危機のペルシダー
E・R・バローズ/佐藤高子訳
目 次
プロローグ
一 ペルシダーに帰る
二 恐怖の旅
三 雲の山々
四 友情と裏切り
五 奇遇
六 宙に浮かぶ世界
七 一難去ってまた一難
八 囚われて
九 フージャの軍勢現わる
十 洞窟牢襲撃
十一 逃走
十二 誘拐
十三 生命がけの遁走
十四 流血と夢と
十五 征服と平和
[解説]バローズとファンたち 野田昌宏
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登場人物
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デヴィッド・イネス……地底帝国ペルシダーの皇帝
アブナー・ペリー……イネスの親友
美女ダイアン……イネスの妻
毛深い男ガーク……イネスの第一副官
グールク……スリア族の長
コーク……グールクの息子
ジャ……メゾプ族の長
ジュアグ……イネスの友人
狡猾な男フージャ……イネスに敵対する男
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プロローグ
猛獣狩りに出かけるおりもないまま、数年が流れた。だがついに、北アフリカのなつかしい猟場――往年、百獣の王を追って狩猟の醍醐味《だいごみ》を満喫したあの場所――に舞いもどる計画がほぼ完了しようとしていた。
出発の日取りも決まり、二週間後に出立することになっていた。「夏季休暇」がはじまってキャンプ場のしびれるような解放感を味わう日を、いまや遅しと指折り数えてまちかねている学生でも、これほどの焦慮《しょうりょ》、というか、期待に胸をはずませたことはあるまい。
そこへあの手紙が舞いこんだ。そしてわたしは予定より十二日も早く、アフリカへ出発したのだった。
わたはしばしば未知の人々からお手紙を頂戴して、わたしの記事に関してほめられたり、お叱りをこうむったりするのだが、こういったお手紙をいただくということに、わたしは非常に清新な興味を抱いている。この手紙もまたこれまでの多くの手紙と同様、わくわくしながら封を切った。消印がアルジェとなっているのも、この際とりわけ興味と好奇心をかきたてた。それというのも、獲物と冒険を求めて近く旅立つ航海の終着地となろうとしているのがアルジェだったからだ。
ところがその手紙をすっかり読み終わらないさきに、ライオンのことも、ライオン狩りのこともすっかり念頭から雲散霧消してしまった。そしてわたしはほとんど狂気に近い興奮状態におちいったのである。
その手紙というのは――いや、この際、諸君ご自身に読んでいただこう。はたして諸君もまた、心をかきたてる憶測や、身をさいなまれるような疑念や、遠大な希望を呼びさます何ものかを、その中から読みとられるだろうから。
その手紙というのはこうだ――
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拝啓
どうやらわたしこと、現代文学におけるもっとも瞠目《どうもく》すべき偶然の一つに遭遇したようです。それはとにかく、最初からお話しすることにしましょう。
わたしは、世界をまたに放浪するのが仕事という人間です。家業もなく、これといった職にもついておりません。
父は遺産を、そしてそれ以前の祖先は放浪癖をわたしに残してくれました。わたしはこの二つの遺産をあわせ、周到かつ小出しに投資してきました。
あなたの物語、『地底世界ペルシダー』には興味をひかれました。なにもあの物語がいかにもありそうなことだからではなく、あんな荒唐無稽《こうとうむけい》な駄作を書いて金になるということに、ひとかたならぬ驚異の念を抱いたからです。率直なところを申しあげて、どうかお許しください。でもこの御作にたいしてわたしがどんな気持ちを抱いたかを理解していただく必要があるのです――これからお話しすることを信じていただくためにも……。
その後まもなく、わたしはサハラ砂漠にむけて旅立ちました。一年を通じて特定の季節に、あるかぎられた地域にだけ、たまに見つかるカモシカの珍種をさがすのが目的だったのですが、追跡しているうちに人里をはるかに離れたところへ来てしまいました。
結局、カモシカに関するかぎりは成果を得られずじまいだったのですが、ある夜、横になってうとうとしていたときのことです。そこは乾燥しきった流砂のまっただなかにある古井戸の周辺に群生している、ちょっとした棗椰子《なつめやし》の木立のはずれでした。突如として、頭の下の地面から奇妙な物音がたしかに聞こえてくるのに気づきました。
断続的にカタカタ、カタカタ、という音です!
わたしの知っている爬虫類や昆虫で、そんな音を発するものはありません。わたしはじっと聞き耳をたてて、一時間もの間横たわっていました。
やがてついに好奇心をおさえきれなくなって起きあがり、ランプをともして調査を開始しました。
わたしは生暖かい砂の上にじかに敷物をひろげて寝床にしていました。物音は、どうやら敷物の下から聞こえてくるようなのです。で、敷物を持ちあげて見ましたが何もありません――それでいて物音は間歇《かんけつ》的につづいています。
わたしは狩猟用ナイフの先で砂を掘りおこしてみました。すると表面から二、三インチのところで何か固いものに行きあたりました。鋭い鋼鉄の切先が木のようなものにあたった手ごたえです。
その周囲を掘り返してみると、小さな木箱が出てきました。わたしが耳にした奇妙な物音は、この容器から発していたのです。
こんなものがどうしてここにあるのだろうか?
中に何がはいっているのだろう?
持ちあげようとして、その箱が、その下の砂地にさらに奥深くもぐっている非常に細い絶縁線につながれているらしいことに気づきました。
とっさにわたしは、その箱を力づくで絶縁線から引きちぎろうかと思いましたが、幸い、思い直して箱を調べにかかりました。ほどなく、その箱には蝶番式《ちょうつがい》の蓋《ふた》がついていて、簡単な止め金具で封じてあることがわかりました。
止め金具をゆるめて蓋を開けるには、わずかの時間しかかかりませんでした。箱の中にごくありきたりの電信器がカタカタと音を発しているのを発見して、わたしは呆気《あっけ》にとられました。
「いったいぜんたいこの機械はここで何をしてるんだ?」
まず最初に考えたことは、これがフランスの軍用通信器ではなかろうかということでした。しかし実際いって、その地点が人里をはるかに離れていることを考えると、この推測には信憑性《しんぴょうせい》があるように思えません。
砂漠の夜の静寂の中で、わたしには解明できない通信を伝達しようとしてカタカタと信号音を発している驚くべき物体をつくづく眺めているうちに、ふと通信器の横の箱の底に一枚の紙片が目にとまりました。わたしはそれを取りあげて調べてみました。紙片にはたった二文字、D・Iと書いてあるだけです。
当時、わたしにはそれがどんな意味を持っているのかさっぱりわかりませんでした。わたしは、はたと困惑しました。
一度、受信器がしんとしずまった合図に、送信器のキイを二、三度たたいてみました。と、たちまち受信装置は狂ったように働きはじめました。
わたしは少年時代に使って遊んだモールス信号を何がしか思いだそうとしましたが、歳月のためにそれらは記憶から消えうせていました。この受信器がなんのためにここにあるのだろうかと、あれこれ想像をめぐらしているうちに、いてもたってもいられなくなりました。
どこかわからないがもう一方の端にいる哀れな男が、必死になって救援を求めているのかもしれない。受信装置が発する信号音の途方もない狂気じみた激しさが、何かそういったことを物語っていました。
だのにわたしは、その信号を解明する能力もなく、むろん救助してやることもできずに腕をこまねいているしかなかったのです!
あのインスピレーションがふってわいたのはその時でした。わたしの脳裏に、アルジェのクラブで呼んだ物語の末尾の一節が忽然とひらめいたのです。
「答は、広大なサハラ砂漠のふところのどこか、失われた石塔《ケルン》の下に隠された二本の細い電線の端に秘められているのだろうか?」
どうもばかげているような気がしました。日頃の経験や知識をあわせて考えても、あなたの突拍子もない物語に真実性とか可能性とかいったものがみじんもないことはたしかでした。――あれは正真正銘の作り話にすぎなかったのです。
それにしても、その電線のもう一方の端は|どこにあったのだろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?
ここ、大サハラでカタカタと音をきざんでいるこの機械がなんだというのだ――ただのこじつけにすぎないじゃないか!
もしもこの目で見ていなかったら、はたしてこんなことを信じていただろうか?
それに、あの紙片に書かれたD・Iという頭文字《かしらもじ》! デヴィッド・イネス――デヴィッドの頭文字だ。
わたしは自分の想像に苦笑しました。そしてこの世に地底世界などというものが存在し、これらの電線が足もとの地殻を貫通してペルシダーの地表につづいているという仮説をばかばかしく思いました。とはいうものの――
とにかくわたしは一晩中そこに腰をすえ、焦燥感をあおるような信号音に耳をかたむけ、装置を発見したことを相手に知らせるだけのために時折送信器のキイをたたいていました。翌朝、箱を注意深くもとの穴にもどして砂をかぶせたあと、わたしは召使いをよんで朝食をかきこみ、馬にまたがってアルジェにむけて強行軍の途につきました。
そして本日、当地に到着した次第です。あなたにこの手紙を書くことによって、なんだか自分で自分を笑いものにしているような気がします。
デヴィッド・イネスなどという人物は存在しない。
美女ダイアンもしかり。
一つの世界の中にもう一つの世界があるはずがない。
そしてペルシダーはたんにあなたの想像上の王国であって、それ以上の何ものでもないのだ。
|しかし《ヽヽヽ》――
人跡まれなサハラ砂漠で、埋もれた電信器を発見したということ、これはあなたの書かれたデヴィッド・イネスの冒険談と考えあわせてみて、信じがたいまでの事件といえましょう。
わたしは、現代|フィクション《ヽヽヽヽヽヽ》におけるもっとも瞠目すべき偶然の一つ、と申しましたね。さきほどは文学《ヽヽ》といったのですが――もう一度、率直に申しますと――失礼ながらあなたの物語は文学ではありません。
それならば――なぜわたしはあなたに手紙を書いているのか?
いやはや、それというのも、はるかなサハラ砂漠の果てしない静寂の中で、あの不可解な装置が執拗《しつよう》に発する信号音にすっかり神経をやられてしまって、正常な思慮|分別《ふんべつ》がつかなくなってしまったからですよ。
いまでこそ聞こえませんが、あの装置ははるか南の砂漠の地下にとり残されて、いまもなお、むなしく狂おしい訴えをカタカタと打ちつづけているのです。わたしにはそれがわかります。
それを思うと気が変になりそうです!
これというのもあなたのせいなのですぞ――わたしをこんな気持から解放していただきたい。
ただちに、あなたの物語『地底世界ペルシダー』は事実無根であるという電報をください。着地払いでけっこうです。
敬具
コグドン・ネスター
**アンド**クラブ
アルジェ
六月一日
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この手紙を読んで十分後、わたしはネスター氏に次のような電報を打った。
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モノガタリハシンジツ
アルジェニテマテ
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もっとも早い汽車と船を利用して、わたしは目的地に急行した。日のあゆみはのろく、その間のわたしの頭には狂気じみた憶測や狂おしい希望や、身も萎《な》えるような恐怖が渦巻いていた。
電信器が発見されたということで、わたしはデヴィッド・イネスがペリーの「鉄製もぐら」を駆《か》って地殻を貫通し、地底世界ペルシダーに帰ったことを事実上確信した。だが、かれがもどってからどんな冒険が身の上に起こったのだろう?
かれは半未開人の妻、美女ダイアンが味方の人々とともに無事でいるのをつきとめただろうか? それとも狡猾な男フージャは、ダイアンをかどわかそうという不埒《ふらち》なたくらみに成功したのだろうか?
愛すべき老発明家にして古生物学者アブナー・ペリーは健在だったか?
ペルシダーの連合部族は、地底世界を支配する、かの怪物爬虫類の一族強敵マハールと、その手下の極悪非道なゴリラ人間の軍隊サゴスを、首尾よく打倒しただろうか?
アルジェの**アンド**クラブにたどりついて、ネスター氏に面会を求めたときには、ほとんど神経衰弱に近い状態だった。ほどなく当人の面前に案内された。わたしが握手をしたのは、世間にそうざらにはいない種類の人物だった。
かれは三十歳くらいで、背が高く、ひげは生やしていないが目鼻立ちのはっきりした男で、姿勢のよい堂々とした体格をしており、砂漠のアラビア人と同じくらい風雨にさらされた皮膚をしていた。わたしは一目見るなりこの男が大いに気にいった。砂漠の国でともに過ごした三ヵ月は必ずしも平穏無事なものだったとはいえないが、『荒唐無稽な駄作』の作者といえどもそれをうめ合わせるなんらかの取りえを持ちあわせているものだということを、かれもわかってくれたらと願っている。
わたしがアルジェに到着した翌日、わたしたちは南にむけて出発した。当然のことながら、ネスターはわたしがただ一つの目的――すなわちすぐに埋もれた電信器のもとへ急行してその秘密を探りだすこと――のためにアフリカへ出かけてくれるのだと推察をつけて、あらかじめあらゆる手配をしておいてくれた。
原住民の召使いのほかに、わたしたちはフランク・ダウンズというイギリス人の電信技手をともなって出かけた。道中わくわくするほどの事件も起こらないまま、わたしたちは汽車に乗ったり、旅行隊《キャラバン》を組んだりしてサハラ砂漠の果てにある古井戸の周辺に群生する棗椰子《なつめやし》の木立に到着した。
その場所こそは、わたしがデヴィッド・イネスに初対面した場所に相違なかった。たとえかれが電信器の上に石塔《ケルン》を立てたとしても、いまではその痕跡すら残っていなかった。たまたまコグドン・ネスターが、隠された電信器の真上に寝床を敷かなかったら、器械はいまなお誰の耳に届くこともなくその場でカタカタと鳴りつづけていたかもしれない――そしてこの物語もいまだに書かれてはいなかったろう。
そこにたどりついて小箱を掘り出したとき、電信器はしんとしずまっていた。電信技手がくり返し呼んでみても相手からの応答は得られなかった。ペルシダーを呼び出すために数日間無駄な努力をかさねたあげく、わたしたちは失望しはじめていた。わたしには、あの細い電線のもう一方の端が地底世界の地表をつらぬいて突き出ているのだという確信があった。それは、現在わたしがこの書斎に腰をおろしているのと同様、たしかなことなのだ――と、四日目の真夜中頃のこと、わたしは送信器の発する音に目をさました。
わたしははね起きてダウンズのえり首をむずとつかみ、毛布から引きずりだした。わたしが興奮している理由をかれに話すまでもなかった。というのは、かれもまた、目ざめたとたんに久しく待ち望んでいた信号音を耳にしたのだ。かれはワッと叫んで電信器にとびついた。
ネスターもほとんどわたしと同時に立ちあがっていた。三人は電信器がもたらす通信に一同の生命がかかってでもいるかのように、小箱の周囲にひしと身をよせあった。
ダウンズは送信器のキイをたたいて相手の信号を中断させた。受信器はぴたりとしずまった。
「相手が誰かたずねてくれたまえ、ダウンズ」わたしは指示を与えた。
かれはいわれたとおりにした。イギリス人が相手の応答を翻訳してくれるのをまっている間、はたしてネスターもわたしも呼吸していたかどうか疑わしい。
「相手はデヴィッド・イネスだといっています」ダウンズがいった。「われわれは何者かとたずねていますが」
「教えてやってくれたまえ」わたしはいった。「そして、いまどうしているのか――一別いらい、かれの身の上にどんなことが起こったか、すっかり聞きたいといってやってくれ」
二ヵ月の間、ほとんど連日わたしはデヴィッド・イネスと通話をした。ダウンズが翻訳すると、ネスターが、またはわたしがそれを書きとめた。わたしはそれを日時を追って整理し、ほとんどかれの言葉どおりに次のような物語を書きあげた。デヴィッド・イネスのその後の地底世界冒険物語である。
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一 ペルシダーに帰る
最後にさしあげた手紙でお知らせした例のアラビア人のことだが――とイネスは話しはじめた――わたしを殺すことだけをもくろんでいる敵だと思っていたところ、はなはだ友好的な連中だということがわかった――かれらは、わたしを亡き者にしようとしていた当の略奪者の一隊を捜索していたのだ。わたしが地底世界からつれて帰った嘴口竜《ランフォリンクス》のような巨大な爬虫類――出発の瞬間に、あの狡猾な男フージャが愛するダイアンとすりかえたあの醜怪きわまるマハール――を見て、かれらは大いに驚き、かつ恐れた。
わたしをペルシダーから運んで帰ってきて、現在キャンプ地から三キロばかり離れた砂漠に横たわっている巨大な地下試掘機にたいしても、かれらは同様の反応を示した。
かれらの手をかりて、その何トンもある荷厄介な巨体をようやくのことで垂直に立てることができた――機首は砂地に掘った穴に深く突き立て、胴体は棗椰子《なつめやし》の幹を伐ってきてささえた。
荒っぽいアラビア人と、それに輪《わ》をかけたようなかれらの馬だけを使って電動クレーンの役をさせるのは大仕事だった――が、ついに作業も完了して出発準備はととのった。
しばらくの間、わたしはマハールをいっしょにつれて帰ったものかどうか迷っていた。「機械もぐら」に囚《とら》われの身も同然となったことに気づいて以来、マハールはおとなしくしていた。むろん、マハールには聴覚器官がないし、わたしは第四次元第六感覚で意志を伝達する方法を知らないから、マハールと会話をすることは不可能だった。
わたしは生まれつき心の優しいほうだから、たとえこんな厭《いと》わしいやつでも敵意ある未知の世界に置き去りにはするにはしのびなかった。そこで結局マハールを連れて「機械もぐら」に乗りこんだ。
わたしたちがペルシダーへ帰ろうとしていることがわかったとみえて、それまで沈みきっていたマハールの態度は一変した。そしてほとんど人間的ともいえるような満足と喜びを示した。
地殻を突破しての旅は、地底世界と地上世界を結ぶこれまでの二度の旅とかわりはなかった。ただし、今回は以前よりも垂直に近いコースをたどったものとみえて、第一回目に八百キロの地殻を貫通した際よりも所要時間は数分少なくてすんだ。すなわち、サハラ砂漠に没入してから七十二時間たらずでペルシダーの地表を突破して姿を現したわけだ。
今回もまた僅少《きんしょう》の差で幸運に恵まれた。試掘機の外被《アウタージャケット》を開いたときに判明したのだが、わたしたちはわずか二、三百メートルの差で海の底に出てくるところをまぬがれたのだ。
あたりの風景はまったく見慣れないものだった――三億二千万平方キロにおよぶ広大なペルシダーの陸地のいったいどこにいるのか見当もつかない。
永遠の真昼の太陽は、ペルシダー開闢《かいびゃく》以来変わることなく天頂から灼熱《しゃくねつ》の陽光をふりそそいでいる――この世界の終末の時が到るまでこうなのだろう。
目前の茫洋たる海原には、不気味な、水平線のない海景が展開し、ゆるやかな上向きの弧を描いており重なるように空とまじわり、目の高さよりもはるか上方で紺碧《こんぺき》の深みにとけこんでいる。
なんと奇妙な景色だろう! 地上世界の住人が目にする、限定された狭い平面的な風景とどんなにちがっていることか!
自分がどこにいるのかわからない。たとえ一生かかってさまよいつづけたとしても、この未知未開の世界に昔の友人の居場所を発見することは、金輪際《こんりんざい》不可能なことなのかもしれないのだ。なつかしいペリーじいさんや、毛深い男ガーク、それに強者《つわもの》ダコールにも二度とふたたび会えないかもしれない。そして、この上なく大切なひと――優しく気高い妻、美女ダイアンにも!
しかし、たとえそうだとしても、いま一度ペルシダーの大地を踏みしめることができたことはうれしかった。多くの面において謎と恐怖につつまれ、グロテスクで野蛮な世界ではあるが、わたしはこの世界に愛着をおぼえずにはいられなかった。野蛮なところが魅力的なのだ。それはそこなわれていない自然そのものの持つ野性味なのだから。
熱帯のかずかずの美のすばらしさがわたしの心をうばった。広大な陸地はのびのびとした自由な解放感に息づいている。
未踏の大海原は、いまだ人の目にけがされたことのない処女の驚異を秘めてささやきかけ、波立つふところにわたしをいざなう。
わたしは自分が生を受けた世界をかたときたりとも恋しいと思ったことはなかった。わたしはペルシダーにいるのだ。故郷《ヽヽ》にいるのだ。わたしは満足だった。
地殻を貫通して無事にわたしを運んできてくれた、巨大な試掘機のかたわらで夢想にふけっていると、同行した醜怪なマハールが中から姿を現わしてわたしの横に立った。そして長い間、身じろぎもせずにその場に立ちつくしていた。
いったいこの爬虫類の脳裏にどんな考えが去来しているのだろうか?
わたしにはわからない。
こいつはペルシダーを支配する一族の一員だ。この種族は、進化のひょんな気まぐれから、この変則的な世界で他のものにさきがけて思考力を獲得した。
このマハールにとってわたしのような生物は下等動物なのだ。地下都市プートラでペリーが古文書の中から発見したことだが、マハールの間では、人間が知的な会話をかわす方法、ないしは思考力を持っているかどうかということがいまもって公然の疑問なのだ。
一面にひろがる固体の中心に、ただ一つ、巨大な球形の空洞があって、それがペルシダーなのだとマハール一族は信じている。現在にいたるまでこの空洞は、マハール族が誕生し繁殖する場所としてのみ存在し、そこにある万物はすべてマハールが利用するためにそこにそなわっていた。
ところで、このマハールはいまどんなことを考えているのだろうか。地殻を通過して、この連中の支配するペルシダーとは別個の世界――大マハールよりも知的に劣っているものでさえペルシダーとはちがう世界だということを容易に見ぬくことができる世界――を訪れてどんな印象を受けたかと考えると痛快だった。
地上世界の小さな太陽をなんと思ったろう?
澄みきったアフリカの夜空の月や無数の星を見た印象は?
これらのことをなんと解釈しただろうか?
太陽がゆっくりと天空を横切って、ついには西の地平線に没し、その跡に夜の闇――マハールがかつて見たことのないもの――を残していくさまをはじめて目《ま》のあたりにしてどんなに強懼《きょうく》を感じたことだろう? というのも、ペルシダーには夜というものがないからだ。浮動の太陽はペルシダーの中天――頭の真上に永遠にかかっているのだ。
それに、一つの世界から別の世界へと掘り進んでふたたび帰ってきた試掘機の、驚くべきメカニズムにも感銘を受けたにちがいない。そしてそれが理性を持った動物――人間――の手で運転されていたということにも気づいていたにちがいないのだ。
それにまた、わたしが地上世界のほかの人間たちと会話をかわしているところも見ていたし、本や、武器、弾薬類や、そのほか種々雑多な荷物を持った隊商《キャラヴァン》が到着して、わたしがそれらをペルシダーへ輸送すべく「機械もぐら」のキャビンにつめこむのも見た。
このマハールは、一族がこれまでに開発したいかなる科学的業績にもまさる知力と文明の所産のすべてを目のあたりにしたのだ。しかもその間に自分と同族のものには一度も出会わさなかった。
マハールの胸中にはただ一つの解答が宿っているはずだ――すなわち、ペルシダー以外に別の世界があり、|ギラク《ヽヽヽ》(人間という意味のペルシダー語)は理性を持った動物だということだ。
ところで、かたわらにいたマハールはそろそろと這《は》って近くの海へとむかっていた。わたしは銃身の長い六連発拳銃を腰につり――どういうわけか、わたしが最初に地上世界をあとにして以後に完成された新流行の自動拳銃では、これと同じような安心感を持つことができなかった――そして大口径の速射ライフルを手にしていた。
マハールが逃げようとしていることは直感的にわかったから、射とうと思えば簡単に射つこともできた――だがわたしはそうはしなかった。
もしもこのマハールが冒険談をみやげに一族のもとへ帰りついたら、ペルシダーの人類の地位は一足とびにいちじるしく向上するだろう。爬虫類はただちに人類を見直し、人類は正当な評価を受けることになるだろう。
マハールは波打ち際でたちどまり、ふり返ってわたしを見た。それからぬらりと身体をくねらせて波間にすべりこんだ。
数分間、冷たい水の深みにひたっていて姿は見えなかった。
が、ついに巨大な翼をひろげ、威勢よく十回ばかり羽ばたくと青い海の上空に舞いあがった。そしてはるかな沖合いで一度輪を描いたかと思うと、矢のように飛びさった。
わたしはマハールが彼方の靄《もや》に包まれて姿を消すまで見送っていた。一人ぼっちになった。
まず最初に考えたことは、自分がペルシダーのどこにいるのか――毛深い男ガークが統治しているサリ族の国はどの方角にあるのだろうかということだった。
といっても、サリの方角は見当もつかない。
たとえさがしに出かけたとして――どうなるというのだ?
本や、火器、弾薬や、科学器具、はては応用科学のあらゆる分野に関する参考図書の大文庫等、貴重な積荷をのせた試掘機のところへはたしてもどってくることができるだろうか?
もしもどってくることができなかったら、文明と進歩の可能性を秘めたこの厖大な宝庫は、わたしが生涯暮らすことにきめたこの世界にとってなんの価値があるというのだ?
かといって試掘機とともにここにとどまっても、一人で何ができる?
何もできないではないか。
だが、東西南北も星も月もなく、動かぬ真昼の太陽が存在するだけというのでは、いったん見失ったが最後、どうやってこの地点へ帰ってくることができるだろう?
わたしにはわからなかった。
長い間つっ立ったまま考えこんでいたが、ふと思いついて持ってきた羅針儀《コンパス》をためしに使ってみることにした。一定の極を確実にさしているかどうかたしかめるのだ。わたしは試掘機に引き返して羅針儀をもちだした。
鉄と鋼鉄でできた試掘機の巨体に指針が影響されないよう、ずっと離れたところへ行ってこの精密な器具をあらゆる方角にむけてみた。
針はどの場合も確実にまっすぐ海のかなたをさして、そこから微動だにしなかった。明らかに二、三十キロ先の大きな島をさしている。それならこっちが北にちがいない。
わたしはポケットから手帳をとりだして、目に見える範囲内の付近のたんねんな地形図を描いた。島は北の方角、燦然《さんぜん》と輝く海のはるか沖合いに浮かんでいる。
わたしは、観測地点として、泥炭の上に二、三メートルつき出た、たいらな大岩の上をえらび、この地点を『グリニッジ』と命名した。例の岩が『王立測候所』というわけだ。
いよいよ行動開始だ! 少なくともペルシダーに一ヵ所、呼びなれた名称をもち、地図にも印された場所があるというなんでもない事実が、どんなにわたしをほっとさせたか口ではいいあらわせない。
まるで子供のように嬉々とし手帳に小さな円を描き、その横に『グリニッジ』と記したのだった。これで試掘機に帰るなんらかの手だてを得たうえで探索に出られるのだ。
そこでまず真南に進むことにした。その方角に何か見覚えのある地形でも見つかればよいのだが、どの方角をえらぶにしてもたいした変わりはない。少なくともそれだけはいえる。
地上世界から持ってきたかずかずの品の中に、歩数記録計ペドメーカーが何個かあった。わたしはそのうちの三個をポケットにすべりこませた。この三個に表われる数値からいくぶんなりとも正確な平均値が得られるだろうと考えたからだ。
地図の上に、南に何歩、東に何歩、西に何歩、というように記していこう。そしていざひき返そうという段には、どの道筋をえらぶにしても同じように記そう。
そのほか、大量の弾薬を肩にかけ、マッチをいくつかポケットにいれ、アルミ製のフライパンと、同じく小さなシチュー鍋とをベルトにつるした。
これでよし!――地底世界探検の旅支度はととのった。
友人を、かけがえのない妻を、そして親友ペリーを求めて、いよいよ三億二千万平方キロにおよぶ陸地をさがすのだ。
試掘機の外被筒《アウター・シェル》の扉を閉ざすと、わたしは探索の旅に出発した。
獣の群れがいたるところに散財して草を食べている美しい渓谷をこえ、一路南に進んだ。
太古の森林をかきわけ、尾根のかなたに道を求めてけわしい山の斜面を登っていった。
野生《アイベックス》やぎや麝香《じゃこう》羊が使いなれた回転銃の前に次々と倒れた。それで高処でも食物に不自由しなかった。森林原野は果実をはじめ野鳥やカモシカや野牛《オーロックス》や大シカを豊富に供給してくれた。
大きい獲物や巨大な肉食獣にたいしては、しばしば速射ライフルを使ったが、たいていの場合は回転銃で充分ことたりた。
それでもものすごい穴熊や、剣歯虎や、黒いたてがみを持った恐ろしい巨大な穴居猫に直面すると、強力なライフルさえ、なんとも貧弱で太刀打ちできないように感じたものだ――幸運に恵まれてかずかずの冒険にもかすり傷一つおわなかったものの、いま思いだすだけでも首筋が総毛立ってくる。
南にむかってどのくらいさまよったのかわからない。というのは、試掘機を出てすぐに時計の調子が狂ってしまって、時間のない不可解な世界にふたたびほうりだされ、常時中天にかかっている雄大な太陽のもとにこつこつと前進しなくてはならなくなったからだ。
とはいっても、何回も食事をしたのだから日数がたったということにはまちがいない。ひょっとすると何ヵ月も経過したのかもしれない。その間、見覚えのある地形をしきりとさがし求めたが徒労におわった。
ひと一人見かけず、またひとのいる気配もなかった。それもそのはずで、ペルシダーは厖大な面積の陸地を容している反面、人類の歴史が浅く、したがって人口も少なかったからだ。
あの長い旅の間、多くの土地に最初の足跡を印したのも、壮麗な景観を最初に目のあたりにしたのも、このわたしであったということに疑問の余地はない。
考えても気の遠くなるような話だ。この処女世界をひとり淋しくさまよいながら、何度もこのことをつくづく考えずにはいられなかった。ところがある日、まったく突然に、無人の平和境から人間の目の前にとびだすことになった――そして平和は去った。
それはこうだ――
わたしは一連のけわしい丘をこえて、峡谷ぞいに川下へむかっていた。そして目前の美しい小渓谷を観賞するために、峡谷の入り口で休息をとっていた。一方に錯綜した森をひかえ、すぐ前には一筋の河が、連綿たる絶壁に平行して曲折しながらゆったりとくだっていた。丘はその絶壁できれて谷をふちどっている。
わたしはその場にたたずみ、これまで幾度となく同じような景色を見てきたにもかかわらず、まるでこれが初めてのように、飽くことなく自然の驚異にひたりきって美しい眺望を楽しんでいた。するとほどなく森の方角から喚声《かんせい》があがった。あの耳ざわりな不協和音は、まちがいなく人間ののどから発せられたものだ。
わたしは峡谷の入り口近くにある大岩の後に身をひそめてまった。森の下生えをふみしだく音が聞こえる。何が現われるのかわからないが、とにかくそいつらは急いでやってくるらしい――追われるものと追手の一組にまちがいない。
いまに何か追われた獣が視野に飛びこんでくるだろう。そして一瞬おくれて半裸の野蛮人の一団が、槍や棍棒や石の蛮刀を手にあとを追って飛びだしてくるだろう。
ペルシダーで暮らすうちに、そういった光景にはなんべんもお目にかかっていたから、いま目の前に起ころうとしていることが逐一《ちくいち》手にとるように予想できるような気がするのだ。猟師たちが友好的で、サリへ道案内してくれるといいのだが、とわたしは願った。
とつおいつ考えていると、追われた獲物が森から姿をあらわした。だがそれはおびえきった四つ足のけものではなく、それどころかわたしが見たのは一人の老人――おびえきった老人だった! かれがちらちらと森をふり返る恐ろしげな表情から判断すると、おそらく何か悲惨な運命に見舞われているのにちがいない。力つき、絶望的によろめきつまずきながら老人はわたしのほうにやってきた。
老人が森から出ていくばくも進まないうちに、追手の先頭が見えた――サゴスだ。地下都市で大マハールの護衛をつとめ、しばしば奴隷狩りやペルシダーに住む人類を討伐に出かける兇暴なゴリラ人間――地底世界の支配者が、あたかも地上人が野牛や野生ヤギにたいするように扱っているやつらだ。
先頭のサゴスのすぐ後に他のものがどやどやとつづいて、追手はまたたくまに十二人ばかりになり、おびえきっている老人に蛮声を浴びせながらせまってきた。いまにもおそいかかるだろうことは目に見えていた。
中の一人が急速に接近しつつあった。槍をふりかざしているところを見ると、そいつの魂胆ははっきりしている。
と、そのとき、ふいにどやされたように気がついた。逃亡者の足つきや、格好に見覚えがあるのだ。
と同時にその老人がペリーだという驚天動地の事実がひらめいた。ペリーだ! ペリーがわたしの手で恐ろしい破局を転じてやるひまもなく目前で死のうとしている――わたしにとってそれは真の破局を意味していた!
