ペルシダーに還る
E・R・バローズ/佐藤高子訳
目 次
第一部 ペルシダーに還る
第二部 青銅器時代の男
第三部 虎の女
第四部 野性のペルシダー
[#改ページ]
登場人物
[#ここから1字下げ]
デヴィッド・イネス……地底帝国ペルシダーの皇帝
美女ダイアン……イネスの妻
アブナー・ペリー……イネスの親友
疾風のホドン……伝令、サリ人
ガーク……サリの王
ウース……カリの王
オー・アア……ウースの娘
ジャ……アノロックの王
カンダー……アモズの王
ファシュ……スヴィの王
ラジ……メゾプの族長
コー……メゾプの男
アー・ギラク……老人
ガンバ……ロロ・ロロの王
ホア……ロロ・ロロの祭司長
ファープ……タンガ・タンガの王
オープ……タンガ・タンガの祭司長
ラ・アク……カンダの男
ブラグ……オー・アアの許婚者
ハムラー……タンダールの族長
マナイ……ハムラーの妻
ボヴァール……ハムラーの息子
ステララ……ガークの息子の嫁
ユータン……ザーツ族の男
ジャルー……ザーツ族族長
ザーク……ジャルーの息子
ラジャ……ロ・ハール人
ジャヴ……二等航海士
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
第一部 ペルシダーに還る
デヴィッド・イネスはサリへ帰ってきた。一週間留守にしていたのか、あるいは何年もいなかったのか、それはわからない。ペルシダーは相変わらずの真昼だった。しかしペリーはその間に飛行機を完成していた。かれは鼻高々で、デヴィッド・イネスに見せるのを今や遅しと待ちかまえていた。
「飛ぶのかい?」イネスがたずねた。
「きまっているじゃないか」ペリーがぴしゃりといった。「飛行機が飛ばないでどうする」
「どうにもならないだろうな」イネスは答えた。「もう飛ばしてみたのかい?」
「まだにきまってるじゃないか。処女飛行の日は、ペルシダー年史に新時代を画《かく》する日となるんだ。きみのご臨席を仰がずに飛ばすと思うのかい?」
「そいつはかたじけない。ありがたく感謝するよ。で、いつ飛ばすんだい?」
「今、たった今さ。見に来たまえ」
「いったい飛行機を何に使うつもりだい?」
「爆弾を落すためだよ、きまってるじゃないか。まあ考えてもみたまえ。どんなにすさまじい暴威を発揮するか。そいつが頭上を旋回する。飛行機を見たことのないここの気の毒な連中が、穴から飛び出してくる。そこを想像してごらん。そういう連中がこれで長足の進歩を遂げることになるんだよ。考えてもみたまえ! わずか二、三個の爆弾で、一つの部落を吹っとばすことができるんだからね」
「一九一八年に終わった第一次大戦のあとでぼくが地上に帰ったとき、戦争に飛行機を利用するという話をずいぶん耳にしたが、そのおり、爆弾よりもはるかに大きな被害と死をもたらすという兵器のことも聞いたよ」
「そいつはなんだね?」ペリーは熱っぽい口調でたずねた。
「毒ガスさ」
「ははあ、なるほど。ま、そいつはあとで考えてみることにしよう」
デヴィッド・イネスはにやりとした。アブナー・ペリーほど心のやさしい人間はいないということをかれは知っている。ペリーの大量殺人計画が純粋に学問的なものだということもわかっていた。ペリーは純粋かつ単純な理論家なのだ。「ま、いいだろう。きみの飛行機を拝見しようじゃないか」
ペリーはせまい格納庫に案内した――石器時代のペルシダーには妙な取り合わせだ。「ほうら!」かれは誇らしげにいった。「あれがそうだ。ペルシダーの空を最初に飛ぶ飛行機だよ」
「あれが飛行機かい? ちっともそれらしく見えないぜ」
「それは、ある種のまったく新しい原理にもとづいているせいだよ」ペリーは説明した。
「飛行機というよりか、モーターと操縦席がてっぺんについたパラシュートみたいだぜ」
「いかにもさよう! わかりがいいねえ、きみは――ところが見た目にはわからない、いいところがあるんだな、これには。きみも知ってのとおり、飛ぶってことの危険の一つは、当然のことながら落っこちるということだが、こんどパラシュートの原理にもとづいて設計することによって、わしはその危険を大幅に減少させたんだよ」
「しかし、いったいどうやって空中にとどまっているんだい? 何によって浮かび上がるのかな?」
「機体の下に送風装置があるんだ。エンジンによって作動するんだがね。そいつが〈翼〉の下からまっすぐ上にむけて強力な空気の流れを間断なく噴出するんだ。むろん、飛んでいるあいだは気流によって機体を支えられているわけだ。この点は他のこれほど進歩していない設計のものと同様だ。そしてまた送風装置は急速に高度をあげる助けをする」
「で、きみはそのしろものに乗っかって上がろうっていうのかい?」イネスがたずねた。
「どういたしまして。その名誉はきみのためにとっといたんだよ。考えてもみたまえ! ペルシダーの天空を最初に飛んだ人間! きみはわしに感謝してしかるべきだよ、デヴィッド」
デヴィッド・イネスは微笑を禁じ得なかった。ペリーはあくまでも天真|爛漫《らんまん》なのだ。
「そうだな」イネスはいった。「きみを失望させたくないから、アブナー、ひとつテストしてみるか――ただ飛ばないという証拠をきみに見せるためにね」
「驚くなよ。|揚げひばり《ヽヽヽヽヽ》さながら天空高く舞い上がるからな」
飛行機を検分し、飛行ぶりを見物するために、すでに大勢のサリ人が集まっていた。かれらはみな一様に懐疑的だった。だがその理由はデヴィッド・イネスのそれとはまた別のものだった。かれらは航空学に関しては何も知らない。しかし人間は飛ぶことができないということは知っている。群集の中に美女ダイアンの姿があった。ダイアンはデヴィッド・イネスの妻だ。
「あなた、あれが飛ぶとお思いになって?」彼女はイネスにたずねた。
「いいや」
「ではなぜ生命を賭けるのです?」
「もし飛ばないのなら危険はないじゃないか。それにぼくがためしたらアブナーが喜ぶよ」かれは答えた。
「名誉にはならないわ。だってこれはペルシダーを飛ぶ最初の飛行機じゃないんですもの。あなたが飛行船だといっていたあの大きな乗物が飛行機を持って来ましたわね。あれを操縦していたのはジェイスン・グリドリーじゃなかったかしら。シプダールが墜落させてしまったけど」
二人は飛行機を入念に調べながら周囲をめぐった。パラシュートに似た単葉の骨組は竹製だった。外皮は大恐竜の腹膜で作ってある。恐竜の腹膜というのは、薄い透明な膜で、この用途にはうってつけだった。操縦席は翼の上部の中に作ってある。モーターは前方ににょっきりと突き出ている。そして後部には、エンジンとバランスをとるように設計されたとおぼしき長い尾部がある。そしてそこには、水平安定板、垂直安定板、方向舵、昇降舵がついている。
エンジン――ペルシダー最初のガソリン・エンジン――は第一級のできばえだ。これはペリーの指導のもと、精密機械なしで、石器時代の人々がほとんど手でこつこつと作り上げたものだ。
「エンジンはかかるかい?」イネスがたずねた。
「むろんかかるさ」ペリーが答えた。「もっとも、いささか騒々しいきらいはあるよ。それに、いくらか改善の余地はあるがね。それにしても調子はいいよ」
「そうだといいがね」とイネス。
「用意はいいかい、デヴィッド?」発明家はたずねた。
「いいとも」イネスは答えた。
「では操縦席にのぼりたまえ。操縦装置の説明をしてあげるよ。何もかもごく簡単だということがわかるから」
十分後、イネスが、「この飛行機の操縦法でわかることは全部会得したよ」というと、ペリーは地上に降りていった。
「みんな、どいた、どいた」ペリーはどなった。「今やきみたちは、まさにペルシダー史における新時代の開幕に立ち会おうとしているんだぞ」
一人の整備員がプロペラのところの位置についた。プロペラは地面からずいぶん上にあるので、かれは特別製の梯子《はしご》の上に立たなくてはならなかった。機体の左右にそれぞれ一人が立って車輪の下から車輪どめを取りのける態勢をとっている。
「始動《コンタクト》」ペリーがどなった。
「始動《コンタクト》」イネスが応じた。
プロペラのところにいた男がプロペラをまわした。と、エンジンはかかりそうにパタパタパタと音を立て、ついでぱったりと止まった。「こいつはおどろきだ」イネスが叫んだ。「ほんとうに点火したぞ。もう一度やってくれたまえ」
「もっとスロットルを開け」ペリーがいった。
整備員はふたたびプロペラをまわした。こんどはエンジンがかかった。整備員は梯子からとびおりて、梯子を引きずりながら離れた。デヴィッドはスロットルを今少し開いた。するとエンジンは機関座からとび上がりそうになった。まるで百人の人間が百台のボウラーを一度に製造しているような音がする。
デヴィッドは二人の男に、車輪どめを引けとどなった。だがモーターの騒音ごしでは誰にも聞こえない。手を振り、指をさして合図をすると、ようやくペリーがかれの望んでいることを理解して車輪どめをどけさせた。みんなが目を皿のようにして見守るうちに、デヴィッドはスロットルをさらに開いた。エンジンの回転が上がった。そして|飛行機は動き出した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! ただし後ろにむかって! 飛行機はぐるりとまわった。そしてイネスがモーターを切ることができないでいるうちにサリ人の群集の中へ突っこむところだった。
ペリーが頭をかきかき近づいてきた。「いったい何をしでかしてくれたんだね、デヴィッド。きみは飛行機を逆立ちさせるつもりかい?」
デヴィッド・イネスは声をたてて笑った。
「何を笑っているんだ?」ペリーが問いただした。「われわれは偶然、気体力学において何かセンセーショナルな発見をしたかもしれないんだよ。前にも後にも進む戦闘機を考えてみたまえ! 敵機をどうやって避けるか、その機動性を考えてみたまえ! どんなことを|してくれたんだ《ヽヽヽヽヽヽヽ》、デヴィッド?」
「この名誉はすべてきみのものだよ、アブナー。これはきみがやったことなんだから」
「わしがやったことだって? そいつはまたどうして?」
「きみはプロペラのピッチを逆にむけたんだ。この飛行機は後ろ以外の方向に進めないわけさ」
「ああ、そう」ペリーは弱々しくいった。
「それでも動くんだから」イネスはなぐさめ顔でいった。「それに簡単に直せるよ」
ペルシダーには時間というものがないから、プロペラを改変するのにどのくらいかかるかだれも気にするものはなかった。ペリーとかれの整備員二人をのぞいて全員が木陰や飛行機のかげに横になり、プロペラのピッチの方向が直ったとペリーが告げるまでそうしていた。
イネスが操縦席につき、整備員がプロペラをまわし、エンジンが始動し、車輪どめがぐいと引きのけられた。エンジンは咆哮《ほうこう》し、ボコボコ音をたてて踊った。機体はその震動にあわせて地面からはねあがらんばかり。イネスは操縦席の中であんまりはげしく振りまわされるので、操縦装置に見当をつけることも、その上に手足をのせていることもほとんどできないありさまだった。
突如として飛行機は前進をはじめた。惰力がついた飛行機は、ペリーが格納庫を建設するために選んだ長い平坦な土地の上を猛然とかけだした。イネスは懸命に操縦装置にとっ組んだが、飛行機はいっかな飛び立とうとしない。まるで嵐の海にもまれるようにはねまわるので、しまいには目がまわってきた。と、ふいに外皮が焔《ほのお》と化した。
イネスが焔に気がついたとき、機は滑走路の終わりに迫りつつあった。かれはモーターを止め、ブレーキをかけ、そして跳んだ。一瞬おくれてガソリン・タンクは爆発した。アブナー・ペリーの最新の発明は煙と消えたのである。
アブナー・ペリーの最初の火薬は燃えず、飛行機は地上から離れようとせず、最初の船は進水の際に転覆した。しかしそれでもなおかれは、運命の女神と〈鉄製もぐら〉がかれを地球の中心にある世界に運んできていらい、非常に数多くのことをなしとげたのだった。
かれは鉱石を発見して精錬した。鋼鉄を製造した。セメントを作って非常に良質のコンクリートを製造した。また、サリで石油を発見したかれは、それを精製してガソリンを作りだした。また、小武器や大砲を製造した。金、銀、白金、鉛、その他の金属を発見してこれらを採掘した。たぶんかれは世界中でもっとも多忙かつ有用な人間だろう。問題は、石器時代の人々――少なくともその大部分が、ペリーがこれまでかれらのためにしたことや、してやれることの真価を認めるだけ進歩していないということなのだ。
かれの手になるライフル銃を持った戦士たちが、戦闘中にそれをほっぽりだし、石斧をかざして敵を追っかけたり、あるいは銃身をひっつかんで棍棒の代用にしたりすることもしばしばだった。かれはサリの部落の近くにポンプで水をあげる給水場を建設し、コンクリート管を通して部落の中まで送水するようにしたが、それでも女たちの多くは、相も変わらず八百メートルも歩いて泉まで行き、瓢《ひさご》に水をくんで頭の上につり合いをとってのせて帰ってくる。彼女らにとって時間というものは意味がなく、水入れを頭にのせて運ぶことによって姿勢がよくなるというわけだ。
しかしそれでもなおペリーはやめなかった。かれは絶対に悲観したりしないのだ。ほとんど年中きげんがよく、お祈りをしていないときはさかんに毒づいている。デイヴ・イネスはかれを愛した。〈美女ダイアン〉も、サリの王〈毛深い男ガーク〉も同様だった。事実アブナー・ペリーを知っているものは誰でもかれを愛した。かれのもとで働いているサリの若者たちは、かれを尊敬し、さながら神のごとくかれを崇《あが》めた。アブナー・ペリーは非常に幸せだった。
飛行機が失敗に終わったあと、かれはここしばらく胸中に暖めてあった別の発明にとりかかった。その結果、何が起こるかをあらかじめ知っていたなら、かれとしてもおそらくは計画のすべてを放棄しただろう。だがむろん、かれには知るよしもないことだった。
飛行機の事件につづいて、デヴィッド・イネスは一隊の戦士をひきいて旅立った。かれが皇帝として選ばれたペルシダー帝国を構成する連盟王国のうち、怠慢な数ヵ国を視察するためだ。まず最初にアモズに立ち寄った。アモズは、サリの北東三百キロ、地図のない未踏の大洋〈ルラル・アズ〉の洋上にある。アモズから九百キロ北東にカリの国があった。カリは、この方角で今なお帝国に忠誠をつくす王国の最後の一つだ。カリの西方六百キロにあるスヴィは、連盟から離脱してカリに侵攻しきた。スヴィの王ファシュは、以前に美女ダイアンを捕虜にしていたことがあったが、その行為にたいする報復措置はいまだにとられていなかった。
北方にむかうとき、このことがデヴィッド・イネスの胸中にあった。ファシュを一度こらしめてやるのもいいことだ。それにたぶん、スヴィの王座にだれか帝国に忠実な人物を置くことも。
サリは海岸線になかったので、一行は二百四十キロ行軍してグリニッジに行き、そこからペリーの指導のもとに創設された帝国海軍の船の一隻に乗船した。ちなみにグリニッジはデイヴ・イネスとアブナー・ペリーによって創建され、命名されたところだ。ペルシダーの本初|子午線《しごせん》はここを通過しているが、これもまたイネスとペリーの創案だ。
一行はグリニッジから〈EPSサリ〉に乗船してアモズに渡った。この〈ESP〉というのはペリーの思いつきで、〈|U  S  S《ユナイテッド・ステーツ・シップ》 カリフォルニア〉というのと同じように、〈| E P S《エンパイア・オブ・ペルシダー・シップ》 〉という意味だ。このサリ号には、ペルシダーのほとんどの船と同様、アノロック島の住民で、海洋民族であり、戦士である赤い肌をしたメゾプ族が乗り組んでいた。かれらは、ペリーとイネスがかれらを帆船に引き合わせるまでカヌーだけしか知らなかった。しかしかれらはすぐにこの新しい船をマスターして、デヴィッド・イネスが教えてやれるだけのわずかな航海術の知識をのみこんだ――いっさいが推測航法で、助けとなるものといえばお粗末な羅針儀だけだった。
不動の太陽のもと、星や月の助けもないとすれば、航路のしるべとなるものは皆無に近い。メゾプ族は、かれらの島の近海の潮の干満や潮流に関しては知りつくしている。イネスとペリーは羅針儀と、測定器と、経緯儀《クロノメーター》をあたえた。この経緯儀《クロノメーター》はかつて正確だったためしがなく、また絶対に調整のできないしろもので、そのためめったに利用されなかった。かれらの航路は大むねあてずっぽうの神まかせだったが、それでもけっこう目的地に行きつくのだ。かれらはどんな場合でも最短コースをとって家路につくことができた。これは驚異的な帰巣本能のなせるわざで、この本能は全ペルシダー人に共通のものだった。道しるべとなる天体がないということにたいする天与の代償なのだ。
アモズの王はカンダーという。この王という称号は〈皇帝〉と同じくペリーの発案だ。カンダーは連盟の他の王たちのように、穴居人の一族の長である。進化と文明の段階からいうと、かれは地上世界のクロマニヨン人と同程度で、またクロマニヨン人と同程度に聡明な人物だった。
イネスはかれから、ファシュがまたしてもカリと戦闘中だということを聞いた。南下してきてアモズとサリを征服し、ペルシダーの皇帝になってやると豪語したというのだ。イネスは戦士を五十人しかつれてきていなかったが、カリに帰ってそこの模様をじかに見てこようと決心した。まず伝令にことづてを持たせてサリに送り返し、アモズに船団を集結して、収容できるだけの戦士を船に乗せ、カリにむかうようにとガークに指令した。それから、五十人の戦士からなる分道隊をカンダーから借りうけて、カリをめざして船出した。百人の戦士をESPサリに満載して。
九百キロの航路をへて、サリ号はカリの正面の海岸に到達した。カリは六十キロの奥地にある。イネスはそこから一人の伝令をカリの王ウースに急派した。伝令は〈疾風《はやて》のホドン〉。勇気と忠誠をもって知られた戦士である。たしかに、使命を帯びて未開の国ペルシダーを行くのは勇気のいることだった。獰猛《どうもう》な野獣や、それに輪《わ》をかけて獰猛な爬虫類がつねにゆくてをおびやかし、敵意を抱く種族が途中待ち伏せていることもあるのだ。
カリまでの六十キロの間、ずっとホドンは幸運に恵まれて進んだ。一度、タラグに遭遇した。タラグというのは巨大な剣歯虎だ。けだものは襲ってきたが、経験を積んだ伝令は最上の自衛手段を知っているものだ。あけっぴろげの広野を真直ぐに突っ走るのではなく、ちょうど商船が潜水艦を避けてジグザグ航行するように、木から木へとつたって駆ける。人喰いを常習とする剣歯虎は、おそらく何度も人間狩りをした経験からこの策略を見抜いているかもしれない。それはともかく、今回のタラグにかぎってホドンがどの木からもいちばん遠くにいるときに襲撃のタイミングを合わせてダッととび出した。
それは手に汗にぎるレースだった――ホドンにとっては死のレースだ。というのも、タラグに遭遇して単身これを倒したものはほとんどいないからだ。ときたま、超人的な戦士が、普段携行している頑丈な長槍で単身タラグを倒したと得意がっていることもあるが、ホドンは身軽に走るために槍は持っていなかった。かれが生命をたくすことができるものといえば、足の速さだけだ。足の速さとそれに石の短刀だけしかない。
タラグは大きく跳躍しながらぐんぐん迫ってくる。なみの人間ならすぐにも追いつかれるところだが、ホドンはなみの人間ではない。本名に加えられた〈疾風《はやて》〉の異名も伊達《だて》ではなかった。かれは本領を発揮して駆けにかけた。
大野獣がわずか二、三メートル後に迫ったとき、ホドンは目あての木にとびつき、よじのぼって難を逃れた。それから一本の枝に腰をかけ、ペルシダー人が思いつくかぎりのおびただしい悪口雑言を浴びせた。ペルシダーにはそういう言葉はたくさんある。
タラグは、ホドンが降りてくるのをおめおめと待ってはいなかった。どんな人間にしろ、のこのこと喰われに降りてくるまで待っていては餓死してしまうということを、タラグは体験から学びとっていたのかもしれない。かれは別の獲物を求めて立ち去った。
それから少し先で、別の木がシプダールの爪からホドンを救ってくれた。シプダールというのは、中世代の水蒸気の立ちこめた空を飛びまわっていたような、巨大な翼竜だ。翼幅が六メートルもあるこの雄大なプテラノドンは、獲物を求めて空高く待っているとてつもなく大きい鷲《わし》か鷹《たか》といったところで、どんなものでも生きものがいたらときを移さず舞いおりようというかまえだった。プテラノドンにたいする唯一の防御は木陰にはいることで、今回もホドンはその逃げ場にたどりつくのにまにあった。
爬虫類は怒って、シューッという音を発すると、飛び去った。その姿が見えなくなると、ホドンはカリへの旅をつづけ、それ以上の冒険もなく目的地に到達した。
カリの部落は、その大部分が石灰岩の断崖にある洞穴で、ほかに料理や集会に使われる粗末な草|葺《ぶ》き屋根の小屋が二、三戸、崖のふもとにある。
ホドンが部落に近づくと、戦士が十人ばかり出てきて応接した。どこでも警備のいきとどいた部落に接近した場合はこうだということを、かれは一応予期していた。戦士たちは、どんな用件できたのかとたずねた。ホドンが、ペルシダー皇帝よりカリの王ウースにあてた伝言をたずさえてきたと告げると、かれらは互いに顔を見合わせた。かげでひそかにほくそ笑《え》むものもいた。
「王に伝えてしんぜよう」一人がいった。「ここで待て」
ほどなく男がもどってきて、ホドンについてくるようにといった。かれを応接した戦士全員が同道した。これは客を尊重する一種の護衛だったのかもしれないが、ホドンはそれよりも囚人を護送するみたいだという感じを受けた。
かれは草葺きの小屋の一つに導かれた。そこには一人の男が、他の戦士たちにかこまれて床几《しょうぎ》に腰をおろしていた。
「ペルシダー皇帝よりカリの王ウースにどんな伝言を持ってきたのだ?」男はたずねた。
ところで、ホドンはこれまでカリに来たことがないし、ウースを見たこともなかった。しかし、この男が王だということはかれの目にも明らかだった。いやなやつだと思い、本能的に嫌悪を感じた
「あなたが王様ですか?」かれは伝言を伝える前にたしかめたいと思ってたずねた。「カリの王様ですね?」
「そうだ」男は答えた。「わしはカリの王だ。それで、どんな伝言だ?」
「皇帝は、百人の戦士をのせた皇帝の船が、カリの海岸の沖合いに碇泊中だということをあなたにお知らせしたいというご意向です。皇帝は、あなたがスヴィの王ファシュに手を焼いておられるということを聞き、そのことであなたと会談したい。ついては帝国にたいする反逆のかどで、ファシュを罰するための遠征隊を送ろうと思うが、というご意向です。わたしはあなたのお返事を皇帝に伝えにもどることになっています。皇帝と会談するためにあなたのほうから海岸へ出向かれるか、それとも皇帝がここへこられるのを望まれるか。というのも、一つの部落が余分に百人の口をやしなうのはいかなる場合でも容易ではないということを皇帝はごぞんじだからです」
「皇帝にはわしが伝令を送ろう」カリの王はいった。「きみはここに残って休息したまえ」
「わたしの任務は、伝言をわたし自身で皇帝にお届けすることです」ホドンは答えた。
「ここでは命令するのはわしだ」王はいって、ホドンをとりかこんでいる戦士のうちのリーダーにむかっていった。「この男を上の洞穴につれていって見張りをつけておけ。逃げないように気をつけろ」
「これはどういうことです?」ホドンが追求した。「わたしはサリ人で、皇帝の部下の一人だ。あなたのしておられることは反逆ですぞ」
「あっちへつれて行け」王がいった。
番兵はホドンに、あぶなっかしい木の梯子をむりやり断崖のいちばん上の階までのぼらせた。のぼりつめたところにはせまい一筋の岩棚があって、数個の洞穴の入り口の前を通っている。見張りの戦士二人が、すでに梯子のてっぺん付近の岩棚の上にどっかり腰をおろしていた。別の二人が洞穴の一つの口の前にすわっている。ホドンはこの洞穴に追いこまれ、同時にカリの王はデヴィッド・イネスへの伝言を持たせて一人の伝令を急派した。
目が内部の暗闇になれてきたとき、ホドンは自分が一人きりではないということを知った。洞穴は大きく、優に五十人の戦士が床の上にうずくまったり、横になったりしていた。
「おまえは何者だ?」ホドンがすわる場所を求めて手さぐりで進んでいくと、その中の一人がたずねた。
「おれはどうやら捕虜になったらしいんだ」ホドンが答えた。
「われわれはみんな捕虜だ」その男はいった。「おまえがはいってきたとき、だれだかわからなかったが、カリ人か?」
「あんたはそうなのか?」ホドンはたずねた。
「われわれはみなカリ人だ」
「それなら、なぜカリで捕虜になっているんだ?」
「男たちが狩猟でほとんど出払っているすきに、スヴィの戦士が襲撃してきて部落を占領した。われわれがもどってくると、やつらは待ち伏せていて襲撃し、大勢を殺して残りの者を捕虜にしたのだ」
「では崖のふもとの小屋にすわっていた男はカリの王ではないのか?」ホドンはたずねた。
「部落を占領したというので、カリの王だと自称している」男は答えた。「しかしカリの王はわたしだ」
「あなたがウースだと?」
「わたしがウースだ。そしてカリの王だと自称している男は、スヴィの王ファシュだ」
「では、わたしは皇帝の伝言を皇帝の敵に伝えてしまったんだ。だが、わたしには見わけるすべがなかった」
「で、その伝言はわたしあてだったのか?」ウースはたずねた。
「あなたあてです」ホドンはいって、伝言をくりかえしてウースに伝えた。
「こまったことだ」ウースはいった。「もうファシュは警戒しているからな」
「ファシュは何人の戦士を擁《よう》しているのですか?」
「わたしは手の指の数の十倍までしか数えることができない。われわれカリ人は、イネスやペリーに多くの教えを受けたサリ人のように利口ではないのだ。しかし手の指全部を十回数えるとして、ファシュはその五倍の戦士を擁しているといえるだろうな」
ホドンは首をふった。「脱走しなくちゃ。もしわたしが二度眠ったあとももどらなかったら、皇帝はわたしを追ってこられるのです。そうなったら皇帝の軍勢は五対一のわりあいで圧倒されてしまいます」
「脱走は無理だよ。岩棚には四人の戦士がすわりこんでいるし、崖のふもとには戦士が大勢いる」
「岩棚に出るのはかまわないのですか?」
「ちゃんとした理由があれば、岩棚の端の小洞窟に行ってもよいのだ」
「ちゃんとした理由はありますよ」そういうとホドンは洞穴の口に行って見張りの戦士の一人に話しかけた。
戦士がぶっきらぼうに、よし、といったので、ホドンは岩棚に出てむこうの端の小洞窟にゆっくりと進んでいった。かれは下を見ずに、頭上わずか一メートルばかりのところにある頂上のほうを、岩壁の表面をすかしてずっと見上げながら進んだ。
一人の戦士が、ルラル・アズの海岸に現われた。かれは、岩から少しはなれた小湾内に碇泊中の船をみとめ、船上にいる者の注意をひくまで大声で呼びかけた。小舟が一|艘《そう》、船のかたわらに浮かんでいたが、やがて数人の赤銅色の戦士が船の甲板から海に飛びこんでその小舟によじのぼり、櫂を操って岸にこぎよせてきた。そばまでやってくると、かれらは浜にいる戦士に大声で呼びかけ、何者で、何用なのかたずねた。
「わたしはカリの王からペルシダー皇帝にあてた伝言を持っている」男は答えた。ついで小舟が岸につけられ、使者は小舟にのせられた。ほどなくかれはサリ号の甲板に引きあげられ、デヴィッド・イネスの前につれ出された。
「カリの王からの伝言を持っているそうだな? なぜわたしの部下はわたしの命令どおりその伝言を自分で持ち帰らなかったのだ?」イネスがたずねた。
「あの人は病気で、非常に疲れています」使者は答えた。「それで、遅れないようにと王がわたしをつかわしたのです」
「で、伝言とは?」
「王はあなたにカリに来ていただきたいと願っております。攻撃を受ける危険がありますので、王はカリを離れることができないのです」
「よしわかった。すぐに行こう」
「わたしが先に行って王に伝えます。王は大変喜ばれることでありましょう。お一人でおいでになりますか?」
「わたしは百人の戦士をつれて行く」イネスは答えた。
こうしてデヴィッド・イネスはカリにむけて出発した。そしてファシュの使者はこのことを王に伝えるために一足先に帰って行った。
ホドンは岩棚をゆっくりと歩いていった。頭上の断崖の側面をすみずみまで調べながら進むうちに、むこうの端の小洞窟にたどりついた。ここで断崖は下方に傾斜していて、ホドンの頭の上から頂上まで一メートルあるかなしだった。かれは岩棚ぞいにふり返った。番兵の一人がかれをじっと見ている。そこでホドンは身をかがめて小洞窟にはいり、すぐさま回れ右をしてちょっと間をおき、それから外をのぞいてみた。番兵はまだ見ている。ホドンは洞窟にひっこんでちょっとの間そこにじっとしていてから、思いきって出てきた。かれはがっかりした。番兵のうち二人が目をはなさずかれを監視しているのだ。かれの計画を成功させるには、ちょうどだれも見ていないすきを見はからわなくてはなるまい。今は洞窟牢にもどるよりほかはなかった。
牢の中で、かれは現在計画中のことを実行に移す助けとなるなんらかの方法をひねりだそうとした。そしてついに一つ思いついた。かれはウースのかたわらに行ってすぐそばに腰をおろし、小声でそれを説明した。
「やってみよう!」ウースはいった。「だがわたしがいったことを忘れるなよ――脱走は無理だとな」
「やってみることならできますよ」ホドンはいった。
しばらくして――それが地上世界の時間で一時間か、一日か、あるいは一週間か、だれにわかろう?――岩棚の番兵は交代した。するとホドンは時をうつさず洞穴の口まで行って、岩棚の端の小洞窟に行ってもよいかとたずね、ふたたび許可を得た。
かれはゆっくりと岩棚を歩いていった。こんどは下を見た。断崖のふもとには女や子供の姿は見えたが、戦士はわずかしかいない――たぶんこれで部落を防備するだけの人数なのだろう。では他の戦士はどこか? ホドンは、読めた、と思った。そしてなんとか逃げおおせようといらだった。だが逃げたところでまにあうだろうか?
小洞窟に着いたとたん、背後で大声にわめきさけぶ声を聞いた。洞窟の内部からもれてくるような、くぐもった声だ。さっとふり返って、四人の番兵が洞窟牢にかけつけるのを見たホドンは、にんまりと微笑した。
デヴィッド・イネスがカリに出発したあと、アブナー・ペリーはせっせと新計画に取り組んでいた。かれはイネスが帰還したときに見せるだけの値打ちのあるものを、何か作り出してやろうと決心を固めていた。それというのも、かれはいまだに例の飛行機の大失敗を、少々気に病んでいたからだ。
かれは恐竜を――それも見つけられるかぎりいちばんでかいやつを――仕留めさせるべく猟人を派遣した。ただし、倒した恐竜の腹膜だけを持って帰れという命令をつけて。猟人たちが出かけている間に、かれはこれまでの間に――どれだけの間かだれにわかろう?――何百万立方メートルという天然ガスをペルシダーの空高く噴出していた天然ガス井戸に蓋《ふた》をすることに成功した。
かれは大勢の女たちにロープを編ませ、また別の女たちには大きな籠を作らせた――直径一・二メートル、高さ一メートルという籠だ。これは今までサリ人が見た最大の籠だった。
この作業が進行している最中に、イネスからの使者が到着して、ガークに、大勢の戦士を率いて出発せよという命令をつたえた。一行が出発してしまうと、あとにはわずかな戦士しか残らなかった。任務で毎日新鮮な肉をとりに出かける二人の猟人以外は、かれらは守備隊として部落にいなくてはならなかった。部落は女でいっぱいだったが、だからといってペリーの計画に支障はなかった。というのも戦士たちはすでにありあまるほどの恐竜の腹膜を持ち帰っていたからだ。
腹膜を引き伸ばし、乾燥し、摩擦してすっかりなめした。ついでペリーは、それらをかれが作った型にしたがって奇妙な形に裁断し、女たちは非常にこまやかな針目でそれらをつぎ合わせた。ついで、ペリーがこれなら天然ガスの成分に冒されないだろうと判断した接着剤を用いて、女たちはつぎ目を封じていった。
この作業が完了すると、ペリーはその大きな袋を女たちが編んだロープで籠にとりつけた。そして籠の底には、長さ百五、六十メートルの、さらに太いロープをつけた。サリ中のだれもそんなロープは見たことがなかったが、かれらはもうずっと前からペリーのすることにはそれほど驚かなくなっていた。
ペリーは短いロープを何本も使って、周囲の地面に打ちこんだ杭《くい》に籠をつなぎ止めた。それから、袋のすぼまった末端の口までガス井戸から土管をひいた。つまりペリーは気球をつくったのだ! かれにとっては、それは何トンという強力な爆弾を搭載することのできる大飛行船団、断崖に住む無数の恵まれない人々に文明をもたらす大飛行船団の先がけだった。
ホドンは微笑した。それは浮かぶと、ほとんど同時に消えた、つかのまのわずかな微笑だった。それから岩棚の小洞窟の前でいったん身をかがめてとび上がった。ホドンは脚が自慢だった。それはカリ全体の自慢の種でもあった。かれの足はペルシダー帝国随一で、この評価に反対するものは今までのところいなかった。かれの脚は走力と同様、跳躍にもすばらしい力を発揮した。ホドンは楽々ととび上がって崖の上端に指をかけることに成功した。そこは固い石灰岩だった。ホドンは最初に崖を調べたとき、それを確認していた。崖の端まで表土がつづいていたら、こう簡単にはいかなかったろう――事実、不可能だったと思われる。だがそこには表土はなかったし、固い岩石は崩れてこなかった。それはしっかりともちこたえて、邪悪なファシュの腹黒い陰謀をくじくために一役はたしたのだった。
ときどき、われわれは、カラーのボタンだとかズボンのチャックといったような無生物が、わざと依固地《いこじ》になって人間に楯つくのにうんざりさせられることがある。しかし、つまるところ、そんなものの中にも人間の最良の友がいるということを忘れてはなるまい。たとえば一ドル紙幣を考えてみたまえ――だがこれ以上例をあげる必要もなかろう。読者のほうで、わたしと同じくらいたくさん思いつくことができるだろうから。
そんな次第で、〈疾風《はやて》〉のホドンはカリの断崖の頂上をよじ登って越えたが、だれも見ているものはなかった。くるときは石の短刀を持っていたのだが、取り上げられてしまったので、今やまったくの丸腰で、おそらくは六十キロにおよぶ、危険がいっぱいの地域をこえなくてはならないことになった。しかし、かれは恐れなかった。ときどきわたしは考えるのだが、大昔の石器時代の男たちは並はずれて勇敢だったにちがいない。いや、並はずれて勇敢であることが必要だったのにちがいない。さもなければ生きながらえることができなかったろう。臆病者はしばしの間――餓死するまでのしばしの間だけ――生きのびるかもしれない。しかし、勇敢な男たちは、自分自身と家族の食物を得るために出かけて行って、恐ろしい生物と直面し、敢然と戦わなくてはならなかった。ホドンが今考えている唯一のことは、デヴィッド・イネスが待ち伏せに会う前にかれのもとに到達することだった。ファシュが待ち伏せていることはたしかだ。かれは敏速に進んだ。ただし物音はたてなかった。そして危険にたいしてつねに油断なく全感覚をそばだてていた。鋭い目をはるか前方までくばり、敏感な鼻孔で変わりやすい風のまにまにただよってくるすべての匂いをとらえた。かれは、風にむかって駆けていてよかったと思った。前方に待ち受けるどんな危険もほとんど予知できるからだ。
突然かれはある匂いを嗅ぎつけて怪訝《けげん》そうに眉をひそめた。その匂いは、前方に一人の女がいることを物語っていた――女一人――女がいるはずのないところに。こんなに部落を離れた場所ではすくなくとも男が一人、いっしょにいるにちがいない、というのがかれの判断だったが、かれの鼻孔は男がいないということをかれに告げていた。
かれは引きつづき女のいる方角へ進んだ。それがかれのむかっている方角だったからだ。かれはこれまでにもまして用心深く進んだ――これまでより以上に用心深くなれるならのの話だが――そしてついに女を発見した。女の背はかれのほうにむいていた。彼女は八方に目をくばりながらそろそろと進んでいた。どうやらこわがっているらしい。女は手を肩にかけられはじめて他に人がいるということに気づいた。とたんに彼女は身をひるがえした。その手には短剣が、玄武岩を削って作った細身の短剣があった。彼女は身をひるがえすと同時にホドンの胸にすさまじい一撃を加えた。
ホドンはペルシダー人だったから、こんなこともあろうかと予期はしていた。というのも、石器時代では、見知らぬご婦人と挨拶をしたら無事にはすまないからだ。というわけで、ホドンはそのつもりで身がまえていた。かれは女の手首をつかまえて押さえつけた。するとこんどは女は噛みついてきた。
ホドンは爛々《らんらん》と輝く女の目を見おろして微笑した。女が若くて美人だったからだ。「きみは何者だ? こんなに部落をはなれたところで、一人で何をしている?」
「そんなこと、あたしの勝手よ。放して! あたしをつかまえとこうったって、そうはいかないよ。そんなことしようものならきっと殺してやるから」
「きみにかまってるひまなんかないよ。だが、最初に現われる宿無しタラグの餌食にさせるには、若くて美人すぎるからな。来たければいっしょに来てもいい。ぼくたち二人できみの短剣一振りしかないが、きみのために使ってあげよう」
「あなたが何者なのか、それをおっしゃい」女はさっきよりちょっぴりおだやかな口調でいった。
「ぼくはサリのホドンだ」
「サリ人ですって! それならあたしの父の一族の味方よ。サリ人ならあたしに悪いことしないわね」
「するなんてだれがいった。|ぼくはサリ人だよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。さあ、きみはだれなんだ?」
「あたしオー・アア。カリの王ウースの娘よ」
「それできみは、ファシュがきみの一族を征服したので逃げだしたんだな。そうだね?」かれは女の手首をつかんでいた手を放し、女は短剣を鞘《さや》におさめた。
「そう、あなたのいうとおりよ。ファシュがカリを征服したあと、あたしは逃げてきてやった。ファシュはそれで助かったのよ。だってあたしはかれを殺していたでしょうからね。いいこと、あたしは王の娘で、母は――」
「きみの身の上話を聞いているひまはないんだ。いっしょにくるのか、こないのか?」
「あなたはどこへ行くの?」
ホドンは話して聞かせた。
「あんたの態度が気に喰わないわ。それにたぶんあなたのことを好きにならないだろうけど、いっしょに行くわ。だれも連れがないよりましだもの。あたしは王の娘だから丁重に取り扱われるのになれているのよ、父の部下はみんな――」
「来たまえ! きみは口数が多すぎるよ」そういうとホドンはふたたび海岸の方角にかけだした。
オー・アアはかれのかたわらを小走りについてきた。「きみのおかげで遅くなりそうだな」ホドンはぶつぶついった。
「あたしはあんたと同じくらい速く、遠くまで駆けられるわよ。母の父は国中でいちばん足が速かったし、兄は――」
「きみはおふくろさんのおやじさんでもなきゃ、にいさんでもないだろ。ぼくはきみがどれだけ速く、どこまでかけられるかということだけしか興味がないんだ。ぼくについてこられないなら置いてけぼりになるぞ。皇帝の運命はきみの運命よりずっと重要なんだからな」
「これで走ってるっていうの、え?」オー・アアはあざけるようにいった。「いいこと、あたしは小さいときに走ってオルトピをつかまえたものよ。みんなあたしが速いので驚いてたわ。あたしの母の父や、あたしの兄でさえ走ってオルトピはつかまえられなかったのよ」
「きみはたぶん嘘をついてるんだろ」ホドンはスピードをあげながらいった。
「いったわね。兄に殺されるわよ。兄はすごく強い戦士なのよ。兄は――」
今やホドンは非常な速力で走っていたので、ホドンの狙いどおりオー・アアは息が切れて、走ることとしゃべることの両方を同時にできなくなった。
サリの王〈毛深い男ガーク〉は、千人の戦士を二隻の船に乗船させた。船はサリ号よりずっと大きかった。サリ号は、ペリーが建造した最初のまともな船で、今では実際上、旧式になっていた。サリ号が一ポンド砲を二基、船首と船尾に一基ずつ搭載しているのにたいし、新しい船は八基を、下甲板の両側に四基ずつ搭載していた。それらの砲が発射する砲弾は、ときたま爆発すべきときに爆発するが、たいがいはぜんぜん爆発しない。または早発するのだった。しかしそれでも大砲は申し分のない騒音を発し、もうもうたる黒煙を噴出した。
ペリーの最初の一ポンド砲がはじめて発射されたとき、砲弾はコロコロところげ出て大砲の前の地面にドスンと落っこちたものだ。イネスにいわせると、これはこれで長所があるんだ、砲弾をむだにしないですむからね――なに、弾をちょいと拾い上げてもう一度使えばいいんだから、ということになる。しかしペリーの新しい大砲は、砲弾をたっぷり一キロ先まで飛ばすので、ペリーは大得意だった。難をいえば、射撃の相手が見つからないことだ。ペルシダーには、コルサールの海軍のほかには知られた海軍はないし、そのコルサールもサリから八千キロ海のむこうにある。
ガークの遠征軍がカリにむかって沿岸を進撃しているとき、デヴィッド・イネスとかれの百人の戦士は部落をめざして奥地へ進軍していた。イネスの部下の半数は、ペリー式マスケット銃、すなわち滑空・口装・火打ち石銃を装備し、あとの半数は弓矢を携行していた。また、全員が担当を持ち、多くのものはペルシダー人が好んで用いる短槍を携帯していた。短槍は皮紐で首から背にまわしてつるしてあった。
これらの戦士はみな歴戦のつわもの――ペルシダー陸軍の〈精鋭隊〉だ。ペリーはかれらのことを〈親衛隊〉と命名し、イネスはかれらの無骨で個人主義的な自我に規律といったものを叩きこむことに成功した。今しも、かれらは四列の散開隊形をとって行進していた。前衛と側衛がいて、前衛の百メートル前方には三人の戦士が最前衛を形成している。イネスは待ち伏せにたいするそなえをおろそかにしていなかった。
カリまでの約半分まで踏破したとき、最前衛は小丘の頂上で停止し、中の一人がきびすを返して本隊に馳《は》せもどってきた。
かれはイネスのもとに直行して、「大勢の戦士がこっちへむかってやってきます」と報告した。
イネスは部下を位置につけてゆっくりと前進した。マスケット銃兵は最前列にいた。かれらが不揃いながら一斉射撃をやると、たいがいどんな敵でもその銃声と硝煙に驚いて退散することになっている。これはよいことだった。というのもめったにだれにも命中しなかったからだ。マスケット銃隊が発射したあと、弓の射手がその列から進み出て第一線に立ち、その間にマスケット銃兵が再|装填《そうてん》する。
しかし今回はこういったことは何一つ不要だった。というのも、最前衛からかけもどった使者は、接近しつつある軍勢は味方だと告げたからだ――ウースの戦士が、一行をカリに迎えて部落まで護衛するためにやっきたのだ。
イネスは自分でじきじきに調べてやろうと前へ行った。丘の頂上でかれは一人の毛深い穴居人が待っているのを発見した。そのむこうに戦士の大軍が見える。
「ウースはどこだ?」イネスはたずねた。
「ウースは病気なのです。腹痛でくることができませんので、あなたをカリに案内するよう、わたしをよこしました」
「なぜあんなに大勢の戦士をよこしたのだ?」
「われわれはスヴィと交戦中で、ファシュの戦士が近くにいるかもしれないからです」
イネスはうなずいた。相手の説明は当を得ているように思えた。「よろしい。案内したまえ」
イネスの部下は前進した。ほどなくむこうの軍隊と合流した。かれらは食物をくれ、親しく交流しようとしているように見えた。かれらは〈親衛隊〉の戦士の間へはいってきて食物を手渡し、野卑な冗談を飛ばした。マスケット銃にひどく興味を持ったようすで、手にとってしげしげと観察した。そのうちに〈親衛隊〉の銃は全部この友好的な戦士たちの手に渡り、〈親衛隊〉の隊員一人をそれぞれ四、五人の戦士が取りまいている形になった。
ホドンは近道をした。かれとオー・アアは森の中を通って丘をこえた。そして森のはずれまでくると立ち止まって下の小谷を見おろした。谷あいには何百人という戦士がいる。ホドンの鋭い目はその中にデヴィッド・イネスの姿を発見した。またかれはマスケット銃兵のマスケット銃を見た。どうもおかしい。これらの戦士の大部分がスヴィの王ファシュの戦士だということはわかっていた。だというのに戦いはおこなわれていない。男たちは平和と友好のうちに交流しているかに見える。
「どうもわからないな」かれは思ったことを口に出していった。
「あたしにはわかるわ」オー・アアがいった。
「わかるって、何が? きみの家の系図の講釈はぬきにして、二、三ことで話してくれたまえ」
オー・アアが気色《けしき》ばんだ。「あたしの兄が――」
「ちぇっ、兄貴なんかくそくらえだ!」ホドンが大声でいった。「きみ自身にわかっていると思うことを話してくれりゃそれでいいんだ。これからあそこへ下りていってデヴィッド・イネスと合流するからその間にたのむよ」
「そんなことしようなんて、あんたもけっこうバカね」彼女はせせら笑った。
「そいつはどういうことだ?」
「あれはファシュの策略の一つなのよ。まあ見てらっしゃい。下りていったら、また洞窟牢に逆もどりよ――かれらがあなたを殺さなければね。そうなったらせいせいするんだけど」
彼女がしゃべり終えないかに、友好的な戦士のリーダーが、わっと鬨《とき》の声をあげた。そして数人の部下とともにデヴィッド・イネスにおどりかかり、地面にねじ伏せた。それを合図に、他の友好的な戦士たちは、それまで取りかこんでいた〈親衛隊〉の隊員にとびかかった。いくらか抵抗もあったが、無駄なことだった。二、三人が殺され、多数が傷を負った。しかし結果は決っていた。五分とたたないうちに、生き残った〈親衛隊〉の隊員たちは後手にしばりあげられていた。
ついでファシュが、身をかくしていた茂みの後ろから出てきてデヴィッド・イネスに対面した。
「きさま、それでも皇帝かね」ファシュは冷笑した。「ペルシダー全土の皇帝になりたかったろうな。だがきさまはのろますぎる。皇帝になるのはこのファシュさまだ」
「そういうことかもしれん」デヴィッド・イネスがいった。「――すくなくとも当座はな。それで、われわれをどうするつもりだ?」
「おれさまに従うと約束する者は殺さぬ。それ以外は殺す」
「わたしの部下一人を殺すたびに、五人のスヴィ人が死ぬぞ」
「大口をたたいているが、何もできまい。きさまはもうおしまいだぞ、デヴィッド・イネス。その、きさまたちがいたという別の世界にじっとしておればよかったのだ。ペルシダーへ来てよけいなことをしても何もなるまいが。きさまの処置はどうするかわからん。たぶん殺すことになるかもしれんし、人質にしておいて船や大砲と交換するかもしれん。今やおれさまがカリの王でもあるのだから、船を利用することもできるわけだ。それで残るペルシダーを征服してやる。おれさまは皇帝だ! ルラル・アズの岸に都を建設してやる。それですぐにだれが皇帝か全ペルシダーに知れ渡るだろう」
「大きな口をきくやつだ。たぶんおまえはそれでみずから墓穴を掘るだろう」
「拳《こぶし》も大きいということを見せてやる」ファシュはうなるようにいうと、デヴィッド・イネスをなぐり倒した。
ファシュの命令で、二人の戦士がイネスを手荒らに立たせた。イネスは口から血をしたたらせながらその場に立っていた。〈親衛隊〉の隊員の間から怒号がわき上がった。
「わたしを殺したほうが身のためだぞ、ファシュ。わたしの腕のいましめを解く前にな」
ホドンはあっけにとられ眺めていた。かれにはどうすることもできなかった。かれはファシュの戦士に発見させるのをおそれて森の中にひっこんだ。とらえられる可能性があったからではなく、かれらの行為をデヴィッド・イネスの味方のものが目撃したということを、かれらに知られたくなかったのだ。
「きみが正しかったよ」ホドンはオー・アアにいった。「あれはファシュの策略だった」
「あたしはいつでも正しいわ。そのことでいつも兄がむかっ腹を立てていた」
「その気持、よくわかるよ」
「兄は――」
「わかった、わかった。でもきみにはおふくろさんの親父さんと、にいさんのほかに肉親はいないのかい?」
「いますとも」オー・アアがさけんだ。「姉が一人いるわ。姉はとっても美人よ。母方の女の人は代々ずっと美人なの。母の姉はペルシダー一の美人だったということよ。あたしはその人にそっくりなの」
「こんどはおふくろさんのねえさんかい! 系図が拡がってきたな。これでしゃべることがふえたろ」
「そこがあたしの一族の女の一風変わっているところなのよ。つまり、めったにしゃべらないけど、しゃべり出したら――」
「絶対に止まらない」ホドンが悲しげにいった。
「だれか物わかりのいい人が聞いてくれるならしゃべるんだけど」オー・アアがいった。
ペリーの気球の気嚢は急速にふくらんだ。気嚢《きのう》は地上で波のようにのたうちながら、どんどん大きくなっていき、籠の上に浮かび上がった。見守るサリ人は驚いて目を丸くしている。気嚢は伸びてふくれ上がっていき、張り綱をひっぱった。
ペリーはガスを切った。その場につっ立ったまま、目でその巨体をなでるように眺めまわす老人の頬には涙があった。
「成功だ!」かれはつぶやいた。「こんどは|最初っから《ヽヽヽヽヽ》成功だ」
美女ダイアンがやってきて、かれの腕にそっと自分の腕をすべりこませた。
「すてきだわ、アブナー。でもこれは何をするものなの?」
「これは気球だよ」ペリーが説明した。「人を空中に浮かばせるんだ」
「なんのために?」
ペリーは咳払いをした。「つまり、その、いろんなことのためだよ」
「ええ。それで?」ダイアンはたずねた。「たとえば、どんなこと?」
「まあ、いいから。きみにはわからないと思うよ」
「どうやって降りてくるの?」
「太いロープが見えるだろ? あれが籠の底につないであるんだ。ロープのもう一方の輪は、われわれが作ったこの巻き揚げ機の筒形部《ドラム》に巻きついている。上げたいだけの高さまで気球が上がると、巻き揚げ機をまわして引きおろすんだよ」
「どうしてあんなに上にあがりたがる人がいるの? あの上には空気だけしかないんだし、空気なら下にいくらでもあるわ」
「あの高いところから見晴らせる景色のことを考えてごらんよ。ずっとルラル・アズのほうまで見えるんだよ。わしの双眼鏡で見たら、アモズまで見えるかもしれないよ」
「デヴィッドが帰ってきていたら見えるかしら?」
「遠いルラル・アズを走るかれの船が見えるよ。それに大部隊が行進しているところなら、ほとんどグリニッジのあたりでも見えるよ」
「あたし、あなたの気球に乗って、上がってみるわ。さあ、行ってあなたの|ソウ《ヽヽ》――双《ヽ》なんとかを持ってらっしゃいよ。それでデヴィッドが見たいわ。もし帰ってきている途中だったらね。これでずいぶん何回も眠ったのに、かれの使者がガークを呼びにきてからなんの便りもないんですもの」
「まずテストしてみたほうがいいと思う。どこか悪いところがあるかもしれないんだ。わしの発明したものの中には、最初のテストで完全にうまくいかなかったものもままあったからね」
「そうね」ダイアンは同意した。
「きみの体重の二倍以上の土嚢《どのう》を籠に乗せて上昇させ、それから下ろしてみるよ。それで完璧なテストになるはずだ」
「そうね。では急いでやってちょうだい」
「上がるのがほんとうにこわくないのかい?」
「サリの女がこわがったことがあって?」ダイアンがいった。
ホドンは、来た道をたどってカリの上にそびえる断崖の頂上にもどってきた。かれには一つの計画があったが、それはすべてファシュがデヴィッド・イネスを部落の上のほうの岩棚にある洞穴に幽閉するということにかかっていた。
断崖の頂上に到達する前にかれは立ち止まってオー・アアに、どこかの茂みにかくれているようにといった。「それから|しゃべるんじゃないぞ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」かれは命令した。
「どうしてなのよ?」オー・アアがいった。「あたしにしゃべっちゃいけないだって、あんたはいったい何さまだっていうの?」
「まあいいから、いうとおりにしたまえ。それからきみの肉親については、だれのことにしろ、しゃべってくれるな。気分がわるくなるからな。これだけは覚えておきたまえ。もしもきみがしゃべったら、見張りの戦士が聞きつけるかもしれない。そうしたら捜索するだろう。それから今一つ。ぼくがここへもどる前にしゃべったら、きみののどを掻っ切ってやる。覚えていられるだろうね?」
「今に兄が――」
「うるさい!」ホドンはきめつけておいて断崖の頂上目指して歩き去った。
頂上に近づくと腹這いになり、アパッチ・インディアンのように匍匐《ほふく》前進した。またアパッチ・インディアンのように手に小さな灌木を一本持っていた。ほとんど崖っ縁《ぷち》までくると、その灌木を顔の前にささげてからわずかずつじりじりと進んだ。ついに崖っ縁から下のカリの部落をのぞき見ることができた。いったんその位置をしめるともう動かなかった。そして原始人らしい辛抱強さであくまでも待った。
かれはデヴィッド・イネスのことを考えた。かれのためなら喜んで命を投げ出したことだろう。また、オー・アアのことを考えて微笑した。彼女は|生き《ヽヽ》がいい。サリ人は生きのいい女を好んだ。それに彼女は非の打ちどころがないほど美しかった。彼女自身そのことを知っているということも、彼女の魅力を少しもそこないはしなかった。もし知らなかったとしたら彼女はバカだったろうし、自分が美しいということに気づかないふりをしていたとしたら偽善者だったろう。口数が多過ぎることは事実だが、おしゃべりの女のほうがむっつりした女よりましだ。
ホドンはオー・アアをぜひとも自分のものにしたくなりそうだという気がしたが、彼女は彼にむいていないということはわかっていた――かれがきらいだということをあまりにもはっきりと強調したからだ。とはいっても、ときには女の意志に反していっしょになることもある。これは一考の価値がありそうだ。一つの難点は、デヴィッド・イネスが、ご婦人の頭に棍棒で一撃を喰わせてのばし、それから自分の洞穴へ引きずっていくという古風な手段を承認しないということだ。この問題に関してイネスは非常に厳格な法律を作った。今では女の同意がなくては男はだれも連れ合いを持つことができない。
こういったことを思いめぐらしていたとき、戦士たちが部落に近づいてくるのが目にはいった。見ていると森の入口からどんどんこっちへやってくる。思ったとおり、捕虜をつれたスヴィ人だ。かれはデヴィッド・イネスが頭を昂然と上げて歩いてくるのを見た。平和のおりにも戦いにも、つねにかれはそうやって歩く、そのままの姿勢だ。デヴィッド・イネスがうなだれているところを見たものはだれもいない。ホドンはかれを非常に誇らしく思った。
一行は断崖のふもとでちょっと立ち止まったが、やがて捕虜のうちの何人かは断崖にむかって追いたてられ、梯子をのぼった。デヴィッド・イネスはその中にいるのだろうか? あまりにも多くのことがその一事にかかっているので、ホドンは胸の動悸が少し早くなるのを感じた。
