戦乱のペルシダー
E・R・バローズ/佐藤高子訳
目 次
プロローグ
序
一 ステララ
二 暴風
三 アミオキャップ
四 レタリ
五 タンドールの猟人
六 愛の島
七 「コルサール人だ!」
八 マウ
九 愛と裏切りと
十 追跡
十一 グーラ
十二 「あなたなんかきらい!」
十三 三人の囚人
十四 二つの太陽
十五 狂気
十六 彼方の闇へ
十七 海へ
エピローグ
バロウズとファンたち 野田昌宏
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登場人物
デヴィッド・イネス……地底帝国ペルシダーの皇帝
アブナー・ペリー……イネスの親友
ガーク……イネスの第一副官
タナー……ガークの息子
エル・シド……コルサールの族長
ステララ……エル・シドの娘
血を好むボハール……エル・シドの部下
フェドール……ステララの真の父
ズラル……ラルの族長
レタリ……ラルの少女
マウ……コリピーズ人
ジュード……ハイム人
スカーヴ……ガーブの族長
バラル……スカーヴの息子
グーラ……スカーヴの娘
フィット……コルサール人
ジャ……アノロックの王
ジェイスン・グリドリー……バロウズの友人
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プロローグ
ジェイスン・グリドリーは無線通信《ワイアレス》の虫だ。そうでもなければこの物語も書かれることはなかったろう。ジェイスンは当年二十三歳。いやになるほどの男前だ――どんな虫にしろ、虫にしてはハンサムすぎる。事実、かれにはちっとも虫らしいところはない――ごく正常かつ健全なアメリカ青年なのだ。無線通信《ワイアレス》以外にずいぶん多くのことにくわしい。たとえば、航空学、それからゴルフ、テニス、ポロ、といったぐあいだ。
ところで、これはジェイスンの物語ではない――かれは物語の本筋とは別な一つの点景にすぎない――この物語をあらしめた、わたしの人生における重要な点景だ。そこでジェイスンに関しては、もう二《ふた》こと三《み》こと説明をくわえて、あとは真空管や波《ウエーヴ》や増幅器にゆだねるとしよう。ジェイスンはそういった事柄に関しては専門家だが、わたしはまったくの門外漢なのだ。
ジェイスンは一定の遺産収入のある孤児だ。スタンフォードを卒業するとターザナにやってきて、二万平方メートルばかりの土地を買った。これがそもそもかれとの出会いである。
家を建築中、かれはわたしの事務所を根城《ねじろ》にしてわたしの書斎にしょっちゅういりびたっていた。のちにわたしのほうからかれのいわゆる新築の〈研究室〉を訪問して、このおかえしをした――かれの屋敷はラテン・アメリカの農園風の閑静なもので、裏にくだんの広々とした閑静な研究室がある――また、わたしたちは早朝の冷気の中を、馬を駆ってサンタモニカの山々を乗りまわしたりした。
ジェイスンは、なんでも無線《ワイアレス》の新しい原理とやらを実験中である。それにかんしては何も申しあげないほうがわたしの身のためというものだろう。というのも、それがなんであれ、わたしはこれっぽちの知識も持ちあわせておらず、また、将来も知らずじまいに終わるだろうからだ。
あるいはわたしは年をとりすぎているのかもしれないし、脳が弱すぎるのかもしれない。またおそらくは、単に興味がないだけなのかもしれない。が、わたしとしては、こと無線《ワイアレス》にかんしては手のほどこしようもないほど無知であるという事実を、この最後の理由に帰着せしめたいと思う。つまり興味がないという理由だ。これで面目も立つ。
ところでそのわたしにもわかっていることがある――というのもジェイスンが話してくれたからだが――それは、かれがもてあそんでいるそのアイデアというやつが、まったく新しい、誰もが思いもおよばないものを示唆《しさ》しているということだ――とにかくそいつを波《ウエーヴ》と呼んでおこう。
かれの話では、このアイデアは空電の気まぐれからヒントを得たもので、それをとりのぞく方法を模索しているうちに、大気中に過去におけるどの科学の法則にもしたがわずに作用している伏流を発見したのだ。
ジェイスンはターザナの別荘に無線局《ステーション》を創設し、さらに、三、四キロ離れたわたしの農場の裏にもう一局設立した。この二局の間でわたしたちはある種の摩訶不思議な媒体《メディア》を通してたがいに話をしあった。この媒体《メディア》というのが、他のあらゆる波《ウエーヴ》、あらゆる局を、それらに探知されることなく、かつ妨害をあたえることもなしに通過するらしいのだ――それは、同じ部屋の中にあって、同じアンテナを通して受信しているジェイスンの普通の無線機にも、ぜんぜん影響をおよぼさないほど無害なものだ。
とはいえ、ジェイスン以外の者には誰にとってもさほどおもしろくもないこのことが、そもそもペルシダーのタナーの驚くべき冒険物語の端緒を開くこととなったのである。
ある夜、ジェイスンとわたしとは、毎度のことながらかれの〈研究室〉にみこしをすえて、無数のテーマを論じあっていた。そして、ジェイスンのいつものくせで、話は〈グリドリー波〉――わたしたちは例の波《ウエーヴ》のことをこう命名した――のことにもどりつつあった。
ジェイスンは、ほとんどいつもイヤホーンをつけっぱなしだった。話をしている相手にとってこれほど興ざめなことはない。しかし、わたしにはかれがイヤホーンをつけっぱなしでいるということが苦にならなかった。人間というものは一生かけて他人の話に耳を傾けなくてはならないものだが、そういった大方の話ほどもわたしをいらだたせない。わたしは時間をかけて沈思黙考しているのが好きな性質《たち》なのだ。
やがてジェイスンは、頭からイヤホーンをはずすと、「こいつはとても素面《しらふ》じゃいられない!」と叫んだ。
「なんだって?」とわたし。
「例のやつがまたはいってきてるんですよ。声が聞こえる。ごくかすかだが、まちがいなく人間の声だ。相手は人類にとっていまだ知られざる言語をしゃべっているぞ。聞いてると気が変になりそうだ」
「たぶん火星だろ」わたしはいってやった。「それとも金星かな」
かれは眉をしかめ、それからにわかに表情を変えてちらと笑顔を見せた。かれがよくやるしぐさだ。
「それともペルシダーでしょうかね」
わたしは肩をすくめた。
「でもねえ、提督さん(かれは、わたしが海岸でヨットのキャップをかぶるのでわたしのことをこう呼んでいる)、ぼくが子供のころはあなたのあの火星やペルシダーのとてつもない物語を一字一句信じていたんですよ。地底世界は、ぼくにとってはシエラ・ネヴァダ山脈の高峰や、サン・ホアキン渓谷や、ゴールデンゲートと同様、実在していたんですからね。ヘリウムの双子都市なんざ、ロス・アンゼルスよりもよく知っているような気がしてたもんですよ。
デヴィッド・イネスとペリーじいさんが地殻を貫通してペルシダーへ行ったあの旅だって、ぼくにはちっとも不合理に思えませんでしたよ。そう、子供のころのぼくにとっては、あれはどこをとってもみな絶対的な真実だったんだ」
「で、もう二十三にもなった今では、あれはどこをとっても真実であろうはずがないと思ってるんだろ」わたしはにやりとしていった。
「ところが真実なんだよっていいたいところなんでしょ?」かれは笑いながら問いつめた。
「わたしは誰にもあれが真実だといったことはないよ。ひとには考えたいように考えさせるさ。だがわたしにも同じ権利を保留させてもらうよ」
「そんなこといって、あなたはペリーのあの鉄製もぐらには八百キロの地殻を貫通することが不可能だってことをよくごぞんじなんでしょ。妙ちきりんな爬虫類や石器時代の人間が住む地底世界なんて存在しないってことも、ペルシダー皇帝なんていないんだってことも、あなたにはよくよくわかってるんだ」ジェイスンはだんだん興奮してきたが、かれ持ち前のユーモアのセンスが頭をもたげてその場を救った。かれは声をたてて笑った。
わたしはいった。
「美女ダイアンのような女の存在を信じるのは楽しいね」
「そうですね」かれは同意した。「でもあなたが狡猾な男フージャを殺しちまったんでがっかりだな。ちょっとイカす悪党だったのに」
「悪党ならいつでもごまんといるよ」
「悪党がいるおかげでお嬢さんたちはいつもスタイルがよくて、肌も女学生時代のままつやつやしているってわけだ」
「どうして?」
「追っかけられるもんだからいい運動になるんですよ」
「なんだ、わたしをからかってるのかい」わたしはかれをなじった。「だがわたしが単純な歴史家だということを覚えておいてもらいたいね。もしも逃げるのが娘さんたちのほうで、追っかけるのが悪党だとしたら、その事実をありのままに記録しなくちゃならないからな」
「|ご冗談でしょう《バロニイ》!」ジェイスンは正真正銘のアメリカの大学生用語で叫んだ。
ジェイスンはふたたびイヤホーンをかけ、一方わたしは大昔のほらふきが書いた物語を読むべく目をもどした。この本の著者はバカ正直な読者をあてこんでひともうけするつもりだったのだろうが、どうやらもうけそこなったものと思われる。こうしてわたしたちはしばらくの間すわっていた。
やがてジェイスンがイヤホーンをはずしてわたしのほうをむいた。「今、音楽がはいってたんです。奇妙な、ぞっとするような音楽だった。それから突然大声でどなる声がはいって、ぶんなぐる音が聞こえたような気がした。それから悲鳴と銃声だ」
「きみも知ってのとおり、ペリーは地底世界ペルシダーで火薬の実験をしていたんだよ」わたしはにやりとしてジェイスンに思いださせてやった。だがかれは真剣な面持ちで、わたしの軽口にはのってこなかった。
「ねえ、むろんあなたは地底世界があるという原理がここ何年間か実際に云々《うんぬん》されているのをごぞんじでしょう」
「ああ、そういった理論を解説弁護した論文を読んだことがあるよ」
「それによると、極地に開口部があって地球の内部に通じていると仮定していますね」
「その原理なら、一見|反駁《はんばく》不可能に見える多数の科学的事実によって裏づけされているよ――広大な極地の海、北の果てに温暖な水があるということ、極地方から南にむかって漂流してくる熱帯植物、北極光《オーロラ》、磁極などだ。それにエスキモーは、自分たちがずっと北の暖かな海から来た一族の後裔だという伝説を固執している」
「その極地の開口部の一つに一度行ってみたいな」イヤホーンを頭にもどしながらジェイスンは物思いに沈んだ。
ふたたび長い沈黙がつづいた。が、それもやがてジェイスンのかん高い叫び声に破られた。
「ほら、聞いてごらんなさい!」
イヤホーンを調節すると、これまでグリドリー波では聞いたこともないものが耳に飛びこんできた――信号だ! ジェイスン・グリドリーが興奮しているのも無理はない。地上ではかれの局以外にグリドリー波の波長にあわせられる局はないのだから。
信号! これはいったいどういうことだろう? イヤホーンをかなぐりすててこの驚くべきできごとをジェイスンと討議すべきか、イヤホーンをそのままにして聴取しつづけるべきか。わたしは相反する感情に身を引きさかれる思いだった。
わたしは、いわゆるややこしい信号の専門家ではない。しかし三語ずつ一組になった簡単な二文字の信号はわたしにも容易にわかった。「D・I、D・I、D・I」休止、「D・I、D・I、D・I」休止、というように一組ごとに休止がはいる。
ジェイスンをちらと見上げると、いったいこれはどういうことなんだろうといいたげな、なんとも怪訝《けげん》な表情をたたえたかれの目とぱったりあった。
信号はやんだ。ジェイスンは受信したD・Iの信号と同じ区切り方で自分のキイをたたいて、かれの頭文字を「J・G、J・G、J・G」と送信した。ほとんど間髪を入れずこちら側の信号は中断された――送信者の興奮状態が惻々《そくそく》と感じられる。
「D・I、D・I、D・I、ペルシダー」信号は機関銃のようにわたしたちの鼓膜にとどろいた。ジェイスンとわたしとはたがいに相手の顔を見つめながらあっけにとられてすわっていた。
「いたずらだ!」わたしは叫んだ。ジェイスンはわたしの唇を読んで首をふった。
「どうしていたずらだっていえます? グリドリー波を送受信するような装置を持った局は、この地球上ではほかにないんですよ。だからそんないたずらをしようにもできないはずです」
謎のステーションはふたたび送信をはじめた……「もしもこれを受信したらわたしの信号を反復してください」、そして、「D・I、D・I、D・I」と、そこで終わった。
「あれはデヴィッド・イネスだ」ジェイスンは考えこんだ。
「ペルシダー皇帝だ」わたしが言葉をついだ。
ジェイスンは相手の通信のとおりに、「D・I、D・I、D・I」と送信し、ひきつづき、「どこの局か? 送信者は何者か?」と送信した。
「こちらペルシダーのグリニッジ王立測候所。送信者はアブナー・ペリー。そちらは誰か?」
「こちらカリフォルニア州、ターザナの私立電波研究所。送信者はジェイスン・グリドリー」ジェイスンが応答した。
「エドガー・ライス・バロウズと連絡をとりたいが、かれをごぞんじか?」
「かれはここにすわってわたしといっしょに傍受している」ジェイスンが答えた。
「それが事実ならありがたいのだが、どうやってそれがわたしにわかる?」ペリーがかさねてたずねた。
わたしは、いそいで次のようなメモを書きつけてジェイスンに手渡した。「かれの最初の火薬工場が火事になって、かれの作った火薬をシャベルでぶっかけなかったら建物は全焼するところだったあの事件を覚えているかとたずねてくれたまえ」
ジェイスンはこのメモを読んで、にやりとしてそれを送信した。
「そんなことをしゃべるなんて、デヴィッドも人が悪い」返事がかえってきた。「だが、これでバロウズが実際にそこにいることがわかった。その事件を知っているのはかれだけのはずだから。かれに長文のメッセージを送りたい。用意はできているか?」
「できている」ジェイスンが答えた。
「では、スタンバイ」
そして、アブナー・ペリーが地底のペルシダー帝国から送ってよこしたメッセージがこれである。
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序
デヴィッド・イネスとわたしが地殻の内皮を突破して未開のペルシダーに到来してこのかた、ほぼ十五年の歳月が流れたにちがいない。だが永遠の真昼の空には不動の太陽がかかり、運行する月もなければ星もないのだから、時は無限なのだ。だからあれは百年前のことだったかもしれないし、一年前のことかもしれない。誰にもわからないことだ。
むろん、デヴィッドが地上に帰って数多くの文明の賜物を持ち帰ってきてくれたから、時間をはかる方法はあった。だが人々はそれを好まなかった。かれらは、それがかつて感じたことのないような束縛感をもたらすということに気づき、それをきらって無視するようになった。そこでとうとうデヴィッドは、親切心から、ペルシダーでは時間を廃止するという勅令を発したのだった。わたしにはこれは一つの退歩のように思えたが、わたしはもうあきらめているし、おそらくそのほうが幸せなのではないかとも思う。つまるところ、時間というやつは仕えにくい主人だ。太陽の奴隷であるあなたがた地上世界の人々がそのことに思いを致すなら、それが事実だということを認めざるをえないだろう。
ここペルシダーでは、われわれは腹がすいたときに食べ、疲れたときに眠る。旅行は出発の瞬間にはじまるのだし、目的地に到着するのはそこへたどりついたときだ。われわれの誕生以来、地球が太陽の周囲を七十回まわったからとて、われわれは年老いることはない。というのは、そういったことが起っていると知らないからだ。
たぶんわたしはここに十五年間いたと思うが、そんなことはどうでもいい。来た当座は、無線《ワイアレス》に関しては何一つ知らなかった――わたしの研究は別の方面に属していたからだ――が、デヴィッドが地上世界からもどったとき、多くの科学図書を持ち帰った。無線《ワイアレス》に関するわたしの知識はすべてそれらから学んだものだが、それだけで二つのりっぱな局《ステーション》を設立することができた。一つは当グリニッジにあり、一つはペルシダー帝国の首都にある。
しかし、どんなにやってみても地上世界からはなんの通信も得られなかったので、地殻は無線《ワイアレス》を通さないのだとおもいこみ、ほどなくこころみるのをあきらめた。
事実、われわれは局《ステーション》をめったに利用しなかった。とどのつまり、ペルシダーは石器時代から脱しはじめたばかりだし、石器時代のくらしでは無線《ワイアレス》はさしせまって必要とは思えない。
しかし、わたしはときどきそれで遊んだ。そして、幾度かペルシダーのものでない声や物音を聞いたような気がした。それらは、興味ある可能性を感じさせるにはあまりにもかすかな、はかないものではあったが、それでもなにかひどく人の気持をかきたてるものを暗示していた。そこでわたしは改良と調整に着手して、ついに現在進行中のこのすばらしいことを実現させたのだ。
あなたとこうして話ができたことは無上の喜びだが、それにもまして、あなたにこうして救いをもとめることができてうれしく思う。デヴィッドは現在窮地に立っている。かれは北方にとらわれの身となっているのだ――北方といってもペルシダー人には羅針儀《コンパス》のいわゆる三十二方位は知られていないのだから、かれとわたしとが北方と称している地方のことだが――。
しかし音信はある。かれはたよりをよこして、そのなかで、地上世界からの救援を可能ならしめる驚くべき説を知らせてきた。それは、もしかして――いや、まず最初にことの顛末をお話しよう、デヴィッド・イネスの身の上にふりかかった災難と、そこにいたるまでの経緯《いきさつ》を。そうすれば、実際に地上世界からデヴィッドを救援することができるかどうか、いっそうよく判断していただけるだろう。
すべては、われわれがかつてペルシダーを支配していたマハール族に勝利をおさめたそのときにはじまる。よく組織され、マハールやその傭兵のゴリラ人間サゴスの知らない火器をそなえたわが軍が、爬虫類の怪物どもを打破し、ぬめぬめした身体を持ったその一群を帝国の境界から追い出したとき、地底世界の人類は、地底史上はじめて万物の秩序のなかに正当な地位を獲得したのだった。
しかしわれわれの勝利は、のちにわれわれを苦しめることとなった災厄の基盤を作ってしまったのだ。
しばらくの間、ペルシダー帝国を構成するどの王国の領土内にもマハールの姿はなかった。が、やがてかれらの噂をそこここで耳にするようになった。かれらの小集団が人里離れた海岸や、湖岸に住みついているというのだ。
そういったマハールどもは面倒をおこさなかった――過去の力はその面影もとどめていなかったのだ。サゴスたちは帝国の連隊に編入され、マハールどもはもはやわれわれに手出しをするすべを持たなかったが、それでもわれわれはかれらを仲間にいれる気持はなかった。連中は人喰いだから、連れのない猟人がかれらのあくなき食欲から無事でいられるかどうか確信が持てなかったからだ。
かれらに去ってもらいたかったので、デヴィッドは軍隊をさしむけた。ただし、まずかれらと交渉して穏便に帝国を去るように説得をこころみよという命令つきだった。新たな戦いにまきこまれたら、こんどこそかれらは完全に壊滅するかもしれないのだ。
サゴスがこの遠征隊に同道した。というのも、ペルシダーの全生物のなかでかれらだけがマハールの第六感覚四次元語で会話することができるからだ。
その時の遠征隊が持ち帰った話はかなりあわれなもので、迫害と不幸の物語がいつもそうであるように、こんどもまたデヴィッドの同情心を動かした。
帝国から追放されてのち、マハールどもは平和にくらせる憩いの場をさがしもとめた。かれらは、哲学的な精神をもってさけがたい運命を甘受するとわれわれに保証し、二度とふたたび人類にたいして挑戦する気持は抱いていないし、どんな形であれ、失われたかれらの支配権を回復しようとこころみるつもりはないと請け合った。
人気《ひとけ》ない大海のはるかな岸辺に、かれらは平和に住みついた。が、その平和も長つづきはしなかった。
大きな船がやってきたのだ。それはマハールに、かれらが最初に目にした船を思いださせた――デヴィッドとわたしが建造した船、われわれの知るかぎりでは、ペルシダーの沈黙の海を航行した最初の船だ。
当然われわれは、この地底世界に船を建造することができるほどに進歩した民族がいることを知っておどろいた。だがほかにもまだおどろくことはあった。マハールたちは、その船の乗組員がたしかに火器を持っていたといい、船と火器があるためにわれわれペルシダー帝国連合軍とまったく同等の威力があり、またずっと獰猛《どうもう》だともいった。その連中はただ楽しむために殺すというのだ。
最初の船が去ると、マハールたちはこれで平和に暮らせるかと思った。が、この夢も束の間《ま》に消えた。ほどなく最初の船が再来したのだ。そして、それとともに何千という血に飢えた敵を乗せた船が多数来襲した。かれらの武器にあっては、さしも巨大な爬虫類も無防備にひとしかった。
ただひたすらに人間の手をのがれて、マハールたちは新しい住処《すみか》をすて、わずかに帝国よりに移動した。しかしそのときには、敵は相手を迫害することだけしか眼中にないようすだった。かれらはマハールを狩りあさった。見つかったが最後、マハールは獰猛な連続攻撃の前にふたたび退却せざるをえなかった。
ついにはマハールたちは帝国の領土内に避難してきた。国境線に派遣されたデヴィッドの遠征隊が、現地報告をたずさえて帰還するのと同時に、われわれはマハールの話が真実であるという別の確証をえた。最北の辺境から、みなれぬ野蛮な白色人種の一族が来襲したという報告がもたらされたのだ。
スリアの王グールクから来たそのたよりは、ひどくとりみだしたものだった。かれの国の境界線は〈恐ろしい影の国〉のむこうまで広がっているが、一部の猟人たちが侵入者の奇襲を受け、二、三人をのぞいて全員が殺され、あるいは捕えられたというのだ。
グールクは戦士を送りこんだが、かれらもまた多勢に無勢で同様の運命におちいったため、グールクはデヴィッドに伝令を送り、救援隊を急派してほしいと要請してきた。
最初の伝令が到着するかしないかに、次の伝令が、スリアの主要部落が陥落し、掠奪にあったという知らせを持ってきた。と、つづいて三人目が到着した。これは侵入者の指揮官からつかわされた伝令で、デヴィッドがみずから貢物《みつぎもの》を持ってこなければかれの国をほろぼし、人質にとってある捕虜を殺すぞというものだった。
これに応じてデヴィッドは、捕虜全員の釈放と、侵入者の撤退を要求すべく、ガークの息子タナーを派遣した。
ただちに、帝国内のもよりの国々に伝令がとばされた。そしてタナーが〈恐ろしい影の国〉に行きつくよりさきに、一万人の戦士が、皇帝の要請を強力におしすすめ、野蛮な敵をペルシダーから駆逐するために同じ道筋をたどって進軍していた。
ペルシダーの不思議な衛星の下にひろがる〈恐ろしい影の国〉にデヴィッドが近づいたとき、地平線のないはるかな前方に一筋の太い煙の柱が見えた。
つかれを知らぬ戦士たちはみずから歩を早めた。侵入者がまたしても別の部落を攻略して火を放ったということが、煙の柱を目撃したものすべてに察しられたからだ。
そこへ婦女子ばかりの避難民がやってきた。そしてその後につづいて、わずかばかりの戦士が現われた。かれらは、浅黒い、ひげづらの異邦人をくいとめようと奮戦していた。異邦人たちは、大昔の火繩銃に似て銃口がラッパ型に開いた奇妙な武器を持っていた。大きくて不格好なその武器は、焔と、煙と、石と、金属の破片を噴出していた。
ペルシダーの兵士がかれらの十倍もの野蛮な敵をくいとめることができたのは、こっちの火器のほうが現代的だったからで、その製法と使用法を教えてやったのはデヴィッドとわたしだ。
たぶんスリアの戦士の半数はこの火器で武装していたと思われるが、かれらが完敗をまぬがれたのも一《いつ》にかかってこの火器のおかげであり、壊滅から救われたのもおそらくはそれらの威力によるものと思われる。
避難者たちの先頭が救援隊をみとめたとき、どっと歓声がわきおこった。
グールクとその国民は、他の遠隔の数カ国と同様、帝国に忠誠をつくすのを往時ためらっていたものだが、こうして連盟の価値というものが現実に立証されてかれの疑念もはれ、〈恐ろしい影の国〉の国民もその王も、ともどもデヴィッドにもっとも忠実な属国となったものとわたしは信じている。
充分に武装した一万人の戦士があげた戦果はすぐにあらわれた。敵ははたと行き詰まり、わが軍の進撃につれて後退しはじめた。もっとも、退却しながらも敵はよく戦った。
デヴィッドはグールクから、タナーが人質としてとらわれているということを聞いた。そこでデヴィッドは、われわれの手におちた捕虜の一部と、タナーやその他のペルシダー人とを交換すべく数回にわたって敵と交渉を開こうとしたが、はたさなかった。
わが軍は侵入者を帝国の境界線をはるかにこえてかなたの岸辺に駆逐した。多くの兵を失い、苦戦の末、ついにかれらは消耗した軍隊を乗船させることに成功した。火繩銃同様、古風な船だった。
船尾と船首は極端に高く、後甲板は下から数層つみかさねた屋形船のようになっていた。水線から上は、いたるところに一見複雑な模様がきざまれていて、各船とも船首には他の部分と同じく派手な色を塗った船首像――たいがいは裸婦とか人魚の等身大の像かあるいは超等身の像――をいただいていた。
乗組員そのものも異様で、はなやかだった。けばけばしい色の布を頭に巻き、幅広い派手な帯《サッシュ》をしめ、垂れ縁のついたばかでかい長靴をはいている――ほかに半裸ではだしのやつらもいた。
火繩銃のほかには、巨大なピストルと短刀をベルトにさし、腰にはカトラス(そり身で幅広い短剣)をつっている。もじゃもじゃのひげといい、獰猛な顔立ちといい、おおむね醜男《ぶおとこ》ぞろいだが、同時に挿絵からぬけでたようにはなやかな連中でもあった。
諸国での戦闘でとらえた最後の捕虜たちからデヴィッドが聞いたところによると、タナーは今なお生きているということで、侵略者の首領はわれわれの優秀な武器や火薬の秘密をかれから聞きだせたらと考えて、自分の国へつれて帰ることに決めたということだった。わたしは、最初の失敗にもかかわらず、自慢じゃないが、ついに燃えるのみでなく、充分な発火力を持った火薬を作りあげた。もっかのところ、わたしは、音もたてず、煙もでない火薬を完成中だ。もっとも、これはよぎなく告白するのだが、この最初の実験は期待とはおよそかけはなれた結果に終わった。すなわち、試作品はわたしの鼓膜を破らんばかりの勢いで爆発し、もうもうたる煙が目にしみてめくらになったかと思ったほどだった。
敵船がタナーをつれさるのを見て、デヴィッドは悲しみのためにすっかり気落ちしてしまった。というのも、タナーは皇帝と、慈悲深い皇后〈美女ダイアン〉の特別のお気にいりだったからだ。二人にとって、タナーは息子も同然だった。
この海にはわが軍の船はなかったので、デヴィッドは軍をひきいて後を追うことができなかった。が、そうかといってあらゆる救出手段を講じつくすまで親友の息子を見すてる気にはならなかった。
捕虜のほかに、デヴィッドは敵が兵士を乗船させるために使った小舟を一|艘《そう》手にいれた。そもそもこれがデヴィッドを途方もない計画にのりださせるきっかけとなったのだ。
小舟は全長約五メートルで、オールと帆の両方をそなえていた。船体は幅が広く、どこから見ても頑丈で、航海には持ってこいだった。もっとも、ペルシダーのどこの海でもそうだが、短気で食欲旺盛な大怪獣の住む未知の海の危険にたちむかうには、なさけないほどちっぽけだったが――。
岸辺に立ち、去りゆく船の輪郭がかなたに没するのを見まもりながら、デヴィッドは決心をかためた。かれの周囲には、ペルシダー連合帝国の艦長や王がいならび、その後に一万人の戦士が武器によりかかって立っていた。かたわらには、厳重な監視つきの捕虜が沈んだ面持ちで去りゆく仲間をじっと見送っていた。絶望と羨望のいりまじったどんな気持で見送っているのだろうか。その胸中たるや察しられようというものだ。
デヴィッドは部下のほうにむき直った。「あそこに去っていく船は、ガークの息子タナーと、おそらくあと十人のペルシダーの若者をつれさった。敵がわれわれの仲間を返してくれようとはとうてい考えられないが、仲間が、あの野蛮で血に飢えた一族の手中にあってどんな待遇をうけるかは容易に想像できる。追跡の道がたとえ一筋なりとも残されているうちは、仲間を見すてることはできない。その道というのはこれだ」かれは広大な海原を手でさししめした。「そしてこれを越える手段はここにある」かれは小舟をゆびさした。
「これでは二十人と乗れますまい」皇帝のそばに立っていた一人が叫んだ。
「三人乗れればよいのだ」デヴィッドが答えた。「武力ではなく計略で救出するのだよ。ただ敵の要塞をさぐりあてるだけでもよい。そうすればいったん引き返してきて、それから相手を打ち負かせるだけの兵力をひきいて行くことができる」
「わたしは行く」皇帝は結論をくだした。「誰かいっしょにくるものはいないか?」
捕虜をのぞいて、かれの声のとどく範囲に居合わせたものはたちまちいっせいに武器を頭上にきらめかせ、われこそはご奉公をと進みでた。デヴィッドは微笑した。
「そうくるだろうと思っていた。だがみんなを連れていくことはできない。一人だけでよいのだ。ペルシダーの最も偉大な船乗り、アノロックのジャを連れていこう」
どっと歓声があがった。というのもアノロックの王で、ペルシダー海軍の総司令官もかねているジャの名は、広く帝国中にとどろいていたからで、一同は選ばれなかったことにたいして失望を感じたものの、デヴィッドの人選の賢明さを充分にみとめたのだった。
「しかし、成功を望むには二人では少なすぎる」ガークが意見をのべた。「タナーの父、このわたしが同行することをゆるしていただきたい」
「あの小舟に何人つめこもうと、それだけの人数では何もならない」デヴィッドは答えた。「それなら今一つの人命を危険にさらすことはないではないか? 行く手にひかえる未知の危険を、もしも二十人が突破することができるならば、二人でもできるだろう。それに人数が少ないほうがずっと多くの食糧と水を持っていくことができる。われわれが向かわんとする大海はどこまで広がっているか推測もつかないし、凪《な》ぎの間も長いことだから、そのいずれにもそなえなくては」
「しかしあの小舟に二人というのはあまりにも少なすぎます」別の一人がいさめた。「それにガークのいいぶんが正しい――タナーの救出に父親が参加してしかるべきです」
「ガークは帝国で必要な人物だ」デヴィッドは答えた。「かれは残留して、わたしがもどるまで皇后のために軍隊を指揮してもらわなくてはならない。しかし、今一人がわれわれとともに舟に乗る」
「それはだれです?」ガークがたずねた。
「捕虜の一人だ。自由とひきかえに、すすんでわれわれを敵国へ案内してくれるものがきっと容易に見つかるだろう」
これはむずかしいことではなかった。この案が持ちだされると、どの捕虜もすすんで志願して出たからだ。
デヴィッドはフィットと名乗る若者を選びだした。この若者は捕虜仲間のだれよりも、率直で正直そうな顔つきをしているように見えた。
つぎは小舟に食糧を積みこむ仕事だった。けものの胆嚢《たんのう》でできた貯蔵用の袋は水で満たされ、大量のとうもろこしと、干魚と、干肉が別のいくつもの袋につめこまれた。野菜や果物も同様だった。全部を小舟に運びこんだときには積みきれないほどになっていた。これらの食糧は、時間があらゆる計算にはいりこんでくる地上世界でなら、三人が一年間の航海をするのに充分なだけあったろうと思われる。
デヴィッドとジャに同行することになった捕虜フィットは、食糧はこの四分の一で充分だ、これから通るはずの道筋には水を補給できる地点が何カ所かあるし、獲物が豊富で、野生の果実や木の実や野菜もどっさりとれる場所があるとうけあった。しかしデヴィッドは自分で決めた食糧をただの一グラムもへらそうとはしなかった。
三人がいよいよ出帆しようというときになって、デヴィッドはガークにつぎのようにいい残した。
「きみは敵船の大きさと武装状態を見たろう、ガーク。きみにあたえる最後の命令だ、ただちに敵のあの大船に首尾よく対抗できる船を一船建造したまえ。この海岸で建造するのだ。そしてその間に探険隊を派遣して、この大洋からわれわれの海に通じる水路をさがすのだ。もしそれが見つかったら、われわれの船を全部利用することができるし、アノロックの造船所を使用することによってさらに充実した海軍を、もっと早く作れるだろう。
船が五十隻完成して兵を乗り組ませたら、われわれの救援に出発してくれ。それまでにわれわれが帰っていなかったらな。この捕虜たちを殺してはいけない。かれらの国へきみたちを案内できるのはかれらだけなのだから、よく面倒を見てやることだ」
こうしてペルシダー皇帝デヴィッド一世とアノロックの王ジャは、捕虜フィットとともに小舟に乗りこんだ。人々は心をこめた手で、ペルシダーの海の、油を流したようなうねりにむかって小舟を押しだした。一万人ののどが三人の前途に声援をおくり、上むきにカーヴした、水平線のないかなたにたちこめる靄《もや》に小舟がとけこんでいくのを、一万人の目が見送った。
かくてデヴィッドは、あてどない冒険、しかし光輝ある冒険にのりだした。はるか帝国の首都では、美女ダイアンが涙にくれているだろう。
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一 ステララ
大きな船体は、大砲の反動と小銃隊《マスケット》の銃声にふるえていた。姉妹船に搭載されている砲のうなりと、それ自体の砲が発するうなりは耳を聾《ろう》せんばかりだ。燃える火薬と煙霧で、甲板の下にはきなくさい空気がたちこめている。
ペルシダーのタナーは、これらの音を聞き、硝煙の匂いをかいだ。かれは他の捕虜たちとともに船底に鎖でつながれていた。錨鎖がガラガラと鳴る音がきこえる。かれは、自分の手足をいましめている枷《かせ》がつないであるマストがしなうのを感じた。船体の動きが変化して船が進行中であることを告げている。
やがて砲声はやんだ。規則的な上下動が、船が一定の針路を航行中だということを示していた。船倉は暗くてタナーには何も見えない。ときおり、捕虜たちがことばをかわした、しかしかれらはみな欝々《うつうつ》たる思いを抱いていたので、たいがいはおしだまってじっと待っていた――待つ? はたして何を?
ひどく空腹になり、のどがからからに乾いてきた。このことでかれらは船がはるか沖合いにあることを知った。かれらは時間については何も知らない。ただ空腹で、のどが乾いたということで、船が沖合いを――未知の海のはるか沖合いを、未知の港めざして――航行中にちがいないということがわかっただけだ。
やがてハッチが開いて、男たちが食物と水を持ってきた――粗末な食物と、いやな匂いのする水、しかもその味たるや匂いよりもなお悪いときている。だが水にはちがいなかったし、かれらののどは乾いていた。
一人の男がいった。「タナーというやつはどこにいる?」
「わたしがタナーだ」ガークの息子が答えた。
「甲板でお呼びだぞ」と、その男はいって、大きな鍵でタナーの鎖をマストにしばりつけてあるがっちりした手作りの大きな錠前をあけた。「ついてこい!」
ペルシダーの永遠の真昼のまばゆいひざしが、これまで監禁されていた暗い穴から甲板にはいだしてきたサリ人の目をくらませた。目が光に耐えられるようになるまでたっぷり一分間はかかったが、番兵に乱暴につきとばされ、タナーは目が使えるようになる前に、もう船尾にある上甲板に通じている長い階段をよろめきながら上っていた。
一番上の甲板にのぼりつくと、そこにはコルサールの族長たちが集まっていた。女も二人いる。一人の女はかなりの年輩で醜いが、もう一人は若くて美人だった。だがどっちの女もタナーの眼中にはなかった――かれはもっぱら敵の男たちに興味があった。というのも、かれが戦い、そして倒すことのできる相手はこれらの男たちだったからだ。サリ人タナーにとって、敵としての興味といえばそれだけだ。タナーはがんらい、それがたとえ敵の女であっても、女と戦うことのできる人間ではなかった。しかし無視することならできたので、かれはそうしたのだった。
タナーは、もじゃもじゃのひげがほとんど顔中をおおっている巨大漢の前に引き出された――横柄な大男で、真紅のスカーフを頭に巻いている。しかし刺繍をほどこした袖なしの前開きのジャケットを着ているほかは上半身は裸で、腰の周囲には、また別の派手な帯《サッシュ》を巻き、そこにピストル二挺と長剣を二振りさしている。そのほか、柄《え》に真珠と準宝石で豪華な象眼細工をほどこしたカトラスをつるしている。
コルサールの族長エル・シドはたいした男だった――頑丈で、癇癪《かんしゃく》持ちで、あばれもので、こんな男でもなければあらくれぞろいのコルサール人どもの首領はつとまるものではない。
そびえる船尾楼甲板のエル・シドの周囲には、みな同じような体格の、筋骨たくましい悪漢の一隊がずらりと居並び、はるか下の中部甲板には上甲板の連中より身分の低い人殺しども、つまり苛酷な作戦の危険と戦闘をきりぬけてきた水夫の一団が、思い思いのことをしてくつろいでいた。
連中の大部分は短ズボンと、お定まりの派手な帯《サッシュ》とスカーフ以外は裸といった、まったくのけだものぞろい――なんとも見苦しい連中だが、それでいてなかなかはなやかでもあった。
エル・シドのかたわらに、シドより若い男が立っていた。およそいかなる太陽もこれほど醜悪な面相を照らしたことがないだろう。母親でさえ愛することを苦痛に感じるのではなかろうか。その顔には見るもいとわしい傷痕が一筋、左目の上方から口の右端の下にかけてはしっている。そのために鼻は引っ裂かれ、そこに真赤な深い裂け目がぱっくりと口をあけている。左目にはまぶたがなく、目は死人の目のようで、いつも左上を凝視している。一方、上唇はただ一本の牙のような歯をむきだしにして嘲笑を浮かべているように右上にまくれあがってひきつれたままだ。いやはや、〈血を好むボハール〉は実に醜い男だった。
この二人、つまりエル・シドと血を好む男の前に、タナーは荒々しくひきすえられた。
「タナーというのはきさまか?」エル・シドがほえたてた。
タナーはうなずいた。
「それでもきさまは王の息子か!」エル・シドはカラカラと笑った。「船一隻分の部下でおれはきさまの父親の王国を全滅させて父親を奴隷にすることもできるんだぞ。息子同様にな」
「きさまは何隻もの船に部下を乗せてきたな」タナーは答えた。「だがどの船もサリの王国を破壊することはできなかったではないか。きさまたちを海においはらった軍隊を皇帝の命令により指揮していたのはわたしの父だったんだからな」
エル・シドは苦虫をかみつぶしたような顔をして、「今のひとことよりもひかえめなことばをはいたやつでも、板の上を歩かせてやったことがあるんだぞ」と、どなった。
「なんのことだかわからんね」タナーがいった。
「今にわからせてやる」エル・シドはほえた。「そうすれば、海神のひげに誓って、きさまもことばづかいをつつしむようになるだろう。おい!」かれは士官の一人にむかってどなった。「捕虜を一人つれてこさせろ。それから例の板を海へ出せ、この王の息子にエル・シドが何者であるか見せてやる。われわれこそ真の男だということを思い知らせてやるんだ」
「なぜ別のやつをつれてくる?」血を好むボハールがつめよった。「こいつを歩かせればこらしめにもなって一挙両得じゃないか」
「しかし、それではこいつのためにならん」エル・シドが答えた。
「エル・シドはいつから敵の子守りになった?」ボハールはせせら笑いながらたずねた。
エル・シドはひとこともいわずにくるりとむき直るや痛烈な一撃をボハールのあごにくらわせ、相手が倒れるや帯《サッシュ》から大きなピストルをさっとぬいて立ちはだかり、ボハールの頭にぴたりと銃口をむけた。
「これできさまのひんまがった面《つら》がまともになるか、その鈍い頭にちっとは脳味噌がたたきこまれるだろう」
ボハールは仰向けに倒れたまま首領をにらみつけていた。
「だれがきさまの主人だ?」エル・シドが返答をせまった。
「あんただよ」ボハールはうなるようにいった。
「それならさっさとたちあがって、口のききかたに気をつけろ」エル・シドが命じた。
ボハールは、たちあがるやタナーにものすごい形相をむけた。邪悪な心にやどる憎悪と怒りとうらみのすべてを、残る一つの目に結集してこのサリ人にあびせているかのようだった。タナーこそはかれがはずかしめをうけた間接の原因なのだ。その瞬間から、タナーは血を好むボハールが異国人や敵にたいしてごく自然に感じるどんな反感とも異なる個人的な憎悪の情をかれにたいしていだいていることを知ったのだった。
下の甲板では、水夫たちがいそいそと立ち働いていた。長い板を右舷の手すりの上からつきだし、船内にあるほうの端を丈夫な綱で索止めにしっかりとしばりつけている。
他の水夫たちは、開いたハッチから、スリア王国からつれてきたたくましい大男の捕虜を引き出してきた。〈恐ろしい影の国〉での緒戦で捕えられた男だ。
この未開人戦士は昂然と頭をあげ、敵の荒くれ男たちの前でも恐れを見せなかった。上甲板から見ていたタナーは、この帝国の同士を誇りに思った。エル・シドも見まもっていた。
「連中め、性根をたたきなおしてやる必要があるな」かれはいった。
女は二人とも甲板の縁にでて中部甲板の光景を見おろしていたが、そのうちに若いほうの女がエル・シドのほうをむいていった。「どれもこれもみな勇敢な男のようね。いわれもなしに殺すのはおしいわ」
「くだらん!」エル・シドが大声でいった。「おまえに何がわかる? おまえのおふくろの血がそんなことをいわせるんだろうが。神々のひげにかけて、おまえの血管にもっとおやじの血が流れていてもらいたいもんだな」
「母さんの血は勇敢な血だわ」女は答えた。「みんなの前であるがままを見せるのを恐れない。ところがあたしの父親の血は、笑い者になるのを恐れて、人前でよいおこないをすることができないのよ。臆病をかくすために勇気を誇示しているんだわ」
エル・シドははげしい口調で毒づいた。「ステララ、おまえはわれわれの関係をいいことにしているが、それにも限度があることを覚えておけよ。限度をこえればおまえだろうと容赦はしないからな。エル・シドはいかなる侮辱もゆるさんのだ」
女は声をたてて笑った。「そんな言葉はあんたを恐れている連中のためにとっとくがいいわ」
このやりとりの間中、そばに立っていたタナーはとっくりと女を観察する機会をえた。彼女のことばの内容とその凛《りん》とした態度が、なおさらかれをそうさせたのだった。はじめてタナーは彼女の髪に気がついた。それは温暖な陽光に輝く黄金のようだった。タナーの国の女性はほとんど黒髪だったので、彼女の髪の色は印象的だった。かれはそれを大変美しいと思った。そしてさらにしげしげと見るにおよんで、顔だちもまた美しいということに気がついた。明るい、生き生きとした美しさだ。それはそういった心と気性を反映しているように見えた。彼女には、ある種の女性らしいたおやかさがあった――それはかれの一族の、頑健で独立心に富んだ粗野な女性にはときとして欠けている素質だった――しかし、かといってそれは決してもろさというようなものではなかった。エル・シドにたいする大胆不敵な態度や、凛々《りり》しい瞳がはなつ勇気の光がそれを立証していた。その瞳は、また知的でもあった――勇敢で、知的で、美しい瞳だった。
だが、タナーの興味もそこまでのことだった。そして、この女が、大船団に乗り組むひげ面《づら》のけだものたちを力づくで支配する粗暴なごろつきのものだと考えて嫌悪をもよおした。先刻エル・シドがしゃべった二人の関係から察して、この女がまちがいなくエル・シドの女だということがサリ人にものみこめたからだ。
さて、全員の注意は下で悲劇を演じている俳優たちにそそがれていた。水夫たちは捕虜を後ろ手にしばりあげ、目かくしをした。
「下をよく見ていろ、王の息子よ」エル・シドはタナーにいった。「板を歩く、というのがどういうことか今にわかる」
「よく見ているとも」タナーがいった。「どういうことかはともかく、わたしの同胞の一人にそれをさせるのにきさまの部下があんなに大勢でかからなくてはならないとはな」
女は声をたてて笑った。が、エル・シドはますます苦い顔になり、一方ボハールは、タナーに毒をふくんだ視線をさっと投げた。
つぎに水夫たちは、ナイフや鋭利な槍をぬいて板の両側にずらりと列を作った。そして他の連中が捕虜を、海の上につきでている板のむこうの端にむけて、甲板にかかっているほうの端に乗らせた。海には深海の大怪獣が巨大な背で波をわけながら船と並行して進んでいる――地上世界ではとっくに消滅した巨大な恐竜どもだ。
かれらは大声で毒づき、野卑な冗談をとばし、しゃがれ声で笑いどよめきながら無防備な男をナイフや槍でつついて狭い板の上を進ませた。
スリア人は昂然として、恐れ気もなくみずからの運命にむかって進んでいく。泣きごと一つこぼさなかった。そして板の先端までたどりついて、そこからさきにもはや足の踏み場がないとわかったときも叫び声一つあげなかった。わずか一瞬、かれは片足を後へひいてためらったが、やがて無言のまま思い切りよくとんだ。そして一回転してまっさかさまに海へつっこんでいった。
タナーは目をそむけた。が、それが偶然にも例の女のいる方向だった。おどろいたことには彼女もまた捕虜の最後の瞬間を見まいとしていた。タナーのほうにむけられたその顔に苦悩の表情が浮かんでいるのをかれはみとめた。
エル・シドの残酷な一族であるこの女が、処刑される敵に同情とあわれみを感じるということがありうるのだろうか? タナーは疑問に思った。それよりもたぶん彼女はその日、食べたものが腹にあわなかったのだろう。
「さあどうだ」エル・シドは大声でいった。「今、きさまは板の上を歩く刑を見たが、おれのひとことできさまがどんな目にあうか、これでわかったろう」
タナーは肩をすくめた。「ねがわくは、わたしもあの同士のように自分の運命に淡々としていたいものだな。かれをあんな目にあわせても、ちっともおもしろくなかったろうが」
「きさまをボハールの手に渡せば結構おもしろいものが見られるさ」エル・シドは答えた。「やっこさん、あの手ぬるい板の上の刑よりもはるかにすごい退屈しのぎの方法を知っているからな」
女は憤然としてエル・シドをふり返った。「そんなことさせるもんですか!」彼女は叫んだ。
「あたしがこの船隊といっしょにいる間は捕虜を拷問にかけないと約束したはずよ」
「やつがおとなしくしていれば何もせん。しかし、そうでなかったら血を好むボハールに渡してやる。わしがコルサールの首領だということをわすれるなよ。たとえ相手がおまえだろうと、邪魔だてすれば罰せられるということもな」
女はふたたび声をあげて笑った。「コルサールの首領、ほかの連中をおどかすことができてもあたしはそうはいかないわよ」
「もしもこの女がおれさまのものなら……」ボハールは威嚇するようにつぶやいたが、女がそれをさえぎった。
「おあいにくさま。それに永久におまえのものなんかになるものか」
「そんなことはまだわからん」エル・シドがほえたてた。
「おまえはわしの思う相手にくれてやるからな。それはそれとしてだ」とかれはサリ人の捕虜のほうにむいた。「王の息子、きさまの名はなんという?」
「タナーだ」
「よく聞けよ、タナー」エル・シドは、たたみこむようにいった。「われわれの捕虜は、役にたたなくなったが最後、生かしておかないことになっている。何人かはコルサールにいる者に見せるためにとっておくが、そのあとはもう用はない。だがきさまは生きながらえることができるし、自由を獲得することもできるのだ」
「どうやって?」タナーがたずねた。
「おまえの一族は、われわれのよりもはるかにすぐれた武器で武装しているな。それにおまえたちの火薬のほうが強力で、しかも信頼性がある。われわれの火薬のうち、まず半分は一度で点火しない」
「そいつはお気の毒」
「致命的だ」
「だが、それがわたしとなんの関係がある?」捕虜はたずねた。
「もしおまえたちが持っているような優秀な武器や火薬の製法を教えてくれたら、おまえをゆるして自由をあたえてやろうじゃないか」
タナーは返事をしなかった――かれは考えていた――すぐれた武器が自分たち一族に与えた無上の権力を――そして自分と、甲板の下の暗い不潔な穴倉におしこめられている、あわれな男たちの前に横たわる運命を――。
「さあ、どうなんだ」エル・シドがせっついた。
「他の者たちの生命も助けてくれるのか?」
「そんな必要がどこにある?」
「かれらの手助けがいるのだ。わたしは武器や火薬を作るのに必要なことをなにもかも知っているわけじゃない」
実のところ、かれはどっちの製法にかんしてもなに一つ知ってはいなかった。だがここでかれは仲間の捕虜を救う一つのチャンス、というか、すくなくともかれらの処刑をひきのばして時間をかせぐチャンスを見てとったのだ。その間になんとか脱走の手段が見つかるかもしれない。それに、エル・シドをたぶらかすのに遠慮は無用、戦争ではどんなことをしてもよいはずだ。
「よし、わかった」コルサールの族長はいった。「きさまも連中も、面倒をおこさなければ生命は助けてやろう――そのかわり、おまえたちが持っているのと同じ武器と火薬の製法を教えるのだぞ」
「しかしあんな不潔な穴倉にとじこめられていては生きてゆけない」サリ人は反駁《はんばく》した。「それに食物がなくてはだめだ。今にわれわれはみな病気にかかって死んでしまうだろう。われわれ一族は広々としたところでくらしてきたのだ――虫がうようよしている暗い穴倉で、窒息しそうになって、腹をすかせてそのうえ生きていられるはずがない」
「おまえは穴倉へもどらなくてもよい。逃げる心配はないからな」
「ほかの連中はどうなんだ?」
「やつらは今いるところでたくさんだ!」
「みんな死んでしまうぞ。かれらがいなくては、火薬は作れないからな」タナーは念をおした。
エル・シドは渋面を作ってぶつぶついった。「きさまはおれの船を敵だらけにする気か」
「かれらは武器を持っていない」
「それなら殺されちまうのがおちだぞ。うちの連中のなかにいて、武器なしで生きのびられるものはまずあるまいよ」かれは下にむらがっている半裸の手下どものほうに、軽蔑したように片手をふって見せた。
「それならハッチをあけておいて、よい空気をいれてやってもらいたい。それからもっとましな食物を、もっと多くだ」
「ではそうしよう」エル・シドはいった。「ボハール、船首のほうのハッチをあけて、番兵をたてろ。そして、甲板にあがってこようとする捕虜と、下へおりていこうとする乗組員は誰でもかまわん、ぶち殺せと命令しておけ。それから捕虜が乗組員と同じ食物をとるように手配してやれ」
エル・シドの命令を遂行するためにボハールがその場を去るのを見とどけたタナーは、ほっと安堵した。それはほとんど喜びにも似た気持だった。というのも、コルサールの船に乗せられて以来、かれとかれの同胞がうけてきた待遇――かつて体験したことのない、いまわしい監禁状態と粗食――に、一同が長く耐えられないということがよくわかっていたからだ。
ほどなくエル・シドは、自分の船室に去った。自由を許されてその場に一人とりのこされたタナーは船尾に歩いていき、手すりによりかかって、霞《かすみ》につつまれ天上にむかって曲線をえがいているはるかな海のかなたにじっと見入った。故国サリはあの霞のかなたにあるのだ。
そのころ、船尾のはるか後方に一艘の小舟がさかまきうねる大波にもまれて浮き沈みしていた。獰猛《どうもう》な海の怪物どもが間断なく小舟をおびやかし、嵐が何度もおそいかかった。だが小舟は大船団の航跡にしたがって進行をつづけた――三人の男の決意が、この吹けば飛ぶような小舟を強靭なものにしていたのだ。
しかし霧が小舟をかくしていたので、タナーは気づかなかった。皇帝がみずから生命を賭してかれを救いにこられたのだということを知ったら、さぞ勇気づけられたことだろうに。
夢見心地でかなたに見入っているうちに、タナーはそばにだれかがいるということに気がついた。が、かれはふり返らなかった。この上甲板にあがってくる人間で、かれが会うなり話すなりしたいと思うような、そんなやつがこの船にいるわけがなかった。
やがてかれのわきで、小声ながら澄んだ声が聞こえた。かれは思わずふり向いてその声の持ち主と顔を合わせた。例の女だ。
「あなたのお国のほうを見ているのね?」女はいった。
「そうだ」
「二度とふたたび見られないでしょう」かれの心情を理解して同情してでもいるかのように、女はしめった声でいった。
「おそらくそんなところだろうな。だがあんたが気にすることはあるまい? わたしは敵なのだ」
「なぜ気にするのかわからないけれど」と、女は答えた。
「名はなんというの?」
「タナーだ」
「それだけ」
「〈疾風《はやて》のタナー〉と呼ばれている」
「なぜ?」
「サリの国中でわたしよりすばしこい者はいないからだ」
「サリって――あなたのお国の名前?」
「そうだ」
「どんなところ?」
「山間にある台地で、非常に美しい国だ。きらめく河、大きな樹木。獲物でいっぱいだ。でっかいライズをしとめたり、タラグを狩って楽しんだり、食ったりする。もっと小さな動物も無数にいて、われわれに衣食を提供してくれる」
「敵はいないの? あなたたちはコルサール人のように戦争好きじゃないわね」
「われわれは、その戦争好きなコルサール人をうち負かしたんだからな」
「あたしならそのことはあんまり口にしないわ。コルサール人は短気で殺すのが好きだから」
「それならなぜあんたはおれを殺さない? ほかの連中と同じように帯《サッシュ》に短剣とピストルをさしているじゃないか」
女は微笑しただけだった。
「あんたはコルサール人じゃないんだろう」タナーは叫んだ。「おれと同様捕えられて捕虜の身なんだ」
「あたしは捕虜じゃないわ」
「だがコルサール人じゃない」タナーはかさねていった。
「エル・シドにたずねてごらんなさい――きっとあなたをカトラスでバッサリやるでしょうから。無礼を働いたかどでね。でも、どうしてあたしがコルサール人でないとお思い?」
「コルサール人にしては美人すぎるし、立派すぎる。あんたはさっき同情を示したが、同情というものはやつらの知能ていどをはるかにこえた、りっぱな感情だ。やつらは――」
「気をおつけなさい、敵のおかた。あたしはコルサール人かもしれなくてよ!」
「おれは信じない」
「では自分だけでそう思っているといいわ」女は高飛車にいい返した。
と、荒々しい声がタナーの背後でおこった。「いったい何事だ? こいつは何をいってたんだ、ステララ?」
タナーがさっとふり向くと、血を好むボハールとばったり顔があった。
「このひとがきさまたちと同族なのかとたずねていたんだ」タナーは女が返事ができないでいるうちにぴしゃりといった。
「これほどの美人がコルサール人の血に汚されていようとは信じられないことだからな」
怒りに満面烈火のごとく燃えあがらせたボハールは、かずある短剣の一つに手をかけ、猛然とサリ人につっかかってきた。
「エル・シドの娘を侮辱する者は死ぬのだ」かれは叫んで帯《サッシュ》からスラリと短剣をぬきはなち、憎悪をこめた一撃をタナーにあびせた。
幼時から攻守ともに刃物の使い方を身につけている身軽なサリ人は、すばやくわきへとびのき、体をかわしたのと同じ素早さでふたたびもとの態勢にもどっていた。そして血を好むボハールは必中の鉄拳をくらって、今一度甲板にのびていた。
ボハールは口から泡を吹かんばかりに激怒して、大口径のピストルを派手な帯《サッシュ》からぐいとぬくと、甲板に倒れたままの姿勢でタナーの胸にねらいさだめて引き金をひいた。と同時に女が前にとびだした。あたかも捕虜が殺されるのをふせごうとでもするように。
何もかもあっという間のできごとだったので、タナーには何の次に何が起こったのか、ほとんどわからなかった。が、火薬が発火しなかったことだけはわかったので、かれは声をたてて笑った。
「おれを殺そうとする前に、発火する火薬の作り方をおれが教えてやるまで待ったほうがいいな、ボハール」
血を好む男はようやく立ちあがった。タナーは相手の襲撃を予期して、態勢をととのえて立っていた。が、そのとき彼女が厳然たる身振りで二人の間に割ってはいった。
「もうたくさん!」彼女は叫んだ。「エル・シドはこの男を生かしておきたいと思っているのよ。この男をピストルで殺そうとしたことを、エル・シドの耳に入れたいの、ボハール?」
血を好む男はそのままタナーを数秒にらみつけていたが、やがてひとこともいわずに踵《きびす》を返して大股に立ち去った。
「どうやらボハールはおれがお気にめさないらしいな」タナーは苦笑しながらいった。
「あの男は人間という人間がほとんど全部きらいなのよ」ステララがいった。「でもあなたを憎んでいるわ――今となってはね」
「おれがやつをノックダウンしたからだろう、たぶん。無理もないさ」
「ほんとうの理由はそうじゃないわ」女がいった。
「それじゃ、どうだというんだ?」
女はためらっていたが、やがて声をたてて笑った。「嫉妬しているのよ。ボハールはあたしを妻にしたがっているの」
「でも、それならどうしておれに嫉妬する?」
ステララは、タナーを上から下までながめて、それからもう一度笑った。「知らないわ。コルサールの大男たちにくらべたら、あんたはたいした男じゃない――顔にはひげもないし、腰も細いし、あんた二人分でようやくかれらの一人分ね」
彼女の口調にはそれとなく軽蔑がふくまれていて、それが癇《かん》にさわったが、かれは自分がどうしてそんな気持になるのかわからなかったので、そのことがまたかれをいっそういらだたせた。彼女がなんだというのだ。たかが野蛮でがさつなコルサールの娘ではないか?
