火星の交換頭脳
E・R・バローズ/小西宏訳
目 次
ある手紙
一 死者の家
二 昇進
三 ヴァラ・ディア
四 約束
五 危険
六 疑惑
七 脱出
八 手をあげろ!
九 ムー・テルの宮殿
十 ファンダル
十一 ザザ
十二 巨神タール
十三 サヴァスにもどる
十四 ジョン・カーター
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登場人物
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ユリシーズ・パクストン……地球人、元アメリカ合衆国陸軍の大尉
ヴァラ・ディア……ラス・サヴァスに買われた奴隷娘
ダル・タラス……ファンダル帝国の近衛兵
ザザ……ファンダルの女帝《ジェダラ》
サグ・オール……ファンダルの女帝《ジェダラ》の寵臣
カラ・ヴァザ……ダル・タラスの恋人
ゴル・ハジュス……トウーノルの刺客、豪胆にして武勇の剣士
ラス・サヴァス……トウーノルの老外科医
ヴォビス・カン……トウーノルの皇帝《ジェダック》
ムー・テル……ヴォビス・カン家の王子
ホヴァン・デュー……人間と白猿の頭脳を持った大白猿
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ある手紙
一九二五年六月八日、ヘリウムにて
親愛なるミスター・バローズ
あなたの小説「火星のプリンセス」を読んで、わたしが始めてバルスームの大元帥ジョン・カーターを知ったのは、一九一七年の秋、士官養成所にいたときのことでした。わたしは深い感銘《かんめい》を受けました。この物語は豊かな想像力の産物にすぎないと確信をもって断定したものの、これには嘘偽《うそいつわ》りはないのだと暗示する力が、意識の内部に達するほど強烈だったのです。わたしは火星を、ジョン・カーターを、デジャー・ソリスやタルス・タルカスやウーラを夢に見ました。あなたの想像力が産み出した虚構《フィクション》の存在というよりは、みずからの体験によって確かめた現実の存在ででもあるかのようにです。
このたゆまぬ実習期間中は、夢想《むそう》にふける余裕は、ほとんどありませんでした。しかし眠りの訪れる前のわずかな夜のひと時が、わたしの夢想のときだったのです。なんという夢だったでしょう! それはいつも火星の夢でした。夜、歩哨《ほしょう》に立つあいだ、地平線上にその姿があるとき、わたしの目は常にあの赤い惑星を捜し出すのです。そして大昔から、火星が地球人に提示してきた、外見からは測《はか》りがたい謎を解こうとして、その姿をいつも追いつづけるのでした。
そのことは、おそらく固定観念となってしまったのでしょう。養成所時代、それはずっとわたしにつきまとったのです。夜、輸送船のデッキにあおむけに横たわっては、戦《いくさ》の神――わたしの天職を司《つかさど》る神――の赤い目をみつめたものでした。そしてジョン・カーターのように自分もまた、広大な空間を越えて、わたしが望む安息の地へ引きよせてほしいと願ったのです。
それから塹壕《ざんごう》の中での、ぞっとするような昼夜がやって来ました(第一次世界大戦)――ねずみや害虫、そしてぬかるみ――その単調さは、ときたま攻撃の命令がくだされたときにだけ、すばらしい中断を迎えるのです。当時わたしはその中断が好きでした。炸裂《さくれつ》する砲弾や怒号《どごう》する銃砲声のすさまじい混沌《こんとん》状態が好きでしたが、ねずみや害虫やぬかるみは――ああ! どれほどいとわしく思ったことでしょう。大言壮語のように聞こえるとしたらお許しください。しかしわたしは自分自身について、ただありのままを書き記したかったのです。あなたなら、おわかりいただけることと思います。そしてそれは後に起こった出来事の原因の大半となっているのかもしれません。
ある日、血なまぐさい戦場で他の大勢の者の身に起こったことが、とうとうわたしの身にも起こったのです。それはわたしが初めて昇進《しょうしん》して大尉になった週のことで、謙虚な気持ながらも、たいへんな名誉と感じていました。若輩《じゃくはい》にもかかわらず、それは、いろいろの機会を与えてくれると同時に、祖国に対してのみならず、個人的には自分の率いる部下に対しても大きな責任を負わされたことを自覚したからです。わが軍が約二キロ前進し、小分隊とともに最前線の地点を確保していたとき、わたしは新しい防御線に後退せよという命令を受けました。日が暮れてから意識をとりもどすまでのあいだ、覚えていたことはそれが最後です。きっとわれわれの間で砲弾が炸裂《さくれつ》したのでしょう。部下がどうなったかは、ついにわかりませんでした。目が覚めたとき初めは寒く真暗で、しばらくのあいだはひどくいい気持でした――きっと完全に意識を回復する前のことだったのでしょう――それから苦しみを感じ始めたのです。その痛みは耐えがたいほど強くなっていきました。痛みは足からでした。触れてみようと下に伸ばした手は、見つけたものにおぞけをふるってひるんでしまいました。次に足を動かしてみて、胴から下の感覚が、まったくないことに気づいたのです。月が雲間からあらわれて、砲弾があけた穴の中に自分が横たわり、ひとりぼっちではないことに気がつきました――周囲には焼死体がごろごろしていたのです。
精神的勇気と肉体的な力をふるい起こしてどのていどの負傷を受けたのかを見ようと、片肘《かたひじ》をついて上体を起こすまでには、長い時間がかかりました。ひと目見ただけで充分でした。わたしは精神的苦悩と激しい肉体的苦痛で、どさりとうしろに倒れこみました――両足が腰と膝の中間ほどから吹きとばされていたのです。どういうわけか、出血はさほどひどくはありません。それでも大量の血を失っていましたし、現に出血はつづいていますから、もしすぐに発見してもらえなければ、遠からぬうちにこの悲惨《ひさん》な状態に終止符《しゅうしふ》を打つことはわかりました。そして苦痛にさいなまれてあおむけに横たわったまま、わたしは友軍が間《ま》に合うようにやって来ないようにと祈りました。死をおそれるよりも、一生|不具《ふぐ》で暮らすことのほうをもっとおそれたのです。そのとき、突然わたしの目は火星の明るい赤い目に釘づけとなり、身うちに希望が急速に高まってゆくのをおぼえました。わたしは火星に両手をさしのべ、自分の天職を司《つかさど》る神に願いをかけ、救いを求めて祈ったのです。そのとき、疑惑《ぎわく》も不信も念頭にあったとは思いません。その願いがきき入れられることがわたしにはわかっていたし、その信頼の念には一点の曇りもなかったのです。とはいえ、不具の肉体の忌《いま》わしいきずなを断つために払った精神的な努力は、実に大きなものでした。一瞬、吐き気をおぼえたほどだったのです。それから、ぷっつりと鋼鉄の針金を切るような鋭い音とともに、突然わたしは二本の丈夫な足をもつ全裸《ぜんら》の姿となって立ち、かつては自分であった、血まみれのゆがんだものを見おろしていたのです。立ちつくしていたのはほんの一瞬で、わたしは再び自分の運命の星を見上げ、フランスのこの夜の冷気の中で腕をさしのべ――待ったのです。
突然あっというような速さで、道もない茫漠《ぼうばく》とした惑星間の空間に引きよせられていくのを感じました。一瞬ものすごい寒気と完全な暗黒、それから――。
しかし、その後のことは原稿の中に書き記してあります。わたしやあなたよりも偉大な人物の助けをかりて、わたしはこの手紙とともに、それをあなたのもとへ届ける方法を見つけました。あなたと選ばれた数人のひとは、それを信じるでしょう――その他の人たちにとっては、それはまだ、関係のないことです。でも、いつか、そのときはくるでしょう――しかし、すでにご存知のあなたに、いまさらお話する必要もありますまい。
わたしの挨拶をお受けください――そしてあなたが仲介者として選ばれた幸運に対する祝福をあなたの仲介によって地球人は、いっそうよくバルスームの風俗習慣に通じることができましょう。そして彼らもいつの日かジョン・カーターのようにやすやすと宇宙空間をわたり、あなたを通して彼が描いてみせた活躍の舞台をちょうどわたしのように訪れることでしょう。敬具。
アメリカ合衆国陸軍 第××歩兵連隊元大尉
ユリシーズ・パクストン
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一 死者の家
地球から火星への移動の間、わたしは本能的に目を閉じていたに違いない。目を開けたときは、べったりとあおむけに横たわって、さんさんと太陽の輝く空を見あげていたからだ。そして、わたしから数フィート離れたところでは、いまだかつて見たこともないほど奇妙な格好の人間が、ひどく不可解な面持ちでこちらを見おろしていた。たいへんな高齢とみえて、形容の言葉に窮《きゅう》するほど皺《しわ》がより、やせ衰えている。四肢はなえて、ちぢんだ皮膚の下には、はっきりと肋骨《ろっこつ》がみてとれる。頭蓋《ずがい》は大きく、よく発達して、やせ衰えた四肢や胴体と相まって、頭でっかちの印象を与える。からだとはまるで釣合わない頭を持っているみたいだが、実はそうではなかったのだ。
ばかでかいたくさんのレンズをつけた眼鏡ごしに、その老人がじっとわたしを見おろしているあいだに、こちらのほうでもくわしく相手を観察することができた。背丈《せたけ》はたぶん一メートル六〇センチ強。若いころはもっと高かったのだろうが、いまは多少腰が曲がっているからだ。武器や小袋をくくりつけた、ごくあっさりした使いこんだ皮のよろいと、すばらしい装身具一つ以外は、なにも身につけていない。装身具はやせこけた首のまわりにかけた、宝石をちりばめた首飾りで、王侯《おうこう》の貴婦人なら、魂と引きかえにでも手に入れたいと思うような逸品である。もっとも、そうした女性が魂を持っていたらの話だが。老人の皮膚は赤銅色、まばらな髪は灰色だった。わたしを見ているうちに、その途方にくれた表情がいっそう強くなる。左手の親指と人さし指で顎《あご》をなでながら、ゆっくりと右手をあげ、すこぶる慎重に頭をかいた。それから話しかけてきたが、その言葉は、わたしにはさっぱり理解できなかった。
わたしは老人の第一声で起きなおり、頭をふるとあたりを見まわした。周囲は高い壁をめぐらした構内の緋色《ひいろ》の草地だった。壁の少なくとも二方、もしかすると三方は建物の外壁からなっており、その建物は、頭に浮かんだ、なじみのあるどの建築様式よりも、いくつかの点でヨーロッパの封建時代の城に一番よく似ている。その正面が目にはいったが、こった彫刻を施した実に風変わりなデザインで、屋根の線は廃墟《はいきょ》かと思うほど型破りだったが、全体としては均斉《きんせい》がとれて美しさがないというわけではない。構内に生い茂るたくさんの木やかん木は、すべて気味悪いほど異様で、そのことごとく、もしくはほとんどが豊富に花をつけており、さまざまの色をした小石の歩道がいくつか曲がりくねっている。小石の間できらめいているのは珍奇《ちんき》な美しい宝石らしく、その奇妙な、この世のものとも思われぬ光が、陽光の中で躍りたわむれているさまはじつにみごとだった。
無視された命令をくり返すように、老人はもう一度、今度は断固として話しかけてきた。わたしは再び頭をふった。彼は二本の剣の一本に手をかけたが、相手がその武器を引き抜くや、わたしは、ぱっととびさがった。その行動のもたらした驚くべき結果が、われわれふたりのうち、どちらをよけい驚かせたかはいまもってわからない。きっとわたしは空中に三メートルはとびあがったと思う。もとすわっていたところから、ほぼ七メートルも後方に達したのだ。そのとたん、わたしは自分が火星にいることを確信した(もっともその点については一瞬も疑っていたわけではなかったが)。小さい重力の効果や、草原の色と赤色火星人の皮膚の色を、ジョン・カーターがその手記の中で描写していたのを読んでいたからだ。これは科学文学の領域にたいするすばらしい貢献であるが、いまだにその真価を認められていない作品なのである。まちがいなく、わたしは赤い惑星の大地に立っていた。わが夢の世界――バルスームへ、ついにやって来たのだ。
わたしの敏捷《びんしょう》な動作に、びっくり仰天《ぎょうてん》した老人は、みずからもちょっととびあがった。むろん無意識の動作だったが、それはある結果をもたらした。眼鏡が鼻から草地へと転がりおちたのだ。わたしはこの憐れむべき老人が人工の視力補助器を奪われてしまうと、事実上盲目であることに気がついた。老人は、すぐさまそれを見つけ出さなければ命にかかわるとでもいわんばかりに、膝をついて狂おしげになくなった眼鏡を手探りし始めたからだ。おそらくその無力につけこんで、わたしが彼を殺すかもしれないと思ったのだろう。大きい眼鏡だし、六〇センチくらいのところにあるというのに、老人にはそれが見つからないのだ。どうやら時々われわれの簡単きわまる動作を混乱させる、あの不思議な運命の気まぐれに老人の手は悩まされているらしく、なくした品物のまわりを残る隈《くま》なくさぐりながらも、一度もそれにさわらないのである。
彼の無駄《むだ》な骨折りを見守りながら、わたしは立ちつくしていた。眼鏡をわたしてやって、前よりもいっそう容易にその剣をわたしの心臓に突き刺すことを許してやってしまっていいものかどうか、思案《しあん》しているうちに、ほかの人間が構内にはいって来たことに気づいた。建物のほうを眺めていると、小柄な眼鏡の老人のほうへ大柄な赤色人が急いで走りよるのが見えたのだ。新来者は真裸で片手に棍棒《こんぼう》を持っている。その表情からは、なくした眼鏡を求めて、もぐらのように地を這っている無力な老人に対するまごうかたなき悪意が見てとれた。
この件には中立を保とうというのが、わたしの最初の衝動《しょうどう》だった。どうみても自分とは関係なさそうだし、当事者《とうじしゃ》のどちらに好意を持ったらいいのか、とんと見当がつかなかったからだ。しかし棍棒を持った男の顔をもう一度|一瞥《いちべつ》したとき、まるきり自分に関係がないことかどうか疑わしくなってきた。その男の顔には生来《せいらい》の残忍な傾向というか、ないしは年配の犠牲者を手早く片づけてしまった後で、その殺意をこちらにむけそうな狂暴な傾向が、まざまざとあらわれていたからである。いっぽう少なくとも外見上、老人のほうは正気で比較的おとなしい人間のように見受けられる。わたしにむかって剣を抜こうとした動作が、友好的と言えないのは事実だが、しかし少なくとも選択の余地があるとすれば、老人のほうがまだしも無難《ぶなん》のようだ。
老人はまだ眼鏡を手探りしていて、わたしがそちらへ味方しようと決心したとき、裸の男はほとんどすぐそばまで達していた。わたしは七メートル離れており、裸で丸腰だったが、その距離をカバーするには、自分の地球人の筋肉を一瞬使えば、こと足りたし、老人のかたわらには、眼鏡を捜しよくしようとして投げ出した抜き身の剣があるのだ。そういうわけで犠牲者に襲いかかれるほど男が近よった瞬間、相手となったのはわたしのほうだった。老人をめがけた一撃は、わたしを襲うこととなったのだ。その一撃は受け流したものの、そのときわたしは自分の地球人としてのすばらしい敏捷《びんしょう》さが、有利であると同時に不利でもあることも悟った。なぜなら、歩くことと同時に、棍棒で武装した気違い相手に、経験のない武器で戦うことを習得しなければならなかったからだ。この相手を気違いとはいえぬかもしれないが、少なくともこちらにはそう思えたし、ぞっとするような凶暴な徴候《ちょうこう》や憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》から推して、そう考えたことに、べつに不思議はあるまいと思う。
新しい条件に自分を慣らそうとしてまごついているうちに、わたしは手強《てごわ》い抵抗をするどころか、相手の凶器をかわすのに精一杯のありさまだった。しばしば緋色の草原の上でつまずいたり、ぶざまにひっくり返ったりした。だから最初からこの決闘は、苦戦の連続となってしまったのである。相手のほうではその大きな棍棒でわたしを叩きつぶそうとし、こちらはそれをかわして逃れようとする、いたちごっこというわけだ。残念ながら事実だからしかたがない。しかしそれが無限につづくものではないことを、わたしはすぐにさとった。せっぱつまった情況のもとで、急いで筋肉をひきしめ、自分の地歩《ちほ》を固め、相手が襲いかかってくるや、ひらりと体《たい》をかわしざま、剣先で突きを入れた。男は、ぎゃっと苦悶《くもん》の怒号を発して血にまみれた。それからは男はもっと慎重になり、わたしはその気持の変化につけこんで押しまくり、相手は後退した。その効果は絶大で、新しい自信をつけたわたしは、相手が五、六か所の傷口から血を流すまで、本腰をいれて突きまくり、斬りまくった。もっとも一撃のもとに雄牛を打ち倒せそうなくらいの相手の強打を油断なく避けながらではあったが。
決闘の当初、相手をかわそうとしているうちに、ふたりは構内を横切ってしまって、いまや初めに出会った地点からかなり離れたところで、戦いが続行していた。ちょうどわたしが老人のほうに面していると、老人は眼鏡を見つけ、すばやく目にかけた。すぐにあたりを見回してわれわれを見つけるや、興奮してわめきながら、短剣をひき抜いてかけよってくる。赤色人は激しくわたしを追いたてていたが、こちらはほぼ完全に冷静さをとりもどしていたし、またすぐに、ひとりではなくふたりの敵を相手にするおそれがあったので、いっそう激しく相手に襲いかかった。男はほんの一インチというきわどいところでわたしを打ち損ない、棍棒のひき起こした風がわたしの頭髪をあおった。しかしわたしは男のみせたすきにつけ入り、まんまとその心臓に剣を突き刺してしまった。少なくともわたしはそう思ったのだが、ジョン・カーターの手記の中で読んでいたことを忘れていたのだ。すべての火星人の内臓は、地球人のそれとはまったく同じように配置されているわけではなかったのである。しかし当面の効果は、心臓を貫いたのと同じくらい申し分のないものだった。なぜなら、それは充分敵を|hors de combat《オール・ド・コンバ》(無能力)においやるほどの重傷だったからだ。老人がたどりついたのはその瞬間だった。わたしはすでに身構えていたが、それはとんだ見当違いだった。老人はその武器で敵意のあるそぶりを示すどころか、わたしを傷つける意志のないことを納得させたがっているらしい。ひどく興奮していて、明らかにわたしが彼の言うことを理解できないので、むしょうにいらだち、当惑しているようだった。わたしにむかって奇妙な言葉をわめきながらとびまわっていたが、それには横柄な命令口調や罵詈雑言《ばりぞうごん》、やり場のない憤怒がこもっていた。しかし彼が剣を鞘《さや》におさめた事実は、そのお喋りを全部合わせたよりも、はるかにすぐれた意志表示だったし、彼がわめくのをやめて一種のパントマイムで話し始めたとき、わたしは友情ではないまでも、それが講和の申し入れであることを悟ったのである。そこでわたしは自分の剣先を下げ、会釈した。当面のところ彼を突き刺そうという意図のないことを保証するには、それしか考えつかなかったのだ。
老人は満足したらしく、すぐに倒れた男に注意をむけた。脈拍《みゃくはく》を調べ、心臓の鼓動《こどう》を聞く。それからうなずいて立ちあがると、小袋から呼子《よびこ》をとり出して大きく一度吹きならした。周囲の建物の一つから、すぐに二〇人ほどの裸体の赤色人が現われ、こちらのほうへ走って来た。武装した者はひとりもいない。老人は言葉すくなに簡潔な命令をくだし、男たちは倒れたやつを抱えあげて運び去った。老人はわたしについてくるよう合図すると、建物のほうへ歩いて行く。したがうよりほか、どうしようもなさそうだった。火星のどこにいようと、敵の中だということは、百万に一つも間違いあるまい。それに他の場合と同様、この赤い惑星でも自分の道を切り開くには、みずからの機略《きりゃく》と手腕《しゅわん》と敏捷《びんしょう》とにすべてを賭けなければならないのだ。
老人は小さな部屋にわたしを案内したが、そこからは、おびただしい数の出入口が通じていた。ちょうどその一つから、さいぜんのわたしの敵手が運ばれて行くところだった。つづいて煌々《こうこう》と照明された大きな部屋にはいると、仰天《ぎょうてん》したわたしの視界の中に、突如として、いまだかつて見たこともないほどの無気味きわまる光景がとびこんできた。部屋いっぱいに何列ものテーブルが平行に並んでいる。二、三の例外を除けば、おのおののテーブルには同じような陰惨《いんさん》な荷物、すなわち部分的に手足を切断したか、さもなければ、そっくり手足を切りとった人間の死体を載せているではないか。それぞれのテーブルの上には、いろいろの大きさと形をした容器をのせた棚があり、いっぽう、棚の底板からはたくさんの外科用具がつるされている。どうやらわたしのバルスームへの入国は、巨大な医科大学から始まったらしい。
老人が一言命じると、わたしが傷つけたバルスーム人をかついでいた連中は、あいたテーブルに男を横たえて部屋を出ていった。あるじ――いままでのところ、どうみても老人はわたしを逮捕したわけではないから、そう呼んでもいいと思うのだが――は前に進めと合図した。ふつうの口調で話しながら、わたしのかつての敵のからだに二つ切傷をつける。どうやら一つは大静脈、一つは動脈にらしく、二本のチューブの端を手際《てぎわ》よくその切傷にとりつける。チューブの一つはからのガラス容器、もう一つは澄んだ水に似た、無色透明の液体をみたした同じような容器に接続されている。接続が終わると老人は小さなモーターの制御ボタンを押して、犠牲者の血をからのびんの中に送りこんだ。その間《かん》、もう一つのびんの中味を、からになってゆく静脈と動脈の中に送りこむ。
手術のあいだ話しかけてきた老人の口調と身ぶりから推すと、手術の方法とその目的をくわしく説明していたものらしい。もっとも、わたしにはまるきり相手の言葉がわからなかったから、老人の話が終わったときも始まる前と同様、なに一つわからぬままだった。そうはいっても、見たことから推して、ふつうのバルスーム式防腐処置に立ち会ったものと考えても間違いではなさそうだった。老人はチューブをとり除き、厚地の粘着《ねんちゃく》テープとおぼしい小片で自分の作った切口をおおってしまうと、ついてくるように合図した。ふたりは部屋から部屋へと移っていったが、そのいずれにも、同じように薄気味の悪い陳列品《ちんれつひん》を並べてあった。多くの死体のところで老人は足をとめて、短い説明を加えたり、症状の記録らしきものに言及《げんきゅう》した。この記録は、それぞれのテーブルの頭のほうの鉤《かぎ》にかかっていた。
一階の最後の部屋から、老人は傾斜した通路を通って二階へ案内した。下の階と似かよった部屋だが、ここのテーブルには手足を切りとった死体よりも完全なものが載せてあり、いずれもいろいろな個所に粘着テープが貼ってある。これらの部屋の一つで、死体のあいだを通っていると、召使か奴隷らしい娘がはいって来て、老人になにか告げた。老人は後についてくるように合図し、われわれはいっしょに他の建物の一階へ、別の通路からおりていった。
豪奢《ごうしゃ》な飾りつけと贅沢な調度を施《ほどこ》した大きな部屋の中には、年とった赤色人の女が待っていた。たいへんな高齢らしく、なにか怪我でもしたのか、おそろしく醜い顔をしている。みごとな装身具をつけ、二〇人ほどの女や武装した戦士につきそわれているところから見ても、重要な人物であることは察しがつく。しかし小柄な老人が彼女に接する態度はまったくそっけなく、従者たちが、ひどくはらはらしているのがわかった。
長々とした会話が交わされたあげく、老婆《ろうば》の指示で護衛の男がひとり前に進み出た。腰の小袋をあけ、火星の貨幣とおぼしいものを片手にいっぱいとり出す。そして数をかぞえてから老人に手渡した。老人はうなずいて老婆についてくるよう合図したが、その合図にはわたしも含まれていた。侍女《じじょ》たちや護衛の何人かも同行しようとしたが、老人は断固としてこれをはねつけた。すると老婆と戦士のひとりを相手として老人とのあいだに激論が戦わされた。やがて、老人はうんざりした様子で老婆の金をもどすと申し出て、議論にけりをつけてしまった。話は結着したらしく、老女は貨幣を受けとることをこばみ、手短に供の者に命令をくだして、ただひとり老人とわたしに同行することになった。
老人は二階の、まだ見せてもらっていなかった部屋へ、われわれを案内した。死体が全部若い女で、その多くが、たいへんな美人ぞろいであることを除けば、ほかの部屋と酷似《こくじ》している。老人のすぐうしろにしたがいながら、老婆は気味の悪い陳列品を丹念《たんねん》に検分していった。ぞっとするような品物を調べながら、テーブルの間を三回、ゆっくりとまわる。そのたびに、わたしが生まれてこのかた見たこともないほど美しい姿態《したい》を横たえた特定のテーブルの前で、老婆は一番長く足をとめるのだった。それから四度目にそこへもどってくると、立ちどまって長いあいだ熱心に死顔を眺めた。しばらくのあいだ、そこで老人と話しこんでいたが、どうやら質問の雨をあびせているらしい。老人のほうはそれに対してすばやい、そっけない返答を返している。それから老婆は身ぶりでその死体を示し、この恐ろしい陳列品を管理するやせこけた老人にうなずいてみせた。
老人はすぐさま呼子《よびこ》をならして多くの召使を呼び集め、短い指示を与えると、われわれを隣りの部屋へ案内した。小さな部屋で、死体を寝かせてあるのと同じような、からのテーブルがいくつかおいてある。部屋の中にいた奴隷か、侍女とおぼしきふたりの女が、主人からの命をうけて老婆の装身具をとりはずし、髪をほどいてテーブルの一つへ手を貸してのせる。ここで老婆は入念に霧を吹きかけられたが、どうやらある種の防腐液《ぼうふえき》らしい。それから、ていねいにかわかされて他のテーブルに移されたが、そのテーブルから半メートルほど離れたところに、もう一つ同じようなテーブルがある。
すぐに部屋のドアがさっとあいて、ふたりの侍女《じじょ》が隣室で見た美しい娘の死体を運んで来た。老婆が立ちのいたばかりのテーブルへそのからだを載せる。老婆同様、死体もまた霧《きり》を吹かれ、老婆の横たわっているかたわらのテーブルに移された。ちょうどわたしが剣で倒した赤色人のからだにしたのと同じように、小柄な老人は老婆のからだにも二つ切傷をつけた。静脈から血がぬかれ、澄んだ液体が送りこまれてゆく。かたわらの哀れな美しい死者と同じように、生命の離れたそのからだは、磨《みが》いたアーサイト石を表面にはったテーブルの上にぐったりと横たわった。
老人は自分のよろいを胴からとりはずし、充分からだに霧を吹きかけた。次にテーブルの上の器具の中から鋭いナイフをえらび、頭のぐるりの生えぎわにそって、老婆の頭皮《とうひ》をはぎとる。同じやり方で若い女の死体からも頭皮をはぎとってしまう。それから頭皮をとり除いた後に露出した線にそって、柔軟な回転軸の先端《せんたん》にとりつけた小さな丸のこで、それぞれの頭蓋《ずがい》をひいた。これと残りの驚くべき手術は、筆舌につくしがたいほどの熟練した腕によって行われた。四時間後にはそれぞれの女の脳を、違った頭蓋に移してしまったとだけいっておこう。切断した神経や神経節を手ぎわよくつなぎ、頭蓋と頭皮を元へもどし、防腐と治療だけでなく、局部麻酔《きょくぶますい》の役目をも果たす独特の粘着《ねんちゃく》テープで、しっかりと二つの頭をしばったのである。
次に老女のからだからぬきとった血をもう一度熱し、なにか澄んだ化学溶液を数滴《すうてき》加える。美しい死体の静脈をぬきとって老女の血ととりかえ、同時に皮下注射をほどこす。
全部の手術の間じゅう、老人は一言《ひとこと》もしゃべらなかった。手術がすむと無愛想な態度で助手たちにいくつか指示を与え、あとについてくるようわたしに合図して部屋を出た。彼はその建物、いいかえると全体を形成する一連の建物の、離れた場所へわたしを案内した。そして贅沢《ぜいたく》な部屋の中へ招《しょう》じ入れ、バルスーム式浴場のドアをあけると、熟練した召使の手にわたしをゆだねた。一時間の休息ののち、気力を回復して浴場を出たわたしは、次の部屋によろいと装具がおいてあるのをみつけた。飾りはないが質のよい上等の品だ。しかし武器は見あたらなかった。
もちろん、わたしは火星へ到着して以来目撃してきた奇妙なことがらをしきりに考えていた。しかし一番わたしを当惑させたのは、あの老婆のどうみても不可解な行動だった。彼女は明らかに自分を殺させて、その頭蓋に死者の脳を移すため、老人に大金を支払ったのである。なにかおそろしい宗教的狂信の結果か、それとも地球人としてのわたしの頭では理解できないなんらかの理由があるのだろうか?
その点については、まだいずれとも決めかねるうちに、ひとりの奴隷が、近くの他の部屋へ来るようにとわたしを呼びに来た。あるじは美味な果物を盛ったテーブルの前でわたしを待っていた。いうまでもないが、長いあいだ絶食していたし、さらにその前、数週間は、陸軍の粗末《そまつ》な食糧ですごしてきた後だったから、わたしは腹一杯それらをたいらげた。
食事のあいだ彼はわたしと話そうとしたが、もちろんその努力も徒労《とろう》に終わった。時々老人はひどく興奮してきて、なにをいっているのかわたしが理解しかねると、そのつど、三回も刀に手をかけた。その行為は、この相手が半ば狂っているのだというわたしの信念をいっそう強める結果となった。しかし、いずれの瞬間にも老人は充分な自制心を示して、両者のいずれかに災厄《さいやく》をもたらすような事態を避《さ》けたのである。
食事が終わると彼は長いあいだ深い瞑想《めいそう》にふけりながらすわっていたが、突然断固たる決意にとりつかれたらしい。急に微笑のかげを浮かべて向き直ると、むこうみずにもバルスーム語の徹底的な教授にとりかかったのである。老人が、もうひきとって休んでもいいという許しをくれたのは、夜もだいぶふけてからで、みずから案内してくれた大きな部屋は、わたしが新しいよろいをみつけたのと同じ部屋だった。老人はたくさんのりっぱな絹布や毛皮を示し、バルスーム式のお休みの挨拶をして出ていった。しかしドアには外から鍵がかけられてしまい、わたしはいったい自分が客なのか、それとも囚人《しゅうじん》なのか思案にくれてしまった。
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二 昇進
あっという間に三週間が過ぎ去った。わたしはかなり満足できる程度にあるじと話せるくらいバルスーム語を覚えたし、文語の習得のほうでも徐々に上達していった。文語は、もちろんバルスームの他のすべての国家のものとは異なっているが、口語はどの国もすべて共通なのだ。この三週間のうちに、わたしは自分がなかば客であり、なかば囚人となっている奇妙な場所や、瞠目《どうもく》すべきあるじ兼看守、トウーノルの老外科医ラス・サヴァスのことをもっとよく知るようになった。ほとんど毎日、彼と行動をともにしてきたのだが、この施設の目的に対する一つの解釈が、茫然自失《ぼうぜんじしつ》の態のわたしの前に、次第に明らかになってきたのだ。老人が支配するこの施設では、事実上彼ひとりだけが働いていた。彼に仕える奴隷や侍女《じじょ》は、木を切ったり、水を運んだりするだけで、ただ彼の頭脳と手腕だけが、時には慈愛深く、時には悪意をこめて、しかし常に驚異的な畢生《ひっせい》の事業をとりしきっているのだ。
ラス・サヴァス自身もまた、その業績と同様に驚くべき人物だった。彼は決して故意《こい》に無慈悲だったのではない。また故意に悪意を持っていたわけではないと、わたしは確信する。きわめて悪魔的な残虐行為《ざんぎゃくこうい》や卑劣きわまる犯罪を犯しはするが、その次には、もし地球で行われたとするなら絶賛を博するような偉業《いぎょう》をするのだ。卑劣な動機から残虐行為や犯罪行為を行ったことは一度もないと、わたしは自信をもって断言できるが、同時に、彼が崇高《すうこう》な動機から人道主義にかりたてられたことも、これまた一度もないのである。彼は純粋に科学的精神の持主であり、感傷的な影響など、まるきり欠いていた。そもそも感情というものを持ち合わせていないのだ。自分の専門的な尽力《じんりょく》に対しては、莫大《ばくだい》な金額を要求することでも明らかなように、彼は実際的な人間である。とはいえ彼がただ金銭目当てだけで手術をするのではないことをわたしは知っている。科学上の問題の研究に、日々をついやしているのをわたしはこの目で見ているのだ。そうした問題が解決したところで、彼の富にはなんの足しにもなるまいし、いっぽう依頼人の待合室に使っている部屋には、彼の金庫に金をつぎこもうとして待っている金持の客であふれているのだ。
わたしに対する老人の待遇《たいぐう》は、ひとえに科学的な必要性にもとづいていた。わたしが一つの問題を提供したというわけである。わたしは明らかにバルスーム人でなく、彼が全然知識を持たない種族の一員である。そういったわけで、わたしを保護し研究することが、科学のためにはもっとも望ましかったのだ。わたしは自分の惑星について、かなりの知識をもっていた。だから、それがラス・サヴァスの科学的な頭に、一つの期待を抱かせたのだ。わたしの知識をすべて聞き出せば、学者たちがまだ解決し得ないでいるバルスームの科学的疑問の一つを解く、なんらかのヒントが得られるかもしれない、というのである。しかしその点に関しては、完全な見込み違いであったことを老人は認めざるを得なかった。わたしが事実上あらゆる科学的問題にまったく無知だったということばかりではない。地球で習った科学は、火星のそれに相当する学問の驚くべき進歩と比べれば、幼年期にさえ達していなかったからだ。しかし彼はわたしをひきとめ、広い研究所のさほど重要でない仕事をいろいろと教えこんだ。わたしは防腐液を作る処方を教えられ、実験用死体の血をぬいて、この不思議な液と取り替える方法を習った。この液は神経や、微細《びさい》な組織をいささかも変化させることなく、腐敗を防ぐ。また静脈にもどす前に、再び温めた血に加える数滴の液の秘密も教えられた。これは死体に新たな活気をつけ、あらゆる器官に、それぞれ正常かつ健全な活動を復活させるものである。
あるとき、彼は他のすべての者に対して秘密を守ってきたこれらのことを、なぜわたしに教えたのかそのわけを話してくれた。そして、わたしよりも下級の資格で、昼も夜も彼やわたしに仕える、自分と同種族の多くの人間をさしおいて、わたしを側近《そっきん》にはべらせる理由にも言及《げんきゅう》した。「ヴァド・ヴァロ」と彼は自分で命名《めいめい》したバルスーム流の名前でわたしを呼んだが、それはわたしの本来の名前が意味もなく実際的でないと彼が主張したせいである。「長年のあいだ、わしは助手を必要としていた。しかしいままで衷心《ちゅうしん》から、公平無私にわしのためにここで働いてくれ、どこかほかへ行こうなどとは考えず、またわしの秘密を他人にもらすことのない人間をひとりとして発見できなかったのだ。全バルスームで、おまえはふたりとない存在だ――わし以外には、おまえには友人も知人もいないからな。もしおまえがわしのところを離れたなら、自分が敵の世界の唯中《ただなか》にいることを思い知るだろう。異邦人に対して、この国の人間は、すべて疑り深いからな。おまえは二週間と生きのびるまいし、寒く、ひもじく、みじめで――孤立無援《こりつむえん》の宿なしとなるだろう。しかしここにいれば、人間の頭が考案し、その手が作り出せる限りの、ありとあらゆる贅沢品《ぜいたくひん》が使える。またその間、興味|津々《しんしん》たる仕事に従事しているので、終日、比類ない満足感を味わうにちがいないのだ。したがって、おまえがわしから離れて行かねばならぬ利己的な理由は一つもないが、おまえが残らなければならぬ理由は山ほどあるわけだ。わしは利己的な動機にもとづいた忠誠心以外は期待しない。おまえは理想的な助手になりそうだ。たったいま話した理由からだけでなく、おまえは聡明《そうめい》だし、頭が鋭い。そしていま、長いあいだ慎重に観察した結果、おまえがさらに他の資格――護衛としてわしに仕えることができると判断したのだ。
「おまえも、たぶん研究所と関係のある人間のうちで、武装しているのがわしひとりなのに気づいたことだろう。これはバルスームでは異例《いれい》のことだ。バルスームでは階級、年齢、性別を問わず、すべての者が慣習上、武装しているからだ。しかしあの連中の多くをわしは信頼できないし、武装させれば、わしを襲うだろう。もし信用のできる者に武器を与えたとしても、他の者がそれを手に入れてわしを襲ったり、あるいは信用した者たちさえ刃向《はむ》かってこないとはいいきれないからだ。なぜなら、ひとりとしてここから自分たちの故国《ここく》へもどりたくない者はいないからだ――おまえだけだ、ヴァド・ヴァロ、おまえには、ほかに行くべきところがない。それでわしはおまえに武器をもたせることに決《き》めたのだ。
「おまえは一度わしの命を救った。同じ機会が再びやって来るかもしれん。論理的な、理性ある人間のおまえが、わしを襲うはずがないのはわかっている。そうしても得るところはなに一つないし、わしが死ねばすべてを失うことになるからだ。おまえは友人もなく孤立無援のままで、暗殺が社会的慣習であり、自然死はきわめてめずらしい現象であるこの異国にとり残されてしまう。ここに武器がある」彼は戸棚に歩みよって鍵をあけ、各種とりそろえた武器を示し、わたしのために長剣と短剣、そしてピストルと|あいくち《ヽヽヽヽ》を選んだ。
「あなたはわたしの誠実を確信しているようですね、ラス・サヴァス」
彼は肩をすくめた。
「おまえが関心をよせるものを完全に知っている自信があるだけさ――感傷家は愛だの、誠実、友情、怨恨《いこん》、嫉妬、憎悪、その他たくさんの言葉を使う。言葉の浪費だよ――一言《いちごん》でなにもかも定義できるのだ。すなわち利己主義だ。知性のある者はみなそれを認識している。彼らは第三者を分析するとき、自分の好みと必要に応じて、友人もしくは敵として分類し、気の弱い馬鹿者どもが、たわいない感傷的な言辞《げんじ》に惑わされるような弊《へい》にはおちいらぬものだ」
わたしはよろいに武器をつけながら微笑したが、沈黙を守った。この男と議論したところでなにも得るところはないし、それに、純粋に理論的な論争なら、いい負かされるにきまっているような気がしたのだ。しかし彼の話にはわたしの好奇心をそそるものが多々あり、それがきっかけとなって、前々から、かなり考えていたある出来事が、ふたたび脳裏《のうり》によみがえった。わたしがバルスームに来た日、その手から彼を救ってやったあの赤色人は、なぜあれほどすさまじい憎悪にかられて彼に襲いかかったのだろう。彼の言葉のはしばしから部分的に明らかになったとはいえ、わたしはまだ不審《ふしん》に思っていた。そこで夕食後のお喋りのあいまにそのことをたずねてみた。
「感傷家《センタメンタリスト》だ。それも、もっともきわだったタイプのな。なぜあの男がわしを憎んだかといえばだ、それは、わしのように訓練された分析的な精神の持主には、絶対に信じられぬ憎悪のせいなのだ。だがあの男の反応を目撃して、わしは自分には想像さえつかぬ精神状態があることを認識するようになったがね。事実を考えてみるとしよう。あの男は暗殺《あんさつ》の犠牲者だった――整った顔だちと堂々たる体格をした、花の盛りの若い戦士だった。わしの代理人のひとりが、彼の死体に対して充分な金額を身内の者に支払って、ここへ運んで来た。したがってあのからだは事実上そっくりわしの物なのだ。わしはおまえのよく知っている方法で、それを処理した。一年のあいだ、死体は研究所に横たわっていた。その間《かん》、使う必要がなかったのでな。だが、やがて金持の客がついた。かなり年配で、そうたいして人好きのする男ではない。この男はある若い娘にひどく熱をあげておったのだが、女には好男子の求婚者《きゅうこんしゃ》が大勢いた。彼は恋敵の誰よりも金持で、頭脳も経験もまさっていた。しかしただ一つ、ほかの競争相手にはそなわっているものが欠けていたのだ。若い娘の未熟で分別のない感情に囚《とら》われた頭には、常に大きな比重がかかるもの――男っぷりのよさがな。
「ところで三七八―J―四九三八一一―Pは、わしの依頼人に欠けているものを持っており、それは金であがなうことができた。そこで早急に金額をとりきめ、わしは金持の依頼人の脳を三七八―J―四九三八一一―Pの頭に移してやり、男は立ち去った。そしてわしの知っていることといえば、彼が美しい低脳娘《ていのうむすめ》から結婚の約束をかちとったということだけだ。いっぽう三七八―J―四九三八一一―Pは、わしの仕事に、彼か、またはその一部分が必要になるまで、アーサイト板の上で無期限に眠っているはずだった。ところが、もうひとり、男の奴隷が必要になったので、わしが生き返らせるために選んだのだが、たまたまあの男だったというわけだ。
