴がきこえてきた――ただのひと声、あとに静寂がつづいた。
「いまごろ、いったいありゃなんだろう?」ズォルがいった。
「すぐ近くだ」とわたし。「たぶん、われわれはじっとしていたほうがいいだろう。なにかここの連中を興奮させるようなことが起こっているのだとしたら、どこでめんどうなことに飛びこんでしまうかわかったものじゃない。いまの悲鳴はグーフォの執務室のほうからきこえてきたように、わたしには思えたがね」
ほどなくクリートが、興奮の色をありありと浮かべて部屋にはいってきた。
「どうした?」わたしはきいた。「どうして、そんなに神経をたかぶらせているんだい?」
「いまの悲鳴がきこえなかったの?」
「きいたよ」
「あれはグーフォだったの。ノアクがうしろからかれを刺したのよ」
ズォルが口を鳴らした。
「で、かれを殺してしまったのかい?」わたしはきいた。
「さあ、わたしにはわからない。でも、大いにありうることね。とにかく、瀕死《ひんし》の重傷を負っているのはたしかよ。これで、ノアクが宮殿の家令だわ。わたしたちもやりにくくなるわよ。グーフォのように、わたしたちのことについてなにもかも忘れてしまうようなことはないでしょうね」
「かれがこれまでにわれわれを見かけたことがあるとは思わないがね」ズォルがいった。
「そんなこと、ぜんぜん関係ないわ」クリートがあっさりいった。「すぐにもノアクは調査を開始して、宮殿のかかわりのあるところにいる人たちについて、すべてをさぐりだすでしょう」
「われわれがジュカン族の服装《みなり》をしていないのは、すこぶる不都合だね」わたしがいった。「でなかったら、われわれが別の部落からのお客だとノアクに思わせることができるかもしれないのだが」
ジュカン族の腰布は、毛がついたままなめした猿の皮で作られたものだった。かれらは、猿皮の足首飾りや、人の歯で作った首飾りをつけていた。そして、わたしが前にもいったとおり、かれらの髪はきわめて短く切られていた。そういうわけで、現在の姿のわれわれをジュカン族として通用させることは、おそらく不可能だっただろう。
「われわれふたりが服装《みなり》をととのえるのに、ひととおりそろえてくれることができるかい、クリート?」ズォルがきいた。
「ひとり分ならあるところを知っているわ」女は答えた。「かつてグーフォの下で働いていた男が着ていたものなの。ところが、やぶから棒にかれは、衣服などいっさい着けるべきではないと思いついたのよ。そこでかれは、着けていたものをぬぎ捨て、丸裸になってしまったの。かれがぬぎ捨てたものはすべて、物置きのひとつに保管してあるわ。わたしの知っているかぎりでは、まだそこにあるはずよ」
「なるほど。かれがその自分のをとりにもどっていないことに期待しよう」ズォルがいった。
「そんなことないわ」とクリート。「これからだってないでしょうよ。かれは、その丸裸のままで王の前へまかり出たの。ミーザは、かれを殺してしまったわ」
「さて、もうひとり分見つけだすことができれば」ズォルがいった。「気づかれないで宮殿から出ていけるかもしれないのだがな」
われわれがそうやって話しているとき、わたしは、入口に面して立っていた。入口には、なにか小さな動物の、なめしたやわらかい皮を何枚もぬいあわせて作った|かけもの《ヽヽヽヽ》がぶらさがっていた。わたしは、そのかけものがかすかに動くのをみとめた。何者かが盗みぎきしているのだと思い、すばやくそこへかけ寄ってかけものをわきへはらった。そのむこうには、ひとりのきたない顔をした男が立っていた。まんなかに寄りすぎた、ガラス玉のような黒目、のっぺりした鼻、ないといってもいいような下顎。ねずみの顔つきを呈していた。そいつは、その場につっ立ったままちょっとの間《ま》、だまってわれわれを見つめていた。それから、くるりと踵《きびす》をかえすと、まさしくねずみさながらにこそこそ立ち去っていった。
「かれはきいたかしら?」とクリート。
「やつは何者だ?」ズォルがきいた。
「ローだったわ。ノアクの腹心の部下のひとりよ」
「どうやらわれわれは、窮地に追いこまれたようだな」ズォルがいった。「やつは、たしかにわれわれの話をきいたはずだ」
「たぶんやっこさん、そいつを話すだれかが見つからないうちに、われわれのことをすっかり忘れてしまうだろう」とわたし。
「かれは、そんなことはないわ」クリートが反駁《はんばく》した。「かれらの場合、ときとしてその様子が卑しければ卑しいほど、記憶力がよいように思えることがあるの」
「さて」わたしはいった。「ジュカン族らしく変装すれば、ここから脱出する好機が得られるだろう。そのひとり分の衣装を持ってきてくれないか、クリート。そして、そいつをズォルに着けてやろう。もしかれが宮殿のあちこちを見とがめられずに歩きまわることができれば、わたしが変装するのに必要なものを手に入れる機会があるかもしれない」
「しかし、髪はどうしたらいい?」とズォル。
「ナイフを見つけてはもらえないかい、クリート」わたしはきいた。
「だいじょうぶよ。食事の用意をするのに、わたしたちは何本かのナイフを持っているわ。すぐに二本ほど持ってきてあげます」
クリートがナイフを持ってきてくれたあと、ズォルに着せる衣装があるかどうかをたしかめるためにわれわれのもとを去っていった。わたしは、ズォルの断髪にとりかかった。のび放題にのびていた。かなり手間のかかるやっかいな仕事だったが、ついにそれも完了した。
「目を大きく開いて、あごをぐっと引くんだ」わたしは、笑いながらかれにいった。「そうすれば、ジュカン族で通用するかもしれん」
ズォルはしかめっつらをした。「さあ」と、かれはいった。「こんどはきみを低能にしたてあげてやるよ」
かれがちょうどわたしの断髪をおわろうとしているときに、クリートがズォル用の衣装をたずさえてもどってきた。
「寝室へいって着替えするほうがいいわ」彼女がいった。「だれかがここへやってくるかもしれないから」
ズォルが部屋を出ていくと、クリートは、台所へもどってまた自分の仕事をやりはじめた。わたしは、ひとりとり残された。いつものように、ひとりきりになり、無益の脱出計画などに心をうばわれていないようなとき、わたしの思いは、サリと、わたしの連れあいの美女ダイアンのことにはせていくのだった。彼女は、わたしのことを死んでしまったものと、とっくの昔にあきらめているにちがいない。二度とわたしが帰っていくようなことがなかったら、わたしの運命がどうなったのかは、彼女にとっても、わたしの仲間のサリ人たちにとっても永遠の謎《なぞ》となってしまうだろう。
サリは、はるか遠方にあるように思われた。事実そのとおりだった。どう考えてみても、わたしが帰りつける望みはほとんどなかった。たとえ、ジュカン族のもとを脱出できたとしても、どうやってサリをさがしあてたらよいというのだ。ペルシダー人特有のあの帰巣本能をさずかっていないこのわたしが!
むろんズォルは、サリの大ざっぱな方角を示すことはできるだろう。
しかしかれ、ないしはだれかペルシダー人がそばにいてくれないと、わたしは、とてつもない円弧を描いてどうどうめぐりし、一生のあいださまよいつづけることになるかもしれないのだ。たとえまちがいないと思われる方角へ一直線に進んでいると感じていても、サリという比較的せまい土地にいきあたる機会はまずないもひとしい。だが、しかし、絶好の機会さえ到来すれば、わたしの脱出しようとする意志をくじけるものはなにひとつないはずだ。それと、わたしの生命があるかぎり、ダイアンのもとへ帰ろうとする努力をやめることはないだろう。
かくて、入口のかけものがわきへはらいのけられ、ひとりの男が部屋へはいってきたとき、わたしは、このような想念にとらわれていたのだった。かれは、非常に筋肉の発達した男だった。しかし、その顔は、人間のものともけもののものとも、判別がつきかねた。こわい、ぴんとつっ立った髪がほとんど目のふちまではえていた。だから、かれには額というものがまったくない、というか少なくとも眉の上に、およそ二センチほどのせまい幅の皮膚のむき出しの部分があるにすぎなかった。目は寄りすぎていて、ほとんどひとつのように見えた。耳は、けもののそれのようにぴんとつっ立っている。鼻はそれほどひどくもなかったが、唇は薄く、なみなみならぬ残忍さを示していた。かれはその場につっ立って、口辺に冷笑を浮かべ、しばし黙然としてわたしを見つめていた。
「ほんとうか」やっとかれはいった。「おまえが、逃げようとしているのは?」
「きみはだれだ?」わたしはきいた。
「わたしはノアク、ミーザの宮殿の家令だ」と、かれは答えた。
「それで?」わたしはきいた。こいつのなにもかもがわたしの|かん《ヽヽ》にさわった。その態度からわたしは、やつがいざこざを探しにやってきたのだということがすぐにわかった。だから、かれをなだめるような努力はいっさいしなかった。かれがなにをやるつもりであろうと、わたしのいったりしたりすることにはおかまいなしに、思いどおりにするだろう。わたしは、それにうち勝ちたかった。
「おまえは、なるたけジュカン族らしく見えるように髪まで短くしている。いまおまえに必要なのは、腰布とジュカン族のつける飾りだと思うな」
「そのとおりだ」かれの腰布を見ながら、わたしはいった。
だしぬけにかれの目が狂気の炎に燃え立った。「それで、ノアク様から逃げおおせることができるとでも思っていたのか? ようし、おまえをかたづけてやる。おまえの息の根が止まれば、だれからも逃げだすことはないだろう」そういってかれは、石のナイフをぬいて近寄ってきた。
いまわたしは、クリートがわれわれのために調達してくれたナイフの一本を持っていた。もう一本はズォルが持っている。だから、わたしには身を守るすべがないわけではなかった。やつが迫ってきたとき、わたしは、ちゃんと身がまえていた。
あなたが狂人と戦わねばならないという羽目におちいらないようわたしは望みたい。これは、かつてわたしがきりぬけたもっとも恐ろしい経験のひとつだった。ノアクは、狂人であるばかりか、とてつもない力の持ち主だった。しかし、相手のもっとも人をぞっとさせるものといえば、実際には、そのけものそこのけのすさまじい面《つら》がまえ、恐ろしい目にみなぎる狂気の炎、冷酷な唇に浮かんだあわ、ずらりと並ぶむきだしの黄色い牙からくる恐怖だった。
わたしは、かれの最初の一撃をかわして、わたし自身のナイフを相手の胸にたたきつけた。しかしかれは、わたしの一撃をなかばそらしていた。かすり傷を負わすことができたのにすぎなかった。ところが、これがかれを刺激してその怒りをさらにつのらせたのだった。こんどは接近戦を挑《いど》んできて、ナイフで斬りかかってくると同時に、あいているほうの手で喉もとにつかみかかってきた。いま一度わたしは、かれをかわした。するとかれは、悲鳴をあげ、宙にとびあがって、わたしの頭の真上におり立ってきた。わたしは、バランスを失い、あおむけざまに床に転倒した。狂人がわたしの上にのしかかってくる。わたしの息の根を止めるべく、ナイフをふりあげた。しかしわたしは、かれの手首をつかみ、なんとかかれの手からナイフをもぎとることができた。かれは、黄色い牙をむきだして、わたしの喉仏に食らいつこうとした。
わたしは、かれの手首をつかんだ手をはなし、かれを押しのけざるをえなかった。それから、かれの喉元に手をかけることに成功した。わたしはまだ、ナイフを手にしていた。いまやわれわれは、たがいに相手がつかみかかってくるのをはずそうとやっきになり、腕をつっぱりあった。そのうちにわたしは、ナイフの切っ先を相手の心臓にもっていくことができた。渾身《こんしん》の力をこめてぶちこむ。
ギャッとひと声、やつは悲鳴をあげ、しばしけいれん的に身をふるわせた。そして、急に弛緩《しかん》したかと思うと絶命したのだった。
わたしは、やつの死骸を押しのけて、よろよろしながら立ちあがった。いまの果たしあいの恐ろしさと、身の毛がよだつばかりの顔がわたしの顔のあまりにも近くにあったことからなかば吐き気をもよおしていた。
その場につっ立ってハアハアあえいでいるとき、背後の入口から物音がきこえてきた。新手の敵にそなえてわたしは、くるりとむきなおった。しかし、目の前にいるのはクリートだった。彼女は、目を丸くして床の上にころがる死骸をじっと見つめていた。
「あなた、ノアクを殺したのね」なかばささやくように、彼女はいった。
「これで、わたしもジュカン族の服装《みなり》ができるというわけだよ」わたしは答えた。
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ペルシダーにくる前に、わたしは、人を殺したことがなかった。事実、だれかがこのような形で死ぬのを見たことがなかった。しかし、ペルシダーへきてからは大勢の人間を殺してきたのだ。といっても、それはつねに、自衛のためか、あるいは他の人びとを守るためだった。人間の平和と安全を守護する、正規にもうけられた軍隊のような組織がない社会では、つねにこうであるよりしかたないのであり、また、つねにそうでなければならないのだろう。ここペルシダーでは、人間ひとりひとりがおおむね、自分自身の治安隊であり、自分自身の裁判官なのであり、また自分自身の陪審員でなければならないのだ。これは、つねに正義がおこなわれるということを意味するものではない。往々にしてそうであるかもしれないが。
しかし、一個人が正義感と力とをかねそなえている場合、警官を呼んで悪人を、正義がおこなわれるとはかぎらない法廷の遅々としてはかどらぬ詮議《せんぎ》にまかせてしまうことによって得られるかもしれない裁きよりも、みずから|かた《ヽヽ》をつけることにはるかに大きな個人的満足感をおぼえるものなのだ。
わたしが思うに、クリートは、このような死を何度となく目にしてきたのだろう。だから、彼女の感情を刺激したのは、ノアクを殺したことではなく、むしろ、このわたしの犯罪が露見したなら、わたしの身にふりかかってくるにちがいない事態を恐れたためだった。
「これであなたは、二進《にっち》も三進《さっち》もいかなくなったわ」彼女がいった。
「他にはどうしようもなかったんだよ、そうだろう?」わたしがいった。「あとは、あまんじてかれにわたしを殺されているしかなかっただろう」
「あなたにかれが殺せるとは思ってもみなかったわ。かれは、とても力の強い男だったもの」
「うん、もうやってしまったよ。中途半端にしてはおけないからね。次の問題は、この証拠をどうやって隠滅《いんめつ》するかということだ」
「埋めたらいいでしょう」彼女がいった。「それを隠す他の方法はないわ」
「しかし、どこへ埋める?」
「あなたの寝床よ。あそこがいちばん安全な場所じゃないかしら」
死骸というのは、死後硬直がはじまる前に始末するのはきわめてやっかいなものだ。どういうわけか、生きているときの二倍は重い感じだし、四倍はあつかいにくい。しかし、わたしはなんとかノアクの死骸を肩にさしわたし、ズォルとわたしが使っている寝室へ運びこむことができた。ジュカン族らしく変装したズォルがちょうど出てこようとするところへ、わたしは、このお荷物をかついで近づいていったのだった。
「こんどはなんだい!」かれがさけんだ。
「ノアクがわたしを殺そうとしたのだよ」わたしがいった。
「それがノアクなのかい?」その声に半信半疑のひびきがこもっている。
「デヴィッドは、かれを殺さなければならなかったのよ」クリートがいった。「でも、ノアクが死んだということは、われわれにとってとてもよいことだと思うわ」
「なぜこんなところへ運んできたんだい?」
「われわれの寝室の床に埋めてしまおうと思ってるんだ」
ズォルが頭をかいた。「そいつの顔つきからすると、生きていてもらうより死んでもらったほうがいい仲間のようだな。よし、運びこめよ。穴掘りを手伝うぜ」
われわれは、寝室の壁の近くに深さ一メートルほどの長方形の穴を掘った。クリートが台所からさらにナイフを一本持ってきて、われわれに加勢してくれた。しかし三人でやっても、仕事のはかどりは遅々たるものだった。石のナイフの切っ先で、かちかちに堅くなった床の上をほぐして、それからそのゆるんだ土くれを手ですくいあげるのだ。しかし、しばらくのちにその仕事もおわった。ノアクの死骸をその穴の中にころがしこみ、上から土をかぶせてしっかりと踏みかためた。余分な土は、まんべんなく寝室の床にばらまいて、できるかぎりかたく踏みかためた。できあがった墓場の上には、寝床用の草を積み重ねた。室内のこの薄暗い光の中では、だれかが調べにやってきたところで、おかしいと思われることはないだろうと、わたしは確信した。
「さてと」これだけのことが完了すると、わたしは、ズォルにいった。
「ここから出ていくとしよう」
「どこへいく?」とかれ。
「宮殿から都《まち》へ出ていくよう努力してみよう」わたしが答えた。「ノアクが消えうせたことに気づかれるとまずい。すぐさま実行に移すべきだと思う。いいかい、クリート、きみはやはりスヴィへ帰るのがいい」
「わたしもいっしょに連れていってくださるの?」女は、びっくりしたような口調できいた。
「そうだとも。きみは、仲間のひとりだよ、そうだろう? きみの助けがなかったら、こんな機会にはとてもめぐまれはしなかっただろう」
「女がついていると足手まといになるのじゃないかしら」彼女がいった。「あなたがたおふたりでいくほうがいいわ。わたしを宮殿から出してくださることはできるかもしれないけど、部落の門をわたしを連れて通りぬけられるかどうかは、とてもあやしいことだと思うの」
「そいつは、そのときになってみないとわからないよ」わたしがいった。「とにかく、きみをおいていくわけにはいかないね」
「むろんだとも」ズォルがいった。「もしやつらが門でわれわれを止めたら、別の部落からきた客で、いまから帰るところなんだといえばいい」
「ギャムバからきたのだということにして」クリートがいった。「そこがいちばん遠い部落なの。そこからこの部落へやってくるものはほとんどいないのよ。だから、われわれの素性を調べあげるなんてことは、かれらにはできっこないわ」
そう、われわれは、宮殿の外へすら出なかったのだ。守衛が、ノアクの許可なくしては通すわけにいかないのだと、頑としてあとへひこうとしなかったのだ。そして、われわれがいささかしつこく迫ると、かれらは猜疑心を働かせるようになった。そこで、わたしはいった。「よし、わかった。いってノアクを連れてくる」
あともどりしながら、われわれは、大いに意気消沈した。いまや、逃亡を考えることすら絶望的なことのように思えたからだ。それでも、三人で逃亡のことを話しあった。そして、ついにズォルとわたしは、われわれの唯一の望みを、宮殿の内部事情に精通し、比較的警備のおろそかになっている入口があるかもしれないというチャンスにかけるしかないと、かく結論したのだった。われわれのまっ暗な前途に、希望の光がわずかにひとすじ、輝いていた。それは、われわれがジュカン族ではないと疑っているものがひとりもいないという事実だった。
クリートは、ほかにも宮殿からの出口があると思うといった。それというのも、彼女は、ミーザとモコがしばしば都《まち》へ出かけているといううわさをきいていたからで、しかもかれらが主要入口を使っていないと、彼女は確信していたのだった。
「かれらには秘密の通用門があるのだと思うわ」彼女がいった。
「ズォルとわたしで、そいつをさがしてみよう」とわたし。「きみはここにいてくれ。もし逃げ道が見つかったら、きみを連れに引きかえしてくるよ」
ミーザ王の宮殿は、数エーカーの土地を占めているにちがいなかった。それ自体が一個の部落だといってもよく、表の部落と同様、その設計は、狂人の気まぐれによるものだった。どこへも通じない、その終点がのっぺりした壁という、おれ曲がり、ゆがんだ暗い通路があちこちに走っていた。窓ひとつない、あやめもわかぬ真暗闇の室。いくつものせまい中庭――といっても、これらは実際には屋根のない部屋なのだった。住人が周囲の道筋をどうやっておぼえているのか、わたしの理解をはるかにこえていた。もしわれわれが逃げ道を発見したとしても、クリートのもとへ帰る道筋をどうやって見つけたらよいのか、見当もつかなかった。わたしは、ズォルにそういった。しかしかれは、あともどりができるとうけあった。たどる道筋の一歩一歩があきらかに、かれの記憶に消しがたいほど強く焼きつけられているのだった。生まれながらにそなわったかれの帰巣本能とたしかに関係のあるひとつの能力のおかげであることに疑いの余地はない。
宮殿を歩きまわっているあいだ、われわれは、たえず人に出くわしていた。しかし、だれひとりわれわれを疑っているものはなかった。その結果われわれは、自信過剰になり、たいへん大胆になってしまった。そして、われわれを自由の身へいざなってくれると願っている秘密の通路をさがしながら、われわれにはなんら関係のないあちこちをのぞいて歩いたのだった。ついにわれわれは、空腹と疲れをおぼえるようになった。結局、食物が見つからなかったので、われわれは横になって眠ることに決めた。というわけで、とある暗い部屋の片隅に身を横たえて丸くなり、目がさめたら食物が容易に見つかりますようにと祈ったのだった。
地上世界に暮らす人びとの中には、夜の到来とともにおとずれる暗闇を恐れるものが大勢いる。夜間を、獲物をねらうけものが徘徊し、犯罪者が悪事を働く時間だと考えているわけだ。しかしわたしは、一日二十四時間のうち十二時間、この地底世界の永遠に真昼の太陽をあなたがたの夜の、身をかくしてくれる暗闇とよろこんでとりかえてあげたいと、うそいつわりのないところで断言できる。その暗闇があれば、われわれは、これに乗じてミーザの部落から脱出する機会をいく度も得ていたかもしれないのだ。暗闇と言う便利な遮蔽《しゃへい》幕があれば、いろいろな行動を安全に実行することができたかもしれないのだ。それは、ただ暗いからというだけでなく、夜のあとにきまって昼がつづくという世界には睡眠時間がはっきりと定まっているからだ。だとすれば、理の当然としてわれわれを見とがめる目がきわめて少なくなるだろう。
しかし、夜のない世界では、睡眠のためのきまった時間がない。だから、少なくとも半分の人間は、終始あたりをうろついていることになる。いや、三分の二の人間といったほうがあたっているかもしれない。したがって、われわれが気づかれずに忍び出るというチャンスがないもひとしいことは、よくおわかりいただけるものと思う。そう、わたしは、一夜だけでいい、そんな暗い夜のためならなんでも差し出していただろう。
目をさますと、われわれはまた、宮殿からの秘密の出口をさがすむなしい努力をつづけたのだった。それでも一応は、一本の廊下から次の廊下とくまなく、組織的にあたるよう努めた。宮殿内には、もう長いこと人が住んでいないと思えるような場所もあり、反対にジュカン族が密集していて、われわれがその数のものすごさに助けられてかえって気づかれずにかれらのあいだを通りぬけたほどの場所もあった。
ちょうど、数エーカーの土地を占めるこの宮殿の設計にまったく秩序がないように思えるのと同様、その住人たちの行動にもまったく目的がないように思えた。われわれは、あらゆる程度の精神的におかしな人間、つまり毒にも薬にもならない半馬鹿からたけり狂う狂人まで、わけのわからぬことをぺちゃくちゃやっている白痴から一見正常な知性の持ち主らしい人間まで、出くわした。
ひとりの男は、小円を描いて狂ったようにぐるぐるかけまわっていた。いまひとりは、床の上にあぐらをかいてすわりこみ、目の前五、六十センチのところにある壁の一点をひたと見つめている。かと思うと、そいつのすぐうしろでは、またひとりの男が石斧で別の男を粉々に打ちくだいているのだった。そのあわれな犠牲者の身の毛もよだつばかりの悲鳴すら、あぐらをかいている男の注意をひかなかった。ふたりの男とひとりの女が無感動に見守っていた。しかし、ほどなくかれらの注意も、ひとりの頭の毛がもじゃもじゃの狂人にひきつけられた。その狂人は、四つんばいになって金切り声をあげ、部屋からかけだしてきたのだった。「おれはライスだぞ。おれはライスだぞ」
これまた、その男があたりの人間のひとりの噛みついて自分がライスであることを証明しようとするまでは、かれらには関係のないことだった。ふたりの男は、床の上にころがりたがいに噛みあい、ひっかきあった。そこをズォルとわたしは、われわれのいつ果てるともしれない逃げ道の捜索をつづけてその部屋を通りぬけていったのだった。
クリートとわかれてから、われわれは三回眠った。そして、たえずなんとか充分な食物を手に入れることができた。その二回などは、われわれが目の前にいるのすら気づいている様子もない白痴たちといっしょにすわってご相伴《しょうばん》にあずかったのだった。
一度、かなりのあいだ食物なしですごし、餓死寸前に追いこまれたことがあった。しかし、そうこうしているうちにとある大きな部屋にはいりこんだのだった。そこには、長いテーブルが置いてあって、たぶん百人ほどの男たちが食事していた。テーブルに数ヵ所空席があったから、われわれは、のらりくらりと歩いていって腰をおろした。前の二度の場合も同様、だれひとりわれわれに注意をはらうものはいないだろうとたかをくくっていたのだ。ところがどっこい、こいつがたいへんな大まちがいだった。テーブルのいちばん端についていた、羽根飾りを頭につけた男が、われわれの着席と同時に、大声でどなったのだ。
「そこのふたりの男は何者だ? わしは、まだそいつらを見たことがないぞ」
「きゃつらが何者か、わたしが知っております」われわれのむかいにすわっている男がさけんだ。わたしが、つと顔をあげてみると、そこにはローのねずみのような顔があった。
「うん、何者であるか?」羽根飾りの男がきいた。「それにやつらは、この王のテーブルでなにをやるつもりなのだ?」
「王のテーブルできゃつらめがなにをやるつもりなのか、そこはわかりません。しかし、ミーザ」ローが答えた。「きゃつらが何者かは存じておりますぞ。もう何度睡眠をとったかわかりませんが、それほど前にグーフォのもとに連行されてきた男たちなのです。そして、ノアクが姿を消すと同時に、きゃつらも姿を消しておりました」
というわけでわれわれは、ひょんなことで王の正餐《せいさん》室へまよいこんでしまっていたのだ。そして、羽根飾りをつけた男がミーザなのだった。ここでわれわれがなにか説明をこころみなければならないのは、ことのなりゆきからみてはっきりしているようだった。
「うん」とミーザ。「おまえたちは何者だ? そして、ここでなにをするつもりなのだ?」
「われわれは、ギャムバからおとずれてまいったものです」ズォルが答えた。
「きゃつらは、うそをついていると思います」ローがいった。「いちばん最後にきゃつらを見たときのことですが、きゃつらは、ジュカン族の服装をしてはおりませんでした。別の土地からきた他国者《よそもの》のようでしたね」
「名前はなんという?」ミーザがきいた。ジュカン族にしては普通以上の自制力を持ちあわせていたけれども、かれが次第にいらだちをおぼえはじめているらしいのが、わたしにはわかった。かれらの精神状態はきわめて不安定であるから、どんなささいなことでもかんたんにかれらの気持ちをひっくりかえしてしまうのだ。あとはどんなことがおっぱじまるのか、そのときになってみないとわからない。
「わたしの相棒の名前はズォル」わたしが答えた。「そして、わたしの名前はデヴィッド」
「ズォルか」ミーザがおうむがえしにいった。「こいつは、ジュカン族の名前といえなくもないが、デヴィッドはちがうな。そいつを連れていってしばりあげろ」ミーザがわたしをゆびさして、いった。「ズォル、そなたは、ミーザ王の宮殿の客人として歓待されるであろう」
「で、デヴィッドはどうなるんです?」ズォルがきいた。
「オガルを満足させるために生贄《いけにえ》が必要なのだ」ミーザが答えた。「そこで、デヴィッドは、申し分なくその役にたつ。やつを連れ去れい、そちたち」
「しかし、デヴィッドは、あやしいものではありませんよ」ズォルがくいさがった。「かれは、わたしの友人、あやしい人間でないことは、よくわかっているのですから。かれに危害を加えてはいけませんな、ミーザ」
ミーザがパッと立ちあがった。癇癪《かんしゃく》をおこし、怒りの炎に目が輝いている。「きさま、あえてわしにたてつこうというのか?」金切り声をあげた。「そちの喉をかっさばかせてやるところだが」それから声をおとし、おだやかな口調でいった。「そちは、わしの賓客であるからな。さあ、わしらとともに飲んで、食え」
わたしがひったてられて出ていこうとしているとき、ちょうどふたりの召使いが大きなマストドンの牙になにかの液体をなみなみと満たしたのをささげ持ってはいってくるのに出くわした。それがミーザに手渡される。かれは、それからぐっとひと口飲んで、そいつをかれの右手の男にまわした。かくて、マストドンの牙は、テーブルをめぐりはじめたのだった。わたしはついに、その部屋から引き出された。
わたしの護送者は、数ヵ所の通路をうねうねと折れ曲がって進み、やがてとあるせまい部屋にわたしを連れこんだ。その入口は雑な作りの扉で閉じられるようになっていて、表側のほうには木製のかんぬきが数本とりつけてあった。この薄ぐらい明りが射しこんでいる独房へかれらは、わたしをこづき入れ、両手を背中にまわして縛りあげていってしまった。
お先まっくらとしかいいようがなかった。わたしは、文句なしのとらわれ人であり、かれらの邪神に生贄《いけにえ》としてささげると宣告されたのだ。しかし、暗たんたる前途を照らしているただひとすじの光といっていえなくもないのが、かれらのわたしをうしろ手にしばりあげたその、不細工なしまりのないしばり方から発していた。かれらがわたしをうしろ手にしばりあげているあいだにすら、わたしは、手を自由にするのはむずかしいことではないと感じていたのだった。事実、かれらが立ち去ってからまもなくして、わたしは、手のいましめをほどくことに成功した。しかし、わたしの独房を閉ざしているかんぬきつきの扉は、こじあけようとするわたしの努力をまるでうけつけようとはしなかった。わたしは、まだまだ死刑を宣告されたとらわれ人でしかないのだった。
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暗い独房の床に横たわりながら、わたしは運命の女神が、その手中にわたしをつきおとしたこれら不可思議な一族に関して考えてみるべきことを見つけた。かれらが気ちがいであることに疑問の余地はない。それでもかれらは、これまでわたしが接してきたペルシダー人のどの種族よりもいくつかの点でより文明的といえるものを達成していた。かれらは、洞穴のかわりに部落に住んでいる。地面にじかにすわりこむかわりに、テーブルについて食事をしている。かれらには神があり、それを偶像の形で崇拝している。
運命のいかなる不思議な気まぐれがこの一族を狂気に追いやってしまったのだろうかと、わたしはいぶかった。この狂気はこれから先の世代にますますはげしくなって受けつがれていくものなのか、あるいは、この狂気の根源がいずれは消えうせてしまうものなのだろうか、わたしは思いめぐらしてみた。こんなことをとつおいつ考えているうちに、いつしかわたしは眠りにおち、サリとアブナー・ペリーと、そして美女ダイアンの夢を見ていた。だから、目ざめたときわたしの胸は、もはや永久に眠ってしまい、このような夢を二度と見ることができなくなるのだという悲しみに、重く沈んでいるのだった。
目をさましたとき、わたしは、ひどい空腹をおぼえた。というのも、王のテーブルについたとはいうものの、あまりにも早々にひっぱり出されてしまったので、物を食べている機会がなかったからだ。かれらが食物を持ってきてくれるだろうかといぶかったが、この一族がどんな連中か、わたしはよく知っていた。かれらは、わたしのことなどすっかり忘れてしまい、結局のところわたしは、餓死するまでここに横たわっていることになるかもしれないと気がついた。
ほかにもっとよいなにかをやることがなかったから、わたしは、この独房の広さを歩幅ではかってみようと思いついた――なにかわたしの心を集中しておくものが必要だったのだ。非常に暗かったから、わたしは、さぐるようにして壁の片側へ進んだ。それから、壁に片手をあてがったまま、独房の奥のほうへゆるゆると移動していった。最初はせまい部屋だと思っていたのだが、とても広いのにわたしはびっくりした。事実、わたしの独房は、とてつもなく広いものであることがわかった。やがて真相がのみこめてきた。かれらは、わたしをとある通廊に閉じこめていたのだった。
わたしは、その場で横切ってみた。わずか一歩の幅しかないことがわかった。これはどこへつづいているのだろうか? わたしは、この通廊伝いにどこまでも進んでいって、それを知ろうと決心した。しかしまず、最初に歩きはじめた壁のところへ引き返した。そうすれば、つねにわたしは、壁に片手をあてがっていることにより、もしそうしたいと望めば、いつでも出発地点へひきかえしてくることができる。通廊が枝わかれしていたり、あるいは交差しているかもしれない理由から、これだけの用心をすることは必要欠くべからざることだった。同じ壁にたえず片手をあてがっておかないと、暗闇の中で完全に自分のいるところがわからなくなってしまうかもしれないからだ。
わたしがそれまで見てきた他の壁と同様、これまた目まぐるしく方向が変わるのだった。しかし、つねにそれは、まったき闇の中を走っていた。
その通廊伝いにしばらく進んだとき、前方から人声がしてきた。最初はかすかで、おし殺したようにきこえた。が、なおも手さぐりで進んでいくうちに、かなりはっきりしてきた。だから、わたしは、その人声のほうへ近づいているのだということがわかった。ついに、はっきりとききとることができるようになった。ひとりの男とひとりの女の声だった。なにかについて議論しているらしく、ほどなく、なにをいっているのかわかってきた。
「もしいっしょにきてくれるなら、きみを生まれ故郷へ連れて帰ってやるがね」男がいった。
「ここにとどまるつもりなら、ブルマは、きみをオガルへの生贄にするだろう。ミーザは、きみを自分のものにしたがっているようだが、かれですらきみを救うことはできないよ」
「わたしは、あなたを信じないわ」女の声がいった。「あたしをこの都《まち》から連れ出すことはこんりんざいできないっていうことは、あなたにだってわかっているのでしょう。わたしの姿が見えなくなったとたん、ブルマとミーザは、都を捜索させているでしょうからね」
「かれらがそんなことしたって、少しも役にたちはしないさ」男がいった。「おれたちが消えたとだれかが知るとっくの昔に、おれたちは、都を遠くはなれているはずだからな。このすぐそばに、部落の周壁のむこうの森の中にある洞穴へつづく抜け道があるんだ。この扉のすぐうしろにな」そういってかれは、木製の羽目板をたたいた。それがわたしの耳のすぐそばだったので、わたしは一瞬、ハッとしてとびあがった。
するとこれが、宮殿の外へ通じる通廊だったのか。あわれな気ちがいの半ばかどもは、なんということはない、わたしに逃げてくださいといわんばかりに、自由へつながる通廊へわたしを閉じこめていたのだ。おかしくてしようがないことだった。クリートとズォルがいっしょにいたらと、わたしは、どんなに願ったことだろう。いまかれらを連れもどしに引き返していこうとすることは、まったくの無駄骨だった。第一、この通廊から宮殿へ出ていくことができないのだ。よしんばそれができたとして、いまやミーザの賓客として遇されているズォルに、どうやって近づいたらよいというのだ。友を求めて王の居所をうろつきまわっていたら、かならずや見とがめられていたことだろう。それに、この宮殿のいくつものまがりくねった通廊伝いにクリートのもとへたどりつくこともできなかっただろう。
それでも、なおかつわたしは、このふたりの友を見捨てることがいやだった。そこでわたしは暗闇のその場に佇立したまま、まず無理とわかっていながら、この事態をズォルとクリートに伝えられるなにか方法はないかと思いめぐらしたのだった。
そうやってつっ立って考えていると、仕切りのむこうで男が低い声で女に話しているのがきこえてきた。しかし、その声音ではかれらのいっていることがわたしにはききとれなかった。ほどなく、その声が高くなった。
「おれは、きみを愛してるといったろう」かれはいった。「ミーザなんかくそくらえ、ブルマなんかくそくらえだ。おれは、きみをものにするつもりだよ」
「あたしには、すでに連れあいがいるわ」女が答えた。「たとえいなかったとしても、あんたといっしょになるくらいなら、ジャロクといっしょになるつもりよ」
「おれとジャロクをいっしょにする気か、奴隷め!」男がさけんだ。カッとなって声がたかまったのだ。「おれさまは、王の息子のモコなんだぞ! おれを侮辱しくさるのか!」
「あたしが侮辱したのはジャロクよ」と女。
「オガルにかけて!」男が金切り声を発した。「もはやおまえを、だれにも渡さん。それに、二度とサリの土を踏むことはないだろうぜ。この侮辱のむくいは死よりほかにない、奴隷め」
すると、これがサリ出身の女だったのか。わたしは、耳をそばだてていたが、それ以上きこえてはこなかった。わたしは目の前の羽目板に身体ごとぶつかった。羽目板は、わたしの重量をもろに受けて、むこうへ砕《くだ》けた。部屋へ踏みこんでみると、ひとりの女がミーザの息子、モコにつかみかかられていた。女の背がこっちをむいている。そして、女の肩ごしに男がわたしを見た。その目が狂気の炎に燃え立っている。男は、その想いを傾けている相手につかまれた、ナイフを持っている手をふりほどこうとした。
「出てうせろ」わたしにむかって、やつはわめいた。「出ていけ!」
「きみの始末をつけてからな」わたしは、そういって、石のナイフを手にかまえてかれのほうへ接近した。
