火星の幻兵団
E・R・バローズ/小西宏訳
目 次
一 カーソリスとスビア
二 奴隷
三 陰謀
四 緑色人のとりこ
五 白い種族
六 ロサール皇帝
七 幻《まぼろし》の弓兵《きゅうへい》
八 死の広間
九 平原の戦い
十 弓兵隊|司令官《オドワール》カール・コマック
十一 緑色人と大白猿
十二 デュサールの安泰《あんたい》のために
十三 |放浪の戦士《パンサン》タージュン
十四 クーラン・ティス皇帝の心意気
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登場人物
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カーソリス……赤色人、ヘリウムの王子、カーターとソリスとの息子
スビア……赤色人、プタース皇帝スバン・ディーンの娘、美貌の王女
クーラン・ティス……赤色人、ケオル皇帝、スビア姫の婚約者
アストック……赤色人、デュサールの王子
バス・コール……赤色人、デュサールの貴族
ホルタン・グル……緑色人、トルクワス族の皇帝
サル・バン……緑色人、トルクワス族の王
タリオ……白色人、ロサール皇帝 超現実論者
ジャブ……白色人、ロサール人 現実論者
コーマル……ロサール人の崇拝する神様
カール・コマック……白色人、ロサール弓兵隊|司令官《オドワール》
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一 カーソリスとスビア
大輪のピマーリアのあでやかに咲きこぼれる木かげ、つややかなアーサイト石のずっしりしたベンチに王女は掛けていた。そのサンダルをはいた形のいい足は宝玉をまいた散歩道をいらだたしげに爪先《つまさき》で打っている。ここはみごとなソラプスの木がそびえて緋色《ひいろ》の芝生に影を落とす、プタース国の皇帝《ジェダック》スパン・ディーンの王宮の庭である。王女の前には、髪の黒い、皮膚の赤い、ひとりの戦士が身をひくくかがめて熱い言葉をささやいている。
「スビア」と男は訴えていた――「どうしてそのように冷たくなさるのです。この身は恋の炎に灼《や》きさいなまれておりますのに。永久《とわ》に色あせぬ花のお姿を支えているその果報者《かほうもの》の固く冷たい石さえも、お心ほどには冷たくはないし、かたくなでもない。スビア、一言《ひとこと》でいい、聞かせてください、たとえ、いまはわたしを愛せぬとしても、いつか、いつの日か、わたしの王女さま……」
王女は驚きと不快の声をあげて、すっくと立ちあがった。わたしの王女さまというのは婚約者の呼び名なのである。赤い、なめらかな肩の上に気高い顔を凛《りん》とそびやかし、黒い瞳《ひとみ》に怒りをこめて相手の目を見かえした。
「なんということを、アストック。そのようにわれを忘れ、バルスームの慣習《しきたり》をお忘れになるとは。スパン・ディーンの娘のこのわたくしをそのように呼んでよいと誰が許しました」
男はいきなり身をよせて王女の腕を押さえた。
「わたしの妃《きさき》になるのです! そうさせずにはおきませんぞ。デュサールの王子たるこのアストックが想いをとげる邪魔は誰にもさせぬ。邪魔だてするものがあれば、その名をおっしゃるがよい。そやつの汚らわしい心臓をこの手でえぐり出し干しあがった海をうろつくキャロットどもに投じてくれよう」
男の手がからだに触れただけでスビアの銅色の肌から血の気がひいた。火星の宮廷では王家の女性は神に等しい存在だから、アストック王子の行為は冒涜《ぼうとく》も同然である。しかし王女の瞳には、男のふるまいと、その成り行きにたいする嫌悪感があるだけで、おびえたような色は見られない。
「お離しなさい」冷ややかな、つき放すような声だった。
アストックは、なにやらわけのわからぬことを口走りながら荒々しく相手を引きよせた。
「お離しなさい!」王女はきびしくくり返した。「衛兵《えいへい》を呼びますよ。そうなれば、どういうことになるか、デュサールの王子もご存じのはずでしょう」
男はすばやく右腕を王女の肩にまわして顔に口をよせようとした。小さく叫んで王女はつかまれていないほうの腕をふるった。重い腕輪がしたたかに男の口を打つ。
「けがらわしい!」スビアは叫んだ。「衛兵! 衛兵! 早く! プタースの王女を守るのです!」
呼び声に応じて十人ばかりの衛兵が、革のよろいに飾り金を鳴らし、抜身《ぬきみ》の長剣を陽にきらめかせ、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な狼藉《ろうぜき》に低く怒りの叫びをあげながら緋色の芝生《しばふ》をいっさんに走ってきた。
しかし王女がアストックと揉《も》みあっている現場をめざして衛兵たちが半分も芝生を走らないうちに、黄金の泉水をなかば隠した手近の茂みから人影がとび出してきた。黒い髪、鋭い灰色の目、肩が広く腰のしまった、背の高い若い戦士である。火星の赤色人は銅色の肌で、その点がこの老いた惑星のほかの人種とちがうのだが、この青年は皮膚がかすかに赤味がかっているだけである。一見赤色人のようではあるが、明るい肌と目の色以上に、どことなく言うに言われぬ違いがあった。
身のこなしも普通ではない。大きく地を蹴《け》って飛ぶように疾走《しっそう》するのが、衛兵たちの走るのとは比べものにならない速さである。
青年がかけつけたとき、アストックはまだスビアの手くびをとらえていた。青年は一瞬もむだにしなかった。
「キャロット!」と一言《ひとこと》、アストックの顎《あご》に一発見舞った。アストックのからだは宙《ちゅう》を飛んで、ベンチわきのピマーリアの茂みに崩れ落ちた。
青年は王女にむきなおった――「カオール、プタースの王女、スビア! 運命のはからいでしょうか、折よくぼくが参りましたのも」
「カオール、ヘリウムの王子、カーソリス!」王女は挨拶《あいさつ》を返した。「不思議はございません、あのような御父君の世つぎでいらっしゃるのですもの」
カーソリスは一礼して、父なる火星大元帥、ジョン・カーターへの賛辞をうけた。ようやく衛兵たちが息せき切ってかけつけてきた。いっぽう、デュサールの王子は、口から血を流し、剣を抜いてピマーリアの茂みからはい出してきた。
アストックは、カーソリスに躍りかかって命を賭《か》けた決闘を挑もうとしたが、衛兵たちによってはばまれてしまった。もっともカーソリスのほうでは、喜んで受けて立つ気構えを見せてはいたが。
「スビア、お許しさえあれば、この無礼者を存分に懲《こ》らしめてやりたいのですが」とカーソリスは申し出た。
「いけません」王女はとめた。「わたくしとしては、このひとをかばう筋合いはありませんが、ここでは父の皇帝《ジェダック》のお客人なのです。このひとが、いまの無礼なふるまいについて責任を持つ相手は父のほかにありません」
「わかりました」カーソリスは答えた。「しかしそちらの片《かた》がついたら、ヘリウムの王子たるこのカーソリスと対決してもらわねばならない。父の友人であるお方の王女殿下に無礼を働いたうえはただはすませぬ」バルスームのこの美しい王女の名誉のために挑戦するカーソリスの目は、しかし、そのような表向きの大義名分《たいぎめいぶん》などよりはもっと身近な、もっと切実な想いに燃えていた。
王女のすきとおるような頬《ほお》が、ほんのりと染まった。デュサールの王子アストックは、ふたりのあいだに交わされた無言の想いを目ざとく読みとって、陰惨《いんさん》に目を光らせた。
「きさまのことは、いずれ片をつけてやる」挑戦に応じて、彼はかみつくようにカーソリスにいった。
衛兵たちはまだアストックをとり囲んでいた。指揮に当たる若い将校としては、どうにも勝手が悪い。とり押えた狼藉者《ろうぜきもの》は、強大な隣国の王子であり、スパン・ディーン陛下の賓客《ひんきゃく》として、いまのいままで丁重をきわめた歓待を捧げていた、その当の相手だ。うむをいわさず逮捕してしまえば、これは戦争になる。といって、王子の所業はプタースの戦士の目から見れば極刑に値するものである。
若い隊長はためらって王女の顔を見た。王女のほうでも、ここで下手《へた》な手を打てばどういう事態となるか、先が読めていた。デュサールとプタースの二つの帝国は、多年にわたって友好関係を保っており、両国の巨大な宇宙商船は互いの大都市のあいだをしげく行き交《か》っている仲である。いまも、目をあげると、黄金《こがね》さす辛苦の宮殿の丸屋根《ドーム》のかなたの空に、一隻の貨物船が進路を西にとり、バルスームの希薄な大気の中をデュサールさして悠々《ゆうゆう》と巨体を進めているのが見える。
王女の一言《ひとこと》によって、二つの大国が血なまぐさい戦争に突入するかもしれない。勇士の血は流しつくされ、はかり知れぬ国富は使いはたされ、戦火のやんだ後、両国はもはや近隣《きんりん》の弱小国の侵略にもたえられまい。そして最後には水の涸れた海底に住む野蛮な緑色人の餌食《えじき》になってしまうのだ。
スビアを穏便な処置への導いたのは、しかし恐怖の念ではなかった。火星の人間は恐怖というものをほとんど知らない。恐怖ではなく、国民の福祉《ふくし》を思って、彼らの皇帝《ジェダック》の娘としての責任感が彼女をそうさせたのだ。
「将校《パドワール》!」王女は口をきった。「あなたがたを呼んだわけはわかっていますね。王女の身を守ること、そして宮廷の平和が乱されないようにすること、それだけなのです。わたくしは奥へ参ります。将校《パドワール》、護衛なさい。ヘリウムの王子殿下、ごいっしょに参りましょう」
アストックには二度と目もくれず、王女はカーソリスのさし出す腕をとって、プタースの君主と、そのきらびやかな宮廷がある大理石の重厚な建物をさしてゆっくりと歩《ほ》をはこんだ。その両側に衛兵の縦隊がつきしたがう。こうしてプタースのスビア姫は難局を切り抜けた。父の賓客を逮捕する必要はなくなり、また同時に、放っておけば、その場で斬りあいにならずにはすまされなかったふたりの王子を無事に引きはなしたのである。
ピマーリアの茂みのそばに取り残されたアストックは、眉《まゆ》をよせ、黒い目を憎々しげに細めてふたりの姿を見送った。そのひとりは、かつて知らぬ激情をわが胸にかきたてた女だ。そしてもうひとりの男こそは、わが恋の成就《じょうじゅ》に邪魔だてするやつなのだ。
ふたりが建物の中に消えてゆくのを見とどけると、アストックは肩をすくめ、小声でぶつぶついいながら、自分と随員《ずいいん》の宿所にあてられている、宮殿の別棟のほうへと庭を歩いていった。
その夜、アストックはスパン・ディーン皇帝に正式に別れを告げた。庭での一件は誰もおくびにも出さなかった。しかし、皇帝の冷ややかな無表情な顔つきからみて、アストックに侮辱《ぶじょく》の言葉を浴びせないのは、ひとえに貴賓《きひん》をもてなす礼法に縛られてのことであることは明らかだった。
デュサール王子の一行がいよいよ出発する時になっても、カーソリスは姿を見せなかったし、スビアも見送りに出なかった。歓送《かんそう》の儀式は宮廷作法の固苦しさを思う存分発揮した冷ややかなものだった。今回の不吉《ふきつ》なプタース宮廷訪問にアストックがのりこんできた巨大な宇宙戦艦のデッキに随員の最後のひとりがあがってしまうと、恐るべき破壊力を備えた艦は発着台を離れてしずしずと上昇して行った。スパン・ディーンは、ほっとしたように将校のひとりをふりむいて、このところ一同の気苦労の種となっていたこととはまるで関係のないことを命じた。
それとも、アストックの訪問とは、それほど関係のないことだったろうか?
「ソラン王子に伝えてもらいたい」と皇帝は命じた。「今朝ケオル方面に出航したわが艦隊は、これよりプタース西部へむかうように」
デュサールの艦隊が故国《ここく》をさして西に転じたころ、スビアは、アストックに言い寄られたときと同じベンチに腰をおろしていた。そして遠ざかりゆくその艦のあかりを見つめていた。そのわきには、近いほうの月サリア衛星の明るい光に照らされてカーソリスが並んで掛けていた。しかし、その目は夕闇にとけこんでゆく戦艦にではなく、仰向《あおむ》いた王女の横顔に注がれている。
「スビア」と彼はささやいた。
王女はふりむいて彼の目を見た。彼はその手を求めたが、王女はさり気なくそらしてしまった。
「スビア、愛しているのです!」カーソリスは叫んだ。「それでもかまわぬ、とおっしゃってください」
王女は悲しそうに首をふった。
「ヘリウムのカーソリスに愛されるというのは、どんな女にも名誉なことですわ」と淡々《たんたん》と答えた。「でもそのお話はやめましょう。わたくしにはお返しができませんもの」
カーソリスはゆっくり立ちあがった。驚きのあまり、大きく目を見開いている。プタースの王女スビアが、ほかの男を愛していようとは、ヘリウムの王子には思いもよらぬことだったのだ。
「でもカダブラでお目にかかったときは!」と叫んだ。「そしてその後、お父上のこの宮殿で、お会いした節、ぼくの愛に答えられぬというどんな素振《そぶ》りを見せてくれました?」
「では、うかがいますが、ヘリウムのカーソリス、わたくしが愛を返すにちがいないとあなたに思わせるような、どんな素振りをしたとおっしゃるのです」王女は切り返した。
カーソリスはしばらく黙然《もくねん》としていたが、やがて首をふった。
「なにもありません、スビア。たしかにそのとおりです。しかしぼくは、てっきりあなたに愛されているとばかり思っていました。ぼくが崇《あが》めんばかりにあなたを愛していたということは、よくよくご存じのはず」
「どうしてそんなことが、わたくしにわかります、カーソリス?」スビアは驚いた顔をしてみせた。「前にそういうことをお話しくださいまして? 愛の言葉を、お口にしたことがおありですの?」
「口には出さなくても、わかっていたはずです!」カーソリスは叫んだ。「ぼくは父に似て、こまやかな感情を口にするのは苦手《にがて》だし、ご婦人にたいしては無骨者《ぶこつもの》です。しかし、この王宮の庭の小道に敷きつめてある宝石も、木も花も、芝生さえも、ぼくの心を知っているにちがいないんだ。あなたの姿がこの目に映ったその日から、この胸をみたしている愛の思いは、誰にだって読めたにちがいないんだ。あなただけがわからなかったというはずはない」
「ヘリウムでは、女性のほうから殿方にいいよるんですの?」
「冗談をいっている場合じゃありません!」カーソリスは絶叫した。「いままでのやりとりは、ほんの冗談で、本当はぼくを愛しているのだ、とそうおっしゃってください、スビア」
「そのようなことは申せません、カーソリス。わたくしには、きまったお方があるのですから」
そっけない口調ではあったが、そこには無限の苦しみのかげりがありはしなかったか? なかったと誰にいえようか?
「きまったお方?」カーソリスは息をのんだ。顔が青ざめた。しかし火星にただひとりの大元帥の呼び名をかちとった英雄の血が彼には流れていた。その血に恥じず、毅然《きぜん》として頭をあげた。
「ヘリウムの王子カーソリスは、お喜びを申し上げます。おふたりの上に幸せを――で、あなたの選ばれた方の――」彼は口ごもって、スビアがその名前を明かすのを待った。
「ケオル皇帝、クーラン・ティス」スビアは答えた。「父の親友で、プタースの最大の同盟者でいらっしゃるお方です」
カーソリスはふたたび口をひらく前に、一瞬、王女にじっと目を注いだ。
「彼を愛しているのですか?」
「わたくしの婚約者です」王女は答えた。
彼もそれ以上は問いつめなかった。
「ケオルの皇帝なら火星随一の名門だし、戦士としても並ぶ者がない」カーソリスは感慨《かんがい》深げにいって、「父の友人だし、ぼくも親しくしています――誰かほかの人間ならよかったのに!」と怒ったようにつぶやいた。王女のほうは固い表情で心のうちを隠していた。そこには、ただかすかな悲しみのかげが漂っているだけだ。それはカーソリスのための悲しみであろうか。それとも彼女自身のための、いや、ふたりのための悲しみなのであろうか。
王女の愁《うれ》いにカーソリスは気づいていたが、クーラン・ティスへの友情から、あえてなにもいわなかった。やはり父親の血をひいているせいで、友誼《ゆうぎ》に厚いことにかけてはバージニアのジョン・カーターにおよぶ者はこの世にいないのだ。
カーソリスは宝石をちりばめた王女の飾りのはしを持ちあげて、くちびるをあてた。
「クーラン・ティスと、その至宝《しほう》なる珠玉《しゅぎょく》の君に敬意を表して」というその声はかすれていたが、誠実さにあふれていた。「婚約者がおありだとうかがう前に、ぼくはあなたを愛している、と申しました、スビア。しかし、もうそのようなことは申しますまい。しかし、ぼくの心を知っていただいてよかったと思います。あなたにもクーラン・ティスにも、ぼく自身にも恥じるところはありません。あなたに捧げる愛は、クーラン・ティスをも含めた愛です――もし、あなたが彼を愛していらっしゃるのなら」その最後の言葉は質問に近かった。
「婚約のきまったお方なのです」王女はくり返した。
カーソリスはゆっくりと一歩退いた。いっぽうの手を胸に、もういっぽうを長剣の柄にあてていった。
「ぼくの心とぼくの剣はあなたのものです――いつまでも」そしてすぐに王宮の中にはいって、王女の視界から消えてしまった。
しかし、もしそのときカーソリスがすぐに引き返していたとしたら、ベンチにひれふして腕に顔を埋めた王女の姿を見たことであろう。王女は泣いていたのだろうか? 誰も見るものはいなかった。
この日、ヘリウムの王子カーソリスは、父の友人であるスパン・ディーンの宮廷に前ぶれもなしに訪れてきたのだった。ここではいつも彼は歓迎されていたから、軽い気持で単身、小型飛行艇を駆って飛んできたのである。あらたまった訪問ではないだけに、格式《かくしき》ばった見送りの必要もなかった。
実は自分で考案した装置の実験飛行をかねてまいったのです、とカーソリスはスパン・ディーン皇帝に説明した。装置というのは航空用|羅針儀《らしんぎ》を改良したものである。火星の通常の羅針儀は、いったん方位盤《ダイヤル》を目的地にセットすれば指針の向きがきまり、後は指針の方向に船首をむけて走ってさえいれば、火星上のどの地点へも最短距離で行けるという仕組みになっている。
カーソリスの加えた改良というのは、これに補助装置を組み合わせて、ダイヤルの指示どおりに船が自動的に航行し、また目的地到着と同時に、同じく自動的に停船し降下するようにしたものである。
「この装置の利点は明らかでございましょう、陛下《へいか》」とカーソリスは、見送りかたがた装置を見に宮殿の屋上の発着台に姿を見せていたスパン・ディーンに話していた。
皇帝《ジェダック》と賓客のうしろには十二、三人の廷臣《ていしん》が従者を連れて立っていた。そして熱心にカーソリスの説明に聞き入っていた。従者のひとりなどはこの「航走管制羅針儀」の精巧《せいこう》な機構《きこう》をよく見ようとして、目上のあいだにわり込んで二度まで小言《こごと》をくらったほどである。
「たとえば」とカーソリスはつづけた。「今夜、ぼくは夜通しの航走をひかえていますが、目的地の緯度と経度にダイヤルをセットしてエンジンをかけたあとは、ライトをつけっ放しにして、夜具にくるまって寝てしまえばよろしいのです。船はヘリウムに直行、所定の時間に、ぼくが目をさましていようといまいと、静かに宮殿の上空に降りてゆくということになります」
「夜間飛行をしている別な船と途中で衝突しないかぎりは、だね」スパン・ディーンがいった。
カーソリスは微笑した。「その危険はございません。ここをごらんください」とダイヤルの右を指さした。「ぼくが『障害回避装置』と名づけているものなのですが、これに見えるのが、そのスイッチです。回避装置の本体はデッキの下に収めてあり、操舵《そうだ》装置と変速レバーの両方に接続しています。
回避装置の本体は単純なもので、ラジウム発生機が半径一〇〇メートルの放射能スクリーンを張るというだけのことです。スクリーンのどの部分に障害物が触れましても、変化が鋭敏に捕捉《ほそく》され、それに応じて磁力による指令が操舵装置に与えられて、船は自動的に回避運動を行います。障害物が放射能の圏外《けんがい》に去れば、船はもとの航路に復します。障害物が背後から接近する場合、たとえば本船以上の速度で別の船が後方から迫ってくるというような場合には、操舵装置と同時に変速レバーに指令が送られて、後続の船から離脱《りだつ》しながら本船は上昇ないし下降して追突《ついとつ》をさけるわけです。
また、障害物が多数であったり、船首を上下ないし左右に四十五度以上転じる必要があるといった、重大な事態が発生した場合、あるいは目的地上空に達して高度が一〇〇メートルまでさがった場合は、船が停止し同時にベルが鳴って操縦者を起こす仕組みです。予想しうる非常事態にたいしては、まず万全の対策が講じてあるつもりです」
スパン・ディーンは、装置の巧妙さに感じ入ったように微笑した。このとき、例の出しゃばり従者が、ほとんど飛行機のそばまできていて目を細めて聞き入っていたが、不意に、「一つだけ見落としがあります」と口をはさんだ。
貴族たちは、あっけにとられてこの男をみつめた。ひとりが、やさしく、とはとてもいえないやり方で従者の肩をつかみ、うしろの分相応の場所に押しもどそうとした。だがカーソリスは手をあげて制した。
「お待ちください。この男の考えを聞いてやりましょう。人間の考え出したものである以上、どこかに手抜かりがあっても不思議はない。もしかすると、この男はいま聞いておいたほうがいいような弱点を、なにか見つけたのかもしれません。きみ、こちらへ来たまえ。ぼくが見落とした点というのを聞こうじゃないか」
そう話しかけながら、初めてカーソリスはその従者の様子をつぶさに眺めた。ひどく背が高い男だ。顔だちの整っているところも、まずまともな火星の赤色人である。しかし、くちびるが残忍そうに薄く、顔の右側にはこめかみから口もとにかけて白っぽい刀傷《かたなきず》のあとが薄く走っている。
「さあ、話したまえ」とヘリウムの王子はうながした。
従者はためらった。出過ぎた口をきいて一同の注目の的になったのを後悔しているらしかった。しかしいまさら引っ込みもつかず、口をひらいた。
「敵の回しものに、装置を小細工されることがございます」
カーソリスは革の装具のポケットから小さな鍵を取りだした。
「これを見たまえ」と手わたした。「錠前に多少とも心得のある人間ならひと眼でわかることだが、この鍵が合うような錠は、どんな器用なスパイにだってこじ開けられるものじゃない。装置の心臓部はこの鍵が守っているわけなんだ。これがなければ、心臓部に細工するまえに装置を半分も壊さなくてはならず、その結果、事故があったのがひと目で知れようというものさ」
従者は鍵を手に取って抜《ぬ》け目《め》なさそうに一瞥《いちべつ》をくれてから、持ち主に返そうとして大理石の床の上に取り落とした。あわててふりむいた拍子に従者のサンダルが、きらめく鍵をふみつけた。一瞬、従者の全体重がその上にかかった。それから足をひいて、見つけたのが嬉しかったのか小さく叫ぶと、かがみこんで拾いあげ、カーソリスに鍵をもどした。そして貴族の居並ぶ背後に引きさがったが、その後はみなから忘れられてしまった。
ほどなく、カーソリスは、スパン・ディーンとその貴族たちに別れを告げ、ライトを輝かせて、星のきらめくバルスームの夜空へ飛び立って行った。
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二 奴隷
プタースの支配者が廷臣《ていしん》をしたがえて屋上の発着台から去り行くにつれて、従者たちも、それぞれの王侯・貴族の主人の後について立ち去ったのであるが、ひとりだけ最後までぐずぐず居残っているものがあった。その男は不意に身をかがめて右足のサンダルを脱ぎとると、装具についた革袋の中にすべりこませた。
一同が階下におりて皇帝の合図で散って行った後も、ヘリウムの王子の出発前にあれほど人目を集めた出しゃばりの従者の姿が、ほかの従者の中に見えないことに気づいたものはいなかった。
誰の従者なのか詮索《せんさく》しようとするものもなかった。火星の貴族は従者を数多く抱えているし、その顔ぶれが主人の気まぐれで絶えず変わるので、新顔が見とがめられるということもほとんどないのである。それに、王宮の門をくぐることを許されたということ自体、それだけで忠誠の士たることの確実な証明であると見なされていた。宮中の貴族に仕えたいと望むものは、きびしい資格審査をうける習わしだったから。
よい習わしというべきであろう。それが緩和されるのは、友好国のよしみで外国の王族使節の随員《ずいいん》が多めに見られる場合にかぎられている。
あくる日の近く、プタースのある大貴族のお仕着せのよろいをつけた大男の従者が、王宮の門をくぐって市中へ出てきた。広い都大路を大股《おおまた》にぐんぐん歩いて、貴族の居住区域を過ぎ、商店街にはいった。そして、尖塔《せんとう》のようにひときわ高くそびえ立つ、壁面を精緻《せいち》な彫刻と複雑なモザイクで飾った、華美な建物のほうへむかった。
これは平和宮といい、外国使節団のための建物というか、諸外国の大使館の所在地である。大使たち自身は貴族の居住区域に宏壮《こうそう》な邸宅を構えて住んでいるのだ。
男はデュサール大使館へむかった。大使館員は、男がはいってくるのを見てけげんそうな顔で立ちあがり、大使に会いたいという申し出を聞くと、紹介状でもあるかとたずねた。男は、肘《ひじ》の上にはめていた飾りのない金属製の腕輪をはずし、内側に刻まれた文字を指さして一言二言、館員の耳にささやいた。
館員は驚いたように目を見開いた。態度が一変してうやうやしくなる。そして丁重に椅子をすすめると、自分は腕輪を手にして奥の間に急いだ。すぐにもどってきて、大使のもとへ男を案内した。
長いあいだ、男は大使と密談していたが、奥の部屋から出てきたときのその顔は、無気味な、満足気な微笑をたたえていた。平和宮を出ると、まっすぐにデュサール大使の私邸にむかう。
その夜、大使私邸の屋上から二隻の快速飛行艇が飛びたった。その一隻はヘリウムをさして急行した。そしてもう一隻は……。
プタースの王女スビアは、寝につく前のいつもの習慣で王宮の庭をそぞろ歩いていた。絹と毛皮の衣装を身にまとっていた。太陽が急速に西の地平線に沈んだ後、火星の空気はひどく冷えるからだ。
王女は、自分がケオル皇帝の妃《きさき》となる、さし迫った婚礼のことを思い、そして前日、心のほどを打ち明けてくれた容姿端麗《ようしたんれい》なヘリウムの青年王子のことを思っていた。
前夜、王子の飛行艇の明りが消えて行ったあたりの南の空を見つめている王女の顔を曇らせているものは、はたして同情なのか、それとも悔恨《かいこん》なのか、それはいずれともいいがたい。
そして、その同じ方角から、あたかも王女の激しい想いに引きよせられたかのように、王宮の庭にむかって急速に近づいてくる一隻の飛行艇の明りを認めたとき、王女のおぼえた感慨がいかなるものであったか、それも推測つきかねることであった。
その飛行艇は、みるみるうちに宮殿の上空に達して低く旋回《せんかい》した。着陸の準備をしているとしか思えない。
突然、船首のサーチライトが強力な光芒《こうぼう》を下方に投じた。一瞬、その光が発着台を照らし出し、衛兵たちの姿を浮かびあがらせ、そのきらびやかな装具の宝石を星のように光らせた。
次いでつややかな丸屋根、優雅な尖塔《せんとう》、広場、庭園と照射《しょうしゃ》してゆき、最後に、アーサイト石のベンチのそばに船を見あげて立っているスビア姫の姿をとらえた。
サーチライトがほんの一、二秒スビアの上にとどまったと思うと、ついたときと同じように不意に消えた。艇は頭上をこえて、王宮の敷地の中の高いスキール樹の木立ちのなかに消えた。
スビアはしばしその場に立ちつくした。頭をうな垂れ、伏目《ふしめ》になって考えこんでいる。
カーソリスでなくて誰の仕業《しわざ》であろう? 王女はこのように自分の様子をさぐりにもどってきたことを憤慨《ふんがい》しようとつとめてみたが、ヘリウムの青年王子が相手では、どうしても怒りの念が湧いてこない。
しかし、いかなる気違いじみた気まぐれから、王子は国際間の儀礼を踏みにじるような無謀《むぼう》なまねをしたのだろう? もっと些細《ささい》なことが原因で大国間に戦争が起こったこともあるというのに。
プタースの王女として、スビアはあきれはて憤慨した――しかし乙女としての彼女はどうであったろう?
そして衛兵は? 衛兵たちも怪飛行艇の前例のない暴挙《ぼうきょ》に度肝《どぎも》をぬかれたのか、停船を命じさえしなかった。しかし黙って見のがすつもりのないしるしには、ただちに発着台からエンジンの音が鳴りひびき、細長いパトロール艇が飛びたって行った。
パトロール艇が東の空に矢のように飛んでいくのをスビアは見まもっていた。しかし、ほかにもこれを見まもっているものがあった。
空をおおって茂るスキール樹の木立ちの陰、広い舗道《ほどう》の通じているあたりの、地上三メートルの闇のなかに一隻の飛行艇が浮いていた。そのデッキから、鋭い目がパトロール艇の投げる長いサーチライトの光線を見まもっていた。デッキは墓場のようにひっそりしていたが、赤色人の戦士が五、六人乗りこんでいて、パトロール艇のライトがしだいに遠ざかっていくのをじっと見つめている。
「今夜は、ご先祖の霊のご加護がある」ひとりがひくい声でいった。
「こうもうまく計画どおりに運ぼうとは」といまひとりがいった。「やっこさんたち、王子殿下のお見とおしどおりに動いてくれましたな」
最初に口をきいた男が操縦席の男にふりむいた。
「いまだ!」とささやいた。命令はそれだけ。計画が全員に徹底しているのにちがいない。音もなく、黒い船体が、黒々と静まり返った木立ちの陰をはい進んだ。
スビアは、庭の東の茂みの影にまぎれて黒っぽい飛行艇が石塀を乗りこえてくるのを見た。船体が静かに前にかしぎ、緋色《ひいろ》の芝生に降りてきた。
なにかうしろ暗い意図があるからこそ、男がこうして忍んでくるのだということはスビアにもわかっていた。しかし彼女は手近《てぢか》の衛兵を呼びもしなければ、安全な建物の中に避難もしなかった。
なぜ?
そうきかれたとしたら、きっと彼女は形のいい肩をすくめて、どこの世界でもいつの世でも変わらぬ女の返事を聞かせてくれたにちがいあるまい――なぜって……だって!