ペリーはわたしの親友だ。
むろんダイアンは友人以上の存在だと思っている。彼女はわたしの妻――わたしの分身なのだから。
わたしは手にしたライフルのことも、ベルトにつけた回転銃のこともすっかり忘れていた。そうかんたんに石器時代と二十世紀とを同時に結びつけて考えられるものではない。
これまでの習慣で、わたしは石器時代の考えかたをしていた。石器時代の考えの中には火器は登場しない。
サゴスがまさにペリーに襲いかかろうとしたとき、手にした銃の感覚が、それまでわたしをとらえていた恐怖の麻痺状態から忽然とわたしを目ざめさせた。わたしは岩の後から大口径の速射ライフルをかまえた――穴熊でもマンモスでも一発で倒す強力な武器だ――そしてサゴスの毛深く広い胸板めがけてぶっぱなした。
銃声とともに相手はぎくりと止まった。槍がぽろりと手から落ち、サゴスはどうとうつ伏せに倒れた。
このことは他の連中にはたいした効果を与えなかった。たぶんペリーにはあの派手な銃声や、サゴスがいきなり倒れたことと銃声との関連性が理解できたはずだ。他のゴリラ人間どもは一瞬たじろいだ。が、次には以前にましてかん高い怒声を張りあげると、ペリーをかたづけようと飛びだしてきた。
それと同時にわたしは岩かげからぬっと姿を現わし、回転銃をさっと抜いた。速射銃の弾丸のほうが貴重なので節約するためだ。そしてすばやくもう一発、この小武器をぶっぱなした。
これでみんながいっせいにわたしのほうへ目をむけた。サゴスがいま一人回転銃の弾丸をくらって倒れたが、だからといってその仲間たちは攻撃の手をゆるめなかった。かれらは復讐をしとげると同時に血を見ないではおさまらないのだ。かれらの目ざすところはその両方だった。
ペリーにかけよりながらわたしはあと四発発射して三人を倒した。これでようやくあとの七人は浮き足立ってきた。轟音とともにずっと遠くから飛びかかってくる目に見えない死はかれらの手におえなかった。
かれらがまごまごしている間に、わたしはペリーのかたわらにたどりついた。わたしを認めたときにペリーの顔に浮かんだ、あんな表情はほかで見たことがない。どう説明したらよいのか、ちょっと言葉が見つからないほどだ。話をしているひまはおろか、挨拶をかわすいとまもなかった。わたしは完全武装した回転銃をペリーの手につっこみ、自分の拳銃で最後の一発を発射してから再装填した。そのときまでにはサゴスは六人残っていただけだった。
かれらはいま一度わたしたちのほうに向かってこようとした。もっとも、かれらが拳銃のもたらした効果に劣らず銃声にも恐怖心を抱いているらしいことはわかっていた。かれらはついにわたしたちに近よることはできなかった。残る三人は途中で踵《きびす》を返して逃走し、わたしたちも見逃してやった。
わたしたちはこんぐらかった森の下生えにかれらが姿を消すのを見送った。ペリーはくるりとむき直ってわたしの首に抱きついた。そして老顔をわたしの肩に埋めて子供のように泣きじゃくった。
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二 恐怖の旅
わたしたちはその地の静かな河のほとりにキャンプした。ペリーは、わたしが地上世界へ去っていらい、かれの身の上に起こったことの一部始終を語ってくれた。
フージャは、わたしが故意にダイアンをおきざりにし、二度とペルシダーへ帰ってこないつもりなのだというふうに見せかけようとしたらしい。人々に、わたしが別世界の人間で、この世界やここの住人たちに嫌気《いやけ》がさしたのだと話した。
またダイアンには、わたしが帰っていった世界には妻がいるのだといい、もともとダイアンをいっしょにつれていく気は毛頭なく、したがってあれが最後の別れだったのだと説明した。
その後まもなくダイアンは姿を消した。それいらいペリーも彼女の動静を知らなかった。
わたしが出発してからどれほどの時間が経過したか、かれにはわからなかったが、おそらく何年という歳月がのろのろと過ぎ去ったのだろうと推測していた。
ダイアンが去ったすぐあとで、フージャもまた姿を消した。毛深い男ガークのひきいるサリ族と、ダイアンの兄、強者《つわもの》ダコール麾下《きか》のアモズ族とは、人々の間で想像されているわたしの背信行為をめぐって仲たがいをした。わたしがかくも不信実にかれらを裏切って見捨てたということをガークが信じようとしなかったためだ。
その結果、この二つの強力な部族は、ペリーとわたしが製造法と使用法を教えてやった新兵器でたがいに攻撃しあうようになった。新連盟に加入していた他の部族も、争いを起こした二つの部族にそれぞれ加担し、あるいは各自で小規模な謀叛《むほん》を起こした。
その結果、あれほど好調にスタートをきったわたしたちの仕事も、すっかりめちゃめちゃになってしまった。
部族間の争いをよいことに、マハールはサゴスの軍勢を結集してやつぎばやに部族を攻撃し、完膚《かんぷ》なきまでに荒しまわり、その大部分をわたしたちが救いあげた当時のみじめな恐怖状態にふたたびおとしいれたのだった。
一時はあれほど強大だった連盟のうち、サリ族とアモズ族だけが二、三の部族とともにマハールに抵抗しつづけた。しかしこれらの部族はあいかわらず相互に分裂していたし、ペリーが最後にかれらのもとに滞在していたときには、かれらが再融合するきざしはぜんぜん見えなかったということだ。
「かくて、皇帝陛下、われわれのすばらしい夢とともにペルシダーの第一帝国は石器時代の忘却のかなたに消えうせたというしだいでございますよ」ペリーはことばを結んだ。
わたしの称号を使ってみて、二人とも苦笑を禁じ得なかった。とはいえ、わたしはいまもって「ペルシダーの皇帝」なのだ。いつの日かきっと、裏切り者フージャの卑劣な行為によって粉砕された事業を再建してみせる。
だがまずその前に、わたしの后《きさき》をさがし出すのだ。わたしにとって彼女は四十の帝国にも値する存在なのだから。
「ダイアンの居所についてはぜんぜん心あたりがないのかい?」わたしはたずねた。
「それがぜんぜん」と、ペリーは応えた。「きみがわしを発見して助けてくれたあの峠へわしが来たというのも、彼女をさがし求めてのことだったんだ。
きみがダイアンやペルシダーを見捨てるつもりがなかったことはよくわかっていたよ。わしは狡猾な男フージャがなんらかの形でこんどの事件の裏で糸を引いているものとにらんで、アモズへ行こうと思いたった。もしかするとダイアンが兄の庇護のもとに来ているかもしれないと考えたからだ。そして、われわれはすべて陰謀の犠牲者で、きみはこの陰謀にはなんの関係もないということを話して、できるだけのことをして彼女を説得し、また彼女を通して強者ダコールを説得してもらう決心だった。
困難で恐怖にみちた旅を経てアモズへ行ったものの、ダイアンは兄一族のもとにはおらず、居所も皆目《かいもく》わからなかった。
たしかにダコールは公正でありたいと願っているとわしは見たが、妹の失踪にたいする悲憤が嵩《こう》じて分別をなくしているのだ。きみがペルシダーへ帰ってくることだけがきみの意向の誠実さを証明できるのだと何度もくり返すばかりだったよ。
そこへ他の部族から一人の見知らぬ男がやってきた。きっとフージャにけしかけられてやってきたのにちがいないとわしは思うのだが、そいつはアモズ族をそそのかしてわしにたいして敵意を抱かせるようにしむけたので、わしは暗殺をまぬがれるために国外へ逃亡せざるを得なくなった。
それからサリへ帰るつもりが、途中で道に迷ってしまった。そこをサゴスに発見されたのだが、わしはかれらを撒《ま》くために洞穴にかくれたり、河を歩いて渡ったりして長い間逃げまわった。
わしは木の実や果実や草の根を手あたりしだいに食べて生命をつないだ。そして先へ先へと旅をつづけた。どの方角にむかっているのか見当もつかなかったが、もはやかれらの目を逃れることは不可能になった。ひさしく覚悟を決めていた最後がいよいよやってきたわけだ。もっとも、きみが助け舟をだしてくれるとは予期していなかったがね」
わたしたちはペリーがふたたび旅に出るために充分な体力を回復するまでキャンプで休息した。崩壊した空中楼閣を再建する計画もずいぶんねったが、とりわけダイアンをさがしだす計画に大部分の力をそそいだ。
彼女が死んだとは思えなかったが、この野蛮な世界のどこにいるのか、どんな恐ろしい境遇に暮らしているのか見当もつかなかった。
ペリーが元気を回復すると、わたしたちは試掘機にもどった。そこでかれは、下着、靴下、靴、カーキ・ジャケットに半ズボン、それに丈夫な巻きゲートル、と、すっかり文明人らしく身なりをととのえた。
わたしが出会ったときには、粗末な|サダク《ヽヽヽ》のサンダル、褌《ふんどし》、剛毛の生えた|サグ《ヽヽ》の皮で仕立てたチューニックといったいでたちだった。これで、わたしたちがペルシダーに到来した久しい昔、猿人間《エイプマン》どもに身ぐるみはがれていらいはじめてかれは衣服らしい衣服を身につけたわけだ。
弾薬帯を肩にかけ、腰には六連発拳銃を二挺さし、ライフルを手にしてペリーはぐんと若返った。
事実、十年か十一年前、かくも不思議な冒険や、夢想だにしなかったこんな奇異な世界にわたしたちを投じ入れたあの最初の旅に出発するため、わたしともども試掘機に乗りこんだあのよぼよぼの老人は、見ちがえるような別人に変わっていた。
いまではしゃんとして溌剌《はつらつ》としているし、以前の生活では使わなかったためにほとんど退化していた筋肉も、もりもりしている。
むろん、老人であることにかわりはないが、実際より十もふけて見えるかわりに――地上世界を出発した当時はそうだったのだが――十も若く見える。ペルシダーののびのびとした野性の生活が奇蹟をもたらしたのだ。
もっとも、そうでもなければかれは殺されていただろう。なぜなら、以前のペリーのような身体では、地底世界の原始生活がはらむ危険や困苦をきりぬけて生きながらえることはできなかったにちがいない。
ペリーはわたしの地図やグリニッジの『王立測候所』に非常な興味をひかれた。わたしたちは歩数記録計《ペドメーター》を使ってなんなく正確に試掘機にもどったのだった。
再出発の準備もととのったので、ひょっとするともっと見覚えのある地域に出るかもしれないということでこんどは別の道筋をたどってみることにした。
長期にわたる探索旅行の間に起こったかずかずの冒険をここでくり返しのべて、あなたを退屈させるようなことはよそう。巨大な野獣に出くわすのはほとんど日常茶飯事だったが、二人とも武装も不完全で、粗末で原始的な武器を持ち、そのうえ素裸に近い状態でこの恐ろしい危険のまちうける世界を旅していた以前のことを思いくらべると、今回は必殺の速射ライフルのおかげで、危険な目にあうことは比較的少なくてすんだ。
わたしたちは何回も食べ、そして眠った――あんまり回数が多くて、途中で何回だかわからなくなってしまったほどだ――そんなわけで、地図の上では距離も方角もはっきりしていたが、どれほどの期間さまよっていたかはわからない。何千平方キロという地域を踏破したにはちがいないのに、見覚えのある地形といったものはついぞ見かけなかった。ところが、一連の山の頂上を越えていたときのこと、わたしは壮大な雲の一群が渦巻いているのをはるかかなたにみとめた。
ペルシダーの空では、雲はまったくといっていいほど見かけられない。その雲が目にはいった瞬間、わたしの心臓は踊った。わたしはペリーの腕をひっつかんで地平線のないかなたを指さし、大声で叫んだ。
「『雲の山々』だ!」
「あの山は、プートラと、われわれの宿敵マハール族の国のすぐ近くにあるんだったな」ペリーが指摘した。
「それは知ってるさ。だがあの山々は、このさき探索を合理的に進めていくうえの出発点になる。少なくとも見覚えのある目標物なんだからな。これでぼくたちがまちがった方角をえんえんとさまよっているのではなくて、正しい道筋にいるのだということがわかったわけだ。
そのうえ『雲の山々』のすぐ近くには、親しい友人メゾプ族のジャが住んでいる。きみはかれを知らないが、かれがぼくにつくしてくれたかずかずのことは知っているね。そしてこの先なんなりと喜んで援助してくれるだろうことも。少なくともサリへむかう正しい方角を教えてくれるよ」
「『雲の山々』は雄大な山脈を形成しているんだ」ペリーが答えた。「おそらくは広大な地域にまたがっているにちがいない。けわしい山の斜面から見えるかぎりの厖大な土地で、きみの友人をどうやって見つけだそうというのかね?」
「かんたんさ。ジャは道順をくわしく教えてくれたんだ。ぼくはほとんどかれのことばどおり覚えているよ――
『きみはただ〈雲の山々〉のなかでいちばん高い峰のふもとへくればそれでいいんだ。そこには〈ルラル・アズ〉にそそぐ一筋の河がある。その河の河口のまむかいにあたるずっと沖に、三つの大きい島が見える。あんまり遠くにあるので見えないくらいだが、河口からむかって左の端にあるのが〈アノロック〉、つまりおれがアノロック族を支配している島だ』」
というわけで、わたしたちはこのさき数行程にわたるつらい旅路の目標となる偉大な雲の一群にむかって急いだ。そしてついにアルプスにも似た勇姿をそなえた峻嶮《しゅんけん》な岩山の近くにたどりついた。
あたりの壮大な山々を裾《すそ》に見て、とてつもない巨峰が一つ、その巨大な頭部を他より千数百メートルももたげて威風堂々とそびえている。これこそわたしたちがさがし求めていた山だ。しかしその麓《ふもと》には海へそそぐ河など一筋もなかった。
「きっとその河は山のむこう側から発しているんだよ」ペリーはわたしたちを寄せつけまいとするように行き手に立ちはだかっている山をうらめしそうに一瞥《いちべつ》していった。「あんなに高い所にある峠はものすごく寒くって、とてもわれわれには耐えられまい。かといってはてしなくつづくこの山脈をえんえんと縦走していたんでは、一年ないしはそれ以上かかるかもしれん。われわれがさがし求める土地はこの山々のむこう側にあるにちがいないんだが」
「それじゃどうしても山越えしなくちゃならないな」わたしは語気を強めていった。
ペリーは肩をすくめた。
「そりゃ無理だよ」かれはくり返しいった。「われわれは熱帯向きの服装をしているんだよ。山のむこうに出る峠を発見するよりずっとさきに、雪や氷河の中で凍死しちまうのがおちだ」
「どうしても越さなくちゃ」わたしはくり返した。「あれを越えるんだ」
わたしには一つの案があった。多少時間はかかったが、わたしたちはその案を実行に移した。
まず第一に、良質の水のある山の斜面の中腹に常設キャンプを設営した。ついで高山に棲息する毛深い大穴熊をさがしに出かけた。
この穴熊というのがまたものすごく大きくて手ごわいやつなのだ。大きさは低い丘に住む小型の熊族よりやや大きいていどなのだが、獰猛《どうもう》で、毛皮が厚いという点では図体の大きさも問題にならないほどだった。その毛皮を手に入れようというのだ。
わたしたちはまったく思いがけないところで熊公に出くわした。わたしは、幾歳月の間に野獣どもの足でなめらかに踏みならされた岩の道を、さきに立っててくてくと登っていた。そして山の肩部をぐるりとまわった地点で大熊とばったり鉢合わせしたのだ。
わたしは毛皮の外套ほしさに山を登り、熊のやつは朝食を求めて山を下ってきていたわけだ。とっさに双方とも相手を見てこれだと思った。
すさまじい声で一声|吼《ほ》えると、けものは襲いかかってきた。
右手には千数百メートルという絶壁が屏風《びょうぶ》のように切り立っている。
左手は底も満足に見えない奈落《ならく》の谷だ。
行き手には熊。
後にはペリー。
わたしは大声でペリーに注意してからライフルをかまえ、熊の幅広い胸板めがけて一発ぶちこんだ。狙いをつけているひまはない。相手はあまりにも近くせまっていた。
それでも泡吹く口から怒りと苦痛の咆哮を発したところを見ると、わたしの弾が命中したことは明らかだった。しかしそれで相手をくいとめることはできなかった。
もう一発ぶっぱなした。と、相手はわたしにとびかかった。わたしは、逆上し爪をむきだして荒れ狂う肉と骨と筋肉の塊の下敷きとなった。
もうだめだ。この住みにくい野蛮な世界にとり残される哀れなペリーじいさんのことを考えて、気の毒になったのをわたしは覚えている。
と、そのとき、ふいに熊公がいなくなって、わたしが無傷だということに気がついた。わたしはライフルをしっかりつかんだままはね起きて、きょろきょろと敵を捜した。
さてはもっと道を下ったところでペリーをかたづけちまったのにちがいない。そう考えて、熊がいると見当をつけた方角にひらりとむき直った。が、なんとペリーは道から一メートルも上の突出した岩の上にちょこなんとのっかっているではないか。わたしが大声で警告を発したので、その安全な場所にのぼることができたわけだ。
目をむいて、口をポカンとあけたまま、その場にしゃがみこんでいる。恐ろしさのあまり腰を抜かしたのだろうが、なんともなさけない光景だ。
「やつはどこだ?」かれはわたしを見るなり叫んだ。「どこにいる?」
「こっちへこなかったかい?」
「なんにもこない、が、やつが吼えるのを聞いた――きっと象みたいにでかいやつだったにちがいない」
「そうさ。それにしても熊公め、いったいどこへ行ったんだと思う?」
そのとき、思いあたることがあって、わたしは熊がわたしを押し倒した場所にとって返した。
そして絶壁の縁から谷底をのぞきこんだ。
渓谷の底近く、はるか下のほうに小さな茶色の|しみ《ヽヽ》が見える。あの熊だ。
二発目でまいったのにちがいない。やつの死体はわたしを道に押し倒してから谷底に転落したのだ。もうちょっとのところでわたしも道連れになるところだったのだと思うと身震いが出た。
死体のところへたどりつくには時間がかかったし、大きな生皮をはぐのには苦労した。が、とうとうそれも終えて、わたしたちは戦利品をひきずってキャンプにもどった。
ここでまたかなりの時間を費やして、生皮から肉をけずり落とし、天日に乾《ほ》した。得心がいくまでこれをやったあと、分厚い長靴とズボンを作り、毛の方を内側にして毛皮の外套を仕立てた。
残りの切れっぱしでキャップを作った。耳までかぶさって、おまけに肩から胸のあたりをおおう垂れ縁のついたやつだ。これで『雲の山々』のむこうに出る峠の道をさがしに出かけるための装備は充分ととのった。
まず第一歩としては、この高い山脈の頂上をおおっている万年雪のきわまでキャンプを移動させることだ。わたしたちは、そこにこぢんまりとした頑丈な山小屋を建て、糧食と、小さな暖炉のための燃料をたくわえた。
山小屋を基地とし、山脈を越える峠を求めてわたしたちは勇躍出発した。
いまでは二枚作って持ち歩いている地図に、わたしたちの一つ一つの動きを丹念に書きこんでいった。こうすることによって、すでに探検ずみの道を不必要にだらだらとたどり直さなくてすんだ。
基地から上方にむかってどっちの方角も組織的に探索した。そして、やっとのことでこれはと思われる峠道を見つけては、さらに上に設けた小屋へと所持品を移した。
困難な仕事だった――寒くて苛酷な仕事だった。一歩でも先へ進まなくては、冷酷な死神が足音をしのばせてあとをつけてくるのだ。
森林地には大きな穴熊がいたし、痩《や》せ衰えた狼――カナダ狼の二倍もあるやつ――がいた。さらに上のほうでは巨大な白熊に襲われた――腹をすかせた、悪魔のようなやつで、わたしたちをひと目見ると咆えたてながら氷河の表面を突進してくるか、あるいはわたしたちを見ないうちから匂いを嗅ぎつけてこっそりしのびよってくるのだった。
ペルシダーの暮らしで奇妙なことの一つは、人間は狩猟者であるよりはむしろ獲物である場合が多いということだ。この原始世界には、巨大な胃袋をかかえた食肉類が無数にいる。生まれ落ちてから死ぬまで、これらの偉大な胃袋は充分に満たされたことはなく、したがって胃袋の持ち主である荒くれどもは、いつも食物をあさり歩いているのだ。
かれらは恐ろしい武器をそなえているから、もともと足がおそく非力で、生まれながらに貧弱な防衛武器しかあたえられていない人間は、かっこうの餌食だ。
熊どもはわたしたちを手軽なご馳走と見た。早々にやられてしまうところを助かったのは、大口径ライフルのおかげだった。哀れなペリーは、根が『怒れる獅子』というたちではなかったから、あの惨憺《さんたん》たる当時の恐怖感は精神的にひどくこたえたにちがいない。
小屋を出て、山越えをする道がありそうな山合いをはるかにめざして強行軍をつづけているときでも、いつなんどき爪と牙を持った恐ろしい野獣が背後から飛びかかってくるかしれなかったし、氷の丘や、急な崖の突出した肩部のむこうで待ち伏せているかもしれなかった。
ライフルの咆哮は、かつて人目にふれたことのない壮大な渓谷に沈滞する太古の静寂を破って、間断なくとどろいた。山小屋の中は比較的安全だったが、睡眠をとるために横になると壁の外では大きなけものが吼え、争い、扉に爪を立ててかきむしったり、乱打したり、かと思うと、山小屋がぐらぐら揺れるほどの勢いで巨体をまともにぶちあてたりするのだった。
それはにぎやかな毎日だった。
ペリーは山小屋に帰るたびに弾薬の在庫を調べるのに専念した。そうしなくては気がすまなくなっていたのだ。薬莢を一つ一つ数えては、最後の一発を使いはたすまであとどのくらいか計算した。そうなったら山小屋に坐して餓死をまつか、あるいは一か八《ばち》か丸腰で表に出て腹ぺこ熊の胃袋におさまるか、二つに一つだ。
わたしとて気がかりだったことはみとめる。というのも、事実わたしたちの進行状態はカタツムリのように遅々としていたし、弾薬は永久に持つわけではないからだ。そこで検討の末、背水の陣をしくことにした。最後の力をふりしぼって分水界を越えようというのだ。
ということは、つまり、長時間にわたって眠らずに進もうということだ。どうしても眠くてたまらなくなったときにまだ万年雪と氷にとざされた高地にいたとしたら、野獣の攻撃にさらされ、極寒を避ける小屋もなく、眠りすなわち一巻の終わりということになる。
だが一か八かやってみなくてはならないと覚悟を決めた。そしてついに山小屋に最後の別れをつげ、最小限度の必需品を背負って出発した。くまどもはこれまでになくうるさく、執拗になったように思えた。以前に到達した最高地点をこえて、さらにのろのろと登っていくにつれ、寒さはかぎりなくきびしいものになっていった。
ほどなくわたしたちは、二頭の熊にあとをつけられながら、濃霧の中へはいった。
しばしば長時間にわたって雲がたれこめている高度までたどりついたわけだ。鼻から二、三歩さきは何も見えない。
いま、あえてまわれ右をして、鼻息も荒々しく尾行してくる熊どもの顎《あぎと》に飛びこむ気はない。こんなやっかいな霧の中でやつらと対面すればたちまち死をまねくことになる。
ペリーはこの絶望的な成り行きにすっかり度を失ってしまい、その場にばったりとひざまずいて祈りだした。
かれが昔ながらの癖を披露するのを、わたしはペルシダーに帰っていらいはじめて聞いた。この罪のない癖はおさまったものと思っていたが、かえっておさまるどころではなかった。邪魔をせずにちょっとの間祈らせておいたが、しばらくして、そろそろさきへ進んだほうがよさそうだぜ、と声をかけようとしたとき、背後にいた熊の一頭が足もとの地面を震わせるような声で一声吼えた。
それを聞いてペリーは雀蜂《すずめばち》に刺されたようにとびあがった。そして視野のきかない霧の中を一目散に駆けだした。あの走りっぷりでは、もし止めてやらなければしまいにはきっと遭難するにきまっている。
氷河には亀裂《クレヴァス》があちこちと頻繁に口を開いていて、たとえ大気が澄んでいても無鉄砲には走れない。それにわたしたちの行く手にはしばしば恐ろしい断崖がひかえている。哀れなじいさんの身の危険を考えてわたしは身震いをした。
わたしは精一杯声をはりあげて止まるようにと呼びかけた。が、かれは答えなかった。そこでかれが姿を消した方角にむかって、危険とは知りつつ足をはやめた。
しばらくの間は前方にかれの足音が聞こえるような気がしたが、ついには何も聞こえなくなった――何度も立ち止まってきき耳を立てては声をかけてみたのだが、背後にいた熊のうなり声すら途絶えた。すべてが死んだように静まり返った――墓場のような静寂だ。あたりには濃密で不透明な霧が立ちこめている。
ひとりぼっちになってしまった。ペリーはいなくなったのだ――永久に――わたしはそう信じて疑わなかった。
どこかすぐ近くに危険な亀裂がぱっくり口を開いていて、はるか底の氷の上にわが親友アブナー・ペリーの亡骸《なきがら》がそっくりそのまま横たわっているのだ。亡骸は氷の墓に横たわったまま幾星霜の間保存され、いつの日か遠い将来に、カタツムリのようにのろのろと曲折してくだる氷河の流れに乗ってもっと暖かな平地へと運ばれてくるだろう。そして恐ろしい悲劇をものがたる陰惨な証拠は麓にはきだされ、不可解な謎としてのちの世に取沙汰されることになるだろう。
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三 雲の山々
羅針儀《コンパス》をたよりに霧の中を進んだ。もはや熊どものたてる物音は聞こえなかったし、霧の中では一頭にも出くわさなかった。
大熊どもは、海で霧にあった新米船員と同様この濃霧をおそれていて、とりまかれるやいなや、命からがら晴れた低地帯へと逃げていくものだということがこれでわかった。そしてそのとおりになったということはありがたいことだった。
困難な足場を腹ばいになって登りながら、わたしはひとしきり悲しく、寂しかった。ペリーを失ったことにくらべると自分自身の苦境など、もののかずではなかった。なにしろわたしはじいさんを愛していたのだから。
山脈の反対側の斜面に出られるかどうかも疑わしくなってきた。思うに、根が楽天家だとはいうものの身にふりかかった不幸に気がめいってしまい、前途に希望のわずかな光すら見出すことができなくなったためだろう。
おまけにわたしがかきわけて進む冷たくしめっぽい雲は、陰鬱な灰色の忘却を宿して重苦しくのしかかってくる。希望は陽光のもとでこそ育つもので、霧の中では育たないものにちがいない。
だが自衛本能は希望よりも強い。幸いなことにそれは何がなくとも育つ。墓のきわに根をおろし、死の顎《あぎと》の中に開花する。いまやそれは生気を失った希望のふところにけなげにも葉をつけ、その存在を正当化すべく断固として全身|登攀《とうはん》するようにとわたしをかきたてた。
前進するにつれて霧はますます濃くなっていった。鼻からさきはおろか、足もとに踏みしめている雪や氷すら見えない。
熊皮の外套の胸から下も見えない。まるで蒸気の海を漂っているようだ。
こういった状況下で危険な氷河をこえて進むことは狂気の沙汰にもひとしかった。しかしすぐ鼻先に死がまちかまえていることが確実だとしても、前進をやめるわけにはいかない。第一、寒すぎてじっとしていられなかったし、第二に、一歩前進するごとにつきまとう危険が心をかきたててくれなかったら、たちまちにして気が狂ってしまっただろう。
さきほどから、足もとはますますけわしく困難になってきていた。これまでにかなりの高度まで登ってこなくてはならなかったが、そのために氷河からは完全に遠のいていた。羅針儀《コンパス》から判断して、おおむね正しい方角をたどっているという確信はあったのでひきつづき前進した。
ふたたび平坦な土地に出た。周囲を吹く風から察して、どこか吹きさらしの屋根の尖端にいるのにちがいないと見当をつけた。
と、そのときまったく突然に、空《くう》に足を踏みだしてしまった。わたしは無我夢中でふりむいて足もとから消えた地面をつかもうとした。
そこにはすべすべした氷の表面があるばかりで、つかまったり、すべるのを止めるようなものは何もなかった。一瞬後、わたしは止めようもない速度ですべり落ちていた。
空中でつんのめったときと同じくらい急激に霧の中を脱したわたしは、砲弾のような勢いで晴朗な日光のもとに飛びだした。あまりの速さに周囲のものはいっさい見えず、ただすべすべと凍《い》てついた一面の雪が急行列車のような速度で後方へすっとんでいくのが、ぼうっとかすんで目に飛びこんでくるばかりだった。
千数百メートルもすべり落ちたと思われるころ、急斜面はゆるやかにカーヴして雪におおわれた平坦な台地となった。わたしはそこを突っ切ってすっとんでいった。速度は徐々に落ちて、やがて周囲のものがはっきりとした形体をとって見えはじめた。
前方はるか何キロというかなたに雄大な谷と森が見え、そのむこうに広々とした水のひろがりが見える。そしてそれよりずっと手前、きらきらと輝く白一面の雪の上に小さな黒点がみとめられた。
「熊だ」と、わたしは思った。そしてあのひどい転落のさなかにもわたしをライフルにしがみつかせていた本能に感謝した。
このままでいくと、またたくうちにそいつのところへ落ちていってしまう。だが、ほどなく日のあたる柔らかな雪の中で急停止した。目下最大の関心事である目標物からは二十歩と離れていない。
そいつは後足で立ってまちかまえていた。一戦をまじえるべくわたしはあわてて立ちあがったが、そのとたん銃を雪の中に投げだして、腹を抱えて笑いだした。
それはペリーだった。
かれが無事でいるのを見てほっとしたせいもあったが、かれの表情を見るとこれまで緊張しきっていた神経がどうにもならなくなってしまったのだ。
「デヴィッド!」かれは叫んだ。「デヴィッド! 神は老人を憐《あわれ》みたもうた。祈りに答えたもうたのだよ」
どうやらペリーは死物狂いで逃げる途中、そのすぐあとでわたしが足を踏みはずしたのとほぼ同じ地点で崖っ縁から転落したものらしい。これまで営々と苦労をかさねてきて果たし得なかったことを偶然がやってのけてくれた。
分水界をこえたのだ。わたしたちは久しくめざしていた『雲の山々』のむこう側にいた。
わたしたちはあたりをながめた。麓には緑の木々と暖かいジャングル、そしてかなたには広々とした海があった。
「ルラル・アズだ」わたしはその青緑色の水面をゆびさしながらいった。
どういうわけか――神様だけがご存じなのだろうが――ペリーもあの氷の斜面を猛烈な勢いで落下している間中ライフルを後生《ごしょう》大事にだきしめていた。これは大いに喜ばしいことではあった。
二人とも、危険な経験をしたにもかかわらず無事だったので、衣服から雪をはらい落とすと、暖かで居心地のよい森とジャングルをめざして足早にくだっていった。
分水界の手前で遭遇しなくてはならなかった恐ろしい障害にくらべると、楽な道のりだった。むろん、けものはいたが、わたしたちは無事にきりぬけて麓に到達した。
食事と休息をとる前に、暖かで気持のよい大気につつまれた太古の森の壮麗な樹木の根方に流れる小川のほとりにたたずんだ。それは六月初旬のメインの森を彷彿《ほうふつ》とさせた。
わたしたちは手斧を使って作業を開始した。小さな木を切り倒して猛獣から身をまもる仮小屋を建て、それから横になって眠った。
どのくらい眠ったかはわからない。ペルシダーでは時間を測定する方法がないのだから、時間などというものはないのだとペリーはいう。地上世界でいえば一年間眠ったのかもしれないし、ほんのつかのまのことだったのかもしれない、とかれはいうのだ。
しかしわたしにはわかっていることが一つあった。わたしたちはあらかじめ枝葉をとりのぞいておいた数本の若木を小屋の中の地面にさしておいた。目がさめたときにはその多くが新芽を吹いていたのだ。
わたし個人の意見としては、少なくとも一ヵ月は眠っていたのだと思う。だがそれは誰にもわからないことだ。目を閉じたとき、太陽は正午を示していたし、目をあけたときもまだ同じ座を占めていた。その間、髪一筋も変化してはいなかった。
ペルシダーでいちばん不可解なのは、この時間の経過という問題だ。
それはさておき、目がさめたときにはすっかり飢えきっていた。空腹のあまり目がさめたのだと思う。雷鳥《らいちょう》と猪《いのしし》がたちまちわたしの回転銃の前に倒れた。すぐにペリーが小川のほとりに景気よく火をおこした。
こうしてこしらえたご馳走はなかなかうまかった。猪はまるまるたいらげてしまったわけではなかったが、それでも胴体に大きな穴をあけた。雷鳥のほうはほんの一口分しかなかった。
満腹したので、ただちにアノロックとわたしの旧友であるメゾプ族のジャをさがしに出発することにした。この小川にそってくだっていけば、きっとジャが話していたとおり、かれの島の正面にあるルラル・アズの海にそそぐという広い河に出られるだろうと二人はめいめい考えていた。
はたしてわたしたちの期待は裏切られなかった。快適な旅――『雲の山々』で耐えてきた艱難辛苦《かんなんしんく》の後ではどんな旅でも快適だったろう――をつづけて、ついにあの雪の斜面からはるかにのぞんだ大海にむかって滔々《とうとう》とくだっていく広い流れに到達した。
わたしたちは、しだいに幅を増していく河の左岸ぞいに長旅を三回かさねて、ついに厖大な量の水が大海のひろがりにそそぎこむのを目《ま》のあたりにした。小波《さざなみ》の立つはるかな沖合いには三つの島が見える。左の島がアノロックにちがいない。
とうとうわたしたちの問題――サリへの道――は解決に近づいたのだ。
だがどうやってあの島へ到達するかが先決だ。カヌーを作らなくてはなるまい。
ペリーは戦略縦横の男だ。人がやったことは必ずできるというのがかれの持論で、やりかたを知っていようがいまいが問題ではなかった。
以前に一度、火薬を作ろうとしたことがある。あれはプートラを脱出してまもないころ、ペルシダーの未開部族が集まって連盟を結成した当初のことだ。ペリーにいわせると、火薬というものは調合してつくる、なんてことをぜんぜん知らないどこかの馬の骨が、たまたま何かのはずみでこさえあげたんだから、火薬のことを一から十まで知っていて作りかただけを知らない人間にできないはずがないというのだ。
かれは種々雑多なものをせっせと混合した。そしてついに火薬らしいものを作りあげた。かれは得意満面、サリ族の部族をめぐり歩き、かれの話に耳を貸すものにはだれかれなしにそいつを見せびらかし、その目的と、それがどんなにすさまじい破壊力を持っているかを説明して聞かせた。そのおかげで、しまいには原住民たちはその火薬なるものにすっかり恐れをなして、ペリーとその発明品には近づかなくなった。
ついに、それじゃその威力をためしてみようじゃないか、とわたしが提案したので、ペリーは安全な距離に火薬を置き、火をおこした。そして真赤になっている燠《おき》で猛威を秘めた爆薬の微小な粉にふれた。燠は消えてしまった。
何度も実験をくり返してわたしが思いあたったことは、ペリーは爆薬を作ろうと模索しているうちに、ふとしたはずみで消化剤を作ってしまったんだということだった。これが地上世界なら一財産もうかるところだったろうに。
そんなしだいで、いよいよかれは科学的なカヌーの建造にとりかかった。わたしは丸木舟を作ろうと提案したのだが、ペリーは、この石器時代の世界では超人《スーパー・マン》であるわれわれの体面をたもつためにも、もっとましなものを作るべきだと説得した。
「われわれの優秀性を原住民の頭にきざみつける必要があるんだ」かれは説明した。「きみはペルシダーの皇帝だということを忘れちゃいかん。丸木舟ごとき不細工《ぶさいく》なものに乗ってては、よその国の海岸に威厳をもって近づくわけにいかんじゃないか」
わたしは、皇帝がカヌーで航海するということよりも、一国の総理大臣が手ずからカヌーを作ることのほうがずっとおかしいよとペリーにいってやった。
これにはかれも苦笑したが、帝国海軍を設立するにあたって総理大臣がじきじきに干渉するのはしごくあたりまえのことじゃよ、と自分の行為を弁解してわたしを納得させた。「これはペルシダー連邦王国皇帝デヴィッド一世陛下の海軍だからな」
わたしはにやにやした。しかしペリーは大まじめだった。陛下とかなんとかそういった称号で呼ばれるといつも冗談半分のような気がしないでもなかったが、それでも短かった治世の間、わたしの皇帝としての威力は正真正銘のものだった。
二十の部族が連盟に参加し、族長たちは相互間ならびにわたしにたいして永遠の忠誠を誓った。その中には、野蛮ではあるが強力な民族も数多くまじっていた。わたしたちは族長を王とし、部族の領土をそれぞれ王国とした。
また、かれら自身の原始的な武器にくわえて、弓矢と剣で武装させた。そして軍隊教育をほどこし、ナポレオンや、フォン・モルトケや、グラントや、古代人の軍記を読みあさって得た戦法を教えこんだ。
また、地形にしたがって、できるかぎり公正に王国間の境界線を定めた。そして境界線の外側にいる部族にたいして、越境してはならないと警告し、これに違反した部族を攻めてきびしい罰をあたえた。
わが軍はマハールやサゴスと対戦してこれを撃破した。要するに帝国としての権利を立証したわけだ。わたしたちのことは急速に認められ、広く一般に知られるようになっていた。こんなときにわたしが地上世界へ出発したことと、フージャの謀叛がかさなって、わたしたちの計画はもとのもくあみとなったのだった。
しかしいまやわたしは帰ってきた。運命の手が崩壊させたものを、再建しなくてはならない。わたしにたてまつられた皇帝としてのかずかずの名誉は喜ばしいものではあったが、同時にわたしの双肩にかかっている義務と責任の重大さを痛感しないわけにはいかなかった。
帝国海軍は完成にむかって徐々に進捗《しんちょく》していた。それはすばらしい舟ではあったが、わたしはわたしなりの疑惑を抱いていた。そのことをペリーに告げると、かれは、きみの家は代々鉱山主で造船技師ではないのだから、こういったことにくわしいとはいえないよ、とおだやかな口調でさとした。
それならはたしてペリーのほうは、遺伝学的に見て軍艦の設計に適しているのかどうかたずねてやろうかと思ったが、かれの父親は海岸からほど遠い、草深い村の牧師だということをすでに知っていたから、好々爺《こうこうや》を傷つけることになってはいけないと思って追求するのは遠慮しておいた。
かれは、この仕事に関しては真剣そのものだった。外観にかぎっていえば、道具も助手も不充分だったとはいえ、なかなかのできばえだった。手元には短い斧が二挺と狩猟用ナイフしかなかったが、これだけを駆使してわたしたちは木を切り倒し、木を割って板を作り、表面をなめらかにけずって寸法をあわせた。
わが『海軍』は、全長十二メートル、船幅三メートルの船で、舷側はまっすぐでその高さはたっぷり三メートルはあった――「これはだね、外観に威厳をつけて、その上、敵が舷側に乗り移りにくいようにしてあるんだよ」と、ペリーは説明した。
事実、乗組員を投げ槍の一斉攻撃から安全に守るということを念頭においていたことはわかった――高い舷側はかっこうの防御物になる。船の内部は、ほかならぬ海に浮かぶ塹壕《ざんごう》を思わせた。そればかりか巨大な棺桶にちょっぴり似ている。
船首は水線から後方にむかってするどく切れこんでいて、軍艦のそれにそっくりだ。ペリーは、この船が実際にあたえる損害よりも、敵におよぼす心理的効果を狙って設計したのだと思う。だから人目に見える部分がひときわ堂々としているのだ。
水線から下は、ないも同然だった。この船ならかなりの深さの喫水を必要とするところだが、敵には見えないからということで、ペリーはそんなことにはおかまいなしに船底をたいらにしあげた。わたしにしてみればそのところがどうも心もとなかった。
それ以外に、この船には設計上ちょっとした特異性があったのだが、いよいよ進水という間際まで二人ともそれを見落としていた――つまり船を動かすものが何もなかったのだ。舷側は高すぎてオールは使えない。ペリーが棹《さお》を使ってこぎ出せばいいと提案したとき、わたしはたとえ海底までとどくような棹があったとしても、そしてまた使うことができたとしても、敵を見下ろしながらエンヤコラと漕ぐなんて威厳にかかわるし、第一みっともないじゃないかと抗議した。
あげくのはてに、わたしはこの船を汽船に改装しようともちかけた。いったんこのアイデアにとりつかれると、ペリーはすっかり熱をあげてしまい、何がなんでも四本マストのついた完全帆装の船にするんだ、といきまいた。
またしてもわたしはかれを思いとどまらせようとしたが、かれはこの一風かわった大きな船の姿がペルシダーの原住民たちにおよぼす心理的効果を考えてただ夢中だった。そこでわたしたちはけものの薄い生皮で帆をつくり、ロープにはガットを使った。
二人とも完全帆装をした船の走らせかたに関しては知識を持ちあわせていなかったが、わたしはそれほど気にしなかった。というのは、そんなことをしなくてはならないような事態が起こるとはとうてい考えられなかったし、進水の日が近づいてもこの確信は変わらなかった。
わたしたちは河口近く、満潮時の水面よりわずか上方の、低い河岸に船を建造した。長い若木を平行に並べて軌道を作り、その上に小木を切って作ったコロを数本横にならべ、そこに船の竜骨を置いた。船尾は水のほうにむけてあった。
いざ進水という二、三時間前になってペリーが全部の『帆』をあげようと主張したので、船は堂々たる威容を呈した。船のことはよくわからないんだとペリーにいっていたものの、進水に際しては船体さえ完成していればあとのいっさいは無事に浮いてからのことでいいのだと思っていた。
まぎわになって船名をつけようということになったので、進水が少々遅れた。わたしは、この船の設計者と、地上世界の海軍の偉大なる天才、合衆国海軍のオリヴァー・ハザード・ペリー艦長の両名にちなんでペリー号と命名したかったのだが、ペリーはあくまで謙遜《けんそん》深くて聞きいれようとはしなかった。
そこで最終的には、一定のルールを決めて艦隊を命名することにした。すなわち、第一級戦艦には連盟の中の王国の名を、装甲巡洋艦には王の名を、巡洋艦には都市の名を、という順序だ。そんなわけで最初の戦艦は連邦王国第一号の名をとって『サリ』と命名されることとなった。
サリ号の進水は予期していたよりもかんたんに運んだ。ペリーはわたしに、乗船して船が河の水面に出ていくときに船首で何かぶち割ってくれと希望したが、わたしは、サリ号がどっちを上にして浮かぶか見届けるまでは陸にいたほうが無難だから、といってやった。
わたしのことばがじいさんの気分を害したということは、かれの表情でわかった。しかしかれが自分で乗ろうといいださないということにわたしは気づいていたから、さほど後悔しなかった。
ロープを切り、固定してあった台を取りのけると、サリ号は水面にむかって飛びだした。そして水面に接するまでにはものすごい速度で驀進《ばくしん》していた。軌道は水際まで敷いてあって油が塗ってあったし、船が堂々と前進するようにと間隔をあけてコロがならべてあったからだ。だがサリ号にはさっぱり威厳がなかった。
河面に接したときには時速三、四十キロ出ていたにちがいない。船は惰力で流れのまっただなかに飛び出してしまい、まさかの場合にそなえて河岸の大木に船首をゆわえつけておいた長いロープぎりぎりいっぱいまで走って急停止した。
ロープにひきとめられたとたんに船は転覆した。ペリーはすっかり狼狽していた。わたしはべつだんかれを責めなかったし、「だからいっただろ」ともいわなかった。
かれが心から悲しんでいることははためにも明らかだったので、たとえわたしが意地の悪いほうだったとしても非難する気にはならなかった。
「さあ、じいさん、元気を出した、出した!」わたしは大声でいった。「これでどうしてなかなか捨てたもんでもないよ。このロープを引っぱるから手をかしてくれたまえ、できるだけ上まで船を引きあげるんだ。そのうえで、干潮になったら別のことをやってみよう。まだ成功の道はあると思うよ」
というわけで、なんとか船を浅瀬に引きあげた。水がひいたとき、船は船腹を泥に埋めて横たわっていた。地底世界最初の戦艦にしてはなんともさえないかっこうだ――ペリーは「海の脅威」としばしば称していたものだったが。
作業は迅速を要したが、潮がふたたび満ちてくるまでには帆とマストをはずし、船体を起こして船底から上に四分の一のところまで砂利バラストを積み終えていた。これでよほどがんこに泥に埋まっているのでもないかぎり、こんどはきっとまともに浮かんでくれるだろう。
わたしたちは河岸に腰をおろし、胸をときめかせながら潮がじわじわと満ちてくるのを見守っていた。地上世界の満潮時にくらべて、ペルシダーの満潮時の増水量はたいしたことはないが、サリ号が浮かぶには充分だということはわかっていた。
わたしの思惑《おもわく》ははずれなかった。ついにわたしたちは、船が泥から起きあがり、潮の流れに乗ってゆるやかに上流へと漂っていくのを見て満足感を味わったのだった。水かさが増してくると、船を河岸のすぐ近くまでひきよせておいて這いのぼった。
船は等喫水《とうきっすい》にうまく浮かんでいた。靱皮繊維やタールピッチでしっかりと填隙《てんげき》してあったから水もれもしない。一本の短いマストを立て、軽量の帆を張り、バラスとの上に床板を張って甲板を作った。それから二本のオールで流れの中ほどにこぎだし、原始的な石の錨をおろしてわたしたちを海へと運んでくれる潮流の転換をまった。
待機しているひまを利用して、せっせと上甲板を作った。バラスとのすぐ上の甲板から舷縁まで、二メートルばかり余裕があったからだ。第二甲板は第一甲板より一メートル上に作った。そして下の甲板に通じる広い便利なハッチをあけた。舷側は上甲板から約一メートル上に出ていて、かっこうの胸壁を形成していた。腹ばいになって敵を射撃できるように、胸壁のところどころには銃眼をあけた。
わたしたちは、友人であるジャをさがすという平和的な使命を持って船出しようとしていたのだが、どこか他の島の敵意ある部族に遭遇する可能性もある。
やがて流れの方向が変わった。抜錨だ。わたしたちは大河を海にむかってゆるゆるとくだっていった。
周囲には太古の淵に棲息するものすごい輩《やから》がひしめいていた――| 蛇 頸 竜 (プレシオザウルス)、| 魚 竜 (イクシオザウルス)、そのほかペリーなら親戚のおじおば同然に名を覚えている、ぬらぬらしたいまわしい一族だ。わたしなど名前を聞いて一時間もすればもう思いだせない。
かくてまちにまった旅路――わたしにとって非常に重要な意味を持つにいたった旅路――についた。
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四 友情と裏切り
サリ号ほど、でたらめな船はなかった。これが公園の池かなんぞにつないでおいたのならよかったのかもしれないが、大海原ではなかなか思うようには進まなかった。
風を受けて帆走するぶんにはいいのだが、風がななめ後方から吹きつけたり、詰開きで帆走するときは恐ろしい勢いで流された。航海になれた者なら、こうなるだろうということは推察がついていたかもしれない。一定の進路をとっても何キロとずれてしまうし、したがって、進行状態ははがゆいほどのろかった。
アノロック島をさして進むところを、はるか右に流されたため、右方にある二つの島の間を通ってふたたび反対側からもどってこなくてはならないということがわかった。
島々に近づくにつれて、ペリーはその美しさにすっかり心を奪われてしまった。二つの島の間にさしかかったときにはまさしく恍惚状態というありさまだったが、それももっともな話だった。
豊かな熱帯性植物は水辺までしたたらんばかりに繁茂し、花々はその緑の中に鮮烈な色彩をちりばめて、絢爛《けんらん》たる美観を呈《てい》していた。
ペリーがことばの綾《あや》をつくしてこのおだやかな景色の妖《あや》しい美しさを称賛していると、一隻のカヌーがもっとも近くの島からこぎ出してきた。カヌーには戦士が十二人ばかり乗り組んでいて、そのすぐ後に二隻目、三隻目がつづいていた。むろん、わたしたちにはこれら異国人の意図するところはわからなかったが、容易に推察はついた。
ペリーはオールをこいで逃げようといったが、すぐにわたしは、どんなにがんばっても、お粗末ながら船足の速いメゾプの丸木舟をひき離すには遅すぎるよといって納得させた。
わたしはかれらが声のとどく範囲までこぎ寄せるのをまって大声で呼びかけた。そして、われわれはメゾプの味方で、アノロック島のジャをたずねる途中だといった。すると、かれらはそれに答えて、ジャとは戦闘状態にあるのだ。そこにじっとしていろ、いまあがっていってお前たちの死体を|アズダイリス《ヽヽヽヽヽヽ》にくれてやるからな、といった。
わたしはわれわれに手出しをしたらひどい目にあうぞ、と警告したが、かれらは大声で嘲っただけですばやくこぎ寄せてきた。かれらはわたしたちの船の外観や大きさには少なからず感心したようすだったが、そこはむこうみずな連中のことだからいささかも恐れはしなかった。
相手が攻撃してくる覚悟だということを見てとると、わたしは俄然サリ号の舷墻《げんしょう》の上から身をのり出し、ペルシダー帝国海軍の戦闘艦隊にむかって、地底世界史上初の戦闘開始命令を下した。てっとり早くいうと、もっとも近くにいるカヌーにむかって回転銃をぶっぱなしたのだ。
効果はてきめんだった。一人の戦士がひざをついて立ちあがり、櫂《かい》を放した。そして一瞬硬直したかと思うと、ぐらりとよろめいて水中に転落した。
他の連中はこぐ手を止めた。そして目を丸くしてまずわたしを見、それから仲間の死体をめぐって争奪戦を展開している水中の生物に視線を移した。かれらにしてみれば、投げ槍の達人の射程距離の三倍もあるところから轟音一声、一筋の硝煙とともに目に見えない飛び道具を使って仲間の一人を殺すことができたということが、奇蹟のように見えたにちがいない。
だが驚きのあまり釘づけ状態になっていたのもつかのまで、たちまちかれらは蛮声をはりあげ、櫂を取って猛然とこぎ寄せてきた。
わたしは何度もくり返し発砲した。一発ごとに戦士が一人、カヌーの底に倒れ、あるいは水中に転落した。
先頭のカヌーの舳先《へさき》がサリ号の舷側に接触したときには、中には死者と瀕死の者しかいなかった。あとの二隻のカヌーが急速に接近しつつあったので、わたしはそっちのほうへ注意を転じた。
どうやらこれらの野蛮な裸の赤色人戦士たちはそろそろ疑惑を持ちはじめたのにちがいない――二番目の舟で最初の一人が倒れると、他の連中はこぐ手を止めてたがいにワイワイとしゃべりはじめた。
三隻目もそのかたわらにこぎつけて、乗組員がこの協議に加わった。戦闘が中断したのを利用して、わたしは生存者にむかって岸に返れと呼びかけた。
「おまえたちと戦う気はない」わたしはどなった。そして、わたしの身分をつげ、かれらが平和に暮らそうというのなら、早晩わたしと同盟を組まなくてはならないだろうといいたした。
「いますぐ仲間のもとへ帰りたまえ」わたしは勧告した。「そして、ペルシダー連邦王国の皇帝デヴィッド一世にお目にかかったと伝えるんだ。皇帝は単身でおまえたちを打ち破った。皇帝は、マハールやサゴスで、そのほか帝国の平和と繁栄をおびやかすいかなる民族も、このようにして打ち破るつもりでいるのだと伝えろ」
かれらはのろのろとカヌーの船首を島にむけた。かれらが感銘を受けたことは明らかだった。がそれと同時に、わたしが掌握している制海権に未練たっぷりだということも歴然としていた。というのは、かれらのうちの数人が戦闘を再開しようと他のものをせっついているようすだったからだ。
とはいうものの、結局はのろのろとひきあげていった。そしてこの初戦の間にもカタツムリのような速力を落とさずに進んでいたサリ号は、おもむろに心もとない旅を再開した。
ほどなくペリーがハッチからひょっこりと首を出して声をかけた。
「悪漢どもは退散したかね? やつらを全滅させたのかい?」
「倒しそんじたやつらは退散したよ、ペリー」
かれは甲板に出てきて船べりからのぞき、ななめ後方わずかのところに無惨な積荷を乗せてぽつんと漂っているカヌーをみとめた。それからはるかにひきあげていく舟をながめやった。
「デヴィッド」ついにかれは口を開いた。「これは注目に価するできごとだ。今日はペルシダー史上重大な日だよ。われわれは光栄ある勝利をかち取った。皇帝陛下の海軍が十倍もの乗組員を乗せた三倍もの艦隊を撃退したんだ。さあ、神に感謝をささげよう」
わたしはペリーが『われわれ』という代名詞を使ったので苦笑を禁じ得なかったが、それにしてもかれとこの喜びをともにすることはうれしいことだった。この愛すべきご老体となら、どんなことでも喜んでわかちあうだろう。
ペリーはわたしが知るかぎりの臆病男の中でも敬愛することができる唯一の人物だ。かれは非常時むきにはできていない。だがいざというときにはわたしのために喜んで生命を投げ出してくれるだろう――そう、わたしには|よくわかっている《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のだ。
島々を迂《う》回してアノロックに近づくには、ずいぶん長くかかった。用のないときには交替で地図を作成した。羅針儀《コンパス》を使い、ちょっぴり当て推量を働かせて、わたしたちがあとにした海岸線と三つの島をかなり正確に描《か》きとめた。
地底世界最初の大海戦が行なわれた個所にはサーベルを十字にあわせた印をつけた。手帳には、これまでの習慣どおり、のちのち歴史的な価値を生ずるであろうと思われるできごとをこまごまと書きとめた。
わたしたちはアノロックの裏側の海岸近くに投錨した。島の道は曲折していて、奥地にあるメゾプの族長ジャの、秘密の樹上部落に通じる道を発見するのは無理だということが以前の体験からわかっていたので、サリ号から下船しなかった。そして間《ま》をおいて速射ライフルを発射して、原住民の注意を喚起することにした。
かなりの間隔をあけて十発ばかり発射したころ、赤銅色の肌をした戦士の一隊が海岸に姿を現わした。かれらはちょっとの間こっちをながめていた。そこでわたしは声をかけて、旧友ジャの居所をたずねた。
かれらはすぐには返答せずに、その場で額を集めて真剣なおももちでさかんに論議していた。そしてしきりにわたしたちの奇妙な船のほうをうかがった。わたしのいでたちを見てひどく不思議がっているばかりか、かれらの注意をひいたあの大きな物音の出どころの解釈にも窮していることは歴然としていた。が、ついに戦士の一人が声をかけた。
「ジャをさがしているというおまえは何者だ? われわれの族長に何用だ?」
「われわれは味方だ」わたしは答えた。「わたしはデヴィッド。|シシック《ヽヽヽヽ》から生命を救ってもらったデヴィッドがふたたびたずねてきたとジャに伝えてもらいたい。きみたちがカヌーを出してくれたら岸に上がろう。この大きな軍艦をこれ以上近よせることはできないからな」
またしても長々と論議がつづいた。それからジャングルの物蔭から数人がかりでカヌーを引き出してきて、二人の戦士がそれに乗りこみ、わたしたちにむかってすみやかにこいできた。
かれらはすばらしい人種だった。ペリーはこれまでこの赤色人種を見たことがなかった。事実、海戦のあとで後方におきざりにしてきたカヌーの中の死体と、岸にむかって急ぎ退散していった生存者がかれの見た最初の赤色人だった。ペリーはかれらの肉体美に心をうたれ、形のいい頭骨から知能程度の優秀さを察して深い感銘を受けた。
二人の戦士は威厳をもってうやうやしくわたしたちをカヌーに迎え入れた。わたしはジャのことをたずねた。ジャはわたしたちの合図があったときには部落にいなかったが、伝令を送ったからすでに海岸へむかっているにちがいないとのことだった。
一人の戦士は、この前わたしが島にたちよったことからわたしを覚えていた。近づいてわたしを認めた瞬間から、かれはなみなみならぬ厚情を示した。そして、ジャはわたしを歓迎するだろうといい、また、アノロックの全島民はわたしの名声を聞いてよく知っていて、誰でもわたしに出会ったものは丁重《ていちょう》にもてなすようにこまごまと指示を受けているのだともいった。
浜辺でも同様、礼をつくして迎えられた。赤銅色の友人たちと話をしているところへ、ジャングルからやにわに背の高い戦士がおどり出た。
ジャだ。わたしをひと目見るなりかれは相好《そうこう》をくずして喜んだ。そして急ぎ足に近づいてかれの一族の流儀にしたがって挨拶をした。
かれはペリーも同じように歓待した。老人はわたしがそうであったように、この原始人の巨漢にすっかりほれこんでしまった。ジャは迷路のような道をたどってわたしたちをかれの風変わりな部落に案内し、樹上の家を一軒、わたしたちだけのために明け渡してくれた。
ペリーは、地上はるかな幹の周囲に作られた突拍子もなく大きな雀蜂の巣にそっくりの、この珍しい住居を大いに面白がった。
食事をすませ、休息をとったあとで、ジャが一族の指導者を数人つれてやってきた。かれらはわたしの話を熱心に傾聴した。連邦王国が設立されるまでのいきさつや、マハールとの戦争、わたしが地上世界へ行ってきたこと、そしてふたたびペルシダーに帰ってきてサリの国と妻をさがしていることなどがその内容だった。
ジャの話では、メゾプも連盟のことをいくらか耳にして多いに興味を持っていたとのことだった。かれはその情報を調査するために、わざわざサリまで一隊の戦士を派遣したほどだった。連盟の目的の一つはマハールを打倒することだという噂がたっていたが、もしもその噂に少しでも真実性があった場合はアノロックも帝国に加盟するつもりだった。
派遣団はサゴスの一隊に遭遇した。マハールとメゾプの間にはここ幾世代かにわたって休戦協定が結ばれていたので、かれらはそのマハールの部下たちとともにキャンプを張り、そこで連盟が四散したことを教えられた。そして一行はアノロックにひきあげてきた。
地図をジャに見せてその用途を説明するとかれは多いに興味を抱いた。アノロックの位置も、『雲の山々』も、河も、海岸線の一部もすべてかれにとってはなじみ深いものばかりだった。
かれはすぐさま内海の位置と、そのすぐ横のプートラ市とを指摘した。プートラ市は、強力なマハールの一部族の所在地だ。同様にしてサリの位置も示し、かれの領土の海岸線を知っているかぎり南北に延長して描き加えた。
かれが地図を補足してくれたので、グリニッジがこの同じ海の果てにあるということがはっきりした。そして、グリニッジに到達するには、苦心惨憺して山越えをしたり、北西にあるグリニッジとアノロックを結ぶほとんど一線上の中間にあるプートラを危険をおかして通過するまでもなく、海を渡っていったほうがかんたんだということも確信した。
もしもサリが同じ海に面しているというのなら、海岸線はグリニッジの西南にむけてぐっと彎曲《わんきょく》していなくてはならない――ところで、この推測はあとになって事実だということが判明した。またサリは『大洋』を抱く大きな湾の、南の奥にそびえる高台にあった。
ジャが示したはるかな国アモズの所在地は、わたしたちを戸惑わせた。ジャのいうとおりなら、アモズはグリニッジの北方にあって、明らかに海のどまんなかだ。ジャはそこまで行ったことがないうえ、アモズに関しては人の噂に聞いているだけだったから、わたしたちはかれがまちがっているのにちがいないと考えた。だがそうではなかった。アモズはグリニッジの真北にあって、サリのある湾の、入り口をはさんだ対岸にあった。
以前にも言及したように、これら原始的なペルシダー人の方角と位置の感覚は、ほとんど神わざに近いのだ。かれらの一人を世界の果ての、かれらが聞いたことすらないような場所につれていったとしても、道しるべとなる太陽も月も星もなく、地図や羅針儀《コンパス》もなしに最短コースをたどってまっすぐに帰ってくるだろう。
山や川や海を迂回しなくてはならないようなことがあっても、方向感覚は絶対にかれを裏切りはしない――抜群の帰巣本能を持っているのだ。
これと同様すばらしいのは、一度行ったらそれがどんな場所であっても絶対にその位置を忘れないということで、別の者が行ったことのある多くの土地についても、聞いただけでその位置がわかるのだ。
てっとり早くいえば、ペルシダー人は自分の領土と、それに隣接する土地の大部分に関しては、|生き地図《ヽヽヽヽ》なのだ。このことはペリーとわたしにとって、いつも大きな助けとなったのだが、それにもかかわらず、わたしたちは地図の補足拡張に余念がなかった。少なくともわたしたちは帰巣本能を授かってはいなかったから。
長時間にわたる協議を数回くり返したのち決定したことは、この際、物ごとを急速に進展させるためには、ペリーは腕っぷしのいいメゾ部族の一隊とともに試掘機に引き返してわたしが地上世界から運んできた積荷をとってくるべきだ、ということだった。ジャと部下の戦士たちはわたしたちの火器に非常な感銘を受け、また、しきりに帆のある舟を作りたがった。
試掘機には、武器も造船に関する書類もあったから、生来が海国人種であるこの人々の手によって、堅固な帆船からなる強力な海軍の設立に着手するというのはすばらしいアイデアではないかと考えた。具体的な設計図があれば、きっとペリーにもわれわれにふさわしい艦隊を建造する監督ができるだろう。
とはいうものの、わたしはかれに、あんまり高望みをするな、当座は弩《ど》級艦や装甲巡洋艦のことは忘れて四、五人用の小型帆船を二、三隻建造するように、と警告した。
わたしはサリをめざして進み、ダイアンを捜索するかたわら、連盟の復興をはかることとなった。一方ペリーは行けるところまで海上を進むこととなった。ひょっとするとしまいまでそのままで行けるかもしれないから、ということだったのだが、はたしてそのとおりになった。
わたしは二人のメゾプとともにサリにむけて出発した。『雲の山々』の主峰をこえずに進むために、プートラのやや南を通る道をたどった。わたしたち一行は、四回食事をして一度眠った。連れの二人の話でマハールの大都市にほど近いという地点まで来たとき、突然かなりの人数からなるサゴスの一隊に遭遇した。
マハールとメゾプの間には平和協定があったため、かれらは襲ってはこなかったが、かなりうさんくさそうにわたしをながめた。連れの者はわたしが遠い国から来た異国人だと語り、わたしは、こんなこともあろうかとかねてうちあわせておいたとおり、ペルシダーの人類がマハールのゴリラ兵と会話をする場合に用いる言葉を知らないふうを装った。
サゴスのリーダーが、なんとなく見覚えがあるなといった目つきでわたしをながめるのに気づいて、悪い予感がした。以前にわたしがプートラに監禁されていた間にわたしを見かけたことがあって、誰だったか思い出そうとしているのに決まっている。
このことはわたしを一方ならず不安にした。かれらに別れを告げて旅を再開したときには、少なからずほっとした。
引きつづき強行軍を二、三行程かさねたが、その間数回にわたって、どこからともなく見張られているということを鋭く感じた。だがわたしはこの疑念を連れの者には話さなかった。後になって、このときだまっていたことを後悔するはめになったのだが――
というのは、こうだ――
カモシカを一頭倒して腹いっぱい食べたあと、わたしは睡眠をとるために横になった。めったに睡眠を必要としないように見受けられるペルシダー人たちも、このときはわたしと同じようにした。『雲の山々』の北側の麓の丘にそって強行軍をつづけてきたあげく、肉を腹いっぱい食べたので睡気をもよおしてきたのだろう。
目をさましてはっと息をのんだ。サゴスの大男が二人、わたしの上に馬乗りになっている。かれらはわたしの腕と足をおさえ、そのあと鎖で後手に縛ってわたしを立たせた。
わたしは連れの二人を見た。勇敢な男たちは、眠りについた場所で防御するいとまもなく槍で刺し殺されていた。
わたしはかんかんに腹を立て、サゴスのリーダーにむかって、あらんかぎりの手段を使って恐ろしい復讐をしてやるぞとおどした。だがわたしが、かれら一族と地底世界の人類との間の意志伝達のために使用される混成語をしゃべるのを聞いて、リーダーは、「そんなこったろうと思った!」といわんばかりに、したり顔でにやりと笑った。
かれらは回転銃も弾薬も没収しなかった。それらがどんなものか知らなかったからだが、大口径のライフルは、わたしのかたわらに置いてあったのをかれらがほうりっぱなしにしてきたので、なくしてしまった。
知能程度が低いために、この奇妙なしろものを一応持っていこうというだけの興味すら抱かなかったのだ。
わたしをプートラへ連行しようとしているのだなということは、進行方向からわかった。あそこへ行くとなれば、わたしの運命がどうなるのか想像をたくましくする必要もない。わたしをまちうけているのは、闘技場と兇暴なサグ、もしくは獰猛《どうもう》なタラグだ――マハールが、わたしを地下の穴へ連れていくことに決定した場合はまた別だが。
そうなったところでわたしの最後はどっちみち同じことだ。ただし、地下の穴では残酷な生体解剖の材料に使われるのだから、恐怖と苦痛はさらに果てしないものになるだろう。プートラの地下室でかれらのやり口を見たことがあるから、かれらが義理にも慈悲深いとはいえないことはわかっている。一方、闘技場ではたちまち猛獣にやられてしまうのがおちだ。
地下都市に到着すると、すぐさまぬらぬらした一匹のマハールの前へ引き出された。サゴスから報告を受けると、マハールは冷たい眼を悪意と憎悪にギラギラさせてわたしのほうを意地悪く見返った。
わたしの身分がばれたことが、これでわかった。これまでペルシダーの支配者一族が、こんなふうに心の動揺を表にあらわしたのは見たことがない。マハールは興奮の色を見せてわたしを追いやった。わたしは厳重な監視つきで都市の大通りをぬけ、主要建物のひとつに送りこまれた。ここで一行は大広間に通された。ほどなく大勢のマハールが集まってきた。
マハールどもの会話は完全な沈黙の中で取りかわされた。マハールには聴覚がないので口頭ではしゃべらないからだ。これはペリーの推測だが、マハールは第六の感覚を四次元に投射し、それを聞き手が第六の感覚で感知して意志を伝達しあうのだという。
それはとにかく、わたしが討議の対象だということは明瞭だった。わたしに浴びせられる憎悪のまなざしからさっしてあんまりかんばしくない対象だということもわかった。
どれくらいの間、裁定をまっていたかわからないが、ずいぶん長かったにちがいない。ついにサゴスの一人がわたしに話しかけた。かれは主人たちのために通訳をしていた。
「マハールさまはきさまの生命を助けてくださるそうだ。そして条件つきで釈放してくださる」
「で、その条件とは?」わたしには見当がついていたがたずねてやった。
「きさまがマハールさま四人を殺害して脱走したとき、プートラの地下室から盗みだしたものをお返しすることだ」
そんなことだろうと思っていた。マハール族の存続がかかっているあの偉大な秘密は、ダイアンとわたしだけが知っている場所に安全にかくしてある。
あれを無事に取りもどすためには、身の自由以上のものでもくれるにちがいない、とわたしはそこまで考えてみた。だがそのあとは――どうなる?