彼女がエル・シドの娘であって妻ではないと、最初にボハールの口から聞いたとき、タナーはゆえ知れぬ安堵を感じた。がそれもなかば無意識に感じたことで、しかも自分のそういった心の反応を分析してみるなど思いもよらなかった。
おそらくは女の美しさが、エル・シドとのそんな関係をいとわしく思わせたのかもしれないし、あるいは女がさほど無慈悲ではないせいかもしれない。なにしろ、ボハールやエル・シドの残忍さにくらべると、このうえなく親切に見えるほどだから。とはいうものの、こうしてみると、どうやら彼女には冷酷さを巧妙に使いわける才能があるらしい。相手はコルサールの首領の娘なのだから、いずれはなんらかの形でそういった性質を見せつけられて当然だったのだろう。
むかっ腹を立てたときにはだれしもがやるように、タナーは口から出まかせに女に向かって一矢をむくいた。そのひとことが彼女にこたえればよいがと念じながら。
「ボハールはあんたのことをおれよりもよく知ってるんだろう。たぶんやきもちを焼くだけの理由があると思ってるんだろう」
「たぶんね」女は謎めかして答えた。「でもそれはこのさきだれにも絶対にわからないでしょう。ボハールはあなたを殺すでしょうからね。それくらいのこと、ちゃんとわかってるわ。あの人をよく知ってるんだから」
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二 暴風
時間の存在しないペルシダーの海では、航海は一時間で終わるか、あるいは一年間かかるかわからない――それは、航海がどれだけつづくかということではなくて、航路を彩《いろど》るかずかずの重要な事件によって左右されるのだ。
コルサールの船隊は、大円弧の内側にそってたえず上昇しながら、荒海をつっきって航行をつづけた。順風が先へ先へと船を進ませた。真昼の太陽は常に天頂にあり、男たちは腹がすいたときに食べ、疲れたときに眠った。また、かれらは睡眠がとれないときにそなえて眠った。ペルシダー人は、ゆとりのあるときに、いわば|眠りだめ《ヽヽヽヽ》をしておく才能をさずかっているらしい。睡眠がとれないときや、狩猟や戦争に出て眠る機会がないときなど、もっと精力を必要とする期間にそなえるためだ。この睡眠と同様、かれらは信じがたいほど不規則に食事をするのだった。
タナーは、ボハールとの衝突があって以来、数回食事をした。あれいらい、何度もボハールを見かけたが、正面きって顔を合わせることはなかった。血を好む男はどうやら時期を待っているらしいようすだ。
ステララは、例の年とった女と船室にこもりっきりだった。あれはたぶん母親だろうとタナーは思っていた。ステララが年をとったら、あの母親かエル・シドに似てくるのだろうか。いずれにしても、そうなった場合を考えてかれは身ぶるいをした。
そんなことを考えて物思いにふけっていたとき、タナーは下の甲板にいる男たちのそぶりに注意をひかれた。かれらは左舷前方の上空を見あげている。かれらの視線の方角を目で追ったタナーは、めずらしい現象を見た。晴れわたった空に、ぽつんと雲が出ているのだ。
だれかがこのことを知らせたのにちがいない。それとほぼ時を同じくしてエル・シドが自分の船室から出てきて、長い間さぐるような目つきで空をながめた。
エル・シドが、例のほえるような大声で命令をくだすと、たちまちあらくれ水夫たちはわれがちに各々の部署についた。帆柱をのぼる者もあれば、かれの命令を行動にうつすべく甲板に待機する者もあった。
大帆がつぎつぎとおろされ、小帆もたたまれた。きらめく海上にちらばっている船隊の船という船は、すべて旗艦の例にならった。
雲はぐんぐん大きくなり、刻々と接近してくる。もはやそれは最初にかれらの注意をひいた当時の小さな白雲ではなかった。どんどん膨張し、不吉な黒い大きな塊となって威圧するように海にのしかかり、海面に影を落として陰鬱な灰色に変えていく。
それまでおだやかに吹いていた風が突如としてぴたりとやんだ。船は風下に落ち、波くぼにはまりこんで横揺れしていた。つづいておとずれた静寂は、乗組員を恐怖のどん底におとしいれた。
このようすを見まもっていたタナーは、異変をさとった。こんなあらくれ船員でもあの巨大な雲の脅威の前に色を失うほどだから、危険はよほど大きいものにちがいない。
サリ人は山岳民族だ。タナーは海にかんしてはほとんど何も知らなかったが、もしもペルシダーにタナーが恐怖を感ずるものがあるとすれば、それは海だった。だからこれらのコルサールの船乗りたちが恐怖にすくんでいる光景を見てすっかり意気消沈してしまった。
先刻から、だれかが舷側に来てタナーの横に立っている。
「あれが過ぎ去ったときには、コルサール船隊の船はへって、故郷の妻のもとへ帰る男の数も少なくなっていることでしょう」
タナーがふり向くと、ステララが雲を見あげていた。
「あんたはこわくないようだな」タナーがいった。
「あなただって」と、女は答えた。「この船でこわがっていないのはあたしたちだけのようね」
「下にいる捕虜たちを見るがいい。かれらも恐れを見せていない」
「なぜ?」
「ペルシダー人だからだ」タナーは誇らしげに答えた。
「あたしたちはみなペルシダー人だわ」
「ぼくがいうのは帝国のことだ」
「なぜあなたはこわがらないの? コルサール人より勇気があるから?」彼女の口調には皮肉なところはなかった。
「ぼくはすごくこわい。われわれは山岳民族だ――海のことも、海の性質もほとんど知らない」
「でもこわがっているようには見えないわ」ステララはかさねていった。
「それは遺伝と鍛練《たんれん》のたまものだ」
「コルサール人は恐怖を外にあらわすわね」ステララは考えこんだ。彼女は別の血族の人間のようないいかたをした。「かれらは自分たちの勇気をひどく自慢にしているわ」ステララはまるでひとりごとのようにつづけた。「でも空が荒れると恐れを見せるのよ」その口調はちょっぴり侮蔑をふくんでいた。「ほら、見て!」彼女は叫んだ。「やってくるわ!」
雲は猛烈な勢いでむかってきた。あおりをくって海は激しく荒れ狂った。巨大な雲の塊は、縁がずたずたにちぎれて渦巻き、のたうった。猛《たけ》り立つ波の上に波が砕けて渦巻き、よじれた。そして嵐はどっと襲いかかってきて船を横倒しにした。
海に不馴れな山男は、つづいて展開した光景に度胆をぬかれた――山なす大波は混沌と渦巻き、崩れ、うねって、のたうつ船めがけてぶちあたる――耳をつんざく風の号叫――かけめぐり、目くるめかせる水の泡――恐れおののく乗組員たちはもはや厚顔無恥なあばれ者ではなかった。
ふらふらとよろめく足どりで手摺《てすり》につかまりながら、血を好むボハールがタナーのそばを通りかかった。タナーは片腕で支柱にしがみつき、もう一方の腕でステララをだきかかえていた。もしサリ人がすばやく助けていなかったら彼女は甲板にたたきつけられるところだった。
ボハールは顔面蒼白だった。真赤に口をあけた醜悪な傷痕がひときわ鮮やかな対照を見せている。かれはタナーとステララを見たが、何やらぶつぶつと口のなかでつぶやきながら通りすぎていった。
そのむこうでは、エル・シドが、金切り声で命令を発していたが、だれの耳にもとどかなかった。ボハールはエル・シドのほうへ進んでいった。首領にむかってかれがわめいているのが、嵐をついてタナーの耳につたわってきた。
「助けてくれ! 助けてくれえ! ボートを――ボートをおろすんだ! 難破するぞ」
たとえボートをおろすことができても嵐の海に浮かんでいることができないということは、山国の人間にも歴然としていた。
エル・シドは副官には一瞥もくれず、その場にしがみついたままわめきたてていた。
突如として巨大な波が船首より高くぐぐーっと巻きあがった。そして一瞬そこで静止したかと思うと、下甲板めがけてドドーッとなだれこんだ――何トンという海水が、かたまって悲鳴をあげている水夫たちの上に情け容赦なく襲いかかる――怒濤《どとう》の上に姿を見せているのは高い船首と船尾ばかり――つかのま、大きな船は身をよじり、ふるえ、のたうった。
「もうだめだわ」ステララが叫んだ。ボハールは断末魔の苦しみにあえぐけもののような悲鳴をあげ、エル・シドは甲板にひざまずいて両腕に顔を埋めた。タナーは自然の猛威に魂をうばわれて、ただただ見とれていた。一陣の風の前に、人間がちっぽけな、とるにたらぬ存在となるのを、かれは目のあたりにしたのだ。微笑がゆっくりとかれの顔に浮かんだ。
波が退くと、船はうめき声をあげ、もがきながらよろよろと立ち直った。下の甲板を見おろしたとき、タナーの唇から微笑が消えた。もはやそこに人影は皆無に近かった。甲板の排水孔には、傷んだ死体が累々《るいるい》と横たわっており、十人ばかりがそこここにしがみついて、かろうじて生命のきざしを見せている。甲板の下に逃れたもの以外はすべて消え去っていた。
女はタナーにしっかりと抱きついていた。「あの嵐にこの船が持ちこたえるとは思わなかったわ」
「おれもそう思わなかった」タナーがいった。
「でもあなたはこわがらなかったわ。こわがらなかったのはあなただけのようね」
「ボハールは悲鳴をあげていたけど、それが何になった? それでかれは助かったかい?」
「それじゃあなたはこわかったのに、それをかくしていたの?」
タナーは肩をすくめた。「そんなところかもしれん。こわがるというきみの意味がわからないんだ。おれは死にたくない。きみがいうのはそういう意味なのかな」
「ほら、また来たわ!」ステララは身ぶるいしながら叫んで、ますます強くかれにしがみついた。
タナーはほっそりとした女の身体を力をこめて抱きしめた。それは男性の保護本能から発した無意識のしぐさだった。
「こわがらなくっていい」
「こわくないわ――今はね」女が答えた。
さかまく白波が船をすっぽりとのみこんだ瞬間、壮烈な大暴風が突如として別の方角から猛威を新たにして襲いかかってきた――嵐をわけて船を進捗させるべく最少限の帆がはってあったため、すでに折れんばかりにしなっていたマストはまるで乾いた骨のようにポッキリと折れ、舷側にぶちあたってくだけ散った。索も何もこんぐらかってめちゃめちゃだった。船首は傾き、船は大波の波くぼに落ちこんで、助かる見込みのない漂流船のようにもまれた。
吹きすさぶ風のうなりよりもさらに高く、ボハールの絶叫が聞えた。
「ボートだ! ボートだァ!」恐怖に狂ったボハールは、よく仕込まれた鸚鵡《おうむ》のようにくり返した。
しばし満足感にひたろうというのか、あるいはさんざん吹き荒れたあげくにつかれきったものか、嵐は凪《な》ぎ、風は静まった。が、大波は衰えを見せず、無力な船はもまれにもまれ、水の谷あいに落ちるたびに、くずれかかる灰緑色の絶壁に今にものみこまれてしまうのではないかと思われた。山なす大波の波頭の一つ一つに、さけがたい破滅が宿っていて、船を逃すまいとするかのように不気味にせまってくるのだ。
ボハールは、なおもけたたましい声をあげながら下甲板にたどりついた。そして奇蹟的にも甲板にいながら助かった水夫たちや、甲板の下で恐怖にすくんでいるものたちを見つけると、さんざんにののしり、なぐりつけ、ピストルでおどかして一カ所に集め、かれらがおびえて泣き声をあげるのもかまわず、無理やりボートの用意をさせた。
水夫は二十人いたが、かれらの神々がともにあったか、はたまた悪魔が加勢したか、かれらはボートをおろしてのたうつ大船から無事一人も失わずに離れていった。
ボハールの意図を見ぬいたエル・シドは、一見自殺行為と見えるこのくわだてを阻止しようと、上から大声で命令を発したが、なんの効果もなかった。いよいよというときになって、エル・シドはなにがなんでも命令どおりにさせようと下甲板におりていったが、たどりついたときはすでに後の祭りだった。一方では、マストを吹っ飛ばされた船体に折れ残ったマストの基部が間断なくぶちあたってやがては難破しそうだというのに、小さなボートが一見安全そうに大波をのりきって進んでいくのを、エル・シドは信じがたいといった目つきでみつめていた。
それまであちこちのすみに身をひそめていた残りの乗組員が、姿をあらわした。そしてボハールのボートを見、水夫たちがどうやら無事らしいのを見てとると、他のボートで逃れようとどっとおしかけた。いったんその考えにとりつかれると、たちまち狂気じみた恐慌がもちあがった。けだもののような男どもが、残ったボートの席をめぐって争奪戦を演じている。
「さあ、早く!」ステララは叫んだ。「急がないと、おいてけぼりになるわよ」彼女は甲板昇降口の階段にむかってかけだそうとした。だがタナーがそれをひきとめた。
「かれらを見たまえ。海と嵐に身をまかせているほうが安全だよ」
ステララはちぢみあがってふたたびタナーに身を寄せた。男たちが短剣をぬいてわたりあっている――後になったものが先にいるものに切りつけているのだ。また、すでにボートに乗っているものをひきずりだして、甲板の上で殺したり殺されたり。
彼女は、エル・シドが一人の水夫を背後からピストルで射殺し、最初におろされようとしているボートの中のその男の席にとび乗ったのを見た。また男たちが、なにがなんでもこのボートに乗ろうと夢中になって、舷側から飛びおりて海中に落ちたり、あるいは、たとえ大揺れに揺れているボートにうまく降り立っても海中に投げこまれたりするのを見た。
別のボートがおろされ、船腹とその間にはさまれて、押しつぶされる者もあった――彼女はふだんはからいばりをしているならず者どもが、恐怖のどん底にたたきこまれるのを見た。最後のボートに場所をとることができなかった乗組員はみずから海に身を投じて溺死した。
動揺する難破船の高い船尾楼にたたずんで、タナーとステララは、超満員のボートで漕ぎ手が死物ぐるいに奮闘しているのを見まもっていた。二人は一艘のボートが別の一艘と衝突してともに沈むのを見、男たちがおぼれながらもなんとか助かろうとあがくのを見まもっていた。海の咆哮と風の号叫をついて、かれらのしゃがれ声の悪態や悲鳴が聞こえた。嵐は何びともその猛威から逃がすまいとするかのように、再度襲いかかっていた。
「あたしたちだけになったわ」ステララがいった。「みんな行ってしまったのよ」
「行かせておくさ」タナーが答えた。「やつらと立場をとりかえるなんてまっぴらだ」
「でも、あたしたちには助かる望みはないわ」
「やつらもあれでもうおしまいさ。それに、少なくともわれわれはごろつきどもで満員の小舟にすしづめになってるわけじゃないからな」
「あなたは海よりもあの男たちを恐れているのね」
「ああ、それもきみのためにね」
「なぜあなたがあたしのために?」彼女は返答をもとめた。「あたしだってあなたの敵じゃないの?」
タナーはさっと女に目をむけた。意表をつかれたという表情がその目に宿っていた。「そうだったな。どういうわけかそいつを忘れていたよ――きみはほかのやつらのように敵だという気がしないんだ。かれらの仲間だとさえ思えないんだよ」
タナーはかたむいた甲板の上で手すりにしがみつき、女をささえていた。かれは嵐のなかでも聞きとれるように、ステララの耳のすぐそばに唇を近づけていた。かれは上品な香粉のほのかな香りを感じとった。それはその後いつまでもステララの想い出の一端となったのだった。
と、波がぐらつく船にぶちあたってタナーを前に飛びださせたので、頬が女の頬と触れた。女が頭をめぐらせたはずみに彼の唇が女の唇をかすめた。それが偶然のできごとだったのだということはどっちにもわかっていたものの、なおかつそれは二人にとって思いがけないできごとだった。タナーは、はじめて自分におしつけられている女の肢体を感じた。肌がふれあっているという意識がかれの目にあらわれたのだろう、ステララは恐怖の表情を目にうかべて身をひいた。
タナーは一人の敵の目に恐怖の色をみとめたわけだが、それでいてなんの喜びも感じなかった。自分の一族の女がコルサールの手に落ちた場合にうけるだろう仕打ちのみを考えようとしたが、それもかれを満足させることはできなかった。かれが自分のことを、コルサールの男たちと同様下劣な人間の一人だとみとめたならば得心がいくところだったのだが。
しかしどんな考えがステララとタナーの心を波立たせていたにしろ、それらはつづいて起こったつかのまの陰惨な悲劇の底に一時《いっとき》沈められた。今一つのものすごい波――かつてこの難破船を襲ったもっとも巨大な波――が何トンという海水をふるえおののく甲板にドドーッとぶちまけたのだ。
タナーはこんどこそおしまいだと思った。二人はそびえる船尾楼の、そのまたいちだん上の甲板にしがみついて吹きたける風とものすごい縦ゆれに耐えていたのだが、ごうごうたる水しぶきは船をおおいつくし、そこまでとどかんばかり。はたしてそのなかからこの手のほどこしようのない船がたちあがれるかどうか想像もつかなかった。
しかし、船は波のうねりにつれてどうにかのろのろと海面に姿をあらわした。それは、泳ぎ疲れておぼれかかっている人間が、逃れがたい運命に力なく抵抗している姿、せいぜい断末魔の苦しみをひきのばすだけが関の山なのに、なんとかして最後にもう一度空気を吸おうとあがく姿に似ていた。
ひいていく波の間から、中部甲板がゆっくりとあらわれたとき、タナーは前部ハッチがこわれているのを発見して愕然とした。船は厖大な量の水を飲んだにちがいない。そしてたてつづげに波をかぶるたびにその水量は増していったことだろう。だが仲間の捕虜たちがこのハッチの下に監禁されているということを知っているサリ人にとって、そんなことは二の次だった。
これまで、暗澹《あんたん》たる思いにさいなまれてほとんど絶望に近い状況にあっても、常に一筋の輝かしい希望の光明がさしていた。それは、もしも船が嵐をきりぬけることができたら、船上には同じペルシダー人が十人ばかりいるだろうから、協力してまにあわせの帆を張る方法を考えだして、船出してきたもとの本土へ帰れるかもしれないという希望だった。だが、あんぐりと口を開けているハッチと、そのことから判断できるほとんど決定的な事実から見て、この漂流船上にステララとかれ以外にもしも生き残っているものがあれば、それはまったく奇蹟というほかはないだろう。
ステララは下の惨澹たるありさまを見おろしていたが、やがてタナーのほうに顔をむけた。
「みんなきっと溺死してしまったでしょうね。あなたのお国の人たちだったのに、かわいそうなことをしたわ」
「たぶんかれらは、コルサールで待ちうけている待遇よりはむしろそのほうをえらんだろう」
「でもかれらは、あたしたちよりほんの少し早く解放されただけにすぎないのよ」彼女はことばをついだ。「今、船はどんどん沈んでいて、どんなに船足が衰えているか気がついていて? 船倉は半分まで水につかっているにちがいないわ――さっきのような波が来たら沈没するでしょう」
しばしの間、二人はめいめい物思いに沈んで無言のままたたずんでいた。船は波くぼに落ちてはぐらりとゆれた。態勢を立て直すひまもなく次に襲いかかる白波を避けそこなうのではないかと思われたが、そのつど酔っ払いのようによろよろと起き直り、高い舷側の一方で獲物に飢える波にたちむかうのだった。
「どうやら嵐はおさまってきたようだな」タナーがいった。
「風も静まったし、さっき前部ハッチをこわしたような大波もあれからこないわ」ステララが望みありげにいった。
真昼の太陽が黒雲を破って顔をだした。と、海はたちまち青と銀の美しい光を放ってきらめきはじめた。嵐は去ったのだ。波も静まってきた。漂流船は大きなうねりに乗り、あるいは深みに落ちて、高く、低く揺れた。が、当面は沈没するおそれはなくなった。
タナーは甲板昇降口の階段から下の甲板におりていき、前部ハッチに近づいた。予期していたとおりのことが起こっているということは、そこから下を一暼しただけですぐにわかった――揺れる漂流船の動きにつれて死体がゆらゆらと浮遊している。下にいたものは全員が死んでいた。嘆息とともにかれは顔をそむけ、上甲板にひき返してきた。
女はかれに質問すらしなかった。今かれが目撃してきたことを、その態度から読みとることができたからだ。
「きみとぼくがこの船の唯一の生存者になってしまったよ」タナーはいった。
彼女は二人をとりまく海にむかって大きく片手をめぐらせるしぐさをした。「そう、この船で乗船していたもので生き残ったのはあたしたちだけだわ。ほかに船も見えないし、さっきのボートだって一艘も見あたらないんですものね」
タナーは精いっぱいに目を見開いて四方を見まわした。「そうだな。だがおそらく何艘かは逃げのびたろう」
ステララは首をふった。
「さあ、どうかしら」
「きみにとってはひどい損害だったな」サリ人は同情した。「一族の人間を大勢失ったうえに、きみは父親と母親を失った」
ステララはさっと顔をあげてかれの目をのぞきこんだ。「あれはあたしの一族じゃないわ」
「なんだって?」タナーは叫んだ。「きみの一族じゃないって? きみの父親のエル・シドはコルサールの族長じゃないか」
「あの男はあたしの父親じゃない」女は答えた。
「では、あのご婦人はきみの母御ではなかったのか?」
「とんでもないこと!」女は叫んだ。
「だが、エル・シドはどうなんだ? きみを娘のように扱っていた」
「かれはあたしのことを自分の娘だと思っているわ。でもそうじゃない」
「なんてことだ。それでもきみがやつの娘じゃなくてよかった、あんなやつらとちがっているきみが、コルサール人だなんてどうにも納得がいかなかったよ」
「あたしの母はアミオキャップ島の人だったんだけど、エル・シドが女をさらいにやってきて母をとらえたってわけ。母は死ぬ前に何度もそれを話してくれたわ。母のつれあいという人は、大タンドール狩りに出かけていって留守だった。母はそれっきりかれと会えずじまいだったの。あたしが生まれたとき、エル・シドは自分の娘だと思ったわ。だけど母にはわかっていたの――あたしの左肩に、母のつれあい、つまりあたしの父の左肩にあるのと同じ小さな赤い|あざ《ヽヽ》があるからなの。
母は、エル・シドに決して真実を話さなかった。かれがコルサールの習慣にしたがってあたしを殺すだろうとおそれたからよ。かれらはとらえてきた女たちの子供で、コルサール人が父親でないものは殺してしまうことにしているの」
「ではきみといっしょに船にいたのは、きみのお母さんじゃないんだね?」
「ちがうわ。あれはエル・シドの妻だけど、あたしの母じゃない、母は死んだわ」
タナーは、ステララがコルサール人でないということで自分がほっと安堵するのをはっきりと感じたが、なぜ自分がそんなふうに感じなくてはならないのかわからなかった。それにたぶん自分の感情を分析してみようとも思わなかったのだろう。
「よかった」かれは今一度いった。
「でも、どうして?」
「これでぼくたち二人は敵同士でなくてすむからさ」
「さっきはそうだった?」
タナーはまごついて、それから声をたてて笑った。「ぼくはきみの敵じゃなかったんだけど、きみはぼくの敵だといっていたからな」
「あたしは自分がコルサール人だと思いこむのが終生の癖になっていたんだわ」ステララは叫んだ。「そうじゃないってことがわかっていたのに。あたしはあなたになんの敵意も抱いてなかったのよ」
「ま、これまではこれまでとして、こうなったうえは友だち同士になるよりほかはないだろうな」
「それはあなたしだいよ」とステララは答えた。
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三 アミオキャップ
本土からほど遠い緑の島のなぎさに、〈コルサール・アズ〉として知られる大海の青い波が打ちよせていた――緑の木々につつまれた丘や高原のある細長い島だ。海岸線は入江や小湾があって入り組んでいる。アミオキャップ――神秘とロマンスの島だ。
遠くから見ると、この島は、海上に霧がたちこめているときには二個の島に見える。島の中ほどの一地点で、入江が島の両側から奥へむかってはいりこんで、今にも両側の海が接しそうなほどそこの地形が非常に低く細く、くびれているためだ。
漂流するコルサールの船の甲板上に生き残った二人には、そんなふうに見えた。船は大洋の潮流と、気まぐれな風のまにまにたよりなげに漂い、のろのろと走行していた。
ペルシダーの人々にとって、時間は言葉にすらない。だからタナーはそんなことは考えもしなかった。二人は何度も食事をしたが、食糧はまだたっぷりあって大きな船の乗組員にもたりるほどだったから、タナーはその点についてはぜんぜん心配していなかった。しかし良質の水が減少していくのが気がかりだった。というのは、数ある樽を開けてみたところ、どれも飲めなかったからだ。
二人はずいぶん眠った。これはほかに何もすることがないときにペルシダー人がやることで、将来、長期間にわたって力を使うようなことがたびたびあるかもしれないと考えられるときには、そのために精力を蓄積しておくのだ。
そんなわけで、二人はずっと眠ってきた。それがどれくらいの間だったかは、現在というものが無限につづくペルシダーではだれにもわからないことだ。まずステララが、エル・シドの部屋の隣りの船室から甲板に姿をあらわした。見まわしたがタナーが見えないので、はるかに上むきの弧をえがいてひろがる海原をあてどなく見渡した。どっちを見ても海の水は輝く空の紺碧の天蓋《てんがい》にとけこみ、その天蓋のちょうど真ん中に偉大な真昼の太陽がかかっている。
と、そのとき突如としてステララの視線は、広大無辺の海原と永遠に輝く太陽以外の何ものかに釘づけになった。ステララの口から驚きと喜びの叫びがもれた。彼女は踵を返すと甲板をつっきってタナーの眠っている船室にかけつけた。
「タナー! タナー!」ステララは板張りのドアをたたいて呼んだ。「陸よ、タナー! 陸なのよ!」
ドアがさっと開いてサリ人が甲板にとびだした。ステララは漂流する船の右舷側のむこうをゆびさしていた。
すぐそこに、長い海岸線にそって左右に緑の丘がひろがっている。だがそれがはたして本土なのか、あるいは一個の島なのか二人にはわからなかった。
「陸だ!」タナーの言葉は声にならなかった。「なんてすばらしいながめなんだ!」
「見た目に美しい緑の、やわらかな葉蔭には恐ろしい野獣や野蛮人がひそんでいるものよ」ステララが注意した。
「だがそんな危険ならぼくは知っている――いやなのはぼくの知らない海の危険だ。ぼくは海の人間じゃないからな」
「海がきらい?」
「いいや、きらいなんじゃない、わからないというだけのことだ。だがあそこにおれの知っているものがいる」そういってタナーは陸のほうをゆびさした。
ステララはかれのさす方向に急いで目を走らせた。タナーの口調には何かそうさせるものがあったのだ。
「人間!」ステララが叫んだ。
「戦士だ」タナーがいった。
「あのカヌーに二十人はいるにちがいないわ」
せまい入江の口からカヌーが海へ漕ぎだしてくる。
「ほら、見て!」ステララが叫んだ。「もっとたくさんくるわ」
一艘、また一艘と、二十艘のカヌーが数珠《じゅず》つなぎになって、おだやかな海面を進んでくる。接近するにしたがって、どのカヌーにも裸に近い戦士たちがぎっしり乗り組んでいるのが二人に見えた。
穂先を骨で作った太く短い槍が、威嚇するように林立している。どの戦士の褌《ふんどし》にも石の短剣がつきでていて、腰には石斧がつるしてある。
カヌーの一団が接近してくると、タナーは船室に行き、コルサール達が船を見すてて脱出した際においていった大型ピストルのうちの二挺を手にしてもどってきた。
「四百人の戦士をそれで追っぱらえるつもり?」ステララがたずねた。
タナーは肩をすくめた。「かれらがこれまでに銃声を聞いたことがないとしたら、おどかして追っぱらうには二、三発で充分だろう。少なくとも当座はね。それに、われわれがあの海岸に上陸しないとしたら、潮流が早晩われわれをかれらから引きはなしてくれるだろう」
「でも、もしかしてかれらがそんなにやすやすと驚かなかったら?」
「そうなったらコルサールの幼稚な武器と、ていどの悪い火薬でせいいっぱいやるしかないさ」かれは優越感を意識していってのけた。そういうかれ自身、一族ともども石器時代から脱したばかりだったから、接近戦で緊急事態が発生すると本能的に銃身のほうをつかんで棍棒の代用にすることがしばしばだったのだ。
「かれらが友好的ではないときまったわけじゃないでしょう」ステララがいった。
タナーは笑った。「それならかれらはペルシダー人じゃない。どこか不思議の国の住人だよ。ペリーが天使と呼んでいるものが住んでいる国だがね」
「ペリーってだれ? そんな人、聞いたこともないわ」
「頭《おつむ》のおかしい御仁でね。かれいわく、ペルシダーは、あの〈恐ろしい影の国〉の上に永久にかかっている奇妙な世界のように丸くて、中ががらんどうになった石の内側にあるんだそうだ。その外側には、海も山も平野もあるし、無数の人間が住んでいて、大きな国があって、かれはそこからやってきたんだとさ」
「そりゃそうとうおかしいわね」
「しかしそうはいっても、かれとわれわれの皇帝デヴィッドは、これまでペルシダーで知られていなかった多くの利益をわれわれにもたらしてくれたんだよ。そのおかげで、われわれはたった一度戦闘をまじえるだけで、以前には戦争が続行している全期間を通じて倒せるだけの人数よりもさらに大勢の戦士を殺すことができるんだ。このことをペリーは文明と呼んでいるが、実にすばらしいものだよ」
「たぶんその人は、コルサール人の祖先がやってきた氷の世界から来たのよ。なんでもその国はペルシダーの外にあるって話よ」
「そら、敵がおいでなすった。あの先頭のカヌーの舳先《へさき》につっ立っている、でかいやつに一発お見舞いするか?」タナーは大型ピストルの一挺をかかげて狙いをつけた。ところがステララはかれの腕に手をかけた。
「まってちょうだい」彼女は懇願した。「ひょっとすると友好的な人たちかもしれないでしょう。必要のないかぎり射たないで――殺しはいやなの」
「きみがコルサール人ではないということがこれでよくわかったよ」タナーは銃口をさげながらいった。
そのとき、先頭のカヌーから大声で呼びかけてきた。「用意はいいぞ、コルサール」舳先に立った例の長身の戦士がどなった。「多勢に無勢だ。きさまたちのでかいカヌーは難破して使いものにならんだろうが、おれたちのほうはどれにも二十人の戦士が乗り組んでいるんだ。どうしようもなかろう。おれたちは強いんだぞ。いつもはこうはいかないが、こんどはちがうぞ。捕虜になるのはそっちだ。もしきさまたちが上陸しようとすればな。
だが、コルサール、おれたちはきさまたちとはちがう。殺したくもないし、捕虜もほしくない。立ち去れ、そうすれば危害は加えないでおいてやる」
「ところが立ち去るわけにはいかんのだ」タナーが答えた。「船がいうことをきかない。こっちは二人だけだ。食糧も水もほとんど底をついている。われわれを上陸させて、故郷へ帰る準備ができるまで滞在させてくれないか?」
戦士はむこうをむいてカヌーに同乗している仲間と言葉をかわした。が、やがてふたたびタナーのほうに顔をむけた。
「だめだ。おれの一族はコルサール人が仲間入りすることをゆるさない。きさまを信用していないのだ。それはおれも同様だ。もし立ち去らないなら、きさまたちを捕虜として逮捕する。そうなったらきさまたちの運命は族長会議まかせだぞ」
「だが、われわれはコルサール人じゃない」タナーが弁明した。
戦士は声をたてて笑った。「このうそつきめ。おれたちがコルサールの船を知らないとでも思っているのか」
「いかにもこれはコルサールの船だ」タナーが答えた。「だが、われわれはコルサール人ではない。捕虜だったのが、大嵐でかれらが船を放棄したときにおきざりにされたのだ」
またしても戦士たちは協議した。先頭のカヌーの舷側に寄ってきた他のカヌーの戦士もこれに加わった。
「では、きさまたちは何者だ?」代弁者が追求した。
「わたしはペルシダーのタナー。父はサリの王だ」
「われわれはみなペルシダーのものだ」戦士は答えた。「しかしサリなどという国は聞いたこともないぞ。そっちの女だが――おまえのつれあいか?」
「ちがうわ!」ステララが尊大な口調で叫んだ。「あたしはこの人のつれあいじゃない」
「では何者だ? おまえもサリ人か?」
「あたしはサリ人じゃないわ。父と母はアミオキャップの者よ」
ふたたび戦士たちは仲間うちで話しあったが、意見がまちまちでなかなかまとまらないようすだった。
「おまえはこの国の名を知っているか?」やがてそのリーダー格の戦士がステララにむかってたずねた。
「いいえ」
「それならちょうど今たずねようと思っていたところだ」タナーがいった。
「で、その女はアミオキャップの出身なのか?」戦士がたずねた。
「あたしの血管にはそれ以外の血は流れていないわ」ステララが誇らしげにいった。
「それなら自分の国と自分の一族の人間に気づかないのはおかしいじゃないか」戦士がどなった。「ここはアミオキャップ島だぞ!」
ステララは喜悦と驚嘆のいりまじった低い叫びをもらした。「アミオキャップですって!」彼女はひとりごとのようにひっそりとつぶやいた。その口調にはいとしさがこもっていたが、カヌーの戦士には遠すぎて聞こえなかった。うそが露見したために彼女がどぎまぎしてだまっているのだとかれらは考えた。
「行け!」かれらはふたたびどなった。
「あたしを両親の国から追いはらおうというんじゃないでしょうね!」ステララは驚いて叫んだ。
「おまえはうそをついた」長身の戦士がいった。「おまえたちはアミオキャップのものではない。われわれを知らないし、われわれもおまえたちを知らない」
「聞いてくれ!」タナーが叫んだ。「おれはこの船の捕虜だった。この女の人はおれがコルサール人でないというので身の上話をしてくれた。この島を発見するよりずっと前のことだ。この人は、われわれがきみたちの島の近くにいるということを知らなかったはずだ。はたして島の所在まで知っていたかどうか、わたしにはわからないが、とにかくわたしはこの人の話を真実だと信じている。この人は自分がアミオキャップの生まれだとはいわなかったが、両親がそうだといっていた。この人は今が今までこの島を見たことがなかったのだ。この人の母御は、この人が生まれる前にコルサール人にさらわれたのだからな」
またしても戦士たちは、しばらくの間、額を寄せてひそひそと話し合っていたが、やがてもう一度、代弁者がステララに声をかけた。
「おまえの母親はなんという名だった? 父親は誰だ?」
「母の名はアララ」女は答えた。「父には会ったことはないけれど、母の話では父は族長で、タンドール狩りの名人で、フェドールと呼ばれていたということだわ」
先頭のカヌーの舳先にいた長身の戦士のひと声で、戦士たちはおもむろに漂流船に漕ぎ寄せてきた。かれらが船腹に近づくと、タナーとステララは中部甲板におりていった。そこはもはやほとんど海面と同じ高さになっていた。船倉に浸水していたため、船は深く水をかぶっていたのだ。波のまにまにカヌーが舷側に横づけになると、戦士たちは二人をのぞいてあとは全員櫂をおき、骨で穂先を作った槍をかまえてたちあがった。
船の甲板の二人と、カヌーの中の長身の戦士はほとんど同じ高さでむかいあった。後者はととのった顔立ちをしていて、ひげはなく、知性と勇気をものがたる澄んだ灰色の目をしていた。かれはステララをまじまじとみつめた。それはまるで彼女の心中をさぐって先刻の彼女の言葉の真偽のほどをたしかめようとしているかのようだった。
「おまえはたぶん彼女の娘かもしれんな。そういえばよく似ている」戦士はいった。
「それじゃ、母を知っているの?」ステララが叫んだ。
「わたしはヴァルハンだ。お母さんはわたしのことを話さなかったかね?」
「かあさんの兄さんね!」ステララは深く感動して叫んだ。が、アミオキャップの戦士はそれに応じて感動するようすはなかった。「父はどこ? 生きていますの?」
「そいつが問題だ」ヴァルハンは重々しくいった。「だれがおまえの父親なのか! おまえの母親はコルサール人にさらわれた。もしもコルサール人がおまえの父親なら、おまえはコルサール人だ」
「コルサール人があたしの父じゃないわ。父のところへ連れていってください――父はあたしを見たことがないけどあたしがわかるでしょうし、あたしにもわかるわ」
「それも悪くはなかろう」ヴァルハンのすぐそばに立っている戦士がいった。「もしもその女がコルサール人なら、それはそれで打つ手があるさ」
「もしこの女が、アララをさらったコルサール人の餓鬼《がき》なら、ヴァルハンとフェドールが始末をつけてやる」ヴァルハンが荒々しくいった。
「あたしは平気よ」ステララがいった。
「それから、そっちのやつだが」タナーのほうにあごをしゃくってみせてヴァルハンがいった。
「そいつをどうする?」
「この人は戦争捕虜で、コルサール人が国へつれて帰るところだったのよ。あなたといっしょにつれていってやってくださいな。この人の一族は海になれていないから、海では一人で生きていけないわ」
「コルサール人ではないということはたしかか?」ヴァルハンが問いただした。
「見ればわかるでしょう!」ステララが叫んだ。「あなたがアミオキャップの戦士なら、すぐに見分けがつくはずよ。この人がコルサール人に見えて?」
ヴァルハンもしぶしぶみとめざるをえなかった。「よろしい。いっしょに来てもよかろう。が、おまえがこのさきどうなろうと、この男もろともだぞ」
「けっこうだとも」タナーは同意した。
カヌーの中に席が作られると、二人は漂流船の甲板をはなれた。小舟は急速に岸に向かったが、これまで長い間住みなれた船とわかれるに際しても、二人ともなんの未練も感じなかった。カヌーがあらわれるのを最初に見たあの入江にはいっていくとき、二人が今一度目をやると、漂流船は大洋の海流とともにアミオキャップの緑のなぎさにそってゆっくりと漂っていた。
入江の上《かみ》の奥までくると、カヌーは浜にひきあげられ、こんもりと茂った葉蔭にひきこまれた。この次に利用する機会がやってくるまで、そこに裏返しにしておいておくのだ。
アミオキャップの戦士たちは、ほとんど波打ちぎわまで生い茂っているジャングルの中に二人の捕虜をみちびきいれた。最初のうちは道らしい道もなく、先頭の戦士は青々と繁茂した草木をつっきって進まなくてはならなかった。さいわい、棘や|いばら《ヽヽヽ》はなかった。やがて一行は小道に出た。その道は、よく踏みならされた広い道へとつづいていて、一行はその道をたどって黙々と進んだ。
この行軍の間に、タナーはアミオキャップの男たちをもっとよく観察する機会を得た。かれの気づいたことは、かれらがほとんど例外なく均整のとれた体格をしているということで、筋肉は丸味をおびてなだらかにもりあがり、敏捷さと力とを併《あわ》せ持っていることを物語っていた。顔だちはみな一様に整っていて、みにくいということばがあてはまるような者は一人もいなかった。総じてかれらの表情は陰険というよりもむしろ明朗であり、兇暴というよりは温和だった。とはいえ、多くの戦士たちの身体にある傷痕や、幼稚ではあるがよく使いこまれていて見るからに威力のありそうな武器から察すると、おそらくは勇敢な猟人であり、荒っぽい戦士なのだろう。かれらの挙動にははっきりと威厳がにじみでていて、このことはかれらが無口だということとともにタナーの心をうった。というのも、サリ人も無駄口をきかないたちだからだ。
ステララはかれのかたわらを歩いていたが、みちたりた表情をうかべてひどく幸せそうだった。サリ人はこれまでこんな表情の彼女を見たことがなかった。彼女はタナーとアミオキャップ人をかわるがわるにしげしげと見つめていたが、やがてタナーにささやきかけた。
「あたしの一族のこと、どう思って?」彼女は誇らしげにたずねた。「すばらしいでしょう?」
「りっぱな民族だ」タナーが答えた。「きみのためにも、きみがかれらの一員だということを信じてくれるといいのだが」
「何もかも、あたしが何度も夢見てきたとおりよ」女は幸せそうな溜息をもらしていった。「いつかはきっとアミオキャップにくることがあるとわかっていたわ、あたしのかあさんが話してくれたとおりだということもね――大木、大きな羊歯、目もさめるような花を咲かせるつる植物や、灌木。ここはペルシダーのほかの地方より獰猛な野獣が少ないし、人々はめったに争いをおこさないから、ほとんどいつも満足して平和に暮らしているわ。それを破るものはコルサール人の襲撃だけ。それからたまに大きなタンドールが畑や部落を荒らしにくるの。タンドールをご存じ、タナー? あなたのお国にもいて?」
タナーはうなずいた。「アモズで聞いたことがあるよ。サリではめったに見かけないけど」
「アミオキャップ島には何千頭といるの。あたしの一族はペルシダー一《いち》のタンドール狩りの名人なのよ」
二人はふたたび口をとざして進んだ。タナーはあれこれと思いめぐらしていた。アミオキャップ人はかれらをどのように処遇するだろうか。もしかれらが友好的なら、サリのある遠い本土まで帰る手助けをしてくれるだろうか、どうだろう。この粗野な山男にとって、生まれ故郷へ帰るということは、それを夢見ることすら絶望的に思えた。海がかれをおびやかすのだ。その荒涼たるふところをこえてどのように針路をとればよいのかわからないし、さきざき船が手にはいるとしても航海するすべも知らない。とはいえ、ペルシダーの住人たちの帰巣本能はきわめて強烈なものであったから、かれもまた、生命のあるかぎりたえずサリへ帰る道を求めつづけるだろうことははっきり自覚していた。
かれはステララのことを心配しなくてもよくなったのでほっとしていた。もしも彼女が同族の人々のもとに帰ってきたというのが事実なら、アミオキャップにとどまることができるから、彼女をコルサールへおくりとどける責任をまぬがれるわけだ。だが、もしもかれらがステララを受けいれてくれなかったら――また話は別だ、そうなったらタナーは敵がうようよしている島から脱出する手だてをさがさなくてはならないし、ステララをいっしょに連れださなくてはならない。
だがこの一連の想念は、突如としておこったステララの叫びに中断された。
「見て! 部落へ来たわ。たぶんかあさんの部落よ」
「今、なんといった?」そばを歩いていた一人の戦士がたずねた。
「たぶんかあさんがコルサール人にさらわれる前に住んでいた部落だっていったのよ」
「で、おまえの母親はアララだというんだな?」戦士は問いただした。
「そうよ」
「たしかにここはアララが住んでいた部落だ」戦士はいった。「だが身内の一人としてむかえられると思うなよ。父親もまたアミオキャップ人でないかぎり、おまえはアミオキャップの者ではないのだからな。だれであろうとおまえがコルサール人を父親に持つ娘でないということを納得させるのはむつかしいぞ。父親がコルサール人だというだけのことでおまえもまたコルサール人で、アミオキャップ人ではないのだからな」
「でも、あたしの父親がコルサール人だということがどうしてあなたたちにわかるのよ?」ステララがといつめた。
「わかる必要はない」戦士は答えた。「信じるかどうかというだけのことだ。だがそれはラルの部落の族長ズラルによって決定されるべき問題だ」
「ラルですって」ステララは相手の言葉を反復していった。
「それはかあさんの部落よ! 母さんが何度もそのことを話すのを聞いたんですもの。それじゃここがラルにちがいないわ」
「そのとおり」戦士が答えた。「もうすぐズラルに会うのだ」
ラルの部落はおよそ百軒にのぼる草ぶき屋根の小屋からなっていた。どの小屋も二部屋か、あるいはそれ以上の部屋にわかれていて、そのうちの一部屋はどこの小屋でもきまって周囲に壁のないあけっぴろげの居間になっており、中央に石の煖炉があった。他の部屋はたいていぴったり壁にかこまれていて窓がなく、アミオキャップ人が眠りたいときのために暗くしてあった。
部落の敷地全体は、これまでにタナーが見たなかでもとりわけめずらしい柵でかこまれていた。杭は、地面に埋めこまれているのではなくて木から木へとはりわたした靭皮繊維の太い綱からつるされていて、その杭の下の端は少なくとも地上一・五メートルの高さで宙にういている。また、杭には三十センチから四十センチほどの間隔に穴があけてあって、これらの穴に長さが一メートルないし一・五メートルの、両端をとがらせた堅木の棒がさしてある。これらの棒は、地面とは平行に杭から八方につきでている。杭は、隣りの杭から突き出している棒の先端同士の間隔が五十センチから一メートルになるように距離をおいてつるされている。敵の襲撃にそなえるにしては役にたたないようにタナーには思えた。というのも、一行は障害物に邪魔されることなく、杭と杭の間の空間を通りぬけて部落にはいったからだ。
だがこの風変わりな柵の目的をあれこれ憶測しているいとまもなく、別のもっと興味あるできごとがかれの頭からそうした考えを追いはらってしまった。部落へはいるやいなや、かれらは一群の男女や子供にどっとかこまれたのだ。
「こいつらは何者なんだ?」だれかがたずねた。
「味方だといっているがね」ヴァルハンが答えた。「われわれはやつらがコルサールから来たとにらんでいるのだ」
「コルサール人だと!」部落の住民たちは叫んだ。
「コルサール人じゃないわ、ヴァルハンの妹アララの娘です」ステララがかっとなっていった。
「そんなことはズラルさまの前でいわせる。ズラルさまが聞くべきことで、われわれの関与することではない」一人が叫んだ。「ズラルさまがコルサール人の扱い方をごぞんじだ。コルサール人は、ズラルさまの娘をさらい、息子を殺したではないか?」
「そうとも。こいつらはズラルさまのところへしょっぴいていけ」別の者が叫んだ。
「今、つれていくところだ」ヴァルハンが答えた。
部落の住民たちは戦士と捕虜のために道をあけた。捕虜の二人は、こうして作られた通路を通っていった。多くの人々から険悪な視線があびせられ、数多くの憎しみの言葉がはきかけられるのをかれらは耳にしたが、暴力は加えられなかった。そしてほどなく二人は部落の中央に近い大きな小屋に案内された。
ラルの部落にある他の家と同様、族長の家の床は地上三十ないし四十センチの高さにあげてあった。かれらがみちびかれてはいった広々とした居間の草ぶき屋根は、大タンドールの巨大な牙でささえられていた。素焼きのタイルをしきつめて作ってあるらしい床は、野生動物の皮でほとんどすっかりおおいつくされていた。低い木の|腰かけ《ストゥール》が部屋のあっちこっちにおかれ、なかでも背の高い一脚は椅子と称してもおかしくないほどの威厳をそなえていた。
この大きな|腰かけ《ストゥール》に、いかめしい顔つきの男がすわっていて、二人が前に立つと黙ったまま吟味するようにじろじろと二人を観察した。数秒間、だれも口をきくものはなかった。が、やがて椅子の男がヴァルハンにむかってたずねた。
「こいつらは何者だ? ラルの部落で何をしているのだ?」
「われわれは海流に流されて漂っているコルサールの船からこいつらをとらえてきました」ヴァルハンがいった。「かれらの話を聞いていただくために、ラルの部落の族長、ズラルさまのもとにつれてまいったのです。はたしてかれらが自称するようにわれわれの味方なのか、あるいはわれわれが信ずるように敵コルサール人なのかどうか、判断をくだしていただきたい。こっちの一人は」と、ヴァルハンはステララをゆびさして、「アララの娘だと申したてております」
「あたしはアララの娘です」ステララはいった。
「では父親はだれだ?」ズラルがたずねた。
「父の名はフェドールですわ」ステララが答えた。
「どうしてそれがわかる?」
「母がそう申しました」
「どこで生まれた?」
「コルサールの都市、アラバンです」
「それならおまえはコルサール人だ」ズラルはきっぱりといった。「それから、そっちの一人だが、なにか弁明することがあるのか?」ズラルはタナーのほうにあごをしゃくってみせてたずねた。
「かれはコルサール人にとらわれていたのだと申しておりますが、出身地はサリという遠隔の王国だそうであります」
「そんな王国は聞いたこともないな」ズラルがいった。「だれかここにいる戦士のうちで聞いたことのあるものはいるか? もしいるなら、この捕虜にたいして公正を期するために発言せよ」しかしアミオキャップ人たちは首をふるばかりで、サリの王国のことを聞いたことのあるものは一人もなかった。ズラルがつづけた。「こいつらが敵であって、虚偽の申したてにより、われわれの信用を獲得しようとしたことは火を見るより明らかなことだ。もしもこいつらの一人にアミオキャップ人の血が一滴たりとも流れているのだとすれば、われわれはその一滴を残念に思う。こいつらをつれていけ、ヴァルハン、処刑の方法を決定するまで見張りをつけておくのだ」
「アミオキャップの人々は公正で慈悲深いと母に聞かされていました」ステララが口を開いた。
「でも、ただ出身地の名を聞いたことがないというだけで、敵でもないこの人を処刑するのでは公正とも慈悲深いともいえませんわ。この人はほんとうにコルサール人ではありません。捕虜たちが乗船させられたとき、あたしは船団の中の一隻の船にいました。エル・シドと、血を好むボハールがこの人を訊問していたとき、あたしはそばで聞いていましたから、この人がコルサール人ではなく、サリと呼ばれる王国から来たのだということを知っています。コルサール人はこの人の言葉を疑わなかったのに、どうしてあなたがたが疑うのです? もしもあなたがたが公正で慈悲深い民族なら、父フェドールと話す機会もくれずにあたしを処刑することなどできないはずです。フェドールならあたしを信じてくれるでしょうし、あたしがかれの娘であることがわかるでしょう」
「われわれの部落に敵をおくと、神々のご機嫌をそんじることになる」ズラルが答えた。「きっと悪いことがおこる。これは全アミオキャップ人が周知の事実だ。野獣はわれわれの猟人を殺し、タンドールは畑を踏み荒して、部落をほろぼすだろう。だがなによりも悪いことは、コルサール人がおまえたちをわれわれの手から救いだそうと来襲することだ。ところでそのフェドールだが、かれの居所を知っているものはない。かれはこの部落のものではないし、かれの部落の者は最後にかれを見ていらい、もはや何回も食事をし、眠った。フェドールが最後にタンドール狩りに出ていらい、かれらは何回も食事をし、眠ったのだ。おそらくタンドールは仲間を大勢殺された復讐をしたのかもしれんし、もしかするとフェドールは〈地下人間〉の手におちたのかもしれん。われわれにはそういうことはわからないが、これだけはわかっている。フェドールはタンドール狩りにでかけたきり帰ってこず、行方不明なのだ。さあ二人をつれていけ、ヴァルハン。それから首長会議を開いてこいつらの処遇を決定するのだ」
「ズラル、あなたは冷酷で邪悪な人だわ」ステララが叫んだ。「コルサール人にも劣る人よ」
「無駄だよ、ステララ」タナーは女の腕に手をかけていった。「だまってヴァルハンといっしょに行こう」それから声をおとしてささやいた。「かれらを怒らせないほうがいい。かれらに敵対しなければ、まだ族長会議に望みがある」
というわけで、ステララとタナーはそれ以上何もいわずに、族長ズラルの家から屈強の戦士十二人にかこまれて引き立てられていった。
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四 レタリ
ステララとタナーは部落のはずれにある小さな小屋に連行された。小屋には煖炉のついた間仕切りのない居間と、せまくて暗い寝室との二間しかなかった。捕虜たちは後者のほうへおしこめられ、居間には戦士が一人、逃亡をふせぐために残された。
太陽がつねに天頂にかかっている世界では、暗闇というものがなく、また、暗闇がなければ油断ない敵の手中から脱走する機会もほとんどない。それでもなお、つかのまといえどもサリ人タナーの頭から脱走の考えが離れたためしがなかった。かれは番兵たちを観察し、交代のたびに次にひきついだ番兵と話をしようとしたがむだだった――戦士たちはかれに口をきこうとしないのだ。ときには番兵が居眠りをすることもあったが、部落とその周囲の敷地にはたえず人の往来があるので、脱走のチャンスはなかなかやってきそうもなかった。
番兵はかわり、食物は運ばれ、二人は眠くなると眠った。時間の経過をはかろうと思えば、こういったことによるよりほかはなかったのかもしれないが、かれらはそんなことにはいっこうにおかまいなしだった。二人は語りあい、ときにはステララが歌をうたった――母から教わったアミオキャップの歌だった。二人は幸福で満足しきっていた。もっとも、死の亡霊がたえずかれらの上をうろついているということはめいめいの念頭にあった。まもなく亡霊は襲ってくることだろう。が、現在は二人とも幸福だった。
「ぼくが少年のころの話だが」タナーが語った。「しっぽのある黒い人間に掴まったことがある。そいつらは大木の高い枝の間に部落を作って住んでいるんだ。最初はぼくをここと同じように暗くて、そしてもっときたない小屋にとじこめた。ぼくはとてもみじめで不幸だった。それまでずっと自由だったし、自由の身を楽しんでいたからだ。ところが今、またしても暗い小屋に虜《とりこ》になって、そのうえ、死にたくもないのにやがて死ぬのだということがわかっている。だのにぼくは不幸じゃない。これはいったいどういうわけなんだろう、ステララ、きみにはわかるかい?」
「あたしも同じことを考えて不思議に思っていたの」女は答えた。「今までこんなに幸福だったことがないような気がするのよ。でもなぜだかわからない」
二人はよりそって莚《むしろ》の上にすわっていた。できるだけ多くの光と空気にあたろうと、二人は莚を戸口の近くに敷いていた。ステララの柔和な瞳は、牢獄の戸口に縁どられた外の小さな世界を、物思わしげにながめていた。片手が二人の間の莚の上になにげなくおかれている。タナーの目は彼女の横顔にそそがれていたが、やがてかれの片手がそろそろとのびてステララの手の上におかれた。
「たぶん、きみがここにいなかったらぼくは幸福ではなかったろう」
女はなかばおびえたようなまなざしをむけて手をひっこめた。「だめよ」
「どうして?」
「わからない。ただこわいのよ」
タナーがふたたび口を開こうとしたとき、開いた戸口に人影がさした。少女が食事を運んできたのだ。これまではいつも男だった――無口でタナーの質問に何一つ答えてくれなかったものだ。だがこの少女の美しい笑顔には無口らしいようすはなかった。
「食事を持ってきました」少女はいった。「お腹すいてらっしゃる?」