「おれはモコさまだ」やつがぬかした。「王の息子だぞ。出てうせろといったはずだ。おれにしたがわぬと、きさまは死ぬのだぞ」
「死ぬのはわたしではない」そういって、なおもわたしは迫っていった。
金切り声を発してやつは、女をつきはなし、わたしにむかってきた。わたしは、ナイフの使い手としておよそやつの敵ではなかった。だから、わたしが石のナイフだけに頼っていたら、きっとミーザ王の宮殿でわたしは、一生を閉じていたにちがいない。しかしわたしは、ナイフだけに頼らなかったから、死にはしなかった。やつの最初の一撃を右の二の腕でかわし、左の拳《こぶし》を相手の顎にたたきこんだ。その一発でやつは、ひっくりかえったが、ほとんどすぐに起きあがって、あらためてわたしにむかってきた。しかし、やつが少々ふらついているのが、わたしにはわかった。めくらめっぽうわたしに打ちかかってくる。わたしは、ひょいと横へとんで、やつの前からいなくなった。やつがわたしのそばをよぎるとき、わたしは、やつのわき腹へナイフをつっこんだ。ただのひと声、ぞっとするような悲鳴を発し、やつは、床にくずおれ、長々とのびて動かなくなった。そこでわたしは、はじめて女のほうをむいた。わたしの目は、驚きのあまり大きく見開かれた。一瞬、目《ま》のあたりにしていることが信じられなかった。
「ダイアン!」わたしはさけんだ。「きみだったのか?」
彼女がわたしのほうへかけ寄ってきて、両腕をわたしの首に投げかけた。「デヴィッド!」泣き声でいった。われわれは、かたく抱き合ったまま、その場に立っていた。どちらかが口を切るまで、ゆうに二分間そうしていた。
「デヴィッド」ついに彼女がいった。「あなたがお部屋にはいってきたすぐあとで、あなただとわかったとき、あたしは、自分の目が信じられなかったわ。あなたにわたしがわからなかったというのは、無理もありません。だって、あたしは、あなたのほうに背をむけていたのだもの。あなたに声をかけないようにしているのが、あたしにできる精一杯だったわ。あなたの注意をモコからそらしてはいけないから、声をかけないでいたのよ」
「どういうわけでこんなところにいるのか、話してくれないか」
「話せば長い物語だわ、デヴィッド」彼女が答えた。「もっと時間がもてるようになるまでまって。いまは、ここから脱出することを考えるべきだわ。モコがその抜け道のことを話してくれたのよ」
「うん」とわたし。「それはきいた。しかし、問題がひとつあるんだ。ここに、脱出の手を貸してやりたいとらわれ人が他にふたりいる。わたしといっしょにとらえられた、ゾラム出身のズォルと、スヴィからきたという女なんだけどね。われわれにジュカン族の衣装を手に入れる手伝いをしてくれ、少なくともわれわれの変装にひと役かってくれたのが彼女なんだ」
「その人たちを助ける努力をしなくてはいけないわね」とダイアン。「あなたにはすっかり煮つまった計画がなにかあると思うのだけど」
「そこが問題なんだ」わたしは答えた。「からっきしなんだよ」それから、わたしの前に立ちはだかっている難題を説明した。
わたしが話しおわると、彼女は、かぶりをふった。「ほぼ絶望的のようね」といった。「でも、かれらを見捨てたくないわ」
「まず、われわれのしなければならないことがひとつある。つまり、だれかがやってきてモコの死体といっしょにいるわれわれをみとめる前に、われわれがこの部屋から出ることだ。これからふたりでこの通廊をたどり、ほんとうに逃げおおせられるものかどうかたしかめてみてはどうだろう。そうしておけば、将来にそなえて計画を練るのに、都合がよくなるだろう」
その部屋をたち去る前に、わたしは、こわした扉をできるだけもとどおりに修復しておいた。それがかれらの注意をひき、われわれの逃げ道を示すことになってはいけないからだ。それからわたしは、モコの死体を暗い通廊へひきずりだした。
「もし連中がこいつをこの部屋の中で発見したら」わたしいった。「連中の捜索は、この部屋から開始されるだろう。かれらがこの通廊についてよく知っていれば、当然、われわれがそっちへ逃げたという結論に一足とびに達するはずだ。しかし、この死体がここにないと、捜索をどこからはじめたらよいか、見当もつかないだろう」
「あなたのいうとおりだわ」ダイアンがいった。「モコがこの部屋へやってきたのはだれも知らないのだし、それに、あたしの閉じこめられていたのはこの部屋ではないから、かれらがここであたしをさがすようなことはしないでしょうからね。モコがあたしをここへ連れてきたの」
手をつないでダイアンとわたしは、暗い通廊を進んでいった。そしてついに、ずしりとした扉のところへやってきた。扉は、そこから先へ進むのをさえぎっているのだった。
「このむこうに自由があるのにちがいない」扉の表面をなでてかんぬきをさぐりながら、わたしはいった。
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一一
扉のむこうにあった洞穴は、部落のつい表にある丘の斜面の石灰岩の層に開いたものだった。むこうの入口を通して射しこんでくる充分な光がわれわれのつい周囲、洞穴の内部を薄暗く照らしていた。この洞穴のひろがりがどれほどのものなのか、われわれにはすぐにはわからなかった。しかし、われわれの右手の壁面が見わけられるのに、左手のそれは、暗闇に没してみとめることができず、その暗闇から、冷たい澄んだ水の細い流れがちょろちょろ流れ出て、洞穴の床をよぎって表の入口からさらにそのむこうへと消えていた。
わたしがもっとも気にしていたのは、この洞穴がなにかの野獣の棲《すみか》になっているかもしれないということだった。しかし、なにもきこえなかったし、わたしの憂慮を裏づけるようなにおいもまったくしなかった。そして、入口まで歩いていって、その点に関する危険はほとんどないということがわかった。というのは、その洞穴の入口から、ほぼ六メートル下にある森に包まれた小峡谷の底まで、崖が垂直に落ちこんでいたからだ。われわれは、もっと危険とすらいえるペルシダーの有翼爬虫類からも無事でいられる情況にあった。その峡谷を濃密な森がおおっていたからであり、そこを飛びぬけられるのは、比較的小形の有翼動物のみだったからだ。洞穴の開口部の片側、崖にくっついて一本の木が生えていた。われわれがいつこの洞穴をあとにするにしても、そのときには、この木がわれわれの下へおりる手段となってくれるだろう。だが、今はおりていくわけにはいかないのだ。ズォルとクリートがいなかったからだ。
わたしはしかし、まだ洞穴のこちら側にとどまっていなければならないと思うと、いやな気がした。この抜け道がときどき、王家の一員に使用されているのであり、したがっていまにも発見されるかもしれないとわたしは思った。洞穴のすぐ表にキャンプを張るという思いつきも、部落に近いことから、名案だとするわけにはいかなかった。
ダイアンをひとり洞穴に残しておきたくなかったから、わたしは、彼女を連れて、例の木を伝って地面へおりた。その地点からわれわれは、崖に数多くの洞穴が口を開けているのを発見した。そのいくつかを調べてみて、ついにわたしは、その入口にかんたんに障壁が築ける洞穴をひとつ見つけた。中はせまく、乾燥していた。われわれは、木の葉や草を運んできて、それを洞穴の床に敷きつめた。ペルシダー人ならだれでもうらやむような小じんまりした、居心地のいい|ねぐら《ヽヽヽ》を、われわれは持つことができたのだった。あちこちの木からわたしは、木の実や果実を集めてきた。いっぽうダイアンは、地中から球根を掘った。こうして糧食を手に入れると、われわれは、休息をとり計画を練るために洞穴へひきかえした。
わたしがダイアンをいま一度見つけて以来、比較的安全にくつろぎ、楽しむことができたのは、これがはじめてだった。そこでわたしは、この機を利用して、ダイアンがこのミーザの部落に幽閉の身となるにおよんだ事情を話してもらったのだった。
彼女が語ったところによると、わたしの戦士たちは、サリへ帰りつくと、わたしが女戦士たちとの戦いで戦死したと話したらしい。スヴィの王の甥にあたるドゥ・ガッドがたまたまそのとき、サリをおとずれていた。かれは、わたしがこの世を去ったと知ると、ダイアンに連れあいになってくれとしつこく迫ったのだった。彼女は、それをたいへんわずらわしく思った。悲しみにうちひしがれるやら、この男にうんざりするやらで、彼女は、かれに対してすこぶるそっけなくふるまった。あげくの果てに、かれにサリからたち去るように命じたのだった。そして、ドゥ・ガッドがあくまでもサリにいすわり、彼女をわがものにせんと企《たくら》んでいるのを知って、彼女は、サリの王ガークに申しつけて、かれを立ち去らせるべくつとめさせたのだった。ドゥ・ガッドが生命を落さずにすんだのは、かれがスヴィの王の甥《おい》だからというにすぎなかった。
ダイアンは、戦士たちからの伝言をききはしたものの、わたしが死んだという事実を信じることができずに、わたしの捜索隊を組織したのだった。
その捜索隊がたどらねばならなかった道筋は、スヴィ族の土地を通過していた。ダイアンがひどく驚いたことに、かれらは、スヴィの王から敵意をもって迎えられたのだった。スヴィ王は、その追いドゥ・ガッドに勝手なことをふきこまれて、サリ人に悪感情を抱くようになっていたのだ。
ダイアンのキャンプは、はるかに多勢《たぜい》の戦士からなる軍団に包囲され、攻撃を受けた。
当然彼女の部隊は敗北し、ダイアンは、とらわれの身となった。そして、スヴィ王の面前に連行されたのだった。
「そなたが女であるのが残念だ」と、かれはいった。「もし男だったら、そなたの処遇もわかろうというものだが、それというのも、そなたがわしに加えた侮辱は、死にあたいするものだからな」
「どのような侮辱です?」ダイアンはきいた。
「理由もなくそなたは、わしの甥ドゥ・ガッドに対してサリから立ち去るよう命じたではないか」
「かれがそういったのですか?」
「そうだ」王が答えた。「それにかれは、生命《いのち》からがら逃げ帰ってきたのだともいっておったぞ」
「かれは、なぜサリから追放されたか、その理由をいいましたか?」ダイアンはいった。
「かれがスヴィ人だったからだそうだ」
「それは本当ではありません」ダイアンがいった。「かれは、あたしの連れあいが死んだとききました。するとこんどはあたしに連れあいになれと、しつこく迫ってきたのです。あたしは、おことわりしました。でもかれは、あたしを悩ませつづけたのです。そこであたしは、かれにサリから立ち去るよういいました。かれがすぐに立ち去っていたら、万事は丸くおさまっていたでしょう。でもかれは、なおもサリにいつづけ、あたしを苦しめたのです。こんどはあたしも、ガークに申しつけてかれを去らせるようにしました。ガークは、たいへん立腹しました。だから、ドゥ・ガッドが生命をおとさずにすんだのは、本当に運がよかったというべきですわ」
「そなたのいっておることが事実だとすれば」王はいった。「罰せられるべきは、ドゥ・ガッドで、そなたではないな」
「あたしは、事実を述べています」ダイアンがいった。「ドゥ・ガッドが自分がスヴィ人なのでサリから追放されたのだといった、その話の内容がとてもばかげているのですもの、わたしが真実を述べていることぐらい、あなたにもわかるはずですわ。ペルシダー帝国の設立以来、スヴィ族とサリ族は、友好的な関係を保ってきたのではありませんか。あなたもご存知のとおり、大勢のスヴィ人がサリへやってきて、誠意をもって遇されてきました。われわれは、つねに帝国最強の一角であった同盟国の敵意をむやみにあおりたてるようなまねをするほどおろかではありません」
王は、得たりやおうとばかりにうなずいた。「うん、もっともな話だ。これで、そなたが真実を申し述べておるのだということがはっきりした。わしの戦士たちがそなたのキャンプを攻撃したこと、そなたが逮捕されるという不名誉な立場に追いこまれる羽目になったことを、心からあやまる。そなたは、自由の身だ。行くもよし、とどまもるよし。それは、そなたの意のままだ。だが、いってくれ、スヴィへきたのはどういうわけかな?」
「あたしは、ペルシダー皇帝のデヴィッドが亡くなったといううわさを信じてはいません」ダイアンは答えた。「戦士たちをひきつれて、かれの捜索にまいるつもりだったのです」
「なるほど。では、今回殺された戦士たちを、わたしの戦士で埋めあわせして進ぜよう」王がいった。「このまま、捜索の途につかれるがよかろう」
「もう手おくれですわ」とダイアン。「デヴィッドを最後に見たという場所へわれわれを案内していくことになっていた、ふたりしかつれてこなかった男が殺されてしまったからですわ。サリへひきかえして、他の案内人を参加させなくてはならないでしょう」
「では、サリへひきかえすのに護衛が必要だ」王がいった。
ことのなりゆきと、自分が罰せられようとしていることをきいたドゥ・ガッドは、二十人ほどの部下をひきつれて部隊を逃げ出した。それから、サリへの道筋を一行程ほど進んで、そこにとどまり、ダイアンとその護衛がやってくるのを待ち伏せた。
危険など知らぬが仏で、ダイアンとその護衛は、待ち伏せの只中へ踏みこんできた。ことのなりゆきをさとり、ドゥ・ガッドの手勢が彼女の味方を数で圧倒し、敗北はまずまちがいなしと見てとった彼女は、この戦いの最中に逃れたのだった。
ドゥ・ガッドとその部下たちがダイアンとサリの中間にはだかっているので、彼女は、かれらを避け、逃れるためにまわり道をしようとした。
ペルシダーは、女が単身で旅するにはすこぶる危険な、野蛮な世界なのである。つぎつぎと危険が迫り、いかんともしがたく彼女は、ますますサリから遠ざかるをえなくなってしまったのだった。あと戻りしようとするたびになにかが彼女のゆく手をはばんだのだ。
そのうちに彼女は、ドゥ・ガッドが執拗《しつよう》に彼女の行く先ざきにまつわりついていることに気がついた。それからというものは、かれから逃れることのみが彼女の一念となった。どれほどのあいだ、またどのあたりまでさまよい歩いたのか、彼女には見当もつかなかった。彼女がこれだけ多くの危険を逃れることができたのは、まさに奇蹟だった。しかしついに、彼女は、ジュカン族の手中におちてしまったのだった。そして、とっくの昔に逃げることをあきらめていた。そこへ運命の女神がわたしを導いたのだ。しかし、ふたたびいっしょになったいま、われわれが切り抜けてきたすべてが、永遠に失われてしまったものとふたりとも考えていた。復活したまじわりで味わった深い喜びにくらべると、まるでなんでもなかったかのように思えるのだった。
ダイアンは、サリに住むわれわれの友人についての近況を、なかんずく、ペルシダー連合王国が依然として定刻に忠誠をつくしつづけているという事実を話してくれた。かつて、わたしが長い留守をしているときのこと、この連合が崩壊したことがあった。しかしいまや、こうした危険は過去のものとなってしまった感じだった。もっかわれわれの関心の的《まと》は、ズォルとクリートを連れて逃亡する計画を練ることだった。
いま一度わたしは、武器の製作にとりかかった。こんどは、ダイアンとわたし自身のための弓ふた張りと矢、それと短めの槍二本。これらの武器は、ダイアンが練達の域に達していたものだった。わたしは、われわれがひとたび〈ジュカン族の谷〉をぬけだしてしまったら、ふたりして幾多の危難を切りぬけ、サリへ帰りつけるのだということに、いささかの疑念も抱いてはいなかった。このチャンスをズォルとクリートのためにむざむざだいなしにしなければならないような目になれば、悲劇だった。が、かといって他に、だれにも恥じることなくなすべきことはなにもなかった。だからわたしは、武器を作りながらも、ズォルとクリートを連れてこの部落をぬけだすことができるような無理のない計画を立てようと、思いをめぐらしてもいたのだった。
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一二
武器が完成するころまでには、ズォルとクリートを救出するのに功を奏するものと望めそうな計画がかたまっていた。もっとも、この計画にしても、かなりの危険はともなうものであったが。そのいちばんの弱点は、わたしが都《まち》へ潜入しているあいだダイアンを保護もなく単身で洞穴に残しておかねばならないということだった。このためにわたしは、この計画が気に入らなかったが、いっぽうダイアンはダイアンで、わたしがとびこんでいかねばならない危険、つまりつかまるのではという理由からこの計画を気に入らなかった。だが、他に方法はなさそうだった。そこでわたしは、ただちにこの計画を実行に移す決意をかためたのだった。
ある種の木の実をすりつぶして作った褐色の顔料で、ダイアンは、わたしを変装させるために、わたしの顔にうっすらと小じわやしわを描いてくれた。この仕事をおえて彼女は、自分でもわたしがだれだかわからなくなったといった。これだけの操作でわたしの顔の表情が大幅に変わってしまったのだ。
「なにもかもがうまくいって、ふたたびあたしのもとへ帰ってきていただきたいものだわ」彼女がいった。「あなたがお帰りになるまであたしは、あなたの無事を祈ってやきもきしながら暮らしています」
「もし、三回眠って」わたしは、彼女にいった。「わたしがもどってこなかった場合、きみは、サリへ帰るよう努めたまえ」
「もしあなたがおもどりにならなければ、あたしは、どこへいこうと同じですわ」
それからわたしは、彼女にわかれのキスをした。洞穴の入口に障壁をきずき、それを灌木と草で隠蔽《いんぺい》してから、わたしは、部落へむかった。洞穴には、食糧がたっぷりたくわえてあった。立ち去る前に、わたしは、数個のひょうたんに水を満たしておいた。だから彼女は、三回の睡眠をとるあいだよりもずっと長く、食物と水に関するかぎり心配はないだろう。洞穴は申し分なくさえぎられ、隠蔽されていたから、彼女が人間あるいはけものに発見される危険はまったくないと確信した。
わたしは、部落の門へと近づいていった。そこで二人ほどの、兇猛そうな目をした門衛に止められた。
「何者だ?」ひとりが誰何《すいか》した。「この部落になんの用がある?」
「わたしは、ギャムバからやってきたものだ」わたしはいった。「ミーザ王をたずねてきたわたしの友人、ズォルと落ちあうためにやってきた」
かれらはしばらく、ひそひそ声で協議していた。やがて、最初にわたしに口をきいた戦士がふたたび話しかけてきた。「おまえがギャムバからきたものだと、どうしておれたちにわかる」ときいた。
「わたしがズォルの友人で」と、わたしは答えた。「それに、かれがギャムバの出身だからだ」
「うん、ありそうな話だな」中のひとりがいった。「名前はなんという?」
「イネス」わたしは、苗字《みょうじ》を使って答えた。
「イネ・スか」そいつがおうむがえしにいった。「妙な名前だ。ということは、おまえは、ギャムバからやってきたのにちがいないな」
他の連中がてんでにしかつめらしくこっくりうなずく。「その点、疑いの余地はない」別のひとりがいった。「やつは、ギャムバからきたんだ」
「どうも様子が気に食わないな」三人めがいった。「やつは、槍を持っていない。ナイフ一本でギャムバからの道中をずっと無事でやってこれるやつはいないぜ」
あきらかにそいつは、他の連中より多少りこうのようだった。かれの反駁《はんばく》があざやかで、まとをついていたからだ。
「そのとおりだ」最初に口をきいたやつがいった。「おまえは、槍を持っていない。したがっておまえはギャムバからきたはずはないな」
「やつは、ギャムバからきたんだと、おれがいったろう」別のやつがわめいた。
「なら、槍はどこにあるんだ」かしこいやつが、自信満々の態《てい》でいいつのった。
「森へはいる前、平原でなくしてしまったのだ」わたしは説明した。「腹ペコだったから、食物がほしかった。ところが、一頭のカモシカめがけてわたしの槍を投げつけたんだが、そいつは、むきを変えて、槍をつきさしたまま逃げてしまったのだよ。すばらしい友人たちよ、わたしが槍をなくしたのはそういう次第だったのさ。さあ、入れてくれ。さもないとミーザは立腹するぞ」
「うん」門衛の隊長がいった。「おまえは、あやしいやつではないようだ。そんなところだろうと、おれは思っていたがな。よし、部落へはいっていい。どこへいきたいのだ?」
「ミーザ王の宮殿へいきたいのだ」わたしは答えた。
「なぜ宮殿へいきたいのだ?」と、かれがきいた。
「そこにわたしの友人、ズォルがいるからだよ」
そのとき、例のかしこいやつが変なことを思いついた。「かれがそこにいると、どうしておまえにわかる?」ときいてきた。「ギャムバからきたばかりだというのにな」
「まったくだ」他の連中が異口同音にいった。「かれがそこにいると、どうしておまえにわかるのだ?」
「かれがそこにいるとわかるわけではない。しかし――」
「ふん、やつは、わからんとみとめているな。なにかよからぬたくらみを抱いてここへやってきたんだ。となれば、殺してしまわねばならんな」
「ちょっとまってくれ!」わたしはさけんだ。「最後までいわせてくれよ。わたしは、かれがそこにいるとわかるわけではないといった。しかし、かれがミーザをたずねてやってきたのだということはわかっている。だから当然、かれがミーザの宮殿にいるのだと思ったのだよ」
「いや、すばらしい。もっともな話だ」門衛の隊長がいった。「よし、はいっていいぞ」
「宮殿へいくのにだれかわたしにつけてくれないか」わたしは、隊長にいった。「そうすれば、わたしがあやしい人間ではないということがわかるだろうし、同時に、わたしが友人のズォルに会うのに、ごたつかないで中へ入れてもらえるからね」
わたしがやきもきしたことには、隊長は、例のかしこいやつ、つまり疑い深いやつをわたしにつけてくれたのだった。われわれふたりは、せまい通路をうねくねしながら宮殿へと進んでいった。狂った都《まち》で展開されている光景は、わたしが最初にやってきたときとほとんど同じだった。名状しがたいほどの狂気の沙汰、醜怪な、あるいはけものじみた行為。めいめい気分のおもむくままにふるまっているのだ。宮殿前の広場では、僧侶たちが相も変わらず、ジュカン族の守り本尊、オガルの周囲をとんぼ返りをうってめぐっていた。
わたしの案内人は、まだわたしを疑っていた。その疑っていることを口にするのにいささかも躊躇《ちゅうちょ》しなかった。「おまえは、ぺてん師でうそつきだ」かれはぬかした。「おれは、おまえがギャムバからきたということ、ズォルという名前の友人がいるということを信じちゃいないぞ」
「きみがそう考えるなんて」とわたし。「まったくおかしなことだよ」
「なぜだ?」ときいた。
「きみは、いままでわたしが会った人間でいちばん頭がいいからだよ。だとすれば、わたしがうそをついてないとわかりそうなものだからね」
かれがお世辞によわい男だということがわかった。というのも、返事をする前にニコニコして、ちょっとだけ気取った格好をしたからだ。それから、かれはいった。「むろん、おれは頭がいいさ。だが、おまえは、たいへんなばかだよ。そうでなかったら、おれがずっとふざけて冗談をいってたんだということがわかったはずだからよ。もちろんおれは、最初からおまえがギャムバからやってきたのだってことはわかっていたさ」
「きみは、なかなかおもしろい人だね」わたしはいってやった。「なかなかユーモアのセンスがある。いまではわたしも、宮殿へはいって友人をさがすのに苦労しなくてすむと、自信がわいてきた。わたしの友人としてきみのような実にえらい、たいへん頭のいい人がついてくれているんだからね」
「おまえは、ぜんぜん苦労しないですむよ」かれがうけあった。「おれが自分でおまえを宮殿へ入れてやり、まっすぐ王の居所へ連れていってやるからな」
そう、やつは、自分でいっている言葉どおり親切な男だった。かれは、よく知られているらしく、わたしの想像したよりはるかに重要人物のようだった。というのも、宮殿の守衛がすぐさまわれわれを通してくれたからだ。いま一度わたしは、グーフォがズォルとわたしを受けついだ部屋にはいった。そこには、新任の家令がいた。しかし、かれは、われわれを一顧だにしなかった。どうやら憂うつ症にかかっているらしい。床の上にべったりすわって、おいおい泣いていたからだ。宮殿のきまりのひとつに、家令ははいってくる者に対していちいち質問すること、というのがあった。だから、われわれは、かれの許可を得ないでそこから奥へはいるわけにはいかないのだった。
「わしはかまわんよ」わたしの案内人がこの許可を乞うと、家令はこういった。「わしは重病人なんだよ。それはひどい、ひどい病気にかかってるんだ」
「どうしたのかね?」とわたし。
「別に」かれはいった。「そこがめんどうなところなんだ。つまりわしは、なにもわずらっておらんという重病人なんだよ」
「それはまた、たいへんやっかいなことだね」わたしがいった。
かれは、感動したような様子でちらとわたしを見あげた。「ほんとうにそう思うかな?」といった。
「その点、疑いの余地はないね」わたしは、かれにうけあってやった。
「どこへいきたいのだといったかな?」かれがきいた。
「ミーザ王の賓客の、わたしの友人ズォルをたずねてやってきたのだが」
「それなら、なにをぐずぐずしておる?」怒ったようにかれがきいた。「ここから出ていって、わしをひとりきりにしてくれ」そこで、案内人とわたしは、かれを通りすぎてその部屋から出ていった。
「ときどきおれは、かれが気ちがいだと思うんだ」案内人がいった。「たいていのものがそうだがね」
「かれがはたして気ちがいだろうか」わたしは答えた。
クリートが働いていた台所のそばを通りすぎたとき、われわれは、その廊下で彼女と顔つきあわすほどの近さで出くわした。彼女は、まともにわたしの顔を見たが、わたしの正体がわかったというそぶりはこれっぽっちも示さなかった。わたしの変装がそれほど効果的であったのか、それとも、クリートがきわめて聡明でわたしの正体をさとったことを示そうとしなかったのか、わたしにはわからなかった。
宮殿の奥へさらに進んでいくにつれて、わたしの案内人の歩きかたが徐々に緩慢になってきた。なにかこまったことでもあるような様子だったが、ついにそれがはっきりした。
「ここから先はおまえだけでいくほうがいいだろう」
「どこへいったらいいのか、わたしにはわからない」わたしは答えた。「なぜわたしといっしょにきてはもらえないのだ?」
「この宮殿では、奇妙なことがひんぱんに起こってるんだ」とかれ。「ミーザは、他国者《よそもの》に会うことをあまりよろこばんかもしれない」
「なにがあったんだい?」
「うん、そのひとつとしては、王の息子のモコが消えてしまったんだ。オガルの生贄《いけにえ》となるはずだったサリの美人もそうだった。デヴィッドという名前の囚人がいたが、そいつも消えてしまったんだよ。そいつはうしろ手にしばりあげられていた。しかも、牢に閉じこめてあったのだぜ。そいつも、オガルの生贄になるはずだった。しかし、連中がやつを連れに牢へいってみると消えてしまってたんだ」
「それはまた、不思議な話だ!」わたしはさけんだ。「かれがどうなったのか、なにか見当でもついているのじゃないかね? それに、モコや、サリからきたというその女についてはどうなんだい?」
「かいもく、見当もついていないのさ」と、かれは答えた。「しかし、ブルマは、別の生贄を手に入れるやいなや、かれらがどうなったか知るだろう。オガルがかれに教えるのさ」
「ブルマが生贄のひとりぐらい見つけるのに苦労なんかぜんぜんしないのじゃないかと思うがね」とわたし。
「いや、きわめて特別なやつを見つけなくてはいけないのだ」案内人は答えた。「ジュカン族ではない男、あるいは別の部落からやってきたジュカン族でないとだめなのさ」そういってかれは、やにわに首をめぐらして、奇妙な目つきでわたしを見つめた。やつの念頭にどんな思いがひらめいたのか、それを知るのにかれにきいてみる必要はなかった。
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一三
われわれがミーザの居所へ近づいていくとき、いろんな思いがわたしの念頭に入れかわり立ちかわり浮かんでは消えた。わたしはそのとき、より高等の裁判所が裁判のさしもどしを命じてくれることを望んでいる、あるいは知事が恩赦の処置をとってくれることを望んでいる死刑囚かなにかのような気持ちでいたにちがいないと思う。ただ、こっちなら、まだしも大いに希望が持てたし、さほどとっぴなことは起こらないだろう。わたしの連れがわたしを見つめた表情は、わたしの運命が定まったとでもいうように受けとれたのだった。というのは、もし|そうした考え《ヽヽヽヽヽヽ》がかれに浮かんだのだとしたら、生贄を求めているブルマにも同じ考えが重い思い浮かぶことはまちがいないであろうからだ。かれは、あの奇妙な、狂気じみた表情を目にたたえてじっとわたしを見つづけていたが、やがていった。「オガルがおまえのことを気に入るだろうと思うよ」
「そう願いたいものだね」とわたし。
「ミーザの居所はもうすぐだ」かれがいった。「たぶん、そこにブルマもいるだろう」
「そう」わたしはいった。「いっしょにきてくれて、どうもありがとう。王の居所へ他国者を連れてきてめんどうなことになるかもしれないと思うなら、もうひきかえしてくれてもいいよ。ひとりでだいじょうぶだ。王の居所へはいけると思うからね」
「いやいや」かれはいった。「ずっといっしょにいくよ。おまえは、下へもおかぬ歓待を受けるだろうし、おれは、おまえを連れてきたことでほめられるだろう。こいつには自信があるんだ」
ほどなくわれわれは、大勢の人間がひしめいている、とある大きな部屋へはいった。いちばん奥に高壇があって、そこにミーザが鎮座していた。王は、両わきに十二、三人ほどのがっちりした戦士をならべて、いつ殺人狂になり変わってしまうかもしれない臣下たちからおのれを守らせているのだった。ミーザは、羽根の飾りのほか頭には、王冠のようなものをなにもつけていなかったけれども、わたしはそれが、かれの頭が窮屈になるためばかりでなく、きわめて不安定になるためだと確信した。
部屋の中央には、ひとりの男が両腕で奇妙な身ぶりをしたままつっ立っていた。そのゆがんだ顔つきは、まさしく鬼さながらで、憎悪にゆらめいていた。わたしの案内人は、かれのほうにあごをしゃくって見せ、片目をつぶった。そして、ひじでわたしのわき腹をつっついた。
「あいつは気ちがいだ」といった。「やつは、自分をオガルの弟だと思っている」
「で、そうじゃないのかい?」とわたし。
「ばかなことをいうのはよせ」わたしの案内人は、ぴしりといった。「やつは気ちがいだ。おれがオガルの弟さ」
「おお」と、わたしはいった。「かれは、ほんとうに気ちがいだ」
その男は、たしかに見るものの度肝をぬくような様子をしていた。ぴんとつっ立ち、筋ひとすじ動かさずにひたと前方を見つめている。ほどなくひとりの男がかけだしてきて、とんぼがえりをうちながらかれの周囲をめぐりはじめた。案内人がまたわたしをつっついた。「やつも気ちがいだ」といった。
だれひとり、神だという妄想を抱くご仁にも、その周囲をめぐる追従者にもまるで注意をはらっている様子はない。わたしは、このふたりを見つめながら、地上世界のいわゆる偉人のうちにも狂気の域に達しているのにちがいないといってさしつかえないのがいくらかはいたのだと思わないではいられなかった。というのも、かれらの多くが自分はえらいのだという妄想に動かされているらしいのがはっきりしているからだ。いまの世にだって、気どった格好をするのが好きなご仁を五人や六人はいるのをすぐに思いつけるだろう。
「あっ」と、わたしの案内人がとんきょうな声をあげた。「ブルマを見つけたぞ」とたんに、ひどく興奮してしまったらしい。わたしの腕をつかみ、床をつっ切ってわたしをひきずっていった。お目あては、ミーザがつけているのとまったく同じぐらい大きな羽根の頭飾り――といっても、白のかわりに黒の羽根で作ったものだが――をつけた、でぶの、ギラギラ脂ぎった感じの男だった。
わたしの案内人は、ブルマに近づくにつれてますます興奮していった。わたしは、この窮地から逃れるなにかいい計画はないものかと、懸命に頭を回転させた。しかし、お先まっくらだった。わたしの見るかぎり、逃れるチャンスはこれっぽっちもなかった。興奮にうちふるえながら、やつは、わたしをひきずってブルマの前へ進み出た。
「ブルマ」と、やつはさけんだ。「ここに――」
やつは、やっとそこまでいった。いきなり硬直して、目を白黒させ、前のめりにブルマの足もと、床の上にぶっ倒れた。てんかんにおそわれたのだった。そうやってやつが身体をひくひくけいれんさせ、口から泡を吹いてころがっているのをよそに、ブルマは、物問いたげにわたしを見つめていた。
「かれは、なんの用があったのだ?」と、かれがきいた。
「こういおうとしていたんだよ。『これは、わたしの親友なのですが、ズォルという名前の男を捜しているんです』とね」わたしは答えた。
「で、おまえはなにものだ?」
「わたしは、ナポレオン・ボナパルト」
ブルマは、かぶりをふった。「おまえのことなどきいたこともないぞ」といった。「ズォルならあそこにいる。王のそばだ。だが、わしの考えではやっぱり、あいつは、オガルへの絶好の生贄になるんだがな」
「で、ミーザは、そう考えていないのかね?」
「そうなんだよ」強調してブルマは答えた。それから、わたしのほうへ身をのり出してきて、低声でいった。「ミーザは気ちがいだ」
わたしの案内人は、まだ発作を楽しんでいた。これは、わたしにとっておあつらえむきの小休止だった。というのも、やつが意識をとりもどさないうちに、ズォルを見つけてその場から退出する時間をわたしにあたえてくれるだろうからだ。そこでわたしは、ブルマのもとをはなれ、玉座のほうへむかった。
ズォルを見つけるのに長くはかからなかった。わたしは、ずかずか近づいていってかれのまん前につっ立った。しかし、わたしがだれなのか、かれにはわからなかった。かれが話している連中が近くに立っている。わたしはあえて、かれらの前で自分の正体を暴露《ばくろ》するような真似はしなかった。
ついにわたしは、かれの腕にさわった。「ちょっとわたしときてくれないか」わたしはいった。
「ここにきみの友人がたずねてきた。少しのあいだだけでもいいから、きみに会いたい、とそういっている」
「どの友人だ?」
「きみがグルックの畑でいっしょに働いていた友人だよ」とわたし。
「おまえは、わたしをわなにかけようとしているな」かれがいった。「その男は、二度とつかまらないかぎり、こんなところへくるわけがない。自分の意思でここへひきかえしてくるほどのばかじゃないよ」
「それがきているのだ」わたしは、低声でいった。「わたしといっしょにこい、ズォル」
かれは躊躇した。さてどうしたものか? かれがここの連中をみんな疑っている、だから、これがかれをどこか人目につかないところへ連れ出し、殺害しようとの計画かもしれないと思っていることは、わたしにはわかっていた。ジュカン族というのは、そういうぐあいにやりかねないのだ。しかし、いくら低声で話しても小耳にはさまれる範囲にこれだけ大勢の人間がいる前で、わたしは、自分の正体をあかすわけにはいかなかった。わたしは、ちらと案内人のほうをふりかえってみた。かれに注意をはらっているのはひとりもいない。しかしかれは、てんかんからそろそろ回復しつつあるようだった。やつが意識をとりもどさないうちに、わたしとしては早急に、なにか手をうたねばならなかった。そして、そのわたしを案内してきてくれた男の腹ばいになった姿から目をあげたとき、ブルマがひたとわたしを見すえているのに気がついた。と、やつは、広間をつっ切ってわたしのほうへやってきはじめたのだ。わたしは、ズォルのほうにむきなおった。
「わたしといっしょにきてくれ」わたしはいった。「ぜひともわかってほしいのだが、わたしがいってるのはうそではない。でなければ、どうしてわたしがグルックの畑のことを知っているかね?」
「もっともな話だ」ズォルがいった。「そこまでは考えなかった。わたしをどこへ連れていきたいのかね?」
「クリートを連れに引きかえすのさ」低声でわたしはいった。
するとかれは、穴のあくほどにわたしを見つめた。やがてかれの目が少しだけ大きくなった。
「わたしとしたことが」とかれがいった。「いこう」だが、わたしはいくことができなかった。ちょうどそのとき、ブルマがわれわれの前に立ちはだかったからだ。
「このナポラパルトはどこからきたのだ?」と、ズォルにきいた。ズォルが困惑顔をつくった。
「おまえの友人のナポラパルトだぞ」ブルマが追及する。
「そんな名前の人間のことはきいたこともないが」と、ズォルはいった。
「ふん、ぺてん師め」燃えるような目でわたしをにらみすえながら、ブルマがいった。「このナポラパルトという男は、おまえの友だちだといったのだぞ」
「きみは、わたしのいったことを誤解している」わたしが割ってはいった。「わたしの名前はナポレオン・ボナパルト、そういったんだよ」
「おお」とズォル。「もちろん、ナポレオン・ボナパルトのことならよく知っている。かれは、わたしの旧友なんだ」
「かれの顔にはどことなく見おぼえがあるぞ」ブルマがいった。「かれとは知りあいだったにちがいないと思うが、どこでだったかな、ナポラパルト?」
「わたしがここにきたのはこれがはじめてなんだが」わたしはいった。
「それじゃ、どこからきた?」とブルマ。
「ギャムバからだよ」
「すばらしい!」ブルマが叫んだ。「オガルへの生贄としてわしが探しておる男だったんだよ、おまえは」
これはこまったことになったものだ。わたしの計画がいま一歩で成功というところだったのに。わたしは、意気消沈した。さて、どうしたものか? 気ちがい人間というのはおだてあげていればいいと、前にきいたことはあった。しかし、ブルマをどうやっておだてあげたらいいというのだ?
