火星の大元帥カーター
E・R・バローズ/小笠原豊樹訳
目 次
一 イス川にて
二 山脈の地下で
三 太陽殿
四 秘密の塔
五 ケオール街道
六 ケオールの英雄
七 新しい盟友
八 腐肉の洞窟を抜けて
九 黄色人とともに
十 監禁されて
十一 ご馳走地獄
十二 「ロープをたどれ!」
十三 磁石のスイッチ
十四 戦いの移り行き
十五 報酬
十六 新しい支配者
あとがき
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一 イス川にて
瀕死《ひんし》の遊星の空を、低く、流星のように勢いよく突き進む火星の二つの月の下、コルスの行くえ知れずの海のほとりのドール谷の緋色《ひいろ》の草原につづく森の中で、私はおぼろな人影を追って忍び足で歩いていた。その人影は次から次へと暗い場所ばかりたどって、こそこそ進んで行く。明らかに、何かよからぬ目的を胸に秘めている様子だった。
火星の長い六か月の間、私は憎むべき太陽殿の近辺を絶えずうろついていた。火星の地下深くゆるやかに回転する円筒の中に、私の王女は閉じこめられている――だがその生死は不明だった。はたしてファイドールの細身の短剣はあのいとしい女の心臓をつらぬいたのだろうか。時がたたないかぎり、その真相はわからないのである。
永遠に美しいデジャー・ソリスの姿を最後に見た地下道の突き当たりの部分に獄房の扉がふたたびもどってくるまでには、六百八十七日の火星時間が経過しなければならない。
その半分はすでに過ぎた。いや、明日になれば過ぎる。けれども、あのとき吹き寄せた煙が私の目をくらまし、獄房の内部をのぞかせていた狭い隙間が閉じて、私とヘリウムの王女の間を長い火星の一年のあいだ遮《さえぎ》ってしまう直前に見た最後の光景だけは、その前後の出来事はことごとく忘れているというのに、いまもなまなましく記憶に残っている。
マタイ・シャンの娘ファイドールが短剣をふりかざして私の愛する女性に飛びかかったときの、嫉妬《しっと》にかられ、激怒と憎悪にゆがんだ美しい顔が、いまもなお昨日のことのようにまざまざと目に浮かぶ。
そして、その恐ろしい行為を止めようと、赤色人の娘、プタースのサビアが飛びだすのが見えたのだった。
そのとたん、燃え上がる神殿の煙が押し寄せてきてこの悲劇を包み隠してしまったが、短剣がふりおろされたときに一声の鋭い悲鳴が聞こえた。それからあたりは静まり返り、煙がすっかり消えたときには、三人の美女が閉じこめられている回転する部屋の光景は何も見えず、物音ひとつ聞こえなくなっていた。
あの恐ろしい瞬間以来、私が関心をもったことはたくさんあるが、あの事件の記憶は片時も薄れたことはない。われわれの艦隊と陸上部隊がファースト・ボーンに圧倒的な勝利を収めて以来、黒色人の政府再建のための数々の仕事が私の肩にかかってくることになったが、その間にも暇さえあればいつも、私の息子、ヘリウムのカーソリスの母親が閉じこめられている無情な円筒の近くへ行ったのだった。
長いあいだ、まやかしの神イサスを崇拝していた黒色火星人たちは、私がイサスの正体はただの邪悪な老婆にすぎないことをあばくと、大混乱に陥った。彼らは憤激のあまり、イサスを八つ裂きにしてしまった。
ファースト・ボーンはうぬぼれの絶頂から屈辱のどん底へ転落した。彼らの女神は消えうせ、それとともにまやかしの宗教の全組織も消滅した。彼らの自慢の海軍は、それ以上に優秀なヘリウムの艦船と赤色人兵士の前に敗北した。
外界の黄土色の海底からやってきた獰猛《どうもう》な緑色人戦士たちは野性の火星馬《ソート》に乗ってイサス神殿の神聖な庭園に侵入した。そして、連合軍が征服された国の運命を決定するまでの間は、勇猛ならぶ者のないサークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカスがイサスの王座について、ファースト・ボーンを統治した。
黒色人の由緒《ゆいしょ》ある王位にのぼることを私に求める声がほとんど満場一致であがり、当のファースト・ボーンたちさえ賛意を示したが、私にはそんなことを引き受けるつもりは少しもなかった。私の王女と息子にさんざんの侮辱を加えた民族が相手では、とうていいっしょにやってゆく気分にはなれなかった。
私の提案によって、ゾダールがファースト・ボーンの皇帝《ジェダック》になった。ゾダールはイサスに地位を下げられるまではダトール、つまり貴族だったから、この高い地位につくのにふさわしい人物という点では問題はなかった。
こうしてドール谷の平和が保証され、緑色人戦士たちは荒涼とした涸《か》れた海の底に散らばって行き、われわれヘリウムの人間は故国へ引き上げた。ヘリウムへ帰ると、ここでもまた、私に王位をという話が持ちあがった。デジャー・ソリスの祖父にあたるヘリウムの皇帝《ジェダック》タルドス・モルスと、その息子で王女の父にあたる王《ジェド》モルス・カジャックは依然として行くえが知れず、何の消息もなかったのである。
彼らがカーソリスを捜し求めて北半球の探検に出発した時《とき》からすでに一年以上たっていた。そして気落ちした国民はついに、氷におおわれた極地から伝わってきたあやふやな噂《うわさ》、彼らが死んだという噂を真実と思いこむようになってしまったらしい。
またもや私は王位につくことを拒んだ。あの偉大なタルドス・モルスや、彼に劣らぬ立派な人物である王子が死んだとは、私には信じられなかった。
「彼らがもどるまで、その血筋をひく者を統治者としようではないか」一年前ザット・アラースから死の宣告を受けたときに私が立っていたのと同じ場所、つまり応報神殿の正義の御座のそばの真理の台座から、私は集まったヘリウムの貴族たちに呼びかけた。
そう言って前に進み出ると、まわりに円形をなして並ぶ貴族たちの最前列に立っていたカーソリスの肩に、私は手を置いた。
貴族も民衆もいっせいに長い歓呼の声をあげて賛同を示した。一万もの剣がさっと抜きはなたれて高々と掲げられた。古いヘリウムの栄光をになう戦士たちがカーソリスをヘリウムの皇帝《ジェダック》として迎えたのである。
カーソリスの在位期間は終身か、あるいは曾祖父《そうそふ》か祖父がもどってくるときまでになるはずだった。こうしてヘリウムのための重要な仕事をつつがなく処理して、その翌日、私はドール谷に向かって出発した。愛する女性が閉じこめられている獄房の扉が開く運命の日まで太陽殿の近くにいたいと思ったからだ。
ホール・バスタス、カントス・カン、そのほかの私の補佐役の貴族たちは、ヘリウムのカーソリスのそばに残してきた。カーソリスが自分の肩に負わされた骨の折れる任務を遂行するには、彼らの知恵や勇気や忠節が大いに役に立つだろう。そんなわけで私といっしょにきたのは火星の猟犬ウーラだけだった。
今夜、この忠実な野獣は私のすぐあとについて、そっと歩いている。体の大きさはシェットランド種の小馬ぐらいあり、醜悪きわまる顔と恐ろしい牙をもち、短くたくましい十本足で背後からこそこそ歩いてくるウーラはまったく見るもおぞましい怪物だったが、私にとっては愛情と忠実さの化身《けしん》のようなやつである。
前方の人影はファースト・ボーンの貴族《ダトール》サリッドだった。かつてイサス神殿の中庭で、貴族の男女たちから見事《みごと》な武勇の士とほめそやされた直後に、人々の目の前で私に素手《すで》で打ち倒され、自分の装具で縛《しば》り上げられたとき以来、私に対して果てしない恨《うら》みを抱いている男だ。
仲間の多数の黒色人と同様、彼もうわべでは新秩序をいさぎよく受け入れて、新しい統治者ゾダールに忠誠を誓っていたが、内心では私を憎んでいることはわかっていたし、ゾダールを羨《うらや》み憎んでいることもまちがいなかった。そこで私は彼の行動にたえず警戒の目を光らせつづけ、最近では彼が何かしきりに陰謀を企てていることを確信するようになっていた。
サリッドが日没後に、城壁に囲まれたファースト・ボーンの都から脱けだし、恐ろしいドール谷へはいってゆくのを私は数回目撃したが、うしろ暗い目的でもないかぎり、だれがそんな行動に出るだろう。
今夜のサリッドは森の縁に沿い素早く進んで、はるか遠くに都が見えなくなり、物音もまったく聞こえないところまでくると、方向を変えて緋色の草原を突っ切り、コルスの行くえ知れずの海の岸辺に向かった。
空低く谷を横切ってゆく近いほうの月の光を浴びてサリッドの宝石をちりばめた装具が色とりどりに輝き、なめらかな黒檀《こくたん》のような肌《はだ》がつややかに浮かびあがった。彼はいかにも悪事を働こうとしている人間らしく、森のほうを二度ふり返った。しかし、尾行されるはずはないと思っているようだった。
私は月明かりの下では彼の後を追おうとしなかった。その計画の邪魔をしないことが私の計画には何よりも大切だからだ――むこうが何の疑念も起こさずに目的地まで行くようにしなければならない。そうすればその目的地がどこなのか、また、この深夜の彷徨者《ほうこうしゃ》が何をしようというのか、つきとめることができるだろう。
そこで私は、サリッドが四分の一マイルほどさきの海辺の切り立った堤防のかなたに姿を消すまで身を隠していた。それからウーラを従えて急いで草原を横切り、黒色人貴族の後を追った。
滅びゆく遊星の南極の陥没地帯の奥深く眠っている神秘の死の谷は墓場のような静寂に包まれている。はるかかなたには黄金の断崖の巨大な壁面が星空高くそびえ立ち、その壁面の貴金属ときらびやかな宝石は火星の華麗《かれい》な二つの月のまばゆい光を浴びて輝いている。
私の背後には、残忍な植物人間に若葉を食いとられて、公園の芝生《しばふ》のように調和のとれた形に刈りこまれた森がある。
そして眼前にはコルスの行くえ知れずの海が広がり、さらにむこうには黄金の断崖の下から流れ出てコルスの海へそそぐ神秘のイス川のきらめきが見えた。遠い昔から、欺《あざむ》かれて、このにせ天国への旅にのぼった外界の不運な火星人たちが運ばれてきた場所である。
昼間のドール谷を恐ろしい地獄と化してしまう吸血口のある手を持った植物人間や、巨大な白ザルは夜間はそれぞれのねぐらに隠れていた。
もはやイス川を見おろす黄金の断崖のバルコニーの上には、気味の悪い叫び声をあげて怪物どもを呼び集め、古いイスの流れの冷たい広々とした水面を漂ってくる犠牲者たちを襲わせる、見張りのホーリー・サーンはいなかった。
サーンが降服を拒み、長いあいだ人々を苦しめた邪教を火星から一掃するための新秩序を受け入れようとしなかったので、ヘリウムとファースト・ボーンの二つの海軍は、サーンの砦《とりで》や神殿をあとかたもなく破壊してしまった。
二、三の孤立した国ではサーンたちはまだ昔ながらの権力を維持していたが、彼らのヘッカドール、サーンの教皇マタイ・シャンは神殿から追われていた。われわれは彼をつかまえようと大いに努力したが、マタイ・シャンは少数の忠実な部下とともに逃亡し、どこかわれわれの知らないところに隠れている。
コルスの行くえ知れずの海を見おろす低い崖の縁まで用心深く進むと、サリッドが小さなボートに乗って、淡い光がゆらめく水面へ出てゆくのが見えた。そのボートは、ホーリー・サーンが司祭や下級サーンの組織を使って常にイス川の岸沿いに配置し、犠牲者たちがたやすく天国への長い旅に出られるようにしていた、太古からある奇妙な作りの舟だった。
眼下の浜辺には同じようなボートが二十隻ばかり引き上げられていた。どのボートにも長い棒が一本ずつついていて、その一端は槍《やり》、もう一つの端は櫂《かい》になっている。サリッドは海岸づたいに進んでいた。そのボートが近くの岬をまわって見えなくなると、私は一隻のボートを海に押し出し、ウーラを呼んでそれに乗せ、岸から離れた。
私はサリッドを追って海岸づたいにイス川の河口に向かって進んだ。遠いほうの月は地平線間近にかかり、崖の下の水面に黒々とした影を投げかけていた。近いほうの月のサリアは沈んでしまい、ふたたびのぼってくるまでには四時間近くの間がある。だから少なくともそれまでは身を隠す暗闇には不自由しないわけである。
黒色人戦士はどんどん進んでゆく。いまや彼のボートはイス川の河口のまん前に出た。サリッドは一瞬もためらわずに無気味な川のほうに向きを変え、懸命に櫂《かい》を動かして激しい流れをさかのぼって行った。
ウーラと私はそのあとを追い、いままでよりずっと接近した。サリッドは流れをさかのぼる仕事にすっかり熱中していて自分の背後の出来事に気をくばる余裕はない様子だった。流れの比較的ゆるやかな岸近くをたどって彼は前進した。
やがてサリッドは黄金の断崖の正面にある、川の流出口になっている暗い洞穴《ほらあな》の前にたどりついた。そして穴の奥の地獄の暗黒の中へせっせとボートを乗り入れて行った。
この鼻をつままれてもわからないようなまっ暗闇の中で彼を追跡してもとうてい成功の見込みはなさそうだった。そこで追跡をあきらめて河口までもどり、そこで相手の帰りを待ちうけようとしかけたとき、とつぜん前方の洞穴の奥の曲がり角からかすかな光が見えた。
目当ての男の姿がふたたびはっきりと見えた。ほぼアーチ形になっている洞窟《どうくつ》の天井のあちこちには燐光を放つ大きな岩石が埋まっていたのである。その燐光がしだいに強くなっているので、私はなんの苦もなくサリッドの後を追うことができた。
イス川を舟で行くのは私にとって初めての経験だった。このとき目撃した光景は永遠に忘れることはないだろう。
それはまったく恐ろしい光景だった。それでも、偉大な緑色人戦士タルス・タルカスと黒色人の貴族《ダトール》ゾダール、それに私の三人が外界の人々に真相を明らかにし、幾百万もの人間が平和と幸福と愛の美しい谷にたどりつけるものと信じて、ぞくぞくと自発的に死出の旅路に発つのを食い止める前には、もっと比較にならないほど恐ろしい光景が繰り広げられていたにちがいない。
いまもなお、広い川面に点在する小さな島々は、恐怖のためか、あるいはとつぜん真相をさとるかして目的地の直前で旅をやめた者たちの骸骨や半ばむさぼり食われた死体でいっぱいだった。
恐怖の墓場と化した、すさまじい悪臭を放つこれらの島々では、やつれはてた狂人たちが悲鳴をあげたり、わけのわからぬことを口走ったりしては、身の毛もよだつ食い残しの死骸のなかでじたばたしていた。いっぽう、死骸がきれいに食いつくされて骨しか残っていない島では、生存者同士が文字どおり弱肉強食の死闘の場面を展開したり、かぎ爪のような手をのばして川を流れてくるふくれ上がった死体をつかんだりしていた。
サリッドは、狂気のおもむくままに金切り声で威嚇《いかく》や哀願の言葉を投げかけてくる連中には目もくれなかった――明らかに周囲の恐ろしい光景を見なれているのだ。およそ一マイルばかりサリッドは川をさかのぼりつづけた。それから流れを横切って左岸に近づき、ほとんど水面すれすれの低い岩棚の上へボートを引きあげた。
私はサリッドの後を追って流れを横切ろうとはしなかった。まず見つかってしまうにきまっていると判断したのである。そこで追跡するかわりに、洞穴の反対側の壁に近づき、頭上に大きな岩が張り出して水面に濃《こ》い影を落としているところにボートをとめた。ここなら発見される心配なしにサリッドの様子をうかがうことができる。
黒色人はボートのそばの岩棚の上に立って、川の上流に目を向けていた。まるでその方角からだれかがやってくるのを待ちうけているような様子だった。
暗い岩陰に隠れた私は、そのあたりから強い水流がまっすぐ川の中央にむかって流れているとみえて、ボートをそのままとめておくのがむずかしいことに気がついた。川岸に何か支えを見つけようとして、岩陰の奥へじりじりと入って行ったが、数ヤード進んでも手に触れるものは何もなかった。そして、これ以上進めば黒色人の姿が見えなくなってしまうことがわかったので、どうしてもその場にとどまらなければならなくなった。そこで背後の岩陰から流れ出る水にさからって激しく櫂《かい》を動かし、できるだけその位置にとどまろうとした。
どうしてこんな強い水流が横に流れているのか、私には見当もつかなかった。川の本流は私のいるところからはっきり見えるし、その本流と私の好奇心をかきたてた不思議な水流との合流点のさざ波もちゃんと見える。
このおかしな現象のことを考えているうちに、とつぜんサリッドのほうに注意を奪われる事態が起こった。彼は手のひらを前に向けて両手を頭の上にあげ、火星人共通の会釈《えしゃく》の身振りをしたのだ。そしてすぐに低いがはっきりした声で「カオール!」というバルスーム語の挨拶の言葉が聞こえた。
私はサリッドが視線を向けている上流の方角に目をやった。まもなく六人の男が乗っている長いボートが私の狭い視界の中にはいってきた。五人はボートをこぎ、六人目の男は船首の上席にすわっていた。
その連中の白い肌《はだ》、はげ頭を覆《おお》うなだらかに垂れた黄髪のかつら、頭の黄金の飾り輪にはめこまれた華麗《かれい》な王冠は、男たちがホーリー・サーンであることを示していた。
サリッドが待ちうけている岩棚のそばにボートがとまると、へさきにいた男が立ちあがって上陸した。そのとき私は、それがサーンの教皇マタイ・シャンにほかならないことに気づいた。
二人の男がいかにも真心のこもった態度で挨拶をかわすのを見て、私はすっかり驚いてしまった。なにしろバルスームの黒色人と白色人は親代々の仇敵《きゅうてき》同士だし、この両者が戦うとき以外に顔を合わせたという話は聞いたこともなかったのである。
どうやら、最近この両種族にふりかかった敗北の結果として、両者の間に同盟――少なくとも共通の敵に対する同盟――が生まれているにちがいなかった。私はいまになってやっとサリッドが夜間このようにしばしば外出してドール谷にはいっていった理由をさとったのである。そしてこれは私や私の友人たちを襲撃するような陰謀がひそかにたくらまれているのかもしれないと思った。
私はもっと二人のそばに近づいて、会話を聞きたかった。しかし、いま川を横断するのはまったく不可能なことだったので、そのままじっと彼らを見まもった。もしも彼らが、自分たちのこんなに近くに私がいること、いまなら多数の力でたやすく私を打ち負かし殺すことができると知ったら、大いに喜んだことだろう。
サリッドは数回、川ごしに私のほうを指さしたが、その身ぶりはけっして私を見つけたためとは思えなかった。ほどなくサリッドとマタイ・シャンはあとからきた大型ボートに乗りこんで川の中へ出てきた。ボートはぐるっと向きを変え、じわじわと私のほうへ進んできた。
彼らのボートが進むにつれて、私は自分のボートを張り出した岩陰の奥へどんどん移動させた。だが、とうとう彼らのボートも同じ進路をとっていることが明らかになった。五人でこいでくる大型ボートに負けないスピードを出すために、私はたいへんな精力を振りしぼらなければならなかった。
ボートのへさきが固い岩に衝突するのではあるまいかと私は絶え間なくはらはらした。川からの光はもう見えなくなっていたが、前方にはほんのりと微光がさしていた。そして行く手にはまだ水面が広がっていた。
やっと事態の真相がわかってきた――私がさきほどまで隠れていた場所はちょうど地下の川がイス川にそそぐ地点だったのだ。そしていま私はその地下の川をさかのぼっているのである。
相手のボートはもう、すぐ近くまで迫っていた。むこうの櫂の音でこちらの櫂の音は消されていたが、行く手のしだいに明るくなる光のことを計算に入れれば、私の姿が発見される瞬間は刻々に迫っていた。
もはや一瞬の猶予もならなかった。どんな手を打つにせよ、ただちにやらなければならない。私はボートのへさきを右に転じて、岩だらけの川岸に近寄った。そしてマタイ・シャンとサリッドの舟がイス川よりずっと狭い水流の中央を通って近づいてくるあいだ、そのままじっとしていた。
大型ボートが近づいてくるにつれて、サリッドとサーンの教皇が声をはり上げて論じ合っているのが聞こえてきた。
「いいですかね、サーン」と黒色人の貴族《ダトール》はしゃべっていた。「私はヘリウムの王子ジョン・カーターに復讐したいだけなのだ。あなたを罠《わな》にかけたりするものですか。私の国や一族を滅亡させた連中にあなたを売りわたしたところで、いったい何の得になりますか」
「ここでちょっと舟をとめて、きみの計画を聞くことにしよう」と教皇は答えた。「そうすれば、われわれが負うべき義務をもっとよく理解できるようになるだろう」
マタイ・シャンが漕《こ》ぎ手たちに命令を与えると、彼らのボートは私がいる地点から十ヤードほどさきの川岸に接近した。
もし彼らが私より川下に着いていたら、前方のかすかな光にすかして私の姿を発見していたにちがいない。しかし、いま彼らがボートをとめた場所からなら、何マイルも離れているのと同じくらいに発見される恐れはなかった。
私はすでに盗み聞きした二、三の言葉で好奇心をそそられ、いったいサリッドが私に対してどんな復讐をもくろんでいるのか、知りたくてたまらなかった。だが、長く待つまでもなかった。私は耳をすました。
「義務などは何もありませんな、教皇」とファースト・ボーンは話をつづけた。「イサスの貴族《ダトール》サリッドは打算的な行動はしません。ただ、成功のあかつきには、あなたの昔からの教義に忠実などこかの宮廷に、私の古い血統や貴族の地位にふさわしい待遇で迎えいれられるように取り計らってもらえればありがたい。なにしろ私はドール谷や、そのほかヘリウムの王子の勢力範囲へもどるわけにいきませんからね。しかし、それさえも私は要求するわけではない――すべてはあなたのお心次第です」
「きみの望みどおりにしてやるよ、ダトール」とマタイ・シャンは答えた。「それだけではなく――もしきみが娘のファイドールを取り返し、ヘリウムの王女デジャー・ソリスをわしの思いのままにさせてくれるなら、権力も富もきみのものにしてやろう」
「ああ」マタイ・シャンは悪意のこもったうなり声をあげてしゃべりつづけた。「あの地球人には神聖きわまる神殿を汚した罰を与えなければならないのだ。あの男の王女をどんなひどい目にあわせようとも、ひどすぎるということはない。あの女の屈辱と堕落を、なんとしてでもあの男に見せてやりたいものだ」
「あと一日の辛抱で、あの女を思いのままにさせてあげましょう、マタイ・シャン」とサリッドは言った。「あなたのご命令さえあればね」
「しかし、ダトール、太陽殿のことはいろいろと聞いているが」とマタイ・シャンは答えた。「定めの一年間の幽閉期間が過ぎないうちに囚人が解放されたという話は聞いたことがない。いったい、どうやってこの不可能事をやりとげるのだ」
「いつでも、神殿のどの獄房へでも行ける通路があるのです」とサリッドは答えた。「このことを知っていたのはイサスだけでした。必要以上の秘密はだれにももらさないというのがイサスのやり方でしたからね。だがイサスの死後、私は偶然に昔の神殿の図面を見つけたのです。そこに、いつでもどの獄房へでも行ける、精密きわまる方法がはっきりと書かれていました。
さらにまた、これまでに大勢の男が、イサスの命令でこの秘密の通路へはいって行ったことがわかりました。彼らの役目はつねに囚人に死と拷問《ごうもん》を与えることでした。しかし、こうして秘密の通路の存在を知った連中は、もどってきて残酷な女神に報告を伝え終わるやいなや、不可解な死をとげることになっていたわけです」
「では、はじめることにしようか」とマタイ・シャンはついに言った。「わしはきみを信用しなければならないが、きみもやはりわしを信用しなければならない。そっちは一人だが、こっちは六人だからな」
「私は恐れてはいません」とサリッドは答えた。「あなただって恐れる必要はない。われわれの共通の敵に対する憎悪は、たがいの誠実さを保証するに足る|きずな《ヽヽヽ》です。それにヘリウムの王女を汚したあとは、たがいに誠実さを維持しなければならないもっと大きな理由ができるでしょう――あの女の亭主の気性について私がとんだ思い違いでもしていないかぎりはね」
マタイ・シャンは漕ぎ手たちに声をかけた。ボートはこのイス川の支流をさかのぼりはじめた。
二人の卑劣な陰謀者に襲いかかって殺してやりたいという衝動を押えるのは、まったく容易なことではなかった。しかし、そのようなばかげた軽率な行動に走れば、長い火星の一年の周期がめぐる前にデジャー・ソリスの獄房へ通じる道を知っているたった一人の男を殺してしまうことになると、私はすぐにさとった。
もしサリッドがあの地中の牢獄へマタイ・シャンを連れて行くというのなら、やつはそれと知らずにヘリウムの王子ジョン・カーターをも連れて行くことになる。
私はそっと櫂《かい》を動かしながら、大型ボートのあとを追ってゆるやかにカーブをきった。
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二 山脈の地下で
オツ山脈の地底から湧《わ》き出し、黄金の断崖の下をうねり流れて、気味の悪い神秘のイス川へ合流している暗黒の水流をさかのぼってゆくと、行く手に見えたかすかな光はしだいに明るさを増して一面に輝きわたりはじめた。
川は大きな湖といってもいいほど広くなり、燐光を放つ岩石に照らされたドーム形の天井には、この華麗な崖の形成物質の大部分を占める純金の中にダイヤモンド、サファイア、ルビー、そのほか無数の名もないバルスームの宝石がちりばめられ、まばゆい光が入り乱れている。
輝かしい湖のような広がりのむこうはまっ暗で、その奥がどうなっているのか見当もつかなかった。
サーンのボートを追ってきらめく水面を渡れば、たちまち相手に発見されてしまうだろう。ただの一瞬でもサリッドを私の目のとどかないところへ行かせるのはいやだったが、相手のボートがこの湖のような広い水面のかなたへ姿を消すまで物陰で待たなければならなかった。
それから彼らが消えた方角をめざして、きらめく水面をこぎだした。
はてしなく思われるほど長い時間をかけて、やっと湖のむこう側の暗がりにたどりつくと、川は天井の低い洞穴から流れ出していた。そこをくぐり抜けるには、ウーラをボートの中で腹ばいに寝かせ、私も身をかがめて低い天井に頭をぶつけないようにしなければならなかった。
洞穴をくぐり抜けると、天井はすぐにまた高くなったが、水路はもはや明るく輝いてはいなかった。ただ、壁や天井に散らばる小さな燐光性の岩石が弱い光を放っているだけだった。
そして、すぐ目の前に三つのアーチ形の穴があり、川はその三つの穴からこちらへ流れこんでいた。
サリッドとサーンたちの姿はどこにも見あたらなかった――三つの暗い穴のうちどの穴に姿を消したのだろうか。それを知るすべは何もなかったので、とにかく片っぱしからあたってみようとまず、まん中の穴をえらんだ。
この穴の中にはいると水路はまっ暗だった。流れは狭かった――あまりにも狭いので、流れが燧石質《すいせきしつ》の河床に沿って曲がるにつれて、私のボートはひっきりなしに岩の壁にぶつかった。
まもなく、はるか前方から低い重々しい音が聞こえ、進むにしたがってしだいに大きな音になってきた。やがて急なカーブをまわって、ほの明るい水面に出ると、急に鼓膜《こまく》をつんざくような轟音《ごうおん》が私の耳にとびこんできた。
私の真正面で、川は狭い峡谷いっぱいに広がる大瀑布になり、頭上数百フィートもの高さから轟々と落下している――それはいまだかつて見たことのないすばらしい見ものだった。
だが、その轟音――地中の岩のドームに閉じこめられた滝の耳をつんざくような大音響はどうにも抵抗できる相手ではなかった! たとえこの滝が行く手を完全に遮断して、間違った道をたどったことを教えてくれなかったとしても、どのみち、この気を狂わせるような激しい轟音の前からは逃げだしていたにちがいない。
サリッドとサーンの一行がこの道をたどったはずはなかった。私は間違った道にひっかかって、追跡に失敗してしまったのだ。彼らはもうずっと先へ行ってしまって見つけだすことはできないかもしれない。たとえ見つけだせたとしても手遅れなのではあるまいか。
激しい流れに逆らって滝のところまでさかのぼるには五、六時間かかったから、下《くだ》りで速度はずっと早くなるにしても、分岐点までもどるにはまだ何時間もかかるだろう。
私はため息をついてボートの向きを変えると、流れを下りはじめた。そして力いっぱい櫂をふるって暗い曲がりくねった水路を無鉄砲《むてっぽう》なスピードで突進し、ふたたび三つの支流が流れこんでいる地点に引き返した。
まだ様子を探ってない水路が二つ残っていた。そして、そのどちらを選べば陰謀を企てている連中のもとへ行けそうか、判断する方法は何もなかった。
私の一生を通じて、このときほど容易に決断のつかない苦しさを味わったことはないと思う。私にとってこの上なく重大なことが、もっぱら正しい選択と迅速な行動にのみかかっていたのである。
すでにむだにした数時間のせいで、あの比類なき女性デジャー・ソリスはまだ死んでいないとしても、その運命は決定されてしまったかもしれない。ここでまた、見込みのない手がかりにとびついて無益な探索に数時間、ひょっとすると数日間も犠牲にしたりすれば、取り返しのつかないことになるのは確実だった。
私は五、六回、右側の穴にはいりかけては、この道はだめだという何か奇妙な直観のささやきを聞いたような気がして引き返した。そしてついに、このたび重なる現象に説得されて、左側のアーチ形の水路にすべてを賭けた。それでも、まだ捨てきれない疑念を感じながら、右側の無気味な低いアーチ形の穴から流れ出てくる暗い緩慢な水流に別れの一瞥《いちべつ》を投げた。
と、そのとたんに、まっ暗な地獄の川の奥から汁気の多い大きなソラプスの実の殻が一つ、ぷかぷか流れ出てきた。
この物言わぬ無感覚な使者が私のそばを通ってイス川からコルスの海のほうへ漂い流れて行ったとき、私はもう少しで歓声を上げそうになった。なぜなら、この木の実の殻はまさしくこの右側の水路の上流を進んでいる火星人がいることを物語ってくれたのだから。
彼らはこのソラプスの堅い殻の中に詰まっているすばらしい果実を食べて、殻を船の外へ捨てたのだ。私が捜し求める一行のほかにそんなことをする人間がいるはずはない。
すばやく左側の水路のことはすっかり頭から振り捨てると、たちまち右側の水路にはいって行った。流れはすぐに広くなり、また燐光を放つ岩が行く手を照らしはじめた。
私はずいぶん急いだが、追跡している相手からほとんどまる一日遅れているにちがいない。ウーラも私も前日から何も食べていなかったが、ウーラに関するかぎり、それはあまりたいしたことではなかった。水の涸れた火星の海底にいる動物はほとんど全部、信じられないほど長いあいだ食物なしで生きてゆくことができるのである。
私もべつに困らなかった。川の水はイス川とはちがって腐爛死体《ふらんしたい》に汚されてはいなかったから、飲んでみると冷たくてうまかった。食物がないという問題にしても、いま自分は最愛の王女のもとへ近づきつつあるのだと考えただけで、物質的欲求などはことごとく忘れてしまうほど元気が湧いてきた。
進むにつれて、川はしだいに狭く、水の流れは速く荒れてきた。実際、あまりにも流れが急で、ボートを上流に進めるのが容易なことではなくなった。ボートは一時間に百ヤードも進んでいなかったろうが、そのうちに一つの曲がり角にさしかかると、すさまじい勢いで泡立ち荒れ狂う急流がどっと押し寄せてきた。
私はがっかりした。ソラプスの実の殻はまやかしの手がかりだった。やっぱり自分の直観のほうが正しかった――左側の水路をたどるべきだったのだ。
女だったら、私はわっと泣きだしていただろう。右手を見ると、川の上に突き出ている岩の壁のはるか下で、大きな渦がゆるやかに旋回していた。そこで引き返す前に疲れた筋肉を休ませようと思って、その渦の中にボートを乗り入れた。
私は落胆のあまり、ほとんどへたばりそうになっていた。これから引き返して、一つだけ手つかずで残っている道をたどるということは、また半日の時間をむだにすることを意味している。三つの道のなかから、わざわざ二つも間違った道を選ぶとは、なんという悪運につきまとわれているのだろう!