「食べるよりほかにすることがないと、いつも腹ぺこだよ」タナーがいった。「ところで、以前食事を運んでくれた男はどうした?」
「あれはあたしの父ですわ。狩猟に出かけたのであたしがかわりに持ってきましたの」
「ねがわくば二度とふたたび狩猟から帰ってきていただきたくないね」と、タナー。
「なぜ?」少女が聞きとがめた。「いいとうさんなのに、どうしてそんな不吉なことを希《ねが》うの?」
「何も不吉なことをねがってやしないさ」タナーは笑いながら答えた。「ただぼくは娘さんのほうにこれからずっと食事を運んでもらいたいだけだよ。娘さんのほうがはるかに感じがいいし、見た目もぐっといいからね」
少女はぽっと赤くなったが、喜んでいることは明瞭だった。
「以前にも来たかったんだけど、父がこさせてくれなかったのよ。戦士たちがあなたを部落へつれてきたとき、あなたを見かけてもう一度お会いしたいと思っていたの。あなたのような男の人を見たことがないわ。アミオキャップの人とはちがってるのね。サリの男性は、みなあなたのようにハンサムなの?」
タナーは声をたてて笑った。「あいにくとそいつはあんまり考えたことがなかったな。サリでは、容貌ではなくてどんなことができるかということで男性を評価するんだよ」
「でも、あなたはきっとりっぱな猟人にちがいないわ。りっぱな猟人らしく見えてよ」
「りっぱな猟人って、どんなようすをしているのかしら?」ステララがややつっけんどんにたずねた。
「この人のようなのよ」少女はステララに答えて言葉をつづけた。「ねえ、あたし、あなたのことを何度も夢に見たのよ」
「名前はなんていうの?」タナーがたずねた。
「レタリ」
「レタリか」タナーは鸚鵡《おうむ》返しにいった。「いい名だ。ねえ、レタリ、たびたびきみが食事を運んできてくれるといいんだけど」
「あたしはもう二度と運んでこないわ」少女は悲しげにいった。
「そいつはまたどうして? 連中はぼくたちを餓死させる気かい?」
「いいえ。族長会議で決定したことだけど、あなたたちは二人ともコルサール人で、処刑されるべきだというのよ」
「で、処刑はいつなの?」ステララがたずねた。
「猟人たちが食物を持って帰還したらすぐに。御馳走と踊りの大宴会が開かれることになっているのよ。でもあたしはとうてい楽しむことなんかできないわ。とてもみじめな思いをすることでしょう。タナーが死ぬのを見たくないから」
「どんなふうにわれわれを処刑するんだろう?」タナーがたずねた。
「ごらんなさい」と、少女はいって、開いた戸口からむこうをゆびさした。はるかむこうで男たちが二本の杭を地面に立てているのが二人の捕虜の目にはいった。「あなたたちを地下人間にくれてやろうというものも大勢いたわ。でもズラルは、もうひさしく宴会も踊りもやらないから、地下人間に楽しみを一人じめにさせるくらいなら二人のコルサール人の処刑を祝おうじゃないかというのよ。それであなたたちをあの二本の杭にしばりつけて、周囲に乾燥した薪《まき》や板をつみあげて焼き殺すつもりなの」
ステララは身ぶるいをした。「母はあなたたちが慈悲深い民族だといっていたのに」
「あら、あたしたちはなにも無慈悲なことをするつもりじゃないのよ。でもコルサール人があたしたちにひどく残酷なことをしたもんだから、あなたたちが焼き殺されたことを神々がコルサール人につたえたら、たぶんかれらは恐れをなしてアミオキャップにこなくなるだろうとズラルは信じているのよ」
タナーは棒立ちになった。かれは事態の恐ろしさに圧倒されんばかりだった。かれはステララの金髪を見おろすと身ぶるいした。
「まさか、まさかアミオキャップの人たちはこの女の人を生身のまま焼き殺すというんじゃあるまいね?」
「ところがそうなの」レタリがいった。「はじめっから殺しておいたのではなんにもならない、そんなことをしたらこの人の魂が神々に、自分は焼き殺されましたとつたえることができないし、そうなると神々はコルサール人につたえることはできないというわけよ」
「ひどいことを」タナーが叫んだ。「で、きみは、自分も女のくせにあわれみを感じないのか? きみには心がないのか?」
「あなたが焼き殺されるのはとても悲しいわ。でもこの女の人、この人はコルサール人だから憎しみと嫌悪を感じるだけよ。でもあなたはちがうわ。あたしにはあなたがコルサール人ではないということがわかっているし、助けてあげられたらと思っているのよ」
「もしできたら、きみはぼくを助けるかい――いや助けてくれるかい?」
「ええ、でもできないことだわ」
脱走の相談は、番兵に立ち聞きされないよう小声で進められたが、それが疑惑をさそったことは明瞭だった。番兵がのっそりと立ち上がって小屋の戸口にやってきた。
「何を話しているのだ?」番兵は問いただした。「レタリ、おまえはどうしてこのコルサール人たちと、ここでそんなに長い間話しこんでいるんだ? おまえがいったことを聞いたぞ。この男を恋しているな」
「それがどうしたっていうのよ? あたしたちの神々は、恋をするようにといっておられるじゃありませんか? アミオキャップで恋以外にいったいなんの生きがいがあるのよ」
「神々は敵の男を恋せよといっておられるのではないぞ」
「恋してはいけないともいっておられないでしょ」レタリがいい返した。「あたしがタナーを恋しようと、それはあたしの勝手よ」
「出ていけ!」戦士はどなりつけた。「ラルにはおまえの恋のお相手は山ほどいる」
「ああ!」少女は戸口を出ていきながらためいきをついた。「でもタナーのような男はいないわ」
「いやらしい浮気女」少女が去るとステララが叫んだ。
「あの子は心にあることを平気で表現するんだね」タナーがいった。「サリの女たちはああはしない。相手の男が愛を告白するより前に自分の愛をあらわにするくらいなら死をえらぶだろう。たぶんあの娘はほんの子供で、自分が何をいっているのかわかっていなかったんだろうよ」
「子供なもんですか」ステララがぴしゃりといった。「あの女は自分が何をいっているかちゃんとわかっているのよ。そしてあなたがそれを喜んでいるのは明々白々よ。いいわ、あの女があなたを助けにきたら、いっしょにお行きなさい」
「たとえあの娘の手を通じて脱走のチャンスが訪れたとしても、ぼくが一人であの娘と逃げるつもりだと思ってやしまいね?」
「あの娘はあたしを逃がしてやるとはいわなかったでしょ」
「それはわかってる。だがぼくはきみを助けだしたいばっかりに、あの娘の援助を利用しようと思っているんだよ」
「あの娘の手助けで脱走するくらいなら何度だって焼き殺されてやる」
ステララの声は毒をふくんでいた。それはこれまでにないことだったので、タナーは驚いて彼女を見た。「きみという人がわからないよ、ステララ」
「あたしにだってわからない」女はそういうと、両手に顔を埋めてわっと泣きだした。
タナーは急いで彼女のかたわらにひざまずいて片腕を彼女にまわした。「頼むよ」彼は懇願した。「お願いだから泣かないで」
ステララはかれを押しやって叫んだ。「あっちへ行ってよ。あたしにさわらないで。あんたなんかきらいよ」
タナーはふたたび口を開こうとしたが、そのとき部落のむこうのはずれから大変な騒ぎが聞こえてきたので話の腰をおられた格好になった。大地をふるわさんばかりの轟音にまじって男たちの喚声が聞こえ、次に腹にひびくような太鼓の音が聞こえてきたのだ。
タナーとステララがあぶり殺されることになっている杭を地面に立てていた男たちは、即座に手を止めて武器をひっつかむと、騒ぎの聞こえてくる方角にかけだしていった。
老若男女がそれぞれの小屋から飛びだして、みな同じ地点に足をむけるのを二人の囚人は見た。戸口にいた番兵はさっと腰をあげ、ちょっとの間、かけていく人々を見ていたが、やがてひとこともいわず後をふり返りもせずにかれらのあとからかけていってしまった。
少なくとも当座は見張られていないということに気づいたタナーは、暗い牢獄から広々とした居間に飛びだして、人々がかけていく方角をながめた。そしてこの騒動の原因を見、同時に例の奇妙な吊り柵がそなえてある目的を知ったのだった。
柵のすぐ後ろに、憎悪と怒りに邪悪な目を真赤に血走らせた、二頭の巨大なマンモスがぬっと立っているではないか――身の丈五メートルないしはそれ以上はある、見上げるばかりの壮大なタンドールだ。巨大な牙を陽光にギラギラと輝かせ、長い強力な鼻でとがった杭から柵をひき倒そうとするが、杭が肉につきささるので思うようにいかない。この二頭のマンモスにむかって戦士は一団となってわめきたて、女や子供は金切り声をあげている。とどろく太鼓がそれにもましていちだんとそうぞうしい。
タンドールが無理やり柵を通りぬけようとしたり、杭をはらいのけようとするたびに、杭は前後左右にゆれて、とがった先端が目をおびやかし、柔らかな鼻の肉をつく。いっぽう戦士たちは勇敢にも喚声をあげながらむかっていって、石の穂先のついた槍を投げつけている。
だがこの光景がいかに興味深いものであろうと、壮烈なものであろうと、タナーにはこの奇妙な戦闘のなりゆきを見とどける余裕はなかった。ステララをふり返ると、かれはその手をつかんで叫んだ。「くるんだ! 今がチャンスだぞ!」そして人々が部落のはずれでタンドールに気をとられている間に、タナーとステララはすばやく敷地をかけぬけて、そのむこうにある森の青々とした草木の中に飛びこんだ。
道がついていなかったので、下生えをわけて進むのは困難なわざだった。わずかな距離を進んでついにタナーは立ち止まった。
「こんなことをしていては絶対にやつらから逃れることはできない。ぼくたちの足跡は、雨のあとのダイリスの足跡と同じくらいはっきりしている」
「それじゃ、ほかにどうすれば逃げられるというの?」
タナーは木を見上げて熱心に吟味していた。「ぼくが長いしっぽを持った黒い人間の捕虜だったとき、木をつたって移動する方法をおぼえなくてはならなかった。そのときに体得した知識とわざがそれいらい何度も役にたってきたから、こんどもぼくたちを救ってくれると思う」
「それじゃ、あなたお行きなさい。あなただけ助かるといいわ。だってあたしには木をつたって移動することなんかできないし、一人が逃げられるってときに、なにも二人とももう一度つかまることはないんですものね」
タナーは微笑した。「ぼくがそんなことをしないってことはわかっているだろ」
「だって、ほかにどうしようがあるっていうの? かれらはあたしたちが通って来た跡をたどってもう一度あたしたちをつかまえるわ。部落の物音が聞こえなくなるところへたどりつくまでにね」
「跡は残さないよ。きたまえ」そういってタナーはひらりと下枝に飛びつき、いきおいよく身体をふって二人の上に枝を広げている木に飛びこんだ。「さあ、手をかして」かれは下にいるステララに手をさしのべた。そして一瞬後にはステララをかれのかたわらにひきあげていた。それからかれはまっすぐに立って、ステララが立ち上がる間ささえてやった。二人の前には多くの枝が迷路を作ってつづき、はるかな緑の葉群れの中に消えていた。
「ここなら足跡は残らないよ」
「あたし、こわいわ。しっかりつかまえて」
「すぐになれるよ。そうしたらこわくなくなる。最初はぼくもこわかったけど、あとになったら黒い人間たちと同じくらいすばやく木の間を渡ることができるようになったよ」
「あたしだったら一歩だって進めないわ。落ちるにきまっているんですもの」
「きみは一歩も進む必要はないんだよ。ぼくの首のまわりに腕を巻きつけてしっかりとつかまって」そういうとかれは身をかがめて左手でステララをだきあげた。ステララは柔らかな白い腕をかれの首に巻きつけてしっかりとしがみついた。
「まあ、かるがるとあたしを持ちあげるのね! なんて強い人。でもあたしの重さをかかえて木から木へと渡って落ちないような男性はこの世にいないわよ」
タナーはそれには答えず、しっかりした足場と安全な手がかりを求めながら、枝々の間をどんどん進んでいった。ステララの柔らかな肢体がかれの身体にぴったりとおしつけられ、優雅な香粉がかれの鼻腔をくすぐった。コルサールの船上で、はじめてステララに接したときにかいだ、あの香粉、今では彼女の一部であるかのように感じられる香粉だ。
タナーが森の中で木から木へと渡っていくと、ステララはかれの力に驚嘆した。これまで彼女は筋骨たくましいコルサール人にくらべて、かれのことを柔弱だと思っていたのだが、今になってあのなめらかにもりあがった筋肉のうちに超人《スーパーマン》の力が秘められていることを知ったのだった。
彼女はうっとりとしてタナーを見まもっていた。実に楽々と移動し、疲れるようすも見えない。一度彼女はかれにもたれかかって、唇をかれの濃い黒髪にふれるまで近づけた。そして首にまわした腕にほんのちょっぴり、ほとんどそれとわからないくらい力をこめた。
ステララは非常に幸せだった。が、突然レタリのことを思い出すと、|きっ《ヽヽ》となって身を起こし、腕をゆるめた。
「あの性悪の浮気女」彼女はいった。
「だれだって?」タナーが聞きとがめていった。「何をいっているんだい、きみは?」
「あのレタリって女よ」
「あの娘は性悪《しょうわる》じゃないよ。ぼくはとてもいい娘だと思ったな。それに、たしかに美人だ」
「あんたはあの娘にまいってるんですよ」ステララがぴしゃりといった。
「そりゃそうなろうと思えば簡単だろうよ。とても人好きのする娘のようじゃないか」
「あなた、あの娘を愛してるの?」ステララがきいた。
「いけないかい?」
「愛してるの?」ステララはしつこくいった。
「もしそうなら、気になるかい?」タナーはやんわりとたずねた。
「とんでもない」
「それじゃなぜ聞く?」
「聞いてやしないわ。どうだっていいことよ」
「そうか。ぼくのかんちがいだったな」そしてタナーはだまって進んだ。サリの男性は無口なのだ。ステララにはかれが何を考えているのかわからなかった。というのも、かれが心中で笑っているのが表情にあらわれていなかったからだが、それにしてもどっちみちステララにはかれの顔が見えなかった。
タナーはつねに一方向に進んだ。帰巣本能によってサリがその方角にあるとかれは確信していた。陸がつづくかぎり、かれはまちがいなくペルシダーの一地点、すなわちかれの生地にむかってまちがいなく進むことができるのだ。ペルシダー人ならだれでもそれができるが、いったんかれらを陸地の見えない水上に置くや、この本能はかれらから去ってしまう。方角がわからなくなってしまうのだ。このことは太陽がつねに中天にかかり、月も星もないために羅針儀《コンパス》の方位《ポイント》のない土地にいきなりつれてこられた場合のあなたやわたしと同様だ。現在のタナーの唯一の望みは、できるだけラルの部落から遠ざかることで、かれは海岸に行き着くまで進むつもりだった。アミオキャップが島国だということは承知していたから、いずれは海にでることはわかっていた。それからさきはどうするかということはあまりはっきりしていなかった。かれは、小舟をしたてて海に乗り出すことを思いえがいていた。もっとも、かれのような丘の住人にとって、これは狂気の沙汰だということはよく承知していたが。
ほどなく空腹を感じるようになった。かなりの距離を経てきたにちがいないことがこれでわかる。これまでときどき、タナーは歩数を数えることによって距離をたしかめたものだった。みっちりと修練をつんでいたので、頭の中では自由に別のことを考えたり、知覚したりしながらほとんど機械的に数えることができるようになっていたが、このように枝や木の間では歩幅が一様でないので、数えたところで無駄だと思った。だから、ラルの部落を出てからかなりの距離を踏破したにちがいないということは、何度も空腹を感じたということで判断するしかなかった。
森をぬけて逃走中、二人は鳥や猿やその他のけものを見かけたし、また|えもの《ヽヽヽ》の通り道と平行に進んだり、またそれを横切ったりしたことも数回あった。だがアミオキャップ人が武器をすっかりとりあげてしまったので、いったん休止して弓矢と槍を作りあげるまで肉を手にいれるすべがなかった。
今、自分の槍があったら! 子供のころから槍はつねにかれのよき伴侶だった。そして、ひさしい間槍を持たない自分が、ほとんど無力に感じられたものだった。かれは火器を携帯するということにすっかりなじむこともできなければ満足することもできないでいた。粗野で野蛮な心の奥底では、石の穂先のついた丈夫な槍ほど信頼のできるものはないと感じていたからだ。
かれはイネスとペリーが作り方と使い方を教えてくれた弓矢のほうがまだしも好きだった。矢は小型の槍のような気がする。すくなくとも矢は目に見える。ところが煙と焔を噴出する奇妙でそうぞうしい武器ときては、発射された物体がまるで見えないのだから、これほど不自然で気味の悪いものはない。
しかしこのときタナーの頭はそんな考えで占領されてはいなかった。何よりも食物だ。
ほどなくかれはちょっとした天然の空地にでた。かたわらを清冽《せいれつ》な小川が流れている。タナーはひらりと地面におり立った。
「ここで休もう。武器を作って肉を手に入れるまでの間だ」
足の下にふたたび大地を感じるようになると、ステララは気が強くなった。「あたしはお腹がすいていないわ」
「ぼくはすいてるんだ」
「草や果物や木の実がいっぱいあるじゃないの」彼女はいいつのった。「ここでぐずぐずしていたら、ズラルの戦士に追いつかれるわよ」
「ぼくが武器を作るまでここにじっとしているんだ」タナーはきっぱりといった。「そうしたら肉を手にいれるために獲物を殺すことができるばかりか、きみをズラルの戦士たちからもっとよく守ってあげることだってできるようになる」
「あたしは先へ進みたいのよ。ここにじっとしていたくないの」彼女は華奢《きゃしゃ》な足で地団駄《じだんだ》を踏んだ。
タナーは驚いて相手を見た。「どうしたんだい、ステララ? こんなことは今までになかったぞ」
「どうしたんだか知るもんですか。あたしにわかっていることは、コルサールのエル・シドの家に帰りたいということだけよ。少なくともあそこなら味方に取りまかれていられるわ。ここでは周囲は敵ばかりじゃないの」
「そしてきみは血を好むボハールといっしょになるんだろう。かれが嵐を生きのびていたらの話だが。もしもかれがいなかったら、また別の、かれみたいなやつといっしょになるんだな」
「少なくともかれはあたしを愛してくれたわ」
「で、きみはかれを愛していたのかい?」
「たぶんね」
タナーは妙な面持ちで女を見つめた。かれは彼女を理解していなかった。が、理解しようとつとめているようだった。ステララはかれをやりすごしてそのむこうをながめていた。奇妙な表情を浮かべている。そのとき、突然彼女はおどろいて絶叫し、タナーのむこうを指さした。
「見て! 大変よ、見て!」
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五 タンドールの猟人
ステララの口調があまりにも恐ろしげなので、タナーは脳天の髪がさかだつのを感じた。かれはふりむきざま彼女をふるえあがらせたものをそこに見た。たとえ彼女が示した恐怖にふさわしいほどの光景を予想するひまがあったとしても、今かれらにせまりつつあるもの以上に恐ろしく、身の毛のよだつものを頭に描くことはできなかったろう。
形のうえからいえば、そいつは根本的には人間の形をしてはいた。が、人間との類似点はそれだけ。腕があって、下肢があって、二本足で立っているのだが、その足ときたら! とてつもなく大きくて、平べったくて、爪のない指――ずんぐりしていて、水かきがある――がついている。腕は短く、手には指のかわりに太い爪を三本そなえている。身長は立って一・五メートルくらい。一糸まとわぬ身体には、頭の天辺から足の先まで毛というものが一筋もなく、肌は死体のような青白さで、見ていて胸が悪くなりそうだ。
しかしこれらの道具立ては、そいつのいやらしさのごく一部にしかすぎない――すごいのは頭と顔だ。そいつには外面に耳がついていない。頭の両側の、ふつうなら耳のある場所に二つの小さな穴があいているだけなのだ。口は大きく、たるんだ唇が今しもひきつって二列のごつい牙がむきだしになっている。口の中心の上に二つの小さな穴があって、元来鼻のあるべき場所を示している。だが、そいつの容貌をいやがうえにも恐ろしくしているのは、そいつに目がないということだ。目のあるべき場所の皮膚がもりあがってふくらんでいるのが、しいていえば目といえるのかもしれない。そこの部分の顔の皮は、あたかもその下で大きな目玉がギョロギョロしているかのように動いていた。瞼《まぶた》も睫《まつげ》も眉毛もないのっぺらぼうのその顔は、日頃平静なタナーの神経にとってさえショックだった。
その怪物は武器を持っていなかったが、あんなに恐ろしい爪と牙をそなえているものに武器の必要があろうか? 青白い皮膚の下には、そいつが大力の持ち主であることを証明するごつい筋肉がうねり、のっぺらぼうの顔には、口ばかりがその悪魔のような獰猛さを充分に物語っていた。
「タナー、逃げて!」ステララが叫んだ。「木にのぼるのよ! それが地下人間よ」
だが、たとえステララをおきざりにするつもりだったにせよ、逃げるにはそいつは接近しすぎていた。そこでかれはその場に立ちつくしたまま、じっと待ちかまえていた。と、突如として――身の毛のよだつようなこの場の恐ろしさをさらにだめおしするかのように――そいつは口をきいたのだ。たるんでたれさがった唇から音声がもれた――口ごもっているような、なんともいえぬ不気味なひびきを持った音声だが、それでも一応言葉になっていて、やがてまがりなりにもタナーとステララに理解できるようになった。
「おれはその女がほしい」化け物はもぐもぐとしゃべった。「女をよこせ。男は行ってもよい」ショックに麻痺したタナーの感覚には、バラバラ死体が墓穴からよみがえってしゃべっているように感じられ、かつてないことだがタナーはほとんど恐怖にも似た気持におそわれて思わず一歩後退した。
「この女は渡さない」タナーがいった。「われわれに手をだすな、さもないと殺すぞ」
と、哄笑と悲鳴のいりまじった、ぞっとするような金切り声がそいつの唇からほとばしった。
「それならば、死ね!」そいつはそう叫ぶなりサリ人にむかってきた。
接近すると同時にタナーの腸《はらわた》をえぐりだしてやろうと、ものすごい爪で下から打ちかかったが、タナーはひらりと横にとんで最初の一撃をかわし、すばやくむき直って相手のいまわしい身体にとびかかった。そして強力な片腕を相手の首に巻きつけるやいなや、くるりと一転してどうとばかりに背負い投げをくわせた。
だが相手は即座に立ち上がってむかってきた。怒りに絶叫し、口から泡を吹きながら大きな爪でめちゃめちゃに打ちかかってくる。だがタナーは普通、石器時代の男が知らないような術をいくつかデヴィッド・イネスから教わっていた。デヴィッドは、ペルシダーのほかの青年たちにたいしてと同様、タナーにもボクシング、レスリング、柔術をふくむ護身術を教えてくれた。それらの術は、習得してこのかた何度かかれの身を守ってきたが、それが今ふたたび役立ったのだ。デヴィッド・イネスが地上世界からペルシダーに来て、第一代の皇帝としてそこに住む人類の運命をみちびくようになったのはすべて幸運のしからしむるところだが、タナーはあらためてその幸運に感謝したのだった。
タナーの知識と鍛練と敏捷さは、かれの大力とうまく調和していた。かれが大力の持ち主でなかったら、これらの修行ははるかに価値の低いものになっていたろう。怪物が襲いかかるたびに、タナーはその強打を受け流し、邪悪な爪をかれの生身からそらし、まったく互角の力で相手を驚嘆させた。
だがそれにもましてこの怪物を驚かせたのは、タナーが相手のふところにふみこんで、身体や頭部に有効で強烈な連打をくわせることができるということで、おかげでこの不器用で修練のたりない怪物はうまく身を守ることができないのだった。
かたわらではステララがつっ立ったまま、彼女の一身がかかっているこの闘争を見まもっていた。逃げて身をかくすこともできたかもしれない。おそらく充分逃げおおせたろう。だがそんな考えは勇気にみちた小さな頭には浮かんでこなかった。彼女の闘士が危機に直面しているときに、それを見すてて逃げることはできなかった。それはかれがステララを運命の手にゆだねて置きざりにすることができないのと同じことだった。で、彼女はその場に立ちつくし、どうすることもできずにじっと結果をまっていた。
二人は、ときとして動きをさまたげるほどに繁茂した青草を踏みつけ、踏みしだきながら空地を行ったり来たりして戦った。やがて、怪物が苦しそうに息を切らせていることから、そいつが着実に消耗しつつあるということ、そしてサリ人ほどの体力を持ちあわせていないということがステララにもタナーにも目に見えてはっきりわかってきた。とはいうものの、おそらく怪物自身もこのことに気づいたのだろう。今や怪物は努力と獰猛さを倍加して攻撃してきた。が、それと同時にタナーはかれの鉄拳をぶちこむべき急所を発見したのだ。
相手の顔をめがけてなぐりかかったとき、タナーは偶然その下に目があると思われる位置の皮膚の突起にふれた。と、ごく軽くあたっただけにもかかわらず、その衝撃で怪物は悲鳴をあげ、本能的に片手をあげて傷ついた器官をかばいながら後ろへとびすさった。それ以後、タナーはこれらの二つの突起により強力な打撃をかさねることに全力を傾注した。
そして今一度、片方に痛烈な一撃をくらわせた。怪物は苦痛の悲鳴を発して後退し、両手で痛む個所をおさえた。
かれらはステララの立っているすぐそばで戦っていた。怪物の背は彼女のほうにむけられていたが、あんまり近いので手をのばせばふれることができるほどだった。彼女はタナーがふたたびなぐりかかるのを見た。怪物は、彼女のすぐ横へさっと身を引いたが、突如として頭を低くさげると、ぞっとするような金切り声を発し、猛悪さのありったけを結集してサリ人につっかかっていった。
怪物は、残る全精力をふるいおこしてこの最後の狂気じみた突進にそそぎこんだかのようだった。みずからの精神と筋肉を完全に統御していたタナーは、すばやくチャンスを見てとってそれに乗じるとともに、ここは退くべきだとすばやく読んでひょいと後ろへとんだ。狂気じみた相手の突撃と打ちかかる爪をさけるためだったのだが、その拍子に片方の踵《かかと》が低い灌木にぶつかってかれはどうと仰向けに地面に倒れたのだ。
つかのま、かれはどうすることもできなかった。そしてそのわずかの間にも怪物はあのものすごい牙と、とぎすました爪でかれに襲いかかることができるのだ。
タナーにはそれがわかった。かれに肉薄する怪物にも、かれのすぐ後ろに立っているステララにもそれがわかった。あっというまに彼女は突進する怪物に背後から体当りをくわせていた。その行動があまり早かったので、そのときにはタナーの身体はまだほとんど地面に着いているかいないかだった。
フットボールの選手が身を挺してタックルするように、ステララは怪物に体当りをくわせて相手のひざにガッと組みついた。怪物がふりほどこうと蹴りもがいたので、足にしがみついたままずり落ちたが、最後に巨大な足のすぐ上の骨張った踵の片方にしっかりと組みついた。彼女がそこにしがみついたので怪物はタナーのわずか手前でつんのめった。が、たちまち怒号して彼女を八つ裂きにしようとむき直った。しかしこの一瞬のおくれで、タナーはたちあがる余裕を得た。そしてステララの柔肌に爪や牙がくいこむ前に怪物の背にとびかかっていた。鋼鉄《はがね》のような指が相手ののどに巻きついた。怪物はもがいて太い爪をつきだしたが、ついにはサリ人の手の中で身動きできなくなった。
じわじわと、容赦なくタナーは怪物をしめあげて息の根を止めた。それからさもいとわしそうに死体をほうりだすと、今しもよろよろとたちあがろうとしているステララのところへかけよった。
タナーがだきしめると、しばらくの間彼女はかれの肩に顔をうずめてすすり泣いていた。「こわがらなくてもいい。怪物はもう死んだよ」
ステララは顔をあげてタナーの顔を見あげた。「ここをはなれましょうよ。あたし、こわい。あたりに地下人間がもっといるかもしれないわ。かれらの地下世界の入り口がどこかこの辺にあるはずよ。かれらはそういう入り口からあまり遠くへ出ていかないのよ」
「そうしよう。武器が手にはいるまで、ぼくもこれ以上やつらに会いたくない」
「かれらは恐ろしい怪物よ。もしさっきの相手が二人だったらあたしたちは二人ともやられていたでしょう」
「やつらは何なんだ? きみはやつらのことを知っているようだが、この前はどこで見たんだい?」
「今が今まで見たこともなかったわ。でも母が話してくれたの。かれらはすべてのアミオキャップ人に恐れられ、きらわれているんですって。コリピーズといって、暗い地下の洞窟や、ほら穴に住んでいるの。地下人間と呼ぶのはそのためよ。かれらは肉食で、ジャングルを歩きまわってあたしたちが殺した獲物の残骸をあさったり、森で死んだ野獣の死体を食べるの。でもあたしたちの槍を恐れているから、かれらの暗黒世界の入り口から遠くには出てこようとしないのよ。かれらはときに一人歩きの猟人を待ちぶせたり、たまにあたしたちの部落にやってきて女や子供をさらっていく。だれ一人としてかれらの世界へふみこんで逃れてきたものはいないから、母がかれらについて話してくれた事柄は、地下人間の住む地下世界に関するあたしたちの一族の想像にすぎないわ。というのも、かれらの地下道の暗い奥底にあえて踏みこむほど勇敢な戦士はアミオキャップにいないし、それにもしそんな人がいたとしても、帰ってきてそのことを話すことはできなかったでしょう」
「それで、もしもあの慈悲深いアミオキャップ族がわれわれを焼き殺さないことに決めていたら、かれらはわれわれを地下人間にくれてやるところだったんだな?」
「そうよ、あたしたちをつれていって、地下世界の入り口の一つに近い木にしばりつけておくつもりだったのよ。でも、だからといって母の一族をせめないで。かれらは公正で適切だと思ったことをしているつもりだったのでしょうから」
「たぶんみんな慈悲深いかたがたなんだろうよ」タナーはにやりとしていった。「われわれを杭にしばりつけてあぶり殺しにするほうが、恐ろしいコリピーズの手に渡すよりかずっと慈悲深いことはたしかだからな。だが来たまえ、もう一度木のところへいくんだ。ここも今となっては最初にながめたときほど、うららかな場所には見えなくなったからね」
ふたたび二人は木の枝をつたって逃走を開始した。そして睡気をもよおしはじめたちょうどそのとき、タナーは小さい鹿がかれらの下の通り道にいるのを発見した。タナーはそれをしとめ、二人して飢えをみたした。それからタナーは小枝や大きな木の葉を使って木の上に台――幅のせまい寝椅子――をしつらえ、タナーが番をしている間ステララが横になって眠り、彼女が眠ったあと、タナーが眠った。それから今一度、逃走の途についた。
食物と睡眠をとって力もつき、爽快な気分になった二人は、前途により大きな期待をかけ、意気|軒昂《けんこう》として再出発したのだった。ラルの部落ははるか後方にあった。部落を出ていらい、他の部落も人影もぜんぜん見かけなかった。
ステララが眠っていた間にタナーはせっせと粗末な武器を作りあげた。もっとましなものを作る材料が見つかるまでのまにあわせだ。槍は、堅木の細い枝を丈夫な白い歯でかんで先をとがらせた。弓はまた別の木の枝で作り、たおした鹿の腱を弦として張った。一方、矢は森中にいくらでもはえている丈夫な灌木からきりとった若枝だ。タナーはステララのためにもう一本もっと軽い槍を作ってやった。こうして武装してみて、二人はこれまでにまったく欠けていた安心感をそれぞれに味わったことだった。
二人は先へ先へと進み、三度食事をして今一度眠った。が、それでも海岸には到達しなかった。
雄大な太陽は頭上にかかり、おだやかな涼風が森をそよぎ渡っている。二人が通りかかると、地上世界では未知の、目もさめるような羽根の小鳥や、小猿が飛びかい、はねまわり、さえずり、嬌声をあげる。平和な世界だ。故郷の大本土に抜扈《ばっこ》する残忍な肉食獣になれているタナーにはひどく安穏で、しかも精彩のない世界のように思えたが、逃亡をめざすかれらの道程を妨害するものが何もないことは喜ばしいことだった。
ステララはもうコルサールに帰りたいとはいわなくなっていた。タナーの胸中にはたえず逡巡《しゅんじゅん》する一つの計画があったが、その中にはステララをサリへつれて帰るということもふくまれていた。
このタナーののんびりした一連の想念は、突如としてかん高い象の鳴き声に破られた。あんまり近くで聞こえたので、すぐ足もとで起こったのかと思ったほどだった。かれは一瞬遅れて目の前の葉群れをかきわけ、騒ぎの原因をつきとめた。
ジャングルは、ちょうどここ、広々とした牧草地のきわで終わっていた。あちこちにちょっとした木立ちが点在しているその牧草地の手前に二つの姿があった――いのちからがら逃げてくる一人の戦士と、この背後にせまる巨大なタンドール。タンドールは三本足でかけているが、じきにその男に追いつくにきまっている。
タナーは一目でその場の状況をあますところなく見てとった。単身でタンドール狩りにでた猟人が、獲物の後足の両方の腱を切りそんじたのだ。タンドール狩りには単身ででかけることはめったにない。最高に勇敢な者か、あるいはもっともむこう見ずなやつだけがそんなことをくわだてるのであって、たいがいは数人がかりでやることになっている。そのうち二人は重い石斧で武装している。そして他の者が物音をたててタンドールの注意をひき、斧を持った男たちが接近する音をかくしている間に後者はそろそろと下生えの間を通りぬけて背後からしのびより、めいめいが一方の後足に打ちかかれるだけの距離にまで接近する。そして同時にこの怪獣の腱を切り、無力にたおれているところを太い槍と矢でしとめるのだ。
タンドールの腱を一人で切ろうというものは、大力と勇気にめぐまれていなくてはならないが、そればかりではない。この野獣が、襲われたかとも気づかないさきに、もはや跛《びっこ》になっているように次々とすばやく、かつまちがいなく斧をふるうことができなくてはならないのだ。
この猟人は二度目の打撃を手早くぶちこむのに失敗したのだ。タナーにはそれがはっきりとわかった。そしていまや大獣の餌食になろうとしている。
木をつたって逃走をはじめていらい、ステララは恐怖を克服して、今ではときたまタナーの手をかりるだけで一人で進むことができるようになっていた。彼女はサリ人の後につづいていたが、今しもかれのかたわらに立って足もとに演じられている悲劇を見まもっていた。
「あの人、殺されるわ。助けてあげられないの?」
タナーにはそんな考えはそれまで浮かばなかった。なに、あの男はアミオキャップ人だ。敵ではないか。しかしステララの口調には、サリ人をじっとさせておかない何ものかがあった。たぶんそれは女性の前で勇敢なところを見せたいという男性の本能だったかもしれない。あるいは、タナーはしんそこ勇敢で寛大な男だったのかもしれないし、世界中のあらゆる女性の中でもそれを口にしたのがほかならぬステララだったからかもしれない。だれにわかろう? おそらくタナー自身も、何が自分を次の行動にかりたてたかわからなかったろう。すべてのタンドール猟人に通じる合言葉――いちばん近い英語の表現でいうと、「方向転換!」――を発すると、タナーは突進してくるタンドールのほとんど真横の地面にとびおり、同時に槍を肩ごしにかまえてその太い柄を獣の左肩のすぐ後ろのわき腹にずぶりとつき立てた。そしてタンドールの次の行動を察して森の中にとびこんだ。ひと声高く苦痛の悲鳴をあげると、タンドールはあらたな敵にむかってきた。まだ大斧をしっかりにぎりしめていたアミオキャップ人は、タナーの唇から突如として発せられた聞きなれた合言葉を、あたかも神々の奇蹟のように耳にした。その合言葉は、それを発したものがこれからしようとしている行動と、それにたいする態勢がととのっているということをつげていた。そこでかれは、タンドールがさっと方向を転じてタナーの後を追って突進をはじめたとたんに、けもののほうにむき直った。そして、けものがサリ人を追ってジャングルの下生えにすさまじい勢いで飛びこむと同時に追いついた。大斧が稲妻のように空を裂き、巨大なえものは怒りの咆哮をあげて大地にくずおれ、ごろりと横倒しになった。
「やったぞ!」と、アミオキャップ人は叫んでタナーに攻撃が成功したことをつげた。
サリ人はひき返してきた。そして二人の戦士は協力してこの巨大な野獣を殺した。その間、ステララは二人の上の緑の若葉のかげに残っていた。ペルシダーの女は敵の戦士の目の前に無分別に姿をあらわさない。この際、あのアミオキャップ人がタナーにたいしてどう出るか見きわめてからのほうが安全だということを彼女は知っていた。おそらくは感謝して、友好的な態度に出るだろうが、そうでないということもあり得る。
けものが処理されると、二人の男は正面きってむきあった。
「きみはだれだ?」アミオキャップ人はたずねた。「勇敢にも未知の人間を助けるためにとびだしてきてくれるとは。見覚えのない顔だが、アミオキャップ人ではないな」
「わたしはタナー。はるか本土のサリの王国から来た者だ。コルサールがわたしの国の属する帝国を侵略した際に捕虜となったのだが、かれらがわたしと他の捕虜をコルサールへつれて帰る途中、船隊がはげしい嵐にみまわれ、わたしが監禁されていた船は使いものにならなくなったので船員たちは船を見すてていってしまった。しかたがないので風と潮流にまかせて漂ううちに、船はアミオキャップの浜辺にわれわれを運んできた。浜辺でわれわれはラルの部落の戦士につかまった。かれらはわれわれの話を信じなかった。われわれをコルサール人だと思いこんで殺そうとしたところを脱走に成功したのだ。もしわたしを信じないなら」サリ人はつづけた。「どっちかが死ななくてはなるまい。どんなことがあってもわれわれはラルにもどって焼き殺されるつもりはないからな」
「信じようと、信じまいと」アミオキャップの男は答えた。「生命を賭《と》してわたしの生命を救ってくれた人に危害を加えるようなことがあれば、わたしはすべての人の侮蔑を買わなくてはなるまい」
「よろしい。では、われわれはきみがわれわれの居場所をラルの人間にあかさないということを頭において旅をつづけるとしよう」
「今、きみは〈われわれ〉といったな。ではきみは一人ではないのか?」
「そうだ。わたしにはつれがある」
「たぶんきみに手をかしてあげられるだろう。それがわたしの義務だからな。どっちの方角へ行く? どうやってアミオキャップから脱出するつもりだ?」
「海岸をさがしているんだ。そしてそこで船を作って、海を渡って本土へ行けたらと思っている」
アミオキャップ人は首を振った。「そいつはむつかしいな。さよう、そいつは不可能なことだよ」
「やるだけはやってみなくてはな。われわれがコルサール人ではないということを信じてくれないアミオキャップ人のところにとどまることはできない。それははっきりしている」
「きみはぜんぜんコルサール人らしくないじゃないか」戦士はいった。「きみのつれはどこだ? その男はコルサール人に見えるのか?」
「わたしのつれは女だ」タナーは答えた。
「もしそのひとがきみと同じくコルサール人らしくないなら、きみの話を信じるのはたやすいことだったろうに。少なくともわたしはきみの話を信じるにやぶさかではないし、喜んで助力もしよう。アミオキャップにはラルのほかにも部落はあるし、ズラルのほかにも族長はいる。われわれはこぞってコルサール人を憎んでいるが、みんながみんなズラルのように憎しみのために盲目になっているわけではない。きみの連れのひとをつれてきたまえ。もしもそのひとがコルサール人のような容貌をしていなかったら、きみたちをわたしの部落へおつれして歓待させよう。もしもわたしが疑わしいと考えたら、きみは行きたいように行くがいい。わたしはきみに出会ったという事実を余のものには告げまい」
「それはまことに適正な処置だ」タナーはいってふりむくと、ステララを呼んだ。「おりておいで、ステララ! この戦士が、きみがコルサール人かどうか見たいそうだ」
ステララは二人の男の頭上の枝からひらりと地面に飛びおりた。
アミオキャップ人は、彼女を一目見るなりはっとして驚きの声をあげ、後|退《ずさ》りした。
「これはどうだ! アララじゃないか!」
二人は唖然として男を見た。タナーはいった。「いや、アララではない。アララの娘、ステララだ。アララに似ているということがそんなにもすぐにわかったあんたはいったい何者だ?」
「わたしはフェドール。アララはわたしの妻だった」
「ではこのひとはあんたの娘だ、フェドール」
戦士は悲しげに首をふった。「いやちがう。この子がアララの娘だということは信じられるが、父親はコルサール人にちがいないのだ。アララはわたしの手元からコルサール人にさらわれていったからな。この娘はコルサール人だ。心中ではわたしの娘として受け入れてやりたいと切実に思うが、アミオキャップの風習が禁じている。無事で行きなさい。わたしにできるなら守ってもやろう。だが、受け入れてあげるわけにはいかないし、わたしの部落へつれていくこともできない」
ステララはフェドールに近づいた。目は相手の日焼けした肩の皮膚をさぐるように見ている。
「あなたはフェドールだわ」かれの肌についている赤い痣《あざ》をゆびさしてステララはいった。「そしてここに母があたしにくれた証拠があるわ。あなたの血を通じてつたえられたもの、あたしがフェドールの娘だという証拠よ」そういって彼女は左肩をかれのほうにむけた。その白い肌には、アミオキャップ人の左肩にあるのと同じ小さく、丸く、赤いしるしがあった。
つかのま、フェドールはステララの肩に目をすえたまま、魔術にかかったように棒立ちになっていた。が、次の瞬間、彼女をしっかりとだきしめた。
「娘よ!」フェドールはかすかな声でいった。「アララがわれわれの血肉をわけた娘となってもどってきてくれた!」
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六 愛の島
ペルシダーの真昼の太陽は、幸せな三人づれの上にさんさんと輝いていた。フェドールがステララとタナーを、自分が族長としておさめているパラートの部落に案内していくところだ。
「人々はあたしたちを友人としてむかえてくれるでしょうか?」ステララがたずねた。「それとも、ラルの人々のようにあたしたちを殺そうとするのかしら?」
「わたしが族長だ」フェドールはいった。「人々は、たとえおまえたちに疑問を持ってもわたしの命令どおりにするだろう。しかし疑問などないはずだ。というのは、証拠は歴然としているからだ。人々はわしと同様、おまえをフェドールとアララの娘としてむかえるだろう」
「では、タナーは? かれも保護してくれるわね?」
「かれがコルサール人でないということはおまえの言葉で充分だ。居たいだけわれわれとともにいるがよい」
「ズラルはこのことをどう思うだろう?」タナーがいった。「あの男はぼくたちに死刑を宣告したのだ。処刑は行なわれるべきだと主張するのではないだろうか?」
「アミオキャップでは、部落同士が争うことはめったにない」フェドールが答えた。「だが、もしもズラルが争いを求めるなら、きみや娘を引き渡してラルであぶり殺しにさせるより前に、かれののぞみどおり相手になってやろう」
パラートの人々が族長の帰還を見たときの喜びは大きかった。永久に失ったものと思いこんでいたからだ。かれらは族長の周囲にむらがり、歓声をあげてむかえた。と、「コルサール人だ! コルサール人だ!」と大声でどなる声がして歓声ははたとやんだ。数人がタナーとステララに目をとめた。
「〈コルサール人だ〉と叫んだのはだれだ?」フェドールが詰問した。「この人たちについて、おまえたちに何がわかる?」
「わたしはかれらを知っている」一人の長身の戦士が答えた。「わたしはラルのものだ。わたしのほかにラルのものはあと五人いるが、われわれはこのコルサール人たちをさがしていたのだ。かれらはあぶり殺しにされるところを、その寸前に脱走した。二人をつれて帰ったら、ズラルはあなたが二人を捕えたことを喜ぶだろう」
「二人をどこへもつれていくことはならん」フェドールがいった。「かれらはコルサール人ではない。これは」と、かれはステララの肩に手をおいて、「わたしの娘だ。そしてこの人は遠いサリの国から来た戦士で、われわれの知らないはるかな本土にあるその国の王の息子だ」
「かれらは同じことをズラルに語った」ラルの戦士はいった。「だがわれわれは信じなかった。だれ一人として信じるものはいなかったのだ。かれらをアミオキャップに運んできたコルサールの船からかれらをとらえてきたとき、わたしはヴァルハンとその一行とともにいた」
「最初はわたしも信じなかった」フェドールがいった。「しかしステララが、わたしの娘だということをみずから納得させてくれた。今、それと同じようにして彼女のことばが真実だということをわたしはきみたちに納得させてやることができるぞ」
「どうやって?」戦士が問うた。
「わたしの左肩にある痣《あざ》だ。見るがよい。そしてこの娘の左肩にある痣とくらべて見たまえ。アララを知っているものは、ステララがアララの娘だということを疑うことはできない。この子は母親そっくりだからだ。彼女がアララの娘なら、左肩にある痣をわたし以外のどんな父親からうけつぐことができよう!」
ラルの戦士は頭をかいた。「これ以上の証拠はないな」と、戦士たちの代弁者は答えた。
「そうだ、これにまさる証拠はない」フェドールがいった。「わたしにはそれだけで充分だ。パラートの人々にとっても同様だ。この話をズラルと部落の人々につたえるがよい。かれらはわれわれと同じように、わたしの娘とタナーをうけいれてくれることと信じる。われわれは、それがアミオキャップの者であろうと、他国のものであろうとすべての敵から二人を守るつもりでいる。きっとかれらもすすんで二人を守ってくれるだろう」
「あなたのことづてをズラルにつたえよう」戦士は答えた。それからまもなく、一行はラルにむかって出発していった。
フェドールはステララのために自分の家の一部屋を用意した。そしてタナーに、独身者ばかりが住んでいる大きな建物をわりあてた。
ステララの到来を祝う大饗宴の計画がたてられた。フェドールとタナーがたおしたタンドールの牙と肉を運んでくるために、百人の戦士が派遣された。
フェドールは骨と象牙と金でできた飾りでステララを飾りたてた。ステララは、もっとも柔らかな毛皮と、珍しい鳥の豪華な羽根を身につけた。パラートの人々は彼女を愛し、ステララも幸せだった。
タナーは最初のうちは部族の男たちになんとなく敬遠された。そこには疑惑がないではなかった。タナーは族長の命令による客であり、かれらはそのように待遇したのだ。が、やがてかれを知るにおよんで、ことにつれだって狩猟にでてからというものは、かれをかれなりに好くようになり、仲間にいれてくれるようになった。
最初、タナーにとってアミオキャップ人は不可解だった。かれらの部族生活とすべての風習は、愛と親切にもとづいていた。口論や叱言など不愉快な事柄とは無縁といってよかった。こういった男性のものやわらかな一面は、最初サリ人には柔弱でめめしいように思えたが、かれらが絶大な体力と、すぐれた勇気をあわせ持っていることを知ってからというものはタナーの称賛はつきることをしらなかった。かれらの相互間の態度や、生活態度には一つの哲学といったようなものがあるということをまもなく知って、タナーはそれを同族のサリ人たちにわかるように説明してやれたらと思った。
アミオキャップ人は、愛というものを神々の恵みの中でももっとも神聖な賜物《たまもの》であり、かつ善をおこなうもっとも強力な原動力だと考えていて、恋愛を自由奔放におこなっている。だから人間がこしらえあげた野暮な法律――神と自然の法則を否定した法律――の奴隷にはならず、それでいて純粋かつ貞節なことはかれが他の部族で見聞してきた以上なのだ。
狩猟、舞踊、饗宴。そしてアミオキャップの男たちが和気|靄々《あいあい》と競う技《わざ》と力のコンテスト。こうしてステララとタナーの生活は申し分なく幸福だった。
サリ人はだんだんサリのことを考えなくなっていた。いつかは小舟を作って故郷へ帰るつもりだった。が、急ぐことはない。時機をまとう。やがて徐々にその考えすらまったくといってよいくらい、かれの念頭から消えていた。かれとステララはよくいっしょにすごした。二人はたがいに相手の社会に、他の時代や他の民族にはない幸福と満足を見いだした。
タナーは愛を口にしたことはなかった。たぶんかれは愛について考えたことがなかったのだろう。というのも、かれはいつもなにか狩猟の予定がつまっているとか、男性のやるスポーツや試合に出ているとかいったぐあいなのだ。つまり心身ともにふさがっていたわけだ――そういう状態にある場合は、えてして恋心のはいりこむ余地がないものだ。しかしどこへ行こうと、何をしようと、ステララの顔と姿がたえずかれの考えの裏側につきまとっていた。
たぶん自覚してはいなかったのだろうが、かれの思考や行動の一つ一つは族長の娘の甘美な美しさに左右されていた。かれは彼女の友情を当然のことと考え、それを大いに幸せと感じていた。が、それでもなおかつかれは愛を口にしなかった。だがステララは女だ。女は愛に生きる。
パラートの部落で、彼女は女たちが正々堂々と男たちに愛を告白しているのを見かけた。しかし彼女はいまだにコルサールの風習にしばられていたから、男が愛を告白してくるまで自分から男にむかって愛していると告げることはできなかったのだろう。そんなわけで、タナーから愛のことばをひとことも聞かないまま、ステララはかれの友情に満足していた。たぶん彼女も、愛ということにかんしてはかれ同様、あんまり考えたことがなかったのかもしれない。
ところが他にひそかに恋心をいだいているものがあった。パラートの美青年《アドニス》、ドヴァルだ。アミオキャップ中にドヴァルより美貌の若者はいない。かれに愛を告白した女は大勢いたが、かれの心は動かされなかった――ステララに目をとめるまでは。
ドヴァルはたびたび族長フェドールの家を訪問した。かれは獣皮や象牙や骨をたずさえてきてステララにおくった。タナーはそれを知って不安な気持になった。が、なぜそんな気持になるのかわからなかった。
タナーとステララがきてこのかた、パラートの人々は何回も食事をし、眠ったが、いまだにズラルないしはラルの部落からは、フェドールが送った伝言にたいする返事が来ていなかった。だが、ようやくラルの戦士の一行が部落に到着した。族長の椅子にかけたフェドールは、かれの家のタイル張りの居間にかれらをむかえた。
「ラルの戦士たちよ、よくこられた。フェドールはきみたちをパラートの部落に歓迎し、友人ズラルからのことづてを今やおそしと待っておるぞ」
代弁者がいった。「われわれはフェドールとパラートあての友情のことづてをたずさえ、ズラルとラルの一族のもとからやってきました。われわれの族長ズラルは、あなたの娘御とサリの戦士にたいして心にもなく不都合なことをしたと深く遺憾の意を表しております。そして、あなたが確信しておられるならば、ズラルもまた、ステララがあなたの娘御であり、あの男がコルサール人でないということを確信するものであります。お二人とあなたに、ズラルから贈り物をことづかってまいりました。また、同時に、あなたがステララとタナーをともなってラルの部落を訪問下さるよう、ご招待申しております。ズラルとその一族は、心ならずもおかした不都合のつぐないをいたしたい所存なのであります」
フェドールとタナーとステララは、ズラルとその一族の友情の申し出を受諾した。そして使者たちのために饗宴が準備された。
準備がととのえられている最中のこと、一人の少女がジャングルから部落にはいって来た。黒髪の、なみなみならぬ美少女だ。その素肌は、長途の旅をしてきたように掻き傷だらけで泥にまみれている。髪はボサボサだが、その瞳は幸福に輝き、勝利と期待に思わずほころんだ口元には歯がキラリと光った。
少女はそのまままっすぐに部落を通りぬけてフェドールの家へむかった。ラルの戦士たちが彼女をみとめて驚嘆の声をあげた。
「レタリ!」一人が叫んだ。「おまえ、どこから来た? パラートの部落で何をしている?」
だがレタリは答えず、タナーの立っているところへつかつかと歩いていってその前でぴたりと止まった。
「あたし、来てしまったの」彼女はいった。「あなたがラルの部落から逃げだしてから、淋しくて、悲しくて、何度死ぬ思いをしたかわからないわ。戦士たちが帰ってきて、あなたがパラートの部落に無事でいるといったとき、ここへくる決心をしたのよ。それで、ズラルがこの戦士たちにことづてを持たせて出発させたとき、あとをつけたの。苦しい道のりだった。あたしは戦士たちのすぐ後から来たけれど、何度も野獣におびやかされて、もうあなたのもとへたどりつくことはできないのじゃないかと思った。でもとうとう来たわ」
「だけど、なぜ来たんだい?」タナーがたずねた。
「あなたを愛しているからよ」レタリが答えた。「ラルの戦士とパラートの人々のすべての前で、あたしは愛を宣言します」
タナーは赤くなった。生涯でこれほどきまりの悪い立場に立ったことはない。全員の視線がいっせいにかれにむけられた。その中にステララの視線があった。
「で、どうなんだね?」フェドールはタナーを見やって追求した。
「このひとはどうかしてるんですよ」サリ人はいった。「ぼくのことをほとんど何も知らないくせに、愛することができるはずがないでしょう。彼女は、以前に一度ぼくに話しかけたことがあるだけで、しかもそれはぼくたちがラルの部落に虜《とりこ》になっていたときに、ステララとぼくに食事を運んできてくれたときだ」
「あたしはどうかしてやしない」レタリはいった。「あなたを愛しているのよ」
「そのひとといっしょになるかね?」フェドールがたずねた。
「ぼくは愛していない」タナーがいった。
「帰りがけにわれわれがラルへつれて帰ります」戦士の一人がいった。
「あたしは帰らないわよ」レタリが叫んだ。「このひとを愛してるんだから、永久にここにいるのよ」