上部の岩棚にある洞窟牢に捕虜全員を収容することはできない。何人かは他の場所に監禁されるか、処分されるかしかない。〈親衛隊〉の隊員で、ファシュの勧告を受け入れて帝国を裏切るものは、一人もいないということをホドンは確信していた。
思ったとおりだ! ついにデヴィッド・イネスがやってきた! 護送兵はとりわけかれにつらくあたった。かれらは不安定な梯子を上がるイネスを槍で小突いた。腕のいましめは解いてあったか、かれらはイネスがファシュに手出しのできない離れたところにいることをたしかめてから解いたのだった。
かれは上へ上へとのぼって行った。そして最後にいちばん上の梯子にさしかかった。ホドンは心の中で快哉《かいさい》をさけんだ。これでチャンスはできた。むろんかれの計画は穴だらけだったが、百に一つ、成功する見込みがあるかもしれない――いちかばちかの見込みが。
夜の時間がわずかでもあれば、ことはぐっと簡単になったところだが、ホドンは夜というものをまったく知らなかった。生まれてこのかた、かれが知っているのは、天頂に不動の太陽がつねにかかっている長い、はてしない昼間だけだ。何をするにしても、平常と同じように白昼にやってのけなくてはならない、しかも決った睡眠時間を持たない連中の中で。したがってすくなくとも半数は目をさましていて、たえずあたりに気を配っているものと考えなくてはならないだろう。
ホドンはデヴィッド・イネスが洞窟牢にはいるのを見とどけてから、オー・アアのもとに這いもどった。なんと彼女は眠りこけている! それにしても実に美しい。ほっそりした小麦色の肢体はほとんど裸に近く、完璧な曲線を見せている。ホドンはかたわらにひざまずいた。一瞬、デヴィッド・イネスも、任務も、対面も忘れ去った。かれはオー・アアを腕にとらえて抱き上げ、唇を重ねた。オー・アアははっと目をさまし、猫のような素早さとはげしさで猛然と打ちかかった――相手の口もとに平手打ちを喰わせたかと思うと、次には短剣が鞘《さや》から飛び出していた。
ホドンはさっととびすさったが、まにあわず、玄武岩の刃はかれの胸を十五センチ引っ裂いた。ホドンはにやりとした。
「あっぱれだ。いつかそのうちにきみはぼくの妻になる。そしてぼくはきみのことを誇りに思うだろう」
「ジャロクの妻になったほうがましよ」オー・アアはいった。
「今にきみは自分の意志でぼくの妻になるよ。とにかく今は来て手伝ってくれたまえ」
「きみは、これからする役割を完全にのみこんでいるだろうね?」数分後、計画を仔細《しさい》に説明してからホドンはたずねた。
「血が流れているわ」オー・アアがいった。
「なに、ただのかすり傷さ」
「葉っぱをとってきて血を止めてあげるわ」
「それはあとだ。たしかにわかっているだろうね?」
「どうしてキスしたかったの? ただあたしがきれいだったから?」
「もしそれを教えてあげたら、ぼくの質問に答えるかい?」
「ええ」
「それはただきみがオー・アアだったからだと思うよ」
オー・アアは溜息をついた。「あたしの役目はすっかりわかっている。はじめましょう」
二人は風化して露出した地層から大小の砂岩を数個集めてきた。そして崖縁のきわまでそれをじりじりと移動させていった。一個の岩をすぐの岩棚に通じている梯子の真上に置いた。そして他の岩は洞窟牢の口の上に置いた。
これが終わると、ホドンは森へ行って、長い蔓《つる》を数本切り、崖のそばに引いてそれぞれの一方の端を二、三メートル後の木々にしばりつけた。
「さあ!」かれはオー・アアに小声でいった。
「いいこと」彼女はいった。「あたしがあんたを手伝ったり、あんたの肋骨《ろっこつ》の間に短剣の先をすべりこませなかったからといって、あたしがあんたをきらっていないなんて考えないで。今にあたしの兄が――」
「わかっているよ。これをすませたら、きみのにいさんのことをすっかり話してもらうよ。そうなったらきみには権利があるからな。きみはよくやった。オー・アア、きみならすばらしい奥さんになるだろうな」
「あたしはすばらしい奥さんになるわ」オー・アアは同意した。「ただし、あんたのじゃないわよ」
「さあ、行こう。口は閉じておきたまえ、できたらね」
オー・アアは毒をふくんだまなざしでにらみつけたが、それでも崖縁までついてきた。ホドンは下をのぞいて何もかも望みどおりに進んでいるかたしかめた。そしてオー・アアにうなずいてみせて、にやりとした。
かれは大岩を押して崖縁に近づけた。オー・アアも小さい岩を同じようにした。彼女はホドンをじっと見守っていて、かれが大岩を崖縁から突き落とすのを見ると、立ち上がって自分のを投げ落とした。
大岩は梯子をのぼりつめたところでしゃがんでいた二人の番兵にぶちあたり、梯子もろともすさまじい音響とともに岩棚から岩棚へ転々と落下して、他の梯子をも道連れに粉砕した。
ホドンはオー・アアが投げ落としている岩のところへ駆けつけ、オー・アアは走って行って崖縁から蔓を下へおろした。ホドンはデヴィッド・イネスの名を呼んでいた。残る二人の番兵のうち、一人は岩にあたって崖から転落していった。ついでデヴィッド・イネスと他の捕虜が何人か、洞穴から駆けだしてきた。
ただ一人の番兵がかれらに対抗した。オー・アアもホドンも、その男に岩をぶつけることができなかったのだ。デヴィッド・イネスが男にとびかかっていった。番兵はせまい岩棚の上で短槍で迎え撃った。番兵はイネスに突きかかった。と、イネスはスヴィ人の武器をつかんでそれをもぎとろうと争った。二人の男は死の瀬戸際で武器をめぐって格闘した。いつなんどき、どっちかがまっさかさまに転落するかもしれないのだ。他の捕虜は、ただ呆然としているのか、あるいは逃げ出すのにすっかり気をとられているらしく、イネスに手を貸すどころではなかった。しかしホドンは別だった。隊長の危険を感じとったかれは、一本の蔓をつたってすべりおりると、イネスのかたわらにかけつけた。そしてただの一撃でスヴィ人を崖縁から叩き落とすと、蔓を指さしていった。
「急いでください! やつらはすでに谷をのぼりはじめています。崖をよじのぼって前にまわってわれわれをさえぎるつもりなのです」
各自に別々の蔓をつたって二人は頂上によじのぼった。すでに大部分のカリ人は森に姿を消していた。上の岩棚に監禁されていたサリ人はイネスだけだったのだ。ウースは逃げずにいた。かれともう一人のカリ人はオー・アアと話をしていた。ウースの連れは、ずんぐりしたひげづらの男で、なんとも感じの悪い面相をしている。ネアンデルタール型に逆もどりしたようなやつだ。ホドンとイネスが三人に近づいたとき、オー・アアが「いやよ!」というのが聞こえた。
「いやとはいわさんぞ」ウースがどなりつけた。「わたしがおまえの父親だ。わしのいうとおりにしろ。ブラグはりっぱな猟人で、りっぱな闘士だよ。よい連れ合いになる。かれは大きな洞穴を持っているし、他に女を三人持っているから仕事は楽だぞ」
オー・アアはサンダルをはいた足で地団太を踏んだ。「いやといったらいやよ。そんなくらいならサゴスの連れ合いになったほうがいい」
ちなみに、サゴスというのは半獣半人のゴリラ人間で、かれらはイネスが追いはらう前――すくなくとも、地底世界でイネスが皇帝として統治している地域から追いはらう前に――ペルシダーを支配していた爬虫類マハールの用心棒をしていた乱暴者だ。オー・アアは、これ以上に意味深長な侮辱のことばを思い浮かばなかった。
ブラグは腹を立てたようにうなった。「もういい! おれのものにする」かれはオー・アアに手を伸ばした。しかしホドンが割ってはいってブラグの手をはらいのけた。
「彼女はおまえのものにはならん。オー・アアは自分で連れ合いをえらぶのだ」
どちらかというと口が重くて知性が低く、おまけに気の短いブラグは、言葉にたいして行動で答えた。かれはホドンにむかって猛烈な一撃をふるった。優にボス一頭を倒しかねないすごさだ。もしもボスがその場に居合わせて、その一撃が命中していたらの話だが。しかしそこにはボスはいなかったし、命中もしなかった。ホドンはひょいとその下をかいくぐってブラグをかつぎあげると、どうとばかりに地面に叩きつけた。ブラグは驚いた。ウースも同様だった。というのも、堂々たる体格のブラグに、ホドンは歯が立つまいと思われたからだか。ホドンの筋肉は――見かけによらず――その赤銅色の皮膚の下でなめらかに起伏していた。
それらの筋肉は非常な力と敏捷さを秘めていた。ブラグは力しかなかったものの、勇気は持ち合わせていた――蛮勇というやつだ。かれはあわてて立ち上がるとホドンに襲いかかった――牡牛のように。こんどはホドンはまともに口に一発喰わせてその場に倒した。
「もうよい!」デヴィッド・イネスがぴしゃりといった。「こんなところで争っていては、みんなつかまってしまうぞ」
「やめろ」ウースはブラグにいった。
「では、あとで殺してやる」ブラグがいった。
「なに――まだやる気か?」ホドンがいった。かれは周囲を見まわした。「オー・アアはどこだ?」
彼女は逃げてしまって、そこにはいなかった。二人の男が争っている間に逃げ出したのだ。おそらく彼女は、ブラグとウースが考えたように、ブラグが簡単にホドンを殺すと思ったのだろう。
「気がつかなかった」ウースはいった。「見つけたら、なぐりつけてブラグにくれてやる」
「わたしがいる間はそうはさせませんぞ」ホドンがいった。
「他人のことに干渉するものではないぞ、ホドン」デヴィッドが注意した。「ぼくに関係のあることですよ、これは」ホドンがいった。
イネスは肩をすくめた。「ではご随意に。ただし、これがきみの葬式になったとしても、わたしが警告しなかったなどというなよ。とにかく今日ここから逃げ出さなくては」
「海岸をずっと北へ行ったところに洞穴がいくつかある」ウースがいった。「以前にカリが侵略されたときに使ったものだ。わしの一族のものはたぶんそこへ行ったのだろう。われわれもそこへ行ったほうがいい」
「わたしはこの近辺に残る」イネスがいった。「わたしの部下の多くがここに捕われているのだ。見捨てることはできない」
「ぼくもいっしょに残ります」ホドンがいった。
ウースとブラグは森の中へ去っていった。
「こんどおれがもどってきたときにこの辺をきさまがうろうろしていたら」とブラグがいった。「殺してやる。妻をつれてもどってきてそれを見せてやるのだ。オー・アアはあっちの洞穴にいるのだろう。そこで彼女をものにするからな」
「大口を叩くな、この野郎」ホドンはいった。「きさまの口は大きすぎて頭までいっぱいで、|脳みそ《ヽヽヽ》のはいるすきまがないんだ」
ブラグはいい返さなかった。当意即妙に応答する才能に恵まれていなかったので、何も思いつかなかったからだ。そこでかれは陰険な怒りに身を包んで森に姿を消した。
「スヴィ人がやってくるのが聞こえる」イネスがいった。
「ええ」ホドンは答えた。「いっしょに来てください。この土地なら部分的に少しはくわしくなりましたから、隠れ場所のありかもわかっています」
「わたしは隠れたくない」
「ぼくだってそうですが、二人で五百人を相手に戦うことはできません」
「それもそうだな。案内してくれたまえ。ついて行くよ」
二人はひそやかに移動した。ホドンは岩の上に一歩一歩足場を求めて進み、イネスはつねにホドンが踏んだ跡を正確に踏むようにした。小川に出ると、ホドンはその中にはいっていって川床を歩いてさかのぼった。二人の跡をつけるには、よほど達者な追跡者が必要だったろう。
ペリーは会心の笑《え》みを浮かべ、美女ダイアンはうっとりとして手を叩いた。他の大勢のサリ人は、大部分が女と子供だったが、口をあんぐりと開け、目をまるくして突っ立っている。どの頭もみな上を仰ぎ、どの目も巨大な気嚢が永遠の真昼の太陽の一部をおおい隠しているほうをまっすぐに見上げていた。
吊り籠には岩が積みこまれ、頑丈な四人のサリ人が巻き揚げ機を操作してロープをたぐり出すにつれて、ロープの先端の気球は上昇していく。みんな一様に驚いていたが、アブナー・ペリーほどではなかった。というのも、最初のテストでその機能を発揮したのはかれの作品の中でもこれがはじめてだったからだ。たとえこの気球が上昇するかわりに地面にもぐりこんだとしても、かれは大して驚かなかったろう。
「今日はペルシダーにとって重大な日だよ、ダイアン」かれはいった。「デヴィッドはさぞ驚くだろうな!」
たしかにデヴィッドの身辺には非常に驚くようなことが起ころうとしていた。
サリに残った者が、新しい玩具を手に入れた子供のように、ゆらゆら揺れる気球を見守っていたとき、〈毛深い男ガーク〉とその千人の戦士はカリめざして航海中だった。
一方、ホドンは小峡谷にデヴィッド・イネスを導いた。谷の奥には山の清流が一筋、えもいえず美しい滝となって流れ落ちていた。青々とした植物が、たえず滝の水煙によってうるおい、永遠に消えることのない太陽に暖められて、崖の側面に群生し這《は》いのぼり、谷底いっぱいにひろがっている。大枝に咲いた蘭が、ごつごつした崖の上からたれて壁面を飾っている。山のふところにつけられた豪華なコルサージだ。地上世界では永劫の昔に枯れて死に絶えた花々が、爛漫《らんまん》と妍《けん》を競っている。そしてこの密生する青葉と花々の後に小さな洞窟があった――石器時代の戦士を一軍隊むこうにまわしても、こっちは一人の戦士で守りきれる、そんな洞窟だ。
「美しい!」イネスが感嘆した。「それにカリから遠くない。ここならガークがくるまでいられる。交代でかれがくるのを見張っていよう。ほんとうは海のそばで見張っているべきなんだが、わたしは同時にカリを見張ることのできるところにいたい。わたしの部下が監禁されているのだから。たぶんかれらを洞窟牢から救い出す機会がやってくるだろう」
果実と木の実は、この小峡谷の木々や藪《やぶ》に豊富にみのっていた。しかし戦士には肉が必要だ。そして肉を得るためには武器を持たなくてはならない。この二人は石の短刀一つ持っていなかった。しかし最初の人間はもともと武器を持っていなかったのだ。かれらは武器を作らなくてはならなかった。
イネスとホドンは、小川に行って漁《あさ》ったすえ、大きな二枚貝を見つけた。二人はそれをとがった石でこじ開けて、おのおの貝殻を一枚ずつとった。それを使って、竹に似た喬木状の草を二本切ってきて槍の柄を二本作った。それからふたたびあたりをさがして、軟石、硬石、平らな石、縁のとがった石をたくさん集めてきた。そのうちのいくつかを使って別の石をそいだり削ったりして槍の穂先を二本と、粗末な短刀を二振り作った。ホドンが穂先を槍にゆわえつけるのにいちばん丈夫な蔓をさがしている間、イネスは弓を一張りと矢を何本か作った。弓矢はかれのお気に入りの武器の一つだったからだ。
これらのことを全部するのにどれくらい時間がかかったかは、数回食事をして一回眠ったということよりほかにむろん知るすべもない。つまるところ、地上世界でいえば、一週間かかったのかもしれないし、半日か、あるいは一年かもしれない。ときに一人が丘の高みに上がって、陸地を越えた向こうの海岸のほうを見張った。そのたびに、〈毛深い男ガーク〉とその戦士たちが見えないかと念じながら。
ホドンは狩りをしていた。今回はカリの北東へ、いつもより少し遠出をした。というのも、これまではあまり幸運に恵まれなかったからだ。獲物は何種類か見かけた――アカジカや、その昔地上世界を歩きまわっていた原始時代の三蹄の小型の馬オルトピなどだ――しかしいつも何かが起こって、槍の射程内にはいる前に驚いて逃げ出すのだった。
突如としてものすごい咆哮《ほうこう》と、つづいて重い身体が森の下生えを踏みしだいでやってくる音が聞こえた。ホドンは容易に素早くのぼれる木をさがした。咆哮を発した主をかれは知っていた。洞穴に棲息するライオンだ。ライオンにはかかわらないほうがいい。かかわりが少ないほどけっこうだし、長生きもできる。
ぐあいのいい木を見つけたちょうどそのとき、咆哮の聞こえた方角の下生えから何かがとび出すのを見た。だがそれはライオンではなく、オー・アアだった。彼女は脱兎《だっと》のごとく走っていた。その真うしろにライオンの姿があった。
ホドンは木のことを忘れてしまった。ライオンはオー・アアほど速く下生えを通り抜けることはできなかった。彼女は|とびかもしか《ヽヽヽヽヽヽ》のように軽やかに、そしてほとんどそれに近い速度でとんでくる。ホドンは彼女のもとにかけつけた。
「引き返して!」彼女はさけんだ。「タ・ホ」よ
ホドンはそれがタ・ホだということをみとめたが、引き返しはしなかった。オー・アアが通過すると、かれはひざまずいて槍の石の穂先を前方にむけ、石突きを地面に突き立て、柄をななめにかまえた。かれが目する用途には、この槍は少々短かった。狩猟の名人は長い槍を用い、この方法でライオンや剣歯虎を倒していた。しかしこのように短くては、けものが息絶える前に裂き殺されることはまず確実だ。しかしホドンは、オー・アアに出会った瞬間から少しもためらわなかった。
大ライオンは形相もものすごく啀《いが》みながらかれの背よりも高く立ち上がり、そのいきおいで槍の穂先にダッと身を投じた。すかさずホドンはわきへとびのき、ちっぽけな石の短刀を抜いた。ついで、痛みに荒れ狂うけものの背にとびつき、片手の指をたてがみにからませ、もう一方の手に持った短刀をけものの脇腹の分厚い皮に突き立てた。
ライオンは身体を左右に振ってあばれ、ふりむいて人間をつかもうとし、地面をころげまわって振り落とそうとした。そして、まったく突然に、ころりと横倒しになった。槍は心臓をつらぬいていたのだ。
ホドンは立ち上がり、オー・アアの姿を求めてあたりを見まわした。どこにも見えない。名を呼んでも答はなかった。では彼女のために生命を賭《と》したというのに、本人は、さっさと逃げてしまったというのか! その瞬間、ホドンはもうちょっとで女ぎらいになるところだった。
かれは、こんど見つけたらうんとぶってやろうと彼女をさがしはじめた。かれは跡をつける名人だったから、彼女の足跡を見つけるのに長くはかからなかった。まるで油断もすきもない獲物のあとをこっそりつけるように、かれは足音を忍ばせてその足跡についていった。まさしく彼女は油断もすきもない獲物にちがいなかった。
森のはずれのむこうに彼女の姿が見えた。かれをまいてやったと思っているということは歴然としていた。というのも彼女はごくのんびりと歩いていたからだ。その小生意気な華奢《きゃしゃ》な背を見てホドンはかっとなった。ぶってやるくらいではとうていおさまらない。そこでかれは鞘から短刀を抜き放って彼女の後ろからこっそりかけ寄った。どうでものどを掻っ裂いてやるつもりだった。
とどのつまり、〈疾風《はやて》〉のホドンは石器時代の穴居人にすぎなかった。かれの本能は原始的で直感的だったが、ときには誤っていた――ちょうどこのときのように、かれはオー・アアにたいして抱いている自分の感情が憎悪だと考えた。実際は愛情だったのに。もしも彼女を愛していなかったら、彼女のために生命を賭している間に彼女が逃げ出そうと、気にすることはなかったのだ。この世には、愛と憎悪よりも密接に結びついていて、しかも解きようのないほどからみあっているそんな感情は他にあまりないのだ。しかし、ホドンはそんなことは知らない。この瞬間、かれはただ一途に、直情的にオー・アアを憎んだ。
オー・アアに追いつくと、髪の毛をわしづかみにし、くるりとまわしてこっちをむかせた。結果としてかれは彼女の仰向いた顔を見おろすことになった。それがそもそものまちがいだった――彼女を実際に殺したいと思っていたのなら、オー・アアの顔を見つめながら、オー・アアののどを掻っ切ることのできるのは石の心を持った男だけだろう。
オー・アアは目を大きく見開いていた。
「あたしを殺すつもり? もし兄が――」
「なぜぼくから逃げた?」とホドンは追求した。「ぼくは殺されていたかもしれないんだぞ」
「あら、あたしはタ・ホが死んでころがるまで逃げなかったわよ」
「それじゃなぜ逃げたんだ?」短刀を握ったホドンの手はだらりとたれた。そしてかれはオー・アアの髪をつかんでいた手をゆるめた。オー・アアの瞳に見入るホドンの目からは怒りが消えていった。
「あなたがこわかったから逃げたのよ。あたしは、その気持ちになるまであなたともだれともいっしょになりたくない。あたしにはその気持ちはないの。まだだれのものでもないわ」
「ぼくはきみのために戦ったんだよ」ホドンは念を押した。「きみを守ってタ・ホを倒したんだ」
「タ・ホは人間じゃないわ」オー・アアは、それでもういうことはないでしょといわんばかりだった。
「しかし、ぼくはきみのためにブラグとも戦った。ぼくがきみのために戦うたびに、きみは逃げてしまう。なぜそんなことをするんだ?」
「あのときはブラグから逃げたのよ。かれがあなたを殺して、それから追っかけてくると思ったんだわ。まあ、どのみちブラグと戦ったってどうってことはなかったんだけど――だってあなたはかれを殺さなかったんだもん。あのあとでブラグと父を見かけたけど、むこうじゃあたしに気がつかなかったわ」
「ではきみにいっしょになってもらうには、その前に男を一人殺さなくてはならないというのか?」
「あら、当然でしょ。あなたはブラグを殺すべきだと思うわ。あなたたちが争ったとき、なぜかれがあなたを殺さなかったのか、わからないわ。あたしがあなたなら、ブラグを避けるようにするでしょうね。かれはとても強い戦士なんだから。あんたなんか真っ二つにへし折るわよ。その決闘が見たいわ」
ホドンは彼女をまじまじと見つめた。それから口を開いた。「どうやらきみは連れ合いにする値打ちはなさそうだな」
オー・アアの目に火花が散った。
「そんなこといって、あたしの兄に聞かれなくてよかったわね」彼女はつっけんどんにいった。
「それ、はじまった。また家族のことだ。きみの家族のことをしょっちゅう聞かされるのはもううんざりだよ」
二人が自分たち以外のことには気づかずにしゃべっていたとき、異様な姿の生物が六匹、下生えをわけて二人にこっそりしのび寄っていた。
巻き揚げ機を操作していた四人のサリ人は、気球を地上に巻き降ろし、別の者が石のバラストをのけている間じっと押さえていた。みんなが周囲にむらがってきて、しげしげと見たり、アブナー・ペリーに賞賛を浴びせたりした。ペリーは得意満面、うれしくて小躍りりせんばかりだった。
「さあ、いいこと」ダイアンはいった。「あたしが上るわ」
「デヴィッドが帰るまで待ったほうがいいんじゃないかね」ペリーが忠告した。「何か起こるかもしれないし」
「気球はあの岩を全部揚げたじゃないの」ダイアンがいいはった。「あたし、あれほど重くなくってよ」
「そういうことじゃないんだ。そりゃあの気球はきみを上に揚げるだろう。しかし、デヴィッドが帰ってくるまできみは決行すべきじゃないと思う。今もいったように、何かが起こる|かもしれない《ヽヽヽヽヽヽ》からね」
「お言葉ですけど、あたし、上がることにしたのよ」
「もしもわしが禁じたら?」
「どっちにしても上がるわよ。わたしはペルシダーの皇后じゃなくて?」彼女はそういいながらにっこりとした。しかし、ペルシダーの皇后だろうとなかろうと、美女ダイアンがいったん気球に乗って上がりたいと思ったら、それを実行するということをペリーは知っていた。
「ま、いいだろう」かれはいった。「ちょっとだけ上らせて進ぜよう」
「ロープの終わりまで上らせてくれるわね。デヴィッドが帰ってくるかどうか見たいの」
「よしよし」ペリーは観念したようにいった。「乗りなさい」
他のサリ人たちは吊り籠に乗りこむダイアンの周囲にひしめいた。かれらの想像を絶する体験がここにあるのだ。そして美女ダイアンは今まさにそれを味わおうとしている。一同は彼女をうらやんだ。かれらはダイアンに、太陽までのぼったら何をさがしたらよいかを教えたりしてちょっぴりからかった。また、地上世界の人間が同じような状況下にあった場合にたずねただろうと思われる、あらゆる質問を浴びせた――ただ一つの質問をのぞいて。だれも彼女にこわくないかとたずねなかった。サリ人にむかって、こわくないかとたずねるものはない。
ペリーが巻き揚げ機の四人に合図をすると、気球はスルスルと上昇しはじめた。美女ダイアンはうきうきして手を打った。
「もっと早く!」彼女は巻き揚げ機の四人に声をかけた。
「もっとゆっくりだ!」ペリーがいった。「慎重にやれ」
巨大な気嚢《きのう》はどんどん上昇していく。微風が気嚢をとらえ、気球はふらふらとゆれた。頭上で巨大なものが風を受けてはためき、ダイアンは空中に一人ぼっちの自分をひどく小さく感じた。
「デヴィッドが見えますか?」だれかがどなった。
「まだだめよ」ダイアンが大声でいった。「でも、ルラル・アズは見えるわ。もっと高く揚げて!」
すぐにロープはほとんど全部くり出され、ペリーはほっとした。これで気球を降ろしはじめることができるからだ。かれは、美女ダイアンがふたたび大地を踏みしめて立つところを見たくてうずうずしていた。たぶん虫が知らせたのだろう。
その異様な生物はじりじりとホドンとオー・アアにしのびよってきた。人間だ。巻き尾を持った黒い裸の人間だ。目は小さく、目と目の間がせまっていて、その上につき出た額がある。その額の上の頭部は、ないも同然で、短くこわい黒髪が頭骨から直立している。しかしかれらの顕著な特徴は、なんといっても上顎《うわあご》から下顎までまがって伸びている一対の牙だった。
オー・アアはしゃべっている最中だった。
「さっさと行って、あたしにかまわないでもらいたいわ。あんたがすきじゃないんだから。もしも兄が――」
異様な人間が野獣のように咆哮して襲いかかってきたのはそのときだった。手と尾を使ってかれらはホドンとオー・アアをつかまえた。二人はどうすることもできなかった。仲間同士でペチャクチャ、キャッ、キャッとそうぞうしくしゃべり立てながら、かれらは捕虜を森の奥深くつれこんだ。ホドンは話しかけようとしたが、かれらには通じなかった。ホドンにもかれらのことばがわからなかった。かれらは非常に乱暴で、腹を立てているのでもないのに、捕虜を平手で打ったり、なぐったりした。
「あたしたちは死ぬんだわ」オー・アアがいった。
「なぜそう思うんだい?」ホドンがたずねた。「われわれを殺すつもりなら、襲撃してきたときに殺せたはずじゃないか」
「かれらが何者か知らないの?」
「知らんね。こんなやつらは見たことも聞いたこともないよ」
「かれらは剣歯人よ」と彼女がいった。むろん彼女は〈剣歯〉という言葉を使ったわけではない。大ざっぱにいうと、彼女は〈タラグの歯を持った人間〉といふうにいったのだ――タラグというのは剣歯虎のことだ。「かれら、人喰いなのよ」彼女はいいたした。
「それじゃなにかい、連中はぼくらをつれて帰って喰うのかい?」
「仰せのとおりよ」
「ずっと前にぼくといっしょに来ていたら、きみはこんな目に会わなくてすんだろうに」
「あら、剣歯人に食べられるより、もっと悪いことだってあるわよ」彼女はやり返した。
「きみのいうとおりかもしれんな」ホドンは同意した。「たとえば、きみの家族の話を聞かされることだとかさ」
「あたしの兄は強い戦士よ。あんたなんかまっ二つにへし折られるわ。それに姉はすごい美人。姉ほどの美人はサリにはいないでしょう。なにしろあたしと同じくらい美人なんだから。母の父はすごい力持ちなの。成長しきったボスの死骸を背にかつぐことができるほどよ」
「いいか、きみがうそをついているってことくらいわかってるんだぞ。どうしてそんなにきみはうそをつくんだ。それも家族のことばかり? ぼくはきみの家族に興味はない。きみにだけ興味があるんだ」
「父は王様よ」
「サゴスだったってかまうことはないんだ。きみのおやじさんといっしょになりたいわけじゃなし」
「こうなってはだれともいっしょになれやしないわよ。そのかわり剣歯人とそのつれ合いに喰われっちまうんだわ」
「ひょっとすると、同じやつらがぼくらを二人とも喰っちまうかもしれんぞ。そうなったらほんとにいっしょになれるわけだな」
「もしそんなことをするやつがいたら、腹痛を起こさせてやるわ」
「きみはぼくのことをあんまりすきじゃないんだな」
「今頃になってそんなことに気がついたのなら、あんたは大バカよ」
「どうしてきみがぼくのことをすきじゃないのかわからないな。ぼくは見かけも悪くないのに。親切にしてあげるし、きっときみを守ってあげるよ」
「そろそろ来たらしいわよ」
ホドンはだまった。
二人の剣歯人がそれぞれ捕虜の首に尾を巻きつけた。そしてそのままで引いていった。他の剣歯人は、捕虜を後から突いたり打ったりした。グロテスクな黒人たちはキャッキャッとしゃべりどおしだった。かれらは森の木に住む毛深い小人を思い出させた。
カリの断崖は、ルラル・アズの海岸に平行して北東に伸びる一連の山々の最後の砦《とりで》だ。オー・アアとホドンがつれこまれたのはこの山々の中だった。のぼるにつれて、地形は凹凸がはげしくなり、火山岩が石灰岩層にとってかわった。死火山が両側に見える。植物はまばらで貧弱だった。殺風景な土地だ。
打たれて打撲傷を負った二人の捕虜は、最後に山腹にぽっかり口を開けている穴に引きずりこまれた。中は真暗だったが、剣歯人は入口で止まろうともせず、なおもキャッキャッとしゃべりながら洞穴の中へはいっていき、まるで白昼の光の中にいるかのようにとっととかけていく。オー・アアにもホドンにも何一つ見えなかった。なめらかな岩肌がサンダルの裏に感じられて、のぼっているのだなということがわかる。ほどなく勾配は急になって、剣歯人のささえがなくては後ろへ倒れるほどになった。二人は首を引かれて上へ上へとのぼって行った。尾が首を締めるので、息苦しくてあえぎあえぎのぼった。
ついに坂は完全に垂直となった。そこには長い蔓が上からたれ下がっていて、陽の光があった。頭上に太陽のさしこむ丸い穴が見え、それで丸いエントツ穴をのぼっているのだなということがわかる。二人は気づかなかったが、かれらは|噴 火 道《ヴォルキャニック・チューヴ》の中にいるのだった。
剣歯人はオー・アアとホドンをひっぱって蔓をつたってよじのぼっていった。噴火道のてっぺんについたときには捕虜は二人とも失神していた。かれらはその場で二人を放した。二人は死んだようになってそこに横たわった。
美女ダイアンは、森や、起伏する丘や、荒涼たる原野を見渡した。ボスや、アカジカや、草食恐竜の大群が青々とした草木を食べている。ルラル・アズが、アインシュタイン教授の〈時間と空間の原理〉のように、上むきの弧を描いてそのままかなたにとけこんでいる。ペルシダーには水平線がないのだ。アノロック島が見える。そこでは赤銅色のメゾプ族が樹上の家に住んでいる。そしてアノロックのむこうにルアナ諸島がある。もしもそれが想像にもとづいた地図の想像上の地点でなければ、グリニッジも見えたはずだ。しかし、ダイアンが、涙が出るほど目をこらして見ても、デヴィッド・イネスは影も形も見えなかった。
巻き揚げ機の男たちはどんどんロープをくり出した。かれらの目は気球に注がれ、筒形部《ドラム》のほうは見ていなかった。ペリーも気球を見守っていた。ダイアンももう充分高く上がったことだし、これだけ長い間上がっていたら、見るべきものは見つくした時分だ。ペリーはそう感じて巻き揚げ機のところにいる男たちに、気球をたぐり降ろせと命じようとしてふり返った。かれは見た。と、悲鳴がかれののどからほとばしった。
同じ頃、デヴィッド・イネスはカリの上方に突き出た岬に立ってルラル・アズの方角を眺めていた。〈毛深い男ガーク〉の姿を求めていたのだが、かれもダイアンと同様、さがし求めるものを得られずに終わった。
のろのろとかれは秘密の谷間に引き返した。ホドンが肉を持って帰っているだろう。そうしたら二人でご馳走を食べよう。だがホドンは帰っていなかった。
デヴィッドは穴の中にはいって眠った。目がさめたときもまだホドンの気配はなかった。そこでデヴィッドは出かけていって自分で獲物を倒してきた。何回も食べ、二回眠ったが、それでもホドンはもどってこない。そろそろデヴィッドは気がかりになってきた。すべてが順調にいっていたら、もう帰っているはずだということがわかっていたからだ。かれは捜索に出ようと決心した。もっとも、それは干草の中で一本の針をさがすようなものだということは承知の上だったが。
かれはほとんど消えかかっているホドンの足跡を見つけた。そして洞穴ライオンの死体に行きあたった。けものの脇腹にある短刀の傷と、胸の槍傷が事実をまざまざと物語っていた。ついでオー・アアの小さなサンダルの足跡を発見した。
二人が剣歯人にとらえられた現場に来て、そこで読み取ったことがかれを不安でいっぱいにした。かれは大きな偏平足の、人間に似た足跡を見、その一行の通った跡が北東につづいているのを見た。途中、オー・アアとホドンの足跡は、かれらをとらえた者たちの足跡でほとんどかき消されていたが、かれらの知らない何ものかの一団が、オー・アアとホドンをとらえたということはそれで充分読み取れた。
やるべきことはただ一つ、足跡を尾行するのだ。かれらの足跡が噴火道の暗い口にはいるまであとをつけた。少し中へはいってみたが、何も見えないし、聞こえもしない。洞穴の内部へ強い風が吸いこまれ、吹き抜けるのを感じた。かれは出てきて土地を調べた。上方は死火山の傾斜がある。噴火口の縁が空の青さをバックにくっきりときわだつのが見えた、と、そのとき突如として霊感がひらめいた。そしてかれは山をのぼりはじめた。
意識を回復したとき、ホドンとオー・アアはまだ倒れた場所に横たわっていた。周囲には火口壁がそびえ、そこの平地は緑草におおわれている。中央に青い水をたたえた小さな湖があり、粗末な小屋があたりに点在していた。
二人は剣歯人に取り巻かれているのに気がついた――男、女、子供もいる。これらの醜怪な人々がしゃべる奇妙な、猿に似た言葉がキャッキャッとそうぞうしい。たがいに歯をむきだし、うなっている。ときおり、中の一人がオー・アアかホドンを長い尾でつかもうとするのだが、大きな雄が三、四人、捕虜のすぐそばにたっていて、仲間の一人が、二人のうちどっちかをつかもうとするたびにとびかかって追いはらうのだった。かれらが警護されていることはホドンにも明らかにわかった。だが、なぜ?
二人が意識を回復すると、番人は二人をぐいと立たせ、小屋の一つに連れていった――それは薄っぺらな草葺き屋根のついたむきだしの小屋だった。大きな雄がその小屋の地面の上にどっかりとあぐらをかき、そのかたわらに、これまでホドンやオー・アアが目にしたもっとも異様な風体の人間がいた。顔がほとんどかくれてしまうほどの白ひげを生やしたちっぽけな老人だ。歯はなく、その目は非常に年取った者の目だった。
「これはこれは」と、老人は二人を見渡していった。「ご両人、まさしく進退きわまれりといったところじゃな。さしずめ故郷《くに》のケープ・コッドなら、〈地獄の道行き〉ちゅうところじゃが、わしたちゃケープ・コッドにいるわけじゃなし、おまえさんらは〈地獄〉なんぞ聞いたこともなかろう。ここが〈地獄〉じゃというのでもないかぎりはな。もっとも、わしは時々そう思うんじゃが。聖書には〈地獄〉に〈|落ちる《ヽヽヽ》〉と書いてあるんではなかったかな? いや、それとも書いてなかったかな? ま、そんなこたあ、わしゃ知らんがの。じゃが、わしはここへ|落ちて《ヽヽヽ》きたんじゃ。それに〈地獄〉がここより悪いところとは思えんわい」かれはケープ・コッドのアクセントで、ペルシダー語をしゃべった。「ところで」かれは息をつなぎながらつづけた。「ご両人よ、おまえさんらがどうなるかごぞんじかな?」
「いや」ホドンがいった。「あんたは知っているのか?」
「そうさな、たぶん連中はおまえさんらをふとらせて喰っちまうじゃろう。大体がそういうことになっちょるよ。長いことおまえさんらを飼っとくかもしれん。そこが連中のおかしなところじゃよ。おまえさんらも知ってのとおり、ここには時間ちゅうもんがないからの。おまえさんらを喰うまでどのくらい時間があるか、だれにわかる? わしがもうこれでどのくらいここにいるか、神のみぞ知る、じゃ。来たときゃ髪は黒々、歯はりっぱにそろっとった。それが今はどうじゃ! ひょっとすると連中はおまえさんらの歯が抜けるまで飼っとくかもしれんぞ。そう願いたいもんじゃ。ここにゃ連れがおらんのでさびしうてかなわんでの。ここにいるこいつらは、あまりよい連れとはいえんわい」
「どうしてかれらはあんたを喰わなかったんだ?」ホドンがたずねた。「話せば長い物語じゃ。おまえさんらにそっくり聞かせて進ぜよう――もしも連中がおまえさんらをそんなに喰い急がなければな」
老人の横で坐っていた大柄な剣歯人が老人にしゃべりかけてきた。老人は相手と同じ異様な言葉でしゃべり返して、ついでホドンのほうにむき直った。
「おまえさんらがどこから来たかと聞いておる。それから、おまえさんのようなものがもっと手近におらんか、とな。もしもおまえさんの部落にかれの一族を案内したら、すぐに殺さずにおいてやるとよ」
「まず休息しなくてはと伝えてくれ。住民がみんなまるまるふとっている部落を思いつくかもしれないさ」
老人はむき直ってこれを剣歯人に通訳して聞かせた。ややあって剣歯人が返事した。
「それでけっこう。すぐ手下に何人かいっしょに行かせるといっている」
「だからまず休息しなくてはならないといってくれ」
剣歯人と老人の間でさらにいくばくか会話がかわされたのち、後者がいった。「わしといっしょにくるがよい。身体が休まるまでわしがおまえさんらの面倒を見ることになった」
かれが立ち上がった。ホドンとオー・アアはかれについて別の小屋へ行った。その小屋は他の小屋よりずっと頑丈に作られてあった。
「これがわしの小屋じゃ」老人はいった。「すわって楽にしなされ。これはわしが自分で作ったんじゃ。居心地のよい調度はみんなそろっておる」居心地のよい調度というのは、干草のいっぱいつまった寝台と、テーブルとベンチだった。
「話してくれませんかね、あんたがどうやってここへ来たか、どうしてやつらがあんたを喰わないのか」ホドンがいった。
「そうさな、やつらがわしを喰わない理由、というよりも、最初にわしを喰わなかった理由はじゃね、おまえさんも見たろう。あのわしの横にすわっていたやつじゃが、あいつの生命を救ってやったからじゃよ。やっこさん、酋長《しゅうちょう》でね。それから今、やつらがわしを喰わない唯一の理由は、わしがあんまり老いぼれすぎて肉が固いからじゃろうと思うよ。
それでと、わしがどうやってここへ来たかということじゃが。わしはおまえさんらが聞いたこともないような世界の、聞いたこともないようなところから来たんじゃよ。おまえさんは知るまいが、おまえさんらは丸い球のまん中に住んでおるんじゃ。その外側にもう一つ別の世界がある。こことはまったくちがった世界がな。いいかね、わしはその外側にあるもう一つの世界から来たんじゃよ。
そこでは、わしは船乗りじゃった。北極のあたりで鯨《くじら》を捕っとったもんじゃ。最後にわしが海に出たのは、おっそろしく晴れた夏じゃった。わしらはそれまでに来たよりもずっと北へ遠出をした。氷はなかった――見渡すかぎり広大な北極海があるだけじゃった。
さて、何もかもうまくいっとった。あのどえらい嵐に出くわすまではな。ひでえのなんのって。ドリー・ドーカスは難破しちまいやがった。ドリー・ドーカスちゅうのはわしの船のことじゃよ。ほかのやつらはどうなったか知らんが、わしが乗ったボートには八人おった。食物と水と羅針儀、それから櫂も帆もあった。それでも先の見通しはたいしてよくなかった。はるか北極海のどまん中。おまけに冬は近づいておった。わしらはこの世におさらばするしかなかった。
わしらはこっちが南だと思う方角に長い間帆走した。その間、羅針儀はしだいに異様な動きをするようになっていった。あのできそこないの羅針儀は狂いおったんじゃ。それから食物がなくなった。そこでまず何をしたかちゅうと、わしらは共喰いをはじめたんじゃ――手はじめにいちばん弱いやつからな。それから何人かが発狂しおった。二人は海にとびこんだ。しみったれめ、わしらがあれほど肉をほしがってたちゅうに。
ま、世間でいうように、手短かに話すとじゃな、最後にはわし以外にだれも残らなかったちゅうことじゃよ。ちきしょうめ、あれで陽気が暖かくなっていなかったらどうなったか。それからじきに陸が見えて、果物や木の実や新鮮な水にありついた。まったくよいタイミングじゃった。というのはじゃね、あんまりひもじいんで、片足をちょん切って喰ってやろうかと考えておったんじゃよ」
オー・アアは目をまるくし、あっけにとられて一語一語に聞きほれていた。ホドンはこんな長い間だまっている彼女ははじめてだった。ついに彼女は好敵手に出会ったわけだ。
「きみのにいさんや、おふくろさんのおやじさんはどうした?」ホドンがいった。
「えっ? そいつはなんのことじゃい?」老人がたずねた。
「いや、ぼくはオー・アアに話しかけてたんだ」
「おい、話の腰を折るなよ。おまえさんは口数が多すぎる。こうっと、どこまでいっとったかな? おかけですっかりこんぐらがっちまったよ」
「足を食べようかと思っていたところまでよ」オー・アアがいった。
「そうそう、そうじゃった。さてと、世間でいうように、手短かに話すとじゃな。わしはペルシダーに来とったんじゃよ。どうやって生きておったのか、わしにもさっぱりわからん。じゃがたしかに生きておった。わしはあっちこっちと部族を渡り歩いた。それやこれやの理由でだれもわしを殺さなんだ。わしは言葉を覚え、槍で狩猟することを覚えた。ま、なんとかやってきたわけじゃ。最後にカヌーを盗んでどえらくでかい海に乗り出した。この近くに上陸してこいつらにつかまったときには、ひげは一メートルになっとったよ。
さてと、そろそろおまえさんらに食物をやってふとらせるとするか。この娘は今喰ってもうまかろうと思うがな」かれは手を伸ばしてオー・アアの肉をつねった。「ムニャムニャ!」かれはさけんだ。「ちょうど喰い頃じゃい!」
「あんたは人肉を喰うのか?」ホドンがたずねた。
「そうさな、ドリー・ドーカスが難破してからちょいと味を覚えたんじゃがね。ビルのやつあ、ひどく固くていやな味がしたな。じゃが、あのスエーデン人はうまかったなあ。あんなうまいものははじめてじゃ。そうとも、わしは主があたえ給うものを喰う。おまえさんら二人もさぞうまかろうて」
「あたしたちを連れにしたいから、かれらが食べなきゃいいがって、あんたいってたんじゃなかった?」オー・アアがいった。
「ああ。これが世間でいう板ばさみというやつじゃよ。肉は喰いたいし、話相手はほしいし」
「ぼくたちは聞き手にまわるよ」ホドンがいった。
「ええ」オー・アアが同意した。「いつまででも聞いてるわよ」
ペリーが悲鳴をあげたのは、巻き揚げ機の筒形部《ドラム》からロープの端がするりと抜けるところを目撃したためだった。結えつけておくのを忘れたのだ! かれはロープをつかもうと飛びついた。だが巻き揚げ機を離れた気球は、かれのはるか頭上にロープの端をたぐっておどり上がった。むろんかれが飛びついてもむだだった。ペリーの作った気嚢は十二人がかりでも押さえることはできなかったろう。
老人は、みるみる上昇して小さくなっていく大気球を見上げた。それからすわりこんで両手で顔をおおってすすり泣きをはじめた。美女ダイアンがもはや死んだも同然だということがかれにはわかっていたからだ。地上、地底を問わず、今となってはどんな力も彼女を救うことはできないのだ。
どこまで彼女が上っていくか、サリからどれだけ離れるか、かれには見当すらつかなかった。まちがいなく彼女は酸素欠乏で死ぬだろう。そうなったら、気嚢がガスを失って降りてくるまでに彼女の死体は千キロあるいはそれ以上のかなたへ運ばれていってしまう。
かれは美女ダイアンを娘のように愛していた。デヴィッド・イネスが彼女を崇拝していることも知っていた。今やかれはダイアンを殺し、デヴィッドの一生をめちゃくちゃにしてしまったのだ――かれがこの世でもっとも愛していた二人なのに。かれのくだらない発明の数々は、これまでいくぶんの利益と多少の害とをもたらした。しかしたとえどんな利益をもたらそうと、それらはこの一事で消し飛んでしまった。何よりも悪いことは、かれの言語道断なうかつさだった。
ダイアンは気球がいきなり急上昇するのを感じた。彼女は吊り籠から下を見おろして、ただちに何事が起こったかをさとった。下にあるものがみなどんどん小さくなっていく。ほどなく人の判別もつかなくなった。彼女は、いったい自分はどうなるのだろうかと考えた。たぶん太陽まで運ばれて焼け死んでしまうのだろう。彼女は風が気球を南西の方角に運んでいるのに気がついた。
彼女はペリーの犯した最大の誤りに気がついていなかった。それはペリーとて同様だった。かれは気嚢に|引裂き縄《リップコード》をつけておかなかったのだ。それさえあれば、徐々にガスを排出してサリのわりあい近くに着陸することができたものを。ペリーはすべてかれが作ったものから何かしら重要なものを抜かすくせがある。最初のマスケット銃には引き金がなかった。
美女ダイアンは、これでもう自分は死んだも同然だと察した。彼女は泣いた。が、それは死を恐れたためではなく、二度とふたたびデヴィッドに会えないがためだった。
はるかかなたのデヴィッドは、噴火口の縁にのぼりついて縁ごしに見おろした。かれの下、三十メートルあるなしのところに青々と草木の茂った円形の谷が見えた。小さな湖と、草葺き屋根の小屋と、人間が見え、ホドンとオー・アアが見えた。かれの推測は的中した。
かれは異様な剣歯人を見た。二百人ばかりいる。これほど圧倒的多数の敵から、どうやって単身でホドンとオー・アアを救出することができよう?
デヴィッド・イネスは機略縦横の男だった。が、頭をひねればひねるほどこの問題の解決は絶望的に思えてくる。噴火口に降りていっても何もならないだろう。そんなことをしたらかれ自身が捕まるだけだ。そうなったら二人になにもしてやれなくなる。
かれは噴火口をたんねんにしらべた。内壁は一ヵ所をのぞいてどこも垂直でよじのぼることはできない。その一ヵ所の壁は内側にむけて崩れており、くだけた荒石が頂上の縁までつづく斜面を形成している。その地点では、噴火口の底から縁までは十五メートルとない。逃げ道はあるわけだが、どうやってそこにホドンの注意を引くかだ。どうしたら敵の注意をそらせて二人が脱走する間ひきつけておくことができるだろうか。と、かれは思い出した。噴火口の入り口の暖かい洞穴に立っていたとき、風が吹きぬけていったことを。かれは踵を返して山腹を下りはじめた。
老人はしゃべりつづけだった。オー・アアすら横合いから口出しすることができなかった。だがついにちょっとの間しゃべるのを止めた。たぶん過去に関する記憶を新たにするためだろう。かれは過去に生きているのだ。
ホドンはこの瞬間をつかんで、先刻から抱いていた考えをほのめかした。「なぜあんたは逃げないんだ?」
「え? なんじゃと? 逃げる? そいつは――その――わしの最後の二頭歯が抜けるより前から考えたこともなかったな。じゃが、むろん逃げることはできんじゃった」
「そこがどうもわからないな」ホドンがいった。「われわれが三人して逃げられないとは思えないんだが。あそこの上の、低くなった場所が見えないかい? やつらの注意を他へひきつけておく何らかの方法が見つかれば、またたくうちにあそこまでかけのぼることができるよ」
「フム、フム、フム」老人は考え深げにつぶやいた。「ときに大勢がいっぺんに眠ることがある。やれるかもしれんが、あやしいもんじゃ。それにどっちみち、わしが逃げて何になる? 先にけものにやられなかったとしても、最初につかまった一族に殺されちまうのがおちじゃないか」
「そんなことはない」ホドンがいった。「あんたをサリに連れていってあげる。サリへ行ったら親切にしてもらえるし、昔の友だちに会えるかもしれないよ。あそこにはコネティカットのハートフォードから来た人が二人いるんだ」
たちまち老人は生き生きした。「コネティカットのハートフォードのことで、おまえさんは何を知ってる?」
「何も。でもその人たちは知ってるよ。そのことを話すのを何度も聞いたことがあるんだ」
「どうやってここへ降りてきた? それならわしと同じような話にちがいあるまい。きっとわしの話を聞きたかろうな」
「そりゃあそうよ」抜け目のないオー・アアがいった。「あたしたちといっしょにくるべきだと思うわ」
「考えておこう」老人はいった。
デヴィッド・イネスは噴火道の入り口にむかった。かれは枯木や木の葉や青草を集めてきて、青草をいちばん上にして噴火道のずっと奥のほうに積み上げた。それから火を作ってそれに火をつけた。火が存分に燃え上がるのを見とどけると、かれは噴火道からかけ出て山腹を全速力でのぼりはじめた。
頂上について下を眺めると、煙が噴火道の入り口の穴からもくもくと立ちのぼっているのが見えた。すでに一群の剣歯人がガヤガヤとその周囲にむらがっていて、その他のものも続々と加わってきていた。すべてを賭してデヴィッド・イネスがホドンにむかって火口の縁の低い場所に逃げろとさけぼうとしたとき、かれはホドンとオー・アアともう一人がそこにむかって歩いていくのを見た。三人目は原住民ではないということがわかったので、別の捕虜なのだろうと考えた。
ホドンが待ち望んでいた、敵を牽制するきっかけはほとんど奇跡的に起こった。三人はすかさずそれを利用した。
「その、コネティカットのハートフォードから来たちゅう連中はたしかにこれからわたしたちが行くところにいるじゃろうな?」老人は追及した。「もしいなかってみろ、折りがありしだい喰ってやるから」
「あら、いるわよ、いますとも」オー・アアがいった。「あたしたちが出かける直前に見たんですもの」
ホドンは驚いて彼女を見た。かれの驚きの中には感嘆の気持も入りまじっていた。「そのうちの一人には、サリへ着く前に会えるかもしれないよ。ぼくらがつかまる直前までその人はいっしょにいたんだから」
「そう願いたいもんじゃ。是が非でもだれかハートフォードの住人に会いたいからな。いや、カンサスから来たやつでもかまわん」
「あらそうなの」オー・アアは肩をすくめていった。「カンサスの人なら大勢知ってるわ。あんたが会いたいと思うだけ会えるわよ」
それまで驚嘆の面持ちだったホドンは、こんどは恐れ入ったという顔をした。だがそのときにはゆるやかな砕石の斜面のふもとにさしかかっていた。ホドンはふり返った。剣歯人は一人残らず煙の立ちのぼる穴の周囲に集まっている。だれ一人としてかれらのほうを見ていない。「ゆっくりのぼりはじめるんだぞ」ホドンは注意した。「ぼくらのやっていることをやつらが発見しないかぎり急ぐな。発見されたらこんどこそ本気でのぼらなくちゃならないからな。いったん外へ出たら、オー・アア、きみとぼくはかれらのだれよりもずっと速く走れるが、じいさんはどうかわからないな」
「いいかね、お若いの」とそのご仁はいった。「わしはおまえさんの家族をきりきりまいさせることだってできるんだぞ。なあに、若い時分はみんながわしを競走馬と競争させたもんじゃよ。二馬身先に出してやって、一キロ以内に追い抜いたもんじゃ」
ホドンは馬が何か知らなかった。が、それがなんであれ、じいさんはほらを吹いているなと思ったので何もいわなかった。そして、オー・アアとじいさんとではいい勝負だと考えていた。
一行は勘づかれずに頂上に達した。そして下りはじめたとき、ホドンはデヴィッドがかれのほうにむかってやってくるのを見た。ホドンは急いでかけ寄った。「あの煙の元を作ったのはあなたですね? でもぼくたちが噴火口の中にいるということがどうしてわかったんです?」
「これがハートフォードから来た人かね?」小柄な老人はたずねた。
「そうだ」ホドンがいった。「だが、あんたの経歴を今話しはじめるんじゃないぞ。あんたの仲間の手中から脱してからにしてくれ」
ダイアンは、太陽に近づけば近づくほど寒くなるということを発見して驚いた。また、耳鳴りがして呼吸が困難になるのがふしぎでならなかった。だが、そうなってさえ、彼女は自分自身の危険についてはあんまり考えていなかった。ただデヴィッドのこと――二度とふたたび会えないデヴィッドのことしか考えられないのだ。
今では気球は一定の高度をただよっていた。これ以上高くは上らないだろうし、しまいには下りはじめるだろう。しかし地面に着く前に美女ダイアンは空腹と疲労のために死んでいるかもしれない。ごく申しわけていどの腰布をつけているだけでほとんど裸に近かったから、すでに彼女は冷えきって震えていた。
はるか下にいる狩猟隊が、奇妙なものがこっちへむかってただよってくるのを見た。かれらはそれが何か新種の恐ろしい爬虫類だと考えて、木の下にかけこんで身を隠した。ダイアンの兄〈強者《つわもの》ダコール〉がその一隊の中にいたが、自分の妹がはるか上空をただよっているなど夢にも思わなかった。かれとその仲間の一行は、かれらが目撃した恐ろしい生物のことを語るだろう。そしてその話は、つたわっていくうちにしだいに枝葉がついていくだろうが、かれらがどんなに大げさな話を作りあげようとも、真実にはかなうまい。
剣歯人はあまり利口ではない。しかし火山とはどういうものかということはよく承知している。なぜならかれらの火口からさほど遠くない山中に、間欠的に噴火する山が一つあるからだ。それで、あれこれ考え合わせたすえ、かれらは自分たちの火口が噴火しようとしているのだと考えた。今少し利口だったら、噴火山から木を燃した煙は出てこないものだと判断しただろうに。かれらにはそれが煙だということしかわからず、煙は火を意味していた。かれらは恐れた。
そこで火口から脱出するのがいちばんだということになり、かれらは例の火口の縁の近くなった箇所にむかった。捕虜が逃げたことを発見したのはそのときだった。
むらがって火口から脱出しながら、かれらはおびえているばかりではなく、腹を立てていた。これまでに脱走した捕虜はいないし、このままおめおめとこの捕虜たちを逃がしてしまうつもりはない。かれらは跡をつける名人だったし、非常に速く走ることができるので、すぐにも逃亡者たちに追いつくだろうと信じて疑わなかった。しかしながら逃亡者もまた足が速かった。その上かれらには二つの利点があった。かれらは足跡に注意してつけていく必要はないし、生命がけの逃走なのだ。何かを根かぎりにやるのに、これにまさる拍車はない。じいさんでさえ、他の三人のあとについて一生懸命駆けながら驚くべき脚力を発揮した。
デヴィッドとホドンは、もともと逃げるということには反対だったから、現在の自分たちの立場をうとましく思った。だが、どうすればいいというのだ? 武器を持っているのはデヴィッドだけだ。かれは粗末な弓矢と石の短刀を持っていたが、数において優勢な、剣歯人ごとき野蛮なけだものの軍勢を迎え撃つにはそれだけでは充分とはいえない。
かれらはまだつけられていることには気づいていなかったが、いずれはそうなるだろうと推察していた。それに老人は、きっとつけてくるとうけあった。
「わしは歯が抜ける前からあそこにおったんじゃ。やつらが地獄の底まで追ってくることは絶対にまちがいない。わしのいた間に逃げおおせた捕虜はいないんじゃからな」
先頭のホドンは、かれとデヴィッドが隠れ場所を見つけたあの小峡谷に一行をみちびいていった。一行は追跡者の最初の一人が見える前にその渓谷の口に首尾よく到達した。中へはいった直後、どっと荒々しい咆哮が聞こえて剣歯人が追いついたことを告げた。デヴィッドはちらとふり返った。いちばんの足の速い雄が三、四人、かれにむかって疾駆してくる。そしてその直後に数珠《じゅず》つなぎにつながって来るわ来るわ、雄、雌、子供――一家総出ですぐ後に迫っている!
