火星のチェス人間
E・R・バローズ/小西宏訳
目 次
序曲 ジョン・カーター地球に到来
一 ターラの不興《ふきょう》
二 嵐のままに
三 無頭人間
四 捕えられて
五 完全な頭脳
六 恐怖の罠
七 おぞましい光景
八 危機一髪
九 未知の世界を漂《ただよ》う
十 罠におちる
十一 ターラの選択
十二 ゲークのいたずら
十三 必死の行動
十四 ゲークの活躍
十五 穴蔵の老人
十六 もうひとつの変名
十七 死の競技
十八 忠誠のつとめ
十九 死者の恐怖
二十 卑怯者の烙印《らくいん》
二十一 愛の冒険
二十二 婚姻《こんいん》のまぎわに
火星のチェス・ジェッタン
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登場人物
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ターラ……赤色人、ヘリウムの王女、カーターとソリスの娘、カーソリスの妹
ガハン……赤色人、ガソールの王《ジェド》、|放浪の戦士《パンサン》トゥラン
ジョール・カントス……赤色人、ヘリウム帝国の海軍士官、ターラの婚約者
ユシア……赤色人、ターラの奴隷娘
ラン・オー……赤色人、ガソール人、マナトールの奴隷娘
オ・タール……赤色人、マナトールの皇帝《ジェダック》
ユ・ソール……赤色人、マナトールの第二都市、マナトスの大|王《ジェド》
ア・コール……赤色人、ジェッタンの塔の警備|隊長《ドワール》、皇帝の息子
ユ・ドール……赤色人、マナトールの第八中隊の隊長《ドワール》
アイ・ゴス……赤色人、マナトールの老剥製師
ゲーク……無頭人間、バントゥーム族のカルデーン
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序曲 ジョン・カーター地球に到来
シェアはたったいま、いつものようにチェスでわたくしを負かしたところだった。そして、これもまたいつものように、わたくしはある科学者たちが主張している例の学説を引きあいにだして彼の精神的欠陥を指摘《してき》し、それによってあやしげな満足をかき立てていた。その学説というのは、つまり異常にすぐれたチェス競技者というものが、十二歳以下の子供、七十二歳以上の老人、または精神障害者などの中に見いだされるのがつねだという主張にもとづいているのである――もっとも、この学説は、わたくしがたまに勝ったようなときには、あっさり無視されてしまうのだった。シェアはもう寝ていたし、わたくしもそれにならうべきところだった。というのは、われわれはここで、いつも日の出前に馬に乗ることにしているからだ。しかし、わたくしはそうはせずに、読書室のチェス・テーブルの前にすわって、自分の負けた王の不名誉な頭に、ものうげに煙を吹きつけていた。
こうして有益《ゆうえき》に時間をついやしていると、居間の東側のドアが開いて、だれかがはいってくる物音が聞こえた。わたくしはシェアが、あすの仕事についてまたなにか相談するためにもどって来たのだろうと思った。ところが、二つの部屋をむすぶ戸口へ目をあげると、そこには赤銅色《しゃくどういろ》の巨人の姿が立っているではないか。宝石をちりばめた飾り帯をつけている以外ははだかで、その飾り帯の片側には飾りのついた短剣が、もういっぽうの側には奇妙な形のピストルがさがっている。黒い髪、微笑をふくんだ雄々《おお》しい青灰色の目――わたくしは、すぐにそうしたものを見わけてとびあがり、手をさしのべながら前へ進んだ。
「ジョン・カーター! あなたでしたか?」
「いかにも、そうだよ、きみ」彼は片手でわたくしの手をとり、もういっぽうの手を肩に置いた。
「あなたはここでなにをしてるんです?」わたくしはたずねた。「あなたが地球を二度目に訪れたのは何年も前のことです。それに、火星の装具をつけてきたのは、これがはじめてではないですか。驚きました。でも、あなたに会えて嬉しいです――それに、あなたは、子供のわたくしをひざにのせてあやしてくれたときより一日だってふけたように見えません。これは、どういうわけですか、火星の大|元帥《げんすい》ジョン・カーター、どう説明するつもりで?」
「説明できないことを、なぜ説明しようとする必要があるかね?」彼は答えた。「前にもいったように、わたしは大変な老人なのだ。自分が何歳かも知らない。少年時代のことも思いだせない。思いだせるかぎりでは、わたしは、いつも現在きみが見ているのと同じだったし、またきみが五歳のとき、はじめてわたしに会ったときも同じだったのだ。きみ自身はふけたが、それでもほかの地球人が同じ年数のあいだにふけるほどではない。これは、われわれの血管の中を同じ血が流れているという事実にもとづくものだろう。だが、わたしのほうはまったくふけていない。わたしはこの問題について友人の有名な火星人科学者と論じあったことがあるが、かれの説は、要するにまだ理論にすぎない。いずれにせよ、わたしはこの事実に満足している――わたしは年をとらないのだ。そしてわたしは生命を愛し、青春の活気《かっき》を愛している。
「ところで、きみは、わたしがなぜまた地球を訪れたのかとたずねた。しかも、地球人の目には異様に見えるこのような服装でな。もっともな質問だ。それについては、われわれはロサールの弓兵司令官カール・コマックに感謝したほうがいい。この思いつきを与えてくれたのは彼で、わたしはそれにもとづいた実験をおこない、ついに成功をおさめたのだからね。きみも知ってのとおり、わたしはずっと前から霊魂《れいこん》を通じて宇宙空間を横断する能力を所有していたが、生命のない物体に同様な力を賦与《ふよ》することはまだできなかった。しかし、いまやきみは、火星人の仲間が見ているとまったく同じ格好のわたしをはじめて目にしているのだ――きみが見ているこの短剣は、多くの野蛮《やばん》な敵の血を吸ったものだし、このよろいには、ヘリウム国の紋章《もんしょう》とわたしの位階《いかい》を示す徽章《きしょう》がついている。また、このピストルは、サークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカスからおくられたものだ。
「わたしが地球に来たおもな理由は、きみに会うためだ。それからまた、自分が生命のない物体を火星から地球に運ぶことができ、したがって、もし望めば生命のあるものを運ぶことができる、という事実を確かめるためでもあるのだ。そのほかには、なんの目的もない。地球は、わたしに適していない。わたしの関心は、すべて火星《バルスーム》にそそがれている――妻も、子供たちも、仕事も、みんなあそこにあるのだ。わたしはきみといっしょに静かな一夜を過ごしてから、自分の生命以上に愛している世界へもどるつもりなのだ」
彼はそういいながら、チェス・テーブルの反対側の椅子に腰を落とした。
「あなたは子供たちといいましたね」わたくしはいった。「カーソリスのほかにも子どもがいるのですか?」
「娘がひとりいる」彼は答えた。「カーソリスよりほんの少し年下で、ただひとりを除けば、これまで火星の稀薄《きはく》な空気を呼吸した女性のうちでもっとも美しい娘だ。ヘリウムのターラより美しいのは、彼女の母のデジャー・ソリスだけだよ」
彼は、しばしチェスの駒をものうげにもてあそんでいた。
「火星には、チェスに似たゲームがある。非常に似ている。そして、火星のある種族は、そのゲームを、生きた人間と抜き身の剣で血なまぐさく遊ぶ。そのゲームは、ジエッタンと呼ばれて、きみたちのチェスと同じように盤の上でするのだが、方眼《ほうがん》の数は百で、両軍とも二十個ずつの駒を使う。わたしはそのゲームを見るたびに、ヘリウムのターラのことと、バルスームのチェス人間のあいだで彼女にふりかかった事件を思いだすのだ。彼女についての物語を聞きたいかね?」
わたくしは聞きたいといい、彼はそれを話してくれた。いまわたくしは、それをできるだけ火星大元帥の言葉どおりに、しかし三人称になおして、読者に伝えようと思う。もし矛盾や誤りがあれば、その責任はジョン・カーターではなくて、わたくしの不確かな記憶のせいである。この物語は、わたくしの記憶にしたがって語られたからだ。これは不思議な物語であり、まったくバルスーム的である。
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一 ターラの不興《ふきょう》
ヘリウムのターラは、それまでよりかかっていた絹と柔らかな毛皮の山から起きあがると、しなやかなからだをものうげにのばして、部屋の中央へ歩いていった。そこには、大きなテーブルの上方に、低い天井から青銅の円板がたれさがっている。彼女の身のこなしは、健康と申しぶんのない肢体《したい》の優美さを示している――この二つのものが非のうちどころのないほどつりあって、おのずから調和をつくりだしているのだ。薄絹《うすぎぬ》のスカーフが、いっぽうの肩からからだにまきつけられ、黒い髪が、頭の上に高くまきあげられている。彼女は、木の杖で青銅の円板を軽くたたいた。すると、その合図に応じて、奴隷の娘があらわれた。娘は部屋にはいってくると、微笑しながら挨拶した。女主人も、おなじように微笑をかえす。
「お父さまのお客さま方は、もうおいでになっているの?」王女は、奴隷娘にきいた。
「はい、ヘリウムのターラさま。おいででございます」奴隷娘は答えた。「大提督《だいていとく》、カントス・カンさま。プタース国のソラン王子、それに、カントス・カンさまの御子息ジョール・カントスさま」奴隷娘は、ジョール・カントスの名前をあげながら、からかうような目つきで、王女の顔をちらりと見やった。「それから――ええ、そのほかの方々も、たくさんおいででございます」
「では、湯あみしましょう、ユシア」女主人はいった。「でも、どうしたというの、ユシア」彼女はつけ加えた。「ジョール・カントスさまのお名前をいうとき、なぜそんな目つきをして笑うのです?」
奴隷娘は、楽しそうに笑って答えた。
「それは、あの方が王女さまに思いをよせていらっしゃることが、だれにもはっきりしているからでございますわ」
「わたくしには、はっきりしていません」ヘリウムのターラはいった。「あの方は、カーソリスお兄さまのお友だちだから、それでここによくいらっしゃるのよ。わたくしに会いにいらっしゃるのではありません。あの方がお父さまのこの宮殿にたびたびいらっしゃるのは、お兄さまとの友情のせいです」
「でも、カーソリスさまは、オカールの皇帝《ジェダック》タルー陛下と、北国で狩りをなさっておいでですわ」ユシアは、ターラをやりこめた。
「湯あみです、ユシア!」ターラはさけんだ。「口をつつしまないと、いまにひどいめに会うから」
「お風呂の仕度はできておりますわ、ヘリウムのターラさま」奴隷娘は答えたが、その目はまだ陽気にかがやいていた。彼女は、女主人が心の中ではそう怒っているわけではなく、やはり自分をかわいがっていてくれるということを、知っているのだ。そして、大元帥の娘の先に立って、となりの部屋へ通じるドアをひらいた。そこは、浴室で――大理石の浴槽には、香りのついた湯が、きらきらたたえられていた。黄金の鎖が黄金の支柱にささえられて浴槽をとりまき、大理石の階段の両側に沿って湯の中まで通じている。ガラスの丸屋根《ドーム》から日の光がさしこんで、部屋いっぱいにあふれ、つややかな白い大理石の壁に反射している。壁には、水浴者や魚の模様が、おきまりのデザインで、幅の広い帯状に、黄金で彫りこまれていた。
ヘリウムのターラは、身にまとっていたスカーフをぬいで、奴隷娘に手渡した。それから階段をゆっくりおりて、湯のへりまでいき、均整のとれた足で、その温度をためした。その足は、きつい靴やハイヒールで形をゆがめられてはいない――このように愛らしい足は、神が創《つく》ろうと望んだものではあるが、実際にはめったに存在するものではない。ターラは、湯がちょうどいい加減だとわかったので、すっかりからだをひたし、浴槽の中をゆったり泳ぎまわった。あざらしのように巧みに泳ぎながら、湯の表面に浮いたり下にもぐったりした。なめらかな筋肉が、すきとおるような肌の下で柔らかに動く――健康と幸福と優美との、無言の調べだ。やがて湯からあがり、奴隷娘の手にからだをまかせた。奴隷娘は、黄金のつぼにはいった、香りのよいどろりとした物質を手にすくって、女主人のからだをこすりはじめた。そのうちに、つややかな肌は、石鹸|泡《あわ》のような泡でおおわれた。それから、ターラはまた湯にざっとつかってあがり、柔らかなタオルで水気をとらせた。入浴はそれでおわりだった。ターラの入浴はこのように単純で優美だったが、彼女の生活全体も、それと同じようだった――不必要に多くの奴隷をしたがわせて大騒ぎをしたり、貴重な時間をむだについやしたりしないのである。やがて三十分もするうちに、彼女の髪はかわかされ、王女の身分にふさわしい、奇妙《きみょう》な髪型にゆいあげられた。黄金と宝石をちりばめた革の飾り帯がとりつけられると、大元帥の宮殿でおこなわれる昼の宴会にまねかれた客たちを迎える仕度がととのった。
彼女が自室を出て客たちが集っている庭園のほうへむかって行くと、ふたりの戦士が、ヘリウム王家の紋章をつけたよろいに身をかためて、二、三歩うしろから随行《ずいこう》した。このきびしい事実は、バルスームでは常に暗殺者の剣が警戒されねばならないということを示している。バルスームでは、人間の寿命《じゅみょう》がきわめて長いので、暗殺がそれをほどほどにちぢめる役を果たしている。火星人の寿命は、千歳以上にもおよぶのである。
彼らが庭園の入口に近づいたとき、もうひとりの女性が、おなじように護衛されながら、大宮殿の別の区域から近よってきた。その女性が近づくと、ヘリウムのターラはそちらをむいて、ほほえみながら、うれしそうに挨拶した。彼女の護衛兵たちは、ヘリウム人の敬愛の的《まと》であるその人を心からたたえながら、ひざまずいて頭をさげた。ヘリウムの戦士たちは、いつもこのようにして、心の命ずるままに、デジャー・ソリスに挨拶するのである。彼女の不滅の美しさがもとで、バルスームの他の諸国とのあいだに、一度ならず血みどろの戦いが起こったのだった。ヘリウムの国民は、このジョン・カーターの妻を、ほとんど崇拝せんばかりに愛していた。彼女は、まるで女神のように美しかったが、国民は事実彼女を女神であるかのように崇拝しているのだった。
母と娘は、バルスーム語の「カオール」という挨拶をやさしくとりかわし、キスしあった。それから、客たちがいる庭園へいっしょにはいっていった。すると、巨大な体躯《たいく》の戦士が、短剣を抜いて、その側面で金属の楯《たて》をうちならした。その金属的な音は、客たちの笑い声や話し声を圧してひびきわたった。
「王妃さまのおなり!」彼はさけんだ。「デジャー・ソリスさま。王女さまのおなり! ヘリウムのターラさま」王族の到来は、いつもこのように宣せられる。客たちは立ちあがった。ふたりの女性は会釈した。護衛兵たちは、入口の両側にもどって、そこに立った。多くの貴族たちが敬意を表するために進みでた。笑い声や話し声がよみがえり、デジャー・ソリスとその娘は、かざり気なく、ごく自然な様子で、客たちのあいだをめぐり歩いた。列席者の態度には、地位の上下をほのめかすようなところはまったくなかったが、そこには、皇帝《ジェダック》がひとりならずいるいっぽう、普通の戦士たちもたくさんいた。彼らの肩書きといえば、勇敢な行為とか高貴な愛国心だけなのである。このように、火星では、ひとびとは祖先の功績《こうせき》よりは自己の功績によって評価される。もっとも、血統の誇りというものも、小さくはないが。
ヘリウムのターラは、視線をゆっくりさまよわせて客の群れをながめまわしていたが、やがてその視線はお目当てのものの上にとまった。すると、かすかに眉をひそめた。それは、目にはいったながめが不愉快なものだったせいだろうか? それとも真昼の太陽の明るい日射しがまぶしかったせいだろうか? それは余人にはわからない。彼女は、父の親友の息子ジョール・カントスと、いずれは結婚すべきものと思いこむように育てられてきた。このふたりが結婚することは、カントス・カンと大元帥の心からの望みだったし、ヘリウムのターラとしても、それをほとんど既成事実《きせいじじつ》として受けいれていた。ジョール・カントスも、それを同じような気持で受けいれているようだった。彼らは、それを未来のいつの日にか起こるべき当然のこととして、さりげなく話しあってきた。それはたとえば、現在海軍の士官《パドワール》であるジョール・カントスの進級と同じように確実なものだった。また、ターラの祖父で、ヘリウムの皇帝であるタルドス・モルスの宮廷でおこなわれる正式の宴会のようにきまりきったことだったし、あるいはまた、死のようにさけられないもののようであった。ふたりは、愛について話しあったことが一度もなかった。ターラは、まれには愛について考えることがあったが、そんなときには、自分たちがなぜ愛を語りあわないのかが不思議に思えた。というのは、彼女は、みんなが結婚しようとする場合は愛の問題に熱中するのが普通だということを知っていたからだ。それに、彼女は女らしい好奇心を人並みに持っていた――愛とはどんなものだろうかと疑問を持った。ジョール・カントスをとても好いていたし、彼が自分をとても好いているということも知っていた。ふたりは、いっしょにいるのを好んだ。なぜなら、同じ物事やひとびとや同じ書物を好きだったからだ。また、ふたりのダンスは、ふたりにとってばかりでなく、それを見ているひとびとにも喜びであった。ジョール・カントス以外のだれかと結婚しようなどとは、彼女には想像もできないことだった。
だから、彼女は、ジョール・カントスが、ハストールの国王《ジェド》の娘オルビア・マルシスといっしょに腰をおろして熱心に話しあっているのを見つけたとたんに、ほんのすこし眉をひそめたが、それは陽光がまぶしかったせいにすぎなかったのだろう。ジョール・カントスとしては、デジャー・ソリスとヘリウムのターラのところへ、すぐに敬意を示しにくる義務があるはずだった。しかし、彼はそれをしなかったので、やがて大元帥の娘は今度はほんとうに眉をひそめた。彼女は、オルビア・マルシスをながいことながめた。いままでに何度もオルビア・マルシスとは顔を合わせ、よく知っていたが、きょうはまったく新しい目で彼女を見つめた。そしていまさらのようにハストールから来たこの娘が、ヘリウムの美女たちのあいだでさえ、きわ立って美しいということを思い知らされた。ターラは動揺した。そして自分のそうした感情を分析しようとしたが、むずかしいことだった。オルビア・マルシスは彼女の友だちだった――彼女は、オルビア・マルシスをとても好いていたから、オルビアに対して怒りは感じなかった。では、ターラは、ジョール・カントスに対して腹をたてたのだろうか? いや、そうではない、と最後に彼女は結論した。してみると、彼女が感じたのは、単なる驚きだったのだ――ジョール・カントスが、彼女以外の女性にいっそう関心を持つことがありえたという驚きなのだ。彼女は、庭園を横切って、ふたりのそばに行こうとした。そのとき、すぐうしろで、父の声がした。
「ヘリウムのターラよ!」彼は呼びかけた。彼女がふりむくと、父は見知らぬ戦士といっしょに近づいてきた。その戦士のよろいと金属の装具についた紋章《もんしょう》は、彼女がかつて見たことのないものだった。ヘリウムの男性や遠くの帝国からの訪問者たちの豪華《ごうか》な礼装《れいそう》の中にまじってさえ、この見知らぬ男の礼装は、その異国的な華麗《かれい》さで目立っていた。彼のよろいの革は、まばゆいダイヤをちりばめたプラチナの飾りですっかりおおわれている。剣のさやも、火星の長いピストルを入れたきらびやかなケースも、同じように飾られている。彼が元帥と並んで日に照らされた庭園を進んで行くと、その無数のダイヤモンドのきらきらした光が彼のからだをオーロラのように包み、その高貴な姿に一種の神々しさをそえている。
「ヘリウムのターラよ、そなたに、ガソールの王《ジェド》ガハンをひきあわそう」ジョン・カーターはバルスームの簡単な紹介の作法にしたがって、そういった。
「カオール! ガソールの王《ジェド》ガハン」ヘリウムのターラは挨拶した。
「わが剣をあなたの足下にささげます、ヘリウムのターラ」若い王《ジェド》は挨拶した。
大元帥は、ふたりを残して立ち去った。ふたりは、ソラプスの樹が枝をひろげた下にある石のベンチに腰をおろした。
「はるかな国ガソール」ターラは、もの思いにしずみながらいった。「それは、わたくしの心の中では、ずっとまえから、神秘や冒険や、古代人のなかば忘れ去られた伝説とむすびつ「ていますわ。わたくしには、ガソールがいまも実在しているとは思えませんの。たぶん、これまでに一度も、ガソールの方を見たことがないせいでしょうけれど」
「それからたぶん、ヘリウムとガソールが非常にへだたっているせいもありましょう。また、わたしの小さな自由都市が、ヘリウムに比べて取るにたりないからでもありましょう。ガソールは、強大なヘリウムの片すみに失われてしまうほど小さいのです」ガハンはつけ加えた。「しかし、われわれは、力の不足を誇りでおぎなっています」と笑いながらつづけた。「われわれは、ガソールが、バルスームで、もっとも古くから人間が住みついた都市だと信じています。自由を保ちつづけている都市はわずかしかありませんが、ガソールはその一つです。しかも、ガソールの大昔からのダイヤモンド鉱山は、もっとも豊富で、他の山地とちがって、現在でも昔と同じように無尽蔵《むじんぞう》のようなのです。このような事実にもかかわらず、自由を保ってきたのですよ」
「ガソールの話をしてくださいませ」ターラはうながした。「考えるだけで、胸がおどるようですわ」若い王《ジェド》の美しい顔も、はるかな国ガソールの魅力をそそり立てるかのようだった。
ガハンとしても、美しい相手をさらに独占しておく口実ができたことが、嬉しくないはずはなさそうだった。彼の目は、彼女のあでやかな顔に釘づけになり、ふっくりした胸より下には移らなかった。その胸は、宝石をちりばめた胸あてでなかばおおわれ、肩はむきだしになっていて、均整のとれたみごとな腕には、絢爛《けんらん》豪華な腕輪がきらめいている。
「あなたも古代史で知っておられると思いますが、ガソールは、古代バルスームの五つの大洋のうちでもっとも大きなスロクサス海の中にある島の上に建設されたのです。海が干あがって後退するにつれて、ガソールの市街は、山の斜面をくだってきました。その山の頂きは昔の島で、その上にガソールが建設されたのです。今日では、ガソールは、ヤマの頂きからふもとまで、斜面をおおっています。ところで、その巨大な丘の内部には、ダイヤモンド鉱山の鉱坑《こうこう》がハチの巣のように走っています。都市は、塩分をふくんだ広い沼地ですっかり取り囲まれ、この沼地が、陸地からの侵入をさまたげているのです。いっぽう、山頂はけわしく切り立っているので、敵の飛行艇も危険で着陸できません」
「そのほかに、あなたの勇ましい戦士たちもひかえているからでしょう」ターラはさそうようにいった。
ガハンは微笑した。
「そういう自慢は、敵にむかってしか申しません。それも、肉の舌でいうよりは、鋼鉄の舌に、ものをいわせるのです」
「でも、そのように自然の要害《ようがい》によって敵の攻撃からまもられている国民は、戦争の技術について、どんな訓練ができますの?」ターラはたずねた。彼女は、自分の前の質問に対する若い王の答えが気に入ったが、心中では、自分の相手をしているこの男がたぶん弱虫なのだろうという漠然《ばくぜん》とした考えにつきまとわれていた。彼の礼装や武器の豪華さが、恐るべき実用品というよりは、みごとな飾り物といった感じをあたえたからだ。
「確かにこの天然の防壁がわれわれを敗北から救ったことは数えきれないほどありますが、だからといって、われわれはけっして敵の攻撃をまぬかれることはなかったのです。なぜなら、ガソールのダイヤモンド宝庫は非常に豊かなので、いつ、どこの国が、ほとんど確実に負けるとわかっていながらも、この不敗の都市を掠奪しようとたくらむかも知れないからです。そういうわけで、われわれはときたま武器の実地訓練をする機会にぶつかります。しかし、ガソールは、単なる山上の都市ではありません。私の国は火星赤道《ポロドナ》から北へ十|度《カラツド》、ホルツ(廃都。火星のグリニッチにあたる)の西第十|度《カラツド》から第二十|度《カラツド》にわたり、百万平方ハアド(火星マイル)をおおっています。その大部分は、すばらしい牧草地で、われわれが所有する馬《ソート》やジティダールの大群が走りまわっているのです。
「われわれの国は、侵略的《しんりゃくてき》な敵に取り囲まれているので、放牧者たちは、実際に戦士でなければなりません。さもないと、家畜の群れをすっかり奪われてしまうのです。ですから、彼らが戦闘を堪能《たんのう》していることについては、ご安心いただいてよろしい。さらに鉱山では、労働者をたえず必要とします。ガソール人は、自分たちを戦士の種族と考えていますから、鉱山で働くことを好みません。しかし、法律では、ガソールの男子はすべて、日に一時間、国家のために労働すべきものと定められています。これが事実上、彼らに課される唯一の租税なのです。ですが、彼らは代理の人間を提供して、この労働をさせることを望みます。ところで、わが国民は、鉱山の労働にやとわれようとしないので、奴隷を手に入れることが必要でした。申しあげるまでもなく、奴隷を手に入れるためには、戦わなければなりません。わが国では、こうした奴隷たちは、公共の市場で売られ、その売り上げは、国家とその奴隷を分捕《ぶんど》った戦士とで折半にします。奴隷を買いとったものは、自分の奴隷がやりとげた労働量だけ、労働を免除《めんじょ》されます。働きのよい奴隷だと、一年のうちに、主人の労働税の六年分をやりとげます。そして、奴隷の数が豊富にあるときには、彼らは解放されて、自分の国にもどることを許されるのです」
「あなた方は、プラチナとダイヤモンドで飾りたてて戦われますの?」ヘリウムのターラは、いたずらっぽい微笑を浮かべながら、彼の豪華《ごうか》な飾りを指さした。
ガハンは声をあげて笑った。
「われわれは、見えっぱりな国民です」と気軽に認めた。「おそらく、個人的な外見を重視しすぎているのでしょう。比較的軽い生活上の義務にしたがうためによそおうとき、われわれは、服装の豪華さをおたがいにきそいあうのです。しかし、敵と戦うときに身につける装具は、きわめて質素なものです。わたしが見たかぎりでは、バルスームの戦士が身につけているうちでもっとも質素なものでしょう。われわれはまた、自分たちの肉体的な美を誇りにしています。とくに、われわれの女性の美しさを。しかし、あえて申しますが、ヘリウムのターラ、わたしは、あなたがいつの日かガソールを訪れて、わたしの国民に、ほんとうに美しい女性を見せてやっていただきたいと希望するのですが、いかがでしょう?」
「ヘリウムの女性は、心にもないほめ言葉には、不快の眉をひそめるように教えられております」ターラは答えたが、ガソールの王ガハンは、彼女がそういいながら微笑を浮かべているのを見てとった。
笑い声や話し声をこえて、ラッパが高らかに美しくひびきわたった。「バルスーム・ダンスですな!」若い王は叫んだ。「わたしとおどっていただきたい、ヘリウムのターラ」
ターラは、さきほどジョール・カントスを見かけたベンチのほうを一瞥《いちべつ》した。カントスは見あたらない。彼女は、ガソール人の求めに応じてうなずいた。奴隷たちが客たちのあいだを通り抜けながら、弦が一本だけの小さな楽器を配って歩く。それぞれの楽器の表面には、音の高低と長短を示す記号がついており、スキール製で、弦はガット(腸線)。楽器の形は、おどり手の左の二の腕にあてはまるようにできていて、そこに革ひもでむすびつけるのである。またべつにガットでできた輪があり、それを右手の人さし指の第一関節と第二関節のあいだにはめるようになっている。これで楽器の弦をはじくと、おどり手に必要な単純な音が発生する。
客たちは立ちあがって、庭園の南のはずれにある、真紅の芝生のひろがりのほうへ、ゆっくり歩いて行った。ダンスは、そこでおこなわれるのだ。そのとき、ジョール・カントスが、ヘリウムのターラのほうへ急いでやってきた。
「ぼくとおどっていただきたい――」彼は近づきながら叫んだが、彼女は身ぶりでさえぎった。
「あなたはおそすぎました、ジョール・カントス」彼女は、怒ったふりをして叫んだ。「のろのろしている方は、ヘリウムのターラに申し込むことはできません。でも、お急ぎにならないと、オルビア・マルシスともおどれなくなりますわよ。あの方は、いつだって、すぐに申し込まれるんですから」
「あのひとは、もうほかのものにとられてしまったのです」ジョール・カントスは、残念そうに認めた。
「それでは、あなたは、オルビア・マルシスとおどれないことがわかったので、それでターラに申し込みにいらしたと、そうおっしゃるおつもりなの?」彼女は、やはり不機嫌をよそおいながらたずねた。
「ああ、ヘリウムのターラ、あなたはよくご存じのくせに」青年はむきになっていった。「ぼくは、あなたが待っていてくださるものと思っていたのです。それは当然のことではありませんか? これまであなたにバルスーム・ダンスをすくなくとも十二回申し込んだのは、ぼくだけなのだから」
「では、あなたがわたくしに申し込むのを適当とお考えになるときまで、わたくしは腰をおろして、自分の親指で遊びながら待っていろとでもおっしゃるの?」彼女はまぜかえした。「とんでもないことよ、ジョール・カントス。ヘリウムのターラは、おくれて申し込む方とはおどりません」そして艶然《えんぜん》と微笑を投げると、遠い国ガソールの王ガハンといっしょに、おどり手たちが集っているほうへむかって行った。
バルスーム・ダンスが火星の比較的公式なダンス・パーティーで占める役割りは、グランド・マーチ・ダンスが地球のダンス・パーティーで占める役割りに似ている。しかし、バルスーム・ダンスのほうが、はるかに複雑で、それに優美である。火星の若い男女が、ダンスのある重要な社交的催しに出席するためには、少なくとも三種類のダンスに熟達《じゅくたつ》していなければならない――バルスーム・ダンスのほか、自分の国のダンスと自分の都市のダンスである。この三種類のダンスでは、おどり手は自分で音楽を奏する。その音楽も、ダンスのステップも、非常に古い時代から少しも変わらずにうけつがれてきたものである。バルスームのダンスはどれも上品で美しいが、バルスーム・ダンスはとりわけ荘重な動きと調和にみちている――グロテスクな身振りもなく、下品で暗示的な動作もない。それは、この世でもっとも高い理想を象徴《しょうちょう》するものとされている。すなわち、女性に対しては、優雅《ゆうが》と美と純潔《じゅんけつ》を、男性に対しては、力と威厳と忠誠を。
いま、火星の大元帥ジョン・カーターは、妻のデジャー・ソリスとともに、ダンスの先頭に立っていた。もしこのふたりに劣らぬほど客たちの無言の称賛を受けているべつの一組があるとすれば、それは、燦然《さんぜん》たる礼装を身につけたガソールの王と、その美しいパートナーであろう。ダンスのステップがたえず変わるにつれて、ガハンはターラの手をとったり、片腕を彼女のしなやかなからだにまわしたりした。彼女は、宝石をちりばめた飾り帯をつけてはいたが、肌はわずかしかおおわれていない。これまで一千回もおどったことがあったが、ターラはいまはじめて、むきだしの肌の男の腕がぴったりふれるのを意識した。彼女は、その意識になやまされた。そして、まるでそれがガハンの責任だとでもいうように、ほとんど怒ったような目つきで、いぶかしげに彼の顔を見あげた。ふたりの目が合った。彼女が相手の目の中に見たのは、これまで一度もジョール・カントスの目の中に見たことがないようなものだった。それは、ちょうどダンスが終わるときで、ふたりは、音楽がやむと同時にふいに立ち止まり、おたがいの目をまっすぐに見つめ合った。はじめに口をきったのは、ガソールのガハンだった。
「ヘリウムのターラ、わたしはあなたを愛します!」
ターラはきっとなって、上体をのばした。
「ガソールの王《ジェド》は、ご自分を忘れておいでです」彼女は気位《きぐらい》高くいった。
「ガソールの王は、あなた以外のあらゆることを忘れたいのです、ヘリウムのターラ」彼は答えた。そしてダンスの最後の姿勢のまま、まだ彼女の柔らかな手をとっていたが、その手をはげしく握りしめた。「あなたを愛します、ヘリウムのターラ」とくり返した。「たったいま、あなたの目は、わたしがあなたを愛するのをこばまれなかった――そしてそれに答えられた。それなのに、なぜあなたの耳は、それを聞くのをこばまれるのです?」
「なにをおっしゃいます」彼女は叫んだ。「では、ガソールの男性は、みなそのような礼儀知らずの田舎者なのですか?」
「彼らは、田舎者でもおろか者でもありません」彼はしずかに答えた。「彼らは、女性を愛したとき、それをよくわきまえています――また、その女性が自分を愛しているか否かもわきまえているのです」
ヘリウムのターラは、怒りのあまり、小さい足をふみならした。
「退《さが》りなさい! すぐ退らないと、あなたの失礼ななさりようを父に知らせますよ」
彼女は、くるっと背を向けて歩き出した。
「お待ちなさい!」男は叫んだ。「もう一言だけ申しあげたいことがあります」
「謝罪ですの?」彼女はたずねた。
「いや、予言です」彼はいった。
「聞く耳はありません」ターラはそう答えて、彼を置き去りにした。彼女は奇妙に気疲れを感じた。そして間《ま》もなく宮殿の中の自分の部屋にもどった。彼女は、ながいこと窓ぎわに立って、北西にそびえた大ヘリウムの真紅の塔のかなたを眺めていた。
やがて、彼女は腹立たしげに顔をそむけると大声で叫んだ。
「あんなひと、大嫌い!」
「どなたのことですの?」お気に入りの奴隷娘ユシアがたずねた。
ターラは地団駄ふんだ。
「あの無作法なガソールの王《ジェド》のことよ」
ユシアは細い眉《まゆ》をあげた。
ターラが小さな足をふみならすと、部屋のすみから一匹の巨大な獣がむっくり立ちあがって彼女に近づき、そこに立ち止まって彼女の顔を見あげた。ターラは、獣のみにくい頭に手をのせた。
「かわいいウーラ。おまえの愛情くらい深い愛はないわ。それに、腹を立たせるような愛ではないもの。あの男たちも、おまえを見ならえばいいのに」
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二 嵐のままに
ヘリウムのターラは父の客たちのところにはもどらず、ジョール・カントスからの伝言を自分の部屋で待ちつづけていた。彼女にぜひ庭園にもどってくれるようにいってくるはずなのだ。もし、そういって来たら、頭からはねつけてやるつもりだった。だが、ジョール・カントスからは、なんの伝言もなかった。最初、彼女は怒ったが、やがて気色《きしょく》が悪くなった。終始ふしぎでならない。彼女にはわけがわからなかった。ときたま、ガソールの王のことを考えた。そして足をふみ鳴らしたくなるのだった。彼女は実際ガハンにひどく腹を立てていたからである。あの男の厚かましさ! 彼は彼女の目の中に自分への愛情を読み取ったことを、ほのめかしたのだ。彼女はこれまでに、これほど侮辱され自尊心を傷つけられたことはなかったし、ひとりの男を、これほど徹底して憎んだこともなかった。実際、彼女はユシアのほうにむきなおった。
「わたくしの飛行服を持っておいで!」と命じた。
「でも、お客さまが!」奴隷娘は叫んだ。「お父上、大元帥さまは、お嬢さまが席にもどられるのをお待ちでございましょう」
「そうはいかなくてよ」ターラは腹立たしげにいった。
奴隷娘はためらった。
「大元帥さまは、お嬢さまがおひとりで飛ばれることには賛成なさいませんわ」と女主人に注意した。
若い王女はぱっと立ちあがると、あわれな奴隷娘の両肩をつかんでゆすぶった。
「生意気なことをおいいでないよ」彼女は叫んだ。「このぶんじゃ、いまにおまえを奴隷市場に送るほかはないわ。そうすれば、きっとおまえは自分の好みにあった主人を見つけられるでしょう」
奴隷娘のやさしい瞳に涙があふれた。
「あたしがこんなことを申しあげるのは、お嬢さまをお愛し申しあげているからでございますわ、王女さま」と奴隷娘は従順にいった。ヘリウムのターラは心をやわらげた。彼女は奴隷娘を両腕で抱いて接吻した。
「わたくしは馬《ソート》のような性質なのよ、ユシア。許しておくれ! わたくしはおまえが好きなの。おまえのためならなんでもしてあげるし、おまえのためにならないことは、けっしてしません。これまでに何度もいったことだけど、もう一度わたくしはおまえが自由の身になる機会を提供してあげます」
「あたしは自由など望みません。もし自由があたしをお嬢さまから引きはなすのでしたら、ヘリウムのターラさま」とユシアは答えた。「お嬢さまのおそばにいることで充分しあわせでございます――お嬢さまのおそばをはなれれば、あたしは生きてはいられません」
再び、ふたりの娘は接吻しあった。
「では、おひとりではお飛びになりませんね?」奴隷娘はたずねた。
ヘリウムのターラは笑って、いたずらっぽく、奴隷娘をつねった。
「おまえはかわいいけど、しつかい厄介者《やっかいもの》ね」彼女は叫んだ。「もちろん、わたくしは飛ぶつもりです――ヘリウムのターラは、なんでも自分の好きなようにするのではなかったかしら?」
ユシアはかなしそうに頭をふった。
「ああ! おっしゃるとおりでございますわ」彼女は認めた。「バルスームの大元帥さまは二つのことを除けばあらゆるものにたいして鉄のように不屈でいらっしゃいます。でもデジャー・ソリスさまとヘリウムのターラさまとのお手にかかると、あの方はまるで陶工の粘土のようにやわらいでおしまいになる」
「さあ、おとなしい奴隷らしく、わたくしの飛行服を取っておいで」女主人は命じた。
ヘリウムの双子都市のかなたへ、黄土色の海底を横切ってはるか遠く、ヘリウムのターラの飛行艇はすばらしい速度で飛んでいた。スピードと上昇と小さな船体の従順さとのスリルをたのしみながら、彼女は北西にむかって飛行していった。なぜその方向をえらんだのか、彼女は強いて考えてみなかった。おそらく、その方向にはバルスームでもっとも知られていない地域、つまり伝奇と神秘と、そして冒険が存在しているせいだろう。その方向にはまた、はるか彼方にガソールがある。しかし、その事実を彼女は意識していなかった。
けれども、彼女はときおり、この遠く離れた王国の王《ジェド》のことを考えた。しかしそうした回想に対する反応は、ほとんど喜ばしいものではなかった。それらのことを思いだすと、彼女はいまだに頬が恥ずかしさで赤らみ、心臓に怒りの血が逆流《ぎゃくりゅう》するのだった。彼女はガソールの王《ジェド》にひどく腹を立てていた。そしてもう二度と会うつもりはなかったにもかかわらず、彼女は彼に対する憎悪が思い出の中でいつまでも生々しくのこるにちがいないということを知っていた。彼女の思いの大部分は、もうひとりの男――ジョール・カントスに馳《は》せた。そして彼のことを考えるとき、彼女は同時にハストールのオルビア・マルシスのことを考えた。ターラは自分が美しいオルビアを嫉妬しているのだと考え、その考えがまた彼女をひどく怒らせた。彼女はジョール・カントスと自分自身とに立腹したが、しかしオルビア・マルシスには少しも腹を立てなかった。彼女はオルビアを愛していたから、当然、本気で嫉妬していたのではない。問題なのはヘリウムのターラにとって、はじめて物事が自分の思いどおりにならなかったということなのだ。ジョール・カントスが従順な奴隷のようにあとを追いかけてくることを期待したのに、彼はそうしなかった。そして、おお! そこにこそこの問題全体の核心《かくしん》があるのだ。ガソールの王で異邦人であるガハンは、彼女の不面目を眼《ま》のあたりにしたのだ。彼は盛大な祝宴のはじめに彼女が無視されているのを見て、彼女が壁の花となる不名誉な運命から救いだそうと考えたにちがいない。そこで彼女のところへやってこないわけにいかなかったのだ。そのことを思いだすと、ヘリウムのターラは自分の全身が羞恥《しゅうち》のために、かっと燃えるのを感じた。それから当然、怒りであおざめ、全身がつめたくなった。そのとき彼女は飛行艇の方向をあまりにも唐突に変えたので、あやうく平らでせまいデッキの繋索からもぎ離されそうになった。やがて暗くなる直前に宮殿にもどった。客たちはすでに辞して、宮殿には静寂《せいじゃく》が訪れていた。一時間後、彼女は父母といっしょに夕食をとっていた。
「おまえはわたしたちを置き去りにしたな、ターラ」ジョン・カーターはいった。「そのようなことは、ジョン・カーターの客人が望まれるところではないのだよ」
「お客さま方は、わたくしに会いにいらしたのではありませんわ」ターラは答えた。「わたくしはお客さま方に来てくださるようにおたのみしませんもの」
「しかし、わたくしのお客であると同時に、お前のお客でもあるのだよ」父は答えた。
彼女は立ちあがった。そして父のかたわらに立ち、両腕を父の首にまわした。
「わたくしのごりっぱなバージニア人のお父さま」彼女は父の黒い巻き毛をかきみだしながら叫んだ。
「バージニアなら、おまえはお父さまのひざの上にひっくりかえされてお尻をたたかれるところだよ」カーターは微笑しながらいった。
彼女は父のひざに乗って接吻した。
「お父さまは、もうわたくしをかわいがってくださらないのです」彼女は断言した。「だれもわたくしを愛してくれないのよ」しかし、すねた顔をすることはできなかった。なぜなら、笑いがいまにも爆発しそうだったからだ。
「困るのは、おまえを愛している者があまりにも多すぎることだ。そんな男が、もうひとりあらわれたよ」
「まあ!」彼女は叫んだ。「それ、なんのことですの?」
「ガソールのガハンが、おまえに求婚《きゅうこん》する許可を申し出たのだよ」
娘はすっくと立ちあがり、つんと顎《あご》をそらせた。
「あんな歩くダイヤモンド鉱山のような男とは結婚したくありません。まっぴらだわ」
「わたしも、そんなふうに彼にいっておいたよ」父は答えた。「それに、おまえは他の男と婚約しているも同然だからね。ガハンはそのことについて大変、礼儀正しかった。しかし同時に、彼は自分が、いったん欲しいと思ったものならきっと、手に入れる男であり、おまえを非常にほしがっているということをわたしに納得《なっとく》させたのだ。これはまた戦争が起こることを意味しているようにも思われる。おまえのお母さまの美しさは長年にわたってヘリウムを他国と交戦状態におきつづけてきたのだが――ところで、ヘリウムのターラよ、もしもわたしが若者だったら、おまえをかちとるためとあらばよろこんで全バルスームを戦乱の巷《ちまた》にしたことは、まちがいない。わたしが、いまでもおまえの美しい母のためならそうするであろうようにな」そして彼はソラプスのテーブルと黄金の食器越しに、火星随一の美女のおとろえを見せぬ美貌にむかって微笑を投げた。
「わたくしたちの可愛い娘を、まだこんな問題で悩ませてはなりませんわ」デジャー・ソリスがいった。「いいですか。ジョン・カーター、あなたは地球の子供を相手にしていらっしゃるのではありません。地球の子供の一生は、バルスームの娘が実際に成熟する前に、すでになかばをおえてしまうのですもの」
「だが、バルスームの娘も、ときには二十歳くらいで結婚するではないか?」彼はいいかえした。
「そうですわ。でも、彼女たちは、地球の人間の四十もの世代が塵に帰すほど年をかさねてのちも、まだ男たちの目に好ましく見えるでしょう――ですから、バルスームでは、すくなくとも結婚をあわてることはないのです。あなたは、地球人たちが老い衰えるということを話してくださいましたが、バルスームのわたくしたちは、そういうことがないのです。もっとも、あなたご自身は老いも衰えもなさらず、あなたのお言葉と矛盾しておりますけれど。適当と思われるときがくれば、ヘリウムのターラはジョール・カントスと結婚させましょう。そしてそれまでは、もうこの問題を考えないことにいたしましょう」
「そうですわ!」娘はいった。「わたくし、もうそんなお話まっぴらよ。それにわたくしはジョール・カントスとも、ほかのだれとも結婚なんかしなくてよ――結婚する気がないんですもの」
父と母とは彼女を見て微笑した。
「ガソールのガハンは自分の国へもどるとき、おまえを連れ去ってしまうかもしれない」と父親はいった。
「あの男はもう出発しまして?」娘がたずねた。
「あの男の飛行艇は今朝、ガソールに出発するのだ」ジョン・カーターが答えた。
「では、もう見ないですむのね」ヘリウムのターラはほっとしたように溜息をもらした。
「彼はそうはいわないがね」ジョン・カーターが答えた。
娘は肩をすくめてその問題をさけ、会話は別の話題に移った。プタースのスビアから一通の手紙が来ていた。彼女は夫のカーソリスがオカールで狩猟しているあいだ、自分の父の宮廷を訪問しているところだった。また、サーク族とワフーン族とが、ふたたび交戦中である旨が報じられてあったが、これはむしろ、また合戦があったというほうがあたっている。なぜなら、この両国のあいだでは、戦争が恒常的《こうじょうてき》な状態だったからである。人類の記憶に残るかぎりでは、この二つの野蛮な緑色遊牧民のあいだに平和があったためしがない――ただつかの間《ま》の休戦があるだけなのだ。二隻の新型戦艦がハストールで完成した。ホーリー・サーンの残党が、いまは権威を失墜した古代のイサスの邪教を復活させようとしている。彼らの主張によれば、その神はやはり魂の中に存在し、サーンと交感しているとか。デュサールからは戦争の噂が伝わってきた。ある科学者は、遠いほうの月に人類のいることを発見したと主調していた。ひとりの狂人が大気工場を破壊しようと企てた。大ヘリウムでは、最近十ゾード(ゾードは地球の一日にあたる)のあいだに、七人が暗殺された。
夕食の後、デジャー・ソリスと大元帥とは、ジェッタンをはじめた。これは、バルスームのチェス・ゲームで、交互に黒とオレンジ色をした百個の方眼をもつ盤上で勝負するのである。いっぽうの遊戯者は二十個の黒駒《くろごま》を持ち、他方は二十個のオレンジ色の駒を持つ。このゲームを手短に説明することは、チェスの好きな地球の読者に興味のあることだろうし、この物語を結末まで読むかたに無益なことではないだろう。なぜなら、この物語を読みおえる前におわかりになるだろうが、ジェッタンに関する知識は、読者のために用意された興味とスリルとを増加させるからである。
ジェッタンの駒は、チェスと同様に、盤面《ばんめん》のそれぞれの遊戯者の手前二列に並べられる。遊戯者にいちばん近い方眼《ほうがん》の列に並べられる駒の順序は、左から右へ戦士《ウォリアー》、士官《パドワール》、隊長《ドワール》、飛行艇《フライヤー》、王将《チーフ》、王女《プリンセス》、飛行艇《フライヤー》、隊長《ドワール》、士官《パドワール》、戦士《ウォリアー》である。次の列はすべて|放浪の戦士《パンサン》であるが、両端の駒だけは、馬《ソート》と呼ばれ、騎馬の戦士を意味する。
パンサンというのは一本の羽飾りをつけた戦士の意味で、後方をのぞけば、どんな方向にでも一度に一目ずつ動ける。三本の羽飾りをつけた騎馬戦士のソートは正面に一目、斜めに一目ずつ進み、進路を妨げる駒を飛び越えることができる。二本の羽飾りをつけた徒歩の兵士である戦士は、どんな方向にもまっすぐ、または斜めに二目ずつ進める。二本の羽飾りをつけた士官であるパドワールは、どんな方向にも斜めに二目か、またはコンビネーションで進める。三本の羽飾りをつけた隊長のドワールは、どんな方向にもまっすぐ三目またはコンビネーションで進める。三枚羽のプロペラによって表わされる飛行艇は、どんな方向にもまっすぐ三目、またはコンビネーション、または斜めに進めるし、進路を妨げる駒を飛び越えられる。十個の宝石で飾られた王冠で象徴される王将は、どんな方向にでも、まっすぐに、または斜めに三目進める。一個の宝石で飾られた宝冠の王女は、王将と同様に動き、進路を妨げる駒を飛び越えることができる。
このゲームは、ひとりの遊戯者が自分の持ち駒のどれか一つを相手の王女と同じ方眼に入れたとき、または王が相手の王を取ったとき、その遊戯者の勝ちとなる。王が相手の王以外の駒に取られたときは引き分けになる。また双方が同じ価値の駒三個かそれ以下になってしまい、つぎの十手、すなわち両者それぞれ五手ずつのあいだにゲームが終わらないときも引き分けとなる。これが簡単に説明した、このゲームの大要である。
ヘリウムのターラが、自分の部屋に引きとり、絹と毛皮にくるまって眠るために、デジャー・ソリスとジョン・カーターにお休みの挨拶をしたとき、ふたりがやっていたのはこのゲームだった。「朝までごきげんよう、お父さま、お母さま」その部屋からでるとき、彼女はふりむいてふたりに声をかけた。彼女も、また両親もむろん知るよしもないことだったが、これが両親が娘を見た最後になったのである。
朝はどんよりと灰色に明けそめた。不吉な雲が不穏に低く渦まいている。それらの下方には引きちぎられた雲が北西にむかって飛んでいた。ヘリウムのターラは自分の部屋の窓からこの異常な光景を眺めた。濃い雲がバルスームの空をおおうことは珍しかった。毎日この時間には、赤色火星人の乗用動物である小さなソートに乗るのが彼女の日課になっていた。しかし、渦まく雲をながめると、彼女は新しい冒険への誘惑を感じた。ユシアはまだ眠っていたから、わざと起こさなかった。彼女は静かに身仕度をし、自分の部屋の真上の、王宮の屋上にある彼女専用の快速艇がおさめられている格納庫にあがっていった。彼女はまだ雲の中を飛んだことがなかった。雲をつきぬけて飛ぶ、それはかねがねやってみたいと望んでいた冒険だった。風は激しく、無事に快速艇を格納庫から引き出すことはむずかしかった。しかし、いったん離陸すると、快速艇は双子都市の上空を軽快に飛んでいった。吹きつける風は快速艇を捕えて翻弄《ほんろう》した。彼女はそれがもたらすスリルに有頂天になって、声高く笑い、まるで老練者のように小さな快速艇を操縦した。もっとも、老練者ならこんな軽い快速艇で、これほどものすごい暴風の脅威に直面するものはまずいないだろう。彼女は、暴風に吹きちぎられた雲がかすめ飛ぶ気流と先をあらそいながら、ぐんぐん雲にむかって上昇していった。一瞬ののち、上空に渦巻く濃い雲の中に、のみ込まれた。そこは新しい世界だった。彼女以外に住む人のいない混沌《カオス》の世界。しかし、そこは寒く、じめじめした孤独な世界だった。ものめずらしさがうすらぐと、彼女の周辺に渦巻く、強大な力の圧倒的な感覚から、この世界が息づまるように感じられた。突然、自分がひどく孤独で、ひどく寒く、ひどく卑小な存在に感じられた。そこで急いで上昇すると、やがて快速艇は雲を突き抜けてまばゆい日光の中に出た。日光は濁った雲海の表面をまるで、みがいた銀のもくもくしたかたまりのように見せている。そこもやはり寒かったが、雲の湿気はなかった。輝かしい太陽に直面すると、彼女の気分は、高度計の針が上るにつれて高揚してきた。いまや、はるか下方になっている雲海を見おろすと、天と地の中空に静かに漂っているような気分を味わった。しかし、プロペラのはげしい回転、彼女のからだに吹きつける風、速度計のガラスの中で上下する数字などは、飛行艇の速度がすさまじいものであることを告げていた。彼女がひきかえそうと決心したのはそのときだった。
雲海の上で最初に脱出を試みたが成功しなかった。きゃしゃな快速艇を振動させ、たたきつけている烈風にさからっては方向転換することさえできないということがわかって彼女は驚愕《きょうがく》した。そこで急いで高度をさげ、渦巻く雲海、陽光をさえぎられた陰鬱《いんうつ》な地表とのあいだの、暗い風が吹きすさぶ中間地帯に出た。ここで、再び快速艇の艇首をヘリウムの方向にふりむけようとつとめたが、嵐はきゃしゃな快速艇をとらえて情け容赦もなく突きとばし、まるで奔流にもてあそばれるコルクのようにひっくりかえしこづきまわした。やっとのことで彼女は地上すれすれのところで快速艇をたてなおすことができた。いまだかつて、これほど死の危険に直面したことはなかった。しかし彼女は怖れてはいなかった。沈着さが彼女を救ったのである。それと、彼女をつなぎとめている甲板|繋索《けんさく》の強靭《きょうじん》さのおかげだった。暴風に乗って飛行していくこと自体は無事だったが、暴風は彼女をどこへ運びつつあったのだろうか? 彼女は自分が朝食の席に顔を出さなかったときの父母の心配を思い描いた。両親は彼女の快速艇がなくなっていることに気づくだろう。そして暴風の進路のどこかで、快速艇が墜落し、彼女の死体の上に瓦礫《がれき》の山と化して散乱していると想像するのではないか。それから勇敢な男たちが、命がけで彼女を捜しに出かけるだろう。しかし、彼らの生命は捜索中に失われてしまうだろう。それが彼女には、わかっていた。なぜなら、生まれてこのかた、かくも物すごい嵐がバルスームの上で荒れ狂ったことは初めてなのを彼女は悟ったからである。
もどらなければならない! 彼女の無謀《むぼう》な冒険心のせいで、部下の勇敢な生命が、たとえひとりといえども犠牲にならないうちに、ヘリウムに帰りつかなければならない! 雲の上に出れば安全と成功の可能性が強くなるものと確信したので、もう一度、刺すように寒い風の渦まく霧の中を上昇していった。艇の速度は、またすさまじくなった。風は弱まるどころか、ますます強まってくるようだ。彼女は艇のはげしいスピードを徐々に抑制しようと試みた。やがて、モーターを逆転させることに成功したが、風は機体を思いのままに翻弄するばかり。ここにいたってヘリウムのターラは、かんしゃくを起こした。彼女の世界は、いつも彼女のあらゆる意思に従順に頭をさげてきたのではなかったか? あえて彼女の意思にさからうこれらの自然力は、なにものであるのか? 彼女は大元帥の娘がけっして負けてはいないことを示そうとした。ヘリウムのターラは自然力によってさえ支配されないということを思い知らせようとした。
そこで彼女はふたたび、モーターを順回転させ、断固たる決意をもって、白い歯を噛みしめながら、操縦桿を左いっぱいにきって、艇首を風の牙《きば》の真正面にたてなおそうとした。すると風はきゃしゃな機体をひっつかみ、さかさまに転倒させ、きりきりまいをさせ、ひっくりかえし、くりかえしくりかえし投げとばした。プロペラが一瞬、エア・ポケットにおち込んで空転したかと思うと、暴風はまたプロペラをとらえ、シャフトからねじ折った。彼女は上下し転倒し、のたうちまわる原子のように、小さな艇の上で、なすすべもなかった――彼女は自分が戦いを挑んだ自然力のおもちゃにされているのだった。ヘリウムのターラの最初の感情は驚きであった――自分の思いのままにすることができなかったという驚き。それから心配しはじめた――自分の身の安全のためではなく、両親の不安と、彼女を捜しに出動するはずの戦士たちが直面せざるをえない数々の危険とを心配したのだ。彼女は自分のむこうみずなわがままが、ほかの人間の平和と安全とを危険にさらしたことを反省していた。また自分の身にふりかかった容易ならぬ危険にも気がついていた。だが、いぜんとして怖れてはいなかった。それはデジャー・ソリスとジョン・カーターの愛娘《まなむすめ》にふさわしいことである。浮力タンクは艇をいつまでも浮游《ふゆう》させるだろう。しかし彼女は食料も水も持たず、バルスームでもいちばん知られていない地域へ運ばれているのだった。ヘリウムからますます遠く運ばれて行くのにまかせて早期発見の機会を急激に減少させるよりは、むしろ一刻も早く地上におり、捜索者たちの来るのを待つほうが賢明だったろう。しかし地上にむかって降りかけると、風の猛威が着陸の企図を破滅に等しいものとしていることがわかったので、彼女は急遽《きゅうきょ》また上昇した。
地上から二、三〇〇メートルのところを運ばれながら、彼女は雲海の上の比較的平静な気圏を飛んでいたときよりも、なおいっそうこの暴風の巨大なスケールを理解できた。というのはいまや、バルスームの表面に吹きつける風の猛威をはっきりと見ることができたからだ。空中には砂塵《さじん》と草木の吹きとばされた小片が充満していた。暴風に運ばれて、灌漑《かんがい》した農地の上を横切ったとき、彼女は大きな樹木や石垣や建物が空中たかく吹きあげられ、荒廃した土地の上に散乱するのを目撃した。つづいて快速艇は、つぎからつぎへと新しい光景のほうへぐんぐん運ばれていった。それらの光景は否応《いやおう》なしに、しょせんはヘリウムのターラも、ちっぽけでとるにたりない無力な人間なのだという確信を強めさせるだけだった。そうした確信がつづいているかぎり彼女の自尊心にとって大きなショックだった。そして夕暮れが近づくころには、彼女はその確信が永久につづくだろうと信じたいような気持になっていた。嵐の狂暴さはすこしも衰えを見せず、衰えそうな徴候《ちょうこう》さえなかった。彼女は自分が運ばれた距離を推定するほかはなかった。というのは走程記録計の上につぎつぎと積算されていく、大きな数字の正確さを本気にできなかったからだ。それらの数字は信じられないほど大きかったし、彼女はそれを信用しなかったが、じつはまったく正確そのものだったのである――十二時間のあいだに、彼女はたっぷり七千ハアドも暴風に運ばれて飛んでしまったのだ。日没の直前、古代火星の廃墟《はいきょ》の街の上空を過ぎた。その都市はトルクワスだったが、彼女は知らなかった。そうと知ったなら、彼女は救出の一縷《いちる》の望みも、あっさり放棄したことだろう。というのは、ヘリウム人にとってトルクワスは、アメリカ人にとっての南海諸島くらい遠いものに思われているからだ。そして暴風は、いぜんとしてその猛威を衰えさせず、彼女を運びつづけた。
その夜ずっと、彼女は雲の下の暗闇を貫いて突進したり、雲の上へ上昇してバルスームの二つの衛星の月明に照らされたあかるい空間を疾走したりした。寒く、空腹で、まったくみじめな有様だった。しかし理性は真実を宣告したにもかかわらず、彼女の勇敢な小さな精神は、自分の立場が絶望的であることを認めようとはしなかった。理性への彼女の返答は時おり、大声で突然、反抗的に叫ばれたが、その言葉は彼女の父祖がかつて全滅に瀕《ひん》したときに示したスパルタ的な強情さを思わせるものだった。
「わたくしはまだ生きている!」
その日の朝、大元帥の宮殿に早々と訪問者があった。それはガソールの王《ジェド》ガハンである。彼が到着したのは、ひとびとがヘリウムのターラがいないことに気づいてから間《ま》もなくだった。その騒ぎのために、彼の来訪は報ぜられないままだったが、やがてジョン・カーターが宮殿の接客用の大回廊でばったり、彼と鉢合わせした。大元帥は娘の捜索のために飛行艇を派遣すべく、とるものもとりあえずとび出してきたところだった。
ガハンは大元帥の顔の上に心痛を読みとった。
「もしお邪魔でしたらお許しください、ジョン・カーター」彼はいった。「わたしは、もう一日の滞在をお願いにまいっただけなのです。こんな嵐の日に艇を航行させようとするのは、むこうみずなことでしょうから」
「滞在したまえ、ガハン、きみが帰りたいと思うときまで自由にしてくれ」大元帥は答えた。「だが、わたしの娘がもどってくるまでは、ヘリウム側の態度がどれほど無愛想に思えても許していただきたいものだ」
「あなたの娘御ですと! もどるですと! それはどういう意味ですか?」ガソール人は叫んだ。「わたしにはなんのことかわかりません」
「娘が姿を消してしまったのだ。あれの小型快速艇もなくなっている。われわれにわかっているのはこれだけだ。娘が朝食前に飛ぶ気になり、この嵐につかまったらしいということしか想像がつかない。わたしがきみをそっけなく置き去りにしても、きみは許してくれるでしょうな、ガハン――わたしは、いま娘を捜索するために飛行艇を派遣する手配をしているところなのだ」
しかし、ガソールの王《ジェド》ガハンは、すでに王宮の門のほうに駆けだしていた。彼はそこに待たしてあったソートにとび乗ると、ガソールの飾りをつけたふたりの戦士を引きつれ、彼を接待するために割りあてられた宮殿のほうへむかって、ヘリウムの大通りを駆けぬけて行った。
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三 無頭人間
ガソールの王《ジェド》とその随員《ずいいん》が宿泊している宮殿の屋根の上方では、巡洋艦バナトールが風にあおられて太い繋留索《けいりゅうさく》を引きちぎりそうなほどひっぱっていた。索具のきしる音は、疾風《しっぷう》の猛威を示しているし、いっぽう、暴風にもまれる艦上の当直員たちの不安な顔は、事態の重大さを明白に物語っていた。彼らがデッキから吹きとばされるのを防いでいるのは、繋索だけだった。また、艦の下の宮殿の屋上にいる者たちは、流星のような強風があらたにどっと吹きつけるたびに、吹きとばされるのを防ごうとして、たえず手すりや支柱にしがみつかなければならなかった。バナトール号の艦首には、ガソールの紋章が描かれていた。しかし、暴風が艦そのものを吹きとばすにちがいないと見張員たちが観念したちょうどそのとき、いくつかの長旗《ペナント》がたてつづけに吹きとばされてしまってからは、乾舷《かんげん》には一流の長旗もかかげてなかった。彼らはどんな繋留索も、この巨大な風力に長く持ちこたえうると信ずることはできなかった。十二本の繋留索の一本一本には抜き身の短剣を手にした、筋骨のたくましい戦士がしがみついていた。もしも一本の繋留索でも風の力で引きちぎられたら、十一本の短剣がほかの綱を切断することになっていた。一部分だけが繋留されていれば、艦は破滅するにきまっていたからである。しかし、嵐の中に切り放されれば、すくなくともかすかながら助かるチャンスがあることになる。
「イサスの血に誓って、おれは繋留索がもちこたえることを信ずるぞ!」ひとりの戦士が他の戦士にむかって叫んだ。
「もしも繋留索がもたなければ、祖先の魂がバナトール号の勇敢な戦士に報いられんことを」宮殿の屋上にいる戦士のひとりが答えた。「なぜなら、繋留索が切れれば、乗組員はまもなく死の革服を身にまとうだろうからだ。しかし、ターヌス、おれは索がもつと思うよ。まあ嵐のくる前に出航しなかったことを感謝しようぜ。まだまだ生きのびるチャンスがあるんだからな」
「そうとも」ターヌスは答えた。「おれはこんな日には最強の戦艦に乗ってもバルスームの空を飛ぶのは、まっぴらだからな」
王《ジェド》のガハンが屋上に現われたのは、そのときだった。彼は自分の部下の残りのものとヘリウムの戦士十人あまりをしたがえていた。若い王《ジェド》は部下のほうへむきなおった。
「直ちにバナトール号で出航する。ヘリウムのターラ姫を捜すのだ。あの方はおそらく単座快速艇に乗ったまま嵐で運ばれたものと考えられる。バナトール号は嵐の猛威に立ちむかわねばならないが、成功の望みの薄いことは、くわしく説明する必要もあるまい。また、おまえたちに死ねとは命令しない。後に残りたいと思うものは、恥じるところなく残るがよい。その他の者は、わたしについてくるのだ」そういうと、彼は疾風の中で、はげしくゆれ動く縄ばしごに飛びついた。
王《ジェド》にしたがった最初の男はターヌスだった。そして最後の男が巡洋艦のデッキによじのぼったとき、宮殿の屋上に残ったのは、十二人のヘリウムの戦士たちだけであった。彼らは抜き身の剣を手にして、繋留索のわきのガソール人のいた場所に立っていた。バナトール号の乗組員で、いま艦を立ち去ろうとするものはひとりもいなかった。
「わたしの期待通りだった」ガハンはすでにデッキに乗り込んでいた戦士たちに助けられて、他の部下たちといっしょに安全繋索を身につけながらいった。バナトール号の艦長は首をふった。彼はこの装備のととのった船を愛していた。この船はガソールの小さな海軍において、同級の艦の中での誇りだった。彼が案じていたのは、この船のことで――自分自身のことではなかった。彼はこの艦がどこか遠くの干あがった海底の黄土色の植物の上に引き裂かれ、ねじまげられて横たわっているさまを思いえがいた。その残骸《ざんがい》は、やがて野蛮な緑色人によって踏みにじられ掠奪《りゃくだつ》されるのだ。艦長はガハンに目をむけた。
「準備はいいか! サン・トーシス?」王《ジェド》はたずねた。
「準備完了です」
「よし、では切りはなせ!」
三発目の銃声で繋留索《けいりゅうさく》を切り離すようにとの命令が、デッキを通じて舷側ごしに屋上のヘリウム人戦士たちに伝えられた。十二の鋭利な剣は、同時に均等の力で打ちおろされねばならない。また、どの剣も太い索の三本のより綱を、完全に、そして一瞬のうちに切断しなければならないのだ。切り離された索の端が滑車にからみつけば、たちまちバナトール号に災厄《さいやく》がふりかかるからである。
「ダーン!」合図の銃声が風の悲鳴を貫いて屋上にいる十二人の戦士のところに響いた。
「ダーン!」十二本の剣が十二のたくましい肩の上にふりあげられた。
「ダーン!」十二の鋭い刃は十二本のうなりをたてている繋留索を、きっぱりと同時に切断した。
バナトール号はプロペラをはげしく回転させながら、暴風に乗って飛び出した。嵐は鉄甲をはめたこぶしのように船尾をうち、巨大な船を逆立ちさせた。つづいて嵐は船をとらえ、まるで子供のコマまわしのように回転させた。宮殿の屋上では十二人の戦士たちが、ほどこすすべもなく見あげながら、死出の旅路におもむく勇敢な戦士たちの冥福《めいふく》を祈った。ほかのひとびとも、ヘリウムの巨大な浮き桟橋《さんばし》や無数の屋上にある格納庫からそれを眺めた。だが、この明らかに絶望的な捜索のために暴風雨のただ中へ、さらにほかの勇敢な男たちを派遣する準備は、ほんの一瞬しか停止されなかった。なぜなら、バルスームの戦士たちの勇気とは、このようなものだったからである。
しかし、バナトール号は、すくなくとも市内から見える範囲では墜落《ついらく》しなかった。もっとも、人目に見えたかぎりでは、艦は一瞬も竜骨を水平に保つことはなかった。艦を運び去る巨大な力のおもむくままに、ときとして左右に横倒しになったり、竜骨を上にして突進したり、ぐるぐる回転したり、艇首や艇尾を下にして突っ立ったりした。市民の目には、この巨大な船が、空をみたした大小の破片もろとも吹きとばされているにすぎないと映った。こんな暴風がバルスームの表面に荒れ狂ったことは、世人の記憶にもなく、記録された歴史の年代記にもなかった。
しかし、つぎの瞬間には、そのバナトール号さえ忘れ去られた。長年のあいだ小ヘリウムの目じるしとなった真紅の高い塔が地上に崩れ、下の街に死と破壊をもたらしたからである。恐慌が起き、廃墟からは火災が発生した。市のあらゆる機能は無能化した観があった。大元帥が、いままさにヘリウムのターラを捜しに出発しようとしていた戦士たちにむかって、都市を救うために全力をつくせと命じたのはそのときだった。なぜなら、彼もまたバナトール号の出発を見、人命を失うことの無益さを理解したからである。もし小ヘリウムを全滅から救うつもりならば、それらの戦士はどうしても必要なのだ。
二日目の昼すこし過ぎになって、嵐は衰えはじめ、日が落ちる前には、ヘリウムのターラをのせて、かくも長時間、生死の境をさまよった快速艇は、かつては火星大陸の高い山脈だった起伏する丘陵地帯の上空を、しずかな風に吹かれてゆっくり飛んでいた。彼女は不眠と、飲食物の欠乏と、そして彼女が通り過ぎてきた恐ろしい経験によってもたらされた神経の疲労から消耗しきっていた。すると、そう遠くないところで行く手をさえぎっている丘の頂きに、丸屋根がついた塔らしいものがちらっと見えた。彼女はすばやく艇の高度をさげ、いま見えた建物に住んでいるかもしれない人間の視界が、丘によってさえぎられて艇が見えなくなるようにした。塔は人間の住居を意味し、水とおそらく食糧もあるだろうと思われた。もし塔が過去の廃墟《はいきょ》ならば、食糧は見つかるまい。それでも、水がある可能性はある。しかし、もし塔に人間が住んでいるとすれば、うつかには近よれない。なぜなら、これほど遠くへだたった土地に住んでいるのは、まず敵とみてさしつかえないからだ。ヘリウムのターラは、自分が祖父の帝国の双子都市から、はるかに遠ざかってしまったにちがいないことを知っていた。しかし現実に飛んだ距離のうちで一千ハアドでも推測したならば、彼女が自分の立場がまったく絶望的であることを理解して、茫然《ぼうぜん》となったことだろう。
浮力タンクがまだ傷んでいないので、機体を低く保ちながら、彼女は、自分と人工の塔とおぼしき建物とのあいだをさえぎる最後の丘の中腹へ微風が自分を運んで行くまで、地表をかすめて行った。ここで彼女はいじけた樹木のあいだの地面に着陸し、快速艇を頭上を飛ぶほかの飛行艇から多少ともおおい隠されそうな木の下に引きずっていってから、それをしっかり繋留して、偵察《ていさつ》にでかけた。彼女のような身分の女性の例に洩れず、武器は一本の細身の短剣だけだったので、現在、彼女が直面しているような危急の場合には、自分の知恵だけにたよって敵に発見されないようにしなければならないのだ。彼女は細心の注意を払いながら、油断なく山の頂きへ這い進んでいった。彼女が近づくのを行く手にいるかもしれない見張りに発見されないように、地形が提供《ていきょう》する自然のかくれ場所をできるだけ利用して進むいっぽう、背後から不意打ちを受けないように、ときどきすばやい視線を背後に投げた。
やがて頂上に達した。そこからだと低い茂みの陰に隠れて、そのむこうに、何があるかをうかがうことができるのだ。眼下には低く連なった丘にとり囲まれた、美しい谷間がひろがっている。丸屋根をいただいた円筒形の塔が多数点在し、それぞれの塔のまわりには、数エーカーの地面をとり囲む石垣があった。谷間は、みごとな農耕地になっているように見える。丘の反対側の斜面の上、そして彼女のすぐ目の下に、一つの塔とその囲いの石垣がある。最初に彼女の注意をひいたのは、その塔の屋根だったのだ。その塔は谷間のもっとも遠くにある塔と、あらゆる点で同じ構造をしているらしい――がっしりした造りの高いしっくい壁が、同じような造りの塔をとり囲んでいて、その灰色の壁の表面には、鮮やかな色彩で奇妙な紋章《もんしょう》が描かれている。それらの塔は直径およそ四〇ソファド、つまり、地球でいう一二〇メートルくらいで、丸屋根の下までの高さは一八〇メートルくらい。地球の人間ならば、それらの塔は、酪農業者《らくのうぎょうしゃ》が家畜のために生の牧草をたくわえるサイロのようだとすぐに思いついたことだろう。しかし、近づいてよく見れば、丸屋根の奇妙な構造とあわせて、ところどころに砲眼が開いているのがわかり、サイロでないということがすぐわかる。ターラには、その丸屋根が無数のガラスのプリズムでおおわれているように見えた。傾きかけた太陽に直射された部分はすばらしく華麗に輝いたので、彼女は突然、ガソールのガハンの華麗な衣装を思いだしたが、彼のことを考えると、腹立たしげに頭をふり、それから、その手近な塔と囲いの石垣を、もっとはっきり見るために、油断なく半メールほど移動した。
もよりの塔を囲んでいる石垣の中を見くだしたとき、ターラの眉は一瞬|驚愕《きょうがく》のためにひそめられた。そして、その目は恐怖をまじえた信じられないような表情を浮かべて大きく見開かれた。なぜなら、彼女がそこに見たものは二十個から四十個ぐらいの人間のからだ――それもはだかで頭がないからだだった。彼女は長いこと、息もつかずにじっと見つめていた。自分の目に見えるものが信じられなかった――その気味の悪いものは動いて生きているのだ! それらは手とひざとで、おたがいのからだの上をはいまわり、指でさぐりまわっている。また、細長い箱の近くにいるものもある。他のものは、その箱を捜しているらしい。そして箱のそばにいるものは、その容器の中からなにかをとり出し、本来、首があるべき場所にあいた穴にそれを押しこんでいるように見える。それらは彼女の眼下のあまり遠くないところにいた――だから、はっきりながめることができた。それらの中に男性と女性の二種類のからだがあるのが、わかった。美しく均整《きんせい》がとれていて、肌色は彼女のと似ていたが、いくらか赤味が淡い。最初、彼女は処刑場を見ているのかと思った。それらのからだは、たったいま首を切り落とされたばかりなので、筋肉の反射作用によって動いているのかと思ったのだ。しかしやがて、これが彼らの平常の姿なのだということがわかった。恐怖のあまり、彼女は目をそらせないほどだった。手さぐりしているからには、彼らに目がないことはあきらかだった。また、のろくさい動作は、彼らの神経組織が未発達であり、脳のもまたそれ相応に小さいということを示している。彼女は、彼らがどのようにして生活をたてているのかと不思議に思った。なぜなら、どれほど想像をたくましくしても、これらの不完全な生物が知的な耕作者であるとは思えなかったからだ。しかも、谷間の地面が耕作されていることはあきらかであり、この生物たちが食物をえていることも同様にあきらかだった。しかし、だれが土地を耕作するのか? だれが、これらのあわれな生物を養っているのか? そして、それはなんのためなのか? こうしたことは、彼女の想像を越えた謎だった。
食物を見ると、胃をかむような飢えと、のどをこがすような渇きが、ターラの意識によみがえった。食物も水も、囲いの中に見える。しかし、中へはいる方法が見つかったとしても、思いきってはいる気になれるだろうか? なれそうもない、と彼女は思った。あの無気味な生物に接触するかもしれないと考えただけで、彼女のからだに震えが走るのだった。
やがてまた彼女の目は谷間を横切ってさまよった。そのうちに、農地の中央をうねっている小さな流れのようなものが目にとまった――バルスームではめずらしい光景だ。ああ、あれが水であってくれればいいが! そうだったら、彼女の希望も裏切られずにすむ。畑は食物を与えてくれるだろうし、彼女は夜にまぎれてそこに達することができるからだ。そして昼のあいだは周囲の丘の中にひそんでいるのだ。そうすればやがて、そう、やがて、捜索隊《そうさくたい》がくるにきまっている。なぜなら、バルスームの大元帥ジョン・カーターは、火星全土をくりかえし、くりかえし、草の根をわけても、娘を捜すことをやめないだろうからだ。彼女は父親の性質をよく知っていたし、ヘリウムの戦士たちの性質も知っていた。だから捜索隊がくるまで、なんとか危害をうけずにいられれば助かるのだ。
危険をおかして谷におりて行くのは、暗くなるまで待たなければなるまい。それまでのあいだ、野獣から適当に身を守れる安全な場所を、どこか近くに捜しておいてほうがいい。この地方には肉食獣はいないかもしれないが、見知らぬ土地では、なにごとも確実ということはないのだ。丘の尾根のかげにひっこもうとしたとき、彼女の注意はまた眼下の囲いに集中された。二つの人影が塔から出現していた。彼らの美しいからだは、いま彼らの周囲にいる首のない生物と同じらしい。だが、新しくあらわれた者たちは首なしではなかった。彼らの肩の上には人間のような頭があるが、彼女は、直感的に、それらが人間の頭ではないと感じた。それらは、暮れかけた弱々しい夕日ではっきり見わけるにはいささか遠すぎた。しかし、人間の頭にしては大きすぎるようだ。完全に均整のとれたからだに比べて、不釣りあいに大きかったし、形も平べったい。彼らが一種のよろいを身につけているのも見えた。よろいにはバルスームの戦士のありふれた長剣と短剣がつるされていて、短い首のまわりには、がっちりした革のカラーがまいてある。それは眉をぴったりおおい、頭の下の部分に都合よくはまるようにつくられている。顔つきはほとんど見分けられなかったが、彼女をぞっとさせるようなグロテスクな感じがただよっている。
ふたりの男は長いロープを持っており、それには二ソファド《フィート》くらいの間隔をおいてなにかがしばりつけてある。後になって、彼女はそれらが軽い手錠なのだろうと推測した。彼女が見ていると、ふたりの戦士は囲いの中のあわれな生物のあいだを歩いて、それぞれの右手首のまわりにその手錠を一つずつかけたからだ。こうして、全部がロープにしばりつけられてしまうと、ひとりの戦士が、頭のない群れを塔のほうに引っぱって行こうとするのか、ロープの端を引きはじめた。もうひとりの戦士は長く、細いムチを手にして群れの中にはいり、それでむきだしの肌をひっぱたいた。それらの生物はのろのろだるそうに立ちあがった。そしてこの無力な群れはロープを引く前の戦士とムチで打つ後の戦士とにはさまれながら、やがて塔の中に追い込まれてしまった。ターラは顔をそむけて身ぶるいした。彼らは、いかなる生物なのだろう?