タナーにたいする少女の愛の宣言に驚いたのは、当のサリ人だけだったようだ。ほとんど文句も出ないし、ひやかすものもない。アミオキャップ人は――おそらくステララだけをのぞいて――この事態を当然のこととして受け取った。恋や熱情にかんする事柄をみずから公然と宣言することは、この愛の島の住人にとってこの世でもっとも自然なことなのだ。
そうしたやりかたが総じて有害な影響を人々にもたらしたことはかつて一度もなかった。というのもこの一族は高度の知性と、完璧な肉体と、すぐれた美貌と、まことの勇気とをもって知られていたからだ。これと逆の風習は、もう長年の間地上世界の大部分の人々の間でおこなわれているが、たぶんそれは知能的に、道徳的に、そして肉体的に歪曲された何百万という不幸な人々が責めをおうべきことなのだろう。
だが、レタリの心はそんなことにかかずらってはいなかった。子孫のことを考慮して思いわずらうこともない。彼女が考えていることといえば、サリから来たハンサムな異邦人を愛しているということと、そのそばにいたいということだけだ。彼女はサリ人に近づいていって顔を見上げた。
「なぜあたしを愛してくれないの? あたし、きれいじゃなくて?」
「ああ、きみはとてもきれいだよ。だが誰も愛を口で説明することはできない。とりわけぼくはだめだ。たぶん心と性格の問題があるんじゃないか――見たり、聞いたり、感じたりできないもののことだが――それが永遠に一人の人間の心をもう一人の心にひきつけるんじゃないかな」
「でもあたしはあなたにひきつけられているわ。なぜあなたはわたしにひきつけられないの?」
タナーはわからなくなったので首をふった。かれは、少女がどこかへ行ってしまって、かれをほうっといてくれたらと願った。彼女のおかげでその場にいたたまれない気持になっていたからだ。だがレタリは、かれをほうっとくつもりはさらさらなかった。彼女はかれのそばにいるのだし、戦士たちが彼女をひきずってラルへつれて帰るまでそこにいるつもりだった。もしも彼女をひきずって帰るなどということができるならの話だが。そんなことにでもなったら、すきがありしだい逃げ出してジャングルに身をかくし、それからパラートのタナーのもとへ帰るのだ。彼女は小さな頭の中でそう決心していた。
「あたしとお話しない?」レタリがたずねた。「そうしたらたぶんあたしを愛するようになるわよ」
「話はするよ。だが愛することはまずないだろう」
「ここにいる人たちから離れて、話ができるところまでちょっと歩きましょうよ」
「よかろう」タナーはなにがなんでも自分の困惑をかくすことのできるところへ逃れたかった。
レタリは部落の通りを先に立って歩きだした。柔らかな腕がかれの腕をかすめた。
「あたし、きっといいお嫁さんになるわ。きっとあなただけを愛するでしょうから。もしも、しばらくしてあなたがあたしを好きでなくなったらあたしを追いだせばいいの。それがアミオキャップの風習の一つよ――つまり、二人のうち一人が愛さなくなったら、二人はもう夫婦じゃなくなるってわけ」
「でも両方が愛しあっていなかったらこれまた夫婦にならないよ」タナーは主張した。
「それはそうね」レタリはみとめた。「でもいまにあなたはあたしを愛するようになるわ。わかってるのよ。だって男の人はみんなあたしのこと愛してくれるんですもの。ラルの男ならだれでも、よりどりで夫にすることができるのよ」
「きみはなかなかの自信家だな」タナーはにやりとしていった。
「当然でしょ。あたしは美人で、しかも若いじゃない?」
ステララは、タナーとレタリが部落の通りを歩いていくのを見まもっていた。二人がどんなに近々と寄りそっているかを彼女は見た。タナーはレタリの話の内容に非常な興味を持っているように見える。ドヴァルがステララのかたわらに立っていた。ステララはかれにむかっていった。
「ここはそうぞうしいわ。人が多すぎるのね。部落のはずれまでいっしょに歩かないこと?」
ステララがかれと二人きりでいたいという意志表示をしたのはこれがはじめてだった。ドヴァルはわくわくした。
「いっしょに部落のはずれまで歩きましょう、ステララ。いや、ペルシダーのはてまでも、永遠に。ぼくはあなたを愛しているのだから」
ステララは溜息《ためいき》をついて首をふった。「愛のお話はかんべんしてちょうだい」彼女は懇願した。
「あたしはただ歩きたいだけ。そしてほかにあたしと歩いてくれる人がいないってこと」
「なぜぼくを愛してくれないんです?」族長の家を離れて部落の大通りに出るとドヴァルはたずねた。「ほかのひとを愛しているからですか?」
「いいえ」ステララははげしく叫んだ。「だれも愛してなんかいないわ。あたし、男ぎらいなの」
ドヴァルは当惑して首をふった。「きみというひとがわからないな。これまで大勢の女の子がぼくを愛しているといった。ぼくはアミオキャップのどの女の子でも、申しこみさえすればたいがいは自分のものにすることができると思ってる。だが、きみはちがう。ぼくが愛する唯一のひとがぼくを受け入れてくれないなんて」
しばしの間、ステララは考えていたが、やがてかたわらの美貌の若者のほうにむいた。「たいそうな自信ね、ドヴァル。でもあなたのいっていることがほんとうとは思えないわ。あなたを受け入れない女の子の名をあげることができてよ。賭けてもいいわ。どんなにあなたがやっきになって愛させようとしても、そのひとはあなたを愛さないでしょうよ」
「それがきみのことなら、ほんとうだ。だが、ほかにはいない」
「あら、いますとも」ステララは言いはった。
「じゃ、だれです?」
「レタリ。ラルから来た娘よ」
ドヴァルはからからと笑った。「あの娘はあのアミオキャップ初の客人にたいそうなおぼしめしだ。あんなのかんたんすぎてお話になりませんよ」
「そんなこといってるけど、あなたを愛させることはできないわよ」かさねてステララはいった。
「ためしてみる気もないな。ぼくは彼女なんか愛していないもの。ぼくが愛しているのはあなただけだ。それに、もしもぼくを愛させることに成功したって、それが、あなたにぼくを愛させるのにどんなご利益《りやく》があるというんです? ごめんこうむりますよ。ぼくはなんとかあなたをかちとるために時間を費します」
「心配なのね。失敗するってことがわかっているから」
「成功したってなんにもならないからですよ」ドヴァルはかさねていった。
「成功したら、今よりもっとずっとあなたが好きになるわ」
「ほんとうですか?」
「ほんとうですとも」
「それならあの娘にぼくを愛させてみせる。そうすればぼくのものになってくれると約束しますね」
「そんなこといわないわ。あたしはただ、今よりずっと好きになるっていっただけよ」
「ああ、そう。それでももうけものだな。今よりずっとぼくのことを好きになってくれるのなら、少なくともいい線をいっていることになる」
「と、おっしゃいますけど、その心配はなくてよ。彼女にあなたを愛させることなんかできっこないから」
「まあ見てらっしゃい」
タナーとレタリが踵を返して部落の通りをもどってきたとき、ドヴァルとステララにすれちがった。タナーは二人がぴったりよりそって歩いていて小声でささやきあっているのを見た。サリ人は苦い顔をした。そのとき突然かれは、ドヴァルが気にくわないことに気づいた。今までいつもドヴァルはいいやつだと思っていただけに、なぜそんな気持になったのか不思議だった。が、すぐに理由はわかった。ドヴァルはステララにとって申し分のない相手とはいえなかったからだ。しかし、それでもステララが愛しているなら何もいうことはない。たぶんステララはかれを愛しているのだろう。そう考えると、タナーはステララに腹がたってきた。このドヴァルのどこがいいんだ? ドヴァルが彼女と二人きりで部落の通りを歩く必要がどこにある? かれ、タナーがいつもいっしょだったではないか? 男たちはこぞってステララを好ましく思っているが、これまで二人の間に水をさしたものはだれもなかった。そうか、もしステララが、ドヴァルのほうが好きだというのなら、こっちとしては頓着していないというところを見せなくては。サリ人タナー、サリの王ガークの息子が、女ごときの物笑いになってたまるものか。
というわけでタナーはこれ見よがしにレタリのきゃしゃな肩に腕をまわし、そのままの格好で部落の通りを端から端までぶらぶらと歩いた。これをステララが見のがすわけがない。
ズラルよりの使者のために開かれた祝宴では、ステララはドヴァルの横にすわり、タナーはレタリを横にすえていた。ドヴァルとレタリは幸福だった。
祝宴がはてると、たいがいの者は家に帰って眠った。だがタナーはそわそわと落ち着かず、みじめで眠ることができなかった。そこでかれは武器を持ち出した。穂先が骨の、太い槍と弓矢と、族長フェドールがくれた象牙の柄のついた石の短剣だ。そしてただ一人、森へ狩りにはいっていった。
部落の住人たちが一時間眠ろうが、一日眠ろうが、それは時間の問題ではない。というのも時間を測定する方法がないからだ。目がさめると――早く起きるものもあれば遅いものもあるが――かれらは暮らしのさまざまな仕事に精を出す。レタリはタナーをさがしたが見つからず、かわりにドヴァルに出会った。
「きみはとってもきれいだね」ドヴァルはいった。
「そんなこと知ってるわ」レタリが答えた。
「きみはこれまでぼくが会ったひとのうちでいっとう美しいよ」ドヴァルはかさねていった。
レタリは相手をしばらくの間まじまじと見ていった。「今まであなたのことに気がつかなかったけど、あなた、とってもハンサムね。あたしが今まで見た中でいちばんハンサムな男性だわ」
「みなさんそうおっしゃいますよ。大勢の女性がぼくに愛を告白したけれど、ぼくはいまだにひとり者なんだ」
「女はハンサムな顔のほかに何かを相手に求めるものよ」
「ぼくは勇気がある。それに狩猟の達人だ。きみが好きになったよ。おいで、いっしょに散歩しよう」そういってドヴァルは少女の肩に腕をかけた。二人は部落の通りをいっしょに歩いた。一方、族長である父親の家の、自分の寝室からはステララがこれを見まもっていた。彼女の唇に微笑がのぼった。
パラートの部落には、アミオキャップの平和と、永遠の真昼の静けさがたゆたっていた。子供たちは、ここを整地したおりに部落のそこここに残された木のかげで遊びたわむれていた。女たちは皮をなめしたり、ビーズを通したり、食事の仕度をしていたし、男たちは次の狩猟に備えて武器の手入れをしたり、あるいは居間の毛皮の上でごろごろしていた――後者は例の祝宴で御馳走を食べすぎてまだ睡気がとれない連中だ。族長フェドールは、ズラルの使者たちにわかれを告げて、ラルの統治者にみやげものを託していた。と、そのとき突如としてそれまでの平和と静けさは、蛮声とマスケット銃の轟音にみじんにくだかれた。
たちまちいっさいが混乱の巷《ちまた》と化した。女と戦士が家から飛びだしてくる。喚声と罵声と、悲鳴があたりにみちみちた。
「コルサール人だ! コルサール人だ!」と叫ぶ声が部落中にひびきわたり、ひげ面の無頼漢どもが部落の住民たちの驚愕と混乱につけこんで掠奪してやろうとなだれこんできた。
[#改ページ]
七 「コルサール人だ!」
サリ人タナーは獲物を求めてアミオキャップの太古の森林を歩いていた。すでにかれの猟人としての名声はパラートの男たちの間に高まっていたが、今狩りにきたのはその名声にさらに光輝をそえるためではなく、かれを寝つかせてくれない焦燥感をしずめるためだった――焦燥感と、不幸とまでいえるほどに妙に沈んだ気持――だが心はいつも狩猟の上にあるわけではなかった。ステララの幻がしばしばかれの前を歩いていた。黄金の髪に黄金の日射しをあびて。そしてその横にハンサムなドヴァルが彼女の肩に腕をかけているのが見える。タナーは目をとじて幻をはらいのけようと首をふった。それは頑固にとりついて離れなかったので、こんどはレタリのことを考えようとした。ラルの美しい乙女。たしかにレタリは美人だった。その瞳ときたら……。それに彼女はタナーを愛しているのだ。たぶん結局は彼女といっしょになって、終生アミオキャップにとどまるのがいいのかもしれない。だがすぐにかれはレタリをステララと比較している自分に気がついた。そしてレタリがもっとステララの特徴をそなえていてくれるといいのにと考えている自分を発見した。レタリには、フェドールの娘の知性も気品もなかった。レタリとの交際には、ステララとのまじわりをこのうえなく幸せなものにしていた、あのしっとりとした味わいがない。彼女はそういったものを提供してくれないのだ。
ステララはドヴァルを愛しているのだろうか? そしてドヴァルはステララを? こう考えたとき、かれは、はっとしてその場に釘づけになった。はじめて意識してかれはかっと目をむいた。
「大変だ!」かれは声にだして叫んだ。「おれはなんというばかだったんだろう。ずっと彼女を愛していたのにそれに気づかないなんて」そして踵を返すと、パラートの方角さしていっさんにかけだした。狩猟のことなどきれいさっぱり頭から消えていた。
タナーは獲物を求めてずいぶん遠くまで、考えていたよりずっと遠方まで来ていた。だがついに族長フェドールの部落にたどりついた。パラートの吊り柵をくぐって最初に出くわしたのはレタリとドヴァルだった。男は少女の華奢《きゃしゃ》な肩に腕をまわし、二人はぴったりよりそって歩いていた。
レタリは気がついて驚いてかれを見た。「あたしたちはみんな、あなたがコルサール人にさらわれたものと思っていたのに」彼女は叫んだ。
「コルサール人だと!」タナーは叫んだ。「どのコルサール人だ?」
「ここへ来たんだ」ドヴァルがいった。「やつらは部落を襲撃した。だがわれわれはわずかな損失をこうむっただけでやつらを撃退した。相手の人数が少なかったんだ。で、きみはどこにいた?」
「祝宴のあと、森へ狩りにいってたんだ」タナーがいった。「コルサール人が、アミオキャップ島に来たとは知らなかった」
「あなたがいなくてちょうどよかったわ」レタリがいった。「あなたのいない間に、あたし、ドヴァルを愛しているってことがわかったのよ」
「ステララはどこだ?」タナーは追求した。
「あのひとはコルサール人にさらわれた」ドヴァルがいった。「きみでなくてよかったねえ、レタリ」そういうとかれはちょっと身をかがめて少女の唇に口づけした。
タナーは悲憤|慷慨《こうがい》して一声叫ぶと、族長フェドールの家にかけつけた。「ステララはどこです?」かれは居間のどまんなかに不作法にとびこんでたずねた。
両手に顔を埋めてすわっていた一人の老婆がかれを見上げた。部屋には彼女一人だった。「コルサール人がつれていきました」
「では、フェドールは?」
「ステララを救出しようと戦士をともなって出かけました。でも無駄なことです。コルサール人に連れ去られたものは二度とふたたびもどってきません」
「どっちの方角へ行ったんです?」
悲しみにむせび泣きながら、老婆はコルサール人が去った方角をゆびさした。そしてまたしても両手に顔を埋めて、族長フェドール一家を襲った不幸をなげき悲しむのだった。
タナーはほとんどすぐにコルサール人のとった道筋に出た。かかとのついた靴の足跡でそれとわかった。タナーは、フェドールとその戦士たちがその道を通っていないことに気づいた。ステララを救出するにはちがった方角に行ってしまったにちがいない。それは歴然としている。
苦悩に胸をかきむしられ、憎悪に気も狂わんばかりになってサリ人は森の中を突進した。めざす獲物ははっきりしている。心にたぎる憤怒はかれに何人力という力をあたえた。
ところで、一部を石灰岩の断崖にかこまれたちょっとした湿地があった。そこに、ぼろをまとい、ひげを生やした少数の男たちの一行が休息をとっていた。かれらがたむろしているところに、ごく小さな泉が、断崖のすそからわきでてちょっとの間まがりくねって溝をつたい、地面に自然にできた丸い穴にそそいでいた。穴の縁《ふち》からこの天然の井戸の深い底に水がしたたり落ちる音が聞こえた。底は暗かった――暗くて、謎めいていた。が、ひげ面の無頼漢たちは、その美しさにも、謎めいたようすにも気をとめていなかった。
醜い傷痕にゆがんだものすごい面構《つらがま》えの大男が、きゃしゃな身体つきの女とむかいあっていた。女は木に背をもたせて芝生の上にすわり、両腕に顔を埋めている。
「おれさまが死んだとでも思ったか、ええ?」男は大声でいった。「血を好むボハールが死んだとな? それがどっこい生きていた。おれたちのボートは暴風雨を乗りきった。そしてアミオキャップのすぐ近くを通りかかったとき、エル・シドの船の残骸が砂浜にころがっているのを見つけたんだ。おれたちが船を見捨てたとき、おまえと捕虜とが残っているのを知っていたから、たぶんおまえはアミオキャップのどこかにいるだろうと見当をつけた。おれはまちがっていなかったな、ステララ。血を好むボハールは、めったにまちがえることはない。
おれたちはラルという部落のすぐ近くにかくれた。そしてまず手はじめに、部落の住人を一人捕えてきた――女だ――そしてその女から、おまえが実際に上陸していると聞いた。だが、おまえは父親の部落にいるのだということだった。そこで女にその部落へ案内させた。そのあとはおまえも知ってのとおりだ。さあ、きげんのいい顔を見せろ。やっとおまえは血を好むボハールといっしょになってコルサールへ帰るんだからな」
「そんなくらいなら死んでやる」女は叫んだ。
「ほう、どうやって?」ボハールは笑った。「武器がないじゃないか。いや、それでもおまえなら自分で自分の首をしめて死ぬかもしれんな」ボハールは自分が口にした冗談にげらげらと笑った。
「方法くらいあるわよ」女は叫んだ。そしてボハールが彼女の意図を察するより早く、止めるひもまなくすばやく身をひるがえしてかれの周囲をまわり、二、三メートル先の天然の井戸にむかってかけだした。
「早く!」ボハールはどなった。「その女をとめろ」たちまち二十人全部がとびあがってあとを追った。だがステララの足は早く、彼女と穴の縁との間の距離はわずかだったからまにあいそうもなかった。
しかしその日、幸運は血を好むボハールに味方した。今にも目標に到達するというところでステララの足はもつれあった草にとられ、ばったりとうつ伏せに倒れたのだ。立ち上がる前に、いちばん近くにいたコルサール人が彼女をとりおさえた。やがてボハールが彼女のかたわらにかけつけてきて、そのコルサール人の手から彼女をうばうと手荒にゆすぶった。
「この雌|虎《タラグ》め! この返礼はしてやる。二度と逃げられないようにな。海へついたら片足をちょんぎってやるぞ。そうすれば二度とおれから逃げられないことはたしかだからな」そういってかれはなおも乱暴に彼女をゆさぶりつづけた。
深いジャングルからこの湿地へ、一人の戦士がまったく不意におどりでた。そして井戸の縁で演じられている光景をたまたま目撃した。その瞬間、戦士はステララが殺されたものと思ってかっとなった。彼女に乱暴を働いている張本人が血を好むボハールだとわかると、ますます逆上した。
太い槍を手に、かれはひと声怒号してとびだした。相手が銃を持った二十人の男だろうと問題ではない。かれの目には、けだもののようなボハールの残忍な手につかまれているステララしかうつらなかった。
その声を聞いてボハールはさっと目をあげた。そしてたちまちサリ人をみとめた。
「みろ、ステララ」ボハールは嘲笑をうかべていった。「おまえさんの恋人がおいでなすったぜ。これでよし、恋人がいなくなって、おまけに一本足になったら、おまえには逃げだす理由がまったくなくなるわけだ」
すでにねらいをつけた火繩銃の銃口がずらりとならんでいた。男たちはそのままの態勢でボハールのほうを見ている。
タナーがわずか二、三メートルはなれた井戸の反対側の縁まで来たとき、ボハールがうなずいて合図を送った。と、マスケット銃は轟音を発し、ぱっと火焔があがった。が、それと同時に濃い真黒な煙幕がたちこめたので、一瞬サリ人の姿はまったく視界から消えてしまった。
ステララは苦痛と恐怖にふるえながらせいいっぱい目を見開き、おそるおそる煙幕をすかしてむこうを見ようとした。煙はすぐに消散したが、タナーの影も形もない。
「でかしたぞ」ボハールは部下にむかって叫んだ。「やつはこっぱみじんになったか、それとも死体になって穴へ落ちたかどっちかだ」そういいながらかれは穴の縁へ歩いていき下をのぞいた。だが中は真暗で何も見えなかった。「ま、やっこさんがどこにいるにしろ、少なくとも死んだんだ。おれのこの手で息の根をとめてやりたかったが、少なくともおれの命令でお陀仏《だぶつ》になったんだから、おれをなぐりやがった雪辱《せつじょく》はとげたわけだ。ボハールはすべての敵の攻撃に雪辱するのだ」
コルサール人は大洋にむかって旅を再開した。ステララはかれらの間にあってうなだれ、何も見えないほど目に涙をためて歩いた。彼女はたびたびつまずいたが、そのつど、ぐいと手荒にひきおこされてゆすぶられ、足元に気をつけろと邪険にどなられた。
浜にたどりついたときにはステララは病気になり、高熱をだしてコルサール人のキャンプで寝ついてしまった。それが一日のことだったか、あるいは一カ月か、とにかく動くことができないほどの重態だった。その間にボハールとその部下は、樹木を倒し、枝を切って、かなたのコルサールの岸辺にかれらを運ぶ小舟を作った。
ステララをボハールの手から救おうと一途に突進してきたタナーは、心も目も彼女の姿に集中していた。地面の穴など見ていなかった。それで、コルサール人が銃を発射したとたん、うっかりと穴に足を踏み入れ、はるか下の水面に墜落したのだった。
墜落したものの怪我《けが》はなかった。驚きすらしなかった。水面に浮かびあがってくると、目の前におだやかな一筋の流れがあって、周囲の壁の石灰岩の裂け目をつたってひっそりと流れていた。裂け目のむこうには光を放っている洞窟があった。タナーはこの洞窟の中へ泳いではいっていった。流れの岸で低くなったところを見つけると、岩床につかまってはいあがった。見まわすと、そこは広々とした岩屋で、周囲の壁が、燐《りん》をふくんでいるために明るく輝いている。洞窟の床にはごみがいっぱいにちらかっていた――動物の骨、人骨、こわれた武器、獣皮の切れはし。ひょっとするとどこかの気味悪い納骨堂のごみ捨て場なのかもしれない。
サリ人は、先刻小川の流れに乗って岩屋へくるのに通過してきた裂け目まで歩いてもどった。だが丹念に調べてもこの方角に逃げ道は見つからない。もう一度流れに飛びこんで井戸の底まで泳いでいったが、底の周囲の壁は長年にわたって流れ落ちる水のためにすべすべにすりへっていて、手がかりや足場になるような個所はぜんぜん見あたらない。
そこでタナーは岩屋の壁にそってゆっくりと一周した。が、はるかむこうに小川が流れでているところのほかには亀裂もない――そこは地下水の流れの上約二メートルの高さのごつごつした岩のアーチになっている。
壁の片側にそって、せまい岩棚があった。亀裂をすかして見ると、おぼろげに廊下がずっとむこうの暗がりにつづいているのが見える。
ほかに逃げ道をさがすすべもないので、タナーはこのせまい岩棚をつたってアーチをくぐりぬけた。出てきたところは流れの曲折にそったトンネルだった。
壁や天井を形成している岩のうち、そこここのごくわずかな部分だけが光を放ってインクを流したような暗闇をかろうじて照らしている。それでも照らしているだけのことはあって少なくとも足もとだけははっきりしていた。もっとも、廊下の幅が広くなっている地点では、しばしば壁も暗闇に没していたが。
トンネル伝いにどれだけ進んだかわからない。が、やがて低くてせまい口にたどりついた。そこをくぐりぬけるにはよつんばいにならなくてはならない。そのむこうにはずっと明るい部屋があるようすだ。その部屋にはいりこんで、まだよつんばいのままの格好でいるとき、上から重い身体がかれの背中の上に落ちてきた。と、別のがかれの両側に降ってきた。そしてタナーは冷たくねっとりとした手がかれの腕と脚をつかみ、腕がかれの首に巻きつくのを感じた――それはかれの肌にまるで死体の腕のように感じられた。
かれはじたばたしたが、なにしろ相手が多すぎる。あっというまに武器をうばわれて、足首と手首を生皮の丈夫な紐でしっかりとしばられてしまい、次にあおむけにひっくり返された。見上げるかれの目にいやおうなしにとびこんできたのは、アミオキャップの地下人間、コリピーズのぞっとするような顔だった。
のっぺらぼうの顔、死体のような皮膚、目のあるべき場所にもりあがった突起、毛のない身体、鉤《かぎ》つめのような手。これらのものが渾然一体となって、さしも勇気のある者さえおじけづくようないまわしい形相を呈《てい》している。
それにかれらのしゃべりかたときたら! もぐもぐと口を動かすと黄色い牙が見えてサリ人の心臓をちぢみあがらせた。いよいよここでむざんな最後をとげるのだ。かれにはこれが最後だということがわかっていた。地下人間にかんしてアミオキャップ人が話してくれた多くの話のどれにも、かれらの手中から脱した者があるという実例はないからだ。
ところで、コリピーズはタナーに話しかけてきた。ほどなく、くぐもった、猫の鳴き声のような口調の中にもことばが聞きわけられるようになった。
「おまえはどうやってコリピーズの国にはいってきた?」一人がたずねた。
「地面の穴に落ちたんだ」タナーが答えた。「ここへこようと思ったわけじゃない。外へつれだしてくれ。礼はするよ」
「おまえの肉以上のどんなものを、コリピーズにくれるというのかね?」もう一人がたずねた。
「出ていこうなどと思うなよ。ぜったい不可能だからな」三人目がいった。
次に二人がひょいとタナーをもちあげ、仲間の一人の背に乗せた。怪物があんまりかるがるとかれを運ぶので、あのとき地上でであったコリピーズを倒すことができたのが不思議な気がした。
長い廊下をつたって怪物はタナーを運んでいった。途中、ところによって非常に暗い個所や、燐をふくんだ岩に照らされた個所があった。
ときには、天然の作用で複雑な模様が美しくきざまれた大きな岩屋を通りぬけ、また、コリピーズ自身の手できざみつけられたとおぼしき石灰岩の長い階段をのぼった。のぼりつめるとすぐに別の階段をくだり、どこまで行ってもはてしがないように見える、まがりくねったトンネルをつたって進むのだった。
だがついにこの長道中も広大な洞窟に来て終わりを告げた。天井が下から六十メートルもあるこの途方もない岩屋は、タナーが通過してきた地下世界のどの区域よりも明るく照明されていた。岩屋の石灰岩の壁には、下から天井にむかってジグザグに幾筋もの歩道がきざまれている。そして周囲の壁面のいたるところに直径一、二メートルの穴があいている。どうやら小洞穴の口らしい。
岩屋の床の上には、あらゆる年代におよぶコリピーズの男女がすわりこんでいた。
この岩屋の奥の、床から一メートルばかりあがったところに大きな凹みがあって、そこに一人の大柄なコリピーズがすわっていた。肌には、すでに腐敗のていどがかなり進んだ死体を思わせる、紫斑が出ている。巨大な目玉をその下に想像させる皮膚の隆起は、タナーがこれまでに観察したどのコリピーズよりもはるかに大きく、はるかに突出していた。つまり、その怪物は、このいとわしい一族のうちでもずぬけていとわしいやつなのだ。この怪物のすぐ前の床の上に、幾人かのコリピーズの男が集まっていた。タナーはこの会衆の前にひきだされた。
岩屋にはいるやいなや、タナーはこの怪物どもは目が見えるのだということがはっきりわかった。つかまった直後から、どうもそうではないかといぶかっていたところだった。それが今、タナーの姿を見た途端、かれらは金切り声をあげ、妙なヒューヒューという音をたてはじめたのだ。そして壁の上のほうにある洞穴の口のあちこちから頭がひょこひょことのぞき、ぞっとするような目のない顔が、どうやらかれのほうに目をむけているらしい。
タナーが岩屋を横切って、壁の凹みにすわっている怪物の前にひきだされると、一つの叫びが他をおさえてひときわ高くなったようだった。それは「肉だ! 肉だ!」という声だ。その声音は、身の毛もよだつような恐ろしいことを連想させた。
肉! たしかにタナーはかれらが人肉をくらうことを知っている。そしてかれらは今やおそしと合図をまちかまえているのだ。タナーにとびかかり、太い爪でかれの肉をひきむしって、生きたままのかれを食べる合図を。だが一人がそれっとばかりにとびだしてきたとき、壁の凹みにいる大怪物がかん高い声を発し、そいつは止められた。タナーをとらえた怪物の一人は、ふりむいてタナーをかばおうとさえした。
やっとのことで岩屋を横切ったタナーは、壁の凹みにすわっている怪物の前に立たされた。うねうねと隆起する皮膚の下で巨大な目玉が回転するのがわかる。相手の目はこっちに見えないが、タナーは自分が冷ややかに、かつ、ぬけめなく観察されているのを感じた。
「どこでつかまえた?」ついに怪物は口を開いて、タナーをとらえた者たちにむかってたずねた。
「こいつは〈せせらぎの井戸〉に落ちたのであります」一人が答えた。
「どうしてそれがわかる?」
「こいつがそういいました」
「こいつを信じるのか?」
「ほかにこのコリピーズの国へはいる方法はありません」
「たぶんこいつは一隊の部下をつれてわれわれを殺しにやってくるところだったのだ」壁の凹みの怪物がいった。「者ども、大勢で行って〈せせらぎの井戸〉の周辺の廊下やトンネルをさがせ」次に怪物はタナーをとらえたものにむかっていった。「こいつをほかのやつらといっしょにしておけ。まだたりないぞ」
こうしてタナーは、またしてもコリピーズの背に乗せられた。そいつはかれをかついで岩屋を横切り、石灰岩の壁の表面にきざみつけられた歩道の一つをのぼっていく。ちょっとのぼったところでコリピーズは洞穴の口の一つにはいった。タナーはふたたびせまく、暗く、まがりくねったトンネルの中にいた。
すでに通ってきたトンネルや廊下は、この地下の迷宮世界が非常に古いものだという印象をタナーにあたえた。これらのトンネルの大部分は、石灰岩を切ったり、あるいは天然の通路をコリピーズにあわせて拡張して作ったりしてできたものだという形跡がいたるところに見られた。しかし怪物たちにはあの三つ指にわかれた頑丈な爪以外に何も道具がないということから、トンネル工事は何千という人間の多年の労働の賜物としか思えなかった。
むろんタナーは時間《ヽヽ》と称するものにかんしては漠とした概念しかもちあわせていない。これに関するかれの考え方といえば、だれかがこの途方もない労働に従事している間にこの怪物どもが何百万回か、とにかく数えきれないほど眠ったり食ったりしたにちがいないといったていどだ。
ところでコリピーズにかつがれて長いトンネルを通りぬけながら、この捕虜は同時に別のことを考えていた。かれは壁の凹みにいた怪物がいったことを考えた。タナーを監禁しろと命じたときのことだが、なんでも、まだたりないというような意味のことをいっていた。どういうことなのだろう? 何がたりないのだろうか? 捕虜のことか? 人数がそろったら、何の目的にあてようというのだろう?
だがそれよりも、かれの心はステララのことではるかにいっぱいだった――無事でいるだろうかという不安、助けることができなかったというむなしい後悔。
思いもかけず地下人間の住む地下世界に墜落したその瞬間から、かれの考えを支配していたものは、むろん脱出だった。しかし地中深くどんどんかついでいかれるにつれて、あえてどんなことをやってみても結局は不首尾に終わるのだろうという気がしてくるのだ。それでもかれはあきらめなかった。もっとも、どんな計画をたてるにせよ、まず牢獄に着くのが先決で、知恵をしぼって考えるのはそれからのことだ。
疲れをしらぬコリピーズにかつがれてどれだけの距離をやってきたのか、サリ人タナーには見当がつかなかった。が、やがてかれらはほの明るい岩屋に姿を現わした。せまい入り口の前に十二人ばかりコリピーズがすわっている。部屋の中にはあと十人ばかりのコリピーズと一人の人間がいた――薄茶色の髪の男で、目と目の間隔がせまく、どことなくいやしく狡猾な表情がすぐさまタナーに反撥を感じさせた。
「ほい、もう一ちょう」タナーをかついできたコリピーズはそういって、入り口を守っている十二人のコリピーズの足もとの石の上に、無礼にもサリ人をどさりとおろした。
歯と爪を使ってかれらはタナーの手首をゆわえた紐を切った。
「なかなかふえないな」番人の一人がぶつぶついった。「あとどれだけ待たなきゃならないんだい?」
「ザックス親分は、今まででいちばんたくさんの数をそろえたいといっておられるんだ」別のコリピーズが答えた。
「しびれをきらしちまうよ」最初に口をきいた一人がいった。「もっとまたせるなら、ザックス親分おんみずから数のうちにはいっていただくことになるかもしれねえぞ」
「おい気をつけろ」仲間の一人が注意をした。「もしも今おまえがそんなことをしゃべったということがザックスの耳にはいったら、囚人の数が一人ふえるぜ」
タナーが紐を切られてたちあがると、かれらは室内の他の同居人のいるところへタナーを手荒におしこんだ。そこにいるのがかれと同様の囚人だということはすぐにわかった。そして当然最初にかれに近づいてきたのはもう一人の人間の捕虜だった。
「またもう一人か」見知らぬ男はいった。「なかなかふえないが、それでも一人ふえるたびにそいつらがわれわれを避けがたい運命に近づけるのだ。だからおまえさんにここで会ったことを悲しんでよいのやら、はたまたこうして人間の仲間ができたことを喜んでよいのやら。こののろわしい場所にほうりこまれて以来、おれは何度も食事をし、眠った。仲間といやあ、このいやらしいもぐもぐ野郎ばかり。ちきしょう、おれがどんなにこいつらを忌《い》みきらってるかって。それでもな、やつらもわれわれと同じ境遇なんだぜ。同じ運命をしょいこんでるんだから」
「同じ運命って?」タナーがたずねた。
「おい、知らんのかい?」
「察しはつくが」サリ人は答えた。
「この化け物どもにとって、温かい血をふくんだ肉はめったと手にはいらないしろものなんだ。やつらはたいがい地下の河に住んでいる魚や、かれらの洞窟に住んでいるヒキガエルやトカゲを食って生きている。地上に遠征しても、たいていはけものの死体を持って帰るのがせいぜいだ。そのくせやつらは肉と温かい血に飢えている。いままでやつらは死刑囚をそのつど一人一人殺していた。だが、このやり方では、ごく少数のコリピーズに、ほんのひと口分の肉しかあたらない。それが、最近になってザックスはかれが族長として統治している岩屋の全人口に食べさせるだけの人数が集まるまで死刑囚や地上からの捕虜をたくわえておくことを思いついた。それが何人なのかは知らない。だが人数は着実にふえているから、われわれがザックス一族の腹をみたすだけの人数になるのも間近いことだろう」
「ザックス!」タナーはおうむがえしにいった。「そいつはぼくが最初につれていかれたあの大きな岩屋の壁の凹みにすわっていたやつかい?」
「それがザックスだ。やつはあの岩屋の支配者だ。地下人間の地下世界には数多くの部族があって、それぞれきみがザックスに会った岩屋を占拠している。これらの部族同士はいつも仲がよいわけではない。この牢屋にいる大部分は他の部族のものだ。もっとも、ザックス一族のもので、それやこれやの理由から死刑を宣告されたものも二、三人いるがね」
「で、逃げ道はないのか?」
「ない。ぜんぜんない。ところできみは何者だ? どこの国から来た? アミオキャップ出身とは思えんな。アミオキャップ人なら地下人間のことをあれこれたずねる必要はないはずだ」
「ぼくはアミオキャップ人ではない。遠い本土にあるサリの国の者だ」
「サリだと! そんな国は初耳だ。名はなんという?」
「タナー。きみは?」
「おれはハイムのジュードだ。ハイムはアミオキャップにほど近い島だ。聞いたことがあるだろう」
「ないね」
「おれはハイムの海岸沖でカヌーに乗って釣りをしていた。そのとき大暴風雨がおこって海上を流され、アミオキャップの浜へうちあげられた。そして森の中へ食べ物をとりにはいったところを三人の怪物に襲われ、かれらの地下世界へひきずりこまれたんだ」
「で、きみは、逃げ道はないと思うのか?」
「ない――ぜんぜんない」ジュードが答えた。
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八 マウ
ペルシダーのタナーにとって、暗く、照明も通気も悪い洞窟に幽閉されているということは、耐えがたい重圧感だった。もう何回も食事をし、眠ったから、ずいぶん長くいるということがわかる。ほかにもコリピーズの囚人がときおりつれてこられたが、肉にたいするザックスの血なまぐさい欲望をみたすには、どうやらまだたりないようすだった。
ジュードがいてくれるのはありがたいことだった。もっともタナーには、この男を全面的に理解することは決してできなかった。ジュードの気むずかしい陰気な性格は、タナーのそれとはまったくことなっていたからだ。ジュードは明らかにすべての人間を憎み、信用していないようすで、自分の島の住人の話をするときですら、憎悪をこめて苦々しげに語ることしかしなかった。しかしそんな態度も、このハイム人がひさしい間地下世界の怪物にかこまれた恐ろしい場所に幽閉されていたせいだとタナーは善意に解釈した。こういった経験は心の弱いものに容易に影響をおよぼし、心の均衡を失わせるものなのだろう。きっとそうにちがいない、とタナーは考えた。
タナーは、コリピーズの囚人のうち幾人かの胸中にさえ、いささかながら友情をよびさますことができた。
そのなかに、イクトルの岩屋から来たマウというコリピーズの若者があった。かれはザックスの岩屋から来たすべてのコリピーズを憎み、他の岩屋から来た者たちにたいしても猜疑心をいだいているようすだった。
怪物どもは人間の属性や特質をほとんどもちあわせていないように見えたが、交際というものには一応の価値をみとめているということがよくわかった。自分たち怪物同士の間では、それは不可能なことだったので、マウはしだいにタナーに心をむけてきた。こんな運命のもとにあっても、タナーの勇気と陽気な性格はすっかりくもらされてはいなかった。
ジュードは、マウにもまた他のコリピーズにも一片の関心を持とうとせず、タナーがかれらに友好的な態度で接するといって非難した。
「いいかい、われわれはみな同じ囚人なんだよ」タナーがあらためていいきかせた。「かれらは今にぼくたちと同じ運命をたどるんだ。仲間の囚人と争ったところで、われわれの危険がへるわけでもなければ気が安まるわけでもない。ぼく自身についていえば、かれらが住んでいるこの奇妙な世界についてかれらと語りあうのは興味深いことなんだ」
たしかにタナーは、コリピーズにかんして多くの興味深い事柄を学んだ。マウとのつきあいから、タナーは、怪物どもが色盲で、大きな目玉をおおっている皮膚をすかして見るとすべてが黒と白と灰色に見えるのだということを発見した。また、食物が不自由で制限されているところから、人数を制限する必要があって、その結果、子供を大勢産みすぎる女を殺す習慣となっていて、三人目の子供は母親ともども死刑になるそうだ。
また、これらの不幸なコリピーズには、食べることのほかに人生になんの楽しみも目的もなかった。かれらが常食とする魚や蛙やトカゲはあまりにも少なく、かつ変化がないので、温かい肉のご馳走にありつけるということは、単調で退屈きわまるかれらの生活の唯一の大事件なのだ。
マウは愛について何も語らなかったし、その意義についても何も知らなかったが、タナーはかれの言葉のはしばしから、そういった感情は地下人間の間に存在しないのだということがわかった。母親は、どの子供も彼女の存在をおびやかすもの、死の予言と見なした。その結果、母親は生まれおちたときから子供を忌みきらった。そして、考えると実に奇妙なことなのだが、男性は自分の子供を生む将来の母親を選ぶに際しては、とりわけきらいでたまらない女性を選ぶのだ。それというのも、子供を三人生んだ女性を殺すという習慣が、いくらかでも好ましいと思うような女性といっしょになることを躊躇《ちゅうちょ》させるためだ。
狩猟や釣りをしているとき以外は、かれらはどこかその辺にしゃがみこんで、ばかみたいにむっつりと岩屋の床をながめている。
「いつもそんな生活と顔をつきあわせているんじゃ、もうどんな形で死がおとずれても従容《しょうよう》としていられるだろうな」タナーはマウにいった。
コリピーズは首をふった。「ぼくは死にたくない」
「どうして?」
「わからない。生きていたいだけです」
「ということはつまり、できることならこの岩屋から脱出したいと思っているんだね?」タナーが思惑をこめていった。
「むろん、脱出したいですよ。でもやってみて、つかまったら殺される」
「どっちみち殺されるじゃないか」
「そうだ、そんなこと考えていなかった。そのとおりですね。どのみち殺されるんだ」
「脱出できると思うかい?」
「だれかが手をかしてくれたら」
「この岩屋はきみに手をかしてくれる人でいっぱいだよ」
「ザックスの岩屋から来たコリピーズはだめですよ。というのはですね、逃げても安全な行き先がないからです。もしザックスがかれらをとらえたら殺すでしょう。ほかのどの岩屋の支配者がかれらをとらえても、同じことがいえます」
「でもここにはほかの岩屋から来たものもいるじゃないか」タナーはかさねていった。「それにジュードもぼくも」
マウは首をふった。「わたしはどのコリピーズも救いたくありません。かれらはみんな他の岩屋から来た敵です」
「でもぼくはきらいじゃないだろ。ぼくが手をかしてやろう。それにジュードもだ」
「助太刀は一人でたくさんです。でもそれには強い人でなくちゃあ。あなたよりも、ジュードよりも」
「どれくらい強くなきゃだめなんだ?」
「わたしを持ちあげられるくらい」
「それじゃ見てろよ」タナーはいってマウをつかむと高々と頭上に持ち上げた。
床の上にもどしてやると、コリピーズはしばらくまじまじとタナーをみつめた。「たしかにあなたは強い」
「それじゃ、逃げる算段をしようじゃないか」
「あなたとわたしだけですよ」
「ジュードはつれていってやらなくてはなるまい」タナーが主張した。
マウは肩をすくめた。「わたしにはどうだっていいことです。かれはコリピーズじゃないし、それに、もしも腹がへってほかに食べ物が見つからない場合はかれを食べることができる」
タナーは、この際この提案にたいして難色をしめすのは賢明でないと感じたので、何も答えなかった。それにジュードと力をあわせれば、コリピーズが肉にたいする食欲に屈するのをふせぐことができるにちがいないと考えた。
「この岩屋の奥では、影が非常に濃くなっていて、そこで動いている人影がほとんど見えないということに気がついていましたか?」
「ああ」
「あの奥では、薄闇がごつごつした岩壁をかくしているし、あそこの天井は真暗で見えない。ところがその天井に孔があって、そこから細いたて孔を通って暗いトンネルに通じているんです」
「きみはどうしてそれを?」
「いつか狩猟をしていたときに発見したんですよ。上の世界に出ようと道をたどっているうちに、奇妙なトンネルにでくわしたんです。そのトンネルがどこへ通じているのか見きわめようとつたっていくと、最後にこの岩屋の天井のある孔に達しました。そこからなら、こっちの姿を見られずに下で起こるできごとを一つ残らず見通せるのです。ここへ囚人として連れてこられたとき、ぼくはいちはやく見覚えのあるその個所を見つけました。そんなわけで、適当な助太刀さえあれば脱出できるということがわかっているのです」
「説明してくれたまえ」
「その孔のすぐ下の壁は、ぼくの発見によると、床からかなり上まで後方に傾斜しています。それに凹凸がはげしいので、天井の孔の真下にあるちょっとした岩棚までのぼるのはかんたんです。しかしそこまではとにかくとして、その孔にはだれかの手をかりなければ届きません。でもあなたをそこまでおしあげることがぼくにできたら、こんどはあなたが上から手をのばしてぼくを助けあげてくれることができるでしょう」
「そうはいっても番人たちに見つからずにどうやってその壁をのぼるというのかね?」
「そこなんですよ。つかまる危険があるとすればそれだけです」マウが答えた。「そこは非常に暗いから、別の囚人がつれてこられてかれらの注意がそっちにむけられるときをまてば、発見される前に天井の孔に達することができるかもしれないのです。いったん達してしまえばもうこっちのものなんですがね」
タナーはこの計画をジュードと検討した。ジュードは脱出の見込みありというので、有頂天になり、嬉しさを顔にあらわさんばかりだった。
こうして、いつ連れてこられるともしれない新しい囚人を待つこととなった。三人の共謀者はふだんから岩屋の奥の暗闇で大部分の時をすごすよう心がけた。そうすれば番兵たちもかれらがそこにいるということになれっこになってしまうだろう。かれら自身のほかに、その地点の天井に孔があるということを知っているものはいなかったから、少しもあやしまれなかった。そもそもかれらがいすわることに決めた場所は、入り口からいちばん遠いところにあったし、番兵の知るかぎりでは、その岩屋への入り口といえば一カ所きりだったからだ。
タナーとジュードとマウの三人が食事をし、睡眠をとること数回、もはやこれ以上囚人が岩屋へつれてこられることはなさそうなようすが見えはじめた。そしてそのかわりに情報がつたわってきた。その一つがかれらを仰天させ、この際なにがなんでも思いきってすみやかに脱出しなければと決心させたのだった。
見張り役を交代にきたコリピーズたちがつたえるところによると、ザックスは激怒する部族民の間におこった暴動を鎮圧するのに苦心しているらしい。部族民の多くは、ザックスが囚人を全部一人じめにして保存しているのだと思いこんでいるのだ。
その結果、ただちに肉をご馳走すべしという要求がザックスにつきつけられた。おそらくすでに他のコリピーズは、不運な囚人たちを岩屋にひきたてていく途中だろう。飢えに狂った兇暴な群衆に八つ裂きにされるのだ。
コリピーズがやってきて、囚人たちを例の大岩屋へつれもどすまでにあと一度空腹になるだけの時間しかない。
「今が潮時だ」番人が新来者と話しこんでいるのを見すまして、タナーはマウとジュードにささやいた。そして三人は一瞬のためらいもなく、以前からの計画どおり岩屋の奥の壁をよじのぼるべく行動を開始した。
床から八メートルあるちょっとした岩棚の上で、タナーはいったん止まった。一瞬おくれてマウとジュードがそれぞれかれの両横に立っていた。コリピーズはものもいわずにタナーを肩の上に持ちあげた。タナーは上の暗がりを手さぐりして手がかりになるものをさがした。
上のトンネルに通じているたて孔の口はすぐ見つかった。同時に絶好の手がかりを発見して、一瞬後にはその孔にのぼってその孔の口の周囲の狭い岩棚の上に腰をおろしていた。
それから身体をくくりつけておいて、下にむかって手をのばし、マウの肩の上に立っているジュードの片手をつかんでかたわらの岩棚の上に引きあげた。
と、そのとき、かれらの下で大声でどなる声がした。タナーはちらりと下をのぞいて、番人の一人に発見されたことを知った。番人と囚人がいっしょになってこっちへむかっていっさんにかけつけてくる。
タナーがたて孔の口にマウを引きあげようと手をさしのべたときには、もはや、何人かのコリピーズは足下の壁をよじのぼっていた。マウはためらった。そしてかれにむかってすばやくはいあがってくる敵を見おろした。
マウが立っている岩棚はせまく、足もとは不安定だった。かれらに発見された驚きとショックでがっくりしたのか、ふりむいて下をのぞいたときにバランスを失ったのか、とにかくタナーが見ているうちにマウはグラリとよろめいたかと思うと、のぼってくるコリピーズの上にまっさかさまにつっこんでいった。途中三人のコリピーズをなぎたおして下の床に激突すると、マウはそれっきり動かなくなった。
タナーはジュードをふり返っていった。「かれを助けてやることはできない。さあ、できるだけ早くこの場をぬけだすんだ」
手がかりや足場を次々にさぐりあてながら、二人は短いたて孔をそろそろとのぼっていった。そしてほどなくマウが説明してくれたトンネルにはいっているのに気がついた。完全な闇だ。
「地上へ出る道を知っているのかね?」ジュードがたずねた。
「いいや、マウが案内してくれるのを頼みにしていたからね」
「それじゃあの岩牢にいるのもおんなじこった」
「ぼくはごめんだね。コリピーズに生きたまま食われる心配がなくなっただけでも、ぼくは満足だよ。やつらに食われるとしたらの話だがね」
漆《うるし》を流したような真暗闇の中を、タナーは手さぐりしながらそろそろとはって進んだ。ジュードは後からぴったりとついてくる。トンネルはどこまで行ってもはてしがないように見えた。二人はひどい空腹を感じたが、食物は何もない。捕虜だった間、コリピーズは腐った魚のきたならしいかけらを投げてくれたものだが、今ならたとえそんなものでも喜んで食ったことだろう。
「ヒキガエルでもくえそうなほどぺこぺこだ」タナーがいった。
二人はくたくたになって眠り、眠ってはまたよつんばいになって、つまずきながら進んだ。えんえんとつづく暗黒の廊下は、いつはてるとも見えなかった。
トンネルの床は長い間ごく平坦だったが、またときとして下り坂となり、傾斜した床面にしがみついているのが困難なほど勾配がはげしいときもあった。最初にこのトンネルを作ったやつは、どっちの方角に掘り進むかということでしょっちゅう気が変わったらしい。トンネルはうねうねとまがりくねっていた。
二人はどんどん進んだ。そしてまた眠ったが、はたしてそれが長距離を踏破したことになるのか、あるいは飢えのためにだんだん衰弱してきているのか、ジュードにもタナーにもわからないことだった。
目がさめると二人はふたたび前進した。長い間二人とも口をきかなかった。しかし睡眠をとってもたいして回復するようすもなかった。とりわけジュードはまたすぐにくたくたになってしまった。
「もうこれ以上そんなに行けやしないよ。なぜおれをこんな気狂い沙汰にさそいこんだんだ?」ジュードはいった。
「こなくたってよかったんだぜ。もし来てなかったら今ごろは苦痛から解放されてたろうさ。きっととっくの昔に囚人たちは全員ザックスの岩屋のコリピーズどもに八つ裂きにされてくわれちまったろうからね」
ジュードは身ぶるいをした。「死ぬのはいいが、あんないやらしい怪物どもに八つ裂きにされるのはごめんだ」
「こうやって死ぬほうがよっぽどましだよ。消耗しきったら、あとは眠りこんで二度とさめないだけだからね」
「おれは死にたくないよォ」ジュードが泣き声をだした。
「きみはうれしそうにしていたためしがないね。きみのように不幸な人間は喜々として死ぬんだろうな」
「おれは不幸を楽しんでるんだ。もし幸せだったらどんなにみじめなことか。それに、とにかく生きて不幸でいるほうがずっといい。死んでしまって不幸だということがわからなくなるよりはね」
「しっかりしろよ。この長い廊下の終点まで、あとどれほどもないはずだ。マウはここを通ってきたんだし、くたびれたり、ひもじくなったりするほど長い距離だとはいってなかった。マウは端から端まで片道通行しただけじゃない。われわれがあとにしてきたあの岩牢の孔に到達してから、後もどりしてきたんだからね」
「コリピーズはあんまりくわないんだ。ひもじいのになれてるんだよ。われわれより眠ることも少ないし」
「たぶんきみのいうとおりだろうさ。だがぼくは終点に近づいていると確信するよ」
「ああ、おれのいうとおりだとも。だがおれが望んでいた終点じゃないね」
なんだかんだといいながらも、かれらは少しずつ進んでいた。と、そのときタナーははるか前方にかすかな光をみとめた。
「見たまえ。あそこに光がさしている。終点に近づいてるんだ」
この発見は新たな力を二人にそそぎこんだ。タナーとジュードはあこがれの自由にむかって足どりも溌剌《はつらつ》とトンネルを急いだ。進むにつれて光はさらにはっきりしたものとなり、ついに二人はこれまでのトンネルが広大な廊下につながっている地点に到達した。そこには発光性の岩が壁のそこここに露出していて、それらが放つ柔らかな光がみなぎっているものの、右にも左にも陽光らしいものは見えない。
「さあ、こんどはどっちへ行くんだよ?」ジュードが追求した。
タナーは首をふった。「わからん」
「これで少なくともあの恐ろしい暗闇の中で死ななくってすむんだな」ジュードは泣き声でいった。たぶん、一見避けがたいかに見えるかれらの運命のうちでも、そのことがこの二人のペルシダー人にはいちばんこたえたことだろう。というのも不変の真昼の太陽のまばゆい光線のもとで暮らしているこれらペルシダー人にとって、暗闇はたまらなくいとわしいものだからだ。かれらは暗闇にはまったくなれていない。
「わずかとはいえ、これだけの光があればもう気落ちしないぞ。きっと逃げてやる」
「だからどっちの方角へ逃げるんだよ?」ジュードはかさねて追求した。
「右へ行く」タナーがいった。
ジュードは首をふった。「たぶんそっちじゃないよ」
「正しい方角が左だということがきみにわかっているのなら左へ行こうじゃないか」
「おれは知らんよ。きっとどっちの方角へ行ってもまちがいだよ」
「わかったよ」タナーは笑っていった。「それじゃ右へ行こう」こういって方向を転じると、タナーはさっきのトンネルより広い廊下をすたすたと歩きだした。「何かに気がつかないか、ジュード?」
「いいや。なぜきく?」ハイム人は問い返した。
「上の世界からくる新鮮な匂いがするんだ。もしぼくがまちがっていなければ、われわれはトンネルの口の近くにいるにちがいない」
タナーはもう駆けださんばかりだった。すぐにも助かるという思いがけない希望がおとずれて、そのために疲労など忘れてしまった。新鮮な空気と日光のもとに出るのだ! 恐ろしい暗闇と、地下世界のいまわしい怪物にいつまたつかまるかもしれないという恐怖から解放されるのだ! と、その燦然《さんぜん》たる希望の上を、不吉な影のように失望にたいする身も心もなえるような恐れがふっと横切った。
とどのつまり、今、かれらの鼻腔に流れこんでくる新鮮な空気が、どこかのぼることの不可能なたて孔――たとえばタナーが地下人間の国へころげこんだ〈せせらぎの井戸〉のような――から廊下をつたってはいってきているのだとしたら? まさに脱出しようというときにコリピーズの一隊に遭遇したら?
