火星の女神イサス
E・R・バローズ/小笠原豊樹訳
目 次
はしがき
一 植物人間
二 森の中の戦い
三 神秘の部屋
四 サビア
五 危機の回廊
六 バルスームの黒い海賊
七 うるわしの女神
八 オメアンの海
九 永遠の生命の女神イサス
十 シャドール島の牢獄
十一 地獄の反乱
十二 死の運命
十三 自由をめざして
十四 闇に光る目
十五 逃走と追跡
十六 囚われて
十七 死刑宣告
十八 ソラの話
十九 暗黒の絶望
二十 空中戦
二十一 水と火のかなたに
二十二 勝利と敗北
あとがき
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はしがき
私の大|叔父《おじ》、バージニアのジョン・カーター大尉の遺体を、リッチモンドの古い墓地のあの風変わりな墓所におさめ、人目にふれぬようにしてから、すでに十二年の歳月が流れていた。
私はあの巨大な墓の建設を引き受けたが、それについて叔父が残していった奇妙な指図のことでは、いくたびとなく頭をひねったものだった。とりわけ、自分の遺体を|蓋のない《ヽヽヽヽ》棺におさめ、遺体安置室の巨大な扉のかんぬきを動かす重い機械装置は|内側からだけ《ヽヽヽヽヽヽ》操作できるようにしてくれという指図は、不可解というほかはなかった。
私がこの驚くべき人物の驚くべき手記を読んでから、すでに十二年の歳月が経った。この人物は自分の幼年時代のことは何ひとつ記憶していないし、自分の年齢についてはだいたいの見当をつけることさえできなかった。彼はいつも若々しかったが、私の祖父の曾祖父を膝にのせてあやしたこともあったのである。そして彼は十年間火星で過ごし、バルスームの緑色人や赤色人の敵になったり味方になったりして戦い、永遠の美に輝くヘリウムの王女デジャー・ソリスを妻に迎えて、十年近くのあいだヘリウムの皇帝《ジェダック》タルドス・モルス家の王子として生活した。
ハドソン川を見わたす大尉の別荘の前の断崖で彼の死体が発見されてから、すでに十二年が過ぎ去った。この長い歳月のあいだ、私は何度も、ジョン・カーターは本当に死んだのだろうか、あの滅びゆく遊星の涸《か》れた海の底をふたたびさまよっているのではあるまいかと考えた。あの遠い昔の、彼が心ならずも四千八百万マイルの宇宙を飛んで地球にもどらねばならなくなった日、はたして大気製造工場の扉をあけるのがまにあったかどうか、そして窒息で死にかけていた何千万もの人びとを救うことができたかどうかを確かめようと、バルスームへもどったのではないだろうか。そしてタルドス・モルスの宮殿の庭で彼の帰りを待つ黒い髪の王女と、夢にまで見た彼の息子とを見いだしたのではないだろうか。
あるいは、大気製造工場の扉をあけるのが遅すぎたことがわかって、死の世界で生けるしかばねのような生活を送っているのだろうか。それとも、やはり彼は本当に死んでしまって、もう故郷の地球へも愛する火星へも二度ともどることはないのだろうか。
むし暑い八月のある夜、こうしてむなしい空想にふけっていると、召使のベンが一通の電報を私にわたした。封を切って、私は読んだ。
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明日、ローリー・リッチモンド・ホテルへこられたし。 ジョン・カーター
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翌朝早く、私はリッチモンド行きの一番列車に乗り、二時間たたぬうちにジョン・カーターの部屋《へや》に案内されていた。
部屋にはいってゆくと、彼は立ちあがり、その端整な顔に昔ながらの心のこもった歓迎の微笑を浮かべて私を迎えた。見たところ、少しも年をとった様子はなく、相変わらずすらりとした体つきの三十歳の軍人だった。鋭い灰色の目はきらきらと輝き、顔のしわは鉄のように強固な意志を示している。それは三十五年近く前、彼の記憶が初めて私の心に焼きついたころから見馴《みな》れたしわだった。
「やあ、どうした」と大尉は挨拶《あいさつ》がわりに言った。「幽霊を見ているような気がするかね。それとも、ベンじいやのジューレップを飲みすぎたときのような気持かな」
「ジューレップのほうでしょうね」と私は答えた。「確かに、すごくいい気分です。しかし、それもたぶん、あなたにまた会えたからですよ。また火星へ行っていらしたのですか。聞かせてください。デジャー・ソリスはどうでした。元気にあなたを待っていましたか」
「そうだ、私はまたバルスームへ行っていたのだ。そして――いや、話せば長くなる。長すぎて、私が帰るまでの限られた時間ではとうてい話しきれない。ねえ、きみ、私は秘訣《ひけつ》を覚えたんだよ。その秘訣によって、道のない宇宙空間を思いのままに横断し、無数の遊星の間を自由に往来できるのだ。しかし私の心はいつもバルスームにある。バルスームが私の王女とともにあるかぎりは、私の命ともいうべきあの滅びゆく世界を二度と離れることはないだろうと思う。私が今ここへきたのは、きみに対する愛情から、きみがあの世へ行ってしまう前にもう一度会いたくなったからなのだ。あの世というやつは私には永久に不可解だろう。私はこれまでに三度死んだし、今夜もまた死ぬのだが、あの世のことは、きみと同じように見当もつかないのだ。
バルスームのオツ山脈の中腹の難攻不落の砦《とりで》に住みついて、遠い昔から生と死の秘密を握っていると信じられてきた古代宗教の礼賛者たち、あの頭のいい神秘的なサーン族でさえ、われわれ同様、何も知ってはいないのだ。私はそれを証明してやったよ。おかげで、あやうく命を落としそうになったがね。まあ、それもみんな、私が地球へもどってからのこの三か月間に書いたこの記録を読めばわかることだ」
彼はすぐそばのテーブルの上のふくらんだ折りかばんを軽くたたいた。
「きみが興味を持ち、信じてもくれることはわかっている。世間も興味を持ってくれるだろう。しかし、信じるのは遠い未来のことだろうな。そうだよ、まだまだずっとさきのことだ。今のところはだれにも理解できはしない。私がこの記録に書いたことが理解できるところまで、まだ地球人は進歩していないのだ。この記録の中からきみが発表したいと思うもの、世間の害にならないと思うものを発表したまえ。しかし、たとえ世間のもの笑いのたねになっても不満に思ってはいけない」
その夜、私は大尉といっしょに墓地まで歩いていった。墓の扉の前で彼は振り返り、私の手を握りしめた。
「さようなら。もうきみには二度と会えないかもしれない。妻や息子が生きているあいだは、二度とそばを離れる気にはなれないだろうし、それにバルスームでは寿命が千年をこえる場合も珍しくはないことだからね」
彼は墓の中へはいっていった。巨大な扉がゆるやかに閉じ、重いかんぬきが耳ざわりな音をたててかかった。そして、かちっと錠のかかる音。それ以来、私はバージニアのジョン・カーター大尉の姿を見ない。
しかし私は、リッチモンドのホテルの彼の部屋のテーブルに残された厖大《ぼうだい》な記録を整理して、このまえ大尉が火星へもどったときの物語をまとめあげたから、それをここに発表しよう。
記録の中には、公表をはばかって省略した部分もたくさんある。しかし、少し前に私が発表して、世間の人びとが信じようとしなかった大尉の最初の手記――火星の二つの月の下、涸れた海の底に展開する勇敢なバージニア男子の活躍――にもまして、再びヘリウムの王女デジャー・ソリスを捜し求める彼の今回の冒険が驚くべきものであることは読者にもおわかりになるだろう。
エドガー・ライス・バローズ
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一 植物人間
一八八六年三月初めの、あの澄みきった寒い夜、灰色の幻のように音もなく流れる雄大なハドソン川を見おろす別荘の前の断崖に立っていたとき、私はふたたび、強大な戦《いくさ》の神、わが愛する火星の、どうにも抵抗できない不思議な力が自分に迫ってくるのを感じた。寂しい思いで十年もの長い間、いとしい人のもとへ連れ戻してくれと、私は両腕を広げて火星に懇願しつづけたのである。
軍神|火星《マルス》のこのような抵抗しようのない力に引きつけられるのを感じたのは、あの一八六六年の月も同じ三月の夜、私の体の生命《いのち》のない|ぬけがら《ヽヽヽヽ》がこの世の死体と変わりない姿で横たわるアリゾナの洞窟の外に立っていたとき以来のことだった。
赤い目のように輝く巨大な星に向かって両腕をさしのべながら、宇宙のはてしない空間を突っ切って二度も私を飛行させたあの不思議な力がもう一度もどってくるようにと私は祈った。十年の長い間、私はひたすら希望をいだいて待ちつづけながら夜ごとこうして祈ったのだ。
とつぜん船酔いのような目まいがして、意識が薄れ、両膝がくずれるように折れたかと思うと、私の体は目がくらむような高い断崖の縁すれすれのところに頭からばったり倒れた。
と、すぐ頭がはっきりして、あの無気味なアリゾナの洞窟の中の恐ろしい光景がなまなましく記憶によみがえってきた。そして、あの遠い昔の夜と同じように、またもや私の体は身動きひとつできなくなり、静かなハドソン川のほとりにいるにもかかわらず、例の洞窟の奥の闇にひそんで私をおびやかした恐ろしいもののうなり声と身動きの音が聞こえた。私はあのときと同じように、すさまじい超人的な力をふりしぼって自分の身を束縛している不思議な麻痺状態から脱出しようとした。と、またもや、ぴんと張った針金が急に切れるような鋭い音がして、とたんに私は自由になり、素裸で立っていた。そして、私のそばには、つい今しがたまでジョン・カーターの暖かい赤い血が勢いよく流れていた肉体がまったく生気のない|ぬけがら《ヽヽヽヽ》になって横たわっていた。
その|ぬけがら《ヽヽヽヽ》に名残《なご》りの一瞥《いちべつ》を送るのもそこそこに、私はふたたび火星に視線を転じ、燃えるように赤い光に両手をさしのべて待ちかまえた。
だが、待つほどのこともなかった。火星のほうを向いたかと思うと、あっという間に私の体は眼前の広大な空間に勢いよく飛び出していたからだ。二十年前と同じように、一瞬、すさまじい寒気と暗黒が襲ってきた。それから目をあけると、もう別の世界だった。私は巨大な森の中に横たわり、こんもりと頭上をおおう茂みの小さな隙間からさしこむ燃えるように強烈な陽光を浴びていた。
目にはいった光景があまりにも火星らしくなかったので、私は思わずはっとした。とんでもない運命の気まぐれで、どこかの見知らぬ遊星にほうりだされたのではあるまいかという不安が急にわき起こったのだ。
まったく、そんなことはないとは言えなかった。遊星と遊星の間の広漠たる空間を通ってくるのに、私には何の道しるべもなかったではないか? どこか別の太陽系のはるか遠方の星に送りこまれるのではなく、必ず火星に到達できるという保証は何もなかったではないか?
赤い草に似た植物が短く刈りこまれた芝生のように広がっている場所に私は横たわっていた。まわりには満開の大きな華麗な花におおわれた見なれぬ美しい木立がつづき、そのいたるところに、きらびやかな色彩の鳴かない鳥がとまっていた。翼があるから鳥と呼んだのだが、それは地球上ではまったく見られない奇妙な格好をした鳥だった。
地面に生えている植物は大水路に住む赤色火星人たちのところで見かける芝生に似ていたが、木や鳥は私がこれまで火星で見たものとはまるで違っていた。その上、遠くの木立の間から何にもまして火星らしくない光景――輝く太陽のもとに青い水のきらめく広々とした海が見えた。
もっとよく調べようと思って、私は立ち上がった。と、その昔、初めて火星で歩こうとしたときと同じように、滑稽な失敗をやらかした。この小さな遊星は地球より引力が小さく、また、大気が非常に希薄で気圧が低いために、地球人の私の体力にはあまりにも抵抗が少ないので、立ち上がるという何でもない動作をしただけなのに私の体は数フィートも空中に飛び上がり、この不思議な世界の柔らかな美しく輝く草地にまっさかさまに墜落してしまったのだ。
だが、そんな目にあったおかげで、やはり自分は火星のどこかまだ知らない場所にいるにちがいないという確信がいくらか強まった。火星に十年間住んでいる間に私が探検した地域といえば広大な火星全土のほんの一部分にすぎないのだから、これは大いにありうることだった。
私は自分の忘れっぽさに苦笑しながら、ふたたび立ち上がった。そしてまもなく、この地球と異なる条件に自分の体の動きを調和させる|こつ《ヽヽ》をあらためて会得《えとく》した。
海のほうに向かってかすかに下っている斜面をゆっくりと歩いてゆくと、公園のように美しい芝生と木立に目をとめないわけにはいかなかった。草原はイギリスのどこかの古い庭園の芝生のように短く刈りこまれて絨毯《じゅうたん》のように広がり、樹木は一様に十五フィートぐらいの高さまできちんと刈りこまれているように見えた。そのため、どちらを向いても、この森の中は天井の高い大広間を少し離れたところからながめるような感じがした。
このように入念に草や樹木の手入れが行なわれている様子を見ると、どうやらこの二度目の火星到着の地点は幸いにも文明人の住む領域であるにちがいないと確信した。そして、住民を見つけさえすれば、タルドス・モルス家の王子という私の身分にふさわしい丁重な待遇と保護を受けられるだろうと思った。
海のほうに向かって進んでゆくと、森の木々のみごとさに感嘆せずにはいられなかった。巨大な樹木のなかには幹の直径が百フィートにも達するものがあり、途方もない高さの木であることを物語っていた。だが、その高さは推察するしかなかった。なにしろ一面に木の葉が深く生い茂っていて七、八十フィート以上は見とおしがきかないのである。
見えるかぎりの高さまで、幹も枝も真新しいアメリカ製のピアノのようになめらかで、つややかに光っていた。黒檀《こくたん》のように真黒な木の群れがあるかと思えば、そのすぐ隣には森の中のやわらかな光を浴びて優美な陶器のように白く透明に輝いている木立もあり、そのほかにも空色、深紅、黄、濃紫《こむらさき》などさまざまな色彩の木々があった。
そして幹と同じように葉も派手な多彩な変化を見せていたし、たくさん群がり咲いている花は言葉では何ともたとえようがないほど美しかった。
森のはずれに近づくと、前方の木立と広い海の間に草地が広がっているのが見えた。そして木陰から出ようとしたとき、それまで不思議な美しい風景がかもしだしていたロマンチックな気分をすっかり吹き飛ばすような光景が目にはいった。
左手には見わたすかぎり海が広がり、はるかかなたの海岸がぼんやりした線になって見えるだけだった。そして右手には巨大な川が緋色《ひいろ》の土手の間をゆったりと流れ、目の前の静かな海にそそぎこんでいた。
川の少し上流には巨大な切り立った崖があり、大河はその絶壁の下から流れ出しているらしかった。
だが、森の美しい景色から急に私の注意を奪ったのは、この壮大な自然の眺めではなく、大河の岸辺の草地をのろのろ動きまわっているたくさんのものの姿だった。
それは奇妙なグロテスクな格好をした動物の群れで、これまで火星で見かけたどんな動物とも違っていた。それでも少し遠くから見ると、格好は何よりも人間に似ていた。大きいやつは直立すると十フィートから十二フィートほどの身長があるようで、胴と下肢との釣合はちょうど人間と同じくらいである。
しかし、腕は非常に短く、私がいる位置からは、まるで象の鼻のように見えた。蛇のようにくねくねと動き、まるで骨がないように見えるのだ。骨があるとすれば椎骨《ついこつ》にちがいない。
巨大な木の幹の陰から様子をうかがっていると、この動物の一匹がのろのろと私のいるほうへ近寄ってきた。そいつはその奇妙な形の手で草地の表面をなでるような動作をしきりにやっていた。それがこの動物たちにとっては重要な仕事らしいのだが、いったい何をやっているのか、私にはわからなかった。
動物は私のすぐそばまでやってきたので、じっくりと観察することができた。この動物のことをくわしく知るようになったのはもっとあとになってからのことだったが、この醜悪な自然の道化者はざっと見ただけで、さっさと逃げ出したくなる代物《しろもの》だった。ヘリウム海軍随一の快速飛行船に乗って逃げたとしても、この恐ろしい怪物から逃げるにはまだるっこい感じがしたことだろう。
この動物の体は毛がなく、色は気味の悪い奇妙な青色だったが、一つしかない飛びだした目のまわりだけは白い輪のようになっていた。そして、その目は瞳孔《どうこう》も虹彩も眼球も真っ白なのだ。
鼻は、無表情な顔のまん中にある赤く充血した歪《ゆが》んだ穴で、これに似ているものといえば、たったいま弾丸が命中して、まだ血が流れ出さない傷跡とでもいうほかはなかった。
このいやらしい穴の下は顎《あご》までのっぺりとして何もなかった。口らしいものはどこにも見あたらない。
頭部は、顔以外は長さ八インチから十インチほどのもじゃもじゃした漆黒《しっこく》の毛におおわれていた。毛の太さは大きなミミズぐらいあり、この動物が頭の筋肉を動かすと、まるで一本一本にそれぞれ別の生命が通っているかのように毛たちは恐ろしい顔のまわりをくねくねとのたうちまわった。
胴体と脚部は人間と同じように左右対称になっていて、足部も形は人間と似ていたが、とてつもなく大きかった。踵《かかと》から爪先までの長さはたっぷり三フィートもあり、きわめてひらべったく、幅が広かった。
相手がすぐそばまできたとき、ようやくわかったのだが、妙な格好の手で芝生の表面をこする奇妙な動作は独特の方法で食物を摂取しているのだった。この動物は剃刀《かみそり》のような鋭い爪でやわらかい草を刈り取っては、左右の手のひらに一つずつある二つの口から腕のように見える咽喉《のど》へ吸いこむのである。
すでに述べた事柄のほかに、この動物には長さ六フィートほどの巨大な尾をそなえているという特徴があった。この尾はつけ根のあたりは完全にまるいが、次第に細く平たくなって尖端は薄い刃のようになり、地面に垂直に立てるようにして引きずっていた。
しかし、この珍しい動物の何にもまして驚くべき特徴は、体長六インチほどの自分と瓜二つの格好をしたちっぽけなやつを左右の腋《わき》の下に一つずつぶらさげていることだった。この小さいやつはその頭の真上から生えている細い茎のようなもので大きいほうの体につながり、ぶらさがっていた。
その小さいのが子供なのか、それとも合わせて一つの生きものの一部分にすぎないのか、私にはわからなかった。
この気味の悪い怪物を仔細に観察しているうちに、ほかの仲間たちも私のすぐそばにやってきて草を食べ始めた。その群れを見ると、腋《わき》の下から小さいやつをぶらさげているのはたくさんいるが、全部がそうとはかぎらないことがわかった。また、この小さいやつは直径一インチほどの小さな|つぼみ《ヽヽヽ》のようにしか見えないものから、体長十一、二インチの完全に一人前の格好をしたものまで、さまざまな発育段階があることがわかった。
草を食べている群れのなかには、まだ親の体にくっついているやつとたいして変わらないちっぽけなやつもたくさんいた。そんな小さな子供から途方もなく大きなおとなまで、いろいろな大きさのやつがいる。
そいつらは見るからに凶暴そうだったが、はたして恐れたほうがいいのかどうかわからなかった。べつに闘争用のいい武器になるようなものは身にそなわっていないように見えたからだ。連中が人間の姿を見たらどんな反応を示すかためしてやろうと思って、私は隠れ場所から彼らの前に出ていこうとした。だが、そのとき、右手の崖の方角から奇妙な甲高い悲鳴のような音が聞こえたので、私の無分別な考えは幸いにも未然に立ち消えになった。
もしも、この考えを実行するだけの時間があったら、裸で何の武器も持っていない私は、この残酷な動物の手にかかって、またたくまに恐ろしい最期を遂げていたことだろう。だが、金切り声が聞こえたとたんに、怪物の群れはいっせいに声のした方角を向き、それと同時に彼らの頭の蛇のような髪の毛が一本残らずぴんと逆立った。その様子はまるで一本一本の髪の毛が知覚力のある生きもので、いまの叫び声の意味を聞きわけようと耳をそばだてているかのようだった。そして、実際にそのとおりだということが、あとでわかった。バルスームの植物人間の頭にはえているこの奇妙なものはこの恐ろしい生きものの無数の耳なのだ。そして彼らは原始の生命の木から生まれた奇妙な種族の最後の生き残りなのである。
たちまち、全員の目が仲間の一人に集中した。それは大きな体をしたやつで、明らかに彼らの首領格らしかった。そいつが片方の手のひらの口から猫がのどを鳴らすような妙な音をたてたかと思うと、崖のほうに向かってすばやく走りだし、全員がそのあとにつづいた。
彼らの移動の仕方とそのスピードはいずれも驚くべきものだった。カンガルーに非常によく似た動作で、一度に二、三十フィートもぴょんぴょん跳躍してゆくのだ。
あとを追ってやろうと思ったときには、彼らの姿は早くも消えかけていた。そこで私は警戒心をかなぐりすてて、連中よりもさらに大きな跳躍をしながら草原を突っ切ってあとを追った。地球のスポーツマンは引力や気圧の少ない火星ではめざましい活躍をすることができる。
連中は川が流れ出ていると思われる断崖のふもとにまっすぐ向かっていた。そのあたりに近づくと、草原には巨大な丸石があちこちにころがっていた。明らかに、頭上にそそり立つ険しい岩山から長い歳月の間に少しずつ崩れ落ちてきたものにちがいなかった。この巨大な石に視界をさえぎられていたために、私はすぐそばまで近づいてから、いきなり恐ろしい光景を目撃し、連中がなぜ大騒ぎをして駆けつけたかを悟った。一つの大石の上によじのぼったとたんに、植物人間の群れが五、六人の緑色火星人の男女をとり囲んでいる光景にぶつかったのである。
もはや、私が火星にいるということに疑問の余地はなかった。目の前にいるのは、この滅びゆく遊星の涸《か》れた海の底や古代の廃都に住む野蛮な流浪《るろう》の民ではないか。
そこにいたのは、あの背丈の高い堂々たる体躯の巨人たちだった。大きな下顎から額のまん中近くまで突き出しているあの白く輝く巨大な牙。頭を動かさずに前後左右を自由に見ることができる、顔の両側から飛び出している目。額の上から突き出しているアンテナのような耳。そして肩と腰のなかほどから伸びている二本の余分の腕。
たとえ、つやつやした緑色の皮膚や彼らの種族のしるしである金属飾りがなかったとしても、その姿かたちを見ればたちどころに緑色人だということはわかっただろう。全宇宙をさがしても、こんな格好をした人間がほかにいるわけはない。
その一行は男が二人と女が四人だったが、身につけている飾りから異なる部族の者たちが集まっていることがわかった。これはどうにも合点がいかないことだった。それというのも、バルスームの緑色人たちは年がら年じゅう各部族間の死闘を繰り返し、たがいに争っているはずだからだ。たった一度だけ歴史に残る例外的事実として、サーク族の偉大なタルス・タルカスが数部族の緑色人戦士十五万を集めて、サン・コシスの手にとらえられたヘリウムの王女デジャー・ソリスを救出しようと悲運の都ゾダンガに向かって進撃したことがあったが、そのときを除けば、異なる部族の緑色人が殺し合い以外でいっしょにいるのを見たことはなかった。
ところが、いま、緑色人たちはたがいに背中合わせに立ちながら驚きの目を見張って、あからさまな敵意を示す共通の敵に対していた。
男も女も長剣と短剣を身につけていたが、銃火器は何も持っていなかった。あのすばらしい性能の銃があったら、バルスームの気味の悪い植物人間もあっという間に片付けられてしまったことだろう。
まもなく、植物人間の首領が緑色人の小グループに襲いかかった。その攻撃の仕方はきわめて風変わりで、それだけにいっそう効果的だった。緑色人戦士の兵法には、このような奇妙な攻撃に対する防御法はなかった。緑色人たちはこんな怪物にでくわすのは初めてだし、こんな攻撃を受けるのも初めてなのだということがすぐにわかった。
首領格の植物人間は緑色人たちから十二フィートたらずのところまで突進すると、相手の頭の上を飛びこえるようにぱっと飛び上がった。そして力強い尾を横向きに高く振り上げ、相手の頭上をかすめる瞬間にすさまじい勢いで打ちおろした。一人の緑色人戦士の頭は卵の殻のように砕けた。
残りの怪物の群れは驚くばかりのすばやさで犠牲者たちのまわりをぐるぐる回っていた。彼らのすさまじい跳躍や、薄気味の悪い口からでる甲高《かんだか》い猫のような叫び声は相手を混乱させ威嚇《いかく》する役割をはたした。だから、二人の植物人間が同時に両側から跳躍して、恐ろしい尾をさっと振ると、その打撃は何の抵抗も受けずに命中し、さらに二人の緑色人がむごたらしく死んでしまった。
もはや、戦士が一人と女が二人残っているだけだった。彼らも数秒のうちに緋色の草原に死体となって横たわるにきまっていると思われた。
だが、さらに二人の植物人間が襲いかかると、生き残りの戦士はそれまで数分間の経験から対抗策を用意していたらしく、巨大な長剣でさっと頭上をなぎはらい、突進してきた植物人間の一人の巨体を顎から股まで真っ二つに切り裂いてしまった。
しかし、もう一人の植物人間はその残虐な尾の一撃で女を二人ともたたきつぶした。
緑色人戦士は最後の仲間が殺されるのを目撃し、それと同時に敵が一団となって自分に襲いかかってくるのを見てとると、勇敢に突進して敵を迎え撃ち、ものすごい勢いで長剣を振りまわした。それは、ほとんどひっきりなしに行なわれる残忍な緑色人同族間の戦いで何度もお目にかかったことがある、あのすさまじい剣さばきだった。
戦士は右に左に敵を切り倒しながら、押し寄せてくる植物人間の群れのなかに血路を開いて直進し、それから森のほうに向かって狂気のように走りだした。どうやら森の中に避難場所を見つけようと考えたらしい。
森が崖に接しているあたりに向かって戦士は走っていた。猛烈な追跡が始まり、植物人間も一人残らず私が隠れている岩から次第に遠ざかっていった。
こんな大敵を相手に雄々しく戦う勇士の活躍を見ているうちに、私の胸にはこの戦士に対する感嘆の念がみなぎってきた。そして、例によって熟慮の上でというよりは衝動に駆られて、私はやにわに岩陰から飛び出し、緑色人たちの死体がころがっている場所に向かってすばやく跳躍した。どう行動するかは、もうはっきりきまっていた。
大きく五、六回跳躍すると死体のそばにたどりついた。そして一瞬後にはふたたび大きく飛び上がり、逃げてゆく戦士にぐんぐん迫っている恐ろしい怪物の群れを全速力で追跡しはじめた。だが今度は私の手にはどっしりした長剣が握られていた。そして心のなかには昔ながらの殺気にみちた闘志が湧き起こり、血なまぐさい赤い霧が目の前にたちこめていた。心の中の闘志にこたえて口もとには微笑が浮かんだ。戦う喜びに夢中になると、いつもこの微笑が浮かぶのである。
私はすばらしい速さで駆けつけたが、それでも遅すぎるくらいだった。緑色人戦士は森までの距離を半分もいかないうちに追いつかれてしまっていた。彼は大岩を背にして立ち、植物人間たちも立ちどまって戦士をとり巻き、うなり声や金切り声を上げていた。
怪物たちの顔のまん中にある一つ目はどれもこれも獲物しか見ていなかったので、彼らは私が足音を忍ばせて近づくのに気がつかなかった。だから彼らがやっとこちらの存在に気づいたときには、私は長剣を振りかざして襲いかかり、彼らのうちの四人を殺していた。
猛攻撃にあって彼らは一瞬しりごみした。その隙に緑色人戦士はさっと私のそばに駆け寄り、右や左に剣を振るい始めた。このような勇猛果敢な戦いぶりを見せる戦士を、私はこれまでにたった一人しか知らない。戦士は長剣をびゅんびゅん振りまわして自分のまわりに8の字形を描き、鋭い刃でまるで空を切るように肉や骨を切り捨て、抵抗する者が一人もいなくなるまでやめようとはしなかった。
私たち二人が懸命になって戦っていると、はるか頭上から先ほど耳にした甲高《かんだか》い無気味な叫び声が聞こえてきた。それは、さっき植物人間の群れに獲物に襲いかかれと命令した声だった。その声は何度も聞こえてきたが、私たちはまわりの獰猛《どうもう》な強敵と戦うのに精一杯だったので、恐ろしい声の主のほうへ目を向けることもできなかった。
怪物たちの大きな尻尾《しっぽ》は私たちの周囲で鞭を振りまわすように荒れ狂い、剃刀のような爪は私たちの手足や体を切り裂いた。そして押しつぶされた毛虫の体から流れだすような緑色の粘液で私たちの全身はべとべとになった。長剣で切ったり突いたりするたびに、植物人間の体内を血のかわりに流れているこの粘液が切断された動脈から噴出して私たちにはねかかってくるのだ。
一度、怪物の一人の重い体が私の背中にのしかかり、鋭い爪が私の肉に食いこんだと思うと、濡れた唇がその爪の食いこんだ傷口から生き血を吸うのを感じて、身の毛のよだつ思いがした。
正面から咽喉をねらって攻撃してくる凶暴なやつと夢中になって戦っていると、さらに二人の敵が両側から猛烈な勢いで尾をふって打ちかかってきた。
緑色人戦士は自分のほうの防戦に精一杯だった。だが、この不利な戦いではもうこれ以上は持ちこたえられないと私が感じたとき、大男の戦士は私の苦境に気がついた。彼は敵の包囲からさっとぬけだすと、背後から私を攻撃しているやつを一撃のもとに切り倒した。こうして急場を救ってもらった私は、たいして骨も折らずに残りの二人の敵を倒すことができた。
ふたたび、私たちはいっしょになり、大きな岩の前に背中合わせのような格好で立った。そのために怪物たちは私たちの頭上に飛び上がって必殺の尾の攻撃を加えることができなくなった。彼らが地上にいるかぎり私たちは楽に戦うことができたので、残りの怪物どもをばたばた片づけ始めた。と、またも頭上から甲高い叫び声が聞こえた。
今度は私も頭上を見あげた。すると、はるか頭上の絶壁に天然の小さなバルコニーのように張り出した岩があって、その上に奇妙な人影が立ち、しきりに合図の金切り声を上げていた。そいつは叫びながら、だれかを招き寄せるように河口の方角に向かって片手を振り、さらにもう一方の手で私たちを指さし、何か手まねをしていた。
そいつが見ている方角をちらりとながめただけで、相手の意図はすぐわかった。それと同時に私の心は不安と恐怖でいっぱいになった。草原の四方八方から、森からも、川の向こうのはるか遠くの平地からも、私たちがいま戦っている相手と同じような生きものが猛然と跳びはねながら無数の列を作って集まってくるのだ。そのなかには別の奇妙な怪物もまじっていて、そいつらは二本足で立ったり四つんばいになったりしながら猛スピードで走っていた。
「見ろ! 壮烈な最期を遂げることになりそうだぞ」と私は緑色人戦士に言った。
戦士は私の指さす方角をちらっと見るなり微笑して答えた。
「少なくとも偉大な戦士らしく死ぬことはできそうだな、ジョン・カーター」
彼がそう言ったのは、ちょうど目前の敵の最後の一人を片づけたときだった。だしぬけに自分の名前を呼ばれた私はびっくりして振り返った。
驚きの目を見張った私の前にいるのは、バルスームの緑色人のなかで最も偉大な人物、最も賢明な政治家、最もすぐれた将軍、そして私の無二の親友であるサークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカスだった。
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二 森の中の戦い
タルス・タルカスと私はグロテスクな敵の死体にかこまれて巨大な岩の前に立っていたが、こんなことになった事情を話し合う余裕はまるでなかった。なにしろ私たちのはるか頭上にいる奇妙な人物の無気味な叫び声にこたえて、恐ろしい怪物の大群が四方八方から奔流のように広い谷間へ殺到していたからだ。
「さあ、崖のほうへ行かなければだめだ」とタルス・タルカスは叫んだ。「一時しのぎにせよ、逃げられる見込みがあるのはあそこだけだ。ほら穴か、狭い岩棚でも見つかれば、この武器を持っていない連中が相手なら二人でいつまでも防ぎとめられるだろう」
私たちは緋色の草原をいっしょに走った。私は速力を加減して、相棒を置きざりにしないようにした。私たちがいた大岩から崖までは三百ヤードほどの距離だった。そこまで走って、追ってくる恐ろしい連中を防ぎとめるのに都合のいい場所を見つけなければならない。
追手はぐんぐん私たちに迫っていた。タルス・タルカスは私に、先に行って、できたら避難場所を捜してくれと叫んだ。これはいい考えだった。そうすればただの一分でも貴重な時間がかなり節約できるだろう。私は地球人の筋肉の力を思いきり振りしぼると、崖までの残りの距離を大きく跳躍して突進し、たちまち崖の真下にたどりついた。
その崖は谷間のほとんど平面に近い草原からいきなり垂直にそそり立っていた。たいていの崖は、その真下に崩れ落ちた岩石の破片が積もって、多少とも崖に登れるような傾斜ができているものだが、この崖にはそれが全然なかった。上から落ちた岩が芝生の上にころがったり、なかば地中に埋まったりしてあちこちに散らばっているので、この巨大な高くそびえる岩の壁もかつては崩れたことがあるのだとわかるだけである。
最初、崖の表面をざっと見わたしたとき、私の胸は不吉な予感でいっぱいになった。気味の悪い人物が金切り声で怪物の群れを呼び集めている場所を除けば、この高い崖にはわずかの足がかりらしきものさえ、どこにも見あたらないのだ。
右手を見ると、崖の下部は真下まで迫っている森の深い茂みにおおわれ見えなくなっていた。目のさめるような森の茂みは険しい近寄りがたい断崖を背にして千フィートもの高さにそびえていた。
左手では、崖が広い谷間の上手《かみて》を横切って切れ目なく続いているらしく、最後は巨大な山脈らしい影の中に溶けこんでいた。山脈はこの谷間を四方からとり囲んでいた。
川は私のいる場所から千フィートほど向こうの崖のすぐ下から流れ出ているようだった。そっちへ行ったら、逃げられる見込みは全然なくなってしまいそうなので、私はふたたび森のほうへ目を向けた。
断崖は頭上五千フィート以上もの高さにそびえていた。太陽の光は真上から少しずれていたので、崖は自分の影のくすんだ黄色にかすんでいた。あちこちに黒っぽい赤や緑の|しま《ヽヽ》や斑点《はんてん》になった部分がまじり、また白い石英層もところどころに見えた。
要するに崖全体はきわめて美しいものだった。しかし残念ながら、最初に見たとき、私はべつにその美しさを鑑賞するような眺め方はしなかったのである。
そのときは、ただもう逃げ場所がないかと思って見まわすだけで精一杯だった。だから、どこかに割れ目か隙間はないかと広大な崖に何度も目を走らせているうちに、打ち破りようのない無情な土牢の壁に対して囚人《しゅうじん》が感じるような憎悪《ぞうお》が急にこみあげてきた。
タルス・タルカスは急速に私のほうへ近づいていた。だが、それよりさらに速く、怪物の群れが彼の背後に迫っていた。
もはや森へ逃げこむ以外に手はなさそうだった。私は森のほうへ自分のあとからついてくるようにタルス・タルカスに手まねで合図をしようとした。ちょうどそのとき太陽の光が崖の頂上をかすめ、明るい光がくすんだ崖の表面を照らした。そのとたんに崖の表面は、燦然とした黄金色、燃えるような赤、やわらかな緑、まばゆいばかりの白など無数の輝かしい光をいっせいに放った――それは、いまだかつて地球人が見たことのない目のさめるような華麗な眺めだった。
あとで調べてわかったことだが、この崖の全表面には純金の鉱脈が|しま《ヽヽ》や斑点状になってまじっているので、崖全体がこの貴金属でできた壁のような外観を呈しているのだ。しかも、そのところどころにルビーやエメラルドやダイヤモンドの原石が頭をのぞかせて、この壮麗な崖の奥にはかりしれない量の財宝が埋もれていることを示していた。
しかし、太陽の光に崖の表面が輝いた瞬間、何よりも私の注意をひいたのは、華麗な崖の表面にそのときはっきり見えるようになった数個の黒点のような部分だった。それは高い森の樹木の梢《こずえ》近くにあり、木の枝の陰のほうまで広がっているように見えた。
すぐに私はそれが何かを見わけた。固い壁の中へ通じている洞窟の暗い入口なのだ――あそこまでたどりつくことさえできれば、逃げ道か、一時の隠れ場所に利用できるかもしれない。
方法は一つしかなかった。右手にそびえる巨大な木立を伝って行くことだ。私が登れることはわかりきっていたが、巨大な重い体をしたタルス・タルカスには、その比類のない武勇をもってしてもどうにもならない仕事だろう。登るという仕事になると、火星人はどう見ても下手くその一語につきるからだ。この歴史の古い遊星では、これまでどこへ行っても、水の涸れた海底から計って四千フィート以上の高さの山は見たことがなかったし、しかも、たいていは頂上近くまで傾斜のゆるやかな山ばかりなので、登山を練習するような機会にはあまり恵まれないのだ。また、そんな機会があったところで火星人たちはそれを利用しようとはしないだろう。どこの山や丘にも、そのふもとには遠まわりのゆるやかな道があって、火星人たちはもっと近い険しい道よりこれらの楽な道をたどるのを好んだからである。
しかし、頭上の洞窟にたどりつくには、断崖の前にそびえる木に登る以外に方法は考えられなかった。
タルス・タルカスはこの方法のむずかしさと成功の見込が少ないことをすぐにさとった。だが、ほかに手はなかったので、私たちは崖に一番近い木立に向かって急いで走りだした。
追手はもう容赦なく間近に迫っていた。あまりにも近くまできているので、サークの皇帝《ジェダック》が追手より先に森にたどりつける見込みはまるでなさそうだった。それにタルス・タルカスは逃げることにあまり気乗りがしない様子だった。もともとバルスームの緑色人は逃げることを好まないし、どんな死の危険に直面しようと彼らが逃げだすのを見たことは一度もない。しかし、いま逃げようとしているタルス・タルカスが勇士のなかの勇士であることは、人間や野獣相手の何千回とも知れぬ死闘においてとっくに実証されている。だから、彼が逃げるのには死の恐怖以外の別の理由があることが私にはわかった。そして彼のほうでも、私がこの獰猛な怪物の群れから逃げようとしているのはただの誇りや名誉以上に偉大な力に駆りたてられているためだということを知っていた。私の場合、それは愛の力――神聖なデジャー・ソリスに寄せる愛の力だった。しかし、タルス・タルカスが突然このように生きることに執着するようになった理由は見当がつかなかった。この奇妙な、残酷な、愛情というものを知らない不幸なサーク族の連中は、生きるよりも死のうとする場合のほうが多いはずなのである。
それでも、私たちはやっと森の木陰にたどりついた。だが、すぐ背後では追手のなかの一番速いやつが飛びあがり、いまにも巨大な植物人間の爪をのばし、生き血を吸う口で私たちに食らいつこうとしていた。
そいつはうしろにつづく仲間を百ヤードも引き離していた。そこで私はタルス・タルカスに、断崖の表面をかすめてそびえている大木に登れと声をかけ、その間にそいつを片づけようとした。そうすれば、追手の群れが残らず押し寄せてきて、逃げ道を完全に断たれてしまわないうちに、私ほど身軽でないタルス・タルカスが上のほうの枝まで到達する余裕ができるだろうと予想した。
しかし、目の前にいる敵の手ごわさや、その仲間があっという間にこの場に駆けつけることは、いまさら考えるまでもなく承知していた。
私が長剣を振り上げて必殺の突きをいれようとすると、怪物はぱっと突進を停止した。そして私の剣がむなしく空を切ると、とたんに相手の巨大な尾が灰色大クマの腕のような馬鹿力で草原の上をさっとかすめ、私の足をもろになぎはらって地面に倒した。たちまち怪物は私の体の上に飛びついてきた。しかし、その恐ろしい手のひらの口が胸や咽喉に吸いつかぬうちに、私は左右の手で一つずつ、のたうちまわる触手をつかんだ。
この植物人間はたくましい重い体をして、力が強かった。しかし、私には地球人の体力と相手よりはるかにすぐれた敏捷《びんしょう》さがあるし、その上、こうやって相手を絞め殺すほど押さえつけているのだから、はたから邪魔されずに勝負をきめるだけの時間さえあれば、結局は私が勝利をおさめていただろうと思う。しかし、タルス・タルカスが大へんな苦労をしてよじ登ろうとしている木のまわりで必死の格闘を演じながら、敵の肩ごしにふと向こうを見ると、追手の大群がもうすぐそばまで押し寄せているのが目にはいった。
崖の上の人物の無気味な呼び声にこたえて、植物人間といっしょに駆けつけた別の怪物の正体がやっとわかった。それは火星の生物のなかで最も恐ろしい怪物――バルスームの巨大な白ザルなのだ。
このまえ火星にいたときの体験から、この白ザルとその習性のことは何から何までわかっていた。この奇妙な世界に住むさまざまな恐ろしい気味の悪いグロテスクな動物のなかで、何よりも私に恐怖を感じさせるものといえば、この白ザルということになるだろう。
私がこの白ザルに対してこんな感情を抱くのは、この動物の姿がわれわれ地球人に非常によく似ているためだと思う。彼らが人間そっくりの格好で、おまけに途方もなく大きな図体《ずうたい》をしているので、ひどく気味が悪いのだ。
白ザルは身長が十五フィートほどで、あと足で直立して歩く。緑色人と同様に、上肢と下肢の中間に腕がもう一対ある。二つの目の位置は非常に寄っているが、緑色人の目のように飛びだしてはいない。耳の位置は上のほうだが、緑色人よりは横にある。そして鼻と歯はアフリカのゴリラに実によく似ているし、頭のてっぺんにはくしゃくしゃした剛毛の大きな房が生えている。
私が格闘している相手の肩ごしに見たのは、このような白ザルと恐ろしい植物人間の目だった。次の瞬間、すさまじいうなり声、ののしり声、金切り声、猫のような怒声がいっせいに上がり、やつらはどっと襲いかかってきた。やつらが私の体におおいかぶさってきたとき耳にはいった声のなかで何よりも私をぞっとさせたのは、植物人間の猫のような無気味な声だった。
たちまち、二十ばかりの凶暴な牙や鋭い爪が私の肉に食いこみ、冷たい、血を吸う唇が動脈に吸いついた。私はぬけだそうとしてもがいた。いくつもの巨体に押し倒されていたが、やっとのことで立ち上がることができた。長剣はまだ握りしめていたので、それを短剣のように短く握り直すと、群がる敵の中でしゃにむに振りまわし、しばらくは敵の束縛を脱した。
文字で書けば数分かかるが、これはほんの数秒間の出来事だった。だが、その間にタルス・タルカスは私の苦戦を見て、せっかく骨を折ってたどりついた大木の下枝から飛びおりてしまった。そして、私がしがみつく敵の最後の一人を投げとばしたとき、偉大なサーク人は私のそばに駆けつけた。こうして二人は、これまでに幾度《いくたび》となくやったように、背中合わせになって戦いはじめた。
凶暴な白ザルどもは私たちに組みつこうとして、何度も飛びかかってきた。私たちはその攻撃を何度も長剣で撃退した。植物人間たちは巨大な尾をすさまじい力で振りまわしながら、四方八方から襲いかかったり、猟犬のような敏捷さで私たちの頭の上に跳び上がったりした。しかし、どんなに攻撃を繰り返しても、そのたびに、二十年間にわたって火星史上最強と謳《うた》われてきた二人の剣士の白刃に撃退された。なにしろ、タルス・タルカスとジョン・カーターといえば、火星の戦士の間でもっとも有名な名前なのである。
だが、戦士の世界で比類のない二人の剣さばきをもってしても、圧倒的に数の多い凶暴な野獣の群れを敵にまわしては、そういつまでも持ちこたえられるものではない。相手は冷たい鋼《はがね》の刃《やいば》に刺しつらぬかれて心臓の鼓動がとまるまで、負けるとはどういうことか知らない連中なのである。そこで、一歩一歩、私たちは後退せざるを得なくなり、ついには、先刻のぼろうとしていた巨木を背にして立つことになった。それからまた、何度も繰り返して攻めたてられるうちに、私たちはますます後退し、とうとう巨木の大きな根元を半分もまわりこんだあたりまで追いつめられてしまった。
タルス・タルカスが先導役をつとめていたが、とつぜん彼が小声で喜ばしげに叫ぶのが聞こえた。
「ジョン・カーター、ここに穴がある。少なくとも一人は逃げこめる」
そう言われて、足もとを見ると、巨木の根元に直径三フィートほどの穴があった。
「いっしょにはいろう、タルス・タルカス」と私は叫んだ。しかし彼ははいろうとしなかった。私ならたやすくはいりこめるだろうが、彼の巨体には穴が小さすぎてはいれないというのだ。
「ジョン・カーター、このまま外にいたら、二人とも死んでしまうぞ。この穴にはいれば、われわれのうち一人は生きのびられるかもしれない。さあ、このチャンスをつかんでくれ。そして生きのびれば、私の仇をうつこともできるではないか。この悪魔のような連中に四方から包囲されているときに、私がこんな小さな穴にはいずりこもうとするのはむだなことだ」
「では、いっしょに死のう、タルス・タルカス」と私は答えた。「私が先にはいるわけにはいかないからな。もしも、きみが先にはいるなら、そのあいだ私が穴の前を守る。私なら体が小さいから、やつらに邪魔されないで、きみのあとからもぐりこめるだろう」
私たちは相変わらず猛然と戦いつづけながら、群がる敵を激しく切ったり突いたりする合間に、とぎれとぎれの会話をした。
ついにタルス・タルカスのほうが折れた。この数を増すいっぽうの敵の攻撃から二人のうちのいずれかが逃げのびるには、私の言うとおりにする以外に方法はなさそうだったからだ。敵の大軍はなおも広い谷間を横切って四方八方から押し寄せていた。
「相変わらずだな、ジョン・カーター。きみはいつも自分の命のことはあとまわしにする。しかも、他人の命や行動を自分の意のままにしようというのは、ますますきみらしい。バルスーム随一の偉大な皇帝《ジェダック》に対してもそうしようというのだからな」
タルス・タルカスの冷酷な、きびしい顔には無気味な微笑が浮かんでいた。火星最高の皇帝《ジェダック》である彼が、自分の半分の身長もない、別世界からきた人間の命令に従おうというのだ。
「だが、ジョン・カーター」と彼は言った。「もしきみが失敗したら、きみから友情というものの意味を教えてもらったこの冷酷非情のサーク人が穴から出てきて、きみのそばで死ぬということを忘れないでくれ」
「好きなようにしたまえ」と私は答えた。「だが、急いでくれ。頭からさきにもぐるんだ。きみが逃げこむあいだ私が掩護《えんご》するから」
私の言葉を聞くと、タルス・タルカスはちょっとためらった。ひっきりなしに戦いに身を投じてきた全生涯を通じて、彼が敵に背を向けるのは相手が死ぬか敗北するかしたときだけなのである。
「急げ、タルス・タルカス」と私はせきたてた。「さもないと二人ともやられて、それこそ犬死になるぞ。私ひとりでいつまでも防ぎきれるものではないんだ」
タルス・タルカスが地面にかがみこんで、無理やりに木の中へもぐりこもうとしたとき、恐ろしい悪魔の群れがいっせいにわめきながら激しく襲いかかってきた。私の長剣はすばやく右や左にきらめき、植物人間のねばねばした体液によごれて緑色になったり、巨大な白ザルの真紅の血に染まって赤くなったりした。しかし、その血染めの剣はたえず新手の敵から敵へとめまぐるしく飛びまわり、その動きがわずかににぶるのは剣が野獣の心臓の生き血を吸うほんの一瞬だけだった。
こうして私は、恐るべき大敵を相手に、これまで経験したことのない奮戦をした。あのすさまじい攻撃や、何トンもの獰猛きわまる巨体がものすごい勢いでぶつかってくる衝撃に人間の体がよくも耐えることができたものだと、いまだに不思議な気がする。
こっちが逃げそうだと感じた怪物どもは、ますます攻撃の手を強めて私を引き倒そうとした。まわりの地面には彼らの仲間の死体や死にかけている連中が山をなして散らばっていたが、そんなことには少しもひるまず、ついに私を地面に倒した。この日、やつらに押さえこまれるのは二度目だった。そして、またもや、あの恐ろしい口が体に吸いつくのを感じた。
しかし、私は倒れるや否や、力強い二つの手に足首を握られ、次の瞬間には大木の穴の中に引きずりこまれていた。ちょっとの間、タルス・タルカスと私の胸に頑強にしがみついている植物人間とが激しい引っぱり合いをやった。だが、すぐに私が長剣の切っ先を植物人間の体の下に入れ、急所を力いっぱい突き刺した。
くたくたになった私は、無数のむごたらしい傷口から血を流しながら、巨木の穴の中の地面に横たわって激しくあえいだ。その間、タルス・タルカスは、外で荒れ狂う敵の群れから穴の入口を守った。
やつらは一時間ほど木のまわりでわめいていた。しかし、穴の中へはいってこようとしたのは二、三回だけで、その後はただ金切り声を上げて威嚇するだけだった。白ザルはぞっとするようなうなり声を上げ、植物人間は例の何とも言いようのない恐ろしい猫のような声でわめきつづけた。
ついに、連中は二十人ほどを見張りに残して、あとはみんな引きあげていった。どうやら私たちの戦いは包囲戦にもちこまれることになったらしく、最後は私たちの飢え死に終るほかはなさそうだった。たとえ、日が暮れてから、こっそり抜けだすことができたとしても、この敵がうようよいる見知らぬ谷間では、どっちへ行けば逃げのびられるものやら、まるで見当もつかないではないか。
敵の攻撃がやんで、この奇妙な隠れ場所の内部のうす闇に目がなれてくると、私はこの穴の中の様子を調べ始めた。
この巨木の内部は直径五十フィートほどの空洞《うろ》になっていた。床が平らで固くなっている点から判断して、私たちがはいりこむ前にも、何者かの住居としてたびたび使われていたにちがいない。天井までどのくらいあるのかと思って上を見ると、はるか頭上にほのかな明かりが見えた。
上に穴があるのだ。そこまでたどりつくことさえできれば、最初の望みどおり断崖の洞窟へもぐりこむことができるかもしれない。いまではもう私の目はすっかり穴の中の薄明かりに馴《な》れていた。そこで、さらにあたりの様子を調べていくと、まもなく空洞のずっと奥に粗末な作りの梯子《はしご》があるのが目にとまった。
私は早速それに登ってみた。梯子の頂上までくると、そのあたりから狭くなっている円筒状の幹の内部に木の棒が次々に三フィートほどの間隔で横にはめこんであり、それが見わたすかぎり上に向かって梯子と同じようにつづいていた。
私はいったん下までおりて、タルス・タルカスにこの発見のことを話した。彼は入口の見張りは自分がしているから、登れるところまで登って様子をさぐってきてくれと言った。
私は急いで梯子を登り、この奇妙な木の内部の偵察《ていさつ》にでかけた。木の横棒はいくら登ってもはてしなくつづいているように見えた。そして登るにつれて、頭上の光は明るさを増してきた。
たっぷり五百フィートも登りつづけたすえに、ようやく光がはいってくる幹の穴にたどりついた。その穴の大きさは根元の入口の穴とほぼ同じぐらいで、その外にすぐ太い枝が一本横向きにのびていた。その枝の表皮がすっかりすりきれている点から見て、この不思議な木の空洞に出入りする通路としてだれかが長いあいだ利用しつづけたことは明らかだった。
うっかり顔をだして敵に見つかり、この逃げ道をふさがれてはいけないと思ったので、私は外の大枝へは出ようとしないで、急いでタルス・タルカスのもとへ引き返した。
じきに彼のところへ戻り、やがて二人で上の穴に向かって長い梯子を登りはじめた。
タルス・タルカスが先になって進んだ。そして、私は最初の横棒のところまでくると、下の梯子を引き上げて、タルス・タルカスに渡した。彼はそれを持ってさらに百フィートほど上に行き、そこで一本の横棒と空洞の壁の間に梯子をわたして、しっかりと押しこんだ。私はまた同じように、通過したあとの横棒を次々にはずしていったので、まもなく、この空洞の根元から百フィートぐらいの高さまでは登る方法が全然なくなってしまった。こうすれば背後から追跡されたり攻撃されたりすることはあるまい。
あとでわかったことだが、この予防処置のおかげで私たちは恐ろしい窮地からのがれることになり、結局、これが救いの神になったのである。
上の穴にたどりつくと、タルス・タルカスは私が外に抜けだして偵察に行けるように、わきに身を寄せた。私のほうが体重も軽いし、はるかに敏捷なので、この目がくらむような高所にある危なっかしい道を通る仕事には適している。
私が足を踏みだした大枝は断崖に向かっていくぶん上向きになっていた。先へ進んで行くと、枝の尖端から二、三フィート下に狭い岩棚があることがわかった。断崖の表面から突き出したその岩棚には小さな洞窟の入口があった。
だんだん細くなる枝の尖端に近づくにつれて、枝は私の体の重みで下にたわみはじめ、あぶない綱渡りをしている私をのせたまま静かに揺れて岩棚と同じ高さにさがり、岩棚までの間隔は二フィートほどになった。
見おろせば五百フィートも下に目のさめるような緋色の谷間が広がり、見上げればきらびやかに輝く巨大な断崖が五千フィートもそそりたっている。
目の前にある洞窟は、さきほど地上から見つけたいくつかの洞窟とはまた別のものだった。さきほどの洞窟はこれよりさらに千フィートも上のほうにあった。しかし、見たところ、この洞窟も同じように私たちの役に立ちそうだった。そこで私はタルス・タルカスのいる木の幹に引き返した。
今度は二人いっしょに、この揺れ動く通路を伝ってじわじわと進んだ。しかし、枝の尖端までくると、二人の重味で枝が下にたわみすぎ、洞窟の入口がずっと上のほうになって手がとどかないことがわかった。
そこで二人で相談した結果、タルス・タルカスが身につけている一番長い皮帯を私に渡して、自分はひとまず幹のほうへ引き返し、洞窟にはいれる高さまで枝が上がってきたら私は洞窟のほうに移り、それからタルス・タルカスがもどってきたら、皮帯をおろして安全な岩棚へ彼を引き上げるということにした。
この曲芸は無事に成功し、やがて二人は目がくらむような断崖の中腹の小さな岩棚のふちに立っていた。眼下に広がる谷間のながめはまったくすばらしかった。
見わたすかぎり華麗な森と真紅の草原が静かな海に沿って広がり、そのすべてを取り囲むように光り輝く巨大な断崖がそびえていた。一度、はるか遠くのゆらめく木々の梢《こずえ》のなかに金色の尖塔が陽光にきらめくのが見えたような気がした。だが、すぐにそんなものがあるわけはないと考えた。この美しくも恐ろしい秘境に文明人のいる場所を見つけたいと願うあまりに生まれた幻覚にすぎないと思ったのだ。
眼下の川の岸辺では、巨大な白ザルどもがタルス・タルカスの仲間の死体をむさぼり食っていた。そして植物人間の大群は草原のあちらこちらで次第に大きく広がる輪を描きながら草を食べていた。彼らに草を食われた草原はきれいに刈りこまれた芝生のようになめらかだった。
木のほうから敵に襲われることはもうありえないと思ったので、私たちは洞窟の中を調べることにきめた。この洞窟がすでに通ってきた巨木伝いの通路の続きであることはどう見ても明らかだった。それがどこへ通じているかは知るすべもないことだが、この恐ろしい死の谷からはどうやら脱出できそうだった。
洞窟の奥へ進んで行くと、内部は堅い断崖を掘りぬいた、形のととのったトンネルのようになっていた。内壁の高さは床から二十フィートほどで、幅は五フィートぐらいだった。天井はアーチ形にまるくなっていた。明かりをつける方法は何もなかったので、私たちは次第に暗くなる闇の中をそろそろと手さぐりで進んだ。タルス・タルカスはたえず片側の壁に手を触れ、私はその反対側の壁にさわりながら進み、さらに、分かれ道や入り組んだ迷路にまぎれこんで離ればなれにならないように、もう一方の手を握り合っていた。
こうして、どのくらいトンネルの中を進んだかわからないが、やがて私たちは障害物にぶつかって進めなくなった。それは洞穴がそこで終わりになっているというのではなく、仕切り壁のようなものがあるらしかった。崖の岩石とは異なる何か非常に堅い木のような手ざわりなのだ。
私はその表面をそっと両手でなでまわした。まもなく、地球のドアの取っ手のように火星のドアについているボタンが手に触れた。
そのボタンをそっと押すと、うまい具合に目の前でドアがゆるやかに開く感じがして、次の瞬間、私たちは薄明るい部屋の中をのぞきこんでいた。見わたしたところ、そこには人影はなかった。
あとは何の苦もなくドアを大きく開いて、私は部屋の中へはいりこみ、サークの巨人も私につづいた。私たちがしばらく無言のまま室内を見まわしていると、背後でかすかな物音がしたので、私はすばやく振り返った。すると、驚いたことに、まるで見えない手に動かされるようにドアがかちっと鋭い音をたてて閉まった。
とたんに私はドアに飛びつき、もう一度こじあけようとした。あたりの何か薄気味悪い気配と、室内の緊迫した、手でさわれそうな感じさえする静寂が、この黄金の崖の奥の岩に囲まれた部屋に何か邪悪なものが潜伏していることを警告するように思えたからだ。
だが、私の指はドアの表面をむなしくかきむしっただけで、ドアはびくともしなかった。はいるときに押したようなボタンを捜したが、それもむだだった。
そのとき、どこか目に見えないところから、冷やかに嘲《あざけ》り笑う声が聞こえてきて、この人気のない部屋に響きわたった。
[#改ページ]
三 神秘の部屋
岩に囲まれた部屋に響きわたる恐ろしい笑い声が消えたあとも、タルス・タルカスと私はなおしばらくの間、緊張して何か起こるのを待ちうけながら無言で立ちつくしていた。しかし、それっきり何の物音もせずに静まり返り、私たちの目に見えるところで動くものもなかった。
ついにタルス・タルカスが静かに笑い出した。彼の種族の者たちには、恐ろしい事柄にでくわすと笑うという奇妙な習性がある。それは病的に興奮したような笑いではなく、地球人ならぞっとしたり泣きだしたりするような物事に快楽を感じて、それを素直に表現する笑い方なのである。
あの緑色火星人の地獄の祭典ともいうべき競技大会で責めさいなまれる女や子供の断末魔の苦しみを見物しながら、緑色人たちが歓喜の爆笑をおさえきれず、狂ったように地面をころげまわる光景を私は何度も見たことがある。
自分も口もとに微笑を浮かべながら、私はサーク人の顔を見上げた。いまは実際のところ、恐怖に顎をがくがくさせるよりは顔に微笑を浮かべることのほうがずっと必要なのだ。
「これはどういうことなんだ。いったい、ここはどこなんだ」と私はきいた。
タルス・タルカスはびっくりしたように私の顔を見つめた。
「ここはどこだって? じゃあ、ジョン・カーター、きみは自分がどこにいるのか知らないというのか」
「そうだ。私に想像がつくのは、とにかくバルスームにいるということだけだ。きみや、あの大きな白ザルがいなかったら、それさえわからなかっただろう。なにしろ、きょう私が見た光景は十年前に知っていたわが愛するバルスームとはまるで違っているからね。その違いはバルスームと私の生まれた地球との違いくらい大きなものだ。そうなのだ、タルス・タルカス、私にはここがどこだかわからない」
「だいたいきみは、あれからどこへ行っていたのだ。何年も前、例の大気製造工場の管理人が急に死んで、工場の機械がとまり、バルスームじゅうの人間がすんでのことに窒息して死にかけたときに、工場の巨大な扉をあけて全バルスームを救ったあとの話さ。バルスームじゅうの者が何年も捜しつづけ、ヘリウムの皇帝《ジェダック》とその孫娘の王女が途方もない巨額の懸賞金をかけたので貴族連中までいっしょになって捜索したが、きみは死体さえ見つからなかった。
どんなに手をつくしてもきみを捜しだすことができなかったので、結論は一つしかなくなってしまった。つまり、きみは神秘のイス川をくだって永遠の旅に出かけ、コルスの|行方知れずの海《ヽヽヽヽヽヽヽ》のほとりのドール谷で、愛する美しき王女デジャー・ソリスを待っているということになったのだ。
どうしてきみがいなくなってしまったのか、だれにもわからなかったよ。なにしろ、きみの最愛の王女はまだ生きているのだから――」
「そうか! ありがたい」と私はタルス・タルカスの話をさえぎった。「きみにそれをきくのが恐かった。あの大気製造工場の扉を開くのが遅すぎて、彼女の命を救えなかったのではないかと心配していたのだ。遠い昔のあの夜、タルドス・モルスの宮殿の庭で別れたとき、彼女はひどく弱っていた。あまりにも弱っていたので、あのときでさえ私が大気製造工場に行きつかないうちに死んでしまうのではないかと思ったほどだ。では私の愛する王女はまだ生きているんだね」
「生きているよ、ジョン・カーター」
「ところで、ここがどこなのか、まだ教えてくれないじゃないか」
「ここは、私がジョン・カーターと、もうひとりの人間を見つけられるのではないかと思っていた場所なのだ。むかし、緑色人ならば憎まねばならぬと教えこまれていた事柄の本当の意味を私に教えてくれた女、つまり、愛するということを私に教えてくれた女の話をきみは聞いたことがあるだろう。その女が人を愛したために野獣のようなタル・ハジュスの手にかかって残酷な拷問をうけ、むごたらしく殺されたことも知っているだろう。
私は、その女がコルスの|行方知れずの海《ヽヽヽヽヽヽヽ》のほとりで私を待っていてくれるにちがいないと思っていたのだ。
そしてまた、友情というものをこの残酷なサーク人の私に教えてくれたのは、別世界からきた男、ほかならぬジョン・カーターではないか。だから、きみもドール谷を歩きまわっているにちがいないと思っていたのだ。
そんなわけで、いつの日か行かなければならない長い旅の終わりに私がいちばん会いたいと思っていたのは、この二人だった。デジャー・ソリスはいつも、きみはただ一時的に自分の遊星へ帰っただけで、きっとまた自分のもとへ戻ってくるものと考えていた。しかし、彼女の希望も実現しないままに時が流れてしまったので、私はとうとう自分の熱望が押さえきれなくなって、ひと月前に旅にでたのだ。その旅の結末がどういうことになったかは、今日きみが見たとおりだ。さあ、ここがどこだかわかったろう、ジョン・カーター」
「じゃあ、あれがドール谷を流れてコルスの|行方知れずの海《ヽヽヽヽヽヽヽ》にそそぐイス川だったのか」と私はきいた。
「ここは愛と平和と安息の谷間なのだ」とタルス・タルカスは答えた。「遠い大昔から、ありとあらゆるバルスーム人が憎悪と闘争と流血の人生を終えたあとで行くことを楽しみにしていた場所なのだ。ここは天国なのさ、ジョン・カーター」
タルス・タルカスの口調は冷やかで、皮肉な感じがした。だが、そのにがにがしさには彼が味わったひどい失望がにじみでていた。これほどの恐ろしい幻滅にぶつかり、生涯の熱烈な希望をこれほど無残に吹き飛ばされ、昔からの伝統をこれほど容赦なくくつがえされたのだから、このサーク人がもっと荒々しく感情を爆発させたとしても決して無理からぬことだったろう。
私は片手を彼の肩においた。
「気の毒に」と私は言ったが、それ以外には何とも言うべき言葉がなかった。