渦のゆるやかな流れに乗って徐々に円の外側へ運ばれてゆくと、ボートは崖下のまっ暗なくぼみの中の川岸の岩に二度ぶつかった。三度目にぶつかったときも、前と同じように軽い接触だったが、今度はちがう音――木と木がこすり合う音がした。
たちまち、私ははっとして身がまえた。人間の手で運びこまれたものでないかぎり、この地底の川の中に木があるわけはない。その音の意味をさとるのとほとんど同時に、私は舟べりから片手を突き出した。手はすぐに別のボートの舟べりをつかんでいた。
まるで石になったように、私はじっと身をこわばらせながら、そのボートに乗っている人間がいるかどうかつきとめようと、目の前の漆黒《しっこく》の闇をじっと見すえた。
ボートの中に、まだ私の存在に気づかない人間がいるという可能性は十分にあった。そのボートの片側は川岸の岩に軽く触れていたから、反対側に私のボートがちょっと接触したぐらいでは気づかれなくても不思議はない。
じっと見つめてはみたが、暗黒を見とおすことはできなかったので、近くに人の息づかいが聞こえないかと思って、耳をすました。しかし、急流の音と二隻のボートが軽くすれ合う音、それに舟べりを洗う波の音のほかには何の物音も聞こえなかった。例によって、私の頭はすばやく回転した。
私のボートの船底には巻いたロープが置いてあった。私はそのロープをそっとたぐり寄せて、一方の端をへさきの青銅の環に固く結びつけると、片手にロープ、もう一方の手に鋭い長剣を握りしめながら、用心深く隣のボートに乗り移った。
謎のボートに乗りこんでから、たっぷり一分間ぐらい、私は身動きもしないで立っていた。ボートは私の重みでちょっと揺れた。だが、それよりも、むこうのボートは私のボートと舟べりをこすり合わせていたから、だれかいるなら当然気がつきそうなものである。
しかし、何かの反応を示す物音はなかった。すぐにボートの中をすっかり探りまわると、ボートは完全に無人状態だった。
ボートをつないである岩の表面を手で探りまわっていると、私より先にきた連中がたどった道にちがいないと思われる狭い岩棚が見つかった。その連中がサリッドの一行にほかならないことは、発見したボートの大きさや造りから見て確実だった。
ウーラについてこいと声をかけると、私はその岩棚の上に足を踏み出した。大きな獰猛な野獣は猫のように身軽に私のあとを追ってきた。
ウーラはサリッドとサーンたちが乗っていたボートを通りぬけるときに、ひと声、低いうなり声をあげた。そして岩棚の上の私のそばへきたとき、その首に手をのせると、短いたてがみの毛が怒りに逆立っていた。ウーラは敵がほんの少し前までここにいたことを精神感応力で感じとったにちがいない。それというのも、私がこの探索の目的や追跡している相手の正体をウーラに知らせる努力を怠っていたからである。
私は急いで、この手抜かりの埋め合わせをした。緑色人が飼育している獣を相手にするときのやり方にならって、バルスームの神秘的な精神感応術と言葉の両方を使って、追跡の相手はわれわれがいま通りぬけたボートに少し前まで乗っていた連中であることをウーラに教えたのである。
ウーラは大きな猫のように咽喉《のど》を軽く鳴らして、万事をのみこんだことを示した。それからウーラについてこいと声をかけて、私が岩棚づたいに右手のほうへ行こうとすると、とたんにウーラの大きな牙が私の皮の装具を引っぱった。
どうしたのかと思って私が振り返るあいだ、ウーラはぐんぐん反対の方角へ私を引っぱりつづけ、私がすっかり向きを変えて、彼についてゆく様子を示すまでやめようとしなかった。
追跡にかけては、ウーラがこれまで一度もあやまちを犯したことがないのを知っていたので、私はすっかり安心して、巨大な獣のあとを追って用心深く歩きだした。ウーラは泡立つ急流のそばの狭い岩棚づたいに漆黒の闇の中を進んでいった。
進んで行くうちに、道は張り出した崖の下の暗闇からかすかな明かりがさすところに出てきた。そのとき初めて、この道が自然のままの岩石を切り開いたもので、川岸に沿って急流の奥へずっとつづいていることがわかった。
何時間ものあいだ、私とウーラは暗い陰気な川づたいに火星の地底深くどんどん進んで行った。方角と距離から推定して、ドール谷のかなり下、おそらくオメアン海の下まできているにちがいなかった――とすれば、もう太陽殿もそう遠くはないはずだ。
私がそう考えたとたんに、ウーラが突然、道のそばの崖に作られている狭いアーチ形の戸口の前で立ちどまった。ウーラはその入口からとびのいて身を伏せ、同時に私のほうに目を向けた。
その様子は何かの危険が近くに存在することを言葉以上にはっきりと告げていた。そこで私はそっとウーラのそばに進み寄り、彼の前を通りすぎながら右手の戸口の隙間から内部をのぞきこんだ。
目の前にはかなりの大きさの部屋があった。その設備から見て、かつては衛兵詰所だったらしく、武器を置く架台や、戦士たちの寝具用の絹や毛皮を並べるための少し高くなった壇があった。しかし、いま室内にいるのは、サリッドとマタイ・シャンの一行のなかの二人のサーンだけだった。
二人の男は話に熱中していた。その話しぶりから見て、私が盗み聞きしていることにはまるで気がつかないらしかった。
「いいか」と一人が言った。「おれは黒い野郎なんか信用しないぞ。通路の警戒のために、おれたちをここに残す必要などありはしなかったんだ。いったい、何に備えて、このとうの昔に忘れられた地の底の通路の警戒をするというのだ。こいつは、おれたちの仲間を分散させるための計略にすぎない。あいつはなんとか口実をつくっては、マタイ・シャンが部下をほかの場所に残すようにし、そして最後に、自分の仲間といっしょにおれたちを襲って皆殺しにするつもりなんだ」
「きみの言うとおりだよ、ラコール」と、もう一人の男が答えた。「だいたい、サーンとファースト・ボーンの間には、執念深い憎悪のほかに何もあるはずはないんだ。それに、あの妙ちきりんな照明灯の話をどう思うね?『五十|火星秒《タル》のあいだ三ラジウム単位の明るさで照明灯をつける。次に一|火星分《ザット》のあいだ一ラジウム単位の明るさ、それから二十五|火星秒《タル》のあいだ九単位で照らす』これはあの男が言ったとおりの文句だぜ。賢明なマタイ・シャンがあんな愚にもつかないことに耳を傾けるとはねえ」
「まったく、ばかばかしい」とラコールは答えた。「あれだって、おれたち全部をさっさと片づけるための策略にほかならないのさ。太陽殿に着いたらどうするのだとマタイ・シャンにずばりときかれて、何か答えなければならなくなったものだから、すばやく勝手な思いつきで答えをでっち上げたのだ――あいつはもう、同じ文句を繰り返して言うこともできやしないよ。こいつはヘッカドールの王冠を賭《か》けてもいい」
「これ以上ここにいるのはやめようじゃないか、ラコール」と相棒のサーンは言った。「おそらく、急いでみんなのあとを追えば、ちょうどうまくマタイ・シャンを救って、黒色人のダトールに仕返しができるだろう。どう思うね」
「おれは長い生涯を通じて、サーンの教皇の命令にそむいたことはただの一度もない」とラコールは答えた。「教皇がもどってきて、ほかへ行けという命令を受けないかぎり、おれはあくまでここに残るよ」
ラコールの相棒はかぶりを振って言った。
「きみはおれの上官だ。きみが認めないことをやるわけにはいかない。それにしても、ここにとどまるなんて愚かなことだと思うね」
私もまた、彼らがここにとどまるのは愚かなことだと思った。ウーラの挙動から見て、追跡すべき道筋はこの二人のサーンが見張りをしている部屋を通り抜けていることがわかったからだ。この自分たちを神格化している悪魔のような種族に対しては、たいして愛情を抱く理由はなかったが、それでも、できることなら厄介《やっかい》をかけずに彼らのそばを通り抜けたかった。
とにかく、ためしてみる価値はあった。戦うとすれば、かなり時間を食うことになるかもしれないし、ことによると私の捜索を永遠に中断させてしまうことにさえなりかねない――なにしろ、私よりすぐれた男たちがサーンのなかでは勇猛とはいえない腕前の戦士にたびたび打ち負かされているのだから。
ウーラについてこいと合図をすると、私はだしぬけに部屋の中に踏みこんで二人の男の前に立った。私を見るなり、彼らはわき腹の長剣をさっと閃《ひらめ》かせたが、私は片手を上げて相手を制した。
「私は黒色人の貴族《ダトール》サリッドを捜《さが》しているのだ。私の争いの相手はサリッドで、きみたちではない。だから、おとなしくここを通してくれ。私の思い違いでなければ、あの男は私の敵であるのと同様、きみたちにとっても敵ではないか。それなら、あの男をかばう理由は何もないはずだ」
二人は剣をおろし、ラコールがしゃべりだした。
「サーンの白い肌と赤色人の黒い髪を持ったおまえが何者なのか知らないが、狙《ねら》う相手がサリッドだけというのなら、通ってもいいだろう。おれたちとしては、それも結構というところだからな。
それにしても、おまえは何者なのか、そしてこのドール谷の下の未知の世界に何の用があってやってきたのか教えてくれ。事情が許せばおれたちがやりたいと思っていた仕事をそっちに譲ることができるかもしれない」
驚いたことに、二人の男はどちらも私の正体を見わけられなかったのである。私は自分のことはバルスームじゅうのサーンが個人的経験か評判によって十分すぎるほど知っているから、火星のどこへ行こうと正体はすぐにばれてしまうと思っていたのだった。実際、息子のカーソリスを別にすれば、私は黒い髪と灰色の目を持った、火星上でただ一人の白色人なのだから。
私の正体を明かせば、たちまち攻撃を受けることになるかもしれなかった。バルスームのサーンは、彼らの太古からの精神的至上権が崩壊したのは私のせいだということを一人残らず知っている、だが、その反面、もしこの二人の男に死ぬまで戦うのも恐れないほどの度胸《どきょう》がなければ、私の戦士としての名声が物を言って、邪魔されずに通り抜けられるかもしれない。
だが、率直に言えば、私はこのような詭弁《きべん》を弄《ろう》して自分を欺こうとは思わなかった。好戦的な火星には臆病者はほとんどおらず、王子であろうと司祭であろうと百姓であろうと男はみな命がけで戦うのを誇りとしていることをよく知っていたからである。そこで私は長剣を固く握りしめながら、ラコールに答えた。
「私の名を聞けば、おとなしく私を通したほうが賢明だということがわかるだろう。ファースト・ボーンの貴族《ダトール》サリッドのような親代々の仇敵を守るために、バルスームの地底の岩穴で犬死したって何の得にもならないからな。
私に敵対するほうを選べば、死ぬにきまっているぞ。そのことは、この私の剣の下に倒れた多数の偉大なバルスームの戦士たちの朽《く》ち果てた死体が立証している――私はヘリウムの王子ジョン・カーターだ」
一瞬、この名前は二人の男を麻痺させたようだった。しかし、それはまったく一瞬の間で、すぐに若いほうの男が口汚くののしりながら剣をかまえて襲いかかってきた。
この男は私とラコールが話し合っている間、相棒の少しうしろに立っていたのだが、いま私に切りかかろうとすると、ラコールが一瞬早くその装具をつかんで彼を引きもどした。
「やめろ!」とラコールは命令した。「戦うほうがいいとなれば、戦う時間はありあまるほどある。バルスームのすべてのサーンが、この罰当たりの冒涜者を殺したがるのはもっともなことだ。しかし、当然の憎悪を抱くにしても頭を働かせようじゃないか。いいか、このヘリウムの王子さまは、おれたち自身がついさっきやりたがっていた仕事をやりに行くというんだ。
それなら王子さまを行かせて、あの黒色人を殺してもらおうじゃないか。そして彼がもどってきたとき、おれたちがまだここにいて、外界に出て行くのを食いとめるのだ。そうすれば、まんまと二人の敵を片づけることになるし、サーンの教皇の機嫌《きげん》をそこねることもあるまい」
ラコールがしゃべっている間、私は彼の邪悪な目が狡猾《こうかつ》そうに光っていることに心をとめないではいられなかった。そして彼の考えにもっともらしい筋道が通っているのを認めながらも、なかば無意識のうちに、彼の言葉の裏に何やら不吉なたくらみが隠されているのを感じた。若いほうのサーンはいかにも驚いた顔つきで相棒のほうを振り返ったが、ラコールがその耳もとに何やら二言三言ささやくと、彼もうしろへ退いて、おとなしく上官の提案に従った。
「行け、ジョン・カーター」とラコールは言った。「だが、サリッドがおまえを倒さないとしても、おまえに二度と地上の世界の日の光を拝ますまいと帰りを待ちうけている者がいることを忘れるな。さあ、行け!」
われわれが話し合っているあいだ、ウーラは私のすぐそばでうなり声をあげ、毛を逆立てていた。そしてときどき、目の前のサーンたちの咽喉笛《のどぶえ》に猛然と飛びかからせてくれとせがむかのように、低い訴えるような泣き声をだして私の顔を見上げていた。ウーラもまた、もっともらしい言葉の裏に邪悪なたくらみがひそんでいるのを感じとっていたのだろう。
サーンたちのうしろには、この衛兵詰所から外へ通じる戸口が五つ六つあった。そのいちばん右側の戸口を指さして、ラコールは言った。
「あそこからサリッドのところへ行ける」
しかし、私がウーラについてこいと言おうとすると、ウーラは哀れっぽい鼻声をあげて、しりごみした。そしてついにはいちばん左側の戸口にさっと駆け寄ると、自分のあとについて正しい道をたどれとせきたてるように騒々しくほえたてた。
私は相手の返答をうながすような目つきでラコールを見やった。
「こいつの勘はめったに狂わないんだ。きみのすぐれた知識を疑うわけではないが、どうも愛情と忠実さに保証された本能の声に従ったほうがよさそうだよ」
そう言いながら、私は相手を信用していないことをそれとなくわからせるように、冷やかな微笑を浮かべた。
「好きなようにしろ」ラコールは肩をすくめて答えた。「どのみち同じことさ」
私は身をひるがえすと、ウーラのあとを追って左側の通路にはいった。敵に背を向けることになったが、油断なく耳をすましていた。しかし、追跡されている気配はなかった。通路には、バルスームじゅうで使われている照明具のラジウム灯がところどころにともり、ぼんやりした光を投げかけていた。
いま現に輝いているこれらの照明灯は遠い昔から絶えまなしにこの地下の世界を照らしつづけてきたものかもしれなかった。なにしろ、ラジウム灯はまったく手数のかからない|しろもの《ヽヽヽヽ》で、何世代ものあいだ明かりをともしつづけても、発光物質をほんの少し放散するだけですむようにできているのである。
通路をほんの少し進むと、わかれ道が次々に現われたが、ウーラは一度もためらわずにこれらの分岐点を通過した。やがて、右側にあるこのような分岐通路の入口にさしかかると、戦士ジョン・カーターの耳には母国語よりも明白に意味を伝える物音が聞こえた。それは戦士の装具の金属が触れ合って鳴る音で、右側のわかれ道を少しはいったあたりから聞こえてきた。
ウーラもその音を聞き、ぱっと身をひるがえすと、たてがみをすっかり逆立て、白く光る牙をむきだしてうなりながら、迫ってくる危険に立ち向かおうとした。私は手まねでウーラを黙らせ、いっしょに二、三歩先の別の通路へ逃げこんだ。
ここで待ちかまえると、たいして待つまでもなく、私たちの隠れ場所の入口の前を横切る本通路の床に二つの人影が落ちるのが見えた。彼らはきわめて用心深く歩いていた――だから、いましがた偶然にも私に警告を与えてくれた金属音を響かせるようなまねはもう繰り返さなかった。
ほどなく彼らはこっちの隠れ場所の真向かいまでやってきた。この二人が衛兵詰所にいたラコールとその相棒であることがわかっても、私はべつに驚かなかった。
二人はきわめて静かに歩いていた。めいめい右手に、抜き放った鋭い長剣をひらめかしている。そして、何やらささやき合いながら、私たちが逃げこんだ通路の入口のすぐそばで立ちどまった。
「もう追いこしてしまったということかな」とラコールが言った。
「さもなければ、あの獣が間違った道へ連れて行ったかだ」と相棒が答えた。「おれたちがきた道は、ここまでずっと早くこられる近道だからね――あの男にはわかりっこないことだ。だが、ジョン・カーターも、きみにすすめられたとおりの道をたどっていれば、そいつが死への近道だということをさとっていたはずなんだが」
「そうだ」とラコールが言った。「どんなに武勇にすぐれていようとも、あの回転敷石からのがれることはできなかったろう。あいつは間違いなくあの敷石を踏んでいたはずなんだ。そうすれば、いまごろはまっしぐらに落し穴の底へ転落しているところだったろう。もっとも、サリッドの話では、あの穴には底がないってことだが。それにしても、あの火星犬《キャロット》の畜生め! 安全なほうの道を教えるとは、なんとも腹立たしいやつだ」
「しかし、あの男の行く手には、まだまだ危険が待ちかまえているよ」と相棒が言った。「たとえおれたち二人の鋭い剣先からうまくのがれたとしても、そうたやすくは逃げられない危険ばかりだ。実際、あの男にどれだけ助かる見込みがある? 何も知らずにいきなり例の部屋へ足を踏み入れたとしたら――」
行く手に待ちかまえる危険について何か教えてくれそうな、この会話の残りを聞いていたら、私は大いに喜んだことだろう。しかし、皮肉な運命が邪魔にはいった。ちょうどそのとき、よりによっていちばん間《ま》の悪い瞬間に、私はくしゃみをしてしまったのである。
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三 太陽殿
こうなっては戦う以外に手はなかった。それに、剣を握って通路の二人のサーンの前に飛びだしたとき、私には少しも有利な点はなかった。間《ま》の悪いくしゃみによって私の存在を知らせてしまったので、相手はもう私を迎え撃とうと身がまえていた。
だれもしゃべらなかった。言葉は不必要だった。相手の二人がここにいること自体、彼らの裏切りを物語っていた。私に不意打ちを食わせようとして後を追ってきたことはあまりにも明白だったし、私がその計略をさとったことも、むろん彼らにわかったにちがいなかった。
たちまち私は、二人の男と戦いはじめた。私はサーンという名前を聞くだけでも胸が悪くなるほど彼らを憎んでいたが、公平なところ、この一族がすばらしい剣士ぞろいだということは認めないわけにはいかなかった。この二人も例外ではなく、それどころか、一族の水準以上に腕がたち、大胆不敵だった。
それは初めから終わりまで、かつて経験したことのない豪快な戦闘だった。私は少なくとも二度、火星の少ない重力と気圧の下で地球人の筋肉が発揮するすばらしい敏捷さのおかげで、鋭い剣の必殺の突きに胸をつらぬかれずにすんだ。
だが、それでも、私はこの日、火星の南極の真下の暗い地下道で、もう少しで死にそうな目にあったのだった。私が二つの遊星上で経験したすべての戦いを通じて一度もお目にかかったことがない卑劣な手をラコールが使ったからである。
そのとき私は、もう一人のサーンと戦っていた。私は相手を追いつめていた――私の剣先は相手の体のあちこちに触れ、十か所以上の傷口から血が流れていた。それでもまだ、相手のすばらしい防御を突き破って、この男を一瞬のうちに祖先のもとへ送りこめるほどの致命傷を与えることはできなかった。
そのときだった。ラコールがすばやく自分の装具からベルトを一本ぬきとった。そして、ちょうど相手の突きをかわして一、二歩しりぞいた私の左の足首のあたりにベルトを打ちおろし、その先端をからみつかせると、いきなりぐいと引っぱった。私はどすんと仰向《あおむ》けに倒れた。
たちまち、彼らはヒョウのように飛びかかってきた。しかし彼らはウーラのことを考慮にいれていなかった。白刃が私の体に触れるより早く、忠実な火星犬《キャロット》は悪魔の群れが怒号するような声をあげて私の倒れた体の上を跳《と》びこえ、彼らに襲いかかった。
強大な爪のある十本の足を持ち、耳まで裂けた大きなカエルのような口から三列の長い白い牙をむき出している巨大な灰色大クマのような怪物を想像してもらいたい。そして、なかば餓死しかけたベンガルのトラの敏捷《びんしょう》さと獰猛さ、それに雄牛二頭分の力をこの動物につけ加えれば、戦うウーラの様子がわずかながら見当がつくだろう。
私が制止の声をかけたときには、ウーラはもう、その力強い前足で一撃のもとにラコールをゼリーのようにたたきつぶし、もう一人のサーンを文字どおりずたずたに引き裂いていた。そのくせ、私のきびしい声を聞くと、まるで叱責《しっせき》や懲罰を受けなければならない悪いことでもしたかのように、おどおどして身をちぢめた。
あの初めて火星にやってきた日、サーク族の王《ジェド》がウーラを私の見張り役にしたときから今日までの長い年月のあいだ、私はウーラを罰する気になったことは一度もなかった。ウーラが前に仕えていた冷酷非情な飼い主たちとはちがって、私はその愛情と忠節を獲得していた。しかし、たとえ私がどんな残酷な罰を加えたとしても、ウーラはそれを甘んじて受けたにちがいないと思う。ウーラの私に対する愛情はそれほど驚くべきものだった。
ラコールの額《ひたい》の黄金の飾りの輪の中央にはめこまれている宝石は、彼がホーリー・サーンであることを示していた。いっぽう、そんな飾りをつけていない相棒のほうは下級サーンだったが、それでも、身につけている装具から、ホーリー・サーンのすぐ下の階級である第九群まで達していた男であることがわかった。
ウーラがやってのけたすさまじい虐殺のあとをしばらく見つめていると、かつてプタースのサビアに殺されたホーリー・サーン、サトール・スロッグの|かつら《ヽヽヽ》や宝石や装具で変装したときの記憶がよみがえってきた。そして、いまラコールの飾りや装具を利用すれば、あのときと同じように役に立つのではないかと思いついた。
ただちに私はラコールのはげ頭から黄色い|かつら《ヽヽヽ》をはぎとって、自分の頭にのせ、つづいて、飾り輪とすべての装具を身につけた。
ウーラはこの変装が気に食わないらしく、私の体をくんくんかぎまわって、険悪なうなり声をあげた。それでも私が声をかけて、大きな頭をそっとたたいてやると、ついにあきらめて、この変装を認めた。それから、私の命令に従って通路を走りだし、サーンたちに妨害されるまで進んでいた方角に向かった。
さきほど盗み聞きしたサーンの断片的な会話によって行く手に危険があることはわかっていたので、私たちは用心深く前進した。私はウーラと並んで歩いた。何か危険なものが行く手にだしぬけに現われるかもしれないのだから、四つの目をいっせいに光らせて少しでも有利な立場に立とうとしたのである。まったく、あらかじめ警告を受けていてよかったのだ。
狭い階段の下までくると、通路は急カーブを描いて後もどりし、すぐまた元の方向へもう一度カーブしていた。そのため、通路はそこで完全なS字形を描き、そのS字の線の上端はひどく照明の暗い大きな部屋へ通じていた。そして、その部屋の床一面に毒ヘビをはじめ、いやらしい爬虫類《はちゅうるい》がはいまわっていた。
その床を横切ろうとすれば、たちまち死を招くことだろう。一瞬、私は完全に意気|沮喪《そそう》してしまいそうになった。そのとき、サリッドやマタイ・シャンの一行もここを通ったにちがいない、それなら通る方法があるはずだと思いついた。
あんなわずかなものにせよ、サーンの会話をふと耳にするという幸運な偶然がなかったら、私たちはこの破滅的な爬虫類の群れの中に少なくとも一歩や二歩は踏みこんでいたにちがいない。そして、私たちの運命を決定するには、ただの一歩で十分だったろう。
私がバルスームで爬虫類を見たのは、このときだけだった。しかし、かつてヘリウムの博物館で見た絶滅したと思われている種類の化石との類似点から判断して、この群れの中には未発見の種類のものはもちろん、すでに知られている有史以前の爬虫類がたくさんいることがわかった。
このように身の毛のよだつほど恐ろしい怪物の群れは、いまだかつて見たことがなかった。その様子を地球の人間に説明しようとしても無駄だろう。過去のものだろうと現在のものだろうと、地球の人間が知っているどんな生物とくらべても、共通点といえばただ一つ、その実体が存在するということだけだし、その毒にしてもとほうもない猛毒で、それにくらべたらコブラもミミズのように無害なものに思えるほどである。
私たちが立っている入口の近くにいた怪物どもは、私の姿を見つけると、いっせいに押し寄せてきた。しかし、部屋の敷居に沿ってとりつけられているラジウム灯の列の前までくると、ぴたりと停止した――どうやら怪物どもはこの照明灯の列をこえる気はないらしい。
何が怪物たちを思いとどまらせるのか見当もつかなかったが、彼らが部屋の外へ出ようとしないことは確実だった。私たちがいま通ってきた通路に爬虫類は一匹もいなかったという事実だけから考えても、これは間違いのないことだった。
私はウーラを引っぱって安全なところへ後退させると、自分の立っているところから見えるかぎり爬虫類の部屋を注意深く観察しはじめた。室内の薄暗い光にしだいに目がなれてくるにつれて、部屋のむこう側に壁から張り出した低い回廊があり、そこに出口がいくつかあるのが見えた。
できるだけ敷居のそばに近づいて、この回廊ぞいに目を走らせると、見わたすかぎり部屋を取り巻くように回廊がつづいていることがわかった。それから上を見あげて、私たちがたどりついた入口の上端に目をやると、うれしいことに、頭上一フィートたらずのところに回廊の端があった。たちまち私はそれに飛びつき、ついてこいとウーラを呼んだ。
回廊には爬虫類は一匹も見あたらず、恐怖の部屋の向こう側まで何の邪魔もない道がつづいていた。ほどなく、ウーラと私は無事に向こう側の通路に降り立った。
それから十分とたたぬうちに、白い大理石造りの広い円形の部屋にはいった。室内の壁にはファースト・ボーンの奇妙な象形文字が金で象眼されていた。
この壮大な部屋の高い円天井から床まで巨大な円柱が一本のびていた。見つめているうちに、その円柱がゆっくりと回転しているのがわかった。
太陽殿の底にたどりついたのだ!
この頭の上のどこかにデジャー・ソリスがいるのだ。そして彼女といっしょにマタイ・シャンの娘ファイドールと、プタースのサビアがいるのだ。だが、この巨大な牢獄の唯一の急所を発見したものの、彼女たちのところへ行く方法は依然として不可解な謎だった。
私は巨大な円柱のまわりをゆっくりとまわりながら、内部へはいる方法をさがした。柱のまわりを少し進むと、小さな携帯用ラジウム灯を見つけた。このほとんど誰も知らない近寄りがたい場所にどうしてこんなものがあるのかと思って調べてみると、その金属製のケースに宝石で象眼されているサリッド家の紋章が急に目にはいった。
まさしく、やつの足どりを追っている――私はそう考えながら、このへんてつもないラジウム灯を私の装具につるした小物入れの袋にすべりこませた。それから、どこかこの近くにあるはずの入口をまた捜しはじめたが、それは長く捜すまでもなかった。なぜなら、まもなく円柱の根元に、注意力の足りない人間なら見のがしてしまうほど巧妙にはめこまれた小さなドアを見つけたのである。
牢獄の内部に通じるドアは目の前にあった。だが、このドアをあけるにはどうすればいいのだろう。ボタンも錠前も見あたらない。私は何度もドアの表面をすみずみまで綿密に調べ直したが、見つかったものといえば、ドアの中央より少し右上にあるピンで突いたような小さな穴だけで――これは製造の際の失敗か材料の欠陥によって偶然にできたものにすぎないように見えた。
このちっぽけな穴の中をのぞきこんでみたが、ほんの一インチほどの深さなのか、それともドアを突き抜けているのか全然わからない――ただ、向こう側の光らしいものは何も見えなかった。次にドアに耳をあてて音を聞きとろうとしたが、これまた何の効果もなかった。
私がこうした試みをつづけている間、ウーラはそばに立って、じっとドアを見つめていた。その姿がふと目にとまったとき、はたして、黒色人の貴族《ダトール》サリッドとサーンの教皇マタイ・シャンがこのドアを通って神殿へはいったという前提が正しいかどうかためしてみようという考えが胸に浮かんだ。
私は急に身をひるがえして歩きながら、ついてこいとウーラに声をかけた。ウーラはちょっとためらったが、すぐに私を追って飛びだし、鼻を鳴らしながら装具を引っぱって私を引きもどそうとした。しかし私はそのまま歩きつづけて、円柱のドアからかなり離れたところまで行き、それからウーラの思いどおりにさせて、どこへ私を連れて行くか見とどけようとした。
ウーラは私を引っぱって一直線にもとのあかずの扉の前へもどると、ふたたび何もない大理石の壁の前にすわりこんで、その輝かしい表面をまじまじと見つめた。それからの一時間、私は目の前のドアを開く秘訣をつきとめようと頭を悩ました。
サリッドを追跡していた間の模様を細大もらさず思い出してみたが、その結論は最初からの確信と少しも変わらなかった――サリッドは自分の知識のほかは何の助けもなしにここまでやってきて、いま私の行く手をはばんでいるこのドアを内側からの助けを受けずに通り抜けたのだ。だが、どうやってそれをなしとげたのだろう。
私はふと、黄金の断崖の神秘の部屋での出来事を思い出した。あのとき、サーンの地下牢からプタースのサビアを救い出すと、彼女は殺された看守の鍵輪から細い針のような鍵を抜き取って、タルス・タルカスがバンスの群れと必死に戦っていた神秘の部屋へもどるドアをあけてくれたが、あのときのドアの厄介な錠前をあける鍵穴も、いま自分を悩ましているようなちっぽけな穴だったではないか。
私は急いで、小物入れの袋の中身を床の上にぶちまけた。なにか細長い鋼鉄の切れはしが見つかりさえすれば、神殿の牢獄へはいるための鍵が作れるかもしれない。
火星の戦士の小物入れをあければ必ず出てくる雑多ながらくたを調べているうちに、黒色人のダトールの紋章つきのラジウム灯が手に触れた。
現在の窮境には何の役にも立たないものとしてその照明灯をわきへどけようとしたとき、やわらかい金のケースの表面に真新しいひっかき傷のような走り書きの奇妙な文字がしるされているのが、ふと目にとまった。
なんとなく好奇心にかられて、それを判読してみたが、読みとった文字はべつにこれという意味もないものだった。そこには次のように、三組の文字が三行に並んでいた。
3――50T
1――1X
9――25T
好奇心をそそられたのはほんの一瞬だけで、じきに私は照明灯を小物入れにもどした。ところが、それを持った手をまだ離さないうちに、とつぜん私の記憶に、ラコールと話し合っていた相棒の下級サーンがサリッドの言葉を引き合いに出して、それをあざけったときのことがよみがえってきた。「それに、あの妙ちきりんな照明灯の話をどう思うね? 五十|火星秒《タル》のあいだ三ラジウム単位の明るさで照明灯をつける」――あ、そうか、これはこの金属ケースの文字の一行目、3―50Tなのだ。「次に一|火星分《ザット》のあいだ一ラジウム単位の明るさ」――これは二行目だ。「それから二十五|火星秒《タル》のあいだ九単位で照らす」
公式は完全だった。しかし――どういう意味なのだろう。
私はわかったと思った。そして小物入れのがらくたの中から性能のいい拡大鏡を取りあげると、ドアの小さな穴の周辺の大理石を注意深く調べはじめた。やがて精密な検査によって、火星の照明灯から放射される炭化電子のほとんど目に見えないくらいの微粒子が大理石の表面にこびりついているのを発見したときには、喜びのあまり大声で叫びだしたいほどだった。
遠い昔から、この小さな穴にラジウム灯の光があてられつづけてきたことは明白である。何の目的のためにといえば、答えはたった一つしかない――このドアの錠の仕掛けが光線によって作動するのだ。そしてこの私、ヘリウムの王子ジョン・カーターは、敵が自分の照明灯ケースにしるした組み合わせ文字を手中に収めているのである。
私の手首にはまっている円筒形の金の腕輪の中にはバルスームのクロノメーターがいれてあった。この精密な機械は秒《タル》、分《ザット》、時間《ゾード》の単位で火星の時《とき》を刻み、地球の走行記録計によく似た仕掛けで丈夫なガラス蓋《ぶた》の内側に時間を表示してくれる。
私は慎重に時間をはかり、ケースの横のレバーを親指で押して光度を調節しながら、ラジウム灯をドアの小さな穴に向けた。
五十|火星秒《タル》のあいだ、三ラジウム単位の光でまっすぐ小さな穴を照らし、次に一|火星分《ザット》のあいだ一単位、さらに二十五|火星秒《タル》のあいだ九単位の光をそそいだ。この最後の二十五|火星秒《タル》は私の一生のうちで最も長い二十五秒間だった。このはてしなくつづくように思われる時間が終わるとき、はたして錠はかちっと音をたてて開くだろうか。
二十三! 二十四! 二十五!
私はぱちっとスイッチを切ってラジウム灯を消した。七|秒《タル》のあいだ待った――錠には何の変化も起こった様子はない。私の考えは根本的に間違っていたのだろうか。
待て! こいつは緊張しすぎた神経が生みだした幻覚だろうか。それとも本当にドアが動いているのか。どっしりした大理石はゆっくりと、音もなく壁の中へ後退してゆく――これは幻覚ではない。
大理石のドアがどんどん動いて十フィートほど後退すると、右側に、通路の外側の壁と平行する暗く狭い入口が見えてきた。その入口が現われるや否や、ウーラと私はさっと躍りこんだ――するとドアは音もなく元通りにしまった。
通路を少し進むと、かすかに照明灯の光がさしてきたので、それをめざして前進した。照明灯がともっているところは急な曲がり角だった。その先へ少し行くと、煌々《こうこう》と明かりのついた部屋へ出た。
この円形の部屋の中央から螺旋《らせん》階段が上へ向かってのびていた。
私はただちに太陽殿の基底部の中心にたどりついたことをさとった――この螺旋階段は牢獄の内側の壁を通過して上方へのびているのだ。サリッドとマタイ・シャンがまだデジャー・ソリスを盗みだしていないとすれば、彼女は頭上のどこかにいるはずだ。
階段をのぼりかけたとたん、ウーラが急にものすごく興奮しはじめた。気が狂ったかと思うほどやたらに跳《は》ねまわっては、私の足や装具にかみつくので、ついに、その体を押しのけて、ふたたび階段をのぼりかけると、私の右腕をくわえて、引きもどしはじめた。
いくら叱ってもたたいても、私をはなそうとしないので、自由な左手を使って短剣で切りつけでもしないことには、まったくこの力の強い獣のなすがままになるほかはなかった。しかし、気が狂っていようといまいと、この忠実な獣の体に鋭い刃を加える気にはとてもなれなかった。
ウーラは階段から私を引きずりおろすと、部屋を横切って、はいってきたときと反対の側へ向かった。そこには別の戸口があり、まっすぐ急勾配で下へ向かう通路につづいていた。ウーラは少しもためらわず、私を引っぱってその岩の通路を進みだした。
まもなくウーラは立ちどまって、私をはなし、いま通ってきた道と私との間に立ちふさがりながら、私の顔をじっと見あげた。その様子はまるで、さあ、もうおとなしくついてくるか、それとも、まだむりやりに引っぱっていってもらいたいのか、と問いかけているようだった。
むきだしの腕についた大きな歯形をいたましげに見つめながら、私はウーラの望みどおりにすることに決めた。何といっても、私の間違いやすい判断力よりもウーラの不思議な本能のほうが頼りになるにちがいない。
事実、むりやりウーラのお供《とも》をさせられることになってよかったのである。円形の部屋から少し行くと、クリスタル・グラスで仕切られた通路が迷路のように入り組み、まばゆい照明に燦然《さんぜん》と輝いている場所に急にはいった。
最初、私は、そこが一つの広い完全な部屋だと思った。曲がりくねった通路の仕切り壁はそんな錯覚が起きるほど透明だったのだ。しかし、固いガラスの壁を通り抜けようとして、二度ばかり、いやというほど頭をぶつけたあとは、もっと用心深く歩くようになった。
この不思議な迷路と化した通路に沿ってほんの二、三ヤード進んだとき、ウーラがものすごい声でほえたかと思うと、左手の透明な仕切りに激しい勢いで衝突した。
響きわたる恐ろしい獣の叫びが地下の世界にまだこだましているうちに、私は忠実なウーラにこの咆哮《ほうこう》をあげさせたものを発見した。
はるかかなたに、間をさえぎる何枚ものクリスタル・グラスごしに、まるで靄《もや》に包まれたようにぼんやりとして、この世のものとは思われないように見える八つの人影――三人の女と五人の男――を見つけたのである。
そのとたん、ウーラのすさまじい叫びに驚いたらしく、彼らも立ちどまって、あたりを見まわした。すると、にわかに、そのなかの女の一人が私のほうへ両腕をさしのべた。そして、遠く離れていたにもかかわらず、私にはその唇の動くのが見えた――それは永遠に若く美しいヘリウムの王女、私のデジャー・ソリスだった。
彼女といっしょにいるのはプタースのサビアとマタイ・シャンの娘ファイドール、それにサリッドとサーンの教皇、その配下の三人の下級サーンたちだった。
サリッドは私のほうに向かって|こぶし《ヽヽヽ》を振りまわした。それから二人のサーンがデジャー・ソリスとサビアの腕を荒々しくつかみ、せきたてて歩かせた。一瞬のうちに、彼らはガラスの迷路のかなたの石の通路に姿を消してしまった。
恋は盲目といわれる。しかし、もうろうとしたガラスの迷路のかなたから、サーンの変装をしていてさえ私を見わけたデジャー・ソリスの偉大な愛は、盲目どころか何物をも見通す力を持っているにちがいない。
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四 秘密の塔
その後、私とウーラが追跡の旅をつづけた退屈きわまる日々の単調な出来事をいちいち述べようとは思わない。私たちはガラスの迷路をこえたあと、その向こうのドール谷と黄金の断崖の下へ通じる暗い曲がりくねった道を通って、ついに亡者の谷のすぐ上にあたるオツ山脈の中腹に出た。亡者の谷というのは、例のドール谷への旅をつづける勇気を失い、かといって、自分たちがあとにしてきた外界の国々へ帰ることもできない不運な連中が住みついている煉獄《れんごく》ともいうべき哀れな土地の呼び名である。
ここで、デジャー・ソリスの誘拐者たちの足どりは山脈のふもと沿いにのびて、ものすごい絶壁のそばの険《けわ》しい峡谷をこえ、ときには亡者の谷へはいりこんでいた。そして私はこの絶望の谷に住むさまざまな部族の者たちと何度も戦うことになった。
しかし私たちはこのすべてを切り抜けて、ついに道が狭い山峡へのびているところまできた。その道はひと足ごとにますます険《けわ》しく通りにくくなったが、やがて行く手に、張り出している断崖の下に隠れた巨大な砦がぼんやりと見えてきた。
ここがサーンの教皇マタイ・シャンの秘密の隠れ場所だった。かつては無数の家臣や従者にかしずかれていた古い宗教のヘッカドールは、ここで少数の忠実な部下にかこまれながら、その信用を落としたまやかしの宗教をいまなお頑固に信奉しているバルスームの五つ六つの国の人びとに神の言葉をふりまいているのである。
この山の要塞のいかにも堅固そうな防壁が見えるところにたどりついたのは、ちょうど日が暮れかけたころだった。姿を見られてはいけないと思って、私はウーラといっしょに突き出した花崗岩《かこうがん》の陰へ退き、オツ山脈の不毛の山腹に繁茂する丈夫な紫色の灌木の茂みへもぐりこんだ。
そのまま私たちは、昼から夜への急速な移行が終わるまで動かなかった。それからこっそりはいだして、砦《とりで》の中へはいる道を求めて防壁に近づいた。
不注意のためか、それともこの隠れ場所なら近づく者はあるまいという過信のためか、三重かんぬきのついた門は少し開いていた。そのむこうでは、少数の衛兵が何やらわけのわからぬバルスームのゲームをやりながら談笑していた。
その衛兵の中にサリッドやマタイ・シャンに同行していた者がいないことを見きわめると、私はもっぱら自分の変装を頼みの綱にして、大胆にも門を通り抜け、衛兵たちのところまで歩いていった。
彼らはゲームを中断して私を見あげたが、べつに疑いを持った様子はなかった。私のすぐうしろでうなっているウーラを見ても同じことだった。
「カオール!」そう言いながら私は正式の火星の挨拶をした。戦士たちも立ちあがって敬礼した。
「私はたったいま黄金の断崖からやってきたところだ」と私はつづけた。「サーンの教皇、ヘッカドールのマタイ・シャンに拝謁《はいえつ》したい。どこにおいでになるのかね」
「ついてきたまえ」衛兵の一人がそう言って、うしろを向くと、私を連れて外庭を横切り、控え壁で支えられた第二防壁のほうへ向かった。
このように、いかにもやすやすと衛兵たちを欺いたように見えたこと自体、どうして妙だと思わなかったのだろう。おそらく、ちらりと垣間見た愛する王女の姿でまだ頭の中がいっぱいだったので、ほかのことに気をくばる余裕が全然なかったからだろうとしか考えようがない。それはとにかく、私は案内者のあとについて心も浮き浮きと、まっすぐ死地に向かって進んでいたのである。
後になって知ったことだが、サーンのスパイたちは、私がこの秘密の砦に到着する何時間も前から、私がくることを知っていたのだった。
砦の門は私をおびき寄せるためにわざと少し開けてあったのだし、衛兵たちにはちゃんと役割が教えこまれ、何もかもが仕掛けられた罠《わな》だったのである。そして私は、百戦練磨の戦士というよりは小学生のように、まっしぐらにその罠の中へ飛びこんでいったのだった。
外庭の向こう端まで行くと、控え壁の一つが防壁と接している角のところに幅の狭いドアがあった。ここで案内役の衛兵は鍵を取りだして、ドアをあけると、うしろへさがって身振りで中へはいれと合図した。
「マタイ・シャンはむこうの神殿の庭においでになる」衛兵はそう言い、ウーラと私が中へはいると、すばやく背後のドアをしめた。
かちっと錠のおりる音がした後で、どっしりしたドアの厚板ごしに意地悪そうな笑い声が聞こえてきた。私はここまできてやっと、何もかも調子よく運んでいるわけではないことに気がついた。
私は控え壁の内部の小さな円形の部屋のなかにいた。目の前にドアがあった。たぶん、むこうの内庭に通じているのだろう。私は一瞬ためらった。おそまきながら、いまになって疑念がにわかに湧き起こった。だが、じきに肩をすくめてドアを開き、内庭を照らすまばゆい|たいまつ《ヽヽヽヽ》の光の中へ足を踏み出した。
真正面には高さ三百フィートもある巨大な塔がそびえていた。それは奇妙な美しさを持ったバルスームの近代様式の建築物で、その表面にはどこもかしこも入り組んだ奇抜なデザインの彫刻がくっきりと浮き上がっている。その塔の三十フィートほどの高さのところに中庭を見おろすバルコニーがあり、そこに、まさしくマタイ・シャンがいた。そして彼といっしょにサリッド、ファイドール、サビア、それにデジャー・ソリスがいたが、最後の二人には重い手かせがかけられていた。さらに、この一団のすぐ背後にはサーンの戦士の小隊が控えていた。
中庭にはいってゆくと、バルコニーにいる者たちの視線はいっせいに私に集中した。
マタイ・シャンは冷酷な口もとに卑劣な微笑を浮かべた。サリッドは私をののしって、私の王女の肩になれなれしく片手をのせた。王女は雌のトラのように憤然とサリッドに抵抗し、手首にかけられた手かせで野獣のような男に痛烈な一撃を浴びせた。
もしもマタイ・シャンが制止しなかったら、サリッドはなぐり返していたことだろう。私はこのとき、この二人がそれほど仲がいいわけではないことをさとった。サーンの教皇は尊大きわまる態度で、ヘリウムの王女が自分のものであることをファースト・ボーンに申し渡したのである。そして教皇に対するサリッドの態度には、好意や敬意を抱いている様子は少しもなかった。
バルコニーの騒ぎが静まると、マタイ・シャンはふたたび私のほうを向いた。
「地球人よ」と彼は叫んだ。「おまえは、権力の弱まった現在のわれわれが与えてやることのできる死よりも、もっとはるかに汚辱にみちた死を与えられるべき男だ。しかし、今夜おまえが死んだあと、残されたおまえの妻は一火星年のあいだ、ホーリー・サーンのヘッカドール、マタイ・シャンの妻となることを知ったら、死ぬつらさも倍にはなることだろう。
おまえも知っているように、一火星年の期間が終われば、この女はわれわれの掟どおり捨てられることになるが、その後は、普通の場合のように、どこかの神殿の女司祭として静かな名誉ある生活を送らせるわけではない。ヘリウムの王女デジャー・ソリスはわしの補佐役たちの慰みものにしてやるのだ――ことによると、おまえの最も憎んでいる敵、黒色人のダトール、サリッドのものになるのだ」
教皇は口をつぐむと、じっと待ちかまえた。どうやら、私が怒りを爆発させて――その結果、何か復讐の面白味を増す事態が起こるのを待っているらしかった。しかし私は、彼が望んでいるような満足は与えなかった。
その代わりとして、事もあろうにわざわざ彼の怒りをかきたて、私に対する憎しみをますます強めるようなことをしてやった。それというのも、もし私が死ねば、デジャー・ソリスもこれ以上の苦痛や汚辱を加えられないうちに死ぬ方法を見つけるに相違ないのだから。
サーンが神聖なものとして尊び崇《あが》めているもののなかで何よりも大切にされているのは、彼らのはげ頭を隠す黄色い|かつら《ヽヽヽ》である。その次に神聖視されるのが頭につける黄金の飾り輪と大きな宝石で、そのきらめく光は第十群の高位に達した人間であることを示している。
そのことを知っていた私は頭から|かつら《ヽヽヽ》と飾り輪をもぎとると、中庭の敷石の上にぽいと投げ捨てた。それから、|かつら《ヽヽヽ》のふさふさした黄色い髪を足で踏みにじった。バルコニーから憤激のうめき声があがったので、私はさらに神聖な王冠にまっこうから唾《つば》を吐きかけた。
マタイ・シャンの顔は怒りのあまり土気色になったが、サリッドの口もとには面白がっているような冷笑が浮かんでいた。彼にとっては、これらのものは神聖でも何でもないからだ。そこで、この男をあまり面白がらせたりしないように私は大声で言った。
「永遠の生命の女神イサスの神聖なものも、こんなふうにしてやったのだ。それから、かつては彼女を崇《あが》めたてまつっていた暴徒の群れに投げ与えられて、イサスは自分の神殿の中で八つ裂きにされてしまったのだ」
この言葉を聞くと、イサスのお気に入りだったサリッドのにやにや笑いはかき消えてしまった。
「この冒涜者の口をふさいでしまおう!」とサリッドはサーンの教皇のほうを振り返りながら叫んだ。
マタイ・シャンは立ちあがり、バルコニーのはしから身を乗り出して無気味な叫び声をあげた。それは、かつてドール谷を見おろす黄金の断崖の小さなバルコニーの上から見張り役のサーンが叫んだのと同じ叫び声だった。長いあいだサーンたちはこの叫び声で恐ろしい大白ザルやいまわしい植物人間を呼び集め、神秘のイス川の広い川面をくだってシリアンのはびこるコルスの行くえ知れずの海へ流れてくる犠牲者たちを襲わせていたのである。
「死の使いを放せ!」と教皇は叫んだ。たちまち、塔の一階にある十二の扉がぱっと開いて、十二頭の残忍な恐ろしいバンスが中庭に飛びだした。
この獰猛なバルスームのライオンに立ち向かうのは、これが最初というわけではなかったが、ひとりで十二頭も相手にしたことはなかった。勇敢なウーラの助けがあるにしても、こんなに不公平な戦いでは、結果は一つしかありえない。
猛獣どもはちょっとの間、まばゆい|たいまつ《ヽヽヽヽ》の光の下でためらっていた。だが、やがて光になれてきた目でウーラと私を見つけると、たてがみを逆立て、太く低いうなり声をあげ、力強い尾を黄褐色の脇腹に打ちつけながら前進してきた。
もうほんのわずかの命だと観念した私は、これが見納《みおさ》めと思ってデジャー・ソリスのほうをちらりと見た。美しい顔は恐怖の表情に凍りついていた。たがいの視線が合うと、彼女は私のほうへ両手をさしのべ、バルコニーから身を投げて私といっしょに死のうと、おさえつける衛兵たちに逆らって身悶えした。そしてバンスがいまにも私に襲いかかりそうになったとき、顔をそむけて、その愛らしい顔を両手で覆ってしまった。
とつぜん、私の注意はプタースのサビアにひきつけられた。この美しい娘は興奮に目を輝かせながらバルコニーのはしから大きく身を乗りだしていた。
もうバンスは、次の瞬間にも私に飛びかかろうとしていた。しかし私は赤色人の娘の顔から目をそらすことができなかった。彼女が興奮して目を輝かせているのが、いまにも眼下で繰り広げられるはずの残酷な悲劇を楽しんでいるためだなどということはありえない。あの表情には何かもっと深い隠れた意味があるはずだ。私はそれをつきとめようとした。
私は一瞬、自分の地球人の筋肉と身軽さに頼ってバルコニーへ飛びつきバンスからのがれようかと考えた。それは、やる気になれば、たやすくできることだったろう。しかし忠実なウーラを見捨てて、孤立無援で飢えたバンスの残忍な牙のもとに死なせる気にはどうしてもなれなかった。そんなことはバルスームの掟に反することだったし、ジョン・カーターのやり方にもないことだった。
そのとき、サビアの興奮の秘密が明らかになった。彼女の唇から、前に一度聞いたことのあるネコがのどを鳴らすような声がもれてきたのである。いつか黄金の断崖の奥で、サビアはこの奇妙な声で獰猛なバンスの群れを自分のまわりに呼び集め、まるで羊飼いがおとなしい羊の群れを誘導するように、猛獣どもを思いのままに引っぱって行ったのだった。
そのやさしくなだめるような声が聞こえたとたんに、バンスたちはその場で立ちどまり、一頭残らず獰猛な頭を高く上げて、なじみ深い呼び声の出所を捜した。そして頭上のバルコニーにいる赤色人の娘を見つけると、猛獣たちはいっせいにその方角を向いて、挨拶のうなり声をあげた。
すぐに衛兵たちがサビアに飛びかかり引きずって行こうとしたが、連れて行かれる前に彼女は聞き耳を立てている猛獣たちに矢つぎばやの命令を与えた。するとバンスの群れはいっせいにうしろを向いて、もとのねぐらへ引き返して行った。
「もう恐れるにはおよびませんよ、ジョン・カーター!」とサビアは衛兵たちに口をふさがれないうちに叫んだ。「あのバンスたちはもうけっして危害は加えません、あなたにも、ウーラにも」
知りたいことはそれだけだった。こうなればバルコニーに飛びつくのを遠慮する必要は全然ない。私は遠くから走って行って高々と飛びあがり、両手でいちばん下の敷居をつかんだ。
たちまち、すべては大混乱に陥った。マタイ・シャンは縮みあがってあとずさりした。サリッドは剣を抜いて飛び出し、私を切り倒そうとした。
またもやデジャー・ソリスが重い手かせを振りまわしてサリッドをくいとめた。すると、マタイ・シャンが彼女の胴を抱きかかえ、塔の内部へ通じる戸口へ引きずりこんでしまった。
一瞬、サリッドはためらった。それから、サーンの教皇がヘリウムの王女を連れて逃げてしまうのではないかと思ったらしく、自分も後を追って塔の中へ駆けこんだ。