マハールどもは約束を守るだろうか?
疑わしいものだ。いま一度あの人為的繁殖の秘密を手に入れたら、たちまちマハールどもは増殖してペルシダー世界に跋扈《ばっこ》し、人類が最終的に至上権をにぎることはのぞめなくなる。それを切望し、一命をささげてきたわたしだ。そう簡単に生命を落としてなるものか。
そうとも! その瞬間、冷酷非情な法廷に立って、わたしが感じたことは、ペルシダーの人類が正当な地位を獲得する契機を逸しないようにすることができるなら、わたしの生命などとるにたらないものだということだ。憎むべき強敵マハールを絶滅することによってそれは実現するのだ。
「さあ、どうした!」サゴスがどなった。「マハールさまはきさまの返事をまっておられるんだぞ」
「ではこう伝えてくれ。偉大な秘密のかくし場所を教えるわけにはまいりません、とな」
これが通訳されると、爬虫類どもははげしく羽ばたきをし、鋭い牙のある顎をぱくぱくさせ、シューッと不気味な音を発した。その場で襲いかかってくるものと思ったのでわたしは回転銃に手をかけた。が、それもすぐおさまり、やがてマハールはわたしを監視しているサゴスに何か命令を下した。サゴスのリーダーはごつい手でわたしの腕をつかみ、荒々しく謁見室からわたしを突きだした。
かれらはわたしを地下室につれていって厳重な監視下においた。きっと生体解剖室に連れていかれるのにちがいない。あれほど恐ろしい死の恐怖と対決するには、ありったけの勇気をだして覚悟を定めなくてはなるまい。時間の存在しないペルシダーでは、断末魔の苦しみは永遠につづくかもしれないのだ。
それには、今まっこうからわたしを見すえている果てしない兇運にたいしてしっかりと身がまえなくてはならない。
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五 奇遇
だが、ついに運命の瞬間が到来した――この瞬間のために、わたしは覚悟を決めようと努力してきた。どれくらいの間、そうしてきたのか見当すらつかない。ひとりの大柄なサゴスがやってきて、わたしを監視していた連中に何やら命令を伝えた。わたしはぐいと手荒く立たされ、上の階へ容赦なく追いたてられた。
かれらは大通りへとわたしを導いた。そこにはマハールや、サゴスや、厳重な監視つきの奴隷たちがひしめいていた。わたしはそのまっただなかを、群集が移動していくのと同じ方向に導かれていった。というよりか、乱暴につきとばされ、押しまくられて進んでいった。以前に一度、この地下都市プートラでこのような大群衆を見たことがある。どうやらわたしたちは、死刑の宣告を受けた奴隷が最後をむかえる大闘技場へむかっているらしい。わたしの推測は正しかった。
かれらは広大な円形闘技場へわたしをつれていき、試合場のいちばん奥にひきすえた。女王が、ぬらぬらした見るもいとわしい従者をしたがえて入場した。席は満員となり、いまや見世物の幕は切って落とされようとしていた。
と、そのとき、闘技場の反対側の端の小さな扉から一人の女が試合場に入れられた。わたしからずっと離れているので顔立ちは見えない。
どんな運命がもう一人の犠牲《いけにえ》とわたしとをまちかまえているのだろうか。恐ろしいマハールどもの野蛮で冷酷な視線を浴びて、いまやまさしく無残な最期をとげようとしているこの孤独な女にたいして、憐憫《れんびん》の情が自然と湧いてきて、わたし自身の運命、というか、その運命にたいしてわたしが感じている恐れは影をひそめてしまった。この恐怖の闘技場で死をもってつぐなわなくてはならないようなどんな罪を、この女が犯したというのだろう?
こんなことをとつおいつ考えていると、こんどは闘技場の側面にある扉が開けはなたれて、石器時代の巨大な穴居虎、ものすごいタラグが死の舞台にぬっと姿を現わした。わたしの両脇には回転銃があった。わたしをとらえた連中は、それがどんなものか知らなかったので没収しなかったのだ。やつらがわたしの銃を妙な形をした戦闘用の棍棒だくらいに思いこんだということと、闘技場へ連れてこられるものには防御の武器を持つことが許されているということから取り上げなかったのだろう。女には投げ槍があてがわれていたが、彼女にさしむけられた兇猛な怪物にとっては真鍮《しんちゅう》のピンも同然の効果しかなかったろう。
タラグはつかのま立ち止まって、まず厖大な観衆を見あげ、次に試合場を見まわした。わたしにはぜんぜん気づかないようすだったが、ほどなく女に目をとめた。と、タラグは巨大な肺からすさまじい咆哮を発した――その咆哮はやがて拷問をかけられた女の断末魔の悲鳴よりもさらに人間じみた叫び声と変わり、殷々《いんいん》と尾を引いて消えた――人間じみているだけにその不気味さはひとしおで、わたしは身震いをこらえきれなかった。
野獣はじりじりと女のほうに近寄っていく。わたしは翻然《ほんぜん》とわれに返り、義務を自覚したのは、そのときだった。わたしはこの狂暴なけものを追って、できるだけ足音をしのばせて闘技場をつっきった。かけながら貧弱な武器の一つを抜いた。ああ、いまこの瞬間にあの失った速射ライフルが手もとにあったら! この大怪獣でさえ必中の一弾で倒すものを。いま望み得る最善の方法は、けものの注意を女からわたしのほうにそらせること、そしてけものがわたしに飛びかかって八つ裂きにして感覚を奪い、死にいたらしめるまでにできるだけ多くの弾をぶちこむことだ。
闘技場には、たとえそれがけものだろうと人間だろうと、勝利者には自由と生涯無罪放免の保証があたえられるという不文律がある――マハールにとってはけものも人間も変わりはないのだ――つまり、ペリーとわたしがペルシダーの地殻を破って到来する以前には、マハールは人間を下等動物と見なしていた。しかし今ではいささか見解を変えるようになったもようで、|ギラク《ヽヽヽ》――人間という意味のペルシダー語――はマハールに匹敵する高度に組織化された理性のある動物だと気づきはじめているらしい。
それはさておき、どうやら闘技場の不文律はタラグのみに有利な形勢だった。あの大きな歩幅で二、三歩近づけばそのものすごい跳躍力でひととびに女に襲いかかるだろう。わたしは回転銃をかまえて発射した。弾は左後足に命中した。たいした傷にはならなかったらしいが、銃声を聞いてかれはさっとまっこうからわたしとむきあった。
世の中で何が恐ろしいといって、巨大な虎が猛《たけ》りたって剣のような牙をむきだしにした顔ほど恐ろしいものはそうざらにないだろう。それも面とむかっていどみかかられ、おまけにそいつとの間に砂地だけしかないときはなおさらだ。
ちょうどけものとむきあったそのとき、女の発した小さな叫び声にわたしはけもののむこうにいる女の顔に視線を走らせた。女の目は、とても信じられないというように、名状しがたい表情を浮かべてわたしにそそがれている。そこには希望と恐怖も同時に宿っていた。
「ダイアン! ダイアンじゃないか!」わたしは叫んだ。
彼女が投げ槍をかまえてタラグに襲いかかるのと同時に、彼女の唇が動いて「デヴィッド」とわたしの名を口にするのをわたしは見た。もはや彼女は一匹の雌虎――愛する人をかばって立つ荒々しい原始時代の女性だった。彼女のちっぽけな武器が野獣にとどく前に、わたしはタラグの左肩めがけてぶっぱなした。もしもそこを貫通させることができたら、弾は心臓に達するかもしれない。心臓には達しなかったものの、弾丸は一瞬かれを喰いとめた。
そのとき奇妙なことが起こった。マハールどもが占領している観覧席で、シューッと大きな音が聞こえのだ。ひょいと見上げると三匹の大|シプダール《ヽヽヽヽヽ》――女王を警護している翼竜で、ペリーのいうプテロダクテイル――が岩からすばやく舞いあがり、矢のように闘技場の中央めがけて飛来した。かれらは巨大な屈強の爬虫類だ。その翼の威力をもってすれば、たとえ一匹ででも、穴熊だろうとタラグだろうと簡単にやっつけることだろう。
驚いたことにこの三匹は、わたしに最後の突進をかけようと態勢をたてなおしているタラグめがけて上空から襲いかかった。そしてタラグの背に爪をたてて身体ごとつりあげ、まるで鷹が鶏をさらうように闘技場から拉致《らち》し去った。
これはどういうことだ?
わたしは解釈に窮したが、タラグがいなくなったのですぐさまダイアンのそばへかけよった。ダイアンは歓喜の叫びを小声に発してわたしの腕に飛びこんできた。二人とも再会の恍惚感にひたりきっていたので、あのタラグがどうなったのか――今日にいたるまで――知らない。
わたしたちはわれに返って、はじめてサゴスの一隊にとりまかれているのに気がついた。かれらはそっけなく、ついてこいと命じた。闘技場を出てプートラの通りをぬけ、わたしが判決を受けたもとの謁見室に導いた。わたしたちはふたたびあの冷厳な法廷に立たされたのだ。
またしてもサゴスが通訳をつとめた。わたしたちは助命されたという。最後の瞬間にトゥ・アル・サがプートラにもどってきて闘技場のわたしを見、助命するよう女王を説得したからだそうだ。
「トゥ・アル・サというのは何者だ?」わたしはたずねた。
「その昔、マハールをおさめていた男性最後の統治者がトゥ・アル・サのいちばん近い男性の祖先にあたる、そういうお方だ」
「どうしてわたしを助命させたのだ?」
通訳は肩をすくめてからわたしの質問をマハールの代弁者にくり返した。後者が、マハールとその兵隊との間で言語として使用されている珍妙な身振りことばで説明すると、通訳はふたたびわたしのほうにむき直った。
「トゥ・アル・サは長い間おまえにとらわれていた。おまえは簡単にトゥ・アル・サを殺すこともできたし、あの異邦世界に置き去りにすることもできた――だが、おまえはそうはしなかった。危害を加えなかったうえにペルシダーに連れもどり、プートラに帰るよう釈放した。だからこれがおまえの受け取る報酬だ」
そうだったのか。わたしが地上世界へ帰るとき、心ならずも道連れになったのはトゥ・アル・サだったのだ。いまはじめてこの|ご婦人《ヽヽヽ》の名がわかった。わたしはトゥ・アル・サをサハラ砂漠に置き去りにしたり――そうしたいという誘惑にかられたものの――弾丸をぶちこんだりしなかったことを運命に感謝した。ペルシダーの支配者一族が恩義をわきまえるという特質を持っているということを発見してわたしは驚いた。わたしには、連中が冷酷でおろかな爬虫類だとしか考えられなかった。もっとも、この種の爬虫類は、地底世界の森羅万象の中で進化するうちに、ひょんな異変から、地上世界で人類が占めているのと同じ地位を占めるまでに進歩したのだ、とはペリーがこれまでたいそうな時間をついやしてわたしに説明してくれたことだが。
プートラに監禁されている間に、ペリーはマハールの文書を解読できるようになったが、それによると、マハールが公正な種族であって、科学と美術のある種の分野、それも特に生物学、形而上学、および工学、建築学において非常に進歩しているということを信ずる根拠は充分にある、とペリーはしばしばわたしに話した。
これまでどんな場合にも、連中のことをぬらぬらした、翼を持った鰐《わに》としか考えられなかった――それがいまとなっては、文明を身につけた生物の手に落ちたのだという事実を認識せざるを得なくなった――なぜなら公正と恩義は理性と文明の一種の証《あかし》だからだ。
だが、わたしが当面もっとも知りたいと願っていたことは、かれらがこのさき何をたくらんでいるかということだった。わたしたちをタラグから救ってくれたものの、自由の身にはしてくれないかもしれない。マハールが、いまだにわたしたちのことをある点までは下等動物とみなしているということは承知している。わたしたち自身、飼っているけものと同じ地位にわが身を置くことはできない。それと同様にマハールもまた、動物というものは自然の意図にしたがって自由の身にしてやるよりは、むしろとらわれの身でいるほうが幸せなのだと考えて、わたしたちの渇望する自由な原始生活がはらむ危険のただなかにわたしたちを置くよりは、奴隷として囲っておいたほうが幸せなのだと考えているかもしれない。当然、わたしはこのさきマハールが意図するところをたずねないではいられなかった。
サゴスの通訳を介して伝達されたわたしの質問にたいしてマハールは、わたしを助命したことによってトゥ・アル・サが借りていた恩は帳消しになったものと解釈する、と解答してよこした。まだわたしの罪は消えたわけではなかった――わたしは偉大な秘密を盗むという許すべからざる罪を犯した罪人なのだ。そこであの手書きの書物がもどるまで、連中はダイアンとわたしを捕虜にしておくつもりだった。
連中がいうには、サゴスの護衛をわたしにつけて、件《くだん》の貴重な文書を隠し場所から取ってこさせ、その間ダイアンを人質としてプートラに足止めしておいて、文書が無事女王の手に返還されると同時にわたしたち両名を釈放してやろうというのだ。
マハールどものほうに主導権があることは疑いもない。しかし自由よりも、ダイアンやわたしの生命よりも、さらに重大なことがこの問題にかかっている現在、先方の申し出をうっかり受け入れてはまずいと考えた。
あの偉大な秘密なしでは、男性のいないこの種族は終局において滅亡しなくてはならない。何世代もの間、この種族は人工的に卵を孵化《ふか》させてきた。その秘密はダイアンとわたしが蜜月《ハネムーン》を過ごしたはるかな谷の小洞窟にかくされている。その谷が発見できるかどうか自信はまったくないが、そんなことはいっこうにかまわない。ペルシダーの強大な爬虫類一族が繁栄をつづけるかぎり、地底世界の人類の地位は危機にさらされているだろう。二つの優秀な種族が共存することはあり得ないのだ。
わたしはこういったことをダイアンに話した。
「あなたはいっておられましたわね」彼女は答えていった。「あなたの世界で発明されたものを使ってすばらしいことができるのだと。あなたは、その偉大な力をペルシダーの人類にあたえるために必要なものいっさいを持って帰ってこられたのですよ。
炸裂する金属製の弾丸を敵中に発射して、いちどきに何百人を殺す強力な破壊兵器。
サゴスが百万人せめてこようとも、こういった大小の兵器で武装した千人の兵士が永久に守りとおすことのできる堅固な要塞。
櫂なしで水の上を進み、船腹の穴から死を吐きだす大きな舟。
こういったもののすべてがいまやペルシダーの人類のものになろうとしているのですよ。だのにいまさらマハールを恐れる必要があるでしょうか? マハールどもをはびこらせてやればいい! 何千という数にふえればいいのです。ペルシダーの皇帝の前にはやがて無力な存在となりましょうから。
でもあなたがプートラにとらわれていたら、何ができます?
あなたの指揮がなくては、ペルシダーの人間に何ができるでしょう?
かれらは同士討ちをはじめましょう。そしてたがいに争っているところへマハールが攻撃してくるでしょう。たとえマハール族が消滅しても、知識がなくては人類が解放されるということになんの価値もありません。それはあなただけがペルシダーの人類の間にひろめることのできる知識、かれらをすばらしい文明に導く知識なのですよ。あなたがあんまり多くのことを聞かせてくださったので、いまではそのすばらしい文明がもたらす豊かな恵みをまちきれない思いです。これまでこんなに何かを切望したことはないほどですわ。
大丈夫、デヴィッド、マハールたちはあなたを泳がせているあいだはわたしたちに危害を加えることはできないはずです。だから、あなたとわたしが一族のもとへ帰れるよう、あの秘密を返してやりましょう。そして一族のものをひきいて全ペルシダー征服にのりだすのです!」
ダイアンが野心満々で、しかもその野心が彼女の理性をくもらせていないということがよくわかった。彼女のいうとおりだ。終生プートラにかんづめになっていたところで何も達成できはしない。
たしかにペリーはあの試掘機、別名「機械もぐら」でわたしが運んできた地上世界の文明の利器を有効に利用することができるかもしれない。が、ペリーは穏健な男だ。かれには四分五裂した連盟の内紛をまとめる手腕はないし、新たな部族を帝国の傘下におさめることは絶対にできない。火薬をこねくりまわしてなんとか改良を加えようと努力するだろうが、誰かがその苦労の賜物を使ってかれをドカンと一発やればそれまでだ。かれは実際家ではない。誰か舵を取ってかれの活力に方向をあたえてやるものがいなくては、何も達成できないだろう。
ペリーにはわたしが必要だし、わたしにはかれが必要だった。ペルシダーのために一旗《ひとはた》上げるとすれば、二人が拘束されることなく協力してやっていかなくてはならない。
結局わたしはマハールの申し出を受諾した。マハールは、わたしの留守中ダイアンを丁重にあつかい、あらゆる侮辱的待遇から守ることを約束した。そこでわたしは百人のサゴスとともに、偶然発見したあの小渓谷を求めて出発した。いま一度さがしあてられるかどうかはわからない。
わたしたちは一路サリをめざして進んだ。わたしがとらえられたあのキャンプで休息をとり、速射ライフルを見つけたときはなんといってもありがたかった。銃はわたしが睡眠中にサゴスに襲われたときに置き捨てられたままのところにあった。あのときかれらはわたしをとらえ、仲間のメゾプ人を殺害したのだった。
道中、地図に多くのことを書き加えたが、サゴスは一片の関心も示さなかった。ペルシダーの人類はこんなゴリラ人間など恐るるにたりないと感じたことだった。かれらはただ好戦的な種族だというだけのことだ。この方面で、のちのちかれらを利用することさえできるだろう。かれらは人類の発展をおびやかすだけの知力は持ち合わせていない。
例の小渓谷はこのあたりと見当をつけた場所に近づくにつれて、成功の自信は強まっていった。いたるところに見覚えがあったから、これであの洞窟の正確な所在地がわかったと確信した。
ペルシダーの半裸の戦士の一隊をみとめたのはこのころのことだった。かれらはわたしたちの前方を横切って行軍していた。こっちに目をとめると停止したので、てっきり戦闘がはじまるのだと思った。サゴスたちはかれらの主君マハールのために奴隷を捕獲する機会があれば絶対に見逃しはしない。
戦士たちが、弓矢や長槍や剣で武装していたので、かつては連盟の一員だったにちがいないとにらんだ。こういった装備をしていたのはわたしの支配下の種族のものだけだったからだ。ペリーとわたしがくる以前には、ペルシダーの人類は幼稚きまわる武器で殺しあいをしていた。
サゴスたちもまた明らかに戦闘を予期していた。かれらは蛮声をはりあげながら人間戦士めがけて突撃した。
ところが異様なことが起こった。人間戦士のリーダーが両手を上げて進みでたのだ。サゴスどもは鬨《とき》の声をあげるのをやめて、そろそろとその男に近づいていった。長ったらしい会談がはじまった。わたしのことがしばしば話題にのぼるのがこっちからよくわかった。サゴスのリーダーは、わたしが教えた小渓谷の方向をゆびさしていた。明らかにかれは戦士のリーダーにわたしたちの探検の目的を説明しているのだ。何がなんだかわけがわからない。
このゴリラ人間どもとこんなに親密な間柄にある人間とは何者だろう?
わたしには想像もつかなかった。その男をよく見ようとしたが、サゴスどもはわたしに見張りをつけて後方に置き去りにしておいて突撃していったので、なにしろ遠過ぎて人間達の顔も見わけられなかった。
やがてついに会談は終わった。男たちは先へ進み、サゴスはわたしが見張りとともにいるところへひきあげてきた。ちょうど食事の時間だったので、わたしたちはその場で休止して食事を作った。サゴスは、いま会ったのが誰なのか教えてくれなかったし、わたしもたずねなかった。正直いってわたしは知りたくてうずうずしていたのだが。
今回の休止では眠らせてくれた。そのあと、この旅の最終行程に出発した。わたしはなんなく谷を見つけて、その足で護衛兵を洞窟へ案内した。サゴスは穴の入り口で待機し、わたしは一人で中にはいった。
薄暗がりの中で床を手さぐりしてみて、新たに掘りかえされた岩石が積みあげてあるのに気がついた。ほどなくわたしの手はあの偉大な秘密が埋めてある個所をさぐりあてた。床の穴の中に文書を隠して、その上をたんねんに地ならししておいたのだ――だが書物はなくなっていた!
わたしは数回にわたって気狂いのように穴の内部をくまなくさがした。が、結局はわたしのもっとも恐れていたことが起こったという確信がゆるがぬものとなっただけだった。誰かが先に来て偉大な秘密をうばい去ったのだ。
ペルシダーでただ一つ、ダイアンとわたしを自由の身にしてくれるはずのものがなくなった。このさき、その所在が判明するとも思えない。とうてい考えられないことだが、かりにマハールが発見したのだとしたら、あの支配者一族は貴重な文書を取りもどしたという事実を絶対に公表しないだろう。かりに穴居人が偶然見つけたとしたら、値打ちも何もわからないからたちまちなくしてしまうか、捨ててしまうだろう。
わたしはうなだれ、希望も破れてしおしおと洞窟を出て、サゴスの隊長にわたしが発見した事実をつげた。そいつにとってそんなことはたいしたことではなかった。かれの主人に届けるべくわたしがさがしにやってきたあの文書の内容に関しては、おそらくあの文書を発見したと思われる穴居人とほとんど同程度の知識しか持ちあわせていないのだ。
わたしが使命を果たすことができなかったということだけはわかったので、サゴスの隊長はそれをいいことに、プートラへの帰途わたしにあたりちらした。わたしにはかれらを全滅させる武器があったのだが、抵抗はしなかった。ダイアンのことがあるので、あえて抵抗する勇気がなかったのだ。彼女は今回の盗難事件に関してなんの罪もないのだし、また文書を取りもどすことができなかったからといって今回わたしが捜索を申し出た誠意のほどをとやかくいわれる筋合いもないのだから、この二つの立場からダイアンの釈放を要求するつもりだった。マハールがその気になればこの後わたしを奴隷として監禁するかもしれない。だがダイアンは一族のもとへ無事に帰すのが当然だった。
プートラにはいったとき、わたしの頭の中はこういった目論見《もくろみ》で一杯だった。わたしはその足で大謁見室につれていかれた。マハールはサゴスの隊長の報告に聞き入ったが、ほとんど表情が変化しないマハールの顔から感情の動きを読み取ることは至難のわざだった。一族の運命のかかった偉大な秘密が紛失し、もはや取りもどすすべもないかもしれないと知ってどんなに激怒するか、わたしには知るよすがもない。
ほどなく議長をつとめているマハールが、サゴスの通訳に何やら伝えているのがわかった――何ごとかわたしに伝えようというのにちがいない。わたしを待ちかまえている運命を予告する何ごとかを。わたしは一つのことを決意していた。もしもダイアンを釈放してくれないのなら、わたしの武器を使ってプートラ中をかきまわしてやろう。単身ながらなんとか切りぬけて、自由の身になることさえできるかもしれない。その上、ダイアンが幽閉されている場所がわかれば、彼女の救出をもくろんでみるのも無駄なことではあるまい。わたしの想念は通訳によって中断された。
「おまえは特使をよこして文書をおとどけしておきながら、みずから紛失したと申し立てたな。そこのところが腑《ふ》に落ちないとマハールさまはおっしゃっている。そんなに早く事実を忘れたのか、それともたんにその事実を無視しているのか、どっちだ?」
「わたしは文書をとどけた覚えはない」わたしは叫んだ。「いったいどういう意味なのか、たずねてくれ」
ちょっとの間議長と話をしてからかれはつづけた。「マハールさまがおっしゃるには、おまえがプートラへ帰るちょっと前に、狡猾な男フージャが偉大な秘密をたずさえてやってきたそうだ。おまえはあの男に一足さきに文書をとどけさせ、サリで待っているから女を連れてくるようにと頼んだそうだな」
「ダイアンのことか」わたしは息をのんだ。「マハールはフージャにダイアンを渡したのか?」
「そのとおりだ。それがどうした? 彼女はたかがギラクではないか」かれはわれわれが、「たかが牛じゃないか」という時のあの口調で答えた。
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六 宙に浮かぶ世界
約束どおりマハールはわたしを解放してくれた。ただし、今後プートラにも、また他のどんなマハールの都市にも近づくなという厳命つきだった。また、わたしを危険人物と見なし、わたしに受けた恩義はこれで帳消しになったのだから、この際わたしを当然の獲物と考えると言明した。そしてふたたび手中におちいるようなことがあったら、今度こそひどい目にあうだろうとほのめかした。
マハールは、フージャがダイアンを連れてどの方角に出発したか、どうしても教えてくれようとはしなかった。それでわたしは、マハールにたいする恨みと、何よりも大切なわたしの宝をふたたび奪い去った狡猾な男にたいする怒りを胸に抱いてプートラをあとにした。
最初はまっすぐアノロックにひき返すつもりだったが、思い直してサリのほうに足をむけた。というのは、フージャの国がだいたいその方角にあたっているので、かれがどこかこっちの方角を進んでいるのではないかという気がしたからだ。
このサリへの旅に関しては、未開世界ペルシダーのどこへ行ってもつきものの、例によって例のごときスリルと冒険が横溢《おういつ》していたとだけいっておこう。とはいっても今回は、携帯していた武器のおかげで危険はいちじるしく緩和された。そういえば、地底世界の最初の十年間、よくぞまあ生きながらえたものだとしばしばふしぎに思う。あの当時は、裸で、原始的な武器を手に、野獣が跋扈《ばっこ》する広い土地をさまよっていたのだから。
偉大な秘密を求めてサゴスと共に旅をしていた間も後生《ごしょう》大事に持っていた地図に助けられて、ついにサリに到着した。サリ人の主要部族が岩の断崖に穴居生活を営むけわしい高台の頂上に達したとき、最初にわたしを発見した者たちの間からものすごい喚声《かんせい》があった。
と、毛むくじゃらの戦士たちが蜂の巣をつついたように洞窟から次々と飛びだしてきた。毒矢をつがえた弓がいっせいにわたしにむけられた。わたしが作り方と使用法を教えてやったやつだ。鍛鉄《たんてつ》の剣――これもわたしの発明――がわたしをおびやかした。戦士たちは威勢よく鬨《とき》の声をあげて、どっとおしよせてきた。
危機一髪、正体もわからない先にわたしは殺されるところだった。わたしがこの地を去ると同時に部族間の友好関係はあとかたもなく消えうせ、わたしの部下たちは異国人にたいしてはみさかいなく猜疑心と憎悪を抱く、もとの野蛮人に立ち帰っていたのだ。わたしの服装もかれらを迷わせたのにちがいない。カーキの服を着てゲートルを巻いた人間など見たことがないのだから無理もない話だ。
わたしは速射ライフルを身体にもたせかけて、両手を高々と上げた。ペルシダー中で通用する平和のしるしだ。突進してきた戦士たちは、はたと停止してじろじろとわたしをながめた。わたしは、サリの王でわたしの友人の毛深い男ガークを捜した。と、かれが向こうのほうからやってくるのが目にはいった。ああ、なつかしい、あの堂々とした毛むくじゃらの体躯! ガークこそは友人――持つべき真の友人というものだ。友らしい友に久しく会っていない。
偉大なる族長は、ひしめく戦士たちを肩で押しわけて進み出た。端正な容貌に困惑の色をうかべている。かれは戦士たちとわたしたちの間を横切ってきて、わたしの目の前で立ち止まった。
わたしは口もきかず、微笑をうかべることすらしなかった。わたしの第一副官ガークが、わたしに気がつくかどうか見たかったのだ。しばらくの間、かれはその場につっ立ってわたしを仔細にながめまわした。大きなヘルメット帽、カーキ・ジャケット、弾薬帯、腰に吊るした二挺の回転銃、身体にもたせかけた大型ライフル――かれは次々と喰い入るようにながめた。わたしはまだ両手を頭上にあげたままだった。かれはさらにゲートルと、いささかはき古した丈夫な茶色の皮靴を検分した。それからもう一度視線を上げてわたしの顔を見た。そのまましばらくじっと見入っているうちに、かれの顔にはわたしをみとめたことを示す表情が畏敬といりまじって徐々に浮かんできた。
やがてかれは無言でわたしの片手を取り、ひざまずいて指先に口づけした。こんな芸当を教えたのはペリーだ。敬意を表明するささやかな行為ではあるが、それはヨーロッパ中の豪奢な宮廷の最高に洗練された廷臣をしのぐほど優雅で、かつ威厳のこもったものだった。
わたしはすぐにガークを立たせ、両手をにぎりしめた。そのときわたしの目には涙が浮かんでいたにちがいない――万感胸にせまってことばも出なかった。サリの王は戦士のほうにむきなおって告げた。
「われわれの皇帝が帰還された。皆のもの、ここへ集まれ――」
かれはその先をいうことができなかった。荒くれ戦士たちの張りあげた歓声は、天の声そのものをかき消すほどだったからだ。かれらがどんなにわたしのことを思っていてくれたか、これまで想像したこともなかった。戦士たちがわたしの手に口づけしようとさきを争って周囲に群がってきたとき、永久に消え去ったものと思っていた帝国の幻影がふたたびわたしのまぶたに浮かんだ。
こんな戦士たちがついていてくれるなら、全世界を征服することだってできる。よし、この戦士たちとともに地底世界を制覇《せいは》してやるぞ! サリ族が変わらず忠義を守っていてくれたのだから、アモズ族もまたそうあってくれるだろう。そしてカリ族、スヴィ族をはじめペルシダーの人類解放のために同盟を結成したすべての部族も。
ペリーはメゾ部族のもとに、そしてわたしはサリ族のもとに無事に身を寄せている。あとはただダイアンが無事でわたしとともにいてくれるなら、前途は実に輝かしいものになるのだが。
ペルシダーをあとにして以来、わたしの身の上に起こったことのあらましをガークに語ってきかせ、ダイアンの捜索をする相談に持ちこむまでたいした時間はかからなかった。この際ダイアンをさがしだすことは、わたしにとって帝国そのものよりもさらに重大事だった。
フージャがダイアンを拉致《らち》したことを話すと、ガークは地団駄《じだんだ》踏んでくやしがった。
「またしてもフージャだ!」かれは叫んだ。「あなたと美女ダイアンの間に最初のもめごとを持ちこんだのもあいつだった。われわれの信頼を裏切り、プートラを脱出したさいにわれわれがふたたびサゴスにとらわれるようなことになったのも、あいつのせいだった。
あなたがお国へ帰るとき、あなたの目をごまかしてマハールをダイアンの身代りにさせたのもあいつだった。
陰謀をくわだて、虚言を撒《ま》いて、ついには王国を同士討ちさせ、同盟を分裂させたのもあいつだった。
やつがわれわれの手のうちにいるときに生かしておいたわれわれがばかだった。こんどこそ――」
ガークが終わりまでいう必要もなかった。
「今ではずいぶん手強《てごわ》い敵になっているよ」わたしは答えた。「わたしといっしょに偉大な秘密を捜しに出かけたサゴスと親密な関係にあるところを見ても、なんらかの形でかれがマハールと組んでいることは明らかだ。あの谷に到着する直前にサゴスと話していたのはフージャにちがいない。おそらくサゴスからわれわれの探検の目的を聞いてひと足さきに谷にかけつけ、洞窟を発見して文書を奪ったんだろう。まさしく狡猾な男の名にふさわしいやつだ」
ガークとかれの部下の首長を集めて何回も協議をかさねた。そしてその結果、ダイアンの捜索と、崩壊した連盟を再建する計画をあわせて進めることに決定した。このために二十人の戦士が二人一組となって、主だった十ヵ国の王国に派遣された。かれらは行ったさきの族長に会って本来の使命を果たす一方、フージャとダイアンの居場所を発見するために全力をあげるようにという指令を受けた。
ガークは国内にとどまって、連盟に関する用件でサリに招いた各国の使節団を応対することになった。ペリーと試掘機の積荷を、帝国の主都兼サリ族の主要居住地へ迎えいれるために、四百人の戦士がアノロックへむかった。
最初わたしはサリに残るつもりをしていた。ダイアン発見の最初の一報でいつでも飛びだせるようにしておく手筈だったのだが、ダイアンの身の上を考えるといてもたってもいられなくなって、数組の派遣団が出発するかしないかに、わたしもまたそそくさと探索にのりだしたのだった。
思い返してみると、あれは戦士たちの出発後二度目の睡眠をとったあとのことだった。ついにわたしはガークのもとへ行き、行方不明の妻を自分の手でさがしだしたいという切実な願いを、これ以上おさえることができない、と告白した。
ガークはわたしを説得して思いとどまらせようとした。だがわたしが自分で出掛けていって実際に何かをしたいと思う気持もわかってくれていた。わたしたちがこの問題について議論をかわしている最中に、一人の見なれない男が両手を頭上にあげて部落にはいってきた。
男は典型的な穴居人で、ずんぐりとして筋骨たくましく、毛深かった。わたしがまだ会ったことのない人種だ。ペルシダーの原始人の例にもれず、端正な顔立ちをしている。武器といえば石斧とナイフと節くれだった太い棍棒だった。肌はずぬけて白い。
「おまえは何者だ?」ガークが質問した。「どこから来た?」
「わたしはコークといって、スリア族の長、ダールクの息子だ」見知らぬ男は答えた。「スリアから強者《つわもの》ダコールの住むアモズの国をさがしてやってきた。かれはわたしの妹『しとやかな女』キャンダを奪って妻にしている。
われわれスリア人は、多くの部族を結束させた偉大な首領のことを聞いた。そこでわたしの父はそういううわさの真偽の程をたしかめるために、わたしをダコールのもとに派遣したのだ。もしも真実ならば、われわれスリア人は皇帝と呼ばれるそのお方に奉公するつもりだ」
「うわさはほんとうだ」ガークは答えた。「おまえが聞いたその皇帝はここにおられる。これ以上旅をつづける必要はないぞ」
男は喜んだ。そして『恐ろしい影の国』スリアが所有するすばらしい資源について、またアモズをたずねてかさねてきた長途の旅について多くのことを語った。
「で、おまえの父グールクは、なぜ自分の王国を帝国に加盟させたいと望んでいるのかね?」わたしは質問した。
「それには二つの理由があります」若者は答えた。
「『リディア平原』のむこうに住むマハールたちは、これまでにわれわれ一族の大多数のものをさらっていきました。むりやり終身奴隷とするか、肥らせておいて食うためです。われわれは偉大な皇帝がマハールを相手に勝ちいくさを進めておられると聞きました。われわれは喜んでマハールと戦うつもりです。
また、最近になって別の理由が生じました。ソジャル・アズの海に浮かぶ大きな島で――われわれの国の海岸から目と鼻のところですが――一人の悪い男が、あっちこっちの部族でのけものになった戦士たちを集めて大集団を作りました。なかにはサゴスさえ多数まじっています。その『邪悪な男』を援助するために、マハールがよこしたのです。
この一団がわれわれの部落を襲撃してきます。かれらはたえず増大して強力になってきています。というのもマハールが、捕虜の男たちのうち誰でもこの一団に協力してマハールの敵と戦うと約束したものに自由をあたえているからです。こうしてわれわれと同じ種族のもので軍隊を結成して、このたびわたしが情報を求めてやってきた新帝国の成長と脅威に対抗させようというのがマハールのねらいなのです。われわれはこの一部始終を、われわれの戦士の一人から聞きました。その戦士はかれら一団と同調するように見せかけておき、すきを見て脱走してきたのです」
「同族のものに対抗する、そんな邪悪な運動を率先している男とはいったい何者なんだろう?」わたしはガークにたずねてみた。
「フージャという男です」コークはわたしの質問に答えて口をはさんだ。
ガークとわたしは顔を見合わせた。ほっとした表情が彼の顔に浮かんでいた。わたしも同じ思いに心臓が高鳴るのを感じた。ついにフージャの居所を知る確実な手がかりがつかめたのだ――そして手がかりといっしょに案内人までも!