「考えてみろ、ジョン・カーター。太古から、何億という無数のバルスーム人が安住の地へ旅立とうとして、この川をくだったのだ。だが、その結果は、今日われわれを襲ったあの恐ろしい怪物どもの残忍な手中に陥るだけだったのだ。
古い伝説によると、かつて一人の赤色人がコルスの|行方知れずの海《ヽヽヽヽヽヽヽ》から帰ってきたことがあるそうだ。神秘のイス川をさかのぼって、ドール谷から戻ってきたのだ。その男は恐ろしい冒涜《ぼうとく》的な話をした。すばらしく美しい谷間には恐ろしい野獣が住んでいて、安息の地への旅を終えたバルスーム人に片っぱしから襲いかかり、愛と平和と幸福が見つかるはずの|行方知れずの海《ヽヽヽヽヽヽヽ》のほとりで、だれも彼もむさぼり食われてしまったというのだ。しかし、当時の人びとは、神秘の川のはてから戻ってきた者は何人《なんぴと》たりとも殺さなければならないという古来の掟《おきて》に従って、その男を殺してしまったそうだ。
しかし、いまこそ、その男の話がでたらめな冒涜ではなかったことがわかった。あの伝説は真実を伝えていたのだ。その男は自分が見たままを話しただけだった。しかし、ジョン・カーター、こんなことがわかったところでわれわれには何の役にも立ちはしないぞ。たとえ、首尾よく逃げのびたとしても、今度はわれわれが冒涜者にされるだけではないか。われわれは荒々しい火星馬《ソート》のごとく必然的なものと怒り狂った火星象《ジティダール》のごとく厳然たる事実との間にはさまれているのだ――そのいずれからも逃げることはできはしない」
「まさに進退きわまったというわけだな、タルス・タルカス」と私は答えたが、この私たちが陥ったジレンマには苦笑をもらさずにはいられなかった。
「出たとこ勝負でやるしかないな」とタルス・タルカスは言った。「そして、だれであろうとわれわれを殺すやつらは、その代償としてはるかに多くの犠牲を払わなければならないことがわかっているのが、せめてもの満足というものだ。白ザルだろうと植物人間だろうと、バルスームの緑色人だろうと赤色人だろうと、われわれの命を奪おうとするやつはかならず思い知るだろう。タルドス・モルス家の王子ジョン・カーターと、サークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカスをいっしょに片づけようなどとすれば、どんなに高い血の代償が必要かということをな」
タルス・タルカスがいかめしい顔つきで軽口をたたいているのを聞くと、私は吹きださずにはいられなかった。すると彼もいっしょになって、珍しくも、心から面白そうに笑いだした。こんな笑い方ができるのは、ほかの同族の者たちには見られない、この獰猛なサークの首領の特質なのである。
「ところで、きみのことだが、ジョン・カーター」と、彼はやがて大声で言った。「きみがあれからずっとここにいたのではないとすると、いったいどこへ行っていたのだ。そして、今日ここできみに出会ったのは、どうしたわけなんだ」
「私は地球へ帰っていたのだ」と私は答えた。「地球で十年もの長い間、もう一度この恐ろしい遊星に戻れる日がくるのを祈りつづけていた。火星には残酷な恐ろしい風習が山ほどあるにもかかわらず、私は自分が生まれた世界に対するよりもずっと強い共感と愛情の|きずな《ヽヽヽ》をバルスームに感じているのだ。
私はこの十年の間、デジャー・ソリスが生きているかどうかがわからないために、不安と疑惑にさいなまれて死ぬよりつらい生活を送っていた。長い間の祈りがいまやっとかなえられて火星にもどり、デジャー・ソリスが生きていることもわかったと思ったら、残酷な運命のいたずらによって、どうにも逃げられそうもないとんでもない場所にほうりこまれたというわけだ。そして、たとえここから逃げられたとしても、その代償として、この世でもう一度デジャー・ソリスに会いたいという私の切ない望みは永遠に吹き消されてしまうのだ。――そしてまた、幸福な来世というものに対する人間のあこがれが、どんなにみじめな、むなしいものであるかは、きょう見たとおりではないか。
植物人間と戦っているきみを見つけるほんの三十分ほど前には、私は地球の最も恵まれた国の東海岸に流れこむ大河のほとりに月光を浴びて立っていたのだ。これが私の答だよ。信じるかね」
「信じる。私には理解できないが」とタルス・タルカスは答えた。
こうして話している間も、私は部屋の中を見まわしていた。部屋の大きさは縦が二百フィート、横はその半分ぐらいで、私たちがはいってきた戸口の真向かいの壁の中央にも戸口らしいものがあった。
この部屋は断崖の岩をくりぬいて作ったもので、天井のまん中にぽつんとついている小さなラジウム照明灯が薄暗い明かりを投げかけ、広い室内をにぶい金色に照らしだしていた。金色の壁と天井のあちこちにルビーやエメラルドやダイヤモンドがちりばめられ、つややかに輝いていた。床はまた別の非常に堅い材料で作られ、長い間の使用にすりへってガラスのようになめらかになっていた。二つの戸口のほかには、穴や隙間のようなものはまるで見あたらなかった。うしろの戸口に鍵がかかっていることはわかっていたから、私はもう一つの戸口に近づいた。
開閉ボタンを見つけようとして手をのばしたとたんに、またもや、あの冷酷な嘲笑の声が響きわたった。今度はあまりにも間近から聞こえてきたので、私は思わずうしろへ飛びのいて長剣の柄を握りしめた。
と、今度は広大な部屋の向こう側のすみから、うつろな声が単調な歌のように聞こえてきた。
「望みはない。望みはない。死人は帰れない。死人は帰れない。生き返るすべはない。望みはないのだ、望んではならぬ」
私たちはただちに、声が聞こえてきたほうを振り向いたが、何も見えなかった。実を言うと、このとき私は背筋がぞっとして、短い髪の毛が逆立つのを感じた。猟犬が夜の闇の中に人間の目には見えない無気味なものを見つけたとき、首筋の毛を逆立てるように。
私はすばやく、その悲しげな声のするほうへ歩み寄った。だが、向こう側の壁まで行かないうちに、声は消えてしまった。と、今度は部屋の反対側から、鋭い、つんざくような別の声が聞こえてきた。
「愚か者め! 愚か者め!」とその声はけたたましく叫んだ。「なんじらは生と死の不滅の法則を打ち破ろうというのか。神秘のイサス、死の女神を欺《あざむ》いて、なんじらの運命を拒《こば》もうというのか。女神の大いなる使者、古きイスの川がその鉛色の流れになんじをのせてドールの谷へ運んできたのは、なんじ自身の意志によることではなかったのか。
おお、愚か者よ、イサスの女神がみずからのものを捨てると思うのか。数えきれぬ過去の時代を通じて、ただ一人の人間しか逃げたことのない場所から逃げようというのか。
なんじが来た道をもどって行け。|生命の木《ヽヽヽヽ》の子供らの慈悲深き胃袋か、あるいはまた大白ザルの白く輝く牙の間にもどって行け。そうすれば苦しみもたちどころに消えうせよう。だが、無分別にも、あくまでオツ山脈の|黄金の崖《ヽヽヽヽ》の迷路をたどって、ホーリー・サーンの難攻不落の砦《とりで》を通り抜けようとするならば、道半ばにしてこの上なく恐ろしい死《ヽ》にめぐり会うことになろう。それは生《ヽ》と死《ヽ》を二つとも生みだしたホーリー・サーン自身すら、その残忍さに目をそむけ、犠牲者たちの身の毛のよだつ悲鳴に耳をふさぐほどの恐ろしい死なのだ。
おお、愚か者よ。来た道をもどって行け」
そしてまた、別の方角からあの恐ろしい笑い声が響きわたった。
「まったく気味が悪いな」と、私はタルス・タルカスのほうを向いて言った。
「どうするんだ?」と彼はきいた。「何もない空間が相手では戦うわけにもいかないぞ。これじゃあ、いっそのこと引き返して、剣を突き刺す手ごたえのある体を持った敵に向かっていったほうがましだ。そうすれば、あの世に行く前に敵に大損害を与えたということもわかるし、それに、そういう死に方こそ、最も立派な望ましいものとして、人間だれしも望むべきではないか」
「いいかね、タルス・タルカス」と私は答えた。「きみが言うように、何もない空間とは戦えないとすれば、空間のほうだって私たちと戦えないわけだ。これまでに無数のたくましい戦士と鋭い剣に立ち向かい、片っぱしから打ち破ってきた私が、こけおどしの言葉ぐらいで引き返したりするものか。きみだって同じことだろう」
「しかし、目に見えないやつがどこからともなく声をだし、見えない剣を振りまわすのかもしれないぞ」
「ばかを言うな、タルス・タルカス」と私は叫んだ。「あの声はきみや私と同様ちゃんと姿かたちのある人間がだしているのだ。あいつらの血管には、われわれ同様、切ればすぐに流れる血がかよっているのだ。われわれに姿を見せないということが、やつらが人間だという何よりの証拠だと思う。それに、たいして勇気のある連中ではなさそうだ。なあ、タルス・タルカス、堂々と姿を現わして、すぐれた戦士の剣に立ち向かおうともしない臆病な敵が金切り声を上げたぐらいで、このジョン・カーターが逃げだすと思うかね?」
私は大声でしゃべっていたから、私たちを脅《おど》しているつもりの敵の耳に私のことばが聞こえていることは疑いなかった。こんなことをしたのは、この神経にさわる身動きのとれない状態にやりきれなくなったからだ。それに、敵がこんなことをするのは、要するに私たちを脅して、もとの死の谷へ追い返し、そこにいる獰猛な怪物どもにさっさと片づけさせるためなのだということが、ふと頭に浮かんだからだ。
かなり長い間、静寂がつづいた。それから突然、背後で何かがこっそり動くような気配がしたので、さっと振り返ると、足のたくさんある巨大なバンスがそっと私に忍び寄ろうとしていた。
バンスというのは、古代の火星の涸れた海をとり囲む低い山々を徘徊《はいかい》する恐るべき肉食獣である。たいていの火星の動物たちと同じように、毛がほとんどなく、太い首のまわりの|たてがみ《ヽヽヽヽ》に大きな剛毛が生えているだけだ。
その長い、しなやかな体には力強い十本の脚があり、大きな顎には火星の猟犬キャロットと同じように、長い鋭い牙が数列並んでいる。口は小さな耳のうしろまで大きく裂け、緑色の飛びだした大きな目はそのものすごい顔つきをますます恐ろしいものに見せている。
バンスは私のほうへはい寄りながら、その力強い尾で自分の黄色い横腹をぴしゃりとたたいた。そして私に発見されたことを知ると、すさまじい声をあげてほえた。この声で獲物を震え上がらせて瞬間的に身動きできないようにし、その隙に飛びかかるのが、この猛獣のやり口なのだ。
たちまち、バンスの巨体は私に向かって飛んできた。だが、その大きなうなり声も私には身動きできないような恐怖を与えることはできなかったので、獲物をのみこむ残忍な口が大きく開いたとき、猛獣がぶつかったのは柔らかい肉ではなく、冷たい刃だった。
次の瞬間、私はこの巨大なバルスームのライオンの動かなくなった心臓から剣を引き抜いた。そしてタルス・タルカスのほうを振り返ると、驚いたことに彼も同類の怪物と戦っていた。
彼がその相手を片づけるか片づけないかのうちに、私はなかば無意識の警戒本能にひかれて、うしろを振り向いた。と、獰猛な火星のライオンがもう一匹、部屋の向こう側から跳びかかってきた。
それから小一時間のあいだ、恐ろしい猛獣が次から次へと、周囲の何もない空間から忽然《こつぜん》と飛びだすように現われて、私たちに襲いかかってきたのである。
タルス・タルカスは喜んでいた。とにかく、彼の巨大な剣で切りまくることができるものが現われたからだ。私にしたところで、見えない口がしゃべる無気味な声を聞いているよりは、このほうがずっと気分がよかった。
この新手《あらて》の敵が決して摩訶《まか》不思議なものではないことはもう明らかだった。鋭い剣に急所を突かれれば怒りと苦痛のわめき声を上げるし、切られた動脈からまぎれもない赤い血を噴きだして、ほんとうに死んでしまうのだから。
この襲撃を防いでいる間に私は気がついた。猛獣どもが現われるのは私たちが背中を見せているときだけなのである。実際に目の前で忽然と空間から現われたやつなどは一匹もいなかった。私は片時《かたとき》も論理的な思考力を失いはしなかったので、猛獣たちは何か巧妙な仕掛けの秘密の戸口から部屋にはいってくるにすぎないということを惑《まど》わずに確信した。
私はふと、タルス・タルカスが身につけている皮の装具に目を向けた。日没後の寒さをしのぐための絹のケープと、絹や毛皮の膝掛けを別にすれば、火星人の衣類といえるものはこれだけだったが、その皮の装具の飾りのなかに小さな鏡があった。それは婦人用の手鏡ぐらいの大きさで、彼の大きな背中の肩と腰の中間あたりにぶらさがっていた。
タルス・タルカスがまたも殺した猛獣を見おろして立ちどまった瞬間、私の目が偶然この鏡にとまった。その光る鏡の面に映った光景を見ると、私はすばやく声をひそめて言った。
「動くな、タルス・タルカス! そのまま、じっとしていろ!」
彼はわけもきかず、彫像のように突っ立ったままになった。その間に私の目は二人にとって重要な意味をもつ奇妙な光景を見まもった。
私は、背後の壁の一部がすばやく動くのを見たのだ。壁はくるりと旋回し、それとともに壁の直前の床の一部も回転していた。それはあたかも、テーブルの上に一ドル銀貨を平らに置き、その銀貨の表面をきっかり二分するように名刺を直立させたような工合だった。
名刺が壁の回転する部分にあたり、銀貨が床の部分に相当するわけだ。そのいずれも隣接する床や壁にきわめて精巧に合わせてあるので、室内の薄明りの中では隙間がまるで目につかなかったのである。
壁が半分回転すると、あらかじめ壁の裏側の床の上にすわっていた巨大な野獣の姿が現われ、回転がとまったときには、野獣はもうこちら側で私のほうを向いている――簡単きわまる|からくり《ヽヽヽヽ》である。
しかし、何よりも私の興味をひいたのは、壁が半分回転したとき、その隙間から見えた光景だった。そこは明るく照らされた大きな部屋で、数人の男女が鎖で壁につながれていた。そして、彼らの前に一人の邪悪な顔つきの男がいて、どうやら、こいつが秘密の戸口の回転を操作しているらしかった。この男の皮膚の色は赤色人のように赤くもなく、緑色人のように緑色でもなく、私と同じように白かった。そして、ゆたかな黄色い髪をなだらかに垂らしていた。
男のうしろにいる囚人たちは赤色人だった。彼らといっしょに凶暴な野獣が何頭もつながれていたが、そのなかには私たちを襲った猛獣の同類もいれば、同じくらい凶暴な別の野獣もいた。
新手《あらて》の敵と戦おうとして向き直った私は、かなり気が軽くなっていた。
「そっち側の壁を見張ってくれ、タルス・タルカス」と私は警告した。「壁にある秘密の戸口から、野獣どもを放っているんだ」秘密をかぎつけたことを敵にさとられないように、私はできるだけタルス・タルカスに身を寄せ、小声でささやいた。
二人がそれぞれ部屋の反対側の壁のほうを向いているかぎり、もう攻撃されることはなかった。だから、壁に何か覗き穴のような仕掛けがあって、私たちの動きが部屋の外から見えるようになっていることは明白だった。
ついに私はある計画を思いついた。そこで、目の前の壁を見まもりながら、あとじさりしてタルス・タルカスに近づき、小声で計画を打ち明けた。
偉大なサーク人は私の提案を聞くと、うなり声をあげて賛成した。そして、私の計画に従って、私が直面しているほうの壁に向かってあとじさりし始めた。いっぽう私のほうは、彼の先に立ってゆっくりと前進した。
秘密の戸口から十フィートほど手前の位置までくると、私は相棒を立ちどまらせて、合図をするまで絶対に動くなと注意した。そして私はすばやく戸口のほうに背を向けた。戸口の向こう側から、私たちの死刑執行人になったつもりでいる男が悪意にみちた目を輝かせて覗きこんでいる様子が目に浮かぶような気がした。
私はただちに、タルス・タルカスの背中の鏡に目を走らせ、いままで恐ろしい猛獣どもを吐きだしていた壁の一角をじっと見まもった。
長く待つまでもなかった。ほどなく金色の壁が急速に動き始めた。そして、壁が動き始めるや否や、私はタルス・タルカスに合図を送り、それと同時に、回転ドアの後退してゆくほうの隙間めがけて飛びこんだ。同じように、サーク人もすばやく身をひるがえすと、ドアがせりだしてくる側の隙間におどりこんだ。
私はたった一跳びで完全に隣室へ飛びこみ、さっき見た冷酷な顔つきの男とまともに顔を見合わせた。そいつは背の高さが私と同じくらいで、筋肉はたくましく、見たところ地球人と寸分ちがわない姿をしていた。
男の腰には長剣と短剣と短刀、それに火星ではどこでも見かける恐るべき威力をもったラジウム拳銃があった。
私の武器は長剣だけだったから、バルスーム全土にゆきわたっている決闘の掟と道徳によって、相手は同じ武器か、それ以下の武器で応戦しなければならないはずだった。しかし、そんなことは私の敵の道徳感には何の影響も及ぼさないらしかった。その男は私がそばの床に立つや否や、拳銃をすばやく抜いた。だが、そのとたんに私の長剣がさっと下から上へ閃《ひらめ》き、拳銃は発射しないうちに手から吹っ飛んでしまった。
男はすぐに長剣を抜いた。こうして二人は対等の武器を手にして懸命に戦いはじめたが、私としてはめったに経験したことのない大接戦が演じられることになった。
相手の男はすばらしい剣の使い手で、明らかに熟練していた。それに反して私のほうは今朝まで十年間も剣を握ってはいなかったのである。
しかし、まもなく、私は本来の調子を楽々と取りもどし始めた。だから、二、三分たつと、相手の男は自分がついに好敵手にでくわしたことをさとり始めた。
私の防御が容易に打ち破れるものではないと見てとると、男の顔は憤激に青ざめた。その顔や体にできた十あまりの小さな傷口からは血が流れていた。
「おい、白い男、きさまは何者だ」と相手は歯をくいしばって叫んだ。「きさまの皮膚の色から見て、外界から来たバルスーム人でないことは明らかだ。そして、われわれの仲間でもないな」
最後の文句はほとんど質問している口調だった。
「イサスの神殿からきた者だとしたらどうだ」私は当てずっぽうに言ってみた。
「そんなばかな!」男はいまではほとんど血まみれになった顔を蒼白にして叫んだ。
私はうまい具合に相手を威圧したこのセリフをどうつづけたものやら見当がつかなかった。しかし、いずれ必要な場合があるだろうから、そのときに使おうと思って、この思いつきは胸にたたんでおくことにした。相手の応答ぶりから感じられたのは、この男がひょっとすると私はイサスの神殿の人間かもしれないと考えていること、そして神殿には私のような人間がいるということだった。この男は神殿の人間を恐れているか、さもなければ、その人格あるいは権力に非常に敬意を払っているので、その一人に危害と侮辱を加えたのではないかと心配しているのだろう。
しかし、いま私がこの男を相手にやらなければならない仕事は、こんな抽象的な思考を少しでも必要とすることとは性質が違っていた。それは相手のあばら骨の間に剣を突き刺す仕事だった。それから二、三秒のうちに、私はその仕事をやってのけたが、それでも決して早すぎはしなかったのだ。
この間、鎖につながれた囚人たちは何も言わずに、じっと息を殺して私の決闘を見まもっていた。室内の物音といえば、わたり合う剣と剣とがぶつかる響き、二人の裸足が柔らかく床をこする音、そしてたがいに死闘をつづけながら、ときたま、くいしばった歯の間から相手に投げかける短いつぶやきだけだった。
しかし、私の相手の体が床に倒れて動かなくなったとたんに、女の囚人の一人が警告の叫びを上げた。
「うしろ! うしろ! うしろを向いて!」と女は金切り声を上げた。私がその悲鳴とともにぱっと振り返ると、足もとに倒れているやつと同じ種族の男がもう一人いるのにぶつかった。
その男は暗い廊下からこっそり忍びこんできて、私が気がついたときには、剣を振り上げ襲いかかってくるところだった。タルス・タルカスの姿はどこにも見あたらなかったし、私がはいってきた壁の秘密の戸口は閉まっていた。
タルス・タルカスがそばにいてくれたら! 私はつくづくそう思った。戦いはもう何時間もほとんど休みなしにつづいていた。私は精力もかれはてるような冒険を次々に経験しているし、その上、ほとんど二十四時間近く何も食べていないし、眠ってもいないのだ。
だから疲労でくたくただった。そして、はたして敵に打ち勝つ力があるだろうかという長い間感じたことのない疑いがわき起こった。だが、この男と戦う以外に道はなかった。それも、できるかぎり素速く猛烈に戦うことだ。私が助かる道は、猛烈な攻撃をしかけて相手を浮き足立たせるしかない――戦いが長びいては勝ち味がない。
だが、相手の男はどうやら私とは考え方がちがうらしかった。彼は後退しては受け流し、受け流しては横へ寄ったりして身軽に跳びまわるので、とうとう私は、一刻も早く相手をしとめようとするあまり力がつきて完全にへたばりそうになった。
この男はさきほどの敵以上に巧みな剣の使い手だったと言えるだろう。実際のところ、私にむなしい追いかけっこをさせてさんざん私を愚弄し――おまけに、もう少しでとどめを刺しそうになったのだ。
自分がだんだん弱ってゆくのが私にははっきり感じられた。ついには目の前のものがぼんやりしはじめ、なかば眠っているように足がふらついてきた。そのとき、相手の一撃であやうく殺されそうになったのである。
私は敵の仲間の死体の前にまで追いつめられていた。そこへ突然、相手が突っこんできたので、やむなく後退し、踵《かかと》が死体にぶつかったはずみに死体の上へ仰向けに倒れてしまった。
頭がごつんと音をたてて固い床にぶつかった。私の命が助かったのはそのせいだった。というのは、そのおかげで頭がはっきりし、痛さのあまりかっとなって、一瞬、素手《すで》でも敵を八つ裂きにしかねないほどの闘志がわき起こったからだ。もしも身を起こすときに右手が冷たい金属に触れなかったとしたら、ほんとうに素手《すで》で敵に襲いかかっていたかもしれない。
戦士の手は、商売道具の武器に触れたときには、普通の人間の目と変わらない働きをするものだ。だから私は、見たり考えたりするまでもなく、右手に触れたものが、さきほど最初の敵の手からたたき落とした拳銃で、すぐにも撃てることを一瞬のうちにさとった。
まんまと私を転倒させた敵は、きらめく剣の切っ先をまっすぐ私の心臓に向けて躍りかかってきた。その唇からは、あの|神秘の部屋《ヽヽヽヽヽ》で耳にした冷酷な嘲笑が響きわたった。
そして男は死んだ。薄い唇を憎悪にみちた笑いにゆがめたまま、死んだ仲間の拳銃から発射された弾丸に心臓を撃ち抜かれて。
男の体は猛然と突っこんできたはずみで、私の体に激突した。そして彼の剣の柄《つか》が私の頭にぶつかったらしく、私は死体と衝突したとたんに気を失った。
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四 サビア
どこからか闘争の物音が聞こえてきて、私はふたたび意識をとりもどした。一瞬、自分がどこにいるのか、自分の目をさました物音がどこから聞こえてくるのかわからなかった。だが、やがて、自分が横たわっているすぐそばの窓も戸口もない壁の向こう側から、動きまわる足音、気味の悪い野獣のうなり声、金属の装具の触れあう響き、そして男の重苦しい息づかいなどが聞こえてくるのがわかった。
私は立ちあがって、さきほど大へんな歓迎を受けた部屋の中をすばやく見まわした。囚人や猛獣どもは向こう側の壁ぎわで鎖につながれたまま、好奇心や怒りや驚きや希望など、てんでに異なる表情を浮かべて私を見つめていた。
さきほど警告の叫びをあげて私を助けてくれた若い赤色人の女の美しい悧口そうな顔には、明らかに希望の表情が浮かんでいた。
彼女は、あのすばらしく美しい種族の典型だった。赤色人の外見は地球の白人とそっくりで、違う点といえば、この火星の高等民族の皮膚の色が淡い赤銅色をしていることだけである。この赤色人の女は飾りを何もつけていなかったので、どんな身分の女なのか見当がつかなかった。もっとも、現在の境遇では囚人か奴隷のいずれかであることは明らかだった。
数秒たつと、ぼんやりしていた頭が次第にはっきりしてきて、壁の向こう側の物音の意味がだんだんわかってきた。そして、とつぜん、あれはタルス・タルカスが野獣か野蛮人を相手に死にもの狂いに戦っている物音だとさとった。
タルス・タルカスを励ます大声とともに、私は全身に力をこめて秘密の戸口にぶつかった。だが、これは断崖を拳で叩いて崩そうとするようなものだった。そこで回転扉の仕掛けを夢中になって捜したが、これもむだだった。焦燥のあまり黄金の壁に向かって長剣を振り上げようとしたとき、若い女の囚人が声をかけた。
「ああ、偉大な戦士、その剣は大切になさい。まだまだ剣が必要になる場合があるでしょうから――何の手ごたえもない金属の壁に打ちつけて折ったりしてはいけません。その壁は秘密の仕掛けを知っているものがちょっと指を触れればわけなく開くのです」
「では、きみがその仕掛けを知っているのか」
「そうです。わたしの鎖をはずしてくだされば、向こうの恐ろしい部屋を開いてさしあげましょう。もしお望みでしたらね。わたしの鎖をはずす鍵はあなたが最初に殺した男が身につけています。でも、バンスや、そのほかの狂暴な野獣が放たれているあの恐ろしい罠《わな》のような部屋へ、なぜ引き返そうとなさるのですか」
「友人がひとりで戦っているからです」私はそう答えると、この恐怖の部屋の番人の死体を急いでさぐりまわり、鍵を見つけだした。
長円形のリングに鍵がたくさんついていたが、美しい火星の娘はすばやくその一つを選びだして、自分の腰についている大きな錠をはずし、自由の身になると急いで秘密の戸口に歩み寄った。
彼女はまた、リングのなかから一つの鍵を選びだした。今度は細長い針のような鍵で、娘はそれを壁のほとんど目に見えないほど小さな穴にさしこんだ。たちまち回転ドアがくるりとまわり、それと同時に私が立っている壁ぎわの床が旋回して、私はタルス・タルカスが戦っている部屋へ送りこまれた。
偉大なサーク人は壁の一隅を背にして立っていた。彼の前には六頭の巨大な怪物が半円を描いてうずくまり、隙をうかがっていた。怪物たちの頭や肩から流れ落ちている血の筋は、この緑色人戦士の剣の腕前とともに、怪物たちが用心深くなっている理由を物語っていた。だが、戦士のつやつやした肌にも、彼がいままで耐えてきた攻撃の激しさをはっきりと証拠だてる傷が無数にあった。
彼の足も腕も胸も、鋭い爪と残忍な牙に引き裂かれ、文字どおりずたずたになっていた。ぶっつづけの奮戦と多量の出血のために、その体力はすっかり弱っていた。もしも背後の壁がなかったら、まっすぐ立っていることもできないのではないかと思えるほどだった。それでも、一族特有のねばり強さと不屈の勇気を発揮して、なおも残忍きわまる敵に立ち向かっていた。それはまさに、「頭と腕一本だけになってもサークは勝つ」という彼の種族の古い諺《ことわざ》の権化《ごんげ》というべきだった。
私がはいってきたのを見ると、タルス・タルカスの無気味な口もとに無気味な微笑が浮かんだ。しかし、その微笑が安堵を示したものなのか、それとも私の血にまみれた見苦しい姿を見て面白がっただけなのか、私にはわからなかった。
私が鋭い長剣を振りかざして、この闘争の中に飛びこもうとしたとき、やさしい手が肩にふれるのを感じた。振り返ると、驚いたことに、さっきの若い女が私について、この部屋にはいっていた。
「待って。あの野獣たちはわたしにまかせてください」と女はささやいた。そして私を押しのけると、身を守る武器ひとつ持たずに、恐ろしいうなり声をあげるバンスのほうへ進んでいった。
猛獣たちのすぐそばまで行くと、彼女は低いが断固とした口調で、何かひとこと火星語をしゃべった。とたんに巨大な野獣たちはさっと彼女のほうを向いた。私が駆けつけるひまもなく、女はずたずたに引き裂かれてしまうだろうと思われた。ところが、野獣たちは、まるで何かいたずらをして罰を受けるのを覚悟した子犬のように、こそこそと彼女の足もとにすり寄ったのである。
彼女はまた何か言ったが、声が小さくて聞きとれなかった。それから彼女は部屋の向こう側にむかって歩きだし、六頭の怪物はそのあとについていった。彼女は猛獣どもを一頭ずつ秘密の戸口から向こうの部屋へ送りこんだ。そして最後の一頭が姿を消すと、あっけにとられて突っ立っている私たちのほうを振り返って微笑し、自分の向こうの部屋へ行ってしまった。
しばらくは二人とも無言だった。やがてタルス・タルカスが口を切った。
「きみがはいっていった壁の向こう側から戦っている物音が聞こえてきたが、きみのことは少しも心配しなかった。ところが、そのうちに拳銃の音がしたではないか。剣を抜いてきみと戦って生き残れるような人間がバルスームじゅうにいるはずがないことはわかっていたが、その拳銃の音を耳にして私は絶望してしまったのだ。きみには銃がなかったはずだからな。いったい、どういうことになったのだ」
私は事情を説明した。それから二人で、いましがた私が部屋にはいるのに通った秘密の戸口――娘が猛獣たちを連れ出した戸口の反対側にある戸口――を探した。
だが、がっかりしたことに、いくら秘密の錠をあけようと努力しても壁はびくともしなかった。壁の向こう側へ出さえすれば、外の世界へ抜けだす道を見つけられるかもしれないのに。
部屋のなかの囚人たちが厳重に鎖でつながれていたことから考えて、このとんでもない場所に住む恐ろしい連中から逃げだせる道が必ずやあるにちがいなかった。
部屋の両側で行く手を遮《さえぎ》っている二つの黄金の壁の間を、私たちは何度も行ったり来たりしたが、どちらの壁も動かなかった。
完全にあきらめかけたとき、壁の一つが音もなく回転して、バンスの群れを連れ出した若い女がまた私たちの前にあらわれた。
「あなたがたはどなたですか」と彼女はきいた。「自分から死を選んできたはずのドール谷から向こう見ずにも逃げだそうとなさるなんて、いったい、何の目的でいらっしゃったのですか」
「お嬢さん、私は死を選んだりはしなかった」と私は答えた。「私はバルスームの人間ではないし、自分から進んでイス川の死の旅にのぼったわけでもありません。ここにいるのは私の友人で、サーク族の皇帝《ジェダック》です。彼はまだ元の浮世へ戻りたいとは言っていないが、こんな恐ろしい場所へ彼をおびき寄せたとんでもない迷信の世界から私はこの男を連れだすつもりです。私は別世界の人間で、ヘリウムの皇帝《ジェダック》タルドス・モルス家の王子ジョン・カーターです。この地獄のような世界にも私の噂がいくらか伝わっているかもしれない」
女は微笑した。
「ええ、わたしたちが前にいた世界の出来事で、ここでわからないことは一つもありません。あなたのことは、もう何年も前に聞いたことがあります。サーンの者たちは、あなたがイス川の旅にも立たず、バルスームの土地からも姿を消してしまったので、いったいどこへ飛んでいってしまったのかと、よく不思議がっていました」
「ところで、教えてください」と私は言った。「あなたはいったい何者ですか。なぜ囚人になったのです。そのくせ、とても囚人や奴隷とは思えない権威をもってあの獰猛な野獣どもを自由にあやつることができるのは、どういうわけなのですか」
「わたしは奴隷です」と彼女は答えた。「この恐ろしい場所で十五年間も奴隷として暮らしています。でも、ここの人たちはわたしに飽きてきたし、わたしがいろいろなことを知って力を持つようになったのを恐れはじめたもので、つい先日、わたしはあの恐ろしい死刑の宣告を受けました」
女は身をふるわせた。
「どんな死刑なのです」
「ホーリー・サーンの者たちは人間の肉を食べるのです。でも、それは植物人間に生き血を吸いとられて死んだ人間の肉――つまり汚れた血を抜きとった肉だけなのです。この残酷な死刑の宣告をわたしは受けました。あなたが現われてあの人たちの計画を邪魔してくださらなかったら、わたしはあと二、三時間のうちに殺されるところでした」
「では、ジョン・カーターの手練のほどを思い知らされた連中はホーリー・サーンだったのですか」と私はたずねた。
「いいえ、あなたに殺された者たちはもっと身分の低いサーンで、同じように残酷な憎むべき種族の人間です。ホーリー・サーンたちはこの無気味な山の外側の斜面に住んでいて、眼下の広い世界から|いけにえ《ヽヽヽヽ》や略奪品を手に入れてきます。
この洞窟とホーリー・サーンたちの住む豪華な宮殿との間には迷路のような通路があります。身分の低いサーンや奴隷の群れ、囚人、猛獣など、この太陽のない世界の住人たちはこの迷路を通って、それぞれの仕事をしているのです。
この曲がりくねった通路と無数の部屋が網の目のように広がっている中には、生まれたときからこの薄暗い無気味な地底の国で暮らしている男や女や野獣がいます。彼らは太陽の光を一度も見たことがなく――これからも見ることはないのです。彼らはサーン族の命令に従って、その娯楽や食物を提供するために養われているのです。
ときおり、冷たいイス川から静かな海へ流された不運な旅人が、イサスの神殿を守る植物人間や大白ザルの手をのがれたあとで、サーン族の冷酷な手中に陥ることがあります。あるいはまた、わたしのように、不運にも、たまたま川の上の岩棚で見張りをしていたホーリー・サーンの気をひいて、さらわれてしまうこともあります。その岩棚というのは、イス川が山の奥から黄金の断崖をぬけて流れだし、コルスの行方知れずの海にそそいでいる地点にあるのです。
ドール谷にやってきた人間はみな植物人間や白ザルの餌食《えじき》になり、彼らの武器や飾りはサーン族のものになることに決まっています。しかし、ほんの二、三時間でも谷間に住む恐ろしい怪物の手からのがれる者があれば、サーン族はそれを自分のものと主張することができます。さらにまた、見張りをしているホーリー・サーンがぜひとも欲しい獲物を見つけた場合には、思考力のない谷間の野獣たちの権利を無視して、手段を選ばず強引に獲物をさらってしまいます。
バルスームの迷信に欺《あざむ》かれた人びとがイス川の千マイルもつづく地下の流れを伝ってドール谷に出てくると、とたんに無数の敵に行く手をふさがれてしまうのですが、ときおり、恐ろしい敵の手をのがれて、イサス神殿の壁までたどりつく者もいるという話です。でも、そこでどんな運命が待ちうけているのかは、ホーリー・サーンたちさえわからないのです。あの神殿の金色の壁の中へはいった人間で、もう一度もどってきて大昔からの謎を解き明かしてくれた者はまだ一人もいないのですから。
サーン族の者たちにとってイサス神殿は、外の世界の人びとが想像しているドール谷のようなものです。神殿はここでの人生が終わったあとで彼らが行くはずの平和と幸福の最後の安息所なのです。そこでは未来|永劫《えいごう》、肉の喜びにひたりながら暮らすことになっています。これは知力はきわめて優れていても道徳的には劣悪なこの種族の者たちにとって何よりも喜ばしいことなのです」
「イサス神殿は、天国のなかの天国というわけか」と私は言った。「サーンのやつらがここを外界の人たちの天国にしていたのと同じように、イサス神殿が連中の天国になれば幸いだが」
「そんなことはだれにもわかりません」と娘は小声で言った。
「あなたの話から判断すると、サーンも普通の人間同様、いずれは死ぬらしい。しかし、バルスームの人びとが彼らのことを話すときには、いつも、まるで神々のことを話すときのような深い畏怖と崇敬の念をこめていました」
「サーンも人間です」と彼女は答えた。「あなたやわたしたちと同じようないろいろな原因で死にます。死なないで、無事に千年の定められた寿命を生きた者は、掟に従って、嬉々としてイサス神殿へ通じる長いトンネルの中へはいって行くのです。
寿命のこないうちに死ぬ者は、植物人間になって寿命の残りを過ごすものと思われています。植物人間がサーン族に神聖視されているのはこのためです。あの恐ろしい生きものはみんな以前はサーンだったと信じられているからです」
「では、植物人間が死んだら?」と私はきいた。
「サーンとして生まれたときから数えて千年にならないうちに死ぬと、植物人間に宿っていた魂は大白ザルに移るのです。しかし、その白ザルが千年の寿命前に死ぬと、魂は永遠に失われて、ぬるぬるした無気味なシリアン〔行方知れずの海にいる爬虫類〕の体内にはいってしまいます。そして、太陽が沈んで、ドール谷を奇妙な姿のものが歩きまわるころ、勢いよく旋回する二つの月の下の静かな海で、無数のシリアンがのたうちまわり騒ぎたてるのです」
「そうすると、われわれは今日、数人のホーリー・サーンをシリアンにしてやったわけか」タルス・タルカスはそう言って、笑った。
「それなら、あなたがたが殺されるときには、いっそう恐ろしい殺され方になるでしょう」と娘は言った。「それに、きっと殺されますよ――逃げることはできません」
「何百年も前に、逃げた者が一人いますよ」と私は指摘した。「だれかにできたことなら、もう一度できるだろう」
「試みるだけ、むだなことです」と彼女は絶望的な口ぶりで答えた。
「それでも、やってみるさ」と私は叫んだ。「よかったら、あなたもいっしょに逃げるんだ」
「逃げ帰って、自分の国の人びとに殺され、わたしの家族や国の人たちに汚名を残せとおっしゃるのですか。タルドス・モルス家の王子さまのお言葉とも思えません」
タルス・タルカスは黙って耳をすましていた。しかし、彼の目が私の顔をじっと注視していることはわかっていた。陪審長が読みあげる判決に耳を傾ける被告のように、私の返答を待ちうけているのだ。
私がこの娘に忠告したことは私たちの運命をも決定することだった。もしこのまま昔からの迷信的戒律に屈服すれば、私たちはみな、この戦慄と残虐の世界にとどまって、無惨な最期をとげるにきまっている。
「逃げられるものなら、当然、逃げるべきです」と私は答えた。「うまく逃げのびたからといって、私たちの良心が傷つくわけはない。恵みのドール谷の愛と平和の生活という伝説がとんでもない邪悪なごまかしだということは、もうはっきりしましたからね。私たちはこの谷が聖なるものではないことを知っているし、神聖《ホーリー》なサーンが神聖なものではないことも知っている。やつらが冷酷無情な一族で、来世のことについては私たち同様、何も知らないただの人間にすぎないこともわかってしまった。
だから全力をつくして逃げることは私たちの権利なのです――それどころか、しりごみせずに果たさなければならない重大な義務なのです。たとえ、自分の国にもどったときに同胞からののしられ、迫害されることがわかっていても、そうすべきではないだろうか。
そうしなければ、外の世界の人びとに真実を伝えることはできない。なるほど、私たちが真実を語ったところで、信じてもらえる見込みはきわめて少ないでしょう。それほど人間というものはばかげた迷信に夢中になってしがみつくものです。しかし、この目の前のわかりきった義務をはたさなければ、私たちは臆病な卑怯《ひきょう》者になってしまうでしょう。
それに、私たちがみんなそろって同じ証言をすれば、その話が真実だということを認めてもらえる可能性もある。少なくとも、ある程度は人びとの心を動かして、このいまわしい偽《にせ》の天国へ調査隊を派遣するようなことになるかもしれない」
娘も緑色人戦士も、しばらくの間は黙って考えこんでいた。やがて口をきったのは娘のほうだった。
「わたしはこれまで、そういう見方で考えてみたことは一度もありませんでした。そうですね。この残酷な場所でわたしが味わったような恐ろしい生活に陥らないようにたった一人の人間でも守ることができるなら、わたしは何度でも命を捨てます。そうですとも、あなたのおっしゃるとおりです。行けるところまで、わたしもまいります。でも、ほんとに逃げきれるかどうか」
私はサーク人を見つめて返答を待った。
「イサスの城門までだろうと、コルスの海の底までだろうと、あるいはまた北の雪や南の雪の果てまでだろうと、ジョン・カーターの行くところなら、誓ってタルス・タルカスはついて行くぞ」と緑色人戦士は言った。
「よし、では出発だ」と私は叫んだ。「こんな山のまん真中《まんなか》で、死の部屋の壁にとり囲まれていたのでは、とても逃げだすどころではないからな」
「まいりましょう」と娘は言った。「でも、サーンの領土のなかにここよりひどい場所がないなどと思ってはいけません」
娘はそう言いながら、私が彼女を見つけた部屋との境にある秘密の壁を回転させた。そして私たちはふたたび、ほかの囚人たちがいる部屋へはいっていった。
そこには全部で十人の赤色人の男女がいた。私たちの計画を手短かに話して聞かせると、彼らも私たちに協力する決心をした。しかし、これまでの悲惨な体験によって昔からの迷信が根も葉もない作りごとであることは知っていても、それに逆らうことにかなりの不安を感じていることは明らかだった。
私が最初に助けてやった娘サビアは、すぐにほかの者たちの鎖をはずした。タルス・タルカスと私は二人のサーンの死体から武器をとった。そのなかには剣や短刀のほかに、赤色人が作った奇妙な形をした恐るべき威力のある拳銃が二梃あった。
それらの武器を行きわたるだけ仲間の者たちにくばった。拳銃は二人の女にわたしたが、その一人はサビアだった。
サビアを案内役にして、私たちは急ぎながらも用心深く進み始めた――迷路のような道路をぬけ、崖の純粋な鉱石をくりぬいて作った大きな部屋を横切り、曲がりくねった廊下をたどり、急な坂道を登っていった。ときどき、足音が近づくのを耳にして暗い物陰に隠れながら。
行く先は遠く離れたところにある貯蔵庫だ、とサビアは言った。そこへ行けば武器や弾薬がたくさんあるという。そこから彼女は私たちを断崖の頂上へ連れて行くことになっていたが、そのあとホーリー・サーンの要塞のまん真中《まんなか》を通り抜けて外の世界へぬけだすには、すぐれた機知と強大な戦闘力の二つが必要になるはずだった。
「そして無事に脱出したとしても、王子さま」とサビアは叫んだ。「ホーリー・サーンの追及の手はまだまだのびてきます。バルスームのあらゆる国にのびてくるでしょう。彼らの秘密の神殿はあらゆる都市に隠されています。私たちがどこへ逃げようと、私たちが行く噂のほうが先に広まっていて、冒涜の言葉をまき散らすひまもなく殺されてしまうでしょう」
一行はほとんど中断することもなく一時間ばかり進みつづけた。そして、サビアがもうすぐ武器庫ですとささやくのを耳にしながら、大きな部屋にはいりかけたとたんに、明らかにサーンと思われる一人の男に出会った。
その男は皮の装身具や宝石のついた飾りのほかに、大きな金の輪を額につけていた。その輪の真中には巨大な宝石がはめこまれていたが、これは二十年ほど前に大気製造工場で小柄な老人の胸についているのを見た、あの宝石にそっくりだった。
それはバルスームのきわめて貴重な宝石で、この世に二つしか存在しないといわれているものである。昔、私が大気製造工場の巨大な扉をあける秘密を知っていたおかげで火星全土の生物が一気に死滅するのを防ぐことができた事件があったが、その工場で火星全土に人工空気を送りだす巨大なエンジンの操作係をつとめていた二人の老人がその役柄を示すしるしとして身につけていた宝石である。
私たちと顔を合わせたサーンがつけている宝石は、前に見たものとほとんど同じ大きさで、直径一インチはあった。そして九色の異なる光――地球のプリズムの七色と、地球では知られていない何とも名状しがたいすばらしい美しさをもった二色の光――を放ってきらきら輝いていた。
サーンの男は私たちを見るなり、目を細め、険悪な顔つきで叫んだ。
「とまれ! これはどうしたことだ、サビア」
娘は答えるかわりに拳銃を上げ、まっこうから相手に向かって発射した。サーンは声ひとつたてずに倒れて死んだ。
「けだもの!」と彼女は叫んだ。「とうとう、長い間の恨みをはらしたわ」
それからサビアは私のほうを振り返って、何か説明しようと口を開きかけたが、私の顔を見ると急に目を見張り、小さな叫び声をあげて、近寄ってきた。
「ああ、王子さま」と彼女は叫んだ。「わたしたちはとても運がいいようですわ。困難はまだたくさんありますけれど、この床に倒れている下劣な男を利用すれば、うまく外へ抜け出せるかもしれません。このホーリー・サーンとあなた自身とがとてもよく似ていることにお気づきになりませんか」
なるほど、その男はちょうど私ぐらいの背格好だったし、目や顔つきも似ていないことはなかった。しかし、その頭髪は、私が殺した二人と同じく、黄色い巻き毛がゆたかに垂れさがっているのに、私のほうは黒い髪を短く刈りこんでいる。
「似ているから、どうしたというんです」と私はサビアにきいた。「黒い短い髪をした私に、この黄色い髪をした邪教の司祭役をやれというのですか」
サビアは微笑して、返事をするかわりに自分が殺した男の死体に近づき、そのそばに膝まずくと、死体の額から金の輪をはずし、さらに、あきれかえったことには、死体の頭の皮をすっぽり持ち上げた。
それから立ちあがって、私に近寄り、その黄色い|かつら《ヽヽヽ》を私の黒い髪の上にかぶせ、すばらしい宝石をちりばめた金の輪を額につけた。
「さあ、この装具をおつけになってください、王子さま。そうすれば、このサーンの領土をどこでもお通りになれますよ。なにしろ、サトール・スロッグは第十軍団のホーリー・サーンで、一族の中でも大物だったのですから」
言われたとおりにしようとして、死体の上にかがみこんだとき、その頭に毛が一本も生えておらず、卵のようにつるつるしていることに気がついた。
「サーンはみんな、生まれたときからこうなのです」とサビアは私の驚いている顔を見て説明した。「大昔の先祖にあたる種族には、ゆたかな金髪があったのですが、現在の一族はもう何代も前から完全な|はげ《ヽヽ》頭なのです。でも、|かつら《ヽヽヽ》は重要な装身具の一部になっていて、|かつら《ヽヽヽ》をつけずに人前に出ることはたいへんな恥辱だと考えられています」
まもなく、私はホーリー・サーンの装具を身につけて立っていた。
サビアの思いつきに従って、自由になった囚人のうちの二人が私たちといっしょにサーンの死体を肩にかつぎ、一同は武器庫に向かって進みつづけたが、その後は何の邪魔もはいらず、無事に武器庫にたどりついた。
ここで、サビアが地下牢のサーンの死体から持ってきた鍵が役に立って、私たちはすぐに中にはいることができた。そして大急ぎで武器や弾薬をとりだし、すっかり武装をととのえた。
このころにはもう、私は疲労でくたくたになり、もう一歩も進むことができなくなった。そこで、床の上に身を投げだすと、タルス・タルカスにも横になれとすすめ、囚人のうちの二人に、よく見張っているように注意した。そして途端に眠りに落ちた。
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五 危機の回廊
武器庫の床でどのくらい眠っていたのかはわからないが、かなり長い間だったにちがいない。
急を告げる叫び声にはっとして目が覚めた。そしてまだ目もよく開かず、頭がもうろうとして自分の居場所もはっきりとは思い出せないでいるうちに、一斉射撃の音が鳴りわたり、耳をつんざく反響音が地下の回廊の果てまで鳴りひびいた。
私はたちまち飛び起きた。十人あまりの下級サーンが、私たちがはいってきた武器庫の向こう側の大きな戸口から、こっちをにらみつけていた。私のまわりには仲間たちの死体がころがっていたが、サビアとタルス・タルカスの死体はなかった。二人は、私と同じように床の上で眠っていたので、最初の掃射を浴びないですんだのだ。
私が立ちあがると、サーンたちは手にしている恐ろしいライフルをおろした。彼らの顔は、くやしさ、驚愕、狼狽などの表情がまじり合って、奇妙にゆがんでいた。
私はそくざに、このチャンスにつけこんだ。
「これは何のまねだ」と私は激しい怒りに駆られたように叫んだ。「サトール・スロッグは自分の部下に殺されるというわけか」
「ああ、お許しを! 第十軍団長どの!」と一人が叫んだ。その間に、ほかの連中は権力者の面前からこそこそ逃げだそうとするように戸口のほうへにじり寄った。
「ここへ何しにきたのか、きいてください」とサビアが私のそばでささやいた。
「おまえたち、ここで何をしているんだ」と私はどなった。
「外の世界の人間が二人、サーンの領土内で逃げまわっているのです。私たちはサーンの教皇さまの命令でその二人を捜しておりました。一人は黒い髪をした白いやつで、もう一人は大きな緑色人戦士です」ここまでしゃべると、相手は疑わしげな目つきでタルス・タルカスのほうを見やった。
「それならば、ここにいるのがその一人よ」とサビアがサーク人を指さしながら言った。「そしてドアのそばで死んでいるあの男を見れば、もう一人のほうだということがわかるでしょう。サトール・スロッグさまとその奴隷たちは、下級サーンの衛兵たちにはできない仕事をやったわけです――わたしたちは逃亡者の一人を殺し、もう一人をつかまえました。その手柄のおかげで、わたしたちはサトール・スロッグさまに自由の身にしていただいたのです。ところが、そこへあなたたちがやってきて、愚かなことに、わたし以外の仲間をみんな殺してしまい、すんでのことで偉大なサトール・スロッグさままで殺してしまいそうになったのです」
衛兵たちはひどくおどおどして、おびえている様子だった。
「この男たちには、死体を植物人間のところへ持って行かせ、それから自分の持場へ帰らせることにしたらいかがでしょう、サトールさま」とサビアは私にきいた。
「そうだな。よし、サビアの言うとおりにしろ」と私は言った。
衛兵たちが死体を持ち上げはじめたとき、サトール・スロッグの死体を運ぼうとしてかがみこんだ一人の男が仰向きになったスロッグの顔をじっと見つめたとたんに、はっとした様子を見せた。そして、横目で、私のほうをちらりと盗み見た。
この男が何か疑念をいだいたことは間違いなさそうだった。しかし、それはまだ単なる疑念であり、思い切って口に出すほどのものではないらしく、男は沈黙を守っていた。
だが、男は死体を部屋から運びだしながら、もう一度すばやく、さぐるような視線を私のほうに向け、それからまた、自分の腕の中の死人のぴかぴか光るはげ頭に目を落とした。男が部屋の外に姿を消すとき、ちらりと目にはいった横顔には、勝ち誇ったような抜け目のない微笑が浮かんでいた。
あとに残ったのは、タルス・タルカスとサビアと私の三人だけだった。サーンたちの必殺の銃弾によって、ほかの仲間はことごとく殺され、危険を冒して外の世界へ逃げだそうというわずかばかりのチャンスさえ奪いさられてしまったのである。
気味の悪い死体運びの行列の最後の一人が姿を消すと、すぐにサビアは私たちをせきたてて、もう一度逃げだそうと言った。
彼女も、スロッグの死体を運んで行ったサーンの態度がおかしかったことに気づいていたのだ。
「悪い前兆です、王子さま。たとえあの男が思い切ってあなたを咎《とが》めようとはしなくても、もっとくわしい調査を要求できるだけの権力を持った男たちが上にいるのですもの。そうなったら、もう破滅です」
私は肩をすくめた。どうやら、私たちの陥った窮地はどのみち最後は死ななければならないようになっているらしい。私は眠ったおかげで気分はさっぱりしたが、まだ出血のために体が弱っていた。傷は痛んでいるが、まともな手当はとても受けられそうもない。私は、緑色人の女たちが持っているあの奇跡といってもいいほどのすばらしい治癒力のある不思議な軟膏とローションのことを思いだし、ほしくてたまらなくなった。あれさえあれば、一時間で生まれ変わったように元気になれるだろうに。
私はすっかり気落ちしていた。危険を目の前にして、こんなひどい絶望感に襲われたことは、いまだかつてなかった。そのとき、どこからともなく吹いてきた隙間風に、ホーリー・サーンの垂れさがった黄色い髪が私の顔のまわりで揺れ動いた。
こいつを利用して、まだ自由への道を切り開くことができるのではあるまいか。早いところ行動すれば、全面的な警戒線がしかれないうちに、まだ脱出することができるのではないか。少なくとも、やってみることはできるはずだ。
「サビア、さっきの男はまず第一に何をやるだろうか」と私はきいた。「やつらが私たちをつかまえに戻ってくるまでに、どのくらい余裕があるだろう」
「まっさきに、サーンの教皇マタイ・シャンのところへ行くでしょう。謁見《えっけん》を許されるまで待たされるでしょうが、あの男は下級サーンのなかではかなり地位の高いソリアンですから、マタイ・シャンもあまり長くは待たせないでしょう。そして、教皇があの男の話を信用すれば、一時間のうちには回廊も部屋も、中庭も庭園も、捜索する者たちで一杯になるでしょう」
「では、すべては一時間以内にやらなければならないわけだな。この地獄から脱出する最良の道、一番の近道はどう行くのですか、サビア」
「それは王子さま、まっすぐ崖の頂上へ出て、それから庭園を抜けて中庭へ行くのです。そこからサーンの寺院の中にはいり、それを横切ると外庭に出ます。次に城壁を――ああ、王子さま、とても望みはありません。たとえ一万人の戦士でもこの恐ろしい場所から逃げだす道を切り開くことはできないでしょう。遠い歴史の初めから今にいたるまで、サーンたちはその砦《とりで》の守りを少しずつ、こつこつと強化しつづけてきたのです。難攻不落の砦の防壁はえんえんとつづき、オツ山脈のふもとをぐるりと取り巻いています。
城壁のうしろの寺院の中には、つねに百万の兵士が待機しています。そして中庭や庭園には、奴隷や女や子供たちが一杯いるのです。だれだろうと、見つからずに一歩も進むことはできないでしょう」
「だが、サビア、それしか方法がなければ、そのむずかしさをくよくよ考えたって何の役にも立たない。私たちはどうでもそれに立ち向かって行かなければならないのだ」
「日が暮れてからやったほうが、いいのではないか」とタルス・タルカスが言った。「日中はとてもチャンスはなさそうだ」
「夜のほうが少しはましでしょうが、城壁は夜でも厳重に守られています――昼間以上に厳重なくらいに。でも、中庭や庭園に出る人間はずっと少なくなるでしょう」とサビアは言った。
「いま何時だろう」と私はたずねた。
「あなたがわたしの鎖をはずしてくださったときが、ちょうど真夜中でした」とサビアは答えた。「それから二時間後に武器庫について、ここであなたは十四時間眠っていらっしゃいます。ですから、いまはまた日が沈むころにちがいありません。さあ、どこか近くの崖の窓へ行って、確かめましょう」
サビアはそう言って、曲がりくねった廊下を先に立って進みはじめた。やがて、道が急に曲がっているところで、ドール谷を見おろす窓に行き当たった。
右手を見ると、巨大な赤い球のような太陽が西方のオツの連山の蔭に沈みかけていた。私たちのちょっと下では、見張りのホーリー・サーンが岩棚のバルコニーに立っていた。緋色《ひいろ》の礼服をしっかり体にまきつけているのは、日が暮れて暗くなるとともに急激に寒さがきびしくなるからだ。火星の大気はきわめて希薄なので、太陽の熱をあまり吸収しない。そのために、日中はいつも非常に暑いのに、夜間はひどく寒い。また、希薄な大気のために、太陽光線の屈折や拡散が地球にくらべてずっと少なくなる。だから、火星には黄昏《たそがれ》というものがない。巨大な球のような太陽が地平線の下に沈むときの印象は、室内に一つだけついている電球がぱっと消えるときとまったく同じ感じである。輝かしい明るさから、とつぜん何の予告もなしに真っ暗闇の中にほうりこまれる。それから、火星の月が現われる。巨大な流星のように、この遊星の地表を低くかすめて勢いよく飛びまわる魔術的で神秘的な二つの月。
沈みゆく太陽がコルスの海の東岸や、緋色の草原や、華麗な森林をあかあかと照らしていた。木立の下では、たくさんの植物人間の群れが餌をあさっていた。おとなの植物人間たちは爪先と巨大な尾を突っ張って高々と立ちあがり、手がとどくかぎりの葉と小枝を爪で刈りとっていた。私が最初、森の中で目をさましたとき、木立があまりにも入念に刈りこまれているので、文明人の公園かと思い違いをしたが、その本当の理由がいまになってやっとわかった。
あたりをながめているうちに、真下の崖のふもとから滔々《とうとう》と流れだしているイス川に視線が向いた。見ているうちに、山のほうから丸木舟が一|艘《そう》あらわれた。その中には外界から地獄に落ちてきた人間が十二人乗っていた。いずれも高度の文化と教養を持つ火星の支配民族、赤色人だった。
下のバルコニーにいる見張りも、私たちとほとんど同時にこの不運な一行を見つけた。見張りは頭を上げ、目がくらむほど高いバルコニーの低い手すりの上から大きく身を乗りだすと、あの甲高い無気味な叫び声をあげて、この地獄の悪魔たちに攻撃の命令をくだした。
一瞬、野獣どもは耳をぴんとたてて立ちどまった。つづいて、ぶざまな格好で大きく跳びはねながら、森から川岸に向かってどっと押し寄せていった。
赤色人の一行はすでに上陸して、草原に立っていた。そこへ恐ろしい怪物の群れが現われたのだ。ちょっとの間、むなしい防戦が行なわれた。そして静寂が訪れると、巨大な、いやらしい怪物が犠牲者の体におおいかぶさり、無数の植物人間の口が獲物の肉に吸いついていた。
私は胸が悪くなって目をそらした。
「彼らの役割はもうすぐ終わります」とサビアが言った。「植物人間が動脈から血を吸いきってしまうと、大白ザルがあとの肉を食べるのです。ほら、もうやってきました」
サビアが指さしたほうを見ると、十匹あまりの巨大な白い怪物が谷間を走って川岸に向かっていた。そのとき、太陽が沈んで、まるで手でさわれるような感じのする黒い夜のとばりが私たちを包んだ。
サビアはさっそく先に立って回廊のほうへ進みだした。この通路は崖の中を曲がりくねりながら、いままで私たちがいた場所より数千フィートも上の崖の頂上へ向かっているのだ。
二度、回廊をうろつきまわっている大きなバンスが行手に立ちふさがったが、いずれの場合もサビアが小声で何か命令すると、うなり声をあげていた野獣はこそこそ逃げてしまった。
「この恐ろしい猛獣をならしたように、あらゆる邪魔物をあっさり片づけてもらえたら、私たちの行手には何の苦労もなくなってしまうな」と私は微笑しながら、サビアに言った。「どんな工合にやるんだろう」
サビアは笑った。それから身ぶるいをしながら答えた。
「自分でもよくわからないのです。初めてここへきたとき、わたしはサトール・スロッグを怒らせました。あの男のいうことをきかなかったからです。彼は、わたしを内庭の大きな穴の中へほうりこむように命じました。穴の中にはバンスがいっぱいいました。わたしは自分の国にいたときには、人に命令を下すことに慣れていました。そのせいかどうか、わかりませんが、野獣たちはわたしに襲いかかろうとしたとたんに、わたしの声のなかの何かにおびえたのです。
バンスたちは、サトール・スロッグの望みどおりわたしを八つ裂きにするどころか、わたしの足もとにじゃれついてきました。その有様を見てサトール・スロッグとその仲間はひどく面白がり、結局、わたしを生かしておいて猛獣をならす仕事をさせることにしたのです。わたしはバンスたちの名前を全部知っています。この下層地域にはバンスがたくさんうろついています。彼らは腐肉をあさりまわっているのです。ここでは鎖につながれたまま死んでゆく囚人がたくさんいるからです。少なくともこの点では、バンスは衛生問題を解決しているわけですね。
上の庭園や寺院では、バンスは穴の中に閉じこめられています。サーンたちはバンスを恐れているのです。彼らがやむをえない用事のないかぎり、めったに地下におりようとしないのは、バンスがいるからなのです」
このサビアの言葉を聞いて、私はある計画を思いついた。
「それなら、バンスをたくさん上へ連れていって、われわれの行手に放したらいいんじゃないか」
サビアは面白そうに笑った。
「そうだわ。そうすればきっと、わたしたちから注意をそらすことができるでしょう」
彼女はさっそく、猫がのどを鳴らすのに似た低い単調な声で、野獣たちを呼びはじめた。そして、私たちが迷路のようにだらだらと続く地下の通路と部屋をくねりながら進んで行く間じゅう、彼女は呼びつづけた。
やがて、私たちのすぐうしろで、やわらかな足音が聞こえた。振り返ると、大きな緑色の目が二つ、背後の暗い物陰で光っていた。また、横の地下道からは、くねくねした黄褐色の生きものがひそかに忍び寄ってきた。
こうして私たちが急ぎ足で進んで行くうちに、低いうなり声や荒々しいわめき声は四方八方から押し寄せて、猛獣たちは一匹ずつ次から次へと女主人の呼び声に答えた。
サビアは、猛獣が行列に加わるたびに、何かひとこと話しかけた。彼らは、よく仕込まれたテリアのように、私たちといっしょに回廊を歩調正しく進んでいった。しかし、彼らが口から泡をふき、タルス・タルカスと私を見ながら食べたそうな顔つきをしていることに目をひかれないではいられなかった。
まもなく、私たちはおよそ五十頭のバンスにすっかり包囲されてしまった。二頭のバンスはそれぞれサビアの両側にぴったり寄り添って、まるで護衛のように歩いていたし、私の裸の手足にもときどき猛獣のなめらかな脇腹が触れた。まったく奇妙な経験だった――裸足の人間とやわらかな肉のついた足をした野獣たちのほとんど音のしない行進。あちこちに宝石が輝く黄金の壁。たまにぽつんと天井についている小さなラジウム灯が投げかける薄暗い明かり。低いうなり声をあげながら私たちのまわりに群がり集まっている、巨大な、たてがみのある肉食獣。だれよりも丈の高い巨大な緑色人戦士。ホーリー・サーンのきわめて貴重な頭飾りをつけている私。そして、行列の先頭に立つ美しい娘サビア。
あの光景は、おいそれと忘れられるものではない。
やがて、廊下よりも一段と明るくなっている大きな部屋に近づいた。サビアは私たちを停止させると、そっと入口に忍び寄って、中をのぞきこんだ。それから、手まねでついてくるようにと合図をした。
部屋の中は、この地下の国に住む奇妙な人間の見本で一杯だった。それは異様な混血児の集団で、外界からきて囚人になった赤色人や緑色人と白いサーン族の子孫たちだった。
彼らは年じゅう地下に閉じこめられているために、皮膚に奇妙な斑点ができていた。その姿は生きている人間というよりは死体に似ていた。奇型児や不具者がたくさんいるし、それにサビアの説明によると、大多数の者は目が見えないということだった。
彼らは二人が重なり合ったり、数人が山のように固まったりして床の上にぶざまに寝そべっていたが、その光景を見たとたんに私の頭に浮かんだのは、ダンテの「地獄編」の書物で見たグロテスクな插絵だった。まったく、これ以上似つかわしい比喩があるだろうか。これこそまさしく、あらゆる希望を失って永遠に地獄に落ちこんだ亡者どもが住む真の地獄ではないだろうか。
私たちは足もとに気をつけながら縫うように進んで、この部屋を通りぬけた。バンスたちは、目の前に食欲をそそるご馳走の山がこれ見よがしに並んでいるので、食いたそうに鼻を鳴らした。