突然、夜になった。バルスームの昼はすでに終わり、白昼から暗黒への移行をちょうど電灯のスイッチを切ったときのように急激なものにする短い黄昏も過ぎ去ったのだ。ターラはまだ避難所《ひなんじょ》を見つけていなかった。しかしたぶん恐れるべき野獣、というより避けるべき野獣はいないのだろう――ヘリウムのターラは恐れるなどという言葉を好かなかった。もし彼女の小さな快速艇の上にキャビンさえあれば、それがどんなに小さなものでもよかったのだが、あいにく、そういう船室はなかった。艇体の内部は浮力タンクですっかり占領されているのだ。ああ、いい方法があった! もっとはやくそれを考えつかなかったとは、なんて馬鹿なんだろう! 彼女は艇を木の下におろしておいたのだが、その木に艇を繋留して、ロープの長さだけ、上昇させておけばよいではないか。そしてデッキの上の環にからだをつなぎとめておけば、森の中を徘徊《はいかい》している猛獣に出くわす危険を避けられるだろう。朝になったら、艇が発見される前に、また地上におろしておけばよい。
ターラが丘の尾根を越えて、斜面と谷間にむかって這いおりて行ったとき、彼女の姿は、夜の闇のおかげで、近くの塔の窓辺をぶらついているかもしれない見張りから隠されていた。遠いほうの月のクルーロスが、たったいま地平線の上にのぼって、天空ののんびりした旅を開始したところだった。クルーロスは八ゾードのちには沈むだろう――地球の十九時間半より少し多い時間だ――そのあいだに、クルーロスの元気な相棒であるサリアは火星の周囲を二度めぐり、三回目の旅を半分以上もまわりかけているのだ。サリアはちょうど沈んだところだった。それは三時間半たてば反対側の地平線上にとびだして冷却しつつある火星の表面をかすめて、速く低く突進して行く。ターラはこの気ちがいじみた第二の月が出ていないうちに、食べ物と水とを捜しだし、また安全な快速艇のデッキにもどりたいと願った。
塔と囲いとからできるだけ身を避けながら、闇の中を手さぐりで進んで行った。ときおり、つまずいてよろめいた。というのは、のぼりかけたクルーロスが長い影を投げかけるので、目前のものが奇妙にゆがめられて見えたからだ。もっとも、月光は、彼女のよい助けになるほど充分明るいとはいえなかった。また、実際問題として、彼女は月明りをのぞまなかった。暗闇の中でも水流を発見することができるし、それにぶつかるまで、丘をくだって行きさえすればよいのだ。それに彼女は、果実をつけた木々や多くの穀物が谷ぜんたいをおおっているのを目にしていた。だから流れに達するまえに多くの食物のそばを通りかかることになるだろう。もし月が彼女の進路をもっと明るく照らして、時々つまずいて倒れることをまぬがれさせてくれれば、それはまた塔の奇妙な住人に彼女を、もっとはっきり見せることにもなる。もちろんそうあってはならない。彼女がつぎの夜まで待つことができれば、情況はもっと有利になるだろう。翌晩にはクルーロスはまったく空にあらわれないから、サリアが出ていないあいだは、完全な闇があたりを支配するからだ。しかし、渇きと胃をかむような飢えの苦痛は、食物と飲物とを目前にすると、もうたえがたいほど激しくなっていた。だから、彼女はこれ以上苦しむよりは、むしろ危険をおかそうと決心したのだ。
いちばん近い塔を無事に通りすぎながら、彼女は安全と両立すると思われる範囲で、できるだけ速く進んで行った。なるべく間隔を置いて生えている木陰を利用できるように、また同時に果実が実っている木を発見できるように、道をえらんで行った。果実を見つけることは、ほとんどすぐに成功した。彼女が身をひそめた三本目の木には、熟れた果実がたわわに実っていた。ターラは、これほど美味いものは食べたことがないと思った。ところが、その果実はほとんど味のないウサで、料理して、たっぷり香料を加えれば、はじめて食べられるものとされているものだった。この果樹はほとんど水をやらなくても容易に成長し、豊かに実をつける。食物として価値の高いその果実は、あまり裕福でないひとびとの主食の一つであり、安価で栄養があるところから、バルスームの陸海軍の主要な糧食《りょうしょく》の一つにもなっている。この用途のおかげで、この果実には火星流のあだ名がついており、英語に意訳すれば「|戦闘用じゃがいも《ファイティング・ポテト》」というところだろう。ターラは賢明にもひかえめに食べたが、先へ進む前に、ポケットにそれをつめた。
二つの塔を過ぎたあとで、ついに流れに達した。ここでもまた、彼女はひかえめにして、小量の水をゆっくり飲み、たびたび口をすすぐことでがまんして、顔や手足を洗った。火星の夜がいつでもそうであるように、その夜も寒かったが、さわやかな気分は寒さの不快をおぎなってあまりあった。またサンダルをはくと、川辺の茂みの中へはいって、そこにありそうな食べられる漿果や塊茎を捜した。そして生《なま》で食べられそうなものを二種類ほど見つけた。それらをポケットの中のウサと入れかえた。食物に変化をつけるためもあったが、それがウサよりおいしいことがわかったからだ。ときどき流れにひきかえして水をのんだが、いつもひかえめにした。彼女の目と耳とは絶えず危険のちょっとしたきざしにも注意していたが、不安の念を起こすようなものは見えも、聞こえもしなかった。そのうちに快速艇へもどらねばならないと思われる時間が近づいた。さもないとサリア衛星が低く顔を出し、その光で照らし出されてしまう。彼女は流れを立ち去るのを恐れた。ふたたびこの水流にやってこられるようになるまでは、ひどくのどが渇いてしまうにちがいないとわかっていたからである。もし、水を運べる小さな容器さえ持っていれば、小量の水でも次の夜までのしのぎになっただろう。だが、なにも持っていなかったので、とり集めた果実と塊茎とのジュースで、できるだけがまんしなければならなかった。
水流で、これまでに一番長く一番たっぷり飲んでから、おきあがり、丘への足跡をたどってもどりはじめた。しかし、そうしているうちにも、彼女は突然、なにかに気づいてびくっとした。あれはなんだろう? あまり遠くない木の下の暗がりで、なにかがうごめいているのをたしかに見た。まるまる一分ほど、彼女は身動きもしなかった――ほとんど息もつかなかった。彼女の目は木の下の濃い闇に吸いつけられ、耳は夜の静寂の中にとぎすまされた。快速艇をかくしてある丘のほうから低い唸り声が聞こえてくる。彼女はその声をよく知っていた。獲物をあさるバンスの無気味なうなり声だった。巨大な肉食獣が、彼女の行く手に立ちはだかっているのだ。しかし、それは彼女から少し離れた木陰にかくれているべつのやつほど近くではない。それはなんだろう? 彼女は不安の念からくる緊張にさいなまれた。もし、そこにひそんでいる野獣の種類がわかっていれば、恐怖の半分は消えうせたことだろう。彼女はその動物が危険なものとわかったときに逃げこむべき場所を捜そうとして、すばやくあたりを見まわした。また丘のほうから唸り声が聞こえたが、今度はさっきより近くなっていた。ほとんどすぐに、彼女のうしろの谷のむこう側から、別の唸り声がそれに答え、つづいて彼女の右側の遠くで唸り声が聞こえ、さらに左側のほうでも二度、聞こえた。彼女の目は、すぐ近くに一本の木をみとめていた。ゆっくりと、しかも、あのほかの木の下の闇から目をはなさずに、彼女はまさかのときに頼りになりそうなたれさがった枝のほうへ進んで行った。身を動かしたとたんに、彼女の見つめていた場所から低い唸り声が聞こえ、巨体がふいに動きだす音が聞こえた。と、同時にその野獣が彼女めがけてまっしぐらに月光の中にとび出した。尾はぴんとさかだち、幾列もの鋭く強い牙をもった大きな口は、すでに獲物にむかって大きくひらかれ、その十本の脚は、からだを大幅に飛躍させていた。いまやその野獣ののどからは、獲物をおどして麻痺させようとする恐ろしい唸り声が発した。それはバンスだった――バルスームに住む、たてがみをもった巨大なライオンである。ターラは、それがおそってくるのを見るなり、彼女が移動していた木にむかって駆けだした。バンスは彼女の意図をさとり、速度を倍加した。その恐ろしい咆哮《ほうこう》は丘の中に反響したと同様に谷間にも反響を呼びおこした。だが、それらの反響は仲間のバンスののどから発したものだった。そのすさまじさに彼女は、自分がこうした野獣の無数の群れの唯中にほうりこまれたような気がした。
バンスはほとんど信じられないような早さで、おそいかかってくるものだから、彼女が広々としたところで襲撃されなかったのは幸いだった。とはいうものの、彼女の身の安全は、まさに間一髪であった。彼女がすばやく低い枝にとびついたとき、追跡してきた野獣は彼女をつかまえようとして跳びあがり、彼女のほとんどすぐ上の葉にぶつかったからだ。彼女が助かったのは幸運と機敏さのたまものだった。一本の太い枝が野獣の鋭い爪をそらしたのだ。しかし、危険はひどく切迫していて、彼女が上の枝にかけあがる一瞬前、巨大な前足の上膊が彼女の肌をかすめたほどだった。
裏をかかれたバンスは、怒りと失望から、大地を震わすような咆哮《ほうこう》をつづけざまに発した。そして四方八方から近づいてくる仲間の咆哮や唸り声やうめき声が、その声に加わった。彼らはこのバンスが殺した獲物を、狡猾《こうかつ》さによって、または力ずくで奪いとろうとしているのだ。当のバンスは木のまわりをぐるりと囲んでいる仲間をふりむいて唸った。いっぽうターラは、彼らの頭上の木のまたに身をちぢめ、周囲を音のしない脚で、休みなくまわっている気味の悪い、黄色の怪物どもを見おろした。彼女は夜の谷をこんな遠くまで、よくなんの危害もうけずに降りてこられたものだと、いまさらのように運命の気まぐれに驚嘆した。しかし彼女がいっそう頭をなやましたのは、どうして丘にもどるかということだった。夜のあいだにそうした危害を冒すことはできそうもないとわかっていたが、また日中には、もっと危険な目にあいそうな気がした。いまや、この谷間に依存して生きのびることは、まったく可能性がないことがわかった。夜にはバンスが食糧も水もとりに行かせないし、昼には塔の住人たちのおかげで、彼女が食糧を取りに行くことが不可能になるだろうからだ。この難局を打開する方法は一つしかない。快速艇にもどり、風がもっと安全な土地に運んでくれることを祈るしかないのだ。だが、いったいいつ、快速艇にもどればいいのだろうか? バンスは、ほとんどあきらめた気配を見せない。それに、たとえ彼らが遠のいて見えなくなったとしても、はたして彼女は危険を冒す気になれるだろうか? どうも、おぼつかない。状況はまったく絶望のようだった――いや、まさしく絶望的だったのだ。
[#改ページ]
四 捕えられて
夜空の快速走者であるサリア衛星が、また空にとびだすと、景色は一変した。魔法によって、新しい景色が自然の表面に降ってきたかのようだった。まるでその瞬間、一つの星から他の星に移されてしまったのかと思われるほどである。これは火星の夜の昔ながらの奇跡だったが、火星人にとってさえつねに目新しいものだった――たったいままで月が一つしかなかった空には、いまや二つの月が輝いている。たがいに重なりあい、すみやかに変化する二重の影は、丘そのものをさえ変形させてしまった。遠いほうの月のクルーロスは堂々として、ほとんど停止しているように見え、下界に安定した光をそそいでいる。大きく輝かしい球体のサリアは、青黒い夜空のドームを横切って、急速に進んで行く。その軌道《きどう》はきわめて低く、丘をけずりそうに見える。その豪華な眺めは、過去においても、また将来においてもそうであるように、いまもその魅力によって彼女を魅了した。
「おお、サリア、あなたは天の狂った女王です!」ヘリウムのターラはつぶやいた。「丘陵は堂々とつらなり、その胸は高まり低まり、木々の影は休みなく回転し、短い草も小さな弧をえがいている。すべては動いているわ。止まることのない神秘な無音の運動。そしてサリアは過ぎていくのよ」彼女は溜息《ためいき》をついて、足もとの苛酷《かこく》な現実にふたたび視線をおとした。巨大なバンスには神秘などなかった。最初に彼女を発見したバンスはその場にうずくまり、貪欲《どんよく》そうに彼女を見あげていた。ほかのバンスは、別の獲物を求めてほとんど立ち去ってしまったが、まだ二、三頭が、彼女の柔らかな肉体に牙を突きたてようとして残っている。
夜は、しんしんとふけていった。サリアは、ふたたび自分の王であり夫であるクルーロスを天におきざりにしたまま、別の空で太陽とあいびきするために先を急いで行った。しかし、一匹のバンスだけはヘリウムのターラが避難している木の下で、じれったそうに待ちつづけていた。他のものは立ち去っていたが、彼らの咆哮、唸り声、うめき声などは、遠く近くから彼女のほうに伝わってきた。彼らは、この小さな谷間でどんな獲物を見つけたのだろうか? バンスがこれほど多数、住みついているからには、なにか彼らが見つけなれている獲物があるにちがいない。それはいったい、なんだろうかと彼女は不思議に思った。
なんとまあ長い夜だろう! ヘリウムのターラは木にしがみつきながら、しびれと寒さと疲労とで、しだいに絶望的になってきた。一度など、うとうとして、いまにも木から落ちそうになった。彼女の勇敢な、小さな心の中で希望が衰えていった。これ以上どれくらい耐えられるだろうか? 自分にそう問いかけたが、すぐにいさましく頭をふって、肩を怒らせた。
「わたくしはまだ生きているわ!」彼女は声に出していった。
バンスが上を見あげて、唸った。
サリアがふたたび姿をあらわし、しばらくのちに、大きな太陽が出た――恋の思いを胸にひめた情熱に燃える恋人だ。そして冷たい夫のクルーロスは、この熱烈な女たらしに、自分のなわ張りを侵される前と変わらぬおだやかさで、静かに進みつづけた。いまや太陽と二つの月とはともに天空を駆け、そのすばらしい神秘によって火星の夜明けを、この世のものならぬ美しさに変えている。ターラは、四方にひろがる美しい谷間を眺めわたした。それは豊かで、美しかった。だが、そこを見わたしただけでも身ぶるいが出る。塔や石垣にかくされた頭のない生きものの姿が、彼女の心によみがえったからだ。昼にはそれらがおり、夜にはバンスがいた! ああ、彼女が身ぶるいしたのも無理からぬ話ではないか?
太陽がのぼると、巨大なバルスームのライオンはむっくり起きあがった。そして頭上のターラに怒った目を向け、ただ一声、無気味な唸り声を発すると、丘のほうに遠ざかって行った。彼女はバンスを見おくった。バンスは塔からできるだけ遠まわりし、そのわきを通りすぎるとき、それから決して目をはなさなかった。塔に住む者がこれらの野獣に、自分たちを畏敬《いけい》するように教え込んだのは明らかだった。やがてバンスは細い谷あいに姿を消していった。彼女が見わたしたかぎりでは、ほかのバンスも見あたらない。すくなくとも一時的には、風景の中に生物の姿がいなくなった。彼女は快速艇のある丘へ、思いきってもどろうかと思案した。農耕者たちが畑に出て来るのが、こわかった。彼らは、きっとやってくるにちがいない。それにあの頭のないからだを二度と見ることを考えると身がすくむようだ。あの胴体たちが、畑にやってきて働くのだろうか? 彼女はもよりの塔のほうを見た。そこには生物のいる気配はなかった。谷間はいまや静まりかえって、人気《ひとけ》はない。彼女は、ぎこちなく地面におりた。筋肉は引きつり、からだを動かすごとにずきずきと痛む。流れのそばでちょっと立ちどまり、水をのむと、生気がよみがえるのを感じたので、もう一刻の猶予もなく、丘にむかった。丘までの距離をできるだけ早く行くことが、唯一の分別のように思えた。木々はすでに身をかくす場所にはならなかったので、木の近くを通るために道からそれるようなまねをしなかった。丘はひどく遠いように思える。ゆうべは、これほど遠くまで来たとは思わなかった。実際、さほど遠くはなかったのだが、いまや白昼に、三つの塔のそばを過ぎて行かねばならないことを考えると、その距離がひどく遠いものに思えるのだ。
二番目の塔は彼女の進路のほとんど真正面にあった。遠まわりしたところで、発見される危険を減少させることにはならない。それは危険な時間を長びかせるだけだ。そこで快速艇のある丘にむかって、進路をまっすぐとり、塔を気にせずに進んで行った。最初の囲いを通りかかると、内側で何かうごめく音が聞こえたような気がした。が、門が開かなかったので、通過すると、ぐっと気が楽になった。やがて二番目の囲いにさしかかった。その外側の石垣が彼女の進路にあたっていたので、迂回《うかい》しなければならなかった。石垣に沿って通りすぎるとき、内側でうごめく音ばかりでなく、話し声までがはっきり聞こえた。バルスームの共通語で、ひとりの男が指図している声だ――何人はクサを取れ、何人はこの畑に水をまけ、何人はあの畑を耕せ、などと、親方がその配下に一日の仕事を割りふりしているような調子だった。
ターラが外側の石垣の門のところについたちょうどそのとき、なんの前ぶれもなく、門が外側へさっと開いた。彼女は門が一瞬のあいだ内側にいるものの目から彼女の姿をさえぎることを見てとり、間髪を入れず、踵を返して走りだした。石垣に接近して走りつづけるうちに、門は石垣のカーブのむこうに見えなくなり、囲いの反対側に達した。彼女は、あやうく危険をのがれた興奮と運動のためにあえぎながら、石垣の根もと近くにおい茂っている高い草の中に、身を投げ出した。そして、しばらくのあいだ、身ぶるいしながら横たわり、頭をあげて、辺りをうかがうことさえしようとしなかった。いまだかつてターラは、恐怖のあまり茫然としたというような経験はなかった。彼女はショックをうけ、自分自身に腹を立てた。バルスームの大元帥、ジョン・カーターの娘である彼女が恐怖をあらわにするとは、それを目撃したものがいないという事実さえ、彼女の羞恥と怒りをやわらげはしなかった。なによりも悪いことに、彼女は自分がこれと同じような情況におかれれば、また同じように臆病な態度を示すだろうということを知っていた。それは死への恐怖ではなかった――その点はわかっていた。いや、それは頭のない胴体のことを考えることだった。それらを見るかもしれないし、さわられさえするかもしれないという恐怖だった――彼女の上にあの手がのり――彼女をつかむのだ。そのことを考えるだけで、ぞっとふるえあがった。
しばらくしてから、冷静をとりもどし、頭をあげてあたりを見まわした。おそろしいことに、男たちが畑で働き、または働く用意をしているのが見えた。労働者はほかの塔からも出て来た。小さな群れが、あちらこちらの畑に出かけて行った。彼女から三〇アド――およそ一〇〇メートル――以内のところで働いているものさえある。彼女にいちばん近い群れは男女合わせて十人ぐらいで、いちように美しい体格でグロテスクな顔をしている。服装はひどく貧しくて、裸も同然だった。その事実は火星の農場に働く耕作者たちにとって、けっして異常なことではなかった。各人が首を完全に覆う皮製の高い特殊なカラーをまき、一本の剣と物入れ袋をさげるための皮帯をつけている。皮帯はひどく古びていたんでおり、長いこと酷使《こくし》されたことを示している。皮帯にはまったく飾りがなく、ただ左肩の上に紋章がついているだけだ。ところが、頭は貴金属や宝石の飾りでおおいつくされ、目、鼻、口のほかは、ほとんど見えないくらいである。それらは、いとわしくも非人間的でありながら、同時にまた、異様に人間的でもあった。目はひどく離れていて、とび出しているし、鼻は、口の丸い穴の上に垂直にあいた、二つの小さな並行の縦穴でしかない。頭は奇妙にいやらしかった――あまりいやらしいので、その下方の美しいからだと完全な一体をなしているということが、彼女にはどうしても信じられないほどだった。
ヘリウムのターラはひどく好奇心をそそられて、その奇妙な生物から目を離すことができなかった――が、結果として、それが彼女の破滅の元となった。なぜなら彼らを見るためには、自分の頭の一部をあらわさないわけにはいかなかったからだ。ところが、その生物の一匹が仕事の手を止めて、彼女のほうをまっすぐに見つめているではないか。彼女は、ぎょっとした。が、動こうとはしなかった。というのは、そいつがまだ彼女を見つけていないということもありえたからだ。あるいは、すくなくともなにかの生物が草の中にひそんでいると疑っているだけかも知れない。もし彼女がじっとしていることで、そいつの疑いを晴らすことができれば、そいつは見まちがえたと思って仕事にもどるかもしれない。しかし、ああ、そういうわけにはいかなかった。そいつが仲間に、彼女をさし示すのが見えた。すると、ほとんど同時に四、五人が彼女のほうへむかってきた。
いまや発見をまぬがれることは不可能だった。見こみがあるのは逃げることだけ。もし、彼女が彼らをまいて、先きに快速艇のある丘にたどりつければ、逃げのびられるかもしれない。そして、それをなしとげる方法は一つしかなかった――逃げること、ただちにすばやく逃げることだ。彼女はとびあがり、壁のすそに沿って走った。その壁のむこう側へまわりこまねばならない。そのむこうに目ざす丘があるのだ。すると彼女のこうした行動に対して、背後にせまった生物たちは笛を吹くような奇妙な音で応じた。肩ごしに視線を投げると、彼らが急いで追いかけてくるのが見える。しゃがれた声が「とまれ!」と命ずるのも聞こえたが、彼女は少しも意に介さなかった。囲いを半分もまわりこまないうちに、彼女はうまく逃げられそうな公算が大きいことを知った。というのは、追跡者たちが彼女ほど早く走れないことがわかったからだ。丘が見えてくる、希望は大いに高まった。が、その希望は彼女の前に出現したものによって、たちまちくじかれてしまった。彼女と丘のあいだにひろがった畑には、彼女の背後にいるやつと同類の生物がたっぷり百人ぐらいもいて、みんなが油断なく警戒しているのだ。仲間の口笛で警告されたせいにちがいない。指示したり、命令したりする叫び声が、あちらこちらにとびかい、その結果、前方にいるそれらの生物は、彼女の行く手を妨げるために大きな半円形になって展開した。そして、彼女が右に向きをかえてその網をのがれようとすると、行く手の畑から他のものたちが走ってくる。左をむくと、そちらも同様。しかし、ターラは敗北を認めなかった。すこしもためらわず、彼女はせまりくる半円形の中央に向きなおった。そのむこうには逃げのびるたった一つの機会があるのだ。彼女は走りながら、細身の短剣をすらりと抜いた。死ななければならないとしても、勇敢な父祖と同様に戦いながら死ぬつもりだった。彼女がむきあったうすい人垣には、いくつかの切れ目がある。そのもっとも大きな切れ目へむけて進路を定めた。切れ目の両側の生物たちは、彼女の意図を察したらしく、間隔をせばめて彼女の進路をはばもうとした。その結果、両側の切れ目がひろがった。そこで彼女は彼らの腕の中に突込むと見せかけて急に右にむきを変え、新しい方向にすばやく数メートル走り、それからまた丘にむかってまっしぐらに駆け出した。いまや、たったひとりの生物が、両側に広いきれ目をあけたまま彼女の自由への道をさまたげているだけだった。もっとも、ほかのものもみんな彼女を妨害しようとして、できるだけ速く駆けよっていた。もしも彼女が目の前の生物のわきをあまり時間をかけずに通り越せれば、まんまと逃げのびられるだろう。彼女の希望は、いつにかかってその点にある。眼前にいる生物も、それを理解したらしく、油断なく、しかもすばやく動いて彼女の邪魔をしようとした。まるでラグビーの後衛が相手チームとタッチダウンとのあいだに立っているのが自分だけなのを知って慎重に動いているみたいであった。
はじめ、ターラは相手をかわせるだろうと思った。というのは、自分のほうがその無気味な生物よりも足が速いばかりでなく、動作も敏捷《びんしょう》だと考えないわけにいかなかったからだ。ところが彼女が相手につかまるまいと努めているあいだに、近くにいるほかのものが彼女におそいかかり、逃げられなくなってしまうだろうということが、すぐにわかった。そこで彼女は、そのかわりに相手にむかって正面からぶつかることにした。相手は彼女の覚悟を知ると、なかばうずくまり、両手をひろげて、彼女を待ちかまえた。その片手には剣があった。しかし一つの声が、命令的な口調で呼んだ。
「生かしておけ! その女を傷つけるな!」すると、たちまち相手は剣を鞘《さや》におさめた。ターラはそいつにむかって突進し、そのみごとな体躯めがけて、まっしぐらにとびかかった。そして相手の両腕が閉じて彼女をつかもうとしたとたん、彼女の短剣の鋭い切先が、相手のむき出しの胸深く突き刺さった。その衝撃で、ふたりはいっしょに地面に倒れた。ターラがとび起きたとき、恐ろしいものが目にはいった。いやらしい頭が胴体からころげ落ち、六本のクモの脚のような短い足で、彼女から逃げていくのだ。そしてからだはけいれん的にもがき、やがて動かなくなった。この戦闘によって生じた遅延はごく短いものだったが、それでも彼女の逃路を断つには充分だった。というのは、彼女が立ちあがったと思うまもなく、他のふたりが襲いかかり、その後たちまち多数にとり囲まれてしまったからだ。彼女の短剣はまた相手の裸の肉体を突き刺し、また頭がころげ落ちて、這って逃げた。が、彼らは彼女を圧倒し、あっという間に百あまりの生物が彼女をとり囲んだ。そして彼女に手をかけようとした。はじめ彼女は、彼らの仲間ふたりを殺したことに対する返報として、ずたずたに引きさかれるのかと思った。しかしやがて、彼らが悪意というよりも、むしろ好奇心にかり立てられていることがわかった。
「来い!」彼女をつかまえているふたりのうちのひとりがいった。そういいながら、そいつは彼女を、いちばん近くの塔につれて行こうとした。
「この女はおれのものだ」ほかのひとりがいった。「おれがつかまえた女ではないか? この女は、おれといっしょにモアク塔に来るのだ」
「いかん!」最初のがいい張った。「この女はルードのものだ。おれはルードのところへつれて行くぞ。邪魔するやつはおれの剣が相手してやる――|頭へな《ヽヽヽ》!」彼は最後の言葉を、まるでどなるようにいった。
「行け! もういい」二人目の男が、多少、威厳のある口調でいった。「この女はルードの畑で捕まった――だからルードのところへ行くんだ」
「この女はモアクの畑で見つかったんだ。モアクの塔のすぐふもとでな」彼女をモアクのものと主張している男がいい張った。
「おまえは、いまノラチがいったことを聞いたろう」ルードの男が叫んだ。「彼のいうとおりにするのだ!」
「このモアクが剣をとっているかぎりはそうはさせん」相手が答えた。「なんならこの女を二つに切って半分をモアクのところへ持っていったほうが、全部をルードに取られるよりましだ」そういって、彼は自分の剣を引き抜いた、というより柄に手を当てがって、おどすような動作をした。だが、彼が剣を抜ききらないうちにルードの男が自分の剣を引き抜き、強烈な一撃で相手の頭に深く切り込んだ。たちまち、大きな、丸い頭はパンクした気球がつぶれるようにつぶれ、灰色のどろりとしたものが中からほとばしった。まぶたがないように見えるとび出した目が、ただじっと前を見つめ、口の括約筋が開いたり、閉じたりしたかと思うと、その頭は胴体から地面にころげ落ちた。胴体はしばらくものうげに立っていたが、やがてのろのろとあてもなくさまよいはじめた。そのうちに、他のものがその腕をとらえてひきとめた。
地面を這っていた二つの頭の一つが近づいてきた。「このライコールはモアクのものだ」その頭はいった。「おれはモアクの者だからそれをとるぞ」そしてそれ以上議論せずに、クモの足のような六本の短い足としっかりした触手とを用いて、頭のない胴の前側からのぼりはじめた。その触手は足のすぐ前方にはえていて、地球のエビの触手によく似ていた。ちがうのは二本の触手が両方とも同じ大きさであるところである。その間《かん》、胴体はのほほんと立ったまま、両腕をだらりと両側にたらしていた。頭はその肩によじのぼり、触手と脚とを覆う皮のカラーの内側におさまった。すると、たちどころに胴体は知的な活力を示しはじめた。手を上にあげ、カラーの工合をなおし、両手のあいだに頭を持ってそれをきちんとすえつけた。そしてからだが動きだすと、もうあてもなくさまようようなことはなく、足どりはしっかりして、ちゃんと目的を持っていた。
ターラはこれらのことをすっかり見てとり、驚異の念はつのるいっぽうだった。やがてモアクの者は、だれも彼女に対するルードの権利を攻撃したくないように見えたので、彼女は自分を捕えた男によっていちばん近くの塔につれて行かれた。何人かがふたりに同行した。その中のひとりは、胴体を失った頭を脇の下にかかえていた。運ばれている頭は、それを運んでいる生物の肩の上の頭と話をしていた。ヘリウムのターラは身ぶるいした。恐ろしいことだ! 彼女がこれらの無気味な生物について見てきたことは、どれもこれも恐ろしいことだった。しかも彼女は彼らの捕虜になって、まったくその手中にあるのだ。こんな苛酷な運命にめぐりあうとは、彼女にどんな罪があるというのだろうか?
一行は塔の囲いの壁際で、ちょっと立ちどまり、ひとりが門を開いてから囲いの内部にはいった。囲いの中は頭のない胴体でいっぱいだった。ターラはぞっとした。胴体のない頭を運んできた生物が、その重荷を地面におくと、頭はたちまち、近くに横たわっている胴体の一つにはいよった。いくつかの胴体はあっちへふらふら、こっちへふらふらとさまよっていたが、この一つだけは、じっと横たわっていたのだ。それは女の胴体だった。頭はそれに這いより、肩の上によじ登ってそこにおさまった。するとたちまち、女体は軽快に立ちあがった。畑から同行してきたひとりが、その頭が前に乗っていた死体からはぎとった、よろいとカラーとを持って近づいていった。新しい胴体は、それらを身につけ、両手で起用に具合を直した。こうして組みあわせられた生物は、さいぜんヘリウムのターラが細身の短剣で前の胴体を打ち倒すと同様に元気になった。しかし一つだけちがいがある。前のは男のからだだった――今度は女のからだだ。が、頭にとっては、どちらでもおなじことらしい。事実、ターラは、彼らが彼女をめぐって争っていたあいだに気づいていたのだが、彼女を捕えたものたちにとっては、性別はほとんど問題にならないらしい。彼女を追跡するとき男も女も同じ役割りを果たしていた。どちらも同じようによろいを身につけ剣をおびている。また彼女は、二つの徒党のあいだの争いが緊迫したように見えたとき、男と同じくらい多くの女が剣を抜くのを目にしたのだ。
囲いの内部の、哀れな生物たちをそれ以上観察する機会は、ほとんどなかった。彼女を捕えた男はほかのものに畑にもどることを命じたのち、彼女を塔のほうにつれて行ったからだ。ふたりは塔にはいり、幅三メートル奥ゆき七メートルばかりの部屋を通り抜けた。その部屋のいっぽうの端には上に登る階段があり、もういっぽうの端には下におりる同じような階段の降り口がある。部屋は地面と同じ平面にあったが、内側の壁にある窓からの光で明るく照らされていた。その光は塔の中心にある円形の中庭からさしているのだ。中庭の壁はうわぐすりをかけた白いタイルみたいなものでおおわれているらしく、まばゆい光が満ちあふれている。その事実によって、彼女は、丸屋根を構成しているガラスプリズムの目的をただちに理解した。階段自体も注目に値するものであった。というのは、ほとんどすべてのバルスーム建築では、異なった高さの階のあいだを連絡するためには、傾斜した通路が用いられているからである。そしてこのことは比較的古代の建築様式についてとくにいえることであり、古代の習慣を変えるような変化が比較的少なかった遠隔地の様式についてもあてはまる。
ヘリウムのターラを捕えた男は、彼女をつれて階段をおりて行った。やはり輝く吹き抜けの壁によって照らされた部屋をいくつも通りすぎて、下へ下へとおりて行く。ときどき、上に登って行くものとすれちがった。そのたびに、相手は立ちどまって彼女をじろじろと眺め、彼女を捕えた男に質問した。
「なにも知らぬよ。ただこの女は畑で見つかり、ふたりのライコールを殺したのだ。そして、おれがモアクのヤツをひとり殺した後で、ふんづかまえて、ルードのところにつれて行くところなんだ。もちろんこの女はルードのものだ。もしルードがこの女に聞きたいことがあれば、それはルードがすることだ――わしではない」そのたびに、彼は聞き手にそう答えた。
やがてふたりは、とある部屋についた。螺旋形のトンネルがそこから塔の外へ通じている。男は彼女をそのトンネルの中へみちびいた。トンネルは直径二〇メートルほどで、底は平らで歩道になっている。塔から三〇メートルばかりのあいだは、吹き抜けの採光壁と同じタイル状の物質で内張りされており、同じ光源から反射する光で充分に明るく照らされていた。その向こうでは、さまざまの形と大きさの石が、きちんと切ってぴったりはめ込まれていた――一定の様式はないが、美しいモザイク模様である。また分岐したトンネルや、交差しているトンネルもあった。それらは入口の直径が三〇センチもない場合もあり、そうした小さいトンネルは、たいてい床すれすれに造られていた。そして小さな入口の上には、各々ちがった紋章が描かれていたが、いっぽう、大きなトンネルの壁には、すべての交差点や集合点に、象形文字が描かれていた。彼女には、その象形文字が読めなかったが、おそらくトンネルの名前か、それが通じている地点を示しているのであろう。ターラは象形文字のいくつかを解読しようと試みたが、知っている文字はまったくなかった。これは奇妙なことだった。なぜなら、バルスームの諸民族の文語はさまざまに異なっていたが、とはいえ、それらのあいだに共通の文字や単語があるということも事実だったからである。
ターラは自分の連れと話をかわそうとしたが、相手は話す気がないらしいので、ついに彼女もあきらめてしまった。しかし相手が自分に無礼を働いたり、必要以上に乱暴だったり、なにかの意味で残酷だったりしたことがないのに気づかないわけにはいかなかった。彼女が短剣で二つの胴体を突き殺したということも、そのからだに乗っていた頭には、なんの敵意も復讐の欲求をもひき起こさなかったとみえる――胴体を殺された頭たちにしてからが、そうだった。彼女はその事実を理解しようとは努めなかった。というのは、いままでに自分で知ったり、経験したりしたことを基盤としては、これらの頭と胴体とのあいだの特殊な関係を判断する手がかりにはならなかったからだ。これまでのところ彼らが、彼女を遇するやり方には、彼女の恐怖心をひき起こすようなものはなにもあらわれていないようだった。結局、彼女がこの不思議な生物の手に捕らわれたことは幸運だったのだろう。彼らは彼女を危害から守ってくれるばかりでなく、彼女がヘリウムにもどるのを援助してくれさえするかもしれない。彼らが不快で、気味悪いということは、どうしても忘れられなかったが、しかし、彼女に危害を加えるつもりがないならば、彼女は少なくとも彼らの不快さを大目に見ることはできる。新しい希望がターラの心中に快活な気分をひき起こした。彼女はほとんど晴れ晴れとした気持になって、無気味な同行者の側を歩いていった。そのころヘリウムで流行していた陽気な曲を鼻声で歌う気にさえなった。すると、彼女の側の男が無表情な目をむけて、たずねた。
「おまえがたてているその音はなんだ?」
「歌をハミングしているだけよ」彼女は答えた。
「歌をハミングしているだと」彼は、おうむ返しにいった。「おまえのいう意味がわからない。だがもう一度やってくれ、わしはそれが好きだ」
今度は、彼女は歌詞をつけて歌った。そのあいだ、男はじっと耳をすませて聞いていた。奇妙な頭の中をどんな感情が通り過ぎているのか、表情からは、まったく察しがつかない。それはクモのように無表情なのだ。まるでクモだ。彼女が歌い終わると、男はまた彼女のほうにむきなおった。
「それは前のとちがうぞ」彼はいった。「だが、前のよりもっと好きだ。おまえはどうやって、それをするのだ?」
「あら」と彼女はいった。「これは歌なのよ。あなた、歌がどんなものか知らないの?」
「知らないな。歌はどうやってするのか教えてくれ」
「説明するのはむずかしいわ。歌についてのどんな説明でも、相手が旋律《せんりつ》や音楽についていくらかの知識をもっていることが前提になるわ。ところが、いまの質問だと、あなたがそのどちらについても、まったく知識をもっていないことがわかるんですもの」
「わからん」相手はいった。「わしは、おまえがなにをいっているのかわからん。だがとにかく、どうやってそれをするのか教えてくれ」
「ただ、自分の声を旋律的に調節するだけのことよ」彼女は説明した。「そら、お聞きなさい!」そして彼女はまた歌った。
「わしにはわからん」彼はくりかえした。「だが、それが好きだ。わしに歌の歌いかたを教えられるか?」
「わからないなあ。でもよろこんでやってあげてよ」
「ルードがおまえをどう処置するか、いずれわかるだろう。もし、ルードがおまえを望まなければ、わしはおまえをとっておこう。そしておまえはわしに、そういう音の出し方を教えてくれるのだ」
求めに応じて、彼女はまた歌った。ふたりは曲がりくねったトンネルの中を歩きつづけた。トンネルはいまやところどころにある電球で明るく照らされていたが、それは彼女がよく知っているラジウム電灯と同じように見えた。ラジウム電灯はバルスームのあらゆる民族に共通なもので、彼女の知るかぎりでは、その起源もわからないほど大昔に完成されたものである。この照明球は、通常重いガラスの半球形の鉢形に造られていて、その中には、ジョン・カーターの言によればラジウムにちがいない化合物がつめられている。そして球は、裏面をしっかり絶縁された金属板の中に密着され、その装置全体が壁や天井の石組に、必要に応じてとりつけられる。球はそこで、中に込められている物質の構成にしたがい、強弱さまざまの程度の光を半永久的に放射するのである。
トンネルを進んで行くにつれて、この地下の世界の住民にひんぱんに出会うようになった。彼らの多くが身につけている金具やよろいのほうが、地上の、畑にいる労働者たちのものよりも、ずっと立派だということに、彼女は気がついた。しかし、頭や胴体は労働者たちのものと同じようで、いやまったく見わけがつかないほどだった。危害を加えるものはひとりもいなかったので、彼女はいまや、幸福に近いほどの安心感をおぼえた。そのとき、彼女の案内者はトンネルの右側に開いた入口へ不意にはいっていった。そこは煌々《こうこう》と輝く、広い部屋の中だった。
[#改ページ]
五 完全な頭脳
ターラが口ずさんでいた歌は、そこにはいるなりふっつり消えた――彼女の目にうつった恐ろしい光景によって凍りついてしまったのだ。部屋の中央には、頭のない胴体が床の上にころがっていた――ところどころ食いあらされた胴体――そして、その上には、六つの頭が、短い、クモの足のような足で這いまわり、はさみのついた触手で女体の肉を切りさいては、その肉片を恐ろしい口に運んでいるのだった。彼らは人間の肉を食べているのだ――しかも生《なま》のまま!
ヘリウムのターラは恐怖に息がとまり、顔をそむけて両手で目をおおった。
「来い!」と彼女を捕えた男がいった。「どうかしたのか?」
「彼らは女の肉を食べているわ」彼女は恐怖におののく声でいった。
「なぜいけない?」彼はきいた。「おまえは、われわれがライコールを労働させるためだけで飼育していると思っていたのか? いんや、そうではない。やつらは飼育して、肥らせると、とてもうまいのだ。食用に飼育されているやつらは幸運だよ。えさを食う以外には、なにをすることも命じられないのだからな」
「恐ろしいことだわ!」彼女は叫んだ。
彼は、しばらくターラをじっと眺めた。だが、それが驚きからか、怒りからか、同情からか、その無表情な顔つきからでは判断できなかった。それから彼はターラをつれて、部屋を横切り、恐ろしい光景のそばを通りすぎたが、彼女はそれから目をそむけていた。壁ぎわの床のあたりに、頭のない胴体が六個、よろいをつけたままころがっていた。これらの胴体は、食事をする頭たちによって一時的に乗りすてられたもので、やがてまた頭を乗せる奉仕を求められるのだろう。この部屋の四方の壁には、彼女がトンネルのいろいろな場所で見かけたのと同じような小さな、丸い入口が数多く開いていた。が、それらがなにに使われるのか、彼女にはわからなかった。
ふたりはもう一つの廊下を通って、第二の部屋にはいった。そこは最初のより広く、さらに煌々と照明されていた。部屋のなかには頭と胴体とが組みあわされた生物がいくつかいた。いっぽう壁ぎわには、頭のない胴が多数横たわっていた。ここで彼女を捕えた男は立ちどまり、その部屋にいたひとりに話しかけた。
「わしはルードにお目にかかりたいのです。上の畑で捕えた生物をルードのところへつれてきたので」
ほかのものたちは、ヘリウムのターラを見定めようとむらがって来た。彼らのひとりが口笛を吹いた。そのとき、彼女は壁の小さな入口の用途がいくらかわかった。というのはそれと同時にそれらの入口から、いとわしい頭がさらに二十個ばかり大きなクモのように這い出して来たからだ。それぞれの頭は、ぐったりしている胴体を一つずつ選びだし、その上にきちんとおさまった。するとたちまち、胴体は頭の命ずる知的な指示にしたがって反応した。彼らは立ちあがり、両手で革のカラーを調節し、よろいの具合をととのえた。それから部屋を横切り、ターラが立っているところにやって来た。彼女はこんどの連中の革具がそれまでに見たものが身につけていたものよりも、一段と美々しく飾りつけられているのに気がついた。そこで、これらの者は、ほかの者より高い地位にあるにちがいないと推測した。この推測はまちがいではなかった。彼女を捕えた男の態度がそのことを示している。彼は一同に対し、長上に対するように話しかけた。
彼女を調べていた何人かは彼女の肌にさわって、拇《おや》指と人さし指とでそっとつまんでみたりした。彼女はそのなれなれしさに腹を立てて、手をたたき落とした。「わたくしに触らないで!」と命令的に叫んだ。なぜなら、彼女はヘリウムの王女ではないか? しかし、それらの恐ろしい顔の表情は変化しなかった。だから彼女には、彼らが怒っているのか、それともおもしろがっているのか、また彼女の行為が彼らに尊敬の念を抱かせたのか、それとも軽蔑の念を抱かせたのか、判別できなかった。ただ、それらの一つがすぐに口をきいた。
「この女はもっと肥らせなければなるまい」
彼女の目は恐怖に見開かれた。そして自分を捕えた男をふりかえって叫んだ。
「この気味のわるい生物たちは、わたくしを食べようというの?」
「それはルードがいうことだ」彼は答えた。そして、口が彼女の耳に近づくように身をかがめた。
「おまえが出す、歌と呼ぶあの音がわしの気にいった」とささやいた。「だからわしはおまえに、お返しとして、このカルデーンたちを敵にまわさないように注意してやる。彼らは非常に有力なのだ。ルードは彼らのいうことを聞く。彼らを無気味だなどというな。彼らは非常に美しいのだ。あのすばらしい装飾を見ろ、黄金や宝石を」
「ありがとう」彼女はいった。「あなたは彼らをカルデーンと呼んだけれど――それはどういう意味の?」
「われわれはみなカルデーンだ」
「あなたも?」そういって彼女は細い指で相手の胸をまっすぐにさした。
「ちがう、これはちがうのだ」彼はそういって自分の胴体に触った。「これはライコールだ。だがこれは」といって、自分の頭に触れた。「カルデーンだ。これは脳だ、英知だ。すべてのものを支配する力なのだ。しかしライコールは」と自分のからだを指さした。「とるにたらぬものだ。われわれのよろいの上につけた宝石ほどの価値さえない。いや、それどころか、よろいそのものより無価値なものだ。われわれがライコールなしに暮らしていくのが困難であることは事実だ。しかし、それはよろいや宝石より価値がないのだ。なぜならば再生するのがずっと容易だからな」彼はまた他のカルデーンに顔をむけた。
「あなた方はわしがここにきていることをルードに知らせてくだいますか?」
「セプトがもうルードのところに行っている。彼がルードに話すだろう」とひとりが答えた。
「おまえはどこで見つけたのだ。取りはずしのきかない、妙なカルデーンをつけたこのライコールを?」
捕獲者《ほかくしゃ》は彼女を捕えたいきさつをもう一度語った。彼は事実をなんの誇張もなくありのままに語った。その声は顔と同様、その話は語り口とおなじように無表情に受けとられた。これらの生物はまったく情緒を欠いているのか、またはすくなくとも情緒を表現する能力に欠けているかのようである。その話が彼らにどんな印象を与えたのか、また彼らがそれを聞いているのかどうかさえ判断することは不可能だった。彼らの突きでた目はただじっと見つめているきりで、ときどき、口の筋肉が開いたり、閉じたりする。いくら見慣れてきても彼女の恐怖感は減らなかった。彼らは見れば見るほどますますいやらしく見える。カルデーンを見ながら、彼女のからだはしばしばひきつるようにふるえた。しかし、美しい胴体に目をそそいで、しばらく頭のことを意識からぬぐいさることができるときは、そのおかげで気が落ちつき、心が晴れるのを感じた。もっとも胴体が頭なしに床の上に横たわっているときは、胴体の上にのっている頭と同じようにショッキングだった。しかしそれらの中でも、とりわけものすごく、無気味な眺めは、頭がクモ足のような足であちらこちらと這いまわる有様である。もしそれらの頭の一つが、そばに来て手を触れたら、彼女はきっと悲鳴をあげただろうし、また、もしもどれかが彼女のからだに這いのぼろうとしたら――おお、いやだ! 考えただけで気が遠くなりそうだ。
セプトが部屋にもどって来た。
「ルードがお前と捕虜にお会いになる、ついてこい!」彼はそういって、ターラが部屋にはいったときに通ったドアと反対側のドアをふりむいた。「おまえの名前はなんというのか?」その質問は彼女を捕えた男にたいするものだった。
「ルードの畑の第三班長ゲークであります」と彼は答えた。
「この女の名は?」
「知りません」
「どうでもよかろう。さあ、来い!」
ヘリウムのターラの高貴な眉がつりあがった。どうでもよかろう、まったくだ! 彼女はヘリウムの王女バルスームの大元帥のひとり娘ではないか!