「あとの者を洞穴に入れろ、ホドン!」かれはさけんだ。「みんながはいってしまうまでわたしが喰い止める」
ホドンは躊躇《ちゅうちょ》した。かれは取って返してデヴィッドの側で戦いたかった。
「行け!」デヴィッドはどなった。「行かなければわれわれは全滅するぞ!」そこでホドンはオー・アアと老人を連れて洞穴にむかって疾走した。
デヴィッドは、さっとふりむきざま先頭の野蛮人の胸板に矢を射ちこんだ。そいつは悲鳴をあげて矢柄をつかみ、ついで独楽《こま》のようにきりきり舞いをして地面にくずおれた。第二、第三の矢が次々とすばやく射ちこまれ、さらに二人の剣歯人の戦士が大地にのたうった。あとのものは立ち止まった。デヴィッドは次の矢を弓につがえて洞穴に後退《あとずさ》りしていった。
剣歯人はたがいにキイキイガヤガヤとしゃべっていた。が、やがて巨大な雄が攻撃に出た。ホドンとオー・アアは洞穴の中にいた。ホドンは手を下に伸ばして老人の手をつかんで引き上げてやった。
デヴィッドは射撃のかまえのまま、なおも洞穴のほうに後退していた。矢は無尽蔵にあるわけではないから、射ち損じることはできない。
くだんの大ものが、まさに飛びかかろうとする直前、かれは矢柄を放した。矢は真一文字に飛んで雄の心臓を射ち抜いた。しかしその後からなおもどんどんやってくる。あと二人をやつぎばやに倒すと、やっとそのあとの連中がちょっと立ち止まった。そこでデヴィッドはきびすを返して洞穴めがけて疾駆した。剣歯人は一族あげて怒号し、甲高い叫び声をあげながらかれの背後に追いすがった。猛烈ないきおいで地面をとんだりはねたりしながらやってくる。デヴィッドの二倍の速度だ。
ホドンは洞穴の口に立っていた。「とんで!」かれはデヴィッドにさけんだ。かれは下にむかって上体をのりだし、手をさしのべていた。デヴィッドが洞穴の口にむかってとび上がったとき、かれのすぐ後に迫っていた剣歯人が腕をのばしてかれをつかもうとした。と、同時に一かけの岩がそいつの眉間にまともにあたり、剣歯人はべったりと地面に這った。オー・アアがにやにやしながらポンポンと手のちりを払った。
ホドンはデヴィッドを洞穴の中に引きこんだ。「とてもだめかと思いましたよ」ホドンはいった。
洞穴の中には余分な槍と矢があり、食物も少々あった。滝はすぐそばに流れ落ちていたので、手を伸ばせば掌に受けることができた。これでのどの渇きに苦しむこともないだろうし、剣歯人のようにろくな武器を持っていないけものが相手なら、一人が槍で入り口を守ることもできる。総じてここならかなり安全だとかれは感じたのだった。
「このけだものたちはいつまでもここにはいまい」デヴィッドがいった。「われわれを捕えることができないとわかったら行ってしまうだろう」
「おまえさんらは知らんのじゃ」老人がいった。「やつらは地獄が凍っちまうまでこの辺をうろついているだろうよ。しかしやつらこそいい面《つら》の皮じゃて」
「どういうことだね?」
「つまりじゃね、やつらはわしら四人を手に入れるかわりに、たった一人しかつかまえることができないじゃろうということじゃよ」
「それはまたどうして?」デヴィッド。
「ここじゃ食物は手にはいらん。そこでわしらは共喰いをせにゃならん。最後にはわしが残ると思うがね。わしはあんまり年をとりすぎていて固くて食えんよ。剣歯人ですらわしを喰おうとせんじゃったからのう。ここにいるこのあたりが柔らかくてうまそうじゃ。この娘からはじめるとするか」
「だまれ!」デヴィッドがぴしゃりといった。「われわれは人喰人種ではない」
「そりゃわしだってケープ・コッドにいた時分はちがったよ。その時分なら、わしが男だろうと女だろうと子供だろうと、人を喰ったなんぞというやつがおったら、トサカをおっ立ててやっつけてやったろうさ。そうはいってもその時分は餓死しかかったこともなかったし、味をしめれば人間もけっこううまいということも知らなかったもんな。おまえさんがくる前、わしはこの二人に、わしが喰ったうまいスエーデン人の話をしておったんじゃよ」
「それにあんたはいってたわ」オー・アアが口をはさんだ。「友だちをみんな食べてしまってから、こんどは自分の足を切って自分を食べるところだったって」
「そうとも」老人は認めた。「まったくそのとおりじゃ」
「それなら、お腹が空いたら自分を食べるといいわ。だれもあんたなんかに食べられませんからね」
「それそれ、そういうのをどえらいしみったれちゅうんじゃよ。わしらがたがいに共喰いをしなかったら剣歯人がわしらを喰っちまう。あんなやつらに喰われるくらいなら友だちに喰われたほうがましだと思うがね」
「おい、いいか――ええっと――ところでなんという名だ、おまえは?」デヴィッドはそれとはっきりわかるほど語気を荒げていった。
老人は眉を寄せて考えこんだ。「ちきしょう!」やがてかれは大声でいった。「いったいわしの名はなんちゅうんじゃろ? 忘れちまったんじゃからあきれたもんじゃ。何せ、若い時分に聞いたきりじゃからのう」
「この人の名前は」と、オー・アアがデヴィッドにいった。「ドリー・ドーカスっていうんだと思うわ」
「ま、いいさ」デヴィッドがいった。「ただこれだけははっきりしておこう。共喰いの話は今後いっさいしないことだ。わかったな?」
「まあ、腹ペコになるまで待ってみな」老人がいった。「そうすりゃ話だけじゃおさまらなくなるから」
デヴィッドは洞穴にたくわえてあっただけの食糧を分配した――大部分が木の実と根っこだった。こういったものはいたみにくいからだ。めいめい自分のわけ前を取った。かれらは交代で見張りをして、その間に眠りたいものは眠った。他に何もすることがなかったので、大部分を眠ってすごした。これがペルシダーの習慣なのだ。かれらはこうしてエネルギーをたくわえるらしい。そうすればあとになってあまり眠る必要がないからだ。こうして長途の旅や困難な仕事にそなえる。
剣歯人のうち何人かは、いつも渓谷に残っていた。かれらは何度か洞穴に攻撃をくわだてたが、やすやすと追っ払われてからはそれもあきらめ、兵糧攻《ひょうろうぜ》めにして獲物をおびき出すことにした。
洞穴の食糧は急速に減少していった。ほどなくデヴィッドは、老人が見張りに立って他の者が眠っている間にいちばん早く減るのに気づいた。そこで一度|狸《たぬき》寝入りをして、その間に老人が他の者のわけ前から少しずつ盗んで洞穴の奥の岩の裂け目に隠すところを押さえた。
デヴィッドが他の二人を起こしてそのことを話すと、オー・アアは、すぐに老人を殺そうといった。「かれは殺されて当然だ」デヴィッドはいった。「しかし、われわれが手を下すよりもっといい考えがある。剣歯人のところへ落としてやるんだ」
老人は泣き声をあげて許しを乞い、もう決してしないからと約束した。そこでかれらは老人を生かしておくことにしたが、二度とかれを一人で見張りに立たせなかった。
とうとう食糧はすっかりなくなった。剣歯人はまだ谷にいる。籠城《ろうじょう》組は飢えきっていた。飢えをやわらげるために水を大量に飲んだが、一同はどんどん衰弱していった。デヴィッドは最後が近いことをさとった。かれらは眠ってばかりいたが、その眠りもとぎれがちだった。
一度、オー・アアが見張りに立っていたときのこと、デヴィッドははっとして目をさました。そして老人が槍を手に彼女の背後にしのびよるのを見てぞっとした。老人の意図はあまりにもはっきりしていた。デヴィッドは警告のさけびを発して彼にとびついた――あやういところだった。
ホドンが目をさました。老人が洞穴の床に這いつくばっていて、オー・アアとデヴィッドがそれを見下ろしている。
「何ごとです?」ホドンがたずねた。
かれらが話すと、ホドンは老人に近づいていった。「こんどこそ殺してやる」
「いやじゃ、いやじゃ!」おびえきった老人は金切り声をあげた。
「一人占めする気はなかった。おまえさんらとわけるつもりだったんじゃよ」
「このけだものめ!」ホドンはさけんで老人が落としていた槍を拾い上げた。
老人は悲鳴をあげてとびあがった。そして洞穴の入り口までかけていって、外へとび出した。
渓谷には百人の剣歯人がいた。老人はあらんかぎりの声で悲鳴をあげ、目を血走らせ、歯のない口をねじまげて、そっちにむかってまっしぐらに駆けていく。
剣歯人たちはちぢみあがってかれを避け、脇へよけた。かれらがあけた道を老人は一目散にかけぬけて、渓谷のはずれの森に姿を消した。
〈毛深い男ガーク〉は千人の戦士をひきいてカリに進軍した。かれはスヴィの王ファシュがカリを征服したことを知らなかったので、かれの前衛隊が断崖に接近したときに攻撃を受けたのに驚いた。とはいうものの、ガークにとっては相手がスヴィ人だろうとカリ人だろうとちがいはなかった。
一方、ファシュはこの前衛隊が撃つべき相手の総勢だと考えた。というのも、攻撃のさいに全戦士を一団としておくのがかれ自身の習慣だからだ。ファシュは、デヴィッド・イネスがサリ人に異なった戦法を教えたということを知らなかったのだ。これがファシュの不運だった。
ガークの本隊が現われると、ファシュの部下たちはちりぢりになった。何人かはカリの洞穴に退却した。サリ軍は、敵が梯子を取りはずすことができないでいるうちにあとを追ってどんどんのぼっていった。ふもとからいちばん高い岩棚に到るまで、戦士たちは狭い岩棚の上で接戦した。岩棚で追いつめられたスヴィ人たちは飛びおりて死んでいった。そしてついに〈毛深い男ガーク〉は勝利を得てカリの洞穴の上に立ったのだった。
ついでサリ人の捕虜が洞穴牢から出てきた。このときはじめてガークは、デヴィッドの小隊が殺されたり捕虜になったりして、デヴィッドが行方不明だということを知ったのだった。かれが死んだにちがいないということで全員の意見は一致していた。
ガークの軍勢はカリの断崖で休息し、食事をとった。それから、勝利は得たものの悲しい心を抱いて、ルラル・アズに待機している船にひきあげを開始した。かれらが断崖を離れるか離れないうちに、異様な風体の男が森からとびだしてきた――白ひげをぼうぼうと生やし、歯の抜けた小柄な老人だ。ひげは野生いちごの汁や果肉でよごれていた。かれは森の木に住む毛深い小人のように、何やらわけのわからないことをわめき散らしていた。
サリの戦士たちはこんな生きものを見たことがなかったので、変わった動物でも捕まえるようにその老人をとらえてガークに見せるためにつれていった。
「おまえは何者だ?」ガークがたずねた。
「わしを殺すつもりかい?」老人は頬に大粒の涙を流してすすり泣いていた。
「そうではない」ガークは相手を安心させた。「おまえは何者だ、ここで何をしているのか話なさい」
「わしの名はドリー・ドーカス|とはちがう《ヽヽヽヽヽ》んじゃ」老人はいった。「わしはオー・アアをほかの連中とわけるつもりじゃったのに、ホドンはわしを殺そうという」
「ホドンだと!」ガークはさけんだ。「ホドンのことで何を知っているのだ?」
「わしを殺そうとしていた。しかしわしは逃げ出した」
「ホドンはどこだ?」
「かれとデヴィッドとオー・アアは洞穴にいる。剣歯人がかれらを喰おうと待っているよ」
「どの洞穴だ? どこにある?」
「もし教えてやったら、あんたはわしをあそこへつれもどすじゃろう。そしたらホドンがわしを殺す」
「われわれをデヴィッドとホドンのいるところへ案内してくれたら、だれもおまえを殺さぬ」ガークはうけあった。
「それから食べるものをうんとくれるようにしてくれるかい?」
「おまえが持てるだけやろう」
「それじゃわしについてきなされ。じゃが剣歯人に気をつけてな。おまえさんのほうでやつらを殺さないかぎり、やつらはおまえさんらをみんな喰っちまうからな」
オー・アアはひどく衰弱しているようすだった。彼女を見るホドンの目に涙がにじみそうになった。やがてかれはデヴィッドに話しかけた。
「デヴィッド、ぼくのしたことはまちがっているかもしれません。ぼくは自分の食糧を半分だけ食べて、あとはとっておいたのです」
「きみのものだからすきなようにすればよいのだ」デヴィッドはいった。「取り上げはしないよ」
「ぼくがほしいのではありません。オー・アアのためにとっておいたのです。今、彼女にはそれが必要です」
オー・アアは目を上げて微笑した。「あたしも自分のをとっといたのよ、ホドン。あなたのためにね。ほら、ここにあるわ」彼女は洞穴の入り口の上に茂っている大きな葉でつくった小さな包みをとり出してホドンに渡した。
デヴィッドは洞穴の口まで歩いていって小峡谷を見下ろした。だが、何もかもまるで霧を通して見るように、ぼうっとかすんでいた。
ホドンはオー・アアのかたわらにひざまずいていった。「女は自分の愛する男のためにだけそういうことをするものだよ」
オー・アアはうなずいてかれの腕の中にそっと身を投げかけた。
「でも、ぼくはブラグを倒していない」ホドンがいった。
オー・アアはかれの唇を自分の唇に引き寄せた。
「きみのにいさんやねえさんはなんていうかな?」
「あたしにはにいさんもねえさんもいないわ」
ホドンがあまり強く抱きしめたのでオー・アアはあえいだ。
ほどなく霧は晴れ、デヴィッドははっきりと見ることができた。かれは渓谷の外にいた剣歯人がかけこんでくるのを見た。かれらは興奮したようにしゃべっている。ついでかれは、人間の戦士たちが接近してくるのを見た。マスケット銃をかついだ戦士だ。大勢いる。剣歯人は戦士を攻撃したが、一斉射撃を浴びてなぎ倒された。銃声はものすごく、黒い硝煙は渓谷の口にもうもうと立ちこめた。
マスケット銃の銃声に、オー・アアとホドンは洞穴の口にかけつけた。
「ガークが到着した」デヴィッドがいった。
「これですべてよし、だ」
サリへ帰る前に、短いながら幸福なひとときをデヴィッドが味わうことができたのは、めでたいことであったといえよう。
[#改ページ]
第二部 青銅器時代の男
剣歯人の最後のやからが、殺され、あるいは退散すると、デヴィッド、ホドン、オー・アアは、ガークとその部下の戦士たちに合流した。ホドンはいち早く、小柄な老人を見つけて進み出た。
「殺してやる」ホドンはいった。
小柄な老人は、悲鳴をあげてガークの後にかくれた。「ここへあんたがたを案内して来たら、あんたは、ホドンにわしを殺させたりせんと約束したな」かれは泣き声でいった。
「わたしは約束を守る」ガークがいった。「この男に手出しをするな、ホドン! 殺したいとは、いったいこの男がおまえに何をしたというのだ?」
「そいつはオー・アアを殺そうとした。殺して喰うつもりだったのだ」ホドンは答えた。
「娘を一人占めする気はなかったんじゃ」老人は泣き声でいった。「ホドンやデヴィッドとわけるつもりじゃった」
「この老人は何者だ」ガークがたずねた。「自分の名前はドリー・ドーカス|ではない《ヽヽヽヽ》といっておるが」
「その男は剣歯人の捕虜だったのだ」デヴィッドがいった。「ちょっと頭がおかしいんじゃないかと思う」
「かれがわたしをここへ案内して来てくれたのだから、助かったことをかれに感謝しなくてはいかんな。危害を加えたりしないことだ。かれが自分の名前がドリー・ドーカスではないといっているのは、どういうことです?」
「かれの話では」デヴィッドが説明した。「わたしがいた地上世界の北極付近で、ドリー・ドーカス号という名の船に乗っていて難破したのだそうだ。それから小さなボートで、ペルシダーに通じている北極の開口部を通り抜けて、漂流してきた。それを、オー・アアがちょっとこんぐらかって、かれの名前がドリー・ドーカスだと思いこんだのだよ」
「そのじいさんは、一緒にボートに乗っていた仲間を全部食べちまったのよ」オー・アアがいった。「みんないなくなっちまうと、こんどは自分の足を一本切って、食べるところだったんですって。おりよく食物が見つかったけど、よっぽどくいしん坊なのね」
「相手がだれにしろ、どうやって喰うのかねえ」ガークがいった。「かれには歯がないじゃないか」
「聞いて驚くなよ」小柄な老人がいった。
「それで、おまえ――いったい名はなんというのだ、ドリー・ドーカスじゃないというのなら?」ガークがたずねた。
「それが覚えとらんのじゃよ」じいさんはいった。
「ではおまえのことを、ただ、〈アー・ギラク〉と呼ぶことにしよう。それがおまえの名だ」
(〈アー・ギラク〉とは、ペルシダー語で、老人という意味だ)
「よかろう」小柄な老人はいった。「少なくともアー・ギラクのほうが、男の名としては、ドリー・ドーカスよりゃ、ましじゃわい」
「それから、これは覚えておけよ、アー・ギラク」ガークが言葉をついだ。「二度とふたたびだれかを喰おうなどという了見を起こしたら、ホドンに殺されるからな」
「なかにはうまいやつもおったがのう」アー・ギラクは、しみじみと溜息をついた。「ことにあのスエーデン人ときたら」
「では、カリの部落へ行こう」デヴィッドがいった。「オー・アアとホドンとわたしは、何か食べなくては。あの洞穴で餓死寸前だったんだからな。それから、ウースとかれの一族の生存者たちが隠れている北の洞穴へ、伝令を送ろう。そのあとで、ガーク、きみの船が碇泊しているルラル・アズへ下って、故郷にむけて船出するとしよう。きみが、スヴィ人をこれで充分にこらしめたと得心しているならの話だが」
渓谷とカリの部落との中間で、一団の男たちが北からこちらへやってくるのが見えた。かれらは、武装した大勢の戦士たちを見るや、きびすを返して逃げはじめた。だが、オー・アアが声をかけた。「もどっておいで! 大丈夫。味方よ」ついで彼女はガークにむかい、「あれは、あたしの一族の者たちですわ。あたしの父、カリの王がいます」
新来者の一行がもっと近くまでやってきたとき、ホドンは、ブラグがウースとともにいるのをみとめた。そこでかれはオー・アアのところへ行って、彼女の身体に腕をまわした。それを見たブラグは、とび出してきた。
「おれさまがもどってきたときにこの辺をうろうろしていたら、殺すといっておいたはずだ」かれはどなった。
「あっちへお行き!」オー・アアがいった。「ホドンはあたしの夫だよ」
「なんだと?」父親のウースが聞きとがめた。「おまえはブラグといっしょになるのだといっておいたはずだぞ。わしは本気でそういった。だからおまえはブラグのものだ」
「殺してやる!」ブラグは、ひとことわめいてホドンに襲いかかった。
これをむかえて、サリ人が胸のすくような右手《ライト》を相手の顎にぶちこむと、ブラグはその場にドタリと倒れた。サリの戦士たちは、やんやの大喝采。しかしブラグは即座に立ち上がり、今度はどうにかクリンチに持ちこんだ。二人の男は地面に転倒し、二匹の山猫のように争った。この石器時代の男たちは拳闘のルールなど全然知らなかったから、その戦いぶりは決して見よいものではなかった。ブラグはホドンののどぶえに喰いつこうとするし、二人はさんざんにひっかきむしったり、かみついたり。
二人とも血みどろになった。ブラグの片目は頬にべろりとたれさがっている。と、そのとき、ホドンはすぐそばに岩がころがっているのに気がついた。たまたま、上になっていたホドンは、その岩をつかむや高々とふりかぶり、満身の力をこめてブラグの顔の上に叩きつけた。
ブラグは元来が決して美男ではない。だが顔中の造作が何一つもとの形をとどめず、ぐちゃぐちゃになったありさまは、ふた目と見られたものではなかった。ホドンは岩を持ち上げて今一度叩き下ろした。三度目に、ブラグはぐったりと動かなくなった。だがホドンは、相手の頭部をぐしゃぐしゃにつぶすまで打つ手を止めなかった。やがてかれは立ち上がった。
かれはウースを見ていった。「オー・アアはわたしの妻だ」
ウースはブラグを見下ろした。「ブラグも、もう使いものにならんな。オー・アアが望むなら、おまえを婿《むこ》にしてもよい」
ついで二人は周囲を見まわしてオー・アアの姿を求めたが、彼女は消えたあとだった。「いつもこうだ」ホドンがいった。「これまで三度、彼女のために戦ったが、三度とも、おれが渡り合っている間に逃げやがった」
「こんどつかまえたら、打ってやるがよいぞ」
「そうしましょう」
かれはずいぶん、オー・アアをさがしたが、見つからないのでカリの部落へやってきた。部落では、仲間のサリ人が、食事をして休息していた。
デヴィッド・イネスが充分に休養すると、サリ人はカリ人に別れを告げて、六十キロ先の海岸の沖合いに碇泊中の船にむけて出発した。
ホドンも同行した。かれは悲嘆にくれていた。というのも、オー・アアが逃げたのは、実際にかれの妻になりたくないからだと思ったからだ。
ところで、オー・アアは? 彼女は、ブラグがホドンに組みついて、二人が地面にころがったとき、これでもうホドンが殺されると思った。そこで、ぐずぐずしていてブラグの妻になるよりはと、逃げ出した。まず、サリをさがすつもりで南にむかった。サリは、千二百キロのかなたにある。これが長旅になることはわかっているし、道中に待ち受ける無数の危険をすべて切り抜けられるという公算はほとんどない。だが、ホドンが死んでしまっては、どんなこともさして気にならなかった。
彼女は穴居人の娘だったから、死は彼女の人生にとって一つの日常|茶飯事《さはんじ》にすぎず、したがってことさらにそれを恐れるということはなかった。古代人は、運命論者だったにちがいない。さもなければ、恐怖のために気が狂っていただろう。オー・アアは運命論者だった。彼女は自分にいい聞かせる。「もしも、タラグか、シプダールか、タ・ホが、ある一定の時と場所であたしとちょうどめぐり合ったら、あたしは殺されるのだ。今、かれらやあたしがしていることが何であれ、たがいにめぐり合わすその瞬間につながっているのにちがいない。めぐり合わさなくとも、それは同じこと。何ものも、それを変えることはできないのだから」彼女は、こんなふうに感じていたのだ。だから、くよくよしなかった――が、それでもやはり、目と耳はつねにそばだてていた。
オー・アアは、サリに行ったことがない。しかし、サリがルラル・アズから内陸にあるということは知っていた。そして、カリとサリの間には、連盟に所属している二、三の部族がいて、彼女を友好的に迎えてくれるだろうということも。そういった部族が一つでも見つかるまで、ルラル・アズの沿岸をたどることにしよう。そうすれば、残る旅路を行くのに、よりよい手がかりを得ることができるというものだ。
デヴィッド・イネスと、他のサリ人たちが、ほどなく海へ出て、乗船することは承知していた。だが、彼女は、父やブラグのもとへ送り返される恐れがあるので、かれらを避けたかった。そこで、ずっと南下してから、ルラル・アズのある東の方角へむかった。海図もない広大な水域。地上世界の中世代の、白亜紀の海を支配していたような、巨大な恐竜がひしめく大海。オー・アアは山国の娘だったから、大海が恐ろしかった。だが、陸地で彼女をおびやかす危険も、それにまさるともおとらず恐ろしいものだった。
かくも彼女が恐れる海へと下ってくるところを、今しも彼女が歩み寄っていく茂みのかげからじっと狙っている眼があった。
アブナー・ペリーは、しょげきっていた。食事ものどを通らず、眠ることもできない。それというのも、美女ダイアンを天上の風にゆだねてしまったのは、ひとえにかれ自身の不注意きわまる過失のいたすところだということを知っていたからだ。かれは、漂流する気球の進路をたどらせるべく、三人の追跡者を走らせた。だが、くだんの気球が地上に降下してきたところを発見したとしても、はたして生きたダイアンをそこに見いだすことができるかどうか、はなはだ心もとなかった。冷酷な寒気と飢えと渇きが、とっくに彼女の体力を奪ってしまっているにちがいない。生涯ではじめて、アブナー・ペリーは、真剣に自殺を考えた。
美女ダイアンは、いきなり気球が急上昇をはじめたので、いささか驚いた。だが、吊り籠の縁から下を見下ろして、気球を巻き揚げ機につないでいるロープの先端が、サリの部落の上空にふらふらと下がっているのに目をとめるまで、それがどういうことなのか気づかなかった。
美女ダイアンは、石器時代の穴居人の女だ。アブナー・ペリーがその気球を製作している間に、かれから聞きかじったこと以外、気球に関しては、何の知識も持っていない。何が気球を空中に浮かび上がらせるのかということも、おぼろげにしかわかっていなかった。|引裂き縄《リップコード》については何も知らなかったから、ペリーがまたしても失敗をやらかしたということには気づかなかった――かれはこの気球に、安全装置すなわち|引裂き綱《リップコード》をそなえるのをおこたったのだ。
ダイアンが気球学というものについて、もっと知識があったら、張り綱を伝って網のところまでのぼっていき、短剣で気嚢に穴を開けて、ガスを放出することもできたろうに。だが、ダイアンはこのことを知らなかった。それで彼女は、友人たちがはるか眼下にどんどん小さくなって微小な点と化し、ついにはサリの部落ともども遠く消えうせるのを見つめていた。
ダイアンは、太陽が火の球だということを知っていた。だから、太陽に接近すればするほど寒くなるということを発見しておどろいた。こんなことがあるだろうか。このことは、ペルシダー開闢《かいびゃく》いらいの人類の歩みと同じだけ歳月を経た、一つの理論をくつがえしたのだ。そういえば、この気球もまた、長年にわたって奉じられてきたいくつかの理論をくつがえした。吊り籠と、気嚢の材料である恐竜の腹膜が、空中を航行するのにはるかに重すぎるということはわかる。それなのに、なぜ空中に浮いているのか、彼女には推察もつかないことだったので、結局、ペリーにはどんなことでもできるのだからと、考えることにした。
ペルシダーの風は、ふつう、一方の極が冬になる、地上世界でいう半年間は、北から南へむかって吹き、もう一方の極が冬になる半年間は南から北へと吹く。ダイアンをサリから吹き飛ばした風は、南西に吹いて、彼女を〈恐ろしい影の国〉スリアのほうへと運びつつあった。
永遠の真昼の太陽のもと、ペルシダーの地温は高いのがふつうで、住民たちは最小限の服装でなくてはいられない。したがって、ダイアンの服装もかなり簡単なものだった。一枚の皮を、一筋の生皮の紐で片方の肩からかけて、裾の一端が片方の膝の下にたれているのだが、それがいかにも優雅でよく似合い、それと同時に、かっこうのいいもう片方の足は、ほとんど腰のあたりまであらわになっている。そのデザインの巧妙なことは、最高級のフランス仕立てと変わるところがない。ずばりと見せて人目を奪い、隠して気をそそる、あれだ。だが、高空で着るためにデザインされたものではなかったから、ダイアンは寒かった。
また、ダイアンは、空腹でのども渇いていた。しかし、彼女が舞い上がったこの新世界には食糧も飲みものもない。そこでふつうペルシダー人が、空腹でも食物が得られないときにすることを、彼女もした――つまり横になって眠ったのだ。こうすれば、エネルギーを消耗せず、生命を延ばすことができるし、同時に、身をさいなむ飢えと、渇きの苦痛から一時のがれることもできる。
どれだけの間、眠っていたかはわからない。だが、目がさめたときには、〈恐ろしい影の国〉の上空にいた。彼女自身も影の中にはいっていたので、ひどく寒かった。上には、ペルシダー人が〈死の世界〉と呼ぶ、あのペルシダーの太陽の小衛星があって、地球の自転にあわせて回転し、地底世界で〈恐ろしい影の国〉として知られているこの地方の上にじっとかかっている。彼女の下には、一部に影のかかったスリアの国がある。右にあるのはリディ平原だ。スリア人は、この平原で、かれらがリディと呼んでいる乗用動物――古ジュラ紀のディプロドカス――を放牧にしたり、調教したりする。
つのる寒気がダイアンの目をさまさせると、こんどは寒気と飢えと渇きが彼女をさいなんだ。希望はすでに消えていた。まもなく死ななくてはならないのだということが、彼女にはわかっていたからだ。そして彼女はこうも考えた――あたしの死体は、永久にペルシダーの空をただよいつづけることだろう、と。
気球がふたたび陽光のもとに現われると、ダイアンは横になって眠った。疲労のせいで、かなりの時間眠ってしまったのにちがいない。目をさましたときには、延長千六百キロないしはそれ以上におよび、ソジャル・アズとコルサール・アズを結ぶ無名海峡の上空だった。そこがどこであるか、ダイアンにはわかった。というのも、その海峡は、サリのある大陸の西南の境界線になっていたからだ――そこから先は、彼女の一族にとって|未知の世界《テラ・インコグニタ》であり、その謎の国に何がひそんでいるのか、だれ一人として知る者はなかった。
その海峡の幅は、ダイアンが横断している地点で約三百キロ。彼女の周囲では、土地がゆるやかな上むきの弧を描いているので、対岸が視野にはいるほどだ。
絶望の中にも、彼女は、今、新たな世界を見下ろしているのだという事実に胸を打たれずにはいられなかった。一族で最初の一人なのだ。ちょっぴりスリルを感じたが、その中にはおそらく恐怖もいくらかまじっていただろう。
と、背後の上空から、シューッという音が聞こえて、彼女はわれに返った。はっとふりむいて見上げる目に、あのペルシダーの恐ろしい怪物の姿が飛びこんできた――巨大なシプダールが気嚢の上を旋回しているではないか。この大翼竜《プテロダクテイル》は、体長約十二メートル。コウモリに似たその翼幅は、優に九メートルはある。強力な口には、長く鋭い歯がずらりと並び、足には見るも恐ろしい爪をそなえている。
ふつう、シプダールは、目にはいったものはなんでも襲撃する。もしも気嚢に襲いかかって、引っ裂いて穴でも空けたら、ダイアンは下の海に真一文字に落下するだろう。が、彼女にはなすすべもない。ただ、恐ろしい怪物が気球の周囲をめぐるのを目で追い、怪物の発するシューッという怒りの声に耳をかたむけているよりほかないのだ。
気嚢を見て、シプダールは困惑した。が、気球のほうではかれのことなど眼中になく、すましこんで、しずしずとただよいつづける。逃げようともしないが、さりとて戦いをいどもうともしない。とにかく、こいつは何ものなんだろう? ひょっとして、うまい食物なんじゃないか、と、かれは考えてみた。そして、それをたしかめるために、ものはためしとつついてみた。たちまち悪臭がかれの鼻腔に吹きこんだ。シプダールは、腹立たしげにシューッとうなってちょっと飛びのいたが、やおらふり返って、こんどはギャーッとさけびながらふたたび気嚢にむかってきた。
ダイアンは、デヴィッドのことだけを考えようとつとめた。最期の近いことを知ったものが、けんめいに祈祷《きとう》を捧げるように。
いつも油断のないオー・アアだったにもかかわらず、このときは、灌木の茂みにひそんでいる男に気づかなかった。大男だ。広い肩幅、厚い胸板、そして、筋肉隆々たる腕。男は鳥の羽根で作った褌《ふんどし》をしていた――黄色の羽根を集めたもので、そこに赤い羽根の横縞が二本はいっている。芸術的で、しかも強烈だ。魚の骨で作った耳輪をつけている。髪の毛の幾筋かを細く編んで、それを後頭部の上に小さなまげにまとめてあって、このまげに、赤い横縞のはいった黄色い羽根の長いのを三本さしている。手持ちの武器は、石の短剣一ふりと、大鮫《おおざめ》の歯の穂先のついた槍が一本。目鼻立ちは、くっきりと端正で、男前だ。肌は陽に焼けて、からかね色に輝いている。
オー・アアが正面までくると、男は茂みからおどり出て、彼女の髪をむずとつかみ、それから彼女を引きずって茂みの中を通り抜けて浜へ降りていこうとした。それがかれの思っていたほど簡単にはいかないということは、すぐにわかった。オー・アアを引きずっていくということは、恐水病の猫を引きずっていくようなものだ。オー・アアは、やすやすと引きずられてはいなかった。引っぱり返す、ひっかく、蹴とばす。そして噛みついていないときは、聞くにたえないような罵詈雑言《ばりぞうごん》を、立て板に水を流すごとくに浴びせるのだった。
石器時代の穴居人は、無口で気が短い。オー・アアの髪をつかんで引きずっている、この先史時代の美青年《アドニス》も、その例外ではなかった。つまり、ごくあたりまえの穴居人だったということだ。二度ばかりかみつかれると、かれは槍をふり上げて、柄のほうでオー・アアの頭にガンと一撃をくらわせた。オー・アアは、ころりとのびてしまった。それからかれはオー・アアをひょいと肩にかついで、小走りに浜へ降りていった。砂地にはカヌーが引き上げてある。オー・アアを中にほうりこむと、かれはカヌーを水の上に引き出した。
大波が打ち寄せるのを、カヌーをおさえてやりすごすと、絶好の瞬間を見はからって、ぱっと乗りこみ、ぐいぐい漕ぎ出した。小舟は、次の大波に乗りあげ、そのむこうの波くぼにすべり落ちた。かくて、オー・アアは、あれほどまでに恐れていた大海へ乗り出したのだった。
意識をとりもどすと、彼女は意気消沈した。カヌーは猛烈にはねまわるし、陸地はすでに遠い。男はというと、先の細くなった|とも《ヽヽ》にすわって、非常に幅の広い、たいらな櫂を漕いでいる。オー・アアは、男をひそかに観察した。彼女は、その男ぶりに目をとめて、ほれぼれしながらも、同時に男を殺す手だてをさがしていた。
また、彼女はカヌーも観察した。全長約六メートルで、幅は約九十センチ。船首と船尾から、中央にむかって甲板が約一・八メートル張ってあり、二メートル半の漕手座があけてある。漕手座の前と後に、横はりがかけ渡してあって、それらは舷外に一・二メートルほど突出しており、先端の裏側に直径約十五センチ、長さ六メートルの竹を一本ずつ、舟の両舷側に平行に渡してある。つまりこれは、両舷外浮材付のカヌーなのだ。あやつりにくいが、転覆はしない。船のことも、海のことも全然知らないオー・アアにすら、それがわかったので、彼女は安心した。おまけに、二つの甲板の下の部分は水に対して密閉されていて、その上、真水を入れた竹製の容器と、大量の食物がそこにおさめてあるということを知っていたなら、さらに意を強くしていたことだろう。
男は、彼女が意識をとりもどしたのに気がついた。「名はなんというのだ?」男はたずねた。
「オー・アア」彼女はかみつくようにいった。「あたしは王の娘よ。夫や、父や、七人の兄弟がこのことを知ったら、おまえを殺しにくるから」
男はからからと笑った。「おれは、ラ・アクという者だ。カンダの島の住人で、妻は六人いる。おまえは七人目だ。妻が七人になれば、おれは非常に重要な人物になる。族長には、妻は七人しかいないからな。おれは、もう一人手にいれるために本土へ来たんだ。さがすのにひまはかからなかったな。どんなもんだい?」そういって、また大男は大笑した。
「だれが妻になってやるもんか」オー・アアがぴしゃりといった。
すると、男はまたしても大笑した。「喜んでなるさ。六人の妻が、おまえさんに身のほどを教えてくれるからな――つまり、おまえさんがそれに耐え抜くことができたら、ということだがね、妻たちは、ばかげたふるまいにはがまんしていないからな。もう、おれがつれて帰った女を二人も殺しているんだ。おれの妻になるのをこばんだのでね。おれの国では、女の同意なしに結婚できないことになってるんだ。えらくばかげた習慣だとおれは思うが、なにしろ昔からの習慣だから、守るよりほかあるまい」
「あたしを本土へもどしたほうが身のためよ」オー・アアがいった。「おまえの妻なんかになってやらないから。それに、あたしは、こっちが殺されるより先に、そのおまえの妻を何人か殺すにきまっているよ。そんなことにでもなったら、おまえは今よりも羽振りが悪くなるんだよ」
男は長い間まじまじと彼女を見ていたが、やがて口を開いていった。「ちがいない。だが、おまえはすこぶる美人だし、おまえの口にまんまとひっかかってすんなり引きさがるようなおれでもない。このカヌーの中でのできごとが、カンダの者に知れることはぜったいにないだろう。島に着く前に、おまえを海へ投げこむからな」そういうと、男は櫂を置いて、オー・アアに近づいてきた。
デヴィッド・イネス、ホドン、小柄な老人アー・ギラクの三人は、〈毛深い男ガーク〉の船に乗船した。そして、他の戦士全員が、この船や他の船に分乗すると、船団は出帆した。
アー・ギラクは、侮蔑をこめたまなざしで、じろじろと、あらさがしをするようにあたりを見まわした。「ひでえもんじゃ!」かれは突然さけんだ。「いったいどこの陸鼠《おかねずみ》がこの盥《たらい》を作った? どこもかしこもできそこないときやがる。これなら前にでも、横にでも走らあな! |おまけに《ヽヽヽヽ》大三角帆じゃとよ!」かれはさもうとましげにいった。「まったくの話が、ドリー・ドーカスをおがませてやるんじゃったよ。あれはええ船じゃった」
〈毛深い男ガーク〉は、殺気立った目でかれをにらみつけた。というのも、ガークはペルシダー帝国海軍の軍艦の一隻々々を誇りに思っていたからだ。かれは初めて目にした船といえば、これらの軍艦だったし、帆をつけた最初の船でもあった。かれにしてみれば、最新にして最高の船だったのだ。それに、設計者はアブナー・ペリーだ。このチビの歯抜けじじいめ、アブナー・ペリーよりましなことができるとでも思っているのか? ガークは、大きな毛深い手でアー・ギラクのひげをむずとつかんだ。
「待て!」デヴィッドが注意した。「アー・ギラクがそういうからには、それだけの自信があるんだろう。かれは、地上世界で船乗りだった。ペリーはちがう。ペリーは、船の設計についてはなんの知識も持たず、かつて船を見たことのある者の手を借りずに、この世界でできるかぎりのことをやったのだ。より優秀な海軍を設立するために助力してくれる者がいるというのなら、ペリーがまず歓迎するだろう。故郷へ帰ったら、またアー・ギラクの使い道もあると思う」
ガークは、しぶしぶアー・ギラクのひげを放した。「おしゃべりじじいめ」そういうと、ガークはくるりと背をむけて、歩き去った。「もしも、わしが北極海で難破して、このくそいまいましい世界へ流れてきていなかったら」アー・ギラクがいった。「今じぶんは、世界一はやい快速帆船の船長じゃったろうに。ケープ・コッドに帰りしだい、建造するつもりじゃった」
「快速帆船だって?」デヴィッドがいった。「今どき、もう快速帆船など一隻もないよ、建造されなくなってもう五十年以上たつんじゃないかな」
「なんだと」アー・ギラクがさけんだ。「ドリー・ドーカスが沈没した当時は、建造をはじめて五年とたっていなかったぞ――こうっと、あれは一八四五年じゃったな」
デヴィッド・イネスはあっけにとられて相手を見た。「その年代はたしかかね?」
「たしかじゃとも。今ここにたっているのがたしかなようにな」
「ドリー・ドーカスが沈没したとき、あんたはいくつだったんだね?」
「四十じゃった。こいつはよく覚えとるんじゃ。わしの誕生日は、タイラー大統領と同じじゃったからな。大統領は、一八四五年の三月二十九日で五十五になるはずじゃったんじゃ。それまで生きておったらの話じゃが。わしは、大統領よりちょうど十五若かった。わしらが出帆するちゅうとき、なんでも、ボウクちゅう男が次の大統領に立候補すると、みんなが話しとったよ」
「で、あんたは、自分がいくつかわかっているのかね?」デヴィッドがたずねた。
「そうさな、このくそいまいましい世界に落ちてきて、わしゃ時間の観念をなくしちまってのう。それでも、六十に手がとどくってえとこじゃないかな」
「手がとどくなんてもんじゃない。あんたは百五十三歳だよ」
「世の中、大うそつきは多いが、おまえさんは勲章もんじゃて! 百五十三じゃと! なんちゅうことを! わしが百五十三に見えるかね?」
「あや、そうだね、百五十より一日だってふけて見えないよ」
老人は、デヴィッドをいまいましそうに見た。「名前はさしひかえとくが、世の中にゃ木偶《でく》人形ほどのおつむもないやつがいるもんじゃ」
そういうと、かれは背をむけて歩きだした。
ホドンはこの会話をじっと聞いていた。ホドンには年とか、年齢とかいうことがわからなかったので、いったい何を話しているのだろうと思った。いずれにせよ、たとえわかっていたとしても、かれにとってさして興味のない話だったろう。というのも、かれはオー・アアのことを思い、今頃どこにいるのかと考えていたからだ。今となっては、陸地にとどまって彼女を捜索しなかったことがくやまれるのだった。
三隻からなるこの小艦隊の旗艦は〈アモズ号〉といった。アモズの国から来た美女ダイアンに、敬意を表して命名されたもので、五百人の戦士を満載していた。大砲は八基で、下甲板の舷側に四基ずつそなえている。どの砲にも、砲丸、鎖弾《くさりだま》、炸裂弾があって、すべて口装である。装填しようと思えば、まず木で作った原始的な軌道の上を後退させなくてはならない。それからあらためて前進させ、砲口を砲門から外へ突き出して発射する寸法だ。この大砲は、帝国海軍の誇りだった。アモズ号をはじめ、他の二隻の乗員は、アノロック諸島出身の、赤銅色の肌をしたメゾプ族で、アノロックの王、ジャが海軍元帥である。アモズ号の大三角帆は巨大なもので、この帆をあげるには、屈強のメゾプ人五十人が力をあわせなくてはならなかった。ペリーの気球や、同じくかれの最近作でもある飛行機の材料と同様、大三角帆は恐竜の腹膜で作ってある。これはペリーの数ある発見の中でも最たるものだろう。というのも、恐竜はごまんといたし、その腹膜は大きくて丈夫だったからだ。通常、恐竜どもは、はい、そうですかと腹膜をくれるわけではないから、これを集める仕事はきわめてスリルに富んだものだった。おあつらえむきの、極上の腹膜をかかえているような恐竜はいずれも図体が大きくて、獰猛かつ無法なやつらばかりだったからだ。
艦隊が出発してまだわずかしかたっていないときだった。長年の習慣から空模様に目をくばっていたアー・ギラクが、後方に一点の雲を発見したのだった。「一荒れくるぞ」かれは、ジャにむかってそういうと、指さしてみせた。
ジャは、目をやってうなずいた。「そうだな」そして、帆をしぼるように命令した。
発見された当初、雲はそれほど大きいものではなかったが、まぎれもなく嵐を呼ぶ雲だ。接近するにしたがって、しだいにひろがり、暗雲と化してくる。雲の端は切れぎれになって、のたうちながら前方へ伸びていく。船の周囲には、卒然として、息づまるような無風状態がおとずれた。
「こいつは、大風ってもんじゃねえ。どえらいハリケーンになりそうだぜ」
と、一陣の突風が吹きつけて、たれ下がっていた帆が怒ったようにばたばたとはためいた。先刻、ジャが縮帆するように命じておいたのだが、メゾプたちは風がはげしさをます中で、ひるがえる腹膜と格闘していた。
いよいよ嵐は襲いかかってきた。うねる黒雲が永遠の太陽をさえぎる。稲妻がひらめく。雷鳴がとどろく。雨が降りだした――それも、ポツポツとかザアザアとかいったものではない。ドドーッと上からぶちまけるように降ってくるのだ。風は、さながら万物を滅ぼしつくそうとする兇暴な魔王のように、高く、低く咆哮した。男たちは、舷側の手すりにしがみつき、あるいはたがいに抱き合い、とにかくなんでも手近にあるものにすがりついて船上から吹きとばされまいとした。
デヴィッド・イネスが、男たちの間へ進んでいって下の船室にはいるように命じて歩いたので、最期にはメゾプ人の水夫と、二、三のサリ人が上甲板に残っているだけとなった――それと、アー・ギラクと。イネス、ガーク、ホドンの三人は、ジャとアー・ギラクの後にかたまっていた。老人は、水を得た魚のごとく、意気軒昂たるものだった。
「わしゃあ、七回も難破したことがあるんじゃ」かれは嵐をしのぐ大声でさけんだ。「もう一回くらい屁でもないわい。ちきしょうめ、どうもそうなるようじゃが」
海は荒れ、波は刻一刻と高まってきていた。不格好な、乗員過剰の船は、一つの大波からのたうつように這い出たかと思うと、はや次の大波になかばのみこまれようとするのだった。
あたりがあんまり暗いのと、雨がはげしいのとで、他の船は見えない。デヴィッドは、小型のサリ号の安否を気づかった。実際のところ、嵐がすぐにも凪《な》ぐか、あるいは衰えるかしないかぎり、三隻とも運命があやぶまれた。デヴィッドがこんなことを考えている間にも、それを知って嘲弄《ちょうろう》するかのように、ハリケーンはいやがうえにもたけり狂った。
アモズ号は、山のような波のいただきにのりあげては、奈落《ならく》の水底に落下した。船が水底深く鼻先をつっこむたびに、男たちは手近にあるものにしがみついた。すると、巨大な波がどっと押しよせて船尾までのみこみ、かれらを水中に沈めた。
もはやこれまでと、デヴィッドは思った。この何トンという、たけり立つ水の下から、アモズ号がふたたび浮上することはないだろう。そうとわかっていながらも、なおかれはその場にしがみついていた。ゆっくりと、重々しく、砂地獄からはい上がろうとする巨大なけもののように、甲板から水をふるい落としながらアモズ号はよろよろと船体を立てなおした。
「こいつあ、おったまげた!」アー・ギラクが金切り声をあげた。「なかなかいい船じゃ。ドリー・ドーカスなんざ、これの半分くらいの波で沈没しちまったのに、わしゃあ、たいした船じゃと思っとったんじゃ。なるほど、長生きはするもんじゃて」
甲板の上には、先刻ほどの人数は見あたらなかった。可哀そうに、いったい何人が行方不明になったのだろうか。デヴィッドは考えた。見まわすと、ガーク、ジャ、ホドン、アー・ギラクはそろっていた。
デヴィッドの、船の上に今しもそびえ立った波を見上げ、ついで船が波の頂きからすべり落ちるとき、奈落の水底を見下ろした。「二十メートルか」かれはなかばひとりごとのようにいった。
「優に二十メートルはあるな」
突然、アー・ギラクがわめいた。「しっかりつかまって、念仏でも唱えろ!」
デヴィッドが、ちらりと船尾をふり返ると、かれらの頭上に、かつて見たこともないような、すさまじい大波がわなないているではないか――何百トンという水が、今まさに船をこっぱみじんに粉砕せんと立ちはだかった、と見るや、がっと襲いかかってきた!
美女ダイアンは、もはや観念しきって最期を待っていた。すでに人間として耐えうる限界に達していたのだ。とはいうものの、恐怖感はなかった。事実、ことのなりゆきに、ちょっぴりスリルを感じていたほどで、彼女は、絶叫しながらこっちにむかってくるシプダールが、はたして自分を狙ってくるのか、それとも気嚢《きのう》か、どっちなのだろうと考えていた――どのみち、大して変わりはない。
突然、巨大な翼竜《プテロダクテイル》は、進路を変えてさっと通過した。ダイアンは、飛び去る翼竜を目で追って、それがふたたび方向を転じて襲撃してくるのを待った。が、シプダールは舞いもどってこなかった。シプダールは、ついに恐るるにたる相手を発見したというわけだ。
ダイアンは吊り籠の縁から下を見下ろした。今では、海峡の向こうの陸地が、きわめてはっきり見える。どうやら、ずっと下ってきたらしい。これはどういうことか。彼女は、シプダールがつついた個所から気球のガスが漏れているのだということを知らなかった。
彼女が事実に気がついたのは、かなりたってからのことだった――気球が実際に降下している。これで、さらに気がかりなことがふえた。気球は岸に到達するだろうか? それとも水の中に落ちるのでは? もしも、後者のほうになったら、恐竜の餌食になるか、あるいはその一群に八つ裂きにされて喰われるのは必定だ。
ところで、海岸から少し奥へはいったところに、ペルシダーとしてはめずらしい光景を彼女は見た――都市、それも、城壁をめぐらした都市だ。もしも、デヴィッドが以前にかれの世界の都市の話をしてくれていなかったら、彼女には、それが何であるかわからなかっただろう。もっとも、彼女にしてみれば、相手が恐竜だろうと、未知の人間だろうと、大して変わりはないかもしれない。どっちも似たり寄ったりだ、とはいうものの、一考して、彼女は気球が墜落前に陸地に到達すればよいがと思った。
今では、気球はずいぶん低く降下してきていたが、陸地はまだ優に半キロは先にあった。彼女は、降下の速度と、陸にむかって水平に進む度合いとの関係を割り出そうとした。吊り籠の縁から下を見ると、ロープはすでに水中にたれている。ロープの長さは百五十メートルだが、先端がいくらか水中に没した後は、気球もそれ以上降下はしなかった。しかし、陸地にむかう速度も落ちて、気球は水につかったままのロープを引きずってのろのろと進んだ。とはいえ、先に陸地に到達するだろうということは、今やはっきりした。
ダイアンが、海峡を見下ろしながらこのことを喜んでいたとき、一頭の怪獣が、たれ下がったロープの近くの水面を破ってぬっと頭を現わした。それがアズタラグ、すなわち海の虎だということを、彼女は知っていた。
そこへ落下しなくてよかったと喜んだおりもおり、怪獣はその巨大な口にロープをくわえるや、海峡のまん中めがけて泳ぎだした。
いくらなんでもひどすぎる! もはや寒気は去っていたが、疲労と、飢えと、渇きにさいなまれ、精根つきて、ダイアンは今にも泣きくずれんばかり。だが、彼女はけんめいになって涙をこらえた。もはや希望はないのだ。
いや、一つだけある! ロープを切ることができたら、気球は自由になり、海岸にむかって進行をつづけるだろう。百五十メートルもの太いロープの重みから解放されれば、落下するまでにずっと奥地まで流されていくにきまっている。だが、ロープに手が届かない。吊り籠の底の裏側に結びつけてあるからだ。
何か方法があるはずだ! 彼女は石の短剣を抜いて、小枝で編んだ吊り籠の床をたたき切りはじめた。ついに、腕が通るだけの穴があいたので、手さぐりして、くだんの太いロープを見つけた。ロープは、何本もの細いロープで吊り籠の底の周囲に結びつけてあった。
ダイアンは、その細いロープを挽《ひ》き切りはじめた。吊り籠の底の穴から、下が見える。気球が水面にむかってぐんぐん引き下ろされていくのがわかる――アズタラグが、水底にもぐって気球を引き下ろしながら進んでいるのだ!