「いいかね、あの男は殺されてしまった、死んでしまったのだ。わしは死体を、なかみもひっくるめて全部、買ったのだ。わしがあの死んだ血管の中に新しい生命をふきこんでやらなければ、アーサイト板の上で永遠に横たわっていたかもしれないのだ。しからば、あの男は思慮分別《しりょふんべつ》のある冷静な態度でこの取引を判断する頭を持っていただろうか? とんでもない。やつの感情的な反応は、わしが他の肉体を与えたというので非難《ひなん》するのだ。だが、一歩譲ってだ、感情的な立場からこの件を眺めたとしても、わしに恩を感じるに違いないと思えるのだがね。たとえいくらか使い古しているにせよ、もう一度まったく健康なからだで生き返らせてやったのだからな。
「彼は何度もこの問題を持ち出して、自分のからだをもどしてくれと頼んだ。もちろんそんなことはあの男に説明したとおり、彼のからだを買った客の死体が、ひょっこり研究所に運び込まれてくるようなめぐり合わせでもない限り、全然お話にならん。またそんな偶然は、わしの客のように金持の場合には、万が一にも起こりっこないのだ。あの男はわしの客を暗殺《あんさつ》して死体を持って来ることを許してくれれば、手術をやり直して、自分のからだをもとどおりの自分の脳にもどすことができるではないかと提案さえしおった。そのあげく、わしが現在の持主の名を明かすことを断ると、むっつりと不機嫌になってしまった。しかしおまえが到着し、あの男がわしに襲いかかったあのときまで、わしはその抑圧《よくあつ》された憎悪の深さに気づかなかったのだ。
「感情に走るということは、確かにあらゆる進化に対する障害《しょうがい》だな。われわれトウーノル人は、バルスームの大部分の他の国民より、おそらくその気まぐれなところを持ち合わせていることは少ないほうだろう。が、それでもわしの同国人のほとんどは、程度の差こそあれ、そうした感情の犠牲者なのだ。しかし、それ相応の報酬《ほうしゅう》や代償《だいしょう》はある。それがなくては政府の農場を維持することはできまいし、ファンダル人やどこか他の国の連中がわれわれを侵略し征服するだろう。ともかく下層階級の多くはトウーノルの皇帝《ジェダック》へ、忠誠《ちゅうせい》を捧げるに充分な程度の感情を抱いているし、また上流階級は、彼を玉座に保つのが一番の得策《とくさく》だと理解するくらいの頭は持っているのだ。
「いっぽうファンダル人ときたら、これは話にならぬほどあほらしい考えや迷信にこり固まった、度《ど》しがたい感傷家たちだ。萎《な》えた頭脳のさまざまな気まぐれのとりこになっているのだ。なにせ口やかましい婆《ばばあ》のザザを玉座にすえておくという愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》がその証拠だよ。あの女は無知で傲慢《ごうまん》、わがままで愚鈍《ぐどん》、残忍《ざんにん》ながみがみ婆だが、それでもファンダル人は彼女のために戦い、死ぬだろうな。彼女の父がファンダルの皇帝《ジェダック》だったからだ。あの婆は人民が重荷にひしがれてよろめくこともできないほどの重税をかけ、失政《しっせい》をしき、食いものにし、裏切っている。だがそれでも国民はその足もとにひれ伏し、崇拝する。なぜだ? 彼女の父がファンダルの皇帝《ジェダック》だったし、その父親も、さらに大昔までさかのぼってそうだったからだ。国民が理性よりも感情に支配されているからだし、よこしまな支配者たちが彼らの感情を利用しているからだ。
「あの女は正気な人間に好かれるところはなに一つもっていない――美しさすらもない。そういえば、おまえは彼女を見ているよ」
「わたしが見ているって?」
「彼女の古い脳に新しいからだを与えた日、おまえは手伝ったのだ――おまえが地球と呼んでいる惑星から着いた日にな」
「あの女! あの老婆《ろうば》がファンダルの女帝《ジェダラ》?」
「あれがザザだ」彼は肯定《こうてい》した。
「でもあなたは、地球人ならば当然、その支配者にたいして、はらうはずの敬意をもってあの人を遇しませんでしたよ。それでわたしは、ただの金持の老婦人以上の人間だとは思いもつかなかったんです」
「わしはラス・サヴァスだ」老人はいった。「なぜ他の人間に頭をさげることがあるか? わしの世界では、頭脳以外はなんの価値もない。その点においては、自惚《うぬぼれ》ではないが、わし以上にすぐれた者は存在しないと自認してもよかろうさ」
「それじゃ、あなたに感情がないとはいえませんよ」微笑しながら、わたしはいった。「自分の知性を誇りとしているんだから!」
「誇りではない」老人は彼にしてはしんぼう強くいった。「ただ事実を述べているだけだ。証明するのになんの困難もない事実をな。わしの知る限り、あらゆる学者の中で、わしはおそらくもっとも高度に発達し、もっとも完全に機能を果たす頭脳の持ち主といえよう。この事実はまた、わしがバルスーム一高度に発達し、完全に機能を果たす頭脳をもっていることを意味すると、理性は指摘《してき》するのだ。わしの地球に関する知識とおまえを観察したところから推して、わしの能力に、たとえわずかでも似《に》かよった頭脳の持ち主は、おまえの惑星には存在しないものと確信できる。わしの能力は千年のあいだ、修業と研究を重ねて発達させたものだ。水星《ラスーム》や金星《コスーム》には、たぶんわしと同等か、もしくはさらにすぐれた知性が存在するかもしれぬ。われわれは彼らの思想波を多少研究してはいるが、バルスームの器械はまだ満足の域に達しておらず、彼らが最高の教養と能力と適応性《てきおうせい》を備えた存在だと示唆するにとどまっているのだ」
「それで、あなたが女帝《ジェダラ》にその肉体を与えた娘はどんなひとなのです?」わたしが筋ちがいの質問をしたのは、その姿と同様にやさしくすぐれた頭脳を持っていたに違いない、あの美しいからだの記憶を頭から拭い去ることができなかったからである。
「ただの解剖用死体さ! ただの死体にすぎん」手をふりながら老人は答えた。
「彼女はどうなるのです?」わたしはしつこくたずねた。
「どうなったところで、たいしたことではあるまい。わしは戦争の捕虜《ほりょ》の一団といっしょに彼女を買ったのだ。わしの代理人がどの国でそれらを手に入れたのか、どこの国の生まれの死体なのか、思い出しもせん。そんなことはとるに足りぬ」
「あなたが買ったとき、あのひとは生きていたのですか?」
「そうさ。なぜだね?」
「ではあなたは――そのう――あのひとを殺したのですね」
「あの女を殺しただと? 違う、わしは彼女を保存したのだ。約十年ほど前のことだ。あの女が年をとり、皺《しわ》がよるままにしておかねばならん理由はあるまい? そうなれば、もう前と同じ値打ちではなくなってしまっただろう。どうだね? そんなことはごめんだ。だからわしは彼女を保存したのだよ。ザザが彼女を買ったとき、そのからだはまさしく到着した日そのままに、生き生きとして若かった。わしは長いあいだ彼女を保管してきた。たくさんの女が彼女を見、その顔と姿態をほしがったが、結局|女帝《ジェダラ》があの女を選ぶことになった。いままで受けとったこともない大枚の金額を支払ってくれたのだ。
「なるほど長いことわしは彼女を保管してきたが、いつかはその代償《だいしょう》が得られるとわかっていたのだ。実際あの女は美人だから、ひとの感情を動かす――感情に動かされるということがなかったならば、わしのやっているこの仕事を援助してくれる愚《おろ》か者《もの》はいなくなってしまうし、そうなれば、こんなことよりも、もっともっと偉大な価値のある研究ができなくなってしまうというわけだ。こういうと、きっとおまえは驚くだろうな、いいかね、わしは一群の放射線の一定の化学的配合にもとづく作用によって、合理的な人間を作り出せる段階にほぼ立ちいったのだ。こうしたことに関する知識がおまえに欠けている点から判断すれば、この放射線は、おまえたちの科学者には、おそらく、まったく未発見のものだろう」
「べつに驚きませんよ」わたしは断言した。「あなたがどんなものを完成しようと、わたしは驚きませんね」
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三 ヴァラ・ディア
その夜、わたしは四二九六―E―二六三一―Hのことを考えて、長いあいだまんじりともしなかった。暴君《ぼうくん》の無慈悲な頭脳に豪華な台座をあてがうため、非の打ちどころのないからだを盗まれてしまったあの美しい娘のことだ。それはあまりにも恐ろしい犯罪なので、とても頭から追い払えなかったし、わたしの心に初めて、ラス・サヴァスに対する憎悪と嫌悪の種をまいた端緒《たんしょ》のように思われる。これほど完全にあわれみの情を欠いた人間がこの世に存在しようとは、思いもよらぬことだった。たとえいかに至純《しじゅん》な目的のためとはいえ、一瞬でもあの美しい、そしてすばらしい肉体の恐るべき略奪《りゃくだつ》を考えようとは。ましてやそれが、汚らわしい金のために動くときては言語道断ではないか。
その夜は、あまりにもその娘のことを考えこんでしまったので、明け方目をさましたとき最初に浮かんだのは、彼女の面影だった。食事をとった後もラス・サヴァスが現われないので、わたしはまっすぐ、あの気の毒なひとを置いてある貯蔵室へ行った。彼女はそこに横たわっていた。それと判別できるのは、四二九六―E―二六三一―Hと数字を記した小さいパネルだけなのだ。目の前にあるのは、硬直《こうちょく》した醜悪な顔の老婆の死体だった。しかしわたしの目に映じたのは、その姿ではない。魂をその灰色の髪の下に閉じこめられた、光り輝く美しい面影だったのだ。
この人間はザザの顔と姿態を持ってはいるが、ザザとはまったくの別人だ。なぜなら、かつてあの女性であったものは、ことごとくこの冷たいむくろに移されてしまったからだ。いつの日にか、もし目覚めるときがきたら、それはどれほど恐ろしい目覚めとなることだろう! わが身に加えられた恐ろしい犯罪を初めてさとったとき、彼女をさいなむはずの恐怖を思うと、わたしは思わず身ぶるいが出るほどだった。彼女は誰なのだろう? 感覚のない黙した脳の中には、いったいどんな物語が秘められているのだろう? あれほど、たぐいまれな美貌《びぼう》を持ち、拭いさり得ぬ慈愛の面影を顔に残していた彼女は、どんなにか、ひとから愛されたことだろう! ラス・サヴァスは、いつの日にか、この幸せな、かりそめの死から彼女を目覚めさせるのだろうか?――彼女にとっては、いかなる復活よりもはるかに幸せな死から。彼女の目覚めを思うと、わたしは気持ちがひるんだ。しかし彼女の声を聞きたかった。その頭脳の甦《よみがえ》りを知り、彼女の名前をきき、幸せだった頃の話に耳を傾けたかった。彼女はあまりにも唐突《とうとつ》にその幸せな境遇から奪い去られ、運命の手によって、かくも無惨に翻弄《ほんろう》されてしまったのだ。もし彼女が目覚めたとしたら! 彼女が目覚め、わたしが……そのとき肩に手がかかり、振りむいたわたしは、ラス・サヴァスの顔と鉢合わせするかたちになった。
「おまえはこの死体に興味があるらしいな」彼はいった。
「目を覚まして、自分が醜い老婆《ろうば》になっているのを知ったら、このひとの頭脳はどんな反応を示すだろうかと考えていたのです」
彼は顎《あご》をなで、とっくりとわたしを眺めた。
「それはおもしろい実験だ」と考えこむようにいう。「おまえがわしの仕事に科学的な興味を持っていることがわかって喜ばしいよ。白状すると、過去百年かそこらのあいだ、わしは心理学的な面の仕事を、どちらかといえばおろそかにしてきた。以前には相当な注意をはらったものだがね。そういったケースをいくつか観察し、研究するのもおもしろかろう。とくにこれはおまえにとって、最初の研究課題として格好のものだ。単純で規則的なものだからな。その後で、男の脳を女の頭蓋《ずがい》に、女の脳を男の頭蓋に移したケースを調べさせてやろう。それに、病に冒《おか》されたり傷ついたりした脳の一部を、ほかのからだからとった脳の一部と取り替えた興味深いケースもあるし、また、あくまでも実験の目的から獣の頭蓋に移し替えた人間の脳や、|vice versa《ヴィセ・ヴェルサ》(その逆)のケースなどは観察には絶好の機会だろう。そういえば、男の脳を半分取り除き、後の頭蓋へ類人猿の脳を半分移し、類人猿の頭蓋に、残っている半分の人間の脳を移植したケースもあるな。これはもう五、六年も前のことで、彼らを生き返らせ、その結果を記録したいとしばしば考えたものだ。いずれ調べてみなければなるまいて――思い出してみると、あれは四―J―二一の建物の地下のL―四二―X保管所にいれてある。近いうちに調べてみよう――このところ何年も地下室へおりていってないのだ。きわめて興味ある標本が、ほかにも記憶からもれているにちがいない。だが、そうそう! 四二九六―E―二六三一―Hを生き返らせるとしよう」
「いけない!」彼の腕に片手をかけて、わたしは叫んだ。「そんな恐ろしいことを」
彼はびっくりした顔つきでわたしをふり返ったが、それから口をゆがめて意地の悪い嘲笑《ちょうしょう》を浮かべた。「涙もろい、感傷的な馬鹿者めが!」と叫んだ。「わしにむかって、命令がましい口をきくな!」
私は長剣を柄《つか》の手にかけ、じっと相手の目をみつめた。
「ラス・サヴァス、この家ではあなたが主人だ。しかしわたしがあなたの客であるあいだは、礼儀正しく遇してもらいましょう」
彼はしばらくのあいだ、わたしを見返していたが、その目がたじろいだ。
「わしは短気だったようだ。大目に見てくれ」と彼はいった。わたしは謝罪《しゃざい》を受け入れた――実を言えば、それはわたしの予期した以上だった――ともかく、不幸な出来事とはならなかったのだ。それ以後、老人は従来よりも敬意を払ってわたしを遇したように思う。しかしそのときは、すぐさま彼は四二九六―E―二六三一―Hのからだをのせたアーサイト板のほうに向きなおった。
「蘇生《そせい》の準備をするのだ。その反応からなにが学びとれるか、やってみるがいい」そういい残すと部屋を出ていった。
わたしはこの仕事には、もうすっかり熟練していた。そこでいくぶんの心もとなさはあったにせよ、ラス・サヴァスの助手としてちゃんとやってのけてきた自信をもって仕事にとりかかった。かつては、ラス・サヴァスがザザに売った、美しいからだの血管を流れていた血は、死体の上の棚の密封《みっぷう》した容器の中にはいっている。いままでは老外科医の油断のない目の監督《かんとく》のもとに、何件となく処理してきたとおりのことを、いま初めて単独ですることになったのだ。血を温め、切口を作り、チューブを取りつけ、生命を与える容液を血に加える。こうして十年間死んだまま横たわっていた繊細《せんさい》な頭脳に、生命を甦《よみがえ》らせる用意が整った。静止した血管に蘇生液《そせいえき》を送りこむモーターを動かす、小さなボタンに指をかける。そのときわたしは、おそらくいまだかつてなんびとも感じたことはないと思える一種の感動を味わったのである。
わたしは生と死の支配者となったのだ。しかし死者を甦らす時点に立ったとき、わたしは自分が救いの神というよりは、むしろ殺人者となったような気持がした。科学の冷静な目をとおして、客観的に経過を見守ろうとしたわたしは、みじめにも失敗した。美しさを失って悲嘆にくれる、いたましい娘しか思い浮かべられなかったのだ。口のなかで悪態をかみ殺すと、わたしは顔をそむけた。とてもできない! それから、まるで外部の力のとりことなったかのように、わたしの指は確実にボタンへ伸び、それを押した。この事実は二重人格説にでももとづかぬ限り、説明できない。二重人格説なら、いろいろのことが説明できるだろう。たぶん、わたしの主観がその行為を命じたのだろう。わたしにはわからない。わかっているのは、ただモーターが動き出し、容器の中の血の量が、しだいに減りはじめたことだけである。
魅せられたようにわたしは立ちつくしたまま、見守っていた。やがて容器がからになる。モーターを止め、チューブを取りはずし、テープで切口をふさぐ。生命の輝きがぽっとからだを赤く染め、艶《つや》の悪い薄紫の死んだ皮膚にとって代わる。規則正しく胸が上下し始め、頭がちょっと動いて瞼《まぶた》がピクピクする。くちびるのあいだからかすかなため息がもれる。しばらくのあいだ、それ以外には生きている気配がなかったが、それから突然、ぱっちり目が開いた。初めその目はどんよりとしていたが、すぐにいぶかしげな驚きの色がひろがった。その視線はわたしのとまり、それから、からだの位置から見える部屋の中へと移る。つぎに、またわたしにもどって、一度上から下まで眺めた後で、じっとわたしの顔に釘づけになった。まだその目は物問いたげだったが、恐怖の色はない。
「わたくしはどこにいるの?」彼女はたずねた。その声は老婆の声――高く、しわがれた声だった。ぎょっとした表情が彼女の目にひろがる。「わたくしはどうしたというのでしょう? わたくしの声はどうなってしまったのかしら? なにが起こったの?」
私は彼女の額に手をあてた。
「いまはそのことを気にしてはいけません」となだめるようにいってきかせた。「もっと気がしっかりするまでお待ちなさい。そうしたら話してあげます」
彼女は起きなおった。
「わたくしはしっかりしているわ」と、そういってから、自分の下半身と四肢に視線がいった。完全な恐怖の色がその顔をよぎった。「わたくしの身になにが起こったの? ご先祖さまの名前に誓って、いったいわたくしはどうしたというの?」
かん高い、しわがれた声がわたしの癇《かん》にさわった。それはザザの声なのだ。いまザザは、盗んだあの美しい顔にだけ調和する、美しい音楽的な声を持っているに違いない。わたしは耳ざわりな声を忘れ、この老いさらばえた形骸の中に収められている魂を、かつては飾っていた、美しい容姿だけを考えようとした。
彼女は手を伸ばし、やさしくわたしの手をおさえた。動作は美しいし、しぐさは優雅だった。娘の脳は筋肉を支配しているが、ザザのおいぼれた、耳ざわりな声帯《せいたい》に、もっと美しい声を出させることはできないのだ。
「どうか教えてちょうだい!」と彼女は頼んだ。その老いた目には涙が浮かんでいた。「教えてちょうだい! あなたは不親切な方のようにはお見受けしません」
そこでわたしは事情を話した。彼女は熱心に耳を傾け、話が終わるとため息をついた。
「結局、実際に真相を知ってみると、それほどひどいことでもなかったのね。死んでいるよりはましですもの」その言葉を聞いて、わたしはボタンを押してよかったと思った。ザザの醜い形骸に包まれていてさえも、彼女は生きていることを喜んだのだ。わたしも同じようなことをいった。
「あなたはすばらしい美人でしたよ」と告げた。
「そしていまは、ひどく醜いの?」わたしはその質問には答えなかった。
「結局、同じことじゃないかしら?」やがて彼女はそう問いかけた。「この年とったからだも、わたくしを変えたり、いままでのわたくしと別の人間にすることはできませんわ。長所は残っておりますし、思いやりと愛情も変わってはおりません。わたしは幸福に生きることができましょうし、たぶんなにか、ひとのためになることもできるでしょう。最初わたくしは狼狽《ろうばい》しました。それは、自分の身になにが起こったのかわからなかったからです。なにか恐ろしい病気にかかり、それであんなにひどく変わってしまったのかと思って――それで、ぞっとしたのです。でも、もうわかりました――まあ! たいしたことではありませんわ」
「あなたはすばらしい方だ。たいていの女性なら、恐怖と悲しみのあまり、気が狂ってしまったでしょう――あなたほどすばらしい美貌《びぼう》を失ったなら――それなのに、あなたは気にかけていらっしゃらない」
「とんでもない、気にしておりますわ」彼女はわたしの言葉を訂正した。「でも、そのためにわたくしの生活が他のあらゆる点で破壊されたり、周囲の人たちの生活に暗い影を投げるのは本意ではありません。わたくしは自分の美しさを満喫《まんきつ》しました。でも、それが完全な幸福ではなかったことは、はっきりいえます。そのために殿方《とのがた》たちはたがいに殺しあい、そのために二つの大国が戦いました。そして、たぶん父も玉座か、あるいは命を失ったかも――わたくしにはわかりません、戦争がまだたけなわだったころに敵に捕らわれてしまったのですから。戦争はまだ熾烈《しれつ》をきわめて、戦士たちが、いまも死んでいる最中かもしれません。それもこれも、わたくしが美しすぎたせいなのです。でもこうなっては、わたくしのために戦う者はひとりもいないでしょう」彼女は悲しげな微笑を浮かべてつけ加えた。
「あなたはどのくらい長いあいだ、ここにいられたか、ご存知ですか?」わたしはたずねた。
「ええ、わたくしがここに連れて来られたのは、一昨日のことでしたわ」
「十年前なんですよ」わたしは告げた。
「十年ですって! そんなばかな」
わたしはまわりにある死体を指さした。
「あなたは十年間、このようにして横たわっていたのです。ラス・サヴァスの話によると、五十年間ここに横たわっている死体もあるとか」
「十年ですって! 十年も! 十年ものあいだには、いろんなことが起きているはず! こうなって、かえってよかったのよ。いまとなっては家へ帰るのが恐ろしいわ。父が、そしておそらく母までも死んでしまったということを、わたくしは知りたくない。こうなってよかったのです。たぶんもう一度、わたくしを眠らせてくださいますわね? よろしいでしょう?」
「それはラス・サヴァスしだいです。でも、さしあたっては、わたしがあなたを観察することになっています」
「わたくしを観察なさる?」
「研究のためです――あなたの反応を」
「まあ! それがなんの役にたちまして?」
「社会になんらかの寄与《きよ》をするでしょう」
「その恐ろしいラス・サヴァスとやらに、なにか新しい拷問《ごうもん》のアイデアを与えるためですわ――犠牲者を苦しませてお金をもうける新しいもくろみを」彼女はしわがれた、悲しそうな声でいった。
「彼の仕事には立派なものもあります」わたしは説明した。「彼のもうける金が、絶えず無数の実験を行なっている、このすばらしい施設を維持しているのです。手術の多くは慈善なのですよ。昨日連れて来られたのは、治療不能なほど腕をつぶされた戦士でした。ラス・サヴァスは彼に新しい腕を与えてやりました。発狂した子どもが連れて来られました。ラス・サヴァスはその子に新しい脳を与えました。腕と脳は、横死したふたりの人間からとったものです。死後も、彼らはラス・サヴァスをとおして、他人に生命と幸福を与えることができたのです」
彼女はちょっと考えこんだ。
「納得がいきました。あなたがいつもわたしの観察者であるように願うだけですわ」
ほどなくラス・サヴァスがやって来て、彼女を診察した。「経過は良好な患者《かんじゃ》だ」そういうと図表を眺めた。それには四二九六―E―二六三一―Hの経歴に関連した他の記入につづいて、わたしがごく手短に記録をつけておいたのだ。もちろんいうまでもないが、これはこの特定の身許証明番号のいささか大ざっぱな翻訳である。バルスーム人はわれわれのようなアルファベットを持たないし、数式もまったく違っている。右の十三文字は四つのトウーノル文字で表わされているが、意味はまったく同じなのだ――それらは省略形式で人別番号、部屋、テーブル、建物を表わしている。
「この患者は定期的に観察できるよう、おまえの近くの場所に起居させよう」ラス・サヴァスは言葉をつづけた。「おまえのに隣りあった部屋がある。鍵をあけておくようにいってやろう。そこへ連れて行け。観察していないときは鍵をかけておくのだぞ」彼にとって|これ《ヽヽ》はあくまでも一つの症例《しょうれい》にすぎないのである。
わたしは娘を――そう呼んでよければの話だが――部屋へ連れていった。道すがら名前をたずねた。というのは、いつも彼女を四二九六―E―二六三一―H呼ばわりするのは、無用の非礼《ひれい》と思えたからで、わたしはその点を説明した。
「そう思ってくださるのは、ありがたいことですけど、わたくしはここでは実際にそれだけなんですわ――生体解剖《せいたいかいぼう》のための材料の一つにすぎませんもの」
「わたしにとって、あなたはそれ以上の存在ですよ。あなたには友人もいないし、頼れる者もいない。わたしはあなたのお役にたちたい――できるものならあなたの運命をもっと苛酷《かこく》でないものにしてあげたいのです」
「あらためてお礼申しあげますわ。わたくしはヴァラ・ディアと申しますの。で、あなたは?」
「ラス・サヴァスはヴァド・ヴァロと呼んでいます」
「でも、それはあなたのお名前ではありませんのね?」
「わたしの名前はユリシーズ・パクストンです」
「いままで聞いたことのないような、変わったお名前ですわ。でもあなたは、わたくしが会ったことのあるどの男とも違っている――バルスーム人には見えませんわ。あなたの肌の色はどの種族とも違っていますもの」
「わたしはバルスームの者ではありません。あなたがたがジャスームと呼ぶ惑星、地球から来たのです」
「地球《ジャスーム》ですって! ここにはもうひとり地球人《ジャスーミアン》がおりますわ。その名声はバルスームの辺境《へんきょう》にもあまねく轟《とどろ》いています。でも、わたくしはその方とお会いしたことはありません」
「ジョン・カーターのことですか?」
「ええ、大元帥ですわ。彼はヘリウムのひとですし、わたくしたちはヘリウムの国民とは友好的ではありませんでした。あの方がどんな方法でここに来たのか、わたくしには全然理解できませんでした。ところがいままた地球《ジャスーム》から来たひとが――どうしたらそんなことができるのです? どうやってあの宇宙空間を越えることができましたの?」
わたしは頭をふった。
「自分でも見当がつきません」
「地球《ジャスーム》にはすばらしい男性が住んでいるに違いありませんわ」それは耳に快い賛辞《さんじ》だった。
「バルスームに美しい女性がいるようにね」わたしは答えた。
彼女は悲しげに、年とって皺《しわ》がよった自分のからだを見おろした。
「わたしはあなたのほんとうの姿を見たのです」やさしくわたしはいった。
「自分の顔を思ってみるのもいやなのです、二目と見られないとわかっていますもの」
「それはあなたではないのです。いまの姿を見るときには、いつもそのことを頭において、惨《みじ》めな思いをしてはいけませんよ」
「それほどひどいの?」
わたしは答えなかった。
「かまいませんわ」ほどなく彼女はいった。「もし魂の美を持っていなかったなら、どれほど完全な容姿を持っていようと、わたくしは美しくなかったのです。でもあの当時、美しい魂を持っていたとしたら、いまだって持っているはずですわ。ですから美しい考え方ができるし、美しい行為を行なえましょう。そして結局、それがほんとうの美の試金石《しきんせき》だとわたくしは思うのです」
「それに希望があります」わたしはほとんど囁《ささや》かんばかりにつけ加えた。
「希望? いいえ、希望はありませんわ。いつの日か失ったからだを取りもどせるだろうとほのめかすおつもりならね。絶対にそんなことはできないと、あなたは充分納得させてくださいましたわ」
「その点を話すのはよしましょう」わたしはいった。「でも考えることはさしつかえないし、それに一つの物事をじっくり考えることは、ときとして、とるべき手段を見つけだす助けとなってくれるものです、切実にそれを望めばね」
「わたくしは希望を持ちたくはありません。それは失望を意味するだけでしょうから。現在のままで幸福になれましょう。望みを抱けば、かならず不幸になりますわ」
わたしが彼女のために注文しておいた食物が運ばれてきた後で、ラス・サヴァスがわたしを呼びつけた。老外科医の指示どおりドアに鍵をかけ、わたしは彼女のもとを離れた。ラス・サヴァスは大きな部屋の隣にある小さな事務室にいた。大きな部屋の中のほうでは二〇人ほどの事務員が、この巨大な研究所のいろいろな部門からくる報告書を整理したり分類したりしている。わたしがはいって行くと彼は立ちあがった。
「いっしょに来なさい、ヴァド・ヴァロ」彼は命じた。「さきほど話したL―四二―Xの二つの症例を見に行こう」
「猿の脳を半分持った男と、人間の脳を半分持った猿のことですか?」
彼はうなずくと先に立って建物の下の貯蔵室に通じる通路のほうへ歩き出した。降りて行く途中にある廊下や通路は、長いこと使用された形跡がない。床は長期間乱されなかった細かい埃《ほこり》でおおわれているし、このバルスームの地下深くをかすかに照らしている小さなラジウム電球も、同じように埃をかぶっている。通路の両側にあるたくさんの戸口の前を通過したが、それぞれのドアには、説明的な象形文字が記してあり、いくつかの戸口は、煉瓦《れんが》でぴったりふさがれている。いかなる陰惨《いんさん》な秘密が、その中にかくされているのだろう? やがてL―四二―Xにたどり着いた。ここでは死体は棚に置かれていて、幾列《いくれつ》もの棚が、床から天井まで、ほとんど部屋全体を占めている。ただ部屋の中央の長方形の空間だけは別で、そこには一式そろった外科器具や、モーターその他の研究設備のついた、アーサイト張りの手術台がおかれてある。
ラス・サヴァスは奇妙な実験台にされた被術者たちを捜し出し、ふたりでまず人体のほうをテーブルに運んだ。ラス・サヴァスがチューブをとりつけているあいだに、わたしは死体とともに同じ棚の上においてあった血の容器のところへもどった。もうおなじみとなった蘇生《そせい》の手続きがすぐに終わって、やがてわれわれは被術者が意識をとりもどすのを見守っていた。
その男は起きなおってわれわれを眺めた。それからすばやく部屋じゅうを一瞥《いちべつ》する。われわれに視線をもどしたとき、その目には獰猛《どうもう》な光がやどっていた。ゆっくりと台から床へおり、台をはさんでわれわれとむかい合う。
「おまえに危害は加えないよ」ラス・サヴァスがいった。
男は答えようとしたが、その言葉はちんぷんかんぷんで理解できない。それから頭をふって、うなった。ラス・サヴァスが一歩そのほうへ近づいたが、男は床に四つんばいとなり、うなりながら後ずさってしまう。
「さあ!」とラス・サヴァスが叫んだ。「なにもこわがることはない」もう一度彼は近づこうとしたが、男はいっそうすさまじくうなりながら、すばやく後ずさるだけだった。それから突然くるりと向きをかえると、一番高い棚の上にするするとよじ登り、そこで死体の上にうずくまると、わけのわからぬことをまくしたてた。
「応援を求めねばなるまい」そういうとラス・サヴァスは戸口に行き、呼子《よびこ》を吹いて合図した。
「なんで呼子を吹いた?」男が、だしぬけにたずねた。「おまえは誰だ? おれはここでなにをしているんだ? いったいおれはどうしたんだ?」
「降りて来い」ラス・サヴァスがいった。「われわれは友人なんだ」
ゆっくりと男は床におり、こちらのほうにやって来たが、まだ手足の指関節を使って動きまわっている。まわりの死体を見回すと、その目がぱっと明るくなる。
「おれはひもじいんだ! 食うとしよう!」男はそう叫ぶと、一番手近の死体をつかみ、床に引きずりおろした。
「やめろ! やめろ!」前にとび出しながらラス・サヴァスが叫んだ。「実験材料が台なしになってしまう」しかし男は死体を床の上に引きずりながら、後ずさるだけだった。そのとき駆けつけてきた助手たちの助けを借りて、われわれはこの哀れな生きものを取りおさえ、縛ってしまった。その後でラス・サヴァスは彼らに猿のからだを運んで来るよう命じ、また人手が必要になるかもしれないので、残っているように告げた。
運ばれて来たのは火星の大白猿だった。赤い惑星に住むもっとも獰猛《どうもう》で恐ろしい動物のひとつであり、その怪力と凶暴さを懸念《けねん》して、ラス・サヴァスは生き返らせる前に、しっかり縛ったかどうか充分念を入れたほどである。
直立すると身長は約三メートルないし五メートルもある巨大な動物で、上肢と下肢の中間に、腕ないしは足が一対ある。両目のあいだは狭く、突き出てはいない。耳は上のほうについているが、鼻と歯はアフリカのゴリラのそれと著しく似かよっている。
意識をとりもどすと、動物はいぶかしそうにわれわれを見た。何度か話そうとするのだが、喉からは、あいまいな音しか出てこない。それからもしばらくのあいだ、じっと横たわっていた。
「もしわしの言葉がわかったら、うなずいてみろ」ラス・サヴァスが呼びかけた。
動物はうなずいた。
「縄をほどいてほしいか?」
動物は、ふたたびうなずいた。
「おまえがわれわれに危害を加えようとしたり、逃げたりするのが気がかりなのだ」ラス・サヴァスがいった。
明らかに猿は大変な努力をはらって発音しようとしていたが、ついに聞きまちがえようのない音が、そのくちびるからもれた。それはノーの一言《ひとこと》である。
「おまえはわれわれを傷つけたり、逃げたりせんな?」ラス・サヴァスが質問をくり返した。
「ノー」と猿はいった。今度は、明確に発音された。
「いずれわかる」ラス・サヴァスがいった。「だがもしわれわれを襲えば、こちらの武器でたちどころにおまえを殺してしまうからな、おぼえておくがいい」
猿はうなずき、それからひどく苦労していった。
「わたしはあなたがたに危害《きがい》を加えない」
ラス・サヴァスの合図で助手たちがいましめをほどき、動物は起きなおった。四肢をのばして楽々と床に滑りおり、二本の足でまっすぐ立つ。しかし白猿は六本の足でよりも二本足で動きまわることがしばしばあるから、驚くほどのことはない。当時わたしはその事実を知らなかったのだが、後になって、人間のからだをした被術者のほうが四本足で歩いたことを論評《ろんぴょう》しながら、ラス・サヴァスが説明してくれたのだ。そしてこの事実は人間の頭蓋に猿の脳の一部を移植した型とは、まったく逆であることを、ラス・サヴァスに示唆《しさ》したのである。
ラス・サヴァスはかなり長いあいだ猿のからだを調べ、それから再び人体のほうにとりかかった。それは依然として人間というよりはむしろ猿の性格をはっきり示していたが、まちがいなく、より完全な声帯《せいたい》のおかげで、猿よりはらくに話せた。そもそも猿の発声が理解できるようになったのは、こちらが綿密《めんみつ》な注意をはらったおかげなのだ。
「この二つの実験材料については、格別|注目《ちゅうもく》に価するようなことはないな」半日を彼らの調査に費やした後で、ラス・サヴァスがいった。「彼らはすでに何年も前に、脳をそっくり移し替えたときのわしの測定を裏づけている。移植は脳神経細胞の成長と活動を刺激するのだ。それぞれの被術者においては、移植された脳の部分のほうがいっそう活動的であることに、おまえも気づくだろう――移植された脳は、かなりの程度、支配力を有する。これが明瞭に猿の性格を示す人間がいるいっぽうで、より人間的な態度を示す猿がいるゆえんなのだ。もっとも、さらに長いあいだ綿密な観察を行なえば、両者が、ときたま本来の性質にもどることが、まちがいなくわかるだろう――つまり、猿は単にもっと猿らしく、人間はもっと人間らしくなろう――しかし時間をかけるほどの値打ちはない。そのためにわしはすでに昼前の時間を割《さ》いたが、さして得るところはなかった。ではこの二つの実験材料を元の状態にもどす仕事はおまえに任せて、わしは上の研究所にもどるとしよう。もし必要なら助手をここに残して手伝わせてやるぞ」
猿はずっと聞き耳を立てていたが、このとき前に進み出た。「ああ、なにとぞお願いします」と不明瞭な発音でいった。「あの恐ろしい棚にわたしをもう一度閉じこめないでください。わたしは厳重に縛られてここに連れて来られた日のことを思い出します。それ以来、なにが起こったかは記憶にありませんが、でも自分の肌の様子と、長いあいだここに横たわっている、埃まみれの死体から察して見当がつきます。お願いですから生かしておいてください。仲間たちのところへもどすなり、この施設でなにかの仕事に使ってください。この施設のことは、捕えられたときと、縛られてどうすることもできずこの研究所の冷たいアーサイト板の上に運びこまれるまでのあいだに、多少見聞していたのです」
ラス・サヴァスはいらだたしげなそぶりをみせた。
「くだらん! おまえはこんな場所に、うろちょろせんほうがよろしい。科学のために保存してもらえる場所にいるのだ」
「彼の願いを認めてやってください」わたしは頼んだ。「彼を観察して、得るところがあるあいだは、わたしが全責任をとりますから」
「命令どおりやれ」部屋を出ながら、ラス・サヴァスはぴしゃりといった。
わたしは肩をすくめた。
「では、しかたがないな」
「わたしはその気になれば、あんたたちみな殺しにして逃げられるんだ」猿は考えこみながら声高《こわだか》にいった。「だが、あんたはわたしを助けてくれようとした。わたしは味方になってくれようとした者を殺すことはできない――しかし、もう一度死ぬことを思うと気がひるむ。どのくらいのあいだ、わたしはここに横たわっていたのだ?」
わたしはテーブルの頭のほうにかけてある、彼の経歴を引用した。
「十二年だ」
「それなのに、なぜ死ななくてはならんのだ?」彼は自問した。「この男はわたしを殺そうとしている――わたしが先手を打っていけないわけはあるまいが」
「そんなことをしても無駄だよ」わたしはいいきかせた。「きみは絶対に逃げられはしないからだ。そして逆にほんとうに殺されてしまうだろう。おそらくきみを将来、生き返らせるだけの値打ちはないものと考えて、ラス・サヴァスはきみを殺すだろうよ。いっぽうわたしは、いつかはきみを救う機会をつかむかもしれないし、そのつもりでもいるのだから、わたしを殺せば、元も子もなくなってしまうぞ」
わたしは助手たちに聞かれないよう、猿の耳もと近くで小声で話していた。猿は熱心に耳を傾けた。
「きみはその提案どおりやるのか?」
「機会がありしだいにな」わたしは保証した。
「よろしい、あんたを信じて任せよう」
半時間後、人間と猿のからだは二つとも、元の棚にもどされた。
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四 約束
日毎ラス・サヴァスのかたわらで働いているうちに、数日は数週間に、そして数か月となっていった。老外科医はいっそうわたしを信頼するようになり、彼の技倆《ぎりょう》と医学の秘訣《ひけつ》をさらに多く教えこんだ。徐々に広大な研究所の実務のなかで、重要な職務がわたしに任されるようになった。わたしは患者から患者へ手足を移し替えることからはじめ、次には消化器官の内部組織の移植にかかった。それから金を払う依頼人の手術が、そっくり委《ゆだ》ねられるようになった。金持ちの老人から心臓をとって、若い死体からとった健康なものと取り替える。翌日には、発育の悪い子どもに新しい甲状腺《こうじょうせん》を与えてやる。一週間後には二つの心臓を移し替えていたし、それからついにすばらしい日がやって来た――無言で立っているラス・サヴァスをかたわらにして、わたしは独力で老人の脳を摘出《てきしゅつ》し、若者の頭蓋に移したのである。
手術をすませると、ラス・サヴァスはわたしの肩に手をかけていった。
「わしでもこれ以上うまくはできなかったろう」
老人はとても得意《とくい》そうで、彼にしては異常ともいうべき感情の発露《はつろ》を、わたしはいぶかしく思わずにはいられなかった。彼は自分が感情をあらわに示さないことを、きわめて誇りとしていたからである。これほど多くの時間をかけてわたしを訓練するラス・サヴァスの目的は、いったいなんなのだろうと、しばしばわたしは思案したものだ。しかし、仕事が増《ふ》えていくので、彼には助手が必要なのだという以上に満足のいく説明は、なに一つ思いつかなかった。とはいえ、現在では閲覧《えつらん》することを許されている記録に当たってみても、彼の仕事は過去、長年のあいだにくらべてべつに増加しているわけではなかった。それにたとえ増加していたとしても、なぜ赤色人の助手をさしおいてわたしを訓練するほうを選んだのか、さっぱり見当がつかない。誠実さに対する信頼というだけでは、わたしにとって納得《なっとく》できる理由とはならない。なぜなら、わたしを昇進させるかわりに、護衛《ごえい》の地位にとどめたまま、自分の種族のひとりを外科の仕事の助手として、仕込むこともできたはずだったからである。
しかしまもなく、彼のしていることにはすばらしい理由のあることを知ることになった――なにをするにせよ、ラス・サヴァスは常にすばらしい理由を持っていたのである。ある晩夕食を終わった後で、これは彼がよくやることなのだが、腰をおろしたまま、まるでわたしの心を読もうとするみたいに、じっとわたしをみつめた。ちなみに、わたしの心を読むことはまったく不可能なことだったので、彼は驚き、かつ、くやしがったものだ。というのは、絶えず気を配っていない限り、火星人は他の火星人の頭の中をはっきりと読むことができるからだ。しかしラス・サヴァスは、わたしの心を読むことはできなかった。彼のいうところでは、それはわたしがバルスーム人ではないという事実にもとづくのだそうである。とはいえ助手たちが油断したときには、わたしはしばしば彼らの心を読むことができた。もっともラス・サヴァスの考えを読むことは一度もできなかったし、他の者にも読みとることができなかったことは確実である。彼はまるで彼が使う血液の瓶のように自分の脳を密閉《みっぺい》し、また一瞬たりともその障壁をはずしたことがなかったのだ。
彼はその晩長いあいだ、わたしをみつめながらすわっていたが、わたしは相手の奇妙な癖《くせ》にはなれていたので、すこしも当惑《とうわく》しなかった。
