火星の合成人間
E・R・バローズ/南山宏訳
目 次
一 ラス・サバスはどこに
二 大将軍の使命
三 不死身の戦士
四 湿地帯の秘密
五 七王《ななおう》の決定
六 火星の支配頭脳ラス・サバス
七 生命の培養桶
八 赤い暗殺者
九 ホルマッドになった男
十 ジャナイがいた
十一 七王の争い
十二 戦士の報酬
十三 ジョン・カーターの失跡
十四 怪物の出現
十五 カーター発見
十六 皇帝の命令
十七 逃亡計画
十八 裏切りの島
十九 夜の飛行
二十 グーリの酋長
二十一 死の決闘
二十二 ファンダルへ出発
二十三 アモールの捕虜
二十四 檻《おり》の中
二十五 動物園の王子
二十六 檻からの脱出
二十七 危険への飛行
二十八 大艦隊
二十九 モルバスへの帰還
三十 肉塊の島
三十一 冒険の終わり
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登場人物
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ボル・ダジ……ジョン・カーターの忠実な部下で、ヘリウムの士官
ラス・サバス……火星の大科学者で名外科医
ジャナイ……アモール王国の美女、ボル・ダジにひかれる
トル・ズル・バール……ホルマッド(合成人間)
チェイタン・オブ……ホルマッド(合成人間)
ジャル・ハド……アモールの王子
アイマッド……ホルマッドの国モルバスを支配する七王の一人
ガンツン・グール……アモールの殺し屋
ツン・ガン……ガンツン・グールのからだを手に入れたトル・ズル・バール
ウル・ラジ……ハストールの士官
ジョン・カーター……ヘリウムの王子で火星の大元帥。別名ドタール・ソヤット
バンダール……ファンダル出身の赤色人
ガン・ハド……ツーノル出身の赤色人
サイトール……モルバスの赤色人将校
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一 ラス・サバスはどこに
西はファンダルから、東はツーノルにかけて、広大なツーノル大湿地帯が、不気味なとかげのような形で二千八百八十キロにもわたって続いている。そのところどころに小さな湖があり、狭い水路が、それらをつないでいる。この密林と湖ばかりの単調な湿地帯に、古い山脈が風化して骨ばかりになったような島が散在して、緑の密林に覆《おお》われている。
バルスーム(火星)のほかの地域の人たちには、このツーノル大湿地帯については、ほとんど何も知られていない。なぜなら、この陰気な地帯には猛獣や恐ろしい爬虫類《はちゅうるい》、野蛮人の種族などが住んでいるうえに、その両側には、ファンダルとツーノルという二つの、仲の悪い国があって、いつも互いに戦争ばかりしているので、他の国の人々は近づくことができないからだ。
ツーノルの近くのある島で、ラス・サバスという火星で第一の大学者が、千年近くも研究を続けていたが、あるときツーノルの皇帝ボビス・カンが、この大学者を島から追い払ってしまった。これに対し敵国のファンダルでは、ラス・サバスに、その科学知識を悪用することなく、人間の病気や悩みを救うために使用すると約束させたうえで、その島を取り返し、彼を元の実験者に返らせてやろうとした。だが、ファンダルの将軍ゴル・ハジュスに率いられた軍勢が敵に打ち破られてしまったため、ラス・サバスは行方不明となり、ほとんどの人たちから、もう死んだものとして忘れられかけていた。
しかし、この大学者を決して忘れることのできない人たちがあった。まず、デュホールの王女バラ・デュアだ。デュアは、サバスのために脳髄《のうずい》を取られて、それを意地悪で年寄りのファンダルの皇妃ザザに移植されてしまったことがあった。おかげでザザは、バラ・ディアのように若く美しくなった。次が、その夫の地球生まれのバド・バロ。彼はラス・サバスの助手を務めたことがあったので、自分の妻の脳髄を取り返して、元どおり妻の体に移植し直した。
ラス・サバスを忘れることのできない人は、もう一人あった。それはヘリウムの王子であり、火星の大将軍である、ジョン・カーターだ。彼はバド・バロから、世界一の偉大な科学者で外科医の、驚異的な才能の話を聞かされて、ひどく好奇心をそそられていたのだ。だから、妻のデジャー・ソリスが、飛行艇の衝突事故で大怪我をして、背中が折れ曲がったまま、もう何週間も意識不明のままで、あとは死を待つばかりであることを告げられた時、ラス・サバスの行方を捜し、その消息を確かめる決心をしたのだ。
だが、どうやってラス・サバスを見つけたらよいだろう。その時、ジョン・カーターは、バド・バロがラス・サバスの助手であったことを思い出した。もし、ラス・サバスを見つけ出せなくても、その弟子が役に立ちはしないだろうか。それに、バルスームの人々の中で、ラス・サバスの消息を最もよく知っている者は、バド・バロであるに違いない。そこで、ジョン・カーターはまず、デュホールに行く決心をしたのだ。
彼は、自分の艦隊の中から、時速六百四十キロも出る新型の小型快速艇を選び出した。初めはたった一人で出かけるつもりだったが、息子のカルソリスと、娘のターラとスピアがそれに反対したので、とうとう直属の士官を一名連れて行くことに同意した。この若い士官の名前は、ボル・ダジという。
さあ、このボル・ダジから、火星での世にも珍しい、驚くべき冒険談を聞くとしよう。
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二 大将軍の使命
ぼくは、ボル・ダジだ。ジョン・カーター様の親衛隊の一士官だ。地球人の標準でいったら、もう、とうの昔に老いぼれて死んでいるほどの高齢だが、ここバルスームでは、ぼくはまだ、とても若い。地球人が百年も生きたら、それは珍しいことなのだそうだが、火星人の寿命はふつう千年だ。我々は卵として生まれ、五年後に孵化《ふか》する。その時には、もうほとんど立派な大人に近い。生まれつき気が荒いので、よほど厳しく訓練して手なずけないと、手に負えないことになるのだ。また、その訓練がおそろしく軍隊的ときている。だからぼくは、自分が卵の殻を破って出てきた時は、すでに鎧《よろい》をまとい、武器を携えていたのではないかとさえ思うことだってあるくらいだ。
これで自己紹介は終わり。あなたがたは、ぼくの名前を知ってくれて、ぼくが火星のジョン・カーターのために、身命《しんめい》を捧げきっている闘士であることがわかってくれたら、それでよいのだ。だから、大将軍が、ラス・サバスを捜すために、ぼくを連れて行くことにした時、ぼくが非常な光栄と感じたことはいうまでもない。もっとも、初めのうちは、この任務はさして困難なものではないとたかをくくっていた。ああ、なんと先見の明のなかったことか――。
ジョン・カーターの最初の考えでは、まず、ヘリウムの北東約六千四百キロのデュホールへと飛び、そこで、バド・バロを見つけ出して、彼からラス・サバスの消息を聞き出すつもりだった。
装備を完了した我々の快速艇が、大将軍邸の屋上の発着場から離陸したのは、八時二十五分だった。二つの月、サリアとクルーロスが、明るい星空をよぎってすべるように走り、眼下の大地に、絶えず変化する二重の影を美しく投げかけていた。こんな景色は地球ではとても見られないと、地球生まれのジョン・カーターはぼくに言った。
方向コンパスをデュホールに向けてセットした。モーターが音もなく作動している限り、我々は、艇の操作に時間を費やす必要はまるでない。万一を考えて、デュホールに着いたら、いったん上空で停止するようにした。
敏感な高度計は、約九百メートルの高度を正確に維持する。山地を通過する場合の高度は、約百四十七メートルの距離を保つようにできているのだ。
そのようなわけで、方向コンパスと高度計に絶対の信頼を置いて、我々は気をゆるめ、夜通しうつらうつらしていた。ぼくには何の言い訳もできないし、ジョン・カーターも、ぼくを叱らなかった。いや、むしろ彼は全責任は自分にあるのだと言った。
というのは、まもなく我々の位置に、ひどい狂いのあることに気づいたからだ。それは、日の出をずっと過ぎてからのことだった。デュホールを取りまくアルトリアンの丘の、雪を頂いた姿が前方にはっきりと見えてくるはずなのに、そうならないのだ――ただ果てしもない黄赤色《おうせきしょく》の植物の生えた死んだ海の底と、はるか遠方に、低い丘が見えるだけだった。
我々は急いで位置を調べた。わかったことは、我々はデュホールの南東約一千二百五十二キロの地点、つまり、ツーノル大湿地帯の西端に位置するファンダルの、南西約七百八十二キロの地点にあるということだった。
ジョン・カーターは方向コンパスを調べていた。ぼくには、彼が時間の遅れをどれほど悔《く》やんでいるかがわかった。だが、彼はただこう言った。
「指針がちょっと曲がっていたので、針路が狂ってしまったんだ。だが、まあいいだろう。ファンダル人だって、デュホール人以上にラス・サバスの居所を知っているかもしれない。私が最初、デュホールに行くつもりになったのは、友好的な援助を期待したからなんだが」
「しかし、ファンダル人から、あまり多くを期待するのも、どうかと思いますがね」
彼は、うなずいた。
「それでもとにかく、ファンダルに行ってみよう。皇帝のダル・タラスは、バド・バロと仲がいいのだ。だから多分、バド・バロの友人とだって仲がよくならないとも限らない。しかし用心にこしたことはないから、我々は放浪の戦士というふれこみで町へ入ろう」
「奴ら、驚きますよ」私は微笑しながら言った。「放浪の戦士が、バルスーム大将軍の飛行|艇《てい》でやって来るなんて!」
放浪の戦士というのは、銭《ぜに》さえもらえば誰のためにでも戦う、いわば戦争屋で、賃金は一般に安い。それに、少しでも金が入ると、たちまち遊びに使い果たしてしまうので、いつでも貧乏だ。
「艇を見せてはいけない」と、ジョン・カーターは答えた。「着く前に隠し場所を見つけなければ。君は、ファンダルの入り口まで徽章《きしょう》なしの鎧で歩いてくれ、ボル・ダジ。君たち士官は、歩くのが好きなんだろう」
ファンダルへ近づく間に、我々は、鎧から徽章や装飾を取り去った。門を入る時、徽章なしの戦士の身なりになるためだ。しかしそれでも、町へ入ることを禁じられるかもしれない。火星人はいつでも、見慣れないものに対して疑い深いし、また、スパイはときどき放浪の戦士の身なりを装うものだからだ。僕も手伝って、ジョン・カーターは、白い肌に赤銅色《しゃくどうしょく》の絵の具を塗りたくった。身分を隠すとき、彼がいつも使う手だ。そうすると赤色《せきしょく》原住民のように見えるのだ。
遠くにファンダルが見えてくると、町の城壁の歩哨《ほしょう》に見えないように、地面すれすれの低空飛行をして丘の側面に隠れた。目的地まで数キロというところで、大将軍はソラプスの茂みの脇の小さな峡谷《きょうこく》に向かって着陸態勢をとり、そこへすべり込んだ。
操作レバーを取り外すと、それを艇からほど遠からぬ地点に埋めた。周囲の四本の樹木に印をつけて、艇に帰る時――帰れればの話だが――隠し場所がすぐわかるようにした。それから我々は、歩いてファンダルへと出発した。
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三 不死身の戦士
バージニアの軍人がかつて火星に到着したばかりの頃、彼を捕虜にした緑色人サーク族に、ドタール・ソヤットという名前をつけられたことがある。しかしその名はごく短期間使用されたに過ぎず、年数を経るにつれて、ほとんど忘れ去られてしまった。大将軍は、これからの冒険に際して、この名前を使用することに決めた。ぼくはというと、このあたりでは全く知られていないので、元のままの名前でやっていくことにした。そういうわけで、ドタール・ソヤットとボル・ダジは、二人の放浪の戦士として、この静かな火星の朝に、ファンダルの西方の低い丘をてくてくと歩くことになったのだ。
こけ状の黄赤色の植物に覆《おお》われた大地は、我々のサンダルで踏まれても、何の音も発しない。陽気な、しかし鳴き声を出さない鳥たちが、スキール樹やソラプス樹の小枝にとまって、我々を見つめていた。同様に、静かに美しい昆虫が、咲き誇るピマリアやグロリスタの間を飛びまわっていた。火星は広大な、寂しいほど静かな世界なのだ。そこでは、あらゆるものが黙りこくっている。まるで迫りくる死を意識しているかのようだ。なにしろ火星は死にかけている世界なのだから。
我々は騒音を嫌う。だから我々の声は我々の音楽同様、柔らかく低いのだ。そして我々は口数の少ない人種だ。ジョン・カーターはぼくに、地球の都市の騒音や、地球の音楽の管楽器や、ドラムやシンバルのこと、幾百万の群集の、心もなく意味もないさざめき声のことを話してくれたことがある。そのような音響は、火星人を発狂させること請け合いだ。
我々が、まだ丘の上を歩いている時だった。突然上方と後方から音響が起こり、我々の注意を引いた。我々は同時に振り返った。我々の目に映った光景は、実に驚くべきものだった。
約二十羽の鳥が、我々に向かって飛んでくるのだ。それだけでも充分、驚くに足ることだ。なぜなら、その鳥たちはとうに絶滅《ぜつめつ》したと信じられているマラゴールだということが、すぐわかったからだ。だが、信じがたいことはそれだけではなかった。この巨鳥には、それぞれ一人ずつ、戦士がまたがっているのだ。彼らが我々を見つけたことは、はっきりしているので、今さら隠れてみたところで仕方がない。彼らはすでに低空に舞い降りてきて、我々の周囲を旋回し始めた。
ぼくは戦士たちの顔形の奇怪さに驚いた。明らかに、我々に近い人間であることには違いないのだが、それでいて、どこか非人間的な感じを漂わせているのだ。彼らの一人は、自分の前、彼の乗り物である鳥の首のところに、一人の少女をまたがらせていたが、非常な速さで動き回っているので、その少女を十分に観察することができなかった。むろん、同様に戦士たちの観察もできなかった。
ほどなく、二十羽のマラゴールは、我々の周囲に輪を作って降《お》り立った。そして戦士の中の五人が巨鳥から降りて、我々に近づいてきた。ぼくが、彼らの外貌《がいぼう》に、奇妙な、不自然な感じを与えている原因を突きとめたのは、この時だった。彼らはまるで、下手な人間の絵に生命を与えたようなしろものだったのだ。彼らの体格には、釣り合いというものがまるでなかった。ある者の左腕は約三十センチに足らず、右腕は長すぎて、歩くとき地面を引きずっていた。ある者は目も鼻も口も、ゆがんだ位置についていたし、大きさも、それぞれ不釣合いだった。
しかし、ただ一人だけ例外があった。それは、たった今巨鳥から降り立って、五人の後ろについて、我々に近づいてくる兵士だった。体格ががっしりして男ぶりが良く、その服の飾りや武器は、素晴らしいこしらえで、勇者の持ち物としてふさわしかった。鎧には、隊長の位を示す徽章がつけられていた。彼は五人の部下を立ち止まらせると、我々に呼びかけた。
「お前たちは、ファンダル人か」
「おれたちは、ヘリウムから来たのだ」と、ジョン・カーターが答えた。「最近、そこで仕事をやったんでね。おれたちは、放浪の戦士だ」
「お前たちを捕虜にする。武器を捨てろ」
大将軍の唇には、かすかな微笑が浮かんだ。
「武器が欲しいなら、ここに来て取るがよい」と彼は言った。それは挑戦だった。
相手は、肩をすぼめた。「そう望むとあれば、是非もない。我々はお前たちの十倍の数だ。お前たちを捕まえ、やむを得ぬ場合は、殺す。降伏するほうが身のためではないかな」
「お前たちは、おれたちの邪魔をしないほうが身のためだ。おれたちが死ぬとしたら、必ず道連れをこしらえるからな」
隊長は、謎めいた笑いを浮かべた。そして部下に向かって叫んだ。
「かかれ!」
しかし、五人が前進している間、彼は戦いに参加しようとせず、後方に立ち止まったままだった。これは火星の士官としてあるまじき行為だった。彼みずからが先頭に立って、部下に、模範を示すべきだというのに。
我々は長剣を抜き放つと、恐ろしい形相の五人に立ち向かった。大将軍は、長剣をめまぐるしく振り回した。ぼくも自分の剣術の腕前の名誉にかけて、よく戦った。
彼らは、とうてい我々の敵ではなかった。我々の剣は、滅多《めった》やたらと彼らを斬りまくった。ところがうんざりしたことに、彼らはいくら斬られ、突かれても、平気で向かってくるのだ。苦痛も恐怖も感じないらしいのだ。肩から腕を斬られた兵士は、剣を別の手に持ち替え、斬られた腕を投げ捨てると、また向かってくる。
ジョン・カーターは、敵の一人の首を斬り落とした。すると首なしの体は、めくらめっぽうに剣を振るって暴れまわるので、敵の隊長も困り果て、部下にその体を押さえつけさせ、剣を取り上げさせたほどだった。しかもその間、首は地面を転げまわって、悪態をついたり、しかめっ面をしたりしているではないか。
敵兵の中で、永久に戦闘不能に陥ったのは、こいつが最初だった。そしてこれが、勝つための唯一の道を我々に示したのだ。
「奴らの首を斬れ、ボル・ダジ!」と、大将軍は命令した。そしてそう言いながら、彼自身も、もう一人の首をばっさりとやった。
まったく身の毛もよだつような光景だった。首が地面に落ちて、悲鳴を上げたり、呪いの言葉を発したりしているのに、首なしの怪物は、なおも戦い続けるのだ。ジョン・カーターは、怪物から武器を取り上げねばならなかった。
しかしどうやらこうやら、もう一人も片付けて、残り二人になったところで、敵の隊長は、戦闘中止を命じた。彼らは巨鳥のほうへと退却した。隊長は何やら命じているらしいのだが、何を言っているのか、ぼくには聞き取れなかった。ぼくは彼らが諦めて、立ち去るのだろうと思った。数名は、マラゴールに乗って、飛び立ったからだ。
だが、隊長はマラゴールに乗ろうともせず、そこに立ったまま、我々を見張っていた。空に飛び立った者たちは、われわれの剣の届かぬ上空を旋回していた。別の数名が巨鳥から降り立って我々に近づいてきたが、しかしやはり距離は保っていた。切断された三個の首は地面に転がって、我々に悪口雑言《あっこうぞうごん》の限りを浴びせかけていた。そのうちの二人の首なし胴体は、武器を取られて、手足を縛られていた。あとの一体は、あちらこちらと走り回っていた。それを、彼らの仲間たちが網《あみ》で捕らえようと骨を折っていた。
こういった光景を横目で眺めながらも、ぼくの関心は、我々の上空を飛び回っている連中に引きつけられていた。今度はどんな手段で攻めてくるのだろうか。しかし、この好奇心は、たちまち満足させられることになった。彼らは衣類の一部のように見えていた網を広げて、我々を捕まえようとしたのだ。
我々は、必死に網を切り破ろうとした。ところどころを切り開いたものの、逃げられなかった。我々は完全に網に捕らえられてしまった。すると、近くにいた敵兵たちが駆け寄ってきて、我々を縛り上げた。抵抗はしたものの、大将軍の金剛力《こんごうりき》も及ばなかった。なにしろ、不気味な化け物たちの数が多すぎたのだ。すぐに空を飛んでいた連中が降りてきて網を集めて回った。切断された頭やら腕やら首なしの体やらも拾い集められて、マラゴールの背にくくりつけられた。その作業が行なわれている間、隊長は近寄ってきて、我々に話しかけた。彼は、我々が戦士隊に負わせた負傷のことで、悪意を抱いている様子もなかった。むしろ、我々の剣の腕前を褒《ほ》めたりなどするのだ。
「しかし」と、彼はつけ加えた。「君たちは、やっぱり初めから降伏したほうがよかったんだ。君たちが殺されなかったり、少なくとも大怪我をしなかったのは、奇跡なんだぜ。運良く素晴らしい剣の腕を持っていたからよかったが」
「君の部下の中に、首を斬られずにすんだ者がいたことこそ奇跡なんだ。奴らの剣技ときたら、ひどいもんだぜ」と、ジョン・カーターがやり返した。
隊長は微笑《ほほえ》んだ。「それは同感だ。しかしその代わりに、獰猛《どうもう》な腕力と、恐れを知らぬ心と、手足をばらばらに切り離されでもしないことには戦闘不能に陥らない、という長所がある。彼らは不死身なんだ」
「とにかく、おれたちは捕虜になった。どうしようというんだ」
「上官のところに連れて行く。上官が決定を下すよ。名はなんというのかね」
「こっちはボル・ダジ。おれは、ドタール・ソヤットだ」
「ファンダルに行く目的は?」
「さっき言ったろう。おれたちは放浪の戦士なんだ。仕事を探してるんだよ」
「ファンダルに友人でもいるのか」
「いない。ファンダルには行ったことがないんだ。おれたちは風の吹きようで、どこへ行くか決まってはいない。放浪の戦士がどんなものか知っているだろう」
隊長はうなずいた。「そのうちまた、戦争ができるさ」
「あなたの部下たちは、いったい何者ですか」と、ぼくがたずねた。「あんな連中は、見たこともありませんよ」
「誰だって見たことはないよ。彼らはホルマッドと呼ばれている。見れば見るほど、気味の悪い連中だぜ。さて、君たちが捕虜になったからには言っておくことがある。そう縛られていては窮屈《きゅうくつ》だろう。これは、君たちのような勇者に失礼だ。モルバスに到着する前に逃げたりしないと約束するなら、縄を解いてやるぜ」
この隊長は、なかなか礼儀正しい、物のわかった男であることがはっきりした。われわれは彼に約束して、縄を解いてもらった。彼は、巨鳥に乗るようにと我々を促した。この時ぼくは初めて、マラゴールの首にまたがっている、あの少女を近くから見ることができた。少女とぼくの目がかち合った。少女の目には、恐怖と絶望とが浮かんでいた。ぼくはその少女を美しいと思った。その時、巨鳥たちは、巨大な翼をバタバタと羽ばたかせて、いっせいに飛び立ち、我々はモルバスへと向かった。
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四 湿地帯の秘密
ぼくの乗っているマラゴールの片側に下がっている網の中には、我々が斬り落とした首の一つが入っていた。なんでこんな気味の悪い物をわざわざ持って帰るのだろう――これは恐らく、このあたりの風習ででもあるのかな、と思ったりした。
針路《しんろ》は、ファンダルの南方を通っていた。前方には広大なツーノル湿地帯が、見渡す限り遠くまで続いていた。迷路のように入り組んだ細かい水路が、荒涼とした沼地を縫《ぬ》い、ところどころに、固い土質の島が持ち上がっていたり、暗緑色の林や、青い小さな湖が見えた。そんな光景の展開するのを眺めていると、突然、不平がましい声が起こった。
「引っくり返してくれ。鳥の腹しか見えねえ」
その声は、ぼくの下方から聞こえてくるようなのだ。下を見ると、例の首だった。網の中で頭を上に、マラゴールの腹を見上げるような格好で転がっている。それ自身では、どうにも動きが取れないらしい。なんとも気味の悪い光景だ。
「引っくり返せないよ」と、ぼくは言った。「手が届かないんだ。どうだっていいじゃないか。目がどっちを向いていようが、君は死んでるんだ。死人は、何も見えはしない」
「おれが死んでいたら、しゃべれるか。この馬鹿野郎。おれは死んでないぞ。不死身なだ。生まれつき、そういうことになってるんだ。火で焼かれない限り、生きてるんだ。引っくり返せ、この間抜け野郎。網を振るなり、引き上げるなりして、引っくり返せ」
いや、こいつの態度は、ぶしつけきわまる。しかし考えてみると、ぼくだって首をばっさりやられたら、さぞかし、いらいらするだろうと思った。ぼくは網を振って、首がマラゴールの腹以外のところを見えるように、転がしてやった。
「お前の名はなんていうんだ」と、首はたずねた。
「ボル・ダジだ」
「よし覚えといてやる。モルバスに着いたら、お前は友人がいるだろうからな」
「ありがとう」
だが、この首だけの友人が、ぼくに何をしてくれるのだろうと思った。網を振ってやったことで、首をばっさりやったことの償《つぐな》いになったのかな、とも考えた。黙っているのも悪いから、ぼくは彼の名をたずねた。
「トル・ズル・バールだ」と、首は答えた。「おれのような友人を持って、お前は幸せ者だよ。おれは傑物《けつぶつ》だぞ。ほかのホルマッドを大勢見れば、わかるだろうよ」
トル・ズル・バールは地球語に訳すと、「四百万八」という意味だ。変な名前だ。しかしそんなことをいえば、ホルマッドのことはみんな変だ。ぼくの前に座っているホルマッドは、この会話に聞き耳を建てていたらしく、半分振り向くと、たしなめるような調子で、
「トル・ズル・バールなんかの言うことを信じては駄目だよ。奴《やつ》は成り上がり者なんだ。傑物はこのおれさ。有力な友人がほしかったら、もう探す必要はないとしか言わないでおこう。おれは控えめな男だからね。とにかく真の友人がほしくなったら、このチェイタン・オブ(地球後では「千百七」)のところへ来るがよい」
トル・ズル・バールも、不機嫌そうにやり返した。
「成り上がり者とはなんだ。おれは百万の文化の結晶なんだぞ。チェイタン・オブなんぞは、実験室の試験官からわいたようなもんだ」
「おい、おれがこの網を開きさえすれば、お前は、おしゃかなんだぞ」
チェイタン・オブが脅かした。トル・ズル・バールは悲鳴を上げ始めた。「サイトール、サイトール、助けて、人殺し!」
このおかしな戦士隊の戦闘を飛んでいた隊長は、マラゴールを回して、我々のほうに戻ってきた。
「どうした」
「このチェイタン・オブが、私をツーノルの湿地帯へ落っことすと脅すんです」と、トル・ズル・バールが叫んだ。「私を、奴から引き離してください、サイトール」
「また喧嘩か。もうこれ以上、こんなことをやらかすと、二人ともモルバスに帰り次第、焼却炉行きだぞ。チェイタン・オブ、トル・ズル・バールにもしものことがないように、よく面倒を見ろ。わかったか」
チェイタン・オブは、ぶつぶつと承知し、サイトールは、元の位置に戻った。それからは、我々は黙りこくった。
ぼくは、この怪物たちの起源は何なのだろうかと考えた。大将軍はぼくの前方を、少女は、ぼくのちょっとした左方を飛んでいた。ぼくの目はときどき、少女のほうに向いてしまう。ぼくは少女に同情した。少女も捕虜であるに違いないからだ。それにしても、なんと恐ろしい運命に陥っているのだろう。我々の境遇は、男にとっても最悪の事態なのだ。少女にとっては、どれほど悪いことかわからない。
マラゴールは、ぼくの考えでは時速約九十六キロ以上の速さで飛んでいた。彼らは疲れを知らぬとみえ、何時間でも休みなく飛び続ける。ファンダルをぐるっと回ると、針路は真東に向けられた。午後遅くには、湿地帯から突き出ている一つの大きな島に近づいた。
その島のへり近くには、城壁で囲まれた町があった。湖に面した町の門の前に着陸する前に、我々はその町の上空を一回旋回した。降下中、城壁の外側に小さな小屋が群がって、あちらこちらに散在しているのが目についた。それはかなり人口の多いことを予想させるものだった。それも、この広い島のほんの一部が目についただけなので、きっとおそろしく多数の住民が、この島に住んでいるに違いなかった。後になってわかったことだが、ぼくの多めの予想も、事実にはとうてい及ばなかったのだ。
巨鳥から降りると、我々三人の捕虜は一緒にされて、追い立てられた。例の腕や足や首や、首なし胴体は、網の中に一緒くたに投げ込まれ、持ち運びに便利なようにされた。門が開かれ、我々は、モルバスの町に入っていった。
門の番人を務める士官はごく普通の人間だったが、その部下の兵たちは、奇怪で醜悪なホルマッドだった。士官はサイトールと挨拶を交わし、我々のことについて二、三の質問をしてから、不気味な荷物を運んでいるホルマッドに、「再生実験室第三号へ」と指示した。
サイトールは我々を従えて、門から南へ向かう大通りを進んだ。最初の交差点まで来ると、切断された体の運搬係は左へと曲がっていった。と、その時、声がした。
「おい、ボル・ダジ。トル・ズル・バールは、お前の友人で、チェイタン・オブは、ほんの試作品だということを忘れるなよ」
見ると、網の底から四百万八の、ぞっとするような首が、横目づかいにぼくを見つめている。
「忘れないよ」とぼくは答えた。実際、こんな不気味なものは、忘れようたって無理な話だ。しかし、首だけの友人を持ったところで、どうにもならないだろうにとぼくは思った。
モルバスは、ぼくが今までに見た火星のどこの都市とも違っていた。建物は実用的で、飾りがなかったが、その単純さの中に威厳があって、一種の美を備えていた。能率のよさを第一の目的として見事に設計された、新しい型の都市という印象を受けた。このツーノル大湿地帯のど真ん中に、一体何の目的で、誰が、こんな都市建設をもくろんだのだろう。交易もなしに、これだけの都市がやっていけるのだろうか。
そんなことを思いめぐらしていると、小さな入り口に行き着いた。サイトールは剣の柄《つか》で、コツコツとドアを叩いた。すると小さな板戸が開いて、顔がのぞいた。
「衛兵隊所属、第十中隊長サイトール。七王会議の判決を受けさせる捕虜を連れてきた」
「何名ですか」と、窓口の男がたずねた。
「三名。男二人に女一人」
ドアがさっと開いて、サイトールは、我々に入るようにと身振りで命じた。彼自身は入らなかった。我々の入ったところは、衛兵|詰《つ》め所であるらしく、窓口にいた士官のほかに、二十人ほどのホルマッドの戦士がいた。士官だけはわれわれ同様、普通の赤色人だった。彼は我々に、名前や職業、出身地などを聞いては、帳面に記入した。この時ぼくは、少女の名前を知ったのだ。少女の名はジャナイ。モルバスから一千百二十キロ北方のアモールから来たのだそうだ。アモールは小さな町で、ジャル・ハドという王子に統治《とうち》されているが、この王子は、遠いヘリウムにまで音に聞こえた悪名高い王子だ。ぼくがアモールについて知っていることは、それぐらいなものだ。
調べがすむと、士官は一人のホルマッドに我々を連れて行くように命じた。廊下を通り抜けて、我々は広い中庭に導かれた。そこには数名の赤色火星人たちがいた。
「追って沙汰があるまで、ここにおれ。逃げようとしては、いかんぞ」
そう言い捨てて、ホルマッドは立ち去った。
「逃げるか!」と、ジョン・カーターは苦笑しながら言った。「ぼくは今までに色々なところから逃げてきたが、このツーノル大湿地帯から逃げるのは、ちょっと難しい。まあそのうち逃げてみよう」
そこにいた他の捕虜たちが、我々に近づいてきた。五人いた。彼らは我々に挨拶とし、名を名乗り合った。彼らは外の世界のことを、我々に色々と聞き出した。その様子を見ると、彼らはもう何年も捕虜生活をしているようにみえたが、実際はそうではなかった。このモルバスが他からあまりにも隔絶《かくぜつ》しているので、無性に外の世界が恋しくなるのだった。ファンダル人が二人、ツーノル人、プタルス王国人、デュホール人が、それぞれ一人ずつだった。
「捕虜をどうするつもりなのかね」と、ジョン・カーターがたずねた。
「捕虜のある者は、兵士たちを訓練したり指揮したりする士官として、使われるのだ」と、バンダールという名のファンダル人が説明した。「また、ある者にはホルマッドの中での優秀な頭脳を移植されて、高度の作業をやらされる。またある者は、培養実験所に送られて、体の組織をラス・サバスの、とんでもない仕事に使われるのだ」
「ラス・サバスだって!」と、大将軍は叫んだ。「彼はこのモルバスにいるのか」
「そうだ。自分の創造した、恐ろしい化け物の召使《めしつか》いにされてるんだ」と、ツーノル人のガン・ハドが答えた。
「なんだって」
「ラス・サバスは、ツーノルの皇帝ボビス・カンに、その大実験所から追われてから、長年の研究を完成するため、この島にやって来たんだ。それは、人体の組織から人間を創造することだった。彼は、組織が絶えず成長を続けるような培養法を完成した。生きている組織のごくちっぽけな切れ端が成長して、実験室一杯の大きさになるまでになったのだ。ただし、それは形というものがなかった。
それで彼は形を与える方法を研究した。彼は、爬虫類が足とか尾とかを切断された場合、再生が行なわれる事実に目をつけて、この種の動物で実験した。そしてついに原理を発見したのだ。その発見を応用した結果が、ホルマッドだ。モルバスの七十五パーセントの建物は、この化け物の培養に使用されていて、ラス・テーバスは途方もない数のホルマッドをこしらえていた。
彼らの大部分は、ひどく知能の低い者ばかりだが、少しは普通なのも混じっている。この普通の知能の連中が団結して、この島を乗っ取り、彼ら自身の王国を建設した。彼らはラス・サバスを脅《おど》して、ホルマッドの大量生産を続行させた。なにしろ奴らは、何億という仲間を作って世界を征服しようという、とてつもない計画を立ててるんだからね。奴らは、最初にファンダルとツーノルを占領し、ついで火星の全表面を征服するつもりでいるんだ」
「驚いた。しかし彼らは計算違いをしている。そんなに数を増やして、食糧はどうするつもりなんだ」
「ところがだ。ホルマッドの食糧は、ほとんど同様の方法で生産されているんだ。ちょっと培養法が違っているだけのことだ。動物組織を急速に成長させるのさ」
「しかし、こんな半人間たちが、よく訓練を受けた、精鋭《せいえい》ぞろいの全世界の軍隊に、太刀打ちできるだろうか」と、ぼくがたずねた。
「できると思う」と、バンダールが言った。「なにしろ数が圧倒的に多いし、恐れということを知らない。それに、戦闘不能にするためには、首をちょん斬る以外にないのだからね」
「もうどれほどの数なんだね」と、ジョン・カーターが質問した。
「島に数千万もいる。彼らの小屋は、モルバスの全域にわたって散らばっている。見積もりでは、モルバス全体で一億ほど収容できるとされている。また、ラス・サバスの言うところによると、一年に二百万ほど戦場に送り込むことができ、それが全部戦死したとしても、兵員のなくなることは、絶対にあり得ないそうだ。なにしろ生産力が大きい。もっとも、あまりひどい体形で、使いものにならないものも何パーセントかは出るが、そんなのはよく刻《きざ》んで、培養桶の中に突っ返すのだ。すると十日足らずのうちに、新しいのができる」
「事態は深刻なようだが、一つの問題がある」
「何かね」
「輸送の問題だ。そんな大軍を、どうやって輸送するんだ」
「それは彼らにも問題だった。しかし、ラス・サバスがそれを解決したと、彼らは信じているよ。ラス・サバスは、マラゴールの細胞組織と、その特殊培養液を長い間研究していたのだ。もしこの鳥を大量に生産できるようになれば、輸送問題は解決される。また、戦争に必要な軍艦などは、ファンダルやツーノルを征服した時に、分捕《ぶんど》るつもりでいる。もっと大きな国を征服すれば、もっと分捕れる」
数人のホルマッドが食物を運んできたので、話は中断された。その食物は、見るもげんなりするような、ぐちゃぐちゃの動物組織だった。デュホール人の捕虜が、コックをつとめ、火をおこして、この組織をあぶった。
ぼくはひどく腹が空いているにもかかわらず、それを見ると吐き気がした。それに、おかしな疑いがわいてきたのだ。そこでぼくは、ガン・ハドにたずねた。
「これはまさか、人体の組織じゃないだろうね」
彼は肩をすぼめた。「そうではないということにはなっている。だがそんな質問をしてはいけないよ。生きるためには食わねばならないし、運ばれてくるのは、これだけだからね」
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五 七王《ななおう》の決定
アモールの少女、ジャナイは、離れて座っていた。ジャナイの身の上は、ぼくにはこのうえなく哀れに思えた。女ただ一人、この恐ろしい町で、七人の見知らぬ男たちと一緒に監禁されているのだ。我々赤色人は生まれつき女性に親切な人種だが、男はやっぱり男なのだ。ぼくは、他の五人の男たちがどんな連中だか知らなかった。しかし、ジョン・カーターとぼくがそばにいる限り、彼女は安全だ。それだけは確かだった。もしジャナイがそのことをわかってくれたら、ジャナイの不安はいくらかでも軽くなるだろうにと、ぼくは思った。