ダイアンは死物狂いになって手を動かした。吊り籠が水につかったが最後、彼女はおしまいだ――足もとの海には飢えた怪獣どもがひしめいている。すぐ下に、巨大な鮫《さめ》がいるのが見えた。鼻づらを水面に突き出している。今にもそれに触れるかという瀬戸際で、最後のロープが切れた。
たちまち気球は空中におどり上がった。そして今一度、無名海峡の彼方、謎の世界めざして、無限とも見える不安定な旅路についたのだった。
ラ・アクがこっちへむかってくるのを見て、オー・アアは立ち上がった。「櫂《かい》のところへおもどり。さもなきゃ、飛びこむわよ」
ラ・アクは、ためらった。彼女が本気でそういっているらしいと察したからだ。事実またそのとおりでもあった。それに、しまいには、彼女も眠ってしまうにちがいないし、そうなれば、手ごめにできるとも考えた。「ばかなやつだ」ラ・アクは、櫂のところにもどりながらいった。「いのちは一つしかないというのに」
「オー・アアのいのちは、オー・アアのすきなように使うわ」娘はいい返した。
彼女は艫《とも》のほうにむかってすわった。こうすれば、ラ・アクを見張っていられる。ラ・アクのかたわらに置かれた槍と、腰の短剣が目にはいった。こういうものがあれば逃げられるのだが、手にすることはできない。彼女は、大海の水面をさっと見まわした。あれほどまでに恐れていた海。かすかに、きわめてかすかに、彼方の靄《もや》を通して、本土が見えるような気がする。そのほかに陸地のあるきざしもない――ただ、広大な青い海原が、遠いかなたで徐々に巻き上がり、上で弧《アーチ》を描いている青空と融合して、ふたたび下降し、そのむこうの海原と一つになっているだけだ。左のはるかかなたに小さな雲が一つ、ぽつりと見えた。それだけでは、オー・アアにはピンとこなかった。彼女は山の娘だったし、したがって、海上生活者ほど雲にたいして敏感ではなかった。
船尾後方に、また別のものが見えた。――大きい、牙のある口を持った、醜悪な頭部が細長い首にのっかっている。ときおりすべすべした、あざらしのような身体が、ゆっくりとうねる大波の上に、つかの間、浮かび上がるのを、ちらりと目にすることもあった。これがタ・ホ・アズ、つまり海の獅子だということは、彼女も知っていた。われわれの世界の、太平洋の波にたわむれる、あのいたずら好きのおとなしい動物とはわけがちがう。あくなき貪欲をもってつねにがつがつと飢えている、恐ろしい殺戮者《さつりくしゃ》なのだ。
恐るべき怪獣は、なめらかに水をくぐってカヌーにむかってきた。あの長い首を、船縁《ふなべり》ごしににゅっともたげて、ラ・アクか、ないしは彼女を、いやおそらくは二人とも、ぱっくりやるかもしれない。あるいは、巨大なひれ足を舟にかけて転覆させるか、水びたしにするだろう。オー・アアはすばやく頭を働かせた。ラ・アクからのがれたいのは山々だが、いのちを的《まと》にするのでは間尺に合わない。
そこで彼女は立ち上がって、指さしながら、ラ・アクのほうに二、三歩近づいた。「見て!」彼女はさけんだ。
ラ・アクは、さっと後をふむいた。その瞬間、オー・アアは、ダッとおどり出てかれの槍を奪い、満身の力をこめて、ラ・アクの左肩の下に突き立てた。
苦悶と怒りに一声絶叫すると、ラ・アクはふりむいて彼女に襲いかかろうとした。が、オー・アアは槍の柄の端にしっかりとかじりついている。ラ・アクがふりむこうとしたとき、槍の穂先の、鮫《さめ》の鋭い歯が、ぐさりと心臓に突き刺さった。かくて、カンダ島のラ・アクは、最期をとげたのだった。
オー・アアは、タ・ホ・アズのほうをふり返った。近づいて来ているものの、のんびりとかまえている。獲物は逃げられないのだから、急ぐ必要はないと確信しているように見える。
オー・アアは、ラ・アクがつけている褌《ふんどし》の、美しい黄と赤の羽根と、髪飾りの羽根に目をやった。彼女が感嘆を久しくしていた羽根だ。そこで、彼女は死体から槍を引っこ抜いてから、それらの羽根を取った。それからラ・アクの裸体をころがして、カヌーの艫から落とし、櫂を手にすると、無器用ながらぐいぐい漕いで、舟を前進させた。
彼女は、たびたび後に眼をくばって、タ・ホ・アズがどうしているか、ようすを見た。そしてついに、怪獣が彼女の期待どおりのことをしているのをたしかめて、ほっとした――タ・ホ・アズは、その場でラ・アクの死体をむさぼり食っていた。これでしばらくは時間がかせげるだろう、彼女は考えた。大きい口はしているものの、首が細長いから、鵜呑《うの》みではなくて少しずつ噛まなくてはならないはずだ。
オー・アアは一度も櫂を使った経験がなかった。どんな型のものにせよ、かつて舟というものに乗ったことがないのだから、それも不思議ではない。それでもラ・アクをよく見ておいたので、彼女が舟に関しては無知だということや、舟そのものも不格好だということを考慮に入れても、あざやかな漕ぎっぷりといえた。空腹で、のどがかわいて、眠かった。陸地という陸地はどっちをむいても見あたらなくなったし、どの方角にこげばよいか見当もつかないし、だのにこぐんなんて、およそばかげたことだわ、ときっぱり見切りをつけた。ひと口に方角といっても、あらゆる方角が考えられるのに、いちばん近い陸地というものはそのうちのただ一つの方角にしかないのだから、まちがった方角をとる危険は充分だ。それくらいなら、風まかせに漂流するほうがよっぽど楽だ。
むろん彼女も、すべてのペルシダー人に共通の資質である帰巣本能をそなえてはいる。これは、道しるべとなる天体がないということにたいする代償だが、まったくの未知の環境にあるこの広大な水域にほうり出されたのでは、彼女にしても、生涯ではじめてその本能を信頼するわけにはいかなくなったのだ。
先刻みとめた小さな雲は、大きくふくれ上がって近づいてきた。オー・アアは、それを見て、雨がふるなと思ったが、そのこと自体ありがたかった。飲み水が得られるからだ。それから、彼女は別のことに注意をむけた。
ラ・アクがすわっていた後甲板の一枚の板が、先刻からどうも腑《ふ》に落ちない。もっとも、ほかにもわからないことはいくらもある。その板のことは、些細なことではあったが、気になった。何かあるような気がするのだ――この大海に、食糧も水も持たずにこぎ出す者がいるだろうか。そこで彼女は調べてみることにした。諸君もすでにおわかりのことと思うが、オー・アアはりこうな女だ。調べた結果、その板は舟の両縁にみぞをほって巧みにはめこまれてあって、引き開けるとその下から広い貯蔵室が現われるようになっているということを発見した。内部には、予備の武器や釣り針、釣り糸、魚網、竹製の水入れ、その他|燻製《くんせい》の肉や、乾燥果実や野菜が入れてあった。
オー・アアは、満腹するまで飲み食いした。それからごろりと横になって眠った。一方、巨大な黒雲は渦巻き、のたうちながら、押し寄せてきた。稲妻がひらめき、雷鳴がとどろいた。疲れはて、そのうえ満腹したオー・アアは、夢も見ずにぐっすりと眠りこけている。
デヴィッドは、巨大な波が船尾に高々と巻き上がるのを見て、てっきりアモズ号ももうだめだと観念した。と、大波はどっと襲いかかり、かれらを甲板に叩きつけ、必死にしがみついている手を引きはがそうとした。舳が、ぐぐっと水底に突っこんだ。
その場に居合わせた者は、だれ一人として、アモズ号がこの一撃から立ち直ろうとは思っていなかった。が、アモズ号は持ちこたえた。よろめき、のたうちながら、船はゆっくりと浮上した。甲板から水がざざーっと退いていったとき、デヴィッドは、老人が水といっしょに舳のほうに流されていくのを見て、ダッと飛びついた。
帆柱は消えて基部ばかりが残り、その周囲にもつれたロープと、ずたずたに引き裂かれた帆布の一部がからみついていた。ちょうどここで、デヴィッドは老人の片足の踵をつかんだ。ついで、かれ自身は艫のほうへと押し流されながらも、やっとの思いでロープにつかまり、水が舷側をこえてすっかりひいてしまうまで、じっとつかまっていた。
デヴィッドは、百五十三歳の老人がとてもこんなショックから立ち直れまいと考えて、引き起こしてかついでいこうとしたとたん、アー・ギラクはむくむくと起き上がった。
「くそったれめ!」いきなり老人はさけんだ。「こんどばかりはもうちょっとで足をぬらすところじゃったわ」
「大丈夫かね?」デヴィッドがたずねた。
「こんなにスカッとしたことはないわい」アー・ギラクが答えた。「ところで、おまえさんがわしをとっつかまえてくれたんじゃろ? なんちゅうことを、ばかもんが。そんなことをしたら自分が流されちまうちゅうに」かれが口にしたのはこれだけだった。
あの最後の波が、嵐の絶頂だった。強風は吹きつづけたが、ハリケーンは通過した。海はまだ荒れているものの、静まりつつあった。ここまで持ちこたえたことを思えば、アモズ号もまずまず安全と見えた。アモズ号は進行せず、波くぼに落ちてのたうっている。転覆しそうになることもたびたびだったが、いつも元どおりに起きなおった。
「この盥《たらい》をひっくり返すにゃあ、議会でそう決議でもせにゃなあ!」とアー・ギラクはいった。「思う方角へは行かんし。帆をあげても走らん。だのに、どうじゃ、ぶっこわそうったってこわれんわい。もしも、あんときにドリー・ドーカスのかわりにこいつに乗っとったら、今頃はこんなくそいまいましい地面の底の穴の中でうろちょろせずに、ケープ・コッドへ帰って、ジョン・タイラーに一票入れなおしているか、だれかほかの善良な民主党員に投票しとったじゃろうに」
デヴィッドは、みんながどうしているかを見るために、五体生命をかけて、下へ降りていった。嵐の襲来とともに、かれらは砲門や舷窓のいっさいを閉ざし、砲をさらに入念に床に結えつけておいた。さいわい、砲は一基もゆるんでいなかったし、乗組員も、船がはげしく揺れた際に吹っ飛ばされたりして、わずかに軽傷者を出しただけにとどまった。
甲板にいたメゾプの水兵たちは、そうはいかなかった。二十五名を残して、あとは全員波にさらわれてしまっていた。ボートというボートはあとかたもなく消え、帆柱と、大部分の帆が吹っ飛んでしまった。アモズ号はボロボロの漂流船と化したのだった。他の二隻の船は、いずれも姿がない。もはや二隻とも――ことに小さなサリ号は帰らぬものと、デヴィッドはあきらめた。
これら石器時代の男たちは、現状をかなり絶望視していた。
「ボートさえなくなっていなかったら」と、ガークがいった。「何人かは岸にたどりつくことができたものを」
「甲板をはがして、筏《いかだ》を――それも五、六隻――組んだらどうでしょう?」ホドンが提案した。「筏なら岸のあるところまでこいでいけますが、アモズ号は、ちょっとやそっとでこげませんからね」
「くそったれ陸鼠《おかねずみ》は世話が焼けるわい、まったく」アー・ギラクが鼻先で笑っていった。「帆柱は根っこが残っとるし、それに帆が一部と、ロープがどっさりありゃあ、このできそこないの盥に応急の艤装《ぎそう》ぐらいできる。そうすりゃ、筏を組んで、バシャバシャこぐよか十倍も簡単で、二倍も早く、岸に着けるちゅうもんじゃ。手を貸してくれ。またたくまに帆走できるようにしてやる。港までどれくらいある?」
デヴィッドは肩をすくめた。「そいつは、ハリケーンがどっちの方角へ、どれくらいわれわれを吹きとばしたかによるね。港まで五十キロあるか、五百キロか。あんたのほうがよくわかるだろう」
「飲料水は、どうじゃね?」
「何回も眠っても大丈夫なだけある」ジャがいった。
「べらぼうめ!」老人がさけんだ。「生まれてこのかた、時間ちゅうもんをまるっきり知らん陸鼠どもが相手じゃ、どうしようもないわい」
「どういたしまして。かれらには、いつも時間がちゃんとわかっているんだからね」デヴィッドがいった。
「そいつは、またどういうことじゃね?」
「いつも正午だってことだよ」
アー・ギラクはふふんとせせら笑った。軽口なんか叩いていられるか、といいたげなようすだった。
「とにかくやれるだけのことをやってみることじゃ。水はたりなくなるかもしれんが、食い物はいくらでもあるて」かれは下の甲板から上がってくる戦士たちをじろりと見た。
オー・アアは、カヌーが揺れて目をさました。目を開けると、目前に水の壁がそそり立っている。後も同様だ。前後を水の壁にかこまれた谷底に、彼女は横たわっていた。これは、かつて経験したことのない恐ろしいできごとだった。助かる手だては何もないのだ。どっちかの壁が、崩れ落ちてくるだろう。そう思うと気が気ではなかった。だが、そんなことにはならなかった。そのかわりに、壁がくぐーっと下がってきたかと思うと、カヌーはまた別の、同じような壁のてっぺんに移された。ここから、見わたすかぎりの水面に、風に引き裂かれた波が山をなして、のたうっているのが見える。空いっぱいに、怒気をはらんでうねる暗黒の雲。大地をも震わさんばかりにとどろきわたる雷鳴とともに、漆《うるし》の空をつんざいて走る電光。煮えたぎる憎悪をこめて呻吟《しんぎん》絶叫する風。そして、またしてもカヌーは、つぎの谷間へと落ちていく。
こんなことが、いつ果てるともなくえんえんとつづいて、漕手座は半分まで浸水した。だが、ラ・アクは、丈夫な舟を作ったものだ――転覆もしなければ沈没もしない。そのうえ船体が軽いので、もっとも高い波のいただきにも乗ったし、稲妻にでもうたれなければ、びくともしなかった。とはいえ、オー・アアはそんなことは知らなかったから、波がくるたびに、これが最後だと思った。だが、つぎつぎと波頭に乗せられては新たな水底に――それも、一つ前のと少しも変わるところはなかった――落とされるということをくり返しているうちに、だんだん大胆になってきて、いくばくもたたないうちに、それを楽しむようにまでなった。オー・アアは、ローラー・コースターに乗ったことはない。だが、それとまったく同様のスリルを、この体験から味わっていた。ローラー・コースターにくらべると、こっちのほうがずっと長い間楽しめるし、だいいち切符を買う必要もない。
サリ号は、あとの二隻よりも軽量だったので、ハリケーンに吹き流されてずっと速く走った。それに、帆そのものも、ずっと小さかったから、アモズ号ほど早くからマストを失わないですんだ。もう一隻の船などは、アモズ号よりも先にマストを失っていたほどだ。そんなわけで、風がやや凪《な》いだときには、むろんマストも吹っ飛んでさんざんの有様だったものの、姉妹船よりずっと先にいた。
サリ号には開放甲板が一つしかなかったので、乗組員の大部分を失った。だが、骨組も船材もまだしっかりしていた――ペリーとデヴィッドが丹精こめて作りあげた船だったからだ。事実、ペリーが設計した最初の船、進水に際してみごとに転覆したあの船よりずっと優秀だった。サリ号とは、あの船にちなんで命名されたものだ。
ハリケーンが絶頂をすぎた後も、強風は執拗に吹きつづけ、サリ号を快適に走らせた。もっとも、行く手にどんな運命が待ち受けているか、どこへむかっているのか、だれにもわからない。生存者たちにしてみれば、生きているというだけでよかったのだ。石器時代の人々が大むねそうであるように、かれらもまた先々のことをとやかく考えなかった。現在だけが、当面の関心事なのだ。とはいうものの、この説とは裏腹に、かれらは雨水を集められるだけ集めて、すでに積みこんである水をさらにふやしたのだが。
サリ号の甲板は、いこいの場所としてはなおいくぶん不安定だったが、そのとき、メゾプ人の一人がちょうどゆくてに何かが浮かんでいるのを発見した。かれが大声で仲間の注意を喚起したので、数人が、いったい何を発見したのか見ようと手すりのところへ寄ってきた。
ところで、この荒涼たる海原に、何か浮かんでいるものがあれば、それは一見に値する。カリフォルニア沿岸の沖合いの海とはわけがちがうのだ。あそこでは航行があやうくて、沿岸警備隊がいつもはらはらしている。
「カヌーだ」と、発見者で、メゾプ人の男コーがいった。
「だれか乗っているのか?」ラジがたずねた。かれはサリ号の艦長で、メゾプの族長だ。
「もう一度波に乗るまで待ってください」コーがいった。
「あの嵐を乗り切ったくらいだから、さぞかし優秀なカヌーにちがいない」と、ラジ。
「それが世にも奇妙な形をしているんですよ。そら見えた! どうやらだれか乗っているようです」
「おかしなカヌーだな。両側に何か突き出ているぞ」
「ああいうのを一度見たことがあります」別のメゾプがいった。「あれからもう何千回も眠りましたが、ああいう舟がわれわれの島へ漂着したことがあって、なんでもカンダという島から来たという男が乗っていました。ルラル・アズのはるか沖合いにある島です。そのカヌーは、両側に竹製の浮きをつけていました。絶対に転覆しないし、防水隔室があるので、沈まないのです。男は殺しました。このカヌーは、カンダのものだと思いますが」
ほどなく、カヌーよりも風を受ける面の大きいサリ号が、カヌーに追いついた。オー・アアは、サリ号が接近してくるのを見ていた。ホドンやデヴィッドから、サリ人の大きな船のことは聞いていたので、これがまさしくその一隻にちがいないと彼女は見当をつけていた。したがって、恐ろしいとは思わなかった。あの船に乗せてもらうことができれば、助かるのだ。彼女は手すりごしに彼女を見ている男たちに向かって手を振った。
「女だ」ラジがいった。「ロープを持ってこい。ここへ引きあげてやろう」
「あれはカンダの女だ」カンダの男を見たことがある、さきほどの水兵がいった。「カンダの男が着けていたのと同じ、羽根の腰布を着けています。あのまま溺れさせたほうがいい」
「ならん」ラジがいった。「あれは女だぞ」このひとことがどういう意味を持っているか、読者諸君にもご想像がつくことと思う。なるほど、ラジは石器時代の男だ。だから多くの面で、たぶん地上世界の文明人の男どもよりはるかに品行方正だといえよう。しかし、それでも男に変わりはない。
カヌーの片方の舷外浮材が、サリの舷外に衝突するのと、コーがロープをオー・アアに投げるのと同時だった。娘がそれをつかんだとき、サリ号は右舷にぐらりと傾いて波に持ち上げられ、他方カヌーは波くぼに落ちたが、オー・アアは手を離さなかった。彼女はカヌーから引っさらわれて、サリ号の船腹に叩きつけられたが、それでも猿《ましら》のごとくロープをよじのぼってきた――穴居人の娘たちはみんなこんな具合だ。たぶん、出来が悪くてぐらぐらする梯子や柱を、年がら年中のぼっているせいだろう。
オー・アアが舷側を乗りこえたところで、ラジが腕を取った。「女は女でも、これは美人だ。おれがいただいておこう」ラジがいった。
オー・アアは、相手にぴしゃりと平手打ちを喰わせて、腕を振りほどいた。「あたしは王の娘なのよ。あたしに手出しでもしようもんなら、夫と父と九人の兄弟がおまえを見つけだしてぶっ殺すから、そうお思い」
一人のスリア人の男が、はぐれたリディの群をさがしていた。かれはリディの姿を求めて、無名海峡を境とする地の果てまでやって来た。そこで、一つの影がかれの頭上をよぎった。男は、シプダールだろう、くらいに思って上空を見上げた。すぐ近くに、木が一本あったから、恐れはしなかった。ところが、とあるものを目にして、かれは動顛《どうてん》し、かつ大いに畏《おそ》れた。大きな丸いものが、無名海峡の空高く、ふわふわと飛んでいるではないか。底に何かつないであるらしい。男は、それがついには小さな点となるまで、長い間見送っていたが、やがてふたたび、はぐれたリディを求めて捜索をつづけた。もっとも、ついに発見することはできなかったのだが。
男は、大リディの背に乗ってスリアに引きあげる道すがら、この驚くべき体験についてあれこれ頭をめぐらせた。いったい、あれはなんだったのだろう。|それが《ヽヽヽ》生き物でないということは、たしかだ。だいいち、翼も見えなかったし、そのほか、どんな動きも見られなかったではないか。|それ《ヽヽ》はただ風にのって、ふわふわと漂っているようだった。
野蛮な世界で暮らしている石器時代の人間のことだから、スリルに富んだ冒険は過去にいくども体験していたが、あんまりたびたびのことなので、家へ帰っても、たいがいはとりたてて話そうとも思わないほどだった。例外があるとすれば、まるっきり冒険に出くわさなかったために、だれも、ないしは何も、殺さなかったとか、あるいは、もう少しで殺されかかるというような目にも会わなかったとかいうときで、そんなときには、妻にそのことを話して、二人で不思議がるのだった。
ところが、今回の、無名海峡の上空で見た|それ《ヽヽ》はちがっていた。これこそ話|甲斐《がい》があるというものだ。この世界で、あんなものを見た人間は他に一人もいまい。したがって、だれも信じてくれないというおそれは多分にある。それくらいのことは覚悟しなくてはなるまい。だがかれがそれを見たという事実は何をもってしても変えることはできないのだ。
わが家に帰りつくやいなや、かれはそのことを語った。当然のことながら、だれ一人としてかれを信じなかった。なかんずく、かれの妻がその最たるものだった。かれはかんかんになって、妻を打った。
「あんたはまた、あのリバの部落へ足を伸ばして、あのうすぎたない、デブの牝《めす》といっしょにいたんだろう。それで、あたしに、わざわざ地の果てまで行ってきたと思いこませようとしてるんだ」こんなことをいったのだから、妻のほうも打たれて当然かもしれない。
男が家へ帰って間もなく――二回眠った頃だろうか――サリから伝令がやってきた。どんな知らせを持ってきたのかと、一族の者はこぞって族長の周囲に集まった。
「わたしがはるばるサリからかけて来たのは」と、伝令がいった。「もしや、奇妙なものが空に浮かんでいるのを見たものがスリアにいないかたずねるためだ。それは、丸くて――」
「底に何かつないである」だれからも信じられなかった男が、わめくようにいった。
「そのとおり!」伝令がさけんだ。「きみは、見たのか?」
「見ました」男はいった。
仲間のスリア人たちは、あっけにとられてかれを見た。では、かれは本当のことをいっていたのか――こいつは驚きだ。男の妻は、急にえらそうにかまえて、どんなもんだいというように他の女たちを見まわした。
「で、どこで見かけたのだ?」伝令が問いただした。
「あっしは、はぐれたリディをさがしに地の果てまで行ったんですがね」男は説明した。「そうしたら、そいつがふわふわと無名海峡をこえて飛んでいくのが見えたんですよ」
「それならあのひとはもうだめだ」伝令はさけんだ。
「だれがだめだと?」族長がたずねた。
「美女ダイアンですよ。あの人は、ペリーが気球と呼んでいた、大きな丸い球の下に吊った籠に乗っていたのです」
「まず絶対に見つからんだろうな」族長がいった。「無名海峡のむこうに何があるか、知っているものはない。時々、よく晴れたおりに、陸地が見えるような気がするともいうが。それで海峡と呼ばれているのだね。だが、あれは、ソジャル・アズよりまだ大きい海、人の知るかぎり、行きつく岸辺のない大洋なのかもしれんのだ」
そんなわけで、伝令は食事をし、睡眠をとり、もう一度食事をしてから、しおしおとサリへの帰途についた。
ロープの重量から解放されて、気球は空高く、最初、ロープを無名海峡の水面に引きずりはじめたときよりもずっと高く、舞い上がった。そして、すぐに陸の上、都市の上空にやってきた。ダイアンは下を見下ろして、人の手で築かれた、このみごとな町並みに舌を巻いた。
それは粘土で固めた家々と、狭い通りが曲折しているみすぼらしい、ちっぽけな都市ではあったが、都市などというものをかつて見たことのない、石器時代の穴居人の女にとっては、すばらしいものだった。彼女はひどく感嘆した。それは、ピッツバーグや、カンサス・シティから来た他国者《よそもの》が、はじめてニューヨーク市を見て感嘆するのと同じだった。
今では、気球はたいそう低く飛んでいたので、通りや建物の屋根にいる人々がよく見えた。みんな驚きあやしんで、彼女を見上げている。ダイアンが都市を見たのはこれが最初だったにしても、少なくとも以前に耳にしたことはあった。しかし、この人々は、気球を見たことがないばかりか、そんなものがあるということを聞いたことすらなかったのだ。
気球が都市をこえて、郊外にさしかかると、何百という人々が町からかけだしついてきた。人々がえんえんと追いつづける間にも、気球はゆっくりと、しだいに地面に降りていく。
ほどなくダイアンは、遠くに別の都市があるのに、目をとめた。この二つ目の都市に近づいたときには、地面にかなり接近していた――地上六メートルといったところか。ついで、彼女は、男たちが都市からかけ出してくるのを見た。槍と弓矢を持っている。このときはじめて彼女は、最初の都市からずっと彼女を追ってきたのが男ばかりで、かれらもまた槍と弓矢を持っていることに気づいた。
吊り籠が地面に着くより先に、二都市の男たちはその付近一帯で争っていた。緒戦《ちょせん》は弓矢の戦いだったが、接近戦になると、両刃の短剣を脇の鞘《さや》から抜いて渡り合った。たがいにかけ声と歓声で応酬しあっていたので、そのそうぞうしさは言語に絶した。
ダイアンは、もう一度気球を上昇させることができたら、と願った。こんな兇暴な人々の手に落ちたくはない。だが気球は、よりにもよって、戦闘のまっただ中に降下した。むろん、吊り籠は気嚢に引きずられて、地面にぶつかってとんだりはねたりしながら第二の都市へぐんぐん接近していく。両側の戦士が寄ってたかって、吊り籠の縁をつかんでひっぱり合いをはじめた。第一の都市の戦士は引きもどそうとし、第二の都市の戦士は先へ先へと門のほうへひっぱっていこうとする。
「このお方はわれわれのものだ!」第二の都市の戦士の一人がさけんだ。「見ろ! ロロ・ロロのほうへこようとしておられる! われらのノアダさまを奪おうとする異教徒を殺せ!」
「このお方はわれわれのものだ!」第一の都市の戦士たちがかん高い声でさけんだ。「われわれが先に見つけたのだぞ。われらのノアダさまをだまし取ろうとする異教徒を殺せ!」
吊り籠は第二の都市の門のそばに来ていた。と、そのときだしぬけに十人ばかりがばらばらとかけ寄ってきて、ダイアンをとらえると、吊り籠からかかえ上げてそのまま門の中へかけこんだ。間髪を入れず、門は戦士たちの鼻先で、敵味方の区別なくぴしゃりと閉じた。
ダイアンの体重から解放されて、気球は軽々と空中にはね上がった。そしてふわふわと都市の上空を横切って飛んでいく。戦闘中の者までが、手を止めてこの奇蹟をじっと見送った。「見ろ!」第二の都市の戦士がさけんだ。「あれはノアダさまを運んで来てくれたのだ。今、カラナに帰っていく」
ロロ・ロロもまた、粘土の家と、曲りくねった道のある都市で、ダイアンは、そうした道を、護衛されて進んでいった。自分が、うやうやしくかしずかれているのに彼女は気づいた。
先達の戦死が、「ノアダさまのご降臨《こうりん》!」と大声でふれながら進み、ダイアンが通ると、人々はこの小人数の行列に道をあけ、両手で目をおおってひざまずいた。
ダイアンには、何がなんだかさっぱりわからない。というのも、彼女の一族には、めずらしくなんの迷信もなかったので、宗教というものをぜんぜん知らなかったからだ。彼女にわかったことといえば、これらの異邦人たちがどうやら友好的だということ、そして、捕虜というよりはむしろ高貴な客人としてむかえられているのだということくらいのものだった。ここにあるものは、彼女の目にすべて奇異にうつった。せまい通りの両側に立ち並んだ、堅牢な造りの小さな家々。人々の黄色い肌。奇妙な装束――さまざまの色あざやかな図案をほどこした皮の前垂れ。これを腰から前後にたらしている。男たちは皮の冑《かぶと》をかぶり、女は羽根の髪飾りをつけている。男女とも、上半身には何も着ておらず、子供や若者は素裸だ。
腕輪や足輪、その他男女がつけている金属製の装飾品は、戦士たちの剣、槍の穂先、矢じりとともに、ダイアンの知らない金属でできていた。その金属というのは青銅だった。この人々は石器時代、銅器時代を過ぎて、青銅器時代にかかっていたのだ。かれらの文明が進歩しているということは、かれらの武器が、石器時代のそれよりも人を殺すのに有効だという事実でもわかる――人類は、進歩すればするほど恐ろしい武器を発明して殺し合うようになるのだ。
ダイアンは、戦士たちに護衛されて部落の中央にある広場にみちびかれた。周囲の建物はいくぶん大きかったが、それでも全部平屋建てだ。四角い広場の片側の中央には、丸屋根の建物がある。ロロ・ロロでは、もっとも壮麗な建物だ――壮麗というと、少々言葉がすぎるかもしれないが。とにかく、この人々が、これだけ大きな丸屋根の建物を設計建築できたということは特筆に値することだ。
行列の先頭に立って、ふれて歩いていた例の戦士は、一同に先立ってこの建物の入り口にかけていき、そこで大声に呼ばわった。「ノアダさまのご到着!」かれがこうくり返すうちに、中から奇妙な衣装をつけた男たちがぞろぞろと姿を現わした。模様を描いた皮の長衣に、おのおの恐ろしい形相の仮面をつけている。
ダイアンが建物の入り口に近づくと、これらの異様ないでたちをした男たちは彼女を取り巻いてひざまずき、仮面の目の穴を両手でおおった。
「ようこそ、われらのノアダさま! ロロ・ロロのあなたさまの神殿に、ようこそおいでくだされました。われわれのあなたさまの祭司一同は、〈神々の家〉にあなたさまを迎えたてまつります!」かれらはいっせいに朗唱した。
たてまつるとか、祭司とか、神々といった言葉は、ダイアンには初耳だった。意味はわからなかったが、根がりこうな女だから、自分がこういう言葉を知っているべき立場にあり、自分以外の何者かにまつりあげられているのだということはわかったし、かれらがそう信じてくれることが、自分にとって最上の保身術になるのだということを読みとった。そこで、優雅な身のこなしで軽くうなずいてみせ、相手の出方を待った。
背後の広場には、人がぎっしりとつめかけ、太鼓に合わせて無気味な邪教の歌を詠唱しはじめた。その中を、美女ダイアンはノアダの祭司に守られて、〈神々の家〉へはいっていった。
アー・ギラクの老練な指導のもとに、アモズ号の乗組員は船を仮帆装した。そして今一度、船は航海の途についたのだった。一人のアモズの男が、羅針儀と、六分儀と、経線儀《クロノメーター》と、航海長をつとめた。というのはペルシダーの海軍基地は、アモズの断崖の蔭の小湾だったからだ。生来の帰巣本能の導くままに、かれは舵手のかたわらに立ってアモズの方角を示した。今一人のアモズの男が交代をつとめたので、かれは眠くなると見張りをやめるのだった。このやり方がうまくいって、羅針儀や、六分儀や、経線儀《クロノメーター》を使うよりもはるかに正確な結果が得られた。
風はまだ静まらず、海はなおも荒れていた。だがEPSアモズ号は港を目指していた。波にもまれながらしゃにむに進んだ。乗船者たちはみな、船がついには港に着くだろうことを、今や信じて疑わなかった。
「まったく、たいした船じゃて」アー・ギラクがいった。「いつかは着くぞ!」
オー・アアが、ラジにむかって、「あたしは王の娘よ」といったとき、このメゾプの男は耳をそば立てた。というのも、王という言葉は、アブナー・ペリーがペルシダー語に直して持ちこんだもので、この称号を戴く資格のある者は、〈ペルシダー帝国〉として知られる連盟に属する〈王国〉の元首だからだ。もしもこの娘がただの娘なら、それはそれでよし。だが、娘の一族が〈連盟〉に属しているのなら、事態は大いに変わってくる。
「おまえの父親は何者だ?」ラジが返答を求めた。
「カリの王、ウースよ」彼女は答えた。「あたしの夫はサリのひと。疾風《はやて》のホドン。九人の兄弟はみな、すごい男なんだから」
「九人の兄弟などどうでもいい」ラジがいった。「おまえがカリ人で、夫がサリのホドンだということだけで充分だ。おまえはこの船で優遇を受けよう」
「それでおまえたちも首がつながるというものさ」オー・アアがいった。「あたしを大切にしなかったら、おまえを殺すところだったんだからね。あたしは男を大勢殺してきた。九人の兄弟と一緒にスヴィの部落をしょっ中襲撃したものよ。あたしたちだけでね。いつでもあたしは、兄弟のだれよりも大勢の男を殺したわ。母の兄もたいした殺し屋でね、あたしの三人の姉もそうよ。だから、あたしを大切にすればまちがいないわ。あたしはいつも――」
「うるさい」ラジがいった。「おまえはとんでもないおしゃべりで、大嘘つきだ。危害は加えないでおいてやるが、おれたちメゾプ人は口数の多い女を打つことにしているからな。口数の多い女はきらいだ」
オー・アアは、つんと顎をつき出したが、何もいわなかった。ラジのいっていることが口先だけでないということがわかったからだ。
「カンダの者でないなら」と、例の、カンダの男を見たことがあるという水兵がいった。「その、羽根の腰布はどこで手に入れた?」
「カンダ人のラ・アクを殺して、頂戴したのよ」オー・アアが答えた。「――|これは《ヽヽヽ》嘘じゃないんだからね」
サリ号は強風にあおられて進んだが、それと同時に、うまく同じ方角に流れている潮流に乗ったので、すばらしい船足をつけた。もっとも、オー・アアには、ただ浮き沈みしているだけとしか見えなかったが。
アノロック諸島の前の沖合までくると、メゾプ人たちはそわそわしはじめた。島々の姿こそ見えないが、方角だけは的確にわかっていたから、故郷を通過してしまうかと思うと気が気ではなかったのだ。サリ号の、四隻のボートは甲板の手すりにしっかり結えつけてあったので、嵐もさらっていくことはできなかった。そこで、ラジがサリ人たちに提案したことは、かれと部下のメゾプ人が二隻に乗ってアノロックへこいでいき、サリ人が他の二隻に乗って岸へむかうということだった。というのも、船のいる位置は、サリの沖合でもあったからだ。
波が高いために、ボートを下ろすことは非常に困難かつ危険なわざだった。だがメゾプ人は優秀な船乗りだ。ついには二隻とも下ろすことに成功し、最後の別れを告げて荒波にこぎ出していった。
オー・アアはことのなりゆきを終始傍観していたが、見ているうちに不安がつのってきた。彼女は、きゃしゃなボートが山なす大波に持ち上げられては、つづく波くぼに姿を消すのを見ていた。二度とふたたび現われないのではないかと思うことも時々あった。それでもメゾプ人がボートを下ろして乗りこんだときには、これ以上にはらはらして見守っていたものだった。だから、サリ人たちがいざボートを浮かべるという段になると、彼女は多少とも怖気づいた。
サリ人たちは、先のボートに乗るようにと彼女にいったが、彼女は、次のに乗るからといった――あの恐怖の瞬間をできるだけ遅らせたかったのだ。海にたいする生来の恐怖心に加えて、サリ人たちが信頼のおける船乗りではないという事実がある。彼女にはそれがわかっていた。かれらはこれまでずっと内陸に住んでいて、海へ乗り出したことはなかったのに、デヴィッドとペリーが、かれらも海軍国になるべきだという命令を出した。その当時ですら、かれらはいつも積荷として航海したのであって、船乗りとしてではなかった。
オー・アアは、はじめのボートが下ろされるのを、ガタガタ震えながら見守った。最初、二人を乗せて、海に下ろした。この二人が、サリ号の船腹にボートがぶちあたらないように、櫂を使ってささえようということだったのだが、かならずしもうまくいかなかった。オー・アアは、今にもぶちあたって砕けるかとはらはらしていた。はじめのボートに乗ることになっていたサリ人たちが、ロープをつたってスルスルと降りていった。そして全員が乗りこんだとき、サリ号は急にぐらりと傾いでボートを転覆させてしまった。何人かは今つたってきたロープにうまくつかまって、サリ号の甲板に引きあげられたが、他の者は絶望的だった。オー・アアはかれらが溺れるのを凝視していた。
残ったサリ人たちは、次のボートを下ろすことについて、疑問を抱きはじめた。だれしも、飢え切った爬虫類がうようよする荒波で溺れたくはない。かれらは事態を検討した。
「半数の者が、船から離れる前に漕ごうとせずに櫂で船をつっぱっていたら、あんなことにはならなかっただろう」ひとりがいうと、他の者もかれに同調した。
「われわれはうまくやれると思う」別の一人がいった。
オー・アアは、そう思わなかった。
「サリ号に乗ったまま漂流していたのでは、飢えと渇きで死んでしまう」三人目がいった。「助かる見込みは万に一つもないわけだ。ボートに乗りさえすれば、チャンスはある。おれはそのほうをとるね」結局他の者も同意した。
ボートは無事に下ろされ、大勢がロープをつたって降りていって、船体を櫂でつっぱった。
「降りな」一人の男が、オー・アアを船べりのほうへ押しやりながらいった。
「いやよ」オー・アアがいった。「あたし、いかない」
「なんだと! このサリ号にたった一人で残るってかい?」
「そうよ。それで、もしかしてあんたたちがうまくサリに着いたら――きっとだめだろうけど――ホドンにいってちょうだい、ホドンがいたらの話だけど、オー・アアがサリ号に乗ってルラル・アズをさまよっていますってね。あのひとなら来て助けてくれるわ」
男は頭を傾《かし》げ傾げ船べりを乗りこえていった。他の者もそれにつづいた。オー・アアが見守るうちに、かれらはサリ号が波に乗って離れていくまでボートを船腹からつっぱっていて、それから櫂を水に入れ、ボートが危険区域を脱するまで力いっぱいこいだ。彼女は、ボートが波にもまれながら、ついには彼方の点となるまで見送っていた。ただ一人、嵐の大海に漂う難破船上にあって、オー・アアは、あの小舟にいるよりずっと安心していた。あのボートは絶対に陸に着くものか。そう彼女は確信していた。
オー・アアには、とても食べきれないと思えるほどの食糧と水があった。そのうちに、サリ号は岸に漂着するだろう。そうしたら、家へ帰ろう。彼女が耐え忍ばなくてはならない最大の苦痛は、話相手がいないということだった。オー・アアにとって、これは実につらいことだ。
嵐は船を西南の方角に吹き流し、大海の潮流は、さらに同じ方角に船足を早めさせた。オー・アアは、何度も眠ったが、真昼であることに変わりはなかった。嵐はとっくに凪《な》いでいた。大きく、なめらかなうねりが、サリ号をおだやかに持ち上げては、おだやかに下ろした。先刻はさんざん船を打ちのめした同じ海が、こんどは愛撫しているのだ。
目がさめているとき、オー・アアはたえず陸地をさがし求めていた。そしてついにそれを発見した。ひどくぼんやりしていて、遠かったが、彼女は、それが陸地にまちがいないと確信した。そして、当のサリ号はそれに近づきつつあるのだ――それにしても、まあ、なんとのろいことよ。彼女は、じっと目を開けていられくなるまでそれを見つめていて、それから眠った。どのくらい眠っていたかはだれにもわからない。が、目をさますと陸地はすぐそこにあった。ところが、サリ号は陸地と平行に、しかもかなりの船足で走っている。もしも現在の針路をそのままたどるなら、絶対に陸地に着くことはできまい。それはオー・アアにもわかっていたが、かといって、彼女にはどうすることもできないのだ。
一筋の激しい潮流が、サリ号の迷いこんだソジャル・アズから、無名海峡を通って、サリの土地の西岸を画しているコルサール・アズに流れこんでいる。オー・アアは、こういったことを何一つ知らなかったばかりか、左舷に見えるその土地が、彼女の一族の恐れる|未知の国《テラ・インコグニタ》であるということも知らなかった。
これまで東からおだやかに吹いていた風は、北風に変わり、風速をまして、サリ号をさらに岸へと近づけた。かなり接近してきて、陸地にあるものがはっきり見分けられるほどになった。と、あるものが目にとまって、彼女の好奇心をそそった。今までそんなものを見たことがなかったからだ。それは城壁をめぐらした都市だった。彼女にはそれが何か、見当もつかなかった。ほどなく、人がその中から出てくるのが見えた。サリ号が漂着しようとしている浜辺にむかって、みんないっさんにかけてくる。近づくにつれて大勢の戦士がまじっているのがわかった。
オー・アアは都市というものを見たことがなかったし、この人々は船を見たことがなかった。サリ号は、浜辺に船首をむけてただようように進んでいく。オー・アアは、赤と黄の羽根の腰布をつけ、髪には三本の羽根という勇ましい姿で、船首の、折れた|やりだし《ヽヽヽヽ》の基部に立っていた。サリ号は、もはや浜のすぐ近くまで来ていたので、群集にはオー・アアがはっきりと見えた。と、かれらはにわかにひざまずいて、両手で目をおおい、大声でさけんだ。
「ようこそ、われらのノアダさま! ほんとうのノアダさまが、タンガ・タンガにご光来になった!」
ちょうどそのとき、サリ号が浅瀬に乗りあげたので、オー・アアはまっさかさまに水中に転落した。オー・アアはカリの山奥の湖で水泳を覚えた。そこには爬虫類はいなかったが、ここにはうようよしているということを彼女は知っている。これまでにもよく見かけたものだ。そんなわけで、彼女はいったん水面に浮かび上がると、まるで世界中の恐竜がすぐ後からわっと追っかけてきているようないきおいで、岸にむかって泳ぎだした。このカリの穴居人の娘が、岸までの百メートルに出したタイムには、さしもの水着の女王エスター・ウィリアムズも顔負けだっただろう。
彼女が岸に這いあがると、恐怖の念にかられたタンガ・タンガの戦士たちは、ふたたびいっせいに平伏して両手で目をおおった。オー・アアは、もしかして腰布を落っことしてやしないかと、ちらりと見下ろしたが、そこにちゃんとあったので、ほっとした。
オー・アアは、驚き、あっけにとられて、ひざまずいている戦士たちを見た。どうもおかしな具合だ。「それ、なんのまねなのよ?」彼女は返答を求めていった。「どうして立ち上がらないのさ?」
「あなたさまのおん前で、立ち上がってよろしいのでございますか?」一人の戦士がたずねた。
オー・アアは、すばやく頭をめぐらした。どうやら人ちがいらしい。だが、そこをうまく利用してやってもいいな。もしも、こっちを恐れているのなら、それもよかろう。
「考えておこうぞ」彼女はいった。周囲を見まわして、何人かの戦士がこっちを盗み見しているのを目ざとく見つけたが、みんな彼女が見たとたんに頭をたれた。こうして彼女を見たあとでも、まだかれらはまちがいに気づかないことがオー・アアにわかった。見ると、かれらは黄色人種だ。絵をかいた皮の前垂れ、見なれぬ武器、兜《かぶと》をかぶっているのが、とてもよくにあう、と、オー・アアは思った。
ゆっくりと、時間をかけて観察した後、「もう立ってもよいぞ」と、彼女がいうと、一同はごそごそと立ち上がった。
数人の戦士が歩み寄ってきて、その中の一人がいった。「われらのノアダさま。長い間、ご光来をお待ちいたしておりました――第一代のクセクソットが、あなたさまのお助けなくしては死後カラナに行くことができないということを知っていらいのことでございます。あれはもう百万回も眠りを経る前のことでございました。祭司たちは、いつかはあなたさまがおいでになると、語っておりました。それが、つい先頃、空中から降りてきた者がありまして、われわれは、ノアダさまのご到来かと思いましたが、今になってあれがにせのノアダであったということを知りました。さあ、わたくしどもとごいっしょにタンガ・タンガへおいでください。祭司たちが、あなたさまの神殿へおつれもうしましょう」
オー・アアは当惑した。戦士のいったことは大部分がちんぷんかんぷんで、さっぱりわからない。が、オー・アアはりこうな女だ。どうやらうまいぐあいに人ちがいされたらしいということを見抜いた。うっかり質問などして、これをぶちこわすことはない。彼女は、相手が質問してくることを何よりも恐れた。
美女ダイアンは、ロロ・ロロへ来ていらい、数多くのことを学んだ。それも、やたらと質問を発したりせずに――というのも、まず最初に学んだ事柄の一つに、彼女は何もかも、人の心の中まで知っていることになっている、ということがあったからだ。
彼女が学んだ事柄というのは――この黄色人種の一族は、クセクソット族と称しているということ。彼女は空のどこかにあるというカラナから到達したのだということ。彼女の役割は、人々が善行を積めば、死後にそのカラナへ行けるようにしてやること。しかし悪行をかさねれば、ペルシダーそのものが浮かんでいる焔の海モロプ・アズに送ることもできるということ、等であった。
モロプ・アズにかんしては、彼女もすでに承知していた。モロプ・アズを知らないペルシダー人はいない。地面に埋められた死人が行くところだ。死人は、モロプ・アズに住む邪悪な小悪魔たちの手で、死体を一かけずつ運んでいかれる。このことはだれでも知っている。というのも、墓を開いてみると、いつでも死体の一部ないしは全部が運び去られているからだ。ペルシダーの部族の多くが、死人を樹上に置くのはそのことがあるからで、樹上に置けば鳥がそれを見つけて、〈恐ろしい影の国〉のその上にかかっている〈死の世界〉へ、少しずつくわえて持っていってくれると考えられているのだ。人々は、敵を殺すと必ず死体を地面に埋める。確実にモロプ・アズへ運んでいかれるようにするためだ。
また彼女は、ノアダという身分が、皇后の身分よりもさらに重要なものだということを発見した。ここ、ロロ・ロロでは、王までが彼女の前に出るとひざまずいて目をおおう。そして、彼女が許可をあたえるまで立ち上がらない。
それやこれでダイアンは大いにとまどったが、それでも次々に覚えていった。人々は、供物として、食物や、装飾品や、皮革や、八角形をしたたくさんの薄い小さな金属板を持ってきた。祭司たちは、結局ほとんどの供物を取りこんでしまうのだが、何よりもこれらの小金属板を重く見ているようすだった。そして毎日、充分な量が神殿にたまっていないと、ひどく怒って人々に叱言をいった。だが、たとえ、どんなにわからないことがあっても、ダイアンはあえて質問をしなかった。もしも彼女がすべてに精通しているということを疑うようにでもなったら、彼女が真実ノアダだということに不審を抱くようになるだろう。そうなればことはめんどうになる。あれほど熱烈に彼女を礼拝したのだから、彼女がニセモノだということが露見したあかつきには、彼女を八つ裂きにするかもしれない。
ロロ・ロロの王は、ゴ・シャという称号で呼ばれ、名はガンバといった。かれはしばしばノアダの神殿に祈祷にやってきた。祭司長ホアにいわせると、王は、以前には祭礼のある日以外、神殿に現われたことがないということだった。祭礼のある日には、たらふく飲み食いできるし、踊りを見ることができる。
「ノアダさま、あなたは非常に美しいお方であらせられる」ホアはいった。「ゴ・シャが、しばしば顔を見せるようになったのは、おそらくはそのせいではあるまいかと思われまする」
「たぶん、死んだらカラナへ行きたいからでしょう」ダイアンがいった。
「それだけだとよろしいのですが」ホアがいった。「これまでは非常に邪悪な男でございました。聖職者に当然の敬意を払わないばかりか、愚弄《ぐろう》までいたしおったのでございます。聞くところによりますと、かれは、カラナも、モロプ・アズも、ピューの教えも信じていないということで、ノアダなどというものは存在しないのだから、ロロ・ロロにノアダがくるということはぜったいにないのだと、つね日頃申しておりましたそうな」
「それなら、これで少しはりこうになったでしょう」ダイアンがいった。
この会話があってほどなく、ガンバが神殿へやってきた。ホアが眠っている間のことだった。かれはダイアンの前でひざまずき、両手で目をおおった。
「お立ちなさい、ガンバ」ダイアンがいった。
ちょっとした壇の上に、彫刻をほどこした腰掛けがおかれ、その上に、彩色をして青銅の飾り鋲《びょう》をちりばめた皮をしいて、ダイアンがすわっていた。柔らかな皮衣をまとい、腰のところを帯で締めている。その衣は、一方の肩をあらわに、一方の肩から裾に流れ、片脇は腰まで|裂け目《スリット》がはいっていて、|裂け目《スリット》の終わりを円形の青銅のブローチで止めてある。首には、彫刻をほどこした象牙の玉を連ねた首飾りを八連。いずれも長さがちがっていて、いちばん長いものは細腰の線の下まである。青銅の腕輪や足輪が四肢を飾り、さらに頭上にいただいた羽根の髪飾りがこの絢爛《けんらん》たるバーバリックな装いをきわだたせている。
これまで、ほんの申しわけていどの腰布しか着けたことのない美女ダイアンは、こんな美々しい衣服や装飾品が、窮屈でしかたがなかった。もっとも、愚にもつかない品々で、身のまわりをごたごたと飾り立てて喜ぶというところまで、彼女が文明的に進歩していなかったということもあるが。造物主の手で美しく創られ、したがってどんな装飾品も自分の美しさを増すことはできないのだということを、彼女は知っていた。
ガンバの考えも、まったく同じだったらしい。かれの目は、衣などまったく無視しているようだった。ダイアンはかれの視線を不快に思った。
「これはこれは、ゴ・シャには礼拝においでかえ?」女神ダイアンがただした。
ガンバは微笑した。あの笑いには皮肉がこめられているのでは? ダイアンには、そう思えた。
「会いにきただけだ」ガンバは答えた。「あんたを拝みにわざわざここまでくる必要はない――それならいつもやっていることだからな」
「おまえたちのノアダを礼拝するのはよいことじゃ」ダイアンがいった。「さぞやピューさまもお喜びであろう」
「わたしが礼拝するのはノアダではない」ガンバはぬけぬけといった。「女だ」
「ノアダは不快じゃ」ダイアンが冷やかにいった。「ピューさまもご同様、大祭司ホアも不快に思うであろうぞ」
ガンバはカラカラと笑った。「ホアには、他の者をたぶらかせるかもしれぬ。だが、わたしはたぶらかされぬぞ。あんたもかれにたぶらかされはすまい。どういう風の吹きまわしであんたがここへやってきたのかは知らぬし、あんたが乗ってきたものが何か、それも知らぬ。だが、あんたがただの女だということくらいはわかる。ノアダなどというものは存在しないんだからな。わたしの貴族や戦士の中にも、わたしと同じ考えの者が大勢いる」
「ノアダには興味のないことじゃ」ダイアンがいった。「ゴ・シャはさがってよいぞ」
ガンバは、壇の端に腰を落ちつけてしまった。「わたしは、ゴ・シャだ。くるのも行くのも気のむくままにする。わたしはここにいたいからいるのだ」
「では、|わたし《ヽヽヽ》が去るまでじゃ」立ち上がりながらダイアンがいった。
「待て。もしもあんたが、わたしの考えているようにりこうな女なら、ガンバを敵にまわすより味方にしたほうが得策だということはわかるだろう。民衆は不満を抱いている。ホアが、かれらから絞れるだけ絞っているのだ。やつらは、かれらをおどすべく、あんたを抱きこんだ。それ以来さらにひどく絞りたてている。かれの祭司たちは、民衆が貢物を、それもとりわけ青銅貨を増やさないと、あんたの怒りを受けるぞとおどすしまつだ。そしてホアはどんどん豊かになっていき、民衆は貧しくなってきている。今ではもう税を収めるものが何も残っていないといっているほどだ。今にゴ・シャは、裸の身をおおう皮一枚とりたてることができなくなるだろう」
「そういうことは、ホアに話すことがよい」ダイアンがいった。
「そのひとことで、化けの皮がはげたぞ」ガンバは勝ち誇ったようにいった。「だが、なにしろやっかいな役どころだ。それが、まだ一度もとちらないのだからおそれいるよ」
「なんのことだか、わたしにはわからぬ」
「ホアにいわせると、ノアダというのは、ペルシダーにおけるピューの象徴だそうだ。ノアダは全能者で、決定し、命令を下すのはノアダだ――ホアではない。あんたは、民衆が不満を抱いている事柄については、ホアに話すようにというが、あんたは、命令を下すのはホアであって、あんたではないということを認めているわけだな」
「ノアダが命令を下すのじゃ」ダイアンはぴしゃりといった。「ノアダはおまえに、不平不満はホアのところへ持っていけと命令する。一般民衆が、不平不満を下級の祭司のところへ持ちこむようにな――かれらはノアダに負担はかけぬ。おまえもそのようにするのじゃ。不平不満が重要性のあるものなら、ホアがノアダに相談をもちかけるはずじゃ」
ガンバは、はたとひざを打ってさけんだ。「うまい! たいした女だよ、あんたはみごとにいい抜けたな。どうだ! 味方同士になろうじゃないか。ロロ・ロロで、末長くいっしょに暮らそう。ゴ・シャの妻になるのもそう悪くはないぞ。虜《とりこ》のように神殿の閉じこめられているよりは、ずっと面白い――現在のあんたの境遇よりはな。そうとも、あんたは虜だ。それで、ホアが看守だ。考えておきたまえ、ノアダ、考えておくことだな」
「何を考えておくのだ?」横合いから声があった。
二人とも、はっとふりむいた。ホアだ。かれは歩み寄ってダイアンの前にひざまずき、両手で目をおおった。それから立ち上がると、ガンバをねめつけた。しかしかれは、それきりで、ダイアンにむかって口を開いた。「あなたさまは、この男にこの神聖な場所に腰を下ろしてもよいとおっしゃったのでございますか?」
ガンバは喰い入るようにダイアンをみつめて、返答を待っている。その返答はこうだった。
「勝手にするがよい」彼女は高慢な口調でいった。
「それでは神殿の掟《おきて》にそむくことになりまする」ホアがいった。
「神殿の掟はわたしが作る」ダイアンがいった。「そして、ロロ・ロロの人々をおさめる法律もわたしが作るのじゃ」そういってから、ダイアンはガンバを見た。
ホアはひどく不機嫌な面持ちになった。ガンバはにやにやしている。ダイアンが、つと立ち上がった。「両人とも、さがってよいぞ」ダイアンがいった。それは命令のように聞こえた――事実、命令だった。それからダイアンは、壇から下りて神殿の扉にむかって歩いていった。
「どこへ行かれます?」ホアがたずねた。
「ロロ・ロロの街を歩いて、民衆の話をしてまいる」
「しかし、そんな」ホアがさけんだ。「神殿の掟に反しますぞ」
「神殿の掟を作るのはノアダだと、今おまえのノアダがいったのを聞かなかったのかね?」まだにやにやしながら、ガンバがたずねた。
「しからば、お待ちを」ホアがさけんだ。「祭司たちと太鼓を召集いたしますまで」
「祭司も太鼓もいらぬ」ダイアンがいった。「わたしは一人で歩きたいのじゃ」
「では、わたしがごいっしょに」ガンバとホアは、声をそろえていった。まるでこのセリフをあらかじめ練習しておいたかのように。
「一人で行きたいといったはずじゃ」ダイアンはそういいおいて、すたすたと神殿の大扉を通り抜け、広間の永遠の陽光のもとに出ていった。
「どうだ」とガンバがホアにいった。「これでノアダが手にはいったろうが」いいながらかれは皮肉たっぷりな哄笑を浴びせた。
「ピューさまにお祈りして、あの方のおみちびきを願わなくては」と、ホアはいったが、その口調は祈願するもののそれよりも、むしろ死刑執行者のそれに近かった。
「たぶんあのお方のほうでピューをおみちびきになるだろうよ」ガンバがいった。
人々は、広場をノアダさまが一人で歩いているのを見て肝をつぶした。そして彼女が近づくと台地にひざまずいて両手で目をおおい、彼女が立ち上がらせてやるまでそうしていた。彼女は、とある男の前で立ち止まり、何をしている者かとたずねた。
「青銅の細工をする者でございます」男は答えた。「あなたさまがおつけになっておられる腕輪はわたくしがつくりました、ノアダさま」
「その仕事で、貨幣がたくさんもらえますか?」ダイアンは、ロロ・ロロへくるまで貨幣制度などぜんぜん知らなかったが、ここへ来て、青銅の貨幣――しばしば簡略に〈貨幣〉と呼ばれるもの――と交換に食物その他の物品を手に入れることができるということを学んだ。それらは大量に神殿に運ばれてきて、彼女にささげられるのだが、ホアが取ってしまうのだった。
「貨幣はたくさん払ってもらいます」男は答えた。「しかし――」かれはうなだれて沈黙した。
「しかし、どうなんです?」とダイアン。
「申すのがおそれ多いのです」男はいった。「お話しなければよかった」
「命令です。話しなさい」
「祭司たちが、わたしのかせぎの大部分をよこすようにといいますし、残りをゴ・シャが要求してきますので、食物を買うだけの貨幣も手元に残らないありさまなのです」
「この、わたしがつけている腕輪には、いくら払ってもらったのですか?」ダイアンが追求した。
「一文《いちもん》もいただいていません」
「なぜ、一文も?」
「ノアダさまにささげ物として作ってさしあげるようにと、祭司たちにいわれました。ノアダさまは、わたしの罪を許して、死んだ後はカラナへ行けるようにはかってくださる方だからです」
「いくらくらいの値打ちのあるものなのですか?」
「すくなくとも貨幣二百枚の値打ちがあります。ロロ・ロロで、いちばん美しい腕輪ですから」
「では、いっしょにくるがよい」そういって、ダイアンは引きつづき広場を横切って進んでいった。
広場をはさんで神殿のむかい側に、ゴ・シャの家があった。入り口の前には番兵が何人か立っている。ノアダが近づくと、かれらはひざまずいて両手で目をおおったが、ふたたび立ち上がったとき、ダイアンはかれらの顔を見て、そこに敬意のかけらもなく、ただ恐怖と憎悪のみがあるのを見てとった。
「おまえたちは戦士ですね」ダイアンがいった。「優遇されてますか?」
「われわれは奴隷と同様に優遇されていますよ」一人が苦々しげにいった。
「われわれは、ゴ・シャや貴族たちの食卓の残り物も与えられます。それ以上のものを買う貨幣は持っていません」
「なぜ持っていないのです? おまえたちはただ働きをしているのですか?」
「ゴ・シャが眠るたびに、貨幣五枚ずつ支払われることになっているのですが、これでもう何回分も払ってもらっておりません」
「それはまた、どうして?」
「祭司たちが、あなたさまのためだといって貨幣を全部取ってしまうからだとゴ・シャはいっています」最初の戦士が、大胆にいった。
「わたしといっしょにくるがよい」ダイアンはいった。
「われわれはここの番兵です。持ち場を離れるわけにはいかない」
「おまえたちのノアダ、このわたしが命令するのです。来なさい!」
「ノアダさまの命令どおりにすれば」一人がいった。「ノアダさまがお守りくださるだろう」
「しかし、ガンバがわれわれを笞《むち》打たせるぞ」別の一人がいった。
「おまえたちがいつもわたしの命令にしたがっておれば、ガンバに笞打たれることはない。わたしの命令にしたがったからといっておまえたちに危害をおよぼすなら、笞打たれるのはガンバのほうです」
戦士たちはダイアンについてきた。彼女はその後も立ち止まっては男や女たちに話しかけた。みんなはそれぞれに、祭司たちか、またはゴ・シャにたいして不満を抱いていた。彼女は一人一人にむかって、ついてくるように命じた。そして最後に、かなりの人数の行列をぞろぞろと後にしたがえて、彼女は神殿にもどってきたのだった。
ガンバとホアは、それまで入り口に立って彼女を見守っていたが、ここで彼女にしたがって神殿の中へはいってきた。彼女は壇に上り、二人に面とむかっていった。
「ガンバ、ホア。おまえたちは、ノアダが神殿の戸口でおまえたちの側を通ったのにひざまずかなかったな。今、ひざまずくがよいぞ」
二人の男はもじもじした。平民や兵士の面前で恥をかかされたのだ。ホアがまず折れた。かれはひざをついて目をおおった。ガンバは、わざとつっかかるように彼女を見上げた。皮肉を帯びた、かすかな微笑が、ダイアンの口元に浮かんだ。彼女は、ガンバのかたわらに立っている兵士たちに目を移した。
「戦士たちよ。この男を――」それ以上いう必要はなかった。そのときすでにガンバはひざまずいていたからだ。かれは、ダイアンが心中には何を期していたか、口元にただよっていたのは何かを察したのだった。
二人に、立ち上がることを許してから、彼女はホアにむかっていった。「青銅の貨幣をたくさん運んでこさせなさい」
「なんのためでございます?」ホアがたずねた。
「ノアダが自分のもちものをどうしようと、いちいち説明する必要はない」
「でも、ノアダさま」ホアがせきこんでいった。「貨幣は神殿のものでございます」
「貨幣も、それに神殿もわたしに属しているのだ。神殿はわたしのために建てられ、貨幣は、ささげ物としてわたしのところへ持ってこられたのだ。ここへ持ってこさせなさい」
「ではどのくらい持ってこさせましようか?」
「六人の祭司みんなで持てるだけ。もっと入用なら、もう一度取りにもどらせます」
六人の祭司をあとにしたがえて、ホアは怒りに震えながら宿舎を出た。しかし貨幣はたんまりと神殿の玉座の間に運び込ませた。
「あの男に」と、ダイアンは青銅の細工師を指さしながら、「二百枚。今まで支払われていない、この腕輪の代金としてあたえてやりなさい」
「しかし、ノアダさま」ホアがいさめた。「腕輪はささげ物でございます」
「無理にささげさせたものじゃ――払ってやりなさい」つぎに彼女はガンバのほうにむきなおって、「この前、戦士たちに給料を渡してこのかた、おまえは何回眠りました?」
ガンバは、黄色い肌の下で赤面した。「さあ、わかりませんな」かれはつっけんどんにいった。
「何回だったのじゃ?」ダイアンは戦士たちにたずねた。
「二十一回です」一人が答えた。
「これらの者に、一回につき五枚ずつ、二十一回分払ってやりなさい」ダイアンが命じた。「それからただちに戦士全員に、自分の取り分を受け取りにこさせるよう」ついで、彼女にしたがって神殿へやって来たその者たち一人一人にたいして、様々な額の支払いをしてやるように命じた。
ホアはかんかんだった。だが、ガンバは、このことの意味を理解するにおよんで、けっこう楽しんでいた。わけてもホアの狼狽ぶりが楽しかった。こうなると、これまでにもましてダイアンをわがものにしたくてたまらなくなってくる。彼女をゴ・シャの妻にしたら、どんなだろう!