「お待ちなさい!」彼女は叫んだ。「わたくしが何者であるかを知る知らないは、どうでもよいことではありません。もしあなたたちが、王《ジェド》の前にわたくしをつれていくのでしたら、わたくしをバルスームの大元帥、ジョン・カーターの娘ヘリウムの王女ターラと報告しなさい!」
「おとなしくしろ!」とセプトが命じた。「おまえは話しかけられたときに答えればいい。さあいっしょにくるのだ!」
ターラは怒りで息がつまりそうだった。「来なさい」ゲークはさとすようにいって、彼女の腕をとった。ヘリウムのターラは、おとなしくしたがった。彼女は捕虜以外《ほりょいがい》の何者でもなかった。地位も称号《しょうごう》も、この非人間的な怪物たちには通用しないのだ。彼らはS字型の短い通路を通って、彼女をある部屋につれて行った。そこは採光井戸の内側に張ってあったと同様な純白の、タイル状の物質で張りつめられていた。壁のすそには、たくさんの穴が開いて、円形をしていたが、別の場所で見たものよりは大きかった。それは大部分が閉ざされていた。入口の真正面には、黄金でへりを飾られた穴があった。その上の壁には特殊な紋章が、やはり黄金で刻まれている。
セプトとゲークはその部屋にはいると、すぐに立ちどまった。彼女はふたりのあいだにはさまれていた。三人とも、正面の壁の穴に直面して黙然《もくねん》と立っていた。穴の脇の床には、頭のない、堂々たる体格の男の胴体が横たわり、その両側には完全に武装した戦士がひとりずつ、抜き身の剣を手にして立っている。およそ五分ほど、三人が待っていると、なにかが穴の中から現われた。一対の大きな触手が先に見え、それからすぐに非常に大きな、いやらしいカルデーンがはい出して来た。それは彼女が見たどのカルデーンより、一倍半も大きく、その全体の様子はどれよりもはるかにおぞましい。ほかのカルデーンの肌は青味がかった灰色だったが、このカルデーンの肌はもう少し青く、その目は白と紅の線でふち取りされており、口も同様である。二つの鼻孔《びこう》からは白と紅の線が、水平に顔の幅だけ外側に拡がっている。
誰ひとり、しゃべりも、動きもしなかった。その生物はぐったりしている胴体に這いより、その肩の上におちついた。するとこの頭と胴体とは一体をなして起きあがり、彼女に近よった。彼はターラを見つめてから捕獲者に話しかけた。
「おまえはルードの畑の第三班長か?」
「そうです、ルード、わたしはゲークと申します」
「この女について知っていることを話せ! そしてルードはヘリウムのターラのほうに顎《あご》をしゃくった。
ゲークが求められたとおりに話すと、ルードは彼女にたずねた。
「おまえはバントゥームの領土内でなにをしていたのだ?」
「わたくしは大きな嵐で、ここに吹きよせられたのです。嵐は飛行艇をいためつけ、わたくしを見知らぬところへ運びました。わたくしは食べ物と水とをもとめて夜、谷に降りて来たのです。そこへバンスがやって来たので、安全な木によじ登りました。それから谷間を立ち去ろうとしていると、あなたの部下がわたしを捕えたのです。あの人たちがどうしてわたくしをつかまえたのかわかりません。わたくしはなんの害もしませんでした。わたしが望むことはあなたが、わたくしを平穏に釈放してくださることだけです」
「バントゥームにはいったものは二度と帰れない」ルードが答えた。
「でも、わたくしたちの国はあなたの国と戦争していません。わたくしはヘリウムの王女です。わたくしの曽祖父は皇帝《ジェダック》です。祖父は王《ジェド》です。そして、父は全バルスームの大元帥なのです。あなたはわたくしを捕えておく権利はありません。ただちにわたしを釈放することを要求します」
「バントゥームにはいったものは二度と帰れない」その生物は無表情に、くりかえした。「わしはおまえのいうバルスームの取るにたるぬ生物のことなど、なにも知らない。優秀な民族はただ一つあるだけだ――それはバントゥーム族である。あらゆる自然はわが種族に奉仕するために存在するのだ。おまえにはおまえの役割りをはたさせてやる。だが、いますぐではない――おまえはあまりにもやせている。この女をもっと肥らせなくてはならないな、セプト。わしはライコールにはあきた。おそらく、これはかわった味がするだろう。バンスはくさすぎるし、ほかの生きものが谷間にはいってくるのはほとんどないことだ。ところで、ゲーク、おまえにはほうびを与えよう。わしはおまえを畑から地下に昇進させてやる。今後はあらゆるバントゥーム人が望んでいるように地下にのこってよろしい。もうこれからは、あのいやらしい太陽に耐えることも、無気味な青空を見あげることも、地面をけがすいとわしい植物を見ることも、強制せられずにすむのだ。さしあたり、おまえはわしのところへつれて来た、この生物の世話をし、これがよく眠り、よく食うように――そしてそのほかは、なにもしないようにさせるのだ。わしのいうことがわかったな、ゲーク。なにもさせないのだぞ!」
「わかりました、ルード」
「つれていけ!」その生物は命じた。
ゲークはふりむくと、ターラを部屋からつれ出した。彼女は、自分を待ちかまえている運命を考えてぞっとした――その運命からのがれる方法《すべ》はなさそうだった。これらの生物がやさしい気持や騎士的な感情を持ちあわせていないのは、火を見るよりもあきらかである。そうした感情があれば、それに訴えることもできただろうが。それにこの地下の迷宮からのがれでることは不可能のようだ。
謁見室《えっけんしつ》の外で、セプトはふたりに追いつき、すこしのあいだゲークと話しあった。それから彼女の監視役は彼女をみちびいて、曲がりくねったトンネルの網目を通りぬけ、やがて小さな部屋についた。
「われわれはしばらくここに待っていなければならない。ルードがもう一度おまえを呼びにこさせるかもしれないからだ。もしルードがそうすれば、おまえはよく肥育させられないだろう――別の目的におまえを使うことになるだろう」彼女には、彼のいった意味がよくわからなかったが、じつはそのおかげで、かえって心の平静を乱されないですんだのだった。
「歌ってくれ」やがてゲークがいった。
ターラはまったく歌を歌うような気分ではなかったが、それにもかかわらず歌った。というのは、好機が到来すれば逃げ出せるかもしれないという希望が、つねに残っていたからだ。また、もし彼女がこの生物のうちのひとりの友情を得られれば、逃亡の機会は比較的大きくなるわけだ。痛めつけられた彼女にとって、歌うということは苦しい試練《しれん》だったが、その試練のあいだ、ゲークは立ったまま、彼女の上に、じっと視線をすえていた。
「すばらしい」彼女が歌い終わると彼はいった。「だが、おれはルードにいわなかった――おまえは、わしが歌のことをルードにいわなかったのに気づいたろう。もし、ルードがそれを知ったら、彼は自分のために、おまえに歌わせただろう。そして結局、おまえはルードのもとに留めておかれて、彼が望むときにいつでもおまえの歌が聴けるようにされただろうな。だが、いまやおれは、おまえをずっとひきとめておくことができる」
「ルードがわたしの歌を好きになるだろうということが、あなたにどうしてわかるの?」彼女はきいた。
「好きになるにきまってるさ」ゲークが答えた。「おれが好きになるものなら、彼も好きになるにきまってる。なぜなら、おれたちは同一ではないか――だれもかれもがな?」
「わたくしの民族のひとびとは、みんながみんな同じものを好きになるとは限らないわ」
「なんと不思議なことだ! カルデーンたちはみんなおなじものを好み、おなじものを嫌う。もしおれがなにかめずらしいものを発見してそれが好きになれば、すべてのカルデーンがそれを好くだろうということがわかるのだ。だから、わしはルードがおまえの歌を好きになることがわかるのだ。お前も知るように、おれたちはみんな完全に同質なのだ」
「でもあなたはルードと同じには見えなくてよ」
「ルードは王《キング》だ。彼はおれたちより大きくて、みごとな飾りをつけている。だがそのほかの点では、彼とわしとは同一なのだ。きまってるじゃないか、わしが生まれた卵はルードが生んだものなんだからな」
「なんですって?」彼女はたずねた。「わたくしにはわからないわ」
「そうとも」とゲークは説明した。「われわれはみんなルードの卵から生まれたんだ。ちょうど、モアクの一族がみんなモアクの卵から生まれるようにな」
「まあ!」ヘリウムのターラはわかったように叫んだ。「ルードはたくさんの妻を持っていて、あなたはその妻のひとりから生まれたというわけなのね」
「ちがう、まるでちがうのだ」ゲークが答えた。「ルードは妻を持っていない。彼は自分で卵を生むのだ。おまえにはわかっていない」
ヘリウムのターラは、わかりません、といった。
「では説明してやろう」ゲークがいった。「もしおまえがあとで歌うと約束してくれればな」
「約束するわ」彼女はいった。
「われわれはライコールとはちがうのだ」彼は説明を始めた。「ライコールは、おまえやバンスやそれに似た生物のように、下等な生物なのだ。おれたちには性別がない――おれたちはみんなそうなのだ。ただ王《キング》だけは例外で、男女両性をそなえている。彼は、その卵からおれたちのような多くの卵を生み、労働者や戦士が孵《かえ》るのだ。千個ごとに一つの割で、新しい王の卵ができる。そしてそれからは王が生まれるのだ。おまえがルードに会った部屋に密封された入口があったのに気がついたかね? あの穴にはそれぞれ、王が密封されているのだ。もしも彼らのひとりが抜けだせば、ルードにおそいかかり、彼を殺そうとするだろう。もしも彼がルードを殺すことに成功すれば、われわれは新しい王を迎えることになるのだ。だが、たとえそうなったところで、なんの変わりもない。彼の名前はルードだし、すべてはいままでどおりにはこばれるのだ。なぜって、われわれはみな、同様ではないか? ルードは長いこと生きてきて、多くの王を生んだが、彼の死後、後継者が出るように、少数のものだけを生かしてある。あとは殺してしまうのだ」
「なぜ彼はひとり以上生かしておくの?」
「ときどき、思いがけぬことが起こるからだ」ゲークは答えた。「部族の中にいる全部の王が殺されることがある。そういうことが起こると、その部族は近くの部族のところへ行って、別の王を手に入れるのだ」
「あなたがたはみんな、ルードの子供なの?」
「ほとんどのものがそうだ。ただし、ルードの前の王が生んだ卵から生まれたものも少数いる。しかし、ルードは長いこと、生きてきたから、ほかの卵から生まれたものは、そうたくさん残っていないのだ」
「あなたがたは長生きなの、それとも短いの?」ターラがたずねた。
「非常に長命だ」
「では、ライコールも長命なの?」
「いや、ライコールは十年ぐらいのものだろう。彼らが強健《きょうけん》で、有用であるかぎりはな。彼らが老衰《ろうすい》か病気かでもう役にたたなくなると、おれたちは、やつらを畑に放置しておく。すると夜にバンスがきて、食ってしまうのだ」
「なんて恐ろしいこと!」彼女は叫んだ。
「恐ろしいだと?」彼はききかえした。「わしは少しも恐ろしいこととは思わない。ライコールは脳のない肉体にすぎぬ。彼らは見ることも、感じることも、聞くこともできない。われわれがいなければ、ほとんど動けないのだ。もしもわれわれが餌《えさ》を与えなければ、彼らは飢え死にしてしまうだろう。彼らは、われわれの革装具よりも、もっと思いやりに値しないのだ。やつらにせいぜいできることといえば、餌箱《えばこ》から餌をとって、自分の口に入れることぐらいのものだ。だが、われわれといっしょにいると――見ろ、このさまを!」そういって彼は、自分が登っているすばらしい胴体をほこらしげに示した。それは生命と精力と感覚とに躍動している。
「どうやってそうするの?」ターラはたずねた。「まるでわからないわ」
「見せてやろう」彼はそういって、床に横たわった。そして胴体から離れると、胴体は死物のようにごろんと横たわっている。彼はそのクモのような足で、彼女のほうに歩みよった。「さあ、見たまえ!」とターラの注意を促した。
「これが見えるか?」彼は、頭の後部から触手の束《たば》のように見えるものをのばして見せた。「ライコールの口の真うしろに小さな穴がある。それは脊柱のちょうど上端になっている。その穴の中に、この触手をさし込み、脊髄《せきずい》をつかむのだ。するとたちまち、わしはライコールの胴体のあらゆる筋肉を自由自在に動かすことができる――その筋肉はわしのものになる、ちょうどおまえが自分のからだの筋肉の動きを支配しているのとおなじようにな。もしもライコールが頭や脳を持っていたら感ずるだろうようなことを、わしは感ずるのだ。ライコールが傷つくと、わしが彼と結合していれば、こちらも苦しむことになる。だから、ライコールが傷ついたり、病気になると、われわれはすぐそれをすてて別のに乗りかえるのだ。われわれはライコールの肉体的な苦痛を感じるのと同様に、彼らの肉体的な快楽をも享受《きょうじゅ》できる。おまえのからだが疲労したときは、おまえの頭もそれ相応にきかなくなる。からだが病気になれば、おまえの頭も病気になる。もしからだが殺されれば、おまえの頭も死ぬ。だからおまえは低級な肉や骨や血のかたまりの奴隷なのだ。おまえのからだはバンスのからだ以上のものではない。バンスにまさるものはおまえの脳だけだ。しかも、おまえの脳はからだの制約をうけている。ところが、われわれの脳はそうではない。われわれにとって、脳はすべてなのだ。われわれの体重の九十パーセントは脳味噌《のうみそ》だ。ごく簡単な必要器官しか持っておらず、その必要器官も非常に小さい。なぜなら、それらは神経や筋肉や肉や骨格などの複雑な組織を支えてやる必要がないからだ。われわれには肺がない。空気を必要としないからだ。われわれがライコールをつれて行ける深さよりずっと下方に、地下道の広大な迷路があって、そこでわれわれカルデーンの本当の生活がいとなまれているのだ。そこでは空気呼吸をするライコールは死んでしまう。おまえも同様に死んでしまうだろう。そこの密封したいくつもの部屋には大量の食糧が貯蔵されている。それは永久に食べつづけられるくらいある。地下の深いところの水は、地上の水が枯れてしまったのちも永久に流れつづけるだろう。われわれは将来かならず到来する非常時のためにそなえているのだ――そのとき、バルスームの大気は完全に消費しつくされ――水も食料もなくなってしまうだろう。この目的のためにわれわれは創造されたのだ。この惑星から、自然が生んだもっとも神聖な創造物――完全な頭脳が滅亡しないようにな」
「でも、そんな時が来たら、いったい、あなたがたになにができて?」彼女はたずねた。
「おまえにはわからないのだ。おまえが理解するには、あまりに大きな問題なのだ。しかし説明してみよう。バルスーム、二つの月、太陽、星などは、ただ一つの目的のために創られた時のはじめから、自然はこの目的を完成するためにたゆみなく努力してきた。いちばんはじめには、生命はあるが頭脳は持たぬものが存在していた。やがて、未発達な神経組織ができ、ごく小さな頭脳が発達した。進化はつづいた。頭脳はしだいに大きくなり、しだいに強力になっていった。おまえが見るように、われわれは最高度に発達しているのだ。しかし、われわれの中にはもう一段、進化すると信じている者がある――遠い未来において、わが種族は超自然物――脳そのものに進化するだろうというのだ。足や触手や必要器官などの重荷はとり去られる。未来のカルデーンは偉大な脳だけになるのだ。それはつんぼで、おしでめくらで、バルスームの地下深く、穴の中に密封されて横たわるのだ――その偉大で驚くべき、美しい脳は、なにものにもさまたげられることなく永遠の思索《しさく》にふけるのだ」
「あなたは、それがただ横たわって考えているというの?」ターラが叫んだ。
「そのとおり」彼も大声を出した。「これ以上すばらしいことがあるかね?」
「ありますとも」彼女は答えた。「わたくしには、それよりはるかにすばらしいことをたくさん考えられるわ」
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六 恐怖の罠
彼が語ったことは、ヘリウムのターラに考える材料を与えた。彼女はすべての被造物《ひぞうぶつ》がなにか有益な目的をはたしているのだと教えられてきた。そこで事物の普遍的な体系において、カルデーンがどんな役割りを占めているかを真剣に考えてみた。それにはたしかに役割りがあるはずだったが、それがいかなるものであるかは彼女の理解力を越えていた。理解することをあきらめざるを得なかった。彼らを見ると、彼女はヘリウムの小数グループのひとびとのことを思いだした。それらのひとびとは知識の追求のために人生の悦《よろこ》びを犠牲にしている。彼らは世間の人間をあまり知的でないと考えており、多少尊大な態度で接している。彼らは自分をきわめて卓越した存在と考えているのだ。彼女は微笑した。いつか父が、こうしたひとびとについて述べた言葉を思いだしたからである。その言葉というのは、もしそれらのひとびとのうちのだれかが、その独りよがりの殻《から》を地に落として割りでもすれば、その毒をヘリウムから消毒するのに一週間もかかるだろう、というのだった。彼女の父は正常な人間が好きだった――ものごとを知らなすぎるひとびとも、知りすぎているひとびとも、どちらもこまりものだというのだ。この点について、ヘリウムのターラは父と同意見で、また父と同様に彼女も正気で正常だった。
現状の危険はとにかくとして、この不思議な世界には彼女の興味を引くものがたくさんあった。ライコールたちは彼女の心に、深い同情とさまざまの推測をよび起こした。彼らはどのようにして、どんな原形から発達したのだろうか? その点をゲークにたずねてみた。
「もう一度歌ってくれたら、話してやるよ」と彼は答えた。「もしルードがおまえをわしにくれたら、わしは決しておまえを殺しはしない。おまえをいつもそばにおいて歌わせるのだ」
彼女は自分の歌声がこの生物におよぼした効果にびっくりした。この巨大な脳のどこかにメロディを感じる部分があったのだ。それはライコールを離れた際の脳と彼女との唯一の絆《きずな》だった。脳がライコールを操作しているとき、それは別の人間的本能を示すかもしれなかった。だが、彼女はそうした本能については考えるのさえ恐ろしかった。彼女は歌い終わると、ゲークが話すのを待っていた。彼は恐ろしい目で彼女を見つめたまま、ながいこと黙っていた。
「不思議だ」とゲークはやがていった。「おまえの種族になるのはたのしいことかもしれない。おまえたちはみんな歌うのか?」
「ほとんどのひとが、すこしぐらいは歌うわ」彼女はいった。「でも、わたくしたちはたくさんの愉しみや悦びがあるのよ。踊ったり、遊んだり、働いたり、恋をしたり、ときには戦争もね。わたくしたちは戦士の民族なのよ」
「恋だって!」カルデーンがいった。「わしはおまえのいう意味を知っているつもりだ。だが、われわれは幸いなことに感情を超越している――胴体を離れているときにはな。だが、ライコールを操縦しているときは――そう、そのときは別問題だ。おまえの歌を聞き、おまえの美しいからだを見ていると、おまえのいう恋愛という言葉の意味がわかる。わしはおまえを愛せるぞ」
彼女は相手から身をひいた。「あなたはライコールの起源を話してくれると約束したのよ」と指摘した。
「大昔のことだ」彼は話しはじめた。「われわれのからだはいまより大きく、頭はもっと小さかった。足は弱くて、速く走ったり、遠くまで行ったりすることができなかった。いっぽう四本足で歩く、頭の鈍《にぶ》い動物がいた。それは地下の穴に住んで、そこに食糧を運び込んでいた。そこでわれわれは地下道をのばしてその穴にはいり、彼らが運んできた食糧を食べた。だが、彼らはすべてのものに充分なほどの食糧を持ち込まなかった。すべてのものとは、彼ら自身とそれに依存しているカルデーン全部のことだ。そこでわれわれもまた地上へ出かけて食物を手に入れる必要がおきた。これはわれわれの弱い足には重労働だった。そこで、われわれはそういう原始的なライコールの背に乗りはじめたのだ。ながいことかかったことはたしかだが、ついにカルデーンはライコールを操縦する手段を発見した。そしてやがて、ライコールは彼らを食物のありかに導いてくれる、よりすぐれた主人の頭脳に完全に依存することになったのだ。時がたつにつれて、ライコールの脳はしだいに小さくなり、もはや目や耳を使う必要がなかったから、それらも退化してなくなってしまった――カルデーンが彼らに代わって見たり、聞いたりしてくれたからだ。それと同様な過程で、ライコールは後足で歩くようになった。カルデーンがなるべく遠くを見られるようにするためだ。脳が退化すれば、頭も退化するのだ。口は頭の中で使われるただ一つの部分なので、それだけが残った。赤色人がときおり、われわれの祖先の手中に落ちることがあった。祖先は自然が赤色人に与えた形態の美と利点を見てとり、ライコールをそのように進化させた。知的な交配によって、現在のようなライコールを造りだしたのだ。事実ライコールは、まったくカルデーンの超越的知能の産物なのだ――彼はわれわれのからだであり、われわれが適当と思うことをおこなうのだ。ちょうどおまえが自分の適当と思うことを自分のからだでおこなうようにな。ただ、われわれにはいくらでもからだの補給がきくという利点があるところがちがう。おまえはカルデーンになりたいとは思わないか?」
地下の部屋にどれくらいのあいだ幽閉されていたのか、ターラにはわからなかった。非常に長い時間のように思えた。彼女は食べ、眠り、閉じ込められた部屋の入口の前をこの生物たちがはてしもなく通りすぎていくのを見ていた。地上からおりてくるのは、荷を負ったものたちの行列だった。食糧、食糧、食糧だ。もう一つの行列は空手で地上にもどって行くのである。彼らを見ているときは、地上が昼だとわかった。また、彼らが通らないときは、夜なのであり、バンスが昼のあいだに畑にすてられたライコールを食いあさっているのだろうと思った。彼女は青白くなり、やせていった。あてがわれる食物がきらいだった――彼女の口にあわない――たとえ味のいい食物でも、肥ることが恐ろしくて腹いっぱい食べようとはしなかっただろう。肥るということはこの場合、べつの意味をもっていた――恐ろしい意味を。
ゲークは彼女がやせて、色が青ざめていくのに気づいた。彼女にそのことをいうと、彼女はこんな地下では元気になれないといった――新鮮な空気と日光が必要なので、さもないと弱って死んでしまうだろうといった。あきらかに彼は、その言葉をルードに報告したらしい。なぜなら、それから間もなく、彼は王《キング》が彼女を塔に閉じ込めるように命じたと告げて、彼女を塔につれて行ったからだ。彼女はゲークに話をすれば、まさにそういう結果になるのではないかと空頼みしていたのである。太陽をまた見られるということだけでも大したことだったが、いまや彼女の胸には、それまで思ってもみなかったような希望がわいた。それまで、彼女は恐ろしい迷宮に横たわり、そこから外に出る方法は決して見つかるまいと観念していたのだ。しかし、いまやかすかながら希望の光がさしてきた。少なくとも、丘陵を眺めることができるし、丘陵を眺められるとすれば、そこに到達する機会も訪れないだろうか? もし、ほんの十分間でも隙《すき》があったら、ほんの十分間! 快速艇はまだあそこにあるだろう――いや、あるにちがいない。ほんの十分間で自由の身になれるのだ――この恐ろしい場所から永久に解放されるのだ。しかし幾日たっても彼女はひとりになれなかった。十分の半分もひとりになれなかった。何度も逃げる計画をたてた。バンスさえいなければ、夜なら容易に逃げられるだろう。夜になると、ゲークは、いつも胴体を離れて、半ば昏睡状態《こんすいじょうたい》におちいるのだった。が、それでも眠っているとはいえなかった。少なくとも眠っているようには見えないのだ。なぜなら彼の瞼《まぶた》のない目は少しも変わらなかったからだ。しかし、彼は部屋のすみに静かに横たわっている。ターラは逃げ出す場面を一千回も心にえがいた。彼女はライコールの側に突進し、その革装具にさがっている剣をつかむ。そして、ゲークが彼女の意図に気づくまえに、剣をひきぬき、彼がなかまに知らせるまえに、剣の刃をその醜い頭に突き通してしまうのだ。囲いまではほんの一瞬で到達できるだろう。ライコールたちは彼女を止めることはできない。なぜなら彼らには脳がないから、彼女が逃げようとしていることがわからないのだ。彼女は囲いから畑へ通じる門が開閉するのを窓から観察していたから、大きな掛金がどう動くかを知っていた。門を抜け出して、丘にむかって突進するのだ――丘は近いから、彼らには追いつけない。まったく簡単なことだ! さもなければバンスさえいなければいいのだ! 夜にはバンスがいるし、昼には畑に労働者がいる。
塔に監禁《かんきん》され、適当な運動や食事を欠いているので、彼女は捕獲者たちが望むように肥らなかった。ゲークは、彼女がなぜ丸々肥らないのか、なぜ彼らが捕えたときとくらべてさえ元気そうに見えないのか、そのわけを知ろうとした。ルードが再三、彼女の状態をたずねるので、彼の懸念はますます大きくなった。その結果、ターラは逃亡の新しい機会を見いだせるような計画を暗示されることになったのである。
「新鮮な空気と日光の中を散歩するのが習慣なの」彼女はゲークにいった。「こんな部屋に閉じ込められて、とぼしい空気を吸い、適当な運動もせずにいたのでは、前のように肥ることはできないわ。毎日、畑に出て、太陽が輝いているあいだ、散歩することを許してちょうだい。そうすれば、きっと健康になって肥ることよ」
「おまえは逃げるつもりだ」彼はいった。
「でもあなたが、いつもそばについていれば、逃げられるはずがないでしょう?」彼女は反駁した。「それに逃げようとしたところで、どこへ行ったらいいの? わたくしはヘリウムの方角さえ知らないわ。きっととても遠いのでしょう。逃げだしたら、その夜にバンスに食べられてしまうわ、そうじゃないこと?」
「それはそうだろう」ゲークはいった。「では、おまえの頼みをルードに伝えよう」
翌日、彼は、ルードが彼女を畑につれ出してもよいといった旨を彼女に告げた。しばらくそうしてみて、彼女が肥るかどうか結果を見ようということなのだ。
「もし、お前が肥らなくても、ルードはどのみちおまえを呼び出すだろう」ゲークはいった。「だがおまえを食用にはしまい」
ターラは身ぶるいした。
その日から数日間、彼女は塔から出され、囲いを通りぬけて畑に出た。彼女はいつも逃げだす機会をねらっていたが、ゲークは油断なく、側にくっついていた。
しかし、彼女が逃げだそうとしなかったのは、彼がついていたからというよりもむしろ、快速艇のある丘と彼女とのあいだに、いつもたくさんの労働者がいたせいだった。ゲークの手を逃がれるのは容易だろうが、ほかのものの数が多すぎたのだ。そんなある日、ゲークが、彼女をともなって野外を歩きながら、きょうが最後の散歩になるだろうと告げた。
「今夜、おまえはルードのところへ行くのだ。おまえが歌うのを二度と聞けないのは残念だな」
「今夜ですって!」彼女はかろうじていったが、その声は恐怖におののいていた。
すばやく丘のほうをうかがった。丘は非常に近かった! だが、そのあいだには避けようのない労働者の群れがいる――およそ二十人ばかり。
「あそこまで歩きましょう?」彼女は労働者たちを指さした。「あの人たちがなにをしているのか、見たいのよ」
「遠すぎる」ゲークがいった。「わしは太陽が嫌いだ。ここにいたほうがずっといい。この木の陰に立っていられるからな」
「いいわ」彼女はうなずいた。「それじゃ、あなたはここにいらっしゃい。わたくしは行ってみます。ほんの一分しかかからないわよ」
「だめだ」彼は答えた。「わしもいっしょに行こう。おまえは逃げたいのだ。だがそうはさせないぞ」
「逃げられないわよ」
「わかってる」ゲークはうなずいた。「だが、おまえは逃げようとするかもしれない。わしはそうさせたくない。おそらく、いますぐに塔にもどったほうがいいだろう。おまえが万一逃げたりしたら、それこそわしは大変なことになるのだ」
ヘリウムのターラは最後のチャンスが消えていくのを感じた。きょう以外には、二度と機会は訪れないのだ。そこで、なにか口実をもうけて、彼をすこしでも丘に近いほうへおびき出そうとした。
「わたくしのお願いはほんのわずかなことなのよ。今夜、あなたはわたくしに歌ってもらいたいでしょう。そして今夜が最後の機会だわ。もしあなたがわたくしを行かせて、あのカルデーンたちがしていることを見せてくれなければ、もう二度と歌ってあげないから」
ゲークはためらった。
「では、わしはおまえの腕をずっとつかまえているぞ」
「ええ。もちろんいいわよ。あなたがお望みならね」彼女はうなずいた。「さ、行きましょう」
ふたりは労働者のほうへ、丘のほうへ、歩いて行った。その小人数の群れは地中から球根を掘りだしていた。彼女はさっきからそれに気づき、彼らがほとんどつねに低く前かがみになって仕事をしているのを見てとっていた。彼らの恐ろしい目は掘りおこされた土にそそがれている。彼女はゲークを彼らのすぐ近くまでつれて行った。彼らの仕事ぶりをくわしく見たがっているようなふりをして。その間《かん》、終始ゲークは彼女の左手をしっかり握っていた。
「とてもおもしろいわ」彼女は溜息とともにいった。そして突然、「ごらんなさい、ゲーク」と叫んで背後の塔の方向を指さした。カルデーンは、彼女の手首を握ったまま、彼女から身を半分まわして、彼女の指さしたほうを見ようとした。と同時に彼女はバンスのようにすばやく、右こぶしで力のかぎり彼をなぐりつけた――カラーのすぐ上のぶよぶよした頭のうしろ側を。その一撃は彼女の目的を達するに充分だった。カルデーンは自分のライコールから離されて地面にころげ落ちた。するとたちまち、彼女の手首をつかんでいた手がゆるみ、胴体はもはやゲークの脳によって支配されなくなり、しばらくふらふらしたのち、がっくりひざを落とし、つづいてあおむけにひっくりかえった。しかし、ターラは自分の行為の結果を最後まで見届けてはいなかった。手首をつかんでいた指がゆるんだとたん、ゲークの手をふりほどいて、丘にむかって突進して行った。同時に、ゲークのくちびるから警告の口笛が発せられ、たちまちそれに応じて労働者たちがはね起きた。ひとりはほとんど彼女の進路にいた。彼女はそいつののばした腕をかわし、また丘へ、自由へ向かって走りだした。そのとき、彼女は鍬《くわ》のような道具に足をとられた。それは土を掘り起こすのに使用され、半ば土にうまって放置されていたものである。一瞬彼女は平衡《へいこう》をとりもどそうと身をもがいてよろめきながら駆けつづけたが、こんどは掘りかえしたうねに足をとられた――彼女はまたよろめき、今度は地面に倒れた。そして立ちあがろうと身をもがいているうちに、重いからだが彼女の上に落ちてきて、両腕を捕えた。たちまちのうちに、彼女はとり囲まれ、引きずり起こされた。あたりを見まわすと、ゲークが地に横たわってライコールに這いよって行くさまが見えた。しばらくすると、彼はターラのそばにやってきた。
感情を現わせない恐ろしい顔は、その巨大な脳の中で起こっていることを少しも示さなかった。彼は怒りやにくしみや報復の感情をいだいているのだろうか? ターラにはそれが推測できなかったが、もうどうでもかまわなかった。最悪のことがおきたのだ。彼女は逃げようとして失敗した。もう二度と機会は訪れまい。
「来い!」ゲークがいった。「塔に帰るのだ」彼の声の無気味な単調さは乱れていなかった。それは怒りよりも始末がわるかった。というのは相手の意志が少しもわからないからだ。ターラの恐怖はいまやますばかりだった。これらの巨大な脳は人間のさまざまの感情を超越している。
こうして、彼女は塔の牢獄《ろうごく》に引きもどされ、ゲークはまた不寝番《ふしんばん》をはじめた。彼は入口にうずくまっていたが、いまや、抜身《ぬきみ》の剣を手にしたまま、自分のライコールから離れなかった。そして、第一のライコールが弱った様子を見せると、前もって連れてきておいた別のやつに乗り替えるだけなのだ。彼女はすわって彼を見ていた。彼は不親切ではなかった。しかし、彼女は感謝の情を感じなかったし、かといって憎悪も感じなかった。これらの脳は繊細な感情をまるで理解できないので、彼女の心中になんの感情をもよびおこさないのだ。彼女は彼らに対して感謝も、愛情も、憎悪も感じられなかった。彼らのまえではいつも恐怖を感じるばかりだ。彼女は偉大な科学者たちが、赤色民族の将来を論じあうのを聞いたことがあった。そして、ある人物が、頭脳は結局、完全に人間を支配するようになるだろう、と主張したことを思いだした。そこでは本能的な行動や感情はもはやなくなり、何事も衝動によってなされることはなく、それとは反対に、理性が人間のあらゆる行為を規制するだろうというのである。その理論の主張者は、自分がそのような状態の幸福を享受できないだろうことを残念がっていた。彼の主張によれば、そのような状態によって人類の理想的生活がもたらされるとのことだった。ヘリウムのターラはあの学識のある科学者がここに来て、自分の予言が実際に達成された結果を充分に経験してみればよいのにと心から思った。完全に肉体だけのライコールも完全に知能だけのカルデーンも、どちらもおよそ望ましいものではない。だが、彼女が知っているような正常で不完全な中間的人間の中にこそ、実在のもっとも望ましい状態があるのだ。これは人間活動のいかなる面においても、画一的完全さを求める理想家たちにとっては、よい実地教育になるだろう、と彼女は思った。なぜなら、彼らは絶対的完全は、絶対的不完全と同じように、およそ望ましくないものだという真実を発見するだろうから。
ターラは暗澹《あんたん》たる思いに満たされながら、ルードの呼び出しを待っていた――その呼び出しは、彼女にとってただ一つのことを意味している。つまり死だ。彼女はルードが自分を呼び出すことにした理由を推測した。そして夜が明けぬうちに、なにか自己抹殺の方法をみつけなければならないと思った。しかし、まだ希望も、生命もすてきってはいなかった。ほかの方法がまったくなくなるまで、あきらめないつもりだった。彼女は一度狂ったような悲鳴をあげて、ゲークを驚かせた。「わたくしはまだ生きているわ!」
「それは、どういう意味だ?」カルデーンはたずねた。
「わたくしがいったとおりの意味よ」彼女は答えた。「わたくしはまだ生きている。そして生きているあいだはなんとか方法が見つかるわ。死んでしまえば、もう希望はないのよ」
「なんのための方法を見つけるのだ?」
「生きて自由になるためのよ。そして自分の国に帰るためのよ」彼女は答えた。
「バントゥームにはいったものは二度と出られないのだ」彼はものうげな声でいった。
彼女は答えなかった。しばらくして彼はまた口をひらいた。「歌ってくれ」四人の戦士が彼女をルードのもとにつれにやってきたのは、彼女が歌っている最中だった。そしてゲークには、その場に残れと告げた。
「なぜだ?」ゲークがきいた。
「おまえはルードのご機嫌を損じたのだ」戦士のひとりが答えた。
「どうして?」とゲーク。
「おまえは純粋理性の力の欠如を示したのだ。おまえは自分が感情に影響されるのを許し、それによって欠格者であることを示した。おまえは欠格者の運命を知ってるだろう」
「欠格者の運命なら知っているが、しかしわしは欠格者ではないぞ」ゲークは主張した。
「おまえはこの女ののどから出る、妙な雑音を聞いて、よろこび慰《なぐさ》められた。だが、そんなものが論理や理性の力とはなんの関係もないことは百も承知のはずだ。これはそれだけでも、おまえの弱さを申し分なく告発《こくはつ》するものだ。そのうえ、あきらかにおまえは非論理的な感情に影響されて、この女が、もう少しで逃げられそうなところまで野外を散歩するのを許した。もしおまえの理性力に欠陥《けっかん》がなければ、自分が不適格であることを納得できるはずだ。その当然の結果は破滅だ。だから、おまえはルードの一族の他の全カルデーンの見せしめになるような方法で破壊されるのだ。それまで、このままで待っていろ」
「もっともだ」ゲークはいった。「ルードがもっとも合理的な方法でわしを破壊するに適当と思うまで、ここに残っていよう」
ヘリウムのターラは部屋から連れだされながら、彼にあきれたような視線を投げた。彼女は肩ごしにふりむいていった。「いいこと、ゲーク、あなたはまだ生きてるのよ!」それから彼らは、ターラを連れて、はてしないトンネルを通り抜け、ルードが待ち受けるところへいった。
ルードの前に引き出されると、彼は、部屋の隅にクモのような六本の足でうずくまっていた。そのむかいの壁際には、彼のライコールが横たわっている。そのみごとな体躯は豪華なよろいで飾りたてられていた――しかし、それはカルデーンの指導がなければ死体も同然だった。ルードは捕虜をつれてきた戦士を帰らせた。それから、恐ろしい目を彼女にすえたまましばらく黙っていた。ターラは待っているしかなかった。なにが起こるかは、推測できるだけだ。そのときがきてからでも、対処する時間はあるだろう。かならずしも死を覚悟する、とはかぎらない。やがてルードが口を開いた。
「おまえは逃げようと考えているな」彼は、カルデーン特有の、まったく感情のない単調な声でいった――感情に影響されないで理性を表現する唯一の必然的な結果である。「おまえは逃げられはしない。おまえは二つの不完全なものの結合にすぎない――不完全な脳と不完全な肉体の結合だ。この二つは完全な状態では共存しえない。あそこにあるのが完全な肉体なのだ」彼はライコールのほうを指さした。「あれには脳がない。そしてここには」と彼は触手の一つをあげて、自分の頭を示した。「完全な脳がある。これが脳として完全に、しかも適切に活動するためには、からだなど不要なのだ。おまえはそんな貧弱な脳でわしに挑戦するつもりか! いまになっても、おまえはわしを殺そうとたくらんでいる。そして、もしそれにしくじったら、自殺するつもりでいる。おまえは精神力が物質に優越することを学ぶだろう。わしは精神だ。おまえは物質だ。おまえの持っている脳は、あまりにも貧弱で、未発達だから、脳という名前にさえ値しない。おまえは、感情によって命ぜられた衝動的行為で脳が弱められるのを放任してきた。おまえの脳はなんの価値もない。それは事実上おまえの存在をまったく支配していないのだ。おまえにわしを殺させはしないし、自殺もできないだろう。わしの用がすんだら、おまえを殺してやる。もしそうするのが論理的に思われるならばな。おまえは完全に発達した脳の持つ力の可能性を考えてみることもできまい。あのライコールを見ろ。彼らには脳がない。彼らは動けるが、自己の意志ではほとんど動けない。われわれは唯一の先天的な、機械的本能を彼らの中に残存させたが、そのおかげで、彼らは食物を口に運ぶことができるのだ。しかし、彼らは自分で食物を見つけることはできない。彼らの手の届くところに、そしていつもきまった場所に食物を置いてやらねばならないのだ。もしも食物を彼らの足もとにおいて、彼らをひとりにしておくと、彼らは飢え死にしてしまうだろう。さて、こんどは本当の頭脳がどれほどのことをなしとげられるかを見るがいい」
彼はライコールに視線をむけ、そこにうずくまったまま、無感覚な胴体をじっと凝視した。やがて、頭のないからだが動きだした。彼女はふるえあがった。それはゆっくりと立ちあがり、部屋を横切ってルードのほうにやってきた。身をかがめて恐ろしい頭を両手で持ちあげ、肩の上にのせたのである。
「おまえはこんな力にさからうことができるか?」ルードがたずねた。「わしはライコールにやらせたように、おまえにもやらせられるのだ」
ヘリウムのターラは返事をしなかった。確かに声にだして返事することは不必要だった。
「おまえはわしの能力を疑っているな!」ルードがいった。まったくそのとおりだったが、彼女は頭の中でそう考えただけなのだ――口に出してはいわなかったのに。
ルードは部屋を横切ってきて、横たわった。そして胴体から離れ、床を這って、円形の穴の真前に立った。彼女がはじめてルードの前に連れてこられた日、彼が這いだしてきた穴だ。彼はそこに立ちどまり、その恐ろしい目を彼女にすえた。なにもいわなかったが、その視線は彼女の脳の中心に突きささるようだった。彼女は、カルデーンのほうへ、どうにもならないような力でひきつけられていくのを感じた。それに抵抗しようとした。視線をそらそうと努めた。しかし、できなかった。彼女の目は、恐ろしい催眠術にかかったかのように、面とむきあった巨大な脳の、瞼《まぶた》のない、ぎらぎらした眼球にひきつけられてしまった。ゆっくりと、一歩一歩、力のかぎり抵抗しながら、彼女は恐ろしい怪物のほうへひきよせられていった。ターラは無感覚になった自分の能力を目ざますために大声で叫ぼうとした。しかし、くちびるからはなんの音もでない。もしあの目がほんの一瞬でもそらされれば、自分の歩みを調節する力をとりもどせるだろうと感じた。しかし、その目は決して彼女から離れなかった。その目はますます深くくいこみながら彼女の全神経組織の調節力を奪っていくみたいだ。
彼女が近づいていくと、彼はそのクモのような足でゆっくり後退した。彼女は、彼が触覚をあちらこちらとふりながら、しだいしだいに壁の丸い穴の中に後退して行くのに気づいた。彼女もそこへついて行かなければならないのだろうか? かの奥まった部屋には、どんな新しい、正体不明の恐怖がかくされているのだろうか? いけない、ついて行ってはならないのだ。だが、壁穴の中からは、いぜんとして二つの目が彼女の目にからみついている。穴のちょうど入口で、彼女は自分を引きずりつづける目の力に、最後の、勇ましい抵抗を試みた。だがついに、破れた。あえぎをすすり泣きに変えながら、ヘリウムのターラは穴を通ってそのむこうの部屋にひきこまれた。
穴はかろうじて彼女を通すくらいの大きさだった。穴のむこう側は小さな部屋で、彼女の前にはルードがうずくまっていた。むかい側の壁ぎわには、大きな、美しい体格のライコールがもたれている。彼はよろいもほかの装飾もつけていない。
「わかったろう」とルードがいった。「反抗は無駄なのだ」
その言葉は、彼女を一瞬魔力から解放したみたいだった。彼女はすばやく目をそらした。
「わしを見ろ!」ルードが命じた。
ヘリウムのターラは目をそらしつづけた。彼女は新しい力が湧くのを感じた。すくなくとも、その生物の支配力が減少するのを感じた。彼女は自分の意志に対する彼の狡猾《こうかつ》な支配力の秘密を偶然、発見したのだろうか? そう思う勇気はなかった。目をそらしたまま、彼女はあの恐ろしい目に引きずり込まれた穴のほうに身を転じた。ルードはまた止まれと命じた。だが声だけでは、彼女を支配する力をまったく欠いていた。声には目のような力はなかった。彼女は、ルードが口笛を吹くのを聞いて、助けを求めていることを知った。しかし、そちらをふりかえろうとしなかったので、彼女が離れた壁ぎわにもたれていた頭のない巨大な胴体にルードが視線を集中しているのは目にはいらなかった。
彼女はまだかすかに、ルードの魔力の影響をうけていた――自分の力に対する完全で自主的な支配力をとりもどしていなかったのだ。まるでなにか恐ろしい悪夢にうなされているもののように動いた――手足に大きな重しをかけられたように、あるいは、ねばねばした液体の中でからだを引きずっているかのように、のろのろと苦労して歩いた。入口は近い。ああ、ほんの目と鼻の先なのだ。しかし、いくらもがいても、それとわかるほど前進していないようだった。
彼女の背後では、巨大な頭脳の邪悪な力にうながされながら、頭のない胴体が四つんばいになって彼女に這いよっていた。ようやく、彼女は入口にたどりついた。いったん、この入口を通りぬければルードの支配力が破られるだろうという気がした。彼女がほとんど隣の部屋にぬけだしかけたとき、重い手でくるぶしをぐっとつかまれた。ライコールが追いついて、彼女を捕えたのだ。彼女はもがいたが、ルイコールは彼女をルードのいる部屋に引きもどした。そいつは彼女をしっかりと捕えて引きよせた。そして彼女はぞっとなった。彼女を愛撫しはじめたのだ。
「わかったろう」ルードのものうげな声が聞こえた。「反抗は無益だ――そしてそれが罰なのだ」
ヘリウムのターラは身を守ろうとして争った。しかし彼女の筋肉は、この脳のない獣力《じゅうりょく》の化身《けしん》に対して、みじめなほど貧弱だった。彼女が荷《にな》っているほこらしい名前の名誉をかけて、勝ち目のない戦いをつづけた――ただひとりで戦った。彼女を救うためなら、火星騎士道の華である強力な帝国の戦士たちは、よろこんで命を捧げたであろうものを。
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七 おぞましい光景
巡洋艦バナトール号は、嵐の中を傾きながら突進した。艦が地上にたたきつけられもせず、自然の猛威《もうい》にもみくちゃにされてこっぱみじんの残骸《ざんがい》にならなかったのは、まったく自然に気まぐれのおかげだった。嵐がつづくあいだずっと、この無力な難破船は嵐につきあげられる風のまにまにただよっていた。しかし、艦もその乗員も、彼らが蒙《こうむ》ったさまざまの危険や変化にもかかわらず、暴風の弱まる一時間ほど前までは、まるで不死身《ふじみ》のようだった。が、破局が訪れたのはそのときだった――それは事実バナトール号の乗員とガソール王国にとっての破局だった。
ヘリウム出航後、乗員たちは飲まず食わずで、繋索《けいさく》につながれたまま、投げとばされたりたたきつけられたりしていたので、だれもがへとへとに疲れきっていた。やがて、嵐の短いきれ目が訪れた。そのあいだに、乗員のひとりが、からだをデッキにあやうくつなぎとめている繋索をほどいて、自分の持ち場に行こうとした。その行動はまさしく規律違反であり、他の乗員たちの目には、その結果がおどろくべき唐突《とうとつ》さで映った。間髪を入れぬ恐ろしい報復だった。その男が安全索をほどくかほどかないうちに、嵐の怪物のすばやい腕が艦をかかえこみ、幾度となくひっくりかえした。その結果、むこうみずな乗組員は、はじめの転覆《てんぷく》で艦外に投げだされてしまった。
艦がたえず転覆したりよじれたりすることと嵐の力とで、乗船用索具や着陸用索具が繋索からほどけて竜骨の下に垂れさがり、その綱や革ひもがひとかたまりにもつれあっていた。バナトール号がまっさかさまになると、それらの索具は、また艦が反対の方向にひっくりかえるまで、船体に巻きついているのだ。風そのものが、それらをまたデッキから吹き払うこともあった。すると、突進する艦の下方に垂れて嵐の中ではためくのである。
その戦士のからだは、この索具のもつれた中に落ちた。彼は、おぼれるものがわらをつかむように、からみあった索具をつかんだ。索具は彼をひきとめ、落下をまぬかれさせた。彼は必死の力で綱にしがみつき、狂気のように足やからだをそれにからまそうとした。艦が突き動かされるたびに、彼のつかまっている手は、いまにもひきもぎられそうになった。結局、手がひきもぎられて自分が下の地面にたたきつけられるにちがいないということをその男は知ってはいたが、それでも絶望から生まれる気ちがいじみた熱意でいたましくも頑張っていた。しかし、それは彼の苦しみをひきのばすだけのことだった。
ガソールのガハンが部下の運命を知ろうとして、バナトール号の傾いたデッキごしに見おろしたとき目にしたのは、このような光景だった。手近の舷側にむすびつけられた一本の着陸用革ひもが、下方にもつれあった、索具のかたまりにからみつかずに、舷側に垂れはためいていた。その下のはしには、鉤がついて、かちかち鳴っている。ガソールの王《ジェド》は一目で情況を把握した。彼の眼下には、乗員のひとりが死に直面しているのだ。救助の手段は、王《ジェド》の手にゆだねられていた。
もはや一刻の逡巡《しゅんじゅん》もゆるされない。彼は甲板繋索をほどきすてると着陸用の革ひもをつかみ、舷側にすべりおりていった。狂った振り子玉のように遠く近く振りまわされ、バルスームの上空、千メートルの空中で、とんぼ返りをしたり、きりきりまいした。やがてついに、彼が期待していたことが起こった。索具のかたまりに手がとどくところまで運ばれたのだ。そこにはまだ戦士がしがみいていたが、その力は急激に弱まっていた。ガハンは片脚を綱のもつれた輪にかけ、その男のすぐ近くにあるもう一つの輪をつかめるところまでからだをひきつけた。この新しい足場にあやうくしがみつきながら、王は自分がつたいおりた着陸用の革ひもをゆっくりたぐりよせ、その下端にある鉤をつかんだ。そしてその鉤を、戦士のよろいの金輪にしっかり固定した。戦士の弱った指が、索具からすべり落ちる寸前だった。
少なくとも一時的に彼は部下の命を救ったのだ。そこで今度は自分の身の安全を確保することに注意をむけた。彼がつかまっている索具のかたまりの中には、戦士にとりつけたような鉤が多数からみついていた。彼はそれらの一つにからだをつなぎとめて、デッキによじのぼれるくらいまで嵐が弱まるのを待とうと思った。しかし身近にぶらぶらしている鉤の一つに手をのばすうちにも、船体は嵐の猛威の新しい爆発にとらえられ、嵐にもまれる索具は、巨大な船体の突進につれてはためきおどり、重い金属鉤の一つが空を切ってガソールの王《ジェド》の目と目のあいだをまともに打った。
ガハンは瞬間的に目がくらみ、指のあいだから索具がすべった。そして千メートル下の大地めがけて火星の希薄《きはく》な大気の中をまっしぐらに落ちていった。このとき、ゆれ動くバナトール号のデッキでは、彼の忠実な戦士たちが、敬愛する指導者の運命も知らずに、繋索にしがみついていた。彼らが王《ジェド》の不在に気づき、その運命を決した自己犠牲の英雄的行為を知ったのは、それから一時間以上もたって、嵐が事実上おさまってからのことだった。バナトール号はいまや水平に復し、強いが安定した風に運ばれていた。戦士たちが甲板繋索をはなし、士官たちが欠員や損害をしらべていたとき、弱々しい叫び声が舷側から聞こえてきたのだ。彼らは竜骨の下に垂れた索具につるされている男に気づいた。たくましい腕が男をデッキに引きあげた。バナトール号の乗員たちは、そのときはじめて自分たちの王《ジェド》の英雄的行為とその最期を知ったのである。王《ジェド》が落ちてからどのくらい飛んだか、はっきり見当がつかなかった。また、艦の損傷がはなはだしいので、彼を捜しにもどることも不可能だった。乗員たちは悲しみにしずみながら、運を天にまかせて風の吹くままに空中をただよいつづけていった。
いっぽうガソールの王《ジェド》、ガハンはどうなったのか? 彼はおもりのように三〇〇メートルほど落下した。すると嵐がその大きな握力で彼をつかみ、ふたたび高く吹きあげた。風に巻きあげられる紙片のように、彼は中空で突きとばされ、風にもてあそばれた。いくどとなく、もんどりうち、投げあげられたり、投げおとされたりしたが、強風の突撃がおさまるごとに、しだいに地表近くまで運ばれていった。気まぐれなのが、旋風の法則である。そもそも、こうした嵐は本来気まぐれなのだから。巨木をひっくりかえし、破壊するかと思うとそのおなじ突風が、か弱い子供を何マイルか運び、けがひとつさせずに、通過した跡に置いていくこともある。
ガソールのガハンの場合もそうだった。地面にたたきつけられて粉ごなになるものと覚悟した瞬間、自分が干あがった海底の黄土色の柔らかい苔の上に静かに置かれているのに気づいた。これほどきわどい冒険をしたのに、からだは金属の鉤でうたれた額のかすかなこぶのほかは、少しも負傷していなかった。運命がこれほどやさしく自分をあつかってくれたことがほとんど信じられず、王《ジェド》はそろそろと起きあがった。まるで骨が折れ、砕《くだ》けてしまって体重を支えられないのではあるまいかと半信半疑の態《てい》だった。しかし、無事だった。彼はあたりを見まわして、そこがどこか見当をつけようとしてみたが無駄だった。空気は飛びかう砂塵で充満しているし、太陽は覆いかくされていた。彼の視界は、黄土と砂塵《さじん》に覆われた空気からなる半径二、三〇〇メートルの円内に限られていた。どちらかの方向の五〇〇メートル先には大都市の壁がそそり立っていて、彼がそれに気づかないのかもしれない。塵《ちり》がはれるまでは、現在いるところから動いても意味がない。というのは、どちらへ歩いてよいものやらわからなかったからだ。そこで苔の上にすわって待つことにした。彼は部下の戦士たちと艦の運命に思いを馳せたが、自分のあやうい立場については、ほとんど考慮しなかった。よろいには長剣とピストルと短剣がつるしてある。そしてもの入れ袋の中には、バルスーム戦士の装備の一つである濃縮栄養食が少々はいっている。それらのものは、彼のきたえあげた筋肉、勇敢さ、および不屈《ふくつ》の精神と結びついて、彼とガソールとのあいだに横たわる、いかなる災難にも対応させるに充分だった。しかし、そのガソールがどの方向にあるのか、またどのくらいの距離にあるのか、さっぱりわからない。
風は急速に衰え、あたりを見えなくしていた砂塵もそれとともにしずまった。嵐が過ぎ去ったことはたしかだったが、まだ視界がせまくて動きがとれず、彼はいらいらした。夜になるまで、情況はいっこうに好転しない。そこで彼は嵐におきざりにされたその場で、翌日まで待たざるをえなかった。絹や毛皮の寝具もなく、快適とはほど遠い夜を過ごした。だから不意に夜明けが訪れるのを見て、衷心から、ほっとした気分を味わった。いまや空気は澄みわたり、輝く朝日の下で、起伏《きふく》する平原が四方八方にひろがっているのが見える。
しかし北西の方向には、低い丘の稜線がかすかに見わけられた。ガソールの南東にはこのような地域がある。彼は嵐の方向と速度とが自分を見おぼえのある土地の近くに運んだのだろうと推測した。ガソールは、いま自分が眺めている山のむこうにあるのだと考えたが、実際にはそれほどずっと北東にあったのである。
二日がかりで、ガハンは平原を横切り、その丘の頂きにたどりついた。そこから自分の国が見えるだろうと期待した。が、結局、失敗しただけのことだった。眼前には、もう一つの平原がひろがっていた。それはたったいま彼が横切ってきた平原よりさらに広く、そのむこうには別の丘陵があった。この平原が前の平原とちがう点は、そのところどころに丘が点在していることだった。しかし、ガソールが自分のむかっている方向のどこかにあるものと信じて、彼は谷をくだり、北西にむかって歩を進めた。
何週間も、ガソールのガハンは谷や山を横切って進みながら、故国への道しるべになるような見なれた地形を求めていった。しかし、つぎつぎに登りつめる頂きからは、また新しく、見なれぬ風景がひらけてくるばかり。野獣さえほとんど見かけず人間はまったく見かけなかった。ついに彼は、自分が古代バルスームの伝説の国、神々の呪いのかかった国にさ迷いこんだのだと信じるようになった――その国はかつて肥沃《ひよく》だったが、思いあがった国民が神々をないがしろにしたので、罰として、神々によって根絶やしにされてしまったという。
ある日、彼が低い丘に登って見おろすと人の住む谷間が見えた――谷間には木々が茂り、土地は耕作され、ところどころに、奇妙な形の塔を囲んだ石造の壁が土地を区画している。ひとびとが畑で働いているのを見たが、彼らに会うために走り降りてはいかなかった。まず、もっとよく相手を知る必要がある。味方なのか、敵なのかを知る必要があるのだ。そこで彼は潅木《かんぼく》の茂みに身をかくしながら、前に深くつきだした丘の上の見晴らしのきく場所に這って行った。そしてそこに腹ばいになって、いちばん近くにいる労働者たちを観察した。彼らはまだ、かなりへだたっていたので、はっきり見きわめることはできなかった。しかし、なにか不自然なものが感じられた。彼らの頭はそのからだとつりあっていないように見える――大きすぎるのだ。
長いこと、彼は観察していた。そして、彼らが自分とはちがう人種であり、彼らに自分の保護を求めるのは軽率であるということを、ますます強く感じるようになった。そのうちに、いちばん近い囲いの中からふたり連れが現われた。ふたりは彼がひそんでいる丘のいちばん近くで働いている者たちのほうにゆっくり近づいていった。彼はすぐにふたりのうちのひとりが、ほかのものとちがうことに気づいた。遠くはあったが、その頭が小さいことがわかった。そして、彼らが近づくにつれて、そのひとりのよろいが、同行者のよろいや、畑を耕す者たちのよろいとも異なっているのが、はっきりわかるようになった。
ふたりはなにか論じあっているように、ときどき立ちどまった。どうやら、そのひとりは歩いている方向に進むことをのぞみ、他のひとりはそれに反対しているようだった。そしていつも、小柄なほうが相手をいやいやながら納得させていた。そのようにして、ふたりはしだいに労働者たちに近づいていった。労働者たちはふたりが出てきた囲いとガソールのガハンが身をひそめて偵察している丘との中間で働いている。そのとき、だしぬけに小柄なほうが、同行者の顔をまともになぐりつけた。ガハンがおどろいたことに、なぐられたほうの頭は胴体からころげ落ち、胴体はよろめいて地面に倒れてしまった。彼は眼下の谷間で起こったことを、もっとよく見ようとして、腰をうかせた。同行者を打ち倒したほうは、彼がかくれている丘のほうへ死にものぐるいで走ってきた。その生きものは自分をつかまえようとしたひとりの労働者の手をかわした。ガハンはそれが逃げのびるのを望んだ。比較的近い距離から見て、それがあらゆる点で自分と同じ種族のように見えるということのほかには、なにもわからなかったが、なんとなくそういう気がしたのだ。だが、それはつまずいて倒れ、追跡者がその上にのしかかった。そのとき、たまたま、彼の目は逃亡者が打ち倒した生きものの姿のほうにもどっていった。
彼が目撃したのは、どんな恐ろしい光景だったのか? それとも、自分の目がなにかとてつもない、錯覚《さっかく》を起こしたのだろうか? いや、そうではない。それはありえないことだったが――しかし事実だった――頭は倒れたからだにそろそろ近づいて行くのだ。頭は肩の上にのった。するとからだは起きあがり、その生物は新しく甦ったかのように元気づき、仲間が不運な捕虜《ほりょ》をひき起こしているところに駆けよったのだ。ガハンはその生物が捕虜の腕をとって、囲いのほうにつれもどすのを見た。遠くへだたっているにもかかわらず、彼には捕虜の落胆《らくたん》と絶望の色を見てとることができた。そしてまた、その捕虜が女性で、自分と同族の赤色人らしいとにらんだ。もし、それが真実であることが判明すれば、彼女を救いだすためになんらかの努力をしなければならない。もっとも火星の習慣によると、彼女が同国人である場合にのみ、その義務があるのだ。だが、彼には確信がなかった。彼女は赤色人でないかもしれない。もしそうだとしても、彼女が敵国人である可能性は、敵国人でない可能性と半々である。彼の第一の義務は、できるだけ個人的冒険をさけて自分の国民のところへもどることだ。彼女を助け出す冒険を思うと血がおどったが、かれは溜息《ためいき》とともにその誘惑をすて、自分が降りて行きたくてたまらない平和で美しい谷間から離れていった。というのは、その谷の東端を遠まわりして、ガソールへの道を捜しつづけようとしたからである。
ガソールのガハンがバントゥームの南と東の境界をなしている南側の斜面にそって進みかけたとき、彼の注意は右手のさほど遠くないところにある小さな森にひきつけられた。低い太陽は長い影をなげかけていた。まもなく夜になるだろう。その森は彼が選んだ進路からそれていたので、わざわざ進路を変える気はほとんどなかった。しかし、ふたたび森を眺めたとき、彼はためらった。そこには、木の幹や下ばえのほかに、なにかがあったからだ。人間が作った見なれたものの形があるような気がした。ガハンは立ちどまり、彼の注意をとらえたもののほうにじっと目をこらした。ちがう。目がまどわされたのにちがいない――沈みかけた太陽の地平線上の光の中で木々の枝や低い茂みが、不自然な類似を示したのだろう。彼は向きをかえて進みつづけた。しかし、気がかりな物体のほうにもう一度、横目を投げたとき、木々のあいだのつややかな物体から太陽光線が反射されて、彼の目にとびこんできた。
ガハンは首をふって、その不思議なもののほうに足をはやめた。なぞを解こうと決心したのだ。その輝く物体は、なおも彼をひきつけた。それに近づいたとき、彼の目は驚きのあまり大きく見開かれた。なぜなら目に見えたのは、ほかでもない、小型快速艇の艇首にある宝石をちりばめた紋章《もんしょう》だったからだ。ガハンは手を短剣の柄にかけてひそかに前進した。しかし、小艇に近づくにつれ、なにも恐れることはないことがわかった。それは置き去りにされているのだ。そのつぎに彼はその紋章に注意をむけた。その紋章の意味が頭にひらめくと、彼の顔はあおざめ、心臓は冷たくなった――バルスーム大元帥の紋章だったからだ。丘のすぐむこうの谷間で、牢にひきもどされていった捕虜の落胆した姿が、ぱっと脳裏《のうり》にひらめいた。ヘリウムのターラだ! しかも彼は、あやうく彼女を運命のままに見すてるところだったのだ。額に冷たい汗が玉のように浮いた。
乗りすてられた快速艇を手ばやく調べた結果、若い王《ジェド》には、悲劇の全貌《ぜんぼう》がわかった。彼をこんな災厄《さいやく》にあわせたその同じ嵐が、ヘリウムのターラをこの遠い国につれてきたのだ。きっと彼女は水と食糧を手にいれようとしてここに着陸したのだ。プロペラがなくなっているので、運命のごくめずらしい気まぐれにたよらなければ、故郷の都市や、その他の友好的な港に到達することを望めなかったのだ。快速艇は、プロペラがないことを除けば無事らしかった。そして、木の茂みの中に注意ぶかく繋留されていたという事実は、彼女がふたたび艇にもどるつもりでいたことを示していた。デッキに塵《ちり》や葉がつもっているところを見ると、彼女が着陸してから何日も、いや何週間もたっているのだろう。物こそいわぬが、それがなによりの証拠だ。ターラは、いまや捕われの身であり、しかも彼がついさっき目撃した捕虜、大胆にも逃亡をはかったあの捕虜こそ彼女なのだ。その点については、いまや疑問の余地はない。
問題はいつにかかって、彼女の救出にある。彼は、ターラがつれ込まれた塔を知っていた――それだけだ。彼女を捕えた者たちの数、種族、性質などについては、なにも知らない。しかし、そんなことは少しも気にしなかった――ヘリウムのターラを救うためならば、単身、敵の世界と対決するつもりだ。ターラを救出するいくつかの計画をすばやく考えてみた。しかしいちばん気にいった計画は、彼が、首尾よく彼女のところに到達した場合に、彼女が脱出する最大のチャンスが生まれるという案だった。そう心がきまると、彼は快速艇にすばやく注意をむけた。繋留索をほどき、艇を木の下から引きだした。そしてデッキにあがって操縦装置をあれこれとテストしてみた。モーターは一度でかかり、軽快なひびきをたてた。浮力タンクも、たっぷりつまっている。そして艇は完全に操縦に応じて高度を調節できた。ヘリウムへの長い旅をするためにはプロペラを除けばなんの故障もなかった。ガハンはいらだたしげに肩をすくめた――ここから一千ハード以内にはプロペラなどありそうもない。だが、それがなんだ! 小艇はプロペラがなくとも、彼の計画が要求する使命を果たせるだろう――ただし、それはヘリウムのターラを捕えている者たちが飛行艇を持たない種族だと仮定しての話である。ところで彼は、やつらが飛行艇を持っていることを暗示するようなしるしはなにも見なかった。あの塔や囲いの建築様式からみて、彼らが船を持っていないことはたしかだった。
バルスームの夜が急激に訪れた。クルーロスが堂々と中空にあがった。バンスの咆哮《ほうこう》が丘陵にこだまする。ガソールのガハンは艇を二、三メートル上昇させ、艇首の綱をつかんで舷側ごしにとび降りた。小艇を引っぱるのは、容易なことだった。ガハンがパントゥームを見おろす丘の尾根にむかって急ぎ足で進むにつれて、小艇は、静かな湖面に浮かぶ白鳥のように、かるがると彼の背後を漂ってついてきた。丘をくだり、月光にかすんでいる塔にむかって歩いていった。
彼のすぐ後で、獲物をあさるバンスの咆哮が聞こえた。ガハンは野獣が自分を追っているのか、それともほかの足跡でもつけているのかと思った。飢えた猛獣にかかずらわって、遅れるわけにはいかない。その瞬間にもヘリウムのターラにどんにわざわいがふりかかっているのか、わからないのだ。そこで彼は歩を速めた。だが、肉食獣の恐ろしい咆哮はますます近づいてくる。そしていまバンスの柔らかい足のうらが背後の山腹をすばやくふみつける音が聞こえた。ふりむいたとたん、野獣が急激な突進にうつるのが見えた。彼の手は長剣の柄を握った。が、抜かなかった。なぜなら、武器で立ちむかっても無駄なことがすぐにわかったからだ。というのは、先頭のバンスのうしろから、少なくとも一ダースぐらいのバンスの群れがやってくるからだ。無益な抵抗に代わる手段はただ一つしかない。敵の圧倒的な数を見た瞬間、彼はその点をのみこんだ。
身軽に地面からとびあがり、彼は小艇の船首にむかってロープをよじのぼった。彼の体重が加わって、艇は少し低くおりた。船首のデッキにはいあがった瞬間、先頭のバンスが船尾にとびかかる。ガハンは急いで立ちあがり、大きな野獣が艇によじのぼるまえに、つき落とそうとして、そちらに突進した。と同時に、ほかのバンスが先を争って駆けよるのが見えた。明らかにリーダーにつづいてデッキにとびのろうとしているのだ。その中の何頭かがとびのれば万事休すだ。もはや希望は一つしかなかった。ガハンは昇降装置にとびつくと、ぐっとひいた。同時に三頭のバンスがデッキめがけて跳びついた。艇は急速に上昇した。一頭のバンスの巨体が竜骨にぶつかるのを感じた。次いで大きな図体が地上に落ちる、どさっという柔らかな音が聞こえた。彼の動作がもう一瞬おそければおしまいだったろう。しかしバンスのリーダーは、すでにデッキにかけあがり、艇尾に立って、目をぎらつかせながら、牙《きば》をむいてうなっている。ガハンは剣を引きぬいた。野獣は勝手のちがう情況に当惑したのか、跳びかかってこなかった。そのかわり、ゆっくり、目ざす獲物のほうへじりじり這いよってきた。小艇は上昇しつづけたのでガハンは足を昇降装置の上にかけて上昇を止めた。もっと上昇すると気流に乗って流されてしまうおそれがあるので、未然に防いだのである。すでに小艇はゆっくり、塔のほうに移動していた。船尾からとびあがった巨大なバンスの体重のはずみで、そちらへ押しやられたのだ。
彼は怪物がじりじり近よるのを油断なく見守っていた。よだれを顎《あご》にだらだらとたらし、すさまじい顔に邪悪な表情を浮かべている。怪物はデッキが安定しているのを知ると、自信をとりもどしたらしい。そのとき、ガハンはデッキの片側にとび移った。小艇はそれに応じて突然一方に傾斜した。バンスは足をすべらせ、必死でデッキにしがみついた。ガハンは抜身の剣を手にしてとびかかった。巨獣はそれを見るや後足で立ちあがり、好物の肉に対する自己の権利にあえて挑戦する、ちょこざいな人間につかみかかった。すると人間は反対側にとび移った。バンスはとびかかろうとした瞬間の隙をつかれて横ざまによろめいた。くま手のような爪がガハンの頭をかすめたとたん、彼の剣は野獣の心臓に、ぐさっと突き刺さった。彼が死体から剣を引き抜くと、それは音もなく舷側からすべり落ちていった。
下方を見ると、小艇は捕虜が連れこまれた塔のほうに吹き流されていた。艇は塔の真上につくだろう。彼は操縦|棹《かん》にとびつき、艇を急速に降下させた。地上には他のバンスがまだ獲物をあきらめずに、彼を追ってきていた。囲いの外に着陸することは、明らかに死を意味する。かといって、囲いの内側には、たくさんの人影がまるで眠っているように、地面でひしめきあっている。小艇はいまや囲いの壁の数メートル上空を漂っていた。運を天にまかせて危険を冒すか、バンスのむらがる谷間を横切って、もどるあてもなく、無力に漂い去るしかない。いまや谷間のいたるところで、凶暴なバルスームのライオンの咆哮やうなり声が聞こえていた。
ガハンは舷側からすべりおり、下に垂れた錨綱をつたっておりて行った。そのうちに足が壁の頂きにふれた。そこに立つと、ゆっくり漂う艇をひきとめるのはぞうさなかった。そこで錨を引きあげ、囲いの内側にそれをおろした。下で眠っている者たちはやはり身動きしない――まるで死体のようだ。かすかな明りが塔のいくつかの戸口からもれていた。しかし、衛兵や目をさましている住人の気配はまるでない。ガハンはロープをつたって、囲いの中に降りて行った。そして眠っていると思った生物を、はじめて近くで眺めた。恐怖の叫びをなかばかみ殺して、彼はライコールの頭のない胴体から身を引いた。はじめはそれらが、彼のような人間の首を切られた死体かと思った。それだけでも充分、気色の悪いことだが、それらが動くのを見て、生命をもっていることを知ると、彼の恐怖と嫌悪の情はますます強くなった。
これでその日の午後、目撃したことがすっかりわかった。あのときヘリウムのターラは相手の頭をなぐり落として、そしてガハンは、その頭がからだに這いもどるのを見たのだ。ヘリウムの真珠ともいうべきターラが、かくもいまわしい生物の手中にあるとは! そう考えただけで、彼はまた身ぶるいした。しかしすばやく小艇を繋留し、またデッキによじのぼると、それを囲いの床におろした。それから、彼は意識のないライコールたちのぐったりしたからだを軽快にまたぎながら、塔のすそにある入口にむかって進み、しきいを横切って中に姿を消した。
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八 危機一髪
かつて、ルードの畑の第三班長として満足していたゲークは、いま怒りと屈辱《くつじょく》にさいなまれてすわっていた。最近、彼の心中には、なにかが目覚めていた。そのようなものが存在するとは、これまで夢にも知らなかったことである。かの妙な捕虜の女の影響が、この不安と不満とに、なんらかの関係があるのではなかろうか? 彼にはわからなかった。彼は彼女が歌と呼んだ、あの心をなごませるような音が聞かれないのが寂しかった。冷厳《れいげん》な論理や純粋な脳の力以上に好ましいものが、ほかにありうるのだろうか? しからば、単一の特性の高度の発展よりも、調和のとれた不完全のほうが望ましいものなのか? 彼は、すべてのカルデーンが目標にしている、究極的な大頭脳のことを考えた。それはつんぼで、おしで、盲になるはずだった。多くの美しい異邦人が、周囲で歌を歌い、おどったりしても、その頭脳には、歌やおどりからなんの楽しみも引きだせないだろう。なにしろ、その頭脳には、知覚する能力がまるでないからだ。すでにカルデーンたちは感覚の喜びをほとんど拒絶しているのだ。ゲークは彼らがなおいっそう自己を否定することによって、はたして多くの利益がえられるものだろうかと疑った。そしてその疑いとともに、彼らの論理の全体系に対する疑問が頭をもたげた。結局、あの女はたぶん正しかったのだ――地下の穴に閉じこもった偉大な頭脳がなんの役にたつというのか?
そして彼、ゲークは、この論理のために死ななければならないのだ。ルードがそう命じたのだ。その不当さに、彼は怒りを燃やした。しかし、彼は無力だ。のがれる道はない。囲いのむこうには、バンスが待ちかまえているし、内側にはバンスと同様に、無慈悲で、残忍な彼の同族がいる。彼らのあいだには、愛や忠誠心や友情などはないのだ――彼らは単なる頭脳だ。その気になればルードを殺すこともできる。だが、殺したところで、どんな利益があろうか? 封印《ふういん》された部屋から新たにほかの王が解放されて、自分が殺されるだけのことだ。彼は知らなかったが、もし復讐したとしても、ろくな満足さえ、えられなかっただろう。なぜなら彼にはそんな微妙な感情を感じる能力がなかったからだ。
ゲークは自分のライコールに乗ったまま、残るように命ぜられた、塔の部屋の床を歩きまわった。普通ならば、彼は完全な平静をもって、ルードの判決を受けいれただろう。それは理性の論理的結果にすぎなかったからだ。しかし、いまはそうではないように思える。異邦人の女が、彼を魔法にかけたのだ。生命はたのしいものに思えてきた――そこには大きな可能性が含まれている。究極的頭脳についての夢想は、彼の思想の背景にただよう、おぼろなもやの中に吸い込まれてしまった。
その瞬間、部屋の入口に抜き身の剣を手にした赤色人戦士が現われた。その戦士は、このカルデーンのひややかで精密な理性を美しい声でゆるがせた、あの捕虜と同種族の男性だった。
「静かにしろ!」侵入者はそう命じた。彼の秀でた眉はけわしくひそめられ、長剣の先はカルデーンの目の前でおびやかすようにゆれていた。「わたしはヘリウムのターラという女性を捜しているのだ。彼女はどこにいる? 命がおしかったら、さっさと白状しろ」
もし命がおしかったら? たったいまゲークはそれに気づいたばかりだった。彼はすばやく考えた。とにかく巨大な脳は使い途がないわけではない。きっと、ここにルードの宣告からの逃げ道があるのだろう。
「あんたはあの女と同族かね?」彼はたずねた。「あの女を助けにきたのかね?」
「そうだ」
「それでは、聞きなさい。わしはあの女と親しくなりました。そしてそのために死なねばならないのです。もし、わしがあんたに協力して彼女を解放したら、わしをいっしょに連れて行ってくれますかね?」
ガソールのガハンは無気味な生きものを頭の天辺《てっぺん》からつま先まで、とっくりと見わたした――完全な身体、グロテスクな頭、無表情な顔。こんな連中の中に、美しいヘリウムの娘が何日も、何週間も捕われていたとは。
「もし彼女が生きていて、元気なら」彼はいった。「おまえをいっしょに連れて行こう」
「彼らが、あの女をわしから取りあげたとき、あの女は生きていて無事でした」ゲークは答えた。「それから後は、どうなったか知らないけど。ルードが女をよびによこしたのです」
「ルードとは何者だ? そのものはどこにいる? わたしをそいつのところへ連れて行け!」ガハンは命令的な口調で、早口にいった。
「それでは、ついてきなさい」ゲークはガハンを案内しながら部屋を出て、カルデーンたちの地下の迷路に通じる階段を降りていった。「ルードはわしの王さまなんです。これから彼の部屋に案内しましょう」
「急いでくれ!」ガハンがうながした。
「剣を鞘《さや》にもどしてください」ゲークが注意した。「そうすれば仲間とすれちがったときに、わしはあんたが新しい捕虜だといって、もっともらしく信用させることができますから」
ガハンは彼のいうとおりにしたが、自分の手はいつでも短剣の柄にかけられるようになっているからとカルデーンに警告した。
「裏切りの心配はご無用」とゲークがいった。「わしの生きる唯一の望みは、あんたにかかっているんですから」
「そしてもしおまえがわたしをだましたら」とガハンは駄目を押した。「おまえの王がおまえに宣告したと同様に確実な死をあたえてやるからな」
ゲークは返事をせずに、曲がりくねった地下道を足ばやに進んでいった。そのうちにガハンは自分が完全にこの奇妙な怪物の手中にあることを理解しはじめた。もしこの男が自分をだましたとわかっても、この男を殺したところでなんの得にもならないのだ。なぜなら、この男の案内がなければ、彼は塔への道を後もどりして自由をえる望みはなさそうだったから。
ふたりは二度、ほかのカルデーンに出あい、話しかけられた。しかしどちらの場合もゲークが手短に、新しい捕虜をルードのところへ連れて行くところだと説明すると、仲間の疑いはすっかりはれたようだった。やがて、ふたりは王の控え室にやってきた。
「さあ、ここですよ、赤い人。あんたはここで戦わねばなりますまい」ゲークは小声でいった。「あそこからはいりなさい!」そういって目前の入口を指さした。
「で、おまえはどうするのだ?」ガハンはきいた。まだ裏切りを怖れていたからだ。
「わしのライコールは強いんだ」カルデーンが答えた。「わしはあんたといっしょにはいって肩を並べて戦いますよ。後でルードの意のままに拷問《ごうもん》されるくらいなら、そうして死んだほうがましだもの。さあ、来なさい!」
しかしガハンはすでにその部屋を横切り、奥の部屋にはいっていた。部屋の正面の壁には一つの丸い穴があって、ふたりの戦士が警備していた。その穴のむこうに、二つの姿が床の上で格闘しているのが見えた。そのひとりの顔をちらりと見るなり、彼の身内には戦士十人分の力と、手負いのバンスの凶暴さとが湧きあがった。それはヘリウムのターラだった。彼女は名誉と生命とをかけて戦っているところだった。
ふたりの戦士は、赤色人の思いがけない出現に驚愕《きょうがく》して、しばし、おしのようにつっ立っていた。その隙《すき》にガソールのガハンは襲いかかり、ひとりの胸を剣で突き刺して倒した。
「頭を打ちなさい!」ゲークの声がガハンの耳にささやいた。ガハンは倒された男の頭が、奥の部屋に通じる穴にすばやくはいり込んでいくのをみとめた。その部屋ではヘリウムのターラが頭のない胴につかまっているのだ。ひきつづいてゲークの剣がもうひとりの戦士のカルデーンを、そのライコールから打ちおとした。ガハンはその無気味な頭に剣を突き刺した。
赤色人戦士はただちに穴にかけよった。すぐ後からゲークがつづく。
「ルードの目を見てはいけない」とゲークは警告した。「さもないと敗けますよ」
部屋にはいると、ガハンはヘリウムのターラが強いからだにおさえつけられているのを見た。そして部屋のむこう側の壁ぎわにはクモのような醜怪なルードがうずくまっている。ルードはたちまち身の危険をさとり、その目をガハンの目にすえようとした。そうするために、彼はターラをおさえつけているライコールに集中していた気力をゆるめなければならない。すると、たちどころに、ターラは、頭のないおそろしい生物から身をふりほどくことができた。
急いで立ちあがったとき、彼女はルードの意図がさまたげられた原因をはじめて知った。赤色人の戦士だ! 彼女の心は喜びと感謝におどった。いかなる運命のいたずらが、この戦士を彼女のところによこしたのだろう? しかし彼女はその戦死には見おぼえがなかった。この旅にやつれた戦士は、宝石一つついてないよろいを着ていた。彼女が偉大な父の宮廷で、いまとは似ても似つかぬ情況のもとにほんの短時間会った、白金とダイヤに光り輝いていた男とこの戦士とが同一人物であろうとは、どうして彼女に推測できたろう?
ルードはゲークが見知らぬ戦士について部屋にはいってくるのを見た。「こいつを打ち倒すのだ、ゲーク!」王は命じた。「この異邦人をなぐり倒せ、そうすれば命をたすけてやるぞ」
ガハンは王の醜怪な顔を一瞥《いちべつ》した。
「あいつの目を見ないで!」ターラが大声で警告を発したが、時すでに遅かった。カルデーンの王の恐ろしい催眠的視線はガハンの目をとらえていた。赤色人戦士はたじろいだ。彼の剣の先はおもむろに床にたれていった。ターラはゲークのほうをみやった。ゲークは無表情な目でガハンの広い肩をにらみつけている。ゲークのライコールの手が、ゆっくり短剣の柄に忍びよるのがターラの目に映った。
するとヘリウムのターラは目をあげて、火星で最も美しいメロディ「愛の歌」を歌いはじめた。
ゲークは短剣を鞘から抜いた。彼の目は歌っている彼女のほうにむけられた。ルードの目はガハンの目からターラの顔にそれた。
彼女の歌がルードの注意をガハンからそらせた瞬間、ガハンは身ぶるいして気力をとりしぼり、ルードの醜怪な顔の上の壁に、むりやり視線をうつした。ゲークは短剣を右肩の上にふりかざすと、すばやく一歩前進して斬りつけた。彼女は歌をとぎらせて息づまるような悲鳴をあげると、ゲークの邪魔をしようとして、前へとびだした。が、間に合わなかった。しかし、それでよかったのだ。なぜなら、つぎの瞬間、彼女は、ゲークの行動の目的を理解したから。彼女はゲークの手からとんだ短剣が、ガハンの肩先をかすめて、ルードの柔らかな顔に、つばもとまで、ぐさっと突き刺さるのを見た。
「来なさい!」王の暗殺者は叫んだ。「もう一刻も猶予はなりません」そして部屋の入口にむかった。しかし、床の上に横たわった強大なライコールに目をとめると立ちどまった――それは王のライコールだった。バントゥームの飼育者が育成したうちで、もっとも美しく、もっとも強力なライコールだ。ゲークは逃げるのにはライコールをひとりしか連れて行けないことを知っていた。そしてバントゥームにはここに倒れている巨大なライコール以上に、彼の役にたちうるものはいない。彼は巨大なライコールの方にすばやくのり移った。するとたちまち、そのライコールは生命とエネルギーにみちた敏感な生物に早変わりした。
「さあ」とカルデーンはいった。「用意ができました。邪魔立てするやつは生かしておかぬ」そういいながら彼は前かがみになって、むこうの部屋に這っていった。ガハンはターラの手をとって、ついてくるようにうながした。そのとき初めて、ターラは相手をまじまじと見つめた。
「わたくしたちの種族の神々は、おめぐみふかくおありでした。あなたはちょうどよいときに来てくださったのです。ヘリウムのターラの感謝と、さらにはバルスーム大元帥とその国民との感謝が加えられるでしょう。報酬はあなたの思いのままです」
ガソールのガハンは彼女が自分に気づかないことがわかったので、口から出かかっていた親しい挨拶をいそいでひっこめた。
「あなたがヘリウムのターラであろうとなかろうと、そのことは問題ではありません。バルスームの赤色人女性にこのように奉仕することはそれ自体が充分な報酬なのです」
話をかわしながら、彼女はゲークにつづいて穴の中を進んでいった。やがて三人そろってルードの部屋をぬけだし、曲がりくねった廊下を大急ぎで塔にむかって走っていった。ゲークは再三、ふたりをせきたてた。しかし、バルスームの赤色人が、かつて退却に熱心だったためしはない。そういうわけで後からついていくふたりは、ゲークにとってまだるっこい限りだった。
「われわれの前進を妨げるものは誰もいない」ガハンはいった。「それなのになぜ、不必要に急いで、王女を疲れさせるのか?」
「わしは前方の敵はさして怖れていない。なぜなら、今夜、ルードの部屋で起こったことを知ってるものは前方にはいないからです。しかしルードの部屋の前に護衛に立っていた戦士のひとりのカルデーンが逃げました。彼がただちに救援をもとめたことはまちがいない。われわれが逃げ出す前に救援がこなかったのは、王《キング》の部屋で起きたことがあっという間の出来事だったからにほかなりません。われわれが塔に行きつくよりずっと前に、彼らはうしろから襲ってくるでしょう。われわれよりずっと多勢で強力なライコールに乗っておしよせてきます。わしには、それがよくわかっているのです」
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〔原注 バントゥーム族の支配者もしくは首領を表現する便法として、わたしはキングという言葉を使ってきた。というのは、バントゥーム語本来の言葉は英語では発音不能のものであるし、赤色火星人が使う王《ジェド》・皇帝《ジェダック》とは、まったく意味が異なるからである。実際上は、蜜蜂のリーダーを指して英語でいう女王《クイーン》と同じ意味と解していただきたい――ジョン・カーター〕
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ゲークの予言はほどなく実証された。やがて遠くで武具ががちゃがちゃ鳴る追跡の物音や、カルデーンたちの非常呼集の口笛が聞こえはじめたのだ。
「塔はもうすぐです」ゲークが叫んだ。「急げるうちに急ぎましょう! 日が昇るまで塔にたてこもることができれば、まだ脱出のチャンスはあります」
「バリケードなど不必要だ。塔でグズグズしていることはないからな」とガハンは答えながら足をはやめた。背後にせまる音の大きさで、追跡者が多数であることがわかる。
「でも、今夜は塔より遠くへは行かないほうがいいのです」ゲークが主張した。「塔の外にはバンスどもが待ちかまえていて、きっと殺されてしまいます」
ガハンは微笑した。
「バンスを恐れるにはおよばない」とふたりにうけあった。「追跡者たちより、ほんのちょっと早く囲いにつけば、呪われた谷の中にある、いかなる邪悪な力といえども、まったく恐れるには足らんのだ」
ゲークは返事をしなかった。彼の無表情な顔は、信頼も疑惑も示さなかった。ターラは不審《ふしん》そうにガハンの顔を見た。
「あなたの快速艇ですよ」ガハンはいった。「塔の前に繋留してあるのです」
彼女の顔はよろこびと安堵に輝いた。
「あなたが見つけたのですね! なんという幸運でしょう!」
「まったく幸運でした。あの快速艇は、あなたがここに捕われていることを告げてくれたばかりでなく、わたしが丘からこの塔まで、谷間を横ぎるとき、バンスからわたしを救ってくれたのです。きょうの午後、わたしはあなたが勇敢に逃げようとした後で、この塔に拉致《らち》されるところを目撃しました」
「どうして、わたくしだとわかりまして?」彼女は不思議そうに眉をひそめて彼の顔をまじまじと見つめた。まるで、過去において彼が登場していた場面を思い出そうとしているかのようだった。
「ヘリウムのターラ姫が失踪されたことを知らぬ者がおりましょうか?」彼は答えた。「ですから、あなたの快速艇の紋章を見たとき、すぐにわかったのです。もっともその少しまえ、あなたが畑で彼らのあいだにまじっておられたときはわかりませんでした。距離が遠すぎて、捕虜が男か女かを見定めることさえできなかったのです。ふとしたはずみであなたの快速艇がかくされている場所を見つけなかったら、わたしはずっと先に行ってしまっていたでしょう、ヘリウムのターラ。そのチャンスがいかにきわどいものであったかを考えると身ぶるいがでます。太陽の光が、快速艇の船首のきらびやかな紋章に反射しなかったら、わたしはなにも知らずに行きすぎてしまっていたことでしょう」
彼女も身ぶるいした。
「神があなたをつかわしてくださったのですね」と感謝するようにつぶやいた。
「神がわたしをつかわされたのです、ヘリウムのターラ」
「でも、わたくしはあなたに見おぼえがありません。思い出そうとしたのですが、どうしても思い出せないわ。あなたのお名前はなんというの?」
「あなたほどの高貴な王女が、バルスームの|放浪の戦士《バンサン》風情《ふぜい》の顔をいちいち覚えておられないのも無理はありません」彼は微笑しながらいった。
「でも、あなたのお名前は?」彼女はなおもたずねた。
「トゥランとお呼びください」彼は答えた。というのは、もしも彼女が自分のことを、あの日、大元帥の宮廷で性急に求婚して彼女を怒らせた男だとさとれば、彼女の立場は、彼をまったく見知らぬ男と信じている場合よりもずっとつらいものになるだろうと思われたからである。それにまた、単なる|放浪の戦士《パンサン》をよそおっていたほうが、忠義と誠実とによって、より多く彼女の信頼をかちえられるし、さんぜんたるガソールの王《ジェド》にはとざされていたような高い評価を彼女から受けられるかもしれない。
いまや、彼らは塔に達した。地下道から塔の中にはいるときふりむくと、背後には足の速いたくましいライコールたちがせまっているのが見えた。醜怪なカルデーンをのせた追跡者の先頭は、三人と同じくらいの速さで地面と同じ高さに通じている階段を登ってくる。しかも、その後方には、ルードの部下たちがもっと速い足どりでせまっているのだ。ゲークは、ターラの片手を握って、もっと容易に、彼女を導けるように手を貸した。ガソールのガハンは、ふたりの二、三歩うしろからついてくる。剣のさやを払い、襲撃に対してそなえている。敵は三人が囲いに達し、快速艇にのり込む前に、襲って来るにちがいない。
「ゲークをあなたの横までさがらせなさい」彼女はいった。「そしてあなたといっしょに戦わせるのです」
「こんなせまい通路では剣一本ふるう余地しかありません」ガソール人が答えた。「ゲークといっしょに先をいそいで、快速艇のデッキに登ってください。そして操縦装置に手をのせ、もしわたしがやつらより早く繋留索につかまったら、わたしの合図で上昇するのです。そうすれば、わたしはのんびりデッキによじのぼります。しかし、もし、敵がひとりでも先に囲いに出てきたら、わたしはもうこないものと思ってください。そしてただちに上昇して、順風がもっと親切なひとびとの国へあなたを送ってくれるように、祖先のご加護を念ずるのです」
ヘリウムのターラは首をふった。
「わたくしたちは、あなたを決して見すてませんよ、|放浪の戦士《パンサン》」
ガハンは、彼女の返事を無視して、彼女の頭ごしにゲークに命じた。
「このかたを、囲いの中に繋留している快速艇におつれしてくれ。艇がわれわれの唯一のたのみの綱だ。わたしならデッキに到達できる。しかしもし、わたしが最期まできみたちふたりの世話を見なければならないとしたら、ひとりも逃げられなくなってしまう。さあ、いわれたとおりにしろ」その口調は横柄で、尊大だった――生まれたときからひとに命令することに慣れ、その意志が法律として通ってきた人間のような口調である。ヘリウムのターラは腹を立てた。彼女は命令されることにも、無視されることにもなれていなかった。だが、こうした貴族的な誇りにもかかわらず、彼女は愚かではなかった。彼のいうことが正しいことをさとった。彼は、彼女を救うために生命を賭けているのだ。そこで彼女は命ぜられたとおり、ゲークといっしょに先を急いだ。彼女は腹を立てたあとで微笑した。というのは、この男が粗野で、無教養な戦士にすぎず、上品な宮廷の優雅な作法を身につけていないことがわかったからだ。しかし真心のある男だ。勇敢で、忠誠な心の持主だ。彼女はよろこんで彼の口調や作法の無礼を許すことにした。だが、なんという口調だろう! それを思い出すと、彼女ははっとした。|放浪の戦士《パンサン》たちは粗野な傭兵であるが、しばしば戦士たちの指揮をとる高い地位にのぼることがあるのだ。だから異常に思われたのは、あの男の声の命令的な調子ではない。そうではなくて、なにかほかのもの――定義しにくいが、彼女にはおなじみの特徴があるのだ。そういう口調なら前にも聞いたことがある。曽祖父のヘリウムの皇帝《ジェダック》タルドス・モルスの声が令名するために張りあげられるときもあんな調子だ。また祖父の王《ジェド》モルス・カジャックの声や、彼女の有名な父、バルスームの大元帥、ジョン・カーターが戦士たちに命令するときの響きわたる大音声の中にも、あんな調子がある。
だがいまは、そんなとるに足らぬことを詮索《せんさく》する余裕はなかった。彼女の背後で、突然、武器の打ちあう音が聞こえたからだ。彼女は、あの|放浪の戦士《パンサン》、トゥランが追跡者の先頭と剣を交えたことを知った。ふりかえると、彼はまだ階段の曲がり角のむこうにいたので引きつづいて起こったはげしい剣戟《けんげき》を見ることができた。世界最高の剣士の娘であるターラは、剣技の心得があった。カルデーンの無器用な攻撃に、|放浪の戦士《パンサン》がすばやく、鋭い反撃を加えるのが見えた。ほとんど裸体に近いごく質素なよろいをつけた、裸同然の彼のからだを上から見おろしていると、赤銅色の皮膚の下でしなやかに動く筋肉が見えた。彼の剣先はすばやく巧妙に動いていた。そうしたものを見ていると、ターラの心中には、感謝の気持に加えて、おのずと賛美の念が生まれた。それは熟練と勇気とに対する女性の自然な称賛の念にすぎなかった。それにおそらく、男性美と逞《たくま》しさとに対する賛美もいくらか加わっていた。|放浪の戦士《パンサン》の剣は三度、位置を変えた――一度は敵の切先を受け流し、二度目は攻撃をよそおい、三度目は突き刺したのだ。そして彼が三度目の位置から剣を引きぬくと、相手のカルデーンは、よろめくライコールからころげ落ちて死んでしまった。トゥランはすばやく階段をとび降りて、つぎの敵を攻撃した。そのとき、ゲークがターラを上に引きあげたので、階段の曲がり角が視界から、戦う戦士の姿をかくしてしまった。だが、彼女の耳には、いぜんとして剣戟の響きや、装具のがちゃがちゃ鳴る音や、カルデーンのかん高い叫び声などが聞こえてきた。彼女としては、勇敢な守護者のかたわらにもどりたいような気持ちだった。だが、彼女の理性は、彼が囲いにやってきたとき、快速艇の操縦装置をすぐにも操作できるようにしておくことが、いちばん彼の役に立つことなのだと告げていた。
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九 未知の世界を漂《ただよ》う
やがて、ゲークは階段から外に通ずるドアを押し開けた。ターラは月光が石垣に囲まれた中庭にあふれているのを目にした。そこには頭のないライコールの群れが、餌箱のかたわらに横たわっている。父の配下の最高の戦士たちと同じような筋肉たくましい、完璧なからだである。またヘリウム最高の美女すらもうらやませるような女体もある。ああ、もしも彼女に、こうしたライコールを動かす力があればよかったのに! そうすれば、あの|放浪の戦士《パンサン》の助太刀をすることもできるのに。だが、ライコールたちはみじめな粘土同然であり、彼女には彼らに生命をふき込む力がないのだ。それらはカルデーンの冷酷無情な頭脳の支配をうけるまでは、こうしていつまでも横たわっていなければならないのだ。彼女は嫌悪に身ぶるいしながらも、あわれみの溜息をついて、ぐったり倒れているライコールたちをまたいだり回りこんだりして、快速艇のほうへ進んで行った。
ゲークが、繋留索をほどいてから、ふたりはデッキによじ登った。ターラは囲いの中で艇を数メートル上下させてみて、操縦装置の具合をたしかめた。完全に作用する。そこで、艇をまた地上におろして待機した。開いた戸口から先頭の音が響いてきて、近くなったり、また遠のいたりした。彼女は、さいぜん戦士のすばらしい剣さばきを目撃していたので、その結果についてはほとんど心配しなかった。せまい階段では、一度にひとりの敵しか対決できないから、彼には地の利と受け身の有利さがある。それに彼は剣の達人であるのに、敵は無器用だった。敵の唯一の利は数だけだ。彼を背後から攻撃する方法を見つけないかぎりは。
彼女はその危険を察して青くなった。もし彼女の目に彼の姿が見えたらもっとはらはらしただろう。というのは、彼は囲いに近づく機会がたびたびあったのに、そうしなかったからだ。彼は冷静に戦っていた。しかし、純粋な防御的行動とはとても思えないようなはげしさである。しばしば、倒れた敵のからだを踏みこえて、次の敵にとびかかっていった。一度など、彼のうしろに五つのカルデーンの死体があった。それほど、敵を押しかえしたのだ。相手のカルデーンたちも、また、快速艇の上で待っている彼女も知らなかったことだが、ガソールのガハンは、うまく逃げのびることよりも、戦闘の楽しみに没入してしまったのだ。
彼は愛する女性に加えられた非礼に返報しているのだった。しかしやがて、自分が彼女の身の安全を不当におびやかしていることに気づいたので、目前の敵を打ち倒すと、身をひるがえして階段をとびあがった。先頭のカルデーンたちは脳みそにおおわれた床にすべって、よろめくありさま。
ガハンは敵から二十歩ばかり先んじて、囲いに到達し快速艇のほうに走り寄った。「上昇しなさい!」と彼女にむかって叫んだ。「わたしは索をよじ登ります」
ガハンが進路に横たわるライコールたちのぐったりしたからだをとびこえていくうちに、小さな艇はゆっくり上昇しはじめた。ガハンが垂れた索を握ったとき追跡の先頭をきった者が塔からとび出してきた。
「もっと早く!」ガハンは頭上のターラに叫んだ。「さもないと、やつらは艇を引きずりおろしますぞ」しかし、飛行艇はほとんど動かないように思えた。そうはいっても三人をのせた単座艇としては精いっぱいの速度で上昇しているのだが。ガハンは壁の頂上より上まで索をよじ登った。しかし索の下端は、カルデーンたちがやってきたとき、まだ地面にひきずられていた。彼らは塔から囲いへと陸続としてくり出してくる。カルデーンのリーダーが索をつかんだ。
「急げ!」リーダーは叫んだ。「これをつかんでやつらを引きずりおろすんだ」
リーダーの意図を達成するためには、ほんの二、三人の重さで充分だった。艇の上昇がとまった。そしてじりじり引きおろされたので、ターラはぞっとなった。ガハンもまた危険を感じ、機敏な行動の必要性を悟った。彼は、左手で索を握って片足に索をまきつけ、まだ鞘におさめてなかった長剣を左手に持ちかえた。そして下むきの一撃でカルデーンの柔らかな頭を割り、つぎの一撃でぴんと張りつめている索を足の下で切断した。ターラは、敵のかん高い叫び声が突然高まるのを聞き、同時に、艇がまた上昇しはじめるのを感じた。艇は敵の手が届かない高所へゆっくり上昇していった。すぐにトゥランの姿が舷側をよじ登ってきた。数週間ぶりにはじめて、彼女の心は感謝の喜びにみたされた。しかし、彼女が最初に考えたのは別のことだった。
「けがはなくて?」
「ありませんよ、ヘリウムのターラ」彼は答えた。「やつらは、わたしが剣をふるう値打ちもないほどの相手です。やつらの剣で、こちらがあぶなくなったことは一度もありません」
「彼らは、あなたを、やすやすと殺せたはずですよ」ゲークがいった。「われわれの理性の力は非常に偉大で、高度に発達していますから、あなたが斬りつけようとする場所が、前もってわかっていたはずです。だから、彼らはあなたの攻撃をすべてさけて、容易にあなたの心臓を刺す隙を見つけることができたはずです」
「だが、彼らはそうしなかったのだ、ゲーク」ガハンは指摘した。「彼らの発達の理論が誤っているのだ。それは完全に均整がとれた全体へは到達していないからだ。おまえたちは脳ばかり発達させて、肉体を無視したが、他人の手では、自分の手でできるようにはできないものだ。わたしの手は剣技にきたえられている――全筋肉はいざという時には、すぐに、しかも正確に、そしてほとんど機械的に反応する。戦っているとき、わたしは自分が考えているとは客観的にはほとんど気づかないほどだ。わたしの剣先は非常にすばやく敵の隙につけこみ、危険が迫ったときには防御のために間髪入れず、はね返る。まるで冷たい鋼鉄が目や頭脳をもっているかのようだ。おまえたちは、カルデーンの頭と、ライコールのからだとからなっているから、わたしができるようなことを、おなじような完全さでおこなうことはとてもできない。脳の発達が、人間の努力の総計であってはならないのだ。もっとも豊かで幸せな者とは、精神と肉体とがもっとも完全に近く調和している人間だろう。だが、そういうひとびとでさえ完全さを欠いていなければならないのだ。絶対的、全体的な完全さというものは、死のように単調なのだ。自然には対応物がなければならない。自然には、明るい部分があると同時に影もなくてはならない。哀しみと幸福、悪と正義、徳と罪などがなければならないのだ」
「わしはいつもそれとは反対のことを教えられてきました」ゲークが答えた。「だが、この女性やあなたのような別の種族を知ってから、カルデーンの目標と同じように高く、望ましい別種の基準があるのだと信ずるようになりました。すくなくともあなたたちが幸福と呼ぶものをかいま見て、それがいいものだろうということを理解しました。もっともそれを表現する手段は知らないのです。わしは笑うことも、微笑することもできません。しかし、この女性が歌うと心がなごむような気がするのです――それは完全に作用する脳の冷たい喜びより、はるかにまさる美と未知の喜びとへのすばらしい見通しを、わしの前にくりひろげてくれるような気がするのです。わしはあなたがたの種族に生まれかわりたいほどです」
静かな気流にのって、快速艇はゆっくりと、バントゥームの谷を北東にむかって漂っていた。眼下には耕された畑があり、この無気味で恐ろしい土地に住むモアクやノラチや、その他の群れの王たちの奇妙な塔の上空をつぎつぎにとびこえていった。塔をとりまくどの囲いの中にも、美しいが無気味な無頭生物ライコールたちが腹ばいに横たわっている。
「あれこそ、いい見せしめだ」ガハンは、そのとき快速艇がこえようとしている囲いの中のライコールたちを指さしていった。「わが民族の中には、肉体をあがめたり、食欲を神聖視する者がさいわいにも少ないが、そういう連中にとって、あれらはいい見せしめだ。あなたもそういう連中をご存知でしょう、ヘリウムのターラ。彼らは二週間前の昼食のときになにを食べたかをおぼえているのです。ソートの腰肉の料理の仕方とか、ジティダールの臀肉ととり合わせのいい飲みものはなにかとか、そんなことを心得ているのです」
ターラは声をあげて笑った。
「でも、彼らのうちで、今年、|美の神殿《ヽヽヽヽ》で皇帝《ジェダック》の賞をもらった絵の作者の名前を知っているものは、ひとりもいないでしょう。ライコールのように、彼らの発達はつりあいがとれていないのよ」
「少々の欠点と少々の長所とを同時に持ちあわせているもの、自分の職業のほかに、いろいろなことについて少しずつ知識を持っているもの、愛する能力も、憎む能力も少しずつ持っているもの、こうしたひとびとはまったく幸福です。なぜならそのような人間は、頭のいっぽうが重すぎて、すべての意識がその方面だけに集中してしまうようなものとはちがって、自己満足的な偏見なしに、すべてのことに寛容をもって臨《のぞ》むことができるからです」
ガハンが口をつぐむと、ゲークは相手の注意をひこうとするかのように、低くのどを鳴らした。
「あなたは、さまざまの問題について深く考えたかたのように話しておいでだ。では、あなたがた赤色人種は考えることに喜びを感じることができるのですか? あなたがたは思索のたのしみをいくらか知っているのですか? 理性と理論とが、あなたがたの生活で、なんらかの役割りをはたしているのですか?」
「もちろんだとも」ガハンは答えた。「だが、たえずそういうことばかり考えているわけではない――少なくとも客観的にはそうだ。ゲーク、おまえたちは、わたしがいった自己満足の一例だよ。なぜなら、おまえやおまえの種族は、その全生命を精神の崇拝に捧げていて、ほかの生物は思索しないものと信じている。おそらくわれわれは、おまえたちのように思索はしないだろう。おまえたちは、自分自身と自分の偉大な脳のことしか考えないのだ。われわれは世界の幸福に関係のあるさまざまのことに思いをはせる。もしバルスームに赤色人種がいなかったら、カルデーンたちでさえ、この星から滅亡してしまっただろう。なぜなら、おまえたちは空気なしで生きられても、おまえたちの生活を支えている生物は、空気なしには生きられないからだ。もしひとりの赤色人が、この滅びゆく世界に新しい生命を与える巨大な大気工場を計画し建設しなかったら、バルスームの表面では、とうの昔に空気が欠乏していたはずだ。
「これまでに生きたすべてのカルデーンのすべての脳をもってしても、このたったひとりの赤色人のただ一つの思いつきに比べられるような、なにかをなしとげたことがあるかな?」
ゲークはまごついた。彼はカルデーンなので、頭脳があらゆる業績の総計をなすものと思っていた。だが、頭脳が実際的で有益な手段に用いられるということは、これまで思いもよらぬことだった。彼はふりむいていまその上空を横切ってゆっくり漂っている先祖伝来の谷を見おろした。これからいかなる未知の世界にむかっているのだろうか? 彼は下等な生物のあいだでは、生神も同然だと思っていたが、どうしたことか一つの疑問におそわれた。ほかの世界からやって来たこのふたりは、あきらかに彼の卓越性を認めていない。彼の大きな自己満足にもかかわらず、彼たちが自分以上の存在かもしれぬという疑問がじわじわと浮かんでくるのだ。彼らは自分をあわれんでさえいるらしい。つぎには、自分がどうなるのだろうかと心配しはじめた。もはや、彼は多くのライコールを自分のいいなりに使役することはできないだろう。いま乗っているライコールだけで、これが死んでしまえば、代わりはありえないのだ。このライコールが疲労すれば、ゲークはそれが休息しているあいだ、ほとんど無力で横たわっていなければならない。彼はこの赤色人の女に会わなければよかったのにと思った。彼女はゲークに、不満と、不名誉をもたらし、いまや追放者にしてしまったのだ。しかしやがてヘリウムのターラが鼻声で歌いはじめると、カルデーンのゲークは気持ちがおさまった。
火星の夜景の上を彼らは静かに漂って行った。頭上には、二つの月が駆けている。艇が、この不幸な土地の恐怖をあとにして、バントゥームの国境を通過するにつれて、バンスの咆哮はしだいに遠ざかっていった。しかし彼らはどこへ向かって運ばれているのだろう? ターラは戦士を見やった。彼は小さな快速艇の上に脚を組み、前方の闇の中を眺めたまま、もの思いにふけっているらしい。
「いまどの辺にいるのかしら?」彼女はきいた。「どこへ漂っているのかしら?」
トゥランは広い肩をすくめた。
「星の位置から見ると、われわれは北東に漂っていることになりますね。しかし、いまどこにいるのか、行く手になにがあるのか、予想もつきません。一週間前でしたら、わたしは自分が近づいて行く尾根のうしろになにがあるかを知っていると断言できたでしょう。しかし、正直なところ、いまはどの方角でも一マイル先になにがあるのかまったく見当がつきません。ヘリウムのターラ、わたしは道に迷ったのです。申しあげられるのはそれだけです」
彼は微笑していた。彼女も微笑を返した。が、その顔には、かすかなとまどいの色があった――この男の微笑をどこかで見たような気がするのだが、それをどうしても思い出せないからだ。彼女は多くの|放浪の戦士《パンサン》に会っていた――彼らは戦争をもとめて諸国をめぐりながら、去来する――しかし、どうしてもこの男を思い出せない。
「あなたはどこの国からきたのですか、トゥラン?」彼女はだしぬけにたずねた。
「ご存知ないのですか、ヘリウムのターラ」彼は答えた。「|放浪の戦士《パンサン》に祖国はありません。彼らはきょうはある主人の旗のもとで戦い、明日はまた別の主人の旗のもとで戦うのです」
「でも戦っていないときは、どこかの国に忠誠をつくすはずです」彼女はいい張った。「どの国旗ですか。いま、あなたが自分のものとしているのは?」
彼は立ちあがり、彼女の前に立って深く頭をさげた。
「わたしは、まだだれへの忠誠も誓っていません。いま大元帥の御息女の旗のもとに忠誠を誓います、いまから――永遠に」
彼女は腕をさしのべて、彼の腕に、ほっそりした褐色の手を触れた。
「あなたの忠誠を受けいれましょう。そして、もしわたくしたちがヘリウムに帰りつけたら、あなたの望みどおりの報酬を与えることを約束します」
「わたしはその報酬を期待して、誠実に奉仕いたします」彼はいった。しかしターラには彼の胸のうちは思いおよばぬことだった。相手は金銭しだいの人間と考えたのだ。なぜなら大元帥の誇り高い息女に、しがない一介の|放浪の戦士《パンサン》が、自分の手や心をかちえようという野心を抱いていようなどとはどうして想像できようか?