ぼくが話しかけてみようと思って、ジャナイに近づいた時だった。さっき、我々を取り調べた士官と、二人の別の士官、それに数人のホルマッドが、囲いの中に入ってきた。彼らは我々を呼び集めた。二人の士官は、我々をじろじろと眺めた。
「それほど悪くもない」と、一人が言った。もう一人は肩をすぼめて、
「王たちが、一番いいのを取ってしまう。だから、ラス・サバスが自分のところに来る原料に、決まって不平をこぼすことになるんだ」と言った。
「王たちは、少女をほしがるだろうな」詰め所にいた士官が言った。
「おれたちの任務は、捕虜たちを連れて行くことだよ」
「おれは、この少女がほしいなあ」
「誰だってそうさ」と、相手の士官が笑いながら言った。「醜い女だったら、お前がもらえるかもしれないが、綺麗な女はみんな王たちが取ってしまう。それにこの少女は、美人も美人、とびきりだぜ」
ジャナイは、ぼくの隣りに立っていた。少女の震えが私には感じられた。ぼくは思わず少女の手を握りしめた。一瞬、ジャナイは本能的に保護を求めて、ぼくの手にすがりつくようにしたが、すぐに手を離して頬を染めた。
「力になってあげたいと思います」と、ぼくは言った。
「ご親切は嬉しいわ。でも、どうにもならないことですわ。あなたは男だから、私より幸せです。せいぜい悪くても、殺されるだけですもの」
ホルマッドたちが、我々を取り囲んだ。我々は衛兵詰め所を通って、大通りへと引き出された。ジョン・カーターは士官の一人に、我々はどこに連れて行かれるのかとたずねた。
「七王会議へだ。そこで君たちの処分が決定されるんだ。培養桶の中に入れられる者もあるだろう。君たちの中で運のいいのは、訓練されて士官になれる。ぼくがそれだったのさ。それほどの出世とはいえないが、死ぬよりはましだぜ」
「七王会議というのは何だね」と、大将軍がたずねた。
「彼らはモルバスの統治者だ。頭脳が普通に発育した七人のホルマッドで、ラス・サバスから支配権を奪い取ったんだ。七人が七人とも、自分が王だと言ってきかないので、結局、七人が協同して統治するということになったのさ」
捕虜収容所から少し歩いて、大きな建物に着いた。長い廊下を通り、大きな部屋で少し待っていると、前のドアが開かれ、士官やホルマッドの大勢いる広間に押し込まれた。ずっと奥に一段高いところがあって、そこに七人の赤色人たちが、豪華な椅子に座っている。彼らが七王であることは間違いなかったが、ぼくたちが今まで見てきたホルマッドのようではなかった。ごく普通の人間のように見え、ほとんどが立派な顔立ちをしていた。
我々は、玉座の下まで連れてこられた。七王は我々をじろじろと眺め、さっきの士官がしたのと同じような質問を、我々にした。続いて議論を始めたが、その様子は、馬か犬を買う前に言い争っているといった感じだった。幾人かは、ジャナイにかなりの興味を持ったらしかった。そしてとうとう三人が、少女がほしいと言い出した。たちまち論争が始まり、結局、投票で誰が少女を得るかを決めるということに落ち着いた。しかし、誰も多数票を得ることはできずに終わり、とうとう、ジャナイを数日間とめておいて、どうしても論争に決着がつかない場合には、ラス・サバスに引き渡すということに決定された。それがすむと、王の一人が我々男の捕虜に話しかけた。
「お前たちが生きることを許された場合、我が軍の士官として、我々に仕える気のある者は、何人いるか」
それ以外には死があるばかりだから、我々はみな士官を志望した。王たちはうなずいた。
「それではこれから、誰が一番士官に適任であるかを決定する」と王の一人が言い、近くにいた士官に、「最強の勇者を七人連れてこい」と命じた。
我々は、部屋の片隅に寄せられ、そこで待たされた。
「試験試合らしい」と、ジョン・カーターが微笑しながら言った。
「あなたの最も得意とされる分野ですね」と、ぼくは答えた。
「君だってそうじゃないか」と彼は言って、案内係の士官のほうに向くと、「七王はホルマッドだということだったね」
「そうだよ」
「彼らは、ぼくが今まで見てきたホルマッドとは、ずいぶん違っているな」
「ラス・サバスが修繕してやったんだ。たぶん君は、ラス・サバスが火星で最も偉大な科学者で外科医であることを知らないのだな」
「それは聞いている」
「噂《うわさ》の通りなんだよ。彼は脳を取り出して、それを他人の頭蓋骨の中に収めることができる。そういった手術を何百回となくやってきたんだ。そのことを知ると、七王は士官の中から最も美男子なのを七人選び出して、ラス・サバスに、無理に脳髄交換手術をやらせようとした。彼らはひどい顔をしていたので、男前になりたかったんだ」
「それで、七人の士官は」と、私がたずねた。
「培養|桶《おけ》行きさ。そら、七人の闘士たちがやって来た。ものの二、三分もすれば、君らのうち、誰が培養桶行きになるかがわかるんだ」
我々は部屋の中央に引き出されると、七人の巨大なホルマッドと向き合って、列を作った。この七人は、今まで見たホルマッドの中では、ぶざまなほうではなかったが、それでも醜いことこの上なかった。我々は剣を与えられ、士官が規定を説明した。おのおの自分と向き合ったホルマッドと試合をし、重傷を負わずに生き残った者が、士官の資格を与えられるというのだ。
士官の命令で、二つの列は互いに接近し、たちまち広間は、剣と剣のぶつかり合う音で鳴り響いた。ヘリウム人は、自分たちこそ火星では一番の剣の使い手であると信じている。それでも、ジョン・カーターほどの腕前の者はいないのだ。
だから、彼とぼくに関する限り、この試合の結果を気に病む必要はなかった。ぼくに向かってくる相手は、大きな図体と馬鹿力を唯一の武器として、ぼくを圧倒しようとした。それが知能の低い彼らのいつも使う手なのだ。ぼくは、こんな攻撃に参るほど未熟ではない。突きをかわすと、彼はぶざまな格好で、よろよろと私の前を通り過ぎてしまった。しかしこの怪物は、普通の人間なら致命傷になるような傷にも、平気でいることが、前の経験からわかっているので、闘争不能にするためには、腕や、足、首などを切断しなければならないのだ。
そのうえこの男は、ぼくが捕虜になった時の戦いでぶつかってきたどの相手よりも手強《てごわ》かった。後で知ったことだが、我々が相手をしたこの七人は、知能の高いこと――彼らの仲間よりは、ほんの少し――で特に選ばれ、赤色人の士官について剣術を習った者ばかりだったのだ。
無論、彼が普通の人間だったら、ぼくはわけなく片付けてしまっただろうが、気違いじみた猛烈な攻撃を外しながら、その首を斬り落とすということは、予想よりもはるかに困難な仕事だった。そこへもってきて、彼の顔のあまりのものすごさに、ぼくはいささか恐れをなしたのだ。片方の目がずっと上の、おでこの角《かど》についていて、もう一方の目の倍も大きいし、耳のあるべき場所に鼻がついており、鼻のあるべき場所に耳がついており、口は大きく歪《ゆが》んでいて、裂け目から巨大な牙がのぞいているといった按配《あんばい》で、この顔だけでも、相手の戦う気をなくさせるのに十分だった。
ときどきぼくは、周りで展開されている死闘の状況に目を向けた。ファンダル人の一人が倒れるのが見えた。それとほとんど同時に、ジョン・カーターの相手の首が床に転げ落ちて、悲鳴と悪態の限りをつき、首なしの体は気違いのように荒れ狂って、広間にいる者すべてをひやひやさせた。他のホルマッドや士官たちは、投げ縄や網でこれを捕まえようとして必死で追い回した。そのうちにそいつは、ぼくの相手にドシンとばかりにぶつかったため、相手はよろけてバランスが崩れ、大きな隙《すき》ができた。
ぼくは全身の力を振り絞って、彼の首ねっこに一撃を浴びせた。首はころころと床の上に転がった。さあ今度は、重い剣を左右に激しくうち振って荒れ狂う首なしの体が、二つになった。それを捕らえようとするホルマッドや士官のせわしさが倍になったことは言うまでもない。やってかたがついた時には、死闘は終わっていた。その時には、さらに二人のホルマッドが片足を失って、一本足でぴょんぴょん跳ね回っていた。この二人は、バンダールとガン・ハドにやられたのだ。プタルス王国人と、デュホール人は殺されていた。我々七人のうち四人だけが生き残ったのだ。
他のホルマッドが、切断された肉体を網に投げ込んで運び去っていく間、二つの首は、我々に向かって、悪態の限りをついていた。
さて、我々は、再び七王会議の会場に引き出された。七王はもう一度、我々に質問した。今度は前よりも慎重だった。質問が終わると、七王はひそひそささやき合っていたが、そのうちのひとりが、我々に語りかけた。
「お前たちを士官に任命する。七王会議の命令には絶対に服従してもらいたい。モルバスからは逃げることはできないぞ。もし命令に従わなかったり、逆《さか》らう行為があった場合には、死刑として培養桶の中に入れる」
彼は、ジョン・カーターとぼくのほうに目を向けた。
「ヘリウムから来たお前たちは、実験所の衛兵の役を与える。ラス・サバスが逃げないよう、彼の身に危害がふりかからないよう見張るのが、お前たちの役だ。この役をお前たちに割り当てたのは、お前たちが遠いヘリウムの出身であるから、ラス・サバスにも、ツーノルにも、ファンダルにも、不公平な感情を抱くことはないと思うからだ。お前たちは、ラス・サバスの保護を十分に果たすことだろう。ラス・サバスは、逃亡、もしくはモルバスの支配権を奪い返そうとしている。ファンダルは、彼を助け出そうと企んでいる。ツーノルは彼を殺害しようとしている。どちらにせよ、両国は彼を我々の掌中から奪い取って、もうホルマッドの生産ができないようにしたがっているのだ。ファンダルから来た男と、ツーノルから来た男は、培養桶から生まれてくる我々の兵士の訓練の役を命ずる。七王の命令だ。絶対に服従せよ」
彼は、我々をここに連れてきた士官に目で合図をした。
「彼らを連れて行け」
ぼくは、ジャナイのほうを見た。ジャナイはぼくと視線が合うと笑顔をしてみせた。なんと勇敢な愛らしい微笑みだったろう。望みをなくした心を秘めた悲しい微笑だ。士官に導かれて、我々は立ち去った。
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六 火星の支配頭脳ラス・サバス
その建物の正面入り口へと、廊下を導かれていく間、ぼくはその日に起こった、信じがたい様々の出来事を心の中で思い返していた。このわずか数時間は、一生涯と同じくらいの重みがあった。ぼくのどんな奔放《ほんぽう》な夢も描ききれない冒険を経たのだ。数時間前までは、まったく知りもしなかったおかしな町の、恐ろしい軍隊の士官となったのだ。遠いアモールからの見知らぬ少女にも会ったし、生まれて初めて恋にもおちた。そして一時間足らずのうちに、少女を失ったのだ。恋とは不思議なものだ。どうしてジャナイがこうも恋しいのか、ぼくにはわからない。ただぼくはジャナイを愛しており、これからもずっと愛し続けるだろう。ぼくの今後の生涯は、ジャナイに対する愛ゆえに、暗く悲しいものになるだろう。でもぼくは、ジャナイへの愛を諦める気にはなれない。いやまったく、恋とは不思議なものだ。
大廊下の交差点で、ジョン・カーターとぼくは右へと導かれていった。ガン・ハドとバンダールはまっすぐに行った。我々は互いに、別れの挨拶をした。共通の危難を切り抜けたことによって、急に友情がわくことは驚くほどだ。彼ら二人は、ヘリウムにとっては敵国である市の出身者なのだが、共に危険を分かち合った後となっては、彼らに対し、心からの友情を感じるのだ。彼らのほうでも、我々に同じ気持ちを持っていることは明らかだった。
我々は、その廊下を導かれ、中庭を横ぎって別の建物に入った。その入り口の上には、私の見たことのない象形文字が刻まれてあった。どんな国も科学者の使う科学記号は別として、外国と同じ文字を使うところはなかった。しかし、しゃべる言葉は火星上、どこへ行っても共通であり、死んだ海の底に住む野蛮な緑色人ですら、例外ではない。ジョン・カーターは非常に博学であり、多くの文字を読むことができた。彼はぼくに、あの象形文字は「実験所」と読むのだと教えてくれた。
我々は講義室に連れて行かれ、そこで待つように言われた。いよいよラス・サバスが姿を現すのだ。彼は実験所内では自由が許され、そこでは最大の権力を持っている。捕虜であるにもかかわらず、七王ですら彼を特別の目をもって眺め、彼に対してできる限りの便宜《べんぎ》を図っているのだ。
噂《うわさ》に聞くラス・サバスをこの目で見ることは、ぼくには大変な感激である。彼は火星第一の科学者と言われており、その驚くべき才能で、時々いたずらをすることがあるけれど、その偉大な学識と技能によって深く尊敬されているのだ。彼は千歳を超えているそうだ。このことだけでも、ぼくは好奇心にかられる。火星ではふつう、人はそれほど長生きできるものではない。千年が人の寿命の限界とされているが、我々はもともと戦争好きで、しばしば殺人が行なわれるので、その限界に達することはごくまれなのだ。彼はきっと、ミイラのように痩《や》せ衰えた、ひどい老人だろうとぼくは思った。よくも自分の大変な仕事に耐えられるものだと、ぼくは不思議に思った。
いくらも待たないうちに士官が、とても美男子の若い男を連れて戻ってきた。この男はひどく威張った態度で、我々をごみくずか何かのように眺めた。「わしを監視するために、また二人、スパイがやって来たな」
「いや、あなたを保護するための勇士なのですよ、ラス・サバス」と、士官が訂正した。
さては、これがラス・サバスだったのか――。ぼくは目を疑った。しかし、こんなに若いとは――。
彼はジョン・カーターを見た時、何か思い当たったことがあるらしく、忘れた記憶を思い出そうとするように眉をしかめた。しかし、ジョン・カーターと彼は、今まで一度も会ったことがないのだ。ラス・サバスは何を考えているのだろう。
「どうだかわかるものか」と、彼は突然言い放った。「この二人は、わしを暗殺するために、このモルバスに潜入してきたのかもしれない。彼らがツーノル人やファンダル人ではないことが、どうしてわかるんだね」
「彼らは、ヘリウムから来たんですよ」と、士官が答えた。するとラス・サバスの表情は、とたんに問題が解決したといったように、さっぱりと明るくなった。「彼らは放浪の戦士で、ファンダルに行く途中を捕まえたんです」
ラス・サバスはうなずいた。「この二人を実験所の、わしの助手にしよう」
士官はびっくりした顔をした。「衛兵として使用したほうがいいのではないですか。あなたのご安全のためにも」
「わしのすることにそつはないさ。お粗末な頭脳の持ち主から、わしが助言を受ける筋合いはないよ。といっても、君のことではないがね」
士官は顔を赤くした。「私はただ、あなたの身の安全だけを考えていたのです」
「それでは自分の任務だけ果たしていればいい。わしのほうも、自分の始末は自分でする」
彼の言い方はその言葉と同じように、失礼千万なものだった。私は、一緒に働く人物としては、彼ははなはだ不愉快な人物だなと予感した。
士官は肩をすぼめると、我々をここに連れてきたホルマッドの戦士たちに号令をかけ、講義室から立ち去っていった。
ラス・サバスは、我々のほうに向いた。「来たまえ」彼は我々を小さな部屋に案内した。その壁全体が書物とノートのぎっしり詰まった棚で覆われていた。そこの机も、書物と書類が乱雑にちらかっていた。彼はその前に座り、我々も近くの椅子に座らせた。
「君たちの名前は」
「私は、ドタール・ソヤット」と、ジョン・カーターが答えた。「そして、こちらが、ボル・ダジです」
「君は、ボル・ダジをよく知っていて、絶対の信頼を置いているのかね」
ラス・サバスは我々と初対面なのだから、これはおかしな質問だった。
「私はボル・ダジとは、もう何年も知り合っています。戦士としての忠誠と技能と知能の点で、私は彼を信頼しています」
「よろしい。それでは、二人とも信用しよう」
「だが、どうして私を信用できるのですか」
ラス・サバスはにやりと笑った。「火星の大将軍、ヘリウムの王子、ジョン・カーターくらい信頼のおける人物はないということは、世界的な評判だぜ」
我々は驚いて彼を見た。「どうして私がジョン・カーターだと思うのですか。初対面だというのに」
「さっき、講義室で会った時、君が赤色人とは見えなかったのだ。それでよく見ると、君の皮膚がところどころ、塗りの薄くなっているのが目についたのさ。火星には地球人は二人しかいない。一人はバド・バロで地球名をバックストンという。ぼくは彼をよく知っているんだ、なにしろ彼はツーノルの実験所でぼくの助手を務めたことがあるのだからね。彼の技能も相当なものになって、わしの頭脳をこの若い肉体に移植する手術は、彼がやったのだ。だから、君がバド・バロでないことははっきりしている。すると、他に地球人はジョン・カーターだけしかいない。推理は簡単だ」
「君の言うことは正しい。確かにぼくはジョン・カーターだ。ぼくは君に、すぐそれを言うべきだった。ぼくは君を捜すため、ファンダルに行く途中で、ホルマッドたちに捕まってしまったのだ」
「火星の大将軍が、いったいなんで、このラス・サバスに用事があったのかね」
「ぼくの妻、デジャー・ソリスが飛行艇の衝突事故で大怪我をし、何日も意識不明なのだ。ヘリウム一の外科医にも、どうにもできないのだ。それで君になんとかしてもらおうと捜していたのだ」
「ところがわしは、君同様、囚《とら》われの身であったというわけだ」
「しかし、とにかく君を見つけた」
「だからどうしたいというのだ」
「もしできるなら、ぼくと一緒に来て、妻を助けてくれるか」
「もちろんだ。わしはバド・バロとファンダルの皇帝ダル・タラスに、自分の才能を、人間を病気から救うことと、人類の改良に捧げる約束をしたのだからね」
「それでは、なんとかして出かけよう」
ラス・サバスは首を振った。「それは不可能だ。モルバスからの逃亡はとても無理だ」
「しかし、なんとかやり遂《と》げよう。この島からの脱出はなんとかできると思う。ぼくにとって一番心配なのは、このツーノルの大湿地帯を渡っていくことなのだ」
ラス・サバスは首を振った。
「この島からの脱出は絶対に不可能だよ。監視が行き届いているし、スパイが多すぎるのだ。赤色人のように見える士官の中にも、実はホルマッドがたくさんいるのだ。わしは無理矢理に、ホルマッドの脳をこれらの赤色人たちに移植させられたのだ。どの士官がホルマッドなのか、わしにもわからない。手術は七王じきじきの監視のもとに行い、犠牲にされた赤色人の顔にはマスクがかけられていたのだからね。七王の中には、悪知恵に長《た》けた奴がいるのだ。だから、我々のまわりにいる士官のうち、どれがホルマッドで、どれが普通の人間なのかわからないのだ。二人だけは別としてね。つまりジョン・カーター、君と、君の信頼しているボル・ダジのこの二人だけは、ホルマッドでないことを認めよう。我々三人以外には、信用のおける者は、誰一人いはしない。だから誰と親しくなっても、決して気を許してはいかん。それから――」
とたんに、建物のどこかでものすごい騒ぎが起こって、彼の話は中断された。それは悲鳴と、うめき声と、唸《うな》り声とが混じりあった、恐ろしい地獄の合唱だった。野獣の一群が、突然気が狂って暴れ出したようなすさまじいものだった。
「来たまえ」と、ラス・サバスが言った。「化け物のお子さまたちのご出産に、立ち会わなければならない」
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七 生命の培養桶
ラス・サバスに導かれて巨大な部屋に入った我々は、全宇宙でいまだかつて展開されたことがない、恐るべき光景を目撃した。部屋の中央に一・二メートルほどの巨大なタンクが据《す》えられており、その中から、とても人間の想像力では描き得ない、身の毛もよだつような怪物たちが、続々と現われてくるのだ。タンクの外側には、多数のホルマッドや士官たちが待ち構えていて、出てくる奴らを組み伏せ、縛り上げたり、あまりにもひどい格好で兵士としては役に立たないようなのは、叩き殺したりしているのだ。
少なくとも十五パーセントは、そのようなわけで叩き殺された――そいつらは、人間ともけだものともつかない、恐るべき怪物だった。ある者は、ただ生きているだけの巨大な肉塊《にくかい》に、一個の目玉と一本の手が、いい加減な場所についているだけのものであったり、ある者は、腕や足のつき場所があまり途方もないので、歩くとさかさまになり、足と足の間から、頭がぶら下がっているといったありさまだった。その顔といったら、鼻・口・耳・目などが、胴体であろうが、手足であろうが、ところ構わずついているといった具合だ。
殺されずにすむのは、二本の腕と二本の足を持ち、顔の造作が首から上に集まっているのに限るのだ。無論、鼻が耳の下についていたり、口が目の上についていたりしたところで、それは仕方がない。重要なことは、戦いの能力にあるので、顔がきれいか、きれいでないかなどは、二の次なのだ。ラス・サバスは得意さを顔に表わして、大将軍にたずねた。
「ご感想はどうかね」
「まったく気味が悪い」と、ジョン・カーターが答えた。
ラス・サバスは気を悪くした様子だった。
「わしはまだ、美を追求する境地にまでは達していないのだ。それどころか、釣り合いを持たせることだってできていない。しかし、いずれは両方とも達成できるだろう。わしは人間を創造したのだ。いずれの日にか、わしは完全なる人間を創造してみせる。そして超人の新種族が、火星に住むようになるだろう。美しく、知的で、そして不死の種族がね」
「その間には、このような化け物たちが世界中に広がって、世界を征服しているだろう。奴らは、君の創造した超人を破壊してしまう。君はフランケンシュタインの怪物を創造したのだ。奴らは、君はもちろん、全世界の文明を破壊してしまうだろう。君はその可能性について考えてみたことはないのかね」
「それはある。しかしわしは、こんな怪物をそんなにたくさん創造するつもりはまったくなかったのだ。これは七王の意志なのだ。わしはただ、以前の実験所を奪い返すために、ツーノルを征服するに必要な、小さな軍隊だけを製作するつもりだったのだ」
部屋の騒音は、ますます激しさを加えてきて、もはや会話は不可能となった。
悲鳴を上げる首は床に転げ落ち、見込みのある新生ホルマッドは、兵士たちに引きずられていった。培養桶は、魔女の煮《に》る鍋のように泡立って、不気味な生命体を絶えず吐き出し続けた。しかも、これと同じ光景は、モルバス市全域に散在する四十の、同じような部屋で繰り広げられていたのだ。
ラス・サバスが、作業の別の様子を見せようと言い、この文字通りの恐怖地獄から立ち去ることができた時は、ぼくは全くほっとしたのだった。彼は我々を、再生作業の行なわれている部屋へと導いた。
そこでは、首が新しい体を成長させ、首なしの体が新しい首を成長させていた。腕や足を失ったホルマッドたちは、新しい腕や足を生やしつつあった。時として、この成長は、間違った形で行なわれた。切断された首のつけ根からは、一本の足しか生えてこないこともあった。そんな場合、首は、火のように怒って、ラス・サバスに悪口の限りを浴びせかけるのだった。
「やいやい、おれをどういう役につかせようってんだ。首一つに足一本のこのおれをよう。おめえは、火星一の大学者だなんて言われていい気になってるが、おめえは火星猫《ソラック》ほどの脳味噌だって持ってねえじゃねえか。どうしようってんだ。それをうかがいてえもんだね」
「そうだな」と、ラス・サバスは考えぶかく答えた。「お前を細かく刻んで、もう一度培養桶の中に突っ込むか」
「やめてくれえ!」と、首は悲鳴を上げた。「どうか、おれを生かしておいてくだせえ。ただ、この足を切り捨てて、新しい体が生えるようにしておくんなせえ」
「よろしい」と、ラス・サバスは言う。「明日、そうしてやる」
「どうして、あんな奴でも、生きたがるのでしょう」
その場から立ち去った後で、私はラス・サバスにたずねた。
「生きる欲望は、生命の本質なのだ。いかに下等な生命であってもね。こんな生殖能力もない、ただ、動物組織を食べることだけが楽しみの哀れな化け物でも、やっぱり生きたがるのだ。彼らは、愛とか友情などというものがあることも知らない。満足や喜びを味わうための感受性すら、ろくに形成されていないのだ。しかし、やっぱり生きたがる」
「いや、友情ということは知ってるらしいですよ」と、ぼくは言った。「トル・ズル・バールの首が、私に友人であることを忘れるなって言いましたよ」
「友情という言葉は知ってる。しかしその意味がわかってないことは確かだ。彼らが最初に教え込まれることは、服従することだ。奴はきっと、君に服従するという意味で言ったのだろう。奴はもう君のことなぞ、覚えてすらいないよ。記憶というものをまるっきり持たない者だっているんだ。奴らの行動は機械的で、命令という刺激に対して、条件反射的に行動するだけだ。行進したり、戦ったり、前進したり、停止したりといった具合にね。まあ来てごらん。トル・ズル・バールの首を見つけて、奴が君を覚えているか確かめてみよう。面白い実験だよ」
我々は、再生作業の行なわれている別の部屋へ入った。
トル・ズル・バールの浸《つ》かっているタンクの前まで来ると、途端に首が叫んだ。
「いよう、ボル・ダジ、よく来たな」
それは四百万八だった。
「いよう、トル・ズル・バール」と、私は返事をした。「また君に会えて嬉しいよ」
「お前は、モルバスで親友を持ってることを忘れるなよ。おれはもうすぐ、新しい体を生《は》やすんだ。お前が、おれを欲しくなったら、すぐにそばに行ってやるよ」
「ホルマッドの中にも、ずば抜けて頭のいい奴もいるのだ」と、ラス・サバスが言った。「あいつには目をかけてやろう」
「先生、おれみたいな優秀な頭脳には、立派な体をこさえてくれなきゃ駄目だよ」と、トル・ズル・バールが言った。「おれは、ボル・ダジや、その友だちみたいな、いい男になりたいんだ」
「心掛けといてやる」と、ラス・サバスは言い、首のほうにかがみ込んで小声でささやいた。「もうそのことは言うな。わしを信用しておれ」
「トル・ズル・バールに新しい体が再生されるのに、どのくらいかかるのかね」と、ジョン・カーターがたずねた。
「九日だ。しかし使いものになる体ができるとは限らない。その時はやり直しだ。わしにとっても、こういった体の成長をコントロールすることはできない。しかしいつかは、わしはそれができるようになる。いつかは完全な人間を創造する」
「全能の神というのが本当にいたら、君におかぶを取られて、腹を立てるだろうよ」
大将軍は微笑みながら言った。
「生命の起源というものは、まったくの謎なんだ。偶然の結果であるようでもあるし、神の意志によって、綿密に計画されたもののようでもある。地球の科学者は、生命はすべて核を備えた原形質に過ぎない、アメーバのような下等な微生物から進化したものだ、と考えているそうだね。
しかし火星では、だいぶ違った進化論が唱えられているのだ。我々の信ずるところでは、火星が冷却していく間に化学反応が行なわれて、一個の胞子が形成された。それが、植物的生命体の基礎となったのだ。この胞子が長い時代を経た後、一本の生命の木として成長し、花を咲かせるに至った。場所は多分、ドールの谷で、二千三百万年ほど昔のことだろう。いく時代もの間、この木の実は、次第に変化し進化していった。純植物的であったのが、段々と動物的な要素が加わってきた。
最初のうちは、果実は、木とは独立した筋肉運動を営むことができるだけだったが、その後、果実それぞれが独立した脳髄《のうずい》を備えるに至ったのだ。果実は木からぶら下がりながら、ものを考え、好き勝手に動き回るようになってきた。つまりバルスームに初めて知性が、理性が生じたのは、この時なのだ。
やがて進化が進むにつれて、一個の果実は、四つの部分に分かれた。その一つには植物人間、いま一つには六本足の虫、いま一つは白色類人猿の先祖、最後の一つには、火星人の原人が成長したのだ。やがて果実は、木から落ちて独立し、バルスームの全世界へと、ばらまかれたのだ。
こうして現在の生命体が生じたのだ。わしは、これらの生物を研究することにより、それを人工的に生産する法を学び取ったのだ」
「それが、あなたの身の破滅になるかもしれませんよ」と、ぼくが言った。
「かもしれん」と、彼も同意した。
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八 赤い暗殺者
たちまち十日ほどの日が経ってしまった。その間、我々は、ほとんどいつもラス・サバスのそばにいたが、やはりほとんどいつも他に誰かがいたので、あまり計画を練る機会がなかった。誰がスパイで誰が味方なのか、わからないのだから仕方がない。
ぼくはジャナイのことを考えると、心配でたまらなかった。ぼくはなんとかしてジャナイの消息が知りたいと思った。ラス・サバスは、ぼくがあまりジャナイのことを知りたがっていることをそぶりに出しては疑いを持たれ、身の破滅になる元だと忠告した。しかし、ジャナイの消息がわかるように努めてみようとも約束してくれた。
ある日、特に優秀な知能を持ったホルマッドたちを七王会議に送って、王のボディーガードに適するか否かを実験することになった。ラス・サバスは、他の士官たちと一緒に、これらのホルマッドを引き連れていく役にぼくを任命した。ここへ来てから、実験所の外へ出るのは、これが初めてだった。こんな時以外は、我々は出ることを禁じられているのだ。
七王の宮殿となっている大きな建物の中に入った時も、ぼくの心の中はただ、ジャナイのことで一杯で、ジャナイを一目見られるかどうか、そればかりが気がかりだった。廊下を見渡したり、開いている戸口からのぞき込んだり、また、いっそ一行から分かれて、ジャナイ捜しに出かけてやろうかとさえ考えた。しかしやっとのことで分別を働かせて、それは思いとどまった。やがて七王のいる大広間へと着いた。
ホルマッドの試験は、念入りだった。その一問一答を聞き、答えに対する王たちの反応を見たりしているうちに、ぼくの心の中に一つの計画が生まれた。もし、トル・ズル・バールを王のボディーガードに任命されるよう仕向けたら、ジャナイのことがわかりはしないかというのだ。
我々がまだそこにいた時に、数名の兵士が、一人の捕虜を連れて入ってきた。その捕虜は赤色人で、傷跡のある、頑固な顔をした男で、ひどく尊大な歩き方をし、彼の逮捕者や七王たちを馬鹿にしたように、せせら笑いを浮かべていた。恐ろしく力が強く、数名の戦士が引き止めようとしたが、強引に王の一歩手前までやって来て、そこで、やっと食い止められた。
「この男は何者だ」と、王の一人がたずねた。
「おれはガンツン・グールだ。アモールから来た殺し屋だ」と、捕虜は大声で怒鳴った。「おれの剣を返せ。この臭いねずみどもめ。そしたら、この真の闘士が、この化け物どもや、貴様たちのような阿呆な王どもに、目にもの見せてくれるわ。奴らはおれを網で捕らえたのだ。まったく卑怯な奴らだ」
「黙れ」と、王の一人が怒りに青ざめて、命じた。
「黙れだと。笑わせるな。このガンツン・グールを黙らせる者は、誰もおりはせん。嘘だと思ったら黙らせてみろ、一対一でな。この鼻ったれのうじ虫め」
「奴を連れ去れ」と、その王は叫んだ。「ラス・サバスのところへ連れて行け。ラス・サバスに、奴の脳味噌をえぐり取って、燃やすように言いつけろ。残った体はどうでも勝手にしろ」
ガンツン・グールは悪鬼のごとく、ホルマッドを右へ左へと叩き伏せて、暴れ出した。結局、彼は再び網で捕えられて、大声で王をののしりながら、実験所へと引き立てられた。
それからまもなく、王たちはボディーガード用のホルマッドを選び出すと、選に漏れた連中を士官に引き渡した。ぼくは、ジャナイを一目見ることもできず、その消息すらも聞くことができずに、実験所に戻らなければならなかった。ぼくはひどく失望して、気が滅入ってしまった。
ぼくは、ラス・サバスが彼の書斎にいるのを見つけた。ジョン・カーターも一緒だったが、他に、いくらか見られる格好のホルマッドが一人いた。ぼくが書斎に入った時、このホルマッドはぼくに背中を向けていたが、ぼくの声を聞くと振り返って、ぼくの名を呼んで挨拶した。
それは、新しい体を生《は》やしたトル・ズル・バールだったのだ。腕は、片一方がやや長すぎ、胴は短い足に比べて長すぎ、片一方の足の指が六本あり、左手には親指が一本余計についていたが、まあまあ、ホルマッドとしては上の分に属していた。
「おれは、この通り生まれ変わったよ。どうだい、おれのこの男ぶりは」
彼は、そのものすごい顔にあふれるばかりの笑いをみなぎらせていた。
「ぼくは君を友人に持って嬉しいよ。君のその新しい体は強そうじゃないか。すごく筋骨たくましいじゃないか」ぼくは言ってやった。事実その通りだったのだ。
「だがおれは、お前のような顔と体を持ちたいのだよ。で、そのことをラス・サバスに話してたとこなんだ。ラス先生は、機会があれば、そうしてやると言ってくれたよ」
ぼくはすぐに、アモールの殺し屋というガンツン・グールのことを思い出した。
「それでは、君にうってつけの体が実験所で待っているぜ」そしてガンツン・グールの話をした。「その処置は、ラス・サバスに一任《いちにん》されてるんだ。王は、奴の体はどうなりとも勝手にしろと言っていた」
「それでは、その男に会ってみよう」ラス・サバスが言った。
ガンツン・グールは、ぐるぐる巻きに縛《しば》られて、厳しく監視されていた。我々が来たのを見ると、彼は毒づき始め、我々三人をこきおろした。よっぽど、あくどい気質の男に違いない。ラス・サバスは、しばらくは無言のままこの男を観察していたが、やがて、
「この男の始末はぼくがする。この男の脳髄は焼かれ、その体は、適当に利用すると七王会議に報告しろ」と言って、この男を連れてきたホルマッドたちを引き下がらせた。
ガンツンは気が狂ったように騒ぎ出し、歯をむき、泡を飛ばして、ラス・サバスに悪口の限りを浴びせかけた。
ラス・サバスは、トル・ズル・バールに、「こいつを運べるか」ときいた。
返事をする代わりに、ホルマッドは赤色人を、綿くずか何かのようにひょいとつまみ上げると、広い肩の上に乗せた。彼の新しい体は、全くものすごい力持ちだったのだった。
一同は、ラス・サバスの案内で、彼の書斎から、さらに小さな戸口を抜けて、ぼくがそれまで見たこともない部屋に入った。そこには、二つのテーブルが六十センチほどの間隔をおいて並べられており、その上は、きれいに磨《みが》かれてあった。脇の棚には、二個の空のガラス容器と、無色透明な液体が満たされている、同様な二個の容器が置いてあった。さらに様々な外科手術用器具が、整然と並べられてあり、いろいろな形の容器には、いろいろな色の液体が満たされて、きちんと置かれてあった。その他、いろいろの装置が複雑に絡《から》み合っていたが、ぼくは、生まれながらの闘士だから、こういった装置が、どういうためのものであるかは全くわからなかった。
ラス・サバスはトル・ズル・バールに、ガンツンをテーブルの一つの上に横たえるように命じ、それから彼に向かって言った。
「お前も、もう一つのテーブルの上に横になれ」
「本当にやるんですかい」と、トル・ズル・バールが叫んだ。「このおれに、こんな美しい体と顔を、くださるんですかい」
「わしはそれほど、特に美しいとも思わんがね」
ラス・サバスは、かすかな微笑を浮かべて言った。
「ああ、うるわしいですよ。ほんとにそうしてくだすったら、おれは永久にあなたの奴隷になりますよ」