飛行艇が芝生に着地するやいなや、四人の男がデッキからとび降りて王女のほうへ走ってくる。
それでもスビアは声もたてず、催眠術にでもかかったみたいに立っていた。それとも、心待ちにしていたひとを迎えるかのように、といえばよいであろうか。
四人がすぐ近くへ寄るまでスビアは動かなかった。そのとき、木立ちの上にのぼる近いほうの月サリア衛星が白銀の光に男たちの姿をくまなく照らした。
四人とも外国人であった――デュサールのよろいに身をかためた戦士たち! 王女は愕然《がくぜん》として色を失った。しかしもう遅すぎる。
声をたてるいとまもなく荒々しい手が王女をとらえた。大きな絹のスカーフが顔にまきつけられ、たくましい腕に持ちあげられて飛行艇のデッキに運ばれた。すぐにプロペラの回転音が起こり、彼女はからだに激しい気流の動きを感じ、衛兵たちの怒号《どごう》をはるか下方に聞いた。
同じころ、ヘリウムをさしてもう一隻の快速艇が南下中であった。キャビンの中では、巨漢の赤色人が、裏返しにおいたサンダルの上にかがみこみ、精巧《せいこう》な器具を使ってサンダルの軟らかい底についている小さいなにかの跡形を測定《そくてい》していた。かたわらには鍵の形を描いた紙があって、男は測定の結果を記入している。
仕事がすむと、男はくちびるにかすかな笑いを浮かべて、テーブルの向うに立っている男のほうに顔をあげた。
「やつは天才だ。こういう鍵を使う錠を作るとは、見あげたやつだ。ラロック、このスケッチを持って行け。そしておまえの才能を傾けて同じ鍵を作るのだ」
戦士細工人のラロックは一礼した。
「人間の作ったものなら、必ず人間の力で打ち破ることができると存じます」そしてスケッチを手にキャビンを出た。
夜明けの光がヘリウムの双子都市の目じるしである真紅と黄色の二つの巨塔を照らし出した。それをさして、北の空から一隻の飛行艇が悠々《ゆうゆう》と飛んでくる。
そのへさきには、ヘリウム帝国の辺境にある都市の小貴族の紋章が描かれていた。都市の上空にさしかかったその艇の動きがいかにも悠然《ゆうぜん》とおちつきはらっているので、眠気をこらえて警備に当たっている衛兵たちも不審《ふしん》の念はまったく起こさなかった。ぼつぼつ勤務交替の時間である。衛兵たちは、交替要員がいつくるかということしか、ほとんど頭になかったのだ。
平和がヘリウム全土をつつんでいた。よどんだような柔弱な平和。ヘリウムに敵はいない。おそれることは、なにひとつないのだ。
急がずに、近くにいたパトロール艇が大義《たいぎ》そうに旋回して、北からきた飛行艇に接近して行った。楽に声のとどく距離まで近づくと、デッキにいる将校が歓迎の意を表して声をかけた。
陽気に「カオール!」と叫ぶと、先方は、首都で四、五日遊ぶために田舎からきた貴族の船である旨《むね》を、もっともらしく説明した。それで充分だった。パトロール艇は離れて、ふたたび巡回を始めた。北からきた船はそのまま民間の発着場にむかい、高度をさげて着陸した。
ちょうど同じころ、その艇のキャビンにひとりの戦士がはいってきた。
「できあがりました。バス・コール閣下」そういって、絹と毛皮の夜具から起き出したばかりの長身の貴族に小さい鍵を手わたした。
「でかしたぞ!」と貴族は叫んだ。「寝ないで仕事をしたな、ラロック」
相手はうなずいた。
「数日前に作ってもらったヘリウムの装具を持ってきてくれ」バス・コールは命じた。
ラロックは、船首についているのと同じ紋章のはいった、質素《しっそ》な、ありきたりのヘリウム戦士の装具と飾り一式を持ってきて、バス・コールが、自分のよろいの宝石をちりばめた瀟洒《しょうしゃ》な飾りと取りかえるのを手伝った。
バス・コールは船内で朝食をしたためると空港|埠頭《ふとう》に姿を現わした。そしてエレベーターに乗ってまたたく間《ま》に街路に降り、勤めに急ぐ労働者の朝の雑踏の中にまぎれこんだ。
バス・コールが戦士の装具に身を固めて労働者にまじって歩いても、ブロードウェイでズボンをはいて歩くのと同じくらい目立たない。火星では肉体的な欠陥から武器をとることのできないものをのぞけば、男はすべて戦士なのだ。商人も番頭も武具をがちゃつかせて生業《せいぎょう》にいそしむ。幼児は、五年もの長いあいだ純白の卵殻《らんかく》の中で成長し、ほとんど成人になってこの世に生まれ出るのだが、早くから腰に剣を帯びた生活に慣れているので、火星の学童にとって武装せずに街を歩くというのは、地球の学童が半ズボンをはかずに外に出歩くのと同じくらい体裁《ていさい》のわるいことなのである。
バス・コールの目的地は大ヘリウムの市中で、姉妹都市小ヘリウムから平原を七十五マイルへだてたところにある。着陸したのは小ヘリウムだが、これは皇帝の宮殿のある大ヘリウムにくらべて空中警備が大まかでゆるやかなせいであった。
彼が高い家なみにはさまれた、公園のような大通りの人ごみを歩いて行くと、この火星都市が目ざめ、活気づいていくしるしが至るところに見受けられた。夜のあいだじゅう細い金属の柱の上にひきあげられていた家々が静かに地上に降りてくる。建物のあいだの緋色《ひいろ》の芝生では、早くも子供たちが花のあいだを遊びまわり、美しい婦人たちが隣同士の心安さで笑いさざめきながら部屋を飾るあでやかな花を摘《つ》んでいる。
一日の仕事にとりかかるひとたちの、友人同士、隣同士に交わす朗らかな「カオール!」の挨拶《あいさつ》の声が絶えず耳につく。
このあたりは富裕な商人たちの居住区域で、富と贅沢《ぜいたく》のしるしが至るところに目についた。どの家の屋上でも、奴隷たちが豪奢《ごうしゃ》な絹織物や高価な毛皮の夜具を持ち出して風にあてている。彫刻を施したバルコニーには、宝石ずくめの婦人たちが、朝早くからのんびりとくつろいでいる。日が高くなると、このご婦人連は奴隷たちの手で屋上に絹の天蓋《てんがい》と寝椅子をしつらえさせて、そちらへ移るのである。
開いた窓々からは、ひとの心をひき立たせるような快い音楽が聞こえてくる。眠気をふりはらってしゃんと起きるということは地球人にとって楽なことではないが、火星人にとっては解決ずみの問題である。音楽を使って神経を覚醒《かくせい》状態に適応させるというわけだ。
頭上には船体の長い旅客飛行船がさまざまの高度を飛びかい、系統別にそれぞれ一定の高度の発着台のあいだを往来して、市内の乗客運輸に当たっている。ひときわ高く空にそびえているのは国際線の巨大な旅客船の発着台である。貨物船のためには、地上六〇〇メートル以内の高さに専用の発着台が設けてある。飛行艇はいずれも一定の高度を保って飛ぶのであり、別の高度に移るには特定の昇降区域にはいらねばならず、そこでは水平飛行は禁止されている。
地上の街路は、短く刈り込んだ芝生で路面が舗装されて、絶え間なく路面艇が行き来している。艇は芝生すれすれに疾走《しっそう》して、ゆっくり走っている艇を追い越したり交差点を通過したりする際にだけ優雅に空中に舞いあがる。交差点では南北に走る艇には路面通行権があって、東西に走る艇は、その上方を飛びこえなくてはならない。
家々の屋上に設けてある艇庫《ていこ》から次々に自家用艇が舞い降りて、路面を行き交う艇の流れに加わっていく。エンジンの唸《うな》り、市街地のどよめきにまじって、出勤するひと、送り出すひとの呼びかわす声が聞こえてくる。
しかし、目まぐるしい乗り物の流れと無数のひとの往来にもかかわらず、第一に感じられるのは、ゆったりした安らぎ、柔らいだもの静かさであった。
耳ざわりな騒音は火星人の好みに合わない。かん高い物音で彼らの気に入るものは、戦闘の響きだけである。剣戟《けんげき》の響きや大戦艦の激突する音ほど彼らにとって甘美な音楽はない。
バス・コールは、二つの大通りの交差点の地下にある圧搾《あっさく》空気を利用した交通機関の駅の一つに降りて行った。にぶい色をした楕円形のヘリウム硬貨を二、三枚、窓口にほうり出して切符を買う。
改札を通ると、地球人の目には長さ三メートルの巨大な砲弾とも見えるものが並んでいるところへきた。その円錐形《えんすいけい》の乗物はレールの上を一列にゆるやかに動いている。五、六人の駅員が乗客が乗りこむ案内をしたり、乗り物に目的地を設定したりしている。
バス・コールは空《あ》いている一台のそばへ寄った。乗り物の尖端には方位盤《ダイヤル》がついている。彼は大ヘリウムの市内のある駅にセットし、彎曲《わんきょく》したドアをあけてクッションを張った床に腹ばいになった。駅員がドアを押すとカチリと小さな音をたてて閉まり、乗り物はゆるやかに進みつづける。
乗り物はレールの分岐点《ぶんきてん》を自動的に選びながら進み、やがて黒々と口をあけた円筒の一つにはいった。
円筒の中にすっぽりはいりきってしまった瞬間、乗り物は銃弾のようにつっ走った。しばらく宙《ちゅう》を飛ぶような音がきこえていたが、不意に、しかし静かに停止したときには、すでに別の駅のプラットホームに着いていた。駅員がドアをあけてバス・コールが降りたところは、さっきの駅から七十五マイル離れた、大ヘリウムの都心部の地下であった。
地上に出て、道ばたにとめてあった路面艇に乗りこむ。操縦席にすわっている奴隷には一言《ひとこと》も口をきかなかった。あらかじめ指示をうけて待っていたのにちがいない。
バス・コールが席につくや、路面艇はすぐに行きかう艇の流れに加わって走り出し、やがて目抜き通りから折れて、それほど混んでいない道にはいり、繁華街《はんかがい》を過ぎ、小商店の地区にきて、絹輸入商の看板の出ている家の前でとまった。
バス・コールがはいって行くと、天井の低い店の奥から主人が出てきて、挨拶もせず、無言で奥の間に案内した。
奥の間でふたりきりになってドアを閉めきってから、初めて、商人はうやうやしく頭をさげた。
「閣下……」と切り口上《こうじょう》でいいかけるのを、バス・コールは手をふってとめた。
「固苦しいことは抜きだ。ここではわたしは、おまえの奴隷ということになっている。そのほかのことは忘れてしまえ。計画どおり慎重にことが運ばれているとすれば、われわれとしてもぐずぐずしてはいられない。すぐに奴隷市場に出かける。用意はできているな?」
商人はうなずくと、大きな箪笥《たんす》から紋章のついていない奴隷用の装具をとりだした。バス・コールは手早くそれを身につける。ふたりは裏口から出て、曲がりくねった路地を抜け、裏通りに待たせてあった路面艇に乗りこんだ。
五分後に、商人は奴隷をつれて奴隷市場にはいった。中央の奴隷売買台を囲んで黒山の人だかりがしている。
この日の人出はおびただしいものであった。というのは、ヘリウムの王子カーソリスの家令《かれい》が奴隷を仕入れに来ていたからである。
売り手はひとりずつ壇にあがって、売買台に立たせた売りものの長所を簡単明瞭に説明した。それがひととおりすむと、王子の家令が、気に入った奴隷を台に呼びもどし、気前よく値をつけた。
値段のせり合いはほとんどなく、バス・コールが台に立ったときは、すぐさま取引きが成立した。売り手の商人は言い値で彼を売りわたし、こうしてデュサールの貴族がカーソリス王子の宮殿の中にはいりこむことになったのである。
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三 陰謀
バス・コールがヘリウム王子の宮殿にはいりこんだ翌日、ヘリウムの双子都市では、王子の宮殿をはじめ町じゅうのひとびとが興奮に湧いていた。スビア王女が父君《ふくん》の宮殿から誘拐《ゆうかい》されたという知らせが伝わったのである。しかもこの一件には、どうやらカーソリス王子が陰で糸を引いているらしいという噂がもっぱらだった。
火星大元帥ジョン・カーターの会議の間には、ヘリウム皇帝のタルドス・モルス、皇太子で小ヘリウムの王《ジェド》モルス・カジャック、カーソリス王子、そして帝国のおもだった貴族二十人あまりが参集《さんしゅう》していた。
「カーソリス、この事件がもとで、プタースとヘリウムのあいだに戦火がかわされるようなことになってはならないのだ」ジョン・カーターが口を開いた。「おまえに嫌疑《けんぎ》がかけられているようだが、おまえの潔白はわれわれがよく承知している。しかしプタース皇帝にもおまえの無実を知ってもらわねばならぬ。そして皇帝にそれをよく納得させ得るものはただひとり、すなわちおまえをおいてほかにない。ただちにプタースの宮廷に行って事実無根《じじつむこん》たることを身をもって明らかにするがよい。王女の奪回、ならびに身分のいかんを問わず犯人の処罰のために、ヘリウム帝国は全力をあげて協力する。その旨《むね》を火星大元帥であるわたしとヘリウム皇帝の名において約するがよい。
では行け。急を要することは、いわずともわかっているであろう」
カーソリスは会議の間を辞して自分の宮殿に急いだ。
ただちに奴隷たちが出発の準備にとりかかった。カーソリスをひと飛びにプタースまで運ぶ快速艇の整備に、数人が、せわしく立ち働いた。整備が完了し、武装した奴隷がふたりだけ残って艇の警備にあたった。夕日が西の地平線上に低く傾いている。宵闇《よいやみ》があたりをとざすのも間近い。
艇を守る奴隷のひとりは、こめかみから口にかけて刀傷《かたなきず》のある、人並みはずれた大男であった。彼はいまひとりの奴隷のほうへ歩みよった。その目は相手の頭上を通りこして空中に釘づけになっている。すぐそばまで寄って声をかける。
「おい、あの妙な船はなんだ?」
相手は反射的に向きをかえて空を見あげた。その背がこちらをむいた瞬間、短剣をふるって肩胛骨《けんこうこつ》の下から心臓をひと刺し。相手は声もなく崩れるように倒れた。即死である。手早く死体を暗い艇庫《ていこ》の中に引きずりこみ、飛行艇に駆け寄る。
大男の奴隷は装具のポケットから精巧《せいこう》に偽造した鍵をとり出すと、航走管制|羅針儀《らしんぎ》の右側の方位盤《ダイヤル》を開いた。ちょっと内部の構造をのぞいていたが、ダイヤルをもとにもどして指針を動かし、ふたたびダイヤルを開いて内部の変化を調べた。
奴隷のくちびるに薄笑いが浮かんだ。切断器をとり出して、指針からダイヤルの裏につき出ている連動ピンを切りとる。これで指針をどう動かそうと内部の機構にはなんの影響もない。いいかえると、東半球用のダイヤルは、まったく使いものにならなくなったのである。
つぎに西半球用のダイヤルの細工《さいく》にかかる。まず指針をある地点にセットし、それからダイヤルを開いて鋼鉄の連動ピンを切断した。
急いでそのダイヤルをもとにもどすと、艇を離れて警備位置に帰る。航走管制の機構じたいは前と変わらず完全に作動《さどう》するが、しかし、指針をどのように動かしても内部の機構には、もはやなんの作用も及ぼさない。そして航走の目的地は、この奴隷がセットした地点に固定されてしまって変更不能なのである。
やがてカーソリスが数人の貴族に囲まれて姿を現わした。艇を警備している奴隷にはちらりと目をやっただけであったが、薄い残忍そうなくちびると右頬の長い傷あとを見て、なにやら不快な思い出が心の片隅でよみがえるような気がした。家令《かれい》のサラン・タルのやつ、どこでこんな奴隷を見つけてきたのだろう、とふといぶかったが、その考えはすぐに頭から消えて、貴族たちと談笑をつづけた。しかし、それはうわべだけのことで、心の奥には冷たい不安の念がひそんでいた。プタースのスビア姫が、どのような非常事態に直面しているのか、彼には見当がつかなかったからである。
まず第一に心に浮かぶのは、当然、デュサールのアストックが王女をかどわかしたのではないか、という疑いである。しかし王女|失踪《しっそう》の知らせとほとんど時を同じうして、デュサールからはアストック王子の帰国を祝う歓迎式典の報がとどいたのだ。
スビアがさらわれたその同じ晩にアストックがデュサールに帰り着いているとすれば、アストックの仕業《しわざ》ではないということになるが、しかし……
カーソリスは愛艇《あいてい》に乗りこんだ。貴族たちと軽口を叩きながらダイヤルの指針をプタースの首都の緯度経度に合わせる。
別れの挨拶とともにカーソリスは推進光線のボタンを押した。艇は軽々と空中に浮きあがった。第二のボタンを押したのに応えてエンジンが唸《うな》りをあげる。レバーを引く。プロペラが回転する。ヘリウムの王子カーソリスは二つの月と百万の星屑《ほしくず》のきらめく華麗な火星の夜空のなかに飛び去った。艇が走り出すと、すぐカーソリスは絹と毛皮の寝具にくるまって狭いデッキの上にからだをのばした。
しかし目をとじても、いっこうに眠れない。
思いは千々《ちぢ》に乱れて眠気をよせつけないのだ。スビアにクーラン・ティスを愛しているのかときいたとき、彼女はただ、婚約のきまったお方です、とだけしか答えなかった。その言葉は、カーソリスを愛していると、なかば告白しているようにもとれるのだ。
しかし考え直してみると、別なふうにも解釈できる。むろん、ただ婚約があるとしか認めなかったのは、クーラン・ティスを愛してはいないという意味なのだろう。とすると、それは別の男を愛しているということにもなる。
しかしその男がカーソリスだという証拠がどこにある?
思えば思うほど王女の言葉にも素振《そぶり》にも、そのような証拠は一つもなかったという気がしてくる。いや、自分を愛してなどいないのだ。ほかに意中のひとがあるのだ。誘拐されたのではなくて――いそいそと恋人と手に手をとって逃げたのだ。
絶望と憤怒《ふんぬ》が入れ代わり立ち代わりカーソリスをさいなんだ。そのあげく、精神的に消耗しきって眠りにおちた。
突如として明けそめる黎明《れいめい》のなかで、カーソリスはまだ昏々《こんこん》と眠っていた。艇は、広漠《こうばく》たる黄色の大平原の上空を驀進《ばくしん》していた――大昔に水の干あがった火星の海底を。
遠くに低く丘陵地《きゅうりょうち》が横たわっている。艇はまっすぐにそちらをさして飛んで行く。かつては大海原《おおうなばら》の中につき出ていた巨大な岬であった山の背が彎曲して平原にのび、忘れ去られた都市の滅び去った港を囲繞《いにょう》している。そして荒れはてた埠頭《ふとう》につづいて、廃墟と化した古代都市の壮大な建物が折り重なってそびえている。
家々の大理石の壁にうがたれた数知れぬ暗い窓が、うつろに、陰気に、盲目《もうもく》の目を見開いていた。荒涼たる廃墟全体が、野ざらしの頭蓋骨の山かと見まがうような様相を呈している。家々の窓はその眼窩《がんか》であり、戸口が薄笑いを浮かべたその口である。
この廃墟の都にさしかかると飛行艇は速度を落とした――ここはプタースではないのに。
その中央広場の上空で艇は停止し、ゆるやかに下降した。地上一〇〇メートルのところまで降りて空中に静止した。ベルが鳴ってカーソリスの眠りを破った。
カーソリスははね起きて、眼下に横たわるはずのプタースの繁華な首都をさがした。パトロール艇もすでにかたわらに来ているはずである。
見わたして彼は愕然とした。巨大な都市の上に来ているが、これはプタースではない。街路に行きかう群衆の姿はなく、家々の屋上はしらじらと荒れはてて住むひとの気配《けはい》もない。冷たい大理石とつややかなアーサイト石に色どりと生気をそえる豪奢《ごうしゃ》な絹織物もなければ高価な毛皮もない。
誰か、と誰何《すいか》するはずのパトロール艇の姿も近くに見えない。あるのはただ、むなしく静まり返った大気につつまれて、むなしく静まり返る巨大な廃都があるばかりである。
これはどうしたことなのか?
カーソリスは方位盤《ダイヤル》を調べた。指針はたしかにプタースの位置に合わせてある。彼の才能を傾けて管制した装置が狂ったのか? そんなことは信じられない。
急いで鍵をあてがってダイヤルを開いた。真相は、すくなくとも真相の一部は、ひと目でわかった。指針の動きを装置の中枢《ちゅうすう》に伝える鋼鉄のピンが切断されているのだ。
何者の仕業か? そしてその目的は?
おぼろげな推測さえもつかなかった。とにかく問題は現在位置を知ることである。そして、あらためてプタースへの旅をつづけるのだ。
自分がプタースに着くのを遅らせようと誰かがはかったのなら、その企みはまんまと成功したわけだ。カーソリスは第一のダイヤルが全然セットされていないことを知って第二のダイヤルを開いた。
こちらも連動ピンが切られていたが、内部の装置は西半球のある地点にセットされている。どうやらここはヘリウムの南西に当たり、双子都市から相当離れたところらしい。カーソリスがそのおおよその見当をつけたとき、突然、下方から女の悲鳴が聞こえてきた。
身をのり出して広場を見おろすと、赤色人の女らしい人影が、このあたりにはびこる緑色人戦士に引きずられて行くところだ。
カーソリスはそれ以上ためらわずに急降下の操作をした。艇は石のように大地にむかって落ちて行く。
かつては緋色《ひいろ》の芝生だったのが黄色く変わった広場の一隅《いちぐう》に、一頭の馬《ソート》が苔《こけ》をはんでいた。緑色人はそちらへ女を引きさらって行く。すると同時に、近くのアーサイト石の宮殿から十数人の赤色人戦士が剣を閃《ひらめ》かし、口々に罵《ののし》りながら飛び出してきた。
女の顔が舞い降りる飛行艇をふりむいた。ひと目でカーソリスは誰だかわかった。プタースの王女、スビア!
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四 緑色人のとりこ
プタースの王宮から王女を盗み出した怪飛行艇は、朝になってもまだ飛びつづけていた。王女は、一味《いちみ》の身なりが前の晩とはちがっていることに気がついた。
彼らはもはやデュサール戦士の装備ではなくて、ヘリウムの王子の紋章のきらめく飾りを身につけていたのである。
王女は希望が湧くのをおぼえた。カーソリスの部下なら、よもや危害を加えるようなことはあるまい。
王女は操縦席についている戦士に声をかけた。
「昨夜の身なりはデュサール仕立てだったのに、きょうはヘリウムの紋章をつけている。どうしてです?」
戦士はふりむいてにやりと笑った。
「ヘリウムの王子さまは阿呆《あほう》じゃありませんからね」
小さなキャビンから将校が出てきて、囚人に口をきいてはならん、と叱《しか》った。この将校は、なにをきいても答えてくれない。
旅のあいだ王女は、なんの危害も受けなかった。そして一味の正体も意図もまったく知らされないままに目的地に連れて行かれた。
かつては古代の商船隊が逆巻く波濤《はとう》をけって往来した大洋であったが、いまは黄色にわびしく涸《か》れあがった荒野をこえて飛行艇は飛んだ。そして水の涸れた海辺に点在する廃墟の都の一つに着くや、その広場にゆっくりと着地した。
スビアはこのような場所は初めてではなかった。幼いころ、古い昔からの慣《なら》わしの長い最後の巡礼の旅に出て、イス河をたずねて遠い国々をへめぐったことがある。そのおり、かつてコーラスのロスト海を満々とたたえたドール谷にむかう途中、古代火星の壮大さと栄光の名残りをいまにとどめるこれらの廃墟をいくつも見たのだった。
そしてまた、サーク族の皇帝《ジェダック》タルス・タルカスとともにホーリー・サーンの神殿から脱出したときも、これらの廃墟の都市と、そこに巣食う無気味な大白猿《だいはくえん》を見たのだった。
これらの廃墟の多くが、今日、緑色の放浪の蛮族どもに利用されていることもスビアは知っていた。赤色人がそれらの廃都を敬遠しているのは、廃都が例外なしに水のない広大な地域に位置していて、火星の支配人種たる赤色人の定住《ていじゅう》には適していないためである。
しからば、なぜこんなところへ連れてきたのか? 答えは一つしかない。人里はなれた場所でしかやれぬことをなにか企んでいるのだ。スビアは身の危うさに慄然《りつぜん》となった。
二日のあいだ、一味は荒れはててはいるが往時《おうじ》の栄華《えいが》の面影《おもかげ》を残す宏壮《こうそう》な宮殿に王女を監禁した。
三日目の夜の白むころ、スビアは一味のうちのふたりがひそひそ話しあう声に目をさました。
「到着は夜明けのはずです」とひとりがいっていた。
「ぼつぼつ広場に連れ出せ。王女の姿が見えなければ着陸するまい。妙なところに来たことがわかれば、さっさとひき返すだろうからな――ここが王子殿下の計画のちょっと弱いところだな」
「ほかに方法はありませんよ」もうひとりが答えた。「ふたりとも捕えることができれば大手柄ですが、男を地上におびきよせるのがうまくいかなかったところで、もともとです。これまでにわれわれが仕遂《しと》げたことだけでもたいしたものですよ」
しゃべっていた男は、ものすごいスピードで火星の天空を回るサリア衛星が突然、投げかけた月明のせいで、こちらを見ているスビアの目に気づいた。
彼は急いで相手の男に口をきくなと合図し、王女のほうに近づくと起きるように命じた。そして暗い広場の中央に王女を連れ出した。
「呼びにくるまでここに立っていてもらいます」男はいった。「われわれはむこうから見張っている。逃げようなどとなさると、ただではすみませんぞ。死ぬより辛い目にあいます。なにしろ王子殿下のご命令ですからな」
男は宮殿のほうへもどって行った。スビアは亡霊の街の恐ろしい闇のなかにひとりとり残された。事実、多くの火星人が、これらの廃墟は亡霊のすみかであると信じているのだ。ホーリー・サーンたちが千年の天寿《てんじゅ》をまっとうせずに死ぬと、魂が大白猿のからだにのり移ることがある、という迷信が古来から流布《るふ》していて、それらを信じるものが多かったのである。
しかしスビアにとっては、亡霊がのり移っていようといまいと、凶暴な大白猿に襲われる危険があるというだけで充分であった。イサス神殿からジョン・カーターの手で救出される前に、スビアはサーンたちからそのような無気味な霊魂移転の話を吹きこまれていたのだが、いまでは少しも信じていない。しかし、あたりをうろつく凶暴な野獣の目にとまったが最後、どのような恐ろしい運命におちいるかはよくわかっていた。
あれは?
気のせいではない。広場のむこう側の街路の入口の石柱の陰でひそかに動くものがある!
トルクワス族緑色人の王《ジェド》、サル・バンは、古都アアンソールの廃墟をさして干あがった海底の黄色の苔の原野に馬《ソート》を駆っていた。
彼はこの夜、遠征から急ぎひきあげてくるところだった。トルクワス族はたえず近隣の緑色人と戦っており、サル・バンは、長駆《ちょうく》、敵の孵化器を破壊してきたのだ。
彼の巨大な馬《ソート》はまだ疲れを見せていなかったが、このへんで餌《えさ》をやったほうがよいと考え、廃墟の広場に行くことにした。広場は涸れ海の底よりは地味が肥え、また雲一つない火星の日照りから部分的にさえぎられているため、黄色の苔が深く茂っている。
見たところ干乾《ひから》びているような黄苔の細い茎には、馬《ソート》の巨体の必要に応じるに足る水分が含まれている。ソートという獣は苔を食わなくとも数日はもつのだが、苔さえあれば水を飲まなくとも何カ月も平気なのだ。
アアンソールの波止場から広場へ通じる大通りを音もなく乗り入れてくるサル・バンの姿は、さながら悪夢から抜け出た幽鬼《ゆうき》である。乗り手が化け物なら乗り物も化け物で、苔に覆われた大通りを踏む、馬《ソート》の爪のない、ぽってりとした肉趾《にくし》は、猫のように音をたてない。
サル・バンは典型的な緑色人であった。身長はゆうに五メートルに達する。月光を浴びて、緑色の皮膚がてらてら光り、重いよろいにちりばめた宝石と隆々《りゅうりゅう》たる四本の腕にはめた金輪がきらめき、下顎《したあご》から曲がってつき出たもの凄い牙が白く光っている。
乗馬の脇腹には銃身の長いラジウム・ライフルと、金属の穂先のついた十二メートルの槍《やり》をつけ、自分の革帯《かわおび》には長剣や短剣や、あいくちなどをさげていた。
サル・バンのとび出た目とアンテナ状の耳は油断なく、あちこちとむきを変えていた。まだここは敵国なのだ。それに廃墟の中では、いつ大白猿に襲われるかわかったものではない。この大白猿は、ジョン・カーターにいわせると命《いのち》知らずの干あがった海底の蛮族どもの胸に恐怖の影らしいものを呼びおこすことのできる唯一の生物であった。
広場に近づくとサル・バンは突然、馬をとめた。細長い円筒状《えんとうじょう》の彼の耳が緊張したように前向きにピンと立つ。聞きなれぬ物音がする。人声だ! トルクワス以外の場所で人声をきくということは敵がいるということである。剽悍《ひょうかん》なトルクワス族にとって、この広い火星に住むものは同族でなければことごとく敵であった。
サル・バンは馬《ソート》をおりた。古都の波止場通りの石柱の影づたいに広場に近づく。そのすぐ後から、青灰色の馬《ソート》が、白い腹を胴の下にかげらせ、鮮黄色の脚に黄色い苔を踏みしめ、犬のようにおとなしくついて行く。
サル・バンは広場の中央に赤色人の女がいるのを見つけた。赤色人戦士となにか話しているが、戦士は女を残してむこう側の宮殿のほうへ歩いて行く。
サル・バンは赤色人戦士が暗い玄関口に消えて行くまで待った。こいつはさらって行く値打ちがある! 先祖代々の仇敵《きゅうてき》たる赤色人の女は、めったに緑色人の手に落ちないのだ。サル・バンは薄いくちびるをなめまわした。
プタースの王女スビアは、大通りの入口の石柱のかげで、なにやら動くものを見つめていた。疑心暗鬼《ぎしんあんき》のたぐいでありますようにと願った。
しかし、ちがう! 今度は、はっきりと動いた。動き出してアーサイト石の柱の影から出てきた。
不意に朝日がさしこんできた。スビアはおののいた。姿を現わしたのは雲のつくような緑色人の戦士ではないか!
緑色人は飛ぶように近づいてきた。彼女は悲鳴をあげて、逃げようとした。しかし宮殿のほうへ走ろうとするひまもなく、緑色人の馬鹿でかい手に腕をつかまれた。ふり回され、半ばひきずられて、広場にむかって、ゆっくり苔を食いながら進んでいる馬《ソート》のほうへ拉致《らち》された。
その瞬間、スビアは頭上の物音のほうをふりむいた。飛行機が下りてくる。舷側《げんそく》から誰か頭と肩をのり出しているが、影になっていて顔だちまでは見えない。
背後からは、彼女を王宮からさらってきた赤色人たちの怒号《どごう》が聞こえた。彼らは自分たちがかっぱらってきたものをかっぱらおうとする不届者《ふとどきもの》を必死に追ってくる。
サル・バンは乗馬にたどりつくと長いラジウム・ライフルをひっつこみ、ふり向きざまに三発射った。
火星緑色人が射撃にたけていることは無気味なほどである。三人の赤色人戦士は走りながら、ばたばたと倒れた。三発の弾はあやまたず、おのおのに致命傷をあたえた。
残りの赤色人は立ち止った。王女を傷つけるおそれがあるので射ち返すことができない。
サル・バンはスビアを抱いて馬《ソート》にとび乗った。勝ち誇った蛮声《ばんせい》をひと声《こえ》はりあげると、アアンソールの荒廃した建物のあいだの暗い峡谷《きょうこく》のような大通りを駆け去って行く。
カーソリスは着陸するが早いか、八本足を使って急行列車のようなスピードで走り去るソートを追おうとデッキを蹴ってとびおりた。しかし生き残ったデュサールの男たちは、この貴重な獲物を逃がすつもりはさらさらなかった。
彼らは王女を奪われてしまった。アストックに対して、なんとも言いわけのしようがない。しかしヘリウムの王子をその代わりに連れて行けば、あるいは寛大《かんだい》な処置をとってもらえるかもしれない。
そこで残った三人は長剣をふりかざしてカーソリスに襲いかかり、降伏せよと命じた。それは火星の空をかけめぐるサリア衛星に、止まれと命ずるに等しい無謀な話だ。相手は火星大元帥を父とし、世に類《たぐい》なきその妃《きさき》デジャー・ソリスを母として生まれたカーソリスなのだ。
デッキからとび降りたとき、カーソリスの長剣はすでに鞘《さや》ばしっていた。デュサール戦士たちの動きを見てとるや、ジョン・カーターの流儀そのままに、殺到する三人に猛然と立ちむかった。
カーソリスの剣さばきのすばやさ、半ば地球人であるその筋肉のたくましさと敏捷《びんしょう》さ。敵のひとりは、わずかに一撃を試みただけで黄色い苔を朱《あけ》に染めて倒れていた。
残ったふたりは同時にカーソリスに打ってかかった。三本の長剣がチャリンと鳴って火花を散らす。眠りを破られた大白猿どもが廃屋《はいおく》の窓べにはい寄って眼下の血戦を見おろした。
三たびカーソリスはかすり傷をうけた。血が顔に滴《したた》り、目に流れ入り、広い胸を染めた。左手をあげて目に垂れる血糊《ちのり》を押しぬぐい、父親ゆずりの不敵な微笑をくちびるにうかべると勇を鼓《こ》して突進した。
一撃で、彼の長剣は敵のひとりの首を切り落とした。残るひとりは死の切先《きっさき》から跳《と》びずさり、くるっと背をむけて宮殿のほうへ逃げ出した。
カーソリスは追跡しようとはしなかった。この外国人どもは、カーソリスの部下だけに許されている紋章を偽造して着用しており、逃げた男も当然その報《むく》いをうけるべきなのであるが、いまはそれ以上に気にかかることがある。
すばやくふりむいて飛行艇に駆け寄ると、カーソリスはサル・バンを追って広場を飛びたった。
逃げた赤色人戦士は宮殿の入口にもどっていたが、カーソリスが追跡にむかうのを見るや、王女を監視中に壁にたてかけておいたライフルの一挺を鷲《わし》づかみにした。
赤色人に射撃の名手はほとんどいない。剣が、かれらの得意の武器なのだ。だからデュサール人が銃の狙いを定め、銃床《じゅうしょう》のボタンを押して発射した一弾がある程度の効果をあげたのは、熟練よりは偶然のおかげであった。
弾は艇側をかすっただけであったが、そのために半透明の弾の被膜《ひまく》が割れ、日光が弾頭《だんとう》の起爆薬を刺激した。鋭い爆発音が起こった。カーソリスは艇がぐらっと揺れるのを感じた。と同時にエンジンが止まる。
艇は惰性《だせい》で、廃都を越えたむこうの水の涸れた海底のほうへかしいで行った。
広場の男はさらに数発射ったが一発も命中せず、やがてゆらぎながら滑空《かっくう》する飛行艇は巨大な塔のかげに見えなくなった。
カーソリスは、はるか前方の大平原を緑色人が馬《ソート》を駆ってスビアを連れ去って行くのをみとめた。緑色人は西北にむかっていた。そこには赤色人たちにはほとんど知られていない山岳地帯が横たわっている。
着陸するとカーソリスは艇の損傷を調べた。浮揚《ふよう》タンクに穴があいている。しかし、くわしく調べてみるとエンジン自体は無傷なことがわかった。
弾片が変速装置をひどく壊していた。修理工場に入れなければ元通りにするのは不可能である。しかしカーソリスはなんとか応急修理をほどこし、低速で一応は飛べるまでにこぎつけた。艇はふたたび飛びたったが、海底の黄色い苔の上を八本のたくましい脚で疾駆《しっく》する馬《ソート》に追いつくだけの速度はとうてい出なかった。
ヘリウムの王子は艇ののろくささにじりじりした。それでも、損傷がこの程度ですんで、とにかく歩くよりは早く行けるのがありがたかった。
しかしこのささやかな気休めも、やがてあやしくなってきた。艇は左舷《さげん》に傾きながら前にのめりはじめた。浮揚タンクに受けた損傷は思ったよりひどかったらしい。
その日いっぱい、カーソリスはふらつく艇をあやしながら静かな空をえんえんと飛びつづけた。船首はさがるいっぽうで、左舷への傾斜はいよいよ危険な状態になり、日の暮れるころにはほとんど逆立ちの形になってしまった。カーソリスは転落しないようにデッキの太い環《かん》に装具の革帯を縛りつけた。
いまや南西から吹いてくる弱い追い風を受けて、ゆっくり漂っているだけであった。その風も、日没とともにやんでしまった。カーソリスは柔らかい苔に覆われた地上に、そっと艇を着陸させた。
はるか前方に山なみがぼんやりもりあがって見える。最後に見たとき、緑色人はこの山地をさして逃げていた。カーソリスは、ジョン・カーターから受けついだ不撓不屈《ふとうふくつ》の精神をふるい起こして、断固、徒歩で追跡をつづけることを決意した。
夜を徹《てっ》してカーソリスは歩きつづけ、次の日の明けがたちかく、トルクワス山地の天険《てんけん》の入口を扼《やく》する、けわしい岩山のふもとに行きついた。
岩山の断崖は目の前に立ちはだかるようにそそり立ち、このおそるべき障壁《しょうへき》を通り抜ける道はどこにもないようだった。しかし、岩また岩のこのもの凄い山岳地帯のどこかに、緑色人はカーソリスの恋人を連れ去ったのだ。
これまで歩いてきた水の涸《か》れた海底は弾力性のある苔に覆われていて、足跡をたどることはできなかった。馬《ソート》が通っても、その柔軟な肉趾《にくし》に踏みつけられた苔はしなやかにまた盛りあがって、なんの跡も残さないのである。
しかしこの岩山のふもとのあたりは海底のような黄一色の苔の草原ではなく、岩の塊りや黒い土や野の草花がここかしこに見えて単調さを破っている。道をさがす手がかりがなにか見つかるかもしれない、とカーソリスは思った。
だがいくら歩きまわって調べても、大絶壁を越す通路の秘密はさっぱり解けなかった。
その日も暮れかかったころ、カーソリスは左方数百メートルの岩のあいだを行く、すべすべした黄褐色の野獣の背中を目ざとく見つけた。
急いで岩陰にかがみこんで、その動物に目を凝《こ》らした。それは一頭の巨大なバンス、すなわちこの老いた惑星の荒涼たる山地を徘徊《はいかい》する獰猛《どうもう》な火星ライオンであった。
バンスは鼻づらを地面に寄せて歩いている。獲物の臭跡《しゅうせき》を追っているのにちがいない。
見守るうちにカーソリスは胸が躍った。きっとこれが間道《かんどう》の謎を解く鍵なのだ。この飢えた肉食獣は好物の人間のにおいを嗅ぎつけて、サル・バンとスビアを追っているところではないのか!
用心しいしいカーソリスは人食いバンスの後を追った。岩山のふもとをバンスは見えない足跡を嗅ぎながら進み、ときどき、獲物を追うときによくやるように低い唸り声をあげる。ところが、ものの五分と追わぬうちに、バンスの姿は宙《ちゅう》に消えたようにかき失《う》せてしまった。
あっけにとられてカーソリスは棒立ちになった。一度は緑色人にまかれてしまったが、二度とまかれてなるものか。彼は巨獣の姿が最後に見えた場所へ韋駄天《いだてん》走りにかけつけた。
前方に立ちはだかる大絶壁を見わたしてもバンスの巨体がはいりこめそうな裂け目は一つもない。だがバンスを見失ったあたりに一枚の平たい岩が立っていた。大きさはせいぜい十人乗りの飛行艇のデッキくらいで、高さは彼の背丈《せたけ》の倍はない。
この陰にバンスはひそんでいるのではあるまいか? あとから人間がつけてくるのに気がついて、飛んで火に入る夏の虫とばかりに待ち伏せしているのではなかろうか?
カーソリスは長剣の鞘《さや》をはらって用心深く岩鼻《いわはな》をまわった。バンスはいなかった。しかし、二十頭のバンスよりも、はるかに驚くべきものがそこにあった。
洞穴がぽっかり口をあけて、地中に下り坂になった道が通じているのである。この中に姿を消したのに相違ない。バンスの巣なのだろうか? この中には一頭ではなしに、何十頭ものバンスがひそんでいるのであろうか?