「たぶん」とやがて彼は口を開いた。「わしがおまえを信用する理由の一つは、いつ、いかなるときでもおまえの心を読むことができなかったという事実に起因《きいん》しているのだろう。だから、おまえがわしに対して反逆《はんぎゃく》の心を宿していようとも、こちらにはわからん。しかし、ほかの者はことごとく、わしの頭が探りを入れれば魂の内奥まであらわし、それぞれの心の中にはわしへの羨望《せんぼう》や嫉妬《しっと》、憎悪が渦巻いているのを暴露《ばくろ》するのだ。彼らが信用できないことはわかっておる。それでわしはおまえに全幅《ぜんぷく》の信頼をおくという、危険をおかさねばならんのだ。それにわしの理性は、この選択が賢明《けんめい》であると告げている――護衛としておまえを選んだのが、いかなる理由にもとづいているかは、すでに話してある。そして同じことが、わしがいま考えていることに、おまえを選ぶにあたってもあてはまるのだ。おまえは自分を傷つけずにわしを害することはできんから、わざわざそんなことをするはずがない。またわしに対して深刻な敵意を抱くべき理由もない。
「もちろんおまえは感傷家だし、健全で、合理的、かつ科学的な精神が命じる行動の多くを、明らかに恐怖の目で眺めている。しかしおまえは高い知性の持主であるから、したがって、自分に賛成できない物事でも、ほかの者よりは正しく判断できるだろう。おまえの感傷性が非とするような多くの事柄へとわしを駆《か》りたてる動機に賛成できないにしてもな。わしはおまえを怒らせたかもしれないが、決して不当な扱いをした覚えはないし、また、おまえが、いわゆる友情とか愛とかを多少抱いたと思えそうな生物を害したこともない。わしの前提《ぜんてい》が間違っているかな? それとも理性が誤っているかな?」
わたしはそうではないと断言した。
「結構! ではなぜおまえを訓練するために、あれほどの苦労を重ねたかを説明しよう。わしを別とすれば、あれほどの訓練を受けた人間は、かつてひとりもおらんのだ。わしはまだおまえを使う準備ができておらん。というよりはむしろ、おまえの用意が整っていないというべきだろう。だが、もしわしの目的を知れば、おまえはこの目的の達成に自分の全エネルギーを集中させる必要があることを悟るだろう。そしてこの目的のためには、わしがいま授けている高度な科学的技術の習得に要する努力以上に、さらにいっそう精出して努力することだろう。
「わしはひどく年とっている」ひと息入れてから、彼はまた言葉をつづけた。「バルスームでの年齢としてもな。千年以上生きてきたのだ。すでに天寿《てんじゅ》はまっとうしているが、わしの畢生《ひっせい》の仕事は終わっていない――やっとその緒《ちょ》についたばかりなのだ。断じて死ぬわけにはゆかん。バルスームは、この驚異的なわしの頭脳と技術を失ってはならんのだ。わしは前々から、死を防ぐ一つの計画を考えていた。しかし、それはわしに匹敵する技術を持つ者をもうひとり必要とするのだ――このふたりは永遠に生きられよう。わしはその相手としておまえを選んだ。理由はすでに説明したとおり――感傷におぼれる者であってはならんのだ。おまえを選んだのは、おまえを愛しているわけでも、友情を感じているわけでもない。また、おまえがわしを愛しているとか、友情を感じているとか思うわけでもない。ただ、この世の中でわしを見捨てるということが、およそありそうもない人間はおまえだと知っているからだ。しばらくのあいだ、おまえはその手中に、わしにたいする生殺与奪《せいさつよだつ》の権を握ることとなろう。わしが軽率に相手を選ぶことができなかった理由が、これでわかったろうな。
「わしがきめたこの計画は、ただ二つの基本的な素因《そいん》を当てにできれば、簡単きわまることなのだ――助手の技術と利己的《りこてき》な忠実さとがな。わしのからだはまさに衰弱《すいじゃく》しきろうとしている。新しいからだを得ねばならん。研究所には若さと強靭《きょうじん》な体力と健康の備わった、すばらしいからだがいっぱいある。要するに、そのうちの一つを選んで、熟練《じゅくれん》した助手がこの古いからだから新しいからだへ、わしの脳を移植するだけでいいのだ」彼は言葉をきった。
「なぜあなたがわたしを仕込んだか、やっとわかりましたよ」わたしはいった。「そのことで、ひどく頭を悩ましていたのです」
「そういったぐあいでわしの仕事がつづけられさえしたら、バルスームは事実上無期限に、わしの頭脳の恩恵《おんけい》をその子孫たちに保証することになろう。いつも熟練した助手がいるとすれば、わしは永遠に生きられようし、また助手を絶対に死なせないよう注意することによって、それが確実にできるというものだ。助手の器官の一つなり、あるいはからだ全部が弱ってしまったあかつきには、完全な部品のそろった大貯蔵室から、そのいずれをも取り替えることができる。わしのためには、彼が同じ務めを果たしてくれよう。こうしてわれわれは無限に生きるのだ。脳については、傷ついたり病におかされたりしない限り、ほとんど不死のものだとわしは考えておる。
「おまえには、まだこの重要な仕事を託するだけの用意ができておらん。もっとたくさんの脳を移植せねばならんし、いろいろな変則や特異体質を経験し、克服しなければならん。こうしたものにはかならず相違点があり、その結果、まったく同じ手術というものは二つとありえないのだ。おまえが充分熟練の域《いき》に達すれば、まっさきに、わしにわかるだろうし、そうなればわれわれは、時間を無駄にせずに、バルスームを子孫のために磐石《ばんじゃく》のものにすることができるというものだ」
老人の計画は、われわれ双方にとってすばらしいものであった。それは不死を保証する――われわれは永遠に生き、しかも常に強靭《きょうじん》で健康な若い肉体が持てるのだ。その見通しは魅力的だった――それにわたしはなんとすばらしい立場におかれることか。もし老人が利己主義の故《ゆえ》をもってわたしの誠実を確信できるならば、わたしもまた彼の誠実をあてにできよう。なぜなら彼に不死性を保証できる、この世でただひとりの人間を敵にまわすゆとりは、彼にはないからだ。もし敵にまわせば不死性は確保できない。この施設にはいってから初めてわたしは身の安全を感じたのである。
彼に別れるやいなや、わたしはまっすぐヴァラ・ディアの部屋へ行った。このすばらしいニュースを彼女に話したかったからだ。彼女が蘇生《そせい》して以来、数週間のうちに、わたしは彼女とひんぱんに会い、日毎の交際を通じて、彼女は少しずつその驚くべき魂の美しさを明かしてきた。そしてついに彼女を見るときには、もはやザザの恐ろしい醜い顔の代わりに、わたしの心眼は、もっと深く、その美しい心の中にある愛らしさを見透《みとお》すようになったのである。わたしが彼女にとってそうであるように、彼女もわたしの腹心《ふくしん》の友となり、この交際はバルスームでのわたしの生活の大きな喜びだった。
わたしの身に起こったことを話してきかせると、彼女は衷心《ちゅうしん》から美しい祝福をおくってくれた。そして、わたしのこの偉大な力を世の中のためになるように使ってほしい、といった。わたしはそうするし、ラス・サヴァスに要求する最初のことの一つは、ヴァラ・ディアに美しい肉体を与えることですと断言した。しかし彼女は頭をふった。
「いいえ、もし自分のからだを持てないのでしたら、このザザの老体は、わたしにとって、ほかのものとまったく同様に申し分ないのです。わたくし自身のからだでなくては、故国へ帰りたくはありません。ラス・サヴァスが、ほかの美しい肉体をくれたとしても、わたくしはつねに彼の貪欲《どんよく》な依頼人の目について、脅威《きょうい》にさらされましょう。そのうちの誰かがわたくしを見て、買いたいと望むかもしれません。そして、病におかされたか不具になってしまったその女のボロ切れのようなからだをわたくしに残していくでしょう。いけませんわ。もう一度自分のからだがもてない限り、わたくしはザザのからだで満足しています。どれほど醜かろうと、少なくともザザは丈夫で健康なからだを残してくれましたもの。それにどう見えようと、ここでは物の数ではないでしょう? わたくしのお友だちはあなただけ――あなたの友情だけで充分ですもの。あなたはわたくしの外見ではなくて、わたくしの人柄を好いてくださっている。ですからこのままにしておきましょうよ」
「もしあなたのからだを取りもどして祖国にもどることが可能なら、そうなさりたいでしょう?」わたしはたずねた。
「ああ、そんなことはおっしゃらないで!」彼女は叫んだ。「そう思っただけでも、わたくしは切望《せつぼう》のあまり気が狂いそうになります。わたくしは、そんなはかない夢を抱いてはならないのです。自分の運命に対する憎悪を、いっそうかりたてられるのが|おち《ヽヽ》ですもの」
「希望がないなどとおっしゃってはいけません」わたしはいいはった。「希望を空しくするものは死あるのみです」
「あなたは思いやりから、そうおっしゃってくださいますのね。でもそれは、わたくしを苦しめるだけなのです。希望が持てるはずはありません」
「では、あなたの代わりにわたしが希望を抱いてもいいですか?」わたしはたずねた。「わたしは必ず方法をみつけますからね。どれほど成功の可能性が薄かろうと、まだ方法はあるはずです」
彼女は頭をふった。
「方法はありませんわ」彼女はきっぱりといった。「もうデュホールには、わたくしがわかりますまい」
「デュホール?」わたしはくり返した。「あなたの――あなたがとても気にかけていらっしゃる、どなたかですか?」
「わたくしはデュホールがとても好きですわ」彼女は微笑みながら答えた。「でもデュホールは人間のことではありません――わたくしの国、祖先の地です」
「どうしてデュホールを離れることになったのです? あなたは少しも話してくださいませんでしたね、ヴァラ・ディア?」
「それはアモールの皇太子ジャル・ハドの、冷酷さが原因《もと》なのです。デュホールとアモールは宿敵《しゅくてき》同士でした。ところがジャル・ハドは変装してデュホールの町へはいり、デュホールの皇帝《ジェダック》、コル・サンのひとり娘の類《たぐい》まれな美貌《びぼう》のことを噂に聞いたのです。彼女を見たとき、ジャル・ハドは自分のものにしようと決心しました。アモールに帰ると彼はコル・サンの宮廷《きゅうてい》に使節を送り、デュホールの王女に結婚を申し入れました。でも皇太子のいないコル・サンは、姫を自分たちの王《ジェド》のひとりと結婚させ、それによって生まれるコル・サンの血をひく息子に、デュホールを治めさせようと決めていたのです。そこでジャル・ハドの申し入れは拒否されました。
「そのことはこのアモール人をひどく怒らせ、大艦隊を用意すると、正々堂々とした方法で得られぬものを力づくで奪うべく、彼はデュホール征服に乗り出したのです。そのころデュホールはヘリウムと交戦中でした。都市を守るための少数の軍隊を背後に残して、全戦力ははるか遠く南方にあったのです。したがってジャル・ハドとしては絶好の攻撃のときを選んだわけですわ。デュホールは陥落《かんらく》し、彼の軍隊が美しい都市を略奪《りゃくだつ》しているあいだに、ジャル・ハドは選抜部隊とともに皇帝《ジェダック》の宮殿を襲い、王女を捜しました。しかし王女はアモールの皇太子妃として彼とともに同行する気はありませんでした。アモール艦隊の前衛が空に見えたときから、都市の他の者たちと同様、彼らの来襲の目的がわかっていたので、彼女はその目的の裏をかくために頭を使ったのです。
「彼女の従者の中に美容師がひとりおりました。その仕事は王女の髪と肌《はだ》の輝くばかりの美しさを守り、公式謁見《こうしきえっけん》や祝宴《しゅくえん》、日常の宮廷の交際の仕度をすることだったのです。彼はその道にかけては達人でした。醜い者を美しく見せることもできましたし、地味な美しさを作ることも、派手な美しさを作ることもできました。王女はすぐさま彼を呼びよせ、二目と見られぬ醜い顔に作るよう命じたのです。彼がその仕事をやり終えたとき、だれひとりとして彼女をデュホールの王女と言いあてることのできる者はいなかったでしょう。顔料と小さなブラシで、彼は実に手際《てぎわ》のいい仕事を見せたのです。
「ジャル・ハドは王宮の中で王女を見つけ出すことはできませんでした。そして脅迫《きょうはく》や拷問《ごうもん》も、忠実な国民のくちびるから、その居所を明らかにすることはできませんでした。そこで王子は王宮の中の女をすべて捕えるよう命じました。女たちはアモールへ連行され、デュホールの王女が婚姻《こんいん》のため彼のもとへ送り届けられるまで、人質《ひとじち》としてとめられることになったのです。そこで、わたくしたちは全員、捕えられ、アモールの戦艦に乗せられました。デュホールを徹底的に略奪するために残った他の艦隊に先んじて、戦艦はアモールに帰還しました。
少数の護衛艦をともなった戦艦が、アモールとデュホールをへだてる五千|火星哩《ハアド》のうち約四千|火星哩《ハアド》行ったとき、ファンダルの一艦隊が艦を発見してただちに攻撃してきました。護衛艦は破壊されたり追い払われたりして、わたくしたちを運んでいた戦艦は、拿捕《だほ》されました。わたくしたちはファンダルへ連行されて、競売のせり台にのせられ、ラス・サヴァスの代理人のひとりがわたくしを入札《にゅうさつ》したのです。そのあとはご存知のとおりですわ」
「それで王女は、どうなりました?」
「たぶん死んだのでしょう――王女の一行はファンダルで別々にされたのです――でも死もこれ以上決定的に、彼女のデュホールへの帰還を妨げることはできないでしょう。デュホールの王女は、二度と再び故国を見ることはありますまい」
「しかしあなたは帰れますよ!」わたしは叫んだ。突然一つの計画を思いついたのだ。「デュホールはどこにあります?」
「あなたは、そこへいらっしゃるおつもり?」彼女は声をたてて笑いながらたずねた。
「そのとおり!」
「とんでもないことよ。デュホールはトウーノルからはたっぷり七千八百|火星哩《ハアド》、雪を頂くアルトールの山脈の向こう側にあるのです。異邦人のあなたが、しかも単身で、とてもたどり着くことはできませんわ。そのあいだにはトウーノル沼地や遊牧の蛮族や凶暴な野獣、好戦的な都市がひかえていますもの。たとえラス・サヴァスの研究所が立っている孤丘《こきゅう》から脱出できたところで、初めの十二|火星哩《ハアド》も行かぬうちに、いたずらに死ぬことになりましょう。ところで、そのような無益な犠牲的行為にあなたを駆り立てる動機はなんですの?」
わたしは彼女に話して聞かせることができなかった。しなびたからだを眺め、恐ろしい、醜い顔をみつめて「あなたを愛しているからです、ヴァラ・ディア」とはいえなかったのだ。しかし悲しいかな、それがわたしの唯一の理由なのである。彼女の精神と魂のすばらしい美しさが徐々に明らかになってくるにつれ、わたしの心中には、しだいに恋慕《れんぼ》の情がきざしてきたのだ。しかしなぜか説明はできないが、わたしはこの醜い老女にむかって、愛の言葉を告げることはできなかった。わたしはまことのヴァラ・ディアの華麗《かれい》な心を包んでいた、これまた華麗な現身《うつせみ》を目にしている――わたしが愛せるのはそれなのだ。彼女の心と魂と精神を愛することはできる。しかしザザのからだを愛することはできない。また、わたしは大きな疑惑《ぎわく》から生まれたべつな感情にも悩まされていた――ヴァラ・ディアは、わたしの愛に報《むく》いてくれるだろうか? ザザのからだを持ち、ほかにいいよる者もなく、それどころか友人とてない彼女は、感謝の念からか、あるいは絶対的な孤独ゆえに、わたしに引きつけられているのかもしれない。しかしもう一度美しいヴァラ・ディアになり、王宮にもどってデュホールの大貴族たちにとり巻かれたとしたらどうだろう? 別世界から来た、友もない孤独な風来坊《ふうらいぼう》に、目をくれたり愛情を抱いたりするだろうか? わたしにはどうもおぼつかなく思われた――しかしその疑いも、頭の中で考えている気違いじみた計画を、運命の許すところまで実行しようという決意を思いとどまらせはしなかった。
「あなたはわたくしの問いに答えてくださいませんわね、ヴァド・ヴァロ」彼女はわたしの湧き立つ思いをさえぎった。「なぜこんなことをしようとなさるの?」
「あなたに加えられた不正を正すためですよ、ヴァラ・ディア」
彼女はため息をついた。
「そんなことはなさらないで、お願い」彼女は頼んだ。「それは、わたくしから唯一の友を奪ってしまうだけですわ。そのかたとの交際だけが、わたくしに残された唯一の幸福のよりどころですのに。わたくしにはその理由が理解できないにせよ、あなたの寛容《かんよう》と誠実さには感謝します。そのような自殺同然の危険を冒してまでつくしてくださろうというあなたの没我的《ぼつがてき》な願望が、どれほどわたくしを感動させたかは、とても言葉では言い表わせません。あなたからお受けしているご恩は、いや増すばかりです。でもそのようなことをしようとはなさらないで――なさってはいけません」
「ヴァラ・ディア、もしご迷惑でしたら、もう二度とそのことを話すのはやめましょう。でも、それは片時《かたとき》もわたしの念頭《ねんとう》から離れないことを、お忘れなく。いつの日か、わたしはその方法を見つけ出すでしょう。たとえいま考えている計画が失敗に終わったとしてもね」
日々が経過し、天空を突っきって飛ぶ二つの月をはめこんだ、壮麗《そうれい》な火星の夜がその後にやってくる。ラス・サヴァスはいっそう時間をかけて、脳移植の仕事をわたしに教えこんだ。わたしはだいぶ前から熟練した腕前になっていた。そこでラス・サヴァスがわたしの手と技術に、彼の命と未来を安んじて任せられると感じるときが急速に迫っていることを悟ったのである。そうなれば、彼はわたしの意のままになろうし、わたしがそう考えていることを彼は知っているのだ。その気になれば、彼が殺せる。腐敗《ふはい》を防ぐ彼の麻酔剤《ますいざい》の虜《とりこ》として永久におくこともできるし、あるいはまた自分の思うとおりのどんな悪戯《いたずら》でもできるのだ。火星犬《キャロット》のからだでも、猿の脳の一部でも与えることさえできるのだ。しかし彼としては、思いきって危険をおかさなければならない。老人が急速に弱っているのをわたしは知っていたからだ。もうまったくの盲《めしい》同然だったし、自分で考案《こうあん》したすばらしい驚異的な眼鏡だけが、わずかながらも彼に視力を与えているのだ。長いあいだつんぼでもあったので、人工的な補聴器具《ほちょうきぐ》も用いている。それに最近では、心臓が無視できないほどおとろえの徴候《ちょうこう》を示している。
ある朝ひとりの奴隷が、ラス・サヴァスの寝室へ来るようにとわたしを呼びに来た。老外科医は、しなびた皮膚と骨という、ちぢこまった惨めなかたまりとなって横たわっていた。
「ヴァド・ヴァロ、われわれは急がねばならん」彼は弱々しくささやいた。「わしの心臓は数|火星秒《タアル》前にほとんどとまりそうになった。それでおまえを呼びにやらせたのだ」彼は部屋から通じているドアを指さした。「そこに、わしが選んだからだがある。ほかならぬその目的のために、ずっと前わしが建てた専用の手術室がある。その手術室でおまえは、いまだかつてこの宇宙が経験したことのない、もっとも偉大な外科手術を行なうのだ。いままでこの年老いた目に触れたうちで、もっとも美しい完璧な肉体に、もっとも完全な頭脳を移植するのだ。頭のほうは、すでにわしの脳を受け入れる準備がしてある。死体の脳は取り除き、始末《しまつ》した――火で完全に焼きつくしたのだ。あのすばらしいからだを取りもどそうと企《たくら》む脳の存在を、いいかげんに処置しておくことはできんからな。いや、完全に始末してしまったよ。奴隷を呼んで、わしのからだをアーサイト板に運ばせなさい」
「その必要はありませんよ」わたしはそういって、ちぢんだ彼のからだを地球の赤ん坊みたいに腕の中に抱きあげ、隣室へ運んだ。それは完全な照明と設備のある手術室で、二つの手術台があり、その一つには赤色人のからだがのっている。わたしはあいていたもう一つの手術台の上にラス・サヴァスを横たえ、それから彼の選んだ新しい肉体を見ようとふり向いた。いまだかつて、これほど、非の打ちどころのない姿態《したい》、これほど端麗《たんれい》な顔立ちをわたしは見たことがないと思う――ラス・サヴァスは確かに彼自身のために、申し分のない選択をしたものである。それからわたしは老外科医のところへもどった。彼の教えどおり、手際よく二つの切口を作り、チューブを取りつける。その血管から血を抜きとり、彼の驚嘆すべき防腐《ぼうふ》兼麻酔液をその中に送りこむモーターの始動ボタンに指をかけた。そこでわたしは口をひらいた。
「ラス・サヴァス、この目的のために、あなたは長いあいだわたしを訓練した。わたしは手術の結果については、ほんのわずかな不安の種もあってはならないと精だして努力してきました。ところで奇妙な偶然の一致から、あなたは人間のあらゆる行動は、利己主義の命じるところにしたがうだけだと教えてくれました。したがって、わたしがあなたのためにこの手術をするのは、あなたを愛しているからでも、友情を感じているからでもないことに満足されるでしょう。しかし、あなたは同じように不死になる機会をわたしに提供して、それで充分だと考えた。
「あなたの薫陶《くんとう》を受けたにもかかわらず、どうやらわたしは依然として感傷家らしいのです。わたしは不正を正すことを切望《せつぼう》します。友情と愛情を切望します。あなたの申し出られた報酬《ほうしゅう》は充分とはいえません。この手術が成功したあかつきには、あなたはそれ以上の報酬を出すことを承知しますか?」
彼は長いことまじまじとわたしを凝視《ぎょうし》していた。
「なにがほしいのだ?」わたしには老人が怒りにふるえているのが見てとれたが、彼はその声を高めなかった。
「あなたは四二九六―E―二六三一―Hを覚えていますか?」
「ザザの肉体を持った女だな? ああ、あの件は覚えている。それがどうしたのだ?」
「わたしは彼女の肉体を当人にもどしてもらいたいのです。それがこの手術に対してあなたが支払わねばならぬ値段です」
彼はわたしをにらみつけた。
「不可能だ。あの肉体を持っているのはザザだぞ。たとえわしがそうしたくとも、絶対にとりもどすことはできん。さあ、手術にかかれ!」
「あなたが約束してくださればね」わたしは固執《こしゅう》した。
「不可能なことは約束できん――ザザのからだを手に入れることはできない相談だ。なにかほかのことを要求するがいい。無理でない要求なら、どんなものだろうと認めるにやぶさかでない」
「わたしの望みはそれだけ――ただそれだけです。でも、あなたにあのからだを手に入れろとせがむのはよしましょう。もしわたしがザザをここへ連れて来たら、あなたは移植をしてくれますか?」
「それはトウーノルとファンダルのあいだの戦争を意味するぞ」彼はいきまいた。
「そんなことはわたしの知ったこっちゃあない。さあ! 決心してください。五|火星秒《タアル》以内にこのボタンを押します。もしわたしの要求を果たすと約束してくれれば、あなたを新しい、美しい肉体で甦《よみがえ》らせてあげます。もし拒《こば》めば、死人同様の姿で、永遠にここに横たわることになるのです」
「約束する」彼はゆっくりといった。「おまえがザザのからだをわしのところへ運んでくれば、わしの手持ちの中からおまえが選ぶどの頭脳でも、そのからだに移し替えてやろう」
「よろしい!」わたしはそう叫ぶと、ボタンを押した。
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五 危険
ラス・サヴァスは新しい、絢爛《けんらん》たる人間となって麻酔からさめた――この世の人間というよりは、むしろ天上の者と思えるほどの端麗《たんれい》な青年だった。しかしその美しい頭の中にあるのは、冷酷、無情な齢《よわい》千歳の名外科医の頭脳なのだ。目を開いたとき、彼は冷やかにわたしを眺めた。
「よくやった」と彼はいった。
「わたくしが役目を果たしたのは、友情のためですよ――たぶん愛情のね。ですから、あなたのけなしていた感傷癖に、この移植手術の成功を感謝したらいいでしょう」
彼は答えなかった。
「ところで」とわたしは言葉をつづけた。「今度は、あなたが約束を果たしてくれるのを拝見する番です」
「ザザのからだを運んでくれば、おまえの選ぶどの脳でも移植してやる。だがわしがおまえなら、そんな不可能な仕事に命をかけたりはせんだろう――おまえには成功できん。他のからだを選ぶがいい――美しいからだはたくさんあるのだ――それを四二九六―E―二六三一―Hの脳に与えてやろう」
「現在、女帝《ジェダラ》ザザのものとなっているからだ以外には、あなたの約束を果たすことはできないのです」
彼は肩をすくめ、冷やかな微笑を美しいくちびるに浮かべた。「よろしい。ザザを連れてくるがいい。いつとりかかるかね?」
「わたしの準備はまだできていません。そのときが来たら、お知らせしましょう」
「よかろう、さあ出て行け!――ああ、待て! その前に診療室へ行って、どんな患者《かんじゃ》が待っているか見て来い。直接わしの手当を必要とせず、おまえの技術と知識の範囲でこなせるものだったら、おまえが診《み》ておけ」
部屋を退去しながら、わたしは彼の口元に浮かんだ、狡猾《こうかつ》で満足そうな微笑に気づいた。彼を微笑ませたものは、なんなのだろう? わたしはそれが気にくわなかった。そこで歩きながら、この特別の瞬間にひどく不愉快な微笑を浮かべさせるとは、いったいどんな考えが、あの驚くべき頭脳をよぎったのだろうか想像しようとした。戸口を通りすぎて廊下に出ると、直属《ちょくぞく》の奴隷兼従者のヤムドールを呼び寄せる彼の声が背後から聞こえた。彼は気前のよい贈物と無数の引き立てによって、この大男の忠誠をつなぎとめていたのだ。ヤムドールは絶大な権力をふるったので、みなが恐れていた。なにしろ、そのくちびるから一言主人の耳に告げ口されれば、多勢の奴隷や従者の誰しもが、あっさりアーサイト板へ永遠に送られてしまうのだ。ヤムドールは女の脳と男のからだを統合させた、不自然な実験の結果だという噂があった。その行動や習癖の中には、この風評を裏書きするところが多々あった。主人の身辺で働いているとき、|あたり《ヽヽヽ》は柔らかく軽快だったし、動作は優美で、仕草《しぐさ》はおだやかだった。しかしその心は嫉妬深く、執念深く、容赦がないのだ。
彼はわたしを好いていなかったと思う。ラス・サヴァスの施設の中で、わたしが得た権限を妬《ねた》んでいたのだ。なぜなら、わたしは副官で、彼はただの奴隷にすぎないという事実には疑問の余地がなかったからだ。もっとも彼はいつもわたしには、最大級の敬意を払っていた。しかし彼はラス・サヴァスの卓越《たくえつ》した頭脳が統括《とうかつ》する巨大な施設の機構の中の、ただのつまらない歯車にすぎない。そういうわけで、わたしはほとんど彼に考慮を払わなかったし、事務所へ足を向けようとしていたそのときもそうだったのである。
少しばかり行ったところで、わたしはラス・サヴァスから早急に指示を仰ぐ必要のある、重要な用件を思い出した。そこで回れ右をして、彼の部屋のほうへとって返した。部屋に近づいたとき、開いた戸口から名外科医の新しい声が聞こえてきた。生来《せいらい》の威嚇的《いかくてき》な、権柄《けんぺい》ずくな性格が声に反映するためか、それとも聾《つんぼ》のせいかはわからないが、ラス・サヴァスは平常《へいじょう》どちらかといえば大声で話すほうなのだ。だから新しい肉体の、元気な若い声帯《せいたい》を持ったいま、その言葉は彼の部屋へ通じる通路の中に、はっきりと、あますところなく響き渡ったのである。
「そういうわけでな、ヤムドール」とその声はいっていた。「おまえは早速、口が固く信頼のできる奴隷をふたりえらび、ヴァド・ヴァロの部屋からあの女を連れ出して始末するのだ――からだや脳の痕跡《こんせき》を少しでも残すなよ。その後で、すぐにそのふたりの奴隷をF―三〇―Lの実験室に連れて行け。誰とも話させてはならん。わしが彼らの口を封じて、この件は闇から闇へ葬《ほうむ》ってしまうのだ。
「ヴァド・ヴァロは女がいないことを発見して、事件をわしに報告するだろう。わしが調査しているあいだに、おまえは四二九六―E―二六三一―Hの逃亡を手伝ったが、どこへ行くつもりだったのかは見当がつかないと白状するのだ。わしは罰としておまえにいったん死を宣告するが、結局どれほど痛切におまえの助力が必要かを説明し、再び罪を犯さぬというおまえの確約にもとづいて処罰を延期することにする。常に変わらぬおまえの善行に免《めん》じてな。計画の全貌がのみこめたかな?」
「はい、旦那さま」ヤムドールが答えた。
「では早速、手伝わせる奴隷を選びに行け」
わたしはすばやく足音を殺して、ラス・サヴァスの部屋から出て来る者の目につかない最初の角まで、通路を急いだ。それからヴァラ・ディアのいる部屋へ直行する。ドアの鍵をはずして押しあけると、外に出るよう手招きした。
「急いで! ヴァラ・ディア!」とわたしは叫んだ。「ぐずぐずできないのです。あなたを救おうとして、かえって破滅をもたらしてしまった。まずあなたの隠れ場所を捜さなくては。それもすぐに――その後でこれからの計画をたてればいい」
初めに思いついた適当な隠れ場となりそうな場所は、実験室の下にある穴蔵《あなぐら》の中の、ほとんど忘れられている地下室だった。そこへ急ぐあいだに、わたしはことのしだいをすっかり話してきかせたが、彼女は一度もわたしをとがめなかった。その代わりにただ、私心のない友情を示されたことを喜ぶ感謝の気持を述べただけだった。わたしの計画が失敗したことは、けっしてわたしの不名誉とはならないと安心させてくれ、そればかりか、友人もなく無期限に生きるよりは、そのような友人を持っていることを知って死ぬほうがましだと断言した。
ふたりはやっと目当ての部屋にたどり着いた――四―J―二一の建物の中にあるL―四二―X保管所で、そこにはお互いに脳を半分ずつ分けあった、猿と人間のからだが横たわっている。わたしはしばらくのあいだヴァラ・ディアを、ここに残して行かざるを得なかった。そうすれば、診療室に急いで、ラス・サヴァスから託された仕事を果たすことができる。さもないと、ヤムドールが彼女の部屋はからだったと報告したとき、疑惑の念を起こさせてしまう。
わたしは診療室にたどりついたが、彼の部屋からくるまでに長い時間がかかった事実を、ラス・サヴァスに報告しそうな者には誰にも見つけられずにすんだ。ほっとしたことには、患者はひとりも待っていなかった。不相応なほど急いでいるとは思わせずに、わたしはすぐ部屋を出る口実をみつけた。ただちに自分の居室のほうへ向かう。ゆっくりと無関心な様子を装い、いつもの習慣どおり(それはひどくラス・サヴァスをいらだたせたものだが)鼻歌を口ずさむ。わたしが地球を離れたころ流行《はや》っていた歌の文句で、このときの歌は「オー・フレンチー」だった。
こんなぐあいに歩いて行くと、ふたりの男の奴隷といっしょに、わたしの部屋へ通じている通路ぞいをあわただしくやって来るヤムドールにわたしは出会ったのだ。わたしは習慣どおり陽気に挨拶し、相手も挨拶を返したが、その目には恐怖と疑惑の色があった。すぐさま自分の居室へ行き、ヴァラ・ディアがいままでいた部屋へ通じるドアをあける。それから急いでラス・サヴァスの部屋へとって返すと、彼はヤムドールと話しているところだった。わたしは息を切らせ、ひどく興奮したふりを装ってそのほうへかけ寄った。
「ラス・サヴァス。四二九六―E―二六三一―Hをどうしたのです? あのひとは消えてしまって、部屋はからっぽですよ。わたしが部屋のそばに行ったとき、ヤムドールとふたりの奴隷がそのほうから来るのに出会いましたが」それからわたしはヤムドールを指さして詰問した。「ヤムドール! あのひとをどうしたんだ?」
ラス・サヴァスとヤムドールはふたりともほんとうに当惑したらしく、わたしはこうして、やすやすと彼らを瞞着《まんちゃく》して悦に入った。名外科医はただちに調査を行なうと言明し、すぐさま構内と外の孤丘の徹底的捜索を命じた。ヤムドールは女についてはなにも知らないといった。少なくともわたしはその主張が真実だと知ってはいたが、ラス・サヴァスはそうではなかった。自分の従者に質問したときの彼の目には、疑惑のかげが見てとれた。しかし女を誘拐して、その結果ゆゆしい命令違反をおかすという反逆行為《はんぎゃくこうい》の動機が、ヤムドールに関しては、どうやら一つも思いつけなかったのだ。
ラス・サヴァスの調査からは、なにも手がかりがつかめなかった。調査が進むにつれ、彼は、わたしが態度で示す以上に実はヴァラ・ディアの失踪《しっそう》について知っているらしいという疑惑に、しだいしだいに毒されていったのだと思う。まもなく巧妙に身をひそめたスパイの存在にわたしは気づくようになったからだ。それまでわたしは、ラス・サヴァスが宿所にひきとった後で、毎夜こっそりヴァラ・ディアに食物を運ぶことができたのだが、やがてあるとき、わたしは突然、無意識のうちに尾行されていることに気づいた。そこで地下室へ行く代わりに診療所へ行き、その日、扱った患者の記録に、いくつかの所見を書き足した。自分の部屋へもどりながら、わたしは「オーヴァ・ゼァ」の数節を口ずさんだ。それはわたしの無関心な態度を強調してくれるかもしれないのだ。わたしが宿所を離れた瞬間からもどるまで、一挙手一投足にいたるまであらゆる動きが見張られていたことは確かだった。どうすればよいのか? ヴァラ・ディアには食物が必要だった。食物がなくては死んでしまう。いっぽう、もしそれを彼女のところへ持って行けば、隠れ場所まで尾《つ》けられて、彼女は死ぬことになる。ラス・サヴァスはそれを見越しているのだ。
この難題になんらかの解決策を見出そうと頭をひねりながら、わたしは夜半まで、まんじりともせず横になっていた。道は一つだけらしい――スパイどもを、まかなくてはならないのだ。もしたった一回でもまくことができたら、あとの腹案《ふくあん》を遂行できる。そして結局それが、やがてはヴァラ・ディアに自分のからだを取りもどさせることができそうな、唯一可能な方法と思えたのだ。道は遠く、危険は大きい。しかしわたしは若かったし、恋におちていた。自分の身に関する限りは、その結果がどうなろうと全然意に介していなかった。緊急事態にでもならない限り、わたしがあまり大きな危険を冒すわけにいかないのは、ただただヴァラ・ディアの幸福のためなのだ。ところで現実に事態は緊迫《きんぱく》しており、たとえ自分の命を賭《と》してでも、いちかばちかやってみなければならぬ状態だった。
計画ははっきりした形をとり、寝室の暗闇の中で、絹布《けんぷ》と毛皮の上に横たわって、わたしは目を開いたまま、実行に移せる機会の到来を待った。寝室の窓は三階にあって、壁をめぐらした構内を見おろしている。わたしがバルスームに最初の挨拶をしたのは、そこの緑色の草地の上なのだ。開いた窓ごしに、わたしはゆっくりと進む遠いほうの月クルーロスを見守った。それはすでに傾いている。その背後では、浮気な恋人のサリア衛星が、大空を飛ぶようにすぎて行く。五|火星秒《ザット》(約十五分)のうちにそれは沈むだろう。その後、地球時間で三時間四十五分ほどで、空は星のほかは暗くなってしまうのだ。
おそらく通路の中には、例の監視《かんし》の目がひそんでいるだろう。サリアが地平線の下に沈んだとき、その連中が通路以外の場所にはいませんようにとわたしは神に祈った。それから月が沈むのを待つ間《かん》に、寝具の絹布から編んだ紐で作った長いロープを手にして、窓の出張りへぶらさがった。そのいっぽうのはしは窓ぎわにひきよせた重いソラプス(火星の硬木)のベンチに縛りつけてある。わたしは縛ってないほうのロープの先端を下におろし、降り始めた。わたしの地球人の筋肉は、まだ大きな跳躍を経験していないので、万一、もどる必要が起きた場合、ひととびで窓の出張りへ達することができるかどうか安心するわけにはいかなかったのだ。そうできるとは感じていたが、はっきりわかっていたわけではないのだ。冒険の成否にふたりの命がかかっているのだから、いたずらに失敗の恐れがある危険を冒すことはできない。そこでロープを用意したのである。
見張られているかどうか、わたしにはわからない。誰もスパイする者はいないという前提で仕事をつづけなければならないのだ。四時間とたたぬうちに、サリア衛星が再びもどって来る(唐突なバルスームの夜明けの直前だ)。そしてその間にわたしはヴァラ・ディアのもとへたどり着き、自分の計画の必要性を説得する。細目を実行し、サリアが偶然の目撃者の目にわたしの姿を暴露《ばくろ》してしまう前に、自分の部屋にもどらなくてはならないのだ。わたしは武器を身につけ、行く手をはばみ、使命を果たすあいだにわたしに気づいた者は、誰であろうと殺してやると断固たる決意を固めた。たとえわたしに対して、悪意を持っていない者であろうともだ。
夜は森閑《しんかん》として、ここに来て以来ずっと耳にしてきた、いつもの遠い物音が聞こえるだけだった――説明してもらったところによると、その物音は野獣の咆哮《ほうこう》だそうだ。一度わたしはラス・サヴァスに野獣についてたずねたことがあるが、そのとき彼は機嫌が悪かったので、その質問を聞き流してしまったのだ。わたしはすばやく大地におりると、ためらわずにまっすぐ、もよりの建物の出入口に向かった。あらかじめ調査をしておいて、地下室までたどるべき道筋に決めておいたのだ。あたりに人影はなかったし、やっと戸口に着いたとき、見つけられずにすんだものと確信できた。ヴァラ・ディアが再会できたことをひどく喜んだので、わたしはあやうく目に涙を浮かべそうになったほどである。
「あなたの身になにか起こったのかと思いましたわ。ご自分の意志で、あれほど長くぐずぐずしているかたではないとわかっていましたから」
わたしは自分が見張られていること、そしてこれ以上食物を運べば、かならず露見《ろけん》して、それは彼女にとってたちどころに死を意味するだろうという自分の所信を説明した。
「一つしか、とるべき手段はありません」わたしはいった。「口にするのもいやなんですが、ほかには方法がなさそうです。ラス・サヴァスの疑惑が薄れるまで、あなたは長期間安全に隠れていなければなりません。彼がわたしを見張っている限りは、どうしてもあなたの終局的な救済、つまりあなたのからだを取りもどし、デュホールへ帰国するために立案した計画を実行することはできないのです」
「あなたの意向はわたくしにとっては絶対ですわ、ヴァド・ヴァロ」
わたしは頭をふった。
「あなたが想像するよりも、ずっとつらいことですよ」
「どんな方法ですの?」彼女はたずねた。
わたしはアーサイト張りのテーブルを指さした。「あなたはまた、あの苦しみを経験しなければなりません。計画をなしとげる機が熟するまで、この地下室にあなたを隠せるように。耐えられますか?」
彼女は微笑した。「できないわけがありまして? ただ眠るだけですもの――もしそれが永遠につづいたとしても、わたくしにはわからないでしょう」
わたしは彼女がその計画にひるまないので一驚した。しかしそれが成功の見込みのある唯一の方法だとわかっていたから、わたしはひどく喜んだ。わたしの手も借りずに、彼女はアーサイト板の上へ上がった。
「準備はできましたわ、ヴァド・ヴァロ」彼女は雄々しくいった。「でも初めに、この気違いじみた冒険のために、命を賭けたりはなさらないと約束してくださいな。あなたには成功できませんもの。わたくしの復活が、およそ人間には考えつかないようなむこう見ずな冒険の成果《せいか》にかかっているものとすれば、目を閉じるときが、この世の見納めだと思います。でもわたくしは幸せですわ。それが、かつて女性が恵まれたことのないほど世にもまれな友情から生まれた好意であることがわかっているからです」
彼女が話しているあいだにチューブを調節すると、わたしはモーターの始動ボタンに指をかけ、そのかたわらに立った。
「さようなら、ヴァド・ヴァロ」彼女はささやいた。
「さようならは、いけませんよ、ヴァラ・ディア。あなたにはごく短いあいだに思える、快い眠りにすぎません。目をとじて、またあけるだけのこと。いまあなたがご覧になっているように、そのとき、わたしはここに、あなたのそばに立っているのです。あなたのそばから離れたことなんか一度もなかったようにね。わたしは、あなたが今夜目をとじる前に見る最後の人間です。ですから新しい美しい朝、目を開くとき、あなたが見る最初の人間もわたしになるでしょう。でもふたたびザザの眼をとおしてではなく、あなた自身の澄んだ、深い美しい目ですよ」
彼女は微笑み、頭をふった。涙が二滴、瞼《まぶた》の下に見える。わたしは彼女の手を握りしめ、ボタンに触れた。
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六 疑惑
どうやら発見もされずに、わたしは自分の部屋にたどり着いた。それから、まず見つかりそうもないところにロープを隠し、寝具の絹布や毛皮を探って、すぐに眠りについた。