「よいか」貨幣が全員に行き渡るとダイアンはいった。「これからは、ノアダへのささげ物は、すべてみんなのできる範囲内だけでよろしい――十枚、あるいは二十枚について一枚という具合でよいのじゃ。ゴ・シャにたいしても同様。今後わたしは、睡眠の合間はここにすわっていることにする。そして、だれでもここへくれば、ホアが、無理やり取り立てた分を一人一人に支払ってくれよう。十枚のうち、一枚ささげるのが妥当だと思う者は、その分だけホアに返せばよい。そのほか、どんなことでも苦情があれば、ノアダのところへ持ってまいるよう。それらはいずれ改善されるであろう。ではこれで、さがってよろしい」
一同は、驚きと、敬愛のまなざしで彼女を見た。当初、彼女に対する恐怖と憎悪を目に宿していた市民や戦士たちだ。かれらは、ダイアンの前にひざまずいてから、受け取った十枚のうち一枚をホアに支払った。そして、うれしそうに笑いさざめきながら、町中にこの吉報をひろめるべく神殿から散っていった。
「ピューさまは、ご立腹あそばしましょうぞ」ホアがいった。「あの貨幣はピューさまのものであったのに」
「おまえはおろか者じゃ」ダイアンがいった。「おまえがやり方をあらためなければ、あたらしい祭司長をわたしが指名するまでのこと」
「めっそうもない」ホアは悲鳴をあげんばかりだった。「わたしの貨幣はさしあげませんぞ!」
「それ見なさい」ガンバがダイアンにいった。「わたしがいったことは事実でしょう――ホアは貨幣を一人占めにしているんだ」
「わたしは神殿前の広場で大勢の者と話をしてきた」ダイアンがいった。「それでたくさんのことがわかった――その一つは、民衆がおまえを憎み、わたしを憎んでいるということじゃ。わたしがおまえのことをおろか者といったのは、そこじゃ、ホア。おまえには、これらの民衆――財産を盗まれた市民や無給の戦士たちが――今にも蜂起して、われわれを皆殺しにしようとしているのがわかっておらぬ。わたしは、奪われた貨幣をみなの手に返してやったが、それでもなおかれらはおまえたち二人を憎むだろう。だがわたしはもう憎まれることはない。だから、もしもおまえたちがりこうなら、これからはわたしのいうとおりにすることじゃ――わたしがおまえたちのノアダだということを忘れないようにせよ」
ダイアンは眠った。寝所は、永遠の真昼の太陽をさえぎって、暗くしてあった。彼女は、皮製の寝椅子に横たわっていた――粗末な木枠になめし皮を張った寝椅子だ。部屋は暖かいので、彼女はほんのもうしわけていどの腰布しか身につけていない。そして、デヴィッドの夢を見ていた。
と、男が一人、素足で彼女の寝所に忍びこんできた。こっそりと寝椅子に近づいてくる。ダイアンは寝苦しそうに身動きした。すると男は動きを止めて、じっと待った。ダイアンは、タラグがデヴィッドに忍び寄ってきている夢を見ていた。彼女がデヴィッドに注意しようと、目をさましてはね起きたので、下級祭司の一人とばったり顔を合わせる仕儀となった。かれは細身の青銅の短刀を手にしていた。
暗い室内で死神と相対して、ダイアンはすばやく頭をめぐらした。見ると、相手は短刀を肩の高さにかざして震えている。――今にもとびかかって、切りつけるだろう。
ダイアンは、ドンと床を蹴り、厳然とした口調で、「下におろう!」と制した。
男は躊躇《ちゅうちょ》した。短刀を握った手がたれ、男はがっくりとひざまずいた。
「短刀を放せ」ダイアンがいうと、男は短刀を放した。ダイアンは、それを床からすばやくひろい上げた。
「さあ、白状するのじゃ!」ダイアンは命じた。「だれがおまえをここへ寄こした? いや、たずねる必要はあるまい。ホアじゃな?」
祭司はうなずいた。「ピューさまのお許しを。わたしは来たくなかったのでございます。ホアにおどかされました。わたしがこうしなければ、他の者にわたしを殺させると」
「もうさがってよい。二度とくるでないぞ」
「二度とふたたびお目にかかることはないでしょう、ノアダさま。ホアはうそをついた。あなたさまがほんとうのノアダではないといったが、これでわたしにはわかりました――ピューさまがあなたさまを見守っておいでになります」
祭司が部屋を去ってから、ダイアンはおもむろに衣を着て、神殿の玉座の間へ行った。いつものように、太鼓と詠唱の伴奏で、祭司たちに迎え入れられる。祭司たちがそわそわしているのに、彼女は気づいた。不安そうに、しょっ中ちらちらと彼女のほうをうかがっているのだ。ひょっとすると、かれらも自分を殺せという命令を受けているのではないだろうか。ダイアンはいぶかった。
玉座の間は人でいっぱいだった――祭司、一般民衆、戦士、ガンバがいるし、ホアもいる。ホアは、彼女が近づくよりずっと先にひざまずいて目をおおっていた。その場に居合わせている者全員がはげしい興奮状態にあるように見える。彼女が壇の上の玉座についたときには、室内の全員がひざまずいていた。彼女が起立を命じた後、人々は不平不満を彼女の足元にぶちまけようと、つめかけてきた。見ると、祭司たちは、たがいに興奮の面持ちでささやき合っている。
「なにごとじゃ、ホア?」ダイアンはたずねた。「なぜ、みなの者がこのようにそわそわしておる?」
ホアは咳《せき》ばらいをした。「なんでもありません。ノアダさまを、おわずらわせしたくございませんので」
「わたしの質問に答えるのじゃ」ダイアンがぴしゃりといった。
「下級祭司の一人が、自室で首をつっているのが発見されたのでございます」ホアが説明した。「死んでおりました」
「知っておる」と、ダイアン。「サジと申す祭司であろう」
「ノアダさまは、すべてお見とおしだ」人々は口々にささやき合った。
人々が不満をぶちまけ、貨幣をとられた者が払い戻しを受けた後、ダイアンは神殿に集まった全員にむかって口を開いた。
「新しい掟を発表します。おまえたちが受け取った貨幣のうち、十枚につき一枚をゴ・シャにおさめなさい。この貨幣は、町を清潔にたもち手入れをし、ロロ・ロロを守る戦士たちに給料を支払うために使われる。同じ数だけの貨幣を、わたしの神殿の維持費としておさめなさい。その中から、神殿の手入れ、祭司の賄《まかな》いと給料。それから、ゴ・シャの手元で不如意《ふにょい》の場合、神殿を守る戦士たちに支払う給料として、いくらかをゴ・シャにもどすことにします。これらは、二十回眠るつどにおさめなさい。このあと、正直な市民を一人えらんで、神殿の貨幣を管理してもらいます。
それから、もう一つ。わたしの身辺を常時かためてくれる戦士が五十人ほしい。ノアダの親衛兵になってもらうのです。ノアダが一回睡眠をとるごとに、各戦士に貨幣十枚を支給します。おまえたちの中で五十人、ノアダの親衛兵になろうという者はいますか?」
神殿内の戦士が一人残らず前へ出た。その中から、ダイアンは、もっとも大きく、強健な五十人を選びだした。
「こののちは、よく眠れるようになろうぞ」彼女はホアにいった。ホアは無言だった。
無言だったとはいえ、ホアは、さかんに頭をめぐらしていた。今一度、権力と富を取りもどすためには、この新来のノアダを始末しなくてはなるまい。
神殿が、まだ市民と戦士で埋まっているとき、都市の外で警報鼓が鳴った。そして戦士たちがどっと広場へ流れ出ると同時に、伝令が都市の門からかけこんできた。
「タンガ・タンガの来襲だ!」かれはさけんだ。「門を突破して、市内にはいってきたぞ!」
たちまち大混乱が生じた。一般市民は、一方向に――門の反対方向に――かけ、戦士たちは、タンガ・タンガの襲撃を迎えうつために、その反対の方角にかけていく。ガンバも部下の戦士たちととび出していった。戦士といっても、青銅の剣を下げた、烏合《うごう》の衆にすぎない。槍を持った者も少しはいたが、弓矢は全員が兵舎に置いてきていた。
ダイアンが選んだ五十人の戦士は、ダイアンと神殿を守るために後に残った。下級祭司たちはいっせいに祈祷をはじめ、「ノアダさま、勝利をわれらに! ノアダさま、われらを救いたまえ!」と、何度もくり返し唱えた。だが、ホアはもっと実際家だった。かれは祈祷を止めさせ、充分な余裕を持って、厚い神殿の扉を閉じさせて、しっかりと閂《かんぬき》をかけさせた。それからダイアンにむかっていった。
「敵を追い払ってくださいませ。われわれの戦士の剣をもってかれらを打ち殺し、町から追いはらい、奴隷としてつれ去られる捕虜の出ないようにしてくださいませ。われわれを救うことのできるのは、あなたさまだけなのでございます!」
ダイアンは、ホアの声が歓喜のひびきを含んでいるのを耳にとめた。だが、ロロ・ロロに勝利をもたらす彼女の力を喜ばしく思っているのではないということは彼女にも察しられた。彼女は窮地に立たされたのだ。それはわかっている。戦士たちの喚声、剣戟《けんげき》の響き、負傷者や瀕死の者たちの悲鳴が聞こえてくる。戦闘が、神殿前の広場にまでせまってきたのがわかる。神殿の扉の前でどよめきが起こり、つづいて剣が扉にあたる音がした。
ホアは、ダイアンを注視していた。「やつらを滅ぼしてください、ノアダさま!」さけぶかれの声色に、軽蔑がこめられているのがありありとわかった。
頑丈な扉は、攻撃に屈せず、戦闘は神殿をこえて移っていったが、やがてふたたびもどってきた。ダイアンの耳にタンガ・タンガ人の勝鬨《かちどき》が伝わってきた。それからややあって、騒音は都市の門の方角へ退いていった。戦士たちは敵が去ったことを知って、神殿の扉を開いた。
広場には戦死者の死体がるいるいと横たわっていた。神殿の扉の前には、山のように折りかさなっていた――それはロロ・ロロの戦士たちが、勇敢にかれらのノアダを死守したことを、無言のうちに物語っていた。
今回の侵略の成果が最終的に判明したとき、ガンバの部下のうち百名以上が戦死し、その二倍の人数が負傷したことがわかった。そして、市内にいたタンガ・タンガ人の奴隷がことごとく解放され、百名をこすロロ・ロロ人の男女が奴隷としてつれ去られたということも。一方、ロロ・ロロ人が捕虜にしたのは、ただの一名だった。
この捕虜は、神殿につれてこられて、ダイアンとガンバとホアの面前で訊問された。非常に兇暴で、憎々しい男だった。
「われわれの大勝利だったな」かれはいった。「おれを釈放しなければ、われらのノアダさまの戦士が、またしてもやってくるぞ。こんどは、奴隷としてつれて帰る者以外に、ロロ・ロロ人は一人として生かしておかないからな」
「きさまたちに、ノアダはいない」ガンバがいった。「ノアダさまはただ一人、ここにおられる」
捕虜は、あざけるように大笑した。「では、われわれがどうやってあのような、すばらしい勝利をおさめたというのだ? あれは、ノアダさまのおかげだ。真実のノアダさまのな――ここにいる、こいつはにせ者のノアダだ。われわれの勝利が、そのことを証明している」
「ノアダさまは、ただ一人だ」ホアがいった。が、どのノアダかはいわなかった。
「おまえのいうとおりだ」捕虜が同意した。
「ノアダさまは、ただ一人。そして、タンガ・タンガにおられる。そのお方は、水に浮かぶ大神殿に乗ってこられて、海にとびこんで、われわれがお待ちする浜辺に泳ぎつかれた。恐ろしい怪物どもがうようよする海を泳いでこられたが、危害は受けられなかった。そんなことができるのは、ピューさまか、ノアダさまだけだ――そして、今、こうしてわれわれに大勝利をさずけたもうた」
ロロ・ロロの人々は打ちひしがれていた。家族のだれかが、殺されるか、負傷するか、奴隷としてつれ去られるかしていない家庭はなかった。かれらは、何をする気力も失って、死者を路上に放置したままだったから、しまいには、悪臭は耐えがたいほどになった。そして、その間にも、ホアにそそのかされた下級祭司たちは、そういった人々の中にはいってはあのノアダはにせのノアダだ。さもなければこんな破局が訪れるわけはないと、耳打ちしてまわるのだった。
今では、神殿に参拝にくる者はごくわずかとなり、ささげ物も少なくなった。他の者たちよりも度胸のある一人が、ダイアンに、なぜ人々がこのように災難に苦しんでいるのを見逃しておくのか、とたずねたこともあった。ダイアンにしてみれば、下級祭司たちがまき散らしている噂がおよぼす影響に対抗して何かやらなくてはならないということはわかっている。なんとかしなくては、彼女の生命は銅貨一枚にも値しないことになるだろう。彼女はホアや祭司たちの行動を知っていた。彼女を護衛している兵士の一人が話してくれたのだ。
「この災厄を、おまえたちにもたらしたのは、わたしではない」ダイアンは、その男に答えた。「ピューさまの思召しだ。ピューさまはロロ・ロロの人々をだまし、掠《かす》めている者たちの不義不正のゆえに、ロロ・ロロを罰しておいでになるのじゃ」
あんまり論理的とはいえない。いえないが、ピューの信奉者にしたところが、たいして論理的ではないのだ。さもなければ、ピューを信奉したりはしなかっただろう。そこで、この彼女の言葉を聞いた者たちは、町中にふれまわった。そしてその結果、ホアや下級祭司たちを快しとしない分子が現われはじめたのだ。
ダイアンは、ガンバを呼び寄せて、市内から死者を取り去って始末させるように命じた。悪臭は、息もつけないほどひどくなっていたからだ。
「どうやって死体をどけさせますかねえ」ガンバはたずねた。「そんな仕事をさせようにも、奴隷はもう一人もいないし」
「では、ロロ・ロロの人々にできるでしょうに」ダイアンがいった。
「だめですね、やりたがりませんよ」
「では、戦士たちに、無理にでもやらせるのじゃ」ノアダがぴしゃりといった。
「わたしはあんたの味方だ」ガンバがいった。「だがそれはごめんだね――人々はわたしを八つ裂きにするだろうよ」
「では、|わたし《ヽヽヽ》がやるまでじゃ」ダイアンはそういって、親衛兵を招集し、市内から死体をどけるために充分な人数の市民を集めるようにと命じた。「それから、ホアと祭司全員をいっしょにつれてまいれ」彼女はいいたした。
ホアは憤激した。「わたしはまいらぬ」
「つれてまいるのじゃ!」ダイアンが噛みつくようにいったので、一人の戦士が槍で腰を小突いて広場へ無理やりつれ出した。
ガンバは感嘆の面持ちで彼女を見た。「ノアダだか、なんだか知らんが、あんたはまったく勇敢な女だよ。わたしの連れ合いとしてあんたがいてくれたら、わたしに敵対するものをすべてしりぞけて、そのうえタンガ・タンガを征服することができるのだがなあ」
「おまえのものにはならぬ」ダイアンがいった。
町は清掃されたが、ときすでに遅かった――疫病が発生したのだ。大勢の男女が死んでいった。そして、生きている者たちは、かれらに触れるのを恐れた。こうなっては、ダイアンの親衛隊も、今一度この作業を市民に強制するわけにはいかなかった。下級祭司たちは、またしても人々の中にはいっていって、かれらの上にふりかかった災厄は、どれもこれもにせのノアダのせいだといいふらした。
「あの女を受け入れたので、ピューさまが、われわれを罰しておられるのだ」というのがかれらの言いぐさだった。
かくて、美女ダイアンにとって、事態はますます悪化していった。そして、ついには、群集が神殿前の広場に集まって、彼女を呪い、そしるまでになった。そうなると、こんどは彼女を信じつづけている者たちが、ガンバの手先にそそのかされて、群集に襲いかかるといった具合で暴動と流血の騒ぎが巻き起こった。
ホアはこの事態に乗じて、ガンバとにせのノアダが神殿を破壊し、ピューさまと祭司をしりぞけて、町を手中におさめようとしているという噂《うわさ》をまき散らした。そんなことにでもなったら、ピューさまはこの町を廃墟とし、すべての人々をモロプ・アズに投げこまれるであろう、と。
これは、無知で迷信深い人々をまどわすには絶好の、恐怖の宣伝だった。かれらが、青銅器時代のごく単純な人々だったということを、思い起こしていただきたい。かれらは、子女を十字軍に送り出して何千人となく死なせるというような文明の段階にはまだ到達していないし、不信心者を拷問台や、灼熱した焼きがねで責めるとか、異教徒を火あぶりの刑にかけるというところまでは、まだまだ進歩していない。というわけで、かれらは、いくぶん進歩した人々なら一笑に付《ふ》すようなくだらぬ噂を真に受けたのだった。
やがてついにガンバがダイアンのもとにやってきて、いった。「わたしの戦士たちが、わたしにそむこうとしている。ホアがひろめている話を信じているのだ。おおかたの市民がそうだ。あんたをまだ信心している者もいくらかいるし、わたしに忠節な者もいる。が、大多数はおどかされて、ホアが真実を語っていると信じこむようになってしまった。われわれを滅ぼさなければ、ピューがかれらを滅ぼすとな」
「どうすればよいだろう?」ダイアンがたずねた。
「命が惜しければ、この町から逃げ出すしかないな」ガンバが答えた。「それすら、無理かもしれん。われわれは知られすぎている。怪しまれずにはすまないだろう――あんたは肌が白いから見破られるだろうし、ロロ・ロロの老若男女はだれでも自分たちのゴ・シャを知っている」
「戦って、突破口を開いては?」ダイアンが提案した。「わたしの戦士たちは、きっとまだわたしに忠実だと思うが」
ガンバは首を振った。「それが、そうではないのだ。わたしの戦士が話してくれたが、かれらはもはやあんたの護衛兵ではなく、看守なのだ。ホアが、おどしと鼻くずりでかれのほうにつけてしまった」
ダイアンは、つかのま考えていたが、やがていった。「わたしに考えがある――お聞き」彼女は二、三分ガンバに耳打ちしていたが、それがすむとガンバは神殿を出ていった。ダイアンは、自分の寝所へ行った――が、彼女は眠らなかった。それどころか、職服をぬぎすてて、彼女が最初このロロ・ロロに到着したときにつけていた、一枚きりの衣裳を身につけた。そして、その上から長い皮衣をまとった。
裏の廊下を通って一つの部屋に出た。そこは儀式の前後だけに使われることになっているということを、彼女は知っていた。大きな箱がいくつもおいてある。ダイアンは、その一つに腰かけて、待っていた。
一人の男が神殿にやってきた。頭は包帯でぐるぐる巻きで、片目だけがやっと見えている。多くの人々と同様、ノアダさまに癒《いや》してもらうために来たのだ。死なないかぎり、みんないずれかならず治していただける。
神殿には、ほとんど人影はなかった。ノアダの親衛隊の戦士だけが、入り口の近くでぶらぶらしていた。ホアの命令で、ノアダが逃げ出さないように、そこで見張りをしているのだ。ホアは、彼女が広場の前のガンバの家で、ガンバと落ち合い、そこから神殿に攻撃をかけてくる計画だ、と戦士たちに吹きこんであった。
件《くだん》の男は、普通の戦士が持つ武器を身につけていて、ひどく疲れて衰弱しているように見えた。おそらくは、出血のせいだろう。かれはひと言もいわず、ただ玉座の前へ行って待っていた。ノアダが現われるのを――二度とふたたび姿を見せないだろうノアダを、待っていた。それからしばらくして、男は玉座の間《ま》を行ったり来たりしはじめた。あっちを見たり、こっちを見たり、ときどき、扉の付近をぶらついている戦士たちのほうに、ちらちらと目をやった。かれらは、男になんら注意を払っていなかった。事実、男のことなどまさに忘れようとしていたそのとき、男は部屋の奥の戸口をするりと通り抜けた。
神殿は静まりかえっていた。外の広場の人影もまばらだ。真昼の太陽は、容赦なく照りつけている。そして、いつもと同じように、外に用のある者だけが通りにいた。ロロ・ロロは、けだるく、まどろんでいた。が、それは嵐の前の静けさだった。下級祭司や、その他ガンバとノアダに敵対する者たちは、暴徒の集団を組織し、まさにかれらに襲いかかって壊滅させようとしていた。多くの家で、市民や戦士のグループが、合図のあるのを今や遅しと待ちかまえていた。
祭司が二人、神殿の玉座の前に現われた。職服の長い皮衣をまとい、祭司がつける醜悪な仮面をつけている。二人は、扉のところでぶらついている戦士の一団を通り抜けて神殿の外へ出た。いったん広場へ出るや、二人は大声をあげた。
「来たれ! 真にピューを信ずるすべての者よ! にせのノアダに死を! ガンバに死を!」これが合図だったのだ!
広場を取り巻く家々から、戦士が、市民がどっとあふれ出た。ゴ・シャの家へかけていく者、神殿にかけていく者。だが、みな一様にさけんでいた。「死だ! ガンバに死を! にせのノアダに死を!」
二人の祭司は広場を突っ切り、死の賛歌を声高く朗唱しながらそのむこうの曲りくねった通りの一つをたどっていく。かれらが通っていく間にも、市民と戦士の群は、広場を目指して絶叫しつつ、求める獲物の血に飢えて、あとからあとからかけていく。
アモズ号の生存者たちは、ついに、アモズの断崖のかげにある港へ船を持ち帰った。それから、デヴィッド、ホドン、毛深い男ガーク、そして、ドリー・ドーカスという名前|ではない《ヽヽヽヽ》、小柄な老人は、アモズからの長い旅行を終えて、やっとサリへ帰り着いたのだった。
デヴィッドは、人々がふさぎこんで、ペリーが涙にくれているのを見とがめた。「どうしたんだ? 何かあったのかい? 出迎えにこないとは、ダイアンはどこにいるんだ?」
ペリーは、あまりはげしくすすり上げていたので、答えることができなかった。かれらの留守中、族長を代行していた男が口を開いた。「美女ダイアンは行方不明なのです」
「行方不明? それはどういうことだ?」デヴィッドが追求した。そこでようやく一同はかれに一部始終を語ったのだった。デヴィッドの世界は、足元から音をたてて崩れ去った。かれは長い間ペリーを見ていたが、やがて歩み寄って、肩に手をかけた。「きみも彼女を愛していたな。きみが彼女に悪いようにするわけがない。涙を流していてもしかたがない。ぼくのために、もう一つ、気球を作ってくれたまえ。たぶん、彼女が運んでいかれたのと同じ地点に流されるだろう」
二人は、新しい気球作りに精を出した。事実、サリ中の人々が作業に加わった。そして、作業は人々の心を悲しみから救ってくれた。大勢の猟師が出かけていき、気球の気嚢を作る材料の腹膜を提供する恐竜が、すみやかに殺された。猟師が猟に出ている間、女たちは籠を編み、何メートルものロープを編んだ。そうこうしているうちに、使者がスリアからもどってきた。
そのときデヴィッドはサリにいたが、使者は、ただちにかれのもとにやってきた。「美女ダイアンのことがわかりました」男はいった。「スリアの男が、世界のはての、無名海峡をこえてただよっていく気球を見かけたとのことであります」
「ダイアンが、まだその中にいたかどうか、見えたのか?」デヴィッドがたずねた。
「いいえ」使者は答えた。「あんまり高いところを飛んでいたので」
「すくなくとも、どの辺をさがしたらよいか、わかったわけだな」デヴィッドはいったが、心は重かった。ダイアンが、寒さと空腹と乾きに耐えて生きのびているという見こみはほとんどなかったから。
第二の気球が完成するより前に、サリ号の生存者が部落に帰還した。そして、ホドンに、オー・アアにかんして知るかぎりのことを語ってきかせた。「彼女は、きみにつたえてくれといっていた」と、一人がいった。「サリ号に乗ったまま、ルラル・アズを漂流しているから、とな。このことを聞いたら、きみが助けにきてくれるだろうといっていたぞ」
ホドンは、デヴィッドにむかってたずねた。「オー・アアをさがしにいくために、人と船を出していただけるでしょうか?」
「船を使ってよろしい。人も、必要な人数だけつれていくとよい」デヴィッドは答えた。
まがまがしい、死の歌を詠唱しながら、二人の祭司は、ロロ・ロロのせまい通りを抜け、市の門まで歩いていった。「広場にゆけ」二人は番兵にどなった。「ホアさまが、おまえたちを呼びに、われわれをよこしたのだ。にせのノアダとガンバを擁護しようとするやつらを倒すため、戦闘員を一人残らず求めている。急げ! 門はわれわれが見張ってやる」
戦士たちは躊躇した。「ホアさまの命令だぞ」祭司の一人がいった。「ガンバのノアダが死ねば、ホアさまがこの都市を支配なさるだろう。だから、わが身が可愛いなら、命令にしたがったほうがいいぞ」
戦士たちも、そう考えた。それで、広場のほうへ足ばやに去っていった。戦士たちがいなくなると、二人の祭司は門を開き、市の外へ出た。それから右へ折れ、道をこえて森にはいり、姿を消した。町から目のとどかないところまでくるが早いか、二人は仮面をはずし、皮衣をぬぎ捨てた。
「あんたは勇敢なだけではないな」ガンバがいった。「実にりこうな女だよ、あんたは」
「こんなぐらいじゃだめだわ。もっともっと、りこうにならなくては」ダイアンが答えた。
「なんとしてでもサリへ帰りつくためにね」
「サリとは?」ガンバがたずねた。
「あたしの故郷よ」
「きみはカラナから来た人だと思ったが」
「ばかねえ」ダイアンがいって、二人は大笑いした。
「サリは、どこにあるのかね?」
「無名海峡のむこうよ。どこかにカヌーはないかしら、あなた知ってて?」
「カヌーってなんだい?」ガンバがたずねた。ダイアンは驚いた。この男がカヌーを知らないなんて、そんなことがありうるだろうか?
「水の上をこえていくのに使うものよ」彼女は答えた。
「水の上をこえる者などいるものか」ガンバが異議をとなえた。「無名海峡で生命をまっとうした者はいないよ。ものすごい怪獣がひしめいているんだからね。それに、風が吹くと、波が逆巻くんだ」
「あたしたちは、カヌーを作らなくてはならないんですよ」ダイアンがいった。
「ま、ノアダさまがそうおっしゃるのなら、作らなくてはなりますまい」ガンバは、おどけてうやうやしくいった。
「あたしの名前はダイアンよ」かくて王だった男と女神だった女は、森を抜けて無名海峡の岸辺にむかった。
祭司の長衣の下に、二人は隠せるだけの武器を隠して持ち出していた。めいめい剣と短刀を一振りずつ。ほかにガンバは弓一張りと、矢を何本も持ってきていた。
岸にむかう途中、ダイアンはカヌーを作るのに適当な木をさがして歩いた。長い、苦しい作業になるだろう。だが、メゾプ族が石の道具を使ってやれることなら、青銅の剣や短刀を使えば、作業ははるかに容易になるはずだ。そのほか、内部をえぐるための火も、ないわけではない。
無名海峡の岸辺まで出て、そこから、ロロ・ロロ人やタンガ・タンガ人に見つかる心配がないとガンバが得心するところまで、海岸ぞいに進んだ。
「みんな、こっちの方面へはあんまりこないし、だいいち、こんな遠くまでそうしょっ中くることはない。猟師たちは、反対の方角か、それとも奥地へはいっていくことのほうが多いのだ。この辺には危険な動物がいるといわれているし、低地から現われてこの辺へ狩りにくる野蛮な一族もいるという話だよ」
「さぞかし、楽しいカヌー作りになることでしょう」ダイアンがいった。
ついに、第二の気球は完成した。第一作とまったく同じようだったが、ただ今回のには引裂縄《リップコード》がついており、食糧と水も積みこんでいた。デヴィッドの体重と食糧および水の重量は、最初の気球についていた太いロープがこんどの気球についていないために、うまく調整がついた。
さて巨大な気嚢を放つ段になって、サリの人々は粛然とした。二度とふたたびデヴィッド・イネスを見ることはあるまいと予見していたからだ。デヴィッドも同じ気持ちだった。
「ちぇっ、めそめそするない!」ドリー・ドーカスという名前|ではない《ヽヽヽヽ》小柄な老人がわめいた。
「男一匹、旅がらす、ちゅうじゃないか」
タンガ・タンガの神殿の祭司長オープは、ノアダを得た。だが、かれの想像とはちがい、そのノアダはいっこうにノアダらしくないのだ。最初は従順で、御しやすく、思いどおりになった。もっとも、それはオー・アアが、カラナというところに住むピューと呼ばれる者から全知全能の神通力をさずかった人物と見なされているのだということを知る以前のことで、彼女が自分の立場を徐々にのみこみつつあったときのことだった。
その後、彼女はオープにとって、ちょっとしたやっかいものとなった。まず第一に、彼女には銅貨の値打ちなど、ピンとこない。ささげ物として銅貨がそなえられると、彼女は、玉座の横にすえられた大きな鉢にいっぱいになるのを待って、神殿が人々で埋まるや、鉢から手のひらにすくっては群集にむかってばらまき、かれらが奪い合いのをながめて大笑いするのだった。
これでオー・アアは人々の間に絶賛を博したが、オープは悲しんだ。これまでにこんな大会衆をこの神殿に迎えたことはないというのに、純益がこれほど少なかったことも、かつてなかった。オープは、このことについて――おそるおそる――ノアダをいさめた。というのも、ロロ・ロロのホアとちがって、オープはお人好しの律義者だったからだ。かれはノアダの神性を信じていた。
タンガ・タンガのゴ・シャ、ファープは、かれほど単純ではなかった。が、たいがいの不可知論者がそうであるように、かれもまた安全第一主義だった。それでもこのことにかんしては、オープと話し合った。というのも、オープが神殿の収益をかれと山わけするということが、長い間の習慣になっていたからで、今やかれの取り分はゼロに近づこうとしていた。そこでかれは、ノアダに注意したほうがいいのじゃないかとオープに提案した。博愛を衆におよぼすのは大変けっこうなことだが、まず身近なところからはじめるのが本筋ではないか。そこでオープが口を切ることになり、ファープがそばで聞いていた。
「なぜ」とオープがたずねた。「ノアダさまは、神殿のささげ物をまきちらすのでございますか?」
「人々が好むからじゃ」オー・アアが答えた。「みなのものが奪い合いをするさまを、おまえたちは見なかったのか?」
「あれは神殿のものでございます」
「|あたし《ヽヽヽ》にささげられたものだよ」オー・アアが反駁《はんばく》した。「それにしても、おまえたちがちっぽけな金属の切れっぱしのことで、なぜ大さわぎするのかわからないね。なんの役に立つんだろ?」
「あれがなければ、祭司たちに給料を支払ってやることもできませんし、食物を買うことも、神殿の手入れもできませんのです」オープが説明した。
「ばかばかしい!」とかなんとか、そういうふうな意味の言葉を、オー・アアは吐いた。「人々は食物を持ってきてくれるのだから、あたしたちはそれを食べてればいい。祭司たちは、食べるかわりに神殿の手入れをすりゃいいんだ。まったく、ぐうたら者だったらありゃしない。ささげ物を持ってこさせるために人々をおどしてまわったり、くだらない仮面をつけたり、舞を舞ったりする以外にいったい何をしているのか、つきとめてやろうと思ったこともあるけれど。あたしの故郷《くに》なら、さしずめ猟をするか、働くかってとこなのにさ」
オープは仰天した。「でも、ノアダさま、あなたさまはカラナからこられたのでございますよ!」かれは大声でいった。「カラナではだれも働いたりいたしません」
ほい、しまった、なんとか早いとこ考えなきゃ、と、オー・アアは気がついて、すばやく頭をめぐらした。
「それがおまえにどうしてわかるのじゃ?」彼女は追及した。「カラナにいたことでもあるのかえ?」
「いいえ、ノアダさま」オープは認めた。
ファープは、ますますこんぐらがってきたが、一つだけ確信していることがあったので、それを持ち出した。「ピューさまは、お怒りになりましょうぞ。あなたが、ピューさまの神殿にささげられたものを勝手にばらまいてしまわれるのでは、ピューさまは、ノアダさまといえども罰することがおできになるのだ」
「ピューは口出しせぬがよい」オー・アアがいった。「あたしの父は王じゃ。それに十一人の兄弟も、みな強者《つわもの》ぞろい」
「なんですと?」オープがかん高い声をあげた。「あなたさまは、ご自分がいっておられることがおわかりなのでございますか? ピューさまは全能であらせられますぞ。それはとにかくとしても、ノアダというものには、父も兄弟もありませぬ」
「おまえ、ノアダになったことがおありなのかえ? そう、もちろんないわね。でも、これで、ノアダとはどういうものか、少しはわかってきたはず。ノアダはなんでも、どっさり持っているのさ。あたしの父親だって一人だけじゃない、三人もいるし、十一人の兄弟のほかに姉妹が四人いて、それが四人ともノアダなんだよ。ピューはあたしの息子なのさ。ピューは、なんでもあたしのいうとおりにする。どう、ほかにもっと、ノアダのことで聞きたいことはないかえ?」
オープとファープは、あとで内々にこのやりとりを検討した。
「わたしは、今までノアダにかんしてこういうことを何一つ知らなんだ」オープがいった。
「われわれのノアダさまは道理をわきまえて話をしておられる」ファープは感想を述べた。
「明らかに、ピューさまよりもおえらい」オープが主張した。「さもなければ、あんな口のききようをされたのだからピューさまは、あの方を撃ち殺してしまわれたはずだ」
「こいつはひょっとして、ピューさまよりもノアダさまを礼拝しておいたほうがよいのでは」とファープが提案した。
「わたしも今、そういおうと思っていたところだ」オープがいった。
かくて、オー・アアはタンガ・タンガで安泰に日々を送り、一方、疾風《はやて》のホドンはアモズから、あてのない捜索の旅に船出し、デヴィッド・イネスは、ペリーが〈恐竜《ダイナソア》二世〉と命名した第二の気球に乗って、この世の果てにむかって飛び立ったのだった。
[#改ページ]
第三部 虎の女
「むこう岸があるときみはいうが」とガンバがダイアンにいった。「そりゃ、あるにはあるだろう。しかし、ぜったいそこに渡れないだろうよ」
「やってみるまでよ」ダイアンが答えた。「あなたの国にいたら、あなたのいう野蛮な一族か、それとも野獣か、それともあなたの国の人に、きっと殺されていたでしょう。どうせ死ぬなら、安全なところに行こうと試みて死ぬほうがましだわ。安全なんて、薬にしたくともないところにとどまるよりはね」
「ときどき思うよ」ガンバがいった。「きみがロロ・ロロに現われなければよかったんだってね」
「あたしのほうが、よっぽどそう思ってるわよ」
「ノアダなんかいなくたって、けっこううまくやっていってたんだ」ガンバはつづけた。「それを、きみが来て、何もかもめちゃくちゃにしちまった」
「そうでなくったって、めちゃめちゃになっていて当然だったわ。あなたとホアは、人々を掠《かす》めていた。かれらが蜂起してあなたたち二人を殺すものも、時間の問題だったんだわ。そうなっていたら、ロロ・ロロも万々歳だったでしょうにね」
「こんなごたごたに巻き込まれないですんだかもしれないんだ。きみにほれこまなかったらね。ホアのやつ、それを知っていて、人々をわたしにたてつかせる口実にしやがった」
「ほれこんでいただくこともございませんでしたのにね。あたしにはもう夫がいるわ」
「ずいぶん遠いところにね。それに、二度と会えないだろうよ。そんなこんなが起こる前に、わたしのうちへ来て、わたしの妻になっていたら、きみとわたしとで一生ロロ・ロロをおさめていくことができたろうに。りこうなきみにしては、ずいぶんばかげてるよ」
「ばかげているのは、あたしにほれこんだあなたのほうでしょ。でも、今はそんなことどっちでもいいようよ――ごらんなさい、こっちへくるわ」そういって、ダイアンは指さした。
「ピューさま、お助けを!」ガンバはさけんだ。「もうおしまいだ。だからこんなところへくるのはよそうといったじゃないか。ここの海は波が荒いし、死がいっぱいなんだ」
海面から三メートル上に、大きな頭部をのせた細い首がにゅっと現われた。冷たい、爬虫類独特の目が二人をにらみつけている。無数の歯をそなえた口が、二人を捕えようと、かっと開いた。怪獣は、相手が逃げられないということを知っているかのように、ぬめぬめと光る脇腹にさざ波を立てながら、ゆうゆうと近づいてきた。
「あそこの弓と矢を!」ダイアンがさけんだ。「怪獣の身体の、水線のところに矢を射こむのよ。弓を思いっきり引き絞って。もっと近づいたら剣を使いましょう」
ガンバはカヌーの中に立ち上がって、一メートルの矢をぎりぎりまで引いた。放たれた矢は、狙いたがわず、恐竜の身体の水線のきわに、長さの三分の二までぐさりと突き刺さった。苦痛に絶叫し、怒りにシューッ、シューッと息を吐きながら、怪獣は矢柄の端をつかんで傷口からぐいと引き抜いた。と、血がどっとほとばしって、水面を真赤に染めた。ついで、なおもシューッ、シューッと息を吐き、号叫しながら、怪獣は、ひよわなカヌーに乗った二人のちっぽけな人間に襲いかかった。ダイアンは、片手に青銅の剣を握りしめ、もう一方の手に青銅の短刀を持って、立ち上がっていた。ガンバは、二の矢を爬虫類の胸元に射こんでから、弓をカヌーの底に打ち捨てて、剣をつかんだ。
その頃には、まるで魔法のように、三十センチばかりの小魚が何百匹となく、恐竜の血にさそわれて、怒り狂う怪獣を襲っていた。怪獣はその場で止まって、二の矢を胸から抜き取ろうとしている。鋭い牙で、がつがつと肉を喰いちぎっている魚どもには目もくれず、怪獣は、最初に傷を負わせた人間どもに再度攻撃をかけてきた。鎌首《かまくび》をもたげて襲いかかり、ダイアンに喰いつこうとするところを、彼女は青銅の剣で迎え撃ち、長い首に一撃を加えててひどい傷を負わせた。それで怪獣はいったんひるんだが、こんどは|ひれ足《ヽヽヽ》をふり上げてむかってきた。それだけで、ひよわなカヌーを転覆させるか水びたしにすることも容易だったろう。
ガンバは危険をさとって、まだそのひれ足がふなべりにかからない先に、すさまじい一撃を加えた。あまりの力に、ひれ足はばっさりと切り落とされた。そこをすかさずダイアンがふたたび首を一撃したので、巨大な頭部はがっくりと傾いた。そして、断末魔のあがきとともに、恐竜は腹を見せてどさりと横倒しになった。
「いかが」ダイアンがいった。「これで、むこう岸に着く望みがまだあるということがわかったでしょう。今、あたしたちが殺したのよりも手|強《ごわ》い相手は、どこへ行ってもそうざらにはないものよ」
「われわれが勝つほうに、貨幣一枚賭ける気はなかったよ」ガンバがいった。
「そういえば、勝算はあまりなかったわね」ダイアンが認めた。「でも、これよりずっとひどい危険な目にあったこともあるけれど、あたしはいつもうまく切り抜けてきたわ。あたしは、あなたたちのように、城壁をめぐらした都市で生涯暮らしてきたわけじゃないからよ。あたしの一族は、たえず野獣や、敵の部族の攻撃にさらされていたわ」
かれらはふたたび櫂を取りあげた。だが、今やカヌーは潮流にしっかりととらえられてしまっていた。そして、海峡を渡るよりもずっと早く、海のほうへ押し流されつつあった。潮流のせいで、カヌーの舳先を正しい方向にたもちつづけるのは困難なわざで、たえずくたくたになって戦っていなくてはならなかった。かなたの岸はまだ見えないというのに、船出してきたほうの岸は、なおも見えているしまつだ。
「行こうと思う方角へ、あんまり進んでないようね」ダイアンがいった。
「もうくたくただよ」ガンバがいった。「あといくらもこげそうにない」
「あたしも、ダウン寸前よ。潮流にまかせて流されていったほうがいいかもしれない。流れ流れて行く先はただ一つ、コルサール・アズよ。そこなら、はげしい潮流もないから、岸につくことができるでしょう。正直なところ、そっちの沿岸を行くほうが、たとえこの海峡をまっすぐにこいで横断することができたとしても、それよりもずっとサリに近づけると思うの」というわけで、美女ダイアンとクセクソット族のガンバは、無名海峡をコルサール・アズさして漂流していった。
おだやかな風の吹くままに、デヴィッド・イネスはアブナー・ペリーが恐竜《ダイナソア》二世号と命名した気球に乗って、〈恐ろしい影の国〉をこえ、世の果てと無名海峡さしてただよっていた。これがほとんど絶望に近いこころみだということは、わかっている。かれの乗った気球が、ダイアンの着陸したちょうどその地点に降りるという見こみはまずないといってよい。たとえ、それができたとしても、どこをさがせばよいのだ?
西も東もわからぬまったく未知の土地で、まだ生きているとしても――理屈では、とうてい生きているとは考えられないように思えるのだが――どこにいるだろう。かれ自身、暖かい衣類を用意し、食糧も水も持って来てはいるものの、すでにはげしい寒さにさいなまれているのだ。彼女の乗った気球が、切れて飛び去ったときには、彼女はわずかに腰布をつけている以外、食糧も、水も衣類らしいものもいっさい用意してなかったということを、かれは知っていた。
それでも、どういうわけか、かれにはダイアンが死んでいないという気がしてならなかった。あれほど生き生きと、生命力にあふれていた美しい女《ひと》が、どこかで冷たくなって横たわっているとか、野獣にその骸《むくろ》を食われてしまったなど、あり得ないことのように思えるのだ。だから、かれは、狂気とは紙|一重《ひとえ》の熱意をもって、希望にしがみついていた。
ついに、無名海峡にやってきた。そこから先は、かれもこえたことがない。眼下に海峡の波が見える。そしてずっと右に、カヌーに乗った二人の人影が。かれはただぼんやりと考えた。いったい何者なんだろう。この危険がいっぱいの荒涼たる海を、どこへ行こうというのか。それからかれは、二人のことなど忘れてしまって、はるかに岸を求めて前方に目を見張った。
万に一つ、そこで妻をさがし出すことができるのだという確信があった。
かれの乗った気球が、海峡の対岸に接近したときには、わずか三百メートルばかりの高度をただよっていた。かれは二つのものに注意をひかれた。眼下の浜辺に、マストの折れた船の残骸が横たわっている。かれは、たちまちその船に見覚えがあることに気づいた。その船を設計し、工事を監督したのは、かれとペリーだったからだ。見覚えがある。あれはサリ号だ。
彼の注意をひいた今一つは、海峡の岸からさほど遠くないところにある城壁都市だった。乗組員がサリ号を放棄したとき、オー・アア一人が乗っていたことをかれは知っていたから、オー・アアはたぶんあの都市の住民に捕われたのだろうという見当がついた。
ペルシダーに城壁都市が存在するというおどろくべき事実は、かれの心の中にさまざまな憶測をよびさますに充分だった。城壁都市には、なかば開花された種族が住んでいるかもしれない。そうだとしたら、オー・アアを助けてくれただろう。それに、もしもダイアンがその近くに着陸していたら、彼女もまたこの都市にいるかもしれないし、そうでなければ、人々は彼女のことにかんして、何か聞いて知っているかもしれない。気球は、きっとかれらの興味と好奇心をそそったにちがいないからだ。
ここでかれは、自分の気球がそういう対象になっているのに気がついた。人々が、都市の門からかけだしてきて、かれのほうを見上げながら、大声で呼びかけているではないか。ひょっとすると、悪態をついて、かれをおどしているのかもしれない。だが、かれは降りようと決心した。なぜなら、ここには人がいるし、人がいるところに噂話はつきものだからだ。たとえもっとも薄弱な噂話でも、捜索の糸口がつかめるかもしれない。そこでかれは|引裂き縄《リップコード》を引いた。恐竜《ダイナソア》二世号は、しずしずとタンガ・タンガにむかって下降していった。
気球の吊り籠が地面につくと同時に、デヴィッド・イネスは黄色い肌の戦士たちに取り巻かれた。はなやかな模様を描いた、皮の前垂れを、細腰から前後にたらしている。頭には皮製の兜《かぶと》をかぶり、弓矢とともに、青銅の剣や短刀を身につけている。
幾人かの戦士がさけんだ。「ピューさまだ、ノアダさまをたずねておいでになった」
「ピューさまではない」他の者がさけんだ。「ロロ・ロロの、にせのノアダを運んで来たのと同じものに乗ってやってきたのだぞ」
デヴィッド・イネスには、言葉はわかったが、全体の意味はわからなかった。ただ、気球に乗ってやってきた、にせのノアダというくだりで、美女ダイアンがここにいたことがあるのだという確信が持てただけだった。ピューとは何者なのか、わからなかったが、かれの正体にかんしてかれらの間で意見がわかれているということは読み取れたし、武器がむけられていないということもたしかだった。
「わたしは天上からやってきた」かれはいった。「おまえたちの首長をたずねて来たのだ。案内を頼む」
タンガ・タンガ人の多くには、これがピューの言葉に聞こえた。そして、ピューではないといった大勢の者も、あやふやな気持になってきた。
「ゴ・シャのファープの家へ行ってこい」あきらかに隊長とみえる男が、一人の戦士にいった。「そして、ゴ・シャとノアダさまをたずねてきた客人を、今から神殿におつれするとつたえろ。もし真実ピューさまなら、ノアダさまにわかるはずだ」
吊り籠の上では、いくぶんすぼんだ気嚢《きのう》が力なく、なおもうねっていたが、デヴィッド・イネスが降りて、体重がかからなくなると、おもむろに浮き上がり、タンガ・タンガ市をこえて奥地の空に飛び去った。
デヴィッドが人々の中に降り立つと、かれのことをピュー神だと思う者たちは、ひざまずいて両手で目をおおった。デヴィッドは、かれらを見て一瞬あっけにとられたものの、すぐに気がついた。かれのことを、空から降って来た神だと思いこんでいるのだ。そして、その神の名はピュー。かれは思案した。こういった場合、神はどうするだろう? かれはあてずっぽうにいってみた――それはまちがっていなかった。
「起《た》て。神殿まで護衛してまいれ」先刻、隊長がかれをそこへ連れていくといっていたのを思いだして、かれはいった。隊長は、〈ノアダさま〉とか、〈ゴ・シャのファープ〉とかいったが、それはなんのことかよくわからない。が、とにかくわかるまで、そのことにかんしては、神らしく沈黙を守ることに決めた。
都市の門を抜け、粗末な土の小屋の立ちならぶ、せまい、曲りくねった通りをみちびかれて進んだ。ここで女や子供を見かけた。女は、男と同じように模様を描いた皮の前垂れをつけ、羽根の頭飾りをさしているが、子供たちは裸だ。青銅の武器や装飾をみとめたときにはいささか驚いたが、これでこの人々が青銅器時代にまで進歩しているのだということがわかった。城壁をめぐらした都市といい、模様を描いた前垂れといい、武器や装飾品に表われた技能といい、もしもこの地底世界が、人類の発展段階において、地上世界のそれをそっくりそのままたどっているのだとしたら、この人々はほどなく鉄器時代にはいるものと思われた。
デヴィッド・イネスにとって――もしもかれが、妻の捜索に全身全霊を打ちこんでいるのでなかったら――これらの人々は、人類学上興味深い問題を提起してくれたことだろう。だがもっかのところ、デヴィッドはかれらのことを目的達成の手段としか考えていなかった。かれらはダイアンの気球を見たのだ。彼女の身の上に何が起こったのか、知っているのだろうか?
町の中央に広場があり、その片側に、大きな、円屋根の建物があった。美女ダイアンがロロ・ロロの町で、わずかの間支配していた神殿とそっくりだ。この建物に、デヴィッド・イネスはみちびかれていった。
内部には人が大勢いた。かれがはいっていくと、ひざまずいて目をおおう者もあった。何ごとにつけ、用心深い人たちだ。だが、大多数の者は立ったまま、ようすをうかがっていた。奥の壇の上に女がすわっている。風変わりな模様を、極彩色ではなやかに描いた皮の長衣をまとい、大きな、羽根飾りを頭上に頂いている。腕には、青銅の腕輪や腕飾りをいくつも巻きつけ、首には象牙の首飾りといったいでたちだ。
デヴィッド・イネスが玉座に近づくと、オー・アアのほうでかれに気づいた。ピューさまかと思われる者が、ゴ・シャのファープをたずねてきたということづては、すでに聞いている。そこは機敏な彼女のこと、今やデヴィッドの身の安全をはかる、もっとも確実な手段として、この誤解を引きのばすしかないと、とっさに考えた。
彼女はさっと立ち上がり、つっ立ったままでいる者たちをねめつけた。
「下におろう!」彼女は威圧するように命令した。「ピューさまのおん前で、立っておるとはなにごとじゃ」
デヴィッド・イネスは、もう彼女が見わけられるところまで近づいていた。オー・アアは、デヴィッドの目を見て、彼女を認めたことがわかると、デヴィッドが何かいおうとする先をこして口を開いた。「これはピューさま、タンガ・タンガのあなたさまの神殿にようこそおいでくださった」そして、彼女は手をさしのべて、壇の上の彼女の横に上がってくるように示した。デヴィッドがそのとおりにすると、彼女は小声でいった。
「起《た》ち上がるように命じてください」
「起《た》て!」デヴィッド・イネスは威厳のある声でいった。これで人間から神へ、一足飛びに変身したわけだが、デヴィッドは、カリ王ウースの娘、年若いオー・アアのリードよろしく、この難局にあたったのだった。
「何をお望みでございましょう、ピューさま?」オー・アアがたずねる。「あなたさまのノアダと、二人だけで話がしたいとおおせられますか?」
「さよう、わたしはノアダと二人だけで話がしたいと思う」デヴィッド・イネスは、神らしい威厳をこめていい、「そのあとで、ゴ・シャのファープと話そう」と、つけ加えた。
オー・アアは、祭司長オープにむかっていった。「神殿から人ばらいいたせ。ただし、人々には、のちほどピューさまにささげ物を持ってもどってまいる支度をしておくようにつたえるのじゃ。そうすれば、そのおりに、ピューさまがまた何ゆえここへこられたか、ピューさまはタンガ・タンガの住民にご満足か、はたまたお怒りか、わかるであろう。それから、オープ、おまえは祭司たちにいって、これより小さな腰掛けを持ってこさせるよう。ピューさまは、ここにおられる間、わたしの玉座におすわりになる」
神殿の人ばらいがすみ、腰かけが来て、二人きりになると、オー・アアはデヴィッドと目を合わせてにやりと笑った。
「いったいこんなところで何をしておられるのです? どうやってここまで?」彼女はいった。
「まず聞かせてくれ。美女ダイアンのことで何か耳にしたことはないか」デヴィッドはせがむようにいった。
「いいえ」オー・アアが答えた。「美女ダイアンがどうかしたのですか? むろん、あたしは、彼女がサリにいるとばかり思っていましたけど」
「いや、サリにはいないのだ。アブナー・ペリーが気球を作ったんだが、ダイアンを乗せたまま飛んでいってしまった」
「気球って?」オー・アアはたずねてから、「ああ、それなら大きい球で、下に籠が結びつけてあって、人が乗って空を飛ぶことができる、あれのことですか?」
「そう、それだ」
「では、あたしがくる前にやってきたのはダイアンなのだわ。その、あなたのおっしゃる気球とやらは、タンガ・タンガの空に降りてきたのです。みんなは、そこに乗ってる女の人が、カラナから来たノアダだと思い、その人を手に入れようと都市の外へ出て、ロロ・ロロ人と戦いました。でも、結局ロロ・ロロ人がその人を手に入れ、その人はロロ・ロロで、今からほぼ三十回眠る前くらいまでノアダをしていました。いえ、もっと前だったかもしれません。とにかく、その後、人々が彼女を敵視するようになったので、彼女はロロ・ロロのゴ・シャで、これまた人々が殺そうと目していたガンバとともに姿を消しました。二人がどうなったか、だれ一人知る者はありません。でも、その女の人は美女ダイアンにちがいないと思います。その、空中を漂流するものに乗ってきたというのですから。でも、あなたはどうやってここへこられたのですか、デヴィッド・イネス?」
「わたしも気球に乗ってきたのだよ。アブナー・ペリーに作らせたのだ。ひょっとして、その、ダイアンを乗せて飛び去ったのと、同じ方角に流されるのではないかと思ってね。一年中のこの時節には、風の方向はめったに変わらないのだ。気球は風に乗って運ばれるものなんだよ」
「みんなは、この訪問者――つまり、ある者はピューさまではないかと考えている人物――がカラナから降りてきたのだとあたしに話しましたが、これでわけが読めましたわ」
「カラナとは?」
「ピューの住んでいるところですのよ」オー・アアが説明した。「そこにはあたしも住んでいるのですよ。地上にいないときのことですけど。ピューを礼拝している者が、死後に行くところです。ピューさまが、ちゃんとカラナから降りてきてくださったので、ほんとに助かったわ」
「どうして? それはまた、どういうことかね?」
「祭司長オープと、ゴ・シャのファープは、あたしのことを気に入らないんです」オー・アアは答えた。「最初は気に入られたんですけど、今じゃぜんぜんだめ。人々はあたしにささげものを持ってきます。たいがいは、このあたしの腕輪にはめてある金属と同じ、金属の小片です」
「青銅だな」デヴィッド・イネスがいった。
「何かは知りませんけど、とにかく、祭司長オープとゴ・シャのファープは、それをできるだけたくさん自分のものにしようと、やっきなんです。でも、あたしは、人々にたくさん投げ返してやるの。だって、みんなが奪い合いをするのを見るのがとてもおもしろいんですもの。オープとファープがあたしのことを気に入らないのは、そのためなんです。でも、それであたしはタンガ・タンガ人の間でたいへんな人気者になりました。だから、オープとファープはあたしがきらいなだけでなく、恐れてもいるのです。オープや、ファープや、人々がなぜあんなに、このくだらない金属の小片をほしがるのか、わからないわ」
デヴィッド・イネスは微笑した。こんな穴居人の小娘でさえ、金《かね》の値打ちにたいする観念がゼロだとは、いかにも女ではないか。しかも、金の何たるかを知る以前にして、すでにこれだ。
「くだらない金属の小片は、オープやファープにまかせておいたほうがいい」デヴィッドがいった。「そのほうが、きみも長生きできるよ。この金属の小片のために、人殺しをする者もあるんだからね」
「変な話ね。あたしにはわからないことだけど、わざと質問しないことにしているの。だって、ノアダさまはなんでもご存じということになっているんですもの」
「そうそう、それに、ピューさまは、ノアダさま以上になんでもご存じってことになっているんだったね」デヴィッドは意味ありげに微笑しながらいった。
「そうですとも」オー・アアがいった。「あたしと同様、あなたも、万事心得ておく必要のあることは心得ていらっしゃらなくては。それに、心得ていてはいけないこともたくさんに、ね」
「わたしにわからないことが一つあるんだが、今、わたしが知りたくてたまらないのはその一つなんだ。つまり、ダイアンの行方と、彼女がまだ生きているだろうかということだよ。その次には、ここから脱してサリへ帰る方法が知りたいね。きみも帰りたいだろう、オー・アア?」
「今となっては、もうどうでもいいことですわ」彼女は悲しげにいった。「だって、疾風《はやて》のホドンはブラグに殺されたんですもの、あたしはどこにいたっていいの」
「しかし、ホドンはブラグに殺されなかったんだよ。殺されたのはブラグのほうさ」
「それなのにあたしは、ホドンが死んで、ブラグといっしょにならなくてはならないんだと思って逃げだしたってわけ」オー・アアはさけんだ。「ああ、どうして、待ってたしかめてからにしなかったのかしら! 教えてください、ホドンはどこ?」
「わたしがサリを発つ前、かれは船一隻と、何がしかの乗組員を出してくれと頼みにきたよ。ルラル・アズへきみをさがしにいきたいといってね。かれが死んでなかった場合に、きみが送った言づてを受け取ったからだ」
「それじゃ見つかりっこないわ。そして、あの人は、あの恐ろしい海で死んでしまうのよ」
それからややあって、人々はもどってきてピューにささげ物をした。デヴィッド・イネスは、問題の金属の小片を見て微笑した――無器用に鋳造した、幼稚な、小貨幣だ。このために、祭司長と王が、女神を玉座から引きずりおろし、そのうえ殺そうという。これら青銅器時代の人々が、より高度な文明にむかって進歩をとげつつあるということに、疑問の余地はなかった。
オー・アアは、貨幣を一握りつかむと、人々にばらまいた。人々は金をひろおうと先を争って、かん高い喚声をあげながら床を這いまわる。祭司長オープと、ゴ・シャのファープは苦虫をかみつぶしたような面持ちでながめていたが、オー・アアは、ピューさまがじきじきにひかえていてくれるので、心丈夫だった。
人々が神殿から帰ったあとも、オープとファープは残っていた。オープは、あまりにも多くの貨幣を失った怒りに、にわかに大胆になって、デヴィッドにむかい、「あなたはノアダさまより、ずっと年をとっておられるが、これはどういうことなのです?」といった。
一瞬、オー・アアはぎょっとした。以前に一度、オープとファープに、自分はピューさまの母親だといったことを思い出したのだ。そのとき、ピューさまはノアダの命令したことはなんでもするのだともいった。首尾よくうそをつきおおせるには、早々にとりつくろわなくてはならない。そこで、デヴィッドが返事をするより早く、オー・アアがかわって口を出した。
「オープ、おまえはわたしの祭司長のくせに、わからないのかえ。ノアダはいくつでも、自分の望みどおりの年齢に見せることができるのじゃ、わたしは、息子より若く見えるようにしているだけのこと」
デヴィッド・イネスは、娘のずうずうしさに舌を巻いた。兜《かぶと》をぬいだ、とでもいうか。オー・アアにまさる女神は、そうざらには見つかるまい、そうデヴィッドは思った。
祭司長は、別の方法をこころみた。「すべてを心得ておられるピューさまなら、ここへ人々がささげ物として持ってくる銅貨をばらまいたりしないよう、ノアダさまに注意していただけませんでしょうか」
デヴィッドは考えた。すべてを心得ていることになっているのなら、そういうふりをするにこしたことはない。
「ノアダが正しい。人々からそんなにたくさん取り立ててはいけないということを教えるためにやったことだ。おまえの祭司たちは、人々が寄進することのできる以上に要求してきた。わたしはかねがねそれを知っていた。おまえと話をするためにカラナからここへ来たのも、一つにはそのことがあったからだ。また同様に必要以上の税金を取り立てているファープにも話がある」
オープは、すこぶるみじめな顔をしたが、ファープが口を開いていった。
「わたしは戦士に給料を払って、町を整備しておかなくてはなりませんし、オープは神殿を維持するために、祭司たちに俸給を払ってやらねばならないのです」
「そんなことは、このピューさまが先刻承知しておる。今後は税金や寄進の取り立てを少なくすることだ。町と神殿とを、しかるべく維持してゆくに必要なだけを要求しなさい」
オープは単純な男だったから、不本意ながらもこれがピュー神だと信じ、かつ恐れた。だが、ファープは懐疑主義者で、いくぶん無神論者のようなところがあった。すくなくとも無神論に近い考えを持っていた。しかし彼はオープとともに、すくなくともこの場は、ピューの仰せに服した――心中にわだかまりをひそめたまま。