よくわからないが、いまはそんなことにかまっていられなかった。とにかく後を追わなくてはならないということしか念頭にない。さっきのバンスは緑色人とそのとりこの後を追って、この無気味な洞穴の中にはいって行ったのにちがいない。そうとすれば、自分もその後を追って行くまでだ。恋人のために喜んで一命をなげうつ覚悟はできていた。
一瞬のためらいもなく、しかし無鉄砲は起こさず、カーソリスは剣を構え、暗い足もとに気をくばりながら洞穴におりて行った。進むにつれて洞穴の中はいよいよ暗く、やがてあやめもわかぬ真暗闇となった。
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五 白い種族
広い、平らな下り坂を進んで行くうちに、これは初め思ったようなただの洞穴ではなく、トンネルであることがわかってきた。
前方の闇からは、バンスの低い唸り声が聞こえてくる。ところが、やがてうしろからも同じような無気味な唸り声が聞こえてくる。別のバンスが自分のあとをつけてはいってきたのだ!
どうにも厄介《やっかい》なことになったぞ。この暗さでは、こちらは鼻をつままれてもわからないのに、バンスという動物は、まったくの暗黒の中でも目が見えるという話だ。耳にはいるものは、前後から陰《いん》にこもってひびいてくる血に飢えた唸り声だけ。
岩陰の入口は大絶壁からかなり離れていたが、中のトンネルは、彼が通路をさがしあぐねた岩の壁のほうにまっすぐに通じている。道はやがて平坦《へいたん》になり、しばらく行くうちに今度はゆるやかな上り坂になった。
背後のバンスが、しだいに迫ってきた。カーソリスは前方のバンスのほうに追いつめられて行った。いまにどちらかのバンスと、あるいは両方と一戦を交えねばなるまい。カーソリスは剣の柄をぐっと握りなおした。
背後から荒々しい息づかいが聞こえてきた。いよいよのっぴきならない。
トンネルが岩山の下をくぐって大絶壁のむこう側に通じているらしいということは、とっくに察しがついていた。前後いずれかのバンスととり組む前に月あかりの中に出たいものだと思っていたが、それもいまや望み薄だ。トンネルにはいったとき、すでに日は傾いていたのだから、これだけ長く歩けば、いまごろ外はもうとっぷりと暮れているだろう。
カーソリスはふり返った。およそ十歩のむこうの闇の中に、二つの目がらんらんと燃えている。こちらと目が合ったとたんに、バンスは凶暴な唸り声をあげて襲いかかってきた。
血に飢えた牙をむいて猛然と躍りかかる巨大な怪物に、暗黒の中で自若《じじゃく》として立ちむかうには鋼鉄のような胆力《たんりょく》を必要とする。だがヘリウムの王子カーソリスの胆力は、まさにこのようなものであった。
目標はバンスの目だ。父親ゆずりの剣さばきで、燃えるような一|対《つい》の火の玉の片方に一撃を加えざま、さっと跳びのいた。苦痛と憤怒《ふんぬ》の叫びをあげて、傷ついたバンスは爪で空を切り裂きながら勢いあまって飛び越えて行った。むきをかえて二度目の猛襲《もうしゅう》。だが猛《たけ》り狂った火の玉は一つになっている。
再度、鋭利な切先《きっさき》が燃える標的《まと》を貫いた。再度、手負いのバンスの耳をつんざく咆哮《ほうこう》が岩壁にこだました。
バンスはまたひき返してくる気配だが、今度はねらいをつける目標がない。岩の床を蹴って走り寄る足音が近づいてくる。三度目の攻撃を覚悟したが、カーソリスの目にはなにも見えない。
しかし敵の姿が見えないのはこちらだけではない。むこうにも、こちらの姿が見えないのだ。
一足とびにカーソリスはトンネルの中央とおぼしき足場に立って、バンスの胸の高さに見当をつけて剣を構えた。それ以上の策《さく》はなかった。頭上に躍りかかったときに、いちかばちか心臓への一撃を試みるつもりだった。
あっという間の出来事だったので、カーソリスには、バンスの巨体がものすごい勢いで自分を飛び越して行ったことが、実感としてはわからなかった。こちらの位置が通路の中心をはずれていたのか盲《めくら》のバンスの計算ちがいか、巨獣は三〇センチわきの空につかみかかり獲物が逃げたと思ったのか、そのまままっしぐらにトンネルを突進して行った。
カーソリスもそのあとにつづいた。間《ま》もなく長いトンネルの出口の月あかりが見えてきたので、彼はほっとした。
眼前には、切り立った断崖に囲まれた平地が展開している。あちこちに巨木の木立ちのあるのが、火星の大運河からこれほど離れた場所で見るにしては思いがけない眺めであった。地面は緋色の芝に覆われていて、いたるところ野の花がその数も知れずあでやかに咲いている。
火星の二つの月の華麗な光を浴びて、あたりはえもいえぬ美しさのうちに一抹《いちまつ》の妖気《ようき》をたたえて輝きわたっていた。
しかしカーソリスは、眼下に広がる絶景に見とれてはいなかった。その目は、殺されたばかりの一頭の馬《ソート》、そしてそのそばにいる一頭のバンスの上にそそがれていた。
そのバンスは黄褐色のたてがみを逆立てて、もう一頭のバンスが苦痛と憎悪と憤怒の叫びをあげながら盲《めくら》めっぽうに跳びまわっているさまをじっと見すえていた。
二匹目のバンスは洞穴の戦いで眼をやられたやつにちがいない、とカーソリスはとっさに見てとった。しかし、彼の注意をひいたのは、どちらのバンスでもなく屠《ほふ》られている馬《ソート》であった。
その巨大な火星の乗馬の背にはまだ馬具がついていた。緑色人がスビアをさらって飛ばしていたやつにちがいないとカーソリスは確信した。
しかし乗り手とそのとりこは、どこにいるのだろう? さては悲運に見舞われたのか、とヘリウムの王子は暗澹《あんたん》たる気持になった。
人間の肉は火星ライオンの大好物だが、この猛獣は図体《ずうたい》が大きく筋肉が発達しているだけに、ちょっとやそっとの肉ではからだがもたない。
人間のふたりばかりをたいらげたところで、いよいよ食い気《け》づいてくるくらいのものであろう。サル・バンとスビアがこのバンスの餌食《えじき》になったということは充分考えられる。ひょっとすると、歯当たりのいいご馳走から先に片づけて、これから、おもむろに馬《ソート》にとりかかろうとしているところではないのか。
猛《たけ》り狂った盲のバンスは、やみくもに突進して反転しているうちに、仲間の屠《ほふ》った獲物の風下にさしかかった。そよ風が新鮮な血の臭いをその鼻さきに運んできた。
もう盲めっぽうではなかった。尾をのばし、口に泡《あわ》を立て、矢のように、馬《ソート》と、その青灰色の背にのしかかっているバンスに襲いかかった。
盲のバンスが二十歩の距離まで迫ったとき、もう一頭は、一躍、恐ろしい挑戦の怒号《どごう》とともに迎え撃った。
そこにくりひろげられた凄惨《せいさん》な死闘には、さすがに血の気の多い王子も圧倒された。猛然と相撃つ鋭い爪、耳を聾《ろう》する咆哮《ほうこう》、血みどろになっていよいよ荒れ狂う凶暴な野性、カーソリスはまるで魅入《みい》られたように動けなくなった。戦いが終わり、頭も肩もずたずたに裂かれた二頭のバンスがたがいのからだに噛《か》みついたまま息たえたとき、カーソリスは、金縛《かなしば》りの魔力から抜け出すのに気力をふりしぼらなくてはならないしまつだった。
馬《ソート》の死体に走り寄ってカーソリスは、この獣と運命をともにしたかと危ぶまれるスビアの痕跡《こんせき》をさがした。しかしその危惧《きぐ》の念を裏書きするようなものは、なにも見当たらない。
いくらか気分が軽くなったカーソリスは谷の探検に出発した。ところが十歩と行かぬうちに、緋色の芝の上にきらめいている装身具が目についた。
拾いあげてみると、一目《ひとめ》で女の髪飾りであることがわかった。そしてその上に描かれているのはプタース王家の紋章ではないか。だが不吉にも、その髪飾りには、まだ乾ききらぬ血がこびりついている。
その血が意味する惨劇《さんげき》を想像して、カーソリスは息がとまる思いをした。しかし王女が死んだとはまだ信じることができなかった。いや、信じようとはしなかったのだ。あのような美しいひとが、このようないまわしい最期をとげるなどということはあり得ない。第一、あの輝かしいスビア姫がいつかは死ぬなどということすらも信じられないカーソリスなのである。
カーソリスの装具にはすでに、ちりばめた宝石が美しく輝いていたが、広い胸にかけた革帯の上、誠実な心臓の鼓動しているそのあたりに、きらめく髪飾りをしっかりと取りつけた。これはスビアが身につけていた品であり、そのゆえにこそ、かけがえもなく貴い品なのだ。
それから未知の谷間の中心部をさして歩き出した。
巨木の木立ちから木立ちへとカーソリスは歩きつづけていた。しだいに視界をさえぎられて見通しがきかなくなってくる。ときおり、木《こ》の間《ま》がくれに、平地の四方を囲んでいる高い絶壁が見える。その岩肌《いわはだ》が二つの月に照らされて、くっきりと浮いて見えたが、そこまでの距離はかなり遠く、この谷間の奥行きが、きわめて深いということが彼にはわかっていた。
カーソリスは夜半まで探索《たんさく》をつづけた。不意に馬《ソート》のかん高いいななきを聞きつけてふと足をとめる。
この癇癪《かんしゃく》の強い動物の声をたよりに木《こ》の間を抜けて行くと、森がきれて、その先は平原になっていた。平原の中央には城壁をめぐらした壮大な都市があって、つややかに丸屋根《ドーム》が輝き、色あざやかな塔がそびえている。
城壁のまわりには緑色人の大部隊が野営の陣を張っていた。カーソリスは仔細《しさい》に都市の様子を観察して、これは絶滅した廃墟の都ではないことを見てとった。
では、いったい、どういう都市なのだ? 火星のこのあたりはトルクワス族緑色人の支配する辺境《へんきょう》である。その奥地にはいりこんだ赤色人で、生きてふたたび文明の地を踏んだものはひとりもいないと聞いている。
トルクワス族は強力な大型銃の製作に成功しており、それを操《あやつ》る手練はおそるべきものがある。そのため、これまで数度にわたり近隣の赤色人諸国が戦闘艦隊を派遣して決行した探検の試みも、ことごとく撃退されてしまっているのである。
いまや自分がトルクワス族の領土にはいりこんでいることは、はっきりしていた。しかしトルクワスの領域に、このようなすばらしい都市があるとは夢にも知らなかった。火星史の文献《ぶんけん》のなかにも、このような都市の存在を暗示した記述さえない。トルクワス族をはじめとする緑色人が、この地方に点在する古代都市の廃墟に根城《ねじろ》をおいていることはよく知られている。しかし、太陽熱で子供をかえす孵化場のちゃちな石垣のほかに、なにか建造物に類するものを緑色人が作ったという話は聞いたことがない。
トルクワス族は城壁から五〇〇メートルほど離れて、都市を包囲するように円形の野営を張っている。野営地と城壁のあいだには胸壁のようなものもなく、そのほか城内からの銃砲撃を防ぐような備えはなにもないようであった。しかし明け初める日の光をあびて、高い城壁とそのむこうの家々の屋上に、たくさんの人間が動きまわるのが、カーソリスの目にはっきり見えてきた。
彼らはどうやら蛮族《ばんぞく》ではないらしいが、距離が遠いため、はたして赤色人なのかどうかは判然としない。
日の出とともに緑色人戦士たちは、城壁の上に小さく見える人影にむかって発砲を開始した。しかし、驚いたことに城内からは撃ち返してこない。城壁の連中は、緑色人の心にくいほど的確な射撃を避《さ》けてひっこんでしまい、ひとの姿はまったく見えなくなった。
カーソリスは森のはずれの木立ちに身をかくしながら、攻囲陣の背後をまわって進んで行った。情況は絶望的であったが、まだ希望を捨ててはいなかった。プタースの王女の姿がどこかに見えはしないかとさがしまわった。王女が死んだとは、まだどうしても信じられない。
カーソリスが蛮族に発見されずにすんだのは奇跡的であった。なにしろ馬《ソート》に跨《またが》った緑色人どもが、たえず森と野営地の間を往来しているのだ。その日一日じゅうカーソリスは、むなしく王女の捜索をつづけ、日暮れ近くには、都市の西の城門の正面にあたるところまで来ていた。
ここに陣どっているのが攻囲軍の本隊らしい。大きい壇《だん》のようなものが設けてあって、その上に大男の緑色人がすわっているのが見える。
それでは、これがトルクワス族の皇帝《ジェダック》、火星南西地方の残忍な怪物、悪名高きホルタン・グルなのだ。皇帝の座としてのみ、緑色人は行軍中あるいは野営中にこのような壇を設けるのだから。
なおもカーソリスが見ていると、ひとりの戦士が並《なみ》いるものをかきわけて皇帝の座に近づいて行く。よく見ると、ひとりの捕虜を引きずっている。蛮族の群れが割れてふたりに道をあけたので、カーソリスは捕虜の顔をかいま見ることができた。
彼は歓喜に胸を躍らせた。プタースの王女スビアはやっぱり生きていたのだ!
そのそばに駆けよりたい衝動をかろうじてこらえた。犬死してはならない。ここで蛮族の大軍の中に飛びこんだら、救える王女も救えなくなるだけのことだ。
王女は壇の上に引き立てられて行った。ホルタン・グルが王女になにやら話しかけている。その言葉も王女の返事も、カーソリスのところまでは聞こえない。しかし緑色の怪物は癇癪《かんしゃく》を起こしたらしい。いきなり王女に飛びかかると、金属の腕輪をはめた手をふるって残忍な一撃を顔に浴びせたのだ。
それを見て、王者の中の王者、火星大元帥ジョン・カーターの御曹司《おんぞうし》カーソリスは、怒りにわれを忘れた。修羅《しゅら》の巷《ちまた》に無数の敵を睥睨《へいげい》してきたジョン・カーターさながらに、カーソリスの眼前には血のように赤い霞がかかった。
奮い立つ闘魂にこたえて半ば地球人である彼の四肢《しし》が躍動し、恋人を殴打《おうだ》した緑色の怪物めざして飛鳥《ひちょう》のように突進した。
トルクワス族は森のほうを見ていなかった。全員の目が皇帝と捕虜のほうに釘づけになっていた。そして捕虜が釈放を要求したのに対し、鉄拳《てっけん》で答えるという気のきいた皇帝の応待ぶりに割れんばかりに喝采《かっさい》していた。
カーソリスが森から陣営までの空地を走り抜ける途中、城壁のむこうで妙なことが起こって、蛮族たちの注意は、さらにカーソリスからそらされることになった。
包囲された都市の中にそびえる高い塔に、ひとりの男が姿を現わした。男は天を仰いで幾度か鋭い叫び声をあげた。その無気味な、ふるえをおびた恐ろしい叫び声は、城壁を越え、攻囲軍の頭上を越え、森をこえて谷間の果てまで響きわたった。
一度、二度、三度と、身の毛のよだつような叫喚《きょうかん》は蛮族どもの耳を打った。それにこたえて、広い森のむこうのはるかかなたから、鋭い絶叫があがるのがはっきりと聞こえた。
それは手始めにすぎなかった。至るところから、次々に、同じような荒々しい叫びがあがり、耳をつんざいて響き合うその音に、この世が震動するかと思われるほどであった。
緑色人どもはそわそわと、しきりにあたりを見わたした。彼らは地球人の知るような恐怖は知らない。しかしこの異様な事態に直面しては、さすがに無神経な蛮族どももおちつきをなくしていた。
ホルタン・グルの陣営に直面する巨大な城門が突然開かれた。それには一瞥《いちべつ》をくれただけでカーソリスはひた走りに走っていたが、城門から出現したのは、これまでに彼が見たこともないような異様な軍勢であった。それはとび色の髪をふりみだし、楕円形の楯を構えた、背の高い弓兵《きゅうへい》の一隊であった。しかもその側面を守って数多くの火星ライオンが出撃してきた。
カーソリスは、あわてふためく蛮族どもの中に突入した。長剣をふるって奮戦するその姿は、いち早くそれと認めて驚きに見開かれたスビアの目には、ジョン・カーターそのひとかと映った。まさしくその戦いぶりは父親に生き写しであった。
口もとに浮かべた不敵な微笑までが同じであった。その腕の冴《さ》え! その絶妙の剣さばき、電光石火《でんこうせっか》の身のこなし!
城兵たちの突撃によって、野営地は上を下への大騒ぎとなっていた。けたたましく鳴き騒ぐ馬《ソート》、われがちにとび乗る緑色人戦士、敵兵の喉笛《のどぶえ》を襲うときを待ちかねて凶暴に唸《うな》るキャロットの群れ。
壇の近くにいたサル・バンといまひとりの緑色人が、まっさきにカーソリスに気づいた。王女奪回の戦いは、このふたりがまず相手だった。ほかのトルクワス族は城兵を迎え撃つべく夢中で飛び出して行く。
プタースの王女の奪回と彼女に加えられた殴打の復讐を同時になしとげんものと、カーソリスはサル・バンを撃退し、小癪《こしゃく》な赤色人とばかり斬りかかる新手の二、三人を血祭りにあげ、皇帝《ジェダック》の座に到達した。ホルタン・グルは、いままさに壇上から乗馬にとび移ろうとしている。
緑色人戦士は城門から出撃した弓兵隊と、そのかたわらに並ぶバンスの群れに心を奪われていた。――緑色人はキャロットを連れているが、バンスの殺傷力《さっしょうりょく》はそれとは比べものにならない。
カーソリスは壇上に躍りあがってスビアをかたわらに引きよせたが、皇帝が馬《ソート》に乗り移ろうとしているのを見るや、怒りの声をあげて一突きした。
緑色の皮膚を刺されたホルタン・グルは歯がみしてむき直ったが、ふたりの族長がしきりに出馬をせき立てていた。城内からの攻撃の思いもよらぬ激しさに、攻囲軍はいまや苦戦におちいろうとしていたのである。
とどまってカーソリスと一戦を交える暇はなかった。後で相手になってやると叫ぶや、ホルタン・グルは急速に前進してくる城兵どもを叩きつぶすべく馬《ソート》にとび乗って突撃した。ほかの戦士も先を争って皇帝の後にしたがい、スビアとカーソリスだけが壇上に取り残された。
両軍の間に激戦が展開された。白い肌の城兵たちは長弓《ちょうきゅう》と小さい戦斧《せんふ》で武装しているだけだったから、接近戦となれば騎馬の緑色人部隊の敵ではなかったが、遠くから射そそぐその鋭い矢なみは、緑色人のラジウム弾に勝るとも劣らぬ威力を発揮した。
弓兵にとっては不利な白兵戦《はくへいせん》も、その友軍、獰猛《どうもう》なバンス部隊にとってはそうではなかった。両軍の激突とともに数百頭のバンスはトルクワス軍に躍りこみ、馬上の緑色人を引きずり落とし、巨大な馬《ソート》そのものをも引き倒し、至るところに大恐慌《だいきょうこう》をまき起こした。
数においても、都市側は有利であった。ひとりの弓兵が倒れると、ただちに二十人もの新手が出現する。城門からくり出す弓兵の後続隊は、後から後からひきもきらない。
バンスの猛威《もうい》と弓兵隊の人海戦術の前に、さしものトルクワス族もじりじりと後退した。やがてカーソリスとスビアのいる壇が乱戦の中心となるまで戦線が後退してきた。
射ち合う矢弾《やだま》が、ふたりのどちらにも当たらなかったのは奇跡であった。戦場はなおも移動して、ついには戦線と城壁の中間にふたりが取り残される形となった。もう、あたりには、ふたりのほか、両軍の死傷者と、そして唸《うな》りながら餌をあさる軍規違反のバンスが二十頭ばかりうろついているだけ。
この戦闘でカーソリスにとって一番不思議だったのは、弓兵の比較的貧弱な飛び道具が恐るべき効果をあげている点であった。累々《るいるい》と横たわる緑色人に負傷者はひとりもなく、ことごとく戦死している。
弓兵の放つ矢に無駄矢は一本もなく、そして、かすり傷をうけただけでも敵はその場で息絶えているらしいのだ。説明は一つしかない。矢の先に毒が塗ってあるのだ。
戦闘のどよめきは、はるか森の奥に去った。平原に静寂がおとずれ、それを破る物音とては貪婪《どんらん》なバンスの唸り声があるばかり。カーソリスはスビアのほうをむいた。まだふたりは口をきいていなかったのだ。
「スビア、ここはどこだろう?」
王女は怪しむようにカーソリスを見た。自分を追ってここまで来たということ自体、カーソリスが誘拐に関係していることを自認するようなものではないか。関係がなければ、自分をかどわかした飛行艇の行き先を知るはずがない。
「ヘリウムの王子殿下におわかりにならなくて誰にわかります?」王女はきき返した。「殿下は、かどわかされて、ここにおいでになったのではないでしょう?」
「アアンソールからここまでは、あなたを盗み出した緑色人の後を追って来ました」カーソリスは答えた。「しかし、ぼくはプタースに行くつもりでヘリウムを発ったのです。それが、目をさましてみるとアアンソールの上空だった」
つづけてカーソリスは淡々と説明した。
「ぼくが誘拐の犯人らしいという噂が、もっぱらでした。そこでお父君《ちちぎみ》にお目にかかって濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を晴らし、あなたを取りもどすのに力をかそうと思ってプタースにむけて飛んだのです。ところが出発前に羅針儀に小細工したものがあって、プタースではなくアアンソールに来てしまった。事実はそれだけです。信じてくれますか?」
「でも、わたくしをかどわかした男たちは!」王女は叫んだ。「あの男たちはアアンソールではヘリウム王子の紋章をつけていました。王宮に忍びこんできたときにはデュサール人の装具だったのに。その説明は一つしかありません。誘拐の張本人《ちょうほんにん》が誰であったにせよ、万一、部下が見とがめられたら嫌疑がほかにかかるようにしたのですわ。そしてプタースから安全に離れてしまった後で、本来の装具にもどるように命じたのですわ」
「ぼくがその張本人だとお思いですか?」カーソリスはたずねた。
「カーソリス」と王女は溜息をついた。「そう思いたくはありませんでした。でも、どう考えてもあなたのようでした――それでもあなたとは思えないのです、わたくしには」
「ぼくではありません、スビア。しかしこの際、腹蔵《ふくぞう》なく申しあげましょう。ぼくはお父君に心服していますし、婚約のお相手のクーラン・ティス陛下を尊敬もしています。そしてあなたをさらったりすれば、バルスームの三大国のあいだに戦争が起こるということも、よくよく承知しています。しかし、そんなことは無視しても、ぼくは誘拐を決行したことでしょう――そうしても怒らないという素振《そぶ》りを、すこしでもあなたが見せていてくださったなら。
しかし、そういう素振りは一つもお見せにならなかった。ですから、ぼくがここに来たのも自分のためではなく、あなたのため、そしてご婚約なさったかたのためです。そのかたにあなたをわたすためです――それがぼくにできるとして、の話ですが」とカーソリスはいくらか辛辣《しんらつ》な口調で口をつぐんだ。
スビアは、しばしじっと男の顔を見つめていた。その胸が激情にたえかねたように起伏《きふく》している。男のそばへ寄ろうと足を踏み出しかけた。くちびるがなかば開いて、熱い言葉をほとばしらせそうに見えた。
しかしスビアは衝動にうちかった――その衝動がなんであったにせよ。
「ヘリウムの王子が、これから先になさることを見れば」と王女はそっけなくいった。「公明正大なお気持のほども自然にはっきりすると思います」
王女の冷淡《れいたん》な口調、そして自分の人格を疑っているようにも聞こえるその言葉にカーソリスはいささか失望した。
愛されることは迷惑ではないというほのめかしくらいあるのではないか、となかば彼は期待していたのだ。せめて、緑色人の手から救い出してくれたことを、少しは恩に着てくれてもよさそうなものではないか。それなのに、聞かしてくれたのは、この懐疑的な冷たい言葉だけとは。
ヘリウムの王子は広い肩をすくめた。スビアがその仕草に気づくと、王子の口もとがかすかに笑っている。今度は彼女が気を悪くする番であった。
もちろん、スビアには、相手の気持を傷つけるつもりなど毛頭《もうとう》なかった。カーソリスも気がきかない。本当は誘拐したかったなどと打ち明けられても、なんとも返事のしようがないことくらい察してくれてもよさそうなものなのに! ところが、勝手にするさ、といわんばかりに肩をすくめてみせるなんて、もってのほか。ヘリウムの男たちは淑女《しゅくじょ》にたいする態度が洗練されていることで知られている――それなのに、どうしてこういうお品のないことをするのかしら。きっと彼の体内を流れている地球人の血のせいなのだわ。
しかし王女には本当のことはわかっていなかったのだ。肩をすくめたあの仕草《しぐさ》は、実は悲哀にうちひしがれまいと心をふるいたたせた気持が身ぶりに出たというだけのことであった。そして口辺《こうへん》の微笑は、父親ゆずりの、敢然《かんぜん》と難局《なんきょく》にたちむかう不敵な微笑だったのである。スビアがほかの男を愛しているのなら、その男のために万難《ばんなん》を排しても彼女を救い出そう。その仕事のなかに自分の愛を生かすのだ、とカーソリスは悲愴な決意を固めていたのだ。
「どこでしょうね、ここは」とカーソリスはさいぜんの疑問にもどった。「ぼくには見当がつかない」
「わたくしにも」王女がいった。「飛行艇の中で男たちが話し合っている言葉のはしに、アアンソールという地名を聞きました。ですからおろされたときに、ここが有名なアアンソールの廃墟かと察しがついたのですけど、いまいるところがどこなのかは見当もつきません」
「弓兵隊がひきあげてくれば、すっかりわかりますよ」カーソリスがいった。「友好的な連中だといいが。あれはどういう種族でしょうね。とび色の髪をして肌が白い。ああいう人種は、われわれの一番古い伝説と水の涸れた海底の廃墟の壁画の中に出てくるだけです。大昔にほろんだはずの、前史時代の都市の生き残りに出くわすなんて、そんなことがあるものでしょうか?」
スビアは、緑色軍を追撃して弓兵たちが姿を消した森のほうを見ていた。はるかかなたから、バンスの吠え声と散発的に銃声がひびいてくるだけである。
「どうしてひきあげてこないのかしら?」王女がいった。
「負傷者がびっこをひいたり担《かつ》がれたりして、もうもどってきてもいいころだが」カーソリスも腑《ふ》におちないように眉《まゆ》をよせた。「そういえば、このあたりの負傷者はどうなりました? もう収容されていますか?」
ふたりは、戦闘のもっとも熾烈《しれつ》であった、城壁と野営地の中間地帯を見わたした。バンスどもが、まだ餌をあさってうろついている。
「いったいどこに行ってしまったのです?」とささやくようにいった。「弓兵隊の戦死者と負傷者はどうなったんです?」
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六 ロサール皇帝
王女もあっけにとられたような顔になった。
「弓兵たちの死体が山ほどあったのに」とつぶやいた。「さっきまでは数え切れないくらいだったのに」
「ところがいまは」とカーソリスがつづけた。「緑色人の死体のほかはバンスどもがいるだけです」
「きっとわたくしたちが話に気をとられている間《ま》に、ひとを出して城内に収容してしまったのね」
「そんなはずはない! 何千人という戦死者ですよ。ついさっきまで、ごろごろしていたんだ。あれをすっかり片づけるには何時間もかかるはずです。どうもおかしいな」
「わたくし、あの白い肌のひとたちのところに避難したら、と考えていました。戦争には強いけれど、野蛮人でも乱暴者でもないみたいでしたわ。あの街に行きましょう、といおうとしていたの。でも、死人がすうっと宙に消えるような街だとしたら、これは考えものね」
「運を天にまかせて、行ってみましょう」カーソリスがいった。「城壁の外のほうが内よりも居心地がいいというわけのものでもない。ここらはバンスがうろついているし、バンスに輪をかけてたちの悪いトルクワス族にいつ襲われるかもしれません。あそこに行けば、とにかく、ぼくらみたいな人間が相手なわけですから。ただ」とカーソリスはいいよどんだ。「あんなにバンスがいるところを通ってあなたをお連れする危険を考えると、ためらわざるをえません。二匹がいちどにかかってきただけで、一本の剣では手におえなくなってしまう」
「そのことなら心配なさらなくてもいいんです」スビアは微笑していた。「バンスは、こわくありません」
そういいながら彼女は壇からおり、カーソリスと肩を並べて血なまぐさい野原を、謎の城壁に囲まれた都市めざしておそれ気《げ》もなく歩き出した。
いくらも行かないうちに、一頭のバンスがふたりに気づき、血みどろのご馳走から頭をあげると、怒りの咆哮《ほうこう》とともに、走り出した。二十頭もの仲間が、その声をききつけて、それにならう。
カーソリスは、すらりと長剣を抜き放った。王女がその顔をちらっと見ると、くちびるにはかすかに微笑が浮かんで、頼もしいかぎりであった。火星のように、男性がすべて勇士であるような好戦的なお国柄でも、女性というものは、大胆不敵な、危険をものともせぬ不言実行の男に惹《ひ》かれるものだ。
「剣はお収めになって」王女がいった。「バンスはこわくないといったでしょう。見ててごらんなさい!」そういい残すと、足ばやに手近にバンスに近寄った。
カーソリスはとび出してかばおうとしたが、王女は手を振っておしとどめた。そして、喉《のど》にかかった歌うような低い声でバンスどもに呼びかけた。すぐに巨大な頭が上をむいて、らんらんたるまなこがいっせいに王女にそそがれた。王女は立ちどまって待っている。
先頭のバンスが、ためらうように足をとめた。王女は、ききわけのない犬でも叱るようにきびしい声を出した。
巨大な猛獣は頭を垂れ、尾を巻いてスビアにすり寄ってきた。つづいてほかのバンスが寄ってきて、やがて王女の姿は、すっかり人食いライオンにとり囲まれてしまった。
王女はカーソリスの立っているところにバンスの群れを連れてきた。カーソリスに近づくとバンスどもは少し唸《うな》ったが、王女が一言二言鋭くたしなめると、おとなしくなった。
「どうしてそういうことができるんです?」カーソリスは驚嘆した。
「前にあなたのお父さまも同じことをお聞きになりましたわ」スビアは答えた。「オツ連峰の黄金の崖にあるサーンの寺院の地下道のなかで。そのときは、どうしてだかお答えできませんでしたが、いまだって、うまく答えられないのです。バンスを思いどおりにする力がどこからくるのか、自分でも、よくわからない。そもそもの初めは、サター・スロッグによって神殿のバンスの巣窟《そうくつ》にほうりこまれたとき、そこにいたバンスはみんなわたくしのいうことをききます。忠犬ウーラがお父さまのいいつけどおりにするように、バンスたちはわたくしが呼べばくるし、あっちに行きなさいといえば行ってしまうのです」
王女が一言命ずると猛獣の群れは散って行った。あらためて食事にとりかかるバンスのあいだを、ふたりは城壁へむかった。
その途中、カーソリスは、バンスに襲われなかった緑色人の死体を見ながら、しきりに首をひねっていた。
カーソリスが変だというので王女も見てみると、緑色人の死体には矢が一本も立っていないのである。しかも、深手《ふかで》を負った様子でもなく、かすり傷一つ受けずに死んでいるらしいのだ。
弓兵隊の戦死者が消えうせる前までは、トルクワス族の遺棄《いき》死体には、確かに矢が立っていた。彼らに致命傷をあたえた、あの細い飛び道具はどこに行ったのだ? それとも、目に見えない手が抜き取ってしまったのだろうか?