翌朝宿舎から出て来たとき、わたしは近くの通路に、ちらりと人影を認めた。そのときから長いあいだ、ラス・サヴァスがわたしを疑っているという形跡が見られるようになった。わたしはいつもの習慣どおり、すぐさま彼の宿舎へ出かけて行った。彼はおちつかぬ様子だったが、わたしがヴァラ・ディアの失踪《しっそう》に責任があるという証拠をいくぶんでもつかんでいそうな気配は|うの毛《ヽヽヽ》ほども見せなかった。そう確信するまでには至らないのだ、とわたしはにらんだ。それはただ単に、あの特別な患者に、なんらかの意味で干渉する理由を持ちそうな唯一の人物は、わたしをおいて、ほかにはないという事実を彼の判断力が指摘したということにすぎない。だから彼としては、その当然の疑惑が真実であることを証明するか、もしくは反証《はんしょう》をあげるためにわたしを見張らせていたのだ。自分のおちつきのなさを彼はみずから説明した。
「わしはしばしば、脳の移植手術を受けたほかの患者の反応を研究してきた」彼はいった。「だから自分の場合にもぜんぜん驚いてはおらん。脳のエネルギーが刺激され、神経エネルギーの増大という結果を生じたばかりでなく、新しいからだの若い組織と若々しい血の効果を感じるのだ。それらは実験が漠然《ばくぜん》と示したとおり、わしの意識に作用しているが、完全に理解するためには、実際に経験しなければならんのだ。わしの思考、性癖、野心さえもが変わった。少なくとも移植による影響を受けている。新しい自分を知るためには、しばらく時間がかかるだろう」
退屈ではあったが、わたしは彼が話し終えるまで丁重に耳を傾け、それから話題を変えた。
「行方不明の女はつきとめましたか?」とわたしはたずねた。
彼は横に頭をふった。
「ラス・サヴァス、あなたはあの女をほかへ移すか殺してしまえば、わたしの全計画がご破算《はさん》になることを知っていたはずです。その点にわたしが気づいていないとは、いわせませんよ。ここの主人はあなただ。あなたに知られずにすむことは、なに一つないはずです」
「おまえはわしがあの女の失踪に、責任があるというつもりか?」
「そのとおりです。わかりきったことですよ。わたしは彼女をもどしてくれるよう要求します」
彼は癇癪《かんしゃく》を起こした。
「誰に向かって要求しているのだ?」と大喝した。「おまえは一介《いっかい》の奴隷にすぎん。その無礼をやめなければ、おまえを消す――抹殺《まっさつ》してしまう。まるで存在していなかったも同然にな」
わたしは面と向かって笑いとばした。
「怒りは感情的な人間の愚劣《ぐれつ》きわまる属性《ぞくせい》です」と思い出させてやった。「あなたはわたしを消したりはしませんよ。あなたと不老長寿とのあいだをつなぐ人間は、わたしだけですからね」
「ほかの者を仕込むことができる」彼は受け流した。
「でも、その人間を信頼することはできないでしょう」とわたしは指摘する。
「だがわしが無力なときに、おまえはわたしの命をたねに取引きをしたのだぞ」彼は叫んだ。
「快くききとどけたところで、少しもあなたの損にはならないようなことをですよ。わたしは自分のことについては、なにも要求しませんでした。それはとにかく、あなたは、またわたしを信用することでしょう。単にそうせざるを得ないというだけの理由で、わたしを信じるでしょうね。それなら、どうしてあのひとをもどしてわたしの感謝と忠誠をかちとり、われわれの約束の条件を、事実の上だけでなく、精神的にも果たさないんです?」
彼はふり向いて、わたしをじっとみつめた。
「ヴァド・ヴァロ、バルスームの貴族の面目にかけて、四二九六―E―二六三一―Hの居所に関しては、わしはまったくなにも知らんと誓うぞ」
「きっとヤムドールが知っているでしょう」わたしは頑張った。
「ヤムドールも知っていない。わしの知るところでは、わしとなんらかのつながりのある人間で、あの女がどうなったか知っている者はおらんのだ。この話にうそはない」
まあ、そのやりとりは見かけほど無駄ではなかった。ヴァラ・ディアの運命に関しては、わたしも彼自身と同様になに一つ知らないものと、ラス・サヴァスがほとんど納得したことが、確信できたからだ。完全に納得したわけではないことは、その後も長いあいだスパイ活動がつづいたという事実によって証明される。しかしそのことは、ラス・サヴァス自身の手口を、こちらの護身のために用いようと、わたしに決心させた。わたしは自分の専用に大勢の奴隷を使っており、親切と理解によって手なづけておいたので、彼らの忠誠を充分あてにできることがわかっていた。彼らにはラス・サヴァスを愛する理由はなかったが、憎む動機なら充分ある。いっぽう、わたしを憎む理由はないが、愛する理由は十二分にあるように意を配っておいたのだ。
その結果、難なく部下のうちのふたりを選抜してラス・サヴァスのスパイをスパイする任務につかせることができた。それによってすぐにわたしは、自分の疑惑がかなり根拠のあるものだということを知った――自室を離れているあいだ、わたしはたえず見張られていたのだが、部屋の外壁の向こうまでは及んでいなかった。わたしのとった方法で、首尾《しゅび》よく地下室に着けたのはそのためなのである。スパイたちはわたしが普通の出口からばかり部屋を離れるものと仮定して、そちらを見張ることで満足し、窓を見張らずに放置しておいたのだ。
監視がつづいたのは、地球時間で二か月ほどだと思う。それからまもなく部下が、監視は完全に終わったらしいと報告した。その間《かん》わたしは、事態の遅延にじりじりしていた。というのは、かねて念願の計画にとりかかりたかったのだが、監視されているかぎりは実行に移すことはとうてい不可能だったからだ。その休止期間中を、これからわたしの活躍の場となるはずの、火星の北東半球の地理の研究に費やし、また膨大《ぼうだい》な数の患者の記録もつぶさに調べ、そこで言及されているからだを検査した。しかしついにスパイたちはいなくなり、すぐに計画を実行に移せそうな気配が濃厚になった。
ラス・サヴァスはしばらくのあいだ、気ままに研究と実験をするかなりの自由をわたしに許していた。それでわたしはこの機会を利用してヴァラ・ディアを甦《よみがえ》らせる計画を進めるために八方手をつくそうと決心した。わたしがたくさんの患者の記録を調べたのは、自分の冒険を手伝ってくれる患者を発見できるかもしれないと思ったからである。わたしの注意をひいたものの中には、いうまでもなく、わたしがもっともよく知っているケースがいくつかあった。たとえば、三七八―J―四九三八一一―Pで、わたしが火星に着いた当日、その凶暴な襲撃からラス・サヴァスを救ったことのある赤色人である。それに脳を猿と分け合った男もいる。
前者の三七八―J―四九三八一一―Pはファンダル生まれだった――ファンダルの女帝《ジェダラ》ザザの宮廷づきの若い戦士で、暗殺の犠牲者だったのだ。ラス・サヴァスによれば、その肉体は若い美人の愛をかち得ようとするファンダルの貴族が買ったという。わたしはたぶん彼の援助が得られるだろうという気がしていたが、それはザザに対する彼の忠誠の程度しだいで、彼を生き返らせ質問することによってのみ決定できることである。
猿と脳を分け合った男はプタースの生まれ。プタースはファンダルの西方やや南寄りのかなりの距離、デュホールからは北方やや西寄りの同じ位の距離に位置する。プタースの住民なら、ファンダルとプタースとデュホールが形成する三角形の中に含まれる地域全体を、かなりよく知っているだろうとわたしはにらんだのだ。大白猿の力と獰猛《どうもう》さは、野獣が徘徊《はいかい》する荒地を渡る際に非常に役立つだろう。それに大きな野獣の脳の人間のほうの半分――これがいまは実際に獣を支配しているのだ――に、援助と忠誠を得るための、満足のゆく条件を提供できるだろうという気がしていた。試みに選んだ三番目のからだは、有名なトウーノルの刺客《しかく》だった。その豪胆《ごうたん》と武勇と剣技のさえは、遠く国境の外にまでその名声を喧伝《けんでん》した男である。
ラス・サヴァス自身がトウーノル人だったので、その不吉な天職によってバルスームでは畏敬されずにはいなかったこの男の経歴を、彼はある程度話してくれた。このゴル・ハジュスという男は、かつて女や善良な男を殺したことがなく、背後から殺したこともないという事実によって、同国人の評価をいっそう高めていたという。彼の殺人はいつも正当な戦いの結果であって、犠牲者は自衛手段を講じ、襲撃者を殺せる充分な機会を待っていたのである。それにこの男は、友人たちに対する誠実さの点でも有名だった。事実ほかならぬこの誠実が、彼の失脚の原因となったのであり、何年か前にラス・サヴァスのアーサイト板の台の一つに、彼をつれてくる運命になったのである。以前ごく些細《ささい》なことで、ゴル・ハジュスを助けてくれたことのある男の暗殺を断ったため、トウーノルの皇帝ヴォビス・カンの逆鱗《げきりん》にふれたのだ。ひきつづいてヴォビス・カンは、ゴル・ハジュスが自分を殺そうと狙っているという疑惑にかられた。その結果は一つしかない。ゴル・ハジュスは逮捕され、死刑を宣告された。処刑の後すぐに、ラス・サヴァスの代理人がその死体を買ったのである。
この三人が、そのときわたしの大冒険の相棒《あいぼう》として選んだ人物である。そのうちの誰とも、この件について相談していないのは事実だった。しかし彼らを完全に復活させる代償として、援助と忠誠を得ることは、ぞうさもないことだと、わたしは確信を持って判断したのである。
わたしの最初の仕事は、三七八―J―四九三八一一―Pならびにゴル・ハジュスの死因となった傷でそこなわれた器官を更新《こうしん》することだった。前者は新しい肺を必要としたし、後者は新しい心臓を必要とした。ゴル・ハジュスの死刑執行人は、短剣でそれを突き通したのだ。わたしは疑惑を呼ぶことをおそれて、ラス・サヴァスにこれらの実験をするための許可を求めることをためらった。疑われるようなことにでもなれば、彼はきっとこのふたりを破壊してしまうだろう。それでわたしは口実を構えて、隠密裏に、ことをはこばざるを得なかった。この目的のためには、わたしは何週間も夜おそくまで、いつもの実験室の仕事を行なうことにして、しょっちゅう何人もの助手の助けを借りるようにした。そうすれば、みんなは常ならぬ時間にわたしが仕事をしている姿を見ても、不思議には思うまい。わたしは選んだ助手たちの中に、ラス・サヴァスがわたしを見張らせていたスパイのふたりを入れることを主眼においた。彼らがもはやあの特殊な任務についていないというのは事実としても、おそらく主人にわたしの行動を逐一《ちくいち》知らせるだろうとあてこんだのだ。そして、こちらには実害のない報告を作らせるべく、適当な示唆《しさ》を与えるように注意を払った。わたしは純粋に仕事そのものへの愛情と、ラス・サヴァスによって心中に目覚めさせられた絶大な関心から、こうしておそくまで働いているのだ、と、ほんの少しほのめかしただけで、彼らはそう思いこんでしまったのである。助手といっしょに働いた晩もあるし、またしばしばひとりきりで働いた夜もある。しかしいつでも翌朝、診療室の者たちには、わたしが前夜おそくまで働いたと思わせるように、充分に気をくばった。
この基礎工作は慎重に準備したので、ファンダルの戦士とトウーノルの刺客を再生させる仕事にかかっているとき、実際に発見される始末となっても、比較的不安を感じないですむのだ。そこで、まず兵士のほうを先にすることにした。メスで切りさいてみると、その肺はひどく傷ついていたが、わたしはからだの断片を保存してある実験室から完全な肺をとってきて、使いものにならぬ肺と取り替えた。その仕事は夜半までかかった。どうしても仕事を仕上げてしまいたかったので、引きつづいてすぐさまゴル・ハジュスの胸を切り開き、けたはずれに強く、たくましい心臓を彼のためにえらんだ。迅速《じんそく》にことを運んで、夜明け前には移植手術は完了した。このふたりの男の命を奪った傷の性質を、わたしは知っていたし、とくにこの仕事に熟練するために、同じような手術を何週間も手がけてきたのだ。それにいずれの場合にも、異常な病理学的条件にはでくわさなかったから、仕事はよどみなくきわめて迅速に進行した。仕事のうちでもっとも困難だろうとあやぶんでいた部分をやり終えてしまうと、傷口をおおった治療テープはべつとして、それ以外の手術の痕跡《こんせき》をすべてできるだけ取り除いた。万が一にもラス・サヴァスがふたりのからだを調べたりすることのないよう祈りながら、数分間、必要な休息をとるために、自分の宿舎へもどった。もっともわたしは、それぞれの患者の記録カードに、手術の詳細を記入することによって、防衛策を講じておいたのだ。万一、ばれるようなことになっても、こうしたあけっぴろげな態度をとっておけば、わたしの隠れた動機に対するどんな疑いも、薄らぐというものだ。
わたしはいつもの時間に起きて、すぐラス・サヴァスの部屋へ行ったが、そこではあやうく冷静な仮面がぶちこわされるほどの、爆弾にぶつかったのである。彼は話し出す前に、長いあいだしげしげとわたしの顔を見た。
「おまえはゆうべおそくまで働いていたな、ヴァド・ヴァロ」彼はいった。
「しょっちゅうですよ」わたしは平然として答えたが、心は石のように重かった。
「それほどおまえが関心を持っているものとは、いったいなんなのかね?」
わたしは猫にもてあそばれるネズミのような気がした。
「最近は、肺や心臓の移植をかなり手がけたのです。その仕事に熱中したあまり、時間のたつのに気づかなかったのですよ」
「おまえが夜おそく仕事をしているのは知っている。賢明なことだと思うかね?」
そのときはまったく賢明なことではないと感じてはいたものの、わたしは相手には逆のことをいってやった。
「わしは、おちつかなかったのだ」と彼はいった。「眠れなかったので真夜中すぎにおまえの宿舎に行ったのだが、おまえはいなかった。わしは誰かと話したかった。だがおまえの奴隷たちは、おまえがいないということしか知らん――おまえの所在を知らんのだ――それでわしはおまえを捜しに行った」そう聞いてわたしは愕然《がくぜん》とした。「おまえが実験室の一つにいるのだろうと思ったのだが、そのいくつかを見てまわっても、おまえは見つからなかった」そう聞いて、わたしの心は羽根のように軽くなった。「脳の移植以来、わしは不安と不眠に悩まされて、昔のからだにもどれたらと思うほどなのだ――わしの肉体の若さは、頭脳の古さと調和しない。肉体は潜在的《せんざいてき》な強い衝動と欲望に満ちていて、心の中で考えている重要な問題と釣り合わんのだ」
「あなたの肉体に必要なのは運動ですよ。あなたのからだは若く、頑健《がんけん》で、活気にみちています。激しく働かせれば、夜になって脳を休ませてくれるでしょう」
「おまえのいうとおりなのはわかっている。自分でも同じ結論に達したのだ。事実、おまえが見つからなかったので、宿舎へ帰る前に一時間かそこら庭を歩いてみた。そうしたらぐっすり眠れたよ。眠れないときは毎晩散歩をするか、実験室へ行っておまえのように仕事をするとしよう」
このニュースは聞き捨てならない。こうなるとラス・サヴァスが夜歩きまわっているということ以外は、なにも確信がもてなくなるが、わたしにはあと一度、たぶん二度、やらなくてはならぬ大事な夜の仕事があるのだ。この不安を消すためには、彼と行動をともにする、という方法しかない。
「おちつかないときはわたしを呼んでください。いっしょに散歩したり、働いたりしましょう。夜ひとりで歩きまわるのは感心しませんね」
「よろしい。たびたびそうするとしよう」
わたしは彼がいつもそうするよう願った。そうなればわたしを呼ばなかったときには、彼が自分の宿舎にちゃんといるということがわかるからだ。もっとも今後は探知される脅威に直面しなければならないことは覚悟の上である。そうわかったのでわたしは計画の仕上げを早め、大胆な一撃にすべてを賭けようと決心した。
その夜はラス・サヴァスが早めにわたしを呼び、疲れるまで庭を歩きたいといったので、行動に移る機会がなかった。わたしのもくろみのためには、一晩まるまる必要なのだが、ラス・サヴァスは深夜まで散歩したから、その晩は断念せざるを得なかった。しかし翌朝、囲い地の向こうへ行き、実験室と庭以外のバルスームをいくらか見たいという口実で、わたしは早めに散歩に行こうと彼を説きふせた。この頼みが聞きいれられるという自信は、ほとんどなかったのだが、彼はそれを受けいれた。昔のからだを持っていたなら、決してそんなことはしなかったに違いない。しかし若い血は、このようにラス・サヴァスを大きく変えてしまったのである。
わたしは建物の向こうに行ったことはなかったし、見たこともなかった。どの建物の外壁にも窓はなく、窓の側には木々がうっそうと茂って、背後の眺めをすっかり隠していたからだ。しばらくのあいだわれわれは外壁のすぐ内側の、もう一つの庭を歩いたが、それからわたしは外壁の外まで行ってもよいかと、ラス・サヴァスにたずねた。
「いかん」と彼はいった。「身の安全が保《たも》てまい」
「どうしてです?」
「見せてやる。それどころか、門を通って見るよりも、もっと広い外界の眺望を与えてやろう。さあ、ついてこい!」
彼はすぐさま高い塔へと案内した。それは広大な施設を構成する建物のなかで、一番大きな建物の一隅にそびえている。塔の中には昇降両方に使う螺旋《らせん》通路がついている。通路を通って各階の戸口を通りすぎ、やがて頂上にたどりつく。
周囲には赤い惑星上で過ごした長い月日のあいだに、すでに目にとめていた地域も含めて、初めて見るバルスームの景観が展開していた。地球時間ではほぼ一年間、わたしはラス・サヴァスの血にまみれた研究所の、不吉な壁の中に監禁されていたのだが、そのあげく、人間というものは習慣の動物だから、このいまわしい生活が、まったく自然で普通のものと思えるまでになってしまっていたのだ。しかしこの広々とした平野を初めて一瞥《いちべつ》するや、わたしの胸中には、自由と空間と動き回る余地とを求める衝動がわき起こった。長く抑えることはできまいと自覚したほどの強い衝動である。
真下には直接周囲を囲繞《いにょう》する地域の普通の地面より、たぶん四、五メートルほど高い不規則な形をした岩地が横たわっている。ざっと一〇〇エーカーぐらいの大きさだろう。その上に高い壁をめぐらした建物や庭園がある。われわれの立っている塔があるのは、壁にかこまれた区域全体のほぼ中央である。外壁の向こうは、かなりの大きさの木がまばらに生えた岩地で、茂った密林地帯が点在している。そして、それらすべての向こうには、軟泥《なんでい》の沼地らしきものがある。そのあいだを狭い水路が走っていて、ところどころにある開けた水面――つまり、一番大きいものは二エーカーほどもあろうという、いくつもの小さな湖――とつながっている。この眺望《ちょうぼう》は視線の届く限りひろがっていて、ときたまわれわれのいる場所と同じような孤丘《こきゅう》で中断されている。また、さほど遠からぬところを大都市のスカイラインがさえぎっている。その塔や丸屋根や尖塔《せんとう》は、まるで光沢《こうたく》のある金属でおおい、高価な宝石で飾ったかのように、陽光の中で燦然《さんぜん》ときらめいている。
これがきっとトウーノルに違いない。そしてわれわれの周囲に展開するものは、東西にほぼ千八百マイル、幅は場所によって三百マイルにも達する大トウーノル沼地なのだ。この土地のことはバルスームの他の地方では、ほとんど知られていない。野獣が出没し、飛行艇の着陸地はなく、両端はファンダル、東端はトウーノルが支配する土地だからである。両国ともに外界との交渉を拒み、未開の辺境《へんきょう》と天険を利して、ひとり独立を保持しているのだ。
足もとの孤丘に視線をもどしたとき、わたしは外壁の向こうの、もよりの密林地帯から、大きな姿が、のっそりと現われるのを見た。つづいて二番目と三番目が現われる。ラス・サヴァスも、わたしの注意をひいたその動物を見た。
「あそこに三匹いる」と指さしながらいう。「この囲いからあえて外に出ては危険だという理由は、あれだよ。ほかにもたくさんいるぞ」
それはバルスームの大白猿だった。きわめて凶暴な動物なので、獰猛《どうもう》をもって鳴るバルスームのライオン、バンスさえ、その行く手をさえぎることをためらうほどなのだ。
「あれは二つの役に立つ」ラス・サヴァスは説明した。「もし大白猿がいなければ、トウーノルの町から夜分こっそり、ここにはいりこむような連中が出てくるだろう。そういう輩《やから》を阻止《そし》してくれるのだ。トウーノルにはかなり多くの敵がいるからな。もう一つ、奴隷や助手が逃げ出すのを防いでくれる」
「でも、あなたの依頼人はどうやってここへ着くんです? どうやってあなたの必需品を運んでいるのです?」
彼はふり返り、下の建物の不規則な屋根の、一番高い部分を指さした。その上には大きな物置のような建造物が建っている。
「あそこに三隻、小さな飛行艇がしまってある。そのうちの一隻が毎日トウーノルへ行くのだ」
わたしはその船について、もっと知りたいという渇望《かつぼう》に圧倒された。この孤丘から脱出するための、ねがってもない手段が見つかったと思われたからだ。しかし疑惑を招くことを恐れて、あえて質問はしなかった。
塔の通路を降りながら、わたしはこの建物に興味を覚えた旨《むね》を告げた。周囲のどの建物よりも、はるかに古いということが、歴然《れきぜん》とわかるからである。
「この塔は」とラス・サヴァスはいった。「その当時、君臨《くんりん》していた皇帝《ジェダック》にトウーノルを追われたわしの祖先が、二万三千年ほど前に建てたものだ。彼はここや他の孤丘でかなりの従者を集め、まわりの沼地を支配し、何百年ものあいだ、巧みに自分を守ったのだ。一族がトウーノルへもどることを許されてからも、ここは彼らの住居となった。一つずつ、塔のまわりに見えるいろいろな建物がつけ加えられた。それぞれの階は、屋根から地下の一番低い穴蔵まで、隣接《りんせつ》した建物とつながっているのだ」
この情報もまた脱出計画に、かなりの意味を持ちそうに思えたので、ひどくわたしの関心をひいた。そこで通路を降りながらも、塔の構造や他の建物との関係、とくに穴蔵《あなぐら》からの近づきやすさなどの点について、ラス・サヴァスに話をさせようと、しきりにそそのかした。ふたりはまた外庭を散歩し、ラス・サヴァスの宿舎へもどったころには、あたりはほとんど暗くなり、名外科医はかなり疲れていた。
「今夜はよく眠れそうな気がするよ」別れぎわに彼はそういった。
「そうだといいですね、ラス・サヴァス」わたしは答えた。
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七 脱出
日が暮れてからすぐに出される夕食がすむと、三時間ほどで研究所は、すっぽり夜のしじまの中に沈んでしまうのが常だった。なるべくなら計画に着手する前に、もっと長く待つべきだったろうが、夜明けまでにやり終えなければならぬことがたくさんあったから、のほほんと待ってはいられなかった。そこで、これからわたしがひと仕事する建物の住人が、就寝《しゅうしん》した気配が見えるやいなや、わたしは宿舎を離れて実験室へ直行した。こちらの計画にとって好都合なことに、トウーノルの刺客ゴル・ハジュスと、三七八―J―四九三八一一―Pのからだが、両方ともそこに置かれてあるのだ。ふたりのからだを隣の台に運ぶには数分でこと足りた。そして手早く彼らを紐でしっかりしばりあげる。どちらかが、あるいは両人ともわたしの提案を快諾《かいだく》しない場合を考慮してで、そうなったら、再び彼らを麻酔にかけざるをえない。やっと切傷をつけ、チューブを取りつけ、モーターを始動《しどう》する。三七八―J―四九三八一一―P、これからはその本名、ダル・タラスと呼ぶことにするが、初めに目を開いたのは彼のほうだった。しかしゴル・ハジュスが生命の兆《きざ》しを見せたときには、ダル・タラスも、完全に意識をとりもどしていたわけではない。
わたしはふたりが完全に本復《ほんぷく》したと思われるまで待った。ダル・タラスはわたしをみつめていたが、誰なのかを思い出したらしく、すこぶる悪意にみちた憎悪の表情をその顔に浮かべた。ゴル・ハジュスのほうは明らかに当惑していた。彼が最後に覚えていたのは、処刑室で死刑執行人が、自分の心臓に剣を突き刺した光景だったのだ。沈黙を破ったのはわたしだった。
「まず初めに、きみたちがどこにいるか話してやろう、すでに知っているのでなければね」
「自分がどこにいるのか、百も承知さ」ダル・タラスがうなった。
「ああ!」ゴル・ハジュスはそう叫ぶと、室内に視線をさまよわせた。「自分がどこにいるのか見当はつくよ。ラス・サヴァスのことを耳にしていないトウーノル人があるかね? すると連中は、わたしの死体を老いぼれの屠殺者《とさつしゃ》へ売ったんだな? で、いまは? わたしは到着したばかりなのか?」
「きみがここに来てから六年になる。数分のうちにわれわれ三人の話し合いがまとまらない限り、きみは永久にここに残ることになる。これはきみについても同じだよ、ダル・タラス」
「六年間もか!」ゴル・ハジュスは物思いに沈んだ。「よかろう、話したまえ。なにをしてほしいんだ? もしラス・サヴァスを殺すというのだったらノーだな。彼はわたしを完全な破壊から救ってくれたからな。誰かほかの者を指定したまえ、トウーノルの皇帝《ジェダック》、ヴォビス・カンなら、こちらでも望むところだが。剣さえあれば、ふたたび命を得るためなら百人だって殺してやる」
「わたしがとりかかっているこの件では、念願成就の邪魔だてをする者でない限り、無益な殺生はしたくない。いいかね! ラス・サヴァスは、ここに美しいデュホールの娘を捕えていた。彼はファンダルの女帝《ジェダラ》ザザにそのからだを売り、娘の脳を皺《しわ》だらけのいまわしい女帝《ジェダラ》のからだに移植したのだ。わたしはそのからだをとりもどし、本来の持主の脳に返して、娘をデュホールへ帰すつもりなのだ」
ゴル・ハジュスはにやりとした。
「それはまた大仕事をしょいこんだものだな。だがきみはわたしと同じような気風《きっぷ》の男だとわかったから、ひと肌脱ごう。それは自由と戦いをあたえてくれるだろう。わたしが求めるのは、ただヴォビス・カンへの一突きだけなのだ」
「わたしはきみたちに生命を約束する。しかしきみたちが忠実にわたしに仕え、わたしの仕事が満足すべき成果をあげるまでは、自分たちの仕事にとりかからないという了解の上でだ」
「それは一生きみに仕えるということになるだろうな。きみがとりかかった仕事は、とうてい成就し得っこないだろうからな。だがここの冷たいアーサイト板の上に横たわって、ラス・サヴァスが胃を切りとりに現れるのを待っているよりはましだろう。わたしはきみの命令にしたがう! 立たせてくれたまえ。もう一度、がっちりした二本の脚を感じたいのだ」
「で、きみは?」ゴル・ハジュスを縛ったいましめをほどきながら、わたしはダル・タラスのほうをふり向いてたずねた。当初ダル・タラスの顔に浮かんでいた醜い表情は、いまや熱望の色にとって代わっていることに気がついた。
「いましめを解いてくれ!」と彼は叫んだ。「ぼくはバルスームの果てまでもきみにしたがうよ。それに情況はこれまでのところ、きみの念願成就に向かっている。しかし、そうは問屋《とんや》がおろすまい。行きつくところはファンダル、あの邪悪なザザの部屋なんだ。祖先の霊が許し給うならば、ぼくはそこで、あの化け物がぼくにした、いまわしい所業《しょぎょう》に復讐する機会がつかめるかもしれない。かつては女帝《ジェダラ》の近衛兵だったダル・タラス以上に、きみの任務にふさわしい者を選ぶことはできんだろう。あの女は配下の堕落《だらく》した貴族のひとりが、ぼくの愛していた娘に求婚できるように、ぼくを殺させたんだ」
一分間、ふたりの男はわたしのそばに立っていた。わたしはすぐさま建物の下の穴蔵《あなぐら》へ下りる通路のほうへふたりを案内した。道すがら、われわれの奇妙な仲間の、四番目のメンバーとして選んだ生物について説明した。ゴル・ハジュスは猿が人目をひきすぎるだろうといって、わたしの選択が賢明かどうか、疑問を投げた。しかしダル・タラスは猿を同行することが、いろいろな点で役立つだろうと信じていた。というのは、しばしばこの動物が徘徊《はいかい》する沼地の孤丘のあいだで、暫時、過ごさざるを得ない見込みがあるからである。しかも、いったんファンダルにはいれば、猿はわれわれの計画促進にすぐさま使えるし、さほど論議の種にもなるまい。都市ではこの種の野獣が多数飼育され、街頭で群集のなぐさみに、芸をしているのがしばしば見受けられるのだ。
われわれはただちに猿の横たわる地下室へ降りていった。ヴァラ・ディアの麻酔をかけたからだが隠してある場所である。わたしは大きな類人猿を生き返らせたが、その脳の人間のほうの半分は、いまだ優勢なので、わたしは肩の荷をおろす思いがした。他のふたりにしたように、手短にわたしの計画を説明し、われわれの冒険が完了したあかつきには、彼の脳を元の場所にもどすという保証によって、大白猿の協力の確約をうることができた。
一行はまず孤丘を脱出しなければならなかったから、わたしは胸中にある二つの計画のあらましを話してきかせた。一つはラス・サヴァスの三隻の飛行艇の一つを盗み、ファンダルめざして直行することだ。それが実行できそうもない場合の代案《だいあん》は、そのうちの一隻にこっそり乗りこみ、孤丘を離れてから、隙《すき》をうかがって乗組員をうち負かして船をぶんどるか、トウーノルに着いたとき、発見されないように逃げ出すかである。ダル・タラスは初めの計画を好み、人間のほうの脳の半分がもと属していた人物ホヴァン・デューの名で呼ばれる猿は、二番目の計画の最初のほうが気に入った。そしてゴル・ハジュスは、二番目の計画の、後のほうを選んだ。
ダル・タラスはわれわれの第一の目的地はファンダルなのだから、そこへ着くのは早いほどいいと説明した。ホヴァン・デューはいますぐ船を失敬すれば二、三時間のうちに、なくなったことが発見されることは、わかりきっているのだから、それよりも孤丘を離れた後で船を奪うほうが、船《ふね》の失踪に気づいて追跡が始まる前に脱出する時間が、より多くかせげると主張した。ゴル・ハジュスは、こっそりとトウーノルへ行って、彼の友人をとおして武器と自分たちの船を手に入れられれば、それが一番よかろうと考えた。武器もなしに彼とダル・タラスが遠くへ行こうと試みても、決して成功しないだろうし、追手をかわしてファンダルへ到着する望みはもてないと主張した。なにしろラス・サヴァスが、すぐにわたしの不在に気づくだろうという前提のもとに、計画を立てねばならないからである。ラス・サヴァスはただちに調査して、ダル・タラスとゴル・ハジュスの失踪《しっそう》を発見するだろう。そうなれば時を移さずトウーノルの皇帝《ジェダック》ヴォビス・カンに、刺客《しきゃく》のゴル・ハジュスが逃亡した旨《むね》を知らせるだろうし、皇帝《ジェダック》の最優秀船が追手としてさし向けられるだろう。
ゴル・ハジュスの推理は当を得たものだし、ラス・サヴァスが自分の三隻の船は速度がのろいと、わたしに話してきかせた配慮とむすびつければ、老外科医の飛行艇の一隻を盗んだところで、われわれの自由がほんの束《つか》の間にすぎないということは容易に予測できる。
われわれはその問題を協議しながら穴蔵のあいだを進み、塔への出口をみつけた。静かに通路をのぼり、屋根の上に出る。月は二つとも低く天空をとんで、あたりはほとんど真昼のように明るい。もし近くに誰かが居れば、発見されることはまず間違いない。格納庫へ急いで、すぐに中へはいりこみ、その場所で、すくなくとも当座は、むきだしの屋根の上で、皓々《こうこう》たる二つの月の下にいるよりは、はるかに楽な気分になれた。
飛行艇は一風変わった装置で、平たく、ずんぐりしており、丸味をつけた船首と船尾、それにデッキにはおおいがしてある。船体のあらゆる輪郭《りんかく》が、この飛行艇は貨物運搬用に製作されたもので、速度は出ないということを示している。そのうちの一隻は他の二隻よりもかなり小さく、もう一隻は明らかに修繕中だ。わたしは三番目の艇にはいりこんで丹念に調べた。ゴル・ハジュスはわたしと同行して、艇内の隠れ場所をいくつか指摘した。それはわれわれが乗っているのではないかと怪しまれ、その結果、ほんとうに危険な事態にでもならない限り、まず発見される懸念《けねん》はほとんどなさそうな場所。わたしはゴル・ハジュスが三隻のうちで一番速度が出そうだと請け合った小さな船に全員乗りこんでみようと決心しかかった。するとそのとき、ダル・タラスが艇の中に首を突き出し、早く来るようにと合図した。
「誰かがいるんです」そばに近づいて行くと彼はいった。
「どこに?」
「こっちです」そういうと、彼は建物の壁と同平面になっている格納庫の裏手にわたしを連れて行った。そして窓の一つから内庭を指さしてみせたが、仰天《ぎょうてん》したことには、ゆっくりと行きつもどりつしているラス・サヴァスの姿が見えるではないか。一瞬、わたしは絶望のあまり青ざめた。下の庭に誰かが出ている限り、その者の目に触れずに船が屋根を離れることはできないからだ。それにラス・サヴァスこそは、この脱出行を世界中で一番見てもらいたくない人間である。しかし突然すばらしい名案が浮かんだ。わたしは三人を近くに呼びよせ、計画を説明した。
たちどころに彼らはその成功の可能性を理解し、時を移さず小さな飛行艇を屋根の上に出し、トウーノルとは見当違いの東のほうへ船尾を向けた。ゴル・ハジュスが中にはいり、打ち合わせどおりさまざまの操縦装置をセットし、スロットルを開いて屋根に逃げもどる。四人は格納庫へ急ぎ、裏窓へ走った。戦隊がゆっくりと優雅に、庭とラス・サヴァスの頭上を進んで行くのが見える。彼はたちどころにモーターの微かなうなりを耳にしたに違いない。われわれが窓にたどり着いたときには、空を見あげていたからだ。
ただちに彼は船へ呼びかけた。わたしは見られないように窓から一歩後ずさりながら答えた。
「ごきげんよう、ラス・サヴァス! わたしです、ヴァド・ヴァロですよ、これから見知らぬ世界がどんなものなのかを見物に出発します。またもどって来ますよ。そのときまでにあなたが、祖先の霊のもとへ行ってますように」これはラス・サヴァスの書斎にあった本の中から覚えた文句で、わたしはそれがひどく得意だったのだ。
「すぐもどって来い」わたしの言葉に応じて彼は叫んだ。「さもないと明日じゅうに、おまえが祖先の霊のもとに行くことになるぞ」
わたしは答えなかった。船はもうかなり遠くに行ってしまったので、わたしの声がそこから聞こえたとはもはや思えないだろうし、トリックがばれて発見されることを恐れたのだ。それ以上ぐずぐずせずに、われわれは残っている飛行艇の一つに乗りこんで、身を隠した。しかしすることはなにもなかったから、かつて塹壕《ざんごう》で経験した覚えがある、同じように長い、うんざりするような待機の時が始まったのである。
とうとうその日、船が飛ぶ望みをあきらめたころ、格納庫の中に人声がして、ほどなく船に乗りこんでくる足音を耳にした。すぐにいくつかの命令がくだされ、ほとんど即時に船はゆっくりと空中へ動き出した。
われわれ四人は船首と船尾にある浮力タンクのあいだの、ちっぽけなスペースに作られてある小さな仕切りの中にもぐりこんでいた。中はひどく暗かったし、換気《かんき》はお粗末《そまつ》で、明らかに余分のスペースを活用するために貯蔵室として設計されたものだ。注意をひくおそれがあったから、四人はあえて話をしようとしなかったし、同じ理由から、できるだけ動かないようにもしていた。われわれには知るよしもなかったが、乗組員の幾人《いくにん》かは、メイン・キャビンとわれわれをへだてる薄いドアのすぐうしろにいるかもしれないからだ。とにかく、ひどく居心地が悪い。しかしトウーノルまでの距離はそう長くないから、すぐに情況は変わるだろうという希望が持てた――少なくとも、もしこの船の目的地がトウーノルならばの話だが。この点については明るい希望を持った。出発してから間《ま》もなく、微《かす》かに呼びかける声が聞こえ、すぐにモーターが止まって飛行艇は停止した。
「どこの船だ?」と誰何《すいか》する声が聞こえ、こちらからも応答がある。
「トウーノルへ行くサヴァスの塔のヴォザール号だ」他の船がこちらの船に接近する際の、こすれる音が聞こえる。
「われわれはトウーノルの皇帝《ジェダック》、ヴォビス・カンの名において、おまえの船の捜索《そうさく》に来たのだ。さ、通せ!」と相手の船の者がどなった。われわれの陽気な気分はあっけなく終わりを告げた。大勢の足をひきずる音が聞こえた。ゴル・ハジュスが耳もとでささやいた。
「どうするね?」
わたしは短剣を彼の手へすべりこませた。
「戦うんだ!」
「よしきた、ヴァド・ヴァロ」彼は答えた。それからわたしは彼にピストルを渡して、ダル・タラスにまわすようにいった。ふたたび声が聞こえたが、今度はもっと近い。
「なんてこった!」ひとりが叫んだ。「バル・ザク、旧友のバル・ザクじゃないか!」
「あたまりえさ」太く低い声が答える。「バル・ザク以外に、誰がヴォザール号を指揮していると思ったんだ?」
「もしかするとヴァド・ヴァロか、ゴル・ハジュスかもしれなかったからな。それに全部の船舶を捜索せよという命令を受けているのだ」
「連中がここにいたらしめたもんだが」バル・ザクが答える。「なにしろ賞金が高いからね。だがラス・サヴァスが自分の目で、きょう未明に連中がピンサール号に乗って、東のほうに飛び去ったのを見ているんだから、こんなところにいるわけはないだろう」
「まったくだな、バル・ザク」相手が同意した。「おまえの船を捜索するのは時間の無駄だ。みんな来い! 船へもどれ!」
ヴォビス・カンの戦士たちがヴォザール号のデッキを離れ、自分たちの船へ退いてゆく足音とともに、わたしは自分の心臓の筋肉がゆるむのを感じた。そしてふたたび出発すべく、ラス・サヴァスの船のモーターの音が再度、起こるにつれて、わたしの意気はあがった。ゴル・ハジュスがわたしの耳元に口を寄せてささやいた。
「ご先祖の霊の加護だ。夜だし、暗闇が、船と着陸台から脱出するわれわれの姿を隠してくれるだろう」
「どうして夜だと思うのかね?」わたしはたずねた。
「呼びかけて誰何《すいか》してきたとき、ヴォビス・カンの船は近くにいた。昼間ならどこの船か見えたはずだ」
彼のいうとおりだった。われわれは夜明け前から、この風通しの悪い穴倉に閉じこめられていたので、かなりの時間が経過したとは思っていたものの、いっぽうでは暗闇と無為《むい》と緊張が、実際よりも時間をもっと長く思わせるものだということを知っていた。だからトウーノルに昼のうちに着いたとしても、わたしはさほど驚かなかったろう。
サヴァスの塔からトウーノルまでの距離は、たいしたことはなかったから、ヴォビス・カンの船が呼びかけた後まもなく、われわれは目的地の着陸場に停止した。長いあいだ船内の物音に聞き耳をたてて待った。そして、少なくともわたしとしては船長の目的は奈辺《なへん》にあるのだろうかと考えた。バル・ザクが今夜のうちにサヴァスのもとに帰るということは、充分ありうることだし、とくに金持ちの、あるいは有力な患者を研究所へ連れて行くためトウーノルに来たとすれば、なおさらである。しかし物資補給のために来ただけだとすれば、明日までここに滞在しても不思議はない。これはゴル・ハジュスが教えてくれたことで、ラス・サヴァスの飛行艇の動きに関するわたし自身の知識は、皆無《かいむ》も同然だった。何か月も名外科医の助手をしてきたくせに、わたしは彼の小船隊の存在を前日知ったばかりなのだ。ラス・サヴァスは彼の計画に沿い、それを促進《そくしん》することでない限り、わたしにはなにも話さないという流儀《りゅうぎ》だったのである。
彼はわたしの質問にはいつも答えてくれたが、それはその結果が自分の利益を損なわないと判断した場合であって、特別わたしに知らせたいと思わないことは、なに一つ進んで教えてはくれなかった。トウーノルに面した建物の外壁には窓が一つもなかったし、前日まで、わたしは一度も屋根の上に出たことがなかったのだ。したがって船が東へ向かって中庭の上を飛ぶところを見たこともないという事実が、船隊とその平常の運行に対するわたしの無知を説明することになろう。
われわれは船が静寂に包まれて、乗組員たちが寝てしまったか、町へ出かけたかのどちらかの徴候を示すまで、黙々と待っていた。それからゴル・ハジュスと小声で相談した後で、船から脱出することに決めた。目的は、着陸場の塔の中に隠れ場所を見つけることだ。そこから町中へ逃げこめそうな見込みのある道筋を調べ、すぐにせよ、あるいは明日にせよ、もっとらくに群集にとけこめる潮時《しおどき》を見はからって出て行くのだ。日の出から二、三時間もすれば、まちがいなく人混みができるだろうとゴル・ハジュスがいった。
わたしは慎重に貯蔵室のドアをあけ、向こうのメイン・キャビンを眺めた。それは闇の中に沈んでいる。われわれはそっと順ぐりに穴倉を出た。飛行艇には墓地のような静寂がたちこめていたが、はるか下からは都市の低い騒音が立ちのぼってくる。いままでのところは、うまくいったぞ! そのとき突然、音もなく、前触れもなく、一条の煌々《こうこう》たる光線がさっと船室の内部を照らし出した。わたしは剣の柄にかけた指がぎゅっと引きしまるのを覚えながら、すばやく、あたりを見まわした。
われわれの真正面、小さな船室の狭い戸口に背の高い男がひとり立っている。そのみごとなよろいは、この男が平《ふら》戦士ではないことを示していた。いずれの手にも重いバルスームのピストルを持ち、その銃口はわれわれをピタリと狙っていたのである。
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八 手をあげろ!