だがわたしがこの問題をきりだすとコークは異議を唱えた。自分は妹に会い、ダコールと協調するためにはるばるやってきたのだ。そのうえ、軽々しく無視することのできない指令を父から受けている。それでも、もしそれが何かの役に立つのなら、あなたといっしょに引き返してスリアの海岸にある島へ道案内しよう、かれはこう説明した。
「でも不可能なことですよ」かれは力説した。「フージャには力があるのです。何千人という戦士を擁しているのですからね。それにマハールの同盟国に声をかけさえすれば、かれの指令に従ってかれと戦うサゴスをいくらでも手に入れることができるのですよ。あなたの帝国からかれらに匹敵するだけの手勢を結集できるときまで待ちましょう。それからなら、いくぶんでも勝算を持って進撃することができるでしょう。
しかしその前にまず、かれを本土へおびきださなくてはなりません。あなたがたのうちで、フージャとその軍隊をのせて水上を往き来する、あの奇妙なものを作る方法をご存じのかたがおられるでしょうか? われわれは島育ちではありませんから水上は苦手です。ああいったことにはまったく疎《うと》いのです」
わたしにしても道案内以上のことをしてくれと説得することはできなかった。わたしは地図をかれに見せた。いまではこの地図も、西はサリから東のアノロックまでと、『雲の山々』の南にある河から北方のアモズにまでいたる広大な地域におよんでいた。わたしの説明が終わると、時を移さずかれは指で線を引いてサリのはるか西と南にいたる長い海岸線を示し、ついでスリアのある『恐ろしい影の国』の領域を示すという大きな円を描いてみせた。
影は海岸線の南東から沖合いにある大きな島との中間にまでひろがっていた。その島がフージャの反乱政府の拠点だということだ。島そのものは真昼の太陽を浴びて横たわっている。海岸の北西に、スリアの一部を包含するリディ平原がある。そしてその平原の北西にスリア人を苦しめているマハールの都市が隣接している。
この不幸な民族は、こうして一方にフージャ、他方にマハールと腹背《ふくはい》に攻撃を受けているのだ。救援を求めてくるのもふしぎはない。
ガークとコークは、二人がかりでわたしを説得して思いとどまらせようとしたが、わたしはすぐに出発する決心をかためていた。そして出発前に、ペリーに渡す地図の写しを作った。一別いらいわたしが書きとめたことをかれが自分の地図に書きくわえられるようにするためで、わたしとしてもそれ以上ぐずぐずしてはいなかった。また同時にかれにあてた手紙を書き残した。文中、種々のことを記したほかに、わたしは一つの説をたててみた。それはスリアから東にのびているとコークがいった『ソジャル・アズ』、つまり『大海』は、実は本土の南端をまわってプートラに面する海岸ぞいに北に延びて、サリやアモズやグリニッジのある大きな湾につづいて、結局は同一の広大な海なのではないか、という説だ。
わたしは、この可能性に立脚して、一隊の小帆船を早く建造するようにとペリーに要請した。もしもフージャの軍勢を本土におびきよせることが不可能だと判明した場合に利用できるからだ。
わたしは手紙の内容をガークにも話し、できるだけ早急に帝国の諸々の王国と新条約を結んで軍隊を結成し、スリアに進軍してはと提案した――むろん、これは何かの都合でわたしのほうで動きがとれなくなった場合を考慮してのことだ。
コークはかれの父に見せる信任状をくれた――一片の骨に|リディ《ヽヽヽ》、つまり運搬用動物の絵を不器用に彫りつけたものだ。その絵の下に人間と花が描いてあった。出来はまずいかもしれないが、それでも信任状としての役目は立派にはたしていた。長年の間ペルシダーの原始人たちの間で暮らしてきたから、わたしにはよくわかった。
リディはスリア族を象徴する獣だ。骨片に描かれた人間と花の組合わせは二つの意味を持っていて、これを持ってきたものが平和の使者であるということを伝えるのみでなく、コークのサインでもあった。
こうして信任状と武器一式を身につけ、わたしは地上、地底を問わず世界中でもっとも愛するひとを求めて単身出発した。
コークは道順を明確に教えてくれた。もっとも、地図があったからまちがいようもなかったのだが、実のところ、地図の必要はぜんぜんなかった。というのは、行程の前半の主要目標である巨峰は、優に百数十キロのかなたにあるというのに、サリからはっきり見えていたからだ。
この山の南の麓から、一筋の河が源を発して西の方角に流れ、はてはスリアの北東約六十キロの地点でソジャル・アズにそそいでいる。この河の流れについて海にくだり、そこから海岸ぞいにスリアに行けばいいわけだ。
行く手には荒々しい山、太古の密林、道なき原野、名もない河、危険な沼、原始林が三百数十キロにわたってつづいていたが、このときほど冒険意欲をかきたてられたことはない。というのも、このときほどいっさいが敏速な行動と成功にかかっていたことはかつてなかったからだ。
あのときの旅にどれくらいの時間がかかったかわからない。行軍を新たにするたびに、さまざまな驚異がわたしの目前に展開したが、それも半分しか目にはいらなかった。わたしの心はただ一つの面影――漆黒の髪に縁どられてじっと雄々しく見つめる大きな黒い瞳の持ち主、非の打ちどころのない女性の面影――でいっぱいだったのだ。
はじめてわたしの目に宙に浮かぶ世界がうつったのは、目ざす巨峰を越えて河を発見したときのことだった。この小さな衛星は、ペルシダーの地表の上に低くかかり、常に一定の地点――ここでは『恐ろしい影の国』として知られている地域――に不変の影を投げかけている。この中にスリア族の居住地がある。
わたしが立っている山地の高さと距離から見ると、このペルシダーの昼の月はなかば陽を浴び、なかば影になって見える。その真下には太陽が射したことのない円形の暗い地域がありありと見えている。わたしが立っているところからでは、その月はいまにも地面に接しそうなほど低くかかっているように見える。だがあれは地表から一・六キロの上空に浮かんでいるのだとあとになって教えられた――実際、月としては非常に低い位置にあると思われた。
河伝いに下っていくうちに、鬱蒼とした森の迷路にはいりこんですぐに小衛星を見失ってしまった。以後しばらくの間――少なくとも数行程のあいだは――ふたたびかいまみることもなかった。ところが、河に導かれて海に出たとたん、というよりか、河が海とまじわる直前、天がにわかにかきくもり、それまで丈も豊かに絢爛《けんらん》と茂っていた植物が、魔法をかけられたように縮まり、減少してしまった――それはまるで全能者が手ずから地上に一線を画《かく》して、こういっているかのようだった――「樹木も灌木も草も花も、この線のこちら側では色鮮やかに繁茂し、見上げるばかりに大きく、驚くばかりに成長せよ。そしてこの線のむこう側では小さく、色|褪《あ》せて、まばらに」
ただちにわたしは上を見上げた。ペルシダーの空に雲がかかることはきわれてまれで、あのもっとも高い山脈の上空以外ではまったくといってよいほど見かけない。だから太陽が姿をかくしたことに気づいてわたしはいささかぎょっとした。だがほどなく影ができた原因がわかった。
わたしの頭上にもう一つの世界がかかっているのだ。その表面には、山や峡谷や海や湖や河や広大な草原や深い森が見えている。だが距離が離れすぎているのと、わたしに面している下側の影が濃いのとで、生物の動きはつかめない。
たちまち好奇心がむくむくと頭をもたげてきた。いまにも手がとどきそうな焦燥感をかきたてるこの衛星を見て、無数の、しかも解答の余地のない疑問が次々にわきおこってきた。
何かが住んでいるのだろうか?
住んでいるとすると、どんな種類の生物がいるのだろう?
そこの住人は、小さな世界にふさわしく小さな身体をしているのだろうか? それともかれらの世界における引力がこの世界より少ないために、環境に不相応な巨体をしているのだろうか?
見まもるうちに、衛星はペルシダーの表面と平行の地軸を中心に回転しているのがわかった。だから衛星は一回転ごとにひとわたり全面を下の世界に露呈し、上空の偉大な太陽の暑熱を全面に浴びることになる。この小世界にはペルシダーが得ようとしても得られないものがある。それは昼と夜と、そして地上世界に生まれた人間にとっては最大の恩恵である時間とだ。
ここでわたしは、はからずもペルシダーに時間を授けるきっかけを見出した。天空で間断なく回転するこの大時計を利用して、その下の世界に時間の経過を記録するのだ。ここに測候所を設立しよう。そうすれば日に一度、帝国のすみずみまで正確な時間を無線で送ることができるかもしれない。あの衛星の時間を測定するのはたやすいことだ。というのは、衛星の下側には明瞭な目標物があるからだ。ちょっとした装置を作り、その目標物がその装置を通過した時間を記録すればいい。
だがいまは空想にふけっているときではなかった。この旅行の目的のために全精神を傾注しなくてはならないのだ。そこでわたしは大いなる影の下を通って先を急いだ。進むにつれて植物の状態が変化し、色があせていくのに気づかずにはいられなかった。
河の流れに導かれて影の中をわずかに進んだところで、ソジャル・アズにそそぐ河口に出た。そこから南方にむかって海岸ぞいにスリアの部落をめざして進んだ。グールクが部落にいて、信任状を手渡すことができるとよいのだが。
河口からいくらも行かないうちに、沖合いに大きな島が浮かんでいるのがみとめられた。これがフージャの根拠地だろう。そこにはいまもきっとダイアンがいるに相違ないのだ。
道のりは困難をきわめた。それというのも、河と袂《たもと》を分かってまもなく、けわしい断崖に次々と遭遇したのだが、無数の細長いフィヨルドによる亀裂が口を開いていて、裂目に出くわすたびに大まわりしなくてはならなかったからだ。河口からスリアまで直線距離では約三十キロなのだが、その半分もいかないさきにくたくたになってしまった。断崖の頂上の岩だらけの土地には、食べなれた果物も野菜も生えていない。もしもすぐ目の前に野兎が飛びだしてこなかったら食物に窮するところだった。
わたしは弾薬を節約するために弓矢を携帯していたが、チビスケがあんまり速いので矢を抜いてつがえるひまがなかった。事実、わたしのご馳走は百メートル先をまさしく脱兎《だっと》のごとく逃れていく。すかさず、わたしは六連発拳銃をぶっぱなした。みごとな腕前だったので、うまい食事とあいまってわたしは大いに自己満足を味わったのだった。
食後、横になって眠った。が、目ざめたときには自己満足どころではなくなっていた。目を開くか開かないかに、二十頭ばかりの狼犬《ウルフ・ドッグ》――ペリーがヒエノドンだと主張するやつら――の一群が百メートルと離れていないところにいるのに気づいたからだ。それとほとんど同時に、眠っている間に回転銃もライフルも弓矢もナイフもごっそり盗まれているということを発見した。
しかし狼犬《ウルフ・ドッグ》は今にも飛びかかろうと身がまえている。
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七 一難去ってまた一難
わたしは決して足の速いほうではない。かけるのは大の苦手だ。だがあの日のわたしは、あの恐ろしいけだものどもに追われて、世界記録を一つ残らず破った短距離選手のような勢いで、狭いフィヨルドにはさまれた断崖の細い岩裂を、ソジャル・アズにむかって一目散に疾走した。やっとの思いで断崖の縁にたどりついたとたん、いちばん先頭にいたけだものが襲いかかった。かれはひらりと飛びかかり頑丈な顎でわたしの肩にガップリと喰いついた。
と、けものが空を切って飛んできた勢いにわたしのほうのはずみが加わって、わたしたちはともども絶壁から飛びだしてしまった。そして恐ろしい勢いで落下していった。絶壁はほとんど垂直に切り立っていて、裾《すそ》では厚い岩壁が海水にぶちあたっている。
落下する途中で一度断崖の側面にぶつかって、それからしょっぱい海の中へもろに墜落した。水面にぶちあたったおりの衝撃でヒエノドンはくわえていたわたしの肩を離した。
わたしは口から海水を吹きながら水面に浮かびあがり、体力を回復するちょっとの間つかまっていられるような何か小さな出っぱりか手がかりになるものはないかと見まわした。断崖そのものにはそんなところもなかったので、わたしはフィヨルドの口をめざして泳いでいった。
フィヨルドのずっと奥に、上からの浸食作用で押し流された砕石が細い帯状の浜を形成しているのが見える。わたしはそこを目指して全力をあげて泳いだ。その間、一度も後をふり返らなかった。泳いでいるあいだは不必要な動きをするとそれだけ耐久力と速度が落ちるからだ。岸に無事泳ぎついてはじめて沖をふり帰り、ヒエノドンに目をやった。かれはわたしの立っている岸にむかってのろのろと、そしてそれとわかるほどつらそうに泳いでいた。
わたしは、どうしてああいった犬族は水泳が下手なんだろうと思いながら長い間見守っていた。接近するにつれて、かれが急速に衰弱しつつあることがわかった。かれが岸について襲ってきたときの用意に、私は手にひとつかみの石を拾い集めて握っていたが、それもすぐに放してしまった。どう見てもけものは泳げないか、さもなければ深傷《ふかで》を負っているかどっちかだった。というのも、もはやほとんど前進していなかったからだ。やっとのことで海面から鼻を出しているという状態だ。
岸から五十メートルと離れていないところまで来たとき、かれは沈んだ。かれが姿を消した場所に目をこらしていると、すぐに頭が現われるのが見えた。その目に表われた口のきけぬ動物の哀れさが、犬好きのわたしの心をうった。わたしは相手が邪悪な原始世界の狼犬《ウルフ・ドッグ》――人喰いで罰あたりの恐ろしいやつだということを忘れてしまった。わたしは地上世界で飼っていたコリー犬、あの死んだラジャの目に似た哀しげな目だけしか見ていなかった。
もはや熟慮考察ぬきで、つまりなんの考えもなしに――優柔不断な人間とは対照的に、行動家は誰でもこうだと思う――わたしはふたたび水に飛びこんで、溺れかかっているけものにむかって泳いでいった。最初かれはわたしにむかって歯をむき出したが、わたしが泳ぎ着く寸前にまたしても沈んだので、かれをつかまえるために水にもぐらなくてはならなかった。
わたしはかれの首筋をつかまえた。シェトランド・ポニーほどの重さだったが、それでもなんとか岸まで引っぱってきて渚からずっと上のほうにひきずりあげた。そのときかれの片方の前足が折れているのに気がついた――断崖の側面にぶつかったときに折れたものにちがいない。
この頃にはかれもすっかり戦意を喪失していたので、わたしが断崖の裂け目に生えている貧弱な木から小枝を二、三本とってきて脚《あし》に副え木をしてしばってやる間、おとなしくされるがままになっていた。シャツの一部を細く裂いて繃帯がわりに使わなくてはならなかったが、やがて手当ては終わった。わたしは腰をおろしてこの乱暴者の頭をなでながら、人間が犬にするように話しかけてやった。あなたが犬好きで、犬を飼った経験があったら、それがどんなふうなものかよくご承知だろう。
回復したら恐らく襲いかかってきて、私を喰おうとするだろう。そうなった場合にそなえて石を拾い集めて積みあげておき、一方では石ナイフを作りはじめた。わたしたちはフィヨルドの奥に完全に閉じこめられてしまっていた。ちょうど牢獄に監禁されているようなものだ。
目前にはソジャル・アズがひろがり、それ以外の周囲にはとうてい登れそうにもない絶壁がそびえている。
さいわい、岩壁伝いに小川がチョロチョロと流れ落ちていたので新鮮な真水にはことかかなかった――わたしは渚の小石にまじって無数にころがっている、鉢形の大きな貝殻の一つに水を入れて、常時欠かさぬようにヒエノドンのそばに置いてやった。
わたしたちは貝を食べて生命をつないだ。ときには石を投げて打ち落とした鳥も食べた。ピッチャーとしての腕前は、予備校時代と大学野球チームで長年鍛えあげてあったから、投擲《とうてき》はお手のものだった。
ヒエノドンが三本足で立ちあがってびっこをひきひき歩けるまでに回復するには、長くはかからなかった。かれがはじめて立ちあがって歩こうとするのを、息づまるような思いで見守っていた、あのときのことは決して忘れないだろう。わたしのすぐ手元には例の小石の山があった。けものは無傷の三本足でゆっくり立ちあがった。そして伸びをしてから頭をさげ、そばに置いてあった貝殻の水をペチャペチャと飲み、わたしのほうをふりむいた。それからびっこをひきながら絶壁のほうへ歩いていった。
かれはわたしたちの牢獄の中を三度行ったり来たりした。たぶん抜け道を捜していたのだろう。だがそれも見つからないのでわたしのほうへ引き返してきた。そしてすぐそばまでそろそろと近づいてきて、わたしの靴とゲートルと手を嗅いだ。それからまたびっこをひきながら一メートルばかり離れて、もう一度ごろりと横になった。
かれが歩きまわれるようになったいま、一時の感情にかられてあのとき助けてやったもののそれがはたして賢明だったのかどうか、いささか不安になってきた。
この狭い牢獄で、あんな獰猛《どうもう》なやつにうろうろされては眠れたものじゃない。
いったん目を閉じたが最後、こんど目を開けたときにはあのものすごい顎がのどに喰いついているかもしれないのだ。どう考えても居心地はよくない。
わたしはこれまで物いわぬ動物たちにも恩を知る心がいくらかでもあるだろうと考え、それをあてにしてひどい目にあった経験がある。そんな経験をしたことのない|お人好し《センチメンタリスト》は動物たちがそういう心を持っていると思っているだろう。ある種の動物は主人を愛するものだとは思う。が、その愛情がはたして恩返しのしるしかどうか、はなはだ疑わしい――恩返しなどというものは、人間さまだってたまに一見非利己的な行為をするからそれかと思うくらいのもので、めったにお目にかかれない徳義なのだ。
だがついにわたしも眠らずにはいられなくなった。疲れきってそれ以上こらえきれなくなり、腰をおろして海をながめながらついに眠りこけてしまったのだ。海にもぐって以来、どうにも気分がすっきりしなかった。というのは、島そのものと島の手前半分までの海面には陽があたっているのに、わたしたちの上には一条の日光もささないのだ。わたしたちは『恐ろしい影の国』にすっぽりとはいっていた。あたりには生温かい空気が充満しているが、服はなかなか乾かない。こうして睡眠不足とはなはだしい肉体的不快感がかさなって、ついに自然の欲求に抗しきれなくなり、深い眠りに落ちたのだった。
思い身体がのしかかっているのを感じて、はっとして目をさました。まず頭に浮かんだのは、ヒエノドンのやつ、とうとう襲ってきたな、ということだった。だが目を開けてなんとか起きあがろうとしたとき、一人の男がわたしの上に馬乗りになり、あと三人がそのすぐ後にかがみこんでいる光景が目に飛びこんできた。
わたしは以前から柔弱な人間ではなかったし、いまでもそうではない。地底世界での困難な生活と体験がわたしの筋肉を鋼《はがね》のようにきたえあげていた。ガークほどの大男でさえわたしの力には感嘆したものだった。だがわたしにはそのうえにかれらが持ちあわせていない特質がある――それは科学だ。
男はわたしを不器用におさえつけていたのですきだらけだった――わたしは間髪をいれずそのすきを利用して攻勢に出た。だから男がわたしが目をさましたことに気づくか気づかないかに、もうわたしはすっくと立ちあがっていた。そして男の肩と腰に腕をまわして、えいやとばかりに頭ごしに渚の固い砂利にたたきつけた。男はすんなりとのびてしまった。
立ち上がった瞬間、二、三メートル先の岩陰でヒエノドンが眠っているのが目にはいった。岩の色とあんまりよく似ているのでちょっと見分けがつかないほどだった。闖入《ちんにゅう》者たちは明らかにかれには気づいていなかった。
敵の一人から逃れたと思ったとたん、あとの三人が攻勢に出た。それもこんどは遠慮会釈なしに蛮声をはりあげて襲いかかってきたものだ――これがそもそもかれらの誤算だった。武器をぬいてむかってこないところを見ると、わたしを生捕《いけど》りにする心算だったにちがいない。だがわたしはまるですぐそばに死が確実にせまっているかのようにすさまじい勢いで応戦した。
戦闘はあっけなく終わった。というのは、かれらの最初の鬨《とき》の声がフィヨルドにひびきわたり、三人がつめよるのとほとんど同時に、悪魔のようにたけり立った毛むくじゃらの塊がダッとばかりにわたしたちの間に飛びこんだのだ。
あのヒエノドンだ!
たちまちかれは一人を引きずり倒し、テリヤのようにぶるんと一振りして男の首をへし折ってしまった。そしてすぐさま次のやつに飛びかかっていった。野蛮人どもは狼犬《ウルフ・ドッグ》をやっつけるのに、夢中でわたしのことなどすっかり忘れてしまった。わたしはこのすきに最初に倒したやつの腰布からナイフを抜き取っていま一人を倒した。それとほとんど同時にヒエノドンは残る一人の敵を引きずり倒し、あのものすごい顎で相手の頭蓋を一口にかみくだいてしまった。
戦闘は終わった――もっともけだものがわたしも絶好の餌食だと考えたら話は別だが、わたしはナイフと、それからこれもまた死んだ敵からうばいとった棍棒を手に、かれがかかってくるのをまちかまえていた。だがかれはわたしには目もくれず、死体の一つをがつがつと喰いはじめた。
副え木をした脚もたいして苦にはならなかったようだが、それでも食べ終わるとごろりと横になって繃帯をしゃぶりはじめた。わたしは少し離れたところにすわって貝を食べていた――ついでながら、貝にはもううんざりしていた。
ほどなくヒエノドンは立ち上がってわたしのほうに寄ってきた。わたしがじっとしていると、かれはわたしの前で立ち止まり、繃帯をしたほうの脚をおもむろに上げてわたしのひじをひっかいた。かれのいいたいことはよく理解できた――繃帯を取ってもらいたいのだ。
わたしは太い前脚を手にとってもう一方の手で繃帯をといてやり、副え木をはずして怪我の部分をさわってみた。わたしの判断したかぎりでは骨は完全に癒着していて、関節は固くなっていた。少し曲げてやるとけものはたじろいだ――が、うなり声もたてず、脚をひっこめようともしなかった。じっくりと優しく関節をなでてやってしばらくの間おさえていた。
それから地面に脚をおろしてやると、ヒエノドンは二、三回わたしの周囲を歩いてからわたしのかたわらに身体をすりよせて横になった。頭に手を置いても動かなかった。わたしはゆっくりと耳のあたりをこすってやり、それから首へ、たけだけしい顎の下へと手を移していった。かれはただわたしが撫でやすいようにちょっと顎を持ちあげてみせただけだった。
これでよし! その瞬間からわたしは二度とふたたびラジャ――さっそくかれのことをこう命名した――にたいして懸念を感じるようなことはなくなった。どういうわけか寂しいという気持もすっかり消えてしまった――わたしには犬がいるのだ! これまでペルシダーの生活に何が欠けているのかはっきりしなかったのだが、いまになってそれがわかった。ここには家畜が一匹もいなかったのだ。
この世界の人々は食うか食われるかに終始していて、まだどんな野獣とも仲よくするという時期に到っていない。もっとも、この説にはいささか注釈が必要だ。わたしの非常に親しい種族に関してはこの説はあたっているといわなくてはなるまい。スリア族は巨大なリディアを飼いならして、あの広大なリディ平原をあのグロテスクでとほうもない動物の背にまたがって乗りまわしている。そのほかにもこの広い世界のはるか遠い国では、ジャングルや平原や、あるいは山に住む野獣を飼いならしている民族がいるかもしれない。
スリア族は幼稚な方法で農耕を営んでいる。思うにこれは未開から文明に移行する第一段階だ。次には野獣を飼いならし、飼育する段階にはいる。
ペリーの主張するところでは、野性の犬は最初狩猟用に飼いならされたのだという。だがわたしの意見はかれとちがっている。わたしとしては、たとえばわたしがヒエノドンをならしたように、たんなる偶然の成り行きから飼育化がはじまったのではないかと思う。かりにそうでないとしたら、もともと飼育した家畜群を所有していた種族が、かれらの移動する財産を守るために強い獰猛なけものを必要としたことからはじまったのだと考える。とはいえ、わたしはどちらかといえば「偶然説」のほうに傾いている。
狭いフィヨルドの渚にすわってまずい貝を食べながら、わたしは思案しはじめた。あの四人の野蛮人はいったいどうやってここへやって来たのだろうか。わたし自身この天然の牢獄からぬけだせないでいるというのに。わたしは解答を求めて八方を見まわした。そしてついに、波打ちぎわに半分水につかって横たわっている大岩の陰から、小さな丸木舟の舳先が三十センチたらずのぞいているのを発見した。
わたしがあんまりだしぬけに立ち上がったので、ラジャはとっさにうなり声をたて、毛を逆立てながら四本の足で立ち上がった。一瞬わたしはかれの存在を忘れていたのだった。だが、かれのうなり声を聞いてもぜんぜん不安を感じなかった。ラジャは何がわたしの気を引いたのかとさがすようにすばやく八方に目を配った。そしてわたしがそそくさと丸木舟のほうに歩みよると、ひっそりとあとについてきた。
丸木舟はメゾプ族が使っていたものと多くの点では似かよっていた。中には櫂が四本あった。わたしは渇望していた脱走の手段がさっそく手にはいったことを大いに喜んだ。
丸木舟を水中におしだして乗りこみ、ラジャにも乗るようにと声をかけた。最初はわたしの命令がのみこめなかったようだが、二、三メートルこぎ出すとかれは波に飛びこんであとを追って泳いできた。舟べりまで泳ぎついたので、わたしは首筋をつかみ、さんざん手こずったあげく、やっとのことで舟にひきあげてやった――その間、舟は数回転覆しそうになった。かれは舟の中で勢いよく身震いをして、それからわたしの前にうずくまった。
フィヨルドを出てから海岸ぞいに南にむかってこいだ。やがて海岸線のけわしい断崖は、低いなだらかな土地に変わっていった。スリアの主要部落はどこかこのあたりのはずだ。ややあってはるかかなたの渚近くの空地に小屋らしいものが目にはいった。わたしは急遽《きゅうきょ》舟を陸に寄せた。というのも、コークから信任状はもらってきているものの、この一族の人々の性質をよく知らなかったので、こころよく迎えられるかどうか判断がつきかねたからだ。もしも歓迎されなかった場合のことを考えて、カヌーをぜひとも安全な場所にかくしておきたかった。そうすればとにかくあの島へ渡ることはできる――むろん、スリア族が好戦的だったとしてかれらの手から逃れることができたらの話だが。
わたしが上陸した海岸の土地はかなり低かった。色あせたみすぼらしい羊歯《しだ》がほとんど波打ちぎわまで群生していた。ここへ丸木舟をひきあげて羊歯の茂みにしっかりとかくし、ころがっていた石をいくつか拾ってきて隠し場所を示す石塔《ケルン》を立て、それからスリアの部落に足をむけた。
先へ進みながら気にかかりだした。わたし以外の人間の前に出たとき、ラジャはどうするだろう。けものは鋭敏な鼻をしきりにひくひくと動かし、けわしい目を間断なく左右に配ってわたしの横をひっそりと歩いていた――何ものもラジャに不意打ちを食わせることはできないだろう!
そのことを考えれば考えるほど心配はつのってきた。あの一族の友情に大きく依存している現在、ラジャがそのうちの一人でも襲ってはこまるのだ。かといってラジャがかれらに傷を負わされたり殺されたりするのはいやなことだ。
わたしはふと、ラジャはおとなしくつながれてくれるだろうかと考えた。横を歩いているかれの頭はわたしの腰の高さにあった。わたしは優しく頭をなでてやった。するとかれは愛撫を受ける犬のように口を開け、赤い舌をだらりとたらしてわたしの顔をふり仰いだ。
「よしよし、飼いならされて可愛がってもらうのをいままでずっと待ってたんだな?」わたしは問いかけた。「おまえは気立てのいいただの犬っころじゃないか。おまえのことをヒエノドンだなんていったやつは名誉|毀損《きそん》で訴えてやらなきゃ」
ラジャは唇をまくりあげ、大きい牙をむきだしにしてわたしの手をなめた。
「おまえ、笑ってるな、このペテン師め!」わたしは叫んだ。「そうだろ、いや、絶対にそうにちがいない。おまえは人喰い狼に扮装した、ただの子供の遊び相手なんだ」
ラジャはくんくんと鼻を鳴らした。こうしてわたしたちはともどもスリアめざして歩きつづけた――わたしはかたわらのけものに話しかけ、かれはかれでこうして連れ立って歩くのをわたしにおとらず楽しんでいるようすだった。たった一人で不案内なペルシダーの未開世界を放浪しても寂しくはないだろうとあなたが思われるなら、やってみられるとよい。そうしたら、わたしがこの最初の犬を道連れにできて喜んでいるということが少しも不思議ではないとお思いになることだろう。――かれは最初の犬、つまりいまでは消滅してしまった獰猛な地上世界のヒエノドンの生きた原形なのだ。その昔、かれらは兇暴な徒党を組み、大シカを追って南フランスの雪原をかけめぐっていた。マストドンが広大な大陸を気ままに徘徊《はいかい》し、おそらくはアトランティスの砂漠にも足跡をしるし、骨を残した時代、また英国諸島が大陸の一部だった時代のことだ。
わたしはスリアにむかって旅をつづけながらこんな夢想にふけっていた。が、わたしの夢はラジャの荒々しいうなり声でだしぬけに破られた。見るとかれはまるで石像と化したようにその場に立ちすくんでいる。背筋には一直線にさっと剛毛がさか立ち、黄緑色の目は右手にある貧弱な茂みにそそがれたままだ。
わたしは彼の首筋の剛毛をしっかりと掴んで、かれの視線の示す方向に目を向けた。最初は何も見えなかった。と、灌木がかすかに揺れてわたしの注意を引きつけた。何かの野獣にちがいない。わたしを襲撃した例の戦士たちの死体から、原始的な武器を奪ってきておいたのは幸いだった。
ほどなく茂みの中から二つ目がこっちをうかがっているのが判断できた。わたしは一歩進み出た。と、一人の若者がとびあがり、わたしたちが向かっていた方角をさして一目散に逃げ出した。ラジャはあとを追おうと身をもがいたが、わたしは首根っこをしっかりとおさえつけていた。これがお気に召さなかったらしく、かれは牙をむき出してわたしに反抗した。
今こそわたしに対するラジャの愛情の深さをたしかめる絶好のチャンスだ――どっちかが主人にならなくてはならない、とするとわたしがなるのが本筋だ。彼はわたしに向かって唸った。私は彼の鼻面をはげしくひっぱたいた。かれは一瞬あっけにとられて戸惑ったようにわたしを見た。が、ふたたび唸った。わたしはもう一度打つふりをした。こんどはのどに飛びかかってくるものと覚悟していた。ところがそうはせずにかれは縮み上がり、うずくまってしまった。
ラジャは屈服したのだ!
わたしは身をかがめて撫でてやった。そして装備の中にあったロープを取り出して彼をつないだ。
かくしてわたしたちはスリアへの旅を再開した。わたしたちを発見した若者は明らかにスリア族の者だった。かれは部落さして駆けもどり、わたしの到来をふれてまわった。このことはわたしたちが空地と部落の見えるところへ到着したときにはっきりした。ちなみに、かれらの部落はペルシダーの人間が建設したものとしては初めてお目にかかる本格的な部落だった。丸太と岩で作った原始的な壁が長方形にめぐらされていて、その中に壁と同じ材料と様式で建てた百戸ないしはそれ以上の草ぶき屋根の家がならんでいる。門はないが、夜になると取りはずすことのできる梯子《はしご》が防護壁にかけてあった。
部落の前には大勢の戦士が集合していた。女や子供が壁の上から首を出してのぞいている。そしてさらにその背後には小さな頭をのっけたリディの長い首が見えた。ついでながらリディというのはスリアの巨大な運搬用動物のことをいう名詞で単複同形である。彼らは体長二十メートルから三十メートルもある大きな四足獣で、ほっそりとして恐ろしく長い首の上に、これまた恐ろしく小さい頭がちょこなんとついているというやつだ。頭の高さまで地上から優に十二メートルはある。歩き方は鈍重だが、歩幅が大きいので実際はかなりの速度で歩くことができる。
かれらは地上世界のジュラ紀の恐竜《ディプロドカス》の化石とほぼ同種の動物である、とはペリーの話だが、かれのことばを信じるほかはあるまい――おそらくあなたもそうだろう。もっとも、こういったことについてあなたがわたしよりもくわしいというなら別だが。
わたしたちが戦士たちから見えるところに姿を現わすと、一同はガヤガヤと騒ぎ出した。目をまるくして驚いている――それは見慣れないわたしの服装のせいばかりではなく、わたしがジャロック――ヒエノドンのことをペルシダーではこう呼んでいる――といっしょにやってきたためだろうと察しられた。
ラジャは唸り声をたて、白い牙をむき出してロープをぐいぐいと引いた。何がなんでも集まった連中ののど笛に食いつきたくて、うずうずしているのだ。しかしわたしはロープを引きしめて彼をおさえつけていた。それには全力を必要としたが、そしてあいているほうの手を頭上に上げ、掌を相手に向けて平和の使者であることを示した。
最前面に、わたしたちを発見した若者がいるのが見えた。その態度から、彼が得意満面なのがわかった。かれの周囲にいる戦士たちは、サリ族やアモズ族よりは背も低くずんぐりしていたが、一様に立派な容貌をしていた。また、肌の色もやや白かった。これはきっと生活の大部分を、かれらの国の上空に永久にかかっている世界が投げかける影の中で過ごしているためにちがいなかった。
一同よりやや前方に、装飾品をじゃらじゃらつけてめかしこんだあごひげの男がいた。かれが族長だということは聞くまでもなかった――かれこそはコークの父、グールクだ。わたしはかれに話しかけた。
「わたしはデヴィッド。ペルシダー連邦王国の皇帝だ。わたしのことは聞きおよんでいるだろうな?」
かれはうなずいて肯定した。
わたしはつづけていった。「わたしはサリからきた。サリでグールクの息子コークに会ってきたばかりだ。わたしはコークからかれの父にあてた信任状を持ってきている。わたしが味方だということの証《あかし》となるだろう」
戦士はふたたびうなずいた。「わたしがグールクだ。その信任状はどこにある?」
「ここだ」とわたしは答えて狩猟袋の中を探った。そこへ入れておいたのだ。
ない!
証拠の信任状は武器とともにうばい去られていた!