目の前にひっそりと横たわる城壁を眺めながら、さしものカーソリスも不安の戦慄《せんりつ》を禁じえなかった。城壁にもそのむこうの家々にも、ひとの姿はなく、すべては、ただ森閑《しんかん》と無気味に静まり返っているだけだ。
とはいえ、立ちはだかる城壁のどこかから、監視の目を光らせてるものがいることを彼は確信した。
カーソリスは連れのほうを、ちらっと見た。王女は、目を大きく見開いて、城門に視線を据《す》えたまま歩いている。なにがあるのかと思って彼もそちらを見たが、べつに、なにもありはしない。
のぞきこむカーソリスの視線に、スビアは、ふとわれに返ったらしい。けなげな微笑を口もとにうかべ、ちらっとカーソリスを見あげると、つと寄りそって手をあずけた。われ知らず、そうしているような風情《ふぜい》だった。
意識的な自制心の及ばない彼女のなかのなにかが、自分に保護を求めているのだとカーソリスは察した。彼はスビアのからだに腕をまわして野原を進んだ。その腕を彼女はふり払おうともしない。腕がかかっていることに気づいてさえもいないらしい。眼前の不可思議な都市の謎に、すっかり心を奪われているのだ。
ふたりは門の前で立ちどまった。堂々たる城門である。その構造から推《お》して、とにかく途方もなく古い時代のものらしいとだけは見当がつく。
円形の扉が円形の門をとざしている。古代の火星建築に心得のあるカーソリスには、この扉が車のように片側にころがって、石の壁の中にうがたれた戸袋《とぶくろ》の中に収まる仕掛けだと察しがついた。
かのような車輪状の門扉《もんぴ》を作った種族が存在していた時代は、アアンソールのような古代都市でさえもまだ出現していなかった大昔のことである。
カーソリスがしきりにこの都市の正体を考えていると、頭上から声がした。ふたりはそちらを見あげた。高い城壁のうえに、ひとりの男が身をのり出している。
とび色の髪、白い肌、バージニア人ジョン・カーターよりもまだ白い肌で、広い額に大きな知的な目。
男のことばは、普通の火星語とははっきりちがっていたが、ふたりには充分通じた。
「何者か? ロサールの城門の前でなにをしている?」
「怪しいものではありません」カーソリスは答えた。「こちらはプタースの王女スビアで、トルクワス族にとらわれてこの地に来たのです。またぼくは、火星大元帥ジョン・カーターとその妃《きさき》デジャー・ソリスの一子、ヘリウム皇帝タルドス・モルス家の王子、カーソリスです」
「プタース?」おうむ返しに男がいった。「ヘリウム?」と首をかしげた。「そのような国の名は聞いたこともないな。赤い肌の色をした人種が、このバルスームに住んでいることも初耳だ。そのような国は、どこにあるのか? この都の高い塔から見わたしても、ロサールのほかにはなにも見えないが」
カーソリスは北西を指さした。
「あの方角にプタースとヘリウムがあります。ロサールからヘリウムの都まで八千ハアド以上、そしてヘリウムの北東九千五百ハアドをへだててプタースの都があるのです」
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〔原注 火星の距離単位の常用《じょうよう》基準はアドである。地球のフィートに相当し一一・六九四インチ。わたくしは読者の便宜《べんぎ》を思って、従来どおり火星の距離単位、時間単位などを地球の尺度に換算してきたのだが、好学心のある読者諸氏には、あるいは火星の尺度に興味があろうかとも考え、次にこれを掲げる。
一〇ソファド=一アド
二〇〇アド=一ハアド
一〇〇ハアド=一カラド
三六〇カラド=火星赤道円周
一ハアドすなわち一火星マイルは二三三九フィート。一カラドは火星緯度の一度。一ソファドは一・一インチ〕
[#ここで字下げ終わり]
男はなおも首をふった。
「ロサールの谷のむこうのことは知らぬ。だが大絶壁の外には、凶暴なトルクワス族緑色人のほか住むものはないはず。トルクワス族は、この谷一つとロサールの都市をのぞいた全バルスームを併呑《へいどん》したのだ。ひとりわがロサール人のみ、悠久《ゆうきゅう》の昔より、この都に拠《よ》って、おりふし侵略を試みる蛮族をしりぞけてきたのだ。貴公《きこう》らがどこから来たのかは想像もつかぬが、トルクワス族のバルスーム征服の昔、その奴隷となった種族の子孫ではないのか。しかし、われらは緑色人以外のすべてのバルスーム人類は滅ぼしつくされたと聞いているのだが」
カーソリスは、事実がそうではないことを相手にのみこませようと骨を折った。トルクワス族は火星上のごく一部を占拠《せんきょ》しているにすぎず、そのわずかな勢力範囲を保っていられるというのも、そこには赤色人種をひきつけるような資源がなにもないせいなのだ。しかしこのロサール人には、この谷の外にはトルクワス族緑色人のはびこる荒蕪《こうぶ》の地が漠々《ばくばく》と広がっているとしか考えられないらしい。
長々と押し問答をしたあげく、やっと男はふたりを城内に入れることに同意した。車輪状の門扉が石の壁の中に転がり、スビアとカーソリスはロサールの都市に足を踏み入れた。
城内は目につくものすべてが驚くべき富を物語っていた。街路に面した家々の壁面は惜しみなく彫刻で飾られ、窓やドアには、三〇センチもあろうかと思われる宝石のふち飾りや、精緻《せいち》なモザイクや、これらの忘れられた民族の古代史の断片を伝えるらしい浮彫《うきぼり》をほどこした黄金板などがとりつけてあった。
城壁越しに押し問答をした男が、大通りでふたりを待っていた。その周囲には同族の百人あまりの男たちが集まっている。みんなゆったりしたローブをまとい、ひげは生やしていない。
彼らの態度には、敵意というよりは、おびえた猜疑心《さいぎしん》のようなものが感じられた。新来のふたりの一挙一動にじっと目を注いでいるが、誰も話しかけようとはしない。
カーソリスは妙なことに気がついた。この都市は、ついいましがたまで悪鬼《あっき》のような蛮族の大軍に包囲されていたというのに、城内には軍隊はおろか、武装した市民の姿さえも見当たらないのだ。
戦士たちはひとり残らず追撃戦に投入されて、それで城内ががらあきになっているのであろうか。カーソリスは案内の男にきいてみた。
男はうす笑いを浮かべた。
「きょうは神殿のバンスが二十頭ばかり放たれただけで、人間はただのひとりも外に出てはいない」
「しかし、あの連中は――弓兵たちは!」カーソリスは驚いて叫んだ。「この城門から何千何万という弓兵隊が繰り出すのを、ぼくはこの目で見たんだ! 彼らが猛烈に矢を射かけてバンスと一緒に襲いかかり、トルクワス族を潰走《かいそう》させたではないですか」
男はまだ、したり顔に微笑している。
「ごらんなさい!」と広い街路の前方を指さした。
カーソリスとスビアがそちらを見ると、いましも、さんさんと注ぐ陽光を浴びて、弓兵の大軍が隊伍堂々《たいごどうどう》とこちらへ行進してくるところだ。
「わかったわ!」スビアがいった。「ほかの門からひきあげてきたのね。それとも、逆襲にそなえて城内にとどまっていた守備兵かしら」
男の顔に、またもや無気味なうす笑いが浮かんだ。
「このロサールには軍隊など一兵たりともいない」そういって、また前方を手で示した。「そら!」
男がしゃべっているあいだ、カーソリスとスビアは弓兵から目を離していたが、ふたたび視線をもどすと、あっと息をのんだ。眼前の広々とした大通りには人っ子ひとりいないのだ。
「すると、今日出撃して蛮族と戦った戦士は? 彼らも本物ではなかったのか?」ささやくようにカーソリスがきいた。
男はうなずいた。
「でも彼らの矢に当たって、緑色人は死んだではありませんか」スビアはいい張った。
「まずタリオさまにお会いなされ」男がいった。「あの方のご一存で、明かしてもよいとおぼし召すことは明かしてくださろう。わしはしゃべりすぎてはならぬでな」
「タリオさまというのは?」とカーソリス。
「ロサールの皇帝《ジェダック》」一瞬前まで幻《まぼろし》の兵団が行進していた大通りを案内しながら、男は答えた。
美しい街路の両側には、ふたりがこれまで見たこともない豪奢《ごうしゃ》な建物が並んでいた。しかし、もう三十分も歩いているのに、人間にはほとんど出会わない。大都市だが、いかにもさむざむしているとカーソリスは思った。
やがて三人は王宮《おうきゅう》についた。遠目《とおめ》にも、すぐそれと知れる壮麗な建物である。しかし、ここにもほとんどひとの気配《けはい》のないのが解《げ》せなかった。
巨大な王宮の門を守る衛兵ひとりいないのだ。こちらから見通せる庭園のほうも、これが赤色人諸国の王宮なら華やかな活気がみなぎっているはずなのに、まるでがらんとしている。
「これがタリオ陛下の宮殿だ」案内の男がいった。
そういわれて、カーソリスはあらためて宏壮な王宮を眺めわたした。とたんに驚きの声をあげて目をこすった。いや、見まちがいではない! 王宮の門を二十人もの衛兵が固めているではないか。門をはいると、王宮に通じる通路の両側には弓兵隊がいならび、庭には勤務中とおぼしき将兵が、ここかしこを活発に行き来しているのだ。
空気の中から軍隊をひねり出すことができるなんて、ロサール人というのはいったいどういう連中なのだ? スビアの顔を見ると、彼女もこの突然の変化に目を丸くしている。
かすかに身ぶるいしながら、彼女はカーソリスに寄りそった。
「どういうわけなの?」とささやいた。「気味がわるいわ」
「ぼくにもわからない。まるで頭がどうかなったみたいだ」
カーソリスは、くるっと案内の男のほうをふりむいた。男は相好《そうごう》をくずして笑っている。
「このロサールには兵士はひとりもいないとおっしゃるが」と衛兵のほうを身ぶりで示して、「あれはなんです?」
「タリオ陛下にききなさるがよい」相手は答えた。「まもなく御前《ごぜん》に出ますからな」
ほどなく三人は玉座の間《ま》にはいった。広間の奥は一段高い壇になっていて、その上の豪奢《ごうしゃ》な寝椅子に男がひとり寝そべっている。
三人がはいってくるのに気づくと、その男は眠そうな目をこちらにむけた。壇から六、七メートルのところで案内の男は足をとめ、自分のするとおりにせよとふたりにささやくと、床の上にひれ伏した。そして四つんばいになって、飼い主ににじり寄る犬よろしく、頭をふりたて身をよじらせて玉座のほうへ進んで行く。
スビアは、ちらっとカーソリスを見た。彼は頭をそびやかし、広い胸に腕をくみ、口もとに誇らかな微笑をうかべ仁王《におう》立ちになっている。
寝椅子の男はカーソリスにじっと目をそそぎ、ヘリウムの王子も、まっすぐに相手を見かえした。
「あのふたりは何者であるか、ジャブ?」寝椅子の男は床にひれ伏している男にたずねた。
「いと高き栄光の皇帝《ジェダック》タリオ陛下」ジャブは答えた。「トルクワス族とともにロサールへ参りました外国人にございます。緑色人のとりこになっていた由《よし》にて、大絶壁のかなたに国があるなどと不思議なことを申しております」
「立つがよい、ジャブ」タリオは命じた。「あのふたりに、なにゆえこのタリオにつくすべき礼をつくさぬかをきいてみよ」
ジャブは立ちあがってカーソリスとスビアをふりむいたが、ふたりが傲然《ごうぜん》と立ったままなのを見るや血相を変えてとび出した。
「なんたることを!」と叫んだ。「ひれ伏さぬか! バルスーム最後の皇帝陛下の御前ですぞ!」
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七 幻《まぼろし》の弓兵《きゅうへい》
ジャブがとびかかってくるのを見て、カーソリスは愛剣の柄《つか》に手をかけた。相手は立ちすくんだ。すると四人のほかには広間に誰もいなかったはずなのに、カーソリスの威嚇《いかく》にたじろいだジャブのまわりに忽然《こつぜん》として二十人もの弓兵が出現した。
天から降ったか地から湧いたのか? カーソリスもスビアも唖然《あぜん》となった。
カーソリスの愛剣が鞘《さや》ばしると同時に、兵士たちはいっせいに細身の矢をつがえた弓を引きしぼる。
タリオは片ひじをついて半身を起こした。すると、いままでカーソリスの陰になっていたスビアの全身が初めて目にはいった。
「やめい!」と片手をあげて皇帝が制したが、一瞬早くカーソリスは手近の敵に襲いかかっていた。
長剣|一閃《いっせん》、敵はまっ二つと見えたとたん、カーソリスは切先を下げ、驚愕《きょうがく》に目を見開き、額に左手の甲《こう》をあてて跳び退った。彼の一撃はむなしく空を斬ったのだ。敵は消えていた――広間に弓兵はひとりもいない!
「このものどもは外国人であるな」タリオはジャブにいった。「知ってのうえでの無礼《ぶれい》なりや否やをまず取り調べる。処罰はその後でよい」
皇帝はカーソリスを見、それからスビアの美しい姿態《したい》の線をなめるように見まわした。火星の王女の装身具は、その姿の美しさを隠すというよりも、むしろ引き立てているのだ。
「おまえたちは何者であるか? バルスームの最後の皇帝の宮廷の作法を心得ぬとは?」
「ぼくはヘリウムの王子カーソリス。そしてこちらは、プタースの王女スビア姫でいらっしゃる。われわれの宮廷では、たとえ皇帝の御前《ごぜん》であろうとも土下座《どげざ》はせぬ。ファースト・ボーンが不老不死の女神イサスを八つ裂きにしてからは、はいつくばって君主にまみえるものは、このバルスームにはいないのだ。ましてや王女殿下は強大な皇帝のご息女《そくじょ》であり、ぼくもまた同じ身分のもの。あのような卑屈な真似ができると思うのですか?」
タリオは長いあいだカーソリスを見つめていたが、やがて口を開いた。
「バルスームにはタリオのほかに皇帝はない。ロサール人のほかに人間はいないのだ。トルクワス族は人間の名に値せぬ。ロサール人は白い。おまえは赤い肌をしておる。バルスームに女はひとりも生き残っておらぬはずなのに、おまえは女を伴っている」
寝椅子から半身を起こしたからだを乗り出すようにして、タリオは、なじるようにカーソリスを指さした。
「お前は虚妄《きょもう》の存在だ!」と金切り声をあげた。「ふたりとも虚妄だ! しかるにバルスーム最後の皇帝の面前にまかり出て、あえて実在をかたるとは、なにごとか。この悪さを仕掛けたものは痛い目にあおうぞ。ジャブ、おまえだな、余《よ》が生来、寛仁《かんじん》なるをよいことに、かかる不敬千万《ふけいせんばん》の茶番を仕組むとは?
男は退がらせよ。女は残しておけ。虚妄の面《つら》の皮をひんむいてくれる。その後で、ジャブよ、おまえはこの不遜《ふそん》の所業の報《むく》いを受けるのだ。ロサールの生存者すでに少なしといえども――コーマルさまには生贄《いけにえ》を捧げねばならぬのだ。行け!」
ジャブはいま一度ひれ伏してふるえていたが、立ちあがってヘリウムの王子をふりむいた。
「さあ、あちらへ!」
「プタースの王女をここにひとり残してですか?」
ジャブは、そばにすり寄ってささやいた。
「ついて来なさい――陛下には彼女を殺すことはできても、そのほかに危害を加えることはできないのだ。殺す気になれば、きみがここにいてもいなくとも同じことなのだ。いまは一応あちらに行ったほうがよい――悪いことはいわぬから」
カーソリスはよくのみこめなかったが、ジャブの言葉になにやら切迫《せっぱく》したものがあるのを感じとると、スビアに目まぜして歩き出した。彼としてはその目まぜで、置きざりにして行くのも、ひとえに彼女の身のためを思えばこそなのだということを訴えたつもりであった。
しかし返事のかわりに、スビアは、いかにも軽蔑したような表情を浮かべると、くるっと背をむけた。カーソリスは真っ赤になった。
カーソリスが二の足を踏むのを見て、ジャブが手首をつかんだ。
「さあ!」とうながした。「陛下が弓兵に襲わせると、今度は助かりませんぞ。空気のような兵士が相手では、剣がなんの役にも立たぬことは先刻、承知のはずではないか!」
カーソリスは不承不承《ふしょうぶしょう》、歩き出した。広間を出ると、ジャブのほうをふりむいて、
「こっちに空気人間が殺せないとすれば」とたずねた。「空気人間にこっちが殺される心配もないわけでしょうか?」
「弓兵の矢に当たって、トルクワス人が倒れるのを見たのではないかな?」とジャブ。
カーソリスはうなずいた。
「あの調子で倒されるのだ。身を守る手だてもなければ一太刀《ひとたち》報いる隙《すき》もない」
話しながらジャブは、この宮殿の数多い塔の一つにある小部屋にカーソリスを案内した。部屋には寝椅子があって、カーソリスに掛けるようにすすめた。
しばらくのあいだジャブは捕虜の姿を――というのは、いまやカーソリスは捕虜の身であることを自覚していたから――しげしげと眺めた。
「どうやら、幻ではなくて、本物の人間らしい」やがてロサール人はいった。
「本物だとも」カーソリスは声をあげて笑った。「どうして疑うんです? ぼくの姿が目にはいらないのか? 触っても感じないのか?」
「あの弓兵だって目に見えるし、手で触《ふ》れられる。しかし、結局のところ、あの連中は本物の人間ではない」
カーソリスは相手が謎の弓兵のことを口にするたびに、とまどいの色を顔に浮かべた。神出鬼没《しんしゅつきぼつ》のあのロサール軍の正体はなになのか?
「本物でなければなんです?」
「本当にご存じない?」ジャブがきき返した。
カーソリスは、いかにもとうなずいた。
「ひょっとすると、きみは、本当に大絶壁の外の国から、それともバルスームとは別の世界からきた人間なのかも知れないな。きみの国には、獰猛《どうもう》な軍用バンスと協同して、緑色の蛮族の胸に恐怖を射こむ、ああいう弓兵隊はいないのかね?」
「ぼくらの国には戦士がいる」カーソリスは答えた。「ぼくら赤色人は、ひとりのこらず戦士です。しかし、この国の弓兵のようなのはいない。ぼくらは自分で自分の国を守る」
「自分で戦場に出て、命を的《まと》に戦うだと!」ジャブは目を丸くして叫んだ。
「そのとおり。ロサール人はどうするんです?」
「ご覧のとおりだ。わしらは不死身《ふじみ》の弓兵をさしむける。もともと生きてはいないのだから死ぬこともない連中だ。あれは敵の想像の中で存在しているだけのものでしてな。わしらは強い念力《ねんりき》で国を守るのだ。敵の心眼に、想像上の戦士の大群を現出させるというわけだ。
敵の目に弓兵の姿が映る。弓を引きしぼるのが見え、矢風《やかぜ》するどく心臓めがけて飛んでくるのが見える。そして息絶えるのだ――暗示の力に殺されて」
「でもあの戦死した弓兵たちは?」カーソリスは叫んだ。「不死身だといわれるが、ぼくは戦場に弓兵の死体が累々《るいるい》と横たわっているのを確かに見ました。あれはどういうわけなのですか?」
「あれは、ちょいと現実味を添えるための工夫でね」ジャブが答えた。「弓兵の相当数が、ばたばたと倒れるという映像を投写《とうしゃ》してやるのだよ。相手にしているのは生身《なまみ》の人間ではないことをトルクワス族に感づかれないようにね。
それというのも、真相が一度蛮族の胸に刻みこまれると、矢に射殺されるという暗示にかからなくなるだろうという説がわしらのあいだで有力でしてな。まやかしの暗示よりは真実の暗示のほうがずっと力が強いし、強いほうの暗示が勝つ、これすなわち自然の理なり、とね」
「ではバンスは? あれも暗示の産物ですか?」
「本物も少々はいた。しかし、トルクワス族を追撃して森の中にはいって行ったのは、みんな幻のバンスだよ。敵を追い散らす任務を果せば、弓兵と同じく宙にうせてしまい、帰ってはこない。
だが平原に残っていたのはまやかしではなくて、蛮族の死体を片づける清掃隊として放たれた、本物のバンスだ。これは、わしらのあいだの現実論を奉じる一派の要請《ようせい》で行われていることでな。わしも現実論者だよ。タリオは超現実論者だが。
超現実論者の連中にいわせると、そもそも物質というものは存在せず、すべては精神である、ということになる。人間もまた、目に見えず手に触れぬ思念作用《しねんさよう》としてのみ他人の想像裏に存在するものである、と唱《とな》えている。
それでタリオにいわせれば、本物のバンスをさしむける必要はないというのだ。わしら一同、心を合わせて、トルクワス族の遺棄死体は存在せず、と念ずれば充分で、それだけで死体は消えうせてバンスの清掃隊の必要もなくなる、とまあこういう論法でな」
「すると、あなたはタリオ説を信じていないのですね?」
「一部分信じているだけだ」ジャブは答えた。「完全に超現実的な人間というものも存在する、とわしは信じている。いや事実、知っている。タリオなどは、そのひとりだと確信しておるよ。あれはロサール人の想像の中で存在しているだけの人間なのだ。超現実派の連中は、みんなそういう存在にちがいない、とわしら現実派は考えておる。彼らは食物は不要だと称してなにも食わぬ。しかし、現実の存在たる人間が食物を必要とすることは阿呆《あほう》にもわかることだ」
「まったくだな」カーソリスは同感であった。「ぼくは朝から何も食べていないので、その説には同感です」
「おや、これは失礼を」ジャブは叫んだ。「どうぞテーブルについて充分に召しあがってくだされ」そういって、ひらりと手を振ると、ご馳走が山のように並んだ食卓を示した。そこには一瞬前までは、なにもなかったのだ。数回にわたって注意ぶかく部屋の中を探っていたカーソリスには、本当になにもなかったと断言できた。
「わしが超現実派でなくてよかったな」ジャブがいった。「あの連中といっしょだと、えらく腹がすきますぞ」
「しかし」とカーソリスは叫んだ。「これは現実の食物ではありませんよ。ついいままでは、ここになかった。本物の食物が空気の中から忽然《こつぜん》と出現するはずがない」
ジャブは気を悪くしたらしい。
「このロサールに本物の食物だの水だのはない。太古の昔からそんなものはない。わしらは、いまここに見えるたぐいのものを食って悠久《ゆうきゅう》の昔より生きてきたのだ。されば、きみも現実か幻かなどと気にせずに召しあがらっしゃい」
「あなたは現実派だとばかり思っていたのですが」とカーソリス。
「そのとおりですぞ」とジャブ。「この馳走《ちそう》ほど現実的なものがまたとあろうか? この点が実は、わしら現実派と超現実派の一番ちがうところなのだ。超現実派の連中は、食物を思念する必要はないといっている。しかし、わしらは生命の維持のためには、日に三度たっぷりと食事をとる必要があることを発見した。
摂取《せっしゅ》された食物は、ある種の化学変化を経て消化され吸収される。その結果はいうまでもなく、身体組織の新陳代謝《しんちんたいしゃ》にある。
ところでわれわれロサール人は、精神こそすべてであると承知している。ただ、精神の働きをどう解釈するかについては意見が分かれておってな。タリオなどの超現実派の連中にいわせると、そもそも物質などというものは存在しないのであって、すべては脳の実体のない霊気によって創造される、ということになる。
わしら現実派は、事実をもっとよく認識しておる。わしらは物質の存在を認める。物質が精神の所産であるかどうか、これはまだ未解決の問題だが、とにかく物質を維持する力が精神にはあることはわかっている。
だから、わしらのからだ、これも物質だが、これを維持するためには体内の器官が適切に機能するようにしてやる必要がある。その必要をみたすために、わしらはこうやって食物の思念を具象化し、摂取するのだ。咀嚼《そしゃく》し、嚥下《えんか》し、満腹感を味わう。わしらの消化器官は本物の食物を食った場合と同じように作用する。で、その結果はどうなるかな? いやさ、どうならねばならぬかな? いわく、直接間接の暗示による消化吸収の化学変化、そして生命活動の維持と増進」
カーソリスは目の前に並んだ食物を見つめた。まったく本物の食物のように見える。一片をとりあげて口に運んだ。実際、現実の食物である。うまそうな匂いがする。味もいい。幻の食物とはとても思えない。
ジャブは微笑して、彼が食べるのを見ていた。
「どうだね、満足すべきものだろうが?」
「いや、まったく」とカーソリス。「だけど、タリオをはじめとする食物不要論者は、どうやって生きているのです?」
ジャブは困ったように頭をかいた。
「その問題は、わしら現実派もよく論じるのだが、どうもよくわからん」と白状した。「とにかく、あの連中は食物を必要としない。そしてそのことこそが、あの連中が現実の存在ではないという最大の証拠なのだ。しかし、本当のところは、コーマルさまでなければ誰にもわからない」
「コーマルというのは何者です?」カーソリスがたずねた。「あなたの皇帝《ジェダック》もコーマルさまがどうとかいってましたが」
ジャブはおびえたようにあたりを見まわしてからカーソリスの耳に顔を近づけて、
「コーマルさまは生命の根元なのだ」とささやいた。「そもそも精神が映像を結ぶためには、精神それ自体が実体を持たなければならぬ。これは超現実論者でさえも認めていることでな。なぜなら現実に実体があるものが存在しなければ、精神はなんの像も結ぶことはできない。見たこともないものの姿を心に描くことはできない道理だ。おわかりかな?」
「漠然《ばくぜん》とね」とカーソリス。
「ゆえに現象の根元は実体のあるものでなければならぬ」ジャブはつづける。「そしてコーマルさまは、いうなれば森羅万象《しんらばんしょう》の根元なのだよ。この根元の生命は実体を備えておいでであって、その身体《しんたい》は物質によって養われる。つまり、コーマルさまは食物をおとりになる。現実の生贄《いけにえ》を召しあがられる。はっきりいうならば、現実派の人間をおあがりになる。そして、この生贄の手配をするのがタリオの役目なのだ。
タリオは、コーマルさまの召しあがり物としてふさわしいものは、現実派の人間をおいて、ほかにないという。現実派が、自分たちだけが現実の五体を備えていると主張する以上はね。しかし今日のように、ほかの食物が手にはいることもある。トルクワス族はコーマルさまの大好物でな」
「コーマルというのは人間ですか?」カーソリスがたずねた。
「コーマルさまは森羅万象なのだ。さっきも申したとおり」とジャブ。「どういえばわかってもらえるかな。コーマルさまは天地の初めであり終わりである。いっさいの生命がコーマルさまから投影された影法師なのだ。わしらの心の結ぶもろもろの映像は、すべてこれコーマルさまの五体から発散する現実性にもとづいておる。
もしもコーマルさまが食物をおあがりにならなくなると、バルスームじゅうの生命が消滅することになる。コーマルさまは不死だが、食物をおとりにならなくなる日がくるかもしれない。そのときには現実性を発散なさらなくなって、現実世界が空《くう》に帰するのだ」
「そうなると大変だというので、生贄を捧げるのですか、現実派の男や女を?」
カーソリスは叫んだ。
「女だと!」ジャブは目をむいた。「女なぞロサールにはひとりもいやせん。何万年も昔、わが種族がこの最後の拠点《きょてん》にたどりつく前に死に絶えてしまったわ。大海原がなかば干あがって一面の泥の干潟《ひがた》となったところを、緑色人どもと戦いつつ、悲惨な旅をつづけたときのことだ。
かつては何百万といたロサール人も、生きてこの谷にたどりついたのはわずか二万。女、子供で生き残ったものはひとりもおらなんだ。みんな旅の途中で死んでしまった。
ここにおちついた後、時がたつにつれて生存者の数もしだいに減り、わが種族は絶滅に瀕《ひん》した。だがこのとき、精神こそいっさいである、という|大いなる真理《ヽヽヽヽヽヽ》が啓示《けいじ》されたのだ。それから一歩進んで、わしらが死を克服するに至るまでには、さらに年月を要し生存者の数はさらに減少した。しかし、ついに、死が一つの精神状態にすぎぬことを悟るにおよんで、わしらは死を怖れる必要がなくなったのだ。
ひきつづいてわしらは思念《しねん》の具象化に成功し、幻《まぼろし》の人間が創造された。これが始めて実用に供《きょう》されたのはトルクワス族の最初の侵入のおりでな。この谷にはいる地は、大絶壁をくぐるただ一本の地下道があるだけで、蛮族がこれを発見したのは、幸いにして、われわれがここに落ちのびてからずっと後のことだった。
蛮族襲来の日、わしらは初めて幻の兵団を召集した。城壁の上に弓兵の大軍を出現させれば、それだけで蛮族どもは怖気《おじけ》をふるって逃げ出すであろう、とこう考えたのだよ。ロサール全体が、幻の軍勢の弓矢によって針ねずみのように武装されたわけだ。
ところがトルクワス族は怖気をふるうどころか平気で進んでくる。あれは獣よりも下等な連中で、恐怖という感情を持ちあわせておらんのだ。城壁の下まで押しよせると、人梯子《ひとばしご》を組んでよじのぼり、いまにも城内に乱入しようという形勢となった。
それまでは矢は一本も放たれてはいなかった――弓兵たちはただ城壁の上を駆けまわり、怒号し喚声《かんせい》をあげて敵を威嚇《いかく》していただけだった。
そのときのことだ、わしがあの|偉大なこと《ヽヽヽヽヽ》を思いついたのは。わしは精神力をふりしぼって自分が作り出した弓兵たちのうえに思念を凝《こ》らした。自分の、というのは、幻の軍隊は共同暗示で生み出すのではなくて、各人めいめいに自己の思念能力に応じた敵の兵士を出現せしめて指揮するからなのだ。
このとき初めて、わしは弓兵たちに矢をつがえさせた。緑色人の胸に狙《ねら》いを定めさせた。それを緑色人の目にありありと見えるように暗示をかけた。緑色人に矢が飛来《ひらい》するのを見させ、心臓を射抜かれるものと想像させた。
それでもう充分だったな。何百、何千と蛮族どもは束《たば》になって城壁から落ちて行きおった。これを見てわしの仲間は、すぐさまわしの例にならった。さしものトルクワス族の大群も総くずれになり、矢の射程圏外に退却してしまった。
たとえ射程圏外でも、射殺されるという暗示をかけることはできる。しかし、わしらは最初から幻《まぼろし》戦法に一つの規則を設けて、これを守った――現実主義の規則だよ。敵にハテナと思わせるようなことは、なにもしない。というより、弓兵たちにそういうことをさせない。射程圏外のはずなのに射殺されたとなると、敵は真相に感づくかも知れず、そうなってはおしまいじゃからな。
ところがトルクワス族どもは矢の届かぬところまで退却すると、恐ろしく強力なラジウム弾を射ちこんできおった。しかもそれが雨あられと飛んでくるので、城内は惨憺《さんたん》たる状態となってきた。
そこでわしは城門を開いて、弓兵隊を出撃させることを思いついた。その効果のほどはきょう見られたとおりだ。そういうわけで、大昔から、蛮族どもは、ちょくちょくロサールを襲ってきおるが、いつも同じ目に遭って撃退されているのだよ」
「じゃあ、あなたが幻戦法の生みの親ってわけなんですか、ジャブ?」カーソリスがきいた。
「さよう」誇らしげに相手はうなずいた。「タリオに次ぐ地位だよ」
「ではどうしてタリオの前で、ああ、ぺこぺこするのですか?」
「タリオが要求するのでな。タリオはわしを妬《ねた》んでおってな、なにか口実を設けて、わしをコーマルさまの生贄にしようと手ぐすねひいて待っている。いつかわしに権力を奪われるのではないかと、それが心配なのだ」
カーソリスはだしぬけに、ぱっと食卓から立った。
「ジャブ!」と叫んだ。「ぼくはなんて恥知らずなんだ! プタースの王女が、まだなにも召しあがっていないのに、自分だけこうしてたらふく詰めこんでいるなんて。あの部屋に戻って食事をさしあげるようにしなくてはならん」
ジャブは首をふった。
「タリオは許しますまい。超現実派のもてなしは食事ぬきときまっておる」
「とにかく行ってみる」カーソリスはきかなかった。「この国には女性がひとりもいないというじゃないか。では王女殿下は男といっしょなわけだ。もしそうなら、僕がそばについていてあげたほうがよい」
「タリオのいったとおりになされ」ジャブもゆずらない。「タリオは、あなたを退出させたのだ。呼びにくるまで行かぬほうがいい」
「呼びにくるのを待っているわけにはいかん」
「弓兵のことをお忘れなく」ジャブが警告した。
「わかっている」とだけカーソリスはいったが、ジャブが明言《めいげん》をさけた、いま一つの危険の正体について、口にこそ出さぬが心にとめておいたことがあった――それはまだ推測の域を出ないが、もしもコマールさまとやらがあれだとすれば、万一の場合も望みなきにあらずだ。
部屋を出ようとするカーソリスの前に、ジャブが立ちはだかった。
「わしはきみがだんだん気に入ってきたが、タリオが、まだわしの主君だということを忘れてもらっては困る。そしてタリオは、きみがここにいるように命じたのだ」
カーソリスがなにかいおうとしたとき、遠くから、助けを求める女の悲鳴が聞こえてきた。
腕をひとふりしてジャブを押しのけると、ヘリウムの王子は剣を抜いて廊下に走り出た。
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八 死の広間
プタースの王女スビアは、カーソリスが去り、タリオとふたりきりで玉座の間にとり残されると、急にたまらなく不安になってきた。
壮麗な広間のすみずみに妖気《ようき》がただよっている感じであった。家具調度はすべて豊かな富と高い文化を物語る豪奢なもので、華やかな儀式の晴れの舞台としてしばしば用いられている部屋にちがいない。
ところが玉座のあたりにも、控えの間にも廊下にも、ひとの気配がすこしもないのだ。ただ、玉座によりかかって半眼《はんがん》に開いた目をじっと注いでいる皇帝タリオがいるばかり。
ジャブとカーソリスの去った後、タリオはしばらくじっと彼女を見つめていたが、やがて口を開いた。
「こちらにくるがよい」といった。スビアが近づくと、「そなたは誰が作ったものか? 国禁《こっきん》を犯し、余《よ》が勅命《ちょくめい》に背《そむ》き、女の映像を具象化しおった不届者は何者だ? そちは誰の脳裏から飛び出してきたのだ? ジャブか? いや、否定するには及ばぬ。わかっている。あの嫉《ねた》み深い現実論者以外に、かようなことをするもののあるはずはない。ジャブは余を堕落させようとしているのだ。余をそちらの魅惑のとりことなし、余が命運を思いのままにせんと企みおった。いっさいは見とおしだ! 余の目にいっさいは見とおしだぞ!」
スビアは怒りに顔がほてった。あごをつんとそらし、見さげたように非の打ちどころのないくちびるをゆがめた。
「なんというたわごとを! わたくしはプタースの女王、スビアです。誰の作りものでもありません。ジャブとやらいう男に会ったのはきょうが初めてだし、こんな変な都市がバルスームにあるということさえ、きのうまでは夢にも知らなかったことです。
わたくしの魅惑などということを口にしてもらいますまい。あなたやあなたのような人間の知ったことではありません。たとえ代償に王国の一つを差し出されたとしても、わたくしは売り物ではないし、交換物でもありません。ましてお化けの国の王様にわたしが媚《こ》びるなんて――」形のいい肩をすくめて、スビアはあざけるように短く笑った。
タリオは寝椅子のへりに腰をおとし、身をのり出してこちらを見つめていた。もう目は半眼にとじてはいず、呆然と大きく見ひらかれていた。
彼女の言葉や仕草《しぐさ》の不敬《ふけい》には気づいてもいないらしい。そんなことよりも、もっと驚嘆すべきことにタリオは打たれていたのである。
ふらふらとタリオは立ちあがった。
「コーマルさまの牙にかけて!」とつぶやくようにいった。「そなたは現実なのだ! 現実の女だ! 夢ではない! 思念のむなしい影法師ではない!」
タリオは手をさしのべて一歩、二歩、足をふみ出した。
「おいで!」とささやいた。「さあ! そなたがいつの日か余《よ》のもとにくるであろうと何万年も昔から夢みていたのだ。いよいよそれが本当になってみると、余はほとんど自分の目が信じられぬ。そなたが現実のものとは知っていても、もしや虚妄《きょもう》ではあるまいかと心がおののくのだ」
スビアは後ずさった。タリオは気が触れたのだと、そう思った。宝石をちりばめた短剣の柄を、そっと握りしめる。それを見てタリオは足をとめた。その目に悪賢《わるがしこ》い表情がうかんだ。ふたたびその目が眠そうになかば閉じると、思念の波をスビアの脳髄に送りこんだ。
スビアは突然、自分の内部に奇怪《きかい》な変化が起こるのをおぼえた。どうしてなのか見当がつかない。が、なんとなく自分の心のなかで、タリオとの間柄が、いままでとはちがったものに変わってゆくのだ。
タリオは、もはや薄気味悪い敵ではない。昔なじみのお友だち。信じてもいいひと。短剣の柄から手がすべり落ちる。タリオは近づいてきて、やさしく、親しみぶかい言葉をかける。それに答える自分の声は、自分の声のようであってそうではない。
タリオは、すぐそばまで寄ってきている。その手が肩にかかり、その目がじっとのぞきこんでいる。スビアは、ぼんやりと男の顔を見あげていた。男の目がスビアの心を貫いて、秘められた情緒《じょうちょ》のみなもとにまで達しているようだった。
彼女のくちびるはなかば開いていた。秘められた自我が意識の上にあらわにされる恐れと驚きに、妖《あや》しく心が騒ぐ。このひとを、わたくしは永遠の昔から知っていた。友だち以上のひと。彼女はタリオに身をよせた。彼女の心に一条の光がさしこんで真相を悟った――自分はタリオを愛している! 昔からずっと。
タリオは奸策《かんさく》が功を奏するのをみて、満悦《まんえつ》の微笑をかくすことができなかった。そのわずかな表情の変化を見とがめたのであろうか。それともタリオのまやかしの暗示よりも強い真実の暗示を、王宮の離れた部屋にいるカーソリスから受け取ったのであろうか。突如として不思議な催眠の呪縛《じゅばく》が破れた。
目かくしがとれたように、ふたたびスビアの目に、ありのままのタリオの姿が映った。バルスームでは高度の暗示能力を備えた人間が珍しくなく、そうした手合いに、どういう芸当ができるかはスビアもよく知っていたから、たちどころに、彼女はいま自分がどんなに重大な危険にさらされているかを悟った。
いきなりタリオの手をふり払って、スビアは一歩身を引いた。だがスビアの肩にちょっとさわっただけで、タリオは永らく埋もれていた情熱の火をかき立てられていた。
喉《のど》にこもったような叫び声をあげて、タリオはスビアにとびかかり抱きすくめようとした。
「女よ!」と口説《くど》きにかかった。「美しい女よ! そなたはロサールの女王になるのだ。聞くがよい! バルスーム最後の皇帝が、そなたを愛するというのだ」
スビアは身をもがいてタリオを振りきった。
「やめて、けがらわしい! そんなことを聞く耳はもちません。わたくしにさわると声をたてますよ!」
タリオは笑いだした。
「声をたてるだと?」とあざけった。「その声を聞きつけて誰がくるのだ? この広いロサールに、そのようなものは、ひとりもおらぬぞ。余《よ》が呼ばぬ限り、この部屋にくるものは誰ひとりいないのだ」
「います。あのひとがきて、プタースの王女に無礼《ぶれい》が加えられたと知れば、玉座の上ででも、あなたを斬ってすてるのです」
「誰のことだ? ジャブか?」
「ジャブみたいなふやけたロサール人とはちがいます。勇士の中の勇士、ヘリウムのカーソリスのことです」
タリオはまたあざ笑った。
「そなたは弓兵のことを忘れている。余が無数の弓兵の前に赤色人の戦士のごときなにができよう」
タリオは手荒にスビアをつかまえると寝椅子のほうにひきずった。
「余の妃《きさき》になるのがいやならば余の奴隷になるのだ」
「理不尽《りふじん》な!」
スビアの手に短剣がひらめいた。タリオは両手を左の脇腹《わきばら》にあててよろめいた。とたんに広間は弓兵にみたされた。ロサールの皇帝は気を失って大理石の床に倒れた。
タリオが昏倒《こんとう》する瞬間、弓兵たちはスビアの胸をねらって弓を引きしぼっていた。われ知らずスビアは救いを求める叫び声をあげた。もうこうなっては、たとえヘリウムのカーソリスでも自分を救うことはできないと知りつつも。
スビアは目をつぶって死を待った。だが矢は飛んでこない。弓兵たちは、なぜ死刑執行の手を休めたのか。彼女はそっと目をひらいた。
弓兵たちは消えうせていた。広い部屋の中には、足もとにじっと動かないロサール皇帝が横たわっているばかりで、そのかたわらの白い大理石を真紅《しんく》に染めて血がたまっている。タリオは意識を失っていた。
スビアは、あっけにとられた。弓兵はどこに行ったのだろう? どうして矢を放たなかったのだろう? これは、いったいどうしたことなのか?