「気にかかることがいくつもございます」オープはデヴィッドにいった。「たぶん、あなたさまならご説明願えるかと存じますが、これまで、わたしどもは、ピューさまの存在を教えられてまいりました。そして、そのピューさまに娘御が一人おられ、そのお方がわれわれのノアダさまだということでございました。それが今では、ピューさまがノアダさまのご子息だというお話で、そればかりかそのノアダさまは、父君が三人、ご兄弟が十一人、ご姉妹が四人おられて、最後の四人のご姉妹方はみなノアダさまだとか」
さすがのオー・アアも、この臆面もないうそが今並べられるのを聞いて、赤くなった。これは彼女が、カラナの事情に通じているということをオープに印象づけるためにしゃべった一節だ。しばしの間、彼女は当惑のあまり、しかるべき言葉も思いつかず、ただ、デヴィッド・イネスがなんと答えるだろうかと気をもむばかり。
「理解さえすれば、そんなことはなんでもない」デヴィッドがいった。「オープ、おまえはわたしの祭司長だから、ピューが全能だということは承知しておるはずだな」
オープはうなずいた。「はい、もちろん承知いたしておりますとも」かれはもったいぶって答えた。
「では、ピューが、おまえたちのノアダの息子にも、父にもなれるというわけがわかるであろうが。われわれは、われわれの思いどおりに変身することができる。だから、ノアダは、わたしの希望にしたがって、兄弟になり、姉妹になり、父なりを何人でも持つことができるのだ。どうだ、わかったかね」
「よくわかりました」オープがいった。だがわからないのはファープだ。神殿を出るや、かれは多くの人々の心に疑惑の種を植えつけはじめた。天から降ってきたあの男は、実はピューとはまったくちがうのではないか、あの女も真実のノアダではないのではないか。ファープは種をまいた。種は当然芽吹くものだということを、かれは知っていた。
疾風《はやて》のホドンが、オー・アア捜索のためルラル・アズに船出すべくアモズの海岸に到着したとき、そこにたまたまサリ号を指揮していたメゾプ人のラジがいた。そこで、ホドンはラジに、いっしょに来て、今やかれと部下の戦士たちを乗せて出帆しようとしている小型船の指揮をとってもらいたいとたのんだ。
メゾプ族は海洋民族だ。そのメゾプ人に、船の指揮を依頼できたことは、ホドンにとって幸運だった。とりわけ、それがラジだったということは二重の幸運だった。ラジは、サリ号を置き去りにした場所を正確に知っていたし、その上、風向きや潮流の具合いを心得ていたからだ。これらのことを考慮に入れ、それによってサリ号が、普通ならどの辺に流されていったかを頭において、ラジは無名海峡の口に進路をむけた。何回も眠った後、一行は目的の場所に到達した。到達するにはしたが、すさまじい嵐のために、あと数回眠る間、そこから遠ざかっていなくてはならなかった。ラジの船乗り気質《かたぎ》のおかげで、嵐をやりすごすことができた。
嵐がおさまると、風と潮流は小型船を無名海峡の口に一挙に運んだ。船はクセクソット国の海岸のすぐそばを通り、今かれらがやりすごした、あの嵐の前までサリ号の残骸が横たわっていた個所を通過した。あの嵐でサリ号はばらばらになり、それまでオー・アアの居所をしめす手がかりとなっていたあらゆる痕跡は、きれいさっぱりと流されてしまったのだった。それさえ残っていれば、ただちに一行をタンガ・タンガにみちびくしるべとなったろうに。
デヴィッド・イネスとオー・アアは、友人の一行がすぐそばを通りすぎていくのも知らず、ピューの神殿の壇上にすわっていた。
美女ダイアンとガンバは、無名海峡をコルサール・アズへとこぎながら、かれらの後方の上空を大気球が飛んでいくのを知らなかった。その瞬間、美女ダイアンとデヴィッド・イネスの間はわずか二、三千メートルしか離れていなかったのだ。二人が、今少しで再会できたということを知らずに過ぎたのは、まさしく悲運のしからしむるところといえよう。デヴィッドが気球を浜辺におろし、ダイアンがのりこめばそれでよかったのだ。
ダイアンは、この危険な旅路につく前に気をつけて食糧と水をカヌーに積みこんでおいた。二人は潮流にまかせて進みながら、交代で睡眠をとった。深海の恐ろしい怪獣どもには、何度となく襲撃された。水面に浮かぶこの奇妙なものは、多くの怪獣をひきつけた。まったくの好奇心からやってくるものもあったが、大多数のものが、あくなき食欲にかり立てられてやってきた。そのつど切り抜けて勝利を得るということが、ガンバにしてみれば驚異のタネだった。
「いったん海に出たが最後、眠る余裕があろうとは思わなかったよ」かれはいった。
「あたしにも自信はなかったわ」ダイアンが答えた。「でもここまでくれば、コルサール・アズに出られると思うようになったわ。コルサール・アズに出たら、海岸線にそってアモズの反対側までさかのぼるのよ、そこで陸地を横断すればいいの。でも、海よりも陸上のほうが行く手の危険は大きいと思うわ」
「野蛮な土地なのかい、そこは?」ガンバがたずねた。
「コルサール・アズの岸からかなり奥地まで、めっぽう野蛮な土地だわね。行ってみたことはないけれど、あたしたちの一族の男たちで、そこまで危険をおかして狩猟に行ったことのある連中の話では、猛獣や、その猛獣よりまだ残忍な野蛮人が出没するそうよ」
「きみに会わなければよかったんだ。きみがロロ・ロロに来ていなかったら、わたしは今でもゴ・シャで、わたしの都の城壁の中で安全にいられるのに」
「それをくどくどいうのはやめにしていただきたいわね。でも、こういうことだっていえるのよ。つまり、あんたがもっとましなゴ・シャなら、今でもあんたはあそこにいられたでしょうにってこと。帰りたいっていうのなら、岸までこぎ寄せてもいいのよ。降ろしてあげるわ」
何回も眠った後、二人は無名海峡の末端に到達した。海峡は、コルサール・アズのちょうど入り口のところでくびれているので、水はすさまじい速さでなだれこんでいる。小さなカヌーは、コルサール・アズの比較的おだやかな水面に出るまで何度も浸水して、沈みそうになった。コルサール・アズに出たところで、海岸ぞいに、北東の方角にむかった。ちょうどこのとき、ホドンがソジャル・アズ側の無名海峡の入り口の手前で足止めを喰ったあの嵐が襲いかかり、二人を海岸からはるかに引き離してしまった。
猛烈な雨が視野をふせぎ、大波はたえずかれらを沈めようとするので、カヌーが横ざまに波くぼに落ちこまないよう、一人が必死にこぎ、もう一人が瓢《ひさご》で水をかい出す作業をした。この瓢は、ダイアンが、こんなときのためにと用心深く積みこんでおいたものだった。
二人ともへとへとになったが、そのとき、突如として海岸線が雨足をとおしてぼんやりと、目前に浮かびあがった。ダイアンの目に、広々とした白い砂浜がうつった。巨大な波が、うねりながらその砂浜めざしてすさまじいいきおいで疾駆し、雷鳴のような轟音《ごうおん》とともに砕け散っている。嵐は、そこへ二人を運んでいこうとしているのだ。かれらのちっぽけな力では、たとえいかなる努力をはらっても、この避けがたい最期を転じることはできないだろう。
ダイアンにしても、あのすさまじい寄せ波を乗り越えることができるとは、とうてい思えなかったが、とにかく波に乗ってみようと決心した。そこでガンバに、力一杯こぐようにといい、彼女も同じようにこいだ。
小さなカヌーはぐんぐん疾駆した。そして、巨大な波の、波頭のすぐ下に乗るや、岸めざして弾丸のように突進した。そして、サーフボードのように、岸よりはるか奥に打ちあげられたのだった。
まだいのちがあるということに驚きながら、二人はカヌーからとびおりて、退く水にさらわれないようにカヌーを押さえた。それから、岸に砕ける波にとどかぬように、ずっと奥にカヌーを引き上げた。
「やはり」とガンバがいった。「きみはほんとうのノアダにちがいない。今のやつを切り抜けて、まだ生きてるなんて、人間わざじゃないよ」
ダイアンは微笑して、「そうじゃないとは、一度もいわなかったでしょ」と、答えた。
ガンバは、この言葉の意味をつらつらと考えてみたが、自分の考えはのべず、ややあっていった。「嵐が過ぎしだい、アモズに出発できるな。陸に帰って、もうこれ以上、海の危険にさらされなくてもすむと思うと、ほっとするよ」
「アモズに着くまでには、もっと海をこえなくてはならないわ」
「なんだって? われわれは岸に乗りあげたんじゃないのか? 陸にいるんじゃないのか?」
「ええ、あたしたちは陸にいるのよ。でもあの嵐で、アモズのある陸地からずっと遠くへ吹き飛ばされたのよ。吹き飛ばされて、コルサール・アズをはるばる横断したのでないことはたしかだから、島に吹き上げられたのにちがいないわ」
ガンバは唖然としたようすでいった。「では、もう望みはないんだ。もうおしまいだ。きみはほんとうのノアダではない。さもなければ、みすみすこうなるまでほうっておくはずがないからな」
ダイアンは笑った。「あなたって、とても簡単にあきらめるのね。きっとろくでもないゴ・シャだったにちがいないわ」
「きみがくるまでは、りっぱなゴ・シャだったんだ」ガンバがかみつくようにいった。「ところでノアダさま」と、こんどは皮肉な口調で、「つぎは、どういたしたらよろしゅうございましょうか?」
「嵐がおさまりしだい」ダイアンは答えた。「カヌーを海に出して、岸を目ざして出発するのです」
「もう水の上はごめんだね」と、ガンバ。
「いいですとも、ここへ残ってらっしゃい。あたしは行きますからね」
浜のむこうに、三十メートルそこそこの高さの崖が連なっていた。頂上にのぼれば、ダイアンには、緑のジャングルのような茂みが見えたことだろう。それに、さほど遠くないところに滝があって、崖を跳りこえて海にそそいでいる。波がその崖のふもとに打ち寄せていて、高々と崖面までしぶきを上げるので、そのたびに滝が隠れて見えなくなる。反対側の崖面にも海はしぶきを上げている。二人は、細い、半月形をした一筋の土地の上に立っているのだ。海がまだ一度も手をつけたことのない土地の上に。
ガンバには――諸君や私も同様だが――崖はとうてい登攀《とうはん》不可能と見えた。だが、穴居人の女、ダイアンの目には困難とうつっただけだった。もっとも、彼女にはのぼる気持などさらさらなかったから、どっちでもよいことだったが。
二人は、長い間、ひどく心地の悪い思いをしていた。二人は、豪雨にぬれねずみになりながら、じっとすわっていた。這い込む洞穴もないし、眠るなど論外だった。二人は、ただじっとすわって耐えた。ダイアンは黙々と、ガンバは不平がましく。
それでも、ついには太陽が、はるか沖合の海の上に輝くのが見えた。これで嵐が頭上を通過しつつあって、やがて去ることがわかった。あの永遠の太陽が雲に隠されていると、やれやれと思うこともしばしばあるが、この際、雲が通過してふたたび太陽の暖かみを感じるのは喜ばしいことだった。
「眠りましょう」ダイアンがいった。「目がさめて、海が静まっていたら、あの大きな陸地をさがしに、あたしはもう一度出発します。あなたもいっしょに来たほうが賢明だと思うけど、ま、好きになさい。あたしにはどっちでもいいことなんだから」
「きみは石のような心の持ち主だよ」ガンバがいった。「きみを愛している男にむかって、よくもそんな口がきけたものだ」
「あたしは眠るわよ。あなたもそうしたほうがいい」そういうと、彼女はぬれた草の中に身体を丸めた。熱い太陽が、彼女の美しい肢体の上にじりじりと照りつける。
ダイアンは、サリに帰っている夢を見た。彼女の一族の人々に取りかこまれている夢だ。デヴィッドもいて、彼女はとても幸福だった。かつて久しく幸福だった、それ以上に幸福だった。
やがて、彼女を取り巻いて立っている人々の中の一人が、ダイアンの横腹を軽く蹴ったので、彼女は目をさました。目を開けて見ると、事実人々が彼女を取り巻いている。だが、それはサリの人々ではなかった。大男ぞろいで、太く長い槍と大弓を持っている。かれの腰布はタラグの皮でできており、タラグの頭部を兜《かぶと》に仕立ててかぶっていて、かの大牙は男たちの頭の両側に、四十五度の角度で下むきに突き出ている。背に負った矢筒も、かの大食肉獣の皮――黒と黄がまだらになった、タラグの生皮――で作ったものだ。タラグ――それは、地上世界では久しい昔に消滅した、巨大な剣歯虎だ。
「起きろ」一人がいった。ダイアンとガンバはそろって立ち上がった。
「何の用です?」ダイアンが返答を求めた。「あたしたちは、海が凪《な》ぎしだい、出て行くところだったのよ」
「ここで何をしている?」男がたずねた。
「嵐でこの浜に打ち上げられたのよ。本土に行こうとしていたんだわ」
「おまえは何者だ?」
「あたしはダイアン。ペルシダー皇帝デヴィッド・イネスの妻よ」
「おまえのことも、相手の男のことも聞いたことがない。皇帝とはどんなものかも知らぬ」
「皇帝というのは、族長の上に立つ長というようなものよ」ダイアンが説明した。「陸軍、海軍、それに鉄砲をたくさん持っているわ。あたしと、この人を守ってくれたら、あなたたちの味方になるでしょう」
「海軍とはなんだ? 鉄砲とは?」その男は追及した。「それに、おまえたちに親切にする理由がどこにある? そのデヴィッド・イネスなど、こわくないぞ。われわれはペルシダーの何者をも恐れはせぬ。われわれはタンダールの男だ」
「タンダールとは?」ダイアンがたずねた。
「おまえたちはタンダールのことを聞いたことがないというのか?」戦士はさけんだ。
「一度も」と、ダイアン。
「わたしも、ない」ガンバがいった。
戦士は、さもいとわしそうに二人を見ていった。「おまえたちが立っているここは、タンダール島だ。そして、おれは族長ハムラーだ」
「海は静まってきているわ」ダイアンがいった。「そろそろ出発しなくては」
ハムラーは笑った。いやな笑いだった。「タンダールからは、ぜったいに出られないぞ。ここへ来た者で、出ていったものはないのだ」
ダイアンは肩をすくめた。彼女は世の中というものを知っている。この男が本気でそういっているのだということはわかった。
「こい」ハムラーがいった。ついていくよりほかはない。
戦士たちが二人をかこみ、ハムラーが先頭に立って滝にむかった。ダイアンは、サンダルを乾かすためにカヌーの梁《はり》の上に置いてきたので、裸足《はだし》だった。それをとりに行ってもよいかなどとハムラーにきくダイアンではない。敵にものごとを頼むのは、彼女の自尊心が許さなかった。彼女は、この男たちがどこから降りてきたのかと、断崖の壁面をたえず見上げていたが、さすがのダイアンでものぼれそうな個所は見あたらなかった。と、そのとき、ハムラーが滝にたどりついて、そのかげに姿を消した。一瞬遅れてダイアンは、滝のかげに通っている岩棚に乗っている自分に気がついた。彼女は前方の戦士につづいて洞窟の入り口にはいっていった。真暗で、したたる水でじめじめしている。
手さぐりで暗闇をのぼっていくと、やがて前方に小さな光がぽつりと見えた。光は、垂直よりやや傾斜している竪穴《たてあな》の上からさしこんでいて、竪穴の内壁には、粗末な梯子が立てかけてあった。洞窟の暗闇のせいで、ダイアンは、後につづく男たちの足を遅らせていたが、梯子にとりつくと猿《ましら》のごとくのぼって、すぐに先行者に追いついた。ガンバののぼり方が遅いというので、戦士たちがガンバにがみがみいっているのが聞こえ、また、ガンバがふうふううなる声や、槍で小突かれて泣き声をあげるのが聞こえてきた。
竪穴のてっぺんから、曲りくねった道がジャングルを縫って通っていた。ときおり、ダイアンは今彼女らが通っている道と平行し、あるいは交差している山道に、大きなけものが忍びやかに歩いている姿をちらと見かけた。タラグの黒と黄の身体も見た。
海岸から一キロ奥へはいったところで、そびえ立つ断崖のふもとの空地に出た。断崖の、砂岩の表面には、横穴や岩棚がくり抜かれ、きざまれていて、苦心の跡がうかがえる。彼女は驚嘆のまなざしで、これらの断崖の住居を見た。何世代もかかって築き上げたものにちがいない。断崖のふもとでは、戦士たちが木蔭にいこい、女たちは働き、子供たちは遊びたわむれていた。
その人々の間で、すくなくとも十頭の大タラグが眠ったり、その辺をうろついたりしている。ダイアンは、一人の子供がそのうちの一頭の尾を引っぱるのを目にした。すると、大食肉獣は牙をむきだして子供のほうにむきなおったが、子供がとびすさると、またのそのそと歩きだした。その子供以外、だれもこれらの野獣をぜんぜん気にかけていないようすだ。
ダイアンとガンバの姿に目をとめて、戦士も女子供も、周囲にわっとむらがってきた。かれらのしゃべっていることから察して、かれらの島ではめったに異邦人を見かけないことは明らかだ。女たちは、タラグの皮の腰布をつけ、サンダルをはいている。男と同様、女もかなり美貌で、頭部の形もよく、聡明な目をしていた。
ハムラーは、女の一人を手招きし、「マナイ、こいつはおまえのものだ」といって、ダイアンを指さした。「だれか、この男をほしい者はないか?」かれは見まわしてたずねた。「なければ、殺してタラグの餌にする」
それを聞いて、ガンバも期待するように周囲を見まわした。だが、最初はだれ一人としてかれを手もとにおきたいという者はなかった。しかし、最後になって、一人の女が口を出した。
「あたしがもらっておこう。その男なら、水や薪を運んで来たり、タラグの皮をなめしたりできるだろう」これでガンバは、ほっと安堵の吐息をついたのだった。
「来なさい」マナイはダイアンにいって、一連の梯子を、断崖のはるか上方にある横穴へと先に立ってのぼっていった。
「これが」と彼女は一つの穴の前の岩棚に立っていった。「あたしの夫で族長の、ハムラーの洞窟です」ついで、彼女は中にはいり、生皮の紐《ひも》でしっかりとたばねた小枝を一たば手にして出てきた。
「ハムラーとマナイの洞窟を掃除しなさい。断崖の縁から、ちり一つでも落とさないように。洞窟の中に大きな瓢《ひさご》があります。その中へごみを入れて、断崖の下まで持って降りて、川に捨てなさい」
かくて、ペルシダー帝国の皇后、美女ダイアンは、タンダールの長、ハムラーの妻マナイの奴隷として働くこととなった。それでも彼女は、殺されずにすんだことを幸運に思った。洞穴の掃除を終えて、ごみを持って降りて川へ捨てたあと、断崖の下の女たちのところへもどっていったマナイが、彼女を呼んでたずねた。「名はなんというの?」
「ダイアン」
「洞窟の中に肉があります。行って、ここへ持って降りてきて、火を起こし、ハムラーとマナイと、息子のボヴァールのために料理しなさい」
ダイアンが肉をあぶりながら見ると、ガンバが大きな二本の棒でタラグの皮を叩いていた。つい先頃までかれ自身、奴隷にかしずかれる王であったのにと考えて、彼女は苦笑した。
ハムラーが来て、マナイの横にすわった。
「おまえの奴隷は働いているか? なまけものではないか?」
「働いているわ」マナイがいった。
「それがあの女の身のためというものだ。働かないとなれば、殺してタラグの餌にしなくてはならないからな。まなけものの奴隷を養っておく余裕はない。ボヴァールはどこだ?」
「自分の洞窟で眠っているわ。食べるときには起こしてくれといっていたけど」
「奴隷をやれ、もうすぐ肉ができる」
「ボヴァールの洞窟はあたしたちのすぐ右隣よ」マナイはダイアンにいった。「行って起こしてきて」
そこでふたたび美女ダイアンは、えんえんとつづく梯子を断崖のはるか上方の岩棚までのぼっていった。そして、ハムラーの洞窟の隣の入り口へ行って、ボヴァールの名を呼んだ。数回呼ぶと、眠そうな声が答えた。
「なんの用だ?」
「あなたのお母さんのマナイが、肉ができたからこれから食べるとあなたに告げるよう、あたしをここへよこしたのです」
長身の若い戦士が、洞穴から這い出してきて、すっくと立った。「きみはだれだ?」
「マナイの新しい奴隷です」
「名は?」
「ダイアン」
「美しい名だ。それにきみは美人だね。最高に美しいとぼくは思うよ。どこから来たんだい?」
「ダレル・アズのほとりのアモズの出身です」
「どっちも聞いたことがないな。ま、どこの出身にしろ、きみはたしかにぼくが会った最高の美女だよ」ボヴァールはくり返しいった。
「食事に降りてきてください」ダイアンはいって、梯子にもどり、下へ降りはじめた。
ボヴァールがそれにつづいた。そして二人は、ハムラーとマナイのいるところへ加わった。そばで|すね《ヽヽ》肉が焼けている。ダイアンが串刺しにして、先が二叉にわかれた二本の棒の間に渡して火にかけてあった。
「肉が焼けましたよ」マナイがいった。彼女は、ダイアンがいない間、肉をまわしていた。ダイアンは肉を火からおろし、地面の上にひろげた数枚の木の葉の上に置いた。ハムラーは石の短刀を取り出して大きな肉片を切り取り、少し冷ますために串に刺した。ついでマナイが、つづいてボヴァールが、一片ずつ切り取った。
「食べていいですか?」ダイアンがたずねた。
「食べろ」ハムラーがいった。
ダイアンは、鞘から青銅の短剣を抜いて肉片を切り取った。タンダール族の無恰好な石の武器とちがって、短剣はすらりとなめらかに肉に切れこんだ。
「そいつを見せてくれ」ボヴァールがいったので、ダイアンは、短剣を手渡した。
「こんなのは、初めてだ」ボヴァールはいって、父親に手渡した。ハムラーもマナイも、しげしげとそれを観察した。
「これはなんだ?」ハムラーがたずねた。
「短剣ですわ」ダイアンがいった。
「そんなことじゃない。何でできているとたずねているんだ」
「クセクソット人が〈アンドロード〉と呼んでいる金属です」
ボヴァールが手を伸ばして来たので、マナイはナイフを渡してやった。
「クセクソット人とは?」ハムラーがいった。
「ここからずっと離れた、無名海峡の向こう端に住んでいる一族です」
「その一族は、みなこの金属で作った短剣を持っているのか?」
「短剣も、剣も」彼女は、自分とガンバの剣がカヌーにおいてあることは話さなかった。いつか脱出して、海に出ることができたらという望みを抱いていたからだ。
ダイアンは短剣を返してもらおうと、ボヴァールのほうへ手を差し出した。「こいつはいただいておくよ」かれはいった。「気に入ったんだ」
「返しなさい」マナイがいった。「その人のものですよ。あたしたちはどろぼうじゃありません」そこでボヴァールはダイアンに短剣を返してよこした。が、このときを境に、どんなことがあっても手に入れてやると決心した。手段もちゃんと心得ていた。この洞窟の前の岩棚から、ダイアンをちょいと突き落としさえすればいい。そうなったら、マナイだってあの短剣を持たせてくれるにきまっている。もちろん、ダイアンを押すところをだれにも見られなければの話だが。
ピューがタンガ・タンガに来てからずいぶんたった。しかしデヴィッド・イネスもオー・アアも、どんな形にせよ、逃亡計画をたてることができないでいた。神殿の衛兵は、ファープみずからが選んだ粒|選《よ》りの戦士ぞろいで、デヴィッド・イネスとオー・アアにかんするかぎり、これらの衛兵たちは、とりもなおさず看守だった。
ファープは、この二人が、偶然タンガ・タンガにやってきた、ただの人間にすぎないということを確信していた。だが、大方の人々は二人を信じていたから、余りあからさまにたてつこうとはあえてしなかった。もっとも、人を使って暗殺させるということなら、喜んでやったろう。というのも、昨今、祭司長オープから受ける貨幣は、ノアダが到来する以前の四分の一にも達していなかったからだ。
ピューが来てからは、少しましになっていたが、強欲なファープはもっと多く望んだ。祭司長オープは、ファープと同じ理由で、かげでは二人の敵ではあったが、単純で迷信深いおろかものだったから、神殿の祭壇の上に坐している二人が真実の神と女神であると、自分自身を納得させていた。
敵は手|強《ごわ》かったが、ピューとノアダの信奉者も少なくなかった。二人はそれらの人々に敬愛されていた。税金や寄進を大幅に減らしてもらったおかげで、今ではもっと食物を買ったり、必需品を買ったりする青銅貨が手もとにあった。
デヴィッドもオー・アアも、ひそかに陰謀がめぐらされている気配を感じ取ってはいたが、同時に平民の多くが味方だということも感じていた。しかし、神殿の祭司や衛兵にいつもかこまれていたから、平民とだけ話をするということは許されなかった。
「あの人たちと、別に話ができたらなあ」あるときデヴィッドがいった。オー・アアとさえ、祭司や衛兵に立ち聞きされずに話ができる機会はまれで、このときもそういう数少ないひとときのことだった。「かれらは味方だと思うんだ。だから、もしだれでも陰謀をくわだてる者があったら、教えてくれるだろう。チャンスがあればの話だが」
「それはたしかよ」オー・アアがいった。「これまで、みんなはあたしをすいてくれていたし、今ではあなたもすかれているわ。だってあたしたち二人して、あの人たちの貨幣をずいぶん節約してやったんですものね」
突然デヴィッドが指をパチンと鳴らした。「そうだ、思いついたぞ!」かれはさけんだ。「わたしがもといた世界には、昔ながらの崇高な宗教があって、信者たちはおのが罪を告白して赦しを受けることができるようになっている。かれらは一人でやって来て、心の悩みを小声で祭司に告白するのだが、祭司以外にだれも聞いてはいけないのだ。この特権を、ピューがタンガ・タンガの人々にあたえよう。地上世界の告白者よりもかれらが一段と恵まれている点は、神の耳にじかに告白できるということだな」
「オープがそうはさせないでしょう」と、オー・アア。
「きみにはわかるまいが、アメリカには昔からうまい言いまわしがある。わたしがこれからいかにしてオープをいいくるめるかを、ずばりと表現しているよ」
「どういうふうになさるつもり?」
「やつのズボンがずり落ちるほど仰天させてやるのさ」
「ズボンてなあに?」オー・アアはたずねた。
「それはどうでもいいことさ」
「ほらほら、オープが来たわ。その、ズボンがずり落ちる、とやらいうのを拝見するわ」
祭司長オープは蛇のように近づいてきた――足取りそのものが、音もなく近づく蛇を思わせる。
デヴィッドは、祭司長をはったとにらみつけ、世にも恐ろしい声でいった。「オープ。おまえが何を考えていたか、わかっているぞ」
「わ、わ、わ、わたしにはなんのことかわかりませんが」祭司長はどもった。
「わからぬとはいわせんぞ。そんなことを考えるだけで、たちまち打ち殺されるということを知らぬか?」
「いいえ、慈悲深いピューさま。ほんとうでございます。あなたさまのことで、よからぬことを考えておったのではございません。あなたさまに危害をおよぼそうと――」そこまでで、かれは絶句した。おそらく自分の考えが露見したかと思ったのだろう。
「今この瞬間に、おまえが考えていることまでわかるぞ」デヴィッドが大声でいうと、オープはひざがしらをがくがく震わせた。「今後そんな考えを持たぬように気をつけろ」デヴィッドはつづけた。「そして、わたしやノアダのどんな些細な希望にも、絶対服従することだ」
オープは、がっくりとひざまずいて、両手で眼をおおった。「光輝にみちたピュー神さま。二度とおとがめを受けぬよう、気をつけますでございます」
「ついでに、ファープにも伝えるがよい。考えることに気をつけよ、とな」オー・アアがいった。
「さよう申し伝えましょう」オープがいった。「しかし、ファープは悪いやつでございます。わたくしのいうことを信じますかどうか」
「タンガ・タンガの邪悪をもいとわず、わたしは人々に大いなる恵みを授けようと思う」デヴィッドがいった。「ただちに、祭壇の壁ぎわに、小部屋を作ってもらいたい。縦横《たてよこ》が二歩ずつ、扉をつけて、ベンチを二つ置くこと。壁の高さは二歩半。天井は無用だ」
「ただちに、仰せのごとくいたしましょう。光輝にみちたピューさま」祭司長オープがいった。
「そのようにはからえ」デヴィッドがいった。「完成したら、人々を神殿に召喚せよ。わたしがかれらに授けるこのすばらしい恵みを、みずから説明して聞かせてやりたいと思う」
祭司長オープは、その恵みとは何か、ききたくてたまらなかったが、あえてたずねようとしなかった。そして、デヴィッドが要求した粘土づくりの小部屋を、職人に作らせる手配をしに去っていきながらも、頭をひねりつづけていた。
アノオカタハ、ピューサマニマチガイナイ。祭司長オープは考える。ワタシハ、アノカタニカンシテモ、ノアダサマニカンシテモ、ヨイコトヲカンガエテイル。イヤ、イツモヨイコトヲカンガエテイナクテハナラナイ。アノカタタチニカンシテ、ヨイコト、ヨイコトダケヲカンガエテイルベキナノダ。ソシテ、ファープニ、ワルイカンガエヲアタマニツギコマレナイヨウニシナクテハ。かれはこの最後のくだりを考えるとき、ピューが聞いていてくれて、悪い考えをすべてファープのせいにしてくれればよいがと念じた。悪い考えを抱きつづけてきたことは、自分でもよくわかっていたからだ。
祭壇の横の小部屋が完成すると、デヴィッドは、人々を神殿に呼ぶように命じた。下級祭司たちは、醜怪な仮面をかぶって出かけていき、太鼓を打ち鳴らして、ピューの神殿に集まるよう人々に呼びかけた。神殿は、これ以上中へはいれないまでにすしづめとなり、はいりそびれた人々は広場を埋めた。
人々にむかって口を切ったのはオー・アアだった。「ピューさまは、タンガ・タンガの人々に、大いなる恵みをお授けくださることになった。おまえたちの大勢は、罪を犯している。たくさんの罪を犯して、ピューさまのお赦《ゆる》しを受けずにいれば、死後にカラナへはいるのは困難となろう。ゆえに、ピューさまは、この小さな部屋を作らせたもうた。おまえたちは、一度に一人ずつそこへ行き、ピューさまとともに坐して、罪を告白するのじゃ。しからば、ピューさまは赦しをあたえたまうであろう。みんな一度にくるわけにはいかぬが、眠りから眠りまでの間にピューさまは二十人の者の罪をお聞きになる。さあ、広場へ行って、そこにいる者たちに、このことを説明してやりなさい。それから二十人を神殿に連れ戻し、告白をさせるのじゃ」
そこで人々は広場に飛び出して、オー・アアの言葉を聞かなかった者たちに、このすばらしい事柄を説明してきかせた。二十人を選びだすまでが暴動に近い騒ぎだった。次の眠りまでの間に、ピューの前に罪を告白する二十人だ。
デヴィッドは小部屋にはいった。最初の一人がやってきて、かれの前にひざまずき、両手で目をおおった。デヴィッドは、起き上がってもう一つのベンチにすわるようにいってから、「さあ、罪を告白して、赦しを得なさい」といった。
「もう何度も眠る前のことですが」男はきりだした。「あなたさまや、ノアダさまがおいでになる前、わたくしは貨幣を金持ちの隣人から盗みました。それというのが、祭司やゴ・シャが、わたくしの貨幣をあんまりたくさんとりたてたので、家族のために食物を買う分が一文もなくなったからでございます」
「余裕ができたら、その貨幣を、盗んだ相手の人に返すがよい」デヴィッドがいった。「そうすれば、おまえは赦される。ところで」と、かれは言葉をついで、「おまえは、ピューやノアダの悪口を耳にして、それを知らせにこないということは、罪だということを知っていたかね?」
「存じませんでした。しかし、あなたさまやノアダさまの悪口を耳にしたことはございます。ファープの戦士たちが、人々の中へはいっていって、あなたさまとノアダさまはカラナからおいでになったのではないと教えていました。それどころか、あなたさまはモロプ・アズからおいでになったので、今にタンガ・タンガを滅ぼして、都じゅうの人々をモロプ・アズにつれていき、小悪魔の餌食にするのだと。わたしはそんなことを信じませんでした。ほかにも信じない者は大勢おります。しかし、信じている者もいくらかいるのです。戦士たちは、あなたさまやノアダさまを殺害するよう、かれらを煽動しようとしております」
「おまえの名はなんと申すのだ?」デヴィッドはたずねた。男が名を告げると、デヴィッドは短剣の切先で、小部屋の土壁にそれをきざんだ。男は、恐怖に近い面持ちでそれを見守った。アルファベットとか、字というものをぜんぜん知らなかったからだ。「これが」とデヴィッドがいった。「おまえが赦しを得たしるしだ。神殿があるかぎり、また、ピューとノアダがここに安全にとどまるかぎり、効力を持ちつづけるであろうぞ。さあどんな仕事か知らぬが自分の仕事にもどりなさい。そして、仕事のついでに、ピューとノアダに忠実な者たちの名前をできるだけたくさん頭に入れるのだ。万一われわれが困難におちいった場合、おまえがそれらの者を神殿に召集して、われわれを守ってくれることができるようにな」
男は神殿から帰っていった。全能の神やノアダが、人間の助けを借りて守ってもらわなくてはならないとはおかしいということに気がつかなかった。
何回も眠りを経た頃には、デヴィッドは大勢の市民と言葉をかわしていた。小部屋の壁には、かれやオー・アアに忠実だと信頼できる者たちの名をきざみこんだ。だが、一方、ファープとてこの期間をうかうかとすごしたわけではない。かれは、この二人をなきものにしようと決意を固めていた。民衆を着々と掌握し、これまで神殿が民衆から徴収する習慣だった青銅貨を、かれの手から奪っていく二人を。
ファープもオープも、ピューが民衆と密談をかわすことのできる、この新しい告白制度がひどく気がかりだった。だが、今や神殿の財政をとりしきっているピューが、かれの支持者たちに、告白の際、内々に青銅貨を握らせて剣や弓矢を購入させていることを知ったら、もっと気がかりになったことだろう。
ケープ・コッドから来た小柄な老人、アー・ギラクは、デヴィッド・イネスの運命をひどく気にかけていた。かれは、デヴィッドを大いに崇拝していたが、それはデヴィッドの才能や勇気のためばかりではなく、デヴィッドがコネティカットのハートフォードの出身だということがあった。地球のどまん中にある、この奇怪な世界で、ニュー・イングランドの出身者はたがいに共通の絆で結ばれているのを老人は感じていた。
「なんちゅうこった」かれは、デヴィッドが出発してまもなく、アブナー・ペリーにいった。
「あのフーセンのバケモノが、かれをのせて、みんながこの世の果てじゃというちょる無名海峡をこえていってしもうたら、どうやって帰ってくるのかね?」
「わからん」アブナー・ペリーは悲しげにいった。「それもこれも、わしのせいだと思うとなあ。わしが、不注意なピンボケじじいだったばっかりに、最愛の二人を死に追いやってしまったんだ」
「なにをいうても覆水《ふくすい》盆に帰らず、後悔先に立たずして、後の祭りというやつじゃ」アー・ギラクが調子を合わせた。「それより、なんとかしなくちゃならん」
「何ができる? わしはどんなことでもするよ。まじめな話、もう一つ気球を作って、あとを追おうと思っていたんだ」
「フン!」アー・ギラクが吐き出すようにいった。「あんたは、よくよくのピンボケじじいじゃよ。あんたがフーセンのバケモノに乗って、無名海峡をフワリフワリとこえていってなんになる? 二人ですむところを、三人もさがさにゃならんようになるだけのこった。それより、わしに考えがある。デヴィッドが出発してこの方、考えていたことじゃよ」
「どんなことだね?」ペリーがたずねた。
「ええかね、そいつはこういうことなんじゃ」小柄な老人は説明した。「ドリー・ドーカス号が一八四五年に北極海で難破する前のことじゃが、わしは、ケープ・コッドに帰ったら、ひとつ快速帆船をこさえてやろうと考えとった。かつて塩水の上をぶっとばした、最高級で、最高速のやつじゃ。ところが、ドリー・ドーカス号め、あんのじょう難破しおった。それで、わしは漂流して、この妙ちきりんな地面の穴に落ちこんだというお粗末。これまで快速帆船をこさえるおりもなかった。が、しかし今はちがう。人手と工具さえあれば、わしにはこしらえられるんじゃ。そうしたら、みんなで下っていって、その無名海峡とやらを渡って、デヴィッドとその美女ダイアンとやらを発見できるかもしれんじゃないか」
この提案を聞いてアブナー・ペリーは、ぱっと顔を輝かせた。「あんたにできると思うかい、アー・ギラク? できるなら、人手と工具は提供できる。今、手元には、無名海峡を安全に航海できるだけの船は一隻も残っていない。もしも、作って、操縦してくれることができるのなら、建造にあたって人手は提供しようし、乗組員も世話しよう」
「それじゃ、おっぱじめるか」アー・ギラクがいった。「延引は発明の母、ちゅうことがあるじゃないか」
この希望を目の前にぶらさげられて、アブナー・ペリーは別人となった。かれは、サリの王、毛深い男ガークを呼びにやった。デヴィッドの留守中、|たが《ヽヽ》のゆるんだペルシダー連盟帝国を理論上統治している人物だ。ペリーが、アー・ギラクの提案を説明すると、ガークは二人と同様、意欲を燃やした。かくて、サリ人の一族郎党、老若男女はこぞってアモズへと移動していった。アモズは、実際はルラル・アズ沿岸の入り江にすぎない浅い海ダレル・アズに面していた。
かれらは、武器、弾薬、および工具を持っていった――工具は斧に金槌、のみ、根掘りぐわ。すべてペリーが作り方を教えたものばかりだが、それも、かれ自身が鉄鉱を発見し、これを精錬したこと、およびサリの近郊の山麓の小丘がカーボンを産出したことから、かれみずから鋼鉄を完成したのちのことだった。
ガークは、スリア、スヴィおよびカリに伝令を送った。その結果、千人の男がアモズに集結して、木を伐り倒したり、材木を削ったりする仕事に従事した。また猟人たちは、出かけていって恐竜を殺し、帆にするための腹膜をとった。
アー・ギラクは、ケープ・コッドで建造するつもりだった大型ではなく、小さめだが、同じくらい速く、性能のすぐれたのを設計した。
メゾプ人、ジャは、アノロック諸島から、船の建造に協力するためと、進水後に乗組員とするために、百人の男をつれてやってきた。メゾプ族は、ペルシダー帝国における海洋民族なのだ。
女たちは、マニラ系芭蕉に似た植物の繊維から、横|静索《せいさく》や索具を作りだした。子供たちまでが、物を持って行ったり来たりする仕事をかってでた。
この快速帆船の建造に、どれほどの時間がかかるか、それは、つねに真昼で、時間の経過を示す天体の動きのない世界では、だれにもわからないことだった。これがたえずアー・ギラクをいらだたせた。
「あの、くそったれの、くたばりぞこないの太陽め!」かれはどなった。「太陽なら太陽らしく、なんで昇ったり沈んだりしないんじゃ? いつ仕事を止めるか、どうやったらわかる? ちきしょうめ! まったくけしからん!」
だが、ペルシダー人は、仕事を止める時期を心得ていた。腹がすくと、手を止めて食べ、眠くなると、いちばん暗い場所をさがしだしてもぐりこみ、そこで眠るのだ。すると、ケープ・コッドから来たじいさんは、食べたり眠ったりが船の建造のさまたげとなるのではないかと、かんかんになって口汚くののしりながらはねまわる。しかし、とにもかくにも仕事は進捗し、ついには快速船が進水する運びとなった。進水台にはグリースがぬられ、準備は万端ととのった。百人の男たちが、何時でも造船台を退けられるように、かたわらに立っている。
「えれえこった!」アー・ギラクがさけんだ。「船を命名せにゃならんちゅうに、名前をさがしとくのをとんと忘れとったわい」
「きみが設計して、建造したんだ」アブナー・ペリーがいった。「だから、きみが命名する特権を持っていてしかるべきなんだよ」
「それもそうじゃな」アー・ギラクがいった。「では、こいつを〈ジョン・タイラー号〉と命名することにしよう。なぜかちゅうと、この前の選挙で、わしゃかれに一票を投じたんじゃ。つまり、わしは、かれとウィリアム・ヘンリー・ハリスンに投票したんじゃが、ハリスンが死ぬと、タイラーが大統領になったんじゃよ」
「なんとまた、それは百十八年前のことじゃないか!」アブナー・ペリーが叫んだ。
「百十八年が千十八年だってかまうこたない」アー・ギラクがいった。「わしは、この前の選挙のときにハリスンとタイラーに投票したんじゃからな」
「今、何年か知っているかね?」アブナー・ペリーがたずねた。
「デヴィッド・イネスは、わしが百五十三歳だと教えてくれようとしたが、あの男はこの地面の底のいまいましい穴にあんまり長い間いたもんで、気がふれとるんじゃ。ここのおまえさんたちのだれにも、今が何年かわかるもんか。ここにゃ年ちゅうもんがないし、月もない! 週もなけりゃ日もありゃあせん。あるのは真昼だけじゃ。いつも真昼のくせして、どうやって時間を教える? とにかく、わしゃこの船をジョン・タイラー号と命名するからな」
「そいつはりっぱな名だと思うよ」アブナー・ペリーがいった。
「さあて、わしが命名する間に、舳先にぶっつける何かはいった壜《びん》がいるな。きょうなすべきことは、明日にのばすな、ちゅうことがあるからな」
シャンパンの壜の、最良の代用品は、見まわしたところ、水をいっぱい入れた粘土のかめしかない。アー・ギラクはそれを手に持って、快速帆船の船首のかたわらに立った。と、不意にかれはアブナー・ペリーをふり返って、「これじゃぐあいが悪いぜ。男が船を命名する話なんて、聞いたことがあるかね?」
「ガークの息子タナーの妻、ステララがここに来ている」アブナー・ペリーがいった。「彼女にジョン・タイラー号を命名させよう」というわけで、ステララのおでましとなった。アー・ギラクは彼女に、何をしたらよいのか教えてやった。ステララが、快速帆船の船首で水がめをぶち割って、「汝をジョン・タイラー号と命名す」といった直後、アー・ギラクの合図で、男たちは造船台を退《ひ》いた
船はするするとダレル・アズにすべりこんでいった。そして、スリア、サリ、アモズ、スヴィ、およびカリの人々は、どっと歓声をあげたのだった。
大砲は、進水の前から搭載してあった。こんどは索具類を装着する番だ。この仕事はメゾプ族にやらせるべきだと、アー・ギラクは主張した。かれらがこの船の船員になるのだから、かれらにやらせれば綱一筋、円材一本にいたるまで通じるようになるだろう。石器時代の人々にとっては、何もかもが大変な仕事だ。学ぶべきことがいっぱいある。艤装が終わると、メゾプ族は帆の張り方と、それをすばやくおろす方法を練習しなくてはならない。さいわい、かれらは海洋民族であるばかりでなく、半樹上族でもあった。故郷の島では、樹上生活を営んでいたからだ。かれらは、横静索を猿《ましら》のごとくかけのぼり、まるでそこで生まれたかのように桁端まで進むのだった。
「あいつら、赤肌のインディアンじゃなかろか」アー・ギラクがペリーにいった。「じゃが、りっぱな船乗りになるぞ」
大量の水が、竹の容器に入れられて船内に貯蔵された。塩漬肉、野菜、木の実も同様で、また荒挽きの小麦粉も、ペリーがペルシダー人に作り方を教えて、多量に積みこまれてあった。
ついには、メゾプ族も申し分なく訓練され、ジョン・タイラー号の出帆準備もととのった。アー・ギラクが船長、ジャが一等航海士兼航海長。二等および三等航海士はジャヴとコー。一方、毛深い男ガークは、精鋭の戦士二百人の指揮を取った。かれらは穴居人だったから、無名海峡のかなたの、未知の国に上陸したら、戦う必要があることを予期しているのだ。
羅針儀も、六分儀も、経緯儀《クロノメーター》もない。だが、大抵の方角を示すことのできるスリア人の男を一人乗船させてあるし、それに、ジャは、かれらの針路にぴったりそって流れる大洋の大海流を心得ていた。
順風満帆、ジョン・タイラー号は舳先に白波をけたてて、堂々とルラル・アズに船出していった。その任務は、デヴィッド・イネスおよび美女ダイアンの捜索である。そしてダイアンが〈恐ろしい影の国〉にむかって飛び去っていらい、はじめてアブナー・ペリーは胸に希望が芽ぐむのを感じ、ケープ・コッドの小柄な老人は、百十三年ぶりに、真実幸せだった。
「奴隷になっているのがつくづくいやになったよ」と、ガンバがダイアンにいった。二人が小川のほとりで出会ったときのことだ。ダイアンは大きな瓢《ひさご》に水を汲み、ガンバは女主人の腰布を洗っていた。「あんまりこき使われるんで、今にも死にそうだよ」
「殺されて、タラグの餌食になるよりましでしょ」
「タラグはこわいさ」と、ガンバ。「あんな恐ろしいやつを、どうしてああうろうろさせているんだろう」
「なれているわよ」ダイアンがいった。「マナイがいってたけど、子供の間につかまえてきて、狩猟や戦闘に使うためにならすんですって。この島の反対側で、ここから二、三行程はなれたずっと遠くに、ハムラーの一族とたえず戦闘状態にある一族があるのよ。マナトという一族なんだけど、タンダール族がタラグを飼育訓練するのと同じように、マナト族はタホを飼育訓練しているんですって」
「なんとまあ、恐ろしいところなんだ」ガンバがぶつぶついった。「なんだってまた、こんなところで岸に打ちあげられなきゃならなかったんだっけ?」
「あなたは、自分が結構な身分でいるのがわからないのね」ダイアンがいった。「ロロ・ロロにいったら、殺されていたでしょうし、あの女がひろって奴隷にしてくれなかったら、タラグの餌食になるところだったのよ。あなた、ちっとも満足しないの? ボヴァールがいってたけど、あなたは主人が見つかっただけでも運がいいんですって。だれもあなたの黄色い肌をすきじゃないからよ」
「おれはボヴァールがすきじゃないね」ガンバがぴしゃりといった。
「あら、どうして?」
「どうしてって、あいつはきみにまいってるからさ」
「ばかばかしい!」
「本当さ。いつでもきみを目で追いまわしているんだから。足で追いまわしていないときはね」
「かれはあたしがほしいんじゃないわ。あたしの青銅の短剣がほしいのよ」彼女は、その金属のことをアンドロードといった。
「ピューさまもご照覧あれ!」ガンバがさけんだ。「見たまえ! 何がくるか」
ダイアンがふりむいて見ると、三頭のタラグが足音をしのばせてやってくる。彼女とガンバは崖からちょっと離れたところにいたが、タラグは、崖と二人の中間にいる。ガンバはふるえあがったが、ダイアンはそうはならなかった。大きな野獣は近づいてきて、彼女に身体をすりよせ、手に鼻面をこすりつけた。一方ガンバは、恐怖のあまりその場に凍りついたように動かなかった。
「あたしたちに危害はくわえないわ」ダイアンがいった。「みんなあたしの友だちよ。できるときはかならず肉片を持ってきてやるの」
中の一頭が、近寄ってガンバの匂いを嗅いだ。それから恐ろしい牙をむきだしてうなった。ガンバは中風のようにわなわなと震えた。ダイアンは近寄って、けものの片方の耳の周囲をひっかいてやりながら、けものの肩に身体を押しつけてむきを変えさせた。そして、水のはいった瓢を持って立ち去った。三頭の野獣は彼女にしたがった。
長い間、ガンバはその場にへたりこんでいた。すっかり気力を失って、仕事にもどることができなかったのだ。しかし、ほどなく一人の女がやってきて声をかけた。「仕事をしな。このなまけジャロクめ。いったいなんのためにおまえを養っていると思ってるんだね? ところかまわずすわりこんで何もしないためにかい? こんなことばかりしていたら、タラグの餌食にするから、そうお思い」
「気分が悪いんです」ガンバがいった。
「おや、それじゃ早いとこ、よくなるこったね」女はいった。「病気の奴隷を養う気はないよ」
というわけで、もと王だったガンバはふたたび洗濯をはじめた。終わると、腰布をしぼり、たいらな岩の上に伸ばして、なめらかな石で何度もこすって、水気をすっかり取り、太陽の暑熱で乾かしても柔らかなようにした。そうしている間に、またしても女主人がやってきた。
「あたしがこの前眠ったときから、まだ掃除をしていないね」彼女はがみがみといった。
「ずっと洗濯していたもので」ガンバがいった。「これがすんだら、洞穴を掃除するつもりでした」
「おまえがのらくらしていなかったら、両方とも二回もできているよ。ほんとに、どうしたものだろうねえ。近頃じゃ気のきいた奴隷を手に入れるなんて、ほとんどできなくなっちまったんだから。今までの三人はタラグに食わせなくちゃならなかったし、この調子じゃ、おまえさんも同じ末路をたどることになりそうだしね」
「もっとよくやるようにします。一生懸命働きますから」
「そう願いたいもんだね」シュラドという名の、その女はいった。
ダイアンは、他の何人かの奴隷と最下段にある洞穴に同居していた。洞穴部落においては、むろんこれはもっとも望ましくない場所だった。下段にいくほど地面に近くなり、したがって野獣や敵が近づきやすいからだ。仕事が終わったら、その中へはいって眠ってもよいことになっていたが、いつでも目を閉じるか閉じないかに、もうマナイかハムラーか、ボヴァールに呼び出されるような感じだった。
もっとも頻繁に呼び出すのはボヴァールで、それもたいていは、彼女と話がしたいだけのことだった。彼女を殺して青銅の短剣を奪おうといった考えは、もうずっと前にきれいさっぱり捨て去っていた。彼女に夢中になってしまったからだ。しかし、かれの一族の掟では、奴隷をつれ合いにすることはできない。とはいえ、このことはボヴァールを完全に落胆させはしなかった。ジャングルの奥深くに、隠れた岩屋があることを知っていたからだ。かれはダイアンをさらってそこへつれこむという考えをひとりもてあそんでいた。
あるとき、寝ざめがちな眠りから、ボヴァールはいらいらと不機嫌に目をさました。洞穴の前に岩棚に出てくると、ダイアンがジャングルにむかって歩いていくのが見えた。二頭の大タラグがかたわらをゆっくりと歩いていく。ダイアンには考えがあった。今から脱走して、彼女のカヌーが置いてある浜を見つけ、本土に到達すべくコルサール・アズにこぎ出そうというのだ。彼女はガンバに、いっしょに行かないかとさそったが、かれは、そんなことをしたら捕われてタラグの餌食になるだけだといった。それで彼女は一人で行くことにしたのだった。
ボヴァールがいちばん下の梯子の根元についたとき、大タラグの一頭が行く手をふさいで長々と寝そべって眠っていた。かれは憎々しげに肋《あばら》を蹴とばしてどかせようとした。と、けものはさっとはね起きて、牙をむきだし、すさまじい声でうなった。ボヴァールが、永くて太い槍で相手をつつくと、けものはぎゃっと声をあげて後退し、なおもうなりながら足音もなく立ち去った。それ以上気にもとめずに、ボヴァールは断崖のふもとにいる、部落の男女を見まわした。だれ一人、かれに注意している者はいない。男たちは、木蔭に寝そべってうとうとしているし、女たちは働いている。そこでボヴァールは、何気ないふうで、ダイアンが姿を消したジャングルにむかって歩きだした。後はふり返らなかった。もしふり返っていたら、一頭のタラグがこっそりとあとをつけていることに気づいただろう。
ガンバは、女主人の洞穴の床をこすっていた。瓢《ひさご》いっぱいの水と、たいらでなめらかな石一個と、草一束を持って上がってきていた。ひざがすりむけて砂岩の床に触れ、血が流れている。シュラドが、洞穴から出て行きがけに、かれの脇腹を蹴とばした。
「さっさと働きな、このものぐさ奴隷め」彼女はいった。
ついにガンバの堪忍袋の緒が切れた。王の身のかれが、かくも酷使され、はずかしめられたあげくにこのひとこと。かれは、いっそ死んだほうがましだ、と決心した。だがその前に復讐をしてやる。かれは手を伸ばしてシュラドのくるぶしをとらえ、前につんのめるところを洞穴の穴の中へ引きずりこんだ。彼女は爪を立て、なぐりつけてきたが、かれはとびかかって青銅の短剣を相手の心臓に何度も突き立てた。
自分のしたことに気がついたとき、ガンバは愕然とした。今となっては、ダイアンといっしょに逃げておけばよかったと思う。だが、彼女はまだ出発していないかもしれない。かれは短剣から血を洗い落とし、シュラドの死体を洞穴のいちばん奥に引きずっていった。そこがいちばん暗い。
それから岩棚に出てきた。ダイアンはどこにも見あたらない。ガンバは断崖の、いちばん下の層まで急いで梯子を降りていった。そしてダイアンの洞穴に行き、名を呼んだが応答はない。かれは空地を横切り、カヌーの置いてある入り江まで行くのにダイアンが通るだろうと考えられる方角をとって、ジャングルにむかった。だが、いくらもいかない先に、シュラドのつれ合いに呼びとめられた。
「どこへ行くんだ、奴隷?」かれは追及した。
「シュラドに、ジャングルへ行って木の実をとってこいといいつかったんです」ガンバは答えた。
「それなら、さっさと行ってこい。こっちにもおまえにやらせることがある」
一瞬後、脱走奴隷はジャングルの中に姿を消した。
タンガ・タンガ市の真昼。どっちをむいても、世界は上むきの弧を描いて、はるか上空で紺青の天蓋にとけこみ、円天井を形成している。その中心、天頂には、炎の太陽がつねにぎらぎらと燃えさかっている。
神殿では、一人のおびえた男が、例の小部屋のベンチにすわり、神と相対していた。
「まもなくでございます、恵み深きピューさま」男はいった。「そして、もしもわたくしがここへまいりましたことが知れましたら、わたくしは殺されます。わたくしが知っているということを知っている者がおりますから」
「で、それはどういうふうに起きるのか?」デヴィッドがたずねた。
「大群衆が神殿にささげ物を持ってまいります。その中に戦士がまじっていて、祭壇につめ寄ってくるのです。そして、一人が合図を送ると、かれらはあなたさまとノアダさまに襲いかかって殺すのです。ファープはここへまいりませぬ。人々から責めを受けないようにするためです。でも、采配を振っているのはファープなのでございます」
デヴィッドは、小部屋の壁に彫りつけた名前を、声に出して、男に読んできかせた。かれとオー・アアに忠実な者たちの名前だ。かれは、二度読み、さらに三度目を読んだ。「これらの名前を覚えていられるか?」かれはたずねた。
「はい」男は答えた。「みんなよく存じております」
「では、かれらのところへ行け。そして、ときは来た、とピューさまがいっておられるとつたえよ。それでかれらにはわかる」
「わたくしにもよくわかっております」男はそういうと、ひざまずき、両手で目をおおった。それからたち上がり、神殿を出ていった。
デヴィッドは祭壇にもどり、玉座についた。ほどなく、オー・アアが下級祭司たちをしたがえて自室から姿を現わした。祭司たちは、神殿のしきたりにしたがって、醜怪な仮面をつけ、太鼓を叩きながら現われた。オー・アアは祭壇に来て、デヴィッド・イネスの横に着席した。「ときは来た」かれはオー・アアに耳打ちした。
「あたしは、衣の下に剣と短剣を持っています」彼女はいった。
祭司長オープは、デヴィッドを説得して職服を着用させることがついにできなかった。また、デヴィッドは、決して武器を離そうとはしなかった。ピューは、いつもこのような装束をしているものであって、ピューにつかえる者たちだけが職服をつけるのだと、かれはオープにいいきかせてあった。
おそらくは死を待つ身なのかもしれない二人にとって時の歩みはのろかった。が、やがて男たちは神殿の中へつめかけはじめた。デヴィッドは、その中に、かれに忠実な者たちの姿をちらほらと認めた。かれは、右手の第一指と第二指を立てて胸の前にかざした。味方を見分ける手段として、あらかじめ取り決めてあった合図だ。と、それまでにはいってきていた全員が――かれが顔を知らなかった者たちまでが――かれの合図に答えた。
かれらは進み寄って祭壇の前にひざまずき、両手で目をおおった。そして、起つようにと命じられてからも、なお祭壇のすぐそばにとどまっていた。そこで、かれらがそこに残っているのがごく自然に見えるよう、神がその信者たちに説教をするようなぐあいにデヴィッドは説教をはじめた。かれは、忠誠と、忠誠に対する報酬について説き、不信心者の恐ろしい末路について語った。時間をかせぐためにゆっくりとしゃべった。
男たちは、あとからあとから神殿にくりこんでくる。女は一人もいない。これは異常なことだ。一人がはいってくるたびに、デヴィッドは合図を送った。応じる者もあれば、応じない者もある。だが、応じた者たちは、祭壇の周囲に押し進んできて、ついには祭壇の三方を完全に包囲してしまった。あとの一方は神殿の壁に面している。
デヴィッドは、異常な事態を予期していることを気取らせぬ、おだやかな口調で語りつづけた。だが、油断なくかれらを見守っていた。すると、先刻かれの合図に答えなかった者たちの多くがそわそわしているのに気がついた。今や何人かは祭壇につめ寄ろうとしていたが、忠実な者たちが肩と肩をくっつけて立ち、通させなかった。そして、神殿内のすべての者が合図を待った。
ついに時は来た。一人の戦士が、「死を!」とさけんだ。かれが口にしたのはそのひとことだけだったが、それでたちまち静かな神殿は、罵声をあげて争う男たちの、騒乱の巷《ちまた》と化した。
合図が発せられるや、忠実な者たちは、剣を抜いてさっときびすを返し、かれらの神々の敵に対峙《たいじ》した。デヴィッドも、すでに立ち上がって剣を抜いていた。
戦う男たちは祭壇の前に、波のように寄せては返した。ファープの部下の一人が、おどりこんできてオー・アアに切りつけたが、デヴィッドがその一撃を受け流して男を打ち倒した。ついでかれは、神殿の床にとびだして、かれの支持者たちに加わった。かれがかたわらにいるということが、かれらに勇気と力をあたえた。それは、かれらがかつて所有することを夢見た何ものにもまさるものだった。そして一方、敵の心には、神への恐れを植えつけた。
ファープの部下のうち、二人が血を流して床に横たわると、あとの者たちは、ピュー神の怒りから逃れようといっせいにきびすを返した。が、かれらとて退路を断たれていることを発見しただけのことだった。デヴィッドの作戦どおり、弓矢、剣、短剣で武装した、かれの支持者たちが、びっしりと集結して、行く手をふさいでいたのだ。
「武器を捨てよ!」デヴィッドがさけんだ。「武器を捨てよ、さもなくば死だぞ!」
かれらが剣や短剣を捨てた後、かれは味方の者に、かれらを放してやれと命じた。だが、ピュー神やノアダにむかって二度とふたたびはむかうことのないよう、かれらに警告をした。
「では、今から、おまえたちをよこした者のところへ帰れ」デヴィッドはいった。「そして、その者につたえろ。ピューさまは、悪《わる》だくみをすべてお見とおしで、すでに戦備をととのえておられた、とな。そして、その者の犯した行為により、その者の身柄を民衆のしたいようにまかせる、と。おまえたちが出ていくときは、おまえたちの側の死者および負傷者を、いっしょにつれてまいれ」
敗れた戦士たちは、死者と負傷者とともに、神殿から出ていった。デヴィッドは、かれらが広場をこえて、まっすぐゴ・シャの屋敷にむかうのを見て、ほくそ笑んだ。
「ピューさまがわれわれの側についてくださったから、ファープの戦士を破るのは簡単だった」デヴィッドの支持者の一人がいった。「これで、ファープもおしまいだ。そしてピューさまとノアダさまが、タンガ・タンガを治めたまうのだ」