ガンツンは、しっかりと縛られていたが、それでも、ジョン・カーターと私が動けないように、押さえつけていなければならなかった。その間に、ラス・サバスは彼の体に二か所の切開を施《ほどこ》した。一つは大静脈、もう一つは動脈だった。この切開箇所に、二本の管をつなぎ合わせた。その一方は、一つは空のガラス容器に、一つは無色透明の液体の入ったガラス容器に連結されていた。それが終わると彼は、テーブルの下に置いてある小型モーターのボタンを押した。すると、ガンツン・グールの血液は空《から》の容器に、無色透明の液体は空になった血管へと、移動させられた。モーターが動き出したとたんに、ガンツン・グールは意識不明に陥り、彼が最期の息を引き取った時は、ぼくはいささかほっとした。血液がすっかり透明な液体で置き換えられると、ラス・サバスは管を外し、切開箇所を粘着性《ねんちゃくせい》の物質でふさいだ。そしてトル・ズル・バールに向かってたずねた。
「本当に、お前は、赤色人になりたいのか」
「待ちきれないよ」と、ホルマッドが答えた。
ラス・サバスは、ガンツン・グールに施したのと同じ処置を、トル・ズル・バールにしてやった。それから両人の体に、強烈な防腐剤をつけてから、自分にもそれを吹きかけて手をよく洗ってから、鋭いメスで二人の頭の皮をきれいに剥《は》ぎ取った。
それがすむと、小型の丸のこぎりで、二人の頭蓋骨を丸く切って取り外し、トル・ズル・バールの脳髄を、ガンツン・グールであった人物の、空《から》にされた頭蓋骨の内部に収め、手際よく切断された神経節をつなぎ合わせて、取り外してあった頭蓋骨をとじ合わせ、剥《は》いであった頭の皮をはり合わせ、粘着性の物質でしっかりとめた。この物質は防腐剤であるとともに、麻酔剤でもあるのだそうだ。
彼は、ガンツン・グールの体から押し出した血液を温《あたた》め、ある種の溶液を数滴、それに加えてから、例の透明な液体を血管から吸い取りつつ、徐々に血液を元どおり、体の中に返した。それがすむと、皮下注射をした。
この驚くべき手術を見守っている間に、ぼくは、一つの気違いじみた計画を思いついたのだ。この計画を実行すれば、ジャナイのそばに行けるかもしれない。少なくとも、ジャナイの運命がどうなったか、わかるかもしれない。そこでぼくは、ラス・サバスに向かってたずねた。
「あなたがその気になれば、ガンツン・グールの脳髄を元どおりその体に収めて、彼を生き返らせることができるのですか」
「できるさ」
「あるいは、その脳髄を、トル・ズル・バールのいらなくなった体に収めることもできますか」
「できるとも」
「脳髄は、取り出してから、どれぐらいの間なら、他人に移植できるものなのですか」
「体に注入する無色透明の液体が、ほとんど無限に、体も脳髄も生きたまま保存できるようにしてくれる。体から押し出した血液も、同じような方法で保存できる。しかし、君は何を言いたいのかね」
「私の脳髄を、トル・ズル・バールの元の体に、移植してもらいたいのです」
「気が違ったのか」と、ジョン・カーターがびっくりしてたずねた。
「恋が狂気であるならば、多少、その気味があるかもしれません。ホルマッドになれば、七王会議の審査に出られるし、彼らに仕える側近に選ばれるかもしれません。私は、試験の質問には、どう答えてよいか知ってますから、きっと、そうなるでしょう。そこへ行ければ、ジャナイがどうしているかわかるし、救助することだってできるかもしれない。それが失敗しようが成功しようが、ラス・サバスが、私の脳髄をまた元どおり、私の体に返してくれるでしょう。やってくれますか、ラス・サバス」
ラス・サバスは、どうしたものかといった顔つきで、ジョン・カーターの顔を見た。
「ぼくには、反対する権利はない。ボル・ダジの体と脳は、ボル・ダジのものなのだから」
「よろしい。それでは手術を始めよう」
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九 ホルマッドになった男
ぼくが再び意識を取り戻した時、最初にぼくの目に映ったものは、数十センチほど離れたテーブルの上に載《の》っているぼくの体だった。自分の死体を見るというのは、ちょっと気味の悪い体験だ。
しかし、ぼくがテーブルの上に座って、改めて自分の新しい体を見た時には、もっと気分が悪かった。このものすごい顔と、不格好な体のホルマッドになることが、これほど恐ろしいこととは予期していなかった。自分の新しい手で自分の体に触ることすら、嫌だった。もしラス・サバスに、もしものことがあったりしたら。この考えがふと浮かんだ時、冷や汗がどっとばかりに流れ出した。ジョン・カーターと偉大なる外科医は、ぼくを見つめていた。
「どうした」と、ラス・サバスはたずねた。「顔色が悪いぞ」
ぼくは、たった今、思い浮かんだ恐ろしい考えを彼に訴えた。彼は肩をすぼめ、
「そうなったら、君も迷惑だろうねえ。私の他には、この手術ができるのは、地球生まれのバド・バロ一人しかいない。わしが彼を仕込んだのだ。しかし、ホルマッドがここを統治している限り、彼をモルバスに呼んでくることもできない。だが、心配するな。わしは千年以上も生きてきたんだ。ホルマッドたちはわしが必要なんだ。わしがもう後千年も生きられない理由はありはしない。千年経たないうちに、別な助手を一人仕込んで、わしの脳髄をまた新しい体に移植してもらうよ。つまりわしは、永遠に生きるわけだ」
「生きていてもらいたいもんです」
ぼくは言った。その時ぼくは、アムホールの殺し屋の体が、床に横たわっているのに気がついた。
「トル・ズル・バールはどうしたんですか。彼はまだ意識を回復していないのですか」
「そのように取り計らったのだ。ジョン・カーターと相談して、君の脳がホルマッドに移植されたことは、二人以外に誰も知らないほうがよいだろうと決定したのだ」
「結構ですね。みんなが、私を根《ね》っからのホルマッドだと信じてくれればありがたい。でも、トル・ズル・バールは私を見て気がつきませんか」
「気がつかないと思う。彼はまだそれほど自分の顔を見てなかった。モルバスには、ほとんど鏡というものがないからね。その体は生えたばっかりだし、気がつかないだろう。気がついたら、彼に、よく話してやる」
それからの数日間はまったく不愉快だった。ぼくはもはやホルマッドであり、他のホルマッドに混じって生活し、生の動物組織を食べたのだ。ラス・サバスは、ぼくに武器を与えてくれた。ぼくは、不気味なタンクから出てくる恐ろしい形相《ぎょうそう》の連中の中でも、特に奇形がひど過ぎて、ホルマッドとして使いものにならない連中を殺さなければならなかった。
そんなある日、ぼくは、チェイタン・オブと出会った。この男とは、モルバスに来る時に、マラゴールの背中で一緒だったのだ。彼は、ぼくをトル・ズル・バールと認めて、声をかけた。
「カオール(いよう)。新しい体を生やしたな。ところで、おれの親友のボル・ダジは?」
「知らねえ。多分、培養桶の中にでも浸《つ》けられたんじゃねえか。いなくなる前に、奴はお前のことばかり話していたぜ。奴は、お前とおれが仲直りすることを望んでいたらしいよ」
「じゃあ、仲直りするか」
「よかろう」と、ぼくは言った。なにしろ、一人でも味方の多くなることを望んでいるぼくなのだ。「今、何をしている」
「おれは、第三王のボディーガードの一員なんだ。宮殿に住んでいる」
「それはすごいじゃないか。それじゃあ、宮殿のことは、何でもよく知ってるんだろう」
「ああ、その通りだ。だからおれは、王になりてえよ。王みたいに立派な体を持ちたいんだ」
「ところで、ボル・ダジなんかと一緒に宮殿に連れて行かれた、あの女の子はどうしたい」
ぼくは、さり気なく切り出してみた。
「女の子」
「ジャナイとかいう名前だ」
「ああ、ジャナイか。まだ宮殿にいるよ。二人の王があの女を欲しがっているし、他の王たちはそれを邪魔してるんだ。少なくとも、今のところはな。そのうち投票で決めるそうだ。みんな、あの女が欲しいんだ。なにしろ、あんな美しい女が捕まったのは、ここんとこ、久しぶりだもんな」
「するてえと、今のところは無事なんだね」
「無事とはなんだ。あの女は、王から目をかけられてるんだから、幸せ者よ。なんでも一番上等なものがもらえるし、ラス・バスの桶に浸けられる心配もねえ。だが、どうしておめえは、そんなにあの女のことばかり聞きたがるんだ。おめえもあの女が欲しいんじゃないのか」
そう言って、チェイタン・オブはげらげら笑い出した。自分の言ったことが図星だと知ったら、彼はどれほどたまげることだろうか。ぼくは話をそらした。
「王のボディーガードの仕事はどうだい」
「結構なもんさ。待遇はいいし、食い物はたくさんあるし。寝場所はいいし、それに重労働はしなくてすむんだ。それにとっても自由なんだ。モルバスの島じゅう、どこへでも好きなところへ行けるんだ。王様たちの私室だけは別だがね。しかしお前は、実験所から出られねえ」
彼は自分の首から、鎖《くさり》で下がっているメダルを指さした。
「これだ。これさえあればどこへでも行けるんだ。これは第三王のボディーガードの徽章だぞ。これを見せれば皆、へいこらするんだ。トル・ズル・バール、おれはおめえがかわいそうだよ。おめえはただ、しゃべって歩くだけの肉切れにすぎねえもんなあ」
「おれは、お前のような偉い男を友人に持って幸せだよ。それにお前はおれを助けてくれられるものな」
「助けるって、どう助けるんだ」
「王たちは、戦死したボディーガードの空席を、いつも補充しているだろう。おれはきっと、いいボディーガードになれるぞ。それに、お前と一緒になれたらいいと思うんだ。だから、おれが試験を受けるようなことになったら、王に、おれがいい奴だってことを言ってもらいたいんだ」
彼は、その鈍い頭で、一分間ほど考え込んだ。それからやっと彼は言った。
「よかろう。お前は強そうだし、時々、ボディーガード同士で喧嘩が始まるから、強い仲裁人が必要なんだ。お前は頭は悪いが、力が強いから、試験に受からねえとも限らない。よし、ひとつ、王に口をきいてやろう。お前はどれぐらい強いんだ?」
正直言って、ぼくはわからなかった。強いことだけは確かなのだが。それで私は、わからないと答えた。
「おれが持ち上がるか」と、彼はたずねた。「おれはすごく重いんだぞ」
「やってみよう」とぼくは言って、彼を軽々とつまみ上げた。まるで目方がないも同然だった。それでぼくは、彼を頭の上まで投げられるかどうか試してみたくなった。結果は、私の予想をはるかに上回るものだった。部屋の天井すれすれにまで投げ上げ、落ちてくるところを受け止めてやった。彼を床に下ろしてやった時、彼は度肝《どぎも》を抜かれていたらしかった。
「お前は、モルバスで一番強い」と、彼は言った。「第三王に話してやる」
彼は立ち去った。ぼくは希望が芽ばえてくるのを感じた。むろんラス・サバスも骨を折ってくれてはいるが、やはり側近の者に直接頼むようなわけにはいかない。
ラス・サバスは、ぼくをジョン・カーター付きの召使いに任命したので、別れ別れにならずにすんだ。そして三人はたいてい、いつも一緒にいた。他の者の前では、二人はぼくを普通のホルマッドに対するように、厳しく扱った。しかし三人だけになると、元どおり対等な立場において、応対してくれた。二人とも、ぼくの体のものすごい力に感嘆した。この力は、トル・ズル・バールの首から体が生えた時に、ほんの偶然に生じたのに過ぎないのだ。きっと、ラス・サバスは、この超腕力の変種を増やすために、私の体を細かに刻んで、培養桶に浸けたくて、うずうずしているに違いない。
ジョン・カーターほど人間味豊かな人物を、ほとんど見たことがない。政治家で、軍人で、このうえもない剣術の大家だが、なによりも偉大な人間だった。戦闘の時は恐ろしく猛々《たけだけ》しいが、普段は控えめで親しみやすかった。それに彼は決して、ユーモアを失わなかった。我々だけの時、彼はよく、ぼくが新たに獲得した「美」について、冗談を言い、上品な態度で笑うのだった。事実ぼくは、二人の笑いと恐怖心とをそそるような風貌だったのだ。
「君の顔は、君にとって貴重な財産だよ。なんとかして、君をそのままの姿でヘリウムに連れて帰りたいんだ。そして、皇帝に謁見させる。むろん君はヘリウム一の好男子で、女の子たちから、ちやわやされるに決まってるよ」
確かにぼくの顔は、人の注意を引くだけのものは備えていた。なにしろ目鼻だちからして何一つ、まともなものはなかったのだから。私の右の目は、額のずっと上の、髪の生え際《ぎわ》のところについていて、左目の倍の大きさであり、その左目は、左の耳とほとんどくっついており、口は四十五度に傾いて、右の大目玉のところまで、裂《さ》けているといった具合だ。
さて、新しい体をもらったトル・ズル・バールのほうでは、名前を、番号ではなく本式の名前がほしいと言い出した。それでジョン・カーターとラス・サバスとで、ツン・ガンとつけてやった。つまりこれはガンツン・グールのガンツンを引っくり返しただけの話である。
ぼくが二人に、チェイタン・オブと話し合ったことを報告すると、二人とも、ぼくがトル・ズル・バールの名前をそのまま受け継ぐことに同意した。ラス・サバスは、ツン・ガンに、彼の元の体には、新しく生まれたホルマッドの脳を移植したと言っておいたそうだ。
その後まもなく、ツン・ガンに実験所の廊下でばったり会った時、ツン・ガンは私をしげしげと眺めてから、「お前はなんという名だ」ときいた。
「トル・ズル・バールでがす」と、私が答えると、彼は身震いした。
「お前は、見かけどおり、心もそんなに醜《みにく》いのか。二度とその姿を見せるなよ。でないと、焼却炉か、培養桶に突っ込んでやるぞ」
この話を、ジョン・カーターとラス・サバスにすると、二人とも腹を抱えて笑った。たまには笑うこともよいことなのだ。ここには愉快なことはごく少ないからだ、ぼくはジャナイのことで悩んでいるし、元の体に戻れるかどうかだって心配なのだ。ラス・サバスはツーノルの実験所を奪い返し、皇帝のボビス・カンに復讐しようとする企《くわだ》てに失敗し、がっくりきている。ジョン・カーターは妻のデジャー・ソリスの容態のことをつねに気遣っているといった状況だからだ。
我々三人が、ラス・サバスの私室で話し合っていた時、宮殿から士官が一人やって来て、入れとも言わないうちに、ずかずかと部屋に入ってきた。
「トル・ズル・バールというホルマッドはおるか。七王会議の命令で、すぐに連れて行く」
この士官は、不機嫌な、威張った男で、明らかに赤色人の捕虜《ほりょ》にホルマッドの脳髄が移植されたものに違いない。ラス・サバスは肩をすぼめ、私を指さした。
「これがトル・ズル・バールだ」と言った。
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十 ジャナイがいた
七王の座っている王座の前には、ぼくのほかに七人のホルマッドが座っていた。その中では多分、ぼくが一番醜かったろう。七王は、我々に、様々な質問をした。それは、いわば子供じみた知能テストだった。王たちは、自分たちの衛兵に、ホルマッドの中では知能が水準以上のものを望んだからだ。それに王たちは、衛兵の外見もかなり気にしているらしい様子だった。王の一人はぼくを長いこと見つめたあげく、手を振って、ぼくを退けた。
「余の衛兵隊には、こんなものすごい怪物は入れられぬ」と、彼は言った。
ぼくは、周りを見回したが、ぼくとさほど違わない者たちばかりだった。みんな、ものすごい怪物ばかりだったのだ。ぼくが並みよりちょっと怪物じみていたところで、なんの違いがあるというのだ――と思ったところで、どうしようもない。ぼくは大いに失望して列から離れた。
七人のうち五人が、いくらか出来のよい愚か者といったところで、試験に合格した。
その時第三王が、士官に言った。
「余が迎えを出したホルマッドはどうした。トル・ズル・バールとやらいう奴は?」
「私が、トル・ズル・バールです」と、ぼくは言った。
「ここへ来い」
第三王に呼ばれて、ぼくは再び王座の前に進んだ。
「余の衛兵の一人が言うには、お前は、モルバス一の力持ちだそうだな。本当か」
「よくわからねえが、強いことは確かです」
「お前は、人間を天井にまで放り投げて、受け止めるそうだな。やってみせろ」
ぼくは、不合格になったホルマッドの一人をつまみ上げると、できるだけ高く放り上げた。ぼくは自分の力の強さを本当に知っていなかったことが、その時わかった。この大広間の天井は、ひどく高かったが、気の毒なホルマッドは天井にドシンとばかりにぶつかって、再びぼくの手に受け止められたときには、気を失っていた。一同は皆、度肝《どぎも》を抜かれて、ぼくを見つめた。
「こやつは美しくはないかもしれないが」と、第三王は言った。「しかし余は、こやつを衛兵として召し抱える」
最初にぼくを退けた王は、反対した。「衛兵は知能が高くなければならぬ。こやつには、一片の脳味噌もないように見えるぞ」
「試してみよう」
そこで知能テストが行なわれたが、実に幼稚きわまる質問ばかりだった。なにしろ質問者が結局ホルマッドに過ぎないのだから。
「こやつは知能が高い」と、第三王が言った。「余は、こやつを召し抱える」
「くじ引きで決めよう」と、第一王が言った。
「そんな理由はない」と、第三王が答えた。
たちまち王たちの間に論争が起こった。どの王も、ぼくを召し抱えたかったからだ。論争は長かったが結局、私は第三王に仕えることになった。七王の中では、第三王が一番大きくて力が強く、そして、最初にぼくを名指ししたのは彼だったからである。
これでぼくは新しい主人を持つことになった。彼はぼくを、直属の士官の一人の配下に所属させた。士官はぼくを広い衛兵詰め所へと案内した。そこには大勢のホルマッド戦士たちがいた。その中に、チェイタン・オブもいた。彼はすぐに、ぼくに恩を着せた。ぼくが最初に教え込まれたことの一つは、第三王を保護するために戦い、死を恐れてはならぬということだった。ぼくは首にかける徽章をもらった。士官の一人が、ぼくに長剣の使い方の訓練を始めた。ぼくは、わざと下手を装った。士官は、素質のあることを褒《ほ》めそやし、これから毎日、教えてやると言った。
仲間の衛兵たちは皆、馬鹿で自己中心的な連中ばかりだった。彼らは互いに妬《ねた》み合い、特に七王のことを妬んでいた。七王は赤色人の姿をしていても、本当はホルマッドに過ぎないからだ。衛兵たちがおとなしいのは、罰を恐れているからに過ぎなかった。奴らは少なくとも、自分の身の上を憤《いきどお》り、権力を持つ士官や七王を妬むだけの知能は備えていたからだ。反乱や革命の起こる下地は、完全に熟《じゅく》していた。知能のある者だったらすぐに感じ取れるくらいだった。
ぼくは、ジャナイを捜す機会がなかなか来ないので、いらいらしてきた。だが、下手《へた》に捜しまわったら、疑いを招くばかりである。それに宮殿内の生活や習慣が、もっとわかってからでないと、積極的な行動には出にくかった。
ある日ぼくは、衛兵の一隊に加わって、市の城壁の外の、一般ホルマッドたちがひしめいている村へと出てみた。そこには無数の怪物たちがうごめいていた。ほとんどが低脳で、不機嫌で、食べることと寝ること以外に楽しみを持たず、それでいて自分の身の上に不満を感じる程度の知能だけは備えているのだった。無論、もっと脳味噌の足りない、けだもの並みの想像力しかないような者もたくさんいて、こんなのだけが、自分の身の上に満足しているのだった。
彼らが、我々衛兵や士官に投げかけるまなざしには、妬《ねた》みと憎しみが込められており、我々が通り過ぎた後では、必ず不満のうなり声がわき起こるのだった。このような怪物たちを使って世界征服をしようという雄大な七王の計画も、様々な障害にぶつかるだろうが、その最も厄介な障害はこの怪物たち自身であろうと、ぼくは思わずにはいられなかった。
そのうちにぼくは、宮殿内の道すじに通じ、自由に歩き回れるようになったので、ひまな時、ジャナイを本格的に捜してみることにした。ぼくはいつでも、周りの注意を引かないように、急ぎの使いを言いつかったといった素振りで、急ぎ足で歩き回った。
ある日ぼくは、廊下の突き当たりに行き当たった。すると、一人のホルマッドが出てきた。
「ここは女たちの部屋だから、ここの番兵以外は来るところではないぞ」
「あんたはその番兵の一人ですかい」
「そうだ。とっとと立ち去れ。二度と来るなよ」
「女の番をするなんて、重要な役目でしょうねえ」
番兵には、得意さが隠しきれなかった。
「その通りだ。よほど信用のある者でないと、任命されない」
「女たちは、みんな美人ですかい」
「大変な美人ぞろいだ」
「うらやましいなあ。おれもここの番兵になりたいよ。そうすれば、美人たちの顔が拝めるものなあ」
「ちょっとばかりなら見せてやる。お前は利口そうな奴だな。名はなんという」
「トル・ズル・バールだよ。第三王の衛兵隊にいる」
「すると、モルバス一の力持ちというのは、お前か」
「そうだ。おれだ」
「あんたのことは聞いていたよ。大変な評判だものな。あんたは会議の大広間でホルマッドを一人、天井に叩きつけて殺してしまったそうじゃないか。あんたのような人に、女たちを見せるなんて光栄だよ。だけど誰にも言うなよ」
「大丈夫だ」と、ぼくは保証した。
彼は廊下の突き当たりのドアを開け放った。そこは大きな部屋で、数名の女たちと、その召使いと思われる中性のホルマッドたちが数人いた。
「入ってもいいよ」と番兵が言った。「別の番兵が来たと思うだろうから」
ぼくは室内に入ると、素早くあたりを見回した。とたんに心臓が口から飛び出しそうになった。部屋の一番奥にジャナイがいたではないか。ぼくは何もかも忘れて、ジャナイのほうに突っ走った。ぼくの心にはジャナイのことしかなくなった。
番兵がぼくに追いついて、肩を押さえた。
「こらっ、どこへ行く」
それで私は、我に返った。
「おれは近くに寄って、拝もうと思ったものでね。王たちは、女のどこが良くて、女を好いているのか知りたいと思ったんだよ」
「だが、もうそれだけ見りゃたくさんだろう。さあさあ、もう外へ出ろ」
その時、ぼくの入ったドアがまた開いて、第三王が入ってきた。番兵は、恐れに縮み上がった。
「早く」と、彼はあえいだ。「召使いたちの中に混じれ。気がつかれないかもしれない」
ぼくは、急いでジャナイのほうに駆け寄り、その前にひざまずいた。「なんだというの」とジャナイは眉《まゆ》をひそめた。
「何をしてるの、ホルマッド。お前はここの召使いじゃないじゃないの」
「あなたに伝言があります」と、ぼくはささやいた。ぼくは手でそうっとジャナイに触れた。仕方がなかったのだ。ジャナイを腕の中に、強く抱きしめてやりたい衝動《しょうどう》を抑えるのに、精一杯だったのだ。ジャナイは縮みあがってぼくから離れた。ジャナイの表情は嫌悪《けんお》で一杯だった。
「私にさわらないで、ホルマッド。でないと、番兵を呼ぶわよ」
その時、ぼくは自分がものすごい怪物の姿であったことを思い出したのだ。
「伝言をお伝えしないうちは、呼ばないでください」
「そんな伝言をもらうような人は、ここにはいません」
「ボル・ダジの伝言です。お忘れですか」ぼくは、ジャナイの反応を息をはずませて待った。
「ボル・ダジですって。あの方が私に伝言を?」
「そうです。彼が私にあなたを捜してくれと頼んだのです。彼は、あなたの消息がまるきりわからなかったのです。もし私があなたを見つけたら、彼が夜も昼も、あなたをモルバスから救出するための方法を考えているということを、あなたに伝えるよう、頼まれたのです」
「望みは、とてもありませんわ。でも、あの人に言ってください。私は、あの方を決して忘れていませんし、これからも決して忘れないということを。私のことを心配していただいて、どんなに私がうれしく思っているかわからないということを」
ぼくは、ボル・ダジがあなたを愛していると伝えて、ジャナイの反応を見てやろうかと思った。ところがその時、大きな声が聞こえた。
「おい、そこで何してるんだ」
振り返ると、第一王が入ってきて、第三王に、文句をつけているところだった。
「余は、女奴隷を調べに来たのだ。何か文句があるのか」
「この女たちは、まだ七王会議で分配が決まってないんだぞ。貴様には、まだ手出しをする権利はない。奴隷が欲しかったら、ホルマッドの中から取れ。さあ、ここから出ろ」
返事をする代わりに、第三王はジャナイに近寄って、その手を取った。
「おい、女。余と一緒に来い」彼はジャナイを引きずっていこうとした。すると第一王が剣を抜いて、第三王の行く手に立ちふさがった。第三王も剣を抜いた。斬り合いが始まったので、第三王も、ジャナイの手を離さないわけにはいかなかった。
この二人の剣は、まれに見るほどのまずいものだったが、二人がものすごい勢いで、部屋中を駆けめぐって剣を振り回すので、室内の者はあぶながって、右へ左へと逃げ回った。
ぼくはジャナイをかばうようにして逃げ回っているうちに、一緒に戸口の近くにきていることに気づいた。誰もが王の喧嘩に気を取られている。これ以上のチャンスは二度と来ないかもしれない。ぼくはジャナイを連れてどこに行ってよいかわからなかったが、一か八か、やってみることにした。うまく実験所へジャナイを連れ込んだら、ラス・サバスが適当な場所にかくまってくれるだろう。ぼくはジャナイにささやいた。
「どうか私と一緒に来てください。そんなに私を怖がらないで。私は、ボル・ダジのために、そうするのです。彼の友人だから、あなたを助けたいのです」
「わかりました」ジャナイはもう、ためらわなかった。
誰も我々に注意をしていなかった。それほど王の喧嘩が、すさまじかったのだ。ぼくはジャナイの手を取ると、戸口から廊下へと走り出した。
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十一 七王の争い
ジャナイを救い出したものの、どこに連れていってよいやら、全然見当がつかなかった。誰かに見つかったら、たちまち疑われる。ぼくはジャナイを連れて、廊下を急ぎ足で歩いた。しかし傾斜した廊下の上まで来た時、二人の士官がこちらに上がってくるのが見えた。左側に戸口があったので、ぼくたちは慌てて、そこから中に入った。その部屋は幸運にも空室だった。明らかに貯蔵室で、壁のまわりに袋や箱などが積み上げられていた。奥には窓が一つあり、横手の壁には、もう一つ戸口がついていた。
ぼくは士官の足音が通り過ぎるのを待ってから、その横手のドアを開けてみた。そこは、片側に絹布と毛皮のベッドが置いてある小室で、ひどくほこりが積もっているところを見ると、もう長いこと、人が入ったことがないらしい。カーテンのかかった壁の入《い》り込みは浴室になっており、壁には、軍人の礼服がかけられ、剣まで吊られてあった。ぼくの想像では、この部屋の前の主《ぬし》は、身分の高い一士官であり、探検に出かけたまま、戦死したのではないかということだった。
「あなたが身を隠すには、もってこいの場所が見つかりましたね。部屋のドアは内側から、差し錠《じょう》でしっかり閉めておいてください。私が食物を運んできてあげます。そしてできるだけ早く、もっと安全な場所に移してあげます」
「ボル・ダジが会いに来てくださるかしら。あの方に私の居場所を教えてくださいね」
「彼は来られれば来ますが、実験所の外へは出られないのです。そんなに会いたいですか」
私は、そうきかずにはいられなかった。
「とっても」と、ジャナイは言った。
「それを聞けば、彼は喜びますよ。彼が来られない間、私がお尽くしします」
「どうしてそんなに親切なの。あなたは、他のホルマッドとはずいぶん違うようね」
「私はボル・ダジの友人なんです。もう私が怖くないですか」
「ええ、最初は、嫌だったけど、今はそれほどでもないわ」
「怖がることは全然ないのです。私はあなたのためなら、命だって投げ出しますよ」
「お礼を言うわ。わけがわからないけれど」
「そのうちにわかります。さあ、もう行かねばならない。勇気を出して、希望を捨てては駄目ですよ」
「さよなら――。ああ、まだ、お名前をうかがってなかったわ」
「私は、トル・ズル・バールと呼ばれています」
「ああ、思い出したわ。あなたはボル・ダジ様から首をお斬《き》られになったのね。その時あなたは、ボル・ダジと友人になるって約束していたわね。それでは、あなたは新しい体をお生《は》やしになったのね」
「ついでに、新しい顔も生やしたかったところです」
ぼくは、ものすごい顔に、どうにか笑顔らしいものをこしらえて言った。
「あなたは、気立てがいいだけでいいのよ」
「あなたにそう言ってもらうだけで、私はいいです、ジャナイ。それではさよなら」
ぼくは外側の部屋を通る時、そこに積み上げられた袋や箱を調べてみた。それには食糧が入っていたので、ぼくは喜んだ。すぐに、ジャナイにそれを知らせると、ジャナイをそこに残して、衛兵詰め所に帰った。
帰るとまもなく、一人の士官が詰め所に入ってきて、すぐに武装してついて来いと我々に命じた。彼に導かれて、第三王の居室の近くの大きな広間に入ってみると、第三王おかかえの家臣たちが、ことごとく武装して集まっていた。ただならぬ雰囲気であり、士官たちはみな深刻な顔をしていた。
まもなく第三王が、彼に直属する四人の隊長を引き連れて入ってきた。彼は数か所に包帯をしており、まだ血をしたたらせていた。ぼくには、彼がどこでその傷を負ったのかわかった。第三王は王座に上がるとしゃべり始めた。
「お前らは、余の供《とも》をして、七王会議に来い。余が危害を加えられることのないように、警備をおこたるな。手柄を立てた者には、食糧の増配と、数々の特権を与えてやる」
我々は会議室へと行進した。そこは七王のボディーガードの武装したホルマッドたちでごった返していた。雰囲気は異様に緊迫していた。六人の王が王座に座っていた。第一王は包帯に包まれ、血まみれの姿だった。第三王の椅子は空席だった。我々は第三王を取りまいて他のホルマッドたちを押しのけながら、王座の下まで進んだ。だが、第三王は王座には上がらなかった。彼は六人の王に向かって床の上に立ち、荒々しい声と身振りで、語りかけ始めた。
「貴様らは余を逮捕させるべく、兵を差し向けた。彼らは殺された。このモルバスに余を逮捕する権限のある者はおらぬ。貴様らの中には、皇帝になって全島を統治したがっている者がおるな。その張本人は第一王だ。我々のうち誰が皇帝になるべきか、決める時が来た。七人の王がいては、統治がうまくゆかぬからだ」
「貴様を逮捕する」と、第一王が叫んだ。
第三王がせせら笑った。「できるなら逮捕してみろ」
第一王は自分の部下たちを振り返り、大隊長に命じた。「奴を捕まえろ。殺してでも、反逆人を捕らえるのだ」
第一王の戦士たちが、我々に襲いかかってきた。ぼくはその時、最前列に立っていた。図体《ずうたい》の大きなホルマッドが、ぼくに斬ってかかるのをかわすと、そいつを捕まえて空中高く投げ上げた。彼は十五メートルほどもすっ飛んで、自分の味方の密集した真っただ中に落ち、大勢を床に叩き倒した。
「でかした。トル・ズル・バール」と、第三王が叫んだ。「お前はこれから、肉を食いたいだけ食ってよいぞ」
二人目をさらに大広間の端にまで投げ飛ばした時には、自分の腕力のありがたみをつくづくと感じた。それでしばらくは静かになったので、第三王は再びしゃべり始めることができた。
「第三王である余は、今よりモルバスの皇帝になったことを宣言する。余に従うことを欲する王は起立せよ」
雷《かみなり》のような宣言にもかかわらず、誰も立たなかった。第三王の形勢は不利なようだった。大広間は他の王の戦士たちで一杯だったからだ。むろん我々にとっても危機だし、第三王の生命は風前の灯《ともしび》だった。彼の命令一下、我々は総退却を開始した。たちまち戦闘が起こった。他王の戦士が我々の逃げるのを食い止めようとしたからだ。
「戸口への道を開け、トル・ズル・バール」と、第三王が叫んだ。
どうも彼は、ぼくの腕力にばかり頼りすぎているようだった。しかし私も自分の腕だめしをするのが面白かった。この時、ぼくの奇形が役に立つことに気がついた。ぼくの途方もなく長い右腕で、長剣を超人的な腕力で振り回したので、敵はちりぢりに逃げ散って、脱出口が切り開かれたのだ。
至るところに、切断された手足や首が散乱して、あたりはまさに地獄そのものだった。ホルマッドは、一般に知能が低いから恐怖心が鈍《にぶ》かったが、それでも自分たちの士官が逃げ出すと、うろたえだして退却し、我々のほうは、ほとんど死傷者も出さずに戸口に出られた。
そこから、味方の士官は我々を宮殿の外へ、市内へ、さらに長い大通りを通って、市の門へと導いた。門の衛兵たちは宮殿での騒ぎを知らないので、第三王の命令に、ただちに門を開いた。
モルバスの町の外へ出た我々は、城壁の外の村に着いた。第三王は村民に降伏を命じ、自分がモルバスの皇帝になったことを宣言した。
村のどこに行っても、この新皇帝は抵抗にあわなかった。そして三日後には、彼は市内を除くモルバス全島を征服してしまった。この三日間には、モルバスの市内からの攻撃は全くなかった。
五日目には、我々は島の端の、町の接近した大きな村に引き返し、新皇帝アイマッドは、そこを新しい首都とした。アイマッドという名前は、彼が自分でつけたもので、地球語に訳すと、ワンマンとか、第一番の男とかいう意味である。とにかく彼は我々の首領であり、ぼくの考えでは、七王の中では、一番皇帝たるにふさわしい人物だった。彼は、ぼくの知っているホルマッドの中では、最も優秀な頭脳を持っている者の一人だった。
むろん、ことのなりゆきは、ぼくを全く絶望的な状態に陥《おとしい》れた。町に残って、私がジャナイを援助することは全く不可能だったし、大将軍やラス・サバスからも、孤立してしまったのだ。ぼくは地位も権力もない一ホルマッドに過ぎず、また、すっかり有名になってしまったので、こっそりと町に入ることは不可能になってしまった。
この新しい首都にキャンプが張られると、ぼくは仲間のホルマッドたちと地面に横になって、征服の報酬であるぬらぬらした動物組織が給与されるのを待っていた。ホルマッドの大部分は低脳ばかりだから、この食物で満足したのだが、ぼくにはとてもやりきれたものではなかった。そんなこんなで、すっかり気が沈んでいた時、一人の士官がぼくを呼びに来た。
「私と一緒に来い」と、彼は言った。「皇帝が、お前を連れて来いと言われたのだ」
ぼくは彼に連れられて、皇帝と、主《おも》だった士官たちの集まっている場所へと行った。ぼくの超腕力は、今度はどんな用事に使われるのだろう。それ以外のことは考えようがなかった。ぼくは、すっかりホルマッド特有の劣等感が身についてしまっていたのだ。
すでに王座のようなものが出来上がっていて、士官たちに取り囲まれたアイマッド皇帝は、ものものしく座っていた。
「トル・ズル・バール、近う寄れ」
彼は命じた。ぼくが彼の前にひざまずくと、
「我々がモルバス市の会議室で勝利を収めたのは、ひとえにお前の働きであった。お前は力持ちであるだけでなく、高い知能を持っている。これをめでて、お前に隊長の位を与える。我々が勝利を収めて、市内に侵入できた時には、余はラス・サバスに、お前の望みどおりの赤色人の体に、お前の脳髄を移植できるよう命じてやる」
そういうわけで、ぼくは隊長になった。ぼくはアイマッドにお礼を言うと、彼の周囲に集まっている隊長たちの仲間に加わった。彼らはすべて赤色人の体をしていたが、その中の誰だれの脳髄がホルマッドのものか、ぼくにはわからなかった。ぼくは、ホルマッドの体を持った、たった一人の隊長だった。ぼくの知る限りでは、ぼくは人間の脳髄を持ったただ一人のホルマッドであるのかもしれなかったのだ。
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十二 戦士の報酬
モルバスは城壁に囲まれた町だった。剣だけが唯一の武器である軍勢にとっては、まったくの難攻不落の町だった。七日間にわたって、アイマッドは町の占領を試みた。しかし戦士にできることは、巨大な木造の城門をいたずらに叩くだけのことで、その間に防御《ぼうぎょ》の軍勢は、大石を彼らの頭上に投げつけるのだった。夜になると我々は引き下がり、市内の兵士は多分、枕を高くして眠ったことだろう。
八日目になると、アイマッドは隊長たちを集めて会議を開いた。