ただひとりファイドールだけが平静を保っていた。彼女は二人の衛兵にプタースのサビアを連れ去るように命じ、ほかの衛兵には、ここに残って、私に後を追わせないようにすることを命令した。それから私のほうに向き直った。
「ジョン・カーター」と彼女は叫んだ。「神聖なヘッカドールの娘ファイドールがあなたに愛を求めるのは、これが最後よ。わたしの愛を受け入れたら、あなたの王女は自分の祖父の宮廷へ帰らせてあげるし、あなたも安らかに幸福な暮らしができるようにしてあげるわ。でも、拒絶すれば、父がおどしていたような運命がデジャー・ソリスの身にふりかかるのよ。
いまとなっては、あの女を救えやしないわ。いまごろは、いくらあなたでも追跡できないような場所へ行ってしまったはずだもの。ことわれば、あなたの助かる道はないのよ。ホーリー・サーンの最後の砦までの道はあなたには容易なものだったけれど、これからの道を進むことは不可能だわ。さあ、どうなの」
「ファイドール、きかなくたって、きみには私の答えはわかっているはずだ。さあ、道をあけろ」私は衛兵たちにむかって叫んだ。「ヘリウムの王子ジョン・カーターが通るのだ!」
そう言うやいなや、私はバルコニーをとり囲む低い手すりを飛びこえ、長剣をふりかざして敵に立ち向かった。
相手の衛兵は三人いた。しかしファイドールはこの戦いの結末を推察したらしく、私が彼女の提案を受け入れる気が全然ないことを見きわめると、すぐ身をひるがえしてバルコニーから逃げてしまった。
三人の衛兵は私が攻撃するのを待ってはいなかった。それどころか、三人同時に猛然と襲いかかってきた。だが、そのために私のほうが有利になった。彼らは狭いバルコニーの中でたがいに衝突し合い、そのために最初の突撃で先頭の男が私の白刃の上へもろに倒れてきた。
長剣の切っ先を赤く染めた血を見ると、かつては私の胸の中であんなにも激しく燃えていた戦士の血なまぐさい闘志が完全に目をさました。たちまち、私の白刃はすさまじい早さと正確さで宙に閃《ひらめ》き、残った二人のサーンを混乱と絶望に追いこんでいった。
ついに鋭い剣先が一人の心臓を刺しつらぬくと、あとの一人は身をひるがえして逃げはじめた。私はこの男が私の捜し求める者たちがたどった道を行くだろうと考えたので、たえず相手に私の剣がとどかないと思わせるだけの距離をおいて先に行かせることにした。
男は塔の中の部屋をいくつか走り抜けて螺旋通路にたどりつくと、これを駆けのぼった。私もすぐ後を追った。いちばん上までのぼると、小さな部屋にはいった。この部屋の壁には、オツ山脈のスロープとその向こうの亡者の谷を見おろす窓がたった一つあるだけだった。
ここで、男はその窓の反対側の何もない壁の一部としか見えないところを狂ったようにかきむしりはじめた。すぐに私は、そこが秘密の出口になっているにちがいないと考えた。そこで一息いれて、その秘密の出口をあける余裕を相手に与えてやろうとした。この哀れな従者の命をとろうなどとは少しも思わなかった――私が求めるものは、長いあいだ奪われている私の王女デジャー・ソリスの後を追うための確実な道、それだけである。
しかし、その男がいくら壁をなぜたり、たたいたりしても、秘密の出口は開かなかった。そこでとうとう男は断念して、うしろを振り返り、私に立ち向かおうとした。
「むこうから出て行け、サーン」私はそう言って、のぼってきたばかりの螺旋通路の入口を指さした。「おまえと争う理由はないし、おまえの命などとりたくもない。行け!」
口で答えるかわりに、男は剣をふるって飛びかかってきた。しかも、その攻撃があまりにもだしぬけだったので、すんでのことに私はやられるところだった。こうなっては相手の望みどおり、打ち倒すほかはないし、それもできるだけ早く片をつけなければならない。マタイ・シャンとサリッドがデジャー・ソリスとプタースのサビアを連れて逃げているのに、この部屋であまりぐずぐずしてはいられない。
その男は頭のいい剣士だった――機略に富み、すこぶる狡猾な手を使った。決闘の作法などというものは聞いたこともないといった態度で、恥を知る戦士なら無視するよりはむしろ死を選ぶはずのバルスームの戦いの掟を再三再四破ったのである。
彼は自分の神聖なかつらを頭からもぎとって、私の顔に投げつけるようなことまでもやった。そうやって一瞬私の目をくらまし、その隙に防御のおろそかになった私の胸に突きを入れようとした。
しかし、彼が突いてきたとき、私はすばやく身をかわしていた。それというのも私には前にサーンと戦った経験があったからだ――この男とまったく同じ手を使った者は一人もいなかったが、この連中が火星で最も恥知らずな信用のおけない戦士であることはわかっていたので、この種族の者と戦うときには、きっとまた何か新手のとんでもない詭計《きけい》が飛びだすだろうと、いつも警戒していたのである。
だが、ついにこの男はやりすぎた。彼は短剣を抜いて、投げ槍のように私のからだめがけて投げつけたかと思うと、間髪を入れず長剣をかまえて猛然と襲いかかってきた。私の白刃はさっと円を描いて飛んでくる短剣を受けとめ、音高らかに遠い壁まではね飛ばした。と同時に私はすばやく横へ踏みだして敵の突撃をかわし、すれちがう相手の腹へもろに剣を突き刺した。
私の剣は完全に柄《つか》まで突き刺さり、相手はすさまじい悲鳴とともに床に倒れて絶命した。
敵の死体から剣を引き抜くのにちょっと立ちどまっただけで、たちまち私は部屋を横切って、サーンが通り抜けようとしていた何もない壁の前へ飛んで行った。そしてこの出口を開く秘密を見つけだそうとしたが、けっきょく何をやっても無駄だった。
絶望のあまり、私はむりやりに壁をこわそうとした。しかし冷たい石の壁はびくともせず、私の無駄な、ばかげた努力をあざ笑っているようだった。実際、立ちふさがる壁のむこうから、かすかな嘲笑めいた響きが確かに聞こえたような気がしたほどである。
私はうんざりして、むだな努力をやめると、この部屋のたった一つの窓のそばへ歩み寄った。
窓の外のオツ山脈の斜面《スロープ》や、はるかかなたの亡者の谷を見ても、いまは何の興味もそそられなかった。しかし、はるか頭上にそびえる塔の彫刻をほどこした壁に、私は注意を集中した。
あの壮大な建築物のどこかにデジャー・ソリスがいるのだ。頭上には窓がいくつも見える。たぶん、そこには彼女のもとへたどりつける唯一の道があるのだろう。危険は大きい。しかし、この世で最もすばらしい女性の運命がかかっている場合なら、どんな危険も大きすぎるということはない。
私は下に目をやった。百フィートほど下の塔の基部のすぐそばには身の毛もよだつ深い岩の割れ目が口をあけ、その割れ目のふちにはごつごつした花崗岩の塊がたくさんころがっている。塔をよじのぼるさいに、ただの一度でも足をすべらせたり、ほんの一瞬でも手をはなしたりしたら、花崗岩の塊の上か、深い割れ目の底に墜落して死ぬことになろう。
しかし、ほかに道はなかった。私は肩をすくめると――なかば身震いだったが――窓の下わくに足を踏みだし、危険な塔登りを開始した。
驚いたことには、たいていのヘリウムの建物に見られる装飾とちがって、この塔の浮彫りは縁がたいてい丸味をおびていた。だからどこをどうつかんでみても、手がかりは危険きわまりないものだった。
頭上五十フィートぐらいのところに、直径六インチほどの円柱状の石が壁から盛り上がって、何本も次々に並んでいた。どうやらそれは六フィートおきぐらいに塔を帯状にとり巻いているらしく、しかもそれぞれの円柱はほかの飾りの表面より四、五インチほど突出しているので、そこまでたどりつきさえすれば、わりあい楽にのぼれることになりそうだった。
私はそれらの円柱をめざし、その下にあるいくつかの窓を伝って苦労しながらよじのぼっていった。もしかしたら、窓から塔の内部へはいって、もっと楽な捜索の道が見つかるかもしれないと思ったのだ。
丸味をおびた浮彫りのふちの手がかりは、それにしても、あまりにも頼りなかった。くしゃみか咳《せき》が出ても、あるいはほんの少し風が吹いても、私は手がかりを失って一気に下の奈落へ墜落したにちがいないと思われるほどだった。
それでも、ついに一つの窓の下わくをやっとつかめそうなところまでたどりついた。そこで安堵《あんど》の吐息をつこうとしたとき、頭上のあいている窓から人声が聞こえてきた。
「あの男に秘密の出口のあけ方がわかるものか」それはマタイ・シャンの声だった。「さあ、上の格納庫へ行くことにしよう。そして、あの男がほかの手を見つけないうちに、はるか南へ行ってしまうのだ――あの男はきっと手を見つけるだろうから」
「あのキャロット野郎には不可能なことなんかなさそうだからな」と別の声が答えた。サリッドの声だ。
「では、急ごう」とマタイ・シャンは言った。「しかし念には念をいれて、この通路の警戒に二人残して行こう。あとから別の飛行船でわれわれのあとを追えばいい――ケオールで追いつくだろう」
私の上にのばした手の先はまだ窓の下わくにはとどいていなかった。人声が聞こえたとたんに私は手をひっこめ、垂直の壁にぴったりへばりつき、ほとんど息もしないで危険な場所にしがみついていた。
こんなところにいるのをサリッドに見つかったら、もう万事休すだ! むこうは窓から身を乗りだして、剣の先でちょっと押しさえすれば、私をあの世へ送りこめる。
まもなく人声はかすかになった。私はふたたび、あぶなっかしい塔登りを開始したが、今度は窓を避けて遠まわりしなければならないので、いっそうむずかしくなった。
マタイ・シャンが格納庫や飛行船という言葉を口にしていたことから考えれば、私の目的地はまさしく塔の屋上にほかならなかった。そのいかにも遠く見えるゴールをめざして、私は進みはじめた。
ついに、この塔登りのなかで最もむずかしい危険な部分を無事に切り抜けた。石の円柱にぴったり手が触れるのを感じて、私はほっとした。
これらの突起した円柱は間隔があまりにも離れすぎているので、楽々とのぼってゆける足がかりとは言えなかった。それでも、少なくとも、とっさの場合にしがみつける安全なものがつねに手のとどくところにあることになった。
屋根から十フィートほど下のところで壁が内側に少し傾斜していたので、ここから登るのは非常に楽になり、じきに私の指は屋根のはしにかかった。
塔の屋上へ顔をのぞかせると、いまにも飛び立とうとしている飛行船が見えた。
その甲板には、マタイ・シャン、ファイドール、デジャー・ソリス、プタースのサビア、それに数人のサーンの戦士がいた。そして船体のそばではサリッドがこれから乗りこもうとしていた。
サリッドは私のところから十歩足らずのところにいたが、こちらには背を向けていた。ところが、いかなる残酷な運命の気まぐれか、ちょうど私の顔が屋根のはしからのぞいたとたんに、彼はくるりとうしろを向いた。
私と視線を合わせた瞬間、彼の邪悪な顔は敵意にみちた微笑にぱっと輝いた。と同時に、急いで足場の確かな屋上にはいあがろうとしている私にむかって飛びかかってきた。
その瞬間デジャー・ソリスも私の姿を見たにちがいない。ちょうどサリッドの片足がぱっと動いて、まっこうから私の顔を激しく蹴あげたとたんに、彼女のむなしい警告の悲鳴が聞こえた。
私は打ち倒された雄牛のようにふらつき、のけぞって、下界へ転落して行った。
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五 ケオール街道
ときとして残酷な運命に見舞われることはあるにしても、いっぽうには、私をあたたかい目で見守ってくれる慈悲深い神の摂理が存在することも確かである。
塔から下の恐るべき奈落へころげ落ちた瞬間、私はもう死ぬほかないと思った。サリッドもそう考えたにちがいない。彼は私が墜落したあとを見ようとさえしないで、すぐさま身をひるがえし、待機している飛行船に乗りこんだらしいのである。
だが、私が墜落したのはほんの十フィートだけだった。十フィート下で装具の丈夫な皮ひもの輪が塔の側面から突き出ている石の円柱の一つにひっかかって――そのまま止まったのである。墜落が止まったときでさえ、私は即死から自分を守ってくれた奇跡が信じられなかった。しばらくは全身の毛穴から冷汗を吹き出しながら、宙づりになったままでいた。
それでも、やっと動きだして足場のしっかりしたところへもどったが、上へのぼるのはためらった。サリッドがまだ屋上で待ちかまえているかどうか、このときにはまだわからなかった。
だが、すぐに飛行船のプロペラのまわる音が聞こえてきて、その音が刻々と遠ざかっていったとき、サリッドの一行は私がどうなったのかを確かめずに、南をめざして出発したのだとさとった。
私は用心深く屋上へ引き返して行った。ふたたび屋根のへりから顔を出したときには、率直に言って、いい気持はしなかった。しかし、人影はなかったのでほっとした。一瞬後、私は無事に広い屋上に立った。
それから、すぐさまやってのけたのは、格納庫へ行って、その中にもう一機だけ残っていた飛行船を引っぱり出す仕事だった。そして、マタイ・シャンがこのような思いがけない事故の発生を防止するためにこそ残して行った二人のサーンの戦士が塔の中から屋上へ出てきたとたんに、私は嘲笑とともに彼らの頭上へ舞い上がった。
そして、ウーラと別れた中庭へすばやく降下すると、忠実な獣はまだちゃんとそこにいたので、またもやほっとした。
十二頭の巨大なバンスはねぐらの入口に横たわって、ウーラをじろじろ見ながら険悪なうなり声をあげていたが、サビアの命令にはそむいていなかった。サビアは黄金の断崖の中でバンスの番人になり、親切な思いやり深い性質を持っていたために、こんな猛獣の忠誠と愛情を獲得することになったのだが、私はそのような事態をこしらえておいてくれた運命に感謝しないではいられなかった。
私を見つけると、ウーラは飛びあがって喜び、飛行船がほんの一瞬、船体を中庭の敷石に接触させたとたんに、私のそばの甲板へおどりこんできた。そして、こみあげる嬉しさをクマのように荒々しく示すので、私はすんでのことに中庭の岩の壁に飛行船を衝突させそうになった。
サーンの衛兵たちが怒りわめくなかを、私たちはホーリー・サーンの最後の砦の上空高く舞いあがり、それから、マタイ・シャンの口から聞いた目的地ケオールめざして、まっすぐ北東に突進した。
午後遅く、はるか前方に小さな点のように見える別の飛行船を発見した。それこそ、ほかならぬわが愛する王女と仇敵たちを乗せた船にちがいなかった。
夜までには相手の船にかなり接近した。それから、敵もこちらを見つけたに相違ないから、日が暮れても明かりをつけないだろうと思ったので、目標誘導羅針盤を相手の船に合わせてセットした――このすばらしい小さな火星の機械装置は、ひとたび目標物に合わせて調節すると、その目標の位置がどう変化しようとも、つねにその方向をさし示すのである。
夜どおし、私たちはバルスームの空を飛びつづけ――低い山々や水の涸《か》れた海底、遠い昔に廃墟となった都市、リボン状の細長い耕作地にある赤色火星人の密集居住地区、その耕作地の隣の、地球人が火星の運河と呼んでいる、この遊星の球面を取り巻く水路などの上を次々に通過して行った。
夜が明けると、それとはっきりわかるほど前方の船に追いついていることがわかった。こちらより大型だが、速力はたいしたことはない。それでも、飛行をはじめてから、すでにたいへんな距離を飛んでいた。
下界の植物が変化してきたことで、急速に赤道に近づきつつあることがわかった。いまではもう、船首の大砲を使えるほどの距離まで敵の船に接近していた。しかし、デジャー・ソリスの姿が甲板にはないとわかっても、彼女の乗っている船に砲火を浴びせることはためらわざるをえなかった。
サリッドのほうには、そんな気がかりは何もなかった。そして追跡してくるのが本当に私だと信じることはむずかしかったに相違ないが、現にその証拠を見ている自分自身の目は疑いようがなかったのだろう。そこで彼は自分の手で船尾の大砲を私のほうへ向けた。たちまち、爆発性のラジウム弾が音高く空を切って飛来し、甲板の上すれすれにかすめ過ぎた。
黒色人の放った二発目はもっと狙《ねら》いが正確で、こちらの船首にまともに命中して爆発し、船首の浮力タンクを大きく引き裂き、エンジンを故障させた。
砲弾を浴びると、たちまち船首が下へ傾きはじめた。それがあまりにも急激だったので、やっとのことでウーラを甲板につなぎ自分の装具のひもの締め金を船べりの鉄の輪にとめたときには、船はもう船尾を上にして垂れ下がり、はるかな大地にむかって最終的な墜落の姿勢をとっていた。
船尾の浮力タンクのおかげで急速な墜落はまぬかれた。しかし、いまやサリッドはこのタンクも破裂させようとして矢つぎばやに砲撃していた。命中すれば私はあっという間に墜落し、大地に激突して死んでしまうだろう。
砲弾は次々に飛んできて船をかすめ、あるいは命中するものもあったが、奇跡的にウーラにも私にも当たらず、また船尾のタンクも破壊されなかった。しかし、こんな幸運はいつまでもつづくわけのものでもないし、それにサリッドが今度こそ私を殺そうと思っていることは確実だったので、私は一計を案じて、次の命中弾が炸裂《さくれつ》するのを待ちかまえた。そして爆発と同時に、甲板にしがみついていた両手を離して頭の上にあげ、くずれるように倒れると、ぐったりと死体のように装具のひもにぶら下がった。
計略は図に当たった。サリッドはそれっきり砲撃しなくなった。ほどなくプロペラの回転音がしだいに遠ざかり、私はふたたび命拾いをしたことをさとった。
撃破された飛行船はゆるやかに地上に落下した。めちゃめちゃになった残骸の中から私はぬけ出て、ウーラを引っぱりだした。あたりを見まわすと、そこは原始林の端にあたる地点だった――瀕死《ひんし》の火星の地表では原始林はきわめて珍しい存在である。私はこれまで、コルスの行くえ知れずの海のそばのドール谷の森のほかには、この遊星上でこのような原始林にお目にかかったことはなかった。
ヘリウムから東へむかって、この遊星をほぼ半周したあたりの赤道ぞいにあるケオールという世人にあまり知られていない国のことは、私も書物や旅人の話によっていくらか知っていた。
それは、はなはだしい酷熱の陥没地帯にある国で、風俗、習慣、外見などはバルスームのほかの赤色人とほとんど変わりのない赤色民族が住んでいる。
そして、信用の失墜したホーリー・サーンの宗教をいまだに頑固に信奉している国の一つということだから、マタイ・シャンはこの国へ行けば快く歓迎されて、安全に身を隠すことができるだろう。だが、いっぽう、ジョン・カーターがこの国の連中から期待できるものといえば、せいぜい屈辱的な死ぐらいのものである。
ケオール人がほとんど完全な鎖国状態を保っているのは、まず第一にこの国とほかの国とを結ぶ水路が全然ないからであり、第二には、この国の全領土をなす低い沼沢地帯では豊かな熱帯の作物に水を自給できるので、そもそも水路をまったく必要としないからである。
そしてこの国の周囲にえんえんと広がるごつごつした岩だらけの山々や、水の涸れた海底の乾燥地帯はこの国との交流を妨害している。それに各国がそれぞれ自給自足して戦争ばかりやっているバルスームでは、外国貿易というようなものは事実上存在しないも同然だったから、ケオールの皇帝《ジェダック》の宮廷や、彼が支配している多数の風変わりだが興味深い国民に関することは、実際にはほとんど知られていないと言ってよかった。
ときおり、狩猟隊がこの火星の辺境へ行くことがあったが、敵意ある原住民に危害を加えられるのが通例だったので、最近では最も勇猛な戦士でさえ、ケオールの近寄りがたいジャングルに出没する珍しい野性の動物を追いまわす狩猟の楽しみに誘い出されることはなくなってしまった。
私が今いるのは、そのケオールの国境地域だったが、デジャー・ソリスを捜すにはどの方角へ行ったらいいのか、また、通り抜けなければならないこの大森林はどのくらいの奥行きがあるのか、さっぱり見当がつかなかった。
しかしウーラはそうではなかったらしい。
飛行船の残骸の中から引きずりだしてやると、すぐさまウーラは頭を高くあげ、森のはし近くをぐるぐる歩きまわりはじめた。やがて立ちどまり、私がついてくるかどうか確かめるように振り返ると、サリッドの砲撃で撃墜されるまで、前に飛行船が進んでいた方角にむかって迷路のような森の中へまっすぐに進みだした。
私はウーラのあとを追って、森のはしからすぐにはじまっている急な斜面を、よろめきながら懸命にくだって行った。
とほうもない巨木の群れが頭上はるかにそそり立ち、生い茂る葉を一面に広げて、のぞき見る隙間ひとつないほど完全に空をさえぎっていた。ケオール人が空中艦隊を必要としない理由は明白である。この空高くそそり立つ大森林の中に隠されている彼らの都市は上空からはぜんぜん見えないにちがいないし、最も小さい飛行船でも、事故の危険を冒さないかぎり着陸することは不可能であろう。
サリッドやマタイ・シャンの船がどうやって着陸したのか、私には想像がつかなかったが、後になって、ケオールの各都市には森の頂上と同じ高さの細長い監視塔が立っていて、敵艦隊のひそかな接近にそなえ、昼夜のべつなく警戒がつづけられていることを知った。ホーリー・サーンのヘッカドールの船はそのような監視塔の一つに何の苦もなく近づき、その塔を伝って一行は無事に地上へおり立ったのである。
ウーラと私が斜面の底のほうへ近づいて行くと、地面はしだいに柔らかく、どろどろになり、ほんの少し前進するのにも恐ろしく骨が折れるようになった。
まわりには赤と黄のシダの葉に似たものをてっぺんにつけた細長い紫色の草が一面に繁茂し、私の頭上五、六フィートの高さにのびている。
無数のつる草が木から木へからみつき、花づなのような優美な輪を描いて垂れ下がっている。その間には数種類の火星のマン・フラワーがある。この花は、食物になる昆虫を見つけてつかまえる目と手を持っているのだ。
気味のわるいキャロット・ツリーもたくさん目についた。これはアメリカ西部の平原に点在する大きなヤマヨモギぐらいの大きさの肉食性植物で、枝の先端はいずれも強力な口になっていて、この口で大きな恐ろしい猛獣を引きずり倒しむさぼり食うことで知られている。
ウーラも私も、数回、この貪欲《どんよく》なお化け植物につかまりかけては、あやうく難をまぬがれた。
ときおり芝の生えた固い地域があって、この華麗な薄明かりに包まれた沼地をわたる骨の折れる仕事の休息所を提供してくれた。私が最後に、クロノメーターによってもうすぐ夜になることを知り、野営することに決めたのは、このような芝生の上だった。
私たちの周囲には、さまざまな種類の果物がふんだんに実っていた。火星犬《キャロット》は何でも食べるので、私は果物をもぎとってやり、ウーラは、たっぷりした食事にありついた。やがて私も食べ終わると、忠実な野獣と背中合わせに横たわり、深い眠りに落ちていった。
ウーラの低いうなり声で目をさましたとき、森は一寸先も見えない暗黒に包まれていた。そして、まわりじゅうから、大きなやわらかい足がひそかに動きまわる音が聞こえ、ときどき緑色の目がこちらを向いて怪《あや》しく光るのが見えた。私は立ちあがると、長剣を抜いて待ちかまえた。
とつぜん、私のすぐ横手から何か猛獣の咽喉《のど》から出たと思われる太い恐ろしい咆哮《ほうこう》がとどろいた。なんというばかなまねをしたものだ!――私は自分を呪《のろ》った。まわりに無数にある木の枝の間に自分とウーラのもっと安全なねぐらを見つけておけばよかったのである!
昼間だったら、ウーラをどうにか木の上へ引っぱりあげることもいくらか楽だったろうが、いまとなっては遅すぎる。こうなったら、ここに踏みとどまって、何でも受けとめる覚悟をする以外に方法はない。しかし、最初の咆哮が合図となったらしく、いまや耳を聾するものすごい騒音がわき起こったことから判断すると、私たちはケオールのジャングルに住む数百数千の獰猛な人食い獣のまっただ中にいるにちがいなかった。
それから夜明けまで、猛獣どもは地獄の喧騒を停止しようとはしなかった。しかし、なぜ私たちを攻撃しなかったのか、そのわけは見当がつかなかった。これは今日にいたるまではっきりしないことで、ただ、あの猛獣たちは沼地に点在する緋色《ひいろ》の芝地にはけっして足を踏み入れようとしないからだとしか考えようがない。
夜が明けると、猛獣たちはまだ私たちのまわりを円を描くように歩きまわっていたが、芝生のふちのすぐ向こう側から中に入ってこないのだった。それは想像を絶するほど恐ろしい、獰猛な血に飢えた怪物の群れだった。
日が昇って少したつと、猛獣たちは一匹または二匹ずつ、その場をぶらぶらはなれてジャングルの中へはいりこみはじめた。いちばん最後の怪物が行ってしまうと、ウーラと私はふたたび前進を開始した。
その日一日じゅう、ときおり恐ろしい野獣の姿を見かけたが、さいわい私たちはいつも芝生の安全地帯からあまり遠くないところにいたので、見つかった場合も、固い芝地のふちまでしか追跡されずにすんだ。
昼近く、めざす方角に向かって走っている立派な道路に行き当たった。あらゆる点から見て、この本格的な道路は熟練した技術者が建設したものにちがいなかった。そして、それがかなり古いものらしく、しかもいまなお毎日使用されている形跡がはっきりしていたことから見て、ケオールの主要都市の一つに通じているにちがいないと確信した。
ちょうど私たちが片側からこの道路にはいったとき、向こう側のジャングルから一匹の巨大な怪物が現われ、こちらの姿を見つけるやいなや猛然と襲いかかってきた。
地球でも見られる顔面に白いまだらのあるスズメバチを、品評会で入賞したヘレフォード種の雄牛ぐらい大きくしたら、いったいどういうことになるだろうか。そんな化け物を想像できるなら、急に私を襲ってきた羽根のある怪物の獰猛な姿と、そのすさまじい恐ろしさが少しは見当がつくだろう。
この怪物の頭部のものすごい口と、尻の巨大な毒針にくらべたら、私の長剣などはまったく取るに足らない、みじめな武器としか見えなかった。また、相手の電光石火の動きからのがれることは望めないし、恐ろしい頭部の四分の三を占め、同時にすべての方角を見ることができる複眼から身を隠せる見込みはなかった。
力の強い凶暴なウーラでさえ、この恐ろしい怪物を前にしては小猫のように無力だった。しかし、たとえこの私が危険に背をむけたいと思うような男だったとしても、逃げることは無駄だったろう。そこで私はその場に踏みとどまり、ウーラはすぐそばで歯をむきだしてうなった。私の唯一の望みは、いつも戦いながら生きてきたように――戦いながら死ぬことなのである。
怪物はもう、目前に迫っていた。その瞬間、たった一つ、わずかながら勝つチャンスがあるような気がした。毒針にひそんでいる恐ろしい死の脅威を取り除くことさえできれば、この戦いはそれほど不公平ではなくなるだろう。
そう考えつくと、私はウーラに怪物の頭に飛びついて、しがみつけと命じた。たちまち、ウーラの力強い大きな口が悪魔の顔に迫り、白く光る牙が骨と軟骨と巨大な複眼の下部に突きささると、怪物はウーラを地面から引きずりながら飛びあがり、毒針を下へまわして、頭からぶら下がっているウーラの体を刺そうとした。そのとたん、私は巨大な怪物の体の下にもぐりこんだ。
毒針の進路に立ちふさがるのは即死を招くことだが、それしか方法はなかった。私にむかって電光のように針が突き出された瞬間、私は長剣をふるって、この命取りの器官を、派手《はで》な色どりの胴体から一撃のもとに切断した。
と、力強い後足の一つが、破城|槌《つち》のように、まっこうから胸にぶつかって私をはねとばした。私はなかば気が遠くなり、完全に息がとまったまま、広い道路をみごとに飛び越して、路傍のジャングルのやぶの中へ投げ出された。
幸運にも、私の体は木立ちの幹の間を通り抜けた。もし木の幹にぶつかっていたら、死なないまでも大けがをしていたことだろう。それほど勢いよく、あの巨大な後足にはねとばされたのである。
目がくらんでいたものの、私はふらふら立ちあがり、ウーラを助けようと、よろめきながら引き返した。獰猛な敵は力強い六本足を総動員して、しがみついている火星犬《キャロット》を激しく乱打しながら、地上十フィートほどのところを、ぐるぐる飛びまわっている。
私は、とつぜん空中へはねとばされたときも、握っている長剣は手放さなかった。だから、いま、戦っている二匹の怪物の下へ駆けこむと、その長剣の鋭い切っ先を羽根のある怪物の体に何度もたてつづけに突き通した。
怪物はそのつもりになれば、わけなく私の手の届かないところへ飛びあがれただろう。しかし、どうやらこいつは、ウーラや私と同じように退却ということをほとんど知らないらしく、私のほうへさっと降下してきたかと思うと、あっという間にその強大な口で私の肩にかぶりついた。
そして、いまでは役にたたなくなった巨大な毒針の切り残しの部分を何度も私の体にぶつけてむなしい努力をつづけたが、その打撃だけでも馬に蹴られたようなききめがあった。だから、|むなしい《ヽヽヽヽ》努力といっても、それは無力化された器官の本来の機能についてのみ言えることで、このまま攻撃されていたら、ついには私はとことんまで打ちのめされていたにちがいない。
だが、そうなるのも間近に迫ったとき、とつぜん邪魔がはいって、怪物の攻撃は永久に終わりを告げることになった。
路面から二、三フィート上に宙吊りにされている私の目は、道路が二、三百ヤード先で東に曲がっている地点までずっと見わたすことができた。ちょうど私が現在の窮地からはどうにものがれようがないと観念しかけたとき、一人の赤色人戦士が曲がり角をまわって出てくるのが見えた。
その戦士は赤色人が乗用に使う小型種のすばらしい火星馬《ソート》にまたがり、片手に驚くほど長く軽い槍を携えていた。
私が最初にその姿を認めたとき、火星馬《ソート》はゆっくりと歩いていたが、こちらの様子に気づいたとたん、赤色人戦士は火星馬《ソート》にひとこと声をかけて、まっしぐらに走ってきた。戦士の長い槍が勢いよくこちらへ繰り出され、火星馬《ソート》と乗り手が下を駆け抜けたかと思うと、その槍の穂先は怪物の胴体を刺しつらぬいていた。
ひきつったような身震いとともに怪物は全身を硬直させ、顎《あご》の力をゆるめて私を地面に落とした。それから一度だけ身を傾けて空中をよたよた飛んだかと思うと、まっさかさまに路上に墜落し、その血まみれの頭にまだしぶとくしがみついているウーラの真上に重なった。
私が立ちあがったときには、赤色人は火星馬《ソート》の向きを変えて後もどりしていた。ウーラは敵が死んで動かなくなったのを見とどけると、私の命令に従って食らいついていた口を放し、おおいかぶさっている怪物の死体の下からもそもそはい出してきた。そして私といっしょに、こちらを見おろしている戦士と顔を合わせた。
私は、この見知らぬ戦士に、時宜《じぎ》にかなった援助に対する礼を述べかけたが、相手は断乎とした態度でそれをさえぎった。
「いったい、おまえは何者だ」と戦士は詰問した。「大胆にもケオールの領土にはいりこみ、皇帝《ジェダック》のお猟場で狩りをするとは?」
それから、土ほこりと血にまみれている私の体の白い地肌に気づくと、戦士は目をまるくし、口調をあらためて小声で言った。
「あなたはホーリー・サーンですか」
その気になれば、ほかの連中をだましたのと同じように、当分のあいだ、この男をだますこともできたかもしれない。しかし、私はすでにマタイ・シャンの目の前で黄色いかつらと神聖な頭飾りを投げ捨てていたから、この新しい知人をだましたところで、嘘がばれるまでたいして時間はかかりそうもなかった。
「サーンではない」と答えてから、用心深さをかなぐり捨てて私は言った。「私はヘリウムの王子ジョン・カーターだ。きみもまんざら知らない名前ではあるまい」
私をホーリー・サーンだと思ったとき、戦士の目がまるくなったとすれば、いま私をジョン・カーターだと知った彼の目はまさに飛びだしそうになった。私は自分の名を告げたとき、長剣の柄を固く握りしめた。すぐ攻撃を受けるにちがいないと思ったからである。ところが、驚いたことに、そんなことはいっこうに起こらなかった。
「ヘリウムの王子ジョン・カーター」と相手はゆっくりと、おうむ返しに言った。まるでその言葉の本当の意味がよく理解できないかのような様子だった。「バルスーム一の偉大な戦士ジョン・カーター!」
すぐに彼は火星馬《ソート》からおり、私の肩に片手をおいて火星の最も友好的な挨拶をした。
「ジョン・カーター、ほんとうはあなたを殺すことが私の義務であるし、また喜びでもあるべきなのです」と彼は言った。「しかし私はいつも心の奥底で、あなたの勇敢な行為を賛美し、あなたの誠意を信じておりました。そのいっぽう、サーンと彼らの宗教には疑惑と不信を感じつづけてきたのです。
このような異端の考えを抱いていることを、クーラン・ティスの宮廷の者たちに感づかれたら、たちどころに私は殺されるでしょう。しかし、王子、あなたのお役に立てることがあれば、ケオール街道のパトロール隊長《ドワール》トルカル・バールはいつでもご命令どおりにいたします」
この戦士の品のある立派な顔には、誠実さがまざまざと現われていた。それはたとえ彼が敵であるとしても、その言葉を信じないではいられないほどの誠実さだった。ケオール街道の隊長という彼の肩書を聞けば、この辺境の森のまん中に彼が折りよく現われたこともべつに不思議はなかった。バルスームの幹線道路はすべて、貴族階級の剛勇の戦士のパトロールによって警備されている。だからバルスームの赤色人の領土のなかでも人気《ひとけ》のない辺境地域で、この孤独な危険な任務に携《たずさ》わることほど名誉な役目はほかにないのである。
「トルカル・バールはすでに大きな恩義を私に与えているではないか」と私は怪物の死骸を指さしながら答えた。彼は死骸の心臓から長槍を引きぬこうとしていた。
赤色人は微笑して言った。
「ちょうどあのとき、私が来あわせたのはまったく幸運でした。この毒を塗った槍を火星蜂《シス》の心臓に突き刺す以外、あの怪物をすばやく殺して犠牲者を救う方法はありません。ケオールのこの地域では、住民はみなこの長いシス槍で武装しています。この穂先には殺そうとする怪物自身の毒が塗ってあるのです。あいつには自分の毒以上に早くきく毒はないのです」
「ごらんなさい」彼はそう言って、短剣をぬくと、死骸の毒針の根元から一フィートほど上のところを切り開き、すぐに死の毒液がたっぷり一ガロンずつははいっている二つの袋を引き出した。
「こうやって、われわれが使う分を補充するのです。もっとも、ある商業上の用途がなかったら、現在の貯蔵量をふやす必要はほとんどないのです。なにしろ、シスはあらかた絶滅していますからね。いまでは、ほんのときたま出くわすだけなのです。しかし、昔はこの恐ろしい怪物がケオールじゅうにはびこっていました。よく二十匹、三十匹と群れをなして現われ、空から急に町の中へ舞いおりてきては、女や子供、ときには戦士までもさらって行ったものです」
彼がしゃべっているあいだ、私は自分がこの国まできた目的について、どの程度この男に打ち明けたものだろうかと考えていた。しかし、彼の次の言葉は私がその問題を持ち出すことを見こして先手を打ったものだった。私はあわててしゃべらなくてよかったと思った。
「ところでジョン・カーター、あなたのことですが」と彼は言った。「あなたが何の用でこの国へきたのか、私はたずねはしないし、聞きたいとも思いません。私には目も耳もあれば、人並みの思考力もある。ですから、きのうの朝、小型飛行船で北のほうからケオールの都へやってきた一行を私は見ています。しかし、私があなたに求めることは一つだけです。それは、ケオールの国家とその皇帝《ジェダック》のいずれに対しても敵対行動を企ててはいないというジョン・カーターの誓約です」
「そのことなら誓うよ、トルカル・バール」と私は答えた。
「私の任務はケオール街道を歩きまわることです」と彼はつづけた。「私はだれにも会わなかった――とりわけジョン・カーターなどにはね。あなたもトルカル・バールには会わなかったし、彼のことなど聞いたこともない。よろしいですね?」
「いいとも」と私は答えた。
彼は私の肩に手をおいた。
「この道はまっすぐケオールの都へ通じています。では、幸運を」彼はそう言うと、火星馬《ソート》の背に飛び乗り、振り返らずに走り去った。
ウーラと私が大森林を通り抜けて、ケオールの都を取り巻く巨大な防壁にたどり着いたのは日が暮れてからだった。
それまでの道中は何の事故も冒険もなかった。途中で出会った数人の者たちは不思議そうに大きな火星犬《キャロット》をじろじろ見たが、私が体のすみずみまで、むらなく塗りつけている赤い絵の具の変装を見破る者は一人もいなかった。
しかし、郊外地域を通ることと、ケオールの皇帝《ジェダック》クーラン・ティスの警戒厳重な都にはいることとでは、まるで問題がちがってくる。火星の都市へはいろうとする者はだれでも、自分自身について詳細な説明をしなければはいることはできない。また、城壁のどの門へ行くにしても、すぐに連れて行かれる衛兵士官の前で、彼らの鋭い洞察力をほんの一瞬でもたぶらかせるなどと思ってすますわけにはいかなかった。
見込みがありそうなのは、たった一つ、闇にまぎれてこっそり都へ忍びこむ手だった。ひとたび潜入したら、自分の機知にたよって、どこかの発見されにくい人口密集地区に隠れることである。
こう考えながら、私は森の端から外へは足を踏みださずに巨大な防壁のまわりをまわった。都を完全に取り巻く防壁の外はわずかな区域だが森の木立ちが切り払ってあり、いかなる敵も侵入の手段として木を利用できないようになっている。
私は数回、それぞれ異なる地点から防壁をよじのぼろうとしてみたが、私の地球人の体力をもってしても、この巧妙に造られた防壁を乗りこえることはできなかった。防壁の壁面は三十フィートの高さまで外側へ傾斜し、それからほぼ同じ距離のあいだは垂直にのび、その上はまた頂上までの約十五フィートのあいだ、内側に傾斜していた。
そして、そのなめらかさ! みがいたガラスでもこれ以上なめらかにはなるまい。とどのつまり私は、ついに難攻不落のバルスームの砦の一つにぶつかったことを認めなければならなかった。
私はがっかりしながら、東から都へはいる広い道路のそばの森へ引きあげた。そしてかたわらのウーラとともに、横になって眠ることにした。
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六 ケオールの英雄
近くで何かがひそかに動く物音に目を覚ましたときには、もうすっかり明るくなっていた。
私が目をあけると、ウーラも動きだして身を起こし、首筋の毛を一本残らず逆立てながら、目の前の茂みの隙間から道路のほうをじっと見つめた。
最初、私には何も見えなかったが、ほどなく緋色と紫色と黄色の草木の茂みの間になめらかな光沢のある緑色のものが動くのがちらっと目にはいった。
ウーラにじっとしていろと手まねで合図をすると、私は偵察のために前方へはって行った。そして一本の巨木の幹のうしろから様子をうかがうと、道路ぎわの密林の中に、涸《か》れた海の底を放浪する恐ろしい緑色人戦士の群れが長い列をなして隠れているのを発見した。
この静まり返った死と破壊の戦列は、ケオールの都からずっと見わたすかぎりのびていた。その理由は一つしか考えられない。緑色人たちは近くの城門から出てくる赤色人部隊を襲おうと待ち伏せしているのだ。
私はケオールの皇帝《ジェダック》には何の恩義もなかったが、彼も私の王女と同様、高貴な赤色人種だったから、その部下の戦士たちがバルスームの荒地をさまよう冷酷非情の悪魔たちに虐殺されるのを手をこまねいて傍観している気にはなれなかった。
用心深く、ウーラのところへ引き返すと、声を出さないように注意を与え、ついてこいと合図した。そして、うっかり緑色人につかまったりしないように、かなり遠まわりをして、ようやく巨大な防壁の前にたどりついた。
百ヤードほど右手に、赤色人部隊が出てくることになっているらしい門があったが、そこまで行くには緑色人戦士たちの側面の、彼らからまる見えのところを通らなければならない。見つかったら、ケオール人たちに警告してやろうという計画がだめになってしまうので、左手の一マイルほど先にあるもう一つの門まで急いで行くことにした。
私がこの警告をもたらせば、ケオールの都へはいる申し分のない通行証を携えて行くことになるのはわかっていた。だから、用心深く行動しているのも、緑色人との衝突を避けるためというよりは、都の中へはいりたい一心といわなければならない。いかに私が戦い好きだとしても、いつも戦いばかり楽しんでいるわけではない。しかも今、見知らぬ戦士たちの血を流すことよりもっと重要な、やらなければならない仕事をかかえているのである。
防壁の中へうまくはいることさえできれば、私が緑色人部隊の襲撃を知らせたあとで必ず起こるにちがいない混乱と興奮にまぎれて、マタイ・シャンの一行が泊っているはずの皇帝《ジェダック》の宮殿へはいりこむチャンスが生まれるかもしれない。
ところが、遠いほうの門をめざして百歩も行かないうちに、防壁のすぐ内側から、行進する部隊の足音、装具の金属の触れ合う響き、火星馬《ソート》のかん高い鳴き声などが聞こえてきて、ケオール部隊がすでに近いほうの門にむかって移動しつつあることがわかった。
もはや一刻の猶予もならなかった。いまにも向こうの門が開いて、隊列の先頭は死の罠《わな》にふちどられた道路へ出て行くにちがいない。
私は身をひるがえして運命の門のほうをむくと、バルスーム到着当初、私を有名にした例のすばらしい跳躍で地面を飛びこえながら、防壁の前の空地のふち沿いに疾走した。火星では一飛び百フィートぐらいの跳躍なら強壮な地球人の筋肉にとってはなんでもないことなのである。
待ち伏せしている緑色人たちの側面を通過したとき、彼らは私の目が自分たちのほうに向けられたことに気づき、待ち伏せが見破られたことをさとった。たちまち、いちばん近くにいた連中がぱっと立ちあがって、私が門にたどりつかないうちに行く手をさえぎろうとした。
それと同時に巨大な門が大きな口をあけて、ケオール部隊の先頭が姿を現わした。十二人あまりの緑色人戦士が私と門のあいだに割ってはいることに成功したが、彼らは自分たちが引きとめようとしている相手が何者なのか、ほとんど何も知らなかったようである。
私はそのまま少しも速度を落とさずに彼らのなかへ突入した。そして彼らが私の白刃の前に次々に倒れていったとき、私はあの火星の暑い太陽の下で、最も偉大な緑色人、サークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカスと肩を並べて戦い、二人のまわりに頭より高く死体の山が築かれるまで敵を切りまくった楽しい日々のことを思い出さずにはいられなかった。
彫刻のほどこされたケオールの城門の前で、五、六人の敵がすぐ目の前まで押し寄せてきたとき、私は彼らの頭上へ飛びあがった。そしてドール谷の恐ろしい植物人間の戦法にならって、敵の上を飛びこえざま、その頭に切りつけた。
都の中から赤色人戦士の群れが猛然と飛びだし、これを迎え撃とうと、ジャングルから残忍な緑色人の群れが押し寄せてきた。あっというまに私はいまだかつて経験したことがないような血なまぐさい激戦のまっただ中に巻きこまれた。
ケオール人たちはまことに立派な戦士だったし、赤道地方の緑色人も温帯の冷酷非情な同種族に劣らず好戦的な連中だった。敵味方いずれの側にも、けっして名誉をそこなわずに後退して戦闘を終わらせることができる機会は再三再四あったが、そのたびに必ず、彼らは気ちがいじみた奔放さを発揮して戦闘を再開するので、この調子では、ほんの小競合《こぜりあ》い程度ですむはずのものが、どちらかが全滅しないことには終わりそうもないと思えてくるのだった。
ひとたび戦う喜びが胸の中に湧き起こると、私はこの乱闘を大いに楽しんだ。私の戦いぶりがケオール人たちの注目の的になっていることは、しばしば浴びせかけられる賞賛の叫びが明白に物語っていた。
ときとして私は自分の戦闘能力をあまりにも自慢しすぎるように見えるかもしれないが、そんな場合には、戦うことは私の職業なのだということを思いだしていただきたい。もし私の職業が馬に蹄鉄を打つことや絵を描くことで、同業の仲間より仕事の腕がいいということだったら、自分の能力を誇りとしないほうが、よほどばかげた話ではないか。だから私は、二つの遊星上に、いまだかつてヘリウムの王子ジョン・カーターほど偉大な戦士は存在しなかったことを大いに誇りとしているのである。
しかも、この日、私はこの事実をケオールの人々に印象づけようとして、いままでにない努力を傾けたのだった。それというのも彼らの心に食いこみ――その都にはいりこみたかったからである。そして期待どおり、この望みはかなえられることになった。
われわれは一日じゅう戦いつづけ、道路は血に赤く染まり死体で埋まるまでになった。つるつるすべる道路に沿って戦いの形勢はたえず揺れ動いたが、ケオールへの入口が真に危険にさらされたことは一度もなかった。
いくたびか戦いの合間の息つぎの時間に、そばで戦っている赤色人たちと話をすることもあったが、一度はほかならぬ皇帝《ジェダック》のクーラン・ティスが私の肩に手をおいて、名前をたずねた。
「ドタール・ソジャットです」私は、ずっと昔にサーク族の連中が彼らのしきたりに従い、私が殺した最初の二人の戦士の姓をとってつけてくれた名前を思いだして答えた。
「きみはすばらしい戦士だ。ドタール・ソジャット」と皇帝《ジェダック》は答えた。「この戦いが終わったら、謁見室でまた会うことにしよう」
そのとき、またもや戦いの波が押し寄せてきて、二人ははなればなれになったが、私の切なる望みはかなえられたわけだった。私は気力も新たに、喜びに胸をはずませながら、長剣をふるって四方八方に打ちかかり、ついに緑色軍の最後の一人があきらめて遠い海の底のほうへ退却してしまうまで戦いつづけた。
この日、赤色人部隊が出発しようとした理由がわかったのは、戦いが終わってからだった。クーラン・ティスは、ケオールの唯一の有力な同盟国である北方のある国の偉大な皇帝《ジェダック》の訪問を受けることになっていたので、ケオールの都からまる一日の行程のところまで、この賓客《ひんきゃく》を迎えに行こうとしていたのである。
だが、いまや、この歓迎部隊の進軍は延期され、翌朝あらためてケオールを出発することになった。私はクーラン・ティスの面前には呼ばれなかったが、皇帝《ジェダック》は一人の士官をよこして私を捜しだし、宮殿の親衛隊士官用に割り当てられている一角の居心地のよい部屋へ連れて行かせた。
その部屋で私はウーラとともに快適な一夜を過ごし、翌朝、目を覚ましたときには、この数日の激しい活動で疲労が重なっていたにもかかわらず、ほとんど元気を回復していた。ウーラは前日の戦闘を私とともに最後まで戦い抜き、水の涸れた海底の残忍な緑色人部族がたくさん連れて歩いている火星の軍用犬の本能と訓練の威力を遺憾《いかん》なく発揮したのだった。
ウーラも私もけっして無傷のまま戦いを切り抜けたわけではなかったが、バルスームの驚くべき効《き》き目をもつ軟膏《なんこう》のおかげで、一夜のうちにわれわれの体は元通りに回復してしまった。
私は多数のケオールの士官たちといっしょに朝食をとった。彼らは、おおらかな態度と育ちのよさで有名なヘリウムの貴族にも劣らないほど礼儀正しく、愉快な連中だった。食事が終わるか終わらないうちに、クーラン・ティスの使者が私を呼びにやってきた。
私が皇帝《ジェダック》の前へ進み出ると、彼は立ちあがり、立派な玉座がすえられている壇からおりて私を出迎えるべく歩み寄ってきた――これは、来訪した他国の統治者ででもなければめったに与えられることのない名誉であった。
「|おはよう《カオール》、ドタール・ソジャット!」と皇帝《ジェダック》は私を迎えて言った。「きみを呼んだのは、ケオール国民がきみに深く感謝していることを知ってもらうためだ。もし死の危険を冒してあの待ち伏せをわれわれに警告しようとしたきみの勇敢な行動がなかったら、われわれは疑いもなく巧妙に仕掛けられた罠にはまりこんでいたにちがいない。さあ、きみのことをもっと話してくれ――どこの国の人間なのか、そして何の用でこのクーラン・ティスの宮廷へきたのか」
「私はハストールの人間です」と私は答えた。事実、ヘリウムの広大な領土の南部の都市ハストールに私は小さな宮殿を持っていた。
「私がケオールの国へ来たのは、一つには事故のためです。この国の大森林の南のはずれで私の飛行船が遭難したのです。そしてケオールの都へはいろうとしているうちに、緑色人の大軍が陛下の部隊を待ち伏せしているのを発見したのでした」
だいたい何の用があって私がケオールの国境くんだりまで飛行船に乗ってやってきたのか、クーラン・ティスは不思議に思ったかもしれないが、寛大にも、それ以上説明を求めようとはしなかった。追及されていたら、私は返答の仕様に困ったにちがいない。
皇帝《ジェダック》との会見がつづいているあいだに、一団の人間が私の背後から部屋へはいってきた。クーラン・ティスが出迎えようと進み出て、私にいっしょについてくるように命じながら、そばを通り過ぎるまで、私はその連中の顔を見なかった。
うしろを振り返ったとき、私はやっとのことで自分の表情が変わるのを押さえた。すぐそこに立って、クーラン・ティスの私をほめそやす言葉に耳を傾けているのは、大敵マタイ・シャンとサリッドだったのである。
「ホーリー・サーンの聖なるヘッカドール」と皇帝《ジェダック》はしゃべっていた。「遠いハストールからきた見知らぬ勇士、ドタール・ソジャットに祝福を与えていただきたい。彼の驚くべき英雄的行為と勇猛きわまる奮戦によって、ケオールは昨日の戦いを無事に切り抜けたのです」
マタイ・シャンは前に進み出て、片手を私の肩にのせた。その顔には、私の正体に気づいたらしい兆候はみじんも現われていない――どうやら私の変装は完全に効を奏したようだった。
教皇はあいそよく私に声をかけ、それからサリッドに紹介した。黒色人もすっかりだまされている様子だった。それから、はなはだ愉快なことには、クーラン・ティスが私の戦場における活躍ぶりを彼らに事細かに話して聞かせた。
ケオールの皇帝《ジェダック》に何よりも感銘を与えたのは私のすばらしい身軽さだったと見えて、敵の頭上を見事に飛びこえながら長剣で相手の頭をまっ二つにする私の驚くべき戦いぶりを何度も物語った。
その話のあいだに、サリッドがちょっと驚いたように目を見開いたような気がした。また、彼が細めた|まぶた《ヽヽヽ》の隙間からじっと私の顔を見つめているのに数回気がついた。やつは感づきはじめたのだろうか? そのうちにクーラン・ティスが、私のそばでいっしょに戦った獰猛な火星犬《キャロット》の話をすると、マタイ・シャンの目に疑惑の色が浮かぶのが見えた――それとも、気のせいにすぎなかったのだろうか?