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一四
わたしは、恐慌をきたすタイプではない。しかし、現在おかれている情況は、この危険な野蛮世界でのわたしの長い経験で思い起こすことができるどんな場合よりもはるかに、恐慌をきたしてもあたりまえの情況だった。
案内をしてくれるものがいないとどこへいったらよいのかまるでわからない宮殿の中で、わたしは、狂人にとりまかれていたのだ。そのひとりひとりが、ことと次第では敵になるおそれがあった。しかし、なんといってもいちばん恐ろしいのは、もしわたしがもどっていってやらないと、ダイアンが確実に途方にくれてしまうだろうという点であった。わたしは、ほかならぬ親切心と人情に動かされてのことだったのだが、こうした気持ちや、あるいはわたしの忠誠心に実際にはまったく執着していなかったふたりのために、こうやって彼女の安全をむざむざおびやかしてしまった自分を責めた。そのときのわたしの気持ちとしては正直いって、ふたりを犠牲にすることでダイアンのもとへ帰っていけるものなら、これっぽちの良心の呵責《かしゃく》も感じずにこのふたりを犠牲にしていただろう。わたしは、自分の運を、計略を過信していたことに気がついた。運は、わたしを見はなしたようだし、計略のほうは、もっとずるがしこいといってもいい狂人の気まぐれによって無効にされようとしていた。
ついにわたしは、この場をこけおどかしで切りぬけてやろうと決意した。乱闘になった場合、ズォルがわたしについてくれることはわかっていた。また、われわれが血路を開きつつこの宮殿を逃れ出ようとする場合、ジュカン族たちがどんな反応をしめすかまったく予測がつかないということもわかっていた。わたしは、ナイフをぬいてブルマの目の中をもろに見つめた。
「わたしをオガルへの生贄になんぞすることはできないぞ」わたしは、ミーザ王もふくめて周囲にひしめく全員の注意をひくような大声でいった。
「なぜだ?」と、ブルマがきいた。
「わたしがミーザの賓客だからだ」とわたし。「わたしは、かれの保護を要求する」
「この男は何者だ?」王がさけんだ。
「かれの名前はナポラパルト」とブルマ。「ギャムバからたずねてきたものです。わしは、かれをオガルへの生贄にしますぞ。そうすればオガルは、あなたの子息モコがどうなったか教えてくれるでしょう」
そのときわたしは、ブルマを見、かれのいうことをきいていたから、ミーザからは顔をそらしていた。群集のむこうにはこの玉座の間へ通じる入り口が見えた。ミーザがすわっている高壇の上にいる連中をのぞいて、あとはほとんど全員その入口に背をむけていた。
そして、高壇の連中の注意は、ブルマとわたしに釘づけにされていた。だから、ひとりの死人のような、蒼白な顔した男が通廊からよろめきながらはいりこんできて、入口の枠に弱々しくよりかかるのを見たのは、わたしひとりきりだった。
「おまえがこの生贄をオガルにささげれば、モコの居所を教えてくれるというのか?」と、ミーザがブルマにきいた。
「この犠牲者がオガルに受け入れられれば、教えてくれるでしょう」高僧は答えた。「もし受け入れられないときには、また別の生贄をささげてみればいいでしょう」
わたしは、ミーザのほうをふりむいた。「モコの居所を知るのにオガルにきく必要はないですよ」わたしはいった。「わたしがおしえてあげるから。もしおしえてあげたら、ズォルとわたしをこのまま放してくれますか?」
「いいとも」王は、そくざにいった。
わたしは、首をめぐらして入口のほうを指さした。「モコはあそこにいますよ」
すべての目がわたしのゆびさしたほうにむけられた。モコがふらふらとこっちへやってくる。つかの間、機関車の駆動力をさずけられた死人の感じだった。身体も四肢もきわめて細く、身体は文字どおり全身血まみれだった。それがいまでは乾き、こびりついていた。心臓の下の傷がすでになかばまで癒《い》えていた。
つまりわたしは、モコを殺してはいなかったのだ。いまや、運命のなせる皮肉なわざにいざなわれて、かれは、たぶんわたしを助けるためにもどってきたのだろう。わたしは、玉座の間をミーザのほうへよろめきながら近づいてくるかれを見守った。が、玉座の前までくると力つきて床の上に倒れた。
「どこへいっていた?」王がきいた。その声には、父親の愛情、ないしは同情を示すひびきはこれっぽちもなかった。
衰弱し、ハアハアあえぎながらモコは、蚊の鳴くような声で答えた。「やつがおれを殺そうとした。意識をとりもどしたときには、暗闇の中にいた。というのは、やつが王とその息子しか知らない通廊へ引きずりだしていたからだ。やつは逃げてしまった。やつと、サリからきた女とでだ」
「やつとはだれのことだ?」
「わからない」とモコ。
「デヴィッドという、あの監禁しておいた部屋から逃げだした男にちがいない」ブルマが意見を述べた。
「そのふたりをさがそう」ミーザがいった。「戦士たちを森へ派遣して、かれらを捜索させろ。〈王達の谷〉の大洞窟も捜させるんだな」
戦士たちがときを移さずに入口のほうへむかった。ズォルとわたしは、かれらに加わった。ブルマがわれわれの出ていくところを見ていたとは思わない。モコに注意を釘づけにしていたからだ。モコは、なにか無気味なわけのわからぬことをぶつぶつ繰り返していた。傷をなおすためのまじないかなにかであることに疑いの余地はない。
「われわれはどうしよう?」ズォルがいった。
「クリートを見つけなければならない」わたしは答えた。「そして、この戦士たちといっしょに、デヴィッドをさがす手伝いをしに出かけるふりをして、部落をはなれるよう努めるのだよ」
「女を部落から連れだすことはできない」ズォルがいった。「クリートが話してくれたことを忘れたのかい?」
「そうだ。すっかり忘れていた。しかし、他に方法がある」
「どんな?」
「わたしが前に伝って逃れた通廊をぬけるのさ。ところが問題なのはそれが、かれらが捜索にむかいつつある大洞窟につづいているということなんだよ」
「サリからきた女はどうなった?」かれがきいた。
「わたしが連れていって、その大洞窟の近くにある別の洞穴に隠してきた」
「むろん、彼女をいっしょに連れていくつもりだろう?」
「きまっている」わたしは答えた。「モコといっしょにいる彼女を見つけたとき、わたしは、とてつもない発見をしたんだよ」
「どんな?」
「サリ出身の女というのは、実はわたしの連れあいの美女ダイアンだったということだよ」
「とすれば、きみがジュカン族にとらえられることになったのは、幸運なめぐりあわせというところだな」
われわれは、クリートを家令の台所で見つけた。彼女は、われわれに再会して驚くと同時によろこんだ。しかし、彼女は最初、わたしの正体をほとんど信じることができなかった。それほど、わたしを変装させたダイアンの手なみはみごとなのだった。例の案内人とわたしに通廊で会ったとき、彼女は、わたしの正体に気づいていなかったのだ。しかし、われわれの通ったことはおぼえていた。
三人でいろいろ話しあった結果、例の通廊をぬけて裏の入口までいくことに決めた。そこで、ジュカン族が捜索をすませて立ち去るまでまつことにした。かれらがその通廊を捜索しないであろうことには、充分な確信があった。しかし、たとえしたとしても、かれらに見つからないよう間隔を保って移動すればいい。その際、通廊の入口のどんづまりまでひきかえさねばならないとしてもだ。
いまやしかし、別の障害が生じた。つまり、その通廊への入口までの道順を知っているものがいなかったのだった。ズォルもクリートもそこまで一度もいったことがない。たとえわたしの生命とダイアンの生命がかかっているのだとしても、わたしには、前にそこまでいった道順をもう一度たどっていくことができなかった。
「とすれば、都《まち》を通ってぬけだすようこころがけるほかはないな」ズォルがいった。
「では、あなたがたふたりでいくことね」クリートがいった。「かれらがわたしを通してくれないことはたしかだもの」
「別に方法があるにちがいない」ズォルがいった。
「ある」とわたし。「きみとわたしがデヴィッドを捜索するために部落から出る。ジュカン族が〈王達の谷〉の捜索をおえたとき、われわれは、洞窟へはいってクリートを連れにひきかえしてくることができる。というのは、その通廊からこの台所までの道順がきみにわかれば、わたしにできなくとも、きみにはもときた道をたどることができるはずだからさ」
「名案だ」ズォルがいった。「しかしきみまで、連れあいを残してわたしといっしょに引きかえしてくる必要はないだろう。わたしのやることといえば、クリートを宮殿から案内していけばいいのだから。それにふたりの男は必要ないよ」
「そのとおりよ」クリートがいった。「でも、わたしのためにあなたの生命を危険にさらさせたくないわ。とにかくわたしは、逃げようなんて気をおこしたことはないのよ。だからあなたがたは、このままいって確実に逃げるほうがいいわ」
「デヴィッドはすでに、われわれを救出するためにここへひきかえしてきて、自分と連れあいの生命を危険にさらしているのだよ」ズォルがいった。「われわれは、きみを連れていくことが可能なら、そうするさ」
われわれは、クリートを残して都へ出た。ほどなく、部落への門へ到達した。戦士たちがまだわたしの捜索に表へ出ていくところだったから、われわれは、難なく部落をぬけだすことができた。われわれが〈王達の谷〉へ到達してみると、そこはわたしを捜索する戦士たちで充満していた。そこでわれわれは、ダイアンに近づき、彼女が発見されたかどうかを知るためにかれらに加わった。
「もし彼女が発見されていたら」と、わたしはいった。「われわれは、一戦まじえねばならない。というのは、彼女が生きたまま連れ帰られるのを腕こまぬいて座視しているわけにはいかないからだ」
ジュカン族に加わり、自分自身を狩り出すふりをして、わたしは、ダイアンが隠れている洞穴へさりげなく近づいていった。障壁はまだきずかれたままで、灌木がそれを隠蔽《いんぺい》していた。なにひとつ乱された様子はない。わたしから三メートルとはなれていないその洞穴の中には、わたしの愛する女性、わたしがこれまでに愛したただひとりの女性、これからも愛しつづける女性がいたのだ。わたしが彼女が無事であれかしと祈っているのと同じように、心から彼女もわたしの無事たらんことを祈っているのに疑いの余地はない。だがわたしは、彼女の近くに無事でわたしのいることを彼女に知らせるために、あえて声をかけてみるようなことはしなかった。われわれの周囲にはジュカン族がうろうろしていたからだ。
わたしは、例の大洞窟から数人のジュカン族がおりてくるのを見た。つまりかれらは、そこを捜索したのだ。ということは、捜索者たちが峡谷を立ちさるやいなやズォルがはいっていって、宮殿の内部へと通廊をぬけていっても安全だというわけだった。
ペルシダーにはたしかに時間というようなものは存在しないが、しかしジュカン族が峡谷の捜索をあきらめて立ち去っていくまでには、永遠ともいうべき時が流れたにちがいないようにわたしには思えた。ズォルとわたしは、なんとかさりげなく姿を隠すことに成功した。だから、他の連中が立ち去ったとき、われわれがあとに残っていることに気づいたものはひとりもいなかった。
「さてと」わたしは、ズォルにいった。「そろそろきみは、クリートのところへいって、彼女を連れてくるべく出かけてもよかろう。通廊への入口は、洞窟の入口の真むかいにある。通廊へはいったら、たえず左手を壁にあてがったままでいたまえ。きみは、宮殿とその通廊をあともどってこなくてはいけないのだから――わたしは、ハッとして口をつぐんだ。不意にある記憶がよみがえってきたのだった。
「どうした?」わたしの狼狽に気づいて、ズォルがきいた。
「なんというばかだ? すっかり忘れていた」わたしはさけんだ。
「いったい、なんのことだ?」
「きみは、通廊のむこう端でそこにある扉を通ることができないだろう」わたしはいった。「わたしの監禁されていたのがその扉の裏なんだよ。わたしは、その扉を破ろうとあらゆる手をつくしたが駄目《だめ》だった」
「他に道はないのかい?」
「うん、あることはある。しかし、それをきみにどうやって見つけられるか、わたしにはわからないのだよ。その通廊から、わたしがモコとダイアンを見つけた部屋へ通じる入口がある。たぶんきみなら、そこまでいって手で触ってみれば、入口のドアだとわかるだろう。しかし、わたしが思いかえしてみて、その扉は、通廊の大部分に張ってある木製の壁の一部でしかないように思えるんだ。そうだな、そいつは、洞窟と通廊との中間あたりにあったかな」
「よし、その通廊の扉にまだ鍵がかかっているようなら、その部屋へのドアをさがしてみよう」ズォルがうけあった。
「そっちのほうをいかねばならなくなると、成功の見込みはとてもうすくなる」と、わたしは、かれにいった。「というのは、その部屋がモコかミーザの住居の一部であることはたしかだからだ。ダイアンの幽閉されていたのがそこに近いのでね。もしきみがそのあたりで発見されたら、まちがいなく殺されてしまう。だから、通廊の端の扉がびくともしないなら、いっそのことこの計画はそっくりあきらめてしまうのがよいのかもしれない。そうなってもわれわれは、クリートを連れ出すために人間の力でできるかぎりのことしたことになるだろう」
「よし、二度眠ってわたしがまだ引きかえしてこなかったら」ズォルがいった。「わたしは、もう帰ってこないものと思ってくれ。きみとその連れあいはサリへの旅についてほしい」
それからわたしは、憂うつな気持ちでかれにさよならをいった。そして、かれが例の木をのぼり、上の大洞窟への入口をはいっていくのを見送った。
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一五
ズォルが自分の使命を実行に移すやいなや、わたしは、ダイアンの隠れている廊穴へ引きかえした。峡谷にだれひとり見ているものがいないのをたしかめてから、入口をふさいでいる灌木と障壁をとりのぞきはじめた。そうしながら、彼女を呼んだ。しかし、返事がない。わたしは、彼女が眠っているのだと思った。そこで、彼女の眠りをさまたげないよう、できりかぎり静かに残りの障壁をのぞいていった。ペルシダーでは、睡眠は貴重なものなのだ。
かつてそのときほどの幸福感をおぼえた経験は、わたしにはないような気がする。気分爽快だった。いまや〈ジュカン族の谷〉を逃れてなつかしのサリへ帰れるすばらしいチャンスをものにしたと、わたしには思えたからだ。
入口がわたしの身体がはいれるくらい大きくなると、わたしは、うしろむきに中へ這いこんだ。そして、ダイアンのかたわらに横になって、自分も少し眠るつもりで、できるかぎり要領よく障壁をもとへもどした。
彼女が目をさましてかたわらにわたしのいることを知って、どんなに驚くことだろう。わたしは、手をのばして彼女にさわりたいという衝動をおさえることができなかった。洞穴はせまかったから、わたしが腕をのばしてさわらないほど彼女がはなれていることはありえない。ところが、あたりをぐるりと手さぐりしてみたにもかかわらず、彼女にはさわらなかったのだ。恐るべき真実がサッと念頭にひらめいたのはそのときだった――ダイアンはいってしまった!
このような、希望の絶頂からこれだけの絶望の深みへとつき落とされて、わたしは意気|阻喪《そそう》した。およそ正気とは思えない、というよりは狂気となってわたしは、洞穴の床を一寸きざみに手さぐりしてみた。いくばくかの食糧と水が残っていた。わたし用の武器も発見した。だが、ダイアンの姿はない。
もはや眠るどころではなかった。ズォルやクリートのことを考えているよゆうすらなかった。いまや問題はダイアンのみ。
わたし用に作った槍と弓を手にすると、わたしは障壁を押しのけ、表へ出た。しばし、どうしたものかとその場につっ立っていた。どこをさがしたらいいというのだ? なにかはわからなかったが、ダイアンは部落へ連れて帰られたのではないかと、わたしに告げているらしいものがあった。わたしは、峡谷をくだって部落から遠ざかることに決めた。それは、われわれが〈ジュカン族の谷〉をあとにしてサリへと旅の途につくべくたどっていくはずだった方角だった。かねてわたしは、ダイアンにわれわれの土地の方角をきき、われわれがそこへ到達するためにたどらねばならぬ道筋をダイアンが教えてくれていたから、その方角には自信があった。〈王家の峡谷〉の地面はあたり一帯、ジュカン族の捜索者たちがついいましがた歩きまわったばかりだった。だから、ダイアンの足跡が残されていたとしても、踏み消されてしまっているはずだ。しかし、もしかなりのところまで進めば、いずれはその足跡にもいきあたるだろうと、期待した。ペルシダー人の帰巣本能を持ち合わせていないわたしは、すばらしい追跡者となるためにきびしい訓練をつまねばならなかった。普通の人間になら識別できないような足跡をたどることができた。わたしはダイアンの足跡ないしはダイアンを拉致《らち》したものの足跡を識別するのにこの能力を大いに頼みとしたのだった。
わたしは、ジュカン族の森のはずれへやってきた。そこまで人間あるいはけものにまったく出くわさなかったし、ダイアンの足跡も発見しなかった。
ダイアンのしてくれた指示にしたがって、わたしは、ここで右へ折れ、森のへりぞいに進んだ。彼女が話してくれたところによれば、このままいくと、谷のむこう端に出、そこでひと筋の流れにいきあたるはずだった。こんどはこの流れにそっていくと、これが注いでいる小さな内海に出る。それからは、この内海の岸を左へ伝っていく。いよいよ、はるか前方に高い山の頂きが見えてくる。これがサリへの方角を示してくれるはずだ。そのあとは、道筋をさがすのに自分のもてる能力に頼るほかはない。というのは彼女が特にきわだった目印となるものを思い出すことができなかったからだ。帰巣本能をもって生まれた彼女には、ことさらにそうした目印に気をつけている必要がなかったのだった。
わたしは、例の谷のはずれと流れに到達したが、ダイアンの足跡は見あたらなかった。だから、彼女がこっちのほうへやってきたと思ったのはまちがいで、そうではなく、ジュカン族につかまって部落に連れもどされたのだという可能性も同時にあるのだとの結論にすぐさま達したのだ。ミーザの部落へひきかえすべきか、このまま進むべきか? それが問題だった。わたしのより冷静な判断にしたがえば、ひきかえすべきだということになったが、結局このまま進むことに決めた。そして、ちょっとだけ先へ進んだ。しかし、このままいっても望みはないとあきらめ、最終的にはひきかえすことにしたのだった。
〈ジュカン族の谷〉の森は、ほぼ唐突におわるような形で平原と会《かい》している。といっても、平原にちらほらと樹木が点在してはいたが、わたしは、自分の身をできるだけ隠しておくという目的のために、森のちょっと内側を進んだ。つねに平原が見えて、かつ危険なけものから逃れる手段としてつねに木がそば近くにあるというわけだ。
ミーザの部落から、わたしのひきかえしてきた谷の下手のはずれまで、およそ二十マイルはあるにちがいない。しばらく睡眠をとらずにいたし、実際に疲れてもいたから、わたしは、じっと見つめる目から濃密な葉群れで隠されると同時に獲物をあさるけものから安全でいられるに充分地面から高いところに寝床をもうけられるような木を捜した。それが見つかると、わたしは、まもなく眠りにおちた。
どれほどのあいだ眠ったのか、わたしにはわからない。が、目をさましたとき、雨がふっていたのを知った。森の木々からしずくがしたたっていたからだ。雨がふっても目がさめなかったということは、いかにわたしが疲労していたかを示している。しかし、いまは気分爽快だった。まもなくわたしは、ミーザ王の部落へひきかえしていく旅の途につくために、いま一度地面におり立った。元気が回復していると同時に、わたしはひどく空腹だった。これは、わたしがどれほどのあいだ眠っていたかを示すおおよその目安になる。
狩りに時間をかけたくなかったので、わたしは、歩きながら食べるつもりで小さな果実をひとつもぎとった。しかし、地面におり立って直後に、わたしは、空腹のことなどすっかり念頭から追いはらってしまうようなものを発見した。それは、わたしの木のすぐ下を通過している、ひとりの男と女の足跡だった――谷の下手のほうへ急ぎ足で進んでいるひとりの男とひとりの女の足跡。これがダイアンとその誘拐者のものだと断定したわたしは、すぐさま部落へひきかえしていく考えを捨てた。
この足跡がいつごろつけられたものか、わたしには見当すらつかなかった。というのも、わたしがどれほどのあいだ眠ったのか、わからなかったのだから。しかし、雨が降ったのは比較的最近であり、ふたりの人間がその雨の最中か、そのあとに通ったのだということはわかった。
ここペルシダーに時を計るすべのないというのは、すこぶるやっかいなことであり、いまいましいことだった。わたしに判断できるかぎりで、わたしは、地上世界の時間測定尺度で一週間ぐらい眠っていたのかもしれない。となれば、このふたりの人間は、わたしのはるか前方を進んでいるはずだ。あるいは、森の木々に隠れて見えはしないが、ほんのちょっとだけ先にいるのかもしれない。
足跡がきわめてはっきり残されていたから、急速にあとをたどることができた。事実わたしは、相当長いあいだ持続させていることができると経験で学んだ犬のかけ足ぐらいの速さで進んだのだった。かくして、かれらに追いつくという望みを抱くことができたのだった。かれらもきっと急いでいるにちがいないのだし。
谷の下手のはずれ近くで、足跡は森から出ていた。そのとき、はるか前方にふたつの人影を見た。しかし、あまりにも遠くはなれているので、その正体を見わけることはできなかった。いまや、わたしは、かけ足をやめて疾駆《しっく》した。しばしば、むこうかこっちが草の生い茂った湿地帯、ないしはくぼ地へはいるため、かなりのあいだかれらの姿を見失うことがあったが、かれらの姿が見えてくるたびに、わたしがかれらとの距離をつめていることがわかった。
ついに、しばしのあいだかれらの姿が見えなくなり、やがてわたしがとある丘の頂上にのぼりつめると、かれらの姿がすぐ下にあるのをみとめた。ペルシダーの獰猛な野犬、ジャロクの二頭を前にして、かれらは空地につっ立っていた。かれらがだれであるのかわかったのはそのときだった――ズォルとクリート。やくざな石のナイフしか武装していないかれらは、いましもそろそろと迫りつつあるこのどでかい二頭のけものを前に、いまや風前の灯だった。このきわどいときに、もしわたしがきあわせていなかったら、かれらは、ほとんど絶体絶命の窮地に追いこまれていただろう。とはいえ、わたしのきあわせた今ですら、われわれ三人が無事に逃げのびられるかどうかは断定できないのだ。ジャロクは、非常なばか力ととてつもない兇暴性をそなえているからだ。やつらは、最も性悪《しょうわる》なタイプの人喰いで、他のどんなけものよりも人間を好んで餌食にする。
わたしは、ズォルとクリートのほうへ丘の斜面をかけくだっていった。かれらは、けものどもに面とむかってい、わたしのほうには背をむけていた。だから、かれらにはわたしの姿は見えなかったが、やわらかい芝草を踏むサンダルばきの足音はきこえた。ジャロクどもは、わたしにこれっぽっちの注意もはらってはいなかった。なにしろやつらは、ほとんど、というかぜんぜん人間を恐れてはいないのだ。たぶんわたしを、また現われた獲物ぐらいに考えていたのだろう。
わたしは、かけくだりながら、弓に矢をつがえた。そして、百発百中の射程にはいったと確信したところで立ちどまった。ズォルとクリートの二、三歩うしろだった。わたしは、でかいほうのジャロクに狙いを定めた。その連れあいよりもゆうに十五センチは高い巨大な野犬だった。わたしは矢尻が左手にふれるまで矢を引きしぼった。弦《つる》がうなりを生じ、矢が犬の胸に深々とめりこんだ。と同時に、ズォルとクリートがくるりとむきなおり、わたしをみとめた。ジャロクが二頭とも突進してきた。
長いあいだ継続されてきた、自己保存の必要を迫られてそなえるようになった敏捷さで、わたしは、弓に二の矢をつがえ、雌の胸に叩きこんだ。その一発で雌ジャロクは転倒した。しかし、雄のほうは、兇猛なうなりを発しながら、矢を胸から突き出したまま跳躍するようにして迫ってきた。わたしが槍、つまり短めのずしりと思い投擲《とうてき》用武器を投げつけたのはそのとき、やつがほとんどわれわれにとびかからんとした刹那だった。
われわれにとって幸いなことに、わたしの狙いは正確だった。このより重い|飛び道具《ミサイル》がその巨獣を倒したのだった。一瞬後にわたしは、いま一本の矢をやつの心臓にめりこませていた。同様に、雌のほうもとどめをさした。
ズォルとクリートは、感謝の情をむきだしに表情にあらわした。かれらは、わたしがやぶから棒に自分たちの背後に姿を現わしたのがどういうわけなのか、さっぱりわからないという様子だった。かれらが語ってくれたところによれば、かれらは、ダイアンが隠れている洞穴へいってみたがもぬけのからだったので、彼女とわたしはサリへの旅についたのだと、すぐさま結論したのだった。
そこでわたしは、どういうわけでたまたまかれらよりおくれることになったのか、そしてダイアンが拉致されたのではないかとの心配についてかれらに話してきかせた。だが、やがて彼女の足跡を発見することができなかったとき、わたしは、彼女が部落へ連れもどされたのだと確信した。
「いいえ」と、クリートがいった。「そんなことはないと、わたしには保証することができるわ。もし彼女が家令の居所に連れもどされていれば、わたしは、すぐにそのことをきいていたはずだもの。戦士たちが捜索から帰ってきて、話しているのをきいたのだけれど、その話の内容からかれらが彼女の影も形も発見していないことは、絶対にまちがいないわ。だから、彼女がミーザの部落にいないということで、あなたは安心していいと思うの」
そう、たしかに、それを知って一応は安堵《あんど》めいたものを感じた。しかし、それではいったい、彼女はどこにいるのだ? そして、彼女を拉致したのはどこのどいつなのだ? わたしは、モコが彼女を連れて逃げたがっていたことを思いだした。そこで、わたしはクリートに、彼女をその隠れ場所から発見して連れ去ったのはかれだという可能性について質問してみた。
「ありうることね」
「だがかれは、重傷を負っていた。わたしが最後に見たときのかれは、とても衰弱して立ってすらいられなかった」
「ああ、その重傷から恢復するだけのよゆうは充分にあったわ」
わたしは、どうしようもない思いでかぶりを振った。この不可解な時の経過には腹立たしくなる。わけがわからないのだ。わたしにはどうみても、モコが父の玉座の根方に消耗しつくして倒れたのを目にしてから二日以上たっているとは思えないのだった。それなのにクリートは、かれの傷がいえるに充分なだけの時がたっているのだと断言した。となれば、ダイアンが洞穴から連れだされて以来どれほどになるのか、わたしにはわかるはずがない。もし、モコ以外のだれかが彼女を連れ去ったのだとしたら、地上世界の時間単位で、何十日という時が経過しているのかもしれないのだ。もし、モコだとしたら、それほど前のことではなかったかもしれない。だがそれでも、かれは、わたしにはこんりんざい見つけ出せないところへ彼女を連れていくだけの時間を持っていたかもしれないのだ。
だがなんといっても、彼女の足跡をまるで見つけることができないという事実は、なににもまして意気阻喪させられる事実だった。とはいえ、彼女がこの道を通ったのかもしれないが、ずっと前のことなのでその足跡がすっかりかき消されてしまっているのではということに、わたしは気がついた。
「これからどうするつもりだい?」ズォルがきいた。
「サリへもどることにしよう」とわたし。「そして、一隊の戦士をここ〈ジュカン族の谷〉へ連れてきて、この憎むべき一族をペルシダーの地表から一掃してやるつもりだ。かれらの狂気という遺伝的害毒は、すべての人類にとって脅威だからね。で、きみは?」わたしはきいた。「どこへいく?」
「わたしにはラナが見つけられないだろうと思う」とかれ。「これ以上捜索をつづけても、もう絶望のような気がするんだ。クリートがスヴィに帰るのにいっしょにきてくれないかといってるんでね」とつけ加えた。どことなくどぎまぎしている感じだな、とわたしは思った。
「それなら、このままいっしょに旅がつづけられる」と、わたしはいった。というのも、スヴィはサリの方角にあるからだ。「それに、クリートが案内人としていっしょにいてくれると、わたしのたいへんなハンディが解消されるしね」
「それ、どういうこと?」
「かれには、故国へ帰る道筋がわからないのだよ」上出来《じょうでき》の冗談ででもあるかのようにケラケラ笑いながら、ズォルはいった。
クリートは、びっくりして目を丸くした。「あなたは、ひとりではサリへ帰る道がわからないというの?」
「残念だが」とわたし。「そのとおりなんだよ」
「そんな話、きいたことないわ」クリートがいった。
「かれは、別の世界からきたのだといっている。最初は、そんな話を信じはしなかった。しかし、かれをよく知るようになったいまでは、かれのいっていることを疑わないね、わたしは」
「どんな別の世界があるの?」
「かれがいうには、ペルシダーというのは、大がめの卵みたいに丸くて、中がうつろなんだそうだ。ペルシダーは、その内側で、かれの世界は、その表側にあるのだと、かれはいっているね」
「すると、あなたの世界の人はみな、道に迷うと自分の故国へ帰れなくなるの?」
「いいや」わたしはいった。「でも、きみたちのようなやり方で帰るのではない。そのことについてはいつか説明してあげる。でも、いまは他に考えなくてはいけないことがあるからね。それに当面、もっとも重要なのは、できるかぎり〈ジュカン族の谷〉から遠ざかることだ」
やがてわれわれは、サリへの長旅を再開した。ダイアンがどうなったのかという心配さえなければ、わたしは、このうえなく幸せで満ちたりていただろう。せめて、彼女がどの方角へ拉致されたのかということだけでもわかっていれば、どこのどいつが彼女を連れ去ったのかがわかっていれば、少しは満足できていたかもしれない。だが、わたしにはどちらもわかってはいなかった。見当すらつかなかった。そして、いずれこの謎が解明されることを祈った。
われわれは、谷を出て例の流れを、ダイアンがわたしに話してくれた内海の岸へと伝いくだっていった。途中、肉食獣に肉をすっかりはぎとられた大鹿の骸骨に出くわした。ペルシダーには、あらゆる大きさ、種類の肉食獣が跋扈《ばっこ》しているのだ。
ここではこうして悲劇の白骨化した証拠にしょっちゅういきあたるので、そのことをとりたてて口にしたり、ちらと見やることすらするものもいない。しかし、この白骨のそば近くを通りすぎたとき、わたしは、骨のあいだに矢が一本ころがっているのをみとめた。当然わたしは、それを矢筒に入れるために拾いあげた。そうしながら、わたしは驚きの叫びを発していたのにちがいない。ズォルとクリートがそろって物問いたげにわたしのほうを振りむいたからだ。
「どうした?」と、ズォルがきいた。
「この矢は、わたしが作ったんだ」とわたし。「ダイアンに作ってやったものなんだよ。わたしはつねに、所有主がわかるように矢にしるしをつけている。これには、ダイアンのしるしがついているんだ」
「だったら、彼女は、こっちへきたんだわ」とクリート。
「そうだ。彼女は、いまサリへ帰る途上にある」と、わたしはいって、それからこのことに思いをめぐらしはじめた。わたしは、あの洞穴でわたしの武器を発見したが、彼女のはなかった。前にこの点に気づかなかったのはおかしなことだった。彼女の誘拐者は、なぜ彼女の武器を持っていって、わたしのを置いていかねばならないのだ? そのことをズォルとクリートにきいてみた。
「たぶん彼女は、ひとりできたのよ」とクリート。
「彼女は、わたしを見捨てていくようなことはしないはずだが」とわたし。
ズォルがかぶりをふった。「どうも解《げ》せんな」といった。「ペルシダーの人間には、きみの作るこの奇妙な武器の使い方を知っているものはほとんどいないはずだが。ジュカン族は、まちがいなく知っちゃいない。美女ダイアン自身以外、この矢をだれに射《い》ることができたのだろう?」
「彼女が射たのにちがいない」とわたし。
「しかし、彼女がかどわかされたのだとしたら、その捕獲者は、彼女に武器を持つことなど許しはしないだろう」ズォルが反駁《はんばく》した。
「きみのいうとおりだ」とわたし。
「となれば、彼女はひとりにちがいない」ズォルがいった。「でなければ――でなければ、彼女は、自分の気持ちをまかせた誰かといっしょにやってきたのかもしれない」
そんなことは、わたしには信じられなかった。しかし、どんなに頭をしぼっても納得のいくような結論をどうしてもひきだすことができないのだった。
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一六
生活がその環境にいかに順応していくものか、この事実は驚くべきことである。わたしにいわせてもらえば、まったく毛がなく、自然の力に対して無防備、きわめて動作が緩慢で弱い人間の場合、特に顕著である。わたし、二十世紀のひとりの人間、その素性としておそらく一千年の文明をそなえたひとりの人間が、旧石器時代のひとりの男とひとりの女といっしょに野蛮な世界の荒野を旅している。しかも、かれらとまったく同様、おのれだけが頼りであり、すこぶるくつろいでいられるのだ。ワイシャツ姿で生まれ故郷の都市《まち》の通りに出ていく勇気もなかったわたしが、ふんどし一ちょう、サンダルばきの姿で、ぜんぜん不自由を感じずに、また、これっぽっちの自意識も働かせずにいられるのだ。わたしはしばしば、しかつめらしいニュー・イングランドの友人たちが、もしわたしの姿を見ることができたとして、どんな思いをするだろうかと、つくづく考えて微笑を禁じえなくなる。かれらがクリートを見て、じだらくな売笑婦ぐらいに考えるであろうことはわかっていた。しかし、わたしがこのペルシダーでこれまで知った、ほとんどすべての女と同じく、彼女は、端正で純潔、ほとんど上品ぶっているといっていいほどの淑女なのだ。しかし、彼女にはひとつ欠点がある。地上世界の女性に共通しているといえなくもない欠点――口数が多すぎるのだった。とはいえ、彼女の天真らんまんで、いつも幸せそうにしゃべる無駄話はしばしば、わたしの胸に重くのしかかってくる憂うつの虫を追いはらってくれた。
わたしが別の世界からきた人間だと知って、クリートは、その別の世界についてあらいざらい知らないではすまされなかった。わたしは、いつ果てるとも知れない質問の連続攻めにあった。わたしがミーザ王の宮殿で知っていたクリートとは別人のようだった。あのころは、どうみても自分の立場が絶望的であること、自分がその只中で暮らしていた狂人たちを恐れていたことで、気分がめいっていたからだ。しかし、自由で安全の身となったいま、生まれつきのその気分的な楽天さがまたぞろ顔をのぞかせ、本もののクリートがふたたび開花したというわけだ。