「攻撃は一向に効き目がない」
「千年かかって、あの門を叩いたところで、せいぜい、くぼみを作るぐらいが関の山だ。どうしたらモルバスを占領できるだろう。世界を征服するためには、あの町と、ラス・サバスとを獲得しなければならんのだ」
「世界征服はできません」と、ぼくは言った。「しかし、町を占領することならできます」
「世界征服ができないことが、どうしてお前にわかる。それはともかく、町はどうやって占領するのだ」
ぼくは彼に、もしぼくが指揮権を持ったなら、こうするつもりだということをわかりやすく話した。彼は長いことぼくを見|据《す》えたまま、その計画を調べていたが、やがて、「実に簡単だ」と言った。それから他の隊長のほうに向いた。
「どうしてお前らは、このことを先に思いつかなかったのだ。お前らの中で、脳味噌のある奴は、トル・ズル・バール一人だけだ」
その夜、さらにその翌日、千人ほどのホルマッドたちが、はしご作りに携《たずさ》わった。我々は一千個ほどのはしごが用意できた。
そしてその次の夜、二つの月が地平線下に消えた時、十万人ほどのホルマッドたちが長いはしごを持って城壁に忍び寄り、町の周囲の一千か所にはしごを立てかけて、号令一下、はしごごとに百人の戦士が城壁の内部へと、躍《おど》り込んだのだ。
あとは簡単だった。我々は数名の戦士を失っただけで、この眠りこけていた町を占領してしまった。アイマッドは隊長たちを引き連れて、会議室に入った。彼が最初にしたことは、王座から椅子をただ一つ残して、あとは取り去り、残された一個に腰を下ろすことだった。彼は六人の王を、自分の前に引き据えさせた。彼らは、もはや、おどおどと恐怖におののく一群に過ぎなかった。
「どういう死に方が、お気に召すかな」と、彼はたずねた。「それとも、お前たちの脳を元の体に戻そうか」
「そんなことはできるものか。もしできたとしても、おれは培養桶行きのほうを望む」と、第四王が言った。
「できないことがあるか。ラス・サバスがやってくれる」
「ラス・サバスはもういない」と、第四王が言った。「彼はいなくなったのだ」
この言葉がどれほどぼくにショックだったか、ご想像願いたい。もしそれが本当だったら、ぼくは生涯、ホルマッドのままでいなければならないのだ。
ジャナイはどうなるのだ。ぼくはジャナイから嫌われるし、真実を打ち明けることなぞとてもできない。ぼくはぽかんとしたまま、第四王の言う言葉を聞いていた。
「ラス・サバスがどうなったのか誰もわからない。ただ消え去ったのだ。町から気づかれずに抜け出すことはできないはずだから、ホルマッドの誰かが、復讐のために、彼を刻んで培養桶の中に浸《つ》けたのではないだろうか」
アイマッドは烈火のごとく怒った。ラス・サバスがいなければ、彼の世界征服の野望は、打ち砕かれてしまうからだ。
「これは、余の敵のしわざだ。お前たち六人の王の誰かが、この悪だくみに手を貸したに違いない。お前たちがラス・サバスを殺したか、どこかにかくまったに違いない。奴らを連れて行け、一人ずつ別々の土牢に押し込めろ。最初に白状した者には、自由を与えてやる。残りは全部殺す。一時間だけ待ってやる」
六人の王が引き立てられていくと、アイマッドは、彼に忠誠を誓う士官には大赦《たいしゃ》を与えてやると言った。この皇帝の申し出を断った者は誰もいなかった。断れば殺されるとあれば、当然だった。こういった形式上のことが数時間ほど続いてから、アイマッドはぼくを公に表彰して、ぼくの功績を褒めたたえ、隊長の位の他に、地球でいったら大将に相当する階級を与えてくれた。
「なおそのほかに、願い事があれば叶えてやる。なんなりと言うがよい」
「それは個人的に申したいと存じます」と、私は答えた。「公開の席で言うにも及ばぬと存じます」
「もっともだ。この会議が終わり次第、私室で話し合うとしよう」
ぼくは、この会議の終わるのが待ち遠しかった。やがて会議が終わって、アイマッドが立ち上がり、ぼくについてくるようにと合図をした時には、ぼくはまったくほっとしたのだった。彼はぼくを、王座のすぐ後ろの小さな部屋に連れていって、大きな机の前に座った。
「さあ、どういう願い事があるのだ」
「二つあります。まず、実験所の建物の全支配権を得たいと思います」
「それには、異議がないが、しかし、おかしな願いだな」
「そこには、ある赤色人の体が保存されておりまして、ラス・サバスが見つかった時には、その体に、私の脳を移植してもらいたいからであります。もし、私が実験所の支配権を持てば、ラス・サバスが確実に手術が行なわれるように、その体を保護することができます」
「よろしい。その願いは、聞き入れよう。もう一つの願いは何だ」
「ジャナイという女が欲しいのです」
皇帝の顔は、不機嫌になった。
「女をどうしようというのだ。お前はホルマッドではないか」
「そのうちに赤色人になります」
「だが、どうして特にジャナイが所望なのだ。余は、お前がジャナイを知っているとは思わなかった」
「私はあの女を捕えた隊に所属していたのです。私が見た女の中で欲しいと思ったのは、あの女だけです」
「だが、残念ながら、あれはもういないのだよ。余が第一王と決闘しておった時、あの女も消え去ってしまった。それっきり行方知れずなのだ」
「見つかったら、くださいますか」
「余も、あれが欲しいのだ」
「でも、あなたは他の女たちを、よりどりみどりではありませんか。あの女のことは、ぜひよろしくお願いいたします」
「あの女は、お前のような怪物の女房になるくらいなら、死んだほうがましだと言うだろうな」と、彼は言った。
「それではこういうことにしてください。あの女が見つかったならば、選択権は向こうのほうにある、ということに」
皇帝は笑った。「それには異議はない。お前はまさか、あの女が、皇帝よりも怪物を好むと思っているのではなかろうな」
「でも、女の気持ちはわからないものだといいますよ。私は万一に賭けるのです」
「よかろう」と皇帝は行った。彼はひどく上機嫌だった。彼にとっては、結果が目に見えていたからだ。「だが、お前は、手柄の報酬として、あまり多くを望まないな。少なくとも、お前のための宮殿と、大勢の召使いを所望するだろうと思っていたのに」
「私は、いま言った二つのことが最大の望みなのです」
「よろしい。そのうちには、お前に宮殿と、召使いをくれてやる。あの女はとても望み薄だからな」
皇帝との話し合いが終わるやいなや、ぼくは、ジャナイをかくまっていた部屋へと急いだ。ことによると、そこにはもういないのではないだろうか、そんなおそれにぼくの心臓は高鳴った。僕は誰にも見つからないように用心して、戸口にたどり着き、貯蔵室を通過して、ジャナイの部屋のドアを叩いた。
「ジャナイ、私です。トル・ズル・バールです。いますか」
差し錠が抜かれる音が聞こえ、ドアがさっと開いた。そこにジャナイは立っていた。ぼくはほっとした。
「帰ってきたのね。ああ、よかった。ボル・ダジからことづてを持ってきた?」
ああ、ボル・ダジのことを考えていてくれる。ぼくは部屋に入って、ドアを閉めた。
「ボル・ダジがよろしくと言ってました。彼は、あなた以外のことは何も考えられないそうです」
「でも、ここに来られないの?」
「ええ、なにしろ実験所に囚われの身ですから。その代わり、私がお世話します。モルバスでは事態がすっかり変わりまして、今は私が隊長です。新皇帝の、私に対する信頼は大変なものです。だから、お世話が前より楽になりました」
「戦闘の音が聞こえましたわ。何が起こったのか話して」
ぼくは手短かに話し、第三王が今は皇帝となった、と言った。
「ああ、では、私はもう駄目だわ」
「いえ、むしろ救いでしょう。私の手柄によって、新皇帝は、私の欲しいものは何でもくれると言ったのです」
「で、何をお望みなさったの」
「あなたです」
ジャナイがぼくのものすごい顔を、改めて見た時の身震いはひどいものだった。
「よして、お願い。あなたは、私の友人なのでしょう。ボル・ダジの友人なのでしょう。そんなことをしてはいけないわ」
「私はボル・ダジとあなたを保護するために、皇帝に、そう言っただけのことです」と、ぼくは言いわけした。
「あなたが私を欲しいと言った時、皇帝は、何と言いました」と、ジャナイがたずねた。
「あなたが私の言うことを聞かないだろうと、言いました。だから、あなたに選択権を与えるということで話し合いがついたのです。だから、あなたに決定権があるのです。あなたは、アイマッドかボル・ダジかを決めなければなりません。しかし、ボル・ダジのことはアイマッドは知りません。だから、表面上では、あなたは、アイマッドか私かを決定することになります。あなたが私を選ぶと言えば、それは事実上は、ボル・ダジを選んだことになります。アイマッドは怒るかもしれませんが、約束は守るでしょう。そうしたら、私は、あなたを、ボル・ダジのところに連れていってあげます」
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十三 ジョン・カーターの失跡
ぼくはジャナイと別れると、すぐにジョン・カーターを見つけてラス・サバス行方不明のいきさつを聞くために、実験所の建物へ行った。そこへ入って最初に出会った人物は、ツン・ガンだった。彼は、ぼくを見るなり、かっと怒り出した。
「おれの前に姿を見せるなと言ったろう。焼却炉に入れられてえのか」
私は士官の徽章をさした。「皇帝直属の隊長の一人を、焼却炉に入れるつもりかい」
彼は、びっくりした様子だった。
「隊長だって」
「そうさ」
「だって、お前はホルマッドじゃないか」
「多分な。しかし隊長でもあるのだ。だから、お前を焼却炉にでも培養桶にでも入れることができる。だが、よすよ。おれはお前の体をもらってるのだから、おれとお前は友人だ。どうだい」
「よかろう。だが、信じられねえ。お前のようなつらと体で……」
「おい、この顔と体は、元はお前のものだったことを忘れるなよ。それに問題は脳味噌だ。顔だけの問題じゃない」
「それにしても信じられねえ。おれのようないい男がいるのに、それをさしおいて、お前が隊長に……」
「まあ、やっかむな。そんなことを話し合いに来たんじゃない。おれは実験所の支配権をまかされたんだ。で、ジョン・カーターと話しに来た。奴はどこにいる」
「知らない。誰だって知りやしない。ラス・サバスと一緒にいなくなったんだ」
これはまた、新たなショックだった。だが考えてみると、これはかえって希望の持てることなのかもしれない。二人が同時にいなくなり、誰もその行方がわからないということは、二人がうまく逃げおおせたということだ。それに、ジョン・カーターは、ぼくを置き去りにするような男ではない。必ずぼくを救出に、戻って来てくれるだろう。
「お前は、奴《やつ》がどうなったと思う?」
「多分、刻まれて、培養桶にでも浸けられたんだろう。古手のホルマッドには、気の荒くなった奴がいるからな」
「ラス・サバスの書斎に行ってみよう。一緒に来い」
書斎は、以前見た通りきちんとしていて、格闘の跡などは見られない。謎を解く鍵は、どこにもないのだ。ぼくには全くわからなかった。
「最後に二人を見たのは、三日ほど前だ。ホルマッドの一人が、奴らが地階から上がってきたのを見たそうだ。なぜ穴倉なんかに行ったか、わからねえ。そこはもう使われてなかったんだ」
「穴倉を探したか」
「ああ、しかし、何も見つからなかった」
「ちょっと、ここで待ってろ」と、ぼくは言った。
ぼくは小さな実験室に入って、ぼくの体をちょっと見ておきたかった。それが安全に保存されてあることを確かめたかったのだが、ツン・ガンがそれを見るのはまずい。彼はそれほど頭の冴えた男ではないが、それでも、ぼくの体を見れば、その脳髄がどうなったかを怪しむぐらいの頭は、あるに違いない。
ぼくは、ラス・サバスに教わった鍵の隠し場所から鍵を取ると、錠を開け、中に入った。
またもやぼくは、ショックを受けた――。ぼくの体がなくなっているのだ。
ぼくは、膝の力が抜けて、ベンチの上に崩れおれてしまった。そこでぼくは、頭を抱えたまま、しばらくは座ったきりだった。ぼくの体がなくなった――同時に、ジャナイを得るという私の最後の希望も消し飛んだ。
ややあって、ぼくは勇気を奮い起こして、ぼくの体が、置かれてあるのを最後に見た手術テーブルの上を見た。全ては整然としていたが、ぼくの血液を保存してある容器がなくなっていた。ラス・サバスが、ぼくの体に誰かの脳を移植したのだろうか。いや、ジョン・カーターが、そんなことをさせないだろう。もし、させたとしたら、それには立派な理由がなければならないはずだ。
たとえば、こうだ。あの二人が逃亡のチャンスをつかんだとする。その場合、ぼくの体をそこに残しておくことは、破壊される恐れがあって危険だから、持っていかねばならない。その体を運ぶのは大変だから、誰かの脳を入れて、歩かせるようにする。むろん後になってからぼくを救出に来る……だが、こんな勝手な理屈を一人で考えてみたところで仕方がない。要するに、ことの理由は私にはわからないのだ。
ぼくは、ぼくの体が横たわっていたのを最後に見たテーブルの下に、ラス・サバスの記録帳のあるのを思い出し、それを見れば何かわかるだろうと思った。だが、その記録帳もなくなっていた。ただその場所に一枚の紙片が置いてあって、それに、3―17と書かれてあった。何のことか、ぼくには意味がわからなかった。
ぼくは書斎に戻ると、ツン・ガンに、実験所の検分をするから、一緒について来いと命じた。
「ラス・サバスがいなくなってから、実験所内は、うまくいっていたか」と、ぼくはツン・ガンにたずねた。
「あまりうまくもいってない。むしろ、彼がいなくなってから、どうも良くないようだ」
第一培養室に来てみて、ぼくはツン・ガンの表現がお話にならないほど控えめであることがわかった。事態は、途方もなく悪化していたのだ。士官たちによって叩きつぶされた、使い道のない怪物たちの腕や足や首が、床一面に散らばっていて、それが生きていて、盛んにのたうち回っているのだ。ぼくは係の士官を呼び寄せて言った。
「おい、これはどうしたことだ。この肉片を何とかしたらどうだ」
「何を、このホルマッド野郎」
ぼくは、自分の地位を示す徽章を見せた。とたんに彼の態度ががらりと変わった。
「ラス・サバス以外に、肉片を刻んで培養桶に突っ込む方法を知らないのであります。それに、どの桶に浸けてよいかもわからないのであります」
「それではこの肉片を集めて焼却炉で処理しろ。ラス・サバスが戻ってくるまでは、使い道のないものは皆、焼いてしまえ」
「第四培養室の様子が、どうもおかしいのであります。ちょっと来て、ご覧になってください」
第四培養室でぼくの目を射た光景ほど、ものすごいものをまだ見たことがなかった。培養液に、何か間違いが起こったらしく、個々のホルマッドが生まれる代わりに、一個の巨大な動物組織の塊が大きく成長して、桶の上からはみ出し、床へ崩れおれていた。その巨大な肉の塊の至るところに、ところ構わず、人間の内臓やら手足などが不規則にくっついており、ところどころから生えている首は、ぎょろりと目をむいて、悲鳴を上げたり、しかめっ面をしたりして、不気味さをさらに完全なものにしていた。
「我々は、これをなんとかしようと思ったのでありますが、叩きつぶそうとすると、生えている手が我々につかみかかり、首が噛みついたりしますので、どうにもならぬのであります。ホルマッドたちですら、怖がって近寄れないのですから、我々人間は言わずもがなであります」
ぼくはまったく、この士官の言葉に同感だった。正直、ぼく自身どうしたものやらわからないのだ。桶の栓《せん》を抜いて、培養液を流してしまいたくても、そこまで近づくことは、とても不可能だった。
「ドアや窓を閉めろ」と、ぼくは命じた。放っておけば、自然に窒息死するか餓死するだろう」
だが、ぼくがその部屋を出る時に、首の一つが周りの肉をがぶりと噛み取って、むしゃむしゃやってるのが見えた。少なくとも、そいつは餓死しそうになかった。
数日間を、ぼくはこの実験所内の整理に費やした。この整理がうまくいったのは単に、誰も培養液の補充法を知らないので、自然になくなっていったからに過ぎなかった。怪物たちの産出量はみるみる減少した。ぼくはまったくありがたかった。たとえ、私の体を元に戻せるのはラス・サバスだけにせよ、彼がまた戻ってきて、この嫌な作業を復活させることのないように、祈りたい気持ちにすらなった。
ぼくはジャナイを訪問しなかった。それが見つかって、アイマッドに疑心を起こさせることを恐れたからだ。その代わりにぼくは、アイマッドのところに行って、まだジャナイが見つかっていないが、部下に命じて宮殿内を徹底的に捜索するつもりだと言った。
「お前がその女を見つけたとしても、それは死体だろうよ」と、彼は言った。
「どうして、死んだとお思いですか」
「食物も水もなくて生きられるか。余は、お前にせよ、誰にせよ、あの女のところに食物を運んでいきそうな奴には、監視をつけておいたのだ。余の知ってる限りでは、あの女のところには食物は運ばれなかった。それでは捜索を始めろ、トル・ズル・バール。お前の報酬は、もしあったとしても、女の死体だ」
そう言った時のアイマッドの表情には、ぼくをためらわせる何物かがあった。彼のずるそうな薄笑いは、何を意味するのだろうか。ことによると、ジャナイを見つけて、殺してしまったのではないだろうか。とたんにぼくは心配になった。ぼくはことの真相が知りたくて、ジャナイの隠れ家《が》にすぐにでも飛んで行きたくなったが、やっとのことで、ぼくの理性がその衝動を押しとどめた。
ぼくは、ただちに捜索隊を組織し、信頼できる士官たちに指揮を命じて、それぞれ受け持ち区域を決め、捜索を始めさせた。その隊の一つに、ぼくも加わった。この隊は、ぼくが信用しているサイトールによって指揮され、チェイタン・オブも、その隊員だった。この隊の受け持ち区域は、ジャナイの隠れ家も含まれていたのだ。
ぼくは、わざと、その部屋の捜索を命じなかった。彼らが自然と、そこに足を向かせるのにまかせたのだ。とうとう彼らは貯蔵室の前まで来た。ぼくはサイトールの後について、中に入った。
「ここには、いないようだな」と、ぼくは言った。
「だが、この奥に、もう一つ部屋がある」
ぼくは無関心を装っていたが、その実、心臓が破裂しそうだった。
「錠がかかっている。しかも内側からだ。これは怪しい」
ぼくは彼の横まで来ると、「ジャナイ」と呼んだ。返事がなかった。「ジャナイ、ジャナイ」と、ぼくは夢中で叫んだ。
「いないらしい」と、サイトールが言った。「しかし念のために、ドアを打ち壊してみよう」
羽目板がバリバリと割られ始めると、中から、ジャナイの声が聞こえた。「ドアを開けるわ」差し錠が抜かれる音がし、ドアがぱっと開いた。ジャナイが無事でいるのを見て、私はほっとした。
「何の用なの」
「あなたを皇帝アイマッドのところにお連れします」
「わかりました」
ジャナイはぼくのほうを見もしなかった。皇妃になるのも悪くはないと考えるようになったのだろうか。女というものは、何よりも身の安全ということを考えるものだから。ぼくは、アイマッドの私室へと行くジャナイとサイトールの後ろから、とぼとぼとついて行った。
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十四 怪物の出現
恋をする者には気苦労が絶えないものだ。先のことをやたらに気にやむ。また、その心配が事実、的中《てきちゅう》することもある。そのようなわけで、ジャナイとぼくがアイマッドの前に出た時には、ぼくの心は恐れで一杯だった。何よりも、私の醜い顔と体に、ひどい引け目を感じた。
アイマッドの目は、ジャナイをむさぼるように見つめていた。ぼくの心は怯《ひる》みがちだった。しかし、もしジャナイがぼくのほうを選び、しかもアイマッドが約束を守ろうとしなかったら、ぼくは彼を殺す決心をしていた。
アイマッドはジャナイに言った。
「このホルマッドは、私に尽した。彼の労をねぎらうため、私は彼に願い事をかなえてやると言ってやった。彼は、お前を所望した。それでお前の意志を尊重することに決めたのだ。もし、ラス・サバスが見つかれば、このホルマッドは新しい体を持つことになっている。見つからなければ、生涯、あの姿のままだ。もしお前が余を選べば、お前はモルバスの皇妃となる。さあ、お前はどちらを選ぶか」
ジャナイがなかなか返事をしないので、アイマッドは苛《いら》だち始めた。
「どうした。返事をせぬか」
「私は、トル・ズル・バールと一緒にいきます」と、ジャナイは言った。
アイマッドは唇を噛んだ。しかし、彼の態度は立派だった。
「よろしい。しかし、お前は誤っていると思う。もし気が変わったら、知らせてくれ」
実験所の建物への帰り道、ぼくは宙を歩いているような気分だった。ジャナイは私を選んだのだ。いまやぼくはジャナイをそばに置き、保護してやれるのだ。ジャナイも幸福そうに見えた。
「すぐ、ボル・ダジに会えるかしら」
「残念ながら会えません」
「なぜ」ジャナイは急に気落ちしたように見えた。
「ちょっと時間がかかるのです。その間、私と一緒にいてください。絶対に安全です」
「でも私は、これからボル・ダジと会えると思っていたのよ。あなたはまさか、私をだましたのじゃないでしょうね、ホルマッド」
「そうお思いでしたら、アイマッドのところに帰りなさい」
ぼくは思わず、邪険な口調で言い放った。ぼくは自分自身にやきもちをやいていたのだ。
ジャナイは、すまないと思った様子だった。
「すみません。でも、私、とてもがっかりしたものですから。許してね。あまり苦労が重なったものだから」
ぼくは、前もって実験所内にジャナイのための部屋を用意しておいた。ぼくの隣りの部屋であり、恐ろしい培養室からは、ちょっと距離があった。それから、知能の高いホルマッドたちを選《え》り抜いて、ジャナイの召使いや衛兵にした。ジャナイはこの処置にかなり満足した様子だった。
ぼくはジャナイに、もし用事ができたら、すぐ迎えを寄越すように、ぼくはすぐ来るからと言い置いて、ラス・サバスの書斎へと行ってみた。ぼくはなんとか、元の自分の体に戻りたいと思った。それができないうちは、ジャナイを連れて、モルバスから逃げ出すこともできない。
ぼくは、ラス・サバスの書類や書きつけに目を通してみた。そのほとんどが、ぼくには意味のないものばかりだった。やがて、ぼくは建物の設計図らしいものを見つけた。何気なく見ていると、それはこの実験所の建物の設計図であることがわかった。
一番下積みの図は、この建物の地階の設計図だった。その間取りは、小室と廊下からなっていて、地階全体を三筋の長廊下が縦に走っており、それに横に走る五筋の廊下が交差していた。これらの廊下には一号から八号まで、番号がついていた。それらの廊下に沿った小室にも番号が付けられており、廊下の片側は偶数番号、反対側は奇数番号になっていた。
ちょうどその時、外側の部屋からツン・ガンが入ってきた。彼はひどく興奮していた。
「どうした」と、ぼくはたずねた。
「まあ、来てみてくれ」と、彼は言った。
彼の案内で、大きな中庭に面する部屋に入った。その部屋と中庭ごしに向き合う部屋が、第四培養室だった。ぼくが窓から中庭を眺めた時に、目に映った光景は、ぞっとするものだった。
例の肉塊が、ラス・サバスの促成培養液の中で急速に成長しており、部屋一杯になって、周囲に強い圧力を及ぼした結果、ついに窓の一つが壊れて、恐ろしい塊が中庭へと流出しているのだった。
「あれだ」と、ツン・ガンが言った。「どうするつもりだ」
「どうしようもない。ラス・サバスにだって処置できるかどうかわからない。彼は、自分でも始末のつけられない、とてつもないものを創造してしまったのだ」
「どうなるだろう」
「もし、あれが成長をやめない限り、ほかのあらゆる生物が、モルバスから押しのけられてしまうだろう。あれは自分自身を食べながら成長していくんだ。ことによると、全世界を包み込んでしまうかもしれない。何かいい方法はないか」
ツン・ガンは首を振った。
「アイマッドなら、何とかできるかもしれない。奴は皇帝だから」
アイマッドに迎えを出して呼んでこさせたが、むろん彼にもどうしようもなかった。彼は責任をぼくに押しつけると、さっさと宮殿に帰ってしまった。その頃には、中庭は、うごめき、奇声を発する不気味な肉塊に覆われてしまい、壊れた窓からは、なおもにょにょろと続いて、はみ出してくるのだった。
ぼくは、なぜか、さっきの設計図のことが忘れられなかった。それと、あの紙片に書かれた謎めいた数字3―17のこと。3―17、いったいどういう意味なのだ。
とたんにぼくの頭脳は、電気にかけられたように活動を始めた。この数字には意味があるのだ。ぼくは、ラス・サバスの小さな書斎へと駆け込むと、設計図を取り出し、もう一度注意深く調べた。
地階設計図の十七号室の片隅のところに、小さな丸印が付けられていた。他の小室のところには、こんな印はない。これは何だ。何か意味があるのか。ぼくの体が横たえられてあったテーブルの下の紙片に記されてある3―17の数字は、廊下と小室の番号と、何か関係があるのか。この疑問を解く方法はただ一つしかありはしない。ぼくはホルマッドや士官たちの行き交う廊下を地階へと急いだ。
廊下も小室も、はっきりと番号札が付けられているので、ぼくはわけなく三号廊下の十七号の小室を見つけることができた。ドアを開けようとしたら、錠がかかっていた。なんとぼくは迂闊《うかつ》だったのだ。ぼくは、鍵を取りに戻らなければならなかった。ぼくは、ラス・サバスが鍵をしまっておいた場所へと、引き返した。この時は、士官の何人かがぼくを不審そうに、むしろ疑わしそうに見つめていた。スパイかもしれない。用心しなければ。
それでぼくは、培養室を見回るふりをしながら、ぶらぶらと歩かなければならなかった。
やっと鍵を手にすると、また、のんきな散歩といった足取りで、歩いて地階への傾斜廊下のところまで行き、そこから気づかれないように、地階へと下りた。やっとの思いで再び3―17の戸口の前に立つと、誰にも見られていないことを確かめてから、ドアを開けた。地階は、ラジウムの永久燈で照らされている。
ドアを開けると、すぐ前のテーブルに、ぼくの体が横たわっていた。ぼくは小室に入り、ドアを閉めた。そうだ。私の体がそこにあったのだ。ぼくの血液が保存してある容器もあった。体、血液、そして脳髄、この三者が、いまや揃ったのだ。
しかし、駄目だ。ラス・サバスがいないのだから。
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十五 カーター発見
ぼくは長い間、自分の体を見つめたまま立っていた。ぼくは決してうぬぼれ屋ではないが、ぼくの脳が動かしているこの恐ろしい代物と比べると、ぼくの体がこのうえもなく美しいものに見えた。ぼくは、ジャナイのことを思った。すると、このような美しい体を捨てて、こんな醜い体の中に入ったぼくが、このうえもなく愚かしく思われた。
しかし悔やんだところで仕方がない。ぼくは設計図の十七号室のところに丸印がついていたことを思い出した。ぼくはその印に対応する箇所へ行って、何かないかと調べてみた。確かに何かがあった。ほとんど見えないが、〇・六メートルほどの直径の円の線があった。ぼくは四つんばいになって探ってみた。その端には小さなくぼみがあった。ぼくはそのくぼみに短剣の先を引っかけて、こじ開けてみた。
それは、跳ね上げ戸だった。ぼくは、蓋《ふた》を取りはずし、その下の暗い穴の中に身を潜《もぐ》り込ませた。ぶら下がると、足がやっと下の固い床に届いたので、ぼくは手を離した。頭上の穴からの乏しい光で、ぼくは長い廊下が暗闇の中に続いているのを認めた。
ここまで来てしまったからには、探検するより仕方がない。ぼくは穴の蓋を内側から閉ざすと、真っ暗な廊下を手探りで前進した。迷わずに、また元の入り口のところまで戻れるかどうか自信がなかった。ぼくは、ためらった。もしぼくが戻れなかったら、ジャナイはどうなるのだ。しかし結局、これも、ジャナイのためなのだ。ことによると、自由への道が見つかるかもしれないのだ。
ぼくは前進を続けた。廊下は水平に続いており、横道や交差はなく一本道だった。二か所ほど、ちょっと曲がっているところがあっただけだった。次第に湿気が強くなり、泥のにおいが鼻をつき始めた。そして下り勾配にさしかかった。道は十五度ほども下に傾いていた。
再び水平な廊下にさしかかった時には、最初の時より、九メートルから十二メートルは下にさがったように思えた。壁も天井も、湿気のため水滴をしたたらせていた。
やがて道は、今度は上り傾斜に入った。元の高さに戻ったろうと思われるまで上り坂は続いた。と、その時、ぼくは前方に光りを見た。光りと言うより、暗さが減ったといったほうがよいかもしれない。
それから間もなく、ぼくは野外へと歩み出ることができた。外は夜だった。月は両方とも出ていなかった。ここはどこなのだ。ぼくは数キロもあの廊下を歩き続けてきたのだ。だから、モルバスの城壁の外側であるのに違いない。だが、どこなのだ。
突然、ぼくの前に人影が現われた。わずかな光にすかしてみると、そいつはホルマッドだった。
「お前は誰だ。何をしてるんだ」
ぼくの返事も待たずに、そいつは長剣をふりかざして、襲いかかってきた。ぼくは剣を抜いて、立ち向かった。そいつは、ぼくが今までに剣を合わした相手の中では、最も優れた使い手だった。それにそいつは、ジョン・カーターの弟子ででもなければ知っているはずのない手を使ってくるのだった。だがぼくがそれらの手に対して、すべて返し技《わざ》で反撃したので、そいつは悲鳴を上げた。すると、いくらも間を置かずに、闇の中から三人の人影が襲ってきた。その指揮者はホルマッドではなく、長身の赤色人だった。ぼくはすぐに相手が誰であるかがわかった。
「ジョン・カーター!」と、ぼくは叫んだ。「私です。ボル・ダジです」
彼はさっと身を引いた。
「ボル・ダジか。一体どうやってここへ来たのだ」
ラス・サバスと、もう一人のホルマッドもやって来た。そこでぼくは、十七号室と地下の廊下への入り口を発見したいきさつを彼らに語った。
「さあ、今度はあなたがたが、私にわけを話してくれる番です」
「ラス・サバスに話してもらおう」と、大将軍が言った。
偉大な外科医は語り始めた。
「モルバスは、古い都市なのだ。それは前歴史時代に、今は絶滅してしまっている人種によって建設されたのだ。わしはその廃墟を、ツーノルから追われて逃走中に見つけた。わしはその都市を再建しようとした。しかも、元の都市の土台の上に建設したのだ。だから地階は旧都市のものなのだ。地階がどうなっているのか私はほとんど知らなかった。その設計図も見つけた。そして、君と同じように、わしは十七号室のところに丸印が付けられているのに気がついた。この印に、何か意味があるのだろうとは思ったが、それを調べてみるひまもなく、興味もなかった。
我々が、君の体を安全な場所に隠すことに意見がまとまった時、その十七号室がよいだろうとわしは考えた。その時わしは、モルバスからまるまる、約四キロ離れているこの島への地下道を発見したのだ。
ツル・ダンとイル・ズル・エンは、わしの部下の中では、最も知能高く忠実なホルマッドで、この二人に君の体を十七号室に運ばせてから、地下道を逃げ出した。モルバスから脱出した後、ツーノル大湿地帯の西の端まで進んで、ジョン・カーターの飛行艇に乗り、ヘリウムに飛んで、デジャー・ソリスを死から救おうという計画でな。
我々は沼地を進む長途《ちょうと》の旅行のため、ボートの建造に取りかかった。そしてそれはもうほとんど完成というところまできた。我々は君をどうしたらよいかということで、とても悩んだ。君を置き去りにするには忍びなかったが、我々の飛行艇には二人しか乗れない。結局、君は残らねばならないが、ファンダルの先の丘にいるよりは、モルバスにいるほうが安全だろうということになったのだ」
「私のことは二の次でよいです。目的はただ一つ、あなたを見つけて、ヘリウムに連れ帰ることなのです。ヘリウムの王女を助けるためには、私は苦労をいといません。大将軍が、後から、私に迎えを寄越してくれるでしょう」
ジョン・カーターはうなずいた。
「もちろんさ。君には、すべてを説明した手紙を、イル・ズル・エンに町まで持たせてやるつもりだった。ツル・ダンは、我々と一緒に出かける予定だ。我々が沼地を脱出できて、飛行艇にたどり着いたら、ツル・ダンはそこからモルバスに引き返す」
「出発は、いつの予定ですか」
「ボートは明日、完成する。暗くなり次第、すぐ出発する。日中は進めないのだ。沼地のあちらこちらの島には、野蛮な原住民や、もっと手に負えない盗賊が住んでいるからな」
「私に、何かお役に立つことができますか」
「ない。君にはもう十分に苦労をかけてしまった」
「それでは、怪しまれないうちに、私は市に帰りましょう。私にも重大な責任があるのです」
「なんだね」
「ジャナイです」
「見つかったのか。それはよかった」
それからぼくは、この二人の知らない、ことのなりゆきを詳細に物語った。
「それでは君は、実験所の建物の支配権を握ったんだね。わしのいない間に、どうなってる」
ラス・サバスがたずねた。
「それが大変なんです」
ぼくは、第四培養室の怪物のことを語った。
彼は、ひどく心配そうな顔をした。
「困ったことだ。私は、そういうことの起こらないように、いつも絶えず注意を払っていたのだが。それが食い止められないようだったら、君はモルバスから逃げ出すより仕方がない。そいつは島全体を食いつぶしてしまうだろうからね。いや、火星全体を覆ってしまう可能性だってある」
「しかし、食い止める手段はないのですか」
「一つしかない。それは火だ。だがそれにはもう遅すぎるかもしれない。君にできることは、ジャナイと君自身をそいつから守りながら、我々の帰るのを待つことだけだろう」
「私は必ず、モルバスを征服して君を救出できるだけの軍隊を引き連れて、戻ってくるよ」ジョン・カーターが言った。
「感謝します。それでは、ヘリウムの王女様のご健康が回復しますように」
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十六 皇帝の命令
ぼくは地下道を引き返しながら、ひどく気分が沈んでくるのをどうしようもなかった。ジョン・カーターとラス・サバスが、生きて沼地の東端にたどり着く見込みはきわめて薄かったからだ。そうなると、デジャー・ソリスも当然死ぬよりない。ぼくがこのなりをしている限り、ジャナイのことも絶望的だ。
ぼくはやっと、また十七号の小室にたどり着いた。ぼくはまたも未練がましく、自分の哀れな死体を長い間見つめてから、重い足取りで地階を出、書斎に近づいたとき、ツン・ガンと行き逢った。
「あんたが帰ってきて嬉しいよ」と彼は明らかに、ほっとした様子で言った。
「なぜ? 何かあったのか」
「あんたがどこで何をしてきたのかは知らないが、尾行されたり、誰かに見られたりはしなかったかね」
「誰にも見られなかったようだ。しかし見たからって、どうということもない。おれは地階を調べてただけだからね。なんでそんなことをきくんだ」
「アイマッドのスパイが活躍し出したんだ。特にあんたを監視させるためのスパイを数名、ここに寄越したらしい。なんでも、アイマッドは、あんたに女を横取りされてかんかんに怒っているという話だよ」
「みんな、おれを捜していたというのか」
「そうだ、そこらじゅうをね。女の部屋も調べたよ」
「あの女は大丈夫か。ジャナイを連れて行きはしなかったか」
「連れて行かなかったと思う」
「はっきりとは知らないんだね」
「そうだ」
重い心を抱いて、ぼくはジャナイの部屋に急いだ。ツン・ガンもついて来た。彼も心配そうな顔をしていた。ぼくは、彼は信用できそうだと思った。こういう事態になっては、一人でも信用のできる人間がほしいのだ。
ジャナイは部屋の窓から外を見ていた。ぼくが名を呼ぶと振り返った。ぼくを見て嬉しそうだったが、ツン・ガンを見ると、恐怖に目を見開き、後ずさりした。