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八 囚われて
グールクとその一族の者たちは、わたしが証拠を持っていないことを知ってなじりはじめた。
「きさまはコークのもとからではなく、『狡猾な男』のところから来たのだろう!」かれらは叫んだ。「狡猾な男はわれわれをスパイするためにきさまを島からよこしたのだ。立ち去れ、さもないと息の根を止めてやるぞ」
わたしは所持品いっさいを盗まれたのだと説明し、盗人が証拠の信任状も持ち去ったのにちがいないと話したが信じてくれなかった。
かれらはわたしがフージャの一味だという証拠にわたしの武器を指さして、あの島の一族と同じ飾りがついているといった。おまけによい人間はジャロックを連れて歩かないという――この論理からいけば、たしかにわたしは悪い人間だ。
かれらが生来好戦的な種族でないことはわかった。どうでもわたしに襲いかかってこようとはせずに、わたしがおとなしく立ち去ることを望んでいるからだ。サリ族ならあやしいと思われる他国人はまず殺して、それからその人間が何をしにきたのか詮議するだろう。
ラジャはどうやら相手方の敵意を感じ取ったらしく、威嚇《いかく》するようにうなりながらしきりにロープを引っぱっている。スリア人たちはいささか恐れをなしてラジャから安全な距離を保っていた。この野獣がわたしに飛びかかって八つ裂きにしないのがどうにも腑《ふ》に落ちないといったようすだ。
わたしはグールクが、わたしをわたしなりに受け入れてくれるよう、長時間をついやして説得につとめたが、かれはなみはずれて用心深かった。せいぜいかれがしてくれたことといえば、食物をくれて、島のうちでもっとも安全に上陸できる地点を教えてくれたことくらいのもので、かれはわたしに説明しながらも、こんなふうにわたしがいろいろとたずねるのは実際はわたしが島の要塞のことをよく知っているにもかかわらず、それをごまかすためだと考えているにちがいなかった。
とうとうわたしはかれらのもとを去った――かれらのうちから大軍をつのってフージャの一団を襲い、ダイアンを救出したいと考えていたのでいささかがっかりした。わたしたちは浜づたいにかくしてあるカヌーのもとへすごすごとひきあげた。
目印の石塔《ケルン》のところまでたどりついたときにはくたくたに疲れていた。わたしは砂地に身を投げだしてすぐに眠ってしまった。ラジャがそばに寝そべっていてくれるので、これまでになく、心丈夫だった。
爽快な気分で目をさますと、ラジャはわたしを凝視していた。わたしが目を開いたとたん、かれは立ち上がってのびをし、後も見ずにジャングルへ飛びこんだ。数分間、かれがガサガサと藪《やぶ》をつっきる音が聞こえていたが、やがてすべてはしんと静まりかえった。
わたしを置き去りにして荒くれ仲間のもとへ帰ったのだろうか。寂寥感《せきりょうかん》がどっと襲ってきた。わたしは溜息を一つついてカヌーを海へ引きだしにかかった。
丸木舟をかくしてあるジャングルに足を踏み入れると、一匹のうさぎが、舷側の陰からダッと飛びだしてきた。わたしの放った投げ槍はねらいたがわずウサ公を倒した。腹がすいていたので――それまで気がつかなかったのだが――カヌーの縁に腰をおろしてむさぼり食った。最後の一口まで食べつくすと、ふたたび島探索の準備に立ち働いた。
ダイアンがそこにいるかどうかわからなかったが、わたしはそんなことだろうと見当をつけていた。彼女を救出する作業にどんな障害がまちうけているかもわからない。カヌーを水際にだしてからも、もしやラジャがもどってくるのではないかとはかない望みを抱いてその辺をぶらぶらしていた。だがもどってこなかったので、波間をぬって粗末な舟を押しだし、飛び乗った。
こうなることはわかっていたはずだと自分にいいきかせてみたものの、新しく発見した友人が逃亡したことがこたえて、まだいささか意気消沈気味だった。
ともに過ごした短い間、あの乱暴者はわたしによくつくして恩返しをした。わたしの生命を救ってくれた、というか、少なくともわたしの身の自由を確保してくれたのだ。これは、かれが傷ついて溺死するところをわたしが救ってやったのにも匹敵することだ。
島への航海は平穏だった。本土と島の中間で、死の世界の影を脱して陽光のもとへ出たときには、ほんとうにうれしかった。じりじりと照りつける真昼の陽光は、『恐ろしい影の国』へはいって以来、終始わたしにおおいかぶさっていた憂鬱《ゆううつ》な気分を吹っ消して、大いに意気を昂揚させた。陽の光がなくてはさっぱり気分がさえない。
わたしは島の南西の地点にむけてこいでいった。グールクは、島のうちでもその部分がいちばん人のこないところだと思う、と教えてくれた。そこから舟が出るところを見たことがないという。来てみると、浅い砂洲《さす》がずっと沖のほうまでのびており、かなり急な崖がほとんど波打ちぎわまでせり出している。なるほど上陸するには危険な場所だ。原住民がここを利用しないわけがのみこめた。だが、ずぶぬれになったあげく、ついにカヌーをなんとか浜にひきあげて、崖を這いあがることができた。
崖のむこうの土地は予想以上に広々としていて、公園のようなおもむきを呈していた。本土からの眺望では、見わたすかぎりの海岸線は熱帯性のジャングルでびっしりおおわれているように見えるのだが。
見晴らしのきく断崖の頂上からながめたところでは、このジャングルは海と、奥地にあるさらに広々とした森や牧草地の中間に比較的細い帯状を呈して介在しているにすぎなかった。そのずっと奥には、低いが一見して岩のごつごつした一連の丘があって、そのほかにもいたるところに頂上がたいらになっている岩の塊――要するに小山――が散在しているのが見える。これらの風景は以前に見たことのあるニュー・メキシコの写真を思いおこさせた。総じて土地は起伏に富み、非常に美しかった。十指にあまる小川が曲折しながらそれらの台地の間をぬって流れ落ち、島のむこう側の果てにむけて北東の方角に下っていく一筋の美しい河にそそぎこんでいるのが、わたしの立っている場所から見晴らせた。
あてもなく景色をながめまわしているうちに、突然はるかかなたの台地の平板な頂上に動くものがあるのに気がついた。けものか、あるいは人間か見わけがつかなかったが、少なくともそれらは生き物だった。そこでだいたいこの台地の方角にフージャの要塞をさがすことに決めた。
谷へくだっていくにはたいして骨はおれなかった。投げ槍を野牛の皮紐で肩からかけ、棍棒を振りふり青々とした草と香り高い花を踏みわけて威勢よくくだっていると、いつ何時どんな緊急事態が発生しようと、どんな危険が起きようと平気だという気がした。
かなりの道程を選んで、例の頂上がたいらになっている丘の一つの麓を帯状に走っている森を通っていたときのことだ。わたしは誰かに見張られているという感じに襲われた。ペルシダーでの生活はわたしの視・聴・嗅覚を活発にさせ、文明人においてはすでににぶってしまったかに見えるある種の原始的な直感、というか、本当的な特質をよみがえらせていた。とはいうものの、目がわたしを注視しているという確信があるにもかかわらず、森の中にいるのは、木々に生命と色彩と活気をみなぎらせている、羽毛の色も鮮やかな数々の鳥と、小さな猿どもばかり。何かそのほかに生物がいるような気配も見えない。
あなたにしてみれば、この確信はわたしの過度の想像力の所産か、あるいは実際にこっちを見ている詮索好きな小猿どもの、はたまた物珍しげな鳥たちの視線がなせるわざだと思われるかもしれない。しかしなにげなしに観察されるのと、故意にようすをうかがわれるのとでは、その気配にいうにいわれぬ相違があるものだ。羊にみつめられてもあなたはなんの警戒心もおこさないだろう。それは羊が危険なことをしないからだ。しかし、かりに虎が、まちぶせしている場所からそれこそ虎視眈々《こしたんたん》とうかがっていたら、原始本能がよっぽど鈍化していないかぎり、そのうちにあなたはひそかに周囲を見まわしはじめ、漠然としたわけのわからぬ恐怖感にとらわれるようになるだろう。
そのときのわたしがちょうどそんな状態だった。わたしはひとしお強く棍棒を握りしめ、投げ槍を肩からはずして左手に持った。そして左右に目をくばったが何も見あたらない。と、そのとき、まったく突然に、柔軟な靭皮《じんぴ》繊維の縄が何本となく降ってきて、わたしの首や肩や腕や身体の周囲にまきついた。
あっというまにわたしは完全にがんじがらめになってしまった。そして輪になった縄の先端が足首にかかったかと思うといきなりぐいと引っぱられて、どうとうつ伏せにたおれた。と、何かずっしりとした毛深いものがわたしの背中に飛び乗った。わたしはナイフを抜こうともがいたが毛深い手がわたしの手首をつかみ、背中にまわしてぎりぎりと縛りあげてしまった。
次に両足を縛られた。それから仰向けに返され、わたしをつかまえたやつらの顔を見上げる仕儀となった。
いやはやなんという顔だ! もしできるなら羊とゴリラのあいのこを想像していただきたい。そうすればわたしの上に近々とかがみこんでいる生物と、その周囲に群がっている半ダースばかりの連中の面相がいくらかおわかりいただけるだろう。顔の長さと大きな目は羊のそれで、猪首とものすごい牙はゴリラのものだ。身体と四肢は人間ともいえるし、ゴリラのようだともいえる。
かれらはわたしをのぞきこんで、わたしにもよくわかる単音節のことばで話をしていた。それは、名詞と動詞以外は不要な簡略語とでもいったものだったが、ペルシダーの人間が使っているのと同じことばがまじっていた。また、身振りを多くつかってことばの欠陥を補足し、意味に幅を持たせていた。
これからわたしをどうするつもりなのかとたずねてみたが、かれらは白人から質問を受けたときの故郷の北米インディアンのように、通じないふりをした。中の一人がまるで仔豚のようにひょいとわたしを肩にかつぎ上げた。かれも仲間たちと同様恐ろしくでかい。その短い脚で立っても優に二メートルはあり、体重は四分の一トンをはるかにこえている。
わたしをかついでいるやつの先に二人が立ち、三人があとにつづいた。こうしてわたしたちは、森の中を右に折れて丘の麓にむかって進んだ。そこにはけわしい断崖が行く手をさえぎるように屹立《きつりつ》していたが、わたしの護送者は止まろうともせず、壁を登る蟻のように、一見|登攀《とうはん》不可能なその障壁を、どんなふうにしてか、とにかくごつごつした垂直の岩面にしがみついて登っていった。頂上までのちょっとした道のりではあったが、正直いってそのほとんどの間、わたしは身の毛をよだたせっぱなしだった。それでもほどなくわたしたちは頂上をきわめ、頂きを占めるたいらな地卓《メーサ》に立った。
と、たちまちあっちこっちの穴で、ごつごつした岩穴からわたしをとらえたやつらと同じけだものたちがどっとくりだしてきた。そして周囲に群がって、わたしを連れてきた連中にガヤガヤと話しかけ、わたしにふれようとした。好奇心からか、それともわたしに肉体的な危害を加えようというのか、そこは不明だった。というのも、わたしの護送者は牙をむき、拳固をふるって野次馬どもを近づけなかったからだ。
わたしたちは地卓《メーサ》を横切っておしまいに岩を山のように積みあげた場所に出た。その奥に入り口らしいものが見えている。ここで護送者はわたしを立たせ、大声で「グル‐グル‐グル!」というようなことばを唱えた。それがかれらの王の名前だということがあとになってわかった。
ほどなく暗い洞窟の奥から怪物のようなやつがぬっと姿を現わした。歴戦の傷で毛はほとんど禿《は》げ落ち、片方の目のあったところはうつろな穴になっている。羊のように柔和なもう一つの目が、このけだものにいやがうえにも怪異な外見をあたえている。このおとなしそうな片目だけを別にすれば、このけだものは人間の想像力のおよぶかぎりでもっとも恐ろしいやつだ。
わたしは本土に棲息している、色が黒く毛がなくて長い尾を持った猿のようなやつらに遭遇したことがある――ペリーの考えでは、そいつらは猿族の中でも、より高等な種類と人間との間の橋渡しの役を果たしているそうだ――が、これらグル‐グル‐グル輩下の獣人どもはその説をふりだしにもどしてしまいそうだ。というのは、黒い猿人間どもとこれらの獣人どもとの間には、後者と人間との間よりも類似点が少ないからだ。とはいっても、両者ともに人間の属性を数多くそなえている。そういった属性のうち、片方の種族においてよりよく発達の跡が見られるものもあれば、また他方の種族においてより顕著なものもある。
黒猿のほうは毛がなく、草ぶき屋根の小屋を樹上の安全な場所に建てて住んでいる。かれらは犬を飼いならし、反芻《はんすう》動物を飼育している。この点に関してはかれらはペルシダーの人類よりも進歩している。しかし、かれらは不充分な言語しか持っていないようだし、猿のような長い尾を活用している。
一方グル‐グル‐グルの一族は大部分が毛深いが尾はなく、ペルシダーの人類と類似した言語を所有している。それにかれらは樹上生活もしていないし、見える部分の肌は白い。
前記のごとき事実や、長年にわたるペルシダー生活――現在ペルシダーは地上世界の氷河期前にあたる時代を進行中だ――の間に気づいたその他の事実から、わたしは、進化とは一つの形態から次の形態へ徐々に変化するということではなく、交配ないしは誕生の際の|はずみ《ヽヽヽ》から生ずる偶発的な繁殖の所産であるということを、つくづく思い知らされた。換言すれば、最初の人間は奇形だというのがわたしの信念だということだ。だからグル‐グル‐グルとその一族もまた奇形なのだと信じるのはさほど困難なことではない。
偉大なる獣人は、ねぐらの入り口のすぐ前にある玉座とおぼしきたいらな岩の上にどっかりと腰を据えた。そしてひざの上に肘をつき、両掌の上に顎をのせて、わたしを捉えた際の経緯《いきさつ》を一人が語っている間中、羊のような隻眼《せきがん》でじっとわたしを凝視していた。
一部始終が述べられると、グル‐グル‐グルはわたしを訊問した。この連中がいったことをかれらの簡略語のままでここに引用することは控えよう――あなたにとってわたし以上に理解困難なことにちがいないからだ。それよりもわたしなりのことばをあてはめて彼らのいわんとする意味をお伝えしよう。
「おまえは敵だ」開口一番グル‐グル‐グルはこの宣言した。「おまえはフージャ一味のものだ」
そうか! では彼らはフージャを知っていて、フージャはかれらの敵なんだな! こいつはしめたぞ!
「わたしはフージャの敵だ」わたしは答えた。「やつがわたしの妻を奪ったので、わたしは妻を取り返してやつを罰するために来たのだ」
「一人でどうやってそんなことができる?」
「わからん。だがきみたちがわたしを捉えていなかったらやっているところだった。わたしをどうするつもりだ?」
「われわれのために働かせる」
「では、わたしを殺さないのか?」
「われわれは自己防衛のほかは殺さない。それと刑罰以外にはな。われわれを殺そうとするやつと、悪いことをするやつは殺す。もしもおまえがフージャ一味のものだとわかっていたら殺したかもしれん。フージャ一味は悪いやつらだからだ。だがおまえはフージャの敵だという。もしかするとおまえはほんとうのことをいっていないのかもしれん。だがおまえが嘘をついているということがわかるまでは殺さないでおく。おまえは働くのだ」
「きみたちがフージャを憎んでいるなら、ご同様にやつを憎んでいるわたしにやつをこらしめにいかせてくれたらどうなんだ?」わたしはもちかけてみた。
しばらくの間、グル‐グル‐グルはじっと考えこんでいたが、やがて頭を上げると番兵に向かって、「連れていって働かせろ」と、命じた。
決定的な口調だった。そしてそれをたたみこむかのようにくるりと踵《きびす》を返して自分の穴へはいっていった。番兵は地卓《メーサ》のさらに奥へとわたしを導いた。ほどなく狭い凹地というか、谷間にやってきた。一方の奥には温泉が噴出している。
目前にひらけた光景にわたしは驚異の目を見張った。二、三百ヘクタールはあるにちがいない凹地に無数の畑があり、そこいら中に大勢の獣人がちらばって、三々五々幼稚な農具を用いた、あるいは道具を用いずに素手で農耕に従事しているのだが、ペルシダーではじめて見る光景だった。
かれらはわたしに一画のメロン畑を耕作させた。わたしは百姓をしたこともないし、この種の仕事にとりわけ熱心なほうでもない。正直いって、この仕事に費やした時間というか、歳月というか、とにかくその期間ほど時の流れが悠長に感じられたことはなかった。実際はどれぐらいの時間だったのかむろんわたしにはわからない。しかしそれにしても長かった。
周囲で働いている連中は非常に単純で友好的だった。中の一人はグル‐グル‐グルの息子だということがわかった。何か些細な部族の掟を破ったかどで、畑仕事をして服役しているのだった。彼の話では、かれの一族はこの丘の頂上でずっとくらしていて、他の丘の上にもかれらと同じような種族が住んでいるとのことだった。かれらは戦争もせず、終始平和と協調を保って暮らしてきた。かれらをおびやかすものといえば島に住む大きな食肉獣くらいのものだった。だがそれも、たまたま他の地卓《メーサ》に住む仲間を訪れるために天然の要害から下って来た獣人たちを、フージャにひきいられる人間――わたしと同類の人間が襲って殺すまでのことだった。
現在のところ、かれらは恐れている。だがいつの日か一丸となってフージャとその一味を攻撃し、皆殺しにするだろう。わたしは、自分がフージャの敵だということをかれに説明した。そして進撃の準備が整ったらいっしょに連れていってもらうか、あるいは、それよりもいっそのことわたしを先発させて、フージャの住んでいる部族に関してできるかぎりの情報を手に入れさせてくれてはどうかとたずねてみた。そうすれば充分な勝算を立てた上で攻撃することができるではないか。
グル‐グル‐グルの息子はわたしの提案にひどく感心したようすだった。かれは畑での刑を終えたらこのことについて父親に話してみようといった。
このあとしばらくしてグル‐グル‐グルがわたしたちのいる畑にやってきたので、息子がこの問題を話したところ、老紳士は明らかに虫の居所が悪かったらしく若者の横っ面を張りとばした。そしてわたしのほうに向き直って、わたしが嘘をついていたということも、フージャの一味だということも確信しているんだぞといった。
かれは結論を下した。「メロンの栽培が終わりしだい、おまえを殺してやる。だから急いで仕事をしろ」
いわれたとおり、わたしは急いで仕事をした。つまりせっせとメロンの蔓《つる》の間に生えている雑草を栽培したのだ。まずひょろひょろとした雑草が一本生えているところへ丈夫なやつを二本植えて育てた。わたしはメロン畑以外のところに格別育ちのよさそうな雑草が生えているのを見つけると、早速それを掘ってきてわたしの持ち場のメロンの間に移植した。
わたしの主人たちはこの奸計《かんけい》に気づかなかったらしい。いつ見てもわたしはメロン畑でせっせと働いているし、それにペルシダーの住人は時期の観念がないから――人間でさえそうなのだから、けだものや獣人たちときてはなおさらのことだった――メロン畑からわたしを永久に連れ去ったあの事件が起こらなかったら、わたしはこのごまかしをつづけて無限に生きのびていたかもしれない。
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九 フージャの軍勢現わる
わたしは岩や木の枝で小さな隠れ家を建てておいた。真昼の太陽の間断ない暑熱と光を避けてそこにもぐりこみ、睡眠をとるための小屋だ。くたびれて腹がすいてくるとその粗末な掘立小屋に引き揚げることにしていた。
主人たちはこれっぽちも文句をつけなかった。事実かれらは非常によくしてくれたし、いっしょに暮らしている間に気がついたことといえば、仲間うちだけで好きなようにしているときのかれらは単純で親切な連中だということだけだった。かれらはぎょっとするほど大きかったし、馬鹿力や、強力な戦闘用の牙や、醜怪な外見をそなえていたが、それらは間断ない生存闘争を有利に乗り切るために必要な特質だというだけのことであって、いざという場合に巧みにそれらを用いるのだった。かれらが口にする唯一の肉類は、草食動物と鳥の肉だけだった。かの地上世界の先史時代のボス――大サグを狩るときには、男が単身で出かけて行き、靱皮繊維の縄を使ってあの牡牛の王者を捉えてしとめるのだ。
ところで話はもどるが、わたしのその小さな隠れ家は受け持ちのメロン畑のはずれにあった。あるとき、ここで労働のあと身体を休めていると、四分の一キロほど離れた部落が大騒ぎをする声が聞こえた。
ほどなく一人の男が興奮してわめきたてながら畑のほうへ駆けてきた。男が近づいてきたので、わたしは、いったいこの騒ぎは何ごとかと隠れ家からのこのこと出ていった。メロン畑での単調の生活が好奇心というやつを育てたのにちがいない。これまで自分はとりわけ好奇心には無縁な人間だとひそかに自負していたというのに。
他の作業員たちも伝令のほうにぞくぞくと駆けつけた。伝令は大急ぎで情報を伝えてしまうと、また大急ぎでくるりと踵《きびす》を返して部落の方へすっとんで帰った。これらの獣人たちは、走る時にはしばしば四つ足を全部使う。こうして人間なら手間どるような障害物を飛び越え、サラブレッドも顔負けのスピードで平地を駆けるのだ。さてそれからどうなったかというと、畑にもたらされた情報の要点がやっとのみこめたと思ったときにはもうわたしは一人取り残されて、今までいっしょに働いていた連中がいっさんに部落のほうへと駆けていくのをあれよあれよと見送っていた。
一人ぼっち! 掴まって以来、あたりに獣人が一人もいないなんてはじめてのことだ。わたしは一人ぼっちだった。わたしを掴まえた連中は一人残らず地卓《メーサ》の向こうのはずれでフージャの軍勢を反撃している!
伝令の話から察すると、グル‐グル‐グルの部下の大男二人が、サグ狩りから帰る途中をフージャの悪党六人に襲撃されたということらしい。二人は無傷で部落へ帰ってきたが、フージャの手勢六人のうちの一人だけがその場を逃れてこの戦闘の結果を上司に報告した。そこでフージャがグル‐グル‐グル一族に復讐をしにやってきたというわけだ。なにしろフージャの軍勢は大軍で、しかもわたしから作りかたを学んだ弓矢で武装しているし、長槍や鋭利なナイフを持っていることだから、獣人たちの剛勇をもってしてもほとんど太刀打ちできないのではないかと危ぶまれた。
ついに待ちに待った機会が到来した! わたしは自由に地卓《メーサ》の向こうのはずれまでいって下の谷に通じる道をさがすことができる。そして両軍が戦っている間にこれまでに引きつづいてフージャの部落を捜すのだ。獣人たちに聞いたところでは、フージャの部落はわたしが掴まったときにたどっていた河をさらにくだっていったところにあるということだった。
地卓《メーサ》のはずれに向かうべく踵《きびす》を返したとき、いくさの響きがはっきりと耳に伝わってきた――人間のしわがれた喚声が、獣人のけものじみた咆哮にまじって聞こえてくる。
わたしはこの機に乗じたか?
否。わたしはそうはしなかった。戦闘の響きと、憎むべきフージャに非力ながら一矢を報いてやりたいという欲望に駆り立てられて、わたしは逃げ出すかわりに方向を転じてまっしぐらに部落めざして駆け出した。
台地の端に到達したとき、そこに展開する光景にわたしは思わず目を見張った。こんなに驚いたことはない。半獣人の独自の戦法はわたしがかつて目にした中でも、もっとも目ざましいものだったのだ。断崖の縁にそって大男たちがまばらにならんで立っている――部落選りぬきの投げ縄の名手たちだ。そこから一メートルほど後には、約二十人を除いた残りの男たちが第二線をしいている。そこからさらに後退したところに、部落中の女こどもが残る二十人の戦士と年取った男たちに守られて一団となってかたまっている。
ところでわたしの興味を引いたのは、前の二列の戦闘ぶりだった。フージャの軍勢――野蛮なサゴスと原始穴居人からなる大軍――は、けわしい断崖の側面を登ってきた。敏捷さにかけてはわたしを捉えた連中よりわずかに劣るていどだった――かれらはわたしをかついでさえ軽々と登ったものだ。
攻撃側は、前進してくる途中で、充分な足場となる突出部までくるたびに、そこでいったん止まっては上にいる守備勢に矢を射かけ、槍を投げつけた。戦闘中、両軍は終始相手に向かって嘲罵を浴びせあった――当然人間の方が罵詈《ばり》毒舌の野卑で下品なことにかけては獣人軍をしのいでいた。
獣人軍の『放列線』は長い靱皮繊維の輪縄《わなわ》以外に武器を用いなかった。敵が輪縄のとどく範囲内にはいると、輪縄は的確にそいつを捉える。敵はもがいたりわめいたりしているうちにずるずると断崖の頂上まで引きずり上げられるという寸法だ。もっとも、敵がすばやくナイフを抜いて身体の上の部分で縄を切断した場合は別だが。ときにはそんなこともあったが、そんな場合にはそいつはまっさかさまに転落するのが常だった。崖の上では確実な死が待ちかまえているのだからどのみち同じことだ。
守備軍の屈強な手中にたぐりよせられた敵は、輪縄を外され、一列目から二列目へとほうりわたされる。そしてそこで押さえつけられて強力な牙で首筋をぐさり、という簡単な方法で殺された。
しかし侵略者の矢は守備軍の輪縄をはるかに上まわる打撃を与えていた。獣人が戦法を変えるか、穴居人が戦闘に疲れてこないかぎりフージャの軍勢が勝利をおさめるのは時間の問題だとわたしは見抜いた。
グル‐グル‐グルは第一線の中央に立っていた。かれの周囲一帯には石や砕けた岩の大きな破片がいっぱいちらばっている。わたしは彼に近づいていき、物もいわずに岩の大きな塊を絶壁から突き落とした。岩は一人の射手の頭上にまともに落下し、その男を押しつぶして即死させ、めちゃめちゃになった死体とともに谷底へ落下して、途中であと三人の襲撃者をなぎ倒してあの世へ送りこんだ。
グル‐グル‐グルは驚いてわたしをふり返った。一瞬わたしの真意を計りかねたようすだった。わたしはいよいよ自分の出番が来たなと感じた。そのときグル‐グル‐グルは大きな片手をわたしにさしのべた。しかしわたしは彼をよけて二、三歩右へ走り、別の岩を突き落とした。これもまた相応の破壊力を発揮した。次にわたしは小さな岩の破片を拾い上げ、大学時代に実力で名声をかち得たコントロールと正確さのすべてをこめて、下にいるやつらめがけて死の弾丸を雨あられと降らせた。
グル‐グル‐グルはふたたびわたしのほうへやってこようとしていた。わたしは絶壁の頂上にちらばっている残りの石を指さして、かれに向かってどなった。
「こいつを敵の上にぶちまけろ! 戦士たちに命じて岩をやつらの上に投げ落とせ!」
わたしのことばを聞いて、それまでわたしの戦法を興味深げに見物していた第一線の戦士たちは大石だろうと岩のかけらだろうとおかまいなしに、手当りしだいにわしづかみにすると、グル‐グル‐グルの命令も待たずに壮烈な岩石のなだれをお見舞いして恐怖におののく穴居人を攻めたてた。あっという間に敵は断崖の表面からはぎ取られ、グル‐グル‐グルの部落は救われた。
穴居人の最後の一人が谷底にすっとんで姿を消したとき、グル‐グル‐グルはわたしのかたわらに立っていた。彼はしげしげとわたしをみつめていた。
「あれはおまえの一族だったのに、なぜ殺したのかね?」
「わたしの一族じゃない」わたしはいい返した。「それは前にも話したはずだ。だがあんたはわたしを信じようとしなかった。わたしがフージャとその一族をあんたと同じだけ憎んでいると今いったら、あんたは信用してくれるかね? グル‐グル‐グルの友人になりたいといったら信じてくれるかね?」
しばらくの間、かれは頭を掻き掻きわたしのかたわらにつっ立っていた。かれにとって、すでに頭の中に定着している先入観を訂正することは、たいていの人間にまさるとも劣らず困難なようすだった。が、ついに考えはまとまった――人間なら――いや、ある種の人間なら――とうていこうはいかなかったろう。ついにかれは口を開いた。
「ギラクよ、グル‐グル‐グルはきみに対して恥ずかしいことをした。きみを殺すところだった。どうやってこの償いをしたらよいのだろう?」
「わたしを自由にしてくれたまえ」わたしは即座に答えた。
「きみは自由だ。行きたいときに行ってよし、われわれとともにいるもよし。もし行くならいつなん時でも帰ってきたまえ。われわれは友だちだ」
むろんわたしは行くほうをえらんだ。そしてもう一度わたしの使命をグル‐グル‐グルに最初から説明し直した。かれは熱心に耳を傾けた。説明が終わると、かれは部下数人をつけてフージャの部落へ案内させようと申し出た。わたしは躊躇することなくかれの申し出を受け入れた。だが、まず腹ごしらえをしなくてはならない。フージャの部下に襲撃された例の狩人たちは、大サグの肉を持ち帰っていた。勝利を記念して祝宴が開かれるはずだ――ご馳走と踊りの饗宴だ。
わたしは獣人一族の祭典をまだ一度も見たことがなかった。部落からしばしば聞き慣れない騒音が聞こえてくるのを耳にしたことがあるが、捕虜になって以来、部落へはいることは許されなかった。それがいよいよどんちゃん騒ぎに列席することになったのだ。
この祭典は永久にわたしの記憶に残ることだろう。獣性と人間性が渾然《こんぜん》一体となった姿は、時として哀れをもよおさせる一方、グロテスクで醜怪なものだった。ぎらぎらと照りつける真昼の太陽のもと、地卓《メーサ》の頂上のうだるような暑さの中で、巨大な生物たちは大きな円形を作って踊りまわった。靱皮繊維の縄で輪を作っては投げ、仮想の敵に向かって嘲罵を吐き、サグの死体にとびついて文字通り八つ裂きにした。そして満腹して動けなくなるまでやめなかった。
食べたものが消化して、道案内をしてくれる者が無気力状態から回復するまでわたしは待たなくてはならなかった。ある者は腹が破裂せんばかりに膨張するまで食った。かれらがそんなに食ったというのも、サグのほかに優に百頭にのぼるカモシカがあったからだ。かれらはねぐらの床下に埋めてあったカモシカを、この祝宴の食卓を飾るために掘り返して来たので、肉の大きさもさまざまで、腐敗のていどもまちまちだった。
だが、ついにわたしたち――六人の大男とわたし――は出発した。グル‐グル‐グルは武器を返してくれた。それでわたしはようやく目的地に向かって、これまで幾度となく中断された旅を再開することができたのだった。旅路の果てでダイアンをつきとめることができるかどうか、わたしには予測もつかないことだった。が、それにもかかわらず、わたしは出発したくてうずうずしていた。たとえわたしの前途に最悪の事態が待ち受けているとしても、それすら今すぐにも見届けたかった。
誇り高いわたしの妻が、フージャの手元で生き永らえていようとはほとんど信じられなかった。しかしペルシダーの時間というものは実に奇妙なものだったから、フージャが陰険な策略を弄《ろう》して彼女をプートラから誘拐することに成功していらい、彼女にとっても、またかれにとってもほんの二、三分が経過しただけに過ぎないかもしれない。それともダイアンはかれの口説をはねつける手段なり、脱走する手だてを見つけたかもしれない。
崖を下っていくと、大きなハイエナのようなけもの――ペリーのいわく、洞穴ハイエナ――の大群の中に踏みこんでしまった。かれらは戦闘で倒れた穴居人の死体をむさぼっていた。わたしたちの世界のハイエナは臆病者として知られているが、この醜いけだものどもは臆病などというものではなかった。かれらはわたしたちが接近すると牙をむき出してその場に立ちふさがった。しかし、これはあとになってわかったことだが、獣人たちのご面相があんまりすごいので、かれらの部落から出てくると、もっと大きな肉食獣ですらたいてい敬遠するのだそうだ。というわけで、ハイエナは私たちの進路がちょっと後退し、わたしたちが通過するとふたたびもとのように群がった。
わたしたちは、島の端から端にかけて流れている美しい河の縁にそって着実に進んだ。そしてついに、この国で遭遇したどの森よりもさらに深い森に出た。わたしを送ってきた護衛兵は、この森をかなり奥まではいったところで止まった。
「あっちだ!」かれらは前方を指さしていった。「おれたちは個々からさきへ行ってはいけないことになっている」
こうして目的地へ案内してくれたあと、獣人たちは帰っていった。木々の間を縫って前方にけわしい丘の麓らしいものが見える。わたしはそこを目指して進んだ。森は断崖の根かたまでつづき、崖の側面には洞窟がいくつも口を開けていた。何も住んでいないようには見えたが、思いきってさきに進む前にしばらくようすを見ることにした。葉がびっしりと茂った大木が一本、崖の上のようすをうかがうのに都合のよい場所を提供していたので、その枝の間によじのぼった。ここならすっぽりと身を隠したままで洞窟で何が起こるかを見張ることができる。
居心地のよい位置に落ちついたと思う間もなく、一団の穴居人が崖の表面にある、麓から十五メートルばかり上の小さな穴の一つからぞろぞろ出てきた。そして崖を下り、森の中へ姿を消した。そのすぐあとで同じ穴から数人が出て来た。それからちょっと間を置いて十人ほどの女こどもが出てきて、果実を集めに森の中へはいっていった。戦士が数人つきそっていた――おそらく護衛兵だろう。
そのあと、また別の幾組かが穴から現われ、二、三組が森から出てきて崖の表面を登り、同じ穴に入っていった。わけがわからない。みんな同じ穴から出てきて同じ穴へ帰っていく。ほかの穴には人の住んでいる気配はないし、よほど大きい穴でもないかぎり、今わたしが出入するところを目撃しただけの人間を収容できるはずがない。
長い間、大勢の穴居人が出入するのを見守っていた。最初の一団が出てきた穴以外の穴から崖を出ていったものはないし、別の穴から崖にはいっていったものもない。
一族全員が収容できるとは、よほどすごい洞窟にちがいない! しかしわたしは自分の憶測の信憑性《しんぴょうせい》に満足できず、崖の別の部分をもっとよく見ようとさらに高い枝まで登っていった。そして丘の頂上が一望できるはるかな樹上にたどりついた。一見してグル‐グル‐グルの一族が居住しているのと同じように頂上がたいらになった台地だ。
眺めていると、一人の人影が台地のはずれに現われた。それは少女で、髪に森の木からつみ取ったあでやかな花を一輪さしている。その少女なら今しがたわたしの下を通って例の小洞窟――帰ってきた部族のものを一人残らずのみこんだ洞窟――にはいるのを見たばかりだ。
謎は解けた。あの穴は単に崖の内部を通って丘の頂上に通じている通路の入り口であって、そびえ立つかれらの城から下の谷に通じる大通りの役目を果たしているにすぎなかったのだ。
真実をつきとめるやいなや、部落へ到達するには何か別の手だてをさがさなくてはならないということに気がついた。人が頻繁に通るこの通路を、人目につかずに通り抜けることは不可能だからだ。そのとき、下には誰の姿も見えなかったので、わたしは樹上の物見台から急いで地面にすべりおりてすばやく右に進んだ。必要とあらば丘を一めぐりして見張りのいない地点、つまり誰にも見られずに崖を登って頂上に到達できるわずかのチャンスに恵まれるような地点をさがすつもりだった。
わたしは森のきわにそって進んだ。丘は森の中心部にそびえているらしい。麓を横切りながら用心深く崖をすかして見たが、案内人が教えてくれた入口以外に入口らしいものは見あたらない。
ややあって海のどよめきが響いてきた。そしてほどなく広々とした大洋に出た。海水は、フージャがかれとその手下の悪党のために安全な避難所と定めたこの雄大な丘の裾まで打ち寄せていた。
頂上に達する足がかりを求めて、海に隣接した崖の麓に峨々《がが》として連なる岩づたいに進もうとしたとき、たまたま一隻のカヌーが島の先端をめぐってやってくるのが目にはいった。わたしはこっちの姿を見られずにその丸木舟の乗組員の見える岩の後にさっと身を伏せた。
かれらはしばらくの間こっちに向かってこいでいたが、やがてわたしの手前約百メートルのところまでくると、方向を転じ、けわしい断崖の麓に向かって直進した。わたしのいるところから見ると、それはまるで自殺行為のように見えた。屹立《きつりつ》する岩面にぶちあたる荒波の怒号が、その無慈悲な手中に飛びこむものにひとしく与えるもの、それがほかならぬ死であることは確実だったからだ。
一塊の岩がすぐにもわたしの視界からかれらを隠すだろう。だがその場の成り行きにすっかり気をそそられていたわたしは、行く手に立ちふさがる岩に小舟が激突してこっぱみじんに砕けるありさまが見えるところまで這い出さずにはいられなかった。もっとも、そのためには上から発見されるという危険を冒さなくてはならなかったが。
丸木舟がふたたび見える地点まで身をのり出したときには、ちょうど丸木舟は番人のように立っている二個の花崗岩の間の、針のように細い個所を無事通過して、波静かな入江の奥にひっそりと浮かんでいた。
わたしはもう一度岩陰にうずくまって、こんどは何が起こるかと目を凝らしていた。長く待つ必要はなかった。乗組員二人だけを乗せた丸木舟は岩壁のきわに引き寄せられ、一端を舟にゆわえつけた靱皮繊維の綱が崖の表面の突出部にしっかりとつながれた。
それから二人の男は、ほとんど垂直に切り立った岩壁を百数十メートル上の頂上に向かって登りはじめた。わたしはあっけにとられて見守っていた。ペルシダーの穴居人は登山の名人ではあるが、こんなにめざましいわざを見せられたのははじめてだ。かれらは休みなく登りつづけ、ついに頂上の向こうに姿を消した。
かれらが少なくともその辺にはいないだろうということがある程度たしかになると、わたしは隠れ場所から這い出して、首根っこを折るのも覚悟の上で、とびおりてカヌーがつながれているところへ駆けていった。
かれらがあの崖を登ったのならわたしにも登れるはずだ。登れなかったら中途で死ぬまでだ。
ところがやってみて想像以上に簡単だということがわかった。というのは、手がかりや足場となる浅い凹みが崖の岩面に刻みつけてあって、それが麓から頂上まで原始的な階段を形成してあるということをすぐに発見したからだ。
ようやく頂上に達した。これがまたひどくうれしかった。わたしはおそるおそる頭を上げて目を断崖の頂上にのぞかせた。大きな岩がそこいら中にごろごろしている凹凸のはげしい地卓《メーサ》が目前に拡がっている。部落も見えないし、生物一つ見あたらない。
わたしは平地に登りつめてすっくと立った。岩の間にわずかながら木が生えている。わたしは用心深く木から木へ、岩から岩へとつたって地卓《メーサ》の奥地に向かって進んだ。途中たびたび立ち止まっては油断なく耳をすませ、八方に目を配った。
回転銃とライフルが手もとにあったら! そうしたらフージャの部落へまるで臆病猫みたいにこそこそと這っていかなくともよかったろうに。今だって何も好きこのんでこうやっているわけじゃない。だがダイアンの生命がわたしの冒険の成否にかかっているかもしれないのだ。うっかりしたことはできない。だしぬけに発見されて十人かそれ以上の武装した戦士が襲いかかってきたら、それはもう、ちょっとした武勇伝になったかもしれない。だがそんなことになったらわたしは一巻の終わりだし、ダイアンのために何もできないことになる。
ところで、あたりには人っ子一人いるようすもないまま、地卓《メーサ》を横切って二キロ近くも進んだにちがいない。一つの岩の縁をごそごそと這ってまわったとたん、だしぬけに一人の男にばったりと出くわした。そいつもわたしのように四つん這いになってこっちへ這ってきていたところだった。
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十 洞窟牢襲撃
最初見たとき、その男は肩越しに部落の方をふり返っていた。わたしがとびかかっていったとたんに相手はわたしを見た。この哀れな穴居人ほど仰天した人間を見たことがない。かれがキャッともいえないでいるうちに、わたしはかれののどもとに手をかけて岩の後に引きずりこみ、そこで馬乗りになって、さてこいつをどう料理するのがいちばんいいかと考えた。
最初のうちはじたばたしていたが、やがておとなしく伸びたので、のど笛をしめつけていた指をゆるめてやった。さぞほっとしたことだろう――わたしだったらきっとそう感じたはずだ。
無慈悲にかれを殺すにはしのびなかった。が、だからといってほかにどうすべきか判断がつかなかった。かれを放してやれば、部落中が蜂起してあっというまにわたしに襲いかかってくるだけだ。男はなおも驚愕の表情をありありと浮かべてわたしを見上げたまま伸びていたが、やがて突如としてわたしをみとめた。かれの目がそれを物語っていた。
「きさまには以前に会ったことがあるぞ」男はいった。「プートラのマハールの都市の闘技場で見た。シプダールがタラグをきさまときさまのつれあいから引き離したあのときだ。あのあとでやつらは、ゴンブルからきた二人の戦士とともにおれを試合場に入れたのだ」
かれはニタリと思い出し笑いをした。
「たとえゴンブルの戦士が十人いたって同じことだったろうよ。おれはやつらを倒して自由を得たのだ。見ろ!」
かれは左肩をなかばわたしのほうに向けて、最近治ったばかりのマハールの烙印の痕を見せた。
「それから」と、かれはつづけた。「故郷《くに》へ帰る途中、おれの一族のものが逃げてくるのに出会った。狡猾な男フージャというやつがおれたちの部落を攻略して一族のものを奴隷にしたというのだ。そこでおれは真実を知るために急ぎここへ駆けつけた。するとかれらのいったとおり、フージャとその手下の悪党どもはおれの部落に住んでいた。そしてわたしの父の部下は奴隷となってかれらとともに暮らしていたのだ。
おれは発見されて逮捕されたが、フージャはおれを殺さなかった。おれは族長の息子だ。やつは、わたしの口ぞえで父の戦士たちが部落へ帰ってきて、今にはじまるとやつがいう大戦争の際にやつを援助してくれればと思ったのだ。
やつの囚人の中には美女ダイアンがいる。彼女の兄でアモズ族の長、強者《つわもの》ダコールは、スリアへ妻となる女を略奪に行った際、おれの生命を救ってくれたことがある。おれはかれが彼女を捉えるのを手伝ってやった。おれたちは仲のいい友人なのだ。だから美女ダイアンがフージャの囚人だということを知ったとき、おれはやつに、もしも彼女に危害を加えたら援助はしてやらぬといった。
最近になってフージャの戦士の一人が、おれが別の囚人に話していたことを立ち聞きしやがった。おれたちは全囚人を結集して武器を奪い、フージャの戦士がほとんど留守になったすきに残りのやつらを殺しておれたちの丘を奪還しようと計画していたのだ。もしそれが成功していたら、おれたちの力で丘を守りとおすことができるはずなんだ。というのは、入り口は一方の端の細いトンネルと、もう一方の端の崖を登るけわしい道と、この二つあるだけだからだ。
だが、おれたちの計画を聞いてフージャは非常に立腹した。そしておれを殺せと命令した。やつらは戦士全員がおれの死に立ち会うようにとかれらが帰ってくるまでの間おれの手足を縛って洞窟にころがしておいた。ところがやつらの留守に誰かが押し殺した声でおれを呼ぶのが聞こえた。それがどうやら洞窟の壁から聞こえてくるようすなのだ。おれが返事をすると、その声は――女の声だったが――おれをそこへ連れてきたやつらとおれとの間でかわされた会話はすっかり聴いた、自分はダコールの妹だ、なんとかして助けてあげる、とこういうんだ。
やがて声がしたところの壁に小さな穴があいた。そしてそれからしばらくして女の手が石のかけらで掘っているのが見えた。ダコールの妹は、おれが縛られてころがっている洞窟と彼女が監禁されている洞窟との間の壁に穴をあけたわけだ。ほどなく彼女はおれのそばにやってきて縛《いまし》めを解いてくれた。
それからわれわれは相談をした。おれは彼女を連れ出してサリの国へ送り返して上げようと申し出た。そこへ返れば夫の居所がわかるだろうと彼女はいうのだ。おれは今、島の向こう側に舟があるかどうか、逃げ道はあいているかどうか見にいくところなんだ。現在はほとんどの舟は出払っている。というのもフージャの部下大多数と、大部分の奴隷は『木々の島』にいて、フージャの命令で数多くの舟を建造しているからだ。フージャはその舟に戦士たちをのせて海を渡り、かれがプートラからの帰途、海に注いでいるのを発見した厖大な河の河口に向かわせようとしている」
語り手は北東の方角を指さしていいたした。
「その河は、河幅も広く、流れはゆるやかでほとんどサリの国までつづいている」
「で、美女ダイアンは今どこだ?」わたしはたずねた。
相手がフージャの敵だということがわかるやいなやわたしは放してやった。そしてかれが話している間、二人で岩のかたわらにしゃがみこんでいた。
「彼女はこれまでどおり監禁されていた洞窟に帰ったよ」かれは答えた。「そしてそこでおれを待っている」
「きみがいない間にフージャがやってくるという危険はないのか?」
「フージャは『木々の島』にいる」
「わたしが一人で行ってもわかるように、その洞窟へ行く道を教えてくれないか」
かれは承知したといって、一風変わってはいるが明快なペルシダー人特有の流儀で、かれが監禁されていた洞窟への道筋をくわしく説明してくれ、そこの壁の穴を通ってダイアンのもとへ行く方法を教えてくれた。
わたしは二人のうち一人だけもどるのが得策だと考えた。二人でもどってもたいしたちがいはないし、発見される危険は倍加するだけだ。わたしがもどっている間にかれは海へ向かって舟の番をしてくれればよい。わたしは舟が断崖の麓にあることをかれに教えた。
わたしはかれに、断崖の頂上でわたしたち二人を待っていてくれるようにといった。そして、もしもダイアンが一人で来ても、何はさておき彼女とともに脱出してサリへ連れていってやってくれと頼んだ。もしも発見されて追跡された場合、ダイアンがわたしの新しい友人が待っている場所へ一人で駆けつける間、わたしがフージャの部下を足どめする必要があるかもしれないからだ。その可能性は大いにあると思う。ダイアンにわたしを置いていかせるためには、嘘をつくか、あるいは腕力に訴える必要が生じるかもしれないぞ、とわたしはかれに念を押した。だがダコールの妹を救出するためにはいっさいを――かれ自身の生命すらも――犠牲にすることを約束させた。
こうしてわたしたちは別れた――かれは舟の番をしてダイアンを待つ場所に向かい、わたしは用心深く洞穴へと這っていった。ジュアグ――ダコールの友人は自己紹介をした――に教えられた道順をたどるのはぞうさもなかった。まず傾いた木があった。わたしたちが顔をあわせた例の岩をまわって最初に捜すようにと教えられた目標物だ。そのつぎに釣り合いを保っている岩――掌ほどの小さな土台の上に巨大な岩がのっかっている――のところまで進んだ。
ここから洞窟部落がはじめて見通せた。背の低い崖が地卓《メーサ》の一方の端をななめによぎっていて、その側面に洞窟がいくつも口を開けていた。曲がりくねった道が下から入り口まで通じている。軟岩の表面をえぐって作った狭い岩棚が、同じ高さにある入り口と入り口をつないでいた。
ジュアグが閉じこめられていた洞窟は、わたしのいる位置からもっとも近い崖のいちばん端にあって、崖そのものを利用すれば他のどの穴からも見られずに穴から一メートル以内に接近することができる。ちょうどあたりにはごく少数の人間しかいなかったし、その連中も大部分は崖の向こうの端にいて興奮の面持ちで会話に熱中していたから、気づかれる心配はほとんどなかった。とはいうものの細心の注意をはらって崖に近づいた。しばらくようすをうかがってから、頭が一つ残らず向こうむいたすきに脱兎《だっと》のごとく洞窟に飛びこんだ。
ペルシダーの人工洞窟によく見かけるように、この洞窟も奥に向かって部屋が順につづいていた。どの部屋にも明りはなく、ただ外の入り口を通して太陽光線が射しこんでいるだけだった。その結果、奥の部屋にはいるにしたがって暗さは徐々に増していった。
三つの部屋のうち、最後の部屋ではかろうじて物の見分けがつくていどだった。壁を手探りしてダイアンが監禁されている洞窟に通じる穴をさがしていると、わたしのすぐそばで男の声がした。
しゃべっている男は明らかに今はいってきたばかりらしい。大声で誰かをさがしている。
「やい女、どこにいる?」かれはどなった。「フージャさまがお呼びだぞ」
すると女の声が答えていった。「フージャがわたしに何用です?」
ダイアンの声だ。わたしは穴をさがしながら声のする方へ手探りで進んだ。
「『木々の島』へ連れてこいとのお達しだ」男は答えた。「いよいよおまえを妻に迎えられるのだ」
「行くもんですか」と、ダイアン。「そのまえに死んでやる」
「おれはおまえを連れてこいと命じられたのだ。なにがなんでも連れていくぞ」
男が洞窟を横切って彼女の方に歩み寄るのが聞こえた。
わたしはダイアンの側に通じているわかりにくい穴を見つけようと死物狂いで洞穴の壁をひっかいた。
隣りの洞窟でもみ合う音が聞こえた。と、わたしの指が洞窟の側面のゆるんだ岩と土の中にめりこんだ。壁の表面を撫でまわしていたあいだはなぜ穴が見つからなかったかがとっさにのみこめた――ダイアンは、あやしまれてジュアグが逃亡したことが早く露見してはいけないと思って自分が作った穴を閉じておいたのだ。
わたしはぼろぼろと崩れる土の塊に体あたりを食らわせてぶち抜くと同時に、隣りの洞窟へころげこんだ。ペルシダー皇帝デヴィッドさまのご入来だ。世界史上これよりぶざまな格好で登場した君主はまたとあるまい。わたしはもんどり打って地面に腹ばった。が、すばやく行動して、暗がりにいる男がなにごとが起きたのか気づく前に立ち上がっていた。
だがわたしが立ち上がったとき、相手はわたしを見た。そしてこんなに藪から棒にとびこんでくるやつは味方ではないと感づいて、わたしが襲いかかるのと同時に向かってきた。わたしは石ナイフを手にしていた。かれも同様だった。洞窟の暗闇ではわざを披露するチャンスはほとんどなかったが、それにしてもあえていわせていただくなら、わたしたちの決闘ぶりはみごとなものだった。
ペルシダーへくる前に石ナイフを見たことがあったかどうか忘れたが、ナイフと名のつくもので戦ったことが一度もないことはたしかだった。だが現在ではあの原始的でしかも邪悪な武器をあやつることにかけては誰にもひけをとらない。
わたしにはかろうじてダイアンが見えた。が、彼女にはわたしの顔が見えず、またわたしだということに気づいていないこともわかった。彼女とわたしの生命をかけて戦っているさなかでさえ、救い主がわたしだということを発見したさいの彼女の喜びようを想像して、わたしはわくわくしていた。
相手は大柄だったが、同時に敏活で、したたかのナイフ使いだった。一度はわたしの肩口をみごとに捉えた――その傷痕はいまだに残っている。死ぬまで消えないだろう。ところが次にかれはばかげた行動に出た。傷のショックを一瞬しずめようとわたしが後へとびのくと、かれは追いすがってわたしに組みつこうとしたのだ。一瞬、わたしを掴まえてやろうという欲望が勝《まさ》ってナイフのほうがおろそかになった。この隙を見てわたしは左|拳《こぶし》をふるい、相手の顎の先端に痛烈な一撃をくらわせた。
相手はばったりと倒れた。再起するひまも与えずわたしはかれの上にまたがり、ナイフをぐさりと心臓に埋めた。ようやくわたしは立ち上がった――ダイアンはわたしに面して立ち、濃い闇をすかしてわたしを見ていた。
「あなたはジュアグじゃない!」彼女は叫んだ。「誰です?」
わたしは両腕を拡げて一歩進み出た。
「ぼくだよ、ダイアン。デヴィッドだよ」
わたしの声音に彼女は涙まじりの小さな叫び声を洩らし――それは小声ながら、これまで希望がいかに彼女と縁遠いものだったかをことばなくして痛切に物語る、感動的な叫び声だった――駆け寄ってわたしの腕に身を投げた。わたしは彼女の非の打ちどころのない唇と美しい顔に口づけを浴びせ、濃い黒髪を撫でさすった。そして彼女がすでに知っていること――幾歳月の間に彼女にはわかっていること――つまり二つの世界の何ものにもまして彼女を愛しているということを何度もくり返し告げた。だが愛を交換する幸せにひたっている時間はあまりなかった。わたしたちはいつ何時発見されるかもしれない敵のまっただなかにいるのだ。
わたしは彼女を隣の洞窟へ引き入れた。そしてそこからわたしが先刻崖の内部へはいってきた洞窟の入り口へと進んだ。ここでちょっとの間あたりをうかがって危険なしと見てとると、ダイアンをかたわらに従えて表へとび出した。崖の端をすばやくまわってそこでいったん立ち止まり、耳をすませた。誰かに見つかったという気配の物音は聞こえない。そこでもと来た道をたどって油断なくさきへ進んだ。
道々ダイアンは、彼女を捉えたやつらの口から、わたしが彼女をさがしてすぐ近くまで――『恐ろしい影の国』まで――来ていたということを聞いたといった。そしてまた、わたしを知っているフージャの部下の一人が眠っているわたしを発見して所持品いっさいをはぎ取ったということや、フージャがわたしを捜し出して捉えるために四人の部下を派遣したということも聞いたと話した。その四人はまだ帰っていないし、少なくとも帰ったということを聞いていないともいった。
「帰ってこないはずさ」わたしはこたえた。「やつらは未来永劫帰れないところへ行っちまったんだからね」そういってわたしはあの四人との事件を語って聞かせた。
あとわずかでジュアグが待っている絶壁の端だというところまで来たとき、二人の男が別の方角から同じ場所に急ぎ足で向かっているのを見た。先方ではわたしたちを見ていなかったし、ジュアグにも気づいていなかった。ジュアグはそこから下の海に屏風のように切り立っている断崖のきわにある背の低い灌木の蔭に身をひそめていた。わたしたちはかれらに遅れをとらずにジュアグのもとへ行けるよう、また敵にあんまり姿を見せないようにしてできるだけ急いで前進した。
だが、かれらのほうがさきにジュアグに気がついた。そしてたちまち襲いかかった。二人のうち一人はジュアグの番兵だったからだ。二人ともかれをさがすために派遣されたのだった。かれが洞窟を出てからわたしが洞窟にたどりつくまでの間にかれの脱走は露見していた。二人は地卓《メーサ》の別の部分をさして貴重な時間を空費したものと見える。
二人がかれに襲いかかろうとしているのを見てわたしは大声を発してかれらの注意を引いた。おまえたちの相手は一人じゃないんだぞという事実を教えてやったわけだ。かれらはわたしの声を聞いて立ち止まり、あたりを見まわした。
わたしとダイアンを発見すると、彼らは二こと、三ことことばをかわした。そして一人がこれまでどおりジュアグに向かっていき、もう一人がわたしたちに向かってきた。男が近づいたとき、かれがわたしの六連発拳銃を持っているのに気がついた。だがかれは拳銃を戦闘用の棍棒か戦斧とまちがえたものと見て、銃身のほうを握っていた。
石器時代の野蛮な戦士の手にあってはあの必殺の回転銃もいかに無用の長物であるかを考えて、わたしは苦笑を禁じ得なかった。あれを逆にして引き金を引きさえすれば、あの男もまだ生き永らえていたかもしれないのに。いや、案外まだ生きているのかもしれない。というのはあのときわたしはかれを殺さなかったからだ。かれが約六メートルまで近づいたとき、わたしはすばやい動作で投げ槍を投げつけた。ガークから教わったやりかただ。男はひょいと体をかわしてよけようとした。その結果――わたしは心臓を狙ったのだが――槍はそれて|こめかみ《ヽヽヽヽ》に命中した。
男は小山のようにどさりと倒れた。わたしはジュアグのほうにちらと視線を走らせた。ジュアグは手に汗を握る場面を展開していた。かれと渡り合っているのはまさしく巨人で、マストドンを屠殺するために作られたかと思われるような、ものすごいナイフをめったやたらに振りまわして哀れな奴隷に切りかかっている。一歩、また一歩、かれは悪魔のように巧みなわざでジュアグを崖っ縁に追いつめた。そっちのほうへ後退したら恐ろしい結果を招くのだが、相手はわきへよけるすきも与えない。そのままにしておいたら、いずれジュアグは崖の上からみずから身を投げて死ななくてはならないか、ないしは敵に突き落とされるかどっちかだ。
ジュアグの苦境をすばやく見てとると同時に、わたしは彼を救う手だてを思いついた。今しがた倒れた男のかたわらにすっとんでいって、落ちている回転銃を鷲掴《わしづか》みにひろい上げた。一か八《ばち》かだ。拾い上げざま引き金を引いた瞬間、そのことは自覚していた。狙いをつけるひまもないのだ。ジュアグは崖っ縁ぎりぎりのところにいる。非情な敵はぐいぐいと迫り、大きなナイフで狂ったように切りつけている。
そのとき、回転銃が鋭い轟音を発して火を吹いた。巨人は両手を頭上に上げ、巨大な独楽《こま》のようにきりきり舞いをすると、前のめりに崖から転落していった。
ところでジュアグは?