この謁見を終えるときに、クーラン・ティスは例の国賓の出迎えに私を連れて行くことを告げた。一人の士官が私のために適当な飾り装具と手ごろな火星馬《ソート》を調達することを命じられ、その士官といっしょに退出するとき、マタイ・シャンもサリッドも、私と会えて楽しかったと挨拶したが、その言葉にはいつわりのない誠意がこもっているように聞こえた。だから、部屋を出ると安堵の吐息をもらし、敵の二人がこちらの正体を感づいたと思ったのは疑心暗鬼にすぎなかったのだと考えた。
三十分後、私は同盟国の皇帝《ジェダック》を迎えに行くクーラン・ティスの伴をする行列とともに火星馬《ソート》にまたがって都の城門を出た。皇帝《ジェダック》に拝謁するときや宮殿のあちこちを通るさいに、たえず目と耳を精いっぱいに働かせて注意したが、デジャー・ソリスやプタースのサビアの居場所はさっぱりわからなかった。二人はかならず、このだらだらと広がる巨大な建物の中のどこかにいるにちがいない。クーラン・ティスが出かけるあいだ宮殿に残って、二人を捜《さが》すことができたら、どんなにいいだろうと思ったが、そんなわけにもいかなかった。
昼近く、クーラン・ティスの一行は相手の行列の先頭と接触した。
来訪した皇帝《ジェダック》の行列は豪華きわまるもので、ケオールへ向かう広く白い道路に沿って何マイルもつづいていた。騎兵部隊が宝石や金属をちりばめた皮の飾り装具を陽光にきらめかせながらまっ先に進み、そのあとから巨大な火星象《ジティダール》の引く華麗《かれい》な車が千台もやってきた。
これらの背の低い、ゆったりとした乗用の車は二台ずつ並んで進み、その両側は騎馬の戦士が密集隊形で固めて、車の中にいる宮廷の女や子供を守っていた。そして巨大な火星象《ジティダール》の背には一人ずつ若者が乗っていた。このようなすべての光景は、いまから二十二年前、私がバルスームにきたばかりのころ、サークの緑色人の目のさめるような大行列を初めて見たときのことを回想させた。
だが、私は、赤色人が火星象《ジティダール》を使っているところを見るのはこの日が初めてだった。この巨大な象に似た獣は、図体の大きい緑色人や彼らが使う大型の火星馬《ソート》のそばで見るときでさえ、とてつもない高さにそびえ立っているのだが、それがいま、緑色人よりずっと小柄な赤色人や小型種の火星馬《ソート》と比較することになると、まったくぞっとするほど巨大なものに見えた。
この獣たちの体には、宝石のついた飾り装具や、ダイヤモンド、真珠、ルビー、エメラルド、そのほか無数の名も知れぬ火星の宝石を数珠《じゅず》つなぎにした糸で刺繍《ししゅう》した奇妙な模様の派手《はで》な絹の鞍掛《くらか》けがかけてあった。そして、それぞれの車には十本あまりも旗が立ち、吹き流しや四角な旗や細長い三角旗がそよ風にはためいていた。
車の行列のすぐ前では、来訪した皇帝《ジェダック》がバルスームではめったに見られない純白の火星馬《ソート》にまたがって独りで進み、車のあとからは槍騎兵《そうきへい》、ライフル銃手、剣士たちの隊列がはてしなくつづいてくる。まことに堂々とした、目を見張る光景だった。
装具の触れ合う金属音と、ときどき聞こえる怒った火星馬《ソート》のかん高い鳴声や火星象《ジティダール》の低いうなり声のほかは、この大行列はほとんど音をたてずに進んで行った。火星馬《ソート》も火星象《ジティダール》も蹄《ひづめ》のない動物だし、乗用車の幅の広い車輪は音をたてない弾性の物質でできていた。
ときどき女の陽気な笑い声や子供たちのおしゃべりが聞こえた。冷酷で陰気な緑色人とは正反対に、赤色人は社交的で、何事も愉快に楽しむのが好きな人種である。
二人の皇帝《ジェダック》の会見のために形式ばった儀式が一時間もつづいた。それから一行はケオールの都にむかって引き返しはじめ、日が暮れる直前に行列の先頭が都にたどりついた。しかし、最後尾の部隊が城門を通過するころには、ほとんど夜が明けていたにちがいない。
私はさいわいに、行列のかなり先頭に近いところにいたので、親衛隊の士官たちとともに出席した大宴会が終わると、あとは自由に休息できることになった。この夜は来訪した皇帝《ジェダック》についてきた貴族の軍人たちがひっきりなしに到着し、宮殿のまわりは夜通しにぎやかな騒ぎに包まれていたので、私もあえてデジャー・ソリスの捜索を行なおうとはしなかった。そこで、頃合《ころあ》いを見はからって、さっさと自分の部屋へ引きあげることにした。
宴会場と私に割り当てられた部屋とをつなぐ廊下を進むうちに、とつぜん、何者かに監視されているような感じがしたので、ぱっとうしろを振り返ると、とたんに開いている戸口に飛びこむ人影がちらっと目にとまった。
私はすばやく、その尾行者が姿を消した戸口まで駆けもどったが、相手の姿は影も形もなかった。それでも、一瞬のうちに目にとまったのが、黄色い髪を頭にのせた白い顔だということは誓ってもいいほど確実だった。
この出来事のおかげで、あれこれと思いをめぐらす種ができた。スパイを見かけたことから引きだされる私の結論が正しいとするなら、マタイ・シャンとサリッドは私の正体を感づいているにちがいないし、また、それが本当となれば、私がここの皇帝のために貢献したことを当てにしたとしても、クーラン・ティスが宗教的迷妄を捨ててまで私を助けてくれるとは考えられない。
しかし、私はまだ、先のことがあれこれ気にかかって眠れないという経験は一度もなかったので、この夜も、絹と毛皮の寝具の上に身を横たえると、たちまちぐっすりと眠りこんでしまった。
火星犬《キャロット》は宮殿の建物へ入れることを禁じられていたので、私はウーラを王室用の火星馬《ソート》がいれてある厩《うまや》の中へ移さなければならなかった。そこでウーラは居心地のよい、贅沢《ぜいたく》とさえいえる部屋におさまったが、私としてはウーラを自分の部屋におきたくてしかたがなかった。そして、もしウーラが私の部屋にいたら、この晩の事件は起こらなかったことだろう。
十五分とは眠らないうちに、とつぜん何か冷たい、しっとりしたものが額の上をこするように動くのを感じて目が覚めた。すぐさまはね起きると、その何かがいると思った方向につかみかかった。一瞬、私の手は人間の肌に触れた。そして、その深夜の来訪者をつかまえようとして闇の中へまっしぐらに突進したとたんに、片足が絹の寝具にからまって、床に腹ばいに倒れてしまった。
ふたたび立ちあがって、明かりをつけるボタンを見つけたときには、謎の来訪者はもう姿を消していた。部屋の中を入念に調べてみたが、真夜中にひそかに私のもとへやってきた人物の正体や目的を知る手がかりになるものは何も見つからなかった。
盗みが目的だったとは考えられなかった。バルスームでは泥棒という言葉はないも同然だからだ。しかし、暗殺はやたらに行なわれている。だが、これも、ひそかな来訪者の動機とは考えられない。その気があれば、たやすく私を殺すことができたはずだから。
無益な推測をやめて、ふたたび眠ろうとしかけたとき、十人あまりのケオールの衛兵が部屋にはいってきた。指揮をとっていた士官は、今朝、私を親切にもてなしてくれた連中の一人だったが、いま彼の顔には友情のかけらも見当たらなかった。
「クーラン・ティス陛下がお呼びだ。来い!」と士官は言った。
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七 新しい盟友
私は衛兵たちに取り囲まれながら、ケオールの皇帝《ジェダック》クーラン・ティスの宮殿の廊下を通り、巨大な建物の中央部にある大謁見室へもどって行った。
まばゆい照明に輝く部屋へはいると、室内を埋めているケオールの貴族たちや、来訪した皇帝《ジェダック》の部下の軍人たちの視線がいっせいに私に注《そそ》がれた。部屋の奥の大きな壇の上には三つの玉座が設けられ、そこにクーラン・ティスと、彼の二人の賓客、すなわちマタイ・シャンと来訪した皇帝《ジェダック》とがすわっていた。
われわれは静まり返った部屋の中央の広い通路を進み、玉座の下で立ち止まった。
「きみの告発を述べたまえ」とクーラン・ティスが、右側の貴族の群れの中に立っている一人にむかって言った。すると、ファースト・ボーンの貴族《ダトール》サリッドが進み出て、私のまん前に立った。
「偉大なる皇帝《ジェダック》」と彼はクーラン・ティスに話しかけた。「私は最初から、陛下の宮殿にいるこの異国人を怪《あや》しいとにらんでおりました。陛下が説明されたこの男の悪魔のような武勇の妙技は、バルスームの真理の大敵のそれとぴったり一致していたからであります。
それでも、念には念をと思い、陛下ご自身が信奉されている宗派の司祭をひとり派遣して、この男の変装を見破り真実を暴露するためのテストを行ないました。さあ、その結果をごらんください!」サリッドはそう言うなり、人さし指をぴんとのばして私の額を指さした。
すべての視線がその弾劾《だんがい》の指が示す方向を追った――どんな致命的なしるしが額《ひたい》についているのか見当がつかないで困っているのは私だけらしかった。
そばにいる士官が私の当惑を察してくれたと見えて、クーラン・ティスが私を見つめながら眉をしかめて険悪な表情を浮かべたとき、小物入れの袋から小さな鏡をとり出して、私の顔の前に突き出した。
鏡に映る顔にちらりと目を走らせただけで十分だった。
私の寝室に忍びこんだサーンは暗闇の中で手をのばして、私の額から変装用の赤い絵の具を手のひらの大きさほど拭《ふ》き取ったのである。そこには、いま、日焼けした白い地肌がのぞいていた。
この暴露の劇的効果を高めるつもりなのか、サリッドはちょっと口をつぐみ、すぐまた、しゃべりだした。
「おお、陛下、ここにいる男こそ、火星の神々の神殿を冒涜し、ホーリー・サーンの身に暴行を加え、遠い昔から伝わる宗教にたいして世間の人々をそむかせた元凶なのであります。いま陛下の前に立っている男は、聖なるものの守護者ケオールの皇帝《ジェダック》の掌中にある男は、ヘリウムの王子ジョン・カーターなのであります!」
クーラン・ティスは、この告発の確証を求めるかのようにマタイ・シャンのほうを見た。ホーリー・サーンはうなずいて、言った。
「まさしく、あの大冒涜者だ。いまでもまだ、わしのあとを追ってあなたの宮殿の奥までやってくるような男なのだ。その目的はただ一つ、わしを暗殺しようということだ。この男は――」
「嘘をつけ!」と私は叫んだ。「クーラン・ティス、話を聞いてください。そうすれば真相がわかってもらえるだろう。なぜジョン・カーターがあなたの宮殿の奥までマタイ・シャンを追ってきたか、その理由を聞いてください。彼らの話だけでなく、私の言うことも聞いてもらいたい。その上で、私の行動が彼らの行動よりも、バルスームの騎士道と栄光にかなっているかどうかを判断してもらいたい。私はここにいる執念深い邪教の使徒たちの残酷な束縛からこの遊星を解放したのだ」
「だまれ!」皇帝《ジェダック》はどなり声とともに、ぱっと立ち上がって、長剣の柄《つか》に手をかけた。「だまれ、冒涜者め! クーラン・ティスは、おまえを裁くにあたって、そのけがらわしい咽喉から出る罰当たりな言葉で謁見室の空気をけがさせる必要はない。
おまえはもう自分から有罪を認めている。残っているのは死刑の方法を決めることだけだ。ケオール軍のために働いたおまえの功績も、おまえを助ける役には立たないぞ。あれはただ、なんとか私に気に入られて、自分が命をねらっている神聖な教皇のそばに近づくための卑劣な手段にすぎなかったのだ。この男を地下牢へ連れて行け!」皇帝《ジェダック》は私のそばの衛兵士官にむかって言った。
まったく、困ったことになった! 一つの国全体を敵にまわして、私にどんな勝ち目があるだろう。マタイ・シャンやサリッドのようなとんでもない相談役がついている狂信的なクーラン・ティスの手中にあって、いったいどんな慈悲が望めるというのだ。サリッドは私の顔を見つめて意地悪そうににやりとして、ののしった。
「今度は逃がさないぞ、地球人め」
衛兵たちが近づいてきた。赤い靄《もや》が私の目の前にたちこめてきた。バージニア男の闘志が全身を駆けめぐった。戦いの欲望が狂おしいばかりの激しさで押し寄せてきた。
私はひと飛びでサリッドのそばに立つと、その端整な顔から悪魔のようなにやにや笑いが消えるより早く、こぶしで口もとをまっこうからなぐりつけた。この見事な一撃が命中すると、黒色人の貴族《ダトール》は十フィート以上もうしろへすっ飛び、クーラン・ティスの玉座の真下で、傷ついた口から血と折れた歯を吐きながら、くたくたと倒れてしまった。
私は剣を抜いて、くるりと向き直り、全ケオールに立ち向かおうと身がまえた。
たちまち、衛兵たちが襲いかかってきたが、まだ一度も剣をふるわないうちに、騒がしい戦士たちのわめき声を圧倒する大音声《だいおんじょう》が響きわたった。とたんにクーラン・ティスのそばの壇上から大きな男が飛びだし、長剣を抜き放って、私と衛兵たちの間に割ってはいった。
それは来訪した皇帝《ジェダック》だった。
「待て!」と彼は叫んだ。「クーラン・ティス、もしきみがわしの友情と遠い昔から両国民の間につづいている平和を尊重するなら、部下たちに剣を引かせてもらいたい。なぜなら、場所がどこであろうと、また相手がだれであろうと、ヘリウムの王子ジョン・カーターが戦うときには、かならずプタースの皇帝《ジェダック》サバン・ディンが彼のそばで死ぬまで戦うからだ」
戦士たちのわめき声はやみ、迫っていた剣先は下がった。それとともに無数の目が驚きの色を浮かべてサバン・ディンに向けられ、つづいて物問いたげにクーラン・ティスのほうを向いた。最初、ケオールの皇帝《ジェダック》は怒りのあまり蒼白《そうはく》になったが、その激情を抑えてから口を開いたので、その口調は冷静な、まさに二人の偉大な皇帝《ジェダック》の交わりにふさわしいものになった。
「サバン・ディンが昔からの掟をないがしろにして、客として招かれた宮殿の中でこのような振舞いをされるからには、よほど腹にすえかねることがあるに相違ない。私も、わが友のようにわれを忘れてうかつな行動をしないように、プタースの皇帝《ジェダック》がなぜこのような行動に走られたのか、その理由を述べて私に拍手喝采をさせてくれるまでは、沈黙を守ることにしよう」
プタースの皇帝《ジェダック》は自分の金属飾りをクーラン・ティスの顔に投げつけようと考えた様子だったが、主人役の皇帝《ジェダック》と同様に自制心を働かせた。
「サバン・ディンは、隣人の領土でいかに振舞うべきかということはだれよりもよく心得ている。しかし、このサバン・ディンには、それよりももっと重大な掟――報恩の掟――に忠実でなければならない義務があるのだ。そして、わしにとってヘリウムの王子ジョン・カーターほど大きな恩義がある人間はバルスームじゅうに一人もいないのだ。
クーラン・ティス、何年も前のことだが、きみがこの前わしの国を訪れたさいに、きみはわしのひとり娘サビアの優雅な美しさにすっかり引きつけられていた。わしがどれほどあの娘を愛しているかは、きみにもわかっているし、その後、何か不可解な気まぐれにそそのかされて、娘がみずから進んで神秘のイス川の冷たい水面をくだり天国への長い旅に出てしまって、わしひとりが寂《さび》しく取り残されたことも、きみは聞いているはずだ。
数か月前、わしは初めて、ジョン・カーターが遠征隊を率いてイサスやホーリー・サーンと戦ったことを聞いた。そして、大昔から偉大なイスの流れをくだっていった者たちにサーンが残虐行為を加えていたという、かすかな噂《うわさ》がわしの耳まで伝わってきた。
また、何千もの捕虜が解放されたが、ドール谷からもどってくる者はことごとく虐殺すべしという掟があるために、思い切って自分の国へ帰った者はほとんどいないという話も聞いた。
しばらくの間、わしはこのような異端の話は信じられなかったし、娘のサビアがドール谷から外界へもどってくるような冒涜の罪を犯すくらいなら死んでいてくれたほうがいいと思っていた。だが、やがて父性愛が何にもまして強くなり、もし娘を見つけることができたら、たとえ地獄に落ちようとも、二度と手放すまいぞと心に誓った。
そこでわしはヘリウムと、ファースト・ボーンの皇帝《ジェダック》ゾダールの宮廷、それにサーン族のなかの古来の信仰を捨てた者たちの統治者のもとへ使者を派遣した。すると、そのいずれからも、ホーリー・サーンが自分たちの宗教の犠牲となった哀れな無防備の人々に加えた言語道断な残虐行為についてまったく同じ話を聞かされたのだ。
わしの娘を見かけた者や、知っている者はたくさんいたし、また、マタイ・シャンの身近にいたサーンたちから、彼みずからわしの娘に加えた侮辱のことを知らされた。わしはこの宮殿へきて、マタイ・シャンも客になっていることを知って大いに喜んだのだ。なにしろ、一生かかっても捜し出そうと思っていた相手だからな。
その上、わしはジョン・カーターが立派な戦士らしく娘につくしてくれたことも聞いた。彼がいかに娘のために戦い、娘を救ってくれたか、すっかり話を聞いた。彼は南部の獰猛なウォーフーン族に襲撃されても逃げようとはせず、娘を自分の火星馬《ソート》に乗せて無事に逃がし、自分は徒歩のまま踏みとどまって緑色人戦士の群れと戦ったのだ。
だからわしはヘリウムの王子を守るためとあれば、自分の命も自分の国の平和も、あるいは何にもまして大切にしているきみの友情さえも危険にさらす覚悟でいるのだ。おかしいと思うか、クーラン・ティス?」
ちょっとの間、クーラン・ティスは沈黙していた。その表情から見て、ひどく当惑しているのがわかった。やがて彼は口を開いた。
「サバン・ディン」と彼は悲しげだが親しみのこもった口調で言った。「どうして私に自分と同じ人間を裁くことができよう。私にとっては、サーンの教皇は依然として神聖であるし、その教えは唯一の真の宗教だ。しかし、あなたが悩まされたのと同じ問題にぶつかったら、私は疑いもなくあなたとまったく同じように感じ、同じように行動するにちがいない。
ヘリウムの王子に関するかぎりは私が決定をくだすこともできるが、あなたとマタイ・シャンの間の問題については和解の取り持ちをすることしかできない。ヘリウムの王子はあすの日暮れ前に私の領土の境界線まで安全に護送することにしよう。それから先は、どこへ行こうと彼の自由だ。しかし、ふたたびケオールの国内へはいったら死刑になるものと覚悟しなければならない。
そして、あなたとサーンの教皇の間にもめごとがあるとしても、その決着をつけるのは双方が私の国の外に出るまで延期することにしてもらいたい。満足かな、サバン・ディン?」
プタースの皇帝《ジェダック》はうなずいて同意したが、そのマタイ・シャンのほうに向けた険悪な顔には青ざめた顔の生き神さまへの敵意がみなぎっていた。
「ヘリウムの王子は満足どころではないぞ」私はそう叫んで、嵐が静まりかけるのを荒々しくさえぎった。こんな条件では、おとなしく引きさがる気にはなれなかったのである。
「私はマタイ・シャンに追いつくために、さまざまな死の危険を冒してあとをつけてきたのだ。だから、この私の剣の腕と体力によってやっとたどりついた目的地から、屠殺場へ引かれる老いぼれ火星馬《ソート》のようにむざむざ引きずり出されるつもりはない。
それに私の話を最後まで聞けば、プタースの皇帝《ジェダック》サバン・ディンにしても、これで満足するはずはない。なぜ私がマタイ・シャンと黒色人の貴族《ダトール》サリッドのあとを追って、ほとんど打破しがたい障害を次々に切り抜けながら、ドール谷の森からはるばる火星を半周してここまでやってきたか、その理由がおわかりだろうか。
ヘリウムの王子ジョン・カーターが暗殺を企むほど卑劣な人間になり下がったと考えておられるのか? クーラン・ティスはホーリー・サーンやサリッドに吹きこまれたあのような嘘を信じるほど愚か者なのか?
私がマタイ・シャンのあとを追ってきたのは彼を殺すためではない。もっとも、私の故郷の地球の神は私の手が彼の咽喉をしめたくてむずむずしていることはご存じだろうが。サバン・ディン、私が彼を追ってきたのは、彼といっしょに二人の捕虜がいるからなのだ――すなわち私の妻、ヘリウムの王女デジャー・ソリスと、あなたの娘、プタースのサビアだ。
これでも、私がケオールの防壁の外へ引きずり出されるままになっているとお思いだろうか。自分の妻を伴わずに、そして、あなたの娘をとりもどさずに、そんなことができるだろうか?」
サバン・ディンはきっとなってクーラン・ティスのほうに向き直った。その鋭い目の中には激しい怒りが燃えあがっていたが、みごとな自制心を働かせて落着いた口調で喋《しゃべ》り出した。
「クーラン・ティス、きみはこのことを知っていたのか」と彼はたずねた。「わしの娘が捕虜としてきみの宮殿にいることを知っていたのか」
「彼がそんなことを知っているはずがない」とマタイ・シャンが横から口を出したが、その顔はまっさおだった。怒りのためというよりは恐怖のためにちがいなかった。「そんなことは嘘なのだから知っているはずがない」
私はそくざに、この男を殺してしまいたくなった。しかし、彼のほうに飛びかかろうとしたとたんに、サバン・ディンが片手をしっかりと私の肩にかけて引きとめた。
「待ちたまえ」と彼は私に言ってから、クーラン・ティスにむかって言った。「これは嘘ではない。これだけは、わしがヘリウムの王子についてよく知っていることだ――彼は嘘をつかない人間だ。答えてくれ、クーラン・ティス――わしは質問をしたはずだぞ」
「サーンの教皇といっしょに三人の女がきている」とクーラン・ティスは答えた。「一人は教皇の娘ファイドール、あとの二人はその奴隷という話だった。もしその二人がプタースのサビアとヘリウムのデジャー・ソリスだとしても、私はそのことを知らなかったのだ――どちらの女にも会っていないのだから。しかし、それが本当なら、明朝、二人をあなたがたの手に返すようにしよう」
彼はそう言いながら、マタイ・シャンをまっすぐ見つめていたが、それは熱心な信徒が高位の聖職者を見る態度ではなく、支配者が命令をくだす相手を見る態度だった。
さきほどマタイ・シャンのまことの人格が暴露されたことが大いに物を言って、クーラン・ティスの信仰がすでにぐらつきはじめ、あとほんの少しだけ何かのきっかけがあれば、この勢力のある皇帝《ジェダック》が公然たる敵に変わってしまうだろうということは、私のみならずサーンの教皇自身にも明白にわかっていたにちがいない。しかし、迷信の根はきわめて強いものなので、この偉大なケオール人さえ、自分を古来の信仰に縛りつけている絆《きずな》の最後の一本を断ち切るのをまだためらっていた。
マタイ・シャンは賢明にも、皇帝《ジェダック》の命令を受けいれるような態度を示し、明朝、二人の奴隷女を謁見室へ連れてくることを約束した。
「もうすぐ夜が明ける」と教皇は言った。「わしは娘の眠りをさまたげたくない。それがなければ、いますぐ二人の女を連れてきて、ヘリウムの王子が思い違いをしていることをはっきりさせるのだが」彼は「思い違い」という言葉を強調して私を侮辱しようとしたが、そのやり方が巧妙なので、私もあからさまに怒るわけにはいかなかった。
私が一刻の猶予もできないと考えて、ただちにヘリウムの王女を連れてくることを要求しようとすると、サバン・ディンがそれほどこの要求を固執する必要はないだろうと言った。
「わしはいますぐにも娘に会いたいと思う。しかし、もしクーラン・ティスが、今夜はなんぴとたりとも宮殿から出ることを禁じてくれるなら、また、あすの朝、デジャー・ソリスとプタースのサビアがこの部屋のわれわれの前に連れてこられるときまで、二人の女のいずれにも、何らの危害もふりかからないようにすることを保証してくれるなら、いますぐということは固執しないでおこう」
「今夜はだれも宮殿から出しはしない」とケオールの皇帝《ジェダック》は答えた。「そしてマタイ・シャンも、二人の女に何らの危害もふりかからないことを保証してくれるだろう」
サーンの教皇はうなずいて同意を示した。それからすぐ、クーラン・ティスは謁見の終了を告げた。私はサバン・ディンに招かれて彼の部屋まで同行し、そこで夜が明けるまでともに過ごし、その間に火星における私のさまざまな経験や、彼の娘のサビアといっしょにいた間に彼女の身にふりかかった出来事をすっかり話して聞かせた。
サビアの父親は私の心にかなう男だった。そして、この夜、サークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカスと私を結ぶ友情のほかには匹敵するもののない強い友情が生まれることになった。
火星の唐突《とうとつ》な夜明けが訪れるとともに、クーラン・ティスの使者がやってきて、われわれを謁見室へ招いた。そこへ行けば、サバン・ディンは長年のあいだ別れたままだった自分の娘を迎え、そして私はほとんど十二年ぶりでヘリウムの栄光の美女と再会することになるのだ。私は胸の鼓動があまりにも高くなったので、部屋じゅうの者に聞こえたのではないかと、きまり悪くなって周囲を見まわしたほどだった。私の腕は、非の打ちどころのない魂の外面的な現われにほかならない永遠の若さと不滅の美しさを持ったデジャー・ソリスの神々《こうごう》しいばかりの体をふたたび抱きしめる期待にうずいていた。
ついにマタイ・シャンを呼びに行った使者がもどってきた。私は何はともあれ、その背後につづいているはずの人影を見ようと首をのばした。しかし、使者のほかにはだれもいなかった。
使者は玉座の前で立ちどまると、部屋じゅうの者にはっきり聞こえる声で皇帝《ジェダック》に告げた。
「おお、クーラン・ティス、最も偉大なる皇帝《ジェダック》」と彼は宮廷の作法に従って叫んだ。「陛下の使者はひとりでもどって参りました。サーンの教皇の部屋へ行ってみましたら、だれもおらず、従者たちの部屋も同様でした」
クーラン・ティスはまっさおになった。
その隣に用意された玉座にのぼらずに私の横に立っていたサバン・ディンは、急に低いうめき声をもらした。ちょっとの間、ケオールの皇帝《ジェダック》クーラン・ティスの大謁見室は死んだように静まり返った。その静寂を破ったのはクーラン・ティスだった。
彼は玉座から立ちあがり、壇を降りてサバン・ディンのそばへ歩み寄った。そして涙に目をくもらせながら、両手を友の肩にかけた。
「ああ、サバン・ディン」と彼は叫んだ。「あなたの最良の友の宮殿で、このようなことが起ころうとは! マタイ・シャンの卑劣な心のうちが読めていたら、私が自分の手であの首をひねってやっただろうに。昨夜、私の一生をかけた信仰がぐらついたが――けさは完全に打ち砕かれた。だが遅すぎた。遅すぎたのだ。
あなたの王女とこの王家の戦士の妃《きさき》をあの悪魔どもの手中から奪い返すために、この強大な国の力を自由に利用してもらいたい。全ケオールがあなたがたの思いのままに活動しよう。さあ、何をやればいいのだ? 命令してくれたまえ!」
「まず第一に」と私が言った。「マタイ・シャン一味の逃亡に責任のあるあなたの部下を見つけましょう。宮殿の衛兵の助けがなければ、こんな事態は起こるはずがない。身に覚えのある者を捜し出して、その連中の口から彼らの逃亡の方法と、逃げた方角を吐《は》かせることです」
クーラン・ティスがこの調査を開始する指令を出すより早く、端麗《たんれい》な顔だちの若い士官が進み出て、皇帝《ジェダック》に話しかけた。
「おお、クーラン・ティス、最も偉大なる皇帝《ジェダック》。この重大な過失の責任者は私ひとりであります。昨夜、宮殿警護の指揮をとったのは私でした。早朝の謁見のあいだ宮殿のほかの場所で勤務しておりましたので、そのときの出来事は何も知らなかったのであります。それゆえ、サーンの教皇に呼ばれて、ホーリー・ヘッカドールの命をねらう恐ろしい敵が宮殿内にいるために自分たち一行を急いで都から立ち去らせたいと皇帝《ジェダック》がお考えになったという話を聞かされたとき、生まれたときからずっと、なすべき正しいことだと教えこまれてきたことをやっただけなのであります――つまり、最も偉大なる皇帝《ジェダック》である陛下よりもさらに偉大な、われわれすべての人間の支配者と信じている人物の命令に従ったのであります。
このことの責任と処罰は私ひとりが負います。罪があるのは私だけです。逃亡を助けたほかの衛兵たちは私の指図に従っただけなのであります」
クーラン・ティスは、この士官に対する私たちの判決をたずねるかのように私の顔を見つめ、次にサバン・ディンの顔を見た。しかし、この過失はどう見ても無理もないことだったので、私もサバン・ディンも、たやすく犯しがちな過失のために、この若い士官を処罰させようとは思わなかった。
「出て行くときはどんな具合だったね」とサバン・ディンがきいた。「それに、どの方角へ行ったのだ」
「きたときと同じように、自分たちの飛行船に乗って立ち去りました」と士官は答えた。「出発後しばらくのあいだ、私は船の明かりを見つめておりましたが、それが見えなくなったのは真北の方角でした」
「北のどこにマタイ・シャンが逃げこめるような場所があるのだろう」とサバン・ディンはクーラン・ティスにたずねた。
しばらくのあいだケオールの皇帝《ジェダック》はじっと考えこみ、うなだれたまま立っていた。やがて急に、その顔が明るく輝いた。
「わかった!」と彼は叫んだ。「ついきのう、マタイ・シャンはずっと北のほうに住んでいるわれわれとは異なる種族のことを話していたが、あれは自分の行く先をうっかり口にしたのだ。彼の話では、その種族はかねがねホーリー・サーンと親しく、古来の信仰の忠実な信奉者だそうだ。そして彼らのところなら、『嘘つきの異端者ども』には決して捜し出せない永遠の避難所が見つかると言っていた。マタイ・シャンが逃げたのはそこなのだ」
「だが、やつを追跡する飛行船はケオールじゅうに一隻もない」と私は叫んだ。
「プタースまで行かないことにはな」とサバン・ディンが答えた。
「いや、待て!」と私は大声を上げた。「あの大森林の南のはずれに、私がここまでくるのに乗ってきたサーンの飛行船の残骸がある。クーラン・ティス、それを運んでくる人手と、私を手伝ってくれる技術者を貸してもらえれば、二日で修理できるのだが」
私はこのときまで、ケオールの皇帝《ジェダック》の突然の背教が本物かどうか疑う気持のほうが強かったのだが、彼がこの提案をただちに受け入れ、一隊の士官と兵士を私が自由に使えるように迅速な処置をとってくれたので、私の疑念はあとかたもなく消滅した。
二日後、飛行船は出発準備をととのえて、監視塔の頂上に待機していた。サバン・ディンとクーラン・ティスはその二つの国の全力をあげて援助しようと言ってくれた――数百万の戦士が私の思いどおりに使えるわけだった。しかし、私の飛行船には、私とウーラのほかには一人しか乗る余地がなかった。
私が船に乗りこむと、サバン・ディンが私の横の席にすわった。私は驚いて、いぶかしげにその顔を見やった。彼は、自分に随行してケオールまできた部下のなかで一番位の高い士官にむかって言った。
「部下たちのプタース帰還はおまえの指揮にまかせる。わしの不在中は息子が立派に国を治めるだろう。ヘリウムの王子をひとりきりで敵の国へ行かせるわけにはいかないのだ。いざ、さらば!」
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八 腐肉の洞窟を抜けて
サーンの砦を出発したとき逃走する敵の飛行船に合わせておいた目標誘導羅針盤に導かれて、われわれの船は昼も夜もまっすぐ北に向かって敵を追った。
二日目の夕方から、大気が冷たくなってきたのがはっきりとわかった。赤道を離れて以来の飛行距離から考えて、北極地方へ急速に接近しつつあることは確実だった。
私は、これまでに無数の探検隊がこの未知の国の踏査を試みたことを知っていたので、慎重にならざるをえなかった。なにしろ、寒帯の南の境界線を形作る巨大な氷の断崖をこえて奥深く進入した飛行船がもどってきたことは一度もなかったのである。
それらの飛行船がどうなったのか、だれにもわからない――ただ、無気味な神秘に包まれた極地へはいっていったきり、永遠に世人の前から姿を消したのである。
そのくせ、氷の断崖から北極点までは速い飛行船なら二、三時間で行ける距離にすぎない、外界の火星人たちに「禁断の国」と呼ばれるようになったこの極地には何か恐ろしい破局が侵入者たちを待ちかまえているにちがいないと考えられていた。
そんなわけで私は、氷の断崖に近づくにつれて速度を落とした。もし北極に本当に人が住んでいる国があるとすれば、マタイ・シャンがヘリウムの王子ジョン・カーターの手から無事にのがれたと感じられる場所はそこしか考えられない。何か罠に行き当たるまでは、浮氷群でも見つけて、昼間はその上を用心深く進んで行こうと私は思った。
私たちは地表からわずか二、三フィート上をのろのろと飛んでいた――二つの月は沈み、火星の二つの極地でしか見られない雲が夜空を真っ黒に覆っていたので、文字どおり暗中模索で進んでいるようなものだった。
とつぜん、そそり立つ白い絶壁が真正面に現われた。私は舵《かじ》をいっぱいに上へ切り、エンジンを逆転させたが、衝突を避けるには手遅れだった。
すさまじい音とともに、私たちの船はぼうっと浮かびあがった障害物の四分の三ほどの高さのところに衝突した。
船は大きくぐらついて転覆しそうになり、エンジンがとまった。そして修理した浮力タンクがいっせいに破裂すると、まっさかさまに二十フィートほど下の地面へ突っこんだ。
幸運にも私たちはだれも負傷しなかった。船の残骸から脱け出すと、ちょうど小さいほうの月が地平線の下から急にまた飛び出してきたので、いまいる場所が巨大な氷の断崖の下であることがわかった。崖下はあちこちから小山のような花崗岩の塊が露出し、それによって、氷の断崖がさらに南へ広がるのが食いとめられていた。
なんという不運だ! 目的地まであと一息というところで、険しい、登りようのない岩と氷の絶壁の外側でこのような遭難をするとは!