こういった考えがタナーの心に重くのしかかってきて、速度はしだいに落ち、ついにふたたびのろのろとした足どりで歩くようになってしまった。
「どうした?」ジュードがたずねた。「ついさっきは走っていたくせに、今はやっとはっているていどじゃないか。まさかおまえさんがまちがっていて、廊下の口に近づいていないなんていうんじゃあるまいね」
「わからん。ぼくたちはもうすぐ恐ろしい失望に直面しようとしているのかもしれん。もしそうだとしたら、それをできるだけおくらせたい。今この胸の希望をおしつぶされてはたまらないからね」
「おしつぶされるのがおちだとおれは思うね。だが、まさしくそれがおれの予想どおりだ」
「あんたという御仁は、失望からある種の満足を感じとるらしいね」
「そう、そういうことだろうな。それがおれの性分さ」
「それじゃなげき悲しむ用意をするといい」タナーが突然叫んだ。「ここにトンネルの口があるんだ」
タナーは廊下のまがり角をまがったとたんにこう口走った。ジュードはそのかたわらに来て二人のすぐ目の前にある口から日光が廊下にさしこんでいるのを目のあたりにした――口のむこうに木々の葉群れとペルシダーの青空が見える。
長い間地中に幽閉されていたあげくにふたたび日のもとに出てきたので、二人は両手で目をおおわなくてはならなかった。ペルシダーの真昼の太陽の燦然たる光に徐々になれるまでそうしていた。
手を退《の》けてあたりが見まわせるようになると、タナーはトンネルの口が高山のけわしい山腹の上部にあることを発見した。足下には木々にかこまれた涸谷《かれたに》が幾筋か、欝蒼《うっそう》たる森にむかってのびていて、その森のすぐむこうに波きらめく大洋があり、上むきの弧をえがきながらかなたの靄《もや》にとけこんでいる。沖合いなかばの波間に、一つの島が浮かんでいるのがかすかに見わけられた。
「あれだ」ジュードがゆびさしながらいった。「あれがハイム島だ」
「ああ、ぼくにもここから故郷が見えたらなあ」タナーが嘆息した。「そうすればもうほとんど何も申し分はないんだが。きみがうらやましいよ、ジュード」
「ハイムを見たってうれしくもない。おれはあの島がきらいなんだ」
「じゃ、きみはあそこへ帰らないのかい?」
「そりゃ帰るさ」
「でも、どうして?」
「ほかに行くところがないからだよ」ジュードは不平たらたらだ。「少なくともハイムではなんの理由もなしにおれを殺そうとしないからな。ほかへ行ったらそうはいかんよ」
そのとき、突然ジュードの注意は足下に見える何ものかにひきつけられた。トンネルの入り口から少し離れた下から発している涸谷の上手《かみて》にちょっとした湿地がある。そこだ。
「見ろ」かれは大声を出した。「人がいるぞ」
タナーはジュードのゆびさす方角を見た。かれの目は、はるか下方の人影をとらえてまず信じがたいというように大きく見開かれ、次に怒りのために細くなった。
「ちきしょう!」かれはひと声そう叫ぶなり湿地の人影の方角目指してとびおりた。
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九 愛と裏切りと
ステララは大木のかげの粗末な草の寝床に横たわっていた。下の浜辺では、コルサール人たちが故国に船出せんものと船を建造中だ。熱がさがって、体力が急速に回復してきていることがわかっていたが、本当の病気だろうと仮病だろうと、とにかく病気はボハールの手から彼女をまもってくれるということを見ぬいた彼女は、ひきつづき自分が重病だとコルサール人に思いこませておいた。心中にはさまざまの脱走計画がつねにうずまいていたが、彼女はできるだけそのくわだてをひきのばしたかった。たんに体力をうんと蓄積するための時間が必要だったばかりではない。コルサールの船が完成するまで待てば、ボハールが彼女を追いかけてもう一度とりおさえたいといくらがんばっても、大部分のものは出発をおくらせることを承知しないだろうと考えたからだ。
今一度、コルサール人が一人もいないときをみはからうことが必要となってきたが、食事の用意と見張りの役をいいつかっているものが二人いて、そのうちの一人はいつも任務についているので頼みとするチャンスは永久におとずれないかのように見えた。もっとも、これしきのことで思いとどまるものかと彼女は決心していたが。
これに関して彼女はいっさいの希望を一つのできごとに賭けていた。彼女の船の知識によると、近い将来そのできごとがほぼまちがいなくおこると考えたからだ。事実、目下建造中の船を進水させるには、全員が一致協力する必要があった。
彼女が小耳にはさんだ議論や会話によると、ボハールは船体が完成しだい船を進水させて現在建造中の浜辺の先の入江に浮かべ、船の上で仕上げをしようという意向を持っているということがわかった。
仕上げにはたいした時間も努力も必要としないはずだ。というのは、マストも帆桁も索具も帆も用意されて、いつでもとりつけられる状態にあるし、けものの嚢《ふくろ》や、瓢《ふくべ》は新しい水を入れるようにととのえてある。また、航海のための食糧は、この仕事をわりあてられた狩人たちの手によってたくわえられ、けものの皮に手ぎわよく縫いこめられて地中の冷暗所に貯蔵してあった。
そんなわけでステララは、ボハールと手下をコルサールに運ぶ船の船体で仕事が進行するありさまを、木蔭の草の寝床の上から見まもっていた。そしてそうするうちにも、どうやって脱走するか計画をねっていた。
キャンプの上には森林のある丘の斜面があって、パラートへ帰るにはそこをこえなくてはならなかった。しばらくの間、木がまばらにあって、それから欝蒼《うっそう》たる森林がはじまっている。そこまで見つからずにいけたら、うまく脱走できる希望が持てそうな気がするのだ。いったん濃い茂みにはいってしまえば、タナーの指導のもとで身につけた技術と経験を生かして、緑の枝づたいにボハールに尾行されるような足跡を残さずに進むことができるし、同時に森にすむ大きい危険な野獣の襲撃から身をまもることができる。数こそ少ないが、アミオキャップにはまだまだ危険な野獣が棲息しているのだ。なかでももっとも恐ろしいのはタラグ、その昔、地上世界の丘を排徊《はいかい》していた巨大な剣歯虎だ。
タンドールのことはそれほど気にならなかった。というのも、かれらは手だしをしないかぎり、一人でいる人間を襲ってくることはまずないからだ。だが彼女が越えなくてはならない丘にひそむもっとも大きい危険は、なんといってもタラグと、それからライズ――巨大な穴熊、つまり地上世界ではとっくに消滅したアルサウス・ステラウスだ。アミオキャップの住人にであう可能性はあったが、それがたとえ彼女の部族以外のものであっても、彼女はあんまり恐れていなかった。もっとも、コリピーズの手におちるかもしれないと考えると身ぶるいが出た。あのグロテスクな怪物どもは、前途に待ちうけていると思われる、どの危険よりもはるかに大きな恐怖感を彼女の心中にうえつけていた。
脱走を計画しているとわくわくしてくるし、父や味方の人々のもとにうまく帰れそうだと思うと希望に胸がふくらむのだが、自分をむかえてくれるタナーがそこにいないのだということをふと思いだすと気がめいってくる。サリ人はおそらく死んでしまったのだろう。それはなにをもってしてもぬぐいさることのできない暗影を彼女の幸福感の上に投げかけていた。そして、愛の言葉もかわさなかったということ、したがって、身をさいなまれるようなこの悲しみをやわらげて、なぐさめとなってくれるような幸せな想い出がないということが、彼女の悲しみをおそらくいっそう深いものにしていた。
船体の作業はついに完了し、キャンプへ食事にもどってきた男たちはコルサールへの早期出発を望みありげに話していた。ボハールがステララの寝床に近づいてきて、上からにらみつけた。意地悪いしかめつらをしているので、醜悪な形相がますます陰惨なものになっている。
「まるっきりおれさまの役にもたちやがらないで、いつまでここにごろごろしているつもりだ? 食って、寝て、もう高熱はおまえの肌からひいたはずだ。きっとおれさまの妻としてのつとめをはたすのがいやさに仮病を使ってやがるんだろうが、もしそれが事実ならひどい目にあわせてやる、起きろ!」
「衰弱がひどくて起きられないのよ」
「そんなもの、なおしてやる」ボハールはどなりつけて乱暴に彼女の髪をつかみ、寝床からひきずりだして立たせた。
ボハールが手を放すと、ステララはよろめいて足をガクガクふるわせ、もとの寝床へがっくりと倒れこんだ。その演技があんまり真にせまっているので、ボハールまでがまんまとひっかかってしまったほどだ。
「あの女、病気で死にかかっているぞ」コルサール人の一人がいった。「それでなくてもすしづめの船に乗せて、食わせて飲ませてつれて帰る必要がどこにある? そのためにわれわれの分がへってコルサールに着くまでに死ぬやつが出るかもしれんぞ」
「そうだ、そうだ」もう一人が叫んだ。「女はおいていけ」
「ナイフでひとつきにしてやれ」三人目がいった。「あんな女、クソの役にもたたねえ」
「だまれ!」ボハールがどなりつけた。「あの女はおれの女房になるんだ。いっしょにつれていくぞ」と二挺のばかでかいピストルをぬいて、「だれでも反対するやつは、どてっ腹に弾をぶちこんでおきざりにしてやる。さあ、めしをくえ、うすぎたないのら犬どもめ。さっさとしろ。食い終わったらきさまたち総がかりで船を進水させるんだからな」
いよいよ進水! ステララは興奮に身をわななかせた。脱走のときが近づいたのだ。彼女は待ちきれない思いで、コルサールどもが飢えた狼犬の群のように食物を鵜呑《うの》みにするのを見まもっていた。なかには食べたあと、ごろりと横になって眠ろうとするのもあったが、血を好むボハールはかれらをけりとばして目をさまさせ、ピストルをつきつけてその辺にいる男たちを手あたりしだい狩り集めて、一同を浜へ追いたてていった。族長フェドールの部落からさらってきていらい、はじめて見張りをつけずにステララをただ一人残して。
ステララは一同が船体のところへ下りていくのを見まもっていた。かれらが重い船体を海におしだすのに夢中になりきるのをまった。それから寝床から起きあがると、キャンプの上の斜面を脱兎のごとく森にむかってかけだした。
運命の偶然性《いたずら》というものはわれわれの手におよばないものだが、人生の要因であって、きわめて重大な冒険に際してしばしば成功と失敗のわかれ目を決定するものだ。われわれがもっとも期待をかけている希望が実を結ぶか否かはそこにかかっている。事実、運命の偶然は神のふところにあり、そこにまたわれわれの未来が横たわっているのだ。血を好むボハールがたまたまキャンプのほうをちらとふり返ったのもまったくの偶然にすぎなかった。が、おりもおり、ステララが寝床から起きあがり、自由を求めて脱走しようとしていたのだ。
ボハールはひとこと悪態をはくと、船体を進水させる作業をやめ、後につづけと部下に声をかけてけわしい斜面をあたふたと追っていった。
かれの仲間は一目で状況をのみこんで躊躇した。「やつの女はやつに追わせておけ」一人が怒ったようにいった。「おれたちになんのかかわりがある? 船を進水させてコルサールにむけて出帆する準備をするのがおれたちの仕事だ」
「そうだ、そうだ」別の男がいった。「それでもしも準備ができてもあいつがもどってこなかったら、あいつをほうっといて出帆しようぜ」
「それがいい」三人目がいった。「あいつがもどってくるまでに出帆準備ができるよう急ごうじゃないか」
というわけで、血を好むボハールは部下もつれずに一人でステララを追った。コルサール人たちの中には、肥満したボハールよりも足の速い連中は大勢いたから、たぶんステララにとってはこのほうがよかったろう。
ステララは自分が逃亡しようとしたことが発見されたということにすぐ気がついた。ボハールが大声で、止まれ、とどなったからだ。だが、ボハールの言葉は彼女の足を早めさせたにすぎなかった。そしてほどなく彼女は森の中へとびこんで、ボハールから見えなくなった。
森へはいると木にとびついた。こうすればおそくなることはわかっていたが、ボハールの目をのがれたい一心だった。ボハールが下生えをふみしだいてやってくる音が聞こえて、急速に追いついてきているのがわかった。が、だからといって彼女は気力を失わなかった。木の枝にのぼっているということをボハールにかんづかれない自信があったし、木の茂みに身をひそめているかぎり、ボハールは彼女がすぐそばにいるとも気づかずにすぐ下を通過するだろうからだ。はたせるかな、ボハールは悪態をつき、ふうふうと息をきらせながら牡牛のように丘の急斜面をのぼっていく。
ステララはかれがすさまじい音をたてて通過するのを聞いてから、かれの進行方向をさけて進路を右へとり、逃走を再開した。やがてボハールの足音がかなたに消えると、ふたたび丘の頂上めざしてのぼっていった。パラートへむかうにはここを越えなくてはならない。
ボハールは汗をかき、のぼっていたが、とうとう疲労|困憊《こんぱい》の寸前で休まざるをえなかった。ちょっとした湿地までくると、灌木の下に横になった。こうしていれば灌木が日光からまもってくれるばかりでなく、姿もかくしてくれる。未開のペルシダーではつねにかくれた場所で休息をとるのが得策だ。
ボハールはあれやこれやを考えてかんかんだった。女をキャンプに一人残しておいたことをのろい、女が逃げたことをのろい、丘のこんな急斜面をのぼらせて無駄骨を折らせた運命をのろい、そしてなかんずく、ここにいない連中をのろった。今になってかれらがついてこなかったことに気づいたのだ。女を見失ってしまったということはわかっていた。そして彼女をさがしつづけることは、大海で一尾の小魚をさがしもとめるにもひとしいということも知っていた。そこで、身体が休まると、とりいそぎキャンプにひき返すことに決めた。と、そのとき、湿地の下手《しもて》のはずれで物音がしてかれの注意をひいた。ボハールは本能的に一方のピストルに手をのばした。驚いたことに二挺ともなくなっている。帯《サッシュ》からすべり落ちたか、下生えをかきわけてしゃにむにのぼるうちにひっかかって落ちたか、どっちかだということは明白だ。
ボハールは癇癪《かんしゃく》持ちで大ぼら吹きのくせに、からきし意気地がなかった。丸腰ではまったくの臆病者だ。かれはかくれ場所に身をすくめ、はたして何ものが物音をたてたのか見さだめようと、せいいっぱいに目を見開いていた。と、そのうちに、勝ちほこったような狡猾な薄笑いがかれのみにくい口元をゆがめた。湿地のむこうのはずれ、ボハールの目前で、ステララが木の下枝からとびおりてこっちへやってくる姿が目にはいったからだ。
ステララが、かくれ場所の真横までくると、血を好むボハールは彼女の前におどりでた。うろたえたステララは押しころした叫び声を発すると、踵をかえして逃げようとした。が、コルサール人はあまりにも近く、かつすばやかった。かれは腕をのばしてステララの髪を乱暴につかんだ。
「血を好むボハールからは逃げられないということがまだわからんのか? おまえはおれさまのものだ。この罰に、船に乗せたらくるぶしのところから両足をちょん切ってやる。今後どんなチャンスがあろうと、二度とおれさまから逃げだせないようにな。だがおとなしくおれといっしょになったら、ちっとはやさしくしてやる」そういってボハールはステララのほっそりした身体をひきよせて抱きすくめた。
「いやよ」ステララは叫んで、両こぶしで相手の顔を打った。
ボハールは悪態をついて、ステララののどもとをつかんでゆすぶった。「この雌ダイリスめ。これほどおまえにほれていなかったら殺してやるところだ。いいか、コルサールの神に誓っていうが、この次おれさまを打ったら殺してやるぞ」
「さあ、殺せ」ステララが叫んだ。「おまえといっしょになるくらいなら死んだほうがましだ」そういってステララはまたしてもボハールの顔面をまともに力一杯なぐりつけた。
ボハールは怒りに泡を吹いて、女の柔らかなのどをしめつけた指に力をこめた。「そこまでいうのなら、死ね。この――」
そこでかれは絶句して、さっとふり返った。一人の男が怒りをこめてどなる声を耳にしたからだ。その場でつっ立ったままいったん手を止めて、声のした方角に目をやると、湿地の上手のはずれの下生えがさっとわかれて、一人の戦士がおどりでた。ボハールのほうにいっさんにかけてくる。
ボハールは幽霊でも見たように蒼白になった。そして女を乱暴にほうりだすと、単身であらわれた戦士にむかって身がまえた。
逃げても無駄だということがわかっていなかったら、ボハールは逃げだしただろう。鹿が跳躍するようにのびのびと疾走してくるこの|ばね《ヽヽ》のような男と競走してみてもとうてい勝ち目はない。
「あっちへ行け」ボハールはどなった。「行ってしまえ、おれたちに手出しをするな。これはおれの女房だ」
「この嘘つき野郎め」疾風《はやて》のタナーはうなってコルサール人にとびかかっていった。
二人の男は、とうとう地面にころがった。サリ人が上だ。倒れながらたがいに相手ののどもとをつかもうとしたが、うまくいかないので、二人はめったやたらに顔をなぐりあった。
タナーは怒り狂った野獣のように戦った。デヴィッド・イネスが教えてくれた戦法などきれいさっぱり忘れてしまっていた。ただ相手を殺すということだけがかれの念頭にあった。どんなやりかたでもいい、相手を殺しさえすれば。一方、守勢に立ったボハールは、追いつめられたねずみのように、必死になって戦った。かれの利点といえば巨体の重量と、相手にまさるリーチだが、力と敏捷さにかけては、勇気と同様タナーのほうがまさっている。
ボハールに首をしめられて気を失っていたステララは、正気に返ってゆっくりと目を開いた。最初のうち、彼女はタナーに気づかず、ただ二人の男が草の上で死を賭して戦っているのを見て、いずれは勝者の餌食になるのだろうと考えていた。だが、ほどなく決闘が進むうちにサリ人の顔が彼女のほうにむいた。
「タナー!」ステララは叫んだ。「神様はお慈悲をかけたもうた。死んでしまったとばかり思っていたのに。神様はあなたを返してくださった」
彼女の言葉にサリ人は勇気百倍、敵を倒すべく奮闘した。が、ボハールのほうがタナーののどに指をかけることに成功した。
ステララは、はっとして、石か棒切れか、彼女の闘士を助けるものはないかとあたりを見まわしたが、見つけるより早くかれが手助けを必要としないことを知った。ヘラクレスのような超人的な動作でボハールを一振りにふりはなすと、タナーはがばとはねおきたのだ。
時をうつさずコルサール人もさっとたちあがり、頭を低くかまえて狂った牡牛のように猛然とサリ人めがけてつっかかってきた。
このころにはタナーは冷静に計算して戦っていた。ステララがコルサール人の手でしめ殺されようとしているのを目のあたりにした瞬間の、にえたぎるような激怒はさめていた。かれはボハールの突進を待った。そしてであいがしらに片腕をコルサール人の頭にまわしてしめつけ、すばやく一転するなり背負い投げで地面にたたきつけた。それからタナーは待った。
今一度、ボハールは頭をふりながらよろよろとたちあがり、今一度突進してきた。と、またしてもあのものすごい腕がかれの頭をしめつけ、今一度、かれはどうと地面に投げつけられた。
こんどはかれもそう早く、かんたんには起きあがってこられず、ふらふらとよろめいて頭や首をさわりながらたちあがった。
「覚悟しろ」タナーはうなるようにいった。「よくもステララをひどい目にあわせたな。今からきさまを殺してやる」
狂気と化したボハールは、怒りと恐怖のいりまじった金切り声を発すると、ふたたびサリ人に襲いかかってきた。そして三たび、かれの巨体は空にまい、固い大地にどさりと落ちた。しかしこんどは起きあがってもこなければ身動きもしない。血を好むボハールは首の骨を折って絶命していた。
タナーはつかのま、たおれた敵の身体の上に立ちはだかって身がまえていたが、ボハールが死んだことに気づくと、さもいとわしそうな嘲笑を浮かべて顔をそむけた。
そのかれの前にステララが立っていた。美しい瞳は信じられないといいたげに見開かれ、幸福にみちていた。
「タナー!」それはただひとことのつぶやきにすぎなかったが、万感がこめられているのがタナーの胸につたわってきて、かれはぞくぞくするような快感が身内を何度もかけぬけるのを感じた。
「ステララ!」女をだきしめてタナーは叫んだ。「ステララ、愛しているよ」
ステララが柔らかな腕でタナーの首にだきついてかれの顔をひき寄せると、タナーはステララの唇に長い間口づけをした。タナーが顔をあげてステララの顔に見入ったとき、彼女の開かれた唇からただひとこと、「おお、神様!」という嘆声がもれた。そしてなかばとじられた彼女の双の瞳の奥底には、あらゆる理解の尺度をこえた愛が燃えさかっていた。
「妻よ」タナーは、ステララの身体をひしとだきしめて叫んだ。
「あなた」ステララがささやくようにいった。「生命あるかぎり、そして生命はてたのちも、あの世で、永遠に!」
不意に彼女は目をあげて身をひいた。
「あれはだれ、タナー?」
タナーがステララのしめす方向をふり返ってみると、ジュードが湿地の上手にあらわれた。
「あれはジュードだよ。地下人間の国からいっしょに逃げてきたんだ」
ジュードは二人のほうに近寄ってきた。いつものように陰気なしかめっ面をしている。
「あの人、こわいわ」ステララはタナーにひしと身を寄せていった。
「こわがることはないよ。あの男はいつもしかめっつらで、ご機嫌ななめなんだ。だがぼくの友人だし、たとえそうでなかったとしても害のないやつだよ」
「あたしはきらいよ」ステララがこっそりといった。
ジュードは近寄ってきて二人の前で立ち止まった。つかのま、ボハールの死体に目をやったが、すぐに視線をもどしてステララをみつめ、頭のてっぺんから足の先までじろじろと吟味した。その視線には狡猾で無遠慮なものがあって、持ち前の陰気なしかめっつらよりもさらにステララを不安にした。
「この女は何者だ?」ジュードはステララから目を放さずにたずねた。
「ぼくの妻だ」タナーが答えた。
「それじゃ、おれたちといっしょにくるんだな?」
「むろんだ」
「で、どこへ行く?」
「ステララとぼくとはパラートへ帰る。このひとの父親がそこの族長なんだ。来たければいっしょに来ていいぜ。きみを友人としてむかえてくれる。ハイムに帰る手だてが見つかるまで優遇してくれるようにしよう」
「その人、ハイムの人なの?」ステララがたずねた。タナーは彼女が身ぶるいするのを感じた。
「おれはハイムのものだ。だがおまえさんの部落の人がおれをいっしょに住まわせてくれるなら、二度と帰らなくてもかまわん」
「それはフェドールと部落の人が決定すべき事柄だ。だが、きっとあの人たちはきみを逗留させてくれるとぼくが保証するよ。永住でないにしても、少なくともハイムに帰る方法が見つかるまではね。ところで、パラートへ出発する前に、食って眠って体力を回復しようじゃないか」
武器なしで獲物を取ることは容易ではなく、山の斜面をしばらくのぼっていって、やっと二人の男が一つがいの大きな鳥を石でねらいさだめて射ち落すことができた。野生の七面鳥に非常によく似た鳥で、この原型はおそらく地上世界の野生の七面鳥の先祖と思われる。この狩猟で、一行は広々とした高原に出た。丘の頂上のすぐ下に起伏しながらひろがっていて、青草が腰の高さまで茂り、そこここに大木や木立ちがあって、垂直にふりそそぐ真昼の太陽光線をさえぎってかげを作っている。
一行は、陽気にさざめきながら海へと下っていく一筋の小川のほとりで休息して、食事と睡眠をとることにした。
ジュードが薪を集める一方、タナーは原始的な方法で火を作った。乾燥した大き目の板切れに穴をあけて、火口《ほくち》をつめ、先端をとがらせた棒をその中につっこんで急速に回転させる方法だ。こっちの準備がととのえられている間、ステララは鳥を下ごしらえした、赤々と燃える火の上で七面鳥があぶられたのはそれから間なしのことだった。
飢えがみたされると、こんどは睡気がそれにとってかわった。ジュードは、タナーのように戦い疲れていないからと、自分が最初に見張りに立つのだといってきかなかった。そこでステララとサリ人は木蔭に横になり、その間しかめっつらのハイム人が見張りに立つこととなった。
比較的安全なアミオキャップでも、危険は肉食獣や狩人の姿をとっていつなんどき襲ってくるかもしれなかった。だがこの見張り番は、キャンプからむこうへは目をくばっていなかった。そのかわりに、かれはうずくまってステララをむさぼるように見つめていた。ときたまタナーのほうをちらちらと見る以外は、その目はステララの美しい肢体からかたときも離れない。タナーの胸は規則的に上下して、かれが熟睡していることを物語っていた。
眠れる美女がハイム人の胸にどんな考えをよびさましたかはわからない。なんであれ、それは黒い眉をしかめっぱなしでけっして晴れることのないその顔に反映していたにすぎない。
やがてかれは音もなくたちあがり、柔らかな草をひとつかみかき集めて小さな丸い塊を作った。それからこっそりとステララの横たわっているところへしのびよって、かたわらにひざまずいた。
と、やにわにステララの上にかがみこみ、のどもとをつかむと同時に、草の塊をにぎったもう一方の掌を、彼女の口におしつけた。
かくも乱暴に深い眠りからさまされたステララの目に最初にうつったのは、ハイム人のしかめっつらだった。口を開けたとたんジュードはまるめた草を彼女の口の奥にぐいとおしこんだ。それから彼女をひきずりおこして肩にかつぎ、そのまま台地をつっ切ってすばやくくだっていった。
ステララは身をもがいてなんとか自由になろうとしたが、ジュードは腕っぷしの強い男だったから、どんなにジタバタしてもどうにもならなかった。かれは、両腕の自由がきかないように彼女をかついでいたし、草の塊は口の中でふくらんで舌だけでは押しだすことができない。ひと声、悲鳴をあげさえすればタナーが目をさまして助けにきてくれることはわかっていたが、それができないのだ。
ハイム人はステララをかついだまま起伏する台地をつっきって、海の上につきでたけわしい絶壁までくだっていった。そこは島の内部に深くきれこんだ入江の奥の上だった。ジュードはここにステララをおろして立たせたが、片方の手首はしっかりつかまえていた。
「よく聞け、女」かれはうなるようにいった。「おまえはハイムへ来てジュードの妻になるんだ。おとなしくついてくるなら手荒なことはしないし、叫び声をたてないと約束するなら猿ぐつわを口からはずしてやる。どうだ、約束するか?」
ステララは決然として首をふって、拒否をはっきりとしめした。そしてそれと同時にジュードの手をはずそうともがいた。
ジュードはひと声荒々しくうなるとステララをなぐりつけた。そしてその場に彼女が昏倒すると、長い草を取ってきて縄をない、手首とくるぶしをしばった。それからもう一度彼女を肩にかついで崖っ縁《ぷち》をくだりはじめた。細い道が一筋通っているのが今でははっきりと見わけられた。
このようにここまでまちがいなく来たところを見ると、ジュードがすでにこの道を知っていたということは歴然としていた。やすやすとあぶなげなくくだっていくさまは、その真実性をさらに強めた。
下り坂は三十メートルたらずで、ほとんど水際にあるせまい岩棚につづいている。
ステララが意識をとりもどしたのはここだった。目をあけると、目の前に水の浸食作用でできた洞穴が崖の下に深くきれこんでいるのが見えた。
せまい岩棚づたいに、ジュードは洞穴の奥にステララをかついできた。そこは小石の多いなぎさで、丸木舟が六艘ひきあげておいてあった。軽量でよくできている。ハイム人のカヌーだ。
そのうちの一艘にジュードはステララを乗せた。そして深い入江の水の上におしだし、自分もとび乗ると櫂をつかんで沖へと進路をむけた。
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十 追跡
深い、さわやかな眠りからさめると、タナーは目をあけて頭上の葉群れをじっと見あげたまま横たわっていた。幸せな想いで胸はいっぱいだ。おもわず微笑がこみあげてくる。そうした想いにつられて、かれはいとしげに妻の美しい肢体のほうに目をむけた。
いない。さっき見たときは草の寝床に気持よさそうにまるくなっていたのに。だが、それでもまだ、自分よりさきに目をさまして起きたのだろうくらいに思って気にもかけなかった。
かれはけだるそうに小さな休息所を見まわした。が、次にステララもジュードも姿を消しているのに気づくと、あっと声をあげてとび起きた。こんどは範囲を広げてくいいるように周囲を見まわしたが、二人とも影も形も見えない。
二人の名を大声で呼んでも応答はない。そこでタナーはキャンプの周辺の地面を調べはじめた。ステララが眠っている場所をたしかめた。彼女の寝床に近づいたとき、かれの鋭い目はハイム人の足跡を見破った。また、かれは別の足跡がそこから発しているのに気がついた。それはジュード一人の足跡だったが、ジュードが通ったあとに踏みしだかれた草を見て、かれは真実を読みとった。一人の男の重量以上のものがこのように草をめちゃめちゃになぎたおしたということ、つまりジュードがステララをかついでいったということをその痕跡は物語っていた。そしてタナーはステララが力ずくでさらわれていったことを知ったのだった。
即座にタナーは、はっきりと残っている足跡をたどって丈高い草むらにわけいった。ステララをさがしだすこと、ジュードをこらしめること以外はいっさいわすれていた。それで、自分の後をこっそりつけてくる不吉な影に気づかなかった。
かれらは台地を越えてくだっていった――かれらというのは、タナーと、そのあとを黙々と尾行している巨大なけもののことだ。足跡は海につきでた絶壁へとつづいていた。ここでタナーは一瞬たちどまって大海を見渡した。と、沖合いに一艘のカヌーがかすんで見える。中には二人の影がある。だが遠すぎて判別がつかなかったから、だれが乗っているかは推察するしかなかった。
一瞬呆然としてそこにつっ立っていたとき、かすかな物音が背後でかれの注意をひいた。悲しみと怒りにとりつかれていたタナーは、つかの間われにかえってさっとふり返り、邪魔のはいった方角をにらみつけた。と、十歩と離れていないところに巨大なタラグがものすごい形相をぬっとあらわした。
剣歯の牙が日光を受けてギラリと輝き、毛でおおわれた鼻面には怒りのしわがよっている。笞《むち》のようにゆれていた尾がはたと止まった。先端だけが、痙攣しているようにかすかにピクピクと動く。けものはその場にうずくまった。今にもとびかかろうという態勢だ。
丸腰で、しかも単身のタナーは、やすやすと肉食獣の餌食になるのか。右にも左にも逃げ道はない。
こういったことが次々と脳裡を通りすぎた。が、それでもあの背後の海の沖合いに浮かんでいたカヌーの二人の人影は完全に頭から消えていなかった。いま立っている絶壁が入江の水面の上に突出しているということも。と、タラグは襲いかかった。
巨大な野獣は耳をおおいたくなるようなかん高い咆哮を発して、閃光のようにダッととびだした。大きく二跳びで届くところを、あとの一跳びの間にタナーはさっと身をひるがえし、絶壁からまっさかさまに身を投じた。剣歯虎の鋭い牙と爪にかかって死ぬことをまぬがれようとすれば、それよりほかに道はなかった。
水面の下にはぎざぎざの岩があるかもしれない。だが水が深いということもあり得るのだ。絶壁の上には生きのびるチャンスはない。
巨大な虎は跳躍したものの、目前に待ちもうけているはずの餌食が消えたので、はずみでこれもまた崖っ縁からとびだしてしまった。そして人間とけものはほとんど並行してはるか下の水面めがけて落下していった。
タナーは両手をのばしてさっと水を切って飛びこみ、すばやく方向を転じて水面に浮かびあがった。虎が落下した点から一メートルと離れていない。
人とけものはたがいにむきあった。タラグはタナーを見るとまたしてもかん高い声で何度も咆哮して打ちかかってきた。
水中ならタラグをひきはなしておくことができるかもしれないが、浜にたどりついたとたんにこの大肉食獣の思いのままになるだろう。
すさまじい形相にゆがんだ顔はすぐそばにあった。そして太い爪が獲物を求めてダッとつきだされた。タナーはさっとけものの下にもぐった。
すばやく二、三度水をかいてタナーは水面に浮きあがった。けもののすぐ後ろだ。そして一瞬後、手をのばして毛皮をつかんだ。タラグはすばやく方向を転じて打ってかかった。が、そのときすでにタナーは相手の肩に馬乗りになり、体重をかけて怒りにゆがんだけものの顔を水中におさえこんでいた。
息をつまらせのたうちながら、たけりたったけものは、柔らかな肉を八つ裂きにせんものと鋭い爪でタナーをさがしもとめた。だがみなぎる海水の中では攻守ともにふだんのようなわけにはいかない。この不利な条件を克服しないかぎり、死は目前だ。それをいち早くさとったタラグは、今や全身の筋肉を駆使してしっかりした足場にとどこうとし、一方タナーはそうはさせじとがんばった。それまで毛の濃い肩をつかんでいた指を白いのどもとにじわじわと移動させていって、そこのはりつめた筋肉に鋼鉄の爪のようにくいこませた。
もはやけものは声をたてようとはせず、一方人間も黙々として戦った。
それは悽惨《せいさん》な戦い、恐ろしい決闘、野蛮な果たし合いだった。こんな争いは太古の世界において原始的な生物同士の間でしか見られないものではなかろうか。かれらは死の狩人がその利鎌《とがま》をふりおろすまで、仮借《かしゃく》ない生の戦いを放棄しないのだ。
絶壁の下、暗い洞穴の奥でタラグはむこうの端にあるわずかばかりの岸にしゃにむに近づこうとし、タナーはそうはさせじと抗い、相手の頭を水中におさえつけた。かれは暴れていたけものがしだいに弱っていくのを感じたが、それでも岸はすぐそばだし、いつなんどき大きな爪が水底にとどくかもしれないのだ。万一タラグが四本の足をしっかりした土地につけて頭を水からあげたら、まだまだかれを引き裂くだけの精力がその巨大な体内に残っていることはわかっている。
最後の超人的な努力をふりしぼって、タナーはタラグの首をしめつけている指に力をこめ、背中からすべりおりてひきもどそうとした。けものも必死だ。最後の力をふりしぼって水中で後足を下にして立ち、くるりと方向を転じてタナーに打ってかかった。鋭い爪がタナーの肉をかすめた。タナーはまたもや巨大な肩にまたがって、今一度敵の頭を海中におさえつけた。身体の下でけものの巨体を痙攣が通りぬけるのを感じた。と、筋肉がゆるみ、タラグはぐったりと水に浮いた。
それからまもなく、タナーは小石の多い浜辺に重い足をひきずるようにしてあがり、精根つきてあえぎながらその場に横たわっていた。
体力を回復するのに時間はかからなかった。追跡がもっかの急務だったから、元気をとりもどすとタナーは起きあがってあたりを見まわした。目の前に幾艘かのカヌーがある。これまで見たこともないようなカヌーがせまいなぎさにひきあげて置いてある。それぞれのカヌーには櫂がそえられていて、持ち主の早い帰りを待ちわびているかのようだった。それらがどこから来たのか、なんのためにこの人里離れた洞穴に置いてあるのか、タナーには推察がつかなかった。アミオキャップ人のカヌーとはちがう。このことは、それがどこか別の島の人間の所有物だという確信をかれにあたえた。ひょっとすると本土から来たのかもしれない。
しかしこういったことはそのときのかれには、たいして関心のない疑問だった。カヌーがここにある。沖合いで見たあの二人――ジュードとステララ以外の何者でもないとかれが確信する二人――を追跡する手段がここにあるのだ。
タナーは小舟の一艘をひっつかむと、水際にひきずりだして浮かべ、それにとびのって入江から海にむかって迅速にこぎだした。櫂を使いながら、その舟をさらにじっくりと観察する機会を得た。
それは明らかに非常に軽い丸太から作られたもので、座席は優に三人乗れるほどの広さがあり、その両端の隔壁以外は全体が一本の丸太でできている。
甲板の表面と隔壁を櫂で軽くたたいてみて、甲板の下の丸太はすっかりくりぬかれて空洞になっているということをたしかめた。隔壁そのものはどこから見てもきっちりとはめこまれていて、水のはいりこむ隙間はない。この丸木舟は絶対に沈まないだろうとタナーは考えた。
次にかれの注意は、座席の底に置いてあるよくなめした使い古しの皮にむけられた。生皮の紐《ひも》がその皮の周囲全体に通してある。いったいこれは何に使うものだろうかと思案していると、座席の縁をめぐって一連の索止めがついているのに目がとまった。そこでこの皮はカヌーのおおいだろうという見当がついた。さらによくしらべているうちに、皮に人間の身体の大きさほどの穴があいているのを発見してたちまちこの皮の用途が判明した。おおいをつけ、座席の周囲に皮紐でぴったりととじつけ、同時に乗り手の身体にもしばりつけることによって、カヌーは波をかぶらないですむし、激しい嵐の中でも航海に耐える舟になるのだろう。
サリ人は、船乗りとしての自分の限界をよく知っていたから、躊躇せずこの暴風雨よけを利用することにした。座席の外側にあわせてしっかりととじつけ、皮の中心の穴の周囲に通してある紐を身体にしばりつけると、これまで海の未知の危険によぎなく屈服していた時に感じたことのなかった安心感を味わった。
さて、タナーは先刻二人の乗り手を乗せたカヌーを見かけた方角に急速に漕いでいった。入江を出て広々とした海にのりだしたとき、ふたたびその姿を発見したが、このときにはずっとはるかな沖合いに出ていたので舟も乗り手も広大な水面の上の一点としか見えなかった。だがそのむこうに、ジュードがハイムだと指摘した島影が朦朧《もうろう》とうかびあがっている。このことは、前方のカヌーがジュードの手であやつられてかれの一族の島にむかっているというタナーの確信を裏づけた。
茫洋たるペルシダーの海を小舟で航海すると、地上世界の人間には想像もつかないような、さまざまな障害がまちうけている。波間にはしばしば太古の地質時代の恐竜どもがひしめいている。このサリの山男は、逆風や嵐を気づかうよりも、こうした怪物どもに遭遇することをいっそう深く懸念していた。
使っている長い櫂の一方の端に、タンドールの牙をけずってとがらせたものがつけてあることに気づいていたが、この海に棲息するものの中でも、もっとも力が強く恐ろしいタンドラズやアズダイリスと闘うには、まるで役にたたないように思えた。しかし見渡すかぎりの前方には油を流したようにおだやかな海が大きなうねりを見せてつづき、いかなる海の生物も波を立てるようなことはなかった。
タナーは自分が漕ぎ手としては経験も浅く、腕も落ちることをよく知っていたので、熟達したジュードの漕ぐカヌーに追いつけるとは思っていなかった。ずっと目をはなさずにいて、ハイムのどの地点に上陸するかをおぼえておくくらいが関の山だ。だが、いったん陸にあがれば、たとえそれが敵の住む島だろうと、どんな危急の事態にも対処することができるという自信はあった。
目前のハイム島の輪郭は徐々にはっきりしてきた。それに応じてアミオキャップ群島はしだいに背後に薄れていく。
タナーとハイムの島との中間で海面に浮かぶ小点は、めざす敵がまだ上陸していないということを物語っていた。追跡は果てしないように感じられた。ハイムは、接近するのとほとんど変わらないくらいの速度でずんずん遠のいていくような気がするのだ。腹がすき、のどが乾いたが、食物も水もなかった。ただひたすら漕ぎに漕いで単調な追跡をつづけるよりほかはない。だがついに海岸線の細部がはっきりしてきた。入江や、湾や、樹木の生い茂った丘が目にはいり、それからくだんのカヌーがはるか前方で入江の口のむこうに姿を消すのが見えた。タナーはその位置を頭にたたきこんでから、海岸に到達すべく努力を倍加した。そんなおりもおり、無情でつむじまがりの運命があらわれて、タナーの希望と計画をすっかりぶちこわしにしてしまったのだ。
行く手のはるか右方の海面に突如として一陣の突風がおこり、しばしかれをはっとさせた。と、あたかも巨人の手のように風はタナーの舟をとらえてかれが進もうとする針路とは直角の方向にむけた。波はうねり、風は絶叫した。暴風雨は猛然と襲いかかった。こうなったら方向を転じて逃げだすよりほかはない。
タナーの舟はハイムの海岸を浜と並行に疾駆し、ジュードがステララとともに上陸した地点からどんどん遠ざかっていった。だがその間中ずっと、タナーはけんめいに舟をあやつって樹木の生い茂るハイムの丘の斜面に近づけようとした。
右前方に島のはてらしい所が見える。もしも嵐に吹き飛ばされてそこを通りこしてしまったらすべてはおしまいだ。嵐はどんどんかれを押し流して島の見えないところへ連れていってしまうにちがいないし、もしそうなったら絶対にハイムに到達することができないばかりか、アミオキャップにひき返すこともできない。陸地がひとたび視界をはずれて、上むきにカーヴする水平線の霧の中に消えてしまったら、方角をたしかめるすべはまったくなくなってしまうからだ。
身体中の筋肉を駆使し、たえず転覆する危険をおかしながらタナーは海岸にむかって内寄りに航行するよう努力した。そのかいあって目的を達しつつあることはわかったものの、時はすでにおそかった。舟は島の最先端とほとんど並行しているにもかかわらず、岸からなお百メートルも離れていたのだ。だがそれでもかれは絶望しなかった。いや、たとえ絶望していたとしても助かるべく奮闘をやめなかった。
島がそれて通過するのをかれは見た。だがまだチャンスはある。島蔭の海はおだやかだということにかれは目をつけたのだ。もしもそこへ到達できたら助かるだろう。
身体中の筋肉を精一杯働かせてサリ人は粗末な櫂をあやつった。突如として軟風はとまり、舟は島の風蔭の波静かな水面にいきおいよく飛びこんだ。だがカヌーの舳先がハイムの砂にふれるまで奮闘を止めなかった。
タナーはとびおりて舟を浜にひきあげた。ふたたびそれが必要となるかどうか疑問に思ったが、それでも手近の灌木の葉蔭にかくした。そして単身武器もなく、ステララを求めて未知の国の危険にたちむかうべく出発した。こんなところでステララを探索することは、タナーにさえ絶望に近いように思えるのだった。
海岸線にそって、ジュードが上陸した地点までひき返すのがもっとも賢明な方法に思えた。そこからかれの足跡をたどって奥地にはいるのだ。タナーはこの計画にしたがうことにした。
未知の国にあって、また未知であるがゆえに敵の国ともいえる土地に来て、武器を持たないタナーは用心深く行動しなくてはならなかったが、それでもなおかれはたえず用心のほうを無視しても速力をだした。天然の障害が次々と進行を妨害した。壮大な絶壁が海上に突出していて、行く手をはばんでいたときなど、非常な苦労の末、そのけわしい斜面をのぼる道を見つけたものだった。それも奥地のほうへかなりふみこまなくてはならなかった。
絶壁の頂上をこえたところには、木々の点在する広い台地が起伏していた。サグの一群が陽光をあびて黙々と草をくい、あるいは木蔭でまどろんでいる。
かれらの中を通っていく人間の姿を見て、大きな角を持ったこれらの牛たちはそわそわしはじめた。年老いた一頭の牡《おす》がうなり声を発して地面をひっかいた。タナーはいちばん近い木までの距離を目測したが、そのまま前進した。できるだけけものたちを避け、これ以上かれらの癇癪《かんしゃく》にふれないで無事に通過できるよう、祈るような気持で。しかし老牛の挑戦は他の牡牛にひきつがれた。やがて肩の筋肉がもりあがった山のようなやつが十頭ばかり、不機嫌そうにうなり声を発して、たちどまっては地面をひっかいたり、角でついたりしながらじりじりとタナーの周囲に集まってきた。
まだ無難に通りこすチャンスはあった。すぐ目の前、牛どもの間に道はあいている。タナーは足を早めた。が、ちょうどそのとき、一頭が思いついたように突進してきた。と、二十頭全部がサリ人めがけて、雀蜂に刺された機関車の集団のようにどっと襲いかかった。
こうなってはもよりの木に身の安全を求める以外にない。タナーはそれをめがけて全速力で疾走した。一方、怒った牡牛どもはかれの進路をさえぎろうと八方からとりまくように疾駆《しっく》した。
あと三センチあるかないかの瀬戸ぎわで、タナーは木の枝に飛びついた。と、先頭の牡牛がかれの下をかけぬけた。一瞬後には牡牛の群が咆哮しながらかれのかくれ場所の下にひしめいていた。あるものは地面をひっかいたり、ほえたりすることで甘んじていたが、その他のものはずっしりした頭部を木の幹にぶちあてておしたおそうとした。だがタナーにとって幸いなことに、その木は樫の若木だったので、かれらがありったけの力でぶつかっても持ちこたえた。
ところがタナーを木に追いあげたあとも、サグはかれをおいてひきあげるようすを見せなかった。しばらくの間、下で木の周囲をぐるぐるめぐっていたが、やがて数頭があたかもかれが逃げるのをふせぐかのようにわざと木の下でごろりと横になった。
日没につづいて夜の闇がおとずれるというくり返しになれているものには、タナーが今の窮地から脱するにはただ夜の到来をまてばいいのだというふうに思えるだろう。だが、日は沈まず、夜もなく、また時間というものが無限ではかることのできない世界――そういったできごとがこれで一生つづいてきたのか、あるいは一秒の間のことなのかわからない世界では、こうして無為と遅滞をしいられると発狂しそうになるものだ。
しかしこういった状態にあるにもかかわらず、いや、おそらくそれだからこそ、サリ人はかれの一種哲学的な人生観により、驚くべき冷静さで運命をうけいれた。そして動きのとれないこの期間を利用して、弓矢や槍を、追いあげられた木の上で手にはいる材料で作ったのだった。
その木は必要なものいっさいを提供してくれた。ただし、弓に張る弦だけは例外だったので、これは腰布をつっている生皮のベルトを切りその細く長い生皮の紐を口に入れて唾液が全体にしみこむまでよくかんで下ごしらえをした。それから弓をまげてそのぬれた生皮をのばして張った。それが乾燥するまでの間、歯で矢をとがらせた。
乾燥するうちに生皮は収縮し、弓をさらに深くたわめた。そして弦は、ちょっとふれるだけでもピーンと音がするまでにはりつめた。
さて、武器はできあがったものの、大きな牡牛どもはまだ見張っている。そしてタナーがなすすべもなく木の上にとどまっている一方では、ジュードがステララをつれて島の奥地にむかっているのだ。
だが、ものごとにはすべて終わりというものがあってしかるべきだ。ぐずぐずしていられなくなったタナーは、下にいる短気なけものから逃れる方法は何かないものかと考えた。そして思いついた方法は、喚声をあげて枯枝を投げつけることだった。これで全部の牡牛をたちあがらせることができた。そのうち二、三頭がむこうにいる群のところへ草を食べにぶらぶらと立ち去ったが、それでもタナーを厳重に足どめしておくに充分なだけの牡牛は残っていた。
でかいやつが真下に一頭いた。タナーは小さな枝の上でとんだりはねたりして葉の茂った枝先をビュンビュンと笞《むち》のようにたわませ、同時に木片をその大サグに投げつけた。が、そのとき、突然枝がぽっきりと折れてタナーは牡牛の幅広い肩の真上に転落した。これにはけものも人間も驚いた。タナーは即座に牡牛の長い毛をつかんだ。けものは度胆をぬかれてひと声ほえると、ダッとばかりにかけだした。
本能は、おびえたけものを残りの群のいるほうにむかわせた。群の牡牛どもは、人間を背にのせた仲間を見て仰天してしまった。その結果、牡牛どもはそいつから逃れようとする、くだんの牡牛は仲間に入れてもらおうと疾走する、で、大暴走がはじまった。
ずっと遠いところで草を食べていた残りの連中も、数珠《じゅず》つなぎになってしんがりにつづいた。かれらがあらわれたおかげで、タナーは地面にとびおりて逃げだすことができなくなった。牡牛の背を離れたが最後、後からくるやつらに踏みつぶされることはわかっていたから、できるだけ長くそこにとどまっているよりほかはなかった。
肩から人間をふり落とすことができず、いまやすっかりおびえきったサグはめくらめっぽうに突進している。やがてタナーは、地ひびきをたてて台地をつっきり、かなたの森にむかって驀進《ばくしん》する群のまっただなかにまきこまれてしまった。
牡牛どもがいったん森に到達すれば、タナーは低くたれさがった枝にたちまちひっかかって、サグの背から転落するにきまっている。その打撃で死んだり怪我をしたりしないまでも、後から来るサグに踏み殺されるだろう。だが逃げられるのぞみはまずなさそうなので、この奇妙な冒険の結末をまつよりほかはなかった。
群の先頭が森に近づいたとき、タナーの胸にふたたび希望の灯がともった。というのは、森には下生えが青々と生い茂り、木々がびっしりと林立しているので牡牛どもがなだれこむというわけにはいかないということがわかったからだ。
先頭の牡牛が森のきわに到達したとたんにかれらの足なみはおそくなった。後方にいるものが前におしだそうとしても、先にいるものにはばまれてしまう。なかには、前にいるものの背中によじのぼろうとしたり、また、いやおうなしにおしあげられたりするものもあったが、総じて足なみは緩慢となり、おしあいへしあいしながら森にむかって根気よく進むだけで満足しなくてはならなかった。その結果、タナーがまたがった牛が暗い森蔭に達したときには、それまでの歩調がおとろえて並足で歩いている状態となっていた。そこでタナーは、牡牛が最初の木の下を通過したときにひょいと枝にとびうつった。
槍はなくなっていたが、背中にしばりつけておいた弓矢は残っていた。サグの群がかれの下を通過して最後の一頭が暗い森の通路に姿を消すのを見とどけると、タナーはほっと深い溜息をついてもう一度島のむこうの端に足をむけた。
サグは島のかなり奥までかれを運んできていたので、できるだけ先へと海岸にむかって急遽ななめにひき返した。
タナーがまだ森から出ないうちに、すぐ前方でなにか野獣が興奮してうなる声が聞こえた。
コドン(大狼)の声だな、と思ったので、矢をつがえながら用心深くこっそりとしのびよった。風はけもののほうから吹いていて、ほどなくかれの推察があたったことを証明する匂いを運んできた。それとともに、嗅ぎなれた匂いが――人間だ。
風上にいるけものはかれの匂いをとらえることができないと知っているタナーは、ただ物音をたてないで前進するように注意すればよかった。もっとも、世の中には原始人ほどひそやかに移動できるものはざらにいない。そんなわけでタナーはさとられずにけものの見えるところまで来た。
思ったとおり、それは巨大な狼だった。先史時代、地上世界にいたマダラ大狼の同類だが、ただとほうもなく大きい。
コドンは群をなして移動する必要はなかった。大きさからいっても、また力が強く兇暴かつ大胆なことからいっても、たおそうとするどんな生物にもひけをとらなかった。例外があるとすればそれはマンモスで、この巨大なけものを狩るときだけは群をなして行動した。
ところで、くだんのコドンは大木の下で牙をむきだして立っていた。ときおり、頭上の葉群れの影にかくれている何ものかをねらうように、高々とはねあがっては幹にとびついている。
こっそり近づいていくと、コドンの頭上の木の下枝にうずくまっている若者の姿が目にはいった。少年がおびえきっていることは明白だったが、妙なことに少年は下のコドンを見おろすよりもいっそう頻繁に、恐ろしそうな目つきで木の上をちらちらと見あげている。これで少年が、何か上にいるものにおびやかされているのだということがまもなく納得できた。
タナーは少年の苦境を目《ま》のあたりにし、ついで、かれの間にあわせの弓矢が貧弱で不充分なことを考えた。これではただけものを怒らせて、かえってかれ自身にむかってこさせるのがおちかもしれない。はたして矢はあの兇猛な心臓を射抜くほど重量があって丈夫だろうか。だが、それよりほかにあのコドンをたおす方法はありそうもない。
もう一度、コドンにも少年にも気づかれないようにこっそりと新しい位置に移動した。こんどの場所からは都合よく少年がうずくまっている木のずっと上のほうが見通せた。そしてやっと、少年が絶望的な立場にあることがのみこめた。少年の頭上わずか一メートルたらずのところに、じりじりと接近する大蛇の頭部があらわれたのだ。かっと開いた口に恐ろしい牙が見える。
タナーは少年の苦境を見てとったが、そのとき心中には二つのことがあった。一つは、少年をおびやかしている二匹の怪物のいずれからもかれを救ってやりたいという気持と、今一つは、うまくいったら少年が感謝のしるしとして案内役を、それもとりわけこの島の住民と接触しなくてはならなくなった場合の仲介役を買って出てくるかもしれないというのぞみだった。
タナーはもうコドンから七歩以内のところにしのびよっていた。丈の低い灌木の後ろにかくれているのでコドンからは見えない。少年がこれほど狼と蛇の中間で気をとられていなかったら、サリ人を見つけたかもしれないが、これまでのところではタナーに気づいていなかった。
粗末な弓に矢を一本つがえ、あとの四本を左手にたばさんで、タナーはひそかにたちあがり、コドンの背の両肩の間に射込んだ。
苦痛と怒りにひと声ほえると、けものはさっとふりむいた。が、そのとたんに二の矢を胸にまともにくらった。ついで狼はサリ人をはったとにらみつけると、身の毛もよだつようなうなり声を発して襲いかかってきた。
こういう性質《たち》の事件は、めまぐるしい早さで次々と進展するので、いちいち書き記しているよりずっと短い時間で終わってしまうものだ。敵を襲撃する狼には七歩くらいあっという間だ。だが、そのちょっとした間にも、あと三本の矢がコドンの白い胸元深く射込まれ、コドンは最後の一歩を踏みだした勢いでサリ人の足下にころがって絶命した。
コドンの脅威から救われた若者は、地面に飛びおりた。そして礼もいわずに逃げだそうとするところを、タナーが今一つの矢をぴたりとむけて止まれと命じた。
蛇は別の人間が出現したのを見て、形勢不利とさとったのか躊躇していたが、やがてするすると葉蔭に退却していった。タナーはふるえている若者の前へ進みでた。
「きみはだれだ?」サリ人がたずねた。
「ぼく、バラルといいます」少年は答えた。「族長スカーヴの息子です」
「きみの部落はどこかね?」
「ここから遠くはありません」
「そこへつれていってくれるかい?」
「ええ」
「きみの父上はわたしを快くむかえてくれるだろうか?」
「あなたは生命の恩人です。だから父はあなたを手厚くもてなすでしょう。もっとも、たいていの場合、われわれはガーブへくる他国人《よそもの》を殺すのですが」
「案内したまえ」サリ人はいった。
[#改ページ]
十一 グーラ
バラルはタナーを先導して森を通りぬけた。そして最後にたどりついたところはけわしい絶壁の縁《ふち》だった。サリ人は、海岸にそってくる途中、障害となっていた岬の裏側だなと判断した。
崖っ縁からそう遠くないところに一本の大木の切株があった。どうやら稲妻にふっとばされて焼けた跡らしい。
切株は地面から三メートルばかりつき出ていて、黒焦げの表面から折れ残った枝が数本出ている。
「ついてきてください」バラルはそういって切株にとびつき、天辺までのぼって木の中へ身体を入れた。
タナーはあとについた。枯木の幹の中が、直径約一メートルの空《うろ》になっていて、下へ通じている。この天然のたて孔の内側の周囲には、頑丈な杭が順番に打ちつけてあって、くだっていくバラルのために梯子の役目をはたしていた。
真昼の太陽はわずかの間、木の内部を照らしていたが、かれ自身の影がそれをさえぎって、二メートルから三メートルを上まわる深みの底にあるものすべてを暗闇の底に沈めた。
罠にさそいこまれていないともかぎらないので、タナーは案内人を手のとどかないところへ行かせたくなかった。そこで急いで木の空《うろ》にはいってあとについてくだっていった。
サリ人は、木の内部が地面に掘ったたて穴につづいていることを発見した。そのあと、すぐに暗いトンネルの床に足がとどくのを感じた。
バラルはトンネルづたいにタナーをみちびいた。やがて二人は薄明りに照らされた洞穴に出た。明りはかれらの前の床近くの小さな穴からさしこんでいる。
直径約六十センチのその穴ごしに日光が見える。バラルはこの穴をくぐった。すぐあとにつづいたサリ人は、ほとんど垂直にきりたった崖の上部にあるせまい岩棚に出た。
「これがガーブの部落です」バラルがいった。
「部落も人も見えないが」
「でもここに住んでいるんですよ。ついてきてください」そういうと、バラルは先に立って岩棚づたいに少し進んだ。岩棚は下りになっていて、ところどころにひどくせまく急勾配になった個所があるので、二人の男は壁面にべったりと身を寄せて、横這いにわずかずつじりじりと進まなくてはならなかった。
やがて岩棚は終わり、そのまぎわまでずっと幅が増してバラルが腹這いになれるほどになった。彼は下りる態勢を取ってちょっとの間崖っ縁に両手でしがみついていたが、やがてとび降りた。
タナーが見おろすと、バラルは三メートルばかり下にある別の岩棚におり立っていた。このサリ人ほどの山男にも、このはなれわざは困難で危険をはらんでいるように思えたが、ほかに道はないのでその場に腹ばいになると、そろそろと崖っ縁を越え、一瞬両手の指で縁にしがみつき、それからとびおりた。
若者の横におり立つと、タナーは、ガーブの部落へ行く道は危険なんだねといおうとしたが、バラルがあたりまえのような顔をしてけろりとしているので思いとどまった。こういった断崖の住人にとっては、今やってのけたようなちょっとのはなれわざは、タナーが平地を歩くのと同様、日常茶飯事にすぎないのだ。タナーはすぐにさとった。
この新しい位置から周囲を見渡す機会を得たタナーは、その岩棚がずっと広くて、洞穴が数カ所に口を開けているのを見てほっとせずにはいられなかった。ところどころ、それもとりわけ洞穴の入り口の前で、岩棚は幅二メートルから三メートルにも広がっている。ここではじめてタナーは大勢のハイム人を見た。
「すばらしい部落でしょう?」バラルはいって返事をまたずに、「見てください!」と岩棚の縁を越えた下をゆびさした。
若者にしめされた方角を目で追うと、けわしい崖の壁面には、頂上からふもとまで岩棚が幾重となくかさなり、その一つ一つに男女、子供の姿があった。
「さあ、こっちです。父のところへおつれしましょう」バラルはそういうなり岩棚を先にたって進んだ。
最初にであった人々はタナーを見るとさっとたちあがった。男はいち早く武器をつかんでいた。
「この人を族長である父のもとへおつれするところだ」バラルがいった。「危害を加えてはいけない」戦士たちは不機嫌な顔つきでかれらを通した。
岩棚から岩棚へは、木の杭を打ちこんだ丸太を利用して簡単におりられるようになっていた。かなりの距離をくだってきて頂上とふもとの中間あたりまで来たとき、バラルは一つの洞穴の入り口で止まった。入り口の前には男と女と二人の子供がすわっていた。娘はバラルくらいの年格好で、男児のほうはずっと年下だった。
これまで通りこして来た人たちがすべてそうであったように、この人々もタナーを見るとさっとたちあがって武器を掴んだ。
「危害を加えないで」バラルはくり返した。「お父さんのところへつれてきたんだよ。蛇と狼がいっぺんにぼくの生命を狙っていたときに救ってくれた人だ。だからぼくは、お父さんがこの人を迎えいれてもてなすと、この人に約束したんだ」
スカーヴはうさんくさそうにタナーを見た。この見知らぬ男が自分の息子の生命を救ってくれたと聞いても、不機嫌な顔つきを柔らげなかった。「おまえは何者だ? われわれの国で何をしている?」かれは問いただした。
「ジュードという男をさがしているのだ」タナーが答えた。
「ジュードのことで、何を知っているというのだ? 友人か?」スカーヴの口調には、はたしてジュードが友人だといいきってよいものかどうか思案させるようなところがあった。
「かれとは知りあいだ。アミオキャップ島でいっしょにコリピーズにとらわれていた間柄だ」
「おまえはアミオキャップ人か?」
「ちがう。わたしは遠い本土の国から来たサリ人だ」
「ではアミオキャップで何をしていた?」
「わたしはコルサール人につかまっていたのだが、わたしをかれらの国へつれて帰る船がアミオキャップで難破したのだ。食物をくれて、ジュードの居所を教えてくれればそれでけっこうなんだが」
「ジュードの居所は知らん。かれの一族と、おれの一族はしょっちゅう争っている」
「かれの国なり、部落なりがどこか知らないか?」
「知っているとも。だがそこにジュードがいるかどうかは知らんぞ」
「この人に食物をあげてくれるかい?」バラルがたずねた。「ぼくが約束したようにもてなしてあげてくれるね?」
「ああ」スカーヴはいったものの、その口調は陰険で、返事をしながらもその狡猾な目はバラルもタナーも見てはいなかった。
洞穴の口に面した岩棚の中央で火がちょろちょろと燃えていて、上に土製の鍋が三、四個の小石でささえてかけてある。女が一人そのそばにしゃがんでいた。若かりしころはさぞ美人であったろうと思われるが、今ではその顔には苦渋と憎悪のしわがより、むっつりと大鍋の中をねめつけて中身をなにか大きな動物の骨でかきまぜている。
「タナーは腹がすいているんだよ、スルー」バラルは女にむかっていった。「食物はいつできるんだい?」
「おまえたちみんなのために皮をなめしたり、料理をするだけでも手一杯なのに、そのうえおまえが勝手におとっさんの洞穴へつれてくる敵どもにまでいちいち食わさなきゃならないのかい?」
「おれがだれかをつれてきたのはこれがはじめてだよ、おっかさん」バラルがいった。
「それじゃこれっきりにしてもらいたいもんだね」女がかみつくようにいった。
「うるさい」スカーヴがどなりつけた。「さっさとめしにしろ」
女はあばら骨を頭上にふりかざしてさっとたちあがった。
「いちいち文句をいわないでもらいたいね、スカーヴ」彼女は金切り声をあげた。「どのみち、おまえさんなんかにゃもううんざりしてるんだ」
「やっちまえ、おっかあ!」十一歳くらいの男児がぴょんとたちあがり、喜びと昂奮をあからさまにしてその辺を小踊りしながらキイキイ声でいった。
バラルは焚火を飛びこえていって、その男児の顔にはげしい平手打をくわせた。子供はきりきりまいをして断崖の壁にぶちあたった。「だまれ、ドゥング」バラルは叫んだ。「さもないと崖っ縁からほうりだすぞ」
この一家の最後の一人、ちょうど成熟期にかかった少女はだまって崖によりかかってすわったまま、大きな黒い瞳で目の前のやりとりをながめていた。と、いきなり女が少女のほうにむきなおった。「何をぼやぼやしてるんだい、グーラ? そんなところにすわったきりで、やつらにあたしをやっつけさせておいて、なぐり返してくれようともしないのかね」
「でも、まだだれもかあさんをやっつけてやしないじゃないの」少女は溜息まじりにいった。
「おれがやっつけてやるとも」スカーヴがわめいてかたわらの短い棍棒をひっつかんだ。「だまってさっさとめしの支度をしないなら、頭をぶち落してやる」このとき、ものすごい悲鳴が聞こえて、一同の注意は同じ岩棚のちょっとさきの洞穴の前の一家にひきつけられた。そこでは男が女の髪をつかんで棒切れでなぐっていた。子供が数人いて、石をまず両親に投げつけ、次におたがいに投げあっていた。
「もういっちょう、女をなぐってやれ!」スカーヴがわめいた。
「宿六の目ん玉をひんむいてやんな!」スルーが金切り声でいった。しばしの間、族長一家は、他家のおもしろい大立ちまわりに気をとられて自分たちの争いを忘れていた。
タナーは驚いて、あっけにとられて見物していた。サリ人の部落でこんな大騒ぎは見たことがなかったし、ついさきごろ愛の島アミオキャップを後にしてきたばかりなので、その対照はさらにいちじるしかった。
「気にしないでください」サリ人を見守っていて、驚愕と嫌悪の表情がその顔に浮かぶのをみとめたバラルがいった。「われわれと長い間いっしょにいたらなれっこになりますよ。いつもこうなんですからね。さあ、食べましょう。食事の支度ができましたよ」そういって自分の石の短剣をぬくと鍋の中にさっとつっこんで肉片をつきさした。
タナーは短剣を持っていなかったので矢を一本用いたが、それで充分まにあった。それから次々と家族のものはまるで何ごともなかったように集まってきて、これもまた湯気の立ったシチューをがつがつと食べはじめた。
食事の間中、かれらは口をきかなかった。たまたま二人が同時に鍋の中に手をつっこんで一人が他の一人の邪魔をしたときには、口ぎたなくののしりあったが、それ以外は無言だった。
鍋がからになると、スカーヴとスルーは眠るために洞穴の暗がりの中へはいっていった。ほどなくバラルもあとにつづいた。
娘のグーラは鍋を手に崖をおりて小川へ洗いにいき、そこへ水をみたしてもどってきた。
彼女がぐらぐらする梯子をおり、せまい岩棚をつたってあぶなっかしい足取りで下っていると、弟のドゥングが面白がって石を投げつけた。
「やめなさい」タナーが命じた。「姉さんにあたるぞ」
「あてようと思ってやってるんだい」小鬼はいった。「さもなきゃ、なんであいつに石を投げてると思うんだい? あてそこなうためかい?」ドゥングはまたしても石を投げたが、そこでタナーがかれの首根っこをつかんだ。
たちまちドゥングは、アミオキャップにいても聞こえそうな悲鳴をあげた――それを聞きつけてスルーが洞穴からとびだしてきた。
「こいつがぼくを殺そうとしてるんだ」ドゥングはキイキイ声でいった。穴居人の女はこれを聞いて目をぎらつかせ、怒りに顔をゆがめてタナーにむかってきた。
「待ちたまえ」タナーが落ち着いた声でいった。「この子をいためつけていたんじゃない。姉さんに石を投げていたんで止めたんだ」
「いったいおまえさんになんのかかわりがあって止めるんだい?」スルーはつめよった。「あれはこの子の姉だ。投げたきゃ投げる権利があるのさ」
「しかし、あたっていたかもしれないし、もしあたったら下に落ちて死ぬところだったんだよ」
「あの子が死んだらどうだっていうんだよ? おまえさんの知ったこっちゃあるまいし」スルーはぴしゃりといってのけるとドゥングの長い髪をわしづかみにして耳に平手打をくわせ、洞穴の中へひきずりこんだ。それから長い間、打つ音や悲鳴が、スルーのガミガミ声と、スカーヴの悪態にまじって聞こえていた。
だがそれもついにおさまって静かになり、それとともに崖の部落のあちこちから家庭争議のさわぎがサリ人の耳にはいってきた。かれは苦々しい思いだった。
はるか下で、少女グーラが土器を小川で洗っているのが見えた。洗い終わると少女はきれいな水をみたし、その重い器を頭にのせた。こんなに重いものを彼女がやすやすと運ぶのを見てタナーは驚いた。あんなに重いものをかついで、はたしてどうやってあのけわしい崖をよじのぼり、まにあわせの不安定な梯子をのぼるつもりなのか、タナーにはわからなかった。彼女がやってくるのを興味|津々《しんしん》と見守っていると、まずいちばん下の梯子をまるでなにも荷物がないかのように、実にやすやすと身軽にのぼった。それから、容器のつりあいをとりながら一見なんの苦もなくのぼってくる。
グーラをながめていると、一人の男が、少女よりも数段上の岩棚を、これもまたのぼってくるのが目にとまった。すばやく、足音もたてずに、タナーの立っている岩棚までやってきた。そしてサリ人には目もくれずに岩棚づたいにスカーヴの隣りの洞穴の入り口にこっそり近づくと、腰布からスラリと石の短剣をぬいて中へしのびこんだ。と、ちょっと間をおいて悲鳴や悪態をつく声がきこえ、二人の男が死物狂いでとっくみあいながら洞穴の口からころがりでた。一人は先刻洞穴をはいるところをタナーが見かけた男だったが、今一人は相手よりも若く、小柄で力も相手より弱かった。男たちは石の短剣で相手をめったやたらに切りつけていたが、どうやらこの決闘は損傷よりもさわぎのほうが大きいようだった。
このとき、一人の女が洞穴からかけだしてきた。サグの脚の骨を武器に、年かさのほうの男をなぐろうというのだ。彼女は頭といわず、身体といわずめった打ちにした。
この攻撃は男をすっかり逆上させ、気勢をそぐどころか、かえってますます力をそそがせる結果となった。
ほどなく男は相手の短剣を持った手をつかむことに成功した。そしてその一瞬後には自分の短剣を相手の心臓につき立てていた。
ひと声高く苦悶の叫びを発すると、女はかさねて男の頭に打ってかかったが、打ち損じて武器は岩棚の石にあたってこなごなにくだけた。勝利者は勢いよくたちあがると、仇の死体をつかんで崖ごしにほうりだした。それから女の髪をわしづかみにして、キイキイ声でわめき悪態をつくのをひきずって、なにか彼女をなぐるものはないかとさがしまわった。
タナーがこの不愉快な光景に見とれていると、だれかがかたわらに立っている気配がした。ふりむくと、グーラがもどってきていた。水入れを頭にのせて平均をとりながらまっすぐにつっ立っている。
「ひどいもんだなあ」タナーは争っている二人のほうに首をふって見せながらいった。
グーラは、どうでもいいといわんばかりに肩をすくめた。「なんでもないわ。彼女の夫が不意に帰ってきた。それだけのことよ」
「それじゃこの男が彼女の夫で、もう一人のはそうじゃなかったというのかい?」
「そのとおりよ。でもみんながやってることだわ。憎悪以外に何もないところで、何を期待できるというの?」彼女は父親の洞穴の入り口まで歩いていって、入り口をちょっとはいったところの蔭に水を入れた容器をおいた。それから崖に背をもたせて腰をおろし、隣りの夫婦喧嘩にはそれ以上の注意をはらわなかった。
タナーはここではじめてこの少女を別な目でながめた。彼女の顔には、ジュードをはじめ彼が出会ったすべてのハイム人を特徴づけているあの狡猾な表情もなければ、いつもいらだっているような意地の悪いしわもない。そのかわり、生来顔つきが哀愁をおびているのだ。彼女はたぶん母親似なのだろう。母親がグーラの年頃にはこうだったろうと思われる。
タナーは岩棚を横切っていって彼女のそばに腰をおろした。
「きみの国の人たちはいつもこんなふうに争っているのかい?」
「いつもよ」
「なぜ?」
「わからないわ。みんな連れ合いとは一生連れそうことになっていて、それも一夫一婦しか許されないの。男も女も好みの相手を選択することはできるのだけど、おたがいに満足しているようすはぜんぜん見られなくて、しょっちゅう喧嘩しているわ。たいがいはどっちかの不貞がその理由よ。あなたがいらしたお国でも男と女はこんなふうに喧嘩するの?」
「いいや。しないね。そんなことをしたら一族からほうりだされるよ」
「でも、おたがいに相手が好きでないということがわかったら?」少女はかさねていった。
「そうなったらいっしょに暮らさないで別居するんだ。そのうえでもしもそうする気があれば別の相手を見つけるんだよ」
「そんなひどいことを。あたしたちの中でそんなことをするものがいたら殺してしまうわ」
タナーは肩をすくめて笑った。
「ま、少なくともわれわれは非常に幸福な種族というわけだ。きみたち以上にね。結局は幸福がすべてだとぼくは思う」
少女はしばらく考えこんでいた。彼女にとって耳新しいこの見解をかみしめているように見えた。
「たぶん、あなたのいうとおりね」ややあって、彼女はいった。「あたしたちの生活は最低だわ。母の国ではこんなではないといっていたわ。でも今はだめ。ほかの人たちと同じよ」
「きみのおかあさんはハイム人ではないの?」
「ええ。母はアミオキャップの出です。若いころ父があそこでとらえてきたの」
「それでちがうんだな」タナーは考えこんだ。
「何がちがうの? どういう意味?」
「ぼくがいうのはね、きみが他の連中とはちがうってことだよ、グーラ。きみはかれらと似ていないし、することもちがう――きみも、きみの兄さんのバラルもだ」
「母がアミオキャップ人だから、たぶんあたしたちは何かを彼女からうけついでいるということもあるでしょうけど、また一つには――このことがいちばん意味深長なんだけど――あたしたちは若くてまだ連れ合いがいないからということもあるでしょうね。時機がくれば他の人たちと同じようになるでしょう。ちょうど母がそうなったようにね」
「きみの一族の男性で、アミオキャップから連れ合いをさらってくる者は多いの?」
「大勢がやってみるけれど、成功するのはわずかよ。たいていはアミオキャップの戦士に追いはらわれるか、殺されるわ。アミオキャップの海岸にそびえる絶壁の下に暗い洞穴があって、そこを上陸地点にしているけど、そこへ上陸するハイムの戦士十人のうち一人が帰るか帰らないかくらいよ。それもアミオキャップ人の妻をつれて帰るとはかぎらないし。あたしたちの国の海岸に、アミオキャップに渡っては戦士たちのカヌーを持って帰って豊かになった一族が住んでいるわ。連れ合いをもとめて海を渡っていってアミオキャップの戦士に殺された戦士たちのカヌーをね」
ちょっとの間、彼女はだまりこくって物思いにふけっていた。
「あたし、アミオキャップへ行きたい」ややあって彼女はしみじみといった。
「なぜ?」
「あそこなら、たぶんいっしょになって幸せになれそうな相手が見つかると思うの」
タナーは悲しげに首をふった。「それはむりだよ、グーラ」
「どうして? あたし、アミオキャップの戦士にふさわしいほどの美人じゃないの?」
「そりゃきみは美しい。だがきみがアミオキャップへ行ったら殺されるよ」
「どうしてなの?」彼女はかさねてたずねた。
「どうしてって、きみのおかあさんがアミオキャップ人でも、おとうさんがそうじゃないからさ」タナーは説明した。
「それが掟《おきて》なの?」グーラは悲しげにたずねた。
「そうだ」タナーは答えた。
「そう」グーラは溜息をついた。「それじゃここにいて、いずれは憎しみを感じるようになる相手をさがして、将来は両親を憎むようになる子供を生むよりほかになさそうね」
「あんまり前途は明るくないね」
「そうね」と少女はいって、それから間《ま》をおいて、「ただ――」
「ただ――なに?」
「なんでもないの」
しばしの間、二人はそれぞれの思いにふけりながら無言ですわっていた。タナーのほうは、ステララの顔と姿が考えを占領していて、そのほかのいっさいのことは念頭になかった。
ややあって少女はタナーを見あげた。「ジュードを見つけたら、あとはどうなさるつもり?」
「やつを殺してやるのさ」
「それから?」
「わからない。ジュードといっしょにいると思われるひとを見つけたら、二人でアミオキャップに帰るよ」
「どうしてここにいてくれないの? いてほしいわ」
タナーは身ぶるいした。「そんなくらいなら死んだほうがましだ」
「無理もないわ。でも、ハイムにいても幸福になれる方法があるかもしれなくてよ」
「どんな方法?」
グーラは答えず、タナーは彼女の瞳に涙がわくのを見た。彼女はつとたちあがって洞穴にはいってしまった。
タナーは、スカーヴが二度と起きてこないのではないかと思った。タナーはかれと相談して、ジュードの部落へ案内してくれる者を手配してもらいたかったのだが、まず洞穴からあらわれたのはスルーだった。
スルーはじろりとタナーを見ていった。
「おや、まだいたのかえ?」
「スカーヴをまってるんだ。ジュードの部落へ道案内してくれる者を世話してもらおうと思ってね。必要以上に一分たりともここにいる気はないよ」
「それだけでも長すぎるよ」スルーはガミガミいってくるりと踵を返すと、また洞穴にはいってしまった。
ほどなくバラルが目をこすりこすりあらわれた。「スカーヴはいつになったらわたしを送ってくれるだろう?」タナーがたずねた。
「さあ、どうなんだろう」若者は答えた。「父は今目をさましたばかりだから、出てきたらそのことを相談してください。ぼくは父にいわれてこれからあなたが殺したコドンの皮を取りにいくところです。あれを森へおいてきたというので父はたいそう立腹しているんですよ」
バラルが行ってしまうと、タナーは長い間物思いにふけってすわっていた。
やがてグーラが洞穴から出てきた。なにやらおびえて興奮しているようすだ。彼女はタナーのそばまでくると、ひざまずいて唇をタナーの耳元に近づけた。「すぐに逃げて」彼女は低くささやいた。「スカーヴがあなたを殺そうとしているの。それでバラルを遠ざけたのよ」
「でもなぜスカーヴはぼくを殺したいんだ? 息子の生命を救って、ジュードの部落へ案内を頼んだだけなのに」
「スルーがあなたに気があると思っているのよ。目がさめたとき、スルーは洞穴にいなくて、あなたといっしょにこの岩棚にいたもんだから」
タナーは笑った。「スルーは、ぼくがお気にめさないということを実に腹蔵《ふくぞう》なくわからせてくれたんだよ。ぼくに行っちまえとさ」
「あたしはあなたを信じるわ。でも、猜疑心と憎悪と罪悪感の塊みたいなスカーヴは、スルーに関することで悪いことならどんなことでも信じようとまちかまえているのよ。スカーブは自分の誤りをみとめるのがいやな性質《たち》だから、どんなにしても罪をさとらせることはできない。だからあなたは逃げるよりほかに望みはないわけよ」
「ありがとうよ、グーラ。今すぐ発つよ」
「いえ、それじゃだめよ。スカーヴは今にもここへ出てくるわ。そしたらあなたがいないのに気がつくでしょう。おそらくあなたが姿をかくしてしまう前にね。さあそうなると、たちまち百人の戦士を集めてあなたを追跡させるわ。そのうえあなたはジュードをさがしにでるのにふさわしい武器を持っていない」
「というからには、きみにはもっとよい計画があるんだね」
「そう。よく聞いて。小川がジャングルにそそいでいる場所が見えるわね」そういって彼女は崖のふもとの空地をこえて森のはずれの方角をゆびさした。
「ああ、見えるよ」
「あたしは今からくだっていって、その小川のほとりの大木に身をかくしますから、スカーヴが出てきたらあなたは、あそこで鹿を見かけたから行ってしとめるための武器をかしてほしいとお言いなさい。肉はどんな場合にも歓迎されるから、スカーヴはあなたが獲物の死体を持って帰るまであなたを襲撃するのを延期するでしょう。いったん森にはいったら、あたしがいます。ジュードの部落へ案内しますわ」
「グーラ、なぜきみはそんなことまで?」
「そんなことどうだっていいわ。ただあたしのいうとおりにして。ぐずぐずしているひまはないのよ。スカーヴはもういつなんどき洞穴から出てくるかしれないんですからね」そういい残すと彼女は断崖をくだりはじめた。
タナーが見守るうちに、少女はカモシカのようにはしっこく、かつ優雅に、しばしば梯子を無視して岩棚から岩棚へひょいひょいととび移っていく。ほとんどそれと気づかぬ間に少女は断崖のふもとに到達して、敏速にかなたの森にむかっていた。
森の葉群れが彼女の姿をつつんだかと思う間《ま》もなくスカーヴが洞穴からあらわれた。スルーとドゥングがそのすぐ後につづいている。タナーは三人がめいめい棍棒を手にしているのに目をとめた。
「ちょうどいいときに出てきてくれた」タナーは、三人がすぐにも襲いかかる魂胆だなとさとって、すかさずいった。
「なぜだ?」スカーヴがほえるようにいった。
「今、森のはずれで鹿を見かけたんだ。武器をかしてくれたら、たぶんそいつをしとめて持って帰ってきみたちの歓待にたいして礼をすることができると思うんだが」
スカーヴは躊躇した。血のめぐりが悪いので、一つの考えから別の考えに頭をきりかえるのにひまがかかるのだ。だがスルーはこの招かれざる客を利用するのが得だといち早く見ぬいた。かれが獲物をしとめて持って帰るまで、殺しは延期してもいい。
「武器を取ってきな」彼女はドゥングにいった。「そのおかたに鹿を取ってきていただくんだ」
スカーヴはまだもたもたしながら頭をかいた。そしてあれこれ迷っているうちに、ドゥングが槍と石の短剣を持ってふたたびあらわれた。ドゥングはそれらの武器を、渡すかわりにいきなり投げつけたが、サリ人はそれを受けとめて、それ以上の許可がおりるのを待たずに梯子をつたって次の岩棚におり、そこから地面へとくだっていった。タナーを異国人とみとめた部落の住民数人が妨害しようとしたが、はるか上の岩棚に立ってタナーの行く手を見守っていたスカーヴが、手出しをするなと大声で命令した。ほどなくサリ人は空地をつっきってジャングルにむかっていた。
こんもりと茂った森の青葉のかげに足をふみ入れたとたん、グーラに声をかけられた。彼女はタナーの頭上の木の枝にちょこなんとのっかっていた。
「きみの警告はちょうどまにあったよ、グーラ。あれからほとんどすぐにスカーヴとスルーとドゥングがぼくを殺そうと武器を持ってあらわれたからね」
「あたしにはわかっていたの。三人ががっかりするだろうと思うと痛快だわ。それも特にドゥングがね――あの小僧ったら! あなたを拷問にかけさせてくれってたのんでたのよ」
「あの子がきみの弟とは思えないよ」
「あの子はスカーヴの母親にそっくり。あたし、殺される前の彼女を知ってるけど。そりゃあおそろしいお婆さんだったのよ。ドゥングはそのお婆さんの邪悪な性質をそっくりうけついでいるわ。いまわしい生活は母さんを変えたけど、それでも母さんの体内に今も流れているアミオキャップ人の慈悲深い血をあの子は一滴も持ちあわせていない」
「さあ、それではジュードの部落への道を教えてくれたまえ。そしたらぼくは退散するよ。きみの親切にはお礼のしようもない――きみの体内にあるアミオキャップ人の血がこのようにさせたのだとしかぼくには思えないけど。二度と会えないだろうが、きみの面影と親切とは想い出としていつまでも心にいだいているよ」
「あたしはいっしょに行くのよ」
「そいつはいけないよ」
「それじゃどうやってあなたをジュードの部落に案内できて?」
「案内してくれる必要はないよ。部落の方角さえ教えてくれればあとはぼくが見つけだすからね」
「いっしょに行きます」少女はきっぱりといった。「父の洞穴にあるものは憎悪と不幸ばかり。あなたといっしょにいたほうがいいの」
「でもそれは無理だよ、グーラ」
「もし今、スカーヴの洞穴に帰っていったら、スカーヴはあたしがあなたの逃亡の手引きをしたとうたがって、みんなであたしを打つでしょう。さあ、ここでぐずぐずしていられないわ。急いでもどらなくては、スカーヴは怪しみだしてあなたを追跡させるでしょうからね」すでにタナーのかたわらにおり立っていたグーラは森をさしてはいっていった。
「それじゃ好きなようにしなさい。だがきみは、きみ自身の行動を後悔するんじゃないか――いや、ぼくたちは二人ともこんどのことを後悔するんじゃないかと思う」
「少なくともあたしは人生の幸福をちょっぴり味わうことができるわ。それができれば死んでも本望よ」
「ちょっとまった。ジュードの部落はどっちだって?」
少女はゆびさした。
「よし。では地上を進んでスカーヴがつけてこられるような足跡を残してやるかわりに、木にのぼるんだ。きみが断崖をおりるところを見ていたが、あの調子ならきみも地上と同じくらいにはやく木をつたって移動できるにちがいない」
「そんなこと、やったことがないけど、どこでもあなたの行くところならついていきます」
タナーは少女の同道をゆるしたくはなかった。だが、彼女が道づれになってくれたおかげで孤独な冒険旅行も楽しいものになった。
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十二 「あなたなんかきらい!」
血を好むボハールの仲間は、ステララを追って出たままもどらないボハールを長くまたなかった。船の早期完工をめざして突貫作業を進め、食糧と水をつみこむと、船を建造する場所に使った入江の岸を離れ、コルサールにむけて出帆していった。一同が心底きらっていたボハールには一片の後ろめたさも感じなかった。
もう少しでタナーにハイムの島を通過させてしまうところだった例の嵐は、同じ島の反対側の端でコルサール人たちを襲い、お粗末な帆をかっさらって、ついには残骸と化した船をハイムの北端の岩礁に激突させた。
船は失う、食糧はつきる、乗組員の一人は岩にたたきつけられて溺死する、で、残るコルサール人たちはつねにもまして殺気だっていた。そのうえ、かれらが漂着した地方には、船を建造するに適した木材がなかったので、島を横断して反対側の海岸に出なくてはならなかった。
こうしていよいよ食物と新しい船を作る材料を求めて、敵のうようよする土地にはいっていかなくてはならなくなった。とりわけ間の悪いことには、火薬がぬれてしまっている。緊急事態が発生すれば短剣やカトラスだけで身を守るほかはない。
大部分は古い船員だったから、自分たちが現在いる土地柄をよく心得ていたし、その上ハイムの地理や、住民の風俗習慣などについても知識があった。というのも、たいがいの者は、コルサールの船が毛皮や獣皮を掠奪するために島を襲った際に、奥地の襲撃隊に何度も参加したことがあるためだ。ハイムの女たちは皮を乾燥させたり、なめしたりする技術に熟達していて、コルサールではハイムの毛皮は高値をよんでいる。
古参の船員たちが協議した結果、一行は島の反対側にある港にむけて横断することに決定した。その付近の森は、船を新たに建造する材料を産出するし、おまけにひょっとして別のコルサールの襲撃隊が到来する可能性もある。
船員たちが不平たらたら、足取りも重くハイムの島を横断しているころ、ジュードはいやがるステララをつれてかれの部落にむかい、グーラは同じ方角にタナーをみちびいていた。
ジュードは仲の良くない部落の住民たちを避けるために、よぎなく大回りをしなくてはならなかった。それにステララがいやいや歩くので、速度はいっこうにあがらない。なにかというとぐずぐずと尻ごみする。もうかついで歩かなくてもよかったが、皮紐を作って彼女の首にしばりつけて、ひっぱって歩くことは必要だった。これを思いつくまではいきなり逃げだそうとされたことが何度あったかしれないが、これでそれもふせぐことができた。
ステララはたびたび後ろでつっぱって、先へ進むことをこばんだ。そして、くたびれたから休みたいといった。たとえ相手がジュードだろうとだれだろうと、またどこへつれていかれようと、タナーがさがしだしてくれるということは心の底でわかっていた。
すでにまぶたの裏には、二人のあとをつけてくるかれの姿が見える。二人がジュードの部落に到着してかれの一族の保護下にはいるまでにあのサリ人が追いついてくれるよう、できるだけジュードの進行をおくらせたいと思う。
グーラは幸福だった。これまでの生涯でこれほど幸福だったことはない。だが彼女は、この旅が終わるときにはこの幸福にも終末がおとずれるだろうことを見ぬいていたので、タナーをすぐにジュードの部落には案内せず、さまざまな口実をもうけてあっちこっちとひきまわして、できるだけ長い間彼を一人占めにしておこうとした。タナーとともにあって、彼女はこれまでついぞ知らなかった優しさと理解をあじわったのだった。
グーラがタナーに感じていたものは恋ではなかったが、もしもサリ人のほうで少女にたいする激情にめざめたら、たやすく恋にとってかわるような性質《たち》のものだった。だがタナーのステララにたいする愛はそういった可能性をさまたげたし、また一方ではグーラとともにいることに喜びを感じながらも、ひきつづきジュードのあとをまっすぐにつけていってステララを救出し、ふたたびわがものとしたいという焦燥感で気も狂わんばかりだった。
カーンの部落は、スカーヴの部落ガーブのように崖の部落ではなく、周囲を高い壁にかこまれた石と粘土の家の集落で、そびえる地卓《メーサ》の頂上にあり、屹立《きつりつ》する絶壁が八方をかためている。見おろすと一方にハイムの森と丘が、他方にはコルサール・アズ、つまりコルサールの海が洋々と広がっている。ジュードはステララを背後にひきずりながら、けわしい絶壁をカーンめざしてのぼっていた。長く、困難な登攀《とうはん》だったから、頂上に到達して休息をとってジュードもほっとした。またかれはある計画をねる必要があった、かれは地卓《メーサ》の頂上のこの部落に妻を残してきていたのだ。今かれは、その女からどうやって逃れようかと考慮中だったが、かれが思いつく計画といえば町にしのびこんでその女を殺すことくらいのものだった。だがその間ステララをどうしよう?