かれは恐怖の一瞥をわたしのほうに投げた――むろん銃声などこれまで聞いたことがなかった――そして、ワッと狼狽の声を残すとかれもまたくるりと一回転してまっさかさまに身を投じて視線から消えた。わたしが愕然として奈落の縁に駆けつけたとき、ちょうど眼下の狭い入江の水面に二つの水しぶきがあがるのが見えた。
一瞬わたしはダイアンをかたわらに引き寄せてその場に立ちつくして見守った。と、まったく驚いたことにジュアグがぽっかりと水面に浮き上がり、力強く水を切って舟に向かって泳いでくるではないか。
やっこさん、信じがたいほどの高さから飛びこんでけろりとして浮上してきたのだ!
わたしは、下で待っていてくれと声をかけ、この武器は敵をたおすだけだから恐れる必要はないのだといって納得させた。かれは首を振って何やらブツブツとつぶやいたが、これだけ離れていては聞こえなかった。だがわたしが念を押すと、待っていると約束した。そのとき、ダイアンがわたしの腕を捉えて部落のほうを指さした。銃声を聞きつけた原住民が大挙して駆けつけてきたのだ。
投げ槍で気絶させた男は意識を取りもどすと立ち上がった。そして今や全速力で仲間のほうに駆けもどっていた。まさしくこれからはじまろうという自由とわたしたちの間には、身の毛もよだつような断崖が立ちふさがり、背後からは野蛮な敵の一群が急遽駆けつけてくるのだ。ダイアンとわたしにとって先の見通しは暗かった。
望みの綱はただ一つ、ダイアンを今すぐ崖下へやることだ。わたしはほんの一瞬彼女を抱きしめた――どういうわけかこれが最後になるかもしれないという気がした。二人とも逃げられるとはとうてい考えられなかったからだ。
わたしは一人で降りられるか――こわくはないか――と彼女にたずねた。彼女はわたしを見上げて健気《けなげ》ににっこりと笑い、肩をすくめた。彼女がこわがる! あんまり美しいので彼女が野蛮な石器時代の穴居人の女だということをいつも念頭に置いておくことはむつかしい。ついついわたし自身の頭の中で、彼女の能力を文明の過保護を受けた地上世界の無力な美女たちのそれのように低く見積もってしまう。
「で、あなたは?」彼女は崖の縁をひょいとまたぎながらたずねた。
「あの連中に一、二発お見舞いしてから後を追うよ」わたしは答えた。「ペルシダーの万病を治療するこの新薬をちょいと味あわせてやりたいんでね。かれらを喰い止めてきみに追いつくひまは充分稼げるだろう。さ、急ぎたまえ。ぼくが小舟に到着しだい、若しくはぼくがこられないということがはっきりしたら、即刻出発できるように準備をしておけとジュアグに伝えるんだ。
ぼくに万一のことがあったら、ダイアン、きみはサリに帰りなさい。そしてぼくがあれほどまでに心にかけていたペルシダーに対する希望と計画をペリーとともに生命がけで実現するのだ。約束してくれるね」
彼女はわたしを見捨てる約束を拒絶した。首を振るばかりで降りていこうとはしない。部落民はどんどん迫ってくる。ジュアグは下からわたしたちに向かってどなっていた。かれは、わたしがダイアンに下に降りるようにと説得していること、そしてゆゆしい危険が上からわたしたちをおびやかしていることをわたしの態度から悟ったようすだった。
「飛びこめ!」かれは叫んだ。「飛びこめ!」
わたしはダイアンを見、そして足もとの深淵を見下した。入江は皿ぐらいの大きさにしか見えない。いったいジュアグがどういう具合に飛びこんだのか見当もつかなかった。
「飛びこめ!」ジュアグが叫んだ。「それ以外に方法はないぞ――降りているひまはない」
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十一 逃走
ダイアンはちらりと下を見下ろして身震いをした。彼女の一族は山岳人種だ――穏やかな河か、波のない小湖以外で泳ぐのに馴れていない。彼女を尻ごみさせているのは急な絶壁ではなく、広漠として謎を秘めた恐ろしい海だったのだ。
この大変な高さからそこへ飛びこむことは彼女の力にあまった。もっともなことだ。わたし自身、やってみようかと考えるだけでもとほうもないことのように思えてくる。わたしをせき立ててあの目くるめく高さからまっさかさまに飛び降りさせることができるとしたら、それはただ一つ、自殺を考えた場合だけのことだ。少なくともそのときはそう思った。
「早く!」わたしはダイアンをせっついた。「飛びこむのは無理だ。だがきみが安全な場所に着くまで彼らを喰い止めておくことはできる」
「それじゃ、あなたは?」彼女は今一度たずねた。「かれらがすぐそばに迫ってきたらあなたは飛びこめるんですか? そうでもしないかぎり、あたしが下へ着くまでここに待っていたらあなたは逃げられなくなりますわ」
ジュアグがやったような果敢なダイヴィングがわたしにやってのけられると納得するまで、彼女がわたしから離れようとしないことがわかった。わたしはちらりと下を一瞥してから、しかたがないとあきらめをつけ、きみが小舟へ着きしだいとびこむからと請け合った。彼女は満足した。そして注意深く、しかも敏捷に下りはじめた。わたしはしばらくの間彼女を見守っていた。ちょっと足を踏みはずすか手をすべらせても、彼女は眼下の岩場に叩きつけられて無残な死を遂げるのだと思うと気が気ではなかった。
それからわたしは押し寄せてくるフージャ族の方に向きなおった――ペリーはかれらのことを「フージャ人」と呼び、ごていねいにもフージャが支配するこの島のことを「インディアナ」とまで命名した(米国インディアナ州のことをフージャという。フージャ・ステートはインディアナ州の俗称)。現在、わたしたちの地図にはそう記してある。かれらは非常な早さで接近してきた。わたしは回転銃をかまえ、先頭の戦士にじっくりと狙いをつけて引き金を引いた。銃声とともに男はつんのめった。首はがっくりと二つ折れになって身体の下敷きになった。そして男は二、三回ごろごろところがって止まり、色鮮やかな野性の花々の間に密生する草の中にひっそりと横たわった。
男の後にいた連中ははたと立ち止まった。中の一人がわたしめがけて投げ槍を投げつけたが届かなかった――かれらは槍の射程からちょっとはずれたところにいた。弓矢で身を固めたやつが二人いたので、わたしはそいつらに注意していた。皆一様に火器の音と威力に胆をつぶし、恐れをなしているようすで、死体とわたしとを交互に見くらべながらガヤガヤと騒いでいる。
わたしは戦闘が休止状態になったのを利用して崖っ縁からちらりとダイアンに視線を投げた。彼女は崖のなかばを下って順調に進んでいた。そこでわたしはふたたび敵のほうに向き直った。今しも射手の一人が弓に矢をつがえているところだった。わたしは片手を上げて叫んだ。
「やめろ! わたしを射つもの、あるいはわたしに向かってくるものは、あの男のように殺すぞ!」
わたしは死んだ男を指さした。射手は弓を下ろした。再び活発な議論がくり返された。弓を持っていない連中が弓を持っている二人に何やらけしかけているのがわかった。
ついに多数派が勝ちを制したらしい。というのは二人の射手がいっせいに武器をかまえたからだ。と、同時にわたしはそのうちの一人に向かって発射し、その場に倒した。あとの一人は飛び道具を放ったものの、銃声にとび上がったので矢はそれてわたしの頭上を飛び去った。一瞬後、かれもまた眉間《みけん》に丸い穴をあけられて草地の上に腹ばいに倒れていた。われながら大した腕前だった。
わたしは今一度崖の縁をちょっと見下ろした。ダイアンはほとんど下まで降りていた。ジュアグが彼女のすぐ下に立って彼女に手を貸そうと上に向かって手をさしのべているのが見えた。
戦士たちの発した不気味な怒号がわたしの注意をかれらのほうに呼びもどした。かれらはわたしに向かって掌をふりふり声高に罵った。部落の方から一人の戦士が駆けつけてくるのが見えた。とてつもなくでかい野郎だ。みんなの間をのっしのっしと歩いてきたとき、男の態度からも、また他の連中が敬意を表しているようすからも、そいつが族長だということがわかった。かれはこの二、三分の間に起こった事件の一部始終に耳を傾けた。そして大喝一声、命令をくだすと唸り声を発し、すぐ後に全員を従えてむかってきた。一同にとってぜひとも必要だったもの――すなわち勇敢なリーダー――が到来したわけだ。
わたしの拳銃の薬室にはまだ弾が二発残っていた。かれが死ねばみんなが止まるだろうと思い、大男の戦士にそのうちの一発をお見舞いした。しかしこの頃には、かれらは何をもってしても制止することができないほど逆上していたらしい。とにかく大男が倒れるといっそう声高にわめき立て、速度を上げてこっちに向かってきた。わたしは残る一発でもう一人を倒した。
ついにかれらはわたしに襲いかかった――いや、襲いかかるところだった。ダイアンとの約束が頭に浮かんだ――背後に恐ろしい深淵が控え、前方には太い棍棒を持った悪鬼が迫っている。わたしは六連発銃の銃身を握り、正面から力まかせにそいつの顔面に投げつけた。
それからその結果をたしかめるいとまもなく身をひるがえし、崖っ縁まで二、三歩つっ走ってぞっとするような岩崖の上に思いっ切り飛び出した。ダイヴィングに関して多少の心得はあるので、それを結集して飛び下りた。きっとこれがわたしの最後になるだろうと思いながら。
約六十メートルの間は水平の姿勢で落下した。すさまじい加速度がついて空気が個体のように感じられるほどだった。それほど急速度に落下していたのだ。やがて姿勢は徐々に垂直に変わり、わたしは両手を伸ばしたまま矢のように空気をつんざいてすべるように落下していった。着水する寸前に投げ槍の雨がザーッとすきまなくわたしの周囲に降ってきた。敵はどっと崖っ縁に押し寄せてわたしの後から武器を投げつけたのだ。奇蹟的にわたしは傷を受けなかった。
岩をよけてうまく着水できるということがわかったのは最後の瞬間だった。と、わたしは水の深みに突入していた。実際はそれほど深くもぐったわけではなかったのだろうが、永久に止まらないのではないかという気がした。やがてついに思い切って手を上に向けて進行方向を上に転じたとき、太陽は渦巻く水を通して見えてはいたものの、ふたたび日の目を拝まないさきに空気が不足してそのまま破裂してしまうのではないかと思った。だがついに波の上に頭がぽっかりと浮かび、わたしは空気を肺一杯に吸いこんだのだった。
目の前には小舟があってジュアグとダイアンが中から這い出そうとしていた。それに乗って本土へ出発しようという今になって、なぜかれらが舟を捨てようとしているのかわからなかった。だがそばまで行って見てのみこめた。太い二本の投げ槍が髪一筋の差でダイアンとジュアグをはずれて丸木舟の底に、それも木目にそってぐさりと突き立ち、舟は舳先から船尾にかけてほとんど真っ二つに裂けているではないか。これではもう使いものにならない。
ジュアグはそばの岩にかぶさるようにして片手をわたしのほうにさしのべ、かれのそばに這い上がるのをてつだってくれた。わたしも躊躇せずにかれが提供してくれた援助を利用した。投げ槍はなおも間歇《かんけつ》的にきわどいところへ降ってきていたので、わたしたちは急いでできるだけ崖のわきに寄った。そこなら飛び道具が降ってきても比較的安全だった。
ここでわたしたちはしばしの間協議をした。そして、今となってはできるだけ早く島の向こうのはずれへ行ってわたしがそこに隠しておいた小舟を使って本土への旅を続行するしかないという結論に達した。
わたしたちは周囲に落下した投げ槍の中から損傷のもっとも少ないものを三本拾ってきて旅路についた。そしてたえず島のずっと南寄りに進んだ。ジュアグの話では、河が流れている中央部にくらべてそのあたりを通るフージャ族は少ないということだった。この計略のおかげで追手を撒《ま》くことができたのだと思う。島を縦断して進んだ大部分の間、追手のきざしも見えず、また追跡の物音も聞かなかった。
しかしジュアグのえらんだ道のりは困難で遠回りだったので、それだけの距離を進むのに河ぞいに進むよりも一、二行軍よけいにかかった。これがわたしたちの不運の原因となった。
わたしたちを求める連中は、わたしたちが脱走した直後に河の上流に追手を送りこんだのにちがいない。というのも、ついにわたしたちが目的地からさほど遠くない河ぞいの道に出たときには、ついさきを舟で進んでいたフージャ族にすでに発見されていたとしか考えられないからだ。
だから、わたしたちが灌木の茂みを通過していると、十人ばかりの戦士がおどり出て、わたしたちが一撃も報いることができずにいるうちに武器を奪って縛りあげてしまったというわけだ。
以後、しばらくの間は希望にまったく見離されたかに見えた。前途に望みの光は見えず――たださしあたって死がジュアグとわたしを待ち受けているばかりだった。しかし、それもこのさきダイアンの身に起こることを考えると大して苦にならなかった。
可哀そうな女! なんというひどい境涯を過ごしてきたのだろう! マハールの奴隷隊に鎖でつながれた彼女にはじめて会ったその瞬間から、マハールに勝るとも劣らぬ冷酷な輩《やから》に囚われの身となっている現在に到るまで、彼女の波瀾万丈の境涯に平穏だった期間は短く、それもごくわずかしかわたしには思い出せない。わたしが彼女を知る以前には醜男《ぶおとこ》ジュバルが彼女を妻にしようと未開世界を追いまわしていた。彼女はジュバルの手を逃れ、最後にはわたしがやつを倒した。だが一人ぼっちでかれから逃げている間中、恐怖と窮乏とが彼女につきまとい、彼女は絶えず兇暴な野獣に身をさらしていた。わたしが地上世界へ帰ると、こんどはフージャがジュバルにかわってまた以前と同じ苦労のくり返しだった。この世で運命が彼女に与えることを拒否したかに見える安息を保証してやるためには、わたしは死んでもよいとまで思いつめた。
わたしはこのことについて彼女に話し、いっしょに死のうと勧めた。
「心配しないで、デヴィッド」彼女は答えた。「フージャが手をくだす前にわたしは自分の生命を絶ちます。でもそれよりさきに、フージャはわたしの手にかかって死ぬのです」
彼女はふところから短い革紐を引き出した。その先端には小さな袋が結びつけてある。
「何を持ってるんだ?」わたしはたずねた。
「あなたの世界で毒蛇と呼んでいるものを、あなたが踏みつけた時のことを覚えていますか?」
わたしはうなずいた。
「あの事件であなたは帝国の戦士たちに持たせる毒矢を思いつきましたね。それであたしも思いつきましたの。もう長い間あたしは毒蛇の牙をふところに入れて持ち歩いていました。それは多くの危険に耐える力をあたしに与えてくれました。どんな場合にも最後の恥ずかしめからわたしの身を守る保証となってくれたからです。わたしはまだ死にません。まずフージャにこの毒蛇の牙を抱かせるのです」
そんなわけでわたしたちは心中はしなかった。そして今、死ななくてよかったと思っている。どんな場合にしろ、自殺を考えるのはばかげている。今日いかに前途が暗澹《あんたん》と見えようとも、明日は明日で一瞬にしてわれわれの全生涯を一変させ、陽光と幸福のみをもたらすようなことが用意されているかもしれないのだ。だからわたしはいつも明日を待つことにしている。
ペルシダーではいつでもが『今日』なのだから待つといってもそう長いことではないかもしれない。そう考えていたら、それが実際となった。わたしたちが公園のような森林を縫って頂上のたいらな丘を通っていると、靱皮繊維の縄で作った網がいきなり番兵の上に降ってきてかれらをすっぽり包みこんでしまった。と、一瞬遅れてわたしたちの友人、あの柔和な目と長い羊の顔を持った毛深いゴリラ人間の一族が、わっとかれらの間におどりこんだ。
非常に興味深い一戦だった。縛られていたために参加できないのは残念だったが、獣人たちを叱咤《しった》激励し、かれらの族長、老グル‐グル‐グルが強力な顎でフージャ族の息の根を止めるたびごとにやんやと声援を送った。戦いが果てたとき、捕虜のうち二、三人は脱走していなくなっていたが、大多数のものはわたしたちの周囲に死体となって累々《るいるい》と横たわっていた。ゴリラ人間たちはそれきりかれらのほうに見向きもしなかった。グル‐グル‐グルはわたしにいった。
「グル‐グル‐グルとその一族全員はあんたの味方だ。部下の一人が狡猾な男の部下の戦士を見かけて後をつけた。そしてかれらがあんたを捉えるのを見て、部落へ全速力でとんで帰り、見たこといっさいをわしに話した。あとはご存じのとおりだ。あんたはグル‐グル‐グルとその一族によくつくしてくれた。われわれはいつでもあんたのためにつくしますぞ」
わたしはかれに礼をのべた。わたしたちの逃亡と行先について話したところ、かれは屈強の男多数とともに海まで同道するといってきかなかった。わたしたちとしてもかれの護衛を受けることに少しも異存はなかった。わたしが隠しておいた場所でカヌーを見つけ、グル‐グル‐グルとかれの戦士たちに別れを告げて、わたしたち三人は本土へ向けて船出した。
わたしはジュアグに、かねてかれから話を聞いていた大河の河口へ舟をのり入れることはできないかどうか、その河を舟で逆のぼればほとんどサリまで行けるという話だったが、とたずねてみた。しかしかれは、そんなことはしないほうがいい、櫂は一本しかないのだし、水も食物もないのだから、と力説した。かれの勧告が賢明だということは認めざるを得なかったが、この大水路を探検したいという欲望は強かった。そしてついには、まず本土に上陸して不足しているものを補ってからこの計画を実行に移そうという決意を固めるに到った。
わたしたちはスリアの北方数キロの小さな入江に上陸した。ここならふだんは平穏なペルシダーの海にさえときとして押し寄せる激浪から守ってくれそうだった。ここでダイアンとジュアグに意中の計画をあらまし語ってきかせた。まずかれらはカヌーに帆をつける――これが何のためなのかわたしは二人に説明してやらなくてはならなかった。というのも二人ともそんなものはこれまで見たことも聞いたこともなかったからだ。それから二人は舟に積みこんでいけるような食物をさがし、水を入れる容器を用意する。
この最後の二項目はどっちかといえばジュアグの専門だったが、かれは帆がどうの、風がどうのと長い間ぶつぶついっていた。そんなばかげた細工で舟が水の上を走るなんて信じられるもんかと思っているのがよくわかった。
しばらくのあいだ海岸付近を探索したが、大した獲物も得られなかったので、ついにカヌーをかくしておいて獲物を求めて奥地へ進むことにした。ジュアグの提案で浜の上手の砂地に穴を掘り、舟を埋めて表面をよくならし、掘り出した余分な砂をわきへ捨てた。それから海をあとに出発した。スリアを旅するのは、ペルシダーのほかの地域に間断なく照りつけている真昼の太陽のもとを進むよりかはましだが、それにはそれでまたいくつかの欠点がある。その一つは『恐ろしい影の国』の永遠の影がおよぼす重苦しい抑圧感だ。
奥地へはいるにしたがってますます暗くなり、ついには果てしない薄明の中を進むことになった。ここの植物は珍しい形をしているが、まばらで、しかも奇怪で色褪せている。しばしば巨大なリディ、つまり運搬用動物、を見かけた。かれらは薄暗い風景の中をのっしのっしと歩きまわり、グロテスクな植物を食べ、リディ平原を下ってスリアの海に注ぐ緩慢な河の流れから水を飲んでいた。
わたしたちが探し求めていたのはサグ――巨大な大ジカの一種――か、ないしはカモシカの大きなやつで、両者とも肉を天日に干すとよい干物になる。サグの胆嚢《たんのう》は格好の水筒になるし、わたしの考えではサグの皮はりっぱな帆になるだろう。わたしたちは奥地に向かってかなりの距離を進み、『恐ろしい影の国』を完全につっ切ってついにはリディ平原の一角、心地よい陽光のさす地域に出た。わたしたちの頭上にはあの宙に浮かぶ世界が地軸を中心に回転していた。わたしたちの眼にもはっきりと見える丘や、谷や、海や、河には、果たしてどんな奇異な生命体が生存しているのだろうかと思うと、とりわけわたしは驚異の念とあくなき好奇心でいっぱいになるのだった――ダイアンとてもほとんど同じような気持だったろう。
目前には広大なペルシダーが地平線もなくひろがっていた。リディ平原はわたしたちの周囲に巻き上がり、気のせいか北西の天空高く、彼方のマハールの都市への入り口を示す数多の塔がかかっているのが見わけられるように思えた。マハールの都市の住民はスリア人を餌食にしているのだ。
ジュアグは北東に進むのがよかろうといい出した。かれの話では、そっちの平原のはずれには森林地帯があって、獲物がどっさりいるはずだということだった。かれのすすめに従って前進し、ついにけものの通る道が無数に曲がりくねってとおっている密林地帯に到達した。この鬱蒼《うっそう》たる森の奥で偶然にサグの新しい足跡を発見した。
その後ほどなく、用心深くあとをつけたかいがあってわたしたちはサグの小群に近づき、投げ槍の射程内にはいった。わたしとジュアグはでかい牡を一頭えらんで武器を同時に放った。ダイアンは、まさかの場合のために武器をとっておいた。野獣は唸り声を発しながらよろよろと立ち上がった。他のサグたちは一瞬のうちに立ち上がって散った。手負《ておい》の牡だけがあとに残って頭を低く下げ、敵の姿を求めてきょろきょろとあたりを見まわした。
そこへジュアグが飛び出していって牡の前に姿をさらした――これが狩猟の策略の一部なのだ――一方わたしは灌木の茂みの後へかくれた。猛獣はジュアグを見るや襲いかかった。ジュアグは一直線に駆け出した。サグがかれにさそわれてわたしの隠れ場所の横を通るようにというわけだ。恐ろしい野獣は何トンという兇暴な力と怒りの塊となって突進してくる。
ダイアンはこっそりとわたしの後にまわっていた。彼女もいざという時にはサグと戦うことができるのだ。ああ、なんとすばらしい女だろう! 彼女こそ二つの世界のあらゆる尺度にかなう、正統な石器時代の女王だ!
牡サグは地上世界の牡牛なら百頭分もあるような勢いで吼え猛《たけ》り、鼻あらしを吹きながらすさまじい地響きをたてて迫ってきた。真横に来たとき、わたしはサグの太い首筋をおおっているふさふさとしたたてがみに飛びついた。そして一瞬のうちにたてがみに指をからませ、次の瞬間には野獣と肩をならべて駆け出していた。
ところでこの狩猟法の原理は大昔に体験から割りだされたものだが、いったん怒りの対象物に向かってかけ出したサグは、目指す相手が見えているかぎり方向を転ずることはできない、というのだ。たてがみにしがみついている男は目指す餌食に追いつくのを妨害しようとしているのだ、とサグは思いこんでいるから、この敵には目もくれない。むろん、たてがみにしがみついている男はサグの驀進《ばくしん》をいささかもはばむことはない。
猛進するサグといったん歩調が合えば、背にまたがるのはなんでもないこと、騎兵が走っている馬に飛び乗るようなものだ。ジュアグはなおもサグの前方を、姿まる出しでひた走りに走っていた。速度はかれを追う怪獣よりほんのわずか遅かった。これらのペルシダー人はほとんど鹿と同じくらい足が早い速い。サグ狩りのとき、いつもわたしが近接作業を仰せつかる理由の一つには、わたしの足が遅いということがあった。わたしには、殺し役の男がその役割りを果たすまで突進をつづけるサグの前方を駆けつづけることはできない。これは最初――最初にして最後――にやってみた時にわかったことだ。
いったんサグの首筋にまたがると、わたしは長い石ナイフを抜き取った。そして野獣の背骨の上に慎重に切先をあてて、両手を使ってぐさりと突き立てると同時によろめくけものからひらりと飛びのいた。ところで背骨にナイフを突き刺されてなお走ることのできる脊椎動物はいない。サグもまた例外ではなかった。
けものは即座に倒れた。ごろごろとのたうちまわっているところへジュアグが引き返してきた。わたしたち二人はすきを見て飛びかかり、けものの脇腹から投げ槍を引き抜いた。それからわたしたちはサグの周囲をめぐって踊った。その格好たるや野蛮人以外の何ものでもなかった。やがて折を見て、二人の投げ槍は同時にけだものの兇暴な心臓を貫き、息の根を永遠に止めたのだった。
サグはわたしが飛びついた地点からかなりの距離を突っ走っていた。とどめを刺したあと、わたしはダイアンを求めて引き返したが姿が見えない。大声で呼んでみたが応答がないので、彼女と別れた場所に急いで駆けつけた。わたしたちが身を隠していた茂みは難なく見つかったが、ダイアンはそこにはいなかった。何度も呼んではみたものの、沈黙が帰ってくるばかり。彼女はどこにいるのだろう? わたしのすぐ後に立っているのを見たときからわずかの間に彼女の身に何ごとが起こったというのだ?
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十二 誘拐
わたしはあたりを丹念に探索した。そのかいあって、ついに彼女の投げ槍を発見した。突進してくるサグからわたしたちを隠してくれた茂みから二、三メートルの地点だ――そこには彼女の槍とともに、植物が踏みにじられた痕跡があって、格闘があったことを物語っており、一人の女と一人の男の足跡が重なり合っていた。わたしはすっかり動転して足跡をつけていった。それは格闘が行なわれた場所から百メートルのところでふっつりと消えていて、そこにリディの巨大な足跡が残っていた。
悲劇の筋書はあまりにも歴然としていた。一人のスリア人がわたしたちをずっと尾行していたか、ないしはたまたまダイアンを発見して一目惚れしたのだろう。ジュアグとわたしがサグと戦っている間に誘拐していったのだ。わたしはジュアグが獲物を解体しているところへ急いで駆けもどった。かれに近づいたとき、わたしはここでも何かようすがおかしいということに気がついた。あの島育ちの男が、サグの死体を踏んまえて投げ槍をかまえていたからだ。
さらに近づいたとき、かれが戦闘態勢をとっている理由が読めた。かれのすぐ向こうに二頭のジャロック――狼犬《ウルフ・ドッグ》――がかれを凝視して立っていたのだ――二頭は雄と雌だった。狼犬たちのようすはどっちかといえば異常だった。ジュアグを襲う態勢には見えないのだ。それよりもむしろかれらは物問いたげにジュアグをみつめているのだった。
ジュアグはわたしが近づくのを聞きつけて、ニヤリとしてふり向いた。こういった連中はスリルを好むものだ。今にも起ころうとしている闘争を予期してわくわくしているのがその表情からうかがえた。だが結局かれは槍を投げなかった。ロープのきれはしが雄のジャロックの首からさがっているのに目をとめたわたしが、大声で警告を発したので、投げるのを思いとどまったのだ。
ジュアグはふたたびわたしをふり返った。先刻とちがってこんどは驚いてあっけにとられていた。わたしはすぐさま近づいていって彼を通りこし、まっすぐに二頭のけもののほうへ歩いていった。すると雌は歯をむき出してうずくまった。しかし雄のほうはわたしに向かって飛び出してきた。とはいっても危害を加えようと襲いかかってきたのではない。かれは哀れなけだものが表現し得るかぎりの喜悦を示していた。
それはラジャだった――生命を救ってやって飼い馴らしたあのジャロックだ! わたしに会えたことを喜んでいることは疑いの余地もない。今にして思えば、かれがわたしを見捨てたかに見えたのも、実はかれの獰猛な|つれあい《ヽヽヽヽ》を探し出してわたしのもとへ連れてきて、わたしともども暮らしたかったからにほかならなかったのだ。
ジュアグはわたしが大きな野獣を撫でてやっているのを見てあっけにとられていたが、わたしは新たに愛するものを失った悲しみに胸一杯でラジャにかまっている余裕はなかった。わたしはこのけものに会えたことを喜んですぐさまジュアグのところへ連れていき、ジュアグもまたラジャの友だちであることを理解させた。一方、雌となるとこれはもっと厄介だった。が、ラジャは彼女がわたしたちに牙をむき出すたびに彼女に向かって荒々しくいがみかかり、わたしたちに協力してくれた。
わたしはジュアグにダイアンの失踪を告げ、この突然の災難に関してわたしが心に抱いている疑念を述べた。かれは今すぐ彼女のあとを追って出発しようといった。しかしわたしは、ラジャが手伝ってくれるから、かれはここに残ってサグの皮を剥ぎ、胆嚢《たんのう》を摘出してからカヌーを隠した浜にもどっていてくれるほうがいいともちかけた。かれはわたしのいうとおりにして、さしあたっての間、向こうで待っていてくれることになった。わたしは頭上の宙に浮かぶ世界の表面の大きな湖を指さして、もしもこの湖が四たび現われた後もわたしが戻らなかったら、水路なり陸路なりをたどってサリへ行き、ガークと一隊を呼んできてくれとたのんだ。それからわたしはラジャについてこいと声をかけて、ダイアンと誘拐者のあとを追って出発した。
まず最初に、男がダイアンと取っ組み合った場所に狼犬《ウルフ・ドッグ》を連れていった。わたしたちの二、三歩後からラジャの妻がついてきた。わたしは格闘の痕がもっともなまなましく残っていて、遺臭がラジャの鼻孔に強く感じられるにちがいない地面を指さした。
それからラジャの首のまわりにぶら下がっているロープの端を掴み、あとをつけて進めと促した。かれはのみこみ顔で鼻を地面につけて任務についた。わたしを引っぱりながら、かれは一路リディ平原を小走りに駆け出した。そしてスリアの部落の方に足取りを向けた。そんなことだろうと思っていた!