「あの人は、何の用なのです」
「これは私の士官の一人です。どうしたのです。こいつが、私のいない間にあなたに何か悪いことでもしたというのですか」
「これは、ガンツン・グールといって、アモールの殺し屋なのよ。私の父を殺したのは、こいつよ」
ぼくは、すぐにジャナイの間違いに気がついた。
「これは、体だけガンツン・グールなのですよ。ガンツンの脳は焼かれてしまいました。この体の中の脳は、私の友人ツン・ガンのものです」
ジャナイは、ほっとしていた。
「ああ、ラス・サバスがしたことなのね。ごめんなさい、ツン・ガン。知らなかったの」
「そのガンツン・グールという男の話をしてくれませんか」と、ツン・ガンが言った。
ジャナイの話によると、アモールの王子のジャル・ハドが、ジャナイをほしがった。しかし、ジャナイの父は、ジャナイが王子を嫌っていることを知っていたので断った。ジャル・ハドはガンツン・グールを雇って、ジャナイの父を殺害し、ジャナイを誘拐した。ジャナイはお供の者とうまく逃れて、プタルス王国へ亡命しようとしたが、途中、ガンツン・グールに襲われてちりぢりばらばらになり、ただ一人になったところを、今度はホルマッドの一隊に捕らえられてしまった。その後、ガンツン・グールも、別なホルマッドの隊に捕らえられたのだろうということだった。
「もう、ツン・ガンを怖がることはありませんよ」
「でも、変な気持ちねえ」
「モルバスには、不思議なことがたくさんあるんです。誰でもが、自分の脳を自分の体の中に持っているとは限らないんです」
ぼく自身も、実はトル・ズル・バールの体に、ボル・ダジの脳が入っているのだと、本当のことを打ち明けたら、ジャナイの反応はどうだろうと思った。あるいは、そう打ち明けたほうがよいのかもしれないとも思った。だが、そんなことをすると、ジャナイのショックが大きくて、かりにぼくが元の体に戻れたとしても、もう愛してはくれなくなりはしないか、それが心配だったので、黙っていることにした。
ぼくはジャナイに、スパイの話をし、誰と話す時でも、言葉に注意するようにと言い聞かせた。
ジャナイは、少しの間、問うような眼差《まなざ》しでぼくを見つめてから、「あなたは私にとても親切にしてくれますわ。もっと度々私に会いに来てください。会いに来るのに、いろいろ理由や弁解を言う必要はありません。ところで、ボル・ダジからのことづてはあるのですか」
最初はうきうきしかけていたぼくの心も、この最後の言葉でがっくりきた。自分でも理解できない妬《ねた》みを覚えたのだ。ことによるとぼくは、ホルマッドとしての自分のままで、ジャナイを愛し始めているのかもしれなかった。
「ボル・ダジの伝言はありません。ドタール・ソヤットとラス・サバス同様、行方不明なのです」
「居場所がわからないのね? トル・ズル・バール、どうも私にはわからないことがあるの。あなたを信用したいと思うのだけど、あなたは、ボル・ダジのこととなると、いつも曖昧《あいまい》なのね。あなたは、私がボル・ダジに会えないように仕向けているみたい。なぜなの」
「そんなことはありません。私はできるなら、あなたと、ボル・ダジを会わせようとしているのです」
ジャナイと話し合っている時、ぼくはホルマッドの召使いが二人、我々を熱心に見守っていることに気がついた。しかもだんだん近づいてきて、会話を立ち聞きしようとしている様子なのだ。ぼくはすぐに、こいつらはアイマッドのスパイだなと感じた。もっとも、その態度があまりにも不器用であけすけなので、スパイとしてはまるで役に立ってはいなかった。ぼくは、そのことを小声でジャナイに耳打ちすると、彼らが聞こえるところまで近づいてきた時、ジャナイにこう言った。
「駄目だよ。お前がこの部屋から出ることは許さないよ。いくら頼んでも無駄だよ。お前にはここが一番安全なんだ。お前はおれのものだ」
むろんこれは、スパイに聞かせるためだ。
ぼくは、ツン・ガンを連れてジャナイの部屋から去ると、再び書斎へ入った。ぼくは、ジャナイとぼく自身の周囲を信用できる忠実な部下で固める決心をしたのだ。しかし、それには多少の冒険も、おかさなければならなかった。
まず手はじめに、ツン・ガンに、いろいろ聞いてみて、その気持ちを確かめ、これなら大丈夫だと思った。彼はボル・ダジとラス・サバスには恩をこうむっており、その友人であるぼくにも、できるだけ忠勤を励む心構えだった。それに、彼は初めから、王たちが嫌いだったのだ。
その後の二日間、ぼくは、サイトール、バンダール、ガン・ハド、それにチェイタン・オブらとも話し合い、これらの人物はみな信用できることを確信した。ぼくは、チェイタン・オブをぼくのスパイとして宮殿に入らせることにした。サイトールに対しては、ぼくは個人的な好意を感じていた。話し合った結果、彼が、自分の脳髄を自分で所有している、当たり前の赤色人であることを確認したのだ。ホルマッドならば知るはずのない外界のことについて、よく知っていたからである。彼はジュオール王国の出身で、モルバスから脱出し、自分の国に帰ることを強く望んでいた。
バンダールはファンダルの出身、ガン・ハドはツーノルの出身で、ともに私と捕虜収容所で一緒だったので、だいたい知っていた。二人は、ボル・ダジとドタール・ソヤットのために尽すというなら協力すると言った
これらの人物はみな、ぼくをホルマッドだと思い込んでいたが、ぼくの地位が高いので、敬意を表わしてくれていた。
第四培養室の例の肉塊は、いよいよ広い中庭を完全に満たしてしまった。ぼくは、中庭に面した窓という窓と、ドアというドアに、しっかりとバリケードを築かせ、肉塊が建物の中に侵入できないようにした。だがそれも、そう長いあいだは役に立ちそうもなかった。
新しいホルマッドの生産はストップし、すべてのタンクからは培養液を流し捨て、もうこんな肉塊が、他からも発生することのないようにした。そしてぼくは絶えず培養タンクのある建物の見回りを怠らなかった。
ある日、その見回りから帰ってきた時、アイマッドからの使者が来て、すぐに皇帝のところに来るようにと告げた。宮殿に入ると、チェイタン・オブがぼくのところにやって来て、そっとささやいた。
「用心しなさい。どうも何かがあるらしい。私にはよくわからないが、アイマッドの召使いの言によると、皇帝はあの女にまだ未練があるらしく、そのことばかり口走っているそうです。いざこざが避けたかったら、あの女を皇帝に返したほうがいいですよ」
ぼくは彼に礼を言い、アイマッドの主だった士官の集まっている玉座の前に出た。皇帝は苦《にが》りきった顔でぼくを向えた。
「余はお前に、実験所の支配権を与えた。ところがどうだ。ホルマッド兵士の生産がストップしたではないか」
「しかし、私はラス・サバスではありません」
「そのうえ、第四培養室から、厄介な代物を生み出させた」
「私は、ラス・サバスでなく、私には不可抗力だったのです」
ぼくの言葉を全く無視して、彼は続けた。
「そんなこんなで、余の世界征服の野望の実現はきわめて難しくなってしまった。それで余は、兵力の不足にもめげず、これから直ちに戦闘態勢に入ることにしたのだ。お前は、実験所の勤務に失敗したので、そこでの義務からお前を解除する。しかし余はお前に名誉回復の機会を与えてやろう。
余の計画は、まずファンダルを征服し、その艦隊を奪ってツーノル征服のための兵員輸送に役立てるのだ。ツーノルを占領すれば、我々はさらに戦艦を獲得し、他の町の攻略がよりたやすくなるというわけだ。余は、お前をファンダル攻略隊の指揮官に任命する。ファンダル市の攻略には、強大な軍隊は必要としない。我々は五百羽のマラゴールを持っている。彼らは一日に二往復できる。ということは、一日に一千名の兵員をファンダル付近の一地点に輸送できるということだ。一羽のマラゴールが二名を運べるならば、二千名だ。まず食糧培養用のタンクの輸送にかかれ。二万の兵員があれば、攻撃が開始できるだろう。その間、余は、日に二千名の兵員の輸送を続けさせてやる。
それでは、お前は実験所内の住居を引き払って、宮殿内に移れ。お前とお前の従者のための部屋は用意しておいてやる」
ぼくには、彼の意図がすぐにわかった。彼はジャナイを宮殿内に移して、ぼくをファンダルとの戦闘に出してしまおうというのだ。
「さあ、ただちに宮殿内に引き移って、兵員の輸送にかかれ。余の命令だ」
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十七 逃亡計画
ぼくは今や、解決法のないと思われる難題に直面してしまっていた。もしぼくが元の体を得ていたなら、ジャナイを連れて地下道を逃げ、そこでジョン・カーターと、ラス・サバスが戻ってくるのを待つこともできただろう。だが今の状態では、体を置きっぱなしに逃げることもできず、ホルマッドの姿で外界に出る気にもなれない。事情を説明するためにジャナイの部屋に行く時のぼくの心は、まさにどん底状態だった。
実験所の廊下を通っている時、ぼくはツン・ガンと出会った。彼はひどくうろたえている様子だった。
「例の肉塊がとうとう屋根を越えて、建物の向こう側にずり落ち、大通りに迫り始めたよ。それに成長の速度が、ぐっと早くなった。何とかしないと、今に町じゅうを巻き込んでしまう」
「それどころか島じゅうをだ。だが、おれにはどうしようもないんだ。アイマッドに実験所勤務を辞めさせられてしまった」
「だが、一体どうしたらいいのだ。我々はみんな食われてしまう。すでに食われた奴が、だいぶいる」
そうだ。実際どうしたらよいというのだ。
はじめ、ぼくはジャナイと自分のことしか考えなかった。だが、すぐに他の者たちのことも考えた。バンダール、ガン・ハド、それにサイトールのことだ。ツン・ガンのことすら考えた。これらの人物は、モルバスでぼくが得た友人たちなのだ。それに哀れなチェイタン・オブもいる。彼もぼくの友人だった。なんとか救わなければならない。
「ツン・ガン、お前は逃げたいのだろう」
「もちろんだ」
「もしぼくが、お前がホルマッドであることを忘れてやって、お前をモルバスから救出してやったら、ぼくに忠誠を尽すことを誓うか」
「おれはもう、ホルマッドではないぞ。赤色人だ。もしあんたがおれをあの化け物から救ってくれるというなら、あんたに忠誠を誓ってもいい」
「よろしい。これからすぐに、バンダールとガン・ハドと、サイトールとチェイタン・オブのところに行って、ジャナイの部屋に来るように伝えてくれ。これは秘密だと言うのだぞ。誰にも聞かれないように注意しろ。さあ、急げ、ツン・ガン」
ぼくはすぐにジャナイのところへ行った。ジャナイは、ぼくの姿を見て喜んだ様子だった。ぼくはジャナイに、我々が宮殿に引き移らなければならないという、アイマッドの命令のことを話した。ぼくがスパイだとにらんでいる二人の召使いは、それを立ち聞きした様子だった。もっとも、それはこちらも承知のうえなのだ。そこでぼくはこの二人に、ジャナイの所持品をまとめて荷造りするように命令した。これで私はジャナイと、こっそり内緒話をするひまができたわけだ。
ぼくはジャナイに、アイマッドの命令の本当に意図するところはどこにあるのかを話してやり、望み薄ではあるが、逃亡計画のあることを話してやった。
「あなたがいなくなった後で、私一人宮殿に残るくらいなら、どんな危ない橋でも渡ります。あなたは、このモルバスで私が信用できるたった一人の友人ですもの。もっとも、どうしてあなたが、私にこんなに親切なのか、それはわかりませんが」
「ボル・ダジは私の友人ですし、彼はあなたを愛しているからです」
ジャナイはしばらく黙っていた。が、それからたずねた。
「どうしてボル・ダジが私を愛している、と、お思いですか」
「もし愛していなかったら、そんなにあなたのことを心配するはずはないでしょう」
「いいえ、あの人は、危険な立場にある女の人になら、誰にでも同情なさるんです」
ぼくは反論しようとしたが、その時バンダールと、ガン・ハドと、サイトールがやって来たので議論は打ち切りになった。ぼくはこの三人に、ぼくの書斎で待っているように頼んだ。彼らとの話し合いを、アイマッドのスパイに立ち聞きされたくなかったからだ。
しばらくしてツン・ガンは、チェイタン・オブを連れて戻ってきた。これで、ぼくの信頼できる人物の顔ぶれは揃ったわけだ。その間に、召使いたちが、ジャナイの身の回り品をまとめたので、ぼくはそれを宮殿の、我々の新しい部屋に持って行くようにと言いつけて、召使いどもを追い払った。
それからぼくは、ジャナイとツン・ガン、チェイタン・オブを連れて、彼らが待っている書斎へと急いだ。ぼくは、モルバスからの逃亡計画をみんなに話して、ぼくについて来るかどうかを一人一人に聞き質《ただ》した。みんな賛成してくれたが、サイトールが疑わしそうに言った。
「はたして逃げおおせるだろうか。どういう計画なのだ」
ぼくは、モルバスから離れた島へと続いている、地下道のあることを打ち明けた。
「ドタール・ソヤットと、ラス・サバスが消え去ったのは、この地下道からなんだ。二人は今、ヘリウムに向かっている。しかし、必ず強大な艦隊を引き連れて、また戻ってきて、おれを助けてくれることになっている」
チェイタン・オブが疑わしげな顔をした。
「どうして、ホルマッドなんかを助けに来てくれるのかなあ」
「それに」と、サイトールが言った。「しがない放浪の戦士に過ぎないドタール・ソヤットが、ヘリウムの皇帝に艦隊を出動させるよう説《と》きふせられるなんて、考えられない」
「そう考えるのも無理はない。おれはある理由があって、今まで本当のことを打ち明けられなかったからね。だが、一つだけ本当のことを言ってやろう。ドタール・ソヤットというのは仮の名で、本当は火星の大将軍、ジョン・カーターなのさ」
これには一同は唖然《あぜん》とした様子だった。だが、彼がここに来るようになったいきさつを話してやると、やっと信用してくれた。だがチェイタン・オブは、大将軍がホルマッドを救いに来るなどということが、どうにも腑《ふ》に落ちないといった顔つきだった。ぼくは、ちょっと話し方がまずかったと思って、こう言いなおした。
「おれを助けに来ると言ったのは、正しくなかった。ボル・ダジを助けに来るんだ。それで、ついでにおれも助けてもらえるんだ。ボル・ダジも彼も、おれの友人だからね」
「だが、この俺たちも、助けてもらえるのかね」と、バンドールがたずねた。
「おれが頼んで、助けてもらえるようにしてやるよ。ボル・ダジは友人だからな」
「だが、ボル・ダジはいなくなったのだろう」と、ガン・ハドが言った。「死んだという噂だぜ」
それを聞いたとたん、ジャナイはさっと青ざめて、ぼくを睨《にら》んだ。
「あなたはそんなこと、私に言わなかったじゃないの。このホルマッドは、何かわけがあって私をたぶらかそうとしているのだわ」
「でも、ボル・ダジがいなくなったことは話しておきましたよ」ぼくは慌てて言った。
「でも死んだという噂があることなぞ言わなかったわ。私はあんたの言うこと信用できません」
「生きて、ここを逃げたかったら、信用しなければ駄目だ」と、私は強い語調で言った。「すぐにボル・ダジに会えます。そうしたら、おわかりになるでしょう」
私は次第に、苛《いら》だってきた。この切羽《せっぱ》つまった時に、みんなつまらぬ疑いを持ち出したら、行動に移るのが遅くなるばかりだ。
「わけがわからないじゃないの。ボル・ダジの居場所がわからないと言ったかと思うと、もうすぐ会えるだなんて」
「とにかく、すぐに、ボル・ダジがどうなっているかがわかります。さあ、もうこれ以上、時間を無駄にはできない。みんなおれについて来るか来ないか、早く決めてくれ」
「私は行く」とバンダールが言った。「どのみち、現在より悪くなりっこはないんだから」
みんな、ぼくと一緒に行くことに決心した。サイトールも、しぶしぶながら同意した。彼は、ジャナイのそばに寄り添って、何かささやいた。
ぼくは、チェイタン・オブを連れて、小さな実験室に行き、ぼくの脳を元の体に戻すために必要な器具をすべて集めた。そしてそれをチェイタン・オブに持たせ、それだけでかなりの時間がかかったが、やっと出発の準備が整った。
ぼくは、周囲の疑いを引き起こすことは、初めから覚悟のうえだった。ただ追っ手に捕《つか》まらないうちに、3―17号室にたどり着くことだけがただ一つの願いだった。二人のホルマッド、四人の赤色人、ジャナイ、それにチェイタン・オブとぼくがかついでいる大荷物といったこの行列が、人目につかなかったら奇跡みたいなものだ。たちまち新任の実験所長が、ぼくに食い下がってきた。
「何をしている。その荷物をどうする気だ」
「地階の安全な場所に移すのだ。ラス・サバスが帰ってきたら、これがいるんだ」
「余計な世話を焼くな。おれがここの所長だ。元の場所に戻せ」
「ただの所長が将軍に命令するとは何事だ。こらっ、そこをどけ」
ぼくはそう叱りとばして、一行とともに地階に通じる斜道へと急いだ。
「まて! アイマッドの許しも受けずに、そんなところへ行ってはならん。お前は皇帝の命令で、ジャナイと一緒に宮殿に行くはずだろう」
彼は大声を張り上げて兵を呼んだ。早くしないと兵隊に取り巻かれてしまう。ぼくは一行をせき立てて、地階へと急いだ。後ろからは、絶えず兵を呼びながら所長が負い迫ってくる。兵も集まってきたようだ。
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十八 裏切りの島
ぼくの逃亡計画も、どうやら失敗に終わりそうに思えた。仮に3―17号室にたどり着けたにしても、そこへ逃げ込めば、彼らに秘密の地下道を教えてやるようなものだ。我々の取るべき道はただ一つ、目撃者を皆殺しにすることだけだった。
我々は地階の大廊下を走っていた。所長もしつこく追ってきた。戦士たちの叫び声も聞こえてきた。ぼくはツン・ガンを呼び寄せて耳打ちした。彼はうなずいて、チェイタン・オブとバンダールにぼくの指示を伝え、この三人は横手の廊下へ走りこんだ。所長は一瞬ためらったが、彼らを追わなかった。彼はあくまでも、ジャナイとぼくの行く場所を突きとめようとしているのだ。
次の交差路へ来た時、ぼくは残りの一行を右手に導き、そこでとどまって、荷物をおろした。
「ここで奴らをやっつけよう。逃げるためには、追っ手を皆殺しにしなければならんのだ」
サイトールとガン・ハドがぼくの両側に立ち、ジャナイは背後に隠れた。所長は安全な距離をおいて立ち止まり、追っ手の戦士が来るのを待った。
待つ間もなく、追っ手がやって来た。彼らは九人で、全部ホルマッドだった。所長は体こそ赤色人だったが、脳味噌はホルマッドだった。ぼくは、この男を宮殿で見かけて知っていた。悪がしこく残忍な奴だ。だが勇気はない。彼は戦士たちをとどめると、叫んだ。
「降伏したほうが身のためだぞ。十対三で勝ち目があるか。もし、おとなしくついて来るなら、アイマッドに言わないでおいてやる」
むろん、そんな言葉にのせられるぼくではない。彼の申し出を受けようかと考えるふりをしながら、時間を稼いだ。その間に、ツン・ガンとバンダールとチェイタン・オブが所長とその部下とに、背後から迫ったのだ。「それ!」というぼくの合図で、その三人が奇声を発し、十人が振り返るところを、サイトール、ガン・ハド、それにぼくが剣を抜いて、飛びかかった。数のうえでは優勢でも、不意打ちを食らったからたまらない。ぼくの長い腕での剣の攻撃に浮き足だった。しかし敵も、命を狙われていることを悟ると、必死の反撃に移った。
哀れなチェイタン・オブは頭を割られて倒れた。バンダールも、敵を一人やっつけてから負傷を負った。ツン・ガンは二人をやっつけた。サイトールはと見ると、ぼくは驚き、そしてがっかりしたのだが、ずっと後方に退いて、危険から遠ざかっているではないか。
しかし我々は、サイトールなんかの協力なぞ必要としなかった。ぼくの長剣は、片っぱしから敵の頭を叩き割って、残るは、臆病そうに後ろに退いていた所長一人だけになった。かれが悲鳴を上げながら逃げ出そうとするところを、ツン・ガンがやっとばかりに斬りつけ、血のしたたる剣を、倒れた敵の髪の毛で拭《ぬぐ》った。
廊下は、うごめく首なしの体や生首で、地獄のようなありさまだった。しかし、彼らの脳髄をめちゃくちゃに潰《つぶ》してしまわないうちは、我々は安心して逃亡を続けるわけにはいかなかった。
チェイタン・オブの運んでいた荷物をツン・ガンに持たせると、我々は3―17号室に向かった。サイトールがジャナイに寄り添って歩きながら、何か小声で話していたが、そんなことに気を留めているゆとりは、ぼくにはなかった。今まではどうにかうまくいっていたが、これからどうなるのだ。ジョン・カーターが戻って来なかった場合、我々だけでモルバスから逃れ、このツーノル大湿地帯から脱出できるだろうか。ジョン・カーターが死なずに戻ってきたとしても、ラス・サバスはどうだろうか。そう考えると、ぼくは恐ろしさで胸のつまる思いだった。このままの姿で一生を送り、ジャナイも得られないということになれば、自殺するより仕方がない。
そんなことを考え続けながら、ぼくは3―17号室のドアを開け、一行を中に入れた。
ジャナイは、テーブルの上に横たわっている、ボル・ダジの死体を見つけた時、驚きの叫びを上げ、ぼくを鋭く睨んで言った。
「あなたは嘘つきね。やっぱり初めから、ボル・ダジが死んでいたことを知っていたのではありませんか」
「ボル・ダジは死んではいません。ラス・サバスに、生き返らせてもらう日を待っているのです」
「それでは、どうして、そのことを私に言ってくれなかったのです」
「言わないほうがよいと思ったからです。このことを知っている者が少なければ少ないほど、ボル・ダジの体が安全に保たれるわけでしょう。今、それを明かしたのは、どうにもやむを得なかったのです」
サイトールはテーブルに近づいて、ボル・ダジの体を見つめ、うなずくと、ぼくの顔を素早く見つめて、口許にかすかな微笑を浮かべた。ことによると真相を悟ったのかもしれない。だが、彼が黙っていてくれる限り、問題はなかろう。
ただ、ジャナイにだけは、ボル・ダジの脳髄が、醜いトル・ズル・バールの体の中に収まっていることを知ってはもらいたくなかった。ジャナイのボル・ダジに対する愛情が、いっぺんにさめるとも限らないと、ぼくは恐れたからだ。
ジャナイはしばらく物思いに沈んだ様子だったが、やがてぼくに向き直ると、優しい口調で言った。
「あなたを疑ったりして、ごめんなさいね、トル・ズル・バール。あなたの用心深さは立派です。あなたは忠実な方です」
一行を、モルバスの島から離れた岩の多い島へと、長い地下道を伝って連れてきたときには、ぼくは全くほっとした。むろん、これから先、数多くの困難が横たわっていることは、疑いの余地もないが、先のことは先のことだ。
この島には、鳥や、小動物がたくさんすんでおり、果実のなる木も多く、魚なども獲れるので、食物には事欠かなかった。ぼくはジャナイのために、小屋をつくってやった。気候が温和なので、男たちは外で眠った。
この小島は丘が多いので、我々は露営地をモルバスからは見えないところに設けることができた。それからすぐに、二|艘《そう》のボートの建造にとりかかった。それぞれ、三人の人間と食糧を積み込める大きさで、一艘は、もう一艘のボートより大きめにした。これは、ボル・ダジの体を積み込むためだ。もし、ジョン・カーターがいつまでたっても戻らない場合、我々だけでボートに乗って、危険な沼地を渡らなければならない。その時、ボル・ダジの体も運んでいくことにしたからだ。
ぼくはサイトールが、暇さえあればいつも、ジャナイのそばにいることに気がついた。彼は器量の良い男で、話し上手でもあったので、ジャナイが喜んで彼の話し相手をするのも無理はないことだとは思ったが、正直言って、ぼくはねたましく思った。サイトールはまた、ファンダル人のバンダールとも仲が良かった。
そんなわけで、我々六人は二つのグループに分かれてしまった。一つは、バンダール、サイトール、ジャナイの組。一つは、ガン・ハド、ツン・ガン、私の組だ。こうなるのは自然のなりゆきなのかもしれなかった。ファンダルとツーノルとは仲が悪いから、バンダールと、ガン・ハドの仲が良くないのは仕方がないし、ホルマッドの脳を持つツン・ガンや、根っからのホルマッドだと思われているぼくが、自然と敬遠されるようになることも、仕方がなかったのだ。数週間も続いた苦しい労働で、やっとボートが完成すると、我々の張りつめていた気分がゆるんで、意見の違いが露骨《ろこつ》になってきた。
サイトールはすぐに出発しようと言い出して、ぼくと対立した。バンダールはサイトールの味方になった。ガン・ハドは反対した。ツーノル人である彼は、我々の目的地がファンダルであるから、恐れを感じたのだ。ツン・ガンはぼくに加勢した。さらにぼくを喜ばしたのは、ジャナイも、すぐに出発することには賛成しなかったことだ。
「でも」と、ジャナイはつけ加えて私に言った。「ほかの意見では、あなたはサイトールに従わなければいけないわ。サイトールは純粋の赤色人で、あなたより頭がいいのですから」
サイトールは、ジャナイの言葉を聞くと、素早くぼくの顔を見た。彼は、ボル・ダジの脳髄《のうずい》が、この醜い頭の中に入っていることを見抜いているように、ぼくには思えた。そのことを、彼がジャナイに言わないでくれればよいがとぼくは思った。
「サイトールは赤色人だから頭が良いかもしれないが、自分の利益のことばかり考えているんです。私は頭が悪くても、あなたとボル・ダジのためを思っているのです。ですから、ほかの者たちが、自分だけで出発するというのは、私は無理にとめだてはしませんが、ジャナイ、あなたにだけは決して出発を許しませんよ。そんなことをすれば、あなたを保護してくれというボル・ダジの意思に反することになりますからね。いつまでたってもジョン・カーターが戻ってこない場合は別ですが」
「私の判断は、私がします。ホルマッドから意見される理由はありません」
ジャナイは怒ったように口答えした。サイトールがうなずいて言った。
「ジャナイの言う通りだ。君は余計な世話を焼くな」
「君が何と言おうが、知ったことか。私は力ずくでもジャナイをここに引き止めておくぞ。君たちも知っての通り、腕力なら、私は少しばかり自信があるんだ」
この議論の後での雲行きは、はなはだ面白くなかった。ジャナイとサイトールとバンダールが、以前よりもいっそう頻繁《ひんぱん》に、ひとかたまりになって、小声で何やらひそひそ相談するようになったのだ。それはつまらぬ、ぼくの悪口に過ぎないのかもしれなかったが、それにしても、ジャナイがぼくを敵視するようになったのは、大きな痛手だった。ぼくはすっかり意気消沈してしまった。
サイトールとバンダールは、ガン・ハド、ツン・ガンとぼくの寝場所から、前よりはずっと離れたところで眠るようになった。私のほうでは、この二人が大嫌いになっていたので、それはむしろこちらの望むところだった。
ある夕方、私が魚釣りからそろそろ引き揚げようと思った時、ツン・ガンがわたしのところに走ってきてささやいた。
「今日、ちょっと立ち聞きしたことがある。あなたに話しておいたほうがよいだろう」
ツン・ガンの話はこうだ。彼が草の茂みの中で昼寝をしていた時、サイトールとジャナイがその茂みのそばに来て話し出したので、彼は目を覚ました。二人は明らかに、ぼくのことを話し合っているらしかったので、ツン・ガンは聞き耳を立てた。
ジャナイが言った。
「あの人は確かに、ボル・ダジと私に忠誠を尽そうとしているのですけど、判断力が悪いのです。無理もありません。ホルマッドの不細工な脳味噌に、立派な判断力を期待するほうが無理というものですわ」
「そうではありません」とサイトールが答えた。「あいつの考えていることは、ただ一つ、あなたを自分のものにしようということだけです。今だから言いますが、ボル・ダジは、二度と生き返りません。彼の脳髄は取り出されて焼かれてしまったのです。トル・ズル・バールがその体を大切に保存して守りながら、ラス・サバスの帰りを待っているのは、自分のホルマッド脳を、その体に移植してもらい、心は醜いホルマッドでも、体だけはボル・ダジの美しい姿になって、あなたの愛を勝ち取ろうとしているのです」
「まあ、恐ろしいこと」とジャナイが叫んだ。「そんなこと嘘です。どうしてそんなことがわかるのですか」
「アイマッドから聞いたのです。皇帝は、トル・ズル・バールの手柄の褒美《ほうび》として、彼にボル・ダジの体を与える約束をしたのです。トル・ズル・バールはその約束を確実なものにするために、ボル・ダジの脳を焼かせたのです」
ぼくはこの話を聞いて、ツン・ガンにたずねた。
「それで、ジャナイは何と言ったのだ。彼の話を信用したのか」
「信用した。ジャナイは、それまでわからなかったことが、これでよくわかった。そんなことででもなければ、ホルマッドが赤色人に対して、忠誠を見せかける理由がわからない、と言っていたよ」
ぼくは、深く心を傷つけられた。ジャナイがそんな女ならば、ぼくの愛に価《あたい》しないとも思った。しかしすぐに、ぼくの理性が戻ってきた。これは、サイトールの悪がしこい説明が、うぶな少女をたぶらかしたのだ。ジャナイがそのように考えたとしても、少しも無理のないことなのだ。ぼくはそう思って気を静めようとした。
「あのこすっからいサイトールには、用心したほうがいいよ」と、ツン・ガンが言った。
「よし、おれはジャナイに明日、本当のことを話そう。サイトールはすでに察していることだが、ジャナイは、びっくりするだろうな」
ぼくはその夜、この恐ろしい顔の中には、ボル・ダジの脳髄が隠れているのだということをジャナイに話したら、どんなに驚くだろうということを考えて、なかなか寝られなかった。寝つきが遅かったので、翌朝は遅くまで眠りこけてしまった。ぼくは、ツーノル人のガン・ハドから、手荒く揺り起こされた。彼はひどく興奮している様子だった。
「どうしたんだ、ガン・ハド」
「サイトールが」と、彼は叫んだ。「サイトールがバンダールと一緒に、ジャナイを連れて、ボートで逃げた」
ぼくは跳ね起き、ボートの隠し場所に走った。一艘のボートがなくなっている。だがもっと悪いことには、もう一艘のボートには、底に大きな穴があけられていて、修繕に数日はかかりそうだった。
これがぼくの愛と忠誠と献身の報《むく》いだったとは。ぼくは胸くそが悪くなった。もはやぼくは、ジョン・カーターが戻って来ようが、来なかろうが、どうでもよいような気持ちにすらなった。ぼくは、すさみきった気分で、ボートから顔をそむけた。ガン・ハドがぼくの肩に手を置いた。
「悲しむことはない。あの女が、自分から進んでこんなことをしでかしたのなら、悲しみにも価しないやつだ」
この言葉は、苦悩するぼくの心にいくばくかの救いを与えてくれた。そうだ、ジャナイは自分から進んで逃げたりするはずがない。サイトールがジャナイを無理矢理に連れ去ったのだ。そこに希望があった。ぼくはこの希望にとりすがって死んでも離すまいと決心した。
ぼくはツン・ガンを呼び寄せ、ただちに三人でボートの修繕に取りかかった。我々は気違いのように働いた。それでも、完全に直るまでに三日はかかった。それほど、サイトールの壊し方が、ご念の入ったものだったのだ。
ファンダル人やバンダールが一緒だから、彼らはファンダルに向かったに違いない。そこでぼくは、彼らをファンダルへと追跡することにしたのだ。ぼくは百人力のような力が自分の中にわきあがってくるのを感じた。矢でも鉄砲でも持ってこいといった、むちゃくちゃな蛮勇《ばんゆう》が、ぼくを奮い立たせるのだ。
とうとう出発の準備が整ったが、出発の前に、ぼくは、ボル・ダジの体が横たわっている部屋へと通じる地下道の入り口を、岩や、土くれでふさいで隠すという注意を忘れなかった。
サイトールは大きなほうのボートを選んで行った。それは広々として、乗り心地は良いだろうが、それだけ重く、また漕ぎ手は二人しかいない。
ところが、我々のほうの小さくて軽いボートには、漕ぎ手が三人だ。だから、彼らが三日早く出発したにもせよ、彼らがファンダルに着く前に我々が追いつくことは、十分見込みがあった。
しかし、それも実は希望でしかないのだ。この広大な地域に広がる、入りくんだ水路のただ中で、彼らと我々が同一のコースを辿《たど》るということは、ほんの偶然でしかないからだ。まったく気づかずに、彼らを追い越してしまうことは、大いにあり得るのだ。このツーノルの大湿地帯の地図はできておらず、彼らにとっても、我々にとっても、まったくの迷路であることには変わりはなかった。そのうえ、沼地に生い茂る丈の高い草や、大小の島々が、見通しを阻《はば》んでいるのだ。
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十九 夜の飛行
我々は、モルバスからの捜索隊から逃れるために、暗くなってから出発した。小さくて遠いほうの月、クルーロスだけが空にかかっていたが、その明かりでじゅうぶん水路が見えたし、星の位置で、方角の見当がついた。ぼくの途方もない腕力は、少なくとも、三人分の漕ぎ手の役目を果たした。交替で眠って、夜も昼も前進を続ける決心をした。食糧はたくさん積み込んだし、このボートの速さは、たとえ蛮族に襲われてもふりきれる自信を我々に植えつけた。
最初の日、マラゴールの一群が我々の頭上に飛んできた。我々は狭い水路に覆いかぶさるように茂る草の陰に隠れて、それを見上げた。一羽ごとに一人のホルマッドの兵士を背に乗せていた。
「兵員輸送だな」と、ガン・ハドが言った。
「いや、我々を捜しにきたのかもしれない」と、ぼくが言った。
「そうかもしれない。見つからないように祈ろう。見つかったが最後、培養桶だからな」
二日目、かなり大きな湖に入った時、我々は、その岸辺に住む蛮族たちに見つかってしまった。彼らは数艘の丸木船に乗って、横手から我々に迫ってきた。近づいてきたのを見ると、丸裸だった。
頭髪はぼさぼさに伸ばし放題で、顔や体に絵の具を塗りたくっていて、それでなくても、ものすごい顔を、さらに恐ろしい形相に仕立てていた。彼らの武器は不器用に作られた槍や棍棒《こんぼう》だったが、彼らの丸木船の漕ぎ方は不器用どころではなく、恐ろしいほどの速さで、水面を滑ってきた。
我々を捕らえることが確実とめぼしをつけた彼らは、大喜びで奇声を発し出した。しかし彼らは、奇声を発するだけのエネルギーがあったら、それを丸木船を漕ぐことのほうに、活用すべきだった。というのは、我々はもうちょっとのところで、横手から迫る先頭の丸木船をかわして、彼らをぐんぐんと引き離し出したからである。彼らは激しく怒り狂って、槍や棍棒を我々に向かって投げつけ始めたが、届かなかった。彼らはなおも未練がましく、数分間ほど我々を追い続けたが、絶望と悟ると、我々に悪口の限りを浴びせかけながら、不機嫌に元の岸辺へと戻っていった。
これは、我々にとってはまったく幸運だった。というのは、ガン・ハドも、ツン・ガンも、頑張りのきく、ぎりぎりの限界に達していたので、蛮族たちが追及を諦めるやいなや、二人は完全に参って、ボートの底に引っくり返って目を回してしまったのである。ぼくは全然疲れも感じないで、そのままボートを漕ぎ続け、湖の端に着いた。
そこから我々は、曲がりくねった水路に入り、二時間ほどは、何もおこらずに前進を続けた。太陽が沈みかかった頃、巨大な翼のはばたきが前方から聞こえてきた。
「マラゴールだ」と、ツン・ガンが言った。
「捜索隊が帰ってきたんだ。獲物を見つけたのかな」と、ガン・ハドが言った。
「低空飛行でやって来る」とぼくが言った。「さあ早く岸辺に漕ぎ寄せて、茂みの中に隠れよう。奴らに見つからなかったら、幸運というものだ」
我々が岸辺の草やぶに隠れていると、彼らは頭上を通過し、旋回して、また舞い戻ってきた。
「島に下りるつもりだ」とツン・ガンが言った。「マラゴールは暗くなると、目が見えにくくなるので、夜は飛ばないんだ」