その後も数回、同じような連中がいる部屋の前を通った。そして、ふたたび彼らの真ん中をかきわけて行かなければならないことが二回あった。また、鎖につながれた囚人や野獣がいる部屋もあった。
「サーンの姿がちっとも見えないのはどうしてだろう」と私はサビアに質問した。
「彼らは夜はめったに地下を歩かないのです。夜になると大きなバンスたちが薄暗い回廊をうろつきまわって獲物をさがしているからです。サーンは、この冷酷な絶望の世界に住む恐ろしい動物を飼育しているのは自分たちだというのに、この猛獣をこわがっています。それに囚人たちにしても、ときにはサーンに反抗して襲いかかることがあります。ですから、サーンにしてみれば、いつ、どこの物陰から暗殺者が現われて背中に飛びかかってくるか、まるでわからないというわけなのです。
でも、昼間はこんなことはありません。どこの廊下も部屋も行ったり来たりする衛兵で一杯です。また、上の寺院からは奴隷たちが何百人も穀物倉や貯蔵庫へやってきます。昼間は活気が満ちあふれているのです。それがおわかりにならなかったのは、わたしがいままで、普通の道を通らないで、めったに人の通らない回り道ばかり通るようにしているからです。それでもまだ、サーンに出会う可能性がないわけではありません。ときたま、日が暮れてから、ここへこなければならない場合があるからです。だから、わたしはこんなに用心深く行動しているのです」
しかし、私たちは見つけられずに上の回廊までたどりついた。まもなく、短い急な傾斜路の下までくると、サビアは私たちをとめた。
「この上に、内庭に通じる戸口があるのです。ここまでは無事にこられましたわ。でも、ここから外の城壁まで四マイルの間では無数の危険にぶつかることでしょう。中庭も寺院も庭園も、衛兵が見まわっています。城壁もすみからすみまで歩哨が目を光らせています」
この神秘と迷信の霧に深く包まれている場所に、どうしてこんなに厖大《ぼうだい》な防衛力が必要なのか、私には合点がいかなかった。たとえ、ここの正確な位置を知ったとしても、あえて近づこうとする人間はバルスームじゅうに一人もいないはずではないか。そこで私は、こんな厳重な防備を固めた砦にたてこもっているサーンたちは、いったいどんな敵の攻撃を恐れているのか、とサビアにたずねた。
私たちはもう戸口にたどりつき、サビアはドアを開きかけていた。
「彼らが恐れているのは、バルスームの|黒い海賊《ヽヽヽヽ》です。ああ、ご先祖さまがあの恐ろしい敵からわたしたちを守ってくださればいいのですが」
ドアがぱっと開いた。とたんに草木のにおいが鼻をうち、冷たい夜風が頬をかすめた。巨大なバンスたちはかぎなれないにおいに鼻をくんくんいわせたかと思うと、低いうなり声をあげて私たちの横からどっと飛びだし、火星の近いほうの月の無気味な光がふりそそぐ庭園を群がり走っていった。
そのとき、急に寺院の屋上から大きな叫び声が起こった。たちまち、その警戒の叫びは次から次へと受けつがれて、寺院、中庭、城壁から、東へ西へと伝わり、ついには遠い|こだま《ヽヽヽ》のように小さくなっていった。
偉大なサーク人は長剣をぎらりと引き抜いた。サビアは身を震わせて私のそばでちぢこまった。
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六 バルスームの黒い海賊
「なにごとです」と私は娘にきいた。
サビアは口では答えず、空を指さした。
見上げると、寺院や庭園の上空高く、すいすい飛びまわっている影のような物体が見えた。
たちまち、この奇妙な物体から閃光が輝き、小銃の発射音がとどろいた。と、それに応じて寺院や城壁からも閃光がきらめき、射撃音が響いた。
「ああ、王子さま、バルスームの|黒い海賊《ヽヽヽヽ》です」とサビアは言った。
襲撃者の飛行船は大きく旋回しながら次第に下降して、サーン防衛軍のほうに近づいていた。
一斉射撃がやつぎばやに繰り返され、銃弾の雨が寺院の守備兵たちの頭上にふりそそいだ。折り返し地上からも、目まぐるしく飛びまわる飛行船めがけて反撃の一斉射撃がつづき、希薄な大気をつんざいて爆発音が響きわたった。
海賊たちが地上近くまで急降下してくると、サーンの兵士たちは寺院の中から庭園や中庭へどっと飛びだした。彼らが外へ出たのを見ると、二十機ほどの飛行船が四方八方からこちらに向かって殺到してきた。
サーンたちは楯《たて》をとりつけたライフルを使って射撃していた。しかし、無気味な黒い船の群れはぐんぐん接近してきた。その大部分は、二、三人乗りの小型機だった。もっと大型の飛行船も二、三隻いたが、これらは高空にとどまり、船底から寺院めがけて爆弾を投下していた。
ついに、突撃の命令を受けたらしく、近くを飛びまわっていた海賊たちの飛行船はいっせいに突進してきて、無鉄砲にもサーンの兵士たちの真っただ中に着陸した。
そして着陸するや否や、乗っていた連中は鬼神のようにものすごい勢いでサーンたちの中に飛びこんでいった。何というすさまじい戦いぶりだろう! こんな奮戦ぶりは、いまだかつて見たことがなかった。私はこれまで宇宙第一の勇猛な戦士は火星緑色人だと思っていたが、この黒い海賊が敵にぶつかってゆく自由奔放さはまったく比類のないものだった。
こうこうと輝く火星の二つの月の光を浴びて、戦闘の全景はくっきりと浮かび上がった。金髪の白い皮膚のサーンたちが、黒檀のような肌をした敵を相手に、必死の勇をふるって戦う肉弾戦である。
こちらでは、数人の戦士の群れが華麗なピマリアの花壇を踏みにじって戦っているし、あちらでは、黒い男が刀身のそり返った剣をサーンの心臓に突き刺し、その死体をすばらしい天然ルビーの彫像の足もとに倒している。また、ずっと向こうでは、十人あまりのサーンが一人の海賊をエメラルドのベンチの上に仰向けに押し倒している。虹色のベンチの表面にはダイヤモンドがちりばめられ、バルスーム独特の奇妙な美しい模様が浮きだしていた。
その戦場からちょっと離れたところに、サビアとサーク人と私が立っていた。戦闘の渦《うず》は私たちのところまでは押し寄せなかったが、戦士たちはときどき、その様子をはっきり観察できるほど近くまでやってきた。
私は黒い海賊にひどく興味をそそられた。前に火星にいたころに、ちょっとした噂《うわさ》を耳にしたことはあったが、それは伝説と大差のないあやふやなもので、もちろん直接会ったことはないし、会ったという人間の話を聞いたこともなかった。
一般の俗説では、黒い海賊は火星の小さいほうの月に住んでいて、たまにバルスームに降りてくるということになっていた。彼らはその降下した場所で暴虐のかぎりをつくし、引き揚げるときには、銃器や弾薬、それに若い女たちを捕虜としてさらってゆく。そして海賊たちは底抜け騒ぎの酒宴を開いて、捕虜の女たちを恐ろしい神に|いけにえ《ヽヽヽヽ》として捧げ、最後には食べてしまうという話だった。
私は、この黒い海賊を観察する絶好の機会に恵まれたのだ。戦闘が展開するうちに、彼らは一人また一人と私が立っている場所に近づいてきたのである。彼らは身長六フィート以上はある大男で、目鼻立ちのととのった、すばらしく立派な容貌をしていた。目は、少し間隔が狭いために狡猾《こうかつ》な感じがするが、大きくて、しっかりとすわっている。虹彩は月の光で見たところでは真黒だったが、眼球自体は真っ白で澄んでいる。体の格好はサーンや赤色人や私とまったく同じようだったが、ただ皮膚の色だけはいちじるしく違っていた。それは、まるでみがかれた黒檀を思わせる肌で、私のようなアメリカ南部の人間が言うのは奇妙に思えるかもしれないが、その皮膚の色のために彼らのすばらしい美しさが損《そこな》われるどころか、いっそう引き立って見えた。
しかし、肉体は神々しいほど美しいが、心のほうは、どう見ても正反対らしかった。この空のかなたから飛んできた悪魔たちがサーン相手の気ちがいじみた戦闘で見せた血に対する欲望ほどすさまじいものは、これまで見たことがない。
まわりを見ると、庭園のいたるところに海賊どもの無気味な飛行船が着陸していた。どういうわけか、サーンたちはこの飛行船にはいっこうに手をだそうとはしなかった。ときどき、黒色人戦士が若い女をかかえて近くの寺院から飛びだし、一直線に飛行船めざして走ってくると、近くで戦っている仲間たちも駆け寄り、その逃走を助けようとした。
すると、サーンたちも、女を救おうとして駆けつけるので、たちまち、双方とも悪魔の化身のようにわめきながら、縦横に剣を振りまわして、ものすごい白兵戦の渦を巻き起こす。
しかし、勝つのはいつも黒い海賊のほうらしく、女はこの激戦の中から不思議にもかすり傷一つ受けずに引き出され、快速船の甲板に乗せられて暗い空のかなたに連れ去られていった。
私たちのまわりで繰り広げられているのと同じような戦闘の物音が右からも左からも聞こえ、しかも遠くまで広がっているようだった。サビアの説明によると、黒い海賊の襲撃はいつも、オツ山脈のふもとに沿ってドール谷を取り巻いている帯状のサーンの全領土にわたって一斉に行なわれるということだった。
戦いがちょっとの間、私たちのいる場所から遠のいたとき、サビアが振り返って言った。
「王子さま、もうおわかりでしょう? どうして百万もの兵士が昼も夜もホーリー・サーンの領土を守っているのか。あなたがいまごらんになっている光景は、わたしがここで捕虜として過ごした十五年の間に何度も見たことの繰り返しにすぎません。遠い昔からバルスームの黒い海賊はホーリー・サーンをえじきにしてきたのです。
でも彼らは、いくら押し寄せてきても、サーンが絶滅しそうになるほど徹底的にやっつけようとはしません。その力があることはわかりきっているのですが。まるで彼らは、サーン族を自分たちの慰みものにして、残忍な闘争欲を満足させ、武器弾薬や捕虜を税金のように取り立てる相手として利用しているようなのです」
「なぜサーンたちは相手の飛行船に飛びこんで、破壊しないのだろう」と私はたずねた。「そうすれば、じきに襲撃をやめさせられるだろうし、少なくとも黒色人たちはあんなに傍若無人にふるまえなくなるはずだ。だって、連中ときたらまるで無防備のまま飛行船をおっぽりだしているじゃないか。まるで自分たちの格納庫にいれてあるみたいに」
「サーンは飛行船を破壊する勇気がないのです。ずっと昔に一度、やったことがあるのですが、その翌晩からひと月の間、千隻もの巨大な黒い戦艦がオツの山々をとりまいて、寺院や庭園や中庭におびただしい砲弾の雨を降らせ、ついに、生き残ったサーンはことごとく地下に逃げこむという始末になってしまったのです。
サーンは、自分たちが生きていられるのはもっぱら黒色人のお情《なさけ》のおかげだということをよく知っています。彼らは一度は皆殺しにされかかったのです。だから、二度とそんな危険を冒そうとはしないのです」
サビアが口をつぐんだとき、戦闘には新しい要素が加わりはじめていた。それはサーンも黒い海賊もまるで予想していなかった原因から生まれたことだった。私たちが庭園に放したバンスたちは、最初は明らかに、戦闘の物音や戦士たちのわめき声、ライフルや爆弾の炸裂《さくれつ》におびえているようだったのである。
ところが、いまや、この絶え間のない騒音にいらだち、新鮮な血のにおいに興奮してしまったらしく、とつぜん、大きなやつが一匹、灌木《かんぼく》の茂みから躍りだして、戦っている一団の人間の真っただ中に飛びこんだ。そして、その力強い爪を温かい肉に突き立てるや否や、野獣の本性をむきだしにして怒号した。
その叫び声がほかの仲間への合図だったかのように、バンスの大群はいっせいに戦士たちの中へ飛びこんでいった。たちまち、あたり一面に大恐慌が起こった。サーンも黒色人もひとしく共通の敵と戦った。なにしろバンスは敵味方の見境なく襲いかかっていくのだ。
この恐ろしい野獣たちは、戦いの真っただ中に飛びこんだとたんに、その巨体の重みだけで百人もの戦士を押し倒してしまった。そして、跳びあがり、爪でかきむしって、強力な前足で戦士たちをなぎ倒すと、一瞬のうちに恐ろしい牙で獲物を引き裂いた。
それは恐ろしさに身動きもできなくなるような凄惨な光景だった。だが、そのとき急に、この戦いを見ているだけでは貴重な時間をむだにするだけだ、このチャンスを利用すれば逃げられるのではないか、という考えが浮かんだ。
サーンたちは恐ろしい敵と戦うのに精一杯だったので、いま逃げれば比較的楽なはずだった。私は向き直って、闘っている人と獣の群れのなかに間隙《かんげき》を見つけようとした。なんとか城壁にたどりつくことさえできれば、どこかに海賊たちの襲撃で守備が手薄になって外へ脱けだせるところが見つかるのではないか。
庭を見まわしているうちに、私たちのまわりに無防備のまま置きっぱなしになっている数百台の飛行船が目にとまり、とたんに簡単きわまる脱出手段に気がついた。どうしてもっと早く思いつかなかったのだろう! バルスームの飛行船なら、私はどんなものでも機構を熟知しているではないか。なにしろ九年の間、ヘリウム海軍の一員として船に乗り、戦ったのだ。小さな一人乗りの偵察機に乗って、宇宙を飛びまわったこともあれば、瀕死の火星の希薄な大気の中に浮かんだ史上最大の戦艦の指揮をとったこともある。
私にとって、考えることは行動することだ。そくざに私はサビアの腕をつかみ、タルス・タルカスについてこいとささやいた。三人はすばやく、戦っている戦士の群れから一番はなれたところに置いてある小型機のほうに走り寄った。そして次の瞬間には小さな甲板の上に一団になって飛び乗っていた。私の手は始動レバーにかかり、親指で推進光線をコントロールするボタンを押した。推進光線というのは火星人が発見したすばらしいエネルギー源で、これを使えば、地球の海軍の大型戦艦などおもちゃのように見えるほど巨大な船でこの遊星の希薄な大気の中を飛ぶことができる。
その小型飛行船は軽く振動したが、動かなかった。そのとき、また、急を告げる叫び声が聞こえた。振り返ると、十人あまりの海賊たちが乱闘の群れから抜けだして、こっちへ猛然と走ってくるのが見えた。見つかったのだ。悪魔たちは甲高い怒声をはりあげて飛びかかってきた。私はやっきになって、空中に飛びだせるはずの小さなボタンを押しつづけた。だが、船は依然として動こうとしない。そのとき、なぜ飛びだせないのか、その理由が頭にひらめいた。
私たちが飛び乗った飛行船は二人乗りだったのだ。この船の光線タンクには、普通の人間二人を乗せるだけの推進エネルギーしかはいっていないのである。そこへ三人乗って、しかも体重の重いタルス・タルカスがはいっていれば、いつまでたっても飛べるはずはなかった。
黒色人たちはいまにも襲いかかろうとしていた。ためらったり迷ったりするひまはもう一瞬もなかった。
私は思いっきりボタンを押して、そのまま固定すると、レバーを高速に合わせた。そして黒色人たちがわめきながら飛びかかってきたとたんに、甲板からすべりおり、長剣を抜きはなって敵に立ち向かった。
その瞬間、背後で娘の金切り声がひびき、とたんに黒色人たちが襲いかかってきたかと思うと、もうサビアの声は頭上はるかに遠ざかっていった。「ああ、王子さま、わたしの王子さま、わたしも残って、ごいっしょに死んだほうが――」あとの言葉は襲ってくる敵のわめき声にかき消されてしまった。
それでも、私の計略がうまくいって、少なくとも一時的にはサビアとタルス・タルカスが無事に逃げたことがわかった。だが、逃げる手段を得たのはあの二人で、私ではない。
一瞬、こんなに多数の敵が相手では、とてもかなわないという感じがした。しかし、これまで幾度となく、この遊星上で圧倒的に優勢な戦士や猛獣の群れを相手に戦わなければならなくなったときと同じように、今度もまた、地球人の私のほうが相手よりはるかに力がまさっていたので、見かけほど勝ち目が少ないわけではないことがわかった。
私は必殺の剣を振るって縦横無尽に暴れまわった。黒色人たちはちょっとの間、その短い剣が私の体に触れるほど近く迫ってきたが、じきに後退しはじめた。にわかに私の剣の腕前のほどをさとって用心深くなったことが、一人一人の顔つきにはっきりあらわれていた。
だが、敵の数の力の前に屈服することになるのは時間の問題にすぎなかった。結局は、彼らの前で死ぬことになるのだ。それを思うと私はぞっとした。こんな恐ろしい場所で死んだら、私の死を伝える噂すら愛するデジャー・ソリスの耳にははいらないだろう。残忍なサーン族の庭園で名もなき黒色人どもの手にかかって死ぬとは何ということだ。
そのとき、私の昔ながらの勇気がにわかに甦《よみがえ》ってきた。バージニア男子の闘志がこもる熱い血潮が全身を駆けめぐった。血を求める激しい欲望と戦いの歓喜がどっとこみあげてきた。私の口もとには、これまで無数の敵の度肝を抜いた不敵な微笑が浮かんだ。死の不安を頭から追い払うと、私は猛然と敵に襲いかかっていった。その勢いのすさまじさは、この戦いで生き残った連中が死ぬまで覚えていることだろう。
いずれほかの連中が私と戦っているやつらの加勢に押し寄せてくることはわかっていたので、私は戦いながらも頭を働かせて逃げ道をさがしていた。
それは思いがけなく、背後の夜の闇の中から飛びだしてきた。ちょうど私は、死物狂いの戦いを挑んできた図体の大きなやつを片づけたところで、黒色人たちも後退して、ひと息いれていた。
彼らは敵意と激怒に満ちた目つきで私をにらんでいたが、その態度にはいくらか敬意もあらわれていた。
「サーン」とひとりが言った。「きさまの戦いぶりはダトールのようだ。そのいやらしい黄色い髪と白い皮膚がなかったら、きさまはバルスームのファースト・ボーンのほまれになるだろうに」
「私はサーンではない」と私は言って、自分が別世界の人間だということを説明しようとした。この連中と何とか休戦にもちこんで、連中といっしょになってサーンと戦うことにすれば、私の脱出にも協力してくれるかもしれないと考えたのだ。ところが、ちょうどその瞬間、私の両肩の間に何か重いものがどすんとぶつかって、あやうくころびそうになった。
この新手《あらて》の敵に立ち向かおうと振り返ると、そいつは私の肩の上を通過して、黒色人の一人の顔にもろに衝突し、そいつは芝生の上に倒れて気を失ってしまった。そのとたんに、ぶつかってきたものの正体がわかった。それは、たぶん十人乗りの巡洋艦と思われる、かなり大きな飛行船が引きずっている錨《いかり》だった。
その船は頭上五十フィートたらずのところをゆっくりと飛んでいた。そくざに私は、逃げるチャンスが目の前にぶらさがっていることに気がついた。船はゆるやかに上昇しかけ、錨《いかり》はいまや、私の前にいる黒色人たちの上を越えて、その頭上四、五フィートのところにあった。
私はひと跳びで海賊たちの頭上をきれいに飛び越えた。彼らは目をまるくして驚き、呆然と私を見送った。私は二度目の跳躍で、ぴったり錨をつかめる高さまで飛びあがった。船はもう急速に遠ざかりはじめていた。
だが、うまくいった。私は片手で錨にぶらさがり、そのまま庭園の高い木々の間を引きずられていった。下では、いままでの敵が金切り声やわめき声をあげていた。
まもなく、船は西に進路を変え、それからゆったりと静かに旋回して南に向かった。そして、たちまちのうちに、|黄金の断崖《ヽヽヽヽヽ》の頂上を越えて、ドール谷の外へ出た。はるか六千フィートの眼下には、コルスの|行方知れずの海《ヽヽヽヽヽヽヽ》が月光にきらきら輝いていた。
私は注意深くよじのぼって、錨《いかり》の腕の上にすわりこんだ姿勢になった。ひょっとすると、これは見捨てられた、だれもいない船ではあるまいかと思った。そうであってもらいたかった。さもなければ、どこかの友好的な人びとの船で、偶然にこんなところに迷いこんで、あやうく黒い海賊やサーンの魔手をのがれたのではないだろうか。この船が戦場から遠ざかっていることから考えると、この仮定ももっともらしく思えた。
しかし私は、はっきり確かめようと決心した。そこでただちに、細心の注意を払いながら頭上の甲板をめざして錨の鎖をゆっくりとよじのぼりはじめた。
船の手すりをつかもうとして片手をのばし、やっとそれをつかんだとき、舷側ごしに恐ろしい黒い顔がぬっと現われ、憎悪にみちた目が勝ち誇ったように私の目をのぞきこんだ。
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七 うるわしの女神
一瞬、その黒い海賊と私は身動きもしないで、じっとにらみ合った。それから頭上の男の形のいい唇《くちびる》がゆがんで無気味な微笑を浮かべると、真黒な手が甲板のへりからゆっくりと現われ、拳銃の冷たい銃口がぴたりと私の額のまん中に向けられた。
そのとたんに、私のあいているほうの手がさっとのびて目の前の黒い咽喉《のど》をつかんだ。真黒な指が引き金を引いた。「サーンめ、くたばれ」という海賊の怒声は、私の手が咽喉笛を押えつけているので半分ふさがれてしまった。撃鉄がからの輪胴に落ちてカチッと音をたてた。
ふたたび引き金を引く余裕を与えず、私は相手の体を甲板の外へぐいと引っぱりだした。相手はやむなく拳銃を手放し、両手で手すりをつかまなければならなくなった。
私に咽喉をしめつけられているので、敵は叫び声ひとつだせなかった。二人は無気味な沈黙の闘争をつづけた。敵は私の手を振りほどこうとし、私は敵を引きずり落として殺そうとした。
相手の顔は鉛色になり、目の玉がとびだしそうになった。彼を絞め殺そうとしている鋼鉄のような手をふりほどかないかぎり、まもなく死ぬにきまっていることは当人にもわかっていた。彼は最後の力をふりしぼって、さっと甲板の上に仰向けに体を倒し、それと同時に手すりを握っていた両手をはなすと、私の手を咽喉から引きはなそうと死物狂いでかきむしった。
この瞬間こそ、私が待ちかまえていたものだった。私は思いきり力をこめて、一気に相手を甲板から引きずりおろした。相手の体が落ちてきた勢いで、錨《いかり》の鎖を握っていたほうの手がはなれそうになり、あやうく相手もろとも眼下の海の中へ墜落するところだった。
それでも私は相手の咽喉をつかんでいる手をはなさなかった。こいつが下の静かな海中に落ちて死ぬときに一声でも悲鳴をもらしたりすれば、船上の仲間たちが仕返しに出てくることはわかりきっている。
私は手をはなすどころか、ますます力をこめて咽喉をしめつけた。相手は必死になってもがきまわり、それにつれて私の体はだんだん鎖の先端のほうへずり落ちていった。
次第に相手の体の動きが弱まって断続的になり、ついに完全に動かなくなった。私は手をはなした。一瞬のうちに相手の体ははるか下の暗黒にのみこまれてしまった。
私はふたたび、船の手すりのところまでよじのぼった。今度は、うまく甲板の上をのぞきこんで、目前の状況を注意深く観察することができた。
近いほうの月はすでに地平線に姿を消していたが、遠いほうの月は巡洋艦の甲板一面にまばゆい光をそそぎ、あちこちに大の字なりになって眠っている七、八人の黒色人の姿をくっきりと浮かび上がらせていた。
速射砲の台座のそばに、体を固く縛られた白色人の若い女がうずくまっていた。私が甲板のはしから姿を現わすと、目を大きく見開き、おびえた顔で私をじっと見つめた。
だが、私の盗んだ頭飾りの真ん中に輝いている神秘的な宝石を見たとたんに、何とも言いようのない安堵《あんど》の色がその目にみなぎった。娘は何も言わなかったが、まわりで眠っている連中に気をつけるように、目で警告した。
私はそっと甲板にあがった。娘はうなずいて、そばへくるように合図した。私がかがみこむと、なわをといてくれと小声で言った。
「わたし、あなたに加勢するわ」と彼女は言った。「あの男たちが目をさましたら、どんな加勢だってほしくなることよ」
「目をさました途端にコルスの海に落ちるやつも何人かはいるでしょう」と私は微笑しながら答えた。
娘は私の言葉の意味を理解して微笑したが、そのときの残酷な表情に私はぞっとした。恐ろしい顔に残酷な表情が浮かんでも別に驚くにはあたらないが、愛と美の女神を思わせるすばらしい美女の顔にそんな表情が現われると、その対照の異様さに戦慄を禁じえない。
私はすばやく、娘のなわをといた。
「拳銃をかして」と彼女はささやいた。「あなたの剣ですぐに片づかないやつがいたら、それでやっつけるわ」
私は言われたとおりにした。それから、目前の不愉快な仕事にとりかかった。いまは、良心の苛責《かしゃく》だの騎士道だのというきれいごとを考えている場合ではなかった。ここにいる残忍な悪魔どもには、そんなことは喜んでももらえないし、求めるわけにもいかないのだ。
私はこっそりと一番近くで眠っているやつのそばに忍び寄った。そいつは目をさましたときには、もうとっくにコルスの海に向かって旅立っていた。はるか下の暗闇から、鋭い悲鳴がかすかに聞こえてきた。
二番目のやつは、私が体に手をかけたときに目をさました。うまく甲板からほうりだしはしたが、すさまじいわめき声をあげたので、残りの海賊どもが目をさまして立ち上がった。全部で五人だった。
彼らが立ちあがったとたんに、娘の拳銃が鋭く鳴りひびいた。一人の男がふたたび甲板に横たわり、それっきり起きあがらなかった。
ほかの連中は剣を抜いて、狂ったように突進してきた。娘は、私を傷つけてはいけないと思ったらしく拳銃を撃とうとはしないで、こっそりと猫のようにすばやく敵の側面にまわった。そのとき、敵は私に襲いかかった。
数分の間、これまで経験したことのないような激戦がつづいた。船の上が狭すぎて思うように動きまわれないので、攻めるにも守るにも、ほとんど一箇所に踏みとどまったままだった。初めのうち、私は攻めるよりは守るに精一杯だったが、やがて、うまく一人の男の守りを突きくずして甲板の上に倒した。
残りの敵はいっそう猛《たけ》り狂った。彼らの剣が私の剣に激突する響きは夜の静寂を破って何マイルも遠くまで聞こえそうなほどすさまじかった。鋼鉄と鋼鉄とが打ち合うたびに火花が散った。やがて、私の火星剣の鋭い刃で肩の骨が切断される、鈍い、胸の悪くなるような音がした。
残る相手は三人だったが、そのときには娘がその手で少なくとも一人は敵の数を減らせそうな位置にまわりこんでいた。そして万事はあっという間に片づいてしまったが、そのほんの一瞬の出来事はいまでもよくのみこめないくらい目まぐるしいものだった。
敵の三人は、しゃにむに私を二、三歩後退させて、手すりごしに下の空間へ突き落とそうと襲いかかってきた。そのとたんに娘が拳銃を発射し、私は剣を二度ふりまわした。敵の一人は頭を撃ちぬかれて倒れた。もう一人は剣を払い落とされ、落ちた剣は音高く甲板をころがって、向こう端から外へ落ちた。三人目の敵は私の剣を柄《つか》まで胸に刺しこまれて倒れた。剣は三フィートも背中から突きぬけ、男が倒れた拍子に私の手からもぎとられてしまった。
武器を失ったまま、私は生き残っている最後の敵と向かい合った。その相手の剣も数千フィート下の|行方知れずの海《ヽヽヽヽヽヽヽ》のどこかに消えてしまったのだ。
相手はこの状態を喜んでいるらしく、白い歯をむきだして満足そうに笑ったかと思うと、素手のまま飛びかかってきた。そのつやつやした黒い皮膚の下にもりあがっている筋肉のすばらしさから見て、わざわざ短剣を抜くまでもなく、簡単に私をひねりつぶせると自信を持ったらしい。
私は、相手がつかみかかる寸前まで動かなかった。それから、相手の伸ばした両腕の下でさっと身を沈め、同時にすばやく右へまわって、左足の爪先でくるりと身をひるがえしざま、痛烈な右の一撃を顎《あご》にくらわせた。相手は牛が倒れるように、どっとその場に倒れてしまった。
背後で、銀の鈴をふるように冴えた、低い笑い声がした。
「あなたはサーンじゃないわ」と若い女は美しい声で言った。「金髪のかつらや、サトール・スロッグの装備をつけているけれど、サーンじゃないわ。あなたのように戦える人間はこれまでバルスームじゅうに一人もいなかったわ。いったい、何者なの」
「私はヘリウムの皇帝《ジェダック》タルドス・モルス家の王子ジョン・カーターです」と私は答えた。「で、あなたは? 光栄にも私がお救いすることができたのはどなたなのです」
彼女はちょっとためらってから、言った。
「あなたはサーンではない。というと、サーンの敵なのかしら」
「私は一日半のあいだサーンの領土にいましたが、その間私の命はたえまなく危険にさらされてきました。何度も何度も襲撃され、迫害されました。兵士や猛獣どもがひっきりなしに襲いかかってくるのです。私はこれまでサーン族に何の怨《うら》みもありませんでした。しかし、今となっては、私が彼らにあまり好意を感じていないのは当たり前ではありませんか」
彼女は答える前にしばらくの間、じっと私の顔をさぐるように見つめていた。それはまるで、私の心の奥底を読みとって、私の人格や、騎士としての水準を判定しようとしているような様子だった。
この検査はどうやら彼女を満足させたらしかった。
「わたしは、永遠の生命の王女イサスの姉弟、バルスームの生と死の支配者、サーンの教皇、ホーリー・サーンのホーリー・ヘッカドール、マタイ・シャンの娘ファイドールです」
そのとき、私がなぐり倒した黒色人が意識を回復しそうな様子を見せはじめたので、私はそばへ飛んでいった。そして、装具をはぎとって、うしろ手に固く縛り、足も同じように縛りあげてから、重い砲架にくくりつけた。
「もっと簡単な方法をとればいいじゃないの」とファイドールは言った。
「何のことです? もっと簡単な方法というのは」
彼女は美しい肩をちょっとすくめると、両手で船の外へ何かを投げだすしぐさをした。
「私は人殺しではない。自分の身を守るとき以外、人を殺したりはしません」
ファイドールはじっと私の顔を見つめた。それから、その美しい眉をひそめて、かぶりを振った。理解できなかったのだ。
考えてみれば、私の愛するデジャー・ソリスでさえも、敵に対する私のやり方は理解できず、愚劣で危険なこととしか思っていなかったのだった。バルスームでは、敗者の助命などということは求める者も与える者もいない。人間が一人死ねば、この滅びゆく遊星の減少しつつある資源がそれだけ減らずにすみ、生き残っている者たちが助かるというわけなのだ。
しかし、この娘が敵をさっさと片づけたほうがいいと考える態度と、愛するデジャー・ソリスがどうしてもやむをえないことなのだと心を痛める様子との間には微妙な相違があるようだった。
ファイドールは、私が敵を生かしておくことにして、あとで自分たちがおびやかされる危険を残したことよりも、せっかくのスリルのある見ものを見のがしたことを残念がっているようなのである。
黒色人はもうすっかり元気を回復して、甲板の上の縛られて横たわっている場所から私たちの様子を見まもっていた。力強い、すらっとした肢体の偉丈夫で、利口そうな顔は美少年のアドニスもうらやむほど見事に整っていた。
操縦者のいない飛行船はゆっくりと谷をこえて進んでいた。だが、もう舵《かじ》をとって進路をきめなければならない。ドール谷が火星のどのあたりにあるかということは、ごく大ざっぱな見当しかつかなかったが、赤道のはるか南にあるということだけは星の位置から見て明らかだった。しかし、私はたいして火星の天文学に通じているわけではなかったから、むかしヘリウム海軍の士官だったころに航行中の飛行船の位置測定に使ったすばらしい図表や精密器具でも手元にないことには、だいたいの見当以上のことがわかるはずはなかった。
とにかく、この遊星上のもっと位置のはっきりした場所に一刻も早く出るには北へ進むべきだと思ったので、私は北へ進路を向けることにした。私に舵をあやつられて、巡洋艦はゆったりと旋回した。それから推進光線の調節ボタンを押すと、船は遠い大空めざして高々と舞い上がった。そしてスピード・レバーを最高速度に合わせると、恐ろしい死の谷の上空をぐんぐん昇りながら北へ向かって疾走しはじめた。
サーンの細長い領土の上空を目のくらむような高度で通過したとき、はるか眼下に音もなく閃く砲火が見えたので、あの恐ろしい辺境では依然として残忍な戦闘がくり広げられていることがわかった。戦場の騒音は何ひとつ聞こえてこなかった。この高空の希薄な空気の中までは音波が伝わらず、もっとずっと下で消えてしまうのである。
ひどく寒くなった。それに呼吸が困難になった。ファイドールという娘と黒い海賊はじっと私を見つめつづけていた。やっと娘が口を開いた。
「こんな高いところを飛んでいたら、すぐに気絶してしまうわ」と彼女は落着きはらって言った。「みんなで死ぬつもりでないのなら、もっと高度を落としたほうがいいわ。それも早くね」
彼女の口調には、不安を感じている様子は全然なかった。まるで「雨が降りそうだから、傘を持っていったほうがいいわ」と言っているような口ぶりだった。
私は急いで飛行船の高度を落としたが、それでも遅すぎるくらいだった。娘はもう気絶していた。
黒色人も意識を失っていた。だが私は、まったく意志の力だけによるのだろうが、意識ははっきりしていた。やはり、全責任をになっている人間が一番頑張りがきくものだ。
船はオツ山脈のふもとの丘の上を低く、ゆったりと進んでいた。気温はわりあい温かくなったし、かつえた肺を満たす空気は充分あったので、まもなく黒色人が目を開き、すぐつづいて娘が意識を回復するのを見ても、べつに驚かなかった。
「危機一髪というわけね」と娘は言った。
「でも、おかげで二つのことがわかりましたよ」と私は答えた。
「なんのこと」
「生と死の支配者の娘ファイドールでも、ふつうの人間と同じように死ぬということですよ」と私は微笑しながら言った。
「不死身なのはイサスだけよ」と彼女は答えた。「そしてイサスはサーン族だけのために存在するのです。だから、わたしも不死身ということになるのよ」
彼女の言葉を聞いて、黒色人がほんの一瞬にやりと笑うのが目にとまった。なぜ彼が笑ったのか、このときにはわからなかったが、あとで、私もファイドールも、ぞっとする思いでその理由を知ることになるのである。
「あなたがわかったというもう一つのことも、いまみたいに見当はずれのことだったら、ちっとも知識がふえたことにはならないわ」とファイドールはしゃべりつづけた。
「もう一つは、ここにおいでの黒い人が近いほうの月から舞いおりてきたわけではないということですよ――なにしろ、バルスームの上空二、三千フィートのところで、もう死にそうになったお方ですからね。あのままサリア衛星と火星の間の五千マイルもの道中を飛びつづけた日には、命がいくつあっても足りなかったでしょう」
ファイドールは驚いた様子で黒色人を見つめた。
「サリアからきたのでないというなら、いったいどこから?」
黒色人は肩をすくめ、そっぽを向いて答えなかった。
娘は断固とした態度で、かわいい足を踏み鳴らした。
「マタイ・シャンの娘は、質問に返答がないことには慣れていないのです。永遠の生命を受けつぐように生まれついている聖なる種族の者の目にとまったというだけでも、下層種族の者は光栄と思うべきです」
ふたたび、黒色人はあの意地の悪い、心得顔の微笑を見せた。
「バルスームのファースト・ボーンのダトールであるこのゾダールは、命令することには慣れているが、命令されることには慣れていないのだ」と黒い海賊は答え、つづいて私のほうを向いて言った。「私をどうするつもりだ」
「二人ともヘリウムへ連れて帰るつもりだ」と私は答えた。「何も危害を加えられる心配はない。ヘリウムの赤色人が思いやりのある寛大な心を持った種族だということがすぐにわかるだろう。しかし、彼らが私の言うことを聞けば、もう自分から進んでイス川をくだってゆく者は一人もいなくなり、彼らが長いあいだ大事にしてきたばかげた迷信は粉砕されてしまうだろう」
「きみはヘリウムの人間なのか」
「私はヘリウムの皇帝《ジェダック》タルドス・モルス家の王子だ。しかし、バルスームの者ではない。別世界の人間だ」
ゾダールは数秒間、まじまじと私を見つめていたが、やがて口をひらいた。
「いかにも、きみはバルスームの人間ではないにちがいない。たった一人でファースト・ボーンを八人もやっつけることができるような人間がバルスームにいるわけはない。だが、ホーリー・サーンの金髪や宝石の飾り輪をつけているのは、どうしてなのだ」彼は「|聖なる《ホーリー》」という言葉にちょっと皮肉な調子を加えてしゃべった。
「忘れていた。これは戦って分捕《ぶんど》ったものなのだ」私はそう言って、片手でさっと頭のかつらをとった。
黒色人は、私の短く刈りこんだ黒い髪を見ると、びっくりして目をまるくした。サーンの|はげ《ヽヽ》頭が現われるものと思っていたらしい。
「きみはほんとうに別世界の人間だ」と彼はいささか恐れを感じた口ぶりで言った。「サーンの皮膚と、ファースト・ボーンの黒い髪と、十二人のダトールの腕力を持っているのなら、このゾダールが敗北を認めても恥辱ではなかったわけだ。バルスームの人間なら、とうていあんなことはできないはずだからな」
「どうもきみの話がよくわからないのだがね」と私は口をいれた。「きみの名はゾダールといったな。だが、いったい、ファースト・ボーンとはだれのことだ。また、ダトールとは何のことだね。それに、もし負けた相手がバルスームの人間だったら、どうして敗北を認めるわけにいかないのだ」
「バルスームのファースト・ボーンというのは黒色人種のことだ」とゾダールは説明しはじめた。「私はそのなかのダトール、つまり、ほかの下等なバルスーム人たちのいう貴族なのだ。この遊星では、私の種族が一番古い種族だ。われわれの血統をたどっていけば、二千三百万年前にドール谷の真ん中に茂っていた|生命の木《ヽヽヽヽ》に切れ目なしにずっとつながっている。
長い歳月の間に、この木の果実は次第に進化して、純粋の植物から植物と動物とが結合したものに徐々に変わっていった。最初の段階では、この果実は親木に茎でつながったまま独立した筋肉活動ができるようになっただけだった。だが、その後、果実の中に脳が発達してきたので、長い茎でぶらさがりながら個別的に考えたり動いたりするようになった。
次に、知覚力の発達につれて、比較し判断する力がでてきた。こうしてバルスームに理性と思考力が生まれたのだ。
それから長い年月が経過するうちに、さまざまな形態の生命が次々に|生命の木《ヽヽヽヽ》から生まれたが、いずれもまだ、いろいろな長さの茎で親木につながっているものばかりだった。だが、やっと、この木からちっぽけな植物人間たちが生まれてきた。そのばかでかくなったのが現在ドール谷にいるやつだ。しかし、このころの植物人間はまだ頭のてっぺんから生えている茎で親木のあちこちの枝からぶらさがっていたのだ。
植物人間が生まれてきた|つぼみ《ヽヽヽ》は、直径一フィートぐらいの大きなクルミのような形をしていて、その中は二つの仕切りで四つの区画に分かれていた。その一つの区画では植物人間が育ち、二番目では十六本足の毛虫、三番目では白ザルの先祖、そして四番目ではバルスームの原始黒色人が育っていった。
|つぼみ《ヽヽヽ》が開いたとき、植物人間はそのまま茎の先にぶらさがっていたが、ほかの三つの部分は地面に落ち、なかに閉じこめられている生きものが外に出ようともがきまわるので、殻ごとぴょんぴょん跳ねまわって四方八方へ散らばっていった。
こうして時がたつにつれて、バルスームじゅうがこの閉じこめられた生きもので一杯になった。長い年月のあいだ、彼らはこの堅い殻の中で暮らしながら、飛んだり跳《は》ねたりして広大な遊星上を動きまわり、川や湖や海に落ちたりしながらも、この新世界の地表にどんどん散らばっていったのだ。
何億万の仲間が死んだのちに、初めて一人の黒色人が閉じこめられている殻を破って日の光を見ることになった。彼は好奇心に駆られて、ほかの殻を破った。こうしてバルスームに人間が住みつくようになった。
この最初の黒色人の純粋な血統がほかの生物と混じり合わずにそっくり保たれているのが私たちの種族なのだ。しかし、十六本足の毛虫や最初の白ザルや雑種の黒色人からは、そのほかのあらゆる種類のバルスームの動物が生まれてきたのだ」
「サーンは」と言いながらゾダールは意地の悪い微笑を浮かべた。「太古の純粋な白ザルが長い間に進化してきたものにすぎない。彼らはまだ下等な人種なのだ。真に不死身の人種はバルスームに一つしかない。それが黒色人だ。
|生命の木《ヽヽヽヽ》は枯れてしまったが、それが枯れる前に植物人間たちは木から離れて、|最初の親木《ヽヽヽヽヽ》でいっしょに育てられたほかの子供たちとともにバルスームを歩きまわることができるようになっていた。
植物人間は両性体なので本当の植物と同じように繁殖することができるのだが、ほかの点では、その太古以来の長い生存の歴史の間にほとんど進歩していない。彼らの行動は大部分が本能的なもので、理性によるものはほとんどない。なにしろ植物人間の脳は、きみの小指の先よりほんの少し大きいぐらいのものだからね。彼らは植物と動物の血を常食にしているが、その脳は、食物のある方向に彼らをおもむかせ、目や耳から伝わってくる食物の感覚を理解させるだけの大きさしかないのだ。彼らには自衛本能というものがないから、危険に直面しても恐怖をまったく感じない。闘争のときに、あんなにものすごい攻撃をするのは、そのせいなのだ」
私は、どうしてこの黒色人はバルスームの生命の起源についてこんなに詳しく敵に話して聞かせたりするのだろうか、と不思議に思った。誇り高い民族の誇り高い男が、自分を捕虜にした人間を相手に、のんびり雑談をしたりするのは、妙に場ちがいな感じがした。黒色人がまだ固く縛られたまま甲板に横たわっていることを考えれば、なおさらそうだった。
この非常に興味深い話を聞かせて長々と私の心をひきつけた目的を教えてくれたのは、ほんの一瞬、私の背後にちらっと視線を走らせたときの黒色人の目つきだった。
彼は、操縦席に立っている私の少し前方に横たわっていた。だから、私に話しかけながら、船尾のほうを向いていた。そして、植物人間についての説明の終わりのところで、彼の目がほんの一瞬、私の背後の何かにそそがれるのに気づいたのだ。
その瞬間、黒い目にさっと閃いた勝利の歓びの輝きは見まちがえようがなかった。
少し前から、私は船の速度を落としていた。ドール谷からはもう何マイルも離れたから、だいぶ危険も薄らいだと思ったのだ。
私ははっとして、うしろを振り返った。とたんに、いままで私の中に躍動していた生まれたばかりの自由への希望はみじめにしぼんでしまった。
巨大な戦艦が夜の闇の中を明かりもつけずに黙々と進んできて、船尾のすぐ後方にぼんやりと姿を現わしたのである。
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八 オメアンの海
黒い海賊が不思議な話を聞かせて私の注意を奪っていたわけが、いまにしてわかった。彼はかなり前から援軍の接近に気がついていたのだ。あのたった一度の、内心を暴露する目つきさえ見せなかったら、次の瞬間には戦艦はわれわれの船の真上にきて、いまも装具に身を固めて船底からぶらさがっているにちがいない敵船乗込隊の戦士たちがこっちの甲板にどっと躍りこんでいたことだろう。
そして、強まりはじめた脱出の希望も一瞬のうちに吹き飛ばされてしまっただろう。
私は空中戦にかけては歴戦の経験を積んでいたので、うろたえずに適切な行動をとることができた。たちまちエンジンを逆転させて、小さな船を垂直に百フィートほど降下させた。
戦艦が頭上を通過してゆくとき、上を仰ぐと、乗込隊の連中がロープにぶらさがっている姿が見えた。すぐに私は、スピード・レバーを最高速度にしぼって、急角度で上昇しはじめた。
石弓から放たれた太矢のように、私の船はその鋼鉄の船首を頭上の巨艦の回転する推進器に向けて、まっしぐらに突進した。推進器に接触することさえできれば、巨大な戦艦は何時間も動くことができなくなり、こちらはもう一度、逃げだせるというわけだ。
ちょうどそのとき、太陽が地平線から顔を出したので、戦艦の船首ごしにこちらを見つめている無数の恐ろしい黒い顔が見えた。
こちらを見るなり、連中はいっせいに怒りの叫び声をあげ、命令するわめき声も聞こえたが、巨大な推進器を守るにはもう遅すぎた。われわれの船はすさまじい音をたてて目標にぶつかった。
衝突するとすぐに、私はエンジンを逆転した。だが、こちらの船の船首は戦艦の船尾にあけた穴にめりこんでいたので、ふり切るのに、ほんの一秒ほど手間どった。しかし、黒い悪魔どもがこっちの甲板になだれこんでくるのには、その一秒で充分だった。
戦いは起こらなかった。第一、戦うだけの場所がなかった。こっちはただ、人波に埋まってしまっただけなのである。やがて、多数の剣が私に迫ってきたが、ゾダールが命令を出して、それをとめた。
「つかまえて縛っておけ。しかし、危害は加えるな」
数人の海賊たちがすでにゾダールの|なわ《ヽヽ》をといていた。今度は彼自身が私の武装解除に目を光らせて、私がちゃんと縛りあげられるように気をくばった。これだけ縛っておけば逃げられる心配はない――少なくとも彼はそう考えたにちがいない。私が火星人だったら、そのとおりだったろう。しかし、手首に巻きついているお粗末な紐を見ると、にやりとしないではいられなかった。木綿の紐だったので、いざとなればいつでも引きちぎれる。
彼らは娘のほうも縛りあげ、私といっしょにくくりつけた。その間に、私たちが乗っていた船は動けなくなった戦艦に横づけにされ、やがて私たちは戦艦の甲板に移された。
この巨大な戦闘艦には、ゆうに千人をこえる黒色人が乗り組んでいた。甲板はその乗組員たちで一杯だった。捕虜の姿をひと目見ようとして、軍規の許すかぎり、だれも彼もが押しかけてきたのだ。
娘の美しさに刺激されたとみえて、野卑な言葉や下品な冗談があちこちから飛んできた。この独りよがりのスーパーマンたちが、洗練された人格と騎士道という点でバルスームの赤色人よりはるかに劣ることは明らかだった。
私の短く刈りこんだ黒い髪やサーンと同じ皮膚の色が大いに論議の種になった。ゾダールが私の戦闘能力や奇妙な素性《すじょう》のことを仲間の貴族たちに話すと、彼らは私のまわりに集まってきて、やたらに質問を浴びせかけた。
サビアに殺されたサーンの装具と飾りをつけていたことから、私が彼らの宿敵サーンの敵であることを彼らは納得した。おかげで私に対する評価はいくらかよくなった。
黒色人は一人残らず好男子で、立派な体格をしていた。士官たちはきらきら輝くすばらしく豪華な飾りをつけているので、とくに目立った。たいていの装具は、金、プラチナ、銀、宝石などが無数にちりばめられていて、地の皮が全然見えないほどだった。
指揮官の装具はまるでダイヤモンドのかたまりだった。それが黒檀のような肌に調和してすばらしく引きたち、独特の美しい輝きを放っていた。その場の光景は何もかもが魅惑的だった――立派な顔だちの男たち、派手な色どりの華麗な装具、つやつや光るスキール材の甲板、高価な宝石や貴金属をちりばめ、手のこんだ美しい模様が描きだされている見事な木目のソラプス材で作られている船室、みがきあげられた金色の手すり、ぴかぴか光る鋼鉄の大砲。
ファイドールと私は甲板の下へ連れて行かれて、固く縛られたまま舷窓が一つしかない小さな部屋へほうりこまれ、戸口には外から|かんぬき《ヽヽヽヽ》がかけられた。
それでも、こわれた推進器を修理している男たちの声が聞こえてきたし、舷窓から外をのぞくと、船がゆっくり南へ向かって漂流していることがわかった。
しばらくの間は二人とも口をきかず、それぞれの物思いにふけっていた。私のほうは、タルス・タルカスとサビアはその後どうなったろうかと考えていた。
たとえ追手をうまくかわして逃げのびたとしても、結局は赤色人か緑色人につかまってしまうにちがいない。そして、ドール谷からの脱走者として、たちまち虐殺されるほかはなくなってしまうだろう。
あの二人といっしょに行けたらよかったのに――私はつくづくそう思った。私ならきっと、残酷な愚かしい迷信によって恐ろしい罠《わな》にかけられていることをバルスームの賢明な赤色人たちに納得させることができるだろうという気がした。
タルドス・モルスなら私の言葉を信じてくれるだろう。その点に関しては確信があった。そして、皇帝《ジェダック》が自分の信ずるところを断行する勇気を持っていることは、私がよく知っている彼の性格から考えて確実なのだ。デジャー・ソリスも私の話を信じてくれるだろう。それについては、いささかの疑いもない。しかも、私のためなら永遠の地獄へでも喜んで飛びこんでくれるにちがいない赤色人や緑色人の戦士の友だちが無数にいるではないか。彼らはタルス・タルカスと同じく、私の行くところならどこへでもついてくるだろう。
ただ一つの危険は、うまく黒い海賊たちから逃げたとしても、敵意をもった赤色人や緑色人の手中に落ちるかもしれないということだ。そうなったら、たちまち殺されてしまうだろう。
だが、そんなことを心配するまでもなさそうだった。なにしろ、さしあたり、この黒色人の手から逃げだせる見込みがきわめて薄いのだから。
娘と私は一本のロープでいっしょにつながれていたので、たがいに三、四フィートぐらいしか動く余裕がなかった。この部屋にはいったとき、私たちは舷窓の下にある低いベンチに腰をおろしていた。このソラプス材のベンチが、この部屋の唯一の家具だった。部屋の床も天井も壁も、火星の軍艦の建造に広く使われている軽くて頑丈な合金カーボランダム・アルミニウムだった。
ベンチに腰かけて今後のことをあれこれ考えている間、私はちょうど目と同じ高さにある舷窓をじっと見つめていた。そのうちに、ふとファイドールのほうを振り向いた。彼女はいままで見たことのない奇妙な表情を浮かべて私を凝視していた。その瞬間の彼女は非常に美しかった。
だが、たちまち白い|まぶた《ヽヽヽ》がその目を覆ってしまった。その頬にほのかな赤味がさすのを私は見たと思った。どうやら、自分より身分の低い人間を見つめているところを見つかってまごついたらしい。
「下層階級の人間を観察するのは面白いですか」と私は笑いながら聞いた。
彼女は、神経質そうな、だが、ほっとしたような笑い声をちょっとたてて、ふたたび顔をあげた。
「ええ、とても」と彼女は言った。「とくに、相手がすばらしい横顔を持っている場合はなおさらね」
今度は私が顔を赤らめる番だったが、そうはならなかった。私は彼女がからかっていると思ったのだ。そして、死への道を進んでいるのに冗談が言えるとは立派なものだと感心した。だから、いっしょになって私も笑った。
「わたしたちがどうなるのか、ご存じ?」とファイドールはたずねた。
「おそらく、あの世の謎を解くことになるでしょうね」と私は答えた。
「わたしの運命はもっと悪いことになりそうだわ」と彼女はちょっと身震いをして言った。
「どういう意味ですか?」
「これは想像するしかないことなのよ。なにしろ、遠い昔からわたしたちの領土を襲撃している黒い海賊にさらわれたサーンの娘は何百万もいるけど、ふたたび戻ってきて海賊たちの中で経験したことを話してくれたものは一人もいないのですからね。でも、海賊たちが男は一人も捕虜にしないという点から見ても、さらわれた娘たちが死ぬよりひどい目にあっていると考えないわけにはいかないわ」
「当然の報いというわけじゃないかな」私はそう言わずにはいられなかった。
「どういう意味」
「サーンたちだって、自分から進んで神秘の川をくだってくる哀れな人びとに同じようなことをやっているではありませんか。サビアは十五年間も慰みものにされ、奴隷にされていたではありませんか。あなたが他人を苦しませたのと同じようにあなた自身が苦しんだところで、不当とは言えないでしょう」
「あなたにはわからないのよ」と彼女は答えた。「わたしたちサーンは神聖な種族なのです。下層の者たちにとっては、わたしたちの奴隷になることが名誉なのよ。もしわたしたちが、愚かにも見知らぬ川をくだって見知らぬ土地へやってくる下層の者たちの一部をときどき助けてやらなかったら、一人残らず植物人間や白ザルの餌食になるだけでしょう」
「しかし、あなたたちはあらゆる手段を使って外界の人びとの間にあんな迷信を広めたではありませんか」と私は反駁《はんばく》した。「あなたたちのやったことで一番の悪行はそれだ。どうしてあんなひどい迷信を広めて人びとを欺いたのか、そのわけを話してくれませんか」
「バルスームのすべての生物はサーン族を養うためにのみ生まれてくるのです。外界が労働力と食物を提供しなかったら、わたしたちはほかにどうやって生きることができるの。サーンともあろうものが身を落として労働をするの」
「では、あなたたちが人間の肉を食べるというのは本当なんですね」と私は身の毛のよだつ思いでたずねた。
ファイドールは無知をあわれむような目つきで私を見つめた。
「たしかに、わたしたちは卑しいものたちの肉を食べるわ。あなただって、そうじゃない」
「獣《けもの》の肉なら食べます。しかし、人間の肉は食べません」
「人間が獣《けもの》の肉を食べてもいいように、神は人間の肉を食べてもいいのよ。ホーリー・サーンはバルスームの神なのです」
私はうんざりした。それが顔にもでたらしかった。
「いまは信じられないでしょうね」と彼女はおだやかに話しつづけた。「でも、もしも運よく黒い海賊の手から逃れて、マタイ・シャンの宮廷にもどることができたら、あなたが自分の考えの誤りをさとるような証拠が見つかるわ。それに――」彼女はためらいながら言った。「おそらく、あなたをわたしたちの一員として迎えるような方法も見つかるでしょう」
ふたたび、彼女の視線は床に落ち、頬にほのかな赤味がさした。私には彼女の真意がわからなかった。それも長い間わからなかったのだ。ときによって私はとんでもない間抜けになることがある、とデジャー・ソリスがよく言っていたが、どうもそのとおりらしい。
「そんなことになったら、私はあなたの父上に対して恩を仇《あだ》で返すようなまねをするのではないかな」と私は答えた。「だって、もし私がサーンだったら、まっさきにやることはイス川の河口に番兵を置いて、だまされてやってきた哀れな人びとを外の世界へ送り帰すようにすることでしょうからね。それに、あのいまわしい植物人間と、その恐ろしい相棒の大白ザルを皆殺しにすることに一生を捧げるでしょう」
ファイドールは心底から慄然《りつぜん》とした様子で私の顔を見つめた。
「やめて、やめて」と彼女は叫んだ。「そんな恐ろしい罰当たりなことを言ってはいけないわ――考えるだけでもいけないことよ。あなたがそんな恐ろしい考えを持っていることを知られたりしたら、わたしたちがひょっとしてサーンの寺院へもどれたとしても、あなたはむごたらしく殺されてしまうだけだわ。たとえわたしの――わたしの――」彼女はまた頬を染め、それから言いなおした。「たとえわたしだって、あなたを助けられないわ」
私はそれっきり何も言わなかった。明らかに、言ってもむだだった。彼女は、外の世界の火星人以上に迷信の虜《とりこ》になっているのだ。外界の火星人たちはただ、来世の愛と平和と幸福の生活という美しい夢にあこがれているにすぎない。だが、サーンたちはあの恐ろしい植物人間や白ザルを崇拝しているのだ。少なくとも、自分たちの死後の魂が宿るものとして敬意を払っている。
そのとき、部屋のドアがあいて、ゾダールがはいってきた。
彼は愉快そうに私にほほえみかけた。その笑顔はやさしそうで――残酷さや怨恨の表情はみじんもなかった。
「きみたちはもう、どんなことがあっても逃げられない」と彼は言った。「だから、こうやって下に閉じこめておく必要もなくなったわけだ。さあ、|なわ《ヽヽ》をといてやるから甲板へ出てもいい。とびきり面白いものが見られるぞ。もう外の世界へは絶対に帰さないのだから、見せてやってもかまわないだろう。ファースト・ボーンとその奴隷たちしかその存在を知らないものが見られるぞ――バルスームの本当の天国、ホーリー・ランドへの地下の入口だ。このサーンの娘にも、いい勉強になるだろう」と彼はつけ加えた。「なにしろ、イサス神殿を見せてもらえるんだからな。おそらくイサスさまはこの娘を抱くだろうよ」
ファイドールの頭が昂然《こうぜん》とあがった。
「何という罰当たりなことを! 畜生なみの海賊のくせに。おまえなどが神殿に顔をだしたら、イサスさまはおまえたち一族を全滅させておしまいになるよ」
「サーンの娘、学ばなければならないことがまだたくさんあるぞ」とゾダールはいやな微笑を浮かべて答えた。「しかし、おまえの学び方をうらやましいとは思わないが」
私たちが甲板に出ると、驚いたことに船は雪と氷に覆われた大平原の上を飛んでいるところだった。どちらを向いても見わたすかぎり雪と氷ばかりだった。
この謎の解答は一つしか考えられなかった。私たちがいまいるのは南極の大氷原の上空なのだ。火星上で氷や雪があるのは、南と北の極地だけである。下界には生物のいそうな形跡はまったくなかった。ここは明らかに、火星人たちが絶好の狩猟の獲物にしているあの巨大な毛皮動物がいる地域よりもはるかに南にあたるところなのだ。
私が手すりごしに外をながめている間、ゾダールはすぐそばに立っていた。
「針路は?」
「南、ちょっと西よりだ」と彼は答えた。「もうじきオツ谷が見えてくる。その線に沿って二、三百マイル行くのだ」
「オツ谷だって!」と私は叫んだ。「だが、きみ、それは私が逃げてきたばかりのサーンの領土がある場所じゃないか」
「そうさ」とゾダールは答えた。「きみは昨夜、長々と追跡されている間にこの氷原を横切ったのだ。オツ谷は南極の大きな陥没地帯にある。それは周囲の土地から何千フィートも下へ落ちこんでいて、大きなまるい鉢《はち》のような形をしているのだ。その北の境界から百マイルのところにオツ山脈がそびえていて、この山脈の内側に取り囲まれているのがドール谷で、そのドール谷の真ん中にコルスの|行方知れずの海《ヽヽヽヽヽヽヽ》があるのだ。そして、この海の岸辺のファースト・ボーンの領土にイサスの黄金の神殿が立っている。目的地はそこだ」
あたりをながめていると、太古からの長い年月の間にドール谷から逃げだした人間がたった一人しかいないという理由がわかりはじめてきた。むしろ、たった一人でも脱出に成功したということのほうが不思議なことに思えた。この凍《こお》りついた、冷たい風の吹きすさぶ荒涼とした大氷原を、たった独りで、しかも歩いて横断するなどということは、とうてい不可能ではないか。
「飛行船を利用しないかぎり、通れるところではないな」と私は大声で言った。
「むかしサーンのところから逃げだしたやつも、その手を使ったのさ。しかし、ファースト・ボーンのところから脱出できたやつはいまだかつて一人もいない」と、ゾダールはいささか誇らしげな口ぶりで言った。
船はもう、広大な堡氷《ほひょう》地帯の南端まできていた。その氷の高原はとつぜん、高さ数千フィートの絶壁になって終わり、その下に谷間の平地が広がっていた。あちこちに小高い丘や小さな森が散らばり、堡氷が溶けて流れだした小さな川もあった。
一度、地表に深い峡谷のような裂け目ができている場所のはるか上空を通過した。その亀裂は北の氷の絶壁からのびて谷間を横切り、見わたすかぎりどこまでもつづいている。
「あれはイス川の河床だ」とゾダールが言った。「あの川は氷原のずっと下のほう、オツ谷より低いところを流れているのだが、ここではその峡谷が見えているのだ」
まもなく、村落と思われるものが目にとまったので、それを指さしながら、あれは何だとゾダールにきいた。
「永遠の地獄に落ちた連中の村だよ」とゾダールは笑いながら答えた。「大氷原と山脈との間のこの細長い地域は中立地帯ということになっている。イス川の旅から横道にそれて、下に見える峡谷の絶壁をよじ登り、この谷間に住みつくことになった者もいるし、また、ときどきサーンのところから逃げだした奴隷がここへやってくることもある。
「この外側の谷から脱出することはできっこないから、サーンはそんな連中をもう一度つかまえようとはしない。それに実際のところ、サーンのやつらはファースト・ボーンの巡視艇がこわいものだから、自分たちの領土から出ようとはしないのだ。
この外側の谷間に住む哀れな連中には、われわれも手だしをしない。やつらはわれわれのほしいものは何ひとつ持っていないからだ。それに戦って面白いほどの人数でもないからな――だから、われわれもやつらには手を出さない。
連中の村は五つ六つある。だが、年じゅう仲間同士で戦っているものだから、何年たっても人口はほとんどふえないのだ」
このとき、船は地獄に落ちた人びとの谷を後にして西北西に進路を向けた。まもなく、右舷前方の荒涼とした氷原の上に黒い山らしいものが見えてきた。その山はあまり高くはなく、頂上は平らになっているようだった。
ゾダールは私たちを残して、何か船の仕事をしに行った。私はファイドールと二人だけで手すりのそばに立っていた。この娘は、私たちが甲板に連れだされてから、まだひと言も口をきいていなかった。
「あの男が言っていたことは本当ですか」と私は彼女にたずねた。
「少しはね」とファイドールは答えた。「外側の谷の話は本当だわ。だけど、イサス神殿があの男の国の真中にあるなんていうのはでたらめよ。もし、そんなことが本当なら――」彼女は口ごもった。「いいえ、本当のはずはないわ。本当のはずがあるものですか。だって、そんなことが本当なら、ずっと昔からわたしたちサーンは、イサスさまがわたしたちのために用意してくださったと教えられているあの美しい|永遠の生命《ヽヽヽヽヽ》の世界へ行くどころか、残忍な敵の手中に飛びこんで、責めさいなまれ、屈辱的な死をとげていたことになってしまうわ」
「外の世界の下層バルスーム人たちがあなたたちにおびき寄せられて恐ろしいドール谷へやってきたように、サーン族もまたファースト・ボーンにおびき寄せられて同じような恐ろしい運命に陥っていたのかもしれませんよ」と私はほのめかした。「きびしい報《むく》いというものでしょうな、ファイドール。しかし、当然の報《むく》いだ」
「そんなこと、信じられるものですか」と彼女は言った。
「いまにわかるでしょう」と私は答えた。そして私たちはまた黙りこんだ。船は急速に黒い山に接近していて、その山がなんとなく私たちの疑問に対する答えとつながりがありそうに思えたからである。
その頭部を切りとった円錐《えんすい》形の黒い山に近づくにつれて、船は速度を落とし、ついにほとんど動いていないような感じになった。船は山の頂上にきていた。見おろすと、巨大な円形の穴がぱっくり口をあけていた。穴の底は真っ暗な闇に包まれて何も見えない。
この巨大な穴の直径はゆうに千フィートはあった。内壁はなめらかで、黒い玄武岩質の岩だった。
その穴の大きな口の真上までくると、船はちょっとの間、空中で停止し、それからゆっくりと真暗な穴の中へ下降しはじめた。だんだん下降して、やがて周囲が暗黒に包まれると、船の明かりがつけられた。その薄明るい円光の中を巨大な戦艦はどんどん下降し、まさしくバルスームの地底の中心に向かっている感じがした。
ほぼ三十分間も下降したとき、たて穴は急になくなって、広大なドーム状の地下の世界がひらけた。眼下には地底の隠れた海が広がり、一面に波立っていた。その青白い光に照らされた海面には何千隻もの船が点々と散らばっていた。そして小さな島があちこちに浮かび、この不思議な世界の奇妙に色あせた植物を茂らせていた。