わたしたちの背後から雌がついて来た。その後しばらくすると彼女はわたしたちに追いつき、やがてわたしのすぐそばに来てラジャと並んで走った。ほどなく彼女にとってわたしと同道することが窮屈でなくなったかのようだった。これは彼女の主人にとっても同様だった。
わたしたちは非常に早いペースでかなりの距離を進んだのにちがいない。というのも、わたしたちはふたたびあの大きな影の中にはいったからだ。と、そのとき、前方に平原を横切ってのんびりと進んでいる巨大なリディを発見した。背には二人の人影があった。ジャロックたちがダイアンに危害を加えないということがわかっていたら、リディとその主人に向けて放してやるところなのだが、それがわからないので危ないことはやめにした。
ところが、ほどなくラジャが頭を上げて目指す獲物をみとめたので、事態はわたしの手に負えなくなってきた。かれはわたしを地面に叩きつけ、ロープをふり切って猛然と飛び出し、疾風のように巨大なリディと乗り手を追って駆け出した。毛深い雌もかれと並んで疾駆《しっく》した。彼女はラジャよりわずかに小柄だったが、兇暴さにかけては少しもひけをとらなかった。
二頭は、リディ自身がかれらを発見して駆け出すまでは声一つ立てなかった。リディはドタドタと駆け出した。無器用な走り方ではあったが、それでも非常な速度だった。と、二頭の猟犬は吼え出した。まず低い、物哀しい調子からはじまって、ぞっとするような不気味な声へと高まり、最後に短く鋭い声で連続的に吼え立てた。これは狼群が獲物を発見したことを仲間に知らせる合図なのではないかとわたしは不安になった。もしそうなら、ダイアンにも、彼女を誘拐した男にもわずかの望みしかない――そしてこのことに関するかぎり、わたしとて同様だ。そこでわたしは努力を倍加して追跡と歩調を合わせようとした。が、飛ぶ鳥を追い抜こうとするにもひとしいことだった。これまでにもしばしば述べたように、わたしは足が早いほうではない。だがこの場合は足の遅いことがかえって幸いした。わたしの足が早かったら、あのとき永久にダイアンを失っていたかもしれない。
猟犬たちに両側から追いつめられたリディは、あたりの景色を包む暗闇のなかにまさしく姿を没しようとしていたが、そのとき、わたしはリディが右へ進路をとっていることに気づいた。これはラジャがリディの左側を走り、この大野獣の肩に何度となく飛びかかっているためだった。雌のほうはそうはしなかった。リディの背に乗った男は長槍でヒエノドンを突いたが、それでもなおラジャはくり返しはね上がっては歯を鳴らした。このことが、結果的にはリディを右へ向かわせることになった。この手順を見れば見るほど、ラジャとかれの妻に何か期するところがあって、協力して行動しているのだなという確信が強まった。というのも、雌犬のほうはリディの右側の尻のあたりをただ黙々と走っているだけだったからだ。
ジャロックが隊を組んで猟をするところを見たことはあったが、それまで気がつかなかったことにいま思いあたった――それは、猟をする場合、数頭が先に走っていって狙いをつけた獲物を本隊のほうに追い返すいうことだ。ラジャとかれの妻がやっているのがまさしくこれだった――かれらはリディをわたしのほうへ追いもどそうとしていたのだ。少なくともラジャはそうだった。なぜ雌がこれに参加しないのかわたしにはわからなかった。夫のもくろんでいることが彼女にはっきりとのみこめていないとでもいうのだろうか。
とにかく、わたしには充分得心がいったので、その場で止まって事態の進展を待つことにした。というのは、二つのことが容易に理解できたからだ。その一つは、もしも今すぐラジャがリディを倒すようなことになったとしても、被害が出ないうちにかれらに追いつくことは絶対に不可能だということと、もう一つはここ二、三分の間にラジャたちがリディを倒さなければ、リディはぐるりとまわってわたしの立っているすぐそばまで帰ってくるだろうということだった。
そのとおりになった。一同は一瞬薄闇の中にのみこまれてしまったかに見えた。やがてふたたび姿を現わしたが、その時にはずっと右へ寄っていて、そこで回ってだいたいわたしのいる方角に向かってもどってきていた。わたしはリディをどのあたりで喰い止めたらよいかがはっきりするまで待った。ところがそうこうするうちにも、けものはさらに右へ右へと寄っていく――このままでいくとわたしのずっと左、ヒエノドンがもくろんでいるよりもはるかに大回りをすることになる。するとそのとき、雌が飛び出してきてリディの先に立つのが見えた。左へ寄り過ぎそうになるとラジャが肩に飛びつき、歯を鳴らしてまっすぐに進ませた。
二頭の野獣が獲物を追い立て、まっすぐにわたしのところへやってくる! すばらしいことだ。
だが怪獣が刻々と近づいてくると、感心してばかりもいられなかった。これでは接近してくる急行列車を目前にしてレールの真ん中につっ立っているようなものだ。しかしわたしはあえて微動だにしなかった。突進してくるあの山のような、おびえた肉塊に投げ槍をうまく命中させるということにあまりにも多くのことがかかっていたからだ。そこでわたしは、あの巨大な足に押し倒されて踏みつぶされるのも覚悟の上でその場に立ちつづけた。それでも倒れる前にあの幅広い胸板にわたしの武器を突き通す決心だった。
リディがわずか百メートルばかりのところに迫ったとき、ラジャは先刻の叫び声とはまるでちがった調子で二、三度吼えた。と、間髪を入れずラジャとその妻は反芻《はんすう》動物の長い首に飛びかかった。
どっちもしくじりはしなかった。かれらは執拗に食いついて宙にぶらさがり、体重をかけて相手の頭を引き下ろすことによって速力を鈍らせたので、わたしのところへくるまでにリディはほとんど停止してしまい、前足を使って攻撃者を引っ掻き落とそうと全精力を傾注していた。
ダイアンはわたしを見て気がつき、誘拐者の手をふりほどこうとしていた。一方男は、達者で敏捷な捕虜に悩まされているために二頭のジャロックに対して槍を有効にふるうことができなかった。同時にわたしもいっさんに駆けつけていた。
男はわたしを見つけるとダイアンを放し、長槍をかまえて地面に飛び下りた。わたしの投げ槍はかれの長い武器にはかなわなかった。それは飛び道具というよりも、突くために使われるものだった。もしわたしが最初の一投をしくじったら――相手はわたしに対して身がまえていたから、それは大いにあり得ることだった――わたしは相手の手ごわい槍に対して石ナイフで向かっていくよりほかにない。先の見通しはあんまりかんばしくなかった。わたしがすぐにも相手の思うがままにふりまわされることは歴然としていた。
わたしの苦境を見てとると、男は他の二頭と交戦する前に一人の敵を片づけてしまおうと駆け寄ってきた。むろん、二頭のジャロックがわたしと行動をともにしていることなどかれは知る由もなかったのだが、二頭はリディを倒した次には人間の餌食を追ってくるだろうと考えていたにはちがいなかった――あの野獣たちは気の向くままにいくらでも殺す悪名高い殺し屋なのだ。
しかしスリア人がやってくると、ラジャはリディを放してかれに向かって突進した。雌はその後にぴたりとつづいた。かれらを見ると、男は叫び声をあげてわたしに助けを求めた。協力して戦わなくては二人とも殺されてしまうぞとわめき立てている。だがわたしはそれを笑いとばしてダイアンのほうに駆け出した。
兇暴な野獣はいっせいにスリア人に襲いかかった――かれは地面に転倒するかしないかに息絶えていたにちがいない。と、雌が身をひるがえしてダイアンに向かってきた。わたしは雌が襲いかかったとき、投げ槍で迎え撃つ態勢をとってダイアンの横に立っていた。
ところがこんどもラジャの出足のほうが早かった。かれはわたしとダイアンの間柄を知る由もなかったから、てっきり雌がわたしを攻撃するものと思ったのだろう。いずれにしろ、かれは雌の背にまともに飛びかかってその場に引き据えた。たちまち耳目《じもく》をそばだたせるような凄絶な闘争がはじまった。闘争というものが騒々しさと荒々しさで評価されるものだとすればの話だが。わたしは二頭ともズタズタになるだろうと思った。
ついに雌のほうがあがくのをやめ、前脚をだらりと折り曲げて仰向けにころがった。わたしはてっきり彼女が死んだものと思った。ラジャは唸り声を発して彼女の上におおいかぶさり、顎をぴたりと彼女ののどにつけた。そのとき、どっちもかすり傷一つ負っていないということにわたしは気がついた。雄はつれあいに手きびしいお仕置きを喰わせただけだった。こうして、かれはわたしが神聖犯すべからざる存在だということを彼女に思い知らせたのだった。
ややあってラジャは退いて彼女を立ち上がらせた。彼女はくしゃくしゃになった毛並みをととのえはじめ、一方ラジャはダイアンとわたしのほうへしのび寄ってきた。わたしは片腕をダイアンにかけていた。ラジャがそばまでくると、わたしは首筋を掴まえて引き寄せた。そして撫でてやりながら話しかけ、ダイアンにも同じことをするようにいった。かれがわたしの友なら、ダイアンもまたかれの友なのだということをかれがよく理解したということがわかるまでそうしていた。
その後も長い間、かれはダイアンに対して人見知りしがちで、ダイアンが近づくとしばしば歯をむき出した。雌がわたしたちとなかよくなるにはそれよりももっと長い時間がかかった。だが気をつけて親切にしてやり、肉を食べるときは必ず分け、手から食物を食べさせることによって、ついには二頭の信用をかち取ったのだった。とはいってもそれはずっとのちのことだが。
小走りに駆けてくる二頭のけものを従えて、わたしたちはジュアグと別れた場所に引き返してきた。ここでまた、雌をジュアグののどに飛びつかせないためにひと騒動したのだった。二つの世界に住むあらゆる有害邪悪かつ残酷無慈悲なけものの中でも、雌のヒエノドンがその冠たるものだろうとわたしは思う。
しかし彼女もついにはダイアンやわたしに対するのと同じようにジュアグをも認めるようになった。そしてわたしたち三人と二頭は海岸を目指して出発したのだった。ジュアグはわたしたちが到着したとき、サグを処理し終わったところだった。わたしたちは出発前に肉を少し食べ、猟犬たちにもいくらか与えた。そして背負うことのできるものは全部背負った。
カヌーのところへ行く途中は何ごとも起こらなかった。ダイアンがわたしに話したところによると、彼女を誘拐したやつはサグの咆哮にかき消されて他のいっさいの物音が聞こえないときに背後から不意に彼女に襲いかかった。そしてあっという間に武器を奪い、すぐそばに寝そべって待機していたリディの背に彼女をほうり上げていた。そしてサグの咆哮がおさまった頃には、男はその足の速い動物に乗ってずっと遠くへ逃げのびていた。彼は片方の掌で彼女の口をおさえ、助けを呼べないようにしていた。
「結局は毒蛇の牙を使わなくてはならないかと思いましたわ」と、彼女は話を結んだ。
わたしたちはついに海岸にたどりつき、カヌーを掘り出した。それからわれわれ、つまりジュアグとわたしとはせっせとマストを立て、帆を張った。その間にダイアンはもう一度陽のあたるところへ出た時に乾燥させるために、サグの肉を細く裂いた。
とうとう万事が完了し、いつでも船出できる態勢がととのった。ラジャを丸木舟にのせるのは簡単だった。が、ラニーときたら――わたしはダイアンに『ラジャ』の意味とそれに相当する女性形の語句を説明したあとでこの雌狼をこう命名した――夫に従って舟に乗ることを頑として拒否したのだ。事実、わたしたちは彼女を置いて船出しなくてはならなかった。しかしすぐあとで彼女は水に飛びこみ、わたしたちを追って泳いできた。
わたしは舷側まで泳いでこさせてジュアグと二人して引き揚げてやった。その間中、彼女はわたしたちに向かって歯を鳴らしたり唸ったりしていたが、おかしなことに舟底のラジャの横に無事に落ちつかせてやってからはもうかかってこようとしなかった。
カヌーは帆に風を受けて想像以上に調子よく走った――軍艦サリ号をはるかにしのぐ帆走ぶりだった――わたしたちはほぼ真西の方角に湾をつっ切って順調に進んだ。湾の向こう岸にジュアグが話していた河口が見つかるのではないかとわたしは期待をかけていたのだ。
島育ちのジュアグは、帆とその成果とに非常な興味を持ち、かつ感銘を受けた。わたしたちが舟を艤装《ぎそう》している間、わたしが帆でいったい何をしようとしているのか、かれにははっきりと理解できなかった。ところが不格好な丸木舟が櫂もなしですいすいと水を切って進むのを見て、かれは子供のように喜んだ。わたしたちは快調にとばしてついに陸地の見えるところに到達した。
わたしが大海を渡るつもりだと知ってジュアグはおびえきっていた。そして陸地が見えなくなるとすっかりおじけづいてしまった。そんなことは前代未聞だといい、勇敢にも陸地から遠くへ漕ぎ出した者は二度ともどってこないものだと思っていると話した。こぎ寄せるべき陸地が見えなくてどうして進路がわかるか、というのだ。
わたしはかれに羅針儀《コンパス》の説明をしてみた。その結果、科学的な根拠を確実に把握することはできなかったにせよ、かれは羅針儀《コンパス》を頼りにわたしと同じくらい巧みに舟を操ることを覚えたのだった。途中いくつかの島を通過した――ジュアグの話ではかれの島の住民にもまったく知られていない島々だということだった。事実それらの島を目にしたのはわたしたちが最初だったのかもしれない。途中でおりて探検したいのはやまやまだったが、帝国の任務は不必要な遅延をゆるさなかった。
湾を渡らないとしたらフージャはどうやって現にわたしたちがたずねる河口へ行くのだろうと、わたしはジュアグにたずねた。すると島の男は、フージャはきっと海岸ぞいにまわっていくのだろうと説明した。しばらくの間、わたしたちは河を求めて沿岸を航行した。そしてついに目指す河を発見した。そのあまりの大きさに、最初の引き潮に乗った漂流物の塊が沖へながれ出てきてそこが河口だということを納得させてくれるまで、わたしはそれが広大な湾だとばかり思いこんでいた。漂流物の中には、河岸の浸食作用によって根こぎにされた樹木の幹や、巨大なつる植物や花や草、それに陸地に住む動物や鳥の死体もときおりまじっていた。
すっかりはりきって上流への旅を開始しようという段になって、かつてペルシダーで遭遇したことのないできごとが起こった――すさまじい暴風だ。それは河の上流からいきなり猛然と吹きおろしてきてわたしたちの度肝を抜いた。ぐずぐずしているうちに岸へつけるチャンスもなくなってしまった。最上の策としては帆を下ろして強風にまかせ、白く泡立つ波しぶきの中を疾走するしかなかった。ジュアグはおびえていた。ダイアンはたとえおびえていたとしてもそれを隠していた。それもそのはず、彼女はかつての偉大なる族長の娘、王の妹、皇帝の妻ではないか。
ラジャとラニーは恐がっていた。ラジャはわたしのそばににじり寄ってきて鼻先をすり寄せた。ついには暴れ者のラニーまでが人間の憐《あわれ》みを求めて寄ってきた。彼女はこっそりとダイアンにすり寄って身体を押しつけ、哀れっぽく鼻を鳴らした。ダイアンはラニーの毛深い首筋を撫で、わたしがラジャにしているようにラニーに話しかけてやった。
カヌーが転覆しないよう、まっすぐに風に向けて保つ以外に手のほどこしようがなかった。永遠とも感じられる間、嵐は強まりもしなければ衰えもしなかった。わたしの判断では、わたしたちは百数十キロも風に吹かれて一路見知らぬ海に押し流されたのにちがいなかった。
嵐は起こったときと同じように唐突にやんだ。いったんおさまると風は方向を変え、和《なぎ》風となってもと吹いていた方角に対して直角に吹いた。そこでわたしはジュアグに、針路はどうなっているかとたずねた。最後に羅針儀《コンパス》を持っていたのはかれだったからだ。それはかれが首にかけた革紐についていた。何ごとが起こったかは、かれが手探りしたときかれの目に浮かんだ表情にありありと出ていた――羅針儀《コンパス》がない! なくなってしまったのだ!
おまけに道しるべとなる天体一つなく、陸地の見えないところへ来てしまっていて、現在の位置からは宙に浮かぶ世界さえ見えない!
状況は絶望的に見えたが、わたしは自分がどんなに狼狽しきっているか、あえてダイアンとジュアグに感づかせないようにした。とはいうものの、ジュアグから最悪の事態を隠そうとしても無駄だということはすぐにわかった――かれはわたしと同じくらい事態をのみこんでいたのだ。かれは一族の間の伝説から、陸地の見える範囲を越えた大海の危険については日頃から知っていた。わたしに羅針儀《コンパス》の使い方を教わっていらい、かれはこの大海原から最後には脱出できるのだという望みを羅針儀《コンパス》だけに託していた。羅針儀《コンパス》がどんなふうにして海を越えた目的の海岸に導いてくれるか、これまでに見ていたから、かれは羅針儀《コンパス》を盲信していた。いまやそれがなくなり、かれの自信もまた消え去ったのだ。
対策は一つしかないように見えた。どこか陸地の見えるところまで追風を受けて一直線に帆走するのだ――それで行くといちばん早く航行できる。もしたまたまそれが本土ならそれでよし、もしも島なら――島で暮らすこともできるだろう。この小舟の中で長く生活するわけにはいかない。あとサグの干し肉がわずか二、三片と、水が二、三リットル残っているだけだ。
突如としてある考えが浮かんだ。わたしたちが抱えこんでいる問題の解決策としてもっと早く思い浮かばなかったのが不思議なほどだった。わたしはジュアグをふり返った。
「きみたちペルシダー人はすばらしい本能を持っているんだったな。たとえどんな異郷にいてもまっすぐに家路を指す本能だよ。それならダイアンにアモズへ案内してもらえばそれでいいじゃないか。そうすれば今しがた風で吹きとばされたもとの海岸へすぐに出るよ」
わたしはそういいながらよみがえった希望に顔をほころばせて二人を見渡した。だが二人の目にはそれに応じる微笑はなかった。ダイアンがいった。
「そういったことは陸上でならできます。でも水の上ではその能力は使えないのです。なぜだかあたしにはわかりません。でもそれが事実だということは常に聞かされていました――ペルシダー人が進路に迷うのは水の上だけなのだと。あたしたちが大海をこんなに恐れるのもそれが原因なのだと思います――水面をカヌーで行く種族までがそうなのですから、ジュアグの話では、あの人たちは陸地の見える範囲を絶対に越えないということですわ」
嵐の後、わたしたちは帆をおろした。そしてその間も、どの進路をとるのがいちばんよいか協議した。わたしたちの小舟は、今やおさまりつつある大波にのって浮き沈みしながらあてどなく漂っていた。波頭に乗り上げたかと思うと、また波間に落ちこむ。ダイアンはしゃべるのをやめて波立つ海原の果てしない拡がりの彼方を凝視していた。小舟は巨大な波頭に高々と持ち上げられた。と、その頂点でダイアンは叫び声を上げ、船尾の方角を指さした。
「舟よ! 舟よ! 何|艘《そう》も何艘もくるわ!」
ジュアグとわたしはとびあがった。だがそのとき、小舟は波間に落ちこんだ。右にも左にも水の壁が押し寄せるばかりで何も見えない。わたしたちは次の波が持ち上げてくれるまで待って、ここぞというときにせいいっぱい目を見開いてダイアンの示す方角を見た。たしかに彼女のいうとおり、八キロと離れていないところに数艘の舟があり、それからわたしたちの後方目のとどくかぎりの一帯に多数の舟が点々としている! 距離が距離だし、次の波の谷間にふたたび沈むまでの間にちらと一瞥しただけだから見わけはつかないが、あれは舟だ。
中にはわたしたちのような人間がいるのにちがいない。
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十三 生命がけの遁走
ついに海は静まり、わたしたちの後方にいる小舟の船団がよく見えるようになった。優に二百艘はいるにちがいない。今までこんなに多くの舟を見たことがないとジュアグがいった。どこから来たのだろう? まずジュアグが当てずっぽうにいった。
「フージャはたくさんの舟を作っていた。戦士たちをあの大河まで運んで、そこからさかのぼってサリの国へ運んでいくためだ。彼は戦士たちをほとんど総動員して、そのうえ『木々の島』の多くの奴隷を使って舟を作っていた。おれはフージャがおそろしくたくさんの舟を作っていると聞いたが、ペルシダー史上どの時代にもそれほど多くの舟を作った人間はほかにいない。あれはフージャの舟にちがいない」
「そしてかれらもあたしたちと同じように、あの大暴風で海へ吹き散らされたんだわ」ダイアンが意見をのべた。
「それよりほかに考えようがないな」わたしは同意した。
「どうしたもんだろう?」ジュアグがたずねた。
「かれらが本当にフージャ一族のものかどうか、たしかめたらどうかしら」ダイアンが提案した。
「だって、そうじゃないかもしれないでしょう。かれらの正体をはっきりとつきとめない先に逃げ出したら、生きて本土を発見する機会から逃げ出すことになりますわ。ひょっとするとあたしたちが聞いたこともない一族かもしれないでしょう。だとしたら力を貸してくれるようにたのむこともできるわけですわね――もしも本土への進路を知っていたらの話だけど」
「そいつはだめだろうな」ジュアグが口をはさんだ。
わたしはいった。「とにかく、かれらが何者かわかるまで待ったところで、ぼくたちがこれ以上悪い状態に陥ることもなかろう。かれらはこっちへ向かってきている。帆を発見したことは明白だ。われわれが彼らの船団に属していないという見当はつけているだろう」
「たぶん、あちらさんのほうで本土への進路を聞きたがってるんじゃないかねえ」といったのは、悲観論者以外の何ものでもないジュアグだった。
「われわれが帆走するより速く漕ぐことができるのなら、彼らにはわれわれを掴まえることができる。もしもつかまえたいのならね。先方の正体がわかるまで寄せつけておいて、その上でかれらより速く帆走できたら、どのみち逃げられるよ。だから待ってみるのもいいだろう」
そしてわたしたちは待った。
海は急速に凪《な》いでいたので、先頭のカヌーが五百メートル以内にはいった時には何から何まではっきりと見えた。船体は異様に長く、片側に漕ぎ手が十人並んで全部で二十人乗っている。そのほかに二十五人ないしはそれ以上の戦士が各舟に分乗していた。
先頭の舟が百メートルのところまで来たとき、ダイアンはその舟の乗組員のうち数人はサゴスだという事実を知らせてわたしたちの注意をうながした。これでこの小型船の船隊が実際にフージャのものだということを確信した。わたしはジュアグに、かれらに声をかけて聞き出せそうな情報を手に入れろ、その間わたしはカヌーの底に身を隠しているから、といった。ダイアンは舟底にぴったりと伏せた。かれらがほんとうにフージャ一味なら、彼女の正体に気づかれたくない。
「きみたちは何者だ?」ジュアグは舟に立ち上がり、両手でメガフォンを作ってどなった。
先頭のカヌーの舳先で一人の人影が立ち上がった――口をきかない先からその人物が何者か、わたしにははっきりとわかっていた。
「おれさまはフージャだ!」男はジュアグに答えてどなり返した。
どういうわけか、彼は以前の自分の捕虜兼奴隷に気づいていなかった――おそらくあんまり大勢いるからだろう。
「おれは木々の島のものだ」かれはつづけていった。「あの大暴風でおれの舟のうち百艘がしずみ、乗組員全員が溺死した。陸地はどこだ? おまえは何者だ? おまえのカヌーの前部に立っている小さな木からパタパタ翻っている妙なものはなんだ?」
かれは風を受けて所在なさそうにはためいている帆のことをいっているのだ。
「われわれも進路に迷っているのだ」ジュアグが答えた。「陸地はどこかわからない。今から引き返してさがすのだ」
そういいながら、かれはカヌーの船首を風下に向けはじめた。その間にわたしはお粗末な帆をとめてある原始的な帆脚索をしっかりと結んだ。行くなら今が潮時だと思ったのだ。
たいした風はなく、重い不格好な丸木舟はなかなか前進しない。永久に勢いがつかないんじゃないかと思ったほどだ。その間にも二十人の漕ぎ手の屈強な腕で推進力のついたフージャのカヌーは急速に接近しつつあった。むろんかれらの丸木舟はわたしたちのそれよりも大きく、したがってはるかに重く扱いにくいものだったが、それにもかかわらず敵は快調にとばしてきた。一方、わたしたちの丸木舟はまだほとんど動いてもいなかった。ダイアンとわたしとは依然としてできるだけ身を隠していた。今や二艘の舟はたがいに弓の射程内に充分はいっていたし、フージャが射手を擁していることがわかっていたからだ。
フージャはわたしたちの舟が進行しているのを見てジュアグに停船するよう呼びかけた。かれは帆にたいそう興味を惹かれていて、少なからず驚いているようすだった。それはかれが大声で浴びせることばや質問でわかった。わたしは頭を上げてはっきりと彼を見た。銃さえあれば絶好の標的となったろうに。このときほど銃を失ったことがくやまれたことはなかった。
わたしたちも今ではわずかながら舟足を増していたので彼のほうも最初ほど急速に追いついてきてはいなかった。そのあげく、停船するようにという相手の要求は、にわかに命令に変わった。わたしたちがかれから逃れようとしていることに気がついたのだ。
「もどってこい!」かれはどなった。「もどってこないと発射するぞ!」
わたしは今、「発射」ということばを使用したが、あらゆる種類の死の飛び道具を放つという意味を含むペルシダー語の「トラッグ」を英語に訳すには「発射」という語がより適切だからだ。
ところでジュアグは櫂をいっそう強く握りしめただけだった――櫂は舵の役目を果たし、ぐいぐいと水を切って風に助力しはじめた。それを見てフージャは、わたしたちめがけて発射せよと、射手のうちの何人かに命じた。わたしはジュアグ一人を死の矢面《やおもて》にさらしておいておめおめと舟底に寝そべって隠れていることはできなかったので起き上がり、もう一本の櫂をひっ掴んで彼を援護してこぎ出した。ダイアンもわたしといっしょになってこいだ。わたしは、すっこんでいろと口をすっぱくして説得したのだが、彼女も女だ、いい出したらきかない。
わたしたちを見た瞬間、フージャは気がついた。かれが発した勝利の歓声は、わたしたちが今にもかれの手に落ちるという確信を物語っていた。矢の雨がわたしたちの周囲に降り注いだ。やがてフージャは発射をやめさせた――わたしたちを生け捕りにしようという魂胆なのだ。矢は一本も当たらなかった。フージャの射手たちは、わがサリ族やアモズ族といった名|射手《しゃしゅ》の足もとにも及ばなかったからだ。
今ではわたしたちはフージャのこぎ手とほぼ同じ速度で進行できるまでになっていた。もっとも、舟足が増しているようには見えなかったが、それはかれらとて同様だった。神経のすりへるようなこの体験がどれだけつづいたか、今では見当もつかない。それでもいくぶん風が出てきて相手を引き離し始めたときには、乏しい食糧もほとんど底をついていた。
まだ一度も陸地は見えない。これは不可解なことだった。というのも以前に見たことのあるたいがいの海には島がびっしりと点在していたからだ。状況は決して愉快なものではなかった。が、それでもフージャとその軍勢のほうがわたしたちよりさらにひどい状態だったと思う。かれらは食糧も水もぜんぜん持ち合わせていなかったからだ。
はるか後方では、フージャの二百艘の舟が上向きにカーヴした長い一筋の線となって連なり、霞《かすみ》の中に姿を没しようとしていた。しかし、かりにわたしたちに追いつくことができたら、わたしたちを捉えるには一艘で充分だったろうが、五十メートルばかり水をあけていたので――ここへくるまでには十メートルとあいていないときもあった――まずはひと安心だった。交代でこいでいたフージャの部下たちは、食糧も水もなく、はげしい労働を強いられた結果、疲労の色を見せはじめていた。かれらが衰えてきたということはわたしたちにとって幸いだったと思う。それは風がわずかに強まってきたということとほとんどおなじくらいに、わたしたちの助けとなった。
フージャは、わたしたちを取り逃しそうだと気づきはじめたのにちがいない。というのは、ふたたびわたしたちに向かって発射せよという命令を下したからだ。矢の一斉射撃があとからあとから浴びせられた。今回は距離が大きく開いていたので大部分の矢はとどかなかったが、とどいたものも櫂で薙《な》ぎ払えるほどに衰えていた。ともあれ、スリル満点の体験ではあった。
フージャは自分の舟の舳先に仁王《におう》立ちになって、部下に向かってもっとスピードを上げろと督励しては大声でわたしに罵詈《ばり》雑言を浴びせかけた。だがわたしたちはどんどん彼を引き離していった。ついに風は強い追風になった。わたしたちはみるみる追手から遠ざかった。まるでかれらが静止しているかのようだった。ジュアグは有頂天のあまり飢えも渇きもてんで忘れてしまった。思うに、かれはわたしが帆と称しているこの異邦人の発明に、今まで決して全面的に満足してはいなかったのだ。そして心の底では結局こぎ手たちが追いつくだろうと考えていたのだが、今となってはいくら称賛してもしたりないといったありさまだった。
強風はかなり長時間にわたって吹き、ついにはフージャの船隊を見わけがつかないほどはるかな後方に引きはなした。と、そのとき――ああ、私は決してあの瞬間を忘れないだろう――ダイアンが「陸よ!」と、叫んで飛びあがったのだ。
たしかにはるか前方、舟の舳先に面して海岸線が長く、低く連なっている。まだずいぶん離れていたから、島か本土かは識別できない。が、少なくとも陸地だ。わたしたちは難破した舟乗りよろしくほっとして胸を撫でおろした。ラジャとラニーは食糧不足でまいりかかっていた。ラニーがしばしば飢えた視線をわたしたちに投げていることはたしかだった。もっとも、彼女の夫の顔にはそんないまわしい考えがはいりこんだことがないということも同様にたしかなことではあったが。ともあれ、わたしたちは二頭を最大限にしっかりと見張っていた。あるとき、ラニーを撫でてやっている間にうまい具合に首のまわりにロープを巻きつけて舷側につなぐことに成功した。それ以後は、今までより少しはダイアンの身を案ずることもなくなった。三人の人間と、野性も同然の人喰い犬が二頭同居するには、あの小さな丸木舟はひどく狭かったが、ラジャとラニーを殺して喰おうというジュアグの提案をわたしがしりぞけたので、わたしたちはできるだけがまんしなくてはならなかった。
岸から二、三マイル以内までは快調に進んだ。それから風がぱったりと止んだ。わたしたち一同の期待は頂点に達していたので、この打撃は二倍もこたえた。こんどはどんな風向きになるか見当がつかないということもまた大きな打撃だった。しかしジュアグとわたしとは残る行程をこいで進むことにして櫂を手にとった。
ほとんどすぐに風が、それもこんどは以前とは正反対の方角から吹きはじめたので、その風にさからって進むのは並大抵のことではなかった。次にまたしても風向きが変わったので、波くぼにはまりこまないようにわたしたちは方向を転じて海岸ぞいに平行に舟を進めなくてはならなかった。
わたしたちがこうしてありとあらゆる失望と戦っている間に、フージャの船隊がかなたに姿を現わした!
かれらはわたしたちのとったコースよりずっと左に寄ったと見えて、今では海岸線と平行に航行するわたしたちのほとんど後にいた。だがこの風では追いつかれる心配はあまりなかった。強風は吹きつのる一方だったが、気まぐれで変わりやすく、どっと吹きつけたかと思うとたちまち無風状態に陥るのだった。破局が訪れたのはこういったつかのまの凪《なぎ》のあとでのことだった。帆が力なく垂れ下がり、舟足が落ちたそのとき、とりわけはげしいスコールが突如としてわたしたちを捉えたのだ。そして帆脚索を切ることもできないでいるうちにマストは根元からぽっきり折れてしまった。
最悪の事態が発生した。ジュアグとわたしは櫂を手にとって風のままにカヌーを進めた。だが、あのスコールは強風の置きみやげともいうべきものだった。強風はその後すぐにおさまり、時を移さず岸に向かおうとするわたしたちを自由に進ませてくれた。しかしフージャはすでにわたしたちよりも岸近くにこぎ寄せていたので、わたしたちが上陸するよりさきを越されそうな形勢だった。ともあれ、わたしたちはかれを抜こうと全力をつくした。ダイアンも一緒に櫂をとってこいだ。
かなりうまくいっていたとき、浜辺の後の木立の間から、塗料をぬりたてた一団の野蛮人が黄色い声をあげながらぱらぱらと駆け出してきた。ありとあらゆる種類の悪魔めいた原始的な武器を振りかざしている。そのようすがあんまり威嚇的なので、わたしたちはかれらの只中に上陸しようとする愚かさをただちに見てとった。
フージャは接近しつつあった。風もなく、櫂を使ってかれらを抜くことはまず望めない。今になってわたしたちの苦境を嘲笑するかのように一様の強風が吹いていたが、帆がなくなっていたので何のたしにもならなかった。しかし運命にあやつられて腕をこまねいているつもりは毛頭なかったから、懸命にこいだ。そして海岸線と絶えず平行を保ちながら、追手を引き離すべく全力をあげた。
いやはやさんざんな体験だった。食糧の欠乏から衰弱してくるし、渇きには苦しめられる。掴まって殺されるのは時間の問題だ。それでもわたしたちはその場を脱出するために最後の努力をふりしぼってよくやったと思う。わたしたちの舟はフージャのどの舟よりもずっと小型で軽量だったから、わたしたち三人ががむしゃらにこぐと、二十人のこぎ手がこいでいるかれらの大きな舟とほとんど同じくらい速く進んだ。
それは、時が悠久の世界に吸いこまれたかのように果てしなく感じられるひとときだった。労働に生気も枯れ果て、時間を計るすべもない。海岸沿いに舟を走らせていると、つい先に大きな河の河口か湾の入り口らしいものが目にはいった。そこまで行きたいとは思ったが、すぐ後にはフージャの脅威が迫っているし、喚声をあげながらわたしたちと平行して浜を走っている原住民がいては、おいそれとそうするわけにもいかない。
死の手を逃れようと夢中になっている間、わたしたちは岸からさほど離れてはいなかった。こいでいる間にも、ときどき原住民たちの方をちらちらと見る機会はあった。かれらは白色人種だが、ぞっとするほど塗料をぬりたくっている。身振りや武器から見て非常に兇暴な種族と察しられた。かれらのいるところへ上陸しなくてよかったと胸を撫で下ろしたことだった。
フージャの船隊は、嵐のあとで見た時よりもずっとまとまった隊形をとっていた。今や彼らは半径一・五キロ以内に集結してわたしたちを追っていた。中の五艘が舳先を並べて先頭を切り、わたしたちから二百メートルとへだたっていなかった。肩越しに一瞥すると、射手たちがすでに弓に矢をつがえて射程距離内にはいりしだい発射する態勢をとっているのが見えた。
わたしは暗澹《あんたん》たる気持におそわれた。かれらを逃れるわずかなチャンスも見出せないのだ。もはやかれらは急ピッチに迫っている。彼らは交代でこいでいるのに、わたしたち三人は休みなくこぎ続けて急速に疲労してきているからだ。
ジュアグが海岸線の切れ目にわたしの注意を喚起したのはそのときだった。わたしが湾かもしくは大河の河口だと思ったあそこだ。海に向かってしずしずと出ていくものの姿をそこにみとめて、わたしはすっかり仰天した。
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十四 流血と夢と
二本マストに大三角帆のフェラッカ船だ! 船体は長く低い。中には五十人以上の乗組員がいる。そのうちの二、三十人がオールでこいでおり、船はその力で入江から出てきた。わたしはあっけにとられてしまった。
浜辺で見たあの塗料をぬった野蛮人が航海術をここまで完成して、この船が示すような建造技術と艤装法を習得したとでもいうのか? そんなはずがない! 見守るうちに、同型の船がまた一隻するすると姿を現わし、姉妹船の跡につづいて狭い海峡を通って外洋へと出てきた。
それだけではない。端麗優雅な船が五十隻、次々と船尾を連ねて進んできてフージャの船隊とわたしたちの小舟の間に割りこんだ。
かれらが今少し接近したとき、わたしはとあるものに目をとめて目の玉が飛び出るほど驚いた。先頭のフェラッカ船の船首に一人の男が立っていて、望遠鏡を私たちのほうに向けているのだ。いったいかれらは何者なんだろう? かくまでも驚異的な進歩を遂げた文明がペルシダーに存在しているのだろうか? わたしが統治する民族の誰もが聞いたことのないような遠隔の国に、この地底世界の他のあらゆる種族よりはるかにすぐれた民族がいるのだろうか?
男は望遠鏡を下ろして、わたしたちに向かって大声でどなっていた。何をいっているのかわからなかったが、やがて男が檣頭《しょうとう》を指さしていることに気がついた。見ると前部の帆桁《ほけた》の先端に旗《ペナント》がひるがっている――赤白青の三色旗で、青地の部分に大きな白い星が一つついている。
そうだったか。わたしの目はますます大きくなった。あれはわたしの留守中に建造するようにペリーに指示を与えておいたペルシダー帝国艦隊、|わたし《ヽヽヽ》の艦隊だったのだ!