地球人が手をあげろというのと同じ意味のバルスーム語を、男は静かな口調でいった。冷やかな微笑のかげを口許に浮かべ、われわれが命令にしたがうことをためらっているのを見てとると、もう一度命令をくり返した。
「おれのいうとおりにするのがきみたちのためだ。絶対に声をたてるな。声をあげれば、きみたちの破滅を招くだろう。一発の銃声が確実にな」
ゴル・ハジュスは頭の上に手をあげ、われわれもそれにならった。
「おれはバル・ザクだ」見知らぬ男はそう名のった。わたしは意気消沈した。
「では射ち始めたがよかろう」ゴル・ハジュスがいった。「われわれを生きたまま連行はできんだろう。こちらは四人できみはひとりだからな」
「そう早まってはいかん、ゴル・ハジュス」ヴォザール号の艇長がさとした。「おれがなにを考えているか、わかるまではな」
「そのことならもう知っている。きみがヴァド・ヴァロとゴル・ハジュスを捕えた者に約束されている多額の賞金について話しているのを聞いたからな」トウーノルの刺客が、吐き出すようにいった。
「それほどおれが賞金をほしがっていたとすれば、ヴォビス・カンの船の船長が乗りこんで来たとき、きみたちを引き渡せたはずだ」バル・ザクがいう。
「そのときは、われわれがヴォザール号に乗っていることを知らなかったんだ」わたしが指摘した。
「いや、おれは知っていたよ」
ゴル・ハジュスがふんと鼻をならして、不信を表明した。
「知らないとすれば、どうしてちょうどきみたちが隠れ場所から出て来たときに、ここに待ち構えていることができたかね? そうとも、おれたちはきみが乗っていることをちゃんと知っていたんだ」
「でもどうやって?」ダル・タラスがたずねた。
「取るにもたらんことさ」バル・ザクが答えた。「だがきみたちの当然の好奇心を満足させるために話してやろう。おれはサヴァスの塔の小さな一室を宿所にしており、その窓は屋根と格納庫を見おろしている。長いあいだ飛行艇に乗りこんで過ごしてきたから、おれは船のあらゆる物音にひどく敏感になってしまった――モーターが速度を変えれば、真夜中だろうとおれの目をさましてしまう。ちょうどモーターの始動や停止と同じくらい即座にな。おれはピンサール号のモーターが始動する音で目がさめた。屋根の上にいるきみたち三人を見たし、船がスタートしたとき四番目の人影が船のデッキから飛び降りたのも目撃した。それでおれの知らぬなんらかの理由で、船が乗組員なしで飛ばされたのだと判断した。その行動を防ぐには手おくれだったので、おれは次になにが起こるか探ろうと、口をとざして待ってたんだ。格納庫へ急ぐきみらの姿を目撃し、ラス・サヴァスの呼びかけを聞き、それからきみたちがヴォザール号へ乗りこむのを見た。おれはすぐに屋根へおり、音をたてずに格納庫へ走った。きみたちがこの船で脱出するつもりじゃないかとあやぶみながらね。だが操縦装置のまわりには誰もいなかったし、メイン・キャビンが見渡せる操縦室の舷窓から、きみたちが貯蔵室へはいるのが見えた。おれはすぐに、きみたちはトウーノルへ密航《みっこう》したいだけなのだと確信した。したがって、きみたちの隠れ場所を監視《かんし》することを除けば、あとは平常どおり自分の仕事をしたのだ」
「で、きみはラス・サヴァスに知らせなかったのか?」わたしはたずねた。
「誰にもね。だいぶ前に、おれは、ひとのことにはかかわりあわないことを学んだんだ。すべてを見、すべてを聞いても、自分の利益にならない限り、なにもしゃべらないのさ」
「だがわれわれの逮捕には、高い賞金がかかっているときみはいった」ゴル・ハジュスが指摘した。「それを受けとることは利益にならんのかね」
「名誉を尊ぶ男の胸には、金銭に対する欲望にまさる力があるものだ」バル・ザクが答えた。「おそらくトウーノル人は薄れつつある感傷《かんしょう》の影響にとらわれることのない人種といえるだろうが、おれは感謝の必要なことを、まったく意識しない人間ではない。ゴル・ハジュス、きみは六年前、おれの父の暗殺《あんさつ》を拒絶してくれた。彼が善良で生きる価値があり、一度|些細《ささい》なことできみを助けたことがあるという理由からだ。きょう、きみはその息子をとおして、その報酬を受けるのだ。バル・ザクの父の殺害を拒否したため、ヴォビス・カンに処罰されたことの、いくぶんかを償《つぐな》ってもらうわけになる。乗組員たちは追い払ったから、ヴォザール号の乗員できみたちの存在を知っている者はわたしひとりだ。きみたちの計画を話してくれ。そしてどうやったらもっときみたちの役に立てるか、命令してほしい」
「われわれは気づかれずに街路《がいろ》へたどり着きたいのだ」ゴル・ハジュスが答えた。「それを手伝ってさえもらえれば、これ以上脱出の責任をきみに負わせはしない。われわれは恩にきるし、それにトウーノルではゴル・ハジュスの感謝が、皇帝《ジェダック》さえもが望む財産であることを、いまさら口に出していう必要もあるまい」
「きみたち一行の顔ぶれのおかげで、問題がややこしくなっている」ちょっとのあいだ考えこんだ後で、バル・ザクがいった。「猿はすぐに人目につき、疑惑を起こさせるだろう。わたしはラス・サヴァスの実験を多く知っているから、けさ、きみたちといっしょにいる猿を観察して、すぐに彼が人間の脳を持っていることに気がついた。だがほかならぬこの事実が、大衆の注意をいっそう猿と、そしてきみたちに引きつけるだろうな」
「やつらにその事実を知らせる必要はない」ホヴァン・デューがうなった。「生けどりになった猿で通せばいいんだ。トウーノルでは猿はそんなに知られていないのか?」
「まったくというわけではないが、まれだな」バル・ザクが答えた。「それにヴァド・ヴァロの白い肌の問題がある! ラス・サヴァスは猿がきみたちと同行しているとは、ぜんぜん知らないようだ。だがヴァド・ヴァロについてはよく知っているし、サヴァスの命令で、きみの人相書があらゆる方法でまきちらされている。最初に出会うトウーノル人が、すぐきみだと気づいてしまう。それにゴル・ハジュスがいる。なるほど、死んでから六年たってはいる。だが十年以上前に殻《から》を破って生まれたトウーノル人で、自分の母親と同じくらいよくゴル・ハジュスの顔を知っていない人間は、まれだと賭けてもいい。皇帝《ジェダック》自身でさえ、ゴル・ハジュスほどトウーノルの人間に知られてはいない。そうなるとトウーノルの大通りで、疑惑と露見《ろけん》をまぬかれることができそうなものは、ひとりしか残らないわけだ」
「連れの者たちに武器をあたえることさえできれば、まだゴル・ハジュスの友人の家に着けるんだがな」わたしはほのめかした。
「トウーノルの町なかで血路を斬り開いてかね?」バル・ザクがたずねた。
「ほかに方法がなければやむを得まい」
「その決意には敬服《けいふく》する」ヴォザール号の艇長が評した。「だが肉体のほうに、それに充分な強さがあるかな。待ってくれ! 一つの方法がある――たぶんね。このすぐ下の着陸台には公共倉庫があって、平衡《へいこう》モーターを保管して貸し出している。あれを四台手に入れる方法を見つけ出せれば、チャンスはある。少なくとも空中パトロール隊をさけて、ゴル・ハジュスの友人の家に着くことはできるだろう。それをやりとげる手段も見つけられると思う。着陸塔は夜のあいだは閉まっているが、五、六名の監視員が違った階に割り当てられている。平衡モーター置場にはひとりいて、たまたま知っているところでは、ジェッタン気違いなんだ。夜警の務めに精だすよりも、ジェッタンをやりたいんだよ。わたしは、夜ヴォザール号にとまることが、しょっちゅうあるし、ときどき、彼とふたりでゲームを楽しんだものだ。今夜やつを招くとしよう。そうすれば、やつをひきつけておくあいだに、きみたちは置場へ行って自分で平衡モーターを手に入れられる。目的地へ向かって町を横切るあいだ、空中パトロール隊に怪しまれないよう、ご先祖さまに祈るんだな。この計画をどう思うね、ゴル・ハジュス?」
「すばらしい」刺客は答えた。「きみはどうだ、ヴァド・ヴァロ?」
「平衡モーターなるものの実体を知っていれば、もっとよく計画の価値を判断できると思うんだが。しかしゴル・ハジュスの判断に任せれば安心だ。バル・ザク、われわれは、ほんとうにきみに感謝する。ゴル・ハジュスがきみの計画に賛成したからには、わたしとしては、それを極力遅らせずに実行できるよう取り計らってもらいたいと、きみをせきたてるだけだ」
「よろしい!」バル・ザクが叫んだ。「いっしょに来たまえ。夜警をわたしの船室のジェッタン・ゲームに誘いこむまで、きみたちを隠すことにしよう。その後の運命は、きみたちの腕しだいだ」
彼の後についてわれわれは船から着陸台の地面へ、それからヴォザール号の舷側のすぐ下へ移った。夜警はその反対側から船に近づき、中へはいるに違いない。幸運を祈るといってからバル・ザクはその場を離れた。
着陸塔の頂上から、わたしは初めて火星の都市を眺めた。二百メートルほど下には、トウーノルの広い煌々《こうこう》とあかりのついた街路が何本も展開して、その多くは人の群れで雑踏《ざっとう》している。中心部のここかしこには、円筒形の金属のシャフトに支えられて高くそびえる建物があり、そのもっと外側は住宅地帯となって、都市全体が巨大でグロテスクな森林のような外観を呈している。大きな邸宅《ていたく》の中だけには、他のものよりも高く持ち上げた特別作りの一連の部屋があって、持主や召使い、客人のための寝室となっている。しかし小さいほうの家々はそのままの高さにあって、昔からの職業であるゴル・ハジュスの後継者たちの、不断《ふだん》の活動に対する警戒を余儀《よぎ》なくされていた。刺客はなんびとにも、絶え間《ま》ない暗殺の脅威《きょうい》からまぬかれることを許さないのだ。中心地域の空には、いたるところにいくつかの他の着陸台の、そびえ立つ塔が突き出ている。しかし後になってわかったところによると、この数は比較的わずかだった。トウーノルは、いかなる意味においても航空国家とはいえない。たとえばヘリウムの双子都市とか、プタースの大首都のように、巨大な商船隊や戦艦の艦隊を持っているわけではないのだ。
トウーノルの街灯は奇妙な形をしていたが、実際はわたしが訪れた他のバルスームの都市と同じ条件を照明に適用しているのであった。その夜、着陸台の上で、バル・ザクが夜警といっしょにもどって来るのを待っていたとき、わたしは初めてその点に気づいたのだ。足下の光度は、照明されるべき部分に限定されているように見える。上方とか、あるいはランプが照らすように設計した限界をこえて、光が拡散《かくさん》することはないのだ。人から聞いた話では、長年にわたる光波の特性とそれらを支配する法則を研究した結果、得た原理にもとづいて設計したランプの効果だそうである。バルスームの科学者たちは地球人が物質を制御《せいぎょ》し支配するように、光を制御し支配できるようになったのだ。光波はランプを離れ、規定回路を進んでランプにもどる。浪費することがないし、わたしには奇妙に思えたのだが、明かりが適切に設置され調節されたときは、濃い影は少しも出ないのだ。光波が対象の周囲を進んでランプにもどるあいだに、その全面を照らすからである。
塔のかなりの高みから見るこの照明の効果は、いささか驚くに足るものだった。闇夜で、この時刻には月は出なかったし、暗黒の観客席にすわって、輝かしく照らし出された舞台を眺めたとき、わたしはそのすばらしさにうたれたのだ。バル・ザクがもどって来る足音が聞こえたときも、わたしはまだ眼下の群集と色彩を見まもっていたかった。連れと話しているところからみると、どうやら彼は上首尾《じょうしゅび》に任務を果たしたらしい。
五分後われわれは隠れ場所からそっと忍び出て、平衡《へいこう》モーターのおいてある、下の着陸台におり立った。品物を盗んで金銭的な利益を得ようという欲求とはまったくかけはなれた別の目的からするのでない限り、事実上バルスームでは盗みというものはないから、窃盗《せっとう》にたいする警戒はぜんぜんなされていない。したがってわれわれは置場のドアが開いているのを見つけ、ゴル・ハジュスとダル・タラスはすばやく四台の平衡モーターを選び四人の身につけて調整した。それは幅広のベルト状のもので、地球の大洋横断航路で使う救命ベルトに似ていないこともない。ベルトはちょうど重力に充分|匹敵《ひってき》するくらいの火星の第八光線、または推進光線とも呼ぶ光線で満たされており、人間を、引力と第八光線の出す反撥力《はんぱつりょく》のあいだで、均衡《きんこう》するように保つのだ。ベルトの後面に永久的にとりつけてあるのは小さなラジウム・モーターで、ベルトの前面には、コントロール装置がある。ベルトの上縁の両側にしっかり取りつけられて、そこから突き出ているのは丈夫で軽い翼であり、すばやく、その位置を変えるための小さい手動レバーがついている。
ゴル・ハジュスが手早く操縦法を説明したが、わたしは平衡モーターで飛ぶ方法を習得するまでには苦労が多いだろうと気がかりだった。彼がどうやって翼《つばさ》を下に傾けるかを、歩きながら示してくれたので、わたしは一足ごとに大地から離れずにすみ、こうして彼はわたしを着陸台のはじまで案内してくれた。
「ここで上昇するとしよう」と彼はいった。「闇の中で高度を保ち、発見されずにわたしの友人の家へ行けるように努めるんだ。もし空中パトロール隊に追跡されたら別々にならなければならん。だが逃げきれた者は、後で街壁のちょうど西方に集合しよう。その北端に、さびれた塔が建った小さな湖がある。この塔が、万一の場合の集合地点だ。ついて来たまえ!」彼はモーターを動かし、軽々と空中へ浮かんだ。
ホヴァン・デューが後につづき、わたしの番になる。わたしは手際よく七メートルほど上昇し、数百メートル下に横たわる都市の上に浮かんだ。それからまったく突然に、わたしはさかさまになってしまったのだ。なにか間違ったことをしたのだ――そうにちがいない。頭を下にして、なすすべもなく浮かんでいるということは、確かにぎょっとする感じだ。しかも下にある大都市の街路が、ロスアンジェルスやパリの通りより柔らかくないことは確かである。モーターはまだ動いていて、わたしが翼を動かすコントロール装置を操作したとたん、わたしはあらゆる種類の奇妙な曲線や渦巻《うずまき》を描き始めた。しかしそのときダル・タラスが救援に来てくれた。まずわたしに、じっとしているようにいい、それからまっすぐな姿勢をとれるまで、それぞれの翼の操作を指導してくれた。その後でわたしはかなりうまく操作して、すぐにゴル・ハジュスとホヴァン・デューの後を追って上昇して行った。
それにつづく飛行、というよりはむしろ浮遊《ふゆう》の行程《こうてい》を、くわしく説明するにはおよぶまい。ゴル・ハジュスはわれわれをかなりの高度に導いた。都市の上空の暗黒のなかを、われわれののろいモーターは、広大な土地にかこまれたすばらしい住宅地域に向かって進んで行く。大邸宅の上を飛んでいたとき、突然、頭上から聞こえてきた鋭い誰何《すいか》の声に、はっとした。
「夜中に飛んでいるのは誰だ?」声がたずねる。
「カン家の王子、ムー・テルの友人だ」急いでゴル・ハジュスが答える。
「夜間飛行の許可証と、飛行装置の鑑札を見せろ」頭上からの命令と同時に、声の主は突然われわれの高度へ急降下し、わたしは始めて火星の警官を見ることになった。われわれのよりもっと早く、扱いやすい平衡モーターを身につけている。それがわれわれに強い印象をあたえた第一の事実だと思うし、逃亡の無益なことを示してもいた。それぞれに違った方角に逃げることに決めていたにしても、われわれが十分間先んじたところで、警官はつぎの十分のうちに、めいめいに追いついてしまうだろう。地球の警官が履行《りこう》するような職務を担当してはいるものの、その男は警官というよりはむしろ戦士だった。この都市はヴォビス・カンの軍隊の戦士に、日夜巡視されているのだ。
男はそのときはすでにトウーノルの刺客の近くへ降りて来ていて、ふたたび許可証と鑑札の提示を請求すると同時に、急にゴル・ハジュスの顔に、さっと明かりを当てた。
「こいつは驚いた!」彼は叫んだ。「運命の女神が恩恵を施してくれたぞ。おれがゴル・ハジュスを捕えて賞金を受けとるとは、一時間前に誰が予測したろう?」
「阿呆《あほう》は誰でもそう思うもんだ」ゴル・ハジュスはいい返した。「だがそいつも、おまえと同じで間違っているのさ」そういいながら、彼はわたしが貸してやった短剣を突き出した。
その一撃は戦士の平衡モーターの翼でさえぎられて、翼を打ちこわしたが、それでもなお戦士の方に深傷《ふかで》を負わせた。後退しようとしたものの、こわれた翼はただでたらめに、ぐるぐる彼を回らせるだけだった。男は呼子をさっとつかむと強く一吹きした。が、ゴル・ハジュスの剣が再びその頭を鼻柱までたち割って、それを中断させてしまったのである。
「急いで!」刺客は叫んだ。「ムー・テルの庭に降りなくてはならん。いまの合図は、われわれの行く手に、空中パトロール隊をわんさと連れて来るだろうからな」
ほかの者たちが迅速《じんそく》に大地めがけて降りて行くのが見えたが、わたしはまた面倒なことになってしまった。望みどおりに両の翼を下げたのに、わずかばかり下方へ動くだけで、もしこのままの状態がつづくなら、ムー・テルの庭からかなり離れたところに着陸してしまう。わたしは邸宅の高い部分に近づいていた。ピカピカした金属のシャフトで、大地からずっと高く持ち上げられた小さなつづき部屋らしい。同僚の最後の合図にこたえるパトロール隊員の鋭い呼子の音が、四方八方から聞こえてくる。その死体はちょうどわたしの頭上にただよっていて、死んでさえもその仲間たちに、われわれを捜索する道順を示しているのだ。連中が死体を見つけることは確実だし、そうなれば、わたしの姿はさえぎるものもなく暴露《ばくろ》されて一巻の終わりとなる。
たぶん、近くに黒くぼんやり浮かんで見える住居への入口を見つけられるだろう! もし発見されずに中へはいれさえすれば、危険がすぎるまでそこに隠れていられるかもしれない。わたしは建物のほうへ進路を向けた。暗黒の中に開いた窓が形をなし始め、それからわたしは網目の細かい金網にぶつかった――上に高く伸びたこの寝室からはいろうとする空中の暗殺者を防ぐ保護網に突き当たってしまったのだ。わたしはとほうにくれた。もし地面へ着けさえしたら、上空からぼんやりと輪郭だけをとらえていたこのバルスームの王子の庭の樹木や灌木のあいだに、隠れ場所が見つかるかもしれない。しかし、わたしは庭の構内に達するのに充分な角度で降りることができなかったし、螺旋《らせん》降下しようとしたとたんにひっくり返り、また昇り始めてしまった。ベルトを切りさいて、第八光線を逃がしてしまおうかとも考えた。しかしこの奇妙なエネルギーのことには不案内だったから、そうしたら、ものすごい勢いで、まっさかさまに大地へ叩きつけられることになりはしないかと危ぶんだ。とはいえ、それほど徹底的でない手段が、ほかに一つもないとしたら、最後の手段としてそれに頼らざるをえないと決心したのである。
螺旋降下をしようとする最後の試みで、わたしは足を先にして急上昇したが、突然、上のなにかと思いがけない衝突をした。たちどころにパトロール隊員に捕えられるだろうと充分覚悟しながら、がむしゃらに起きなおってみると、なんとゴル・ハジュスが殺した戦士の死体と顔をつき合わせていたのだ。
空中パトロール隊の呼子がいっそう近くで鳴りひびいた――わたしが発見されるのも数秒の問題にすぎない――窮すれば通ずで、死神に直面するや、突然この窮地から逃れられそうな手段が、ぱっと頭にひらめいた。
死んだトウーノル人のよろいを左手でしっかりとつかみながら、わたしは短剣を抜き放って彼の浮力ベルトを何度も何度も切りつけた。光線が逃げ去るや否や、たちまち彼の体重はわたしを下方に引きおろし始めた。下降は急速だったが、まっさかさまに落ちたわけではない。それで数秒とたたぬうちに、うっとうしい灌木の茂みに近いカン家の王子ムー・テルの庭の緋色の草地にそっと着陸した。密集した葉がおおい隠してくれる深みへ戦士の死体を引きずりこんだとたんに、輪になった偵察隊の呼子が頭上で鳴りひびいた。わたしが退避《たいひ》するのと間一髪の差で、小さな偵察艇《ていさつてい》のデッキから探照燈《たんしょうとう》のまばゆい光が下方に放たれ、わたしの周辺の空地を隈《くま》なく照らし出した。わたしの隠れ場の枝や木の葉をあわただしく照らした光も、わたしの相棒たちのことはなに一つ洩らさなかった。そこで彼らもまた隠れ家を見つけたのだろうと思って、わたしは安堵《あんど》のため息をついた。
光は短時間庭をちらついていたが、捜索が他へ移るにつれて偵察隊の呼子同様に去って、われわれの隠れ場所に疑いを向けてないという確信を与えてくれた。
暗闇の中で平衡モーターを取りはずしてから、わたしは念願の死んだ戦士の武器を手に入れた。モーターのほうは最初こわそうと考えたものの、結局また必要になるかもしれない万一の場合にそなえて、大きな灌木の茂みにかくすことにした。いまや空中パトロール隊によって発見される危険も去ったと確信できたので、わたしは隠れ場所を離れて、仲間たちを捜しに出かけた。
樹木と灌木の間にうまく身を隠しながら、手近に黒く浮かび上がっているメイン・ビルディングの方角へ進む。ムー・テルの宮殿が目的地だとわかっていたから、ゴル・ハジュスは、ほかの者たちをその方角へ連れて行くだろうと信じたのだ。できるだけこっそり忍び寄るうちに、突然近いほうの月、サリアが地平線の上に現われて、その皓々たる光で夜の静寂《しじま》を照らした。そのころには、わたしは建物の凝《こ》った彫刻をほどこした壁の近くに来ていた。かたわらには狭い壁龕《へきがん》(像などを置く壁のくぼみ)があり、サリア衛星の輝かしい光が、その内部に深い影をおとしている。左手は芝を植えた空地で、そこには、いまだかつて見たこともない物凄い動物が、恐るべき姿を隈《くま》なく見せて立っていた。シュトランド・ポニーくらいの大きさの獣で、十本の短い足と、長く鋭い牙を三列そなえた顎《あご》を除けば、少々蛙に似た恐ろしい顔をしている。
鼻を風にあててくんくん匂いを嗅《か》ぎながらも、その大きなとび出た目はあちこちとすばやく動き、確かに誰かをさがしている。わたしはうぬぼれの強いほうではないが、それでもその獣が自分を捜しているのだと信じないわけにはいかなかった。それが火星の番犬を見た最初の経験である。背後にある壁龕《へきがん》の暗い陰に隠れ場所を見つけようとしたちょうどその瞬間、獣の目がわたしにとまった。その唸りをきき、自分のほうにまっすぐ突進してくる姿を見たとき、わたしはこれが最初の経験であると同時に、最後の経験になりそうな予感がした。
壁龕の中にしりぞきながら、わたしは長剣を引きぬいた。しかしこの三、四百ポンドはある獰猛の権化《ごんげ》ともいうべき獣に対しては、この不慣《ふな》れな武器がまったく無力だという気がしていた。獣が迫って来るや、わたしはゆっくりと陰の中に後退した。それから獣が壁龕の中まではいって来たとき、わたしの背は固い障害物とぶつかり、それ以上退却できなくなってしまった。
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九 ムー・テルの宮殿
火星犬《キャロット》が壁龕の中へはいって来たとき、わたしは追いつめられたときのねずみの反応をそっくり経験したと思うし、その諺《ことわざ》どおりの流儀で戦いを開始したのである。獣は襲いかかる寸前で、わたしはたくさん樹木がある空地にとどまっていなかった自分の阿呆《あほう》さかげんを呪った。そのとき突然、背後のささえが倒れ、背後の闇の中からのびた手がわたしのよろいを掴《つか》んで、真暗闇の中に引きずりこんだ。ドアがぴしゃりとしまり、壁龕に向かいあって、月明の戸口を背景にしたキャロットの輪郭《りんかく》は、おおい隠されてしまった。
ぶっきらぼうな声が耳もとで「いっしょにこい!」とささやいた。片手をとられて、わたしは闇の中をぐんぐん引っぱられて行く。初めは片側、つぎは反対側と絶えずぶつかったところから、わたしはすぐにそこがせまい廊下だと悟った。
しだいに昇りとなった廊下は、唐突《とうとつ》に右へ曲がり、わたしは案内者の先方におぼろげな光を認めた。その光は次の曲がり角までだんだんと明るさを増して、そこを曲がると煌々《こうこう》と灯りのついた部屋の入口に出た――貧弱なわたしの母国語の表現力ではとうてい尽くせぬ豪奢《ごうしゃ》な家具と飾りつけを施した、すばらしい部屋だった。金や象牙、宝石、みごとな木材、きらびやかな織物、豪奢《ごうしゃ》な毛皮や驚くべき建築様式が、かつて夢にさえ見たことのない一幅《いっぷく》の絵となってわたしの地球人の視覚に焼きついた。そして部屋の中央に、火星人の小グループにとり巻かれているのは、わたしの三人の仲間だった。
案内の男は一行のほうへわたしを導き、ふたりが部屋へはいると、一同はこちらをふり向いた。案内の男は宝石をちりばめたよろいに身を飾った背の高いバルスーム人の前で立ちどまった。
「殿下《でんか》」と案内の男はいった。「あやういところでございました。実のところ、ご命令どおり庭へ彼を捜しに出ようとドアをあけたとたんに、襲いかかろうとしているお庭のキャロットに向かい合っていたこの男を見つけたしだいです」
「それはよかった!」殿下と呼びかけられた人物はそう叫ぶと、ゴル・ハジュスをふり返った。「これがきみの話していた男かね?」
「惑星|地球《ジャスーム》から来たと称するヴァド・ヴァロです」ゴル・ハジュスが答えると、「ヴァド・ヴァロ、この方がカン家の王子ムー・テル殿下だ」
わたしは一礼した。王子は前に進み出て、バルスームの正式の紹介の作法どおりに、右手をわたしの左肩にかけた。わたしも同様にすると儀式はすんだ。お目にかかれて嬉しいですとか、初めましてとか、欣快《きんかい》のいたりであるとかいった、愚劣な挨拶は抜きである。
ムー・テルの求めに応じて、わたしは仲間からはぐれたときから、彼の部下が危機一髪の災難から救ってくれたときまでに起きた一部始終を手短にのべた。
ムー・テルは死んだパトロール隊員が発見され、これ以上、伯父であるトウーノルの皇帝《ジェダック》ヴォビス・カンの疑惑を受けぬよう、夜明けまでにあらゆる痕跡《こんせき》を取り除くよう命じた。ヴォビス・カンは前々から甥の人気が高まるのをねたんでいて、玉座をねらっているのではないかと恐れているのだ。
その晩おそく、バルスームの王子たちの評判を裏書きする手のこんだ食事のおり、客人たちを嬉しがらせた名酒にいささかほろ酔い加減になったとき、ムー・テルは伯父の皇帝について腹蔵《ふくぞう》なく語った。
「貴族たちは、とうにヴォビス・カンに愛想《あいそ》をつかしている。国民もうんざりしている――彼は破廉恥《はれんち》な暴君だからな――しかし先祖伝来の支配者だから、彼らはそれを改めることをためらっているのだ。われわれは実際的な人間だから、感情にはほとんど影響されない。だがそれでも、庶民が自分たちの皇帝《ジェダック》への忠誠を保つ程度の感情は残っているのだ。皇帝《ジェダック》がその忠誠に価しなくなった後でさえもな。またいっぽう庶民の怒りを恐れる気持が、貴族どもを忠実にさせておる。それに次の王位継承者たるわたしが、ヴォビス・カンにまさるとも劣らぬ暴政《ぼうせい》をしきはしまいかという、これまた当然な疑惑もある。若いだけに、いっそう積極的に残忍酷薄な仕打ちをするかもしれぬというわけだ。
「わたし自身としては、もし軍隊の支持があると確信できれば、伯父を殺して玉座を奪うことをためらいはせぬ。ヴォビス・カンの戦士が後押ししてくれれば、トウーノルの残りの連中など物の数ではない。そのために、わたしは前々からゴル・ハジュスを後援してきたのだ。彼が伯父を殺してくれたらと願ってではなく、わたしが正当な戦いで伯父を殺したとき、ゴル・ハジュスが皇帝《ジェダック》の戦士の忠誠をかちとってくれるだろうからだ。なぜなら、戦士たちのあいだにおけるゴル・ハジュスの人気たるや絶大なものがあるし、これほどの崇敬《すうけい》と愛着の念をもって崇拝された闘士はいまだかつて前例がないのだ。わたしはゴル・ハジュスに、わたしに与《くみ》してくれればトウーノルの政府に高い地位を与えようと申し出た。しかし彼は、まずきみ、ヴァド・ヴァロに対する義務を果たさなければならぬといった。そしてきみの冒険を推進するため、わたしの援助を求めたのだ。純粋に実利的な動機から、わたしは喜んできみを援助する。きみの成功が早くなれば、それだけわたしの計画も早くなるだろうからな。したがって、わたしは堅牢《けんろう》な飛行艇を一台、きみに提供したい。それを使って、きみと仲間たちはファンダルへ行けるだろう」
もちろん、わたしはその申し出を受け入れた。その後で一同は出発計画の検討にとりかかり、結局、翌晩早く、二つの月がどちらも出ていないときに決行することにきめた。装備について簡単に検討した後、わたしは自分から申し出て引きとらせてもらった。なにしろ三十六時間以上、仲間たちにしても二十四時間も、眠っていなかったからだ。
奴隷たちが寝室へ案内してくれた。贅沢《ぜいたく》な設備の部屋で、快適に休めるよう、すばらしい絹布《けんぷ》や毛皮が用意されている。われわれを残して奴隷たちが行ってしまうと、ゴル・ハジュスがボタンを押した。部屋は金属シャフトに持ちあげられて、十五、六メートルの高さへ急速に上昇し、周囲にも自動的に金網がおりて夜間の安全を保証してくれた。
翌朝、部屋が昼間の高さにおろされてから、部屋を出るいとまがないうちに、ムー・テルがわたしの全身を、バルスーム人の友人たちと同じ美しい赤銅色に染めるよう命じて奴隷をひとりよこした。冒険を成功させるためには、変装《へんそう》することが肝心《かんじん》であることを、わたしは充分知っていた。わたしの白い肌は、バルスームのいかなる都市でも、不愉快な注目を浴びるだろうからだ。もうひとりの奴隷がゴル・ハジュスとダル・タラスとわたしのためによろいと武器、猿人ホヴァン・デューのために頸輪《くびわ》と鎖を持って来た。よろいは重い材料を使った、みごとなでき栄《ば》えのものだったが、ごくあっさりしたもので、階級とか任務とかのしるしは、ぜんぜんついていない――こういったよろいは慣例《かんれい》としてバルスームのパンサン、すなわち特定の国家や個人に仕えていない際に|放浪の戦士《パンサン》がつけるものである。これらのパンサンは、事実上国籍のない男たちで、一番高い値段をつけた者に喜んで武力を売る傭兵《ようへい》なのだ。もっとも組織を持っていないとはいえ、彼らはきびしい倫理に支配されていたし、主人に仕えているあいだはほとんど例外なく忠実である。彼らはおおむね、自分たちの皇帝《ジェダック》の怒りとか、宮廷の裁きから逃亡した男たちと考えられている。しかし中には、スリルと興奮が得られるためにその職業を選んだ、むこう見ずな人間も多少はいる。また彼らは、たっぷり報酬を受けているとはいえ、同時にまた大賭博師《だいとばくし》だったし、かつ浪費家としても有名だった。その結果はほとんどいつも無一文で、しばしば雇用契約の合間には、生計の資をかせぐために、奇妙な方便をとらざるを得ないはめになるのだ。この事実は、われわれが飼いならした猿を持っていても、しごく当然と思わせてくれるだろう。たったいま長い航海から地球の港へもどったばかりの老練《ろうれん》な水夫が、猿とかおうむを持っているのと同じことで、火星ではさほど人目にたつことではないのだ。
ムー・テルの宮殿に泊ったその日、わたしは一日の大半を王子といっしょに過ごした。彼は興に乗って地球の風俗や政治、文明、地理についてわたしに質問したが、たいていのことには精通しているのを知ってわたしは驚いてしまった。彼の説明によると、それはバルスームの天文学用の器具、電送写真と無線電話などが、驚異的な発達をとげているせいだという。この無線電話は、バルスームの多くの学者たちがいくつかの地球の言語、とりわけウルドウー語(インド回教徒間に用いられる言語)、英語、ロシア語、そして中国語も含めてその他二、三か国語を習得するのに成功したほど完全の域に達していたのである。これらの言語は、地球の広大な区域を占める大人口によって話されているという事実から、彼らの注意を最初にひいた言葉だったにちがいない。
ムー・テルは、わたしを宮殿の小さな講堂へ連れていった。それはどことなく地球での私用映写室を連想させた。収容力は約二百人くらいで、大きな暗箱《あんばこ》のような構造である。観客はその中にはいって、レンズに背をむけてすわる。前方には、部屋のいっぽう全部をうめつくした巨大な磨きあげたガラスがあり、そこに観測する映像を投影するのだ。
ムー・テルは星座地図のあるテーブルについた。地図の真上には、指針《ししん》をつけた可動アームがある。惑星地球をさすまでムー・テルは指針を動かし、部屋のあかりを消した。すぐに磨いたガラスのプレート上に、三百メートルの高度で飛ぶ飛行機から俯瞰《ふかん》したような眺望が現われる。眼前の光景には、不思議なくらい見おぼえがあった。それは人気《ひとけ》のない荒涼《こうりょう》とした土地だった。めちゃめちゃになった切株が見えたが、その整然とした配列は、ここにかつては花を咲かせ、果実をつけた果樹園があったことを告げている。大地には巨大な醜い穴がいたるところにあいて、有刺線が縦横に張りめぐらされている。わたしはムー・テルに、どうやったら他の地方に風景を変えることができるのかとたずねた。彼はふたりのあいだにある小さな球にスイッチをいれた。それはよく見ると天体、つまり地球儀で、小さな指針がとりつけられている。
「いまきみのほうを向いているこの地球の側は、バルスームに面した地球の表面なのだ」ムー・テルが説明した。「この地球儀がゆっくり回っているのに気づいたろう。この指針を地球儀の上の望む場所にあてると、地球《ジャスーム》のその部分が見えるのだ」
わたしは指針をごくゆっくりと動かした。すると風景が変わった。荒れ果てた村落が目にはいる。何人かの人間がそのあいだを動いている。兵士ではない。もう少し進むと、塹壕《ざんごう》と待避壕《たいひごう》が現われる――ここにも兵士はいない。広大な塹壕《ざんごう》の陣形に沿って、すばやく指針を北や南に動かす。村のあちこちに兵士がいたが、全部フランス兵で、塹壕には誰もはいっていない。ドイツ兵はいないし、戦闘もない。それでは戦争は終わったのだ! わたしは指針をライン河とその向こうへ動かした。ドイツには兵隊がいる――フランス兵、イギリス兵、アメリカ兵がいる。われわれは、戦争に勝ったのだ! わたしは嬉しかった。しかし、それはひどくかけ離れた、まったく非現実的なことのように思われた――まるでそんな世界は存在せず、そんな人々が戦ったこともないかのように――まるで挿画を見て、昔々に呼んだ小説を思い出すような感じだった。
「きみはあの戦火を受けた国に、ひどく興味があるようだな」ムー・テルがいった。
「ええ、わたしはあの戦争で戦ったのです」わたしは説明した。「あるいは殺されたのかもしれません。自分にはわからないのです」
「で、きみたちは勝ったのかね?」
「そうです、勝ちました。われわれは偉大な信念《しんねん》のため、世界の平和と幸福のために戦ったのです。われわれの戦いが無駄には終わらぬよう望みます」
「きみが戦争に勝ったからといって、きみの信念が勝利をおさめるとか、平和が訪れるとか、そんなことを望むというのなら、それはむなしい希望だ。戦争は決して平和をもたらさんぞ――それはもっと多くの、もっと大きな戦争をもたらすだけだ。戦争は自然界の本来の姿なのだ――それに逆《さか》らおうとするのは愚劣《ぐれつ》なことだ。平和とは、人間の存在という主要なつとめにそなえるときにのみ、考慮すべき問題なのだ。生物が他の生物、およびみずからの種族とさえも絶えず戦わなかったとしたら、惑星には生物があふれ、惑星全体がおおわれてしまうだろう。バルスームでわれわれは、長い平和の期間が疫病《えきびょう》や、おそろしい病気をもたらすことを発見したのだ。それは戦争が殺すよりももっと多くの人間を、はるかに恐ろしい苦痛を伴うやり方で殺してしまう。いまわしい病気にかかってベッドで死んだとしても、楽しみもなければスリルもなく、いかなる種類の報酬《ほうしゅう》も得られない。われわれはすべて死なねばならん――それならばすばらしい、おもしろいゲームの中で死に、ひきつづいて生まれてくる大勢の者に席をあけてやろうではないか。われわれはバルスームではそう努めてきたし、将来も戦争をなくそうとはしないのだ」
その日ムー・テルは、トウーノル人の奇妙な哲学についてかなり話してくれた。彼らは利己的な目的なくして、善行が成しとげられたことはないと信じている。彼らには神も宗教もない。バルスームのすべての文明国民と同じく、彼らは、人間は元来、|生命の樹《ヽヽヽヽ》(第二巻「火星の女神イサス」参照)から生まれたものと信じている。しかし他の国民の多くとは違って、全能者が生命の樹を作ったとは信じてはいない。彼らは唯一の罪とは失敗であると考えている――程度のいかんを問わず、成功は称賛に価するのである。しかし逆説的と思えるかもしれないが、彼らは決して約束を破ったことがない、という。
彼らを、とくにゴル・ハジュスをさらによく知るようになるにつれ、わたしは、より繊細《せんさい》な感受性に対する彼らのこれみよがしの侮《あなど》りは、見かけだけのものであることに気づき始めた。何代にもわたる禁制が、われわれのなかでももっとも高貴な人間が、きわめて高く評価している心情と魂の特質をある程度退化させてしまったのは事実である。友情の結びつきはゆるく、血族関係は両親と子どものあいだでさえ、高い義務感とか愛情を目覚めさせることはない。とはいえ、ゴル・ハジュスは本質的には感情家であった。しかもあえてそう責める者がいたら、彼は、まちがいなく相手の心臓を刺しとおしたろうが、そうすることによって相手の非難がまったく正しいことを証明することになるわけだ。冷酷《れいこく》という評判を保とうとする彼の警戒心が、これすなわち感情家であることを証明しているように、誠実と忠実という自己の名声に対する誇りは、彼が人間味のある男だということを証明している。しかもあらゆる点で、要するに彼はトウーノルの典型的人間だった。トウーノル人は神話を否定する。そのくせ科学の呪物を崇拝し、ちょうど狂信者たちが彼らの想像上の神々の不合理な宗規《しゅうき》を受け入れているのと同じように、それにとり憑《つ》かれている。だから、いたずらに知識を誇るにもかかわらず、心の平衡《へいこう》を失っているために、彼らは無知なのだ。
その日が終わりに近づくにつれて、わたしの出発したい気持はいっそう強まった。はるか西方、荒涼《こうりょう》とした数マイルもの沼地のかなたにファンダルがある。そしてファンダルには、わたしが愛した娘の、正当な持主にもどすと誓った美しい肉体があるのだ。夕食が終わると、ムー・テルは、みずから宮殿の塔の一つにある秘密の格納庫までわれわれを案内した。そこでは職工たちがわれわれのために飛行艇を一台用意していたが、ほんとうの持主の紋章をその日のうちにすっかり取り除いて、輪郭《りんかく》まで少々変えてあった。そうしておけば万一、捕獲《ほかく》されても、ムー・テルの名前はどの点から見ても、この旅行と結びつけられることはないわけだ。ホヴァン・デューのためのたくさんの生肉を含めて、食糧が積みこまれる。そして遠いほうの月が地平線の下に沈み、暗闇がおちかかったとき、船首の真正面の塔の壁の羽目板が、横にすべりこんだ。ムー・テルが幸運を祈り、飛行艇は夜空にそっと滑り出した。飛行艇はそのタイプの多くのものと同様、無蓋操縦室《むがいそうじゅうしつ》もキャビンもなく、低い金属の手すりが舷側にとりつけてある。デッキには重い環ががっしりとすえつけられ、乗員たちはこうした場合や類似の目的のため、よろいに備えつけてある鉤でそれにしがみつくか、あるいはからだを結びつけることになっている。軽快な傾斜をつけた低い風防ガラスが、ある程度、風から保護してくれる。デッキの下のスペースはすべて浮力タンクに取られているから、モーターと操縦装置は全部露出している。このタイプでは、速度のためにすべてが犠牲にされているから、船内は快適ではない。高速で進む際、乗組員は、各自、必要な姿勢をとれるようデッキの上に割り当てられた場所で、精いっぱい長々と横たわって後生大事にしがみつくのである。しかしこれらトウーノルの飛行艇は、たいして速くはない。だからヘリウムやプタースのように、大艦隊を完成するために長年|献身《けんしん》して来た国の飛行艇のスピードとくらべれば、はるかに劣るという話であった。しかし、われわれの目的には充分間にあうくらいの速度は持っている。目的達成のためには、それほど高速の船を向こうにまわすことはなかろうし、確かにわたしにとっては充分の速度だった。足のおそいヴォザール号に比べれば、それは矢のように天空を突っきって飛ぶように思われた。
戦略を考えたり、人目を盗むために時間を無駄にすることなく、飛行艇が空間へ出るやいなや速度をいっぱいにして、まっすぐ西へ、ファンダルへ船首をむけた。ムー・テルの庭園の上をすぎたとたんに、われわれは最初の危険に出くわした。空中に漂っている人影から射撃され、と同時に前方で、空中パトロール隊の警告の呼子が鋭く鳴り響いた。弾丸は頭上をとび去り、われわれは通りぬけた。しかし数秒のうちに探照灯の光が頭上からそそがれ、空中をあちこち探るように動いているのが見えた。
「偵察艇だ!」ゴル・ハジュスが耳もとで叫んだ。ホヴァン・デューは凶暴な唸りをあげ、首輪の鎖をゆすった。われわれは無慈悲な光の目がこちらを見つけないよう、もろもろの神々と祖先の霊を頼みにしながら進んだが、そうは問屋がおろさなかった。数秒とたたぬうちに、その光は頭上からこちらの艇のデッキの上と前方をもろに照らし出し、定着してしまった。それと同時に偵察艇は急速に降下し、しかも高速を保ったまま、われわれとまったく同じコースをとる。それから仰天したことには、相手は炸裂弾《さくれつだん》でわれわれを攻撃し始めたのだ。これらの弾には高性能爆薬が含まれており、弾をおおっている不透明な外殻《がいかく》が標的とぶつかって破壊されると、光線にふれて爆発する。したがって射撃の効果をあげるためには、かならずしも直撃する必要はないのだ。もし弾丸が大地とか船のデッキ、または目標に近い固形物に当たれば、一群の敵を狙って射撃した場合、ひとりだけに当たったよりもかなり多くの損害を与えることになる。なぜなら外殻が破れれば、弾は爆発して数名の敵を殺傷するが、ひとりの体内にはいれば、光線はそれにとどくことができないから、非炸裂弾《ひさくれつだん》と同じ効果しか発揮できなくなってしまうからだ。月の光はこの弾を爆発させるほど強くない。それで夜間発射された弾丸は、探照灯《たんしょうとう》の強力な光に触れぬ限り、翌朝の日の出に爆発して、たとえ交戦中の敵軍がすでにそこにはいなくなっていても、戦場をもっとも危険な状態にしてしまうのだ。同様に、それは負傷者のからだから炸裂していない弾丸の摘出手術《てきしゅつしゅじゅつ》を極度にむずかしくしている。うっかりすると患者と外科医の双方を、即死《そくし》させる結果となるからだ。