いずこからともなく出現した弓兵たちにこの部屋がみたされたのは、ほんの一瞬前のこと。あれは皇帝の急を救うために非常召集されたものにちがいない。それだのに彼らは、スビアの実力行使の証拠を目《ま》のあたりにしながら、出現のときと同じように忽然《こつぜん》と消えうせてしまった。スビアの鋭利な短剣に刺された主君をそのままにして消えてしまったのだ。
スビアは不安げにあたりを見まわした。弓兵隊がもどってくる気配はないかと耳をそばだて、どこかに逃げ道はないものかとさがした。
玉座のうしろに厚いカーテンのかかった二つの出入口がある。その一つをさして走り出したとき、背後から戦士の金属の装具のひびきが聞こえてきた。
もう二、三秒早ければ戸口にたどりつけたのだ。ひょっとしたらカーテンのうしろに脱出路が見つかったのかも知れない。だが、もう遅い。見つけられてしまった!
全身から力が抜けてゆくような感じに襲われて、スビアはふり返った。見ると長剣をひらめかせ、広間をつっきって駆けつけてくるのはカーソリスではないか。
幾日ものあいだ、スビアはカーソリスの真意をはかりかねていた。誘拐の黒幕ではないのかと疑っていた。運命がふたりをこの谷に孤立させたあとも、カーソリスにはお座なりの口しかきかなかった。そのつつしみを忘れたのは、ロサール城外の怪奇な現象を見て度をうしなったときだけである。
ヘリウムのカーソリスが自分を守って戦ってくれるということは疑わなかった。しかしそれがカーソリス自身のためなのか、それとも自分の未来の夫として決まっているケオル皇帝のためなのかとなると疑わしい。
スビアがケオルのクーラン・ティス皇帝と婚約していることはカーソリスも知っているし、クーラン・ティスはカーソリスの親友である。しかし、もしカーソリスが誘拐の張本人であれば、友情を重んじたり王女の名誉を守ったりしていては、なにもならないわけだ。
とはいうものの、いま現に、澄んだ瞳を憂いにかげらせ、ロサール皇帝の玉座の間の大理石の床を蹴って走り寄る、尚武《しょうぶ》の火星にも並ぶかたなき戦士の華《はな》、カーソリス王子の英姿《えいし》を目《ま》のあたりにしては、このような雄々《おお》しい外見の内に卑劣な考えのかけらさえもひそんでいるはずはないとスビアは思うのだった。
ひとの姿を見て、これほどに嬉しい思いをしたことは、スビアには、かつてないことであった。だからカーソリスのもとに走り寄りたい気持を押えるのは、なまやさしいことではなかった。
カーソリスが自分を愛していることはわかっていた。しかし自分がクーラン・ティスといいかわした身であることを思い出して、ようやくスビアは自分をおさえた。カーソリスに嬉しそうな顔を見せすぎてもいけないのだ。それすら誤解されるおそれがある。
カーソリスはスビアのそばに駆け寄った。何事が起こったのか、あらかたはすでに目ざとく読みとっていた。床にのびて動かないタリオ。カーテンのかげに逃がれようとしていたスビア。
「お怪我《けが》は、スビア?」カーソリスはたずねた。
彼女は血に染まった短剣を見せた。
「いえ、わたくしに怪我はありません」
カーソリスの顔に、ぱっと微笑が浮かんだ。
「ほんとによかった。じゃ、この呪《のろ》われた街から退散する道をさがしましょう。皇帝が殺されたことがロサール人たちにわかる前に」
カーソリスは、バージニアのジョン・カーターとヘリウムのデジャー・ソリスから受けついだ高貴な血にふさわしい毅然《きぜん》たる態度で、さきにジャブといっしょに出たのと同じ広い戸口のほうへスビアの手をとって導いた。
その戸口にさしかかろうとしたとき、別の入口から広間にとびこんできた男がいる。ジャブである。彼も一目《ひとめ》でその場の情況を見てとった。
カーソリスは手に長剣を構え、たくましい背のかげに、ほっそりとした王女をかばいながら、ジャブにむかって叫んだ。
「かかってこい、ロサールのジャブ! プタースのスビア姫を連れて、生きてこの部屋を出るのは誰か、たったいま決着をつけようではないか」しかし、相手が剣を帯びていないのを見るや、「弓兵を呼び出してもよいぞ。戦うのがいやなら降参して、われわれが無事に城外に立ちのくまでぼくの捕虜になれ」
「殺されている!」ジャブはカーソリスの挑戦を無視して驚愕の叫びをあげた。「タリオが殺されている、血を流して! 現実の血だ――現実に死んだのだ。してみると、タリオもわしと同じように現実の五体を備えていたのだ。しかるにタリオは超現実論者であった。栄養を具象化せずに生きていた。それでも現実の生命を保っていたのか? 超現実論は正しかったのか? いや、いや、現実論もまた正しい。超現実論者が現実の死をとげているからにはな。どちらの理論もまちがってはいなかったのだ。それをわしらは大昔から、たがいの理論を否定しあって論争をつづけていたのだ。
しかし、とにかくタリオは死んだ。ありがたい。これでジャブも芽が出る。ジャブがロサールの皇帝になるのだ」
そのときタリオが、かっと目を見開いてむっくり起きあがった。
「裏切者め! 人殺し!」と金切り声をあげた。「カダール! カダール!」これはバルスーム語で衛兵という意味である。
ジャブはまっ青になった。がばっと平伏《へいふく》するとタリオのほうににじり寄る。
「陛下、皇帝陛下!」とあわれっぽく訴えた。「ジャブはなにもいたしておりませぬ。ジャブは、陛下の忠僕《ちゅうぼく》たるこのジャブは、たったいまここに参ったばかりでございます。するとタリオさまが床にお倒れ遊ばしており、ふたりの外国人が逃げ出そうとしているところだったのでございます。お信じください、タリオさま」
「だまれ、悪党!」タリオはどなりつけた。「汝《なんじ》の言い草は聞いたぞ。『とにかくタリオは死んだ。ありがたい。これでジャブも芽が出る。ジャブがロサールの皇帝になるのだ』とうとう本性をあらわしおったな、裏切者め。汝の不遜《ふそん》の言辞《げんじ》の死に値すること、この赤色人どもの悪党の所業と同然である。しかしだな」とひと息入れて、「しかし、この女がだな……」
言葉はそこで切れた。カーソリスが先を読んで、それ以上いわせなかったのだ。一躍《いちやく》してカーソリスはとびかかり、平手《ひらて》でしたたかにタリオの口元をなぐった。
タリオは憤怒と屈辱に身をふるわせた。
「これ以上プタースの王女に無礼を働こうものなら」カーソリスは大喝した。「きさまが丸腰だということを忘れてしまうぞ――この剣を持ったむずむずする手を、いつまでもおとなしくさせておくわけにはいかないのだ」
タリオは玉座のうしろの出入口のほうへしりごみした。なにかしゃべろうとするのだが、激昂《げっこう》のあまり顔面の筋肉が猛烈に痙攣《けいれん》して、数分のあいだ、ひと言《こと》も口をきけない。そのあげくに、やっとのことで声を出した。
「死ね!」と金切り声をあげた。「死ね!」ともう一度叫ぶと、背後の出入口にむかった。
ジャブは恐怖の叫びをあげてとびあがった。
「お慈悲を、タリオ陛下、お情けを! 永年、陛下につくした忠誠に免《めん》じ、ロサールにつくした功績に免じてお許しください! 恐ろしい死にかたをさせないでください! お助けください、どうぞお助けを」
しかし、タリオはあざけるように笑っただけで、カーテンのかかった小さい戸口のほうへさがりつづけた。
ジャブはカーソリスにむきなおった。
「タリオをとめてくれ!」と叫んだ。「ひきとめてくれ! 命が可愛ければ、タリオを部屋から出してはいかん!」そういいながら皇帝の後を追った。
カーソリスもそれにならった。しかし「バルスーム最後の皇帝」は、彼らよりも速かった。タリオが姿を消したカーテンをカーソリスがめくってみると、そのむこうは重い石の扉でとざされている。
ジャブはふるえながら、へたへたとすわりこむ。
「しっかりしたまえ!」カーソリスが叱咤《しった》した。「まだわれわれは死んではいないのだ。さあ、早くここを出て城外に立ちのく道をさがそう。われわれはまだ生きているんだ。生きているかぎりは、自分の運命は自分で切り開くんだ。そう床にぐにゃぐにゃになっていても、なんにもならない。さあ、男らしく!」
しかし、ジャブは頭をふるばかりであった。
「衛兵を呼んだのが耳にはいらなかったのかね?」と嘆いた。「ああ、ひきとめてさえいたら! そうしたら望みもあったのだが。だが逃がしてしまった」
「それがどうしたんだ」カーソリスはじれったそうにいった。「衛兵を呼んだからって、どうってことはない。いよいよやってきてから心配しても遅くはない。それに衛兵どもが大急ぎで駆けつけてくる気配なんかないじゃないか」
ジャブは悲しげに頭をふった。
「わかっていないのだな。衛兵たちは、もうきたのだよ。そして任務を果たして行ってしまったのだ。もうどうにもならない。この部屋の出入口がみんなどうなっているか見てごろうじろ」
カーソリスとスビアは広間のいくつかの出入口を見まわした。ことごとく巨大な石の扉で、ぴったり閉ざされている。
「それで?」とカーソリス。
「この世とおさらばじゃ」ジャブは蚊のなくような声を出した。
それ以上は、なにもいおうとはしなかった。ジャブは寝椅子のふちに腰をおろして、ただじっとしている。
カーソリスはスビアのそばに寄って抜身《ぬきみ》の剣を手に、不意打ちを食らわぬように、広間のあちこちに油断なく目をくばった。
何時間とも思われる長い時間がたったが、広間は墓場のようにただしーんとしている。いつ、どのようにして殺されるのか見当がつかない。耐えがたい緊迫感《きんぱくかん》。さすがにヘリウムのカーソリスも気がたってきた。どこからどのように死神が手をくだすのかがわかってさえいれば、敢然《かんぜん》として立ちむかうこともできよう。しかし死刑執行人のもくろみがまるでわからないままに、じりじりしながら待ち受けて神経をすりへらすというのはやりきれない。
スビアはカーソリスに、ぴったりより添っていた。彼の腕にさわっていると心丈夫であった。カーソリスのほうも、彼女にさわられていると新たな勇気が湧く。例によって不敵な微笑をうかべてスビアをふり返った。
「俗に死ぬほどこわいといいますが、やつは、ぼくたちをこわがらせて殺そうというつもりなのかな」と笑った。「まんまとその手に乗るところでしたよ、お恥かしいながら」
スビアがなにかいおうとしたとき、ジャブが悲鳴をあげた。
「いよいよおしまいだ!」とわめいた。「床が、床が動きだした! お憐《あわれ》みくだされ、コーマルさま」
スビアもカーソリスも、床をわざわざ見るまでもなく、奇怪な変化が起こっていることをすぐに感づいた。
徐々《じょじょ》に、大理石の床石がいっせいに広間の中央にむかって傾きだした。初めその動きはゆるやかでほとんど気がつかないくらいのものであったが、しだいに傾斜が急になって、片方の膝《ひざ》を折らなくては立っていられないほどになった。
ジャブは悲鳴をあげて寝椅子にしがみついていたが、その椅子さえ、すでに滑り出している。そして広間の中央には、いつのまにかぽっかりと小さな穴があき、床全体がじょうご形にくぼんでいくにつれて、次第にその穴が広がっていくのであった。
磨《みが》きあげたなめらかな大理石の斜面に頑張っているのが、いよいよむずかしくなってきた。カーソリスはスビアを支えようとしたが、彼自身が、ますます大きくなる穴のほうへずり落ちていくしまつ。
足がかりのいいようにカーソリスはジティダール皮のサンダルを脱ぎすてて、素足《すあし》で急傾斜の床をふんばりながらスビアのからだに腕をまわして必死に支えた。
スビアは、すっかり度を失ってカーソリスの首につかまっていた。頬と頬が触れあわんばかりだ。刻々《こくこく》と姿なき死が迫る。どのような形で死が襲いかかるのかわからないが、それだけに恐ろしさはいうまでもない。
「勇気を出して、ぼくの王女さま」カーソリスはささやいた。
スビアは男の顔を見あげた。男は口もとに不敵な微笑をうかべ、おそれを知らぬ雄々しい瞳で、じっと彼女の目を見つめている。
床の傾きがにわかに速くなった。なだれをうって三人は穴の中へ転落した。
ジャブが聞くも恐ろしい叫び声をあげた。しかし気がついてみると、三人は穴につかえた寝椅子の上に折り重なってのっていた。
ほっと一息《ひといき》ついたのも束《つか》の間《ま》、穴はぐんぐん広がっていく。ついに寝椅子がはずれ落ちた。ジャブがまた絶叫した。暗闇の中を、未知の死の待ち受ける奈落《ならく》の底にまっしぐらに落ちていくというのは総毛だつようないやな感じであった。
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九 平原の戦い
墜落の距離はたいしたことはなかったらしく、タリオの怒りを買って穴に落とされた三人は、怪我もなく広間の真下の部屋の床に着いてしまった。
カーソリスはしっかりスビアを抱いたまま、膝《ひざ》のバネをきかして着地の衝撃をやわらげて猫のようにおり立った。ざらざらした石の床に足がつくやいなや、長剣を抜き払って身構えた。部屋は思いのほか明るい。しかしあたりに敵の気配はない。
カーソリスはジャブをふりむいた。こちらはおびえきって顔色《がんしょく》がない。
「これからどういうことになるんだ?」とたずねた。「話してくれ! さあ、しゃんとなって話してくれ! 相手の正体がわかれば、ぼくもプタースの王女も、死ぬ前に目にもの見せてやるのだが」
「コーマルさま!」ジャブがやっと答えた。「コーマルさまに食われてしまうのだ!」
「ロサールの神様だね?」とカーソリス。
ジャブはうなずいた。そして部屋の奥の低い戸口を指さした。
「あそこからお出ましになる。そんなちゃちな剣などしまってくだされ。コーマルさまを怒らせてもなんの得もない。こっちの苦しみが、ひどくなるばかりだ」
カーソリスは、にっこり笑って長剣の柄をぐっと握りなおした。
やがてジャブが恐怖のうめきをあげた。ふるえる指で戸口をさして、
「いよいよお出ましだ」と泣き声を出した。
カーソリスとスビアは、その指さすかたに目を凝《こ》らした。人間の形をした身の毛のよだつ悪鬼《あっき》でも出てくるのか。しかし驚いたことに、姿を現わしたのは、ふさふさとたてがみを波打たせ、重々しく頭をふりたてた一頭の巨大なバンスであった。これほど大きなバンスは、ふたりとも見たことがない。
ゆっくりと、威厳のある足どりで巨獣は近づいてくる。ジャブはひれ伏して、タリオに謁見《えっけん》するときの、あのみっともないやりかたで床をはい出した。そして人間にでも訴えかけるように憐みを乞うている。
カーソリスは王女をかばって一歩ふみ出し、いざ雌雄《しゆう》を決せん、とばかり剣を構えた。
スビアはジャブのほうをふりむいた。
「これがあなたがたの神、コーマルさまなの?」
ジャブはうなずいた。スビアはにっこり笑ってカーソリスを越すと、無気味な唸りをあげている巨獣のほうへすたすたと歩みよった。
ひくい、しっかりした声で、彼女はバンスに話しかけた。黄金の崖やロサール城外のバンスどもをおとなしくさせたのと同じ要領である。
バンスは唸るのをやめた。頭をさげ、猫のように喉を鳴らしながら王女の足もとにすり寄ってきた。彼女はカーソリスをふりむいて、「ただのバンスよ」といった。「なにもこわいことはありません」
カーソリスは微笑していた。
「べつにこわくはありませんでした」と答えた。「ぼくも、ただのバンスだろうと思っていましたからね。この剣がある以上、バンスなどおそれはしません」
ジャブは身を起こして意外な光景に目を見はっていた。神とあがめていた巨大なバンスが、ほっそりした美少女にたてがみをおもちゃにされるのにまかせて、鼻づらをこすりつけて甘えているのだ。
「これがあなたがたの神様なの!」スビアは笑った。
ジャブは途方にくれてしまった。コーマルさまを怒らせるようなことを口にしてもいいものかどうか。迷信の力はまことに根づよいものがある。あがめていたものがにせの神であったとわかった後も、あばかれた真実を認めることがためらわれるのだ。
「そうだよ」とジャブ。「これがコーマルさまだ。大昔からタリオの敵は、みんなここに放りこまれて食べられてしまった。コーマルさまには、どうしても生贄《いけにえ》を捧げなくてはならないというのでね」
「この部屋からそとに出る道は?」カーソリスがたずねた。
「知らん。この部屋にはいったのは、これが初めてなもんで。はいりたいと思ったこともないしな」
「じゃあ探検しましょうよ」スビアがいった。「きっとあるにちがいないわ」
三人いっしょにコーマルのはいってきた戸口を抜けると、むこうはふだんコーマルの住んでいる天井のひくい部屋になっていて、その外れに大きなドアが見える。
ありがたいことに、ドアには普通の掛け金がかかっているだけで、すぐにあいた。ドアをくぐると、まわりに幾段もの観客席をめぐらした円形の闘技場に出た。
「公衆の面前で生贄を捧げるときに使う場所だよ」ジャブが説明した。「本来なら、わしらはここにひき立てられたはずなのだが、タリオはきみの剣におそれをなして、あの部屋に落としたのだ。しかしあの部屋が、こんなふうに闘技場につづいているとは知らなかったな。これで外に出る道がわかった。城門へもじきに行ける。弓兵どもが邪魔だてするだろうが、正体を知っているわしらには、ききめがありますまい」
一行は闘技場と客席の仕切り壁のドアをくぐって、ベンチのあいだの階段をのぼった。客席のうしろにまたドアがあって、そこを出ると広い廊下である。そのはずれには、もう宮殿の庭が見えている。
コーマルを連れた王女の一行をとがめだてするものは、ひとりもいなかった。
「この宮殿でタリオに仕えている連中はどこにいるのだろう?」とカーソリスは人気《ひとけ》のないのをいぶかった。「街の中でも、ほとんどひとに会わなかった。これほどの大都会だ、よほどの人口のはずなのだが」
ジャブは嘆息をもらした。
「哀れなロサール。このロサールは実は幽霊の都にすぎないのだ。かつて何百万といた人口のうち生き残ったのは千人にみたない。われわれが脳裏《のうり》にえがく群集の映像で、むなしくにぎわっているだけでな。わしらはその映像をわざわざ具象化はしないけれども、この目には見えるのだ。
こうして話しているいまだって、この大通りには日々の仕事に追われて東西に急ぎ南北に走る群衆の姿が見える。家々のバルコニーには笑いさざめく子供たち、女たち。これを具象化することは禁じられている。だが、わしの目にはありありと見える。ありありと。禁じられている? なにをいっているんだ」ジャブはひとりごとのように、ぶつぶついいはじめた。「タリオがなんだ。タリオは奥の手を出したが、それでも、どうすることもできなかったではないか。なにを遠慮することがある」
ジャブはいきなり立ち止った。
「どうだね、一つ、全盛時代のロサールをお目にかけようか?」
カーソリスとスビアは、ジャブのひとりごとがすっかりのみこめたわけではなかったが、せっかくの申し出なので、どうぞ、とうなずいた。
ジャブはしばらくふたりをじっと見つめていたが、手をひらりと一振《ひとふ》り、
「ごらんなされ!」と叫んだ。
眼前の光景は畏怖《いふ》の念をよびおこすような変貌をとげていた。街路も緋《ひ》の芝生も、もはや無人の境ではなく、家々の窓も玄関口も空虚ではなかった。至るところ、数知れぬ快活なひとびとに満ち、笑い声にあふれているのだ。
「過去のロサールだ」ジャブは、ひくい声でいった。「彼らにわしらの姿は見えない。これは古代ロサールの、亡び去った過去なのだ。場所もここではなくて、五大洋の雄たるスロクサス海の岸辺に栄え、いまは瓦礫《がれき》と化したロサールの旧都。
見えるかね、大通りを闊歩《かっぽ》しているあの凛々《りり》しい男たちが? 若い女たちがほほえみかけている。それに答えて、やさしく、折目《おりめ》正しく挨拶を返している。あの男たちは船乗りだ。町はずれの波止場に船がついたのだ。
雄々しい男たち。しかしロサールの光栄は失《う》せてしまった! あの男たちが武器を帯びているのが見えるね? 船乗りだけが武装していたのだよ。五つの海をこえて危険にみちた異国におもむくあの男たちだけが。
しかしこの勇者たちがいなくなるとともにロサールの尚武《しょうぶ》の気性《きしょう》は失われた。時がたち、ロサールには腰抜けしかいないようになってしまった。
わしらは戦争を忌《い》み嫌った。だから子弟に戦うすべを教えなかった。それがロサールの命とりとなってしもうた。海が干あがり、緑色人どもの侵略をうけたとき、ひたすら逃げるほかなすところを知らなかった。
しかしわしらは、栄光の時代の、海原《うなばら》を行くあの弓兵たちのことをいまも忘れはせん。そしてこの記憶なのだよ、敵に襲われたときにわしらがなげつけてやるのは」
ジャブが口をつぐむと、古代のにぎわいは夢のように消えた。三人は人気のない街路を、はるかかなたの城門をさしてまた歩き出した。
途中、二度だけ本物のロサール人に出会った。しかし巨大なバンスを連れた一行の姿を見るや、しかもそれがコーマルさまだと気がつくと、すぐに身をひるがえして逃げてしまった。
「あの連中は、われわれのことをタリオに注進するにちがいない」ジャブがいった。「するとタリオが弓兵をさしむけるということになる。しかし、わしらは弓兵が幻《まぽろし》だということを知っておるから、理論的には弓兵の放った矢も効き目がないはずだ。うまく理屈どおりに行くとよいが。さもなければ万事休すじゃ。
このご婦人に、さっき話したことを説明してあげてくだされ。真相を知っていれば、優勢な反対暗示の免疫力によって、幻の飛び道具にたちむかえるわけだからね」
カーソリスは、いわれたとおりにした。しかし城門にたどりつくまで追手《おって》の気配はなかった。ジャブが開扉《かいひ》装置を操って車輪状の扉をころがし、三人はバンスを連れてロサール城外の平原に出た。
だが一〇〇メートルと街を離れぬうちに、背後から喚声《かんせい》をあげる戦士たちの声が聞こえてきた。ふり向くと、いま出てきたばかりの城門から一隊の弓兵たちが出撃してくるところだった。
城壁の上にはたくさんのロサール人が出ているが、それにまじってタリオがいるのをジャブは認めた。皇帝はこちらをにらみつけて、鍛《きた》え上げた念力のありったけを集中して、恐るべき映像を三人の上にぶっつけようとしている。
ジャブは青くなってふるえ出した。さすがの現実論者も、いざとなってみると自信をなくしてしまったらしい。コーマルは接近する弓兵隊のほうへむきなおって唸《うな》り声をあげた。カーソリスは背にスビアをかばって敵襲を待った。
突如として、カーソリスに霊感《れいかん》がひらめいた。
「ジャブ、あなたもタリオに向けて弓兵をぶっつけてやりなさい! 思念と思念の格闘を具象化するんだ!」
この思いつきに、ジャブは元気をとりもどしたようだった。一瞬のうちに三人の前面に弓兵の大部隊が出現し、城門から打って出る敵に威嚇《いかく》と嘲罵《ちょうば》の叫びを浴びせかけた。
自分の手兵がタリオと自分のあいだに出現するのを見て、ジャブは生色《せいしょく》をとりもどした。奇怪な暗示力の産物にすぎない弓兵どもが、ジャブにはまるで血肉《ちにく》のある本物の部下のように思えるらしい。
怒号とともにジャブの弓兵隊は、タリオの弓兵隊にむかって攻撃に移った。両軍の射《い》かわす矢が雨あられのように空を切る。死傷者が続出し大地は朱《あけ》にそまる。
カーソリスもスビアも、この戦いの実体は知っているのだが、それにしても真に迫る激戦で、見ていても気が変になりそうだった。三人を捕えるためにタリオがさしむけた先遣《せんけん》部隊が劣勢になると、中隊《ユータン》また中隊《ユータン》と完璧な隊伍を組んだ増援隊が城門からくり出される。
敵の数がふえるにつれて、ジャブも手兵を増強して応戦した。ついにはあたり一面、阿鼻叫喚《あびきょうかん》の修羅場《しゅらば》と化して戦死者が累々と横たわった。
ジャブもタリオも、森と城壁のあいだの平原を埋めつくして凄惨《せいさん》な戦いを展開する弓兵以外には、ほかのことは念頭にないらしい。
もう森はすぐうしろである。カーソリスはジャブにちらりと目をやって、スビアにささやいた。
「さあ、幻の戦争は連中にまかせて出かけましょう。放っておいても大丈夫です。これは論客《ろんきゃく》が言葉をぶっつけ合っているようなもので、誰にも怪我はない。連中が戦争ごっこに精を出しているあいだに、ぼくらはこの谷を抜け出す地下道をさがし出すことにしましょう」
その言葉が、一瞬、戦場から目をそらせて一息入れていたジャブの耳にはいった。スビアはカーソリスのほうに寄って行く。それを見て、狡猾《こうかつ》な表情がジャブの目に浮かんだ。
その表情のかげにひそんでいるものは、初めて王女の姿に目をとめたとき以来ジャブの心底にわだかまっていたものであった。その暗い情念は、いままでは自覚されていなかった。しかし、いまスビアが二度と手のとどかないところに去ろうとするのを見て、ジャブは自己の本心をはっきりと知った。
彼は一瞬、ふたりの上に思念を凝《こ》らした。
カーソリスの目に意外なことが映った。スビアが手をさしのべて寄ってくる。だしぬけに、そんな親しみを見せられて驚いたものの悪い気はしない。その手をとって、カーソリスは、ロサールの古都を背に歩き出し、遠い絶壁をさして森にわけ入った。
いっぽう、スビアの耳にも意外なことが聞こえていた。だしぬけにカーソリスが、まるで別な計画をいい出したのである。
「ジャブといっしょに、ここにいなさい。ぼくは地下道をさがしてきますから」そういって、すたすたと行ってしまった。
スビアは驚き、かつがっかりして、その場に残った。いっしょに行ってはいけないという理由はないはずなのだ。どうみてもカーソリスといっしょのほうが、ロサール人とふたりきりでとり残されるよりよほど安全なのに。
そんなふたりを、ジャブはずるそうにほくそ笑みながら見ていた。
カーソリスが森の中に姿を消すと、スビアは気抜けしたように緋色の芝にすわって、いつ果てるとも知れぬ平原の戦いにぼんやりと見いった。
長い午後であった。日がようやく西に傾くころになっても、幻の弓兵隊は突撃と後退をくり返していた。日没の直前、タリオは徐々に城内に手兵をひきあげはじめた。
翌朝まで、ひとまず勝負はお預けという肚《はら》らしい。ジャブもこれには一も二もなく賛成とみえて、自分の手勢を中隊《ユータン》ごとにまとめて整然と森のはずれに撤退させた。
ただちに弓兵たちは野営の準備にとりかかった。てきぱきと食事を整えたり、絹や毛皮の寝具を広げたりする芸の細かさは、幻の軍隊とはとても思えないあっぱれなものであった。見ていてスビアは、おかしくなってしまった。
野営地の前面には歩哨《ほしょう》が配置される。将校たちは装具をがちゃつかせて歩きまわりながら、命令をくだしたり巡察《じゅんさつ》したりしている。
スビアはジャブをふりむいた。
「どうしてこんなことをするのです? 想像上の軍隊ということはタリオにもわかっているのですから、こんなに細かいところまできちんとする必要はないではありませんか。またこのつぎ必要になるときまで、そっくり宙に消してしまえばいいのに」
「いやいや、そういうものではござらぬ」とジャブ。「ああやって動きまわっているあいだは、連中も本物の人間と同じなのだ。わしは軍隊を出現させて、全軍を掌握《しょうあく》させているが、消滅させるまで将兵は現実に生きておる、あなたやわしと同じようにな。大筋はわしが押えているが、個々の兵士は将校の命令で動いている。つまりわしの立場は総司令官というわけで、細かいことは連中に勝手にやらせているのじゃ。そしてこのやり方のほうが、連中をただの暗示の産物として扱うよりも、敵に与える心理的効果がずっと大きい。
そのうえ、ああいうふうに一人前の人間として生かしておけば、いつか、幻が現実に定着することがあるかもしれない。つまり、軍隊を解散させたあとも、宙に消えずに現実の人間として生き残るものがでてくるのではないかと、昔からわしらは、そう期待しておるのだよ。ただの期待というよりは、もうこれは一つの信念だがね、わしらにとっては。もしこれが実現すれば、滅びゆくわが種族も永久に絶滅をまぬかれることになる。
すでにこれをなしとげたと称するものもいることはいる。超現実派のうちの幾人かは、そういうふうに幻影が永続的に具象化された存在であると一般に信じられておるのだ。タリオ自身もそのような存在であるという話まであるが、これは眉《まゆ》つばだな。タリオは、わしらが暗示能力を開発する以前の大昔からいたからな。
また、わしらロサール人が、実はひとりとして、現実の存在ではないのだと説くものもおる。もし現実の存在なら、何万年ものあいだ現実の食物や水をとらずに生きてこられたはずがない、というわけさ。わしは現実論者だが、内心、その説ももっともだと思っておるよ。
というのは、そのような考えが、古代ロサール人についてわしらの信じるところとぴったり合うのでな。わしらの古い祖先は、絶滅に瀕したとき、思念能力を高度に発達させて生き抜いた。肉体的な死が迫ったときに弱い精神は滅んだが、強い精神はそれに耐え抜いた。つまりわしらは、何万年も前に死んだ古代人の不死の精神なんじゃ。
理屈はなるほどそうかもしれぬ。しかしわし自身のことをいえば、わしは現実の人間と少しも変わらん。食事をとるし、眠りもする。そして」と思わせぶりな目つきになって、「愛することも知っている!」
スビアは相手の言葉と目つきが、なにをほのめかしているのか、すぐに悟った。けがらわしい、というふうに眉《まゆ》をひそめた。ジャブもその反応をすぐに読みとって、そばにくると、彼女の腕をつかまえた。
「どうしてこのわしではいけないのだ? 世界最古の種族の第二人者たるこのジャブが相手でなんの不足があろう? カーソリスのほうがいいとおっしゃるのか? しかしあの男は行ってしまった。あなたを捨てて行ってしまったのだ。あなたはジャブのものになるのだ!」
スビアはすっくと立ちあがった。肩をそびやかし、頭をつんとそらせ、くちびるにさげすみの色を浮かべた。
「うそです!」と静かにいった。「カーソリスは恐れを知らない以上に不実ということを知らないひとです。そしてあのひとは、まだこの世に生まれていない子供以上に、恐れということを知らないのです」
「そのカーソリスがどこにいる?」ジャブはあざけった。「逃げてしまったではないか。あなたを見捨てて行ってしまったんだ。しかし、このジャブがちゃんと面倒をみて進ぜよう。あす、わしらは勝利の軍隊をしたがえてロサールに凱旋《がいせん》するのだ。わしが皇帝になり、あなたは妃《きさき》になるのだ。さあ」とひき寄せようとした。
スビアは金属の腕輪をはめた手で相手を打って身をふりほどこうとした。しかし、ジャブはなおも抱きよせようとする。そのときであった、突然、恐ろしい咆哮《ほうこう》とともに、うしろの暗い森から巨大な獣が襲いかかってきたのは。
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十 弓兵隊|司令官《オドワール》カール・コマック
カーソリスは、スビアにしっかり手をとられたまま森の中を断崖のほうへ歩きつづけた。彼女が黙りこくっているのがへんだとは思ったが、ひんやりする掌《てのひら》の感触がいい気持だし、うっかり口をきくと、はからずも自分がすっかり頼りにされているという夢見心地の状態がこわれてしまいそうなので、こちらも黙っていた。
足をとめずに小暗い森の中を進むうちに、つるべ落としの火星の日が暮れて、夕闇があたりに垂れこめてきた。カーソリスは並んで歩いているスビアのほうをふりむいた。
これからのことを話しあわなくてはならない。カーソリスの計画は、地下道の入口を見つけしだい大絶壁のむこうに出てしまおう、というのであった。地下道まで、もうさほど遠くはないはずだ。しかし一応スビアの考えも聞いておいたほうがよい。
スビアに目をとめると、カーソリスは面くらった。妙に影がうすいのだ。しかもその姿が、だんだん透きとおってゆく。目を見張っている面前で、スビアの姿はついには夢のようにかき消えてしまった。
カーソリスは唖然《あぜん》となったが、一瞬のうちに真相が頭にひらめいた。ジャブの仕わざだ。自分にはスビアがいっしょに森に行くという暗示をかけておいて、その実、本人を手もとに引きとめたのだ。
カーソリスは慄然《りつぜん》とした。自分の間抜けさ加減に腹を立てた。ジャブの恐ろしい暗示力にかかっては、どんな人間でも一杯食わされたにちがいないことはわかっていたが。
真相を悟るやいなやカーソリスは父親ゆずりの地球人の筋肉にものをいわせ、ロサールめざして、柔らかい落葉と雑草の森の小径《こみち》を飛ぶようにひき返した。
森を出ると、近いほうの月サリア衛星の明るい光を浴びて平原が広がり、そのむこうに、昼間、脱出したロサールの大きな城門が見える。
ひとわたり見わたしたところ、あたりには誰もいないらしい。平原は無人の野と化して、巨木の陰に野営していた弓兵の大軍も消えうせている。美しい緋色の芝生をけがして累々と横たわっていた戦死者の姿もない。すべてはしんと静まり返り、すべてはひっそりと動かない。
カーソリスは森のはずれにちょっと足をとめただけで城壁めざして走りかけたが、ふと足もとの草むらに、なにやらころがっているのに気がついた。
うつぶせに男がひとり倒れている。カーソリスはそれを仰向《あおむ》けにした。ほとんど見わけがつかないくらい、ずたずたに切り裂かれているが、よく見るとまさしくジャブだ。
カーソリスはかがみこんで、まだ息があるかどうかを見ようとした。するとジャブが生気《せいき》のない目をひらいて、苦しげにカーソリスを見あげた。
「プタースの王女はどこだ?」カーソリスはどなった。「どこに行ったか話せ! 話さないと息の根をとめてしまうぞ」
「コーマルが」とジャブのくちびるから声がもれた――「とびかかってきた……王女のおかげで……食われずにすんだ……王女は……コーマルを連れて……森の中に……たてがみに指をからませて」
「どっちに行った?」
「あっちだ」かぼそい声でジャブは答えた。「谷を抜ける、地下道のほう」
それだけ聞くとカーソリスははねおきて森の中に駆けもどった。
幽鬼《ゆうき》の追憶と奇怪な幻覚の谷から外の世界に抜け出る地下道の暗い入口についたのは、もう夜明けであった。
長い、暗いトンネルをべつになんの邪魔にもあわず通り抜けて、朝の光に輝きわたる大絶壁の外の世界に出た。ここからトルクワス族の領土の南端まで、たいしたことはなく、せいぜい一五〇ハアドくらいなものだ。その先、アアンソールの廃都《はいと》までは、さらに二〇〇ハアドほどだ。だから、地球の距離単位になおして約一五〇マイル行けばアアンソールに着くわけである。
プタースの王女の落ちのびて行く先はアアンソールであろうとカーソリスは見当をつけた。そこが飲み水の手に入る一番近い場所なのだ。それにアアンソールにいれば、彼女の父のプタース帝国の捜索隊に、いつかは見つけてもらえるという望みもある。
スパン・ディーン皇帝の気性をカーソリスはよく知っている。誘拐事件を徹底的に究明《きゅうめい》して、草の根をわけても愛娘《まなむすめ》の行方をつきとめずにはおくまい。
嫌疑が自分にかかるように敵が一芝居打っているために、事件の真相をつきとめるまでにはかなり手間取るだろう。そのことは、むろんカーソリスも承知の上だった。しかしデュサールのアストック王子の奸策《かんさく》によってひき起こされた国際間の危機が、いまや途方もない規模で進展しつつあるということは、彼の夢にも知らないことであった。
カーソリスがトンネルの出口に姿を現わしてアアンソールのかたを見はるかしていたころ、すでにプタース戦闘艦隊の先発はヘリウムの双子都市の攻撃目ざして堂々と発進していたのであり、遠いケオル帝国からも、プタース海軍に合流すべく大艦隊が急行中だったのである。
カーソリスの知らぬ間《ま》に、情勢は悪化の一途をたどっていた。いまはヘリウム国民でさえも、プタースの王女を誘拐したのはカーソリスではないかと疑いはじめていた。火星東半球の三大国であるヘリウム、プタース、ケオルのあいだの友好と同盟関係は、デュサール人の策謀によって引き裂かれてしまっていた。
これら三大国の外交関係の要路にはデュサールのスパイがはいりこんでいて、皇帝と皇帝のあいだに交わされる親書《しんしょ》に改竄《かいざん》を加えていた。そのために親書は悪意と侮辱にみちたものになって、かつてたがいに友人であった誇り高き三人の皇帝の忍耐もすでに限界に達していた。
火星大元帥ジョン・カーターは、ヘリウム皇帝がプタースないしケオルに宣戦することを最後まで許さなかった。彼にとって息子の潔白は疑問の余地のないものであり、いずれは、すべてが満足のいく説明がなされるようになるものと信じた疑わなかったのである。
だが、プタースとケオルの強力な戦闘艦隊がすでに発進しているというのに、双子都市の側では攻撃にさらされていることさえ知らずにいた。ヘリウムの宮廷に暗躍《あんやく》するデュサールのスパイが情報を押えてしまったのである。