わたしは櫂を放して立ち上がり、大声をあげて手を振った。ジュアグとダイアンは、まるでわたしが急に気違いにでもなったかのようにわたしを見た。わたしは叫ぶのをやめてかれらに話して聞かせた。するとかれらもいっしょになって喜び、大声でさけんだ。
だがフージャは依然として接近しつつあったし、先頭のフェラッカ船はフージャがわたしたちの舷側に舟をつけるかあるいは少なくとも弓の射程距離内にはいる前に彼に追いつくことはできなかった。
この見馴れない艦隊の正体に関しては、フージャもわたしたちに劣らず面くらったにちがいなかった。だがわたしが手を振っているのを見て、かれらがわたしたちの味方だと見当をつけたようすだった。そこでフージャは、フェラッカ船がかれをさえぎる前にわたしたちに到達すべくこれまでに倍加して奮闘するよう、部下のものを叱咤した。
かれはうしろをふり返って、自分の船隊の乗組員に向かい、あの見馴れぬ船に横づけして乗り移れ、と大声で命令を下した――命令は次々と背後の船のすべてにつたえられた。かれの二百隻の船と八千人から一万人に及ぶ戦士をもってすれば、総勢三千人と乗り組んでいないかに見える五十艘の敵船を制圧するのはなんでもないと考えているということは明瞭だった。
他のことは部下の船にまかせてかれ自身はまずダイアンとわたしを捉えることに全精力を傾注した。わたしたち二人のことに関するかぎり、かれの望みどおりに事が運ぶだろうということはほぼまちがいないように思えた。わたしは、もしも戦いの形勢がかれの軍勢にとって不利になった場合、かれがわたしたちの上に加えるであろう復讐を恐れた。わたしにはかれの側が不利になるだろうという確信があった。というのも、ペリーとかれのメゾプ族は試掘機に積んであった武器弾薬をそっくり全部運んできたにちがいないとわかっていたからだ。だが、次にまったく予想外のできごとが起こった。
フージャのカヌーがわたしたちの舟から約二十メートルのところまで来たとき、先頭のフェラッカ船の舳先から一陣の煙がパッと上がり、つづいてそれとほとんど同時にものすごい爆発音が起こって一発の実弾がヒューッと唸りを発してフージャの舟の乗組員の頭上をかすめ、かれらをわずかに越えたところで落下し、水面を引っ裂いて高々と水しぶきを上げた。
ペリーが火薬を完成して大砲を作ったのだ! こいつはすごいことになったぞ! フージャにおとらず驚いたダイアンとジュアグは、何ごとだろうといった目《まな》ざしをわたしに向けた。と、大砲がふたたび火を吹いた。地上世界の現在の軍艦の大砲と比較すれば、みじめなほどちいさくて不備だとは思うが、これがこの種のものでは第一号である、ここペルシダーでは、それは想像を絶する恐ろしいものだった。
砲声とともに直径約十二センチメートルの鉄製の砲弾がフージャの丸木舟の水線のすぐ上に命中し、舷側に大穴をぶちあけて転覆させ、乗組員を海中へほうり出した。
フージャの舟と舳先をならべていた四艘の丸木舟は、先頭のフェラッカ船を迎撃せんものと方向を転じた。この期《ご》に及んでさえ――かれらにしてみれば身もすくむほどの危難だったにちがいないのに、それをものともせず――かれらは見馴れぬ恐怖の船めがけて勇敢にも突き進んでいった。
総勢二百名の敵の乗組員に対し、これを迎撃するフェラッカ船の舷縁には、たかだか五十名が並んでいるにすぎなかった。フェラッカ船の指揮官はジャだということがわかった。かれは敵をすぐそばまで引きつけておいて小銃や拳銃の一斉射撃を浴びせた。
丸木舟のサゴス族はこの死の突風を受けて、野火の前の枯草のようにばたばたと倒れた。命拾いをしたものも、弓を落とし、投げ槍を手離して櫂を引っつかみ、逃亡を企てたが、フェラッカ船は冷酷にかれらを追いつめ、思いのままに銃火を浴びせた。
ついにジャが丸木舟の生存者に、降参すれば生命は助けてやる、と大声で呼びかけるのが聞こえた――今では艦隊一行はわたしたちのすぐそばに来ていた。ジャのすぐ後にペリーが立っている。この慈悲深い処置は、この老人が思いついておそらくは命令したものだということはわたしにはわかっていた。ペルシダー人なら敗れた敵に憐れみを示すなど考えも及ばなかったはずだ。
死よりほかに選択の余地はなかったので、生存者たちは投降した。そしてただちに『アモズ号』に移された。フェラッカ船の船首にはでかでかと船名が書いてある。この地底世界全体で、ペリーとわたしをのぞいては誰にも読めない船名だ。
捕虜が乗船すると、ジャはフェラッカ船をわたしたちの丸木舟に横づけした。わたしたちを甲板に引き揚げようと、多くの手がどっとさしのべられた。メゾプたちは赤銅色の顔一杯に微笑をたたえ、ペリーは狂喜せんばかりのありさまだった。
ダイアンがまず乗船し、ジュアグがそれにつづいた。わたしは自分の手でラジャとラニーをたすけ上げてやるつもりだった。誰であろうとメゾプの者がかれらに触れたら厄介なことになるということは目に見えていたからだ。ついに二頭を乗船させることができたが、野獣が人間の手でこのように扱われるところをこれまで見たことのない乗組員の間に大騒動が起こった。
ペリーとダイアンとわたしとは、それぞれたずねたいことがいっぱいで爆発せんばかりだったが、今しばらくはがまんしなくてはならなかった。というのは、残るフージャの船隊との戦いはようやく開始されたばかりだったからだ。フェラッカ船の狭い前部甲板から、ペリー製のお粗末な大砲が火煙と雷鳴と死を噴出している。大気は轟音に合わせてびりびりと震動した。フージャの軍勢の勇猛果敢な戦士たちは、わたしたちの船に乗り組んでいるメゾプたちと最後の死闘を挑むべく押し寄せてきた。
ジャの島の赤色人戦士の操舵ぶりは完璧とはおよそほど遠かった。ペリーが船の完成するのももどかしく今回の航海に出発したことはわたしにもわかった。艦長や乗組員が学んだわずかばかりの操縦法も、主としてこの航海に出てから習得したものにちがいなかった。経験はすぐれた教師、というわけで、かれらも大いに啓発されたのだが、それでもまだ学ぶべき点が多々あった。かれらは有利な位置を占めるために船を動かそうとして絶えず互いに妨害し合っていた。味方の砲郭から発射された弾丸があやうく味方の船に命中しかかるといったことも二度あった。
そこで、旗艦に乗船するやいなや、わたしはただちにこの問題をあるていど矯正しようと試みた。まず船から船へ口頭で命令を伝えて、旗艦を先頭に五十隻のフェラッカ船をまがりなりにも一列に並ばせた。そしてこの隊形でゆっくりと敵の周囲をまわりはじめた。丸木舟はわが軍の船に乗り移ろうと突進してきたが、わたしたちはひきつづき一方向に旋回することによって、相互の進路を妨害することもなく、また味方に与える危害をできるだけ少なくして大砲や銃を発射することができた。
周囲を見回す隙ができたので、わたしは自分の乗っているフェラッカ船をつくづくと眺めまわした。正直なところ、わたしはこの小さな船の卓抜した構造と、頑丈でありながら軽快な形とに感服した。ペリーがこの型を選んだということは、かれにしては上出来に思えた。わたしはこれまで、砲塔をそなえた軍艦や、装甲や、何かそういった無駄な見せかけに反対してきたものだったが、かれの艦隊をひと目見たとき、さぞかしものものしく仰々しい造りなんだろうと決めてかかっていた。こういった無智な穴居人どもと一戦をまじえるには、まず相手を威圧してかかるべきだというのがペリーの持論だったからだ。しかし、新兵器で敵の度肝を抜くことはまだしも簡単だが、相手を脅かして投降させることはまったく不可能だということをわたしはすぐに思い知ったのだった。
のちにわたしは、ジャがペリーとともに種々の設計図を慎重に検討したということを知った。老人はテキストに記載してある事柄を最大洩らさずジャに説明してきかせた。それぞれの船の大きさがジャにわかるよう、二人して地面に寸法をとった。ペリーは模型を作り、ジャは帆船の操縦法に関する事項をペリーに一から十まで丹念に読んで説明してもらった。そしてその結果、ジャがフェラッカ船を選んだのだ。ペリーが並々ならぬ節度の持ち主であったことは、なんといっても結構なことだった。というのも、かれは以前からネルソン時代の大フリゲート艦を作るんだといって大張り切りだったからだ――かれは自分でそういった。
ジャがとりわけフェラッカ船を支持した一つの理由は、フェラッカ船がオールをそなえているという事実だった。かれは自分の一族が帆にかんしては弱いということを知っていた。かれらはまだ一度もオールを使ったことはなかったが、それがあまりにも櫂に似ているので、きっとすぐに使いこなせるようになると確信していたのだ――また事実そのとおりになった。一つの船体が完成するやいなや、ジャは常時それを水に浮かべておいた。そしてまず最初に一組の乗組員を乗せ、次にまた別の一組をという具合にして二千人の赤色人戦士がこぎ方をおぼえるまでこれをつづけた。それからマストが立てられ、一組の乗組員が最初の船に配置された。
他の者が船を建造している間に、最初の一組は自分たちの船で操縦術を学んだ。次々と船が進水するたびに、その船の乗組員は船を沖へ出して、最初の船で技術を習得した連中から手ほどきを受けて練習をした。こうしてそれぞれの船に乗組員が揃うまでつづけられた。
ところで、話を戦闘にもどそう。フージャの一味はひっきりなしに攻撃をかけてきた。そして寄せてくるそばからバタバタと薙《な》ぎ倒されていった。それはもう屠殺と大した変わりはなかった。わたしは生命を保証するからといって何度もくり返し投降するように呼びかけた。ついにはあますところただ十隻となった。かれらは方向を転じて逃げ出した。逃げおおせると思ったのだろう――哀れなやつらだ! わたしは相手が射ってこないかぎりこれ以上敵を殺さないようにと、射ち方やめの命令を船から船へ飛ばし、それから追跡を開始した。ほどよい微風が吹き、わたしたちは獲物を追って、公園の池に泳ぐ白鳥のようにすいすいと優雅に滑走した。接近するにしたがって、かれらの目に驚異ばかりか賛嘆の色が浮かんでいるのがみとめられた。私は最寄りの丸木舟に声をかけた。
「武器を捨てて乗りうつってこい。危害は加えない。食物を与えて本土へ帰してやる。二度とふたたびペルシダーの皇帝に刃向かわないと約束すれば、そのあとはおまえたちの自由だ」
もっぱらかれらの興味をそそったのは食物の約束だったようだ。わたしたちが彼らを殺さないとは信じがたいのだ。しかしすでに捉えた捕虜たちを連れてきて、ぴんぴんしているところを見せてやると、一艘の舟にいたサゴスの大男が、何をもってわたしが約束を守るという保証にするのかとたずねた。
「そんなものはない」わたしは答えた。「ただ約束を破らないというわたしのことばだけだ」
ペルシダー人自体がこういうことに関してはかなり律儀なほうだから、このサゴスにもわたしのいっていることが、ひょっとするとほんとうかもしれないとわかったのだろう。だが奴隷にするのでもないかぎり、生命を助けるということがかれには理解できなかった。奴隷にするということは、かれらを自由にしてやると約束した際にすでに否定したも同然だったのだが、わたしの計画がはたして賢明なものかどうかジャにもよくわからなかった。かれにしてみれば、残る十艘の丸木舟を追いつめて全部を撃沈すべきだという考えだった。だが、わたしはできるだけ大勢の敵を本土へ放つべきだと主張した。
「いいかね。この男たちはフージャの島か、かれらがやってきたマハールの都市か、もしくはマハールの手で拉致《らち》されてきたもとの国へ即刻に帰るだろう。かれらはさまざまな国から来た二種類の民族だ。わが軍が勝利をおさめた話を津々浦々にひろめてくれるよ。かれらがわれわれとともにいる間に、今まで披露したもの以外に数多くのすばらしいものを見せたり聞かせたりしてやろう。そうしたら、友人や族長のもとへみやげ話を持って帰るかもしれんからな。無料宣伝には絶好のチャンスだよ、ペリー」わたしはさらにいい足した。「願ってもないことじゃないか」
ペリーはわたしに賛成した。実際いって、わたしたちの手中に落ちた哀れな野蛮人たちを殺さないですむことなら、どんなことにも賛成しただろう。かれは、火薬や、火器大砲を発明した偉大なる人物だが、そういうものを使用して人を殺す段になると、まるで小娘のように情にもろいのだ。
先刻発言をしたサゴスは、同じ舟のサゴスたちに話をしていた。明らかに、投降したものかどうか相談しているのだ。
「われわれに投降しなかったらおまえたちはどうなる?」わたしは質問してやった。「われわれがふたたび砲門を開いておまえたちを皆殺しにしないまでも、どうすることもできずに海を漂流するだけだぞ。そしてしまいには飢えと渇きで死んでしまうのがおちだ。あの島へも引き返せないぞ。おまえたちも見たろうが、あそこの原住民はすごい人数で、おまけに戦争好きときている。上陸するなり殺されてしまうぞ」
結局、例のサゴスの乗っていた舟は投降した。彼らが武器を放棄したので、わたしたちはアモズ号のすぐ後にならんでいた船にかれらを乗船させた。何はさておきジャは艦長と乗組員に、捕虜を虐待したり殺したりしてはならないと申し渡さなくてはならなかった。その後、残りの丸木舟が漕ぎ寄せてきて投降した。わたしたちはどの艦も定員過剰にならないようにかれらを全艦に分乗させた。かくてペルシダーの海に展開された史上初の本格的な海戦は幕を閉じた――もっとも、ペリーはサリ号が参加したあの戦闘が第一級の海戦だったんだといまだに主張しているが。
戦いは終わり、捕虜の身の振り方が決まって食物が与えられると、わたしは艦隊に注意を向けた――ダイアンとジュアグとわたし、それに二頭の狼犬《ウルフ・ドッグ》も当然もてなしを受けた――フェラッカ船は旗艦の周囲に集まってきていた。わたしは、ダイアンともどもペルシダーの皇帝、皇后として、旗艦に随行する四十九隻のフェラッカ船の艦長を中世の君主よろしく接見したのであった。
盛大な式典だった。赤銅色の荒くれ戦士たちはすっかりその気分になりきっていた。それというのも――あとになってわかったことだが――ペリーじいさんがあらゆる機会をとらえてはデヴィッドがペルシダーの皇帝だということ、そして戦士たちやペリーの一挙手一投足すべてがデヴィッドの権力のためであり、皇帝の栄光に帰するのだということをかれらの頭に浸透させたためだ。じいさんはこのことをよほど強く叩きこんだのにちがいない。というのも荒くれ戦士たちはわれがちにわたしの前にひざまずいて手に口づけしようとして、あやうく殴り合いがはじまるところだったからだ。ダイアンの手に口づけするときにはもっと楽しんでやっていたんじゃないかと思う――わたしだったらきっとそうだったにちがいないから。
ペリーの原始的な大砲の第一号を背にしてアモズ号の狭い甲板に立っていると、ひょいと名案が浮かんだ。そしてジャが足もとにひざまずいてまず誰よりも臣下としての忠誠を誓ったとき、わたしはかれの腰の鞘《さや》からペリー直伝《じきでん》の鍛鉄《たんてつ》の剣を抜いて軽く肩にふれ、アノロックの王に叙《じょ》した。そして他の四十九隻のフェラッカ船の艦長に伯爵の称号を贈った。かれらに贈与したこれらの名誉の価値を説明する役目はペリーに一任した。
こうした儀式の間、ラジャとラニーはダイアンとわたしのかたわらに立っていた。すでに満腹してはいたものの、かれら二頭にとってはうまそうな人間が目の前を素通りするのをあっさりと見送るのは容易なことではなかった。しかしこれはよい見せしめだった。以後、かれらは二度と再び食欲を起こさずに人間とつき合うことができるようになった。
式典が終わったあと、わたしたちはペリーやジャとともに語り合った。ペリーは、キリの王ガークがわたしの手紙と地図を使者に託してよこしたと話した。かれとジャはただちに艦隊を完成することにきめた。これは、アノロック諸島が浮かぶルラル・アズの海は、じつはスリアの岸辺に打ち寄せるソジャル・アズの海、別名『大海』と同一の海ではないかというわたしの説を確かめるためだった。
かれらの最終目的地はフージャの島の根拠地だった。そこで二人は一致協力して事にあたれるように二人の計画をガークに伝えた。わたしたちを本土の沿岸から吹き飛ばした嵐は、同時に艦隊をはるか南へと押し流した。わたしたちを発見する少し前、かれらは大群島のただなかにはいった。そしてその島々の中でももっとも大きな二つの島の間をとおって出てきたときに、フージャの船隊がわたしたちの丸木舟を追跡しているのを発見したのだった。
わたしはペリーに、われわれの現在位置がわかっているのか、またフージャの島ないし本土がどの方角にあたるのかたずねてみた。かれは地図を取り出してこれにこたえた。地図には新たに発見した島々――それらは『敵意ある人々の島』と命名してあった――がたんねんに記されており、わたしたちの現在位置から約二ポイント西の、北西の方角にあるフージャの島をも示していた。
さらにかれらのたどってきた航路については、出発した当初から羅針儀《コンパス》、経線儀測《クロノメーター》、程器とその糸巻き線を使ってかなり正確な記録をとっていたのだとペリーは説明した。これららの計器は四隻のフェラッカ船にそなえられ、その艦長四人に使い方が教えこまれた。
これらの荒くれ男たちが、この不馴れな仕事に取り組んでかなり複雑な事柄を容易に習得したことについてわたしは感嘆を久しうしたが、ペリーは彼らがすばらしく聡明な種族だと請け合い、かれが教えようとしたことはなんでもたちまちのみこんでしまうのだと話した。
今一つわたしを感心させたことは、非常な短期間にこれほど多くのことが達成されたという事実だった。メゾプ族全員が携帯している銃や幼稚な口装ライフルをはじめ、かくも大量の火薬弾薬類を製造する期間はいうにおよばず、五十隻からなるフェラッカ船の艦隊を組織し、一方、大砲や砲弾を製造するための鉄鉱を採掘するだけの期間、わたしがアノロックを留守にしていたとは信じられなかった。
「時間だと!」ペリーが叫んだ。「それじゃ聞くが、きみはわれわれがソジャル・アズできみたちを救出する前まで、どれだけの時間アノロックを留守に|していた《ヽヽヽヽ》というのかね?」
そいつが難問だ。わたしもそのことはみとめざるを得なかった。どれだけの時間が経過したかわたしにはわからなかったし、ペリーとても同様だった――ペルシダーには時間は存在しないのだから。
「いいかね、デヴィッド、わしは信じがたいほどの資源をぞんぶんに駆使することができたんだよ。アノロック諸島は、きみも知ってのとおり三つの本島のはるか彼方の海に散在していて、島数は何百にも及んでいるが、そこに住むメゾプ族の大半はジャに対して友好的だ。ジャがわれわれの大計画の筋書を説明するや、たちまち男も女も子供もジャに従って仕事に着手した。
かれらはマハール壊滅の日を早めるためにできるかぎりのことをしようと張り切ったばかりじゃない。何よりも重要なことは、かれらが貪欲《どんよく》なまでにより多くの知識を吸収し、生活を改善しようとしているということだ。
試掘機に積んであった品々はかれらの想像力を四六時中かき立て、その結果今までに他の世界の人間が数々のものを創造し建設する基礎となった知識をわがものにしたいと切望するに到った。数々のものというのはきみが地上世界から持ち帰ったもののことだがね。
そこへ持ってきて時間の要素、いや、時間の欠如ということがわしにとって有利に働いたんだよ。つまり、夜というものがないから仕事が中断するということがなかったわけだ――かれらは食事をするときと、たまに眠るときとに仕事を休むだけで、たえまなく働きつづけた。いったい鉄鉱を発見してからというものは、信じがたいほどの短時間に千台におよぶ大砲を建設するだけの原鉱を採掘したもんだよ。一度方法を教えさえすれば、あとは何千人がかりでその仕事に取っ組んだからねえ。
口装銃《マスケット》の第一作を作ったところ、それが使いものになると見てとるが早いか優に三千人のメゾプがライフル製造に飛びついたものさ。むろん最初のうちはずいぶんと混乱もあったし、無駄な動きも多かった。しかしこれも最後的には、有能な族長のもとに作業員を班に分けて仕事を分担させるという具合にしてジャが解決した。
現在では専門の銃工が百人いる。小さな孤島には大火薬工場がある。本土の鉄鉱山の近くには精錬所があるし、アノロックの東岸には設備のととのった造船所もある。これらの諸産業は堡塁で防備されていて、数基の大砲が据えられ、戦士たちが常時見張りについている。
アノロックの現状を見てきみも驚くよ、デヴィッド。わし自身驚いているくらいなんだから。サリ号の甲板から最初におり立ったあの日からくらべて、つねづね感じていることだが、奇蹟のみが今日の変貌をもたらしたとしか思えないのだよ」
「奇蹟だとも」わたしはいった。「二十世紀のあらゆる驚異的な可能性をこの石器時代に移植することができたのはまったくの奇蹟というほかはない。たった八百キロメートルの地層が、実際には幾星霜《いくせいそう》とへだたっている二つの時代を分けているなんて奇蹟的なことだ。
これは驚嘆に価することだよ、ペリー! だがもっとすばらしいのは、きみとぼくがこの偉大なる世界に及ぼす力だ。この世界の住人たちはぼくらのことを超人《スーパーマン》も同然と考えている。ぼくたちはその本領を発揮しなくてはならない。つまりぼくたちの所有している至上のものをかれらにほどこすべきなんだよ、ペリー」
「そうとも。そうすべきだ。最近になってつらつらと考えていることなんだが、ある種の榴散弾か爆裂弾がかれらの戦争にすばらしい新生面を開くだろうと思うんだ。それからわれわれがふたたび落ちつきしだいに、後装式ライフルや、弾倉つきのライフルを急遽研究して製造法を体得する必要があるな。それに――」
「ちょっと待った、ペリー!」わたしは叫んだ。「ぼくがいっているのはまるでそんなことじゃないんだ。ぼくは、われわれの持っている至上のものをかれらにほどこさなくてはならないといってるんだよ。これまでかれらに与えてきたものは最悪のものだった。ぼくたちは戦争と軍需品を与えたのだからね。かれらが過去の長い歳月をかけて幼稚で原始的な武器で戦うことによってここまでに持ってきた戦争を、ぼくたちはたった一日でさらに果てしなく恐ろしく、血なまぐさいものにしたんだ。
地上世界の時間にして二時間たらずの間に、われわれの艦隊はかつてペルシダー人が集結することのできた最大のカヌーの船団を壊滅同然にさせ、ぼくたちがもたらした二十世紀の贈り物でざっと八千人の戦士を虐殺した。かれら自身の武器でなら戦争を十二回やったってあんなに大勢の戦士を殺すことにはならなかったろう! これではいけないんだ、ペリー、ぼくたちは科学的に殺し合う方法よりももっとよいものを与えてやらなくてはならない」
老人は唖然《あぜん》としてわたしを眺めた。なじるような目つきさえしている。
「なんてことをいうんだ、デヴィッド!」かれは悲しげにいった。「きみはわしがしたことを喜んでくれると思っていたのに。われわれはいっしょにこの計画を立てたんだし、それに実際、それもこれも提案したのはたしかきみじゃないか。わしはきみがやってほしいだろうと考えたことをそのとおりにやってのけただけだし、それをわしの知るかぎりの最善の方法でやったまでだ」
わたしは老人の肩に手を置いた。
「おいおい、どうしたんだ、ペリー」わたしは叫んだ。「きみは奇蹟をやってのけたんだよ。ぼくがしなくてはならなかったことをそっくり忠実にやってくれたんだ。それもぼくより手際よくやってくれたのさ。ぼくはケチをつけているわけじゃない。ただ第一段階としてどうしても必要だったこの虐殺を土台として、その上に築かなくてはならないもっと重要な仕事をぼく自身見失いたくないし、きみにも見失ってもらいたくないんだ。まずわれわれは帝国を確固たる基礎の上に置かなくてはならない。敵の心中にわれわれに対する恐怖心を植えつけることによってのみ、それが可能なんだ。だがそのあとは――
ああ、ペリー! ぼくは待ち遠しい! 軍艦のかわりにミシンを、人を刈り取る機械ではなく、穀物を刈り取る機械を、そして鋤箆《すきべら》や電話、学校や大学、印刷機や紙をきみといっしょに作る日が待ち遠しい。われわれの商船隊が広大なペルシダーの海を渡り、絹やタイプライターや本の積荷が、開闢《かいびゃく》以来醜いトカゲどもだけがわがもの顔に支配していた海原を越えて進む日が待ち遠しい!」
「アーメン!」ペリーがいった。
かたわらに立っていたダイアンがわたしの手をぎゅっと握りしめた。
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十五 征服と平和
艦隊は一路フージャの島へと帆走し、島の北東端、フージャの要塞であった丘の前に投錨した。わたしは捕虜の一人を送って即刻投降するよう要求した。しかし、あとになってその男が語ったところによると、敵はかれの話したことをいっさい信じようとしなかったそうだ。その結果、かれらは絶壁の頂上に集結してやみくもに矢を射かけてきた。
これに応戦してわたしは五隻のフェラッカ船に砲撃させた。すさまじい爆発音を聞き、硝煙と鉄の砲弾を目《ま》のあたりにしてかれらが四散すると、わたしは二百名の赤色人戦士を上陸させ、丘の向こう側から頂上に通じているトンネルへと導いた。ここでちょっとした抵抗にあったが、口装銃の一斉射撃を浴びせて行く手をはばむやつらを撃退し、ほどなく地卓《メーサ》を占領した。ここでもまた抵抗にあったが、ついにフージャの残党は降服した。
ジュアグがわたしに同行していたので、わたしは時を移さずかれとその一族にこの丘の頂上を返還してやった。ここはフージャに奪取されるまで先祖代々かれらの居住地だったのだ。わたしはこの島を王国とし、ジュアグをそこの王とした。出帆する前にジュアグをともなって獣人の首長グル‐グル‐グルを訪問した。そこでわれわれ三人は、獣人と島民とが仲よく平和に暮らせるよう一連の掟を定めた。人間の生活風習を身につけさせるため、グル‐グル‐グルは帝国の首都サリに帰るわたしとともに自分の息子を同行させた。わたしはこの一族をペルシダー最高の農耕民族にしてあげたいと念願している。
艦隊に引き揚げてくると、ジュアグ一族の島民の一人で、われわれ一行が到着したときに居合わせていなかった男がちょうど本土から戻ってきた。かれは、『恐ろしい影の国』に大軍が陣をしいてスリアをおびやかしているという知らせをもたらした。わたしは時を移さず錨を上げて本土へと出帆した。短い楽な航海を経て、わたしたちは本土に到着した。
アモズ号の甲板から、ペリーが持ってきた双眼鏡で岸を眺めた。双眼鏡で見える距離まで近寄ったとき、たしかに戦士の大軍が城壁をめぐらしたスリアの族長グループの部落をびっしりと包囲しているのが見えた。接近するにしたがってもっと小さいものも見わけられるようになった。無数の旗や小旗《ペナント》が包囲軍の頭上にひるがえっているのを発見したのはそのときのことだ。
わたしはペリーを呼んで双眼鏡を渡した。
「サリのガークだ」とわたしはいった。
ペリーはレンズ越しにしばらく見ていたが、やがてにやりとしてふり向いた。
「あれは帝国の三色旗、まさしく皇帝陛下の軍隊でございますな」
浜のほうからもわたしたちを発見していたということがまもなく判明した。なぜなら大勢の戦士が浜に集まってこっちを見守っていたからだ。わたしたちは船をできるだけ岸に近く、船上と岸とで容易に対話できる距離まで寄せて投錨した。ガークがいて、かれもまた目をまるくしていた。あとになってかれが語ったところによると、これがペリーの艦隊だとわかっていたものの、あまりのすばらしさに接近してくるところを見守っている間ですら、われとわが目を信じることができなかったという。
この再会に相応な効果をあげるため、サリの国王陛下ガークに敬意を表して二十一発の礼砲を打つよう、各フェラッカ船に命令した。砲手の中には、勢いこんだあまり実弾を発射したものもあったが、幸い、海に向けて発射するだけの分別は持ち合わせていたので被害は出なかった。このあと、われわれは上陸した――各フェラッカ船には小舟が一|艘《そう》ずつしかなかったので、これは根気のいる仕事だった。
わたしはガークから、スリアの族長が生意気な態度をとりがちだという報告を受けた。皇帝のことなど何も知らないし、関心も持っていないとガークにいったそうだ。だが艦隊の威容と砲声がかれの迷いをさましたのだろう、ほどなくかれは代理人をつかわして、部落にかれを尋ねてくれるようにと招待してきた。部落に行くと、かれはわたしにたいする不敬を詫び、嬉々として帝国に忠誠を誓い、その報酬として王の称号を受けた。
わたしたちはグールクと協定を取り決める期間だけスリアに滞在した。諸協定の中には、千頭のリディ、すなわち運搬用動物と、その御者を帝国陸軍に配属するというかれの約束もふくまれていた。これらの動物と御者とは、艦隊がダイアンとジュアグとわたしが嵐で吹きとばされた例の大河の河口へと航行している間に、ガークの軍隊と同道して陸路サリへ向かうこととなった。
航海は平穏だった。河はすぐに見つかり、これまでわたしが見たことがないような肥沃ですばらしい原野の間を何キロもさかのぼっていった。わたしたちは艦隊の先頭を切って上陸し、フェラッカ船には充分な見張りをつけておいて、残る行程をサリへ向かって行進した。
ガークの軍隊は連盟に加入している全部族から派遣された戦士によって構成されていたが、かれらはわたしたちがサリに到着後まもなく、帝国復興のためにつくしたガークの努力の成果を目《ま》のあたりに見せて堂々とサリに行進してきた。スリアからの千頭のリディもいっしょだった。
王たちの協議会では、ただちにマハールに対して大規模な戦争を起こすべしという決議がなされた。これらの傲慢な爬虫類はペルシダーの人類の進歩を妨げる最大の障害であるというのがその理由だった。わたしが立てた作戦計画は王たちから熱烈な賛同を受けた。決議に従ってわれわれはサリへ五十基の大砲をはこんでくるようにという命令を持たせてただちに五十頭のリディを艦隊に派遣した。また、艦隊にたいしてはアノロックに向けて即刻出帆するように命じた。これは、艦隊が遠征に出発してこのかた完成したライフルと弾薬をアノロックで積みこみ、定員いっぱいの乗組員を乗せて沿岸を航行させ、マハールの地下都市プートラに近い内海に通じる航路を発見させるためだ。
ジャは、船の通れる大河がプートラの内海とルラル・アズを連結しているということから、何か支障でも起こらないかぎり艦隊は陸の軍勢とほとんど同時にプートラまで行けるだろうと確信していた。
ついに大軍団は行軍の途についた。連盟の全王国から戦士が出てこれに参加していた。戦士たちはすべて弓矢か口装銃で武装していた。必要なだけの乗組員をフェラッカ船に残してメゾプの分遣隊の大部分がこの行軍に配属されていた。わたしは全軍を、師団、連隊、大隊、中隊に分割し、さらに小隊や分隊にまでわけた。そして将校と下士官を必要数だけ任命し、長途にわたる行軍の間にその任務を教えこんだ。一人が任務を習得すると、その男を他のもののところへ教官として送りこんだ。
各連隊は約千名の弓射手によって構成され、それぞれにメゾプの口装銃兵一中隊と砲兵一中隊が臨時に配属された――この砲兵隊というのは、軍艦の大砲を持ってきて巨大なリディの背に載《の》せた一隊だ。またそのほかに、メゾプの口装銃兵一連隊と、原始的な槍兵一連隊もいた。残りのリディは運搬動物として、また婦女子を運ばせるのにつかった。われわれは、帝国のうちのどの王国であろうとその国の安全をおびやかすマハール国家があるかぎり、これをことごとく征服するまで次々にマハールの都市をめぐって攻撃するつもりだったので、婦女子を同行させていた。
プートラの平原に到達するより前に一隊のサゴスに発見された。かれらは最初、踏みとどまって挑戦しようとしたが、わが軍の厖大な数を見てくるりと踵を返し、プートラめざしていっさんに逃げ帰った。この結果、地底都市の入り口を示す百の塔の見えるところまで兵を進めたときには、サゴスとマハールの大軍がわれわれと一戦をまじえるべく戦列をしいて待機していた。
あと千メートルという地点でわれわれは停止した。そして両翼の小高い所に砲列をしいて実弾を浴びせはじめた。砲兵隊の総指揮官ジャはこの方面の指揮にあたり、すばらしい戦果をあげた。このころにはかれのひきいるメゾプの砲手たちがかなり腕前をあげていたためだ。サゴスどもはこういったたぐいの戦争には我慢ができなかった。そこで悪鬼のように喚声をあげながら突撃をかけてきた。それをうんとそばまで引きつけておいて第一線の口装銃兵がいっせいに火蓋をきった。
それは無残な大量|殺戮《さつりく》だったが、それでも生き残ったものは前進をつづけ、ついには白兵戦となった。こうなるとわが槍兵は貴重な存在だった。帝国の戦士たちの大部分が身につけている粗末な鉄製の剣もまた同様だった。サゴスが突入してきて以来、わが軍はこの白兵戦で大損害をこうむったが、結局サゴスどもは皆殺しとなった――捕虜一人として残っていなかった。戦況を見てとったマハールは急遽地下都市に逃れた。マハールの部下のゴリラ人間を破ったわが軍はかれらのあとを追った。
しかしここでわが軍は一時的にもせよ敗北を喫する憂《う》き目を見なくてはならなかった。先頭の一隊が地下都市に下りていくやいなや、そのうちの多数のものが爬虫類の放ったある種の猛毒ガスにいぶされて窒息しそうになり、よろめきながらわれがちに地上へ引き返してきたのだ。わが軍はここで多数の兵を失った。そこでわたしは、慎重にもしんがりに控えていたペリーを呼びよせてちょっとしたものを作らせた。地下都市の入り口で反撃に合うこともあろうかと、かねてから考案しておいたものだ。
指図に従ってペリーは一基の大砲に火薬や小弾や石ころをほとんど砲口までぎっしりと詰めこみ、それから円錐形の木片で砲口をぴったりと閉じ、砲身に深く叩きこんで、できるだけきつく栓をした。次に長い導火線をさしこんだ。その大砲を十二人がかりで都市の内側に通じている階段の上までころがしていって、まず砲架から下ろした。それから一人が導火線に点火した。くだんの大砲はひと押し押されて階段からゴロゴロところげ落ちていき、その間に男たちは踵を返して安全な距離にてんでに四散した。
ずいぶん長い時間が経過したように感じられたが、その間何ごとも起こらなかった。階段をころがり落ちている間に導火線が消えたのだろうか。それともマハールがわれわれの意図に気づいて火を消したのだろうかと気がかりになり出したとき、入り口付近の大地が突如として吹っ飛び、つづいてものすごい爆発音が起こって煙と火焔が土くれや大砲の破片とともにどっとばかりに空中高く舞い上がった。
ペリーは巨大な爆弾の最初の一発を完成すると、時を移さずあと二発を製作にかかっていた。ほどなくわれわれはこれらの爆弾を他の二つの入り口に投入した。これで充分だった。三度目の爆発が起こったあとほとんどすぐに、われわれのいるところからもっとも遠い出口からマハールがぞろぞろと溢れ出て、翼をひろげて北方の空に向かって舞い上がった。リディに乗った百人の戦士が追跡を開始した――各リディは御者のほかに二人のライフル銃兵を乗せていた。マハールの行く先がプートラの北方にほど近い内海だとにらんだわたしは、二連隊をひきいてあとを追った。
都市のあるプートラ平原と、マハールがよく冷水浴に行く内海との間には低い尾根があって、この尾根の頂上をきわめるまで内海は見えない。
この尾根の頂上でわたしは生涯忘れることのできない光景を目撃した。
海岸線に沿ってリディの一隊がずらりと整列し、一方、渚から百メートルの水面はマハールの長い鼻面と冷やかな爬虫類独特の目で黒々と埋めつくされているではないか。精悍《せいかん》なメゾプのライフル銃兵と、かれらより背が低くずんぐりとした色白のスリア族の御者は小手をかざしてマハールの向こうの沖合いを見つめており、また、マハールも同じ地点を凝視している。何が一同の注意を引き付けているかを発見してわたしの胸はときめいた。二十隻の優雅なフェラッカ船が、爬虫類の集団に向かって海面をすべるように進んでくるのだ!
マハールどもはこんな船を見たことがなかったから、この光景にすっかり度肝を抜かれたのにちがいない。しばしの間、かれらは接近してくる艦隊を凝視するよりほかに何らなすすべを知らないかに見えた。だがメゾプ兵が銃撃を開始すると、爬虫類は艦隊の方がくみしやすいと見てとったのか、フェラッカ船めがけて急速に泳ぎはじめた。艦隊の司令官はマハールどもを百メートル以内まで引きつけておき、次にありったけの砲門を開いて射撃を開始した。同時に乗組員の銃も火を吹いた。
最初の一斉射撃で大多数の爬虫類が殺された。マハールどもは一瞬たじろいで水にもぐった。そして長い間姿を現わさなかった。
それでもついには艦隊のはるか向こうに浮かび上がり、フェラッカ船が方向を転じてあとを追うと、水面を脱して北方に飛び去った。
プートラの陥落につづいてわたしはアノロックを訪問した。島の人々はペリーが建設した造船所や工場でせっせと働いていた。また、わたしはペリーが話してくれなかったあることを発見した――それは火薬工場や兵器庫場よりはるかに有望なことのように思えた。一人の青年が、地上世界からわたしが持ち帰った本の一冊を熱心に読みふけっていたのだ! 青年はペリーが宿所兼事務所として建てた丸太小屋の中に坐っていたが、あんまり夢中になって読んでいたので、わたしたちがはいっていったのにも気がつかなかった。ペリーはわたしの目に驚愕の色が浮かぶのを見て微笑した。
「わしがアルファベットの手ほどきをしたんだよ。そう、あれはわれわれが最初に試掘機へ行って荷物を運び出していたときのことだったな。
あの若者は本を見て非常に不思議がり、いったい何に使うものかとしきりに知りたがった。説明してやると、読み方を教えてくれときた。そこでわしはできるかぎり時間を割いて教えてやった。かれはなかなか頭がよくて、覚えも早く、わしが出発するまでにめきめきと上達した。かれはほかの連中に読み方を教えることになっているんだ。その資格ができしだいにね。もっとも、最初は大変だったよ。なにしろなにもかもペルシダー語に訳さなくてはならなかったからね。
この問題を解決するためには長い時間がかかるだろう。だが大勢のものに英語の読み書きを教えることで、いっそう早くかれら自身に字を与えることができると思うんだ」
アノロック島のペリーのせまい小屋に坐って、集約農業に関する本を一字一句拾い読みしているこの素裸に近い赤色人戦士――これこそわたしたちが将来建設しようとしている学校や大学の一大教育制度の基礎なのだ。今ではわたしたちは――
いや、このことについてはのちほど話を終える前に述べることにしよう。
アノロックに滞在中、わたしはジャをともなって『南島』へ遠征に出かけた。『南島』とはペリーが命名したもので、アノロック諸島を構成している三つの最大の島のうちのいちばん南の島だ。わたしたちは、これまで長い間ジャに敵対していたそこの部族と平和を結んだ。彼らは喜んでジャと友好関係を結び、連盟に加入するまでになった。わたしたちはそこから六十五隻のフェラッカ船をひきいてアノロックの宿敵の住む群島中の本島、はるかかなたのルアナに向かった。
フェラッカ船のうち二十五隻は、ジャとペリーが偶然ダイアンとわたしを発見して救ってくれたあの時の船よりも大型で、新しい型のものだった。船体も長く、帆もずっと大きくて、船足もいちだんと早い。各船には大砲が四門搭載され――これまでの船は二門だった――しかも戦闘に際しては敵がどこにいようと一門ないしはそれ以上を使うことができる。
ルアナ群島は本土の方向から見ると視界をわずかに越えたところにあって、そのうち最大の島だけがアノロックから見えている。ところが接近してみると、それが数多くの美しい島からなっていて、人口も稠密《ちゅうみつ》だということが判明した。むろん、ルアナ島民も、かれらにもっとも近く、しかも恨みも深い敵の領土内で起こっていることをまるで知らないわけはなかった。かれらはわが軍のフェラッカ船も、大砲も知っていた。攻撃隊の隊員数名がひどい目に会ったことがあるからだ。
だが、かれらの大首長である老人は、フェラッカ船も大砲も見たことがなかった。そこでかれはわたしたちをひと目見るや、わたしたちを威圧してやろうというわけで、戦闘用の大カヌー約百艘からなる船隊に投げ槍で武装した戦士を満載して向かってきた。そのようすがなんとも哀れだったので、わたしはジャにそういった。なんとか避ける方法があるなら、この哀れな連中を虐殺するにしのびないという気持がしたからだ。
驚いたことにはジャもわたしと同じ気持だった。他に戦わなくてはならない異民族がいっぱいいるのに、同族のメゾプと争うのは気がすすまないのだ、とかれはいった。そこでわたしは、首長に声をかけて和平交渉を申し入れてはどうかとかれに提案した。ところがジャがわたしの提案通りにすると、ばかな老いぼれはわたしたちが恐れをなしたのだと思いこみ、喚声《かんせい》を上げて戦士たちをけしかけた。
そこでわが軍も攻撃の火蓋《ひぶた》を切ったが、わたしの提案で首長のカヌーに砲火を集中した。その結果、ほぼ三十秒以内にはくだんの戦闘用丸木舟はひと握りの木《こ》っ端《ぱ》を残して跡形もなく消滅し、一方、命拾いをした乗組員も、かれらを喰おうと浮かび上がってきた無数の怪物どもと水中で死闘を展開していた。
幾人かは救い上げたが、大多数のものはフージャとそのカヌーの乗組員同様、二発目がかれらを転覆させた時に生命を失った。
わたしたちは再び残る戦士たちに向かって平和交渉にはいるよう呼びかけた。しかしそこに首長の息子が居合わせた。父が殺されたのを目《ま》のあたりに見た今となっては、かれは申し出に応じようとはしなかった。なんとしてでも復讐をとげるつもりなのだ。そこでやむなくわたしたちはこの勇敢な男たちに向かっていっせいに火蓋を切った。だがそれも長くはなかった。というのも、たまたまルアナ島民の中に首長やその息子よりも賢明な頭脳の持ち主がいたからだ。ほどなく丸木舟の一艘を指揮していた一人の老戦士が投降した。そのあとは、一艘また一艘とやってきて、ついには全員がわが軍の甲板に武器を置いたのだった。
わたしたちはわが艦隊の隊長全員とルアナの主要人物を旗艦に召集した。今回の儀式に、よりいっそうの重要性と威厳を付与するためだ。われわれが征服者なのだから、かれらとしては死か、あるいは奴隷となることを覚悟していたが、かれらはそのいずれの罰も受ける必要がなかったので、わたしはそういってやった。慈悲は勇敢な行為と同じく高潔な特質だということ、そして肩を並べて戦った味方の兵士の次には、勇敢な敵に対して敬意を表すべきだということ、勝利を得た場合には敵にも味方にも相応の慈悲と名誉をもって報いるべきだということ――ここペルシダーでわたしはこういったことを野蛮な人々の心に植えつけることを常としていた。
この政策を堅持することにより、征服されたあとは地底世界の古来の伝統に従って虐殺されるか、あるいは奴隷にされるかだった多くの優秀にして高貴な種族を連盟に加えることができたのだった。かくてわたしはルアナ島民を手中におさめた。わたしはかれらに自由を与えた。そしてかれらがわたしに対して忠誠を、またジャにたいしては友好と平和を誓ったあと、武器を返してやり、降服するという立派な分別を持ち合わせていたかの老戦士をルアナの王とした。老首長とその一人息子はともに戦死していた。
わたしたちが出帆するとき、ルアナは帝国のうちの一王国として加えられた。かくて帝国の境界線は東に数百キロ拡張された。
わたしたちはいったんアノロックに引き返し、そこから本土へ帰った。本土で再びマハールにたいして兵を挙《あ》げ、次々と大地下都市を攻撃した。そしてアモズのはるか北方を通過して、ついにこれまで来たことのない国まで兵を進めた。わが軍は各都市でサゴスを殺し、あるいは捕虜として、マハールをさらに遠くへと追いやって勝利をおさめた。
マハールどもがいつも北方に逃げるということにわたしは気づいていた。サゴスの捕虜たちはたいていごく簡単にわが軍に寝返った。そもそもかれらはけものも同然の輩《やから》だったから、わたしたちが腹いっぱい食べさせてくれて思うぞんぶん戦わせてくれるということがわかると、嬉々としてわが軍とともにマハールの都市に進撃し、同族の戦士と戦った。
かくてわが軍は前進し、北へ、西へ、南へと大きな半円をえがいてふたたびスリアの北方のリディ平原の境界に帰還した。この地でわが軍はそれまで長年にわたって『恐ろしい影の国』を荒らしてきたマハールの都市を征服した。わたしたちがスリアに兵を進めると、グールクとその一族はわたしたちがもたらした知らせに狂喜した。
この長期にわたる遠征の間に、わたしたちは連盟のことをまだ一度も聞いたことのない未開人部落の住む七つの国を通過し、そのすべてを帝国の傘下《さんか》に収めることに成功した。注目すべきことは、これらの諸部族の付近にはそれぞれにマハールの都市があったということだ。マハールは長年にわたってかれらを奴隷と餌食の供給源にしてきたので、種族の民話はいずれも伝統的に爬虫類に対する恐怖を何がしかは反映しているのだった。
わたしはこれらの国々にそれぞれ将校一人と戦士とを配置してきた。これは彼らに軍事教練をほどこして武器の受け入れ態勢をととのえさせるためで、ペリーの兵器工場で生産ができしだいに武器を供給するつもりだった。というのも、マハールが絶滅するのはまだまだ遠い将来のことだという気持がわれわれにあったからだ。マハールが北へ飛び去ったのはわたしたちが大軍をひきいて大砲とともに撤退するまでほんの一時期だけであって、やがてもどってくるだろうということをわたしは確信していた。
これらの怪物をペルシダーから完全に駆逐するということは、どう考えても絶対に不可能なことだ。というのも、マハールの大都市は帝国臣民がいまだ足跡を印したことのない遠隔の地に何百何千と存在しているにちがいないからだ。
しかし現在のわたしの領土内には、わたしの知るかぎりでは一都市も残っていない。わたしたちの目を逃れたマハールの大都市があれば間接的に耳にはいってくるにちがいないからだ。とはいっても、むろん帝国軍隊はわたしが現在統治している広大な地域のすみずみまで踏破したわけではないが。
スリアを去った後、わたしたちは政府の所在地であるサリに帰還した。ここ、ルラル・アズの海が大陸に打ちよせる雄大な湾を見おろす広大肥沃な台地に、わたしたちはサリの大都市を建設中である。わたしたちは製造所や工場を建て、男女に農耕の基礎を教えている。ペリーは印刷機第一号を完成した。そして十二人のサリの若者たちは仲間にペルシダー語の読み書きを教えている。
わたしたちには公正な法律がある。だがそれも数からいえばごくわずかなものだ。国民はいつも楽しみながら働いているので幸福だ。金銭《かね》というものがないし、いかなる物品にも金銭的な価値はつけられていない。わたしたちが生きているかぎり、「もろもろの悪しきことの根」となるものをペルシダーにもちこまないことにしようということでペリーとわたしの意見は一致した。
他の人間が作ったもので、ほしいと思うものがあれば、自分が作ったものと交換することはできる。しかしこのようにして手に入れたものを売ることはできない。換言すれば、生産者の手を離れた瞬間から生産物には金銭的な価値がなくなるのだ。余剰物資はすべて政府の手にかえってくる。このことは国民が政府にかわって生産しているということを意味し、政府は余剰品を他の民族が作ったものと交換することができるという仕組みだ。こうしてわたしたちは王国間の交易を計っている。そしてその間《かん》の利益は、農機具の製造工場を建設したり、現在少しずつ国民に教えこんでいる各種の職業に必要な機械を製作したりするのに使われて国民の生活向上に役立っている。
すでにアノロックとルアナはそれぞれに数ヵ所の大造船所を擁していて、たがいに造船の優秀性をきそっている。また、アノロックは火薬を製造し、鉄鉱石を採掘している。そして自分たちの船を利用してスリアやサリやアモズと非常に有利な交易を進めている。スリア族はリディを飼育している。リディは象のように力が強くて利口なので、優秀な運搬用動物として利用されている。
サリとアモズの近郊では|大縞カモシカ《ヽヽヽヽヽヽ》を飼育している。この肉は非常にうまい。かれらが馬具に馴らされるのもそう遠い先のことではないとわたしは確信している。ペルシダーの馬はあまりにも小さすぎて、そういった用途には向かない。中にはフォックステリアと同じくらいの大きさの種類もいるほどだ。
ダイアンとわたしは湾を見おろす大宮殿に暮らしている。ここの窓には窓ガラスがはいっていない。そもそも窓がないのだ。壁の高さは床面から一メートルたらずしかなく、あとは天井まで吹き抜けになっている。もっとも、永遠の真昼の太陽をさえぎるために屋根はついているが。ペリーとわたしは、後世の人々が肺結核で苦しむことのない建築様式を設定することにしたので、通風はすこぶるいい。まだ好んで洞窟に住んでいるものもあるが、多くの人々はわたしたちと同じような家を建築中だ。
グリニッジには町を作り、測候所を設立した――とはいっても頭のすぐ上にある不動の太陽のほかには観測するものもないのだが。
『恐ろしい影の国』のはずれには別の測候所がある。そこから一日に二十四回、帝国のすみずみまで時間が無線で送信される。無線の他にサリには小規模な電話設備がある。いずれもまだ初歩の段階だが、地上世界における二十世紀の科学を参考に、わたしたちは急速な進歩を遂げつつある。そして地上世界のあらゆる短所欠点を教訓に数々の危険を避けることによって、ペルシダーの人々の求めるこの世の理想郷《ユートピア》にちかいものになる日もそう遠くないとわたしは考えている。
現在、ペリーはサリからアモズに到る鉄道の敷設工事にあたっていて留守だ。サリにほど近い湾頭に厖大な無煙炭の炭田があるので、鉄道はこの開発に役立つだろう。彼の教え子の幾人かは、目下機関車を研究中だ。石器時代のジャングルの中を『|鉄の馬《アイアン・ホース》』(機関車)が煙を吐いて通り、穴熊や、剣歯虎や、マストドンや、その他太古の無数の怪物どもが塒《ねぐら》から目を丸くしてこれを見物している光景はなんとも珍妙なものだろうと思う。
わたしたち――ダイアンとわたし――は幸福だ。たとえ王侯貴族の富を山と積まれても私は地上世界に帰る気はない。ここで満足なのだ。たとえ皇帝としての権力や名誉を持ち合わせていなくても、わたしはきっと満足していたにちがいない。なんとなれば、わたしにはあらゆる財宝秘宝のうちでももっともすぐれた宝、すなわち、貞淑な女性の愛――すばらしい皇后、美女ダイアンの愛――があるではないか?
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[解説]バローズとファンたち
SF、およびSF周辺の作家たちのなかで、エドガー・ライス・バローズほど幅広いファン層をつかんでいる作家は一人もないといってよい。特定の作家を対象にしたファン・クラブ――たとえばコナン・ドイルのシャーロック・ホームズにおけるべーカー・ストリート・イレギュラーズ――がつくられているのは、バローズ以外にはないといっていいだろう。かろうじてこれに類するものにラヴクロフトがあるくらいのものである。
しかもERB――エドガー・ライス・バローズなどとわざわざいう必要もない、すべてERBで通用する――のファン・クラブはひとつやふたつではない。大小無数の――といえば語弊があるが、とにかくEBRの作品がすきですきでしょうがない、というファンたちのグループの正確な数は、おいそれとつかみきれないほどの数になるのである。
バローズの諸作が邦訳されはじめて以来、わたしは未知のアメリカ人からいったい何通の手紙をもらったことだろう。
「未知のあなたに突然お手紙をさしあげる無礼をおゆるしください……」にはじまって「わたしは日本国内において出版されているERBに関する全部のアイテム(本だけではない、全部のアイテムなのだ)がほしいのです。お礼としてERBの肖像写真か、ペルシダーの初版本をあげますから……」などというたぐいのものである。
たまたま、かなり以前に自動車のポンコツ屋で、買ったパーツを包んでくれた紙が、なんと昔なつかしいワイズミューラーのターザン映画のポスターだったので、なんかの記念にととっておいたのがあったので、そいつを送ってやったところが、やっこさん喜ぶまいことか。
「オオ、わたしの喜びをあなたにお伝えするすべが、ペンだけであるのは非常に悲しい……」みたいな手紙をよこしてきた。「当地にはERBのファンが非常に多く、全員がそれを持つことを熱望しております。ついてはさらに二〇枚ほどお送りいただけますまいか……」
いまさらノコノコ堅川町くんだりまで、ポスターをさがしにいくほどとっぽくもないので、まあ油にまみれたその一枚でご勘弁をねがったが、そんなたぐいの手紙はそれこそワンサとやってくる。
日本語が読めるわけでもあるまいにとは思うのだが、そもそもアメリカの最有力なERBファン・クラブ「バローズ・ビブリオ・ファイル」の親玉あてに送ってやった古い講談社版の子供むけの「ターザン物語」数冊のおかげで、わたしはたちまち同クラブの極東地区代表にまつりあげられたんだから、おしてしるべし。「ペルシダー」などは何冊送ってやったかしれない。
がんらいファンなどというのは、そんなものであって、そんなものでなければつまらないものなのだろうが、傍目《わきめ》にはずいぶんと珍妙なものに見えることにまちがいはないだろう。
あるアメリカのファンで、自宅の居間に仏壇をしつらえたやつがいる。ひもをひっぱると、スルスルとカーテンがめくれあがり、なかにぱっとお灯明がともって、その奥に鎮座ましますジョン・カーターのやつ、火星の美女デジャー・ソリス妃の御真影を照らしだす――というんだから吹きだしてしまう。
しかしご当人は大まじめ、近々もっと仏壇を大きくするんだとはりきっている。
現在ERBのファン・クラブでもっとも大きいのは「バローズ・ビブリオ・ファイル」と「ERBダム」の二つだろう。
前者は本部をミズーリ州カンザスシティにおき、正会員千人を号しているが、そのなかには、バランタイン・ブックスのイアン・バランタイン、作家のスカイラー・ミラー、SF評論家のサム・モスコウイッツ、エース・ブックスのD・A・ウォルハイム、世界最大のSF本コレクター、F・J・アッカーマンなどがずらりと名をつらねており、機関誌「バローズ・ビュレティン」をはじめいくつかの刊行物が発行されている。
一方で「ERBの女性観」などと称してデジャー・ソリスと美女ダイアンの比較論を大まじめでやってるかとおもえば、ERBが若いころ鉄道警官をやっていた時分の写真をとりあげて、やれ、あの口ヒゲはのちにERBがペンで落書したものだとか、そうじゃないとか派手な論争がもちあがったりしていて、まことにファンのムード横溢の、たのしい機関誌である。
かたや「ERBダム」のほうは、カミル・カサドジュという一ファンの個人誌で、購読会員制をとっているが、この機関紙「ERB」は、アメリカにSFファンジンのかずあるなかで、装幀といい内容といい、おそらく最高のレベルを保持しているといってよい。ヒューゴー賞を獲得しているのもむべなるかなと思う。ペルシダー地図だとか、地球空洞論の紹介だとか、大変実のある記事が多い。
ERBファンたちのこうした活動や、その成果のひとつであるファンジンを手にしてしみじみ感じるのは、SFにはまだまだいろんなたのしみ方があるのだなという感慨である。第一ページから巻末まで読みとおして、それでおしまいというのではない。あっちをひっくりかえし、こっちをつっつきまわし、仲間たちと語りあい論じあい、ああでもないこうでもないとひねくりまわしているその姿を見るにつけ、ERBという男は本当に幸福な男だったのだなという感慨を禁じえないのである。(野田昌宏)