頭上を通過したところをよく見ると、十二羽のうち三羽のマラゴールには、それぞれ二人ずつ乗っている。
「捕虜を連れているぞ」と、ガン・ハドが言った。
「捕虜の一人は女らしい」とツン・ガンが言った。「たぶん、サイトールとバンダールと、ジャナイが捕まったんだ」
「島へ降りていくぞ」とガン・ハドが言った。「暗くなるまで、待っていたら、彼らに見つからずに行けるだろう」
「女の捕虜が、ジャナイかどうか見きわめなければならん」と、ぼくは言った。
「そんなことをして、見つかったら、おれたちは皆殺しにされるぞ」と、ツン・ガンが反対した。
「だが、ぼくは知りたいんだ。私はジャナイかどうかを見きわめに島に行く。暗くなっても戻らなかったら、二人とも先に行くがいい。君たちの幸運を祈ってる」
「で、もしジャナイだということがわかったとして、君はどうするたもりなんだ」と、ガン・ハドがたずねた。
「そうしたら、おれはすぐに君たちのところに戻ってくる。我々はただちにモルバスに引き返すことになる。ジャナイが連れ帰られるならば、おれだって引き返さねばならないからな」
二人は激しく反対した。薄情な女のために命を賭ける理由がないというのだ。だが私は、頑として聞き入れなかった。
「私がモルバスにボートで引き返す時、私についてくるか、この島に残っているか、そのどちらかにしろ」
二人とも、ふくれっつらをして黙り込んでしまった。
ぼくは茂みに身を隠しながら、這《は》うようにして前進した。もはやぼくの頭の中には、ツン・ガンもガン・ハドもなかった。ジャナイのことで一杯だったのだ。
やっとのことで、私は一隊を観察できる地点まで這い進んだ。そこには十二名のホルマッドの兵士と、二名の士官がいた。さらに近くまで這い寄ると、地面に横たわっている者たちの姿が目に映った。その一番近くの者がサイトールであることが、すぐにわかった。彼は手足を縛られて転がっていた。さらによく見ると、もう一人の捕虜は、やっぱりジャナイだった。恋人が縛られて地べたに横たわっているのを見た時のぼくの気持ちは、とても形容などできるものではなかった。ジャナイのすぐそばにまで行ったものの、声をかけるわけにもいかなかった。ぼくはただ、黙ったまま、長い間、ジャナイを見つめているばかりだった。
やがて暗くなると、ぼくはまた這いながら、引き返していった。月は両方とも出ておらず暗かったので、ぼくはすぐに立ち上がると、見つかる心配もなくガン・ハドと、ツン・ガンを残してきた地点に、足早に歩いていった。歩きながら、これからどうしようかと考えた。早くモルバスに戻りたくても、どうしても二日はかかる。それまでにジャナイはどうなるだろうか。そう考えると、ぼくは身震いした。もし、ジャナイを助けることができなかったとしたら、少なくともその仇をとってやる。ぼくはそう決心することによって、わずかに心を慰めた。
ぼくは、ツン・ガンとガン・ハドとを、無理矢理モルバスに連れ帰るのは心苦しかったが、それ以外に方法がなかった。ボートを早く漕いで引き返すためには、どうしても二人の助力が必要なのだ。そんなことを考えながらボートの置いてあるはずのところに戻ってみると、ボートがなくなっているではないか。
ガン・ハドとツン・ガンが私を置き去りにしたのだ。ぼくがモルバスに引き返すための、たった一つの乗り物を奪っていってしまったのだ。ぼくは、自分に襲いかかった、このあまりの不幸に気が遠くなる思いだった。ぼくがジャナイのために、少しでも尽そうとするための足がかりは、これで全くなくなってしまったように思えたからだ。ぼくにとって、ジャナイだけが唯一の生きがいだったのだから。
ぼくは水路の岸辺に腰をおろし、顔を両手にうずめて、ほとんど絶望にあえぎながらも、これからの計画を考え出そうとした。気違いじみた計画をいくつも考え出しては、とうてい実現の見込みのないものとして捨て去った。そしてやっと、一つの、ことによると成功しないとも限らない計画を打ち立てたのだ。それは、彼らの露営地に、のこのこと歩いて行って、自分から彼らに捕まってやることだった。そうすれば、少なくともジャナイのそばに行けることだけは確かだった。そして、ジャナイと一緒にモルバスに連れ戻されたら、ジャナイを救出する機会に恵まれないとも限らないという、雲をつかむように頼りない計画だった。むろん一方では、そんなことの結果は、死以外にないということぐらい、よくわかっていたのだが。
ぼくは立ち上がると、大胆不敵な態度で敵の露営地へと歩いて行った。だが、敵に見つかる前に、別の計画を思いついた。もしぼくが捕虜として、手足を縛られてモルバスに連れ帰られた場合、アイマッドはただちにぼくを殺してしまうに違いない。彼はぼくの腕力を知っていて、恐れをなしているからだ。これでは何にもならない。
だが、ぼくが彼らに気づかれずにモルバスに引き返せた場合、相当な活躍ができるはずだった。さらにぼくが、ジャナイがアイマッドのところに連れ返されるより先に行って待機していたら、その有利さはぐっと増えるに違いない。そう気がついたぼくは、注意深く露営地を回って、マラゴールの集まっている場所へとやって来た。巨大な翼の下に、首を突っ込んで眠っているものもあれば、せわしなく動き回っているのもあった。彼らはつながれてはいなかった。暗くなった後では、マラゴールは、自分から飛び立つことのないことをホルマッドたちは心得ていたからだ。
巨鳥たちは、ぼくが近づいても騒ぎ立てなかった。多分、ぼくがホルマッドの姿をしているからだろう。ぼくは一羽に近づくと、その首をつかんで静かに引き出した。そして、露営地から十分離れて、ここなら安全と思われる場所まで来た時、その背中に飛び乗った。巨鳥の扱い方は、私が最初に捕虜として巨鳥に乗せられて連れてこられる時、チェイタン・オブの操作を注意深く観察していたので知っていた。
最初、巨鳥は飛び立つことを嫌がり、ぼくに歯向かってきた。その騒ぎで、露営地では何事かと怪しんだらしい。
「やいやい、誰だ。そこで何をやってんだ」
という怒鳴り声がした。まもなく月明かりで、三人のホルマッドが近づいてくるのが見えた。
ぼくは慌てて巨鳥の尻を蹴飛ばしたりして、なんとかして飛び立たせようとした。ホルマッドたちは、もう走って近づいてきた。ぼくの蹴飛ばす音や鳥の鳴き声や、ホルマッドの怒鳴り声に気がついて、露営地全体が大騒ぎとなった。
この時、やっと鳥は巨大な翼を広げると、すさまじい勢いで羽ばたきをして、大地を離れ、夜の闇の中へと飛び立ってくれた。
巨鳥は、巨大な月、サリアが天《あま》がけるバルスームの壮麗な夜空を、まっしぐらに飛んだ。帰巣本能で、モルバスに帰ることを知っているのだ。
ボートで行ったなら二昼夜にわたる難行苦行の道のりも、この快速のマラゴールでは、二、三時間のうちに終わってしまった。ぼくは地下道の出口のある、あの隠れ家の島に、巨鳥を舞い降りさせるのに、いささか骨をおった。鳥は習慣通り、モルバスの城門の前に降りようとしたからだ。だがどうにか、ぼくの望みの場所に降り立たせることができ、この気の荒い乗り物の背中から地面に降りた時には、ぼくは全くのところ、ほっとしたのだった。
ぼくは鳥を追い払うと、すぐに例の地下道の入り口に行って、ぼくが這い込めるだけの隙間をつくるために、がらくたを取り除いた。
這い込む前に、ぼくは雑草の茂みをまるごと引き抜いてきて、入った後で、それで穴をふさいだ。こうしておけば、穴を発見される危険がいくらかでも減るだろうと思ったからだ。それからぼくは、長い地下道を3―17号室へと急いだ。
ぼくの体が、納骨所のようなその部屋にまだ安全に保存されてあるのを見て、ぼくはほっと安心のため息をついた。ジャナイを除いては、ぼくにとってこれ以上大切なものはなかった。むろん、その体には多少の欠点だってあるだろうが、ぼくには、このうえもなく美しいものに思われるのだった。だが、ラス・サバスがいない限り、これは、ぼくにとってないも同然なのだ。
それにしても、ラス・サバスやジョン・カーターはどこにいるのだ。殺されてしまったのではないだろうか。もし事が順調に運んだなら、もう戻ってきてもよい時分なのだ。だが、希望を失ってなるものか。
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二十 グーリの酋長
ぼくの計画が成功するかどうかは、運のよしあしに左右されるということを、ぼくは認めないわけにはいかなかった。ぼくの望みは、まずこっそりとアイマッドの宮殿に入って、皇帝の私室に隠れ込み、ジャナイがそこに連れてこられるまで待っている。そこでアイマッドを殺して、ジャナイを連れて逃げ出そうというのだった。
アイマッドを殺すのはわけがないだろうが、その後モルバスから逃げ出すことは相当困難で、失敗は覚悟のうえだった。それでも、ジャナイの最悪の敵であるアイマッドを殺せば本望《ほんもう》ではないか。ホルマッドの中には、アイマッドを嫌うものもかなり多数いるのだから、アイマッドを殺すことによって、ぼくは案外支持者を得られないとも限らない。
これがまあ、ぼくの、いわば虫のいい希望だったのだ。だが、その希望通りにはいかなかった。ぼくは、第四培養室から発生した肉塊のことを考えに入れていなかった。
ぼくが廊下へ通じるドアに近づいた時、厚い羽目板の向こうから、おかしな音が聞こえてきた。それでぼくは非常に用心深く、ゆっくりとドアを開けてみた。すると音は、いよいよはっきりと耳に響いてきた。なんとも形容できない音だ。強いて言えば潮騒のような音で、それに混ざって、わけのわからないことをしゃべりまくる大勢の人間の声が、がやがやと聞こえてくるのだった。
ぼくはそれを見ないうちに、正体を悟った。廊下へと踏み出した時、ぼくの右のほう、ドアからかなり離れたところに、人体組織の泡立つ、粘《ねば》っこい塊が、ゆっくりとぼくのほうに、にじり寄ってくるのを見たのだ。その肉塊のところどころから、不規則に、無秩序に、人間の手だの足だの、肺だの心臓だのが、突き出しているのだ。さらにあちらこちらに、人間のものすごい首が突き出ていて、怒鳴《どな》ったり、しかめっ面《つら》をしているではないか。首は、ぼくに向かってうなり、腕を伸ばして、ぼくにつかみかかろうともがくのだ。だが、ぼくはそいつから、ずっと離れて立っていた。もし、もう少し気づくのが遅く、従って、ドアを開けるのが数秒遅れていたら、この巨大な肉塊の一部分は、たちまち部屋に侵入して、ぼくとボル・ダジの体を食い尽くしてしまうところだったろう。
だがそれにしても、結局はどういうことになるのだろうか。理論的には、こいつは完全に破壊されでもしない限り、育ち続けてやまないのだ。モルバス全市に伸び広がり、ツーノル大湿地帯の全域を侵し、その果てはこの全バルスームを総なめにして、あらゆる生物を食い尽くしてしまうだろう。こいつは、自分自身の肉塊をむさぼり食いながらでも育ち続けるほどの、成長力のすごい奴なのだ。
ぼくは上り廊下を急ぎ足で上がった。実験所の廊下には、夜も遅いので、誰もいないだろうと思った。ぼくが免職になり、ホルマッドが変わって所長になったのだから、衛兵もすっかりたるんでいることだろうと思ったからだ。
ところが驚いたことに、また弱ったことに、上の廊下は、戦士や士官でごった返しているではないか。彼らは、何か得体の知れないものを恐れていた。そのうろたえ方といったら、誰も私に注意を引かれる者はいなかったほどだ。士官は、なんとか秩序らしいものを維持しようと骨をおっていたが、部下たちは激しい恐れのため、とてもそれどころではなかった。
彼らの会話を小耳にはさんで、ぼくが知ったことは、例の肉塊は宮殿にも侵入し、アイマッドは女たちや重臣たちを連れて、城壁の外の島の向こう側へと避難したということだ。それから、肉塊は町の大通りをのさばり動いて、まごまごしていると逃げ場を失ってしまうのではないかということが、ホルマッドの戦士たちの恐怖の的《まと》になっていることだった。
アイマッドは戦士たちに、町に残って肉塊を破壊するよう厳命を下したのだ。士官のある者は、その命令を実行させようと戦士を励ましはするのだが、ほとんどが逃げ出したがっていることは、戦士も士官もさして変わりはなかった。
突然、一人の戦士が、大声を張り上げた。
「アイマッド野郎が、好きな女たちと一緒に逃げたというのに、なんでおれたちが、こんなところにとどまって死ななければならねえんだ。まだ、大通りが一か所だけ開いている。そこから逃げよう。おれについて来い」
それだけで十分だった。恐ろしい形相の怪物たちの群集は、堰《せき》を切ったように流れ出して、とどめようとする士官を蹴《け》倒し、踏み殺して、どっとばかりに、たった一つの逃げ道である大通りへの出口へと殺到したのだった。これに逆らうことなどとてもできない。ぼくもこの狂ったような群集の流れに巻き込まれ、押し流された。しかし、アイマッドが市から逃れたことはよいことだった。ジャナイも市内へ連れ込まれることはないわけだからだ。
大通りに出ると、もみ合いはいくらか静まり、我々は城門を目指して続々と前進した。だが城門を出ても、逃亡はそこで終わったわけではなかった。恐怖に怯《おび》えたホルマッドたちは、町からできるだけ遠く離れようと、島の各所へと散らばっていった。
いつのまにか、ほとんどぼく一人だけが、城門の前のマラゴールの発着場所になっている広場に取り残されていることに気がついた。ジャナイを捕虜にした連中は、ここに着陸するはずだった。だから、ぼくはここでジャナイが連れて来られるのを待ち、何かよいチャンスをつかんで、救い出そうと考えた。
ぼくは、この時ぐらい、夜明けを待ち遠しく思ったことはなかった。ほとんど人影はなくなったが、それでも少数の士官と戦士が城門に残り、ときどき肉塊の状態を報告するために偵察兵が城門内に入っていったりしていた。このどさくさで、誰もぼくのことなどに注意を向ける者はいないと思っていたら、やがて一人の士官が私に近づいてきた。
「お前はここで何をしてるんだ」
「アイマッドに、ここへ遣わされたのです」
「お前の顔には見覚えがあるな。どうもどこかで見たような気がする。お前はどことなく、うさんくさい奴だな」
ぼくは肩をすくめた。
「あなたが、私のことをどう思われようとかまいません。私は、アイマッドの使いで、逃亡者の捜索に向かった隊の指揮者に、命令を伝えるために、ここで待っているのです」
「なるほど、それは本当だろうが、どうもおれは、お前を見かけたような気がする」
「そんなことはないでしょう。私は、桶から生まれて以来、ずっと島の果ての小さな村で暮らしてきたのです」
「そうかね。まあそんなことはどうでもいいや。その捜索隊長あての命令というのは、どういうことだ」
「私は城門の衛兵の隊長にも、命令を持ってきました」
「城門の隊長はおれだ」とその士官が言った。
「よろしい、命令とは、例の女が捕獲されてここに連れて来られた場合、その女を直ちに、マラゴールに乗せて、アイマッドに直送すること。そして城門の隊長、すなわちあなたは、それに責任を持ち、絶対手違いないよう監視するということです。もし手落ちがあった場合、あなたの首はもはや胴についてはおりませんぞ」
「手落ちなどあるはずがない。手落ちの起こる理由がないじゃないか」
「ところがあるのです。あるスパイがアイマッドに密告したことですが、捜索隊長は、ジャナイを自分のものにしたがっているという話です。肉塊事件や何やかやで、どさくさにまぎれて、反乱の起こりかかっている現在、アイマッドは自分の権力のなくなることを恐れています。そして、捜索隊長が、これを良い機会とばかり、女を横取りしてアイマッドに謀反《むほん》を起こす可能性は十分あるのです」
「なるほど。それでは念入りに事にあたろう」
「私が、良い知恵を授《さず》けてあげましょう。あなたはそのことを捜索隊長に言わないほうがいい。私は捜索隊長に見つからないように、城門の内側に隠れています。あなたはジャナイを、こっそりと私のところに連れて来なさい。マラゴールも一羽、連れてくるのですよ。そうしてから、捜索隊長の注意をそらすために、あなたは、せいぜい彼の話し相手になって、世間話でもしていてください。私が女を連れてマラゴールで飛び立ったら、その時にはもう、捜索隊長に本当のことを打ち明けても大丈夫です」
「それは良い考えだ。お前は見かけほど馬鹿でもないんだな」
「その評価が誤りでなかったことが、まもなくわかります」
「そら。捜索隊が戻ってきたぞ」
なるほど、はるか遠方の空高く、小さな点の一群が見え始め、それがぐんぐんと大きくなってきた。まもなく、それは戦士や捕虜たちを乗せた十一羽のマラゴールであることがわかった。
一隊が、いよいよ近づいて着陸態勢に入った時、ぼくは城門の内側に隠れて、隊の誰からも見られないようにした。城門隊長は進み出て、捜索隊長を迎えた。彼らは互いにちょっと話を交わし、ぼくは、ジャナイが門のほうに歩いてくるのを見た。
それに続いて、一人の戦士が一羽の大きなマラゴールを引きながらやって来た。その戦士はぼくの知らない男だったので、彼もこっちを知らないはずだと、ぼくは確信した。それからジャナイが入ってきて、ぼくと顔を見合わせた。
「トル・ズル・バール」とジャナイは叫んだ。
「しっ」と、私はささやいた。「私はあなたを助けてあげようとしているのです。今度こそ、あなたは私を信用してくださいよ」
「私には、誰を信用してよいやらわからなかったのです。でも、あなたを一番信用してきました」
兵士はマラゴールを引いて、城門に入ってきた。ぼくはジャナイをその背中に乗せ、自分も、ジャナイの後ろにまたがった。
巨鳥は飛び立った。ぼくは最初、アイマッドのところに行くように見せかけるために、鳥を島の東端の方角に飛行させた。だが、丘を越えて彼らから見えなくなると、島の南側を回って、ファンダルへと向かった。この鳥は、すでにかなり疲れているらしく、その速度は遅かった。やっと、ジャナイとぼくは話し合う余裕ができた。
ジャナイは、どのようにしてぼくが自分を救ってくれるような巡《めぐ》り合わせになったのかをたずねた。ぼくは一部始終を語った。
「わかりました。あなたは本当に賢くて、勇敢な方ですのね」
「もしあなたが私を信用していてくださっていたら、脱出できていたはずです。私は、サイトールのように、捕まったりするようなへまはしませんからね」
「私は誰よりも、あなたを一番信用しておりました」
「じゃあ、どうしてサイトールなんかと一緒に逃げたりしたのですか」
「私の意志ではなかったのです。サイトールとバンダールが無理に私を説《と》きふせ、それでも承知しなかった私を、力ずくで強引に連れ去ったのです」
ぼくがそれを聞いてどれほど嬉しかったか、皆さんはおわかりのことだろう。ぼくは、ますますジャナイを愛《いと》しく思ったのである。だが、このようなものすごい顔をしていたのでは、いくらジャナイが好きになっても、それは無駄というものだ。
「それで、ボル・ダジはどうなったのです」ややあってジャナイがたずねた。
「ラス・サバスが戻ってくるまでは、あの場所に置いておくより仕方がありません」
「でも、もしラス・サバスが戻ってこなかったら」ジャナイは声を震わせてたずねた。
「そうしたら、ボル・ダジは永久にあのままです」
「まあ、恐ろしいこと。あんなに素晴らしい人だというのに」
正午を過ぎて、いくらもたたないうちに、マラゴールは完全に疲れきってしまったらしい。次第に低空に下がってきて、沼地すれすれを飛ぶようになり、まもなくこのあたりでは一番大きな島に、不時着してしまった。この島は丘やのどかな谷間や、林や、湖に注ぐ曲がりくねった小川など、火星では珍しいほど素晴らしい風景の島だった。
マラゴールは大地に降りたとたん、我々を地面に放り出して、横倒しになった。そしてさも苦しそうにもがきあえぐところを見ると、そのまま死んでしまうのではないかと思われた。
「かわいそうに」と、ジャナイが言った。「この鳥は二人を背負って、もう三日も飛び続けてきたのよ。食物も、ほとんど与えられずに」
「でも、とにかく、我々をモルバスから引き離してくれるには役立った。この鳥が良くなり次第、我々はヘリウムに行きましょう」
「どうして、ヘリウムに行くのですか」と、ジャナイがたずねた。
「そこがあなたにとって安全な避難所だからです」
「どうして」
「あなたはボル・ダジの友人ですし、火星の大将軍ジョン・カーターは、ボル・ダジの友人ならば誰でも歓迎し、親切にもてなしてくれるからです」
「で、あなたは」
私は、この姿でヘリウムに入ることを考えたとたんに身震いしたのを、ジャナイは見逃さなかったらしい。それでジャナイは、すぐに言葉を続けた。
「あなたももちろん、温かい歓迎を受けるに違いありませんわ、私などよりずっと、その資格があるのですもの」それから、ちょっと考え込んだ様子だったが、「ボル・ダジの脳髄がどうなったか、ご存知ですか。サイトールは焼かれたと言っていましたが」
ぼくはよほど、本当のことをしゃべってしまおうかと思ったが、その勇気がなかった。それでただこう言った。
「焼かれてはいません。ラス・サバスがそのありかを知っているのです。だから私は、ラス・サバスを見つけ次第、それをボル・ダジの体に戻してもらおうと思っているのです」
「ラス・サバスが見つかるかどうか、私は、なんだか心配だわ」と、ジャナイは悲しげな口調で言った。
ぼく自身も、その点はまったく自信がなかった。だが、希望だけはなくしてはならないのだ。ジョン・カーターは生きているに違いない。ラス・サバスも生きているに違いない。いつかは二人とも見つけ出されなければならない。
しかし、それはそれとして、モルバスの実験所の地下に横たわっているぼくの体はどうなるのだろう。もしあの肉塊が、3―17号室になだれ込みでもしたら。そう考えただけで、ぼくは失神しそうになった。しかも、それは大いにあり得ることなのだ。あの巨大な肉塊の恐るべき圧力にかかっては、いくら3―17号室のドアが頑丈にできていても、壊れないという保証はできたものではない。
ぼくには、あの不気味な無数の首が、ぼくの体をむさぼり食っている図が目に浮かぶようだった。それに第一、あの肉塊がモルバスの島いっぱいに、いや、大湿地いっぱいに広がってしまったとしたら、仮りに体が無事であったとしても、それをどうやって取りに行ったらよいのだ。考えれば考えるほど、これはあまり愉快な事態ではなかった。
だが、ぼくが意気消沈していた時、ジャナイがとつぜん驚きの声を上げたので、ぼくははっとして物思いから我に返った。
「ご覧なさい」
ぼくはジャナイの指さす方向を眺めた。見ると、おかしな動物たちが、ぴょんぴょんと途方もない跳躍《ちょうやく》を続けながら、我々のほうに近づいてくるではないか。彼らも人類の一変種であることは明らかだったが、その変異ぶりはあまり極端で、火星上のどんな動物ともひどくかけ離れた、風変わりな連中だった。彼らは長く強い足を持ち、その膝の関節は、ジャンプした直後を除いては、いつも折れ曲がっていた。そのうえ、長くて力強い尾を持っていた。それらの点を除けば、彼らは、ごく人間的な形態を備えていた。近づいてきたのを見ると、腰にバンドを巻いて、片側に剣を、反対側に短剣を吊るしているだけの丸裸だった。これらの武器の他に、彼らは右手に槍《やり》を持っていた。たちまち、ぼくたち二人を包囲してしまうと、彼らは平たい足と尾で体を支えるようなしゃがみ方をして、うずくまった。
「お前たちは何者だ? ここで何をしているのだ」と、彼らの一人がたずねた。
こんな連中でも言葉を話すのかと思って、ぼくはびっくりした。
「マラゴールに乗って、この島の上空を飛んでいた時、鳥が疲れてここに不時着したのだ。鳥が回復し次第、ここから立ち去るつもりだ」
そいつは、首を振った。
「お前たちは、グーリから立ち去ることはできない。お前は何だ」
「人間だ」と、ぼくは語気をやや強めて答えた。
「それではあれは何だ」と、今度はジャナイを指した。
「女だ」
彼はまた首を振った。
「半端《はんぱ》な女じゃないか。あれでは子供を養うことができないし、子供を温めておくこともできない。卵からかえった子供は、すぐに死んでしまう」
こんな奴に返事したところで仕方がないので、ぼくは黙っていた。が、本当のところ、ちょっと吹き出したくなった。なにしろジャナイほど美しくて完全な女性は、めったにいないくらいだったからだ。
「我々をどうするつもりなのだ」
「酋長のところに連れて行く。酋長が、どうするかを決める。ことによると、お前を生かしておいて働かせるかもしれない。ことによると、殺すかもしれない。お前は醜いからね。だが、お前は強そうだ。お前はきっと良い働き手に違いない。だけど女は役に立ちそうもないな」
ぼくはどうしてよいものか、途方に暮れた。ぼくたちは、五十人ほどの戦士たちに囲まれてしまっているのだ。ぼくのものすごい腕力をもってしたら、多数を殺すことはできるだろうが、結局は数のうえで圧倒されて、殺されるに決まっている。彼らに案内されて酋長のところに行き、逃亡の機会を待つほうが賢いと、ぼくは悟った。
「よろしい。酋長のところに行こう」
「当たり前だ。それ以外に、お前のできることってあるのか」
「戦うことができる」
「ほっほう。戦いたいのか、お前は。それだったら酋長が、お前の望み通りに取り計らってくれるさ。とにかく一緒に来い」
我々は小川に沿って進み、小高い丘を登った。すると、その先に森林が見え、そのへりに、草葺《くさぶ》き屋根の小屋ばかりの村があった。
「あれが、世界で一番大きな都市である、グーリだ」と指揮官は、その小さなみすぼらしい村をさしながら言った。「そこの最大の宮殿には、グーリとオンプト島の酋長のアナトックが住んでおられる」
我々が村に近づくと、数百人の群集が見物にやって来た。男たちも女たちも子供たちもいた。ぼくが女たちを見た時、やっと指揮官が、ジャナイのことを半端な女だと言った理由がわかった。
このグーリ人たちは有袋類《ゆうたいるい》だったのだ。卵生の有袋類なのだ。女たちは卵を生むと、下腹についている袋に卵を入れておく。腹の熱で卵がかえると、幼児はそのまま袋に入っていて、そこで安全に育つのだ。
ぼくたちのほうを、呆れ顔で目を丸くして見つめている女たちの腹の袋から、小さな顔がのぞいているのは、いささか滑稽《こっけい》だった。今まで、ぼくはバルスームで有袋類の動物は、爬虫類の一種だけだと思い込んでいたので、この明らかに人間の一種だと思われる種族が、腹に子供を入れている図は、まさに見ものだったのだ。
村の見物人たちは実に乱暴な連中で、ぼくたちをもっとよく見ようとして、あちらこちらへ引っ張ったり、押したり、こづきまわしたりした。ぼくの身の丈《たけ》は、彼らに混じると途方もなく大きかったので、彼らはいささか私に恐れをなして、それほどひどく扱われなかったが、ジャナイのことは、ひどく乱暴にいじり回すので、ぼくは腹を立て、何人かを突き飛ばした。彼らはひとたまりもなくけし飛んで、どっとばかりに地面に倒れた。
それを見て、二、三名の者が剣を抜いて、ぼくに向かってきた。だが、私たちを捕虜にした一隊が、今度はボディーガードの役を務めてくれて、ぼくたちを守ってくれた。それからは野次馬たちは遠ざけられ、ぼくたちは村の中へ導かれて、他の小屋よりはかなり大きめの、草葺きの小屋の前に着いた。
これがアナトックの偉大なる大宮殿かなと思っていると、やっぱりそうだった。まもなく、小屋の中から酋長本人と数名の男女、それに子供たちの一群がのこのこと出てきた。女たちは酋長の女房や腰元たちで、男たちは、彼の相談役だった。
アナトックは、ぼくたちにことのほか興味を持ったらしく、指揮官に、どこで捕まえたのかなどと聞いてから、ぼくたちのほうに向き、どこから来たのかとたずねた。
「モルバスから来て、ヘリウムへ行く途中でした」
「モルバス、ヘリウム」と、彼は繰り返した。「余は、そんな名前なぞ聞いたこともないぞ。野蛮人の住む、よほど小さな村なのであろうな。このグーリのような大都会に住む、余たちは、まことに幸せ者だ。そうは思わぬか」
「おおせの通りです」と、私は誠実に答えた。そして続けて、「私たちの国は、今まで、グーリを攻めたことはありませんでした。両国は交戦中ではありません。だから私たちにこのまま、旅を続けさせてください」
すると酋長は笑い出した。
「他の村から来た者は、実に単純な頭だのう。お前たちは余の奴隷だ。役に立たなくなったら殺すよ。他村《たそん》の者を、むざむざとオンプトの島から逃がしたら、そいつは味方を引き連れてここに引き返してきて、我々の大都会を破壊し、我々の巨万の富を盗み出してしまうではないか」
「そんなことはしません。私たちの国は、ずっと遠いのです。私たちが戦うのは、敵に対してだけです」
「そうそう〈戦う〉で思い出したが、こやつは、たしかに我々の敵ですぞ」と、指揮者が言った。「こやつは、我々と戦いたいと言っていました」
「なんと」と、アナトックが叫んだ。「それだったら、こやつの思い通りにしてやろう。余らは、戦うことときたら飯よりも好きだからのう。どんな武器が欲しいか、言うてみい」
「相手方の武器と同じでよいです」と、ぼくは答えた。
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二十一 死の決闘
このグーリ人たちにとっては、決闘は、重要な催し物の一つらしかった。酋長とその相談役たちは、ぼくの相手を選ぶために、長ったらしい議論を始めた。候補者として選ばれた数名の勇士たちの、能力、技能がいろいろ比較された。その五代も六代も前の先祖のことまで引き合いに出される始末だった。まさに国家的な重大行事らしかった。
しかしやっとのことで、一人の大きな、がっちりした体格の若い男が選ばれることに決定した。彼は自分が引き受けた重大責務に感激して、演説をぶち始め、自分の美点を並べ立て、ぼくをさんざんけなして、簡単にのしてみせると誓い、武器としては剣を選ぶと結論して、長弁舌を終わった。
アナトックは、今度はぼくに向かい、何か言うことはないかときいた。決闘前の演説は、どうやら儀式の一部らしかった。
「一つだけ質問があります」
「なんだ」
「私が勝った場合、その報酬は何でしょう」
「そんなことは気にしなくてもよい。お前が勝つことはないのだから」
「でも、勝った場合のことをきいているのです。報酬は何でしょう。私と、私の女友だちに、自由を与えてくれますか」
アナトックは笑った。
「よろしい。余は、お前の望みなら何でも安心して承知できる。なぜなら、決闘が終わった時には、お前は死んでいるのだからのう」
「よろしいです。だが約束は守ってくださいよ」
「お前の言いたいことはそれだけか。お前は自慢話ひとつできないのか」
「私は剣に物を言わせます。あの、盛んにほらを吹いた男は、戦ってみれば弱いことがばれるでしょう」
「お前は、グーリの勇者のことは、まるきり知らないらしいな。我々は世界一の勇者揃いなのだ。だからこそ我が国は、世界の最強国なのだ。それが証拠に、我々はこの壮麗な大都会を幾世代にもわたって守り通し、巨万の富を現在まで守り抜いてきておる」
ぼくは草葺き小屋の並んだ、みすぼらしい小村を眺めまわし、アナトックの言う巨万の富というのは、一体どこにあるのだろうといぶかった。それは多分、宝石か貴金属の類だろうとは思ったのだが。
「その巨万の富は、一体どこにあるのですか。それも、大ぼらの一つではないのですか」
ぼくがそう言うと、アナトックは激しく怒り狂った。
「お前は余を疑う気か。お前はグーリの巨万の富に比べられるほどのものを、今までに拝んだことがないに違いない」
「奴が叩き殺される前に、いっぺん巨万の富を見せてやりなさい」と勇者が叫んだ。「そうすれば、奴も、我々を大いに尊敬するでしょう」
「それは良い考えだ。こっちへ来い」
アナトックは、ぼくを従えて宮殿小屋へ入っていった。戦士たちもぼくを取り囲んでついて来た。この草葺きの小屋の中は、家具といったら、ほとんど何もなかった。ただ壁に沿って干し草が積み上げてあって、それが寝場所であることはわかった。武器が少しばかり吊るされてあり、粗末な料理用の器具が少しばかりそこらに転がっている他に、部屋の真ん中に、大きな箱がでんと据《す》えられてあった。その箱の前に、アナトックはぼくを連れてくると、厳《おごそ》かな手つきで蓋《ふた》を持ち上げた。
「どうだ。よく見ろ」
その箱の中には、いっぱい貝がらが詰まっていた。
「どこに宝があるのですか。貝がらばかりじゃないですか」
アナトックは、怒りにぶるぶると震え出した。
「この無知な野蛮人め。貴様にはグーリの宝物の価値も、美しさも理解できないのだ。もういいっ! 早く決闘しろ。こんな奴の死ぬのは、早ければ早いほど、それだけ早く世界の住み心地がよくなるわ。我々グーリ人は、無知と愚かさには我慢ができないのだ。我々は世界一、知性的な種族なのだからな」
「では、早く決闘をすませてしまいましょう」
この決闘の前の儀式は、実に仰々《ぎょうぎょう》しいものだった。
まず、アナトックとその顧問たちを先頭とし、次がぼくの相手となる男、その名誉衛兵と称する十人ほどの戦士が続き、その後を私がジャナイに付き添われて歩き、さらにその後を、他の戦士たちをはじめとして、女、子供を含む、ここの村民の全員が続くといった長たらしい行列が、村じゅうをねり歩いた。この行列で面白い点は、全員が行列に加わったために、この行列を見物する者は、誰ひとりとしていないということだった。
やがて行列は、村の外の広い原に出ると、ぼくと、ぼくの相手と、その名誉衛兵たちを真ん中にして、残り全員が大きな輪を作って座った。アナトックの号令で、ぼくは剣を抜いた。ぼくの相手と、十人の名誉衛兵たちも剣を抜いた。我々は互いに近寄った。
ぼくはアナトックに向かって、たずねた。
「あの十人の戦士たちは、何をする役なのですか」
「彼らは、ズキの助手たちだ」
「すると私は、しめて十一人を相手に戦うわけですね」
「そうではない。お前はズキとだけ戦えばよろしい。ズキが危なくなった時、十人が助太刀《すけだち》をするだけの話だ」
何のことはない。結局、ぼくは十一人を相手に戦うはめになったのだ。
「さあ、勇ましく戦え。この臆病者めが。余は勇ましい戦いが見たいのだ」
ぼくは、ズキとその助手たちに向かった。彼らは実にゆっくりと向かってきた。そして、ぼくを脅《おど》そうとするのか、まるでにらめっこのような変な顔をしてみせるではないか。ぼくはこの村でのことがすべて、急におかしくなってきて、思わずぷっと吹き出してしまった。吹き出しながらも、事態は深刻であることは、わかっていた。いくら彼らの剣術がへたくそでも、十一対一の数の差は重く、ぼくにのしかかってくる。ぼくの顔は、普通にしていても、ものすごく恐ろしいものだった。そこで、ぼくが突然ものすごいしかめっ面をして、すさまじい叫び声をあげながら、彼らにとびかかってやった。
効果はてきめんだった。ズキは慌てて回れ右をすると、逃げ出そうとして、後ろから来る助手たちとゴツンと激しく頭をぶっつけた。助手たちも先を争って逃げ出した。ぼくは、あえて追おうともしなかった。すると、彼らは逃げるのをやめて、また向かってきた。
「これがご自慢の、グーリ人の勇気というものですか」と、ぼくはアナトックにたずねた。
「これが洗練された、戦略というものだ」とアナトックは答えた。「ただ、お前は無知だから、それがわからないだけの話だ」
再び彼らは、恐る恐る近づいてきた。今度は、にらめっこだけでなく奇声も発した。もう一度、飛びかかってやろうかと思っていた時、一人の女が、悲鳴を上げて谷間のほうを指さした。他の者たちも皆その方角を見る。何事かと思って見ると、六人ほどの野蛮人が、こちらに歩いてくるのが見えた。ぼくがガン・ハド、ツン・ガンと、ボートでサイトールやジャナイたちを追いながら、湖を渡っていた時に襲いかかってきたのと、同じ種族の奴らだった。