スパン・ディーンは攻撃に先立ってヘリウムに宣戦を布告したのであったが、その通達に当たったのはデュサール人だから、攻撃の警告は結局、伝達されなかった。
プタース、ケオル両国とヘリウムとの外交関係は、この数日来すでに断絶《だんぜつ》していて、バルスームではこれが普通のことなのだが、大使は故国《ここく》に呼びもどされ、無線通信も途絶えてしまっていた。
このような事態の進展を、カーソリスはまったく知らずにいた。彼としては速くスビアを見つけだそうということしか念頭になかった。彼女とコーマルがこのトンネルにはいったということは足跡からわかっていた。トンネルの出口のあたりを調べると、同じ足跡が南方の水の涸れた海底のほうへおりている。
それをたどって、カーソリスも大絶壁のふもとの丘をおりて行った。しなやかな黄色い苔で覆われた平地にはいれば足跡はわからなくなるが、これは仕方のないことだ。ところがこのとき、北東の方角から、素裸の男がこちらに来るのを見てカーソリスはびっくりしてしまった。
彼は立ち止ってその男が近づくのを待った。武器は帯びていない。髪が赤茶けて肌の白いところを見るとロサール人のようである。
おそれる様子もなく、男はカーソリスのそばまできて、ほがらかに「カオール!」と挨拶の言葉をかけてきた。
「きみは誰だ?」カーソリスはたずねた。
「わたしは弓兵隊|司令官《オドワール》のカール・コマックだ」相手は答えた。「過去の人間だが、妙なことが起こってこうしてお目にかかる。大昔からタリオは幻の軍隊が必要になるとわたしを過去の世界から呼びだしてきた。数ある弓兵のなかで一番ひんぱんに具象化されたのが、このカール・コマックだった。
ずっと前からタリオは、わたしの影像《えいぞう》を現実に定着させようと思念を凝らしていた。それがいつかは実現して、ロサールの将来が確固《かっこ》たるものになるというのがタリオの夢なのだ。彼にいわせると、事物は人間の想像の中で存在するのみであって、すべては精神的な存在である。したがって暗示を執拗《しつよう》にくり返すうちに、いつの日か、カール・コマックという存在が万人の心に固定的に暗示されることになる、そう確信していたのだ。
それが、きのうになって実現した。思いがけないときに、突然に。わたし自身思いがけなかったのだから、タリオは自分でも知らないうちに念願を叶《かな》えてしまったものとみえる。きのう、わたしは弓兵隊を率いて出撃し、鬨《とき》の声をあげてトルクワス族どもを黄色い平原に追い返したのだ。
やがて夕闇が迫り、弓兵隊が空中に消えうせるときがきた。ところが、ふっと気がついてみると、この大平原のふちに、わたしだけがとり残されていたのだ。
わたしの部下はひとりのこらず幻の世界に帰ってしまったのに、わたしだけが現実の世界におきざりになっていた――装具も武器もなく。
はじめわたしはなにが起こったのか、さっぱりわからなかった。しかし、しだいに事情がのみこめてきた。多年にわたるタリオの暗示がついに功を奏して、わたしは現実の人間になったのだ。しかしわたしの装具と武器は部下たちが消えうせたときにやはり消えてしまって、このように裸で、身に寸鉄《すんてつ》も帯びず、ロサールから遠く離れた敵地にひとりとり残されたというしだいなのだ」
「ロサールに帰りたいのか?」カーソリスがたずねた。
「いや!」と言下《げんか》にカール・コマックは答えた。「タリオは虫が好かぬ。彼の思念から生まれたわたしには、彼の正体がよくわかっている。あれは残忍無頼《ざんにんぶらい》な男だ。ああいう主人に仕えたいとは思わない。まして、こうして幻影の現実化に成功してしまったうえは、暴君ぶりがいよいよ手がつけられなくなることだろう。ロサールじゅうを自己の思念から創り出した奴隷でいっぱいにするつもりだろう。タリオはロサールの女の幻を現実化しようともしていたのだが、あれはうまくいったのだろうか」
「ロサールには女はひとりもいないと聞いたが」カーソリスがいった。
「宮殿の秘密の一室で」とカール・コマックが説明した。「前からタリオは美しい女の幻を、しきりに呼び出している。いつの日か幻が現実になることに望みをかけて思念を凝らしている。わたしも女の姿を見たが、絶世の美女だった! しかしあの女が現実の存在になっても不幸になるばかりだ。タリオが失敗するとよいとわたしは思っている。とにかくわたしはそういうものだが、赤色人、貴公《きこう》はどういうひとなのか?」
カーソリスは弓兵隊|司令官《オドワール》の風貌《ふうぼう》と態度が気に入った。武装したカーソリスとむかいあって、この男の目には疑いや恐れのかげさえもない。口のきき方も率直で要を得ている。
そこでヘリウムの王子は自分の素性《すじょう》と、この遠い国にきた一部始終を話した。
「おもしろい」聞きおえてから弓兵隊司令官はいった。「カール・コマック、おともをさせていただこう。いっしょにプタースの王女をさがそう。わたしは男の世界に帰りたいのだ。大ロサールの船が波濤《はとう》を蹴ってスロクサスの大洋をわたった昔、わたしも生甲斐のある生活をしていたものだ。このわびしく干あがった岩山がまだ海岸で、打ちよせる波がくだけ泡《あわ》立っていたころのことだが」
「というと?」カーソリスがきいた。「きみは本当に太古の世界からきたひとなのか?」
「そのとおり」とカール・コマック。「あのころ、わたしは五つの海に並びなきロサール艦隊の司令官《オドワール》だった。このバルスームでおよそひとの住むところ、いずこの土地でもカール・コマックの雷名はとどろき、尊敬されていた。陸に住みついていたのは軟弱な町民で、船乗りだけが戦士だった。だが海の民《たみ》の栄光の時代は過ぎ去って、二度とはかえらない。貴公《きこう》に会うまでは、われわれ海の戦士とおなじように激しく生き、愛し、戦う人間がほかにいようとは思わなかったな。
しかし、男らしい男たちにふたたび会えると思えば愉快でならぬ。陸《おか》の町人どもは前から虫が好かん。国の守りはわれわれ海の民にまかせっ放し、城壁をめぐらした都にとじこもって、遊びごとにうつつを抜かすほか能のない腰抜けどもだった。そしていまロサールに生き残っているタリオやジャブの徒輩《とはい》ときては、先祖に輪をかけて腑甲斐《ふがい》ない手合いなのだ」
この見知らぬ男を同道するのがはたして賢明《けんめい》なことなのかどうか、カーソリスはちょっと迷った。タリオやジャブが、いかなる幻覚のわなを仕掛けてくるのかわかったものではない。しかし、この男の物腰や口のききようはいかにも尋常《じんじょう》である。どうみても、ひとかどの戦士だ。カーソリスはこの男を疑う気にはなれなかった。
結局、ヘリウムの王子は、裸の司令官《オドワール》に同行を許し、スビアとコーマルの足跡をたどって、いっしょに丘をおりて行った。
足跡は黄苔に覆われた涸れた海のはずれまでつづいていた。その先は、予想どおり、なんの手がかりも残っていない。しかし足跡はアアンソールの方角を指して黄苔の原にはいっていたので、ふたりともアアンソールを目指して歩きだした。
長い、退屈な、しかし危険にみちた旅であった。カール・コマックは、ともすれば遅れがちになるのをけんめいについて来た。半ば地球人であるカーソリスは、重力の抵抗の小さい火星では飛ぶように歩くことができる。火星人にとって、一日の行程は五〇マイルというのがいいところだが、ジョン・カーターの息子は、道づれさえなければ、一〇〇マイル以上も楽々と行けるのだ。
途中、ふたりは、放浪のトルクワス族に発見される危険にたえずさらされていた。トルクワス族の領土を抜け出るまでは、ことに油断がならない。
しかし、ふたりは幸運にめぐまれていた。緑色人の小部隊を二度まで見かけたが、一度も発見されずにすんだ。
三日目の朝、ふたりは、遠くにきらめくアアンソールの円屋根《ドーム》が見えるところまでたどりついた。途中ずっとカーソリスは行くてに目をそそいで、スビアとコーマルの姿を求めていたのだが、これまでは、それらしいものの姿はまったく見当たらないでいた。
だがこの朝、ふたりがアアンソールのほうを見はるかすと、はるか前方に廃都をさして進んでゆく小さな二つの姿が目にはいった。カーソリスとカール・コマックは、しばらくその姿に目を凝らした。あれだ、まちがいない。カーソリスは韋駄天《いだてん》走りに走り出した。息せききってカール・コマックが後につづく。
カーソリスは声をはりあげて王女に呼びかけた。聞こえたらしい。すぐにスビアはふり向いて立ち止まった。そのそばの巨大なバンスも、耳をそば立て、駆けつけてくるカーソリスをじっと見つめている。
王女には、まだこちらの顔が見えるはずはないのだが、カーソリスだと悟った証拠には、おそれる様子もなくじっと立って待っている。
不意にスビアが手をあげて北西の方を指さした。足をゆるめずにカーソリスはその方角をふりむいた。
トルクワス族である。半マイルと離れていない。分厚い苔の上を音もたてずに、およそ二十騎の凶暴な緑色人の一隊が、たくましい馬《ソート》に乗って疾駆してくる。
このときカール・コマックも、長槍を構え剣を閃《ひらめ》かせて黙々と襲いかかる敵に気づき、カーソリスに警告の叫びをあげていた。しかも、身に寸鉄《すんてつ》も帯びていないのに、豪胆《ごうたん》にも、緑色人どもからカーソリスをかばうように右側を走っているのだ。
驚いてカーソリスは、もどってくるようにとカール・コマックに呼びかけた。武器ももたずに剽悍《ひょうかん》な蛮族部隊の進入路に出て行っても、しょせんは無駄に命を落とすばかりである。
しかしカール・コマックはひるまなかった。カーソリスをはげますように叫び返しながら、その背後を守って走りつづける。
その勇気と自己犠牲にカーソリスは感動した。せめて小さいほうの剣でもわたしておけばよかったと思ったが、もう遅い。カール・コマックを待ったりひき返したりしていてはスビアが危うくなる。このまま走っても、緑色人より先にスビアのそばにたどりつけるかどうかという際《きわ》どい瀬戸際《せとぎわ》なのだ。
ふたたびスビアのほうに目をやると、今度はアアンソールのほうから新しい脅威が迫ってくるではないか。飛来する二隻の中型戦闘機、そして遠目《とおめ》にもしるく船首にきらめくデュサールの紋章。
ことここに至っては、プタースの王女スビアの逃れるすべはもはやないと見えた。一方からはトルクワスの凶暴な蛮族、他方からはそれに劣らず手ごわいデュサール王子アストックの軍勢。それに対して王女の身を守るものは、わずかに一頭のバンスとひとりの赤色人戦士、それにひとりの武器なき弓兵のみ。これでは戦わずして王女の運命は決したも同然である。
スビアは走り寄るカーソリスの姿を見て、ホルタン・グルの陣地で会ったときと同じに、孤独と恐怖が消えて心の和《なご》むのを覚えた。どうしてなのかは自分でもわからない。カーソリスが誘拐の張本人だとすれば、本当はそう安心してもいられないはずなのに、カーソリスがそばにいるというだけで、スビアは理屈ぬきに嬉しいのだ。そしてカーソリスさえいれば、どんな不可能事でも――たとえば現在の苦境から脱することさえも、できないことはないという気がしてくるのだった。
駆けつけたカーソリスは、あえぎながらスビアの前に立ち、はげましの微笑を浮かべささやいた。
「勇気を出して、ぼくの王女さま!」
スビアは前にも、その言葉をかけられたことがあるのを思い出した。あれはロサールのタリオの玉座の間《ま》で、かしぎゆく大理石の床をずり落ちて、どんな恐ろしい死の待ち受けているのかわからぬ奈落《ならく》にのまれようとするときのことだった。
あのとき王女は、そのなれなれしい呼びかけをとがめようともしなかった。そしていまも、婚約のきまった身でありながら「ぼくの王女さま」と呼ばせて平気でいる。王女は自分の愚かしさにあきれ、赤面した。バルスームでは、王女が夫や婚約者以外の男性からそのように呼ばれるというのは恥ずべきことなのだ。
カーソリスは、スビアが怒ったように顔を赤らめるのを見て後悔した。緑色人は、もうすぐそばまで迫っている。
「わるかった」カーソリスは小声で詫びた。「あなたに捧げた愛に免《めん》じて、そしていまここで斬り死にしようとするぼくの運命に免じて許してください」そういい残すと、カーソリスはトルクワス族の先頭の男にたちむかった。
その緑色人は巨大な馬《ソート》を駆って槍を構えて突きかかってきた。ひらりとカーソリスは跳びのいてやりすごし、長剣一閃《ちょうけんいっせん》、馬上の男を真っ二つ。
同時にカール・コマックも、徒手空拳《としゅくうけん》のまま一躍して、もうひとりの緑色人の足をとらえてひき落としにかかる。ほかの緑色人どもは槍が使えぬと見るや、馬《ソート》を乗り捨て長剣をふりかざして襲いかかる。二隻の戦闘艦は黄色い苔の上に着陸して五十人ものデュサール戦士をはき出した。そして白刃《はくじん》ひらめく修羅場に巨体を躍りこませて荒れ狂う大バンス、コーマル。
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十一 緑色人と大白猿
緑色人の剣が目の前に閃《ひらめ》き、額を打たれてカーソリスは倒れた。柔らかい腕が自分の首をかかえ、あたたかいくちびるが自分のくちびるに近づくのがちらと目に映ったが、それきり彼は意識を失ってしまった。
それからどれくらいの時間がたったのかわからない。目をあけるとカーソリスはトルクワス族とデュサール人の戦死者のあいだに、ひとりとり残されていた。巨大なバンスも、カーソリスにもたれかかるようにして死んでいる。
スビアの姿はない。カール・コマックの姿も戦死者のあいだには見当たらない。
出血のために弱ったからだをひきずるようにして、カーソリスはアアンソールのほうにゆっくりと歩き出し、日の暮れるころになって、ようやくたどりついた。
なによりも水がほしい。彼は中央広場をさして廃都の大通りを歩いた。広場に行けば、かつてこの都を支配した皇帝の宮殿とむかい合わせの廃屋《はいおく》の中で貴重な水が手にはいるはずである。
思いがけない事件が相ついで起こって、プタースの王女を救おうとする努力はことごとく水泡に帰してしまった。カーソリスの志《こころざし》は、どうしてもとげられぬ運命なのであろうか? 落胆のあまり、大通りや広場に面した崩れかかった家なみの暗い物陰に出没する大白猿のことも忘れて、カーソリスは廃墟の町を悄然《しょうぜん》と歩いた。
放心したように大通りを行くカーソリスの上には、しかし、鋭い監視の目がそそがれていた。それとは知らぬカーソリスは、広場にはいって、泉を囲ってある小さな大理石の建物にむかった。この泉は前から涸れかかっていて、赤い砂を深く掘らないと水が出ない。
カーソリスが泉の小屋の中にはいって行くのを見とどけて、巨大な十二の怪物が王宮の戸口から姿を現わし、音もなく忍びよってきた。
三十分ほどカーソリスは小屋の中にいた。骨折って砂を掘った底ににじみ出るわずかな水にようやく渇《かわ》きをいやすと、立ちあがって小屋を出た。広場に一歩踏み出たとたん、十二人のトルクワス族戦士が躍りかかってきた。
長剣を抜くひまはない。カーソリスはすばやく細身の短剣を鞘走《さやばし》らせて応戦した。折り重なって襲いかかる緑色人どもに圧倒されながらも、カーソリスの短剣は一度ならず敵の心臓を貫いた。
が、衆寡《しゅうか》敵せず、武器をとりあげられてしまった。しかし広場に出た十二人の緑色人のうち、カーソリスをとらえて生きて帰ったのはわずか九人であった。
緑色人どもは手荒にカーソリスを廃墟の宮殿にひき立てて、真っ暗な地下牢に連行し、がっしりした石の壁に鎖でつないだ。
「あすになったらサル・バンが、おまえを尋問する」彼らはいった。「今夜はもう寝てしまったからな。迷いこんだのがおまえだと知れば大喜びだろう。それからサル・バンに引き立てられてホルタン・グル皇帝のところに行くのだ。剣で突きかかった馬鹿野郎がしょっぴかれてくるのをごらんになれば、皇帝も、さぞかしご満悦だろうて」
そういい残すと、緑色人どもはカーソリスを暗闇の中におきざりにして立ち去った。
何時間もたったかと思われる長いあいだ、カーソリスは、背後の石壁に埋めこまれた重い鉄環《てつかん》に鎖でつながれたまま、地下牢の床にすわっていた。
不意に、陰々《いんいん》たる暗黒のかなたから、ひたひたと石の廊下を素足で忍びよるような音が聞こえてきた。身を守るすべもなく鎖につながれたカーソリスのほうへ、その足音は近づいてくる。
足音がふととだえた。墓場のような静寂。そしてまた無気味に迫る裸足《はだし》の足音。それが幾度かくり返されて、数時間かと思われるほどの長い長い数分が経過した。
だしぬけに走り出した裸足の足音が、暗闇の中から聞こえてきた。ちょっと離れたところで、とっ組みあう音、荒々しい息づかい、そして必死に抵抗するような低い叫び。つづいて鎖の切れる音、断たれた鎖のはしが石の壁にぶつかるような響き。
どやどやと大勢の足音がなだれこんできた。そしてカーソリスに襲いかかった。
人間のような指をそなえた手がカーソリスの首を、腕を、足をつかんだ。古代アアンソールの真暗な地下牢の中で、カーソリスは身をよじって毛むくじゃらの怪物と争った。
だが、巨大な神のように筋骨隆々たるさすがのヘリウムのカーソリスも、地獄のように暗い地下牢の中で、目に見えぬ怪物どもにつかみかかられては女子供も同然であった。
カーソリスは見えない敵の毛ぶかい胸をつきとばし、太い猪首《ししくび》を喉輪《のどわ》に攻めて必死に抵抗した。しかし生ぐさいを息を吐きかけ、唾液をたらして押えこみにかかる怪物どもに、ねじ伏せられてしまった。
怪物どもが鋭い牙をそなえていることもカーソリスは気づいていた。どうしてその牙で噛みついてこないのか不思議でならない。
やがて怪物の一群がカーソリスをつなぐ太い鎖にとびかかる気配がしたかと思うと、襲わせる直前に聞こえたのと同じ音がした――鎖が切られ、そのはしが石の壁にはね返る音である。
怪物どもは両脇から抱えこむようにしてカーソリスを引きずりながら、恐ろしい速さで暗い廊下を走り出した。いかなる運命が待ち受けているのか、彼には予測もつかない。
はじめカーソリスは、敵がトルクワス族なのかと思った。だが毛ぶかい胸をしているからには緑色人ではない。それでもしだいに敵の正体に察しがついてくると、どうしてその場で殺されず、餌食《えじき》にならずにすんだのかが腑《ふ》におちなかった。
三十分ほども地下道を――バルスームの都市は古代のも近代のも、地下に張りめぐらされた通路が特長である――運ばれたあげく、中央広場からほど遠い、月あかりに輝く中庭のような場所に連れ出された。
果然、彼がその手中に落ちた敵の正体はバルスームの巨大な白猿《はくえん》の集団であった。白猿は頭に短く剛毛を生やしているほかはまったく無毛の動物であって、その点、毛ぶかい胸をしているのが不審だったのだが、月あかりでその姿を見て、謎はすぐに氷解《ひょうかい》した。この猿どもは、なんと胸に毛皮《けがわ》の帯を締めているのだ。たいていはバンスの皮で、廃都にしばしば野営する緑色人戦士の装具をまねて作ってある。
カーソリスは、かつてものの本で類人猿のなかには、少しずつ知的な進化をとげている種族のいることを読んだことがある。そのような種族の手に落ちたというわけだ。だが、いかなる目的から自分をさらってきたのだろうか?
中庭を見まわすと、五十頭あまりの醜い獣が地面に尻をつけてすわっている。そして少し離れたところに、ひとりの人間が、やはりとりこになっている。
カーソリスと目が合ったとたんに、その人物はにやっと笑った。「カオール、赤色人!」と呼びかけてきた。弓兵隊|司令官《オドワール》のカール・コマックであった。
「カオール!」カーソリスも挨拶を返した。「どういうわけでここにきたのだ? 王女はどうなった?」
「貴公《きこう》と同じような赤色人の戦士たちが、かつてわれわれが五つの海を船でわたったのと同じぐあいに空を船で飛んできた。そしてトルクワスの緑色人どもと激戦をまじえた。ロサールの神だったコーマルも、あの赤色人たちに殺されてしまった。あの連中は貴公の仲間なのだろうな。王女は、戦いに生き残った赤色人たちに連れられて無事に空の高みにのぼって行った。わたしはそれを見とどけてほっとしたのだよ。
すると緑色人どもが、わたしを捕虜にして荒れはてた古い都に連れてゆき、暗い地下牢に鎖でつないだ。その後この猿どもが来て、わたしをここに引きずってきたのだ。貴公のほうはどうだったのかね?」
カーソリスは自分の身にふりかかったことをすっかり話した。あたりにすわっている大白猿どもは、ふたりのやりとりに、じっと目をそそいでいる。
「これからどうしよう?」カール・コマックがきいた。
「助かる見込みはあまりなさそうだな」カーソリスはくやしそうにいった。「この猿公《えてこう》どもは人間の肉が大好物という連中なんだ。どうしてこれまでぼくらを生かしておいたのか、わけがわからないな。ははあ、おいでなすった」カーソリスはささやいた。「いよいよ、けりをつけにきたぞ。見たまえ、あれを」
カール・コマックがそちらを見ると、一頭の大白猿が太い棍棒《こんぼう》をひっさげて近づいてくる。
「獲物をあいつでぶち殺すのが、連中のお気に入りのやりかたなんだ」カーソリスが説明した。
「戦わずに死ぬのはごめんだぞ」とカール・コマック。
「ぼくもだ」とカーソリス。「このでかい猿公《えてこう》どもが相手では、いくら頑張ってもたかがしれてはいるが。ああ、長剣があればな!」
「弓さえあればなあ!」とカール・コマック。「部下の中隊《ユータン》さえいたら!」
その言葉にカーソリスは思わずとびあがり、看視の猿に手荒に引きもどされた。
「カール・コマック!」カーソリスは叫んだ。「タリオやジャブにできることが、どうしてきみにできないことがある? やつらの弓兵たちだって念力でひねり出しただけのものだ。きみには、その秘密がわかっているはずだ。きみ自身の部下を呼び出したまえ、カール・コマック!」
ロサール人は、とっさに相手のいうことがのみこめないようであったが、ややあって、びっくりしたように目を見はった。
「なるほど、わたしにもできないはずはないわけだ」とつぶやいた。
凶暴な大白猿が棍棒片手にこちらに近づいてくる。カーソリスはその顔をにらみつけて拳《こぶし》を固めた。カール・コマックは射るようなまなざしを猿どもの上にそそいだ。必死に思念《しねん》を凝らしていることが額に光る汗の粒からうかがわれる。
カーソリスを撲殺《ぼくさつ》する役目の猿が、手を伸ばせばとどくところまできたそのとき、中庭のむこう側から、すさまじい鬨《とき》の声があがった。あたりにうずくまっている猿、棍棒を持った猿、それにカーソリスもいっせいにそちらをふりむいた。見るとむこうの建物の戸口から、たくましい弓兵の一隊が突進してくるではないか。
激怒の叫びとともに猿どもははね起きて反撃にむかった。弓兵隊はいっせいに矢を射そそぐ。見る見るうちに十数頭を倒されながらも突撃する類人猿の群れ。両軍が激突して白兵戦となった。もう猿どもはすっかり逆上して、看視役の猿までが捕虜を放り出してとび出して行く。
「いまだ!」カール・コマックがささやいた。「弓兵たちに猿どもが気をとられているすきに雲がくれしよう」
「あの勇敢な兵士たちを見捨ててか!」カーソリスは叫んだ。指揮官が部下を見殺しにして逃げ出すなどというのは、カーソリスの性分《しょうぶん》としてはがまんのできないことなのだ。
カール・コマックは笑い出した。
「しっかりしてくれ。あれは幻の兵隊なんだ。わたしの思念の影法師にすぎない。任務がすめば、ひとりの怪我人もなく宙に消えて行く連中なんだ。しかし赤色人、貴公は、いいときにいいことを思いついてくれた。自分を産み出したのと同じ力が、わたしに備わっていようとは思いもよらなかったな」
「きみのいうとおり、あれは影法師なわけだ」とカーソリス。「それにしても見殺しにするようでいやな気分だな。しかしこの際は仕方があるまい」
そこでふたりは中庭を出て大通りにはいり、建物の陰にかくれて、ひそかに中央広場にむかった。広場ぞいの建物を、緑色人戦士はこの廃都に来たとき宿舎がわりに利用しているのだ。
広場のはずれまでくると、カーソリスは立ち止まった。
「きみはここで待っていてくれ」とささやいた。「馬《ソート》をさらってくる。歩いて行ったのでは緑色の悪魔どもの追手《おって》をふりきることもできないからね」
馬《ソート》を囲いこんである中庭に行くと、その中庭をめぐる建物のどれかを通り抜けなくてはならなかった。どの建物に緑色人がいて、どの建物にいないのかは見当がつかない。だからおちつきのない獣がいななき、いがみ合っている中庭にたどりつくまでには相当の危険をおかさざるをえないわけだ。
あてずっぽうに選んだ暗い戸口からはいって廊下を忍び足で進んだ。突き当たりの広い部屋をのぞいてみると、なんと二十人かそこらの緑色人が絹布や毛布にくるまって寝ている。カーソリスは早々にひき返そうとしたが、そのとき、いま通ってきたばかりの廊下になにかが動く気配がした。
誰かがあくびをするような物音。のっそりと暗い影が立ちあがったのを見ると歩哨の緑色人だ。居眠りからさめたところらしく、背伸びをして戸口を守る警備位置についた。
知らぬままに、カーソリスは歩哨のすぐ横を通り抜けてしまったのらしい。そしてやっこさんの居眠りをさましてしまったのだ。もうこの戸口からは出られない。とはいえ、部屋いっぱいに寝ている戦士たちのあいだをそっと通り抜けるということも、できない相談のようだった。
カーソリスは広い肩をすくめて、危険の少ないほうの道を選んだ。要人しいしい、部屋の中に忍び入る。右手の壁には、緑色人戦士の補助武器である短剣、長槍、それにラジウム銃がたてかけてある。敵の夜襲に眠りを破られたときに、すぐに間に合うようにまとめて並べてあるわけだ。緑色人戦士の得手《えて》である長剣のほうは、めいめいが手もとに引きつけて眠っていて、これらは彼らが子供のときから死ぬまで肌身《はだみ》はなさず携帯する武器なのだ。
ずらりと並んだ短剣に目をとめて、血の気の多い青年王子は掌《てのひら》がむずむずしてきた。急いでそちらへ寄って二本を選びとる――一本はカール・コマックのため、もう一本は自分用だ。ついでに、素裸《すっぱだか》の友人のために戦士の装具一式もちょうだいした。
それから眠っているトルクワス族を踏みわけて、部屋の中央をまっすぐに歩き出した。
短いが剣呑《けんのん》な道のりを半分以上もこえたが、蛮族どもはみんな死んだように眠っている。ところが不意に目の前に寝ているやつが、毛皮と絹布の中でもぞもぞ動き出した。
目をさましたら一突きとばかり、カーソリスは短剣を構えて、その緑色人をのぞきこんだ。そのままカーソリスは待ったが、緑色人はいつまでも寝具の中でのたくっている。若い王子にとっては、じれったいことこのうえない。すると、突如《とつじょ》として、バネ仕掛けのように相手がはね起きてカーソリスと鼻をつき合わせた。
すかさず短剣の一撃。しかし相手に断末魔の蛮声《ばんせい》をあげさせてしまった。またたく間に部屋中が蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。戦士たちは押取刀《おっとりがたな》でばたばたと起きあがると、この騒ぎは何事かと叫び合った。
カーソリスは部屋の暗さに目がなれていた。だから天頂《てんちょう》にのぼった遠いほうの月の照り返す薄明りで部屋じゅうの模様が手に取るように見えていたが、寝ぼけ眼《まなこ》の緑色人どもには、ものの姿がしかとは見えず、ただ、あたりに戦士が右往左往しているのが、おぼろにわかるだけであった。
ひとりの緑色人が、カーソリスに倒されたやつにつまずいた。立ち止まって手さぐりすると頭を割られて死んでいる。愕然《がくぜん》となって見まわすと、あたりをうろつきまわる緑色人どもの巨大な影。しまった、敵の部族に寝込みを襲われた、ととっさに判断した。
「サーズ族だ!」その緑色人は叫んだ。「みんな起きろ! トルクワスの不倶戴天《ふぐたいてん》の敵がおしよせた! やつらの心臓に剣をぶちこめ!」
とたんに部屋じゅうの緑色人が剣を抜いて相手の見境《みさかい》なしに斬り合いをはじめた。残忍な闘争本能が目をさました。戦うこと、殺すこと、敵の刃を胸に受けて息絶えること! それこそが緑色人どもの無我恍惚《むがこうこつ》の境地である。
カーソリスは緑色人どもの見当ちがいの動きを見るや、早速それに便乗《びんじょう》することにした。いったん殺し合いの忘我《ぼうが》の境にはいった以上は、連中は同士打ちに気がついた後も、なかなか斬り合いをやめられまい。しかし騒ぎを起こした真犯人は別にいると感づかれでもしたら大変だ。風向きの変わらないうちに、とカーソリスは大急ぎ部屋を通り抜け、つきあたりのドアをくぐった。その外は、もう馬《ソート》の群れが騒々しくいがみ合っている中庭である。
これからの仕事も、なかなか楽ではない。生来、癇癪《かんしゃく》が強くて御《ぎょ》しがたいこの巨大な獣をつかまえて跨《またが》ってしまうというのは、条件のいいときでも、ひどく骨の折れる仕事なのだ。しかもいまはその仕事を、こっそりと大急ぎで片づけねばならない。ジョン・カーターの息子ほど創意もなく楽天家でもない人間なら、不可能事だと初めから諦《あきら》めてしまったことだろう。
父親から、カーソリスは馬《ソート》の性質についていろいろと聞いていたし、サーク族の皇帝《ジェダック》、大タルス・カルカスを訪問したときも、火星の乗馬術については学ぶところが多かった。またカーソリスは自分でも何度も馬《ソート》を駆ったことがある。彼は、これまで他人から伝授《でんじゅ》された知識と自分の経験から学んだすべてを結集して、困難きわまる馬泥棒の仕事にとりかかった。
トルクワス族の馬《ソート》は、サーク族やワフーン族の同類に輪をかけて癇癪《かんしゃく》もちのようであった。二頭の馬《ソート》がいななきながらカーソリスのまわりを跳ねはじめ、一時はカーソリスも蹴飛ばされるのを覚悟した。しかし、どうにかその一頭に近づいて手を触れることができた。カーソリスの手を感じると馬《ソート》はたちまち静かになり、彼が精神感応《テレパシー》によって命じるままに膝《ひざ》を折ってすわった。
ただちにカーソリスは、馬《ソート》に|跨《またが》って外の大通りに抜ける大門にむかって中庭を走り出した。
もう一頭の馬《ソート》は、まだ不機嫌にいななきながらも相棒の後をついてきた。どちらの馬《ソート》にも手綱《たづな》などついていない。そもそも、この怪獣は暗示によって御《ぎょ》するのであって、そのほかにいうことをきかせる方法はないからである。
たとえ雲つくような緑色人が乗り手でも、馬《ソート》の凶暴さとマンモスのような力が相手では、手綱などなんの役にも立たないのだ。しかし火星人は、テレパシーをもって動物たちとある程度の意志の疎通《そつう》をはかるすべを心得ているので、この風変わりな方法で馬《ソート》をあやつるのである。
苦心してカーソリスは二頭の馬《ソート》を門まで駆りたて、身をのり出して閂《かんぬき》をはずした。それから跨っている馬《ソート》の肩をスキール材の門扉にあてがわせ、ぐいと押し開かせた。やがてカーソリスと二頭の馬《ソート》は、カール・コマックの待つ広場をさして大通りを音もなく走り出した。
広場につくと、今度は二番目の馬《ソート》をおとなしくさせるのが一《ひと》仕事だった。カール・コマックはこれまで馬《ソート》に乗ったことがなく、|こつ《ヽヽ》を覚えさせるのは容易なことではなかった。
しかしやがて弓兵隊|司令官《オドワール》は、どうにかすべっこい獣の背中に収まった。ふたりは馬《ソート》を並べて、黄色い苔に覆われた大通りを走りぬけ、広びろとした涸《か》れ海の大平原に乗り出した。
馬首を北東にむけて、ひた走りに走った。夜があけ、次の日も暮れ、ふたたび夜になっても休まずに駆けつづけた。追手の迫る気配はない。そしてその翌朝、はるか前方に緑の木立ちが、うねりくねって長々とつづいているのが見えてきた。火星上を縦横に走る人工|灌漑《かんがい》の農耕地帯、すなわち運河の一つに行きついたのである。
やがてふたりは馬《ソート》をすてて徒歩で運河にむかった。カーソリスは、金属の飾りやその他、ヘリウムの国籍や皇族《こうぞく》の身分をあらわすものをいっさい装具からはずして捨ててしまった。この運河がどの国に属するのかまだ不明だし、火星では、よそものや見知らぬ国は、すべて一応敵であり敵国であるときめてかかるのが賢明なのである。
日が中天にのぼるころ、ふたりは運河の横断道路にたどりついた。これは農耕地帯を一定の間隔をおいて横切り、運河の両側の荒蕪《こうぶ》地をつないでいる通路であって、途中、運河の全長を接続している白く幅広い中央道路につながっている。
耕地そのものは高い石塀に囲いこまれていて、これは馬《ソート》に乗った緑色人の襲撃をはばみ、バンスなどの野獣から農場の人間と家畜を守るためのものである。
カーソリスは、さしかかった最初の門の前に立って扉を叩いた。若い赤色人戦士が姿を現わして愛想よく挨拶したが、カール・コマックが、白い肌と赤茶けた髪をしているのには少なからず驚いたようすだった。
カーソリスは、自分たちがどのようにしてトルクワス族の手から逃れたかという、いきさつを適当に端折《はしょ》って話した。若い戦士はふたりを石塀の中に招き入れ、自宅に案内して、召使に食事の準備を命じた。
天井のひくい、しかし居心地のよい農場の中の屋敷の居間におちついて、食事の支度が整うのを待つあいだ、カーソリスは主《あるじ》の青年と談笑しながら相手の国籍を聞き出そうと試みた。相手の身元がわかれば、自分が迷いこんだのがどこの国の運河なのかもわかるだろう。
「わたしはハル・バスというものだ」青年はいった。「父はデュサールのアストック王子の宮殿に仕える貴族バス・コール。目下、わたしはこの地方の警備隊長《ドワール》をつとめている」
カーソリスは、こちらの身分をあかさないで、よかったと思った。彼がヘリウムを発《た》った後の情勢の進展も、厄介《やっかい》ごとの張本人がアストック王子であることも、カーソリスはまだ知らなかったが、デュサールの人間が彼に好意を持っているはずがなく、デュサールの領土で彼を助けようとするもののいるはずのないことはわかりきっていた。
「で、きみは?」ハル・バスがたずねた。「見たところ戦士のようだが、装具にはなんの紋章もついていないようだ。ひょっとすると|放浪の戦士《パンサン》ではないのか?」
男子の大部分が戦いを好むバルスームでは、野武士が至るところにいる。彼らはどこかに戦争があれば傭兵《ようへい》として戦い、赤色人諸国のあいだで束《つか》の間《ま》の休戦状態が訪れると、運河防衛のために各地でたえず行われている緑色人|征伐《せいばつ》の遠征に参加する。そして仕事が終わると、傭い主の国籍をあらわす記章を装具からはずし、新しい主人を見つけるまでのあいだは、なにもつけない。しかしその間、記章などなくとも、戦塵《せんじん》にみまれた装具とものものしい武器を見れば、すぐに職業的な戦士であることがわかるのである。
|放浪の戦士《パンサン》というのは悪くない。カーソリスは、かくれみのとして格好《かっこう》なこの肩書にとびついた。ただ、放浪の戦士を名乗ると、一つだけ厄介なことがある。つまり、戦時下の国にはいりこんだ放浪の戦士は、その国の記章をつけて、その国の戦士に伍《ご》して戦わなくてはならないのだ。
カーソリスの知るかぎり、デュサールは、どの国とも交戦状態にはないはずだ。そしてジョン・カーターを盟主《めいしゅ》とする強力な同盟が、長年にわたってバルスームの大半に平和を維持していることも事実である。しかし好戦的な赤色人の世界では、ある国が、いつなんどき隣国《りんごく》に戦端《せんたん》を開くかわかったものではない。
カーソリスが、おおせのとおりである、と答えるのを聞いて、ハル・バスは愉快そうにわらった。
「よいときにきてくれた。さっそくにも仕事があるぞ。実は父のバス・コールが募兵《ぼへい》のために、この屋敷にきているのだ。今度の戦争はヘリウムが相手だ」
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十二 デュサールの安泰《あんたい》のために
プタースの王女スビアはジャブの情欲から逃《のが》れようと必死に争いながら、猛獣の咆哮《ほうこう》を聞き、肩ごしに森のほうを見た。ジャブもそちらに目をむけた。
恐ろしいものの姿が、ふたりの目にとびこんできた。ロサール人が神とあがめるバンスのコーマルが、耳まで裂けた口を開いて、こちらに襲いかかってくるのだ。
どちらが目あてなのか? ふたりとも餌食《えじき》になるのか?