操縦していたダル・タラスは、飛行艇の艇首の向きを変え、偵察艇めがけてまっしぐらに上昇すると同時に、敵のプロペラに集中攻撃をしろとわれわれにどなった。わたしはといえば、探照灯の目もくらむような光ではほとんど見ることができなかったし、おまけに数時間前にムー・テルから贈られたばかりの奇妙な武器で戦っているのだ。わたしには探照灯の目こそ、われわれが直面する最大の脅威《きょうい》と思えたし、それを盲にできれば偵察艇は、さほど優勢ではなくなるだろう。そこでじぶんのライフルをまっすぐそこに向け、銃の操作ボタンに指をかけて一発必中を祈った。
ゴル・ハジュスはわたしのそばにひざまずき、偵察艇に向かって弾丸を射ちまくっている。ダル・タラスの手は操縦に忙しく、ホヴァン・デューはへさきにうずくまって唸っている。
突然ダル・タラスが狼狽《ろうばい》の叫び声をあげた。「操縦装置が射たれた! 針路が変えられない――艇は役に立ちません」ほとんど同時に探照灯が消えた――明らかにわたしの一発が当たったのだ。いまや飛行艇は敵のすぐそばに接近していて、彼らの怒号が耳についた。コントロールを失ったわれわれの艇は、相手の船に向かって急速に突進する。衝突《しょうとつ》しなければ、そのまま偵察艇の竜骨《りゅうこつ》の真下を通過することになりそうだ。わたしは艇を修繕できるかどうか、ダル・タラスにたずねた。
「時間があれば修理できます」彼は答えた。「だが何時間もかかるし、そんなことにてまどっていると、トウーノルの空中パトロール隊が大挙しておそって来ますよ」
「それでは、べつの飛行艇を手に入れなくてはならん」
ダル・タラスは笑った。
「あなたの言うとおりです。ヴァド・ヴァロ。だが、どこでそいつを見つけますね?」
わたしは偵察艇を指さした。
「遠くを捜すことはないさ」
ダル・タラスは肩をすくめて笑った。
「いや、ごもっとも。思う存分戦って、男らしく死にましょう」
ゴル・ハジュスが、ぴしゃりとわたしの肩を叩いてどなった。
「死にに行こうぜ、隊長!」
ホヴァン・デューは鎖をゆさぶって、咆哮《ほうこう》した。
二隻の飛行艇は、たがいに急速に接近しつつあった。脱出に使おうと思っている敵の艇を、航行不能にすることを恐れて、そのときはすでに射撃を中止していた。そして、どういうわけか、偵察艇の乗組員も射撃を中止している――なぜなのか、わたしにはとうとうわからずじまいだった。こちらは相手の艇の真下を通るコースを進んでいる。わたしはいかなる犠牲を払っても、艇の船に乗りこもうと決意した。竜骨から船体の下に昇降用の索具《さくぐ》がぶらさがっているのが見える。引っかけフックがいったん獲物を捕えるや、すぐに相手のデッキへおろせるようにしてあるのだ。敵がすでに引っかけフックを用意していることは間違いない。われわれが敵の船体の真下に来るやいなや、鋼鉄の触手が下に伸び、乗組員たちはこちらのデッキへ索具伝いになだれこんで、われわれを捕えようという魂胆《こんたん》なのだ。
わたしはホヴァン・デューを呼び、彼がそばに這いもどって来ると、その耳許に小声で指示を与えた。話し終わると彼は低く唸って、大きくうなずいた。わたしはデッキに自分のからだをつないだよろいの鉤をはずし、小声でゴル・ハジュスとダル・タラスに手短かに指示した。その後で猿とわたしは、へさきのほうへ移動した。飛行艇はもう敵の船のほぼ真下にいて、引っかけフックがおろされようとしているのが見える。こちらのへさきは相手の艇のともの下を進み、待ちかねていた瞬間が近づいた。ホヴァン・デューとわたしは、偵察艇のデッキにいる連中からは見えない。敵の船の索具は、われわれの頭上五メートルのところにぶらさがっている。わたしは猿に一言《ひとこと》小声で命じ、ふたりは同時にうずくまると、索具へ、さっととびついた。無暴な冒険のように見えるかもしれない――失敗はほとんど確実に死を意味するのだ――しかし乗組員たちが引っかけフックの操作に忙殺《ぼうさつ》されているあいだに、われわれふたりが敵のデッキへ乗りこめれば、危険をおかすだけの値打ちはあるという気がしたのだ。
偵察艇には、六人以上乗りこんでいることはあるまいとゴル・ハジュスが断言した。ひとりが操縦し、他の者は引っかけフックを操作しているはずだ。敵の船のデッキに橋頭堡《きょうとうほ》を作る絶好のチャンスだ。
ホヴァン・デューとわたしは跳躍《ちょうやく》し、運命の神はわれわれに味方した。しかも巨大な猿は、手を伸ばすだけでどうやら索具にとどいたし、いっぽうわたしの地球人の筋肉は、難なく目的をとげさせてくれた。ふたりはいっしょにすばやく偵察艇の船尾へ向かい、それからためらうことなく、事前に打ち合わせたとおり、猿はすばやく右舷へ、わたしは左舷へとよじ登った。跳躍にかけてはわたしのほうがすばしこかったとしても、登るほうではホヴァン・デューは、はるかにわたしをしのいだ。その結果、彼が手すりに達し、よじ登ってしまったのに、わたしの顔はまだデッキの上に出ないしまつだった。が、それはおそらく、わたしにとって幸いしたのだ。というのは、自分では知る由《よし》もなかったが、わたしは偶然にも乗員のひとりが引っかけフックを操作している場所に向かって、まともに進んでいたのである。ホヴァン・デューの獰猛《どうもう》な顔が舷縁の上に現われるのを最初に見つけた同僚《どうりょう》の叫びが、その男の目を他にそらした。もし、そうでなかったら、デッキに片足をかけないうちに、わたしはただの一撃であっさり片づけられてしまっただろう。
猿もまたトウーノルの戦士のひとりの目の前にまっすぐ登って行ったので、相手は驚きの叫びをあげて剣を引きぬこうとした。しかし猿はその巨大な体躯にもかかわらず、彼の手にはおえぬほどすばやかった。そして手すりの上に目を出したとき、わたしは強力無比な猿人が不運な男のよろいを捕え、舷側へ引きよせて、はるか下の死の淵へほうり投げるのを目撃した。あっという間に猿とわたしは手すりを乗り越え、デッキの上に立ちはだかる。いっぽう残りの乗組員たちは持ち場を放棄《ほうき》し、われわれを圧倒せんものと走り寄ってくる。巨大な獰猛な野獣を見て、彼らは士気を阻喪《そそう》したに違いないと思う。彼らは二の足をふみ、最初にわれわれと戦う名誉を、喜んで仲間にゆずりたい様子だったからだ。しかしそろそろとではあっても、彼らは迫って来た。このためらいぶりを、わたしは大いに悦に入って眺めた。まんまと思う壺にはまったからだ。ゴル・ハジュスとダル・タラスの奮闘に力ぞえできるかどうかは、この計画の成否に大きく左右されるのだ。彼らは飛行艇が充分敵の船体の下に近づくまで上昇したとき、その昇降用索具《ボーディング・タックル》にとりついて、偵察艇のデッキにたどり着こうとしている。いうなれば、下からタックルしようという寸法なのだ。
ゴル・ハジュスはなるべく早く、操縦している男を片づけるよう注意してくれた。船を奪取《だっしゅ》しようとするわれわれの試みが成功しそうな公算が強くなれば、その男は真先に操縦装置をこわすはずだからだ。そこでわたしはすばやくその男のほうへ走り寄り、相手が剣を抜くいとまもあらばこそ、ばっさり斬り倒した。いまや相手は四人、われわれは敵の前進を待った。そうすれば仲間がデッキにたどり着く時間がかせげるというものだ。
四人はじりじりと前進し、ほとんど剣を交える距離にまでなった。そのときわたしは船尾の手すりの上にゴル・ハジュスの頭が現われるのを認めた。ダル・タラスの頭が、すばやくその後につづく。
「見ろ!」わたしは敵に向かって叫んだ。「そして降服《こうふく》するんだ」そういうと、船尾のほうを指さした。
そのうちのひとりがふりむき、驚きの絶叫をもらした。
「ゴル・ハジュスだ」それからわたしに向かっていった。「もし降服したら、われわれをどうするつもりだ?」
「おまえたちと争ういわれはない。われわれはトウーノルを離れて、静かに立ち去りたいだけだ――おまえたちを傷つけはしない」
男は仲間のほうをふり向いた。いっぽうわたしの合図で三人の同志は足をとめて待機した。四人の戦士はしばらくのあいだ低い声で話していたが、最初に口をきいた男がわたしに向かっていった。
「トウーノル人で、ゴル・ハジュスの味方になることを喜ばぬ者はほとんどいないだろう。われわれは長らく彼を死んだものと思っていた。だが、きみにわれわれの船をあけ渡すことは、司令部に敗北を報告した場合、確実に死を意味しよう。いっぽうわれわれが抵抗をつづければ、ほとんど全員が、この飛行艇のデッキで殺されてしまう。もしきみたちの計画が、トウーノルを脅《おびや》かそうというのではないということを保証してくれるなら、われわれ全員の脱出と安全を計れそうな手段を一つ提案できる」
「われわれはトウーノルを離れたいだけだ。わたしが成しとげようとしていることのために、トウーノルに危害がおよぶことはない」
「よかった! それできみたちの行きたい目的地とは?」
「話すわけにはいかんよ」
「もしわたしの提案を受け入れてもらえるなら、われわれを信頼して大丈夫だ」彼はうけあった。「そうすれば、われわれは目的地にきみたちをとどけ、その後でトウーノルへもどれる。きみたちと交戦し、戦いは長くつづいて三人の仲間が殺されたが、その後できみたちはわれわれの追跡をかわし、闇の中へ逃げ去ってしまったと報告できるのだ」
「この男たちは信用できるかね?」わたしはゴル・ハジュスにたずねた。彼は信用できると保証した。こうして契約はまとまり、われわれはヴォビス・カン自身の艇の一つに乗りこみ、ファンダルめざして急行した。
[#改ページ]
十 ファンダル
翌晩トウーノルの乗組員たちは、ダル・タラスの指示にしたがって、ファンダルの都市の城壁のすぐ内側にわれわれをおろした。彼はこの都市で生まれて、かつては女帝《ジェダラ》の近衛《このえ》兵だったし、その前にはファンダルの小艦隊に勤務したこともあるのだ。われわれが発見されずに着陸し、どうやら人目にもふれずにトウーノルの飛行艇が上昇して立ち去った事実から見ても、彼がファンダルの防備と巡視制度に細部にいたるまで通じていることが納得できる。
われわれの着陸地点は都市の中の、城壁に向かいあって建つ低い建物の屋根だった。この屋根から街路まで、ダル・タラスは先に立って傾斜した通路を降りたが、このあたりの街路はまったく人気《ひとけ》がない。通りは狭く暗く、片側は城壁に向かいあって建てられた低い建物、もういっぽうはもっと高い建物に接している。そのうちのいくつかは窓がなく、どれもぜんぜん光をもらさない。ダル・タラスは、ここを密入国地点として選んだのは、このあたりが倉庫区域だからだと説明した。昼のあいだは繁忙《はんぼう》な産業の舞台だが、夜間はいつも無人となって、盗みというものがバルスームではほとんどないため、ひとりの夜警すら必要としないのだ。
紆余曲折《うよきょくせつ》した道をとおって、やっと彼は二流どころの店や食堂やホテルなど、平戦士や職工、奴隷たちが出入りする一画へみんなを案内した。ここでわれわれが注意をひいたのは、ホヴァン・デューが好奇の的《まと》になったせいである。ムー・テルの宮殿を出て以来、食事をとっていなかったから、なにをおいても、まず食事の心配をしなければならない。ムー・テルがゴル・ハジュスに金を提供してくれていたので、その欲望を満足させる手段にはこと欠かない。最初に足をとめたのは小さな店で、ゴル・ハジュスはホヴァン・デューのために、四、五ポンドの馬《ソート》のステーキを買った。それから一同はダル・タラスの知っている食堂へ出かけて行った。最初、店の主人はホヴァン・デューを中へ連れてはいらせなかったが、さんざん押し問答をしたあげく、とうとう大白猿を奥の一室に閉じこめておくことを許可した。外の部屋でわれわれがテーブルについているあいだ、ホヴァン・デューはそこで、ソートの肉を食べさせておくわけである。
ホヴァン・デューは、自分の役柄を巧みに演じたといっていいだろう。一度でもぼろを出していれば、この家の主人とか常連《じょうれん》たち、あるいは押し問答を聞きに集まったかなりの野次馬は、巨大な野獣のからだが人間の脳で動かされていることにピンときたはずだ。実際には食べたり戦ったりするときにだけ、ホヴァン・デューの脳の猿のほうの半分が、いちじるしい作用を彼に及ぼすらしいのである。とはいえ彼の思考や行動のすべてが、常時《じょうじ》ある程度、猿のほうの脳に影響されていることは、まず確かで、彼の習慣的な無口と、急激なかんしゃくの起こし方の説明になる。それと同じことは、彼が一度も微笑したことがなく、ユーモアをさっぱり解さないという事実についてもいえるのである。もっとも、彼にいわせれば脳の人間のほうの半分は、われわれの冒険の楽しいエピソードや出来事、刺客のゴル・ハジュスの語る、気のきいた物語や逸話がよくわかるばかりか、たいへんおもしろかったそうだ。ただ猿のほうの組織が、精神的な反応を肉体的に表現できる筋肉を、発達させていないとか。
粗末《そまつ》で簡単な食物ではあったが、われわれはたらふくつめこんだ。しかしお喋りで口さがない主人の、詮索《せんさく》好きな好奇心を逃れて大いに喜んだのである。なにしろこの主人ときたら、われわれがいままでにやってきたことや、これからの計画などについて、根掘り葉掘り質問を浴びせかけ、それにたいしてわれわれのスポークスマンであるダル・タラスは、終始筋のとおったその場の思いつきの答をするのに骨折ったのである。しかしやっとのことでそれを逃れると、ふたたび通りへ出て、ダル・タラスは知っている公共宿泊所へ一同を案内した。歩いているうちに、絶えず人の流れが出入りする豪壮華麗《ごうそうかれい》な建物のそばに出た。その前に来るとダル・タラスは、中へはいらなくてはならないから外で待っていてくれといった。そのわけをわたしがきくと、彼はこれがファンダル人の崇拝する神、タールの神殿なのだと答えた。
「ぼくは長いあいだ、留守にしていました。それで、ぼくの神に敬意を払う機会がなかったのです。長くは待たせません。ゴル・ハジュス、少し金を貸してくれませんか?」
トウーノル人は黙って小袋の一つから金貨をいくつか取り出し、ダル・タラスに手渡した。しかし、わたしは、彼が軽蔑《けいべつ》の表情をかろうじておし隠したのを見てとった。トウーノル人は無神論者だったからである。
わたしはダル・タラスに、彼について神殿の中へはいってもいいかとたずねたが、それは彼をひどく喜ばせたらしい。そこでふたりは広い入口に近づいて行く群衆の流れと行動をともにした。ダル・タラスはゴル・ハジュスから借りた金貨を二個わたしにくれ、自分の背後について、どんなことでも彼のやることを、見たとおり真似するようにと告げた。正面入口のすぐ内側、その幅いっぱいに信者たちがあいだを通れるくらいの間隔をおいて、僧侶たちが一列に広がっている。全身は頭や顔を含めて、白い布のおおいにおおわれている。各自の前には頑丈《がんじょう》な台があり、その上には賽銭箱《さいせんばこ》がのっている。その一つに近寄りながら、金貨を一つ手渡すと、僧侶はすぐにたくさんの小額貨幣に両替えしてくれた。われわれはその一つを彼のそばの箱の中へおとす。すると僧侶はめいめいの頭上で両手を数回、動かし、汚い水を入れた鉢に指を一本つけて鼻の頭をこすってくれ、わたしにはわからない言葉をいくつかつぶやいた。そしてふたりが大神殿の内部へ進んで行くと、僧侶は列の次の者のほうを向いた。いまわたしの正面にあるのは、いまだかつて見たこともないほど豪奢《ごうしゃ》な富の誇示と、贅沢《ぜいたく》な装飾を施した建物で、タールの神殿随一のものを見られたのは、まことに幸運であった。
一本の柱も立っていない巨大な床に、規則的な間隔をおいて配置されているのは、豪奢な台座にのった彫像《ちょうぞう》である。像の中には男もあれば女もあり、その多くは美しい。また獣や奇妙なグロテスクな生物の像もあるが、その多くは見るからにおぞましい。われわれが最初に近づいたのは、美しい女の彫像だった。台座のまわりには大勢の男女が平伏《へいふく》し、彫像と向かいあう床の上に七回頭を打ちあてる。それから起きあがって、そのために用意された容器の中に貨幣をおとすと、他の像へ移って行く。ダル・タラスとわたしが詣《もう》でた次の像は、シリアン(コーラスのロスト海にすむ爬虫類)のからだをした男で、台座のまわりには同心円の中に一連の水平な木の手すりが配置されている。手すりは床からほぼ一・五メートルあり、たくさんの男女がそれからひざでぶらさがって、何度も何度もなにごとかを単調にくり返している。それはわたしの耳には、ビブル・バブル・ブラプというふうに響いた。
ダル・タラスとわたしは他の者と同様手すりにぶらさがり、一、二分のあいだ意味もない文句をつぶやき、それからとびおりて貨幣を箱におとし、先へ進んだ。わたしはくり返した言葉がなんで、どんな意味があるのかとダル・タラスにたずねたが、彼は自分も知らないのだといった。わたしは誰か知っている者がいるのかとたずねたが、それを聞いて彼はショックを受けたらしい。そのような質問は神聖を汚すものだし、著しい信仰の欠如を示すものだという。詣でた次の彫像では人々はみな台座のまわりに輪となって、狂ったように手と膝で這い回っている。七回、這い回り、それから立ちあがって、鉢になにがしかの金を入れ、立ち去るのだ。他の像のところでは、人々は「タールはタール、タールはタール、タールはタール」といいながらころげまわり、そうしながら金の鉢に金をおとす。
「あれはどんな神なのだい?」この最後の像のもとを去りながら、わたしはダル・タラスにささやいた。その像というのは頭がなく、胴のまん中に目と鼻と口がある。
「神は一つです」ダル・タラスがまじめくさって答えた。「それがタールなんです!」
「あれがタールなのか?」
「しっ」ダル・タラスが小声でいった。「そんな冒涜《ぼうとく》の言《げん》を聞かれたら、みんなに八つ裂きにされちまいますよ」
「ああ、これは失礼、気を悪くさせるつもりじゃなかったんだ。あれがたんなる偶像の一つにすぎないということは、もうわかったよ」
ダル・タラスは片手でぱっとわたしの口をさふぎ「しいっ!」と黙るように注意した。
「われわれは偶像崇拝なんかしていません。神は一つで、それがタールなんです」
「じゃあ、あれはなんだね?」わたしは何千もの崇拝者たちが群がる何十もの像のほうに、さっと手をふってみせた。
「たずねてはいかんのです」彼は念をおした。「タールのなせるわざは、すべて正当かつ公正だと信じていれば、それで充分なんです。行きましょう! もうじき終わりますから、仲間のところへもどれますよ」
次に彼は、口が頭のまわり全体に及んでいる巨大な怪物の像へ案内した。像は長い尾を持ち、女の胸をしている。この像のまわりには実にたくさんの信徒《しんと》がいて、各々さか立ちをしているのだ。彼らもまた何度となく「タールはタール、タールはタール、タールはタール」とくり返している。このまねをした一、二分のあいだ、わたしは均衡《きんこう》を保つのにひどく苦労した。すませてしまうと立ちあがり、台座のそばの箱の中に貨幣を一つおとしてその場をあとにする。
「もう行くとしましょう」ダル・タラスがいった。「タールがご覧になるところで、ぼくは、りっぱに勤めを果たしましたからね」
「実は気づいたんだがね」とわたしがいった。「みんなこの像の前で、この前のところでやったのと同じ文句をくり返したな――タールはタールって」
「いや、とんでもない」ダル・タラスが叫んだ。「反対にみんなは、ほかのところでいったのとはまったく逆なことをいったんです。むこうのにはタールはタールといったが、こっちのには正反対にタールはタールといったんです。わかりませんか? ちょうど逆になるように変えたんです。実に大きな違いですよ」
「わたしには同じに聞こえるがね」
「それはあなたの信仰が足りないからです」彼は悲しげにいった。それからふたりは周囲にたくさん並んでいる、ほとんど金で埋まった賽銭箱《さいせんばこ》の一つに所持金の残りを献じて神殿を出た。
ゴル・ハジュスとホヴァン・デューは、じれったそうにわれわれを待っていた。ふたりは物見高い大群衆に囲まれている。その中にはファンダルの女帝《ジェダラ》、ザザの戦士たちも多数まじっている。彼らはホヴァン・デューの芸を見たがったが、ダル・タラスは群集に向かって、猿は疲れて気むずかしくなっているからだめだと話した。
「あす猿が休養をとったら、街頭に連れ出してきみたちを楽しませよう」
われわれは苦労して人だかりをぬけ出し、もっと静かな通りへそれた。遠回りをして宿所へつくと、ホヴァン・デューは小さな部屋へ閉じこめられ、ゴル・ハジュスとダル・タラスとわたしの三人は、奴隷たちによって大きな寝室へ案内された。部屋の内側にはぐるりと低い台があり、その上には、われわれのために用意された絹布や毛皮がのっている。部屋への唯一の入口のところでだけ、台がとぎれている。すでにかなりの人数の男たちが眠っていて、刺客から客人を守るため、ふたりの武装奴隷が通路をパトロールしている。
まだ時刻は早かったので、他の何人かの宿泊人は低い声でひそひそ話している。そこでわたしはダル・タラスを、彼の信仰についての話に引きこもうとした。わたしはひどく好奇心を起こしていたのだ。
「宗教の神秘は、いつでもわたしを魅惑《みわく》するんだよ、ダル・タラス」わたしはそういった。
「ああ、でもそれがタールの宗教のいいところなんです、神秘なところなんかないのがね。単純で自然で科学的であり、それにその一つ一つの言葉やわざは、全部タールご自身の書いた偉大な書物、タールガンをとおして、容易に裏づけることができるのです。
「タールの住まいは太陽の上にあります。十万年前そこで彼はバルスームを作り、宇宙空間にそれをほうり投げたのです。その後で、いろいろな姿をした男女の人間を作ってみずからを慰められた。さらにその後、人間や動物同士の食物となるように動物を創造し、人間や動物が住めるように植物と水を作り出したのです。すべてがどんなに単純で科学的か、わかりませんか?」
しかしある日、ダル・タラスがそばにいないときに、タール教について大部分のことを話してくれたのはゴル・ハジュスだった。ファンダル人はいまだに、タールが自分の手で、生きとし生けるものすべてを作り出したということを信じているのだそうだ。彼らは人間に生殖能力があることを頑強に否定し、子どもたちにも、そのような信念はすべてよこしまなことだと教えている。自然な出産の証拠は、かならず全部、隠してしまい、自分の目でまのあたり見てさえも、あくまでその考えを主張する。子どもを生むときに体験したことさえ、決してほかにはもらさないのである。
タールガンはバルスームが平たいと教えているから、彼らはそれとは裏腹《うらはら》のあらゆる証拠を受けつけようとしない。世界の縁から落ちはしないかとおそれて、ファンダルから遠く離れようとしないし、航空術も発展させなかった。万一、彼らの船が一隻でもバルスームを一周しようものなら、バルスームを平たく作ったタールの目には、不埒《ふらち》千万な冒涜《ぼうとく》と映るからだ。
彼らは望遠鏡を使うことを許そうとしなかった。なぜならタールは、バルスーム以外に世界はないし、べつの世界を捜そうとすることは、異端邪説《いたんじゃせつ》だと教えているからだ。バルスームには十万年以上も過去にさかのぼった。信頼するに足る歴史があるにもかかわらず、彼らの学校では、タールがバルスームを創造する以前の、いかなる歴史も教えることを許さなかった。またタールガンに表わされている以外のいかなるバルスームの地理も、また生物学面における科学的研究も許そうとしない。タールガンは彼らの唯一の教科書である――そこに書かれていないものは、すなわち不埒な嘘《うそ》というわけだ。
いま述べたことの大部分や、さらにそれ以上のことを、わたしはファンダルでの短い逗留《とうりゅう》期間中にあちこちから集めた。ここの国民は、文明の点ではバルスームのどの赤色人国家よりも遅れていると思う。彼らは宗教問題に最大の考慮を払っていたから、無知で頑固《がんこ》で偏狭《へんきょう》になってしまい、トウーノル人とは全く正反対の極にまで達しているのだ。
しかし、わたしはその文化を探るためにファンダルへ来たわけではない。女王を盗むために来たのだ。だからあくる日――ファンダルにおける第一日目に目をさましたとき、まっ先に頭に浮かんだのもそのことだった。朝食の後で、われわれは王宮の方角へ偵察に出かけた。ダル・タラスが、後の道順は、たやすく教えられそうな地点まで案内した。彼は見破られるおそれがあったから、王宮の構内のすぐ近くまで同行するわけにはいかなかったのだ。なにしろ、いまの彼の肉体は、かつては有名な貴族の持物だったからである。
ゴル・ハジュスが客寄せの口上使《こうじょうつか》いになり、わたしは猿の持主としてふるまうことにきめた。打ち合わせがすむとわれわれ三人は、ダル・タラスに別れをつげて、まっすぐ宮殿に通じる広い美しい大通りぞいに出発した。われわれはこれから演じようとする役割りを事前に計画し、下稽古《したげいこ》していた。それが上首尾にいった結果、城の中に通され、まんまと女帝《ジェダラ》の前に伺候《しこう》できればしめたものだが。
一見、漫然と大通りぞいを散策しながらも、わたしは充分に王宮の華麗《かれい》な並木道の、斬新《ざんしん》で美しい眺めを堪能した。陽光は鮮やかな緋色の芝生や、あでやかな花をつけたピマーリアや二十ほどの他の珍奇《ちんき》なバルスームの灌木《かんぼく》や喬木《きょうぼく》の上に、さんさんとふりそそいでいる。いっぽう並木道自体には、まるで完璧の見本のような堂々たるソラプスの木が日陰を作っている。建物の寝室はすべて昼の水準にさげられていて、たくさんのバルコニーには豪奢な絹布や毛皮が日光にあてられている。奴隷たちはきびきびと構内で働き、多くのバルコニーでは女子供が朝食についている。われわれ、とはいえないまでも少なくともホヴァン・デューは、子どもたちのあいだにかなりの熱狂をひき起こしたし、また大人にとっても興味の対象とならずにはいなかった。彼らの幾人かは見世物を見ようとしてわれわれをひきとめたが、われわれはそのまま王宮の方角へと進んだ。ファンダルの都市の中では、王宮以外には、用もなければ関心もなかったからである。
宮殿の門のまわりには、おきまりの野次馬がたむろしている。皮膚が黒かろうと、白かろうと、赤や黄色あるいは茶色だろうと、地球であろうと火星であろうと、人間の本性はどこでも似たりよったりと見える。ザザの宮殿の門前の群集は、その大半がファンダルの女帝《ジェダラ》に忠誠を捧げる大トウーノル沼沢地帯の孤丘《こきゅう》から来たおのぼりさんで、田舎者の例にもれず、王族を一目見ようと夢中になっているのだ。そうはいっても、彼らは猿のおどけた身ぶりに関心を持ったから、すでに観客がわれわれ一行の到着を待っていたことになる。われわれが近づくと、大白猿に対する当然の恐怖から、群集はちょっと後ずさった。そこでこちらは、お目当ての門まで誰にも邪魔されずに進んで行った。門のところで足をとめると、群集はすぐそばまで近より、周囲に半円を作った。ゴル・ハジュスは門の向こうの戦士や将校に聞こえるくらいの大声で、群集に向かって呼びかけた。われわれが楽しませにやって来たお目当ては実は彼らであって、群集なんかにはこれっぽちの関心もよせていなかったからだ。
「ファンダルの衆よ」とゴル・ハジュスは声を張りあげた。「見たまえ、ふたりの貧しい|放浪の戦士《パンサン》が、命賭けで、凶暴にして獰猛《どうもう》きわまる、またそれと同時にもっとも知力ある大白猿を捕えて、訓練した。いまだかつてバルスームでは、捕えられたことがないほどの代物《しろもの》だが、みなの衆の余興《よきょう》と啓発《けいはつ》のために、たいへんな費用をかけてファンダルまで連れて来たというしだい。みなの衆よ、この驚くべき猿は人間の知性を授けられているんだ。話しかけられた言葉は、一語、一語、全部理解する。よろしいかな、お立ち合い、この獰猛な人食い野獣の驚くべき知力のほどを、やつがれが立証してご覧に入れよう。なにしろこいつの知性は、バルスームの王位にあるかたがたを楽しませ、もっとも博学な学者たちの頭を迷わせたというほどのものだ」
ゴル・ハジュスは香具師《やし》として、実にうまくやったと思う。わたしは耳をすませながら微笑した。地球にいたころ、郡の市《いち》や遊園地での経験にもとづいて彼に教えこんだ聴きなれたせりふが、ほかならぬこの火星でトウーノルの刺客のくちびるからもれるところが、すこぶる滑稽《こっけい》に聞こえたのだ。しかし明らかに口上は観客の興味をそそり、また強い印象をあたえもした。彼らは首をのばし、熱心な目つきで黙々とホヴァン・デューの芸を待ちながら立っていた。さらにうまいことには、女帝《ジェダラ》の近衛兵が五、六名耳をそばだてながら、門のほうにぶらぶらやって来たが、その中には将校《しょうこう》がひとりまじっていた。
ゴル・ハジュスは命じるままにホヴァン・デューを横にならせたり、起き上がらせたり、片足で立たせたりする。またゴル・ハジュスのあげる指の数を一本ごとに一回うなって数えさせ、こうして彼が数えられることを観客に得心させたりした。しかしこうした簡単な芸は、もっと驚くべき芸当へと順次持ってゆくための段どりにすぎず、こちらとしては、それによって女帝《ジェダラ》に謁見させてもらおうという狙いなのだ。ゴル・ハジュスは群集のひとりからよろいと武器を一揃い借り、ホヴァン・デューにそれを着けさせて、自分と剣の手合わせをさせた。それはまったく驚嘆の喝采《かっさい》をひき起こした。
ザザの戦士と将校は門近くまでひきつけられて、見世物に熱中している。まさに、こちらの思う壺である。ゴル・ハジュスはいままさに、ホヴァン・デューの知性を示す最後の大向こうをうならせる芸を公開しようとしていた。
「みなの衆がいままでご覧になったこういったことは、取るにも足りないものなんだ」彼は叫んだ。「なにしろこの驚くべき獣は、読んだり書いたりすることさえできる。この猿はプタースの近くの廃都《はいと》でつかまった。だから、あの土地の言葉を読み書きできるのだ。ひょっとしてみなさんの中に、あの遠い国から来たご仁《じん》はおらぬかね?」
「わたしはプタースから来た者だが」ひとりの奴隷が大声でいった。
「けっこう!」ゴル・ハジュスがいう。「なにか簡単な指図《さしず》を書いて猿に手渡してくれ給え。やつがれは背を向けている。どんな方法にせよ、こちとらが助けたりできないことがわかってもらえるようにね」
奴隷は小袋から書き板を取り出し、短い文句を書いた。書いたものをホヴァン・デューに手渡す。猿は言伝《ことづ》てを読むと、ためらうことなくすばやく門のほうに進み、向こう側に立っている将校にそれを渡した。門は風変わりなデザインの練金属で作られており、視界は見通しで、小さな品物の受け渡しができるようになっている。将校は言伝てをとって調べた。
「なんと書いてあるんだ?」とそれを書いた奴隷にたずねた。
「この言伝てを門のすぐ内側に立っている、将校の旦那に持って行けと書いてあるんです」
人だかりのいたるところから、どっと驚きの声が上がった。そこでホヴァン・デューは、やむをえず、いろいろな事をするよう指示した違う言伝てを持って、何度か芸をくり返すことになり、将校は終始ひどく興味深げに成行《なりゆき》を見まもっていた。
「実に不思議だ」とうとう彼はいった。「女帝《ジェダラ》はこの獣の芸がお気に召すだろう。だからここで待っていたまえ。陛下が、おまえたちに謁見《えっけん》を賜わるかどうか使いを出すからな」
こちらにとっては願ってもないことだった。そこでわれわれは辛抱《しんぼう》強く使者のもどりを待った。待っているあいだに、ホヴァン・デューはそのすぐれた知性の新たな証拠を見せて、見物人を煙に巻きつづけたのである。
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十一 ザザ
将校がもどって来て、門が開くと、われわれはファンダルの女帝《ジェダラ》、ザザの宮殿の中庭へはいるよう命じられた。それについでいくつかの事件――驚くべき、まったく予想外の出来事が、目まぐるしい早さで、つぎつぎに持ちあがったのだ。廊下や部屋の入り組んだ迷路のあいだを案内されていったが、そのうちにわたしは、これは故意にこちらを混乱させるためではないかと懐疑的になった。しかし相手にその意図があるにせよないにせよ、翼もなしに飛べるのでもない限りは、もと来た道を外庭までたどることはできないという事実に気がついた。宮殿の中へはいる許可が得られた場合には、すばやく逃げ出すさいに役立ちそうなことは、どんなものであれ油断なく注意しておくことに決めていた。しかし小声でもう一度外へ出る道を見つけ出せるかとゴル・ハジュスにきいたとき、彼もわたし同様、頭が混乱していることがわかった。
宮殿は決して驚くほどのこともなければ、特別興味をひくこともなかった。ファンダルの芸術家の仕事は、単調で重苦しく、豊かな想像力を示すようなところはどこにもない。描かれた光景のほとんどは宗教的なもので、ファンダル人の聖書タールガンからとったエピソードであり、その大部分が単調なくり返しの連続なのである。何度もくり返し描かれているのは、タールガンが丸い平坦《へいたん》な火星を創り、宇宙へほうり投げるところだ。それはきまって少年時代に見た陳列窓の中で、ホットケーキをひっくり返している調理職人を思い出させた。
そこにはまた宮廷場面らしいたくさんの絵があって、ファンダル皇室の一門が、さまざまな活動をしているところを描いてある。ザザの描かれている比較的最近の絵は、中心人物を描き直してあるのが目立ち、そのためわたしは、すばらしい女帝《ジェダラ》の装身具をつけたヴァラ・ディアの美しい容姿《ようし》を描く、余り上出来ではない肖像画にしばしば出くわしたのである。それがわたしにおよぼした効果を表現するのは、生《なま》易しいことではない。わたしは、いまや目的の人物に接近しつつあることを、まもなくわたしが愛と生命を捧げた女性に、対面するという事実を痛感した。しかもその同じ女体の中には、わたしが嫌悪し殺したいとさえ願っている人物がおり、彼女と対決することになっているのだ。
一行はやっと大きなドアの前で足をとめた。ドアの前に集まっている戦士や貴族たちの人数から推《お》して、すぐに女帝《ジェダラ》の御前に連れて行かれるのだと確信した。控えているあいだに、まわりに集まった連中はじろじろとわれわれを見ていたが、その目つきには好奇心というよりは敵意がこもっているようだった。そしてドアが開くと、数人の戦士を除いて、彼らもわれわれと共に部屋にはいった。部屋は中くらいの大きさで、ずっと向こうの端にあるどっしりとしたテーブルのうしろには、ザザがすわっていた。そのまわりには、重武装をした大勢の貴族たちが集まっている。わたしは彼らをざっと眺め渡し、ダル・タラスのからだを奪った男がこの中にいるだろうかと考えた。もし情況が有利ならば、それを取りもどそうとしてみようと、彼に約束していたからだ。
われわれがその前に足をとめると、ザザは冷やかにこちらを見た。
「獣の芸を見せてもらいましょう」と命じたが、それから突然「異国人を武器を帯びたまま、わらわの面前にとおすとは、いかなるつもりか?」と一喝《いっかつ》した。「サグ・オール、この者たちの武器をとりあげるがよい!」そういって、近くに立っている端麗な顔立ちの若い戦士のほうをふり向いた。
サグ・オール! その名前だ。わたしの前に立っているのが、ダル・タラスの自由とからだと愛を奪って苦しめた、あの貴族なのだ。ゴル・ハジュスもその名前を思い出し、ホヴァン・デューとても同様だった。前に進み出た男を見るようすから、それがわかったのだ。サグ・オールはそっけなくわれわれに向かって、前に進み出たふたりの戦士に武器を手渡せと命じた。ゴル・ハジュスはためらった。わたしも、正直なところ、どんな行動をとったものか、わからなかった。
どいつもこいつも敵のように思えたが、これは異国人全般に対する彼らの態度の反映にすぎないのかもしれない。いや、きっとそうだろう。もし武装解除を拒否して、先方が力ずくに訴えることになった場合、われわれはたったの三人で部屋全体の者を相手にすることになる。あるいはまた、そのために宮殿を追い出されれば、ザザの宮殿のどまん中、しかも彼女の面前にまでたどり着かせてくれた天佑神助《てんゆうしんじょ》ともいうべき機会を失ってしまう。このような好機が、ふたたびおし気もなく提供されるだろうか? わたしにはおぼつかなく思われたし、彼らの要求を拒否して疑惑を決定的にするよりは、いまは漠然とした危険をおかしたほうがよかろうという気がした。そこでわたしはおちついて武器をはずし、待ち受けている戦士に手渡した。ゴル・ハジュスもわたしにならったとはいうものの、はなはだ気が進まなかったことは容易に察しがつく。
ザザがもう一度ホヴァン・デューの芸を見たい旨《むね》をもらした。ゴル・ハジュスがおどけた仕草《しぐさ》をさせるのを、彼女は大儀《たいぎ》そうにみつめていた。猿のほうも、女帝《ジェダラ》のまわりのグループに、ごくかすかな興味の片鱗《へんりん》さえもかきたてるような演技は、なに一つしなかったのだ。だらだらとことが運ぶうちに、わたしは異常な気配があるような不安に、とりつかれてきた。なんらかの目的――時をかせぐために、彼らがわれわれをわざと引きとめようと努めているように思えたのだ。たとえば、なぜザザが猿の一番つまらない演技を、五回も六回もくり返させるのか、わけがわからなかった。しかもその間《かん》ザザは、長い細身の短剣をもてあそびながら、ホヴァン・デューとわたしを半々に見まもっていた。また、わたしのほうも、ザザの現在の顔が盗まれた仮面《かめん》にすぎず、その背後には暴君と人殺しの冷酷な心が潜んでいると知りつつも、その非の打ちどころのない顔から目をそらしているのが、なかなかできなかったのだ。
やがて猿の芸に途中で邪魔がはいった。ドアが開いてひとりの貴族がはいって来ると、まっすぐ女帝《ジェダラ》のもとへ行き、低い声でことば少なに話しかける。彼女はいくつか質問し、その答に立腹したらしい。そっけない身振りで男を立ち去らせると、われわれのほうに向きなおった。
「もうたくさん!」彼女は叫んだ。目をわたしにすえ、細身の短剣を突きつける。
「もうひとりはどこにいる?」彼女はたずねた。
「もうひとりとはなんのことです?」
「猿のほかにおまえたちは三人いた。猿のことはなにも知らぬし、どこで、どのようにしておまえたちが手に入れたかも知れぬ。だがおまえたちのことはすっかりわかっている。ヴァド・ヴァロにトウーノルの刺客ゴル・ハジュス、それにダル・タラス。ダル・タラスはどこにいるのか?」それは低い、鈴のようなきわめて美しい声だった――ヴァラ・ディアの声だ――しかし、わたしは、その背後にザザの恐るべき性格がひそんでいるのを知っていた。それにまた彼女をごまかすことはむずかしかろうと悟ってもいた。直接ラス・サヴァスから、その情報を受けたのにちがいないからだ。ラス・サヴァスがわたしの脱出の目的を、たちどころにさとって、それをザザに警告するだろうと予想しなかったとは、われながら迂闊《うかつ》な話ではないか。われわれの正体を否定すれば事態はいっそう悪化するから、むしろわれわれがここにいるわけを釈明すべきだということがピンときた――釈明できるとしての話ではあるが。
「ダル・タラスはどこにいる?」彼女はくり返した。
「どうしてわたしが知るわけがありましょう?」わたしは反問した。「ダル・タラスにはファンダルに行くことは危険だと信じる理由があるのです。自分の所在を誰にも知らせたくないのでしょう――わたしを含めてね。彼はサヴァスの孤丘からわたしが逃げるのを手伝ってくれ、その代償に自由を得たのです。それ以上は、わたしの冒険につきあおうとはしなかったのです」
わたしが自分の正体を否定しなかったので、ザザは一瞬、気勢をそがれたらしい――明らかに彼女はわたしが否定するものときめこんでいたのだ。
「ではおまえは、自分がラス・サヴァスの助手のヴァド・ヴァロだと認めるのだね?」
「わたしが否定しようとしましたか?」
「おまえはバルスームの赤色人に変装《へんそう》していた」
「そうでもしなければ、すべての人間が異国人に敵意を持つバルスームを、どうやって旅行することができましょう?」
「では、なぜおまえはバルスームを旅行しようとするのだ?」彼女の目は、答を待ちながら、しげしげとわたしをみつめた。
「きっとラス・サヴァスがお知らせしたことと思いますが、わたしは別世界の者ですから、このバルスームをもっと見物したいと思ったのです。これがおかしなことでしょうか?」
「そしておまえはファンダルに来て、わらわに目通りを願い、バルスームを見物するために、トウーノルの悪名高い刺客を同伴してまいったのか?」
「ゴル・ハジュスはトウーノルにもどることができません」わたしは説明した。「そこでヴォビス・カンの宮廷以外のどこかで、剣を役立てる仕事を捜さなくてはならないのです――ことによるとファンダルでね。それがかなわなければ、さらに旅をつづけなければなりますまい。わたしはバルスームでは風来坊ですし、この国の人々の風俗習慣には不慣れなので、彼が随行してくれればいいと願っております。案内者兼教師がいなくては、うまくいきません」
「うまくいかせてなどやるものか」彼女は叫んだ。「おまえのバルスーム見物はすでに終わった――すでに冒険の最後にたどりついているのだ。わらわをだませるとでも思ったのかえ? おまえがヴァラ・ディアに夢中なことや、ファンダル訪問の目的を、わらわは充分知りつくしているのだ。おそらくおまえにとっては意外なことであろうな」彼女はわたしから目を移し、貴族と戦士達を見渡した。「地下牢へ連れて行くがよい!」彼女は叫んだ。「あとで処刑の方法を決めるとしよう」
あっという間に、われわれは二十本ほどの抜身に取り囲まれてしまった。ゴル・ハジュスとわたしには逃れる方法《すべ》がなかったが、ホヴァン・デューには逃げる隙をみつけてやれそうだった。初めからわたしは、このような突発事故が起こる可能性を、念頭《ねんとう》においていたし、いつも誰かしらのための逃げ道を心がけていたのである。だからわたしは女帝《ジェダラ》の右手にある、開いた窓を見逃していなかったし、下の中庭にはえている大きな樹木にしても同様である。ザザがしゃべっているあいだに、ホヴァン・デューはわたしのすぐそばにいた。
「行け!」わたしは小声でいった。「窓が開いている。ダル・タラスに、ことのしだいを話すんだ」そういうと後ずさりして彼から遠ざかり、まるで抵抗しようとするかのようにゴル・ハジュスをひき寄せた。こうして彼から注意をそらすあいだに、ホヴァン・デューは開いた窓のほうへ向きなおった。二、三歩しか行かないうちに、ひとりの戦士が彼を止めようとした。そのとたんに、類人猿の獰猛な脳が、巨大な動物の支配権を握ったらしい。ひと声、恐ろしいうなりをあげると、猫のようにすばやく不運なファンダル人にとびかかった。巨大な手で戦士を高くふり回し、そのからだを殻竿《からざお》代わりに、一番手近の開いた窓に向かって、牧草でも刈るように戦士たちを左右になぎ倒す。