と、そのとき、よい思いつきが浮かんだ。
絶壁の頂上のすぐ下、さほど遠くないところに洞穴が一つあるのをかれは知っていた。そしてそこへステララをつれていくと、くるぶしと手首をしばった。
「ちょっとの間ここへおいとくだけだぞ」かれはいった。「じきにもどってきて、カーンの部落へおれの妻としてつれていく。こわがることはない。この地卓《メーサ》には猛獣はほとんどいないし、ほかのやつがおまえを見つけない先にさっさともどってくるからな」
「どうぞごゆっくり」ステララがいった。「おまえが帰らないさきに猛獣がくるなら大歓迎よ」
「おれの妻になってしばらくいっしょに暮らしたら、考えも変わるさ」男はいうと、彼女をそのままにして、壁をめぐらしたカーンの部落へあたふたとむかった。
身をもがいてすわった姿勢に起きなおると、絶壁のふもとに展開する土地が見渡せた。ほどなく眼下に男と女が森から姿をあらわすのが見えた。
つかのま、彼女は心臓が止まる思いがした。男に目を止めた瞬間、それがタナーだとわかったからだ。再会を喜ぶ叫びが唇にのぼろうとしたとき、別な思いが彼女をだまらせた。
タナーに同伴している女は、だれなのだろう? 近々とよりそって歩き、タナーの顔をじっと見あげている。女の瞳や表情をつかむには遠すぎたが、そのきゃしゃな身体の動作のどこかに相手にたいする敬慕を物語るものがあって、ステララはつと顔をそむけると洞穴の冷たい壁に顔をおしあててわっと泣きだした。
グーラは高い地卓《メーサ》をあおいでゆびさした。「ほら、あの絶壁の頂上をこえたところがジュードの住んでいるカーンの部落よ。でも部落へはいっていったらあなたは殺されるし、女たちが最初にあたしをとらえたら、たぶんあたしも殺されるでしょう」
足下の地面を調べていたタナーは、少女の言葉を聞いていないようだった。「ぼくたちのちょっと前にだれかが通っている。男と女だ。足跡が見える。かれらのサンダルでふみつけられた草が今頃ゆっくりと立ってきている――男と女――一人はステララで、今一人はジュードだ」
「ステララってだれのこと?」少女はたずねた。
「ぼくの妻だ」タナーが答えた。
グーラの顔には幼いころからいつも悲しげなところがあって、彼女の特徴となっていたが、タナーとともにガーブの部落を離れていらい、晴れやかで、幸せそうな表情に変わっていた。それが今ふたたびもとの顔に返り、彼女は目に涙をいっぱい浮かべて嗚咽《おえつ》をのみこんだ。サリ人は熱心に前方の地面をさぐっていたので気づかなかった。一方、上の洞穴では温かい涙が不幸なステララの頬を洗っていた。だが、せつせつたる思いに彼女の視線はまたしてもタナーのほうにひきもどされた。と、ちょうどそのとき、タナーははっきりと残っている足跡にグーラの注意をひこうとふりむいた。
サリ人は、かれの道づれの顔に絶望の色が浮かび、その目に涙が宿っているのをみとめた。
「グーラ!」かれは叫んだ。「どうしたんだい? なぜ泣いているの?」タナーは感情にかられて、つと彼女のそばに歩みより、彼女の肩にやさしく腕をまわした。やさしくされて気力を失ったグーラは、かれの胸に顔をうずめてむせび泣いた。そこをステララが目撃したのだ――愛と嫉妬がこの光景に勝手な判断をくだしたからたまらない――アミオキャップの乙女の瞳は、傷つけられた誇りと怒りに燃えあがった。
「なぜ泣くの、グーラ?」タナーはかさねてたずねた。
「聞かないで」少女は懇願した。「なんでもないの。たぶん疲れたんでしょう。それともこわいのかもしれないわね。でも今は、疲れてるだの、こわいだのと考えていられないわ。ジュードがあなたの妻をカーンの部落につれこもうとしているなら、手遅れにならないさきに急いで助けだしてあげなくては」
「きみのいうとおりだ」タナーは叫んだ。「ぐずぐずしてはいられない」そういうとタナーはグーラをしたがえて、ジュードの足跡をつけながら絶壁のふもとにむかってすみやかにかけだした。足跡は絶壁の側面のあぶなっかしい上り坂につづいている。先を急ぐ二人を、ジャングルのはずれ、今しがた二人が姿をあらわしたところから注視している残忍な目があった。
けわしい坂を断崖の頂上までのぼりつめると、そこは岩が露出していて、ジュードがたどった方角をしめす道しるべとなるものはなくなっていた。だが二十メートル先には柔らかな地面がふたたびつづいていて、そこにジュードの足跡を発見したタナーは、グーラに声をかけてそれをしめした。
「ここはジュードの足跡だけになっている」
「たぶん女のひとがこれ以上進むのをいやがったのでジュードはかついでいかなくてはならなかったんでしょう」グーラが思いついていった。
「きっとそうにちがいない」タナーはいってハイム人がはっきりと残していった跡をたどって足を早めた。
今では道もずいぶん道らしくなっていたが、かなりの範囲にわたって人の頭の高さよりずっと高くおいしげった灌木の茂みの中を貫通しているため、両側にはなにも見えず、曲折する道ぞいにかれらの前後わずかの距離が見とおせるだけだった。だがタナーは速度をゆるめなかった。かれのねらいはただ一つ、ハイム人が部落に到達するまでに追いつくことだった。
タナーとグーラが断崖の頂上をきわめて視界から消えると、十八人の毛むくじゃらの男が森から姿をあらわし、二人のあとをつけて断崖のふもとにむかった。
頬ひげをぼさぼさとはやした男たちで、色あざやかな帯《サッシュ》を腰にしめ、同じように華やかな布を頭に巻いている。腰布には巨大なピストルや短剣がニョキニョキとつき立ち、腰にはカトラスがブラブラといういでたちだ――運命はこれらエル・シドの船の生存者たちをタナーとほとんど同時にカーンの部落の下、断崖のふもとへみちびいたのだった。かれらは、船上で捕虜だったサリ人をみとめて驚異の念をいだいた。そのなかには恐れもいりまじっていないとはいえなかった。アミオキャップの井戸の縁で、マスケット銃で射殺したのを見たはずなのに。
無知なやつほどしつこいもので、コルサール人たちはタナーをもう一度つかまえてやろうという気をみな一様におこした。そうと決まると、かれらはグーラとサリ人が絶壁の頂上を越えるのを待って追跡を開始した。
カーンの壁は、部落そのものがある台地の縁のすぐそばに連なっている。時間のないペルシダーでは、実際にはずっとへだたって起きた事件でも、次々とたてつづげに起こったかのように感じられる。だからジュードがどれだけの間カーンの部落にいたのか、かれをここへ来させることとなった恐ろしい目的を実行するだけの時間がはたしてあったのかどうか、それはなんともいえない。
しかしタナーとグーラが灌木の茂みのはずれに到達して部落の敷地を越えたむこうの壁に目をやったとき、ジュードが町から忍び足でやってくるのを目撃したのは事実だ。もしこのとき、かれの顔を見ることができたら、してやったりというような意地の悪い目つきをしているということに気がついたかもしれないし、また、かれがこのように故郷の部落に人目をしのんで帰ってきた目的を知っていたら、たった今このハイム人の家で演じられた血なまぐさい一幕を目のあたりに再現することができたのかもしれない。だがタナーはさがしもとめるジュードがこっちへやってくるということ、そしてステララがいっしょではないということだけしか見ていなかった。
サリ人は、グーラをジュードが近づいてくる道ぞいの藪《やぶ》のかげにひきいれた。
ハイム人はいよいよこっちへやってくる。タナーはそれを待ちかまえている。一方、コルサール人どもは無器用に断崖をのぼり、そしてステララは嫉妬とみじめな思いにさいなまれながら、洞窟の冷たい石壁にやるせなくよりかかっているのだった。
危険にも気づかず、ジュードはステララをおいてきた場所に急ぎ足でひき返すところだった。真正面まで来たとき、サリ人はさっととびかかった。
ハイム人は自分の短剣に手をのばしたが、タナーにつかまれたためそれ以上どうすることもできなかった。タナーが鋼鉄のような指でジュードの両手首をつかみ、力まかせにしめあげたので、ジュードは苦痛の叫びを発して武器をおとした。サリ人の握力に両腕がくだけるかと思われた。
「なんだってんだ?」ジュードは叫んだ。「なぜおれを襲う?」
「ステララはどこだ?」
「知るもんか。見かけなかったぞ」
「うそをつけ。彼女とおまえの足跡をつけてこの断崖の頂上まで来たんだ。彼女はどこだ」タナーは短剣をすらりとぬいた。「いわなければ殺す」
「彼女は崖っ縁に残してきた。その間におれはカーンへ行って、彼女が暖かくむかえられるよう手はずをととのえてきたんだ。万事彼女をまもるためにしたことだよ、タナー。彼女はコルサールに帰りたがっていたから手助けをしてやっていたまでだ」
「またうそをつく。だが彼女のところへ案内しろ。彼女のほうの説明を聞こうじゃないか」
ハイム人は尻ごみしたが、タナーの短剣の切先があばら骨に押しつけられると冑《かぶと》をぬいだ。
「彼女のところへ案内したら殺さないと約束してくれるかい? 無事におれの部落へ返してくれるだろうな?」
「きさまがステララをどんなふうにあつかったか、彼女の唇から直接聞くまではどんな約束もしない」
「悪いことはしてないよ。誓ってもいい」
「では彼女のところへ案内しろ」タナーは語気を強めていった。
ハイム人はむっつりとさきにたち、ステララをおいてきた洞穴にむかう道をひき返した。一方、藪のむこうのはずれで三人が近づく物音を聞きつけた十八人のコルサール人は、たちどまり、聞き耳をたて、ほどなく周囲の灌木の茂みの中にひっそりと消えた。
かれらはジュードとグーラとタナーが藪からあらわれるのを見たが、襲ってはこなかった。なんのために三人がひき返してきたのかようすを見ることにしたのだ。一筋の道が谷にむかってくだっていた。三人はその峠のちょっと手前で崖っ縁を越えて姿を消した。それを見て、やがて十八人のコルサール人はかくれ場所からのこのことあらわれた。そして用心深く三人のあとをつけた。
ジュードは、タナーとグーラをステララの横たわっている洞穴にみちびいた。タナーはステララを見た。いとしい手首とくるぶしを皮紐でしばられ、頬を涙でぬらしたままのステララを。かれはとびだしていって彼女をかきいだいた。
「ステララ! ぼくの恋人!」ところがステララはぷいと顔をそむけた。
「さわらないで」彼女は叫んだ。「あんたなんかきらいよ」
「ステララ!」タナーはあっけにとられて叫んだ。「どうしたんだい!」だが彼女が答えるよりさきに背後に大喝するものがあった。はっとしてふりむいた一同の目の前に十八人のコルサール人のピストルの銃口があった。
「降参しろ、サリ人!」リーダーがいった。
約三十六挺もの巨大なピストルをつきつけられ、しかもそれが同時にステララとグーラの生命をおびやかしているとあっては、タナーも降服するよりほかにさしあたってどうすることもできなかった。
「われわれが降服したらどうしようというのだ」タナーが質問した。
「そいつはあとからきめる」コルサール人のリーダーがすごんだ。
「おまえたちはいったいコルサールに帰れると思っているのか?」タナーがいった。
「それがきさまにとってどうだというんだ、え、サリ人?」
「われわれが降服するか否かにおおいに関係のあることだ。おまえたちは以前におれを殺そうとしたが、おれが手ごわい男だということがわかったな。おれにはおまえたちの武器と火薬にかんして、あるていどの知識を持っている。それにこれほど接近していても、おれは殺される前に何人かを殺すことができるということもな。だが、もしおれの質問にたいして公明に返答し、その返答が得心のいくものなら降服してやろう」
タナーがかれらの火薬について知っているというのを聞いて、すぐさまコルサール人たちは、タナーが火薬がしめっているということを知っているのだなと考えた。タナーは、たんにかれらの火薬が一様に質が悪いということをほのめかしたにすぎなかったのだが。そこで代弁者はすくなくとも当座は妥協しておいたほうがよいと判断した。「船ができしだい、おれたちはコルサールへ帰る。近々にコルサールの船がカーンの入江にやってきて停泊でもしないかぎりはな」
「よろしい。ではエル・シドの娘御をコルサールの彼女の一族のもとに無事おくりかえすと約束するなら降参してやろう。それと同時にこのもう一人のご婦人にかんしても、危害をおよぼすことなく無事コルサールへつれていってくれるか、ないしはこの地の彼女の一族のもとにとどまるか、彼女のしたいようにさせると約束してもらいたい」
「もう一人の男はどうする?」
「おれを殺すときにいっしょに殺してもいい」タナーは答えた。
ステララはサリ人の言葉を聞いて恐ろしいなりゆきに目をみはった。そして真の愛の前には嫉妬などもののかずではないということをさとったのだった。
「よかろう」コルサール人はいった。「その条件をのもう。女たちはコルサールへつれて帰る。そしてきさまたち男二人は殺す」
「いやだ、いやだ」ジュードが懇願した。「おれは死にたくない。おれはハイム人だ。カーンはおれの故郷だ。あそこへはあんたがたコルサール人がよく交易にやってくる。おれの生命を助けてくれるなら、船に積みきれないほどの獣皮が手にはいるよう手配するよ。船ができあがったときのことだが」
一行のリーダーは、ジュードの顔を見て哄笑した。
「われわれ十八人いれば、カーンの部落から好きなものを掠奪できるんだ。おまえをはなしたら、部落のものに警告しにいくだろう。そんなことをさせるほどおれたちはまぬけじゃないぞ」
「それじゃおれを捕虜としてつれていってくれえ」ジュードが泣き声をだした。
「で、きさまに餌をやって四六時中みはれってのかい? ごめんだね。おまえさんは生きているより死んでもらうほうがおれたちにとってはありがたいのさ」
ジュードはしゃべりながら洞穴の口の奥のほうへとにじりよっていって、ステララのかげに半分かくれて立った。これではステララを楯にしているような格好だ。
タナーはさもいとわしそうな身ぶりをすると、コルサール人のほうにむき直り、じれったそうにいった。「さあさあ、この取引きで文句がないようなら、これ以上とやかくいう必要はあるまい。われわれを殺せ、そして女たちを無事にコルサールにつれていってくれ。約束だぞ」
タナーがうったえ終わった瞬間、ジュードはだれも止めることができないさきにくるりと方向を転じて背後の洞穴の中へ姿を消した。たちまちコルサール人がそのあとを追ってとびこんでいった。他のものはかれらがジュードをともなってもどるのを今か今かとまっていたが、かれらは手ぶらであらわれた。
「逃げやがった」ハイム人を追っていった一人がいった。「この洞穴は、幾つにも分れた暗いトンネルの入り口にあたってるんだ。何も見えないし、迷うおそれがあるので入り口へひき返してきた。この洞穴のむこうの崖に、蜂の巣のようにトンネルがあいているが、それをよく知っていないかぎり、中にいる男をさがそうとしてもむだだったろう。こいつも逃げださないさきに今すぐ殺したほうがいい」そういいながら、その男はピストルをあげてタナーにねらいをつけた。島のむこう側の浜辺をあとにしていらい、火薬がかわいているようにと心の中でねがいながら。
「やめて!」ステララが男の前にとびだして叫んだ。「みんなも知ってのとおり、あたしはエル・シドの娘です。あたしを無事にかれのもとに返してくれたら、うんと褒美《ほうび》をあげましょう。それは保証します。あんたたちは、エル・シドがこの男をコルサールにつれて帰ろうとしていたことを知ってるでしょうが、たぶんその理由は知らないわね?」
「ああ」コルサール人の一人がいった。この男はひら水夫だったので、司令官の計画について何も知らなかった。
「そのひとは、あたしたちの火薬よりもずっと優秀な火器や火薬の製法を知っているのよ。だからエル・シドはかれをコルサールにつれて帰って、あたしたちにはわからないその製法の秘密を教えさせようとしていたんだわ。その人を殺したら、エル・シドは、かんかんになって怒るでしょうよ。みんな、エル・シドを怒らせたらどういうことになるか知っているわね。でもその人をかれのもとに返したら、それも、コルサールまで送りとどけたら、大きな褒美がもらえるでしょう」
「エル・シドが生きているなんてどうやってわかるんだ?」一人が問いただした。「もしも生きていなかったら、あんたやその男をつれて帰った褒美はだれがだす?」
「エル・シドは、血を好むボハールよりもすぐれた船乗りです――それはわかっているわね。ボハールがかれの船をあやつって無事アミオキャップまで行ったのなら、エル・シドが自分の船で無事にコルサールに帰りついているのにきまってます。でも、たとえかれが帰っていなかったとしても、たとえエル・シドが死んでしまったとしても、あたしをコルサールへ返したら褒美はもらえるでしょう」
「だれがだすんだ?」
「バルフよ」ステララは答えた。
「あんたが帰ったからといって、バルフが褒美をだす理由がどこにある?」
「あたしはバルフの妻になることになっているからよ。エル・シドもバルフも、それを望んでいたわ」
サリ人はこれらのことを聞いて、心臓にナイフをつきたてられる思いだったが、表情を変えてその苦痛を表わすことはせずに、ただ腕組みをしてまっすぐ前方をみつめていた。グーラは驚いて目をみはり、まずステララを見、それからタナーを見た。というのも、ステララは自分の妻だとタナーがいったことを思いだしたからだが、それとともに、女性の本能で、タナーがどんなにこの女性を愛しているかを知っていたからだ。グーラはわけがわからなくなると同時に、ステララの言葉がタナーにあたえた苦痛を察して悲しく思った。彼女は気立てのやさしい少女だったから思わずタナーのかたわらに近づいていって、そっとかれの腕に手をおき、無言の同情をしめした。
しばらくの間、コルサール人たちは小声でステララの申し出を検討していたが、やがてさきほどの代弁者が彼女にむかっていった。「しかし、エル・シドが死んでいたら、このサリ人をつれて帰っても報賞をくれるものはいないじゃないか。だからこの男は殺したほうがいい。コルサールまでは長旅だ。そうでなくても養う口が多いんだからな」
「エル・シドが死んだなんてわからないじゃないの」ステララはいいはった。「もしそうだとしても、コルサールの族長にバルフよりも適した男がいるかしら? そして、バルフが族長なら、この男をコルサールへつれて帰った目的をあたしが説明すれば褒美をだすでしょうよ」
「なるほど」コルサール人は頭をかきかきいった。「たぶんおまえさんのいうとおり、こいつは生かしておいたほうがわれわれの得になるんだろうさ。航海の手助けをするということと、逃げようとしないということを約束するなら、いっしょにつれていってやろう。だが、こっちの女はどうする?」
「出航準備ができるまでつかまえておけ」別のコルサール人がどなった。「それからはなしてやりゃいいんだ」
「あたしを返して何がしの褒美を得たいと思うなら、だんじてそんなことをしてはなりません」ステララはきっぱりといってからグーラのほうをむいた。「あなたはどうしたいんです?」彼女の声はひややかで険があった。
「タナーの行くところへ行きたい」グーラは答えた。
ステララの目が細くなり、一瞬火花が散ったが、すぐに普段の柔和な表情をとりもどした。もっとも、哀しげな色合いをおびてはいたが。「わかりました」そういうと彼女は悲しそうに顔をそむけた。「この女のひともあたしたちといっしょにコルサールへ」
船乗りたちはしばらくこの問題を検討していたが、大部分のものは反対だった。しかしステララがあとへひかず、さらに多くの褒美を保証すると、文句をいいながらやっと承服した。
コルサール人は火繩銃をかまえ、大胆にも地卓《メーサ》を横ぎり、カーンの壁を通過して進んだ。過去幾度かの襲撃が、ハイム人の胸中にかれらにたいする恐怖心をうえつけていることを充分承知のうえでのことだった。だが今回は火薬が使いものにならないのではないかという懸念がまだあったので、掠奪したり、貢物をせしめようとはしなかった。
地卓《メーサ》のむこうの端まで来て、カーンの入江が見渡せるところまで到達したとき、コルサール人たちの口からわっと歓声があがった。コルサールの船が一隻、入江に停泊していたのだ。その船がいつ錨をあげて出港するともわからないので、コルサール人たちは急な坂道をころがるように急いで浜へおりていった。後方では、不思議顔の住民たちがカーンの壁の上から首をだして、最後のコルサール人が崖の頂上から姿を消すまで見送っていた。
波打ちぎわ目ざして殺到しながら、コルサール人たちは船の注意を喚起しようと火繩銃を発砲した。火薬の乾燥していた二、三挺がようやく発火して、停泊中の船を呼びさました。岸の船員たちは、遭難信号として帯《サッシュ》やハンカチを引っ裂いて気違いのようにふった。ほどなくそのかいあって、船から一艘のボートがおろされるのを見て、一同はほっとしたのだった。
海岸から話のかわせる範囲までくるとボートは停止し、一人の士官が磯の男たちにむかって声をかけた。
「おまえたちは何者だ? 何の用だ?」
「われわれは、エル・シドの船の船員だ」代弁者がいった。「船が沖で難破したので、アミオキャップへ行き、そこからハイムにむかった。だがアミオキャップで作った船もハイムで失ってしまったのだ」
男たちがコルサール人だということを確認すると、士官はボートを岸につけるように命令した。そしてついに一同が待ちかまえているすぐそばの浜辺にボートをひきあげた。
ちょっとした挨拶や説明がすむと、士官は、全員をボートにのせた。それからまもなく、ペルシダーの勇者タナーはふたたびコルサールの軍艦の人となったのだった。
司令官はステララを知っていた。慎重に訊問したあと、かれはタナーとグーラをコルサールへともなって帰るというステララの計画を承諾した。
士官との会見につづいて、タナーはつかのまステララと二人きりになることができた。
「ステララ! いったいどうしたんだ?」
ステララはくるりとむき直ってひややかにかれを見た。「アミオキャップではあなたもよかったけど。でもコルサールではただの野蛮人に過ぎないわ」彼女はすてぜりふを残すと踵を返してたちさった。
[#改ページ]
十三 三人の囚人
コルサールへの航海は平穏だった。航海の間中、タナーはステララにもグーラにもぜんぜん会わなかった。暗い船倉に監禁されていたわけではなかったが、主甲板より上に出ることをゆるされなかったし、また船尾の上甲板を見上げても、二人のいずれの姿もまったく見かけることがなかった。こういったことから判断すると、グーラは船室の一つに監禁され、ステララは故意にかれを避けていたか、ないしは会わないようにしていたのだろう。
コルサールの沿岸に接近すると、平坦な土地がかなたの靄《もや》の中に上むきの曲線をえがいてとけこんでいるのが見えた。はるか遠くに丘の輪郭をみとめたような気がしたが、さだかではない。耕作地や森林地帯、それから河が一筋、海にむかってくだるのが見える――幅広い、曲折の多い河で、海からわずかに奥地にはいった河岸に都市があった。海岸線のこの地点には港はなかったが、船はどんどん河口めざして進み、都市にむかって河をさかのぼっていった。接近するにつれてその都市が、大きさからいっても、また人の住処《すみか》としての建物の仰々《ぎょうぎょう》しさからいっても、これまでペルシダーの地上で見かけたどの都市をもはるかにしのぐ大規模なものだということがわかった。デヴィッド皇帝が建設中のペルシダー連盟王国の新首都でさえ、その点では足もとにもおよばなかった。
おおかたの建物は白壁に赤い瓦屋根で、なかには高い尖塔のある建物や、円屋根の建物もあって色もとりどりだ――青、赤、金色。わけても金色の屋根はダイアン皇后の王冠の宝石のように、陽をあびて燦然《さんぜん》と輝いていた。
町は河幅が広くなっている地点に建設されていて、軍艦の一大艦隊と、多数の小舟――釣り舟、河船、はしけなど――が停泊中だった。河に面した通りには、軒なみに店舗がつづき、人通りでにぎわっていた。
かれらが近づくと、停泊中の軍艦の甲板から礼砲がとどろいた。かれら自身の船からも答礼が発せられた。そしてついに都市を前にした河の中ほどに投錨した。
岸からはボートがだされて、軍艦にむかって急速に漕ぎよせてきた。軍艦の側からも数艘のボートがおろされた。タナーはその一艘に士官一人と船員二人の監視のもとに乗せられた。岸につくと町の通りを行進した。群集の間を通りぬけて進んでいくと、人々の関心がどっとタナーにむけられた。ペルシダーのどこか未開の地域からつれてこられた野蛮人の捕虜だと思ったからだ。
上陸する間も、タナーはステララもグーラも見かけなかった。そうなると、もう二度と会えないのではないかという気がしてくる。かれの心は悲しみでいっぱいだった。ハイムからコルサールへの長い航海の間中も、同じ思いがかれの心をしめていたものだった。悲しみの中にあれこれ思いめぐらしているうちに、タナーは、カーンの港の船上でステララがみずからの心を公言するまで自分は彼女の真実の姿を知らなかったのだと確信するようになった。なるほどかれは、アミオキャップではそのままのかれでよかった。だがコルサールでは裸の野蛮人にすぎないのだ。コルサールの人々が、軽蔑のまなざしでかれを無遠慮にじろじろながめたり、かれをからかって野卑な冗談をとばしあったりするので、今では自分が野蛮人だということが動かせない事実としてかれに重くのしかかってくるのだった。
愛のすべてをささげた女にこのように裏切られたと思うと、サリ人の自尊心は傷ついた。彼女がこの世でもっとも愛らしく、純潔で、貞節な女だと信じたかった。その信念にかれは生命をも賭けたことだろう。それが今となって彼女が浅薄で不実な女だったと知って、かれは生身を裂かれる思いだった。かれのこの苦悩をやわらげるものはただ一つ――グーラのやさしく辛抱強い友情にたいする、ゆるぎない信頼だった。
かれは河岸ぞいの建物にみちびかれながら、そんなことを考えて頭がいっぱいだった。ついた先は河岸にならんでいる建物の一つで、どうやら衛兵所のようなところだ。
ここで、かれは係りの士官にひき渡され、二、三かんたんな訊問をうけたのち、二人の兵隊に別の部屋にみちびかれた。兵隊は床にある重いあげ蓋《ぶた》を持ちあげ、タナーにむかって粗末な梯子をつたって下の暗がりへおりるよう命じた。
頭が床の根太の下へおりるやいなや、揚げ蓋がバタンと落ちてきた。蓋をとじる太いねじ釘のきしる音が聞こえ、それから頭上の部屋を去る足音がドタドタと聞こえた。
三メートルばかりをゆっくりとおりていくと、最後に石の床の上にたどりついた。目が暗がりになれてくるにつれ、その部屋が真暗ではなく、日光が天井近くの小さな格子窓からさしこんでいるのに気がついた。周囲を見まわして、その部屋の住人がかれだけだということがわかった。
窓のあるほうとは反対側の壁に戸口がある。部屋を横切ってそこまで行ってみると、その戸口は部屋と縦の方向に平行してつづいているせまい廊下にむかって開いていた。左右を見渡すと、淡い光がところどころに見える。廊下の一方の壁に、開いた戸口がいくつかあるようだ。
ひとつ探険してやろうと思いたって出かけようとしたとたん、何ものかが廊下の床をごそごそと這う音がかれの注意をひいた。左をふり返ると、何か暗い影がかれのほうに這ってくる。大きさは、床からほぼ三十センチ、長さが一メートルといったところか。しかし廊下の暗がりではぼんやりと見えるだけで、細部までは判然としない。が、やがてそいつがギラギラする二つの目を持っているのがわかった。どうやらその目はかれのほうにむけられているらしい。
そいつは大胆に前進してくる。タナーは、今出ていこうとしていた部屋に逆もどりした。そいつがかれを襲撃しようとしているのなら、陰気な廊下よりもむしろいくらかでも明るい部屋の中で迎えうとうと考えたからだ。
そいつはどんどん近づいてきた。そして方向を転じて戸口にかかると、そこで止まってサリ人をながめまわした。タナーは森ねずみの一種なら故郷で見なれていて、でかいやつだといつも思っていたが、ねずみというものが、今ギラギラ輝くビーズのような眼で、臆する色もなくかれをにらみつけているこの怪物ほど巨大なものになりうるとは夢にも思っていなかった。
タナーは、コルサールの船に乗せられたときに武器を没収されていたが、それでもねずみ一匹くらい、たとえ襲ってこようとも、恐れてはいなかった。しかしそのねずみの兇暴そうな外見は、かれを躊躇させた。もしも一度に大挙して襲ってきたらどうなるだろう。
やがてねずみはなおもかれにむいたまま、キーキーと鳴いた。しばしの間、あたりはしんと静まりかえっていたが、やがて怪物はもう一度キーキーと鳴いた。と、タナーはそれに応じる鳴き声を聞いた。それはどこかひどく遠いところから聞こえてくるように思えた。そして鳴き声は次々とおこり、ほどなくどんどん高まってきた。コルサールの土牢のねずみが、攻撃と饗宴に仲間を召集しているのだ。
とっさにタナーは何か身を守る武器はないかと周囲を見まわしたが、むきだしの石の床と壁のほかに何もない。ねずみの大群がおしよせてくるのが聞こえる。かれを発見した斥候のねずみは、なおも戸口に立ちふさがったまま、待っていた。
だが、人間であるタナーがおめおめと待つ必要がどこにあろう? どうせ死ぬなら討死にしよう。かかってくるやつを、四匹ずつたおしていったら、ご馳走のために高価な代償をはらわせてやれるかもしれないではないか。そこでタナーは、虎の敏捷さでねずみにおどりかかった。かれの跳躍があまりにも突然で、意表をついたものだったので、このいまわしい相手が逃げだす前に片手をかけることができた。ねずみはかん高い声をあげ、タナーの肉に牙をたてようとしたが、サリ人ははるかに敏捷で強かった。両手の指で首をいったんしめあげ、二、三回相手の身体をふりまわして、首の骨をへし折り、その死体をおしよせてくる大群にむかって投げつけた。もはや、廊下の薄明を通してかなたからせまる大群が見える。タナーは廊下の真ん中に仁王立ちになって、もはやさけがたいものとなった運命を待ちうけた。しかし、怪物どもにひきずりたおされるまで戦う覚悟はできていた。
こうして待機しているとき、背後に物音が聞こえた。別の大群が後ろから襲ってきたかと思ったが、肩ごしにちらとふりむくと、むこうの廊下にある戸口の前に一人の男が立っているのが見えた。
「こい!」見知らぬ男はどなった。「こっちは安全だぞ」時をうつさずタナーは男の立っているところへむかって廊下をかけだした。ねずみどもはすぐ後ろにせまっている。
「早く、ここへはいれ」救い主はそう叫ぶと、タナーの腕をひっつかんで戸口から広い室内にひきずりこんだ。中には十人ないしはそれ以上の男たちがいた。
ねずみの大群は戸口で止まり、室内をねめつけていたが、一匹として敷居をこすものはなかった。
タナーがはいっていった部屋には、今あとにしてきた部屋にあった窓よりも大きい窓が二つあって、明り取りになっていた。その、より明るい光のもとで、タナーは自分を救ってくれた人物をつくづくと見る機会を得た。端正な容貌をした赤銅色の巨漢だ。
男が今少し窓の明りのほうに顔をむけたとき、タナーは驚きと喜びに大声をあげた。「ジャ!」ところが、ジャがこの挨拶に答える前に、別の男が部屋の奥からとびだしてきた。
「タナー!」二人目の男が叫んだ。「ガークの息子、タナーじゃないか!」さっとふりむいたサリ人がまともに顔を合わせたのは、ペルシダー皇帝デヴィッド・イネスだった。
「アノロックのジャと、皇帝陛下!」タナーが叫んだ。「何があったのです? どうしてここへ?」
「われわれがここにいてよかった」ジャがいった。「それにちょうどあのときにわたしがねずみどもの声を聞いたのもさいわいだった。ここにいる連中は」と、かれは残りの囚人たちのほうに手をふって見せて、「ここに新たに監禁されてくる囚人たちを救おうとするだけの頭がないんだ。デヴィッドとわたしは仲間の人数が多ければ多いほどねずみの襲撃に安全に対処できるということを、なんとかして血のめぐりの悪いかれらの頭にたたきこもうとしたんだが、どいつもこいつも、もう自分は安全だと思っていて、ここへほうりこまれるあわれな連中がどうなろうといっこうにおかまいなしだ。やつらには、先を見こすということがてんでできないんだな。われわれのうち何人かが牢からつれだされたり、死んだりしたら、がっついているけものどもの襲撃を撃退するだけの人数が残らないかもしれんなどと考えるだけの脳味噌もないやつらだ。ところで、タナー、きみは今までどこにいたのか、どうやってついにここへやってくることになったのか、話してくれたまえ」
「話せば長いのですが」サリ人は答えた。「それよりもまず皇帝のお話をお聞きしたいものです」
「われわれの身の上におこった冒険にはたいして興味のある話もないよ」デヴィッドがいった。
「もっとも、これまで不思議に思っていた数かずの問題について、コルサール人から聞きだした話があるが、しいていえばその中に重要な問題点があるかもしれない。
コルサールの船が、きみやその他われわれの同士たちを捕虜にして去っていくのを見て、われわれは度を失った。〈恐ろしい影の国〉の北の大海の岸辺に立ったとき、われわれはきみたちをすくう望みはないと思いこみ、すっかりうちひしがれていた。わたしがあえて冒険を思いたったのはそのときのことだ。それがもとでわれわれは今日、コルサールの首都にあるこの地下牢に身をおくことになったのだが。
わたしに同行を申し出たものたち全員の中から、わたしはジャを選んだ。そしてわれわれはフィットというコルサール人の捕虜を案内人としてともなった。われわれはコルサール人が逃げる際にみすてていった船に乗りこみ、コルサールにむかって平穏な海路をたどった。が、それも猛烈な嵐にみまわれるまでのことだった。あんなに激しい嵐はかつて遭遇したことがない」
「それは、きっとわたしたちを乗せていたコルサールの船を難破させたのと同じ嵐ですよ」タナーがいった。
「きっとそうにちがいない。それは今にわかるよ。ところで、その嵐は索具一切をかっさらい、マストを甲板上でちょん切ってしまった。手元には二本の櫂が残るのみで、ほかにどうしようもない。
きみも知っていると思うが、こういった大櫂は非常に重いので、普通は二、三人で一本を使うことになっている。ところがわれわれは三人きりだったので、両側を一人ずつが漕いで、あとの一人が最初の一人と交代し、また間をおいて次のものが交代するといったぐあいにしてのろのろと進むしかなかった。それすらも、一人で漕ぐのに過労にならぬような長さに大櫂を切ってからでないとできなかった。
フィットがとった針路は、わたしの羅針儀でほぼ真北の方角だった。嵐が凪《な》いで以後は、ほとんど航路をそれずに進んだ。
何度も眠ったり食べたりしているうちに、フィットがアミオキャップ島からそう遠くないところまで来たとつげた。われわれが船出した岬とコルサール島の中間だということだった。まだ水も食糧も、残る旅路をもちこたえるだけ豊富にあったが、それも帆があってのことで、櫂をあやつってのろのろと進んでいるのでは、コルサールに到来できるよりもずっと前に飢餓《きが》に直面するか、あるいは渇きで死んでしまうかということになりそうだった。こんな運命が真向からわれわれを見すえているのではたまらない。そこでアミオキャップに上陸して船を修理することにした。しかしそれもできないうちにコルサールの船に襲撃され、逃げることも防戦することもできないままに捕虜になったのだ。
その船は、エル・シドの艦隊のうちの一隻で、乗組員たちの知るかぎりでは、嵐をきりぬけた唯一の船だということだった。われわれを発見するちょっと前に、かれらは、エル・シド自身をふくめて、ボートに乗ったエル・シドの船の生存者たちを救いあげていた。われわれは、きみやその他の捕虜たちがかれの船とともに海の藻屑《もくず》と消えたにちがいないとエル・シドから聞かされた。かれが船をすてたときには沈没しかかっていたそうだ。エル・シドが自分の娘をみすててきたと聞いて、わたしは一驚した。きっとこの卑怯な行為がかれの心に重くのしかかっていたのだろう。いつもむっつりとふさぎこんでいて、部下と接触することさえさけていた」
「彼女は死んだのではありません」タナーがいった。「いっしょに脱出しました。わたしたちの知るかぎりでは、彼女とわたしとがエル・シドの船の唯一の生存者でした。もっとも、あとになって同じくアミオキャップに漂着した別のボートの乗組員につかまりましたが。そしてわたしたちはかれらとともにコルサールへつれてこられたのです」
「エル・シドと話をしたときにも、またコルサールの船の士官たちと話をしたときにも、かれらが〈コルサール・アズ〉として知られているこの海の範囲に関してどのていどの知識をもっているか、さぐりをいれて見た。さまざまなことがわかったが、なかでもかれらが羅針儀をもっていて、その用法に精通していることがわかった。かれらは〈コルサール・アズ〉の西の極限まで航海したことがないという。なんでも、満々たる水が人智もおよばぬ果てまで何海里となくつづいているのだそうだ。ところが、東へかけては、ペルシダー帝国を攻撃した際に上陸した海岸のあたりまで、コルサールから海岸ぞいに南下したことがあるのだ。
このことが何を示唆《しさ》しているかというと――いや事実上、何を証明しているかというと――コルサールはペルシダー帝国と同一の大陸にあるということだ。だからもしもわれわれが脱獄することができたら、陸路故国に帰れるかもしれないのだよ」
「その〈もしも〉というのが問題だな」ジャがいった。「この暗い穴へほうりこまれていらい、何度も食べて眠ったというのに、ここへ連れてこられた当時とくらべて、今もいっこうに脱獄できる見通しはたたないじゃないですか。そのうえ、どんな運命がこの先われわれを待ちかまえているかということすらわからないんだ」
デヴィッドがつづけた。「ここにいる囚人たちの話だと、われわれがすぐに死刑にならないのは――それがコルサールにとらえられた戦争捕虜のおさだまりの運命なのだが――なにかの目的のためにわれわれをとっておこうということだそうだ。しかし、それがはたしてどんな目的なのか、わたしにはわからない」
「ぼくにはわかっています」タナーがいった。「事実、わかっていると断言することができます」
「ほう、で、いったいどんなことなんだね?」ジャがたずねた。
「かれらはわれわれが持っているような火器や火薬の製造法を教えてもらいたがっているのですよ」サリ人は答えた。「でも、かれらが最初にどこからあの火器や火薬を手にいれたと思います?」
「それに、かれらが使っているあの大きな船もだ」ジャがいいたした。「われわれが建造する船よりまだでかいじゃないか。こういったものはデヴィッドやペリーがわれわれのもとへくる以前にはペルシダーでは知られていなかったのに。コルサール人は前々から知っていたようすだ」
「ひとつ思いついたことがあるんだが」デヴィッドがいった。「それがあんまり気違いじみているので、頭の中で考えるのさえはばかれるほどだ。だから、それを証明するのはなおさらのことなんだが」
「どういうことです?」タナーがたずねた。
「ほかならぬコルサール人との会話からヒントを得たことなんだがね。かれらは全員例外なく、自分たちの祖先は別の世界から来たのだと断言した――太陽はつねに天頂にかかっているのではなく、規則的に天空を横切って通過し、半分を暗闇にする、そんな世界だそうだ。かれらの話すところによると、その世界の一部は非常に寒く、船乗りだったかれらの祖先は、凍った海に船ごととらえられてしまった。羅針儀は八方をでたらめにさし、使いものにならなくなり、ついに氷をやぶって南だと思う方角にむかって航行したところが、ついた先が裸の野蛮人と野獣だけが住むペルシダーだったというわけだ。かれらはここに都市を建設し、新しい船を建造した。かれらが故国だというその世界から、別の船乗りたちがやってきて、人数はしだいに増加していった。
かれらは原住民と結婚した。ペルシダーのこの地方の原住民は非常に下等だったらしい」ここでデヴィッドは言葉をきった。
「それで」タナーはたずねた。「つまりどういうことなんですか、それは?」
「つまりだね、もしもかれらの伝説が真実ならば、というか、事実に立脚しているならば、かれらの祖先は、ペリーやわたしが来たのと同じ地上世界から来たことになるんだよ。だが、はたしてどうやって来たのか?――驚くべき謎だね、これは」
獄中生活の間、三人は何度となくこの問題を論議した。が、一度もこの謎を解明するまでにはいたらなかった。食事が何回も運ばれ、数回眠ったころ、コルサールの兵士がやってきてかれらを土牢からつれだした。
三人はエル・シドの宮殿にみちびかれた。その建築様式を見るにつけ、この不思議な一族の素姓にかんする謎はデヴィッド・イネスの心の中で深まるばかりだった。というのも、その建物にはムーア風な影響があらわれていて、動かしがたい証拠を提示しているように思われたからだ。
宮殿にはいると、広間に通された。派手な衣服を身につけたひげ面のコルサール人がほどよく広間をうずめている、船上では比較的みすぼらしい身なりをしているのに、今その色彩のきらびやかなことといったら。広間の一方の端にある壇の上には、一人の男が、こった彫刻をほどこした大きな椅子にどっかりと腰をおろしていた。エル・シドだ。かれの姿をひと目見たとたん、デヴィッドはこのコルサールの支配者の称号にふくまれた重要な意味を読みとったのだった。
以前には、エル・シドという名はデヴィッドにとってたんなる名前にしかすぎなかった。それを称号と考えたことはなかった。そのことを考えることによって特にこれといった連想を呼びさまされることもなかった。だが今はちがう。その名はムーア風の宮殿や彫刻のある玉座とあいまって、かれの連想をかきたてた。
エル・シド! ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール――武功者《エル・カンペアドール》――十一世紀スペインの国家的英雄だ。これはどういうことだろう? デヴィッドはコルサールの船を思いかえしてみた――火繩銃やカトラスをもった雑多な乗組員たち――かれは思いだした。少年のころに読んだスパニッシュ・メインの海賊たちの、血わき肉おどる冒険|譚《たん》を。
たんなる偶然の一致だろうか? 十七世紀の掠奪者たちにかくも酷似した民族が、地底世界に一国をなすというようなことがありうるだろうか? それともかれらの先祖が実際に地上世界からここへやってきたのだろうか? デヴィッド・イネスにはわからないことだ。正直いってかれはわけがわからなくなってしまった。しかしこのときにはもうエル・シドの玉座の足もとにつれてこられていたので、しばしかれを夢中にさせていた楽しい想像にふけっているひまはなくなった。
エル・シドの冷酷で狡猾な目が、そのけものじみた顔から三人の囚人を見おろしている。
「ペルシダーの皇帝!」かれは嘲笑した。「アノロックの王! それにサリ王の息子か!」そういうとかれはからからと笑った。そして片手をのばし、指を開いてからぎゅっととじて、物をにぎりつぶすようなしぐさをした。
「皇帝! 王! 王子!」かれはふたたびせせら笑った。「そのくせ、きさまたちはみなエル・シドの手中にあるのだ。皇帝だと――ふふん! はばかりながら、ペルシダーの皇帝はこのエル・シドだ! きさまも、手下の裸の野蛮人どももくたばれ!」かれはデヴィッドに矛《ほこ》先をむけた。「皇帝の称号をかたるきさまは何者だ! おれさまにかかったら、きさまたちなどひとひねりだぞ」かれは兇暴かつ非情なところを見せつけるように、拳《こぶし》をにぎりしめた。「だが、やめておいてやろう。エル・シドは寛大で、おまけに礼を返すということも知っている人間だ。おまえたちにたやすくしはらうことのできる代償で自由をあたえてやるぞ」かれは質問を期待するかのようにそこで言葉をきった。だが三人のうちだれ一人として口を開くものはなかった。エル・シドはいきなりデヴィッドにくってかかった。「きさまたちはどこであの火器と火薬を手にいれた? だれがきさまたちのために作ったのだ?」
「われわれが勝手に作ったのだ」デヴィッドが答えた。
「作り方を教えたのはだれだ?」エル・シドは執拗にいった。「だが、そんなことはどうでもよいわ。きさまたちが知っているということ、そしておれたちが今に知るようになるということ、それで充分だ。教えてくれれば自由が得られるのだぞ」
デヴィッドは、火薬を作ることはできたが、コルサールのそれよりも良質のものが作れるかどうか疑問だった。そういったことは帝国にいるペリーとその弟子たちにまかせきりだったし、サリの兵器工場で生産されるような近代的なライフルを再現することはかれにできないということを知りぬいていた。第一、ライフルの設計図もなければ機械もなし、その機械を作る設計図もなければ鋼鉄を作る工場もない。だがそれでも、、ここに自由の身になるチャンスがあるのだ。これが脱走への道を開いてくれるかもしれないではないか。この際、近代的な火器を作ったりコルサールの火薬を改良する能力がないということをみとめて、むざむざチャンスをみのがすことはない。
「さあ、どうだ」エル・シドはもどかしそうにいった。「返答をしろ」
「火薬やライフルは、ひと一人が食事をしている間につくれるものではない。無からつくりだすこともできなければ、話をしていてできるものでもない。原料が必要だ。それから工場も、熟練工も。いっさいが完了するまでおまえたちは何度も眠ることになるが、それでも待つ気はあるのか?」
「そういったものを作る方法をわれわれ一族のものに教え終わるまで、何回くらい眠らなくてはならないのだ?」
デヴィッドは肩をすくめた。「わからない。まず第一に適当な原料を見つけないことには」
「原料ならそろっておる。鉄もあるし火薬の原料もある。おまえたちはそれをまぜあわせればいいだけだ。われわれのこれまでの製法よりもましな方法でな」
「原料はそろっているかもしれんが、それらのものを作るのに申し分のない良質の原料かどうか。さもなけれはペルシダー皇帝の部下は得心しないだろう。おそらく硝石の質は悪いだろう。硫黄《いおう》には不純物がまじっているかもしれないし、木炭の精製すらも充分でないかもしれん。ペルシダー人独特の火器を作るにふさわしい原料を選択し、その原料を鋼鉄に加工するためにはその他さらに重要な事柄を考慮しなくてはならないのだ」
「急がずともよい」エル・シドはいって、そばに立っている男のほうへむいた。「こいつらにいつも士官を一人つけておくようにしろ。わしの命令を実行するためなら、どこへでも行きたいところへ行かせ、したいようにさせろ。のぞむなら人夫をつけてやれ。だがぐずぐずさせるな。逃がさないようにしろ。逃がしでもしたら死刑だぞ」かくてコルサールのエル・シドとの会見は終わった。
はからずもかれらを監視するために派遣されてきたのはフィットだった。コルサールの船隊を追跡する際に、デヴィッドが選びだしてかれとジャとともに同行させた男だ。デヴィッドやジャとつきあって親しくなり、二人から思いやりのある扱いのみをうけてきたフィットは、非常に友好的だった。もっとも、他のすべてのコルサール人の大半がそうであるように、かれもまた粗暴で冷酷な態度をとりがちだったが。
宮殿を通りぬける際に、廊下に面した部屋の中に一人の女性の姿がかいまみえた。フィットはこの新しい地位に大得意で、何も知らない新参者に、めずらしいものを見せたり、説明したりする見世物師のような気分になり、途中にある様々な興味深いものや、重要な人物について三人に説明して聞かせていたが、こんどは三人が女の姿を見かけた部屋のほうに首をふって見せた。もっともそのときには廊下をずっと来てしまっていたので、女を見ることはできなかったが。「あれが、エル・シドの娘だ」タナーは、つとたちどまってフィットのほうをむいた。
「話をしてもいいか?」
「きさまが!」フィットが叫んだ。「エル・シドの娘と話をするだと!」
「彼女を知っているのだ。士官や水夫が船を捨てたとき、その船にぼくたちは二人だけ残されたんだ。ぼくと話をしてくれるかどうか、行ってたずねてくれたまえ」
フィットが躊躇した。「エル・シドがゆるさないだろう」
「エル・シドは、われわれに同行しろという以外の命令をきみにくださなかったじゃないか」デヴィッドがいった。「希望する相手と話もさせてもらえないのでは、どうやってわれわれは任務を遂行すればいいんだ? エル・シドの娘のところへわれわれをつれていってくれても、少なくともきみは大丈夫だよ。先方でタナーと話がしたいといえば、きみに責任はない」
「そういうものかな」フィットはいった。「それじゃひとつたずねてやるか」かれはその部屋の戸口まで歩いていった。中にはステララとグーラがいた。そしてこのときはじめてフィットは一人の男が同席しているのに気がついた。バルフだ。三人はフィットがはいっていくと顔をあげた。
「エル・シドの娘御に話をしたいといっているものがおります」かれはステララにむかっていった。
「何者だ?」バルフがたずねた。
「サリから来た戦争捕虜で、タナーという者です」
「その者につたえなさい」ステララがいった。「エル・シドの娘はそんな男をおぼえていないし、会見を許可することもできないと」
フィットが踵を返して部屋をさるとき、ふだんは悲しそうに見えるグーラの瞳に、ステララにたいする驚きと怒りの色がさっとひらめいたのだった。
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十四 二つの太陽
デヴィッドとジャとタナーは、宮殿の敷地内にある兵舎をあてがわれた。三人はただちにデヴィッドが提案した計画の実行にとりかかった。その中には一連の視察旅行もふくまれていた。コルサールの火薬工場や、兵器工場ばかりでなく、硝石の層、硫黄の鉱床、木炭坑、および鉄鉱山を見てやろうというのだ。原料の供給源と入手方法を視察するという名目のもとに、多方面にわたる旅行がおこなわれたが、それらにたいしてコルサール人はなんらの嫌疑もいだかなかった。デヴィッドたちの真の目的は、みかけとはほど遠いものだったのだが。
そもそもデヴィッドには、コルサール人に火薬の改良法を教える気など毛頭なかった。そんなことをすれば、かれらは帝国の平和にとって今までよりもはるかに大きい脅威となるだろう。発火する率と、しそこなう率が半々くらいに火薬が低質だということがハンディキャップになっているうちはよいが。
ところでこれらの視察旅行では、コルサールの都市から相当はなれたところまで出かけることがしばしばだったので、それが火薬の製法を教えるのをおくらせる口実となった。その間にデヴィッドたちは、少なくとも成功の種子を宿していそうな、なんらかの脱走計画を案出する努力をした。また、これらの旅行によって、三人は同国の土地に関する知識を深め、多くの道に通じるようになった。また、コルサールの農業をうけもち、鉱山や硝石層や炭焼きにたずさわっている原始的な部族の風俗習慣もおぼえた。
コルサール人はすべてコルサールの市内に住み、人口は約五十万だということを知るには長くかからなかった。あらゆる労働は奴隷によってまかなわれているので、十五歳以上のコルサール人の男子はすべて兵役につけるよう仕事を持たず、また十歳から十五歳までの男子も実質上同様だった。兵役には訓練期間がふくまれていて、その期間中にかれらは航海術や、海賊行為や、侵略術などありったけのことを教えこまれる。ペルシダーの平和にとって、コルサール人の兇暴性がその数よりも脅威なのだということをデヴィッドはさとった。だが同数の船と兵をもってすれば、打破できるという確信はある。デヴィッドは、みずからこの危険な任務にのりだしてきてよかったと思った。コルサールの周辺を踏査すればするほど、脱走が可能だという自信が強まってきたからだ。
コルサール人は、土着の野蛮人から土地をまきあげ、実質上奴隷として使役していたが、原住民たちはあまりにも知能程度が低いので、兵隊として、あるいは戦士としてうまく利用することは絶対に不可能だとデヴィッドは確信していた。かれらはコルサール人の十倍も人数が多く、デヴィッドに情報を提供してくれるコルサール人の話によると、かれらの部落は広大な奥地にまでひろがり、そのまた奥は人跡未踏だということだ。
原住民自身、荒涼たる不毛の無人地帯にある北方の寒い国について語っているし、また、山野や森が東と東南の方角にむかってのび、かれらの口をかりていえば、〈モロプ・アズの岸〉までつづいているとのべている――モロプ・アズ――それは、ペルシダーの伝説にある炎の海のことで、その上にペルシダーの陸地が浮かんでいるという。
陸地が南と南東の方角に切れ目なくつづいているというこの原住民の信念は、コルサールがサリと同じ大陸上にあるというデヴィッドの確信を強めた。そしてこの確信は、コルサールの岸に足をつけた瞬間に三人が感じた明確かつ完全な土地勘によってさらにうらづけられた。いや、三人というよりも、むしろ生粋のペルシダー人であるタナーとジャが感じた、といおう。というのも、デヴィッドはこの帰巣《きそう》本能に恵まれていないからだ。もしも厖大な広さの海が故郷からかれらをへだてていたら、この二人のペルシダー人はサリの方角についてこれほど確固たる自信をいだくことはできなかったろう。それは二人にもはっきりとわかっていた。
都市をでて、あっちこっちと旅をかさねるうちに、フィットの警戒はゆるんできた。それで三人はときどき自分たちだけで人里離れた奥地にいることがあった。
くり返しステララの拒絶にあって傷ついたタナーは、なんとかして自分は彼女を愛していなかったのだと思いこもうとした。彼女が冷酷非情で不実な女だと信じこもうと努力した。だがそうすることによってますます自分がみじめになるばかりだった。もっとも、そんなことは二人の友人の前ではおくびにもださず、かれらと同じように脱走計画をねることにせいをだしてはいたが。愛するひとのそばを永遠に去ることを考えると、苦悩に胸をしめつけられる心地だった。たとえ居残ったとしても会える望みはまったくといってよいほどないというのに。それというのも、ステララとバルフが近々結婚式をあげるという噂が、かれが宿泊している兵舎で昨今取沙汰されているからだ。
かれにあてがわれた部屋の窓からは、エル・シドの庭の一部が見晴らせた――自然をとりいれた非常に美しい庭で、木々や花や灌木が砂利をしきつめた小道をふちどり、小さな池や小川が陽光を受けてキラキラと輝いていた。
タナーはめったに部屋にいなかったし、たまにいても、壁のむこうの庭には普通はなにげなく注意をむけるだけで、それ以上のこともなかった。ところがあるとき、鉄鉱山を視察してもどった後、ただ一人悲しい思いを抱いて窓台に腰をかけ、美しい風景をじっと見おろしていると、一人の少女の姿が注意をひいた。少女は砂利をしきつめた小道を通ってほとんど真正面にあらわれた。かれの窓のほうを見あげながらやってくるその目とかれの目がばったりであった。グーラだ。
指を唇の前に立てて声をたてないようにと注意してから、すばやくかれの窓に近づけるだけ近づいた。
「庭をめぐる壁に門があるのです。あなたの宿舎のむこうのはずれです」グーラはかれの耳にとどくだけの小声でささやいた。「そこへすぐに来てください」
タナーはなにもきかずにとびだした。グーラの口調にはうむをいわせぬところがあった。彼女の態度全体が危急をつげている。一階への階段をおりたタナーは建物を出てそろそろと歩いて兵舎のはずれにむかった。かれの周囲にはどっちを見てもコルサール人がいたが、みなかれをみなれていたし、かれもゆっくりと自然な歩調をたもっていたのでだれも疑惑をおこさなかった。兵舎の端を過ぎて、庭の壁にはめこまれたがんじょうな板張りの小さな扉のところへ出た。その前までくると、扉がさっと開いた。タナーはすばやく庭の中へはいり、グーラがその後で間髪をいれずに扉をとじた。
「とうとう成功したわ」少女が叫んだ。「でも絶対にだめだろうと思った。フィットがあなたをエル・シドの宮殿からつれ去ってから、一生懸命になってあなたに会おうとしたわ。奴隷の一人にあなたが兵舎のどの辺にいるのか聞きだして、それ以来、自由な時間にはいつもあなたの窓の下に来ていたの。これまでに二度あなたを見かけたけど、注意をひくことはできなかった。それが今やっと成功したのよ。たぶん手遅れでしょうけど」
「手遅れ? それはどういうことだ。何が手遅れなんだ?」
「ステララを救うには手遅れなのよ」
「ステララが危険なのか?」
「バルフと結婚式をあげる準備は終わったわ。彼女としてもこれ以上あんまり長くはひきのばせないでしょう」
「彼女がなぜ式をひきのばしたがる? 自分が選んだ男にご満足じゃないのか?」
「あなたもほかの男性と同じね。女心に関してはバカなんだわ」グーラが叫んだ。
「ぼくは彼女がいったことをおぼえているぞ」
「あれだけいっしょにいたくせに、あんなに大切なひとだったのに、そのひとがほかの男を愛していたなんて信じられて?」
「つまりきみは彼女がバルフを愛していないというのか?」
「むろん、愛してなんかないわ。バルフはいまわしいけだものよ」
「で、ステララはぼくを愛しているんだな?」
「ほかのだれもぜったいに愛したことはないわ」
「それじゃ、なぜぼくをあんなふうにあしらうんだ? なぜあんなことをいうんだ?」
「嫉妬してたのよ」
「嫉妬? だれを?」
「あたしを」グーラは目を落していった。
サリ人は目の前に立っている黒髪のハイムの少女をぽかんとしてながめた。彼女のほっそりとした身体、肩を落して消え入りそうにしているようすにかれは目をとめた。「グーラ、かつてぼくはきみに愛を語ったことがあるかい? ステララにも、またほかのだれにも、ぼくがきみを愛していると信じさせるようなことをしたかい?」