彼らの姿を見ると、村人たちの間から、激しい泣き声が起こった。女、子供たちは勿論のこと、戦士たちのほとんど全員が林に逃げ込んでしまい、わずか五人の戦士だけが逃げずに残った。この五人は、恐ろしさのあまり腰が抜けて動けなくなったのか、それとも発作的に勇気にかられたのか、ぼくには見当がつかなかった。この五人の中には、ついさっきまでの私の決闘の相手、ズキは入っていなかった。ズキは、真っ先に林の中に逃げ込んでしまったのだ。
「奴らは何者だ」
ぼくは、そばに立っていた一人の兵士にたずねた。
「人食い人種だ。彼らが来る時の用意に、おれたちがいけにえに選ばれていたのだ」
「どういうことだ。いけにえだって」
「そうだ。奴らが来た時に、五人の兵士を提供しないと、奴らは村を襲い、火を放ち、巨万の富を盗み去り、女を連れ去り、男は、片っ端から殺されるんだ」
「どうして戦わないんだ。奴らはたった六人だ。こっちもおれを入れて六人だ。戦おうじゃないか。五分五分だ」
彼らは驚き顔で、ぼくを見た。
「しかし、我々は誰とも戦わないことになっているんだ。十対一以上の割合で、こっちの数が多い時以外にはね。それ以下で戦うのは、懸命な戦略じゃない」
「戦略なんぞ忘れてしまえ」とぼくは命じた。「おれと一緒に、あいつらを攻撃しよう」
「そんなことって、できるか」と、一人が別の一人にたずねた。
「前例のない話だ」というのが、その答えだった。
ぼくはやっとのことで、彼らを説きふせ、野蛮人と戦う決心をつけさせた。
野蛮人はすでに近づいてきた。彼らは、笑ったり、仲間同士|声高《こわだか》に話し合ったり、グーリ人たちに軽蔑のまなざしを向けたりしていた。
「さあ、武器を持って、おれについて来い」
ぼくは飛び出していって、一人を脳天から胸元にかけて、一刀のもとに、幹竹割《からたけわ》りにした。五人のグーリ人も、ゆっくりと前進した。五人は戦う気力はあまりなかったのだが、ぼくの最初の一太刀《ひとたち》の威力を見て、奮い立ち、一方、野蛮人のほうは不意を突かれた。彼らは多少の抵抗を試みたが、ぼくの強力な腕から繰り出される、剣の威力に圧倒され、三人が殺されると、残りの三人は全速力で逃げ始めた。
この様を見た五人のグーリ人は、悪鬼のような勇気を見せて、逃げる三人を追い始めた。
グーリ人はひとっ飛びで二十フィートも跳べるのだから、その気になれば、野蛮人に追いつくことはわけなかったはずだが、結局、わざと追いつかずに、高原のへりまで追い立てると、意気揚々と跳ね返ってきた。
林に逃げ込んだ連中は、むろんこの様子を見ていたに違いない。いまや彼らは、先を争って走ってきた。アナトックは少し恥ずかしそうな顔をしていたが、口を開くと、言うことは相変わらず強気だった。
「どうだ、お前、我が軍の戦略の価値がわかったろう。逃げると見せて、彼らをおびき寄せ、そこで一気にやっつけてしまうのだ」
「私や、ご自分自身をごまかそうったって、そうはいきませんよ。あなたの種族は、ほら吹きの臆病者揃いです。私はいけにえを救ったのです。あなたは野蛮人に、何一つ手向かいをしなかったじゃありませんか。私は、あなたがた全部を、片手で皆殺しにすることだってできるんですよ。それでは、あなたは私に対する報酬として、私と私の女友だちに自由を与えることを約束してください。そして、我々が再び旅を続けることができるようになるまで、ここに留まることを許可してください。もし、あなたがそれを断るようだったら、この剣の切先の味を味わうのは、あなたが最初ということになるでしょう」
「余を脅《おど》すには及ばない」と、アナトックは震えながら言った。「お前たちに自由を与えることは、最初から余の意向であったのだ。お前たちは、好きなだけここに留まっていておくれ。そして、敵が来たら、また追っ払ってくれ」
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二十二 ファンダルへ出発
その翌日、ジャナイとぼくは、マラゴールの容体はどうだろうと見に行った。ところが、巨鳥の姿は影も形もなかった。どこかへ飛んで行ってしまったのか、それとも、こっそりとやって来た野蛮人に連れて行かれてしまったのか、どちらかだろうということで、諦《あきら》めるよりなかった。
ぼくはただちにボートの建造に取りかかった。グーリ人たちも少しは手伝ったが、彼らはひどい怠け者で、すぐに疲れてしまうのだった。
ボートを建造するのに数週間かかった。その間にぼくは、ズキとひどく親しくなった。彼はこの種族の水準では、わりあい知能も高く、ユーモアのセンスの全くないグーリ人の仲では、かなりユーモアもわかるほうだった。
ある日、ぼくは彼に、どうしてここでは貝がらなどが貴重な宝と考えられているのかとたずねた。ズキは、こう答えた。
「アナトックは、優越感を保つためには、宝を持たなければならないと考えたのだ。だがもし、誰もが欲しがるような宝を持つと、戦いの好きな種族から狙われるから、誰も欲しがらない、貝がらのようなものを宝として持つことにしたのだ。それに、その価値を吹聴《ふいちょう》していれば、貝がらのようなものでも、自然と価値が備わってくる」
「それでは、君たちが誇りにする勇気や、アナトックの戦略も、貝がらと似たようなものだね」
「いや、それとは話が違う。それは本物なんだ。我々は世界一勇敢な種族であり、アナトックは最大の戦略家だ」
なるほど、彼の知能も貝がらのところあたりが限界なのだなと、ぼくは悟った。だが、グーリ人は、それでいいのではないかとも思った。こういった種族にとっては、うぬぼれは一種の救いなのかもしれない。
ジャナイは、ボート造りでぼくに協力してくれた。マラゴールを失った今となっては、ヘリウムへの旅は、ほとんど不可能に近いような難事業だった。
やっとのことで、ボートが完成した。グーリ人たちが手伝って、ボートを湖のへりまで押し出して、食糧をたくさん積み込んでくれ、槍や剣や短剣をジャナイに与えてくれた。我々は彼らに感謝し、再びツーノル大湿地帯を西へと、危険きわまる旅に出発したのだった。
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二十三 アモールの捕虜
この沼地の広大な広がりには、人間の住めないところもかなりあった。そして一週間ほど、我々は野蛮な原住民たちですら住めない、陰気な湖の上を通過していった。そこでは危険なものは、大型爬虫類と巨大な昆虫だった。この昆虫は大きいのになると、羽を広げると十メートル以上になるものもあり、強力な顎《あご》と、両刃の長剣のような毒針を持っていたりするのだった。こんな怪物昆虫に襲われたりしたら、ひとたまりもないだろうが、運の良いことに、ぼくたちは襲われなかった。彼らの餌は沼にすむ小型爬虫類で、私たちは、しばしば彼らがこういった昆虫に襲われて、むしゃむしゃやられているのを目撃したのだった。
グーリを発って約一週間後のある日、沼地に点在する湖の一つを渡っていた時、私たちの前方の地平線すれすれに、一隻の空中|戦艦《せんかん》が、ゆっくりとぼくたちのほうに動いてくるのが見えた。ぼくの胸は喜びに躍《おど》った。
「ジョン・カーターだ。とうとうやって来てくれた。ジャナイ、あなたは救われましたよ」
「ラス・サバスも一緒でしょうね。私たちは一緒にモルバスに戻って、ボル・ダジの体を復活させることができるのね」
「再び彼は生き、活動し、恋をするのです」
ぼくは、感動のあまり、顔に合わないことを口走ってしまった。
「でも、もしジョン・カーターでなかったら」
「ジョン・カーターでないはずがありませんよ、ジャナイ。でなかったら、文明国の船が、こんなひどい荒れ地の上を飛ぶわけがないじゃありませんか」
私たちは、ボートを漕ぐのをやめて、巨大な空中戦艦が近づくのを見守った。それは、三十メートルもない低空をゆっくりと飛んできた。ぼくはボートの上に立ち上がり、手を振った。そんなことをしなくても、艦《かん》のほうで、我々に気づいてくれることはわかっていたのだが。
その艦は、国籍を示す紋章をつけていなかった。しかしそれは、火星の海軍ではよくあることだった。艦の形も、ぼくはあまり見かけたことのないものだった。多分これは、ヘリウムの辺境用に使用されている旧式のものに違いないと思った。どうして、ジョン・カーターが新式の快速戦艦を選ばなかったのか、ぼくにはわからなかったが、彼ほど頭の良い人になると、ぼくなどには理由のわからないようなことをするものなのだ。
艦は近づくにしたがって、さらに低く下りてきた。ぼくたちが目にとまったのは明らかだった。そして、ぼくたちの真上で停止した。艦底の口から、引き上げ用の綱が二本下がってきたので、一本をジャナイの体に縛りつけ、もう一本を自分に縛りつけた。すぐにぼくたちは艦内に引き上げられた。
ぼくは船内を見回して、周囲の水兵たちの着用している制服から、この船はヘリウムのものでないことを知った。ジャナイは、おののく目で、ぼくを見つめてささやいた。
「ジョン・カーターも、ラス・サバスも、この船にはいないわ。これは、ヘリウムの船ではなく、アモールの王子ジャル・ハドの船の一つです。もし私の身許が知れたら、モルバスにいるのと同じくらい危険です」
「身許を明かしてはいけませんよ。ヘリウムの者だということにしておくのです。わかりましたね」
ジャナイはうなずいた。
周りの士官や水兵たちは、ジャナイよりもぼくに気を取られていた。彼らは遠慮会釈《えんりょえしゃく》なく、ぼくのものすごい顔を批評した。ぼくたちはただちに上部甲板に連れて行かれ、司令官の前に出された。彼は大げさに顔をしかめて、ぼくを見た。
「お前は何者だ。どこの出だ」
「私は、モルバスのホルマッドです。それから、このご婦人はヘリウムの方で、火星の大将軍ジョン・カーターの友人です」
彼は、ジャナイを長いこと注意深く見つめたが、やがて嫌な笑いで口をゆがめた。
「いつ、あなたは国籍を変えられたのです、ジャナイさん。身許を隠そうったって駄目ですよ。あなたのことは知ってるんです。どの艦の司令官室にも、あなたの肖像画がかかっているのです。むろん、ぼくの部屋にもかかっています。あなたを、王子ジャル・ハドのところに連れて帰れば、たくさんの褒美がもらえるのですからね」
「このご婦人は、火星の大将軍の保護下にある方なのです。ジャル・ハドの褒美がどんなにたくさんでも、この方をヘリウムに連れて行けば、ジョン・カーターの褒美は、もっと大変なものですよ」
「なんですか、こいつは」
ぼくのほうを顎で指しながら、司令官はジャナイにきいた。
「私の友人です。私の命を幾度も救ってくれた人です。どうか、私をアモールに連れて行かないでください。トル・ズル・バールの言ったことは本当です。私たちをヘリウムに連れて行ってくれれば、ジョン・カーターが、あなたに、うんとお礼をするでしょう」
「それで、アモールに帰ったとたん、私はジャル・ハドになぶり殺しにされるというわけですか。お断りですね。アモールにあなたを連れて行きましょう。それにこの怪物も連れて行けば、ジャル・ハドのご褒美が増えるかもしれない。これは立派な見世物になり、アモールの市民を喜ばすことでしょう。さあ、ジャナイさん。アモールに行きましょう。アモールの王妃になるのも、そう悪くはないじゃありませんか」
「死んだほうがましです」
司令官は肩をすぼめた。「まあ、そのうちに気も変わるでしょう」
それから部下に、この二人をそれぞれの部屋に連れて行けと命じた。私たちが昇降口のほうへと連れて行かれる時、一人の男が、突然甲板を横ぎって突っ走り、船の外へ身を投げた。あまり突然の出来事だったので、誰も引き止めるひまがなかった。
司令官は、その男を救助する命令を出さなかった。船はそのまま前進を続けた。ぼくは、ぼくたちを連れて行く士官に、今のは誰で、どうして身を投げたのかときいた。
「奴は捕虜さ。アモールで奴隷にされるより、死を選んだのだろう」と、説明した。
船はまだ湖面の上の、ごく低空を飛行していた。そして、男が身投げをした時、甲板の手すりに駆け寄って下を見ていた水兵が、男が空になったボートのほうに泳いでいくと報告した。
「ツーノルの大湿地帯では、奴の命も長くはもつまい」
昇降口を降りて、私たちを部屋に導きながら、その士官は言った。
ジャナイは、この船で最上の船室をあてがわれていた。なにしろアモールの王妃になると予想される女性だけに、皆、ジャナイを丁寧に扱い、お気に入りになろうと気を使い出したのだ。ジャナイの身は、少なくともアモールに着くまでのあいだは、安全を保証されたわけだから、ぼくはほっとした。
ぼくは、二人用の小さな船室に連れて行かれた。そこはすでに先客がいた。その男はぼくが入っていった時、舷窓《げんそう》から外を眺めていたので、こっちに背を向けていた。士官はドアを閉めて立ち去ると、ぼくは、この新しい仲間と二人きりになった。
ドアがバタンと閉められた音で、彼は振り返り、ぼくを見た。二人とも驚きの声を上げた。それはツン・ガンだったのだ。彼はぼくを認めると、いささか恐縮した様子だった。ぼくを置き去りにしたことで、良心が咎《とが》めていたのだろう。
「お前だったのか」
「そうだ。あんたは、おれを殺そうと思っているかもしれないな。だが、あまりおれを責めないでくれよ。ガン・ハドとおれは議論したのだ。おれたちはあんたを置き去りにしたくなかった。しかし、仕方なかったんだ。モルバスに戻れば殺されるに決まってたものな」
「君を咎めたりはしないよ。おれだって、君の立場にあったら、同じことをしただろう。だが結局、君たちがおれを置き去りにしたことがかえって幸いしたんだ」
ぼくは彼に、その後のいきさつを話した。それからどうして、この艦に乗るようなことになったのかと、彼にたずねた。
「ガン・ハドとおれは、一週間ほど前にこの船に捕まったんだ。だが、それは運が良かったのさ。おれたちが野蛮人に追跡されていた時に、この船が空から下りてきた。それで野蛮人たちは、たまげて逃げ出してしまったんだ。もしそうでなかったら、奴らに捕まって殺されていたに違いない。おれはこの船に乗れて喜んだね。しかし、ガン・ハドは嫌がっていた。アモールに連れて行かれて、奴隷にされるのが嫌だったのだ。彼は、ツーノルに帰ることが唯一の望みだったからね」
「で、ガン・ハドは、今、どこにいるんだ」
「彼は、たった今、甲板から飛び降りたよ。今、あんたがこの部屋に入ってきた時、おれは彼を見ていたところだったんだ。彼は、あんたが乗り捨てたボートに泳ぎついて、もうツーノルに向かって漕ぎ出していったよ」
「無事に着くといいな」
「駄目だと思うよ。あの地獄みたいな沼地を生きて渡りきれる人間なんていやしない」
「君、アモールに行くのが嫌じゃないのかい」
「どうして嫌がる理由があるんだい」と、ツン・ガンは逆にきき返した。「彼らは俺のことを、アモールの殺し屋、ガンツン・グールだと思い込んでいて、敬意を表してくれてるんだ」
「そうか。うっかりしていたよ。だが君は、ずっと、ガンツン・グールで通して、彼らを欺《あざむ》きとおせると思うかね」
「できると思う。おれの頭脳は、ほかのおおかたのホルマッドのように鈍くないからね。それにおれは頭に怪我をして、過去のことをほとんど忘れてしまったと言っておいたんだ。彼らは、おれの言うことを信用してたよ」
「疑うわけがないな。ガンツン・グールの頭蓋骨の中に他人の脳髄が移植されている、などということを思いつく者など、いないだろうからな」
「だから、そのことを誰にも言わないでくれよ。おれを呼ぶ時は、ガンツン・グールと呼んでくれよ。あれ、何を笑っているんだい」
「なんだかおかしくなってきたよ。おれたちは二人とも、自分じゃないんだからな。おれはおれで、君の体を持っている」
「だが、あんたは本当は誰なんだい。おれはいつも、そのことを考えてたんだ」
「これからも考えていてくれたまえ。教えてやらないから」
彼はぼくをじっと見つめていたが、急に、ああ、そうかといったように、明るい顔つきになった。「わかった。今になって、やっと気がつくなんて、おれは馬鹿だなあ」
「しかし、わからないということにしておけよ」ぼくは強い語調で言った。
彼はうなずいた。「あんたの言う通りにしよう、トル・ズル・バール」
ぼくは話題を変えた。
「このアモールの船は、ツーノル大湿地帯の上空を、いったい何の目的で飛行しているんだい」
「アモールの王子のジャル・ハドは、野獣を集めるのが道楽なんだ。この船も、その目的で、こんなところにやって来たんだそうだ」
「それでは、ジャナイの捜索のためではなかったのだな」
「違う。ジャナイもあんたと一緒に捕まったのか」
「そうだ。だからおれは、アモールに着くまでに、なんとかこの船からジャナイを救い出したいんだ」
「チャンスを狙《ねら》うんだな」
しかし、チャンスはやって来なかった。司令官は、ジャナイを乗船させているという責任上、まっしぐらにアモールへと針路を向けたのだ。船はもう着陸もせず、低空飛行すらしなかった。
アモールは、ぼくたちが捕らえられた地点から真北へ、一千二百キロのところにあった。その距離を船は、七時間半ほどで飛行した。
その間、ぼくは、ジャナイを見ることができなかった。
我々がアモールに着いたのは、夜中だった。艦は町の上空に浮かんで、その翌日まで停止していた。船の周りには、パトロール艇が飛び回って護衛にあたっていた。
やがて朝になると、王家の小型飛行艇が艦に横づけになり、ジャナイを連れ去っていった。それを見ていながら、ぼくにはどうすることもできなかった。彼はすでに、ぼくをガンツン・グールの船室から引き出して、艦内の別の小室へ閉じ込めたからだ。ぼくは完全に絶望し、ほとんど死を願う気持ちになりかけていた。
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二十四 檻《おり》の中
ジャナイが連れ去られた後、艦は着陸台に降りて固定され、ぼくは牢屋から引き出されて、一士官に率いられた戦士隊に身柄を保護されることになった。町に出る前に彼らは重い鎖のついた手錠を、ぼくの手にはめた。
ぼくが大通りに姿をあらわすと、通行人たちは皆、ぎょっとした顔つきでぼくを見た。だが、ぼくはすぐに地上飛行艇に押し込まれて、大通りを宮殿へと運ばれた。地上飛行艇は、火星の多くの町では、最も普通に使用されている自家用の乗り物で、地面すれすれを飛び、上昇限度は、約三十メートル。最大速度は時速九十六キロだ。
アモールは小さな町だが、その周囲には小さな村が、それもひどくまばらに散在しているだけなので、このあたりでは大都市とみなされる町だった。このあたりの主要産業は、ソートやジティダールの飼育だった。ソートは火星の乗馬であり、ジティダールというのは、巨大なカバに似た駄馬《だば》だ。両者はまた、食用にもされ、その肉や皮や、その他の副産物は、デュホール、ファンダルやツーノル等に輸出されていた。
アモールは牧畜業者のメッカであり、気も荒く、金遣いも荒い、喧嘩好きの人間たちで繁盛していた。だから、面白い町でもあったのだが、ぼくのように動物園の檻の中に入れられてしまった人間にとっては、あまり面白いというわけにもいかなかった。それは本当なのだ。なにしろ、宮殿の裏門から入った後、数分とたたないうちに、宮殿の大庭園内に設けられた動物園の檻の一つが、ぼくの住居となったのだから。
ここは、通りの両側に大小さまざまな檻が並んでおり、火星の、ありとあらゆる動物のサンプルが収容されていて、見物人にとっては、まことに教育上、有益な健全娯楽だった。一般人の宮殿庭園内への立ち入りが、日中だけは許されたからだ。
このアモールの王子、ジャル・ハドの動物園の大きな特長は、動物ばかりでなく、火星人のあらゆる人種のサンプルも陳列されてあることだった。ぼくの左側の檻には、巨大な牙と四本の腕を持った、図体のでかい一人の緑色人が入れられていたかと思うと、右隣りの檻には、プタルス王国の赤色人が収容されているといった具合だ。
その他、実に様々な人間や怪物じみた動物たちが、見物人の目を楽しませ、また恐怖を感じさせて、この火星には、恐ろしい、身の毛もよだつような怪獣が、本当にたくさんいるものだなあ、という思いを新たにさせているのだったが、その見物人たちも、ぼくの檻の前に来た時ばかりは、驚きのあまり、口をあんぐりと開けて、ただぽかんとしてしまった。ぼくはこの園内のいかなる怪獣よりも、はるかに恐ろしい形相《ぎょうそう》をしていたからだ。ぼくがこの動物園での呼び物となったことは明らかで、度肝《どぎも》を抜かれた見物人たちが、ぼくの檻の前に黒山のように集まって、ぼくを棒でつっついたり、石やキャラメルなどを投げつけたりし始めた。
するとまもなく飼育係が、ぼくの檻の前に下げる札を持ってやって来た。読んでみると、
「モルバス産、ホルマッド。人間形怪獣。ツーノル大湿原にて捕獲《ほかく》さる」
檻に入れられてから二時間ほどたった時、宮殿衛兵の一隊が園内に入ってきて、見物人を全部追い払った。ややあって、遠くでトランペットの音が高々と鳴り渡った。見ると、数人の男女がこちらに近づいてくる。
「今度はなんだろう」
ぼくは隣りの赤色人にたずねた。赤色人が、ぼくがしゃべることができるのを知ってびっくりした様子だった。
「ジャル・ハドが、お前を見物に来たのだよ。お前のような奴は、ほかに例がないだろうから、ジャル・ハドは、お前を自慢の種にすることだろうよ」
「おれが、ほかに例がないことはないさ。おれのようなのが、うようよしてるところがあるんだ。そこの大将が、世界征服を計画している」
赤色人は笑い出した。彼が本当のことを知ったら、笑うどころではないだろうに。
王家の一族が、近づいてきた。先頭に立って歩いてくるのが、ジャル・ハドらしかった。品のない下卑《げび》た感じの男で、残忍そうな口と、うさんくさい目つきをしていた。彼はぼくの檻の前で足を止めた。他の者たちも、それにならった。ジャナイも、その中にいた。ジャナイは、そっとぼくを見た。その目には涙が浮かんでいた。
「見事だ」しばらくぼくを、ためつすがめつ眺めてから、ジャル・ハドが言った。「余は、こんな怪物は、世界中にも、ほかに二匹といないことを信ずる」
彼は、後ろの者たちに振り返った。
「お前らはどう思うか」
「見事なものです」
異口同音《いくどうおん》の答えだった。ただ、ジャナイだけは黙っていた。
すると、ジャル・ハドは、ジャナイを睨みつけた。
「して、お前はどう思うか」
「思うことはたくさんあります。トル・ズル・バールは私の友人なのです。この人を檻に入れるなんて、ずいぶん失礼だと思います」
「お前は、けだものを町に放《はな》てというのか」
「トル・ズル・バールはけだものではありません。勇敢で、誠実な方です。私は幾度、この方から危ない命を助けられたかしれません」
「それでは、こやつに褒美をとらせよう」と、ジャル・ハドは、鷹揚《おうよう》な口調を装《よそお》いながら言った。「こやつに王宮から出る残飯を与えようぞ」
これには腹が立った。ヘリウムの貴族であるこのぼくに、残飯とは――、しかし、そうでなく、普通の、動物園用の飼料を与えられら、もっとたまったものではない。ぼくはそう思い返して、怒りを抑えた。
むろん、ぼくはジャナイと話し合うことはできなかった。だから、ジャナイがどうなったのか、これからどうなるのか聞くこともできなかった。
「お前の身の上話でも聞かせろ」と、ジャル・ハドが、ぼくに言った。「お前は単に、できそこないの不具者か。それとも、お前のような一族がほかにあるのか。お前の親は、どんな風だったんだ」
「親はありません。ぼくのようなものは、他に何百万とあります」
「親がないと。しかし誰かがお前の卵を生んだに違いない。それでなければ、お前がかえるわけがないではないか」
「ぼくは、卵からかえったのではありません」
「ふうむ。お前は、前代未聞《ぜんだいみもん》の不具者だと思っていたら、前代未聞の大嘘つきでもあったのだな。このジャル・ハドに嘘をつくような奴は、うんと殴らせるからそう思え」
「嘘を言ってはおりません」と、ジャナイがかばった。「本当のことを言っております」
「お前まで嘘をつくのか。お前は余が馬鹿だと思っておるな。女だとて、容赦はせぬぞ」
そこで、ぼくは言ってやった。
「二人から本当のことを言われて、まだ信用できないところをみると、あなたはよくよくの馬鹿だと見えますな」
「黙れ」と、衛兵隊の士官が怒鳴った。「この無礼なけだものをぶち殺しましょうか」
「まあ、待て、こやつは貴重品なんだ。あとで、せいぜい殴らせてやる」
ぼくは、この檻に入ってきて、ぼくを殴るだけの大胆不敵な奴が、果たしてあるだろうかと思った。
ジャル・ハドたちは、立ち去っていった。王子が去ると、また一般観客の入場が許されて、ぼくは暗くなるまで、このこうるさい見物人たちに悩まされ続けた。
動物たちの餌付《えづ》けの時間になると、見物人たちはまた追い出された。ジャル・ハドが、動物というものは餌を食べる時は、見物人たちに見られていないほうが、よく太るということを発見したからだ。ぼくには、奴隷の少年がジャル・ハドの宮殿から、残飯の一杯入ったバスケットを持ってやって来た。
少年は檻に近づきながら、ぼくを見て驚きと恐れで目を丸くした。ぼくの檻の前面の下方には、餌を差し入れるための小さなドアがついているのだが、少年はぼくが怖くて、それを開けることができないでいる様子だった。
「怖がることはないよ。取って食ったりはしない。私はけだものではないからね」
彼は近づいてきて、こわごわ小さなドアを開けた。
「君の故郷はどこだね」
「デュホールさ」
「私の友人の、そのまた友人が、デュホールに住んでいる」
「それは誰だい」
「バド・バロだ」
「ああ、バド・バロか。ぼくはよくバド・バロを見かけるよ。ぼくはここで訓練を受けてから、バド・バロの衛兵を務めることになってるんだ。バド・バロは偉い軍人だよ。それで、おじさんの友だちで、バド・バロの友だちでもあるという人は誰なんだい」
「ヘリウムの王子、火星の大将軍、ジョン・カーターだ」
少年の目は、ますます丸くなった。
「ジョン・カーターだって。知ってるよ。有名な人だろう。バルスーム一の剣の使い手だね。だけど、どうしておじさんみたいな変な人が、ジョン・カーターの友だちなんかになれたんだい」
「君には不思議かもしれないが、とにかく私は、ジョン・カーターの一番の親友なんだ」
突然、我々のやりとりを聞いていた隣りの檻《おり》の赤色人が叫んだ。「おれはヘリウムの出だが、ヘリウム帝国のどこにだって、お前のような奴はいなかったぞ。お前はやっぱり大嘘つきだな。まず、おれに嘘をついた。それから、ジャル・ハドに嘘をついた。そして今は、この子供の奴隷に嘘をついている。そんなに嘘をついて、何のたしになるのだ。火星人は真実を重んずるということを知らんのか」
「私は、嘘は言ってないぞ」
「お前は、ジョン・カーターが、どんな風な男か言ってみろ」そこで、ぼくは、ジョン・カーターについて知っている限りのことを並べ立ててやった。赤色人は、びっくりした様子だった。
「これは驚いた。実によく知っているな。それじゃあ多分、お前の言ったことは、やっぱり本当だったんだな」
少年の奴隷は、夢中でぼくを見つめていた。彼は、ひどく心を動かされた様子だった。ぼくはこの少年の信頼を勝ち得て、友だちになりたいと思った。ジャル・ハドの宮殿に仕えている友だちがほしかったからだ。
「それではおじさんは、ジョン・カーターを見たのだね。ジョン・カーターと話をしたり、握手をしたりしたんだね。いいなあ」
「いつか彼は、アモールに来るだろう。もし来たら、君は彼に、トル・ズル・バールを知っていると言ってごらん。トル・ズル・バールに親切にしてやったと言ってごらん。そうしたら、君は、ジョン・カーターの友人になれるよ」
「よし、ぼくはおじさんにできるだけ親切にしてやる」
「それでは、さっそく頼みがある」
「なんだい」
「もっとこっちへ来てくれ、内緒《ないしょ》話だ」
少年が近づいてくると、ぼくはひざまずいて、彼の耳に口をつけてささやいた。
「私はジャナイという女のことが知りたいのだ。ジャナイが、どうなっているのか、これからどうなるのか。君にわかったことをみんな、この私に知らせてくれないか」
少年は承知して、空《から》のバスケットをさげて、立ち去っていった。
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二十五 動物園の王子
単調な毎日が過ぎていった。救いは、隣りの檻《おり》の赤色人との会話と、一日に二度やって来る、デュホール出の少年奴隷だけだった。この少年の名は、オルム・オといった。
ヘリウム出身の赤色人とは、かなり仲が良くなった。この男の名はウル・ラジといった。ぼくはその名を聞いた時、彼とは数年前に会っていることを思い出した。彼はヘリウムの国ざかいの一都市であるハストールの出身であり、そこに配置されていた一戦艦に乗り組んでいた副官だった。そのことを思い出したので、ぼくは彼に、ボル・ダジという名の士官を覚えているかとたずねてみた。彼は、よく覚えていると言った。
「あんたは、彼を知っているのか」と、彼はたずねた。
「親しかったよ。実際、彼ほどぼくがよく知っている人物は、ほかにはないくらいだ」
「だが、どうして知っていたんだ」
「彼は、ジョン・カーターとモルバスにいた」
「彼は立派な士官だった。おれは、大艦隊がハストールに来た時に、彼と長い間話し合ったことを覚えている」
「君とボル・ダジは、君が研究中の発明について話し合ったのだろう。たしか、その発明は遠距離から敵の空中戦艦とその位置を、音波によって探知する機械だったな。その原理は、二つのエンジンのどの音波も、一つ一つみな違うということだ。そして君は、その音波をグラフに記録する装置を考え出したのだ」
ウル・ラジは驚いて、目を丸くした。
「どうしてそんなことを知ってるんだ。よほど、君は、ボル・ダジと親しかったのだな」
「だが、ボル・ダジは、おれにも誰にも、君の発明のことは話さなかったよ。その発明が完成して、君がヘリウムの海軍に、その発明を明かさないうちは、誰にも話さないと約束したものな」
「だが、彼が誰にも話さなかったことを、どうして君が知っているんだ」
「それは、君にも決してわからんだろう。ただ、ボル・ダジは君との約束を決して破らなかったことだけは確かだ」
ウル・ラジはそれ以後、ぼくに多少、畏敬の念を持ったように思う。彼は、ぼくが超能力か何か、不思議な力を持っているとでも思っただろう。
奴隷の少年、オルム・オも、ぼくととても親密になって、彼がジャナイについて知り得たことは、すべて私に話してくれた。詳しいことはわからなかったが、ジャナイはさしあたって、それほど危険な立場にはないらしかった。ジャル・ハドの、一番年上の妻のおかげで、ジャナイは安全らしいのだ。
ジャル・ハドは妻を数人持っているが、その一番年かさの妻バヌマを、彼はなによりも恐れていた。バヌマは非常に嫉妬深く、ジャル・ハドが他の女に関心を持つと、ひどく腹を立てるので、彼は、ジャナイを妻にすることができないでいるらしいのだった。
「これは噂だけどね」と、オルム・オは言った。「バヌマは、機会さえあればジャナイを亡きものにしようと企《たくら》んでいるそうだよ。ただ、そんなことをすると、ジャル・ハドが怒り狂って、自分を殺す恐れがあるので、ためらっているらしいんだ。それでバヌマは、自分に疑いがかからずに、ジャナイを殺す方法を必死になって考えているらしいんだよ。現にアモールの殺し屋、ガンツン・グールを、近ごろ、たびたび呼び寄せては、何事か相談していたよ。もしガンツン・グールがバヌマに説きふせられて金を受け取ったとしたら、ジャナイの命は、風前の灯《ともしび》だろうねえ」
ぼくは、これを聞くと、たまらなく心配になってきた。むろん、ガンツン・グールがジャナイを殺すようなことは絶対にないだろうとは思っているのだが、だからといって、バヌマが、ジャナイを殺そうと固く心に誓ったら、どんな方法を考えつかないとも限らないのだ。ぼくは、オルム・オに、ジャナイに警告してくれるように頼んだ。オルム・オは、機会があれば警告すると言った。
ジャナイの身の危険を思い、それに対して、ぼくが何一つしてやれないことを考えると、ぼくは、ほとんど気も狂わんばかりの気持ちだった。
そんなことを別にすれば、動物園の生活は、退屈だった。もっとも、たいていは、ぼくの檻の前はいつも黒山の人だかりで、あんまりのんびりともできなかった。そんなある日、ぼくは見物人の中に、ガンツン・グールが混じっていることに気がついた。
「いよう、トル・ズル・バール」と、彼は檻に近づきながら言った。ぼくも挨拶を返してから、言った。
「君と内緒で話したいことがあるんだが」
「それでは見物人が全部帰った後にしよう」
ぼくは、その日が暮れるのが待ち遠しかった。だが、やっと衛兵たちが客を追い返し、動物たちの餌《え》付けの時間となり、ぼくにはオルム・オが残飯を運んできた。だが、ガンツン・グールはなかなか来ない。ぼくが彼と相談したいのは、ジャナイのためになる、良い計画を思いついたからなのだ。
ぼくはオルム・オに、その後のジャナイの消息をきいてみた。するとオルム・オは首を振って、ここ数日、宮殿内でジャナイを見かけないというではないか。ことによると、バヌマは、すでにジャナイを殺してしまったのではないだろうか。ぼくはいいようのない不安に襲われた。すっかり暗くなった時、ガンツン・グールが檻に近づいてきた。
「やあ、トル・ズル・バール、遅くなってすまなかった」
「それより、早くジャナイのことを話してくれ。ジャナイはまだ生きているか。元気か」
「元気でいるよ。しかし安全ではない。それを安全にするためには、バヌマを暗殺する以外に手がない」
「まあ、待て。バヌマを殺したら、今度はジャル・ハドから、ジャナイを保護する者がいなくなるじゃないか」
「そこまでは考えていなかった」と、彼は頭をかいた。「しかし、そうなったからといって、ジャナイが、それほど不幸になるとも思えないぜ。ジャナイはアモールの女王になる。ジャル・ハドの他の妻は不美人揃いだから、ジャナイが正式の女王になることは確実だ」
「だが、ジャナイはジャル・ハドとの結婚を嫌っている。ボル・ダジがジャナイを愛しているんだ。ジャナイを救わなければならない」
「だが、ボル・ダジの体は今頃どうなってるか、知れたもんじゃないぞ」
「だが、ジャナイはなんとしてでも救わなければならない」ぼくは、ガンツン・グールを説きふせるのに大変な苦労をした。
「じゃあ、トル・ズル・バール、あんたにはどういう計画があるのだ」
「バヌマに、こう伝えてくれ、ジャル・ハドは、バヌマがジャナイを殺そうとしていることを知って、もしジャナイが死んだなら、ただちにバヌマを殺すと、心に誓っているとね」
「それはいい考えだ。女奴隷を通じて、バヌマにそう伝えてやろう」
ガンツン・グールは帰っていった。
その夜は、久しぶりで安眠できた。これで少なくとも一時的には、ジャナイの生命は安全だろう。そう考えたからだ。
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二十六 檻からの脱出
その翌朝、ぼくは太鼓の響きと、悲しげな管楽器の音で目を覚まされた。その音楽はどうやら葬送曲《そうそうきょく》のように思えた。騒々しくて、もう寝ていられないので、ぼくは、干し草を積んである寝場所から這い出すと、檻の前にほうに歩み出た。ウル・ラジが鉄格子に額を押しつけて、宮殿のほうを眺めている。
「あの音楽はなんだい」と、私はたずねた。
彼は、にやりと笑った。
「王家の誰かが死んだ時にやる音楽だね」
「死んだ奴が、ジャル・ハドだとよいがな」
「物事は、そううまくはいかんものさ」
飼育係たちが餌を持ってやって来た。ウル・ラジの檻の前まで来たので、ぼくたちは、誰が死んだのかとたずねた。だが彼らは、けだものたちの知ったことか、などと言いながら、さっさと行ってしまった。