ジャブは王女を楯《たて》にバンスの牙から逃れようとしたが、巨獣がジャブに目をつけていることは、やがて明らかになった。
金切り声をあげて、ジャブは王女を人食いライオンの前につきとばし、ロサールのほうへ逃げ出した。だがいくらも走らぬうちに、悪鬼のように怒り狂ったコーマルに跳びかかられて喉と胸に深傷《ふかで》を負った。
急いでスビアは駆け寄ると、やっとのことで獣をジャブから引き離した。それからいつまでも唸《うな》ったり未練気《みれんげ》なながし目をジャブにくれているコーマルをなだめすかして、いっしょに森のほうへ歩き出した。
巨大なバンスを護衛に連れて、スビアは大絶壁の地下道をさして出発した。そして一万七千ハアド以上のけわしい旅路をこえてプタースに帰ろうという、まず不可能としか思えない壮途《そうと》についたのである。
カーソリスが、彼女を本当に見殺しにしたのだとは信じられなかった。だから、絶えずカーソリスの姿を求めて歩いたのだが、地下道をさして森の中を行くうちに北に寄りすぎて、ロサールめざして駆けもどるカーソリスと途中で行きちがいになってしまった。
このヘリウムの青年王子が、自分の胸中でどういう位置を占めるひとなのか、スビアはまだ決しかねていた。王子を慕《した》っている、とは自分自身にさえも認めることはできない。しかし、彼女はカーソリスが「ぼくの王女さま」と呼びかけるのをとめようとはしなかった。夫か婚約者の口から出るのでないかぎり、バルスームの女性は、この情愛のこもった親しい呼びかけに耳をかたむけてはならないのだ。
婚約者であるケオル皇帝のクーラン・ティスを、スビアは敬《うやま》いもし、立派なひとだとも思っている。しかし、オカールの首都カダブラのサレンサス・オール皇帝の王宮でカーソリスと会って、その壮麗な万帝園《まんていえん》の木彫りの椅子に並んで掛けたあの日から、カーソリスが自分を愛していることはわかっていたし、また、それがいやでもなかった。クーラン・ティスと婚約するようにという父の望みに彼女がしたがったのは、ヘリウムの美青年が、しばしば父の宮廷を訪れながら求婚しようともしないのに腹をたててのことではなかったろうか?
自分はクーラン・ティスを愛しているのだろうか? 愛している、と健気《けなげ》にも彼女は信じようと努めた。だのにそう努めるあいだにも、目の前の森の闇のなかに、スビアは黒い髪と灰色の目をした凛々《りり》しい戦士の姿を求めていた。クーラン・ティスは黒い髪をしている。だが目は茶色である。
トンネルの入口にたどりついたとき、日はすでに暮れていた。無事に大絶壁の外に出たスビアは、火星の明るい二つの月の光を浴びて、これからのことを思案した。
ここで、カーソリスがさがしにくるのを待っていようか? それともプタースにむかう北西への道をつづけようか? カーソリスはロサールの谷を抜け出た後、どこに行こうとするだろう?
彼女の灼《や》けつくような喉《のど》とからからに渇いた舌《した》が、その答えを教えてくれた。水を求めてアアンソールへ行くにちがいない。では、まずアアンソールに自分も行こう。水が手にはいるよりも、もっといいことがあるかもしれない。
コーマルがそばにいてくれるので、スビアは心丈夫だった。どんな野獣に襲われても、コーマルが護ってくれる。大白猿でさえも、この巨大なバンスを見れば怖気《おじけ》をふるって逃げ出すだろう。ただ、人間に襲われるのがこわい。しかしこれから先、父の王宮にたどりつくまでには、たくさんの危険を冒《おか》さなくてはならないのだ。
アアンソールの近くでカーソリスにようやく会えた喜びも束《つか》の間《ま》、カーソリスは緑色人の長剣で打ち倒されてしまった。あのときは同じ目に自分もあえばよいと、どれほど願ったことだろう。
二隻の戦闘艦から赤色人戦士たちがとび出すのを見たときは、しばし彼女の身内《みうち》に新たな希望が湧いた――カーソリスはただ気絶しただけで、ヘリウム人が救出に来たのだと。しかし彼らの装具についているデュサールの記章が目にはいり、彼らが自分だけをトルクワス族の攻撃から奪取《だっしゅ》しようとしていることがわかったとき、彼女は絶望した。
コーマルも殺されて、カーソリスのそばで息絶えてしまった。スビアはひとりになった。誰も彼女を護るものはいない。
デュサールの戦士たちは、彼女を手近の飛行艇のデッキに拉致《らち》した。あたり一面に、彼女を奪い返そうと迫る緑色人がひしめいている。
戦いに生き残ったデュサール戦士は、二隻の飛行艇にひきあげてきた。エンジンがうなり、プロペラが回り出し、やがて二隻は矢のように空に舞いあがった。
スビアはデッキの上を見わたした。ひとりの男が、すぐそばに立って、彼女の顔をのぞきこむように、にやにや笑っている。それが誰なのかを知って彼女は息をのんだ。まじまじとその顔を見つめた。そして嫌悪《けんお》の叫びをあげ、両手で顔を覆うと、磨《みが》きあげたスキール材のデッキの上にくずおれた。デュサールの王子アストック!
アストックの二隻の飛行艇は、快速を利してデュサールに驀進《ばくしん》した。父、デュサール皇帝の宮廷に一刻も早く帰りつかなければならない。なにしろ、目下、ヘリウムとプタースとケオルの艦隊はバルスームの各所に展開中であって、このあたりも安全ではないし、アストックの乗艦にプタースの王女が捕虜として乗っていることが、万一どの国に知れても厄介《やっかい》なことになるからだ。
アアンソールは南緯《なんい》五十度、東経《とうけい》四十度に位置している。(経度の基点は、古代バルスームの文化と学芸の中心地、いまは廃墟と化した都ホルツである)。いっぽう、デュサールの位置は北緯十五度、東経二十度。
その遠距離を、二隻の飛行艇は途中一度も止まらずに飛びつづけた。そのうちにスビアにいろいろなことがわかってきて、目的地につくのを待たずに、このところ彼女の胸を痛めていた疑惑は一掃《いっそう》された。アアンソールを飛びたってすぐ、乗組員にまじって見覚えのある顔を見つけたが、これはさきに父の王宮の庭に潜入して、彼女をさらった飛行艇に乗りこんでいた一味のひとりだった。アストックがこの艇に乗っているということ自体、事件の真相を物語っている。スビアを誘拐したのは、アストックの配下《はいか》だったのだ。カーソリスとは、やはりなんの関係もないことだった。
王女の詰問《きつもん》をうけても、アストックはべつに否定しようともせず、ただにやにや笑っていた。そして結婚してくださいというようなことを、ぬけぬけと口にした。
「あなたと結婚するくらいなら大白猿のところへ嫁ぎます!」スビアはきめつけた。
アストックは苦い顔をして相手をにらみつけた。
「あなたはわたしといっしょになるのだ、プタースのスビア」と不機嫌にうめいた。「それがいやなら、お望みどおりに本当に大白猿に嫁入りさせますぞ」
相手は返事をしなかった。アストックは、なんとか話し合いに持ちこもうとしたが、スビアは、その後の旅のあいだ一言も口をきこうとしなかった。
アストックは内心、プタースの王女を誘拐したことが、途方もなく深刻な事態をひき起こしてしまったことに少々おびえていた。そして四つの帝国の安危《あんき》をかけた王女の身柄を預かるという責任の重大さに不安になりはじめていた。
王女をデュサールに連れて行って父に責任をおしつけてしまうに限る、と考えた。そこで、さし当たっては王女を怒らせるようなことは、いっさい慎《つつし》むことにした。デュサールに帰りつくまでにどこの国の艦隊に出くわさないとも限らず、もしつかまって王女の処遇にたいする申しひらきを関係国の皇帝《ジェダック》から求められでもしたら、ただではすまない。
そういうわけで、スビアはなんの危害も加えられずにデュサールに連れ去られた。アストックは自分の宮殿に艦をつけると、スビアを東の塔の上にある秘密の一室に閉じこめて、囚人の身もとについては、いっさい口外してはならんと部下に誓わせた。父のデュサール皇帝ヌータスと話をつけるまでは、南から連れてきた人間の身元を内密にしておいたほうがよい。
しかしデュサール皇帝の謁見《えっけん》の間にはいって、酷薄なくちびるをした父の前に出ると、アストックは弱気になってしまい、自分の宮殿に王女を幽閉《ゆうへい》していることを打ち明ける勇気がくじけてしまった。しかし一応はこの件について父の気持を打診してみようと思い、スビアの居所を知っていると称するものを捕えました、ときり出した。
「ご命令さえあれば、父上」とアストックはいった。「わたしが出向いて王女を捕え、デュサールへ連れて参りたいと思いますが」
ヌータスは眉をひそめて首をふった。
「それはまずいぞ、アストック。おまえがいままでやったことだけで、すでにデュサールの立場はひどく悪くなっておる。万一、王女の誘拐に、おまえが一枚かんでいることが知れようものなら、プタースとケオルとヘリウムの三国が連合して、このデュサールを襲うことは必定《ひつじょう》だ。誘拐の罪をヘリウムの王子にきせたのは上出来であった。しかし万が一にも王女が真相を知って帰国するということになれば、全デュサールがその報復を受けねばならん。さればとて王女を捕えてデュサールにとどめおくというのも、誘拐の罪をみずから認めるようなもの、由々《ゆゆ》しい事態をひき起こさずにはすまぬ。余は王冠を失うことになるやもしれぬ。しかしアストック、余は王冠を手離す気持など持ちあわせておらぬぞ」
ヌータスはちょっと言葉を切ったが、ふと思案顔《しあんがお》になってつぶやいた。
「だが待てよ、もし王女がわれらの手中にあるとすれば――」その言葉を何度もくり返した。
「もしも王女がわれらの手中にあって……ふむ。われらの手中にあって、しかもそれを知るものがほかにないとすればどうじゃ、アストック? わからぬか? デュサールの弱みを王女の骨とともに永遠に葬《ほうむ》ることもできようというものだな」ひくい、凶暴な声でヌータスは結んだ。
デュサールの王子アストックは身ぶるいした。
そもそもアストックは意気地のない小悪党なのだが、父がなにを言おうとしているのかを悟ると背筋が冷たくなった。
火星の戦士が敵に無慈悲なのは事実だ。しかし「敵」という言葉は、ふつう男だけをさしている。バルスームの大都市で殺人|沙汰《ざた》の絶えないのも事実である。しかし女を殺害するということは、金しだいで、どんな人殺しでも請け負おうという冷酷無残《れいこくむざん》のならずものでさえも尻ごみするような罪悪なのだ。
ヌータスは、自分の言葉に息子がふるえあがったのに気がついたようであったが、平然として話をつづけた。
「おまえはアアンソールで、おまえの部下の手から奪われた王女がいまどこにいるのか知っているといったな。いま王女がプタース、ケオル、ヘリウムのどの国の人間に見つけられても、厄介《やっかい》なことになる。王女の訴えがあれば、ほかに証拠がなくとも、三つの帝国は矛先《ほこさき》を揃えてデュサール攻撃に踏み切るであろう。されば取るべき道はただ一つ。おまえはただちに王女の隠れ場所にむかえ。そして極秘のうちにデュサールに連れてくるのだ。よいか、必ず連れてくるのだぞ。手ぶらでもどろうものなら命はないぞ!」
アストックは父の気性《きしょう》をよく知っていた。この暴君の心臓は、かつて他人の愛に鼓動したためしはただの一度もないのだ。
アストックの母は奴隷であった。ヌータスは彼女を愛してなどいなかった。といって、ほかに愛した女がひとりでもいたわけではない。若いころ、ヌータスは近隣の列強《れっきょう》の宮廷に花嫁を求めようとした。だが彼を相手にしようという王女は、どこにもいなかった。
彼と結婚するくらいなら、と自殺をはかった王女が六人まで出たので、さすがにヌータスも身分にふさわしい縁組をあきらめた。そこで、死後、自分の血筋のものが帝位《ていい》に選ばれるようにと、自分の奴隷と正式に結婚したのだった。
アストックは、おずおずと父皇帝の前を辞《じ》した。自分の宮殿にひき帰すその顔は青ざめ、手はふるえていた。中庭を通り抜ける途中、ふと見あげると、王女が監禁されている東の塔が青空を背景に高だかとそびえている。
その塔を見ただけで、アストックの額に大粒の汗がにじみ出た。
なんということだ! この恐ろしい仕事は他人にまかせるわけにはゆかない。この手で、あの美しい喉を絞めなくてはならないのか。スビアの熱い心臓に短剣の一撃を加えなくてはならないのか。
スビアの心臓! 自分への愛に、あの女の胸がみたされることをどれほど望んだことだろう。
しかし、それは実現しなかった。アストックは自分の求愛が、ただ蔑《さげす》みを買っただけなのを思いだした。そして冷水を浴びせられたようになり、ついで怒りに熱くなった。彼女が死ぬのは自業自得《じごうじとく》というものだ! この自分勝手な考えに、一瞬前までの人間らしい感情も良心の呵責《かしゃく》も、どこかへいってしまった。奴隷女から受けついだ善良な性質は、またもや暴君から受けついだ邪悪な血に圧倒されてしまった――いつも結局は、そういう具合になってしまうのだが。
しばらく前まで彼の目をみたしていた恐怖の色が消え、それに代わって冷酷な微笑が現われた。アストックは、まっすぐに塔にむかった。スビアが、まだデュサールに来ていないとヌータスに思いこませるための旅行に出る前に、一目会っておこうという気になったのだ。
彼はひそかに秘密の通路にはいり、螺旋《らせん》階段をのぼってプタースの王女を監禁してある部屋にむかった。
部屋をのぞくと、王女は東の窓辺によりかかって、デュサールの家なみのかなた、はるかなプタースの空を見つめていた。アストックはプタースを憎んだ。怒りがこみあげてきた。なにも先にのばすことはない。たったいま、|けり《ヽヽ》をつけてしまうのだ!
足音に気づくと、王女はすばやくふりむいた。ああ、なんというあでやかな姿! はりつめた殺意は、輝くばかりの美しさの前にしぼんでしまった。父ヌータスの手前をつくろう旅から帰るまで待とう。そのときになれば、また別の方法もあるだろう。誰かべつの人間にやらせよう。自分はこの仕事はできない。とても自分にはできない。アストックは、生来、自分が冷厳《れいげん》な実行力を備えているのを誇りにしていた。しかしだめだ! これがやってのけられるほど冷酷にはなれない。やっぱりほかに誰か適任のものを見つけよう――信用のおける誰かを。
スビアはおそれる色もなく、まっすぐにこちらを見ていた。その姿にじっと見いっているうちに、アストックは身うちに情熱の高まりをおぼえた。
どうして、いま一度口説いてみてはいけないのだ? もしスビアが考え直してくれれば、いまからでも、すべてはうまくいくのだ。ヌータスを説き伏せることができなくとも、プタースに逃げるという手がある。そして四つの帝国を戦禍《せんか》にまきこんだ卑劣《ひれつ》な陰謀の罪状いっさいをヌータスになすりつけてしまえばよい。もともと評判のよくないヌータスなのだ、アストックの申し立てに疑いをさしはさむものは誰もいないだろう。
「スビア」とアストックは声をかけた。「また来ましたよ。お願いするのもこれが最後だ。いまプタース、ケオル、デュサールの三つの国は、あなたのことでヘリウムと戦火を交えている。だが、あなたの気持ひとつで万事は正常にもどるのだ。わたしと結婚してください」
王女は首をふった。そしてなにかいいかけようとするのを、アストックはおしとどめた。
「お待ちなさい。軽はずみに答える前に、いまの事態をよくのみこんでもらっておいたほうがよい。あなたの返事一つで、あなたの運命ばかりか、四か国の無数の戦士の運命がきまるのだ。
あなたがどこまでも我《が》を張って、わたしを拒んだとすればどうなるか? 事の真相が、万一プタースとケオルとヘリウムに洩れれば、大挙《たいきょ》して彼らはデュサールに襲いかかり、わが国のすべての都市を破壊しつくすだろう。デュサールの国民を、このバルスームの北の氷の果てから南の氷の果てまで駆り立てて最後のひとりまで殺そうとするだろう。そして、さしものデュサールも、ついにはただの忌《いま》わしい過去の記憶となりはててしまうのだ。
しかし、彼らがデュサール人を滅ぼしつくすまでには、彼らの側でも数知れぬ戦士が命を落とすことになる。すべては王子の捧げる愛を受けようとしない、ひとりの片意地な女のせいなのだ。
どうしてもわたしを拒むというのなら、プタースのスビアよ、われわれとしてはとるべき道は一つしかない。あなたのことを外部に知らせるわけにはいかない。スパン・ディーンの宮廷からあなたを誘拐したのがこのアストックで、いまここにあなたが幽閉されているということは、父と、わたしを除けば、ごく少数の腹心《ふくしん》しか知らない。
どうしてもわたしを拒むというのなら、よろしいか、気の毒だがデュサールの安泰《あんたい》のために死んでもらわねばならぬ――ほかに道はない。デュサール皇帝ヌータスも、それを望んでおられる。これでわたしの話は終わりだ」
しばらくのあいだ王女は平静な目を、じっとアストックの面《おもて》にそそいでいた。そして答えた言葉数は少なかったが、その淡々たる語調には、底知れぬ冷たい侮蔑《ぶべつ》のひびきがあった。
「恐ろしいお話しですこと。あなたというひとほど恐ろしくはないけど」
そしてくるりと背をむけると、東側の窓にもどって、遠いプタースの空を愁《うれ》わしげに見やった。
アストックは憤然《ふんぜん》として、荒々しく部屋を出て行った。が、しばらくすると食物と飲物を持って帰ってきた。
「さあ、これで、またわたしがもどるまでの命をつなぐがよい。この次にくるときは死刑執行人といっしょだ。せいぜい先祖の霊《れい》にお祈りでもとなえておくことだ。二、三日のうちに、その仲間入りをするのだからな」
そういい残してアストックは立ち去った。
三十分後、アストックはデュサール海軍の高級将校と話していた。
「バス・コールを知らぬか? 自分の屋敷にはいないのだが」
「南へ参りました」相手は答えた。「トルクワス国境に近い大運河で警備隊長《ドワール》をつとめている息子がおりまして、そのあたりの農場から新兵を募《つの》るために出かけました」
「よろしい」
三十分後、アストックは高速飛行艇に乗りこんでデュサールの空を飛びたった。
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十三 |放浪の戦士《パンサン》タージュン
祖国ヘリウムがデュサールと交戦中であり、自分がこれから敵の側に立って武器をとる運命にあることをハル・バスの口から聞いたカーソリスは、顔にこそ出さなかったが、心の底では切歯扼腕《せっしやくわん》した。
この機を利してヘリウムのためにひと働きできるとは思うものの、部下を率いて戦場を暴れまわることができないというのが無念でならない。
デュサール軍を脱走することは簡単にいくかもしれないが、ことによると案外、面倒かもしれない。というのは、彼の忠誠心が疑われるようなことがあれば(札《ふだ》つきの|放浪の戦士《パンサン》というものは、得てして不信の目で見られがちなのだ)――きびしい見張りを受ける破目となり、そうなると、数日で片がつくのやら、何年も何年も流血の惨事《さんじ》がつづくのやらわからぬこの戦争が終わるまで、脱走の機会はついに訪れないかもしれないのである。
過去の歴史をふり返ると、五百年、六百年の永きにわたって事実上の戦争状態がつづいたという例もある。そしてまた、有史以来一度もヘリウムと友好関係を結んだことがないという国も、このバルスームにはいくつかあるのだ。
どうも面白くないことになった、とカーソリスは慨嘆《がいたん》した。だがそのくせ、ものの二、三時間とたたないうちに、デュサール軍に投げこまれた自分の運命を感謝することになるのである。
「噂をすれば影とやら」ハル・バスがいった。「あれがわたしの父だ。カオール、バス・コール! ご紹介しましょう、こちらは勇猛なる|放浪の戦士《パンサン》――」といいよどんだ。まだ名前をきいていない。
「タージュンです」カーソリスは、とっさに頭にうかんだ名前をいった。
そう名乗りながら、部屋にはいってきた長身の貴族の姿にすばやく目を走らせた。陰気な顔をした、こめかみから口にかけて傷あとのあるこの大男に、確か前にどこかで会いはしなかったか?
≪バス・コール?≫カーソリスは心の中でくり返した。≪はて、バス・コール≫いったいどこで会ったのだろう?
長身の貴族が口をひらいた。とたんに、カーソリスに記憶がよみがえってきた。プタース王宮の発着台で、羅針儀の機構を皇帝に説明していたときにいた、あの出しゃばり従者だ。それにヘリウムでも会ったぞ。プタースに行くつもりなのに、奇怪にもアアンソールに行ってしまったあの旅行に出発した晩、たったひとりで彼の愛艇の警備についていた奴隷もこいつだ。
「バス・コール!」カーソリスは声に出して、その名前をくり返した。「ご先祖の霊に栄《はえ》あれ、お目にかかれて欣快《きんかい》です」これは紹介をうけたときのバルスームのきまり文句だが、どれほどカーソリスが欣快なのかバス・コールは夢にも知らない。
「そして、きみのご先祖の霊にも、タージュン」バス・コールは答えた。
次はカール・コマックを紹介する番だった。カーソリスは、バス・コールに連れをひき合わせながら、弓兵隊|司令官《オドワール》の白い肌ととび色の髪をうまく説明するには、サーン人に化けさせるほかはあるまいと考えた。本当のことを話しても信じてはくれまいし、最初から、うさん臭いやつと思われるばかりだ。
「カール・コマックは」カーソリスはいった。「ご覧のとおり、サーン人です。氷にとざされた南のはての神殿を出て、冒険を求めて流浪の旅に出た男です。わたしとはアアンソールの地下牢で出会って以来の短いつきあいですが、彼が勇敢にして忠誠の士であることは誓ってもよろしい」
太古の昔から邪教《じゃきょう》をもってバルスーム中に陰然《いんぜん》たる勢力を有していた南の白色人種たるサーン族は、ジョン・カーターによってその宗教制度を廃されたのち、その大多数が喜んで新秩序をうけ入れていた。だから現在では外界のどの都市でも、赤色人とまじって暮らすサーン人の姿を見ることは珍しくなく、カーソリスの説明にも、バス・コールはなんの不審も抱かなかった。
バス・コールと会見中、カーソリスは、やくざな|放浪の戦士《パンサン》になりすましたいまの自分の姿のうちに、もしや、かつてのきらびやかなヘリウムの王子の姿を見破ったという気配でもないか、と油断なく相手を観察していた。しかし、このところつづいた眠りなき夜と苦闘の日々、長い荒野の旅、いくたびかの戦闘で受けた傷やこびりついた血糊などが、以前のカーソリスの面影をすっかり消していた。それにバス・コールは、いままで二度しかカーソリスに会ったことがない。気がつかないのも無理はなかった。
バス・コールは、これからの予定を話した。あす、北にむけて出発する。途中、各地の駐屯所《ちゅうとんじょ》に立ち寄って徴募兵《ちょうぼへい》を拾い集めながらデュサールにむかうのだ、と。
ハル・バスの屋敷の裏手の広場には一隻の飛行艇が停泊していた。かなり大型の輸送巡洋艦で、多数の兵員を運ぶことができる。そのくせ船脚が速く、武装も充分ほどこされている。カーソリスとカール・コマックは、この艦に出向いてほかの徴募兵といっしょになり、乗組員たるデュサール正規兵の監視下におかれた。
夜中ちかく、バス・コールは息子の家を出て艦にもどり、すぐに自分のキャビンへむかった。そのデッキで、カーソリスは、ひとりのデュサール戦士とともに当直に立っていた。目の前すれすれのところをバス・コールが通り過ぎるのを見て、カーソリスは冷たい笑いを押えることができなかった。腰の細身の短剣を鞘走らせれば、ひとたまりもない距離だ。
やる気なら、なんの造作もなかったろう。自分をおとしいれた卑怯な計略の復讐をとげ、ヘリウムとプタースとスビアの名のもとに天誅《てんちゅう》を加えることも、その気になれば、なんの造作《ぞうさ》もなかったろう。
しかし、カーソリスの手は短剣の柄のほうにいかなかった。まずこの男を極力、利用しなくてはならない。アアンソールの遭遇戦でスビアをさらったのが、本当にデュサール人だとしたら、彼女の行方《ゆくえ》をこの男が知っているかもしれぬ。
それに一連の汚らわしい陰謀の黒幕の男が別にいる。その男も罰を受けなければならない。ところでデュサールのアストックのもとにヘリウムのカーソリスを伴ってくれる人間として、このバス・コールほどふさわしいものがほかにあろうか?
ふとカーソリスは暗夜のかなたから、かすかに響いてくるエンジンの音を聞きつけた。夜空を仰《あお》いで瞳を凝らす。
あれだ。灯火を消してバルスームの夜空をわたる一隻の黒い船影が、はるか北方の果てしないくらい空間の中に、ぼんやりと浮いて見える。
敵なのか見方なのかわからないので、カーソリスは、その船のことは相棒のデュサール人警備兵が気がつくまで放っておくことにして、そ知らぬ顔でわざと別の方角に目をやった。
そのうちに相棒のデュサール兵も接近するその船に目をとめ、低い声で警報を発した。近くのデッキに毛皮にくるまって寝ていた警備兵の全員と、ひとりの将校がはねおきて位置についた。
こちらの艦も灯りを消して地上に横たわっているので、先方からはまったく見えないにちがいない。すでに上空にさしかかっているむこうの船は小型飛行艇であることがわかった。
「あれはサリア号だ」警備兵のひとりがいった。「あの艇なら、暗闇の中で一万隻のほかの艦にまじっていてもすぐに見分けがつく」
「そのとおり」といったのはデッキに姿を現わしたバス・コールだった。彼は声をはりあげて呼びかけた。
「カオール、サリア号!」
「カオール!」しばらく間をおいて、上空から返事が聞こえてきた。「貴船は?」
「輸送巡洋艦、カルクサス号。わたしはデュサールのバス・コール」
「了解!」上空から声がもどってきた。「着地する場所があるか?」
「本艦の右舷《うげん》よりに空地がある。待て。いま灯りをつけるから」小型艦がおりてきて、カルクサス号に寄り添うように着地すると、こちらはふたたび灯火を消した。
サリア号の舷側《げんそく》をこえて、数人の人影がカルクサス号に近づいてくる。警備兵は相手が接近して来て、本当に友軍であることが判明するまで警戒を解かずに待機している。
カーソリスは舷側に立って、情況を油断なく見まもっていた。万一、小型艦からおりてきたのが、この孤立した敵艦に大胆不敵な奇襲をかけにきたヘリウム戦士だった場合は、ただちに相呼応して戦うつもりだった。それは、考えられないことではなかった。カーソリスみずから、そういう奇襲隊を指揮したこともあるのだ。
しかし、カルクサス号の舷側をこえて乗りこんできた先頭の男の顔を見て、彼は、期待を裏切られると同時にひどく驚き、また少しは嬉しくもなった。誰あろう、デュサールのアストックだったのである。
アストックは他の人間には目もくれずにバス・コールの出迎えをうけると、すぐにこの腹心《ふくしん》の貴族を伴ってキャビンにおりて行った。やがてあたりの戦士たちは、ふたたび毛皮の寝具にもぐりこみ、デッキの上には|放浪の戦士《パンサン》タージュンと、その相棒の歩哨のデュサール人を残して人影がなくなってしまった。
|放浪の戦士《パンサン》はデッキの上を静かに、あちこちと歩きまわっていた。デュサール人は舷側の手すりにもたれかかって勤務交替の時間を待ちかねている。そして明りのもれるバス・コールのキャビンのほうへ|放浪の戦士《パンサン》が歩いて行き、かがみこんで通気孔に耳をくっつけるという妙なことをしているのにも気がつかない。
「いやはや、なんとも始末の悪いことになってしまった」アストックはぼやいていた。「ヌータスはだな、われわれが彼女をデュサールから遠く離れたどこかに隠していると思いこんでいる。それで、わたしに連れてこいというのだ」
アストックは先をつづけるのをためらった。これからしゃべろうとすることは誰の耳にも入れてはならないはずのことだ。ヌータスとアストックのあいだの永遠の秘密でなくてはならないはずのこと、帝国の存亡《そんぼう》にかかわる一大事なのである。この弱みを他人に握られたら、デュサール皇帝たるもの、どのようなことを恐喝《きょうかつ》されてもいやとはいえない。
だがアストックは心細くなっていた。年長の部下に頼りたい気持になっていた。そこで話をつづけた。
「わたしは彼女を殺さなくてはならんのだ」そういいながら、おびえたようにあたりを見まわした。「連れてこい、というのは、処刑が確実に実行されるのを見とどけたいということなのだ。で、ヌータスには彼女の隠れ家にむかうふりをしてここにやってきた。隠密裏《おんみつり》にデュサールに連れて帰れという厳命《げんめい》なのだ。彼女がデュサール人の手に落ちていたことが外部にもれてはまずいからな。プタースとヘリウムとケオルに真相が知れたら、デュサールがどういう目にあうかは、いまさらいうまでもないことだ」
通気孔に耳を寄せていたカーソリスは歯がみした。誰のことをいっているのか、初めは、はっきりわからなかったが、もう疑問の余地はない。スビアのことだ。彼らはスビアを殺そうとしているのだ! カーソリスは爪が肉に食いこむほど拳《こぶし》を握りしめた。
「そこで彼女をデュサールに護送するおともを、わたしがするというわけですな」バス・コールはいった。「いま彼女はどこです?」
アストックは身を乗り出して、相手の耳にささやいた。バス・コールの残忍な顔に、うす笑いのようなものが浮かんで消えた。この秘密をつかんだうえは、もうこっちのものだ。少なくとも王《ジェド》にはなれる。
「なるほど。して、わたしへの御用は、殿下?」バス・コールは猫なで声を出した。
「わたしには殺せないのだ」とアストック。「だめなのだ、どうしても。あの目でじっと見られると腑抜《ふぬ》けのようになってしまう」
バス・コールは目を細めた。
「そこでこのわたしに――?」とたずねた言葉|尻《じり》は宙に消えたが、意味は完全に通じた。
アストックはうなずいた。
「おまえは彼女を愛してはいないからな」
「そうはいっても自分の命は可愛いですよ、しがない小貴族のこのわたしも」と意味ありげにいった。
「大貴族にしてやる。デュサール随一の大貴族にだ!」
「王《ジェド》になりたいものですな」バス・コールはずばりといった。
アストックはたじろいだ。
「しかし王の位というものは、誰か王《ジェド》が死なないかぎり空《あ》かないではないか」
「王《ジェド》はこれまでにも何人も死にましたよ」バス・コールはぬけぬけといった。「殿下のお気に召さぬ王《ジェド》が、ひとりくらいは見つかりそうなものですな――殿下を嫌っている王《ジェド》ならたくさんいますからな」
早くもバス・コールは若い王子の弱みにつけ入りはじめていた。相手の態度の変化にアストックもすぐに気がついた。聡明《そうめい》というほうではないが、悪事にかけては回りの早いアストックの頭にひとつの奸策《かんさく》が浮かんだ。
「よろしい、バス・コール!」王子は叫んだ。「一件が落着《らくちゃく》したあかつきには、おまえを王《ジェド》にしてやるぞ」そして口には出さずつけ加えた――≪殿下のお気に召さぬ王《ジェド》というやつにな≫
「デュサールへは、いつお発《た》ちです?」バス・コールがたずねた。
「いますぐにだ。すぐ出発したほうがいい。それとも、まだここに仕事が残っているのか?」
「わたしは明朝、発つつもりでした。各地の駐屯所に新兵が集めてあるはずで、それを拾いあげながらデュサールに帰るつもりでしたが」
「新兵どものことは後まわしにしろ。いや、こうしよう。おまえはサリア号でわたしといっしょにデュサールに発つ。カルクサス号は新兵を集めながら後からくればよい」
「わかりました」とバス・コール。「そうしたほうがいいようです。では、まいりましょう」それで話がまとまり、ふたりは立ちあがった。
カーソリスは、ゆっくりと身を起こした。顔が引きつり、青ざめていた。スビアが殺されようとしている! しかもこちらには、それをとめるなんの手だてもない。どこに幽閉《ゆうへい》されているのか、場所さえもわからない。
アストックとバス・コールはキャビンを出てデッキにむかった。|放浪の戦士《パンサン》タージュンは昇降口のほうへ忍び寄り、たくましい手を短剣の柄にかけて待ち伏せた。邪魔がはいる前に、ふたりを片づけることができるだろうか? 彼の顔には不敵な微笑が浮かんだ。たとえ相手が百人編成の中隊《ユータン》全部であろうと、怒り心頭に発した彼の敵ではない。
昇降口からふたりが姿を現わした。アストックがなにかしゃべっている。
「おまえの部下をふたりばかりサリア号によこせ、バス・コール。急いで出立してきたので、人手が足りないのだ」
|放浪の戦士《パンサン》の手から短剣がすべり落ちた。頭をすばやく働かせて、王女救出のチャンスがあるのを見てとったのだ。ことによると自分が選ばれて、このふたりと同行することになるかもしれない。ふたりを片づけるのはスビアの居所をつきとめた後でよい。それがわからずにふたりを殺しても、ほかの人間の手にかかってスビアが死ぬことになるだけの話だ。早晩ヌータスが王女の居所を嗅ぎつけるだろうし、デュサール皇帝ヌータスとしては、王女を生かしておくわけにはいかないのだ。
タージュンは自分が見落とされては困るので、バス・コールの前に進み出た。バス・コールはデッキに眠っている戦士たちを起こしたが、彼の行くところには、この日|傭《やと》ったばかりの見知らぬ|放浪の戦士《パンサン》の姿がたえずつきまとっている。
バス・コールは、徴募兵の収容とデュサールへの帰投について士官《パドワール》に指示をあたえると、仕官《パドワール》の背後に居合わせたふたりの戦士を手招きした。
「そこのふたり、わたしについてサリア号にこい」と命じた。「これからサリア号艦長の指揮下にはいるのだ」
カルクサス号のデッキは暗くて、バス・コールには選んだふたりの顔もろくに見えなかった。しかし飛行艇の通常勤務と戦闘の補助要員がふたりいるだけだから、誰でもかまわないようなものだ。
選ばれたひとりは弓兵隊|司令官《オドワール》カール・コマックであったが、もうひとりはカーソリスではなかった。あてがはずれたヘリウムの王子は、あわや短剣を鞘《さや》ばしらせようとした。だがアストックは、すでにカルクサス号から下船していた。ここでバス・コールを倒せば、アストックに追いつく前に、いまやデッキに群がっているデュサール戦士によって殺されてしまうだろう。ふたりのうちのどちらを生かしておいてもスビアの身が危ない。やるなら、ふたりもろともだ!