彼女は首をふった。「いいえ。それであたしはステララの考えに気がついたとき、そのことを話しました。あなたがあたしを愛していないということを話すと、とうとうあのひとも納得して、あたしにあなたをさがしだしてあなたを愛しているとつたえてほしいと頼んだのです。でも、あたし自身からもいいたいことがあるの。サリのひと、あたしにはあなたのことがわかるわ。あなたはコルサールの捕虜としておめおめここに残るつもりはないでしょう。いずれは脱走するわね。そのとき、ステララをつれていってほしいとお願いにきたのよ。あのひとはバルフの妻になる前に自殺するわ」
「脱走」タナーは考えこんだ。「エル・シドの宮殿のどまん中からどうやってそんなことができる?」
「それは男の仕事よ。方法を考えだすのはあなただわ」
「そして、きみは? きみはいっしょに来たいかい?」
「あたしのことは考えないで。ステララとあなたが逃げることができたら、あたしはどうでもいいの」
「よくはないさ。きっときみだってコルサールにいたくはあるまい」
「ええ、コルサールに残りたくはないわ。エル・シドがどうやらあたしに気があるようだから、なおのことよ」
「ハイムに帰りたい?」
「こんなふうにちょっぴりでも幸福をあじわったあとでは、スカーヴの洞穴の中の生活にもどることはできないわ。あそこの生活は争いや憎しみや、不幸の連続よ。もしもあたしがハイム人と結婚したら、同じことが別の洞穴でつづけられるだけでしょう」
「それじゃいっしょに来たまえ」
「ああ、そうできたらどんなに!」グーラは叫んだ。
「それで話はきまった」タナーが叫んだ。「われわれといっしょにサリに来たまえ。サリについたら、きみにもいつでも平和と幸福が見出せると思うよ」
「まるで夢みたいなお話ね」少女はあこがれるようにいった。「きっとその夢からさめたらスカーヴの洞穴にいるんだわ」
「いっしょにその夢を実現するんだ。さ、これからきみとステララをエル・シドの宮殿からどうやったらいちばんうまくつれだせるか、工夫しよう」
「そんなにかんたんにはいかないわよ」
「そう、こんどの脱出でいちばんむずかしいのはそこだ」サリ人は同意した。「だがやってのけるまでだ。大胆な計画ほど成功の公算は大きいだろう」
「それも今すぐでなきゃ、だめ。結婚式の準備はととのったし、バルフは早くいっしょになりたくてうずうずしているのよ」
タナーはしばしそのまま考えこんだ。せめて実現できる可能性に似たものでもふくんでいそうな計画をひねりだしたかった。「今すぐステララをここへつれてこられるかい?」かれはグーラにたずねた。
「ええ。もしもあのひとが一人きりなら」
「それじゃ行ってつれてきて、ぼくがもどるまでここでいっしょに待っていてくれ。合図は低い口笛だ。聞こえたら門の掛金をはずしてくれたまえ」
「できるだけ早くもどります」グーラはいった。そしてタナーが扉をくぐりぬけて兵舎のほうの庭にはいると、その後で門をとじ、掛金をかけた。
サリ人は周囲を見まわして、かれが庭からあらわれるのを明らかにだれも見ていなかったことがわかると、ほっとした。来たときのように宿舎の正面にそってもどるかわりに、こんどは逆の方角をとり、じかに宮殿の主要門めざして進んだ。こういう計略を思いついたのには今一つ別の動機があった――主要門を誰何《すいか》されずに通過できるかどうかためしたかったのだ。
タナーはかれをとらえた一族の服装をしているわけではない。野蛮な戦士がしているように、わずかなものを身にまとい、かんたんな装飾品をつけているだけだったので、依然として人目をひいていた。すでに、かれが往き来する姿は、宮殿の庭やそのむこうのコルサール市の通りでは名物になっていた。しかしこれまで一度も宮殿の門を一人で通ったこともなければ、いつもいっしょにいるフィットのつきそいなしで通ったこともなかった。
門に近づいても足を早めず、かといってぶらぶらするわけでもなく、ただ一様の歩調となにげない態度をたもって歩きつづけた。ほかにも出入りしているものがあって、当然タナーはそういった連中よりもじろじろと番兵に見られたが、ほどなく気がついたときにはエル・シドの宮殿を出て、コルサールの通りにいた。
目の前には、今では見なれた日常風景があった――せまいごみごみした通り。小さな露店というか、市場が片側にならび、派手なスカーフと帯《サッシュ》のコルサール人が肩をいからせて歩き、奴隷たちは重い荷物をせおって往き来している――市場むけの野菜や、猟の獲物が奥地からとどく一方では、梱《こおり》づめのなめし皮や塩など、原住民の単純な好みにあわせた商品が都市から奥地へむけて運びだされるのだ。かずある梱のうちには、大きさも目方もかなりのものがあって、二本の棒の上にのせ、棒のそれぞれの端をかついで四人がかりで運んでいた。
新しい侵略にそなえて出航準備中の船隊に、食糧や弾薬を運ぶ奴隷が列をなしてつづき、また、別の一列は都市の前の河に最近停泊したばかりの船の船倉から戦利品を運びだしていた。こういった人々の動きは見るからに雑然とした光景をていしていて、商人が呼び売りする声や、これから買おうという買物客が交渉するかん高い声がさわぎに輪をかけていた。
ごったがえす群衆を肩でおしわけて、サリ人はひき返した。そして宮殿の敷地への入り口になっている別の門にむかった。それはまがりくねった細長い兵舎の建物のむこうの端にあって、かれがもっとも頻繁に出入りしている門だったので、通りぬけてもちらと一暼されただけだった。いったん中へはいると、ただちに足を早めてデヴィッドのいる宿舎にむかった。デヴィッドもジャもいた。時をうつさずタナーは、エル・シドの庭園を出てからここまでの間にねってきた計画を披露した。
「そこでですね、わたしの計画に同意していただく前にはっきりさせておきたいことは、あなたがたがもしも成功の見込みがあまりにも薄いと感じられるなら、わたしは行動をともにしていただこうと思っていないということです。ステララとグーラを救うことはわたしの義務であり、同時に望みでもあるのです。でも、わたしにはお二人の脱走計画をあやうくするようなことをしていただくことはできません」
「きみの計画はよくできているよ」デヴィッドが答えた。「たとえよくできているとまでいかないまでも、これまで提案された中では最良の計画だ。それから、きみやステララやグーラを見捨てるということについてだが、もちろんそんなことは討議の対象にもならないよ。われわれはきみたちとともに行こう。これはわたしの意見であると同時にジャの意見でもあると思うが」
「そういってくださると思っていました」サリ人はいった。「ではさっそくこの計画をためしてみましょう」
「よかろう」デヴィッドがいった。「行ってきみの買物をしてきたまえ。それから庭園にもどるのだ。ジャとわたしとはただちにわれわれの役割を実行にうつすからね」
三人はすぐさま兵舎のはずれにある通用門にむかった。三人が通りぬけようとすると、当番のコルサール人がよびとめた。
「どこへ行く?」
「町へ買物にいくところですよ。これまでよりもさらに奥地へ新しい鉄の鉱床をさがしに長旅をするのでね」
「で、フィットはどこだ?」門番の隊長がたずねた。
「エル・シドがお呼びなんで行きましたよ。かれがいない間にわたしたちは必要な準備をととのえるのです」
「よし」あきらかに男は納得したようすでいった。「通ってよいぞ」
「身のまわりの品を取りに運搬人をつれてすぐにもどります」デヴィッドがいった。「それから旅装をそろえるためにもう一度でていきます。あなたがここにいない場合でもわれわれが通過できるようことづてをしておいてくれませんか?」
「おれはここにいる」男はいった。「だが、いったい奥地へ何をかつぎこもうってんだ?」
「われわれは、コルサールのさいはての国境を越えて、その先までも旅をしなくてはならないかと覚悟しています。そこの原住民は、エル・シドのことも、かれの威信についてもほとんど知りません。だからわれわれは食糧や交易のための物品をもっていく必要があるのです。ほしいものと物々交換するためですよ。ほしいものを力ずくで手にいれるにはわれわれ一行の人数がたりませんからね」
「なるほど」男はいった。「だがそれにしても、エル・シドがほしいものを手にいれるのに、マスケット銃やピストルをよこさずに交易したりして、そんな野蛮人どもを増長させるなんて変だな」
「いかにも」デヴィッドがいった。「変ですな、これは」そして三人はスタスタと通りへでていった。
門をでるとデヴィッドとジャは右に折れて市場にむかった。一方タナーはただちに通りを横切って、むかい側にならんでいる店の一軒にとびこんだ。ここでかれはよくなめした皮の大きな袋を二枚買いこみ、すぐさま宮殿の中にとってかえし、ほどなく庭園の門の前にくるとかれが到着したことを女たちにつげる合図の口笛を低く鳴らした。
ほとんど間髪をいれずさっと門が開いて、タナーはすばやく中へはいった。グーラはかれの背後で扉をとじた。気がつくとタナーはステララとむかいあって立っていた。ステララの目は涙にぬれ、唇は感動を押しころしてわなないている。サリ人は両腕を広げて女をひしとだきしめた。
コルサールの都市の市場では、露天の大広場で、奥地から来た原住民たちは、農産物や狩猟でしとめた獲物の生皮や生肉を、もってかえりたいと思うかんたんな必需品と交換する。
農民は葦《あし》であんだ大きな籠に野菜をいれ、草の葉や茎でしばって運んでくる。こういった籠はふつう一辺が一メートルあまりの大きさで、荷が軽いときは二人が一本の棒を通してかつぎ、重いときは棒を二本通して四人がかりで運んでいる。
デヴィッドとジャは、籠がからになってあきらかに市場から帰るしたくをしている一組の男たちに近づいていった。それから数組のものに質問をしたのち、デヴィッドとジャはコルサールのほぼ真北のかなり遠い部落に帰る二人の男を見つけだした。
エル・シドの命令で、フィットは、調査や実験に必要な買物ができるようにと、かれの担当する三人の囚人にコルサールの金《かね》をたんまりもたせてあった。
コルサールの金というのは金貨で、大きさも目方もさまざまだが、片面にエル・シドのつもりらしい肖像が、そして裏面にはコルサールの船が不器用にきざまれてあった。コルサールとその周辺では、もうひさしい間金貨が通貨として用いられてきたので、遠隔の部落や種族の原住民の間でさえ通用していた。そんなわけで、デヴィッドはなんなく八人の運搬人と二つの籠をやとうことができた。最低限かれらの部落まで荷を運んでくれることになったのだが、かれらの部落は実際のところデヴィッドがかれらを利用して運ばせようと考えていた地点よりもはるかに遠いところにあった。
男たちと荷物運搬の相談を終えると、デヴィッドとジャは先にたって宮殿の門にひき返してきた。例の隊長はうなずいて通してくれた。
兵舎の正面ぞいに、そのむこうのはずれまで進みながらかれらが恐れたことはただ一つ、それはフィットがエル・シドとの会見からもどっていないかということだった。もしもかれがもどってきて一行を見つけ、訊問でもされたら一巻の終わりだ。かれらの宿舎の入り口に近づいたときには、ろくろく呼吸もしていなかった。そこはフィットの宿舎でもあったからだ。
だが、会わずじまいに戸口を通過し、庭園のかこいの扉にむかって足を早めた。そこまでくると一行は止まり、二人は運搬人に、籠を戸口のすぐそばにおくよう指図した。デヴィッド・イネスが口笛をならした。と、扉がさっと内側に開き、タナーの号令一下、八人の運搬人は中へはいった。そして門のすぐ内側にあった二個の包みをもちあげ、かこいのこちら側においてあった籠に一個ずつ入れた。蓋がとじられ、奴隷たちがふたたび荷をかつぐと、一行は方向を転じて、今しがた運搬人がからの籠をかついで通ってきた宮殿の門にひき返した。
フィットが帰っているかもしれないという不安が、今一度デヴィッドの心臓を冷やしたが、出あうこともなく、宿舎を通りすぎて門に到達した。ここで一行は門番のコルサール人に止められた。
「早かったな」門番はいった。「で、その籠の中には何がはいってるんだ?」かれは一つの籠の蓋をあけた。
「ほんの身の廻り品だけですよ」デヴィッドがいった。「こんどもどってきたときには装備いっさいをもっていきます。一度に全部検査しますか?」
コルサール人は籠の底の皮袋を見おろして一瞬返事をためらったが、やがて「よかろう、一度に検査することにしよう」そういってバタンと蓋をとじた。
すでに三人は心臓のすくむ思いだったが、門番の隊長に話しかけるデヴィッドの声には平素とことなる感情はまったくあらわれていなかった。「フィットが帰ってきたら、わたしがぜひ会いたいといっていたとつたえて、わたしたちがもどるまで宿舎で待っていてくれるようにたのんでおいてください」
コルサール人は不愛想にうなずいて、門を通れと合図した。
門をでると、デヴィッドはせまい通りを市場のほうへ一行をみちびいた。そしてそこからいきなり左へおれて、うねうねとまがりくねった路地をつたい、宮殿に面した道と平行している今一つの道をおりかえし北にむかった。この道筋は店も貧弱で交通も少なく、運搬人たちはすみやかに進むことができて、ほどなく一行はコルサールの都市を通りぬけてそのむこうの広々とした土地へ出たのだった。それからさき、三人はおどかしたり、金貨を追加してやると約束したりして運搬人をせきたてて威勢よくかけさせ、へとへとになって止まらなくてはならなくなるまでその勢いでとばさせた。そして食事をとってちょっと休憩すると、ふたたび出発した。コルサールのはるか北方、山のふもとになだらかに起伏する丘陵の森林地帯に達するまでペースを落とさなかった。
森の奥にはいると、運搬人たちはその場で荷をおろし、休息をとるために地面にごろりと横になった。一方、タナーとデヴィッドは籠の蓋をはねあげて皮袋の口を厳重にしばってあった丈夫な皮紐をとき、中身をあらわにした。なかば窒息しかかり、しびれた四肢をほとんど動かすこともできない状態のステララとグーラが籠からだきあげられ、あっけにとられて見とれている運搬人たちの前に姿をあらわした。
タナーは運搬人たちにむき直った。「おまえたちはこのご婦人がだれだか知っているか?」
「いいえ」一人が答えた。
「エル・シドの娘、ステララだ」サリ人はいった。「おまえたちは彼女を父親の宮殿からぬすみだす手伝いをしたのだぞ。もしもつかまったらどういうことになるか、知っているかね?」
男たちはいかにも恐ろしそうに身ぶるいをした。「籠の中にはいっているとは知らなかったんだ」一人がいった。「われわれになんのかかわりもない。ぬすみだしてきたのはあんたがただぞ」
「もしもつかまったとして、われわれがおまえたちにしはらった多額の金貨のことを話したら、コルサール人どもはおまえを信じるかな?」タナーが問いかけた。「否だ。やつらはおまえたちを信じてはくれまい。そうなったらおまえたちの運命がどうなるか、わたしから話すまでもなかろう。だがわたしのいうとおりにすれば無事にすませる方法はある」
「どうすればいいのです?」原住民の一人がたずねた。
「めいめいに籠を持って、急いで部落に帰り、おまえたちのしたことをだれにも話すな。命のあるかぎりだぞ。よいな、妻にも話すな。だまっていさえすればだれにも知れることはない。われわれはしゃべらないからな」
「けっしてしゃべりません」男たちはいっせいに叫んだ。
「お前たち同士の間ですら、そのことを口にするんじゃないぞ」デヴィッドが警告した。「木にも耳ありだ。もしもコルサールが部落へやってきておまえたちを訊問したら、三人の男と二人の女がコルサール市の境界のすぐむこうを東にむかっているのを見たといえ。それからこういうのだ。遠すぎて見わけはつかなかったが、おそらくエル・シドの娘とそのつれの女性と、それから彼女たちを誘拐した三人の男ではないかと思うとな」
「おっしゃるとおりにします」運搬人たちは答えた。
「では行け」デヴィッドが命じると、八人の男たちはそそくさと籠をまとめて、森の中を北にむかって姿を消した。
女性二人が休養をとり、回復して旅をつづけられるほどになると、一行は再出発した。最初わずかの間、東に針路をとり、それから今一度北に方向を転じた。東ないしは南にむかうよりは、むしろ北に進んでコルサール人をまこうというのがタナーの計画だった。のちほど東に転ずればよい。コルサールはずっと北のそのあたりをしらみつぶしに捜索するかもしれないと予想されるし、それに、また何行程も進んでからもう一度南に針路を変えればよいのだ。遠まわりではあったが、それがもっとも安全と思われた。
森の木々は松や杉に変わり、ねじれ、いじけた木々がぽつぽつと点在する吹きさらしの荒野も何カ所かあった。大気は、かれらがかつて故郷では味わったことがないほど冷えびえとしていて、北風が吹くときなどは、ごうごうと燃えさかる焚火をかこんでふるえていた。出あうけものの数はしだいに減少し、ふさふさした毛なみをしているようになった。人の気配はどこにもない。
あるとき、キャンプを張ろうと休止したところ、タナーが目前の地面をさしてデヴィッドにむかって大声でいった。「ごらんなさい! 影はぼくの真下にあったのに」それから上を見あげて、「太陽が頭の上にないんですよ」
「そのことなら気がついていたよ」デヴィッドが答えた。「その原因を解明しようとしているところなんだが、コルサールの伝説に助けを借りればなんとかわかるだろう」
進行につれて一同の影はますます長くなり、太陽の光と熱はしだいにおとろえていって、ついには寒さのたえない薄明の中を進むことになった。
すでにかなり前からやむなく暖かな衣服を、たおしたけものの毛皮で作らなくてはならなくなっていた。タナーとジャとは南東にひき返したがった。不思議な帰巣本能が故国のある方角にかれらをひきつけるのだ。しかしデヴィッドは、今少しさきまで同行してくれるようかれらにたのんだ。というのも、かれの頭にはすでに驚異的な理論が展開していて、それがあやまっていないという証拠をいちだんと強固なものにするために、今少しさきまでおし進みたかったのだ。
眠るときにはごうごうと燃える火のそばに横になったが、あるとき、目がさめてみると冷たく白いものがかれらをふんわりとおおっていてペルシダー人を仰天させた。だがデヴィッドにはそれが雪だということがわかっていた。空中には微小な粒がいっぱい舞っている。今では毛皮の帽子や頭巾《ずきん》をかぶり、手には暖かな手袋《ミトン》をはめていたから、あと顔の露出している部分に風がしみた。
「こっちの方角にはこれ以上あんまり進めませんよ」ジャがいった。「さもないとみんな行き倒れてしまう」
「たぶんきみのいうとおりだ」デヴィッドがいった。「きみたち四人は南東にひき返してくれたまえ。わたしは今少し北のほうに進もう。そしてわたしの信じていることが真実だということをつきとめて得心したら、きみたちに追いつくよ」
「いけません」タナーが叫んだ。「われわれもいっしょに残りますよ。あなたの行くところへわれわれも行きます」
「そうですとも」ジャがいった。「あなたを見捨てるものですか」
「では、北へもうちょっとだけ進もう」デヴィッドがいった。「それでわたしもふんぎりをつけて、きみたちといっしょにひき返すよ」
というわけで一同は雪におおわれた大地を一歩一歩進んでいった。薄闇はさらに深まり、ペルシダー人の魂を恐怖のとりこにした。だがしばらく行くと風向きは変わって南風となり、雪がとけて大気はふたたびさわやかになった。そこをさらに進むと、薄闇は徐々に晴れて明るさがますようになった。とはいえ、ペルシダーの太陽はかれらの背後でもはやほとんど見えないまでになっていたが。
「どうもわからん」ジャがいった。「太陽はわれわれのはるか後方にあるというのに、どうしてまた明るくなってきたんだ?」
「ぼくにはわかりませんよ」タナーがいった。「デヴィッドにたずねてください」
「わたしにはただ憶測するしかないし」と、デヴィッドはきりだした。「それにその憶測たるや、あんまり突拍子もないので口にするのもはばかられるほどなんだよ」
「見て!」ステララが前方をゆびさして叫んだ、「海よ」
「ほんと。灰色の海だわ、水には見えないわね」とグーラ。
「それからあれはなんだ?」タナーが叫んだ。「海の上にものすごい火があるぞ」
「それにこの海は沖で上むきにカーヴしていないわ」ステララが叫んだ。「この国ではなにもかもが変よ。あたしこわい」
デヴィッドはたちどまって前方の深紅の輝きに見とれていた。
「あれはなんです?」ジャがたずねた。
「天に神がましますごとく、あれはまさしく|それ《ヽヽ》にちがいない」デヴィッドは答えた。「とはいうものの、|それ《ヽヽ》であるはずがないということもわたしにはわかっているのだ。どだいこんな考えはばかげている。不可能で奇怪きわまることだ」
「でも、いったい何なんでしょう?」ステララがたずねた。
「太陽だよ」デヴィッドは答えた。
「でも太陽はあたしたちの後ろにほとんど見えなくなっているんですよ」グーラが注意した。
「わたしがいうのはペルシダーの太陽ではない。地上世界、わたしがもといた世界の太陽のことだ」
他の者は畏怖《いふ》の念にうたれて言葉もなくたたずみ、灰色の大海原に浮遊しているように見える、血のように紅い円盤の縁を見まもっていた。朱に染まった海面をつっきって、緋と金色に輝く一筋の道が、波打ちぎわから燃えたつ球体にかけてつづき、海と空とはあたかもそこでまじわっているかのように見えるのだった。
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十五 狂気
「もうここから先へは行けないわね」ステララがいった。たしかに彼女のいうとおりだった。東にも西にも北にも陰鬱《いんうつ》な大海が広がり、足もとの海岸線にはいくつもの氷塊が陰鬱な咆哮《ほうこう》とともに浮き沈みしている。激しく流動する塊は波にもまれて轟音をたてる。
ペルシダー皇帝デヴィッド・イネスは、長い間そこに立ちつくして荒涼たる大海原の広がりをじっとながめていた。「このむこうには何があるのだろう?」かれはひとりつぶやいた。が、やがて頭をふりながら、踵を返していった。「さあ、サリへ帰ろう」
つれの者たちは歓声をあげてかれのことばをむかえた。愛する真昼の太陽を後に残してきたことに気づいたそのときから、かれらは不安そうに顔をゆがめて半べそをかいていたが、いま微笑がそれにとってかわった。
足取りも軽く、笑いさざめき、冗談をとばしながら一行は前途にまちうける長い困難な旅路にむかった。
北の海からひき返して第二の行程を進行中のこと、グーラが一行の左に奇妙なものがあるのを発見した。
「一風変わった原住民の小屋というふうにも見えるけど」彼女はいった。
「しらべてみよう」デヴィッドがいって、五人はその奇妙なもののかたわらに近づいていった。それは柳の枝で編んで作った大きな籠で、草一つない土地の上にさかさになっていた。朽ちたロープの名残りがあたり一帯に落ちている。
デヴィッドの発案で、男たちは籠を横むきに起こした。絹油布《オイルシルク》と丈夫なロープで作った網がたいして朽ちもせずに残っているのがその下から発見された。
「なんですの?」ステララがたずねた。
「軽気球の釣り籠と、それからガス袋の残骸だ」デヴィッドがいった。
「軽気球って? それがどうやってここへ?」ステララがたずねた。
「軽気球の説明ならできるが、しかしどうやってここへ来たかということになると、どうもね。わたしの憶測が正しいという自信があったら、その解答をとっておいて、地上世界の人々が長年のあいだ頭をひねってきた数々の疑問に答えてやるのだが」
かれは長い間|黙然《もくねん》とたたずんで風雨にさらされた釣り籠を見つめていた。考えに没頭していたので他のいっさいのことは念頭から消えていた。
「わたしにわかりさえすればなあ」かれは黙想にふけった。「わたしにわかりさえすれば。ほかにどうやってここへくることができる? あの水平線の赤い円盤は、北極圏の真夜中の太陽でなくてなんだというのだ?」
「いったい何をぶつぶついってるんです?」グーラがたずねた。
「かわいそうなやつらだ」明らかに少女の存在を忘れてデヴィッドは想念を追った。
「夢のまた夢にあこがれたそれよりも、さらに偉大な発見をなしとげたというのに。生きながらえてその目でたしかめることができたのだろうか」かれはおもむろに帽子をとり、釣り籠にむかって頭《こうべ》をたれた。するとつれの者も、なんとも説明しがたい不思議な気持におそわれて脱帽し、かれにならった。旅を再開してからも、デヴィッド・イネスはあのわびしい残骸からうけた感銘を脳裏からなかなかはらいのけることができなかった。それはこの世でもっとも壮烈な悲劇の一つの名残りだった。
一行は、かれらに生気をあたえてくれるなじみ深いペルシダーの暖かいふところに到達したい一心から、休むひまもおしんで南にむかって強行軍をつづけた。ふたたびかれらの真下に影がうつるようになってはじめて心底から満足感を味わったのだった。
サリは南の方角からわずかに東よりにあったので、北からのもどり道には最初コルサールから北上したのとは異なる行程をたどることになった。むろんペルシダー人たちは北とか南とかいうような羅針儀の方位を知らなかったし、デヴィッド・イネスでさえ方角にかんしては地上世界でなじんできたそれよりも、むしろペルシダー式の感覚が頭にあった。
当然ながら、太陽はつねに中天にあって、星もなければ月も惑星もないので、ペルシダー人は方角をしめすのにわれわれが用いているのとはちがった方式を編みださざるをえなかった。かれらは本能によって故国の方角を判断する。そして各自がこれを基準線としてあらゆる方角を割りだし、単純かつ独創的な方法でしめすのだ。
かりに、あなたがサリの出身で、コルサールの北方の、氷でかこまれた海から、ペルシダーのどこかの地点にむけて旅しているのだとしよう。するとあなたは次のような方法で進路を決定し、それをたもちつづけていくことになる。まず、右手を前にのばし、指をひろげる。そして掌を下にむけて、小指がサリの方角――あなたが本能でわかっている方角――をさし、親指が小指のさす方角と直角をさすようにする。次に左手を同様にひろげ、小指が右手の小指の上にぴったりかさなるように右手の上にかさねる。
これで両手の指と親指が一八〇度の弧にわたってひろがっていることがわかるだろう。
サリは、コルサールの南東にあり、一方、〈恐ろしい影の国〉は真南にある。したがってサリ人は、〈恐ろしい影の国〉の方角をさしてこういう、自分は〈サリから左の指二本の方角に進んでいる〉と。なぜなら左手の中指はほぼ真南をさしているからだ。もしもその反対の方角つまり北に行く場合は、これにただ〈後〉という言葉をくわえて、〈サリから左手の指二本後の方角に進んでいる〉という。この方法でいけば羅針儀のどの方位も大ざっぱにふくまれるし、原始的なペルシダー人にしてみれば、これで必要に応じてあらゆる場合に充分正確な解答が得られるわけだ。既定の基準線から右の方向に進むのに左手のことをいうのは、最初のうちはまぎらわしくて面倒だと思われるかもしれないが、むろん長年の間この方式にしたがってきたペルシダー人にはきわめて明瞭なことなのだ。
一行は、コルサールの都市がサリから右手の指三本後の方角にあたる地点まで到達した。つまり実際にはコルサールの都市の真東にきたわけだ。そこはけものがうようよいる亜熱帯の肥沃な土地だった。男たちは槍や弓矢や短剣のほかにピストルで身をかため、ステララとグーラは軽便な槍と短剣を身につけていた。一行は太古の森林をぬけ、緑につつまれた丘や、起伏する野をこえて進んだが、どの行程においてもこれらの場所に住む兇暴な野獣に出あわないということはまずなかった。
コルサール人に追跡されたり、つかまったりする心配はとっくになくなっていた。コルサール人が領土としている辺鄙《へんぴ》な奥地の境界線を通ったときには、何人かの原住民に一、二度遭遇したこともあったが、支配階級のものには出会わなかったので、敵の手中におちて以来、はじめてかれらは文句なしの自由をあじわったのだった。地上世界の人間には、かれらの道程につきまとうその他諸々の危険が恐ろしいと思えるかもしれないが、五人のうちだれ一人としてそんなふうに思うものはなかった。これまでの人生経験が、かれらをあくまでも独立心に富んだ人間にしたてあげる一方、つねに警戒をおこたらずにいながらも将来おこるかもしれない災厄をものともしないだけの人間にきたえあげていたのだ。危難が不意にかれらの行く手にたちふさがったときにも、それに対処する用意はできていたし、危難が去ったのちにも、次にくる危難を予想して意気消沈するというようなことはなかった。
ジャとデヴィッドとは、妻のもとに帰りたい一心だったが、タナーとステララは二人いっしょだったのでこのうえなくしあわせだった。そしてグーラはといえば、ただタナーのそばにいられるということだけで満足していた。ときには兄のバラルのことを思いだすこともあったが、それはバラルが彼女にやさしかったためで、それに反してスカーヴとスルーとドゥングのことは忘れようとつとめていた。
こうして幸福な一行が、喜々として前進をつづけていたとき、まさに青天の霹靂《へきれき》のごとく災厄がおそいかかったのだ。
それは一連の、岩のごろごろした低い丘をこえていたときのことだった。せまい峡谷を通ってかれらはサリの側にくだっていたが、一つの丘の肩部をまわったところでコルサールの大軍に正面きって遭遇してしまった。相手は優に百人。リーダーたちはたちまちこっちの正体をみやぶってどっとときの声をあげた。部下のものもいっせいにそれにならった。
先頭にいたデヴィッドは抵抗しても無駄だとさとった。即座にかれの方針は決まった。「みんなばらばらになるんだ」デヴィッドはいった。「タナー、きみとステララはいっしょに行け。ジャ、きみはグーラをつれていくんだ。わたしはまた別の方角をとる。全員がつかまってしまってはならないからだ。せめて一人は逃げてサリにもどらなくてはならない。もしその一人がわたしでなかった場合だが、この場をきりぬけた者はガークとペリーにこう伝言するのだ。ペリーにはこうだ。わたしはペルシダーに通じる孔が地上世界の極地にあることを発見したと確信している。万一、地上世界と通信ができるようなことがあったら、その相手にこの事実をつたえなくてはならない。それからガークには、急遽かれの軍隊を海路コルサールへ派遣するようにとつたえてくれ。陸路も同様だ。では、さらば。めいめい気をつけて行けよ」
五人はその場で方向を変えて峡谷をさかのぼって逃げた。かれらはコルサール人よりはるかに活発で敏捷だったから、みるみる敵をひきはなした。マスケット銃の銃声がかれらのあとを追い、鉄片や石があたりに落下したり、かすめていったりしたが、だれにも命中しなかった。
タナーとステララは右手にけわしい涸谷《かれたに》を見つけてそれをのぼり、それとほとんど同時にジャとグーラは左に転じて干あがった水路をのぼっていった。一方デヴィッドは、今までどおり峡谷の本筋をのぼっていった。
あと一息で頂上につき、安全圏にはいるという段になって、タナーとステララは切り立った崖が行く手をはばんでいるのを発見した。高さはせいぜい五メートルどまりというのに、どうにものぼりようがない。けわしい涸谷の側面には右にも左にも足がかりになるようなものは見あたらない。崖を背に二人がこの袋小路に立ちつくしているところへ、二、三十人のコルサール人の一隊がふうふういいながらのぼってきて退路も遮断してしまった。身をかくす場所もなく、見えるまでに近づいた最初の敵の前に姿をさらけだして、ただその場につっ立っているしかない。すでに自由を掌中におさめていながら、かくて二人はみすみすコルサール人の手にふたたびおちたのだった。タナーは無抵抗に投降せざるをえなかった。敵に発砲させてステララの生命を危険にさらすことはとうていできなかったからだ。
多くのコルサール人は、タナーを即座に殺したい意向だった。が、指揮官が禁止した。いかなる逃亡者といえども再度つかまえた場合は生きたままつれもどせというのがエル・シドの命令だったからだ。「そのうえ」と、指揮官はいいたした。「このサリ人を生きたままとりもどしたいと、バルフがえらくご執心だからな」
長途の旅をつづけてコルサールにひき返す途中、タナーとステララは、この一行がかれらを捜索するためにエル・シドが派遣した数個の分隊の一つだということを知った。エル・シドは、娘を救出して、彼女を誘惑したものを捕えるまでは決して帰ってくるなと命じていた。また、一行のコルサール人たちは、エル・シドが捕虜を生きたままつれもどせと主張する唯一の理由は、かれとバルフが捕虜にたいしてその罪にふさわしい死をあてがいたいと希望しているからだという事実を二人の頭にしみこませた。
コルサールへの帰途、長旅の間中、タナーとステララはおおむね別々にはなされていた。もっとも、二、三の言葉をかわす機会は数回あった。一度、そうしたおりにステララがいった。
「お気の毒なサリのひと。あたしに会わなければよかったものを。そのあげくに得たものが悲しみと苦痛と死ばかりとは」
「明日死のうと、永久に拷問をうけようと、ぼくはかまわない。きみとともにいたしあわせは千金にもまさるものだったのだからね、ステララ」
「ああ、でもかれらはあなたを拷問にかけるわ――それを思うと胸をかきむしられるよう」ステララは叫んだ。「ご自分で生命を断ってください、タナー。かれらに手をかけさせないで。かれらのことも、そのやり口もあたしにはわかっているの。あなたがかれらの手中におちるのを見るくらいなら、いっそあたしの手であなたを殺したい。エル・シドはけだものよ。そしてバルフは血を好むボハールよりまだひどいやつ。絶対にあの男の妻にはならないわ。それは確信していてちょうだい。もしもあなたがみずからの手で生命を断つなら、あたしもすぐあとを追います。コルサールの祖先がかれらに教えたとおり、もしもあの世というものがあるなら、もう一度会いましょう。ものみなが平和と美と愛とにつつまれたあの世で」
サリ人は首をふった。「この世がどんなものかはわかっている。が、あの世がどんなものなのかぼくは知らない。ぼくはこの世にしがみついていよう。きみもそうしないといけない。われわれ以外のものの手がわれわれからそれをうばいとるまでは」
「でも、かれらはあなたをそれはひどい拷問にかけるわ」彼女はうめいた。
「どんな拷問もぼくたちの愛のしあわせを殺すことはできないのだよ、ステララ」タナーはいった。そのとき、番兵が二人をひきはなした。そして二人は単調で果てしない道程を足どりも重く歩きつづけた。悲哀と絶望の目を通して見る土地、それはかつて自由と愛と手をたずさえて旅したときに見た陽のさすパラダイスとどんなにちがっていたことか。
だがついに、長い苛酷な旅は終わった。だが、その結末も、旅そのものにおとらず苛酷なものだった。というのも、宮殿の門でステララとタナーはひきはなされてしまったのだ。ステララは侍女たちにつきそわれて彼女の宿所へつれていかれた。ステララは侍女たちが実際は彼女の番人であり、看守なのだと見ぬいた。一方、タナーはすぐさまエル・シドの面前につれていかれた。
部屋にはいると、コルサールの族長のしかめっつらが目にはいった。その壇の下、族長のすぐ前に立っているのはバルフだ。以前に一度見ただけだが、一度見たらだれも決してわすれることのできない顔だ。しかしそこにはいま一人の人物の姿があった。タナーはそれを見て愕然として顔色を変えた。それはエル・シドやバルフのけものじみた顔を見たときよりも大きな驚きだった。いましもかれがみちびかれていく壇のすぐ前に立っているのは、ペルシダー皇帝デヴィッド一世ではないか。この世に災厄はかずかずあるが、これほど念のいったものがまたとあろうか。
デヴィッドのかたわらにつれていかれたとき、サリ人は話しかけようとしたが、コルサールの番兵に乱暴に黙らされた。それ以後も二度とたがいに話をすることをゆるされなかった。
エル・シドはものすごい形相で二人をねめつけた。バルフも同じようにした。「よくもわしの信頼をうらぎり、娘をかどわかしおったな。きさまたちの悪徳行為に相当するような刑罰はなく、どんな死にざまであれ、きさまたちの罪業を消してくれるほどに恐ろしい死はないわ。わしが充分得心するには、きさまたちをどんな拷問にかけて責苦をあたえたらよいのか、わしには思いあたらぬ。だれか余のものに提案をもとめねはなるまい」そういうと、エル・シドは周囲の部下を物問いたげに見まわした。
「そいつはおれにまかせてもらいたい」タナーをゆびさしてバルフがいった。「これまで何びとも目にしたことがなく、何びとの肉体も耐えたことのないような拷問をお目にかけるとお約束しよう」
「それは死をもって終わるのかね?」と、たずねたのは、死人のように青ざめた顔をした背の高い男だった。
「きまっておるわ。だが、すぐには終わらぬぞ」バルフが答えた。
「死は拷問からの救いだ。だれしもがまちこがれ、歓迎する」例の男はつづけた。「おぬしはこの二人のどっちかに死までも味わう喜びと満足をあたえようというのか?」
「しかし、それ以外に何がある?」エル・シドがたずねた。
「死よりもなおつらい、生きながらの死というものがありますぞ」青ざめた顔の男がいった。
「ではおぬしに、おれの考えているよりもつらい拷問をここであげることができるなら」バルフが叫んだ。「おれは喜んでこのサリ人にたいするいっさいの要求を撤回しよう」
「説明してみろ」エル・シドが命じた。
「それはこうです」青ざめた顔の男がいった。「こいつらは日光と、自由と、清潔と、新鮮な空気と、人とのまじわりになれております。この宮殿の下には、暗くてじめじめした地下牢がありますが、そこにはかつていかなる光線もさしこんだことがなく、壁は厚くて物音をとおしません。この恐ろしい場所に巣くっているものたちは、ご承知のごとく、人間同士の交際とは対照的な効果をもたらします。ところが、わたくしのこの計画においてあやぶまれる唯一の欠点は、それらのものたちが始終この地下牢にいあわせて、この犯罪者どもの理性をうばいはしないか、それらの存在が必要であるとするわたくしの初期の目的そのものをもだいなしにするのではないか、という点なのであります。終生の不気味な孤独と、沈黙と暗黒の責苦! いかなる死、いかなる責苦、いかなる刑罰がやつらにふさわしいといえましょうか、そのいまわしさ、恐ろしさにおいてわたくしのただいまの提案に匹敵するものはありますまい」
かれが口をとじると、他の者たちはしばし沈黙のうちにかれの提案をかみしめた。沈黙をやぶったのはエル・シドだった。
「バルフ、わしはかれのいうとおりだと思う。わしなら生きることを愛するだけに、宮殿の土牢の一つにひとりおかれるくらいなら、むしろ死んだほうがましだよ」
バルフはおもむろにうなずいた。「おれの考えた方法をあきらめるのは残念だ。おれ自身の手でこのサリ人をあの拷問にかけてやりたかった。が、しかしだ」と、かれは青ざめた顔の男のほうをむいて、「おぬしのいうとおりだ。おぬしはおれが考えていたどんな拷問よりもはるかに恐ろしい方法をあげた」
「では命令する」エル・シドがいった。「やつらを宮殿の土牢に終生隔離せよ」
しんと静まりかえった中でコルサールの会衆がかたずをのむうちに、タナーとデヴィッドは目かくしをされた。タナーは装飾品いっさいをうばわれ、腰布を残して、いつも身につけているわずかな衣服もはぎとられるのを感じた。それからあっちこっちと手荒につきとばされ、あるいはひきたてられて進んだ。せまい廊下を通っているときは、押し殺したようにこだまが返ってきてそれとわかったし、広い部屋を横ぎるときは番兵の足音が、またちがったふうに反響した。乱暴におされて石の階段を何階か下へおり、またしてもいくつかの廊下を通った。最後に番兵に両脇をかかえられて穴の中へおろされるのを感じた。空気がじっとりとしていて黴《かび》臭い。まだそのほかにもかれの鼻腔では判別のつかないなにかいやなものの匂いがする。
と、番兵たちが手をはなした。タナーはわずかな距離を落下して板石畳の上におりたった。はだしの足の下がぬるぬるしている。頭上で物音がした――いましもかれがおろされたおとし穴をとじるために石の床の上で板石をずるずると押しているような音だ。タナーは目かくしをかなぐりすてた。が、つけているのも同然、周囲は真暗闇なのだ。一心に聞き耳をたてたが、何の物音もしない。番兵が去っていく足音すら聞こえない――暗闇と静寂の世界――サリの住人にあたえうるもっとも恐ろしい拷問をかれらは選んだわけだ――静寂と、暗闇と、そして孤独と。
長い間かれはその場にじっと立っていた。が、やがて手さぐりでそろそろと前にむかって歩きだした。四歩で壁にふれ、そこから壁づたいに進んで、壁の端まで二歩。その場で踵を返し、六歩で反対側の壁に到達した。こうして土牢を一周してみて、横が四歩、縦が六歩だということがわかった――土牢としては小さいほうではないかもしれないが、ペルシダーの住人タナーにとっては墓穴よりもせまかった。
かれは考えた――死がかれを解放してくれるときまでどうやって時間をすごそう? 死か? それを早めることはできないものか? しかし、どうやって? 独房の長さは六歩だ。全速で突進して激突した衝撃で脳天をぶち割ることもできるではないか? そのとき、かれはステララとの約束を思いだした。みずから生命を断ってくれという彼女の嘆願にたいしてすらこういったのだ――「ぼくは自分の手で自分の生命を断つようなことはしない」
ふたたびかれは土牢をひとめぐりした。どうやってかれらは食物をさしいれるのだろうかとかれは思案した。できるだけ長生きさせようというのがかれらののぞみだということはわかっていたからだ。長生きさせることによってのみ、かれらはかれにたいする拷問をなしとげることができるのだ。かれはサリの高原に輝く晴れやかな太陽に思いをはせ、自由で幸福なそこの若者や乙女を思った。ステララのことが頭にうかぶ。どこかかれのすぐ上にいるのに、それでいて果てしなく遠く感じる。もしかれが死んだなら、二人はもっと近くにいられるだろう。「自分の手では死なないぞ」かれはつぶやいた。
かれは未来の計画をたてようとした――うつろで、暗黒で、音のない未来。かれの前にはかぎりない孤独があった――するとこの絶望のどん底にもまた希望をみとめることができるということに気づいた。それはかれ持ち前の不屈の魂がなせるわざだった。というのも、どんな希望であれ、それらはすべて自由の身となる日を予期してのものだったからだ。こうして、死そのものですらこのなぐさめをかれからうばいさることは絶対にできないのだとさとって、ようやく計画をさきに進めることができたのだった。
まず、なんとかしていつも現在にとらわれていないようにして、かれをとりまく暗闇と沈黙と孤独についてはいっさい考えないようにしなくてはならない。念頭から消し去るのだ。そして、精神的にも肉体的にも釈放のとき、ないしは脱走の瞬間にそなえておかなくてはならない。そこで足ならしに歩き、体調をととのえるために腕やその他の身体の筋肉を規則正しく鍛練することにした。こうすればつねによい体調をたもっていられるし、存分につかれるので、できるだけ多くの睡眠がとれるだろう。そして、眠る前に身体をやすめているときは、楽しい思い出ばかりを頭に浮かべることにした。この計画を実行にうつしてみて、すべてが思いどおりに運ぶということがわかった。まず、くたくたになるまで運動する。それから横になって、眠りにおちるまでうつらうつらと白昼夢を楽しむのだ。子供のころからかたい地面で眠ることになれていたので、石畳も格別苦にならなかったし、ステララとともにすごした幸福なときを楽しく想いだしながら眠りにおちるのだった。
ところが、目ざめるときはどうだろう! じわじわと意識が回復するにつれて、ぞっとするような恐怖感がかれをみまうのだ。その原因は、しだいにめざめてくる五感に徐々にしみこんでくる。冷たく、ぬらぬらしたものがかれの胸の上を横切って這っていくのだ。本能的にそれをつかんでつきのけようとして、鱗《うろこ》のある身体をにぎりしめてしまった。とそいつは身をくねらせてのたくり、もがく。
タナーはとびあがった。冷汗が身体中の毛穴からどっとふきだし、恐怖に髪がさかだつのをおぼえた。後退《あとずさ》りすると、また別の気味の悪いやつに足がふれ、すべって転倒したのがまた別のやつの上だった――冷たく、ねっとりとしていて、くねくねともがいている。あわてておきあがり、土牢の反対側の端に退却したが、床の上はどこもかしこも鱗《うろこ》のあるやつがのたくっている。そしていまや沈黙の世界は騒然たる伏魔殿――毒蛇のシューッシューッという音が充満した、煮えたぎる暗黒の大釜――と化した。
長い身体がいくつもかれの足にまきつき、のたくりもがきながら顔のほうへとのぼってくる。一匹をむしりとってわきへ投げ捨てるか捨てないかに、もうつぎのやつがそこへ来ているといった具合だ。
最初かれは夢であれと祈った。だがこれは夢ではなかった。正真正銘の現実、しかもぞっとするような現実だった。かれの独房にひしめくこれらのいまわしい蛇どもは、拷問の一部にすぎないが、かれら自体、その本来の目的をだいなしにしてしまうだろう。というのも、かれらはタナーの気を狂わせてしまうだろうからだ。すでにタナーは理性がぐらつくのを感じていた。と、そこへ狂人の陰険なたくらみがしのびこんだ。かれらの武器を逆手にとってかれらの計画をくつがえしてやるのだ。これ以上苦しめることができないように、いますぐその力をうばってやる。タナーは一匹の蛇を身体からむしりとって目の前にかかげると、突発的にケタケタと陰惨な笑いかたをした。
蛇は身をよじった。ひどくゆっくりと、タナーは片手をそいつののどもとに持っていった。ペルシダーの蛇としてはそれほど大きいほうではない。おそらく長さ一・五メートル、胴の直径十五センチといったところか。
頭から三十センチばかり下を片手でつかみ、もう一方の手で何度もその顔に平手打をくわせてからぎゅっと胸にだきすくめた。高笑いをし、けたたましく叫びながら何度も何度も打った。すると、ついに蛇は逆襲にでてサリ人の肉にずぶりと牙をうずめた。
タナーは勝利の叫びを発して蛇をなげだした。そして、床一面をうずめてのたくるやつらの上に、ゆっくりとくずおれていった。
「きさまたち自身の武器を使って復讐できないようにしてやったぞ」とかん高い声で叫ぶと、タナーは意識不明におちいった。
あのうずもれた地下牢の暗闇と沈黙の中に、こうして何時間横たわっていたやら。時間のない世界ではだれにもわからないことだ。が、ついにかれは身動きした。目をゆっくりとあけ、意識がもどってくるとあたりを手さぐりした。板石畳の床の上には何もない。半身をおこしてみた。死んではいなかったのだ。それどころか蛇にかまれた個所が腫《は》れもしなければ痛みも感じないので驚いた。
おきあがって用心深く土牢の周囲をまわってみた。蛇どもはもういない。睡眠によって精神の均衡をとりもどしたものの、もうちょっとで発狂するところだったと思うと身ぶるいした。そして、あんなに恐れる必要はなかったのにと、いくぶんきまり悪そうに苦笑した。ペルシダーのタナーは生涯ではじめて恐怖という言葉の意味を理解したのだった。
土牢をゆっくりとめぐり歩いていると、片足が床のすみにおいてあるなにかに行きあたった――蛇があらわれる以前にはそこになかったものだ。かがんで用心しながら手さぐりしてみると、分厚い蓋をした鉄製の鉢があった。かれは蓋をもちあげてみた。食物だ。どんな食物なのか、どこから来たのかただそうともせずに、かれは食べた。
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十六 彼方の闇へ
死ぬほど退屈な幽閉生活がのろのろとつづいた。タナーは運動をし、食べ、眠った。どうやって、あるいはいつのまに食物がこの独房へ運ばれてくるのか、かいもくわからなかったが、しばらくするとそんなことはどうでもよくなった。
蛇はたいがい眠っている間にあらわれたが、あの最初の体験以来、もはや恐怖を感じなくなっていた。そして何度もくり返しかれらの訪問をうけているうちに、不愉快に感じないばかりか、単調きわまる孤独な生活の息抜きとして、かれらがやってくるのを楽しみに待ちうけるようになった。なでてやったり小声で話しかけてやったりすると、始終落ち着きなく身をくねらせているのを静めることができるということがわかった。そしてかれらの訪問がたびかさなるうちに、なかの一匹がほとんどペット同然になったのを確信した。
むろん、暗がりではどれがどの蛇なのか区別はつかなかったが、いつも一匹に胸をそっと鼻先でつつかれて目をさました。手にとってなでてやると、蛇は逃げようともしない。あの最初の気違い沙汰いらい、どの蛇も決して牙をたてようとはしなかった。あの当時は、かれらが毒蛇だと考え、またそうであることを念願したものだったが。
蛇が独房へ侵入してくる穴を発見するにはずいぶん時間がかかった。が、やがて懸命《けんめい》にさがしたのち、床から一メートルばかり上に約二十センチの穴があるのを発見した。鱗のある身体が何度となく通過するので、穴の周囲はなめらかにすりへっている。片手をその中にさしこんで周囲を手さぐりしたところ、この穴のある壁の厚さは約三十センチだということがわかった。腕を肩までさしこんでみても、壁のむこうには、どの方向にも手にふれるものはない。たぶん別の部屋――かれがはいっているのと同じような独房――があるのだろう。いやそれとも蛇のひしめく深い穴になっているのかもしれない。あれこれ考えて説明をつけようとするが、考えれば考えるほど、この独房のむこうの神秘的な空間の謎を解明したくてたまらなくなってくる。かくてかれの頭は些細なことにとらわれてしまった。かててくわえて、孤独と暗闇と沈黙とがそれをとほうもなく重大なことのように誇張する。そしてついにはそのことがかれの一つの執念と化してしまった。目がさめている間中、かれは壁の穴と、その穴のむこうの、かれの目では透かして見ることのできない真暗闇にひそむものについて考えていた。胸の上をやさしくたたくあの蛇にもたずねたが、蛇は答えないので、こんどは壁の穴まで行って穴にたずねてみた。壁が答えてくれないというのでまさしく癇癪《かんしゃく》をおこそうとしたとたんにわれに帰った。そして身ぶるいしながら踵を返した。こんなふうにして発狂するのだ。なにはさておき、正気でいなくては。
しかし、それでもなお推測をやめなかった。ただし、こんどは気をたしかに持って、理性的に頭を働かせた。そしてついにぬかりのない方法を考えついた。
その次に食物が運ばれてきて、それをたいらげたとき、かれは食物がはいっていた鉄製の鉢から鉄製の蓋をとり、独房の石畳の上にたたきつけた。すると蓋はくだけた。その破片の中に、かれの望みどおり細長くて先のとがった一片があった。そこでその一片をとっておいて、あとは鉢の中へもどし、それから壁の穴に行って穴の周囲の石を固定してあるモルタルを、時間をかけてこつこつと掘りはじめた。
せいをだしたかいあって、穴のすぐ横の石が一つゆるむようになったが、それまでには何度も食べ、そして眠った。二番目の石が動くようになるまでにはさらに何度も食べて眠った。
どれだけの間、この作業をやっていたかはわからない。だがいまでは時間はより早く経過したし、この仕事に熱中するあまり、ほとんど幸福感を感じるほどだった。
こうした間にも、かれは運動をおろそかにしなかったが、睡眠をとる回数はへっていた。蛇があらわれると作業は中断しなくてはならなかった。かれらはひきつづきその穴から出入りしていたからだ。
食物がどうやって独房に運ばれてくるのか知りたかった。運んでくる人間に、壁のモルタルを掘っている音を聞きつけられる危険はないかどうか、それがわかればとねがった。だが食物をさしいれる物音は耳にしたことがなかったから、運んでくる者にもかれのたてる物音が聞こえなければよいがとねがった。姿は相手に見えないという確信は充分にあった。
というようなしだいで、休みなく働きつづけ、やっとのことで身体が通るだけの大きさの穴をあけた。つぎに、穴の前に長い間うずくまって、はたして自分が正気かどうかためしてみようとじっと待っていた。はてしない孤独の夜、これまでどれくらいその中でくらしてきたか推測もつかないが、その闇の中でかれは、目下直面しているこの冒険が決定的な比重をしめているということを認識し、いま一度、自分が狂気の瀬戸ぎわにたっているのを感じた。この穴のむこうに何があろうとも、神経を静め、冷静かつ正気で対決することができるということをたしかめたかった。強烈な失望がまちうけているかもしれないのだ。かれはそのことを認識せずにはいられなかった。蛇の通路である穴を発見していらい、ひさしい間ずっと掘りつづけ、けずりつづけてきたが、その間にさとったことは、脱走できるという望みが根底にあったからこそ、欲がでてこの作業にいそしむことができたということだった。失望を予期してはいるものの、いざそうなった場合どんなに無惨な打撃をうけるかはわかっている。
ほとんど愛撫にも似たしぐさで、タナーは拡大した穴のざらざらした縁にゆっくりと指をはしらせた。それから頭と肩をつっこんで穴のむこう側にぐっと手をのばし、片手でさぐってみたがなにも見つからず、詮索するように見まわしたがなにも見えない。そこで自分の土牢へすっこんでもどり、いちばん奥まで歩いていって床の上に腰をおろし、壁に背をもたせて待った――あの穴を通りぬけて、あえて新たな失望に直面するにしのびなかったのだ。
長い間かかって自分自身を統御した。それからもう一度まった。今回は頭の中を整理したうえでのことだ。
かれらが食物を運んできて、それからからになった容器を運び去るまでまとう――そうすれば万一独房にもどらなかった場合、いないということを発見される可能性があっても、それまでにより長い時間がかせげるというものだ。いつも食物がおかれる一隅に何回も足を運んだが、そこに食物を発見するまでの時間は永遠のように感じられた。食べ終わったあと、容器がもちさられるまでの間が、またしても長かった。だがついに容器はとりのけられ、いま一度かれは独房を横切って、どこへ通じているとも知れぬ穴の前に立った。
こんどは躊躇しなかった。精神も神経も統御していた。
足を片方ずついれ、壁のむこう側に両足をそろえて腰かけた格好になった。それから腹を下にして徐々に身体をおろしていった。それというのも、床がどのあたりにあるかわからなかったためだが、それはすぐにわかった。かれの独房と同じ高さにあったのだ。一瞬後かれは身体をまっすぐにして立っていた。自由の身ではないにしろ、少なくとも独房にとじこめられた囚人ではなくなったわけだ。
暗闇の中で慎重にあたりをさぐってみた。手さぐりで一時《いっとき》に、五、六センチしか進まないという慎重さだ。かれが発見したところによると、こっちの室はかれの独房よりもずっと幅がせまいかわりに縦がずいぶんと長い。手を両側にのばすと、両側の壁にふれることができる。こうして、一歩進む前にそろそろと片足を出してたしかめながら前進した。
かれは自分の独房から鉄の食器の破片をもってきていた。例の鉢の蓋をこわして手にいれたものだが、こうして自由をもとめてここまでくることができたのも、それを使って穴を掘ってきたからこそであった。この破片を身につけているということが、完全に丸腰ではないという意味で、ある種の安心感をあたえてくれた。
ほどなく、前進するにしたがって、長い廊下にいるのだという確信ができてきた。と、片足がトンネルの真ん中にあるざらざらしたものにいきあたった。かれは手を壁からはなして目の前を手さぐりした。
それは表面がざらざらした直径約二十センチの円柱で、トンネルの中央からまっすぐ上にのびていた。指先がすばやく感じとったところでは、それは表皮がついたままの木の幹だった。もっとも、ところどころ皮がすりへっている。
どうやら屋根の弱い個所をささえていると思われるその柱を通過して、さらに前進した。だが、二歩進んだだけで、なんの手がかりもない壁にいきあたってしまった――トンネルはそこで不意に終わっていたのだ。
タナーは落胆した。一歩前進するごとに希望はふくれあがっていたのに、それが突如としてみじんにくだかれて絶望と化したのだ。念願の自由への道を遮断した冷たい壁を、かれは指で何度も何度もなでまわした。だが裂け目とかひびがあるようすもない。かれはのろのろと独房にひき返した。木の柱をすぎ、すっかりうちしおれていま来た道をたどった。だが悲しみのうちに足を運びながらも、すでに予期していた失望にくじかれまいと全精神力をふるいおこした。自分の独房に帰ろう。だがトンネルはこのさきも利用してやるぞ。四方を壁にかこまれた退屈な暮らしの息ぬきになるし、散歩する距離も延長される。いずれにしろ、そこへはいるまでに要した努力を無駄にはするまい。
ふたたびもとの独房に帰ると、タナーは横になって眠った。作業を遂行するために、最近になってずいぶん睡眠を制限してきたからだ。目をさますと蛇たちはふたたびかれとともにいて、例の友人がやさしくかれの胸をつついていた。またしても退屈な生活がはじまった。変わったことといえば、新しく発見した領土へ規則的に散歩にでかけるくらいのものだったが、いまではその内部の暗闇を自分の独房と同様にわかるようになっていたので、自分で作った穴からトンネルの奥の木の柱までさっさと歩いていき、柱をまわって、まるではっきりと見えているように闊歩《かっぽ》してもどってきた。というのも、何度も歩数を数えたので、端から端まで踏破したということが、その瞬間にわかるのだ。
かれは食べ、眠り、運動をし、ぬるぬるした爬虫類の友人と遊び、自分で発見した細いトンネルを行ったり来たりした。トンネルの奥の木の柱をまわるとき、かれはしばしばその柱の本来の目的をあれこれと考察してみるのだった。あるとき、そのことを考えながら独房で眠ってしまった。ところが胸の上を蛇の鼻面がやさしくつつくのを感じて目をさましたとたん、いきなり上半身をおこしたので、蛇はシューッという音を発して石畳の上に落ちてしまった。めざめたばかりの心の中に一つのアイデアが――すばらしいアイデアが――鮮明にうかんでいたのだ。なぜ、もっと前に思いつかなかったのだろう?