私はサバン・ディンの顔を見た。彼はしょげ返って首を横にふるだけだった。
それから朝まで、私たちは氷の断崖のすその雪の上で不十分な絹と毛皮の寝具にくるまって震えながら過ごした。
夜が明けると、意気消沈していた私もいつもの不屈の気力をいくぶん取りもどした。だが、その気力をさらにかきたてるような材料はほとんど何もなかったと言わなければなるまい。
「どうしたものかな」とサバン・ディンがたずねた。「どうやって、あの越えられるはずのない絶壁を越えたらいいのだろう」
「まず第一に、あれが越えられないということの反証をあげなければならないでしょう」と私は答えた。「それに私は、あの崖のふもとを完全に一周して、どうしてもだめだとわかるまでは、越えられないとは考えませんよ。さあ、はじめるのは早ければ早いほどいい。ほかに手段はなさそうだし、それに、あの通り、行く手にうんざりするほど長々とつづいている寒い道を歩きつくすには一か月以上かかるでしょうからね」
五日間、私たちは寒気と困苦欠乏に悩まされながら、氷の断崖のすそのでこぼこした凍った道を進みつづけた。昼となく夜となく、獰猛な、毛皮をもった獣たちが襲ってきた。北極の巨大な悪魔に不意に襲われる恐れのない時間は、ただの一瞬もなかった。
その獣のなかでも、危険な敵として最高のものはアプトだった。
これは巨大な白い毛皮の獣で、手足が六本ある。がっしりした太く短い四本の足は雪や氷の上をすばやく歩くのに使われ、長い力強い首の両側の肩から前方へのびている残りの二本は、先端が毛のない白い手になっていて、獲物をつかまえたり、持ったりする役目をする。
頭と口は、地球の動物のなかでは何よりもカバによく似ている。ただし、下顎骨の両側からは二本の大きな角《つの》がはえていて、やや下向きにカーブしながら前方へのびている。
いちばん好奇心をそそられたのは、二つの巨大な目だ。それは頭頂部の真ん中から頭の両側をくだって角《つの》の根元の下まで二つの大きな楕円形になって広がっている。したがって、二本の角《つの》は実際には、それぞれ五、六千個の単眼からなる二つの目の下部から生えているのである。
この目の構造は、まばゆく輝く氷と雪の平原をうろつく獣の目として感嘆すべき構造であると思われた。私たちが殺した数匹を綿密に調べた結果、一つ一つの単眼にはそれぞれ|まぶた《ヽヽヽ》があって、この動物は巨大な目のなかの単眼を好きな数だけ思いのままに閉じることができるようになっていることがわかったのである。それにしても、自然がこの獣にこのような巨大な複眼を与えたのは、その生活の大部分が暗い地下の洞穴で過ごされるからに相違あるまい。
こんなことを考えた直後に、それまでに見たなかで最も巨大なアプトに出くわした。そいつは肩のところまでたっぷり八フィートはあり、つい最近手入れをしてもらったと言ってもいいほどなめらかで、清潔な、光沢のある毛並みをしていた。
私たちは、真正面からこちらを見つめている獣のほうへ近づいて行った。年じゅう凶暴な怒りにとりつかれているらしいこの悪魔のような獣からは、逃げようとしても無駄であることがわかっていたからだ。こいつらは陰うつな北極地方をうろつきまわりながら、その遠目のきく視界にはいってくる生きものを片っぱしから襲うのである。
そして満腹でもう何も食べられないときでさえ、殺す楽しみだけのために殺すような残忍なやつなのである。だから、このときのアプトが、われわれが近づいても襲いかかろうとせず、それどころか、くるりとうしろを向いて、どんどん逃げ出したのを見て、私が大いに驚いたのは当然といわなければならない。ところが、そのときふと、そいつの首のまわりに金色の首輪が光っているのがちらっと目にはいった。
サバン・ディンもその首輪を見た。それは私たち二人に同じ希望の声を伝えた。あの首輪をアプトの首にはめることができる者は人間以外にはないし、私たちが知っている火星の種族のなかには、この凶暴な獣を飼いならそうとしたものなどはどこにもいなかったのである。してみれば、そのアプトは私たちがその存在を知らない北方種族に飼育されているにちがいない――ことによると、それはバルスームの伝説的な黄色人かもしれない。例の、かつては勢力はあったが、いまでは絶滅したと考えられている種族……だが、ときには、いまなお氷に閉ざされた北の果てに生存しているという説もある種族……
私たちはいっせいに、この大きな獣を追跡しはじめた。ウーラが私たちの思わくをのみこんでくれたので、すばやく逃げてゆく獣から目をはなさずに追う必要はなかった。アプトは起伏のある地域を走って、すぐに姿を消した。
二時間近くのあいだ、アプトの足どりは氷の崖に平行して進み、それから急に崖のほうへ曲がって、それまで見たなかで最も起伏の多い、とても通れそうもないように見える地域へはいりこんだ。
どちらを向いても、巨大な花崗岩《かこうがん》の塊が行く手をさえぎり、氷の表面には、一歩踏みはずせば呑みこまれそうな深い裂け目が無気味に口をあけていた。そして北の方角から微風に乗って何とも言いようのない息の詰まりそうな悪臭が漂ってきた。
それからさらに二時間かかって数百ヤード進み、ようやく断崖のすそにたどりついた。
そこで防壁のように露出している花崗岩の角をまわると、この数日われわれの行く手をふさいでいた高くそそり立つ氷と岩の山のふもとに二、三エーカーほど平地が広がっているところへ出た。そして前方に、暗い洞窟が大きな口をあけているのが見えた。
この気味の悪い洞穴の入口から、先刻来のひどい悪臭が発散していたのである。サバン・ディンは洞窟を見つけると、ひどく驚いたらしく大声をあげて立ちどまった。
「こいつは驚いた! 伝説の腐肉の洞窟を本当にこの目で見ようとはな! これが本物なら、氷の崖の向こう側へ行く道を発見したわけだ。
バルスームの初期の歴史家の古い記録には――これはあまりにも古いものなので、長いあいだ神話だと考えられてきたが――古代の支配的な諸民族が大洋の水が涸れるのにつれてその本拠地から追われて行った当時、バルスームを荒しまわった緑色人の大群の猛威からのがれようとした黄色人種の動きがしるされている。
そこには、かつては勢力の強かったこの種族の生き残りたちが行く先々で敵の襲撃に悩まされながら、ついに北方の氷の崖を通り抜けて北極の肥沃《ひよく》な谷へはいる道を発見するまでの放浪が記録されている。
その彼らの安住の避難場所へ通じる地下の道路の入口で大激戦が行なわれ、黄色人が勝利を得た。そして彼らは、自分たちの新しい国へ通じる洞穴の中に黄色人や緑色人の死体を山のように積み上げ、その死臭で敵をおどして、それ以上追跡してこないようにしたのだ。
この遠い昔の日以来、この伝説の国では死人はすべて腐肉の洞窟に運びこまれ、死んで体が腐っても国のために侵入者を追い払う役目をつとめることになっている。また、この洞穴には、国じゅうのごみくず――ありとあらゆる腐りやすいもの、むかつくような悪臭を強めることができるもの――が片っぱしから運びこまれているということだ。
その上、ひとたび腐爛《ふらん》死体の中に踏みこんだら、ひと足ごとに死の脅威が待ち伏せしている。獰猛なアプトの群れがこの穴をねぐらにして、鼻もちならない死体の山を自分たちの獲物の食い残しでますます大きくしているのだ。これはわれわれの目的地へ通じる恐ろしい道だ。しかし、道はこれ一つしかない」
「では、黄色人の国へ通じる道を発見したというのですね」と私は叫んだ。
「まず確実だな」と彼は答えた。「もっとも、わしの考えの裏づけになるのは古代の伝説だけだ。しかし、これまでのところ、こまかな点がすべて、黄色民族の逃避移住という古い伝説とぴったり符合するではないか! そうとも、われわれは黄色人たちの昔の隠れ場所への道を発見したにちがいない」
「それが本当なら――まったく、そうであってほしいものですが――ヘリウムの皇帝《ジェダック》タルドス・モルスとその王子モルス・カジャックの失踪の謎もここで解《と》けるかもしれません。もう二年近くのあいだ、この二人の捜索のために多数の遠征隊や無数のスパイがあちこちに派遣されているのですが、まだ捜索していない場所といったら、バルスームじゅうでここだけなのです。それに、行くえ不明の二人の最後の伝言は、氷の断崖をこえて私の勇敢な息子のカーソリスを捜しに行くというものでした」
私たちは話しながら洞窟の入口に近づいて行った。そして、穴の中へ一歩踏みこんだとたんに、古代の黄色人の敵だった緑色人たちがこの恐ろしい通路に震えあがって進撃を中止したのも不思議はないと思った。
最初の洞穴の広い床には、人骨が人間の背丈ほどに積み重なり、その上を腐ってどろどろになった死肉が一面に覆っていた。そして、その中にアプトが踏みならした身の毛のよだつような道ができていて、むこうの第二の洞穴の入口へつづいている。
この最初の洞穴は、この後つづいて通ったほかの洞穴も同じことだが、天井がきわめて低かった。それゆえ、悪臭が逃げ場を失って凝縮したようにたちこめ、手を出せばつかみとれるのではないかと思えるほどのすさまじさだった。まったく、短剣を抜いて道を切り開き、どこか向こうのきれいな空気を呼び寄せたくなるほどなのである。
「このひどい空気を吸って、生きていられるだろうか」とサバン・ディンが息をつきながら言った。
「時間が長かったら、だめでしょうね。だから急ぎましょう。私が先に行きますから、ウーラをまんなかにして、しんがりをつとめてください。さあ」私はそう言うやいなや、悪臭を放つ腐肉の中へ一気に飛びこんでいった。
それぞれ大きさの異なる七つの洞穴を通り抜けるまでは、悪臭の強さや質が洞穴によってほんの少しずつ違っているくらいのもので、実質的な妨害には一度も出くわさなかった。だが、次の八番目の洞穴では、アプトの巣にぶつかった。
そこでは二十匹以上の巨大な獣が床のあちこちに陣取っていた。眠っているやつもいれば、運びこんだ獲物の殺したばかりの肉を引きちぎっているやつや、雌の取り合いで仲間争いをやっているやつもいた。
この光に乏しい地下のねぐらの中では、この獣の巨大な目は歴然と威力を発揮していた。このような奥まった洞穴の内部はほとんど真っ暗に近い薄闇にいつもつつまれているのである。
この猛獣の群れのまん中を通り抜けようとすることは、あまり悧巧《りこう》なやりかたではないと私ですら思った。そこでサバン・ディンにウーラを連れて外界へ引き返すことをすすめた。そうすれば文明世界へたどりつく道もわかるだろうし、アプトのみならず、これから目的地までの間に待ちかまえているどんな障害をも打ち破れるほど十分な兵力を引き連れてふたたびやってくることもできるだろうと言った。
「そのあいだに」と私はつづけた。「私のほうも黄色人の国へひとりでたどりつける方法を何か見つけられるかもしれません。しかし、私が失敗したとしても、犠牲になるのは一人の命だけです。もし私たちがこのままいっしょに先へ進んで命を落としたら、デジャー・ソリスやあなたの王女のもとへ救援隊を連れて行く者が一人もいなくなってしまうではありませんか」
「わしはここへきみだけを残して引き返したりはしないぞ、ジョン・カーター」とサバン・ディンは答えた。「きみの行く先が勝利であろうと死であろうと、プタースの皇帝《ジェダック》はきみのそばにとどまる。誓ってとどまるぞ」
彼の口ぶりから、この問題を論じ合うのは無駄だということがわかった。そこで私は妥協策として、走り書きの手紙を小さな金属ケースにおさめてウーラの首にしっかりと結びつけると、この忠実な獣に、ヘリウムへ引き返し、カーソリスのところまで行くように命じた。ヘリウムまでは火星を半周する距離であり、そのあいだには無数の危険にぶつかるだろうが、なしうることであるかぎり、ウーラは必ずなしとげるにちがいない。
ウーラには生来、驚くべき速力と耐久力、行く手をはばむいかなる敵にも一対一ならひけをとらない恐るべき獰猛《どうもう》さがそなわっている。それにあの鋭い知能と不思議な本能の力が加われば、首尾よくこの使命を果たすのに必要な条件はわけなくそろうはずである。
命令に従い、私を残して引き返そうとしたとき、この大きな獣はいかにも気の進まない様子だった。私はウーラが行ってしまう前に、その大きな首を両腕で抱きしめて別れを告げずにはいられなかった。ウーラは別れの愛撫を受けながら、その頬《ほお》を私の頬にこすりつけた。そして、すぐに腐肉の洞窟の中を外界に向かって走って行った。
私はカーソリスにあてた手紙の中に腐肉の洞窟への明確な道筋をしるし、奥地へはいるにはこの洞窟の道をたどる必要があることを強調して、どんなことがあっても空中艦隊で氷の断崖を越えようとしてはいけないとつけ加えた。また、八番目の洞穴より先には何があるかわからないが、とにかく氷の断崖の向こう側のどこかにマタイ・シャンの手中にとらえられたデジャー・ソリスがいるにちがいないし、またおそらく、生きているとすればカーソリスの祖父や曾祖父《そうそふ》もいるはずだということを伝えた。
さらに私は、クーラン・ティスとサバン・ディンの息子に戦士や船の応援を頼んで、最初の一撃で勝利を確実なものにできるほど強力な遠征隊を結成することをすすめた。
「それから」と私は最後に書き加えた。「もし時間があったら、タルス・タルカスを連れてきてくれ。おまえがここへくるまで私が生きているとすれば、もう一度、あの旧友と肩を並べて戦うことくらいすばらしい楽しみはめったにあるものではない」
ウーラが行ってしまうと、サバン・ディンと私は七番目の洞穴に隠れて、八番目の洞穴を通り抜ける方策をあれこれ吟味《ぎんみ》しては次々に捨てていった。私たちの立っているところからアプトのほうを見ると、仲間同士の争いは次第におさまり、獲物を食べていたやつらも横になり、眠ろうとしていた。
まもなく、獰猛な怪物どもは一匹残らずおとなしく眠ってしまいそうな形勢になった。そうなれば、やつらのねぐらを通り抜ける一か八かのチャンスが訪れるだろう。
まだ起きている獣も、一匹また一匹と、洞穴の床の上の骨の山を覆う泡立つような腐敗物の上に寝そべり、ついにまだ目を覚ましているアプトは一匹だけになった。この図体の大きなやつはそわそわと歩きまわって、仲間の体や洞穴じゅうに散乱している身の毛のよだつようなものを嗅《か》ぎまわっていた。
また、ときおり立ちどまって、この洞穴の手前の出入口をじっとのぞきこみ、つづいて向こう側の出口へ行って同じようなことをやっている。その挙動はまるで歩哨役を勤めているようだった。
ついに私たちは、どうやらこいつはほかの仲間が眠っているあいだは眠らないつもりらしいと思わざるをえなくなった。そこで、なんとかこのアプトをたぶらかす策略はないものかとあれこれ思案したあげく、私はサバン・ディンに一つの方策を提案した。それはいままでのどの方策にくらべても劣らないもののように思えたので、ためしてみることにした。
そこでサバン・ディンは八番目の洞穴の入口の横の壁にぴったりと身を寄せて隠れ、私のほうは見張り役のアプトがこちらを見たときに、わざと姿を見せ、すぐに入口の反対側に飛び移って、壁にぴったり身を寄せた。
巨大な猛獣は何の音も立てずにすばやく七番目の洞穴のほうへ歩み寄ってきて、自分たちのねぐらのこんなに奥深くまでもぐりこんできた無分別な侵入者の正体を確かめようとした。
そのアプトが二つの洞穴を結ぶ狭い穴の中へ頭を突っこんだときには、その左右いずれの側にも重い長剣が待ちかまえていた。うなり声ひとつもらすひまもなく、切り落とされた怪物の首は私たちの足もとにころがった。
すばやく八番目の洞穴の中に目を走らせたが――身動きするやつは一匹もいない。サバン・ディンと私は入口をふさいでいる巨大なアプトの死体の上をはって乗りこえると、恐ろしい危険な猛獣の巣に用心深くもぐりこんだ。
横になった巨体のあいだを縫って、静かに注意深く、のろのろと私たちは進んだ。私たちの息づかいより大きな音といえば、どろどろした腐肉の海からそっと足を持ち上げるときの吸いこむような音だけだった。
洞穴の中途まで進んだとき、目の前にいる一匹をどうしてもまたがなければならなくなり、その頭の上に片足をあげたとたん、そいつがもそもそ動きだした。
私は息を殺し、金縛りになったように片足で立ったまま待った。右手には鋭い短剣を握っていたが、その切先きは野獣の心臓が鼓動している厚ぼったい毛皮の一インチ上をさまよっていた。
ようやく、悪い夢でも見終わったかのように、そのアプトはため息をついて、ぐったりと体の力をぬくと、ふたたび深い眠りに落ちて規則正しい寝息をたてはじめた。私は持ちあげていた片足を猛獣の頭の向こう側におろし、すぐに怪物をまたぎ終えた。
サバン・ディンが私のすぐ後につづき、ほどなく二人は無事に奥の出口にたどりついた。
腐肉の洞穴は次々につながる二十七の洞穴から成っていた。大昔、北極地方を取り囲む岩と氷の壁の唯一の突破口であるこの地下道を通って大きな川が南へ流れだしたとき、水流によって侵食されたらしい形跡があった。
サバン・ディンと私は残りの十九の洞穴を無事に通過した。
これはあとで知ったことだが、腐肉の洞窟のアプトが全部ひとつの洞穴にいるところにぶつかるという可能性は、ひと月に一度しかないということだった。
ほかのときなら、この獣は一匹かまたは二匹ずつ歩きまわって洞穴を次々に出入りしている。だから二人の人間が二十七の洞穴を全部通り抜ける際、洞穴一つにつき一匹のアプトに出くわさないことはあり得ないといってもいいだろう。ただ、ひと月に一度、アプトたちはまる一日眠る。たまたまそのめったにない機会にぶつかったのが私たちの幸運だった。
最後の洞穴を通り抜けると、雪と氷に覆われた荒涼とした地域に出たが、北に向かってはっきりした道がつづいているのが見つかった。その道には、氷の断崖の南側の道と同じように大きな岩石が散らばっているので、行く手はつねにほんの少ししか見通しがきかなかった。
二時間後、巨大な岩石の横をまわると、谷へくだる急な傾斜地へ出た。
まっすぐ前方に六人の男が見えた――黒いひげをはやした荒々しい連中で、うれたレモンのような肌色《はだいろ》をしている。
「バルスームの黄色人だ!」とサバン・ディンが叫んだ。この近づきがたい辺境にひそんでいるのではないかと予想していたその種族を、いま自分の目で見ながらも、それが本当に存在していることが信じられないような口調だった。
私たちは近くの岩陰にしりぞいて、その一行の様子をうかがった。彼らは別の大きな岩の真下に集まり、こちらに背を向けていた。
その一人は、だれか向こう側から近づいてくる人間の様子をうかがっているように、花崗岩のはしからじっとのぞいている。
まもなく、彼らの凝視の的になっているものが私の視界にはいってきた。それはもう一人の別の黄色人だった。黄色人たちはみなすばらしい毛皮を着ていた――六人組のほうはオルラックの黒と黄の縞《しま》のある毛皮だったが、ひとりで近づいてくる男はアプトの純白の毛皮を着て全身をまばゆく輝かせていた。
黄色人たちは二本の剣を携《たずさ》え、めいめい背中に短い投げ槍を背負っていた。そして左の腕に食器皿ほどの大きさのカップ状の楯《たて》をつるし、そのくぼんだほうの側を外側へ、つまり敵のほうへ向けていた。
この楯はたとえ相手が平凡な腕前の剣士でも、身を守る道具としては役に立たないつまらぬものと思えたが、あとになって、その用途や、黄色人がそれをあやつるときの驚くべき手練のほどを知ることになったのである。
剣士たちがめいめい携えている剣の一つがすぐに私の注意をひいた。剣といったが、実際は、その先端に完全な鉤《かぎ》のついた鋭利な刀身だった。
もう一本の剣は鉤《かぎ》のある剣と同じぐらいの長さで、私の長剣と短剣の中間というところだ。刀身はまっすぐで両刃《もろは》だった。以上の武器のほかに、めいめい装具に短刀をさしていた。
白い毛皮の男が近づいてくるにつれて六人の男は剣をいっそう固く握りしめた――左手に鉤のついた剣、右手にまっすぐな剣。そして左手首の上には小さな楯が金属の腕輪にはめこんで固定してあった。
白い毛皮の戦士がすぐ目の前までくると、六人組はアメリカ南西部のアパッチ族の野蛮な鬨《とき》の声を思わせる残忍なわめき声をあげて突撃した。
たちまち、襲われた男も二本の剣を抜き、襲いかかってくる六人を相手に、じつに見ごたえのあるはなばなしい戦いが展開された。
戦士たちは鋭い鉤《かぎ》で相手をひっかけようとするのだが、とたんに目にもとまらぬ早さでカップ状の楯《たて》が襲ってくる武器の前に飛び出し、鉤はそのくぼみの中に突っこんでしまうのだった。
単身で戦っている戦士は、一度、敵の横腹に鉤をひっかけると、相手を引き寄せて剣を突き通した。
しかし、条件はあまりに不公平だった。単身で戦っている戦士は図抜けて腕のたつ勇敢な男だったが、ほかの五人がいずれその見事な防御に隙を見つけて彼を倒すことは時間の問題にすぎないだろう。
ところで私はいつも弱い方に味方したくなる性格である。争いの原因は何もわからないが、勇敢な男が人数の優勢な敵に虐殺されるのを手をこまねいて見物することはできなかった。
じつをいうと、戦う口実を見つけることなどには、私はほとんど気を使わなかったと思う。私は立派な戦いというものを非常に愛しているので、それが行なわれていさえすれば、もうそれだけで戦いに参加する理由をほかに求める必要はないのである。
そんなわけで、サバン・ディンが私のしようとすることに気づくより早く、私は白い毛皮をまとった黄色人のそばに立って、五人の敵を相手に猛然と戦いはじめていた。
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九 黄色人とともに
サバン・ディンもまもなく私といっしょになって戦いだした。鉤のついた剣は、切り結ぶには勝手の違う荒っぽい武器だということがわかったが、それでも私たち三人はじきに、黒いひげをはやした敵の五人の戦士を片づけてしまった。
戦闘が終わると、新しい知人は私のほうをむき、手首から楯をはずして、それをさしだした。何のことだかわけはわからなかったが、私に感謝を示しているだけのことだろうと判断した。
あとになって、この動作が大きな恩恵を受けた返礼として自分の命を提供するという意味を表わしていたことを知った。私はただちにそれを辞退したが、これも礼儀として期待にそむかない行為だった。
「では、マレンティナの王子タルーからの感謝のしるしとして、これを受けてくれたまえ」黄色人はそう言って、広い袖の片方へ手を突っこんで腕輪をとりだし、私の腕にはめた。それからサバン・ディンに対して同じ儀式をくり返した。
次に、彼は私たちの名前と出身地をたずねた。外界の地理には精通しているらしく、私がヘリウムの人間だと答えると、ぴくりと眉《まゆ》を上げた。
「ほう、すると、きみたちの統治者とその一行をさがしているわけか」
「あの一行のことを知っているのか」と私はたずねた。
「私の伯父《おじ》で、バルスームの黄色人の国オカールを支配する皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》サレンサス・オールの捕虜になったということぐらいしか知らない。その後の彼らの運命については何も知らない。なにしろ私は、マレンティナ公国を支配する私の権力を粉砕しようとしている伯父と争いの最中だからね。
たったいま、きみたちが私を助けてくれた戦いの相手は、伯父が私を殺すために派遣した戦士たちだ。私がよくひとりで狩りに出かけて、サレンサス・オールがひどくありがたがっている神聖なアプトを殺すことを彼らは知っていたのだ。サレンサス・オールが私を憎むのは、一つには私が彼の信奉する宗教をきらっているからだが、それよりもむしろ、私の権力が増大していること、そして私が彼に代わってオカールの支配者、皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》になることを望む党派が国じゅうに現われてきたことを恐れているためだ。
サレンサス・オールは残酷な暴君で、だれからもきらわれている。人々が抱いている大きな恐怖心さえなかったら、私は一夜のうちに兵を集めて、彼にまだ忠誠を誓う少数の者たちを一掃することができるだろう。私の部下たちは忠実だし、小さな谷間にあるマレンティナ公国はこの一年、サレンサス・オールの宮廷に年貢を全然おさめていない。
むこうも無理におさめさせることはできないのだ。マレンティナへはいる狭い道は、百万の敵が押し寄せてきても十人あまりの兵で守ることができる。まあ、それはともかく、きみたちの問題に話をもどそう。どんなふうに力を貸したらいいかな。もしマレンティナにきていただけるなら、私の宮殿は自由に使ってもらいたいと思うが」
「私たちの仕事が終わったら、喜んでお招きに応じましょう」と私は答えた。「しかし、いまはサレンサス・オールの宮廷へ行く道筋を教わり、都や宮殿、あるいはほかのどこであろうと、われわれの親しい者たちが監禁されている場所へはいるためのなんらかの手段を考えてもらえれば、何よりもありがたい」
タルーは残念そうに、私たち二人のひげのない顔を見つめ、それからサバン・ディンの赤い肌と私の白い肌を見やった。
「何よりもまず、きみたちはマレンティナにこなければだめだな」と彼は言った。「オカールのどこの都市だろうと、はいりたいと思うなら、その前にきみたちの外観をすっかり変えなくてはならない。顔を黄色くして、黒いひげをはやさなければいけないし、服装や装飾も少しも怪《あや》しまれないものに変えなくてはだめだ。私の宮殿には、きみたちをサレンサス・オールにも負けないくらい本物の黄色人らしくすることができる人間がいる」
彼の忠告はもっともなことに思えた。それに、どうやらオカールの首都カダブラへ首尾よくはいれる方法はほかにはなさそうだったので、私たちはマレンティナの王子タルーとともに岩に囲まれた彼の小さな公国にむかって出発した。
公国への道中は、いまだかつて経験したことがない最悪の困難な道筋をたどることになった。この火星馬《ソート》も飛行船もない地域で、マレンティナが外部からの侵略をほとんど恐れていないというのも不思議はなかった。それでも、やっと目的地にたどりつき、マレンティナの都から半マイルほど離れた小さな丘に立って、初めてこの公国を見わたした。
コンクリート造りの都市は深い谷の中にうずくまり、街路も広場も空地もことごとくガラスの屋根に覆《おお》われていた。周囲は一面の雪と氷だが、都市全体をすっぽりと包む円形のドーム状のガラスの上には雪も氷も全然なかった。
これを見たとき、黄色人たちがいかにして極地の厳しい寒気を克服し、永遠の氷の国のまん中で豊かに快適に生活しているかがわかった。彼らの都市はまぎれもない温室だったのである。その都市の内部にはいったとき、世に忘れられたこの民族の科学や工学の技術に私はかぎりない尊敬と感嘆の念を覚えた。
都市にはいるとすぐ、タルーは私たちと同じように毛皮の外套を脱ぎ捨てた。すると、彼の服装がバルスームの赤色人とほとんど変わりがないことがわかった。無数の宝石や金属で飾られた皮の装具を除けば裸同然だったし、それにこの暖かな湿気の多い空気の中では、衣服をつけていては快適に過ごせるはずがなかった。
三日のあいだ私たちはタルー王子の賓客として逗留《とうりゅう》した。その間、タルーはできるかぎりの行き届いた丁重なもてなしをしてくれた。そしてこの大都市の中の興味深いものをことごとく見せてくれた。
かつて火星の大気製造工場がその活動を停止したとき、私は当時すでに強い愛着を感じるようになっていたこの不思議な世界に生命と幸福を復活させるために活躍したのだったが、万一あのようなことがふたたび起こったとしても、北極の都市の住民たちは、空気の供給の停止によって瀕死の火星の他の地域の生命がすべて絶滅したあとも、マレンティナの大気製造工場の活動によって無限に生命を維持してゆくことだろう。
都市の地下の巨大な貯蔵所に太陽光線をたくわえている暖房装置をタルーは私たちに見せて、この北極の天国にすばらしい花園のような常夏《とこなつ》の気温を維持するのには非常に少量の光線しか必要としないことを教えてくれた。
芝土をしいた広い街路には水の涸れた海底に生える黄土色の苔状の植物の種がまかれていた。その街路を軽快な地上快走車が往来していたが、これは巨大な氷壁よりも北の地域で使用されている唯一の人工輸送機関だった。
この珍しい快走車の太いタイヤはゴム状の物質で作られたガスの袋のようなもので、この中にバルスームの第八光線、つまり推進光線がつめてある。この光線は火星人の驚くべき発見物で、外界の赤色人はこのおかげで強大な空中艦隊を持ち、最高の勢力を獲得することができたのである。遊星の固有の光線や反射光線を宇宙へ推進させるのはこの第八光線の作用によるもので、それを密閉すれば火星の船に浮力を与えることができる。
マレンティナの地上快走車はその地球の自動車のタイヤに似た車輪の中に、車に牽引力《けんいんりょく》を与えるのにちょうどいいだけの浮力を持つ光線をいれている。そして後部の車輪はエンジンと連動して車の走行を助けているが、大部分の走行力は後部の小さなプロペラによって生みだされている。
この豪奢《ごうしゃ》な装備の車に乗って、マレンティナの柔らかな苔の生えた街路を、地面すれすれに羽根のように軽やかに疾走してゆくときほど愉快な気分はほかでは味わったことがない。車はまったく音をたてずに深紅色の芝生に挾まれた道を走り、バルスームでよく栽培されている目のさめるような華麗な花をつけた木々の枝がたわわに揺れる下を抜けて行くのである。
三日目の終わりまでには、宮廷の理髪師――これ以外にこの男のことを説明する名称は考えつかない――が、サバン・ディンと私に、自分の妻でも見わけられないと思われるほどの驚くべき変装をほどこしてくれた。私たちの肌はその理髪師と同じレモン色に変わり、何もなかった顔には黒い顎《あご》ひげと口ひげが巧妙にはりつけられた。そしてオカールの戦士の装具をつけてこの変装を完全なものにし、ガラス張りの都市の外で着るために、めいめい黒と黄の縞模様のオルラックの毛皮服を携えた。
タルーは、黄色人の種族の名称でもあるオカールの首都カダブラへの旅について入念な指示を与えてくれた。この親切な友人は途中まで同行してくれて、今後もできるかぎりの援助をすることを約束し、別れを告げた。
別れぎわに、彼はまっ黒な光沢のない石をはめこんだ奇妙な細工の指輪を私の指にはめた。この黒い石は実はバルスームのすこぶる貴重な宝石なのだが、見かけは宝石というより瀝青炭《れきせいたん》のかけらに似ていた。
「これ以外には、私が持っている母石からカットしたものが三個あるだけだ」とタルーは言った。「その三個は、私の信頼が厚い三人の貴族が持っているが、三人とも、秘密の任務でサレンサス・オールの宮廷へ潜入させてある。
きみが、その三人のうちのだれかから五十フィート以内のところへ行けば、この指輪をはめている指が急にちくっと刺されるような感じがするはずだ。そして、これの同類を持っている者も同じ感じを受ける。それは同一の母石からカットされた二つの宝石が、たがいの力の及ぶ範囲にはいったとたんに起こる電気作用による痛みなのだ。これによって、まさかのときに援助してもらえる味方がすぐそばにいることがわかる。
この宝石を持っているほかの者が助けを求めたら、拒んではいけない。そしてもしも殺されそうになった場合は、この指輪を敵の手に渡すよりは呑みこんでしまうことだ。これは命がけで守ってくれ、ジョン・カーター。いつか、これがきみにとって命よりも重大な意味を持つことがあるかもしれないから」
別れぎわにこの忠告を与えると、親切な友人はマレンティナに引き返していった。そして私たちはカダブラの都と、皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》サレンサス・オールの宮廷の方角に向かった。
その日の夜にあたる時刻に、私たちは防壁をめぐらしガラスの屋根に覆われたカダブラの都の見えるところまでたどりついた。都は雪のつもった岩だらけの丘に取り囲まれた、北極点に近い低地にあった。私たちが谷へはいるとき通った山道から、この北極の大都市のすばらしいながめを見わたすことができた。そのガラスの丸屋根は明るい陽光を浴びて、氷に覆われた外側の防壁の上にきらきらと輝き、その防壁は全長百マイルに及ぶ都の周囲を取り巻いていた。
都の中へ通じる巨大な城門が規則正しい間隔をおいていくつもあったが、私たちが都をながめているかなり離れたところからでも、それが全部しまっているのがわかった。そこでタルーの忠告に従って、都への侵入は明朝まで延ばすことにした。
タルーが言っていたとおり、あたりの山腹には洞窟がたくさんあったので、その一つへもぐりこんで夜を過ごすことにした。あたたかいオルラックの毛皮のおかげで寝心地は申し分なかった。すっかり元気を回復して目を覚ましたのは、翌朝、夜が明けてまもなくだった。
都はすでに活気をおびていた。あちこちの門から黄色人の一隊が出てくるのが見えた。マレンティナの親切な友人から与えられた忠告を厳重に守って、私たちはそのまま数時間隠れつづけ、六人ほどの戦士の一隊が隠れ場所の下の道を通過して、昨夜私たちが通った山道を経て丘のあいだへはいって行くまで、じっとしていた。
その一行が完全に私たちの隠れている洞窟が見えないところまで進んだと思われるころ、サバン・ディンと私はそっとはいだして彼らのあとを追い、丘のあいだをかなり進んだところで追いついた。
追いつく直前に、私は大声で一行の指揮者に呼びかけた。彼らは全員立ちどまって、こちらを振り返った。いよいよ重大な試練の瞬間がきた。この連中をだますことさえできれば、あとはわりあい楽にいくだろう。
「カオール!」と私は一行に近づきながら叫んだ。
「カオール!」と指揮者の士官が答えた。
「私たちはイラールからきました」私は、オカールの最も遠い僻地にある、カダブラとはほとんど交流のない都市の名をあげて、しゃべりつづけた。「きのう着いたばかりなのですが、けさ、城門の衛兵指揮官から、あなたがたがオルラック狩りに出かけるという話を聞いたもので、いっしょに連れて行ってもらおうと急いで追いかけてきたのです。なにしろ、オルラック狩りは私どもの地方では味わえない楽しみですからね」
士官は完全にだまされて、愛想よく同行を許可した。彼らがオルラック狩りに行くところだろうと当てこんだのが、ぴたりと当たったわけである。それというのもタルーが、私たちが谷にはいるとき通る山道を経てカダブラを出て行く一行があれば、その目的は十中八九、オルラック狩りだと教えてくれたのだった。この山道は、あの巨大な肉食獣が出没する広大な平原へまっすぐ通じている。
狩猟に関するかぎり、この日は失敗に終わり、オルラックはただの一匹も見つからなかった。しかし、このことが幸運というだけでは言いたりないくらいのうまい結果を私たちにもたらすことになった。狩りの不首尾をひどく残念がった黄色人たちは、都へもどるのに、けさ出発したときと同じ門からはいろうとはしなかったのである。どうやら連中は、その門の衛兵隊長に、この危険なスポーツにおける自分たちの腕前をさんざん自慢してきたらしかった。
そんなわけで一行は、朝出発した地点から数マイルはなれたところにあるカダブラの城門へ近づいて行き、おかげで、この狩猟隊のことを私たちに教えてくれたことになっている衛兵隊長と厄介な問答をして窮地に追いこまれる恐れはなくなった。
都のすぐ近くまできたとき、私は、空高く四、五百フィートもそそり立っている黒い円柱に注意をひきつけられた。その円柱の根もとには、何かのがらくたか残骸のようなものが、ところどころ雪に覆われながら、ごたごたと山のように積み重なっていた。
これについて、私は何も質問しようとはしなかった。黄色人なら知っているにきまっていることを知らないのかと怪しまれてはたいへんだと思ったからだ。ところが、城門に到着しないうちに、この無気味な円柱の用途と、その根もとのがらくたの山の意味がわかることになった。
城門の直前まできたとき、一行の一人が仲間に呼びかけながら、遠い南の地平線を指さした。その方角に目を向けると、周囲を取り巻く丘の上空から急速にこちらへ近づいてくる大きな飛行船の姿が見えた。
「いまだに、禁断の北極の秘密をつきとめようとする愚か者がいるんだなあ」と士官がなかばひとり言《ごと》のように言った。「やつらの命とりの好奇心は絶対になくならないのかな」
「なくならないことを祈りますよ」と戦士の一人が応じた。「そんなことになったら、奴隷やなぐさみの種に困るじゃないですか」
「まったくだ。それにしても、一人としてもどってきたものがない地域へ相変らずやってくるとは、なんというばかなやつらだ」
「最期を見物して行こうじゃありませんか」と戦士の一人が提案した。
士官は都のほうをながめた。
「見張りがもう見つけたな」と彼は言った。「ここにいることにするか。何かのお裾《すそ》分けにあずかれるかもしれない」
都のほうを見ると、いちばん近い門から数百人の戦士が出てくるところだった。彼らは、急ぐ必要などないというように、悠然《ゆうぜん》と歩いていた――たしかに、その必要がないことが、私にもすぐわかることになったのである。
私はもう一度、飛行船のほうに目をむけた。それは都にむかって急速に進んでくる。そして、かなり近くまできたとき、その推進器が空《から》まわりしているのを見て私はびっくりした。
船は一直線に無気味な円柱にむかっていた。ついには巨大なプロペラの羽根が逆進回転を開始するのが見えたが、それでも船は、まるで何か抵抗しがたい強大な力に引きつけられるかのように進みつづけた。
甲板の上では大騒ぎが始まっていた。乗組員があちらこちらへ走りまわって、砲撃準備をしたり、火星のすべての戦艦に搭載《とうさい》されている一人乗りの小型機の一隊を発進させようとしたりしている。船は黒い円柱めがけてぐんぐん近づいて行った。いまにも衝突するにちがいない。そのとき、母船の甲板から小型機を一斉発進させる見なれた信号旗がさっとひるがえった。
たちまち、巨大なトンボが群がり飛ぶように、百隻の小型快速船が甲板から舞い上がった。しかし、戦艦から離れるやいなや、いっせいに機首を円柱のほうに向け、いまや母船に迫りつつある避けがたい破局をめざして、同じように猛スピードで突進した。
たちまちのうちに衝突が起こった。乗組員たちは大型船の甲板から四方八方にほうり出された。船は船体がねじ曲がり、はるか下の円柱の根もとのがらくたの山をめざして墜落して行った。
それとともに、次から次へと堅い円柱に激突した小型機の群れがばらばら落ちはじめた。
私は、こわれた船が円柱の側面をこするように落下し、しかも落ちる速度が思ったほど速くないことに気づいた。と突然、この円柱の秘密が解け、それと同時に、氷の断崖をこえて奥地深く侵入した飛行船がけっしてもどらなかった理由がはっきりした。
この円柱は強力なマグネットで、バルスームのあらゆる船舶の建造に最も多量に使われるアルミニウム鋼を引きつける力を持っているのである。だから、ひとたびその強力な引力圏内に船がはいってしまった場合、いま目撃したような結果を免れることはなんとしても不可能なのだ。
あとになって、この円柱が火星の磁極の真上に立っていることがわかったが、このことがなんらかの点で円柱のはかり知れない引力を増大させているのかどうかはわからない。私は戦士であって、科学者ではないから。
ここでようやく、タルドス・モルスとモルス・カジャックの長いあいだの行くえ不明も説明がついた。カーソリスが消息を絶って、その美しい母、ヘリウムの王女デジャー・ソリスが悲嘆の涙にくれたあと、あの勇猛果敢な二人の戦士は、カーソリスを捜そうとして、氷に閉ざされた北極の神秘と危険に大胆にも挑戦したのだ。
最後の小型機が円柱の根もとに墜落するやいなや、黒いひげをはやした黄色人戦士の群れがおびただしい船の残骸の上に殺到して、無傷の者を捕虜にしたり、ときどき彼らの侮辱にかっとなった負傷者を剣で刺し殺したりした。
少数の無傷の赤色人が残酷な敵と勇敢に戦ったが、大部分は突然身にふりかかった恐ろしい破局に圧倒されすぎているためか、気力を失って屈服し、金色の鎖につながれてしまうだけだった。
最後の捕虜がつかまってしまうと、私たちの一行は都へもどって行った。門のところで、金の首輪をつけた獰猛なアプトの群れに出会った。一匹ずつ、首輪と同じ金属の丈夫な鎖でつながれながら、二人の戦士の間にはさまれて歩いていた。
門の外へ出るとすぐ、付添いの戦士たちは恐ろしい猛獣の群れを全部放した。猛獣どもが無気味な黒い円柱めざして飛んで行ったとき、その目的は、だれにきくまでもなく明白になった。無数の飛行船のめちゃめちゃになった残骸の上には不運な死者や死にかけている者たちが置きざりにされている。もし彼らよりずっと救援を必要とする者たちがカダブラの都の中にいなかったとしたら、私は急いで引き返し、これらの死傷者を引き裂きむさぼり食おうとしている恐ろしい猛獣どもと戦いたいという気持を押えることはできなかっただろう。
だが、いまは、うなだれて黄色人戦士のあとにつづき、こんなにもやすやすとサレンサス・オールの首都へはいりこめるようにしてくれた偶然に感謝するほかはなかった。
ひとたび門の中へはいってしまうと、朝いっしょになった一行から離れるのは造作もないことだった。そして、まもなく私たちは火星のホテルにはいった。
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十 監禁されて
バルスームのホテルはどこへ行っても似たり寄ったりのものだった。そこでは夫婦者以外は人目を避けることができないようになっている。
妻を同伴していない男たちは大きな部屋へ通される。部屋の床はたいてい白い大理石か頑丈なガラス板で、入念にみがきあげられている。ここに客の寝具用の絹や毛皮を置くための一段高くなった小さな壇がたくさん並んでいる。客が自分の清潔な寝具を持っていない場合には、ごく安い料金で貸してくれる。
ひとたび自分の持ち物をこの壇の上に置けば、そのホテルの客ということになり、その壇はホテルを立ち去るまで客のものになる。火星には泥棒はいないから、持ち物をかきまわされるような恐れはない。
警戒しなければならないのは暗殺だけである。ホテルの経営者は武装した警備員を雇って、昼も夜も寝室の見まわりをさせている。通例、その警備員の人数と彼らの装具の豪華さの程度により、ホテルの格付けがきまっている。
これらのホテルでは食事は出さないが、たいてい、すぐ隣りに公共食堂がある。寝室につづいて浴室があり、客はみな毎日の入浴を要求され、こばむと宿から出て行かなければならない。
ふつう、二階か三階に女性の一人客用の大きな寝室があるが、その設備は男客の部屋とたいして変わりはない。女客の護衛をする警備員は寝室の外の廊下にとどまり、女奴隷が室内の眠っている女客のあいだを見まわって、非常の場合には警備員に知らせる。
泊ったホテルの警備員がことごとく赤色人であることに気づいて私はびっくりした。その一人にきいてみると、彼らはホテルの経営者が政府から買いとった奴隷だということがわかった。私の寝台付近を持ち場にしている警備員はある大国の海軍司令官だった。だが不運にも、彼の旗艦は氷の断崖をこえてあのマグネット円柱の引力圏内に飛びこんでしまったので、もう何年ものあいだ黄色人の奴隷となっているという。
彼の話によると、黄色人のために働いている召使のなかには外界の王子や王《ジェド》、さらには皇帝《ジェダック》までいるということだった。しかし、モルス・カジャックやタルドス・モルスの消息をたずねると、彼は首を横に振って、その二人の外界での名声はよく知っているが、この国で捕虜になっているという話はぜんぜん聞いたことがないと答えた。
また、彼はサーンの教皇やファースト・ボーンの黒色人の貴族《ダトール》がきたという噂も聞いてはいなかったが、じつをいえば宮殿の中の出来事は自分にはほとんどわからないのだと急いで弁解した。黄色人が氷の断崖のむこうからきた赤色人捕虜のことを名ざしであれこれと聞きたがり、その上、自分の同族の習慣や事情についてひどく無知なので、この男は少なからず驚いているらしかった。
じつは、自分の寝台のそばを歩きまわる赤色人を見つけたとたんに、私は自分が変装していることを忘れてしまったのである。しかし相手の顔にしだいに驚きの色がこくなったのが、ちょうどいい警告になった。何かの役に立つのでもないかぎり、だれにも自分の正体を知らせる気はなかったし、それに、この気の毒な男がどんな役に立つものやらまだわからない。それでも、いずれは、この男をはじめ、カダブラの残酷な主人たちの言いなりになっている無数の捕虜たちのために働くことになるかもしれない。そのことはすでに考えていたのである。
その晩、何百という同室の黄色人にかこまれながら、サバン・ディンと私は絹と毛皮の寝具の中にいっしょにすわって、今後の計画を検討した。私たちは小声でささやきかわしたが、共用の寝室では、それは礼儀上当然のことにすぎなかったから、べつに怪《あや》しまれはしなかった。
相談はけっきょく、市中の様子を探って、タルーが考えてくれた計画を実行に移すチャンスをつかむまでは何を考えたところで役にはたたないということになり、二人は就寝の挨拶をかわして眠りに落ちた。
翌朝、朝食をすませると、私たちはカダブラの街を見に出かけた。気前のいいマレンティナの王子からオカールの通貨をたっぷりもらっていたので、立派な地上快走車を買いこんだ。操縦法はマレンティナ滞在中に習得していたから、二人はこれを乗りまわして市中の様子を探り、楽しい有益な一日を過ごした。そして午後遅く、政府の役人が自分の役所にいるはずの時刻だとタルーが教えてくれた時刻に、宮殿の敷地の向かい側の広場にある壮大な建物の前で車をとめた。
入口の武装した衛兵の前を堂々と通って建物の中へはいって行くと、赤色人の奴隷が出てきて用件をたずねた。
「きみのご主人のソラブさんに伝えてもらいたい。イラールからきた二人の戦士が宮殿警固の任務につきたいと言っているとね」と私は言った。
ソラブは親衛隊の司令官である。そしてオカールの僻地《へきち》の都市、とりわけイラールのような土地からきた連中なら、長年のあいだサレンサス・オールの王室をよごしている陰謀の毒にかぶれることもあまりなさそうだから、きっと歓迎を受け、めんどうな質問もされないだろう、というのがタルーの意見だった。
タルーは、ソラブの検閲に合格するのに必要と思われる知識のあらましを前もって教えてくれた。ソラブの検閲のあと、私たちはさらにサレンサス・オールの面前で審査を受け、肉体的適性と戦士としての能力を判定されるのである。
黄色人戦士が持っている例の奇妙な鉤のついた剣とカップ状の楯の使い方についてほとんど何の経験もないことを思えば、私たち二人のどちらかでもこの最終テストに合格する見込みはまずなさそうだった。しかし、ソラブの試験に通れば、そのあと皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》が私たちの最終テストを行なう暇を見つけるまでの数日間はサレンサス・オールの宮殿の中に泊まれるようになるかもしれなかった。
控え室で数分待ったあと、ソラブの事務室に呼びいれられ、獰猛そうな黒いひげをはやした軍人に丁重に迎えられた。彼は私たちの名前や出身都市での身分をたずね、答えを聞くと明らかに満足した様子で、いくつかの質問をしたが、いずれもタルーがきかれることを見こして返答を用意しておいてくれた質問ばかりだった。
面接が始まってから十分とはたたないうちに、ソラブは副官を呼んで、所定どおり私たちの記録をとり、宮殿内の親衛隊志願者用の宿舎へ連れて行くように命じた。
副官はまず自分の事務室へ私たちを連れて行き、特別に考案された精巧な機械を使って私たちの身長や体重の測定と写真撮影を同時に行なった。その記録の写しが五枚、たちまちのうちに政府の五つの別々の役所で複写されたが、そのうちの二つは何マイルも離れたほかの都市にある役所だった。それから副官は私たちをともない宮殿の庭を抜けて衛兵本部へ行き、係りの士官に私たちを引きわたした。
この士官がまた簡単な質問をしたあと、ようやく一人の兵士の案内で宿舎にむかった。宿舎は宮殿の裏側の仕切り壁でつづいている塔の二階にあった。
なぜ衛兵所からこんなに離れたところに泊るのかと案内役の兵士にきくと、親衛隊の古参兵が志願者の勇気をためそうと喧嘩《けんか》をふっかける風習があり、その結果、あまりにも多数の死者が出たので、この風習があるかぎりは親衛隊の完全な兵力を維持してゆくのがむずかしくなったのだと答えた。つまり、サレンサス・オールは志願者の宿舎を切り離し、古参の衛兵に攻撃されないように志願者たちをこの塔の中に厳重に閉じこめることにしたというのである。
このありがたくない情報のおかげで、私たちのねり上げた計画はにわかに一頓挫《いちとんざ》をきたした。これでは私たちは、サレンサス・オールが最後の能力テストを行なうときがくるまで、宮殿の中に捕虜として監禁されるのも同然ではないか。
私たちがデジャー・ソリスとプタースのサビアの捜索を大いに推進しようと当てにしていたのは、この最終テストまでの待機期間だったのである。案内役の衛兵が私たちを宿舎に残して戸口を出たあと、大きな錠のかかる音を聞いたときの無念さは、なんともたとえようがなかった。
私は顔をしかめてサバン・ディンのほうを振り返った。相棒はしょげ返った様子で首を横に振るばかりだった。そして部屋の向こう側の窓へ歩み寄った。
だが、その窓の外を見るやいなや、興奮と驚愕《きょうがく》を押し殺した声で私を呼んだ。すぐに、私は彼のそばへ飛んでいった。
「見たまえ!」とサバン・ディンは下の中庭を指さして言った。
指さされた方角に目をやると、建物に囲まれた庭の中をそぞろ歩きしている二人の女の姿が見えた。
次の瞬間、私は二人の女の顔を見分けた――デジャー・ソリスとプタースのサビアだ!