夜が明けると、快速艇は見知らぬ風景の上を速いスピードで飛んでいた。夜のあいだに、風が強まり、彼らをバントゥームからはるかかなたに運んでしまったのだ。眼下にひろがるのは荒れはてた、殺風景な土地だった。水も見えず、地表には深い峡谷がきざまれている。そしてどこにも、やせこけた植物だけしか見えなかった。どんな種類の生物も見えず、この土地に生物が住めそうな気配もなかった。快速艇は、二日間、この恐ろしい、不毛の土地の上を漂っていた。
水と食糧の欠乏になやまされた。ゲークはトゥランに手伝ってもらってライコールをデッキにしっかりつないでから、一時的にライコールからはなれた。彼がライコールを使わないと、それだけ活力が温存されるのだ。すでにライコールは衰弱のきざしを見せていた。ゲークは艇の上を大きなクモのように這いまわった――舷側をこえて、竜骨の下まで降りていった。また反対側の手すりから這いあがってきたりした。彼にとっては、どんな場所でもくつろげるとみえる。だが、ほかのふたりにとっては、艇はせま苦しかった。ひとり乗りの飛行艇のデッキは、三人を乗せるようにつくられてはいないからだ。
トゥランはたえず前方に水をさがしていた。水がなければ水を供給してくれる植物でもよかった。その植物のおかげで、火星上の一見不毛な地域での生活が可能になっているのだ。だが、この二日というもの、水も給水植物も見当たらないうちに、いまや、三度目の夜が訪れた。彼女はなんの不平も訴えなかった。しかしトゥランは彼女が苦しんでいるにちがいないことを知って、心が痛んだ。ゲークはいちばん苦しまなかった。そして、自分たちの種族は水も食糧もなしで、長いあいだすごせるのだとふたりに説明した。トゥランはゲークをののしりたくなったほどだった。彼の目の前で、ヘリウムのターラのからだがだんだんやせほそっていくのに、醜怪なカルデーンがいままでと変わらず、活気に満ちて見えたからだ。
「時によっては」とゲークがいった。「大きくて物質的な肉体は、高度に発達した頭脳よりも不適当なことがある」
トゥランは彼を見たが、なにもいわなかった。ヘリウムのターラはよわよわしく微笑した。
「ゲークを非難することはできません」彼女はいった。そして「わたくしたちは、自分たちの種族の優越性を少しばかり自慢しすぎなかったかしら。おなかが満ちたりていたときにね」とつけ加えていった。
「確かに、カルデーンたちの方式にもいくらか取り柄《え》がありますな」トゥランは一歩譲った。「もし、われわれの胃が食糧や水を欲しがっているときにそれを取りはずしてしまえるなら、きっとそうするでしょうね」
「わたくしは、いまなら、胃をなくしても惜しいとは思わないわ」ターラが同意した。「ほんとうに迷惑な連れですものね」
新しい日が明けると、眼下にはいままでより不毛でない土地がひらけていた。おとろえていた希望がまたよみがえった。突然、トゥランが身をのりだして前方を指さした。
「ごらんなさい、ヘリウムのターラ!」と叫んだ。「都市です! わたしが、ガ――いや|放浪の戦士《パンサン》トゥランであると同様に確実に、あれは都市です」
はるかかなたに都市の丸屋根や壁や細い塔などが、のぼりかけた朝日に輝いている。彼がすばやく操縦装置を握ると、艇は急速に降下して都市との中間にある低い丘陵の陰にかくれた。その見知らぬ都市に住んでいるのが敵か味方かを見定めるまで、発見されてはならないということをトゥランは百も承知していたからだ。その都市には味方が住んでいない可能性も大いにあった。だから、充分用心して行動しなければならないのだ。だが、そこに都市があることは確かだった。都市があるからには、たとえそれが見すてられた廃墟でも、水だけはあるものだ。もし、ひとが住んでいれば、食物だってある。
トゥランにとって、食物と水とは、たとえそれらが敵の城内にあろうと、ヘリウムのターラのための食物と水を意味していた。相手が味方だったらもらってくるし、敵だったら強奪してくるつもりだ。食糧と水とがそこにあるかぎりは、かならず手にいれるつもりだった――そこには戦士の利己主義が表われていた。しかし、トゥランはそれに気づかなかったし、由緒ある戦士の家系であるターラも気づかなかった。だが、ゲークは、もし微笑することを知っていたら、ふたりの利己主義に微笑したことだろう。
トゥランは艇を漂うにまかせて、行く手に立ちはだかる丘陵の陰に近づいていった。そして、相手に見つけられる危険なしにはこれ以上進めなくなるや、艇を小さな峡谷の底にそっと着陸させて舷側ごしにとび降り、太い木にしっかり繋留した。しばらく、彼らは計画を論じあった――闇が彼らの行動をかくすようになるまで、この場で待って、それから都市に接近して食物と水を捜すのがよいか、それとも、できるだけもの陰を利用して、いますぐ都市に接近し、住民たちの様子をさぐりだすのがよいか。
結局、勝ちをしめたのはトゥランの計画だった。安全がゆるすかぎり都市に接近してみることになったのだ。そうすれば都市の外側で水が見つかるだろうし、食物も見つかるかもしれない。見つからなかったとしても、少なくとも昼の光で、あたりの地形を観察することはできる。それから、夜になればトゥランがすばやく街に接近して比較的安全に食物と水を捜せるだろう。
彼らは峡谷をさかのぼって、ついに尾根に達した。そこからは、街のいちばん手前の部分の様子がよく見えた。ただし、三人は茂みの陰にうずくまって身をかくしていた。ゲークは、またライコールに乗っていた。ライコールもやむをえず断食させられたわけだが、ターラやトゥランよりは元気だった。
都市は、最初に見つけたときよりずっと近くになっていたので、一目でひとが住んでいることがわかった。旗や三角旗が多くの竿の先にひるがえっている。ひとびとが、かれらの前に見える門のあたりを動きまわっている。高く、白い城壁には、広い間隔を置いて配された歩哨《ほしょう》が規則正しく歩いている。高い建物の屋上では、女たちが絹や毛皮を乾かしている。トゥランはそうした光景を、しばらく黙々と観察していた。
「わたしの知らない連中だ」やがて彼はいった。「どんな都市なのか、見当もつかない。だが、これは古い都市です。ここの住民は飛行艇も、火器も持っていません。古い都市であることは確かです」
「どうして、彼らがそういうものを持っていないとわかるの?」ターラがたずねた。
「屋上に着陸場がないのです――ここからは一つも見えない。もしおなじように、ヘリウムを見れば、何百という着陸場が見えるはずです。それから、火器を持っていないというのは、彼らの防壁が、槍や矢の攻撃を、槍や矢を持って防ぐようにできているからです。だから、あの連中は古代人です」
「もし、古代人なら、たぶん友好的でしょう」彼女はいった。「子供の頃この星の歴史をまなんだとき、かつてこの星には友好的で平和を愛する民族が住んでいた、と教えられたじゃないこと?」
「でも、彼らは、そういう古代人ではないかもしれません」トゥランは、笑いながら答えた。「バルスームの人間が平和を愛したのは、昔々、大昔のことですからね」
「わたしの父は平和を愛しているわ」
「ですが、年がら年中、戦争をなさっておられる」
彼女は笑った。
「でも父は口では、平和を愛していると申します」
「われわれはみな、平和を愛していますよ」と彼はまぜかえした。「名誉ある平和をです。しかしわれわれの隣国はそういう平和を享受させてくれません。そこで戦わねばならないのです」
「それに、上手に戦うためには、戦いが好きでなければならないのね」彼女はつけ加えた。
「そして戦いが好きであるためには戦いの方法を知らねばなりません。だれでも上手にやる方法を知らないことは、やりたがらないものです」
「それに、だれかほかのものがもっと上手にやれることも、やりたがらないものよ」
「そういうわけで、いつも戦争があり、男たちが戦うのです」彼は結論をくだした。「なぜなら、血管に熱い血潮をもっている男たちは、いつも戦闘技術を練習するでしょうから」
「わたくしたちは、大きな問題を解決しましたね」彼女は笑いながらいった。「でも、胃の腑《ふ》はまだ空っぽよ」
「あなたの|放浪の戦士《パンサン》は義務をおこたっています」トゥランは答えた。「いつも目の前に大きな報酬がぶらさがっているのですから、おこたっているわけにはいきませんな!」
彼女は、彼のいった文字どおりの意味が、まるでわからなかった。
「わたしはまいります」彼はつづけていった。「古代人から食物と水を奪うために」
「いけません」彼女は手を彼の腕にのせて叫んだ。「まだいけません。彼らはあなたを殺すか、捕虜にするでしょう。あなたは勇敢で強い|放浪の戦士《パンサン》です。でも、あなたは腕一本で一つの都市に打ち勝つことはできません」
彼女は彼の顔に笑いかけ、その手はやはり彼の腕におかれていた。彼は血管の中を熱い血潮がはげしく流れるのを感じた。彼は、ターラを腕の中に抱きしめ、胸に押しつけることもできたろう。そこには、カルデーンのゲークがいるだけだった。しかし、彼の心中にはゲークよりも強いなにかがあって、彼の手をひきとめた。そのなにかを、だれが定義できるだろう?――それは天性の騎士的精神で、ある種の男性たちを生まれつき女性の保護者とするものなのだ。
彼らが絶好のかくれ場所から見ていると、武装した戦士の一団が門からソートに乗って出てきた。そして、よくふみかためられた道を通り、三人が見ている丘の麓あたりで見えなくなった。彼らは、ターラやトゥランと同様に赤色で、赤色人種の小型|火星馬《ソート》に乗っていた。よろいはけばけばしく豪華だった。かぶとは古代人の風習どおりに、多くの羽毛《うもう》で飾られていた。剣と長槍で武装し、ほとんど裸で騎乗《きじょう》しており、そのからだは黄土色や青色や白色の塗料《とりょう》で塗られている。その一団はおよそ二十人ばかりだったが、疲れを知らぬ馬に乗って速足で走らせているさまは、野蛮ながらも、美しい眺めだった。
「すばらしい戦士のように見えます」トゥランがいった。「わたしはあの街に堂々とのり込んで、戦士として働きたくなりました」
ターラは頭をふってたしなめた。
「お待ちなさい。あなたがいなくなれば、わたくしはどうすればいいの? それに、かんじんのあなたが捕虜にでもなったら、どうして報酬を受けとれますか?」
「逃げるまでのことです。とにかくやってみましょう」そういって彼は腰を浮かした。
「いけません」ターラは威厳をこめた口調でいった。
彼はすばやくターラをふりむいた――もの問いたげな様子だった。
「あなたは、わたくしの部下になったのです」彼女はいくらか横柄にいった。「報酬をもとめて、わたくしの部下になったのです。ですから、わたくしの命令にしたがわなくてはだめよ」
トゥランは、かすかな微笑をくちびるに浮かべ、彼女の側にまた腰をおろした。
「命令するのは、あなたです、王女さま」
時間の経過につれて、日光にうんざりしたゲークは、ライコールを離れ、近くに見つけた穴の中に這い込んだ。ターラとトゥランは、小さな木のわずかな木陰に身をもたれて、ひとびとが門を出入するさまを観察していた。騎馬の一隊は帰ってこなかった。ジティダールの小さな群れが、日のあるうちに街の中に追い込まれた。そして一度などは、地平線のかなたから、この巨大な動物たちにひかせた車幅の広い二輪車の隊商が、街へむかっておりて来て、同じく門の中へ姿を消した。暗くなるとヘリウムのターラは|放浪の戦士《パンサン》に食物と水を捜してくるように命じた。しかし、彼に街の中にははいるなと注意した。彼はその場を離れる前に、身をかがめて、騎士が女王の手に接吻するように、ターラに手に接吻した。
[#改ページ]
十 罠におちる
|放浪の戦士《パンサン》トゥランは、闇にまぎれて都市に近づいて行った。食物や水が城壁の外で見つかろうなどとは、ほとんど期待していなかった。しかし一応捜してみて、見つからなければ、城内にはいり込もうと思った。ヘリウムのターラには食物が必要だからだ。それもただちに。彼は城壁の警戒が手薄なのを見てとった。しかし、とても越えられそうもない高さだった。茂みや木の陰にかくれながら、トゥランは、発見されずに、壁のふもとにたどりついた。音もなく門の前を通り過ぎて、北のほうへ移動する。出入口はがっしりした門で閉ざされ、市内をのぞきこむすき間さえない。トゥランは、街の北側の、丘の手前に市民が農作物をつくっている平地が見つかるだろうと期待していた。そこにはまた、灌漑《かんがい》用の水路の水もあるはずだった。しかし、どこまでも続く壁にそって、かなり進んだが、畑も水も見つからない。都市にはいる方法をさがしてみたが、それもまた失敗だった。こうして彼が歩いているあいだに、上方から鋭い目が彼を見守り、城壁の上ではひとりの男がしばらく彼に歩調を合わせてこっそり歩いていた。しかし、やがてその人影は城壁の内側の歩道におり、外側の異邦人より先にすばやく駆けて行った。
男はやがて小さな門についた。そのそばに低い建物があり、戸口にはひとりの戦士が歩哨に立っていた。男は二言、三言、早口に戦士に話しかけてから建物の中にはいったが、またすぐ通りにもどってきた。男の後には四十人あまりの戦士がしたがっている。男は慎重に門を開け、彼がやってきたほうを壁の外側ぞいに注意ぶかくうかがった。そして明らかに満足した様子で、背後の戦士たちに二言、三言、指図した。すると、その半数は建物の内部にもどり、他の半数は男にしたがってひそかに門をぬけだした。そして開いたままの門のすぐ北のところに半円形に陣どって、茂みのあいだに身をかがめた。こうして彼らは完全な沈黙のうちに、待ち伏せした。いくらもたたぬうちに|放浪の戦士《パンサン》トゥランが城壁のすみを慎重に歩いて来た。そして門前にきて、それが開いているのを見ると、ちょっと立ち止まって、聞き耳をたてた。それから門に近づき、内部をうかがった。見とがめるものがだれもいないのをたしかめると、彼は門をくぐって市内にふみこんだ。
そこは壁沿いの細い道だった。そのむかい側には、彼の知らない様式の、しかし異様《いよう》に美しい建物がいくつかある。建物はたがいにひとかたまりになっていたが、似ている建物は一つもないようだ。それらの正面は形も高さも色どりもさまざまである。空には尖塔や丸屋根《ドーム》や回教寺院風の塔や、高い、ほっそりした塔などが、そそり立っている。壁面には数多くのバルコニーがついていた。そして西に傾いた遠いほうの月クルーロスの柔らかい光に照らされて、それらのバルコニーの上にいくつもの人影が見えたので、彼は驚き、かつ狼狽《ろうばい》してしまった。真正面には、ふたりの女とひとりの男がいてバルコニーの手すりにもたれ、どうやら彼のほうをまっすぐに見ているらしい。だが、彼を見ているとしても、彼らはなんのそぶりも見せないのだ。
トゥランはてっきり発見されたものと思って、一瞬ためらった。しかし、彼らが自分のことを仲間のひとりと見まちがえているにちがいないと確信して、思いきって並木道にふみこんだ。目当ての食物や水がどの方向にあるかまるでわからなかったが、これ以上ためらって、不審《ふしん》の念を起こさせたくなかったので、なるべく早くその三人の目のとどかないところへ行こうと思い、道路沿いに左へ折れてさっさと歩いていった。だが夜もだいぶふけているにちがいないと知っていたから、絹と毛皮にくるまって眠っているべきときに、彼らがなぜバルコニーに出ているのか、不思議に思わずにいられなかった。はじめは宴会の客たちがおそくまで残っているのだろうと考えた。しかし、彼らの背後にある窓は闇におおわれて森閑《しんかん》と静まり返り、宴会の気配などはまったくない。彼は先へ進みながら、他のバルコニーの上で黙々とすわっている他のひとびとの群れの下をいくつも過ぎて行った。彼らはトゥランに少しも注意を払わず、彼が通り過ぎるのに気づいてもいないようだった。あるものは手すりに肩ひじをついて身をもたせ、あごを掌にのせている。またあるものは手すりの上に両腕を組んでもたれ、通りを見おろしている。手に楽器を持っているものも何人かいたが、彼らの指はその弦の上で動いてはいない。
やがて、通りが右に折れる地点に来た。道はそこから城壁の内側に突き出ている建物のすそをまわっている。その角を折れると、右手の建物の入口の両側に立っているふたりの戦士とばったり顔をあわせた。このふたりが、彼に気づかないはずはなかったのだが、彼らは動きもせず、彼を見かけたらしいそぶりも全然示さなかった。彼は立ち止まり、長剣の柄に手をおいて待ちかまえたが、彼らは、呼びとめもしなければさえぎりもしない。このふたりもまた、彼を同族のひとりと考えたのだろうか? 実際、彼としては、戦士たちが動かないことについて、ほかの理由を考えられなかった。
トゥランが門から市内にはいり、さまたげられもせずに並木道を通り過ぎているとき、二十人の戦士が市内にもどり、門をぴったり閉ざした。そしてひとりが城壁に登り、その頂上に沿ってトゥランの後をつけ、もうひとりが、並木道沿いについて来た。三人目は通りを横切って、むかい側の建物の一つにはいる。
残りの戦士たちはひとりだけを門の側に歩哨に残しておいて、さっき出てきた建物にもどった。彼らは筋骨たくましい男たちで、からだに塗料を塗っていたが、いまは夜の寒気をさけるために豪華な長衣をおおっている。
彼らは見知らぬ男のことを話しながら、うまいぐあいに罠《わな》にかけたことを笑っていた。そしてなおも笑いつづけながら、途中で邪魔された眠りにもどるために、絹と毛皮の上に身を横たえた。あきらかに、彼らはいま眠っている建物のかたわらの門を警護するために選抜された衛兵たちである。またトゥランの予想以上に、門が油断なく警備され、都市が監視されていることもあきらかだった。それほどまんまと敵の罠におちたことを知ったら、ガソールの王は歯ぎしりして口悔しがっただろう。
並木道を進みながら、トゥランは別のドアの側に立っている歩哨たちの前も通り過ぎたが、もう彼らにはほとんど注意を払わなかった。なぜなら彼を呼びとめもせず、彼の行き過ぎるのに気づいたらしいそぶりも示さなかったからだ。しかし、迷路のような並木道の角を曲がるたびに、ひとり、ないしそれ以上の黙りこくった歩哨と出会いながらも、自分が同じ歩哨と何度も出会っているということにも気づかず、自分の一挙手一投足が、ものいわぬ抜け目のない尾行者に監視されているということにも気づかなかった。彼がこれらの重武装の衛兵とすれちがうたびに、その衛兵たちは生き返ったようになり、並木道を突切り、外側の壁のせまい入口にとびこみ、壁の内部に造られた通路をすばやく伝って、やがてトゥランのすこし前方にあらわれるのだ。そしてそこで、警護に立っている兵士のように、不動で沈黙の態度をよそおうのだ。またトゥランは第二の男が彼の後方の建物の陰にまぎれて跡をつけていることも、第三の男が、ある緊急な使命をうけて彼の前を急いでいることも知らなかった。
こうして|放浪の戦士《パンサン》は愛する女性のために食物と水を求めながら、未知の都市のひっそりした通りを進んで行った。薄暗いバルコニーから、男たちや女たちが彼を見おろしていたが、彼らはなにも話しかけず、歩哨は彼と行きあっても、呼び止めもしなかった。すると、並木道の前方から、よろいのがちゃがちゃ鳴る耳なれた音が近づいてきた。それは、戦士たちの行進の響きである。ほとんど同時に彼の右手に、内部から、かすかな光がもれている戸口が見えた。そこは、近づいてくる戦士の一団から、彼が身をひそめるに格好な唯一の場所だった。彼は、数人の歩哨からはなにもとがめられずに通過してきたが、この巡回の戦士たちの詮索《せんさく》や質問をのがれることはできそうもなかった。当然のことながら、彼はこの一団の戦士たちを巡視中の衛兵と考えたのである。
入口をはいると、一本の通路が突然右折して、そこを過ぎると、ほとんどすぐにこんどは左折しているのがわかった。内部には人影がないので、彼は通りからもっとよく身をかくそうとして、二度目の角を用心ぶかく折れた。すると、前方に長い廊下が現われ、入口とおなじようにかすかな明りに照らされている。そこにたたずんでいると、戦士の一団がその建物に近づいてくるのが聞こえた。彼の隠れた通路の入口にだれかがくる気配がした。それから自分がはいって来たドアがピシャッとしめられる音。彼は手を長剣にかけて、すぐに廊下沿いに足音が近づくのが聞こえるだろうと覚悟したが、だれも現われなかった。曲がり角に近づいて様子をうかがった。廊下には閉ざされたドアのところまでだれもいない。だれかわからないが、ドアを閉めたものは、外に立っているにちがいない。
トゥランはそこにたたずんで耳をすませた。なんの物音もしない。そこでドアに近づいて耳を押しあてた。ドアのむこうの街路は、ひっそりと静まりかえっている。突風がドアを閉めたにちがいない。さもなければ、そうした戸じまりを見るのが、巡視隊の役目なのだろう。大したことではなかった。戦士たちは、どうやら通りすぎたらしい。そこで彼は、また街路にもどって、先に進もうと思った。そうすれば、どこか水を手にいれられるような公衆の泉が見つかるだろうし、ひもにつるした乾燥野菜や肉も見つけられるかもしれない。彼がいままでに見たバルスームの貧民の家では、ほとんどどこでも戸口にそういうものがつるしてあるのだ。彼が捜しているのはそうした地区なのだ。だから、そんな地区のありそうもない、正面からそれて歩いて来たのである。
ドアを開けようとしたが、すぐにどうしても開かないことがわかった。外から錠がおりていたのだ。まったく意外なことだった。|放浪の戦士《パンサン》トゥランは頭をかいて、つぶやいた。「運が悪いな」と。だが、そのときドアの外には運命が、からだに塗料を塗ったひとりの戦士の姿をして、ほくそえみながら立っていたのだ。その男は不用意な異邦人をまんまと罠にかけたのだ。明りのついたドア、近づいてくる巡回の衛兵――こうしたことは、別の通りを抜けてトゥランの先まわりをした第三の戦士が計画し、正確にタイミングを計ったものなのだ。そしてその男の予想どおりのことを、この異邦人《かも》はやったのである――だから、彼がほくそえんだのもとうぜんのことといえよう。
出口を断たれたトゥランは廊下を奥にむかって用心ぶかく、そっと進んで行った。ときどき右か左かにドアがあった。開けようとしたが、どれもぴったり錠をおろされていることがわかった。廊下は、進めば進むほど、ますます迷路のように入りくんできた。そして錠のおりたドアが、彼の行く手をはばんだ。しかし、右側のドアは開いたので、薄明るい部屋にはいった。部屋の壁には、ほかに三つのドアがついていた。彼はそれらを順ぐりにためしてみた。二つは錠がおりていた。が、もう一つは開いて、下方にむかう通路に通じている。それは螺旋形《らせんけい》の通路で、最初の曲がり目から先は見えなかった。彼が廊下を通りすぎると、そのあとで、彼があきらめたドアの一つが開いた。そこから例の第三の戦士が姿を現わし、彼の後をつけていった。その男のきびしい口辺には、まだかすかな笑いが漂っている。
トゥランは短剣を抜いて、油断なく降りていった。底につくと短い廊下があって、突きあたりに閉まったドアがある。その重い、一枚板のドアに近づき、聞き耳をたてた。無気味なドアのむこう側からはなんの音も聞こえてこなかった。彼はドアにそっと手をかけた。すると手を触れただけでドアはやすやすと手前に開いた。眼前には天井の低い土の床の部屋があった。その壁にも、いくつかのドアがとりつけられているが、いずれもみな閉まっていた。トゥランが用心しいしい部屋にふみこんだとき、第三の戦士が、彼のうしろから螺旋《らせん》階段を降りてきた。|放浪の戦士《パンサン》はすばやく部屋を横切って、ドアの一つを開けようとした。が、錠がおりている。そのとき背後で、低いカチッという音がした。彼は剣を握ってふりむいた。が、だれもいない。だが、いまはいってきたばかりのドアは閉まっていた――彼が聞いたのはドアに錠がおろされる音だったのだ。彼は一とびで、ぱっと部屋を横切り、ドアを開けようとした。が、だめだった。もはや、物音をたてまいとはしなかった。なぜなら、いまやこうした事態が偶然とはいいきれぬことを知ったからだ。彼は自分の体重を木のドアにぶつけた。しかしぶ厚いスキール製のドアは破城槌《はじょうづち》にも耐えられるほどがっしりしていた。そのむこうから、低い笑い声が聞こえてくる。
トゥランはすばやくほかのドアを一つ一つためしてみた。が、みな錠がおりていた。部屋の中を見まわすと、木のテーブルとベンチが一つずつあった。壁には、錆びた鎖のついた、重い金輪がいくつかはめ込まれている――この部屋の用途を歴然と物語るものだ。壁ぎわの土の床には、巣穴の口のような穴が、二つ三つあいている――まちがいなく、巨大な|火星ねずみ《アルシオ》の巣だ。彼がそこまで見てとったとき、にぶい明りがふいに消え、完全な暗闇の中にとり残された。トゥランは、あちこち手さぐりしながら、テーブルとベンチを捜した。壁ぎわにベンチをすえ、テーブルを前に引きよせてからベンチに腰をおろした。すぐ抜けるように、長剣はからだの前で握っている。少なくとも、彼を捕える前に、敵は戦わなければなるまい。
しばらくのあいだそこに腰をおろしたまま、予想がつかぬ事態を待ち受けた。この地下の土牢にはなんの物音も伝わってこない。彼は心中で、今夜の出来事をおもむろに回想してみた――衛兵のいない開かれた門。明かりのついた戸口――彼が進んできた並木道では、あのように開いて、明りのついた戸口はあれ一つだけだった。また、戦士の一団が接近してきたのは、逃げたり隠れたりする他の通りが見つからないようなちょうどその瞬間だった。いくつかの廊下や部屋も、錠のおりた多くのドアを過ぎて、彼を地下牢につれこみ、ほかの通路をたどれないようにしたのだ。
「わが先祖に誓って!」と彼はののしった。「こんな簡単なことがわからなかったとは、われながらあほうだ。やつらは危険に身をさらさずに、まんまとわたしをだまして捕えたのだ。しかし、なんのためだろう?」
彼は疑問に答えられればいいがと思った。それから都市のむこうの丘の上で、彼の帰り――絶対にもどれない彼のことを待っているターラのことに思いを馳せた。彼は、バルスームの比較的野蛮な種族の手口を知っていた。そう、こうなっては、二度ともどれないだろう。彼はターラの命令にそむいてしまったのだ。彼は彼女の愛らしいくちびるからもれた、あの命令の言葉を思いだして、微笑した。彼はその命令にそむき、いまや、報酬を失うはめになったのだ。
だが、ターラはどうなる? こうなると彼女の運命はどうなるのだろう?――彼女は人間とはいえぬカルデーンひとりを道連れにして、敵の都市を前にして飢えている。すると、べつの考え――恐ろしい考えが湧いてきた。ターラが、カルデーンの地下の巣穴で目撃した恐ろしい光景のことを話してくれたので、彼はカルデーンが人間の肉を食うことを知っていた。ゲークは飢えている。もしも彼が自分のライコールを食えば、彼は無力になってしまう。しかし――そこにはライコールとカルデーンと双方の食料があるのだ。トゥランは自分のおろかしさを呪った。なぜ彼女のそばをはなれたのだろう? 彼女のそばに残って、つねに彼女を護りながら、共に死ぬほうが彼女を置き去りにして恐ろしいバントゥーム人の思いのままにさせるより、はるかにましではなかったか。
そのときトゥランは空気中に重苦しい悪臭を感じた。そのせいで眠気をもよおした。彼は立ちあがって忍びよる睡魔を払いのけようとした。だが、足が弱ってしまったような感じで、またベンチに腰を落とした。やがて、剣は彼の指からすべり落ち、テーブルの上にうつぶせになると両腕に頭を沈めてしまった。
夜が更けるのに、トゥランがもどらないので、ヘリウムのターラはしだいに不安になってきた。そして彼がもどらぬままに夜が明けたので、失敗したのだろうと考えた。自分自身の不幸な境遇よりももっと強いなにかが、彼女に悲痛な思いをさせた――悲しみと孤独とを。彼女はいまや自分がこの|放浪の戦士《パンサン》に、いかに頼るようになっていたかを自覚した。保護者としてばかりでなく、友人としてもまたそうだった。彼がいなくてさびしかった。そして彼がいなくなって初めて、彼が単なる傭兵《ようへい》以上のものであることを、彼女は突然、自覚したのである。まるで親友を奪われたような気持ちだった――昔からの大事な友人を。彼女は都市がもっとよく見えるように、かくれ場所から立ちあがった。
マナトールの皇帝《ジェダック》オ・タールの第八|中隊《ユータン》の隊長《ドワール》、ユ・ドールは、近くの村への小旅行をすませて、夜明けに、マナトールへむけてもどってきた。市の南側の丘陵のすそをまわりながら、彼の鋭い目は、一番手前の丘の頂き近くにある茂みの中で、かすかに動いているものにひきつけられた。彼は癇のつよい馬《ソート》を止めて、目をこらした。人影がむこうむきに立ちあがり、丘のむこうのマナトールのほうを見おろしているのが目にはいる。
「こい!」彼は部下に合図した。そして自分の馬《ソート》に一声かけてむきをかえさせ、丘の斜面を速足で駆けあがった。後からは二十人の獰猛《どうもう》な戦士がつづく。彼らの馬の肉趾《にくしゅ》のある足は柔らかで芝土の上で音をたてない。しかし、彼らが身につけた武器や装具の響きで、ヘリウムのターラははっとしてむきなおった。二十人の戦士が、槍を横にかまえて、おそいかかってくる。
彼女はゲークをちらっと見やった。この危急に際して、クモ人間はどんなことをするだろうか? ゲークはライコールにはいより、ぴったりとくっついた。それから、立ちあがった。美しい胴体は、ふたたび生気にあふれて敏活になった。彼女はゲークが戦いの準備をしているのだと思った。しかし、しょせんは無駄なことではないか? ふたりのほうになだれを打って丘を駆けあがってくるあのような戦士たちに対しては、ゲークのような凡庸な剣士が、なまじっかいることは、まったくの無防備より、かえってしまつがわるいくらいだ。
「急ぐのです、ゲーク!」彼女は命じた。「むこうの丘に引きかえすのです! あそこなら、かくれ場所が見つかります」だが、ゲークは長剣を抜いて、彼女と登ってくる騎士たちとのあいだに進みでた。
「無駄よ、ゲーク」彼が自分を守ろうとしているのを見て、彼女はいった。「たかが一本の剣で、あんな多勢に対してなにができましょう?」
「わしは一度しか死なないのです」カルデーンは答えた。「あなたと、あなたの|放浪の戦士《パンサン》は、わしをルードから救ってくれた。わしはただ、あの|放浪の戦士《パンサン》がここに居あわせれば、あなたを守るためにしたはずのことをするまでのこと」
「勇ましいけれど、でも無駄よ」彼女は答えた。「剣をおさめなさい。彼らは、危害を加えないでしょう」
ゲークは剣先を地面にむけたが、鞘にはおさめなかった。こうしてふたりが立っていると、隊長《ドワール》のユ・ドールがふたりの前にソートを止め、部下の二十人の戦士たちはそのまわりに円陣をつくった。ユ・ドールはしばらくソートにまたがったまま黙々と、はじめにヘリウムのターラを、つぎに醜い従者をじろじろ眺めた。
「おまえらは、どういう種類の生物だ?」やがて彼はきいた。「そして、マナトールの門前でなにをしているのだ?」
「わたくしたちは遠い国からやってきたのです」彼女は答えた。「道にまよって、飢えています。わたくしたちはただ食糧と休息とを求めて、そして祖国を求めて旅をつづける権利を認めていただきたいのです」
ユ・ドールは凄味《すごみ》のある微笑を浮かべた。
「マナトールとそれを護る山々だけが、マナトールの年代を知っている。だが、開闢《かいびゃく》以来マナトールの年代記には、外来者がマナトールから出て行ったという記録はない」
「でもわたくしは王女です」彼女は尊大《そんだい》に叫んだ。「それに、わたくしの国はあなたの国と戦争をしていません。あなたがたは、わたくしと連れたちをいたわり、祖国へ帰れるように援助してくれるべきです。それがバルスームの掟《おきて》です」
「マナトールは、ただマナトールの掟しか知らない」ユ・ドールは答えた。「だが、とにかく来るのだ。街へ連行する。おまえは美しいから、恐れることはない。このおれが自分で護ってやろう、もしオ・タールがそう命じたらな。ところで、おまえの連れについては――だが、まてよ! おまえは連れたちといったな――すると、ほかにも連れがいるのか?」
「あなたがごらんのとおりよ」ヘリウムのターラは横柄に答えた。
「いずれにせよ同じことだ」ユ・ドールはいった。「たとえほかにいたとしても、マナトールからは逃げられはしない。だが、おれがいったように、もしおまえの連れが強い戦士なら、彼も生かしておかれるだろう。なぜならオ・タールは公正であり、マナトールの掟もまた公正だからだ。さあ、くるのだ!」
ゲークはためらった。
「無益です」ターラは彼が踏みとどまって戦おうとしているのを見て、いった。「彼らといっしょに行きましょう。なぜおまえの取るにたりない剣で、彼らの強い剣に立ちむかうのです? おまえの偉大な脳には、彼らをだしぬく知恵があるではありませんか?」彼女は低い声で早口にささやいた。
「あなたのおっしゃるとりだ、ヘリウムのターラ」ゲークはそう答えると剣を鞘《さや》におさめた。
こうして、彼らは丘の斜面をマナトールの門へむけてくだって行った――ヘリウムの王女ターラとバントゥームのカルデーン、ゲーク――そして、ふたりのまわりには、マナトールの皇帝《ジェダック》オ・タールの第八|中隊《ユータン》の隊長《ドワール》ユ・ドール麾下《きか》の、からだに塗料を塗った勇猛な戦士たちが、ソートを駆っていた。
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十一 ターラの選択
ターラとその一行が「敵の門」を通って市内に乗りこんだときには、バルスームの燦々《さんさん》たる太陽が、マナトールを輝かしい後光の中に包んでいた。城壁はここでは四〇メートルほども厚さがあり、門内の通路の両側は、通路と平行に走る幾段もの石造の棚で上から下までおおわれていた。それらの棚や長い水平の壁龕《へきがん》の中には、小さな像の列が幾段も並んでいて、グロテスクな人間の小像のように見えた。長く黒い髪は足の下まで垂れ、ときには下の棚までひきずっている。高さは三〇センチくらいだが、小型であるという点を除けば、かつて生きていた人間のミイラさながらである。ターラはその前を通りすぎながら、戦士たちがそれらの小像にむかって、バルスームの軍隊式の敬意を表する作法どおりに、槍で敬礼するのを見た。やがて一行は門のもこうの大通りへ進んで行った。通りは広く壮大で、東にむかって都市を貫通している。
通りの両側にそって、すばらしい造りの大きな建物が並び、その壁面の多くは美しい。古代様式の絵でおおわれている。その色彩は長い歳月のあいだ、日光にさらされたために、やわらかい色に変色している。歩道には、すでに目をさました市民たちが歩きまわっている。華美に着飾った女たち、からだに塗料を塗り羽根かざりをつけた戦士たち、やはり武装はしているが、戦士たちほど、派手ないで立ちではない職人たち。それらのひとびとが各自の日課にとりかかるところだった。豪華な装具をつけた、一頭の巨大なジティダールが大きな車輪の馬車を引いて石敷きの通りを「敵の門」のほうにがらがら進んで行く。活気と色彩と美とが、さながら渾然一体の絵となって、ヘリウムのターラの眼は称賛と驚異の念でいっぱいになった。ここには滅びゆく火星の過ぎさった古代の光景が展開しているからだ。海洋の中で最大のスロクサス海が火星の表面から消え去る前、彼女の種族が建設した都市はこのようなものだった。両側に並ぶバルコニーから、男女の市民が黙然と眼下の光景を見おろしている。
通りにいたひとびとは、ふたりの捕虜を眺めた。醜怪なゲークにはとりわけ注意をひかれて、ふたりにつきそっている戦士に質問したり、説明を求めたりした。だがバルコニー上の見物人たちは口を開かず、また彼らが通りすぎるのをふりむいて見る者さえひとりとしていなかった。それぞれの建物には、多くのバルコニーがついていて、そのどれにも美々しく着飾った無言の男女の群れがいた。そこここにひとり、ふたり子供がいたが、その子供たちさえ、おとなと同じように沈黙したまま、動かずにいるのだ。一行が街の中央に近づくにつれて、屋上にもこうした不動の見物人の群れが何組もいるのをターラは見た。彼らは笑いと音楽にみちた祭日のようによそおって宝石を飾りつけているが、その黙したくちびるからは笑いがもれず、また彼らの中の多くが宝石をつけた指で持っている楽器の弦からは、音楽が響いてこない。
いまや大通りは広がって、広大な広場になった。そのむこう正面には、華やかな色彩の建物や赤い芝生《しばふ》、美しく花を咲かせた緑の茂みなどにとり囲まれて、ひときわ壮大な建物が大理石のような白さでそびえていた。ユ・ドールは、この建物の巨大なアーチ型の入口へむかって捕虜と部下たちを伴っていった。その入口の前には、五十人ばかりの騎馬の戦士が、通路を警護している。衛兵の指揮官がユ・ドールであることを確認すると、衛兵たちは両側にしりぞいて広い通り道をあけ、一行はそこを通過した。入口をはいるとすぐ、上方に傾斜した通路が両側にわかれていた。ユ・ドールは左に折れ、一行を二階にみちびいて、長い廊下を進んで行った。ここでも騎馬の戦士たちの前を通過したが、両側の部屋の中には、さらに多数の戦士たちが見える。ときどき上りや下りの通路があった。それらの通路の一つから、ひとりの急使がソートを全速力で駆けさせて姿を見せ、さっと追いこして行った。
ヘリウムのターラが見たかぎりでは、この巨大な建物の中で、歩いているものはどこにもいなかった。しかし、ユ・ドールが角を折れて一行を三階にみちびいて行くと、いくつもの部屋の中に、ひとの乗っていないソートが囲いに入れられているのが見えた。それらに接した部屋では、馬をおりた戦士たちがゆったりとくつろいだり、技術をきそうゲームや運まかせのゲームをしてあそんでいた。彼らの多くはジェッタンをしていた。やがて一行は長くて広い、堂々たるホールにはいった。大国ヘリウムの王女でさえはじめて見るような豪華な部屋だった。部屋の長さいっぱいにアーチ型の天井が無数のラジウム照明球で輝いていた。広大な床には一本の円柱もなく、壁から壁へひろびろとした空間がひろがっている。天井のアーチは純白の大理石で造られ、その一つ一つは、それぞれが一個の、巨大な岩塊からけずりだしたものと見える。アーチとアーチのあいだの天井には、ラジウム照明球のまわりに宝石がはめ込まれ、それらの色どりの美しい光輝が部屋全体にみなぎっている。それらの宝石は不規則なふさ状をなして一メートルほど壁からさがり、壁の白大理石を背景にして、豪華なとばりが垂れさがっているような観を呈している。大理石は床上、二メートルのところで終わり、そこから下の壁は黄金のパネルを張られていた。床は大理石で、ふんだんに黄金をはめ込んであり、部屋一つの中に、いくつもの大都市の富に匹敵するくらいの莫大な宝があるのだ。
だが、それらの装飾のとほうもない豪華さよりも、もっと彼女の注意を強くひきつけたものは、きらびやかなよろいをつけた戦士たちの隊列だった。彼らは、ソートにまたがり、無言の行で身動きもせずに、中央通路の両側に隊伍を組んで、むこうの壁まで並んでいる。一行が彼らのあいだを通っていくときも、彼らのまぶたのまたたきや、ソートの耳のぴくぴく動くのさえひとつとして見られなかった。
「族長の間《ま》だ」護衛のひとりが小声で彼女の注意をうながした。その男の声には誇らしさと多少の畏怖《いふ》の念が感じられた。一行は大きな入口を通って、そのむこうの部屋にはいった。そこは大きな方形の部屋で十二人の戦士が鞍の上によりかかっていた。
ユ・ドールの一行が部屋にはいると、戦士たちは鞍の上でぴんと身を正し、むかい側の壁の前に一列に整列した。指揮をとる士官《バドワール》がユ・ドールに敬礼した。ユ・ドールは一行とともに、衛兵に面してソートを止めた。
「偉大なる皇帝《ジェダック》がご引見に価するふたりの捕虜をユ・ドールが連れてまいった。その旨をオ・タールに伝えられよ」ユ・ドールがいった。「ひとりはきわめて美しいからであり、いまひとりはきわめて醜いからである」
「オ・タールはいま族長たちと会議中であります」士官が答えた。「しかし、隊長《ドワール》ユ・ドールの言葉は、伝達いたします」そして、背後をむき、ソートにまたがっている部下のひとりに指示を与えた。
「男性のほうはいかなる種類の生物でありますか?」彼はユ・ドールにたずねた。「ふたりとも同種族というはずはありませんが」
「ふたりはいっしょに都市の南方の丘にいたのだ」ユ・ドールが説明した。「道に迷って飢えてると申し立てている」
「女のほうは美しいですな」士官《パドワール》がいった。「この女はマナトールの市《いち》で、すぐに買い手がつくでしょう」それから彼らは話題を変え、王宮での行事や、ユ・ドールの旅行のことなどを話しあった。そのうちに使者がもどって、オ・タールが捕虜を連れてくるように命じたむねを伝えた。
そこで彼らは壮大な入口を通りぬけた。そのむこうにはマナトールの皇帝《ジェダック》オ・タールの大会議室がひらけていた。中央通路は入口から、巨大なホールの端まで通じていて、大理石の壇の踏み段の下で終わっている壇上には、大きな玉座にひとりの男がすわっていた。通路の両側にそって、きわめて美しい硬木スキール製の、みごとに彫刻をほどこしたデスクと椅子とが幾列も整然と並んでいた。ほんの二、三のデスクにひとがいるだけだった――演壇のすぐ下の前列のデスクである。
入口で、ユ・ドールは四人の部下とともにソートからおりた。部下はユ・ドールの二、三歩あとからふたりの捕虜を護衛して、玉座の下まで連れていった。一行が大理石の階段の足もとに立ち止まったとき、ヘリウムのターラの誇り高い視線は、玉座についている眼前の男にそそがれた。彼は上体を起こしてゆったりと座についていた――その威圧的な風采《ふうさい》はバルスームの族長たちが好む、野蛮な豪華さによそおわれている。大男で、非の打ちどころのない美貌だったが、ただ冷たい傲慢な目つきと、残忍そうな薄すぎるくちびるとが気になる。彼が真の支配者であることは、ひと目見ただけでわかった――このような勇猛な皇帝《ジェダック》は、臣民に畏怖されはするが、愛されはしない。そしていささかの君寵《くんちょう》をえるためとあれば、戦士たちはおたがいに先を争って進み、戦死するのだ。これが、マナトールの皇帝《ジェダック》、オ・タールだった。ヘリウムのターラは、彼を最初に見たとき、まるで古代の軍神の権化《ごんげ》のようなこの野蛮な支配者に、ある種の称賛の念を感じないわけにはゆかなかった。
ユ・ドールと皇帝《ジェダック》は、バルスーム式の簡単な挨拶を交した。それからユ・ドールは、ふたりの捕虜を発見し、捕えるまでのいきさつをくわしく説明した。ユ・ドールが顛末《てんまつ》を述べているあいだ、オ・タールはふたりの捕虜をつぶさに観察した。無表情な目の奥にある脳の中で彼がなにを考えているのか、まったく見当がつかない。隊長の報告が終わると、皇帝《ジェダック》はゲークに視線をすえて、たずねた。
「ところで、おまえはいかなる生物なのか? いかなる国から、まいったのか? またなにゆえにマナトールに来たのか?」
「わしはカルデーンです」ゲークは答えた。「バルスームの地表に住む生物のうちで最も高度な種族です。わしは精神そのものであり、あなたは物質であります。バントゥームからやって来ました。ここに来たのは、道にまよい、飢えたからです」
「それで、おまえは!」オ・タールは突然ターラのほうにむきなおった。「おまえもカルデーンなのか?」
「わたくしはヘリウムの王女です」彼女は答えた。「バントゥームの捕虜だったのですが、このカルデーンと、わたくしの同族のある戦士に助けられたのです。戦士はわたくしたちを残して食物と水をさがしに出かけました。きっとあなた方の手中に落ちてしまったのでしょう。わたくしはあなたにお願いします。彼を釈放してわたくしたちに食糧と水を与え、先に進ませてください。わたくしはある皇帝の孫娘で、皇帝《ジェダック》中の皇帝《ジェダック》たるバルスーム大元帥の娘です。わたくしはただ、立場が代われば、ヘリウム国民が、あなたやあなたの国民を遇するように扱ってほしいとお願いしているだけなのです」
「ヘリウムとな」オ・タールはききかえした。「余はヘリウムのことなどなにも知らぬ。また、ヘリウムの皇帝《ジェダック》がマナトールを支配しているわけでもない。余、オ・タールがマナトールの皇帝《ジェダック》だ。余だけが支配し、余が臣民《しんみん》を保護している。おまえはマナトールの女や戦士がヘリウムにつかまったのをひとりでも見たことはあるまい。なぜ余がほかの皇帝《ジェダック》の臣民を保護する必要があろうか? 彼らを保護するのは、彼らの皇帝《ジェダック》の義務である。それができなければ、その皇帝《ジェダック》は弱いのだ。そしてその臣民は強者の手中に落ちることになる。余、オ・タールは強者だ。余はおまえをひきとめておく。それから、そのもの――」とゲークを指で示した。「そのものは戦えるか?」
「勇敢ですわ」ヘリウムのターラが答えた。「けれど、わたくしの種族のように武術に熟達してはおりません」
「それでは、おまえのために戦うものはいないのか?」オ・タールがたずねた。「われわれは公正な種族である」そして返事もまたずにつづけた。「おまえのために戦ってくれるものがひとりでもあれば、そのものは当人とおまえのために自由を戦いとることができるのだ」
「でも、ユ・ドールがわたくしにいったところでは異邦人はひとりでもマナトールから釈放されたためしがないというではありませんか」彼女は答えた。
オ・タールは肩をすくめた。
「それはマナトールの掟の正しさを否定する証拠にはならぬ。それはむしろマナトールの戦士たちが無敵だからなのだ。もしわが戦士をうち負かしうるものが来ていれば、そのものは自由をかちえていたであろう」
「では、わたくしの戦士を呼んでください」ターラは尊大に叫んだ。「そうすれば、滅びゆく都市の崩れかけた城壁が、かつて目撃したこともないような剣技をご覧にいれましょう。もしもあなたの申し出になんのいつわりもなければ、わたくしたちはもう自由になったも同然です」
オ・タールはさっきよりもっと大きく微笑した。ユ・ドールも微笑した。これを見ていた族長や戦士たちもおたがいに小突きあって、笑いながらささやきをかわした。それで、ヘリウムのターラは彼らの正義に落とし穴があることを知った。彼女の立場はいまや絶望的に思えたが、それでも希望は失わなかった。なぜなら、彼女はバルスームの大元帥、ジョン・カーターの娘ではなかったか? 彼が運命に対処した、「わたしはまだ生きている」という有名な挑戦の言葉は、絶望に対する不屈の防壁ではなかったか? 気高い父のことを考えると、ターラの貴族的な顎《あご》は、心もち、つんと突き出された。ああ! もし父が、せめて彼女の居所だけでも知っていたら、恐いものはないのに! ヘリウムの軍勢はマナトールの城門を粉砕するだろう。ジョン・カーターの野蛮な同盟者たる巨大な緑色人戦士たちは略奪の意欲にもえて、干あがった海底から陸続として集結してくるだろう。彼女の愛する海軍の堂々たる艦隊は運命の尽きた都市の無防備な塔や尖塔の上を飛びまわるだろう。そうなればこの都市が生きのびるには、降伏《こうふく》して莫大な貢物《みつぎもの》をするしかないのだ。
だが、ジョン・カーターは、まだ知らないのだ! そのほかにひとりだけ、彼女が会いたいとねがう男がいた――|放浪の戦士《パンサン》トゥランである。しかし、彼はどこにいるのだろうか? 彼女は彼の剣さばきを、この目で見た。そしてその剣が熟練した手で振われるのを知っていた。そして、ヘリウムのターラ以上に剣技について心得のあるものがいるだろうか? 彼女は、父のジョン・カーター自身からたえず指導を受けて、剣技に熟達していたのだ。自分より肉体的にずっと強大な相手をさえ圧倒するような技術を知っていた。また彼女の攻撃は、もっともかけひきにたけた戦士をさえ、たちまち困惑《こんわく》と絶望に追いこんでしまうほどのものだったのだ。そういうわけで、彼女の思いは、|放浪の戦士《パンサン》トゥランに馳《は》せるのだった。もっとも、それは、トゥランが彼女を保護してくれるだろうという期待のためばかりではなかった。彼がターラを残して食糧を捜しに出かけて以来気づいたことだったが、ふたりのあいだには一種の同志的感情が育っており、いま、それが無いのがさびしかったのだ。彼には、ふたりの社会的な地位のあいだにある溝《みぞ》に橋を渡すような、なにものかがあった。彼といっしょにいると、彼女は相手が|放浪の戦士《パンサン》で、自分が王女だとは考えられなかった――ふたりは同僚なのだ。突然、彼女は理解した。彼女が彼の不在をさびしく思うのは、彼の剣よりも彼自身のせいなのだ。彼女はオ・タールのほうにむきなおった。
「どこにいるのです。わたしの戦士トゥランは?」彼女はきいた。
「おまえは戦士にこと欠くことはあるまい」皇帝《ジェダック》は答えた。「おまえほどの美女ならば、自分のためによろこんで戦ってくれるものをいくらでも見いだせよう。おそらく、マナトールの皇帝《ジェダック》以外の戦士を求める必要はあるまい。おまえは余の気にいったぞ、女。このような名誉に対して、なにかいうことがあるか?」
ヘリウムの王女は目を細めてマナトールの皇帝《ジェダック》をしげしげと見つめた。羽毛のついた頭飾りから、サンダルをはいた足まで見おろし、また頭飾りまで見あげた。
「名誉ですって?」彼女はあざけるようにくりかえした。「このわたくしが、あなたの気にいったのですって? それでは知るがいいわ、恥知らず。あなたはわたくしの気にいりません――ジョン・カーターの娘は、あなたのような男にはふさわしくないのです!」
突然、いあわせた族長たちの上に、緊張した沈黙がおとずれた。マナトールの皇帝《ジェダック》オ・タールの邪悪な顔から徐々に血の気が失せていった。その顔は怒りのあまり無気味な紫色を呈した。目は二つの細い切れ目のように細められ、くちびるはかみしめられて、血の気のない険悪な線になった。しばらくのあいだ、マナトール宮殿の玉座の広間は静謐《せいひつ》に包まれた。やがて皇帝《ジェダック》はユ・ドールのほうにむきなおった。
「この女を連れて行け」彼は顔に表われた怒りの表情とはうらはらな平静な声でいった。「この女を連れて行け、そして、次の競技のときに、この女を賭けて捕虜と平戦士にジェッタンを争わせるのだ」
「では、これはいかがいたしますか?」ユ・ドールがゲークを指さしながらたずねた。
「次の競技まで、牢の中に入れておくがよい」
「ではこれが、あなたの自慢した正義なのね」ターラは叫んだ。「あなたに、なにも悪いことをしていないふたりの異邦人を裁判にもかけずに刑をいいわたすのが? しかもそのひとりは女性なのよ。マナトールの恥知らずは、勇敢であると同様にほんとうに公正ですこと」
「この女を連れて行け!」オ・タールが大喝した。ユ・ドールが合図すると、衛兵たちは、ふたりの捕虜をとりかこみ、広間から退出した。
王宮の外で、ゲークとヘリウムのターラはひきはなされた。彼女は長い通りを抜けて市の中央に連行され、屋根の上にどっしりした塔がいくつもそびえる低い建物の中に連れ込まれた。そして、隊長《ドワール》の徽章をつけた戦士に引きわたされた。
「これはオ・タール陛下のご命令だ」ユ・ドールはその男に説明した。「この女を次の競技まで監禁し、捕虜と平戦士がこの女を賭けて争うのだ。この女がソートのようにわめかなければ、われわれの高貴な剣を賭ける価値があるのにな」そういって、ユ・ドールは溜息をついた。「たぶん、おれはまだこの女のために赦免《しゃめん》をえてやれるだろう。こんな美女が平戦士の賞品になるのを見るのは残念だ。おれ自身でこの女に名誉を与えてやりたかった」
「監禁するなら、さっさとなさいな」彼女はいった。「卑しい生まれのいなか者から称賛されるなんて侮辱も同然よ。そんなことをいちいち聞くようにと宣告されたおぼえはありません」
「わかったろう、ア・コール」ユ・ドールが叫んだ。「この女は、こんなぐあいに口さがないのだ。オ・タール皇帝《ジェダック》にさえ、こんな口を、いや、もっとひどい口をきいたのだ」
「わかった」ア・コールが答えた。ターラは彼がやっと笑いをこらえているのを見てとった。
「では、女、わたしといっしょにくるのだ。ジェッタンの塔の中に安全な場所を見つけよう――だが待てよ! どこかわるいのか?」
彼女はよろめいた。もし男が抱きとめなかったら、倒れてしまったろう。彼女は気力をふるいおこして、だれの助けもかりずに立っていようと雄々しくつとめた。ア・コールはユ・ドールを見やった。「この女は病気なのか?」
「きっと、ひもじいのだろう」ユ・ドールが答えた。「この女は自分と連れがこの数日間、なにも食べていないといっていた」
「オ・タールの戦士は勇敢だ」ア・コールはあざけるようにいった。「彼らは気まえのいいもてなしをする。ユ・ドール、きみの富は数えきれないくらいだ。また勇敢なるオ・タールは、口やかましいソートどもを大理石の馬小屋に入れ、黄金の餌箱《えばこ》でえさを与えている。そのくせ、飢えた女に与える一片の食物さえ都合してやれないのか?」
髪の黒いユ・ドールは顔をしかめて叫んだ。
「へらず口を叩くと、命とりになるぞ、奴隷のせがれめが! きさまは公正なオ・タール陛下の寛容に甘えすぎるぞ。これからは、塔だけでなく自分の舌にも気をつけるがいい」
「母の身分が低いからといって、わたしをあざけろうなどとは思うなよ」ア・コールがいった。
「血管の中に奴隷女の血が流れていることはわたしの誇りなのだ。唯一の恥辱《ちじょく》は、自分もまた皇帝《ジェダック》の息子だということなのだ」
「それで、オ・タールはそのことを耳にしておられるのか?」ユ・ドールがたずねた。
「オ・タールはすでに、わたし自身の口から聞いているさ」ア・コールは答えた。「これ以上のことをな」
彼はきびすをかえすと、依然としてターラの腰に手をまわして支えてやりながら半ば導き、半ば運ぶようにして、ジェッタンの塔の中にはいって行った。ユ・ドールはソートの馬首をかえし、宮殿のほうへ駆けもどった。
「奴隷娘のラン・オーを呼んで、サリア塔の上階まで食物と水を持ってくるようにいえ」それから半ば気を失いかけているターラを腕に抱きあげ、塔の内部を上方に通じている螺旋形の傾斜通路を登っていった。
長い登りの途中で、ターラは気を失ってしまった。気がついたときには、自分が、大きな円型の部屋にいるのがわかった。石の壁には、部屋の円周のほとんど全部にそって、一定の間隔で窓があけられている。彼女は絹と毛皮の寝具を積み上げた上に横たわっていた。ひとりの若い女が、ターラの上にかがみ込んで、彼女の乾いたくちびるに、なにか冷たい飲物をしたたらせていた。ヘリウムのターラは片ひじをついてなかば起きあがり、あたりを見まわした。意識がもどってきた当初は、この数週間の出来事が記憶のスクリーンからはぬぐいさられて、自分がヘリウムの大元帥の宮殿で目覚めたような錯覚《さっかく》を起こした。そこで自分の上にかがみ込んでいる見なれぬ顔をじろじろ見ながら眉をひそめた。
「おまえはだれなの? ユシアはどこ?」
「あたしはラン・オーという奴隷娘です」その女は答えた。「ユシアという名前のひとは聞いたことがありません」
ヘリウムのターラはすっかり起きあがり、あたりを見まわした。この粗末な石は、彼女の父の広間の大理石ではなかった。「わたくしはどこにいるのかしら?」彼女はたずねた。
「サリア塔の中ですわ」その娘は答えた。そして、相手が、まだわからないでいるのを見て、事情を察し、「あなたは、マナトール市のジェッタンの塔の捕虜ですわ」と説明した。「あなたは弱って、気を失っているあいだに、ジェッタンの塔の隊長《ドワール》ア・コールの手でこの部屋に運ばれたのです。ア・コールはあなたに食物と飲物を運ぶようにあたしに命じたのです。ア・コールは親切なひとですから」
「やっと思いだしたわ」ターラはゆっくりいった。「思いだしたわ、でもトゥランはどこにいるのかしら、わたくしの戦士は? みんなが、彼のことを話していなかったかしら?」
「ほかの方のことは聞いておりませんわ」ラン・オーが答えた。「あなたおひとりだけ、塔に連れてこられたのです。あなたは運がよくていらっしゃいます。なぜって、ア・コールほど立派な男性は、マナトールにまたとおりませんもの。あの方が立派なのは、母方の血のせいです。あの方の母親はガソール生まれの奴隷女だったのです」
「ガソールですって!」ヘリウムのターラは叫んだ。「ガソールはマナトールの近くにあるの?」
「近くではありません。でも一番近い国ですわ」ラン・オーは答えた。「およそ二十二度ぐらい東に、あたります」
〔原注 ほぼ地球の八一四マイルに相当する〕
「ガソール!」ターラはつぶやいた。「はるかな国ガソール!」
「でも、あなたはガソールからいらしたのではありませんわね」奴隷娘がいった。「あなたの装具はガソールのものではありませんもの」
「わたしはヘリウムからきたのです」
「ヘリウムとガソールとは離れています」奴隷女はいった。「でもあたしたちは学習の際、ヘリウムの偉大さについていろいろ学んだものです。ですから、あたしたちガソール人はヘリウムをそれほど遠いとは思いません」
「あなたも、ガソールから来たの?」ターラがたずねた。
「あたしたちの多くは、ガソールからきて、マナトールで奴隷になっているのです」彼女は答えた。「マナトール人がいちばんひんぱんに奴隷を捜しにくるのは、もっとも近い、ガソールなのです。彼らは三年から七年おきぐらいに大勢でくり出し、ガソールに通じる道に出没して隊商《キャラバン》全部をそっくり捕えてしまいます。ですから、隊商の運命をガソールに伝えるものはひとりも残らないのです。奴隷となった者がマナトールから逃げ出して、あたしたちからの連絡を、王《ジェド》ガハンに伝えた例もまったくないのです」
ヘリウムのターラはゆっくり、黙々と食事をとっていた。奴隷女の話は、彼女の心中に、父の王宮ですごした最後の数時間のこと、ガソールのガハンに会った、真昼の盛大な宴会のことを思い出させた。彼のあつかましい言葉を思いだすと、いまでさえ、頬が赤らむほどだ。
ターラが夢想にふけっていると、ドアが開いて、がさつな戦士が姿を現わした――不格好な男で、くちびるは厚く、いやらしい意地の悪い顔つきをしている。奴隷女はさっと立ちあがって、戦士の前に立ちはだかった。
「これはなんのまねですの、エ・メド?」娘は叫んだ。「このご婦人をそっとしておくようにというのが、ア・コールの命令ではありませんの?」
「ア・コールの命令だと、いやはや!」男はせせら笑った。「ア・コールの命令など、ジェッタンの塔の中だろうとどこだろうと力はないのだ。なぜならア・コールはいま、オ・タールの牢の中にいるからだ。そしてこれからはエ・メドがこの塔の隊長《ドワール》なのだ」
ヘリウムのターラは、奴隷娘の顔が青ざめ、目に恐怖の色が浮かぶのを見た。
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十二 ゲークのいたずら
ヘリウムのターラがジェッタンの塔のほうに連行されて行く間に、ゲークは王宮の地下牢に護送され、薄暗い部屋に閉じ込められた。そこには、土の床の壁ぎわにベンチとテーブルが置いてあり、また壁にはいくつかの金輪がはめこまれ、そこから短い鎖がぶらさがっている。壁のすそには、土の床にいくつかの穴があいていた。彼が見たもののうちで、それだけが彼の興味をひいた。ゲークはベンチに腰をおろし、黙然と聞き耳をたてて待っていた。やがて、明りが消えた。ゲークが笑えたとすれば、彼はこのとき笑ったことだろう。なぜなら、ゲークは明るいところとおなじように、暗いところでも目が見えるから――かえってよく見えるくらいだったろう。彼は闇の中で、床にある穴を見つめて、待っていた。やがて周囲の空気が変化するのを感じた――奇妙な臭いで、だんだん重苦しくなっていく。だが、もしゲークが笑えたら、ここでもまた笑っただろう。
室内の空気が猛毒のガスとすっかりいれかわっても、カルデーンのゲークにとっては、なんでもないことなのだ。彼には肺がないので、空気を必要としないからである。ライコールのほうはそうはいかない。空気を奪われれば死んでしまうだろう。が、普通の動物を気絶させるくらいのガスを導入されるだけなら、ライコールはなんの影響もうけない。ガスに圧倒されてしまう精神というものがないからだ。血液中の炭酸ガスが心臓の作用を停止させてしまうほど過剰《かじょう》でないかぎりは、ライコールはただ活気を失うだけで、カルデーンの脳の刺激的作用には依然として反応するはずである。
ゲークはライコールをすわらせて壁によりかからせた。こうしておけば、彼の脳の指示がなくても、ライコールはそのままの姿勢でいるだろう。つぎにライコールの脊髄《せきずい》との連結をはずしたが、やはり肩の上にのったまま、注意ぶかく待っていた。というのは好奇心を起こしたからだ。いくらも待たないうちに明りがぱっとつき、錠がおりたドアの一つが開き、六人の戦士がはいって来た。彼らは急いで近づくや、すばやく仕事をすました。まずゲークの武器をすっかりとりあげ、つぎにライコールのいっぽうの足首に足枷《あしかせ》をつけ、壁にたれさがっている鎖の一本の端に、しっかりと固定した。つぎに長いテーブルを新しい位置に引きずっていき、その長いほうの側面ではなく、短いほうの一端が捕虜の真前にくるように、床にボルトで止めた。そして、テーブルの手前のほうの端には、食物と水をおき、むこうの端には、足枷の鍵をおいた。それからぜんぶのドアの錠をあけ、ドアを開けたまま、部屋を出ていった。
|放浪の戦士《パンサン》トゥランは意識を回復すると、片腕にはげしい痛みを覚えた。ガスの効力は、彼を気絶させたときとおなじように急激に消えたので、目を開いたときには、すっかり気力をとりもどしていた。明りはまたついていた。その輝きの中で、大きな|火星ねずみ《アルシオ》がテーブルの上によじのぼり、自分の腕をかじっているのがわかった。彼はさっと腕をまわして短剣に手をやった。ねずみは、うなりながら、もう一度、腕に食いつこうとした。そのときトゥランは自分の武器が奪われていることを悟った――短剣も、長剣も、あいくちもピストルも。そのとき、ねずみがとびかかってきた。彼は手で打ちはらって、立ちあがり、後にさがりながら、なにかもっと強くなぐれるものを捜した。ねずはみまたとびかかってきた。トゥランはすばやく後退して、そのするどい牙をさけたが、そのとき、なにかがふいに彼の右の足首をぐいと引っぱるのを感じた。からだの平衡《へいこう》をとりもどそうとして、左足を後に引いたとき、|かかと《ヽヽヽ》がぴんと張った鎖に引っかかり、あおむけにどっと床に倒れた。ちょうどそのとき、ねずみが、彼の胸元にとびつき、のど首にかみつこうとした。
|火星ねずみ《アルシオ》は狂暴で醜い動物である。足が何本もあって、毛はなく、その皮は生まれたばかりのはつかねずみのように、いやらしい。大きさや体重は、大きなエアデール・テリアぐらいある。目は小さく、目と目の間隔がせまくて、肉の深い切れ目の中にほとんどかくれている。だが、そのなかでももっとも凶暴でいやらしい特徴は顎《あご》にある。顎《あご》の骨質の全構造は、肉から数センチも突き出しており、上顎には五本の鋭い、鍬《くわ》のような牙がむき出して、下顎にも同数のおなじような牙がある。それら全体の印象は、大部分の肉が脱落してしまった、くさった顔をほうふつとさせるのだ。|放浪の戦士《パンサン》の頚動脈《けいどうみゃく》をくいやぶろうとして彼の胸にとびついてきたのは、こんなしろものだった。トゥランは立ち直ろうとつとめながら、二度そいつを打ち払った。だが、二度とも、さらに狂暴の度を加えて、新たな攻撃をしかけてくる。そいつの唯一の武器は牙だった。広い、扁平な足には、にぶい爪がついているきりなのだ。突き出た口で曲がりくねった地下道を掘り、その広い足で土を後にかき出すのだ。トゥランはけんめいになって自分の肉にその牙をよせつけないように努めて、そうしながら、隙を見てまんまとねずみののど首をとっつかまえた。その後は、あっという間にかたづいた。やがて彼は立ちあがり、嫌悪に身ぶるいしながらねずみの死体をはね飛ばした。
いまや彼は監禁《かんきん》されてから、自分をとりまいている新しい情況をすばやく判断することに注意をむけた。なにが起こったかをおぼろげにさとった。麻酔《ますい》をかけられて、武器を奪われたのだ。立ちあがると、片方のくるぶしに足|枷《かせ》がかけられた鎖で壁につながれているのがわかった。室内をぐるっと見まわした。ドアは全部、大きく開かれているではないか! 彼を捕えたものたちは、彼の目前に手の届かない自由への通路を開けて、たえず誘うように見せておくことで、捕われの苦痛をいっそうつらいものにしようとしているのだろう。テーブルの端には、すぐ手の届くところに食物と飲物がおいてある。すくなくともこれならすぐに手が届く。それを見ると、彼の飢えた胃の腑は食物を求めてぐうぐう鳴った。控えめに食べたり、飲んだりするのはむずかしいことだった。
食物をむさぼり食いながら、捕われた牢の中を見まわしているうちに、テーブルの一番はなれた端にあるものが目にとまった。鍵だった。彼は足枷《あしかせ》のついた足首をあげて、錠をしらべてみた。まちがいない! 目の前のテーブルの上にある鍵は、まさに足枷《あしかせ》の鍵だ。看守がうっかりしてそこに鍵をおき忘れて出て行ってしまったのだ。|放浪の戦士《パンサン》トゥラン、つまりガソールのガハンの胸中に、希望が高らかに湧いてきた。開いた戸口のほうをひそかにうかがった。だれも見あたらない。ああ、もし自由の身になることさえできれば! この恐ろしい都市から、ターラのもとへ帰る道をなんとかして見つけ、もう二度と彼女を置きざりにはすまい。彼女の安全をかちとるか、自分が死ぬまでは。
彼は立ちあがり、テーブルのむこう端に用心ぶかくからだを近づけた。そこに待望の鍵があるのだ。一歩ふみだしただけで足枷のついた足首にひきとめられた。だが、テーブルに沿ってせいいっぱい身を伸ばしながら、その鍵にむかって、あせる指をひろげた。指はいまに鍵にとどきそうだった――もう少しで、指に触れそうだった。身を伸ばしたが、それでもなお鍵は指のわずか先にあるのだ。足枷の足の肉が深くくいこむまで、身を伸ばしたが、結局、だめだった。ベンチにもどって、開かれたドアと鍵をにらみつけた。いまになって、それらもたくみに仕組まれた、高度の拷問《ごうもん》の一部であることがわかった。それは肉体的な苦痛をあたえないが、だからといって精神的な苦痛を与えることに変わりはない。一瞬、彼は甲斐もない後悔と予感にさいなまれていたが、やがて冷静さをとりもどし、憂色《ゆうしょく》をふりはらうと、まだ終わっていない食事にもどった。少なくとも、彼がどれほど苦しめられたかを知る満足を敵に与えてはならない。食べながら、彼はテーブルを床に沿って引きずりよせれば、鍵を手の届くところへ持ってこられることに気づいた。しかしそうやろうとしてみると、彼が気を失っているあいだに、テーブルが床にしっかりとボルトで固定されてしまったことがわかった。ガハンはまた微笑して肩をすくめ、食事をつづけた。
戦士たちがゲークをとじこめた牢から出て行ってしまうと、カルデーンはライコールの肩からテーブルに這いおりた。そこで小量の水を飲み、それからライコールの手を水の残りと食物のほうへ誘導した。すると、脳のない生物は、がつがつ食いはじめた。ライコールが食っているあいだに、ゲークはそのクモのような足でテーブルの上を進み、足枷の鍵のあるむこう側へ行った。そしてそれをいっぽうの触手でつかむと床にとびおり、壁ぎわの巣穴の一つにむかってすばやく歩いて、その中に姿を消した。カルデーンは、さっきからこれらの巣穴の入口を観察していた。それらは彼のカルデーン的好みにかなったばかりでなく、鍵をかくす場所にもなり、カルデーンの好きな唯一の食物――肉と血――の住み家をも暗示しているのだ。
ゲークはこれまで|火星ねずみ《アルシオ》を見たことがなかった。この巨大な火星ねずみは、とうの昔にパントゥームから絶滅している。彼らの肉と血はカルデーンの大好物だったからだ。だが、ゲークは祖先のすべての記憶を、ほとんどそのままに受けついでいたので、火星ねずみがこうした穴に巣くっていることも、また食べればうまいことも知っていたし、どんな格好をしているか、どんな習性をもっているかも知っていた。しかも、彼はそれを実際に見たことも、絵で見たこともないのだ。ちょうどわれわれが、動物を飼育するさいにその肉体的な特性を遺伝させるように、カルデーンたちは自分自身を飼育して、記憶や回想力をふくめた精神的な特性を遺伝させるのだ。こうして、彼らは、本能が記憶によって命令され利用されるような客観的な精神の識閾《しきいき》の水準の上に、われわれが本能と呼ぶものをつくりあげてきたのである。われわれの主観的な精神の中には、祖先の印象や経験の多くが存在していることは間違いない。これらは、夢の中でだけわれわれの意識を刺激することもあるし、また、われわれは現在の存在の過渡的な段階をかつて経験したのではないかという、漠然とした、しかし執拗な暗示となることもある。ああ、もしわれわれにそうしたことを思いだす力さえあったなら、こうした疑問も氷解することだろう! そうすればわれわれの前には、現在までつづいてきた無限の過去の、すでに忘れ去られた物語が展開するだろう。人間という概念がまだ神の心に芽ばえたばかりの時期に、星をちりばめた神の庭園を、神とともに散策することさえできるかもしれないのだ。