大胆にもカーソリスは、デッキをおりて行くバス・コールの後を追った。連れだと思ったのか、誰もそれをとめようとしない。
つづいてサリア号移乗を命じられたデュサール戦士とカール・コマックが暗い地面におりてきた。カーソリスはデュサール戦士の左わきに寄って行く。やがて一行はサリア号の落とす濃い影の中にはいって手さぐりで縄梯子をさがした。
カール・コマックがまずあがって行く。つづいてもうひとりのデュサール戦士が縄梯子に手をかけたとたん、鋼《はがね》のような指がその喉を押え鋼の刃がその胸を刺し貫いた。
|放浪の戦士《パンサン》タージュンがデッキにあがってしまうと、もうその後からは誰もこなかった。彼は縄梯子をひきあげた。
ほどなくサリア号は急速に上昇して北にむかった。
デッキで相棒を待っていたカール・コマックは、自分につづいてあがってきた男の顔を見て目を丸くした。デュサール戦士だったはずの相棒が、どうしてロサールの大絶壁のふもとで会った青年と入れ代わったのだろう?
静かに、とカーソリスは目くばせした。そして何事もなかったように歩き出すカール・コマックの後について、着任の報告をすべくサリア号の艦長のもとへ出向いた。
数ある戦士の中からバス・コールが選んだうちのひとりがカール・コマックだった僥倖《ぎょうこう》を、カーソリスは感謝した。もしこちらもデュサール戦士だったとしたら、相棒をどこへやったのかと、しつこく、きかれたにちがいない。その相棒は、いまやハル・バスの屋敷の裏の広場に静かに眠っているのだが、うるさいことをいわれてもカーソリスとしては短剣にものをいわせて返事をする以外に方法がなかったのだ。そしてサリア号乗り組みの全員が相手では、そういう返事で先方をすっかり納得させるということなどできるものではない。
いらだったカーソリスには、デュサールへの旅がいつ果てるとも知れない長さに感じられたが、実際には、それほど時間がかかったわけではない。目的地につく直前、サリア号は一隻のデュサールの戦闘艦と出会い、最近の戦況《せんきょう》を聞くことができた。デュサール南東部で近々大会戦が行われるらしいという。
その方面からデュサール、プタース、ケオルの連合艦隊がヘリウムに進攻《しんこう》しようとしていた。これを迎えて出撃したヘリウム艦隊は、隻数においても火力においても、兵員の練度、勇気、そして巨艦をつらねた主力艦隊の戦闘力においてもバルスーム最強を誇る無敵艦隊である。
この大会戦の兆《きざ》しが見られたのは、ここ数日来のことであった。四人の皇帝が親しく艦隊を指揮して戦場にむかっていた。攻撃軍の側にはケオルのクーラン・ティス、プタースのスパン・ディーン、そしてデュサールのヌータス。受けて立つはヘリウム皇帝タルドス・モルスと火星大元帥ジョン・カーター。
このころ、はるか北方から大氷壁をこえてオカール皇帝タルーの艦隊が、火星大元帥の要請《ようせい》に応じて一路南下中であった。そのデッキには黄色人戦士たちが、黒い髭《ひげ》を風になびかせて南の空をにらんでいた。アプトとオルラックの毛皮に身をつつんだ派手ないでたち。氷にとざされた北極圏の温室都市から馳《は》せ参じた勇猛果敢《ゆうもうかかん》な戦士である。
そしてまた、はるか南方からは、オメアン海と黄金の崖から、サーンの寺院とイサスの庭園から集結した大部隊が、彼らの敬愛する偉人の召集にこたえ、舳《へさき》を連ねて北上中であった。ヘリウム艦隊につぐ威容《いよう》を誇るこの大艦隊の旗艦には、ファースト・ボーンの皇帝がデッキを行きつつもどり、剽悍《ひょうかん》な部下と巨大な戦隊を、火星大元帥の敵にぶっつけるときを待ちこがれて胸を躍らせている。
だがこれらの同盟軍は、はたして手遅れとならぬうちに戦場に到達し得るであろうか? ヘリウム艦隊は、同盟軍の到着まで持ちこたえることができるであろうか?
サリア号と出会ったデュサールの戦闘艦は、いろいろの情報や風説を教えてくれた。しかし、かたや南下中、かたや北上中の二大応援艦隊の接近については、なにも知らずにいた。したがって、伝統を誇る大ヘリウム帝国がバルスームの表面から抹殺《まっさつ》されるのは時間の問題だと全デュサール兵が信じていた。
祖国愛に燃えるカーソリス自身、彼の愛するヘリウム艦隊をもってしても、三大国の連合艦隊を敵に回しては、よくこれに対抗し得るとは思えなかった。
デュサールについたサリア号は、アストックの宮殿におりて、やがて屋上の発着台の上に静止した。ただちにアストックとバス・コールは下艦しエレベーターに乗って階下にむかった。
そのエレベーターと並んで、平《ひら》戦士用のエレベーターが口をあけている。カーソリスはカール・コマックの腕をつかんだ。
「さあ、いよいよ敵の根城《ねじろ》に乗りこむぞ」カーソリスはささやいた。「きみはぼくの唯一の友人だが、味方をしてくれるかね?」
「死なばもろともだよ」とカール・コマック。
ふたりはエレベーターに近づいた。中に操作係の奴隷がいる。
「通行証は?」と奴隷がきいた。
カーソリスは腰の革袋《かわぶくろ》をさぐるふりをしながら箱の中にはいった。カール・コマックがつづいてはいってドアを閉める。奴隷は下降の操作をしない。だが、いまは分秒を争うときだ。すぐにアストックとバス・コールの後を追わないと見失ってしまう。いきなりカーソリスは奴隷に襲いかかって箱の隅に投げとばした。
「縛って猿ぐつわを噛ませろ、カール・コマック!」と叫んだ。
同時に操作レバーをぐいと引いた。箱は目がくらむような速さで下降して行く。弓兵隊司令官は奴隷をねじ伏せにかかる。手助けしたいのは山々だがレバーから手を離すわけにはいかない。このスピードで地階につけば三人とも即死してしまう。
平行しておりて行くアストックの箱の天井が下のほうに見えてきた。カーソリスはレバーを操って先方に速度を合わせた。奴隷が金切り声をあげはじめた。
「静かにさせろ!」カーソリスがどなった。
一瞬ののち、ぐったりとなった奴隷のからだが箱の床にのびた。
「静かになった」とカール・コマック。
カーソリスは箱を急停止させた。まだ宮殿の何十階か高いところである。ドアをあけるとカーソリスは動かなくなった奴隷のからだに手をかけて外の廊下に放り出した。ドアを閉めてふたたび下降に移る。
アストックとバス・コールの乗った箱の天井がまた見えてきた。しばらく追ううちに、先方は停止した。こちらも並べて箱を止めると、前方の廊下を折れて、ふたりの男が姿を消すところだった。
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十四 クーラン・ティス皇帝の心意気
アストックの宮殿の東の塔に幽閉の身となって二日目の朝、プタースの王女スビアは、放心したようにぼんやりと刺客《しかく》の訪れるのを待っていた。
脱走の可能性は調べつくした。ドアも窓も、床も壁も、くりかえし丹念《たんねん》に吟味した。
敷きつめたアーサイトの石材は、引掻傷《ひっかききず》さえもつけられそうにもない。窓の火星ガラスは、大の男が大槌《おおづち》を振るいでもしないかぎり、びくともしない堅牢なものだ。ドアも錠も頑丈《がんじょう》で、こじあけることは及びもつかない。逃げる道は一つもなかった。そのうえ短剣をとりあげられたので、みずから命を断って、彼女の断末魔に立ち会う楽しみを敵から奪うことすらできないのだ。
いつくるのだろう? アストックは自分で手をくだすだろうか? その勇気が彼にあるとは思えない。根が臆病な男なのだ。父の宮殿に国賓《こくひん》として訪れたアストックに初めて会ったときから、それはわかっていた。彼はしきりに自分の武勇を吹聴《ふいちょう》していたが、最初からスビアの目には、さほどたのもしい男とは映らなかった。
なんというちがいでしょう、と彼女は思わざるをえなかった。だが誰と比べて? 婚約のきまったひとりの王女が、いい寄ってきた男を見劣りがすると思うとき、その比較の基準はなんだろう? 婚約者であろうか? プタースの王女スビアは、ケオル皇帝クーラン・ティスとくらべて、アストックをさげすんだのであろうか?
死は目前に迫っていて、いまさら自分を欺《あざむ》くことはなかった。スビアの気持は、はっきりとクーラン・ティスから離れていた。背の高い、きりりとしたヘリウムの王子のことしか念頭《ねんとう》になく、それ以外の男性の面影は、はいりこむ余地がない。
心に描くのはカーソリスの気高い顔だち、その威《い》あって猛《たけ》からぬ姿であった。友人とうちとけて話すときの和やかな目、敵と戦うときのかすかに笑った口もと――バージニア人ジョン・カーターそのままの、あの不敵な戦闘の微笑。
プタースの王女スビアは、まことに軍神の星、火星の娘であった。カーソリスの雄々《おお》しい戦いの微笑を思いうかべただけで息がはずみ胸が躍った。しかし、あのなつかしい微笑も二度と見ることはないのだ。むせび泣きのような声をもらして、スビアは窓べの寝乱れた絹と毛皮に身を投げかけて顔を腕にうずめた。
そとの廊下では、ふたりの男がドアの前に立って激しくいいあっていた。
「もう一度申しますがね、殿下」とひとりがいった。「殿下がいっしょにこないのなら、わたしは手をひきますぞ」
その言葉の調子には、主君にはらうべき尊敬のかけらもなかった。相手は激怒した。
「目をかけてやるのをいいことにして、つけ上るな、バス・コール」とどなった。「わたしの忍耐にも限りがあるぞ」
「ここでは殿下の肩書は通用しません」相手はやり返した。「殿下みずから手をくだすように、という皇帝陛下の厳命にそむいて、わたしが肩代りしてあげようというのだ。そう大きな顔ができた義理ではありますまい。わたしはただ、ご同席願って、罪を分けあおうといっているだけです。筋の通ったお願いではありませんか。どうして、わたしひとりで背負いこまなくてはならんのです?」
青年は渋面《じゅうめん》を作ったが、だまって鍵をあけてドアを開け放ち、バス・コールと並んで部屋にはいった。
部屋の奥では物音に気づいたスビアが起きあがり、はいってくるふたりにむかいあった。うすい銅色の肌からかすかに血の気がひいたが、澄んだ目は、まっすぐにこちらを見返している。そして誇らかにそびやかした顔が、嫌悪と軽蔑を雄弁に物語っている。
「どうあっても死を選ぶのか?」アストックがたずねた。
「あなたよりはね」つめたく王女は答えた。
デュサールの王子は連れをふりむいてうなずいた。
バス・コールは短剣を抜き放ってスビアに歩み寄った。
「ひざまずきなさい」
「立ったまま死にます」とスビア。
「気のすむように」とバス・コールは、切先を左手の親指でためしながらいった。「デュサール皇帝ヌータスの名において!」そうわめくと王女に走り寄った。
「ヘリウムの王子、カーソリスの名において!」入口から低い叫びがあがった。
バス・コールはふりむいた。息子の家で傭《やと》い入れた|放浪の戦士《パンサン》が突進してくるのが目にはいった。アストックのそばを走り抜けざま、その男は「やつの次はきさまだ――キャロットめ!」と一喝《いっかつ》した。
バス・コールは身をひるがえしてタージュンにむきなおると叫んだ。
「なにゆえの謀叛《むほん》だ!」
アストックも剣を抜いて助太刀《すけだち》にとび出した。タージュンの剣がバス・コールの剣と打ちあって戛然《かつぜん》と鳴った。一合を交わしただけでバス・コールは、恐ろしく腕の立つ男を敵にまわしたことを悟った。
どういうつもりなのか、タージュンは王女をかばいながら、みずから壁ぎわに追いつめられた位置をとった。しかしその戦いぶりは、追いつめられたもののようではない。たえず攻勢に出て敵を部屋の中ほどまではね返しながら、王女を導いて壁ぎわをじりじりと迂回《うかい》して行く。
バス・コールとアストックが相手の策戦《さくせん》に気づいたときは、もう手遅れだった。タージュンはドアを背に立っていた。ふたりのデュサール人は退路《たいろ》を絶たれてしまったのだ。アストックがドアの外側に残した鍵をぬき取ったスビアは、内側からドアを閉めて錠をおろしてしまった。こうなればタージュンは思いのままにふたりを料理できる。
手強《てごわ》しとみてアストックは、いつもの伝で、敵の矛先《ほきさき》は戦友にまかせて逃げ出しにかかった。タージュンの顔にじっとそそがれていたアストックの目が、しだいに大きく見ひらかれた。ヘリウムの王子の顔をやっと見わけたのである。
ヘリウムの王子は、激しくデュサールの貴族を攻めたてていた。バス・コールは十数個所もの手傷をうけて血まみれになりながらも応戦していた。しかし相手の巧妙きわまる攻撃を長くは支えきれぬとアストックは見てとった。
「勇気を出せ、バス・コール!」アストックはささやいた。「うまい考えがある。ちょっとのあいだもちこたえていろ。じきにすべてはうまくいくから」しかし、その後につづく≪このアストックさまに関する限りはな≫という文句は、口には出していわなかった。
バス・コールは裏切られるとは夢にも知らず、うなずいて反撃に転じ、しばしカーソリスを守勢にたたせた。そのすきにアストックは部屋の反対側に走り寄り、壁に隠したなにかの仕掛けに手をふれた。頑丈な羽目板《はめいた》の一部が、ぐらりと動いてぽっかり黒い通路が口をあけ、その中へアストックは姿を消した。
あっという間もない出来事で、とめるひまはなかった。カーソリスはバス・コールもその後を追うのではないかと思い、またアストックが援兵《えんぺい》を連れてくる前に|けり《ヽヽ》をつけようと猛烈な勢いで相手に襲いかかった。一瞬の後、アーサイト石の床の上に首のないデュサール貴族のからだがころがっていた。
「急いで立ちのきましょう」カーソリスはいった。「ぐずぐずしてはいられません。アストックが衛兵を連れてもどってくると厄介なことになる」
しかしアストックは、そのようなことは考えていなかった。援兵を呼べば、プタースの王女が東の塔に監禁されているという噂が広がってしまう。父のヌータスがそれを聞きつけて調査に乗り出したら一大事。ごま化しのきかない厳然たる事実が明るみに出てしまう。
アストックは、カーソリスとスビアが立ちのく前に、部屋の外の廊下にまわろうと必死に通路を走っていた。部屋の鍵は王女が革ポケットにしまうのを見ている。外から鍵穴に短剣を打ち込んでしまえばいいのだ。ドアはふたたび開かず、太陽がついに冷却して、その回りを八つの冷えきった惑星がまわるという日まで、中の三人は日の目を見ることがないだろう。
秘密の通路を走り抜けると、アストックは部屋のドアに通じる廊下に出た。うまく間《ま》にあうだろうか? もう部屋を出たカーソリスと廊下で出くわすのではないか? それを思うと背すじが寒くなった。あの絶妙の剣さばきにたちむかう勇気はとてもない。
もうすぐあの部屋だ。次の曲がり角を折れると例のドアだ。まだ出てきてはいない。バス・コールが、食いとめているものと見える!
バス・コールを出し抜いて、同時にその始末をつけてしまうという一石二鳥の妙手《みょうしゅ》にアストックはほくそ笑んだ。だが曲がり角をまわったとたん、赤茶けた白い肌の大男とぶつかった。
なにしにきたともいわずに、その男はいきなり長剣を浴びせかけた。発止発止《はっしはっし》と鋭く打ちこむその切先をかろうじてかわすと、アストックは廊下をひき返して一目散《いちもくさん》に逃げ去った。
そのときカーソリスとスビアが部屋から廊下に姿を現わした。
「どうした、カール・コマック?」とカーソリス。
「わたしを張り番に残しておいてよかった」弓兵隊|司令官《オドワール》は答えた。「たったいま、あのドアに、むしょうに行きたがっていた男を追い返したところだ――デュサールの王子、アストックとかいうやつだな」
カーソリスは微笑した。
「やつはどこに行った?」
「わたしの切先をかわして、この廊下をあちらへ逃げた」
「ではぐずぐずしてはおれん」とカーソリス。「いまに衛兵がやってくる」
三人は曲がりくねった廊下を走った。さきほど、ふだん使わないために積もった塵《ちり》の上の足跡を追って、カーソリスとカール・コマックがやってきたのと同じ廊下である。
三人は途中、誰とも会わずにエレベーターのある広間にたどりついた。しかしそこには数人の衛兵とひとりの将校がいて、三人の姿を見とがめ、なにゆえにアストック王子の宮殿を徘徊《はいかい》しているのかと不審尋問をした。
カーソリスとカール・コマックは、剣にものをいわせて道をひらいた。三人が無事にエレベーターに収まったころには、騒ぎが宮殿じゅうに広がったらしく、叫びあう声が至るところから聞こえてきた。屋上めがけてまっしぐらにのぼって行く箱の中から、三人は、各階の廊下を騒ぎうろたえて右往左往している武装兵たちの姿を見た。
発着台にはサリア号が三人の衛兵に護られて横たわっていた。ふたたびカーソリスとカール・コマックは肩を並べて剣をふるったが、戦いはあっけなく終わった。たとえ相手の三人がデュサールきっての名剣士であったとしても、カーソリスひとりで始末できただろう。
サリア号が発着台を離れたとたんに、百人あまりのデュサール戦士が屋上にとび出してきた。その先頭にはアストックがいる。完全に自分の手中におちいったとばかり思いこんでいたふたりが、いま目の前を逃れ去って行くのを見て地団駄ふんでくやしがり、拳をふりまわして悪態《あくたい》をついた。
目もくらむような角度に船首をあげてサリア号は急上昇に移った。王子の宮殿の屋上の騒ぎを見とがめた数隻の快速パトロール艇が矢のように追ってくる。
敵弾がしきりに舷側《げんそく》をかすめて飛んだ。カーソリスは操縦席を離れることができないので、スビアが急傾斜のデッキにしがみつきながら速射砲をあやつって応戦した。
壮烈な追跡戦が展開された。ほかのデュサール艦が加わってきて、いまや二十対一の空中戦となった。しかしアストックの乗艦として建造されたサリア号は優秀な飛行艇であった。デュサール広しといえども、サリア号にまさる速度、装甲《そうこう》、火力をそなえた艦はほかにない。
一隻また一隻と追尾艦《ついびかん》は脱落していき、ついに最後の一隻が射程圏外に去った。カーソリスは船首を落として水平飛行にもどし、変速ギアを最高速度に入れたまま、火星の空を東のかたプタースを指してサリア号を飛ばせた。
プタースまでの距離は一万三千五百ハアド――最高速の飛行艇をもってしても、たっぷり三十時間の旅である。そしてデュサールとプタース両国のあいだには、いまや戦機刻々《せんきこっこく》と迫る大会戦にそなえてデュサール艦隊の半数までが集結している。
連合艦隊の集結場所さえわかっていたら、まっすぐそこに飛ぶのだが、とカーソリスは思った。平和回復の望みは、ひとえにスビアの身柄を父皇帝のもとにもどすことにかかっているのだ。
ほかの船影も見ずに旅路の半ばを過ぎたころ、カール・コマックが、眼下に広がる涸れた海の黄苔の平原になにか見つけてカーソリスに知らせた。見ると、はるか前方に一隻の飛行艇が不時着している。
その艇のまわりに無数の人間が蟻のようにむらがっている。強力な双眼鏡でカーソリスが見ると、緑色人の大群が不時着艦に波状攻撃をかけているのだ。距離が遠いので、どの国籍の艦なのかはわからない。
現場は、ちょうどサリア号の進路に当たっていた。カーソリスは一五〇〇メートルほど高度を落として、なおもこまかく観察した。
だが、もしこれが友軍の艦であったとしても、上空から蛮族に砲弾を見舞うくらいのことしかできない。大事なお客さまを乗せているので無謀《むぼう》なことはできないのだ。着陸を敢行《かんこう》したところで、わずか二本の剣の助太刀しか出せず、いたずらにスビアを危ない目に会わせるだけのこと。
上空にさしかかってみると、あと数分のうちに緑色人どもはなだれをうって遭難艇の舷側を乗りこえ、血に飢えた凶暴性を存分にふるうことになりそうな形勢だった。
「これではおりても無駄です」カーソリスはスビアにいった。「それに、あれはデュサールの艦かもしれない。標識もなにも出していない。われわれとしては蛮族に砲火を浴びせるくらいのことしかしてやれません」そういいながら、カーソリスは備砲の一つをあやつって緑色人どもの上に照準をあわせた。
上空からの第一弾で、初めて遭難者たちはサリア号に気づいたらしい。ただちに下の艦の舳《へさき》に旗があがった。スビアは息をのんでカーソリスを見あげた。
ケオル皇帝の旗――スビアの婚約者、クーラン・ティスの乗艦だったのだ!
見殺しにしようと思えば苦もなくできる情勢であった。もはやいかんともしがたい運命に恋敵《こいがたき》をゆだねて立ち去ってしまえばいい。後で卑怯者、裏切者よばわりされる気づかいもない。クーラン・ティスは目下、公然《こうぜん》とヘリウムに敵対行動をとっているのであり、そのうえサリア号には、いまや目前に迫った悲劇的な週末を、たとえ一時《いっとき》でも引き伸ばすだけの助勢の剣もないのだ。
ヘリウムの王子カーソリスは、いかなる行動をとるであろうか?
ケオル皇帝の旗が不時着艦のマストにひるがえった瞬間、サリア号は舳《へさき》を下げて急降下に移った。
「操縦の心得がありますか?」カーソリスはスビアにたずねた。
王女はうなずいた。
「生存者を収容します」カーソリスがつづけた。「彼らが、救命筏《きゅうめいいかだ》にたどりつくまで操縦をお願いします。カール・コマックとぼくは舷側の砲座について撤退を援護します。あなたは船首をさげたまま下降させてください。船首がさがっていれば、前部装甲が有効に生かせるし、プロペラへの被弾も防げますから」
操縦席をスビアにゆずると、カーソリスはキャビンにとびこんで救命装置を作動させた。船底がぱっくり開いて救命筏がするするとおろされた。筏の両側からは数十条の革のハシゴがさがっている。同時に船首に信号旗があがった。
「本艦ニ移乗セヨ」
ケオル艦のデッキから喚声《かんせい》があがった。キャビンから出たカーソリスは、そのありさまを見て苦笑した。ひとの恋路《こいじ》の邪魔するやつを死の顎《あご》からかっさらおうというのだから酔狂《すいきょう》な話だ。
「左舷《さげん》の砲につけ、カール・コマック!」そう命じて、カーソリスは自分も右舷の砲座についた。
緑色人戦士たちはサリア号の砲火に対して、死と破壊のラジウム弾をもって挨拶を返してきた。さしもの堅牢なサリア号も、舷側に炸裂《さくれつ》するラジウム弾の衝撃にぴりぴりとふるえた。
成功の望みは薄い。サリア号の浮揚タンクに、いつ被弾するかわからない。だが必死の防戦につとめるケオル艦の乗員たちは、援軍の姿に勇気百倍したようであった。その艦首には、みずから陣頭に立って凶暴な蛮族と果敢に戦うクーラン・ティス皇帝の姿がある。
サリア号はケオル艦の真上にさしかかった。下の艦では、将校の指揮のもとに移乗の態勢を整えはじめた。そのとき、死と破壊のラジウム弾の一斉射撃がサリア号の舷側に集中された。
傷ついた鳥のようにサリア号はかしぎ、よろめき、墜落しはじめた。スビアは懸命に船首を起こそうとしたが、下の艦と激突を避けるのが精いっぱいであった。サリア号は遭難艇のすぐそばに着陸した。
撃墜した小型艇のデッキには、わずかふたりの戦士とひとりの女の姿しかないのを見てとり、緑色人どもは勝ち誇ったような叫びをあげた。それに答えるかのように、ケオル艦上からは悲痛な喚声があがる。
蛮族どもは攻撃の矛先をサリア号に転じた。守備が手薄なこちらの艦をまず乗っ取って、そのデッキからもういっぽうを制圧しようという狙いだ。
敵の動きを見てとった艦橋のクーラン・ティスは、小型艇のほうへ大声をはりあげて警告を発し、敢然《かんぜん》と死地に乗りこんできた相手の豪勇を賛《たた》える言葉を叫んだ。
「名を名乗りたまえ!」ケオル皇帝は呼びかけた。「このクーラン・ティスの急を救わんとして一命なげうつのはいかなる御仁《ごじん》か? バルスームにためしなき崇高《すうこう》の自己犠牲、かたじけなく思うぞ!」
蛮族どものひしひしと迫る小型艇のマストに、ケオル皇帝の問いにこたえてヘリウム王子カーソリスの旗があがった。しかし小型艇のほうでは舷側に殺到する敵を迎えて、それがどのような反応をケオル艦上にひき起こしたのかは見るいとまもなかった。
カール・コマックは、これまで射ちまくっていた速射砲の後ろに立って、大きく見開いた目をじっと緑色人戦士の大軍の上にそそいでいた。それを見てカーソリスは、ひどく失望した。あっぱれ豪勇の士と見えたこの男も、いざとなれば、結局はジャブやタリオのように腰抜けになってしまうのか。
「カール・コマック、勇気を出せ!」カーソリスはどなりつけた。「しっかりするんだ! 過ぎし日のロサールの海の戦士の栄光を思え! 戦うのだ、カール・コマック、戦いあるのみ! 後の世の語り草となるような死に花を咲かすのだ。こうなっては斬り死にするほかはない」
カール・コマックはにが笑いを浮かべてカーソリスをふりむいた。
「どうしてわれわれが戦うことがある? 多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》もいいところだ。それよりも、ほかに方法があるぞ――もっとよい方法が。それっ、どうだ!」と叫んで船艙に通じるデッキの昇降口を指さした。
すでに数人の緑色人がサリア号のデッキに侵入していた。カーソリスはちらと相手の指の先をみて、思わず安堵《あんど》の吐息《といき》をもらし歓喜の微笑をうかべた。これでスビアを殺さずにすむ、と思った。昇降口からは、見よ、猛々《たけだけ》しい長身の弓兵たちが陸続《りくぞく》と出現しているではないか。これはタリオの手下でもジャブの部下でもない。弓兵隊|司令官《オドワール》カール・コマック直属の、剽悍《ひょうかん》にして闘志満々たる弓兵たちなのだ。
デッキになだれ込んだ緑色人どもは驚愕《きょうがく》して立ちどまった。しかしそれも一瞬のこと、恐ろしい蛮声をはりあげて奇怪な新手の敵にむかって突撃した。
突進する緑色人どもは弓兵隊の一斉射撃を受けて、ばたばたと倒れた。たちまちサリア号艦上の緑色人は、ひとりのこらず死体となってころがっていた。勢いに乗じた弓兵隊は舷側を跳びこえて地上の敵軍に突入した。
中隊《ユータン》また中隊《ユータン》とサリア号からくり出す弓兵隊は、悲運の緑色軍に襲いかかった。クーラン・ティスとその部下たちは、見たところせいぜい五十人くらいの収容力しかない小型艇の船艙《せんそう》から、数千の勇猛な怪戦士たちが湧き出てくる情景を、ただ目を見張り息をのんで見つめていた。
数のうえでも圧倒的な弓兵隊の猛攻を支えかねて、ようやく蛮族部隊の上に敗色《はいしょく》が濃くなった。初めはじりじりと、それからしだいに足を速めて、緑色人どもは退却しはじめた。得たりと追撃に転じる弓兵隊。サリア号のデッキに仁王《におう》立ちになって指揮をとるカール・コマックは興奮に身をふるわせていた。
大音声《だいおんじょう》にカール・コマックは、過ぎし昔の戦いの雄叫《おたけ》びをあげていた。そしてしだいにサリア号を離れて追撃戦を展開する麾下《きか》の弓兵隊に命令を怒号し、叱咤激励《しったげきれい》に声をからしているうちに、ついに自分も戦いの誘惑にたえられなくなってしまった。
舷側を蹴って地上を走り出したカール・コマックは、敗走する蛮族を追って黄苔の海底を突進する弓兵隊の中にみずから身を投じた。
カーソリスとスビアの見まもる中を、かつては大海の孤島であった前方のひくい丘のかげをまわって蛮族の大軍は西をめざして退却していく。そしてそれに追いすがる太古の海の戦士たちにまじって、トルクワス族から奪った短剣を高だかと振りかざし、前へ前へと進むカール・コマックの勇姿《ゆうし》がひときわ目につく。
最後の弓兵の姿が丘の陰に消えたとき、カーソリスはスビアにむきなおった。
「あの幻《まぼろし》と消えていくロサールの弓兵たちに、ぼくも見ならいましょう」カーソリスはいった。「任務を果たしたうえは、あの弓兵たちは主人の邪魔にならぬよう姿を消してしまうのです。もうあなたにはクーラン・ティスとその部下がついています。護衛の役目は終わりました。これまでにぼくのしたことが、公明正大なぼくの気持のほどの証《あかし》となると存じます。では、おいとまします」カーソリスはひざまずいて王女の装身具の一片にくちびるをあてた。
王女は手をのばし、カーソリスの黒い髪に手をふれてやさしくたずねた。
「どこへ行くのです、カーソリス?」
「弓兵のカール・コマックと旅に出ます」相手は答えた。「戦いと忘却をもとめて」
王女は顔を手で覆った――目の前の大きな誘惑を見まいとでもするように。
「祖父のみ霊《たま》、お許しください」スビアは、たえかねたように叫んだ。「いってはならぬことをいおうとするこのわたくしを。でもあなたが世を捨てようとするのを黙って見てはいられません。カーソリス、行かないでください! わたくしはあなたのものです。行ってはいや、愛しているのです!」
誰かが背後で咳《せき》ばらいをした。ふりむくと、二歩と離れないところにケオル皇帝クーラン・ティスが立っていた。
しばし一同は無言であった。やがてクーラン・ティスが口を切った。
「失礼ながらお話は、すっかり洩れうけたまわりました。あなた方が愛しあっていることがわからぬほどわたしは愚か者ではない。また王女とわたしの命を救うために、しかも、そのために王女を失う覚悟で身をなげうって戦ったきみ、カーソリスの心の気高さを見抜けぬほどの愚か者でもない。
「だがスビア、よくぞこれまで一言《ひとこと》も秘めた気持を口に出さずにいてくれました。あなたがカーソリスに愛を打ち明けたのは、これが初めてだったのだ。いや、そのことであなたを責めはしない。愛なき結婚で結ばれてわたしのもとへきたとしたら、そのときこそあなたを責めたであろうけれども。
スビア、あなたは自由の身だ。すでにその心のつながれたひとに、いまぞ晴れて寄り添うがよい。結婚の黄金の冠をあなたが戴く日、新しいヘリウムの王女とそのご夫君《ふくん》が永遠に結ばれたことを宣《せん》して挙刀《きょとう》の礼《れい》の捧げられるとき、まっさきにふりかざされるのは、このクーラン・ティスの剣でありましょうぞ」
(完)