南極から北極まで、はるばるこの遊星を縦断してあとを追ってきた相手が、いま目の前にいる。私との間をへだてるものは、わずか十フィートの空間と数本の窓の鉄棒だけである。
私は大声をあげて彼女たちの注意をひき、デジャー・ソリスが上をむいて私の目をまともに見つめたとき、バルスームの男が女に送る愛のサインを送った。
ところが、ぞっとするほど驚いたことには、彼女は頭をつんとそらせて、美しい整った顔にまぎれもない軽蔑の色を浮かべたかと思うと、くるりと背を向けてしまった。私のからだは無数の戦いの傷あとに覆われているが、これまでどんな手傷を負ってもこれほどの苦痛を味わったことはなかった。一人の女の視線が刃金《はがね》のように私の心臓を刺しつらぬいたのだ。
私はうめき声をあげて顔をそむけると、両腕で顔を覆った。大声でサビアに呼びかけるサバン・ディンの声が聞こえた。だが、すぐに驚きの叫びがあがって、彼もまた自分の娘にはねつけられたことがわかった。
「耳を傾けようともしないぞ」とサバン・ディンは私にむかって叫んだ。「二人とも耳を手でおおって、庭の奥へ行ってしまった。こんなばかげたことがあるだろうか、ジョン・カーター。きっと二人とも、魔法をかけられているのだ」
まもなく、私は勇気を奮《ふる》い起こして窓辺へもどった。たとえすげなくはねつけられようとも、私は彼女を愛していたし、あの神々しいばかりの美しい容姿を見る喜びを押えることはできなかったからだ。しかし、私に見られていることに気づくと、デジャー・ソリスはふたたび顔をそむけた。
彼女の異様なそぶりを解しかねて、私は途方にくれた。それにサビアまでが父親を嫌悪するとは信じられない。私はあの邪教を打ち破って火星の人々を救ったはずだが、比類なき私の王女はいまだにあの恐ろしい信仰にしがみついているのだろうか。私がドール谷からもどってきたというので、あるいはホーリー・サーンや彼らの神殿を冒涜《ぼうとく》したというので、嫌悪と軽蔑のまなざしを私に向けるというのか。
これ以外には彼女の異様な態度の原因となるものは何も考えつけなかったが、それにしても、そんなことが原因でこうまで冷たくあしらわれるとは、とうてい思えなかった。ジョン・カーターに対するデジャー・ソリスの愛は偉大な愛、世にも稀《まれ》な愛だったのではないのか――人種の違いや、主義、信仰をはるかに超えた愛だったのではないのか。
とりすました彼女のうなじを悲しげに見つめていると、庭の向こう側の門が開き、一人の男がはいってきた。男は庭にはいりながらうしろを向き、門の外にいる黄色人の衛兵のてのひらに何かをすべりこませた。私のところからはたいした距離ではなかったので、二人の間でやりとりされたのが金であることがわかった。
私はすぐに、この新来者が庭にはいるために衛兵を買収したことをさとった。男は二人の女のほうを向いた。それはほかならぬファースト・ボーンの黒色人|貴族《ダトール》サリッドだった。
彼は女たちのすぐそばに近づいてから声をかけた。その声に振り返ったとき、デジャー・ソリスはうしろへ身をひいた。
サリッドはいやらしい目つきで彼女のそばに歩み寄り、ふたたび話しかけた。その言葉は聞きとれなかったが、彼女の答えははっきりと聞こえた。
「タルドス・モルスの孫娘はいつでも死ぬ用意があるのです。あなたの言うようなことをしてまで生きてはいません」
すると、黒い悪党は彼女のそばにひざまずき、地に頭をすりつけんばかりにして嘆願しはじめた。その言葉はところどころしか私の耳には聞こえなかった。彼はいかにも激情と興奮に駆られて苦しみ悶《もだ》えているようだったが、人に気づかれることを恐れて大声をださないこともまた明らかだった。
「きみをマタイ・シャンの手から救ってやりたいんだ」と言っている声が聞こえた。「あの男につかまっていれば、どんな運命が待ちうけているか、わかっているだろう。それよりはいっそ私を選んだほうがいいんじゃないか」
「どちらも選びません」とデジャー・ソリスは答えた。「たとえ選ぶ自由があったとしても、わたしがそんなことをするはずがないことは、よくご存知でしょう」
「きみは自由なんだ!」とサリッドは叫んだ。「ヘリウムの王子ジョン・カーターは死んだのだぞ」
「そんなことを信じるものですか。でも、たとえあのかたが亡くなって、ほかの相手を選ばなければならないとしても、その相手はマタイ・シャンや、あなたのような黒いキャロットよりは、植物人間か大白ザルのほうがまだましでしょうね」と彼女はさげすみの色を浮かべて答えた。
とつぜん邪悪な獣のような男は自制心を失い、下劣なののしり声とともにかぼそい女性に飛びかかり、柔らかな咽喉を荒々しくつかんだ。サビアは悲鳴をあげて駆けつけ、連れを助けようとした。それと同時に、私も狂気のようになって、目の前の窓にはめこまれた鉄棒をぐいと引っぱり、まるで銅の針金のように受け穴から引き抜いてしまった。
私はその隙間から庭へ飛びおり、黒色人がデジャー・ソリスを締め殺そうとしているところからわずか百フィートの地点におり立った。そしてたった一跳びでサリッドのそばにたどりつくと、物も言わずに美しい咽喉から汚らわしい手を引きはがし、その体を二十フィートも離れたところへ投げ飛ばした。
サリッドは憤激のあまり口から泡を吹かんばかりの形相《ぎょうそう》で立ちあがると、怒り狂った雄牛のように突進してきた。
「黄色人め」と彼は金切り声をあげた。「きさまはいったい、だれにその汚らわしい手をかけたと思っているんだ。きさまを片づける前に、ファースト・ボーンを怒らせたらどういうことになるか、よく思い知らせてやる」
そしてサリッドは私の咽喉をねらって手をのばしながら襲いかかってきた。私はかつてイサスの神殿の中庭でやったのとまったく同じことを、このサレンサス・オールの宮殿の庭でもう一度やってのけた。サリッドののばした腕の下へさっと身を沈め、相手の体が勢いよくわきを通り抜けようとする瞬間、強烈な右の一撃を顎《あご》の横に食らわせたのだ。
サリッドのほうも、あのときと同じことを繰り返した。彼は|こま《ヽヽ》のようにきりきり舞いしたかと思うと、ひざをがっくりと折って、私の足もとの地面に倒れてしまった。そのとき、背後で人の声がした。
それは人々を支配する者に特有の権威にあふれた太く低い声だった。振り返って、巨大な体躯の黄色人のまばゆいばかりに派手な姿と向かい合ったときには、だれにたずねるまでもなく、相手がサレンサス・オールであることがわかった。その右側にマタイ・シャンが立ち、二人の背後には二十人ほどの衛兵が控えていた。
「おまえは何者だ」と皇帝《ジェダック》は大声で言った。「いったい何のつもりで、この女どもの庭園の中に侵入したのか。おまえの顔には見覚えがない。どうやってここへきたのだ」
もし彼の最後の言葉がなかったら、私は自分が変装していることをすっかり忘れて、そくざにヘリウムの王子ジョン・カーターと名乗っていたにちがいない。しかし、彼の質問で私はわれに返り、頭上の鉄棒の引き抜かれた窓を指さして言った。
「私は親衛隊の志願者です。あの塔の中で最終テストを待っていたのですが、この野蛮な男が――こちらの女性を襲うのを窓から見つけました。私には手をこまねいて傍観していることができなかったのです、陛下。ところもあろうにこの宮殿の庭の中でこんなことが行なわれるのを見すごしたりしては、とても陛下にお仕えして警固の任に当たる資格はないと考えました」
どうやら私のもっともらしい答弁は、オカールの支配者に感銘を与えたようだった。彼がデジャー・ソリスとプタースのサビアを問いただし、二人がともに私の陳述に確証を与えると、形勢はサリッドにとってはなはだ不利なものになりはじめた。
デジャー・ソリスが自分とサリッドの間のやりとりを残らず物語ると、マタイ・シャンの邪悪な目がきらりと不穏な光を放った。そして話がファースト・ボーンの貴族《ダトール》を私が妨害したくだりになると、彼女が感謝していることがありありとわかった。ただ、その目の表情からすれば、何か奇妙な当惑を感じているようでもあった。
ほかの者がいるときのデジャー・ソリスの私に対する態度には、べつに何の不思議もなかった。しかし、サビアと二人だけで庭にいたときにすげなく私をはねつけたことは、いまだに私の胸にひどくこたえていた。
事件の調査が進むうちに、私がふとサリッドのほうを見ると、彼は急にはっとして目を見張り、不思議そうに私を見つめた。それから、だしぬけに私の面前で笑いだした。
たちまちサレンサス・オールが黒色人のほうを向いた。
「きみはこのような非難にたいして、そんな釈明をするつもりなのか」と皇帝《ジェダック》は重々しく厳しい口調でたずねた。「サーンの教皇が選んだ女を、あえて自分のものにしようというつもりか――皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》にふさわしいとさえ言えるかもしれぬ女を?」
そう言ってから、あたかもその言葉につられて新しい考えと欲望が胸の中に湧き起こったかのように、黒いひげをはやした暴君は急にデジャー・ソリスのほうにむさぼるような視線を投げかけた。
ちょうどそのとき、サリッドは悪意にみちた笑いを浮かべ、私を非難するように指さしながら答えようとしかけたところだったが、サレンサス・オールの言葉を聞き、その表情を見ると、急に中断してしまった。
サリッドの目が狡猾そうに光った。そして、その顔つきから、彼の次の言葉がいままでしゃべるつもりだった言葉とはちがうことがわかった。
「おお、最も偉大なる皇帝《ジェダック》」と彼は言った。「この男と女たちは真実を述べてはおりません。この男は女たちの逃亡を助けようとして庭の中へはいってきたのです。私は庭の向こう側で、彼らの話をふと耳にしました。そして庭へはいってくると、この女は悲鳴をあげ、男は私に飛びかかり、殺そうとしたのです。
陛下はこの男について何をご存じでしょう。まるで見知らぬ男ではありませんか。おそらく、この男は敵で、スパイだということがわかるでしょう。サレンサス・オール、あなたの友人であり、客であるファースト・ボーンの貴族《ダトール》サリッドよりは、この男のほうを審問してください」
サレンサス・オールは当惑した顔つきだった。彼はふたたび振り返ってデジャー・ソリスを見た。するとサリッドが彼のすぐそばまで歩み寄って、何やらその耳にささやいた――何のことだったのか、私にはわからない。
ほどなく黄色人の支配者は一人の士官のほうをむいた。
「この事件をもっとくわしく調べるひまができるまで、この男を厳重に監禁しておけ」と彼は命じた。「それから、この男を監禁するには窓の鉄棒だけでは不十分らしいから、鎖も使うがいい」
そして皇帝はうしろをむき、デジャー・ソリスを連れて――彼女の肩に手をかけながら――庭から出て行った。サリッドとマタイ・シャンも立ち去ったが、門まで行くと黒色人はこちらを振り返り、また私の顔を見つめて大声で笑った。
サリッドが私にたいする態度を急に変えたのはどういうことなのだろう。私の正体を感づいたのだろうか。きっとそうにちがいない。そして私の正体を暴露したのは、ふたたび彼を打ち倒したあのパンチ、あの早業《はやわざ》なのだ。
衛兵たちに引き立てられてゆくとき、私の心は痛烈な悲しみに沈んでいた。いまや、あのように長いあいだデジャー・ソリスを責めたて悩ましてきた二人の残酷な敵のほかに、もう一人、さらに強力な敵が加わった。いましがた、オカールの支配者、皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》サレンサス・オールの恐ろしい心の中に、とつぜんデジャー・ソリスへの野心が生まれたことは、よほどのばかでないかぎり、気がつかないわけにはいかなかったのである。
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十一 ご馳走地獄
サレンサス・オールの牢獄での苦しい生活はさほど長くは続かなかった。黄金の鎖につながれていた短期間のあいだに、私は何度も、プタースの皇帝《ジェダック》サバン・ディンはどうなっただろうかと考えた。
あの勇敢な仲間は私がサリッドに襲いかかったとき、あとを追って庭の中へはいってきた。そしてサレンサス・オールがデジャー・ソリスやほかの連中を連れて立ち去り、プタースのサビアを残して行ったとき、彼も娘とともに庭に残っていたが、衛兵たちと同じ身なりをしていたので人目を引かずにすんだようだった。
最後に見たときには、彼はサビアと二人だけになろうとして、私を護送していく衛兵たちが外へ出て門をしめるのを待っていた。はたしてあの二人は逃げのびることができただろうか。まず成功はおぼつかない気がしたが、それでも私は心の底から、そうあってもらいたいと思った。
投獄されてから三日目に、十人あまりの戦士がやってきて、私を謁見室へ連れて行った。そこでサレンサス・オールがみずから私の審問をすることになっていた。謁見室は大勢の貴族でぎっしり埋まり、そのなかにサリッドがいたが、マタイ・シャンの姿は見当たらなかった。
相変わらずまばゆいばかりに美しいデジャー・ソリスが、サレンサス・オールのそばの小さな玉座にすわっていた。そのいとしい顔に悲しげな絶望の表情が浮かんでいるのを見ると、私の胸は刃物でえぐられるように痛んだ。
彼女の席が皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》の隣りにあるということは、彼女と私にとっては凶兆というべきだった。彼女がそこにいるのを見た瞬間、私の心の中には、もしこの権力絶大な暴君の手中に彼女を残して行かなければならない場合には、断じて生きてこの部屋を出るまいという固い決意が生まれた。
私はサレンサス・オールよりすぐれた男を何人も殺している。それも素手でだ。もし彼を殺す以外にヘリウムの王女を救う方法がないとなったら殺してやろう、と私は自分自身に誓った。そんなことをすれば自分がたちまち死ぬ羽目に陥ることは少しも気にならなかった。ただ、それ以上デジャー・ソリスのために働けなくなってしまうことが気にかかった。そして、その理由だけのためにも、私は別の方法を選んでいたにちがいない。たとえサレンサス・オールを殺したとしても、それだけでは愛する妻を故国の人々のもとへ返すことにはならないからだ。そこで私は裁判の最終結果を待つことに決めた。そうすればオカールの支配者の意向もすっかりわかるし、こちらもそれに応じて行動できるだろう。
私がサレンサス・オールの前に出るやいなや、サリッドのほうも呼び出された。
「ダトール・サリッド」と皇帝《ジェダック》は口をひらいた。「きみはわしに奇妙な要請をしたが、きみの望みと、それがどこまでもわしの利益になるだろうというきみの約束に従って、わしは同意したのだった。きみの話では、ある事実を発表すれば、この囚人の有罪を立証することができるし、それと同時に、わしの切なる望みを満足させる道が開けるということだったな」
サリッドはうなずいた。
「では、貴族全員が集まっている前で、わしは声明しよう」とサレンサス・オールはつづけた。「この一年のあいだ、わしの隣りの玉座には妃《きさき》の姿がなかったが、いまここに、バルスーム随一の美女との誉《ほま》れ高き女性を妃《きさき》として迎えようと思う。これは何人《なんぴと》も否認することのできぬ声明である。オカールの貴族たちよ、剣を抜いて、ヘリウムの王女にして未来のオカールの皇后たるデジャー・ソリスに忠誠を誓え。定めの十日が終わるときに、彼女はサレンサス・オールの妻となるのだ」
皇帝《ジェダック》の結婚発表の際のオカールの古いしきたりに従って、貴族たちはいっせいに剣を抜き、高く掲《かか》げた。とたんにデジャー・ソリスがさっと立ちあがって、片手を高くあげながら、やめるようにと大声で叫んだ。
「わたしはサレンサス・オールの妻になることはできません」と彼女は訴えた。「わたしはすでに人の妻であり、母であるからです。ヘリウムの王子ジョン・カーターはまだ生きています。間違いなくそうだということが、わたしにはわかっているのです。マタイ・シャンがケオールの皇帝クーラン・ティスの宮廷であのひとに会ったと、娘のファイドールに話しているのを聞いたのですから。皇帝《ジェダック》は人妻とは結婚できないはずですし、サレンサス・オールも結婚の掟を破ったりはなさりますまい」
サレンサス・オールは険悪な顔つきでサリッドのほうに向き直った。
「わしをびっくりさせることがあると言っていたのは、このことなのか」と彼は叫んだ。「わしとこの女との結婚にはむずかしい障害は何もないと請《う》け合っていたではないか。それがどうだ、どうにもならない障害が現われたぞ。いったい、どういうつもりだ。答えられるのか」
「しかし陛下、もし私がジョン・カーターをあなたの手に引き渡すとしたら、約束を十二分に果たしたことになるとお思いになりませんか」とサリッドは答えた。
「たわけたことを言うな」と皇帝《ジェダック》は激怒して叫んだ。「わしはそんなことでだまされるような間抜けではない」
「私は自分にできることしか口に出さない人間としてお話しているだけです」
「それでは十日以内にジョン・カーターをわしに引き渡せ。さもないと、あの男をつかまえたら与えてやる刑罰を、おまえ自身が受けて死ぬことになろう!」と皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》は醜いしかめっ面《つら》をして、どなりつけた。
「十日も待つにはおよびません、サレンサス・オール」サリッドはそう答えると、急に私のほうを向いて、ゆびさしながら叫んだ。「ヘリウムの王子ジョン・カーターはそこに立っています!」
「ばかめ!」とサレンサス・オールは金切り声をあげた。「ばかめ! ジョン・カーターは白色人だ。こいつはわしと同じ黄色人ではないか。ジョン・カーターの顔にはひげがない――マタイ・シャンがそう言っていた。だが、この囚人には、オカールのすべての男と同じように、大きな黒い顎ひげと口ひげがあるではないか。さあ、衛兵、つまらぬ冗談でわしをからかい、命を粗末にしたがっているこの黒い気ちがいを、さっさと地下牢へほうりこんでこい!」
「待ってください!」サリッドはそう叫ぶなり、ぱっと前に飛びだし、私がその意図をさとるより早く、私の顎ひげをつかみ、顔と頭のあらゆる変装用具をむしりとって、その下のひげのない、日焼けした白い肌と、短く刈った黒い髪を暴露した。
たちまち、サレンサス・オールの謁見室は大混乱に陥った。戦士たちは私が皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》の暗殺をもくろんでいると思ったのか、手に手に白刃をひらめかせて押し寄せてきた。南極から北極までバルスームじゅうにその名の知れわたった男を見ようという好奇心から、仲間のうしろでひしめき合っている連中もいた。
私の正体が暴露されると、デジャー・ソリスは――顔に驚きの色をいっぱいに浮かべて――ぱっと立ちあがり、だれにも邪魔されないうちに戦士たちの人波をかきわけて、しゃにむに進んできた。そして一瞬のうちに彼女は私の前に立ち、両腕をさしのべ、偉大な愛の光に目を輝かせていた。
「ジョン・カーター! ジョン・カーター!」私はそう叫ぶ彼女を胸に抱き寄せた。そのとき、とつぜん、なぜ彼女があの塔の下の中庭で私をすげなくはねつけたのか、そのわけがわかった。
私はなんというばか者だったのだろう! マレンティナの理髪師が腕によりをかけた私のすばらしい変装を、彼女が見抜いてくれるものと思いこむとは! 彼女には私がわからなかったのだ。それだけのことである。そして見知らぬ男から愛のサインを送られて不愉快になり、当然、憤慨したというわけだった。まったく、私は間抜けだった。
「では、あなただったのね」と彼女は叫んだ。「塔の中からわたしに話しかけたのは! まさか、あの恐ろしいひげや黄色い肌の下に、わたしの愛するバージニア人が隠れているなんて夢にも考えられませんでしたわ」
デジャー・ソリスは私を呼ぶときの愛称として「わたしのバージニア人」という言葉をいつも使っていたものだった。その美しい名前が彼女のいとしい唇からもれるときの美しい響きを私が愛していることを知っていたからだ。いま、長いあいだ別れていたあとでふたたびその言葉を耳にすると、私の目は涙にくもり、感動のあまり声も出なくなった。
しかし、そのいとしい女のからだを力いっぱい抱きしめたのも束《つか》の間《ま》、サレンサス・オールが憤激と嫉妬に身をふるわせながら人波を押しわけて近寄ってきた。
「この男をつかまえろ」と彼は戦士たちにむかって叫んだ。たちまち無数の手が情け容赦もなく私たち二人を引きはなした。
オカールの宮廷の貴族たちにとって、ジョン・カーターが武器を取り上げられていたことは、まったく好都合だった。それでも、十人あまりの者に私のこぶしの威力を思い知らせてやったし、彼らに食いとめられるまでには、サレンサス・オールがデジャー・ソリスを連れて行った玉座の前の階段の中ほどまで懸命に戦いながら進んで行ったのである。
だが、そこで五十人もの戦士と戦って、ついに打ち倒された。それでも、彼らのめった打ちにあって気を失う前に、これまでのあらゆる苦労もむだではなかったと感じさせる言葉をデジャー・ソリスの口から聞くことができた。
暴君のそばに腕をつかまれながら立っていた彼女は、圧倒的に優勢な敵を相手にただひとりで戦っている私のほうを指さしながら叫んだ。
「サレンサス・オール、あのような立派な男の妻が、たとえ夫が千度死のうとも、夫より劣る男と結婚して立派な夫の記憶をけがすようなまねをすると思いますか。どこの世界を捜しても、ヘリウムの王子ジョン・カーターのような男が二人といるものですか。愛する一人の女のために、狂暴な野獣や野蛮人の群れをものともせず、戦いに明け暮れる遊星上を縦横無尽に駆けめぐって活路を切り開いてゆくことができる男が二人といるものですか。
わたしは、ヘリウムの王女デジャー・ソリスは、あのかたのものです。あのかたはわたしのために戦って、わたしを勝ちとったのです。もしあなたが勇気のあるかたならば、あのかたの勇気に敬意をはらって、殺したりはなさらないでしょう。サレンサス・オール、もしお望みなら、あのかたを奴隷になさってもいい。しかし、命は助けてください。わたしはオカールの妃《きさき》となるよりは、あのかたとともに奴隷になったほうがましなのです」
「奴隷だろうと妃《きさき》だろうと、サレンサス・オールに指図はできぬぞ」と皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》は答えた。「ジョン・カーターは飢えて死ぬまで|ご馳走地獄《ヽヽヽヽヽ》に閉じこめてやる。彼が死んだら、その日にデジャー・ソリスはわしの妃《きさき》になるのだ」
彼女の返答は聞けなかった。ちょうどそのとき、頭を一撃されて気を失い、意識を回復したときには、ごく少数の衛兵しか謁見室に残っていなかったのである。私が目をあけると、衛兵たちは剣先で私の体をつついて、立てと言った。
それから衛兵たちは私を連れて長い廊下を通り、遠い宮殿の中央近くにある中庭まで行った。
中庭のまん中には深い穴があり、そのまわりで五、六人の別の衛兵が私を待ちかまえていた。そのなかの一人は長いロープを手にしていたが、私たちが近づくと何やら支度をはじめた。
穴のまわりの衛兵たちから五十フィート足らずのところに近づいたとき、とつぜん私は手指の一本をちくりと刺されたような奇妙な感じを味わった。
一瞬、私はこの妙な感覚にとまどった。それから、異常な出来事の緊張にまぎれてすっかり忘れていたもの――マレンティナの王子タルーから贈られた指輪――の記憶がよみがえってきた。
ただちに私は穴のまわりの衛兵たちのほうに目をむけ、それと同時に左手を額のところまで上げて、指輪がそれを捜している相手の目に見えるようにした。すると待機していた戦士の一人が左手を上げて、髪をなであげるふりをした。その手の指に、私の指輪とそっくり同じものがはまっているのが見えた。
すばやく、意味深長な目くばせがかわされた。それっきり私はその戦士から目をそらし、二度と彼のほうは見なかった。ほかのオカール人たちに怪しまれてはいけない。
穴のそばまで行くと、それが非常に深いものであることがわかった。そしてこの穴が中庭の地下深くどのくらいのびているのかを、まもなく自分で判断しなければならぬ運命だと悟った。ロープを持っていた男がそれを私の体に巻きつけたが、それはいつでも上からロープをはずせるような巻きつけ方だったのである。やがてほかの戦士たちが総がかりでロープをつかむと、男は私を突きとばし、私はぽっかり口をあけた底知れぬ穴の中へころげこんだ。
穴の中へ私を落とすためにあらかじめ繰り出してあったロープがのびきって、体がいったん止まってから、彼らは大急ぎで、だが円滑に私を下へおろした。しかし投げこまれる直前、二、三人の男が私の体にロープを巻きつけるのを手伝っていたとき、そのなかの一人が私の頬近くに口を寄せ、無気味な穴にほうりこまれる前の一瞬の合間《あいま》に、たった一言《ひとこと》だけ私の耳にささやいたのである。
「元気を出せ!」
底知れぬ深さをもつと見えた穴は、せいぜい百フィートほどの深さだった。しかし、内側の壁はなめらかに磨きあげられていたので、千フィートの深さがあるのも同然だった。外からの助けがないかぎり、逃げだせる見込みはまったくない。
まる一日、私は暗黒に包まれたままだった。それから、まったくだしぬけに、輝かしい光が奇妙な獄房を照らし出した。私は投獄される前の日からずっと飲食物は何も口にしていなかったので、このころにはかなり空腹だったし、咽喉もかわいていた。
あたりが明るくなると、驚いたことには、なめらかで何もないと思っていた穴の内壁に棚がついていて、その上にオカール一番のご馳走といえるような飲食物が並んでいた。
私は喜びの叫びをあげて前に飛びだし、このご馳走に手を出そうとした。ところが、食物に手がとどかないうちに明かりが消えてしまった。そこで闇の中を手さぐりで捜しまわったが、手に触れるものといえば、最初に獄内を調べたときにさわったなめらかな固い壁のほかには何ひとつなかった。
すぐに飢えと渇きの苦痛が私を悩ましはじめた。さきほどまで飲食物に対する欲求はおだやかなものでしかなかったのに、いまでは耐えがたいほどの苦しみだった。何もかも、すぐに手のとどきそうなところに食物を見せつけられたせいなのだ。
ふたたび、周囲は暗黒と静寂に包まれた。ただ一度、あざけるような笑い声が沈黙を破っただけだった。
そしてまた、まる一日、牢獄生活の単調さを破るようなことや、飢えと渇きに倍加した苦しみをやわらげるようなことは何も起こらなかった。そして苦痛のあまり何かの神経の活動が鈍くなったのか、徐々に飢餓感も薄れてきた。と、またもや明かりがついて、目の前に、できたての、いかにもうまそうな料理の皿が、きれいな水のはいった大瓶や、外側に冷たい水滴のついたさわやかなブドウ酒の瓶とともにずらりと並んだ。
ふたたび、飢えに狂った野獣のように飛びだして、そのうまそうなご馳走をつかもうとしたが、また前と同じように、明かりが消えて、固い壁にぶつかるだけだった。
そして、またもや、嘲笑が響きわたった。
まさしく、ご馳走地獄だ!
ああ、この巧妙な責苦を考えついた人間はなんという残酷な心の持ち主だろう! 毎日毎日、同じことが繰り返されて、ついに私はいまにも気が狂いだしそうになった。それから、かつてウォーフーン族の地下牢に閉じこめられていたときにやったように、あらためて理性にしっかりとしがみつき、無理にも正気にたちもどろうとした。
まったく意志の力だけで、私はくずれそうになる精神を制御する力を取りもどした。それがきわめてうまくいったので、次に明かりがついたときには手のとどきそうなところにある、できたての、うまそうなご馳走を平然とながめながら、じっとすわっていることができた。それが幸いだった。おかげで、この消えるご馳走という不可解な謎を解く機会がつかめたのである。
私がいっこうに食物に手を出そうとしないので、拷問者《ごうもんしゃ》は明かりをつけっぱなしにした。こうしておけば、いまにきっと私ががまんしきれなくなって、いままで何度も実演した面白い道化芝居を見せるだろうと考えたにちがいない。
だが、私のほうは、ご馳走をのせた棚をつくづくながめて、ほどなくその仕掛けがわかった。それがあまりにも簡単だったので、いままでわからなかったのが不思議に思えるほどだった。牢獄の内壁はきわめて透明なガラスでできていて、そのガラスのむこうに飲食物を並べて見せているだけのことなのだ。
一時間ほどしてから明かりは消えたが、今度は嘲笑は――少なくとも拷問者側からは――起こらなかった。しかし私は、さあ、お返しをしてやるぞというように、低い声で笑った。それは狂人のうつろな高笑いとは似ても似つかぬ皮肉な笑い声だった。
九日たった。私は飢えと渇きのために弱っていたが、もはや苦痛は感じなかった――苦痛の時期は通りこしたのだろう。そんなとき、頭上の暗闇の中から小さな包みが降ってきて、そばの床の上に落ちた。
牢番どもが私をもっと苦しめようとして、何かまた新手《あらて》のいたずらでも思いついたのだろうと、私はたいして気にもとめず、手探りでそれを捜した。
やっと見つけると、それはごく小さな紙包みで、丈夫な細い紐の先端にくくりつけてあった。包みを開くと、数個の錠剤が床にこぼれ落ちた。拾い集め、その手ざわりと匂いを確かめてみると、バルスームじゅうどこの国でも使われている錠剤型の濃縮食糧だった。
毒だ! 私はそう思った。
だが、それがどうしたというのだ。この暗い穴の中のみじめな生活をもう二、三日長引かせるよりは、いますぐ|けり《ヽヽ》をつけたほうがましではないか。私は小さな錠剤を一粒とりあげると、ゆっくり口もとへ近づけた。
「さようなら、私のデジャー・ソリス!」と私はささやいた。「私はきみのために生き、きみのために戦ってきた。そしていま、それに次ぐ切なる願いが実現するよ。私はきみのために死ぬのだから」そして錠剤を口に入れて、むさぼるように食べた。
一錠ずつ、私は残らず食べた。このちっぽけな食物の中には、何か恐ろしい苦悶《くもん》にみちた死をもたらす毒がしこまれているにちがいないと思いながらも、こんなうまいものを食べるのは生まれて初めてのような気がした。
獄房の床の上に静かにすわって最後のときがくるのを待っていると、指先がふと、錠剤を包んであった紙きれに触れた。それをなにげなくいじりまわしながら、死ぬ前のほんのわずかな時間、長い人生の数々の幸福な思い出のいくつかをたのしもうとして遠い過ぎ去った日々に思いをはせているうちに、手の中の羊皮紙に似た紙片のなめらかな表面になにやら奇妙な隆起があることに気づいた。
しばらくの間は、べつに何の意味も感じなかった――ただ、そんなものがあるので、ちょっと不思議な気がしただけだった。だが、とうとうそれは何かの形をなしているように思えてきた。そして、ただ一行だけ、文字のようなものが並んでいることをさとった。
いちだんと興味をそそられた私は、その隆起をたどって何度も指先を往復させた。そこには、はっきりと四つに分かれた隆起した線の組み合わせがあった。これは四語の言葉なのだろうか。そして、私に通信を送ろうとしたものなのだろうか。
考えれば考えるほど私は興奮して、ついには紙片の表面の不可解な小さなでこぼこの上を狂ったように指先でなでまわした。
だが、さっぱりわけはわからない。まもなく、あまり性急にやるから謎が解けないのだと考えて、もっとゆっくりと撫でてみることにした。私の人さし指は何度も何度も、四つのうちの最初の隆起模様の上をなぞりまわした。
火星の文字を地球人に説明するのはなかなかむずかしい――それは速記文字と象形文字のあいのこじみたところがあって、火星の口語とはまったく異なる言語である。
バルスームには口語はたった一つしかない。
それはバルスームに人間の生活がはじまってから現在にいたるまで、ありとあらゆる種族や国民によって話されている。その言葉はこの遊星の学問や科学的業績とともに発達してきた非常に精巧な言語で、新しい思想を表現したり、新しい状態や発見を説明したりする新語はひとりでに作りだされるほどである――この自然に生まれる言葉のほかには、新語を必要とする事柄を説明できる言葉は存在しない。それゆえ、二つの種族や国民がどんなに遠く離れた地域にいようとも、両者の話す言葉はまったく同じなのである。
しかし、書く言葉のほうはそういうわけにはいかない。二つの国が同一の文章語を持っているということはないし、同じ国のなかの一都市の人間がその属する国の文章語とははなはだ異なる言葉を書くということもしばしばである。
そんなわけなので、紙の上の記号は、これが本当に言語だとしても、しばらくのあいだは頭をひねらざるをえなかったのだ。しかし、ついに私は最初の語を判読した。
それはマレンティナの文字で「元気を出せ」と書かれていたのだった。
元気を出せ!
それはご馳走地獄の穴のふちに立っていたとき、黄色人の衛兵がささやいた言葉だった。
この通信はあの男からきたものにちがいない。彼は味方なのだ。
希望を新たにして、私は通信の残りの文字の解読に全力を集中した。そしてついに努力は報いられた――四つの単語を判読したのである。
「元気を出せ! ロープ を たどれ」
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十二 「ロープをたどれ!」
何のことだろう。
「ロープをたどれ」だと? 何のロープだ?
ほどなく私は、紙包みが自分のそばに落ちてきたとき、それに結びつけられていた紐のことを思いだした。そこで、ちょっと闇の中を探ると、ふたたび紐に手が触れた。紐は上からぶらさがっている。引っぱってみると、上でおそらく穴の入口のあたりに固く縛りつけてあるようだった。
よく調べてみると紐は細いが、ゆうに数人の男の体重を支えられそうだった。それから、また一つ発見をした――ロープの私の頭の高さぐらいのところに、第二の通信が結びつけてあったのだ。今度は謎を解く鍵を握っていたから、ずっとたやすく解読できた。
「ロープを持ってくること。結び目(複数)のむこうに危険がある」
通信はそれだけだった。どうやら、あとから思いついて、急いでつけ加えたものらしかった。
第二の通信の内容を知ると、私はただちに行動に移った。「結び目のむこうに危険がある」という最後の警告の意味はさっぱりつかめなかったが、それにしても、このとおり目の前に脱出への道があるのだから、それを利用するのが早ければ早いほど、自由に到達する見込みも多くなるにちがいない。
少なくとも、このご馳走地獄にいるより悪くなることはまずあるまいという気がした。
しかし、このいまいましい穴からまだろくに抜けだしもしないうちに、もしもあと二分この穴にとどまることを余儀なくされていたらとんでもない状態に陥っていたにちがいないということをさとったのである。
その二分ほどの時間をかけて穴の底から五十フィートばかり上までのぼったとき、頭の上で物音がするのに気がついた。見あげると、残念なことには、はるか頭上の穴の蓋《ふた》が取りはらわれて、中庭の外光の中に数人の黄色人戦士の姿が見えた。
こつこつ骨を折ったあげく、何か新手の罠の中へ飛びこんでいるのだろうか。やっぱり、あの通信はにせものだったのだろうか。希望と勇気がどん底までくずれおちかけたとき、二つのものが目にとまった。
一つは穴の口から私のほうへ降ろされてくる巨大なアプトがもがきまわり、うなり声をあげている姿だった。そして、もう一つはこの竪穴《たてあな》の内壁に口をあけている横穴だった――それは人間が十分もぐりこめるぐらいの穴で、ロープはその中へつづいていた。
その目の前の暗い横穴へ私がはいずりこんだとたんに、アプトは私をつかまえようと大きな前足をのばし、すさまじい勢いで怒号しながらすぐそばを通り過ぎていった。
いまや、サレンサス・オールが私のためにどんな最期を予定していたのか、はっきりとわかった。皇帝《ジェダック》はさんざん私に飢餓の責苦を与えた後、この狂暴な獣を牢内へ降ろして、その残酷きわまる想像力が生みだした刑罰の仕上げをしようと企んでいたのだ。
つづいて、もう一つの事実が頭にひらめいた――サレンサス・オールは定めの十日の期間が経過しなければデジャー・ソリスを妃《きさき》に迎えることができないのだが、私はすでにそのうちの九日間を生きてきた。してみれば、アプトを降ろしてきたのは、十日目にならないうちに私を確実に殺すためにほかならない。
私は思わず大声で笑いだしそうになった。このサレンサス・オールの安全第一を狙《ねら》って打った手が、彼の計画そのものをくつがえす手助けをするのではないだろうか。彼らはあとでご馳走地獄の穴の中にアプトだけしかいないのを見れば、アプトが私を食いつくしたとしか考えようがなくなるだろう。そうなれば私が逃げたと思って捜索することもないわけだ。
奇妙ななりゆきで横穴のところまで私を運んでくれたロープを巻きとりながら、そのもう一方の端を捜した。しかし、いくらロープをたどって前進しても、ロープは先へ先へとのびていた。そうか、「ロープをたどれ」という言葉の意味はこのことだったのか。
私がはいこんだ横穴は天井が低く、暗かった。それをたどって五、六百ヤード進んだとき、指先に結び目が触れた。「結び目のむこうに危険がある」
そこで、できるだけ用心しながら進むと、すぐにトンネルは急角度に曲がり、まばゆい明かりのついた大きな部屋の入口に出た。
いままで通ってきた横穴がゆるやかな登り坂になっていたことから判断すると、現在のぞきこんでいる部屋は宮殿の一階か、そのすぐ地下にあるにちがいなかった。
部屋の奥の壁ぎわには奇妙な器具や機械装置がたくさん並び、部屋の中央にある長いテーブルの前には二人の男がすわって熱心に話し合っていた。
こちらに顔を見せているのは黄色人で――青ざめた顔をした、小柄のやせこけた老人で、虹彩のまわりの白眼《しろめ》をすっかりむきだしにした大きな目をしていた。
その相手は黒色人だった。それがサリッドだということは、顔を見るまでもなくわかった。氷の断崖の北側に彼以外のファースト・ボーンがいるはずはない。
二人の話し声が聞こえるところまで行くと、サリッドがこんなことをしゃべっていた。
「なあ、ソラン。危険はなにもないし、報酬は大きいんだ。きみはサレンサス・オールを憎んでいるのだろう。彼の大事な計画をくつがえすことぐらい愉快なことはないはずじゃないか。いまの彼にとってヘリウムの美しい王女と結婚しようという計画ほど大切なものはないんだ。しかし、おれも王女がほしいし、きみに助けてもらえれば、彼女をおれのものにすることができるんだ。
おれが合図をしたとき、ほんのちょっとの間、この部屋から出てくれるだけでいい。あとのことはおれがやる。そして、おれが行ってしまったら、きみは部屋へもどってきて大スイッチを元へもどせばいい。それで何もかも元どおりになる。おれに必要なのは出発後一時間だけ、この宮殿の地下の秘密室できみがコントロールしている恐ろしい磁力の影響を受けないようにすることなのだ。ほら、じつに簡単なことじゃないか」黒色人の貴族《ダトール》はそう言って立ちあがると、部屋を横切って、むこう側の壁から突き出ている大きなぴかぴか光る把手に手をかけた。
「ちがう! ちがう!」小柄な老人は狂気じみた悲鳴をあげてサリッドのあとから飛びだし、大声で叫んだ。「それじゃない! それじゃないんだ! それは太陽光線タンクの調節レバーだ。そいつを下げすぎた日には、元にもどすひまもなく、カダブラじゅうが丸焼けになってしまう。どいてくれ! どいてくれ! あんたはどんなに偉大な力をもてあそんでいるのかわかっておらんのだ。あんたが捜しているのはこのレバーだ。その黒檀《こくたん》の表面に記号がわりにはめこんである白いものをよく見ておくがいい」
サリッドは歩み寄って、ハンドルをじっと見つめた。
「なるほど、マグネットか。忘れないぞ。では、これで話はきまったな」
老人はためらった。強欲と不安のいりまじった表情が醜悪な顔に広がった。
「金額は倍にしてもらおう」と老人はいった。「それでも、あんたが要求している仕事の代償としては少なすぎるくらいだ。いいかな、この立入禁止のわしの仕事場の中へあんたを入れていることでさえ、命がけなんだよ。万一こんなことをサレンサス・オールに知られようものなら、たちまちわたしはアプトの前にほうり出されてしまうことだろう」
「彼にそんなことをやる勇気があるものか。きみもよく承知していることじゃないか、ソラン」と黒色人は反駁した。「きみがカダブラ市民に対して握っている生殺与奪《せいさつよだつ》の権はあまりにも大きいから、サレンサス・オールだってきみを殺すとおどかすような危ないまねはできやしない。彼の手先がきみに手出しをする前に、たったいまおれに注意をしたその把手をつかんで都を全滅させることができるのだからな」
「ついでにわし自身もか」とソランは身震いしながら言った。
「しかし、どのみち死ぬということになれば、そうする勇気もでてくるさ」
「そうだな」とソランはつぶやいた。「そのことは、わしもよく考えたものだ。ところでファースト・ボーン、あんたの大事な赤色人の王女はわしの要求する金額だけの値打ちがあるのか、それとも彼女をあきらめて、あしたの晩、サレンサス・オールに抱かせることにするのか、いったいどっちだね」
「金をとれ、黄色人め」サリッドはいまいましげに答えた。「いま半分、残りは約束を果たしたときだ」
そう言いながら黒色人の貴族《ダトール》は、ふくれあがった金袋をテーブルの上に投げ出した。
ソランは袋をあけ、ふるえる指先で金をかぞえた。その気味の悪い目には強欲の色が浮かび、もじゃもじゃの顎ひげと口ひげは口や頬の筋肉といっしょにぴくぴく動いた。この老人のこうした様子から見て、サリッドが彼の弱点を鋭く見抜いて、それにつけこんだことは明白だった――金をわしづかみにする指の動きにも、いかにも守銭奴らしい強欲さが現われていた。
金額にまちがいがないことを納得すると、ソランは金を袋の中にもどし、テーブルの前から立った。
「ところで」と老人は言った。「目的地までの道筋ははっきりわかっているのだろうな。洞窟まで行って、そこから強大な磁力のとどかぬところへ出るまで、すべてをわずか一時間のうちにすばやく片づけなければならんのだよ。わしのほうは、それ以上の時間を与えるわけにはいかないからね」
「もう一度くり返してみるから、どこにも間違いがないかどうか、確かめてくれ」
「言ってみなさい」
「まず、むこうの戸口をあけて」サリッドは部屋の奥のドアを指さしながらしゃべりはじめた。「廊下を進み右側にある三つの分岐通路を通過する。そして四番目の右側の分岐通路へはいって、まっすぐ三つの通路の分岐点まで行く。ここでまた右側の通路をたどるが、落とし穴を避けるために左側の壁にぴったりくっついて進む。この通路の突き当たりまで行くと、螺旋通路にぶつかるが、これは登らずに降りること。そのあとは、分岐通路のない一本道をたどって行く。どうだ、まちがいないか」
「そのとおりだよ、ダトール」とソランは答えた。「さあ、もう出ていってくれ。あんたはもう、この立入禁止の場所に長くいすぎたのだ」
「では、今夜かあした、合図をするからな」とサリッドは立ちあがりながら言った。
「今夜かあしただな」とソランはおうむ返しにつぶやいた。ドアが閉まって訪問者の姿が消えると、老人は何やらぶつぶつ言いながらテーブルの前へ引き返した。そこで、また金袋の中身をあけて、光り輝く金属の山をかきまわし、貨幣を積み重ねて小さな塔をいくつも作っては、何度も金勘定をくり返した。こうして財宝の山をいとおしげに撫でまわしている間、たえず低い小さな声で何かぶつぶつつぶやいていた。
やがて老人の指は金をいじりまわすのをやめた。彼は大きく目をむいて、サリッドが姿を消した戸口をじっと見つめた。小声のつぶやきが不満そうなささやき声に変わり、ついには聞き苦しいうなり声になった。
やがて老人はテーブルの前から立ちあがると、閉じたドアにむかってこぶしをふりあげた。いまでは声が高くなり、その言葉もはっきり聞きとれた。
「ばかめ! おまえにいい思いをさせるためにこのソランが自分の命をかけると思うのか。おまえが逃げれば、わしが共謀しないかぎり、そんなことができるはずがないとサレンサス・オールにすぐわかってしまうではないか。そうなれば彼はわしを呼び出そうとする。そこでわしに何をしろというのだ。自分もろとも都を灰にするのか。ばかめ! とんでもないこった。それよりはもっといい方法がある――ソランがおまえの金をいただいて、そのうえサレンサス・オールに復讐もできるという方法がな」
老人はいやらしい、かん高い声で笑った。
「哀れな愚か者め! おまえは大スイッチを切って、オカールの空を自由に飛べることはできるだろう。そして、いちおう無事に赤色人の王女もろとも自由をめざして進むこともできるだろう――だが、その自由は何の自由だ。死の自由だよ。ひとたびおまえがこの部屋を出て逃げてしまったら、ソランがこのスイッチを、おまえの手が触れる前の状態にもどすのをどうやって食い止められるのだ。どうしようもないだろう。そうなれば北極の守護神はおまえとおまえの女を生かしてはおかないし、サレンサス・オールもおまえたちの死体を見て、このことにソランが関係していようなどとは夢にも思うまい」
それから老人の声はふたたび低くなり、何やらわけのわからぬつぶやき声になってしまった。しかし、いま耳にしたことからでも、さらにいろいろなことを推測することができた。そしてデジャー・ソリスと私にとって、このような重大な意味をはらんでいるときに、折よく私をこの部屋へ導いてくれた神の摂理に感謝した。
しかし、いま、どうやってこの老人のそばを通り抜けたものだろうか。床の上のほとんど目にとまらないほど細い紐は、まっすぐ室内を横切り、向こう側の戸口にむかってのびている。
ほかに知っている道はないし、それに「ロープをたどれ」という忠告を無視することはできない。どうしてもこの部屋を通らなければならないのだ。しかし、いったいどうやって部屋のまんまん中にいる老人に見つからずに通り抜けたものやら、考えようがなかった。
むろん、老人に飛びかかって、素手で彼を永遠に沈黙させてしまうことはできるだろう。しかし、いままで立ち聞きしたことから判断すると、老人を生かしておけば、聞いた知識がそのうち役に立つかもしれないが、もし殺してしまって、ほかの人間が彼に代わってこの部屋の仕事をすることになれば、明らかにデジャー・ソリスを連れてこの部屋へくるつもりのサリッドもこなくなってしまうにちがいない。
地下道の端の暗い物陰に立って、何か打つ手はないものかと懸命に頭をひねりながら、こっそり老人の一挙一動を見まもっていると、彼は金袋をとりあげて部屋の片側へ行き、腰をかがめて壁の羽目板を手でごそごそやりだした。
そくざに私は、そこが財産の隠し場所なのだなと考えた。そして老人がこちらに背中を向けてかがみこんでいる間に、忍び足で部屋にはいりこみ、彼が仕事を終えて振り返らないうちに、できるだけこっそりと部屋を横切ろうとした。
全部で三十歩あるかないかの距離だったが、それでも私の緊張しすぎた心には、むこうの壁まで何マイルもあるように思えた。しかし、年老いた守銭奴の頭の裏側から一度も目をそらさずに歩いてついにむこう側にたどりついた。
私の手が行く手のドアを開閉するボタンに触れるまで、老人は振り返らなかった。そして私が戸口を通り抜けてドアをそっと閉めたとき、老人はむこうをむいて遠ざかっていった。
一瞬、私は立ち止まって耳を戸口に近づけ、老人が怪しんでいるような気配はないか確かめようとした。しかし、あとを追ってくる物音は何も聞こえなかったので、身をひるがえして、いままで前進しながら巻きとってきたロープをたどりつつ新しい通路を進んだ。
しかし、少し進むと、五本の通路の分岐点になっているところでロープが途絶えてしまった。どうすべきなのか。どの通路へはいるべきなのか。私は途方にくれた。
ロープの先端を注意深く調べてみると、何か鋭利なものできれいに切断されていることがわかった。この事実と、|結び目《ヽヽヽ》(複数)のむこうに危険があるという警告から判断すると、このロープは、味方の男が私の道しるべとして置いたあとで、何者かの手で切断されたにちがいなかった。なぜなら、ここまでくる間にロープの結び目はただ一つしかなかったが、警告にある結び目という言葉が複数になっている以上、ロープ全体には二つ、またはそれ以上の数の結び目があるはずだからだ。
いまや、私は完全に進退きわまった。どの道を行けばよいのか、また、いつ行く手に危険がとびだしてくるのか、何もかもわからなくなった。しかし、このままじっとしていても何の得にもならないから、とにかく通路の一つをたどる以外にどうしようもなかった。
そこで私はまん中の通路を選び、祈りの言葉をつぶやきながら暗いトンネルの奥へはいって行った。
その通路の床は進むにつれて登り坂になり、まもなく、どっしりした扉の前で急に行きどまりになった。
扉のむこうからは何の物音も聞こえなかった。そこで、いつもの向こう見ずを発揮して、いきなりドアを大きく押しあけて部屋の中へ踏みこむと、黄色人戦士がうじゃうじゃいた。
まっさきに私を見た男は目をまるくして驚いた。と同時に指がちくりとする感じがあり、指輪の味方がいることがわかった。
ほかの連中も私を見た。彼らはみな親衛隊員で、私の顔をよく知っていたから、つかまえようといっせいに殺到してきた。
まっさきに私のもとへたどりついたのは、私と同じ不思議な指輪を持っている男だった。彼はそばへくると、「私に降伏しなさい!」とささやき、つづいて大声で「さあ、つかまえたぞ、白色人め!」と叫んで、二つの武器で私を威嚇した。
そこでヘリウムの王子ジョン・カーターはたった一人の敵におとなしく降伏することとなった。ほかの戦士たちが二人のまわりに群がり集まってやたらに質問をあびせかけてきたが、私は何も答えようとしなかった。最後に、私をつかまえた男が、私をもう一度獄房へ連れて行くと一同に告げた。
一人の士官がほかの数人の戦士に同行を命じた。すぐに一行は、私がいまきたばかりの道を逆行しはじめた。私の味方の戦士はすぐ横を歩きながら、私の出身地について次から次へとばかげた質問をしたので、ついに、ほかの衛兵たちは彼にも、彼のおしゃべりにも注意を払わなくなった。
しゃべりながら、彼はしだいに声を低くしていったので、やがて、ほかの連中の注意をひかずに、私と小声で話せるようになった。彼の策略はじつにあざやかなものであり、この男に危険な任務を与えて派遣したタルーの判断が誤っていないことを示していた。
彼はほかの衛兵が聞いていないことを確信すると、なぜロープをたどらなかったのかと聞いた。五本の通路の分岐点でロープが切れていたと話すと、それは、だれか紐が少し必要になったものが切りとったためにちがいないと言った。「まぬけなカダブラ人どもにロープの本当の目的がわかるはずがない」と彼は言った。
五本の通路の分岐点まで行かないうちに、マレンティナの友人はいつとはなしに私とともに小人数の縦隊の最後尾につくようにしてしまった。そして分岐点の見えるところにくると、ささやき声で言った。
「右側の最初の通路に走りこんでください。南の防壁の監視塔までつづいています。私は追跡する連中を隣の通路へ引っぱっていきます」そういうやいなや、彼は暗いトンネルの入口めがけて力いっぱい私を突きとばし、それと同時に私にまるでなぐり倒されたかのように床に身を投げながら、苦痛と驚愕の叫び声をあげた。
私の後方からは興奮した衛兵たちの声が地下道にこだましながら伝わってきたが、すぐにタルーのスパイが別の通路へ追手を引っぱっていったらしく、物音は急激に遠ざかった。
私はサレンサス・オールの宮殿の地下の暗い通路を必死になって走ったが、その時の私の様子を見るものがいたとしたら、きっと目を見張って驚いたことだろう。なにしろ私は、死の手がまわりじゅうから無気味に迫っているというのに、自分の命を救ってくれたマレンティナの名も知らぬ勇士の機略縦横ぶりを考えながら、上機嫌に顔をほころばせていたからである。
このような素質こそ、わが愛するヘリウムの連中のものだ。どんな種族の、どんな肌の色をした者であろうと、ヘリウム人と同じ素質を持った人間に出会うと、私の心は引きつけられてしまう。ちょうどいま、自分の主君が指にはめてくれた指輪と同じものを私が身につけているというだけの理由から、私のために命がけでつくしてくれた新しい友人に引きつけられたようにだ。
私が走った通路はかなり長いあいだ、ほとんどまっすぐのびて、螺旋通路の最下部にぶつかって終わりになった。それを昇ると、ほどなく塔の一階にある円形の部屋に出た。
その部屋の中では十人あまりの赤色人の奴隷が黄色人の武器の手入れや修理をやらされていた。周囲の壁には架台がずらりと並んで数百本の直刀や鉤《かぎ》のついた剣、投げ槍、短剣などが置いてある。明らかに兵器庫だ。そして奴隷の見張りをする戦士は三人しかいない。
私は一目でその場のすべてを見てとった。ここには武器が山ほどある! それを使う筋骨たくましい赤色人戦士たちもいる!