ゲークが巣穴の中の急な傾斜を三メートルほど降りていくと、巧妙に作られた居心地のいい地下道が縦横に走っている個所にぶつかった。生物がいることは、まちがいない! 彼は足ばやに大胆に進み、まるで諸君がわが家の台所に行くように、まっすぐ目的地へむかって行った。その目的地は、地下道の下のほう、大きな樽《たる》ほどもある楕円形のくぼみの中にあった。絹や毛皮の切れはしでつくった巣の中に火星ねずみの赤んぼうが六匹いた。
母親が巣にもどったとき、赤んぼうは五匹しかいず、そのかわり、一匹の大きなクモのような生物がいた。母親はすぐさまとびかかったが、たちまち、力強い触手で押さえつけられ、身動きできなくなってしまった。それらの触手は恐ろしい口のほうに、母親ののどをじりじりと引きよせた。そしてあっというまに母ねずみは死んでいた。
ゲークは、その気になれば、長いこと、その巣にとどまっていられただろう。そこには何日分もの豊富な食物があったからだ。しかし、彼はそうせずに地下道を探索した。穴をたどって行くうちに、マナトールの街のいくつもの地下室にはいった。また壁の穴を上へくぐり抜けて、地上の部屋にもはいった。たくみに造られた罠をいくつも発見したし、また毒入りの餌をはじめ、さまざまの仕掛けをも発見した。それらは、マナトールの住民たちが、彼らの家屋や公共の建物の地下に住んでいる、このいやらしいねずみとたえず戦っていることを示していた。
探検した結果、判明したところでは、地下道の網目はきわめて広大で、市内のいたるところに通じているらしかった。そればかりか、地下道の大部分は非常に古いものであった。こうした地下道を掘り抜くためには、多量の土が取りのぞかれたにちがいない。彼は、その土がどこへ捨てられたのかと、ながいこと頭をひねった。太く長いトンネルを下へ下へとたどって行くうちに、前方に地下水が轟々と流れている気配を感じ、やがて、大きな地下の川の堤にゆきあたった。この川は流れ流れてオメアンの地下海にそそいでいるにちがいない。火星ねずみたちは太古の昔から無数の世代にわたって、この激流うずまく下水溝に、広大な地下の道路から掘りだした土を一掘りずつ落とし流してきたのだ。
ゲークは川岸で、ほんのわずか立ちどまっただけだった。彼の一見あてずっぽうな散策は、実は明確な目的から生まれたものだからである。そして彼はその目的を精力的かつ率直に追求した。地下牢か、街の住人がいるほかの部屋に通じていそうな地下道を進んで行った。そしてそれらの牢や部屋へ出ると、きまって穴の入口に安全に身をかくして、目当てのものがないことがわかるまで中をしらべるのだ。彼はクモのような脚ですばやく動き、わずかな時間のあいだにかなりの距離を歩きまわった。
探索がすぐには成功しなかったので、彼はライコールが鎖につながれて食欲をみたしている牢へもどろうと決心した。牢に通じる地下道の終点に近づくと足どりをゆるめ、地下道の入口のすぐ内側に立ちどまって、牢へはいる前に中の様子をうかがった。彼がそうしていると、むこう側の戸口に突然ひとりの戦士が姿を現わした。ライコールはテーブルの上にうつぶせになり、もっと食物を求めて盲目的に手さぐりしている。ゲークは、その戦士がぎょっとして立ちどまり、ライコールをまじまじと凝視《ぎょうし》するのを見た。戦士の目は大きく見ひらかれ、赤銅色の頬が灰色に変わった。まるでだれかに顔をなぐりつけられたかのように戦士はよろよろっと後退した。ほんの一瞬間、彼は恐怖に麻痺《まひ》したのか、そのまま棒立ちになっていたが、たちまち息づまるような悲鳴をあげると、くるりとむきを変えて逃げだした。ここでも、カルデーンのゲークが笑えないということは、はなはだ残念なことであった。
彼はすばやく部屋にはいると、テーブルの上に這いあがって、自分のライコールの肩の上におさまり、そのまま待ちかまえた。ゲークは笑うことこそできなかったが、ユーモアの感覚を持ちあわせていないとだれにいえようか? 三十分ほどそうして待っていると、どやどやと廊下づたいに近づいてくる足音が聞こえた。彼らの武器が岩の壁にぶつかってたてる音が聞こえ、急ぎ足でやってくることがわかる。しかし、彼らはゲークの牢の入口に着く前に立ちどまり、それからもっとゆっくりと進みはじめた。先頭にはひとりの将校がいて、そのすぐ後をついさっき、あわてて逃げだした戦士が、目を大きく見ひらいて、まだいくらか青ざめた顔でしたがっている。一行は戸口で立ちどまった。将校はさいぜんの戦士のほうを憤然としてふりむき、指をあげてゲークをさし示した。
「やつはあそこにすわっているではないか! すると、おまえはふとどきにも隊長《ドワール》に嘘をついたのか?」
「わたしは誓います」その戦士は叫んだ。「わたしは真実を申しました。つい先刻は頭のないものが、まさしくこのテーブルの上を這いまわっていたのであります! もしもわたしが真実以外のことを申しているのでしたら、わたしの第一の祖先がこの場で、わたしを打ち殺すでしょう」
将校はとまどった様子だった。火星の人間はめったに嘘をつかない。彼は頭をかいた。それから、ゲークにむきなおった。
「おまえはいつからここにいるのだ?」
「わしをここに連れてきて、壁に鎖でつないだものに聞いたほうがよく知っているだろう」ゲークはまぜかえした。
「おまえはこの戦士がすこし前にここにはいってくるのを見たかね?」
「見たとも」ゲークは答えた。
「で、おまえは今すわっているところにすわっていたのか?」将校はつづけてきいた。
「わしが鎖でつながれているのを見ているくせに、どこかほかのところにすわっていたかとたずねるとはおそれいるな!」ゲークは大声を出した。「あんたの街の人間はみんな阿呆《あほう》なのかね?」
ほかの三人の戦士が、前のふたりの背後につめて来て、仲間の失敗をにやにや笑いながら捕虜をよく見るために、首を伸ばした。将校はゲークにむかって渋い顔をした。
「おまえは、オ・タールがジェッタンの塔に送った、バンスのような女捕虜と同じくらい口がわるいな」
「わしといっしょに捕えられた、若い女のことかね?」ゲークはたずねたが、その無表情な声や顔は、彼が興味を感じていることを|うの毛《ヽヽヽ》ほども示していない。
「その女のことだ」隊長《ドワール》は答えた。それから、自分を呼びだした戦士をふりかえった。「自分の部屋にもどって、次の競技までそこにおれ。それまでには、おまえの目もまともになっているかもしれん」
戦士はいまいましげにゲークを見やって顔をそむけた。将校は頭をふってつぶやいた。
「わけがわからん。ユ・バンはいつも正直で、信用できる戦士だった。こんなはずはないのだが――?」彼はゲークに突き刺すような視線をむけた。「おまえはからだにふさわしくない奇妙な頭をしているな」と叫んだ。「われわれの伝説によると、昔々、人間の心に幻覚をもたらす生物がいたということだ。もしおまえがそんな生物なら、ユ・バンはおまえの魔力にまどわされたのかもしれぬ。もしそうだとしたら、おまえをどうあつかうべきかはオ・タールがよく知っておられることだろう」彼は踵《きびす》を返すと部下の戦士たちにあとにしたがうように合図した。
「待ってくれ!」ゲークは叫んだ。「わしを飢え死にさせるつもりでないなら、食物を運んできてくれ」
「おまえは食ったではないか」将校が答えた。
「日に一度だけしか食えないのか?」ゲークがたずねた。「わしはそれより、もっとたびたび食う必要があるのだ。食いものをもってきてくれ」
「食わしてやる」将校が答えた。「マナトールの捕虜が充分に、食事を与えられていないとはだれにもいわせないぞ。マナトールの掟は公正なのだ」そういって、出て行った。
彼らの足音が遠くに聞こえなくなるやいなや、ゲークはライコールの肩からはいおり、鍵をかくしておいた穴の中にはいこんだ。鍵をとってくると、彼はライコールの足首から足枷の鍵をはずし、空のまま錠をかけてしまうと、鍵を穴のもっと奥にしまいこんだ。それから、頭のないからだの上にもどった。やがて、近づいてくる足音が聞こえた。彼は立ちあがり、戦士がやってくるとわかっている通路とはべつの通路へ出て行った。そして、聞き耳をたてながら身をひそめて待った。戦士が部屋にはいって立ちどまる足音が聞こえる。驚きの叫び声が聞こえ、つづいて盆がテーブルの上に乱暴に置かれ、金属の皿がガチャンと鳴った。それから足音が大急ぎでひきかえして行き、たちまち遠ざかって聞こえなくなった。
ゲークはすぐ部屋にとってかえし、鍵をとって、ライコールをまた鎖につなぎ錠をおろした。それから鍵を穴にもどし、頭のない胴のかたわらのテーブルの上にうずくまってライコールの手を食物のほうへ導いた。ライコールが食べているあいだ、ゲークは耳をすませ、間もなく聞こえてくるはずのサンダルをひきずる音や武器のガチャガチャ鳴る音に耳をすませた。長く待つまでもなかった。そうした物音が聞こえてくると、ゲークはライコールの肩の上に這いのぼった。こんども、さいぜんユ・バンに呼びよせられた将校と三人の戦士が現われた。将校のすぐ背後にいるひとりは食事を運んできた戦士にちがいない。その戦士はゲークがテーブルのところにすわっているのを見て、目をまるくしたからだ。隊長《ドワール》にきびしい目で見つめられると、その男はひどく間がぬけて見えた。
「しかし、先ほど申したとおりであります」彼は叫んだ。「やつは、わたしが食事を運んできたとき、ここにはいなかったのです」
「だが、いまここにいるではないか」将校は不快そうにいった。「しかも、やつの足首には足|枷《かせ》がかかって錠がおりている。見ろ! はずされてはいないぞ――だが鍵はどこにあるのだ?」彼はゲークにむかってどなりつけた。
「捕虜のわしが、どうして看守たちよりも鍵のありかを、よく知っているわけがあるかね?」
「だが、ここにあったのだ」将校はテーブルのむこう端を指さして、叫んだ。
「あんたはそれを見たのかね?」
将校はどぎまぎした。
「いや、しかしここに置くことになっているのだ」といいわけした。
「あんたはここに鍵があったのを見たのかね?」ゲークは別の戦士を指さしてたずねた。
その戦士は首を振った。
「では、きみは? それから、きみは?」カルデーンはつづけてほかのふたりにもたずねた。
彼らはふたりとも、鍵を見なかったことを認めた。
「そこにあったとしても、どうしてわしの手が届くかね?」ゲークはつづけていった。
「そうだ。やつには手が届くはずがないのだ」将校は認めた。「だが、もうこんなことを起こさせてはならん! アイ・ザブ、おまえはここに残って、交替までこの捕虜を見張っていろ」
アイ・ザブは、この命令を与えられると、いかにも迷惑そうな顔つきをした。隊長や仲間の戦士が彼をありがたくない運命におきざりにして行ってしまうと、彼はゲークを疑わしそうな目でながめた。
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十三 必死の行動
イ・メッドは塔の部屋を横切り、ヘリウムのターラと奴隷娘のラン・オーのほうにやって来た。そして荒々しくターラの肩をつかんだ。「立つのだ!」と命じた。ターラは彼の手を打ちはらって、立ちあがり、後にさがった。
「おまえの手をヘリウムの王女のからだにかけるのをおやめ、けがらわしい!」
イ・メッドは高笑いした。
「まず賞品についていくらか知らずに、わしがおまえを賭けてジェッタンをやると思うのか? ここへ来い!」
彼女は両腕を胸に組んで、きっと身をのばした。イ・メッドは彼女のほっそりした指先が、左肩にかかった装具の幅広の皮帯の下にさしこまれたのに気づかなかった。
「でもオ・タールがこのことをお知りになれば、あなたは後悔することになりますよ、イ・メッド」奴隷娘が叫んだ。「勝負に勝って、このひとを手にいれる前に、自由にするような掟はマナトールにはありません」
「オ・タールがこの女のことなど気にかけるものか?」イ・メッドが答えた。「おれが知らないとでもいうのか? この女は偉大なる皇帝《ジェダック》をさんざんののしって侮辱したではないか? 先祖にかけて、おれはオ・タールがこの女を思いどおりにした男を王《ジェド》にすると思うぞ」そして彼はまたターラに迫った。
「お待ちなさい!」ターラは低い、平静な口調でいった。「どうやら、おまえは自分がしていることがわかっていないらしい。ヘリウム国民にとって、ヘリウムの女性のからだは神聖なのです。もっともいやしい女の名誉のためにも、偉大なる皇帝《ジェッタン》がみずから剣を抜き放つでしょう。バルスームの中でももっとも偉大な国々が、わたくしの母デジャー・ソリスのからだを守るために戦火の巷《ちまた》と化したものです。わたくしたちには寿命があるのだから、死ぬことはいとわない。でも名誉をけがさせてはならないのです。おまえはヘリウムの王女を賭けてジェッタンをするがいい。しかし、おまえが勝負に勝っても、決して賞品を手に入れることはできない。もし、わたくしの死体がほしければ、いくらでも強要するがいい。けれどもマナトールの男よ、知るがよい。大元帥の血潮は、むだにヘリウムのターラの血管を流れているのではありません。これだけは断っておきます」
「おれはヘリウムなど聞いたこともない。それにわれわれの大元帥はオ・タールなのだ」イ・メッドが答えた。「だが、おれは競技に勝って手にいれるはずの賞品をもっとよく調べたいと思うのだ。次の競技が終われば、おれの奴隷になることになっているこの女のくちびるを試してみたい。だが女、これ以上、おれを怒らせるのは、ためにならんぞ」そういいながらも彼の目は細くなり、歯をむきだした獣のような顔になった。「もしもおれの言葉が信用できぬのなら、奴隷娘のラン・オーにきくがいい」
「あの男のいうことはほんとうですわ。ヘリウムのお方」ラン・オーが口をはさんだ。「イ・メッドを怒らせないようになさい。もし命が大切ならば」
だが、ヘリウムのターラはなにも答えなかった。すでにターラはいうべきことをいってしまったのだ。彼女はいまや、近づいてくるあらくれ男にむきあって黙々と立っていた。彼はすぐ近くにくると、だしぬけに彼女を抱きしめ、前かがみになって彼女のくちびるを自分のくちびるに押しつけようとした。
ラン・オーはヘリウムから来た女性が半身になり、胸の上においた右手をすばやく突き出すのを見た。その手はイ・メッドの腕の下から突き出て背の後にふりあげられた。長い、細身の剣が握られている。戦士のくちびるは彼女のくちびるに近づいてきた。しかし、くちびるはついに触れあわなかった。というのは不意に男がからだをピンと硬直させると、くちびるから一声悲鳴をもらして、中身のない毛皮のようにくたくたと床にくずおれたからだ。ヘリウムのターラは前かがみになり、男の装具で、短剣をぬぐった。
ラン・オーは大きく目を見開いて、死体を恐ろしげに見つめた。「このおかげで、ふたりとも殺されますわ」と叫んだ。
「だれがマナトールの奴隷として生きたいと思いますか?」ヘリウムのターラが問いかえした。
「あたしはあなたほど勇気がありません」奴隷娘がいった。「それに命は大切ですわ、生きてさえいれば希望がありますもの」
「命は大切ですとも」ターラはうなずいた。「でも名誉は神聖です。けれど恐れることはないわ。彼らが来たら、わたくしはほんとうのことをいってやる――あなたは少しも手をくださなかったし、ひときめる間もなかったことを」
すこしのあいだ、奴隷娘は考えこんでいるようすだった。不意にその目が、ぱっと輝いた。
「いい方法があります。あたしたちから疑いをそらすのです。この男はこの部屋の鍵を身につけています。ドアを開けて、この男を外にひきずりだしましょう――そうすればきっと、死体を隠す場所が見つかりますわ」
「名案だわ!」ターラは叫んだ。ふたりはすぐに、ラン・オーが企てた計画にとりかかった。すばやく鍵を見つけ、ドアの鍵を開けると、両側からイ・メッドの死体をかかえ、なかば持ちあげ、なかばひきずるようにして、部屋の外にだし、階段伝いに下の階におりた。ラン・オーの話では、その階にあき部屋があるという。ふたりがためした最初のドアには錠がおりていなかった。気味の悪い重荷を運んで、このドアを通り抜け、小さな部屋にはいった。そこは一つの窓から明りがはいってくるだけだったが、牢獄というよりは、むしろ居間に使われているものらしい。ぜいたくといってよいくらい家具が備えつけられていたからだ。四方の壁は床からおよそ二メートルぐらいの高さまで羽目板がはめ込んであり、その上方のしっくいと天井は色あせた古い絵模様で飾られている
ターラは部屋の中をすばやく見まわしているうちに、羽目板の一部に注意を引きつけられた。その羽目板のいっぽうのへりは、隣りの羽目板と切れているように見えたからだ。彼女はすばやくそこへ歩いていった。すると一枚の羽目板の垂直なへりのいっぽうが、ほかのよりも一センチばかりつき出ているのがわかった。彼女の好奇心をそそる一つの解釈が可能だった。そのヒントにしたがって、突きでたへりをつかみ、外側に引っぱった。羽目板はゆっくり手前へ回転し、壁のむこうに暗い穴があらわれた。
「ごらんなさい、ラン・オー」ターラは叫んだ。「わたくしが見つけたものをごらんなさい――床の上のものをここの穴の中に隠せばいいのだわ」
ラン・オーもそばに来て、ふたりは暗い穴の中を調べた。そこは小さな壇になっていて、細い通路が下界の暗闇に通じている。入口の床の上は、ほこりが厚くつもっていて、前に人の足がその上を歩いてから、かなりの年月が経過していることを示していた――この秘密の抜け道は、まちがいなく、現存のマナトール人には知られていないのだ。ふたりはイ・メッドの死体をそこへ引きずりこみ、壇の上においた。そして暗い禁断の密室を出るとき、ラン・オーは羽目板をぴしゃりとしめかけた。しかし、ターラがそれをひきとめた。
「待ちなさい!」ターラはそういうと、ドアの枠《わく》やかまちなどを調べはじめた。
「急ぎましょう!」奴隷娘がささやいた。「彼らが来たらおしまいですわ」
「ここをまた開ける方法を知っておくと、後で役に立つわ」ヘリウムのターラはそう考えた。それから突然、開いた羽目板の右端の、彫刻をほどこしたすその一部を片足で押しつけた。そして「ああ!」と満足したように溜息をつくと、羽目板をきちんともとの場所にはめ込んだ。
「いらっしゃい!」ターラはそういって、部屋の戸口へむかった。
ふたりは気づかれずに、もとの小部屋にもどった。ターラはドアを閉めると、内側から鍵をかけ、その鍵を彼女の装具の秘密のポケットにしまいこんだ。
「だれが来たって、なにを質問されたってこわくないわ! あわれなふたりの囚人が、ごりっぱな看守の居所について、なにを知ってるというの? ねえ、ラン・オー、あの連中になにがわかるというの?」
「なにもわかりませんわ」ラン・オーも合点して、いっしょに微笑した。
「マナトールの男たちのことを聞かせてちょうだい」やがてターラがいった。「彼らはみんなイ・メッドのようなの? それとも、ア・コールのようなものもいくらかいるの、彼は勇敢で、騎士的な性格のように見えるけど」
「ほかの国の男と変わりませんわ」ラン・オーが答えた。「良い者もいるし悪い者もおります。彼らは勇敢で、力強い戦士です。彼ら同士のあいだでは騎士道も名誉もありますが、異邦人との関係では、一つの掟しか知りません――それは力の掟です。彼らは、ほかの国の弱い者や不幸な者を見ると、軽蔑で心が一杯になり、彼らの性質の中にある悪い要素を残らず喚起されるのです。あたしたちのような奴隷のあつかいにも、それがあらわれています」
「でもなぜ、彼らは自分たちの手中におちた、不幸な者を軽蔑するのかしら?」ターラがたずねた。
「わかりませんわ。ア・コールにいわせると、彼らの国が強敵に侵略されたことがないせいだそうです。彼らはガソールを奇襲するさいに破れたことがありません。というのは、強敵にぶつかるまでぐずぐずしていたためしがないからです。そういうわけで、無敵なのだと思いあがり、他国人は武勇に劣っているものと軽蔑しているのですわ」
「でも、ア・コールもそのひとりでしょう?」ターラがいった。
「あのひとは皇帝《ジェダック》オ・タールの息子のひとりです」ラン・オーが答えた。「でもあのひとの母親は高貴な生まれのガソール人で、捕えられて、オ・タールの奴隷にされたのです。ア・コールは、自分の血脈の中には、母の血だけが流れているものと誇っています。事実、ほかの者たちとはちがっています。彼の騎士道はほかの者よりも、温和なのです。でも、彼をいちばんにくんでいる者でも、あえて彼の勇気をためそうとはしません。そして、彼の剣やソートをあつかう巧みさは、マナトール中にあまねく喧伝《けんでん》されているのです」
「彼らは、あのひとをどうすると思いますか?」ターラがたずねた。
「宣告をくだしてゲームをさせるでしょう」ラン・オーが答えた。「もしもオ・タールがあまり怒っていなければ、ただ一度だけ競技をするように宣告するでしょう。その場合には、あのひとは生還できるかもしれません。でもオ・タールがほんとうに彼を処分するつもりなら、競技の全部に出るように宣告されますわ。いままでに十ゲーム全部に生き残った戦士はありません。というよりオ・タールの宣告をうけて生き残ったものはひとりもいないのです」
「ゲームというのはどんなものなの? わたくしにはわからないけど」ターラがきいた。「彼らがジェッタンをすると話すのを聞いたけど、ジェッタンではひとを殺すことはできないはず。ヘリウムでもよくやりますもの」
「でも、マナトールのように、闘技場ではなさらないでしょう」ラン・オーが答えた。「窓のところへおいでになって」
ふたりは東に面した窓ぎわに行った。
眼下に、低い建物ですっかり囲まれた広大な広場が見える。その建物には高い塔がいくつもそびえ、彼女が閉じ込められている塔もその一つなのだ。闘技場のまわりには、席が階段状につらなっている。しかし、彼女の注意を引いたものは、交互にオレンジ色と黒色の方眼をなして、闘技場の床にひろげられている巨大なジェッタン盤だった。
「あそこで、彼らは生きたコマを使ってジェッタンをするのです。大きな賞金を賭けるのですが、それもたいていは女性です――特別に美しい奴隷女です。もし、あなたがオ・タールを怒らせなければ、彼は、あなたを手に入れるために自分で競技したでしょう。でも、こうなったからには、あなたは奴隷と罪人たちでおこなわれる公開競技に賭けられるでしょう。そしてあなたは勝ったほうのものになるわけです――ひとりの戦士のものではなく、ゲームに生き残った者全員のものになるのです」
ヘリウムのターラは目をきらりと光らせたが、なにもいわなかった。
「競技を指揮するものは、必ずしもその競技に参加しなくてもいいのです」奴隷娘は説明をつづけた。「指揮者は競技盤の両側に見えるあの二つの大きな玉座にすわって、目から目へ、駒を動かします」
「でもどこに危険があるの? もし駒が取られても、それは盤から除かれるだけのことでしょう――これがバルスームの文明と同じくらい古くからあるジェッタンのルールだわ」
「でも、このマナトールでは、生きた人間を使って、大闘技場でジェッタンをやるとき、そのルールが変わるのです」ラン・オーが説明した。「ひとりの戦士が敵の駒のいる目に移動すると、その目の所有をめぐってふたりは死ぬまで戦い、勝ったものがその目を占領するのです。各人は自分が代表する駒に似せた盛装をし、それに加えて当人が、奴隷か刑の宣告を受けた戦士か、それとも志願者かを示す印をつけます。刑の宣告を受けたものの場合は、出場しなければならない競技の数も明示されます。こうして、駒の動きを指揮するものは、どの駒を危険にさらし、どの駒を保存すべきかを知ります。しかし、出場者の運命はゲームに割当てられる地位によっていっそう強く影響されるのです。彼らがゲームで殺そうとするのは、いつも|放浪の戦士《パンサン》です。なぜなら|放浪の戦士《パンサン》には生き残る機会がいちばん少ないからです」
「競技を指揮するものが実際に参加することもあるの?」ターラがたずねた。
「ええ、もちろんですわ。ときには、もっとも高い階級の戦士でも、ふたりがおたがいに恨《うら》みを抱いている場合、オ・タールがふたりを強制して闘技場でその決着をつけさせることがあります。そんな際は、彼らは積極的に競技に参加し剣を抜き取って、玉座から味方の競技者を指揮するのです。彼らは自分の競技者は自分で選出し、自分の配下の一番すぐれた戦士や奴隷を使うのがふつうです。彼らが有力で、そのような者を持っていればのことですが。また彼らの友だちが志願してもいいし、牢から囚人をつれてきてもいいのです。これがほんとうのゲームです――いちばん見ごたえのある競技なんです。偉大な族長がみずから出場して殺されることもしばしばです」
「ではこの闘技場の中ではマナトールの正義が適用されるわけね?」ターラがたずねた。
「大いに適用されますわ」ラン・オーが答えた。
「では捕虜はそのような正義にしたがって、どうすれば自由になれるの?」ヘリウム出身の娘はつづけてたずねた。
「もし男なら、十回のゲームに生き残れば、自由の身になれます」ラン・オーが答えた。
「でもこれまで生き残った者はいないのね?」ターラがきいた。「で、もしも女性だったら?」
「マナトールの城門内では、十競技に生き残った異邦人はこれまでひとりもありません」奴隷娘が答えた。「もし彼らが、ジェッタンで戦うことより、そのほうを望むなら、終身、奴隷になることも許されます。もちろん、彼らはあらゆる戦士と同様にゲームに呼びだされることがあります。でも、そういう場合でも生き残る機会は多くなります。なぜなら、彼らは二度と自由をかちえる機会がないからです」
「でも女は?」ターラはまたきいた。「女はどうすれば自由をかちとれるの?」
ラン・オーは声をあげて笑った。
「ごくやさしいことですわ」とあざけるように叫んだ。「女は、自由のために十競技連続して戦い、生き残るような戦士を見つけさえすればいいのです」
「マナトールの掟は公正ね」ターラはひやかすようにいった。
そのとき、部屋の外に足音が聞こえ、引きつづいて、すぐに錠がはずされてドアが開いた。ひとりの戦士がふたりの前に立った。
「隊長《ドワール》イ・メッドを見かけたか?」
「ええ」ターラは答えた。「しばらく前にここに来ましたわ」
戦士はがらんとした室内をすばやく見まわし、それからまずヘリウムのターラを、つぎに奴隷娘のラン・オーをさぐるように見つめた。その顔には当惑の色が濃くなる。彼は頭をかいた。
「不思議だ。二十人もの者が、彼がこの塔に登るのを見たのだ。一つしか出口がなく、それもよく見張られているのに、だれもイ・メッドが外に出たのを見ていないのだ」
ターラは形のよい手の甲で、あくびを隠した。
「ヘリウムの王女は空腹だわ」と、戦士にむかって、ものうげにいった。「おまえの主人に、わたくしが食事をしたがっているといってちょうだい」
一時間ばかりたってから、食事が運ばれてきた。ひとりの将校と数人の戦士が食事の運び人といっしょにやって来た。将校は部屋の中を丹念に捜しまわった。しかし、なにか不審なことが起きたような証拠はなにもなかった。隊長《ドワール》イ・メッドを祖先のもとへ送った傷口が出血しなかったのは、ヘリウムのターラにとって幸いであった。
「女!」将校はターラのほうにむきなおって叫んだ。「隊長《ドワール》イ・メッドを最後に見た者はおまえだ。さあ、ほんとうのことを話せ。おまえは、彼がこの部屋を出て行くのを見たのか?」
「見ましたわ」ヘリウムのターラは答えた。
「彼はここからどこへ行った?」
「どうしてわたくしにわかりましょう? あなたは、わたくしが錠のおりたスキールのドアを抜け出せるとでも思うの?」その口調はあざけるようだった。
「それが、わからんのだ」将校はいった。「マナトールの牢にいる、おまえの連れの部屋でも、不思議なことが起こっている。彼が不可能に見える離れわざをやすやすとやってのけるように、おまえも、錠のおりたスキールのドアをやすやすと通り抜けられるのかもしれん」
「だれのことをいっているの?」ターラは叫んだ。「|放浪の戦士《バンサン》トゥランのこと? それじゃ、彼は生きているのね? 教えてちょうだい、あのひとは無事にこのマナトールにいるの?」
「おれがいっているのは、自分でカルデーンのゲークと称しているあの生物のことだ」将校は答えた。
「ではトゥランは! ね、教えて。なにか彼のうわさを聞いてないこと?」ターラの口調は訴えるようだった。彼女は将校のほうに少し身を乗りだし、期待するようにくちびるをかすかに開いていた。
それを見つめている奴隷娘のラン・オーの目にはターラの気持ちを理解した、やさしい光が浮かんだ。だが、将校はターラの質問を無視した――ほかの奴隷の運命など彼にとってなんの関係もないことだ。
「人間は希薄な空気の中に消えるものではない」将校は不機嫌にいった。「もしもイ・メッドがすぐに見つからないと、オ・タールがじきじきに調査に乗り出すかもしれん。おい女、覚えておけ。もし、おまえが恐ろしい悪魔《コーファル》のひとりで、死者の悪霊を支配することによって、生きている人間に魔力をおよぼすことができるならば――いまでは多くのものが、ゲークというあの生物をそういう悪魔《コーファル》だと信じているのだが――もしおまえもそうならば、おまえがイ・メッドをもどさないと、オ・タールはおまえを容赦せんぞ」
「なんと馬鹿げたことを?」ターラは叫んだ。「わたくしはヘリウムの王女ですよ。もうあなたがたに二十回もいったでしょう。いまではもっとも無知なもの以外は伝説の悪魔《コーファル》などを信じてはいないわ。たとえそんなものが実在したとしても、古代の伝説によれば彼らは最下層の邪悪な犯罪者の体内にだけいりこむということよ。マナトールの男よ、あなたは馬鹿です。皇帝《ジェッタン》も、その臣民《しんみん》も」そして彼女は高貴な後姿を士官《バドワール》にむけ、窓ごしにジェッタンの競技場やマナトールの屋根のかなたにひろがる低い丘陵や波うつ平原を、そして自由を眺めわたした。
「悪魔《コーファル》のことをそれほどよく知っているからには」と士官《パドワール》は叫んだ。「こういうことも知っているだろう。ふつうの人間はあえて悪魔《コーファル》に手を出すまいが、皇帝《ジェダック》は危害を受けずに悪魔《コーファル》を殺すことができるのだ」
彼女は返事しなかった。将校がおどしても怒っても、二度と口をきくつもりはなかった。なぜなら、皇帝《ジェダック》オ・タールをのぞいては、マナトール中のなんびとも、あえて彼女に危害を加えないだろうということがわかっていたからだ。しばらくすると、士官《パドワール》は部下をひき連れて部屋を出て行った。彼らが去った後で、ターラはマナトールの街を眺めながら、長いこと立っていた。そして、これ以上どんな残酷《ざんこく》な運命が自分にふりかかるのだろうかと思案した。彼女が立ったまま、こうしてもの思いにしずんでいると、下の街路から軍楽《ぐんがく》の旋律《せんりつ》が聞こえてきた――騎馬隊の長い戦闘ラッパの深く、美しい音色と、歩兵の音楽のよく響く明快なしらべ。彼女は頭をあげ、あたりを見まわして耳をすませた。ラン・オーはむかい側の窓ぎわに立って、西のほうを見ていたが、ターラにそばにくるように合図した。そこからは、家々の屋根や、「敵の門」に通ずる道路が見わたせた。その門から軍勢が市内に進軍してくるところだった。
「大|王《ジェド》が到着したのです」ラン・オーがいった。「ほかのだれもマナトールの街に、ラッパを吹き鳴らしながらはいってくるものはいません。あれは、マナトールの第二都市、マナトスの王《ジェド》、ユ・ソールです。彼はマナトール中で、大|王《ジェド》と呼ばれています。そして国民は彼を愛しているので、オ・タールは彼をにくんでいます。それを知っているひとたちは、わずかなきっかけがあれば、ふたりのあいだに戦争が勃発《ぼっぱつ》するにちがいないと噂しています。そんな戦争が起きたら、どういうことになるのか想像もつきません。なぜなら、マナトールの人民は、偉大なオ・タールを崇拝していますが、愛してはいないからです。いっぽう、彼らはユ・ソールを愛していますが、彼は皇帝《ジェダック》ではないのです」
ターラはこの簡単な説明に、いかに多くのことが含まれているかをすぐに理解したが、それは火星人にしかできないことだった。
火星人の皇帝《ジェダック》に対する忠誠は、ほとんど本能的なもので、自己保存の本能にさえ劣らないほどである。こうしたことは、祖先崇拝の信仰を持つ民族には不思議なことではない。このような民族にあっては、家族の起源は遠い昔にさかのぼり、皇帝《ジェダック》はおそらく何十万年ものあいだ、その直系の祖先によって占められてきた玉座につき、その祖先が支配してきた人民の子孫を支配しているのだ。悪い皇帝《ジェダック》が玉座を追われたことはあるが、帝室《ていしつ》の人間以外のものがその代わりに皇帝《ジェダック》の位につくことはほとんどない。王《ジェド》たちには、彼らの自由意志によって皇帝を選ぶ権利が法律で与えられているのではあるが。
「ではユ・ソールは公正で善良な人なの?」ターラはきいた。
「彼より立派なひとはいませんわ」ラン・オーがいった。「マナトスでは、死刑にあたいする大悪人のほかは、ジェッタンに出場することを強制されません。しかも競技は公平で、彼らは自由になる機会にめぐまれています。志願者も出場できますが、駒の移動はかならずしも死を意味しません――傷か、時によっては剣技の得点によって、優劣が決まるのです。ですから、マナトスではジェッタンを軍事的なスポーツだと考えています――ところが、ここではジェッタンは虐殺なのです。また、ユ・ソールは昔ながらの奴隷狩りや、マナトールをバルスームの他の国民から永久に孤立させておこうとする政策に反対しています。でも、ユ・ソールは皇帝《ジェダック》ではないので、なんの変化も起こらないのです」
ふたりの娘は、その隊列が「敵の門」からオ・タールの王宮にむかって、広い通りを進んでくるさまを見守っていた。それは豪華けんらんたる行進で、戦士たちはからだに塗料を塗り、宝石をちりばめた装具をつけ、羽飾りをなびかせていた。狂暴ではげしくいななくソートたちはゆたかに飾り立てられて、頭上高くには、騎乗《きじょう》の戦士たちの長い槍につけられた、長三角旗がひるがえっている。歩兵は敷石道を体を左右にふってゆったりと行進してくる。ジティダールの皮で造った、彼らのサンダルはすこしも音をたてなかった。それぞれの中隊《ユータン》の後尾には彩色をほどこした二輪車の列が巨大なジティダールに引かれてつづき、所属部隊の武具を運んでいる。中隊《ユータン》は次から次と、巨大な門を通ってはいって来た。先頭の部隊は、すでにオ・タールの王宮に到着しているのに、後尾はまだ都市にはいりきっていない。
「あたしは何年もここにいますけれど」とラン・オーがいった。「でも大|王《ジェド》がこれほど多くの戦士をひきつれて、マナトールの街にはいったのを見るのは初めてですわ」
ヘリウムのターラは目をなかばとじて広い通りを進軍してくる戦士たちを見ながら、それが愛するヘリウムの戦士たちで、彼らの王女《プリンセス》を救いにやって来たところなのだと想像しようと努めた。あの巨大なソートにまたがった立派な姿は、バルスームの大元帥、ジョン・カーターそのひとかもしれない。そして彼の後につぎつぎにつづく中隊《ユータン》は、ヘリウム帝国の精鋭なのだ。やがて彼女はまた目を開き、からだに染料を塗り、羽飾りをつけた野蛮人の軍勢を見て溜息《ためいき》をついた。しかし、彼女は、その勇壮《ゆうそう》な光景にひきつけられて、じっと見つめていた。そのうちに、ターラはまたバルコニーの上の沈黙の人の群れに気づいた。絹のきれも振られず、歓迎の叫びも起きず、花や宝石も投げられなかった。彼女の生まれた双子都市に、このようにすばらしい友好的な行進がはいってくれば、そういう歓迎がなされたであろうに。
「あのひとたちは、マナトスの戦士たちに友好的ではないようね」彼女はラン・オーにいった。
「バルコニーの上のひとたちには、すこしも歓迎の様子が見えないもの」
奴隷娘は驚いて彼女を見た。「あなたはご存知ないんですね?」と叫んだ。「なぜって、あのひとたちは――」しかし、彼女はそれ以上いえなかった。ドアがぱっと開いて、ふたりの前にひとりの将校が立ったからだ。
「奴隷女ターラは、皇帝《ジェダック》オ・タール陛下の御前に出頭せよ」
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十四 ゲークの活躍
放浪の戦士トゥランは鎖につながれてじりじりしていた。時間はのろのろと過ぎていく。沈黙と単調さが、数分間を数時間ものように長く思わせる。愛する女性の運命が不明なことが、一時間一時間を地獄の中の永遠のように感じさせた。彼は足音が近づいてこないものかと待ちきれない思いで聞き耳をたてていた。だれか生きた人間に会って話をし、できればヘリウムのターラについての情報を知りたかったのだ。苦しい何時間かの後、彼の耳は装具や武器のひびきを聞いた。人間がやってくるのだ! 彼は息を殺して待った。くる者はおそらく死刑執行者《しけいしっこうしゃ》だろう。しかしそれでも、彼は相手を歓迎したかった。彼らに質問したかった。しかし、もし彼らがターラのことをなにも知らなかったら、彼が彼女を残してきたかくれ場所をあかすつもりはなかった。
彼らはやってきた――六人の戦士とひとりの士官《パドワール》で、武装していないひとりの男を護送《ごそう》していた。きっと囚人だろう。その点について、トゥランはいつまでも疑問をもつ必要はなかった。なぜなら彼らは新来者をそばにつれてきて、隣りの金輪に鎖でしばりつけたからだ。|放浪の戦士《バンサン》は、さっそく衛兵を率いている士官《バドワール》に質問しはじめた。
「教えてくれ!」彼はいった。「なぜわたしは捕虜にされたのだ? またわたしがこの都市にはいってから後に、ほかの異邦人が捕えられたか?」
「ほかの捕虜とは、どんなものたちだ?」士官がたずねた。
「ひとりの女と奇妙な頭をした男だ」トゥランは答えた。
「そうかもしれぬ」士官はいった。「そいつらの名前はなんというのだ?」
「女のほうはターラといって、ヘリウムの王女だ。それから男はゲークといって、バントゥームのカルデーンだ」
「そいつらは、おまえの仲間か?」士官がたずねた。
「そうだ」トゥランは答えた。
「おれが知りたかったのはそれなんだ」士官はいった。それから、部下についてくるように短い号令をかけると、背を向けて牢を出ていった。
「ふたりのことを聞かしてくれ!」トゥランは背後から呼びかけた。「ヘリウムのターラのことを聞かしてくれ! 彼女は無事なのか?」だが、士官は返事をしなかった。そしてやがて彼らの足音は遠くに消えてしまった。
「ヘリウムのターラは無事だった。ついさっきまではな」トゥランの側に鎖でつながれた、新来の囚人がいった。
|放浪の戦士《パンサン》は口をひらいた男のほうをふりかえった。大きな体躯《たいく》の美男子で、身のこなしは堂々として威厳がある。
「きみは彼女にあったのか?」トゥランはたずねた。「それではやつらは彼女を捕えたのだな? 彼女は危険な目にあっているのか?」
「次のゲームの賞品として、ジェッタンの塔に監禁《かんきん》されている」見知らぬ男はいった。
「ところできみはだれだ?」トゥランがたずねた。「それに、どうしてここに捕われているのだ?」
「わたしは隊長《ドワール》ア・コール、ジェッタンの塔の警備隊長だ」相手の男は答えた。「わたしは皇帝《ジェダック》のオ・タールについてほんとうのことを、将校のひとりにあえていったので、ここに連れてこられたのだ」
「それできみはどんな罰をうけるのだ?」トゥランはたずねた。
「知らない。オ・タールはまだ宣告していないのだ。だがきっとゲームに出場させられるだろう――おそらく十競技全部に。オ・タールは息子のア・コールを愛していないからな」
「きみは皇帝《ジェダック》の息子なのか?」トゥランはたずねた。
「わたしはオ・タールの息子でもあり、奴隷女ガソールのハジヤの息子でもある。彼女はその国の王女だった」
トゥランは話し手をさぐるように眺めた。ガソールのハジヤの息子だと! 彼の叔母の息子とすれば、この男は、彼の従兄弟《いとこ》にあたるわけだ。ガハンはハジヤ王女とその親衛隊の中隊全員の不思議な失踪《しっそう》のことを、はっきり記憶していた。彼女はガソールの都からはるか離れた土地を訪問して帰る途中、親衛隊全員もろともに姿を消してしまったのだ。すると、これが一見不可解な出来事の真相だったのか? なるほど、ガソールの歴史とおなじくらい古くから、これに似た失踪事件がたびたびあったが、それらの原因もこれで説明がつく。トゥランは相手の男をつぶさに眺めた。彼の母方の縁者に似ている点が多々ある。ア・コールは彼より、およそ十歳ばかり年下らしい。だがその程度の年齢の差は、成人してからは外見上ほとんど、あるいはまったく老化を示さず、またその寿命が千年もあるような火星人のあいだでは、とるにたらぬことだった。
「それで、ガソールはどこにあるのかね?」トゥランはたずねた。
「マナトールのほぼ真東の方角だ」ア・コールが答えた。
「どのくらい距離がある?」
「マナトールの都市から、ガソールの都市まで、およそ二十一度だ」ア・コールは答えた。
「だが、両国の国境のあいだは、せいぜい十度ぐらいだ。もっともそのあいだには、峨々《がが》たる岩石と割れ目だらけの地帯がひろがっている」
ガハンはそのような荒蕪地域が彼の国の西端に接しているのをよく知っていた――飛行艇でさえ、そこを飛ぶことを避けている。というのは深い岩の割れ目から悪気流が吹きあげるのと、安全な着陸地がほとんどないからである。いまやマナトールの方位を知り、この数週間来初めて故国ガソールへの道もわかった。しかもここには仲間の囚人もいる。この男の血脈の中には彼の祖先とおなじ血潮が脈うっている――この男はマナトールを、その国民を、習慣を、その周辺の地理をよく知っている――この男は、ヘリウムのターラを救いだして脱出する計画をたてるのを、すくなくとも助言によって援助してくれるだろう。だがア・コールはどうするだろう――ガハンとしてはこの問題を切り出してみたものかどうか? しかし、やってみるしかない。だめなら、もともとだ。
「で、きみの考えでは、オ・タールはきみに死刑を宣告すると思うのだな?」彼はたずねた。「なぜかね?」
「そうするだろうな」ア・コールが答えた。「国民は彼の鉄の手の下に押さえつけられて苦しんでいるからだ。彼らの忠誠心とは、連綿《れんめん》たる由緒《ゆいしょ》ある皇統《こうとう》に対するものにすぎない。オ・タールは、ねたみ深い男で、玉座につく資格のある血統の持ち主や、国民に人気があり、なんらかの政治的な勢力を持つ者の大部分を、なにかと理由をつけて片づけてきた。奴隷女の息子であるという事実によって、オ・タールは、わたしをとるにたらぬものと見なしてきた。しかし、わたしはやはり皇帝《ジェダック》の息子であるし、オ・タール自身と同様にマナトールの玉座につく資格を持っている。これに加えて、最近国民のあいだでわたしの人気が高まり、ことに多くの若い戦士が、それを公然と示すようになったという事実がある。わたしは、その事実を、母からあたえられた性格上の長所と教訓のおかげだと考えているが、しかし、オ・タールはその事実を、わたしが玉座を乗っ取ろうとする野心をいだいている結果だと考えているのだ。
「そしていまや、わたしは確信しているのだが、彼は奴隷娘ターラのとり扱いをわたしが批判したことを口実として、わたしをのぞこうとしているのだ」
「しかし、もしきみがここを逃げて、ガソールに到達できれば話はべつだ」とトゥランはさそいをかけた。
「わたしもそれを考えた」ア・コールは物思わしげにいった。「だが、そうしても、いまよりどれだけよくなるだろうか? ガソール人の目には、わたしはガソール人ではなく、異邦人としてうつるだろう。そして彼らは、われわれマナトール人が異邦人に与えるのと同様の処理を、わたしに与えるだろう」
「きみがガソール人たちに、ハジヤ王女の息子だということを信じさせられれば、きっと歓迎されるだろう」トゥランはいった。「それにまた、きみはほんの短期間、ダイヤモンド鉱山で働くことによって自由と市民権を与えられるのだ」
「どうして、きみはそういうことを知っているのだ?」ア・コールがたずねた。「わたしは、きみがヘリウムから来たものと思っていたが」
「わたしは|放浪の戦士《パンサン》だ」トゥランは答えた。「だから、かずかずの国々につかえてきたが、その中にはガソールもあるのだ」
「いまの話は、ガソールからきた奴隷たちからも聞いたことがある」ア・コールは考えこみながらいった。「わたしの母も、オ・タールの命令でマナトスに送られ、そこで暮らすようになる前に聞かせてくれた。オ・タールは、母がガソールからきた奴隷たちやその子孫のあいだにもっている勢力と影響力を恐れたのにちがいないと思う。彼らの数はマナトール全土で、おそらく百万ほどに達するだろう」
「その奴隷たちは組織されているのかね?」トゥランはたずねた。
ア・コールは返事をする前に、しばらくのあいだ、|放浪の戦士《パンサン》の目をまともに見すえた。
「きみは名誉を重んじるひとだ」彼はいった。「それはきみの顔を見ればわかる。わたしの目はめったにくるわない。しかし――」と前かがみになって顔を近づけた――「壁に耳ありだからな」彼は声をひそめてトゥランの質問に答えた。
その夜、遅く戦士たちがやって来て、トゥランの足首から足枷《あしかせ》をはずし、皇帝《ジェダック》オ・タールの御前《ごぜん》にひき出すために、連行して行った。戦士たちは細く曲がりくねった道や大通り沿いに、彼を宮殿のほうへひきたてた。バルコニーからはあいもかわらず、黙然とした市民の無数の列が彼らを見おろしていた。王宮の中は活気にあふれていた。ソートに乗った戦士たちが廊下を駆けたり、階と階を結ぶ通路を上り下りしていた。王宮の内では、少数の奴隷のほかは徒歩の者はいないらしい。かん高くいななく気の荒いソートたちが、華麗《かれい》な広間につながれていた。彼らに乗る戦士たちは、宮殿内でなんらかの任務についていないときは木彫りの小さな駒で、ジェッタンをやっている。
トゥランは、王宮内部の建築の豪華さに目をひかれた。高価な宝石や金銀がふんだんに使用され、華麗な壁画にはほとんどきまって戦闘場面、それも主として巨大なジェッタン盤の上でおこなわれている決闘場面が描かれていた。彼らが通過して行く廊下や部屋の天井を支えている多くの丸柱の柱頭は、ジェッタンの駒に似せて細工され――いたるところにジェッタンの競技を思わせるものがあった。ヘリウムのターラが連れられて通ったのと同じ長い道を、トゥランは皇帝《ジェダック》オ・タールの玉座のある広間へひきたてられて行った。「族長の間」にはいって、豪華《ごうか》な、武具に身をかためた彫刻のような騎馬戦士たちの列を見たとき、彼の興味は驚異《きょうい》と称賛に変じた。彼は、これほど完全な不動の姿勢を訓練された戦士やソートを、かつてバルスームの上で見たことがないと思った。筋肉一つぴくりともせず、尾も振られない。騎手たちも、その乗馬と同様に、微動《びどう》だにしない――それぞれ、好戦的な目をまっすぐ前にむけ、大きな槍を同一の角度に傾けていた。それは、戦士の胸を畏怖と尊敬でみたすような光景だった。トゥランもまた、この部屋を端から端まで連行されて行くあいだに、そのような感じを受けないわけにはいかなかった。部屋のはずれまでくると、巨大なドアの前に立たされて、マナトールの支配者の前に呼びだされるのを待った。
ヘリウムのターラがオ・タールの玉座のある部屋に通されたとき、彼女はその広大な広間が、オ・タールとユ・ソールの幕僚《ばくりょう》や士官でぎっしり埋っているのを見た。ユ・ソールは、当然、玉座の下の貴賓席をしめていた。彼女は壇の真下につれて行かれ、皇帝《ジェダック》の前に立った。皇帝《ジェダック》は、眉《まゆ》をひそめ、たけだけしい残酷《ざんこく》な目で、高い玉座から見おろした。
「マナトールの掟は公正だ」オ・タールは彼女にむかっていった。「そういうわけで、おまえは、マナトールの最高の権威者たちによって裁かれるために、ふたたび喚問《かんもん》されたのだ。おまえが悪魔《コーファル》ではあるまいかという風評が、余の耳にはいっておる。それに対して申し開きの言葉があるか?」
ヘリウムのターラは、彼女が魔女であるという馬鹿げた告発《こくはつ》に答える際に、あざけりの色を隠せなかった。
「ヘリウムの文化は大昔からひらけています」彼女はいった。「ですから、権威ある正史は悪魔《コーファル》のようなものをまったく認めていません。そうしたものは、ただ過去のもっとも原始的なひとびとの無知で迷信深い心にのみ存在するのだということをわたくしたちは知っています。悪魔《コーファル》の存在を信じるほど無教育な人間に、そのまちがいをわからせようと、いくら論じても無駄なことです――ただ、長い時代にわたる洗練《せんれん》と教化とが、無知の束縛から彼らを解き放せるだけです。申しあげることは、これだけですわ」
「だが、おまえは自分が魔女だという噂を否定しておらぬ」オ・タールがいった。
「否定するだけの価値もないからです」彼女は高慢な口調で答えた。
「もしもわしがおまえであったらな、女」彼女の横のほうで、よく響く声がいった。「それでもやはり否定するだろう」
ヘリウムのターラがふりむくと、マナトスの大|王《ジェド》ユ・ソールの目が自分に注がれていた。雄々しい目だが、冷酷でも残忍でもない。オ・タールは、じれったそうに玉座のひじかけをたたいた。
「ユ・ソールは忘れておるな。オ・タールが皇帝《ジェダック》だということを」
「ユ・ソールは覚えております」マナトスの大|王《ジェド》は答えた。「マナトールの掟では、告発を受けたものは、なんぴとも、裁判官の前で助言や忠告を受けることを許されていると」
ターラはこの男が、なにかの理由で自分を助けてくれているのを知った。そこで、彼の助言にしたがった。
「わたくしはその嫌疑《けんぎ》を否定します。わたしは魔女ではありません」
「それは、いずれわかるだろう」オ・タールはかみつくようにいった。「ユ・ドール、この女の魔力を知っているものはどこにおるか?」
すると、ユ・ドールは五、六人の戦士を連れてきた。彼らはイ・メッドの失踪《しっそう》について知っているわずかなことを陳述した。またあるものは、ゲークとターラを捕えたときの様子を述べて、ふたりがいっしょに発見されたことからしても、両者は一つ穴のむじなであることを確認するに充分な共通点を持っていると推定し、したがって両者の有罪を確証するには、そのひとりの魔力を判定するだけでよいと指摘した。ついでオ・タールは、ゲークを喚問した。醜怪《しゅうかい》なカルデーンは戦士たちによってただちにオ・タールの前に引きだされた。彼らがこの生物を、おっかなびっくり扱っているさまは、隠しようもなかった。
「さて、きさまだ!」オ・タールは冷酷《れいこく》な詰問口調でいった。「余がこれまできさまについて聞かされたことだけでも、皇帝《ジェダック》の剣をきさまの心臓に突き通しても、はばかるところがないくらいだ――きさまは、戦士ユ・バンの頭をまどわして、頭のない胴体が依然として生命を失わずに動いていると思いこませた。また、もうひとりの戦士には、きさまが拘禁されていた部屋にはベンチと壁しか見あたらず、きさまが逃亡《とうぼう》したものと思いこませたのだ」
「ああ、オ・タール陛下、そんなことは、まだとるに足りません!」ゲークを護送して来た若い士官《パドワール》が叫んだ。
「彼がここにいるイ・ザブにしたことは、それだけで彼の有罪を証拠だてるでしょう」
「やつは、戦士イ・ザブにどのようなことをしたのか?」オ・タールがいった。「イ・ザブに話させろ!」
イ・ザブと呼ばれた戦士は、筋肉がもりもりした首の太い大男だった。彼は玉座の下に進みでた。顔は青ざめ、神経的なショックをうけたように、まだ目に見えて震えている。
「わが祖先に誓って、オ・タール陛下、わたしは真実を申しあげます」そう話し始めた。「わたしはこの男を監視するために、後に残ったのです。この男はベンチに腰をおろし、壁に鎖でつながれていました。わたしは開いたままの戸口に立ち、部屋の反対側にいたのであります。ですから、わたしに手が届くはずはありませんでした。ところが、オ・タール陛下、まだ孵《か》えらぬ卵のように無力な彼は、わたしを自分のそばに引きずりよせたのであります。もしこれが真実でなければ、イサスの神よ、わたしを丸のみにしてもかまいません。皇帝《ジェダック》のなかで、もっとも偉大なる陛下よ、彼は|目の力によって《ヽヽヽヽヽヽヽ》、わたしを自分のほうへ引きよせたのであります! 彼はその目でわたしの目をとらえ、わたしを引きよせ、またわたしに剣や短剣をテーブルの上におかせ、部屋の隅にしりぞかせました。そして依然として目をわたしの目にそそぎながら、彼の頭はそのからだを離れ、六本の短い脚で、床にはいおりると、|火星ねずみ《アルシオ》の穴の一つに後ろむきにはい込んで行きました。しかし、彼の目がわたしの目にそそげなくなるほど奥へははいりませんでした。それからその足枷《あしかせ》の鍵をもってもどってくると、また肩の上のもとの場所にもどったのち、足枷《あしかせ》の錠をあけ、ふたたびわたしを引きよせて彼のいたベンチにかけさせ、そこで、わたしの足首に足枷をはめたのであります。なにしろ彼の目の威力と、彼がわたしの剣と短剣をおびているのですから、手も足もでません。それから、頭は鍵を持って|火星ねずみ《アルシオ》の穴に消えました。そしてもどってくると、ふたたびからだにのり、戸口でわたしを監視しはじめました。そのうちに士官《パドワール》が彼をここに連れにやってこられたのであります」
「それで充分だ!」オ・タールは厳然といい放った。「ふたりに皇帝《ジェダック》の剣を見舞ってやる」そして玉座から立ちあがると、長剣を抜き放ち、大理石の階段をふたりのほうへ降りてきた。ふたりのたくましい戦士がヘリウムのターラの両腕をとり、ほかのふたりがゲークをおさえて、ふたりを皇帝《ジェダック》の抜き身の剣先に直面させた。
「お待ちください、陛下!」ユ・ドールが叫んだ、「もうひとり、裁かれるべきものがおります。ふたりを殺す前に、彼らの仲間であるみずからトゥランとか名乗る男を対決させましては?」
「よし!」オ・タールは叫んで、階段の途中で立ちどまった。「奴隷トゥランをつれてこい!」
トゥランは広間につれ込まれると、ターラのすこし左側の一歩、玉座に近いところに立たされた。オ・タールは彼を威嚇《いかく》するようにねめつけた。
「おまえがトゥランとか申す者か? このものどもの仲間で、同行者なのか?」
|放浪の戦士《パンサン》が答えようとすると、ヘリウムのターラが口を開いた。
「わたしはこの男を知りませんわ。いったいだれがいったんでしょう、この男がヘリウムの王女ターラの連れで友人であるなどと?」
トゥランとゲークは、おどろいて彼女を見た。しかし彼女はトゥランには目もくれず、ゲークのほうに黙っていなさいと目まぜで注意した。
|放浪の戦士《パンサン》は彼女の意図を察しようとはしなかった。なぜなら、恋はひとを盲目にするからだ。トゥランにわかったことはただ、自分の愛する女性が、自分を認めようとしなかったことだけである。彼の愚かな心臓は、ただ一つの解釈しか考えつかなかった――すなわち彼を赤の他人だといったのは、彼女が現在の彼の苦境に巻き込まれたくないからだ、と。
オ・タールは彼らをつぎつぎに見やったが、だれも口を開かない。
「この者たちはいっしょに捕えられたのではなかったのか?」彼はユ・ドールにたずねた。
「そうではありません」隊長《ドワール》は答えた。「トゥランという男は街への入口を捜しているところを発見され、牢に誘い込まれたのであります。翌朝、わたしがほかのふたりを、「敵の門」のむこうの丘の上で発見したのであります」
「しかし、この者たちは仲間で、同行者であります」べつの若い士官《パドワール》がいった。「このトゥランという男は、わたしにこのふたりに関することをきいて、ふたりの名前をあげ、仲間だといいました」
「それで充分だ」オ・タールがいった。「三人とも殺してやる」そして玉座からもう一段降りた。
「なんのためにわれわれは殺されるのか?」ゲークがきいた。「あなた方はマナトールの掟が公正だといことをしきりに自慢する。しかも、三人の異邦人がいかなる罪で告発されているかを告げもせずに、殺そうとしている」
「この者の申すとおりだ」力強い声がいった。それはマナトスの大|王《ジェド》、ユ・ソールの声だった。オ・タールは彼のほうを見て顔をしかめた。しかし、広間の別の方面から、いまの発言の正しさを支持する声が、いくつかあがった。
「では知るがよい、どのみちおまえらは殺されるのだが」オ・タールは叫んだ。「この三人は、いずれも悪魔《コーファル》であると判定されたのだ。そして皇帝《ジェダック》だけが、おまえらごときものを危害を蒙《こうむ》ることなく殺せるがゆえに、おまえらはいまオ・タールの剣で殺される名誉を与えられようとしているのだ」
「馬鹿な!」トゥランは叫んだ。「あなたは知らないのか? この女性の血脈の中には一万の皇帝《ジェダック》の血が流れているのだ――彼女の母国ではあなたの権力よりも、もっと強大なのですぞ。彼女はヘリウムの王女ターラだ。タルドス・モルスの曾孫で、バルスームの大元帥ジョン・カーターの娘なのだ。彼女が魔女《コーファル》であろうはずがない。またこのゲークも、このわたしもそうではない。いやもっと知りたければ、わたしには傾聴《けいちょう》され、信じられてしかるべき権利のあることを証明することができるのだ。もしもガソールの王女ハジヤと言葉をかわすことさえできればな。彼女の息子は、彼の父オ・タールの牢獄で、わたしといっしょにとじこめられているのだ」
これを聞くと、ユ・ソールは立ちあがり、オ・タールにむきなおった。
「これはどういうことです?」彼はたずねた。「この男のいうことは真実ですか? ハジヤの息子はあなたの牢の囚人になっているのですか。オ・タール?」
「皇帝《ジェダック》の牢にいる囚人がだれであろうと、マナトスの王《ジェド》にとって、なんの関係もないこと」オ・タールは腹立たしげにいった。
「これはマナトスの王にかかわりのある問題です」ユ・ソールは、ほとんどささやくような、低い声で答えた。だが、その声はマナトールの皇帝《ジェダック》、オ・タールの広間のすみずみまで聞こえた。
「あなたはわたしに、ガソールの王女だった奴隷女のハジヤを与えられた。ガソールから来た奴隷たちに及ぼす彼女の影響力を恐れられたからです。わたしは彼女を自由な身分の女にし、彼女と結婚してマナトスの王妃《おうひ》とした。彼女の息子は、すなわちわたしの息子でもある。オ・タールよ、あなたはたしかにわたしの皇帝《ジェダック》ではあるが、ア・コールにふりかかった災厄については、すべて、マナトスのユ・ソールに答えてもらいましょう」
オ・タールは長いこと、ユ・ソールの顔を見つめていたが、なんの返事もしなかった。それから、ふたたびトゥランにむきなおった。
「もしひとりでも悪魔がおれば、おまえら全部が悪魔だということだ。そしてこの男の所業によって、われわれにはよくわかっているのだ」彼はゲークを指さした。「この男が悪魔《コーファル》だということがな。なぜなら生身《なまみ》の人間で、こやつのような魔力のある者はひとりもいないからだ。おまえらはいずれも悪魔《コーファル》であるから、すべて死ななければならぬ」彼はまた一段降りた。そのときゲークが口を開いた。
「このふたりには、わしのような力はない。ふたりは、おまえとおなじように頭脳のないふつうの人間なのだ。ところがわしは、おまえのあわれむべき無知な戦士が述べたようなことを全部やったのだ。だがこれは、わしがおまえたちより高度に進歩していることを示すものでしかない。それが事実なのだからな。わしはカルデーンだ、悪魔ではない。わしについては超自然的なものや神秘なものはなにひとつない。ただ、無知な者には、自分にわからないことがすべて、神秘だと思われるだけのこと。その気になれば、わしは戦士たちの手をのがれて、牢を逃げ出すことも容易だったろう。だがわしは、助けなしでは逃亡するだけの頭脳のない、この愚かなふたりの人間を助けようと思って残っていたのだ。このふたりはわしに好意をもって、命を助けてくれた。わしはふたりに借りがある。ふたりを殺さないでくれ――彼らはなにも悪いことをしていない。もし、そうしたいのなら、わしを殺せばよい。もし、おまえの無知な怒りがそれで鎮まるなら、わしの命をさしあげよう。わしはバントゥームに帰るわけにはいかぬから、死んでもおなじことだ。バントゥームの谷間の外の世界にのさばっている貧弱な知能の人間とつきあっても、少しも楽しくないからな」
「とほうもないうぬぼれ者め」オ・タールはいった。「死ぬ覚悟をしろ、そして皇帝《ジェダック》オ・タールに指図しようなどと思うなよ。皇帝《ジェダック》は、すでに宣告したのだ。おまえら三人全部に、皇帝《ジェダック》の抜き身の剣を味わわせてやる。よいな!」
彼はまた一歩降りた。すると奇妙なことが起こった。彼は立ちどまり、その両目はゲークの目に釘づけになった。彼の剣は、麻痺《まひ》した指からすべり落ち、立ったまま前後に身をゆすりはじめた。ひとりの王《ジェド》が立ちあがり、皇帝《ジェダック》の側に走りよった。しかしゲークは一言で、彼を止めた。
「待て!」ゲークは叫んだ。「おまえの皇帝《ジェダック》の生命は、わしの手中にある。おまえはわしを悪魔《コーファル》だと思っている。だからおまえもまた、皇帝《ジェダック》の剣だけがわしを刺し殺せるので、おまえの剣はわしに歯が立たないと信じている。われわれのだれにでも危害を加えようとしたり、わしがよしというまで、皇帝《ジェダック》に近づこうとしたら、彼を殺して大理石の上に倒してしまうぞ。ふたりの囚人から手を放し、こちらへこさせろ――わしはふたりと内密に話があるのだ。さあ急げ! いわれたとおりにするのだ。わしはいっそオ・タールを殺したいのだ。が、ふたりの友だちを自由にするために彼を生かしておいてやるだけのこと――邪魔だてすると彼を殺すぞ」
衛兵はターラとトゥランから手を放して後にさがった。ふたりはゲークに近づいた。
「わしのいうとおりになさい。それも急いで」とカルデーンはささやいた。「わしはこの男を長いこと止めておくことはできないし、殺すこともできない。わしの心に対抗して多くの心が作用しているので、いまにわしの心は疲労して、オ・タールは力をとりもどしてくる。あなたたちは、できるうちに最善をつくさねばなりません。玉座の背後にかかっている壁かけの陰に、秘密の抜け穴があって、そこから王宮の穴蔵に通ずる通路があるのです。そこには食物と飲物をおさめた貯蔵庫があって、ほとんどひとが行かない。それらの穴蔵から別の通路が都市のあらゆる部分に通じています。真西に走っている一本に沿っていくと、「敵の門」に出られるはずです。そこまで行けば、あとはあなたがたしだい。わしにはそれ以上のことはできない。わしの力が弱る前に急ぎなさい――わしは王だったルードのようではないのです。彼だったら、この男をいつまででもつかまえておけたでしょうが。さあ急ぎなさい! 行くのです!」
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十五 穴蔵の老人
「わたくしはあなたを置いて行けないわ、ゲーク」ヘリウムのターラがきっぱりいった。
「行きなさい! 行くのです!」カルデーンがささやいた。「あなたが残っても、わしにはなんの役にもたたない。行きなさい、さもないと、わしがやったことが、みんな無駄になってしまう」
ターラは首をふった。
「わたくしにはできないわ」
「彼女は殺されますぞ」ゲークはトゥランにいった。|放浪の戦士《パンサン》は、自分のために生命を投げだしてくれたこの奇妙な生きものへの恩義と、彼女への愛の板ばさみにあって、一瞬ためらったが、たちまちターラの足をすくって胸に抱きあげると、マナトールの玉座に通じる階段を駆けあがった。玉座の背後で壁かけをかきわけると、秘密の抜け穴の入口が見つかった。彼はその中にターラを運びこみ、長く、せまい廊下を抜け、下方へむかう曲がりくねった通路をおりて、オ・タールの王宮の地下室に到着した。そこは通路と部屋の迷路で、何千というかくれ場所があった。
トゥランがターラを抱いて玉座のほうへ階段を駆けあがったとき、二十人ばかりの戦士が立ちあがってふたりの邪魔をしようとした。
「動くな!」ゲークが叫んだ。「さもないと、おまえらの皇帝《ジェダック》の命はないぞ」そこで戦士たちはその場に立ちすくみ、この奇妙な、気味のわるい生きものの意志にしたがった。
やがて、ゲークは目を、オ・タールの目から離した。すると皇帝《ジェダック》は悪夢からさめた者のように身ぶるいして立ちなおったが、まだ目まいからさめきっていない。
「見ろ!」ゲークはいった。「わしはおまえたちの皇帝《ジェダック》に生命をもどしてやった。また、ほかの者も、わしの力に束縛されていたときは、たやすく殺せたのだが、わしはひとりにも危害を加えなかった。わしも、ふたりの仲間も、マナトールの都市になんの危害も加えなかった。それなのに、なぜおまえらはわれわれを迫害するのだ? われわれを助けてくれ。自由にしてくれ」
オ・タールはいまや気力をとりもどし前かがみになって、床から剣をとりあげた。広間は静まりかえり、すべてのものが皇帝《ジェダック》の返事を待っていた。
「マナトールの掟は公正だ」やっと皇帝は口を開いた。「いずれにせよ、この異邦人のいうことには真実があるようだ。彼を穴蔵にもどし、逃げたふたりを追いかけてつかまえよ。オ・タールの慈悲によって、彼らにジェッタンの競技場の上で自由をかちえることを許可しよう」
ゲークが連れ去られたとき、皇帝《ジェダック》の顔はまだ青ざめていた。その表情は、泰然としてではなく恐怖をもって死の淵をのぞきこんでいた者が、あわやというときに引きもどされたときのようだった。玉座の間の列席者のなかには三人の囚人の死刑執行がただ延期されただけで、死刑執行の責任がほかの人間の肩に転嫁《てんか》されたのだということを知っている者もいた。マナトスの大|王《ジェド》、ユ・ソールもそのひとりだった。彼のゆがんだ上唇は、皇帝《ジェダック》が死よりも屈辱に甘んじたことに対する軽蔑を物語っていた。またオ・タールがその短い瞬間に、一生かかってもとりもどせないほど、威信《いしん》を失ってしまったことも知っていた。なぜなら火星人たちは支配者の勇気をきびしく監視しているからだ――厳格な義務を回避したり、名誉の維持を一時のばしにごまかしたりすることはまったく許されない。この広間の中にユ・ソールと同意見の者がいるということは、列席者の沈黙と、にがにがしげな表情によってあきらかである。
オ・タールはすばやくあたりを見まわした。彼はひとびとの敵意を感じ、それがなぜかということもわかったにちがいない。急に怒りだしたからだ。彼は言葉の激烈さで心の勇気を示そうとするのか、がなりたてた。それは、挑戦以外のなにものでもないと思われるような言辞《げんじ》だった。
「皇帝《ジェダック》オ・タールの意志はマナトールの掟である」彼は絶叫した。「しかして、マナトールの掟は公正である――誤るはずがないのだ。ユ・ドール、部下を派遣して、王宮、地下道、市内を探索せしめ、逃亡者らを、もとの牢に連れもどすのだ。
「さて次は、きみの番だ。マナトスのユ・ソールよ! きみは皇帝《ジェダック》を脅迫《きょうはく》して無事にすむと思うのか?――きみは反逆者や反逆の扇動者《せんどうしゃ》を処罰する皇帝《ジェダック》の権利に異議をとなえた。余はきみの忠誠心をどう考えたらいいのか? 皇帝《ジェダック》であり、主人であるものの権威に陰謀《いんぼう》を企てた|かど《ヽヽ》で余の王宮を追い出された女を妻にするとはな。だがオ・タールは公正である。それゆえ手おくれにならぬ前に、弁明と謝罪をするがよい」
「ユ・ソールには弁明などありませぬ」マナトスの大|王《ジェド》は答えた。「また皇帝《ジェダック》と争っているわけでもありませぬ。しかし、わたしは、あらゆる王《ジェド》および戦士が享有している権利を持っております。それは、皇帝《ジェダック》の手中で迫害されていると思われるひとびとのために、正義を要求する権利です。マナトールの皇帝《ジェダック》は、ガソールからきた奴隷たちを、ますます厳しく迫害しておられる。それもあなたの意にしたがわぬハジヤ王女を自己のものとされて以来のこと。もし、ガソールから来た奴隷たちがひそかに復讐や逃亡を企てているとしても、それは誇り高く、勇敢な人間なら当然に抱くはずの感情でしょう。前々から、わたしは奴隷たちの扱いをもっと公正にするように進言してきました。彼らの多くは、母国においては名門の出であり有力者です。しかしながら皇帝《ジェダック》オ・タールは、つねにわたしの進言を傲慢《ごうまん》に無視してこられた。だが、わたしが求めたわけでもないのに、いまやこの問題がもちあがったことは、まことに喜ぶべきこと。というのは、マナトールの王《ジェド》たちがオ・タールに尊敬と配慮を要求する時は、かならずや、くるはずだったからです。それは、彼らの意にしたがって高い地位を握っている男から、彼らが当然に要求すべきものです。されば、知られるがいい、オ・タールよ、あなたはア・コールをただちに釈放すべきです。さもなければマナトールの王《ジェド》たちの面前で、公正な裁判にかけるべきです。いうことは、これだけです」