戦艦はゆるやかに堂々と下降し、ついに海面に舞いおりた。たて穴を降下する間に巨大な推進器は引きこまれて、かわりに、小型だがもっと強力な水中推進器が引き出されていた。いま、それが回転しはじめると、戦艦は空中を飛んでいたときと同じように軽快に危げなく水の上を進みはじめた。
ファイドールと私は驚きのあまり口もきけなかった。バルスームの地底にこんな世界が存在するなどとは、二人とも話に聞いたこともないし、夢想したことさえもなかった。
目につく船はほとんどみな軍艦だった。|はしけ《ヽヽヽ》や小型の輸送船などは少しあったが、外の世界の各都市間の空を往来しているような巨大な商船は一隻も見当たらなかった。
「ここがファースト・ボーンの海軍基地だ」と、背後で人の声がした。振り返ると、ゾダールが面白そうに口もとにほほえみを浮かべて、私たちを見まもっていた。
「この海はコルスの海より大きい」と彼はつづけた。「上にあるコルスの海の水がここへ流れこんでくるのだ。その水量が一定の水位をこえないようにするために、大きなポンプ場が四つ設けられていて、余分の水をはるか北方の貯水池へ送り返している。赤色人たちはその水をひいて農地の灌漑《かんがい》をやっているわけだ」
この説明を聞いて、にわかに合点がいったことがあった。外の世界では、その貯水池のある場所の固い岩から大量の水が噴き出して、火星の地表ではきわめて乏しい貴重な水の供給を大いに助けているのだが、赤色人たちは昔からこれを奇蹟と考えていた。
学者たちも、この莫大な量の水源の謎を解き明かすことはどうしてもできなかった。そして時《とき》がたつにつれて、このことをただ当然のこととして受けいれるようになり、水源をつきとめようとはしなくなったのである。
船はいくつかの島のそばを通過した。それらの島には奇妙な形の円形の建物が立っていた。見たところ屋根がないらしく、壁の一番下から頂上までの中間あたりに厳重に鉄棒をはめこんだ小さな窓がいくつかあいていた。どうも牢獄らしい感じの建物で、武装した衛兵が外の低いベンチにすわったり、海岸線の一定区域を歩きまわったりしているので、なおさらその感じが強かった。
これらの島はみな小さくて、一エーカー以上の面積があるものはほとんどなかったが、やがて前方に、ずっと大きな島が見えてきた。これが目的地だった。まもなく、巨大な軍艦は切り立った岸壁に繋留された。
ゾダールはついてこいと合図をした。私たちは、五、六人の士官や兵士といっしょに戦艦からおり、海岸から二百ヤードほど離れたところにある大きな卵形の建造物に近づいていった。
「もうすぐイサスさまに会わせてやる」とゾダールはファイドールに言った。「われわれが連れてゆく少数の捕虜はイサスさまに進呈するのだ。ときどきイサスさまは、捕虜のなかから奴隷を選んで、侍女の補充をするというわけだ。なにしろ、イサスさまに一年以上仕えるものは一人もいないのだからな」そう言って、黒色人は口もとに無気味な微笑を浮かべた。それは、この簡単な言葉に恐ろしい不吉な意味を添える微笑だった。
ファイドールは、イサスに関するこんな話が本当だとは信じたくないらしかったが、次第に疑惑と恐怖を感じ始めたとみえて、私にぴったり身を寄せていた。もはやバルスームの|生と死の支配者《ヽヽヽヽヽヽヽ》の誇り高き娘ではなく、残酷な敵の捕虜になっておびえている小娘にすぎなかった。
いよいよ建物の中にはいってみると、屋根は全然なかった。中央に屋内水泳プールのような、床を掘り下げて作った大きな細長い水槽があった。そのプールの片側近くに、奇妙な形の黒い物体が浮かんでいたが、それがこの地底の海にすむ何か見知らぬ怪物なのか、それとも妙な格好の|いかだ《ヽヽヽ》なのか、すぐにはわからなかった。
しかし、まもなく、その正体は判明した。一行がプールのふちに歩み寄って、その物体の真上に近づくと、ゾダールが聞いたことのない言葉で二言三言叫んだのだ。たちまち、その物体の表面がせり上がってきて、ぱっくり蓋が開き、黒色人の水兵が一人、奇妙な船の中から飛びだしてきた。
ゾダールはその水兵に言った。
「おまえの上官に、ダトール・ゾダールの命令を伝えてくれ。いいか、こう言うのだ。捕虜二名を護送中のダトール・ゾダールと部下の士官・兵を、黄金の神殿のそばのイサスの庭園まで送ってもらいたい、とな」
「はい、ダトール卿、ご先祖の木の実の殻に幸いあれ」と水兵は答えた。「ご命令どおりいたします」それから水兵は、バルスームのあらゆる種族に共通する敬礼の仕方に従って、掌《てのひら》をうしろに向けて両手を頭の上にあげると、ふたたび船の奥に姿を消した。
まもなく、きらびやかな装具に身を固めた士官が甲板に出てきて、ゾダールを船に迎え入れた。そのあとについて、一同もぞろぞろと乗りこみ、甲板の下へおりていった。
私たちがはいった船室は船の横幅いっぱいに広がっていて、吃水《きっすい》線より下の水中が見える舷窓が両側についていた。全員が船内にはいるや否や、次々にいくつかの命令がだされた。それとともに昇降口の蓋が閉じて、しっかり固定され、機関のリズミカルな響きに合わせて船は震動しはじめた。
「あんな小さな水槽のなかから、どこへ行けるのかしら」とファイドールがきいた。
「上ではありませんね」と私は答えた。「あの建物には屋根はないけれど、頑丈な鉄格子で覆われているのが見えましたからね」
「じゃあ、どこへ?」と彼女はまたきいた。
「船の様子から考えると、下へ行くのでしょう」
ファイドールは身を震わせた。なにしろ、バルスームの海の水というものは、とうの昔に涸れてしまってから伝説上の存在にすぎないものになってしまっているので、火星人はだれでも深い水を恐れる傾向があるのだが、このサーンの娘も、火星に今も残っている唯一の海の見える土地で生まれたとはいうものの、やはり同じ恐怖を感じるのだろう。
まもなく、水中に沈んでゆく感じが非常にはっきりしてきた。船は急速に沈下しているのだ。舷窓の外を勢いよく流れる水の音が聞こえたし、舷窓からもれる薄明かりの中に、渦巻く水がはっきりと見えた。
ファイドールは私の腕をつかんだ。
「助けて!」と彼女は小声で言った。「わたしを助けて。そうすれば、何でもあなたの望みどおりよ。ホーリー・サーンにできることなら何でも望みをかなえてあげるわ。ファイドールは――」彼女はここでちょっと口ごもったが、すぐに声をひそめて言った。「ファイドールはもう、あなたのものよ」
私はこの小娘がひどくかわいそうに思えてきた。そこで私の腕にしがみついている彼女の手の上に片手をのせた。どうも私の動機は誤解されたようだった。ファイドールはすばやく室内を見まわして、私たち二人だけだということを確かめると、両腕を私の首にまわし、私の顔を自分の顔のほうへ引き寄せた。
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九 永遠の生命の女神イサス
ファイドールが突然の恐怖に駆られてもらした愛の告白に、私はひどく心を動かされた。だが、それと同時に面目《めんぼく》ない感じもした。自分が何か軽はずみなことを言うかするかしたために、彼女の愛情に応えたと信じこませてしまったのだと思ったからだ。
だいたい、私は女の尻を追いかけまわすようなまねをしたことがない男である。ちっぽけな香水のにおいのする手袋をながめてぼんやりしたり、キャベツのようなにおいがしはじめた枯れた花にキスしたりするよりは、戦闘やそれに類したことにずっと関心があるし、そのほうが男らしいと思っていた。だから、このときの私は、どうしたらいいのか、何を言ったらいいのか、さっぱりわからなかった。この美しい娘の目を見つめて、何か言わなければならないことを言ったりするよりは、水の涸《か》れた海底に住む野蛮人の群れと戦うほうがはるかに気が楽である。
しかし、いまは何か言わないことにはどうしようもなかった。だから私は話したのだ。それも、さぞ、ぎこちない話し方だったろうが。
首にからみついたファイドールの両手をそっとはずすと、その手を握ったまま、私はデジャー・ソリスに対する自分の愛の物語を話した。これまでの長い人生の間に知った二つの遊星のあらゆる女性の中で、私が愛したのは彼女ひとりだけだということを話したのである。
この話はファイドールの気にいらなかったようだった。とつぜん、彼女は荒々しく息をはずませながら、牝のトラのようにぱっと立ち上がった。そして、美しい顔をすさまじい憎悪の表情にゆがめて、燃えるような目で私をにらみつけた。
「畜生!」と彼女はののしった。「罰当たりの畜生め! マタイ・シャンの娘ファイドールが哀願しているとでも思っているの。ファイドールは命令するのよ。おまえが外の世界で選んだ下等な女にくだらない外界の情熱を感じたからって、それがファイドールにとって何だというの。
ファイドールはその愛によっておまえに栄光を与えたのよ。それを、おまえははねつけた。おまえがわたしに与えた侮辱は、残虐きわまるやり方で一万回殺されたって償《つぐな》いきれやしない。そのデジャー・ソリスとかいう女は、きっと殺してやる。一番ひどい殺し方でね。その女の運命はおまえがきめてしまったのよ。
そして、おまえもよ! 一番卑しい奴隷にしてやるわ。おまえがはずかしめようとした女神に仕えるのよ。わたしの足もとにはいつくばって、もう死なせてくださいと哀願するまで拷問と屈辱を加えてやる。
わたしは慈悲深い寛大さを見せて、最後にはその願いをききとどけてやるわ。そして、|黄金の断崖《ヽヽヽヽヽ》の高いバルコニーの上から、大白ザルがおまえをずたずたに引き裂くのを見物してやるから」
なんと何から何まで決められてしまったことだろう。初めから終わりまで見事な予定表が完成したのだ。こんな神々しいほど美しい女が悪魔のように執念深い復讐心を持てるものかと思うと驚かずにはいられなかった。しかし私は、彼女がその復讐のための小さな要因を一つ見落としたことに気がついた。そこで、このうえ彼女をうろたえさせようというのではなく、むしろもっと実際的な線に沿って計画をねり直せるようにと思って、私は一番近くにある舷窓を指さした。
どうやらファイドールは、現在の環境と自分がおかれている立場のことを完全に忘れてしまっていたらしく、窓の外の暗い渦巻く水をちらりと見るなり、低いベンチの上にくずれるように倒れ、両腕に顔をうずめて、すすり泣きはじめた。それはどう見ても、誇り高き全能の女神というよりは、ひどい不幸に見舞われた小娘の姿だった。
船はますます深く沈みつづけ、舷窓の厚いガラスが外の水の温度のために暖かくなっているのがはっきりとわかるまでになった。明らかに、火星の表面の地殻よりずっと下にきているのだ。
やがて、船は下降をやめ、船尾で推進器が水をかきまわす音が聞こえたかと思うと、高速で前進しはじめた。深い水の中は真っ暗だったが、舷窓からもれる明かりと、この潜水艦の船首についているらしい強力な照明灯の反射光のおかげで、岩に囲まれたトンネルのような狭い水路を進んでいることがわかった。
二、三分たつと、推進器の回転がとまった。船はいったん停止し、それから水面に向かって急速に上昇しはじめた。まもなく、上からさしこむ光でぐんぐん明るくなったと思うと、船はとまった。
ゾダールが部下たちを従えて、船室にはいってきた。
「こい」と彼は言った。そこで彼のあとについて、水兵の一人があけた昇降口を通り抜けた。
出たところはドーム形の小さな地下室だった。その中央にあるプールの中に、乗ってきた潜水艦が最初に見たときと同じように黒い背中だけを水面にのぞかせて浮かんでいた。
プールの周囲には同じ高さの昇降台があった。洞窟のような地下室の壁は下から二、三フィートの高さまでは垂直で、それから低い天井の中央に向かってアーチ形に彎曲《わんきょく》していた。この壁が彎曲しているあたりに出入口がいくつかあって、薄暗い明かりのついた通路へつづいていた。
私たちはこの通路の一つへ連れこまれた。少し歩くと、大きな鋼鉄製の箱に行き当たった。この箱は、見わたすかぎり上へのびている|たて《ヽヽ》穴の底にとまっていた。
これは、バルスームのほかの地域でも見たことがある普通の型のエレベーターだった。運転は、|たて《ヽヽ》穴の頂上につるされている巨大な磁石によって行なわれ、電気仕掛けで磁力を調節して、箱を動かす速度を変えられるようになっている。
だが、長距離の運行をするとき、とりわけ上昇する場合には、吐き気を催させるほど速く動く。火星固有の小さな重力のために、上方からの強力な吸着力に対する抵抗が非常に少ないからだ。
背後で箱の扉がしまった。と思った次の瞬間、もうエレベーターは速度をゆるめて上の乗降口に停止しようとしていた。長い通路を上昇したスピードは、それくらい速かった。
エレベーターの上の終点になっている小さな建物から出ると、そこはまぎれもなく、美しいお伽《とぎ》の国のまん真中だった。地球人のありとあらゆる言語をひっぱりだしても、このすばらしい美しさを伝える言葉は見つかるまいと思われるような光景だった。
それでも、緋色の芝生や、きらびやかな紫の花に飾られた象牙色の幹の木立、砕いたルビーやエメラルドやトルコ石、それにダイヤモンドまで敷きつめてある曲がりくねった散歩道、入念な手仕事で作り上げた見事なデザインの燦然《さんぜん》と輝く壮麗な黄金の神殿などについて形容する言葉もあるかもしれない。しかし、地球人の目にふれたことのないすばらしい色彩を説明する言葉が、どこにあるというのか。バルスームの無数の名も知らぬ宝石が放つ未知の光の絢爛《けんらん》たる輝きを、自分の目で見ないで理解できる者がどこにいるというのか。
長年のあいだ火星の皇帝《ジェダック》の宮廷の色どり豊かな豪華さを見なれていた私でさえも、この光景のすばらしさには目を見張った。
ファイドールは驚いて目をまるくした。
「イサス神殿」と彼女はなかば独りごとのようにつぶやいた。
ゾダールは、ただ面白がっているようにも、意地悪くほくそえんでいるようにも見える無気味な微笑をたたえて、私たちを見つめていた。
庭園には、きらびやかな飾りを身につけた黒色人の男女が群れ集まっていた。その間を赤色人や白色人の女たちが動きまわり、黒色人の命ずるままに働いていた。黒色人が外界の各地やサーン族の寺院から王女や美女たちをさらってきたのは、こうして奴隷にするためだったのである。
庭園を通り抜けて、私たちは神殿のほうへ進んだ。正面の入口までくると、武装した衛兵たちに呼びとめられた。尋問しようと進みでてきた士官に、ゾダールがちょっと何か言った。この二人はいっしょに神殿の中にはいってゆき、しばらく出てこなかった。
やがてもどってくると、イサスさまはマタイ・シャンの娘と、ヘリウムの王子で別世界からきたという奇妙な人間を見たがっていらっしゃると告げた。
私たちは、はてしなくつづく想像を絶するほど美しい廊下を通って、豪華な部屋や優美な広間を次々に通り抜けていった。そして最後に、神殿の中央にある広々とした部屋で立ちどまった。いっしょについてきた士官の一人が部屋の向こう側にある大きな扉に歩み寄った。そこで何か合図をしたとみえて、たちまち扉が開き、また一人、ふんだんに飾りをつけた廷臣が現われた。
それから、私たちはその戸口へ連れて行かれ、これからはいる部屋のほうへ背を向け、両手と両膝を床につくように命令された。扉が大きく開いた。うしろを振り返ると、ただちに死刑になるという警告を受けてから、四つんばいのまま後じさりをしてイサスさまの前へ出てゆくように命令された。
私はいまだかつて、こんな屈辱を受けたことはなかった。私が立ちあがって、ファースト・ボーンの女神をまともに見つめ、敵に立ち向かって男らしく死ぬまで切りまくる道を選ばなかったのは、もっぱらデジャー・ソリスに対する私の愛と、いまなお心を離れない彼女との再会の希望があったためにほかならない。
このいまいましい、ぶざまな格好でおよそ二百フィートもうしろへはってゆくと、付添い役がとまれと言った。
「立たせてやれ」と背後から声がした。かぼそい、震えをおびた声だが、明らかに長年のあいだ命令することに慣れている声だった。
「立て」と付添い役が言った。「しかし、イサスさまのほうを向いてはいかんぞ」
「女は気にいった」ちょっと沈黙がつづいたあとで、かぼそい、震えをおびた声が言った。「その女は定めの期限までこのイサスに仕えさせよう。男のほうは、オメアン海の北岸のシャドール島に連れもどすがよい。女をこちらに向かせて、イサスの姿をおがませてやれ。そして、下層の者たちの中で、イサスの輝くばかりに美しい聖なる姿をおがむ者は光栄にも一年だけは生きのびられるということを教えてやれ」
私は横目を使ってファイドールを見た。彼女は死人のように青ざめていた。ゆっくりと、きわめてゆっくりと、彼女は振り返った。まるで何か目に見えない、しかも抗しがたい力に操られているかのようだった。彼女は私のすぐ横に立っていた。あまりにも近くにいたので、彼女がついに|永遠の生命の女神《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》イサスと向かい合ったとき、その裸の腕が私の腕に触れた。
初めて|火星の至高の神《ヽヽヽヽヽヽヽ》を見た瞬間のファイドールの顔は私には見えなかったが、触れ合っている腕のふるえから彼女の全身を戦慄が駆けめぐるのがわかった。
「きっと目のくらむような美しさなのにちがいない」と私は思った。「マタイ・シャンの娘ファイドールのようなすばらしい美女の心にこんな感動をひき起こすのだから」
「女は残して、男は連れて行け。さがってよい」イサスがこう言うと、付添い役の大きな手が私の肩をおさえた。彼の指図に従って、私はふたたび四つんばいになり、御前から引きさがった。これが神からたまわった最初の拝謁《はいえつ》だった。しかし、率直に言って、はいまわったときのおかしな格好のほかは、たいした感銘は受けなかった。
部屋の外へ出るとすぐ扉がしまり、立ってもよいと言われた。ゾダールが私のところへやってきて、いっしょにゆっくりと庭園のほうへ引き返しはじめた。
「きみは、わけなく私を殺せるときに命を助けてくれた」無言のまま少し歩いてから、ゾダールはこう言った。「だから私も、できればきみを助けてやろう。ここでの生活をもっとがまんのできるものにしてやることはできるだろうが、きみの運命はもう変えようがない。外界へもどろうなどという望みは、きっぱり捨てることだな」
「私の運命はどうなるのだ」
「それは大部分、イサスさま次第だ。イサスが迎えをよこして、きみに顔をおがませないかぎりは、私がとりはからってやれる比較的楽な束縛状態で何年も生きていけるだろう」
「なんだってイサスが私に迎えをよこしたりするのだ」
「イサスはときどき、下層階級の者たちを使って、いろいろな慰みごとをするのだ。たとえば、きみのような戦士は月に一度の祭の日に、すばらしい楽しみを与えてくれることになるだろう。イサスの気晴らしのためと食糧補充のために人間同士を戦わせることもあれば、人間と野獣を戦わせることもある」
「イサスは人間の肉を食べるのか」と私はきいた。しかし、べつだん嫌悪の表情も見せなかった。つい最近ホーリー・サーンのことをいろいろと知ったところだったので、このサーンの天国よりいっそう近づきにくい天国でどんなことにぶつかろうと驚かない覚悟ができていたのだ。ここは明らかに、ただひとりの全能の神の命令によってあらゆることが行なわれている場所なのだ。長い間の盲目的な狂信と自己崇拝とによって、かつては持っていたかもしれない寛大な人類愛の本能を根こそぎ失ってしまった種族が住む場所なのだ。
彼らは権力と成功に酔いしれて、あたかもわれわれ地球人が野や森の獣《けもの》を見るような目で、火星のほかの住民を見ている連中なのである。そうとすれば、彼らが下層の賤《いや》しいものと決めこんでいる人間の肉を食べたところで不思議はないではないか。彼らが下層種族の生活や人格を理解しようとしないのは、地球人が食卓にのせるために殺している家畜の内心の感情を理解しないのと同じことではないだろうか。
「イサスが食べるのは、ホーリー・サーンとバルスームの赤色人の最上等の肉だけだ。そのほかの肉はわれわれの食卓にまわってくる。動物は奴隷たちが食べる。もっとも、イサスはまだ、ほかのご馳走も食べるがね」
ほかのご馳走という言葉に特別の意味があることは、このときにはわからなかった。私はただ、イサスの献立をくわしく聞いて、ここまでくれば残虐趣味も極致だろうと思っただけだった。しかし、全能の神が持つことができる残虐非道ぶりには、まだまだ知るべきことがたくさんあったのである。
私たちが多数の部屋や廊下を通り抜けて、もうすぐ庭園にでるところまできたとき、一人の士官が追いかけてきた。
「イサスさまがこの男にもう一度会おうと言っておられます」と士官は言った。「この男がすばらしい美男子である上に、あっぱれな腕前の持ち主で、ひとりでファースト・ボーンを七人も殺し、素手でゾダールどのをつかまえ、その装具で縛り上げたという話を、さきほどの娘が話したのです」
ゾダールは不愉快そうな顔をした。どうやら、自分の不名誉な敗北をイサスに知られてしまったのが面白くなかったらしい。
何も言わずに彼はきびすを返した。私たちはふたたび士官のあとについて、|永遠の生命の女神《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》イサスの謁見室の閉ざされた扉の前へ引き返した。
ここで、四つんばいの作法を繰り返して部屋へはいった。ふたたび、イサスが立てと言った。数分間、あたりは墓のように静まり返った。女神が私を見つめて、ゆっくり品定めをしているのだ。
やがて、かぼそい震えをおびた声が静寂を破り、単調な、ものうげな口調で、遠い昔から数知れぬ犠牲者の運命を決定してきた宣告を繰り返した。
「その男をこちらに向かせて、イサスの姿をおがませてやれ。そして、下層の者たちの中で、イサスの輝くばかりに美しい聖なる姿をおがむ者は光栄にも一年だけは生きのびられるということを教えてやれ」
私は、人間が神々しい美しさを目にしたときにのみ感じられるような大きな喜びを期待しながら、命令どおりにうしろを向いた。まず目にはいったのは、私のところから正面に見える壇までの間をぎっしり埋めている武装した男たちの群れだった。そして正面の壇上には彫刻をほどこしたソラプス材の大きな長椅子がすえられ、この玉座と思われる長椅子の上に、一人の黒色人の女がうずくまっていた。どう見ても、たいへんな年寄りだった。しわのよった頭には毛が一本もないし、二本の黄色い犬歯のほかは、歯もすっかり抜けていた。細い、とがった鼻の両側には、恐ろしくくぼんだ眼窩《がんか》の奥から燃えるような目が光っていた。顔の皮膚は無数の深いしわが刻まれて、くしゃくしゃになっていた。体も顔と同様しわだらけで、ぞっとするような醜悪さだった。
そして、ねじまがった腹部だけしか目につかない胴体に、やせ衰えた手足がついていた。これが、「輝くばかりに美しい聖なる姿」のすべてだったのである。
女神のまわりには大勢の女奴隷がいた。その中に、青ざめた顔をして震えているファイドールの姿が見えた。
「この男が、七人のファースト・ボーンを殺し、素手でダトール・ゾダールを、その装具で縛りあげたというのだな」とイサスはきいた。
「もっとも神々しく美しい女神さま、そのとおりでございます」と、私の横に立っている士官が答えた。
「ダトール・ゾダールを呼べ」とイサスは命じた。
ゾダールが隣室から連れてこられた。
イサスは恐ろしい目を毒々しく光らせて彼をにらみつけた。
「それでもおまえはファースト・ボーンのダトールなのか?」と女神はきいきい声をあげた。「|不滅の種族《ヽヽヽヽヽ》にこのような不名誉をもたらしたやつは、もっとも低い身分の、そのまた下まで位を落としてやる。もはやおまえはダトールではない。このさき永久に奴隷のなかの奴隷となって、イサスの庭園で働く下層の者たちのために走り使いをするのだ。この男の装具をはぎとれ。臆病者や奴隷が装具をつけて身を飾ることはない」
ゾダールは硬直したように突っ立っていた。衛兵の一人がきらびやかな装具を荒々しくはぎとったときも、彼の体は身動き一つ、身震い一つしなかった。
「出て行け!」と小柄な老女は激怒して金切り声をあげた。「出て行け。イサスの庭園の栄光となるかわりに、オメアン海のシャドール島の牢獄で、おまえを打ち負かしたこの奴隷の奴隷となって働け。さあ、こいつをイサスの神聖な目にふれぬところへ連れて行け」
ゾダールは誇り高く頭をきっと上げたまま、ゆっくり向きを変えると、堂々とした歩きぶりで部屋から出ていった。イサスは立ちあがり、別の出口から部屋を出ようとしかけた。
だが、また私のほうを振り返って、「おまえは当分のあいだシャドール島へもどしておくことにしよう。いずれそのうちにイサスはおまえの戦いぶりを見てやろう。立ち去れ」と言った。それから、イサスは従者たちを引き連れて出ていった。ファイドールだけがうしろのほうでぐずぐずしていた。私が衛兵のあとについて庭園のほうへ歩きだすと、彼女はあとを追って走ってきた。
「ああ、こんな恐ろしいところにおきざりにしないで」と彼女は訴えた。「わたしが言ったことは許してください、王子さま。あんなこと、本気じゃなかったのよ。何でもいいから、いっしょに連れてって。シャドールの牢獄にあなたといっしょにはいりたいのよ」彼女は恐ろしく早口にしゃべり、ほとんど支離滅裂《しりめつれつ》な言葉がやつぎばやに飛びだした。「わたしがあなたに与えた名誉が、あなたにはわからなかったのよ。サーンの間には、外界の下層の者たちの間で行なわれているような結婚とか、嫁や婿《むこ》にやるとかいうことがないの。わたしたち二人でいつまでも愛し合って幸福に暮らせたかもしれないのに。二人ともイサスの顔を見てしまったから、一年たったら死ぬのよ。せめてその一年をいっしょに暮らして、死ぬと決まった者に残されているかぎりの喜びを味わいましょうよ」
「ファイドール、私があなたを理解するのがむずかしかったのなら、おそらくあなたが私の行動の規準になっている動機や慣習や掟を理解することも同じようにむずかしいのではありませんか。私はあなたを傷つけたくはないし、あなたから与えられた名誉を軽視していると思われるのもいやです。しかし、あなたが望んでいることは、できない相談というものです。外の世界の人びとや、ホーリー・サーンや、黒いファースト・ボーンの連中がどんな愚かしいことを信じていようと、私はまだ死んではいません。そして私が生きているかぎり、私の心はただ一人の女性、ヘリウムの王女デジャー・ソリスのためにときめくだけなのです。死ぬときがくれば、私の心のときめきもとまってしまうでしょう。しかし、死んだあとのことは私にはわかりません。この点に関しては、バルスームの|生と死の支配者《ヽヽヽヽヽヽヽ》マタイ・シャンだろうと、|永遠の生命の女神《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》イサスだろうと、私同様、何もわかりはしないのです」
ファイドールはちょっとの間、まじまじと私の顔を見つめていた。今度は、その目に怒りの色は見えず、ただ、いたましい絶望の影が宿っていた。
「わたしにはわからない」彼女はそう言って、背を向けると、イサスと従者たちが出ていった戸口のほうへゆっくり歩いていった。その姿はすぐ見えなくなった。
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十 シャドール島の牢獄
衛兵に護送されて外の庭園に出ると、ゾダールが黒色人貴族の群れに囲まれていた。貴族たちは彼に悪口雑言を浴びせ、男たちは顔をなぐり、女たちは唾《つば》を吐きかけていた。
私が現われると、彼らは私に注意を向けた。
「ほう、では、こいつが偉大なゾダールさまを素手でやっつけたという男か」と一人が叫んだ。「ひとつ、どういう具合にやったのか見せてもらおうじゃないか」
「サリッドを縛らせてみようじゃないの」と一人の美しい女が笑いながら言った。「サリッドは立派なダトールよ。この腰抜けに、本当の男の戦いというものがどんなものか、教えてやる役はサリッドにまかせるといいわ」
「そうだ、サリッドだ! サリッドだ!」と十人ほどがいっせいに叫んだ。
「そら、サリッドがきたぞ」と別の声が叫んだ。声のしたほうを見ると、輝かしい飾りや武器をずっしりと身につけた大男の黒色人が勇ましい堂々とした態度でこちらへやってくるところだった。
「なにごとだ」とその男は叫んだ。「サリッドがどうだというのだ」
すばやく、十人あまりが口々に説明した。
サリッドは目を細めて険悪な顔つきをしながら、ゾダールのほうを向いた。
「畜生《キャロット》め!」と彼は罵声をあげた。「前からきさまはいやらしい火星猫《ソラック》みたいな意気地なしだと思っていたんだ。イサスの秘密会議でおれを出し抜いてばかりいやがって。だが、とうとう、男の本当の値打ちがわかる戦場で腰抜けぶりを天下にさらしやがった。畜生《キャロット》め、この足でも食らえ」そう言うなり、サリッドはゾダールをけとばそうとした。
とたんに私は怒りを爆発させた。この連中が、つい先刻までは頼もしい仲間だったはずのゾダールに、イサスの寵《ちょう》を失ったからといって卑怯な仕打ちをするのが腹立たしく、数分前から私の血はわきたっていたのだ。べつにゾダールが好きだったわけではない。ただ私は、卑怯な不正や迫害が行なわれるのを見ていると、どうしてもかっとなって腕がむずむずしはじめ、よく考えればやるべきではないことでも、とっさの衝動に駆られて、やらずにはいられなくなる性質だ。
サリッドが卑怯にもけとばそうとしかけたとき、私はゾダールのすぐそばに立っていた。貴族の位を奪われたゾダールは彫像のように身動きもしないで直立していた。元の仲間たちがどんな侮辱や非難を浴びせかけようと、男らしく何も言わず我慢しようと覚悟をきめていたのだろう。
しかし、サリッドの足があがったとたんに、私の足もあがった。たちまち、向こうずねに痛烈な一撃をくらわせて、ゾダールにこれ以上の侮辱が加えられるのを防ぎとめた。
一瞬、その場は緊迫した空気に包まれて静まり返った。それから、怒りのわめき声とともにサリッドが私の喉元めがけて飛びかかってきた。巡洋艦の甲板でゾダールがやった攻撃とまったく同じだった。そして結果も同じだった。私は敵ののびた腕の下へ身を沈め、相手の体が脇へ流れた瞬間、強烈なライトを顎の横へたたきこんだ。
大男の体は|こま《ヽヽ》のようにくるくる回転したかと思うと、がっくり膝を折り、私の足もとにくずれるように倒れた。
黒色人たちは呆然として、砕いたルビーをしきつめた歩道に横たわっている誇り高きダトールの動かない巨体を凝視した。それから、こんなことはとても信じられないという顔つきで私の顔を見つめた。
「サリッドを縛れと言ったな。見てろ!」私はそう叫ぶと、倒れている男のそばにかがみこみ、装具をはぎとって、手足を厳重に縛りあげた。
「さあ、ゾダールにやったようなことを、今度はサリッドにもやったらどうだ。自分の装具で縛られているこの男をイサスの前へ連れて行け。いまではファースト・ボーンよりすぐれた人間がきみたちの中にいることを、イサスに自分の目ではっきりわからせてやれ」
「あなたは何者?」サリッドを縛ってみろと最初に言いだした女が小声でたずねた。
「私は二つの世界に住む人間だ。バージニアの陸軍大尉ジョン・カーターであるとともに、ヘリウムの皇帝《ジェダック》タルドス・モルス家の王子なのだ。さあ、いま言ったように、この男をきみたちの女神のところへ連れて行け。そして、こう言ってやれ。私がゾダールやサリッドにやったようなことは、イサスのダトールのなかで一番強いやつにもやってみせる、とな。素手だろうと、長剣だろうと、短剣だろうと、イサスのえりぬきの戦士を相手にしてみせるぞ」
「さあ、行くんだ」私をシャドールへ護送する役目の士官が言った。「私は大事な命令を受けているのだ。遅れたら事《こと》だ。さあ、ゾダール、きみもだ」
この男がゾダールや私に話しかけた口調には無礼な感じはほとんどなかった。どうやら、私が力自慢のサリッドを片づける有様を見て、ゾダールに対する軽蔑の念が薄らいだようだった。
この士官の私に対する気のくばり方は、とても奴隷に対するものとは思えなかった。それから先の帰り道で、彼が歩くにも立ちどまるにも、たえず抜き身の短剣を手にして私の背後にまわっていたことからみても、彼が私を非常に重要視していたことは明らかだった。
オメアン海へ帰る途中には、べつに何事も起こらなかった。私たちは上へ昇ってきたときと同じエレベーターに乗って、ものすごい|たて《ヽヽ》穴を降下した。それから潜水艦に乗って長いあいだ水中を進み、深い海底のトンネルに向かった。トンネルを抜けるとまもなく、最初オメアン海からイサス神殿へのすばらしい旅にでかけたときの出発点になったプールにふたたび浮かび上がった。
潜水艦の基地になっている島から、小型巡洋艦で遠いシャドール島に運ばれた。この島には小さな石造りの牢獄があって、黒色人の番兵が五、六人いた。形式的な手続きは何もなく、私たちはたちまち牢内にほうりこまれた。番兵の一人が大きな鍵で牢獄の扉をあけ、私たちが中へはいると、背後の扉がしまり、いやな音をたてて錠がおりた。その音を耳にしたとたんに例のホーリー・サーンの庭園の地下にある|黄金の断崖《ヽヽヽヽヽ》の中の|神秘の部屋《ヽヽヽヽヽ》に閉じこめられたときに感じたのと同じようなすさまじい絶望感が襲ってきた。
あのときはタルス・タルカスがいっしょにいたが、今度は、味方がいないという意味で完全にひとりぼっちだった。私は、あの偉大なサーク人と、その美しい連れの娘サビアの運命はどうなったのだろうか、と考えはじめた。たとえ奇跡的に脱出に成功して、どこかの友好的な人びとに迎えられ、殺されずにすんでいるとしても、彼らの救援を受けられる望みがどれだけあるというのか。もちろん、できることなら喜んで救援の手をさしのべてくれるだろうが。
私がいる場所も、どんな運命を私がたどっているかも、彼らには想像もつかないだろう。このような場所があるなどとは、バルスームの人間はだれひとり夢にも考えてはいないのだから。また、かりに私が閉じこめられている牢獄のありかが正確にわかったとしても、いくらかでも私に有利になるというわけでもない。ファースト・ボーンの強力な海軍に立ち向かってこの地底の海に侵入することのできるものが、どこにいるだろう。だめだ。すべては絶望的ではないか。
だが、まあ、できるだけのことはやってみよう。私はそう思って立ちあがると、胸中に広がる絶望感をふりはらった。そして牢内を調べようと周囲を見まわしはじめた。
ゾダールは、部屋のまん中近くにある低い石のベンチに、うなだれて腰かけていた。イサスに地位をさげられてから、彼はまだひと言《こと》も口をきいていなかった。
この建物には屋根がなく、三十フィートほどの高さの壁に取り囲まれていた。壁の半分ぐらいの高さのところに厳重に鉄棒をはめこんだ小さな窓が二つあった。牢獄は高さ二十フィートほどの仕切りで、五つ六つの部屋に分割されていた。私たちのいる部屋には、だれもほかの人間はいなかった。ほかの部屋へ通じる二つのドアがあいていたので、その一方へはいってみると、だれもいなかった。こうして次々に部屋を通り抜けて、最後の部屋までくると、ほかの部屋と同じように房内の唯一の家具になっている石のベンチの上で赤色火星人の少年がひとり眠っていた。
どうやら、私たち以外の囚人はこの少年だけらしかった。私はかがみこんで、眠っている少年の顔を見た。その顔には何となく見覚えがあるような感じがしたが、だれなのかはわからなかった。顔だちはよく整っていて、均整のとれた、すんなりした肢体と同じく、きわめて美しかった。赤色人にしては肌の色が非常に淡かったが、それ以外の点では、この容姿の美しい種族の見本のような少年だった。
私はこの少年を起こさなかった。囚人にとって、牢内での睡眠は何よりも貴重な恩恵である。その貴重きわまるわずかな時間を仲間の囚人にだいなしにされた男が野獣のように怒り狂うのを、私は何度も見たことがある。
自分の部屋へもどってみると、ゾダールはまだ、さっきと同じ場所にすわりこんでいた。
「きみ」と私は大声で言った。「そんなにふさぎこんでいたって何の役にもたたないぜ。ジョン・カーターに負けたって、ちっとも恥ではなかったのだ。私がサリッドを片づけるのを見て、きみにもわかっているはずだろう。だいたい、巡洋艦の甲板で、きみの仲間を三人やっつけるのを見たときからわかっていたはずじゃないか」
「あのとき、私もいっしょに殺してくれればよかったのだ」
「おいおい、ばかを言うなよ!」と私は叫んだ。「まだ望みはあるんだ。われわれはどっちも死んだわけではないし、おたがいに立派な戦士なのだ。自由を勝ちとればいいじゃないか」
ゾダールは驚いて私の顔を見つめた。
「きみは自分の言っていることがわかっていないよ」と彼は答えた。「イサスは全能なのだ。イサスは何でも知っているんだ。いま、きみがしゃべっている言葉だって、女神には聞こえるんだ。きみが心の中で考えることだってわかってしまうのだ。イサスの命令にそむくなんて、考えただけでも冒涜《ぼうとく》になる」
「ばかを言うな、ゾダール」と私はじれったくなって大声を上げた。
彼は恐ろしそうに、ぱっと立ちあがった。
「イサスの呪《のろ》いがふりかかるぞ」と彼は叫んだ。「もうすぐ、たたきのめされて、恐ろしい苦痛にもだえ死にしてしまうぞ」
「きみはそんなことを信じているのか、ゾダール」
「むろんだ。だれが疑ったりするものか」
「私は疑うね。それどころか、否定するよ。いいか、ゾダール、きみはイサスには私の考えていることさえわかると言ったな。だが、赤色人はずっと昔から、そんな能力はそなえている。その上、もう一つのすばらしい能力も持っている。彼らは、だれにも心のうちを読みとられないように心を閉じてしまうことができるのだ。私も、他人の心を読みとる秘訣《ひけつ》は何年も前に覚えたよ。しかし、心を閉じる秘訣のほうは覚える必要がなかった。なにしろ、私の頭に浮かぶ考えを読みとれる人間はバルスームじゅうに一人もいないからだ。
きみの女神だって、私の考えを読みとることはできやしないんだ。また、きみの心にしても、きみの姿が見えなければ、きみが自分から読みとらせようとしないかぎり読みとることはできないのだ。もしイサスに私の心を読みとることができるのだったら、『輝くばかりに美しい聖なる姿をおがませてやれ』という命令で私が振り返ったときに、イサスの誇りは相当ひどいショックを受けていたはずだよ」
「それはどういう意味だ」と、ゾダールはほとんど聞きとれないほど低い、おびえた声でささやいた。
「あのとき私は、こんないやらしい下劣で醜悪なやつにお目にかかったのは生まれて初めてだと思った、ということさ」
一瞬、ゾダールはぎょっとして目に恐怖の色を浮かべながら私を見つめたが、すぐに「罰当たりめ!」と叫んで、私に飛びかかってきた。
私は、もう一度ゾダールをなぐり倒したくはなかったし、その必要もなかった。相手は武器を持っていないのだから、危害を加えられる恐れは全然ない。
ゾダールが飛びかかってくると、私は左手で彼の左手首をつかみ、彼の左肩のあたりにすばやく右腕をあてがって肘《ひじ》を顎の下にねじこみながら、相手の上体を自分のももの上に仰向けに押えこんだ。
しばらくは手も足もでない状態のまま、ゾダールはやりばのない怒りをこめたまなざしで私をにらみつけていた。
「ゾダール」と私は言った。「仲よくやろうじゃないか。おそらく、これから一年間は、このちっぽけな部屋に閉じこめられて二人いっしょに暮らさなければならないんだ。きみの感情を傷つけてすまなかったとは思うが、イサスからあんなひどい不当な仕打ちを受けた人間が、いまだにイサスを神聖なものと信じられるなんて、私には思いもよらないことだったのだ。
ゾダール、ついでに、もう少し言わせてもらおう。なにも、これ以上きみの感情を傷つけようというのではない。ただ、われわれが生きている間、われわれの運命を決めるのはいかなる神にもましてわれわれ自身だということを考えてもらいたい。
どうだ、イサスは私を打ち殺しもしなかったし、女神の美しさを中傷した不信心者の手から忠実なゾダールを救いだそうともしないではないか。ちがうんだ、ゾダール、イサスは女神なんかじゃない。ただの老婆なのだ。ひとたび、イサスの手からのがれてしまえば、きみに危害を加えることなどできはしない。
この不思議な国に関するきみの知識と、外の世界に関する私の知識とを合わせれば、きみと私のような戦士が二人そろっていて自由への道を切り開けないはずはない。たとえ、その途中で死ぬとしても、あの、女神だろうと人間だろうと呼び方はどうでもいい――冷酷非道な暴君に殺されるのをびくびくしながら待っているよりは、ずっと潔《いさぎよ》いではないか」
しゃべり終わると、私はゾダールを立たせて、はなしてやった。彼はもう襲いかかろうとはしなかったし、しゃべろうともしなかった。ただ、ベンチに歩み寄って、ぐったりと腰をおろし、それっきり何時間も深い物思いにふけっていた。
その後だいぶ時間がたってから、隣室へ通じる戸口のほうで小さな音がした。見ると、赤色人の少年がじっと私たちを見つめていた。
「カオール」と私は大声で赤色火星人式の挨拶をした。
「カオール」と少年は答えた。「ここで何をしているんです」
「たぶん、死を待っているんだろう」と私は苦笑しながら答えた。
少年も微笑した。雄々しい、魅惑的な笑い方だった。
「ぼくもそうですよ」と彼は答えた。「ぼくの死はもうすぐやってくるでしょう。イサスの輝くばかりに美しい姿というのを見てから一年近くになりますからね。それにしても、あの恐ろしい顔を見たとたんに死んでしまわなかったのが、いまだに不思議な気がします。それに、あの|おなか《ヽヽヽ》! 宇宙じゅうさがしたって、あんなグロテスクな格好をしたやつは、絶対ほかにはいませんよ。なんだって、あんなやつに|永遠の生命の女神《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》だとか、|死の女神《ヽヽヽヽ》だとか、|近い月の母《ヽヽヽヽヽ》だとか、そのほか五十もある同じようなでたらめな肩書をつけたりするのか、ぼくにはまるでわかりません」
「きみはどうしてここにきたのかね」と私はたずねた。
「わけはじつに簡単です。あるとき、一人乗りの偵察機に乗って、はるか南のほうまで飛んできたときに、ふと、伝説で南極の近くにあるといわれているコルスの|行方知れずの海《ヽヽヽヽヽヽヽ》をさがしてやろうというすばらしい考えを思いついたのです。きっとぼくは、敬虔《けいけん》な心が欠けている点だけでなく、気ちがいじみた冒険心まで父から受けついだにちがいありません。
完全に氷原地帯にはいってしまったとき、左のプロペラが故障しました。そこで修理しようとして着陸したのです。ところが、いつのまにか空は無数の飛行船で真黒になっていました。そして、あのファースト・ボーンの悪魔どもが百人も地上に飛びおりてきて、ぼくを包囲してしまったのです。
やつらは剣を抜いて突進してきました。しかし、ぼくは打ち倒される前に、父の剣の切れ味を連中にたっぷり味わわせてやりました。もし父が生きていて見てくれたら喜んでもらえると思うだけの働きは充分にしたのです」
「きみの父上はなくなったのか」
「ぼくが卵の殻を破って生まれる前に死にました。しかし、ぼくが生まれてきた世界は、じつに楽しい、すばらしいものでした。父を知ることができなかったという不幸をのぞけば、まったく幸福だったのです。いまのぼくの悲しみは、十年もの長いあいだ父をしのんで嘆き悲しんでいた母が、いまではぼくのことまで同じように嘆き悲しんでいるにちがいないということだけです」
「きみの父上は何という人なのだ」
少年が答えようとしかけたとき、牢獄の外のドアがあいて、たくましい大男の番兵がはいってきた。番兵はすぐに、夜は自分の部屋にはいっているように少年に命令し、少年が向こうの部屋へはいってしまうと、そのあとのドアに鍵をかけた。
「おまえたち二人はイサスさまのご命令で同じ部屋に閉じこめてあるのだ」番兵は私たちの部屋へもどってくると、そう言った。それから手を振ってゾダールをさし示しながら、
「この臆病者は奴隷の奴隷で、おまえに仕えることになっている。もし働かなかったら、なぐりつけて服従させればいい。思いつくかぎりの侮辱を片っぱしから加えてやれというイサスさまのご命令だ」
番兵はこれだけ言うと、出ていった。
ゾダールは相変わらず、両手で顔を隠してすわっていた。私はそばへ歩み寄って、その肩に手をかけた。
「ゾダール、イサスの命令を聞いたろう。しかし、私があんなことをするなんて心配するにはおよばない。ゾダール、きみは勇気のある男だ。迫害されて屈辱をうけるのがいいというのなら、勝手にするがいい。しかし、私がきみの立場にいるとしたら、あくまでも男らしく敵にぶつかってゆくな」
「ジョン・カーター、私も一生懸命に考えていたのだ」とゾダールはしゃべりだした。「二、三時間前にきみが教えてくれた新しい考え方のことをね。さっきは罰当たりなこととしか思えなかったきみの言葉と、私がこれまで目にしながら、イサスの怒りがふりかかるのを恐れてよく考えようともしなかったことを、少しずつ継ぎ合わせて考えをまとめていたんだ。
いまでは私も、イサスは絶対に食わせものだと思うよ。きみや私と同様、神ではないのだ。それにまた、ファースト・ボーンもホーリー・サーン同様、ちっとも神聖ではないし、そのホーリー・サーンも赤色人と同じく神聖ではないということも喜んで認める。
われわれの信仰の全体の仕組みは、上の階級の連中が長年にわたってわれわれに押しつけてきた嘘《うそ》っぱちの迷信を基礎として成り立っているのだ。そして、上の連中が自分たちの思いどおりにわれわれが信じつづけるよう仕向けるのは、連中の個人的な利益と勢力拡大のためだった。
私にはもう、これまで自分を束縛してきた絆《きずな》から脱けだす覚悟はできている。イサス自身にでも挑戦《ちょうせん》する覚悟もできている。しかし、それが何の役に立つだろう。神であるにせよ人間であるにせよ、ファースト・ボーンは強力な種族なのだ。しかも、われわれは彼らの手中に固く握りしめられていて、もう死んでいるようなものだ。どうにも逃げようはないよ」
「私はいままでにも何度もひどい窮地から抜けだしたことがある」と私は答えた。「命があるかぎり、シャドール島とオメアン海から脱出することをあきらめはしないつもりだ」
「しかし、この牢獄の四方の壁からでさえ、脱けだすことはできやしないよ」とゾダールは言い張った。「この火打ち石みたいな壁にぶつかってみろ」と彼は私たちを閉じこめている固い岩をたたきながら叫んだ。「それに、この表面の滑らかさを見ろ。こいつをよじのぼって上までいける人間がいるものか」
私は微笑した。
「そんなことはほとんど問題にならないよ、ゾダール」と私は答えた。「私は必ず壁をよじのぼって、きみもいっしょに連れだしてみせる。ただし、それには、きみがここのいろいろな慣習などを考えあわせて脱出決行に一番いい時機をきめてくれなければいけない。そしてまた、この地底の海の丸天井から自然の大気が明るく輝いている頭上の世界へ通じる|たて《ヽヽ》穴のところまで案内してくれなければいけない」
「時機は夜が一番いい。それに、わずかながらでもチャンスがあるのは夜だけだ。夜なら、みんな眠っているし、戦艦のマストのてっぺんで見張りがうとうとしているだけだ。巡洋艦や小型の艦船には見張りはおいてない。大きな船の見張りがほかの見張りの役目も兼ねるのだ。いまちょうど夜だ」
「しかし、暗くないじゃないか! どうして夜なんだ」と私は叫んだ。
ゾダールは微笑した。
「きみは、ここが地面のずっと下だということを忘れている。太陽の光はここまではとどかないんだ。オメアンの海面には月も星も映らない。いまきみが見ているこの巨大な地下のドーム一杯に広がっている青白い光は、ドームを形づくっている岩石から出ているのだ。オメアンの海ではいつでもこのとおりさ。ちょうど風のない海に波がいつもあのように打ち寄せつづけているのと同じようにね。
上の世界で夜と定められている時間には、ここで仕事をしている連中も眠ることになっている。しかし、明るさはいつでも同じなのだ」
「それでは、脱出はますますむずかしくなるな」と私は言って、肩をすくめた。なあに、むずかしいほうが、楽しみも増すというものだ。
「今夜は眠って、あしたまた考えることにしよう」とゾダールは言った。「目が覚めれば名案を思いつくかもしれない」
そこで、私たちは牢獄の固い石の床に横たわり、たちまち深い眠りに落ちた。
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十一 地獄の反乱
翌朝早く、ゾダールと私は脱出計画をねりはじめた。まず第一に、ゾダールにできるだけ正確な南極地方の地図を監房の石の床の上に書いてもらった。書く道具はありあわせのものを使った――私の装具についている締め金と、サトール・スロッグから分捕った不思議な宝石のとがった角である。
私はこの地図をもとにして、ヘリウムのだいたいの方角と、オメアン海の出入口からヘリウムまでの距離を割りだした。
次に、シャドール島の位置と、この地底の国のドームを抜けて外界へ通じる|たて《ヽヽ》穴の位置を明確に示したオメアン海の地図を、またゾダールに書いてもらった。
私はこの地図をよく検討して、すっかり頭にきざみこんだ。それから、シャドール島の警戒に当たっている番兵たちの勤務規程についてゾダールから話を聞いた。それによると、一定の睡眠時間中は一人ずつ勤務についているだけで、それも牢獄の建物から百フィートほど離れたところをまわって歩くのが巡回区域になっているという。
また、見張りの歩き方は非常にゆっくりしていて、一まわりするのに十分近くはかかるとゾダールは言った。このことは、見張りが牢獄の一方の側をのろのろ歩いているとき、その反対側は五分間だけ監視されていないのも同然ということを意味していた。
「きみが知ろうとしていることは」とゾダールは言った。「われわれがこの壁の外へ出たあとなら大いに役に立つだろう。しかし、ここから出るという何よりも肝心な問題に関係のあることは、ちっともきかないじゃないか」
「ちゃんと出られるよ」と私は笑いながら答えた。「そいつは私にまかせてくれ」
「いつやるんだ」
「シャドール島の海岸の近くに小型飛行船が係留してあるのを見つけたら、その晩さっそくだ」
「しかし、シャドール島の近くに飛行船が係留されているなんてことが、どうやってわかるんだ。窓はあんなに高くて、とても手はとどかないぞ」
「そんなことはない、ゾダール。ほら!」
私はひと跳びに、向かい側の窓の鉄棒に飛びつくと、すばやく外の様子を観察した。
数隻の小型船と、二隻の大きな戦艦がシャドール島から百ヤードたらずのところに停泊していた。
「今夜だ」と私は思った。その決定をゾダールに伝えようと口を開きかけたとき、だしぬけに牢獄のドアが開いて、一人の番兵がはいってきた。
いま窓に飛びついている私の姿をこいつに見られたら、脱出の見込みはたちまち消えてしまうだろう。私が地球人の体力のおかげで火星上では驚くべき身軽さを発揮できるということを少しでも感づかれたら、私は手かせ足かせをはめられてしまうにちがいない。
はいってきた番兵は私のほうに背を向け、部屋の真中を向いて立っていた。私の頭上五フィートのところには、この獄房と隣の獄房とを隔てている仕切り壁の頂上があった。
番兵の目をのがれるチャンスはそこにしかなかった。番兵が振り返れば何もかも終わりだし、飛びおりればぶつかってしまうほどすぐ下にいるので、気づかれずに飛びおりることもできない。
「白い男はどこへいった」と番兵は大声でゾダールにきいた。「イサスさまがお召しだぞ」番兵は部屋の中を見まわそうとした。
私は窓の鉄格子をよじのぼって、片足をしっかりと窓の下|枠《わく》にかけると、手をはなして仕切り壁の頂上に飛びついた。
「あれは何だ」番兵が太く低い声でどなるのが聞こえた。私が向こう側へすべりおりたとき、装具の金属が石の壁をこすって耳ざわりな音をたてたのだ。そして私は隣室の床の上に身軽に飛びおりていた。
「白い奴隷はどこへいったんだ」と番兵がまた叫んだ。
「知らないな」とゾダールが答えた。「おまえがはいってきたときは、まだここにいたがね。おれはあいつの番人じゃないからな――さがしてみろよ」
番兵は何やらわけのわからぬことをぶつぶつ言っていたが、やがてドアの錠をはずして向こう側の獄房へはいってゆく音が聞こえた。じっと耳をすませていた私は、そのドアがしまる音を聞くと、ふたたび仕切り壁の上へ飛びあがって、びっくりしているゾダールのそばへ飛びおりた。
「どうやって脱出するか、もうわかったろう」と私は小声で言った。
「きみがどうやるのかはわかったよ。しかし、私にこの壁がどうやってこえられるのかは、やっぱりわからない。きみのように跳びこえるわけにいかないことは確かだからね」
番兵が獄房を次々に歩きまわっている音が聞こえていたが、やがて、ひとまわりしたと見えて、ふたたび私たちの部屋にはいってきた。番兵は私の姿を見るなり、大目玉をむいてどなった。
「いったい、どこへいってやがったんだ」
「きのう、きみにこの牢獄へいれられてからずっとこの中にいるぜ」と私は答えた。「きみがはいってきたときも、この部屋にいたよ。視力に気をつけたほうがいいんじゃないか」
番兵は怒りと安堵のいりまじった顔つきで私をにらみつけた。
「さあ、こい。イサスさまがお召しだ」
番兵はゾダールを残して、私を牢獄の外に連れだした。外には、ほかの番兵が五、六人と、別の獄房にいた赤色人の少年がいた。
ふたたび前日と同じイサス神殿へ行く道筋をたどって、私たちは出発した。護衛の連中は赤色人と私を引き離していたので、前の晩に中断された少年との会話をつづける機会はなかった。
この少年の顔は最初に会ったときから気になっていた。いったい、どこで会ったのだろう。少年の物腰、しゃべり方、身ぶりなどあらゆる点に何か妙に見覚えがあった。絶対にこの少年を知っていると断言してもいいくらいだったが、しかも、前に決して会ったことがないということもわかっていたのである。
イサスの庭園に着くと、神殿とは反対の方角へ連れて行かれた。曲がりくねった道をたどって、うっとりするほど美しい公園の中を抜けてゆくと、空高く百フィートもそびえ立つ巨大な壁に行きあたった。
どっしりした大きな門をくぐると、小さな草原へ出た。まわりには、|黄金の断崖《ヽヽヽヽヽ》のふもとで見たような華麗な森が広がっていた。
大勢の黒色人が、護衛が私たちを連れてゆくのと同じ方角にむかってぶらぶら歩いていた。その群れの中には、おなじみの植物人間や大白ザルもまじっていた。
野獣たちは群衆の中を飼い犬のように動きまわっていた。彼らに道を邪魔されると、黒色人たちは荒々しく押しのけたり、剣を横に寝かせてぴしゃりとたたいたりした。そのたびに野獣どもはひどくおびえた様子でこそこそ逃げた。
やがて、目的地にやってきた。それは、庭園の防壁から半マイルほど先の、平原の向こう端にある巨大な円形闘技場だった。
黒色人たちは、どっしりしたアーチ形の門からぞくぞくと観覧席へはいっていった。いっぽう私たちは、この建物の片方の端近くにあるもっと小さな入口へ連れて行かれた。
ここから私たちは観覧席の下にある囲いの中にはいった。そこには多数の捕虜が集まり、監視されていた。手かせや足かせをはめられている者もいたが、大部分の者は見張りがいることだけですっかりおびえ、逃げだそうという気力も全然なさそうだった。
シャドール島からここまでくる途中、連れの少年と話をする機会はなかったが、この厳重に|かんぬき《ヽヽヽヽ》のかかった囲いの中へ私たちを入れてしまうと、見張りも警戒をゆるめたので、私は妙に気をひかれる赤色人の少年に近づくことができた。
「この集まりは何をやろうというのだろう」と私は少年にきいた。「私たちはファースト・ボーンを啓発するために戦うことになるのかな。それとも、何かもっと悪いことかな」
「イサスの毎月の儀式の一つです」と少年は答えた。「黒色人たちが外界の人間の血で自分たちの魂の罪を洗い落とすのです。試合の結果、たまたま黒色人が殺されると、それはイサスに対する不忠実、つまり許しがたい罪の証拠ということになります。その反対に、生き残れば、このいわゆる儀式の宣告を受けることになった告発そのものを取り下げてもらえるのです。
試合の形式はいろいろあります。何人かの捕虜が同数の黒色人と戦わされることもあるし、相手の人数が倍になることもあります。あるいは、たった一人で猛獣に立ち向かわされることもあれば、名高い黒色人戦士の相手をさせられることもあります」
「それで、もしこっちが勝ったら、どうなるんだ――自由になれるのか」
少年は笑った。
「いかにも行きつく先は自由ですよ。ぼくたち捕虜にとって自由とは死ぬことだけですからね。ファースト・ボーンの領土にはいった人間で、生きて出ていった者はまだ一人もいません。試合で、腕のある戦士だということを証明すれば、しばしば戦わされるようになります。ですから、よほどすばらしい戦士でない限り――」少年は肩をすくめた。「遅かれ早かれ、闘技場で死ぬことになります」
「それできみは何度も戦ったわけか」
「ええ、何度も何度もね。これは、ぼくのたった一つの楽しみですよ。一年近くイサスの儀式に出ている間に、百人ばかりの黒ん坊を仕止めました。ぼくが父の腕前を立派に受けついでいることを母が知ったら、さぞ満足してくれることでしょう」
「きみの父上はすばらしい戦士だったにちがいない! 私は同時代のバルスームの戦士ならたいてい知っているから、きっときみの父上も知っているはずだ。なんという人かね」
「ぼくの父は――」
「こい、畜生《キャロット》ども!」と、見張りの一人が荒々しくどなった。「おまえたちが殺される番だぞ」私たちは急な坂になった通路のほうへ乱暴に押しやられた。この通路のずっと下に部屋があり、そこから闘技場へすぐ出られるようになっていた。
この闘技場は、私がこれまでバルスームで見たすべての闘技場と同じように、地面に大きな穴を掘って作ったものだった。地面より上にあるのは、外側から見ると穴を取り巻く低い防壁のようになっている最上部の観客席だけで、闘技場そのものは地面よりずっと低いところにある。
一番低い最前列の座席のすぐ下には、闘技場の地面と同じ高さに檻《おり》がいくつも並んでいた。私たちはみんなこの檻の中に追いこまれた。だが、あいにく、私と同じ檻の中にいれられた捕虜のなかにはあの若い友人はいなかった。
私の檻のちょうど向かい側にイサスの玉座があった。あの恐ろしい怪物はそこにうずくまり、宝石をちりばめた飾りを身につけた百人ほどの女奴隷がそのまわりを囲んでいた。さまざまな色合いと珍しい模様のきらびやかな布地が、イサスが身をもたせかけている玉座をやわらかなクッションのように覆《おお》っていた。
玉座の四方と、その数フィート下には、重武装の親衛隊員がぎっしりと三列に並んで立っていた。その前方には、このにせの天国の高位高官連中――高価な宝石で身を飾り、額に金の輪の階級章をつけた盛装の黒色人たちが並んでいた。
玉座の両側には、観覧席を上から下までぎっしり埋めつくした人波がずっと広がっていた。男も女も人数は同じくらいで、めいめい地位と家柄を示すすばらしい細工の装具を身につけていた。どの黒色人も、サーンの領土や外の世界からさらってきた奴隷を一人ないし三人は従えていた。黒色人は一人残らず「貴族」なのだ。ファースト・ボーンには小作人階級はいない。一兵卒でも神であり、奴隷の主人なのである。
ファースト・ボーンは働かない。男たちは戦うだけである――イサスのために戦い、イサスのために死ぬこと、それが神聖な特権であり義務である。奴隷たちは彼らの体を洗い、身仕度や食事の世話をする。自分のかわりにしゃべる奴隷を持っている者さえいる。この儀式の最中に見かけたある黒色人などは、自分は終始目を閉じてすわりながら、そばの奴隷に闘技場で進行している出来事をいちいち報告させていた。
この日の最初の行事はイサスへの生贄《いけにえ》献上だった。つまり、ちょうど一年前に女神の聖なる姿を目にした不運な者たちが哀れな最期を遂げるときがきたのだ。犠牲者は、偉大な皇帝《ジェダック》の宮廷やホーリー・サーンの寺院からさらわれてきた十人のすばらしい美女だった。彼女たちは一年間、奴隷としてイサスのそば近くに仕え、その栄誉の代償として、きょう命を捧げることになったのである。そして明日は廷臣たちの食卓を飾ることだろう。
大男の黒色人が一人、女たちといっしょに闘技場にはいってきた。大男は女たちの手足をなでまわしたり胸をつついたりして、入念に体を調べた。やがて、一人の女を選びだすと、イサスの玉座の前に連れて行った。大男は何やら二言三言、女神に言った。イサスはうなずいた。大男は両手を頭の上にあげて敬礼をすると、娘の手首をつかんで、玉座の下の小さな戸口から闘技場の外へ引っぱって行った。
「イサスは今夜、ご馳走にありつけるな」と、私のそばにいる捕虜が言った。
「何のことだ」と私はきいた。
「いまサビスの老いぼれが調理場へ連れて行ったのがイサスの今夜のご馳走だよ。サビスがどんなに念を入れて、いちばん肉づきのいい、柔らかそうな女を選んだか、気がつかなかったのかね」
私は向こう側の豪華な玉座にすわっている怪物に向かって憤然とののしり声をあげた。
「むきになるな」と、その相棒は忠告した。「ファースト・ボーンの中で一か月も暮らしていれば、もっとずっとひどいことにお目にかかるさ」
私が向きなおると、ちょうどすぐ近くの檻の扉がぱっと開かれて、三匹のばかでかい白ザルが闘技場に飛びだすところだった。娘たちは闘技場のまん中でひとかたまりになり、恐怖にちぢみあがっていた。
娘の一人は膝まずき、両手をイサスのほうにさしのべて哀願した。しかし、恐ろしい神はいよいよ始まる面白い見ものにうずうずして身を乗りだしただけだった。ついに白ザルどもは、恐怖に打ちのめされて身を寄せ合う女たちを見つけると、残忍な悪魔のような金切り声をあげて襲いかかり始めた。
すさまじい激怒の波が私の全身を駆けめぐった。権力に酔いしれて、このような恐ろしい責め苦を思いつく邪悪な心の持主の卑劣さを目の前にして、心の奥底から憤りと勇気が湧き起こってきた。眼前には、私の敵の死を予告するあの血のように赤い|もや《ヽヽ》が漂いはじめた。
見張りの男は、私が閉じこめられている檻の|かんぬき《ヽヽヽヽ》のかかっていない扉の前で、のんびりかまえていた。考えてみれば、檻の扉に|かんぬき《ヽヽヽヽ》をかけて、哀れな犠牲者たちが神々の布告により自分たちの死場所と決められている闘技場へ飛びださないようにする必要は、どこにもありはしなかったのだ!