ズォルがクリートに首ったけなのは、明々白々だった。この小悪魔がかれをそんな気にさせたことに疑問の余地はない――女のいるところにはかならず、その中に男を骨ぬきにする女がいるものなのだ。彼女がかれを恋していたかどうかは、なんともいいがたい。だがわたしは、かれのことをとても普通とはいいがたい扱いかたをしているところからして、彼女もそうではなかったのだろうかと思う。とにかく、かれがスヴィへいくようもちかけたのは彼女だということを、わたしは知っているのだ。
「きみはどうしてスヴィをはなれたのだい?」と、わたしは、一度彼女にきいてみた。
「逃げだしたのよ」肩をすくめて、彼女は答えた。「わたし、カリへいきたかったのだけど、道に迷ってしまったの。で、あちこちさまよい歩いているうちに、とうとうジュカン族につかまってしまったというわけ」
「道に迷ったのなら」ズォルがいった。「なぜ、スヴィへひきかえさなかったのだい?」
「こわかったのよ」とクリート。
「なにが?」とわたし。
「スヴィに、わたしを連れあいにしたがっている男がいるの。でも、わたしは、かれがいやなのよ。でもかれは、大きくて強い男だわ。かれのおじがスヴィの王なの。わたしが逃げだしたのはかれのせいなのよ。ひきかえさなかったのもかれがいるからなの」
「でも、いまは帰るのがこわくないのかい?」わたしはきいた。
「あなたがいるし、それにズォルがいっしょにきてくれるでしょう」と彼女。「だから、こわくはないわ」
「その男というのは、ひょっとしてドゥ・ガッドではないのかい?」わたしはきいた。
「そうよ。あなたは、かれを知っているの?」
「いや。だが、いつかはそいつと会うことになるだろう」
ダイアンとクリートが両方ともジュカン族にとらえられ、ふたりともドゥ・ガッドから逃れようとしたのは、不思議な偶然の暗合だった。そいつには、ズォルとわたしに対してたっぷりつぐないをしてもらわねばならないだろう。
われわれが通りぬけている土地は、またしてもわたしにとってはじめての土地だった。事実、ペルシダーは広大な陸地を擁しているし、人々の分布がきわめて疎《そ》であり、探検されている土地もすこぶる小部分であるからして、事実そのほとんどすべてが人跡未踏の、人類にとって未知なのだった。しかし動物に関しては、地上世界のほとんどすべての地質時代に棲息した動物が同時に存在するという、きわめてスケールの大きな、生命形態の雑居する世界なのだ。とはいえわたしは、このペルシダーにもまったく動物の存在しない、かなりの広さの土地があるときかされたことがある。そして、地上世界の三畳紀とジュラ紀の爬虫類が全面的に支配している土地もあることを、わたしは知っている。他のけものがその領土にあえて踏みこもうとしないからだ。その他、地上世界で白亜紀から鮮新期まで栄えた鳥類や哺乳類のみが棲息する土地もある。しかし、わたしが実際に探検したり、人にきいたりして知っているペルシダーの大部分には、これらのあらゆる生命形態が分布している。そして、点々と人類の孤立した共同体が存在し、そのほとんどが穴居生活をいとなんでいる。わずかに、帝国の設立以来、ペルシダーに建設されたほぼ都市と呼んでさしつかえないものが存在しているにすぎない。ただ、マハールの地下居住地と、小屋に住むジュカン族の狂人集合体を都市と呼ばないかぎりのことである。
ひとつだけつねに、都市というこのきわめて一般的なことばから想像することができるにちがいない都市がある。それが、北極の開口部の近くにあるコルサールの都市である。この都市はもともと、わたしの信じるところでは、なにかの奇蹟で北極海からこの開口部を通ってペルシダーへはいりこんでくることになった海賊船の乗組員によって建設されたものにちがいない。この一族の文明はしかし、南のほうへと伝播《でんぱん》してはいかなかった。かれらは当然、海上生活をいとなむ一族である。しかし、かれらを導く太陽や月、星がないのだから、かれらはその都市の文字どおり際《きわ》からひろがっている広大な海原、コルサール海で陸地の見えなくなるところまであえて出ていこうとはしないのだ。
われわれは、何度も睡眠をとった。それでもまだ海岸ぞいに進んでいた。そのうちに、底が平坦で、ひと筋の川がそのあいだを流れている小さな谷にはいったところで、やぶから棒に巨大なマストドンの一群に出くわした。一群といっても三頭で、雄、雌、その子供だった。親たちの動きを察して、なにか工合のわるいことがあるのにちがいなかった。とてつもない、ラッパのような鳴き声を発しながら、あちこちかけまわっていたからだ。
われわれがかれらから充分な距離をとろうとしていた矢先、わたしは、かれらの興奮しているわけを発見した。子供が川っぷちのぬかるみに迷いこんで、二進《にっち》も三進《さっち》もいかなくなっているのだった。雄にしろ雌にしろ、子供を助けるためにそのとてつもない重量で、ぬかるんだ場所へあえて近づいていくのは自殺するのにひとしい。
たいていの人と同様に、わたしは、動物の子供には同情的である。そのかわいそうな小さいやつがなさけない声をあげて鳴いているのをきいて、わたしは、すっかり同情的になってしまった。
「あいつをあそこからひっぱりだしてやれるかどうか、たしかめてみようや」わたしは、ズォルにいった。
「そして、苦労したあげくに殺されるというのか」ゾラムからきた男は答えた。
「オールド・マホはかなりりこうだ」わたしはいった。「われわれが助けようとしているのだと、かれにはわかると思うな」
ズォルが肩をすくめる。「ときどきおれは、きみがほんとうに|気ちがい《ジュカン》だと思うことがある」
「ああ、そう」とわたし。「もしきみがこわいのなら、むろん――」
「だれがこわいといった?」
それで充分だった。もうかれがわたしといっしょにくるだろうことはわかった。たとえそのために死ぬようなことがあってもだ。というのも、ゾラムの男は、勇気があるという評判をとることに特に気をつかっているからだ。そこでわたしは、マストドンのほうへくだっていった。ズォルとクリートもわたしについてきた。わたしは、最初のうちかれらにあまり近づかないで、かれらから百メートルほどのところにある湿地のへりへいった。そこからだと、マストドンの子供がめりこんでいるあたりがすっかり見わたせ、そいつを助けてやる可能性があるかどうかをたしかめることができた。この地点だと、堅い地面と川とのあいだの湿地は六メートルほどの幅しかない。川のそのあたりは、満潮時に流れついた流木でおおいつくされていた。湿地の表面は、強い日射しに乾燥している。その堅さをたしかめてみると、わたしの体重をささえるぐらいには堅くなっていることがわかった。そして、われわれがその子供を助け出してやるのに実行できそうな計画は、あきらかにひとつしかなかった。わたしは、それをズォルとクリートに説明した。それから三人で、流木の大きめのやつを集めて、そいつをマストドンの子供の前にならべてやり、そこから堅い地面まで丸太道らしきものを作ってやった。最初、われわれが近づいていくと、そいつはおびえ、沈みはじめた。しかし、ほどなくわれわれがかれを傷つけようとしているのでないと感じたようで、おとなしくなった。雄と雌も最初は、ひどく興奮した。しかし、しばらくすると鳴くのをやめて、つっ立ったままわれわれを見守っていた。われわれがなにをしようとしているのか気がついたのだと思う。われわれのまにあわせの丸太道の最後の一メートルばかりは、かれらの一メートル以内に敷かなければならなかった。かれらの鼻がかんたんにとどく距離だ。だがかれらは、われわれを苦しめはしなかった。
丸太道が完成すると、こんどは子供をその上に引きあげてやる仕事がまっていた。そこで、流木の堅くて丈夫で、長いのを――小さな木の幹――選びだし、その一端を丸太道にさしわたして、それをゆっくりとかれの前肢の片方の下へ沈めていった。いっぽう、わたしの指示にしたがってクリートが、彼女に持ちあげられるもっとも太い流木を持ってまっている。ズォルとわたしが例の天びんのこっち側の端を掴んで、そこに全体重を集中する。われわれは、これを何度かくりかえした。そして、ついにそいつの前肢の片方がぬかるみから押しあげられはじめた。それがすっかり現われるやいなや、クリートが、その下に抱えていた丸太をたぐりだした。
そのときマストドンの子供は、丸太道へ這いあがろうとした。しかし、どうにもならなかった。そこでわれわれは、うしろからまわって反対側にいき、もう一方《いっぽう》の前肢に同じことをくりかえした。こんどの場合は、かれが自分でも自由になった前肢で少しは身をずりあげることができたので、前より楽にいった。両方の前肢がしっかりした足場におちつくやいなや、しばしかれは、身をもがいていたが、ついに全身をずりあげることに成功した。
その小さなやつがついに堅い地面のふた親のかたわらにたったとき、その親たちの心配そうな様子ほど心たれる光景を見たことがない。かれらは、しばし子供を眺めまわし、だいじょうぶだということを確かめると、ぬかるみのふちからかれをひっぱって立ち去っていった。
クリート、ズォル、そしてわたしは、太い丸太の上に腰かけて休息した。骨のおれる、疲れる作業だった。われわれは、マストドンたちが立ち去るものと思っていた。ところがそうではなかったのだ。五、六十メートルほどいくと立ち止まって、われわれを見守っているのだった。
ひと休みするとわれわれは、ふたたび旅につくべく、とりあえず川を渡るのに適当な場所を探した。そして、われわれがそうしていると、雄のマストドンがこっちへやってきた。あとに雌と子供がついてくる。けんのんな感じになってきた。もしかれらが険悪な様子を見せたら、すぐに逃げだせるように、われわれは、ぬかるみのふちからはなれないようにした。たえず肩ごしにふりかえってみた。ほどなくわたしは、マストドンたちがわれわれとの距離をつめていないことに気がついた。かれらがわれわれと同じ方角に進んでいるのは、どうやら単なる偶然の一致らしかった。
われわれが無事に渡れるような場所をさがしあてるまでには、川をかなりさかのぼらねばならなかった。たいして大きな川ではなく、われわれが渡ったあたりの川底は砂利だった。対岸に渡りついてふりかえってみると、いましもマストドンたちがわれわれのうしろから川へはいろうとしているところだった。
そう、かれらは、われわれが野宿するのに安全な場所を見つけたところまで、ずっとあとをつけてきたのだった。かれらは、いつでもあまりわれわれに近づいてはこなかった。われわれが止まると、かれらも止まるのだった。
「どうやらかれら、わたしたちのあとをついてきている感じね」クリートがいった。
「たしかにそのとおりだ」ズォルがみとめた。「だが、いったいなぜだろう?」
「まったくだ」わたしはいった。「とはいえ、かれらがわれわれに危害を加えてくるとは思わないな。いらだったり、あるいは興奮したりしている様子はぜんぜん見えないし、もし、やっこさんたちが怒っていたり、われわれを恐れていたりしたら、そうなるはずだよ」
「オールド・マホは、なにも恐れはしないさ」ズォルがいった。マホというのはペルシダー語で、マストドンに相当する。
「よし、やっこさんたちが友好的かどうか、いっちょうためしてみよう」わたしがいった。
「なにかやる前に、適当な木の位置を考えに入れておいたほうがいいぜ」とズォル。「太いやつがいい。あの雄のマホなら、このへんにある気をほとんど根こぎにしてしまうことができるぞ」
われわれは、洞穴がいくつかある場所で停止し、そこで野宿するつもりだった。そしてわたしは、もしマストドンたちが非友好的だとわかったとしても、かれらがわたしに追いつかないうちに、われわれの選んだ洞穴へ逃げこんでかれらをかわすことができるとにらんでいた。少なくとも、そうでありたいと思っていた。
わたしはゆっくりと、かれらのほうへ歩いていった。かれらは、なんらびくついているような様子はみせずに、じっと立ったままわたしを見守っている。わたしがかれらから三十メートルあたりまで近づいたとき、小さいやつがわたしのほうへやってきはじめたのだ。そのとき、雌がちょっと落ち着きなく身動きして、奇妙な声を小さく発した。子供を呼びもどそうとしているのだなと、わたしは思ったが、小さいやつは、そのまま近づいてきた。わたしは、じっと立ったまま待ち受けた。かれは、二度三度立ち止まって、ふた親を振りかえる。が、そのたびにかれは、またこっちへ近づいてき、ついに、わたしから一メートルほどのところで立ち止まったのだった。そして、鼻を前方へつきだした。わたしは、ゆっくりと手を伸ばして、それにさわった。ちょっとだけなでてみる。かれが一、二歩近寄った。そこでわたしは、かれの頭に手をおいて、その額をなでてやった。気に入った様子だった。しかしほどなく、かれは、わたしのまわりに鼻を巻きつけはじめた。わたしは、そいつが気に入らなかった。そこで、鼻をつかんで、無理にはずそうとした。
雄も雌も動こうとしない。だが、じっとわたしを見守っている。そのとき、やぶから棒に雌が鼻をふりあげて、甲高く鳴いた。小さいやつがむきを変えて、一生懸命にドスンドスンとかけ去っていった。わたしは、ズォルとクリートのもとへ歩いて帰った。
これが奇妙な友情のきっかけとなったのだった。というのは、われわれが眠って目をさましてみると、マストドンたちは依然、そのあたりをうろついていたからだ。その後われわれは、何度か休息しては進んだのだが、そのたびにかれらは、われわれのあとをついてきたのだった。
わたしは、しょっちゅうかれらに語りかけ、かれらにマホと呼びかけたものだ。一度われわれが眠りから目ざめたとき、かれらがキャンプの近くにいなかったので、わたしは、五、六度マホと呼ぶのをくりかえした。するとほどなくその三頭が近くの森から姿を現わしたのだった。かれらは、あきらかに森の中で腹ごしらえをしていたのだ。われわれは、かれらにすこぶるなれなれしくするようになり、かれらのほうもそうだった。その結果、しばしばわれわれのすぐそばまでやってくるのだった。事実はわたしは、ちょいちょいかれらの鼻をなでてやった。それがどういうわけか、彼らには気持ちがよかったらしい。
しかし、かれらがなぜあとをついてくるのか、その点についてわれわれには見当すらついていなかった。知りようもないのだった。わたしにめぐらしえたもっとも妥当に近い憶測は、われわれがちょうどよいところできあわせていなかったら、まちがいなく死んでいたであろう子供をぬかるみの中から助けだしてくれたことで、かれらがわれわれに感謝しているのだというものだった。かれらが、いっしょにいてくれるということは、小さいやつのためにわれわれが注いだ努力にむくいる以上のものがあった。というのも、かれらがいっしょにいてくれるあいだ、われわれの通りぬける土地に充満している多くの肉食獣のどいつにも一度だっておびやかされることがなかったのだから。もっとも獰猛《どうもう》なやつですら、マホの力には一目《いちもく》おいているのだ。
〈ジュカン族の谷〉を出て以来、われわれは、何回となく睡眠をとった。だから、相当の距離を旅したということになる。やがて、長いあいだ行進してとある断崖の根方で野宿することになった。その断崖には、われわれが眠っているあいだ安全でいられるような洞穴がひとつあった。洞穴の前に焚火をしたあとが残っている。それは、洞穴がかなり最近使われたことを示していた。断崖の表面、洞穴の入口のわきには、多数の旅人がこれまでここで安心して休息をとったのだという証拠が残されていた。旅人たちの多くがその石灰岩の壁面に自分の|しるし《ヽヽヽ》を刻んでいたのだ。ペルシダーの比較的知能の高い種族のあいだでは広くおこなわれている習慣なのである。かれらはひとりひとり、一種の署名としてまにあう独自のしるしを持っている。
なにげなくそれらのしるしに惹きつけられた。それは真ん中に点のある正三角形だった。ダイアンの|しるし《ヽヽヽ》なのだ。わたしは、クリートとズォルを呼んで、かれらにそれを示した。かれらも、わたしにおとらず興奮した。
「彼女は、つい最近ここへやってきたのだ。しかもひとりで」ズォルがいった。
「彼女がひとりだと思うのは、どういうわけだい?」とわたし。
「もし彼女といっしょにだれかがいたとしたら、そいつも自分のしるしをつけていただろう」ズォルが答えた。「近ごろつけられたのは彼女のものだけだ」
ダイアンが故意にわたしをおき去りにしたということがありうるだろうか? わたしには信じることができなかった。それでも、わたしほど美女ダイアンを知らないものにとっては、これが確定的証拠のように思えるにちがいない、ということがわたしにはわかっていた。
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一七
マストドンたちがわれわれから立ち去っていったのは、このキャンプでだった。眠りから目をさまして、わたしは、何回もかれらを呼んだ。しかしかれらは、姿を現わさなかった。そして、いま一度サリへの長旅の途についたとき、かれらのいないことにわれわれが少しばかりがっかりしていたと、わたしは思う。
なんと説明してよいのかわからぬが、なんらかの理由で、わたしは、マストドンたちが去ってしまってから胸さわぎをおぼえるのだった。これは、ひとりわたしだけではなかった。ズォルもクリートも、わたしの気分のめいりに感染しているようだった。そして、われわれのこうした気分をさらに強めるかのように、険悪な黒雲が空一面をおおいつくしたのだった。ほどなく、恐ろしい稲妻がつっ走った。風が周囲で咆哮《ほうこう》した。われわれは、ほとんど地面にたたき倒されそうになったほどだ。木の葉や枝があたりで激しく風になびいていた。森の木々はゆらぎ、無気味なうめきをあげた。あたり一面で木々が押し倒され、われわれは、はなはだ危険な状態にあった。しのつく雨がわれわれをよろめかせるようなはげしさで襲いかかってきた。わたしは、これまでペルシダーでこんな嵐を経験したことはない。
たえず風と雨にいためつけられ、われわれは、よろよろと先へ進みつづけた。やがてついに、比較的開けた土地へ出た。うっそうとした森よりもずっと安全な気がした。
ここでわれわれは、身をくっつけるようにして嵐に背をむけ、物いえぬけものさながら自然の脅威が静まるのをまった。
普通ならわれわれの脅威となったであろう大型のけものたちが、この嵐を前に尻尾を巻いて逃げ去るとき、われわれのわきをかけぬけていった。だが、われわれは、かれらを恐れはしなかった。かれらのほうがわれわれよりずっとおびえてすらい、獲物をあさって腹を満たそうなんてことはおよそ思い浮かびもしないだろうと、われわれにはわかっていたからだ。
ひるがえる枝にたたき倒されるという危険から解放されて、われわれはかなり安心した。だから、いつものように警戒的ではなくなっていた。暴風と一寸先も見えないほどの豪雨をついて、ほとんどなにもきくことができなかったし、見ることもできなかったのはむろんのことだが。ほとんど連続的に相ついで起こる、大地を震撼《しんかん》させるような雷鳴が、咆哮する風のとどろきといっしょになって他の物音をかき消してしまうのだ。
この嵐が最高潮に達したころのこと、われわれは、不意に背後から強力な手でつかみかかられたのだ。武器はもぎとられ、手はうしろにひねりあげられた。そこでやっと、捕獲者たちを拝んだのだった。わたしがこれまでに見たもっとも図体のでかい男たちが十五人から二十人ほどいた。その中のいちばん小さいやつですら、身の丈ゆうに二メートル十センチはあった。かれらの顔はすこぶる醜怪、一対の太い、牙に似た黄色い歯が、その醜怪さをいっそう強調しているのだった。文字通りの素裸で、きわめて原始的な武器――まったくお粗末な石のナイフと棍棒――をおび、人類の進化段階においてすこぶる低級のように見えた。かれらは、ふたつの武器のほかに、草でなった綱を持っていた。
かれらは、まるで嵐など存在するものじゃないとでもいうように、それこそ、どこ吹く風だった。そして、いま捕えた獲物にいたくご満悦の様子だった。
「いいぞ」ひとりが、クリートの身体をつまんでうなるようにいった。
「われわれをどうしようというのだ?」わたしはきいた。
かれらのひとりがわたしのほうへ近々と身を傾けて、底意地のわるい目つきでにらみつけながら、わたしの顔にくさい息を吐きかけた。「おまえたちを食うのよ」といった。
「食われたくなかったら、アザールに近づかなければよかったのさ」別のやつがいった。
「アザール!」クリートが唐突にさけんだ。「おお、これでわかったわ。これまでアザールの人食い巨人のことはきかされつづけてきたの。もう、わたしたちはだめよ、デヴィッド」
お先まっくら、わたしは、そんな気持ちになったことをみとめなければならない。しかし、決して希望を捨てないというのがわたしのならわしなのだ。わたしは、クリートを少しでも元気づけてやろうとした。ズォルもそうした。しかし、あまりうまくはいかなかったようだ。わたしは、嵐が晴れたら太陽が姿を現わすように、われわれの運もむいてくるよとクリートにほのめかしていたのだが、事実、嵐が襲いかかってきたときと同様やぶから棒にすぎさり、晴れた空にふたたび太陽が顔を出したときですら、われわれは、彼女を元気づけることができなかったのだった。
アザール族は、森をぬけてわれわれを引ったてていった。ほどなく、矢来にかこまれた部落にやってきた。部落といったが、これはむしろ矢来のかこいといいなおしたほうがいいのかもしれない。というのも、中へはいってみて、そこにはまるで住居らしきものの影も形もなかったからだ。嵐は、このかこいに少なからぬ被害をあたえていた。数本の木々が根こぎにされ、その一本が矢来の一部をぺしゃんこにしているのだった。
かこいの中には、多数のアザール族の女、子供がいた。男同様に、どいつもこいつもきわめて醜怪で、気味わるかった。いっぽう、われわれと同じ人間が数人、ひとりひとり木につながれていた。あきらかにとらわれの身なのだ。
われわれの捕獲者は、われわれを木につなぐと、つぶれた矢来の修理にとりかかった。女、子供は、われわれにあまり注意をはらわなかった。女が二、三人やってきて、われわれの身体をつまみ、どういう状態にあるかを確かめた。きわめて暗示的な身ぶりを示した。
わたしは、われわれよりも前にそこへきていた捕虜のひとりに近い木につながれていた。そして、かれとことばをかわすようになった。「やつらがわれわれを食うまでにどれぐらいひまがある?」わたしは、かれにきいた。
かれは、肩をすくめた。「われわれの肉が、やつらの好みにあうような状態になったら食われるね」かれが答えた。「やつらはわれわれに、主として木の実、果実少々をあてがってくれる。肉はぜんぜんくれないね」
「やつらは、きみたちを虐待してはいないかね?」
「いや」とかれ。「そんなことをすれば、われわれの肥えるのがおくれてしまう。やつらは、われわれのだれかを食べるまでに何回も睡眠をとるかもしれない。人肉はめったに手にはいらぬご馳走だと考えているからだ。しょっちゅう人肉を楽しんでいるわけじゃない。おれは、ここへきてもう憶《おぼ》えていないほど何回も眠ったよ。そのあいだ、ふたりの捕虜が食べられるのを見ただけだ。見ていて気持ちのいい光景じゃないな。生きたまま棍棒で骨をすっかりくだき、それから、あぶるんだ」
「逃げるチャンスはないのかい?」
「われわれにはなかったね」とかれ。「嵐のあいだにふたり逃げた。かれらの木が吹き倒され、綱がちぎれたのさ。かれら、両手を背中にまわしていましめられたままの姿で森へ逃げこんだ。あまり長くはもたないだろう。しかし、ここにとどまっていて棍棒で打ちくだかれ、火あぶりにされるぐらいなら、そうやって死んだほうが楽だろうな。かれらのひとりに対してはたいへん気のどくなことだと思う。サリからきたという美女だった――美女ダイアン、とあの男は呼んでいたっけ」
一瞬わたしは、開いた口がふさがらなかった。ガツンと一発食わされたほどの大きなショックだった。ダイアンが両手をうしろにまわして自由にならぬままあの野蛮な森へはいりこんでいったのだ! このままじっとしてはいられない。しかし、わたしになにができる? わたしは、うしろの木の幹の粗い皮に手首をいましめている綱をこすりつけはじめた。いかに絶望的であろうと、なにかしなければならなかったのだ。たぶん、彼女といっしょに逃れた男が彼女の手をほどく方法を考え出すだろうと、わたしは思った。それで少しは希望がわいてきた。
「彼女といっしょに男が逃げたといったね?」
「そうだ」
「その男は何者だい? きみが知っている人間なのかね?」
「スヴィ生まれの男だった。ドゥ・ガッドとかいってたな」
またしてもガツンと食わされた思いだった。この世にどれだけ男がいるか知らないが、それがよりによってドゥ・ガッドだったとは。いまや、逃げなければとの思いがいやました。
アザール族の戦士たちは、矢来の修理をおえて、眠るために横になった。かれら、そしてかれらの女、子供たちは、まるでけもの同様、地面にごろ寝した。日射しをしのぐものといえば、かれらがその下にころがっている木々の枝葉のみだった。
目をさますと、男たちは、狩りに出かけた。そして、獲物をかついで帰ってきた。かれらは、つねに肉には目がないのだ。女、子供たちは、木の実や果実を集めてくる。その大部分は、われわれを肥らせる目的であてがってくれるものだ。
眠っては目ざめ、目ざめては眠った。監視の目がないときはつねに、わたしは、木の幹の粗い皮にいましめをこすりつけていた。うまくいきつつあるのはわかっていた。しかし、手が自由になったあと、こんどはどうしたらいいのだろう? 矢来の中には、たえずアザール族がいた。しかも、矢来はとても高くて乗りこえるわけにはいかない。入口はひとつしかなく、それがつねに閉まったままだ。とはいえ、なにかの事情がかさなりあってわたしのために道を開いてくれるかもしれないというチャンスがいつおとずれてくるかもわからない。しかし、わたしの最大のハンディは、ズォルとクリートを解放してやらねばならないという事実にあった。かれらを見捨てていくことは、とてもできなかったからだ。かれらもまた、自分のいましめをちぎる努力をしていたが、三人が同時に望むべき結果を達成する可能性には、たいした期待はかけられないだろう。
この、時のない世界においてすら、時は遅々として進まなかった。わたしの思いはつねに、悲劇的結末をもたらす危険にたえず身をさらしつつただひとり、どこかをさまよい歩くダイアン――ただし、彼女がまだ生きているとしてのことだ――に馳《は》せられていた。しかし、彼女はひとりきりなのだろうか? そう、たとえドゥ・ガッドと彼女がいっしょに逃れたとしても、まだ彼女が生きていれば、ひとりきりになっているだろうと、わたしは確信した。彼女は、かれから逃れるなにか方法を見つけ出していただろうし、でなかったら自殺しているだろうからだ。
木につながれ、かくもみじめな思いをめぐらし、わたしは、アザールのどでかい人食い人種のかこいの中でいまや避けうべくもない恐ろしい運命をなすすべもなくまっていたのだった。
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一八
長いペルシダーの日《ヽ》が過ぎていく。三十六年前、わたしが地上世界から地球の地殻をつき破って姿を現わしたときと同じ日《ヽ》だ。同じ日のまさしく同じ時間――真昼――なのだ。というのも、静止して動かぬ太陽が依然として天頂にかかっているのだから。この世界が誕生したのも同じ日の同じ時間、この世界が消滅するのも同じ日の同じ時間――ペルシダーの永遠の日の、永遠の時間の永遠の分《ふん》なのだ。
女の二、三人とかなり成長した子供の何人かをのぞいて、アザール族が睡眠についた。その目ざめている連中は、かこいの中央にある穴の周囲で忙しげに働いていた。長さ二メートルそこそこ、幅六十センチ、深さ五、六十センチほどの穴だった。かれらは、そこから灰をすくいだしているのだった。両手ですくいだしては、あたりの地面にばらまくという、すこぶるぞんざいな仕事ぶりだった。子供――といっても、性悪《しょうわる》のがきども――が、けんかをしていた。ときどきひとりの女がそのがきどものひとりをなぐり倒し、地面にはいつくばらせた。この一族に愛情のかけらでもあるのだろうか? 少なくともわたしは、いまだにその片鱗《へんりん》だにおがませてもらったことはない。かれらは、けものよりはるかに低級なのだ。
灰をすっかりすくいだすと、かれらは穴の底に枯葉と枝を敷きつめた。その上に、いま少し太めの枝をおく。最後に、そのいちばん上にかなり太い丸太を何本か並べた。わたしにはかれらについての心得があったから、それはきわめて暗示的だった。饗宴の準備をやっているのだ。最初の犠牲者はだれなのだろう? ほとんど恐慌といってもいいほどの一種の恐怖がわたしをわしづかみにした。その準備が進められているのを実際にこの目で見たいま、このような死を迎えねばならぬ恐ろしさがより強烈にわたしにのしかかってきたのだ。目がわたしにむけられていないただのひとときでも、わたしは狂気のようになって、手のいましめをちぎることに努力を集中した。骨のおれる疲れる作業であり、しかも無駄だと悟ることによってなおいっそう骨がおれ、疲れさせられた。ズォルもクリートもいましめをちぎることに専心しているのがわかったが、どの程度までうまくいっているのかは知るよしもなかった。
アザール族は、われわれをとらえたさい、わたしから弓矢と槍を奪い、それらを地面に放り捨てたままで帰ってきたのだった。しかし、ナイフだけは奪われずにすんでいた。うしろ手にしばりあげておれば、われわれがナイフを使うことができないと、やつらは考えたのだと思う。しかしそれよりも、やつらがナイフを奪わなかったもっとも妥当な理由は、おそらくやつらがたいへんなまぬけで、想像力のからっきしないやつらだという事実だったろう。だが、ひょっとしてやつらがいっさい気にかけていないというのが正当な理由ではあるまいか。というのも、こんなどでかいけものどもを相手に、わたしが単身でなにをやりとげられるというのだ?
こんなことをつぎつぎと思いめぐらしながらも、わたしは、せっせといましめをこすりつづけていた。そのときにわかに、最後のひと巻きがわかれるのを感じたのだ。わたしの手が自由になった! いまでも、その瞬間のことを思い出すと、ぞくぞくしてくるのだ。しかし、手が自由になったからといってそれでどうこういうのはまだ早計だった。それでもあらたな自信めいたものがわいてきたのはたしかだった。わたしがズォルとクリートに対して誠実であらねばならぬという責任感を抱いていなかったら、わたしは、一も二もなく三十六計をきめこんでいたことだろう。アザール族がめぐらした矢来の一ヵ所に小さな木が一本生えている。矢来はその木に四十五度の角度でもたせかけた格好で、木のほうが矢来より高い。わたしは、その木を伝って矢来を乗りこえられると確信していたのだった。しかし、ズォルとクリートのために、ひとまずその思いつきは捨てなければならなかった。
ほどなく、眠っていたアザール族が目をさましはじめた。男の何人かがやってきて、女、子供の進めていた準備のなりゆきを点検した。やがて、族長とおぼしきやつがわれわれのところへやってきた。やつは、われわれのあばらを撫《な》で、ももをつねって入念に調べた。クリートの前にいちばん長くとどまっていた。それからやつは、あとにともなっていた戦士たちのふたりのほうをむいた。「こいつだ」といった。
ふたりの戦士は、彼女のいましめをといた。わたしの立っているところから、彼女がそのいましめをこすりちぎることにほとんど成功していたのが見てとれた。しかしアザール族は、そのことに気づいている様子がない。こんどの犠牲者はクリートだったのだ! お粗末で小っぽけな石のナイフ一丁で、これらガルガンチュアのような巨人どもを相手に、わたしがどうやってそれを阻止することができようか? しかしわたしは、なにかやらかそうと決心した。そして、入念に考えぬいた。アザール族の注意がわれわれからそれたとき、わたしは、かけだしていってナイフでズォルのいましめを切る。それからふたりして、身を挺《てい》してやつらにぶつかっていく。われわれ三人のうち少なくともひとりが矢来をのりこえて逃げ出すあいだ一時的にでもやつらをまごつかせられればと思ったのだ。
かれらは、クリートを穴のかたわらへ引ったてていった。そこで、なにごとか協議しているようだったが、わたしにはききとることができなかった。と、そのとき、ひょんなことがもちあがり、パッとひとつの霊感がわたしにひらめいた。矢来のむこうから、一頭のマストドンの甲《かん》高い鳴き声がきこえてきたのだ。われわれは、このあたりの土地にわれわれのあとをつけてきた三頭以外、マストドンの姿はちらとも見かけていなかった。いまのが、われわれをさがし求めているオールド・マホ自身だということがはたしてありうるだろうか? 信じられそうもないことだった。しかし、わずかでもその可能性がないとはいえなかった。溺《おぼ》れるものがわらをもつかむ心境だ。わたしは、そのばかげた可能性にしがみついた。そして、声をかぎりに、前にやっていたようにかれに呼びかけた。たちまちすべての目、目、目がわたしにむけられた。だが、かまわずにわたしは、もう一度さけんだ。もっと大声で。近くから、ラッパのような鳴き声がかえってきた。しかし、アザール族には、このふたつの声がむすびつかないようだった。いま一度注意を、おのれたちの気味わるい饗宴の準備にもどしたのだった。かれらは、クリートを地面に押し倒した。そして、何人かが彼女を押さえているいっぽう、他のものたちが彼女の骨を打ちくだくべく棍棒をとりにいった。わたしは、いま一度声をかぎりにマホに呼びかけた。それから、アザール族全員の目がどん欲な色をたたえクリートにむけられているあいだに、わたしは、すばやくズォルのもとにかけ寄り、なかばまでちぎれたいましめの残りをナイフで切断した。
「かれらがやってくる」かれが低声でいった。「ほら!」
「うん」巨大な体躯が木々を押しわけて進んでくる音がはっきりときこえた。甲高い鳴き声が大地を震撼させるほどにまで高まった。アザール族どもが一瞬、クリートから注意をそらし、物問いたげにその騒音のきこえてくる方角に目を走らせた。そのとき、やぶから棒に矢来がマッチ棒さながらに飛び散った。オールド・マホの巨大な体躯が部落の中へとびこんできた。
度肝をぬかれたアザール族どもは、ただなすすべもなくあっけらかんとしてつっ立っていた。ズォルとわたしは、クリートのかたわらにかけ寄り、パッと彼女を立ちあがらせた。そのとき、マホとその連れあいと小さいやつがわれわれのところへやってきた。
「マホ、マホ」かれがわれわれをみとめてくれるだろうと願って、わたしはさけんだ。みとめてくれたと確信した。アザール族の何人かが棍棒とナイフで自分たちの部落を守ろうとした。この連中を三頭のマストドンは鼻に巻きつけ、宙高々と放りあげた。そのとき、オールド・マホがわたしを掴《つか》まえた。てっきり、わたしを殺そうとしているのだと思ったが、そうではなかった。かれは、部落をつきぬけ、わたしを牙の下に支えたまま頭を低くたれて、かれらがはいってきたときとは反対側の矢来をたたきこわしたのだった。
かれは、わたしを鼻でつかまえたまま長いあいだかけていたが、やっと広大な平原をぬけて流れる、とあるひと筋の川のほとりで立ちどまった。それから、わたしをおろした。
わたしは救出されたのだ。しかし、ズォルとクリートはどこへいった? かれらもわたし同様に幸運であったろうか? それとも、いまだにどでかいアザールの人食い人種どもの捕虜のままでいるのだろうか?