「きみは雄弁に、要領よく話したな。ユ・ソール」オ・タールは叫んだ。「なぜならば、きみは皇帝《ジェダック》と王《ジェド》たちの前で、余がかねてから疑っていたきみの不忠の底の深さをさらけだしたからだ。ア・コールはすでにマナトールの最高法廷――皇帝《ジェダック》オ・タールによって裁かれ判決をくだされたのだ。きみにもまた、同様に正当な理由で、判決をくだしてやろう。それまで、きみは身柄を拘束されるのだ。この男を牢に入れよ! 邪悪な王《ジェド》ユ・ソールを牢に入れよ!」彼は手を打ち鳴らし、周囲の戦士たちに命令にしたがうようにうながした。
二十人ばかりの戦士がユ・ソールを逮捕すべくおどりでた。彼らはほとんど王宮の戦士だった。だが四十人ほどの戦士がユ・ソールを守るために飛び出した。彼らは白刃を交えて、マナトールの玉座に通じる階段の下で戦った。その玉座には、皇帝《ジェダック》オ・タールがみずから先頭に参加せんものと剣を抜き放って立っている。
剣戟《けんげき》の音を聞きつけて、玉座の衛兵が、やがて巨大な建物の他の部分から馳せさんじた。ユ・ソールを守ろうとした戦士たちは二対一くらいの劣勢になった。マナトスの大|王《ジェド》は、部下とともにじりじり後退して、戦いながら、宮殿の通路や部屋を通り抜けて、ついに並木通りに出た。そこで彼はいっしょにマナトールまで進駐して来ていた少数の軍勢によって兵力を増強した。彼らは、バルコニーの上から見おろしている沈黙せる市民の列のあいだを「敵の門」のほうへゆっくり後退し、そこで城壁の内側に踏みとどまって戦った。
皇帝《ジェダック》オ・タールの王宮の地下の、ぼんやり照明された部屋で、|放浪の戦士《パンサン》トゥランはかかえていたヘリウムのターラをおろしてその顔を見つめた。
「申しわけありません、王女」彼はいった。「わたしはどうしてもあなたのご命令に従えなかったのです、ゲークを見すてないわけにいかなかったのです。しかし、ほかに方法はありませんでした。もし彼にあなたを救いだすことができたら、わたしが彼の代わりにとどまったでしょう。わたしを許すとおっしゃってください」
「どうしてあなたを許さないわけにいきましょう?」彼女はやさしく答えた。「でも、友だちを見すてたのは卑怯《ひきょう》だったようね」
「われわれが三人とも戦士でしたら、事情は別でした。あそこに踏みとどまって、共に戦いながら死んだでしょう。しかしおわかりでしょうが、ヘリウムのターラよ、われわれは、たとえ自分の名誉を失う危険をおかしても、女性の安全を危険にさらすわけにはいかなかったのです」
「それはわかっていますわ、トゥラン」彼女はいった。「でもだれもあなたが名誉を失ったなどと思うものはありません。あなたの名誉と勇気を知っているものなら」
彼は、彼女の言葉に、驚愕した。なぜならターラが彼に話しかけた言葉のなかで、王女が一|放浪の戦士《パンサン》に対して示すような尊大な態度を含んでいなかったのは、これがはじめてだったからだ――彼がその態度のちがいに気づいたのは、実際の言葉よりは、その口調のせいである。彼女が、ついさっき彼を知らないといったときまで、なんとふたりは仲が悪かったことだろう! 彼にはターラの気持ちがわからなかった。そこで、彼女がオ・タールにむかって、自分のことを知らないといったときから、ずっと胸中にあった疑問をつい口に出してしまった。
「ヘリウムのターラ。そのお言葉は、オ・タールの玉座の広間で、あなたから受けた心の傷を癒《いや》すものです。ですが、プリンセス、なぜあなたは、わたしのことを知らないとおっしゃったのですか? お聞かせください」
彼女はその大きな、深い瞳を彼にむけた。その瞳には、かすかに非難の色が浮かんでいる。
「あなたにはわからなかったの?」彼女はたずねた。「あなたを知らないといったのは、わたくしのくちびるだけで、心ではなかったのよ。オ・タールが私を殺すように命じたのは、わたくしに不利な証拠があったというよりは、わたくしがゲークの連れだという理由からでした。それで、わたくしは、あなたをわたくしたちの仲間だと認めたら、あなたもいっしょに殺されるものと考えたのです」
「それでは、わたしを救うために?」彼は、ぱっと顔を輝かせて叫んだ。
「わたくしの勇敢な|放浪の戦士《パンサン》を救うためだったのよ」彼女は低い声でいった。
「ヘリウムのターラ」戦士は片膝《かたひざ》をついていった。「あなたのお言葉は、わたしの飢えた心を満たす糧《かて》のようです」そして彼女の手をとって、くちびるを押し当てた。
彼女は彼をやさしく立ちあがらせた。
「あなたは、跪《ひざまず》いて話すことはありません」と、やさしくいった。
彼女の手は、彼が立ったときも、やはり彼の手に握られていた。ふたりはよりそって立っていた。男は、彼女をオ・タールの玉座の広間から運び出して以来、彼女のからだとの接触でいまだに心をたかぶらせていた。その美しい顔を見ながら、胸の中で心臓がはずみ、血管を熱い血が駆けめぐるのを感じた。彼女は目を伏せて、くちびるをなかば開いていた。そのくちびるを自分のものにするためなら、彼は王国さえ与えたであろう。ついに彼は、彼女をひきよせ、胸にはげしく抱きしめながら、彼女のくちびるに接吻の雨をふらせた。
だが、それはほんの一瞬のことだった。ターラは牝獅子のように彼におそいかかり、なぐりつけ、つきとばした。頭をつんとそらせ、目を火のようにきらめかしながら、後にさがった。
「なにをするの?」と叫んだ。「おまえは、あえてヘリウムの王女をそのように侮辱するつもりですか?」
彼の目は正面から彼女の目をみつめた。だが、男の目には恥じらいも、悔恨の色も見えない。
「そうです、わたしはあえてそうします。わたしはヘリウムのターラをあえて愛します。ですが、あなたをも、またほかのいかなる女性をも、その女性に対する愛情以外に不純な動機にうながされた接吻で侮辱するようなことはいたしません」さらにターラに歩みよって、両手を彼女の両肩においた。「わたしの目をごらんなさい、大元帥のご息女。そして、|放浪の戦士《パンサン》トゥランの愛を受ける気はないといってください」
「わたくしはおまえの愛を受ける気はありません」彼女は身を引いて、叫んだ。「おまえが嫌いです!」そして身をひるがえし、頭を両腕にうずめてすすり泣いた。
彼女を慰めようと一歩踏みだしたとき、彼は背後でからから笑う声を聞いてぎょっとした。ふりむくと奇妙な姿の男が入口に立っているのが見えた。それはバルスームでたまに見られる、めずらしい人間のひとり――外見上、老齢のきざしの見える老人だった。腰は曲がり、しわだらけで、人間というよりはミイラのようだった。
「オ・タールの地下室での色ごとかね!」老人は、そうひやかすと、また耳ざわりなかすれた笑い声が地下室の静寂の中に響いた。
「求愛には不似合な場所だ! まったく求愛には不似合な場所だて! わしが若かったころは、庭園でピマーリアの巨木の下を散歩し、突進するサリア衛星のつかの間の陰の中でキスを盗んだものだ。わしらは愛をささやくのに、こんな薄暗い穴蔵に来たことはなかったぞ。だが時代が変われば、方法も変わるものだ。とはいえ、男が女をあつかう方法や、女が男をあつかう方法が変わる時代を、この目で見るまで生きようとは思わなんだな。ああ、しかし、昔もわしらは女たちにキスしたものだ! ところで女が拒んだらどうするかって? 女が拒んだら? なんの、わしらはもっともっとキスしてやったものだ。やれやれ、そんな時代だったのだ!」老人はまたからからと笑った。「うむ、わしは初めてキスしたときのことをよく覚えておる。そしてそれ以来、たくさんの女にキスしてきたのじゃ。美しい娘だった。だが、その娘は、わしがキスしているあいだに短剣で刺そうとした。やれやれ、そんな時代だったのだ! だが、わしはその娘にキスした。その娘は、もう千年以上も前に死んでしまった。だが、わしはうけあうが、彼女は生きているあいだに二度とあんなすばらしいキスをされなんだし、死んでからも、されなんだのじゃ。それから、あのもうひとりの女は――」しかしトゥランは千年以上にわたる老人のキスの思い出話を聞かされそうだと見てとったので、その言葉をさえぎった。
「話してください、ご老人。あなたの恋のことではなくて、あなたご自身のことを。あなたはどなたです? このオ・タールの地下室でなにをしているのです?」
「わしもおなじことを聞きたいものだな、お若いの」老人はいった。「死人以外の者が、この穴蔵の中にやってくることはほとんどない。わしの弟子を除けばな――うむ! そういうわけだ――おまえさんたちはわしの新しい弟子だ! よろしい! だが、いままでに、この最高の芸術家から偉大な芸術を学ぶために、女をよこしたためしはなかったものだ。だが、時代が変わったのじゃ。わしらの時代は働かなんだものだ――女はキスしたり、愛しあったりするのが仕事だった。うむ、女とはそういうものだったのじゃ。わしは南方で捕えたひとりの女のことを覚えておる――うむ! その女は悪魔みたいなやつだったが、なんとうまく男を愛せたことか。彼女の胸は大理石のようで、心は火のように燃えておった。それにしても、あの女は――」
「わかった、わかった」トゥランはさえぎった。「われわれは弟子です。仕事をはじめたくてうずうずしている。案内してください。ついてゆきますから」
「うむ、いいとも、うむ、いいとも! 来なさい! 未来に無限の時があるというのに、しゃにむにせきたてることだて。うむ、そうとも、過去にも無限の時が横たわっておるのじゃ。わしが生まれてこのかた二千年が過ぎたが、いつも急げ、急げ、急げじゃった。だが、わしはいまだに、なにか気のきいたことがなしとげられたのを知らぬ。マナトールは今日も当時のままだ――娘たちのほかはな。昔はいい娘たちがいたものじゃ。わしがジェッタンの闘技場で手にいれた女がいた。うむ、おまえさんたちに見せてやりたかったな――」
「案内してください!」トゥランは叫んだ。「わたしたちが仕事についた後で、その女の話をしてください」
「うむ、いいとも」老人はいった。そして、足を引きずりながら薄暗い通路をくだっていった。「ついてござれ!」
「おまえはあの男といっしょに行くのですか?」ターラがたずねた。
「いけませんか?」トゥランは答えた。「わたしたちはどこにいるのかも知りませんし、この穴蔵からの出口もわかりません。西も東もわからないのです。ですが、あの老人はきっと知っているはずです。もしわたしたちが抜け目なくやれば、知りたいことを、聞きだすことができるでしょう。すくなくとも、彼に疑惑の念を起こさせてはなりません」そこでふたりは老人のあとについて行った――曲がりくねった通路を通り、いくつもの部屋を通過した。やがて一つの部屋に到達した。そこにはいくつかの大理石の石板が床から一メートルほどの高さの台座の上に乗っており、そのどれにも人間の死体が横たわっている。
「さあ、ついたぞ」老人がいった。「この死体はまだ新しい。わしらはすぐに、仕事にかからねばならん。わしはいま『敵の門』に飾るための、死体をひとつ細工しておる。この男はわがほうの戦士を多数殺した。まったく、門に飾られる資格のある男じゃ。来なさい、それを見せてやろう」
彼はふたりを次の部屋へ伴った。床の上には多くのなまなましい人骨《じんこつ》が散らばり、大理石の石板の上には形のなくなった肉の山がある。
「おまえらには後で教えるが」と老人はいった。「いま、わしの仕事ぶりを見ておくのは、悪くあるまい。なぜなら、こうした細工はめったにないからじゃ。おまえらが『敵の門』に飾られる死体をつぎに見るまでには、長いことかかるだろう。まず、いいかな、死体の肌にできるだけ傷をつけないように用心して、全部の骨を抜いてしまう。頭蓋骨がいちばんむずかしいが、熟練すれば抜きとれるもんじゃ。いいかな、わしはたったひとつしか傷口をつくらなんだ。この傷口を縫合《ほうごう》して、それがすんだら、その人体をこうして吊すのだ」そういって老人は死体の髪に一本の綱を結びつけ、その無気味なものを天井にある金輪に吊した。その真下には、床に丸い穴があり、老人がその蓋《ふた》を開けると、赤っぽい液体でなかばみたされた井戸があらわれた。「さて、今度はこれをこの中に入れるのだ。この液のつくり方は、いずれ適当な時に教えよう。これをこうして蓋の裏に結びつけ、もとどおりに蓋をする。一年たてば一丁あがりだ。だが、時おり、様子を調べて液体を頭の上まで保っておかねばならんのじゃ。こいつはできあがれば、みごとなものになることだろうて。
「おまえさんたちは、もうひとつ運がいいことがあるぞ。というのは、今日とり出すのが一体あるのだ」老人は部屋のむこう側に行き、別の穴の蓋をもちあげ、その中に手を入れて穴からグロテスクな物体を引きあげた。それは人間のからだで、浸っていた化学薬品の作用によって縮小し、三〇センチ足らずの小さな姿になっていた。
「うむ! りっぱなもんじゃろうか?」小柄な老人は叫んだ。「明日、これは『敵の門』に置かれるのだ」彼はそれを布でふきとり、注意ぶかく籠《かご》の中におさめた。「きっと、おまえらはわしの生涯の傑作を見たいだろうな」そういうと、返事もまたずに、ふたりをつれて他の部屋にはいって行った。そこは広い部屋で四、五十人の人間がいた。彼らはみな壁ぎわに、静かに座るか立つかしており、唯一の例外は、部屋の真中で大きなソートにまたがっている巨大な戦士だけであった。いずれもびくとも動かない。ターラとトゥランの頭にぱっとひらめいたのは、都市の大通りに沿ったバルコニーの上に黙々と並んでいた市民と、「族長の間」に整然と並んでいた騎馬戦士たちのことだった。そして、ふたりの頭には同じ解釈が生じたが、どちらもそれを口にだして質問することができなかった。それを知らないことを暴露して、彼らがマナトールの異邦人であり、したがって弟子のふりをしたにせものであるという事実がばれるのではないかと恐れたからである。
「まったくすばらしい」トゥランがいった。「これには、偉大な技術と忍耐と時間が必要だったにちがいありませんな」
「そのとおり」老人が答えた。「ずいぶん時間がかかったが、それでもわしは、たいていの技術者より早いのだ。しかも、わしのつくったものはもっとも自然なのだ。わしは、あの戦士の妻が、この作品を生きているようではないなどといっても相手にしないね」老人はソートにまたがった男を指さした。「彼らの多くは、もちろん重傷をうけて、ここに運ばれてきたのだが、そういう死体は、わしが修理しなければならない。そこが偉大な技術が必要とされるところなのだ。というのは、だれだって死人がいちばん元気で見ばえのよかったときのように見えてほしいと思っているものだからな。だがおまえたちにも、これから教えてやるさ――死人を剥製《はくせい》にし、色づけし修繕《しゅうぜん》し、ときには、醜い男を美しく作りかえたりする方法をな。そして、自分の家族を剥製にできるということは大きな楽しみになるじゃろう。なぜって、この千五百年というもの、わしの家族の死体を剥製にしたのは、わし以外にいなかったのだからな。
「わしは大勢の家族を持っていて、わしのバルコニーは彼らの剥製でいっぱいだ。ほかにも妻たちのために広い部屋をもっている。わしは最初の妻まで、ひとりのこらず剥製にしてある。そして彼らといっしょに夜を過ごすことも、しょっちゅうだ――静かな楽しい晩をな。そして、彼らを剥製にし、生きていたときよりもっと美しくする楽しみは、彼らを失った悲しみを部分的にとりもどしてくれる。わしは前の妻たちを細工することに時間をつぶしながら新しい妻を捜すのだ。新しい妻の美しさに確信がもてないときは、それを前の妻たちの剥製のある部屋につれていく。そしてその女の魅力を前の妻たちの魅力と比べてみるのだ。そんなとき、昔の妻たちが反対しないことがわかっているのは、とても楽しいものだ。わしは調和ということが好きなんでな」
「『族長の間』の戦士たちも全部、あなたが細工したのですか?」トゥランがたずねた。
「そうとも、わしが細工し、修繕したのじゃ」老人は答えた。「オ・タールは、わし以外の者を信用せんのだ。いまでさえ、かなり傷ついてわしのところへ運ばれた二つの死体が、べつの部屋に置いてある。オ・タールは、それらをはやく剥製にすることを望んでおられる。なにせ、広間には乗り手のいない二頭のソートが残されているからじゃ。だが、わしはじきにそれを間にあわせるさ。オ・タールは彼らを広間に全部、置いておきたいのだ。現存の王《ジェド》が彼に賛成できなかったり、しなかったりするような問題が持ちあがった場合のためにな。そういう問題を、彼は「族長の間」の王《ジェド》たちのところへ持っていく。そしてそこで、死によって英知を獲得した偉大な王《ジェド》たちと、たったひとりでとじこもるのだ。これはすばらしい方法で、けっして不和や誤解が生じることがない。オ・タールは、これがバルスームでもっともすぐれた合議機関だといっている――生きている王《ジェド》たちで構成されているものより、はるかに賢明なのだ。だが行こう。わしらは仕事にとりかからなければならぬ。次の部屋へ行って、おまえらの教育をはじめるとしよう」
老人はふたりを次の部屋に伴った。そこには、大理石の石板の上にいくつかの死体が横たわっていた。老人は戸棚のところへ行って、大きな眼鏡をかけ、小さな仕切りの中から、いろいろの道具を選びだしはじめた。それがすむと、またふたりの弟子のほうへむきなおった。
「さあ、わしにおまえらをよく見させてくれ、わしの目は昔のようにきかない。仕事をしたり、近くにいる者の顔つきをはっきり見たりするには、この強力なレンズが必要なのだ」
彼は前に立つふたりに目をむけた。トゥランは息をつめた。いまや老人は、彼らふたりがマナトールの装具と紋章《もんしょう》をつけていないことに気づくにちがいないと思ったからだ。彼は、さっきからなぜ老人がそれに気づかないのだろうかと不審に思っていた。老人がなかば目くらだということを知らなかったからである。老人はふたりの顔をつぶさに検討した。その目はヘリウムのターラの美貌の上にながいこと注がれていた。ついで、ふたりの装具のほうに移っていく。トゥランは、この置いた剥製師の顔にそれとわかる驚きの色を見たように思った。しかし老人がなにかに気づいたとしても、彼の次の言葉には、その気持ちが現われていなかった。
「アイ・ゴスといっしょにくるのだ」老人はトゥランにいった。「次の部屋に材料がおいてあるが、それをおまえに持ってきてほしい。女はここに残れ。ほんのわずかのことだから」
老人はいくつもあるドアの一つにトゥランをつれて行き、先に立って中にはいった。ドアをはいるとすぐ、立ちどまって部屋のむこう端にある絹と毛皮の束を指さし、それらをとってくるようにトゥランに命じた。トゥランは部屋を横ぎって、前かがみになって、包みをもち上げようとした。すると背後でかちりと錠のおりる音が聞こえた。すぐにふりむくと、自分ひとりだけ部屋にとり残され、たった一つのドアはしまっているのを知った。彼は急いでドアに駆けより、それを開けようとしたが、すぐさま自分が閉じ込められたことを悟った。
アイ・ゴスは外に出て、彼の後のドアに錠をおろすと、ターラのほうへむきなおった。
「おまえらの皮装具はおまえらを裏切りおった」と、からから笑いながらいった。「おまえらはこの老アイ・ゴスをだまそうとしおった。だがこれでわかったろう。わしは目は弱っても頭はたっしゃなのじゃ。だが、おまえには悪くせんつもりだ。おまえは美しいし、アイ・ゴスは美しい女が好きだ。マナトールのほかの場所では、わしはおまえを手にいれられまい。だが、ここでは老アイ・ゴスをないがしろにするものはおらん。この死者の穴蔵にやってくるものは、ほとんどいない――ただ死者を運んでくる者が訪れるだけじゃが、彼らは、できるかぎり急いでもどってしまう。だから、アイ・ゴスが美しい女を死者といっしょに閉じこめているということはだれにもわからん。わしはおまえに、なにも質問はしない。そうすれば、おまえをあきらめないですむからだ。なぜなら、おまえがだれの女かわからないわけだからな、ええ? そして、おまえが死んだら、きれいに剥製にして、わしのほかの女たちといっしょに部屋の中に置いてやる。すばらしいことじゃろうが、ええ?」彼はそばに来て、恐怖にかられた娘のかたわらに立った。「来い!」とターラの手首を握った。「アイ・ゴスのそばへ!」
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十六 もうひとつの変名
トゥランは監禁された部屋のドアに体あたりし、ヘリウムのターラが重大な危険にさらされているにちがいない部屋の側にある、がっしりしたスキール材のドアを破ろうとして、けんめいになった。が、効果はなかった。重い板はびくともせず、彼は肩と腕に打ち傷を負っただけだった。とうとう彼は断念し、逃げ出せる他の方法を求めて、部屋の中をあちこちと捜しまわった。石壁には、ほかの出口は見つからなかった。が、捜しているうちに、室内には武器、衣服、よろい、装身具、紋章、寝具用の絹と毛皮など、雑多なものが多量に集められているのがわかった。剣や槍のほかに、いくつかの大きな両刃の戦斧《いくさおの》があり、その頭部は小飛行艇のプロペラにそっくりだった。それらの一つを手にとると、彼はまたドアをめちゃくちゃに打ちはじめた。この烈しい破壊の物音に、アイ・ゴスがなにかいうのではあるまいかと思った。しかしドアのむこう側からはなんの音も聞こえないので、ドアが厚くてひとの声を通さないのだろうかと考えた。が、アイ・ゴスには、この物音が聞こえないはずはなかろう。硬い木質が重い斧の一撃ごとに破片になって散ったが、それは、はかのいかない骨の折れる仕事だった。やがてひと息入れなければならなくなった。そんな作業がつづいて何時間もたったように思われた――へとへとになるまで働いては、ほんのしばらく休息するのだ。ドアの穴はしだいに大きくなっていくが、その穴から隣室の中は見えない。というのは、アイ・ゴスがトゥランを中に閉じ込めた後で、ドアの前にとばりを引いてしまったからだ。
しかしついに、放浪の戦士は、やっとからだが通れるくらいの穴をあけた。そしてまえもってドアの近くに持ってきておいた長剣を握りしめると、隣りの部屋に這いだした。壁かけをはねとばし、ヘリウムのターラのかたわらまで血路を切りひらこうと剣を手にして身がまえた――が彼女はそこにいなかった。部屋の真中には、アイ・ゴスが床の上に死んで倒れていた。だがターラの姿はどこにも見えない。
トゥランは当惑した。この老人を打ち殺したのは、彼女の手にちがいなかろう。だが、彼女はトゥランを牢から救い出そうと努力しなかったのだ。そのとき彼は、ターラの最後の言葉を思い出した。「わたくしはおまえの愛を受けたくありません。おまえが嫌いです」彼には真相がわかってきた――彼女は彼から逃がれるために、この最初の機会を捕えたのだ。トゥランは絶望して、顔をそむけた。どうしたらよいのだ? 答えは、ただ一つしかありえない。彼が生き彼女が生きているかぎり、彼としてはやはり彼女を逃がし、無事にその祖国に送りとどけるために全力を傾注しなければならないのだ。だが、どのようにすればいいのだろう? どのようにして、この迷宮から逃がれる道を発見したらよいのか? どうやって、ふたたび彼女を見つけだしたらいいのだろう? 彼はいちばん近い戸口に近づいて行った。すると偶然にも、その戸口は、剥製の死体のつまったあの部屋に通じていた。それらの剥製は、バルコニーや恐ろしい広間や、どこかしかるべき場所に運ばれるのを待っているのだ。彼の目はソートにまたがった、大きな彩色された戦士の上に移った。そしてすばらしい服装や強力な武器を眺めているうちに|放浪の戦士《パンサン》の疲れはてた目に、新しい輝きがよみがえってきた。彼はすばやい足どりで、剥製の戦士のかたわらに近づき、それをソートから引きずりおろした。そして同じようにすばやく、その装具や武器をはぎ取り、自分の装具を脱ぎすてると、死者の紋章を身につけた。つぎに自分が閉じこめられていた部屋に急いでとってかえす。そこに変装を完全なものにするのに必要な道具があるのを見ていたからである。それは、いくつかの塗料の壺で、老剥製師が、死んだ戦士たちの冷たい顔に、戦闘の印の広い筋を描くのに用いたものだった。
しばらくすると、ガソールのガハンはよろい、装備、装身具などあらゆる点においてマナトールの戦士そっくりの姿になって、部屋を出て来た。彼は、死んだ男の皮装具から家紋《かもん》と階級章を取り除いておいた。なるべく疑われずに平戦士として通用するためである。
オ・タールの穴蔵の、巨大な、うすぐらい迷宮の中でヘリウムのターラを捜すことは、このガソール人にとって、失敗するとわかっている絶望的な仕事と思われた。マナトールの通りへ出る道を捜すほうがずっと賢明なような気がした。そこへ出ればまず、彼女がふたたび捕えられたかどうか知ることができるだろうし、もしつかまっていなければ、ふたたび穴蔵にとってかえして彼女を捜しつづければいいのだ。この迷宮からの出口を見つけるには、曲がりくねった通路や部屋を通りぬけて、かなりの長さを歩かねばなるまい。というのは、出口が、どの辺に、または、どの方向にあるのかまるで知らなかったからだ。事実、彼は自分とターラがこの薄ぐらい洞窟の中にはいった地点にむかって一〇〇メートルもあともどりできそうになかった。そこで、偶然にターラか、地上の道への通路かどちらかを、行き当たりばったりに見つけられるかも知れないと思って、出発した。
しばらくのあいだ、たくみに防腐処置をほどこされたマナトールの死者が立ち並んでいる部屋から部屋を通りぬけていった。それらの多くは焚木《たきぎ》を積み上げるように、段々に積んであった。通路や部屋を通りぬけて行くうちに、入口の上、分岐点、交差点などの壁面に象形文字《しょうけいもじ》が塗料で色づけされているのに気づいた。それらを観察した結果、象形文字が通路の名称を説明しているのだという結論に達した。それらの文字がわかれば地下道をすばやく確実に通りぬけられるのだろう。しかしトゥランにはそうした象形文字が読めなかった。かりにマナトールの文字を読めたとしても、市内の地理に不案内なので、事実上なんの助けにもならなかったことだろう。だが、彼にはその文字がまったく読めなかったのだ。バルスームには一つの共通した口語があるきりだが、文字は国民によってそれぞれちがっているからである。しかしそのうちに、ひとつだけはっきりしてきたことがある――一つの通路の象形文字は、その通路の終わりまで、同じままなのだ。
間《ま》もなくトゥランは、彼が歩いてきた距離から考えて、穴蔵がおそらく全市の地下にめぐらされた広大な地下道組織の一部分であるということをのみこんだ。すくなくとも、彼は、王宮の構内を通りすぎてしまったにちがいない。通路や部屋は、ときどき外見や構造が変化した。どの部分もすべてラジウム照明灯で照らされていたが、大部分はうす暗かった。長いこと、ときおり|火星ねずみ《アルシオ》を見かけるきりで、ほかの生きものはまったく見えなかった。すると、まったくだしぬけに、多くの交差点のなかの一つで、ひとりの戦士にばったり顔をあわせた。その男は彼を見ると、うなずいて行きすぎていった。トゥランは、変装《へんそう》がうまくいったことを知って、安堵の溜息をついた。だがそのとたんに相手の戦士が声をかけてきた。戦士は立ちどまって彼のほうをむいていた。|放浪の戦士《パンサン》は腰に剣があるのをありがたいと思った。またふたりがうす暗い地下の通路にいることも、敵がたったひとりであることもありがたかった。なにしろ時間が惜しかったからだ。
「きみは、もうひとりのやつのことをなにか聞いたか?」その戦士が呼びかけた。
「聞かないな」トゥランは答えた。彼はその男がだれのことを、またはなんのことを聞いているのか、まるでわからなかったのだが。
「やつは逃げられはしない」その戦士はつづけていった。「あの女はまっすぐにわれわれの手中にとび込んできたが、自分の仲間がどこにいるのか見当もつかないというのだ」
「あの女はオ・タールのところへ連れもどされたのか?」トゥランはたずねた。いまや、彼は戦士が、もうひとりのやつといったのが、だれのことだかわかったし、もっとよく知りたかった。
「ジェッタンの塔に連れもどしたのさ」戦士は答えた。「明日は競技がはじまる。あの女はきっと競技に賭けられるだろう。美人だが、ほしがるものがいるかどうかな。あの女はオ・タール陛下をさえ恐れないのだ。クルーロスに誓って、あの女は服従させにくい奴隷になるだろうよ――まちがいなしに牝のバンスみたいな女だ。おれにはむかないな」そういうと、彼は首をふりながら先へ歩いて行った。
トゥランは地上の街路と同じ平面に通じる通路を捜し求めつづけた。すると突然、小さな部屋のあけはなしの入口に出た。その部屋の中には、ひとりの男が鎖で壁につながれてすわっていた。トゥランは驚きと喜びで低い声を発した。その男がア・コールであることがわかったからだ。偶然にも、彼は前に閉じ込められていた小部屋にぶつかったのである。ア・コールは不思議そうに彼を見た。明らかにア・コールには、仲間の囚人を見破れないのだ。トゥランはテーブルのそばにより、身をかがめながらささやいた。
「わたしは|放浪の戦士《パンサン》のトゥランだ、さきほど、きみの隣に鎖でつながれていた者だ」
ア・コールは彼をまじまじとながめた。
「きみの母上でも見わけがつくまい!」彼はいった。「だが教えてくれ、きみが連れ去られてから、なにが起こったのだ?」
トゥランはオ・タールの広間や地下の穴蔵での出来事をくわしく話した。「そして今度は」とつづけた。「そのジェッタンの塔を見つけてヘリウムの王女を救い出す方法を考えなければならない」
ア・コールは頭をふった。
「わたしは長いこと、その塔の隊長《ドワール》をしてきた。だから、異邦人よ、きみにいえるのだが、ジェッタンの塔から囚人を救い出すことは、独力でマナトールを奪おうとするようなものだよ」
「だが、わたしはやらねばならぬ」トゥランは答えた。
「きみはとりわけ腕ききの剣士かね?」やがてア・コールがたずねた。
「そういわれている」とトゥラン。
「それなら、一つの方法がある――しっ!」ア・コールは突然、沈黙し、部屋のすみの壁の下のほうを指さした。
トゥランは相手の人差し指のほうに顔をむけ、|火星ねずみ《アルシオ》の穴の口から、二本の大きな触手と二つのとび出た目がのぞいているのを見た。
「ゲーク!」彼は叫んだ。無気味なカルデーンはたちまち床にはいあがり、テーブルのほうへ近づいてきた。ア・コールはなかば息づまるような嫌悪の叫びを発して、身を引いた。
「恐れることはない」トゥランは安心させた。「これはわたしの友人だ――わたしが先ほど、話したように、彼はターラとわたしが逃げるあいだ、オ・タールをおさえていてくれたのだ」
ゲークはテーブルの上にのぼり、ふたりの戦士のあいだにうずくまった。
「きみにうけあおう」彼はア・コールにむかっていった。「|放浪の戦士《パンサン》トゥランは、剣技に関しては、全マナトールに比肩するものはいない。わしは穴の中できみたちの話を聞いたのだ――話をつづけなさい」
「きみは彼の友人だから」ア・コールはつづけた。「きみの前で説明しても大丈夫だと思うが、わたしは彼がヘリウムの王女を救出できる唯一の方法を知っている。彼女は競技で賞品にされるのだ。しかも奴隷と平戦士が、彼女を獲得することが、オ・タールの望みなのだ。彼女がオ・タールを拒絶したせいだよ。彼はこうして彼女を罰しようとしているのだ。ひとりの男ではなく、勝ち残ったすべての男が、彼女を手にいれることになる。だが、競技の前に、金でほかの者を買収できるかもしれない。その買収ができて、もしきみの側が勝ち、きみが生き残れば、彼女をきみの奴隷にできるだろう」
「だが、どうすれば、異邦人で探索中の逃亡者にそんなことができるのだ?」トゥランはたずねた。
「だれもきみには気づくまい。きみは明日、塔の責任者のところへ行き、彼女を賞品にしている競技に出場を申し込めばいい。その責任者に、自分はマナトールのもっともはずれの年マナタージから来たというのだ。もし出場の理由をきかれたら、彼女が捕えられた都市の中につれ込まれるとき、彼女を見たのだといえばよかろう。もし、彼女を勝ちとれたら、わたしの屋敷につながれているソートを使って逃げたまえ。きみには、わたしの屋敷にあるものは、すべて自由に使えるような証拠の品を渡してあげる」
「しかし、金がないのに、どうしてほかの者を競技で、買収できるね?」トゥランはたずねた。「わたしはまったく金を持っていない――自分の国の金さえも」
ア・コールは自分のポケットを開け、マナトールの金を一包み引き出した。
「ここに彼らの倍以上の人数を買収するに充分な金がある」と、その金の一部をトゥランに手渡しながらいった。
「だがどうしてきみは、異邦人にこんなにしてくれるのだ?」|放浪の戦士《パンサン》はたずねた。
「わたしの母は、この国に捕えられた王女だった」ア・コールが答えた。「わたしはただ、母がいたら、わたしにさせたがるだろうと思えることを、ヘリウムの王女にしてあげるまでのこと」
「それではマナトール人よ、事情が事情だから」とトゥランは答えた。「わたしはヘリウムのターラのために、きみの厚意を受けるほかはない。わたしが生きていたら、いつの日にか、必ずお返しするつもりだ」
「さあ、もう行かなくては」ア・コールは忠告した。「いつなんどき、衛兵がやってきて、きみらを発見するやもしれない。まっすぐ『門前通り』へ行くのだ。その通りは城壁のすぐ内側をめぐって、街をとりまいている。そこで異邦人の宿舎になっている多くの建物を見つけられるはずだ。宿のドアの上にはソートの頭が彫刻されているから、それと見わけがつく。そこへ行ったら、競技を見にマナタージから来たのだといいたまえ。そしてユ・カールと名乗りたまえ――その名前なら疑われないだろうし、話をしないでいられれば見やぶられることもないだろう。明朝早くジェッタンの塔の責任者を捜したまえ。きみの祖先のご加護と幸運が、きみとともにあらんことを!」
ゲークとア・コールに別れを告げると、|放浪の戦士《バンサン》は与えられた指示にしたがって、『門前通り』への道を捜しにかかったが、さほど難しい目にも会わなかった。途中、数人の戦士たちに遭遇したが、彼らはうなずいただけで、それ以上の注意をむけなかった。彼は難なく宿泊所を見つけた。そこには、マナトールの他の都市から来た多くの異邦人たちがいた。彼は前夜から一睡もしなかったので、必要な休息をとるために寝台の絹と毛皮の中に身をなげた。翌日はヘリウムのターラのために、最善の力を発揮しなければならないのだ。
目を覚ますと、すでに朝になっていた。彼は起きあがって宿泊代を払い、食事をする場所を捜した。ほどなく、ジェッタンの塔へむかう途上にあった。競技を見に行こうとする多数の群集が並木道に沿って、くねくねとつづいていたせいで、塔は、ぞうさなく見つかった。イ・メッドの後をひきついだ、塔の新しい責任者は多忙のあまり競技参加者たちをくわしく調べることができなかった。というのは、多くの競技志願者に加えて、主人や支配者によって無理やりに競技に出場させられる何千人という奴隷や囚人がいたからである。各人の名前、プレーするポジション、出場予定のゲーム等が記帳されなければならない。また、一回以上ゲームに出場する者が倒れた場合の代理人――ひとりが出場する追加競技のおのおのに、ひとりの代理人が用意されていた。その競技者が殺されるか、負傷で出場不能になることによって、次のゲームが遅れないようにするためである。
「おまえの名前は?」トゥランが前に進むと、ひとりの書記がたずねた。
「ユ・カール」|放浪の戦士《パンサン》は答えた。
「都市は?」
「マナタージ」
書記のかたわらに立っていた警備隊長が、トゥランを見た。
「遠いところからはるばるジェッタンをしにきたのだな」彼はいった。「十年祭のゲーム以外に、マナタージの男が出場するのは、めったにないことだ。オ・ザールのことを話してくれ! 彼は来年、出場するつもりか? ああ、しかし彼はりっぱな戦士だったな。もしきみが彼の半分も力のある剣士だったらな、ユ・カール、マナタージの評判は今日にも高まるだろう。だが、話してくれ、オ・ザールはどうしておる?」
「元気ですよ」トゥランはよどみなく答えた。「マナトールの友人たちによろしくと申してました」
「よかろう!」隊長は答えた。「ところで、きみはどのゲームに出場するのだ?」
「わたしはヘリウムの王女、ターラを賭けて出場したい」トゥランは答えた。
「だがきみ、彼女は奴隷と囚人用のゲームの賞品だぞ」隊長は叫んだ。「まさか、そんな競技に志願するつもりはあるまい!」
「いや、出たいのです」トゥランは答えた。「わたしは、彼女が街につれ込まれたときに見かけて、そのときすでに、彼女を手に入れてやると誓ったのです」
「しかし、きみの色の組が勝ったところで、生き残りの連中と、彼女を分けあうことになるのだぞ」相手は反対した。
「納得させますよ」トゥランは主張した。
「それにきみはオ・タール陛下の怒りを招くことになるかもしれない。オ・タールは、この礼儀を知らぬ奴隷女をひどく憎んでおられるからな」
「わたしが彼女を勝ちとったら、オ・タールは彼女を厄介払いできるでしょう」トゥランはいった。
ジェッタンの塔の隊長は頭をふった。
「きみはむこう見ずだ。わたしは、わが友、オ・ザールの友人にそんな気ちがい沙汰を思い止らせたいものだが」
「オ・ザールの友人に便宜《べんぎ》を与えてくれませんか?」トゥランがきいた。
「いいとも」隊長は大声で叫んだ。「なにをしてほしいのだ?」
「私を黒の王《チーフ》にしてください。そしてわたしの駒には全部、ガソールからの奴隷をください。彼らが優秀な戦士であることを、知っているからですよ」|放浪の戦士《パンサン》は答えた。
「妙なたのみだな、だが、わが友、オ・ザールのためなら、それ以上のことでもしてやるさ。しかしもちろん――」と相手はためらった――「習慣として、王《チーフ》になりたい者は、いくらか金を払うことになっとるのだ」
「いいですとも」トゥランはいそいでうけあった。「わたしもそれを忘れてはいません。いま、相場はどのくらいか、きこうと思っていたところです」
「わが友の友人のためだから、わずかでいいことにしよう」隊長はそういって、金額を示したが、それは富裕なガソールの高額の金になれたガハンには、おかしいほどのはした金だった。
「教えてください」と、トゥランは金を隊長に手渡しながらいった。「ヘリウムの女を賭けて戦うゲームはいつです?」
「昼のゲームの二番目だ。いま、わたしといっしょにくれば、きみの駒が選べるよ」
トゥランは隊長の後にしたがって、塔とジェッタンの競技場のあいだにある大きな中庭に行った。そこには数百人の戦士たちが集められていた。すでに、その日のゲームの王《チーフ》たちは、それぞれ自分の駒を選び、ひとりひとりにポジションを割り当てていた。もっとも主要なゲームについては、こうしたことはすでに数週間前にすんでいる。隊長はトゥランと奴隷の大半が集められている中庭の一部に連れて行った。
「まだきまってないやつを、選びたまえ」隊長はいった。「きみの持ち駒を選んだら、それを競技場へ連れて行くのだ。そこで士官が、きみの控え場所を割り当てるだろう。きみはそこで第二ゲームの呼び出しがあるまで、自分の持ち駒といっしょに残っているのだ。きみが幸運であるように祈る。だが、わたしが聞いたところによれば、きみはヘリウムからきた奴隷女を手に入れるよりも、失ったほうが幸運のようだな」
警備隊長が去ってしまうと、トゥランは奴隷たちのほうへ近づいて行った。
「わたしは第二ゲームのために、腕ききの剣士を捜しているのだ」と告げた。「ガソールから来た男たちが欲しい。というのは、彼らがすばらしい戦士だということをきいているからだ」
ひとりの奴隷が立ちあがり、彼に近づいてきた。
「どのゲームで死んでもおなじことです。わたしは第二ゲームの|放浪の戦士《パンサン》として、あなたのために戦います」
また別のひとりが近づいた。
「わたしはガソールから来た者ではありません。ヘリウムから来た者です。わたしはヘリウムの王女の名誉にかけて戦いたいのです」
「よろしい!」トゥランは叫んだ。「きみはヘリウムでは、名のある剣士か?」
「わたしは偉大なる大元帥のもとで隊長《ドワール》でした。大元帥のそばで、二十あまりの合戦を戦ったのです。|黄金の壁《ヽヽヽヽ》の戦いから|腐肉の洞窟《ヽヽヽヽヽ》の戦いまで。わたしの名前はバル・ドールです。ヘリウムを知っているものなら、わたしの武勇を知っています」
その名前を、ガハンはよく知っていた。最近ヘリウムを訊ねたとき、この男のことを、みんなが話しているのを聞いたのだ。この男の不思議な失踪《しっそう》は、彼の戦士としての名声と同様に、噂《うわさ》の種になっていたのである。
「どうして、わたしがヘリウムのことを知りえようか?」トゥランはいった。「しかし、きみが自分でいうような立派な戦士なら、飛行艇《フライヤー》以上にふさわしいポジションはあるまい。どうだね?」
その男の目は突然、驚愕の色を浮かべた。彼はトゥランを鋭く見た。その目がトゥランのよろいの上をすばやく走る。そしてほかの者に言葉を聞きとられないように、すぐそばに歩み寄った。
「あなたはマナトールよりも、ヘリウムのことをよく知っているように思われますな」彼はささやいた。
「きみは、なにをいっているのだ?」トゥランはこの男がいまのようなことを口にしたのは、その事実を知っているからか、推量したからか、それとも直感でさとったせいなのだろうかと頭をひねりながらすっとぼけた。
「わたしがいうのは」とバル・ドールが答えた。「あなたはマナトール人ではないということです。もしその事実をかくしておきたいのなら、たったいま、あなたがわたしにいったような言葉をマナトール人にいわぬほうがいいでしょう――飛行艇《フライヤー》ですって! マナトールに飛行艇なんかありませんし、彼らのジェッタンの競技の駒にも、そんな名はないのです。そのかわり、王か王女の次に位するものを、将軍《オドワール》と呼ぶのです。その駒は、マナトール以外の国でおこなわれるゲームでの飛行艇と同じ動きと力を持っています。ですから、このことをお忘れなく。それに、もしあなたに秘密があったら、それをヘリウムのバル・ドールに託されても安全であることもお忘れなく」
トゥランは返事をせずに、のこりの駒を選びはじめた。ヘリウム人バル・ドールとガソールの志願兵フローランとは彼に大いに役立った。というのは、彼が選抜すべき奴隷たちのほとんどを、ふたりのうちのどちらかが、知っていたからだ。全部の駒が選び出されると、トゥランは彼らをひき連れて、競技場のかたわらの広場に伴い、そこで、出場を待つことになった。彼は部下たちに、彼らが勝てば王女の代わりに莫大な賞金を提供するが、それでどうか、と提案した。彼らはこの賞金を受け入れたので、トゥランは彼の組が勝てばターラを手に入れられることが確実になった。だが、彼はこれらの男たちが金のためよりも、騎士道のためにいっそう勇敢に戦うだろうことを知っていた。また、ガソール人の関心をさえ、王女への奉仕に動員することも困難ではなかった。そしていまや、彼はいっそう大きな報酬の可能性をほのめかした。
「きみたちに約束はできないが」と彼は述べた。「われわれはきょうこのゲームに勝つ見込みがあるわけだ。そのきょうという日、きみたちの自由をかちえてやれるかもしれなのだ!」
すると彼らは跳びあがって彼のまわりにむらがり、さまざまの質問を浴びせかけた。
「これは大声ではいえないことだ」彼はいった。「だがフローランとバル・ドールは知っている。そしてふたりはきみたちがみな信用できる人間だとうけあってくれた。聞きたまえ! わたしがきみたちにいわんとすることは、わたしの生命をきみたちの手に託することになる。しかし、きょうの戦いは一生のうちでもっとも偉大な戦闘であるということを、各自ひとりひとりが知るべきなのだ――バルスームのもっともすばらしい王女の名誉と自由のために、そしてまた自分自身のための戦いだ――それぞれが各自の故国へ、自分を待つ女性のもとへ帰るための戦いなのだ。
「それではまずわたしの秘密を告げよう。わたしはマナトール人ではない。きみたちと同じ奴隷だ。しかしいまは、マナタージからきたマナトール人だと偽っている。わたしの国と身分はきょうのゲームとはなんの関係もないある事情のために、うちあけるわけにはいかない。だから、わたしはきみたちの仲間だ。きみたちと同じ目的にために戦うのだ。
つぎに、わたしがたったいま知ったことを告げよう。マナトスの偉大な王《ジェド》、ユ・ソールは一昨日、宮廷でオ・タールと衝突し、その部下はたがいに交戦した。ユ・ソールは『敵の門』まで追いたてられた。いま、彼はそこに陣を張っている。いつなんどき、ふたたび戦いが始まるかもしれぬ。しかし、ユ・ソールがマナトスに援軍を求めたことは充分、考えられる。さて、ガソール人たちよ、ここに、きみたちにかかわりのあることがある。ユ・ソールは最近、ガソールのハジヤ王女を妻にした。彼女はオ・タールの奴隷だったし、その息子のア・コールはジェッタンの塔の隊長《ドワール》だった。ハジヤの心はガソールへの愛国心と、ここで奴隷にされている息子たちへの哀れみに満ちている。そしてこの哀れみの感情は、ある程度、彼女からユ・ソールに伝わっている。だから、ヘリウムの王女ターラを自由にするのを助けてほしい。そうすれば、わたしはきみたちや、彼女やわたし自身が、この都市から脱出する手助けができると思う。もっと近く耳を寄せてくれ、オ・タールの奴隷たちよ、残忍な敵にわたしの言葉を聞かれないために」そういうとガソールのガハンは、前もって考えておいた大胆な計画を低い声でささやいた。「さて」と、彼は計画を話しおえていった。「この計画を実行する勇気のない者はそういうがいい」だれも答えなかった。「だれもいないのか?」
「ひとたびあなたの足下にわたしの剣を捧げるならば、その剣はあなたを裏切ることはありますまい。これまでもそうだったように」ひとりの男が湧きあがる激動に声をつまらせながら、声を殺していった。
「わたしも」「わたしも」「わたしも」ほかの者も声をふるわせながら、いっせいにささやいた。
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十七 死の競技
澄んで美しいらっぱの音が、ジェッタン競技場にすみずみまで響きわたった。そのさわやかな音は、「高い塔」からマナトールの街に、そして塔の下の競技場の席を満たしている群集から立ちのぼる雑多なざわめきの上にただよった。この合図は、第一ゲームの競技者を呼びだすものであった。それと同時に、塔や城壁や競技場の高い外壁の上に立ち並んだ一千本もの旗竿《はたざお》のいただきに、マナトールの戦闘的な王《ジェド》たちの色どりゆたかな長三角旗がひるがえった。十年祭大競技会にはおよばないが、一年のうちで、もっとも重要な競技会である皇帝競技会の開会は、このようにして告げられるのである。
ガソールのガハンは、鷲《わし》のような目で一つ一つの競技を観察していた。この試合は、さほど重要なものではなく、ふたりの族長のあいだの、ごくささいな紛争を解決するためにおこなわれているのであった。出場しているのは職業的なジェッタン競技者で、それも武装の優劣で得点を争っているだけだったから殺された者はなく、流された血もほんのわずかだった。試合は一時間ばかりつづいてから終了した。負けた側の王《チーフ》は、競技を引き分けに持ちこもうとして、最後にわざと相手方の得点を許したのだった。
また、らっぱが鳴りひびいた。これは、昼間の最終戦である第二ゲームの開始を告げる合図である。重要な競技は四日目と五日目にまわしてあるので、この試合も重視されてはいなかったが、死ぬまで戦う競技なので、充分な興奮をひき起こすことが予想された。生きた人間を使っておこなう競技と、生命のない駒を使っておこなう競技との主要な相違は、後者の場合、駒を相手方の駒のいる目に置くだけで、その手は終結するのに反し、前者の場合は、そのようにして同じ目に置かれた二つの駒が、その目の獲得のために決闘するという点にある。だから、生きた人間駒の競技には、ジェッタンの戦術ばかりでなく、それぞれの人間駒の力量や勇気の要素も加わってくるのだ。そこで、王にとっては、自分の駒の能力を知ることばかりでなく、敵側のそれぞれの競技者の能力を知ることが大いに必要となるのである。
この点、ガハンは不利だったが、部下たちの忠誠心のおかげで、持駒をあまりよく知らないという不都合な点が充分おぎなわれた。なぜなら、部下たちはもっとも有利に駒を配列するように彼に助言を与え、各自の欠点と長所を率直に告げたからだ。ある者は負け戦《いく》さに強く、ある者は動作がのろすぎ、ある者は性急すぎ、またある者は熱狂的で鉄のような心を持っているが、持久力に欠けている等々である。しかし、彼らは相手方については、ほとんどなにも知らなかった。そして両軍が広大なジェッタン盤の黒とオレンジの方眼に陣取ったとき、ガハンは、はじめて敵に見参したのである。オレンジ軍の王《チーフ》はまだ競技場に入場していなかった。しかしその部下は、すべて各自の持場についていた。バル・ドールがガハンをふりかえった。
「彼らはマナトールの牢からきた罪人ばかりで、奴隷はいません。ですから、こちらは同国人とは、ひとりも戦わずにすみます。われわれが奪う生命は敵の生命です」
「それはもっけの幸いだ」ガハンは答えた。「だが、敵の王はどこにいるのだ、それにふたりの王女はどこにいる?」
「いま来ます、そら!」そういって彼は競技場のむこう端を指さした。ふたりの女性が護衛されて近づいてくるところだった。
ふたりの女が近づいてくるにつれて、ガハンはそのひとりがたしかにヘリウムのターラであることを知ったが、もうひとりの女は見おぼえがなかった。ひとりは両軍の中間、競技場の中央に連れ出され、オレンジ軍の王がやってくるのを待っていた。
フローランはオレンジ軍の王を見て驚きの声を上げた。
「これはしたり、あれは族長のひとりではないか。われわれは奴隷と囚人がこのゲームの賞品を賭けて戦うのだと聞かされていたのに」
彼の言葉は、塔の警備隊長の大音声にさえぎられた。隊長はゲームと賞品について報じるばかりでなく、審判官の役割もするのである。
「マナトールの皇帝《ジェダック》オ・タール陛下の四百三十三年の皇帝《ジェダック》競技会第一日の第二競技において、両軍ともに賞品は王女である。勝利者側の生存者には両王女が与えられ、適当に処分することを許される。オレンジ軍の王女は奴隷女、ガソールのラン・オー。黒軍の王女は奴隷女、ヘリウムの王女ターラ。黒軍の王は、志願競技者、マナタージのユ・カール。オレンジ軍の王は、マナトールの皇帝《ジェダック》の第八|中隊《ユータン》の隊長《ドワール》ユ・ドール、彼もまた志願競技者である。盤上の目は死を賭けて争われるものとする。マナトールの掟は公正である! ここに宣言する」
先攻はユ・ドールがとった。それからふたりの王《チーフ》はそれぞれの王女を守って、定められた目にみちびいた。ヘリウムのターラが競技場に連れ出されてきたときからはじめて、ガハンは彼女とふたりきりになった。ターラをその場所まで連れて行くために近づいたとき、彼女が自分をしげしげと眺めているのを見て、ガハンは彼女に自分の正体がわかっただろうかと自問した。しかし、わかったにしても、彼女はそれらしい、そぶりは示さなかった。彼はターラの最後の言葉を思い出さないわけにはいかなかった――「わたしは、あなたが嫌いです!」それから、彼が剥製師のアイ・ゴスによって王宮の地下の部屋に閉じ込められたとき、彼女が彼を見すてたことも。そういうわけで、彼は自分の正体をあかそうとはしなかった。彼は、彼女のために戦う覚悟だった――いざとなれば、死も辞せず――もし死ななければ、彼女の愛をかちえるために最後まで戦いつづける覚悟だった。ガソールのガハンは、そうやすやすと勇気をくじかれることはなかったが、しかし、彼がヘリウムのターラの愛をかちえる機会は、ほど遠いものと認めざるを得なかった。すでに、彼女は二度も彼を拒否している。一度目はガソールの王《ジェド》として、次は|放浪の戦士《パンサン》トゥランとして。しかし、彼の愛を、うんぬんする前に、まず彼女を救うことが先決である。彼の愛情は、ターラの安全が確保されるまで、胸の中に収めておかねばならなかった。
すでに位置についている競技者たちのあいだを通って、ふたりは所定の位置についた。ターラの左側には黒軍の王ガソールのガハン、彼女の正面には王女の|放浪の戦士《パンサン》、ガソールのフローランがいる。彼女の右側には、ヘリウムのバル・ドール。そして各人は、ほかの黒軍の戦士と同様に、自分が受け持って勝負を争うべき役割を心得ていた。ターラが位置につくと、バル・ドールが頭を下げた。
「わが剣をあなたの足下にささげます、ヘリウムのターラ姫」彼はいった。
彼女はむきなおって、彼を見た。驚きと信じられないような表情がその顔に浮かぶ。
「隊長《ドワール》、バル・ドール!」彼女は叫んだ。「ヘリウムのバル・ドール――父上の信頼する隊長のひとり! わたくしは自分の目を信じられないわ」
「バル・ドールです、王女」戦士は答えた。「きょうこのジェッタン競技場にいる黒軍の戦士はいずれもそうですが、わたしも必要とあらばあなたのために死ぬ覚悟であります。なおご承知ください、王女さま」彼はささやいた。「わが軍にはマナトールの男はひとりもおりません。全員みな、マナトールの敵です」
彼女は意味ありげな目をすばやくガハンに投げた。
「でもこの男は何者です?」とささやいたが、ふいにあっと息をのんだ。「わたくしとしたことが!」彼女は叫んだ。「彼の変装だということがたったいまわかったわ」
「それで彼を信用なさいますか?」バル・ドールがきいた。「わたしは彼を知りません。しかし、彼は名誉ある戦士らしい態度でりっぱに話しました。それでわれわれは、彼を言葉どおりに信用したのです」
「あなたはすこしもまちがっていません」ヘリウムのターラは答えた。「わたしは彼を生命にかけて信じます――心から。あなたも信用して大丈夫ですよ」
もしガソールのガハンがこの言葉を聞いたら、彼はどんなに幸福になれたことだろう。しかし運命はこうした問題について、恋人には不親切なのが常だが、いまもこの言葉を彼の耳には届けなかった。そのうちにゲームが開始した。
ユ・ドールは彼の王女《プリンセス》の将軍《オドワール》を斜め右方に三目移した。これでその駒は黒軍の王の将軍《オドワール》の行《ぎょう》の第七目に置かれた。この移動はユ・ドールが、どんな競技をするつもりでいるかを示している――それは技術よりも、血の競技だった――それは彼が相手を見くびっていることの表われである。
これに応じてガハンは自分の将軍《オドワール》の|放浪の戦士《パンサン》を、まっすぐ前方に一目進めた。これはいっそう技術的な移動であり、味方の|放浪の戦士《パンサン》たちの列を通りぬける進路を王自身のためにひらくばかりでなく、競技がさし迫って、どうしてもそうせざるを得なくなる前に、王みずから進んで剣を交えるつもりであることを、競技者や見物人たちに知らせるものであった。この移動で、一般の戦士やその妻たちがひかえている座席から、にぎやかな拍手がわいた。どうやらユ・ドールは彼らにあまり人気がないらしい。また、この移動は、ガハンの駒たちの士気によい効果をあたえた。王というものは、ほとんど一競技全体を通じて、自分の定位置を離れずに競技してもよいし、事実そういうことがしばしばある。王は定位置でソートにまたがって競技場全体を見わたしながらそれぞれの駒の動きを指図すればよいので、もし彼がそのような戦術を選んだとしても、勇気に欠けるといって非難されることはない。なぜなら、もし王が殺されたり競技からしりぞかざるをえないほどの重傷を負ったりすれば、彼の戦術の巧妙さや部下たちの武勇によって勝てたかもしれないゲームでも、ルールによって引きわけにされてしまうからだ。それゆえ、王がみずから戦闘に参加しようとすることは、彼が自分の剣技と勇気とに自信を持っていることを示すものである。このようにゲームの初期に、王がそうした二つの資質を示したことは、黒軍の競技者たちに希望をあたえ、勇気づける効果があった。
ユ・ドールはつぎの手でラン・オーの将軍《オドワール》をターラの将軍《オドワール》の行《ぎょう》の第四目に進めた――黒の女王を攻撃できる距離だ。もしオレンジ軍の将軍《オドワール》を打ち倒すか、ターラが安全な場所へ移動するかしなければ、競技はガハン側の負けになる。しかしいま彼の王女を異動させることは、オレンジ軍の優勢を認めることになる。ガハンに許された三目の移動では、ユ・ドールの王女の将軍《オドワール》によって占められている目に進出することはできない。黒軍側には、その目を敵と戦いうる競技者はたったひとりしかいなかった。それはガハンの左側に立っている王の将軍《オドワール》である。ガハンはソートの上でふりかえり、その男を見た。彼はすばらしい体格の男で、将軍《オドワール》の豪華|燦然《さんぜん》たる装具をつけ、濃く黒い髪には、彼の地位を示す五本の輝かしい羽毛が挑戦的につき立っている。競技場にいるあらゆる戦士、混雑した客席にいるあらゆる見物人と同様に、彼もまた王の心に浮かんだ考えを読みとったが、口をきこうとしなかった。ゲームのしきたりが、それを許さなかったからだ。しかし彼の目はくちびるが声として表わさないものを、火のような輝きで雄弁にものがたっていた。
「黒軍の誇りとわが王女の安全はわたしが確保します!」
ガハンは長いこと迷ってはいなかった。
「王の将軍《オドワール》は王女の将軍《オドワール》の行《ぎょう》の第四目へ!」と命令した。それは敵によって投じられた挑戦の手袋を取ってこれに応じた王の勇気ある移動だった。
戦士はおどりあがって前進し、ユ・ドールの駒が占めている目に跳びこんだ。それは、このゲームの最初の目の争奪戦である。競技者たちの瞳は戦っている両者に注がれ、見物人はまずその移動に称賛の拍手を送った後で、席から身をのり出した。沈黙が巨大な群集の上に落ちかかった。もし、黒軍が打ち負かされれば、ユ・ドールはヘリウムのターラが占めている目に、勝った駒を進めることができ、競技は終わってしまうだろう――四回の駒の移動で、ガソールのガハンは敗北するのだ。いっぽう、もしオレンジ軍が負ければ、ユ・ドールは彼のもっとも大切な駒を犠牲にすることになり、最初の移動で、彼がものにした利益を失う以上の犠牲をこうむることだろう。肉体的には、ふたりの男はまったく互角のようであり、どちらも自分の生命を賭けて戦っていたが、黒軍の将軍《オドワール》のほうが優れた剣士であることは、はじめから明らかだった。また、ガハンは黒軍の将軍《オドワール》が相手に対してもう一つの、おそらくいっそう大きな興味を持っていることを知っていた。敵の戦士はただ自分の生命のためにだけ戦っているので、騎士道や忠誠などによるはげましはない。いっぽう黒軍の将軍《オドワール》は、そうしたものばかりでなく、ガハンがゲームの前に競技者たちの耳にささやいたことによって、はげまされていた。そういうわけで彼は名誉を尊ぶ男にとって生命以上に大切なもののために戦っているのだ。
それはまさしく、観客がかたずをのむような決闘だった。からみあう剣は、さんさんたる陽光に反射し、相手のカットや突きを受け流すたびにチャリンと高く鳴りひびいた。ふたりの決闘者のけばけばしい皮のよろいは、烈しい戦闘の光景にあざやかな色どりをそえた。守勢に追いこまれたオレンジ軍の将軍《オドワール》は、死をまぬがれようとして、がむしゃらに戦っていた。黒の将軍《オドワール》は冷静で効果的に一歩一歩、相手を方眼のすみに追いつめていった――そこからはもう逃げようがない。その目を逃げだすことは、そこを敵に奪われることであり、逃げた者は観衆のあざけりを受けながら、ただちに不名誉な死を与えられるのだった。オレンジ軍の将軍《オドワール》は、絶体絶命の窮地に追いつめられたのに奮起して、突然はげしい攻撃に出た。そのため、黒軍の戦士は五、六歩後退せざるをえなくなった。と見るや、ユ・ドールの駒の剣がひらめいて、容赦のない黒軍の駒の肩先からはじめて血が流れた。ユ・ドールの戦士たちの口から、どっと激励の叫びが発した。オレンジ軍の将軍《オドワール》は、わずかの成功に気をよくして、すばやい攻撃で相手を圧倒しようとした。一瞬、二本の剣が目にもとまらぬ速さでひらめいたかと思うと、黒軍の将軍《オドワール》は相手のはげしい突きを電光のような速さで受けながし、それによってつくられた空間にすばやく身を乗りだしながら、オレンジ軍の将軍《オドワール》の心臓を剣で貫いた――相手のからだに柄元まで突きさして――。
観客席から期せずして歓声があがった。観衆がどちらをひいきにしていたにしても、これがみごとな決闘で、強いほうが勝ったのだということは、だれしもが認めないわけにはいかなかったからだ。黒軍の競技者たちは、数瞬の緊張から解放されて、安堵の溜息をついた。
競技の経過をことこまかに述べるのは、いたずらに読者を退屈させることになろう――競技の結果を理解するには、その要点だけで充分である。黒軍の将軍《オドワール》の勝利ののち、ガハンは第四手でユ・ドールの行の第四目に進出した。そのときにはオレンジ軍の|放浪の戦士《パンサン》が彼の斜め右隣りの目にいた。ガハンと交戦できる駒は、ユ・ドール自身を除けば、この駒しかいない。
それまでの二つの動きから見て、競技者に観衆にもわかっていたことだが、ガハンはまっすぐ敵陣に突入して、オレンジ軍の王と一騎打ちするつもりなのだった――つまり彼は自分の剣技の優越を信じて、それにすべてを賭けていた。なぜなら、ふたりの王が戦う場合は、その結果が競技の勝敗を決するからである。ユ・ドールとしては、進出してガハンと戦うこともできたし、自分の王女の|放浪の戦士《パンサン》をガハンの占める目に進出させることもできた。うまくすれば、その|放浪の戦士《パンサン》が黒軍の王をうち負かして競技を引きわけに終わらせるかもしれない。王以外の駒が相手の王を殺すと、引きわけになるのがルールである。またユ・ドールは一騎打ちを一時的に避けて逃げ去ることもできた。少なくとも彼がそうしようと考えたのはあきらかだった。その点は、彼が自分の周囲の盤面を見まわしているのを見たすべての者の目にははっきりわかった。しかしやがて、ユ・ドールは失望の色をありありと浮かべた。彼がガハンのつぎの動きでとどかないところへ逃げられないように、ガハンが位置を占めたことがわかったからだ。
ユ・ドールは、前に自分の王女が定位置でおびやかされたとき、彼女をガハンの東四目のところへ移しておいた。黒の王をそちらにひきつけて、自分からひきはなそうと望んだのだったが、その計画は成功しなかったのだ。そのうちに彼は自分の将軍《オドワール》をガハンと一騎打ちさせる手もあることに気がついた。しかし、すでにひとりの将軍《オドワール》を失っていたので、もういっぽうまでも失いたくなかった。彼の立場は微妙なものだった。なぜなら、ガハンと一騎打ちをしたくないのに、それを避けうる可能性がほとんどなさそうだったからだ。唯一の希望は、王女の|放浪の戦士《パンサン》にかかっていた。そこで彼はそれ以上迷わずに、その駒を黒の王が占めている目へ進出させた。
観衆の|ひいき《ヽヽヽ》は、いまやすべてガハンに集まっていた。もし彼が敗れれば、ゲームは引きわけを宣せられるだろう。バルスーム人も地球人同様、引きわけを歓迎しないのだ。もしガハンが勝てば、両王の決闘になることはまちがいない。全観衆がそうなることを期待していた。この競技は短時間で終わりそうなことが、すでにはっきりしていた。だから、たったふたりが殺されただけで引きわけにでもなったら、観衆は怒るだろう。たとえば記録に残っている歴史的な大競技では、競技開始当時、競技場にいた四十人の駒のうち、三人しか生き残らなかった例もあるのだ――ふたりの王女と、勝った側の王の三人しか。
観衆はユ・ドールをやじった。実のところ彼は自分で適当と思うように駒を動かしたのであって、けっして権限を踏みこえたわけではなく、彼が黒軍の王との決闘をこばんだことは、かならずしも卑怯《ひきょう》な行為とはいえない。彼は権威《けんい》ある族長だったが、奴隷女のターラを手に入れたいという気まぐれを起こしたのだ。奴隷や罪人やマナタージからきた無名の戦士などと決闘してもなんの名誉にもならないし、賞品もそうした危険をおかすにふさわしいほど価値があるとはいえなかった。
しかし、ガハンとオレンジ軍の|放浪の戦士《パンサン》との決闘はすでにはじまっており、つぎの動きは、ほかならぬ彼らふたりの手にゆだねられている。マナトール人たちはガソールのガハンが戦うのを見たのはこれがはじめてだったが、ヘリウムのターラは彼が剣の達人であることを知っていた。彼がオレンジ軍の戦士と剣をかわすや、彼女の目には誇らしげな光がやどった。もし彼にそれを見ることができたなら、それは自分がオ・タールの宮殿の地下室で彼女のくちびるを狂わしいキスでおおったときに火のような怒りと憎悪をきらめかしたあの目と同じものだろうか、といぶかしく思ったことだろう。彼女はガハンを見ながら、彼の剣技を二つの世界最大の剣士の剣技と比較せずにいられなかった――すなわちバルスームの大元帥であり、ヘリウムの王子であり、バージニア人である、彼女の父ジョン・カーターだ。そして彼女は、黒軍の王の剣技が父にまさるとも劣らぬことを知った。
オレンジ軍の王の行《ぎょう》の第四目の所属を決定した決闘は、短時間で簡《かん》にして要を得たものだった。観衆は決闘が少なくとも普通程度の長さはつづくものと予期していたが、すばやい剣さばきのまばゆいきらめきに思わず腰をうかしかけたと思うや、あっという間《ま》に決闘は終わっていた。彼らは黒の王が剣先を地につけて、ぱっと後退するのを見た。相手は指から剣をとりおとし、胸をつかんでひざをつき、うつぶせに倒れた。
ついで、ガソールのガハンは視線をかえして、三目むこうにいるマナトールのユ・ドールを直視した。三目は王の移動距離だった――一回の動きに、同じ目を二度通りさえしなければ、いずれの方向にも、また|組み合せ《コンビネーション》の方向にも三目進めるのである。観衆は、ガハンの意図を推察した。ガハンがオレンジ軍の王とのあいだにある目をゆっくり横切るのを見るや、立ちあがって声援を送った。
ロイヤル・ボックスにいる皇帝オ・タールは、この光景に眉をしかめた。オ・タールは怒っていた。ユ・ドールが、たかがひとりの奴隷女を手にいれるためにゲームに出場したことに腹を立てていたのだ。その奴隷女を、奴隷と囚人だけの賞品にしようと思っていたからだ。彼はまたマナタージから来た男にも腹を立てていた。その男が、マナトールの男たちより、はるかに戦術に勝り、はるかに戦闘がたくみだったからだ。皇帝は観衆にも腹を立てていた。彼らが長いこと彼の君寵《くんちょう》に浴《よく》してきた者にたいして、あからさまな敵意を示したからだった。皇帝《ジェダック》オ・タールはその日の午後のゲームが意にそわなかった。側近《そっきん》たちも同様に不機嫌だった――彼らもまた競技や競技者や観衆に立腹していたのだ。その中には、腰が曲がったしわだらけの老人がひとりいて、しょぼしょぼしたうるんだ目で競技場や競技者たちを眺めていた。
ガハンがユ・ドールの方眼にはいると、ユ・ドールは抜き身の剣をひっさげて、すさまじい勢いで襲いかかった。ガハンより技術も体力も劣った剣士なら、そのはげしさに圧倒されてしまっただろう。一分ほど、決闘は急速にはげしく展開した。これに比べれば、それまでの決闘はすべて問題にならないほどの大勝負である。事実、ふたりともすばらしい剣士だった。観衆がこれまで競技の短さをものたりなく思っていたとしても、この決闘は、そのものたりなさをおぎなってあまりあるにちがいない。決闘がいくらもつづかないうちに、多くの者が、いま自分たちはマナトールのジェッタンの歴史に残る名勝負に立ち会っているのだということを感じとった。ふたりは秘術《ひじゅつ》のかぎりをつくして戦った。おたがいが、しばしば相手に一撃を与え、その赤銅色の肌から血をほとばしらせた。やがて彼らのからだは赤く染まったが、どちらも相手に致命傷を与えることはできないようだった。
ヘリウムのターラは、競技場の反対側の端の定位置から、延々《えんえん》とつづく戦闘を見守っていた。彼女には黒の王がいつも守勢を持して戦っているように思われた。また、敵を圧倒しているように見えるときでも、彼女の熟練した目で見てとれる無数の|すき《ヽヽ》を見のがしているように思えた。ガハンがほんとうの危険にさらされたことは一度もないようだった。かといって、勝利に必要な決定的攻撃を加えようと努めているようにも見えなかった。決闘はすでに長いことつづき、日は暮れかけていた。やがて昼から夜への急激な移行が起こるだろう。これは、バルスームの空気が稀薄なために、地球のように、たそがれという現象をほとんどともなわないせいである。決闘はいつまでも終わらないのだろうか? ゲームは結局、引きわけを宣せられるのだろうか? なにが黒軍の王を悩ませているのだろう?