「それはどうかな」デヴィッドがいった。「ファープは、抵抗を計算に入れていなかったから、わずか一握りの戦士を神殿に送りこんだだけだ。このことが落着するまでには、もっと戦いがあるだろう。だから、都の中に、だれでも忠実な者がいないか、もし知っていたら、武装していつでもはせ参ずることができるよう手配しておけ。それから、常時、百人をここにつめさせておくように。わたしの判断では、ファープはかならず攻撃してくる。そう簡単におのれの権力を放棄するやつではない」
「それに、以前のように、われわれの青銅貨を全部召し上げる機会を逃がすやつでもございませんわい」一人が苦々しげにいった。
百人がその場にとどまり、あとの者は神殿を出て、新たな闘士をさがしてまわった。
デヴィッドはオー・アアを見て微笑した。オー・アアも微笑を返していった。「あたしの十一人の兄弟も、ここへ来てればよかったのに」
ジャングルにはいると、ガンバは、ダイアンに追いつけたらと駆けだした。だが、ジャングルは、小道のいりくんだ迷路さながらで、かれはすぐに迷ってしまったことに気づいた。と、そのとき、黄色い縞模様のある、大きなけものが、下生えを忍び足で抜けてくるのがちらりと目にはいった。ガンバは、このうえなく不幸だった。シュラドを殺さなければよかったんだ。そうすりゃ逃げださなくてもすんだのに。かれは、ダイアンがロロ・ロロに到着したその瞬間を呪《のろ》い、ダイアンを呪い、おのれの苦境が、すべておのれ一人の責任であることは棚上げで、自分以外のすべての者を呪った。そして、なおも呪いながら、木にのぼった。
忍びやかに、あとをつけてきていたタラグは木の下に立ち、上を仰いでうなった。
「あっちへ行け」ガンバはいって、木に生《な》っていた実をもぎ取ると、タラグに投げつけた。大野獣は啀《いが》んだが、やがて木蔭にごろりと横になった。
ダイアンは、ジャングルにはいるや歩調を速めた。ついてきた二頭のけものは、両側を大またに歩いてくる。ここで道は広くなっていた。ダイアンは、かれらがいてくれてよかったと思った。彼女を守ってくれそうなようすだったからだ。もっとも、いざというときに守ってくれるかどうかは疑問だが。
ほどなく、天然の空地へ出た。そして、そこを半分ほど横切ったとき、彼女の名前を呼んでいるのが聞こえた。驚いてふりむくと、ボヴァールの姿が目にはいった。
「どこへ行くんだ?」
「部落へ」
「それじゃ方角がちがっている。部落ならこの道を引き返すんだ」
「この辺の道はややこしくって」ダイアンがいった。「これで、あってるんだと思ってましたわ」こうなっては、部落に引き返して次の脱走の機会を待つよりほかはない、と彼女は観念した。ひどくがっかりしたものの、すっかり気落ちしてしまったわけではなかった。あやしまれずにジャングルへはいるのが今回ほど容易ならば、そのうちに同じように容易な機会がまためぐってくるだろう。
ボヴァールがこっちへやってくるのと同時に、彼女は、一頭のタラグがその後からこっそりと空地にはいってくるのを見た。その一頭が、彼女が愛情をかちとった、あの恐るべき三銃士の三番目だということに、彼女は気がついた。
「部落にもどらなくっても、もういいんだよ」ボヴァールがいった。「きみがむかっていた方角へどんどん行っていいのさ」
「なんですって?」
「つまりだね、きみは逃げようとしていたんだろ? だからぼくが力を貸してあげようといってるんだ。ジャングルの奥に洞穴があるのをおれは知っている。そこなら、おれたちはだれにもぜったいに見つからないし、おれがいっしょにいないときでも、きみは人やけものから安全に隠れていられる」
「あたしは部落へ帰ります」ダイアンはいった。「今後あたしにうるさくつきまとわないと約束してくださるなら、あなたがこれからしようとしていたことを、ハムラーにもマナイにも告げないでおいてあげます」
「部落へは帰さない」ボヴァールはいった。「おれといっしょに行くんだ。おとなしくこないなら、おまえの髪をつかんでジャングルを引きずっていくぞ」
ダイアンは、青銅の短剣をスラリと抜いた。「やれるものなら、やってみるがいい」
「バカはよせ。部落では、おまえは奴隷じゃないか。三つの洞穴の掃除をし、四人分の食事を作り、腰布を洗濯し、物を持って行ったり来たり、一日中働きどおし。それがジャングルでは、洞穴の掃除は一つですむし、料理も二人分でいい。おとなしくしていれば、ぜったいに打たないよ」
「おとなしくしていようといまいと、打たせるものか」ダイアンがやり返した。
「短剣を捨てろ」ボヴァールがさらにいった。ダイアンはかれにむかって、声をあげて笑った。これでボヴァールはかんかんになった。「それを捨てていっしょにこい。さもなければ殺すぞ。こうなったら、部落へ帰っておれのことをいいふらすなんてまねはぜったいにさせぬ。どっちか決めろ、奴隷め。おれとくるか、死ぬかだ」
かたわらに立っている二頭のタラグが、彼女に安心感をあたえていた――それが真の安心感かどうかはわからないが。が、すくなくともかれらがそこにいるということが、希望を持つ気力をあたえてくれた。もう一頭のタラグは、ボヴァールの二、三メートル後で腹ばいになっている。尾の先がたえずピクピクと動いている。その動作がしばしば何を意味するか、ダイアンは知っていた。そして彼女はふしぎに思った。
ボヴァールは、タラグがあとをつけてきたということも、それがすぐ後に横たわってかれの一挙一動を見守っていることも知らなかった。この大野獣の脳裏に何が去来しているか、だれにもわかるすべはない。子供の頃から、人間というものを、そしてかれらの持つ、長く鋭い槍を、恐れることを教えられてきているのだ。
ボヴァールは、突きの姿勢に槍をかまえて、二、三歩ダイアンのほうに進み出た。かれがおどしを実行に移すとは、ダイアンも思っていなかったのだが、今、かれの目をさぐって、そこに決意の表情を読み取った。と、ボヴァールの後にいたタラグが、牙をむきだして立ち上がるのを彼女は見た。霊感がひらめいた。この穴居人の女は、逃げるということが、狂暴な野獣をまちがいなく攻撃に誘うということを知っていたのだ。そこで、彼女はいきなりきびすを返して、空地をかけだした。みずからの安全を、これら狂暴な野獣の愛情にゆだねて。
ボヴァールが槍を投げつけるかまえで、彼女を折ってとびだした。と、背後の大野獣が、ダッととびかかった。ダイアンの横にいた二頭も、雷鳴のようなうなり声とともに、かれにとびかかっていった。
ダイアンが、耳をつんざくような悲鳴を聞いてふり返ると、ボヴァールが、あの恐ろしい牙という牙を身体中に深く受けて倒れるところだった。あの、つんざくような悲鳴が、族長ハムラーの息子、ボヴァールの最後のしるしだったのだ。ダイアンは、野獣どもが、族長の息子を八つ裂きにしてむさぼり喰うのをながめていた。野蛮な世界の残酷さにはなれていたから、目《ま》のあたりのこの光景も彼女をすくませはしなかった。このできごとに対してそういう態度であったというのも、これでやっかいな敵からまぬがれたということ、もう部落へ帰らなくてもよくなったということ、そして長く、太い槍を手に入れたということなどが彼女の頭の中にあったからだ。
ダイアンは、木蔭に行ってすわり、三頭のけものが、気味の悪い食事をすませるのを待った。彼女は喜んでかれらを待った。カヌーの置いてある浜に通じる竪《たて》穴の入り口に着くまでの間、かれらにいっしょにいてもらいたかったからだ。待っている間に、彼女は眠りこんでしまった。
何かが肩をこするのに目をさまされて、見ると、タラグの一頭が鼻をこすりつけていた。あとの二頭は、そばでどっかりと座り込んでいたが、彼女が目をさますと立ち上がった。そして三頭は大股にジャングルの中へはいっていった。ダイアンも同行した。かれらが水を飲みにいくのだということはわかっていた。そして飲み終わったら眠るだろうということも。はたして、かれらは水を心ゆくまで飲むと、流れのほとりの木蔭にごろりと横たわった。ダイアンもいっしょに横になり、みんな眠った。
ボヴァールが死んだ空地から一キロメートルばかり離れた木の上で、ガンバは、襲いかかるけものの、身の毛もよだつ咆哮《ほうこう》とうなり声にまじった、人間の悲鳴を聞いた。そして、ダイアンが襲われて死んだのだと思った。かつてのロロ・ロロの王、ガンバはこの世に一人とりのこされたのだと感じ、自分のこの境遇をみずからあわれんだ。
タンガ・タンガでは、オープが窮地にあって、つらい思いを味わっていた。ファープの家来たちがピューとノアダを襲撃したおり、かれも下級祭司たちもことごとく神殿に居合わさなかった。そして今になって、かれは神に自分が居合わさなかった理由を説明しようとしていた。かれが立ち場に窮しているというのも、目前にせまる戦いに、どっちが勝つかわからないからだ。この戦いがいかに切迫したものであるか、かれは充分に承知していた。
「そういえば、ある者の目には偶然とうつったかもしれぬ」デヴィッドがしゃべっていた。「おまえと下級祭司全員が、ファープの家来がわれわれを襲った際にいなかったということがな。だが、ピューには、それが偶然ではなかったということはわかっているぞ。われわれが危険にさらされているということを知っていて、おまえはその場に居合わさないようにしたのだ。それというのも、たくらみがどういう結果に終わろうと、人々におまえたちを非難する口実をあたえないようにするためだ。われわれを支持するのか、それともゴ・シャか、たった今、きっぱりと決めてもらおう」
祭壇の下で、下級祭司たちはオープの周囲に集まり、指示を求めてかれに注目した。かれは祭司たちの視線をひしひしと感じた。ゴ・シャの家来が大勢だということはわかっている。だが、ピューもまた、多人数を擁しているということを、そのうえ武器を持っているということは知らなかった。そのときがくれば、ファープの戦士たちは丸腰の暴徒たちの反撃を受けるだろうが、矢と槍と剣で容易になぎ倒すことができるだろう、と、オープは考えた。
「答はどうだ」デヴィッドがいった。
オープは無難にやりすごすことにきめた。ファープには、あとでいいわけすればよい。「これまでと同様、今後もわれわれはピューさまとノアダさまに忠節をつくしますでございます」かれはいった。
「よかろう」デヴィッドがいった。「下級祭司たちを町につかわして、人々に、武装して神殿の守りにそなえよとふれさせよ」
オープは、このようなことはぜんぜん予期していなかったので、うらめしく思った。というのも、内心では、ファープがこの二人を倒すことに成功して、かれ自身ふたたび職権上の役得や賄賂《わいろ》を満喫したいと考えていたからだ。しかし、何はともあれピューの命令には、すくなくとも表面上は従うふりをしなくてはなるまい。
「ただちにそのようにさせますでございます」かれはいった。「下級祭司たちをわたくしの控え室につれてまいりまして、役目を説明してやりましょう」
「そんなことをする必要はない」デヴィッドがいった。「下級祭司たちは、今のピューの命令を聞いたはずだ。ただちに町に出かけるように。わたしの命令がありのままつたえられるのを見とどけるよう、ここにいる忠義な市民を、祭司一人につき一名ずつつけてやることにする」
「しかし――」オープはいいかけた。
「しかしも何もない!」デヴィッドはぴしゃりといって、ついで下級祭司たちを見渡した。
「ただちに行け。おまえたち一人につき、これらの男たちを一名ずつ同行させる」かれは、下級祭司と同行する者を選びながら、おまえたちは、ピューの神殿を防護するよう人々を熱心に説得しない祭司があれば殺してもよいという許可を――神の許可を――受けているのだ、といいきかせた。
神殿前の広場に、男たちがぞくぞくと集合しはじめたのは、それからまもなくのことだった。神殿の大きな戸口を通して、デヴィッドにはゴ・シャの屋根が見える。ほどなく、戦士たちが屋根から姿を現わした。別の方角から広場にはいってくる戦士もある。かれらはまっすぐ神殿にむかって行進してきた。神殿の前には神殿付きの衛兵や、ピューさまとノアダさまを守るために武装した忠義な市民たちが立っている。
ファープの部下たちは、かれらを肩で押しわけて神殿に進もうとしたが、たちまち攻撃を受けた。そして戦いは開始された。すぐに広場には、剣戟《けんげき》のひびきと、争う男たちの喚声と罵声と、負傷者や瀕死者の悲鳴と呻吟があふれた。
曲折した狭い通りは、神殿の防護にかけつける忠実な市民たちでどこもいっぱいだったから、ファープの部下たちはだれ一人として神殿の大扉までたどりつくことができなかった。
戦いがどのくらいつづいたか、それはだれにもわからないことだ。始まったときも、終わったときも真昼なのだから。しかし、デヴィッドとオー・アアには、永遠とも思えた。
ファープの部下で怪我もなく生命をまっとうした者の中の最後の一人が広場から追いはらわれたとき、八方が累々《るいるい》たる死者の山となっていた。そして、デヴィッド・イネスは、タンガ・タンガの支配者となったのだった。
ファープと約二百名の部下は町を逃れた。のちに判明したところによると、かれらはロロ・ロロに行き、そこの新しいゴ・シャの軍隊に志願兵として応募した。ゴ・シャは、訓練を受けた戦士をそんなにも大勢手に入れることができたことを喜んでいたということだ。
デヴィッドは人々に通達を出し、かれがここにいるかぎりはかれがタンガ・タンガを統治すること、去るときには新たなゴ・シャを――民衆を掠《かす》めたりしないゴ・シャを――任命することを告げた。それがすむと、かれは祭司長オープを呼びにいかせた。
「オープ」かれはいった。「おまえは、内心ではいつもノアダとピューに対して不忠であったな。ゆえに、おまえを聖職から解任し、タンガ・タンガから追放する。ロロ・ロロに行って、ファープと合流するのもよかろう。死がおまえに相応であったのに、ピューさまがおまえを滅ぼさなかったことを、感謝するがよい」
オープは愕然とした。無難にことをはこんだと思っていたところだったので、足元をすくわれた心地だった。
「し、しかし、ピューさま」かれはさけんだ。「民衆、民衆はどうなります? 喜びはしますまい。怒って、あなたさまに歯向かってくるかもしれませんぞ。わたしはもう何千回と眠る間、かれらの祭司長だったのですから」
「もしもこの問題の結着を民衆にまかせるというのなら、かれらを召集して、これまでおまえがどんなに不忠であったかを話し、かれらにおまえを引き渡そう」
この提案を聞いて、オープは震えあがった。人々の間で、自分が非常に不評判だということを知っていたからだ。「ピューさまの御心のままにいたしますでございます」かれはいった。「さっそくタンガ・タンガを去ることといたしましょう。しかし、わたくしの民衆を見捨て、苦情を持ちこむ相手の祭司長もないままにうっちゃっておかなくてはならないと考えると、心が痛みます」
「それに、かれらが持ちこんでくる貨幣のこともあるし」と、オー・アア。
「民衆は、祭司長なしでやっていくのではない」デヴィッドがいった。「わたしは、これよりカンジをピューの神殿の祭司長に任命する」カンジは下級祭司の一人で、忠義者とデヴィッドが目をつけていた男だ。
オープは、都の門まで、神殿付の護衛隊の隊員にみちびかれていった。隊員たちは、かれがだれとも口をきかないように見張るよう、命令されていた。こうして、実行力のある、強力な、デヴィッドの敵の最後の一人が平定された。これで、心の底では永遠に帰らぬものと信じているダイアンの捜索をさらにすすめて、その後、サリへ帰るという計画に専念することができる。
かれは男たちをつかわして、近くの森で、ある種の木を伐採させ、都へ運んでこさせた。また、猟人には、数頭のボスを倒させた。ボスというのは、地上世界では、現代の野牛の、先史時代の先祖にあたる。これらの猟人たちは、その肉を持ち帰って人々にあたえ、皮を持ち帰って女たちに渡し、これを清め、なめすようにと命じた。
木が運びこまれると、それを板材や細片に切らせ、かれみずからが陣頭に立って、大カヌーの建造を監督した。それは、帆柱と帆があって、水を通さない船室を船首と船尾にそなえたものだった。
人々は、この奇妙なものがなんのために作られているのかいぶかった。というのも、かれらは海洋民族ではなく、水に浮かぶ船といえば生涯にただ一隻、ノアダが乗って到来したのを見たことがあるだけだからだ。
カヌーが完成すると、かれは人々を広場に招集して、かれとノアダはこれから遠国にある、他の神殿を訪問してまわるから、留守中、カンジと、デヴィッドが新たに任命したゴ・シャに忠実であるようにと、いいきかせた。そして、カンジと新しいゴ・シャには、人々に親切にしてやり、かれらから金品を奪ってはならないと警告した。「どこに行こうと、わたしはおまえたちを見守っているから」と、かれはいった。
かれは、カヌーを無名海峡まで運ばせ、食糧と水を積みこませた。また、武器も――槍、弓矢、青銅の剣など――多くを船積みさせた。海峡を渡る危険をかれは知っていた。
門の番兵をのぞくタンガ・タンガの全住民が、ピューとノアダに別れを告げに浜までやって来ていた。この奇妙なものが、恐ろしい海に船出するところを見るためでもあった。オー・アアは、人々とともに先に来ていたが、デヴィッドは神殿に残って、ダイアンのいどころをつかむ手がかりを求めて派遣した戦士たちから報告を聞いていた。その報告によると、かれらはロロ・ロロ人の猟人を一人捕えたが、その男は、ガンバとダイアンが小舟で無名海峡に出ていくところを見たといっているということだった。これで、もしもダイアンがすでに死んでいるのでないならば、サリに帰っているかもしれないということがわかった。
かれが都の門にむかおうとしたとき、戦《いく》さのひびきが聞こえてきた。門まで来て見ると、浜にいた人々が、ロロ・ロロの戦士の一隊の襲撃を受けて、都のほうへ退却してくる。
襲撃を受けたとき、オー・アアは、すでにカヌーに乗って、デヴィッドを待っていたところだった。捕われないようにするために、彼女は無名海峡にこぎ出した。襲撃者たちが追い散らされて、デヴィッドが浜へ降りてくることができるまで、舟をその場にとどめておくつもりだったのだが、潮流はカヌーを捕え、海峡のまん中へと押し出してしまい、彼女がどんなに懸命にこいでも、進路を変えることはできなかった。
サリ号とオー・アアを求めて、ホドンが乗りこんだ船は、ロ・ハール号と命名された。これは、ロ・ハールという国から、サリ人の中にやって来たラジャに敬意を表して命名されたものだ。小型ながら、堅固な船だった。メゾプ人ラジの操縦で、船は無名海峡を抜け、無事コルサール・アズの広大なふところに出たのだった。そこで凪《なぎ》に会い、潮流が一行を思いのままに運んだ。飲料水はほとんど底をつき、かれらはむなしく雨を待ち望んだ。そのとき、遠方に陸が見えた。潮流はそのほうへとかれらを流している。岸からあと一キロたらずというとき、潮の流れが変わり、今では島とわかるその陸地の先端を船が通過しようとしているのを、ホドンは見てとった。そこで、かれは空の水入れをカヌーに積みこみ、腕っぷしの強い二十人のこぎ手とともに岸にむかった。接近するにつれて、断崖の縁から一筋の滝が流れ落ちているのを発見した。
カヌーが、ずっとはずれに例の滝がある小さな入り江の、せまい砂浜に引きあげられているとき、ホドンは、別のカヌーが浜に引きあげておいてあるのを発見した。部下が、水の容器を滝まで運んでいって水を満たしている間に、かれは調べてみた。
カヌーの底には、かれがこれまで見たことのない、変わった武器があった。そこにある剣というのが、見たことのない金属で作られており、槍の穂先にも矢尻にも、その金属が使われているのだ。漕手座には、小さなサンダルが一足。ホドンは、片方を取り上げて調べてみたが、即座にそれがサリ人の女の細工だということを認めた。どの部族の女も、それぞれサンダル作りに独特の手法を用いるので、容易に見分けがつくし、柔らかな土や砂の上に残るサンダルの跡も、同じ理由で見分けられる。
サリの女で、美女ダイアン以外のだれがこの小さなサンダルをはこう? サリから行方不明になっているのは彼女一人なのだ。ホドンは胸を躍らせて、このことを戦士たちに告げるために滝へと急いだ。戦士たちも、ダイアンがこの島にいるかもしれないと聞いてわきたった。
男たちが、残りの竹の容器に水を満たしている間、ホドンは滝の裏にちょっとした岩棚を見つけ、調べているうちに洞穴に通じる口を発見した。手さぐりではいっていくと、最後に竪穴の底に着いた。そこには、ダイアンをとらえた男たちが彼女を連れて上がったそまつな梯子があった。ホドンは部下のところへもどった。一行は新鮮な水をカヌーへとかついで帰った。そして、ロ・ハール号はと見ると、おりから吹きはじめた微風で、この小型船は岸にむかって進んでくるところだった。
木蔭で待ちくたびれたタラグが、起き上がって音もなく、ジャングルに消えた後、ガンバは木から降りて逃走をつづけた。こんどはかなりの距離を歩いたところで、何やらはっきりと弁別のつかない物音でまたしても木に追いあげられた。弁別がつかないとはいえ、それはけもののうなりと人の話声のいりまじったものに似ていた。そしてほどなく、かれの下を、めいめいが胸につないだタ・ホ一頭をつれた十二人の戦士が通過した。ガンバには、それが島のむこう側からやってきたマナト族だとすぐわかった。一度もお目にかかったことはなかったが、かれらの獰猛《どうもう》な戦闘用獣の話は何度もタンダール人から聞いていたからだ。
ガンバは木の上で、息を殺していた。これらマナト族は、かれらの無気味な獣とほとんど同じくらい、獰猛で恐ろしそうな人種に見える。
一行が木の下を通過して、むこうの曲りくねった道を通り、姿を消すのをガンバが見守っている頃、ダイアンと三頭のけものは、渇きを癒《いや》した流れのほとりで眠っていた。
一頭が、猛々しいうなり声とともにはね起きたとき、ダイアンは目をさました。やってくるのは、戦闘用のタ・ホをともなった十二人のマナト族だ。三頭のタラグは、吼《ほ》え、うなりながら、ダイアンと近づくマナト族の間に立ちふさがった。
叱咤の声とともに、マナト族は十二頭のけものを放った。ダイアンは、彼女の守護者たちが、数からいってひどく劣勢なのを見てとると、ひるがえって逃げだした。タラグが死闘をくりひろげている間に、一人のマナトの戦士が彼女を追った。
ダイアンは、マナトをはるかに引き離して、鹿のように駈けた。どの方角にむかっているのか見当もつかなかった。曲りくねったジャングルの小道をたどっているうちに、ボヴァールが殺されたあの空地にもどってきてしまった。そこにはマナト族とけものがいたが、今では後者はたった七頭になっていた。彼女のタラグは、死ぬ前に五頭を倒したのだ。
戦士たちは彼女を見なかったので、彼女は安堵の溜息をつき、きびすを返して今来た道を急いでとって返した――が、追ってきた戦士のふところへまともにとびこむ結果となった。二人は、小道の急な曲り角でばったりと出会い、戦士は彼女が逃れる前にむずとつかまえてしまった。ダイアンは短剣に手を伸ばしたが、男は彼女の手首をとらえ、ついで武器を取り上げた。
「よう、帰ってきたな」かれはだみ声でいった。「だが、こんなに遠くまでおれを走らせたお礼に、マナトの部落へ帰ったら打ってやるぜ」
ダイアンは何もいわなかった。何をいってもむだだということがわかっていたからだ。なぐさめ手もなく、おびえきって木の上にすわっていたガンバは、十二人のマナト族が帰ってきたのを見た。タ・ホは七頭しかいなくなっていたが、こんどは女が一人いた。ガンバはたちどころに彼女に気づいて、悲しみに打ちひしがれんばかりだった――悲しみといっても、かれ自身に対するそれで、彼女のための悲しみではない。これで、彼女は二度とふたたびあのカヌーのあるあの入り江に案内してくれることはできなくなり、たとえ自分でさがしだしたとしても、あの恐ろしい海にただ一人でこぎ出さなくてはならなくなったのだ。何びとといえども、ガンバ以上に不幸になることは絶対に不可能だったろう。まさか部落へは帰れないし、どっちの方角に入り江があるのかもわからない。城壁をめぐらした都市に、これまでいくつもぬくぬくと暮らしていたのに、今は腹をすかせた人喰い獣の出没するジャングルにただ一人。かれはダイアンにめぐり合わなければよかったと願うあまりに、こんどは、生まれてこなければよかったと思いはじめていた。そしてついには、食用にできる果実や木の実のなる木々が近くに生えている流れをさがし出して、その木の上で余生をすごし、水を飲むときだけ降りてくることにしようと決心した。
ガンバが、おのが運命をなげいている間に、死んだタ・ホの綱を首につけられたダイアンは、タンダール島を横断してマナトの国へ引かれていっていた。だが、彼女はなにごともなげいていなかったし、自分をあわれんでもいなかった。一時《いっとき》たりともおろそかにせず、脱走計画に没頭しなくてはならぬというときに、むだな考えで頭を混乱させてはいけない。いつなんどき、緊急事態が持ち上がって、彼女に機会を提供してくれるかもしれないのだ。それでいて心の奥底では、彼女の運命はまったくの絶望と思えたにちがいない。
ダイアンを捕えた戦士は、意地悪なけだものだった。タラグとのあの一戦で、自分のタ・ホを失ったという事実が、その性根をやわらげるわけもなかった。かれは、ダイアンの首のまわりの綱を荒々しく、必要以上にぐいぐいと引いた。そして、ときどき、別になんの理由もないのに彼女をなぐりつけた。何か一つこういうことをするたびに、かれを殺すというダイアンの決意は固められていくのだった。かれの心臓に短剣をつきたてる快感のために、せっかくの脱走の機会も捨てかねないほどだった。
満帆をあげて、ジョン・タイラー号は無名海峡の波に乗って進んだ。ジャと、アブナー・ペリーと、アー・ギラクは後甲板に立っていた。
「わしの考えでは」アブナー・ペリーがいった。「捜索隊を一刻も早く上陸させるべきだと思う。長い海岸線をえんえんと捜索しなくてはならないかもしれんし、広大な土地を、何かダイアンの居所の手がかりが見つかるまで、しらみつぶしにさがしてまわらなくてはならないだろう」他の二人もかれに同意した。
岸に近づいたとき、見張りがわめいた。「前方にカヌーがあるぞ!」
その小舟に接近すると、ジョン・タイラー号の船首は、カヌーとその中の唯一人の人間を見ようとする戦士やメゾプ族で鈴なりになった。長マントを着て、とてつもなく大きな羽根飾りを頭につけた人物が見える。さらに接近すると、それが女だということがわかった。
オー・アアは、こんなつくりの船も、こんなふうに艤装された船も見たことがなかった。くだんの船は、あきらかに彼女を発見して、こっちへむかってくる。だが、彼女の知るかぎりでは、どんな種類にせよ、船を建造したりするのはペルシダー帝国の人間だけだったから、かれらは連盟に所属している人々かもしれないとはかない望みを抱いた。
船がタックしてそばにほとんど停止すると、彼女は舷側にこぎよせた。ロープが投げられ、彼女は甲板にたぐり上げられた。「なんちゅうこった!」アー・ギラクがさけんだ。「こいつはおどろいた! オー・アアじゃないか! いったいぜんたいそんなとてつもないかっこうで何をしとるんじゃい、おまえさん? しかもこんなところで、たった一人でカヌーに乗っかって?」
「おしゃべりはいいかげんにしてもらいたいわね、じいさん」オー・アアがやり返した。
あの、洞穴にいて剣歯人に包囲されたおりに、アー・ギラクが彼女を殺して食べようとしたことが忘れられなかったのだ。「つべこべいってないで、岸へつけてデヴィッド・イネスを救うのよ」
「デヴィッド・イネスだと!」アブナー・ペリーがさけんだ。「デヴィッド・イネスはあそこにいるのか?」
「あれ、あそこに見える都にいるのよ」オー・アアが答えた。「もしもロロ・ロロの戦士が侵入していったら、かれを殺すわ」
船はふたたび前進した。アー・ギラクはよせられるだけ近く岸によせて、錨《いかり》を下ろした。ついで、ガークとその部下の二百名の戦士と、約二十五名を後に残したメゾプ族とが、ボートに分乗して岸へむかった。総勢三百名近い古強者《ふるつわもの》ぞろいで、マスケット銃を装備している。幼稚なしろものだが、石器時代、青銅器時代のいずれの人間にも効果満点だ。というのも、たいそうな音をたてるうえに、黒煙をもうもうと吐き出すので、やられない者でも、死ぬほど仰天させられるからだ。
デヴィッドの教えたとおり、かれらは細く、長い横列を作って、今やロロ・ロロの戦士たちが門を陥そうとかかっている都に近づいた。
かれらを発見すると、ロロ・ロロ人は、それが千人の射手をもおびやかすほどの威力を擁しているとも知らず、わずか二、三百人の細長い戦列とあなどって、一転して反撃に出た。が、最初の、不ぞろいな一斉射撃の轟音と黒煙をあびて、戦友の二、三十人が悲鳴とともに倒れると、かれらははたと足を止めた。だが、勇敢にも、第二次の一斉射撃に面とむかって進んだ。それでも、さすがに第三次の一斉射撃には、生き残った者、無傷の者はきびすを返して逃げだした。かくて、毛深い男ガークは、かれの軍隊をひきいてタンガ・タンガの城壁に進んだ。
「何者だ?」城壁の上に立っていた戦士が誰何《すいか》した。
「味方だ。ピューさまをお迎えにまいった」オー・アアに教えられてきたガークがいった。
ほとんどすぐに、門がさっと開かれ、デヴィッド・イネスが現われた。神殿から銃声を聞いて、あれは帝国のマスケット銃の銃声以外の何ものでもないと確信していたのだった。
ジョン・タイラー号上にデヴィッドを迎えたアブナー・ペリーの頬には、涙が流れていた。
デヴィッドは、かれらがダイアンの捜索計画を話している間、耳をかたむけていたが、やがて首を振って、それはむだなことだといいきかせた――ダイアンは、ただ一人のつれとともに、カヌーに乗って無名海峡に出ていってしまった。だから、もしもとっくにサリに帰り着いているのでなければ、死んでしまったにちがいない。
オー・アアは、ホドンのことをたずねた。そして、かれが、オー・アアをさがしてこの方面へ来たという話を聞くと、彼女はデヴィッド・イネスに、かれをさがして引きつづき無名海峡を航行し、コルサール・アズにはいってもらいたい、すでに難破しているのでなければあそこへ行っているにちがいないから、と懇願した。
木の実や果実のなる木がある川の流れをさがしていたガンバは、見たことのない武器を持った見なれぬ戦士の一行にばったりと出くわした。逃げようとしたが、かれらは追いついて、かれを捕えた。
「おまえは何者だ?」ホドンがたずねた。
「わたしはガンバ。ロロ・ロロのゴ・シャだ」おびえた男はこたえた。
「殺しちまいましょうや」一人のメゾプがいった。「やつの肌の色が気に喰わない」
「ロロ・ロロとはどこだ?」ホドンがたずねた。
「無名海峡の対岸です」ガンバが答えた。「そこにクセクソット族の国があります」
「おまえは、無名海峡のむこうから来たのか?」
「はい。〈カヌー〉というものに乗って来ました」
「一人で?」
「いいえ。サリという国から来たという女といっしょでした。名は、美女ダイアンとか」
「彼女はどこにいる?」
「マナト族に捕われました。この島の反対側に住んでいる一族です」
「そこまで道案内ができるか?」
「いいえ」ガンバは答えた。「道に迷っているのです。われわれのカヌーが置いてある海岸へ出る道すらわからないのですから。わたしがあなたなら、マナト族の国へは行きませんね。恐ろしいやつらで、タ・ホをつれているのです。タ・ホはあなたがたを殺して喰ってしまいます。ダイアンを捕えたのは十二人のマナト族で、タ・ホを七頭つれていました」
「彼女がつかまった場所に案内できるか?」
「わたしが最後に彼女を見た場所なら案内できます」ガンバはこたえた。かれはいったとおりに案内した。そこには、人間とけものの通った跡がはっきり残っていた。石器時代のこの男たちにとって、その跡をたどるのはかんたんなことだった。かれは急ぎ前進した。休息もほとんどとらなかった。そして、普通はマナトの部落までえんえん三行程はかかるのに、ホドンとその部下の百名の戦士は、最初の眠りのすぐ後に到達したのだった。
ダイアンを捕えた男たちは、部落についたばかりで、彼女を捕えた男は、彼女を自分の洞穴へつれこんでいた。
「さて」と、男はいった。「これから、約束したとおり、おまえを打ってやるからな。これでおとなしくなるだろう」かれは、ダイアンの髪をつかみ、かがんで短い棒をひろいあげた。男がかがんだおり、ダイアンは、男が彼女から奪った青銅の短剣を、男の腰の鞘《さや》から抜き取り、男が棒をふりあげざま、その短剣を男の心臓に突き刺した。男が悲鳴をあげて胸をかきむしるところを、つづいてダイアンが一押しくれると、男は洞穴をあとに岩棚からもんどり打って下の地面に叩きつけられた。
一瞬後、彼女は喚声と鬨《とき》の声を聞いた。仲間の一人を殺されたマナト族が怒っているのだ。そうダイアンは考えて、手に短剣を握って洞穴の入り口の暗がりに身をよせた。できるだけ自分の生命を高く売って、敵方に多大の代価をはらわせてやる覚悟だった。
下から、戦士のさけび声とタ・ホのうなり声がわきあがってくる。と、まったく青天の霹靂《へきれき》のように、マスケット銃の轟音が響きわたった。
ダイアンはわれとわが耳が信じられなかった。ペルシダー中で、帝国の戦士とはるかなコルサールの住民以外に、どこのだれが火器を持っていよう? あれがサリ人だったらと望むのは、あまりにも虫がよすぎるように思えるし、かといって、コルサール人なら、ここマナト族の手中にいるのも、コルサール人につかまるのも同じことだ。
彼女は洞穴の口まで進み出て外を見た。戦闘はほとんど真下でおこなわれている。攻撃軍にもっとも手ひどい損害をあたえているのはタ・ホだ。それも一頭、また一頭と射ち倒されていく。マナトの戦士たちは、銃声と硝煙にかきみだされて、たまに攻撃をかけてくるだけで、しかも甚大な被害をこうむって後退させられるのが関の山だった。そしてついには、残った者も一転して逃げだし、タ・ホの最後の一頭も倒されたのだった。
ダイアンには、この男たちがコルサール人でないということがとっくにわかっていた。メゾプ族の赤銅色の肌を認めて、救われたことを知ったのだった。
彼女は岩棚に立って、下に呼びかけた。男たちは見上げて、どっと歓声をあげた。ついで彼女は降りていって、ホドンや他の者を迎えた。彼女がたずねた最初の問いはデヴィッドのことだった。
「あの人はどうしてあなたたちといっしょではないのです? あの人はどうかしたのですか?」
「かれは、あなたを運び去ったのと同じような気球で、サリを発ったのです」ホドンが説明した。
「あなたが着地したその地点に飛んでいけたらと考えてのことです。かれの身の上に何が起こったか、われわれにはわかりません」
「どうしてあなたがたがここに?」
「われわれはオー・アアをさがしていたのです。最後に彼女を見た者によると、彼女はサリ号に乗ったまま漂流していました」
「それにしても、どんなめぐりあわせでここへ来て、わたしを見つけたのですか?」
「われわれはこの島に水を求めて上陸しました。そして、あなたのサンダルが、あなたのカヌーの漕手座の上にあるのを、わたしが見つけたのです。それから、あなたをさがして奥地にはいりましたが、あなたがマナト族に捕われたのを見た男を見つけたのです。それ以後は、かれらの跡をつけるくらい、かんたんなことでした」
一行は、ただちに島の反対側へ長途の旅路についた。ジャングルへはいったところで、ガンバが木から降りてきた。かれは戦闘の間中、そこに隠れていたのだった。
「この男が、あなたといっしょにカヌーでここへ来たといったのです」ホドンがいった。「なにかあなたに危害を加えようとしましたか?」
「いいえ」ダイアンがいった。
「では、生かしておくことにしましょう」ホドンがいった。
[#改ページ]
第四部 野性のペルシダー
ジョン・タイラー号は、無名海峡をコルサール・アズさして航行していた。デヴィッドには、ロ・ハール号と疾風《はやて》のホドン捜索のためのこの航海も、むだなことのような気がしてならなかったが、そのとき忘れていた一つのできごとが忽然とかれの頭に浮かんだ。美女ダイアンの捜索にと、アブナー・ペリーがかれのために作ったくれた例の気球で、この無名海峡の上空を横断していたときのことだ。はるか下に二人の人間を乗せたカヌーが潮流のまにまにコルサール・アズにむかって進んでいるのを見かけた。それが今、ダイアンと元ロロ・ロロの王ガンバがカヌーで逃亡するところを見たというクセクソット族の話を思い出し、その男が見たというのは、きっとダイアンとガンバのことにちがいないと確信したのだった。そんなわけで、今やかれもオー・アアと同様、コルサール・アズに入るのがひたすら待たれた。
ケープ・コッドから来た小柄な老人、自分の名は思い出せないが、ドリー・ドーカスというのではないということだけはわかっているアー・ギラクは、自分が設計し、船長にえらばれたその船が、どこを航行していようとそんなことはかまわなかった。それを走らせているだけで満足だったのだ。もっとも、それは、百年近く前に、ケープ・コッドに帰りしだい作ろうと夢見ていた大型快速帆船の縮小版ではあったが。
むろん、アブナー・ペリーも、ダイアンの捜索を遂行することには、熱意以上のものを抱いていた。気球が離れて彼女を運び去ったのも、もとはといえばかれの不注意からだったためだ。ジャや、ジャヴや、コー、その他、乗組員のメゾプ族は、海へ出ることができ、この、かれらにとってはすばらしい船に乗っているということがうれしかった。サリの王で、乗船中の二百名の戦士を指揮する毛深い男ガークは、デヴィッドないしはダイアンのためなら、焔の海モロプ・アズまでも出かけたことだろう。二百名の戦士は忠義で勇敢ではあったが、ほとんどの者はみじめだった。かれらは山岳部族で、海はかれらの活動領域ではなかったから、たいていの者がひんぱんに船酔いにかかった。
ロ・ハール号では、ホドンとダイアンが、オー・アア捜索を打ち切る前にしばらくの間コルサール・アズを巡航してみることに決めた――かれらは、もはやオー・アアが死んだものとあきらめかかっていた――そして、そのあとでサリに帰ることにした。
コルサール・アズは、南北ざっと三千二百キロに広がる大海である。海図もない、荒涼たる未知の海原で、そのえんえんとのびる海岸線は、わずかな間隔をのぞいて、ロ・ハール号とジョン・タイラー号の乗組員にとっては|未知の世界《テラ・インコグニタ》なのだ。かれらの大部分は、その水がこの世の果てまでつづいて、そのさいはてには、獰猛な敵が住み、恐ろしい野獣が徘徊する国々があると考えている。最初のことをのぞいて、これらのことは全部まちがっていた。
ダイアンを発見した島、タンダールを船出して、ホドンは南に巡航した。一方、ジョン・タイラー号は、無名海峡からこの大海にはいると、船首を北にむけた。かくて、運命はかれらをいやが上にも遠く引き離していくのだった。
大体において陸地の見えている範囲を、ジョン・タイラー号は大半島ぞいに北東にむけて巡航した。半島の裏側には、ペルシダー帝国の大部分の王国がある。二千キロから二千二百キロの間、船はこの針路を守って進んだが、一方、ガークのひきいる二百名の屈強の戦士は、船酔いに悩まされ、海を厭《いと》うあまり、ますます不平不満をつのらせ、今にも反乱を起こさんばかりだった。
根はガークとデヴィッドに忠実なかれらだったが、なんといっても石器時代の人間、自分自身を制することになれていない、粗野な個人主義者たちだ。ついには、集団でガークのところへ押しかけてきて、船首を返して故国へむかうように要求した。
ガークとデヴィッドは、かれらのいうことに耳を傾けた。ガークは深い同情をもって聞いた。というのも、かれもまた海にはあきあきして、もう一度、硬い大地を足の下に感じたいと切望していたのだ。デヴィッドは理解を持って聞いてやった。かれには計画していることがあった。かれは粗末な地図をかれらの前にひろげた。
「われわれは今ここにいる」かれは指さしながらいった。「半島のいちばん細い部分のこっち側だ」かれは指を南東の方角に移動させた。「ここがサリだ。われわれとサリの間には、千キロにわたる、おそらくは野蛮な部族が住み、獰猛《どうもう》な野獣がはびこる岩だらけの荒涼たる国が横たわっていよう。その千キロの間中、きみたちは戦って、行く手を確保しなくてはならないだろう」
かれは、海岸線を逆もどりして無名海峡を通り抜け、半島の、さきほどとは反対側の海岸を北上してサリまで指を走らせた。「ジョン・タイラー号は、安全で航海に適した船だ」かれはいった。「ジョン・タイラー号にとどまれば、船酔いしたり、不快になることも時にはあるかもしれん。しかしサリには無事に到達できる。もし望みとあらば、ここで下ろしてあげよう。さもなければ船に残るもよし。ただし、船にとどまるなら、これ以上不平を鳴らすのはやめて、命令にしたがうことだ。どっちを望むかね?」
「サリまで帰るのに、海路でどのくらいありますか?」戦士の一人がたずねた。
「こいつはむろん、お粗末な地図だから」と、デヴィッドがいった。「正確な距離は見当をつけるしかない。だが、わたしにいわせればサリまでは海路八千キロくらいではないかと思う」
「で、陸路では、たったの千キロですね」
「そのくらいだろう。それ以上かもしれんし、それ以下かもしれんが」
「たとえ海路が千キロで、陸路が八千キロだったとしても」と、別の戦士が口を入れた。「そして、一キロごとに戦って進まなくてはならないとしても、おれは陸路を選ぶ」
二百名の戦士たちは、まるで一人の人間のように、どっと喝采《かっさい》し、それでことは決定した。
「いやはや、あきれたもんじゃのう!」アー・ギラクが口をとがらせた。「こんな底抜けのあほうどもは見たことがないわい! ここいらの罰あたりな海にゃ二つと通らない、けっこうな船で、のんびりと帰れるちゅうに、千キロをテクって帰るかねえ。まったく、犬ほどのセンスも持ち合わせとらん。ま、いいやっかいばらいじゃがの。あとに残った者が余分に食物にありつけるわけじゃ。水もたっぷり飲める」
「それで八方めでたし、というわけだな」デヴィッドが微笑しながらいった。
サリの戦士を上陸させることに決めた地点には、幅のせまい砂浜が崖のふもとから左右に、見渡すかぎりつづいていた。岸から四百メートルのところでは、動索《リード》を十六|尋《ひろ》おろしてみても底なしだった。アー・ギラクは、そこより近くへは船を寄せようとはしなかった。
「これで近づきすぎるくらいのもんじゃ」かれはいった。「風邪はあるにゃあるが、まあよかろう」
軽風と凪《なぎ》のまにまにボートがおろされ、最初の一隊が陸にあげられた。デヴィッド、アブナー・ペリー、ガーク、それにオー・アアがいっしょにたたずんで、戦士たちが上陸するのを見守っていた。
「かれらといっしょに行くかね、ガーク?」デヴィッドがたずねた。
「わたしはあなたの望まれるようにします」サリ王は答えた。
「きみの本分はかれらとともにあることだ。それに、きみが同行してやれば、われわれが海路を行くよりもずっと早く、サリに帰り着くだろう」
「それなら、われわれ一同もかれらと同行しては?」ペリーが提案した。
「わたしも同じことを考えていたところだ」デヴィッドがいった。「だが、それはぼく自身のことで、きみのことじゃない。きみにはこんどの旅はきつすぎるよ、アブナー。今では、きみは九十をとっくにこえているにちがいないってことをお忘れなく」
ペリーはむっとした。「ばかをいいなさい!」かれはどなりつけた。「わしは、おまえたちのうちのいちばん生きのいいやつと、りっぱにやっていけるんだからな。それならきみも忘れるなよ、デヴィッド、わしが九十をこえているのなら、きみは五十をこえているってことをな。わしはいっしょに行く、それでいいじゃないか。わしはサリに帰らなくちゃならん。重要なことがひかえているんだ」
「ジョン・タイラーに乗っているほうが、ずっと楽だよ」デヴィッドが説明した。「それに、時間が永遠に止まっているこの世界で、急を要する重要なことって、いったい何があるんだい?」
「わしは蒸気機関車を発明して鉄道を敷こうと考えているんだ。それに、カメラも発明したい。やらなくてはならないことはたくさんあるよ、デヴィッド」
「またどうしてカメラを?」デヴィッドがたずねた。「カメラじゃだれも殺せないぜ」
ペリーは気を悪くしたようだった。この石器時代へ、弾薬、マスケット銃、大砲、それに剣や槍や短剣を作る鋼鉄を持ちこんだ男は、生来もっとも善良にして人情深い人間なのに、ただ、「発明」しないではいられないのだ。「それはそれとして、だ、デヴィッド」かれは威厳をこめていった。「わしは、ガークと同行する」それでデヴィッドも、これ以上言ってもむだだとさとったのだった。
「きみはどうするかね、オー・アア」デヴィッドがたずねた。「二百人の戦士が、ペリーの発明した文明の利器で完全武装しているのだから、きっと安全に旅することができると思うし、海路をえんえんと旅するよりもずっと早く、きみの一族の者といっしょにカリへ帰ることができるだろう」
「ホドンは、コルサール・アズのどこかで、きっとあたしをさがしていると思います」オー・アアが答えた。「だから、あたしはジョン・タイラーにとどまることにします。あの、ドリー・ドーカスって名前じゃない、あたしのきらいなチビのじいさんと残るよりも、みなさんといっしょに行きたいのはやまやまですけど、そうしたら、ホドンを逃してしまうかもしれないでしょう」
「なぜ、あんたはかれのことを、ドリー・ドーカスって名前じゃないじいさんっていうんだい? それにまた、どうしてかれが嫌いなのかね?」ペリーがたずねた。
「あのじいさんは、自分の名前を忘れてしまってたんです。名前がなかったんですわ。それで、あたしは、ドリー・ドーカスって呼んでたんです。それがあのじいさんの名前だと思ってたんですよ。ところが、それはじいさんが昔乗ってて、難破した船の名前だったんですね。それで、あたしたちがアー・ギラクって名前をつけてやるまで、じいさんは何かというと、わしの名前はドリー・ドーカスじゃないっていってたんです。それから、あの人がきらいなのは、あの人が人喰いだからです。あたしのこと、食べたがったんですよ。いっしょに難破した人たちを食べたんですよ、あの人。自分まで食べようとしたんですって。こういうことをあたしたちに話して聞かせたんです。あのじいさんは悪党です。でも、あたしはいっしょに行きます。あたしのホドンを見つけたいから」
「こいつは驚いた!」ペリーがさけんだ。「アー・ギラクが、そんなに恐ろしい人間だとは知らなかったな」
「そのとおりです」オー・アアがいった。「でもあたしに手出ししないほうがじいさんのためよ。十三人の兄弟が殺しにくるわ」
ジョン・タイラー号が岸から離れていくとき、オー・アアは手すりに寄りかかって、サリの戦士の最後の一人が崖をよじのぼって、岸の頂きをおおっているジャングルのような茂みに姿を消すのを見送った。一瞬して、負傷した戦士の悲鳴とマスケット銃の銃声が水面をつたわってきた。
「陸では、すぐにやっかいなことがおこる」メゾプ人で三等航海士のコーがいった。かれは、彼女の横の手すりにもたれていた。「海から帰ることにしてよかったな、おチビさん」
オー・アアはすばやくかれのほうに目を走らせた。かれが、おチビさん、といったときの声色が気にくわなかった。「あたしの国の者は、人のお世話にならなくてもやっていけるのよ」彼女はいった。「必要とあれば、ここからサリまでの間に住む人間を皆殺しにだってするわ。あたしだって、一人でやっているんですからね」
「なにもきみが一人でやっていくことはないさ」コーがいった。「おれが面倒を見てやるよ」
「おせっかいはおことわりよ」オー・アアが、ぴしゃりといった。
コーはにやにやした。赤い肌のメゾプ族の大部分がそうであるように、かれはハンサムだった。そして、ハンサムな男たちがみなそうであるように、かれは自分で、女の扱い方を心得ていて、女にいやとはいわせないものを持っているように思っていた。「サリまでは長いぜ」かれはいった。「しょっ中いっしょにいることだし、ひとつ仲よくやろうじゃないか、おチビさん」
「あたしたちはしょっ中いっしょにいることもないし、仲よくなることもないわ。それから、おチビさんと呼ぶのはやめて。あんたなんかきらいよ、赤い肌の人」オー・アアの目が怒りに輝いた。
コーは、相変わらずにやにやしている。「今におれのことを好きになるさ――お嬢さん」と、オー・アアがかれの顔にまともに平手打ちを喰わせた。コーの顔から笑いが消え、醜い形相にゆがんだ。「今、思い知らせてやる」かれはうなって、彼女に手を伸ばした。
オー・アアは、長い、細身のはがねの短剣をすらりと抜いた。ジョン・タイラー号に乗船してから、デヴィッドがあたえたものだ。そのとき、か細い、しわがれた声がどなった。「おいやめろ、そこのうすのろども! いったい何ごとじゃい?」船長のアー・ギラクの声だった。
「この雌虎が、おれを短剣で刺そうとしたんでさあ」コーがいった。
「よくもそんな勝手なことがいえるわね。もしも、あたしに手をかけたら、心臓をえぐり出してやる」
この争いに注意をひかれて、ジャが甲板を横切ってやってきたとき、ちょうどアー・ギラクがいっているのが聞こえた。
「この女は、性悪じゃ。思い知らせてやる必要があるわい」
「思い知らせようなんてしないほうが身のためだよ、この人喰いじじい」オー・アアがかみつくようにいった。「おまえのおいぼれたどてっ腹を引っ裂いてもらいたくなければね」
「いったいこれは何ごとだ、オー・アア?」ジャがたずねた。
「こいつが」と、オー・アアはコーを指さして、「ホドンだけがあたしにいってもいいようなことを、いったのよ、それに、あたしのことをチビって呼んだわ――カリ王のウースの娘の、このあたしのことをね。それで、あたしが引っぱたいてやったら、あたしを引っつかむところだったわ――短剣を持っていなかったらね」
ジャは、コーに矛《ほこ》先をむけた。「この娘にかまうな」
コーは、いやな顔をしたが何もいわなかった。ジャは、アノロック島のメゾプ族の王で、したがうにこしたことはないからだ。コーは、きびすを返して立ち去った。
「なんちゅうことじゃい!」アー・ギラクがさけんだ。「女を乗せると、きっともめごとが起こる。女を運ぶのはごめんじゃ。わしゃ、どうでもこの女を下ろしたいよ」
「そんなことをしてはいかん」ジャがいった。
「わしはこの船の船長じゃぞ」アー・ギラクがいい返した。「わしが下ろしたければ、下ろすことができるんじゃ」
「口数が多すぎるぞ、じいさん」ジャはいって、立ち去った。
「なんじゃい、赤肌のインディアンめが」アー・ギラクがぶつぶついった。「ありゃ、反抗じゃぞ。いやさ、べらぼうめ! ありゃ反抗じゃい。見てろ、今に手かせ足かせをぴしゃりとはめてやるからな」だが、怒りを口にしたり、おどし文句を並べる前に、用心深く、ジャが声のとどかないところまで行ったかどうかたしかめた。なぜなら、今やかれをのぞいて、ジョン・タイラー号の士官も乗組員もすべてメゾプ族で、ジャはかれらの王だからだ。
ジョン・タイラー号は、海岸線をとってかえし、無名海峡さしてもどっていった。目覚めている間中、オー・アアは、水平線もなく、上むきの弧を描いてかなたの靄《もや》にとけこんで、大空の天蓋と一つになっている大海原の水面に瞳をこらしていた。しかし、ほかの船影は見えず、不断の見張りもむくわれなかった。生命のきざしは、あるにはあった。この揺籃期の世界に住む、恐ろしい海生動物たちだ。だが、ホドンを乗せた船はなかった。
オー・アアはひどく寂しかった。コーをのぞいて、メゾプ族は不親切なわけではなかった。が、無口な民族だし、そのうえ、彼女との間に共通するものはほとんどない。それがあれば会話も進んだのだろうが。それに、彼女は海がきらいで、海を恐れている。敵が男なら制することもできようが、海ではどうしようもない。デヴィッド・イネス一行とともに、陸路サリへむかわなかったことを、彼女は後悔しはじめていた。
時はのろのろと流れていった。船は停止しているように見えた。逆風は何度か吹いた。あるとき、睡眠をとったあと、彼女が甲板に出てみると、それもおさまって、濃霧が海面にたれこめていた。船の全長は見えず、大洋も見えない。この新たな自然現象に包まれた中で、空間にさまよい出たのではないということを彼女に教えてくれるものといえば、船体にひたひたと寄せる小波と、船のゆるやかな動揺だけだ。それはいささか気味の悪いことだった。
帆は全部張ってあって、物憂げにはためいている。と、霧の中から一人の人影が朦朧《もうろう》と現われた。オー・アアには、それがあのじいさんだとわかった。そして、じいさんは、手すりの人影がオー・アアだということに気がついた。かれはあたりを見まわした。見える範囲にはだれもいない。かれは近づいてきた。
「おまえさんは疫病神じゃ」かれはいった。「おまえさんは悪い風を持って来た。と思ったら、こんどは凪《なぎ》と霧じゃ。おまえさんが船にいるかぎり、われわれには悪運がついてまわる」かれは、さらにじわじわと寄ってきた。オー・アアは、かれの考えを読んで、短剣をさっと取り出した。
「あっちへ行け、この人喰いじじい。一歩近づけば死だよ」
アー・ギラクは止まった。「何をいう」かれは抗弁した。「おまえさんに危害は加えんよ」
「すくなくとも一度だけ、本当のことをいったね、性悪じいさん。おまえはあたしに危害を加えはしない。あたしが短剣を持っているうちはね、ただ、あたしを海へ投げこんでやろうと考えていただけさ」
「何をばかなことをいうちょるか。おまえのようなばかは前代未聞じゃ」
「何をこの大うそつきめ。おまえのようなうそつきこそ〈前代未聞〉だわよ。さあ、わかったらとっとと行ってあたしにかまうのはよしな」オー・アアはだれかに、前代未聞とはどういうことかたずねようと頭の中に書きとめておいた。石器時代には、前代未聞などということばはない。
アー・ギラクは、前方の霧の中へ姿を消した。オー・アアは、こんどはだれも後から忍び寄ってこないように、手すりを背にしてよりかかった。船上に二人の敵――コーと、アー・ギラク――がいるということがこれでわかった。いつもゆだんなく気を張りつめていなくては。前途の見通しは、明るいものではなかった。旅は非常に長いものになりそうだし、その間には、二人のどっちかが彼女に危害を加えることは何度でもあるだろう。
またしても彼女は、デヴィッド一行に同行しなかったことをくやんだ。海は彼女の本領ではない。彼女は、足の下に固い大地を感じたいと切望した。あの野蛮な陸の世界の無数の危険さえ、人喰いを自慢にしているこの下劣な老人よりも、恐ろしくないような気がするのだ。男たちが飢えた目つきで彼女を眺めるのは見たことがあるが、アー・ギラクの涙っぽいショボショボした目に宿っている飢えは、また別のものだった。それは食物に対する飢餓《きが》の色だった。それは、不潔で、いやらしく、そのゆえに肉食動物のもえるまなざしよりもさらに彼女をおびえさせた。
かすかな軟風が、ジョン・タイラー号の帆をふくらませ、甲板上の霧を舞い立たせた。船はふたたび動きだした。手すりを背に甲板のむこうを見ていたオー・アアの目に、何かがジョン・タイラー号の舷側近くに朦朧《もうろう》と浮かびあがるのがうつった。陸《おか》だ――緑に包まれた大絶壁が、渦巻く霧になかば隠されている。アー・ギラクが命令を絶叫しているのが聞こえ、ジャが、太い低音で、水夫たちに作業の指図をしているのが聞こえた――冷静で、落ち着いた声だ。
オー・アアは甲板を突っ切って、反対側の手すりにかけ寄った。大絶壁は頭上高くそそり立ち、霧の中に没している。そこまで百メートルと離れていない。波打ち際には、浜ともいえないような、幅の狭い浜があるが、この直立する崖のふもとの、ほんの足がかりにすぎない。
ここに陸地がある――愛する陸地が、その誘《いざな》いは抗しがたく、オー・アアは手すりにのぼると、海中に飛びこんだ。そして、狭い岩浜めざして力強く泳いでいった。慈悲深い神のご加護があって、この海にひしめく大食漢どもも、一頭として襲ってこず、彼女は無事に目的地に着いた。
岩浜にあがったとき、霧がふたたび迫ってきて、ジョン・タイラー号は視界から消えた。だが、アー・ギラクとジャの声はまだ聞こえていた。
オー・アアは、その場を調べてみた。もしも今が引き潮なら、この岩浜は、満潮では水中に没してしまうだろう。彼女は、すぐ近くの崖の表面を調べた。そして、|今は《ヽヽ》引き潮なのだと判断した。というのも、頭の高さよりはるかに上に、満潮時の跡が見つかったからだ。
霧のために、上のほうは、左も右も遠くまでは見えない。たいていの者にとっては、そんな状況は恐ろしいものだったにちがいないが、サリの住民は山岳民族だ。そして、カリ族の一人、オー・アアは、生まれてこのかたずっと断崖をのぼって暮らしてきた。そして、足場が一つもない断崖はほとんどないということを、経験から知っていた。このことは、表面に植物の生えている断崖に、特にいえることだ。そしてこの断崖は緑におおわれていた。
オー・アアは、潮が満ちてくる前に霧が晴れてくれることを願った。のぼりはじめる前に、もっと丹念に崖を調べておきたかったのだ。もはや、ジョン・タイラー号上の声は聞こえない。オー・アアは、他に生物一ついない、未知の領域――霧に取りかこまれた、小さな世界――に、ただ一人。
波が寄せてきて、彼女の踝《くるぶし》を洗った。オー・アアは足もとを見た。潮が満ちてきたのだ。ほかにもやってくるものがある。恐ろしい顎を持った、巨大な爬虫類が、こっちにむかって泳いでくる。そいつは、アー・ギラクと同じくらい飢えた目つきで彼女を眺めていた。この十二メートルの怪物も、オー・アアにとっては名もない存在だった。今しも彼女に近づいて、海に引きずりこんでやろうと一心になっているこの怪物が、大昔、地上世界の白亜紀の海を支配していたものたちの一つ、タイロサウルスであるとわかったところで、小さなオー・アアにはなんの役にも立たなかったろう。
アー・ギラクは、緑の絶壁がジョン・タイラー号の舷側に際《きわ》に、朦朧と浮かびあがるのを、オー・アアと同時に目にした。しかし老船長はオー・アアとは非常に異なった意味をそこに読みとっていた。一人には、それは災厄を意味し、今一人には脱出を意味した。そしてめいめいが、自分なりの反応を示した。すなわち、アー・ギラクは命令を絶叫し、オー・アアは海にとびこんだのだ。
やや強まった軟風を受けて、船は危険から――すくなくとも、あの特定の断崖に激突するという、切迫した恐れから――脱した。しかし、すぐ前方の霧の中に、何が待ち受けているか、だれが知ろう?