わたしは、森をぬけての、この苦しい格好をしての道中、かなりゆすぶられていた。いくら善意からだけのものであったとしても、オールド・マホは、わたしをやや荒っぽくあつかっていたといえるかもしれないからだ。だから、かれがおろしてくれるや、わたしは、その川岸の長い草の中に横になって休息をとった。オールド・マホは、わたしを守ってくれているつもりなのだろう、わたしにおおいかぶさるようにしてその場につっ立ち、巨躯を左右にゆすっていた。縁の赤い小さな目がいまやってきたばかりの道筋を追っている。ほどなく、鼻をふりあげて、甲高く鳴いた。すぐさま遠くから応答があった。雌の、より甲高い鳴き声、小さいやつのキイキイ声が、わたしにはすぐわかった。ズォルとクリートもいっしょだろうか、とわたしはふと思った。
やがて二頭のマストドンが見えてきた。しかし、かれらだけだった。相棒たちの運命はどうなったのだろう? かれらは逃れたのだろうか、それとも、依然アザール族の部落にとらわれの身のままでいるのか? わたしは、気が重くなった。われらに対する憂慮からばかりではない。わたし自身のおかれた立場を心配してもいたのだった。わたしにかれらを救出することができるという可能性がほんのこれっぽちでもあったら、わたしはよろこんで、部落へとってかえし、それを実行に移していただろう。第一、わたしには部落へ引きかえす道がまるでわかりそうもなかったし、たとえわかったとしても、事実上、かれらを助けてやれるチャンスはぜんぜんなかった。
かれらのいないことは、わたしにとってたいへんな意味をもっていた。感傷的な理由もさることながら、わたしは、クリートを頼りにサリの近くまで連れて帰ってもらう腹づもりだったからだ。いまや、わたしを案内してくれるものはいない。どこをどうたどればよいのやらまるで見当もつかない。わたしがふたたび故国へ帰りつけるチャンスは、はるかへ遠のいてしまった。さらに気分をめいらせるのがダイアンのことだった。彼女の運命を思うと、暗たんたる気がした。アザール族から逃げだしはしたものの、幸せどころのさわぎではなかった。これから先、果てしもなく目的地の方角もさだまらぬままにさまよい歩かねばならぬわたしの前途には、おそらく、もっとひどい運命が待ちかまえているのだろう。
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一九
あなたが顕微鏡的微生物になって、どういうわけか宙に浮かんでいるテニスボールの表面につっ立っている図を想像していただきたい。テニスボールの表面は、あなたを中心に八方へ彎曲《わんきょく》して下っている。どちらを見まわしても、水平線がくっきりと目にうつるはずだ。急にあなたは、テニスボールの内側に移されたとする。テニスボールの内部は、きっかり中央にかかる静止して動かぬ太陽によって照らされている。内表面は、どちらをむいても上方にせりあがり、水平線はまったくない。わたしはいまペルシダーのあの川のほとりにつっ立って、かかる状態におかれているのだった。わたしはあたかも、直径およそ三百マイルのくぼんだ鉢の中央に立っているかのようだった。大気は澄み、太陽はさんさんと陽光をふりそそいでいる。こうした条件のもとで、わたしは、自分の視距離がほぼ百五十マイルと見つもった。むろん、その限界の対象はなにひとつはっきりとは見わけられない――わたしの鉢の周囲は、遠のくにつれて次第にかすみ、わたしの視距離をこえたはるかかなたの靄《もや》ととけあっていた。
百マイルほど先、平原にポツンと立っている一本の木が見わけられた。それにひきかえ山の見わけはつかなかった。それというのも永遠に真昼の太陽のもとで、その木は陰を投げかけていたが、山はそうではなかったからだ。山をくっきりときわ立たせる背景の空というものがなかったから、その背後の景色とぼんやりとけあって、まるで平地のように見えるのだった。
百マイル先の一本の木を見わけるのに、わたしは、自分の想像力に大いに助けられていたのではないかと思うが、この、わたしの鉢の周辺あたりにあっても、陸と海との区別は容易につけられる。というのも、海は日光をより強く反射するからだ。わたしは、いま自分の立っている川岸からその川が五十マイルほど先の海に注いでいるのを見ることができた。
ペルシダーの風景のこうした様相は、いまではわたしにとって見なれたものだった。しかし、ペリーとわたしがはじめて地上世界から地殻を貫通してとびだしてきたとき、これがわれわれにいかに摩訶《まか》不思議にうつったか、あなたには容易に想像していただけるものと思う。見なれてはいたというものの、しかし水平線がまったくないということだけはいまだに、わたしにはまったくぴんとこないのだ。どういうわけか、それはつねに一種の挫折感をわたしにあたえるのだが、たぶん、自分に見えるよりもさらに遠くまで見ていなくてはならないと潜在的に感じているからなのだろう。なおその上に、わたしは鉢のこの巨大さにもかかわらず、自分が閉所恐怖症にかかっているのだという、きわめてはっきりした感情をわたしはいだいている。わたしは、決してのぼりつめることのできない鉢の中にいるのだ。どこまで進もうとも、あるいはどの方角へ進もうと、この鉢の縁はわたしの進む速度と同じ速度で着実に前方へ移動しているからだ。幸いにわたしの心が平静で正気ゆえに、わたしは、この問題をそんなに長いあいだくよくよ考えたりはしなかった。いまわたしがこうしたことを述べているのは、ほかならぬ地上世界のあなたに、ペルシダー特有の条件のいくばくかを少しでもはっきりと意識していただきたいがためにすぎないのである。そうすればあなたは、いまやわたしにとってはありふれた無気味な景色をより鮮明にまぶたに浮かべることができるのではあるまいか。
わたしは、この巨大な鉢の中央に、唯一の相棒、どでかいマストドンたちとともに立ちながら、これから先どうすべきか筋道を立ててなにか計画を立てようと思いをめぐらした。
かなたに見える水のひろがりは、ひょっとして海図にものっていないあの、人跡未踏の大洋かもしれない。その可能性は充分にあった。その大洋には、沿岸沿いに住む種族と同じ数の名称がつけられていた。わたしが知っているのに、ルラル・アズがある。他にダレル・アズ、〈恐ろしい影の国〉の下にあるソジャル・アズ。
もしわたしの憶測が正しいものだとすれば、その沿岸沿いにいけばアモズに出、それからサリへたどりつけるかもしれない。
海のはるか沖合い、そのふところに抱かれていくつかの島々を見ることができた。神秘をひめた島々、その謎をわたしは、こんりんざい知ることができないだろう。紺碧の海に浮かぶあれらエメラルド色の宝石には、はたしてどんな不思議な人間やけものがすんでいるのだろう? 近づきがたいもの、知りえぬものはつねに、わたしの想像をかきたてる。依然しばしばそうしたように、わたしはいま一度、もし運よくサリへ帰りつけたら、頑丈な船を建造して、ペルシダーの海に乗り出してみようと決意した。
三十六年もすごしてきたというのに、この世界についてなんと知ることの少なかったことか! わたしは、はじめてここへやってきたころには、いろいろなことについてしたり顔に話したものだが、いまでは、ほとんど――というよりなにも知らないということがよくわかる。たとえば、わたしがかかわりをもったことごとが全ペルシダーで典型的なものなのだとばかり思っていた。たとえば、わたしがなれ親しんだこの地底世界の一部の支配種族だったマハール族、つまり、あの嘴口竜《ランフォリンクス》に似た爬虫類がペルシダー全土を支配しているのだとばかり思っていた。しかしいまでは、それが本当なのかどうかわたしにはわからない。ペルシダーの陸地は広大だからだ。わたしは、そのごく一部を見てきたのにすぎない。
また、ペルシダー全土の四分の三が陸地で、これは地上世界のそれよりかなり広大な面積をもつものだというわたしの確信は、もっぱらペリーの、地上世界のくぼみがこの地底世界ではつき出しているのだという説にもとづいているのだった。つまり、ペルシダーの陸地面積は、大ざっぱにいって地上世界の海洋に相当することになる。だが、これはむろん一説にすぎない。それが真実なのかどうか、わたしにはわからない。
頑丈な船と、ペリーが作ることのできた航海用計器があれば、わたしは、コロンブス、マジェラン、キャプテン・クック、バルボア(スペインの探検家で太平洋の発見者)、これらの人物をひとりにしたような探険家になることができるのだ。先のことを思うと冒険心がそそられる。すこぶる魅惑的だった。しかし、自分の故郷へ帰る道すらわからない現状ゆえに、このことの実現は、きわめてひかえめにいってもはなはだあやしい気がするのだった。
わたしは、川伝いに海のほうへくだっていった。やがて、ひと眠りできそうな洞穴を発見した。そこで、いちご少々をつみ、球根をいくつか掘って、それで空腹を部分的にみたしてから、わたしは、その洞穴に這いこんで眠った。
たぶんいやになるほど、くりかえしたと思うが、どれほどのあいだ眠ったのか、わたしにはわからない。しかし、洞穴から出て見ると、マストドンたちの姿がなくなっていた。何度も呼んでみたが、現われてこなかった。結局、それっきり二度とかれらを見ることはなかったのだった。
いまやわたしは、文字どおりのひとりきりだった。生涯でこれほどさびしい思いをしたことはない。あの巨獣たちがいてくれたことで、わたしは、身の安全を感じていたばかりか、旅の道づれをえていたような気がしていた。それがいまでは、ちょうど世界中でただひとり残っていた友を失ったときに感じるような、そんな感情をおぼえたのだった。わたしは、深くため息をついて、海の沖合いをみやった。やくざな石のナイフを一丁ぶらさげて、いま一度サリを求めて危険な、ほとんど望みない旅の途についたのだった。
ほどなくわたしは、武器を作るのに適した材料を見つけた。そこでふたたび、弓と何本かの矢、それに槍を作りにとりかかった。この仕事をせっせとやりつづけ、やがて完了した。むろん、どれほどの時間がかかったかはわからない。しかし、武器ができあがったころには、もう一度眠ってもいいような気がした。いま一度適当な武器をおびることになったいま、将来に立ちむかうのにわたしがどれほどの安心感をおぼえていたか、あなたにはわかっていただけないと思う。
川に近づいたとき、かなたにいくつもの低い小丘を望見することができた。どうやら草木はまったく生えていないようだ。熱帯植物が自由奔放に青々と密生しているこの世界ではやや異常だった。しかし、これよりももっとわたしの興味をそそったものは、それらの小丘を多数のけものが歩きまわっているという事実だった。あまり遠かったから、どんなけものか見わけはつかなかったが、その数ゆえにわたしは、かれらが草食動物の群れだと推量した。しばらく肉を食べていなかったわたしは、獲物を一匹しとめられるこの機会を歓迎した。だから、気《け》どられることがないように、できるかぎりかれらの地殻へ接近していくことにした。そして川ぞいの低地にはいりこむと、都合よく身を隠すことができた。そこからだと小丘すら見えなくなるのだった。だから、わたしがすぐ近くへたどりつくまでけものたちがわたしの存在を気どることはできないだろうということがわかった。
わたしは、用心しいしい、しかもできるだけ物音をたてないよう前進した。やがて、ほぼ小丘のむかいあたりまでやってきたと感じた。そこでわたしは、川のけわしい土手にのぼり、丈の高い草のあいだをぬけて、獲物がかなり近くに見えるだろうと望んでいた地点のほうへ腹ばいになって徐々に進んでいった。草むらは、小丘のひとつの根方で急におわっていた。そして、そこから姿を現わしたわたしは、その場のある光景を目のあたりにして、ハッと息をのんでしまった。
小丘はどれもこれも、棒切れと、さまざまな大きさの岩や丸石からできていて、それらの上を|蟻のお化け《アンツ》がまさに巨人国なみの規模でいそいそと這いまわっているのだった。かれらをはるかに小さくした地上世界の従弟《いとこ》たちがやっているのを何回となく観たことがあるが、それとまったく同じことをやっているのだ。この生き物の図体《プロポーション》は実に巨大で、体躯はゆうに一メートル八十センチ、頭のいちばん高いところが、地面から少なくとも一メートルはあった――それほどの頭をしていたのだ! これらの巨大な頭がきわめて兇猛に見えるのだった。どでかい目、ふしくれだった触覚、力強そうな顎。
もしあなたが庭先でしばしば自分の図体より何倍も大きなお荷物を押して這っている蟻をごらんになったことがあるなら、これらの化物《ばけもの》蟻のものすごい力を少しでも認識していただけるのではないかと思う。かれらの多くは、人間が持ちあげるなら数人は必要とするような大きな丸石を運んでいるのだった。一匹は、かなり太い木の幹を顎にくわえて持ちあげていた。
わたしが小丘だとばかり思っていたものは実は巨大な蟻塚だったということがいまはっきりした。それらの蟻塚の根方にはかなり広大な空地がひろがってい、そこで無数の蟻《アンツ》が、およそ信じられないような仕事に従事しているのだった。ほどなくわたしは、それが野良仕事なのだとわかった。彼らは、作物や花が生長している組織的にたがやされた畑で働いているのだった。うねはまっすぐであり、作物は等間隔に植えられていた。雑草一本見あたらない。あきらかに最近植えられたばかりの作物のうねも何列かあった。作物の一本一本が、大洋の暑い直射日光から保護するために大きな植物の葉でおおわれていた。
度肝をぬかれ、魂を奪われてしまったわたしは、しばしその場にとどまって、これらの生き物が塚の建設と作物の世話に従事しているさまを見守っていた。畑で働いているもののうちには、生長した作物からかよわい芽をつんでいるものもいたし、花から蜜を集めているもの、そうした収穫を蟻塚へ運び帰っているものもいた。蟻塚から、あるいは蟻塚へと、反対方向へたえず蟻の流れが移動していた。どいつもこいつも活動的で、いそいそとしていた。
わたしは、そうした蟻の化物の中に他よりもさらに大きいのが何匹かいて、その連中が働いていないのに気がついた。やがて、かれらの顎が他の連中のよりもずっと強力なのに気づいた。かれらがはたらき蟻を守っている兵隊蟻であることがわかった。
万事がすこぶる興味をそそられるものだった。しかし、そうはいっても、その草の中にいつまでも腹ばいになって、いくらこの蟻族に心を奪われたからといって、その活動ぶりを見物しているわけにはいかなかった。蟻が働くのを眺めていたのでは、肉で腹を満たすことはこんりんざいできないのだ。そこで、未練がましく溜息をついてわたしは、そこを立ち去るべく立ちあがった。それがほとんど致命的なあやまりだった。
静かに横たわり、丈の高い草にほとんど完全に隠されていたわたしに、蟻たちはまったく気づいていなかった。しかし、わたしが立ちあがったとき、かれらは、すぐさまわたしの存在を気《け》どったのだった。わたしを見たのかどうかはわからない。というのも、かれらがいくらギョロ目をしていても、ある種の蟻がそうであるように、かれらもめくらだという可能性があるからだ。蟻は見る必要がない。かれらは、頭と、三つに区分された胸部と、腹部の二ヵ所、そして肢の向こうずねにきわめて感度の鋭い聴覚器官をそなえており、これに加えて、彎曲《わんきょく》した触角には、末梢神経とつながっている歯に似た突起が非常にたくさんついていて、これらが嗅覚器官の働きをしているからだ。したがってかれらは、わたしを見ることができなかったかもしれないが、わたしのたてた物音をきき、わたしのにおいをかぐことができたのはたしかだった――とにかく、かれらは、わたしがそこにいることを知った。どでかい兵隊蟻の数匹がわたしのほうへやってきたのだ。
やつらの恐ろしい顔と、ぞっとするばかりの顎をひと目見ただけで充分だった。わたしは、くるりと反転して逃げだした。だが、ちらと肩ごしにふりかえってみて、わたしは、もはや手おくれであるとさとった。兵隊蟻どもは、その六本の強力な肢でわたしがかけるよりもはるかに速くわたしのあとを追ってつき進んでくるのだった。いまや、わたしは風前の灯だった。戦うか死ぬしかなかった――いや、たぶん戦って死ぬことになるだろう。
わたしはむきなおった。むきなおりながら、弓に矢をつがえた。第一の矢は、先頭にたっているやつの大きな目玉のひとつをもののみごとにつらぬいた。やつは、地面に転倒してのたうちまわった。わたしは間髪を入れずに二の矢を放った。つづいてたてつづけに二本、わたしの抵抗はむなしかった。他の連中がわたしに襲いかかってき、わたしは、地面に押さえつけられてしまったのだ。
わたしは、そのとき念頭をつぎつぎとかすめた思いをいまでもよく憶えている――ついにわたしは、死の顎《あぎと》につかまった、わたしは、ひとり淋しく死のうとしている、どういうふうに、どこで、それを知るものはひとりもいないのだ。わたしの美しいダイアン――まだ生きているとしてのことだが、善良なペリーじいさん、そしてその他、地底世界の数えきれないほどのわたしの友は、こんりんざい知ることがないだろう。
わたしは、あの強力な一対の顎にかみくだかれ、絶えはてるのをまちうけた。化物蟻の二匹がその触覚でわたしの全身をなでまわした。ほどなく一匹がわたしの腰をくわえて持ちあげる。顎の圧迫は、わたしをささえているのに必要とする以上に強くはなかった。そいつは、あなたが小ねこを抱くぐらいに楽々とわたしを支えているのだった。そして、蟻がときどき見せるようなあの、右へ左へとジグザグに進むという、気まぐれな進みかたでわたしを運んでいった。おかげでわたしは、さまざまな障害物や他の蟻たちに頭をぶつけられたり、足をこすりつけられたりしたのだった。
他の蟻どもはどいつも、ほんのときたまにしかわたしに注意をはらわなかった。もっとも、一、二度わたしを運んでいるやつが立ちどまり、別の一匹がわたしの全身を触覚でなでまわしたが、わたしは、こいつらが陸軍の将校か、あるいは高等官なのかもしれないと思った。たぶん、わたしがなんであるのかをたしかめるために点検し、わたしの処分に関して指示を与えているのだろう。
あてどもなくあたりをさまよい歩いたのち、ついに、わたしをとらえたやつは、ひとつの蟻塚の根方近くにある穴のほうへと進んでいった。そこは大きな入口なのだった。やつは、わたしを顎にくわえたまま、そこをくぐりぬけるのに苦労した。わたしは、二度ぶっちがいにたたきつけられた。入口が岩で縁《ふち》どられていたから、あまり愉快なことではなかった。やつは、無理矢理わたしを押しこもうとしたが、うまくはいかなかった。そこでついに、わたしを地面にころがし足をくわえて、わたしを引きずりながら尻のほうから穴へはいりこんでいった。
そのときわたしは、かつて蟻の巣の中へ引きずりこまれるところを見たことがある蝿《はえ》や毛虫がどんな気持ちでいたかがよくわかった。たぶんかれらは、わたしがしたと同じように、自分たちが永久に去ろうとしている美しい世界に、最後の絶望的な一瞥《いちべつ》をくれたのだろう。
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二〇
とらわれの身というのは、すこぶる胸くそのわるい状態である。しかし、死でおわることしかありえないとらわれの身というのは、まったくいいようもないほどひどいものだ。それも、捕獲者どもが自分の意志を伝えることのできない生き物である場合、とらわれの身の恐怖は何倍にもいやますものである。もしわたしがこの生き物たちと話すことができていたら、彼らがわたしをどうするつもりでいるのかたしかめられたかもしれない。わたしを自由放免にしてもらう交渉すらできていたかもしれないのだ。しかし、事実はそうでなかったから、最後がくるのを腕こまぬいてまっているしかなかったのだった。最終的には死がわたしの運命だというのはあくまでも憶測の域《いき》を出るものではないが、わたしは、自分が食糧として連れこまれてきたのだと推測していた。
そいつは、わたしを引きずって塚の内部をちょっとだけ進み、それからのぼり勾配の短い地下道を抜けて、とある広間へはいった。この広間が地表のすぐ近くに位置しているのは明らかだった。というのも、円蓋様の天井にひとつ開口部があって、そこから陽光が注ぎこんでいたからだ。
まず広間をサッと見まわして、そこには多数の蟻がいて、その二匹がおそろしく膨らんだ腹をして足で天井からぶらさがっているという事実がわかった。ときどき蟻が天井の開口部から這いこんできて、これらの一匹ののどへなにかを無理に押しこんでいるようだった。わたしはのちになって、これら二匹の蟻が、同類の蟻や、食糧として肥《ふと》らされている他の生き物に給食する、生ける蜜の貯蔵所だと知った。子供のころ、ある種の蟻族の中にはこうした蜜貯蔵用の蟻がいるというのを読んだことがあることを思い出した。この考えかたがわたしの子供心をそそったことを思い出した。しかしいま、これらの巨大に膨張した、宙ぶらりんな体躯を目のあたりにして、わたしは、ひどい不快感をおぼえたのだった。
わたしを運んできたやつは、広間の床の上にわたしを荒っぽくころがした。それから、他の二匹の蟻のところへいった。かれらは、たがいに触角でさわりあっている。これがかれらの意志を伝達する方法なのだと、わたしにはのみこめてきた。なにごとか伝えおわると、そいつは広間を出ていった。他の蟻たちは、どうやらわたしに無頓着のようだった。
当然、わたしの念頭のいちばん上に浮かんでいた思いは逃走することだった。そして、自分のことにかまけている蟻たちを見て、わたしは、用心しいしいこの部屋へ連れこまれてきた入口のほうへと移動していった。
希望がわいてきた。蟻塚をぬけだす道はさがせるとわかっていたし、もし塚の表で働いている蟻たちの注意をひかないよう細心の注意をはらって、ゆっくりと進んでいけば、逃げられるチャンスはあると思ったからだ。ところが、わたしがその入口にたどり着くか着かないうちに、蟻の一匹がわたしにとびかかってき、顎《あぎと》にわたしをくわえこんで広間の奥へと引きずりかえしたのだった。
「精力を無駄にするな」壁に近い暗がりから声がいった。「逃れることはできないぞ」
わたしは、声がきこえてきたほうをじっと見つめた。わたしからさほどはなれていない壁にもたれて、ひとつの姿がうずくまっていた。
「きみはだれだ?」わたしはきいた。
「きみと同様、とらわれの身だよ」声が答えた。
わたしは、その人影へ近寄った。人間の声が新たな勇気をわたしにあたえ、希望をわきたたせてくれたからだ。たとえその声の持ち主が他国者《よそもの》で、まぎれもない敵であったとしても、かれは、一種の仲間意識を約束してくれていた。これら声なき兇猛な昆虫どもの只中でわたしと同種の他人と仲間になることは、はかりしれない恩恵だった。
わたしがその同囚に近づいていっても、蟻たちは、まるで注意をはらわなかった。というのは、入口のほうへ近づいているのではなかったからだ。ついにわたしは、かれが見えるところまで近づいた。さっきかれが見えなかったのも無理はない。その広間の壁に近い暗がりの中にいるその男は、文字どおりまっ黒だったからだ。とはいっても、のちになってわたしは、かれの肌にかすかな赤銅色がまじっているのを知るにおよんだのだが。
「わたしのほかにはきみがただひとりのとらわれ人なのかい?」とわたし。
「そうだ。あとは、やっこさんたちが食ってしまったよ。たぶんつぎはおれの番だろう。きみということもあるがね」
「逃れる方法はないのかい?」
「ぜんぜんだめだ。それはわかったはずだ。いま、それをやって失敗したばかりじゃないか」
「わたしの名前はデヴィッド」と、わたしはいった。「サリからきたんだ」
「おれはウ・ヴァル」とかれ。「ルヴァ生まれだ」
「友だちになろう」
「よかろう。おれたちは、敵にとりかこまれている。おっつけ死ぬ身だものな」
そうやって話しながら、わたしは、天井からぶらさがっている蜜貯蔵用の蟻から一匹の蟻が蜜をぬきだしているのを見守っていた。わたしが見守るうちにも、そいつは、壁を伝いおりて床をつっ切り、われわれのほうへやってくる。それから突然、わたしの驚いたことに、そいつは、わたしにとびかかってき、わたしをあおむけざまにひっくりかえしたのだ。そして、わたしを押さえつけ、蜜をわたしの口の中へ噴《ふ》きこんだのだ。無理矢理のみこませられたのだった。この強制的な給食がすむと、やつは、わたしのもとを立ち去った。
わたしがペッペッ吐き出し、むせてせきをしているのを見て、ウ・ヴァルは、声をあげて笑った。「そのうちになれるよ」といった。「食糧用にきみを肥らせようというわけだ。きみが食べる食物の種類や量については、きみの思うようにはいかないんだ。最高の結果をうるために、きみがなにを、どれだけ、どれほどの間隔で摂《と》ればいいか、やつらには正確にわかるのさ。ほどなく、穀物をあてがってくれる。これはやつらが、ある程度消化して吐きだしたものなんだよ。たいへんな栄養食で、よく肥るんだ。うまいぞ」
「吐きだしちゃうよ」とわたし。
かれが肩をすくめる。「うん、たぶんはじめはな。だが、しばらくするとなれるようになるさ」
「食べなきゃ、肥らないだろう。そうすれば、ひょっとしてやつら、わたしを殺さないかもしれない」と、意見をのべてみた。
「そんな自信はもたないほうがいい」とかれ。「おれが思うに、おれたちは女王蟻とその幼虫のために、あるいはたぶん兵隊蟻のために肥らされているのだよ」
「女王蟻に食われて、なにかいいことでもあると思うのかい?」
「おれにとっては、どうだろうとちがいはないね」
「ひょっとすると、女王蟻に食われることで少しはえらくなったような気のするものもいるかもしれないな」
「冗談をいってるのか?」とかれ。
「あたりまえだよ」
「ルヴァではあまり冗談はいわない」かれがいった。「それに、こんなところで冗談をいうような気があまりしないのはたしかだよ。おれは死ぬ身なんだ。死にたくはないがね」
「ルヴァというのはどこにあるのかね?」
「きいたことがないのか?」
「うん」わたしはみとめた。
「そりゃまた、不思議なこともあるもんだ。きわめて重要な島なんだぜ――〈浮遊群島〉のひとつなんだ」
「で、それはどこにあるんだい?」
「ところで、島というのはどこに浮かんでる?」と、かれがきりかえしてきた。「海にきまってるじゃないか」
「しかし、どの海なんだ? どこにある?」
「バンダール・アズだよ」かれは説明した。「他にどんな海がある?」
「そうだな。わたしは、コルサール・アズを見たことがある。ソジャル・アズ、ダレル・アズ、そしてルラル・アズもそうだ。他にもまだあるかもしれないが、まだ見たこともきいたこともない」
「海はひとつしかない」とウ・ヴァル。「それはバンダール・アズさ。ずっと遠くにそれをルラル・アズと呼んでいる一族がいることはきいた。しかし、その名前はうそだ」
「きみが島に住んでいるのなら、どういうわけで本土のここでとらわれの身となることになったんだ?」
「うん。ときどきルヴァは本土の近くを漂うんだ。そんなとき、おれたちは、しばしば本土に上陸し、狩りをして肉を手に入れる。島ではほとんど手に入れることができないのだよ。そして、島にはまったくない果実や木の実を集める。運がいいと、奴隷にする男女を何人かつかまえることもあるんだ。おれは、この本土で狩りをしているときにとらえられたのさ」
「しかし、もし逃げられるとしたら――」
「おれは逃げられないね」
「しかし、逃げられたとしたらのことだ。ルヴァをさがしあてることができるかね? 遠くへ漂い去っていなかったらのことだがね?」
「ああ、できるとも。しかしまず自分のカヌーをさがさなくてはな。そいつが見つからなかったら、もう一|艘《そう》つくるさ。それからルヴァのあとを追うね。ゆるやかな流れに乗ってすごくゆっくりと移動しているんだ。おれは、そのあとを追って追いつくさ」
蟻たちは、われわれに給食するとき以外、いっさい割りこんでくるようなことをしなかった。時のたつのがのろくて退屈だった。わたしは、やつらが無理にのみくださせようとする食物を吐きださずに食べられるようになった。何回となく睡眠をとったのを憶えている。この単調さは、ほとんど耐えがたいほどだった。わたしはウ・ヴァルに、ともかくわれわれがいずれ殺されるのであるかぎり、逃げようとして殺されるのも同じではないかとほのめかしてみた。ウ・ヴァルは、首をたてに振ろうとしなかった。
「とにかく、おれは、遠からず死ぬんだ」と、かれはいった。「なにもあわてて死ぬこともないさ」
一度、羽根のある蟻が一匹広間へはいってきた。すると、他の蟻たちがみんなその周囲に集まった。どいつもこいつもこの新来者とおたがい敏感な触角でふれあった。
「ハッハッ」ウ・ヴァルがとんきょうな声をあげた。「おれたちのどっちかがいよいよ死ぬことになったぞ」
「どうしてわかる? どういうことなんだ?」
「羽根のあるやつは、肉を選びにやってきたんだよ。たぶん女王のためか、あるいは兵隊蟻のためかな。ここでとらわれの身といやァ、おれたちだけなんだから、どっちかか、それとも両方かもしれんな」
「わたしは戦うよ」
「なんでだ。石のナイフでか? 二、三匹がとこは殺《や》れるかもしれんが、そんなことしたってなんの役にもたちゃしない。やつらはうじゃうじゃするほどいるのだぜ」
「わたしは戦うよ」わたしは、強情に重ねていった。「やつらは、戦わずしてわたしを殺すことはできない」
「わかったよ」ウ・ヴァルがいった。「きみが戦うんなら、おれもそうするさ。しかし、なんの得にもなりゃしないぜ」
「この憎むべきやつらの二、三匹でも殺せたら、わたしとしては少しぐらい溜飲《りゅういん》がさがるさ」
仲間たちとしばし協議したのち、その羽根のあるやつは、われわれのほうへやってきて、その触角でわれわれの身体じゅうをなでまわし、ときには顎でわれわれの肉をかんでみた。検分がおわると、そいつは、また引きかえしていって他の蟻たちと協議をはじめた。
「おれが思うに、きみのほうがよく肥え、やわらかそうだよ」ウ・ヴァルがいった。
「それを望むというのか」
「うん、むろん、きみが死ぬところを見たくはない」とかれ。「しかし、おれ自身死にたくはないのでね。とはいっても、やつらがどっちを選ぼうと、きみの提案どおり、おれは戦うさ」
「やつらの一、二匹でも殺《や》れば、少なくともほんのちょっとだけ復讐することができたというものだよ」わたしはいった。
「そうだな、なんにもならないということはない」
羽根のあるやつが広間を去った。しばらくすると、でかい兵隊蟻が二匹はいってきた。ふたたび触角による協議が行なわれ、その後、蟻の一匹がその二匹の兵隊蟻をわれわれのほうへ導いてきた。そいつは、まっすぐウ・ヴァルのそばへいき、触角でかれにさわった。
「おれだったか」とウ・ヴァル。
「やつらがきみを連れ去ろうとしたら、ナイフを使いたまえ。わたしが加勢する」
兵隊蟻たちを連れてきた蟻は、自分の仕事にもどっていった。そのとき、兵隊蟻の一匹がウ・ヴァルのそばにより、ガッと顎《あぎと》を引っ裂いた。
「いまだ!」わたしは、ウ・ヴァルにさけぶと同時に石のナイフをぬいていた。
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二一
その兵隊蟻がまさにウ・ヴァルにくらいつこうとしたとき、かれは、石のナイフでそいつに切りかかり、触角の一本を切り落とした。と同じ瞬間、わたしは、横手からそいつにとびかかり、腹にわたしのナイフをぶちこんだ。たちまちやつは、わたしにむかってき、その強力な顎にわたしをくわえこもうとした。ウ・ヴァルがふたたびナイフをひらめかせ、そいつの目の片方をさしつらぬいた。いっぽうわたしは、やつぎばやに数回ナイフを深々とやつに叩きこんだ。やつは横転し、もがきのたうちまわった。その強力な肢の脅威をまぬがれるために、われわれは敏捷に動きまわらねばならなかった。
いま一匹の兵隊蟻が相棒に近づき、触覚でさわってみる。それから引きさがった。どうやら混乱しているようだ。しかし、そいつは、なんらかの方法で広間の中にいる他の蟻たちと意志の伝達をはかったのにちがいない。たちまちやつらは、ひどく興奮し、あちこちかけまわっていたが、ついに一団となってわれわれにむかって殺到してきた。
まさしく身もすくむような光景だった。まったき静寂。恐ろしいうつろな、無表情なやつらの顔、顔、顔が名状しがたい邪悪な脅威をうつし出していた。
化物蟻たちがまさにわれわれに襲いかからんとしたそのおりもおり、上から邪魔がはいってきた。岩や岩くずが天井から広間へ落ちてきはじめたのだ。ちらと見あげると、なにかが開口部を裂き、急速に穴をひろげている。蜜貯蔵用の蟻が一匹、天井から落下して、破裂した。長い、毛におおわれた鼻がにゅっと開口部からはいりこんできて、細長い舌が広間の床のほうへさがってきて蟻たちの上をゆらめいていた。さらに天井がくずれ落ちこみ、いきなりかれらをとらえた混乱がますます嵩《こう》じた。われわれのことはまるっきり忘れてしまったようだった。すぐさまかれらは、地下道へつづく入口へむかって殺到した。恐慌をきたし、前をゆくやつの上に乗りあがり入口でひしめきあった。かれらの上ではたえず大きな舌がゆらめいている。なおも天井がくずれて落ちこんできた。
ウ・ヴァルとわたしは、落ちてくる岩くずを逃れようと、広間のいちばん遠い壁にかけ寄り、ぴったり張りついた。いっぽう、上のほうでは巨獣が開口部をひろげようと強力な前肢で縁を叩き割っていた。
長い、しなやかな舌が広間のすみずみをさぐりまわった。二度、われわれの体をさわって通りすぎたが、いずれの場合もわれわれを無視して、さらに蟻をさがし求めた。そして、もう一匹も残っていないとわかると、その舌と頭が、蟻塚の頂上にこしらえられた大きな穴から引っこんだ。
広間は、岩くずでみたされ、それが天井に開いた大きな裂け目の縁《ふち》まで達していた。われわれに格好の逃げ道を提供している。あたりに蟻は一匹も見られない。
「こい」と、わたしは、ウ・ヴァルにいった。「蟻たちが混乱から回復しないうちに、ここから脱出しよう」
われわれはともに、その岩くずの山を這いのぼった。そして、ふたたび青天井のもとに立ったとき、あたりに蟻の姿ひとつなかった。しかし、一匹だけ、象と同じほどでかいおおありくいがいて、塚の別の部分を掘っていた。そいつの外観は、地上世界の南アメリカにいるおおありくいとほぼ同じだったが、その大きさについては問題にならなかった。なにしろそいつが餌食《えじき》とする蟻が巨大だったのだから。
ペリーとわたしは、ペルシダーと地上世界のさまざまな動物のあいだにある、驚くほど似かよった点についてしばしば思いをめぐらしたのだった。そしてペリーは、これを説明するひとつの説をうちたてたが、わたしは、それがきわめてもっともな論法にもとづいていると信じている。
それは、現在の北極圏に、過去のあるとき熱帯の諸条件が存在していたのだということを、きわめてはっきりと証明していた。その時代に動物たちは自由に、北極の開口部を通じて地上世界と地底世界を行き来していたというのがペリーの説なのだった。が、それはともかくとして、われわれの目の前には巨大なおおありくいが一匹いて、そいつがわれわれの生命を救ってくれたのだ。
こういうときにはあたりまえに起こる衝動にかられて、ウ・ヴァルとわたしは、急いで蟻塚から遠ざかり、海のほうへかけくだっていった。わたしは、どこかを立ち去るのにかつてこれほどの安堵《あんど》をおぼえたことはないといってもいいくらいだ。ジュカン族のミーザ王の部落を脱出するときですら、これほどではなかった。
波打ち際でウ・ヴァルは、立ちどまって目に小手をかざしてはるか沖合いを見はるかした。じっと瞳をこらす。
かれの視線を追ってわたしは、最後に見て以来その海の風景が変わっているのにいきなりびっくりさせられてしまった。
「変だな」とわたし。
「なにが?」ウ・ヴァルがきいた。
「最後にわたしがこの沖合いを眺めたとき、あのあたりに島々があった。わたしは、はっきりと見たんだよ。目の錯覚なんてあるはずがない」
「目の錯覚じゃないよ」ウ・ヴァルがいった。「それが前にいった〈浮遊群島〉なのさ。その中にルヴァがある」
「そうすると、きみは、二度と故郷を見ることがないのじゃないかね」とわたし。「大いに気のどくなことだな」
「むろん、見ることになるさ」ウ・ヴァルがいった。「つまり、そこへいこうとしているときに、殺されるようなことがなければね」
「しかし、たとえ舟があったとしても、どの方向へいけばよいか、どうしてわかるのだい?」
「どこにあろうが、ルヴァのあるところはいつだっておれにはわかるのさ。どうしてだかはわからない。要するに、わかるのにすぎん」かれがゆびさした。「おれたちの視界の外、あのまっすぐむこうにあるんだ」
ところでここに、ペルシダー人がみんな生まれつきそなえている、あの驚くべき帰巣本能のあらたな一面が示された。満汐や海流や風に流されるままに広大な海原をあてどもなく漂流する島で生まれた男。しかし、たとえそれがどこにあろうと、そこまでいきつける手段があたえられたら、かれはまっすぐそこへいきつくことができるのだ。あるいは、少なくともそうできると思っているのだ。ほんとうのことなのだろうかと、わたしはいぶかった。
海岸の、ウ・ヴァルがかれのカヌーをおりた地点は、わたしが進むつもりだった方角にあった。そこでわたしは、それをさがすためにかれといっしょにいった。
「もしそこになかったら」と、かれがいった。「新しく作らなければならないだろう。そうしているあいだに、ルヴァは、それだけ遠くへいってしまう。おれのカヌーが見つかればいいと思うな」
かれは、自分のカヌーを隠した場所で見つけた。小さな入江の、丈高い葦《あし》のあいだに引きこんでいたのだった。
ウ・ヴァルがいうには、ルヴァを求めての長旅をはじめる前に、多数の槍を作らねばならないとのことだった。旅をつづけるうちに、何回となく海獣に襲われるはずだからだ。どの程度うまくいくにせよ、そいつらに対して使える武器は長い槍をおいて他にないのだとのこと。
「おれたちは、その長槍を何本も容易しておかなくてはいけない」かれはいった。
「|おれたち《ヽヽヽヽ》?」わたしは、おうむがえしにいった。「わたしは、きみといっしょにいかないよ」
かれがびっくりしたような顔をした。「いかない? じゃどこへいくつもりだ? きみは自分の故郷へ帰る道がわからないといってたじゃないか。おれときたほうがずっといい」
「いや」わたしがいった。「サリが海の只中にあるのじゃないということはわかる。もしルヴァへいったら、サリはこんりんざい見つけられっこない。そうしないで、この海岸づたいにどこまでもいけば、いずれはサリへたどり着けるかもしれない。ただし、わたしの考えているように、これが、その近くにサリがある海だとすればのことだがね」
「それじゃ、おれが計画していたのとは事情がちがってくる」かれがいった。心もちふきげんな口調だと、わたしは思った。
「きみが離岸するまではいっしょにいるよ」わたしは、かれにいった。「自分でも武器を作らなくちゃいけないから――短い槍と、弓と、矢の何本かをね」
かれは、弓矢とはなんのことかときいた。まだ一度もきいたことがなかったのだ。かれは、弓矢が槍よりも使いやすく、いくつかの点で有利だと考えた。
またしてもわたしは、武器の製作にとりかかった。武器に関してはわたしがすこぶるついていないと、あなたはお思いかもしれない。いつもなくしてしまうからだ。しかし、いつも雑な仕上げだから、武器を作るのはたいした努力を必要としない。雑な仕上げといっても、それらは、つねに所期の目的をはたしてくれていた。とどのつまり、問題はその点だけなのだ。役に立てばそれでいいというわけである。
ウ・ヴァルは、わたしがかれといっしょにいくという問題をたえず口の端にのぼらせた。絶対にそうしなくてはいけないのだと決めてかかっているらしく、しつこくわたしを口説いて変心せようとするのだった。
かれがこうも熱心なのがなぜなのか、わたしには理解できなかった。わたしに対して少しでも情愛を抱いているというそぶりをこれっぽっちも示したことがなかったからだ。ひょんなことでわれわれ異国のふたりの人間が同じ運命をともにした。その点でいえることはせいぜい、われわれは仲がわるくはなかったという程度である。
ウ・ヴァルは、なかなか見てくれのいい男だった。明るい日射しのもとで見ると、かれは、かすかに赤銅色をまじえた濃い黒色の肌をしていた。目鼻立ちはととのっている。おしなべて、すこぶるつきのハンサムだった。ペリーとわたしが地上世界から地殻を貫通してやってきてはじめてお目にかかった、人間に似た生き物がやはり黒人だった。しかし、かれらは、長い尻尾をもった樹上生活をいとなむ生き物だった。人類の進化段階できわめて低いやつだ。ウ・ヴァルはしかし、まったくことなったタイプだった。わたしがこれまで見てきたペルシダーの白人のどの種族の人間とくらべてみても、その知性の点で優劣がつけがたい、といってもいいくらいだ。
自分の武器を作りおわると、わたしは、かれが離岸するまでいっしょにいると約束していたから、かれが槍を作るのを手伝ってやった。ついに武器が完成し、カヌーに食糧と水を積みおわった。水は、かれがカヌーの中に用意していた太い竹に似た植物を節《ふし》のところで切断してこしらえてある容器に入れた。いつまでも新鮮な水のままでいるだろう。食糧は、球根と木の実から成っていたが、かれの食事は、途中で槍でつきさして手に入れることができるかもしれない魚がつけ加わって、変化のとんだ献立になるだろう。
用意万端ととのうと、かれは、わかれる前にひと眠りしようと提案してきた。そうすれば、ふたりとも元気を回復してそれぞれの旅につくことができるというのだ。
目ざめる直前、わたしは、ダイアンの夢を見た。彼女は、わたしの手を自分の手にとっていた。それからだしぬけに、夢の中ではよく起こるあの奇妙な転換で、彼女がコネチカットはハートフォードの一警官に変わってしまい、わたしをうしろ手にして手錠をかけ、拘束してしまったのだ。その瞬間、わたしは目がさめた。
わたしは、わき腹を下にして横たわっていた。ウ・ヴァルがかたわらで立ちはだかっている。
現実にもどるのに一瞬の間があり、そうなったとき、わたしは、実際にうしろ手にしばりあげられているのを知った。
最初は、自分になにごとが起こったのかぴんとこなかった。夢の記憶がまだ執拗にわたしの念頭にまつわりついていた。しかし、その夢の中でウ・ヴァルは、なにをしていた? かれは、コネチカット州ハートフォード在の一警官といっしょにあの場面にいなかった――それに、あの警官はどこへいった? ダイアンはどこにいる?
ほどなく、頭がはっきりしてきた。わたしは、まだウ・ヴァルとふたりきりでいることに気がついた。わたしをうしろ手にしばりあげたのはかれだったのにちがいない。だが、なぜ?