ターラは少なくとも第三の疑問に答えられればいいのにと思った。なぜなら、彼女は|放浪の戦士《パンサン》トゥランをよく知っていたから、彼が一見はでに戦っているようでありながら、その実、故意に実力を発揮していないということはまちがいなかったからだ。彼が臆病神にとりつかれたとは信じられない。ユ・ドールをもっとはげしく追いつめないのには、それができないというよりも、むしろ、なにかの理由があるにちがいない。しかしそれがなんであるのか、彼女には察しがつかなかった。
一度彼女はガハンが沈みかけた太陽のほうにすばやく視線を投げるのを見た。もう三十分もすれば暗くなるだろう。それから、彼女もほかの者も、黒の王の剣さばきに奇妙な変化が生じたのに気づいた。これまでのあいだずっと、彼はまるで剛勇の隊長《オドワール》ユ・ドールをもてあそんできたような観があったし、いまも依然としてもてあそんでいたが、そこには一つの変化が起きた。彼はいまや、肉食獣《にくしょくじゅう》がえものを殺す前にそれをもてあそぶみたいに、すさまじくもてあそびはじめたのだ。いまやオレンジ軍の王は、比較にならぬほどまさった剣士にほんろうされて、なすすべもない。一同が驚きと恐怖のあまり、口をあけて見ているうちに、ガソールのガハンは、敵をずたずたに斬りさき、最後の一撃で頭を顎《あご》まで断ち割って打ち倒した。
あと三十分もすれば、太陽は沈むだろう。だがそれがどうだというのか?
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十八 忠誠のつとめ
長い大歓声が、マナトールのジェッタン競技場の上に湧きあがった。塔の警備隊長はふたりの王女《プリンス》と勝利をえた王《チーフ》とに、競技場の中央に出るように命じ、王に武勇の報酬を与えた。それから慣習にしたがって、勝った側の競技者たちは、ガハンとふたりの王女を先頭にして塔の隊長のうしろに一列にしたがい、ロイヤル・ボックス前の勝利の場所に導かれていった。そこで、彼らは皇帝《ジェダック》の称賛を受けるのである。騎馬のものはソートから降りて奴隷たちの手に渡した。この儀式では、全員が徒歩にならねばならなかったからだ。ロイヤル・ボックスの真下には、トンネルの一つへ通じる門があり、それは観客席の下を通って、競技場の出入りに使われていた。一行はこの門の前で立ちどまり、オ・タールはそれを見おろした。バル・ドールとフローランは静かに、一同の前方に出て、まっすぐその門のところへ行った。ふたりは、オ・タールとともにボックスの中にいたひとびとからは見えなくなった。警備隊長はふたりに気づいてもよさそうなものだったが、勝利をえた王を皇帝《ジェダック》に紹介する手続きに専心したので、ふたりにはなんの注意も払わなかった。
「マナトールの皇帝《ジェダック》オ・タール陛下、わたしはマナタージのユ・カールを御前にともなってまいりました」できるだけ多くのひとびとに聞こえるように、隊長は大声で叫んだ。「彼はオ・タールの四百三十三年の皇帝競技会、第二ゲームにおいて、オレンジ軍に勝利をえたものであります。しかして、奴隷女のターラと奴隷女のラン・オーをともないました。これらの賞品をユ・カールに授与されますように」
彼がそういっている間《かん》に、ひとりの小柄な、しわだらけの老人が、ボックスの手すりから、衛兵のすぐうしろに立っている三人をじろじろと眺めていた。しょぼしょぼした、うるんだ目をけんめいに見張って、さして重要でもないことについて老人らしい好奇心を満足させようとしていた。皇帝《ジェダック》オ・タールといっしょの桟敷《さじき》にすわっている者にとっては、ふたりの奴隷女とマナタージからきた平《ひら》戦士などはもののかずでもなかったのだが。
「マナタージのユ・カールよ」オタールがいった。「なんじは賞品にあたいすることをなしとげた。われわれは、なんじのようなすばらしい剣さばきを見たことは、めったにない。なんじがマナタージに飽きたら、マナトールの都にはいつでも皇帝《ジェダック》親衛隊の地位が待っておるぞ」
皇帝が話しているあいだ、小柄な老人は、黒軍の王の顔をはっきり見わけられないのでポケットに手を入れて、ぶ厚いレンズの眼鏡を引き出し、それを鼻の上にのせた。すこしのあいだ彼はガハンをしげしげと見ていたが、やにわにとびあがると、ふるえる指先でガハンを示しながら、オ・タールになにか告げた。老人が腰をあげるや、ヘリウムのターラは黒軍の王の腕をとらえた。
「トゥラン!」彼女はささやいた。「あれはアイ・ゴスよ。わたくしが、オ・タールの地下室で突き殺したと思ったのに。アイ・ゴスよ、彼はおまえを知っているから、きっと――」
だが、アイ・ゴスがするだろうと思われたことは、すでに起こっていた。彼はしゃがれ声でせいいっぱい叫んだ。
「やつは奴隷のトゥランじゃ。玉座の広間から、この女ターラを奪った男ですぞ、オ・タール。やつは死んだ族長アイ・マルをはずかしめ、いまそのよろいを着ていますじゃ!」
たちまち、蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。戦士たちは剣を抜き放って迫って来た。ガハンの部下の、勝った競技者たちは一団となって前進し、塔の隊長をうち倒した。バル・ドールとフローランはロイヤル・ボックス下の門を開けはなしてトンネルを露出させた。トンネルは塔の下を抜けて街の大通りに通じている。ガハンは部下にとりかこまれながら、ターラとラン・オーを通路の中に引き込んだ。一行は退路を断たれる前にトンネルのむこう側の出口に行きつこうと先を急ぎ、まんまと成功した。一行が街に出たとき、太陽はすでに沈み、暗闇が訪れ、古めかしいうす暗い照明が陰になった通りに、青白い光を投げているだけであった。
いまにして、ヘリウムのターラは黒軍の王が、ユ・ドールとの決闘をひきのばした理由を察し、彼がほとんどいつでも望む瞬間に相手を殺せたことがわかった。ゲームの前に、ガハンが部下にささやいた計画の全貌は彼らによく徹底していた。その計画によると「敵の門」にむかって進み、そこで、マナトスの大|王《ジェド》ユ・ソールに味方することを申し出ることになっていた。彼らのほとんどはガソール人だし、ガハンはユ・ソールの妻の息子ア・コールが囚《とら》われている牢に、救出隊を導くこともできたので、ユ・ソールに拒絶されることはないものと信じていた。しかし万が一、拒絶されたとしても、彼らは一団となって、自由への道を進むつもりでいた。もし必要なら、「敵の門」にいるユ・ソールの軍勢の中をも切り開いて行くつもりだった――少数とはいえ、むこうは一つの軍勢であるのに対してこちらは二十人しかいなかったが、バルスームの戦士とはそのような気性なのだ。
彼らは、追手の物音が迫ってくる前に、ほとんど人気《ひとけ》のない通りをかなり進んで行った。すると、突然、ソートにまたがった十人あまりの戦士たちに、背後から追いつかれた――皇帝《ジェダック》親衛隊の分遣隊にちがいない。たちまち、路上には剣|戟《げき》の音、戦士の罵声、ソートのいななきなどが入りまじった。最初の衝突で、双方に死者がでた。ガハンの部下のうちふたりが倒れ、敵側では、乗り手を失った三頭のソートが損害の少なくとも一部を示していた。
ガハンはひとりの男を相手にしていたが、その男は彼を攻撃するために選抜されたものらしい。なぜならガハンにむかってまっすぐソートを進め、その途中で斬りかかってきた数人のものには目もくれずに、ガハンを斬り倒そうとかかって来たからだ。ガソール人は馬上の戦士と徒歩で戦う技術に長じていたので、相手のソートの左側、騎手より少し後方に回ろうとした。それが馬上の敵に対して多少とも有利になりうる唯一の位置だった。というより、馬上の騎士の有利さをもっと少なくするような位置だった。それと同じ意味で、マナトール人はガハンの意図を邪魔しようと努めた。こうして、敵はたけりたつ狂暴なソートを右に左にめぐらした。いっぽうガハンは、望ましい位置につこうとして、とびこんだりとびのいたりしながらも、たえず相手のガードのすきをねらっていた。
ふたりが地の利を争っているあいだに、ひとりの騎手が、かたわらをさっと駆け抜けて行った。と同時にガハンは警告の叫びを聞いた。
「トゥラン、つかまったわ!」彼の耳にヘリウムのターラの声がとどいた。
すばやく肩ごしにふりかえると、駆けていくソートに乗った男が、ソートの肩にターラを引きずりあげているのが見えた。ガソールのガハンは、悪魔のようなはげしさで相手の男にとびかかってソートから引きずり落とし、男が下に落ちるあいだに、鋭い剣の一撃でその首を肩から斬り落とした。死体が地面に触れるか触れないうちに、そのソートの背に、ガソール人はひらりとまたがり、遠ざかり行くターラと誘拐者のあとを追って、大通りを疾駆《しっく》していった。彼がえものを追って通りを駆け抜けていくうちに戦闘の音は背後に聞こえなくなった。その通りはオ・タールの王宮の前を通って、「敵の門」に通じている。
ガハンのソートは、ひとりしか乗せていなかったので、マナトール人のソートに追いすがり、王宮に近づいたときには、一〇〇メートルたらずのところまで迫っていた。だが敵がむきをかえて宮殿の大きな門の中に駆け込むのが見えたので、ガハンはぎくっとした。相手は、衛兵たちにちょっと止められただけで、すぐに門内に駆け込んで行った。ガハンはその時、相手に襲いかかる寸前だった。しかし、その男が明らかに衛兵たちに警告したのだろう、彼らは、ガハンをさえぎろうとしてとび出してきた。いや、ちがう! 敵はガハンが追ってきたことを知っているはずがない。ガハンが馬を奪うのを見ていたわけではないし、追跡者がそれほど早く来るとも思っていないだろうからだ。あの男が通れたのなら、ガハンも通れるだろう。なぜなら、彼はマナトール人の服装をしているではないか? ガソール人はすばやく頭を働かせてソートを止めると衛兵たちに門を通せと呼びかけた。「オ・タール陛下の使者だ!」衛兵たちは一瞬、ためらった。
「どけ!」ガハンはどなった。「皇帝《ジェダック》の使者が命令を伝達する権利を、ここで談判しなければならんのか?」
「それをだれに伝達するのか?」衛兵|士官《パドワール》がきいた。
「たったいま、ここにはいったものを見なかったか?」ガハンは叫んだ。そして返事も待たずに、ソートをうながして彼らのあいだをすりぬけ、宮殿の中に駆け込んだ。よくあることだが、衛兵たちがどう処置したものかと、とまどっている間《ま》に手の打ちようがなくなってしまったのである。
大理石の通路にそって、ガハンはソートを進めた。ターラがつれ去られた道がどれだか知っていたせいというよりは、この道を前に通ったことがあったおかげで、彼はオ・タールの「玉座の広間」に通じている通路をたどりながら、いくつもの部屋を過ぎて行った。二階へ出ると、ひとりの奴隷に出会った。
「女を前にのせている男はどの道を行った?」彼はたずねた。
奴隷は、三階に通じる近くの通路を指さした。そこでガハンは、急速に追って行った。それと同じ頃、ものすごい勢いで駆けてきた騎馬の男が、王宮に近づいて門前で馬を止めた。
「ソートに女を乗せた男を追ってきた戦士を見なかったか?」彼は衛兵にむかって叫んだ。
「それなら、たったいま中へはいった」士官《パドワール》が答えた。「オ・タール陛下の使者だといっていたが」
「まっかな嘘だ」男は叫んだ。「やつは奴隷のトゥラン、二日前に『玉座の広間』から女を盗み出した男だ。宮殿に警報をだせ! やつをつかまえねばならぬ。できれば生かしてな。陛下のご命令だ」
たちまち、戦士たちはガソール人を捜索するために、また、王宮の仲間にも捜索の警告を発するために散って行った。競技のせいで、巨大な建物の中には、比較的少数の戦士がいるだけだったが、知らせを受けると、ただちに捜索にむかった。こうして間《ま》もなく、少なくとも五十人ほどの戦士が、オ・タールの王宮の無数の部屋や通路を捜しはじめた。
ソートで三階に駆け登るや、ガハンははるか前方の通路の角に敵のソートの後四半分が見えなくなるのをちらっと目にした。彼はソートをうながして、すばやく追いすがり、その角を曲がった。が、見えたのは、人気《ひとけ》のない通路だけだった。彼はこの通路に沿って急ぎ、通路のむこう端近くで四階への通路を見つけた。それをたどって上に登る。ここで、彼は目指す相手に追いついたことを知った。男は四〇メートルほど前方の入口へ、まさに折れるところだ。ガハンがその入口に達したとき、その戦士がソートから降り、ターラを部屋のむこう端にある小さなドアのほうへ引きずって行くのが見えた。と同時に、背後から装具のがちゃがちゃいう音がしたのでふりかえると、彼がたったいま通ってきた通路に沿って、三人の戦士が徒歩で駆けてくる。ガハンはソートからとび降りると、部屋の中にとび込んだ。ターラが、自分を捕えている男の手からのがれようとして、身をもがいている。彼はドアをうしろ手にばたんと締めると、大きなかんぬきをおろした。それから剣を抜き、マナトール人と剣を交えようと部屋を横切って行った。こうして追いつめられた男は、ガハンに大声で止まれと呼びかけ、同時に、ターラのからだを腕いっぱいにつき出し、彼女の心臓に短剣の先をつきつけた。
「止まれ! さもないと、この女は死ぬぞ。それがオ・タールのご命令なのだ。この女を、またおまえの手に渡すよりましだからな」
ガハンは立ちどまった。ターラと彼女を捕えている男からほんの一メートルしか離れていない。だが、彼女を助けるわけにいかなかった。男はターラを引きずりながら背後に開いた戸口にむかってゆっくり後退して行く。彼女は身をもがいて争った。だが戦士はたくましい男で、うしろから彼女の装具をつかんでいるので、彼女は手も足もでない状態だった。
「助けて、トゥラン!」彼女は叫んだ。「死よりも悪い運命に、わたくしを引きずっていかせないで。勇敢な友を目のあたりにして今死ぬほうが、あとで単身敵の中で名誉を守って戦いながら死ぬよりましだわ」
ガハンは一歩近づいた。戦士はその剣を、王女の柔らかくなめらかな肌に近づけて、おどすふりをした。ガハンは足を止めた。
「できません、ヘリウムのターラ」彼は叫んだ。「わたしが気弱いのを、お許しください――わたしはあなたが殺されるのを見るにしのびない。あまりにもあなたを愛しているからです。ヘリウムのご息女よ」
マナトールの戦士は、してやったりとほくそ笑みながらじりじり後退した。彼がほとんど戸口に達したとき、ガハンはターラが連れ込まれて行く部屋のほうから、もうひとりの戦士が出現するのを見た――その男は静かに、ほとんどしのび足で大理石の床を横切って、ターラを捕えている男の背後へ近づいてくる。右手には、長剣を握っていた。
「二対一だ」とガハンは答えた。そしてにがにがしい微笑をくちびるに浮かべた。ふたりはターラを次の部屋に安全に押しこめてから、彼に立ちむかってくるにちがいない。もし彼がターラを救出できないとしても、少なくとも彼女のために死ぬことはできる。
そのとき、突然、ガハンは驚きの目を見はり、ターラを捕えて無理やりに戸口につれて行こうとほくそ笑んでいる男の背後にいる戦士の姿を凝視した。新来の男はほとんど相手のすぐそばまで迫っていた。その男が止まるのがガハンに見えた。顔には、烈しい憎悪の表情が浮かんでいる。その男の長剣が大きな半円を描き、それを握った腕の鋼鉄のような筋肉に支えられて、剣自体の重量から、急速な激しいはずみがつけられた。長剣はマナトール人の羽飾りをつけた頭を断ち割り、せせら笑いを二つに裂き、胸骨の真中まで両断した。
殺された男のターラの手首を握っていた手がゆるむと、彼女はうしろも見ずに、ガハンのかたわらに駆けよった。彼は左腕をターラにまわしたが、彼女は身を引こうとはしなかった。ガソール人は剣をかまえて運命の次の命令を待った。彼らの前では、ターラを救った男が、倒した相手の髪で剣の血をぬぐっている。まぎれもないマナトール人で、服装は皇帝《ジェダック》親衛隊のものである。だから、彼の行動は、ガハンにもターラにも、説明がつかなかった。すると男は剣を鞘《さや》におさめて、ふたりのほうへ近づいた。
「人間が偽名のかげに正体をかくそうとするとき」と男は口をひらいてガハンの目をまっすぐに見た。「その虚像《きょぞう》を見破った友が相手の秘密をあばいたとすれば、そのような友は真の友ではありませぬ」
彼は返事を待つように、立ちどまった。
「きみの誠実は不変の真実を見抜き、きみのくちびるはそれを告げた」ガハンは答えた。彼の心は、この男の暗示が真実でありうるかどうかという疑惑にみたされていた――このマナトール人は彼の正体をはたして見破ったのだろうか?
「ではわれわれは意見が一致しましたな」その男はいった。「わたしはここではア・ソールで通っているが、本当の名前はタソールというのです」そこで言葉を切り、ガハンの顔をじっと見つめて、この告白の反応を見ようとした。ガハンの顔には、はっとしたような、しかし警戒気味の表情が、たちどころに浮かんだ。
タソールだと! 彼の若い頃の友人ではないか。ガソールの大貴族の息子だったのだ。その父は、ガハンの父を、暗殺者たちの短剣から守るために、空しくも名誉ある死をとげたのである。そのタソールがマナトールの皇帝《ジェダック》、オ・タールの親衛隊の下士官とは! 考えられぬことだ――が、確かに彼だ。それは疑いの余地もない。
「タソール」ガハンは大声でくりかえした。「それはマナトール人の名前ではないな」彼の言葉はなかば、問いかけているようだった。ガハンは好奇心をかきたてられていた。自分の友人で忠実な臣下が、どういうわけでマナトール人になりすましているか、そのわけを知りたいと思った。タソールが王女のハジヤやほかの家臣と同じように、不可解な失踪《しっそう》をしてから、すでに長い年月が過ぎている。ガソールの王《ジェド》は長いこと、彼が死んだものとばかり思っていたのだ。
「そうです」タソールは答えた。「マナトール人の名前ではありません。おいでなさい。王宮の、ひとがすんでいない部分のどこか放置されている部屋に、あなたがたのかくれ場所をさがしましょう。そして歩きながら、どうしてガソール人のタソールが、マナトール人のア・ソールになったのか、そのいきさつを手短かにお話ししましょう」
「事件が起こったのは、十人ばかりの部下の戦士を連れて、群れをはなれたジティダールを捜しに、ガソールの西の国境にそってソートを駆っていたときでした。われわれは多数のマナトール人の一団に襲われ、包囲されてしまったのです。彼らは、われわれを圧倒しました。もっとも、それまでには、われわれの半数が殺され、残ったものも負傷のために動きがとれなくなったのですが。こうしてわたしは囚人として、マナトールの辺境都市マナタージに送られ、そこで奴隷に売られたのです。わたしを買ったのは女でした――マナタージの王女で、その財産と地位は市で並ぶものがないほどでした。彼女はわたしを愛しました。そして彼女の夫が妻の浮気を発見するや、彼女はわたしに夫を殺すように訴えたのです。わたしがそれを拒むと、彼女は別の男を雇って夫を殺させてしまいました。そして、わたしと結婚したのです。ですが、マナタージでは、だれも彼女を相手にしなくなりました。世間では彼女が夫殺しの罪をおかしたのではないかと疑っていたからです。そこで、われわれは、彼女のおびただしい家財や宝石や、貴金属を運ぶ大隊商をつれて、マナタージからマナトスへ向けて出発しました。その途上で、彼女とわたしとが死んだという、噂をひろめさせて、その実マナトールに来たのです。彼女は新しい名前を名のり、わたしもア・ソールという名前にして、名前から身元がばれないようにしました。妻は莫大な財産の力で、わたしに皇帝《ジェダック》の親衛隊の地位を買収してくれました。だれもわたしがマナトール人ではないことを知りません。というのは、妻が死んでしまったからです。美人でしたが、悪魔のような女でしたよ」
「で、きみは故国にもどろうとはしなかったのか?」ガハンはたずねた。
「帰りたいという希望は、心中から消えたことはありませんし、逃亡計画を心にいだかなかったこともありません。昼となく、夜となく、そのことを夢みています。ですが、いつも同じ結論にもどってしまうのです――逃亡の手段はただ一つしかない。運よく、ガソールへの略奪隊の一員に加えられるまで、待たねばならないのです。ひとたび、わが故国の国境内にはいれば、わたしは二度と彼らに顔を合わせることはありますまい」
「おそらく、その幸運はすでにきみの手がとどくところにあるだろう」ガハンはいった。「もしも祖国の王《ジェド》に対するきみの忠誠が、長いことマナトール人と交わってきたことによっておのずとそこなわれていなければのことだが」彼の言葉は半ば挑戦的だった。
「わたしの王《ジェド》は、たったいま目の前に立っていました」タソールは叫んだ。「わたしは彼の信頼にそむくことなく誓約《せいやく》できるのです。彼の足下にわたしの剣を捧げ、わたしの父が父王のために死んだように、彼のために死ぬ高貴な特権を願うものです」
彼の誠意も、ガハンの正体を知っていることも、いまや疑いの余地はなかった。ガソールの王《ジェド》は微笑した。
「もしもきみの王《ジェド》がここにいあわせたら、きみの才知と武勇を、ヘリウムのターラ王女の救出のために捧げるように命ずるにちがいない」彼は意味ありげにいった。「そしてもしきみの王《ジェド》が、わたしがここに捕えられているあいだに知ったことを自分で知ったとすれば、きみにこういうだろう。『タソールよ、ガソールのハジヤの息子、ア・コールが捕えられている地下牢へ行け。そして彼を解き放ち、彼と協力して、ガソールからきた奴隷たちを決起《けっき》せしめ、『敵の門』へ進撃せよ。そこで、マナタージの大王ユ・ソールに加勢を申し出るのだ。彼はガソールのハジヤの夫だ。そして、交換条件として彼がオ・タールの王宮を攻撃して、ヘリウムのターラを救い出すように、また、それらのことが成功したあかつきには、ガソール人の奴隷たちを自由にし、彼らに武器と故国に帰る便宜《べんぎ》を提供するように求めよ』とな。ガソールのタソールよ、きみの王《ジェド》ガハンはこうしたことをきみに命ずることだろう」
「奴隷のトゥラン、わたしは、ヘリウムのターラとその|放浪の戦士《パンサン》の安全なかくれ場所をさがしてのち、そのことを達成するために全力をつくします」タソールは答えた。
ガハンの視線は、タソールに彼の王《ジェド》が暗黙裏に感謝の意を表していることを知らせた。タソールの心は自分に要求されたことをなしとげるか、さもなくば死のうという騎士らしい決意でいっぱいになった。なぜなら、彼は自分の敬愛する支配者の口からきわめて重大な使命を与えられたと考えたからである。その使命は、ガハンとターラの生命ばかりでなく、ガソールの幸福と、おそらくはその全未来までも包含《ほうがん》した責任を、彼の双肩にになわせるものだった。そこで彼はふたりを導いて古びた王宮のかびくさい通路を先へ急いだ。そこには幾星霜のあいだの塵がだれにも乱されずに、大理石のタイルの上につもっている。あちらこちらとドアをためしていくうちに錠のおりていないドアが見つかった。タソールはドアを開け、ふたりを、塵の厚くつもった部屋へ押しこんだ。壁にはぼろぼろになった絹と毛皮が、古びた武器とともにかかっていた。壁面には大きな絵が描かれていたが、その色彩は年を経た結果、すばらしく柔らいだ色調にぼかされている。
「どうやら、ここが一番よさそうです」彼はいった。「ここへならだれも来ません。わたしもこれまで来たことがありません。ですから、ほかの部屋については、あなたがたと同様知らないのです。しかし少なくとも、この部屋なら、あなたがたに食物や飲物を運んできたとき、また見つけられます。宮殿のこの部分は残虐|皇帝《ジェダック》オ・マイが在世中に住んでいたのです。オ・タールから五千年ほど前のことです。これらの部屋の一つで、彼は死体となって発見されました。彼の顔は大変な恐怖にゆがんでいて、その顔を見たものは気が狂ってしまったほどでしたが、からだには暴力を加えられたあとはありませんでした。そののち、オ・マイの住んでいた区域は、世人から敬遠されるようになりました。悪魔《コーファル》の霊が邪悪な皇帝《ジェダック》の霊を夜な夜な部屋から部屋へと追いまわし、それらが悲鳴やうめき声をあげるという伝説が生まれたからです。しかし」と彼は、ふたりの相手と同様に、自分も安心させるかのように、つけ加えた。「こんなことはガソールやヘリウムの常識では認められませんな」
ガハンは笑った。
「もし彼の死顔を見かけた者がみな狂人になってしまったとすれば、皇帝《ジェダック》の葬儀《そうぎ》をしたり、彼の死体を整えたのはだれなのだ?」
「だれもいなかったのです」タソールが答えた。「死体は見つけられた場所に、おきっぱなしにされ、今日にいたるまで彼の朽ちはてた骨は、この禁断のつづき部屋の忘れられた一室に横たわっているのです」
タソールは彼らをそこに残して去るとき、なるべく早い機会に、ア・コールと話すように努力し、また明日になったら、ふたりに食料と飲み水を運んでくると約束した。
[#ここから1字下げ]
〔原注 このシリーズの最初の本、「火星のプリンセス」の中で、緑色火星人についての、ジョン・カーターの記述を読んだ読者は、こうした奇妙な人間が、飲まず、食わずでも、かなりの期間、生きながらえることができることを思い出すだろう。そしてこのことはすべての火星人について、程度の差こそあれ、同じようにあてはまるのである〕
[#ここで字下げ終わり]
タソールが立ち去ると、ターラはガハンのほうにむきなおって近づき、手を彼の腕においた。
「わたくしが、あなたの変装に気づいてから、いろいろのことが目まぐるしく起きたので、あなたに感謝する機会がありませんでした。あなたの勇気はわたくしの心に、あなたにたいする高い尊敬の念をよび起こしました。いまここにわたくしの感謝の意を述べさせてください。もし、生命と自由が重大な危険にさらされているものの約束がむだでないならば、ヘリウムにいる、わたくしの父の手の中で多大な報酬があなたを待っていることを約束しましょう」
「わたしは報酬をのぞみません」彼は答えた。「わたしがのぞむのはただ、わたしの愛する女性が幸福であることを知ることだけです」
一瞬、ヘリウムのターラは、高慢に背をそらし、きらっと目を輝かせたが、やがて目つきや態度をやわらげながら悲しげに首をふった。
「わたくしは、あなたを叱りつけようとは思いません。トゥラン。あなたの欠点がどれほど大きいとしてもね。なぜなら、あなたはヘリウムのターラの誇り高く、忠誠な友人なのですもの。でもあなたは、わたくしが聞いてはならぬようなことを口にしてはなりません」
「とおっしゃる意味は」と彼はたずねた。「王女は|放浪の戦士《パンサン》の求愛の言葉を聞いてはならないということですか?」
「そうではありません。トゥラン」彼女は答えた。「でも、婚約者以外の男からは愛の言葉を聞かないほうが、名誉のためによいのです――婚約者というのは、同国人ジョール・カントスです」
「ではあなたのおっしゃる意味は、ヘリウムのターラ」彼は叫んだ。「そのことさえなければあなたはすすんで――」
「やめて!」彼女は命じた。「あなたには、わたくしのくちびるがいった以外のことを推測する権利はありません」
「目はしばしばくちびるよりも物をいうものですよ。ターラ」彼は答えた。「あなたの目の中に、わたしが見たものは、|放浪の戦士《パンサン》のトゥランに対する憎悪《ぞうお》でも侮辱《ぶじょく》でもありません。それで、わたくしは内心で思ったのです。あなたが怒って『あなたなんて大嫌い!』と叫んだとき、あなたのくちびるは虚偽《きょぎ》の証言をしたのだと」
「わたくしはあなたを嫌いではありません。トゥラン、でも愛してもいないでしょう」彼女はあっさりいった。
「わたしがアイ・ゴスの部屋からとび出したときは、あなたが本当にわたしを嫌っておられると信じかけました」彼はいった。「あなたがわたしを助けるためになんの努力もしないで立ち去ったという事実は、あなたがわたしを嫌っているせいとしか思えなかったのです。しかしやがて、わたしの感情も理性もわたしに告げました。ヘリウムのターラは危険におちた友を見すてたりするはずがないと。ですから、わたしはまだ事実を知りませんが、あのときわたしを助けることは、あなたの手におえなかったのだとわかっています」
「そのとおりよ。アイ・ゴスがわたくしの短剣に刺されて倒れるか倒れないうちに、戦士たちが近づいてくる足音が聞こえました。わたくしは戦士たちが行きすぎるまで身を隠そうとして駆けだしました。後でもどって、あなたを助けようと思っていたのよ。でも、物音を聞きつけた連中をさけようとして、別の一隊の腕の中にとび込んでしまったのです。彼らは、あなたがどこにいるかと尋問したわ。それでわたくしはあなたがずっと先に行って、いまあなたのあとを追っているところだ、と答えて彼らをあなたからひきはなしたのよ」
「わかっていました」それがガハンの唯一の答えだった。だが、彼の心は歓喜にあふれていた。恋におちた男が、神のような愛人のくちびるから、関心と誠実のあかしを聞かされれば、だれでもそうなるにきまっている。無視されるくらいなら愛人から非難されることのほうが、まだ、ましなのだ。
ふたりはうす暗い部屋の中で話をしていた。にぶい照明球は数世紀のあいだにつもった塵《ちり》で覆われていた。そのとき、腰の曲がった弱々しい人影が、ゆっくりとうす暗い外の廊下を横切って行った。しょぼしょぼしたうるんだ目は、ぶ厚いレンズ越しに、ほこりっぽい床の上に印された足跡をたどっている。
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十九 死者の恐怖
まだ宵の口だったが、男がひとり宴会の大広間の入口にやって来た。そこでは、マナトールの皇帝オ・タールが部下の族長たちと食事をとっていた。男は衛兵たちのそばをすりぬけると、特権のある人間特有の横柄さで、大広間にはいった。事実、彼はそういう人間なのだ。彼が長い卓の端に近づくと、オ・タールは気がついて、声をかけた。
「おお、老人よ! きょうはまたなにゆえに、おまえの気に入りの、くさい地下穴から出てまいったのか? おまえが競技会でたくさんの生きた人間を見て閉口し、早いとこ地下の死体のところへもどっていったとばかり思っていたが」
アイ・ゴスはかん高い笑い声をたてて、皇帝のたわむれに答えた。
「なんの、なんの、オ・タール陛下」老人はきしるような声でいった。「アイ・ゴスは楽しみにまいったのではありませぬ。じゃが、アイ・ゴスが作った死者を無体《むたい》にけがしたやつには、復讐せずばなりませぬわい!」
「おまえは奴隷のトゥランの所業をいっているのか?」オ・タールがきいた。
「トゥラン、そうですじゃ。それと奴隷女ターラ。あの女はわしをおそろしい剣で突き刺しおった。もう一インチよったところを刺されていたら、オ・タールよ、このアイ・ゴスの老いた、しわぶかい肌は、いまごろ、徒弟の剥製師の手に渡っていたことでしょうて、やれ、やれ!」
「しかし、やつらはまた逃げおったのだ」オ・タールが叫んだ。「偉大な皇帝《ジェダック》の王宮の中ででさえ、やつらはまぬけな衛兵どもから二度も逃げ出したのだ」オ・タールは立ちあがり、黄金の酒杯でテーブルをはげしくたたき、腹立たしげに自分の言葉を強調した。
「なんの、オ・タール。やつらは陛下の親衛隊の手からは逃げましたが、この賢明な老いぼれ犬《キャロット》のアイ・ゴスからは逃げられませぬて」
「それはどういう意味だ? 話してみろ」オ・タールが命じた。
「わしはやつらがかくれている場所を知っていますわい」老剥製師はいった。「通る者のない廊下の塵の中に、やつらの足跡が残っておりましてな」
「おまえはやつらの後をつけたのか? やつらを見たのか?」皇帝《ジェダック》がたずねた。
「わしはやつらの後をつけ、閉まったドアごしにやつらが話してるのを聞きました」アイ・ゴスは答えた。「だが、見たわけではありませぬ」
「そのドアはどこだ?」オ・タールがどなった。「すぐに戦士をやって、やつらをひっ捕えよう」彼はだれにこの任務をゆだねたものか、それを決めようとするかのようにテーブルのまわりを見まわした。十人あまりの族長が立ちあがり、その手を各自の剣の上にのせた。
「わしがつきとめたのは、残虐|皇帝《ジェダック》オ・マイの部屋じゃ」アイ・ゴスがきしり声でいった。「うめき声をあげる悪魔《コーファル》が、泣きわめくオ・マイの亡霊を追いまわしているあの場所で、あんたがたはやつらを見つけるだろうて、やれやれ」彼はオ・タールから目を離すと、立ちあがっていた戦士たちを眺めたが、彼らはひとり残らずあわてて席にもどってしまった。
しんとした部屋の中に、アイ・ゴスのかん高い笑い声があざけるように響きわたった。戦士たちは黄金の皿の上の食物をおずおずと眺めた。オ・タールはじれったそうに指を鳴らした。
「マナトールの族長らは、どいつもこいつもみな腰抜けぞろいなのか?」彼はどなりちらした。
「あのあつかましい奴隷どもは、再度にわたっておまえらの皇帝《ジェダック》の威光に泥をぬった。それなのに、やつらをつかまえに行くものを余から指名しなければならぬのか?」
ひとりの族長がおもむろに立ちあがると、ほかのふたりがそれにならった。しかし、彼らの顔には気がすすまない様子が、ありありと出ている。
「では、みながみな臆病者というわけではなかったな」オ・タールがいった。「しかし、この任務は楽しいものではない。だから三人で、望むだけ多くの戦士を率いて行け」
「だが、志願者をつのってはいけませんぞ」アイ・ゴスがさえぎった。「さもないと、あんたたちだけで行くことになるじゃろう」
三人の族長は背をむけると、死刑を宣告された男たちのように、すごすごと宴会の広間から去って行った。
ガハンとターラは、タソールが案内してくれた部屋に残っていた。男は深くすわり心地のいいベンチの上の厚いほこりを払って、少しは楽に休めるようにした。彼は古びた寝具用の絹と毛皮をさがし出したが、すっかりいたんでいて、使えるどころではなく、ちょっと触っただけでこなごなになり、彼女のために楽なベッドをこしらえてやるわけにもゆかなかった。そこでふたりは一緒に腰をおろし、低い声で、ふたりがきり抜けてきた冒険と、これからの見通しなどを語りあった。そして脱出の方法を計画しながら、タソールが早く来てくれたらよいがと思っていた。ふたりはいろいろのことを話しあった――ハストールのこと、ヘリウムのこと、プタースのことなど。そうして話しているうちに、ターラはガソールのことを思い出した。
「あなたはガソールにつかえたことがあって?」彼女がたずねた。
「あります」トゥランが答えた。
「わたくしは父の王宮で、ガソールの王《ジェド》、ガハンに会いました。嵐がわたくしをヘリウムから連れさった、ちょうど前日のことよ――彼は白金とダイヤモンドでぴかぴか飾りたてた無遠慮な男でした。これまでに彼ほど豪華なよろいを身につけた男を見たことがないわ。あなたはきっとよく知っているでしょうが、トゥラン、ヘリウムの宮廷には全バルスームの貴顕《きけん》がやってくるのです。でも、死に臨む戦闘で、あのようにきらびやかに飾りたてた男が、あのように宝石をちりばめた剣を引き抜いて勇ましく戦うことは想像できません。ガソールの王《ジェド》は大変美しい外見の男でしたが、彼とても例外ではないでしょう」
ターラはうす暗い火からの中で、半ばそらされた男の顔が、ゆがむのに気がつかなかった。
「あなたはガソールの王《ジェド》のことを、そのとき問題にされなかったのですか?」彼がきいた。
「そのときも、いまもよ」彼女はみじかく笑った。「もし彼が知れば、さぞ虚栄心を傷つけられるでしょうが、ヘリウムのターラの評価では、ひとりの貧しい|放浪の戦士《パンサン》のほうが、彼より高い地位を与えられているのです」そして彼女はその手を、静かに彼のひざにのせた。
彼はその手を自分の手で握りしめ、くちびるにもっていった。
「おお、ヘリウムのターラ」彼は叫んだ。「あなたは、この身を木石とお考えですか?」彼は片腕を彼女の肩にまわし、従順なからだを引きよせた。
「祖先の霊よ、わたくしの心の弱さをお許しください」彼女はそう叫ぶと、腕を彼の首にまわし、熱くあえぐくちびるを彼のくちびるに近づけた。長いこと、ふたりはかたく抱きあって、はじめての愛の接吻を交していたが、やがて、彼女は静かに彼を押しやった。
「あなたを愛しているわ、トゥラン」彼女は半ば、すすり泣くようにいった。「とても愛しているわ! ジョール・カントスに、このような罪をおかしたことに対するわたくしのみじめないいわけは、それしかありません。いまわたくしは自分が彼を愛したことがないのを知りました。彼も愛の意味を知らなかったのです。もしあなたが言葉どおりわたくしを愛しているならば、トゥラン、あなたの愛はわたくしを、よりいっそう大きな不名誉から守ってくれるにちがいありません。なぜならわたくしは、あなたの腕の中に抱かれると、粘土のように抵抗できなくなってしまうのですから」
彼はまた彼女をつよく抱きしめたが、ふいに彼女を離して立ちあがると、早足に、部屋の中をあちらこちらと歩きまわった。まるで彼の身にとりついて離れない、なにかの悪魔をはげしい動きによって押さえつけようと努めているかのようだった。彼女のいった言葉は歓びの賛歌のように、彼の頭や、心の中にひびきわたり、ガソールのガハンの世界を一変させてしまったのだ。「あなたを愛しているわ、トゥラン。とても愛しているわ!」しかもその言葉は、あまりにも唐突にもたらされたのだ。彼はいままで、ターラが、彼の忠誠に感謝しているだけのことだと考えていた。ところが、あっというまに彼女の防壁はくずれてしまった。彼女はもはや王女ではなかった。そうではなく、ただの――しかし、彼のもの思いは、閉まったドアのむこう側から聞こえてくる音でさえぎられた。彼のジティダールの皮靴は、大理石の床の上でなんの物音もたてていなかったのだ。いそぎ足で、戸口に近づくと、長い廊下のむこうから金属と金属がぶつかりあう音がかすかに聞こえてくる――まぎれもなく、武装戦士たちが近づいて来ることを示す音である。
ガハンはしばしドアに身をよせて、注意ぶかく耳をすませていた。一団の戦士が近づいてくるのにまちがいない。タソールが彼に話したことから察して、彼らがこの区域にやって来る目的は一つしか考えられない――つまりターラと彼を捜索にきたのだ――だから、彼としては敵から逃げる算段をすぐに講じなければならなかった。ふたりがいる部屋には、彼らがはいったドアのほかにいくつかのドアがあった。その一つをたよりに、もっと安全なかくれ場所をさがさねばならない。ターラのもとへもどると、彼は危険が迫ったらしいことを話して、錠がおりていないドアの一つに、彼女を伴った。そのむこうには、うす暗く照らされた部屋があったが、ふたりはその入口で、ぎょっとして立ちどまり、たったいま出てきたばかりの部屋にいそいでもどった。ちらりとのぞいただけで、四人の戦士がジェッタン盤のまわりにすわっているのが見えたからだ。
ふたりがはいったのを気づかれなかったのは、ふたりの競技者とほかのふたりの友人が、ゲームにすっかり気を取られていたせいだと、ガハンには思われた。ふたりの逃亡者は静かにドアを閉ざし、こっそり次のドアへ行ったが、それには錠がおりていた。いまやふたりがためさなかったドアはほかに一つしかない。それにすばやく近づいた。追手がこの部屋に迫っているにちがいないと思われたからだ。困ったことに、この逃げ道にも錠がおりていた。
まさに進退きわまるとは、このことだ。追手がこの部屋にふたりのいることを知っているとすれば、万事休す。そこで彼はまたターラをジェッタンに興じている男たちがむこうにいるドアに連れて行き、剣を抜いて、聞き耳を立てながら待った。廊下を近づく一団の足音が、はっきりとふたりの耳に聞こえてきた――彼らはすぐ近くまで来ているにちがいない。しかも、まぎれもなく、大勢だ。ドアのむこうには、四人の戦士しかいないし、容易に不意打ちをかけられそうだった。そうとすれば、なすべきことは、唯一つ。そこでガハンはドアをまた静かに開け、ターラの手をとって次の部屋にふみこみ、うしろ手にドアを閉めた。ジェッタン盤で遊んでいる四人の男は、どうやらその音に気づかなかったようだ。ひとりの競技者はたったいま駒を動かしたところか、次の手を考えているところらしかった。なぜなら、その男の指は、まだ盤の上に乗ったままの駒をつまんでいたからだ。一瞬、ガハンはこのうす暗い、忘れられた禁断の部屋でジェッタンをして遊んでいる者たちを見つめたが、やがてその顔に徐々に微笑が拡がった。わけがわかったのだ。
「おいでなさい!」彼はターラにいった。「少しも恐れることはありません。五千年以上のあいだ、彼らはこうしてすわってきたのです。これは昔の剥製師の技術の記念碑の一つです」
ふたりがさらに近づいてみると、彼らの生きているような指がほこりでおおわれているのが見えた。しかし、その他の点では彼らの肌はアイ・ゴスの作った最近のものと同様に、ほとんど完全な状態で保存されていた。そのとき、彼らがたったいま出てきたばかりの部屋のドアが開くのが聞こえ、追手が近づいて来たのがわかった。部屋のむこうに廊下の口のようなものが見えたので、調べてみると短い通路だった。通路のつき当たりの部屋の真中には、飾りたてた寝台があった。この部屋も、ほかの部屋と同様に、うす暗い。照明球の放射能が時間の経過によって弱まり、さらに球がほこりでおおわれてしまったせいである。一瞥《いちべつ》すると、部屋にはどっしりした壁布がつるされ、寝台のほかにも、ずっしりした寝具が置いてあるのがわかった。寝台をもっとよく見ると、人間のような形をしたものが一部を床に、一部を寝台にのせて横たわっているのがわかった。部屋には、彼らがはいってきた戸口しか見えない。が、ふたりは、ほかの戸口が壁布のかげになって見えないのだろうと思った。
ガハンは、王宮のこの区域にまつわる伝説によって好奇心をかきたてられていたので、寝台に歩みより、その姿を調べてみた。それは寝台からころげ落ちたものらしく、乾燥し、しなびた男の死体で、床にあおむけに倒れ、両手をつきだし、指をこわばったようにひろげている。片方の足は、一部分、からだの下にかさなり、もういっぽうの足は、まだ寝台の上の絹と毛皮の寝具にからまっている。五千年もたっているのに、しなびた顔や眼球のない眼窩《がんか》の表情は、まだ当時のはげしい恐怖の色をまざまざとのこしていた。ガハンはこれが、残虐|皇帝《ジェダック》オ・マイの死体であることを悟った。
突然、かたわらに立っていたターラが彼の腕にすがりつき、部屋のむこう隅を指さした。ガハンもそのほうを見やり、見ているうちに、首すじの毛がさかだつのを感じた。彼は左腕をターラのからだにまわし、抜き身を手にして彼女と目の前の壁布のあいだに立ちふさがった。それから、じりじりと後退した。なぜなら、この無気味で陰気な部屋には、五千年のあいだだれひとりとして足をふみいれた者はなく、そよとの風も吹き込むはずがないのに、むこう隅の重い壁布が動いたからだ。かりにすきま風が吹き込んだとしても、壁布はすきま風に動かされるように静かに動いたのではなく、突然、うしろから押されたときのように突きだしたのだ。ガハンは部屋の反対の隅までひきさがり、そこの壁布を背にして立った。そして、追跡者たちがむこうの部屋を横切って近づく物音を聞きながら、壁布のむこう側にターラを押しやり、自分もあとにつづいた。そして、ターラの手からほどいていた左手で、壁布に小さなすき間をつくっておいた。そのすき間から、部屋とむこう側の戸口が見わたせた。追跡者がやって来るとすれば、そこからはいって来るはずだ。
壁布の背後には、壁とのあいだにおよそ一メートルばかりの空間があり、部屋をぐるりととりまく通路を形成し、ふたりのむかい側の戸口で切れているだけだった。バルスームの金持ちや有力者の寝室はことさらにこんなふうにつくられている。こうした配置には、いくつか目的がある。その通路は用心棒が主人の私生活をまったく妨げずに主人と同じ部屋で警護する場所にもなり、その部屋からの秘密の出口を隠す役目もはたしている。またその部屋に敵を誘い込んだ場合、盗聴者や暗殺者をひそませる場所にも用いられるのである。
十人ばかりの戦士をひきつれた三人の族長たちは、難なく、逃亡者たちが通った廊下や部屋のほこりの上の足跡をたどって来た。しかし、いやしくも王宮のこの地区にはいって来るだけで、彼らは、渾身《こんしん》の勇をふるい起こさなければならなかったのだ。そしてオ・マイの部屋にはいったので、彼らの神経は極度にはりつめていた――この上なにかちょっとしたことでも起これば、ぴしりと切れそうだった。なぜなら彼らマナトールの人間は、きわめて迷信ぶかいからだ。外側の部屋にはいると、剣を抜いてのろのろ進んだ。だれも先頭に立ちたがらない様子だった。十二人の戦士たちは恥ずかしげもなく恐怖をあらわにして尻ごみした。いっぽう、三人の族長は、オ・タールに対する恐怖と自己の面目とに駆りたてられて、互いに勇気づけるために寄りそいながら、うす暗い部屋をゆっくり横切った。
ガハンとターラの足跡をたどった結果、彼らはふたりがすべてのドアに近づいたが、通り抜けたのはただ一つのドアであることを知ったので、そのドアを、勢いよく開いた。四人の戦士がジェッタンの卓をかこんでいるのを見て、彼らは驚きのあまり目を見はった。一瞬、いまにも逃げ出しそうになった。その四人がなんであるかを知っていたが、この神秘で無気味な続き間でいきなりぶつかったので、故人の幽霊を見たかのように仰天してしまったのだ。しかしやっと勇気をとりもどして、この部屋を横切り、短い通路にはいっていった。それは古代の残虐|皇帝《ジェダック》オ・マイの寝室に通じていた。しかし彼らは、この恐ろしい部屋が目前にあるのを知らなかった。知っていれば、それ以上、前へ進んだかどうかは疑わしい。だが、自分たちの捜している足跡が、この通路に沿ってついていたので、それをたどって、うす暗い部屋の中で立ちどまった。三人の族長は部下にむかって後についてくるように低い声ではげました。彼らは入口をはいったすぐのところに立っていたが、そのうちに目がうす暗がりになれてくると、不意に中のひとりが、片方の足に寝台の上がけをからませて床の上に倒れている人影を指さした。
「見ろ!」彼はあえいだ。「あれはオ・マイの死体だ! 祖先の中の祖先だ! おれたちは禁断の部屋にいるのだ」
それと同時に無気味な死人のむこうの壁布のかげから、ものすごい、死の呻き声が聞こえ、つづいて絹を裂くような悲鳴が起こったかと思うと、壁布が、彼らの目の前で、ゆれ動き、ふくれあがった。
族長も戦士もいっせいに身をひるがえすと、戸口へむかって逃げ出した。せまい入口で押しあいへしあい悲鳴をあげながら、われがちに逃げようとした。剣をほうり出し、たがいに逃げ道を争ってつかみあった。うしろの者は、前にいる者の肩にのぼった。倒れて上から踏みつけられた者もいる。しかし、ついにひとり残らず逃げ出すと、いちばん足の速い者を先頭にして、二つの控え部屋を横切り、そのむこうの通路にとびだした。しかし、彼らはその狂ったような退却をつづけ、疲れはてて身ぶるいしながら、オ・タールの宴会の広間によろめきはいるまでは立ちどまらなかった。彼らを見ると、皇帝《ジェダック》とともに残っていた戦士たちは椅子からとびあがって剣を引き抜いた。味方が多数の敵に追いつめられたと錯覚したのだ。しかしだれもあとを追って広間にやってくるものはなかった。三人の族長は頭をさげ、膝をがくがくさせながらオ・タールの前に立った。
「どうしたのだ?」皇帝がたずねた。「なにを恐れておるのだ? いってみよ!」
「オ・タールよ」三人のうちのひとりが、やっと声が出せるようになるといった。「われわれ三人が戦争や決闘での陛下のご期待を裏切ったことがありましたでしょうか? われらの剣は陛下の安全と名誉を守ることにおいて、つねに最たるものではなかったでしょうか?」
「余がそれを否定したことがあろうか?」オ・・タールが反問した。
「されば皇帝よ、お聞きください。そして、われらを寛大にご判断ください。われらは、ふたりの奴隷の跡をつけて、残虐|皇帝《ジェダック》オ・マイの部屋まで行ったのであります。呪われた部屋にはいりましたが、なおも臆《おく》しませんでした。そしてついに、五十世紀のあいだひとの目に触れたことのない、かの恐るべき部屋へはいり、五十世紀のあいだそこに横たわっていたオ・マイの死顔を見たのであります。われらはこうして残虐|皇帝《ジェダック》オ・マイが死んだまさにその部屋まで進みましたが、さらに先へ進む覚悟でありました。すると突然、この幽鬼《ゆうき》さまよう部屋特有の恐ろしい唸り声と悲鳴が聞こえ、壁布が風もないのにゆれ動きました。オ・タールよ、これは人間の神経に耐えうることではありません。われらは背をむけて逃げ出しました。剣を投げ捨て、たがいに先を争って逃げたのであります。わたしはいま悲しみをこめて、しかしながら恥辱をおぼえることなしに申しあげます。なぜなら、マナトールじゅうに、われらと同様にしなかったであろう者はひとりもないと思うからです。もし、かの奴隷たちが悪魔《コーファル》ならば、彼らは仲間の幽霊のあいだにあっても無事でありましょう。もし悪魔《コファール》でなければ、いまごろはオ・マイの部屋で、すでに死んでいることでしょう。そしてそこで、われらとかかわりなく朽ちはてるでありましょう。なぜなら、わたしは、皇帝《ジェダック》の位とバルスームのなかばをおおう帝国を与えるといわれても、二度と、かのいまわしい場所にはもどりたくないからです。
オ・タールはしかめた眉をよせた。
「余の族長は、どれもこれもみな腰抜けの卑怯者なのか?」と、やがてあざけるような口調できいた。
捜索の一隊に加わらなかった族長の中から、ひとりが立ちあがりオ・タールに顔をむけた。
「皇帝《ジェダック》もご存知のように、マナトールの年代記によれば、あらゆる皇帝《ジェダック》は戦士たちのうちで、もっとも勇敢な者と見なされてまいりました。わたしはわが皇帝《ジェダック》の行かれるところなら、どこへでもまいります。もし皇帝《ジェダック》がすすんで行かれようとする場所にわたくしが行くのを拒絶するのでなければ、いかなる皇帝《ジェダック》にもわたしのことを臆病者だの、卑怯者呼ばわりはさせませぬ」
彼が着席すると、気まずい沈黙がおとずれた。居あわせた者はみな、発言者がマナトールの皇帝《ジェダック》オ・タールの勇気に挑戦したことを知って、皇帝《ジェダック》の返答を待っているのだ。彼らの心中には同じ考えがあった――オ・タールは、すぐにもみなを率いて残虐オ・マイの部屋に行かなければなるまい。さもないと永久に卑怯者の汚名を受けることになるし、卑怯者はマナトールの皇帝《ジェダック》ではありえないのだ。彼らの胸中にあることは、オ・タールも同様に知っていた。
しかし、オ・タールはためらった。宴席《えんせき》のまわりで、彼を見守っている男たちの顔を見まわした。しかし彼の見たものは、無情な戦士たちのきびしい表情ばかりだった。だれの顔にも、寛容のかげさえない。ついで彼の目は片側の小さな戸口に漂っていた。するとその顔から不安にゆがんだ表情が消え、ほっとした表情があらわれた。
「見よ!」彼は叫んだ。「だれが来たか見るがいい!」
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二十 卑怯者の烙印《らくいん》
垂れ幕のすき間からのぞいていたガハンは、追跡者たちが、あわてふためいて逃げて行くのを見守っていた。彼らが安全をもとめて狂ったようにあがき、剣をほうり出して、恐怖の部屋から先を争って逃げ出そうとしている様を見ながら、彼の顔にはあざけるような微笑が浮かんだ。敵がみな逃げ去ると、依然として微笑を浮かべながらターラをふりかえった。しかし、その微笑はふりむくと同時に消えた。ターラが消えてしまっていたからだ。
「ターラ!」彼は大声で叫んだ。追跡者たちがもどってくる危険はまったくないとわかっていたからだ。しかし返事はなく、ただ遠くから、かん高い笑い声がかすかに聞こえただけだった。大急ぎで垂れ幕のうしろの通路を捜すと、いくつかのドアがみつかった。その中の一つが、少し開いている。彼はそれを通り抜けて、天空を気ちがいじみた速さでわたっていくサリア衛星のやわらかな光で、一時的に明るく照らされている小部屋にはいった。床のほこりが乱れて、サンダルの足跡がついているのをそこで見つけた。彼らはこの道を通ったのだ――ターラと彼女をさらった何者かが。
しかし何者だろうか? ガハンは教養と高い知性の持ち主だったから、まず迷信にまどわされることはなかった。バルスームのほとんどすべての民族に共通することだが、彼も、多かれ少なかれ先天的に、ある程度、熱狂的な祖先崇拝の感情を持ち合わせていた。しかし彼が神聖視しているのは、祖先そのものよりも、むしろ、彼らの美徳や英雄的な行為についての思い出や伝説といったようなものである。だから祖先が死んでからもなお存在しているということを知覚的に証拠だてるようなものはまったく期待しなかった。祖先が生きていたときの行為が、後世の人間に影響を与えることは認めたが、それ以外は、善でも悪でも、なんらかの力を祖先が持っているなどということはまるで信じなかった。つまり、彼は死者の霊の体現を信じていなかったのだ。もし来世なるものがあるにしても、彼はそれについて、なにも知らなかった。なぜなら古代の宗教や迷信における一見、超自然的な現象には、すべてなんらかの物質的原因があるということを科学が立証していることを知っていたからだ。しかし、五千年ものあいだひとの訪れを知らなかった部屋の中で、いかなる力が自分のそばからターラを、かくも唐突《とうとつ》、かくも神秘的に奪っていったのか、それを知ることはできなかった。
照明が暗いので、ターラ以外のサンダルの跡があるかどうか見わけられなかった――塵が乱されていることしかわからない――それをたどってうす暗い廊下に出ると、足跡をまったく見失ってしまった。彼が見捨てられたオ・マイ皇帝の居住区域を急いで通り過ぎて行くにつれて、あまたの通路や部屋からなる完全な迷宮が出現した。ある場所には古代の浴場があった――皇帝《ジェダック》自身の浴場にちがいない。またある部屋には、テーブルの上に五千年前に置かれた食事がそのままになっていた――おそらく、オ・マイが手をつけなかった朝食であろう。ガソールの王《ジェド》はダイヤとプラチナで飾りたてた装具を持ち、その富は世界じゅうからうらやまれていたが、いまこれらの部屋を横切って行くほんのわずかのあいだにも、彼の眼前には、その当人をさえ驚かすような装飾品、宝石、貴金属などの財宝が展開されていた。オ・マイの部屋部屋を捜しまわったあげく、彼は小部屋にはいった。その床には、地獄のような暗黒に通じる螺旋状《らせんじょう》の通路が口をあけていた。小部屋の入口の塵は、たったいま乱されたばかり。これは、ターラの誘拐者の逃げた方向を知る唯一の手がかりだったので、それをたどって行くほうが、ほかの方面を捜すより賢明のように思われた。そこで、ためらわずに、うるしのような暗闇にむかっておりていった。一歩一歩、進む前に片足で前をさぐるので、前進は遅々としてはかどらない。しかし、彼は火星《バルスーム》人だったから、一般に皇帝《ジェダック》の宮殿のこうした暗黒の禁制区域には、よく落とし穴が不注意な人間を待ちかまえているものだということを知っていたのである。
たっぷり三階分くらいの距離をくだってきたと思われるところで、彼はそれまでもときどきやったように、立ちどまって聞き耳をたてた。なにかをひきずるか、ひっかくかするような奇妙な音が、下のほうから近づいてくるのが、はっきり聞こえる。何者かはわからないが、それはたゆみない足どりで通路をのぼってきて、もうすぐ彼のそばにやって来そうだった。ガハンは剣の柄に手をかけ、音をたてないように、ゆっくり鞘《さや》から引き抜いた。相手に自分のいることを気づかせまいとしたのだ。ほんの少しでも明るくなってくれたらしめたものだが。もし彼に近づいてくるものの輪郭だけでも見えれば、むかい合ったときもっと有利な足場に立てるものを。しかし、なにも見えなかった。そのとき、盲同然のために、彼の鞘の端が、通路の石壁にぶつかって音をたてた。静寂と通路のせまさと闇とのために、その音は、すさまじい大音響のように拡大されたような気がした。
接近していた、引きずるような音はたちまちやんだ。しばらく、ガハンは黙々と待ちかまえていたが、やがて用心するのをやめて、また螺旋状の通路をおりはじめた。相手は何者かわからなかったが、いまはガハンにその位置を推察させるような、なんの物音もたてなかった。いつなんどき、そいつがおそいかかってくるかしれないので、彼は剣をかまえたままでいた。急な螺旋通路は下へ下へとおりて行く、墓地のような闇と静寂にすっぽり包まれているが、しかし、前方のどこかになにかがいるのだ。恐ろしい場所にいるのは彼ひとりではない――聞こえもせず、見えもしない何者かが前方をうろついているのだ――それはまちがいない。おそらく、ターラをさらった犯人だろう。ターラ自身もおそらく、得体の知れない怪物の手につかまえられたまま、彼のすぐ前にいるのだろう。彼は足をはやめた――愛する女性が直面している危険を考えると、ほとんど駆け出さんばかりになった。すると木のドアにぶつかった。ドアはその衝撃でぱっと開いた。眼前には明るい廊下がひらけ、両側には部屋がつづいている。螺旋階段をおりきったところから、ほんの少し進んだだけで、彼は自分が王宮の地下の穴蔵の中にいるのを知った。次の瞬間、螺旋通路で彼の注意を引いた、あのひきずるような音が聞こえた。ふりかえると、たったいま彼が通った戸口から音の主が出てくるところだった。なんとカルデーンのゲークではないか。
「ゲーク!」ガハンは叫んだ。「通路にいたのは、きみだったのか? ヘリウムのターラを見かけなかったか?」
「螺旋階段にいたのは、わしだった」カルデーンは答えた。「だが、ヘリウムのターラは見かけなかった。わしも彼女を捜していたところだ。彼女はどこにいる?」
「わからんのだ」ガソール人が答えた。「だが、彼女を見つけ出して、ここから連れ出さなくてはならぬ」
「きっと見つかるだろう」ゲークはいった。「だが、彼女を連れ出すことはどうもむずかしい。マナトールから出るのは、はいるほどやさしくない。わしは大昔からの|火星ねずみ《アルシオ》の穴を通って、思うままに出入りできるが、しかしあなたは大きすぎて穴を通れないし、それに穴の底のほうは、あなたの肺に必要な空気がないような場所がありますからな」
「ところで、ユ・ソールはどうした!」ガハンは叫んだ。「彼のことか、彼の意図についてなにか聞いたか?」
「いろいろ聞いています」ゲークが答えた。「彼は『敵の門』に陣を張っている。あの場所を確保して、部下の戦士たちは門のすぐむこうに休息している。だが、彼には、街に攻め入って王宮を奪うに充分な兵力がないのです。一時間前だったら、あなたは彼のところへたどりつけただろう。しかし、いまとなっては、あらゆる大通りはきびしく監視されている。ア・コールがユ・ソールのところへ逃げ込んだことをオ・タールが知ったからですよ」
「ア・コールが逃げて、ユ・ソールに合流しただと!」ガハンは叫んだ。
「つい一時間ばかり前のことだ、わしが彼といっしょにいると、ひとりの戦士が来た――タソールという名前の男で、あなたからの伝言をもってきた。そしてタソールはア・コールを連れてマナトスの大|王《ジェド》ユ・ソールの陣に行き、あなたが求めた保障を、ユ・ソールから要求することにきまった。その後、タソールは宮殿へもどり、あなたとヘリウムの王女に食糧を運んでくる予定だった。わしもふたりに同行したが、難なくユ・ソールのもとに到着した。ユ・ソールは、あなたのすべての希望を快諾したよ。しかしタソールが、あなたのところへもどろうとしたときには、もう道が、オ・タールの戦士たちによって封鎖《ふうさ》されてしまっていた。そこで、わしが志願して、あなたのもとへおもむいて情報を伝え、食物と飲物を見つけ、その後でマナトールにいるガソール人の奴隷たちのあいだに潜入して、ユ・ソールとタソールが考えた計画のなかで、彼らがはたすべき仕事の準備をさせることになったのです」
「それで、その計画とはどんなものなのだ?」
「ユ・ソールは援軍を呼びにやっている。彼はマナトスばかりでなく、彼の領地である辺境地帯全部に急使を派遣した。援軍を召集してここへ連れてくるまでに一か月はかかるでしょう。そのあいだに、市内の奴隷たちは、ひそかに組織をつくり、援軍の到着する日にそなえて武器を盗んでかくしておくのだ。いよいよ時いたれば、ユ・ソールの精鋭は『敵の門』から攻めこむ。そしてオ・タールの戦士たちが、それを押しかえそうと駆けつけたとき、ガソールからきた奴隷たちが、その過半数をもって背後からおそいかかるのです。いっぽう残りの奴隷たちは王宮に突撃する。こうなれば彼らは『敵の門』からオ・タールの兵力の多くを分散させるだろうから、ユ・ソールは容易に都市の中へ攻め入れるというものだ」
「おそらく成功するだろうな」ガハンがいった。「しかしオ・タールの戦士は多数だし、自分の家と皇帝《ジェダック》を守ろうとして戦うものは、つねに有利なのだ。ああ、ゲーク、われわれにもしも、ガソールやヘリウムの巨大な戦艦があって、ユ・ソールが敵の屍《しかばね》の上を越えて王宮に進撃するとき、マナトールの街路に、容赦のない砲火をふりそそげればしめたものなんだが」彼は言葉を切って、じっと考えこんでいたが、やがてまたカルデーンに視線をむけた。「わたしといっしょにジェッタンの競技場から逃げ出した、奴隷の一隊のことをなにか聞かないかね?――フローランや、バル・ドールやほかの者たちのことを? 彼らはどうしたのだろう?」
「彼らのうち十人は『敵の門』にいるユ・ソールのところまで逃げのびて、快く迎えられました。しかし、八人の者は路上の戦闘で倒れてしまった。バル・ドールとフローランは確か生き残ったと思いますよ。というのはユ・ソールがふたりの戦士をそういう名前で呼ぶのを確かに聞いたからね」
「よろしい!」ガハンは叫んだ。「それでは、|火星ねずみ《アルシオ》の穴を通って、『敵の門』まで行ってくれ。そして、フローランに伝言をとどけてほしい、わたしが彼の国の文字で書くから、むこうへ行こう、手紙を書くのだ」
近くの部屋でベンチとテーブルが見つかった。ガハンはそれにすわり、奇妙な速記体風の火星文字で、ガソールのフローランに伝言を書いた。
手紙を書きおえると、彼はきいた。
「われわれがいまにも出会いそうになったあの螺旋状の通路で、きみはなぜターラを捜していたのだ?」
「タソールが、あなたのいるはずの場所を教えてくれたのです。わしは|火星ねずみ《アルシオ》の穴や、暗くてあまり人気のない通路を使って宮殿の大部分を探検していたから、あなたの居場所も正確にわかっていたし、どうやってそこへ行けばいいかもわかっていました。この秘密の螺旋通路は地下室から、王宮でもっとも高い塔の屋根まで通じているのです。それに、各階ごとに秘密の口が開いている。だが、現存のマナトール人で、この道があることを知っている者はひとりもいないでしょうよ。すくなくとも、この通路中で、わしはだれにも出会ったことがない。だから、わしはここをたびたび使用したのです。オ・マイの倒れている部屋にも三度行ったが、ユ・ソールの陣営で、タソールがわれわれに話してくれるまで、オ・マイの正体や彼の死についての物語など、少しも知らなかった」
「すると、きみは王宮をよく知っているのだな?」ガハンが口をはさんだ。
「オ・タール自身や、彼の召使のだれよりも知っているね」
「よし! ところで、きみはプリンセス、ターラに奉仕したいと思っている。ゲーク、きみは、フローランに同行し、彼の指示にしたがうことによって、もっともよく彼女に奉仕できるのだ。その指示を、彼への伝言の結びに書いておこう。壁に耳ありだからな、ゲーク。ところでこのフローランあてのわたしの手紙は、ガソール人以外にはだれにも読めないのだ。彼はきみにこれを訳してくれるだろう。きみを信用して大丈夫だな?」
「わしはもう二度とバントゥームには帰れまい」ゲークは答えた。「だから、わしは、バルスーム中で、たったふたりの友人しかいない。そのふたりに忠実に奉仕するより、もっとよいことがほかにあるだろうか? わしを信じてほしい、ガソール人よ。あなたは、あなたと同種族のひとりの女とともにわしに教えてくれた。感情の不合理な指示に影響されない完全な精神よりも、よりすばらしい、より高貴なものがあるということをな。わしは行きます」
オ・タールが小さな戸口を指さすと、全員の目がそのほうにむいた。そして宴会の間にはいってきたふたりの人影を認めたとき、戦士たちの顔には、いちように驚愕の色が浮かんだ。そこにいたのはアイ・ゴスで、さるぐつわをはめ、ねり絹のリボンでうしろ手にしばられた者を背後に引きずっていた。それはあの奴隷女だった。アイ・ゴスのかん高い笑い声が、しんとした広間の中にひびきわたった。
「やれやれ」と、きしるような声でいった。「オ・タールの若い戦士どもができぬことを、この老いぼれのアイ・ゴスはたったひとりでやってのけるのじゃ」
「悪魔《コーファル》を捕えられるのは、悪魔《コーファル》しかいない」オ・マイの部屋から逃げ出してきた族長のひとりがうなるようにいった。
アイ・ゴスは笑った。
「恐怖がおまえの心臓を水に変えたのじゃ。そして恥辱《ちじょく》がおまえの言葉を中傷に変えた。これは悪魔《コーファル》ではなくて、たかがヘリウムの女だ。この女の連れの戦士は最高の剣士と剣をまじえて、おまえらのくさった胸をつき刺すことができるのじゃ。アイ・ゴスの若かりしころには、そんなことはなかった。ああ、当時、マナトールには男らしい男がいたものじゃ。わしは当時のことをよく思いだすが、わしが――」
「しずかにしろ! よぼよぼの馬鹿者め!」オ・タールが命じた。「男のほうはどこにいるのだ?」
「この女を見つけたところにおりましたわい――オ・マイの死の部屋の中ですじゃ。陛下の賢明で勇敢な族長をそこへやって、彼を捕えさせなされ。わしは老人じゃから、ひとりしかつかまえてこられなんだ」
「でかしたぞ、アイ・ゴス」オ・タールはあわてて相手をなだめた。というのは、ガハンがまだ幽鬼《ゆうき》の出る部屋にいることがわかったので、アイ・ゴスの腹立ちを静めようと思ったのだ。老人の痛烈な舌や気質をよく知っていたからである。「それで、おまえは、この女は悪魔《コファール》ではないと思うのだな、アイ・ゴス?」彼は、まだつかまらないでいる男から、話題をそらそうとして、たずねた。
「陛下とおなじにね」老剥製師は答えた。
オ・タールは長いことさぐるようにヘリウムのターラを眺めた。不意に彼女の美のすべてが、突然、彼の意識のすみずみにまで浸透したように思えた。彼女はまだジェッタン競技の黒軍の王女の豪華な装具を身にまとっていた。皇帝《ジェダック》オ・タールは、彼女を眺めているうちに、いままでに、これほど完全な姿態を目にしたことがない――これほど美しい顔を見たことがない――ということに気づいた。
「この女は悪魔《コーファル》ではない」彼はひとりごとのようにつぶやいた。「悪魔《コーファル》ではなくて、王女だ――ヘリウムの王女だ。ホーリー・ヘッカドールの黄金の髪にかけて、彼女は美しい。彼女の口からさるぐつわをはずし、手をほどいてやれ」と大声で命じた。「マナトールのオ・タールのかたわらに、王女、ヘリウムのターラの席をもうけよ。彼女に王女にふさわしい食事をとらせるのだ」