そして、いまここに、武器と戦士を必要とするヘリウムの王子ジョン・カーターがやってきたのだ!
私が室内に踏みこんだとき、衛兵と捕虜たちは同時に私を見た。
私が立っている戸口の近くに直刀を並べた架台があった。その一本の柄を握ったとき、並んで仕事をしている二人の捕虜の顔が目にとまった。
衛兵の一人が私のほうへ飛んできた。
「何者だ。ここで何をしている」
「私はヘリウムの皇帝《ジェダック》タルドス・モルスと、その王子のモルス・カジャックを迎えにきたのだ」
私はそう叫んで、二人の赤色人捕虜を指さした。二人は早くも私を見わけて、驚きに目を見張りながら、ぱっと立ちあがっていた。
「立て、赤色人たち! そして死ぬ前に、ヘリウムの名誉と栄光のためにこのオカールの暴君の宮殿の中でカダブラの歴史に永久に残るような、めざましい活躍を見せてやろうではないか」
そこにいる捕虜はことごとく、タルドス・モルスの海軍の将兵だったのである。
そのとき、まっさきに飛んできた衛兵が私に襲いかかり、戦いが開始された。ところが、剣を交えるか交えないうちに私は慄然《りつぜん》とした。赤色人たちはみな鎖で床につながれていたのだ。
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十三 磁石のスイッチ
衛兵たちは捕虜のことは少しも気にしなかった。赤色人たちはつながれている大きな鉄の環から二フィート以上は動けなかったのである。それでも赤色人はめいめい、私が部屋にはいってきたときに手入れや修理をしていた武器をつかみ、できるものなら私といっしょに戦おうと身がまえながら立ちあがった。
黄色人たちはもっぱら私に注意を集中した。そして、すぐに、ジョン・カーターを敵にまわして兵器庫を守るには三人でも少しも多すぎないということをさとった。このとき、私の手に愛用の長剣が握られていたら、どんなによかったろう。それでも、なれない黄色人の武器を使ってなんとか満足のゆく戦いをやってのけることができた。
最初のうちは彼らのいやらしい鉤つきの長剣をかわすのにひどくてこずったが、一、二分後に壁ぎわの架台から直刀をもう一本とることに成功すると、あとは敵の鉤を受け流すのにそれを使って、もっと平静に戦えるようになった。
敵の三人は同時に攻めこんできた。そのとき、ちょっとした幸運な出来事が起こらなかったら、たちまち私の最期が訪れていたかもしれない。三人に追いつめられて壁ぎわまで退いたとき、先頭の衛兵が鉤つきの剣で私のわき腹をねらって激しく突っこんできた。しかし、私が一歩横に逃げて片腕をあげると、相手の鉤つきの剣は私のわき腹をかすめただけで投げ槍の架台の中に突っこみ、もつれて動かなくなった。
その武器をはずすひまも与えず、私は相手を突き刺した。それから、これまでいくたびとなく窮地から脱出するのに用いた戦法を使って残りの二人に襲いかかり、切りつけと突きをめったやたらに連発して、防ごうとする敵のまわりのいたるところに長剣をひらめかした。こうして息もつかせず押しまくって、相手に死の恐怖を感じさせるまで手をゆるめなかった。
やがて、敵の一人が助けを求めて叫びだしたが、もはや手遅れだった。
彼らはもう、私の思いのままだった。兵器庫の中をあちこち後退させて、ついに私が行かせたいと思っていた場所――鎖につながれた奴隷たちの剣のとどくところ――まで追いつめた。あっという間《ま》に、二人は床に倒れて死んだ。しかし彼らの悲鳴は何の役にも立たなかったわけではなかった。いまでは、それに応ずる叫び声や、多数の者が走りまわる足音、装具の触れ合う金属音、士官たちの命令する声などが聞こえていた。
「ドアだ! 急げ、ジョン・カーター、ドアにかんぬきをかけろ!」とタルドス・モルスが叫んだ。
早くも衛兵たちが中庭を横切って突進してくるのが、戸口から見えた。
ものの十秒もすれば、彼らは塔の中へなだれこんでくるだろう。私は一気にどっしりした扉の前まで飛んだ。そして、大きな音をひびかせて、扉をしめた。
「かんぬき!」とタルドス・モルスが叫んだ。
私は大きなかんぬきをかけようとした。だが、なんとしてもかからない。
「ちょっと持ち上げて、とめ金をはずすのです」と一人の赤色人が叫んだ。
扉のすぐむこうの敷石の上を黄色人戦士の群れがすっ飛んでくる足音が聞こえた。私がかんぬきを持ち上げて、ぴったりはめこんだとたんに、まっさきに駆けつけた衛兵が重い扉のむこう側からどすんと体当たりした。
扉はあかなかった――間に合ったのだ。ほんの一瞬の差で。
私は捕虜のほうに注意を移した。まずタルドス・モルスのところへ行って、彼らの足かせをはずす鍵のありかを尋ねた。
「衛兵士官が持っている」とヘリウムの皇帝《ジェダック》は答えた。「だが、彼はいま、ドアの外ではいろうとしている連中のなかだ。こわさなければならん」
大部分の捕虜は早くも手にした剣で足かせをたたき切ろうとしていた。外では、黄色人たちが投げ槍や斧《おの》で扉を乱打している。
私はタルドス・モルスがつながれている鎖に目をつけて、鋭い白刃で何度も深々と切りつけた。その間にも扉を乱打する音はますます激しくなってゆく。
ついに鎖の環の一つがちぎれた。たちまちタルドス・モルスは自由になった。もっとも、足首にはまだ二、三インチの鎖がさがっていた。
扉の裂けた木片が部屋の中へ落ちてきた。敵は着々とわれわれに迫ろうとしていた。
怒りに燃える黄色人の猛攻撃にあって、頑丈な扉の鏡板もがたがた揺れて、たわみはじめた。
扉を乱打する音や、赤色人が鎖をたたき切る音で、兵器庫の中の騒音はすさまじいものになった。タルドス・モルスは自由になるやいなや、別の捕虜の鎖に注意をむけ、私はモルス・カジャックを自由にする仕事にとりかかった。
扉がこわれる前に全員の足かせを切りはなすには、すばやく仕事をやらなければならない。ついに一枚の鏡板が大きな音をたてて砕け、内側の床の上に倒れた。モルス・カジャックは、ほかの者たちの足かせがはずされるまで敵の侵入を防ぎとめようと、扉の穴のほうへ飛んでいった。
彼は壁の前から数本の投げ槍をつかみとると、先陣を切って飛びこんできた数人のオカール戦士をさんざんに打ちのめした。その間、私たちは仲間の自由を束縛している非情な金属と懸命に取り組んでいた。
ついに、一人だけ残して全部の捕虜が自由になった。そのとき、急ごしらえの破城槌の打撃をうけて、すさまじい音とともに扉が倒れ、黄色人の群れがどっと押し寄せてきた。
「上の部屋へ!」まだ床につながれている赤色人が叫んだ。「上の部屋へ! あそこならカダブラじゅうを敵にまわしても塔を守ることができます。私のためにチャンスをのがさないでください。タルドス・モルスとヘリウムの王子のために死ねれば本望です」
しかし、たった一人の赤色人を置きざりにするくらいなら一人残らず討死《うちじに》したほうがましだった。まして、自分を置いて行けと頼むような豪胆な勇士を見捨てて行けるものではない。
「彼の鎖を切れ」と私は二人の赤色人にむかって叫んだ。「そのあいだ、ほかの者は敵を寄せつけるな」
いまや、オカールの衛兵と戦う味方は十人いた。そして、あの古い監視塔の中で、この日の戦いほどすさまじい激戦が行なわれたことはほかには一度もなかったにちがいない。
押し寄せてきた黄色人戦士の第一波は、十人の老練なヘリウム戦士のすばらしい剣さばきの前に退却した。十人あまりのオカール戦士の死体が戸口をふさいだ。しかし、その無気味な防壁を乗りこえて、さらに二十人ばかりの敵兵がしゃがれ声の、ぞっとするような鬨《とき》の声をあげて突進してきた。
血まみれの死体の山の上で、われわれは敵を迎え撃ち、肉薄しすぎて切りつけられなくなれば刺し、敵を押しもどして腕の長さほどの間合いができれば突くといった具合の白兵戦を展開した。そして戦場には、オカール人の荒々しい叫び声にまじって、「ヘリウムのために! ヘリウムのために!」というあの栄光の言葉があちこちから高く、また低く波打つように聞こえていた。この言葉こそ、遠い昔から勇者の中の勇者を鼓舞して数々の武勲をたてさせ、ヘリウムの英雄たちの名声を火星じゅうにとどろかせた原動力なのである。
ついに最後の一人の足かせがはずれた。味方は十三人の兵力となって、次々に突撃してくるサレンサス・オールの兵士たちに立ち向かった。ほとんど全員が体じゅうに手傷を負っていたが、一人も倒れなかった。
外から数百人の衛兵が中庭になだれこんでくるのが見えた。私がこの兵器庫にくるのに通ってきた地下の通路のほうからも、装具の触れ合う金属音や兵士たちの叫び声が聞こえてきた。
これでは、たちまちのうちに、挾《はさ》み撃ちになるにちがいない。われわれの武勇をもってしても、この少数の味方を二分しては圧倒的に優勢な敵に対抗できる望みはない。
「上の部屋へ行こう!」とタルドス・モルスが叫んだ。ただちに味方は階上へ通じる通路のほうへ後退した。
ここでまた、われわれが戸口から退いたとたんに兵器庫へ突入してきた黄色軍と新たな血なまぐさい戦闘が行なわれた。そして初めて味方を一人失った。ぜひともいてもらわなくては困る立派な男だった。それでも、ついに私以外の全員が後退して通路へはいった――私はひとりだけ踏みとどまり、仲間が無事に階上へたどりつくまでオカール兵をくいとめた。
狭い螺旋通路の入口では、一度に一人の戦士しか私を攻撃することができなかったので、味方を後退させるのに必要なわずかな時間のあいだ、敵を防ぎとめるのはべつにむずかしいことではなかった。やがて、私は徐々に後退しながら螺旋通路を登りはじめた。
塔の頂上までの長い道、衛兵たちはぴったり私にくっついて進んできた。一人が私の剣に倒されると、新手の一人がその死体を乗りこえて代わりをつとめた。こうして二、三フィート進むごとに犠牲者を出しながら、私はようやく、カダブラのガラスの壁をめぐらした広い監視塔にたどりついた。
ここでは仲間たちが一団になって、私と交替して戦おうと身がまえていた。私はひと息入れるためにわきへ退き、そのあいだ仲間が敵をくいとめた。
この高い塔の上からながめると、まわりじゅう、どの方角も数マイル先まで見わたすことができた。南方には、ごつごつした氷の荒野が広がって巨大な氷の断崖のふちまでつづいている。東と西、それに北方にもぼんやりと、オカールのほかの都市が見える。そして、すぐ目の前の、カダブラの都の防壁のむこうには、無気味な北極の守護神である黒い円柱がそそり立っている。
そのとき、とつぜん下界から騒がしい物音が聞こえてきたので、私は眼下のカダブラの街を見おろした。と、そこでは、さかんに戦闘が行なわれているではないか。そして都の防壁のかなたには、縦隊を組んだ武装兵士の大軍が近くの門にむかって進んでくるのが見えた。
私は自分の目が信じられない思いがして、展望台のガラスの壁に夢中で体を押しつけた。だが、もはや疑う余地はなかった。部屋の入口で戦っている男たちの罵声《ばせい》やうめき声の中で、私はとつぜん調子っぱずれの歓声をあげて、タルドス・モルスを呼んだ。
彼がそばへくると、私はカダブラの街と、そのむこうの北極の空にヘリウムの旗やのぼりを勇ましくひるがえして進撃してくる大部隊を指さした。
たちまちのうちに、塔の中の赤色人は一人残らずこの勇気を奮い立たせる光景を見た。そして、この古い石造りの建物の中ではいまだかつて聞こえたことがないと思われる感謝の叫びが響きわたった。
しかし、まだ戦いはつづけなければならなかった。ヘリウム軍がカダブラに侵入したといっても、都はまだ陥落するどころの騒ぎではないし、宮殿は攻撃すら受けていない。私たちはかわるがわる螺旋通路の頂上を守るために戦い、そのあいだ、残りの者ははるか下界で戦っている勇敢な同胞たちをながめて胸を躍らせた。
いまや、ヘリウム軍は宮殿の門に押し寄せていた。巨大な破城槌が頑丈な門の表面に激突した。だが、今度は防壁の上からすさまじい投げ槍の雨が降り、ヘリウム軍は撃退されて行った!
ふたたび、味方は突撃した。だが、交差する横の道からオカールの大部隊が出撃してきて、味方の縦隊の先頭をくずした。ヘリウムの兵士は圧倒的な大軍と戦いながら、ばたばた倒れていった。
宮殿の門がぱっと開いた。オカール軍の精鋭を集めた皇帝《ジェダック》の親衛隊が出撃して、くずれかけたヘリウム軍を粉砕しようというのだ。一瞬、もはや敗北は避けられないように思えた。そのとき、巨大な火星馬《ソート》――赤色人の小型の火星馬《ソート》ではなく、涸れた海の底にすむ巨大な同類――にまたがった堂々たる姿が目にはいった。
その戦士が戦いながらぐんぐん進んで先頭まで出てくると、その背後で、総くずれになりかけていたヘリウムの兵士たちは気力を回復した。戦士が意気高らかに頭を上げて、宮殿の防壁の上の敵兵に挑戦したとき、私はその顔を見た。そして、たちまち赤色人戦士たちがその指揮者のそばに駆けつけて、頽勢《たいせい》を挽回したとき、私の胸は誇りと幸福にふくれあがった――巨大な火星馬《ソート》にまたがっている戦士の顔は、私の息子、ヘリウムのカーソリスの顔だったのである。
カーソリスのそばでは巨大な火星の軍用犬が戦っていた。見なおすまでもなく、それは、ウーラだ――私の忠実なウーラはこのとおり困難な任務をみごとにはたして、援軍をちょうどいいときに引っぱってきたのである。
ちょうどいいときに?
だが、はたして、援軍のくるのが遅すぎなかったと言えるだろうか。ともあれ、彼らが復讐をしてくれることだけは確実だ! 不敗のヘリウム軍が憎むべきオカール人に加える痛烈な報復だ! だが、それを見とどけるまで生きてはいられないだろう――そう考えて、私はため息をついた。
ふたたび、窓のほうをむいた。赤色人たちはまだ宮殿の外壁を破ってはいなかったが、徹底的な競争で鍛えあげられたオカールの最高の精鋭を相手に堂々と戦っていた。
そのとき、私の注意は都の防壁の外の新しい現象にひきつけられた――赤色軍の上にひときわ高く、騎馬の戦士の大部隊が浮かび上がったのである。それはヘリウムの同盟軍――はるか南の涸れた海の底からきた獰猛きわまる巨大な緑色人の大群だった。
無気味な恐ろしい沈黙のうちに、彼らは城門めがけて突進した。彼らのまたがる醜怪な火星馬《ソート》の分厚い肉のついた足はまったく音をたてない。彼らは不運な都へ突入した。そして部隊がサレンサス・オールの宮殿の前の大広場を突っ切ったとき、その先頭に立って進む偉大な指揮者、サークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカスの巨体が見えた。
それでは、私の願いはかなえられることになったのだ。ふたたび戦う旧友の姿を見ることができるのだ。そして、彼と肩を並べることはできないにしても、私もまた、このオカールの高い塔の中で同じ目的のために戦っているのではないか。
だが、われわれの敵はいっこうに執拗《しつよう》な攻撃の手をゆるめそうもなかった。この部屋の入口はしばしば彼らの死体でふさがったが、それでも彼らは攻撃をつづけた。ときどき、邪魔な死体を引きずりおろす合間《あいま》だけちょっと休止したかと思うと、すぐまた新手《あらて》の戦士が死地にとびこもうとのぼってくる。
ちょうど私の順番になって、この塔上の避難所の入口を守るために戦っていたとき、眼下の街の戦闘を見まもっていたモルス・カジャックがとつぜん興奮して、大声で叫んだ。その声音《こわね》に不安の響きが感じられたので、私はほかの者に持ち場をゆずれるようになるとすぐ、彼のそばへ飛んで行った。すると、モルス・カジャックは雪と氷の荒野のはるかかなたの南の地平線を指さした。
「ああ、なんということだ!」と彼は叫んだ。「彼らが残酷な運命に見舞われて破滅するのを、警告することも助けることもできずに、ただ手をこまねいて、見まもっていなければならないとは! しかし、いまとなっては、どのみち手遅れだ」
彼の指さす方角を見ると、その狼狽《ろうばい》の原因がわかった。大空中艦隊が氷の断崖の方角からカダブラの都をめざして堂々と近づいてくる。そのスピードはぐんぐん増大していた。
「黄色人どもが北極の守護神と呼んでいるあの恐ろしい円柱が艦隊を引き寄せているのだ」とモルス・カジャックは悲しげに言った。「ちょうどタルドス・モルスとその大艦隊を引き寄せたときと同じようにな。見たまえ、あのがらくたの山を。あの恐ろしい残骸が、いかなるものもくいとめることのできない強大な破壊力を物語っているのだ」
私も、見ていた。しかし、それはモルス・カジャックには見えないほかのものだった。私の頭の中には、壁ぎわに奇妙な器具や機械装置が並んでいる地下の秘密の部屋が見えていた。
その部屋の中央には長いテーブルがあり、その前には、飛びだしそうなぎょろりとした目の小柄な老人がすわって金勘定をしている。だが、何よりもはっきりと目に浮かぶのは、黒いハンドルの表面に小さなマグネットをはめこんだ壁の大スイッチだった。
ぐんぐん接近してくる艦隊に私はちらりと目を走らせた。五分もすれば、あの空の大艦隊はひとたまりもなく惨敗を喫し、何の値打ちもないがらくたの山となって、都の防壁の外の円柱の根もとに残骸をさらすことだろう。そして、黄色人の群れが門から飛びだし、残骸の山の中でむなしくよろめいている少数の生存者に襲いかかり、つづいてアプトの群れがやってくることだろう。まざまざと目に浮かんでくるその恐ろしい光景にぞっとして、私は身ぶるいをした。
毎度のことながら、私の行動はあっという間《ま》に決まる。何かをしようという衝動と、実際の行動とが同時に起こるらしい。たとえば私が論理的思考というまっとうな手続きを踏んだとしても、実際の行動ははっきりとした自覚のない潜在意識的な行動になってしまうにちがいないのである。心理学者に聞いたところでは、潜在意識というものには論理的判断を下す能力はないから、いくら私の精神活動を綿密に調べたところで、得意になるようなことなど出てくる気づかいはないという。だが、それはともかく、思慮深い連中ならいつまでもあれこれ考えあぐねるだろうと思われる場合に、私はしばしば成功をかちとってきた。
そしていま、私がやろうと決意したことの成否は、もっぱら、迅速な行動にかかっていた。
私は固く剣を握りしめると、通路の入口にいる赤色人にわきへどくように声をかけた。
「どけ! ヘリウムの王子が通るぞ!」と私は叫んだ。そして、運悪くこんなときに戦列のいちばん先頭にいた黄色人が度肝を抜かれて、まだ動揺から立ち直らないうちに、私はその男の首をはねとばし、猛り狂った雄牛のようにその背後の連中のほうへ突進した。
「どけ! ヘリウムの王子が通るぞ!」私はそう叫びながら、あっけにとられたサレンサス・オールの衛兵たちのなかに血路を切り開いていった。
右に左に切りまくりながら、ぎっしり戦士の群れで埋まった螺旋通路を突き進み、いちばん下近くまで降りて行くと、下にいる敵兵たちは赤色人がいっせいに攻撃してきたものと思ったらしく、身をひるがえして逃げてしまった。
私が一階の兵器庫にはいったときには、オカール兵の最後の一人まで中庭へ逃げてしまって、だれもいなかった。だから、さらに地下道へむかって螺旋通路を降りて行く私の姿はだれの目にもとまらなかった。
地下道へはいると、全速力で五本の通路の分岐点まで突っ走り、そこから、年老いた守銭奴の仕事場へ通じる通路へ飛びこんだ。
私はノックもせずに、いきなり室内へ躍りこんだ。老人はテーブルの前にすわっていたが、私を見るより早く、ぱっと立ちあがって剣を抜いた。
老人にはちらりと目を走らせただけで、私は一気に大スイッチにむかって突進した。しかし、私のすばやさにもかかわらず、やせこけた老人は私の行く手に立ちふさがった。
どうやって老人にそんな早業《はやわざ》ができたのか、私には永遠の謎だし、また、火星のどんな生きものであろうと、私の地球人の体力が生みだす驚くべきスピードに太刀打ちできるものがいようとは信じがたい。
老人はトラのように襲いかかってきた。そして、なぜこのソランという男がこの重要な任務をまかされているのか、その理由がすぐにわかった。
この小柄な老いぼれは、私が生まれてこのかた見たことがないようなすばらしい剣さばきと、ものすごいばかりの敏捷《びんしょう》さを見せたのである。老人はあたかも無数の分身を持っているかと思われるばかりに、一瞬のうちに部屋じゅうを飛びまわった。そして、私が危険をさとるより早く、襲いかかってきて私を愚弄し、すんでのことにこちらは命を落としそうになった。
だが新たな思いもかけぬ状況は、その状況を迎えるにふさわしい異常なほどの能力をおのずから生み出すものである。これはまことにふしぎなことだ。
この日、サレンサス・オールの宮殿の地下の秘密の部屋で、私はほんとうの剣の極意《ごくい》というものを知った。そして、ソランのような剣の名手と戦ったときには、自分がどの程度まで剣の腕前を発揮できるものかということもさとった。
しばらくの間、ソランはもう少しで私を打ち負かしそうになっていた。だが、やがて、生まれたときから私の内部に眠っていたにちがいない潜在的な能力が活動しはじめた。私は、人間がここまで戦えるものとは自分でも夢にも思わなかったほどのすさまじい戦い方をしたのだった。
そのすばらしい決闘が一人の目撃者もなしに、暗い地下室で行なわれたということは世界的な損失といってもいいと思う――少なくとも、個人にとっても、国家や種族にとっても、血なまぐさい闘争が何よりも重要な事柄になっているバルスームの住人の観点からすれば、そういうことになるだろう。
私はスイッチに手をのばそうとして戦い、ソランはそれを妨げようとして戦っていた。二人はスイッチから三フィート足らずのところに立っていたのに、私はそれに一インチも近づけなかったし、ソランのほうも、この戦いの最初の五分間は私を一インチたりとも押しもどすことはできなかった。
接近中の艦隊を救うには、あと数秒のうちにそのスイッチを切らなければ手遅れになる。そこで私は得意のラッシュ戦法を試みた。だが、それはソランを後退させたにもかかわらず、煉瓦の壁に突進したも同然だった。
実際、私は骨折りがいもなく、すんでのことに自分から彼の剣先にぶつかってくし刺しになりそうになった。だが、正義は私の側にあった。このことは、悪のために戦っていることを自覚している者よりも大きな自信を人に与えずにはおかない。
少なくとも自信にかけては、私は事欠かなかった。だから、次にソランのわき腹をねらって突進したときには、かならず相手はこちらの新しい攻撃法に対抗しようとして体の向きを変えるにちがいないという絶対的な自信を持っていた。はたして、ソランは向きを変えた。その結果、二人は肝心な目標を横において戦うことになった――大スイッチは私の右側の、手のとどくところにあった。
ほんの一瞬でも手をあげて胸の防御をがらあきにすれば、たちまち死を招くことだろう。しかし、すべてを運にまかせてそうする以外には接近してくる援軍の艦隊を救う道はない。そこで、相手が猛烈な突きを入れてくるのもかまわず、私はいきなり剣先をのばして、大スイッチにすばやい一撃を浴びせ、把手を動かした。
ソランは驚きと恐怖のあまり、突きを入れかけた手をとめて、大きな叫び声とともにスイッチのほうを向いた――その叫び声が彼の最期だった。ソランの手が把手に触れるより早く、私の剣先が彼の心臓を刺しつらぬいた。
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十四 戦いの移り行き
しかし、ソランの最期の叫び声は何の役にも立たなかったわけではない。まもなく、十人あまりの衛兵が部屋の中に飛びこんできた。だが、それより早く私は大スイッチをねじ曲げて、たたきこわし、あの恐るべき破壊力をもつ大マグネットに二度と強力な電流を送れないようにしてしまった。
とつぜん衛兵の群れが現われたので、私はやむをえず、まっさきに目についた通路に飛びこんで隠れ場所を捜すことになった。だが、がっかりしたことには、この通路は私のよく知っている通路ではなく、その左側にある別の通路だった。
衛兵たちは私が逃げた道を物音で知るか、あるいは見当をつけるかしたと見えて、いくらも行かないうちに、あとを追ってくる物音が聞こえた。ここで足をとめて、あの衛兵たちと戦う気は全然なかった。いまカダブラの都ではほかにもたくさん戦いが行なわれている、――こんな宮殿の地下で無益な殺生をするよりは、自分や自分の家族にとってもっとずっと有益な戦いがあるはずだ。
だが、うしろの連中はどんどん迫ってきた。こっちはさっぱり道がわからないのだから、どこか身を隠して連中をやりすごすことができる場所でも見つけないかぎり、追いつかれることは目に見えていた。そんな隠れ場所があれば、きたときの道を引き返して監視塔にもどることもできるだろうし、街へ出る道も見つけられるかもしれない。
マグネットのスイッチのある部屋を出てから通路はずっと急な登り坂になっていたが、いまでは見わたすかぎり水平にまっすぐのびて、明るい照明がついていた。追手がこの直線コースにたどりついたら、すぐに私の姿はまる見えになって、気づかれずに通路から逃げだすことなど絶対にできなくなるだろう。
まもなく、通路の両側にドアがいくつも並んでいるところへきた。どれもこれも同じようなものにしか見えなかったから、いちばん手前のドアを開けてみた。なかは贅沢《ぜいたく》な調度をそなえた小さな部屋で、宮殿の何かの事務室か謁見室の控えの間らしかった。
いちばん奥に厚いカーテンのかかった戸口があり、そのむこうからがやがやと人声が聞こえてきた。すぐに小部屋を横切って奥へ行き、カーテンをかき分けてのぞいてみると、むこうにもっと大きな部屋があった。
目の前には五十人ほどのきらびやかな装いの宮廷貴族が並び、彼らの前にはサレンサス・オールの玉座があった。皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》は貴族たちに話しかけていた。
「定めのときはきた」私が部屋にはいったとき、彼はそう言っていた。「たとえ、オカールの敵が城門の中にいようとも、サレンサス・オールの意志をくいとめられるものはない。ただし盛大な式典は省略しなければならない。掟によってオカールの新しい妃《きさき》の登場に立ち会う五十人のほかは、ただの一人も防戦の持ち場から離れるわけにはいかない。
式はすぐに完了し、われわれは戦いにもどることができるだろう。そして、いまはまだヘリウムの王女であるデジャー・ソリスは、皇妃の塔の上から、かつての同国人が皆殺しにされる模様をながめ、自分の夫の偉大さをまざまざと見ることになろう」
皇帝《ジェダック》は廷臣のほうを振り返ると、何やら小声で命じた。
その廷臣は急いで部屋の向こう側の小さな戸口のところまで行き、ドアを大きく開いて叫んだ。「オカールの未来の皇妃、デジャー・ソリスさまのお通り!」
たちまち、二人の衛兵がいやがる花嫁を引きずりながら現われ、祭壇のほうへ向かった。デジャー・ソリスはうしろ手に手錠をかけられていた。明らかに自殺予防のためだ。
彼女の乱れた髪と激しく波打つ胸は、鎖につながれながらも彼らの言いなりになるまいと抵抗したことを物語っていた。
その姿を見るなり、サレンサス・オールは立ちあがって剣を抜いた。そして五十人の貴族の剣がいっせいに高く掲げられてアーチを形作り、その下を哀れな美女が恐ろしい運命にむかって引きずられて行った。
いまにあのオカールの支配者の度肝を抜いてやるのだと思うと、私の口もとはひとりでに無気味な微笑にゆがみ、手はむずむずと動きだして血ぬられた剣の柄をなでまわした。
デジャー・ソリスと二人の衛兵、そのあとから数人の司祭がついてゆくだけの行列が、玉座にむかってゆっくりと進むのを見まもっているうちに、サレンサス・オールが花嫁を待ちかまえて立っている壇の背後の壁を覆う垂れ幕の陰から黒い顔がのぞくのが、ちらっと目にとまった。
だが、いまや、二人の衛兵はむりやりヘリウムの王女に数段の階段を登らせ、オカールの暴君のそばへ連れて行こうとしていた。私の目も頭も、それ以外のことに注意を向ける余裕はなくなってしまった。一人の司祭が書物を開き、片手を上げながら、ものうげな声で単調な儀式の文句をとなえはじめた。サレンサス・オールは花嫁の手をとろうとした。
私は、いちおう成功の見込みがある情況になるまで待つつもりだった。たとえ儀式がすっかり完了しようとも、私が生きているかぎり、有効な結婚式などあろうはずがない。言うまでもなく、私の最大関心事はデジャー・ソリスの救出である――できるものならサレンサス・オールの宮殿から彼女を連れ出したいということだった。しかし、その救出がまやかしの結婚式の前になろうと後になろうと、そんなことは二次的な問題にすぎなかった。
ところが、いまサレンサス・オールの汚らわしい手がわが最愛の王女の手をつかもうとして伸びるのを見ると、これ以上がまんすることができなくなった。オカールの貴族たちがわけもわからず唖然《あぜん》としているうちに、私は彼らのまばらな列の間を駆け抜けて、壇上のデジャー・ソリスとサレンサス・オールのそばに立った。
剣の平《ひら》でぴしゃりとサレンサス・オールの汚らわしい手をはらい落とすと、デジャー・ソリスの腰に手をまわして、すばやく自分の背後にまわらせた。そして壇の垂れ幕に背を向けながら、北極の暴君や満場の貴族戦士たちとまっこうから向かい合った。
皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》はばかでかい図体の、下品な、けだものじみた男だった。見るからに獰猛そうな黒いひげを怒りに逆立てながら上から私をにらみつけている姿を見ると、これでは経験の浅い戦士なら震えあがってしまうだろうと思えた。
うなり声とともに、彼は白刃をひらめかして飛びかかってきた。しかし、はたしてサレンサス・オールがすぐれた腕前の剣士であったかどうかは、ついに知ることもなく終わってしまった。それというのも、デジャー・ソリスを背後にかばって立つ私はもはや人間ではなく、超人だったからである。いかなる人間も、このときの私に太刀打ちできるわけはなかったのである。
小声で、ただひと言《こと》、「ヘリウムの王女のためだ!」と口走るやいなや、私はオカールの悪徳支配者の腐りはてた心臓にまっこうから白刃を突き通した。青ざめた顔をひきつらせる貴族たちの目の前で、サレンサス・オールは断末魔の苦悶に歯をむきだしながら、自分の結婚の座から階段の下までころげ落ちた。
一瞬、結婚式場は殺気をはらんだ静寂につつまれた。それから五十人の貴族が私をめざして殺到してきた。激烈な戦闘が開始されたが、私のほうが有利だった。私は彼らより一段高い壇の上に立っていたし、それに、私が戦っているのは、栄光に輝く種族のなかの最も栄光に輝く女性のためであり、偉大なる愛のためであり、そして自分の息子の母のためだったからである。
そして、私の背後からは、いとしい女の声が美しい冴えた歌声になって流れてきた。それはヘリウムの兵士が勝利をめざして戦場に出かけるときに女たちが歌う勇壮な戦いの賛歌だった。
その歌声だけでも、もっと多数の敵を打ち負かせるほど私を奮い立たせる力があった。まったくのところ、私の援軍という邪魔がはいらなかったら、あの日カダブラの宮殿の結婚式場で五十人の黄色人戦士を一人残らず打ち倒していたにちがいないと思う。
戦いがたけなわになると、サレンサス・オールの貴族たちは再三再四、玉座の前の階段を駆けあがってきたが、そのたびに、鬼才ソランとの決闘から何か新たな秘術を体得したかと思われる私の剣によって撃退されるだけだった。
背後で人の動く気配がして、戦いの賛歌の歌声が消えたと思ったとき、ちょうど二人の敵がすぐ目の前まで押し寄せてきたところだったので、私は振り返るわけにいかなかった。デジャー・ソリスは私のそばでともに戦う準備をしているのだろうか。
英雄を愛する世界にふさわしい雄々しい女だ! 剣を手にして私とともに戦ったとしても、彼女に不似合いなこととは言えない。なぜなら、火星の女たちは戦う技術の訓練は受けていないが、戦う勇気は持っているし、実際に戦ったという例も数えきれないほどあるからだ。
しかし、彼女は私のそばにはこなかった。私はそのほうがいいと思った。もし飛びだしてきたら、ふたたび安全な場所へ帰してしまうまで、彼女を守るための負担が増していただろう。きっと彼女は何か巧妙な策略でも考えているにちがいない、と私は思った。そんなわけで、大切な王女は自分のすぐうしろにいるものと頭から信じこんで戦いつづけた。
オカールの貴族たちを自分が立っている壇上には一歩も寄せつけずに、少なくとも三十分のあいだは戦っていたにちがいない。そのうちに突然、残りの敵が一人残らず壇の下に集まって最後の死物狂いの突撃を敢行しようとした。ところが、彼らがいままさに突撃しようとしたとき、部屋の向こう側のドアがぱっと大きく開いて、血走った目をした伝令が飛びこんできた。
「皇帝《ジェダック》!」と彼は叫んだ。「皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》はどこにおられますか。都は氷の断崖のかなたから攻めてきた敵の大軍の前に陥落しました。いまでは宮殿の大門までが押し破られて、南の国の戦士どもが聖域になだれこんでいます。サレンサス・オールさまはどこですか。味方の衰えた士気をふたたび奮い立たせることができるのはあの方だけです。オカールに勝利をもたらすことができるのはあの方だけです。サレンサス・オールさまはどこですか」
貴族たちは彼らの支配者の死体のまわりから身をひいた。その一人が歯をむき出した死体を指さした。
伝令はまるでまっこうからなぐりつけられたように、慄然《りつぜん》としてうしろによろめいた。
「では、逃げなければなりません、オカール貴族のかたがた!」と彼は叫んだ。「もう絶体絶命です。ほら! やつらがやってきます!」
伝令がしゃべっているうちに、外の廊下から怒り叫ぶ兵士たちのどよめきや、装具の触れ合う金属音、剣を打ち合わせる響きが聞こえてきた。
貴族たちは、この悲劇的場面の傍観者となった私のほうにはそれっきり目もくれず、いっせいに身をひるがえして別の戸口から逃げて行った。
それと入れ違いに、一団の黄色人戦士がさきほど伝令がはいってきた戸口に現われた。彼らは部屋のほうへ後退しながらも少数の赤色人兵士の前進をくい止めようと頑強に抵抗している。しかし、立ち向かってくる赤色人たちはじりじりと着実に彼らを後退させていた。
一段高い壇上にいる私のところから、戦っている兵士たちの頭ごしに、旧友カントス・カンの顔が見えた。彼はこの小人数の一隊を率いて、サレンサス・オールの宮殿のこんなに奥深くまで突入してきたのだ。
すぐに、オカール兵に背後から攻撃をしかければ、たちまち混乱が生じ、それ以上の抵抗を不可能にすることができるだろう。そう思いつくやいなや、うしろにいるデジャー・ソリスにひと言《こと》ことわって壇上から飛びだした。もっとも、振り返って彼女を見たわけではなかったが。
彼女と敵との間にはたえず私がいるのだし、それにカントス・カンが部下を連れてこの部屋までやってきたのだから、デジャー・ソリスを玉座のそばでひとりきりにしておいて、何の危険があるわけもない。
私はヘリウムの戦士たちに自分の姿を見せたかった。そして彼らの愛する王女がここにいるということを知らせたかった。それを知れば、彼らは奮い立って、いままで以上にすばらしい剛勇ぶりを発揮することはわかっていた。もっとも、この北極の暴君の難攻不落ともいうべき宮殿の中まで血路を切り開いてきたことが、すでに彼らのすばらしい剛勇ぶりを物語るものにちがいないのだが。
私が部屋を突っ切って、カダブラ兵を背後から攻撃しようとしたとき、左手の小さなドアが開いた。そして驚いたことには、サーンの教皇マタイ・シャンとその娘ファイドールが部屋の中をのぞきこんだ。
二人はすばやく室内を見まわした。一瞬、恐怖に目を見張ってサレンサス・オールの死体を見つめ、それからまっ赤に床を染める血の海、玉座の前に折り重なって倒れている貴族たちの死体、私の顔、別の戸口で戦っている戦士たち、と次々に視線をそそいだ。
二人は部屋の中へはいろうとはしなかったが、戸口に立ったまま部屋のすみずみまで入念に見まわした。そして、すっかり見終わってしまうと、マタイ・シャンは激しい怒りの表情を示し、ファイドールは冷やかな狡猾《こうかつ》そうな微笑を口もとに浮かべた。
そして二人は立ち去ったが、その前にファイドールは私にむかってまっこうから嘲笑を浴びせかけた。
そのとき、私にはマタイ・シャンの激怒やファイドールの満足げな様子が何のためかわけがわからなかったが、どちらも私にとっては、どうせろくでもないことだということはわかっていた。
すぐさま私は黄色人の背後に襲いかかった。ヘリウムの赤色人たちは敵兵の肩ごしに私を見つけると、大歓声をあげた。そのどよめきは廊下じゅうにとどろきわたり、一瞬、戦闘の騒音も押し消されるほどだった。
「ヘリウムの王子のためだ!」「ヘリウムの王子のためだ!」と彼らは口々に叫び、獲物に襲いかかる飢えたライオンのように、旗色の悪くなった北極の戦士たちをふたたび攻撃しはじめた。
挾み撃ちにされた黄色人たちは、完全な絶望からしばしば生まれる死物狂いの戦い方をした。私が彼らの立場だったら、剣を握る手のつづくかぎりできるだけ多くの敵を道連れにして死ぬ決意で戦ったことだろうが、彼らはまさしくその通りの戦いぶりを見せたのである。
はなばなしい戦いだった。しかし、勝敗の行くえはもはや動かしがたいと思われたとき、赤色兵の背後の廊下のむこうから大勢の黄色人戦士が応援にやってきた。
いまや、形勢は逆転し、二つの石臼《いしうす》にはさまれて粉砕されるのはヘリウムの兵士たちの運命となったように見えた。味方は全員うしろを向いて、この圧倒的に優勢な敵の新たな攻撃に対抗せざるをえなくなった。そのため、部屋の中に残っていた黄色人は私が一手に引き受けることになった。
しかも彼らは私をさんざんてこずらせた。あまりにもてこずらされたので、はたして、この連中を片づけることができるのだろうかと思いはじめたほどだった。彼らは徐々に私を攻めたてて部屋の奥へ後退させ、私を追って全員が部屋の中へはいってしまうと、一人がドアを閉めて、かんぬきをかけ、まんまとカントス・カンの部下たちを閉め出してしまった。
うまい手だった。おかげで、私は味方から切り離されて十人あまりの敵兵のなすがままという格好になったし、外の廊下にいる赤色人たちは新手《あらて》に追いつめられても逃げ道がないという羽目《はめ》に陥った。
しかし私はこの日の敵よりもっと優勢な敵を相手にして戦ったことが何度もあるし、カントス・カンにしても、いま陥っている窮地よりもっと危険な立場にいくたびとなく追いこまれながら血路を切り開いてきた男である。そんなわけで、私は絶望などは少しも感じないで、当面の仕事にとりかかった。
その間にも、私の思いはひっきりなしにデジャー・ソリスのもとへ飛んだ。そして、戦いが終わって、彼女を抱きしめ、あんなにも長い年月のあいだ聞くことができなかった愛の言葉をふたたび耳にすることができる瞬間を思いこがれた。
その部屋で戦っている間じゅう、私の背後の、死んだ皇帝の玉座のそばに立っている彼女をちらりと見るひまさえ一度もなかった。なぜ彼女はヘリウムの戦いの歌で私をはげますのをやめてしまったのか、と不思議には思った。しかし、私が最高の力を発揮するためには、彼女のために戦っているのだということさえ知っていてもらえれば、ほかには何の必要もなかった。
その血なまぐさい戦いの経過――つまり、戸口から部屋のいちばん奥の玉座の真下へ行くまでいかに戦い、ついに敵の最後の一人が私の剣で心臓を突き刺されて倒れることになったか――を詳細に物語っても冗漫になるだけだから、省略することにしよう。
とにかく、最後の敵を倒すやいなや、私は歓声を上げて振り返り、両腕をのばして私の王女を抱きしめようとした。彼女に息もつけないほど接吻を浴びせかけて、彼女のために数々の血なまぐさい戦いを切り抜けながら南極から北極までやってきた苦労の報酬を何倍にもして返してもらおうと思ったのである。
だが、歓声は口もとで凍りついたように消えた。両腕はだらりと力なく垂れさがった。私は致命傷を負った者のように玉座の前の階段をよろめきながら登った。
デジャー・ソリスの姿は消えていた。
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十五 報酬
デジャー・ソリスがもはや部屋の中にいないとさとった瞬間、最初この部屋の中で進行中の奇妙な結婚式の現場に思いがけなくぶつかったとき、サレンサス・オールの玉座のうしろの垂れ幕の陰から黒い顔がのぞくのをちらっと見た記憶がおそまきながらよみがえってきた。
あの邪悪な顔つきを見ていながら、なぜもっと用心しなかったのだろう。いくら新しい事態が次から次へとめまぐるしく起こったからといって、なぜあのような恐るべき危険のことを忘れてしまったのだろう。だが、ああ、いくら後悔しても、起こってしまった災厄がいまさら消えるはずもない。
またしてもデジャー・ソリスは、あのファースト・ボーンの黒色人|貴族《ダトール》、悪魔のようなサリッドの手中に落ちてしまったのだ。またしても私のたゆまぬ努力や苦心は徒労に終わった。いまになってやっと、マタイ・シャンの顔にあのようにはっきりと激怒の表情が浮かび、ファイドールの顔に冷酷な満足感が現われていた理由がわかった。
あの二人は真相を知るか、推察するかしていたのだろう。ホーリー・サーンのヘッカドールは、デジャー・ソリスをぜひとも手に入れようとしている自分を裏切って彼女との結婚を企てたサレンサス・オールの邪魔をするべく、この部屋へやってきたものにちがいない。ところが、その鼻先から肝心な獲物を、サリッドにまんまとさらわれてしまったことをさとったのだった。
ファイドールが愉快そうな顔をしていたのは、このことによってヘリウムの王女に対する彼女の嫉妬から生まれた憎悪心がいくぶん満足させられたばかりでなく、この最後の残酷な打撃が私にとって何を意味するかをさとったからなのだった。
最初に思いついたのは、玉座の背後の垂れ幕の向こう側を調べることだった。サリッドの姿を見かけたのはそこである。高価な垂れ幕をぐいと一気に留め具から引きちぎると玉座の背後に小さな戸口が現われた。
ここからサリッドが逃げたことに疑問の余地はなかった。たとえ疑問があったとしても、戸口の奥の通路を二、三歩行ったところに小さな宝石をちりばめた装身具が落ちているのを見つけたとたんに、その疑問はかき消えた。
装飾物を拾い上げてみると、ヘリウム王女の紋章がついていた。それに唇を押しあてながら曲がりくねった通路を狂気のように走りだした。通路はゆるやかに下降しつつ宮殿の地下道のほうへのびている。
いくらもいかないうちに、ソランが管理していた秘密室に行き当たった。彼の死体はまだ私がさきほど残して行った場所にそのまま横たわっていたし、私が立ち去ったあと、ほかの人間が部屋を通り抜けた形跡は何も見当たらなかった。しかし私には、二人の人間――黒色人の貴族《ダトール》サリッドとデジャー・ソリス――がここを通ったことがわかっていた。
一瞬、五つも六つもある部屋の出口のうちどれが正しい道に通じているのかはっきりしなくて考えこんだ。そして、サリッドがソランに確認してもらおうと復唱していたのを盗み聞きした、あの道筋を思い出そうとした。徐々に、深い霧の中から浮かびあがるように記憶がよみがえってきて、ついにファースト・ボーンがしゃべっていた言葉を思い出した。