「ウ・ヴァル」わたしはきいた。「これはどういうことなんだ?」
「おまえがおれといっしょについてくるということだよ」
「しかし、わたしは、ルヴァへはいきたくない」
「だから両手をしばらせてもらったのさ。いまや、どうしてもおまえはいかねばならない。おまえにはどうすることもできないのだ」
「しかし、わたしを連れていきたいというのはなぜだ?」
ウ・ヴァルは、答える前にちょっと考えた。それからいった。「うん、おまえが知ってはいけない理由はないな。もはや、おまえにはなにひとつできやしないのだから。実は、おれの奴隷としてルヴァへ連れ帰るんだよ」
「わたしの生まれたところでは」わたしはいった。「きみのようなのには、だいたいどぶねずみという烙印《らくいん》をおすんだよ」
「どぶねずみというのはなんのことだ?」かれがきいた。英語の単語を使っていたので、むろんかれには理解できなかった。
「きみの場合は、だいたい、という程度だ。どぶねずみには、埋め合わせとなるような資質がいくらかでもある。わたしは、そう思うね。どんな資質かとなるとわからないが。きみは、そういうものを持ち合わせていないのだよ。わたしの友情を受けた。ともにとらわれの身として苦しみ、死に直面してきたのじゃないか。ともに自由をかちとるために、共通の敵と戦ってきたのじゃないか。ともに脱出もした。それがいまではどうだ、わたしをきみの奴隷としてきみの故国へ連れ帰ることをたくらみ、わたしが眠っているあいだにしばりあげるとは」
「そのどこがいけない?」と、やつはぬかした。「おまえは、ルヴァ族のものじゃない。したがって、おれたちの敵だ。眠っているあいだに殺されなかっただけでもありがたいと思え。奴隷をうんと持った男は、ルヴァでは重要人物になるから、おまえを生かしてやるのさ。おれも奴隷がひとりできた。連れあいをめとることができるぞ。ルヴァの女で連れあいにするだけのねうちのあるのは、奴隷のいない男といっしょになろうとはしないのでね。奴隷をつかまえるほど勇気のある男、りっぱな戦士といっしょになろうとするんだ」
「で、きみの奴隷のつかまえかたはどうなんだ?」
「どうやっておまえをつかまえたか、かれらにいう必要はない」
「しかし、わたしがかれらにいうことができる」思い出させてやった。
「だめだな」
「なぜだ?」
「できの悪い奴隷は殺してしまうからさ」
「わたしの両手は、いつもうしろにまわされて縛られているわけではない」
「そりゃそうだ。だが、おまえがおれのやったこのことを口にしたら、友だちといっしょにおまえを殺してやることができるぜ」
「わたしは、うそはつけないのでね」
「おまえは、なにもいわないほうがいい。さあ、こい! そろそろでかけようぜ。起《た》つんだ!」わたしのあばら骨を蹴りつけた。わたしはカッとしたが、どうしようもなかった。
うしろ手にしばりあげられているときに、ひとりで立ちあがるのは容易なことではない。しかし、頭と肩とひじを使って、ついにわたしは、片ひざをつき、それから立ちあがった。
ウ・ヴァルがカヌーのほうへわたしをおいたてていった。およそ、やさしいとはいいがたいやりかたでだ。「乗りこむのだ!」と命令しくさった。わたしは、舳先に腰をおろした。ウ・ヴァルは、もやい綱《づな》をほどいて、艫《とも》に坐りこんだ。そして、大きな櫂《かい》をあやつって、そのやくざなカヌーを入江から広大な海原のほうへと向けたのだった。
かくて、海図にも示されていない大洋を六分儀も羅針儀もなしで、たえずその位置を変えつつある目的地へむかって、やくざなカヌーに乗っての旅が開始されたのだった。
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二二
前方にひろがる茫洋たる大海原と、捕捉しがたい目的地へとわれわれを運ぶことになったやくざなカヌーのことに思いをはせるとき、わたしがウ・ヴァルの奴隷になっても、かれには一文の得にもならないはずだ。実際問題として、わたしは、かれの財産と言うよりもお荷物のように思われた。というのも、わたしはウ・ヴァルが運ばなければならない、余けいな重荷にすぎなかったからだ。しかしわたしは、ウ・ヴァルが機略縦横の人物であることを完全に見落としていたのだった。
陸から一マイルほど沖合いに出てから、一匹の小型爬虫類が深みから浮かびあがってきた。そいつの冷たい、無気味な目がわれわれにとまったとき、ガッと顎《あぎと》を引っ裂き、長い首を弓なりにまげ、ぬめぬめした体躯から海水をしたたらせて、やつは迫ってきた。
そいつの面相たるや、まさに身の毛もよだつばかりだった。もっと大型の種族のやつではなかったが、そいつは面相にあらわれているごとく、きわめて兇猛で、われわれのはじまったばかりの航海などあっというまにおしまいにしてしまうことができるのだということが、わたしにはわかっていた。
わたしは、これらの恐るべき爬虫類に以前遭遇したことがある。だから、そいつらのむこう見ずな、無感覚な兇猛さからなにを予期すべきか先刻承知していた。やつらは、理不尽な破壊者なのだ。あきらかに、殺すという目的のみのために殺すのだ。もっとも、やつらはそのどん欲な飢えをこんりんざい満足させることはできないようであり、あたるをさいわい殺してほとんどなんでも食ってしまうのだということをみとめなければならないが。
うしろ手にしばられ、カヌーの舳先になすすべもなくすわっているわたしは、手もなくその殺し屋の餌食にされてしまうだろう。そいつがウ・ヴァルをかたづける前に、まずわたしをつかみあげてむさぼり食ってしまうのに疑いの余地はない。その爬虫類がわれわれのほうへと追い迫ってくるとき、わたしは、こんなことを考えていた。しかしこの、事のなりゆきには、たとえわたしが生命を失うことになっても、いくらかはその埋め合わせができるようなものがあった。わたしは、そいつをとことんまで利用する誘惑に抗することができなかった。
「きみ、大事な奴隷を失ってしまうぞ」わたしは、ウ・ヴァルにさけんだ。「そうなれば、だれにもきみが奴隷を手に入れたことをわからないぜ。どぶねずみになってもなんの得にもならなかったな、ウ・ヴァル」
ウ・ヴァルは返事をしなかった。爬虫類はいまや、三十メートル先あたりまで接近し、バルブから蒸気の洩れるようなシューシューという音を発して、なおも急速に迫ってきつつあった。カヌーは、やつにふなべりをむけていた。
ウ・ヴァルは、カヌーのむきを変え、かれがすわっている艫《とも》をつき進んでくる爬虫類にむけた。それからかれは、われわれが作った長い槍を一本とって立ちあがった。
わたしは認めたくはなかったが、ウ・ヴァルがたいへんにきもったまのすわったやつなのはたしかなようだった。ひとあばれしないでむざむざ奴隷を投げだしてしまうつもりのないことは明々白々だった。
爬虫類は、かれを目がけて真一文字につき進んでくる。ウ・ヴァルが六メートルの槍をかまえる。そいつがカヌーから四メートルにまで迫ってきたとき、かれは、武器の穂先を爬虫類の胴体に深々とめりこませていた。それは、完璧な技術と、プロの闘牛士が雄牛に最後の一撃をくれる正確さでおこなわれたのだった。
たぶん三十秒ほど、爬虫類は、ウ・ヴァルに食らいつこうと懸命にあばれまわった。しかし男は、やりの石突きをしっかりと握りしめ、みごとなさばきでカヌーをけものと一直線のコースに保っていた。だから、われわれに迫ろうとする爬虫類の努力は、要するに水を切ってカヌーをつき進ませるのに役立っただけなのだ。やがてついに、最後の発作的な身ぶるいをしてそいつは横転し、それから腹を上にして息絶えた。ウ・ヴァルの槍の穂先は、そいつの心臓をつらぬいていたのだった。
器官のもっとも高度に発進したけものだったら、そいつは、いま少し早く絶命していただろう。ペルシダーの下等動物のいくつかの場合、致命傷を受けてすらその認識が脳に到達するまでに要する時間の長さたるや、まさに驚くべきものがある。わたしは、かつて尻尾にたいへんな傷を負ったリディがゆうに一分はその痛みをまったく感じていないのを見たことがある。とはいっても、リディの尻尾の先端からその巨大な身体の最先端にある小さな脳まで十八メートルもあるという問題を考慮に入れなければならない。
ウ・ヴァルは、その死骸をカヌーの舷側にひっぱってきて、石のナイフで肉を少々切り取った。それがおわらないうちに、あたりの海面が肉をあてこんで集まってきた恐ろしい肉食魚や爬虫類でわきかえった。そいつらが死骸にわれがちに群がり集まるのをよそに、ウ・ヴァルは、櫂をつかんでできるかぎりすみやかに、さらに直接の危険にさらされずにすむあたりへカヌーをこぎ進めた。それから、安全な距離まで遠のくと、かれは櫂をかたわらにおいて、爬虫類の肉を細ひも状に切り、それらを太陽の熱で乾燥させるために槍の一本にぶらさげた。
このあいだじゅう、ウ・ヴァルは、いっさいわたしに口をきかなかった。やがてかれは、ふたたび櫂をこぎ、わたしは日よけの下に丸くなって眠った。陸を求めて櫂をこぐのは、この先生にまかせておこう、とわたしは、意識を失う直前夢うつつで考えた。
目をさましたとき、われわれは、陸のまったく見えない沖合いへこぎだしていた。ウ・ヴァルは、長い、力強いストロークで着実に櫂をこいでいた。まるで疲れた様子はない。わたしは、相当長いあいだ眠っていたのにちがいない。大気はきわめて澄みきっていたから、百マイル、いや、ひょっとしたら百五十マイル先にあるぐらいの陸地なら見えていたはずだから。大ざっぱに見積もって、ウ・ヴァルは、少なくとも十五時間は櫂をこいでいた――銃装備した六メートルのカヌーをこぎ進めていた――にちがいない、といわなければならないだろう。ペルシダーの海国種族の男たちがひめている力と耐久力には瞠目《どうもく》すべきものがある。
そのカヌーは、速度が出るように設計されたみごとなできばえのものだった。一本の丸太をくりぬいてあるのだが、すこぶる軽量だった。底は、二・五センチほど外側へ張り出している。外側の表面は、ガラスのようになめらかだった。かれらがお粗末な道具をもってこれほど完璧な仕事をものすことができたのが、わたしには謎だった。
このカヌーがくりぬかれている丸太の材質は、錬鉄ほど堅く、すこぶる油質だった。すべてこのためとはいわないが、この油質のおかげでカヌーは、水をつっ切って楽々とすべるように疾走するのである。
積荷はカヌーの中央部につめこまれ、しゅろ様の樹木の大きな葉でおおわれていた。われわれの位置にはそれぞれ、これらの葉で作った日よけがあり、必要なときにはこれをすばやくさげることができる。少なくともウ・ヴァルは、自分のやつをさげることができた。しかし、うしろ手にしばられているわたしは、むろん自分のやつをさげることができなかったし、また、わたしには自分でそうする場合も一度としてなかったが。ただ、こんな情況でなければ、永遠に真昼の太陽の直射日光から保護されることは望ましいことだ。この直射日光に、わたしはとっくの昔に南海の島の原住民よろしく肌の色を焼かれていたのだった。
わたしが目をさまして間もなく、ウ・ヴァルは、櫂をかたわらにおいて、わたしのすわっているところへやってきた。
「おまえの手をほどいてやるぞ、奴隷」と、やつはぬかした。「おまえも漕んだ。それに、アズダイリスのようなもっと大型のけものに襲われたら、おれに加勢するのだぞ。おまえは、いつもこの舳先にいなくちゃいけない。艫《とも》のほうへきたら、殺してやる。それから、おれが眠りたいときには、うしろ手にしばりあげる。でないと、おれを殺すかもしれんからな」
「きみが眠っているあいだ、わたしをしばる必要はない」わたしは答えた。「だからといって、きみを殺しはしないよ。約束する。きみが眠っているあいだに、われわれは襲われるかもしれない。そうだと、きみにはわたしのいましめをほどいているひまはないだろう。わたしがとても必要になるかもしれないぜ。わかるな」
かれは、この点をしばらく考えていた。やっと、わたしの正しいことをみとめた。「とにかく、おまえを殺したってなんの得にもなりはしないな。おまえには二度と陸をめっけられないかもしれないからさ。バンダール・アズは、だれも知らないところまでひろがっているんだ。たぶん、このずっとむこうには海岸がないのかもしれないぞ。そう考えているやつがうんといる。うん、ま、おまえがおれを殺すようなことはないだろうな」
「きみが眠っているあいだに殺すようなまねはしないと、約束したはずだ。だが、いつかわたしは、きみを殺してやる――きみがわたしを捕虜にしたからではない。もっとも、そのやりかたを考えれば、それだけの理由でも充分だがね。そうではなく、うしろ手にしばられ、どうすることもできずに横たわっているわたしを、きみが蹴ったからだ。そういうわけで、わたしは、きみを殺すんだ、ウ・ヴァル」
かれは、わたしの手首からいましめを解くのをおわっていた。そして、わたしのいったことに対してなんら反駁《はんばく》もしないで自分の席へもどった。かれが口にしたのは他のことだった。
「おい、そこのパンゴの葉の下に櫂が一本ある。そいつをとってこぐのだ、奴隷」と、命令しくさった。「おれは舵《かじ》をとる」
最初、わたしはおことわり申すつもりだった。しかし、そうすべき正当な理由がまったく見あたらなかった。というのも、いやになるほど長いあいだ、あの蟻塚で穀類や蜜を無理矢理くわされてごろごろしてきたあとのことだけに、ひどい運動不足だったからだ。そこでわたしは、櫂をとってこぎはじめた。
「もっと早くだ!」ウ・ヴァルが命じた。「もっと早くしろ、奴隷!」
わたしはやつに、くたばってしまえといってやった。
「おまえは、ぶんなぐってやらにゃならんな」やつは、うなるようにいった。そして、長い竹を手にとると、近づいてきはじめた。わたしは、櫂を放りだし、長い槍をつかみあげた。
「さあ、こい、ウ・ヴァル」わたしはどなった。「こっちへきて、おまえの奴隷をぶんなぐれ」
「その槍をおろすのだ」やつが命令しくさったる「奴隷は、そんな真似はしないものだ。なにも知らないのか、おまえは?」
「わたしは、どうすれば奴隷になれるのかを知らないのでね」わたしはみとめた。「少なくともきみのような大まぬけの奴隷にな。きみに少しでも頭脳《あたま》があれば、ふたりとも櫂をこぐ必要がないことぐらいわかるだろう。ところで、なぜここへやってきてわたしをぶんなぐらないのだ? ぜひともそうしてもらいたいものだな」
「その槍をおろせばそうしてやる」
「もとへもどってすわるんだ。もとへもどってすわれといっただろう」
かれは、そのことをしばらく考えていたが、どうやら心を決めたようだった――奴隷を生かしておくか、主人のおのれが生きていたかったら、あまりむり押しはしないほうがいいと。そこでかれは、ふたたび艫のほうへいって腰をおろした。私も座ったが、櫂はこがなかった。
しばらくすると、かれのほうが櫂をとってこぎはじめた。その櫂さばきは実にみごとだった。あまり頭のよい男ではなかったが、かつて奴隷を持ったことのないかれはあきらかに、手に負えない奴隷に対してどんな態度をとったらよいのか多いにとまどっている様子だった。とはいえ、かれがいちばん迷っていたのは、われわれがどちらかでも櫂をこぐのが愚の骨頂だといったような意味を、わたしが暗示したことだ。
長い沈黙を破ってついに、かれはいった。「櫂をこがないで、いったいどこへいけるというのだ?」
「帆を張るのだよ」とわたし。
かれにはわたしのいったことの意味がわからなかった。それというのも、ペルシダー語には|帆を張る《ヽヽヽヽ》に相当する単語がなかったからだ。かれらは、そんな段階にまで進歩していなった。石で作った武器をもち、火の起こしかたを知ってはいたが、舟に帆を張るというのは、かれらのもっとも卓越した頭脳でもまだまだ思いつくにはほど遠いことだったのだ。
風は、ウ・ヴァルがカヌーをこぎ進めていく方角へ一様に吹いていた。だから、われわれがそれを利用していないわけはなかった。とどのつまり、永遠に真昼の太陽のもとで櫂をこぐなどというのはなまやさしいことではない。
「帆を張るとはなんのことだ?」
「いまにわかる。その、きみのうしろにある綱を少しばかりくれないか」
「なんのために?」
「くれればいい。これから見せてやるよ。櫂をこがないでカヌーを進めたいのか、それともこぎ進めたいのか? わたしにはどちらでもかまわないが、とにかく櫂を漕ぐつもりはないから」
「おい!」ウ・ヴァルがどなり声をあげた。「こんなことはうんざりだ。おまえは、おれの奴隷だということがわからないのか? もしおれがそうしろといえば、おまえは、櫂をこがなくちゃならないということがわからないのか? おれのいうことをきかないと、そこへいってもう一度しばりあげ、たっぷりぶんなぐってやる――おまえにはそれが必要なんだ」
「わたしは、櫂をこぐつもりはないし、きみは、わたしをぶんなぐれないね。ここへやってきたら、槍で田楽刺《でんがくざ》しにしてやる。さあ、その綱をこっちへ投げ渡すのだ。そして、ばかなまねはよすのだな。これから、きみがつらい目をみるのを大幅にはぶいてくれるようなものを見せてやるよ」
かれは、櫂をこぎつづけた。眉をくもらせ、むっつりふさぎこんでいた。
風が強くなった。カヌーが波頭へと浮きあがり、つぎには波間へと落ちこんでいく。雲ひとつない空では、ペルシダーの太陽がギラギラ輝いていた。ウ・ヴァルは、全身の毛穴から汗をしたたらせていた。ついにかれは、櫂をおいて、ひとこともいわずに、ひと巻きの綱をわたしのほうへ投げてよこした。
ひとりで帆を張るのは容易なことではなかった。だがついに、何本かの槍と、長さ一メートル七、八十センチの竹二本と綱、そして積荷のおおいからはずしたパンゴの葉五、六枚とで、わたしは、風を受けるはずの〈帆〉を張りおえた。たちまちカヌーは、波をけって颯爽《さっそう》と矢のようにつっ走りはじめた。
「舵をとるのだ!」わたしは、ウ・ヴァルにさけんだ。かれが櫂を使いはじめる。
「こぐのではない!」わたしは、かれにいった。「その櫂を艫《とも》から突っこんで、エッジを水面すれすれのところにもっていくのだ。それから、まずいっぽうへずらし、つぎには反対のほうへずらしてみる。なにが起こるかわかるだろう。そのあとは、舵のとりかたがわかるはずだ」
かれは、たしかに舵はうまくとったが、櫂をこがないでカヌーが進むのを見てびっくり仰天したあまり、狼狽《ろうばい》していた。だがほどなく、落ち着いて舵をとるようになったが、長いあいだひとことも口をきかなかった。
ついにかれがきいてきた。「もし風が別の方角から吹いていたらどうなるんだ?」
「そのときは櫂をこがなくちゃならない」わたしは、かれにいった。「ちゃんと作られたカヌーだったら、ほとんどむかい風に近い風の場合でも帆走できるだろう」
「おまえには、そんなカヌーが作れるのか?」
「作りかたを教えてやれるね」
「おまえは、ひじょうにねうちのある奴隷になるな」かれがぬかした。「よし、その櫂をこがなくても進むようなカヌーの作りかたを教えてくれ」
「わたしが奴隷であるかぎりは、なにひとつ教えてやるわけにはいかないな」わたしは、きっぱり答えてやった。
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二三
このカヌーの旅がどれほどのあいだつづいたのか、わたしにはわからない。わたしは、何回となく眠ったが、槍や綱をうまい工合に工夫して帆を張っておいたから、ウ・ヴァルは、わたしの目をさますことなく近づいてくることができなかった。
風は、一定の方角へ一様に吹いていた。カヌーは、生き物のように海面を滑走していたし、ウ・ヴァルは、たいへんなご機嫌で、ほとんどやさしくすらなっていた。数回――いや何回となく――われわれは、この旧石器時代の海に棲む獰猛《どうもう》な怪物におそわれた。しかし、わたしは、積荷のおおいの下から弓矢をとりかえしていた。わたしの矢は、ウ・ヴァルの槍とともに、これらの恐るべき怪獣や兇猛な顎《あぎと》でしかけてくる必殺の攻撃をつねに、なんとかかわしてきたのだった。
このカヌーの旅の単調さは、それ自体、強くわたしの印象に残るものだった。わたしは、その単調さを決して忘れることはないだろう。猛烈にわれわれに襲いかかってくる、身の毛もよだつような爬虫類ですら、われわれの周囲の八方に、人間の視界をはるかにこえてかなたまで延びひろがる水平線のない、茫洋とした海の死のような単調さにくらべれば、わたしの心に刻んだ印象はうすいのだ。遠くの蒸気船から立ち昇る煙のひと条すら見えなかった。それというのも、ペルシダーには蒸気船がなかったからだ。帆の一本すら見えなかった。帆船の一隻もなかったからだ――ただ、あるのは空虚な海原のみだった。
そのとき、永遠とも思える旅の末にやっと、まっすぐ前方に陸が見えてきた。最初のうちは、かなたに浮かんだ黒っぽい靄《もや》にしかみえなかったが、わたしにはそれが陸地以外のなにものでもありえないことがわかった。わたしは、ウ・ヴァルに声をかけ、そのほうにかれの注意をひいた。しかし、じっと目をこらすかれに、その陸地がみとめられなかった。それでもわたしは、たいして驚かなかった。とっくの昔に、わたしの視力はペルシダー人よりもずっと強いことを知っていたからだ。たぶん、かれらにはあの瞠目すべき帰巣本能があるために、遠くまで見とおす必要がないのだろう。かれらは、遠方に目をこらして見おぼえのある目印をさがすまでもなかったのだ。これは、わたしなりに立てた推論でしかなかった。まるっきり見当ちがいをしているかもしれない。あと、かれらについていえることは、かれらの聴覚と嗅覚がわたしよりもはるかに鋭いということだった。
わたしの目撃したものを見ることができなかったウ・ヴァルは、わたしがなにも見てはいないのだといいはった。どうやら人間性というのは、石器時代から少しも変わってはいないようだ。
われわれは、なおも帆走をつづけた。たとえ陸地が見えなくとも、ウ・ヴァルは、そのはるかかなたの靄《もや》にむかってまっすぐ針路を保っていた。靄は、しだいにくっきりとして輪郭をおびていった。はっきりしてくるのがあまりにゆっくりすぎるという事実から、その陸地が浮遊するルヴァ島にちがいないと、わたしは確信した。これまでどれほどの回数になるか忘れてしまったが、ここでまたわたしは、それを持っているものにも持っていないものにも説明することのできない、あの瞠目すべき本能に驚嘆させられたのだった。その説明などどうやったってできるものではない。わたしには推論すらできないのだ。
ついにウ・ヴァルは、前方にその陸地を目撃した。「おまえのいうとおりだった」と、不承不承みとめた。「前方に陸地が見えてきた。あれがルヴァだ。それにしても、おれよりもずっと早く、おまえにあれが見えたというのは、わけがわからんな」
「その説明はすこぶるかんたんだ」
「どういうわけだ?」
「わたしは、きみよりずっと遠くまで見とおすことができるのさ」
「ばかな!」かれは、ピシッといった。「おれほど遠くまで見とおせるやつはひとりもいない」
こんなおつむの持ち主といいあってもはじまらない。とにかく、わたしにはかれと話しあわなければならない、もっと重要なことがあったからだ。わたしは、弓に矢をつがえた。
「なぜそんなことをするのだ?」すばやく周囲を見まわして、かれがきいた。「射つものはなにもないぞ」
「きみがいる」とわたし。
しばらくかれには、このことがピンとこなかったらしい。おそまきながらわけがわかると、槍に手をのばした。
「それにさわるな!」わたしは命じた。「さもないと、心臓をぶちぬいてやる」
かれが手をわきへ引く。「よしたほうがいいぞ」あまり説得力のない言いかただった。
「なぜだね? 前方には陸が見える。きみの援助がなくてもあそこへいきつくことが、わたしにはできるのだよ」
「おまえの身のためにならないぞ。おれの一族のものがおまえを殺すだろう」
「そうかもしれない。だが、そうではないかもしれない」わたしは反ばくした。「きみの一族にこういうさ。つまり、わたしは味方であり、きみが本土で囚われの身となっているから救助隊を派遣してくれるよう伝えてほしいと、きみからルヴァへ送られてきたんだとな。もしかれらがみんなきみのようにばかだったら、わたしのいうことを信じるだろう。本土へ着いたら、わたしは、きみをとらえた一族をひとりで偵察するふりをして出かける。むろん、引きかえしてはいかない。こんりんざいかれらは、わたしに出あうことはないだろう」
「だが、おれを殺さないでくれ、デヴィッド」かれが哀願した。「友だちになろう。おれたちは、ともに戦った仲じゃないか。おまえを殺すこともできたときに、助けてやったんだ」
「だがきみは、両手をしばりあげ、どうしようもないわたしの腹を蹴ったな」わたしは、かれに思い出させてやった。
「わるかった」泣き声でいった。「しかし、とにかくあまりひどくは蹴らなかった。ああ、お願いだ、殺さないでくれ、デヴィッド。生命ばかりは助けてくれ。おまえのためならなんだってやる」
「よし、殺さないことにしてやろう。どういうわけかわたしは、自分の生命を危険にさらさないで避けられる道があるものなら、どうしようもない人間を無情に殺す気になれないからだ。そこで、きみにひとつだけ条件を出す。生命を助けてやるかわりに、きみは、わたしを奴隷としてではなく、一族の人たちから危害を加えられようとしたらきみが守ってくれる友だちとして、一族のもとへ連れていってくれると約束しなければならない。そして、機会がありしだい、わたしが本土へ帰るのに力をかしてくれなくてはいけない」
「約束するとも」熱心にかれがいった。ちょっと大げさすぎるなと、わたしは思った。実をいえば、そのとき殺しておくべきだったのだ。よくわかってはいたのだが、どうしてもそんな気にはなれなかったのだった。
「よし、わかった。約束は守るようにしてくれよ」弓をわきへおきながら、わたしはいった。
漂流するルヴァ島に接近していくにつれて、それが木々のこんもりと生い茂った、低い、平坦な陸地であるのがわかってきた。水面からあまり浮き出してはいず、水ぎわより一メートル五十センチあるかなしかだった。どこにも丘とおぼしきものがひとつとして見あたらない。正面に見える海岸線は、小さな入江や湾が切れこんでいて不規則だった。その入江のひとつを目ざしてウ・ヴァルは、われわれのカヌーの舵をとった。わたしが帆をおろし、かれが岸へむかって櫂をこいだ。
ふたたび足下に大地を踏みしめ、うんと伸びをして、そのへんを歩きまわるのが心地よかった。
ウ・ヴァルは、カヌーを立木に繋留《けいりゅう》すると、両手を口にあてがって高い、耳をつんざくようなさけび声を発した。そして、耳をすました。ほどなく遠くのほうから、応答するさけび声が聞こえてきた。
「くるんだ!」ウ・ヴァルがいった。「かれらは、魚をとる穴のそばにいるんだよ」そしてかれは、うねりくねって森を貫通している、よく踏みしめられた道を奥地へむかって進みはじめた。
あまり大きくはないが、わたしがこれまでに見たこともないような種類の木々がくっつきあうようにして密生していた。サボテンのようにやわらかい、スポンジ状の樹木だが、とげのたぐいはいっさいない。これらの樹木こそ実は、〈浮遊群島〉――そのひとつがルヴァなのだが――の存在を可能たらしめているのみならず、人間の生存に適した場所としているのだった。樹木の根が密にからみ合っていて島が分解するのを防いでおり、植物が生長する土壌をささえる、いわば自然の篭《かご》のような役目をはたしているのだった。そしてこれらの樹木は、同時に島の住人に食糧の一部と、飲料水のすべてを供給している。木の幹に刻み目をつけるか、枝を切りとるかすれば、いつでも新鮮な飲水が手にはいるのだ。この、やわらかい若木は食べられるし、その果実は、主食のひとつとされている。島には他の植物がほとんど生えていないが、その必要もほとんどない。樹間に、なにかの丈の高い草が生長してい、またあでやかな花をつけた数種の寄生のつたがあるばかりだった。あとは二、三種の鳥が棲息しており、島の住人の主食であるこの樹木と魚にささやかな変化をそえている。つまりかれらは、これらの鳥の肉と卵を食べているのだ。
一マイルばかり歩いて、一部分|開墾《かいこん》された空地へ出た。残された木々がちらほら点在していたが、これは、その生きた根で地面が崩壊するのを防ぐためなのだろう。空地の中央には穴がひとつうがたれていて、直径およそ三十メートルほどの小さな池をなしていた。そして、あらゆる年齢層の男女が五十人ばかりそのあたりに集まっていた。何人かは、池のほとりに立って槍をかまえ、魚が手近に寄ってくるのをまっている。だが魚たちは、あまり岸へ近づくとどんなことになるか、経験を通じて知っているのにちがいなかった。それというのも、槍でつき刺される範囲をこえた池の中央には、うじゃうじゃするほど魚がひしめいていたからだ。ときおり、ばかなやつか、警戒心のないやつがそばへ寄っていくと、たちまち|かかり《ヽヽヽ》のある穂先のついた槍で田楽刺しにされるのだ。男たちの槍さばきは、ほとんど気味がわるいほど的確だった――はずすことは絶対にないのだ。ただ、魚たちが用心深いために、収穫はわずかだった。
ウ・ヴァルとわたしが空地へ踏みだしていくと、われわれに最初に気づいた男がいった。「ウ・ヴァルが帰ってきたぞ!」かれらの目がいっせいにわれわれのほうにむけられた。しかし、帰ってきた道楽者に心からあいさつを送るものはひとりもいなかった。
ひとりの図体の大きなやつが近づいてきた。「奴隷を連れて帰ってきたじゃないか」といった。質問したのではなく、あたりまえのこととしていったのにすぎなかった。
「わたしは奴隷ではない」わたしが答弁した。「ウ・ヴァルとわたしは、いっしょにとらわれの身となっていた。ともに戦い、ともに逃《のが》れてきたのだよ。だから、面目にかけてもウ・ヴァルは、わたしを奴隷にすることができないだろう」
「おまえは、奴隷でないのなら、敵だ」その男が答えた。「そしておれたちは、敵は殺すんだ」
「わたしは、味方としてここへやってきたのだ。なにもわれわれが敵同士にならねばならない理由はないよ。実際のところわたしは、たいへんねうちのある味方なんだがね」
「どうして?」
「櫂をこがなくても進むカヌーの作りかたを教えてやれる。そして、きみたちの槍ではとどかない、池の中央にいる魚のつかまえかたも教えてやれる」
「おまえにそのどちらもできるとは思わないな」かれがいった。「そんなことができるのだとすれば、おれたちにできていたはずだからよ。カヌーや魚とりについて知らねばならんことはみんな知っている。なにか新しいことをおれたちに教えられるものはひとりもいないんだ」
わたしは、ウ・ヴァルにむきなおった。「わたしは、櫂をこがなくてもきみのカヌーを進むようにしてやっただろう?」
ウ・ヴァルがうなずく。「ああ。おれがこぐよりも速く進みすらしやがった。だが、ああなるにはどうすればいいか、おれがかれらに教えてやれる」
「そうだな」とわたし。「だが、きみには、追い風の場合の方法を教えてやれるにすぎない。しかし、わたしには、風がどの方角から吹いていようと、それには関係なく進みたいほうへ進むカヌーの作りかたを教えてやれる。きみにはそれができない」
「それはほんとうか、ウ・ヴァル?」男がきいた。
「ほんとうだ、ロ・タイ」とウ・ヴァル。
「そして、かれには、池のまんなかから魚をつかまえることができるのか?」
「そいつはわからない」
ロ・タイがわたしのほうにむきなおる。「もしおまえにいま言ったふたつのことができるのだとすれば、たとえ奴隷の身であっても同じようにできるはずだ」
「だが、奴隷の身になるのなら、わたしは、そのどちらもやるつもりはない。方法は教えないよ」
「教えるのだ。さもないと殺してやる」ロ・タイがピシリといった。
「わたしを殺せば、きみたちにはこんりんざいわからずじまいになってしまう」わたしは思い出させてやった。
われわれがこうやって話しているうちに、何人かの男が周囲に集まってきて、興味|津々《しんしん》のていでききいっていた。やがてそのひとりが口をはさんだ。「この男を友人として迎えようではないか、ロ・タイ。いまかれがいったことを教えてくれるという条件でだ」
「そうだよ」と別のひとりがいった。「ウル・ヴァンのいうことはもっともだ。この他国者《よそもの》にそんなことができるとは思わない。そして、もしできないときには、かれを奴隷にしてもいいし、殺してもいい」
全員が参加して、たっぷり議論がたたかわされた。他国者を友人として迎えることに反対するものも何人かいたが、大多数は、ウル・ヴァンの意見に賛成した。わたしにはこのウル・ヴァンが一同の中ではるかにぬきんでて頭がよい男のように思われた。
最後にだれかがいった。「ロ・タイが族長だ。かれに決めてもらおう」
「いいだろう」ロ・タイがいった。「おれが決めよう」それから、わたしにむきなおった。「よし、いますぐいってあの池のまんなかから魚をつかまえてみろ」
「少しばかり準備が必要だ」わたしはいった。「入用のものがあるんだが、わたしはそのなにひとつ持っていない」
「それみろ」反対者のひとりがいった。「そいつにはできっこないんだ。逃げ出そうと時間かせぎをやろうとしているだけさ」
「ばかな」ウル・ヴァンがいった。「かれに準備をさせてやれ。かれが失敗すれば、それからでも、かれにできっこないというだけのひまはある」
ロ・タイがうなずく。「いいだろう」といった。「かれに準備をさせよう。だがウル・ヴァン、おまえはつねにかれといっしょにいて、かれが逃げだそうとしないよう見張っていなくてはならん」
「もしかれに魚がとれなかったら、かれは、おれの奴隷にする」ウ・ヴァルがいった。「おれがかれを連れて帰ってきたのだからな」
「いや、できなかったら、かれは殺すのだ」ロ・タイがいった。「おれたちをからかおうとしたのだからな」
ウル・ヴァンにまかされるやいなや、わたしはかれに、九メートルぐらいの長さの軽くて丈夫な細なわがほしいといった。
「いっしょにくるんだ」かれがいった。そして、わたしの先にたって池のむこうにある別の道を進んでいった。ほどなくわれわれは、一族の寝所がある第二の空地へ出た。寝所というのは小さな、はちの巣状の小屋で、全体が大きな木の葉でおおわれていた。各小屋には、下のほうに穴がひとつあいていて、そのひとつにウル・ヴァンは這いずりこんでいった。ほどなく、わたしがウ・ヴァルのカヌーの中で見たのと同じ草を編んだ綱を持って現われた。この綱では役に立たない。わたしの目的にはあまりにも太すぎた。しかし、そいつは細いのを何本かよりあわせたものだったから、そのよりをもどして細いのを一本使えば所期の目的をはたしてくれることがわかった。そうしてもよいとかれが許してくれたので、わたしは要するに、長さ十二メートルほどの軽量で細いひもを手に入れることができたのだった。
これだけ用意すると、わたしは、池へとってかえした。ここで、ひもの先端に矢がらをしっかりと取りつけ、ひものもういっぽうの端を右の手首にしばりつけた。それから、池のほとりまで進み出て、その矢を弓につがえた。
いまや全員の目が、池のほとりに立つわたしに集中していた。池の中央あたりには、文字どおり無数の魚がひしめきあい、水面からはねあがっているのもいた。しかし、どいつも槍のとどく範囲まで近づいてはこなかった。
わたしは、綱のたるみを入念に足元にぐるぐる巻きにしておいて、弓をかまえると矢を満々と引きしぼった。ひどく神経質になっていたが、それも当然のことだといえるかもしれない。このようなことは以前に一度もためしたことがなかったのだから。矢がそのあとにつづく綱の重みにたえて飛んでいくのかどうかもわからなかった。だが、わたしの生命はその成否にかかっているのだ。
わたしは、魚がもっとも密集しているあたりに慎重な狙いをつけた。弦がうなりを生じ、矢が目標めざして真一文字にすっ飛んでいく。魚が一匹、音をたてて宙に跳ねあがった。綱があっという間にくりだされていった。わたしは、両足をふんばって、衝撃にそなえた。その衝撃がきたとき、わたしは、あやういところで池の中へ引きこまれそうになった。しかし、なんとかふみこたえることができたのだった。
わたしは、その魚をたぐり寄せようとはしないで、しばらくのあいだあばれるにまかせておいた。綱が最初の強烈な衝撃にたえたからといって、どれほど強いのか、かいもく見当がつかなかったからだ。わたしは、その魚を弱らせたかった。そして、綱に少しのたるみができるたびに、その分だけたぐり寄せた。そのうちに、ついにのたうちまわっていた魚も動きをやめ、腹を上にして水面に浮かびあがった。わたしは、それを岸へたぐり寄せてロ・タイに渡した。ロ・タイは、すぐさまわたしに、一族の戦士全員のために弓と矢を作ってくれと要求した。だが、たちまち障害にぶつかった。ルヴァ島には弓を作るに適した植物が生長していなかったのだ。その結果、わたしは、魚を射ることに忙殺されつづけることになった。
ロ・タイは、わたしがかれらに教えるべきものを持っていたということをみとめないわけにはいかず、かれのわたしに対する態度もやや和らいだ。しかし、ウ・ヴァルは依然として、わたしにかなりつらくあたっていた。かれは、わたしを自分の奴隷として欲していたし、わたしのしたことをすべて自分の功名にしたがった。ウル・ヴァンのいうところによれば、ウ・ヴァルはたいへんなきらわれもので、わたしがかれを主人にしないですんだのは運がよかったのだそうだ。
かれらは、わたしのとらえた魚から腹わたを抜いて、くん製にした。そして充分なたくわえができたと思うと、ロ・タイはこんどは、櫂をこがなくても海をいくカヌーの作りかたを教えてくれといった。
たちまちわたしは、克服することのできない障害にぶつかった。カヌーを作るに適した木がルヴァ島にも、他の浮かぶ島々にも生えていなかったのだ。かれらのカヌーはすべて、適当な木が見つけられる本土で作られたものだった。カヌーを一|艘《そう》作るというのはたいへんな仕事であり、二十人ないし三十人の男が百度以上も睡眠をとるあいだルヴァを留守にしなければならないほどの遠征を必要としていたのだ。
カヌーは、本土で大ざっぱにくり抜かれ、そのままルヴァへ引いて持ち帰られて、ここでひまをかけて仕上げがほどこされる。骨のおれる仕事だった。