奴隷たちは、オ・タールに命じられたとおりにした。ヘリウムのターラは、彼女に用意された椅子のうしろに、燃えるような目をして立っていた。「すわれ!」オ・タールが命じた。
彼女は椅子にすわった。「わたくしは一囚人としてすわるのです。わたくしの敵、マナトールのオ・タールの食卓の客としてではありません」
オ・タールは身ぶりで、臣下《しんか》に部屋から退出するように合図した。「余はひとりだけでヘリウムの王女と話がしたい」と。臣下と奴隷たちが去ってしまうと、マナトールの皇帝《ジェダック》はあらためて彼女のほうにむきなおった。「マナトールのオ・タールは、おまえの友人になろうぞ」
ヘリウムのターラは両腕を小さな、ひきしまった胸もとに組んですわっていた。その目は細められた瞼の下から鋭く輝いていた。しかし皇帝《ジェダック》の申し出に答えようとはしなかった。オ・タールは彼女のそばに身を寄せてきた。ターラの敵意にみちた態度に気づいて、彼女とはじめて顔をあわせたときのことを思い出した。彼女は牝のバンスだったが、美しかった。オ・タールがかつて見た女のうちで、もっとも好ましい女だ。彼はターラを自分のものにしようと決意して、そのことを告げた。
「余はおまえを自分の奴隷として手に入れることができる。だが余の妃《きさき》にするほうが楽しい。おまえをマナトールの皇后《ジェダラ》にしてやろう。七日の猶予を与えるから、そのあいだにオ・タールが与える偉大な名誉を受ける心がまえをせよ。七日目のこの時間に、おまえをマナトールの皇帝《ジェダック》の玉座の広間で皇后とし、オ・タールの妻としてやろうぞ」彼は、かたわらのテーブルの上にあるどらを打ち鳴らした。そしてひとりの奴隷が現われると臣下を呼び入れるように命じた。族長たちは列をつくってゆっくり広間にはいり、それぞれテーブルについた。どの顔も、むっつりして眉をひそめている。彼らの皇帝《ジェダック》の勇気に関する疑問は、いまだに未回答だったからだ。彼らがその疑問を忘れることをオ・タールが期待していたとすれば、彼は部下の性格を誤解していることになる。
オ・タールは立ちあがった。
「むこう七日間のうちに、マナトールの新しい皇后《ジェダラ》に敬意を表して、盛大な宴がもよおされるであろう」そういって彼はヘリウムのターラのほうに手をふった。「儀式は第七ゾード(およそ地球時間の午前八時三〇分)のはじめから、玉座の広間において挙行される。それまでのあいだ、ヘリウムの王女は王宮の、後宮《こうきゅう》の塔において世話を受ける。イ・タス、皇后にふさわしき儀杖兵をつけて彼女をそこへ案内せよ。そして奴隷や宦官《かんがん》らを彼女の意のままに奉仕せしめよ。彼らをして彼女のあらゆる希望を叶えせしめ、油断なく彼女を危害より守らしめよ」
イ・タスはこうした美しい言葉の裏にかくされた、ほんとうの意味がわかった。つまり強力な護衛の下に、囚人を後宮に連れて行き、七日間その塔の中に監禁した上、彼女の逃亡をふせぎ、あらゆる救出計画の裏をかくために、信頼できる護衛を配置せよということなのだ。
ターラが、イ・タスや衛兵とともに広間から出るとき、オ・タールは彼女の耳もとに口をよせて、ささやいた。
「この七日のあいだ、余がおまえに提供した高い名誉について考えるがよい。そして――そのほかには死があるのみだということもな」ターラは彼の言葉が耳にはいらなかったかのように宴会の広間を出て行った。頭をきっとあげ、目は前方をまっすぐ見つめて。
ゲークが行ってしまうと、ガハンは穴蔵の中や、王宮の放棄された区域の古びた通路を歩きまわり、ヘリウムのターラの居場所や運命について、なにか手がかりがないものかと捜しまわった。螺旋通路を使って各階を通り、とうとう地下室から高い塔の頂きまで、すべての階を調べてしまった。通路が各階のどの部屋に通じているかということや、通路に通じるうまく隠されたドアの錠を作用させるための、巧妙で隠密な装置についてもわかった。食物は、穴蔵で見つけた貯蔵庫からとり出した。眠るときは、禁断の部屋の、オ・マイの皇帝用寝台の上で、古代|皇帝《ジェダック》の死体の足といっしょに横たわった。
ガハンはなにも知らなかったが、彼をとりまく宮殿の中は大きな不安で騒然となっていた。戦士たちや族長たちには、不機嫌な顔で、彼らの使命をはたしていた。そして三々五々、そこここにかたまっては、現在、全員の心をもっとも大きく占めているある話題について、怒りに眉をしかめながら論じあっていた。王宮の家令であり、オ・タールの腹心であるイ・タスが、ある些細な用件で皇帝《ジェダック》の前にやってきたのは、ヘリウムのターラが塔に監禁されてから四日目のことだった。家令の来訪が伝えられたとき、オ・タールはひとりだけで、専用のつづき部屋の小部屋にいた。イ・タスが持ってきた用件を処理してから皇帝《ジェダック》は彼に残るように合図した。
「イ・タス、余はおまえをとるにたらぬ一介《いっかい》の戦士の地位から、名誉ある幕僚《ばくりょう》に昇進させてやった。おまえの言葉はこの王宮の中では、余に次ぐ権威をもっている。それゆえに、おまえはみんなから快く思われていないのだぞ、イ・タス。もしも、ほかの皇帝《ジェダック》がマナトールの玉座につけば、おまえはどうなると思う? マナトールでもっとも有力な者たちが、おまえの敵なのだからな」
「そのようなことは申されますな、オ・タールよ」イ・タスは訴えるようにいった。「この二、三日、わたしはそれについてさんざん頭をなやましてまいりましたので、いまは忘れたいのでございます。しかし、わたしはわたしをもっとも憎んでいる敵の怒りを静めようとしてまいりました。また敵に対しては、親切に、寛大にしてまいりました」
「おまえも、声なき空中の神託を読んだのだな?」皇帝《ジェダック》がいった。
イ・タスはひどくおどおどして、返事をしなかった。
「なぜおまえの懸念を、わしに告げに来なかったのだ?」オ・タールは詰問した。「それで忠義といえるか?」
「わたしは恐ろしかったのです。おお、偉大なる皇帝《ジェダック》よ!」イ・タスが答えた。「わたしは陛下が理解されず、怒られるのではあるまいかと、恐れたのです」
「おまえはどんなことを知っているのだ? 全部、正直にいってみよ!」
「族長や戦士たちの動静が、はなはだ不穏になっております。陛下のご友人がたでさえ、陛下の悪口をいう者たちの力を恐れているのです」
「なんといっておるのだ?」皇帝《ジェダック》はうなるようにいった。
「陛下が、奴隷のトゥランを捜しにオ・マイの部屋にはいるのをこわがっておられるのだと、そう申しております――おお、わたしをお怒りになられますな、皇帝《ジェダック》よ。わたしが申したのは、ただ彼らがいったことをくりかえしたにすぎません。陛下の忠実なるイ・タスは、そんな中傷を信じたりいたしませぬ」
「ばかな、なんで余が恐れるわけがあるか?」オ・タールが反駁《はんばく》した。「やつがあそこにいることはたしかではないのだ。族長たちはあそこに行ったが、やつをまるで見かけなかったではないか?」
「ですが、彼らは陛下が行かれなかったと申しております」イ・タスはつづけた。「そして臆病者はマナトールの玉座にはつかせておかないと申しております」
「反乱《はんらん》を起こすというのか?」オ・タールは、あわや絶叫せんばかりだった。
「それどころか、もっとひどいことを申しておりました、偉大な皇帝《ジェダック》よ」と家令は答えた。「陛下はオ・マイの部屋にはいるのを恐れているばかりか、奴隷のトゥランをも恐れているのだと。そして、ア・コールに対する陛下の扱いを非難しております。彼らはみな陛下のご命令で、ア・コールが殺されたものと信じています。彼らはア・コールが好きだったのです。いまでは多くの者が大っぴらに、ア・コールはよい皇帝《ジェダック》になっただろうにと申しております」
「そんなことをいいおるのか?」オ・タールは金切り声をあげた。「奴隷女の私生児をオ・タールの玉座につけることをあえて口にするとは!」
「彼は陛下のご令息ですぞ、オ・タール」イ・タスは指摘した。「マナトールには彼ほど敬愛されている者はおりません――わたしは、無視しえない事実を申しあげるまでです。あえてこれを申しあげるのは、真相を知られたときになってはじめて、陛下は玉座をおびやかす災厄をまぬかれる方法を論ぜられるものと思うからであります」
オ・タールは、どさりと椅子に腰をおろした――突然、小さくなり疲れて老いぼれた人間のように見えた。「いまいましいのは、あの日だ!」彼は叫んだ。「あの三人の異邦人がマナトールの都にはいってきてからだ。ユ・ドールが生きていて、余を助けてくれればいいのだが。彼は強かった――余の敵は彼を恐れておった。だが、彼はもはやおらぬ――あの憎むべき奴隷トゥランの手にかかって殺されてしまったのだ。やつに女神イサスののろいがふりかからんことを!」
「皇帝《ジェダック》よ、わたしたちはどうすればよいのでしょうか?」イ・タスがたずねた。「あの奴隷を呪われても、問題は解決されません」
「だが、盛大な宴会と結婚式は三日後にせまっておるのだ」オ・タールは頑強にいった。「盛大な祭典にするのだ。これは戦士たちも族長たちもすべて知っていることだ――それが慣例なのだ。その日には褒賞《ほうしょう》や名誉を与えてやろう。ところで教えてくれ、余のことをもっとも悪くいう者たちはだれだ? 余は彼らの中に、おまえを派遣して、余が彼らの過去の忠誠に恩賞を与えるつもりだとふれさせよう。余は族長を王《ジェド》にし、戦士を族長にし、彼らに土地と奴隷を与えよう。どうだ、イ・タス?」
イ・タスは首をふった。
「それは無益でしょう。オ・タール。彼らは褒賞にも名誉にも関心がありません。わたしは彼らがそういうのを、この耳で聞いています」
「では、彼らの望みはなんだ?」オ・タールがたずねた。
「彼らの望みは、過去のもっとも勇敢な皇帝《ジェダック》に劣らぬほど勇敢な皇帝《ジェダック》です」イ・タスは、そう答えたが、ひざががくがくふるえている。
「彼らは余を卑怯者だと思っておるのか?」皇帝《ジェダック》は絶叫した。
「陛下が残虐|皇帝《ジェダック》オ・マイの部屋に行くのを恐れておられるというのです」
長いこと、オ・タールは頭をがっくり胸もとに沈め、ぼんやりと床を見つめたままでいた。
「彼らに申せ」やがて偉大な皇帝《ジェダック》らしからぬうつろな声で彼はいった。「余はオ・マイの部屋にまいって、奴隷のトゥランを捜すとな」
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二十一 愛の冒険
「やれ、やれ、あいつは卑怯者だよ。わしのことを、『よぼよぼの馬鹿者め!』といいおったがな!」そういっているのはアイ・ゴスだった。彼は、マナトールの皇帝《ジェダック》、オ・タールの宮殿の一室で一群の族長たちにしゃべっていた。「もしア・コールが生きていたら、わしらの皇帝《ジェダック》にするところじゃが」
「ア・コールが死んだというのはだれだ?」族長の中のひとりがきいた。
「では、彼はどこにいるのだ?」アイ・ゴスが反問した。「彼のほかにも、皇帝《ジェダック》の血統をひいて、世人から尊敬されすぎるとオ・タールが考えた者が何人も姿を消しているではないか?」
その族長は首をふった。
「おれもそう考えていた、というよりそうと知っていた。おれは『敵の門』にいるユ・ソールに味方したい」
「しっ」ひとりが注意した。「へつらい者がやってくるぞ」一同の視線は近づいてきたイ・タスにそそがれた。
「カオール、友人たちよ!」彼はみんなの中に立ちどまって、声高くいった。だが彼の親しげな挨拶に対して、二、三人がひややかにうなずいただけだった。
「きみたちはあの知らせを聞いたか?」彼はそういうあつかいになれていたので、図々しくつづけた。
「なんだ――オ・タールが|火星ねずみ《アルシオ》を見て、気絶でもしたのか?」アイ・ゴスは皮肉たっぷりにききかえした。
「ご老体よ、口を慎まれたがよい。もっと些細《ささい》なことで殺された者がいるのだ」イ・タスは、ひらき直った。
「わしは大丈夫じゃ」アイ・ゴスはまぜかえした。「なんせ、マナトールの皇帝《ジェダック》の勇敢で人気のある息子ではないのでな」
これはまさに公然たる反逆である。しかしイ・タスは聞こえなかったようなふりをした。彼はアイ・ゴスを無視して、ほかの族長のほうにむいた。
「オ・タールは今夜、奴隷トゥランを捜しに、オ・マイの部屋へおいでになる。陛下が残念に思われることは、部下の戦士たちにこんなつまらぬ任務をはたす勇気もなく、皇帝《ジェダック》おんみずから、たかが一介《いっかい》の奴隷を捕まえなければならぬことだ」こうあざけりながら、イ・タスは同じ言葉を王宮のほかの方面に伝えに行った。実際には、彼の伝言の後半の部分はまったく、彼自身の創作だったのだ。しかし、その言葉を告げて、自分の敵を当惑させることに彼は非常なよろこびを感じた。彼が戦士の小さな群れをはなれるや、アイ・ゴスが背後から呼びかけた。
「オ・タールは、いったい何時にオ・マイの部屋を訪れるつもりなのだ?」
「八ゾード(地球の午前一時頃)の終わりごろだ」家令はそう答えて先へ進んだ。
「わしらも見に行くとしよう」アイ・ゴスがいった。
「なにを見に行こうというのだ?」ひとりの戦士がたずねた。
「オ・タールがオ・マイの部屋に行くかどうか、見に行くのだ」
「どうやって?」
「わしが自分であそこへ行っているのだ。そしてもし、彼を見かけたら、彼がオ・マイの部屋へ行ったことがわかるだろう。もし、見かけなければ、彼が来なかったことがわかるのじゃ」
老剥製師が説明した。
「あそこには、心の正しい人間を恐れさせるようなものがあるのか?」族長のひとりがたずねた。「ご老体はなにを見たのだ?」
「わしの見たものは、あまり気味のいいものではないが、聞いたことよりはましだったな」アイ・ゴスはいった。
「教えてくれ! なにを聞き、なにを見たのだ?」
「わしはオ・マイの死体を見たのだ」とアイ・ゴス。ほかの男たちは身ぶるいした。
「それで、おまえは気が狂わなかったのか?」彼らはたずねた。
「わしが気違いかよ?」アイ・ゴスはさかねじをくわせた。
「で、また行こうというのか?」
「そうとも」
「では、あんたは本物の気違いだ」ひとりが叫んだ。
「あんたはオ・マイの死体を見た。しかし、あんたが聞いたことはもっと悪いのか?」ほかのひとりがたずねた。
「わしはオ・マイの死体が寝室の床に倒れ、片足を寝台の上の絹と毛皮の寝具にからませているのを見た。恐ろしいうめき声と、ぞっとするような悲鳴を聞いた」
「それで、そこへまた行くのがこわくないのか?」数人がたずねた。
「死体はわしに危害を加えることができぬ」アイ・ゴスがいった。「彼はああして、この五千年間横たわってきたのだ。音も、わしに危害を与えることはできぬ。わしは一度それを聞いたが、まだ生きている――だから、また聞くことができるのだ。その音はわしがかくれていた、垂れ幕のすぐ脇から聞こえてきた。そこでわしは、奴隷のトゥランのすきをうかがって女を引っさらってきたのじゃ」
「アイ・ゴスよ、あんたはまったく勇敢な男だ」ひとりの族長がいった。
「オ・タールはわしのことを『よぼよぼの馬鹿者め』といいおった。もし彼がオ・マイの部屋にいかなんだら、わしはそれを見とどけるためなら、オ・マイの禁断の部屋にある危険より、もっと大きな危険にでもぶつかってみせるわい。そしてオ・タールを没落させてやるのじゃ!」
夜がきた。数|時間《ゾード》が過ぎて、マナトールの皇帝オ・タールが、奴隷のトゥランを捜しに、オ・マイの部屋に行くべき時間が近づいた。われわれのように、悪霊の存在に疑問を抱く者にとっては、彼の恐怖は信じがたいものに思われるかもしれない。なぜなら、彼はたくましい男であり、勝れた剣士であり、きわめて高名な戦士だったからだ。しかしマナトールのオ・タールがオ・マイの人気《ひとけ》のない広間のほうに王宮の廊下を横切って行ったとき、不安で神経質になっていたのは事実だった。そしていよいよ、ほこりだらけの廊下から問題の部屋のほうに開くドアに手をかけて立ちどまったときには、恐怖でほとんど気を失わんばかりだった。彼がひとりでやってきたのは二つの重要な理由があった。その一つは、ひとりならば、恐怖にふるえあがったところを見られずにすむし、最後の瞬間に勇気がくじけて約束を実行できなくても、それを見られずにすむからである。もう一つの理由は、彼がもしひとりで実際にこの仕事をやりとげるか、またはやりとげたと族長たちに信じさせられれば、その効果は彼が戦士たちを同行させた場合よりも、はるかに大きくなるはずだったからである。
だが、ひとりで来たものの、誰かに背後からつけられているのがわかってきた。そして臣下《しんか》が彼の勇気も正直さも信用していない、ということを知った。彼は奴隷のトゥランを発見できるとは信じていなかった。また、それほど彼を発見したいとも思わなかった。なぜなら、オ・タールはすぐれた剣士であり、実戦において勇敢な戦士であったが、トゥランがユ・ドールと剣を交えたときの様子を見ていたから、自分をしのぐ腕前の持ち主とは剣を交える勇気はなかったのだ。
そういうわけで、オ・タールはドアに手をかけたまま立っていた――はいるのがこわかったのだ。が、はいらないのもこわかった。しかし、ついに、背後から見守っている部下の戦士たちに対する恐怖のほうが、古びたドアのうしろに隠された未知の恐怖よりも大きくなってきた。そこで彼は厚いスキール材のドアを押して中にはいった。
数十世紀にわたる沈黙と暗黒とほこりが部屋の中に、おもおもしくよどんでいた。彼は戦士たちから教えられて、オ・マイの恐ろしい部屋へ行く道順を知っていた。そこで、進まぬ足をはげまして、目前の部屋を横切って行った。終わることのないジェッタン競技にすわっている競技者たちの部屋を通りこし、オ・マイの部屋に通じる短い廊下に出た。抜き身の剣は彼の手の中でぶるぶるふるえていた。一歩進むごとに、立ちどまって耳をすませた。そして幽鬼の出没する部屋の戸口にほぼたどりついたとき、彼の心臓は鼓動をやめ、冷たい汗が、じっとりした額の肌から流れ落ちた。というのは、その部屋の内側から、おし殺したような息づかいの音が彼の自失した耳に聞こえてきたからだ。オ・タールは名状しがたい恐怖にかられて、いまにも逃げ出したくなった。その恐怖は、目には見えないが、目の前の部屋で彼を待ちうけているのだ。しかしまた、部下の戦士と族長たちの怒りや侮辱《ぶじょく》に対する恐れがよみがえってきた。彼らは彼を玉座から引きおろした上で殺してしまうにちがいない。もし彼が恐怖にかられてオ・マイの部屋から逃げ出せば、彼の運命がどうなるかは、火を見るよりも明らかである。だから、彼の唯一の望みは、既知の恐怖よりも未知の恐怖にあえていどむことだった。
彼は前進した。二、三歩で戸口につく。目前にある部屋は、廊下よりも暗い。だから室内のものをはっきり見きわめることができなかった。ほぼ中央に寝台が見える。そのかたわらの大理石の床の上に、なにやらもっと黒いものが横たわっている。彼は一歩、戸口に踏みこんだ。その拍子に剣の鞘《さや》が石壁をこすった。すると中央の寝台の上の寝具用の絹と毛皮が動くのが見えたので、彼はふるえあがった。残虐|皇帝《ジェダック》オ・マイの死のベッドから、ひとりの人影がゆっくり起きなおった。ひざが、がくがくふるえた。しかし、勇気をふりしぼって、ふるえる指でいっそうかたく剣を握りしめながら恐ろしい幽鬼にとびかかろうと身構えた。一瞬まごついた。相手の目が自分に注がれるのを感じた――残忍な視線が、暗闇を通して、彼の臆した心に突き刺さった――その目を、彼は見ることはできなかった。突撃しようとして身がまえた――すると、寝台の上の人影から突然、恐ろしい悲鳴が発せられた。オ・タールは気を失って床にくずれ落ちた。
ガハンは微笑しながらオ・マイの寝台から起きあがったが、たちまち抜き身の剣を手にしてふりむいた。彼のするどい耳に、背後のもの陰から、かすかな音が聞こえてきたからだ。かきわけられた垂れ幕のあいだに、腰の曲がった、しわだらけの人影が見えた。それはアイ・ゴスだった。
「剣をおさめろ、トゥラン」老人はいった。「おまえは、なにもアイ・ゴスを恐れるには及ばぬ」
「ここでなにをしているのだ?」ガハンがきいた。
「わしは、とんでもない臆病者が、われわれを欺かぬことを確かめるためにここに来たのじゃ。いやはや、だのに、やつはこのわしを『よぼよぼの馬鹿者』呼ばわりしおった。だが、やつのざまを見ろ! 驚いて気を失ってしまったのだ。だが、おまえの恐ろしい悲鳴を聞いた者ならやつを許せるだろう。わしの勇気まで吹きとばされそうになったわい。すると、あれはおまえだったのか、わしがターラをさらっていった日、あの族長らが来たとき、唸って悲鳴をあげたのは?」
「あれはきさまだったのか? 老いぼれ悪党め」ガハンはアイ・ゴスをおどすように近づいた。
「よせ、よせ」老人はたしなめるようにいった。「確かにわしだ。だが、あのときはおまえの敵だったのだ。だが、いまはもうそんなことはしない。情況が変わったのじゃ」
「どう変わったというのだ? なにが情況を変えたのだ?」ガハンがたずねた。
「あのときは、わしの皇帝《ジェダック》が卑怯者だということをよく知らなかったし、おまえやあの女の勇敢なことも知らなかった。わしは一時代前の老人だが、勇気は大好きだ。最初、わしはあの女に痛めつけられたのに腹を立てた。だが後になると、あの女の勇気がわかって、それに感心したのじゃ。彼女のあらゆる行動にもな。あの女はオ・タールをも恐れず、このわしをも恐れず、マナトールの全戦士をも恐れぬ。それにおまえじゃ! 百万の父祖の血をうけついだ男よ! おまえはなんと雄々しく戦うことか! わしはジェッタンの競技場でおまえの正体を暴露したことを残念に思うよ。わしは、あの女、ターラをオ・タールのところへ連れもどしたのを残念に思うよ。で、そのつぐないをしたいのじゃ。わしはおまえの友だちになりたい。わしの剣をおまえの足下に捧げよう」そういって、彼は剣を引き抜き、ガハンの前の床になげ出した。ガソール人は、救いようのないならず者でも、この火星の厳粛な誓約を破ろうとはしないことを知っていた。そこで、彼は前かがみになって老人の剣をひろいあげ、柄を先にして相手に返した。それは彼の友情を承諾したしるしである。
「ヘリウムの王女ターラはどこにおられるのだ?」ガハンがたずねた。「彼女は無事か?」
「後宮《こうきゅう》の塔に閉じ込められ、マナトールの皇后《ジェダラ》になる儀式をまっているところだ」アイ・ゴスが答えた。
「すると、この男は、ヘリウムのターラが自分と結婚すると思ったのか?」ガハンはうなるようにいった。「もしやつがまだ驚きのあまり死んでいなかったら、この手で片付けてやる」そして倒れているオ・タールのほうへ歩みより、皇帝《ジェダック》の心臓に剣を突き刺そうとした。
「よせ!」アイ・ゴスが叫んだ。「やつを刺し殺すな。そして、やつがまだ死んでいないことを祈るがいい。もし、おまえの王女を助けたかったらな」
「どういうわけだ?」
「もし、オ・タールの死が後宮に伝われば、ターラ姫は殺されてしまうじゃろう。女たちは、オ・タールが彼女を妻にむかえてマナトールの皇后《ジェダラ》にしようとしていることを知っているから、おまえにもわかるだろうが、みな嫉妬にかられてターラを憎悪しているはずじゃ。いまは、オ・タールの権威が、彼女を危険からふせいでいるだけだ。万一、オ・タールが死ねば、女たちは、ターラを戦士や男奴隷に引きわたすだろう。だれも彼女のために復讐する者がいないからな」
ガハンは剣を鞘におさめた。
「なるほど、もっともだな。だが、この男をどうすればよいのだ?」
「この場はほっておくのだ」アイ・ゴスはすすめた。「彼は死んではおらぬ。気がつけば、自分の居室にもどり、自分の勇敢さについて、大げさなつくり話をするじゃろう。そしてこの大ぼらを攻撃するものはだれもおるまい――このアイ・ゴスをのぞいてはな。行くとしよう! やつはいつ目をさますかもしれぬ。われわれはここで見つかってはならんのじゃ」
アイ・ゴスは皇帝《ジェダック》のからだのところまで歩いて行き、しばらくそのかたわらにひざまずいていたが、またガハンのいる寝台にもどってきた。ふたりはオ・マイの部屋をあとにして、螺旋通路のほうへ進んで行った。アイ・ゴスはガハンをみちびいて高い階へのぼり、王宮のその部分の屋上に出て、そこから間近に見える高い塔を指さした。
「あそこじゃ、ヘリウムの王女がいるのは。結婚式までは、彼女はまったく安全だろうて」
「おそらく安全だろう。ほかの者の手からはな、だが彼女自身の手からは安全ではない」ガハンがいった。「彼女は絶対にマナトールの皇后《ジェダラ》にはなるまい――それより先に自殺をはかるだろう」
「自殺するじゃろうか?」アイ・ゴスがきいた。
「きっとするだろう。おまえが、彼女に伝言をできなければな。わたしがまだ生きていて、まだ希望があると伝えるのだ」
「わしは伝言することはできぬ」アイ・ゴスがいった。「後宮は、オ・タールが嫉妬ぶかい手で守っているのだ。彼のもっとも信頼する奴隷や戦士がいて、そのうえ、その中には無数のスパイがいるから、だれも、だれがだれやら、知っている者はいないのだ。人目につかずに、あの部屋に入ることは不可能だな」
ガハンは、高い塔の輝く窓々を見つめて、立っていた。この上部の部屋には、ヘリウムのターラが閉じこめられているのだ。「なんとか方法を見つけるぞ、アイ・ゴス」彼はいった。
「方法はないのじゃ」老人が答えた。
しばらく、ふたりは屋上に立っていた。頭上には星が輝き、滅びゆく火星の二つの月が大空を駆けている。ふたりは、ヘリウムのターラが高い塔からオ・タールの玉座の間に連れてこられるときを狙って、あれこれと計画を論じた。アイ・ゴスのいい分では、彼女を救出するいくらかの希望が持てるときがあるとすれば、まさにそのときであり、しかもそのときだけだというのである。ガハンは、どこまで相手を信じてよいものかわからなかったので、ゲークの手を通じてフローランとバル・ドールに伝えた計画は自分の胸にしまっておいた。しかし、もしおまえがたびたび公言したように、オ・タールを弾劾《だんがい》して玉座から追うことを本気で考えているならば、皇帝《ジェダック》がヘリウムの王女と結婚しようとしている夜に、その好機をつかめるだろうと老剥製師に受けあった。
「おまえの番はそのときにくるのだ。アイ・ゴス」ガハンは相手に念を押した。「もし、おまえと同じ考えの戦士がいたら、大元帥の息女と結婚しようというオ・タールの大それた企図につづいて起こる思いがけぬ事件のために彼らを待機させておくのだ。どこで、いつおまえと再会しようか? わたしはいまこれから、ヘリウムの王女ターラに話しに行く」
「わしはおまえのその大胆さが好きだ」アイ・ゴスがいった。「だが、やっても無駄だと思うぞ。ヘリウムの王女ターラと話はできまい。もっともおまえが殺される前には、多数のマナトール人の血が後宮の床をたっぷりと流れるだろうが」
ガハンは微笑した。
「わたしは殺されるものか。どこで、いつ会おうか? だが、夜ならオ・マイの部屋でわたしにあえる。皇帝《ジェダック》にたてをつく者にとっては、あそこがマナトール中でもっとも安全な場所だ。皇帝の宮殿の中にあるのだがな。では行くぞ!」
「祖先の霊のご加護があるように」アイ・ゴスがいった。
老人が去ると、ガハンは屋上を横切って高い塔のほうへ進んで行った。その塔は最初コンクリートで造り、後から念入りに彫刻したものらしい。表面全体は、塔を形づくっている石のような材料に深く掘り込まれた複雑な模様でおおわれていた。建ててからかなりの年を経ていたが、わずかしか風化されていない。火星の大気が乾燥して雨はほとんど降らず、砂あらしもごくまれなせいである。しかしそれをよじのぼることは、もっとも勇敢な男をさえ、たじろがせるほど困難で危険な仕事だった――しかしガハンを思い止らせることはできなかった。彼の愛する女性の生命が、この危険な離れわざにかかっていることを知っていたからである。
ガソール人はサンダルを脱ぎ、短剣を吊ったベルトのほかは、よろいも武器もすべてとりのぞいて危険な塔の登攀《とうはん》を開始した。刻み目に手と足でしがみつき、ゆっくりはいのぼって行った。窓をさけ、二つの月、サリアとクルーロスの光がささない塔のかげの部分をつたって行った。その塔は王宮のまわりの屋根から、十五メートルほどそびえ、五階になっていて、四方を見わたせる窓がついていた。二、三の窓にはバルコニーがあるので、彼はそれらをほかの窓よりも敬遠するようにした。もっとも時間はもう九ゾードの終わりに近づいていたので、塔の中で目を覚ましている人間はいくらもいないだろう。
彼は音もなく進み、ついに、見つからずに最上階の窓に近づいた。その窓は、彼が下方の階で通り過ぎたいくつかの窓と同じく、がっちりと桟《さん》でふさがれていたから、ターラが監禁されている部屋へは、はいれそうもなかった。彼が近づいた最初の窓の内部は、暗闇のために見えなかった。二番目の窓は、照明された部屋に面していて、衛兵がドアの外で眠っているのが見えた。そこはまた下の階におりる通路の口でもあった。ガハンは塔の周囲をまわりこんで、別の窓に近づいた。しかし、いま彼のしがみついている側面は、三〇メートルほど下の中庭で終わっていて、まもなくサリア衛星の光が彼を照らすだろう。急がねばならないことがわかった。そこで、いま彼が近づいている窓の内側に、ヘリウムのターラがいてくれますようにと祈った。
窓辺に行ってのぞきこむと小さな、うす暗い部屋が見えた。中央には寝台があり、その上には、絹と毛皮の下にひとが寝ているらしい。裸の腕が寝具の下からつきだし、黒と黄色の縞模様のオルラック皮の上にむきだしになっていた――そのすばらしく美しい腕のまわりには、ガハンに見覚えのある腕輪がはめられている。部屋の中には、ほかにはだれも見えない。ガハンは部屋全体を見わたすことができた。顔を窓の横木に押しつけて、最愛の名前をささやいた。彼女は身動きをしたが、眼を覚まさなかった。ふたたび声をかけたが、先程よりは大きな声だった。ターラは起きあがって、あたりを見まわした。と同時に、寝台のガハンから一番離れた側の床の上に眠っていた、大柄な宦官《かんがん》がぱっととび起きた。まさにその瞬間サリアの皓々たる光がガハンのしがみついている窓をいっぱいに照らした。内部のふたりからはガハンのシルエットがくっきり見える。
ふたりとも驚いて立ちあがった。宦官《かんがん》は剣を抜いて窓にとびかかった。まったく自由のきかないガハンは、その男の剣のひと突きで、たやすく殺されるところだった。しかしそのとき、ヘリウムのターラが宦官《かんがん》にとびついて引きもどした。同時に彼女は装具に隠しておいた、細身の短剣を引き抜いた。そして、宦官《かんがん》が彼女をふりとばそうとするや、その鋭い切先が彼の心臓をつらぬいた。宦官は声もたてずに、うつぶせに床に倒れて死んだ。ターラは窓ぎわに走りよった。
「トゥラン!」彼女は叫んだ。「こんなところまでわたくしを捜しに来るとは、なんと恐ろしい危険をおかすのでしょう。いくらあなたの心が勇敢でも、ここではわたくしを助けることなどできないのに」
「そうとはかぎりませんぞ、最愛のひとよ」彼は答えた。「わたしは愛するひとに言葉しか持ってまいりませんでしたが、その言葉が、あなたを永遠にわたしのものにとりもどす実行のまえぶれとなりますように。ヘリウムのターラよ、わたしが恐れたのは、オ・タールがあなたに加えようとしている不名誉からのがれるために、あなたが自殺をするのではあるまいかということでした。それでわたしは、あなたに新しい希望を与えに来たのです。そしてどんなことが起きても、わたくしのために生きていてくださるようたのみに来たのです。まだ方法はあるし、もしそれがうまくいけば、われわれは最後には解放されるということを信じていてほしいのです。オ・タールがあなたと結婚する儀式の日の夜、オ・タールの玉座の広間でわたしを待っていてください。ところでこの男をどう処分しましょうか?」彼は床の上に倒れている死んだ宦官《かんがん》を指さした。
「気にかけることはありません」彼女は答えた。「だれも、オ・タールの怒りを恐れて、わたくしに危害を加えようとはしません――さもなければ、わたくしは王宮のこの区域にはいったとたんに死んでいたでしょう。女たちは、わたくしをにくんでいるのですもの。オ・タールだけが、わたくしを罰せられるのです。どうしてオ・タールが、ひとりの宦官《かんがん》の死を気にかけるものですか? そうです、このことについては、なにも恐れることはありません」
ふたりの手は窓の横木のあいだでしっかりと握りあった。ガハンは彼女を自分のほうへできるだけ引きよせた。
「一度だけキスしてください。わたしが去る前に。わたしの王女よ」するとヘリウムの王女、デジャー・ソリスとバルスーム大元帥との誇り高き娘はささやいた。「わたくしの大事なかた!」そして、彼女は自分のくちびるを一介《いっかい》の|放浪の戦士《パンサン》トゥランのくちびるに押しつけた。
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二十二 婚姻《こんいん》のまぎわに
マナトールの皇帝《ジェダック》、オ・タールが、オ・マイの部屋で目を開いたとき、あたりには墓地のような静寂が重々しく立ちこめていた。自分が出くわした恐るべき幽鬼の思い出が、彼の意識の中によみがえってきた。彼は聞き耳をたてた。しかしなにも聞こえなかった。目につくかぎりでは恐怖をよびおこすようなものはなにもない。彼はゆっくり頭をあげて、あたりを見まわした。寝台のわきの床には、最初に彼の注意をひいたものが倒れている。それがなんであるかを見きわめると、彼はふるえあがって目をふさいだ。だが、それは動きも、話しかけもしなかった。オ・タールは目を開いて立ちあがった。足はブルブルふるえている。しかし、さいぜん、寝台の上にむっくり起きあがるのを見たあの|もの《ヽヽ》は、その上にはなくなっていた。
オ・タールはじりじりと部屋の中を後退して、ついに、外側の廊下に達した。そこにはだれもいなかった。彼は知らなかったのだが、あの大きな悲鳴が彼自身の悲鳴にまじってひびいたとたん、彼の様子をさぐりに来た戦士たちはびっくり仰天《ぎょうてん》して逃げだし、廊下にはあっという間に人っ子ひとりいなくなってしまったのだ。彼は左手のずっしりした腕輪にはめ込んである時計を見た。時間は九ゾードが半分近く過ぎている。してみるとオ・タールは一時間ばかり、気を失って倒れていたわけだ。彼はオ・マイの部屋で一時間も過ごしたのに、しかも死ななかった! 先祖の顔を見たが、いまだに気はたしかだ! 彼はひとりでうなずくとほくそえんだ。手におえないほど乱れていた神経は、急速にもどった。そういうわけで王宮のひとの住む区域にもどったときには、完全に自己をとりもどしていた。顎をきっとおこし、威張りくさった態度で歩いて宴会の間にやって来た。族長たちが自分をそこでまちかまえていることを知っていたからだ。彼がはいって行くと、族長たちは立ちあがったが、その多くの顔には信じられないような、驚異の表情が浮かんでいた。
彼らは皇帝《ジェダック》オ・タールに再び会おうとは夢にも思っていなかったのだ。なぜなら、偵察にやったスパイがオ・マイの部屋から恐ろしい声がもれてきたということを報告していたからなのだ。彼があの恐ろしい部屋へたったひとりで出かけていったことは、幸いであった。いまや、彼の語る話を否定できる者はだれもいない。
イ・タスは彼をむかえるためにとびだした。時間が一|秒《タル》、一|秒《タル》と過ぎていっても、なお彼の庇護者《ひごしゃ》がもどってこなかったとき、自分にむけられていた冷たい視線を見ていたからだ。
「おお、勇敢で、栄光ある皇帝《ジェダック》よ!」家令は叫んだ。「われら一同、陛下が無事にお帰りになったことをおよろこび申しあげ、陛下の冒険譚《ぼうけんだん》をぜひお聞かせ願いたいと存じます」
「なんでもないことであったぞ」オ・タールは大声でいった。「余はあの部屋を念入りに捜し、奴隷のトゥランがもどるのを待っておったのだ。やつが一時的によそへ行っているのかと思ってな。だが、やつはもどってこなかった。やつはあそこにはいないし、二度ともどってくるかどうかもうたがわしい。あんな無気味な場所に長くいたいと思うものは、まずおらんだろう」
「で、攻撃されませんでしたか?」イ・タスがきいた。「悲鳴も、唸り声もお聞きになりませんでしたか?」
「余は恐ろしい声を聞いたし、幽鬼《ゆうき》も見た。だが、余を見ると逃げるので、一つも捕えられなかった。また、余はオ・マイの顔も見たが、気違いにはなっておらぬ。余は彼の死体のかたわらで急速さえしてきたのだ」
広間のむこう隅で、腰の曲がった、しわだらけの老人が、強い酒のはいった黄金の酒杯《さかずき》のかげで苦笑を隠していた。
「さあ、飲もうではないか!」オ・タールはそう叫んで、腰の短剣に手をあてがった。その柄頭《えがしら》で奴隷に用事をいいわたすときのドラをうち鳴らすことにしていたのだ。しかし短剣は、その鞘の中にはなかった。オ・タールはまごついた。彼はオ・マイの部屋にはいる直前まで、短剣があったことを知っていた。あのとき、念入りに手さぐりして、すべての武具がなくなっていないことをたしかめたのだが。そこで短剣の代わりに、テーブルの上の食器でドラを打ち鳴らし、奴隷たちがやって来ると、オ・タールと族長たちに、もっとも強い酒を運んで来るように命じた。夜が明ける前に、一同は酔った口で大声をはりあげてほめたたえていた――皇帝《ジェダック》の勇気をほめたたえたのだ。しかし中には、まだ憮然《ぶぜん》たる表情の者も何人かいた。
ついに、オ・タールがヘリウムの王女ターラを妻にする日が到来した。何時間もかかって、奴隷たちは気のすすまぬ花嫁を飾りつけた。七つの香水を含ませた風呂に、三時間もあきあきするほどつかったのち、ターラの全身はピマーリア花の油を塗られ、遠いデュサールからきた奴隷の器用な指先でマッサージされた。礼服は、すべて新調で、この儀式のために仕立てられたものであった。バルスームの大白猿の白い毛皮製で、白金やダイヤモンドがずっしりちりばめられ――それらで美々しく飾られていた。彼女の黒玉のような黒髪のつややかな束は、堂々としてふさわしい華やかさを持った髪形に結いあげられ、それにダイヤモンドの頭のついたピンがいくつもさされた。それらは月のない夜の星のように、きらきらと輝きわたった。
しかし、奴隷たちが高い塔から、オ・タールの玉座の広間に連れて行ったのは、不機嫌で反抗的な花嫁だった。廊下は、奴隷や戦士、それに式に出席するように命ぜられた王宮や街の女たちであふれていた。マナトールのあらゆる貴顕《きけん》、富豪《ふごう》、美女たちが一堂に会していた。
ターラは、儀杖兵に守られて、ひとで埋まる廊下をゆっくり進んで行った。「族長の間」の入口で、家令イ・タスが彼女を迎えた。広間の中には、死んだ族長たちが死んだ馬にまたがって連なっているほかはだれもいない。この長い廊下を通り抜けて、イ・タスはターラを玉座の間に連れて行った。そこも同様にひとはいなかった。マナトールの結婚式は、ほかのバルスームの国々とはちがい、花嫁は玉座につづく石段の下で、花婿《はなむこ》を待つことになっていた。客人たちは、彼女の後にしたがって広間にはいり、所定の場所につく。「族長の間」から玉座へつづく中央通路は完全にあけてあった。オ・タールが「族長の間」の閉ざされたドアのかげで、死者と短い、個人的な霊交をすませたのちに、その通路を通ってただひとりで花嫁に近づくからであり、それがならわしだったのである。
客人たちはすでに列をなして「族長の間」を通りぬけ、その両端のドアはとじられていた。やがて「族長の間」の下手《しもて》のドアが開き、オ・タールがはいってきた。彼の黒い礼服はルビーと黄金で飾りたてられ、顔は、貴金属のグロテスクな仮面でおおわれていた。その面には大きなルビーが目のかわりに、はめ込まれているが。その下には細い切れ目があって、面をかぶっている者が、そこからのぞけるようになっている。王冠は細い帯状で仮面と同じ金属で彫刻された羽根を支えていた。こうした皇位を示すいでたちは、マナトールの慣習によって、皇室の花婿に要求されるところに、細部にいたるまでのっとっていた。そしていま、それと同じ慣習によって、彼は彼の先輩であるマナトールの偉大な族長たちの祝福と助言を受けるために、ひとりで「族長の間」にやって来たのである。
その広間の下手のドアが、彼の背後で閉まると、皇帝《ジェダック》オ・タールはひとりだけで偉大な死者たちと立っていた。大昔からの指示によれば、この秘密の部屋で行われる光景は、だれも見てはならないのである。マナトールの権力者がマナトールの伝説を尊敬するからには、われわれもまた、この誇り高く激情的なひとびとのこうした伝説に敬意を払おう。そもそも、その死者の厳粛な部屋で行われることが、われわれになんの関係があろうか?
五分間が過ぎた。花嫁は黙々として玉座の下に立っていた。客人たちはたがいにささやきはじめ、部屋の中は蜂の羽音のような多くの声でみたされた。やがて、「族長の間」につづくドアが、さっと開かれ、燦然《さんぜん》たる花婿が姿をあらわして壮大な戸口で一瞬立ちどまった。婚儀《こんぎ》に参列した客席は静まり返った。花婿は歩調を整え堂々たる足どりで花嫁のほうに近づいて行った。ターラはしだいに強まる不安で胸の筋肉が、きゅっとひき締まるのを覚えた。運命の糸が、彼女にいよいよ堅く巻きついていくのに、トゥランからはなんの合図もないのだ。トゥランはどこにいるのだろうか? こうなっては、彼女を助け出すために、どんな手が打てるだろうか? ひとりの友人もなく、オ・タールの軍勢にとりかこまれて、彼女の立場は、いまやかすかな希望さえないようだった。
「わたくしはまだ生きているわ!」彼女は心のうちでしだいにつのりくる恐ろしい絶望感と戦おうとして、最後の勇気をふるい起こしながら、自分にささやいた。しかし指先で細身の短剣をたしかめた。それは、彼女がひそかに古い装具から、新しい装具に移しかえたものだった。いまや、花婿《はなむこ》は彼女のそばに来て彼女の手をとり、階段をのぼって玉座まで導いて行った。ふたりは玉座の前で立ちどまり、眼下に集うひとびとにむきなおった。そのとき、部屋の奥から一つの行列が現われた。その先頭には、ふたりを夫婦にする役目を司《つかさ》どる高僧《こうそう》がいた。そのすぐ後には、華やかな衣装の青年が絹製の下敷きをささげている。その上には、短い黄金の鎖で結びあわされた黄金の手枷がのせてある。高僧がその手枷を、ふたりの手首にはめ、結婚の聖なる絆《きずな》の分かちがたい縁《えん》結びを象徴するとき、婚姻《こんいん》の儀式は終わりをつげるのである。
トゥランの約束した救助がくるのは遅すぎるのではあるまいか? ターラは結婚の経文の長く単調な声を聞いていた。オ・タールの美徳と、彼女の美しさを称賛する言葉を聞いていた。最後の瞬間は刻々と迫っている。しかしまだ、トゥランの合図はない。それに彼が玉座の広間に到着できたとしても、彼にできることは、ただ、彼女といっしょに死ぬだけのことではあるまいか? 助かる見込みはありえない。
高僧が下敷きの上から黄金の手枷を、とりあげた。高僧は手枷を祝福し、ターラの手首に手を伸ばした。いまや決断の時は来た! もうこれ以上、どんなことをしても儀式を進めてはならない。なぜならバルスームのいかなる掟によっても、ふたりが結び合わされた瞬間に、彼女はマナトールのオ・タールの妻にされてしまうからだ。たとえそのとき、またはその後で救いが来ても、彼女は絶対に婚姻の絆を解くことはできず、トゥランは、死がふたりを分かつように確実に、彼女から失われてしまうのだ。
彼女の手は、ひそかにかくされた短剣に忍んでいった。しかしたちまち、花婿の手が伸びて、彼女の手首を握った。彼女の意図を見抜いていたのだ。ターラは、無気味な仮面《かめん》のすきまを通して、花婿の目が自分に注がれているのを見て、その仮面の下の冷笑を想像した。緊張した一瞬間、ふたりはそうして立っていた。ふたりの下方にいるひとびとは、息を殺して沈黙をつづけていた。なぜなら、玉座の前のふたりの動作は、いやでも気づかれずにはすまなかったからだ。
それは劇的な瞬間だったが、その瞬間は、「族長の間」に通じるドアが大きな音をたてて開かれたことで、さらに三倍にも劇的にされた。一同の目は、途中で儀式をさえぎった音のほうへむけられ、壮大な戸口に、もうひとりの人影が見えた――なかば身仕度したその姿は、あわてて身につけた装具の金具をはめかけている――それはマナトールの皇帝《ジェダック》、オ・タールそのひとではないか。
「待て!」そう叫ぶと、彼は玉座への通路を突進してきた。「にせ者をつかまえろ!」
一同の目は玉座の前に立っている花婿《はなむこ》の姿に注がれた。花婿の手があがり、黄金の仮面をはぎとった。ヘリウムのターラは信じられないように目を丸くして、|放浪の戦士《パンサン》トゥランの顔を見つめた。
「奴隷のトゥランだ」一同は叫んだ。「やつを殺せ! やつを殺せ!」
「待て!」トゥランは、十人あまりの戦士が前に突進してくると、剣を引き抜きながら叫んだ。
「待て!」年よりじみたかすれ声が叫んだ。老剥製師アイ・ゴスが客席の中からとびだし、玉座への階段に駆けあがって、最前列の戦士の真前に出た。
老人を見ると、戦士たちは立ちどまった。一般に老人というものはバルスーム人のあいだでは高い尊敬を払われているからであるし、またこのことは、多少とも祖先崇拝にもとづく宗教を持っている、すべての民族についてあてはまるだろう。しかしオ・タールは、老人にはすこしも注意を払わず、急いで玉座のほうへ走って行った。
「止まれ、臆病者め!」アイ・ゴスが叫んだ。
みんなは、あっけにとられてこの小柄な老人を眺めた。
「マナトールの衆よ」彼はその鋭くかん高い声でいった。「おまえたちは、臆病で、しかも嘘つきな男に支配されたいのか?」
「やつを引きずりおろせ!」オ・タールが叫んだ。
「話し終わらぬうちはおりぬぞ」アイ・ゴスがいいかえした。「それはわしの権利じゃ。もしわしの主張が通らなければ、わしの命はおしまいだ――それはみなが知っていることだし、わしも知っている。だから、わしは聞いてもらいたいというのだ。それはわしの権利だ!」
「それは彼の権利だ」部屋のあちらこちらから、二十人ばかりの戦士の声がひびきわたった。
「オ・タールが卑怯者で、嘘つきであることを、わしは証明できる」アイ・ゴスはつづけた。「彼はオ・マイの部屋の恐怖と勇敢に対決したといった。そして奴隷のトゥランなど見なかったとな。だがわしはあの部屋にいた。垂れ幕のかげに隠れておったのだ。そして起こったことの一部始終を見たのだ。トゥランもあの部屋に隠れていた。しかも、オ・タールが恐怖にふるえながら、部屋にはいって来たときは、オ・マイの寝台の上に寝ていたのじゃ。トゥランはオ・タールがはいってきた物音が目をさまして起きあがり、同時に鋭い叫びをあげたのだ。するとオ・タールは悲鳴をあげて、気絶してしまった」
「嘘だ!」オ・タールが叫んだ。
「嘘ではない。わしはそれを証明できる」アイ・ゴスがいいかえした。「彼がオ・マイの部屋からもどってきて、自分の冒険を自慢していた晩のことを覚えているか? 彼は奴隷たちに酒を運ぶように命じようとして、いつものように、短剣の柄頭《えがしら》で|どら《ヽヽ》をたたくために、短剣に手をやった。だれかそのことに気づいたかな? それからそのとき、短剣がなかったことに? オ・タールよ、オ・マイの部屋へ持っていった短剣はどこにある? おまえにはわかるまい。だがわしは知っている。おまえが恐怖のあまり気絶しているあいだに、わしがおまえのよろいから、それを取って、オ・マイの寝台の寝具用の絹のあいだに隠しておいたのだ。いまもそこにあるだろう。もし、疑うのなら、ひとをあそこへやってみろ。そうすればその短剣が見つかって、自分たちの皇帝《ジェダック》が臆病者であることがわかるだろう」
「だが、このにせ者はどうする?」ひとりが詰問した。「われわれが皇帝《ジェダック》についていい争っているあいだ、彼をマナトールの玉座に、のほほんと立たせておく気か?」
「われわれがオ・タールの臆病を知ったのは、彼の勇気のおかげだ」アイ・ゴスが答えた。「そして彼のおかげで、おまえたちはもっと偉大な皇帝《ジェダック》を与えられるだろう」
「われわれは自分らの手で皇帝《ジェダック》をえらぶ。あの奴隷をつかまえて、殺してしまえ!」広間のいたるところから、それに賛同する叫び声が起こった。ガハンは熱心に聞き耳を立てていた。まるでなにか待ちのぞんでいる音を聞こうとしているかのようだった。彼は戦士たちが玉座の壇に近づいてくるのをみた。そこで抜き身の剣を手にして、片手にヘリウムのターラを抱いた。自分の計画は結局、失敗したのだろうか? もしそうなら、彼にとって、それは死を意味したし、またもし彼が倒れればターラも自分の生命を断つだろうことも、わかっていた。彼女を救おうと、あれほど努力したのに、それがまったく水泡《すいほう》に帰してしまったのだろうか?
数人の戦士が、ただちにオ・マイの部屋にひとを派遣して短剣を捜すように力説していた。それがもし見つかれば、オ・タールの臆病さが証明されることになる。ついに三人の者が行くことに同意した。
「恐れることはない」アイ・ゴスが保証した。「あそこには、おまえらに危害を加えるものはなにもないのじゃ。わしは近頃たびたびあそこへ行ったし、奴隷のトゥランはこのところ幾夜もあそこで眠っていたのだからな。オ・タールやおまえたちを驚かせた悲鳴や唸り声は、トゥランが自分のかくれ場所からおまえたちを追い払うためにたてていたのだ」
しり込みしながらも、三人はオ・タールの短剣を捜しに、部屋を出た。
するとほかの者たちはふたたび、ガハンに注意をむけた。彼らは抜き身の剣を手にして玉座に近づいた。しかしこの奴隷をジェッタンの競技場で見て、その剛勇を知っていたので、じりじりと迫って行った。そして彼らが石段の下に到達したとき、はるか頭上から、轟音《ごうおん》が二度、三度とひびきわたった。トゥランは微笑して安堵《あんど》の溜息をついた。どうやら、うまく間にあったと見える。戦士たちは、足をとめて、耳をすませ、部屋にいあわせたほかの者もそうした。すると一同の耳に、ライフル射撃のけたたましい音がひびいた。王宮の頭上で戦闘が行われているのか、頭上から聞こえてくる。
「なんだあれは?」彼らはおたがいにききあった。
「大きな嵐がマナトールを襲ったのだ」ひとりがいった。
「嵐など気にかけるな。それよりおまえたちの皇帝《ジェダック》の玉座にまだ立っている、あいつを殺すのだ」オ・タールがいった。「やつをとらえろ!」
彼がいいおえる間《ま》もなく玉座のうしろの壁かけがわかれて、ひとりの戦士が、壇上へ歩み出た。すると周章狼狽《しゅうしょうろうばい》の叫びが、オ・タールの戦士たちの口からもれた。
「ユ・ソールだ!」彼らは叫んだ。「これはいかなる反逆《はんぎゃく》だ?」
「叛逆ではない」ユ・ソールはそのよく通る声でいった。「わたしはマナトール人のすべてのために新しい皇帝《ジェダック》を連れてきたのだ。嘘つきの卑怯者ではなく、きみたちがすべて敬愛している勇敢な男だ」
彼が脇によると、壁かけに隠された通路から、またひとりの男が現われた。ア・コールである。彼を見ると、驚きと、喜びと怒りの叫び声が起こった。そこにいるさまざまな党派の者は、巧妙《こうみょう》にしくまれたクーデターを知ったのだった。ア・コールのうしろからほかの戦士が陸続と現われ、玉座の壇上いっぱいになった――みなマナトスからきたマナトール人ばかり。
オ・タールは部下の戦士たちに攻撃させようと努めていた。そのとき不意に、髪をみだした血まみれの士官《パドワール》が、横の入口からとび込んできた。
「街は占領されました!」と大声で叫んだ。「マナトスの軍勢が、『敵の門』から攻め込んできたのです。ガソールの奴隷は蜂起《ほうき》して、王宮の衛兵たちを殺戮《さつりく》しています。大きな戦艦が王宮の屋上やジェッタン競技場に戦士をおろしています。ヘリウムとガソールの軍隊がマナトールを進撃しています。彼らは大声でヘリウムの王女を捜し、われわれの死体を焼きつくす火葬の炎でマナトールの都《みやこ》を燃上させてやると公言しています。空は飛行艇でまっ黒です。東と南から大船団がやってきたのです」
その時また、「族長の間」のドアがさっと開いた。マナトール人たちがふりむくと別の人物が入口に立っていた――白い肌と黒髪の堂々たる偉丈夫で、灰色の目は、いまや剣先のように輝いている。そして彼の背後の「族長の間」は遠い異国のよろいを着た戦士たちであふれている。ヘリウムのターラはその人物を見て歓喜のあまり心がはずんだ。それもそのはず、だれあろうバルスームの大元帥、ジョン・カーターそのひとだったからだ。彼は娘を救出するために無数の軍勢をひきいてやって来たのだ。そのそばには、ジョール・カントスがいた。かつてのターラの婚約者が。
大元帥の目は、口を開く前に、しばらく列席の者を見まわした。
「武器をすてたまえ、マナトールのひとびとよ」彼はいった。「わたしは娘を見つけた。しかも生きている。もしも娘がなんの危害《きがい》も受けていなければ、血を流すにはおよばない。きみたちの街は、ユ・ソールの戦士と、ガソールおよびヘリウムから来た戦士たちであふれている。宮殿はガソールの奴隷たちの手中にある。そのうえ、千人にのぼるわたしの手勢が、この部屋のまわりの広間や部屋にあふれているのだ。きみたちの皇帝《ジェダック》の運命はきみたちしだいだ。わたしはなにも干渉《かんしょう》する気はない。わたしはただ娘を捜し、ガソールから来た奴隷を解放するためにやって来たのだ。いうことはこれだけだ!」彼は返事もまたずに、まるで、部屋を埋めているのは敵ではなく、自分の部下であるかのように、つかつかと中央通路をヘリウムのターラのほうに歩いていった。
マナトールの族長たちはあっけにとられていた。彼らはオ・タールを見た。しかし、彼はたよりなげにあたりを見まわすだけだった。そのうちに「族長の間」から敵がはいってきて、玉座の広間を一周して、中にいる者をすっかりとりかこんでしまった。
そのとき、ヘリウム軍の隊長《ドワール》がひとりがはいってきた。
「三人の族長を捕えました」彼は大元帥に報告した。「彼らは玉座の広間にはいり、仲間のものに、なにか報告することを許してほしいと申し出ております。彼らのいうには、マナトールの運命を決する用件だそうです」
「三人をつれてこい」大元帥は命じた。三人は、厳重に警護されて、玉座に通ずる階段の下にやってきた。そこで三人は立ちどまり、おもだったひとりが、マナトールのほかの族長たちをふりかえり、その右手を高だかとかざして宝石で飾りたてた短剣を示した。
「われわれはこれを見つけたのだ」彼はいった。「アイ・ゴスがあるだろうといったその場所でだ」そして、彼はオ・タールをおどすようににらみつけた。
「ア・コール、マナトールの皇帝《ジェダック》!」だれかが叫んだ。すると百人もの戦士がしゃがれ声でそれに和した。
「マナトールにはひとりの皇帝《ジェダック》しかありえない」短剣を手にした隊長がいった。そして目を不運なオ・タールに注いだまま彼が立っているところへ歩みより、さしのべた掌の上に短剣をのせて信頼を失った皇帝にさし出した。「マナトールには、ひとりの皇帝《ジェダック》しかありえないのだ」と意味ありげにくりかえした。
オ・タールはさし出された短剣を手にとり、からだをいっぱいにのばして、それを自分の胸につば元まで突き刺した。このただ一つの行為によって、彼は国民のあいだで面目を回復し、永久に「族長の間」に置かれるのである。
彼が倒れると、大広間に沈黙がおとずれた。やがてそれを破って、ユ・ソールの声が響きわたった。
「オ・タールは死んだ! 全マナトールの族長が召集されて新しい皇帝《ジェダック》を選び出すまで、ア・コールに支配させよう。きみたちの意見はどうだ?」
「ア・コールに支配させよう! ア・コール、マナトールの皇帝《ジェダック》!」その叫び声は広間をうめつくし、反対の声はまったくなかった。
ア・コールは立ちあがると静まるように剣で合図した。
「これはア・コールの意志である」彼はいった。「またマナトスの大|王《ジェド》、ガソールから来た艦隊の司令官、およびバルスームの大元帥、ジョン・カーターの意志でもある。マナトールの街には平和がおとずれねばならぬ。それゆえに、わたしはマナトール人に命ずる。これより直ちにわれらの同盟軍の戦士たちを客としてまた友人として歓迎し、彼らに古代の街の驚異《きょうい》とマナトールの饗応《きょうおう》ぶりとを示すのだ。これがわたしの希望である」そこでユ・ソールとジョン・カーターは部下の戦士を解放させ、彼らにマナトールの歓待を受けるように命じた。広間が空《から》になると、ジョール・カントスがヘリウムのターラのかたわらにやってきた。救出された彼女の幸福感はこの男を見て曇った。彼女の美徳にみちた心は、自分が彼を裏切ったことを感じていたのだ。彼女は目の前にある試練を恐れた。長いこと、ふたりのあいだに存在した暗黙の了解から解放されるまえに、まず彼女は自分の不名誉を認めなければならない。すると、ジョール・カントスは近づいて来て、ひざまずきながら、彼女の手にくちびるをおしつけた。
「美しい、ヘリウムの王女よ」と彼はいった。「わたしはあなたに話さねばならないことを、どう話したらよいのでしょう――わたしがまったく考えなしに、あなたに加えた無礼を。わたしは、ただわが身をあなたの寛大さにまかせて、許しを乞うばかりです。もし、あなたが要求するならば、わたしはオ・タールのように、いさぎよく短剣を受けるかくごです」
「なんのことですの?」ターラはたずねた。「なんのお話かしら――すでに心が破れている者にむかって、なぜそんな謎めいたいい方をなさるの?」
彼女の心はすでに破れているだと! 形勢は有望どころではなかった。若き士官《パドワール》は、これからいわねばならぬ言葉を口にするくらいなら、死んでいたらよかったにとさえ思った。
「ヘリウムのターラよ」彼はつづけた。「わたしたちはみな、あなたが死んだものとばかり考えていたのです。まる一年あなたはヘリウムから姿を消しておられた。わたしは衷心からあなたをいたみましたが、つい一か前に、オルビア・マルシスと結婚したのです」そこで言葉を切り、なにかいいたげな目つきで彼女を見あげた。その目は「さあ、わたしを打ち殺してください!」とでもいっているようだった。
「おお、なんとおろかな方でしょう!」ターラは叫んだ。「あなたのなさったことは、わたくしには、この上もなくよろこばしいことよ。ジョール・カントス、あなたにキスをしてあげたいほどよ!」
「オルビア・マルシスもそれを気にするとは思いません」相手はいった。その顔はいまや微笑でつつまれた。ふたりが話をしていると一団の男たちが玉座の広間にはいってきて、壇に近づいた。彼らは背の高い男たちで、まったく飾りのない質素なよろいをつけていた。彼らの指揮者が壇に到達すると、ターラはガハンをふりむいて、彼にも仲間に加わるように合図した。
「ジョール・カントス」と彼女はいった。「|放浪の戦士《パンサン》トゥランをあなたにご紹介しますわ。このひとの忠誠と勇気とがわたくしの愛をかちとったのです」
ジョン・カーターと新来の戦士たちの指揮者は近くに立っていたが、このときすばやく三人のほうを見た。ジョン・カーターは目につかないほどの微笑を浮かべ、指揮者はヘリウムの王女に呼びかけた。
「|放浪の戦士《パンサン》ですと!」彼は叫んだ。「ヘリウムの美しきご息女よ、あなたはご存知なかったのですか? あなたが|放浪の戦士《パンサン》とおっしゃったこの方は、ガソールの王《ジェド》、ガハンですぞ?」
一瞬、ヘリウムのターラは、びっくりした様子だったが、すぐに美しい肩をすくめ頭をむけると、肩ごしにガソールのガハンを見やった。
「王《ジェド》でしょうと、|放浪の戦士《パンサン》でしょうと」と彼女はいった。「わたくしの奴隷だったことになんのちがいがあるものですか?」そういって、いたずらっぽく、恋人の笑顔に笑いかけた。
話が終わると、ジョン・カーターはわたくしの前の椅子から腰をあげ、まるでジャングル育ちのライオンのように、巨大なからだをのばした。
「帰らなければなりませんか?」わたくしは叫んだ。彼をこのまま去らせてしまいたくなかった。彼がわたくしと同席したのは、ほんのつかの間《ま》のようにしか思えないのだ。
「きみたちの地球の美しい山々のかなたの空は、すでに白《しら》んでいる」彼は答えた。「間《ま》もなく夜が明けるだろう」
「あなたが行く前に、一つだけうかがいたいのですが」わたしはたのんだ。
「なんだね?」彼はやさしくうなずいた。
「ガハンはどうやって、オ・タールの礼服《れいふく》をまとって、玉座の広間にはいれたのです?」
「かんたんなことだ――ガソールのガハンにとってはな」大元帥は答えた。「アイ・ゴスの助けで、彼は儀式の前に『族長の間』にしのび込んだのだ。玉座の広間も、『族長の間』も、花嫁を迎えるために空《から》にされていたあいだにね。彼は、玉座のうしろの、壁かけの|かげ《ヽヽ》に口を開けている通路を通って、地下室からやって来たのだ。そして『族長の間』に行き、乗り手のないソートの上に乗っていたのだ。その剥製戦士《はくせいせんし》はアイ・ゴスの修理室にいたものだ。オ・タールがはいってきて、その近くにくると、ガハンは襲いかかって、重い槍の柄で彼を打ち倒した。ガハンはそれで、彼を打ち殺したと思った。だから、オ・タールが現われて、彼の正体をあばいたときには、一驚したのだよ」
「それで、ゲークは? ゲークはどうなりました?」わたくしはきいた。
「バル・ドールとフローランをターラの故障した快速艇のところへ連れて行ったのだ。彼らがそれを修理してから、彼もふたりといっしょにガソールに行った。そこからヘリウムのわたしのところに伝言が送られた。それから、彼はア・コールやユ・ソールをふくめたわれわれの艦隊が屋上におろした多数の軍勢を屋根から先導した。彼は軍勢を案内して螺旋通路をおり王宮にはいり、玉座の間にはいったのだ。われわれは、ゲークをヘリウムに連れてきた。彼はまだ生きているよ。われわれがマナトールの穴の中で飢えて死にそうになっているのを見つけ出した。ただ一つのライコールといっしょにな。だがもうよそう! これ以上の質問はごめんだ」
わたくしは彼といっしょに東のアーケードまで行った。そのアーチのむこうに、暁の赤光《しゃくこう》が輝きはじめていた。
「さようなら!」彼はいった。
「ほんとうにこれがあなただとは、信じられないほどです」わたくしは叫んだ。「明日になればきっと、この話はみんな夢だったのだと思うことでしょう」
彼は笑って剣を抜くと、アーチのコンクリートの上に十字をさっとかきつけた。
「もしきみが、明日になって疑問を抱いたら」と彼はいった。「これが夢かどうか、見にくることだな」
一瞬のち、彼の姿は消えていた。(完)
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火星のチェス・ジェッタン
こうしたことに興味のある方、それに、このゲームをやってみたいという方のために、わたくしがジョン・カーターから聞いたジェッタンのルールをご紹介しよう。それぞれの駒《こま》の名称と動きを紙切れに書いてふつうのチェスの駒に貼りつければ、このゲームは、火星で用いられている装飾をこらした駒《こま》を使った場合と同じように、プレーできよう。
盤 交互に黒とオレンジの正方形の目、百からなる四角い盤。
駒 盤面の第一列、左から右へ並ぶ順序にしたがって、
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戦士《ウォリアー》 羽飾り二枚。どの方向へもまっすぐ二目、またはコンビネーション。
士官《パドワール》 羽飾り二枚。どの方向へも斜めに二目、またはコンビネーション。
隊長《ドワール》 羽飾り三枚。どの方向へもまっすぐ三目、またはコンビネーション。
飛行艇《フライヤー》 プロペラ三枚。どの方向へも斜めに三目、またはコンビネーション。途中にある駒を飛び越すことができる。
王将《チーフ》 宝石十個つけた宝冠《ほうかん》。どの方向へも三目、直進、斜め、またはコンビネーション。
王女《プリンセス》 宝石一個つけた宝冠。動きは王将《チーフ》と同じ。ただし、途中にある駒を飛び越すことができる。
飛行艇《フライヤー》 前述
隊長《ドワール》 前述
士官《パドワール》 前述
戦士《ウォリアー》 前述
以上十個が第一列で、第二列は左から右へ
馬《ソート》 羽飾り二枚の戦士が乗っている。二目のうち一目はまっすぐ、一目はいずれの方向へも斜めに。
|放浪の戦士《パンサン》(八枚) 羽飾り一枚。一目前、左右、または斜め。ただし後退はできない。
馬《ソート》 前述
以上である。
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ゲームはいっぽうの競技者が黒の駒二十を、そして相手がオレンジの駒二十を持っておこなわれる。本来は、南極《なんきょく》の黒色人種と北極の黄色人種との戦闘を現わすものである。火星ではふつう、盤面《ばんめん》は黒駒は南側、オレンジ駒は北側からプレーされるように配置される。
敵の王女《プリンセス》と同じ目に味方の駒がはいった場合、あるいは敵の王将《チーフ》を味方の王将《チーフ》がとった場合、勝ちとなる。
王将《チーフ》が、敵の王将《チーフ》以外の駒でとられた場合は引き分け。また、双方《そうほう》とも持駒が同格の駒三個ないしそれ以下に減ってから、各五手ずつ、計十手で勝敗が決まらぬ場合、引き分け。
王女《プリンセス》は敵の駒から脅《おび》やかされている目へ動くことはできないし、また敵の駒をとることもできない。ただし、ゲームのあいだ任意の時に一時だけ十目動く権利がある。この動きは「ジ・エスケープ」と呼ばれる。
ゲームの最後の指し手で王女がとられた場合をのぞけば、二つの駒が同一の目を占めることはできない。
片方《かたほう》の競技者が適切に、かつ順番正しく、自分の駒を敵の駒が占める目に置いた場合、敵の駒は殺されたものと見なされて、ゲームからのぞかれる。
駒の動きを説明すると、まっすぐな動きとは真北、南、東、西を意味する。斜めの動きとは、北東、南東、南西、北西である。コンビネーションの動きを例をあげて説明すると、隊長《ドワール》は北に三目、まっすぐ動く場合もあれば、北に一目と東に二目、または同様なコンビネーションでまっすぐ動く。ただし一回の動きで同一の目を二度、越えてはならない。
先手は競技者双方の協議《きょうぎ》で、どう決めてもよい。一ゲームが終われば、勝者は望むならば次のゲームの先手をとってもよいし、また相手に先手をとらせてもよい。
賭《かけ》 ジェッタンにおける火星人の賭には、いくつかの方法がある。むろん、ゲームの結果によって、主要な賭金《かけきん》の帰属《きぞく》が決まるのであるが、おのおのの駒の価値にしたがって、それぞれに値段をつけ、駒を失った数に応じて、それに相当する額《がく》を相手に払うというやりかたもある。