「廊下を進み、右側にある三つの分岐通路を通過する。そして四番目の右側の分岐通路へはいって、まっすぐ三つの通路の分岐点まで行く。ここでまた右側の通路をたどるが、落とし穴を避けるために左側の壁にぴったりくっついて進む。この通路の突き当たりまで行くと、螺旋通路にぶつかるが、これは登らずに降りること。そのあとは、分岐通路のない一本道をたどって行く」
そして私は、サリッドがしゃべりだすときに指さしていた戸口も思い出した。
もはやためらうことなく、私はすぐに未知の道を進みはじめた。行く手に容易ならぬ危険が待ちうけているかもしれないことはわかっていたが、警戒もしないでどんどん進んだ。
通路はまっ暗なところもあったが、大部分は明るい照明がついていた。落とし穴を避けるために左側の壁にへばりついて行かなければならない場所あたりがいちばん暗くて、危険な場所に近づいたとさとったときには、もう底知れぬ穴のふちから転落しそうになっていた。
この恐ろしい穴を避ける道としては、一フィートたらずの幅の狭い岩棚があるだけだったから、何も知らずに足を踏み出したら、たちまち穴の中へころげ落ちていたにちがいない。それでも私は、やっとのことで無事に穴の向こう側へたどりついた。それから先の道はずっと、かすかながらも明かりに照らされていたので、足元ははっきり見えた。そして最後の通路の端までくると、とつぜん、雪と氷の平原にまばゆく反射する強烈な陽光の中に飛びだした。
温室のようなカダブラの都の暖かな空気にふさわしい身なりのままで、いきなり北極の厳寒の中に飛びだせば、気持がいいどころではなかった。だが、何よりも困ったのは、私のような裸同然の格好ではこの厳しい寒さに耐えられるはずがないこと、そしてサリッドとデジャー・ソリスに追いつくこともできないうちに死んでしまうことだった。
人間の抜け目のない手練手管《てれんてくだ》をことごとく心得ているかのような大自然の手によって、こんな妨害を受けるとは、なんという残酷な運命なのだろうか。地下道の暖かい空気の中によろよろと引き返しながら、私はいまだかつて感じたことのないほどの絶望感に襲われた。
だが、けっして追跡の続行を断念したわけではなかった。やむを得ない場合にはたとえ目標に到達しないうちに死ぬとしても前進しただろう。しかし、デジャー・ソリスのために戦うことができる健康状態のまま、ふたたび彼女のそばにたどりつけるような、もっと確実な方法があるものなら、それを見つけるのに手間どっても、それだけの値打ちは十分にあるだろう。
地下道の中へ引き返したとたんに、私は道路の床の壁ぎわのところに釘づけになっている毛皮服の切れはしらしいものにつまずいた。暗がりの中では、どうしてそれがそんなところにくっついているのかわからなかったが、手でさぐってみると、閉じたドアの下にはさまっていることがわかった。そのドアを押しあけてみると、そこは小さな部屋の戸口だった。部屋じゅうの壁に鉤が並び、黄色人の完全な野外用の服がいっぱいぶらさがっていた。
この部屋が宮殿から通じる地下道の出口にあることを考えれば、これは貴族たちが温室同様の都から出入りするさいに使う着替え室であることは明らかだった。そして、そのことを知っていたサリッドは、このさきの北極の厳寒の中へ飛び出す前に、ここに立ち寄って自分とデジャー・ソリスの身仕度をととのえたにちがいなかった。
そのとき彼はあわてて数着の服を床に落としたのだ。そして戸口から通路にはみ出した毛皮が物を言って彼が何よりも知られたくなかったはずのこの部屋を私に発見させる結果になったのである。
ほんの数秒のうちに、ぜひとも必要なオルラック皮の外套を着て、毛皮の裏のついた重い長靴をはいた。この靴は、荒涼とした北極地方の凍った道や身を切る寒風を無事に切り抜けるにはなくてはならない装具の一つである。
ふたたび、地下道の出口から外へ足を踏み出すと、降りつもった新雪の中にサリッドとデジャー・ソリスの真新しい足跡が見つかった。とうとう、私の追跡も容易なものになった。進む道は厄介きわまるものだったが、もはや行くべき方向が定まらなくて悩むことはなかったし、暗闇や隠れた危険を苦にすることもなかった。
道は雪に覆われた深い峡谷を抜けて、低い丘の頂上へつづいていた。丘を越えると、また別の峡谷を降るようになったが、四分の一マイルほど行くとすぐまた登りになって、けわしい岩山の側面に沿ってのびる山道にむかっていた。
先に通った者たちが残した痕跡《こんせき》から、デジャー・ソリスがしじゅう歩みをとめて進むまいとしたことや、黒色人がやむをえず彼女をひきずって行ったことがわかった。さらに、ほかの場所へくると、厚くつもった雪の中にサリッドの足跡だけが狭い間隔で深々と残っていたので、ついに彼が王女のからだをかついで行かざるをえなくなったことがわかった。まったく、デジャー・ソリスが一足ごとに激しく反抗しながら連れ去られて行った光景が目に浮かぶようだった。
岩山の肩の突出部をまわって行く手をみたとたん、にわかに動悸《どうき》が早くなった。この丘と次の丘の間の小さな盆地にある大きな洞穴の前に四人の人間が立っていたのである。そして彼らのそばの白く輝く雪の上には、たったいま隠し場所の洞穴から引き出したばかりと見える一隻の飛行船が横たわっていた。
それは、デジャー・ソリス、ファイドール、サリッド、マタイ・シャンの四人だった。二人の男は激しく言い争っていた――サーンの教皇は威嚇的な態度だが、黒色人のほうは、何かせっせと仕事をしながら、あざ笑っている。
見つからないうちにできるだけ接近しようと用心深く忍び寄って行くと、けっきょく二人の男の話はなんとか折り合いがついたと見えて、二人そろって、ファイドールの助けをかりながら、抵抗するデジャー・ソリスを飛行船の甲板のほうへ引っぱって行きはじめた。
そして甲板に王女を縛りつけてしまうと、二人ともまた地上におりてきて、出発準備の仕上げにとりかかった。ファイドールは甲板の小さな船室にはいって行った。
彼らから四分の一マイル足らずのところまで接近したとき、マタイ・シャンが私を見つけた。彼はサリッドの肩をつかんで私のほうを振り向かせながら、指さした。そのときにはもう、私ははっきりと姿を現わしていた。見つけられたことをさとると、たちまち隠密作戦をかなぐり捨てて、飛行船めがけて猛然と走り出していた。
二人がやっている仕事のテンポは俄然《がぜん》、早くなった。何かの修理のためにはずした推進器をふたたびとりつけようとしているところらしい。
私が彼らのところまでの距離の半分も行かないうちに、むこうは仕事を完了してしまった。すぐに二人とも乗船梯子に駆け寄った。
サリッドが先に梯子にたどりつき、サルのような身軽さですばやく甲板によじ登ると、浮力タンクの調節ボタンを押した。船はゆるやかに舞いあがったが、良好な状態の飛行船ならば出るはずの速度は出ていなかった。
彼らが私の手のとどかぬところへ上昇していくのを見たとき、私はまだ数百ヤードも離れたところにいた。
後方のカダブラの都の近くには、数時間前に私が破滅から救った多数の飛行船――ヘリウムとプタースの強大な連合艦隊――が待機している。しかし私がそこへたどりつくまでに、サリッドはわけなく逃亡に成功してしまうだろう。
走りながら見ると、マタイ・シャンは揺れ動く梯子をよじ登っている最中で、その頭上の甲板からファースト・ボーンが邪悪な顔をのぞかせていた。船尾から一筋のロープが垂れさがっているのに気がついたとき、新たな希望が生まれた。あまり高く上がってしまわないうちに、あのロープをつかむことさえできれば、甲板までたどりつくチャンスはまだ残っている。
飛行船に何か重大な故障があることは、もはや歴然としていた。浮力が不足しているというだけでなく、サリッドが始動レバーを二度も動かしたのに、船はじっと空中に浮かんだままで、ただ北方からの微風をうけてかすかに漂流しているだけだった。
いまやマタイ・シャンは船べり近くまでたどりついていた。タカの爪のような、ひょろ長い手が上方にのびて、金属の手すりをつかもうとしている。
サリッドはさらに身を乗りだして、共謀者を見おろした。
とつぜん、黒色人が振り上げた手の中に短剣がひらめいたかと思うと、サーンの教皇の白い顔めがけて、さっと振りおろされた。ひと声高く恐怖の悲鳴をあげてホーリー・ヘッカドールは狂気のように黒色人の腕にむしゃぶりついた。
そのときには、私のほうはもう少しで垂れさがったロープにたどりつくところだった。その間にも船は相変わらずゆるやかに上昇をつづけ、私から遠ざかってゆく。そのとき、私は氷の上でつまずき、ぶざまに倒れたはずみに石に頭を打ちつけた。いままさに地面から離れようとしているロープの先端が、腕をのばせばとどくところにあった。
だが、頭を打ったとたんに私は気を失った。
北極の氷の上で気絶して倒れていたのは、わずか数秒にすぎなかったはずである。だが、その間にわが最愛の女は私の手からずっと遠ざかって黒い悪魔の手の中へ流れて行ってしまった。気がついて目をあけたとき、サリッドとマタイ・シャンはまだ梯子の頂上で争っていたし、飛行船はさらに百ヤードほど南へ流されただけだった――しかし、垂れさがっているロープの先端は、いまでは地上からゆうに三十フィートは上昇していた。
あと一息で成功というときに私の足をすくった運命の残酷さに怒り狂った私は、すさまじい勢いで疾走して、垂れさがったロープの真下まで行くと、自分の地球人の筋肉にのるかそるかの大勝負をさせた。
力強い、猫のように身軽な跳躍で、私は細いロープ――姿を消しかけている愛する女のもとへ私を導いてくれる残された唯一の手段――をめがけて飛びあがった。
私の手はロープの先端から一フィートほど上のところをつかんだ。しっかりと握りしめたが、手の中のロープはずるずるとすべった。あいているもう一方の手をのばして最初の手の上のほうをつかもうとしたが、そのために姿勢がかわったので、いっそう急速にずり落ちることになった。
ロープは意地悪く、じわじわと手の中から逃げてゆく。たちまちのうちに、せっかくつかんだ幸運はすべて失われてしまうだろう――そう思ったとき、手がロープの先端の結び目にひっかかって、それっきりすべらなくなった。
私は感謝の祈りをつぶやくと、船の甲板をめざしてよじ登りはじめた。サリッドとマタイ・シャンの姿は見えなかったが、闘争の物音が聞こえたので、二人がまだ戦っていることがわかった。サーンは自分の命のために戦い、黒色人は一人でも乗員をへらして船の浮力を増すために戦っているのだ。
もしも、私が甲板にたどりつかないうちにマタイ・シャンが殺されたら甲板に到達する見込みはきわめて薄くなるだろう。黒色人の貴族《ダトール》は私の頭上のロープを切りさえすれば、私から永遠に解放されることになる。船は深い氷の割れ目の上まで押し流されてきていたので、いまサリッドにロープを切られたら、私の体は大きな口を開けた深みへ墜落して、ぺしゃんこにつぶれてしまうだろう。
ついに私の手は船べりの手すりにかかった。ちょうどその瞬間、血も凍るような恐ろしい悲鳴が下のほうで響きわたった。ぎょっとして目をむけると、金切り声をあげ、身をくねらせながら、すさまじい勢いで真下の恐ろしい割れ目の中へ落下してゆく人影が見えた。
それがサーンの教皇、ホーリー・ヘッカドール、マタイ・シャンの最期だった。
そして私が甲板の上に頭を出すと、サリッドが短剣を握ってすっとんできた。彼は船室の前側にいたが、私は船尾近くから船上にはいあがろうとしていた。しかし、二人の間隔はわずか数歩だった。激怒した黒色人が襲いかかってくる前に甲板にはいあがることは、絶対に不可能だった。
ついに最期のときがきた。私はそれをさとった。たとえ何がしかの希望が残っていたとしても、サリッドの邪悪な顔のいやらしい勝ち誇った目つきを見るだけで、これが最期だと思わざるをえなくなっただろう。サリッドのうしろには、目を見張り、恐怖におののき、懸命に身もだえしているデジャー・ソリスの姿が見えた。私の恐ろしい死にざまを彼女に見せることになるのかと考えると、私のひどい運命はますます残酷なものに思えた。
私は船べりを越えてはいあがろうとするのをやめた。そのかわりに左手で手すりをしっかりとつかみ、右手で短剣を抜いた。
少なくとも、生きてきたときと同じように――戦いながら死ぬべきだ。
サリッドが船室の入口の前まできたとき、マタイ・シャンの故障した飛行船の上で演じられている無気味な大空の悲劇に新しい要素が飛びこんできた。
それはファイドールだった。
顔を赤らめ、髪を乱し、そしてこの誇り高い女神がついぞ見せたことのない現象だが、たったいま激しい涙を流したことを示す目をして、彼女は私のまん前の甲板に飛びだした。
その手の中には、長い細身の短剣が握られていた。私はいままさに死のうとする男にふさわしく、微笑しながら愛する王女に別れの一瞥《いちべつ》を投げかけた。それからファイドールに顔をむけ――その一撃を待ちうけた。
その美しい顔がこの一瞬ほど美しく見えたことはない。このすばらしい美女があれほど冷酷な心を美しい胸の中に秘めていようとは、信じがたいことに思えた。しかも今日は、そのすばらしい目の中に、いまだかつて見たことのない新しい表情――見なれぬやさしさと苦悩の色が浮かんでいた。
サリッドはいま、彼女のそばにいた――さきに私のところへ行こうと彼女をおしのけて進もうとした。そのとたんに起こったことは、あまりにもすばやい動きだったので、私が事の真相をさとるより早く、すべては終わっていた。
ファイドールのきゃしゃな左手がやにわに黒色人の短剣を持った手の手首をつかんだかと思うと、右手が白刃をきらめかせて、さっと高くあがったのである。
「マタイ・シャンのために!」彼女はそう叫んで、ダトールの胸に深々と白刃を突き刺した。「もう一つおまえがデジャー・ソリスにしていたはずの悪事のために!」ふたたび鋭い刃金が血まみれの肉にくいこんだ。
「もう一つ、もう一つ、もう一つ! ヘリウム王子のジョン・カーターのために」と彼女は甲高い叫びをあげ、その一言《ひとこと》ごとに鋭い剣先を大悪党の汚らわしい心臓に突き通した。それから彼女は復讐の思いをこめてファースト・ボーンの死体を甲板から突き落とした。黒色人は恐ろしい沈黙のうちに自分の犠牲者のあとを追って行った。
私は驚きのあまり全身が麻痺したようになってしまったので、このすさまじい光景が目の前で展開するあいだ、甲板にはいあがろうともしなかった。そして彼女の次の行動によってますます驚かされることになった。ファイドールは私に手をさしのべ、甲板にはいあがるのを手伝ってくれたのである。船上に立った私は驚きの色もあらわに、呆然と彼女を見つめた。
弱々しい微笑がファイドールの口もとに浮かんだ――それは私の見なれていた冷酷で高慢な女神の微笑ではなかった。
「不思議でしょうね、ジョン・カーター」と彼女は言った。「いったい、どうしてわたしがこんなに変わったのか。そのわけを話しましょう。それは愛――あなたへの愛なの」私がその言葉を認めかねて眉をくもらせると、彼女は訴えるように片手を上げた。
「待ってちょうだい。それは私の愛とはちがうものよ。それは、あなたの王女デジャー・ソリスがあなたに寄せる愛なの。真実の愛とはどのようなものか――どのようなものであるべきかをわたしに教えてくれた愛、そして、わたしの自分本位の嫉妬深い情熱が真実の愛とはどんなにかけはなれたものであるかを教えてくれた愛なの。
もう、わたしはちがってしまった。いまわたしもデジャー・ソリスが愛するように愛することができるわ。だから、わたしの幸福はただ一つ、あなたとあのひとがふたたび一つに結び合わされたのを知ることだけなのよ。あなたの真の幸福はあのひとのなかにしか見いだせないものですものね。
でも、わたしは自分が犯した罪のために幸福にはなれないわ。つぐなわなければならない罪がたくさんあるの。たとえわたしが不死身であろうとも、そのつぐないをするには、とても足りないくらい。
でも、償いの方法はほかにもあるわ。ホーリー・サーンのホーリー・ヘッカドールの娘のファイドールが罪を犯してきたとしても、そのいくぶんかは、きょうすでに償ったはずです。そしてわたしの言葉が偽りではないということ、デジャー・ソリスをも愛する新しい愛にめざめたという告白が真実であることを信じていただけるように、たった一つ残されている方法で誠意を見せます――ファイドールは別のひとのためにあなたを救ったのだから、そのひとの胸にあなたを残して行くのよ」
その最後の言葉を口にするやいなや、彼女は身をひるがえし、眼下の深淵めがけて甲板から飛びおりた。
恐怖の叫びとともに、私は前に飛びだし、この二年のあいだ喜んでその死にざまをながめたはずの女の命を救おうとした。だが、間に合わなかった。
私は涙に目をくもらせながら、眼下の恐ろしい光景を見まいとして顔をそむけた。
そしてすぐに、デジャー・ソリスのいましめを解いた。彼女のいとしい腕が私の首にまきつき、その非の打ちどころのない美しい唇が私の唇に押しつけられたとき、今まで目撃した戦慄の光景も耐え忍んできた数々の苦難もついに報酬を勝ちとった歓喜の渦の中にことごとく押し流された。
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十六 新しい支配者
デジャー・ソリスと私が十二年の長い別離のあとで再会する舞台となった飛行船はまるで使いものにならなかった。浮力タンクがひどく洩《も》っていたし、エンジンはかからなかった。おかげで私たちは、北極の氷原の上空で動きがとれなくなった。
漂流する船は、マタイ・シャン、サリッド、ファイドールの死体を呑みこんだ氷の割れ目を通過し、いまでは低い丘の上に浮かんでいた。私は浮力タンクの排出弁を開いて、船を徐々に降下させた。着陸すると、デジャー・ソリスと私は甲板からおり、二人そろって氷にとざされた荒地を横切りカダブラの都へ引き返して行った。
さきほど彼女のあとを追うときに通った地下道を、二人でゆっくりと歩いて行った。たがいに話したいことは山ほどあった。
彼女は、何か月も前、太陽殿の中の獄房の扉が徐々に閉じて二人の間をへだてた、あの最後の恐ろしい瞬間のことを物語った。ファイドールが短剣をふりかざして彼女に飛びかかり、そのとたんにサビアがサーンの娘の悪意をさとって悲鳴をあげたときのことを。
何か月もの長いあいだ、王女の身の上を案じて疑惑と不安に責めさいなまれた私の耳にたえずつきまとっていたのは、その悲鳴だった。その短剣がデジャー・ソリスにもサビアにもふれないうちに、マタイ・シャンの娘の手からサビアにもぎとられてしまったことなど私は知らなかった。
彼女はまた、長い監禁生活の恐ろしさを、ファイドールの残忍な憎悪を、サビアのやさしい愛情を語り、どんなにひどい絶望に陥ったときでも、二人の赤色人の女は、かならずジョン・カーターが自分たちを助けにきてくれるという同一の希望と信念を捨てなかったと語った。
まもなく、私たちはソランの部屋にたどりついた。ここへくるまで私は何の警戒もせずに進んできた。いまごろはもう、都も宮殿も味方の手に落ちているにちがいないと思っていたからだ。
そんなわけで、私はいきなり部屋にはいり、サレンサス・オールの宮廷の貴族たちが十人あまり集まっているどまん中へ飛びこんでしまった。彼らは、私たち二人が通ってきたばかりの通路をたどって外界へ脱けだそうとしているところだった。
私たちの姿を見ると、たちまち彼らは足をとめた。そして一行の指揮者の顔に険悪な微笑が浮かんだ。
「われわれをこんな目にあわせた張本人はこいつだぞ!」と彼は私を指さして叫んだ。「ヘリウムの王子と王女のばらばら死体をここに残して行けば、多少なりとも仕返しができるというものだ。
「やつらが二人の死体を見つければ」と彼は頭上の宮殿のほうへ親指をひょいとあげながら、しゃべりつづけた。「黄色人の復讐がどんなに凄《すさ》まじいものか思い知ることだろう。さあ、覚悟しろ、ジョン・カーター。しかし、おまえの王女を殺すことについては、おれの気が変わるかもしれないということを教えてやったら、おまえの最期はいっそうつらいものになるだろうな――たぶん王女は生かしておいて、われわれの慰みものにするのだ」
私が立っているのは一面に機械装置がとりつけられている壁のそばだった――デジャー・ソリスは私のすぐ横にいた。敵の戦士たちが剣を抜いて立ち向かってきたとき、彼女は不思議そうに私の顔を見あげた。私の剣はまだ腰の鞘《さや》の中に収まったままだし、私の口もとには微笑が浮かんでいたので。
黄色人貴族たちも驚いた顔つきになった。そして私がいっこうに剣を抜こうとしないので、何か策略でもあるのかと思ったらしく、しりごみした。しかし彼らの指揮者は叱咤《しった》した。彼らが剣のとどく距離まで接近したとき、私は片手を上げて、ぴかぴか光る巨大な把手の上にのせた。そして相変わらず無気味な微笑を浮かべながら、敵の顔をまっこうから見つめた。
彼らはいっせいに、ぴたりと足をとめ、恐怖のまなざしを私にむけ、それからたがいに顔を見合わせた。
「やめろ!」と指揮者が叫んだ。「そんなことをしようなんて、夢を見ているんじゃないだろうな!」
「そのとおりだ」と私は答えた。「ジョン・カーターは夢など見てはいない。ちゃんとわかっているのだ――きみたちがあと一歩でもヘリウムの王女デジャー・ソリスに近寄ったら、私は思いきり、この把手を引く。そうすれば王女も私も死ぬだろう。しかし死ぬのは私たちだけではない」
貴族たちはひるんで後退し、しばらくのあいだ小声で話し合っていた。やがて指揮者の男が私のほうをむいて言った。
「行け、ジョン・カーター。われわれも立ち去ることにしよう」
「捕虜は勝手に立ち去るわけにはいかない」と私は答えた。「きみたちは捕虜だ――ヘリウムの王子の捕虜なのだ」
彼らが答えるより早く、部屋の奥のドアが開いて、二十人ほどの黄色人がどやどやはいってきた。一瞬、貴族たちはほっとした顔つきになったが、新しい一行の指揮者を見るとすぐ顔を伏せてしまった。それはマレンティナの王子、反逆者タルーだったのである。彼の手中に落ちては、援助も慈悲も求めようがないことは明らかだった。
タルーは一目でこの場の形勢を見てとり、にっこりと笑った。
「でかしたぞ、ジョン・カーター」と彼は叫んだ。「連中の強力な武器を逆手《さかて》にとったというわけか。きみがここに来合わせて、こいつらの逃亡をくいとめたのは、オカールにとって幸運なことだったよ。なにしろ、こいつらは氷の崖の北側ではいちばんの悪党どもだからな。それに、この男は」彼は貴族の一行の指揮者を指さした。「死んだサレンサス・オールにとって代わって皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》になろうとしていたのだ。そんなことになっていたら、きみの剣に倒された憎まれ者の暴君よりもっとひどい極悪人を支配者にもつことになったろう」
オカールの貴族たちは、手向かえば殺されるだけだったので、屈服して縛《ばく》についた。私たちはタルーの戦士たちに護衛されて、サレンサス・オールの謁見室だった大広間にむかった。ここには、おびただしい数の戦士たちが集合していた。
ヘリウムやプタースの赤色人、北極の黄色人、それにファースト・ボーンの黒色人もまじっている。彼らは、私と私の王女の捜索に手をかそうと、わが友ゾダールに率いられてやってきたのだった。また、南方の涸れた海の底からきた獰猛な緑色人戦士もいたし、邪教を捨てて、ゾダールに忠誠を誓っている白い肌のサーンもいくらかいた。
タルドス・モルスとモルス・カジャック、それに華麗な戦士の装具に身を固めた長身の堂々たるわが子カーソリスもいた。この三人は、私たちが部屋にはいって行くと、デジャー・ソリスのところへ駆け寄った。火星の王室の生活や躾《しつけ》では卑俗な感情をあまり表に出さないように教えているのだが、このときの彼らはデジャー・ソリスを窒息させてしまうのではないかと思われるほどの勢いで抱きしめた。
さらに、わが旧友、サークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカスとカントス・カンもいた。そして、愛情をいっぱいにふりまいて私に飛びついたり、装具をかきむしったりしたのは、うれしさのあまり狂気のようになっている愛すべき火星犬《キャロット》のウーラだった。
私たちが姿を現わすと、大喝采がわき起こって、なかなか鳴りやまなかった。火星全土から集まった歴戦の戦士たちが、成功と勝利のしるしに、抜き放った剣を高く掲げていっせいに打ち合わせると、耳を聾せんばかりの金属音が部屋じゅうに響きわたった。しかし、私に会釈をする貴族や戦士、王《ジェド》や皇帝《ジェダック》たちの人波の間を歩きまわりながら、私の心はまだ重かった。ぜひともこの場で見たいと思う二つの顔が見えない――この大謁見室にはサバン・ディンとプタースのサビアの姿が見当たらなかった。
私は各種族の戦士に二人のことをきいてみた。そして最後に、黄色人捕虜の一人から、私がご馳走地獄に閉じこめられている間に、二人はそこへ近づこうとして衛兵士官に逮捕されたという情報を聞き出した。
なぜ二人がご馳走地獄へ近づいたか、そのわけは聞くまでもなかった――勇敢な皇帝《ジェダック》とその誠実な娘! 情報をしゃべった捕虜によると、二人はいま、宮殿のたくさんある地下牢の一つに監禁されて、北極の暴君の判決を待っているということだった。
たちまち捜索隊がいくつも飛び出し、古い広大な宮殿の建物の中を急いで捜しまわった。そして、歓声をあげる儀仗兵に守られながら二人が部屋にはいってくるのを見たとき、私の幸福は完璧《かんぺき》なものになった。
サビアは何よりもまずデジャー・ソリスのそばへ走り寄った。そして二人が抱き合ったときの真剣さは、彼女たちがたがいに抱いている深い愛情を何よりもよく物語っていた。
このぎっしりと人に埋まった大広間を、オカールの主のない沈黙の玉座が見おろしていた。
遠い太古の時代に最初の皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》がそこにすわったとき以来、この玉座は数々の不思議な光景を目撃してきたことだろうが、いま見おろしている光景にくらべられるものは一つもなかったにちがいない。私は、この長いあいだ北極にひそんでいた黒ひげの黄色人種の過去と未来を考えているうちに、いまでは南極から彼らの国のすぐ近くにまで広がる多数の友好国ができたのだから、これらの国々と親しく交わってゆくようになれば、この国はもっと輝かしい、もっと有益な存在になるだろうと思った。
二十二年前、私は裸の見知らぬ人間として、この不思議な野蛮な世界にほうりだされた。いずれの種族も国家も、ほかのすべての国や人種の者たちと絶え間なく争い戦っていた。だが今日では、私の剣の力と、私の剣がかちとった友人たちの忠誠によって、黒色人や白色人、赤色人や緑色人が平和に親密に交際している。まだバルスームのあらゆる国が一つになったわけではないが、その目標をめざして大きく一歩前進したのである。そしていま、この獰猛な黄色人種に、友好国家群の仲間入りをさせることができれば、私は一生の大仕事を完成したことになり、私にデジャー・ソリスを授けてくれた火星のはかり知れない恩義に対しても少しは報いることができたと感じることができるだろう。
そう考えているうちに、この希望を確実に成功させることができる唯一の方法、ただ一人の人物を思いついた。例によって、思いつくやいなや、熟考も相談もなしに、ただちに行動に移った。
私の計画や、その押し進め方が気にくわない連中は、かならず、その異議の力を強める手段として剣をそばに引き寄せる。だが、いま、私がタルーの腕をつかんで、かつてサレンサス・オールがすわっていた玉座に飛びだしたときには、反対の声は上がりそうもなかった。
「バルスームの戦士諸君」と私は叫んだ。「カダブラは陥落し、北極の憎むべき暴君も死んだ。しかし、オカールの独立と領土は保たれなければならない。赤色人は赤色人の皇帝《ジェダック》によって統治されているし、涸れた海の緑色人戦士は、緑色人以外の支配者を認めはしない。南極のファースト・ボーンは黒色人ゾダールの命令に従っている。それゆえ、オカールの玉座に赤色人の皇帝《ジェダック》をすわらせたりすることは、黄色人のためにも赤色人のためにもならないだろう。
北極の皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》という由緒《ゆいしょ》ある偉大な称号にもっともふさわしい戦士はたった一人しかいない。オカールの戦士諸君、剣をかかげて諸君の新しい支配者を迎えたまえ――マレンティナの反逆の王子タルーを!」
とたんに、マレンティナの市民とカダブラの捕虜の間から大きな歓声が上がった。彼らはみな、バルスームのしきたりどおり、赤色人が武力によって手に入れたものはそのままとるだろうと考え、今後は異民族の皇帝《ジェダック》に支配されるものと思いこんでいたのだった。
カーソリスに従ってきた勝利者側の戦士たちもこの熱狂的な騒ぎに加わっていた。このすさまじい混乱と喧騒と喝采の嵐のさなかに、デジャー・ソリスと私はカダブラの宮殿の中庭を飾る目のさめるような皇帝《ジェダック》の園へ出て行った。
二人のすぐあとからウーラがついてきた。紫色の花が咲いている木陰の、すばらしく美しい彫刻のほどこされたベンチに、私たちより先にきていた二つの人影が見えた――プタースのサビアとヘリウムのカーソリスだ。
美しい若者の頬は、その相手の美しい頬にぴったり寄せられていた。私はデジャー・ソリスを見つめて微笑した。そして彼女を引き寄せながらささやいた。
「かまわないさ」
ほんとうに、かまわないではないか。この永遠の青春の世界で、年齢の差はまったく問題にならないのだから。
タルーの正式の皇位就任式がすむまで、私たちは彼の賓客としてカダブラに滞在した。それから、私が幸いにも破滅から救うことができた大艦隊に搭乗《とうじょう》し、氷の断崖をこえて南へ向かった。もっとも、出発する前に、新しい皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》の命令によって、無気味な北極の守護神が完全に破壊されるのを目撃した。
「これからは」とタルーは、その破壊作業が終わったあとで言った。「赤色人や黒色人の艦隊は、自分の国の空と同じように、自由に氷の断崖をこえて往来できる。
腐肉の洞窟はきれいに掃除してしまおう。そうすれば緑色人もたやすく黄色人の国にこられるようになるだろう。また、神聖なアプト狩りを貴族たちのスポーツにして、どんどん退治《たいじ》させるつもりだ。いまに、あの恐ろしい動物は一匹も北極をうろつかなくなるだろう」
われわれは心底から名残《なご》りを惜しみながら黄色人の友人たちに別れを告げると、プタースにむかって出発した。プタースには一か月のあいだ、サバン・ディンの賓客として逗留した。カーソリスは、ヘリウムの王子でなかったら、永久にここにとどまりたいような様子だった。
われわれの艦隊はケオールの大森林の上空を飛びまわり、やがてクーラン・ティスの合図に誘導されて、この国の一つしかない飛行船着陸塔に舞いおりた。ここで艦隊は一日半のあいだ乗組員を上陸させた。私たちはケオールの都を訪れ、ケオールとヘリウムの間の新しい友情のきずなを強固なものにした。それから、永遠に忘れられないあの日、ヘリウムの双子都市の細長い二つの尖塔を目にしたのである。
人々はずっと前からわれわれの帰還にそなえて準備をととのえていた。空にはきらびやかな飾りつけをした飛行船が華麗な乱舞をくりひろげていたし、二つの都市の家々の屋根にはどこもかしこも高価な絹物やつづれ織《おり》が広げてあった。
また屋上や街路や広場には金や宝石がやたらにまき散らされていたので、二つの都市は、まばゆい陽光を反射して無数の美しい色の光を放つすばらしい宝石や金属の輝きに燃え立つように見えた。
十二年の長い年月の後、ついにヘリウムの皇帝の一家は、自分たちの都で、宮殿の門の前に集まる無数の狂喜した群衆に囲まれながら再会したのである。女も子供も、堂々たる戦士も、自分たちの愛するタルドス・モルスと、全国民の偶像である神聖な王女を返してくれた運命に感謝して涙を流した。そして、たとえようもない危険と栄光の遠征に参加した者たちは一人残らず賞賛された。
その夜、私はデジャー・ソリスやカーソリスとともに、自分の宮殿の屋上でくつろいでいた。この宮殿には、だいぶ前に作らせた美しい庭園があり、宮廷の華美な儀式ばった固苦しさから離れて私たち三人だけで静かな幸福を味わえるようにしてあった。ところが、その親子水入らずの楽しいひとときを過ごしているところへ、使者がやってきて、私たちを応報神殿に呼びだす指令を伝えた。「今夜、神殿において裁かれるものとする」召喚状の最後にはそうしるされていた。
何年ぶりかでヘリウムに帰還したその晩に、皇帝《ジェダック》の一族を宮殿から呼びだすほど重大な問題とは何事だろうか、と私は考えこんだ。しかし皇帝《ジェダック》に呼び出されたら、ぐずぐずしてはいられない。
私たちの飛行船が神殿の屋上の発着場に着陸したとき、ほかにも無数の飛行船が発着しているのが目にはいった。眼下の街路を見おろすと、大群衆が神殿の巨大な門のほうへ押し寄せていた。
この神殿で、ドール谷やコルスの行くえ知れずの海からもどってきた罪にとわれてザット・アラースに裁かれたときから延期になっている私の判決のことが、しだいに記憶によみがえってきた。
火星の人間が持っている厳密な正義観のために、ひょっとすると彼らは私の異端のふるまいがもたらした偉大な利益を無視したのではないだろうか? 彼らを恐ろしい迷信の束縛から解放した私への恩義を、彼らはこんなにも早く忘れてしまったのだろうか? カーソリス、デジャー・ソリス、モルス・カジャック、タルドス・モルスの救出成功が、私の活躍、私ひとりの活躍に帰せらるべきものだという事実を無視することができるのだろうか?
そんなことは信じられなかった。だが、タルドス・モルスが皇帝《ジェダック》の座にもどるやいなや、私を応報神殿に呼び出す理由は、それ以外に考えようがないではないか。
神殿にはいって正義の御座に近づいたとき、裁判官の席に並んでいる男たちの顔を見て、私はまず驚かされた。二、三日前にその宮殿で別れたばかりのケオールの皇帝《ジェダック》クーラン・ティスがいたし、プタースの皇帝《ジェダック》サバン・ディンもいた――どうやって、われわれとほとんど同時にヘリウムへやってきたのだろう。
また、サークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカス、ファースト・ボーンの皇帝《ジェダック》ゾダールがいたし、北方の断崖のかなたの氷に閉ざされた温室の都にいるものと思っていた北極の皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》タルーの顔まで見えた。そして彼らといっしょにタルドス・モルスとモルス・カジャックがすわり、さらに、同胞を裁くのに必要な三十一人の定員を満たすために、もっと地位の低い王《ジェド》や皇帝《ジェダック》が並んでいた。
まさしく皇族の法廷だった。長い火星の歴史を通じてみても、これほど立派な顔ぶれがいっしょに並んだことは、いまだかつてなかったにちがいない。
私がはいって行くと、傍聴席を埋めた大群衆は静まり返った。やがてタルドス・モルスが立ちあがった。
「ジョン・カーター」と彼は太く低い軍人らしい声で言った。「真理の台座につきなさい。きみは同胞たちの公正な法廷によって裁かれるのだ」
私はまっすぐ前を見つめ、昂然《こうぜん》と頭を上げて、命じられたとおり台座にすわった。ほんの少し前までは私のバルスームにおける最良の友と断言できるはずだった者たちがまじっている円形の裁判官席の顔を見まわしたが、友人らしいまなざしを向ける者は一人としていなかった――自分の義務を遂行しようとする、いかめしい、妥協しない裁判官たちが並んでいるだけだった。
書記が立ちあがり、大きな帳簿を開いて、私が最初にサーク族の孵化器のそばの黄土色の海底に下り立ったとき以来二十二年の長期間にわたって、私の功績と考えられている行為のめぼしいものを長々と読みあげはじめた。いろいろなほかの行為とともに、ホーリー・サーンとファースト・ボーンが支配していたオツ山脈の周辺で私が行なったこともすべて読みあげられた。
バルスームでは、裁判のときに被告の罪とともに長所も並べたてるしきたりだったので、私のすべての功績が、このような場合に、裁判官たち――そんなことは百も承知の人々――の前で読みあげられても驚くにはおよばなかった。書記の朗読が終わると、タルドス・モルスが立った。
「公正きわまる裁判官諸君」と彼は叫んだ。「諸君は、ヘリウムの王子ジョン・カーターについて知られているあらゆることが善悪ともに読みあげられるのを聞かれた。さあ、諸君の判決は?」
すると、タルス・タルカスがおもむろに立ち上がり、その雲つくような巨躯をだれよりも高く、青銅の像のようにそびえ立たせた。彼は悪意のこもった目を私にむけた――数え切れぬ戦闘をともに戦い、私が兄弟のように愛していたタルス・タルカスが。
私はもう少しで剣を抜き、その場で彼らに打ってかかりそうになったほど激しい怒りにかられた。さもなければ泣きだしていただろう。
「裁判官諸君」とタルス・タルカスは言った。「評決はただ一つしかありえない。ジョン・カーターはもはやヘリウムの王子にはしておけない」彼はちょっと間をおいた。「だが、そのかわりに、彼を皇帝《ジェダック》の中の皇帝《ジェダック》、火星の大元帥《だいげんすい》にしようではないか!」
三十一人の裁判官はさっと立ちあがると、剣を抜いて高く掲げ、全員一致で評決に賛成することを示した。とたんに巨大な建物のすみずみにまで響きわたる喝采《かっさい》の嵐がわき起こり、狂気のような大歓声に神殿の屋根も落ちるかと思われた。
いま初めて、私にも、彼らがこの大いなる名誉を私に与えるのに選んだ方法の無気味なユーモアがわかった。そして私に授けられた称号にも何かいたずらが仕掛けられているのではないかという考えは、最初に裁判官から、つづいて貴族たちから次々に浴びせかけられる真心のこもった祝福の言葉によってたちまち消えてしまった。
やがて、火星最大の宮廷のもっとも立派な貴族五十人が豪華な輿《こし》をかついで広い|希望の《ヽヽヽ》通路を進んできた。人びとが、輿の中にすわっている人影を見たとき、さきほど私のために響きわたった喝采も取るに足らないものと思えるほどの大喝采がとどろきわたった。貴族たちに運ばれてきたのは最愛のヘリウムの王女デジャー・ソリスだった。
彼女はまっすぐ正義の御座にむかって運ばれた。そこでタルドス・モルスが手をかして彼女を輿からおろし、私のそばへ連れてきた。
「バルスーム最高の美女に、その夫の名誉をわかち与えようではないか」と皇帝《ジェダック》は言った。
一同の見まもる前で、私は妻を抱き寄せ、その唇に口づけをした。(完)
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あとがき
「火星のプリンセス」と「火星の女神イサス」につづいて、いよいよ、この一大空想科学冒険物語の完結編をお送りしよう。本書「火星の大元帥カーター」The Warlord of Marsはエドガー・ライス・バローズ Edgar Rice Burroughs の火星シリーズの第三作にあたり、前二作を受けて話の筋はここに落着する。〔原作者はこのあとさらに七冊――あるいは新発見の中編を加えれば八冊――の火星物語を書きつづけた〕
作者E・R・バローズについては前の二巻のあとがきにしるした通りであり、ここではただ、今世紀前半のアメリカが生んだ異色大衆作家、「スペース・オペラ」と呼びならわされた宇宙冒険小説の鼻祖、とだけ書いておこう。「プリンセス」(一九一二年)「女神イサス」(一九一三年)のあとを追って、本書は一九一四年の作品である。
この小説の冒頭に至るまでの物語の運びをたどってみれば――もと南軍の職業軍人だったジョン・カーターは南北戦争後、アリゾナ州の荒野で火星のふしぎな力に牽かれ、一気に弱肉強食の火星世界へ飛来する。そして抜きんでた武勇の力で緑色人部族の幹部になり、囚われの赤色人の王女デジャー・ソリスの苦難を救い、緑色人種と赤色人種の和解を成立させる〔第一巻〕。二度目にカーターが飛来したとき、下り立った場所は緑色人や赤色人のあこがれる死後の楽園――イス川が流れこむコルスの海のほとりだった。だが、そこは楽園どころか、白色人種の支配する残酷な世界であり、その白色人たちが至上の神と仰ぐ女神イサスは、実はよりいっそう残酷な黒色人種の頭目の老婆にすぎなかった。この支配の線をたどってジョン・カーターは突き進み、ついに女神イサスと対決して長年にわたる火星人たちの迷信を打ち破る。けれどもカーターの身を案じてこの地獄を訪れたデジャー・ソリスは女神にとらえられ、カーターに恋する情熱的な白色人の女性ファイドールや、純情可憐な赤色人の娘サビアといっしょに、一年間のタイム・ロックがかかった太陽殿なる牢獄に閉じこめられてしまう〔第二巻〕
本書はデジャー・ソリス救出に至るまでの主人公カーターの大活躍を描き、その舞台は南極に近い女神イサスの太陽殿から赤道直下の密林《ジャングル》の国ケオールへ、さらには北極をとりまく黄色人種の国へと移る。つまり、われらの超人的な主人公は子午線ぞいに火星を縦断するわけで、その行動のスケールは前二作のどちらよりも大きいのである。そして怪異な生きものという点でも、ケオールに棲息する牛ほどの大きさのスズメバチとか、極地帯の雪原に住み巨大な複眼をもつ猛獣とか、さまざまな珍しい火星生物がわたしたちを驚かせてくれる。
しかしこの第三巻の特徴は何よりもまず「スペース・オペラ」に特有の暗い面と明るい面とを徹底的に描ききっていることであろう。暗い面、すなわち若干のデカダン味のまじったゴシック・ロマンふうのところは、たとえば太陽殿の地底の描写などにいちじるしくあらわれている。ことにクリスタルの迷路の彼方にデジャー・ソリスの姿が朦朧と現われるくだりは「火星シリーズ」中もっとも美しい箇所といえるだろう。明るい面――科学技術的・未来論的な面の好例としては、北極の雪と氷のただなかのガラスのドームに覆われた温室国家、マレンティナ公国を思い出していただきたい。こんなふうに作者バローズの想像力は詩と科学とをあざなうようにして、かなり幅広いかたちで物語を押し進めていくのである。単なる荒唐無稽の一語でこの作家を片付けることは不当であり、不正確でもあると言わなければならない。
もう一つ忘れてならないのは、本書の終結部に現われる火星諸民族友好の図である。「まだバルスームのあらゆる国が一つになったわけではないが、その目標をめざして大きく一歩前進したのである」――思い出してみれば第二巻にも、主人公が赤色人、緑色人、黒色人それぞれ一人ずつと逃亡する場面があった。「この小人数の一隊の中には、仲間を見捨てようとする人間は一人もいなかった。国も、皮膚の色も、人種も、宗教も異なる者ばかりで――そのうちの一人は生まれた世界まで異なるというのに」――これは作者バローズの一種の世界連邦主義でなくて何だろう。第一次世界大戦の直前に大衆小説の分野でこういう文明批評を行なった男がいることを、わたしたちは銘記すべきであろう。なるほどジョン・カーターは戦い好きな血なまぐさい人物であるけれども、その行動の裏にきわめてナイーブな理想主義がひそんでいることは見逃せない。それはよかれあしかれ今世紀前半のアメリカ人の心的傾向を決定した要素の一つなのであった。(訳者)