これらのカヌーは、何世代も家族のものに受け継がれてきた。ウル・ヴァンのいうところによれば、かれのカヌーは少なくとも十世代は受け継がれてきたのだそうだ。カヌーは、父親から長男に相続されるのだった。
女、子供はめったに島をはなれることがないから、カヌーの数は、男を運ぶに必要なだけしかない。新しいカヌーは、かれらが持っているカヌーの運搬能力を超過して一族の男の数がふえた場合にかぎって作られる。しかもこんなことは、男の生涯で二度以上おこることはめったにないと、ウル・ヴァンは話してくれた。戦士たちの中には事故死するものがあるから、それが男の出生率とうまく均衡がとれているのだそうだ。
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二四
わたしは、かれらのカヌーの一艘を帆走のボートに転換した模様をこまごまと述べたててあなたを退屈がらせるのはよしにしたい。あれこれやってみたあとで、〈浮遊群島〉特産の木の材質が炭火にかざすことで硬化できることを、わたしは発見した。この間に合りわせの材料を使って、竜骨と舷外張り出しをこしらえた。わたしの道具といえば、なにかの貝の縁《ふち》の鋭利な殻、石のナイフ、石ののみ、石のハンマーだけだった。幸いなことに、この木材はひじょうにやわらかく、堅くする前に形をととのえたのだった。竜骨の上側には|出ぶち《フランジ》をつけ、炭火で硬化してからカヌーの底にあてがい、絞《し》めると膨張するとわかっていた木の止めくぎでしっかりと取りつけた。帆柱には、竹を適当な高さになるようにつなぎ、この三本をまとめて草を編んだ綱でしばった。帆はたぶんいちばんめんどうな問題だっただろう。しかしわたしは、原始的な織機を作ってふたりの女に、長い丈夫な草で布を編む方法を教えることで、この問題を解決した。
このカヌーの仕事をやっているあいだに、わたしは、一族の連中とかなり親しくなっていき、かれらの習慣にもわりと明るくなっていった。この島にはおよそ四十家族の人びとが住みついており、一家族はだいたい四人平均で構成されていた。ほかに奴隷が二十五ないし三十人ほどいた――本土の白人種から拉致されてきた男女だった。これらの奴隷は、ほとんどすべての手仕事に従事していたが、かれらの生活はみじめなものではなく、おしなべて好遇されていた。
かれらは、一夫一婦制をとっていて、血縁にひじょうな誇りを持っていた。どんな事情であれ、ここの男は、白人の女を連れあいにすることはなかった。白人種を自分たちよりはるかに劣等の種族とみなしていたからだ。わたしは、これまでなれきってあたりまえのこととして考えていたこの、二種族の地位を根底からくつがえしてしまっているかれらの考えかたに、どうしてもなじむことができなかった。だが、実際にはそう思えるほどみじめなことではなかった。というのは、地上世界で黒人たちが遇されているよりもはるかに寛大に、ここの黒人たちは、われわれを待遇してくれていることをみとめなければならないからだ。たぶんわたしは、本当の民主主義とはどういうものかという教訓を学んでいたことになるのではないだろうか。
わたしが改造作業にとり組んでいたカヌーは、部落から半マイルほど離れた海岸に引きあげられていたものだった。たいてい、大勢の部落民が周囲に集まってきて、わたしの仕事ぶりを見物していたし、ウル・ヴァンは、つねにわたしのかたわらにいて、ロ・タイに命じられたようにわたしが逃げだすのを警戒していた。
一度ウル・ヴァンとわたしだけになったおりのこと、たまたまかなたから接近してくる一艘のカヌーに、わたしは気がついた。ウル・ヴァンに声をかけて、かれの注意をそのほうに惹《ひ》いた。最初のうちかれには、そのカヌーが見わけられなかったが、さらに接近してきて、カヌーだと見わけがつくと、かれは、かなり興奮した様子を見せた。
「あれはおそらくコ‐ヴァ族だ」といった。「略奪にきたのにちがいない」
「あのうしろにさらに三艘のカヌーがつづいているのが見えてきたぞ」わたしは、かれにいった。
「まずいことになった。すぐ部落へひきかえして、ロ・タイに伝えなくてはいけない」
ウル・ヴァンから報告を受けると、ロ・タイはただちに、池と、そして戦士たちがいるとかれにわかっている島のそこここに子供たちを走らせた。ほどなく、全員が部落に集まってきた。
女、子供は、小屋の中へ引っこめられた。男たちは、おどおどしながらその辺につっ立ち、敵に槍で田楽刺しにしてくださいといわんばかりだった。まったく組織もへったくれもない烏合《うごう》の衆にすぎなかった。
「まさかここにじっとしているつもりなのじゃないだろうな、ロ・タイ?」わたしはいった。
「ここは、おれたちの部落だ。ここにとどまって守るつもりだよ」
「なぜ出ていって迎えうとうとしないのだ?」わたしはきいた。「かれらに奇襲攻撃をかけることだってできる。斥候《せっこう》をひとり送って、かれらの進んでくる道筋をつきとめ、それからその両側の物陰に戦士たちをひそませておけばいい。そしてコ‐ヴァ族たちがのこのこ罠《わな》にはまりこんできたら、きみたちは、両側からいっせいに襲いかかることができるじゃないか。かれらは、びっくり仰天してガタガタになってしまうだろう。きみたちが殺しそこなった連中は、踵をかえして一目散《いちもくさん》に自分たちのカヌーに逃げもどるにちがいない。かれらを部落までやってこさせる必要はぜんぜんないのだよ」
「おれは生涯、略奪者がやってくると戦いぬいてきた」ロ・タイが威厳をこめて答えた。「おれも、おれのおやじも、またそのおやじも、つねに戦士たちを部落にとどめて攻撃をまち受けたのだ」
「そんなのはまともじゃないね」わたしはいった。「実際のところ、きみたちはつねにまちがいをやってきたんだよ。もしきみが十人の戦士をまかしてくれたら、あのコ‐ヴァ族たちが部落へ近づいてくるずっと手前で食い止めてやるがね」
「おれは、かれのいうことを信じるぜ」部落の重要人物のひとりがいった。「かれは、まだ一度もおれたちをだましたことがないからな」
「かれの作戦はみごとなものだと思うね」ウル・ヴァンがいった。
「よし、いいだろう」ロ・タイがいった。「十人の戦士を連れていって、おまえにあのコ‐ヴァどもを食い止められるかどうかやってみるのだな。あとのものは、ここにとどまって、もしおまえが失敗したら、やつらと戦うのだ」
「失敗はしない」と、わたしはいって、それからウル・ヴァンと、あと九人の戦士を選抜した。われわれは、カヌーのほうへ引きかえしていった。わたしは、ひとりの男を斥候として選び、かれらが上陸後どの道筋をたどるかわかりしだい、とって返してきて報告するようにと命じて先へやった。
「やつらは、この道をやってくるだろう」ウル・ヴァンがいった。「いつもそうなんだ」
「かれらは、しばしばきみたちを襲うのかね?」わたしはきいた。
「そうなんだ。やつらは、きみがやってくるちょっと前にも略奪にきたんだよ。それから、まだ二、三回睡眠をとったばかりなんだ。やつらは、われわれの戦士を五、六人殺し、奴隷を何人かさらっていった。その中には、わたしのものだった女の奴隷がひとり含まれている。彼女は、たいへんな美人で、わたしの女房も彼女をひどく気に入っていたから、とても残念だった。なんでも、自分はアモズ族のものだと彼女はいっていたな。他の奴隷たちにきいたところによると、アモズの女はすこぶるつきの美人ばかりだそうだ。彼女は、わたしの女房にこういっていたそうだ――彼女とその連れあいは、サリとかいう土地に住んでいるのだとな」
「彼女の名前は?」とわたしはきいた。
そしてウル・ヴァンが答えないうちに、例の斥候が息せききって駆けもどってきたのだ。「コ‐ヴァどもは上陸した。この道をやってくるところだ」
「何人ぐらいいた?」とわたし。
「二十人ほどかな」
わたしは、戦士たちを道の両側に配置し、悟られることのないような木陰にひそませた。戦士たちはめいめい、槍二本と石のナイフ一本をおびていた。わたしはかれらに、わたしが合図を送るまで動いたり、物音をたてたりしないよう告げた。合図があったら、立ちあがっておのおの槍を一本だけ投げつけ、残りの槍をかまえてすぐさまつっこんでいって白兵戦にもちこむことになっていた。
わたしは、その道筋からちょっとはずれた樹木にのぼった。そこからだと、味方の戦士ばかりでなく、コ‐ヴァ族の近づいてくる道がわずかな距離だけ見張れた。相手は、どんな運命がかれらをまちうけているのか、まるでご存知ないのだ。
長く待つほどもなかった。ほどなく、薄気味のわるい色を身体じゅうにぬりたくったひとりの戦士が見えてきたのだ。そのあとにぴったりくっつくようにして他の戦士たちが一列でつづいていた。かれらの武装は、ルヴァ族とまったく同じだった――槍二本と石のナイフ一本――そして、かれらも同様に端正な顔立ちの黒人種だった。ただ、ルヴァの戦士と感じがちがうのは、かれらの出陣化粧の点だけだった。
わたしは、音をたてないようにして弓に矢をつがえて、敵の全員がまち伏せしている個所へ充分にはいってくるまで待ちうけた。やがて弓を引きしぼり、慎重に狙いをつけた。これは原始的ないくさだった。石器時代の戦闘なのだ。むろん、毒ガスなどはない。女、子供や、病院に爆弾を落すわけにもいかなかった。しかし、こういう原始的なやりかたで、けっこううまくいくのだ。というわけでわたしは、矢を放った。それが列のしんがりにいる男の身体にぐさりとめりこむと、すぐさま攻撃開始の合図をルヴァの戦士たちに送った。
荒々しい鬨《とき》の声をあげてかれらは立ちあがり、槍を投擲《とうてき》した。完全に虚をつかれたコ‐ヴァたちは、たちまち混乱状態におちいった。その只中へわたしは、さらに六本の矢をたてつづけに射こんだ。同数の敵がバタバタ転倒した。
最初の急襲で二十人のうち十一人の戦士が倒れ、残る九人は踵《きびす》をかえしてスタコラ遁走《とんそう》しはじめた。ところが道はせまく、そこに死者や負傷者がころがっていてじゃまになり、けつまずいて転倒した。その転倒したのや、死んだのや、瀕死の仲間を、あとのものがのり越えて逃げ去ろうとする。そのあげくかれらもひっくりかえり、兇猛な叫びを発して殺到するルヴァの戦士の好餌《こうじ》となり、最後のひとりまで槍で田楽刺しにされてしまったのだった。
わたしが木からおりたころには、味方の戦士が負傷者の心臓を槍でぶち抜いていた。コ‐ヴァ族はひとりも逃れられず、わが戦士はひとりとして、かすり傷すらうけていなかった。
敗北者たちの武器をちょうだいすると、われわれは、意気揚々と部落へ凱旋《がいせん》したのだった。
われわれを見守る部落民は、呆気にとられていた。「戦いはなかったのか?」ロ・タイがきいた。「コ‐ヴァどもはどうしたのだ? あとを追ってきているのか?」
「コ‐ヴァどもは全滅だよ」とウル・ヴァン。「二十人いたが、おれたちが皆殺しにしたんだ」
「味方をひとりも失わずに、二十人のコ‐ヴァ族を全滅したと?」ロ・タイがきいた。「そんなのははじめてのことだ」
「デヴィッドのおかげだよ」とウル・ヴァン。「おれたちは、かれにいわれたとおりしただけだ。そしておれたちは勝ったんだよ」
ロ・タイはなにもいわなかった。他のものたちといっしょになって、凱旋した戦士たちの自慢話に耳をかたむけていた。しかし、これでわたしがかれらのだれからも全面的に信頼されるようになったことに疑いの余地はない。
ついにロ・タイが口をきいた。「コ‐ヴァどもに対する勝利を祝して、ルヴァの戦士たちで饗宴を張るとしよう。食物と、飲んで楽しくなれるようにトゥ・マルを、奴隷たちに用意させるのだ。この饗宴には、ルヴァの戦士のみが参加するものとする」
何人かの奴隷が食物の用意と、トゥ・マル――なんらかの効能をもったアルコール飲料――を作るよう命じられた。残る男の奴隷たちは、コ‐ヴァたちの死骸を海へ運ぶべく派遣された。死骸は、そこで深海の獰猛な住者どもに投げあたえられるのだ。
ウル・ヴァンの注意をひくと、わたしは開口一番、コ‐ヴァ族に拉致《らち》されていった女奴隷の名前をきいた。
「アマル」かれがいった。「そういう名前だった」
がっかりしていいのかわるいのか、わたしにはわからなかった。かれが話してくれたことから、その女があるいはダイアンかもしれないと思っていたのだ。彼女は美人だし、アモズで生まれたのだし、連れあいとサリに住んでいたのだから。しかし、むろん大勢の女がアモズで生まれているのだし、その多くがサリの男たちの連れあいになっているのだし、アモズの女は、ほとんどみんな美人なのだから、ウル・ヴァンのいったことは、ダイアン以外の大勢の女にあてはまることになるのかもしれない。それはともかくとして、ダイアンが〈浮遊群島〉のいずれかにいるということが果たしてありうるだろうか?
饗宴の準備ができるまでに三度、睡眠をとるだけの間があった。というのも、トゥ・マルを醸造しなければならなかったし、特別料理を用意しなければならなかったからだ。その多くは、パンゴの葉に包んで地下に埋めたり、熱い石の上においてひまをかけて調理されているものだった。
わたしは、ふたたびカヌーの改造作業にとりかかった。ウル・ヴァンがつきっきりだった。かれは依然として、われわれの勝利に酔いしれていて、このことをいま生きているルヴァ人のすべてが記憶するかぎりにおいて空前絶後のできごとだと評した。
「おれたちは、やつらを皆殺しにしてその武器を奪ったばかりではなく、四艘のみごとなカヌーを手に入れた。こんなことは、こんりんざい起こったことがない。あったためしがないよ。それをやってのけたのはきみなのだ、デヴィッド」
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二五
わたしは、ルヴァへやってきて以来、ウ・ヴァルが終始オ・ラという名の女にまつわりついているのに気づいていた。彼女のあとを追う若者は他にも数人いたが、彼女は、そのだれにも無関心だった。わたしが思うに、彼女には、いわば男をだまして財産をねらう女のようなところがあった。旧石器時代の打算的な女というところか。
というわけで、彼女の望みは奴隷をもった男だった。だが、彼女にいい寄る男たちにはだれにも奴隷がいなかったのだ。かくて、ウ・ヴァルのわたしに対する好意がおよそ増していくことのありそうもないような情況ができあがったのだった。かれは、ほとんど四六時中わたしを憎みながらすごしていたのではないだろうか。険悪な目つきでわたしをにらみつけているのに、わたしはよく気づいたのだった。わたしの思うに、かれは、そうやってわたしを威嚇《いかく》し、おまえはおれの奴隷なのだと主張できるようになるまで勇気をふるいおこそうとしていたのだ。かれがわたしを怖れているのは、純粋に心理的なものだった――いわれのない劣等感――というのは、本土からルヴァへやってきたカヌーの旅のあいだ、われわれに襲いかかってきた巨大な爬虫類との遭遇戦で、かれは、臆病でないことを身をもって示していたのだから、わたしたちはだれでも、こうした型の気おくれの実例を何度も見ているのではないだろうか。死には冷然として直面できても、自分の図体の半分ほどしかない女性の前に立つとすっかりぶるってしまう男たちを、わたしは実際に知っている。二十日《はつか》ねずみを怖がる英雄も知っているのだ。
オ・ラに対する関心がむくわれぬことで、一族の男たちは、ウ・ヴァルを笑いもののたねにしてからかったのだ。よほどかれらは、ウ・ヴァルを嫌っているのだろう。石器時代のユーモアというのは、往々にして露骨だといえるかもしれない。しかし、地上世界ではその大部分がおそらくは百万年という時を経て、そのままの形で受けつがれてきているのだ。コネチカット州ハートフォードでわたしのきわめて親しい旧友たちも、この旧石器時代的な冗談をひんぱんにとばしていたのだということがこの世界にきてわかった。
やっと饗宴のための食物とトゥ・マルの用意がほぼできた。ロ・タイは、戦士たちにそれぞれ小屋へ引きさがって睡眠をとるよう命じ、その睡眠からさめたら饗宴が張られるだろうと伝えた。ウル・ヴァンはわたしの見張りをつづけるよう命じられていたから、かれといっしょにかれの小屋へ入らねばならなかった。そして、眠りがおとずれるのをまっていると、近くの小屋で人の話しあっているのがきこえてきた。男が話しているのだが、どうやらひとりの女に自分の小屋へはいってくるよう説き伏せようとしているらしい。ルヴァ族のあいだでは女が男の小屋へはいれば結婚式が完了するのであり、ひどくあっさりしたものだ。ところが、女は頑として小屋へはいることを拒否しているのだった。
「いやよ」と、女はいった。「あたしは、奴隷のいない男の連れあいになるつもりはないのよ」
「おれには奴隷がいる」男が答えた。その声はウ・ヴァルだった。
女が軽蔑したように、ケラケラ笑った。「あんたは、奴隷をうまく隠しているのかしら? ウ・ヴァル。どういう奴隷なの――男、女? それとも、勇敢なウ・ヴァルは、小娘でもつかまえたのかしら?」
「おれの奴隷は、偉大な戦士だ」とウ・ヴァル。「デヴィッドという名前の男なんだよ。おれがそいつを島へ連れてきたのを見なかったか?」
「だってかれは、あんたの友だちであって、奴隷ではないといってたわ。あんたもそれを否定しなかった」
「やつをおれの奴隷と主張したら、おれを殺すとおどかしたから、あえて否定しなかったのだ」
「あんたがかれを自分の奴隷だと主張したとき、連れあいになったげるわ。あの男なら重宝な奴隷になるでしょうからね」
「そうだな」ウ・ヴァルが同意した。だが、その口調はあやふやだった。わたしがすこぶる御《ぎょ》しやすい奴隷になるかどうか、あやしむべき理由がかれにはあったのだ。
「あんたが奴隷を持ったときに、もう一度あたしにいい寄るといいわ」オ・ラがいった。そのあと、彼女はいってしまったのにちがいない。ぱったり話し声がとだえてしまったからだ。ほどなくわたしは、眠りこんだ。
ひとりの男の子がやってきてわたしを起こし、ロ・タイが目をさまして戦士たちに饗宴に集まってくるようにいっていると伝えた。
わたしは、ウル・ヴァンのあとについて小屋を出て、その準備が進められるのを見物できるような木陰に立った。空地の一角、地面の横一メートル弱、縦《たて》八メートルほどに木の葉が敷かれていた。これが宴会のテーブルなのだ。奴隷たちがその上にずらりと食物を積みあげ、トゥ・マルをなみなみと満たした太い竹筒を並べている。戦士たちがテーブルの両側に場を占める。その片側の中央に立つロ・タイが、だれかをさがし求めるように周囲を見まわした。不意にかれの視線がわたしにとまると、呼びかけた。
「こっちへくるんだ、デヴィッド。戦士たちといっしょに宴に加わってくれ」
そのとき、ついに勇気をふるいおこしたウ・ヴァルが口を切った。「奴隷は、ルヴァの戦士たちと食事をともにしないことになっているではないか、ロ・タイ」
「それは、どういう意味だ?」ロ・タイがいった。
「その男デヴィッドは、おれの奴隷だという意味だよ。おれが本土でかれをつかまえ、ルヴァへ連れ帰ったのだからな。かれにはもう、たっぷりと自由な人間のまねごとをさせてやった。ここで、かれがおれの奴隷であると主張させてもらう」
異議をとなえる声がかしましくおこった。やがてロ・タイが口を切った。「たとえデヴィッドがおまえの奴隷だとしても、かれは、例の功績によって自由をかちとっている。ルヴァの族長ロ・タイがかれに自由をあたえたのだ。おれにはそうする権利がある。かれに自由をあたえ、かれをルヴァの戦士とする」
「白人奴隷などと同席して食事をするつもりはない!」ウ・ヴァルがさけんだ。そして、くるりと踵を返して大またに歩み去ろうとした。だが、二、三歩いくと立ちどまり、向きなおった。
「かれを奴隷にすることができないのなら、少なくとも殺すことはできる。やつは、ルヴァの敵だからだ。かならずやつを殺してやるぞ!」
「大蟻塚でわたしといっしょに穀類と蜜を食べたのを忘れたのか、ウ・ヴァル?」わたしは、大声でかれにいった。「こっちへきて食べたほうがいいぞ。わたしを殺すのは、そのあとからだってできる。から元気をつけるのにトゥ・マルを飲む必要があるだろう。だが、忘れるなよ、ウ・ヴァル、わたしがおまえを殺してやると約束したことをな」
「なぜかれを殺すと約束したのだ?」ロ・タイがきいた。
「かれが友だちだとばかり思っていたところが、わたしが眠っているあいだに、わたしをうしろ手にしばりあげていた。わたしが目をさますと、かれは、わたしがかれの奴隷だといった。なんの手出しもできないで地面にころがっているわたしの脇腹を蹴った。かれを殺してやると約束したのは、そんな格好のわたしを足蹴《あしげ》にしたからだ」
「正当防衛のためならかれを殺すこともできるが、それ以外のことではだめだ」ロ・タイがいった。「かれにけんかをふっかけるようなまねはしないよう注意してくれよ」そして、いいそえた。「無益なことでひとりといえども失うほど大勢の戦士がいるわけではないからな」
さて、ロ・タイの合図で、戦士たちがご馳走を前にして地面にあぐらをかいた。戦士は、めいめいりっぱな手をふたつ持っているというわけで、ナイフもフォークもない。だれもがその両手を精いっぱい活動させた。話し声はほとんどしなかった。飲んだり食ったりに大いそがしだったからだ。
女子供と奴隷は、われわれをぐるりととりまいて、われわれが飲み食いしているのを生つばをのむようにして見守っていた。われわれの饗宴がおひらきになると、かれらは寄ってきて残りものをたいらげるのだろう。
ほどなく戦士たちは、トゥ・マルによってごきげんになり、それに応じて騒々しくなりはじめた。わたしは、トゥ・マルを飲まなかった。満腹するとやおら立ちあがり、その場をはなれた。わたしが立ち去るやいなや、ウ・ヴァルがつかつか近寄っていってご馳走の前にあぐらをかいた。かれを見守っていると、食べ物にはほとんど手をつけず、トゥ・マルをがぶ飲みしているのが見てとれた。そのとき、わたしは、身のまわりによく注意していなければならないとさとったのだった。
わたしは、カヌーのところへいってほとんど完了しかけている改造作業にとりくみたかった。しかし、ウル・ヴァンがいっしょにこれないとあってはそれもできなかった。奴隷たちはみな忙しそうだった。そこで、わたしは、はなれたところにひとりで腰をおろした。原始人の女たちにかかわりをもたなければもたないほど、それだけ好かれるのだということをとっくの昔に知っていたからだ。男たちは、他国者《よそもの》が自分の女に話しかけただけで恨みすら抱くようになるのだ。ところが、しばらくするとオ・ラがやってきて、わたしのとなりに腰をおろした。だれのものというわけでもなかったが、彼女にはいい寄るものが数人いた。だから、彼女になれなれしくするのは、かんばしからざることだった。しかしわたしは、こうすればウ・ヴァルがますます逆上するだろうとわかっていながら、彼女とふたりきりで話したのだった。果たしてウ・ヴァルはそのとおりになったのだが。
「ウ・ヴァルは、あなたを殺そうとしているわ」彼女がいった。「かれがトゥ・マルをがぶ飲みしにいくちょっと前に、そういったの」
「なぜわたしに注意してくれるのだね?」
「ウ・ヴァルがきらいだからよ。それに、あなたにかれを殺してもらいたいからでもあるの。そうすれば、あたしは、こんりんざいかれにうるさくされないですむでしょう」
「でもきみは、かれに奴隷がいたら、かれの連れあいになっていたのだろう。かれをきらいなのだったら、どうしてそんなことができるのだね?」
「かれが急に死ぬようなことがあったら」と、彼女はニヤッとしていった。「そのときは、かれの奴隷がわたしのものになるでしょう。そのあとで、あたしが好きな男の連れあいになったっておそくはないわ。そうすれば、奴隷と男が両方とも手にはいるというわけよ」
「きみは、かれを殺すつもりだったのか?」
彼女は肩をすくめた。「かれが死んだらといったのよ」
オ・ラは、時代をまちがえて生まれてきたのだ。百万年は早すぎたのか、でなかったら少なくとも、現在の地上世界に生まれるべき女だった。石器時代の娘にしては、物の考えかたが恐ろしく進んでいたのだ。
「なるほどね。きみが男を手に入れるのはいいだろう、オ・ラ」わたしはいった。「しかし、わたしがその当人になるというのはいやだね」
彼女は声をあげて笑い、立ちあがった。それから、興奮した低い声でいった。「ウ・ヴァルがやってくるわ。ここにいて、座興を見物させていただこうかしら」
「わたしがきみだったら、やはりそうするだろうね」わたしがいった。「だれかが殺されることになるだろうから。きみは、それを楽しむべきだよ」
ウ・ヴァルは、ちょっとふらつきながらわれわれのほうへやってきた。例のしかめっ面がいつもより険悪にすらなっていた。
「おれの女を横どりしようとは、なんという了見だ?」かれがぬかした。
「彼女は、おまえの女なのか?」
「そうではないと、あたしがうけあうわ」オ・ラがいった。
「いずれおれの女になる」とウ・ヴァル。「とにかく、きたない白人奴隷が、おれの目の前でルヴァの女と話をするのは許されないのだ」
わたしは、かれがなんといおうが、その手に乗ってかれにつっかかっていくつもりはなかった。正当防衛以外の理由でかれを殺しでもしたら、わたしの身があやうくなるだろうと、ロ・タイがはっきりさせてくれていたからだ。
「なぜ戦おうとしないのだ、この汚ねエ腰ぬけめ?」やつがわめいた。
このころには、他の連中の注意がこっちへひきつけられ、一族のものが集まってきてわれわれをとりまいていた。かなり酔っぱらっている男も何人かいた。かれらはまず、ウ・ヴァルにけしかけ、ついでわたしにそうした。オ・ラと同様、かれらも死闘を見物したがっているのだ。見物人の中にはロ・タイもウル・ヴァンもいた。
ウ・ヴァルは、思い出せるかぎりのペルシダーの悪口雑言を浴びせかけてきた。それはたいへんな数の悪口雑言を思い出したのだが、そのほとんどは相当露骨なものだった――なかには、戦いのかけ声がいくつかふくまれていたかもしれない。
「どうした?」ウル・ヴァンがきいた。「かれがこわいのか、デヴィッド?」
「ロ・タイが、正当防衛の場合にかぎってかれを殺すことができるといった」とわたし。「かれは、まだわたしにかかってきたわけではない。口ではわたしを殺せないからな。だが、このこぶしをかれに使ってもいいなら、少しは役に立つのだがね」
「よし、そのこぶしを使ってもいいぞ」ロ・タイがいった。「だが、どちらも武器を手にしてはいけない」
「ということは、手でやるかぎり、どんなことをやってもかまわないのかね?」わたしはきいた。
ロ・タイがうなずいた。要求がいれられると、わたしは、踏みこんで右のストレートをウ・ヴァルの鼻面にたたきこんだ。血が四方に飛び散る。ウ・ヴァルは、怒り心頭に発して気ちがいのようになった。だが、この一撃で、目をまわしてもうろうとなり、地面に転倒した。そして、意識がもどるととび起きて、胸を打ち、わめきながらあやつり人形のようにとんだりはねたりしたのだった。
わたしは、こんどはかれのみぞおちに一発お見舞いして、もう一度かれをひっくりかえした。よろよろ立ちあがったかれは、もうかなりまいりかけていた。しかし、みんなに冷笑を浴びせられると、わずかに残されていた最後の自制心を失って、石のナイフを抜きはなち、目に殺気をみなぎらせてつっかかってきた。
こうなればこっちのものだった。ロ・タイの定めたおきてにしたがって、わたしは、かれを殺すことができるのだ。しかし、かれがつっかかってきたとき、わたしは、ナイフを抜かなかった。これっぽちでも弱味を持ちたくはなかった。かれを殺せば、わたしに生命をもってつぐないをしろと主張するものがいるとわかっていたからだ。かれらは、黒人を殺した白人が自分たちの中で暮らしているなど、思っただけでも気に入らないだろう。図にのって横柄になるにちがいないと思うはずだ。
「ナイフだ! ナイフを抜くんだ!」ウル・ヴァンがさけんだ。「早くしろ、デヴィッド!」だが、わたしはまだ、ナイフを抜く必要がなかった。最後まで抜かなくてもすむだろうと思った。多彩な柔術のわざをいくつも心得ていたし、ウ・ヴァルは、思いもかけぬ形で生命をおびやかされることになると、わたしは感じていた。
かれがとびこんでくると、わたしは、きわめてかんたんな術《て》を使ってかれの武器を落とした。そして、片腕を首にまいてかれをくるくるまわしはじめた。かれには手も足も出なかった。足が地面をはなれ、身体が宙で弧を描き、ぐんぐん回転をはやめた。それから、いきなりかれの身体をふりあげ、腕をはなしたのだ。ウ・ヴァルは、見物人の上をきれいに飛びこえて、むこうの地面にずしんとばかりに落下した。
わたしは、すぐさま人ごみをかきわけてかれのかたわらへとんでいった。かれは、首を折りまげて下にし、ぴくりとも動かなかった。一族の連中がたちまちあとについてきて、われわれの周囲に円陣をつくった。わたしは、ウ・ヴァルの胸に耳をあて、すました。それから、立ちあがってロ・タイのほうにむきなおった。
「かれは死んだ」わたしはいった。「わたしが正当防衛でかれを殺したのだということについては、きみたち全員が証人だ」
「それも、素手でやった!」ウル・ヴァンが驚きをあらわにしてさけんだ。
「奴隷たちにこの死骸を海へ運ばせろ」ロ・タイは、そういって踵を返すとその場を立ち去った。
この決闘は、大部分の戦士たちの酔いをすっかりさまさせるほどの効果があったようだ。何人かがわたしをとりまいて、わたしの筋肉にさわってみる。
「おまえは、おそろしく力が強いのだな」と、ひとりがいった。
「たいして力を必要とするものじゃない」わたしはいった。「使いかたを心得さえすればいいのだよ」
かれらはすぐに、それを教えてもらいたいといった。そこでわたしは、かんたんな術《て》を二つ三つ見せてやった――ナイフで襲いかかってきた相手からその武器を奪う方法、相手を投げとばす方法、捕虜をとらえて力づくで服従させ、同時に危害を加えられないように手も足も出せなくさせる方法。
見せおわると、かれらはただちに、相手をきめて練習をはじめた。それを潮時《しおどき》にウル・ヴァンとわたしは、カヌーの改造を完了すべく海岸のほうへ歩いていった。
わたしは、この作業を早く完成させたかった。こいつを使えば、帆に風をはらませて本土にむかい、ルヴァを逃げ出せるかもしれなかったからだ。
わたしは、ウル・ヴァンにしかるべく説明しておこうと、ひとつの案を思いついていた。もっとも、真の目的が逃亡にあるのだということをかれに話すつもりはなかったが。
「このカヌーが完成したら」わたしはいった。「われわれは、何人かの戦士を連れて本土へいき、丸太を運んでくることができる。そうすればわたしは、もっとりっぱなボートを作って見せるよ。丸太をルヴァへ引いて帰ってきて、ここで一から十まで仕事をすればいいんだ」
「それは名案だよ」ウル・ヴァンがいった。「しかし、島々が本土の見えるあたりを漂流しているときでないと、そいつは無理だな」
「なぜ?」
「でないと、本土を見つけることができないからさ」
「つまり、きみのいっているのは、どの方角に本土があるのかわからない、ということなのか?」
「バンダール・アズはひじょうに大きい」と、かれはいった。「それに、島々はたえず漂流している。われわれは、本土が見えないかぎり、そこへはいかないのだよ。むろん、本土へいってからルヴァがどれほど遠くまで漂流していこうと、そんなことはちっとも問題じゃない。ルヴァは、おれたちの生まれた故郷なんであり、どこにあろうがかならずここへもどってこれるからさ」
「本土が見えてくるまで長くかかるのかね?」
「そいつはわからん。ときには、赤ん坊がおとなになるまで本土が一度も見えてこないことだってある。かと思えば、何百回と睡眠をとるあいだずっと本土が見えたままのことだってあるのだよ」
ふたたび本土が視界にはいってくるまで地上世界の時間尺度で二十年もまたなくてはならないのなら、わたしが逃亡できるチャンスはほとんど皆無だといってよさそうだった。わたしは、暗たんたる気持ちになった。
ほどなく、ウル・ヴァンが嬉々としてさけんだ。「なんだ、おれたちは、本土へいくことができるぞ、ばかばかしい! なんで、いままでこんなことに思いあたらなかったのかな? きみの故郷は本土にある。だからきみは、その故郷へむかって舵をとりさえすればいいじゃないか」
わたしは、かぶりをふった。「そいつは、わたしにできないことなんだよ。いいかい、わたしはペルシダー人ではないのだ。別の世界からやってきた男であり、きみたちペルシダー人みたいに生まれ故郷へむかって真一文字に舵をとることなどできないのさ」
それがウル・ヴァンにはきわめて奇異なことのように思えたらしい。かれの理解をこえていたのだ。
いまひとつの希望もふっとんでしまった! どうやらわたしは、この漂流する小区画の陸地で、どうすることもできない、終生の流罪にあったような運命を背おってしまったようだった。愛する故国サリを二度と目のあたりにすることはないかもしれない。美女ダイアンの捜索もこれっきりになってしまうのではあるまいか。
わたしは黙然《もくねん》として、カヌーの改造作業をつづけた。ウル・ヴァンは、できる範囲で精一杯わたしを手伝ってくれた。これは、戦士なら誰でもやれる仕事だったからだ。しばらくのあいだふたりとも沈黙していたが、やがてウル・ヴァンが口をきった。「ああ、ところで、デヴィッド。おれが話していた例の奴隷の女のことだが、彼女には別の名前があったんだよ。アマルというのは、その連れあいがつけた名前なんだ。ほんとうの名前はダイアンといったな」
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二六
いまやわたしの人生観は、がらりと変わってしまった。ダイアンの居所がはっきりわかったのだ。彼女が生きていることには確信があった。コ‐ヴァ族の間にいるのなら、比較的安全だと信ずべき理由が充分にあった。というのも、コ‐ヴァ族は、奴隷を厚遇するのだと、ウル・ヴァンがうけあってくれていたからだ。だが、どうやって彼女を救出したらいいというのだ? まずはコ‐ヴァ島にたどり着かねばならないのだ。これをひとりでやりとげることはとてもできない。コ‐ヴァは、なにしろルヴァから見えないところを漂流しているからだ。通常、島々は、たがいに視界にはいる範囲に接近しあっているのだと、ウル・ヴァンはいった。しかし、現在は潮流か風向きの急変によってはなればなれになってしまっていた。いずれはまた、寄り集まって漂流することになるのだろう。ときには、くっつきあっていることもあったという。以前はこのようなときに、戦いがつづけられていたらしい。コ‐ヴァ族とルヴァ族は、このたえまない戦いによって枯渇してしまい、そのため長いあいだ、両島が槍の投擲《とうてき》範囲に接近しあったときにはかならず、休戦条約が結ばれていたのだった。
ついにわたしは、名案に思いあたった。食事をしに部落へもどると、わたしは、まっすぐロ・タイのところへいった。
「コ‐ヴァを襲撃して絶対に成功まちがいない計画があるのだが」わたしはいった。「われわれが殺した二十人の戦士が欠けて、かれらの戦力はおちている。きみがこんどの襲撃を計画するにあたって、わたしに手伝わせてくれるなら、かれらが連れ去ったきみたちの奴隷を全員奪いかえし、同時にかれらの奴隷をひとり残らずつかまえてくることができるだろう」
ロ・タイは、大いに興味をそそられた。この計画が実にみごとなものだと考え、つぎに睡眠をとったあとで、この遠征に乗り出すとしようといった。
あとで、この一件をウル・ヴァンに話しているときのことだった。気の重くなるようなことにふと思いあたったのだ。「コ‐ヴァはきみたちの生まれ故郷ではないのだから、どうやってきみたちに見つけられるのだ? 本土が見えていないというのと同じじゃないのかね?」
「おれたちの女の中にコ‐ヴァ生まれのものが何人かいる。おれたちがとらえたのだがね。そのひとりを先頭のカヌーに乗っけていけば、彼女がちゃんと誘導してくれるよ」
「ルヴァを襲撃しにきたコ‐ヴァ族たちは、この島をどうやって見つけたのかね?」
「少なくともあのうちのひとりがルヴァ生まれだったことはまちがいない」ウル・ヴァンが答えた。「そして、そいつがまだ子供のころに、襲撃されて連れ去られたのだろう。おれたちはしばしば、コ‐ヴァどもの子供をとらえて、同じ目的に役立てようと戦士として育てあげる。そのふたりだけが残っていたのだが、そいつらも最近の襲撃で殺されてしまったのだ。しかし、コ‐ヴァの女が数人いる」
遠征に乗り出す下準備がととのえられるまでが、わたしには永遠のように思われた。しかし、ついに用意万端ととのった。五十人の戦士が五|艘《そう》のカヌーに乗りこんだ。その一艘は、わたしの改造した大三角帆と帆外浮材を装備したものだった。
族長ロ・タイとウル・ヴァンがこのカヌーにわたしと同乗した。それと、針路を決定してくれるコ‐ヴァ生まれの女がひとり乗っていた。
わたしは、この冒険が成功してくれるかどうか少なからず憂慮した。このたびの重大な航海へ乗り出す前に、わたしの改造したカヌーの試走をしておきたかった。しかし、ロ・タイは、それをきき入れようとしなかった。準備がすっかりととのってしまうと、ぐずぐずしないで出発したがったのだ。
わたしのカヌーがどれほどの速度を出すのか見当もつかなかったし、櫂でこぎ進められる他のカヌーがわれわれからおくれてしまうのではないかという疑問もあった。それに、わたしのカヌーの耐航性にもまるで自信がなかったのだ。かなり強い突風が吹けば転覆するかもしれないという心配もあった。相当大きな帆を装備していたからだ。
ルヴァ族たちはまだ、カヌーが櫂をこがないで海をつっ走ることができるということに懐疑的だった。わたしが帆をあげ、舵とり用の櫂を持って艫《とも》に腰をおちつけると、五十人の目がいっせいにわたしに注がれた。カヌーはさわやかな微風を受けて、徐々に進みはじめた。他のカヌーに乗った戦士たちがかがみこんで櫂をとる。小型艦隊は動きだしたのだ。
「進んでいるではないか!」ロ・タイが畏怖《いふ》にうたれた口調でさけんだ。