かれは胸をおどらせながらトンネルの入り口に急いだ。蛇たちが穴を通っていたが、かれは蛇の群とさきをあらそってもぐりこみ、シューッ、シューッと音をたてて蛇がうごめいているその上にまっさかさまにころげこんだ。あわててたちあがると、駈けださんばかりの勢いで廊下をつたっていった。前につきだした手がざらざらした木の幹にふれると、そこでかなりの間木の葉のようにふるえながらじっと立ちつくしていた。それから腕と脚で柱の周囲にとりつくと、ゆっくりと慎重にのぼっていった。目がさめたときかれの心をとらえてはなさなかったアイデアとはこれだったのだ。
暗闇を上へ上へとのぼっていった。ときどき止まってはあたりを手さぐりしてみて、この木がせまい円形のたて孔の中心に立っていることがわかった。
ゆっくりとのぼっていくと、トンネルの床から約十メートルのところで頭が石にぶつかった。下方を手さぐりしてみてこの木が頭上のモルタルの天井にはめこんであるということを発見した。
ここで行きどまりになるはずがない! どこにも通じてないトンネルやたて孔があってたまるものか。暗闇の中で八方を手さぐりすると、そのかいあって、天井から二メートルばかり下のたて孔の側面に穴があることがわかった。木の幹からはなれてその孔の側壁の穴にもぐりこんだ。そこはまたしてもトンネルだった。もっともこのたて孔の底にあったトンネルよりも天井が低く、幅もせまい。暗闇はまだつづいていたので、最初に下のトンネルを探険したときと同様に、ゆっくりと細心の注意をはらって進まざるをえなかった。
ちょっと行ったところでトンネルはいきなり右におれていた。そのまがり角のむこう、かれの前方に一筋の光が見える!
死の淵からかろうじて救いだされた罪人ですら、このときのタナーほどの喜びを感じなかったことだろう。永遠とも感じられるほど長い期間をすごし、久しぶりに見るかぼそい一筋の陽光をタナーは喜々としてむかえたのだった。小さな割れ目からうっすらとさしこんでいるとはいうものの、光であることに変わりはない。それはふたたび見ることを断念していた天上の光だった。
かれは陶然として、ゆっくりとその光にむかって歩いていった。が、そこに行きつくと、ざらざらした、生地のままの板に手がふれた。板が行く手を遮断している。光は二枚の板のわずかな隙間からさしこんでいたのだ。
にぶい光ではあったが、ひさしい間どんな光も見ていなかったので目が痛んだ。しかし直接目にはいらないように目をそらせていることによって、ついには馴れることができた。目が馴れてわかったことは、わずかな隙間《すきま》とはいえ、トンネルの内部の真暗闇をはらうには充分な光がそこからさしこんでいるということだった。したがって、物の判別がつくということにも気がついた。トンネルの両側は石の壁だった。よくよく見るとかれの前進をさまたげている板の障害物も見えた。しらべているうちに、板の一方のわきに掛金《かけがね》に似たものがついているのを発見した。捕虜としてコルサールの船に監禁されていたことがあったが、そのおりにはじめて知った道具だ。サリには錠前も掛金もない。
しかしかれは掛金の用途を知っていたので、それを見て目の前にある板がドアになっているのだということがわかった。ドアは光と自由とに通じているのだ。だが、すぐ向こうにはなにがあるのだろう?
耳をおしつけて聞いてみたが、なんの物音も聞こえない。そこでかれはたんねんに掛金をしらべた。そしてあれこれためしているうちにあけ方がわかった。気をおちつけて、ざらざらした板をそっとおすと、ドアは前方にむかってゆっくりと開き、最初にあいた細い隙間から光がさっと流れこんだ。タナーは両手で目をおおって顔をそむけた。時間をかけて、徐々にこの光になれないと、永久にめくらになってしまうかもしれないということを知っていたからだ。
目をとじたまま、開いた隙間《すきま》に耳をかたむけたが、なにも聞こえない。そこで、細心の注意をはらって目を光になじませようとしたが、この細い隙間《すきま》からさしこんでくる光でさえまばゆくて、正視にたえるまでずいぶんかかった。
痛みを感じないで光にたえられるようになると、いま少しドアを開いてのぞいてみた。ドアのすぐむこうはかなり広い部屋になっていて、柳であんだ詰め籠や、鉄器や土器、それに生皮にぬいこんだ荷物などが床に雑然とおかれ、壁際にも高々とつみあげてあった。なにもかもが埃と蜘蛛の巣をかぶっているようすだ。あたりに人の気配はない。
ドアをさらにおし開けてタナーはトンネルから部屋にはいり、周囲を見まわした。部屋中どこもかしこも包みや、衣類のはみでた箱、それに種々の船の部品、生皮の梱、無数の武器などでごったがえしていた。
どれにも埃があつくかぶっていて、この部屋に最近人がはいっていないということをサリ人に物語っていた。
ちょっとの間、開いたドアに手をかけたまま立っていたが、部屋の中へはいろうとすると、ざらざらしたドアの板をつかんでいた手が一瞬そこにくっついた。いったいどうしたのだろうと指を見ると、ねばねばした脂《やに》がいっぱいくっついていた。それが左手だったのでなんとかしてこすりとろうとしたが、ほとんど不可能に近いことがわかった。
部屋の中においてあるものをしらべながらめぐり歩くと、左手にふれたものはみなくっついてきた――やっかいだったが、どうしようもなかった。
部屋をひとわたり検分した結果、片側に窓が数カ所と、一方の端にドアが一つあることが明らかになった。
ドアには、いまかれが通ってきたのと同じ掛金がかかっていて、外側から鍵で開くしかけになっていたが、内部から手で開けることもできた。非常に粗末でかんたんなものだ。錠というものがいくらでも複雑に作れるということを知っていたら、タナーはこの掛金がかんたんだということをありがたく思ったことだろう。
掛金をあけてドアをわずかにおし開けた。目の前に長い廊下があって、一方の側面にあるいくつかの窓から光がさしており、もう一方の側面にはドアがいくつかついていた。見ていると、一人のコルサール人がその戸口の一つからあらわれ、むこうをむいていってしまった。と、一瞬おくれて女が一人、別の戸口からあらわれた。そのとき廊下のむこうの端に別の人々の姿が見えたので、タナーはすばやくドアをとじて掛金をかけた。
ここには逃げ道はない。こんなことなら、あの暗い独房にいても、外界から遮断されているという点においてはこの部屋も同じこと。この部屋はコルサール人がしょっちゅう行き来する廊下の端にあるのだ。顔にひげがなく、裸では外へ出たとたんにみやぶられてつかまってしまう。だがタナーは落胆して気力を失ってしまうどころではなかった。すでにかれはかつて夢見ていたよりもずっと遠くまで脱してきているのだ。それに、かれを力づけたのは単にこのことだけではなかった。ひさしい間おがむことをゆるされなかった日光が、それにもましてかれを力づけたのだ。かれは慈悲深い真昼の太陽の陽光のもとで、意気軒昂として勇気がもりあがるのを感じた。もうどんな緊急事態が前途に発生しようと、気がまえができている。
もう一度部屋の中に逆もどりして、なにかほかに逃げ道はないかたんねんにさがした。窓のところに行ってみて、それらの窓がエル・シドの庭園を見おろしているということを発見したが、庭のその部分は宮殿に接していたから、そこにも人が大勢いた。かれがステララとグーラの逃亡を助けた庭の奥は木々にさえぎられて見えないが、そこならたとえ人がいるにしてもごくわずかだろう。もっとも、この物置きの窓からそこまで行くのは困難な業《わざ》だが。
左手の、庭の反対側の付近には樹木がすきまなくたちならんでいるのが見えた。壁にそって端から端までずっとその状態でつづいているようすだった。
もしもあの木々が庭のこっち側にあったなら、逃げる手段も見つかったかもしれない。少なくとも兵舎のすぐ脇の庭のかこいにある門までつづいていれば。
だが実際はそうではなかったから、そんな考えは捨てなくてはならなかった。したがって、いま見た廊下よりほかに逃げ道はなさそうだった。かといって、いつまでもこの部屋にいるわけにはいかない。食物も水もないし、かれが土牢にいないということが発見される危険は確実にましてくる。さしいれた食事を食べていないことに気づかれたら、かれらにわかることだ。
生皮の梱の上に腰をかけて、タナーはみずからの苦境を熟考した。あれこれ思案するうちに、ふとかれの視線は部屋にはみでてちらかった衣類の上に落ちた。そこにはコルサール人の半ズボンとシャツ、それから派手な帯《サッシュ》にスカーフ、それに口の広くなった長靴があった。かれは唇にうっすらと笑いを浮かべてそれらの品々を必要なだけひろいあつめ、埃をはらってコルサール人が着用しているとおりに身につけた。もっとも、かれの顔にひげがないので正体が露見するだろうということは鏡を見るまでもなくわかっていた。
ピストルと短刀とカトラスを選びだしたが、そのピストルのための火薬も弾も見あたらなかった。
こうして衣装と武器を身につけ終わると、鏡なしでできるだけ自分をながめまわした。「どのコルサール人にも背をむけっぱなしでいることができたらなあ」かれは考えこんだ。「そうしたら、らくらくと逃げおおせるかもしれないのに。後ろ姿はどのコルサール人ともちっとも変わらないんだが、もじゃもじゃのひげをはやさないかぎり、だれの目もあざむくことはできないだろうな」
こうしてぼんやり考えこんでいたとき、物置きのすぐ外で口論する大声が耳にとびこんできた。男女二人の声だ。
「おまえのほうでおれといっしょにならないというなら」男がどなっていた。「おれがおまえをものにしてやる」
タナーには女の返事は聞こえなかった。もっとも、彼女がしゃべる声を聞き、その声から相手が女だということがわかったのだが。
「エル・シドがなんだ?」男が叫んだ。「おれはコルサールではやつと同じくらい幅をきかせているんだぞ。そうしようと思えば族長の座をうばって、自分でエル・シド(エル・シドとは「首領」の意味で、十一世紀頃のスペインの伝説的英雄に敵のムーア人が与えた称号)になることもできるんだからな」
タナーはふたたび女がしゃべるのを聞いた。
「そんなことをしてみろ、おまえの息の根をとめてやる」男はおどかした。「ここへはいれ。ここならもっとよく話ができる。叫びたいだけ叫ぶがいい。だれにも聞こえないからな」
タナーは男が錠前に鍵をさしこむ音を聞いて、男がそうしている間に、山とつみあげた柳籠のうしろにかくれ場所を見つけた。男はつづけていった。
「こんどここから出ていくときは、もう何も叫ぶことはなくなっているさ」
「いままでずっといってきたとおりよ」女がいった。「おまえといっしょになるくらいなら死んだほうがましだってね。力ずくでものにするなら、それでもあたしは死んでやる。だけど、その前におまえを殺してやるから」
その声を聞いてタナーの胸は高鳴った。かれは脇のカトラスの柄をぐっとにぎりしめた。そしてバルフが女のおどかしに嘲笑を返したとたん、サリ人は右手に白刃をかざしてかくれ場所からとびだした。
背後の物音にバルフはさっとふりむいた。一瞬コルサール人の服装をしたサリ人に気がつかなかったが、ステララはかれをみとめて驚きと喜びのいりまじった叫び声をあげた。
「タナー! あたしのタナー!」
サリ人が猛然といどみかかると、バルフはカトラスをぬきながら後退した。廊下に通じている戸口へ行こうとしているのだなと見ぬいたタナーは、相手が逃げだすことができない先につっかかっていって剣をまじえた。こうなってはバルフもたちどまって防御するよりほかはなかった。
「さがれ」バルフは叫んだ。「さがらなければ殺すぞ」だがペルシダーの勇者タナーは、嘲笑をあびせただけだった。そして相手の頭に憎悪をこめた一撃をふるった。バルフはかろうじてこれをうけながした。と、二人はまるで二頭の野獣のようにむきあった。
まず最初にタナーがバルフの肩に軽い裂傷をおわせて血をながさせた。するとバルフは大声をあげて助けをもとめた。
「きさまは、ステララがどんなに叫んでもこの部屋からはだれにも聞こえないといったな」タナーがあざけった。「だのにどうしてきさまの声が聞こえる?」
「ここからだしてくれ」バルフが叫んだ。「だしてくれたら自由をやる」しかしタナーは猛然と相手を一隅に追いこんで、カトラスのとぎすました刃で片方の耳を切り落した。
「助けてくれエ!」コルサール人は悲鳴をあげた。「助けてくれ! おれはバルフだ。サリ人がおれを殺そうとしている」
バルフの大声が部屋のむこうの廊下に達して注意を喚起するのをおそれたタナーは、攻撃に拍車をかけた。まずコルサール人の態勢をくずしておいてカトラスを大上段にふりかぶり、ものすごい一太刀をあびせてバルフの醜悪な頭蓋を鼻柱まで切りさいた。さしも巨大な悪漢も、ごぼごぼとのどを鳴らしてあえぐと、ばったりうつぶせにたおれた。ペルシダーの勇者タナーはふりむきざまステララをかきいだいた。
「まにあってよかった」かれはいった。「神のご加護だ」
「神さまご自身があなたをこの部屋へおみちびきになったのにちがいないわ」ステララがいった。
「あなたはなくなったものと思っていたの。かれらはあなたが死んだといったのよ」
「そうじゃないよ。かれらは宮殿の下の暗い地下牢にぼくを入れたんだ。一生そこへ監禁するつもりでね」
「あたしのすぐ近くにずっといらしたのに、あたしはあなたが死んだとばかり思っていたのね」
「長い間、死ぬよりも苦しかった。暗闇、孤独、沈黙――ちきしょう! こいつは死ぬよりも苦しいことだよ」
「それでも脱出したのね!」ステララは讃歎をこめていった。
「それもきみのおかげだ。きみへの想いがぼくを発狂させなかった――きみへの想いと希望が、ぼくをかりたてて脱走の道を追求させたのだ。あんな体験をしたからには、生命《いのち》のあるかぎり、どんな状態におかれても二度とふたたび完全に絶望はしないよ」
ステララは首をふった。「いとしいひと、希望を強く持たなければならないわ。このさき、エル・シドの宮殿とコルサール市から脱出する道をもとめてあなたは落胆するにちがいないのだから」
「ここまで来たんだ」タナーは答えた。「すでにぼくは不可能なことをやりとげた。どんな運命がまちうけているにしろ、その運命からきみとぼくのために自由をかちとるのに、いまさら自分の能力をうたがってどうする?」
「ひげのないその顔では宮殿も都市も通過することはできないでしょう」ステララは悲しげにいった。「ああ、あなたにバルフのひげがあったら」そういうと彼女は戦いに破れた男の死体をちらと見おろした。
タナーもふりむいて、床の血の海に横たわっているバルフを見おろした。それからさっとステララに顔をむけて叫んだ。「ひげならあるよ。あるとも!」
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十七 海へ
「どういう意味?」ステララがたずねた。
「いまにわかるよ」とタナーは答えて短剣をぬいて身をかがめ、バルフを仰向けにした。それから剃刀《かみそり》のようによく切れる短剣の刃で、死んだコルサール人の濃い黒ひげをそりはじめたのだ。ステララは不思議そうなおももちで見まもっていた。
バルフのスカーフを床の上にひろげると、タナーは男の顔からかり取ったひげをその上においた。そしてこの気味悪い床屋の仕事を終えると、かれはひげをスカーフにつつみ、たちあがってステララについてくるように合図した。
土牢から脱出する際に通ってきたトンネルに通じているドアのところまで来ると、タナーはそのドアをあけた。そしてドアの内側からにじみでている脂《やに》を指になすりつけて、それを顔の横に少しぬってからステララをふりむいた。
「このひげをできるだけ自然なように顔にくっつけてくれたまえ。きみはずっとかれらといっしょにくらしてきたのだから、コルサール人のひげがどんなふうになっているか、よく知ってるはずだろ」
この計画はおそろしく思えたし、死人のひげをいじるのは気味が悪くて手がだせなかったが、彼女は度胸をすえてタナーのいうとおりにした。タナーは少量ずつ、部分的に脂《やに》をぬっていき、ステララはその上にひげをつけていった。ほどなく、見えている部分は目と鼻だけとなった。バルフのひげの残りで眉を大きく太くしたのでサリ人の表情は変わってしまった。次にタナーはバルフの血を鼻にぬりつけた。コルサール人の多くは大きな赤鼻をしているからだ。ステララは後ろへさがって仕上げいかんとかれをながめた。「あなたのおかあさんにも見わけがつかないくらいよ」彼女はいった。
「コルサール人として通用すると思うかい?」
「だれもあやしまないでしょうよ。あなたが宮殿をでるときにくわしく訊問されないかぎりはね」
「ぼくたちはいっしょに行くんだよ」
「でも、どうやって?」
「それには別の計画がたててあるんだ。ぼくが兵舎に住んでいたとき、河に行く船員たちが簡単に門を通過して宮殿をでていくのに気がついた。実際のところ、どんな場合でも宮殿にはいるより出ていくほうがずっと簡単なんだ。船乗りたちが、自分の船へ行くんだ、とただそれだけいうのを何度も聞いた。その手でいこう」
「あたし、コルサール人の船員に見えて?」
「ぼくがちゃんとやってあげる。そうすればコルサール人に見えるさ」タナーはにやりとしていった。
「どうしようっていうの?」
「ここにコルサール人の衣類がある。十二人分はたっぷりあるし、バルフの頭にはまだどっさり髪があるよ」
ステララは身ぶるいをして後退りした。「まあ、タナー! まさかそんな!」
「ほかにどんな方法がある! いっしょに脱出できるなら、どんなことだってやるだけの価値はあるじゃないか?」
「そのとおりね。あたし、やるわ」
タナーがすっかりしあげたとき、ステララはひげ面のコルサール人に一変していた。だが、どんなにかれがうまく変装させても、彼女の腰と胸のもりあがりはすっかりかくすことができなかった。
「これじゃ、あやしまれるな」タナーがいった。「半ズボンやシャツでかくすにはきみの姿はあまりにも女性すぎるよ」
「待って」ステララが叫んだ。「船員は、長い航海にでる場合にときどきマントを着るわ。夜が冷えると、それをかぶって寝るの。そういうのがここにあるかさがしてみましょう」
「そういえば、一着見かけたよ」タナーは答えて部屋を横切っていき、太い縞柄の生地でしたてたマントを持ってもどってきた。「これを着ると背が高く見えるだろう」かれはいった。しかし二人して彼女の身体にかけてみると、まだ腰がめだちすぎた。
「肩をもっとはらせるようにして」ステララが提案した。サリ人がスカーフやハンカチを彼女の肩にのせてはらせると、マントはまっすぐにたれ、華奢《きゃしゃ》で肉づきのよい娘というよりは背の低い、ずんぐりした男に見えるようになった。
「さあこれで二人とも用意ができたぞ」サリ人がいった。ステララはバルフの死体をゆびさした。
「あれをそこへおきざりにはできないわ。だれかがこの部屋へ来て発見するかもしれないでしょう。発見されたが最後、宮殿にいる者は残らず――いえ、コルサールの町中の者が――逮捕されて、訊問をうけるでしょうよ」
タナーは部屋を見まわしてからバルフの死体をつかみ、奥の一隅にひきずっていった。そして生皮の包みや籠を、死体がすっかりかくれるまでつみあげ、床の血の上には別の梱や籠をひきずっていって、決闘の痕跡が残らず消えるか、ないしはかくれるようにした。
「さて、いよいよぼくたちの変装をテストするか」二人はそろってドアに近づいた。「庭園に通じているいちばん人通りの少ない通路を知っているね。この前、ぼくたちが脱出するときに通った門まで、宮殿から庭を通っていくことにしよう」
「それじゃあたしについてきて」タナーがドアを開けるとステララはそう答えて、二人で廊下へでた。だれもいない。タナーは後ろ手にドアをしめ、ステララは先に立って進んだ。
ちょっと行ったところで、廊下の左にある部屋から男の声が聞こえた。
「彼女はどこだ?」男はたずねている。
「知りません」女の声が答えた。「ついさっきまでここにいましたけど。バルフがいっしょでした」
「二人をさがせ。ぐずぐずするな」男はきびしい口調で命じて部屋をでた。と、ちょうどその時タナーとステララがやってきた。
男はエル・シドだった。コルサールの首領はタナーとステララの顔をのぞきこんだ。ステララは心臓が止まる思いだった。
「おまえたちは何者だ?」エル・シドがたずねた。
「われわれは船員です」タナーは、ステララが返答できないでいるうちにすばやくいった。
「わしの宮殿で何をしておる?」コルサールの首領はたずねた。
「物置きへ荷物をもっていくようにいわれてきたのです」タナーは答えた。「いまちょうど船へもどるところですよ」
「なんだ、それなら早くもどれ。きさまたちの格好がどうも気にくわん」エル・シドはうなるようにいって、かれらより先に廊下をのっしのっしと行ってしまった。
タナーは、ステララががっくりとなるのを見て、かたわらにかけよってささえてやった。しかし彼女はすぐに正気にかえった。そして一瞬後には廊下を右にまがり、タナーをみちびいて戸口を通りぬけて庭へはいっていった。
「すごいぞ!」タナーはささやいた。二人は建物を出てならんで歩いていた。「エル・シドがきみに気づかないくらいだから、きみの変装は完璧なのにちがいない」
ステララは首をふった。エル・シドに出会った恐ろしさから、しゃべろうにもいまだに声がうまくでないのだ。
宮殿のそばの庭には男女が大勢いた。なかには二人をなにげなくじろじろと見る者もあったが、二人は無事にやりすごした。二人がたどっている砂利の歩道は、それからすぐに生い茂った灌木の植込みの中へまがりこんでいて、二人はそのかげにかくれて見えなくなったが、やがて庭園のかこいにある例の戸口へでた。
ここでまたしても二人は幸運にめぐまれ、気づかれずに門を通過して兵舎の裏庭へはいった。
出入りする人が他より大勢いることから、主要門をためしてみることにしたタナーは、右へ折れ、兵舎にそって端から端まで進んだ。十二人ばかりとすれちがって、ステララをわきにいよいよ主要門に近づいていった。
ほとんど通りぬけてしまうという段になって、まのぬけた人相をしたコルサール人の兵士が二人をよびとめた。「おまえたちは何者だ?」男は訊問した。「何用があって宮殿から出ていくのだ?」
「おれたちは船員だ」タナーが答えた。「これから自分の船へ行くんだ」
「宮殿で何をしていた?」
「船長から荷物をことづかってエル・シドの物置きへもっていったのだ」サリ人が説明した。
「おまえたちの格好がどうも気にくわん。どっちも見かけたことがないぞ」
「おれたちは長い航海に出ていたからな」タナーが答えた。
「この門の隊長がもどるまで、ここで待っていろ」男がいった。「隊長が質問したいだろうからな」
サリ人はがっくりした。「船にもどるのがおくれたら、船長に大目玉をくらうんだ」
「そんなこと、おれの知ったこっちゃない」
ステララはマントの中に手をいれて、自分自身の服の上に着用している男ものの半ズボンの下を手さぐりして、帯につけた財布をさぐりあてた。そしてその中からなにかをとりだしてタナーの手にすべりこませた。かれはすぐに理解してその兵隊に近づくと、掌に金貨を二枚押しつけた。
「おくれたらおれたちひどい目にあうんだよ」タナーはいった。
男はひんやりとした金貨の感触を掌に感じとった。「よかろう」かれはつっけんどんにいった。
「さっさと自分の仕事をしにいけ」二度うながされるまでもなく、タナーとステララはコルサールの通りの群衆にまぎれこんだ。どっちも口をきかなかった。ステララは、宮殿の門をずっと後にするまでろくに呼吸すらしていなかったらしい。
「こんどはどこへ?」とうとう彼女はたずねた。
「海へでるんだ」タナーは答えた。
「コルサールの船で?」
「コルサールの小舟で」かれは答えた。「ぼくたちは釣りにでかけるんだよ」
河の堤防にそって、多数の船が繋留してあったが、船の上にも、その付近にもいかに大勢の人間がいるかを見て、タナーは自分が選んだ計画――釣り舟をぬすむという計画――が十中八、九無惨な失敗に終わるだろうとさとった。そしてその疑念をステララに説明した。
「そんなこと、ぜったいにできないわ」彼女がいった。「船を盗むということは、コルサールでは人がおかすことのできるもっとも憎むべき犯罪とされているのよ。船の持ち主が乗船していなくても、だれか友人の持ち主のために番をしていることは確実よ。盗めば死刑だから、だれかが盗もうとするおそれはほとんどないけれど、それでも見はっているわ」
タナーは首をふった。「それじゃコルサールの都市を端から端まで通るという危険をおかさなくてはならないし、訊問されたときのためにこれといったもっともな口実もなしに郊外へ出ていかなくてはならない」
「舟を買えばいいわ」ステララが提案した。
「ぼくは無一文だ」タナーがいった。
「あたし、持ってる。エル・シドはいつも金貨を充分にくれていたの」彼女はもう一度マントの下の財布に手をのばして一つかみの金貨をとりだした。「さあ、これを持っていって。もしそれで足りなければそういってちょうだい。でもその半分で買えると思うわ」
河べりで最初に近づいた男にたずねて、タナーは河をちょっとくだったところに小型の釣り舟が売りにでていることを知った。持ち主を見つけだして買い取るのに長くはかからなかった。
舟をおしだして、流れに乗って河をくだりながら、タナーはコルサールからの脱出があまりにもとんとん拍子にはこびすぎたということに急に気がついた。どこかがおかしいのにちがいない。夢でも見ているのか、さもなければいまにも災難にあうか、ふたたびつかまるのではあるまいか。
河のゆるやかな流れに乗って海へとはこばれながら、タナーは船尾で一本の櫂《オール》を水かきのようにバシャバシャと使ってできるだけ岸をはなれて水路の中ほどへ出ているように、また舳先を正しい方角にたもつように努力した。コルサールの船員や漁師たちの見ている前で帆をあげたくなかった。そういったことに未経験なのは明白な事実だったから、自分がへまをやってかれらの注意をひかずにいないだろうということも、その結果かれらに疑惑をなげかけるだろうということもよくわかっていたからだ。
ボートはゆっくりと都市をはなれ、中流に投錨《とうびょう》しているコルサールの掠奪船から遠ざかっていった。もう帆をあげていま吹いている陸軟風を利用しても大丈夫だ、とかれは感じた。
ステララの手助けで帆はあげられた。帆が風をはらむと、舟は速力をまして前進した。と、そのとき、後方に喚声が聞えた。ふりむいて見ると三隻の船が速力をあげてこっちへやってくる。
停船せよという命令が河面をこえてとんできた。
追手の舟は最初から帆をあげていたので、すでにかなりの舟足をつけており、急速に小舟においつきそうな勢いだった。だがほどなく小舟が速度をましたので、二隻の間の距離は変わらないようになった。
追手の喚声は、停泊中の攻撃船上の船員たちの注意をよびおこした。そしてまもなく腹にひびくような砲声がタナーとステララの耳に聞こえ、右舷前方すぐ先の水面に大きな砲弾が落下した。
タナーは首を振った。「近すぎるな。舟を河上にまわしたほうがよさそうだ」
「なぜ?」ステララがたずねた。
「ぼくはつかまる危険をおかしてもかまわない。たとえつかまってもきみの素姓がわかればかれらもきみに危害はくわえないだろう。だが、砲撃をうける危険をおかすわけにはいかない。一発でも命中すればきみはやられてしまうからね」
「河上へまわさないで」ステララは叫んだ。「つかまるくらいならあなたとここで死ぬほうがいいの、つかまればあなたは殺される。そうなったらあたしも生きていたくないわ。そのまま行って、タナー。まだかれらをひきはなせるかもしれないでしょう。それに、かれらの砲撃だけど、この舟のように小さくて動いているものは命中させにくいのよ。腕前はたいしたことないし」
ふたたび大砲がとどろいた。今回はかれらの頭上をこえてついさきの水面に落下した。
「敵は射程をあわせているんだ」
ステララは舵柄の横にすわっているタナーのそばへ来ていった。「あたしを抱いてちょうだい、タナー。もし死ななくてはならないのなら、いっしょに死にましょう」
サリ人はあいているほうの腕を彼女にまわして抱きよせた。とその一瞬後、かれらを砲撃していた攻撃船の方角でものすごい爆発がおこった。二人はさっと船のほうをふりむいた。そして何がおこったかを知った――弾薬を過装填した大砲が爆発したのだ。
「連中め、はりきりすぎたな」タナーがいった。
次の弾が発射されたのはそれからしばらくしてからのことだった。今度の弾は船尾のはるか後方に落下した。だが追手の船は執拗にかれらの跡についてくる。
「敵は追いついてこないようね」ステララがいった。
「ああ。だがぼくらもひきはなしてはいない」
「でも海へ出たらひきはなせると思うわ。もっと風が得られるし、この舟のほうが、かれらのよりも軽くて舟足も早いんですもの。もっと大きな船よりこれを選んだのも運命が味方してくれたおかげね」
海に近づいてくると、追手はステララのいったとおりのことがおこるのを恐れて、火繩銃やピストルをいっせいに発射してきた。ときどき、弾はきわどいところまで飛来したが、かれらの原始的な武器や粗末な火薬にとっては、射程がわずかに長すぎた。
二人は広大なコルサール・アズにむかってどんどん帆走した。海ははるか前方と上空にひろがり、かなたで靄《もや》にとけこんで見えなくなっている。左手の海は陸に入りこんで大きな湾を形成し、一方、かれらのほとんど真正面には、岬の輪郭がうっすらとうかびあがっていた。もっとも、遠すぎてかろうじて見わけがつくていどではあったが。タナーはこの岬に針路を定めた。
追跡はすでに根くらべの段階にはいっていた。たとえコルサール・アズの対岸まで追跡がつづいたとしてもコルサール人には獲物を放棄する意志がないことは明白だったし、タナーが降伏しようという考えをもっていないことも同時に明白だった。
追跡するものも、されるものも、どんどん帆走した。岬はかれらの目前にゆっくりと形をとってきて、やがて岬の左に、ほとんど海までつづいている大きな森が見えた。
「岸にむかっているの?」ステララがたずねた。
「ああ。食物も水も持ってないし、たとえ持っていたとしても、この舟をあやつって、あえてコルサール・アズを渡るほど、ぼくは満足な船員ではないからね」
「でも、もし陸へあがったら、敵はあたしたちの跡をつけることができるでしょう」
「きみは木のことを忘れたのかい、ステララ?」
「そうそう、木があったわね」彼女は叫んだ。「忘れていたわ。木にのぼれたらきっと大丈夫ね」
岬の内側の海岸に接近したとき、さかまく大波が岩間にくだけるのが見え、怒濤《どとう》の陰鬱なとどろきがかれらの耳にこだました。
「あの波ではどんな舟でももたないわ」ステララがいった。
タナーは見えるかぎりの海岸線を端から端まで見渡してから、悲しげな目つきで連れを見つめた。「絶望的だ。さがしているひまがあれば、もっと安全な上陸地点が見つかるかもしれないんだが。ぼくたちから見える範囲内ならどこへ上陸してもいい。どうせ同じことだもの」
「どこへ上陸してもよくない、ということでしょ」ステララがいった。
「しかたがないさ」サリ人はいった。「いまさらあの岬をまわってもう一度沖合いへ逆もどりしようとしたら、ひまどって追いつかれてつかまってしまうにちがいない。あの波に運命をかけるか、まわれ右して降参するかしかないだろう」
追手はすでにかれらの後方に来ていて、大波に乗って浮き沈みしながらじっとまっている。
「敵は、もうこっちのものだと思っているのよ」ステララがいった。「あたしたちがここで方向を転じて岬の先端をまわって沖にむかうのだと思っているわ。それであたしたちの進路をさえぎる態勢をとっているのよ」
タナーは小舟の舳先をまっすぐ岸にむけた。怒濤のむこうに砂浜が見える。だがその手前に岩礁があって、波がぶちあたってはくだけ、高々と水しぶきをあげている。
「見て!」ステララが叫んだ。舟はたぎりたつ波しぶきめがけて疾走していた。「見て! あそこ! すぐ先よ! まだ道はありそうだわ!」
「ずっとそこをねらっていたんだ」タナーがいった。「舟がまっすぐそこへ行くように舵をとっているんだが、もしあれが岩礁の隙間《すきま》なら、いまにそうとわかるだろう。だがもしもそうでなかったら――」
サリ人はちらとコルサールの船のほうをふり返って、またしても追ってきているのをみとめた。いまやコルサール人たちには、獲物が、沖へひき返してつかまる危険をおかすというようなことはせずに、絶望のあまり岩だらけの海岸線に身を投じようとしていることがはっきりとわかったのにちがいない。
小舟の帆はすみずみまでいっぱいにひろがった。帆布は風をはらみ、索がびーんと音をたてるでほどに張りつめてうなっていた。舟は真正面の岩礁めがけてまっしぐらに疾走した。
二人は船尾にうずくまり、タナーは左手でステララを自分の横にかばうようにだきしめていた。舟は、どうにもさけがたいかに見える破滅にむかって驀進《ばくしん》する。二人は事態の凄絶さに魅入られたようになって、|やりだし《ヽヽヽヽ》が上下するのを凝視していた。
岩礁だ! 海は小舟の二人を高々と空中にもちあげ、前方の岩の上にどっと押しだした。右には花崗岩のギザギザした突起が波しぶきをつらぬいて顔をだし、すばやく通過する一瞬、左に、水の作用でなめらかに磨滅した大岩の腹が見えた。舟は水底の岩でギリギリとこすられ、すべり、砂浜めがけて殺到した。
タナーは舟の竜骨が砂地にふれるとすばやく短剣をぬき、揚げ綱を切って帆を落とした。そしてステララをだきあげると浅瀬にとびおりて岸にかけあがっていった。
途中いったんたちどまってふり返り、追手のコルサール人のほうを見ると、驚いたことには三隻とも岩だらけの海岸線をめざして疾走してくるではないか。
「かれらはあたしたちをとらえずには帰れないのだわ」ステララがいった。「そうでもなければあの波を乗り切ろうなどとしないでしょう」
「エル・シドは、きみをさがしても見つからないのでぼくたちの正体をしらべたのにちがいない」タナーがいった。
「それに、あなたが土牢にいないということも発見したのかもしれないわね。そしてそのことと、あたしもいなくなっているということとを考えあわせて、二人の船員の正体――門を通り、河で金貨を支払って舟を買った船員の正体――がだれか、見破ったのでしょう」ステララが自分の意見をのべた。
「一隻が岩にぶちあたったぞ」タナーは、先頭の一隻が波しぶきの中に没するのを見て叫んだ。二隻目は一隻目と同じ運命をたどった。しかし三隻目は、タナーとステララが無事に砂浜へ通ってきたのと同じ場所を通ってのりこんできた。それを見て二人の逃亡者は森にむかってかけた。
二人の背後から、十二人ばかりのコルサール人がかけてきた。ピストルと火繩銃が発砲される中を、タナーとステララは原始林の暗い蔭の奥へと消えていった。
未知の国々からサリの王国に到る、二人の長い、苦難にみちた旅の物語には、興味とスリルと冒険が横溢《おういつ》しているのだが、この物語の本筋ではない。
だからここでは、二人が、ジャとグーラが姿を見せるよりも少し前にサリに到着したとだけいっておこう。ジャとグーラは、生命《いのち》がけの冒険を経てきたために到着がおくれたのだ。
サリの人々は、ガークの息子が故郷へつれかえったアミオキャップ人の妻をこころよくむかえた。そしてまた、グーラもタナーの友人であるがゆえにうけいれた。もっとも、若者たちは彼女を彼女なりにうけいれたが。
美しいハイムの乙女の住処《すみか》の前にはかずかずの戦利品がおかれた。しかし彼女は全部ことわった。というのも表面にこそあらわさなかったが、心の中ではひそかに恋心をいだいていたからだ。しかしステララはおそらくこのことを察していたのだろう。アミオキャップの乙女がハイム人の妹にやさしい心づかいをしめすのも、そのためと思われる。
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エピローグ
ペルシダーのタナーの物語が終わりに近づくにつれて、ペリーの信号はしだいに弱まり、ついにはぴたりと止まってしまった。そしてジェイスン・グリドリーにはそれ以上なにも聞こえなくなった。
かれはわたしのほうにむいていった。「ペリーは、まだいいたいことがあったらしい。なにかを話そう、なにかをたのもうとしていましたよ」
「ジェイスン」わたしはとがめるような口調でいってやった。「きみは地底世界の物語がまったくばかげているといわなかったかい? 石器時代の人間や、妙ちきりんな爬虫類が棲息している世界なんてあるはずがないとね。ペルシダーの皇帝なんて存在しないとがんばったのじゃなかったかな」
「まあまあ、そういわないで」かれはいった。「あやまりますよ。もうしわけありません。でもそれはもうすぎたこと。問題は、これからわれわれはどうすればよいかということです」
「何をどうすればよいというのかね?」
「あなたは、デヴィッド・イネスがコルサール市のエル・シドの宮殿の暗い地下牢に幽閉されていることがわからないのですか?」かれはつめよった。かれがこれほど興奮しているのをわたしはかつて見たことがない。
「それがどうだというんだね?」わたしは問い返した。「むろんわたしは気の毒に思うよ。だがいったいどうやってわれわれにかれを助けることができる?」
「いろいろできますとも」ジェイスン・グリドリーはきっぱりと答えた。
正直なところ、かれを見てわたしは精神状態が少なからず気にかかった。というのも、かれは明らかにひどくとり乱していたからだ。
「考えてもごらんなさい」かれは叫んだ。「まったくの暗闇と、静寂と、孤独の中に埋もれているあわれな男のことを――それに、あの蛇! ああ!」かれは身ぶるいした。「うようよとかれの上をはいまわり、腕や足や身体にくねくねと巻きつき、眠ると顔の上をはって通る。そしてそんな蛇以外に単調さを破るものがないとは――人間の声も、鳥の囀《さえず》りも、日光もないんだ。なんとかしてやらなくてはならない。かれを救出しなくては」
「だが、だれがそれをやるのかね?」
「ぼくです」ジェイスン・グリドリーは答えた。
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バロウズとファンたち
SF、およびSF周辺の作家たちのなかで、エドガー・ライス・バロウズほど幅広いファン層をつかんでいる作家は一人もないといってよい。特定の作家を対象にしたファン・クラブ――たとえばコナン・ドイルのシャーロック・ホームズにおけるベーカー・ストリート・イレギュラーズ――がつくられているのは、バロウズ以外にはないといっていいだろう。かろうじてこれに類するものにラヴクラフトがあるくらいのものである。
しかもERB――エドガー・ライス・バロウズなどとわざわざ言う必要もない。すべてERBで通用する――のファン・クラブはひとつやふたつではない。大小|無数の《ヽヽヽ》――といえば語弊があるが、とにかくERBの作品がすきですきでしようがない、というファンたちのグループの正確な数は、おいそれとつかみきれないほどの数になるのである。
バロウズの諸作が邦訳されはじめて以来、わたしは未知のアメリカ人からいったい何通の手紙をもらったことだろう。
「未知のあなたに突然お手紙をさしあげる無礼をおゆるしください……」にはじまって「わたしは日本国内において出版されているERBに関する全部のItem(本だけではない、全部のItemなのだ)がほしいのです。お礼としてERBの肖像写真か、ペルシダーの初版本をあげますから……」などというたぐいのものである。
たまたま、かなり以前に自動車のポンコツ屋で、買ったパーツを包んでくれた紙が、なんと昔なつかしいワイズミューラーのターザン映画のポスターだったので、なんかの記念にととっておいたのがあったので、そいつを送ってやったところが、やっこさん喜ぶまいことか。
「オオ、わたしの喜びをあなたにお伝えするすべがペンだけであるのは非常に悲しい……」みたいな手紙をよこしてきた。
「当地にはERBのファンが非常に多く、全員が|それ《ヽヽ》を持つことを熱望しております。ついてはさらに二〇枚ほどお送りいただけますまいか……」
いまさらノコノコ堅川町くんだりまで、ポスターをさがしにいくほどとっぽくもないので、まあ油にまみれたその一枚でご勘弁をねがったが、そんなたぐいの手紙はそれこそワンさとやってくる。
日本語が読めるわけでもあるまいにとは思うのだが、そもそもアメリカの最有力なERBファン・クラブ「バロウズ・ビブリオ・ファイル」の親玉あてに送ってやった古い講談社版の子供むけの「ターザン物語」数冊のおかげで、わたしはたちまち同クラブの極東地区代表《ヽヽヽヽヽヽ》にまつりあげられたんだからおしてしるべし。〈ペルシダー〉などは何冊送ってやったかしれない。
がんらいファンなどというのは、そんなものであって、そんなものでなければつまらないものなのだろうが、傍目にはずいぶんと珍妙なものに見えることにまちがいはないだろう。
あるアメリカのファンで、自宅の居間に仏壇をしつらえたやつがいる。袖のひもをひっぱると、スルスルとカーテンがめくれあがり、なかにぱっと|お灯明《ヽヽヽ》がともって、その奥に|鎮座まします《ヽヽヽヽヽヽ》ジョン・カーターのやつ、火星の美女デジャー・ソリス妃の御真影《ヽヽヽ》を照らしだす――というんだから吹きだしてしまう。
しかしご当人は大まじめ、近々もっと仏壇《ヽヽ》を大きくするんだとはりきっている。
現在ERBのファン・クラブでもっとも大きいのは〈バロウズ・ビブリオ・ファイル〉と〈ERBダム〉の二つだろう。
前者は本部をミズリー州、カンサスシティにおき、正会員千人を擁しているが、そのなかには、バランタイン・ブックスのイアン・バランタイン、作家のスカイラー・ミラー、SF評論家のサム・モスコウイッツ、エース・ブックスのD・A・ウォルハイム、世界最大のSF本コレクターF・J・アッカーマンなどがずらりと名をつらねており、機関誌〈バロウズ・ビュレティン〉をはじめいくつかの刊行物が発行されている。
一方で〈ERBの女性観〉などと称してデジャー・ソリスと美女ダイアンの比較論を大まじめでやってるかとおもえば、ERBが若いころ鉄道警官をやっていた時分の写真をとりあげて、やれ、あの口ヒゲはのちにERBがペンで落書したものだとか、そうじゃないとか派手な論争がもちあがったりしていて、まことにファンのムード横溢のたのしい機関誌である。
かたや〈ERBダム〉のほうは、カミル・カサドジュという一ファンの個人誌で購読会員制をとっているが、この機関紙〈ERB〉は、アメリカにSFファンジンのかずあるなかで、装幀といい内容といい、おそらく最高のレベルを保持しているといってよい。一昨年のヒューゴー賞を獲得しているのもむべなるかなと思う。
ペルシダー地図だとか、地球空洞論の紹介だとか、大変実のある記事が多い。
ERBファンたちのこうした活動や、その成果のひとつであるファンジンを手にしてしみじみ感じるのはSFにはまだまだいろんなたのしみかたがあるのだなという感慨である。第一ページから巻末まで読みとおして、それでおしまいというのではない。あっちをひっくりかえし、こっちをつっつきまわし、仲間たちと語りあい論じあい、ああでもないこうでもないとひねくりまわしているその姿を見るにつけ、ERBという男は本当に幸福な男だったのだなという感慨を禁じえないのである。(野田昌宏)