たちまち部屋の中は大混乱におちいった。全員の注目が大白猿に集中したらしく、われわれに相対していた者たちさえも、ホヴァン・デューを攻撃しようとして踵《きびす》を返した。そしてこの混乱のさなかに、ザザが自分のテーブルのすぐ後にかかった重い掛布に歩み寄り、それをかきわけて姿を消すのが見えた。
「来たまえ!」わたしはゴル・ハジュスにささやいた。一見、猿と戦士たちとの戦いに注目しているように見せかけて、わたしは戦士たちとともに前に移動したが、いつも左方へ、ザザが立ち去ったばかりのテーブルのほうへ向かうよう気を配った。ホヴァン・デューは天晴《あっぱ》れな戦いぶりを見せていた。初めの犠牲者を投げ棄て、その長い猿臂《えんび》の届くあたりに来た者を、ひとりずつつかまえている。あるときには手のような二本の脚でうまくからだを支えて立ちながら、他の四本を使って一度に四人を相手にする。敵の頭上高くそびえ立ち、もじゃもじゃした毛を頭蓋の上に逆立て、猛々《たけだけ》しい目を怒りにもやして、死にもの狂いで戦った――バルスームの凶暴な動物のうちでも、もっともおそれられている動物がである。多分ホヴァン・デューにとって一番有利だったことは、戦士たちが大白猿に対する先天的な恐怖感を持っていたことだろう。それは彼に相対しているこの部屋の誰もに共通したものだったし、わたしがその場で思いついた計画を促進することにもなった。全員の目がホヴァン・デューに釘づけになったため、ゴル・ハジュスとわたしはテーブルのうしろまでたどり着くことができたのだ。ホヴァン・デューはわたしの意図を感づいたに相違ないと思う。全員の目をわれわれから自分のほうへひきつけるのに一番適切な行動をしたし、また脳の人間のほうの半分は、依然としてわれわれの安泰《あんたい》を計るべく、油断してはいないことを合図してくれたからだ。
いままでファンダル人は、ホヴァン・デューを非常に訓練された、驚くべき大白猿だとみなしていたに違いない。しかしいまや突如として、彼は一同を畏怖《いふ》の念に麻痺させてしまった。その咆哮《ほうこう》と唸りは言葉となり、人間のようにしゃべったからだ。勇敢にも貴族たちの何人かが前に進み出た。そのなかにはサグ・オールもまじっている。ホヴァン・デューは手をのばしてサグ・オールを捕え、武器をもぎ取った。
「おれは出て行く。しかし、友だちに危害を加えたら、もどって来てザザの心臓をむしり取ってやるからな。あの女にプタースの大白猿がそういったと伝えろ」
一瞬、戦士や貴族たちは畏怖《いふ》の念に立ちすくんだ。すべての目が、もがくサグ・オールのからだを強い手でつかんで立っているホヴァン・デューに注がれている。ゴル・ハジュスとわたしは忘れられてしまった。すぐにホヴァン・デューはふりむいて窓枠《まどわく》にとびつき、そこから軽々と手近の木の枝へとびついた。そして彼と共に女帝《ジェダラ》ザザの寵臣《ちょうしん》サグ・オールも消えてしまったのである。間髪を入れず、わたしはゴル・ハジュスを、ザザのテーブルのうしろの掛布の中に引っぱりこんだ。背後に掛布が下りると、ふたりは暗い廊下の狭い入口に立っていた。
通路がどこに通じているかわからないので、追手がかかる前に、隠れ場所か逃げ道を見つける必要に迫られるままに、向こう見ずにそれをたどるほかはなかった。すぐに追手が編成されることはわかりきっている。淡い光にところどころ照らされている暗がりに目がなれるにつれ、ふたりはもっと足を早めた。ほどなく狭い螺旋《らせん》通路にぶつかったが、それは下の暗い穴の中に降りるばかりでなく、上の暗闇にも通じている。
「どっちにするね?」わたしはゴル・ハジュスにたずねた。
「やつらは、われわれが降りて行くものと予期しているだろう。一番手近な逃げ道は、下のほうにあるからな」
「では上へ行こう」
「よしきた!」彼は叫んだ。「とりあえず夜になるまでの隠れ場所を捜すことだ。日中は逃げられんだろう」
のぼり始めると、すぐに追手の最初の物音が聞こえた――下の廊下で、装具がガチャガチャ鳴る音である。しかしこうして背後からせき立てられていてさえも、われわれはひどく用心しながら進まざるを得なかった。前途になにが横たわっているやら、まるで見当がつかなかったからだ。次の階には戸口があり、ドアは閉まって鍵がかけてある。しかし廊下はなく、隠れる場所もない。そこでまたのぼりつづけた。その次の階は下の階とそっくり同じだったが、三つ目の階には、闇の中に一つだけ廊下がまっすぐ延びていて、右手にドアがあり、少し開いている。追手の物音はいまや、はっきりわかるほどに接近して来て、その音が高まるのに比例して隠れ場所の必要性もいっそう痛切となり、他のいっさいの考慮を押しつぶしてしまった。わたしの冒険の目的を考え、いま発見されればヴァラ・ディアのからだを取りもどすために残された、かすかな希望の光も永遠に奪われてしまうに違いないとあっては、当然のことといえよう。
考慮するいとまはほとんどない。前方の廊下は闇に包まれている――それは行きどまりかもしれない。ドアは閉じられてはいるが、少しだけ開いている。わたしはそっと内側へ押してみた。強い香《こう》の匂いがつんと鼻孔をさして、小さな隙間《すきま》からは華美《かび》な飾りつけをした大きな部屋の一部分が見える。真正面に、われわれの視野から部屋全体の眺めをほとんどさえぎっているのは、うずくまった人間の姿に似た巨大な像だった。背後に人声が聞こえる――追手はすでに螺旋通路をのぼっているのだ――数秒のうちにわれわれに襲いかかるだろう。わたしはドアを調べ、それがばね錠で閉めることになっているのを知った。ふたたび部屋の中を眺め、目のとどく範囲には誰もいないのをみてとる。ゴル・ハジュスに後につづくよう合図して、わたしは部屋の中にふみこみ、後ろ手にドアをしめた。背水の陣をひいたのだ。ドアを閉めると同時に、金属的な鋭いカチッという音をたてて、錠がかかった。
「あれはなんだ?」そうたずねる声は、どうやら部屋の向こうはじから聞こえるらしい。
ゴル・ハジュスはわたしの顔を見て、観念したというしるしに肩をすくめてみせた(彼もまたわたしと同じことを、考えていたに違いない――つまり二つの逃げ道のうち、まずいほうを選んでしまったと)しかし彼は微笑して、その目に非難の色はない。
「巨神タールの方角から聞こえましたぞ」第二の声が答える。
「たぶん、誰かドアのところへ来たのだろう」初めの声がいう。
ゴル・ハジュスとわたしは、彫像《ちょうぞう》の背にぴったりとへばりついていた。そうすればいまの声の主たちが彼らに疑念を起こさせた音の原因を探ろうと決めた場合、発見されることは不可避《ふかひ》だが、それでも極力、長びかせることができるだろう。わたしは像の背の磨いた石に顔をぺったりつけ、その上に両手を拡げていた。指の下には飾りに彫った像のよろいの部分がある――その突き出た突起《とっき》は、石でできた装身具の中にはめこんだ高価な宝石であり、目のさめるような黄金の線条細工《せんじょうざいく》の象眼《ぞうがん》もある。だが、いまはそれらを鑑賞する暇はない。ふたりが近づいてくるにつれて、話し声が聞きとれる。たぶんわたしは神経質になっていたのだろう。よくはわからない。わたしは義務とか便法《べんぽう》のためとあれば、かつて交戦することをひるんだ覚えはない。しかしこの瞬間に義務と便法の双方が望むことは、戦いを回避し、発見されずにすませることだった。それはともかく、わたしの指は宝石をちりばめた像のよろいの上を、神経質になでていたに違いない。すると漠然と、おそらくは無意識のうちに、宝石の一つが台の中でゆるんでいることに気づくようになったのだ。それが意識になんらかの作用をおよぼしたかどうかは思い出せない。しかし、それが像をなでていたわたしの指の注意をひいたらしく、ゆるんだ宝石をいじろうとして、その上で指をとめたに違いないことはよくわかっている。
声は、かなり接近して来たようだ――声の持ち主たちと出くわすのも、数秒の問題にすぎないだろう。わたしの筋肉は対戦を予期して緊張したらしく、無意識のうちにゆるんだ石を強く押した――すると像の背中の一部分が音もなくぽっかり内部へ割れ、像のうす暗い内部を、ふたりの前に露呈《ろてい》したのである。それ以上は誘われるまでもない。われわれは同時に敷居《しきい》をこえ、と同時にわたしはからだの向きを変えて、そっと背後の羽目板を閉じた。それだけを全部やり終えるあいだ、全然物音は立てなかったと思う。その後でわれわれは身動きもせず――息も殺して、まったくの沈黙のうちに、その場にとどまった。目は急速に薄暗い内部になれてきて、彫像の外殻にあるたくさんの小さな穴から光がはいってくるのがわかった。内部はまったくのうつろで、この同じ穴をとおして、外部のあらゆる物音がはっきり聞きとれる。
入口を閉じるや否や、すぐ外側に音が聞こえ、同時にわれわれが廊下から部屋にはいったときに通ったドアを叩く音が聞こえた。
「ザザの神殿へはいろうとするのは誰だ?」部屋の中の声がどこからかする。
「わたしだ、女帝《ジェダラ》の近衛の隊長《ドワール》です」外からの声がどなる。「陛下を暗殺しにやって来たふたりの男を捜しているのです」
「こちらへやって来たのかね?」
「司祭《しさい》、やつらがこっちへ来なかったのなら、なんで、わたしがここへ捜しに来ますかね?」
「どのくらい前のことかな?」
「二十|火星秒《タール》足らず前です」隊長《ドワール》が答える。
「ではここにはおらんよ」僧侶は保証した。「われわれは、まる一ゾード(地球時間で二時間半)のあいだここにいたが、そのあいだ誰も神殿の中へははいらなかった。急いで上のザザの部屋や屋根や格納庫を調べるがよい。もしきみたちがやつらの後を追って螺旋通路をあがって来たのなら、ほかに逃げ場はないからな」
「ではわたしたちがもどるまで、神殿を油断なく見張っていてください」隊長はそうどなった。そして彼とその部下が螺旋通路をのぼって行く足音が聞こえた。
すぐに石像のところをゆっくりと通りすぎて行く僧侶たちの話し声が耳についた。
「初めにわれわれの注意をひいた音は、いったいなんだったのかな」ひとりがきいている。
「たぶん逃亡者がドアをためしてみたんでしょう」もうひとりが答える。
「そうかもしれん。だがはいっては来なかったのだ。さもなければ、巨神タールの背後からはいって来たときに姿が見えたはずだ。そのときわれわれはタールに面と向かっていたし、一度だってこの神殿のはじから目をそらさなかったからな」
「では、少なくともやつらは神殿の中にはいないわけです」
「そうなれば、どこかほかにいようと、こっちの知ったことではない」
「まったくね。神殿を通過したのでないかぎり、彼らがザザの部屋にたどりついたところで、われわれとはなんの関係もないこと」
「たぶん、たどり着いたろうな」
「しかも暗殺者とはね!」
「ファンダルに最悪のことがふりかかるぞ」
「しっ! 神々には耳がありますよ」
「石の耳がな」
「でもザザの耳は石じゃないし、聞かせるつもりではないたくさんのことを聞きとってしまう地獄耳なんです」
「老いぼれの牝バンス(火星ライオン)め!」
「女帝《ジェダラ》で女司祭長ですよ」
「ああ、だが――」ふたりの声は神殿のずっとむこうの、われわれの耳にとどく範囲外に出てしまった。しかし彼らは充分教えてくれた――ザザは僧侶たちにおそれられ憎まれており、石の耳|云々《うんぬん》という言葉で立証されたように、僧侶たち自身も、みずからの神をそれほど崇拝してはいないのだ。さらに女帝《ジェダラ》の近衛兵の隊長《ドワール》と話したとき、彼らは重要なことを教えてくれたのである。
ゴル・ハジュスとわたしは、いまや偶然にも、もっとも理想的な隠れ場所にはいりこんだという気がしていた。ほかならぬ神殿の管理人が、われわれはいないし、いるはずもないと断言してくれるからだ。すでに彼らは追手たちを追い払ってくれた。
そこでやっと隠れ場所を調べる機会ができた。像の内部はうつろで、天辺《てっぺん》は頭上はるか、おそらく十二、三メートルにも達している。口や耳や鼻から、外部の明かりがはいってきて、そのすぐ下には環状《かんじょう》の台が、頸部《けいぶ》の内側にぐるりと張りめぐらされているのが見える。平たい横棒をつけた梯子《はしご》が、基底部からその台までのびて、厚い埃《ほこり》がわれわれの立っている床をおおっている。せっぱつまった境遇から、わたしは注意深くこの埃を調べてみた。その結果、すぐに、わたしは歴然たる証拠に強い印象をうけた。それは長いあいだ、おそらくは何年ものあいだに、彫像の中へはいった最初の人間がわれわれであることを示していたのだ。床をおおう、ほとんど手触りでは感じられないほど細かい埃の上層が、乱されていないのだ。埃を調べているあいだに、わたしの目は梯子の足もと近くに固まっているものを見つけた。もっとそばに近よってみると、人間の骸骨《がいこつ》であることがわかった。さらにくわしく調べてみると、その頭蓋《ずがい》が潰《つぶ》され、片腕と肋骨《ろっこつ》が何本か折れているのがわかった。周囲には、かつて見たこともないほど豪奢《ごうしゃ》な装身具が埃にまみれている。その場所は、潰れた頭蓋や折れた骨と同じように、梯子の足もとで、死の訪れた有様のきわめて決定的な証拠となっている――この男は十数メートル上の環状の台から真逆さまに落ちたのだ。そして、まちがいなく巨神タールの内部へはいる秘密を、自分とともに永遠に持ち去ってしまったのだ。
わたしは死人の装身具を調べているゴル・ハジュスにこの考えを話した。すると彼もそういった死にかただったに違いないと賛成した。
「この男はタールの高僧だよ」ゴル・ハジュスはささやいた。「それにおそらく王侯――多分|皇帝《ジェダック》だろう。死んでからだいぶ経《た》つな」
「わたしは上へのぼるよ。梯子をためしてみよう。安全だったら、あとからついて来たまえ。タールの口から神殿の内部が見えると思うんだ」
「気をつけて行けよ」ゴル・ハジュスが注意した。「梯子はひどく古いからな」
わたしは体重をあずける前に、個々の横棒の強度を試しながら用心深くのぼった。しかし古びたソラプスの木はしっかりしていて、鋼鉄のように頑丈だった。どうして高僧が死ぬことになったかは、永遠に謎として残るに違いない。梯子や環状の台は、百人の赤色人の重みをも支えたはずだからだ。
高い台からはタールの口をとおして外を見ることができた。眼下は大きな部屋で、その両側にそって、ほかの、とはいってももっと小さい偶像が並んでいる。それは都市の神殿で見たのよりもなおいっそうグロテスクで、その装身具は人間――地球人――の考えおよばぬほど贅美《ぜいび》をこらしたものだ。なにしろバルスームの宝石は、われわれには未知の光線をきらめかせるし、その壮麗《そうれい》きわまるまばゆい美しさは、筆舌につくしがたいのだ。巨神タールの真正面にあるのはパルソン――血のように赤く美しい珍石――製の祭壇《さいだん》で、幻想的な模様がその中に純白で描かれており、祭壇全体が名工の腕によって磨き抜かれた石本来のすばらしい光沢《こうたく》で、すこぶる映《は》えている。
ゴル・ハジュスが上がって来たので、いっしょに神殿の内部を検分した。部屋の両側には背の高い窓が並び、そこからぱっと光がさしこんでいる。巨神タールと向かいあった向こうの端には、二つの巨大なドアが部屋への正面入口を閉ざしていて、そこに、われわれが話し声を聞いたふたりの僧侶が立っていた。それ以外は神殿に人影がない。小さい偶像の前にある小さな祭壇《さいだん》には、それぞれ香がたいてあったが、巨神タールの前にもたいてあるかどうかは見ることができない。
神殿についての好奇心を満足させると、ふたりはさらにタールの巨大な頭の内部を調べることに注意をもどした。その結果、裏側の壁にかかっているもう一つの梯子が見つかった。明らかに目へ通じる、もっと高くもっと小さな台へのぼる梯子である。そこまで昇るのに手間はかからなかったし、そこでは、両目を操作する制御装置の前にすえた、きわめて快適なすわり心地の椅子を発見した。操作する者はこの装置によって、左右上下、思うがままに、両目の向きを変えることができるのだ。ここにはまた、口へ通じる伝声管もあった。これも一度調べる必要がある。そこでわたしは低いほうの台へもどり、偶像の舌の下に仕掛けをみつけた。その仕掛けは増幅器に似ていて、上からの伝声管と接続している。わたしは人間の不実を目撃してきたこれらの物言わぬ証人のことを考え、また梯子の下に横たわる墜死した死体のことを思い合わせると、微笑を禁じ得なかった。タールは長年のあいだ沈黙をつづけてきたとみて、まちがいあるまい。
ゴル・ハジュスとわたしは高いほうの台へもどり、わたしはまたしても新たな発見をした――タールの目は正真正銘《しょうしんしょうめい》の展望鏡だったのだ。それを回すと神殿のどの部分も観ることができたし、その目を通して見るものはすべて拡大されて見える。タールの目を逃れられるものはなにひとつとしてなかったし、まもなく僧侶たちがまた話し始めたとき、タールの耳を逃れられるものもなにひとつとしてないこともわかった。神殿のあらゆる物音が、ごくかすかな音まで、はっきり耳についたからである。下に横たわる砕《くだ》けた骸骨が生きていたころには、この巨神タールは高僧にとって、どれほど価値ある助手だったことだろう!
[#改ページ]
十二 巨神タール
その日はゴル・ハジュスとわたしにとって、うんざりするほどのろのろと過ぎていった。われわれは、先に来ていた者たちと交代するため、間をおいてはふたり一組ではいって来る多数の僧侶を観察し、またそのお喋りに耳を傾けたが、その多くはくだらない宮廷の醜聞《スキャンダル》のゴシップだった。ときおり彼らはわれわれのことを話題にし、それによってホヴァン・デューがサグ・オールをさらって逃げたが、いまだに見つかっていないし、ダル・タラスも同様だということがわかった。全宮廷は、一見奇跡のようなわれわれの消失に呆然としているらしい。宮殿に住む者や家臣三千人が、絶えずわれわれを警戒し、宮殿と庭園が残る隈《くま》なく再三捜索された。穴蔵は、もっとも老齢の家臣の記憶にもないほど徹底的に捜査され、ザザでさえ夢想だにしなかった奇妙な事柄が明るみに出たらしい。少なくとも身分の高い、有力な名門が一つ失脚《しっきゃく》するだろうと、僧侶たちはささやきあっていた。穴蔵の遠く離れた区域で、女帝《ジェダラ》の近衛の隊長《ドワール》が発見したものが原因だそうである。
太陽が地平線の下に沈み、闇が訪れると、神殿の内部は柔らかい白光で照明された。しかし、それは輝かしくはあるが、地球の人工照明のぎらぎらした輝きはない。やがてもっと大勢の僧侶や若い娘たち、女司祭たちがやって来た。彼らはいくつもある偶像の前で、わけのわからぬお祈りを捧げている。信徒や、女と従者を引きつれた女帝《ジェダラ》の宮廷の貴族たちで、部屋は徐々にいっぱいになっていく。彼らは神殿の両側の比較的小さな偶像の前に二列に並び、大きな入口から巨神タールの足もとまでの、広い通廊はあけてある。みな、この通廊に面して待っている。なにを待っているのだろう? 彼らの目は、期待にみちて入口の閉じたドアに向けられている。ゴル・ハジュスとわたしは、自分たちの目もそこに釘づけになるのを感じた。なにか、あっというような見物《みもの》がこれから公開されようとしている気配に、魅せられてしまったのである。
ほどなくドアがゆっくりと開き、戸口の向こうに、大きな、巻いた絨毯《じゅうたん》らしいものが横においてあるのが目にはいった。貧弱な皮のよろいを着ているほかは裸の二十人の奴隷が、巨大な巻いた絨毯のうしろに立っている。ドアが充分に開かれると、彼らは巨神タールの前の、祭壇のちょうど足もとへ向かってそれを転がした。こうして入口からほとんど偶像のところまで、金と白と青の厚い柔らかい敷物で、広い通路はおおわれてしまった。神殿の内部では、ほかのものがすべてけばけばしく派手《はで》で、いやにぴかぴかしているか、いやらしいか、あるいはグロテスクな様相を呈しているので、絨毯がひときわ美しい。それからドアが閉まってわれわれは再び待つ。しかし、そう長く待ったわけではない。外から喨々《りょうりょう》たるラッパの音が響き、その音は入口に近づくにつれて大きくなる。もう一度、ドアが内側へ開いた。入口の向こうには、豪奢《ごうしゃ》な装具をつけた貴族たちが、二列になって立っていた。彼らはおもむろに神殿にはいり、そのうしろからは、両側の奴隷が綱をとった二匹の獰猛なバルスームのライオン、バンスにひかせたすばらしい乗物がやって来る。乗物の上には担《にな》い輿《ごし》があって、その中にはザザがくつろいでもたれている。彼女が神殿にはいるや、人々は抑揚《よくよう》のない、単調な口調で彼女をほめたたえた。乗物に鎖でつながれ、徒歩でつづくのは一人の赤色人戦士で、その後からは五十人の青年と同数の若い娘からなる行列が来る。
ゴル・ハジュスがわたしの腕にさわった。
「あの囚人が誰だか、わかるかい?」と小声でいう。
「ダル・タラスだ!」わたしは思わず叫んだ。
それはダル・タラスだった――隠れ場所が発見され、逮捕されたのだ。しかし、ホヴァン・デューはどうなったのだろう? 彼もまた捕まったのだろうか? もし捕まったとしても、それは殺されてからの話だったのに違いない。彼らは獰猛な野獣を生捕りにする気なぞ絶対になかったし、またホヴァン・デューのほうも、おめおめそうはさせなかったろうからだ。わたしはサグ・オールを目で捜したが、神殿の中にはどこにも見当たらない。そしてこの事実は、ホヴァン・デューが、まだ自由なのかもしれないという希望を与えてくれた。
乗物が祭壇の前でとまり、ザザがおりた。ダル・タラスを乗物に鎖でつないでいた錠前が開かれ、バンスは付添《つきそい》たちに神殿の片側の、もっと小さな偶像のうしろに引っぱって行かれた。それからダル・タラスは乱暴に祭壇のほうへ引きずられて、その上にほうりあげられた。ザザは祭壇の下の階段をのぼってそのそばに近づき、両手を彼の上にさしのべて頭上にそびえる巨神タールを見あげた。なんという美しさだろう! なんと美々しく装っていることだろう! ああ、ヴァラ・ディア! あなたの美しいからだは、いまあなたに生気を与えている邪悪な心の無慈悲な意図のために、はずかしめ、いやしめられてしまうのだ!
ザザの目は、いまや巨神タールの顔に注がれていた。
「おお、タール、バルスームの父よ」彼女は叫んだ。「全知全能にして、あまねく万物を見通すあなたの御前に、われらの捧げる供物《くもつ》をみそなわしたまえ。そしてもはや沈黙のうちに、われらに対するご不満をお示しくださいますな。百年このかた、あなたは忠実なるしもべたちに、声高く話しかけてはくださらなかった。はるか昔のあの神秘の夜、高僧ホーラ・サンがあなたに連れ去られてこのかた、あなたはしもべたちに対してくちびるを閉ざしておしまいでした。お言葉をくだしたまえ、巨神タールよ! われらの供物の心臓にこの短剣を突き刺すまえに、おしるしを与えたまえ。われらの作業は、あなたのお目を楽しませるためなれば。あなたの女司祭長を暗殺しようとして、今日ここにまいった、ふたりの者の所在を教えたまえ。サグ・オールの運命を明かしたまえ。お言葉を、巨神タールよ、われらが剣を突き刺すまえに」そういうと彼女は細身の剣をダル・タラスの心臓の上に擬《ぎ》し、まっすぐタールの目を見あげた。
そのとき、青天の霹靂《へきれき》のように、わたしはすばらしい霊感《れいかん》にうたれた。わたしの手はタールの目を捜査するレバーをまさぐり、部屋をぐるりと一周してふたたびザザの顔にとまるまで、それを回転させた。その効果たるや、まさに覿面《てきめん》だった。わたしは、いままでに人のいっぱいつまった部屋全体がこれほど完全に仰天し、畏怖《いふ》したのを見たことがない。巨神の目がザザにもどるや、彼女は石と化して、その赤銅色の皮膚は、紫灰色に染まったように見えた。短剣は硬直したように、ダル・タラスの心臓の上にじっとかまえたまま。百年ものあいだ、彼らは巨神タールの目が動くところを見なかったのだ。それからわたしは伝声管をくちびるにあてた。タールの声が部屋じゅうに轟《とどろ》く。人のむらがった神殿の床からは、巨大な喉《のど》から出たかのようなあえぎがいっせいに起こり、人々は膝をつき、手の中に頭を埋めた。
「裁くのは余である!」わたしは叫んだ。「みずからを突き刺されないよう望むならば、突きさしてはならぬ。生贄《いけにえ》はタールがためのものではないか!」
わたしは自分の得た有利な立場を、もっとも効果的に利用できる方法を考えながら、口をとざした。おそるおそるひとりずつ下げた頭が上がり、脅えた目がタールの顔をうかがう。わたしは上向いた面々《めんめん》に、ゆっくりと偶像の目をさまよわせて、彼らに新たなスリルを味わせてやった。しかも、そうするあいだにわたしはもう一つの霊感を得て、それをゴル・ハジュスに小声で告げた。新しい計画を実行するために梯子を降りて行く彼が、くっくっと笑う声が聞きとれた。わたしはもう一度、伝声管を利用した。
「タールのための生贄《いけにえ》は」と声を張りあげた。「タールみずからが倒すであろう。明かりを消し、タールが命ずるまで、なんびとも身動きしてはならぬ。違背《いはい》すれば、ただちに死ぬであろう。平伏《へいふく》し、掌に目を埋めよ。タールの魂がしもべのあいだを歩くとき、ふとどきにも、見ようとする者はたちどころに盲《めしい》となるであろう」
ふたたび彼らはひざまずき、ひとりの僧が急いであかりを消して、神殿を、うるしのような暗黒にとり残した。そしてゴル・ハジュスが自分の役割を果たしているあいだに、わたしはお告げを連発して、万一、彼が物音をたてても、それを消してしまおうとした。
「女司祭長ザザは、自分を暗殺に来たと思っているふたりが、どうなったかをたずねた。タールみずからが彼らを連れ去ったのだ。復讐はタールのものである。サグ・オールも、また余が連れ去った。余は大白猿の姿をかりて、サグ・オールを連れ去ったが、だれひとりとして余に気がつくものはいなかった。愚か者でさえ推測できたであろうものをな。なぜならタールの魂によって生命を与えられぬ限り、人間の言葉を話す大白猿のことなど、かつて、耳にした者があるであろうか?」
それは彼らを納得させたと思う。ちょうど彼らの信仰にぴったり符合《ふごう》するような論理だったし、かりに彼らが納得していなかったにしても、いま、あらためて、そう確信させただろう。わたしは神々の耳は石だという所見をのべた懐疑的な僧侶が、これをきいてどんな思いがしただろうと考えた。
ほどなく下の梯子から物音が聞こえ、すぐにゴル・ハジュスが環状の台へよじ登って来た。
「万事うまくいったぞ」ゴル・ハジュスの声がささやく。「ダル・タラスはおれといっしょだ」
「神殿に灯りをつけよ!」わたしは伝声管を通して命じた。「顔をあげて、祭壇を見るがよい」
ぱっと灯りがつき、人々はおののきながら顔をあげた。すべての目が祭壇にそそがれ、彼らはそこにあるものを見て仰天《ぎょうてん》し、打ちのめされてしまったようだ。女たちの幾人かは悲鳴をあげ、気を失ってしまった。こうしたことは、彼らがだれひとりとして、自分たちの神をそれほどまじめに信仰してはいなかったのだという確信を、わたしに与えてくれた。ところがその奇跡的な力の、完全無欠な証拠をつきつけられて、彼らはまったく無我夢中になってしまったのだ。ほんの数分前、生贄《いけにえ》が女司祭長のナイフを受けようとしていた場所に、彼らはいま、ただ埃まみれの人間の頭蓋骨を見るだけなのだ。それはほとんどなんびとにとっても、説明するまでもなく奇跡と思えたに違いない。ゴル・ハジュスは、それほどすばやく死んだ高僧の頭蓋骨を持って偶像の台座から走り出て、ダル・タラスを連れてもどって来たのだ。わたしはダル・タラスがどんな態度をとるか、少々気になっていた。彼はファンダル人の例に洩れず、悪戯《いたずら》にはあまり馴れていないのだ。しかしゴル・ハジュスは彼の耳に「ヴァラ・ディアのために」とささやき、ダル・タラスはその意味を了解してすぐやって来たのだった。
「巨神タールは信徒《しんと》どもに立腹《りっぷく》している」わたしは大音声《だいおんじょう》にいった。「長いあいだ彼らは公《おおやけ》には崇拝していながらも、心中では、ひそかに余を否定して来たのだ。巨神タールはザザに立腹している。ザザを通じてのみ、ファンダルの国民は、タールの怒りによる破滅から救われよう。では女司祭長ザザひとりを残して、神殿と宮殿から立ち去るがよい。祭壇のそばに彼女ひとりを残すのだ。タールは彼女ひとりだけと話す」
ザザが恐怖のあまり、ぎょっとひるむのが、はっきりと見てとれる。
「巨神タールの女司祭長、女帝《ジェダラ》ザザは、彼女の支配者に会うのがこわいのか?」わたしは詰問した。彼女の顎《あご》はふるえて、答えることができない。
「したがえ! さもなくばザザと全国民は死なねばならぬ!」わたしは思いきり絶叫した。
彼らは家畜のように向きをかえると、入口のほうへ急いだ。ザザは膝をよろめかせ、からだをしゃんと立てることができずに、ふらふらとその後を追った。ひとりの貴族がそれを見て乱暴にうしろへ押しやったが、彼女は悲鳴をあげ、貴族が自分から離れるとその後を追った。するとこんどは、ほかの者たちが彼女を祭壇の足元へ引きずって行き、乱暴に投げ倒した。ひとりは剣でおどした。しかしそれを見て、わたしは、彼らすべてにタールの怒りがおちかかるのをおそれるならば、女帝《ジェダラ》に危害を加えることは、まかりならぬと大喝《だいかつ》した。彼らはザザをその場に残して立ち去り、恐怖のあまり抵抗力を失ったザザは立つこともできず、すぐに、神殿には人気《ひとけ》がなくなってしまった。もっともそれは、四分の一|火星時間《ゾード》のうちに全宮殿を空《から》にしておけと、わたしが彼らの背後から叫んだので、やっとそうなったのである。わたしの計画は、ひとから見られないだけでなく、自由で妨害されない行動範囲を必要としていたからだ。
最後の人間が視野から消えさるやいなや、われわれ三人はタールの頭からおり、偶像のうしろから神殿の床へ出て行った。わたしはすばやく祭壇のほうに駆けよった。その反対側に、気絶したザザがくずおれているのだ。彼女はまだそこに横たわっており、わたしは彼女を腕の中に抱きあげ、急いで偶像のうしろの壁のドアに駆けもどった――その日早く、ゴル・ハジュスとわたしが神殿にはいった戸口である。
ゴル・ハジュスを先頭に、ダル・タラスをうしろにしたがえて、わたしは屋根に向かって通路を昇って行った。僧侶たちの会話から教えられたところによると、そこには王宮の格納庫があるのだ。ホヴァン・デューとサグ・オールがいっしょだったなら、わたしは幸福の絶頂にあったろう。半日のあいだ、完全な失敗と挫折に見えたものが、いまや一転して、ほとんど成功は確実となったからだ。ザザの部屋がある踊り場でわれわれは足をとめ、内部を調べた。なにしろ、長い夜旅は寒いだろうし、ザザの精神に占められているにせよ、ヴァラ・ディアの肉体は適当な着物で温くしておかなければならないからだ。誰も目につかなかったので、われわれは中へはいり、すぐに必要なものをみつけた。そしてオルラック(火星の北極熊)の重い毛皮のローブを女帝にまとわせてやっていると、彼女は意識をとりもどした。即座にわたしを見わけ、それからゴル・ハジュス、最後にダル・タラスに気がついた。機械的に彼女は短剣をさぐったが、そこにはなかったし、わたしが微笑したのを見ると、激怒にかられて蒼白となった。初め彼女は、自分が悪ふざけの犠牲になったのだと早合点したに違いない。しかし、すぐに一つの疑問がその念頭に浮かんだらしい――巨神タールの神殿で起こったいくつかのことを思い出したのだ。そしてそれらは、彼女にとっても他の誰にとっても、人間には説明のつかない出来事だったのだ。
「おまえは誰か?」彼女はたずねた。
「わたしはタールだ」しゃあしゃあとしてわたしが答える。
「わらわをどうするつもりなのか?」
「ファンダルから連れ去ろうというのさ」
「だがわらわは行きたくない。おまえはタールとは違う。ヴァド・ヴァロだ。わらわが助けを呼べば、近衛兵がおまえたちを殺してしまうぞ」
「宮殿には誰もおらんのだ」わたしは思い出させてやった。「このわたし、つまりタールが彼らを追っ払ったじゃないか?」
「わらわはおまえたちとは行かぬ」彼女はきっぱりといった。「むしろ死んだほうがましじゃ」
「おまえはいっしょに行くのさ、ザザ」とわたしは答えた。そして嫌がる彼女を腕ずくで部屋から連れ出し、螺旋通路をのぼって屋根へと向かった。わたしは格納庫と王室専用飛行艇を見つけられますようにと祈った。そして新鮮な火星の夜の大気の中に出たとき、まさしく、われわれの眼前には格納庫があったのだ。しかし、ほかのものもあった――女帝《ジェダラ》の近衛兵であるファンダル人の一団で、どうやらタールの命令を聞きそこなったものとみえる。彼らを見るや、ザザはほっとして大声で叫んだ。
「わらわじゃ! 女帝《ジェダラ》じゃ! この暗殺者どもを殺して、わらわを救うのです!」
向こうは三人、こちらも三人だったが、相手が武装しているのに対し、こちらはザザの細身の短剣があるだけで、ゴル・ハジュスがそれを持っていた。衛兵たちがわれわれのほうに殺到して来たとき、勝利は敗北に転じたかに見えた。しかし彼らを立ちどまらせたのはゴル・ハジュスだった。彼はザザを捕え、短剣をあげて彼女の心臓に切先をむけた。「とまれ!」と大喝した。
「さもなくば突き刺すぞ」
戦士たちはためらい、ザザは恐怖におそわれて口をつぐんだ。こうして、たがいに、にらみ合いの形になったが、そのときわたしは三人のファンダル人戦士のちょうどうしろ、屋根のふちに、なにか動くものを目にとめた。なんだろう? 薄明の中で、人間の頭に似てはいるが人間のものではないなにかが、ゆっくりと屋根のふちから上に現われる。それから音もなく、ぬっと巨大な姿がつづく。そのときそれの正体がわかった――大白猿、ホヴァン・デューなのだ。
「連中にいえ」ホヴァン・デューに聞きとれるよう、わたしはザザに向かって大声で叫んだ。「わたしがタールだということをな。見ろ、わたしはまた大白猿の姿をとってやって来たのだ!」そういってホヴァン・デューを指さした。「わたしは、このあわれな戦士たちを殺したくない。武器を捨てればおとなしく立ち去らせてやるぞ」
衛兵たちはふりむき、自分たちの背後に、こつぜんと虚空《こくう》から現われたような大猿が立っているのを見てふるえあがった。
「あれは誰です、陛下?」ひとりがたずねる。
「タールです」ザザが弱々しい声で答えた。
「でも彼からわらわを救うのです! 救うのですよ!」
「武器とよろいをすてて立ち去れ!」わたしは命じた。「さもなくばタールはおまえたちを殺す。タールの命令で、宮殿から人々が大急ぎで走り去る音を耳にしなかったのか? 宮殿が戦士たちであふれているとき、タールほどの力がなければ、どうやってわれわれがここへザザを連れて来ることができようか。去れ! 命あっての物種《ものだね》だぞ」
ひとりがよろいの締め金をはずし、武器とともに屋根の上にほうり出して通路のほうに走り出すや、仲間たちもそれにならった。それからホヴァン・デューがわれわれのほうに近寄って来た。
「よくやったね、ヴァド・ヴァロ」と唸るようにいう。「もっとも、なにがなんだか、さっぱりわからないが」
「あとで教えてやるよ。だがいまは速い飛行艇をみつけて旅をつづけなければならん。サグ・オールはどこだ? まだ生きているのか?」
「しっかり縛って、宮殿の高い塔の一つにちゃんと隠してある」猿が答えた。「飛行艇を着ければ、ぞうさなく連れてこられるよ」
ザザは怒気《どき》を含んだ目で、まじまじとわれわれをみつめた。
「おまえはタールではない」彼女は叫んだ。「猿がおまえの正体をあばいたぞ」
「だが、いずれにしろ、あんたのためには手遅れだったな、女帝《ジェダラ》」わたしは自信をもっていった。「それに今夜、神殿の中にいた連中のひとりにでも、わたしがタールではないということを納得させることはできなかろう。またあんた自身も、わたしがそうでないとはわかっていないのだ。全知全能のタールのやり方は、人間にはとうてい考え及ぶものではない。となれば女帝《ジェダラ》、あんたにとってはわたしがタールであるし、わたしが自分の目的を果たすためには充分全能であることを思い知るだろうよ」
飛行艇をみつけて引き出したときも、まだザザはとほうにくれていたらしい。われわれは彼女をのせ、ホヴァン・デューがサグ・オールを隠してあるといった、高い塔のほうへ艇首をむけた。
「もう一度自分の姿を見られるとはうれしいな」ダル・タラスが声をあげて笑いながらいった。
「それに、ふたたびきみ自身の姿にもどしてやるよ、ダル・タラス」わたしがいった。「ラス・サヴァスの地下室にもどったらすぐにな」
「ぼくの愛《いと》しいカラ・ヴァサと再会できたらな」彼はため息をついた。「ヴァド・ヴァロ、そのときには心からの感謝をあなたに捧げますよ」
「彼女をどこで見つけられるかい?」
「ああ、ぼくにはわからない。彼女を捜しているあいだに、ザザの手先に捕ってしまったのです。彼女の父親の屋敷へ行ってみたのですが、彼が暗殺され、財産を没収《ぼっしゅう》されたことしかわからなかった。カラ・ヴァサの行方について、連中は知らなかったのか、あるいは洩らそうとしなかったのです。とにかくやつらは、女帝《ジェダラ》の近衛兵の一隊がやって来てぼくを逮捕できるまで、なんとか口実をもうけて、ぼくをそこにひきとめたんです」
「サグ・オールにきいてみなければなるまい」わたしはいった。
一行はすでに、ホヴァン・デューが指示した塔の、窓の横にある着陸場まで来ていた。ホヴァン・デューとダル・タラスは敷居にとびつき、中に消えた。格納庫で三人の戦士が捨てた武器を手に入れたわれわれは、いまや全員武装している。足もとには立派な飛行艇があるし、ザザといま乗り込まされたサグ・オールを加えて、われわれのささやかな一行は、ここに全員再会したわけである。まさに意気天を突く。
艇首を東へ向けて、ふたたび旅をつづけるあいだに、わたしはカラ・ヴァサがどうなったか知っているかとサグ・オールにたずねてみた。しかし彼は無愛想な口調で知らないといいきった。
「もう一度考えろ、サグ・オール」わたしはさとした。「よく考えるんだ、たぶんおまえの答におまえの命がかかっているからな」
「おれに生きる望みがあるというのか?」ダル・タラスに険悪な視線を向けながら、彼は嘲笑《あざわら》った。
「見込みは充分ある。おまえの命はわたしが握っているのだ。わたしの役に立ってくれれば、生かしてやろう。もっともおまえ自身のからだで、ダル・タラスのではないが」
「おれを殺すつもりではないのか?」
「おまえもザザも、どちらをも殺すつもりはない。ザザは自分のからだで、おまえはおまえのからだで生かしてやるさ」
「自分のからだでは、わらわは生きていたいとは思わぬ」女帝《ジェダラ》が、かみつくようにいった。
ダル・タラスはサグ・オールをみつめながら立っていた――まるで遊離した魂のように、自分のからだを眺めているのだ――かつて遭遇したことのない無気味な状況である。
「話せ、サグ・オール」彼はいった。「カラ・ヴァサがどうなったか話すのだ。ぼくのからだがぼくにもどり、おまえのからだがおまえにもどったとき、もし、おまえがカラ・ヴァサに危害《きがい》を加えておらず、また彼女の居所を教えてくれるならば、おまえに対してなんの敵意も含むまい」
「知らないのだから、話すわけにはゆかんのだ。彼女は危害を受けてはいないが、きみが暗殺された翌日、ファンダルから消えた。われわれは父親が彼女を隠したということを確信していたが、彼からはなにも知ることができなかった。そのあとで彼は暗殺されたのだ」男はザザをちらりと見やった。「それ以来、われわれはなにも知ることができなかった。ひとりの奴隷がカラ・ヴァサは、父親の戦士たちの幾人かと飛行艇に乗りこんで、ヘリウムに向け出発したとわれわれに洩らした。彼女はそこでバルスームの大元帥の保護を受けるつもりだったのだ。だが真相は、われわれはなにも知らんのだ。ほんとうなのだ。サグ・オールのいうことはそれだけだ!」
そうとなってはファンダルでカラ・ヴァサを捜索するのは無駄だったから、われわれは東へ、サヴァスの塔への進路をとりつづけた。
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十三 サヴァスにもどる
一晩じゅうわれわれは、流星のように天空を突っきる火星の月の下を急行した。まったくわれわれほど奇妙な一行が集まったことは、いまだかつて、いかなる惑星でもなかったことだろう。たがいに相手のからだを持つふたりの男。一行のひとりが愛している若い娘のものである美しい肢体《したい》を持つ邪悪な老女帝。半分の人間の脳に支配されている大白猿。それに遠く離れた惑星の動物であるわたしと、トウーノルの刺客ゴル・ハジュスを加えて、これが気狂いじみた顔ぶれの全員なのだ。
わたしはほとんどザザの美しい容姿《ようし》から、目を離すことができなかったが、そうして魅せられていたことは、結果としてさいわいした。彼女が船の外へ身を投げようとするところを捕まえたからだ。彼女にとっては、ふたたび自分本来のあのおいぼれた、いまわしい肉体で生きるという見とおしは、とてもたえられなかったのだ。そこでわたしは彼女をしっかりと縛って、デッキにくくりつけてしまった。もっとも縛られた美しい手足を見ることは、わたしの心を痛ませはしたが。ダル・タラスもほとんど同じくらい魅せられたようにして、長いあいだ見ていなかった自分自身のからだを、つくづくと眺めていた。
「誓ってもいいが」と彼は不意に叫んだ。「ぼくは実に自惚《うぬぼ》れの少なかった男に違いない。自分がこれほど美しく見えるとは、思ってもみなかったと断言できますからね。いまは、かけ値なしにそういえます。ぼくはサグ・オールについていっているわけですから」そしてこの自分のつまらない冗談に、大声で笑った。
しかしダル・タラスの顔とからだが、いかにも美しいという事実は確かである。もっとも目もとにはかすかに冷酷《れいこく》な色があり、顎のかたちは戦士の血筋を表わしてはいるが。したがって、サグ・オールがこの若い戦士のからだを欲しがったのも、さして驚くには当たらない。いまダル・タラスが持っているサグ・オールのからだには、放蕩《ほうとう》のむくいと年齢がはっきりと表われていたからだ。だからダル・タラスが痛切に自分のからだにもどりたがるのも無理からぬ話ではある。