ぼくの左隣りの緑色人は、無愛想な男だった。彼は、ぼくが園内の呼び物になっていることを妬《ねた》んでいるらしかった。彼はぼくに話しかけたりはせず、ぼくがたまに話しかけてみても、ぶっきらぼうに短く答えるか、あるいは全然返事もしなかった。もっともこれは、緑色人がもともと不機嫌で、無口な人種のせいであるからかもしれなかった。ところが今、彼がだしぬけにぼくに話しかけるではないか。
「ジャル・ハドが死んだとすれば、数日で混乱が起こるぞ。おれは、古くからここに住んでいるから、事情を少しばかり知っているんだ。ジャル・ハドの後継者になりたがっている奴は数人いる。だからアモールに内乱が起こるに違いない。その時が、逃げるには最もよいチャンスだ」
「しかし、逃げる可能性があるのなら、なにも、ジャル・ハドの死ぬのを待つまでもなく、とっくに逃げているよ」
「だが、おれの立てた逃亡計画は、何か事件がおきて、衛兵どものたががゆるんでいる時でないと、実行できないんだ」
「どんな計画だ」
「格子の近くへ来い。立ち聞きされては困る。一人では実行できない計画だ。お前とお前の隣りの赤色人は信用できそうだ」
それから、彼は小声でその計画をささやいた。それは、悪くない案で、成功の見込みもないではなかった。緑色人はぼくに、その案をウル・ラジにも伝えてくれ、と頼んだ。ぼくはそうしてやった。赤色人は注意深く耳を傾けていたが、やがてうなずいた。
「成功するにせよ、失敗するにせよ、この檻の中に一生閉じこめられているよりはましだろう」
「同感だ。ただ、おれの命を賭けるだけだったら、いつでも実行できるが、おれはジャナイを救い出す機会を待たなければならない」
オルム・オが、朝食の残飯のバスケットを持ってやって来たので、話は中断された。
「あの音楽は何だね」と、ぼくは少年にたずねた。「知らなかったの。バヌマが死んだんだ。ジャル・ハドに毒殺されたらしいんだよ」
バヌマが死んだ。ジャナイはどうなるのだ。
しかし、オルム・オに聞いたところによると、宮廷の礼儀として、二十七日間はジャル・ハドは喪《も》に服さなければならないのだそうだ。だからその間は、ジャナイは安全だった。だが二十七日が過ぎれば、ジャル・ハドは、すぐにジャナイと結婚する予定だという。
さらに、ぼくが少年から聞き知ったことは、バヌマの家の者たちがジャル・ハドを憎んでいること、この一族は勢力のある高貴な名門で、その中に、ズル・アジマッドという、アモールの王子になりたがっている男がおり、彼はジャル・ハドよりはるかに人気があり、軍隊に対して、強い権力を持っていることなどだった。
また動物園の見物客の態度などを観察して、ぼくは、群集の中に、何か異様な緊張感が次第に盛り上がってきているような気配を感じ取れるような気がした。
思った通り、ある日ジャル・ハドの喪の期間も終わりに近づいた頃、ぼくは銃声と、進軍ラッパと、号令の叫び声とを聞いたのだ。
動物園の係りの者たちも、衛兵たちも、みな宮殿のほうへと走り始めた。ぼくは激しい興奮を感じながらも、いよいよ機会が到来したと思った。それで、最後に駆けていく飼育係が檻の前を通りかかった時、ぼくは突然苦しそうな呻《うめ》き声を立ててぶっ倒れ、もがきながら、彼に来てくれと叫んだ。飼育係は、宮殿の様子がどうなっているのか早く見に行きたいところだろうが、ぼくのような貴重な動物の苦しみをほったらかしにしたことがジャル・ハドに知れると、死刑になる恐れもあったので、やむなく檻の前に近づいてきた。
「どうしやがった、このけだものめ」
「変なトカゲに噛まれたんです、ああ、苦しい。死にそうだ」
「どこを噛まれたんだ」
「手です。見てください」
彼が近づいてきて、ぼくの手をのぞこうとしたところを、ぼくは彼の首をつかんで、たちまち絞め殺してしまった。ぼくは、そいつから鍵束を取り上げると、ぼくの檻はむろん、両隣りの男たちの檻を開けた。我々は、飼育係が動物を服従させる時に使用する差し棒を手に入れた。ぼくはまた、飼育係が持っていた短剣を腰にさしたが、計画がうまくいかなかった場合、こういった武器がどれほど役に立つかと思うと、力強い限りだった。
それから我々は、動物たちの檻を片っ端から開きにかかったのだ。猛獣たちが、我々に襲いかかってくる恐れも十分あったのだが、彼らは差し棒の痛さを身にしみて知っているらしく、差し棒を持っている我々には、向かってこなかった。
解放された猛獣、怪獣たちの数は次第に増え、園内は時ならぬ吠え声の大合唱で、耳をつんざくほどになった。動物園の門は開け放しになっていた。我々は、そこからけだものたちを追い立てながら、すさまじい洪水のように宮殿前広場へと乱入した。けだものたちは、慣れない自由のために興奮しきっており、仲間の吠え声に刺激されて、ますます凶暴になった。
肉食獣の底ぶかい唸《うな》り、草食獣のかん高いいななき。これらが宮殿内のすみずみにまで響き渡ったに違いない。いまや、持ち場を離れていた園丁たちが我々に向かってきた。けだものたちも、それに気がついた。白色類人猿のような、知能の高いけだものたちは、檻に入れられていた時に受けた、数々の残忍な折檻《せっかん》を覚えていたに違いない。
凶暴な怒りに牙をむき、絶叫のような声とともに園丁たちに襲いかかると、彼らを骨ごとバリバリと噛み砕いたのだ。血の味に狂ったけだものたちは、いよいよ復讐心をかき立てられ、門を固めている戦士たちのほうに殺到し出した。
これこそ、我々が待ち望んでいた絶好の機会でなくてなんだろう。ウル・ラジと緑色人とぼくは、どさくさに紛《まぎ》れて、宮殿の横側の入り口から、誰にも気づかれずに侵入したのだった。
だが、ジャナイはどこにいるのだ――。
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二十七 危険への飛行
我々の入ったところは、部屋にも廊下にも、誰もいなかった。隠れてしまったのか、城門を守っているかのどちらかなのだろう。
「女はどこにいるんだ」と、緑色人のバル・タブが言った。
「こんな大きな宮殿じゅうを捜すのはとても無理だ」と、ウル・ラジが言った。
「あっ、誰かやって来るぞ。足音が聞こえる」と、バル・タブが言った。
前方の廊下の曲がり角から現われたのは、オルム・オだった。彼は急ぎ足でぼくに近づいた。
「上の窓から、あんたがたが入ってくるのを見ていたんだ。それで大急ぎでやって来たんだよ」
「ジャナイはどこにいる」
「教えてあげるよ。でもそのことが知れると、ぼくは殺される。もう遅すぎるかもしれない。ジャル・ハドがジャナイの部屋に遊びに行ったよ。まだ、喪の期間が終わっていないというのにさ」
「急げ」と、ぼくは叫んだ。
オルム・オは廊下を駆け出した。我々三人はそれに続いた。少年は、我々を螺旋《らせん》状の上り廊下の下まで連れてきた。そして、ここから三階まで上って、右に折れ、その廊下を突き当りまで行くと、そこにジャナイの部屋がある、と教えてくれた。
「もし、ジャル・ハドがジャナイの部屋に入っているようだったら、廊下に衛兵が立ってるよ」
オルム・オに礼を言うと、我々三人は螺旋状の上り廊下を駆け上がり、三階に達した。すると廊下の突き当たりに、二人の衛兵が立っているのが見えた。
衛兵は我々を見ると、剣を抜いて向かってきた。
「なんでこんなところへ来た」
「ジャル・ハドに会わせろ」
「貴様ら、動物園のものじゃないか。こらっ。檻の中に引っ込んでおれ」
バル・タブは、物も言わずにこの衛兵を、先端が金属になっている差し棒で刺し殺した。ほとんど同時に、ぼくはもう一人の衛兵と剣を交えて戦い始めた。こいつは恐ろしく腕のたつ剣の使い手だったが、ぼくはやっと突き殺した。
二人の死体を乗り越えて、ぼくはドアを開けた。そこは控えの間らしく、誰もいなかった。次の部屋から、怒ったような争いの声が聞こえた。ぼくはその部屋に躍《おど》り込んだ。
ジャル・ハドが、今しもジャナイを腕に抱き込もうとしているところだった。ジャナイは、必死にその腕から逃れようとして、ジャル・ハドをしたたか殴りつけていた。彼の顔は怒りで真っ赤だった。そして、ジャナイを打とうとして、拳《こぶし》を振り上げた。
「よせ」と、ぼくが叫んだ。二人とも、こっちを振り向いた。
「トル・ズル・バール」と、ジャナイが叫んだ。その声には、ほっとした響きがあった。
ジャル・ハドは我々を見ると、ジャナイをつきのけて、ラジウム・ピストルを構えた。ぼくは、彼に飛びかかろうとした。
だがそれより早く、後ろから、ぼくの肩をビュッとかすめて、先端が金属になった差し棒が電光のごとく飛び、アモールの王子の心臓を刺し貫いた。彼は、ピストルの引き金を引くひまもなく、ぶっ倒れた。差し棒を投げたのは、バル・タブだった。彼は、ぼくの命の恩人になった。
ぼくたちは、この突然のことの成り行きに、いささか度肝を抜かれて、しばらくはただぽかんとして、ジャル・ハドの死体を見おろすばかりだった。
「さてと」と、ややあってウル・ラジが言った。「ジャル・ハドは死んだし、これからどうしようか」
「宮殿の内も外も、ジャル・ハドの部下がうようよしています。私たちのしたことが見つかったら、四人とも殺されてしまうわ」と、ジャナイが言った。
「おれたち三人で、敵兵を全部ぶちのめしてやろうじゃないか」と、バル・タブが言った。
「夜になるまで、どこかに隠れていれば、暗くなってから逃げ出すことができないとも限らない」と、ウル・ラジが言った。
「どこかに隠れ場所はないですか」と、ぼくは、ジャナイにたずねた。
「ありません。どこに隠れたって見つかってしまうわ」
「この上の階は何ですか」
「王家の飛行艇の格納庫よ」
「うわあ、助かった」と、ぼくは思わず歓声を上げた。
「でも、格納庫の前には、いつも十人ぐらいの衛兵が番をしてるわよ」
「しかし今日は、城門の守りに出兵があったから、衛兵は減っているかもしれない」と、ウル・ラジが言った。
「衛兵が二十人もいたら、面白い戦いができるんだが」と、バル・タブが言った。「なるべくたくさんいてもらいたいもんだな」
ぼくは、ジャル・ハドのラジウム・ピストルをウル・ラジに渡した。それから四人は、上り廊下を駆け上がって、屋上の格納庫に向かった。ぼくは、ウル・ラジを先頭に立てた。彼は赤色人なので、最も目立たないからだ。
先頭のウル・ラジは屋上を見渡した。
「衛兵は二人しかいない。わけなしだぞ」
「それでは、不意打ちを食らわそう」
たった二人きりなら、隙を見て飛行艇に乗り込んで逃げてしまえばよいと、ぼくは思った。二人を殺さずにすめばそれにこしたことはないのだ。
だが、運悪く、我々は彼らに見つかってしまった。一人は逃げ出して援兵を呼びに行った。後の一人は、勇敢にぼくに立ち向かってきた。勇敢な兵士なので、ぼくは彼を殺したくなかったのだが、ぐずぐずしていると、逃げた一人が援兵を呼んでくるので、やむを得ず、ぼくはこの衛兵を殺さなければならなかった。
ぼくは大急ぎで、格納庫から四人乗りの飛行艇を一台選び出して、三人を急《せ》きたてて乗り込ませた。ウル・ラジが艇の操縦のうまいことを知っていたので、彼を操縦席につかせ、一瞬の後には、屋上から大空に向かって舞い上がった。
その時、遠くにいた巡視艇が一機、向きを変えてこちらに飛んできた。ぼくはすぐにバル・タブとジャナイに、下の船室に降りるように命じ、ウル・ラジに指示を与えてから、自分も下に降りた。これで、巡視艇の乗組員に、顔を見られる恐れはなくなった。
巡視艇は速《すみ》やかに近づいてきて、声が聞こえる距離まで来ると、乗員は誰か、どこへ飛行中かとたずねた。ウル・ラジはぼくの指示通りに、ジャル・ハドが下の船室におり、彼から、目的地を告げてはいけないと命令されていると答えた。
巡視艇の指揮官は、疑わしく思ったに違いないが、本当にジャル・ハドの命令であった場合、下手《へた》にしつこく聞きただして、王子の怒りにでも触れると、大変なことになると思ったのだろう。おとなしく引き下がり、我々は飛行を続けた。
だが、しばらくすると、巡視艇は再び我々を追跡し始めたのだ。そして、我々がアモールの境界を出るか出ないうちに、さらに十二機の飛行艇が我々を追い始めた。格納庫を逃げ出した衛兵が、警報を発したに違いない。ジャル・ハドの死体も、見つけられたのかもしれない。いずれにせよ、我々は全速力の追跡を受けることになったのだ。
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二十八 大艦隊
我々の乗っている飛行艇は、追跡してくる大型飛行艇とほとんど同速度だったが、巡視艇はもっと速かった。だから我々が追いつかれることは、目に見えていた。艇内を素早く探し回って、我々はライフル銃を数丁見つけ、また、船首と船尾にそれぞれ小銃が一つずつ備えつけてあるのを発見した。これらの火星の銃はすごい威力があり、一発でも主要部分に命中すれば、それだけで艇は役に立たなくなるほどだ。追跡艇が射程内に入れば、ただちに我々に向かって撃ちまくってくることは明らかだった。ぼくは、ウル・ラジに、もっと速度を上げろと命じた。
「これ以上は上がらないよ。だが、それほど心配することもないさ。この船体の外壁は、非常に頑丈にできている。ジャル・ハドの専用機だったのだからね。エンジンや方向舵《ほうこうだ》に直撃を一発くらいでもしない限り、まず大丈夫だ。それにこっちにも反撃のための銃がある」
ジャナイと、バル・タブも、上甲板に上がってきて、ぼくと一緒に次第に追いついてくる巡視艇を眺めた。
「あら、撃ち出したわ」
「どうせ、届きやしない。当たりやしない」と、バル・タブが言った。
ぼくは、ジャナイと、バル・タブに、危ないから下の船室に降りるように命じた。
「射程内に入ったら、お前を呼ぶからね、バル・タブ。そうしたらライフル銃を二、三丁持って、上がってきてくれ」
そういってから、ぼくは船尾にほうに行き、備えつけの銃を、追跡艇に向けた。その時、敵弾が一発、わずかに届かずに落下していった。
ぼくは慎重に狙いを定めると、発射した。
「まあ、素敵。最初の一発から命中したのね」
振り返ると、ジャナイとバル・タブが、後ろで身をかがめていた。
ぼくの射撃は直撃弾を敵に食らわせたが、損傷はほとんど全く与えないようだった。速度もゆるまず、射撃も中断されなかった。
やがて、巡視艇は、わずかに右に回り込んできた。命中率を上げるために側面攻撃を意図したのだろう。今や、敵も味方も、ひっきりなしに、撃ちまくり始めた。そして時々、弾丸が防弾盾《ぼうだんたて》や船体に命中しては、炸裂《さくれつ》した。
ぼくはウル・ラジに、艇の側面を敵に向けないように進路を調節するよう命じた。我々が敵に対して、最小の的《まと》であるような角度を保つためには、絶えず針路を変えなければならなくなったのだ。
もはや、アモールははるか彼方へと遠ざかり、かつては、果てしない火星の大洋が波を打っていたが、すでに干《ひ》上がって、精悍な放浪人種の緑色人にしか住めない広く荒れ果てた大地の上を、我々はまっしぐらに飛行していた。巡視艇は、ぴったり離れずについてくる。さらに後続の大型艇の一群も、いくらか接近してきたところを見ると、そちらも我々の艇より速いらしかった。
突然、敵は射撃をやめた。そして降伏を勧める信号を送り始めた。返信の代わりに、バル・タブとぼくは、射撃をもってこれに応じた。敵は再び、猛烈に撃ちまくってきた。バル・タブが、運悪く弾丸の破片を受けて倒れ、艇の横から、真っ逆さまに下の不毛の地へと落ちていった。
彼のような、素晴らしい闘士を失ったことは、このうえもなく残念だったが、悔やんだところでどうにもならなかった。好戦的な彼にとっては、戦いながら死んだことは、むしろ本望だろう。それに彼の遺体は、彼の最も好む土地、死んだ海の底の、黄土色の苔《こけ》の上に眠ることになるのだ。
弾丸は今や、雨あられのように、防弾壁や船体に撃ち当たり始めた。艇が堅牢《けんろう》そのものなので、下の船室に潜り込んでいる限り安全のようにも思えたが、しかし、このような絶え間ない砲撃を、いつまで持ちこたえられるか、ぼくは心もとなかった。
ぼくは、一か八《ばち》か、いったん急上昇し、それから急降下しながら、あらん限りの砲火を浴びせかけたら、あるいは敵艇をやっつけられるのではないかと考えた。それで、ウル・ラジにその命令を伝えて、艇は上昇を開始した。その時、ウル・ラジがぼくに呼びかけ、前方を指さした。
ぼくは、はっと息をのんだ。私たちは敵との交戦に気を取られて、全く気がつかなかったのだが、我々のずっと上空を、こっちに向かって飛行してくる巨大な空中戦艦の一群があったのだ。
その大きさと数からいって、アモールのものでないことは確かだった。だが、その艦隊より低空にいる我々には、その機首や艦の上部に記されてある紋章を見ることができなかった。しかし、この艦隊がどこの国のものであるにもせよ、アモール人に追跡されている我々にとって、事態はこれ以上悪化しようもないので、ぼくはウル・ラジに、上昇をこのまま続け、その艦隊と巡視艇との間に入るように命じた。
その位置に我々が入ると同時に、追跡艇は、砲撃を続けることができなくなった。もし間違ってこの艦隊のどれかの戦艦に砲弾をぶつけてでもしまったら、事態は、穏やかにはすまないからだ。
ぼくたちは、その艦隊の指揮艦にみるみる近づいていった。指揮艦の乗員がぼくたちのほうを見ているのが見えた。巨大な戦艦は停止した。
その船首に近づいた時、ウル・ラジが突然歓声を上げた。
「ヘリウムの艦隊だ」
ぼくも船首の紋章を見ることができた。ぼくの心は躍った。ジャナイが救われることが確実になったからだ。
「君たちは誰か」と、彼らは我々に呼びかけてきた。
「ヘリウムの海軍士官、ハストールのウル・ラジと、その二人の友人です。アモールに囚われていたのを逃げてきたところです」と、ぼくが答えた。
彼らは、指揮艦に乗り移るように命じた。ウル・ラジが艇を操縦して、戦艦の上部甲板につけた。
我々が上部甲板に降り立つと、士官も兵士も、ぼくを見てびっくりした様子だった。
一方、アモールの追跡隊は、この艦隊がヘリウムのものだとわかると、全速力でアモールへ逃げ帰っていった。
ぼくたち三人は、司令官の前に連れて行かれた。そこでウル・ラジは、自分の身分をわけなく証明できた。
司令官は、ジャナイとぼくのほうに向いた。
「この婦人はジャナイといって、ボル・ダジの友人です。私もそうです。私は、ジョン・カーターの忠実な部下です」
「君は、トル・ズル・バールだね」と、司令官がたずねた。
「そうです。だがどうしてそれを」
「この艦隊は、君とジャナイを捜すために、アモールに行く途中だったのだ」
「だが、どうして私たちがアモールにいることがわかったのですか」
ぼくは驚いて、たずねた。司令官の説明によると、この艦隊は最初ジョン・カーターとラス・サバスを連れて、モルバスへ行くところだった。ところが、ツーノルの大湿地帯の上を低空飛行していた際、一人の赤色人が野蛮人たちに追われているのが目撃された。もう少しで捕まるところを、野蛮人を追い払って、その男を助けてやった。
彼はガン・ハドという名で、モルバスから逃げてきたところだという。それでジョン・カーターが彼に聞きただすと、アモールの飛行艇が、ジャナイとぼくを捕らえて、アモールに連れ去ったことがわかったというわけだった。
「助けていただいてありがとうございます」と、ぼくはお礼を言ってから、「ジョン・カーターと、ラス・サバスは、まだ生きておられるのですね」ときいた。
「そうだ、ルザール号に乗っていられる」
ぼくは一瞬、嬉し泣きにわっと崩れそうになったが、やっとのことで我慢した。
だが、それもつかのま、恐ろしい心配がまた、ぼくの心に湧き上がってきた。ボル・ダジの体は、まだ健在だろうか。かりにそうだとしても、それを取り返すことは、果たして、人間|業《わざ》でできることだろうか。
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二十九 モルバスへの帰還
私たちはルザール号に乗り移り、そこで、ジョン・カーターとラス・サバスの温かい歓迎を受けた。ジョン・カーターは、ただちに艦隊をモルバスに向けるよう指令を下した。
ぼくが、第四培養室から発生した大肉塊の話をすると、ラス・サバスはひどく心配した。
「困ったことだ。そいつが、ボル・ダジの体を食ったりしなければよいが」
「そんな不吉なことは言わないで」と、ジャナイが叫んだ。
「この艦隊の目的は、ボル・ダジ救出にあるのですよ。どうかあまり心配をなさらぬよう」と、ジョン・カーターがジャナイをいたわるように言った。
ぼくは、ジョン・カーターに、デジャー・ソリスの容体をたずねた。
「ラス・サバスのおかげで、完全に回復したよ。ヘリウムじゅうの外科医が、さじを投げていたのだが。むろん治療には、かなりのひまがかかった。それでこんなに遅くなってしまい、君には苦労をかけてしまった」
その夕方、ぼくが上甲板を歩いていた時、ジャナイと出会った。ぼくは自分の顔にひけめを感じていたので、遠慮して横を向いていると、ジャナイのほうから私を呼び止めた。
「トル・ズル・バール。あなたが今まで私にしてくださったこと、何とお礼を言ってよいか、わかりません」
「お礼なぞいりません。私は、あなたとボル・ダジに尽くせれば、それでよいのです」
ジャナイは、じっとぼくを見つめた。
「もし、ボル・ダジの体が取り返せなかったら、あなたは、どんな気持ちがします」
「私は友人を一人、失うことになるでしょう」
「ボル・ダジが救えなかったら、この私は、どうなるでしょう」
「そんなことは心配されることはありません。ジョン・カーターが面倒を見てくれます」
「そうしたら、あなたは、ヘリウムに来てお住みになるわね」
「私は、生きていく希望が持てるかどうか、わかりません」
「どうして」
「私のような、ものすごい恐ろしい怪物に、住めるところなどないからです」
「そんなこと言っては駄目。あなたは、恐ろしくないわ。心が優しいのですもの。私もはじめはあなたが恐ろしかったけれど、今は、あなたは友だちです。私には、あなたの心の美しさ、高貴さしか、見えませんの」
ぼくは、ジャナイの優しさに打たれ、このうえもなくありがたく思ったけれど、しかし、それだからといって、この外形がどうにかなるわけでもなかった。
「むろんあなたは、ヘリウムでたくさんお友だちがおできになるでしょうから、その顔ではちょっと都合の悪いこともあるでしょう。でも、あなたは時々、私に会いに来てくださるわね? トル・ズル・バール」
「そう言ってくださるのはありがたいのですが、私は、ヘリウムには住めません」
ジャナイはまた、じっとぼくを見つめた。
「あなたのお心はわかります。その姿を気にしているからでしょう。でも、ラス・サバスが帰ってきたのだから、新しい体をもらえばよいと思うわ」
「でも、どこにそんな体がありますか」
「ボル・ダジの体があります」と、ジャナイがささやくように言った。
ジャナイは、どういうつもりで、そういうことを言ったのだろうと、ぼくは怪しんだ。それにジャナイは、ぼくをじっと意味ありげに見つめるのだ。ことによると、ジャナイは真相を悟ったのではないだろうか。
すっかり暗くなった夜空を、艦隊はモルバスへと、まっしぐらに進んでいくのだった。
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三十 肉塊の島
その夜、我々が上空を通過したツーノル大湿地帯は、不気味な美しさで満ちていた。夜空の無数の星や、二つの月が、乏しい水に影を映し、やわらかな反射光を投げかけて、岩ばかりの島々を魅惑的に見せていた。時として我々は、野蛮人の焚《た》くかがり火の輝きを遠くから臨み、彼らの粗野な歌声に混じって、野獣の声が、夜のしじまにこだまするのを聞くのだった。
「かつての大洋の名残《なご》りか」
いつのまにか、甲板の手すりの前にぼくと並んで立っていたジョン・カーターが言った。
「この名残りが消え去るとともに、一つの世界も消えるのだ。そして火星は、過去の栄華を誰一人記憶する者もなく、永遠の中に没し去るのだ」
「それを考えると、はかなく思います」
「ぼくもそう思う」
「しかし、あなたには、帰る地球があります」
彼は微笑した。「いずれにせよ、我々が火星の最後を思いわずらうのは、おこがましい話だ。少なくとも、あと百万年の間はね」
ぼくは笑った。「しかし、今のあなたのお言葉を聞いた時、私は火星の最後が目前に迫っているような感じがしてしまいましたよ」
「惑星の長い歴史から見れば、そうもいえる。かつては火星の大部分を占めていた大海原も、今では、この浅い、狭い沼地と化してしまったのだからね。地球だってそうだ。今でこそ全表面の四分の三を占め、八千メートル以上の深さを持つ大洋だって、いずれは同じ運命をたどるのだ」
「はかないことです」
「取り越し苦労はよそう」とジョン・カーターは笑った。「我々にはもっと重要な問題がある。親友の危機を前にしては、世界の終わりなど、問題ではない。もし君の体が取り返せなかった場合、君はどうするつもりなのだ」
「この体では、私は絶対にヘリウムには戻らないつもりです」
「その気持ちはわかるが、別な体に、移植するという手もある」
「それは、お断りです。もし、私の体が破壊されていたなら、私は、この体を破壊し、ついでに、脳髄も破壊するつもりです」
「短気を起こすなよ、ボル・ダジ」
「トル・ズル・バールと呼んでください、大将軍」
「なぜ、そういつまでも仮装舞踏会を続けるんだい」
「ジャナイには知られたくないからです」
彼はうなずいた。「君はジャナイの心変わりを恐れてるんだな」
「その通りです」と、ぼくは語気を強めて言った。
「好きなようにするさ。しかし、君は間違っている。もし、ジャナイが、君の心を愛しているのだったら、肉体なぞ問題ではない。また、もしジャナイが君の心を愛していなかったら、どんなに外見をつくろったところで、これまた、どうにもならないのだ」
「いいえ。私自身、このトル・ズル・バールの体を忘れてしまいたいのです。だから、むろんジャナイにも忘れてもらいたいのです」
と、ぼくは言い返した。
「それは無理な話だ。それに、ぼくがジャナイの気持ちを推しはかったところでは、ジャナイは、トル・ズル・バールそのものに、非常な愛着を抱いているぜ。ボル・ダジにとっては、トル・ズル・バールはとても手強《てごわ》い恋敵だ」
「よしてください。胸くそが悪い」
「男の本質は性格にあるのだ。それを包む肉体にあるのではない」
「そうは言っても、やっぱりトル・ズル・バールは、ジャナイの似合いの夫にはなれません」
「あるいは、君の言うことにも道理があるかもしれない。しかし、君がジャナイのために払った莫大な犠牲のことを考えると、君には、自殺よりももっと良い報酬が払われてもよいような気がする」
「いずれにせよ、明日にはすべての決着がつくでしょう。ああ、そういっているうちに、地平線がもう白みかかってきましたね」
ジョン・カーターは、しばらく物思いに沈んでいたが、しばらくして言った。
「一番困難な点は、ラス・サバスの実験所に入って、君の手術に必要な器具を取ってくることだ」
「その点はぬかりありませんでした。モルバスを脱出する時、私は、その必要な器具、装置類はことごとく、3―17号室に運び込んでおいたのです」
「それは良かった。ラス・サバスとぼくは、実はその点を一番心配していたのだよ」
我々がモルバスに着いた時には、すでに、すっかり明るくなっていた。
ルザール号は、地上数メートルのところまで下降して、3―17号室に通じる地下道の入り口のある島へと近づいてきた。近づくにつれて、世にも恐ろしい光景が、我々の眼前に展開してきた。
うごめき、のたうつ、組織の巨大な塊が、モルバスの本島から、沼地を越えて伸び広がり、今や、この小さな島を完全に包み込んでいたのだ。ものすごい無数の首が、我々を見上げて、威嚇的に絶叫し、無数の手が我々につかみかかろうとして、空しく空を切るのだった。
ぼくは地下道の入り口を捜した。しかしうごめく肉体に覆《おお》われきっていて、全く見えなかった。ぼくの心は沈んだ。とても駄目だ。肉塊は地下道に潜り込んで、3―17号室にまで達しているに決まっていると思ったのだ。
だがぼくは、地下道の入り口をふさいでおいたというわずかな望みに、必死にすがりついた。しかしそれにしても、あの身の毛もよだつような肉塊を乗り越えて、どうして、地下道にたどり着くことができようか。
ジョン・カーターは将官たちとともに、甲板の手すりにもたれて、しばらくはラス・サバスの創造した、この不気味な怪物を見つめていたが、やがて、将官たちに何事かを命じた。将官の二人は、ただちにその命令を実行に移すために立ち去っていった。
ジャナイは、ぼくに寄り添って立って肩を震わせた。
「ああ、恐ろしいこと――。ボル・ダジの体が残っているなんて、とても思えません」
ぼくは返事のしようがなかったので、ただ首を振ってみせた。ジャナイは、ぼくの手を強く握りしめた。
「トル・ズル・バール、もし、ボル・ダジの体がなくなっていても、決して短気は起こさないということを、私に約束して」
「そんなことは考えないことにしましょう」
「でも、約束してね」
ぼくは首を振った。「それは無理というものです。私が、このホルマッドの体を脱ぎ捨てることができなければ、生きる希望はないのです」
ぼくは、うっかりそんなことを口走ってしまってはっとしたが、ジャナイは別に気づいた様子もなく、眼下の恐ろしい光景を見おろしていた。
ルザール号は上昇を始めた。そして百七、八十メートルほどの高さまでくると、ぴたりと止まった。やがて焼夷弾《しょういだん》が一つ落とされて、それが爆発し、燃えさかる内容物をあたり一面にはき散らすと、肉塊はもがきのたうち始めた。それからは、数限りない焼夷弾が次々と落下していき、地下道の入り口を中心とした半径五十メートルほどの地域は、黒く焦げて、いぶっている焼肉が横たわっているだけの、安全地帯と化したのだった。
再びルザール号は下降を始め、ぼくは綱を伝って地面に降りた。ラス・サバスと二百人ほどの戦士たちが、ぼくの後に続いた。戦士たちは、剣とたいまつで武装しており、失地を回復せんとばかり、またも這い寄ってくる肉塊に、激しい攻撃を仕掛けたのだ。
ぼくは、心臓が口から飛び出さんばかりの気持ちで、地下道の入り口から土や石を取り去った。地下道が、肉塊に侵されていないことがわかると、私は喜びのあまり、大声で歓声を上げたいくらいだった。
しかし、長い地下道を3―17号室へと急ぐ時、ぼくの胸は、再び不安で一杯になった。最悪の事態の様々な光景が次々と、ぼくの頭の中をかすめては去った。ぼくは震える手で跳ね上げ戸を押しのけ、一瞬の後、ぼくは3―17号室の中に立っていた。
ボル・ダジの体は全くそのままだった。手術用器具も無事だった。ラス・サバスもすぐ後からやって来て、安心のため息をもらした。
ラス・サバスの指示を受けるまでもなく、ぼくは手術台に横になった。ラス・サバスは、ぼくの方にかがみ込み、ぼくは切開の軽い痛みを感じてから、意識を失った。
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三十一 冒険の終わり
ぼくは目を開けた。ラス・サバスが、ぼくの上にかがみ込んでいた。ぼくの横には、ホルマッドの、トル・ズル・バールの死体が横たわっていた。ぼくは、いまだかつて感じたこともないような、大きな安心と幸福と歓喜とで、涙をこらえることができなかった。それは、自分の体を取り戻せただけでなく、その体を、いまやジャナイの足下にひざまずかせることができるからだった。
「さあ、急がなければならない」と、ラス・サバスが言った。「このドアの向こうでは、肉塊が動きひしめき、叫び声を上げている。地下道の向こうの出口で、肉塊がまた勢力を盛り返したりしていないとよいがな」
「全くです。さあ、急いで戻りましょう」
ぼくは、テーブルから降りて、立ち上がった。体がちょっとこわばるのを感じた。
「無理もない。君は長いこと死んでいたのだからね」ラス・サバスは微笑した。「だが、すぐに元通りになるよ」
ぼくは長い間、トル・ズル・バールのぶざまな死体を見つめていた。
「その体は、君によく尽くした」
「全くです。しかし、これを置いていくことに、ぼくは少しも悔やみを感じません」
「おしゃれ者め」とラス・サバスは笑いながら言った。「こんな大力無双の体を捨ててでも、君はきれいな顔のほうがほしいのだな」
ぼくも笑った。ぼくが心から笑えたのは、本当に久しぶりのことだった。
地下道を、大急ぎで走って、再び小島に出てみると、戦士たちはまだ、執拗《しつよう》に成長してくる肉塊と戦っていた。この任務にあたる戦士たちはすでに四交替をしていた。
我々がモルバスに着いた時は、まだ朝だったが、今はすでに太陽が地平線下に沈もうとしていた。だが、ぼくには、まだほんの数分間の出来事のように思えた。
私たちは、ただちに艦内に引き上げられ、みんなから、口々におめでとうを言われた。
「今度ほど、心配したことはなかったよ」と、ジョン・カーターはほくの肩に手を置いて、ただそれだけ言ったきりだった。しかし、この言葉は、他の者たちから千万言を尽くされるよりも、ぼくにはずっとありがたかった。
ジョン・カーターは意味ありげに笑った。ぼくは、すぐにたずねた。
「ジャナイはどこに」
「ジャナイは心配で、いてもたってもおれなくなって、船室に引きこもって寝ているよ。早く行ってやれよ」
「ありがとうございます」
ぼくはすぐに走っていって、ジャナイの部屋の扉を叩いた。
「誰」
「ボル・ダジです」
ぼくは、ジャナイの返事も待たずに、ドアを開けて入った。
ジャナイは立ち上がって、ぼくに近づいた。その目は驚きに大きく見開かれていた。
「本当に、あなたなの」
「勿論ですとも」
ぼくはジャナイのそばに立った。ぼくはジャナイを両腕に抱き寄せて、愛の言葉をささやきたいと思った。だが、ジャナイはそれと察して、手を振りながら後ずさりした。
「待って。私はボル・ダジとは、まだほとんど面識がないのよ」
なるほど、それは本当だった。ジャナイは、トル・ズル・バールのほうに、ずっと親密だったのだ。
「私の質問に一つだけ答えてちょうだい」
「なんですか」
「チェイタン・オブは、どんな風に死んだのですか」
おかしな質問だった。ジャナイと私との問題に、どんな関連があるというのだろう。
「チェイタン・オブは、ぼくたちが実験所から逃げ出す時に、3―17号室に通じる廊下で、ホルマッドの衛兵に殺されたのです」
ジャナイの白い歯は、その顔にさっと浮かんだ明るい微笑に輝いた。
「それでは、あなたのおっしゃりたいことを、どうぞ」
「私は、あなたを愛しております。あなたも、ぼくを愛してくださるようなわけにはいかないでしょうか」
「私は、ボル・ダジのことは、ほとんど知りません。私が愛するようになったのは、トル・ズル・バールだったのです。でも私には、真相が、今はっきりとわかりました。あなたの、私に対するお骨折りは、何とお礼を申し上げてよいやらわかりません」
十日間というもの、大艦隊は、モルバス上空を飛んで、数限りない焼夷弾を落下し続けた。世界を飲みこむ恐るべき肉塊の芽が、完全に根絶やしにならぬうちは、焼夷弾の爆撃はやまなかった。そしてついに我々は、輝かしい帰国の途につくことができた。
ヘリウムの大都市が見えてきた時も、ジャナイとぼくは、並んでルザール号の船首に立っていた。ぼくは、ジャナイにたずねた。
「どうして、この間、チェイタン・オブの死のことをたずねたのですか」
「おばかさん」と、ジャナイが笑いながら言った。「モルバスから逃げ出した者のうち、この艦隊でまたモルバスに戻ってきたのは、トル・ズル・バールとガン・ハドと私だけでした。この三人のうち、私に会う前にあなたが会えたのは、トル・ズル・バールだけでした。ですから、あなたが、私の質問に答えられたので、あなたの頭に移植されたのは、トル・ズル・バールの脳髄だということがわかりました」
「そしてそれは、私の本当の脳髄なのです」
「なのでした、と言ってください」と、ジャナイは笑った。「今は、私のものですわ」(完)