「他のカヌーを引きはなしている」ウル・ヴァンがいった。
「奇蹟はやむことなしだ!」老戦士のひとりがさけんだ。「こんどは何がおこることやら? 考えても見ろ、こんなことにお目にかかれるとは、長生きはするもんだ!」
他のカヌーの戦士たちは、必死になって櫂をこいでいるが、なおもわれわれは、かれらを引きはなしていった。わたしは、他のカヌーの位置を確認するためにときどきふりかえりながら、帆走をつづけた。これ以上はなれたらあぶないと思ったとき、わたしは、カヌーをむかい風の中に入れてまちうけた。
われわれは、見るも野蛮な姿をした一行だった。というのも、ルヴァの戦士たちは、出陣化粧をほどこし、ぞっとするような装備をおびていたからだ。かれらは、わたしに化粧することすら主張した。ウル・ヴァンがやってくれたのだが、そんな姿になったわたしは、純潔のルヴァ族としてりっぱに通用することもできただろう。なにしろウル・ヴァンは、わたしの全身にくまなく、さまざまな色彩の絵の具を巧妙にぬりたくってくれていたのだから。
カヌーには、充分な槍が持ちこまれていた。各戦士が三本ずつたずさえてきたのだ。それにわたしは、自分の武器として矢を追加していたし、わたしの好きなみじかめの、投擲《とうてき》用の槍を一本くわえていた。
わたしは、われわれがコ‐ヴァへ上陸したさいの襲撃についてロ・タイと検討した。彼の意見では、これまでやってきたと同じようにやるだけだということだった――島の中央にある部落へむかって一列縦隊でのりこんでいくというのだ。もし偶然、われわれが近づいていくのをコ‐ヴァ族に目撃でもされたら、かれらは、前もって戦闘準備態勢をととのえるだろう。そうでない場合、ある程度の奇襲攻撃をかけることができるかもしれない。わたしは、この計画をぜんぜん気に入らなかった。そして、やっとの思いで、はるかに成功率の高いことうけあいだとわたしが確信した計画の詳細を説明してかれを説得した。かれは、やや気のりうすの格好で同意した。ルヴァを襲撃しにやってきたコ‐ヴァ族との戦いでわたしが見せたみごとな腕前ゆえに、わたしの計画をのんだのだ。わたしにそんなうしろだてでもなかったら、まずかれが首をたてにふることはなかっただろう。
コ‐ヴァ島を最初に目撃したのはわたしだった。やや大きいということを別にすれば、島の外観はルヴァとそっくりだった。かなり接近したが、生き物の影ひとつ見えなかった。部落を奇襲できればいいがと、わたしは思った。そうできればわたしの攻撃は、目ざましい成果をおさめるはずだったからだ。
島からわずかの距離のところまでやってくると、わたしは、他のカヌーが追いついてくるのをまった。ウル・ヴァンとわたしは、帆をおろした。戦士たちが櫂を用意する。他のカヌーがわれわれに並ぶと、小艦隊はそろって岸へこぎ進んでいった。
浜辺に上陸すると、ロ・タイがわたしに、攻撃計画を全員に説明してくれといった。その説明が終わるや、われわれは、一列横隊の陣形を敷いて森へわけ入った。そして、部落へ接近するにつれて徐々に散開していった。わたしは、陣形の中央にいた。ロ・タイが左翼の中央、ウル・ヴァンが右翼の中央に、それぞれ位置していた。戦士たちには、わたしがかれらに説明した、きわめて単純な手による合図が見え、それを次の戦士に送れるだけの距離を保っているようにと説明した。わたしは、斥候《せっこう》をひとり部落へ派遣した。その戦士には当然、なすべき任務をわかりやすく指示してあった。
われわれは、まったき静寂の中をじりじりと前進していった。二マイルほど進んだところで、斥候がとって返してきた。かれの報告によれば、部落はつい前方にあり、空地の端までいったのだが、かれが見たかぎりでは戦士たちが眠っているのか、あるいは出かけているのではないかと思うということだった。かれが見たのは、小屋の外にいる女、子供と奴隷だけだったのだ。
いよいよわたしは、戦士たちに包囲隊形をとるよう合図を送った。それが右と左へつぎつぎと手ぶりで伝えられていく。隊形の中央はいまや、きわめてゆっくりと前進し、右翼と左翼は歩度をはやめて扇形を描いていった。攻撃をかける前に部落を完全に包囲するという作戦だ。
隊形の中央が空地の見える地点までやってくると、横になって身をひそませた。しかし、戦士たちはたえず、となり同士が見えるようにしていた。ついに、わたしのまっていた合図が伝えられてきた。それは、両翼が部落のむこう側で会合したことを意味する。
ここまでは、コ‐ヴァ族のだれひとり敵が島に上陸していることに気づいていなかった。
いまやわたしは、突撃の合図を送った。ルヴァの戦士全員がききとれるように鬨《とき》の声をひと声、発すればよかったのだ。われわれはいっせいに、部落へむかって突進した。女、子供は、恐怖にかられて右往左往した。しかし、どちらへいってもルヴァの戦士に出くわし、逃げだすことはできなかった。
やっとコ‐ヴァ族の戦士たちが、深い眠りからさめ、寝ぼけ半分の目をして小屋から這いだしてきた。完全に虚をつかれたかれらは、つぎつぎとわが戦士たちの槍の餌食《えじき》となってしまうはずだった。しかし、わずか数人が倒れると、あとはあっさり降伏してしまったのだ。
わたしは、残酷な殺りくが展開されるものとばかり思っていた。だが、事実はそうではなかったのだ。ロ・タイがのちに説明したように、もしコ‐ヴァ族の戦士を皆殺しにしてしまったら、襲撃にきても奴隷や女がひとりもいなくなってしまうだろう。勝利をにぎったいまになってすら、かれは、戦利品をほとんど強要しなかった。ルヴァ族から拉致された奴隷と、同数のコ‐ヴァの奴隷、それにルヴァ族として育てられる男の子三人を要求したのだ。
わたしの第一の関心は、なんといってもダイアンをさがすことだった。ところが彼女は、部落の奴隷たちの中にはいなかったのだ。族長にきいてみると、ひとりの男の奴隷がカヌーを盗んで、彼女を連れて逃げてしまったとのことだった。
「その男は、スヴィ生まれのやつだった」族長はいった。「名前は忘れてしまったよ」
「ドゥ・ガッドとはいわなかったかね?」とわたし。
「そうだ。そういう名前だったよ。ドゥ・ガッドといったな」
またしても、わたしのつのりにつのっていた期待は、もろくも挫折してしまった。もはや、わたしの探索は絶望のように思われた。ダイアンがふたたび|けもの《ヽヽヽ》の手中におちたのかと思うと、暗たんたる気持ちはつのるばかりだった。どうしたらいいというのだ? 奔走するカヌーがあるとはいえ、本土へはいきつけないし、そこへ誘導してくれるものもいなかった。
やがて、かすかな期待がよみがえってきた。わたしは、コ‐ヴァの奴隷たちのところへいくと、ひとりひとり出身地をきいてみた。そのうちに、かれらのひとりが――娘だったが――スヴィ生まれだという。
「ここには他に、スヴィ生まれの奴隷はいないのかね?」とわたし。
「いいえ」と、彼女はいった。「ドゥ・ガッドが逃げたので、いないわ」
それからわたしは、ルヴァの族長のところへいった。「ロ・タイ、わたしはこれまで、充分きみにつかえてきた。池のまんなかから魚をつかまえる方法を教えた。櫂をこがなくても進むカヌーの作りかたも教えた。それに、二度の戦いに勝たせてやったし、奴隷も大勢手に入れてやった」
「そうだな」とかれ。「きみは、今いったことをみんなやってくれたんだ、デヴィッド。きみは、りっぱな戦士だよ」
「その報酬としてたのみがあるんだが」
「なんだ?」
「わたしにそうできしだい、本土の故郷へ帰すと約束してほしいのだよ」
かれは、かぶりをふった。「そいつはできないな、デヴィッド」といった。「きみはもう、ルヴァ族の戦士だし、ルヴァ族は他の土地で暮らすことが許されないのだ」
「それじゃ、別にたのみがあるのだが」わたしはいった。「こいつはあまりやっかいなものではないから、みとめてもらえると思う」
「なんだ?」
「奴隷がひとりほしいのだよ」
「いいだろう。ルヴァへもどったら、今日連れて帰る奴隷たちの中からひとり選んでいいぞ」
「きみが選んでくれた奴隷はほしくないからな。あそこにいるあの娘がいい」そういってわたしは、スヴィ生まれの奴隷をゆびさした。
ロ・タイは一瞬、眉をくもらせてちゅうちょした。それからいった。「なんだ。ふたりとも白人ではないか。連れあいになればいいんだよ。どうせきみは、ルヴァの女を連れあいにはできないのだから」
それもいいだろう。スヴィ生まれの奴隷が手にはいるのなら、かれの好きなように思わせておくとしよう。
わたしは、その娘のところへ寄っていった。「きみは、わたしの奴隷だよ。いっしょにきなさい。名前はなんというのだね?」
「ル・ブラ」と、彼女はいった。「でも、わたしは、あなたの奴隷になりたくないわ。あなたといっしょにいきたくないの。わたしは、ここにいる女のもので、彼女は、わたしに親切だわ」
「わたしだってきみに親切にするよ。わたしを怖がる必要はない」
「でも、やっぱりあなたといっしょにいきたくないわ。死んだほうがましよ」
「なんといおうが、きみは、わたしといっしょにいくのだよ。なにも死ぬことはないさ。わたしは、きみに指一本ふれるつもりはない。きみは、わたしに選ばれて大いに喜ぶことになるだろう。信じてくれないかな」
とどのつまり彼女は、わたしといっしょにこなければならなかった。どうすることもできなかったのだ。とはいえ、あまり幸せそうではなかった。わたしは、心中深く期するところを彼女に話すつもりはなかった。わたしがあたためている計画の成否は、いつにかかってそれを秘密裏に実行できるかどうかにあったからだ。
喜ばれざるルヴァの戦士たちは、コ‐ヴァの部落で腹ごしらえした。それがすむと、奴隷たちを引き連れて海岸へとって返し、ルヴァにむかって海へ乗り出した。スヴィ生まれの娘の奴隷ル・ブラは、わたしといっしょだった。
コ‐ヴァ島に上陸してから、風がつのっていた。いまではそれが、なかば突風となって吹きまくり、海は荒れはじめていた。このように険悪な天候をおしてカヌーの旅をつづけていくのは、わたしには暴挙のように思われた。しかし、ルヴァ族の男たちは、いっこうに意に介していない様子だった。風はつのっていたばかりか、風むきも変わっていた。だからわたしは、追い風で帆走することができた。われわれのカヌーは、波をけってまさしく飛んでいるかのようだった。こんどは、他のカヌーをまつ必要がない。かれらは、見る見る後退し、はるかかなたで点のように小さくなっていった。このカヌーの乗組員として選ばれる幸運に浴した戦士たちは狂喜した。こんなに速く海を旅したことはこれまでになかったのだし、なんの苦労もなく海をいくのもこれがはじめてだったのだ。いまかれらは、手ぶらで腰をおちつけ、でれんとした顔をして飛びすさる波を眺めていた。
しかしわたしは、それほどでれんとしてはいなかった。まにあわせの帆柱もわたしの勇気も、恐ろしい緊張に耐えかねつつなっていった。キーキー、ぎしぎし軋《きし》み、わたしの不安はつのるばかりだった。風もつのり、波はますます高くなっていく。遠くにルヴァ島をちらとみとめたときには、正直いって、安堵の吐息をついたのだった。とはいえ、その安全な入江のひとつに飛びこむまでに、災難がふりかかってくるひまはたっぷりあったが。
空一面に不吉な雲がたれこめていた。われわれの周囲は波しぶきで満ちみちていた。風はうなり、悲鳴をあげ、さながら、手近かのものをかたっぱしからふるえあがらせ、滅ぼそうとする残忍な悪魔のようだった。海には山なす波がうねっていた。わたしは、仲間たちをちらと見やった。かれらがやっと心配そうな表情を見せているのに気づいた。わたしのほうはもう、気が気ではなかった。このやくざなカヌーがたけり狂う嵐にもちこたえることができるのかどうかわからなかったからだ。帆や帆柱がなぜ吹きとばされなかったのか、わたしにはいまだに納得がいかない。だが、とにかくそれらは、吹きとばされなかったのだ。つぎつぎに迫る大波も、われわれを呑みこまなかった。われわれは、急速にルヴァの海岸へと近づいていった。
さらに接近したとき、わたしは奇妙な、ぞっとするような光景を目撃した。わたしの見るかぎり島全体が、あたかも恐ろしい、うちつづく地震におそわれてでもいるかのように浮き沈みしているのだ。山のような波が低い海岸をのりこえ、膨大な量の海水が森の中へとあふれこんでいた。このような状態で、われわれは、いったいどうやって島に上陸したらいいというのだ? そのとき、ロ・タイがまさにこの疑問の答を口にした。
「ここから上陸はできないぞ。島の風下の側へまわらねばならん」
それが不可能なことは、わたしにもわかっていた。いま針路を変えることは、巨大なうねりの谷間にとびこんでしまうことになり、カヌーは、たちまち転覆してしまうだろう。一縷《いちる》の望みがあるにはあった。わたしは、はねるように浮き沈みしている海岸線へむかって真一文字に針路を保った。
いま少しで岸にのりあげる。わたしは、息をのんだ。ルヴァ族たちも同様だったと思う。われわれは、巨大な波頭へと浮きあがった。わたしは、石のナイフで帆を断ち割った。帆布はなびき、突風の中ではげしくはためいていた。岸からわずかに数メートル。カヌーは、急行列車の速度で突進していく。わたしの気ちがいじみたもくろみがまんまと功を奏したとはっきりするのに要した数秒のあいだ、カヌーは、巨大な波頭にしがみついていた。そのままわれわれは、奥地のほうへ運ばれ、森の樹間に投げこまれた。
なぜひとりの死者も出なかったのか、わたしにはいまもって謎だ。負傷したものは何人かいた。だが、残りのものでなんとか、カヌーが引き波によって海のほうへ運びかえされるのを防ぐことができたのだった。
次の大波がおそいかかってこないうちに、われわれは、さらに森の奥へとよろめきながらかけこんでいった。足下にできた地面の隆起につっかかっては絶えず転倒した。ときには波がわれわれのところまでとどいたが、森の木々にくだけて、なんの害もおよぼさずにはねかえった。
ついに部落へたどりついた。小屋のほとんどがぺしゃんこにつぶれ、遠征に加わらなかったルヴァ族や奴隷が空地にうつ伏せになってふるえあがっていた。
わたしは、島全体が分解してしまうのではないかと恐れた。島をひねり、あちこちへと引きずりまわし、浮き沈みさせ、ゆがめねじろうとする恐ろしい力に、島がどうしてもちこたえていられるのかわからなかった。わたしはウル・ヴァンに、われわれの助かるみこみをどう思っているのかきいてみた。
「おれは、生涯でこんな嵐を一度しか見たことがない」かれがいった。「そのときは、島のあちこちがもぎ取られて、どこかへいってしまった。しかし、大部分は、風と波のこの上ない荒れようにもちゃんともちこたえた。もしこの嵐があまり長びくようなことがなかったら、おれたちは助かると思うね」
「で、他のカヌーに乗った男たちはどうなったろう?」
ウル・ヴァンが肩をすくめて言った。「岸へたどりついたものもいるかもしれない。しかし、ひとりも永久にたどりつけないという可能性のほうがつよいな。われわれが助かったのは、帆を張ったきみのカヌーのおかげだよ、デヴィッド」
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二七
その嵐はわたしにとって、ルヴァ島の崩壊あるいはわたしの生命をおびやかすもの以上の意味をもっていた。山のような波間のどこかに、やくざなカヌーに乗ったダイアンがいるのだとわかっていたからだ。彼女が生きのびられるチャンスは皆無のように思われた。こんな、身をさかれるような不安を念頭から追いはらおうと努めたが、嵐が凪《な》いでいくにしたがって、いくぶん、その不安もやわらいだ。そして、あきらめていた戦士たちが部落へ無事にもどってきたときには、ついにまた希望がよみがえったのだった。カヌーの一艘も、戦士のひとりも失われてはいなかったのだ。かれらの、カヌーをあやつる瞠目すべきわざの驚異だった。
ルヴァ族の第一の関心事は、部落を復旧することだった。この作業に、女子供にいたるまで全員が加わった。部落がもとどおりになると、わたしはロ・タイに、わたしのカヌーがこうむった破壊個所の修理をしたいといった。人手がいるかどうかと、かれはきいたが、わたしは、奴隷のル・ブラ以外、人手はいらないと答えた。かれは、他にだれかを連れていけとはいい張らなかったし、こんどは見張りもつけなかった。あきらかにわたしを、一族の一人前の一員とみとめていたのだ。そこでル・ブラとわたしは、仕事をしに海岸へ出かけていった。
わたしが危害を加えるつもりはないのだと知ると、娘は、元気をとりもどしていた。しごく満足で幸せそうだった。
わたしがカヌーの作業をしているあいだ、彼女には、食糧を集めさせ、それを包装してもらった。彼女はまた、例の木から水をしぼり、竹筒の容器に満たした。それらをわたしは、作業している近くの森の中にかくした。
わたしは、骨で釣針を何本か彼女に作ってやり、波の静かな入江で魚を釣る方法を教えてやった。釣った魚を彼女はあぶり、乾燥させて将来の食糧として包装した。
わたしは、自分のもくろみを彼女に話さなかった。とはいえ、食糧や水を集めて貯えておくについてだまっているようにと彼女に注意する必要があったから、それなりに彼女の信頼を得なければならなかった。彼女は、なにひとつ質問してこなかった。これはいいきざしなのだ。というのも、質問ひとつしない人間というのは通常、自分の意図をちゃんと肚《はら》におさめておけるものだからだ。
彼女は、ひじょうに長いあいだコ‐ヴァ族の捕虜となっていた。おそらく、地上世界の時間尺度で何年ものあいだにわたっていたのだろう。ダイアンとドゥ・ガッドが本土から連れてこられたときには、すでにそこにいた。そして、ダイアンとよく知り合うようになった。ダイアンからきかされたところによると、アザールの巨人食人種から逃れたあと、彼女は、ドゥ・ガッドからも逃れることに成功したものの、かれに追跡されてあわや追いつかれそうになったおりもおり、ふたりともコ‐ヴァ族にとらえられたのだそうだ。
わたしは、いとしいダイアンがわたしを愛するあまりわたしの捜索にのり出したばかりに、彼女が余儀なく耐えしのばなければならなくなった一部始終を思い、身震いした。わたしが比較的安全の身でいることを知らぬが仏で死ななければならないというのは、運命の、あまりといえばあまりに残酷な仕打ちのように思えてならなかった。あの洞穴にわたしが彼女を残してズォルとクリートを救出に引きかえしてから、わたしがジュカン族のもとを逃れたことを、彼女は知ることすらできないのだ。
カヌーの作業はとどこおりなく進んだ。しかし、いよいよもくろみを実行の段階に移せるようになったとき、わたしは、またひどいいらだちをおぼえていた。いまや唯一の危険は、もしルヴァ族のだれかが偶然、食糧と水の隠し場所にいきあたれば、わたしのもくろみが発見されるかもしれないという点にあった。納得のいく説明をするのに四苦八苦しなければならないだろう。
ついに作業が完了した。部落へもどる途中、わたしはル・ブラに、この点にはふれないようくれぐれも注意するようにと、警告した。「あたりまえですわ」と、彼女はいった。「わたしが二人のもくろみを人に洩らしたがっているとでも思っていらっしゃるの?」
二人のもくろみ! 「なぜ、このことを二人のもくろみというのだね?」と、わたしはきいた。「わたしが心中でなにを考えているのか、きみは知りもしないのじゃないか?」
「とんでもない。ちゃんと知ってますわ」と彼女。「わたしだって働き、あなたのお手伝いをしたのだもの、二人のもくろみではありませんか」
「そのとおりだ」わたしはいった。「そのもくろみがどんなものであろうと、われわれ二人のものだ。二人でこれを実行に移す。このことについては絶対に口外しないこと。わかったね?」
「そりゃもう」
「で、そのもくろみというのはどんなことだと思う?」
「あなたは、あの、櫂をこがなくてもすむカヌーで本土へ帰ろうとしているのだわ。そして、スヴィの方角を指摘させるためにわたしを連れていこうとなさっている。ご自分ではそれができないからよ。コ‐ヴァにいた奴隷たちの中からあなたがわたしを選んだのはそのためですわ。わたしだってまんざらばかではありませんことよ、デヴィッド。なにからなにまで読めていましたわ。でもご心配なく。だれにも二人の秘密を洩らすようなことはしませんから」
わたしは、彼女が「ふたりの」ということばを使うのが気に入った。彼女がいった他のことはいっさいおくとしても、これだけで彼女の忠実であることを確信するに充分だった。
「わたしは、まったく運がよかった」わたしはいった。
「どういう点で?」
「コ‐ヴァで、他の奴隷ではなくきみを見つけることができてだよ。きみは、聡明だし、忠実だ。それに、いまいい情況におかれているのだということも、よくわきまえている。しかし、わたしがだれかの助けを借りなければ本土へいく針路を定めることができないと、どうしてわかった?」
「スヴィで、ペルシダーの皇帝デヴィッドを知らぬものがひとりでもいまして?」彼女が切りかえしてきた。「かれが別の世界からきた人だということ、たいていのことはわたしたちペルシダー人よりも上手にやりこなすかただけど、いったん見なれた目印の見えないところへ連れ出されてしまうと、二度と故郷へ帰りつけないというのは、わたしたちペルシダー人にとってとても不思議であり、わたしたちには理解できないことですわ。あなたの住んでいらしたところは、二度ともどっていくことができなくなるということがわかっているから、だれひとり、あえて故郷から遠出していくことのない不思議な世界にちがいありませんわね」
「しかし、われわれには帰り道がちゃんとわかるのさ。ペルシダー人よりもずっとはっきりわかっているといってもいいくらいだよ。自分の故郷への帰り道ばかりではなく、世界のどこへでもいく道はかんたんにわかるのだ」
「それは理解できないわ」
わたしは、カヌーの修理をきわめてじっくりとやったつもりだった。むろん時間を測定する方法がないから、われわれがどれほどのあいだ部落を留守にしていたのか知るよしもない。食糧はあったから何度か食べたが、睡眠は一度もとっていなかった。そして、二人ともひどく眠たかったという事実は、かなり長いあいだ部落をはなれていたということを物語っていた。そのとおりだったのにちがいない。部落にもどってみると、われわれのコ‐ヴァ族に対する勝利を祝う大祝宴の準備がほとんど完了していたからだ。だれもかれもがひどくはしゃいでいたが、ル・ブラとわたしは、小屋へはいって眠りたいだけだった。
わたしが部落にいると、しばしばわたしを話相手にしようとしたオ・ラが、ル・ブラとわたしがこんなに部落を留守にしていったいなにをしていたのかときいた。
「櫂をこがなくても進むカヌーを修理していたのだよ」
「こんどあなたがいくときにいっしょに連れていってもらわなくちゃね」彼女がいった。「まだ見たことがないのだもの」
これは、わたしの気に入らぬところだった。こんどル・ブラとわたしがカヌーのところへいくときには、二度と部落へはもどってこぬ計画だったからだ。いま引きかえしてきているのは、海の旅に出る前にぐっすりとひと眠りしておくためにすぎなかった。しかし、わたしはいった。
「いいだろう、オ・ラ。でも、修理がすむまでなぜまてないんだ?」
「ああ、そのときもいけるわ。そして、乗せてもらうの」彼女はいった。「ねェ、デヴィッド、あなたが白人でなければよかったのに。あたし、あなたほどりっぱな連れあいはちょっと想像できないわ。ロ・タイに、あなたの場合は例外にしてほしいと頼んでみようかと思うの。そうすれば、あたしは、あなたの連れ合いになれるもの」
「わたしに奴隷がいるからか?」笑いながらわたしはきいた。
「いいえ」と彼女。「彼女はおはらいばこにするわ。だってあなたの、彼女への気の入れようはちょっとひどすぎると思うからよ。あたし、競争相手をそばにおいておくつもりはないわ」
この若きご婦人は、すこぶるあけすけだった。ときとしてこれら旧石器時代の女たちはそうなのだが、かならずしも全部というわけではない。ダイアンは、まったくこの反対だった。
「うん。きみは、だれかりっぱな男を連れあいにすればいい。だが、わたしはだめだ。もう、連れあいがいるのでね」
オ・ラが肩をすくめる。「ああ、その人には二度と会うことはないわ。あなたは、生涯ここで暮らさなくてはならないのだもの。連れあいをもらうのもわるくはないわよ」
「そんなことは忘れるのだ、オ・ラ」わたしはいった。「そして、一族の中でいい男を見つけたまえ」
「あたしが気に入らないという意味?」かっとなって彼女がきいた。
「きみが気に入るとか入らないとかの問題じゃない。いまもいったとおり、わたしにはすでに連れあいがいるんだよ。それと、わたしの国では一度に二人の連れあいはもてないことになっているのだ」
「そんなの理由にならないわ」彼女がぴしりといった。「あなたは、ル・ブラに首ったけなのよ。あなたたちがしょっちゅうふたりだけで出かけているのはそのためだわ。そんなこと、どんなばかにだってわかるわよ」
「やれやれ、好きなようにするさ、オ・ラ」わたしはいった。「これから、少し眠るつもりなんだよ」
わたしは、踵をかえして彼女のそばをはなれた。
目をさましたとき、疲れは完全にとれていた。まもなくル・ブラが目をさました。小屋を出てみると、一族はすでに、饗宴の席に集まっていた。わたしは、ひどい空腹をおぼえ、食べたかった。ル・ブラもそうにちがいなかった。饗宴がたけなわとなれば、気どられることなく逃げ出す絶好の機会がおとずれるだろう。というのも、饗宴のおこなわれているあいだは一族のひとり残らず、部落にとどまっているはずだからだ。カヌーを進水させ、糧食などを積みこむあいだ、だれかがわれわれを発見する可能性はないだろう。
わたしは、この点をル・ブラに指摘した。「いまなら見つからないでここをぬけだせると思う」わたしはいった。「こんなことはないかもしれないが、かれらがわれわれのいないのに気づいても、せいぜい、小屋の中で眠っているのだろうぐらいにしか思わないね」
「けっこうですわ」と彼女。「小屋をはさんでかれらとは反対側を伝って森へはいりこむことができますわね」
そこでわれわれは、ルヴァ族の部落にわかれを告げ、これっきりになりますようにと祈った。
われわれは、カヌーへ急いだ。そして、二人で力を合わせて、やっとの思いでカヌーを進水させた。それから、急いで糧食などを積みこんだ。
積みこみがまさにおわろうとしているおりもおり、部落の方角からなにものかの近づいてくる姿が見えた。われわれのやっていることを隠すのは、もはや手おくれだった。やってくるのがだれであるにせよ、われわれがカヌーに食糧や水を積んでいるのを見たとたんに、われわれのもくろみを見破るだろうと、わたしにはわかっていた。
ル・ブラは、隠し場所から両腕にいっぱい抱えてもどってくるところだった。わたしはちょうど、つぎの荷物をとりにいくところだった。そのとき、オ・ラがとび出してきたのだ。
「やっぱり、そういうわけだったのね」彼女は、かっとなってさけんだ。「逃げ出すつもりだったのでしょう。その白い顔をしただけのものを連れてね」
「やっとわかったか、オ・ラ」とわたし。
「そう。でも、そうは問屋がおろさないわよ。あたしがじゃましてやるから」彼女は、ぴしりといった。「でも、あなたがルヴァから逃げ出したいのなら、その娘のかわりにあたしがいく。あなたがそうしたくないといえば、みんなに知らせてやるわ」
「しかし、ル・ブラは連れていかなくてはならないのだよ」わたしはいった。「でないと、わたしには本土へいきつけないのだ」わけを説明すれば彼女をなだめることができるかもしれないとわたしは思った。
「いいわ。それじゃ、案内人として彼女を連れていきましょう。でも、あたしは、あなたの連れあいになるつもりよ」
「そりゃだめだ、オ・ラ。わるいがね、そいつばかりはどうしようもない」
「あたしを連れていかないの?」
「そうだよ、オ・ラ」
彼女は一瞬、怒りに目をらんらんと燃えたたせた。それから、くるりとむきを変えると、スタスタ森の中へはいっていった。ひどくあっさりあきらめたものだ。わたしにはそう思われた。
ル・ブラとわたしは、できるかぎり急いで残りの糧食をカヌーに積みこんだ。集めたものをそっくり持たないで、海へ乗り出していくわけにはいかなかった。本土に到達するまでにどれほどのあいだ海の旅をつづけねばならないか、見当もつかなかったからだ。
最後の荷物を積みこんだ。そして、男たちの近づいてくる物音をきいたときには、すでにル・ブラは、カヌーの中にすわっていた。オ・ラが部落へもどって、発見したことの次第を報告したのだとわかった。四、五十人のルヴァの戦士が森からとびだしてきたちょうどそのとき、わたしは、カヌーにひと押しくれて、櫂をこいで岸をはなれていった。ロ・タイが先頭に立っている。大声を出して、わたしにもどってくるようにとどなった。しかしわたしは、カヌーの舳先を公海のほうにむけ、帆をあげはじめた。沖合いにむかって微風が吹いていた。その微風がわれわれにとどいて帆がはらむまでに、永遠の時が流れたように思われた。ル・ブラもわたしも、やっきになって櫂をこいだ。しかし、もっと強い風が吹いてこなかったら、いまやカヌーに跳びのって追跡にとりかかったルヴァの戦士たちを逃れることはできないだろう。
先頭のカヌーが岸から矢のようにとび出してきた。しかし、われわれはすでに、かなり沖合いに出ていたから、前よりもわずかに多くの風を受けて、ちょっとだけ速度をあげて進んでいた。ところがかれらは、ぐんぐん追い迫ってきた。ロ・タイが休みなく、わたしに引きかえしてこいとさけんでいた。かれのカヌーは、じりじりと距離をつめていた。
かれらは、槍の投擲《とうてき》範囲にまで接近してきた。しかしわれわれは、ほぼ腹ばいの姿勢をとっていた。ロ・タイが仁王《におう》立ちして、槍を投擲しようとかまえていた。
「もどってこい」と、かれがどなった。「さもないと殺すぞ!」
ル・ブラは、このカヌーに乗ってコ‐ヴァからやってきたのだ。そのとき以来、そのあやつりかたについて数多くの質問をしてきた。彼女に舵をとれるのかどうか、わたしにはわからなかった。しかし、一か八かそれに賭けなければならなかった。そこでわたしは、彼女をそばへ呼び寄せ、舵とり用の櫂をとるようにいった。それからわたしは、弓に矢をつがえて立ちあがった。
「ロ・タイ、わたしは、きみを殺したくはない。しかし、その槍をおろさないなら、殺さざるをえないだろう」
かれは、一瞬ためらった。一陣の風がわれわれの帆を満々とふくらませた。ロ・タイが槍を投擲したちょうどそのとき、われわれのカヌーがぐんと前へおどりだした。わたしには、ロ・タイの槍がとどかないとわかっていた。だから、かれを射倒さなかった。わたしは、ロ・タイが好きだったし、かれは、わたしに親切にしてくれたからだ。
「忘れるな、ロ・タイ」わたしはさけんだ。「きみを殺すこともできたのだが、そうはしなかったということをな。わたしは、きみの友だちだ。しかし、自分の国へもどりたいのだよ」
われわれはいまや、みるみるかれらを引きはなしていった。しばらくかれらは、われわれを追跡していたが、これ以上追跡しても無駄だと見てとると、ついに舳先をめぐらして引きかえしていったのだった。
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二八
海の旅がどれほどのあいだつづいたのか、神ならぬ身の知るよしもなかった。その間《かん》、名も知らぬ巨大な怪獣に十二、三度も襲われ、われわれの海の旅と生命をいっぺんに終わりにしてしまいかねない恐ろしい嵐に三度、見舞われた。そして、ついにわれわれの食糧と水がおっつけ底をついてしまうだろうというところまで追いつめられたのだった。
ル・ブラは、実にすばらしい娘であることを身をもって証明した。健気《けなげ》であり、不平ひとつこぼさなかった。わたしは、彼女を気のどくに思ったのだった。
「ルヴァにいたほうがましだったかもしれないね、ル・ブラ」わたしはいった。「きみを自由の身にしてあげるどころか、死へ追いやろうとしているような、そんな感じがひじょうに強くなってきたね」
「たとえどうなろうと、わたしは満足よ、デヴィッド」彼女はいった。「奴隷の身であるぐらいなら死んだほうがましですものね」
「きみがわたしといっしょにいるのは、不思議な偶然の一致なんだよ、ル・ブラ。これまで話したことはないがね。サリへわたしを導いてくれていたのが、やはりスヴィ生まれの娘だった。わたしたちはふたりとも、ジュカン族にとらわれ、ついでアザールの巨人食人種にとらえられた。彼女がかれらのもとを逃れたのかどうか、わたしは知らないのだよ」
「彼女の名前はなんというんですの?」
「クリートといったな」
「彼女は知っていますわ」ル・ブラがいった。「わたしが連れ去られるとき、わたしたちは、まだほんの子供でした」
わたしの生ける羅針儀のル・ブラが定めてくれる針路を、われわれはどこまでも帆走していった。一度にとる食物は、やっと露命《ろめい》をつなぐにことたりる程度、水は、一日にふた口か三口を飲むにすぎなかった。二人とも衰弱し、やつれはてた。魚釣りはまるでうまくいかなかった。どちらも海の生活には縁のない生まれだったからだ。陸《おか》にあがれば、獲物はふんだんに手に入れることができたのだが。しかし、ここ海の上では、食糧にはことかかないほど獲物はいるのだけれども、射当てることがほとんどできない感じなのだった。なぜそんな工合になるのか、わたしにはさっぱりわからなかった。弓矢にかけては達人の腕前をほこるようになっていたのだから。
食物の最後のひと口を食べつくしたあと、われわれは、骨の釣針で魚を一匹釣った。三十センチほどの小さな魚だった。しかし、それをふたつに切って、われわれは、なまのままで食べた。その後まもなくして、飲み水がつきた。わたしは、雨をともなった嵐のやってくることを祈った。だが、無情にも空は晴れたままだった。なさけ容赦ない真昼の太陽がギラギラ照り輝いている。茫洋たる、薄情な海のかなたには陸の影すら見えなかった。
ル・ブラは、カヌーの底でおおいの下に横たわっていた。蚊の鳴くような声で彼女がいった。
「デヴィッド、死ぬことがこわいですか?」
「死にたくはないね。でも、こわくはない。死ぬのは、別のすばらしい冒険をすることになるのかも知れないからね。新しい国へいって、われわれよりも先に行った大勢の旧友や、新しい人びとに会えるだろう。もう少ししたら、きみとわたしはいっしょに、そこへいってみんなと合流するのさ」
「そう願いたいですわ、デヴィッド」彼女がいった。「もうわたしは死にそうなんです。あなたを見捨てていきたくありません、デヴィッド。だって、いまわたしたちに残されているものはおたがいの友情だけなのですもの。わたしがいってしまうと、あなたはひとりぼっちになります。だから、ひとりで死ぬのはよくないことですわ」
わたしは、彼女から顔をそらし、目に浮かんできた泪をかくした。そして顔をそらしたとき、わたしは、あるものを見た。驚きと信じられないあまり、思わずさけびが唇にのぼった。それは帆船だったのだ!
帆船のありえないこの海で、帆船がなにをやっているのだ? が、そのとき、この現実であることの、ひとつの可能性が思い浮かんできた。
「ル・ブラ!」わたしはさけんだ。「きみは死なないですむ。われわれは助かったのだよ、ル・ブラ」
「それはどういうことですの、デヴィッド?」彼女がきいた。「陸が見えてきたのですか?」
「そうではない。帆船なんだよ。きみがきっとそうにちがいないといったとおり、もしこの海がルラル・アズなのなら、あれは、味方の帆船でしかありえない」
わたしは、針路を変えて、その奇妙な舟に舳先をむけた。やがて相手がわれわれのほうへやってきているのがわかった。かれらも、われわれの帆をみとめたのにちがいない。さらに接近して、わたしはその船が、はじめてペリーが戦艦を建造するのだといって無惨な失敗をやらかしたあとで設計し、建造した型のひとつであることがわかった。わたしは、感涙にむせびそうになった。
わたしは、帆をおろしてまちうけた。小型船が、われわれのかたわらへ進んでくる。船上から綱が一本投げおろされた。見あげると、上から顔、顔、顔がのぞいていた。わが初の艦隊の一船を指揮していたメゾブ族のジャがすぐにみとめられた。
「デヴィッド!」かれがさけんだ。「きみか? きみが死んでしまったものとあきらめてから、もう何百回も睡眠をとったよ」
ル・ブラは、ひじょうに衰弱していたから、ひとりでジャの船にはいのぼることができなかった。身を起こすのがやっとだったのだ。わたしとてあまりの弱りようで、彼女を助ける力もなかった。だが、やがて喜び勇《いさ》むかれらの手がわれわれを船上に引きあげてくれていた。わたしが甲板にとどくと、ひとりの女がかけ寄ってきて、わたしを抱いた。美女ダイアンだった。
食物と水をあたえられ、いくぶん元気が回復して体力がつくと、ダイアンが事のしだいを話してくれた。
彼女は、ドゥ・ガッドがコ‐ヴァ島から逃れるのを手伝っていたのだった。というのも、かれは、ダイアンの身を守り、彼女がサリへ帰るのに手を貸すと、はっきり約束したからだ。ところが、かれは、その約束を破った。彼女は、かれを殺したのだった。これぞ、アモズの女性の心意気なのだ。
それから彼女は、例の帰巣本能に一分の狂いもなく誘導されながら本土へと櫂をこいだのだった。彼女の運命を定めたにちがいないとわたしが憂慮していた、あのものすごい嵐の圏内に、彼女ははいらずにすんでいたようだった。そして、ル・ブラとわたしの遭遇した三度の嵐を、彼女も無事に切りぬけていたのだった。
いまわれわれは、サリに帰りついている。満ちたりた、このうえない幸福感にひたっている。ル・ブラは、スヴィへ帰った。彼女を護衛していった戦士たちが伝言をもって引きかえしてきた。伝言をきいてわたしは、さらに幸福感がつのってくるのをおぼえた。それと同時に、わたしがルヴァにどれほどのあいだとらわれの身となっていたか、おぼろげながら見当がついたのだった。わたしにもたらされたその伝言というのが、ズォルとクリートは無事にスヴィへ帰りつき、連れあいとなってすでに赤ん坊がいるというものだったからだ。(完)