ちょうど夜明け前にわれわれは、大トウーノル沼地に点在する、たくさんの小さな孤丘のひとつへ向かって降下し、大きな木々の幹のあいだに艇を突っこませて着陸した。青々と茂ったみごとな密林の稲科の植物が、艇を半ば埋めてしまい、予想される追手の目から充分隠してくれた。ここでホヴァン・デューが、果物や木の実を見つけてくれた。それは彼の脳の猿の部分が、人間の食用にしても大丈夫だと告げたものだ。またその本能の導くままに、近くの清冽《せいれつ》な泉を見つけてきた。われわれ四人は半ば飢えかかり、ひどく疲れていたので、食物と水は一番ありがたかった。ザザやサグ・オールもそれらを拒《こば》まなかった。食べ終わると、捕虜《ほりょ》をしっかり鎖でつないでから、われわれのうち三人がデッキに寝に行き、四人目が見張りについた。こうして代わる代わるその日の大半を眠って過ごし、休息をとり元気を回復して、夜にはふたたび飛行をつづけられる準備ができた。
南へ大きく迂回《うかい》してトウーノルをさけ、黎明《れいめい》の二時間前に高いサヴァスの塔を目撃した。全員が興奮の極に達したのだと思う。飛行艇に乗っている者で、われわれの冒険の成否によって、その生涯に重大な影響を受けない者は、ひとりとしていなかったからだ。まず念のためにザザとサグ・オールをうしろ手に縛りあげ、われわれの接近を警告させないよう猿ぐつわをかます。
クルーロスはとっくに沈み、サリアは地平線のほうへ流れている。そこでモーターをとめ、塔の南方一、二マイルを明りもなく漂いながら、サリアが大空を暗黒へ委ねるときを、じりじりしながら待った。北西にはトウーノルの灯が、真暗な空を背景にして、目にも鮮やかに輝いており、ラス・サヴァスの大研究所の窓々にも明りがついている。しかし塔そのものは、土台から小尖塔まで真暗だった。
こうしていまや、近いほうの月は逆落《さかおと》しに地平線の下に沈み、暗黒とわれわれとに席を譲った。ダル・タラスは、すばらしい音を立てないモーターをかけ、静かに大地に接近すると、ラス・サヴァスの孤丘へ向かった。プロペラの静かな回転音以外は、なんの物音もしないし、プロペラもこれほど静かにまわっていては、三十メートル足らずの所でも聞こえはしなかったろう。われわれは孤丘のはずれに近づき、密集した大木のうしろの中空で艇をとめた。ホヴァン・デューはへさきへ行き、数回、低い唸り声をたてた。われわれは沈黙のうちに立ちつくして、耳をすましながら待った。岸の密集した下ばえの中で、がさがさいう音が聞こえる。ホヴァン・デューはふたたび低い恐ろしい叫び声をあげた。黒い影からこんどは答があった。ホヴァン・デューは大白猿の言葉で話しかけ、姿なき生物がそれに答える。
その五分のあいだに、われわれはいくつかの異なる声が聞こえたところから、ほかの生物たちが岸のほうから会話に加わったことに気がついた。猿たちは交渉し、それからホヴァン・デューがわたしをふり向いた。
「話はきまった。この木の下に飛行艇を隠すことを許可してくれる。準備ができたら、もう一度それに乗りこんで出て行っていいということになったし、またいずれの場合にも、われわれに危害は加えない。彼らが要求することは、われわれが通過する際に、内庭に通じる門を開けたままにしておくことだけだ」
「彼らはわれわれといっしょに猿が一匹中にはいるが、もどって来るときはいっしょではないことを了解しているのかね?」
「ああ、だがわれわれには害を加えないよ」
「どうして門を開けたままにしておかせたいんだ?」
「あまりやかましく詮索《せんさく》しないことだよ、ヴァド・ヴァロ」ホヴァン・デューが答えた。「大白猿たちが、きみにヴァラ・ディアのからだを彼女の脳にもどし、この恐ろしい場所から彼女といっしょに逃げることを可能にさせてくれたんだ。それで充分じゃないか」
「充分だな。で、いつ着陸できる?」
「すぐに、彼らは木の下に飛行艇を引きずっていって、しっかりつなぐのを手伝ってくれるよ」
「だがまず外壁をこえて、内庭へはいらなくてはならん」わたしは指摘した。
「ああ、そうだった――こちら側からは門をあけられないことを忘れていた」
そこで彼はもう一度、猿たちに話しかけたが、われわれはまだその姿を見ていない。それから、手はずはすっかり整い、彼とダル・タラスは、われわれを外壁の内側に着陸させた後で、艇といっしょにもどって来ることにしたといった。
ふたたびわれわれはゆっくりと外壁の上へ上昇し、向こうの内庭へそっと降下する。その夜はひどく暗く、雲がサリアのうしろから出て、サリアが沈んでからは満天の星をおおい隠してしまった。二十メートルも離れれば、誰も艇を見ることはできなかったし、一行はほとんど音をたてずに進んでいた。舷側ごしにこっそりと捕虜をおろす。ゴル・ハジュスとわたしは捕虜とともに残り、ダル・タラスとホヴァン・デューはふたたび艇を上昇させ、隠し場所へもどった。
わたしはすぐに門に行き掛金をはずして様子をうかがった。なにも聞こえない。まだこれほど完全な静寂に耐えた経験は一度もないと思う。背後にそびえ立つ大きな建物からはなんの物音も聞こえず、外壁の向こうの暗い密林からも、なにひとつ聞こえない。かたわらのゴル・ハジュス、ザザとサグ・オールの姿がぼんやりと見てとれる――もしそれがなかったら、わたしは暗黒と無限の空間の中に、たったひとりでいるような気持になっただろう。
無限と思われるほどのあいだ、じっと待っていると、やがて重い門のパネルをそっとひっかく音が聞こえた。門を押しあけ、ダル・タラスとホヴァン・デューがそっと中にはいると、またそれを閉めてかけ金をかける。だれひとり口をきかない。段取りは綿密に計画してあったから、いまさら話す必要はなかったのだ。ダル・タラスはわたしが先導し、ゴル・ハジュスとホヴァン・デューが捕虜といっしょにしんがりを務める。まっすぐ塔の入口に向かい、通路を捜し当てて地下へ降りる。なにからなにまで、|ついて《ヽヽヽ》いる感じだった。誰にも会わなかったし、目当ての穴蔵も、なんなく見つけ出した。いったん中へはいると、ドアには留金《とめがね》をかけて、これで妨害されるおそれはなくなった――それが第一の気がかりだったのだ――それからヴァラ・ディアを隠した場所へ急いだ。部屋の奥の暗い隅の壁にもたせかけてある大きな戦士のからだの陰である。戦士のからだをわきへ引きずったとき、わたしは息がとまる思いだった。わたしの彼女にたいする関心を知り、冒険の目的を察しているラス・サヴァスが、すべての部屋と穴蔵をとことんまで捜索させ、すべての実験材料を調べて、彼女を発見するのではないかといつも懸念していたからだ。しかし、それは杞憂《きゆう》におわった。愛する人の美しい頭脳をおさめた、老いさらばえた容器《いれもの》、ザザのからだは、この夜にそなえて隠しておいたところにちゃんと横たわっていた。わたいしはそのからだをそっと抱きあげ、二つのアーサイト張りのテーブルの一つへ運んだ。縛られ猿ぐつわをかまされて立っていたザザは、憎悪の目でわたしと、そして、これほど早く自分の脳がもどされることになったいまわしいからだを眺めていた。
ザザを隣りのテーブルへ運びあげると、彼女はもがいてわたしの手から逃れ、床に身を投げようとした。しかしわたしはそれをおさえつけ、すぐにしっかりと縛りつけた。たちまち彼女は意識を失い、復元手術が始まった。ゴル・ハジュス、サグ・オール、ホヴァン・デューは目を丸くして見物していたが、わたしの助手を務めるダル・タラスにとっては、ありふれたことだった。彼は研究所で働いていたことがあったし、同じような手術を、うんざりするほど見ていたのだ。手術の描写をつらねて読者を退屈させるのはよそう――それは、ほかならぬこのことのためにそなえて、何度となくやってきたもののくり返しにすぎない。
手術はやっと完了した。そしてヴァラ・ディア自身の血が防腐液と交換され、その頬に生気がのぼり、豊かな胸が穏やかな息づかいに上下するのを見たとき、わたしの心臓はまさしく鼓動をとめたのだ。それから彼女はぱっちり目を開き、わたしの目を見あげた。
「なにが起きたのです、ヴァド・ヴァロ?」彼女はたずねた。「こんなに早くわたくしを生きかえらせるのは、なにか具合の悪いことでもあったのでしょうか? それとも、わたくしが防腐液に反応しませんでしたの?」
その目はわたしを通りこして、周囲に立っている者たちの顔へと移った。
「どういうことですの? この方々はどなたなの?」
わたしはやさしく彼女を抱き上げ、かたわらのアーサイトのテーブルに、死んだように横たわっているザザのからだを指さした。ヴァラ・ディアの目が大きく見開かれる。
「終わりましたの?」彼女はそう叫ぶと、両手で軽く自分の顔を打ち、自分の顔立ちのすべてと、滑らかな首の柔らかい繊細《せんさい》な輪郭《りんかく》に触れてみた。しかしまだ本気にはなれず、鏡を求めた。わたしはザザの小袋からそれをとり出して手渡した。長いこと彼女は見入っていたが、その頬に涙が流れ始めた。それから涙の霞《かすみ》をとおしてわたしを見あげ、愛らしい腕をわたしの首のまわりにかけると下にひき寄せた。
「|わたくしの族長さま《マイ・チーフテン》」彼女はささやいた――それだけだった。しかしそれで充分だったのだ。この二言のためにわたしは命を賭け、未知の危険に直面した。そしてこの同じ報酬を得るためならば、わたしは喜んで、ふたたび自分の命を賭けるだろう。常に生あるかぎり。
次の夜になる前に、わたしはダル・タラスとホヴァン・デューをもとの姿にもどす手術を完了した。ザザとサグ・オールと大白猿は、ラス・サヴァスの不思議な麻酔剤の死のような眠りに委ねたままにしてある。わたしは大白猿を生き返らせるつもりはなかったが、他の者はファンダルにもどすべきだろうと思った。しかしいまや自分のからだとサグ・オールの豪奢《ごうしゃ》な装具で颯爽《さっそう》たるいでたちのダル・タラスは、彼らをふたたびファンダル人にもどして、長いつらい生活を送らせることはしないようにと主張した。
「だがわたしは約束したのだ」
「それなら、元にもどさなくてはなりません」
「だがそのあとでわたしがなにをしようと、それはまた別の問題だ」とわたしはつけ加えた。突然大胆不敵な計画を思いついたからである。
わたしはその内容をダル・タラスに話さなかったし、またその時間もなかった。ちょうどそのとき、外で誰かがドアをあけようとする音がしたのだ。それから声が聞こえ、まもなくもう一度、ドアが今度は力ずくであけられようとした。こちらとしては音を立てずに待つだけだった。それが誰にしろ、早く立ち去ってくれとわたしは願った。ドアはきわめて頑丈で、こじあけようとしてみても、彼らはすぐにそうしても無駄だと悟ったに違いない。なぜなら早速開けようとするのをやめ、そのあとすぐにちょっとのあいだ話し声が聞こえただけで、どうやら立ち去ったらしいからだ。
「連中がもどる前に立ち退《の》かなくては」わたしはいった。
ザザとサグ・オールを後ろ手に縛り、猿ぐつわをかませると、わたしはすばやく彼らを蘇生《そせい》させた。が、これほどありがたがらない連中にお目にかかるのは初めてだった。目つきで人を殺せるものなら、その目つきは充分わたしを殺したことだろう。それに、いかなる嫌悪《けんお》感でおたがいを眺め合ったかは、その目の中にありありと表われていた。
わたしは油断なくドアの閂《かんぬき》をはずし、抜き身を手にして、そろそろとあけた。ダル・タラス、ゴル・ハジュス、それにホヴァン・デューは、自分たちの剣をわたしの肩のところに構える。ドアが開ききると、ふたりの男が廊下で見張っているのが見えた――ラス・サヴァスの奴隷たちで、そのうちのひとりは彼の従者のヤムドールだ。われわれを見るやヤムドールはわたしに気がついて大きな叫びをあげ、わたしが戸口を通りぬけてとびかかる前に、ふたりとも背を向けて一目散に廊下を逃げ去ってしまった。
もうぐずぐずしている余裕はない――一刻を争うために、すべてを犠牲にしなければならない。用心するとか静かにするとかは考えずに、われわれは塔の通路に向かって地下室の中を急行した。内庭に足をふみ入れたときは、またしても夜になっていたが、空には遠いほうの月がかかって雲一つない。その結果すぐに歩哨《ほしょう》に発見され、男はわれわれを阻止しようと駆け寄りながら急を知らせた。
ラス・サヴァスの内庭で、歩哨がなにをしているのだろう? さっぱり、わけがわからない。それにこの連中はなんだろう? 歩哨のすぐうしろに、一ダースの武装兵が庭を横切って駆けて来る。「トウーノル人だ!」ゴル・ハジュスが叫んだ「トウーノルの皇帝《ジェダック》、ヴォビス・カンの戦士だ!」
息せき切ってわれわれは門へ走った。もし先に行き着ければ、しめたものだが! しかし、こちらは捕虜を連れているせいで不利だった。捕虜は自分たちがどれほどわれわれを困らせるか、その点を悟るや、われわれの前進をさまたげたのだ。そういうわけで、彼我《ひが》が交戦したのは門の正面でだった。ダル・タラスとゴル・ハジュス、ホヴァン・デューにわたしは、ヴァラ・ディアとふたりの捕虜を背に、五対一のハンデで、トウーノルの二十人の戦士に相対した。しかしわれわれのほうが奮戦したし、たぶんそれがこちらを有利にしてくれたのだろう。もっともゴル・ハジュスの武勇が十人の戦士に匹敵するほどだったことは確かだし、トウーノルの戦士に対しては、その名前の効果だけでも、まことにすさまじいものがあったのである。
「ゴル・ハジュス!」最初に彼を見分けたひとりが叫んだ。
「そのとおり、ゴル・ハジュスだ」刺客は答えた。「覚悟しろ!」というと、彼は全速で回るプロペラのように、敵の中に突進した。わたしはその右、ホヴァン・デューとダル・タラスはその左で戦う。
善戦だった。しかし猿のことや、そばの門のことを思いつかなかったなら、結局は多勢に無勢、われわれの不利になったことだろう。わたしは門のほうへ血路を開き、それを開けた。外側には戦闘の物音にひきつけられた巨大な野獣が、優に一ダースは立っていた。わたしはゴル・ハジュスや仲間たちに、門のそばへ退《ひ》くよう呼びかけ、大白猿たちが突進して来ると、トウーノルの戦士たちのほうを指さした。
猿たちは敵味方の区別がわからず、まごついたらしい。しかしわれわれが剣先を地面に向けてかたわらに立っているのに、トウーノル人たちは彼らを攻撃してみずから敵だということを知らせてしまった。ちょっとのあいだ、われわれはそうして待ちながら立っていた。それから猿たちがトウーノル兵のあいだに突進して行くと、そっと外壁の後の密林の暗闇にはいりこみ、飛行艇を捜した。背後からは戦士たちの喚声《かんせい》や悪罵に混じって、野獣の怒号《どごう》や咆哮《ほうこう》が聞こえてくる。われわれが飛行艇によじ登り、夜空に向けて出発したときも、まだ中庭からは戦闘の物音が聞こえていた。
サヴァスの孤丘から無事脱出したと感じるや否や、わたしはザザとサグ・オールの口から猿ぐつわをはずした。だがまったくの話、たちどころに後悔したのである。女帝《ジェダラ》の皺《しわ》だらけのくちびるから連発されたような、ひどい悪罵をあびせられたことはかつてないことだったからだ。ふたたび猿ぐつわをかませようとすると、初めてやっと彼女は声を立てるのをやめると約束した。
わたしの計画はいまや充分練りあげてあったし、その中にはファンダルへもどることも含まれていた。食料や燃料もなしに、ヴァラ・ディアとデュホールへ出発することはできなかったからだ。また、ファンダルの資源を解放してもらえる秘密の鍵を、自分が握っていることに気づいていたので、他のどこかでそういったものを手に入れる気にもなれなかったのだ。これに反して全トウーノルは、ゴル・ハジュスに対するヴォビス・カンの恐怖のせいで、武器をもってわれわれに敵対しているのである。
それでわれわれは来たときと同じように、隠密裏《おんみつり》にファンダルに向かってひき返した。ザザの宮殿へはいらないうちは捕えられたくはなかったのだ。
二日前に避難所となってくれた同じ孤丘に、われわれはもう一度艇をとめ、夜になってからファンダルへの旅の、最後の行程にとりかかった。もし追手がいたとしても、こちらの目にはぜんぜん、見えなかった。それはわれわれが飛び越えてきた無人の沼地の広大な広がりによって容易に説明できようし、かなり南よりのコースを、大地に接近してたどってきたからだ。
ファンダルへ近づくとザザとサグ・オールにふたたび猿ぐつわをかませ、誰にも見分けられないように頭をぐるぐる包帯で巻いた。それから都市の上空をまっすぐ宮殿へ向かって飛行艇を進める。見つからないことを念じてはいたが、万一の場合の準備はできていた。
しかし、どうやら見つからずに屋根の上の格納庫まで来たし、わたしは各人に、これから演じる役柄を絶えずコーチしていた。ゆっくりと屋根へ降りると、ダル・タラス、ホヴァン・デューそれにヴァラ・ディアは、すばやくゴル・ハジュスとわたしを縛り、頭を包帯で包んでしまった。下に格納庫の衛兵の姿を見たからだ。もし屋根が無防備だとわかったならば、ゴル・ハジュスとわたしを縛ることは不必要だったが。
われわれが近くに降りると、衛兵のひとりが誰何《すいか》した。
「どこの船だ?」
「ファンダルの女帝《ジェダラ》の王室飛行艇だ」ダル・タラスが答える。「ザザとサグ・オールのご帰還だ」
われわれがそばに降りるあいだ戦士たちは小声で私語していた。わたしは策略《さくりゃく》の成行きが少々心配になったことを白状しなければならない。しかし彼らは四の五のいわずに着陸を許可したし、ヴァラ・ディアを見るや、バルスームの作法にしたがって敬礼した。彼女は女帝らしい、堂々たる態度でデッキからおりた。
「わらわの部屋へ囚人をつれてくるがよい!」彼女は衛兵に命じた。縛られ、顔を包んだ四人は、ホヴァン・デューとダル・タラスの手をかりて、艇からファンダルの女帝《ジェダラ》ザザの部屋まで螺旋通路をつれおろされた。部屋に行くと、うろたえた奴隷たちが、女帝《ジェダラ》のご下命を受けようとして駆けつけてくる。ザザがもどったということは、電光のような速さで宮殿中にぱっと伝達されたに違いない。ほぼ同時に宮廷の役人が到着し出し、伺候《しこう》が告げられたからだ。しかしヴァラ・ディアは、しばらくのあいだは誰にも会わないと伝えさせた。それから奴隷たちをさがらせると、わたしの提案で、ダル・タラスが、ゴル・ハジュスとわたしと囚人たちを安全に隠す場所を求めて室内を調べた。まもなく彼は謁見の間《ま》からちょっと離れた小さな控えの間を見つけた。刺客とわたしの縛《いまし》めがとかれ、われわれはいっしょにザザとサグ・オールをその部屋へ連れこんだ。
ここの入口には頑丈《がんじょう》なドアが備えてあり、掛布がそれをすっかり隠している。わたしは他の者たちと同様ファンダル人のよろいをつけたホヴァン・デューを、掛布の前で見張らせ、われわれ一行の者以外は誰も入れるなと命じた。ゴル・ハジュスとわたしは掛布のすぐ内側に陣どり、謁見の間《ま》の中で起きていることがすっかり見えるよう、掛布に小さな穴をあけた。ザザは国民から恐れられ、かつ憎まれていたから、常に暗殺の危険がつきまとっていた。だからザザになりすましているあいだのヴァラ・ディアの身が、わたしにはひどく気がかりだったのだ。
ヴァラ・ディアは奴隷たちを呼んで宮廷の役人たちを伺候させた。ドアが開くと優に二十人ほどの貴族たちがはいって来る。彼らは、ひどく|ばつ《ヽヽ》が悪そうだった。神殿の中での出来事を思い出しているのだと察しがついた。彼らは女帝《ジェダラ》を置きざりにし、手荒く巨神タールの足もとに投げ倒したりしたのだった。しかしヴァラ・ディアはすぐに彼らをくつろがせた。
「わらわがおまえたちを呼び寄せたのは、タールのお言葉を伝えるためです。タールはふたたび信徒に話されます。わらわは三日三晩をタールとすごしました。ファンダルにたいする神の怒りは絶大です。彼は今夜夕食のあとで、高位の貴族たちをことごとく神殿へ召集《しょうしゅう》するようお命じになりました。すべての僧侶、司令官、近衛の隊長《ドワール》たち、それに宮殿にいる限りの下級の貴族もです。そのあとでファンダルの国民にタールのお言葉と掟を知らせるのです。したがう者はすべて生きることを許され、したがわぬ者は死ぬであろう。召されながら今夜神殿に来ぬ者に災《わざわい》あれ。ファンダルの女帝《ジェダラ》、ザザのいうことはそれだけです! さがってよろしい!」
彼らは退出した。しかも退出することを喜んでいたようだった。つぎにヴァラ・ディアは近衛のオドワール、地球でいう司令官を呼び、夕食一時間前には、宮殿内のあらゆる人間を、神殿のある階から屋根まで、ひとり残らず立ち去らせるよう命令をくだした。またタールの言葉を聞くため、神殿に集まるよう指定された時間までは、なんびとも神殿やその上の階に立ち入ることを許してはならぬ。ただし彼女の部屋の中にいる者は、例外である。彼女の部屋にはいった者は死刑になるのだからと話してきかせた。彼女はそれをきわめてはっきりと徹底させたので、司令官《オドワール》はのみこんだ。わたしは司令官がちょっと身ぶるいしたように思う。ひとり残らず女帝《ジェダラ》ザザを、ひどく恐れていたからだ。それから彼は立ち去り、奴隷たちもひきとって、われわれは自分たちだけになった。
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十四 ジョン・カーター
夕食の半時間前に、われわれはザザとサグ・オールを螺旋通路から運びおろし、巨神タールの台座の中に入れた。ゴル・ハジュスとわたしは、偶像の目と声の装置のうしろにある上の台に陣どり、ヴァラ・ディア、ダル・タラス、ホヴァン・デューは部屋に残った。計画は充分に練りあげてあった。巨神の背後にあるドアと、屋根の上に出発するばかりになった飛行艇との中間には誰もいない。この突飛《とっぴ》な計画が不首尾に終わって高飛びをせざるをえなくなった場合に備えてである。
ゆっくりと時間が経過して、夜が訪れる。乾坤一擲《けんこんいってき》の時が迫りつつあった。神殿のドアが開く音がして、その向こうには煌々《こうこう》と照らされた長い廊下が見える。戸口のところにそわそわとためらいながら立っているふたりの僧侶以外に人影はない。とうとうそのうちのひとりが勇気をふるい起こして中へはいり、灯りをつけた。ふたりは、さらに勇を鼓《こ》して前へ進み、巨神タールの祭壇《さいだん》の前にひれ伏した。彼らが頭をあげて偶像の顔を見あげたとき、わたしは偶像の巨眼《きょがん》を神殿の内部全体にぐるりと回し、ふたたびふたりのところへもどしたいという誘惑をおさえきれなかった。しかし言葉は発しない。生き神の面前にいる恐ろしい沈黙の効果は、言葉よりももっと印象的なはずだと考えたのだ。ふたりの僧侶はわけなくまいってしまった。床にくずおれ、おののき、うめき、タールの慈悲を哀願するしまつで、信徒の最初のひとりが到着するまでは、立ちあがろうともしなかった。
そのあとは神殿は急速に人で埋まり、タールの言葉が充分、徹底して行き渡ったことがわかった。彼らは前回と同じようにやって来た。しかし今度はもっと数が多く、中央通路の両側に並んで、戸口と神殿に等分に目をやりながら待っている。次の場面の上演にとりかかってもよい潮時《しおどき》だと思って、わたしはこれから起こることに対して適当に彼らの緊張をあおるよう、彼らの頭上にタールの目をさまよわせた。彼らの反応は僧侶たちとそっくり同じだった。床に倒れてうめき、哀願し、ラッパの音が女帝《ジェダラ》の到着を知らせるまで動こうとしなかった。ラッパの音が聞こえると、一同はよろよろと立ちあがった。大きなドアがさっと開かれ、その向こうに絨毯《じゅうたん》と、うしろに立っている奴隷たちが見える。祭壇に向かって絨毯が転がされるにつれ、ラッパの音はいっそう大きく鳴り響き、女帝の行列の先頭が目にはいった。わたしはドアが、こうして行列の先頭であいたとき、行列が盛大をきわめたものであるように注文しておいたのだ。長い廊下を、しずしずと進んでくる王家の随員《ずいいん》を観客に見せるという計画がまんまと図に当たり、効果はすばらしいものだった。まず初めは二列の貴族たち。その後からは二頭のバンスにひかせて、担《にな》い輿《こし》をのせた乗物。担い輿の中には、ヴァラ・ディアがもたれている。彼女のうしろからはダル・タラスが歩いていたが、部屋の中の全員は、自分たちが女帝《ジェダラ》ザザとその寵臣《ちょうしん》のサグ・オールを眺めているものと思っている。ホヴァン・デューがサグ・オールのうしろを歩き、つづいて五十人の若者と五十人の娘がやって来る。
乗物は祭壇の前で止まり、ヴァラ・ディアは乗物からおりてひざまずいた。ザザをほめ称《たた》える声は、彼女が巨神タールのほうに手をさしのべ、その顔を見あげたときしずまった。
「わたくしどもは用意ができております、主よ!」彼女は叫んだ。「お言葉をください! わたくしどもはタールのお言葉を待っております!」
ひざまずいた群集からあえぎが起こり、それはすすり泣きに変わった。彼らは充分、興奮しているから、なにからなにまで支障《ししょう》なく行きそうな気がした。わたしは伝声管をくちびるにあてた。
「余はタールだ!」わたしは破《わ》れ鐘《がね》のような声を出した。群衆はおののいた。「余はファンダルの国民を裁くためにやってまいった。余の言葉を受け入れるならば、なんじらを栄えさせ、さもなくば滅ぼすであろう。人々の罪は余の見るところ、もっとも罪多きふたりによって償《つぐな》えよう」わたしはタールの目を観衆の上にさまよわせ、それからヴァラ・ディアの上にとめる。「ザザ、おまえはみずからの罪と国民の罪を喜んで贖《あがな》うか?」
ヴァラ・ディアは美しい頭をさげた。
「あなたの意志は掟《おきて》でございます、主よ!」
「そしてサグ・オールよ」とわたしは言葉をつづけた。「おまえは罪を犯した。償《つぐな》う覚悟はできておるか?」
「タールの御意《ぎょい》のままに」ダル・タラスが答える。
「では、それが余の意志である」わたしは大声でいった。「ザザとサグ・オールは、いま彼らが持っている盗んだ美しいからだを、元の持主にもどすのだ。サグ・オールからそのからだを受けとる者を、ファンダルの皇帝《ジェダック》、ならびにタールの司祭長《しさいちょう》とする。またザザに体を盗まれた者を、盛大な行列をもって故国へ帰らしめる。以上である。異議ある者はいま口を開け、しからずんば永遠に沈黙を守るがよい」
異議をとなえる声は起こらなかった。そんなことにはならないと、わたしは確信していたのだ。いかなる神であろうと、これ以上に心服し、威圧《いあつ》された信者を、かつて見くだしたことがあるかどうか疑わしいものだ。わたしが話しているあいだにゴル・ハジュスが偶像の台座へおりて、ザザとサグ・オールの足やすねからいましめを取り除いた。
「明かりを消せ!」わたしは命じた。ふるえあがった僧侶のひとりが唯々諾々《いいだくだく》としたがう。
明かりが消えたとき、ヴァラ・ディアとダル・タラスは、祭壇の前に並んで立っていた。次の瞬間、彼らとゴル・ハジュスは、すばやく仕事をすませたに違いない。あらかじめ打ち合わせたとおり、ゴル・ハジュスが仕事を終えたという低い合図の口笛が偶像の台座の中から聞こえ、わたしは、ふたたび明かりをつけるように命じた。明かりがついたときヴァラ・ディアとダル・タラスのいたところには、ザザとサグ・オールが立っており、ヴァラ・ディアたちはどこにも見当たらなかった。この入替えが群集に及ぼした劇的効果たるや、まことにすさまじいものがあったと思う。ザザとサグ・オールのどちらにも、なわはかけてなかったし、猿ぐつわもしていない。力ずくでここへ連れてこられたことを示す証拠はなに一つない――彼らをそうやって連れて来たような者は、だれひとりあたりにはいなかったのだ。幻覚《げんかく》は完璧だった――それは全能の神の意志表示であり、わけなく知性をぐらつかせてしまった。しかし、わたしは仕事を完了したわけではなかった。
「なんじらはザザが玉座を捨て、サグ・オールがタールの裁きにしたがうと申した言葉を聞いた」わたしはいった。
「わらわは玉座を捨てぬ!」ザザは叫んだ。「これは全部――」
「黙れ!」わたしは大喝《だいかつ》した。「新しい皇帝《ジェダック》、ファンダルのダル・タラスを迎える用意をせよ!」わたしは目を大きなドアに向けた。群集の目もそれにならう。ドアがさっと開くと、そこには、とっくの昔に死んだ皇帝《ジェダック》兼司祭長のホラ・サンの装具できらびやかに身を飾った、ダル・タラスが立っていた。一時間前に偶像の台座の中で、骸骨《がいこつ》からそれらを奪っておいたのである。どうやってダル・タラスがそれほどすばやく着替えができたのかはわからなかったが、効果は覿面《てきめん》だった。青と金と白の絨毯《じゅうたん》にそって、広い通路を威風《いふう》あたりを払って悠然《ゆうぜん》と進む彼は、まさしく申し分のない皇帝《ジェダック》と見えた。ザザは紫色になって怒った。「かたりめ!」金切声で叫ぶ。「この男を捕えろ! 殺せ!」そういうと、素手で殺そうとでもいうのか、彼のほうに駆け寄った。
「この女を連れて行け」ダル・タラスは静かな声でいい、これを耳にしたザザは泡《あわ》を吹きながら床に倒れた。金切声をあげ、あえぎ、それからじっと動かなくなる――邪悪《じゃあく》な老婆《ろうば》は卒中で死んだのだ。そして彼女がそこに横たわっているのを見たとき、サグ・オールは彼女が死に、いまとなっては支配者の寵臣《ちょうしん》に向けられていた憎悪から自分を守ってくれる者はひとりもいないことを、まっ先に悟ったに違いない。ちょっとのあいだきょときょとあたりを見回していたが、それからダル・タラスの足もとに身を投げかけた。
「あなたはわたしを守ると約束されました!」彼は哀願《あいがん》した。
「誰もおまえに危害を加えない」ダル・タラスが答えた。「立ち去って、安らかに暮らすがよい」それから彼は巨神タールの顔を見あげた。「あなたの思《おぼ》し召しはなんでしょう、主よ? あなたのしもべ、ダル・タラスが、ご命令を待っております!」
わたしは答える前に、印象的な沈黙の間をおいた。
「タールの僧侶たち、下級貴族たち、ならびに皇帝《ジェダック》の近衛兵たちを市内につかわすがよい。そして人々のあいだにタールの言葉を広めさせよ。彼らはタールがふたたびファンダルに微笑《ほほえ》みかけ、タールの意にかなう新しい皇帝《ジェダック》をいただいたことを知るであろう。高位の貴族たちを、ただちにもとのザザの部屋へ伴い、彼らの女帝《ジェダラ》が一旦はその非の打ちどころのないからだを支配したヴァラ・ディアに敬意を表《ひょう》させよ。そしてその故国デュホールへのしかるべき帰還《きかん》のために、所要の支度を整えさせよ。また彼らはそこに、タールのために尽したふたりの者を見出すであろう。すべてのファンダル人は歓待と友情とをもってこの者たち――トウーノルのゴル・ハジュスとジャスームのヴァド・ヴァロを遇するがよい。行け! 最後の者が神殿を去るとき、明かりを消さしめよ。タールの言葉は以上である!」
ヴァラ・ディアはすでに、女帝《ジェダラ》の部屋へ直行しており、明かりが消えると、ゴル・ハジュスとわたしは彼女のもとに集まった。彼女はわれわれの計画の成行きを聞くまで待てないほどで、わたしがなんの支障《ししょう》もなかったと話して安心させると、歓喜のあまり涙を浮かべたほどだった。
「あなたは不可能なことを成しとげられたのですね、わたくしの族長さま」彼女はささやいた。「わたくしにはもうデュホールの丘陵や、生まれた街の塔が見てとれます。ああ、ヴァド・ヴァロ、生きるということが、もう一度これほど幸せな未来を与えてくれようとは、夢見たことさえありませんでした。あなたはわたくしに命と、命以上のものを与えてくださったのです」
ダル・タラスがやって来たため、われわれの話は中断された。彼はホヴァン・デューや大勢の貴族たちをひきつれてやって来たのだ。彼らは快くわれわれを受け入れたものの、いったいわれわれが彼らの神に、どんなことで尽したのかと解しかねているようだった。彼らのうちのだれひとりとして、それを知る日が永久にないことは確かである。彼らはザザから解放されたことを率直に喜んでいた。元近衛兵だった者を玉座にあげるという、タールの意図がわからなかったにせよ、それが神の怒りからまぬかれるのに役立つならば満足だったのだ。神殿の中で奇跡が行なわれたいま、彼らの神はまさしく現実の、恐ろしい神だったからだ。ダル・タラスが貴族の家柄の出だということが彼らの当惑《とうわく》を取り除き、絶大な敬意をもって彼を遇するのにわたしは気づいた。彼らがその態度を変えないだろうという点は確信がある。彼は司祭長でもあったし、この百年のあいだに初めて、王宮の神殿の中の巨神タールに話をさせる人物になるからだ。ホヴァン・デューはダル・タラスに仕えることを承諾《しょうだく》したし、ゴル・ハジュスも同様だったから、タールをしゃべらせる話し手に不自由することはあるまい。わたしはファンダルの皇帝《ジェダック》ダル・タラスの治世に、洋々たる前途を予見できた。
ザザの部屋の中でわれわれは協議し、ヴァラ・ディアはファンダルに二日|逗留《とうりゅう》し、そのあいだにデュホールへ彼女を運ぶための、小艦隊を準備することにきめた。ダル・タラスは彼女にザザの部屋をあてがい、身辺《しんぺん》の世話をするために、さまざまの都市出身の奴隷たちを彼女に提供した。この奴隷たちは全員が解放され、ヴァラ・ディアとともに彼女の故国へもどることになっている。
われわれが就寝《しゅうしん》する前には、ほとんど夜明けとなっていたし、目がさめる前に日は高く上がっていた。ゴル・ハジュスとわたしはヴァラ・ディアとともに朝食をとった。たとえ一瞬たりとも保護なしには彼女を残さぬよう、われわれは彼女の部屋のドアの外で寝たのだが、その必要はなかった。食事を終えるか終えないうちに、ダル・タラスからの使者が来て、謁見室《えっけんしつ》まで来るようにと伝えた。宮廷の高官たちが何人か玉座のまわりに集まっていて、その玉座には、どこから見ても皇帝然としたダル・タラスがすわっている。ねんごろにわれわれに挨拶し、立ち上がると上段からおりて、ヴァラ・ディアを迎え、彼女とわたしのために玉座のそばにしつらえたベンチまでつきそって行った。
「夜通しでファンダルまでまいった者が」とわたしに向かっていう。「皇帝《ジェダック》の謁見を願っている。その者に、あなたがもう一度会いたいのではないかと思ってね」そして侍従《じじゅう》のひとりに請願者を入れるよう合図した。部屋の向こうはじのドアが開かれたとき、そこに立っていたのは、ラス・サヴァスだった。ほとんど玉座の足もとに来るまで、わたしやヴァラ・ディアやゴル・ハジュスの顔を見分けなかったが、それと気づくや、彼は困惑の顔で、もう一度すばやくダル・タラスに視線を投げた。
「トウーノルのサヴァスの塔のラス・サヴァスでございます」役人が大声で告げた。
「ラス・サヴァスがファンダルの皇帝《ジェダック》に何用あってまいったのか?」ダル・タラスがたずねた。
「ザザに拝謁《はいえつ》を求めて参上いたしました」ラス・サヴァスが答えた。「けさまでわしは、彼女の死んだことや陛下の即位《そくい》を存じませんでした。ですがザザの玉座を占めておられるのはサグ・オールですし、そのそばには確かザザのはずのご婦人がいられます。でも、そのザザは亡くなったはず。またサヴァスでわしの助手だった者と、トウーノルの刺客がおります。陛下《ジェダック》、白状いたしますと、わしは頭が混乱し、自分が友人の中にいるのか、それとも敵の中にいるのかわかりませんのです」
「ザザがファンダルの玉座にまだついているものとして話すがよい」ダル・タラスがいった。「余がおまえの虐待《ぎゃくたい》したダル・タラスであって、サグ・オールではないにせよ、ファンダルの宮廷では、なにもおそれるにはおよばぬぞ」
「では申しあげます。トウーノルの皇帝《ジェダック》、ヴォビス・カンは、ゴル・ハジュスがわしのところから逃げたのを知って、自分を暗殺させるため、わしが故意《こい》に自由にしたのだと罵《ののし》りました。そしてわしの孤丘を奪うために戦士を派遣しました。もし脱出の警告が間《ま》に合わなかったら、わしは監禁されてしまったところです。そういうわけで、わしは科学の仕事をつづけられるよう、戦士をさし向けてトウーノル兵を追い払い、孤丘を取りもどしてくださるようザザにお願いするため、ここへ参上いたしました」
ダル・タラスはわたしをふり返った。
「ヴァド・ヴァロ、余人はさておいて、ラス・サヴァスの仕事に一番通じているのはあなただ。彼に、ふたたび孤丘と研究所をとりもどしてやってもよいと思うかね?」
「彼の偉大な頭脳を、人間の苦痛を和らげるためだけに用いるという条件でならね」わたしは答えた。「そして貪欲《どんよく》と罪悪の目的のためには使わんことです」それは何時間もつづく討論の口火となり、その結果、きわめて意義あるものとなった。ラス・サヴァスはわたしの要求をことごとく受け入れ、ダル・タラスはゴル・ハジュスをトウーノル征伐派遣軍の司令官に任じた。
しかしこれらの事は直接の関係者の多くにとっては、きわめて関心のあることであったが、バルスームでのわたしの冒険には直接、関係はない。二日目に、わたしはヴァラ・ディアとともに飛行艇に乗りこみ、ファンダル艦隊に護衛されてデュホールへ出発したから、征伐軍には参加していなかったのだ。ダル・タラスはしばらくのあいだ、われわれに同行した。大沼沢地帯の周辺に艦隊が停止したとき、彼はわれわれに訣別《けつべつ》の挨拶をし、自分の艇のデッキに乗りこんでファンダルへ引き返そうとした。そのとき、他の艇のデッキから喚声があがり、すぐに見張りが、南西はるかに大艦隊とおぼしきものを発見したとの知らせが伝わったのである。それは、さほどたたぬうちに、一同の目にもはっきり見えるようになり、それがファンダルへ向かっていることも同様に明らかとなった。
ダル・タラスは、はなはだ遺憾《いかん》ながら、全艦隊とともに直ちに首都へもどる以外に手はないようだとわたしに告げた。もしこれが敵の艦隊と判明すれば、一隻の艇もひとりの戦士もさくわけにはいかなかったし、ヴァラ・ディアやわたしにしても、異議をはさむ余地はなかったのだ。そこでわれわれは艇首を返し、ファンダルののろくさい飛行艇が許す限りのスピードを出して、都市のほうへもどった。
しかし、われわれが先方を見つけるのとほぼ同時に、外国艦隊もこちらを見つけ、コースを変えてぐんぐんと迫って来た。近づくにつれ、それは一列になってわれわれを包囲しにかかった。
わたしはダル・タラスのそばに立っていたが、接近してくる艦隊の色が見分けられるようになったとき、真先にそれがヘリウムから来たものであることを知った。
「信号をあげて、平和な訪問かどうかたずねてみよ」ダル・タラスが命じた。
「われらはファンダルの女帝《ジェダラ》、ザザに申し条があってまいった」と答が返ってきた。「平和か戦いかを決めるのは彼女だ」
「ザザは死んだと伝えろ。そしてファンダルの皇帝《ジェダック》ダル・タラスが、ヘリウム艦隊の司令官をこの艇のデッキに、友好裏に迎えるとな。さもなくば、われわれは全砲門を開いて迎撃《げいげき》するであろう。ダル・タラスのいうことはそれだけだ!」
ヘリウムの大艦隊のへさきから突然、休戦の旗があがった。ダル・タラスの艇も同じ旗でそれに応じると、相手の艦は近くへ寄り、まもなく先方のデッキにヘリウムの戦士たちが見えた。大戦艦はゆっくりとこちらの小さな艇のそばに来て、二隻がつながれると、将校たちの一行がこちらの艇に乗りこんで来た。堂々たる風采《ふうさい》の男たちで、まだ一度も見たことはないが、その先頭にいるひとりをわたしはすぐに見分けた。デッキを横切ってゆっくりわれわれのほうに進んで来るときの彼ほど、強い印象を与える容姿《ようし》を見たおぼえはないと思う――それは誰あろうバルスームの大元帥、ヘリウムのプリンス、ジョン・カーターだった。
「ダル・タラス」と彼は口を開いた。「ジョン・カーターがきみに挨拶を述べる。しかも友好裏にね。もっとも、まだザザが支配していたとすれば、話は違うことになったと思うが」
「あなたはザザと一戦まじえるために来られたのですか?」ダル・タラスがたずねた。
「われわれは不正をただしにやって来たのだ」大元帥は答えた。「だがザザの人柄について知るところでは、武力によって以外には、そうできそうもなかったのでね」
「ファンダルがヘリウムに対して、どんな不正を働いたというのです?」ダル・タラスがたずねた。
「きみの国民のひとりに対する不正――すなわちきみ個人に対してだね」
「わたしにはわかりません」とダル・タラス。
「それをきみに説明できそうな者が、わたしの艦に乗っているよ、ダル・タラス」ジョン・カーターは微笑しながらいった。そしてふり返ると幕僚《ばくりょう》のひとりに小声でなにごとかを命じた。男は敬礼し、自分の艦のデッキにもどった。「ダル・タラス、きみ自身の目で確かめたらいい」突然カーターは目を細めてじっとダル・タラスをみつめた。「きみはほんとうに女帝《ジェダラ》の近衛兵で、彼女の命令によって暗殺されたことになっているダル・タラスだろうね?」
「そうです」ダル・タラスが答える。
「確認しなければならないのでね」
「その点について問題はありませんよ、ジョン・カーター」わたしは英語でいった。
彼は目を大きく見開いて、わたしのほうに視線を移した。染料が薄れてしまったため、薄くなったわたしの皮膚の色に気づくや、彼は前に進み出て片手をさしのべた。
「同国人かね?」彼はきいた。
「ええ、アメリカ人です」
「まったく、びっくり仰天するところだった。だが驚くにはあたるまい。わたしは渡って来た――ほかの者がそうしていけない理由はなにもないのだ。そしてきみはそれを、やってのけた! ぜひ、いっしょにヘリウムへ来て、その間《かん》のいきさつをすっかり話してもらおう」
若い女性を連れたさいぜんの幕僚《ばくりょう》がもどって来たので、それ以上話はできなかった。彼女を見るや、ダル・タラスは歓声をあげて前にとび出した。わたしにしても彼女がカラ・ヴァザだということは、いまさらひとにきくまでもなかった。
これ以上は話しても読者を退屈させることが大部分だろう――ダル・タラスとカラ・ヴァザの結婚式に列席した後、ジョン・カーター自身がヴァラ・ディアとわたしをデュホールへ連れて行ったこと。デュホールでわたしを待っていた大きな驚き。初めてわたしはそこでデュホールの皇帝《ジェダック》コル・サンが、ヴァラ・ディアの父であることを知ったのだ。そしてヴァラ・ディアと結婚したとき、わたしに山ほど与えられた名誉と莫大《ばくだい》な富のこと等々。
ジョン・カーターは結婚式に列席し、われわれは伝統的なアメリカの習慣を、バルスームにまで持ちこんだ。大元帥は花婿《はなむこ》の付添人《つきそいにん》の役目をつとめたからである。彼はその習慣を蜜月旅行《ハニムーン》までつづけるよういいはり、われわれをヘリウムまで伴ったのだ。わたしはいまその地でこれを書いている。
いまとなっても、窓から外を見ると、ヘリウムの双子都市の真紅と黄の塔が見えることが、わたしには夢のように思えてならない。わたしはカーソリスやプタースのスビア、ヘリウムのターラ、ガソールのガハン、それにあの比類《ひるい》なき火星のプリンセス、デジャー・ソリスに会ったし、日ごと見てもいるのだ。しかしわたしにとってはもうひとり、彼女のように美しい、いや、もっと美しくさえ思える人がいる――デュホールの王女《プリンセス》ヴァラ・ディア――ユリシーズ・パクストン夫人である。
(完)