その見張りの黒色人は一発くらわしただけで気を失って倒れた。彼の長剣をもぎとって、私は闘技場に飛びだした。白ザルどもはいまにも娘たちに飛びかかろうとしていた。しかし、地球人のすばらしい跳躍力で二回はねあがると、もう砂をまき散らした闘技場の中央に到着してしまった。
一瞬、巨大な円形闘技場は静まりかえった。と、次の瞬間、不運な犠牲者たちの檻から激しい喊声《かんせい》がわき起こった。私の長剣がさっと閃《ひらめ》いて空中に円を描いた。頭のなくなった大白ザルが一匹、気絶しかけている娘たちの足もとにぶざまな格好で倒れた。
残りの白ザルどもは、いまでは私に向かってきた。私がそれに立ち向かおうとしたとき、檻の中からの喝采に対抗して、観衆の怒号がわき起こった。横目で見ると、二十人ばかりの衛兵がきらめく砂を蹴たてて私のほうに突進してくるところだった。そのとたんに、彼らの背後にある檻の一つから飛びだす人影があった。私がその人柄にひきつけられた赤色人の少年だった。
彼は長剣を振りかざしながら、並んでいる檻の前でちょっと立ちどまって叫んだ。
「さあ、外から来た諸君、どうせ死ぬなら、やれるだけのことはやろうじゃないか。この見知らぬ戦士の後につづいて、今日のイサスへの生贄《いけにえ》献上を復讐の修羅《しゅら》場に変えてやろう。そして、遠い後《のち》の世までもイサスの儀式が繰り返されるたびに黒い肌が青ざめるほどやつらに思い知らせてやろう。さあ! 檻の外の架台には剣がいっぱいあるぞ」
この呼びかけの反応を待とうともせず、少年は身をひるがえして私のほうへ飛びだした。同時に、赤色人たちが閉じこめられている檻という檻から、少年の呼びかけに応えて雷のような叫びがとどろきわたった。檻の中にいた見張りはたちまち怒号する暴徒の群れに打ち倒され、血を求めて猛り狂った捕虜たちはどっと檻からあふれだした。
外に並んでいた架台の剣はまたたくうちに一本もなくなった。本来、これらの剣は、捕虜たちが割り当てられた試合に出るときに持たされるものなのだ。だが、いまや決死の覚悟の戦士たちは私たちの加勢をしようといっせいに走りだした。
身の丈《たけ》十五フィートもある巨体をすっくとのばして立ち向かってきた大白ザルどもは、早くも私の剣を浴びて倒れていた。突進してくる衛兵の群れとはまだ少し間合いがあった。衛兵たちを追って、赤色人の少年がすぐうしろまで迫っている。私の背後には若い女たちがいた。私が戦いはじめたのはこの娘たちのためなのだから、あくまでここに踏みとどまって、避けがたい死を迎えなければならないと思った。しかし、その前に、ファースト・ボーンの国に永久に伝わるようなめざましい活躍を見せてやろうと決心した。
そのとき私は、衛兵たちを追跡している赤色人の少年のすばらしい速さに気がついた。こんな速さで走る火星人は、いまだかつて見たことがなかった。あの遠い昔の、私が初めて火星にやってきた日に、私をつかまえた緑色人たちに地球人の体力のすばらしさを見せて畏敬《いけい》の念を起こさせたことがあったが、この少年の跳躍ぶりはあのときの私の跳躍にほとんど劣らないものだった。
衛兵たちが私のところまで到着しないうちに、少年は背後から彼らに襲いかかった。その攻撃のすさまじさに、十人もの敵が攻めてきたかと思ったらしく、衛兵たちはいっせいに振り返った。とたんに私も彼らに向かって突撃した。
それから始まった目まぐるしい戦闘のあいだ、当面の敵の動き以外のことに目を向ける余裕はほとんどなかったが、それでもときどき、うなりをたてて閃く少年の剣や、鋼《はがね》のように強く弾力のある体で身軽に飛びまわる姿がちらちら目にはいった。すると、私の心は奇妙ななつかしさと、強烈な、しかし説明のつかない誇りで一杯になった。
少年はその美しい顔に無気味な微笑を浮かべ、ときどき、向かってくる敵をののしっては挑発していた。こんな点や、そのほかいろいろな点で、彼の戦いぶりは、いつも戦場で私の特徴となった戦いぶりと似ていた。
おそらく、私がこの少年に好意を持ったのは、こんなふうにどことなく自分に似ていたせいだろう。と同時に、彼が剣をふるって黒色人たちをばたばたなぎ倒すのを見ると、私の心には彼に対する敬意がかぎりなく溢れてくるのだった。
私のほうは、これまでに幾度となく戦った戦闘をまた繰り返していた――敵の激しい突きを一歩横に寄ってかわしたかと思えば、たちまち、さっと踏みこんで剣先を敵の胸に深々と突きさし、次の瞬間には別の相手の喉を刺しつらぬく。
私と少年の二人が楽しむように戦っているうちに、イサスの親衛隊の大軍が命令を受けて闘技場に乗りこんできた。彼らがすさまじい叫びをあげて押し寄せてくると、これに対抗して四方八方から武器を手にした捕虜の群れが襲いかかっていった。
三十分ほどの間、まるで地獄がひっくりかえったような大混乱がつづいた。壁に囲まれた闘技場で敵味方一団になっての乱戦が繰り広げられた――わめき、ののしり、血にまみれて荒れ狂う悪鬼の群れ。そして、私のそばではたえず赤色人の少年の剣が閃いていた。
私は何度も大声で命令を繰り返したあげく、囚人たちに徐々に戦闘隊形をとらせ、不運な娘たちを大ざっぱな円陣のまん中にいれて戦うことができるようになった。
敵味方いずれの側でも、多数の者が倒れた。しかし、イサスの親衛隊がこうむった打撃のほうがはるかに大きかった。観覧席の間をすばやく走りまわる伝令の姿が見えた。伝令が通りすぎたあとから貴族たちが次々に剣を抜いて闘技場に飛びだしてきた。やつらは数にものをいわせて、こっちを皆殺しにしようというのだ――彼らがそれをもくろんでいることは、いまや歴然としていた。
玉座から身を乗りだしているイサスの姿がちらと目にはいった。その醜悪きわまる顔は憎悪と怒りにひどくゆがんでいたが、そのなかに恐怖の表情が読みとれたような気がした。それに力を得て、私は次のような行動に移った。
私はすばやく命令をくだして五十人ほどの捕虜をわれわれの背後に後退させ、娘たちのまわりに新たな円陣を作らせた。
「もどってくるまで、ここで娘たちを守っていてくれ」と私は命令した。
それから、外側の円陣を作っている者たちに向かって叫んだ。
「イサスをやっつけろ! 私につづいて玉座へ突撃しろ。正義の復讐だ」
私のそばにいた少年がまっさきにこれに応じて「イサスをやっつけろ!」と叫んだ。つづいて背後からも右や左からも騒然と叫び声が起こった。「玉座へ行け! 玉座へ行け!」
われわれは強力無比な戦う肉のかたまりとなって、死体や瀕死の敵兵の体をのりこえ、火星の神の豪華な玉座に向かって進んだ。われわれの進撃を食いとめようとして、ファースト・ボーン最強の戦士の群れが観覧席からなだれこんできたが、われわれは彼らをまるで張り子の人形のようになぎ倒した。
「わかれて座席のほうへも行け!」闘技場の防壁に近づくと、私は叫んだ。「玉座は十人いれば占領できる」イサスの親衛隊が大部分、闘技場内の乱戦に飛びこんでしまったことはわかっていた。
私の両側から、捕虜の群れが左右にわかれて飛びだし、血のしたたる剣をふりかざして低い防壁を飛びこえ、新たな犠牲者を求めて観覧席に躍りこんでいった。
たちまち、円形闘技場全体に断末魔の絶叫や負傷者の悲鳴がみなぎり、それに入りまじって剣の打ち合う響きや、勝利者の意気高らかな大声がとどろきわたった。
赤色人の少年と私は肩を並べて、ほかの十人あまりの者たちとともに、血路を切り開き玉座の下まで進んだ。残っていた親衛隊員たちはファースト・ボーンの高官や貴族の応援をうけて、われわれとイサスの間に割りこんできた。イサスはソラプス材を刻んで作ったベンチから大きく身を乗りだしながら、金切り声を上げてそばの従者に命令し、自分の神性を冒涜しようとする者たちに呪いの言葉を浴びせかけた。
イサスのまわりにいる女奴隷たちは、私たちの勝利を祈ったものやら敗北を祈ったものやらわからぬままに、目を見張って恐怖に身を震わせていた。だが、その中の数人は、明らかにバルスームの立派な戦士の誇り高き娘だったらしく、戦死者の手から剣をもぎとってイサスの親衛隊員に襲いかかった。しかし彼女たちはすぐに切り倒された。むなしい栄光に殉じた女たちである。
味方の者たちはみんな立派に戦った。しかし、あの長い暑い日の午後、サークの都の前の涸れた海の底で、タルス・タルカスと私が肩を並べてウォーフーン族の群れと戦ったとき以来、この日、|死と永遠の生命の女神《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》イサスの玉座の前で戦った赤色人の少年と私のように獅子奮迅の無敵ぶりを発揮して見事に戦った戦士はほかに例があるまい。
われわれとソラプス材のベンチとの間に立ちふさがる男たちは、一人また一人と切り倒されていった。その劣勢を挽回《ばんかい》しようと、ほかの連中が集まってきたが、われわれはなおも一歩一歩、目標に向かってにじり寄っていった。
まもなく、近くの観覧席の一角から叫び声があがった――「立て、奴隷たち!」「立て、奴隷たち!」その叫びはいくたびか強まったり弱まったりしているうちに、ついにすさまじい壮大な響きに高まって、怒濤《どとう》のように円形闘技場のすみずみにまでとどろきわたった。
一瞬、まるで申し合わせたかのように、私たちは戦闘を中断して、この新しい叫びの意味をつきとめようとした。だが、それはたちどころにわかった。闘技場の建物のいたるところで、女奴隷たちが手当たり次第の武器をとり自分たちの主人に襲いかかっていたのである。一人の美しい奴隷は女主人の装具から短剣を奪いとり、持ち主の血で染まった白刃を高々と振りかざしていた。まわりに散らばる死体からもぎとった剣や、棍棒がわりに使える重い装飾品――こうしたものを武器にして美しい女たちは積もり積もった恨みを晴らしていた。しかし、黒色人の主人たちから加えられた言語に絶する残虐と屈辱を思えば、いま恨みを晴らせるのはせいぜいその一部にすぎないだろう。武器らしい武器を見つけることができない女奴隷たちは、自分の強い指と白く光る歯を武器にした。
それは、ぞっとするような光景であるとともに、喝采したくなる眺めだった。しかし、私たちはすぐに自分の戦いにもどった。ただ、その後も消えることなくわき起こる「立て、奴隷たち!」「立て、奴隷たち!」という女たちの喊声《かんせい》だけが、彼女たちが依然として戦っていることをわれわれに告げていた。
いまや、われわれとイサスの間にはわずか一並びの戦士がまばらに立っているだけだった。イサスの顔は恐怖に青ざめ、口からは泡《あわ》を吹いていた。恐怖のあまり体がしびれて動けないらしい。もはや戦っているのは少年と私だけだった。ほかの者はことごとく倒れてしまった。私にしても、一人の敵が長剣で激しく切りかかってきたときには、すんでのところでやられそうになった。ただ私めがけて剣が振りおろされる瞬間、敵の背後から何者かの手がさっとのびて、そいつの肘《ひじ》を押えてくれた。とたんに赤色人の少年が私の横へ飛びこんできて、敵にもう一度切りつけてくる余裕を与えず、刺し殺した。
その手の助けがなかったら、私はこのときすでに死んでいたに相違ない。なにしろ、私の剣は一人のファースト・ボーンのダトールの胸骨に食いこんだまま抜けなくなっていたのである。少年に刺された敵が倒れると、私はそいつの剣をもぎとり、死体ごしに、この敵の一撃から私を救ってくれた手の持ち主の目をのぞきこんだ――それはマタイ・シャンの娘ファイドールだった。
「逃げて、王子さま!」と彼女は叫んだ。「これ以上、戦ってもむだなことよ。闘技場の中の者はみんな死んだわ。玉座を攻撃した者も、あなたとその若い人のほかは残らず死んだわ。ただ観覧席の中には、あなたたちの味方がいくらか残っているけれど、その人たちも女奴隷たちもどんどん切り倒されているわ。ほら! 女たちの叫び声もほとんど聞こえないでしょう。ほとんど全部死んでしまったのよ。ファースト・ボーンの領土内には、あなたたちの一人に対して一万人もの黒色人がいるわ。外へ逃げて。コルスの海へ逃げてちょうだい。あなたのすばらしい剣の腕前があれば、まだ脱出して、黄金の断崖やホーリー・サーンの寺院の庭までたどりつけるかもしれない。向こうへ着いたら、わたしの父のマタイ・シャンに事情を話してほしいの。父はあなたを保護してくれるわ。そして父の助けを借りれば、わたしを救いだす方法も見つかるかもしれないわ。さあ、ほんの少しでも、まだ逃げるチャンスがあるうちに逃げて」
しかし、それは私の果たすべき使命ではなかったし、ファースト・ボーンよりホーリー・サーンのほうが結構なもてなしをしてくれるとは、とうてい思えなかった。
「イサスをやっつけろ!」私はそう叫ぶと、赤色人の少年とともにふたたび戦いはじめた。二人の黒色人が私たちの剣を急所に受けて倒れると、ついにイサスと向かい合って立った。その恐るべき生涯にとどめをさしてやろうと私が剣を振りかぶったとたんに、麻痺していた体が動くようになったらしく、イサスは耳をつんざくような悲鳴をあげると、身をひるがえして逃げだした。イサスのすぐ背後の壇の床が急にぱっと口をあけ、黒い穴が現われた。イサスはその穴をめがけて飛び、少年と私はすぐあとを追った。イサスの悲鳴を聞いて、散らばっていた親衛隊員たちがいっせいに私たちのほうへ突進してきた。少年は頭に一撃を受けた。よろめいて倒れそうになったが、私が左腕でその体を受けとめた。そして、私が女神に加えた侮辱のために怒り狂っている狂信者の群れのほうを振り返った。その瞬間、イサスは私の足もとの真暗な深い穴の中へ姿を消した。
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十二 死の運命
私は一瞬、立ちどまったが、たちまち敵が襲いかかってきたので、一、二歩さがらなければならなかった。足は床を踏もうとしたが、そこには床がなかった。イサスが姿を消した穴の中へ足をつっこんだのである。穴のふちでちょっとよろめき、次の瞬間、私も腕に少年を抱きしめたまま、仰向けに、真暗な底知れぬ穴の中へ落ちていった。
墜落したところは、つるつるした滑り台のようなものの上だった。とたんに頭上の穴は、開いたときと同じく魔法のように閉まった。そして私たちの体は矢のように流れて、かすり傷一つ負わずに、闘技場のはるか下の薄暗い部屋へ滑りおりていった。
立ちあがったとき、まっさきに目にはいったのは、部屋の片側にある頑丈な鉄格子のはまった扉の向こうから私をにらみつけている憎悪にゆがんだイサスの顔だった。
「向こう見ずの愚か者め!」とイサスは金切り声をあげた。「おまえのような罰当たりには、この秘密の部屋で恐ろしい天罰を与えてやる。この暗闇の中に、腐りただれてゆく仲間の死体といっしょに置き去りにしてやる。いまに孤独と飢えに気が狂って、死体からわいてくるウジムシを食らうようになるのだ」
それだけだった。すぐにイサスは行ってしまった。そして部屋の薄明かりがすうっと消え、あたりは真の闇に包まれた。
「面白い婆さんだ」と、私のそばで声がした。
「だれだ、そこにいるのは」と私はきいた。
「ぼくです。きょう、光栄にもバルスーム史上もっとも偉大な戦士と肩を並べて戦ったあなたの仲間ですよ」
「ありがたい。きみは死んではいなかったのだな。なにしろ頭をひどく切られたようだったから、心配していたのだ」
「気絶しただけです。ただのかすり傷です」
「しかし、いっそ致命傷のほうがましだったかもしれない。私たちはここで、どうみても飢えと渇きで死ぬほかはなさそうな、とんでもない羽目に陥ったらしいのだ」
「ここはどこなんです」
「闘技場の下だ。もう少しでイサスをやっつけそうになったとき、イサスが飛びこんだ穴の中へ、こっちもころがりこんだのだ」
少年は低い声で笑った。愉快そうな、ほっとした感じの笑い方だった。そして、真暗闇の中で手をのばし、私の肩をつかむと、私の耳もとに口を近づけた。
「それなら、じつにうまいことになりました」と彼はささやいた。「この秘密の穴には、イサス自身も知らない秘密があるんです」
「どういうことだね」
「ぼくは一年前に、ほかの奴隷たちといっしょに、この地下の回廊を改造する仕事をやりました。そのとき、長年のあいだ密閉されたままになっていた大昔の部屋と通路がこの下にあるのを発見したのです。仕事の監督をしていた黒色人たちはそこを調べるときに、何か仕事があったらやらせようと思って、ぼくたち数人の者をいっしょに連れていきました。だから、ぼくはその地下の様子をすっかり知っているのです。
イサスの庭園と神殿の地下には何マイルもの回廊がハチの巣のように広がっています。そして、そこから一本の通路がのびて更に下の地域とつながり、水中通路をたどればオメアン海に抜けられるようになっているのです。
もし見つからずに潜水艦まで行くことができれば、海に出ることもできるでしょう。海には、黒色人たちが決して行かない島がたくさんあります。そこでしばらく暮らしてもいいでしょう。そうすれば、どんなことがチャンスになって脱出できないともかぎりませんからね」
少年は、こんな場所でさえ盗み聞きされるかもしれないというように、低いささやき声で話をした。そこで私も同じように声をひそめて答えた。
「きみ、もう一度シャドール島へ連れていってくれ。あそこには黒色人のゾダールがいるんだ。私たちはいっしょに逃げることにしていた。だから、彼を見捨てるわけにはいかないのだ」
「そうですね、友人を見捨てるわけにはいきません。それくらいなら、もう一度つかまったほうがましですからね」
それから若者は真っ暗な部屋の床を手さぐりではいまわり、下の回廊に通じる秘密の入口を捜しはじめた。やがて小声で私を呼ぶ声がしたので、声のしたほうへはってゆくと、彼は床の穴のふちに膝まずいていた。
「この穴から下まで十フィートぐらいあります」と少年はささやいた。「両手でぶらさがりながら飛びおりてください。そうすれば平らな柔らかい砂地へ無事におりられます」
私は真っ暗な部屋から下の真っ暗な穴の中へ、そろそろと体を沈めていった。周囲はまったくの暗黒で、鼻先一インチのところにある自分の手も見えないほどだった。この穴ほど完全に光のない場所にお目にかかるのは、生まれてはじめてのことだった。
ほんの一瞬、私は宙にぶらさがっていた。言葉で説明するのがひどくむずかしいような種類の経験には、奇妙な感じがつきまとうものだ。両足がむなしく空を蹴り、その下はすっかり暗黒に包まれているというとき、手をはなして底知れぬ穴の中へ飛びこむことを考えると、ひどくうろたえた気分にならないではいられない。
少年の話では、下の床まで十フィートしかないということだったが、私はまるで地獄の口にぶらさがっているような戦慄を感じた。それから手をはなして、落ちた――柔らかな砂地までは四フィートしかなかった。
つづいて少年も飛びおりた。
「あなたの肩のあたりまで、ぼくを持ち上げてください」と少年は言った。「穴の蓋を元通りにしておきますから」
それがすむと、少年は私の手をとって、きわめてゆっくりと進みだしたが、しきりにあたりを探りまわったり、何度も足を止めたりして、間違った通路へ迷いこまないように気をくばった。
まもなく、ひどく急な坂道をくだりはじめた。
「もうすぐ明るくなってきます」と少年は言った。「下のほうが、オメアン海を照らしている燐光性の岩の層になってくるのです」
このイサスの地下穴を通り抜けたときのことは一生忘れられないだろうと思う。べつに事件らしい事件は何も起こらなかったのだが、私にとっては興奮と冒険の不思議な魅力にみちあふれた道中だった。私がそんな魅力を感じたのは、もっぱら、この長いあいだ忘れられていた通路が想像もつかないほど古い時代のものだということのためにちがいなかった。地獄の暗黒に包まれて肉眼には見えなかったものも、私の想像力によって描きだされた光景のすばらしさに比べれば半分の値打ちもなかっただろう。私の空想の中には、この滅びゆく世界の古代民族の姿が生き生きと甦り、彼らが涸れた海の底に群がる種族に対抗する最後の砦《とりで》を築くために駆使した労力、陰謀、秘密、残虐性などがありありと浮かんできた。涸れた海の種族に次第に追いまくられて、ついにこの遊星の極地に逃げこんだ彼らは、ここに何人《なんぴと》も打ち破れない堅固な迷信の防壁をはりめぐらして身を守っていたのである。
古代のバルスームには、緑色人のほかに三つの主要種族――黒色人、白色人、黄色人――がいた。この遊星の水が涸れ、海が小さくなってゆくにつれて、ほかのあらゆる資源も減少し、ついに火星上の生物は生きのびるために絶えず戦うようになった。
長い年月の間、さまざまな種族がたがいに戦いをしかけて争ったが、三つの高等種族は海岸地域に住む野蛮な緑色人を簡単に打ち破った。しかし、海が次第に後退してゆくために、彼らはその防備を固めた都市を次々に捨てていかなければならなかったので、多少とも放浪生活を送らざるをえなくなり、その結果、小さな集団に分散すると、たちまち獰猛な緑色人部族の餌食《えじき》になってしまった。そしてつまるところ、一部の黒色人、白色人、黄色人の融合した生活が行なわれ、その混血によって生まれたのが現在のすばらしい赤色人種なのである。
私はこれまでずっと、古代の種族は火星の表面から完全に姿を消して跡形もなくなったものと思っていた。それがこの四日の間に、白色人も黒色人も無数にいることがわかった。ひょっとすると、この遊星のどこか遠い片隅《かたすみ》には古代の黄色人種の生き残りがまだいるのではなかろうか。
とつぜん、少年が小さな叫び声をあげたので、私の夢想は破られた。
「やっと明るいところへ出ました」
見ると、はるか行く手に薄明るい光がさしていた。
その光は進むにつれて次第に明るさを増し、やがて、まばゆい光にあふれた通路に出た。それから先は進み方も速くなり、やがて急に通路が途絶えたかと思うと、たちまち潜水艦のプールを囲む岩棚の上に出た。
潜水艦は昇降口の蓋をあけたまま停泊していた。少年は人さし指を口にあて、意味ありげに剣をたたくと、足音を忍ばせて船に近づいていった。私もすぐあとにつづいた。
私たちはそっと人気《ひとけ》のない甲板におり、四つんばいになって昇降口のほうへ近寄った。内部をのぞいてみると、見張りの姿はなかった。そこで二人は猫のようにすばやく、音もなく中部船室にはいりこんだ。ここにも人影はなかった。急いで昇降口の蓋を閉め、しっかりと錠をおろした。
それから少年は操舵室にはいって、ボタンを押した。船は水中に渦を巻き起こしながら水路の底に沈んでいった。そのときになっても、予期したような駆け寄ってくる足音は聞こえなかった。私は少年を操舵室に残して、船室を次から次へと通り抜け乗組員の影をさがしたが、むだだった。この船の乗組員は一人残らず姿を消している。こんな幸運にぶつかるとは、ほとんど信じられない気がした。
このいい知らせを少年にも伝えようと操舵室へもどってくると、彼は私に一枚の紙片を渡した。
「乗組員がいないのは、このせいでしょう」
それは潜水艦の艦長あての無線通信だった。
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奴隷が反乱を起こした。指揮下の兵全員と、途中で集められるだけの人員を連れて、ただちにこられたし。オメアンから援軍を呼ぶのでは遅すぎる。闘技場内の者は皆殺しにされつつある。イサスに危険が迫る。急げ。
ジサッド
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「ジサッドというのはイサスの親衛隊のダトールです」と若者は説明した。「ぼくらはだいぶ連中の度肝を抜きましたね――そう簡単には忘れられないでしょう」
「これがイサスの破滅のはじまりになってくれればいいが」
私たちは無事にオメアンの潜水艦発着プールに到着した。ここで二人は、船を沈めておくべきか否かを論じ合った。しかし結局、そんなことをしたところで脱出の可能性が少しでもふえるわけではないから、このままにしておこうということに決まった。脱出を感づかれれば、われわれの邪魔をしようとする黒色人はオメアン海にありあまるほどいるのだ。イサスの神殿や庭園からどんなに多数の敵がやってきたところで、このうえ脱出の可能性が減るものでもない。
だが、次に、このプールのまわりを巡視している見張りの前をどうやって通り抜けるかという問題で途方に暮れてしまった。しかし、やっと私はある計略を思いついた。
「ここの番兵たちの指揮官の名前や敬称を知っているかい」と私は少年にたずねた。
「ぼくたちが今朝ここへきたときは、トリスという名前のやつが指揮をとっていました」
「よし。それじゃ、潜水艦の艦長の名前は」
「ヤーステッドです」
私は船室で通信用紙を見つけて、次のような命令を書きこんだ。
[#ここから1字下げ]
ダトール・トリス殿。この二人の奴隷をただちにシャドール島へ送り返されたし。
ヤーステッド
[#ここで字下げ終わり]
「これで、しごく簡単に島へもどれるだろう」と私は笑いながら言い、偽の命令書を少年にわたした。「さあ、うまくいったら、お慰みだ」
「だけど、剣をどうするんです!」と若者は叫んだ。「何とも説明のつけようがないではありませんか」
「説明がつかないからには、置いてゆくより仕方がないな」
「そんなことをして、武器も持たずにファースト・ボーンの手中にもどって行くなんて、無鉄砲すぎやしませんか」
「これしか方法がないんだよ。シャドール島の牢獄から脱出するのは私にまかせてくれればいいんだ。そして、ひとたび脱出してしまえば、いたるところに武装した人間がうようよしている土地なのだから、また武器を手にいれるのは、たいしてむずかしいことではないんじゃないか」
「なるほど」と少年は微笑を浮かべて答え、肩をすくめてみせた。「あなたほど大きな自信を吹きこんでくれる指導者には二度とお目にかかれないでしょうね。では、ひとつ、あなたの計略をためしてみましょう」
私たちは大胆にも剣を船の中に残して、昇降口から抜けだすと、歩哨《ほしょう》の警戒区域と指揮官のダトールがいる衛兵詰所のほうへ通じる正面の出口に向かって堂々と歩いていった。
私たちの姿を見ると、衛兵たちは驚いて飛びだし、銃をつきつけて停止させた。私はその一人に命令書をさしだした。相手はそれを受けとって宛名を見ると、うしろを振り返り、ちょうど何の騒ぎかと詰所から出てきたトリスにわたした。
黒色人は命令書を読むと、ちょっとのあいだ、いかにも疑わしげな目つきで私たちをじろじろ見た。
「ダトール・ヤーステッドはどこにいるのだ?」と彼はたずねた。とたんに私はがっかりした。どうせ嘘をつくなら、話の筋道が通るように潜水艦を沈めておかなかったのは何という間抜けなことか、と思ったのである。
「ダトールはただちに神殿の埠頭《ふとう》へ引き返すようにという指令を受けました」と私は答えた。
トリスは、私の言葉を確かめようとするかのように、プールの入口のほうへ足を半歩踏みだした。のるかそるか、すべてが不安に包まれた。きわどい一瞬だった。もし彼がプールへはいって、まだ停泊している無人の潜水艦を見つけたら、私の隙《すき》だらけの作り話はあっという間にがたがたになっていたことだろう。だが、どうやらトリスは命令書を本物にちがいないと決めたようだった。それに、二人の奴隷がこんな自発的に収監されにくるなどということは、トリスにはほとんど信じられないことだろうから、実際には命令書を疑うだけの確かな理由は何もなかったのだ。この無鉄砲な計略が成功したのは、その無鉄砲さそのもののおかげだった。
「おまえたちは奴隷の反乱というのに関係があったのか」とトリスはたずねた。「何かそんな騒ぎが起こったという報告が、いまはいったところだが」
「みんな巻きこまれました」と私は答えた。「しかし、ほとんど何にもなりませんでした。親衛隊がたちまち鎮圧して、大部分の奴隷を殺してしまいました」
トリスはこの返答に満足した様子だった。
「こいつらをシャドール島へ連れて行け」と彼は部下の一人のほうを向いて命令した。私たちは島に停泊している小さな船に乗りこみ、数分後にはシャドール島に上陸していた。ここで二人はめいめいの獄房にもどり、私はゾダールといっしょになり、少年はひとりきりになった。そして錠のおりた扉の奥に閉じこめられ、ふたたびファースト・ボーンの捕虜になったのである。
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十三 自由をめざして
イサスの儀式の最中に闘技場で起こった事件を私が語ると、ゾダールはとても信じられないというような驚き方で耳を傾けた。すでにイサスが神であることを疑うとは言っていても、剣を手にしてイサスの命をおびやかし女神の激怒に触れたのに体がこなみじんにならなかったということは、彼にはほとんど想像もつかなかったのである。
「それで何もかもわかった」とゾダールはとうとう言った。「これ以上、何の証拠もいらない。イサスが神だという私の迷信は根こそぎ吹っ飛んだ。あいつは長いあいだ恐るべき陰謀によって自分の一族やバルスームじゅうの人びとを愚かな迷信の中におとしこみ、強大な悪の権力をふるっている邪悪な老婆にすぎないのだ」
「それでも、ここではまだ全能の女神なのだ」と私は答えた。「だから、よさそうなチャンスがあり次第、逃げださなければならない」
「その、よさそうなチャンスを見つけてもらいたいものだね」とゾダールは笑いながら言った。「なにしろ、いまだかつてファースト・ボーンの捕虜で、そんなチャンスをつかんで逃げたやつにはでくわしたことがないからね」
「今夜でもいい」と私は答えた。
「もうじき夜になるぞ。こっちは何を手伝ったらいいんだ」
「きみは泳げるか」
「コルスの海にうようよしているぬるぬるしたシリアンでも、ゾダールほど水の中で思いのままに動きまわることはできないだろう」
「よし。あの若い赤色人はまず泳げないだろう。なにしろ彼らの国には、どんな小さな船だろうと、船を浮かべられるだけの水がほとんどないのだからね。だから、きみか私のどちらかが彼を助けて、目をつけた船まで泳いでいかなければならないだろう。ずっと海中をもぐっていけたらと考えていたのだが、あの少年にはとてもできないだろうな。赤色人の中で最も勇敢な男でも、深い水となると考えただけでおびえてしまう。なにしろ、彼らの祖先が湖や川や海というものを見たのは、遠い昔のことだから」
「あの赤色人もいっしょに行くのか」
「そうだ」
「それはいい。剣は二本より三本あるほうがいい。とりわけ、その三人目がここにいる先生に負けないくらい強いときてはね。イサスの儀式のときに、あの少年が闘技場で戦うのを何度も見ているが、きみの戦いぶりを見るまでは、あの少年のように大敵に立ち向かっても負ける気配を見せないやつにはお目にかかったことがなかった。まったく、きみとあの少年は、師弟か、親子みたいだな。そういえば、あの少年の顔にはきみと似たところがあるよ。戦っているところを見ると、よくわかるんだ――あの気味の悪い微笑も同じだし、あらゆる動作や表情にあらわれる敵に対する激しい軽蔑の色なんかも、まったく同じだ」
「それはともかく、あの若者は偉大な戦士だ、ゾダール。われわれは無敵の三人組になれる。それに、私の友人のサークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカスが仲間入りをしてくれたら、たとえバルスームじゅうの人間を敵にまわしても戦っていけるだろう」
「まったく、バルスームじゅうの人間を敵にまわすことになるぞ」とゾダールは言った。「きみがどこからもどってきたかを知られたらね。あれも、だまされやすい人間の心にイサスが植えつけた迷信の一つにすぎないんだ。イサスは、外界のバルスーム人同様、自分の正体を知らないホーリー・サーンを利用して活動しているのだ。イサスの命令は妙な羊皮紙に血で書かれて、サーンのもとに届けられる。それを、あの欺《あざむ》かれた愚かな連中は何か奇跡的な神わざによって女神のお告げを受けていると思っている。お告げはつねに、だれも見とがめられずに近づけないはずの厳重に監視されている祭壇の上にのっているからだ。何のことはない。長年のあいだ、そのイサスのお告げを届けていたのは、この私なのだ。イサスの神殿からマタイ・シャンの大寺院まで地下に長いトンネルがあるというわけさ。そのトンネルは、ずっと大昔にファースト・ボーンが奴隷を使って極秘のうちに掘ったものなので、サーンはそんなものがあろうとは夢にも考えたことがないのだ。
そのサーンはサーンで、火星じゅうの文明社会に寺院をばらまいている。寺院の司祭たちはその土地の人間には絶対に姿を見せずに、|神秘のイス川《ヽヽヽヽヽヽ》だの|ドール谷《ヽヽヽヽ》だの|コルスの行方知れずの海《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だのという教義を広め、哀れなお人好しどもをだまして、進んで天国への旅に出発させている。そのおかげでホーリー・サーンの富は増大し、奴隷の数もふえるというわけだ。
こんなふうに、サーンたちは富と労働力を集める道具として利用され、ファースト・ボーンは必要に応じて彼らからそれをもぎとっているのだ。ときにはファースト・ボーン自身が外界を襲撃することもある。そういうときに、赤色人の宮廷から多数の女をさらってきたり、最新型の戦艦を略奪したり、そのような自分たちに作れないものをまねして作るために熟練した技師たちを捕虜にしてくる。
われわれは直接生産に従事しない種族で、そのことを誇りにしている。ファースト・ボーンにとって、働いたり、発明したりすることは犯罪なのだ。そういうことは下層階級の人間の役目で、彼らはファースト・ボーンがいつまでも何もしないで贅沢な生活を送れるようにするためにのみ存在している。われわれにとって、重要なのは戦うことだけだ。もしこれがなかったら、バルスームじゅうの人間が集まっても養いきれないくらいファースト・ボーンの数がふえてしまうだろう。なにしろ、私の知っているかぎりでは、自然死をとげるファースト・ボーンは一人もいない。それに女たちは、われわれがあきて、ほかの女と替えるために殺していかなかったら、永遠に生きるだろう。死なないように保護されているのはイサスだけだ。イサスだけは数えきれない長い年月を生きてきた」
「ほかのバルスーム人だって、自分から天国への旅に出るという教義にまどわされて、生まれてから千年目か、あるいはその前にイス川下りをやったりしなければ、永遠に生きるのではないかな」と私は言った。
「うん、私もいまでは、外界の人間もファースト・ボーンとまったく同じ人間であることに疑いはないと思うよ。先祖代々の虚偽の教えから生まれた無知のせいで、外界の人間に対して犯した罪を償うために、今後は彼らのために戦っていきたいと思う」
ゾダールがしゃべり終えたとき、無気味な叫び声がオメアンの海面にひびきわたった。それは前日の夕方、同じ時刻に耳にした叫び声で、一日の終わりを知らせる合図だった。この合図とともに、オメアン海の兵士たちは戦艦や巡洋艦の甲板に絹布を広げて、夢のない火星の眠りにつくのである。
番兵が最後の点検をするために部屋にはいってきた。これでもう、頭上の世界に新しい日が昇るまで点検はないわけだ。番兵はさっさと役目をすませて出て行き、牢獄の重い扉がもとどおりに閉まった――もう朝までだれもこない。
おそらく番兵は宿舎へ引き上げるだろうとゾダールが言ったので、私はそれだけの猶予をおいてから、格子窓に飛びつき、あたりの海の様子を偵察した。島から少し――おそらく四分の一マイルほど――離れたところに巨大な戦艦が停泊していて、その戦艦と海岸との間には小型巡洋艦や一人乗りの偵察艦がたくさん散らばっていた。見張りは戦艦の上にいるだけで、その姿が上甲板にはっきりと見えた。見まもっているうちに、その見張りは立っていた小さな台の上に絹の寝具を広げはじめ、やがて寝床の上に長々と横たわった。オメアンの海軍基地の規律はまったくたるんでいた。しかし考えてみれば、バルスームにこのような艦隊が存在するということや、あるいはファースト・ボーンやオメアン海というものが存在することさえ想像する敵はいないのだから、これは驚くにもあたらないことである。実際、なんだって見張りをおいたりしなければならないのか、そのほうが不思議なくらいなのだ。
やがて私は床におりて、観察したいろいろな船の様子をゾダールに説明した。
「あそこには私の持ち船が一隻あるんだ。五人乗りで、どんな船より速いスピードがでる。あいつに乗りこめれば、少なくとも驚くべき速さで逃げだせることだけは間違いない」ゾダールはそう言ってから、さらに、その船のエンジンその他、快速船としての特別な装置について説明した。
その説明を聞いているうちに、かつて偽名を使ってゾダンガ海軍にはいり、サブ・サン王子の部下として空を飛んでいたときにカントス・カンが教えてくれた特殊なギア装置がこのゾダールの船にもあることがわかった。ファースト・ボーンはこの秘密装置をヘリウムの船から盗んだのだ。このようなギア装置がついているのはヘリウムの船しかない。また、ゾダールがその小さな船のスピードを賛美する様子から見て、その話が真実であることもわかった。火星の希薄な空気を突っ切って進むもののなかで、ヘリウムの船の速力に太刀《たち》打ちできるものはほかにない。
私たちは、まだ寝ないでぐずぐずしている連中が残らず寝床にはいってしまうまで、少なくともあと一時間は待とうということに決めた。その間に私が赤色人の少年をこちらの部屋に連れてきて、三人いっしょに向こう見ずな脱出を敢行する準備を整えておくことにした。
私は仕切り壁の頂上に飛びつき、その上にはい上がった。壁の頂上は平らで、一フィートほどの幅があったので、それを伝って少年の部屋まで歩いていった。少年はベンチにすわって壁にもたれ、白熱の光を放つオメアンの丸天井を見上げていたが、頭上の仕切り壁の上を渡ってくる私の姿を見つけると、驚いて目を見張った。それから、人なつこい笑みがその顔いっぱいにひろがった。
私が彼のそばへ飛びおりようとして身をかがめると、彼は手まねで私を制し、すぐ下までやってきて、小声で言った。「ぼくの手をつかんでください。ぼくもほとんど壁のてっぺん近くまで飛びあがれます。もう何度も練習して、毎日少しずつ近づいているんです。そのうちにきっと成功すると思っていました」
私は壁の上に腹ばいになり、はるか下の少年のほうへ片手をのばした。少年は部屋の真中あたりから少し走ってきて、ぱっと飛びあがった。私は彼のさしのべた手をつかんで、すぐ横の壁の上へ引きあげた。
「バルスームの赤色人のなかで跳躍ができる人間を見たのは初めてだ」と私は言った。
少年は微笑した。「べつに不思議なことでもないんです。いずれ、折りを見て、わけをお話します」
二人はいっしょにゾダールのいる獄房へ引き返し、下へおりて、予定の一時間が過ぎるまで三人で話し合った。
私たちはいろいろと当面の計画をねり、いかなる敵にぶつかろうとも、たがいに助け合って死ぬまで戦おうという盟約を結んだ。たとえファースト・ボーンの手中から抜けだすことに成功したとしても、まだ全バルスームを敵にまわすことになりかねないとわかっていたからだ――迷信の力は強大である。
船にたどりついたら操縦は私がすること、そして、無事に外界へ出た場合は、一路ヘリウムをめざして進むことに話がまとまった。
「なぜ、ヘリウムへ?」と赤色人の少年がたずねた。
「私はヘリウムの王子だから」と私は答えた。
少年は妙な顔つきで私を見つめたが、それっきりこの問題については何も言わなかった。そのとき私は、どうしてあんな顔つきをするのかと不思議に思ったが、ほかのさし迫った問題にとりまぎれて、すぐに忘れてしまい、だいぶあとまでふたたび考えることもなかった。
「さあ、もういつでもいい。行こうじゃないか」ついに、私は言った。
ふたたび仕切り壁の上に私はのぼり、少年も私のそばにやってきた。それから装具の締め金をはずして、一筋の長い皮ひもにつけると、下で待っているゾダールへおろした。彼はその先端をつかむと、すぐによじのぼってきて私たちの横にすわった。
「こいつは簡単だ」ゾダールは笑った。
「あとはもっと簡単さ」と私は答えた。そして牢獄の外壁の頂上までのぼり、壁の外をのぞいてパトロールの番兵がやってくるのを待ち受けた。五分ほど待つと、のろのろと建物の陰から出てくる見張りの姿が見えた。
番兵が建物の反対側の端を曲がって姿を消してしまうまで私は見まもっていた。これでもう、私たちの脱出を見とがめられる気づかいはない。
見張りの姿が見えなくなるや否や、私はゾダールの手をつかんで外壁の上へ引きあげた。それから装具の皮ひもの先端をにぎらせて、すばやく外の地面に彼をおろした。つづいて少年がその皮ひもをつかみ、ゾダールのそばへすべりおりた。
打ち合わせておいたとおり、二人は私を待たずに、ゆっくりと海のほうへ歩きだした。百ヤードほど行くと、眠っている兵士でいっぱいの衛兵所のまん前を通ることになる。
二人が十歩とは行かないうちに、私も地上に飛びおり、あとからゆっくりと海岸のほうへ向かった。衛兵所の前を通りかかったとき、ふと、この中には立派な剣がごろごろしているのだと思いついて、足がとまった。これから危険な脱出の旅に乗りだそうという私たちには、何よりもまず剣が必要である。
私はちょっとゾダールと若者のほうへ目を走らせた。二人は岸壁の端から水中へすべりこんでいった。計画どおり、二人は、コンクリートに似た物質で築かれている岸壁の、水面近くに打ちこんである金属製の輪にしがみつき、口と鼻だけを海面に出して、私が行くまで待とうとしている。
衛兵所の中の剣は私の心を強く引きつけた。私はちょっとためらったが、思い切って剣を二、三本失敬してやろうという気になりかけた。そして、ためらう者は負けたも同然という格言どおりになった。次の瞬間、私はもう衛兵所の戸口へこっそり忍び寄っていたのである。
私はそっと扉を押して、細い隙間を作った。十人あまりの黒色人が絹の寝具の上に体をのばしてぐっすり眠りこんでいるのが見えた。部屋の向こう側に架台があって、兵士たちの剣や銃が並んでいる。私は忍びこめるように隙間をもう少し広げようとして注意深く扉を押した。とたんに蝶番《ちょうつがい》がぎーっと耳ざわりな音をたてた。一人の兵士が身動きをした。思わず胸の鼓動がとまる思いがした。せっかくの逃亡のチャンスをこんな危険にさらしてしまうとは、何という馬鹿なまねをしたものだろう――しかし、いまとなっては最後までやり通すほかはなかった。
私はトラのようにすばやく、音もなく跳躍して、身動きをした衛兵のそばにおり立った。そして両手を衛兵の咽喉のあたりに近づけて、そのまま身動きもせずに相手の目が開く瞬間を待ちかまえた。私の緊張しきった神経には、恐ろしく長く感じられる時間だった。やがて、その衛兵は寝返りを打ち、ふたたび安らかな寝息をたてながら深い眠りに落ちていった。
用心深く兵士たちの間を通り抜けたり体をまたいだりして、私は部屋の向こう側の架台にたどりついた。ここで、うしろを振り返り、眠っている兵士たちを見わたした。異状はなかった。全員の規則正しい呼吸の音が心をなだめるようなリズムをかなでているのが、生まれて初めて耳にする美しい音楽のように聞こえた。
私は注意深く、架台から長剣を一振り抜きとった。引き抜くときに鞘《さや》が台をこすって、鋳鉄に大やすりをかけるような音がした。たちまち部屋じゅうの衛兵が飛び起きて襲いかかってくるだろうと思ったが、だれひとり身動きする者はいなかった。
二本目の剣は音をたてずに引き抜いたが、三本目は鞘《さや》の中でがちゃんと途方もない音をたてた。今度こそ、少なくとも何人かは目をさましたにちがいないと思ったので、攻撃されないうちに戸口へ突進しようとしかけた。ところが、まったく驚いたことに、またもや黒色人は一人も動かなかった。彼らがよっぽど深い眠りに落ちていたのか、さもなければ、私のたてた音が実際は思ったよりずっと小さな音だったのだろう。
架台の前から離れようとしたとき、拳銃が目にとまった。持ってゆくにしても一梃しか持てないことはわかっていた。すでに重い荷物をかかえこみすぎて、安全かつ迅速にこっそり動きまわることなどとてもできなくなっていたからだ。釘から拳銃を一梃とりあげたとき、架台のそばに開いた窓があることに初めて気がついた。ああ、こんなところにすばらしい逃げ道があったのか――窓はまっすぐ岸壁に面していて、水際まで二十フィートもなかった。
こいつはありがたいと思ったとたんに、反対側の扉が開く音がした。見ると、衛兵隊の士官がまともに私の顔を見つめて立っていた。彼は一目《ひとめ》で事態を理解し、私と同じくらいすばやく事の重大性をさとったらしく、二人はまったく同時に拳銃をかまえた。そして、握りの発射ボタンを押したとき、二発の銃声は一発のように響きわたった。
相手の銃弾が耳もとをかすめるのを感じた瞬間、どっと床に倒れる相手の姿が見えた。弾丸がどこにあたったのか、はたして死んだのかどうか、私にはわからなかった。相手が倒れかけた瞬間に、私はもううしろの窓から飛びだしていた。そして次の瞬間にはオメアン海の水中にもぐり、三人そろって百ヤードほど前方の小型快速船めざして進んでいた。
ゾダールは少年をかかえていたし、私には三本の長剣という荷物があった。拳銃は捨ててしまった。私もゾダールも達者な泳ぎ手なのに、進み方はまるでカタツムリのようにのろい感じだった。私は完全に水中にもぐって泳いでいたが、ゾダールは少年に呼吸をさせるために、しばしば水面に顔を出さなければならなかった。だから、もっと早く発見されなかったのが不思議なくらいである。
銃声で目を覚ました戦艦の見張りに発見されないうちに、私たち三人は目ざす快速船にたどりつき、三人とも乗りこんでいた。そのとき、戦艦の|へさき《ヽヽヽ》から急を告げる砲声がとどろき、耳をつんざくばかりの轟音がオメアン海の岩の丸天井に響きわたった。
たちまち、眠っていた数千の兵士が目を覚ました。千隻もの巨大な船の甲板は、飛びだしてきた戦闘員で溢れんばかりになった。オメアン海で警報がでるのは非常に珍しいことだったのである。
私たちの船は、最初の砲声の余韻《よいん》が消えないうちに、さっと向きを変え、次の瞬間にはすばやく海面から飛び立っていた。私は操縦レバーとボタンを前にして甲板の上に長々と寝そべった。ゾダールと若者もすぐうしろで、同じようにうつ伏せに横たわった。できるだけ空気の抵抗を少なくするためだ。
「上昇しろ」とゾダールが小声で言った。「連中も重砲を円天井に向けて発射しようとはしないだろう――砲弾の破片が自分たちの船に落ちてくるからな。高く上昇すれば、船底の装甲板がライフル弾を防ぎとめてくれる」
私はゾダールの言うとおりにした。眼下には、何百人もの兵士がいっせいに海中に飛びこみ、大きな船のまわりに停泊している小型巡洋艦や一人乗りの快速船に向かって泳いでゆくのが見えた。もっと大きな艦船はすばやく私たちのあとを追って走りだしていたが、まだ水面から飛びあがってはいなかった。
「少し右だ」とゾダールが叫んだ。オメアン海には羅針盤の方位というものはない。どっちを向いても真北だ。
眼下に突発した大混乱はすさまじい騒音を巻き起こしていた。ライフル弾の鋭い炸裂音《さくれつおん》、命令をくだす士官たちのどなり声、水中や無数の船の甲板からたがいに指図し合う兵士たちのわめき声、そして、すべてを押し包むように水や空気を引き裂いて響きわたる無数の推進器の回転音。
私は、オメアンの円天井から頭上の世界へぬける|たて《ヽヽ》穴状の通路の入口を通りすぎてはいけないと思ったので、速度レバーを最高速にまでは上げようとしなかった。しかし、それでもなお私たちの快速船はいまだかつて無風の海では記録されたことのないような猛スピードで飛んでいた。
小型の快速船がこちらに向かって上昇しはじめたとき、ゾダールが叫んだ。
「通路だ! 通路だ! まん前だ」
前方を見ると、この地下の世界の白く光り輝く丸天井のまん中に黒い穴が大きな口を開けていた。
十人乗りの巡洋艦が一隻、真正面に上昇してきて、私たちの脱出を妨げようとした。行手にたちふさがる船はその一隻だけだったが、その飛行速度からみて、ちょうどこちらの船と通路の間に割りこんで、私たちの計画を邪魔することになりそうだった。
その巡洋艦は、私たちの真正面を四十五度ぐらいの角度で上昇している最中だった。どうやら、こちらの船の上を低くかすめるように飛んで、上から鉄かぎでひっかけようともくろんでいるらしい。
私たちとしては、唯一の手段として決死的行動にはかない望みを賭けるほかはなかった。私はそれを敢行することにした。相手の船の上を飛びこえようとする手は役に立たない。そんなことをすれば、こちらは頭上の岩のドームに追いつめられてしまうことになるだろう。それに実際のところは、もはやあまりにも相手に近づきすぎていた。また、相手の船の下にもぐりこもうとすれば、それこそ向こうの思う|つぼ《ヽヽ》で、完全に敵の手中に落ちこんでしまうだろう。左右いずれの側からも、さらに百隻もの船が急速に迫ってきていた。そして、残された唯一の手段は危険に満ちあふれていた――わずかながら成功の見込みがあるというだけで、事実上、最高の危険以外の何ものでもなかった。
私は巡洋艦に接近しながら、相手の上を飛びこえようとするかのように上昇した。予想どおり、敵はこっちをさらに上へ追いつめようとして、いっそう急角度で上昇してきた。こうして、ほとんど敵の真上まで近づいたとき、私は二人の仲間に、しっかりつかまっていろと叫んだ。そして小さな船のスピードを最高速に上げると同時に、さっと船首を傾けて水平直進に変え、猛烈な速さでまっすぐ巡洋艦の船底めがけて突進した。
巡洋艦の艦長はこのときやっと私の意図をさとったのかもしれない。だが、もう遅すぎた。衝突のほんの一瞬前、私は船首を上に向けた。たちまち、すさまじい震動とともに二隻の船は衝突した。期待したとおりのことが起こった。すでに危険なまでに船体を傾けていた巡洋艦は、こちらの小さな船が与えた衝撃で完全に転覆してしまったのである。乗組員たちは空中で身をくねらせ、悲鳴をあげながら、はるか下の海へ落ちていった。そして巡洋艦も、まだ推進器を狂ったように回転させながら、乗組員のあとを追ってまっさかさまにオメアンの海底へ消えていった。
この衝突で、私たちの船の鋼鉄の|へさき《ヽヽヽ》はつぶれてしまった。そして三人とも全力を振りしぼってしがみついていたにもかかわらず、もう少しで甲板からほうり出されそうになった。本当のところ、振り落とされかけた私たちは船の一番はしに三人ひとかたまりになって死物狂いでしがみついたのである。ゾダールと私はうまく手すりをつかむことができたが、赤色人の少年はすでに体が半分船の外へ飛びだしていた。幸いにも私が彼の足首をつかまなかったら、船の外へ墜落していたことだろう。
快速船は操縦する者もないままに船体を傾けて猛烈な勢いで飛び、岩の天井にぐんぐん近づいていた。しかし、たちまち私はふたたびレバーを握りしめ、天井までわずか五十フィートぐらいしかないところで、船首の向きを水平にもどし、ふたたび通路の黒い口をめざして進みだした。
衝突で道草を食ったので、いまでは百隻ばかりの高速の偵察飛行船がすぐ近くまで迫っていた。ゾダールは、推進光線の力だけに頼って通路を上昇すれば、われわれに追いつく絶好のチャンスを敵に与えることになると言った。こちらの船の推進器の働きはにぶくなるし、上昇力の点では追跡してくる船の多くはこっちよりはるかにまさっているからだ。高速船が大きな浮揚タンクをつけていることはめったにない。タンクが大きくなれば、それだけ速力が低下することになる。
いまや多数の船が間近に迫ってきたので、通路の中であっという間に追いつかれて、つかまるか、そくざに殺されるかするのは、どうにも避けがたいことになった。
だが、障害を打破するには、その逆をつくという手が常にあると思う。障害の上をこえることも、下をくぐることも、横をまわることもできなければ、残された方法はたった一つしかない。障害のまん中を通り抜けることだ。追跡してくる船の多くが浮力が大きいためにこちらの船より早く上昇できるということは動かしがたい事実だった。だが、それにもかかわらず私は、追跡者よりずっと先に外界へ飛びだすか、それがだめなら潔《いさぎよ》く死んでやろうと決心した。
「逆進だ!」と、うしろでゾダールが絶叫した。「たのむ、逆進に切り変えろ! 通路にきたんだ」
「しっかりつかまっていろ!」と私も大声をはりあげて答えた。「若いのをつかまえていてくれ、絶対にはなすな――このまま通路を急上昇する」
その言葉が私の口から飛び出しきらないうちに、船は真っ暗な穴の下に飛びこんだ。とたんに私は船首を思いきり上に向け、速度レバーを最高速に引きあげた。そして片手で支柱をつかみ、もう一方の手で舵輪を握って懸命にしがみつき、すべてを神にまかせた。
ゾダールが驚いて小さな叫び声をあげ、つづいて無気味な声で笑いだした。少年も笑って、何か言ったが、すさまじいスピードが巻き起こす風の音のために聞きとれなかった。
私は頭上を見た。星明かりが見えれば、方向を定めて、私たちを乗せて疾走する船が|たて《ヽヽ》穴の中心を進むようにすることができると思ったのだ。このような猛スピードで通路の内壁に衝突したりしたら、三人ともたちまち死んでしまったにちがいない。しかし、頭上には星影一つ見えず――ただ、黒一色の暗闇があるばかりだった。
それから私はちらりと下に目を走らせた。急速に小さくなってゆく光の輪が見えた。青白く光り輝くオメアン海の上にある穴の入口だ。私はこれをたよりに舵をとり、たえず下の光の輪を動かさないように気をつけた。だが、これはせいぜい、私たちを破滅から守ってくれる一筋のたよりない細ひもにすぎなかった。この夜の私の操縦は、技術や理性によるというよりは直観と盲目的な信念によるものだったと思う。
通路の中には長くいたわけではない。そして、おそらく私たちが助かったのは、とてつもない猛スピードをだしたこと自体のおかげなのだろう。というのは、穴に突入したときの方向が正確だったらしく、そのまま猛スピードであっという間に外へ飛びだしてしまったので、なまじ進路を変えたりするひまもなかったというわけなのだ。オメアン海の位置はたぶん火星の地表から二マイルほど下になるだろう。そして火星の快速船に乗っていた私たちのスピードは時速二百マイルに近かったにちがいない。してみると、通路の中にいた時間はせいぜい四十秒そこそこだったわけである。
私がついに不可能事をなしとげたことをさとったときには、穴を脱してから数秒はたっていたにちがいない。私たちの周囲は一面に暗黒に包まれていた。月もなく、星もなかった。これまで火星でこんな状態にぶつかったことがなかったので、しばらく途方に暮れてしまった。だが、やがて合点がいった。いま南極は夏なのだ。万年氷がとけだして、バルスームの大部分の地域では見られない気象現象が発生した。つまり、この遊星の南極地方一帯に雲が湧き起こり、太陽の光を遮断《しゃだん》していたのである。
これは私たちにとって、まったく幸運なことだった。私はこのせっかくのチャンスをすぐ利用した。船首を思いきり上に向けたまま、この滅びゆく世界の空を一面に覆う真黒な雲の海に向かって全速力で突進し、追跡してくる敵の目から姿を隠そうとしたのだ。
船は減速もせずに、冷たい湿った霧の中に突入した。そして一瞬のうちに二つの月と無数の星が輝く空の下に出た。私は船体を水平にもどし、船首を真北に向けた。敵はもう、たっぷり三十分も立ち遅れて、私たちの逃げた方角も見当がつかなくなっていた。私たちは奇跡をなしとげ、無数の危険を無事に切り抜けて――ファースト・ボーンの領土から脱出したのである。バルスームの歴史はじまって以来、これをなしとげた捕虜は一人もいなかった。しかし、いま思い返してみると、それほどむずかしいことではなかったような気がする。
私は肩ごしに、そのことをゾダールに言った。
「それでもやはり、実にすばらしいことだ」と彼は答えた。「ほかの人間だったら、とてもなしとげることはできなかっただろう。ジョン・カーターなればこそだ」
その名前を聞いたとたんに、少年が飛びあがった。
「ジョン・カーターだって!」と少年は叫んだ。「ジョン・カーターだって! そんなことがあるもんか。ヘリウムの王子ジョン・カーターはもう何年も前に死んだんだ。ぼくはその息子なんだ」
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十四 闇に光る目
私の息子! 自分の耳が信じられないようだった。私はゆっくりと立ちあがり、美しい少年と向かい合った。いま、この若者をつくづく見ると、なぜ彼の顔や性格にあれほど強く引きつけられたのか、そのわけがわかり始めた。彼の端正な顔だちには母親の比類のない美しさが多分に現われていた。だが、その美しさはきわめて男性的なものだったし、灰色の目とその表情はほかならぬ私自身のものだったのである。
少年は期待と不安のいりまじった表情で私を見つめていた。
「きみの母上のことを話してくれ」と私は言った。「私が無情な運命に妨げられて愛する妻とともに暮らすことができなかった長い年月の間のことを話せるだけ話してくれ」
少年は喜びの叫びをあげて私に飛びつき、首にしがみついた。ちょっとの間、自分の息子を固く抱きしめていると、私の目には涙があふれ、まるでどこかの泣きじょうごのようにむせび泣きをしそうになった――しかし、私はこのことを後悔してはいないし、恥ずかしいとも思っていない。女や子供に関することでは柔弱な人間のように見える男でも、ひとたび人生のもっと苛酷《かこく》な場面に立つと弱虫どころではなくなるということを私は長い人生の間に学んでいる。
「あなたの体つきも、身ぶり動作も、恐るべき剣の腕前も、母からいくたびとなく聞いたとおりです」と少年は言った。「――しかし、それほどの証拠があっても、とてもありそうもないことを容易に信じるわけにはいきませんでした。それが真実であってくれたらと、どんなに願っていても信じられなかったのです。そのぼくの心を、ほかの何にもまして納得させたものは、いったい何だとお思いになりますか」
「何だろう」
「あなたがまっさきに口にされた言葉――母のことをおたずねになった言葉です。父がどんなに母を愛していたか、ぼくは母からよく話を聞いていましたが、その話のように母を愛している人間でなければ、どうしてまっさきに母のことを口にしたりするでしょうか」
「そうだよ、長い年月のあいだ、きみの母上の美しい面影が私の目に浮かばないことは片時《かたとき》もなかったのだ。さあ、あのひとのことを話してくれ」
「昔から母を知っている人びとは、母はちっとも変わらない――ますます美しくなるくらいだと言っています。しかし、ぼくに見られていないと思っているとき、母の顔はとても悲しそうになって、深い物思いに沈んでしまうのです。母はいつも父のことを、あなたのことを考えています。そしてヘリウムじゅうの人びとが母とともに悲しみ、母のために嘆いています。皇帝《ジェダック》の臣下たちは母を愛しているのです。また彼らはあなたのことも愛していたのです。バルスームの救い主として、あなたの思い出は非常に大切にされています。
毎年、あの何億万の生命を左右する大気製造工場の秘密の扉をあけるために、あなたが瀕死の火星の空を飛んで行った日がめぐってくると、あなたを称《たた》える盛大な祭が催されるのです。しかし、この感謝祭には涙がまじっています――自分の命を捨てて人びとに生きる喜びを与えてくれた恩人とその喜びをわかち合うことができないという悲嘆の涙です。バルスームじゅうにジョン・カーターという名前ほど偉大な名前はほかにありません」
「それで、母上はきみに何という名をつけたのかね」と私はきいた。
「ヘリウムの人びとは、ぼくに父の名をつけてもらいたいと頼みましたが、母は承知しませんでした。あなたと二人ですでに選んでおいた名前があったし、あなたの希望は何よりも大切にしなければならなかったからです。ですから、母がぼくにつけた名前は、あなたが望んでおられたとおり、母の名前とあなたの名前を組み合わせたカーソリスです」
そのとき、私が息子と話をしているあいだ操縦席にすわっていたゾダールが声をかけた。
「ジョン・カーター、|へさき《ヽヽヽ》のほうがひどくさがり気味になるんだ。急角度で上昇している間は目につかなかったが、こうして水平に進もうとすると、どうも様子がおかしい。|へさき《ヽヽヽ》をぶつけたので、前部の推進光線タンクに穴があいたのだろう」
そのとおりだった。破損箇所を調べてみると、事態は予想以上に重大だった。水平に進むためには船首を不自然な角度で上に向けていなければならないので、ひどく速力が落ちていた。それだけでなく、前部のタンクの推進光線のもれ具合から考えると、あと一時間もすれば、この船はどうにも動きがとれなくなって、船尾を上にして漂流しはじめるにちがいないのだ。
私たちは、ここまでくればもう大丈夫だと感じはじめるとともにいくぶん船の速力を落としていたのだった。私は再び舵輪を握って、小さなエンジンを全開にすると、またもや猛スピードで北に向かって突進した。その間に、カーソリスとゾダールは工具を手にして船首の大きな割れ目をいじりまわし、何とか光線のもれるのを食いとめようとしたが、あまり望みはなさそうだった。
雲のたちこめた氷原地帯の北端を通過したときは、まだ暗かった。いよいよ眼下には、いかにも火星らしい風景が展開してきた。水の涸れた太古の海の黄土色の起伏、それを取り巻く低い山なみ、あちこちに散らばる無気味な沈黙の廃都、かつて隆盛を誇った民族の遠い夢の跡をとどめ、いまやバルスームの大白ザルのすみかとなっている壮大な建築物の群れ。
私たちの小さな船は次第に水平に飛んでいられなくなってきた。船首はますます下がりつづけ、ついにエンジンをとめないことには、まっさかさまに大地に激突してしまうという羽目に陥った。
太陽が昇り、新しい日の光が夜の闇を追い払ったころ、船は突然がくんと前のめりになったかと思うと、なかば横倒しになってしまった。そして、大きく甲板を傾けて、ゆるやかに旋回しながら、刻々と船首を船尾よりずっと下へ落としていった。
私たちは手すりや支柱にしがみついていたが、ついに最後が迫ったと見てとると、装具の締め金を舷側についている輪にはめこんだ。次の瞬間、甲板は直角に横転し、私たちは皮ひもにしがみついて地上千ヤードの空中にぶらさがった。
私は操縦装置のすぐそばにぶらさがっていたので、推進光線の調節レバーに手をのばした。すると船は動きだし、きわめてゆっくりと地面に向かって下降しはじめた。
地面に着くまでには、たっぷり三十分かかった。真北に、かなり高い山脈がそびえているのが見えた。私たちはそれに向かって進むことにした。このへんで追手に出会っても、山なら隠れるチャンスが多いだろう。
一時間後、長い年月の間に風化して丸味をおびた小さな峡谷の中に私たちはいた。まわりには、バルスームの乾燥した荒地によく生育する美しい花をつけた植物が繁茂していた。ここには、あのミルクをだす大きな灌木がたくさんあった――野蛮な緑色人の群れの主要飲食物として役立っている例の不思議な植物である。これは私たちにとって、まさに天の恵みだった。三人ともほとんど飢え死にしそうだったのである。
この木の茂みは、たとえ頭上に偵察機が飛んできても発見される恐れのない絶好の隠れ場所だった。三人は横になって眠った――私にとっては、まったく久しぶりにとる睡眠だった。ハドソン河畔の別荘から、突然、あのドールの美しくも恐ろしい谷に移動していることに気がついたときから数えると、いまはちょうど五日目のはじまりである。この間に私は二度しか眠っていなかった。もっとも、一度はサーンの武器庫の中で時計の針が一まわりするぐらい眠ったが……
午後のなかばごろ、何者かが私の手をつかんで、しきりにキスしているのを感じて私は目を覚ました。はっとして目を開くと、目の前にサビアの美しい顔があった。
「わたしの王子さま! わたしの王子さま!」と彼女は有頂天になって叫んだ。「ほんとに王子さまなのですね。なくなられたものと思って、悲しんでいたのですよ。ご先祖さまのおかげですわ。わたしも生きていてよかった」
娘の声でゾダールとカーソリスも目を覚ました。若者はびっくりして娘を見つめていた。しかしサビアには私以外の人間は目にはいらない様子だった。私がやさしく、だが、きっぱりとその手を振りほどかなかったら、彼女は私の首に抱きつき、激しい愛撫で私を息もつけないようにしてしまったことだろう。
「さあ、さあ、サビア」と私はなだめるように言った。「きみはさんざん危ない目にあったり辛《つら》い思いをしたりしたので疲れすぎているのだろう。私がヘリウムの王女の夫だということを忘れるなんて、どうかしているよ」
「わたしは何も忘れてはいませんわ、王子さま」とサビアは答えた。「あなたはわたしに、愛の言葉をかけてくださったことはありませんし、わたしもそんなことをしていただけるとは思っていません。でも、どうしてもわたしはあなたを愛さずにはいられないのです。自分がデジャー・ソリスにとって代わろうなどとは思いません。ただ、奴隷として、いつまでもあなたに、王子さまにお仕えしたいというのがわたしの最大の望みなのです。それ以上の恩恵も、光栄も、幸福も、わたしにはとうてい望めないことです」
前にも言ったとおり、私は女につきまとって機嫌をとるような男ではない。それにしても、このときほど間の悪い、困惑した思いを味わったことはほかにはなかったと言えるだろう。火星の習慣では、どんな女でも保護してやれるだけの地位と騎士道精神を持っている男は女奴隷を持ってもよいことになっている。そのことはよくわかっていたが、それでも私は、従者として男のかわりに女を選んだことは一度もなかったのである。
「サビア、私がヘリウムへ帰るときには、きみもいっしょに連れてゆくよ。しかし、それは尊敬すべき同等の人間としてのことで、奴隷としてではない。ヘリウムに行ったら、大勢の若いハンサムな貴族たちに会わせてあげよう。彼らはきみの微笑を自分のものにするためなら、イサスにだって立ち向かってゆくだろう。そして、さっそく、その中の一番いい男と結婚させてあげよう。きみは私に対する感謝の気持を、無邪気にも愛と間違えて、のぼせあがっただけなんだ。そんなばかげた気持は忘れてしまいなさい。私はきみの友情のほうがいいんだよ、サビア」
「あなたはわたしのご主人です。おっしゃるとおりにいたしましょう」と彼女は言葉少なに答えたが、その声には悲しげな響きがまじっていた。
「どうやってここへきたのだ、サビア」と私はたずねた。「そして、タルス・タルカスはどこにいる」
「あの偉大なサーク人は死んだのではないかと思います」と彼女は悲しげに答えた。「あの人はすばらしい勇士でした。でも、ちがう種族の大勢の緑色人戦士に打ち倒されてしまったのです。わたしが最後に見たときは、負傷して血まみれになったまま敵に運ばれてゆくところでした。行く先は、あの緑色人たちがわたしたちを襲うために出てきた古代の都の廃墟です」
「では、確実に死んだというわけではないんだな。それで、その都はどこにある」
「この山をこえてすぐのところです。あなたがわたしたちだけを逃がそうとして、潔《いさぎよ》く飛びおりてしまわれた船は、操縦の仕方をよく知らないわたしたちにはうまく動かせませんでした。そのために、二日間というものあてもなく漂流しました。そこで船を捨てて、一番近い水路まで歩いて行こうということに決めたのです。きのう、この山をこえて、向こうの廃墟の都へ行きました。街の中を抜けて、中心部に向かって歩いていたとき、横道から一団の緑色人戦士がやってくるのにぶつかりました。
タルス・タルカスのほうが先を歩いていたので、相手は彼を見つけましたが、わたしには気づきませんでした。サークの勇士は急いでわたしのそばにもどってくると、近くの戸口にわたしを押しこみ、しばらくそこに隠れていて、逃げられるようになったらヘリウムへ行くようにと言いました。
『敵は南部のウォーフーン族だから、私はもう逃げられないだろう。この私の飾りを見られた以上、死ぬほかはないだろう』と、あの人は言いました。
それから、あの人は敵を迎えようと出て行きました。ああ、王子さま、それはもう、たいへんな戦いぶりでした! 一時間ものあいだ、ウォーフーン族はあの人のまわりじゅうから襲いかかり、ついにはあの人のまわりに敵の死体の山ができました。でも、とうとう圧倒されてしまいました。敵は、うしろにいる者が先頭にいる者の体をあの人に押しつけ、どうにも長剣を振りまわす余地がなくなるようにして攻めてきたのです。あの人はよろめいて倒れ、その上に敵の群れがどっと押し寄せました。街の中心のほうへ運ばれて行ったときには、あの人は死んでいたのではないでしょうか。身動きもしませんでしたから」
「先へ進む前に確かめておかなければならない」と私は言った。「タルス・タルカスが生きているものなら、ウォーフーン族の手中においておくわけにはいかない。今夜、その街へ行って確かめることにしよう」
「ぼくも行きます」とカーソリスが言った。
「私もだ」とゾダールも言った。
「どちらも連れて行かない」と私は答えた。「これは戦力よりも、秘密行動と戦略を必要とする仕事なのだ。大勢では失敗に終わることも、一人でやれば成功する場合がある。私はひとりで行くよ。きみたちの助けが必要になったら、迎えにもどってこよう」
二人とも面白くなさそうだったが、いずれも優秀な軍人らしく文句は言わなかった。指揮は私がとることになっていたのだ。陽はすでに沈みかけていたので、待つほどもなく、バルスームの暗黒がにわかにあたりを包んだ。
万一、私がもどらなかった場合の指示をカーソリスとゾダールに与えると、私は一同に別れを告げ、すばやい足どりで廃都に向かって出発した。
山を抜けると、近いほうの月が狂ったような速さで大空を飛び、その明るい光を浴びて古代の華麗な都が冴《さ》えた銀色に浮かびあがっていた。都市は、遠い昔に海に面していた山麓のなだらかな斜面に建設されていた。私がわけなく見とがめられずに街の中にはいりこむことができたのは、こうした地理的条件のせいだった。
このような廃都に住みついている緑色人部族は、たいてい中央広場のまわりの数区画しか使っていないし、それに出入りはつねに都市の正面の涸れた海の底を渡ることにしているので、裏の山腹側から忍びこむのは、わりあい楽な仕事なのである。
だが、街の中にはいってしまうと、私は壁ぎわの黒い影の中にはいって進みつづけた。道が交差しているところにくると、ちょっと立ちどまって人影のないことを確かめ、それからすばやく向こう側の影の中へ飛びこんだ。こうして、だれにも見つからずに中央広場近くまで進んでいった。人間が住みついている地域に近づくにつれて、火星馬《ソート》や火星象《ジティダール》の悲鳴やうなり声が聞こえてきて、戦士たちの宿舎が近くにあることを教えてくれた。あの動物たちは、各区画の建物に囲まれた中庭に閉じこめられているのだ。
緑色人の生活のいちじるしい特徴になっているその昔なじみの動物の声を聞くと、快い戦慄が全身に広がっていった。まるで長いあいだ留守にしたわが家へ帰ってきたときのような気分だった。荒廃したコラッドの都の古代の大理石の広間で、比類なき美女デジャー・ソリスに初めて求愛したときにも、このような動物の声がさかんに聞こえていたではないか。
緑色人たちが住みついている最初の区画の角まできて暗い物陰に立っていると、いくつかの建物から戦士たちがぞろぞろ出てきた。彼らはみな同じ方角に歩きだし、広場の中央に立っている大きな建物に向かっているようだった。私のよく知っている緑色火星人の|しきたり《ヽヽヽヽ》から考えれば、これは有力な幹部の宿舎か、さもなければ、皇帝《ジェダック》が王《ジェド》や幹部たちと会見する謁見室を含む建物にちがいなかった。いずれにせよ、何かが起こりつつあることは明らかで、それは最近つかまえたタルス・タルカスに関係のあることかもしれなかった。
私は、どうしても、この建物に行ってみなければならないという気を起こした。だが、それには、一つの区画をそっくり突っ切って、広い大通りと広場の一部を横断しなければならなかった。付近のすべての中庭から聞こえてくる動物たちの鳴き声から考えても、付近の建物に多数の人間がいることはわかっていた――おそらく南部ウォーフーン族の数部族が集まっているのだろう。
このような大勢の人間がいる中を見とがめられずに通り抜けることは、それだけでも困難な仕事だった。しかし、偉大なサーク人を発見し救いだすとすれば、それを成功させる前にはもっと恐るべき難関が待ちかまえているものと考えなければならない。私は南から街へはいってきたので、いま立っているのは、私が通ってきた大通りと、広場の南側を走る最初の大通りとの交差点だった。この角の区画の南側に並んでいる建物は明かりがついていないので、人が住んでいないように見えた。そこで私は、その建物の一つを通り抜けて中庭にはいろうと決心した。
その荒廃した建物を、べつに何の障害にもぶつからずに通り抜け、だれにも見つからずに中庭にはいって、東側の建物の壁のそばに出た。中庭では、火星馬《ソート》や火星象《ジティダール》の群れがそわそわと動きまわり、火星の荒地をほとんど覆いつくしている苔《こけ》に似た黄土色の草を食べていた。微風が吹いていたが、北西からの風だったので、獣たちが私のにおいをかぎつける恐れはほとんどなかった。もしもかぎつけられていたら、動物たちの悲鳴やうなり声はたいへんな騒々しさに高まって、建物の中の戦士たちの注意を引きつけていたことだろう。
東側の建物の壁に沿い、突き出している二階のバルコニーの黒い影の中をこっそり歩いて行くと、まもなく北側の建物に突き当たった。この建物は三階までは明かりがついていたが、それより上は真っ暗だった。
明かりのついている部屋には緑色人の男女が大勢いるにきまっているから、それを通り抜けるなどということは、むしろ不可能にきまっていた。唯一の道は、明かりのついていない上の階を通ることだが、そのためには、壁をよじのぼらなければならなかった。二階のバルコニーまで行くのは簡単な仕事だった――身軽に飛びあがると、両手で頭上の石の手すりをつかんだ。次の瞬間にはバルコニーにはいあがっていた。
ここの開いている窓から内部をのぞきこむと、緑色人たちが寝具用の絹や毛皮の上にすわりこみ、ときどき、うんとか、いやとか、そっけない言葉をつぶやいていた。彼らにはすばらしい精神感応力があるので、こんな言葉だけで十分会話ができるのである。彼らの話を聞こうとしてさらに近づいたとき、向こうの廊下から一人の戦士がはいってきて叫んだ。
「さあ、タン・ガマ。あのサーク人をカブ・カジャの前へ連れて行くんだ。いっしょにもう一人連れてきてくれ」
声をかけられた戦士は立ちあがって、そばにすわっている男に手まねで合図した。そして三人は部屋から出ていった。
この連中のあとをつけることさえできれば、タルス・タルカスをすぐに救い出すチャンスがつかめるかもしれない。少なくとも彼が閉じこめられている牢獄のありかはわかるだろう。
右手に、バルコニーから建物へはいるドアがあった。そこは明かりのついていない廊下の突き当たりになっていた。私ははずみで中へ踏みこんだ。廊下は広く、建物の表側までまっすぐにつづいていた。両側には、いろいろな部屋の戸口が並んでいた。
廊下にはいるとすぐ、向こうの端に三人の戦士の姿が見えた――いましがた部屋を出た連中だ。そのとき、三人は右へ曲がったので、また姿が見えなくなった。私はすばやく廊下を走って、あとを追った。無鉄砲すぎる走り方だった。しかし、こんなすばらしいチャンスが舞いこむなんて、実に幸運だ――こいつをみすみす見のがすわけにいくものか、と思った。
廊下の突き当たりまで行くと、螺旋《らせん》通路があって、上へも下へも行けるようになっていた。三人がこの通路を通ったことは明らかだった。そして、上ではなく下へ行ったということも、このような古代の建築物やウォーフーン族のやり口に関する私の知識から考えて確実だった。
私自身、かつて残酷な北部ウォーフーン族の捕虜になったことがあるが、あのとき閉じこめられた地下牢のことは、いまだになまなましく記憶に残っている。だから、タルス・タルカスはどこか近くの建物の地下の暗い穴ぐらにほうりこまれていて、この通路をおりてゆけば、三人の戦士のあとについてその地下牢まで行けるはずだという確信を持ったのだ。
はたして、予想どおりだった。通路の一番下というよりは、さらに下の階への踊り場のような感じのところまでくると、下の穴におりるための柱が立っているのが目にはいった。下をのぞくと、|たいまつ《ヽヽヽヽ》の明かりがちらちらしているので、私の追っている三人がいることがわかった。
三人は地下の穴へおりていった。私は安全と思われるだけの距離をおいて、|たいまつ《ヽヽヽヽ》の明かりを追いはじめた。行く手には迷路のように曲がりくねった廊下がつづき、前を行く男たちが持っているゆらめく明かりのほかには、何の照明もなかった。百ヤードほど進んだとき、彼らは不意に右側のドアの中へはいった。私は闇の中を思いきり速く走って、彼らが姿を消したところまで行った。そこから、開いているドアの中をのぞくと、三人の男が偉大なサーク人、タルス・タルカスを壁につないでいる鎖をはずしているところだった。
彼らはタルス・タルカスを手荒くこづきながら、すぐに部屋から出てきた。その出てくるのがあまりにもすばやかったので、私はあやうく見つかりそうになった。しかし、どうにか、廊下をいままで進んできた方向へさらに走って、彼らが獄房から出てきたときには弱い|たいまつ《ヽヽヽヽ》の光のとどかないところまで逃げることができた。
私は、彼らは当然、タルス・タルカスを連れて、きたときの道を引き返し、私から遠ざかってゆくものと思いこんでいた。ところが、残念なことに、彼らは廊下に出ると、まっすぐ私のほうへ向かってきた。私としては急いでさらに先へ進み、|たいまつ《ヽヽヽヽ》の光の外へ出るようにするほかはなかった。交差している多数の廊下のどれかへ飛びこんで暗闇でじっとしているという手は試みる気になれなかった。いったい彼らがどの方向へ行くのか、全然わからなかったからだ。私が飛びこんだその廊下へ、彼らがはいってくる見込みは多分にあった。
この暗黒の通路をすばやく走りまわるときの不安な気持といったら、まったくやりきれないものだった。いつ何どき、恐ろしい穴にまっさかさまに落ちこむかもわからないし、このような滅びゆく火星の廃都の地下によく住んでいる残忍な怪物にでくわさないともかぎらないのだ。うしろからくる連中の|たいまつ《ヽヽヽヽ》の光がかすかに私のところまでもれてきたので、どうにかやっと、すぐ目の前の曲がりくねった通路の方向を見さだめ、曲がり角の壁に衝突しないでいられるという有様だった。
やがて、廊下が五つに分岐しているところにきた。その一つをたどって少し行くと、私のまわりまでもれていた|たいまつ《ヽヽヽヽ》のかすかな光がとつぜん消えた。私は立ちどまって耳をすまし、うしろの連中の足音を聞こうとした。しかし、あたりは墓場のようにひっそりと静まり返っていた。
私はすぐに、戦士たちが捕虜を連れて別の廊下へはいったことをさとった。そこで、これなら元通りうしろからついて行くことになるからありがたいくらいだと思いながら、急いで引き返しはじめた。ところが、もどるのは来たときよりずっと手間がかかった。あたりは全く静まり返ったばかりでなく、完全に真っ暗になっていたのである。
帰り道は、手を横の壁にあてて一歩一歩さぐりながら進まなければならなかった。そうしなければ、道が五つに分かれている地点を通りすぎてしまう恐れがあった。こうして、恐ろしく長い感じのする時間をかけて分岐点にたどりついた。手さぐりで曲がり角を五つ数えて、ようやくわかったのだ。しかし、そのどの曲がり角からも|たいまつ《ヽヽヽヽ》の明かりらしいものはさっぱり見えなかった。
じっと耳をすましてみたが、裸足で歩く緑色人たちからは手がかりになるような足音は伝わってこなかった。だが、まもなく、まん中の廊下のずっと奥のほうから、腰にさげている剣ががちゃりと鳴る音が聞こえたような気がした。そこで、急いでこの廊下を進んで明かりをさがし、ときどき立ちどまっては、また音が聞こえないかと耳をすませた。だが、どこまで行っても待ちかまえているのは暗黒と静寂ばかりなので、どうやら間違った手がかりを頼りにしていたことを認めないわけにいかなくなった。
私はまたもや、分岐点に引き返した。だが、驚いたことに、今度は三つの廊下の分岐点にぶつかってしまった。さきほど間違った手がかりにつられてあわてて走ったときに、この三つの道のうちのどれかを通ってきたのだろう。これでまったく、進退きわまってしまった! 五つの通路の分岐点までもどることができれば、戦士たちがまたタルス・タルカスを連れてもどってくるだろうと、かなり確信をもって待つこともできる。緑色人の習慣に関する私の知識から判断すれば、タルス・タルカスは宣告を受けるために謁見室に連れて行かれただけだと確信してもよさそうだった。あの偉大なサーク人のような勇猛な戦士なら、競技大会のすばらしい見物《みもの》として活躍させるために生かしておくだろうことを私はいささかも疑わなかった。
しかし、あの分岐点へもどる道がわからないことには、どうみても、この恐ろしい闇の中を何日もさまよいつづけ、ついには飢えと渇きのために倒れて死ぬほかはなくなるだろう。それとも――やっ、あれは何だ!
とつぜん、背後で、足を引きずるようなかすかな音がしたのである。さっと振り返って、うしろにいるものを見た瞬間、全身の血が凍りつくような思いがした。それは当面の危険に対する恐怖というよりは過去の恐ろしい記憶がにわかに甦ってきたためだった。あのウォーフーン族の地下牢の中で自分が殺した男の死体を前にして、いまにも発狂しそうになったときのことだ――暗闇の中から燃えるように光る目が現われて、私の前の死体を引きずっていったが、その運ばれてゆく大事なご馳走が牢獄の床石をこする音が何とも無気味に聞こえたではないか……
そしていま、この、別のウォーフーン族の暗い穴ぐらの中で、あのときと同じ燃えるように光る目にぶつかったのだ。恐ろしい暗闇の中から私を見つめているその光る目には、そのうしろに野獣のからだがあるような感じはまったくない。この無気味な生きものの何よりも恐ろしい特徴は、それが沈黙していることと、絶対に姿を見せないこと――ただ、まばたきもせずに人をにらみつける気味の悪い目が闇の中にぽっかり浮かんでいるほかは何も見えないということだと思う。
私は長剣を固く握りしめながら廊下をじりじり後退して、私を見つめている目から離れようとした。しかし、私が後退するにつれて、目は前進してきた。しかも足音をたてず、呼吸の音も聞こえなかった。ただ、ときおり、最初に私の注意を引いた足を引きずるような音がするだけだった。
私はどんどん後退しつづけたが、この恐ろしい追跡者からのがれることはできなかった。とつぜん、右のほうで足を引きずるような音が聞こえた。見ると、もう一対、横の廊下から出てくるらしい別の目が見えた。私がふたたびじりじりと後退しはじめると、今度は背後から同じ音が聞こえ、振り向くひまもなく、左からも聞こえた。
怪物はまわりじゅうにいた。やつらは二つの廊下の交差点で私を包囲しているのだ。どれか一匹、私のほうから攻撃することにしないかぎり、退路はすべて遮断されていた。だが、一匹を攻撃しても、残りのやつらが私の背中に飛びかかってくることは疑いない。しかも、この気味の悪い怪物の大きさや性質は見当もつかないのだ。ただ、その目が私自身の目と同じ高さにあることからみて、かなり大きな体をしたやつだろうと思う。
暗闇の中にいると、なぜ危機感がこれほどまでに増大するのだろう。昼間なら、私は巨大なバンスにでも襲いかかっていっただろうが、この静まり返った穴の中の闇に包まれていると、二つの目を前にしただけでしりごみしてしまうのだ。
やがて私は、もうすぐ土壇場《どたんば》に追いつめられてしまうことをさとった。右側の目がじわじわと私に近づき、左側のやつも、うしろのやつも、前のやつも、みないっせいに接近してきたからだ。やつらはしだいに私に迫って包囲しようとしていた――それでも依然としてひっそりと沈黙している!
こうして目の群れがじりじりと接近してくるあいだの時間は、恐ろしく長く感じられた。私は、恐怖のあまり気が狂いそうな思いが募《つの》ってきた。背後から不意に飛びつかれるのを防ごうとして、ひっきりなしにあっちを向いたり、こっちを向いたりしていたが、もう疲れはててしまった。ついに私はそれ以上がまんしきれなくなり、長剣を握りなおすと、急に身をひるがえして、怪物の一匹に襲いかかった。
とたんに相手はさっと後退した。しかし、うしろで音がしたので、さっと振り返ると、三組の目が私に飛びつこうとしている。私は憤激の叫びを上げて卑怯《ひきょう》な怪物たちに立ち向かおうとした。しかし、私が前進すると、最初のやつと同じように後退してしまう。もう一度うしろを見ると、最初のやつがまたこっそり忍び寄っている。私はふたたび飛びかかったが、相手はまた後退し、それと同時に背後の三匹が忍び寄る気配を感じただけだった。
こんなふうに一進一退をつづけながらも、光る目はじわじわと私に迫っていた。ついに私はこの恐ろしい責め苦に痛めつけられて発狂してしまうだろうと思った。明らかに、怪物たちは私の背中に飛びかかる隙をうかがっている様子だった。そして、やつらがまもなくそれに成功するだろうということも明らかだった。このはてしない襲撃と反撃の繰り返しに私はもう堪えきれなくなっていたからだ。実際、これまで堪えてきた精神と肉体の緊張のために自分が弱ってきていることがはっきり感じられた。
そのとき、また、うしろの目が急に襲いかかろうとしているのを、ちらっと横目で見た。私は振り返って、その攻撃に応じようとした。たちまち、別の方向から三匹がすばやく前進してきたが、今度は最初のやつだけをどこまでも追いかけ、少なくとも一匹だけは片づけて、両側から攻撃される緊張から抜けだそうと決心した。
廊下には何の音もなく、ただ私の呼吸の音が聞こえるだけだった。だが、三匹の無気味な怪物はいまにも飛びかかろうとしている。前にいるやつは、いまではあまり素早く後退しようとはしなかった。私との距離は剣がとどくくらいになっていた。私は一撃のもとに|けり《ヽヽ》をつけてやろうと、剣を振りかぶった。そのとたん、重い体が背中に飛びついてきたのを感じた。何か冷たい、湿った、ねばねばしたものが喉に吸いついた。私はよろめいて、その場に倒れた。
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十五 逃走と追跡
気を失っていたのはほんの数秒にすぎなかったはずだが、それでも自分が気絶したことは間違いなかった。なぜなら、次の瞬間には、あたりの廊下に次第に明るく光がさしこみ、怪物の目はもう消えていたからだ。
額に軽い打ち傷があったが、これは倒れたとき石だたみにぶつけたもので、それ以外は体に何の別状もなかった。
私はぱっと飛び起きて、何の明かりか確かめようとした。見ると、四人の緑色人戦士が急ぎ足で廊下をこっちへやってくるところで、その一人が|たいまつ《ヽヽヽヽ》を持っていた。むこうはまだ私を見つけていなかったので、ただちに私は近くの分岐通路へ走りこんだ。しかし、今度は、タルス・タルカスと護衛の一行を見失うことになったときのように、もとの廊下から離れすぎるようなまねはしなかった。
その一行は、私が壁際にちぢこまっている通路の曲がり角へ見る見るうちに近づいてきた。彼らが通り過ぎてしまうと、私はほっと安堵の溜息をもらした。見つからなかったし、それに何よりもうまいことに、その一行は私が追跡していたタルス・タルカスと三人の護衛たちにほかならなかったのである。
彼らのあとについて行くと、ほどなく偉大なサーク人が鎖でつながれていた獄房に着いた。鍵を持った男がサーク人といっしょに中へはいって、足かせをつけている間、二人の戦士は外で待った。だが、外の二人は階上に通じる螺旋通路のほうへぶらぶら歩きだし、すぐに廊下の角を曲がって姿を消してしまった。
|たいまつ《ヽヽヽヽ》は獄房の扉の横にある受け口にさしこまれていて、廊下と獄房の中を明るく照らしていた。二人の戦士が姿を消したのを見ると、私は、早くも作りあげた明確な行動計画を胸に、獄房の入口に近づいた。
私が決めた計画は、実をいえばあまり気乗りがしなかったのだが、タルス・タルカスと二人であの山中の野営地へ無事に引き揚げるためには、ほかに手はなさそうだった。
私は壁に身を寄せながら、獄房の戸口のすぐそばまでいった。そして、看守が出てきたら、すばやく一撃のもとに頭をたたき切ろうと、両手で握った長剣を頭の上にふりかぶって待ちかまえた。
看守の足音が戸口に近づいてきてからのことは、くわしく述べる気がしない。とにかく、その一、二分後には、ウォーフーン族の幹部の金属飾りを身につけたタルス・タルカスが手にした|たいまつ《ヽヽヽヽ》で行く手を照らしながら、螺旋通路に向かって廊下を急いでいたというだけで十分だろう。そして、タルス・タルカスのうしろ十歩あまりのところをヘリウムの王子ジョン・カーターが追っていた。
獄房の戸口に倒れている男の二人の仲間の前にサーク人が姿を現わしたのは、彼らが螺旋通路をのぼりはじめたときだった。
「何をぐずぐずしているんだ、タン・ガマ」と一人が叫んだ。
「錠の具合がおかしかったんだ」とタルス・タルカスは答えた。「そうだ、おまけにいま思いだした。サーク人の獄房に短剣を忘れてきた。先へ行っててくれ。とりに行ってくるから」
「好きなようにしろよ、タン・ガマ」と、話しかけたほうの男が答えた。「じゃあ、上でまた逢おう」
「分った」とタルス・タルカスは言って、獄房へ引き返すかのように|きびす《ヽヽヽ》を返したが、二人の男が階上へ姿を消すのを待っただけだった。私はすぐに彼のそばへ行き、|たいまつ《ヽヽヽヽ》を消した。そして二人で階上へ通じる螺旋通路のほうへ忍び寄った。
一階へ行ってみると、廊下は建物の中ほどまでしか通じておらず、中庭に出るには緑色人のいっぱいいる裏側の部屋を通り抜けなければならないことがわかった。そうなると、残りの手段は一つしかなかった。二階へ行って、さきほど私が建物を横断したとき通った廊下を抜けることだ。
私たちは用心深く、二階へあがっていった。上の部屋から話し声が聞こえてきたが、昇降通路の一番上まで行ってみると、廊下にはまだ明かりがついていなかったし、人影もなかった。二人はだれにも見つからずに長い廊下を抜けて、中庭を見おろすバルコニーにたどりついた。
右手には、今夜もっと早い時刻にタン・ガマと二人の戦士がタルス・タルカスの獄房へ出かけるのを見た部屋の窓があった。二人の戦士はもうその部屋にもどっていて、ちょうど彼らの話し声を立ち聞きすることができた。
「何だってタン・ガマはこんなにぐずぐずしているんだろう」と一人が言った。
「サーク人の獄房から短剣をとってくるのにこんなに手間どるはずはないぞ」と、もう一人が言った。
「短剣ですって」と一人の女がきいた。「それは何のこと」
「タン・ガマがサーク人の獄房に短剣を忘れてきたんだ」と最初の男が説明した。「それで、地下の昇り口でおれたちと別れて、とりにいったのさ」
「タン・ガマは今夜は短剣なんか持っていないわ」と女は言った。「きょうあのサーク人と戦ったときに折れてしまったのよ。それで直してくれって、わたしに渡したんですもの。ほら、ここにあるわ」女はそう言いながら、絹と毛皮の寝具の下からタン・ガマの短剣をとりだした。
二人の戦士はぱっと立ち上がった。
「こいつは、何だかおかしいぞ」と一人が叫んだ。
「昇り口でタン・ガマと別れたときにも、おれは変な気がしたんだ」と、もう一人が言った。「あのとき、やつの声が妙だと思ったんだ」
「さあ! 急いで地下牢へ行こう」
私たちはそれ以上立ち聞きなどはしていなかった。私の装具で長いロープを作って、タルス・タルカスを下の中庭におろすと、すぐに私もそのそばに飛びおりた。
獄房の戸口でタン・ガマを倒し、|たいまつ《ヽヽヽヽ》の明りの中に偉大なサーク人の驚きあきれている表情を見たときから、私たちはまだ話らしい話もしていなかった。
「ジョン・カーターが何をやらかそうと、もういい加減に驚かなくなっていてもよさそうなものだな」タルス・タルカスはそう言っただけだった。命がけで彼を救おうとしている私の友情に感謝していることを、わざわざ口に出す必要はなかったし、私に会えてうれしいという必要もなかったのだ。
私が初めて火星にやってきた二十年前のあの日、最初に私の前に現われたのはこの獰猛な緑色人戦士だった。私がコラッドの都のかなたの涸れた海の底にあるサーク族の孵化器《ふかき》のそばに立っていたとき、この男は巨大な火星馬《ソート》の脇腹低く身をかがめて、槍《やり》を水平にかまえ、心に激しい憎悪をいだきながら私に向かって突撃してきたのだ。それが今では、私にとって、サークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカスほどの親友は、地球と火星の二つの世界の住民の中に二人といないのである。
中庭におりると、私たちはしばらくバルコニーの下の物陰に立って、これからの計画を話し合った。
「これで仲間は五人になる、タルス・タルカス」と私は言った。「サビア、ゾダール、カーソリス、それに私たち二人だ。火星馬《ソート》が五頭必要だね」
「カーソリスだって!」と彼は叫んだ。「きみの息子のことか?」
「そうだ。ファースト・ボーンの国の、オメアン海のシャドール島にある牢獄で出会ったのだ」
「知らない場所ばかりだな、ジョン・カーター。それはバルスームの上にある場所なのか」
「上ともいえるし、下ともいえるのさ。だが、まあ、話はこの脱出が成功してからにしよう。そのときは、外界のバルスーム人がいまだかつて聞いたことのない不思議な話を聞かせるよ。さあ、火星馬《ソート》をかっぱらって、ここの連中がまんまと出し抜かれたことに気がつかないうちに、ずっと北のほうへ逃げていなくてはいけない」
私たちは無事に、中庭の向こう側にある大きな門にたどりついた。この門から向こうの通りまで火星馬《ソート》を連れださなければならない。その主人たちと同じように生まれつき凶暴で、いうことをきかせるには容赦なく暴力をふるうほかはないこの巨大な猛獣を五頭も連れだすのは生《なま》やさしい仕事ではない。
私たちが近づくと、野獣たちはかぎなれないにおいに鼻をならし、甲高い怒りの声を上げて私たちをとり巻いた。長い大きな首が高々とのびあがり、私たちの頭の上で、ばかでかい口がぱっくり開いた。いかにも恐ろしい姿をした獣なのだが、気が立ったときにはまったく見かけどおりの凶暴性を発揮する。火星馬《ソート》は肩までの高さがゆうに十フィートはあり、皮はなめらかで、毛は全然ない。背中や横腹は濃いネズミ色をしているが、八本の脚のほうにくだるにつれて次第に色が変わり、やわらかな肉に包まれた爪のない大きな足先はあざやかな黄色である。そして腹部は真っ白だ。これに、根元より先端のほうが大きい、幅の広い平らな尻尾《しっぽ》をつけ加えれば、この緑色火星人が乗りまわす凶暴な動物――この戦争好きな種族にふさわしい軍馬――の姿が浮かびあがるだろう。
火星馬《ソート》をあやつるのは精神感応力だけによって行なわれるので、手綱や|くつわ《ヽヽヽ》のたぐいは必要がなかった。したがって、これから私たちがやろうとしているのは、こちらの無言の命令に従ってくれるやつを二頭見つけることだった。獣たちが私たちのまわりに集まってきたとき、なんとか彼らを手なずけて、いっせいに襲いかかられるのを防ぐことはできた。しかし、その騒々しい鳴き声があまり長くつづけば、戦士たちが不審に思って中庭へ出てくることは確実だった。
ようやく私は一頭の巨獣の脇腹に近寄ることができた。そして、相手にこっちのやろうとすることを感づかれないうちに、つやつやした背中にしっかりまたがってしまった。すぐにタルス・タルカスも別の一頭をつかまえて、それにまたがった。それから、さらに三、四頭の火星馬《ソート》を私たちの間にはさむようにしながら大きな門のほうへ追いたてていった。
タルス・タルカスが先に進み、身をかがめて掛け金をはずし、門を押し開けた。そのあいだ私は、追いたててきた火星馬《ソート》がもとの群れにもどらないように気をくばった。それから私たちは盗んだ火星馬《ソート》とともに大通りに飛びだし、門を閉めようともせずに、街の南の境界に向かって急ぎ足に立ち去った。
ここまでのところ、私たちの逃走にはさしてめざましいことはなかったし、幸運の神にも見捨てられていないようだった。この廃都の郊外を突っ切って野営地にたどりつくまで、追手が迫っているような物音は何一つ聞こえなかった。
野営地にもどると、打ち合わせておいたとおり、そっと口笛を吹いて合図を送り、待っている仲間の者たちに私がもどってきたことを知らせた。三人は激しい歓喜の色を現わせるだけ現わして私たちを迎えた。
しかし、私たちの冒険を語って時間を浪費することは避けた。タルス・タルカスとカーソリスはバルスームじゅうで行なわれている威厳たっぷりの固苦しい挨拶《あいさつ》をかわした。しかし私は、サーク人が私の息子に好意を感じ、カーソリスのほうもその好意に答えているのを直観的に見わけたのである。
ゾダールと緑色人の皇帝《ジェダック》は、たがいに正式に紹介された。やがて、サビアを一番荒っぽさの少ない火星馬《ソート》に乗せ、ゾダールとカーソリスが残りの二頭にまたがると、私たちは東に向かって急いで出発した。都市の東のはずれまでくると、大きく迂回して北に向かった。そして、二つの月の輝きわたる光を浴びながら、ウォーフーン族とファースト・ボーンをあとにして、涸れた海の底を音もなく疾走していった。行く手にどんな危険や冒険が待ちかまえているかは知るよしもなく……
翌日の正午近く、一行は停止して休息をとり、火星馬《ソート》を休ませた。火星馬《ソート》は逃げないように脚を縛り、この獣の旅行中の飲食物である黄土色の苔に似た草を食べながらゆっくり動きまわれる程度にしておいた。サビアは、ほかの者たちが一時間眠るあいだ見張りをしようと申し出た。
まだ目を閉じたばかりとしか思えないうちに、サビアの手が私の肩をゆすり、新たな危険の到来を知らせるやさしい声が聞えた。
「ああ、王子さま、起きてください」と彼女は小声で言った。「うしろのほうに、追手の大軍らしいものが見えます」
娘は私たちがやってきた方角を指さしながら立っていた。私も立ちあがって、その方角を見ると、遠い地平線のかなたに細い黒い線が見えるようだった。私はほかの仲間を起こした。巨大な体をほかの者たちよりずっと高くそびやかしているタルス・タルカスは、だれよりも遠方を見ることができた。
「騎兵の大部隊だ。すごい速さでやってくるぞ」と彼は言った。
一刻も猶予はならなかった。私たちは火星馬《ソート》のそばに駆けよると、脚を縛ってある|ひも《ヽヽ》をほどいて、飛び乗った。そして、また北に向かって、一番遅い火星馬《ソート》が走れる最高速度に合わせて、ふたたび逃走しはじめた。
こうしてその日の昼過ぎから、さらに一晩じゅう、私たちは黄土色の荒野を走りつづけたが、そのあいだ背後の追手は刻々と追い迫っていた。ゆっくりと、だが着実に私たちとの間隔はせばまっていた。日没直前には、まぎれもなく緑色人だということが見わけられるほどの距離に迫っていた。そして長い夜の間じゅう、後方で彼らの装具の触れ合う音がはっきり聞こえた。
逃走二日目の陽がのぼると、後方半マイルたらずのところに追手の群れが見えた。彼らは私たちを見ると、勝ち誇ったように残忍なわめき声をあげた。
数マイル前方に丘の起伏がつづいていた。これはいままで横断してきた涸れた海の向こう岸にあたるわけだった。この丘にたどりつくことさえできれば、逃げきれる可能性は大いに増すことだろう。だが、サビアの火星馬《ソート》は、一番軽い人間を乗せているにもかかわらず、すでに疲れはてた様子を見せていた。私がサビアと並んで走っていると、とつぜん彼女の火星馬《ソート》はよろめいて、私の火星馬《ソート》のほうに倒れかかってきた。私はそれを見ると、その火星馬《ソート》が倒れる前に背中からサビアの体をさっと奪いとり、私のうしろに乗せた。彼女は両手を私の体にまわしてしがみついた。
すでに疲労しすぎていた私の火星馬《ソート》は、サビアまで乗せたために、たちまち重荷に堪えきれなくなってきた。その結果、一行の進行速度はひどく落ちてきた。だれも一番遅い者を抜いて先に行こうとはしなかったのである。この小人数の一隊の中には、仲間を見捨てようとする人間は一人もいなかった。国も、皮膚の色も、人種も、宗教も異なる者ばかりで――そのうちの一人は生まれた世界まで異なるというのに。
もう丘のかなり近くまできていた。しかしウォーフーン族がぐんぐん追い迫っていたので、追いつかれないうちに丘にたどりつく見込みは完全になくなっていた。私の火星馬《ソート》の走り方はますます遅くなっていたので、サビアと私は一番うしろにいた。とつぜん、娘のあたたかい唇が私の肩に押しつけられるのを感じた。「ああ、王子さま、あなたのためなら」と彼女はつぶやいた。つづいて、私の腰のまわりの手がはなれ、娘はいなくなった。
振り返ってみると、残酷な悪魔どもが追い迫ってくるその通り道に、サビアはわざと滑り落ちていた。火星馬《ソート》の負担を軽くして、私を無事に丘へたどりつかせようと考えたのだ。かわいそうな娘! だが、ジョン・カーターを見そこなってはいけない。
私は火星馬《ソート》の向きを変えると、急いでサビアのそばへ駆けよって、その体を拾いあげ、ふたたび見込みのない逃走をつづけさせようとした。ところが、ほとんど同時にカーソリスもうしろを振り返って事態を察したと見えて、私が行きつく前にサビアのそばに駆けつけていた。そして若者は自分の火星馬《ソート》から飛びおりると、その背中に娘をほうりあげ、動物の頭を丘のほうに向き変えたかと思うと、剣の平《ひら》でその尻をぴしゃりとたたいた。それから彼は私の火星馬《ソート》にも同じことをしようとした。
この若者の勇敢な献身的行為を見て、私の心には誇りが満ちあふれてきた。そのために、わずかながら残っていた最後の逃亡のチャンスが吹き飛ばされてしまったことも気にならなかった。いまや、ウォーフーン族はすぐ目の前に迫っていた。タルス・タルカスとゾダールは私たちのいないことに気づいて、すばやく救援に駆けつけていた。すべては、私の二度目のバルスームの旅がはなばなしい終幕を迎えようとしていることを示していた。私のすばらしい王女に再会し、この腕に抱きしめることもできずに死ぬのかと思えば、無念きわまりなかった。しかし、こうなるものと運命がきまっていたわけではないのなら、私はこの身にふりかかるものを可能な限り受け入れて、あの世に旅立つ前に与えられたこの最後のわずかな時間に、少なくとも南部ウォーフーン族の間で末代までの語り草になるようなめざましい奮戦ぶりを見せてやることはできるだろう。
カーソリスが火星馬《ソート》を捨ててしまったので、私も地面に飛びおりて、彼のそばに立ち、わめき声をあげて突撃してくる悪魔の群れを迎え討とうと身がまえた。一瞬遅れてタルス・タルカスとゾダールが、どこまでもいっしょにいこうと、同じく火星馬《ソート》を捨てて右と左に陣取った。
ウォーフーン族があと百ヤードほどのところまで迫ったとき、私たちの頭上後方で大きな爆発音がとどろいた。と、ほとんど同時に、押し寄せてくる敵の群れの中で砲弾が炸裂した。たちまち、大混乱が起こり、百人もの戦士がどっと地面に倒れた。乗り手を失った火星馬《ソート》が死傷者の間をめちゃくちゃに駆けまわって大暴走が起こり、振り落とされた戦士たちは次々に踏みつぶされた。敵の戦列は総くずれになって、もはや秩序らしいものは何ひとつなかった。そして緑色人たちが、この奇襲攻撃のみなもとを見つけようと、私たちの頭上に目をやったとき、混乱は退却に変わり、退却はさらに大|恐慌《きょうこう》に変わった。次の瞬間、敵軍は押し寄せてきたときと同じように気ちがいじみたスピードでぐんぐん遠ざかっていった。
私たちは振り返って、砲声が聞こえた方角に目を向けた。と、ちょうど近くの丘の頂上をこえて、一隻の大戦艦が堂々と空を進んでくるところだった。私たちが見まもっているうちにも、その船首の大砲がまたもやとどろき、逃げてゆくウォーフーン族の間でふたたび砲弾が炸裂した。
戦艦がさらに近づいてきたとき、私は思わず気ちがいじみた喜びの声をあげた。船首にヘリウムの旗じるしが見えたのである。
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十六 囚われて
カーソリス、ゾダール、タルス・タルカス、それに私の四人は、このすばらしい救いの神である大戦艦をじっと見つめて立っていた。見まもるうちに、二隻目、三隻目が丘の頂上をこえ、先頭の艦につづいて優雅に空をすべってくる。
やがて、手前の戦艦の上甲板から一人乗りの偵察機が二十機ほど飛びたち、それにつづいて更に数多くの偵察機が上空から一気に私たちめがけて降下してきた。
たちまち、私たちは武装した水兵の群れに囲まれてしまった。一人の士官が私たちに声をかけようと進みでたとき、その目がふとカーソリスにとまった。驚きと喜びのいりまじった叫びをあげて士官は駆け寄り、少年の肩に両手をおいて、その名を呼んだ。
「カーソリスさま、王子さまではありませんか」と士官は叫んだ。「カオール! カオール! このホール・バスタスがお迎えしたのは、ヘリウムの王女デジャー・ソリスとその夫ジョン・カーターのご子息でしたか。ああ、王子さま、どこへ行っていらしたのです。ヘリウムじゅうの人間が悲嘆に暮れておりましたぞ。あなたが私どもの前から姿を消されたあの不吉な日以来、あなたの曾祖父陛下が統治される大ヘリウムには、数々の恐ろしい災厄《さいやく》がふりかかりました」
「嘆くな、ホール・バスタス」とカーソリスは叫んだ。「母上や、愛する国の人びとを喜ばすためにもどってきたのは、ぼく一人だけではない。もう一人、全バルスームの人間がだれよりも愛した人物――バルスームの最も偉大な戦士で、その救い主であるヘリウムの王子ジョン・カーターがいるのだ!」
ホール・バスタスはカーソリスの指さすほうを振り返った。そして私を見たとたん、驚愕のあまりその場に倒れそうになった。
「ジョン・カーター!」と彼は叫んだ。そして急にその目に当惑の色を浮かべた。「王子さま、あなたはいままでどこに――」と言いかけて、彼を口をつぐんだが、私には、彼が思いきって口にだせなかった質問がわかった。この誠実な男は、私が神秘のイス川の奥から、そしてまたコルスの|行方知れずの海《ヽヽヽヽヽヽヽ》やドール谷からもどってきたという恐るべき真相を、無理に私に告白させる気にはなれなかったのだ。
「ああ、王子さま」と彼は、挨拶の言葉を中断するようなことは何も考えなかったかのように、しゃべりつづけた。「おもどりになったというだけで十分です。そして、まっさきにあなたの足下にはせ参じてお仕えする栄誉を、ホール・バスタスの剣にお与えください」そう言うとともに、この高潔な男は鞘《さや》の締め金をはずして、さっと長剣を私の前の地面に投げだした。
赤色火星人の風習や性格を知っている人間なら、この簡単な動作が私と周囲で見守っているすべての者たちに伝えた深い意味がわかるだろう。それは口でこう言うのと同じことなのだ。「私の剣も、私の体も、私の命も、私の魂もすべてあなたのものですから、お好きなようになさってください。生きているうちも、死んだのちも、私はあなただけに従って行動いたします。あなたが正しかろうと、まちがっていようと、あなたの言葉だけを私の真理といたします。だれであろうと、あなたに危害を加えようとする者は、私の剣を敵にまわさなければなりますまい」
それは、高潔な人格と雄々しい行為によって部下の心に熱烈な敬愛の念をかきたてるような皇帝《ジェダック》に対して、人びとがしばしばたてる忠誠の誓いである。私の知るかぎりでは、この大きな賛辞が皇帝《ジェダック》以下の人間に捧げられたことは一度もない。そして、これに対する応答の仕方はたった一つしかなかった。私は身をかがめて地面から剣を拾い上げると、その柄を唇にあてた。それからホール・バスタスのほうへ歩み寄り、自分の手で剣を鞘におさめて締め金をとめた。
「ホール・バスタス」と私は彼の肩に手をおいて言った。「きみにはもちろん、自分の心の命ずるところは、よくわかっているはずだ。いずれ私はきみの剣を必要とするようになるだろう。そのことにはほとんど疑いの余地はない。しかし、きみにこの剣を抜いてくれとたのむときは必ず真実と正義と公正のためなのだということを、ジョン・カーターの名誉にかけて請け合うから、信じてくれたまえ」
「それはわかっております、王子さま」と彼は答えた。「私の大切な剣をあなたの足下に投げだす前からわかっております」
私たちが話している間に、小型快速船が地上と戦艦の間を往復していたが、やがて、十二人乗りぐらいのもっと大きな船が上空の戦艦からおろされ、私たちの近くに軽く舞いおりてきた。そして着陸すると、一人の士官が甲板から地上へ飛びおり、ホール・バスタスの前へやってきて敬礼した。
「救助したかたがたを、ただちにザバリアン号にお連れするようにと、カントス・カン閣下が言っておられます」
その船のほうに近づきながら、私は自分の仲間はどうしたかとあたりを見まわした。そして初めてサビアの姿が見えないことに気がついた。一同にたずねた結果、カーソリスが彼女を安全なところへ逃そうとして火星馬《ソート》を丘のほうへ疾駆させたときから、だれも彼女を見ていないことがわかった。
ただちにホール・バスタスは、サビアを捜すために十二機の偵察機を十二とおりの方角へ飛び立たせた。最後に姿を見たときからあと、彼女がそれほど遠くまで行けるはずはなかった。私は残りの仲間とともに迎えにきた船に乗りこみ、すぐにザバリアン号に移った。
まっさきに私を迎えたのはカントス・カン自身だった。私の旧友はヘリウム海軍の最高の地位にまで昇っていたが、私にとっては、いまもなお、ウォーフーン族の地下牢での苦難や、競技大会の残虐きわまる死闘をともに切り抜け、また、のちにゾダンガの都でデジャー・ソリスを捜すために危険をわかち合った勇敢な相棒のままだった。
あの当時、私は見知らぬ遊星にやってきた名も知れぬ流れ者だったし、彼のほうもヘリウム海軍の一士官にすぎなかった。それが今では、彼はヘリウムの大空中艦隊の司令長官だし、私はヘリウムの皇帝《ジェダック》タルドス・モルス家の王子なのである。
カントス・カンは、いままで私がいた場所のことはきかなかった。ホール・バスタス同様、彼もまた真相に恐れをいだき、無理に私の口を開かせようとはしないのだ。彼はそれがいずれわかるにきまっていることをよく知っていたが、それまでは私とふたたび会えたということだけで満足しているようだった。また、大喜びでカーソリスとタルス・タルカスを迎えたが、どちらに対しても、どこへ行っていたのかとはたずねなかった。彼は少年の体から手をはなすことができないほど喜んでいた。
「あなたは知らないだろうね、ジョン・カーター」とカントス・カンは私に言った。「われわれヘリウムの国民がどんなにご子息を愛しているか。それはまるで人びとが彼の立派な父君と気の毒な母君に対して抱いていた大きな愛情をことごとくご子息ひとりにそそいだようなものだった。行方不明になったことがわかったときには、一千万の国民がみんな泣いたのだ」
「|気の毒な母君《ヽヽヽヽヽヽ》というのはどういう意味なんだ、カントス・カン」と私は小声できいた。その言葉に何か私には見当のつかない不吉な意味があるような気がしたのだ。
カントス・カンは私をわきのほうへ引っぱっていって話しだした。
「カーソリスが失踪してからの一年、デジャー・ソリスさまは行方不明のご子息のことを思って悲嘆に暮れておられた。昔、あなたが例の大気製造工場からもどらなかったときの悲しみは、母としての務めをはたすことによって、いくぶんかは和らげられていたのだ。ちょうどあの晩、カーソリスは白い卵の殻を破って生まれたのだからね。
もちろん、あの当時、王女がひどい打撃を受けたことはヘリウムじゅうの人間が知っている。王女の夫がいなくなったということはヘリウム全体がこうむった打撃でもあったのだ。しかし、ご子息がいなくなると、あとにはもう何も残っていないことになった。何度も何度も捜索隊が出されたが、どうにも見込みのない報告がもたらされるばかりで、カーソリスの居場所に関する手がかりは何ひとつつかめなかった。われらの愛する王女はますます悲しみに沈むばかりで、ついには王女に会う者はだれも彼も、こんな調子では王女がドール谷へ行って愛する人びとに会おうとするのも時間の問題だろうと思うまでになった。
ついに最後の手段として、父君のモルス・カジャックと祖父の皇帝《ジェダック》タルドス・モルスが二つの大捜索隊を率いて、バルスームの北半球を徹底的に捜そうと、ひと月前に出発した。それから二週間たっても捜索隊からは何の消息もないので、何か恐ろしい災難にぶつかって、みんな死んでしまったのだという噂が広まっているのだ。
ちょうどこのころ、またザット・アラースが王女に結婚してくれと、しつこく要求しはじめた。あの男はあなたの失踪以来ずっと王女につきまとっているのだ。王女は彼をきらっていたし、恐れてもいたのだが、父君も祖父の皇帝《ジェダック》もいなくなってしまうと、ザット・アラースの権力は非常に強いものになってしまった。あの男はいまでもゾダンガの王《ジェド》だからな。あなたも覚えているだろうが、あなたがあの王《ジェド》の地位を辞退したあと、タルドス・モルスが彼を任命したのだ。
六日前、ザット・アラースは王女と秘密の会見をした。そのとき何が起こったのかわからないが、その翌日、デジャー・ソリスは姿を消してしまった。王女といっしょに十人あまりの近衛兵や召使たちもいなくなったが、その中には例のタルス・タルカスの娘ソラもまじっていた。どういう目的で姿を消したのか、何も伝言は残してなかったが、バルスームの人間が自分から進んであの帰らざる川の旅に出るときはきまってこうなのだ。どうみてもデジャー・ソリスはイス川の冷たい流れをくだることを望み、忠実な従者たちは王女について行く決心をしたとしか考えられない。
ザット・アラースは王女が失踪したときヘリウムにいた。この艦隊は彼の命令で、それからずっと王女を捜しつづけているのだ。しかし王女の行方はまるでわからない。いくら捜してもむだなのではないかという気がする」
私たちが話をしている間に、ホール・バスタスの偵察飛行隊は次々にザバリアン号に帰還していた。しかし、サビアを見つけた偵察機はなかった。私はデジャー・ソリスの失踪を知ってひどく気がめいっていたが、いままたサビアがどうなったかという心配が加わり、悩みはますます深くなった。私はあの娘を幸福にしてやる責任を強く感じていた。どこかバルスームの立派な家柄の娘にちがいないサビアを、何とかしてその一族のもとへ返してやろうと考えていたのである。
サビアの捜索をもう少しつづけてくれとカントス・カンに頼もうとしたとき、艦隊の旗艦から小型快速船が飛んできてザバリアン号に舞いおりた。出てきた士官は、アラースからカントス・カンへの通信をたずさえていた。
私の旧友はその通信を読むと、私のほうを向いて言った。
「ザット・アラースは、捕虜《ヽヽ》を自分のところへ連れてこいと命令してきたよ。そうするほかはない。彼はいまヘリウムの最高権力を握っているのだから。それにしても、もし彼が自分のほうからここへきて、バルスームの救い主が当然受けるべき敬意を示してあなたを迎えるなら、そのほうがずっと男らしくて、気がきいているというものだが」
「きみもよく知っているじゃないか」と私は微笑しながら言った。「ザット・アラースには私を憎む理由が大いにあるのだ。私をはずかしめたあげくに殺しでもすれば、何よりも彼の気にいることだろう。いま、彼はすばらしい口実を持っているのだから、はたしてそいつを利用する度胸があるかどうか、見に行こうじゃないか」
カーソリス、タルス・タルカス、ゾダールの三人を呼ぶと、私たちはカントス・カンやザット・アラースの伝令といっしょに小型船に乗りこみ、またたくうちに旗艦の甲板に足をおろした。
私たちがゾダンガの王《ジェド》に近づいたとき、相手の顔には人を迎えるような表情は何もなく、まるで知らん顔だった。カーソリスに対してさえ、親しげな言葉ひとつかけず、冷やかで傲慢《ごうまん》で強硬な態度である。
「カオール、ザット・アラース」と私は挨拶したが、相手は応じようとしなかった。
「どうしてこの捕虜たちは武装解除されていないのだ」と彼はカントス・カンにきいた。
「この人たちは捕虜ではありませんぞ。ザット・アラース」とカントス・カンは答えた。「この中のお二人はヘリウムの最も立派な家柄の方だし、サークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカスはタルドス・モルスの最も信頼すべき同盟者だ。そして、もう一人はヘリウムの王子が友人として連れてこられた方だ――それだけわかれば私には十分だが」
「しかし、こっちには十分ではない」とザット・アラースは言い返した。「イス川の旅をした者たちからは、名前のほかにもっと聞かなければならないことがある。いままでどこへ行っていたのだ、ジョン・カーター」
「私はドール谷とファースト・ボーンの国から帰ってきたところだよ、ザット・アラース」と私は答えた。
「なに!」と彼はさもうれしげに叫んだ。「じゃあ、そのことを否定しないのだな。イス川の奥からもどってきたのだな」
「私は、偽りの希望の国から、責め苦と死の谷から帰ってきたのだ。この仲間たちとともに、嘘つきの悪魔どもの恐ろしい魔手をのがれてきたのだ。かつて私が苦痛のない窒息死から救ったこのバルスームを、今度は残酷きわまる恐ろしい死からもう一度救うためにもどってきたのだ」
「だまれ、罰あたりめ!」とザット・アラースは叫んだ。「いまわしい嘘をでっち上げて、臆病者が命惜しさに――」だが、彼はそれ以上しゃべれなかった。ジョン・カーターをつかまえて、こんなに軽々しく「臆病者」だの「嘘つき」だのと呼ぶものではない。ザット・アラースもそれを知っているべきだった。私をとめようと手をあげるより早く、私は相手に飛びかかり、片手で咽喉首をつかんだ。
「いいか、ザット・アラース、天国からもどろうと地獄からもどろうと、いまでも私が昔どおりのジョン・カーターだということをわからせてやる。私を臆病者呼ばわりして命が無事だった者は一人もいないのだ――謝罪しないかぎりはな」私はそう言うと、自分の膝の上に相手の体をそり返らせ、喉をしめつけはじめた。
「こいつをつかまえろ!」とザット・アラースは叫んだ。十人あまりの士官が彼の応援に飛びだしてきた。
カントス・カンが近づいてきて、小声で言った。
「頼むから、やめてくれ。そんなことをしても、われわれ全部を巻きこむだけだ。この士官たちがあなたに手を出したら、私もあなたの加勢をしないわけにはいかなくなる。そして私の部下の将兵が私を応援すれば反乱が起こるし、革命にもなりかねない。お願いだ、タルドス・モルスとヘリウムのために思いとどまってもらいたい」
この言葉を聞いて、私はザット・アラースをはなし、うしろを向いて船の手すりのほうへ歩いていった。
「さあ、カントス・カン。ヘリウムの王子はザバリアン号へ引きあげるぞ」
だれ一人、邪魔する者はなかった。ザット・アラースは部下の士官たちに囲まれ、真っ青になって震えていた。彼の部下のなかには彼に侮蔑の目を向けて、私のほうへやってくる者もいた。また、長いあいだタルドス・モルスの部下として信任されていた一人の男は、そばを通った私に小声で言った。
「ジョン・カーター、あなたの部下の戦士の中に私も加えてください」
私はその男に礼を言って、通りすぎた。私たちは黙々と小型船に乗りこみ、ほどなくザバリアン号の甲板にもどった。十五分後、ヘリウムに向かって出発せよという命令が旗艦からきた。
ヘリウムまでの道中は無事平穏だった。カーソリスと私は陰うつきわまる物思いに沈んでいた。カントス・カンも、ドール谷から逃げてきた者は惨殺すべきだという遠い昔からの掟にザット・アラースがあくまで従おうとしたら、またまた恐ろしい災厄がヘリウムにふりかかることだろうと考えて憂うつになっていた。また、タルス・タルカスは娘のソラの身を、案じていた。のんきなのはゾダールだけだった――自分の国ですべてを失った逃亡者にしてみれば、ヘリウムへ行ったからといって、ほかの土地より都合が悪くなるわけのものではなかった。
「少なくとも、われわれの剣に赤い血をたっぷり吸わせてからおさらばということにしたいな」とゾダールは言った。それは無邪気な願いだったが、一番かなえられそうな願いでもあった。
ヘリウムに到着する前に、ザバリアン号の士官たちははっきり二派にわかれたようだった。機会があるたびにカーソリスや私のまわりに集まってくる連中がいたが、いっぽう、それと同数ぐらいの私たちを敬遠している連中がいた。この連中は私たちに対して丁重きわまる態度だけはとっていたが、ドール谷やイス川やコルスの海の迷信にこり固まっていることは明らかだった。しかし、彼らをとがめるわけにはいかなかった。信仰というものは、それがどんなにばかげたものであろうとも、ほかの点では聡明な人びとをも固く束縛してしまう。そのことを私は知っていた。
私たちはドール谷からもどったことによって冒涜《ぼうとく》の罪を犯した。つまり、むこうでの冒険を話し、ありのままの事実を述べることによって、人びとの先祖伝来の信仰を踏みにじったのである。私たちは冒涜者――嘘つきの異端者なのだ。個人的な愛情や誠実さから私たちにつき従っている者たちでさえ、心の中では私たちの話の真実性を疑っていたのだと思う。古い信仰を捨てて新しい信仰を受けいれることは、たとえその新しい信仰の約束するものがどんなに魅惑的であろうとも、きわめてむずかしいことだ。それなら、何も代わりのものを提供しないで、古い信仰は嘘のかたまりだから捨てろなどと言ったところで、いったいだれが承知してくれるだろうか。
カントス・カンは、サーンやファースト・ボーンの間での私たちの経験を話の種にしたがらなかった。
「あなたの味方をして、この世とあの世の自分の命を危険にさらしたことだけで十分だよ」と彼は言った。「この上、子供のときから大それた異端の説だと教えられてきたことを聞かせて私の罪をさらにふやすようなことはしないでもらいたい」
遅かれ早かれ、敵も味方も公然と所信を述べなければならないときがくることはわかっていた。ヘリウムに到着したら、決着をつけなければならないだろう。そのとき、タルドス・モルスが帰っていなければ、ザット・アラースの敵意によって私たちはひどく悩まされることだろう。なぜなら相手はヘリウム政府の代表者だからだ。彼の敵になることは反逆と同じことだ。ただ、兵士の大半はおそらくその上官と行動をともにするだろうし、陸軍と空軍の最高有力者の中には、相手が神だろうと人間だろうと悪魔だろうとジョン・カーターの味方につく者がたくさんいることはわかっていた。
その反面、大衆の大部分は疑いもなく私たちが冒涜の罪に対する罰を受けることを要求するだろう。どこから見ても前途には暗雲がたちこめていた。しかし、いまになって考えてみると、私はこのとき、ヘリウムの一大危機であるこの問題にはろくに注意を払わず、デジャー・ソリスの身の上を案じて心がはり裂けるような思いだったのである。
昼も夜も、私の目の前にはたえず恐ろしい悪夢のような光景が浮かんでいた。私の王女はいまこの瞬間にも、あのいまわしい植物人間や、残忍な大白ザルの群れに囲まれているのではあるまいか……。ときどき、その恐ろしい光景を振り払おうとして両手で顔を覆ったが、むだなことだった。
双子《ふたご》都市の中の大ヘリウムの目印になっている高さ一マイルの緋色の塔の上空に到着したのは、昼前のことだった。海軍のドックにむかって、戦艦が大きく旋回しながらおりてゆくとき、眼下の街に大群衆が押し寄せているのが見えた。艦隊の接近はすでに無電でヘリウムに知らされていたのだった。
カーソリス、タルス・タルカス、ゾダール、それに私の四人はザバリアン号の甲板から小型船に移されて、応報神殿《ヽヽヽヽ》の中の宿舎に運ばれた。ここは、火星の善人や悪人が公正な報酬を受ける場所である。英雄が勲章を授けられるのもここなら、重罪人が刑の宣告を受けるのもここなのだ。私たちは屋上の発着場からすぐに神殿の中へ連れこまれたので、通常の場合のように群衆の間を通り抜けるということはなかった。以前ここで悪名高い犯罪者や、帰国した著名な遠征隊員の姿を見たときには、いつも皇帝《ジェダック》門から応報神殿まで広い|祖先通り《ヽヽヽヽ》を行進して、両側につめかけた市民の群れから嘲罵《ちょうば》や喝采《かっさい》の雨を浴びたものだった。
ザット・アラースが群集を私たちに近づけないほうがいいと考えたことは明らかだった。人びとのカーソリスや私に対する愛情が急に示威的な行動を巻き起こして、私たちの負うべき罪への迷信的な恐怖を吹き飛ばしてしまうことを心配したのだろう。彼がどんな計画を立てているのかは推測する以外に知りようはなかったが、それが卑劣なものであることは、小型船で応報神殿へ行くとき私たちに同行したのが彼の腹心の部下ばかりだったことから見ても明らかだった。
私たちは神殿の南側の一室にいれられた。その部屋からは、祖先通りを五マイル先の皇帝門まで一望のもとに見渡すことができた。神殿の広場から通りの一マイルも先まで群衆が身動きもできないほどぎっしりと詰めかけていた。人びとはきわめておとなしく、嘲罵の叫びも喝采の声もあがらなかった。そして頭上の窓辺に私たちの姿を見つけたときには、手で顔を覆って泣いている者が大勢いた。
午後遅く、ザット・アラースの使いがやってきて、翌日の第一ゾード〔*〕、つまり、地球時間午前八時四十分ごろに、神殿の大広間において公平な貴族審問委員会の手により私たちの裁判が行なわれるむね通告した。
* カーター大尉が時間、距離、重量などを火星の尺度でしるしている場合には、私はいつもそれをできるだけ正確に地球の尺度に直している。大尉の記録には多数の火星計算表や多量の科学的データが含まれているが、このすばらしい貴重な情報資料の山は、目下、国際天文学協会が分類、調査、確認などを行なっている最中である。それゆえ、これらの問題で草稿にあくまでも忠実であろうとすることは、カーター大尉の物語の面白さや、人類の知識の総量を別に増すことにはならないだろうし、いっぽうでは読者をまごつかせて、物語の面白味を損うことになりかねないと思う。しかし、関心のある方々の参考までに述べれば、火星の一日は地球時間の二十四時間三十七分少々である。これを火星人は十等分して、その一単位をゾードと名づけ、一日の始まりは地球時間の午前六時ごろと決めている。ゾードは五十等分されて、さらに短い時間単位ザットとなり、ザットはまた二百等分されて、だいたい地球の秒に等しい時間単位タルとなっている。ここにあげるバルスームの時間計算表はカーター大尉の記録にでてくる計算表のうちのほんの一部にすぎない。
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時間計算表
二百タル…………一ザット
五十ザット………一ゾード
十ゾード…………火星の一自転に要する時間
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十七 死刑宣告
翌朝、定刻の少し前に、ザット・アラースの士官たちの物々しい護衛隊が私たちの部屋に現われ、神殿の大広間へ私たちを連行していった。
私たちは二人ずつ広間にはいり、|希望の通路《ヽヽヽヽヽ》と呼ばれている広い通路を部屋の中央の壇に向かって進んだ。私たちの前後を武装した護衛が行進し、通路の両側には入口から壇までゾダンガ兵がぎっしりと三列に並んでいた。
壇のところまでくると、私は裁判官たちを見た。バルスームの慣習どおり、三十一人のメンバーがいた。裁かれるのが貴族だから、貴族たちの中から|くじ《ヽヽ》によって選ばれた者たちのはずだった。ところが驚いたことに、そのなかには親しい顔は一つも見あたらず、事実上、全部ゾダンガ人といってよかった。だいたい、ゾダンガが緑色人の攻撃によって敗北し、その結果としてヘリウムに隷属するようになったのは、もとはといえば、この私のせいではないか。とすれば、ジョン・カーターやその息子にとって、また、ゾダンガの街中を略奪や放火や殺戮《さつりく》によって蹂躙《じゅうりん》した獰猛な部族民たちの指揮者タルス・タルカスにとって、公正な裁きが行なわれる見込みはほとんどあるまい。
広大な円形の傍聴席は超満員だった。あらゆる階層の老若男女が集まっていた。私たちが広間にはいるとともに、ひそひそ声のざわめきがやんだ。そして私たちが壇上の|正義の御座《ヽヽヽヽヽ》に立ちどまったときには、死の静寂が一万もの観衆を包んでいた。
裁判官たちは円形の壇のまわりを囲むように並んですわっていた。私たちは大きい壇のまん中にある小さな壇に背を向けてすわらされ、裁判官や観衆と向かい合うことになった。小さな壇の上には、一人ずつ自分の審問が行なわれるときに着席するのである。
裁判長の金色の椅子にはザット・アラース自身がすわっていた。私たちが席につき、護衛たちが壇の階段の下に退くと、彼は立ちあがって私の名を呼んだ。
「ジョン・カーター、おまえの行為に対する公平な裁きを受け、その応報を知るために|真理の台座《ヽヽヽヽヽ》に着席しなさい」それから彼は観衆のあちこちを見まわしながら、その応報決定のもとになる私の行為について説明しはじめた。
「さて、裁判官ならびにヘリウム市民諸君、よく聞いていただきたい。かつてのヘリウムの王子ジョン・カーターは、彼自身の供述によると、ドール谷から、またイサス神殿からさえもどってきたという。そして、ヘリウムの多数の人びとの面前で、聖なるイス川、ドール谷、コルスの|行方知れずの海《ヽヽヽヽヽヽヽ》などに対する不敬の言を吐き、さらにはホーリー・サーンや、|死と永遠の生命の女神《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》イサスまでも冒涜したのだ。さあ、諸君、いまこの|真理の台座《ヽヽヽヽヽ》にいるこの男を諸君自身の目で見てわかっていただきたい。この男はまさしくわれわれの昔からの掟に逆らい、われわれの昔からの神聖な信仰を踏みにじって、あの聖なる地からもどってきたのだ。
ひとたび死んだ者は、ふたたび生きることはできない。ふたたび生きようとする者には、永遠の死を与えねばならない。裁判官諸君、かくて諸君の義務は明白きわまるものだ――ここには真実に反する証言は一つとしてあろうはずがない。ジョン・カーターの行為に、いかなる応報を与えるべきだろうか」
「死だ!」と裁判官の一人が大声で言った。
そのとき、一人の男が傍聴席からぱっと立ちあがり、片手を高くあげて叫んだ。「公正! 公正! 公正にやるべきだ!」それはカントス・カンだった。すべての目が彼にそそがれると、彼はゾダンガ兵たちの横をすばやく走って、壇上に飛びあがった。
「こんな公正がどこにあるだろう」と彼はザット・アラースにむかって叫んだ。「被告はまだ自分の言い分を述べていないし、ほかの者に自分の弁護をしてもらう機会も与えられていない。私は、ヘリウムの王子が公正な扱いを受けることを、ヘリウム国民の名において要求する」
とたんに傍聴席から大勢が叫びだした。
「公正! 公正! 公正にやれ!」
ザット・アラースにはその声を無視する勇気はなかった。
「では、話すがいい」と彼は私にむかって、かみつくように言った。「しかし、バルスームで神聖視されているものを冒涜するようなことは言うな」
「ヘリウムの諸君」と私は、裁判官たちの頭ごしに観衆にむかって叫んだ。「どうしてジョン・カーターがゾダンガの人間から公正な裁きを期待することができよう。そんなことはできるはずがないし、最初から求めようとも思わない。ジョン・カーターが自分の言い分を述べるのは、ヘリウムの人びとに対してだ。しかもそれは、だれに慈悲を求めるわけでもない。いま私がしゃべっているのは自分のためではない――諸君のためなのだ。きみたちの妻や娘、そして将来の妻や娘のためなのだ。世にいうイサス神殿という場所においてバルスームの美しい女性たちに加えられている言語道断なはずかしめから彼女たちを救うためなのだ。生き血を吸う植物人間から、牙をむきだしたドール谷の大白ザルから、残酷な肉欲に狂うホーリー・サーンから、冷たい死のイス川が愛と生命と幸福にみちた家庭から人びとを連れだして運んでゆく先に待ちかまえるすべてのものから、彼女たちを救うためなのだ。
ここにいる諸君の中でジョン・カーターの経歴を知らない人はいないと思う。いかにしてジョン・カーターは別世界から諸君の中へやってきたか、そして、いかにして緑色人の捕虜の身から数々の迫害を切り抜けてバルスーム最高の地位にのぼったかは、よくご存じのはずだ。また、これまでにジョン・カーターが自分の利益のために嘘をついたり、何かバルスームの人びとを傷つけるようなことを言ったり、たとえ理解はできなくても敬意を払っていた火星の宗教を軽んじたりしたことは一度もなかったはずではないか。
いまここにいる人びと、あるいはバルスームのほかのどこにいる人びとでも、私のたった一つの行為のおかげで命拾いをしなかった人はいないはずだ。あのとき私は諸君の命を救うために自分自身と私の王女の幸福を犠牲にした。そうとすれば、ヘリウムの諸君、私の話をよく聞いて信じてくれと諸君に要求する権利が、私にはあるのではないだろうか。そして、かつて私がまぎれもない死から諸君を救ったときと同じように、ドール谷とイサスの偽りの天国から諸君を救わせてくれと要求する権利があるのではないか。
私がいましゃべっているのはヘリウムの諸君に対してなのだ。私の話が終わったら、私のことはゾダンガの人びとの思いどおりにさせればいい。ザット・アラースは私の剣を取り上げてしまったから、ゾダンガの人びとももはや私を恐れはすまい。どうだ、諸君、私の話を聞いてくれるか」
「話してくれたまえ。ヘリウムの王子ジョン・カーター」と傍聴席から一人の大貴族が叫んだ。すると、群衆がそれに和していっせいに声を上げ、建物をゆるがすような騒音がわき起こった。
ザット・アラースは、この日、応報神殿で群衆が示したような爆発的感情を押えようとするほど馬鹿ではなかったので、私はそれから二時間のあいだヘリウムの人びとと話をすることができた。
しかし、私の話が終わると、ザット・アラースは立ちあがり、裁判官たちにむかって低い声で言った。「貴族諸君、ジョン・カーターの抗弁はお聞きのとおりだ。もし彼が有罪でないとすれば、その潔白を証明する機会は残らず与えられたわけだ。ところが彼は潔白を証明するどころか、さらに冒涜の言を吐くために時間をつぶしただけだ。さあ、諸君、表決は?」
「冒涜者に死刑を!」と一人がぱっと立ちあがって叫んだ。すると、たちまち三十一人の裁判官が残らず立ち、剣を高くあげて異議のないことを示した。
群衆はザット・アラースの非難の声は耳にはいらなかったとしても、法廷の裁決を聞いたことは確実だった。超満員の円形ホールのあちこちから不満のざわめきが次第に高まってきた。そのとき、さきほど私のそばへきたまま壇上にがんばっていたカントス・カンが片手をあげて群衆を制した。ざわめきが静まると、彼は落着いた静かな口調で人びとに言った。
「ゾダンガの人びとがヘリウム最高の英雄にどういう運命を与えることにしたかはお聞きのとおりだ。この判決を決定的なものとして受けいれることはヘリウムの人間の義務かもしれない。めいめい、自分の良心に従って行動しようではないか。ヘリウムの海軍長官カントス・カンのザット・アラースならびに裁判官一同に対する返答はこうだ」そう言いざま彼は鞘《さや》の締め金をはずして、剣を私の足もとに投げだした。
たちまち、兵士、市民、将校、貴族たちがゾダンガ兵を押しのけ、がむしゃらに|正義の御座《ヽヽヽヽヽ》にむかって殺到してきた。百人もの人間が壇上に押しかけ、百本もの剣ががちゃがちゃと私の足もとの床に投げだされた。ザット・アラースと部下の士官たちは激怒したが、どうすることもできなかった。私は一つ一つ剣を取りあげて唇にあて、持ち主の鞘《さや》におさめた。
「さあ、ジョン・カーターとその一行を護衛して、王子の宮殿へ行こう」とカントス・カンが言った。人びとは私たちのまわりで隊伍を組み、|希望の通路《ヽヽヽヽヽ》に向かう階段のほうへ進みはじめた。
「やめろ!」とザット・アラースが叫んだ。
「ヘリウムの兵士たちよ、囚人を|正義の御座《ヽヽヽヽヽ》からおろすな」
神殿の中にいる兵士のうち部隊としてまとまっているのはゾダンガ兵だけだったので、ザット・アラースは自分の命令どおりになるものと自信をもっていたのだ。しかし、ゾダンガ兵が壇にむかって進みだしたとたんに起こった反抗は彼の予想していなかったことだろう。
円形ホールのいたるところで、さっと剣が抜き放たれたかと思うと、人びとはものすごい勢いでゾダンガ人のほうに突進していった。だれかが大声で叫んだ。「タルドス・モルスは死んだ――次のヘリウムの皇帝《ジェダック》、ジョン・カーターに栄光あれ!」その言葉を聞き、ヘリウムの人びとのザット・アラースの兵士に対する険悪な態度を見ると、もはや奇跡でもなければ、この内乱にまで発展しかねない衝突を防ぎとめることはできないだろうと思われた。
「待て!」と私は叫んで、ふたたび|真理の台座《ヽヽヽヽヽ》に飛びあがった。「私の話がすむまで、だれも動かないでくれ。いま、ここで振るう剣の一突きが、だれにも結末のわからぬ痛ましい流血の内乱へとヘリウムを落としこむかもしれないのだ。そうなったら、親子兄弟がたがいに争うことになるだろう。いかなる人間の生命も、そんなことの犠牲にはできない。私はヘリウムの内乱の原因になるくらいなら、ザット・アラースの不公平な判決に服したほうがましだ。
双方ともたがいに一歩ずつ譲ることにしようではないか。この問題はすべてタルドス・モルスかモルス・カジャックがもどってくるまで棚上げということにしたらどうだ。一年たって二人とも帰ってこなかったら、ふたたび裁判を開けばいい――これは先例もあることだ」それから私はザット・アラースのほうをむいて、小声で言った。「きみもそんなに馬鹿な男ではないだろう。手遅れにならないうちに、私が作ったチャンスをつかんだらどうだ。ひとたび下にいる群衆がきみの兵士たちに切りかかってしまったら、バルスームのだれにも、たとえタルドス・モルスでも食いとめられない重大な結果になるのだ。さあ、どうする。早く答えたまえ」
ゾダンガ人のヘリウムの王《ジェド》は、眼下の怒りにわきたっている人波にむかって声をはりあげた。
「手をだすな、ヘリウムの諸君」と彼は怒りに声をふるわせて叫んだ。「判決はくだったが、応報の日はまだきまっていない。ゾダンガの王《ジェド》ザット・アラースは、被告の王家との関係およびヘリウムとバルスームに対する過去の功労を斟酌《しんしゃく》して、一年間あるいはモルス・カジャックかタルドス・モルスがヘリウムへもどってくるまで、刑の執行猶予を与えることにする。さあ、おとなしく解散しろ。出てゆくのだ」
だれひとり動かなかった。それどころか人びとは、まるで攻撃の合図を待ちかまえているかのように、じっと私を見つめながら押し黙っていた。
「神殿から追いだせ」とザット・アラースは小声で部下の士官の一人に命じた。
この命令が強行された場合の結果を心配して、私は壇の端に歩み寄り、正面入口のほうを指さして、群衆に出てゆくよう命じた。人びとは私の要求に応じていっせいに向きを変えると、やりばのない怒りに顔をしかめているゾダンガの兵士たちの前を、不穏な空気を漂わせながら黙々と歩いていった。
カントス・カンは、私に忠誠を誓ったほかの者たちとともに、まだ|正義の御座《ヽヽヽヽヽ》に立っていた。
「さあ、王子」とカントス・カンは私に言った。「みんなであなたの宮殿までお伴させていただこう。さあ、カーソリス、ゾダール。さあ、きみも。タルス・タルカス」そして彼は、端整な口もとに露骨な嘲笑を浮かべてザット・アラースを見やると、身をひるがえして大股に壇の階段に歩み寄り、|希望の通路《ヽヽヽヽヽ》へむかった。その後につづいて、私たち四人と百人の忠臣が歩きだした。神殿の中を意気揚々と進んでゆく一行を無数の目がにらみつけていたが、引きとめようとする者は一人もいなかった。
外へ出ると、通りを埋めていた群衆が、すぐ道をあけてくれた。そして、郊外にある私の宮殿にむかってヘリウムの街を進んでゆく間に、無数の剣が私の足もとに投げだされた。また、昔の奴隷たちも顔を見せ、私が声をかけると、膝まずいて私の手に接吻した。彼らは私がどこへ行っていたかということなど気にしていなかった。ふたたび彼らのもとへもどってきたというだけで十分だったのだ。
「ああ、ご主人さま」と一人の奴隷は叫んだ。「これで、私たちの気高い王女さまがおいでになりさえすれば、きょうはほんとにすばらしい日でしたのに」
にわかに目に涙があふれてきた。私はそれを隠そうとして顔をそむけなければならなかった。カーソリスは、なつかしそうにまわりに押しかけてきた奴隷たちから母の失踪《しっそう》についての悲しみの言葉を聞くと、人目もかまわず泣きだした。タルス・タルカスは、このときになって初めて、娘のソラがデジャー・ソリスといっしょに永遠の旅に出たことを知った。私にはカントス・カンから聞いた話を彼に伝える勇気がなかったのである。彼はいかにも緑色人らしく平然として、苦悩の色は少しも見せなかったが、心の中では私と同じように痛切な悲哀を感じていることはわかっていた。自分の種族の者たちとはいちじるしく違って、彼には愛や友情や思いやりなどのやさしい人間的特質が立派にそなわっていたのだから。
この日、ヘリウムの王子の宮殿の大食堂で催された歓迎会に出席した人びとは、いずれも悲しげな暗い顔つきをしていた。しかし、集まった人間は、宮廷内の人員を別にしても百人をこえるほどの数だった。デジャー・ソリスと私は皇族としての地位相応の一家をかまえていたのである。
食卓は、赤色火星人の風習に従って、三角形になっていた。これは私たちの家族が三人だったからである。カーソリスと私は主人役としてそれぞれ三角形の一辺の中央に席を占めた――第三辺の中央には、デジャー・ソリスの背の高い彫刻模様のある椅子が主のないまま置かれ、王女の豪華な結婚式のときの飾りや宝石がのせてあるだけだった。椅子のうしろには奴隷が一人、女主人が食卓についていたころと同じように、いつでもご用をという格好で立っていた。これがバルスームの習慣なのだ。だから私はその椅子を見る苦しさに耐えなければならなかったが、いつも快活な笑い声で広いホールに陽気な楽しさをみなぎらせていた王女のすわるべき椅子が静まり返っているのを見るのは、まったく肺腑《はいふ》をえぐられるほどつらいことだった。
私の右側にはカントス・カンがすわり、デジャー・ソリスの空席の右側にはタルス・タルカスが食卓の一段高くなった部分を前にして、巨大な椅子にすわっていた。これは昔、彼の巨体にあうように私がこしらえさせたものだった。火星人の食卓では、主賓の席はかならず女主人の右側ということになっている。デジャー・ソリスは、偉大なサーク人がヘリウムに滞在しているときはいつも彼のためにこの席をとっておいたのだった。
ホール・バスタスはカーソリスの側の客席にすわっていた。席上では世間話もはずまず、もの静かな、しんみりとしたパーティになった。だれの心も、デジャー・ソリス失踪の悲しみに、まだなまなましくうずいていた。それに加えて、タルドス・モルスとモルス・カジャックの身に間違いがあったのではないかという心配があったし、もしも偉大な皇帝《ジェダック》を永遠に失ったらヘリウムの運命はどうなるのだろうという不安もあった。
とつぜん、遠くで人の叫び声がして一同の注意を奪った。それは大勢の人間が一度にどっと大声をあげる叫びだったが、怒りの叫びなのか喜びの叫びなのかはわからなかった。騒ぎはだんだん近づいてきた。一人の奴隷が食堂に駆けこんできて、たいへんな群衆が宮殿の門の中へどんどんはいってきますと叫んだ。そのすぐあとから二人目の奴隷が気ちがいのように笑い声まじりの悲鳴をあげながら飛びこんできた。
「デジャー・ソリスさまが見つかりました!」とその奴隷は叫んだ。「デジャー・ソリスさまのお使いがきました!」
私はそれ以上聞こうとはしなかった。食堂の大きな窓の外には、正門に通じる大通りが見えた。窓は私のところからは食卓の向こう側だったが、私はその大きなテーブルをまわる時間も惜しんで、たった一跳びでテーブルも人も飛びこえ、そのむこうのバルコニーにおり立った。三十フィート下には緋色の芝生が広がり、そのむこうでは大勢の人びとが一匹の巨大な火星馬《ソート》のまわりに群がっていた。乗り手は宮殿にむかって火星馬《ソート》を進めていた。私は下の地面に飛びおり、近寄ってくる群衆のほうへすばやく走っていった。
近づいてみると、火星馬《ソート》に乗っているのはソラだった。
「ヘリウムの王女はどこにいるのだ」と私は叫んだ。
緑色人の娘は巨大な動物の背中からすべりおりて、私のほうへ走ってきた。
「ああ、王子さま! 王子さま!」と彼女は叫んだ。「王女さまはもう永久におもどりになりません。いまごろは小さいほうの月に連れて行かれていることでしょう。バルスームの黒い海賊にさらわれてしまったのです」
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十八 ソラの話
宮殿の中にはいると、私はソラを食堂へ連れていった。そこで彼女は、緑色人の作法どおりに父親に挨拶をしたのち、天国への旅に出たデジャー・ソリスがさらわれるまでの事情を話しはじめた。
「七日前、ザット・アラースとお会いになったあとで、デジャー・ソリスさまは真夜中に宮殿から抜けだそうとなさいました。ザット・アラースと会見なさった結果については何もうかがっていませんでしたけれど、そのとき何かひどく苦しまれるようなことが起こったことは、わたしにもわかっていました。ですから宮殿からこっそり出てゆかれるのを見たときにも、どこへ行こうとなさっているのかは、うかがうまでもありませんでした。
わたしは急いで、十人あまりの最も忠実な近衛兵を起こして、この心配な話を打ち明けました。彼らは一人残らず、愛する王女さまの行かれるところなら、聖なるイス川やドール谷でも、わたしといっしょにお伴しようと言ってくれました。わたしたちは宮殿からほんの少し行ったところで王女さまを見つけました。おそばには忠実な火星犬のウーラがいるだけでした。わたしたちが追いつくと、怒ったふりをなさって、宮殿へもどるようにとお命じになりましたが、わたしたちもこのときばかりはお言葉に従おうとはしませんでした。王女さまの最後の天国への旅にわたしたちがどうしてもお伴をする決心だということがおわかりになると、泣きながらわたしたちを抱きしめられました。それから、ごいっしょに夜の闇の中を南にむかって進んだのです。
翌日、小さな火星馬《ソート》の群れを見つけたので、その後はそれに乗って、どんどん進みました。こうして急ぎながら真南にむかってはるか遠くまで行くと、五日目の朝、大艦隊が北にむかって進んでいるのを見つけました。そして隠れ場所を見つけるひまもなく相手に見つかってしまい、たちまち黒色人の群れにとり囲まれてしまったのです。王女さまの近衛兵たちは最後まで立派に戦いましたが、すぐに圧倒され、殺されてしまいました。殺されなかったのはデジャー・ソリスさまとわたしだけでした。
黒い海賊につかまったことがわかると、王女さまは自殺しようとなさいました。でも黒色人の一人が王女さまの短剣をもぎとり、わたしたちを二人とも縛り上げて、手が使えないようにしてしまいました。
艦隊はわたしたちをつかまえたあと、ふたたび北へむかって進みはじめました。大きな戦艦が全部で二十隻ばかりと、ほかにも小さな高速巡洋艦がたくさんありました。その晩、艦隊のずっと先へ行っていた小型巡洋艦が捕虜をひとり連れてもどってきました――三隻の赤色人の戦艦がいるすぐ近くの丘で見つけた若い赤色人の女だという話でした。
わたしたちがばらばらに耳にした黒い海賊たちの会話の様子では、彼らはその数日前に自分たちの手から逃げだした脱走者の一行を捜しているようでした。そして、その若い女をつかまえたことを重要視しているらしく、女が連れてこられるとすぐに艦隊の司令官みずから長いあいだ熱心に尋問していました。そのあとで女は縛られて、デジャー・ソリスさまとわたしのいる部屋にいれられました。
この新しい捕虜はとても美しい娘でした。もう何年も前に、自分の父であるプタースの皇帝《ジェダック》の宮廷を出て、天国への旅に立ったのですと、デジャー・ソリスさまに話しました。娘はプタースの王女サビアと名のりました。そして、デジャー・ソリスさまに、あなたはどなたでしょうかとたずね、お名前を聞くと、膝まずいて王女さまの縛られている手に接吻しました。そして、ちょうどその日の朝、自分はヘリウムの王子ジョン・カーターさま、ご子息のカーソリスさまといっしょでしたと言ったのです。
デジャー・ソリスさまは初めのうち、その言葉をお信じになりませんでした。でも、サビアがジョン・カーターに出会ってから自分の身にふりかかった数々の異様な出来事を話し、ジョン・カーターとカーソリスとゾダールから聞いたというファースト・ボーンの国での三人の冒険の話を伝えると、ついにデジャー・ソリスさまも、それがヘリウムの王子にまちがいないことをおさとりになりました。『バルスームじゅうをさがしても、あなたの話されたようなことができる人間はジョン・カーターのほかにはおりませんもの』と王女さまはおっしゃいました。そして、サビアがジョン・カーターに対する自分の愛情と、ジョン・カーターの王女さまに対する誠実一途な愛情のことを話すと、デジャー・ソリスさまはその場に泣きくずれておしまいになりました。そして、愛する夫がもどってくるほんの数日前に自分をヘリウムから出ていかせた残酷な運命とザット・アラースを呪われたのです。
『彼を愛したからといって、あなたをとがめはしませんよ、サビア』と王女さまはおっしゃいました。『あなたの彼に対する愛が純粋でいつわりのないものであることは、そのことを率直に告白してくださったことからもよくわかります』
艦隊は北へ進みつづけてヘリウムのすぐ近くまでやってきました。しかし昨夜、ジョン・カーターが完全に逃げてしまったことをさとったらしく、南に引き返しはじめました。そのすぐあとで、衛兵がひとり、部屋にはいってきて、わたしを甲板に引きずりだしました。
『ファースト・ボーンの国には、緑色人をいれる場所はないんだ』衛兵はそう言ったかと思うと、恐ろしい勢いでわたしを突きとばしたので、わたしは戦艦の甲板からころげ落ちました。こうやれば、一番手っとり早く、わたしを船から追い出すとともに殺してしまえると思ったらしいのです。
でも、幸運というか、奇跡というか、わたしはほんの少し打ち傷をつくっただけで命拾いをしました。そのとき船はゆっくりと動いていましたが、船の外の暗闇へ突き落とされたときには、下で待ちうけている恐ろしい衝撃を考えてぞっとしました。一日じゅう艦隊は地上数千フィートの高空を飛んでいたのですから。ところが、驚いたことに、わたしが落ちたところは船の甲板から二十フィートたらずしかない柔らかな草地の上でした。実際、あのとき、船の底は地面をこすっていたにちがいありません。
わたしは落ちた場所に夜どおし横たわっていました。翌朝、どんなに幸運な偶然のおかげで命拾いをしたのか、そのわけがわかりました。日がのぼると、はるか下のほうに広い海底と遠い山々がつづいているのが見えました。わたしは高い山脈の一番高い峰の上にいたのです。前の晩、艦隊は暗闇の中で山の頂上をほとんどかすめるようにして越えていったのです。そして、地面間近を飛んだそのわずかな時間のあいだに、黒色人の衛兵はわたしを突き落として、殺したと思ったのです。
わたしが落ちた場所から二、三マイル西へ行くと、大きな水路がありました。そこへたどりついてみると、うれしいことに、それはヘリウムの水路でした。ここで火星馬《ソート》を一頭手にいれて――あとはもう、ご承知のとおりなのです」
何分間ものあいだ、だれも口をきかなかった。デジャー・ソリスがファースト・ボーンの魔手に落ちようとは! そう思うと、私はぞっとした。だが、とつぜん昔ながらの不屈の闘志が全身に燃えあがってきた。私はさっと立ちあがると、肩を張り、剣を高くかかげて、わが王女の救出におもむき、その恨みをはらすことを、おごそかに誓った。
百本の剣が百本の鞘から抜きはなたれた。そして百人の戦士がテーブルの上に飛びあがり、自分たちの生命と運命をこの遠征に捧げようと私に誓った。早くも私の胸の中には計画が形づくられ始めた。私は忠実な友人の一人一人に礼を言うと、彼らのもてなしをカーソリスにまかせて、カントス・カン、タルス・タルカス、ゾダール、ホール・バスタスの四人を連れて謁見室にひきこもった。
ここで夜遅くまで、遠征計画の細目を論じ合った。ゾダールは、イサスが一年間自分に仕えさせる女としてデジャー・ソリスとサビアを二人とも選ぶことは間違いないと言った。
「少なくともその一年間は、比較的安全だろう」と彼は言った。「それに、少なくとも居場所を知ることはできる」
オメアン海に侵入する艦隊の艤装《ぎそう》という問題では、細目はすべてカントス・カンとゾダールに任せることにした。カントス・カンは必要なだけの艦船をできるだけ早くドックにいれ、そこでゾダールが水中推進器の装着を監督するということにきまった。
ゾダールは長年のあいだ、略奪した船がオメアン海を航行できるように改装する仕事を担当していたので、推進器、大砲格納装置、必要な補助装具の建造には精通していた。
この計画がザット・アラースの耳にはいらないように万事を極秘のうちに行なうとなると、準備完了までには六か月かかるだろうということになった。いまでは、ザット・アラースは野心をすっかりふくれあがらせてしまったから、ヘリウムの皇帝《ジェダック》の地位を手に入れないかぎり満足しないにちがいないというのが、カントス・カンの意見だった。
「デジャー・ソリスがもどってくることを喜ぶかどうかさえ、怪しいものだ」とカントス・カンは言った。「なにしろ、彼より王座に近い人間がまた一人ふえるということになるのだからね。とにかく、あなたとカーソリスを片づけてしまえば、あの男が皇帝《ジェダック》の地位につくのを妨げるものはほとんどなくなってしまうのだ。彼がここで至上権を握っているかぎり、あなたがたのどちらにも安全はないということは確信していいね」
「うまい手があります」とホール・バスタスが叫んだ。「彼の野心を徹底的にくじく手が」
「どんな手だ」と私はきいた。
ホール・バスタスは微笑した。
「ここでは小声で言いますが、そのうちに応報神殿の円屋根にあがって、下で喝采する群衆にむかって大声で叫ぶんです」
「なんのことだ」とカントス・カンがきいた。
「ヘリウムの皇帝《ジェダック》ジョン・カーター」とホール・バスタスは小声で言った。
仲間たちの目がぱっと輝いた。楽しみと期待のいりまじった無気味な微笑を浮かべながら、全員が返事を待ちかまえるように私を見つめた。しかし、私はかぶりを振った。
「諸君、それはだめだよ」と私は微笑しながら言った。「ありがたいことだが、そんなわけにはいかない。少なくとも、いまはまだだめだ。タルドス・モルスやモルス・カジャックが死んでいて、もう帰ってこないとわかった場合には、そのとき私がここにいれば、ヘリウムの人びとが次の皇帝《ジェダック》を公平に選ぶことができるように諸君といっしょに努力しよう。人びとがだれを選ぶかは、私の剣の誠実さにかかっているのかもしれないが、私は自分からその栄誉を求めはしない。とにかく、そのときまではタルドス・モルスがヘリウムの皇帝《ジェダック》だし、ザット・アラースがその代理なのだ」
「お望みどおりにしましょう、ジョン・カーター」とホール・バスタスが言った。「しかし――や、あれは何だ?」彼は、庭園の見える窓のほうを指さしながら、つぶやいた。
そして、ほとんど同時に、外のバルコニーに飛びだしていた。
「そいつだ!」と彼は興奮して叫んだ。「衛兵! その下だ! 衛兵!」
私たちは彼のすぐうしろに集まった。人影がひとつ、芝生の一角をすばやく横切って、むこうの灌木の茂みに消えるのが見えた。
「最初に見つけたときはバルコニーにいたんだ」とホール・バスタスは叫んだ。「早く! 追いかけましょう!」
私たちはいっせいに庭へ飛びだした。しかし、衛兵を総動員して何時間も庭園を捜しまわっても、この夜の訪問者の行方は皆目わからなかった。
「何だと思うね、カントス・カン?」とタルス・タルカスがきいた。
「ザット・アラースのスパイさ」と相手は答えた。「いつも使う手なんだ」
「じゃあ、なかなか面白い話をご主人に報告できることだろうさ」ホール・バスタスはそう言って笑った。
「新しい皇帝《ジェダック》の話を聞かれただけならいいが」と私は言った。「もしもデジャー・ソリスの救出計画を聞かれたとすると、内乱ということになるぞ。むこうはわれわれの邪魔をしようとするだろうし、この問題では私はどんな妨害でもはね返すからな。必要とあれば、タルドス・モルスにだって反抗するよ。ヘリウムじゅうを流血の争いに落としこもうとも、この王女救出計画はやりぬくのだ。もはや、死以外に私をくいとめるものはない。そして、万一私が死んだら、きみたちが王女の捜索を続行して、祖父の宮廷へ無事に連れもどすことを誓ってくれないか、諸君」
一同は私の希望どおりにすることを、それぞれの剣の柄《つか》にかけて誓った。
改装する軍艦は、はるか南西の方角にあるヘリウムの別の都市ハストールに移すことに相談がまとまった。その都市にあるドックなら、通常の仕事量のほかに少なくとも一度に六隻の戦艦の改装をこなす能力があると、カントス・カンは考えたのだ。海軍の司令長官である彼にとっては、そちらで船の準備を整え、オメアン海突入のために出動するときがくるまで、改装した艦隊を帝国の遠方の土地に待機させておくことは造作もないことだった。
その夜、相談が終わったときにはかなり遅くなっていた。しかし、一人一人の仕事の分担はだいたい決まったし、全体の計画は詳細にできあがっていた。
カントス・カンとゾダールは船の改装の仕事に精を出すことになった。タルス・タルカスはサークの都と連絡をとって、彼がドール谷からもどってきたことについての一族の者たちの感情を確かめ、その結果が悪くなければ、ただちにサークにおもむいて、緑色人戦士の大軍を糾合《きゅうごう》する仕事に専念することになった。この緑色人戦士の大軍を輸送船でドール谷とイサス神殿へ送りこむと同時に、艦隊がオメアン海に侵入して、ファースト・ボーンの艦船を撃滅するというのが私たちの計画だった。
ホール・バスタスには、ジョン・カーターの行くところならどこへでもついて行くと誓う兵士たちを集めて秘密部隊を組織するというむずかしい任務が与えられた。オメアン海攻撃に使用する千隻もの大戦艦や、緑色人戦士を運ぶ輸送船とその護衛艦に乗り組ませる兵員は百万をこえる見込みだったので、ホール・バスタスが引き受けた仕事はきわめて重要なものだった。
仲間が帰ったあと、私はひどく疲れていたので、カーソリスにおやすみを言うと、すぐに自分の部屋へひきあげ、入浴して、絹と毛皮の寝具の上に横たわった。バルスームにもどってきてから初めて待望の安眠の夜がやってきたと思った。ところが、またしても期待は裏切られることになった。
どのくらい眠ったのかわからない。とつぜん目が覚めたときには、五、六人の屈強の男が私を押えこみ、口にはすでに|さるぐつわ《ヽヽヽヽヽ》をはめられ、またたくうちに手足を厳重に縛りあげられてしまった。男たちの仕事ぶりがあまりにもすばやく、要領がよかったので、目が覚めきったときにはもう完全に抵抗できなくなっていた。
彼らは一言もしゃべらず、私も|さるぐつわ《ヽヽヽヽヽ》のために完全に口をふさがれていた。彼らは無言のまま、私の体を持ち上げ、戸口のほうへ運んでいった。遠いほうの月の明るい光がさしこんでいる窓ぎわを通ったとき、この男たちがいずれも絹の布切れで幾重にも顔を包み隠しているのがわかった――見わけがつく者は一人もいなかった。
私を運んで廊下に出ると、彼らは壁の秘密ドアのほうへ行った。このドアの中には通路があって、宮殿の地下の穴ぐらまでつづいているのだが、宮殿の内部の人間のほかにこのドアを知っている者がいるというのはおかしなことだった。しかし、この連中のリーダーは少しもまごつかず、まっすぐにドアに歩み寄って、隠しボタンを押した。そしてドアが開くと、仲間が私を連れてはいる間、戸口に立っていた。それから自分がはいってドアを閉め、あとにつづいた。
一行は通路を通って穴ぐらまで行き、それから私自身は通ったことのない曲がりくねった通路をどんどん進んでいった。やがて宮殿の敷地のずっと外まで出たにちがいないと思われるころ、道はふたたびのぼりになった。
まもなく、一行は窓もドアもない壁の前でとまった。リーダーが剣の柄でその壁をたたいた――すばやく鋭く三回、ちょっと間をおいてもう三回、また間をおいて二回。と、すぐに壁は内側に開き、私はまばゆい明かりのついた部屋に押しこまれた。そこには、派手な飾りをいっぱい身につけた男が三人すわっていた。
その一人が薄い冷酷な唇にせせら笑いを浮かべて私のほうを向いた――ザット・アラースだった。
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十九 暗黒の絶望
「これはどうも」とザット・アラースは言った。「思いもよらぬヘリウムの王子のご入来とは、何とも光栄なことでございますな」
彼がしゃべっている間に私を連れてきた男たちの一人が|さるぐつわ《ヽヽヽヽヽ》をはずしたが、私はザット・アラースに何も答えなかった。ただ黙って突っ立ったまま、ゾダンガの王《ジェド》を真正面からじっと見つめていた。私の顔にはこの男に対する軽蔑の色がはっきり浮かんでいたにちがいない。
部屋にいる者たちの視線は、最初は私に向けられたが、次にザット・アラースにそそがれて、そのまま動かなくなった。ついにザット・アラースの顔は怒りのために次第に紅潮してきた。
「おまえたちは退《さが》っていい」と私を連れてきた男たちに彼は言った。そして部屋に残ったのが彼の二人の連れだけになると、ふたたび冷酷な声で――一語一語を慎重に選びだすかのように、ゆっくりと、何度も間をおいて――私に言った。
「ジョン・カーター、慣習の掟によって、宗教の戒律によって、そして公平な法廷の判決によって、おまえは死刑の宣告を受けた。民衆にはおまえを救うことはできない――それができるのは、この私だけだ。おまえのすべては完全に私が握っていて、どうしようと思いのままだ――殺すこともできれば、自由の身にすることもできる。たとえ殺すことにしたとしても、だれにもわかりはしないだろう。
だが、執行猶予という条件に従って、一年間ヘリウムに釈放されれば、民衆がおまえの刑の執行をあくまでも迫るようなことはまずないとみていい。
そこで、一つだけ条件をのめば、二分間以内に釈放してやろう。タルドス・モルスは二度とヘリウムにもどってはこない。モルス・カジャックも、デジャー・ソリスも同じことだ。ヘリウムは年内に新しい皇帝《ジェダック》を選ばなければならない。そしてザット・アラースがヘリウムの皇帝《ジェダック》になるだろう。おまえは私を支持すると言うのだ。そうすれば自由の身にしてやろう。さあ、話はこれだけだ」
ザット・アラースの残忍な心の中に、私を殺そうという考えがあることはわかっていた。もし私が死ねば、彼がわけなくヘリウムの皇帝《ジェダック》になることは、まず疑いなかった。だが、自由になれば、デジャー・ソリスの捜索をやりぬくこともできるが、もし私が死んだら、勇敢な仲間たちは計画を実行することができなくなるかもしれない。つまり、彼の要求に従うことを拒絶すれば、彼がヘリウムの皇帝《ジェダック》になることを妨げられないばかりか、デジャー・ソリスの運命まで決定してしまい、イサスの恐ろしい闘技場へ彼女を送りこむことにもなる。
一瞬、私は迷った。しかし、それは一瞬のあいだだけだった。万世一系の皇帝《ジェダック》の誇り高き娘だったら、このような恥ずべき同盟を結ぶよりは死を選ぶことだろう。ジョン・カーターたるものがヘリウムのために王女以下のことをするわけにはいかない。
そこで私は、ザット・アラースのほうをむいて言った。
「ヘリウムを裏切った男とタルドス・モルス家の王子の間に同盟なぞ結べるはずがない。いいか、ザット・アラース、私はあの偉大な皇帝が死んだなどとは思っていないのだ」
ザット・アラースは肩をすくめた。
「ジョン・カーター、ひとりで勝手なことをほざいていられるのも長いことではないぞ。せいぜい今のうちに楽しんでおくことだ。だが、まあ、この寛大な提案をもっとよく考える時間を与えてやろう。これからおまえがはいる静かな真っ暗な穴の中で、今夜よく考えてみるのだ。いい加減なところで条件をのまなかったら、その何の音も聞こえない暗闇から二度と出られなくなることを忘れるな。それに、いつ何時《なんどき》、沈黙の闇の中から鋭い短剣を持った手がのびてきて、暖かな自由で楽しい外の世界へもう一度でる最後のチャンスを奪ってしまうかわからないのだ」
ザット・アラースはしゃべるのをやめて、手をたたいた。衛兵たちがもどってきた。
ザット・アラースは私のほうへ片手を振ってみせた。
「穴へ」と彼はそれだけ言った。四人の男が私といっしょに部屋から出ると、ラジウム懐中電灯で道を照らしながら、果てしなくつづくトンネルを通って、ヘリウムの都の地下を下へ下へと進んでいった。
ようやく護衛たちはかなり広い部屋の中で立ちどまった。岩の壁には鉄の輪がいくつもはめこんであり、それに鎖がつないであった。たいていの鎖の先端には人間の骸骨がころがっていた。衛兵たちはその骸骨の一つを横へ蹴飛ばすと、かつては人間の足首だったものに巻きついていた鎖の大きな南京錠《なんきんじょう》をはずし、今度は私の足に鎖を巻きつけて錠をかけた。それから明かりを持って、立ち去った。
あたりは真の闇に包まれた。二、三分の間は、装具の金属が触れ合う音が聞こえたが、それも次第に弱まって、ついには静寂も闇と同じく完全なものになった。私のそばには気味の悪い仲間がいるだけだったが――この骸骨はほかならぬ私自身の運命を暗示するもののようだった。
どのくらいの時間、暗闇の中で耳をすまして立っていたのかわからないが、沈黙を破る音は何ひとつ聞こえなかった。そのうちにとうとう牢獄の固い床にぐったりと腰を落とし、岩の壁に頭をもたせかけて眠ってしまった。
それから五、六時間はたっていたにちがいないが、目を覚ますと、すぐ前に一人の若者が立っていた。彼は片手に明かりを持ち、もう一方の手にバルスームの牢獄ではおきまりの|かゆ《ヽヽ》状の混合食物のはいった容器を持っていた。
「ザット・アラースさまがよろしくと言っておられます」と若者は言った。「そして、あなたを皇帝《ジェダック》にする陰謀のことはすっかりわかっているが、すでに出してある提案をひっこめるつもりはないとのことです。あなたが自由の身になるには、ザット・アラースさまの条件を受けいれることを伝えよと私におっしゃりさえすればいいのです」
私はかぶりを振っただけだった。若者はそれっきり何も言わず、私のそばの床の上に食物を置くと、明かりを持って廊下をもどっていった。
幾日ものあいだ、一日に二回、この若者は食物をもって獄房へやってきて、ザット・アラースの同じ伝言を繰り返した。私は彼をほかの話題にひきこもうとしてずいぶん努力したが、どうしてもしゃべろうとしなかった。そこで、とうとう私もあきらめてしまった。
何か月ものあいだ、私は自分の居所をカーソリスに知らせる方法を考えだそうと頭を悩ました。何か月ものあいだ、自分を拘束している重い鎖の環の一つを根気よくこすりつづけた。いつか、それがすり切れたら、若者のあとをつけて曲がりくねったトンネルを通り、脱出できるところまで行けるだろうと思いながら。
デジャー・ソリス救出の遠征隊の準備はその後どのくらい進んだろうかと思うと、気が狂いそうだった。カーソリスが自由に活動していられるなら、準備を停滞させるようなことはないだろうが、私にわかるかぎりでは、彼もまたザット・アラースのために地下牢にほうりこまれているかもしれなかった。
ザット・アラースのスパイに、新しい皇帝《ジェダック》を選ぶことについての私たちの話を盗み聞きされたことはわかったが、デジャー・ソリスの救出計画を細かく論じ合っていたのは、そのわずか五、六分前なのだから、その話も聞かれている可能性は十分にあった。カーソリスも、カントス・カンも、タルス・タルカスも、ホール・バスタスも、ゾダールも、いまごろはもうザット・アラースの刺客に殺されているかもしれないし、捕虜になっているかもしれない。
私は、何か手がかりをつかむために、少なくとももう一度だけ努力してみようと決心した。そこで、次に若者が獄房へやってきたときに、そのための策略を使った。彼はカーソリスと同じくらいの年格好の美男子だが、その品のある立派な態度にはおよそ似つかわしくないみすぼらしい飾り装具をつけていることに私は気がついていた。
このような観察をもとにして、次に若者がきたとき私は交渉を開始したのである。
「きみは私がここに閉じこめられている間、とても親切にしてくれたね」と私は若者に言った。「私はもう、生きていられるのもほんのわずかの間だと思うから、私のここの生活が少しでもしのぎいいようにと気をくばってくれたきみに、遅くなりすぎぬうちに何か感謝のしるしになるものをあげたいのだ。
きみは毎日、私の食事がきれいで量もたっぷりあるように気をつかい、すばやく運んでくれた。何の抵抗もできない私の立場につけこんで侮辱したり苦しめたりするようなことは、ただの一度もしなかったし、言いもしなかった。きみはいつも礼儀正しく思いやり深かった――私がきみに感謝して、何かささやかながら、そのしるしになるものをあげたいと思うようになったのは、ほかの何にもましてこのためなんだよ。
私の宮殿の衛兵詰所には、立派な飾り装具がいっぱいある。あそこへ行って、一番気にいった装具を選びたまえ――きみにあげるよ。私の願いは、きみにそれを身につけてもらうことだけなのだ。そして私の望みがかなえられたことがわかりさえすればいいのだ。どうだ、そうすると言ってくれないかね」
私がそう言うと、若者の目はうれしげに輝いた。そして自分の色あせた装具から私のきらびやかな装具へちらりと目を走らせた。彼はちょっとの間、考えこみながら立っていた。その間、私は胸の鼓動もとまるような思いだった――私にとってはそれほど重要なことが彼の返答次第できまるのだ。やがて若者は口を開いた。
「ヘリウムの王子の宮殿へ行って、そんなことを要求したら、笑いとばされて、おまけに、通りへまっさかさまに放りだされるのが落ちです。ご厚意には感謝しますが、とてもだめですね。だいいち、ぼくがそんなことを考えているなんてザット・アラースに思われようものなら、どんな目にあわされるか知れたものではありません」
「そのことなら、大丈夫だよ」と私は強調した。「息子のカーソリスにあてて手紙を書いてあげるから、それを持って夜のあいだに宮殿へ行けばいい。手紙は持ってゆく前に読んでもかまわないよ。ザット・アラースのためにならないようなことは何も書かないから。私の息子は万事を慎重にやってくれるだろうから、私たち三人のほかはだれにも知れる気づかいはない。じつに簡単なことだし、何にも悪いことをするわけではないのだから、だれにも文句をいわれるはずもないのだ」
ふたたび、若者は黙って考えこんだ。
「それから、私が北部の皇帝《ジェダック》から奪ってきた宝石をちりばめた短剣があるのだが、装具をもらったら、カーソリスに言って、それももらうようにしたまえ。あの短剣ときみが選ぶ飾りがあれば、ゾダンガじゅうで一番すばらしい装具をつけた戦士になるだろう。
今度ここへくるとき、書くものを持ってきたまえ。そうすれば、二、三時間のうちに、生まれや風格にふさわしい身なりをしたきみの姿が見られるわけだ」
相変わらず考えこんで何も言わないまま、若者はきびすを返して出ていった。彼がどう決心するか、見当はつかなかった。その結果を考えて、私は何時間もやきもきしながらすわっていた。
もし若者がカーソリスへの手紙を受けとるなら、それはカーソリスがまだ生きていて自由の身であることを意味するのだ。そして、もし若者が装具や短剣を身につけてもどってくるなら、カーソリスが私の手紙を受けとって、私がまだ生きていることを知ったということが、私にもわかるのだ。手紙を持ってゆく者がゾダンガ人であるということだけで、私がザット・アラースの捕虜になっていることをカーソリスに伝えるのには十分だろう。
次の定刻に若者の足音が近づいてくるのを耳にしたときには、期待に胸が高鳴るのをおさえることはできなかった。私はいつものとおり挨拶をしたほかは何も言わなかった。若者は私のそばの床に食物を置いたとき、いっしょに筆記用具を置いた。
私の心は喜びに湧き返った。策略はまんまと図に当たったのだ。一瞬、私はわざと驚いたような顔をして筆記用具をながめ、それから、軽く合点がいったという表情を浮かべて、それを取り上げた。私はカーソリスにあてて、このパーサックという若者に、当人の望む装具と、これこれの短剣をやってくれという簡単な手紙を書いた。それだけだった。しかし、私とカーソリスには、それで何もかもわかるのだ。
私は手紙を広げたまま床に置いた。パーサックはそれを拾いあげ、何も言わずに出ていった。
私ができるだけ正確に計算したところでは、この地下牢へ閉じこめられてからこの日までに三百日たっているはずだった。デジャー・ソリスを救うために何をやるにしても、早急に事を運ばなければならなかった。彼女がまだ死んでいないとしても、イサスが選んだ者たちは一年間しか生きられないのだから、王女の最期のときはもうすぐやってくるはずなのだ。
その次に足音が近づいてくるのを耳にしたときには、パーサックが装具と短剣を身につけているかどうかを見ようとして待ちきれない思いをした。しかし、食事を運んできた男がパーサックでないことに気がついたときの私のくやしさと落胆ぶりは何とも言いようがなかった。
「パーサックはどうしたんだ」と私はきいたが、相手の男は答えようとはせず、食物を置くやいなや、さっさと背を向けて、上の世界へ引き返していった。
何日かたったが、依然として新しい牢番が仕事をつづけていた。そして、この男は簡単きわまる質問にも何も答えず、自分のほうからもひと言もしゃべろうとはしなかった。
パーサックがこなくなった原因については、ただ推測するほかはなかったが、私が渡した手紙に何らかの関係があることは明らかだった。あんなに喜んだにもかかわらず、事態は前と何の変わりもなかった。いまとなっては、カーソリスが生きているということさえわからなかった。パーサックがザット・アラースに認められたいと考えたとすれば、私にはやりたいようにやらせておいて、あの手紙を自分の忠誠と献身の証拠として主人のもとへ持っていったということも考えられる。
若者に手紙を渡してから三十日たった。監禁されてから三百三十日だ。私の計算では、デジャー・ソリスがイサスの儀式のために闘技場へ引きだされるまで、もはや三十日しか残っていない。
たちまち恐ろしい光景がまざまざと頭に浮かんできて、私は両手で顔を覆った。どんなに押えようとしても湧き出てくる涙をこらえるのがやっとの思いだった。あの美しい女性が恐ろしい大白ザルの残忍な牙にかかって八つ裂きにされるとは! そんなことは想像もつかないことだ。そんな恐ろしいことがあってたまるものか。しかし、私の理性ははっきりと告げていた――三十日以内におまえの比類なき王女はファースト・ボーンの闘技場で、まさしくその野獣どもに殺されてしまうのだ。彼女の血まみれの死体は土ほこりの中を引きずりまわされ、ついにはその一部が黒色人貴族たちの食卓にあらわれるだろう。
そのとき、牢番が近づいてくる足音が聞こえなかったら、私は発狂していたにちがいない。その足音が私の心をすっかり奪っていた恐ろしい考えから、ふと注意をそらしてくれた。そして今度は、厳然たる決意が胸中に湧き起こった。こうなったら超人的な力を振りしぼって脱出を試みてやろう。計略を使って牢番を殺し、運を天にまかせて外の世界へ逃げだすのだ。
思いつくと、たちまち行動に移った。私は獄房の壁ぎわの床に横たわると、あたかも苦しみもがいて痙攣《けいれん》を起こして死んだように不自然にねじまがった姿勢をとった。牢番が上からかがみこんできたら、左手で咽喉をつかみ、右手でしっかり握りしめている鎖のたるませた部分で思いきりなぐりつけてやればいい。
不運な男はしだいに近づいてきた。いよいよ私の前で立ちどまった。うめくような低い叫び声があがって、一歩近寄った。私のそばで膝まずく気配がした。私は鎖を握る手に力をこめた。相手はぐっとかがみこんだ。私はすべての動作を一瞬のうちにやらなければならなかった。目を開いて相手の咽喉を見さだめ、それをつかみ、同時に力一杯の決定打を与えるのだ。
すべては計画どおりにいった。私が目を開いてから鎖をたたきつけるまでは、あっという間もないくらいだったから、自分でもとめようがなかったのだ。その一瞬のあいだに自分の顔の目の前にあるのが息子カーソリスの顔だということを見わけたというのに。
何ということだ! このような恐ろしい結果になるとは何という残酷な悪意にみちた運命なのだ! 相手の正体も知らずに殴り殺すという一生一度のこの瞬間に、息子を私のそばにたぐりよせるとは、何という恐ろしい縁《えにし》の糸がはりめぐらされていたのか! それでも、遅ればせながら慈悲深い神の摂理が働いて、私は目がかすんで気が遠くなり、一人息子の生命のない体の上にくずれ落ちるようにして意識を失った。
ふたたび正気がもどったとき、冷たい、堅く引きしまった手が額を押えているのを感じた。しばらくの間、私は目をあけずに、疲れきった頭の中を逃げまわる無数の思考と記憶の断片をつなぎ合わせようと努力していた。
ついに、意識を失う直前の恐ろしい行為の記憶がよみがえってきた。私は自分のそばに横たわっているはずのものを見るのが恐ろしくて、目があけられなかった。しかし、いま自分を介抱しているのは、いったいだれなのだろう。そうだ、カーソリスは仲間を連れてきていたにちがいない。こっちが気がつかなかっただけだろう。とにかく、これはどのみち避けるわけにはいかないことなのだ。それなら、いまでも同じことではないか。私は溜息をつきながら目をあけた。
かがみこんで私を見つめているのはカーソリスだった。その額には鎖に打たれた大きな傷があったが、ありがたいことに生きていたのだ! 彼のほかにはだれもいなかった。私は両腕をのばして、息子を抱きしめた。そして、この滅びゆく火星の地の底で、わが子の命を救ってくれた神の奇跡に熱烈な感謝の祈りを捧げた。
私が鎖をたたきつける直前にカーソリスを見て、それと気づいた一瞬はまったく短いものだったが、それでも打撃の力をやわらげようとする意識が伝わったにちがいなかった。カーソリスは、しばらくの間は――どのくらいかはわからないが――意識を失って倒れていたのだという。
「いったい、どうやってここへきたんだ」と、彼が案内人もなしに私を見つけたことを不思議に思って、私はたずねた。
「あなたがうまくパーサックという若者を使って、生きていることと投獄されていることを知らせてくれたからです。あの若者が装具と剣をとりにくるまで、ぼくたちはあなたは死んだものと思っていたのです。あなたの手紙を読むと、ぼくはあの指示どおりにしました。衛兵詰所でパーサックに好きな装具をやり、それから宝石をちりばめた短剣を持ってきてやりました。しかし、あなたが彼に約束したことを実行してしまえば、彼に対するぼくの責任はなくなったわけですからね。さっそく、パーサックを尋問しはじめました。ところが、あの若者はどうしてもあなたの居場所を白状しようとはしません。ザット・アラースに対して恐ろしく忠実なのです。
ついにぼくは、釈放か、宮殿の地下の穴ぐらか、二つに一つだと持ちかけました――あなたが監禁されている場所と、そこへ行く道筋を教えれば釈放してやると言ったのです。だが、それでも彼は頑強に敵意を燃やしつづけ、あくまで口を割ろうとはしませんでした。ぼくはあきらめて、彼を地下牢へ移しました。いまもそこにいます。
とにかく、拷問や死刑でおどかそうとしても、どんな条件で買収しようとしても、頑としてはねつけてしまうんですからね。こっちが何を言おうと返事はただ一つ、明日だろうと千年さきだろうとパーサックが死ぬときに、『裏切り者が当然の報いを受けた』などとだれにも言われたくない、と言うだけなのです。
最後に、巧妙な術策を考えだすのがすごく上手なゾダールが、それとなく若者の口を割らせる計略を思いつきました。それに従ってぼくは、ホール・バスタスにゾダンガ兵の装具をつけさせて、地下牢のパーサックの隣に鎖でつないだのです。十五日間というもの、貴族のホール・バスタスは真っ暗な穴の中でしょんぼりと暮らしていましたが、それも無駄ではありませんでした。彼は少しずつゾダンガの若者の信頼と友情を獲得してゆきました。そして、とうとう、きょう、パーサックは同国人の親友に話しているつもりで、ホール・バスタスにあなたが閉じこめられている獄房の秘密を打ち明けることになったのです。
あなたの公文書類の中からヘリウムの地下牢の地図を捜しだすのには、たいして手間はかかりませんでした。しかし、あなたのところまでくるのは、いささかむずかしい仕事でした。ご存じのとおり、この都市の地下にある穴はことごとく地下道でつながっていますが、それぞれの区画の地下道から隣の区画の地下道へ通じる入口は一つずつしかありません。しかもそれは、ほかの部分よりずっと上の、地面のすぐ下になっています。
もちろん、政府の建物の地下の穴に隣の区画の地下からはいる入口には、たえず見張りがついています。そんなわけで、ザット・アラースが住んでいる宮殿の地下の穴の入口まではわけなくたどりつきましたが、そこにはゾダンガ兵がひとり見張っていました。しかし、ぼくはそこを通り抜けてきました。魂のぬけがらになった見張りを残して。そして、ここへやってくると、とたんにあなたに殺されそうになったという次第です」と彼は笑いながら話し終わった。
カーソリスは、話している間から私の足かせの錠前をしきりにいじりまわしていたが、にわかに、うれしそうな声をあげて鎖の端を床に投げだした。そして私は、一年近く悩まされてきたいらだたしい鉄の足かせから解放されて、ふたたび立ちあがった。
カーソリスは私のために長剣と短剣を持ってきてくれたので、それで武装すると、二人は私の宮殿に引き返しはじめた。
ザット・アラースの宮殿の地下道から出るところまでくると、カーソリスが殺した衛兵の死体があった。まだほかの連中に発見されていないらしい。そこで、さらに発見を遅らせて敵を迷わせるために、死体を少し先まで運びだして、隣の建物の地下の主要通路からわきへそれたところにある小さな部屋に隠した。
およそ三十分後には、私たちの宮殿の地下にたどりついた。そして、まもなく二人は謁見室へ抜けだした。そこには、カントス・カン、タルス・タルカス、ホール・バスタス、ゾダールの四人がじれったそうに待ちかまえていた。
いまさら私の牢獄生活のことを話すような無駄なことをする暇はなかった。私が知りたいのは、一年近く前にたてた私たちの計画がどれだけ進行しているかということだった。
「予想したよりずっと時間がかかったよ」とカントス・カンが答えた。「絶対に秘密を保たなければいけないということが、ひどい妨げになったものでね。なにしろ、いたるところにザット・アラースのスパイがいるんだ。それでも、私の知っているかぎりでは、われわれの本当の計画はあの悪党の耳には少しもはいっていない。
今夜、ハストールの大ドックの近くには、バルスーム史上最強の戦艦が千隻も停泊しているが、そのどれにもオメアンの空と海を航行できる装置がついている。そして各戦艦には、十人乗り巡洋艦が五隻、五人乗り偵察艦が十隻、一人乗り偵察艦が百隻ずつ搭載されている。これらの空中と水中の推進器を両方とも装備した艦船は総計十六万隻にのぼる。
いっぽうサークには、タルス・タルカス指揮下の緑色人戦士を運ぶために九百隻の大型輸送船と護衛艦が待機している。七日前にあらゆる準備が整ったのだが、出発前に何とかあなたを救い出して遠征隊の指揮をとってもらいたいと思って待っていたのだ。待ってよかったよ、王子」
「それにしても、タルス・タルカス」と私はたずねた。「サークの連中がイス川からもどってきたきみに対して、掟どおりの行動にでなかったというのはどういうわけだ」
「彼らは五十人の幹部評議会の一行を派遣してきて、ここで私と話し合いをさせたのだ」とサーク人は答えた。「われわれは公正な民族だ。私からすべての事情を聞き終わると、私に対する処置はジョン・カーターに対するヘリウムの処置にならおうということに全員一致で決定した。そして、そのあいだ私はふたたびサークの皇帝《ジェダック》の地位についてくれということになったのだ。おかげで私は遠征の陸上部隊を編成するために、近隣の種族の者たちと交渉できるようになった。私は引き受けたとおりにやってのけたよ。今夜、サークの都には、北の果てから南の果てまでバルスーム全土から集まった獰猛で戦争好きな百にもおよぶ種族の、無数の異なる部族を代表する戦士たちが二十五万も押し寄せている。彼らは、私の命令があり次第、ファースト・ボーンの国をめざして出発し、やめろと命じられるまで戦う覚悟を固めている。彼らが要求しているのは、略奪する戦利品と、戦いと略奪が終わったあとで自分たちの国へ帰る輸送船だけだ。以上が私の報告だ」
「きみのほうはどうだ、ホール・バスタス。うまくいったかね」
「ヘリウムの人口希薄な水路地帯出身の百万の精鋭が戦艦や輸送船や護衛艦に乗りこみます。いずれも忠誠と秘密厳守を誓っている者ばかりですし、疑惑を招くほどの人数は一つの地域から動員していません」
「よくやった!」と私は叫んだ。「みんな自分の任務を果たしてくれたな。さあ、カントス・カン、ただちにハストールへ行って、明日の夜明け前に出発したらいいのではないか」
「一刻も早いほうがいいよ、王子」とカントス・カンは答えた。「すでにハストールの住民たちは、あのような大艦隊に兵士をいっぱい乗せているのは何のためだろうと不思議に思いはじめている。その噂がすでにザット・アラースの耳にはいっている恐れは多分にあると思う。上の宮殿の桟橋に巡洋艦が待たせてあるから、ただちに――」
そのとき、すぐ外の庭園から一斉射撃の銃声が響きわたったので、カントス・カンの言葉は中断された。
私たちはいっせいにバルコニーに駆け寄った。すると、ちょうど十人あまりの衛兵が一人の男を追って、少し離れた灌木の茂みへ飛びこんで行くところだった。私たちのすぐ下の緋色の芝生の上では、数人の衛兵が倒れたまま動かない人影のそばに集まってのぞきこんでいた。
やがて、衛兵たちはその死体をかかえあげ、私の命令に従って、いままで会議を開いていた謁見室に運びこんだ。私たちの足もとに横たえられた死体を見ると、それは壮年の赤色人で、身につけている金属飾りは、普通の兵士か、あるいは自分の正体を隠そうとする者がつけるような、粗末な目だたないものだった。
「また、ザット・アラースのスパイだな」とホール・バスタスが言った。
「そうらしいな」と私は答え、すぐに衛兵に言った。「死体を片づけてもいいぞ」
「待て!」とゾダールが言った。「王子、布切れと、火星馬《ソート》の油を少し持ってこさせてくれないか」
私は衛兵の一人に、うなずいて合図した。出て行った衛兵はすぐにゾダールが要求した品物を持ってもどってきた。黒色人は死体のそばに膝まずくと、布切れの端を火星馬《ソート》の油にひたして、死人の顔を少しこすった。それから微笑を浮かべて私のほうを振り返り、死人の顔を指さした。見ると、ゾダールが油をつけてこすった顔の一部が白くなっていた。私と同じ白い肌である。つづいてゾダールは死体の黒い髪をつかんだかと思うと、いきなりぐいと引っぱって、そっくりはぎとってしまった。一本も毛のない|はげ《ヽヽ》頭が現われた。
衛兵や貴族たちは、大理石の床に横たわるこの沈黙の証拠のまわりに群がり集まっていたが、ゾダールが|かつら《ヽヽヽ》をむしりとって自分の疑念を確かめたときには、大部分の者が驚愕の叫びと、怪しみいぶかる声をあげた。
「サーンだ!」とタルス・タルカスがつぶやいた。
「それよりもっと悪そうだ」とゾダールは答えた。「まあ、確かめてみよう」
彼はそう言うと、短剣を抜いて、サーンの装具からぶらさがっている鍵のかかった小さな物入れを切り開き、その中から大きな宝石をちりばめた黄金の輪を取りだした――それは私がサトール・スロッグから奪ったものと同じやつだった。
「ホーリー・サーンだったのさ」とゾダールは言った。「こいつを逃さなかったのは、まったく運がよかったよ」
そのとき、衛兵将校が部屋にはいってきた。
「王子さま、この男の仲間が逃げのびたことを報告いたさなければなりません。門を固めていた兵士のうちの一人ないし数人との共謀によるものと思われますので、その兵士たちを全員逮捕するように命じました」
ゾダールは衛兵将校に火星馬《ソート》の油と布切れを渡して言った。
「これで、そのスパイを見つけだせるよ」
私はすぐさま、市中を内密に捜索する命令をだした。火星の貴族はめいめい自分の秘密調査機関を持っているのである。
三十分後、衛兵将校がふたたび報告にきた。今度の報告は最悪の懸念が事実になったことを示すものだった――今夜、門を警備していた衛兵の半数は赤色人に変装したサーンだったという。
「さあ!」と私は叫んだ。「もはや一刻も猶予はならない。ただちにハストールへ出発だ。サーンのやつらに大氷原の南端で妨害されたりしたら、計画が一挙にくずれて、遠征隊は全滅してしまうかもしれない」
十分後、私たちはデジャー・ソリス救出のための第一撃を振りおろすべく、夜の闇をついてハストールへ急いだ。
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二十 空中戦
ヘリウムの私の宮殿を出発してから二時間後、ちょうど真夜中ごろに、カントス・カン、ゾダール、私の三人はハストールに到着した。カーソリスとタルス・タルカスとホール・バスタスは別の巡洋艦で直接サークに向かったのだった。
輸送船団はただちに出航して、ゆっくり南進することになっていた。そして戦闘艦隊は二日目の朝それに追いつく予定だった。
ハストールでは、すべての準備が整っていた。カントス・カンが遠征作戦のあらゆる細部にわたって完全な計画をたてていたので、私たちが到着してから十分とたたないうちに、艦隊の一番機が桟橋から空高く舞い上がった。その後は一秒に一隻の割合で次々に巨大な船がふんわりと夜空に浮かび上がり、次第に一筋の細長い線となって何マイルも南に向かってのびていった。
カントス・カンの船室へはいってから、私はやっと日付をきいてみようと思いついた。どのくらいの間、ザット・アラースの地下牢に閉じこめられていたのか、いままではっきりしなかったのである。カントス・カンから日付を聞いたとたんに、私は暗黒の牢獄の中で日数の計算を間違えていたことをさとって愕然とした。すでに三百六十五日が経過していた――デジャー・ソリスを救うには、もう遅すぎるのだ。
遠征はもはや救援のためではなく、復讐のためだった。われわれがイサス神殿に乗りこむときヘリウムの王女はすでにこの世にいないだろうという恐ろしい事実を、私はカントス・カンには告げなかった。私の知るかぎりでは、王女はもう死んでいるかもしれない。というのも、彼女が初めてイサスの顔を見た日が私にはわからないからだ。
いまとなっては、いやまさる個人的な悲しみを友人たちに押しつけたところで、何の役にも立つものではない――彼らはこれまでに十分すぎるほど苦悩をともにしてくれたのだから。今後は悲しみは自分の胸に秘めておくことにしよう。こう考えたので、この遠征が手遅れになったことはほかの仲間には話さなかった。しかし、バルスームの人びとに遠い昔から残酷な罠《わな》に欺かれてきたことをさとらせ、それによって毎年何千もの人びとを、天国への旅のかなたに待ちかまえている恐ろしい運命から救うことができるならば、遠征は大いに価値のあるものになるだろう。
もし美しいドール谷を赤色人たちに開放することができるようになれば、その成果はすばらしいものになるだろう。オツ山脈と氷原地帯の間の|亡者の国《ヽヽヽヽ》には、灌漑をしないでも豊かな収穫を生みだす広大な沃野《よくや》がいくらでもある。
この瀕死の世界の南の果てに、ただ一つだけ自然の豊饒《ほうじょう》な地域があるのだ。ここにだけは雨も露もあり、ここにだけは広大な海があり、ここにだけは豊富な水がある。そしてその全地域はいたずらに恐ろしい野獣どものはびこる場所となっているばかりで、太古の強大な二種族の邪悪な生き残りたちが、美しい肥沃な土地からほかの無数のバルスーム人を閉め出していたのだ。私がこの黄金郷から赤色人を遠ざけていた迷信の障壁を打ち破ることに成功しさえすれば、それは私の王女の永遠の美徳をしのぶにふさわしい記念となるだろう――そうなれば私はまたしてもバルスームを救ったことになるし、デジャー・ソリスの死もむだな犠牲ではなかったことになるだろう。
二日目の朝、夜明けとともに輸送船と護衛艦の大船団が見え始め、まもなく信号を交換できるところまで接近した。ここで、ちょっと説明しておくと、バルスームでは無線による通信は、戦時や秘密通信を送る場合には、めったに使われることはない。それというのも、ある国が新しい暗号を創案したり、無電用の新しい器具を発明したりすると、そのたびに近隣の国々はその暗号通信の傍受と解読に全力をそそぎ成功してしまうからだ。こういう状態があまりにも長い間つづいたので、無線通信の新しい方法がほとんどなくなってしまい、いまではどこの国も無線で重要な通信を送ろうとはしなくなったのである。
タルス・タルカスは輸送船団はすべて順調に航行中と報告してきた。戦艦の群れは輸送船を追い抜いて先に立った。そして全艦船はゆっくりと大氷原をこえて進み、サーンの領土に近づくにつれて発見されないように地表近くを飛んでいった。
艦隊のはるか先頭と両側面には、奇襲にそなえて一人乗りの偵察機が一線に並び、また輸送船団の後方二十マイルほどのところでは、前衛よりは少数の偵察機が後方を警戒している。この隊形で、オメアン海の入口に向かって五、六時間進んだとき、前方の偵察機が一機もどってきて、入口の円錐形の山頂が見えてきたと報告した。それとほとんど同時に、左側から別の偵察機が全速力で旗艦めざして飛んできた。
そのスピードの早さそのものが何か重大な報告をもたらそうとしていることを物語っていた。カントス・カンと私は、地球の戦艦の艦橋にあたる小さな前甲板に立って、その偵察機を待ち受けた。旗艦の広い着陸甲板に小型機がとまるやいなや、飛行士は私たちが立っている甲板に昇る階段を駆けあがってきた。
「南南東に大艦隊が見えます」と飛行士は叫んだ。「数千隻はいるにちがいありません。まっすぐこちらへ向かって進んできます」
「やっぱり、サーンのスパイどもはジョン・カーターの宮殿で昼寝をしていたわけではないんだな」とカントス・カンは私に言った。「王子、命令をだしてくれたまえ」
「至急、戦艦十隻を送ってオメアン海の入口を固めるのだ。敵の船は一隻たりとも出入りさせるなと命令しろ。そうすればファースト・ボーンの大艦隊を地中に封じこめておくことができる。
次に、残りの戦艦は大きなV字型の隊形を作り、その尖端をまっすぐ南南東に向けろ。護衛艦に囲まれた輸送船団はそのすぐ後について行くのだ。V字型の尖端が敵艦の隊列に突入したら、V字型の隊形を外側へ開き、その両翼の戦艦が敵に猛攻を浴びせて後退させ、敵の隊列の中に進路を切り開く。そこを輸送船団が護衛艦とともに全速力で突っ走って、サーンの寺院や庭園の上空に出るのだ。
ここで陸上部隊をおろし、ホーリー・サーンを徹底的にたたきのめして、孫子の代まで忘れられないように思い知らせてやろう。この遠征の本来の目的からそれるつもりはなかったが、このサーンの攻撃は一度できっぱりと片をつけなければならない。さもないと艦隊がドール谷近辺に残っている間ちっとも安心できなくなるし、われわれが外界へもどれる見込みもきわめて薄くなってしまうだろう」
カントス・カンは敬礼すると、待ちうけている副官たちに私の指令を伝えに行った。信じられないほどの素早さで、艦隊は私の指令どおりに隊形を変え、オメアン海の入口を封鎖する十隻は目的地にむかって急行しはじめた。そして輸送船と護衛艦も敵中突破作戦にそなえて密集隊形をとりはじめた。
全速前進の命令がくだった。全艦隊は獲物を追う猟犬のように空中を突進した。たちまち敵艦隊の姿がはっきりと見えてきた。敵艦はどちらをむいても見わたすかぎり、ふぞろいな三列横隊になっていた。われわれの突撃があまりにもだしぬけだったので、応戦の隊形をとるひまがなかったのだ。敵は完全に不意をつかれた。
私の作戦は何から何まで図に当たった。巨艦の群れがサーンの艦隊の戦列を完全に突っ切ると、V字隊形の両翼が開いて広い進路ができた。そこへ輸送船団が突入して、いまや陽光を浴びて輝く姿がはっきりと見えるサーンの寺院にむかって突進した。サーン軍がふたたび態勢を立て直したときには、早くも十万の緑色人戦士が寺院の中庭や庭園に殺到し、別の十五万の戦士は低空で飛びまわる輸送船から身を乗りだして、防壁や寺院を守るサーンの兵士たちに恐るべき必殺の銃弾を浴びせかけた。
すさまじい乱闘の騒音が湧き起こるサーンの華麗な庭園のはるか上空では、いまや二つの大艦隊が接近して壮大な決戦を展開しようとしていた。二列になったヘリウムの戦艦は次第にその戦列の両端を合わせると、敵の戦列の中で旋回しはじめた。これはバルスームの海戦ならではの独特の戦闘隊形である。
カントス・カンの指揮する戦艦の群れはたがいにあとを追ってぐるぐるまわりつづけ、ついにほとんど完全な円形を作った。このときまでには高速で飛びまわっていたので、これらの戦艦は敵にとっては攻撃しにくい目標だった。戦艦は一隻ずつ次々にサーン艦隊の目の前に舷側をまともに向けるので、サーンの艦は猛然と襲いかかっては円陣を切りくずそうとした。しかし、それは素手《すで》で|まるのこ《ヽヽヽヽ》を止めようとするようなものだった。
カントス・カンと並んで甲板に立っていると、敵艦が次から次へと完全に撃破され、すさまじい勢いで墜落してゆくのが見えた。われわれはこの必殺の円陣を徐々に移動させて、やがて緑色人戦士たちが戦っている庭園の上空で停止した。緑色人戦士たちに乗船命令が出された。やがて彼らを乗せた輸送船団がゆっくりと上昇してきて、円陣の真ん中にはいった。
その間にサーン軍の砲火はほとんどやんでいた。彼らはわれわれの強さにすっかり|かぶと《ヽヽヽ》をぬいで、あとはもうおとなしく立ち去ってくれればありがたいという気になっていたのだ。しかし、そう簡単に立ち去ることはできなかった。なぜなら、艦隊がふたたびオメアン海の入口にむかって進みはじめたとたんに、はるか北方の地方線上に黒い隊列が見えたからである。それはまさしく戦闘艦隊にほかならなかった。
どこの艦隊が、どこへ行こうとしているのか、見当もつかなかった。しかし、むこうからもこちらの艦隊がはっきり見えるほどの距離まで接近してきたとき、カントス・カンの通信士が無線通信を受けとった。通信士はただちにそれをカントス・カンに渡し、彼はそれを読んでから、私に渡した。
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カントス・カン、ヘリウムの皇帝《ジェダック》の名において命令する。降服せよ。逃亡は不可能だ。
ザット・アラース
[#ここで字下げ終わり]
私たちとほとんど同時にサーンのほうでもこの通信を傍受して解読したにちがいない。こちらがまもなく新手の敵に襲われることがわかると、たちまち攻撃を再開してきた。
ザット・アラースの艦隊が砲撃有効距離まで接近しないうちに、われわれはふたたびサーン艦隊との激戦に突入していた。そしてザット・アラースの艦隊も、砲撃距離まで近づくやいなや、猛烈な集中砲撃を浴びせはじめた。われわれの艦船は容赦なくふりそそぐ砲火に一隻また一隻とよろめき傾いて落ちていった。
こんな状態をこれ以上つづけるわけにはいかなかった。私は輸送船団に、ふたたびサーンの庭園に降下するよう指令した。
「力のかぎり復讐せよ」と私は緑色人同盟軍に伝えた。「夜までには諸君に仕返しをする者は一人もいなくなるだろう」
まもなく、オメアン海の通路封鎖の指令を受けた十隻の戦艦の姿が見えた。艦尾の砲台からたてつづけに撃ちまくりながら、全速力でもどってくる。この有様に対する説明は一つしか考えようがない。また新手の敵艦隊が現われ、追跡されているのだ。どうやら、事態は最悪だった。もはや、この遠征隊の運命も決まったのである。あの荒涼たる大氷原をこえて帰ってゆく者は一人もいないだろう。それにしても、死ぬ前にただの一瞬でもいいから長剣を手にしてザット・アラースのやつに立ち向かいたいものだ! この失敗を引き起こした張本人はあの男ではないか。
近づいてくる十隻の戦艦を見まもっているうちに、そのあとを追って突進してくる艦影が見えた。また別の大艦隊だ。一瞬、私は自分の目を疑ったが、やがて、遠征隊が致命的な災厄に見舞われたことを認めないわけにはいかなかった。なぜなら、その大艦隊こそ、オメアン海に封じこめておくべきだったファースト・ボーンの艦隊にほかならなかったのである。何という不運の連続だろう! 行方不明のわが愛する王女の捜索が、これほどひどい妨害を受けるとは、何という悪運につきまとわれているのか! これはイサスの呪いだろうか! あの見るもいまわしい体の中には何か恐ろしい魔力のようなものがあるのだろうか! そんなことはありえない。私はさっと身をひるがえすと、下の甲板へかけおり、舷側に鉤《かぎ》なわをひっかけて艦内に乗りこんできたサーンたちを撃退しようとしている部下たちに加わった。白兵戦の気ちがいじみた熱気にひたると、昔ながらの不屈の闘志がよみがえってきた。私の剣を浴びてサーンが次々に倒れてゆくと、この調子なら、だめなように見えても最後にはうまくゆくのではないかと思えるほどだった。
私が加勢に飛びこんだので味方の兵士たちは大いに奮起し、すさまじい勢いで白色人たちに襲いかかった。たちまち形勢は逆転し、次の瞬間には味方が敵艦の甲板に殺到して、敵の艦長が降服と敗北のしるしに艦首からはるかな下界へ身を投げるのを見ることができた。
それから私はカントス・カンのそばへ引き返した。彼は下の甲板の戦闘を見ているうちに何か名案を思いついたらしく、すぐに部下の士官に指令を与えた。やがて旗艦のあちらこちらからヘリウム王子の旗が掲げられた。旗艦の乗組員たちがどっと喝采の声を上げると、味方のほかの艦もみな王子の旗をひるがえしはじめ、次々に喝采が湧き起こった。
そこでカントス・カンは見事な手を打った。この激戦に加わっているあらゆる艦隊の全乗組員が一見してわかる信号旗を旗艦の上に高々と掲げたのである。
「ヘリウムの兵士はヘリウムの王子のためにあらゆる敵と戦うべし」信号はそう伝えていた。まもなくザット・アラースの艦隊の一隻から私の旗がひるがえった。すると、次々にほかの艦もそれにならいはじめた。いくつかの艦では、ゾダンガ兵とヘリウム人の乗員の間に激闘が起こるのが見えた。しかし結局、ザット・アラースに従って私たちを追ってきたあらゆる船の上にヘリウム王子の旗がひるがえることになった――旗をあげないのはただ一隻、旗艦だけだった。
ザット・アラースは五千隻の艦船を出動させていた。空は三つの大艦隊で真っ黒だった。いまではヘリウムが全戦場を敵にまわし、戦闘は無数の小規模な決闘に移っていた。こんなに多数の船でごった返し、砲火がいり乱れている空では、とても作戦をたてて艦隊を動かせるものではない。
ザット・アラースの旗艦は私の旗艦のすぐそばまで迫っていた。私の立っているところから彼のやせた顔が見えた。ゾダンガ兵はいくたびとなく片舷|斉発《せいはつ》を浴びせかけてきたが、こちらもそれに負けない猛反撃を加えた。二隻の戦艦は次第に接近して、ついに間隔はわずか二、三ヤードしかなくなった。鉤《かぎ》なわを持った者や敵艦に乗りこもうとする者たちが接近する二つの手すりに群がり集まった。わが軍は憎むべき敵と死ぬまで戦う覚悟で待ちかまえた。
二隻の巨艦の間隔がわずか一ヤードになったとき、最初の鉤《かぎ》なわが投げられた。私はすばやく甲板に飛びだし、敵艦に乗りこむ兵士たちといっしょになった。そして二隻の船が軽い衝撃とともに接触したとたん、しゃにむに人波をかきわけて、まっさきにザット・アラースの旗艦の甲板に躍りこんだ。あとを追って、ヘリウム最強の兵士の群れがわめき声や、ときの声や、ののしり声をあげながらなだれこんできた。煮えたぎる戦意のかたまりのようになった彼らをくいとめられるものはどこにもなかったろう。
怒濤《どとう》のように押し寄せるヘリウム兵の前に、ゾダンガ兵はひとたまりもなかった。部下たちが下甲板の敵を片づけている間に、私は、ザット・アラースが立っている前甲板にかけつけた。
「さあ、つかまえたぞ、ザット・アラース」と私は叫んだ。「降服しろ。命だけは助けてやろう」
一瞬、彼が私の要求に従おうとしているのか、それとも手に持っている抜き身の剣で立ちむかおうとしているのか、いずれともわからなかった。ちょっとの間、ためらっていた彼は、急に武器を投げ捨てたかと思うと、身をひるがえして甲板の反対側へ駆け寄った。そして私が追いつくより早く、手すりに飛びつき、まっさかさまに眼下の深い空間へ身を投げてしまった。
こうして、ゾダンガの王《ジェド》ザット・アラースはその生涯を終えたのである。
だが、奇妙な戦闘はどこまでも続いた。サーンと黒色人は協力して私たちに立ち向かってきたわけではなかった。サーンの軍艦とファースト・ボーンの軍艦が遭遇《そうぐう》すれば、かならず激戦が起こった。そこにわれわれの救いの道があると私は考えた。そこで、敵に傍受されずに、通信を送れる機会がくるたびに、全艦船はできるだけすみやかに撤退して、戦場の西南に移動せよ、という指令をだした。また、偵察機を下界の庭園で戦っている緑色人戦士のもとに送って、輸送船に乗りこませ、艦隊に合流させるようにした。
さらに各艦の艦長に対して、交戦中の敵艦をできるだけすみやかにその宿敵の軍艦のほうへ誘いだし、うまく双方を戦わせるようにして、その隙に撤退するようにという指令を送った。この戦略は完全に成功をおさめ、日没直前には、黒色人と白色人との激戦が依然としてつづいている地点の南西二十マイルほどのところに大艦隊の生き残りの全艦船が集結したのを見ることができた。
それから私は、ゾダールを別の戦艦に移し、全輸送船団と五千隻の戦艦とともに、イサス神殿の上空へ直行させた。いっぽう、カーソリスと私は、カントス・カンとともに残りの艦船をひきいてオメアン海の入口にむかった。
いよいよ、翌日の夜明けを期してイサスに両面攻撃をかけようという作戦だった。タルス・タルカスは緑色人戦士をひきい、ホール・バスタスは赤色人兵士をひきいて、ゾダールの誘導で、イサスの庭園かその付近の平原に着陸することになっていた。いっぽう、カーソリスとカントス・カンと私はそれより少ない兵力をひきいてオメアン海からカーソリスのよく知っている神殿の地下道を抜けて行くのである。
私は今になってやっと、十隻の戦艦がオメアン海の通路の入口から退却してきた理由を聞いた。こちらの戦艦が通路まで行ったときには、すでにファースト・ボーンの艦隊が入口から出てくるところだったという。二十隻はくだらない数の敵艦がすでに外へ飛びだしていたので、こちらはただちに黒い穴から次々に出てくる艦隊をくいとめようと戦いをしかけたが、どうにも勝ち目がなく、やむをえず退却してきたのだ。
われわれは闇に乗じて、細心の注意を払いながら通路に接近した。数マイル手前で艦隊を停止させると、そこからカーソリスが一人乗りの快速船に乗って偵察に出かけた。三十分ほどすると、彼はもどってきて、哨戒艇《しょうかいてい》もいないし、敵らしいものは何も見あたらないと報告した。そこで艦隊はふたたびオメアン海をめざして静かに迅速に進んだ。
通路の入口に到着すると、またちょっと停止して全艦船をかねて定めてあるとおりの位置につかせた。それから私は旗艦とともに急速に暗黒の穴の中へ下降し、ほかの船も一隻ずつすばやくあとを追ってきた。
われわれは、地下道伝いに神殿にたどりつけるという見込みにすべてを賭けることにしていたので、通路の入口には見張りの船は一隻も残さなかった。もっとも、見張りを残したところで何の役にも立たなかっただろう。もしファースト・ボーンの大艦隊がもどってきたら、それと対抗できるだけの戦力はわれわれにはなかったからだ。
オメアン海にはいってゆく安全な方法としては、何もかまわずに堂々とはいってゆくのが一番だと考えていた。見張りのファースト・ボーンが、円天井の下の地底の海にはいってきた艦隊は味方がもどってきたのではなく敵だと気がつくまでには、いささか時間がかかるにちがいない。
そして、事実はそのとおりになった。最初の銃声がとどろく前に、私の五百隻の艦隊のうち四百隻は無事にオメアンの海面に着水していた。戦闘は短い間だったが、激しかった。しかし、結果は最初からわかっているようなものだった。ファースト・ボーンは防備などは実際には必要なはずがないと気楽にかまえていたので、この巨大な港を守るのに旧式のぼろ船をほんのわずかしか残しておかなかったのである。
カーソリスの思いつきで、捕虜たちを二、三の大きな島に運んで見張りをつけ、次にファースト・ボーンの船を天井の通路へ引っぱってゆき、その数隻を大きな|たて《ヽヽ》穴の中へしっかり押しこんだ。それから残りの船の浮力をあげて上昇させ、すでに通路に押しこんである船の下へぶつかるようにして封鎖をいっそう強固にした。
これで、ファースト・ボーンの艦隊がもどってきても、オメアン海上にたどりつくまでには少なくとも若干の時間がかかるだろうから、こちらがイサス神殿に通じる地下道めざして進む余裕は十分にあるだろう。そこで、私はまず、みずからかなりの兵力をひきいて潜水艦基地のある島へ急行し、わずかな衛兵からは何の抵抗も受けずに島を占領した。
潜水艦はプールの中に停泊していた。ただちに潜水艦と島全体に厳重な見張りを配置し、ここにとどまって、カーソリスたちがくるのを待った。
捕虜の中には、潜水艦の艦長ヤーステッドがいた。ファースト・ボーンにつかまっていた間に、この男には三度も護送されているので、むこうも私を覚えていた。
「形勢逆転というのはどんな気分だね」と私はたずねた。「かつての捕虜の捕虜になるというのは?」
ヤーステッドはにやりとした。意味ありげな何とも気味の悪い笑い方だった。
「それも長いことではないさ、ジョン・カーター」と彼は答えた。「おまえがくるのを待ちうけていたんだ。ちゃんと用意はできている」
「そうらしいな。なにしろ、敵も味方もほとんど何の打撃も受けないうちに、さっさと捕虜になったんだからな」
「艦隊はおまえをつかまえそこなったらしいが、いずれオメアン海にもどってくる。そうなれば形勢はまたがらりと変わるぞ――ジョン・カーターにとってはな」
「艦隊が私をつかまえそこなったとは知らなかったよ」と私は言ったが、もちろん相手はその意味がわからず、けげんな顔をしただけだった。
「きみの気味の悪い船がイサスのところへ運んで行く捕虜は大勢いるのだろうな、ヤーステッド」と私はきいた。
「ずいぶん大勢な」
「デジャー・ソリスという捕虜を覚えていないか」
「むろん覚えているさ。なにしろ、たいへんな美人だし、それにまた、イサスさまの悠久の歴史を通じて初めてイサスさまの手から逃げた男の妻なんだからね。イサスさまも、|永遠の生命の女神《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》に反抗した男の妻として、また、もう一人の母として、あの女のことは一番よく覚えておられるそうだ」
息子と夫の冒涜の仕返しに、イサスは何の罪もないデジャー・ソリスに卑劣な報復を加えたのではないかと思うと、私はぞっとした。
「それで、いまデジャー・ソリスはどこにいるんだ」と、私は相手が自分のもっとも恐れている返答をするだろうと思いながらも、たずねた。私はあまりにも彼女を愛していたので、それが彼女の運命に関する最悪の言葉であろうとも、つい最近彼女に会っている人間の口からもれる言葉を聞かずにはいられなかったのである。そうすれば、彼女をもっと身近なものに感じられるように思えた。
「きのうイサスさまの毎月の儀式が行なわれたが」とヤーステッドは答えた。「そのとき、いつものようにイサスさまの足もとにすわっているのを見たよ」
「何だって」と私は叫んだ。「じゃあ、彼女は死んでいないのか」
「もちろん、そうさ」と黒色人は答えた。「なにしろ、あの女が輝かしくも美しい聖なるお顔をおがんでから、まだ一年たっていないんだから――」
「一年たっていない?」と私は口をいれた。
「そうさ」とヤーステッドは強調した。「三百七十日か八十日以上になるはずはないな」
突然、ぱっと心の中が明るくなった。おれは何という間抜けだったのだろう! 私はこみあげてくる歓喜の色が顔にあらわれるのを押えきれなかった。何だって地球と火星の公転周期に大きな相違があることを忘れていたんだろう! 私がバルスームで過ごした地球の計算での十年は、火星時間の五年と九十六日にしかあたらないのである。火星の一日は地球の一日より四十一分長く、一年は六百八十七日になる。
間《ま》にあった! 間《ま》にあったのだ! その言葉が何度も何度も頭の中を駆けめぐり、ついにははっきりした声になって口から飛びだしたらしく、ヤーステッドが首を横に振って言った。
「おまえの王女を救うのに間《ま》にあったというのか」彼は私の返事も待たずにつづけた。「だめだよ、ジョン・カーター、イサスさまはご自分の獲物をあきらめたりするものか。おまえがやってくることはご存じなんだ。イサス神殿の境内に罰当たりなやつが一歩でも足を踏みいれたりしたら、デジャー・ソリスの姿は永遠に消されてしまって、救出の望みなど完全になくなるよ」
「私の邪魔をするだけのために彼女が殺されるというのか」
「そうではない。非常手段というやつだ。太陽殿《ヽヽヽ》のことを聞いたことがあるかね? 彼女がいれられるのはそこだよ。それはイサス神殿の中庭のずっと奥にある小さな神殿で、その細い尖塔《せんとう》はまわりを囲む大神殿の屋根や尖塔よりはるかに高くそびえている。その尖塔の地下に神殿の主要部分があり、六百八十七の円形の部屋が次々に下へ重なっている。それぞれの部屋へ行く道は、イサス神殿の地下から固い岩をつらぬいて廊下が一本通じているだけだ。
そして太陽殿全体はバルスームが太陽のまわりを一回転するのに合わせて一回転するようになっているから、それぞれの部屋の入口が外界とのただ一つの連絡路である廊下の前にくることは一年に一度しかないわけだ。
イサスさまは、気にくわないが、すぐには処刑したくない連中をここにほうりこむのだ。また、ファースト・ボーンの貴族を処罰するのに、太陽殿の一室に一年間ほうりこむこともある。またよく、罪人といっしょに死刑執行人を閉じこめて、所定の日に何か恐ろしい方法で殺させるようにすることもあるし、精神的苦痛を与えるためにイサスさまがきめた日数だけ生きのびられるよう、その分だけの食物を部屋にいれておくこともある。
こんな工合にデジャー・ソリスは死ぬことになるだろう。そして、冒涜者がイサス神殿の敷居をまたいだとたんに、彼女の運命はきまってしまうのだ」
では、結局のところ、私は失敗することになるのか。せっかく奇跡的な難事をやりとげ、あと一息で私のすばらしい王女のもとにたどりつけるというところまできたのに、依然として、四千八百万マイルかなたのハドソン川のほとりに立っていたときと同じように、彼女はとうてい手のとどかない遠いところにいる。
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二十一 水と火のかなたに
ヤーステッドの話を聞いて、私はもはや一刻の猶予もできないことをさとった。タルス・タルカス指揮下の軍勢が夜明けに攻撃を開始する前に、こちらはひそかにイサス神殿に到着していなければならない。ひとたび、あの呪わしい神殿の中にはいってしまえば、必ずイサスの衛兵を打ち負かして、王女を連れだせるにちがいない。なにしろ、私のうしろには十分な兵力がひかえている。
カーソリスの一行がやってくると、ただちに潜水艦を使って兵士たちの輸送を開始した。水中トンネルをぬけて神殿側の潜水艦プールへ行けば、イサスの地下道に通じる入口があるのだ。
潜水艦は何度も往復しなければならなかった。だが、ついに、この遠征の最後の仕上げを開始するにあたって、全員がふたたび無事に集結することができた。総勢五千、いずれもバルスームの赤色人の中で最も戦争好きな種族の歴戦の勇士ばかりであった。
地下の通路の秘密を知っているのはカーソリスだけだったので、部隊をいくつかに分けて数か所から同時に神殿を攻撃するという一番望ましい方法をとるわけにいかなかった。そこで、カーソリスが全部隊を案内して、できるだけ速く神殿の中央部近くまで行くことに決まった。
われわれがプールから離れて地下道へはいろうとしかけたとき、一人の士官に注意されて潜水艦の浮かんでいる水面に目を向けた。最初は水中で何か大きなものが動いて水面が揺れているだけのことのように見えたので、別の潜水艦がわれわれを追跡し浮上してきたのかと思った。だが、まもなく、水面が徐々にではあるが、きわめて着実に上昇していて、もうじき水がプールの縁をこえて部屋じゅうにあふれだすことは明白になった。
一瞬、私には、徐々に水面が高まってくることの恐ろしい意味がぴんとこなかった。事態の完全な意味――その原因と理由をすぐにさとったのはカーソリスだった。
「急ごう!」と彼は叫んだ。「ぐずぐずしていたら全滅だ。オメアン海のポンプがとめられたのです。罠《わな》にかかったネズミみたいに溺《おぼ》れてしまうでしょう。洪水にならないうちに地下道の上のほうまで行ってしまわなければなりません。さもないと絶対に行けなくなります。さあ、急ぎましょう」
「先導しろ、カーソリス」と私は叫んだ。「あとからついてゆく」
私の命令とともに、若者は通路の一つに飛びこんだ。兵士たちは二列になって彼のあとにつづき、中隊ごとに規律正しくドワール(大尉)の命令に従って通路にはいっていった。
最後の中隊が部屋から出発しないうちに、水は|くるぶし《ヽヽヽヽ》のあたりまできていた。兵士たちが神経質になっていることは明白だった。赤色人は飲用や浴用に使うぐらいの量でないかぎり水というものにまったく慣れていないので、このような多量の水がすさまじい勢いで逆巻いているのを見ると本能的にしりごみしてしまうのである。しかし、足首のまわりに水が渦巻いているのに兵士たちがひるんだ様子を見せなかったことは、彼らの勇気と規律のすばらしさを証明していた。
私はこの部屋を最後にはなれた。隊列の後尾について通路のほうへ行くときには、膝まできている水をかきわけて進んだ。通路の中も同じ深さの水があふれていた。通路の床は部屋の床と同じ高さだったし、ずいぶん長いあいだいっこうに上り坂になる様子もなかった。
部隊は、きわめて狭い通路を多人数で進むにしては精一杯の速さで進んだが、追いかけてくる水を多少でも引きはなすことはできなかった。通路が上りになれば、それにつれて水も上昇し、まもなく、しんがりをつとめている私には、水が急速に追い迫りつつあるのがわかってきた。なぜこんなことになるのか、その理由もわかった。オメアン海の丸天井の頂点にむかって水位が高まるにつれて水面の面積はどんどん減少してゆくので、当然、それに反比例して水の上昇速度は増大することになる。
この調子では、隊列の最後尾が危険地帯の上にある地下道にたどりつくずっと前に、背後から多量の水が怒濤のように押し寄せてきて、遠征隊の半分は溺死してしまうに相違ない。
不運な兵士たちをできるだけたくさん救う方法はないものかと思案しているうちに、右手に急な上り坂になっているらしい別れ道があるのが目にとまった。水はもう、腰のあたりで渦巻いていた。すぐ前にいる兵士がにわかにうろたえだした。ただちに何とかしなければ、兵士たちは総くずれになって前方の仲間の上に突進し、その結果、何百人もが水の中で踏みつぶされ、ついには通路がふさがれてしまって、前方の者たちは引き返すこともできなくなるだろう。
私は精いっぱいの声をはりあげて、前方の中隊長《ドワール》たちに命令した。
「うしろ半分の二十五個中隊を呼びもどせ。ここから逃げられそうだ。あともどりして、私についてこい」
私の命令に従ったのは約三十個中隊だった。およそ三千人の兵士が逆もどりして勇敢に洪水を突っ切り、私の指図どおり横の通路へはいろうと急ぎはじめた。
最初の中隊が横道へはいるとき、私は中隊長《ドワール》に、どんなことがあっても、私が追いつくまでは、「または、追いつかないうちに死んだとわかるまでは」地下道から飛びだして外へ出たり、神殿の中にはいったりしてはいけないと厳重に命令した。
士官は敬礼して、出発した。兵士の列はすばやく私の前を通過して、私が安全なところへ逃げられるだろうと考えた横の通路へはいっていった。水は胸の高さまできていた。兵士たちはよろめき、もがきまわっては水中に沈んだ。私は多数の兵士をつかまえて立たせたが、一人ではどうにも手に負えない仕事だった。兵士は次々に逆巻く奔流に押し流され、二度と浮かんではこなかった。そのうちに、第十中隊の隊長が私のそばに陣どって加勢してくれた。グル・タスという名の剛胆な軍人だった。二人は、いまや完全におびえきってしまった兵士たちの間にどうにか規律らしいものを維持し、ほっておいたら溺死したはずの多数の兵士を救った。
第五中隊がこの横道の入口にやってくると、カントス・カンの息子で、この中隊の士官《パドワール》であるジョール・カントスが私たちの仕事の仲間入りをした。その後は、残りの数百人が本道から側道へはいってしまうまで、水中に姿を消す者は一人もいなかった。
最後の中隊が私たちの前を通過するときには、水は首のあたりまで押し寄せていた。しかし私たち三人は、最後の一人が比較的安全な新しい通路にはいってしまうまで、手を握り合って頑張っていた。いよいよ側道へはいってみると、道はすぐ急な上りになっていたので、百ヤードも行かないうちに水の上へ出ることができた。
数分のあいだは、その急な坂道をすばやくのぼりつづけた。これなら、じきにイサス神殿に通じる上の地下道へ出られるだろうと思った。しかし、行手には無残な失望が待ちかまえていた。
とつぜん、はるか前方から「火事だ!」という叫び声が聞こえてきた。と、ほとんど同時に恐怖の叫びと、中隊長《ドワール》や士官《パドワール》が容易ならぬ危険から部下たちを遠ざけようと懸命に指図をしているわめき声が聞こえた。やがて報告が私たちのところまでとどいた。「前方の地下道に火をつけられたのです」「前は火、うしろは水ではさみ撃ちになりました」「助けてください、ジョン・カーター。窒息しそうです」やがて、後方の私たちのところまで濃い煙の波が押し寄せてきた。私たちは息がつまり、目が見えなくなって、よろめきはじめ、後退しなければならなくなった。
別の逃げ道をさがす以外にどうしようもなかった。火と煙は水の上では千倍も恐ろしいものになる。そこで、周囲にたちこめる息苦しい煙の渦の外へ、上り坂になって通じている通路を見つけると、すぐにこれを逃げ道に決めた。
ふたたび私は、兵士たちが新しい逃げ道へ急いで走りこんでゆく間、片側に身を寄せて立っていた。およそ二千人が駆け足で通過したと思われるころ、人の流れはとだえた。しかし、出火地点を通過しなかった者が全員逃げのびたのかどうかわからなかった。そこで、あとにとり残されて惨死する哀れな者が一人もいないことを確かめようと、私は急いで火元のほうにむかって走りだした。いまや、はるか前方に鈍い光をはなって燃えあがる炎が見えていた。
熱さと息苦しさを冒して、やっと炎の反射で廊下が明るく照らされているところまでくると、私と燃えあがる火炎の間にヘリウムの兵士は一人もいないことがわかった――火炎の中や、その向こう側には何があるものやらわからなかったが、この何かの化学薬品による焦熱地獄を無事に通り抜けて、むこう側の実状をつきとめることは、どんな人間にもできることではなかった。
自分の義務感を満足させると、私は身をひるがえして、部下たちがはいっていった通路のほうへ駆けもどりはじめた。ところが、いつのまにかその退路が遮断されているのに気がついて、ぞっとした――通路の入口いっぱいに、明らかに天井から落とされたと思われる重い鉄|格子《ごうし》が立ちふさがって、見事に私の逃げ道を断ち切っている。
われわれのおもな動静がファースト・ボーンに知られていることは、前日の艦隊攻撃からみても疑いようはなかった。また、絶好の瞬間にオメアン海のポンプが偶然にとまるなどということはありえないし、われわれがイサス神殿めざして進んでいるその同じ通路で化学薬品の火事が起こったりするのは巧みに計画された陰謀以外の何ものでもなかった。
そしていま、鉄格子が落ちてきて、私を火炎と洪水の間に見事に閉じこめたことから考えると、こちらには見えない目がたえずわれわれを見張っているようだった。まったく姿を現わさない敵と戦わなければならないのでは、どうしてデジャー・ソリスを救出するチャンスがつかめるだろうか。だいたい、このような地下道なら、こんな罠が簡単に作れることはわかりきっているはずではないか――みすみすそれに落ちこむとは何という間抜けだろう。いま思えば、兵力を分けたりしないで、全軍で谷間側から神殿に総攻撃をしかけたほうがずっとよかったのではないだろうか。そして、運と、味方のすばらしい戦闘力とを頼りにぶつかってゆけば、ファースト・ボーンを圧倒し、デジャー・ソリスを無事に奪い返すことができたかもしれない。
押し寄せてくる煙に追いたてられて、私は次第に通路を後退し、闇の中から激しい音をたてて迫ってくる水のほうへ近づいていった。兵士たちがいなくなるとともに照明具もなくなってしまったし、この通路は下の地下道のように燐光を放つ岩石の光に照らされてもいなかった。しかし、この事実によって、神殿の真下にある上の地下道からあまり遠くないところにいることを確信した。
ついに足が水につかった。背後はもうもうたる煙だ。苦しさは頂点に達していた。できることはたった一つ、目前に迫った二つの死のうち楽なほうを選ぶことしかなさそうだ。そこで私は通路をくだりはじめ、ついにオメアン海の冷たい水に全身を包まれると、真っ暗闇の中で泳ぎだした――どこへ行こうというのか。
人間の自衛本能というのは強いものである。たとえ、恐れずに、ありったけの判断力を働かして、絶対に避けようのない死が目前に迫っていることを知った場合でも、自衛本能はあくまで強い。私はゆっくりと泳ぎつづけながら、自分の頭が通路の天井にとどくのを待った。それは、私の逃走もついに限界点に達して、水底の墓場へ永遠に沈んで行かなければならないときがきたということなのだ。
ところが驚いたことに、水が通路の天井までとどくときがこないうちに、私は壁にぶつかった。思い違いだろうか。そう思って、あたりを手でさぐりまわした。やはり、そうだった。私は最初の本道へもどっていたのである。本道の水面と岩の天井との間には、まだ呼吸ができるだけの空間があった。そこで私は本道にはいり、三十分ほど前にカーソリスと先頭部隊が進んで行った方角にむかった。どんどん泳いで行くと、一かきごとに気分が軽くなってきた。どうみても進むにつれて水が浅くなることがわかったからだ。もうすぐ足がふたたび床に触れるにちがいないと私は思った。そうなれば、イサス神殿と、そこで苦悩の生活を送っている美しい捕虜のそばへたどりつくチャンスがふたたびもどってくる……
しかし、希望の火が燃えあがったとたんに、とつぜん頭が頭上の岩にぶつかった。そして、最悪の事態が訪れたことを悟った。私が行きあたった場所は、火星の地下道が急に下方へ落ちこんでいる数少ない地点の一つだったのだ。前方のどこかで道がふたたび上昇していることはわかっていたが、そんなことは何の役にもたたなかった。完全に水面下に没している距離がどのくらいあるかわからないのである。
決死的な行動によるほかない望みが一つだけあった。私はそれを敢行した。胸一杯に息を吸いこむと、水中にもぐり、暗黒の氷のように冷たい水中の地下道を泳いでいった。ときどき手を上にのばしてみたが、頭上の岩に触れるだけだった。
もうあまり長くは息がつづかない。もうすぐ死ぬにちがいない。こんな遠くまできてしまっては引き返すわけにもいかない。もはや、水中にもぐった地点へ引き返すまで、体がもつわけがないのだ。死神が目の前で私の顔をのぞきこんでいた。自分の額に死神の氷のような息吹きがかかるのを、これほどまざまざと感じたことはほかにはない。
みるみる衰えてゆく力を振りしぼって、私はもう一度、狂ったようにもがいた。それっきり、ぐったりとなって浮きあがった――痛めつけられた肺は呼吸をしようと大きくあえいだ。たちまち水が流れこみ、感覚が麻痺《まひ》してゆくだろう……ところが、かつえた鼻孔を通って死にかけている肺の中に流れこんできたのは生命をよみがえらせる空気だった。助かったのだ。
二、三度、水をかくと、足が床につくところまできた。その少しあとには、完全に水から脱けだし、通路を狂ったように走りながら、イサスのもとへ行ける戸口をさがしていた。デジャー・ソリスを救うことができないなら、彼女の死の復讐をしてやる。それには、このようなはかりしれない災厄をバルスームにもたらした張本人、あの悪魔の化身の命を奪わないことには、どうしてこの胸がおさまろうか。
思ったより早く、上の神殿への出口らしいところにぶつかった。それは廊下の右側にあった。廊下の先にはまだほかにも上の建物へ通じる入口があるらしかった。
私にとっては、どれでも同じことだった。どれを選んだところで、行先がわからないことに変わりはない! そこで、また発見されて妨害されたりしないうちにと思って、すばやく短い急な傾斜路を駆けのぼり、その突き当たりの扉を押しあけた。
扉はゆるやかに内側へ開いた。それがもどってきてばたんと閉まる前に、私は部屋の中へ飛びこんだ。まだ夜は明けていなかったが、部屋には煌々《こうこう》と明かりがついていた。部屋には一人だけ人間がいたが、奥の低い寝椅子にうつ伏せに横たわり、眠っているようだった。壁の掛け布や贅沢な家具から判断して、女司祭の居間だろうと思った。ひょっとするとイサス自身の部屋かもしれない。
そう思うと、全身の血がわき返った。もし幸運にも、あのいまわしい化けものが護衛もなしにひとりでいるところをつかまえたとしたら、何ともすばらしいことになるだろう。イサスを人質にしたら、どんな要求でも承知させることができるではないか。私は用心深く足音を忍ばせて、横たわっている人影に近づいていった。だんだん距離は近づいた。しかし部屋の中央を過ぎたばかりのところで、人影は動きだした。そして私が飛びかかると同時に、起きあがって私のほうを見た。
最初、目の前の女の顔には恐怖の表情が広がった――それから、自分の目を疑うような驚きの色――希望の輝き――感謝の光、と次々に変化していった。
彼女のほうへ歩み寄りながら私の胸は高鳴った――涙があふれてきた――そして、奔流のようにほとばしりでるはずの言葉を喉につまらせながら、腕をひらいて、ふたたび抱きしめたのは、わが愛する女性――ヘリウムの王女デジャー・ソリスだった。
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二十二 勝利と敗北
「ジョン・カーター、ジョン・カーター」と、彼女はその愛らしい頭を私の肩にもたせかけて、むせび泣きながら言った。「まだ自分の目が信じられない思いがします。あのサビアという娘が、あなたがバルスームにおもどりになったことを話してくれたときも、聞いてはいても信じられませんでした。この長い年月、ずっとひとりで苦しみ悩んできたわたしにとっては、そんな幸福はとうていあり得ないような気がしたからです。そして、ようやく、それが本当だとわかり、また、自分が囚われの身になったのがどんなに恐ろしい場所かということがわかってきたとき、たとえあなたでも、ここまでわたしを助けにくることはできないのではないかと思うようになりました。
何日たっても、そして何か月か過ぎても、あなたのことは噂ひとつ伝わってはこないので、わたしはもう運命に身をまかせていました。それがいま、こうしていらしてくださったなんて、とても信じられない気がします。一時間ほど前から神殿の中で戦いの物音がするのはわかっていました。それが何の戦いかはわかりませんでしたが、万が一にもわたしの王子さまのひきいるヘリウムの兵士たちであってくれたらと思っていたのです。それでカーソリスは? わたしたちの息子はどうしました」
「一時間ほど前までは私といっしょにいたのだよ。神殿の中で戦いの物音が聞こえたというのは彼がひきいる兵士たちにちがいない。
「イサスはどこにいる」私はだしぬけにたずねた。
デジャー・ソリスは肩をすくめた。
「神殿の広間で戦いがはじまる直前に、イサスはわたしに護衛をつけて、この部屋へ送りこみました。あとで迎えをよこすと言っていました。ひどく怒っていて、なんだか心配そうな様子でした。あんなに不安そうな、こわがっているといってもいいような態度を見たのは初めてです。いまになって思えば、ヘリウムの王子ジョン・カーターが自分の王女をさらわれた仕返しにくることを知ったからにちがいありません」
打ち合う剣の響き、わめき声、走りまわる多数の足音など、戦いの物音が神殿の四方八方から聞こえてきた。むこうでは私を必要としている。しかし、デジャー・ソリスをおいてゆく気にはなれなかったし、そうかといって危険な戦いの渦の中へ彼女を連れて行く気にもなれなかった。
そのとき、いましがた自分が抜け出てきた地下道のことを思いついた。自分が戦場からもどってきて、この恐ろしい場所から彼女を無事に、そして永遠に連れだすことができるときまで、あの地下道に隠れていることにすればいいのではないか。私はこの計画を彼女に話した。
一瞬、彼女はいっそう力をこめて私にしがみついた。
「ジョン・カーター、いまはもう、ほんの一瞬でもあなたのそばを離れることはできません。また一人になって、あの恐ろしい女に見つかるのではないかと思うと、それだけでも身震いがします。あなたはあの女をご存じないのです。半年以上もの間、あの女の日々の行動を見てきた人間でなければ、あの恐ろしい残酷さは想像もつかないでしょう。わたしが自分の目で見たことを理解し始めたのさえ、ついこの頃のことなのです」
「では、きみのそばを離れないことにしよう」と私は答えた。
彼女はちょっと黙りこんだが、やがて私の顔を引き寄せて接吻した。
「お行きなさい、ジョン・カーター」と彼女は言った。「むこうにはわたしたちの息子がいるし、ヘリウムの兵士たちがいます。みんなヘリウムの王女のために戦っているのです。あの人たちがいるところには、あなたもいるべきです。わたしはいま、自分のことは考えないで、みんなのこと、自分の夫の義務のことを考えなければいけないのです。夫の義務の邪魔をすることはできません。さあ、わたしを地下道に隠して、出かけてください」
私は彼女を連れて、いましがた下からこの部屋にはいるのに通った扉のところへ行き、そこで、いとしい体を抱きしめた。それから、恐ろしい不吉な予感がするばかりで、たまらなくつらいことだったが、彼女を扉の中へいれ、もう一度接吻してから、扉をしめた。
それ以上はためらわず、急いで部屋から出ると、一番騒がしい物音のする方角へむかった。部屋を五つ六つ通り抜けると、早くもすさまじい戦場にぶつかった。大きな部屋の入口に黒色人たちが群がり集まって、赤色人の一隊がこれ以上神殿の奥へはいるのをくいとめようとしているところだった。
私は神殿の内部からやってきたので、黒色人たちの背後にいた。そして、敵の人数をかぞえようとも自分の無謀さを考えようともせずに、すばやく部屋の中を突進し、鋭い長剣を振りかざして背後から襲いかかった。
最初の一撃を加えながら、私は大声で叫んだ。「ヘリウムのために!」それから、不意を打たれた黒色人戦士たちに息もつがせず白刃の雨を浴びせた。いっぽう、部屋の外の赤色人たちは私の声を聞いて新たな勇気を振るい起こし、「ジョン・カーター! ジョン・カーター!」と口々に叫びながら、いっそう奮戦しはじめたので、黒色人たちは不意打ちのショックから立ち直る余裕もなく戦列をくずし、赤色人たちはどっと部屋の中に乱入してきた。
この部屋の中での戦闘は、もし有能な年代記作者がいたら、火星の戦争好きな住民のすさまじい凶暴性を後世に伝える歴史的な事件としてバルスームの年代記に記録したことだろう。黒色人対赤色人――双方合わせて五百人の兵士が、この日この部屋で戦った。助命を求める者もなければ、与える者もなかった。あたかも、適者生存の法則に従って、いずれに生きる権利があるかをきっぱり決めようとするかのような、そのことを敵味方が申し合わせているかのような戦いぶりだった。
このバルスームの二つの民族の相互関係はこの戦いの結果によって永久に定まってしまうということを、全員が知っていたと思う。それは古い民族と新しい民族との戦いだった。しかし私は、戦いの結果にはただの一度も疑いをもたなかった。私がカーソリスと肩を並べて戦ったのは、バルスームの赤色人のため、そして彼らの喉を締めつけている恐ろしい迷信の首かせから彼らを完全に解放するためだった。
われわれは部屋のあちらこちらへ怒濤《どとう》のように動きまわって戦った。ついに床には足首までつかるほど血がたまり、倒れている死者の数があまりにもおびただしいので、戦っている間の半分は足は死体の上という有様になった。われわれがイサスの庭園を見わたす大きな窓のほうを振りむいたとき、一つの光景が私の目にはいり、たちまち歓喜の波が全身を駆けめぐった。
「見ろ!」と私は叫んだ。「ファースト・ボーンの者ども、見ろ!」
一瞬、戦闘が停止し、全員がいっせいに私の指さす方角に目を向けた。彼らの目にはいった光景は、いまだかつてファースト・ボーンがだれひとり想像もしたことがない光景だった。
庭園では右から左へずらりと並んだ黒色人戦士たちが浮き足だってざわめいていた。そのむこうから、巨大な火星馬《ソート》にまたがった緑色人戦士の大軍が彼らをどんどん後退させながら迫ってくる。見まもるうちに、ひときわすごみのある獰猛な感じの戦士が前へ進み出てきて、この恐ろしい軍勢に、激しいわめき声で何か命令を浴びせかけた。
それはサークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカスだった。彼が金属の石突きのついた四十フィートの巨大な槍を低くかまえると、部下の戦士たちもそれにならった。そこで私たちにも彼の命令がわかった。いまや、黒色人戦士の戦列までの距離は二十ヤードだ。サークの偉人がまた一声叫んだ。とたんに緑色人戦士はすさまじい喊声をあげて突撃した。一瞬、黒い戦列は受けとめた。しかし、ほんの一瞬だけだった――恐ろしい戦士を乗せた恐ろしい野獣の群れは完全に戦列を突破した。
そのあとから、赤色人の中隊《ユータン》がぞくぞくと攻め寄せてきた。緑色人部隊は散開して神殿を包囲した。赤色人兵士は神殿のなかに突撃してきた。私たちも中断された戦闘をつづけようとした。ところが、敵は部屋から姿を消していた。
たちまち頭に浮かんだのはデジャー・ソリスのことだった。カーソリスに母を見つけたことを告げると、私は彼女を残してきた部屋にむかって駆けだした。息子もすぐそばについて走った。二人のあとには、血なまぐさい死闘に生き残った部下の一団がつづいた。
部屋にはいったとたん、私が立ち去ったあとでここへきた者があることをさとった。絹布が一枚、床に落ちていた。さっきはなかったものだ。そのほかにも短剣が一本と金属の飾りがいくつか、まるでだれかが組打ちをしてもぎとられたように散らばっていた。しかし、何よりも悪いのは王女を隠した地下道へ通じる扉が少し開いていることだった。
私はひと飛びでその前に行くと、ぱっとドアをあけて中へ飛びこんだ。デジャー・ソリスの姿は消えていた。私は大声で何度も名前を呼んだ。しかし返事はない。そのとき私は発狂の瀬戸ぎわまでいっていたのだと思う。自分が何をしゃべったか、何をしたか、まるで覚えていないのだ。しかし、一瞬、激しい怒りに狂いたったことは覚えている。
「イサス!」と私は叫んだ。「イサス! イサスはどこだ! 神殿じゅうを捜して、あいつを見つけろ。しかし、ジョン・カーター以外の者はあいつに手だしをするな。カーソリス、イサスの部屋はどこだ」
「こっちです」と彼は叫んだ。そして私の返答も確かめずに、すさまじい速さで神殿の奥へ突進していった。しかし、彼がいくら速く走っても、私もそのそばに並び、もっと急げとせきたてていた。
ついに二人は彫刻模様のある大きな扉の前にきた。カーソリスは私より一歩先に駆けこんだ。部屋の中にはいると、前に一度目撃している光景にぶつかった――イサスの玉座、そのそばに身を横たえる奴隷たち、まわりを囲む衛兵の列。
その衛兵たちに剣を抜くひまも与えず、私たちは襲いかかった。私は一撃で最前列の二人を切り倒すと、体の重みとはずみだけで残りの二列を完全に突っ切り、壇上の、彫刻のほどこされたソラプス材の玉座のそばに飛びあがった。
玉座にうずくまっていたいやらしい老婆は度胆を抜かれて、私の前から逃げだし、うしろの仕掛け穴の中に飛びこもうとした。だが今度は、そんな手に乗るわけはなかった。老婆が半分からだを起こしたときには、私はもう相手の腕をつかんでいた。そして衛兵たちが四方からいっせいに飛びかかろうとするのを見ると、すばやく短剣を抜いて、その切っ先をいやらしい胸につきつけ、衛兵たちに止まれと命じた。
「さがれ!」と私は叫んだ。「さがれ! おまえたちの黒い足が一歩でも壇上に乗ったら、この短剣がイサスの心臓に突き刺さるぞ」
一瞬、彼らはためらった。だが、すぐに一人の士官が後退を命じた。その間に、外の廊下から、私の生き残りの少数の部下たちのすぐあとにつづいて、カントス・カン、ホール・バスタス、ゾダールのひきいる千名以上の赤色人兵士が玉座の間に堂々と乗りこんできた。
「デジャー・ソリスはどこだ」と私はつかまえている怪物にむかって叫んだ。
一瞬、イサスはあわただしく目を動かして、あたりをきょろきょろ見まわした。この老婆がその場の状況をのみこむにはいささか時間がかかったのだと思う――外界の人間たちの攻撃によって神殿が陥落したということが、最初のうちイサスには理解できなかったのである。それがわかったときには、そのことが自分にとって何を意味するかをさとって愕然としたにちがいない。権力の喪失――屈辱――長いあいだ自分の仲間の黒色人たちをたぶらかしてきた詐欺行為の露顕《ろけん》。
イサスの目の前の状況の現実性を完全なものにするには、もう一つだけ必要なことがあった。それをつけ加えたのは、イサスの王国の最高位の貴族で、イサスの宗教の大司祭、イサスの内閣の首相をつとめる男だった。
「|死と永遠の生命の女神《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、イサスよ」と彼は叫んだ。「あなたの正義の怒りによって立ち上がってください。そして、あなたの全能の手の一振りによって、冒涜者どもを打ち殺してください! ただの一人も逃さずに。イサスよ、あなたの臣下どもは何ごともあなたを頼りにしているのです。|小さい月の娘よ《ヽヽヽヽヽヽヽ》、あなただけが全能なのです。あなただけが臣下どもを救うことができるのです。これだけ申し上げれば、お待ちするばかりです。さあ、おやりになってください!」
イサスの気が狂ったのはこのときだった。とつぜん、私に押えられたまま、きいきい金切り声を上げ、わけのわからぬことを早口にしゃべりながら身もだえしはじめた。やりばのない怒りにもだえて、噛みつき、爪をたててかきむしった。それから血も凍るような無気味な恐ろしい笑い声をたてた。壇上の奴隷の娘たちは悲鳴をあげ、身をすくめた。すると、化けものは娘たちに飛びかかって、歯ぎしりし、泡を吹いた口から唾《つば》を吐きかけた。まったく、すさまじい光景だった。
ついに私は、少しの間でも正気にもどらないかと、狂人のからだをゆすぶった。
「デジャー・ソリスはどこなんだ」と私はまた叫んだ。
私がつかまえている怪物はちょっとの間はっきりしないことをもぐもぐ言っていたが、とつぜん、そのいやらしい間隔の狭い両眼を狡猾《こうかつ》そうにきらりと光らせた。
「デジャー・ソリス? デジャー・ソリスだと?」そう言ったかと思うと、ふたたび、あの無気味な甲高い笑い声をひびかせた。
「そうか、デジャー・ソリスか――知っているよ。それからサビアと、マタイ・シャンの娘ファイドールもな。どいつもこいつもジョン・カーターにほれているんだ。はっはっ! だが、こっけいなことさ。三人いっしょに太陽殿の中で一年間よく考えることだろう。しかし、一年たたないうちに食べるものがなくなってしまうんだ、はっはっ! 何ともかたじけないおもてなしだよ」イサスはそう言うと、冷酷な口もとの泡をなめた。「食物がなくなってしまうのさ――三人で食い合いでもしないことにはね。はっはっはっ!」
その言葉を聞くと、私は恐ろしさに全身が凍りつくような思いがした。いま私がつかまえている怪物は、私の王女をこんな恐ろしい運命に落としこんだのだ。私は激怒に身を震わせた。そして、テリア犬がネズミをこづきまわすように、|永遠の生命の女神《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》イサスの体をゆすぶった。
「命令を取り消せ!」と私は叫んだ。「三人を呼びもどすのだ。早くしろ。さもないと殺すぞ!」
「もう遅いよ。はっはっはっ!」イサスはそう言うと、ふたたびわけのわからないことを早口にしゃべり、金切り声をあげた。
私は思わず、イサスのけがらわしい胸の上に短剣をふりかざした。まるで短剣がひとりでに動きだした感じだった。しかし、何かが私の手を押えた。いま思えば、それでよかったのだと思う。自分の手で女を殺していたら、どんなにいやな思いをしたことだろう。しかし、幸いにも、この|にせ《ヽヽ》神さまにはもっとふさわしい運命があることを思いついたのだ。
「ファースト・ボーン」私は部屋の中に立っている敵の連中にむかって叫んだ。「きみたちはきょう、自分の目でイサスが無力であることを知ったはずだ――神なら全能だが、イサスは神ではない。イサスはただ、長い間きみたちを欺き、たぶらかしていた冷酷で邪悪な老婆にすぎないのだ。さあ、この女を連れて行け。ヘリウムの王子ジョン・カーターは、この女の血で自分の手を汚したくない」そう言うと同時に、つい三十分前までは火星じゅうの人間に神として崇拝されていた狂いわめく老婆を、玉座の壇上から、裏切られて復讐心に燃える連中が待ちかまえているほうへ私は押しやった。
それから赤色人の士官たちの中にいるゾダールを見つけて、ただちに太陽殿へ案内してくれと言った。そして、ファースト・ボーンが自分たちの女神にどんな復讐をするか、それがわかるのも待たずに、ゾダール、カーソリス、ホール・バスタス、カントス・カン、それに二十人ばかりの赤色人貴族といっしょに部屋から飛びだした。
一行はゾダールを先頭にして、すばやく神殿の奥の部屋を次々に通り抜け、やがて、中央にある優美な白い透明な大理石を敷きつめた円形の中庭で足をとめた。目の前には、ダイヤモンド、ルビー、サファイヤ、トルコ石、エメラルド、それに輝きの美しさと純度の点で地球の最も高価な宝石をはるかにしのぐ無数の名も知れぬ火星の宝石をちりばめた、すばらしく空想的な奇抜な造りの金色の神殿がそびえていた。
「こっちだ」ゾダールはそう叫ぶと、この神殿の横の中庭にある地下トンネルの入口へ案内した。私たちがトンネルの中へおりようとしかけたとき、出てきたばかりのイサス神殿のほうから急に低いどよめきがあがるのが聞こえた。つづいて第五中隊の士官ジョール・カントスが近くの出入口から飛びだしてきて、一声で私たちにもどれと呼びかけた。
「黒色人たちが神殿に火をつけました」と彼は叫んだ。「いたるところから燃えだしています。急いで外の庭園へ出てください。さもないと逃げおくれます」
彼が叫んでいるうちにも、太陽殿の中庭に面している十あまりの窓から煙が吹きだしてきた。神殿の一番高い尖塔のはるか上空には、もくもくと広がる煙の渦がたちこめていた。
「引き返せ! 引き返せ!」と私は同行してきた者たちにむかって叫んだ。「ゾダール、道を教えろ! 道だけ教えて、私にかまわず行くんだ。私はやはり王女のところへ行く」
「ついてこい、ジョン・カーター」と答えると、ゾダールは私の返事も待たずに足もとのトンネルの中へ飛びこんだ。私もそのすぐあとにつづき、階段を五つ六つも走りおりると、やっと平らな床の上を進むようになり、行く手の突き当たりに明かりのついた部屋が見えた。
太い頑丈な鉄格子が私たちの行手をさえぎっていた。だが、そのむこうには彼女が――私のかけがえのない王女が見えた。サビアとファイドールもいっしょだ。私の姿を見ると、王女は二人をへだてている鉄格子のそばへ走り寄ってきた。すでに部屋はゆっくりと回転していたので、廊下の端の鉄格子と向かい合っている部屋の入口は一部分しか見えていなかった。その隙間も徐々に狭くなっているのだ。まもなく、ほんのわずかな割れ目のようになり、やがてはそれさえふさがってしまうだろう。そして、ふたたびたった一日だけ壁の入口が廊下の端と重なるときまで、部屋はバルスームの長い一年のあいだゆっくりと回転しつづけるのだ。
だが、その間にこの部屋の中ではどのような恐ろしい事態が起こるのだろう!
「ゾダール!」と私は叫んだ。「この恐ろしい回転装置はどうしてもとめられないのか。この頑丈な鉄格子の開け方を知っているやつはいないのか」
「いないだろうな、いますぐ連れてこられるやつはいない。だが、さがしに行ってみよう。ここで待っていてくれ」
彼が立ち去ったあと、私はその位置でデジャー・ソリスと話をした。私が最後の瞬間まで握っていられるように、彼女はそのいとしい手を無情な鉄棒の間からさしのべた。
サビアとファイドールもそばへ寄ってきたが、サビアは私たちが二人だけになりたがっているのをさとると、部屋の奥へひっこんだ。しかし、マタイ・シャンの娘はそんなことはしなかった。
「ジョン・カーター」と彼女は言った。「これっきり、あなたはわたしたちの三人のだれにも会えなくなるのよ。わたしを愛していると言ってちょうだい。そうすれば幸福に死ねるわ」
「私が愛しているのはヘリウムの王女だけだ」と私は静かに答えた。「気の毒だが、ファイドール、最初からきみに話してあるとおりなのだよ」
ファイドールは唇を噛み、顔をそむけた。だが、たちまち激しい怒りにみちた険悪な顔でデジャー・ソリスをにらんだ。そのあとファイドールは少し離れたところに立っていたが、私としては、もっと離れてもらいたいところだった。長いあいだ会えなかった愛する者にいまこそ伝えたい二人だけの話が数えきれないほどあったからだ。
数分のあいだ、私たち二人はこんなふうに立ったまま小声で話し合っていた。その間にも隙間は次第に狭くなっていった。もう少しで、王女のほっそりした体も通り抜けられないほどになってしまうだろう。ああ、ゾダールは何をぐずぐずしているのだ。頭上からは大騒動の物音がかすかに伝わってきた。黒色人や赤色人や緑色人の大群衆が燃えあがるイサス神殿から懸命に逃げだそうとしているのだろう。
上から隙間風とともに煙が流れこんできて、きなくさい臭いが鼻をついた。私たちがゾダールを待っているうちに、煙は次第に濃くなってきた。まもなく、廊下の向こうの端で叫び声とあわただしい足音が聞こえた。
「もどってこい、ジョン・カーター。もどれ!」と叫び声があがった。「地下道まで燃えてきたぞ」
たちまち十人あまりの男たちが、いまではもうもうと視野をさえぎる煙の中を突っ切って私のそばに飛んできた。カーソリス、カントス・カン、ホール・バスタス、ゾダール、それに太陽殿の中庭までついてきた貴族が数人いた。
「もうだめだ、ジョン・カーター」とゾダールが叫んだ。「鍵を保管していたやつが死んでいたし、その死体には鍵が見あたらないんだ。この火事を消しとめて、あとは運を天にまかせ、一年後に王女の無事な姿が見られるように祈るよりほかに望みはない。三人がそれまで生きのびられるだけの食糧は、ここに持ってきた。この隙間がふさがってしまえば、煙は中へはいらないから、急いで火を消せば命は助かると思う」
「では、きみはもう行ってくれ。ほかの連中を連れて逃げてくれ」と私は答えた。「私はこのまま王女のそばにいるよ。慈悲深い死が苦しみから解放してくれるまでな。もう生きようとは思わない」
私がそう言っている間に、ゾダールはたくさんの小さな罐をどんどん鉄格子のむこうの部屋に投げこんでいた。その少し後には、壁の隙間は一インチそこそこの幅になった。デジャー・ソリスはできるだけその隙間に身を寄せながら、私を勇気づける言葉をささやき、しきりに逃げてくれと頼んだ。
とつぜん彼女のうしろに、悪意と憎悪にゆがんだファイドールの美しい顔が見えた。私と視線が合うと、彼女はしゃべりだした。
「ジョン・カーター、マタイ・シャンの娘ファイドールの愛をあんなにあっさりとはねつけて、無事にすむと思ったらとんでもないことよ。それに、デジャー・ソリスをもう一度、自分の腕に抱こうなんて、絶対に思わないほうがいいわ。これからの長い、長い一年間、待っているがいいわ。でも、その待ちどおしい一年が過ぎたとき、あなたにさしのべられる手はヘリウムの王女の手ではなくて、このファイドールの手だということをよく覚えておきなさい。ごらん、この女は死ぬのよ!」
そう言いきるとともに、ファイドールが短剣を振りあげるのが見えた。そのとたん、別の人影が見えた。サビアだ。短剣が私の愛する女の無防備の胸めがけて振りおろされたとき、サビアはほとんどその中間にいた。とつぜん、もうもうたる煙がさっと吹きつけて私の目をくらまし、恐ろしい牢獄の悲劇をかき消してしまった――短剣が振りおろされたとき、鋭い悲鳴がただ一声だけ響きわたった。
煙は消えた。しかし私たちは何もない壁を見つめるばかりだった。最後の割れ目もふさがってしまったのである。これからの長い一年間、あの恐ろしい部屋は秘密を抱きつづけ、だれにも見せはしないのである。
仲間たちはしきりに立ち去ることを勧めた。
「もうすぐ手遅れになるぞ」とゾダールは叫んだ。「ほんとのところ、いまでさえ外の庭園まで無事に通り抜けるのはやっとのことなんだ。ポンプを動かすように言っておいたから、もう五分もたったら地下道は洪水になるだろう。罠にかかったネズミみたいに溺れ死にしたくなかったら、急いで上に出て、燃えている神殿の中を一気に突っ走らなければならない」
「行ってくれ」と私は仲間たちをうながした。「このまま私の王女のそばで死なせてくれ――ほかのどこへ行っても、私には希望も幸福もないのだ。一年後にあの恐ろしい部屋から愛するひとの死体が運びだされるとき、彼女を待っていた夫の死体が見つかるだろう」
そのあと何がどうなったのか、混乱した記憶しかない。大勢の人間ともみあい、それから体ごと持ち上げられ運んでいかれたらしいのだが、私にはわからない。私はだれにもたずねてみたことはないし、あの日あそこにいたほかの者たちもみな、私の悲しみに立ちいったり、あの出来事を私に思いださせるようなことはしなかった。そんなことをしても、私の心の中のひどい傷口をまたこじあけるだけだということを、みんなはよく知っている。
ああ! せめて一つのことだけ知ることができれば、この肩にかかる不安の重荷も軽くなるだろうに! しかし、殺人者の短剣がどちらの美しい胸に突き刺さったか、それを教えてくれるものは「時間」のみである。(完)
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あとがき
本書「火星の女神イサス」The Gods of MarsはE・R・バローズの有名な「火星シリーズ」の第二作にあたり、前作「火星のプリンセス」の続篇である。この小説は前作と同じく一九一三年に「オール・ストーリー・マガジン」に連載され、一九一八年に単行本としてまとめられた。
作者エドガー・ライス・バローズ Edgar Rice Burroughsとその「火星シリーズ」については、「火星のプリンセス」のあとがきに述べた通りであるが、かいつまんで繰り返せば――バローズは一八七五年にシカゴで生まれ、七十五歳で亡くなるまでに、あの有名な「ターザン・シリーズ」や、この「火星シリーズ」、その他さまざまの空想科学小説や冒険小説など全部で六十冊あまりの本を書いた異色の大衆作家である。なかでもこの「火星シリーズ」はスペース・オペラと呼ばれる宇宙冒険活劇物語の先駆として現在ますます高い評価を得ている。
本書で初めて「火星シリーズ」を知った方のために、前作「火星のプリンセス」の内容をご紹介しよう。主人公ジョン・カーターはもと南軍の職業軍人であったが、南北戦争後アリゾナ州へ金鉱探しにでかけてインディアンの狂暴な部族に襲われ、逃げこんだ岩山の洞窟のなかで自分の分裂あるいは再生という奇妙な事態を経験する。そしてぬけがらのような自分の死体を洞窟に残したまま、新しく生まれ変ったカーターは、ふしぎな力でさしまねく戦いの星、火星にむかって、あこがれの念力で飛んでゆく。カーターが到着した火星(火星語ではバルスーム)は、緑色人と赤色人とが涸れた海のほとりのそれぞれの廃都に割拠し、異民族間のみか同じ民族の部族のあいだでも血なまぐさい争いの絶えない弱肉強食の残酷な世界であった。カーターは初め緑色人の捕虜になるが、まもなく武勇の力によって緑色人部族の幹部に昇進し、囚われの赤色人の王女デジャー・ソリスに恋して、その苦難を救うべく縦横に活躍し、遂に緑色人と赤色人の和解を成立させる。そしてデジャー・ソリスと結婚した主人公は、タルドス・モルス家という赤色人の皇室の王子として九年間火星にとどまり、救世の英雄として火星人たちに慕われるけれども、ある日、もともと大気の希薄な火星全土に人造の大気を供給していた工場のエンジンが停止するという非常事態が発生し、工場の扉を開く鍵を握っていたカーターは急いで現場に駆けつけ、扉を開きかけたところで呼吸困難になり気を失う。意識が回復すると、そこはアリゾナの洞窟で、カーターは自分のぬけがらと再び合体していたのである。
さて、闘争に明け暮れる緑色人や赤色人たちの唯一の希望は、天寿を全うしてイスと呼ばれる川へ死出の旅に立ち、その奥の奥にあるこの世の楽園にたどり着くことであった。本書「火星の女神イサス」は、最愛の妻デジャー・ソリスの身を案じつつ地球で十年をすごしたジョン・カーターが、再び火星へ飛来し、イス川が流れこむコルスの海のほとりに下り立つところから始まる。そこはこの世の楽園どころか、前作以上に怪奇でグロテスクな生物が蝟集《いしゅう》する地獄さながらの場所なのである。その地獄のなかへ突入して行くジョン・カーターが、火星人たちの信仰が一つ一つ崩れ去っていくさまを目撃し、天国すなわち地獄の奥のどんづまりまで、この世のヒエラルキーに徹底的に支配されていることを確認するくだりは、この第二作のなかでも興味津々たる部分であろう。長年にわたる火星人たちの迷信は、ちょうど玉ネギの皮を剥《は》ぐように一枚一枚と失われていき、その最後の一枚を剥いで幻滅の極致に達するところが、すなわち女神イサスとの対決である。「火星のプリンセス」では、処女作のためかややためらいがちに見えた作者の筆は、この第二作に入って俄然なめらかに動き始め、物語の運びといい、全体の構成の緊密さといい、驚くほどの完成度を示している。この「火星の女神イサス」は「火星シリーズ」の第一の高峰といえるだろう。およそ世の物語作者を支える情熱にはいろいろ種類があるだろうが、そのなかで最も強い情熱の一つ――偶像破壊の情熱にこのバローズも憑《つ》かれていたに相違ないのである。
想像力の奔放な展開という点でも、この作品は前作に優るとも劣らぬ出来栄えを見せる。たとえば黒色人がこの遊星の生命の起源について語る部分を読み返していただきたい(第七章)。ダーウィンの「種の起源」が発表されたのはこの小説が書かれる五十年前のことである。進化論と植物学と中世的な神学とをまぜあわせたようなこの奇妙な「生命の木」は、一体どんなプロセスを経て作者の頭脳に宿ったのやら、ちょっと見当もつかないほど精密詳細に描かれている。が、興味深いのは黒色人種が火星では一番古くかつ純粋な民族だとされている点である。これはアメリカ南部系の作者のニグロ・コンプレックスの現われと見ることもできよう。この例にとどまらず、バローズの想像力の展開は意外にリアリスティックな事物や形象にもとづいている場合が多い。そこから叙述の力強さが生じ、妙な言い方だが|迫真的な荒唐無稽《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が創り出されるのである。(訳者)