ふたたび風は絶え、帆はだらりとたれさがった。霧は、前よりも濃密に周囲を閉ざした。潮と激しい海流が、無力な船を運んでいく。だがどこへ? 海流と潮がジョン・タイラー号をゆっくりとあっちへむけ、こっちへむけするたびに、アブナー・ペリーの幼稚な羅針儀は百八十度と三百六十度の間を行ったり来たり。
「なんのこったない、こいつも酔っぱらっていやがる」アー・ギラクがうめくようにいった。「ふらふらしやがって。それもこれも、くそったれめ、女をのっけたからよ。沖のほうへ流されてるのならええわい。じゃが、反対のほうに流されてみろ、座礁じゃい。ちきしょうめ! ジョン・タイラーみたいなかわいいやつを失くすくらいなら、女なんざあ何人でも海へほうりこんでくれる」
「だまれ!」ジャがいった。「うるさいぞ。そら、聞いてみろ!」
アー・ギラクは片手を耳にあてた。「なんにも聞こえんが」
「おまえはつんぼだよ、じいさん」ジャがいった。
「わしゃ、隣にいるやつと同じくらい耳はええんじゃい」アー・ギラクが抗議した。
「では、わたしに聞こえるあの寄せ波が聞こえるだろうが」
「寄せ波じゃと?」アー・ギラクが突拍子もない声をあげた。「どこじゃ? どれくらい離れてる?」
「あそこだよ」ジャが指さしながらいった。「近くだ」
ロ・ハール号は濃霧で立往生していた。それまでロ・ハール号は北東に巡航していた。反対方向を捜索したのだが、それもむだに終わったあとだった。ホドンは、行方不明となったオー・アアがもはや絶望的だと、あきらめて承認することをいさぎよしとしなかった。美女ダイアンは無感情だった。デヴィッドは、気球に乗って彼女をさがしに出かけて、そのままどこか、どんな思いがけないところへ流されて行ってないともかぎらないのだ。彼女にはそれがわかっていたし、彼女にはかれを見つけだす見こみは充分あるとわかっていたが、それにくらべて、オー・アアの捜索は、まったく見こみがないのだ。それでも、彼女は、二度とふたたびかれには会えないだろうとあきらめていた。そこで、彼女は、ホドンがかれの愛するオー・アアを捜索するのをはげました。
ラジと他のメゾプたちは、もっぱら航海するということに満足していた。かれらは海を愛しているのだ。クセクソット族で、もと王のガンバは、海を好まなかった。海が恐ろしいのだ。そうはいっても、ガンバには恐ろしいものがいっぱいある。かれは、生来が王にふさわしいようにできていなかった。いつもべそをかいていて、文句ばかり並べている。ダイアンがかれらのためにとりなしをしていなかったら、ホドンはとっくの昔にかれを海へ投げこんでいたところだ。
「きみの国まで、あとは何回くらい眠ったら着くんだ?」ガンバはダイアンにたずねた。
「何回も」彼女は答えた。「あんたがたが船と称しているこのものにわたしが乗って以来、もう何回眠ったか、数え忘れてしまったよ。今ごろはもうきみの国の近くまで来ているはずなんじゃないか。この世界はそれほど大きくないから、これだけ何回も眠って、すみずみまで見つくせないということはないだろう」
「ペルシダーは、とても広いのよ」ダイアンがいった。「だから何千回と眠っても、ごく一部しか見られないわ。それに、あたしたちはサリにむかって航海してきたんじゃないし」
「なんだって?」ガンバが金切り声をあげた。「きみの国へむかっていたんではないのか!」
「ホドンは、今まで連れ合いをさがしていたのよ」
「で、さがしだすことができなかった」ガンバがいった。「だから、われわれはサリへむかっていないというんだな」
「そう。わたしたちはサリからどんどん遠ざかっているのよ。すくなくとも海路ではね」
「やつに方向転換させて、サリにむかわせたまえ。この王ガンバは、海も船もきらいだ」
ダイアンは微笑した。「どこの王?」
「サリに着いたら、サリの王になってやるつもりだ」
「まあ、あたしの忠告を聞くことね。毛深い男ガークにはそんなこといわないようになさい」
「なぜだ? その毛深い男ガークとは何者だ?」
「サリの王よ。すごい大男で、怒るととても荒っぽくなるわ」
「そんなやつなんか、こわくないぞ」
ダイアンはもう一度微笑した。
爬虫類の巨大な顎《あご》が、彼女をとらえようとあんぐりと開いても、オー・アアは悲鳴をあげず、気絶もしなかった。石器時代のわれわれの先祖の女たちが、危険におびやかされるたびにいちいち悲鳴をあげたり、気絶したりしていたら、人類は誕生するやいなや絶滅していただろう。そして、この世は、他の全動物たちによって、より住みよい、御しやすいものとなっていたろう。かれらは、人間のようにしょっ中争ってばかりいない。
蠅《はえ》さながらに、オー・アアは崖の壁面を一メートルほどよじのぼった。それからふりむいてタイロサウルスにむかって、あかんべえをしてみせてから、いま立っている位置を注意深く考察した。霧のために、どっちの方向も二、三メートルしか見えない。崖がどのくらいの高さかはわからない。崖をおおっている植物は、地衣と、上から垂れさがっている丈夫な蔓《つる》植物だ。この垂直な岩面には、植物類が根をおろす土はないから、これらの蔓植物は崖のてっぺんの土に生えているのだということは、オー・アアにもわかった。彼女は蔓植物をたんねんに調べた。蔓自体が頑丈なばかりでなく、崖の壁面にも密着している。蔓の巻きひげが、蔓をいっそう丈夫で耐久力のあるものにしている。この天然の梯子を利用して、オー・アアはのぼった。
海面から十五メートルばかりのぼったところで、大きな洞穴の口に出た。中からひどい悪臭がただよってくる――腐乱した死体の臭気だ――よじのぼって、入り口ぎわの床ごしにのぞくと、三匹の小さな怪物が、シューッ、シューッと音を立て、かん高い声で鳴きながら、どっと襲ってきた。オー・アアには、それがシプダールの雛《ひな》だということがわかった。古生物学者なら、リアス紀の翼竜《プテロダクテイル》だと分類するところだが、これらの空飛ぶ爬虫類が、地底世界では巨大な怪物に成長することにさぞ驚嘆したことだろう。翼長が六メートルのものなど、ざらにいるのだから。ペルシダーに住む多数のあくなき肉食獣のうちでも、もっとも恐れられているものの一つだ。
オー・アアを襲った三匹は、七面鳥ほどの大きさで、口をあんぐり開けてむかってきた。片手でつかまったままオー・アアは短剣をさっと抜き、先頭の一匹の首をはねた。だが、あとの二匹がなおも向かってくる。ただひたすらに飢餓にかり立てられて行動しているかれらの小さい脳には、恐怖のはいりこむ余地はない。
喜んで後退したいところだが、ばかな怪物の子供は猶予をあたえてくれればこそ。ギャー、ギャー、シューッ、シューッと飛びかかってくる。一匹にすさまじい勢いで打ちかかったが、仕止めそこなった。と、そのはずみで彼女がしがみついている蔓に刃があたって左手のすぐ上で切断してしまい、オー・アアは後に転倒した。
十五メートル下には、海と、そしてたぶんタイロサウルスと死がある。われわれのごとく、何世代もの文明と、柔弱な、保護された生活によって動作の緩慢になった者なら、まちがいなく海と、そしてたぶん死にむかって転落していったことだろう。だがオー・アアはちがった。彼女は、一時《いっとき》、短剣を口にくわえ直し、切れた蔓を放して両手で新たな手がかりをつかもうとさぐった。それが見つかって、つかんだときには、「やれやれ!」とため息が出た。
あやういところだった。ふたたびのぼりはじめたが、こんどはシプダールの洞穴をまわって、まわり道をした。霧《きり》もふくめて、多くのことが彼女に幸いした。親のシプダールは一匹も洞穴にいなかったし、霧のある間、帰ってくる恐れはなかった。
海から三十メートル上に、絶壁の頂上があった。そこから上には、山が約四十五度の角度に斜面を作っている。ほとんど平地も同然で、オー・アアにとっては容易な道程だ。そこには木々が生えていた。進むにつれて、つぎつぎに霧の中から朦朧と姿を現わした。ペルシダー人は木を大事にする。枝々のかげは、地に住む大肉食獣から逃れる聖所なのだ。
木が見つかったので、オー・アアはもうこれ以上霧を必要としなかった。海がそうであったように、霧にも嫌気がさしはじめていた。だが、霧のほうがましだということはわかっている。霧ならいつかは晴れるが、海は絶対にそういうわけにはいかない。
油断なく、聞き耳を立て、空気を嗅ぎながらのぼっていった。ほどなく、霧の中から、ペルシダーの永遠の真昼の太陽のまばゆい光の中に出た。美しい景色だ。原始人は美を解しないなどと思うなら、諸君はどうかしている。いずれにせよ、オー・アアは美を解した。山はなおも峰にむかってゆるやかな勾配をのばしていた。みごとな木々が斜面に点在し、花々を星のようにちりばめて、緑草は水々しく茂っている。足もとには、霧がうねりつつ静かな銀色の海となってさんぜんと太陽にきらめいている。
頂上についたときには、霧は最初おりてきたときと同じように、奇蹟のように消えていた。四方を見渡して、彼女はがっかりした。見渡すかぎり、四方は海なのだ。この山だけが、大洋の深みから浮かび出て、小島を形成している。一キロ離れて、本土が見える。だがその一キロの海路は、山に住む穴居人の娘には、百キロにおよぶ荒海ほどに乗りこえがたい障害物と見えた。
そのとき、オー・アアは別のものを見た――彼女の心臓をまさしくでんぐり返すようなものを。
忍び寄ってくるのは、一頭のジャロク。ペルシダーの、獰猛な野性の犬だ。近くには木もない。
ジョン・タイラー号は岸に寄っていった。寄せ波が船を岩に打ちあてる。アー・ギラクは、最愛の快速帆船がこっぱみじんになる図を想像して涙にかきくれた。ついで、運命と、霧と、凪を呪ったが、わけてもオー・アアを呪った。
「だまれ、じじい!」ジャが命令した。かれは、沖にむいているほうの舷側にボートを下ろすよう命じた。屈強のメゾプたちが、それぞれボートの乗りこみ、大波がくるたびに、槍を使ってボートと船の間隔を保った。
ジャとジャヴとコーは、全員そろっているかどうか調べた。
「女はどこだ?」ジャがたずねた。だれも彼女を見たものはなかったので、ジャは男たちに船内をさがしにやった。かれらはもどってきて、彼女が船にいないと報告した。ジャはむきなおってアー・ギラクをにらみつけた。「あの娘はどうした、じじい?」
「どうもしねえよ」
「おまえはあの娘を下ろしたがっていた。さては海へ投げこんだな」
「もうそいつに用はありませんぜ」ジャヴがいった。「殺したらどうですかい」
「いやじゃ! いやじゃ!」アー・ギラクは悲鳴をあげた。「わしはあの娘を海へ投げこんだりしていない。どうしたのかしらんよ、殺さんでくれ。わしはただの哀れな老人じゃ。だれにも悪いことはせんよ」
「きさまの嘘つきはみんなが知っている」ジャがいった。「だからなんといおうと無駄だ。しかし、きさまが娘を投げこんだ現場を見た者はないから、疑わしきは罰せずという恩典をあたえて、殺さないでおいてやろう。そのかわりに、きさまを船に置き去りにしていく」
「しかし、それじゃ船はばらばらになって、わしゃおぼれちまう」アー・ギラクが懇願した。
「そいつはきさまのことで、おれの知ったことじゃない」ジャはいった。こうしてメゾプたちは、アー・ギラクをあとに残して、難破したジョン・タイラー号を見捨てた。
メゾプたちは無事に岸に着いた。そしてそのすぐあとで、霧が晴れた。と、にわかに強風が起こって、陸から海に吹いた。ジョン・タイラー号の帆が風をはらむのを、メゾプたちは目撃した。
「じじいめ、困っておるようだな」ジャヴがいった。
「見ろ!」コーがさけんだ。「船が沖に出ていくぞ」
「潮がさしてきて、船を浮き上がらせたんだ」ジャがいった。
「あるいは下船したのは早まりすぎたのかも知れない。おれは陸がきらいだ」と、だれかがいった。
そこでかれらはボートの乗りこみ、こいでジョン・タイラー号のあとを追った。アー・ギラクはかれらがやってくるのを見て、かれらの意図を読みとった。メゾプ族にたいする恐怖と、復讐してやりたいという強い願望にかり立てられて、かれは舵につくや、風を充分に利用した方角に針路をとった。これでジョン・タイラー号は船足をつけ、汗だくのメゾプたちを尻目にすたこら逃げだした。ほどなくメゾプたちは追跡をあきらめ、ボートを岸に返しはじめた。
「ちきしょう、あの、シシックじじいめ!」ジャヴがさけんだ。シシックとは、ひきがえるに似た爬虫類のことだ。
ジャロクは、大きな、あら毛のヒエノドンだ。大きさは豹《ひょう》くらいだが、足は豹より長い。ふつう、群をなして獲物を襲うが、もっとも大きく、かつ獰猛な動物でさえ、襲撃を受けては無事ですまない。かれらはこわいもの知らずで、いつも飢えている。オー・アアは、ジャロクのことは知りつくしていたから、文字どおり木の上に(up a tree)いるのならよかったのにと思った。比喩的《ヽヽヽ》にいっても、まさしくそのとおりだった(訳注up a treeには木に追いあげられるという意味と進退きわまるという、意味と二つがある)また、彼女は危険な立場(behind the eight ball)にあったわけだが、彼女は、|eight ball《エイト・ボール》など知るよしもない。危険な立場(behind the eight ball)にあってしかも進退きわまる(up a tree)ということは、非常に厄介なことだ。(eight ballは、玉突きで、八とかいた黒球のこと)
オー・アアは、短剣を抜いて待った。くだんのジャロクは、寝そべった。そして伸ばした前足に頑丈な顎をのせてオー・アアに目をむけた。これが娘を驚かせた。けものが突進してくるものと思っていたからだ。さながら大きな、むく毛の犬のように見える。しかし、オー・アアは、見かけにはだまされなかった。ジャロクは、ときには飼いならされる場合もあるが、決して家畜化されないということを、彼女は知っている。このジャロクは、たぶん腹がすいてないので、空腹になるまで待っているのだ。
いつまでも、〈ここでただこうして食べられるのを待ってるわけにはいかないわ〉、と、オー・アアは考えた。そこで、さっきまでむかっていた方角へ、そろそろと歩きだした。ジャロクは、起き上がってついてきた。
足もとには、なだらかな下り坂が、沿岸の幅の狭い平原につづいている。左のほうのどこかから小川が端を発して、山腹をうねりながら流れ下っている。小川は、他の幾筋かの小川と途中で合流し、小規模な河となって、平原を曲りくねって流れ、海に達している。それは、こよなく美しい眺め――紺碧の海にはめこまれた一個の小さな宝石――だった。しかしちらとふり返って、ジャロクがついてきていることを知ったオー・アアはそれどころではなかった。
〈もし、あたしが木にのぼったら〉、オー・アアは考えた。〈ジャロクは、あたしが降りてくるか、落ちてくるまでその下に寝そべっているだろう〉。オー・アアには、彼女の世界のジャロクのことがよくわかっている。そこで、彼女は歩きつづけた。
一キロ近く下ったとき、荒々しいうなり声が前方左手に聞こえた。見ると、一頭のコドンが丈高い草むらのかげから飛び出して、彼女に遅いかかってくる。今はこれまでと観念したが、それでも短剣をかまえて、最期を待った。と、そのとき、何かが稲妻のように彼女の横をかけ抜けた。あのジャロクだ。かれは、コドンが、オー・アアにまさしくとびかかろうとするところを迎え撃った。コドンというのは、地上世界では消滅して久しい、巨大なまだら狼だ。
つづいて、この二頭の兇猛な野獣の間に、勇壮ともいうべき闘いがはじまった。オー・アアはかれらが夢中になっているのをさいわい、すたこら逃げだした。山腹をかけ下りる彼女に耳に、争う二頭の咆哮とうなりが聞こえてくる。だが、それも長いことではなかった。声は不意にとだえた。オー・アアはちらと後を返り見て、またしてもがっかりした。例のジャロクが駆けてくるではないか。その後《うしろ》に、息絶えて倒れたコドンの動かぬ死体が見えた。
オー・アアは立ちすくんだ。最期は目に見えている。それなら今、直面すればいいではないか。ところがジャロクは二、三メートル手前でいったん立ち止まり、|尾を振りながら《ヽヽヽヽヽヽヽ》彼女のほうへふたたびよってきたのだ! 白亜紀の昔からこんにちに至るまで、地底地上を問わず、犬族の間においてそれはずっと同じ一つのことを意味してきた。
オー・アアは、短剣を鞘に収めて待った。ジャロクは近寄ってきて、彼女の顔をじっと見上げた。オー・アアがジャロクの頭に手を置いて、耳の後をこすってやると、大きなけものは彼女の手をなめた。そして、オー・アアがふたたび海にむかって下りはじめると、身体をすりよせながら彼女の横をついてきた。ホドンを失ってこのかた、これほど安全を感じたことはなかった。彼女は、ジャロクの首筋の周囲のあら毛に指をからませた。二度と手放さないように。
デヴィッドとアブナー・ペリーとガークに別れを告げていらい、どんなに友達に飢えていたか、今この瞬間にはじめて彼女は気がついた。だが、今では友人も保護者もある。オー・アアは、しあわせといってもいいほどだった。
浜に近づくと、ジャロクは右のほうに進んでいく。オー・アアはかれにしたがった。かれは小さな入り江にみちびいていった。そこで彼女は、満潮の浜の上手に、一隻のカヌーが引きあげてあるのを発見した。ジャロクは、その横に立って彼女を見上げた。カヌーの中には、武器と褌《ふんどし》が置いてある。これらを見て、オー・アアは事情をのみこんだ。カヌーの中の品々の、だいたいのようすから察して、それらがしばらくの間触れられていないということがわかる。男というものは、裸の丸腰で、武器からそう遠く離れたところへ行くものではない。こういったことから、彼女は筋書を再現してみた。曰《いわ》く、一人の戦士が、ジャロクをつれて本土から猟に来た。それが、水浴びに海へはいったところ、コルサール・アズにうようよしている、無数の大食海獣類のうちの一頭につかまって、喰われてしまった。あるいは、シプダールが舞い降りてきて、かれをさらっていったのかもしれない。ともあれ、男は二度とふたたびもどらず、彼女がその男の武器とカヌーとジャロクを引きつぐことになったという確信を彼女は抱いた。だが、彼女と本土との間には、一キロにおよぶ恐ろしい海がひかえているのだ!
彼女が、海のはるかかなたの岸に目をやったおりもおり、ジョン・タイラー号が沖合いに出ていくのが見えた。船上にいるのはアー・ギラクだけだということを、彼女は知る由もない。はるかな岸にいる連中は、遠すぎて彼女から見えない。彼女はカヌーを見て、それからもう一度、海のむこうを眺めやった。ジャロクは彼女の足もとに寝そべっている。サンダルをはいた足で、荒いたてがみをこすってやると、ジャロクは彼女を見上げ、牙をむきだして、犬がよくやる笑顔を作った。強靭な顎《あご》にそなえられたものすごい牙、彼女を瞬時に八つ裂きにすることができる牙だ。
オー・アアは、ジャロクのかたわらに腰を下ろして、先々の計画を立てようとした。彼女がほんとうにやろうとしていたことは、カヌーをこいであの恐ろしい一キロの海原をこえようと決心する気持ちになるまで、勇気をふるい起こすことだった。それが行きづまるたびに海に目をむけると、恐ろしい頭部や、背びれが海面を割るのが見えるのだ。すると彼女の勇気は急降下してしまう。そして、風が反対方向なのに気づくと、出発を遅らせる絶好の口実に、ほっと安堵の吐息をつくのだった。
彼女は、カヌーの中身をさらにくわしく調べた。石の短剣、石の穂先のついた槍、木の柄に形のよい石の刃のついた斧《おの》、弓と矢筒、櫂《かい》が二挺、二メートルそこそこの棒、繊維を織ったむしろ、草を編んで作った縄類。これらの品々は、オー・アアになんらかの示唆をあたえてくれた。それは、あの、果てもなく広がって、波立ちうねりながらソジャル・アズとコルサール・アズを形成している未知の媒体へ冒険にのりだす以前の彼女には、思いおよばぬ事柄だった。オー・アアは、カリの穴居人の娘が受ける教育科目にはいっていないことどもをずいぶん学んだのだった。
彼女は、さらにすすんで漕手座に穴が一つあいているのを発見した。そしてその下のカヌーの底に、その穴から通じている受け穴も。これで、あの棒や、むしろや縄がなんのためのものかわかった。彼女の決意は固まった。彼女としてはあとは追い風を待つばかりだ。エッチラオッチラこぐよりかずっといい。それに、強風が起こるまで待つつもりだから、行程はぐんと短縮されるだろう。行程が短くなれば、ペルシダーの海に船出する者の生存をつねにおびやかす数々の障害も少なくなるわけだ。
風が変わるまで運命の決定が引き延ばされたとなると、急に空腹を覚えた。彼女は、槍と、矢のはいった矢筒と弓を手に猟に出かけた。ジャロクもついてきた。
アー・ギラクは舵輪を縄で固定しておいてから、先刻岩にぶつかったときにこうむった損害をたしかめにおりていった。船は|ごきぶり《ヽヽヽヽ》のように息災だった。サリ人が木材をよく選び、たくみに作ったからだ。
舵輪にもどって、かれは自分の立場を考えた。あまり楽観できたものではなさそうだ。ジョン・タイラー号には二、三十人の乗組員が必要だ。どうみても、ちっぽけな老人一人ではやっていけない。今のような風があれば、行く手に大洋があるかぎり、この針路を持続していけるだろう。少しなら操縦することもできるかもしれない。アー・ギラクは生涯を航海に明け暮れてきたのだから。だが、嵐はかれの生命《いのち》取りになるだろう。
星も月もなく、静止した太陽のもとでは、たとえ必要な計器類や、信頼のおける海図があったところで航海することは不可能だ。ましてやかれには計器類も海図もない。もし無名海峡が見つかっても、かれには航行できなかっただろう。アー・ギラクは手も足も出なかったし、自分でもそれがわかっていた。そこで、機会がありしだいにジョン・タイラー号を岸に着け、いちかばちか、陸路を行くことに決めた。
オー・アアは細い河に下っていった。油断なく、かげになる木や、丈高い草むらや、下生えを利用して進んだ。かたわらのけものと同じように、ひそやかに進んだ。左手に弓と数本の矢を握りしめている。別に一本の矢がその弓につがえてあって弦《つる》をなかば後に引いてある。さしずめ、弾倉にはいるだけの弾をこめて安全装置をはずした四五口径といったところだ。
突如として、近くの下生えから、三頭の馬が飛びだした。たてつづけに二本の矢が放たれ、二頭が倒された。オー・アアが駆けつけて、短剣でとどめを刺す一方、ジャロクがあとの一頭を追跡してこれを倒した。
オー・アアは自分がしとめた二頭の馬を一ヵ所に集めて、ジャロクが自分の獲物をたいらげる間待った。それから、そろってカヌーに引きあげた。獲物がオルトビだということを彼女は知っていた。諸君なら、それが後期始新世のハイラコセリーだとお気づきになったことだろう。名馬シービスケット号や、ワールアウェイ号の遠い祖先にあたる、狐ほどの大きさの小動物だ。
オー・アアは、一頭をジャロクにあたえ、つぎに火を起こして、もう一頭からたくさん肉をとって自分のために料理した。飢えが満たされると、木の下に横たわって眠った。
目がさめたとき、ジャロクは? とあたりを見まわしたが、どこにも見あたらない。どっと寂しさが襲ってきた。あの兇暴なけだものが共にいて守ってくれると希望をあたえてくれたからこそ、元気も出たのに。急に前途が暗澹《あんたん》たるものに思えてきた。突然の失望に、本土の岸が遠ざかったような気がする。彼女は、思いつめたあまり、みずからこの世を恐ろしい危険でいっぱいにした。だが、そんな必要は毛頭ないのだ。すでに造化の神が、そのほうで引き受けてくれているのだから。
彼女が自己|憐憫《れんびん》におぼれていたのはごくわずかの間だった。ついで彼女は気をとりなおし、肩を張って、ふたたび自信たっぷりな、穴居人カリ族の娘にもどった。彼女は海を眺め渡して、風が本土にむかって強く吹きつけていることに気がついた。眠っている間に風むきが変わったのだ。
カヌーのところへ行って、帆柱を立て、帆を張った。彼女は自分のできるかぎりをつくしてやったが、なかなかのできばえだった。それというのも、オー・アアは非常に聡明な娘で、観察力が鋭く、よい記憶力の持ち主だったからだ。カヌーを引っぱってみて、自分で動かせることがわかったが、海へ引き入れる前に、もう一度ジャロクをさがすことにした。
さがしてよかった。ジャロクは何かを背にかついでこっちへやってくるではないか。近づいてきたとき、それが小鹿の死骸だということがわかった。なおも死骸の一端に喰いつきながら、背にかついでやってくる――アフリカ・ライオンがこの方法で、獲物を運ぶことで知られている。
ジャロクは尾をふりふり寄って来て、彼女の足もとに獲物を置いた。オー・アアはかれに会ったうれしさのあまり、ひざまずいてあら毛の首筋に両腕を巻きつけて抱きしめた。あきらかにこれはジャロクの生活ではかつて経験したことのないことだったが、それでも、その意味がわかって気に入ったらしく、牙をむきだして笑い顔を作り、娘の顔をぺろぺろとなめた。
ここで問題が起った。鹿を一部料理して食べていては、風むきが変るかもしれない。だが一方では、こんなに大量のよい肉を、むざむざ置き捨てにするにしのびなかった。とるべき手段は、持っていくことだが、ジャロクは獲物をかれからとって行かせてくれるだろうか? 彼女はためしてみることにした。鹿をつかんで、水際へずるずると引きずりはじめた。ジャロクはじっと眺めていたが、やがてこっちの意図をのみこんだらしく、鹿をくわえて彼女に協力した。オー・アアは彼女がすでにほとんど確信しかかっていた事実を、あらためて実感した。今、目の前にいるのは、よく訓練され、死んだ主人によくつかえてきた、狩猟用の動物なのだ。
波打ち際に鹿を置くと、オー・アアはカヌーを水に引き入れた。力をふりしぼらなくてはならなかったが、そのかいあって、ついに水に浮かぶ姿を見ることができたのだった。ついで鹿をカヌーまで運んだ。
ジャロクに名をつけていなかったし、カヌーに乗るように呼びかけるすべもわからないが、その必要はなかった。彼女がふなべりから乗りこむと、ジャロクはとび乗ってきて、舳先におさまった。艫《とも》のほうはまだ砂地にのっていたが、帆はすでに風をはらみ、そこから脱しようと、ぐいぐい引いていた。二、三度いきおいよくこぐと、小舟は解放され、オー・アアは恐ろしい海に乗り出した。
櫂で舵を取りながら、オー・アアは舟の舳先がたえず対岸の一点にむき、艫に風がまともに吹くようにしていた。風が強くなるにつれて、カヌーは水を切って疾走した。こぐよりよっぽどいいし、それにずっと速い。こんな舟旅なら悪くないなと思えるほどだ。もっとも、この海にはびこる無数の恐怖や、ときとして打ちかかり、海を怒り狂わせる恐ろしい嵐がなければの話だが。
危険のきざしはないかと、たえず水面をさぐっていたオー・アアが、ちらとふり返って見たものは、タンドラズの長い首と小さい頭だった。タンドラズは、ペルシダー語で海のマンモスという意味だ。爬虫類はカヌーの後を追いながら、徐々に追いついてくる。あの小さな脳みそで何を考えているか、オー・アアにはわかっていた。そして、どんな武器を使おうと、相手を怒らせるのが関の山だということも。
もしも、神というものを知っていたら、彼女は、もっと風を送ってくださいと祈っていただろう。だが神を知らなかったから、自分の知恵にたよるほかはない。ふと、彼女は鹿に目を落とした。タンドラズを倒すのは無理だとしても、手間どらせることさえできれば、逃げられるかもしれない。
もはや岸もそう遠くないし、カヌーは、泳ぐ爬虫類とほとんど同じくらいの速さで疾走している。もっとも、相手が最大限の力を発揮しているかどうかは、オー・アアにも、まったく確信がなかった。だが実際はそうではなかったのだ。
デヴィッドにもらった鋼鉄の短剣で、彼女は鹿の死骸の腹を開き、臓物を抜き出した。ちらと後方を見ると、タンドラズは今にも襲いかかろうとしている。冷たい、爬虫類独特の目が、ぎらぎらと彼女を見下ろしている。蛇のような口を、あんぐりと開いて。
臓物を舳先まで引きずっていって、今しもシューッ、シューッと音をたてている怪獣のすぐ目の前に投げこんだ。つづく数秒間は、永遠とも感じられた。あいつは餌にかかるだろうか? あのちっぽけな脳みその中の鈍い知恵は、それほど簡単にそれまで追いつづけて来た一つのもくろみからそらされるものだろうか?
新鮮な動物の内臓と血は、オー・アアを有利にみちびいた。怪獣の首は弓なりに曲り、頭部は臓物めがけてはげしく打ち下ろされた。タンドラズがその場に止まって、このひと口のご馳走にむしゃぶりついている間に、カヌーは離れていった。距離はしだいに開いていく。もう岸はすぐそこなのだが、砂浜には大波が打ちよせていた。
オー・アアは櫂を手に、ふたたび舵を取っていた。うれしさで胸がいっぱいだった。あまりにもあやうい瀬戸際で死をまぬかれたので、それに比較すると、激しいよせ波の脅威はとるにたりないもののように思えるのだ。タンドラズをふり返って、一瞬心臓が止まった。あきらかに、獲物が逃げるのに気づいたタンドラズは、ものすごい速さで水を切って追ってる。
オー・アアは、ふたたび前方に目をやった。タンドラズが追いつくまえに、あのよせ波のところまで行ける確信はある。しかし、だからどうだというのだ? 波打ち際で砕けて、浜のはるか上までうねりのぼっていく山のような波を、このカヌーで切り抜けられるとは思えない。水に投げ出されたら、あの爬虫類は襲いかかってくるだろう。だが、全部を餌食にすることはできまい。過去数分間の悲劇も知らぬげになおもカヌーの舳先にすわっているジャロクや彼女自身よりも、鹿の死骸に喰いついてくれることを願わずにはいられなかった。
再度〈海のマンモス〉は、彼女の頭上にぬっと鎌首を持ち上げた。カヌーは大波にとらえられて高々と持ち上げられた。と、オー・アアは、いきなりどっと突進していく自分を感じた。カヌーが、切迫する危険を察して、脱兎のごとく逃げ道を求めてかけ出したかのようだった。
今やカヌーは、大波の頂きの真上をこえたところに高々と乗せられて、おびえた鹿さながらに岸をさして疾走した。そして、目くるめく泡の渦に巻かれて、砂の上に止まった。タンドラズからは、ずっと離れてとどかない。オー・アアは、カヌーからとび出して、引いて行く波にさらわれないように押さえた。そしてつぎのよせ波で、ずっと上の安全な場所まで引きあげた。それから、くたくたになって砂の上に身を投げ出した。
ジャロクが来て、そばにすわった。彼女はあら毛をなでてやった。「やったわ」彼女はいった。「とてもだめかと思ったけど」
ジャロクは何もいわなかった。すくなくとも言葉では。かれは大きな前足を彼女にかけて、彼女の耳をなめた。「おまえに名前をつけてやらなくちゃね」オー・アアがいった。「そうねえ。あ、思いついた! ラーナがいい。おまえにふさわしい名前よ」ラーナとは、殺し屋という意味だ。
オー・アアは半身を起こして、現状を考えた。砂浜のむこうで土地は徐々に高くなり、四、五百メートル奥で低い尾根《おね》を作っていた。尾根のむこうには、丘が起伏してつづき、この地平線のない世界で、上むきの弧を描いて遠くの山々と一体となり、その山々もまた、かなたの靄にとけこんでいるのだった。
オー・アアとその尾根との間の土地は、短い草といじけた灌木ですきまなくおおわれ、風に吹きさらされた木が、そこここに点在している。木を見て、オー・アアは、こんなあけっぴろげの場所に寝そべっていては、死を呼びよせていることになると気がついた。最初に彼女を発見した翼竜を招いているようなものだ。
彼女は起き上がってカヌーにもどり、鹿の死骸を片方の肩にかついで、武器をまとめた。それからジャロクを見下ろして、「おいで、ラーナ!」と声をかけてから、もよりの木に歩いて行った。一人の男が、起伏する丘から降りてきて、先刻、オー・アアが二、三百メートル奥にみとめたあの低い尾根の縁で立ち止まった。男のかたわらには、一頭のジャロクがいた。男は褌のほかは何も身につけていない。石の穂先の槍と、石の短剣と、弓矢を持っている。
娘の姿を見ると、かれはぱっと地面に伏せた。そこは背の低い灌木にかくれて見えない。かれがジャロクに何かしゃべると、ジャロクはかれの横に伏せた。男は、浜に引きあげてあるカヌーに目をとめ、娘とともにいるジャロクに目をとめた。鹿の死骸も見た。最初、かれは娘のことを男だと思ったのだが、よく見るうちにそれがまちがいだったことがわかった。同時に、かれは怪訝《けげん》に思った。ここにはジャロクとカヌーを持った女がいるはずがない。ここは男の国だし、石器時代の男は、自分たちの小さな王国の内情にはすっかり通じているものだ。
オー・アアは、鹿の死骸から、たっぷりと肉のついた後足を切って、ラーナにあたえた。彼女は、戦斧と鋼鉄の短剣を使った。それから、乾燥した草と、小さな枯枝を集めてきて、火を起こし、自分の食事を作った。ほっそりと小柄な金髪娘《ブロンド》のオー・アアが、丈夫そうな白い歯で肉をくいちぎる。優に農場労働者二人前分をたいらげてしまった。ペルシダー人は食物をとって活力をたくわえる。しばしば長期間にわたって、食物なしでやっていかなくてはならないかもしれないからだ。また同じく、かれらは長時間の睡眠によって休養をたくわえる。
彼女は、たくわえられるだけ活力をたくわえると、こんどは休養をたくわえるために横になった。ラーナのうなりで目をさまされた。背筋の毛を逆立てて彼女のかたわらに立っている。
一人の男が近づいてくるのを、オー・アアは見た。ジャロクが一頭、横を歩いてくる。娘は弓矢をつかんで立ち上がった。今では両方のジャロクがうなっている。オー・アアは矢を弓につがえた。「あっちへ行け!」彼女はいった。
「手出しはしないよ」オー・アアがたいそう可憐で、非常に好もしいということに気づいていた男はそういった。
「そのせりふをおまえに教えてやろうとしてたところさ」娘は答えた。「手出しでもしようとしたら、殺してやることだってできたんだ。ラーナにはやれたんだからね。夫でも、父でも、七人の兄弟でもやれたことさ」兄弟が十三人では、多すぎてもっともらしく聞こえないように思えたのだ。
男はにやにやして腰を下ろした。「おまえはだれだい?」
「あたしはオー・アア。カリの王ウースの娘よ。夫は疾風《はやて》のホドン。七人の兄弟はみなすごく大きくて、荒くれぞろいよ。三人の姉妹はペルシダー中でいちばん美しいわ。あたしはその三人よりまだ美人なのよ」
男は相変わらずにやにやしている。「カリなんて初耳だな。どこだい?」
「あっちよ」オー・アアは指さしながらいった。「あんたってよっぽどばかね」彼女はつけくわえた。「カリは世界中でいちばん大きい国なのよ。戦士たちが住むのに一つの山脈全部の洞穴がいるわ。なにしろ、今あんたの目に見えるかぎりのところにある草の数ほどいるんですからね」
「きみはとても美人だ」男はいった。「美人でなかったら、あれだけほらを吹いた罰に打ってやるんだが。とにかく、ひとつ打ってやるか」
「やってみるがいいわ!」オー・アアが挑戦した。「この前眠ってからまだだれも殺してないんだからね」
「なるほど、そういうことか? 兄貴を殺したのはおまえだな」
「おまえの兄貴なんて殺すもんか。会ったこともないのに」
「それじゃ、どうやって兄貴のカヌーを手に入れた? ジャロクも、武器も? 全部兄貴のものだってことはわかってるんだぞ」
ここでオー・アアは、ちょっと薬が効きすぎたかなと思ったので、本当のことを話すことにした。「今、話すわ」
「本当のことをいうよう、気をつけて話せ」
「あの、海から突き出ている山が見えて?」彼女は、例の島を指さしながらたずねた。男はうなずいた。「あの山のむこう側で、あたしは大きなカヌーから海へとびこんだのよ。ドリー・ドーカスって名前じゃないじいさんから逃れるためにね。それからあの山のこっち側へこえてきて、そこでラーナに出会ったの」
「そいつの名はラーナじゃないよ」
「そうじゃなかったかもしれないけど、今はそうなんだから。それからね、この先もう口をはさまないでちょうだい。ラーナはあたしをコドンから救ってくれて、それであたしたちは友だちになったの。あたしたちは波打ち際まで来てカヌーを見つけた。こういう武器と褌が中にあったわ。あれがあんたの兄さんのカヌーだとしたら、あんたの兄さんは水にはいってタンドラズに喰われたか、シプダールが舞い降りてきてさらっていったか、どっちかにちがいないと思うわ。あたしは殺さないわよ。短剣しかないのに、どうやって戦士が殺せて? あんたも見てのとおり、そのほかの武器は全部カヌーで見つけたものばかりよ」
男は、オー・アアの話を吟味するように考えた。「ついにほんとうのことをしゃべったようだな。なぜなら、もしもきみが兄貴を殺したのなら、ジャロクがきみを殺していただろうからだ」
「さ、それじゃあっちへ行って、あたしを一人にしといてよ」
「そしたらどうするんだ?」
「カリへ帰るのよ」
「カリまでどのくらいあるか、知っているのか?」
「いいえ。カリは、ルラル・アズの海岸からそれほど遠くないところなのよ。ルラル・アズまでどのくらいあるか知ってて?」
「ルラル・アズなんて初耳だね」男がいった。
「あんたってよっぽどばかね」と、オー・アア。
「きみほどばかじゃないさ。もしも、きみがきみの指さした方角へ進んだらカリへ着くとでも思っているならね。そっちのほうには山脈があってこせないよ」
「まわって行くからいい」
「きみは勇敢な娘だよ」男はいった。「友だちになろうじゃないか。おれの部落へいっしょにこいよ。カリへ帰るのを手伝ってやれるかもしれないぜ。すくなくとも戦士たちなら、山脈のところまでいっしょに行ける。そのむこうには、われわれの一族は行ったことがないがね」
「あんたがあたしに手出しをしないってことが、どうしてわかるのよ?」オー・アアがたずねた。
男は、武器を全部捨てて、両手をあげて進み出た。それでかれが手出しをしないということが、オー・アアにもわかった。
「友だちになりましょう」彼女はいった。「あんたの名は?」
「おれは、ザーツ族のユータンだ」かれはふりむいて自分のジャロクに、「パダン」といって何かしゃべった。「きみのジャロクにわれわれが友だちだってことを教えてやってくれ」かれはオー・アアにいった。
「パダン、ラーナ」オー・アアがいった。パダンというのは、友人または友だちという意味のペルシダー語だ。
二頭のジャロクは、たがいに足をちょっとこわばらせて近寄った。だがおたがいに嗅ぎ合うと、緊張をほぐして尾を振った。二頭は、ザーツの部落でいっしょに育てられた仲だったのだ。それでも、飼いならされた犬同士のように、ふざけて跳んだりはねたりというようなことはなかった。かれらは獰猛《どうもう》な野性のけもので、かれらの種族独特の威厳を生まれながらにそなえているのだ。成長した野獣は、人間よりもはるかに威風堂々としている。あいつはけだもののようなふるまいをする、と苦々しげに人がいうとき、実際は、人間のようなふるまいをするといっているわけだ。
「きみは櫂が使えるのか?」ユータンがオー・アアにたずねた。
「あたしは、ペルシダーの海という海をこぎまわってきたのよ」
「そらまたはじまった! まあいい、そのうちに慣れなくちゃしようがないだろう。ともかく、兄貴のカヌーを安全な場所へこいでいくのを手伝ってくれ」
「あたしのカヌーよ」オー・アアがいった。
ユータンはにやりとした。「そうそう、きみはこれをこいで山越えをしてカリまで行くんだったな?」
「自分でそうしたいと思ったら、やれるわよ」
「きみのことがよくわかってくると、疑う気もなくなるよ。きみのような女がほかにもカリにいるのなら、ひとつきみといっしょに行っておれの連れ合いにするかな」
「あんたなんか受け入れてもらえないわよ」オー・アアがいった。「背が低すぎるもの。一メートル八十そこそこでしょう。あたしたちのところの男はみな二メートルあるわ――二メートル五十の男をのぞけばね」
「きたまえ、ほら吹き娘」ユータンがいった。「カヌーを出すんだ」
二人は協力してアウトリガーを水に引き入れた。オー・アアが舳先に乗りこみ、二頭のジャロクもとび乗った。そして、ちょうどよい頃合いを見はからって、ユータンはカヌーにぐいとひと押しくれておいて、自分もとび乗った。
「さあ、こいで!」かれはいった。「思いっきりこぐんだ」
カヌーは大波の波頭にのぼり、むこう側へすべり降りた。二人は、大波を越えるまで死に物狂いでこぎまくった。それから、岸を平行に走って小さな河の河口に出ると、ユータンはその河に曲りこんでさかのぼりはじめた。
木々が河面にたれ、鰐《わに》がうようよしている、美しい小河だった。約一キロさかのぼったところで急流となった。ここでユータンは、右手の河岸に舟を着けた。そして、二人してカヌーを引きあげた。そこは青々と草が茂っているので、カヌーはうまい具合に隠せた。
「ここならきみのカヌーも大丈夫だ」ユータンがいった。「きみがこれに乗ってカリへ山越えするというときまではね。さあ、おれの部落へ行こう」
ホドン、ラジ、ダイアン、そしてガンバは、ロ・ハール号の後甲板に立っていた。ホドンは相変わらず一つの小さな点を求めて、水面を見つめていた。心の底では、二度とふたび見つからないだろうとわかっている小さな点――オー・アアが乗っているサリ号は、ソジャル・アズで風と潮流にさらわれ、疑いもなく無名海峡を抜けて、コルサール・アズにはいったのだ。三角帆を装備した、小さなロ・ハール号は、霧や凪《なぎ》に悩まされてきたが、今は晴天に恵まれ、順風を唯一の帆にはらんでいた。
ホドンは、悲しげに首を振っていった。「どうやら絶望のようです、ダイアン」美女ダイアンは黙認するようにうなずいた。
「部下が落ち着かなくなってきています」ラジがいった。「もうずいぶん長く故郷を離れているので、女たちのところへ帰りたがっているのですよ」
「よし、わかった」ホドンがいった。「サリへもどせ」
小型船が方向転換したとき、ガンバが指さした。「あれはなんだ?」
みんないっせいに見た。遠く靄《もや》に包まれた海上に、白い点がある。「あれは帆だ」と、ラジがいった。
「オー・アアだ!」ホドンがさけんだ。
風は前方からまともに吹きつけていたので、ロ・ハール号はジグザグにタックしなくてはならなかった。しかし、身元不明の船は、追風を受けて一直線にこっちへ帆走してくるということがすぐにあきらかとなった。両者の間隔は着実にせばまってくる。
「あれはサリ号じゃない」ラジがいった。「大きい船だ。わたしがこれまで見たことのあるどの船よりも帆の数が多い」
「コルサール族にちがいないわ」ダイアンがいった。「もしもそうなら、わたしたちはおしまいよ」
「われわれには大砲があります」ホドンがいった。「そして戦闘員も」
「方向を変えろ」ガンバがいった。「別のほうへ行くんだ。たぶんまだわれわれを発見してないだろう」
「あなたはいつも逃げ腰ね」ダイアンが軽蔑したようにいった。「このまま進んで戦うのよ」
「方向を変えろ!」ガンバが金切り声をあげた。「命令だぞ! 余は王だ!」
「だまれ!」ラジがいった。「メゾプは後を見せぬ」
「サリ人もよ」ダイアンがいった。
ユータンがオー・アアをみちびいていったザーツの部落は、小河の流れる美しい谷間にあった。オー・アアがカリで住みなれた洞穴部落とちがって、ここの家々は竹でできており、屋根は草|葺《ぶ》きで、地上三メートルの柱の上に建っていて、地上から戸口まで、粗末な梯子がついていた。
こういった家がたくさんあって、戸口や、その下の地面には大勢の戦士、女、子供がおり、ほかに人間とほぼ同数のジャロクがいた。
ユータンとオー・アアが近づくと、部落のジャロクはいっせいに背筋の毛をさか立て凍りついたように静止した。ユータンがどなった。「パダン!」かれを認めると、何人かの戦士がどなった。「パダン!」
すると、ジャロクは緊張をとき、ユータンとオー・アアは安全に部落へはいった。だがジャロク同士の間では、和親協定が成立するまでしきりに嗅いだり匂ったりがおこなわれなくてはならなかった。
戦士や女たちは、ユータンとオー・アアを取りかこみ、質問を雨と浴びせた。オー・アアはそこでは好奇の的《まと》だった。ザーツ族の髪は漆黒なのに、オー・アアはみごとな金髪だったからだ。
かれらは金髪娘を見たことがなかった。ユータンは、オー・アアにかんして知っているかぎりのことを話し、族長ジャルーに、彼女がこの部落にとどまってもよいかどうかたずねた。
「彼女は、あの〈恐ろしい山々〉のむこう側にあるカリという国の者です。これからあの山々をこえるつもりなんですが、わたしの見るところでは、彼女ならやりかねませんよ、ほかのだれにできるならの話」
「だれにもできぬ」ジャルーがいった。「娘はとどまってよろしい――三十回眠る間だ」かれはいい足した。「ただし、われわれの戦士の中で彼女を妻にするものがあったら、永住してもよし」
「あんたの戦士で、あたしを妻にする者がいるものか」オー・アアがいった。「それに、あたしは三十回眠るよりずっと前に、ここを出るわ」
「おれの戦士が、だれもおまえを妻にしないと、どうして思うんだ?」ジャルーがたずねた。
「あたしが承知しないからよ」
ジャルーはからからと笑った。「もしおまえを妻にしたいという戦士があったら、おまえにおうかがいは立てぬ。そいつは自分のしたいようにするだろうぜ」
こんどはオー・アアの笑う番だった。「そいつはどてっ腹に短剣をお見舞いされるだろうよ。あたしは大勢の男を殺して来たんだ。おまけに、あたしには夫がいるのさ。もしもあたしがひどい仕打ちを受けたら、夫がくる。それに十一人の兄弟と父もくる。やってきて、あんたたちなんかみな殺しさ。すごい荒くれぞろいなんだから。背も二メートル半あるんだよ。夫は疾風《はやて》のホドンというサリ人だ。サリ人は、すごく荒っぽい部族なんだからね。でも、あたしに親切にすれば、ひどい目にあわさないわ。ここにいる間、ラーナとあたしは、あんたたちのために猟をしてあげる。あたしはすばらしい猟師なんだから。ペルシダー一の腕のいい猟師は、たぶんこのあたしでしょうよ」
「おまえはたぶん、いちばん口のうまいほら吹きだろうよ」ジャルーがいった。「ラーナとは何者だね?」
「あたしのジャロクよ」オー・アアは、かたわらに立っているけものの頭に手を置きながらいった。
「あたしは別よ」オー・アアがいった。
ジャルーの口元がほころびそうになった。かれは、この黄色い髪の、異国の娘に感嘆している自分に気がついた。彼女には勇気がある。勇気こそは、族長ジャルーが理解し称賛する資質だ。これほどの勇気を女に見るのは今がはじめてだった。
一人の戦士が進み出た。「わたしが妻にしよう」かれはいった。「そして、女の本分を教えてやる。一度打ってやるといいんだ」
オー・アアは唇をゆがめて相手を冷笑した。「やれるならやってみな、このがにまた野郎」
戦士はさっと顔を赤らめた。かれはひどいがにまたで、そのことを気にしていたからだ。
かれは威嚇するように、今一歩オー・アアのほうに進み出た。
「やめろ、ザーク!」ジャルーが命じた。「娘は、連れ合いを持たずに、三十回分眠るだけいてよい。それ以上いるようなら、おまえのものにしてよいぞ――できるならな。しかし、わたしの考えでは、娘はおまえを殺すだろう」
ザークは、オー・アアをにらみつけて立っていた。「おれのものにしたら」と、かれはすごんだ。「真先に、死ぬほどおまえを打ちのめしてやる」
ジャルーは女の一人にむかって、指示をあたえた。「ハラ、この女が眠ってよい家を教えてやれ」
「来なさい」ハラがオー・アアにいった。
彼女は、部落のいちばんはずれの家にオー・アアを連れて行った。「今、ここは空家になっています」ハラはいった。「ここに住んでいた男女は、つい先頃タラグに殺されたのです」
オー・アアは梯子《はしご》を見、ついで戸口を見上げた。「あたしのジャロクは、どうやってあそこまで上ればいいのかしら?」
ハラは驚いて彼女を見た。「ジャロクは家の中にはいってきません」彼女は説明した。「梯子の下に寝て、飼い主に危険を知らせ、飼い主を守るのです。知らなかったんですか?」
「あたしの国には、飼いならされたジャロクはいないのよ」
「ここへ来て、一頭飼えて運がよかったわね。あんたはザークを敵にまわしてしまったんだから。かれは悪い男よ。父親のジャルーとはぜんぜんちがうわ」
〈やれやれ、族長の息子を敵にまわしちまったか〉。オー・アアは、骨張った、華奢な肩をすくめて考えた。
アー・ギラクは、しばしの間、追風を受けて南西の方角にすべるように帆走した。やがて風が止んだ。アー・ギラクは呪った。いろいろなものを呪ったが、なかんずく、オー・アアを呪った。かれの迷信にしたがえば、かれのいっさいの不運はオー・アアがもたらしたのだ。
ふたたび風が起こったときには、風は前とは反対の方角から吹いてきた。アー・ギラクは地団太《じだんだ》踏んで怒り狂ったが、どうすることもできない。進むことのできるのは一方向だけ、それは風のむくままだ。そこで、北東にもどりはじめた。かれは舵輪を動かないようにくくりつけておいて、食事と睡眠をとるために下へ降りていった。
ロ・ハール号と、ジョン・タイラー号は、たがいに接近しつつあったが、ロ・ハール号は大きいほうの船を避けようとはしなかった。大砲には砲弾がこめられ、乗組員は配置につき、戦闘準備はととのっていた。
相手の船におかしなふしがあると最初に気づいたのはラジだった。「甲板にだれもいないぞ」かれはいった。「舵輪のところにもだれもいない。いい船だが」なかばひとりごとのようにいって、それからはたと思いついた。「あいつをぶん取ろう」
「よせ! よせ!」ガンバがさけんだ。「まだこっちに気づいてないんだ。スピードを出せるだけ出して、逃げろ」
「ロ・ハール号をあの船に横づけできますか?」ダイアンがたずねた。
「できます」と、ジャヴはいって、下から部下を集め、それぞれに指示をあたえた。
ロ・ハール号は、はるかに舟足の速いジョン・タイラー号の手前で方向を転じた。そしてジョン・タイラー号が追いつくと、ジャヴはロ・ハール号をぐっと接近させた。両船の舷側が接触するや、敏速なメゾプたちは、ロープを手にわっとばかりにむらがってジョン・タイラー号に乗り移り、ロ・ハール号をジョン・タイラー号にしっかりと結《ゆわ》え付けてしまった。
二隻が接触した衝撃で、アー・ギラクは目をさました。
「くそっ! 何ごとじゃい?」かれはさけんで、梯子をよじのぼり、正甲板に出た。「そんな、べらぼうな!」かれは、こっちをむいて立っている十人ばかりのメゾプ族を見てさけんだ。
「とうとうわしも頭に来たか!」かれは、目をつむって顔をそむけた。それから、おそるおそる片目を開けて、横目をくれてみた。赤銅色の肌をした男たちはまだそこにいる。
「アー・ギラクじいさんだ」メゾプの一人がいった。「こいつ、人喰いだぞ」
アー・ギラクは、さらに大勢の人間がかれの船の舷縁をこえてあがってくるのを見、小型船ロ・ハール号の帆を見た。ラジとホドンもいたし、初めてお目にかかる美女の姿もあった。それに肌の黄色い男がいっしょにいた。だが今やアー・ギラクは何ごとが起きたかを知るとともに、前途にこれっぽちの希望の光もないと見えた矢先に訪れた、大いなる幸運を実感したのだった。
「神さま!」かれはさけんだ。「雨が降らなきゃ天気は晴れよ、とはよくいったもんじゃ。これで乗組員はあるし、このコルサール・アズから逃れてサリにもどれるわけじゃ」
「ほかにだれが乗っている?」ホドンがたずねた。
「わしのほかは、猫の子一匹乗っとらんよ」かれはすばやく考えをめぐらして、ほんとうのことを全部話さないほうがよさそうだと判断した。「その、ちょいとした悪運に見舞われてな――嵐の最中に座礁《ざしょう》したんじゃよ。乗組員たちは、船を見捨てるときに、わしのことをすっかり忘れとったらしい。わしが陸《おか》へあがるより早く、風が変わって潮が満ちてきた。ふと気がつくと、なんちゅうことじゃ、船はわし一人を乗せて出てしまっておるじゃないか」
「ほかにだれが乗っていたのだ?」ホドンがかねて追求した。
「そうさな、ジャがおったし、ジャヴに、コーに、そのほかのメゾプ族がおった。船を見捨てたのはこの連中じゃが、その前に、オー・アアが陸へ上がりたがって――」
「オー・アアだと?」ホドンがさけんだ。「この船に乗っていたのか? どこにいるんだ?」
「だから、今話そうとしていたろ。あの娘は、陸へ上がりたがって、船から飛び降りちまったんじゃ」
「船から飛び降りた?」ホドンの声は懐疑心に震えた。「きさま嘘をついているな、じじい」
「神かけて。死んでもええ」アー・ギラクがいった。
「彼女はどうしてこの船に乗ることになったんだ?」ホドンはつづけた。
「そのことなら、わしらが無名海峡でカヌーから拾い上げてやったんじゃ。あの娘がデヴィッドの居所を教えてくれたんで、わしらは引き返してデヴィッドを救出した」
「デヴィッドですって?」ダイアンがさけんだ。「どこにいるんです?」
「さよう、あれはジョン・タイラー号が座礁する前のことじゃが、デヴィッドと、アブナー・ペリーと、ガークとその部下のサリ族の戦士全員は、船でもどるより陸路を行くほうが早くサリに帰れると判断したんじゃ。そりゃ、みんなおつむがどうかしとるにはちがいないが、しかし、それにしても――」
「みんなどこで上陸したのです?」ダイアンがたずねた。
「そんなむちゃな! わしにわかるわけがなかろうが。海図はなし、月はなし、星はなし。あのいまいましい太陽は、金輪際《こんりんざい》動かんときてやがるから、時間もなし。みんな二十年前に上陸したのかもしれん。言えることといえば、それくらいのことじゃろが」
「上陸した海岸へ行ったら、見わけられますか?」ダイアンが固執した。
「られるかもしれんし、られんかもしれん、じゃが、見当をつけるすべはあるよ」
「オー・アアが飛びこんだ場所は、見わけられるか?」ホドンがたずねた。
「そいつは無理じゃね。ぜんぜん見てなかったのじゃから。何しろ霧の中で飛びこんだのじゃよ」
「何かわかっていることでもないのか?」
「そうさな、ないこともないが」アー・ギラクは、オー・アアが溺死《できし》したか、あるいはコルサール・アズにうようよしている爬虫類に喰われてしまったか、どっちかだと確信していたから、知っているかぎりのことは話しておくのが無難だと感じた。「実のところ」と、かれはつづけた。「ジョン・タイラー号が座礁したところから、そう遠くないところじゃったよ」
「で、そこへ行ってみれば、わかるんだな?」
「わかるかもしれんし、わからんかもしれん。わしの記憶が正しいとすれば、ジョン・タイラー号がぶちあたった場所の付近の、一キロばかり沖合いに島があったよ」
「よし、では出発することにしよう」ホドンがいった。
「どこへ?」
「海岸沿いに、〈オー・アアが飛びこんだ〉場所と、デヴィッドが上陸した地点へもどるんだ」
「ちょいと待ちなされ、お若いの」アー・ギラクがたしなめた。「この船の船長がわしじゃちゅうことを忘れてもらっちゃこまるね。この船では、わしが命令する」
ホドンはラジにむかっていった。「部下に命じて、水と食糧と弾薬いっさいと、各自の所持品をロ・ハール号から持ってこさせる。それから、ロ・ハール号を切り離せ」
アー・ギラクはホドンに指をつきつけた。「ちょいと待った、お若いの――」
「うるさい!」ホドンがぴしゃりといった。それから、ラジに、「きみがジョン・タイラー号の船長になるのだ、ラジ」
「そんなべらぼうな!」アー・ギラクが泣き声を上げた。「設計したのもわし、命名したのも、このわしなら、進水してこのかた、ずっと船長をしてきたのもわしじゃ。そのわしをこんな目に会わせるとはけしからん」
「わたしにはおまえをそういう目に合わせることもできるし、現にそうしてきたんだ。もしやっかいなら、もっとひどい目に会わせるぞ」ホドンはいった。「この古狸《ふるだぬき》め、海へ投げこんでやる」
アー・ギラクは口をつぐんで退散し、ふくれっつらをしてふさぎこんだ。ホドンの言葉がこけおどしでないということを、かれは知っている。これら石器時代の男たちは、人命を軽視していたからだ。かれは、自分が罪をかぶらずに報復する案を練りはじめた。アー・ギラクは、いかなる道義にも良心にも束縛されない、狡猾《こうかつ》なヤンキーだ。
かれは手すりに寄りかかり、ホドンをねめつけた。ついでかれの目は、ダイアンに移っていった。そして彼女をねめつけた。また女か! 兇運だ! これで一つのたくらみの発端が形をとりはじめた。完全無欠なたくらみというのではないにしろ、何もうかばないよりはましだ。ほどなくかれは、ホドンが思いおよばなかった、一つの偶発的なできごとに助けられることとなった。
ロ・ハール号の積荷で、役に立つものをジョン・タイラー号に移し、前者を切り放した後、ラジが浮かぬ顔でホドンのもとへやって来た。「こいつは」と、かれは片手を大きく振ってジョン・タイラー号全体をしめし、「わたしも、わたしの部下も、今まで見たことのないような船ですよ。われわれにまったくなじみのない、帆とロープと帆柱の塊《かたまり》でさあ。われわれにはとても走らせられませんや」
一瞬、ホドンは唖然とした。かれは陸の人間だったから、そんなことになろうとは夢にも考えつかなかったのだ。かれは後方の小さなロ・ハール号をふり返ってみた。大きいほうの船はどんどん離れていっている。ちょっと早まったな、とかれは思った。まだ間に合うから、ボートを下ろしてロ・ハール号に戻るのが得策かもしれない。ばかなことをしたものだ。
すると、ラジが提案した。「あのじいさんに教えさせては?」かれはいった。「教えてくれるならの話ですが」疑わしそうな声でかれはいい返した。
「教えてくれるとも」ホドンはきっぱりといって、アー・ギラクに大またに近づいていった。ラジがいっしょに来た。
「アー・ギラク」かれは老人にいった。「おまえが船を操縦するのだ。だが、それでも船長はラジだぞ。おまえは必要なことをすべてかれとかれの部下に教えるのだ」
「おや、それじゃわしを海へ投げこまないんですかい?」アー・ギラクはせせら笑いながらいった。
「今のところはな」ホドンがいった。「だが、わたしのいったとおりに、ちゃんとやらなければ、投げこむぞ」
「大した度胸じゃな。お若いの。ヤンキーの船長に、この赤インディアンのちくしょうどもの下で、航海長をやれってのか」
ホドンもラジも、インディアンがどんなものか少しも知らなかったが、アー・ギラクの声の調子で、赤銅色のメゾプ族が侮辱されたということは二人に明確にわかった。
「操縦して進ぜよう」アー・ギラクはつづけた。「じゃが、船長としてな」
「こい!」ホドンがラジにいった。「やつを海へ投げこむんだ」
二人の男につかまれると、アー・ギラクはぎゃあぎゃあ騒ぎだした。
「やめてくれ」かれは泣き声をあげた。「ラジの下で操縦させてもらうよ。ちょっと冗談をいったまでじゃ。おまえさんたちゃ、冗談がわからんのかね?」
というわけで、ラジとその部下のメゾプ族の訓練がただちに開始された。かれらは覚えが早かったし、アー・ギラクの指導ぶりはたくみだった。それというのも、かれは、虚栄心から、自分の高等な知識を見せびらかすのがうれしかったからだ。だが、かれは、なおも復讐計画を胸に暖めていた。不和の種をまいて、赤銅色の肌のメゾプ族を、白い肌のホドンとダイアンに刃向かわせようというのが、かれの考えだった。むろん、アー・ギラクは、共産主義者のことなど聞いたこともなかったが、それにもかかわらず、かれは共産主義者の手法を心得ていた。メゾプ族とともに作業しながら、かれは、かれらが無知で迷信深いものと考えて、女が乗船していれば兇運を招くことは必至であり、ダイアンがここに乗っているのはホドンのせいにほかならないのだとたきつけた。また、ホドンは肌の色のゆえにメゾプ族に優越感を招き、かれらを劣等者と見くだしているのだ、ラジに命令をくだすのはまちがっているとほのめかした。かれはダイアンとホドンが、何かのはずみで海中に転落するのがみんなのためになるのだと思いつづけているのだった。
メゾプ族は無知でも迷信家でもなかったし、人種意識や、人種的偏見など聞いたこともなかった。かれらは老人の話に耳を貸すには貸したが、感銘は受けず、ただうるさがって、しまいには、一人がアー・ギラクにむかってこういった。「じいさん、おまえ、ちとおしゃべりがすぎるぜ。この船を走らせるのとなんの関係もないことじゃねえか。おれたちゃ、疾風《はやて》のホドンも、美女ダイアンも、海に投げこむ気はねえよ。もしも、だれかを投げこむとしたらだよ、じいさん、そいつはおまえさんだよ」
アー・ギラクはだまりこんでしまった。
眠りからさめると、オー・アアは、彼女の家の戸口に出てあたりを見まわした。部落はしずまりかえっているようだ。わずかに二、三人が目にはいるだけで、それもずっと部落のはずれにいる。彼女は梯子を下りていった。梯子の下のところで寝そべっていたラーナが、立ち上がって尾を振った。オー・アアは耳と耳の間をかいてやった。
「お腹がすいたわ」彼女はいった。「おまえもすいたろうね、狩りに行こう」
彼女は武器を持ってきていた。石器時代で生き残る者は、つねに武器を肌身離さず持っている。
「おいで、ラーナ」彼女はいって、部落から出て谷をのぼりはじめた。
ずっと下の、部落の通りに面した小屋の戸口に、一人の男が立って、かれらが出かけるのを見ていた。首長ジャルーの息子、ザークだ。小谷の曲り角でオー・アアたちの姿が見えなくなると、ザークは自分のジャロクをつれて後をつけはじめた。かれは樽《たる》のように肥った、がにまたの小男で、まるで、片足がもう一方の足より短いとでもいうように、右に左によろけながら歩いた。けものじみた面相で、毛虫眉毛が、せまり合った二つの目の上にかかっていた。
オー・アアとラーナは、獲物を求めてひそやかに谷をのぼっていった。海の方角から強風が吹いている。そして、ほどなく太陽は黒雲におおわれてしまった。低い雷鳴をともなって稲妻が一閃した。風は猛烈に吹きつのり、雨が降りだした。だが、これらはどれひとつとしてオー・アアの腹の虫を静めはしなかった。そこで彼女は狩猟をつづけた。
谷は急に右へ折れ、海岸線に平行してせまくなった。両側の岩壁は、この地点では高くもけわしくもなかったから、オー・アアは右手の岩壁をのぼって、木の点在する地卓《メサ》の上に出た。ここには小さな獲物のひそんでいそうな丈高い草が茂っていた。ザークはジャロクとともにあとをつけた。雨上がりの柔らかな泥に残されたオー・アアの足跡は、容易にたどることができた。ザークが地卓《メサ》の上に出たときには、ゆっくりと進んでいたオー・アアはそれほど先へ行っていなかった。彼女は獲物さがしに熱中していたので、ザークは、彼女やラーナの注意をひくこともなく、すみやかに接近していった。風も、雨も、とどろく雷鳴も、すべてがザークに味方した。
ザークの考えは決まった。あのおんなのジャロクを射てやろう。そうなれば、女は思いのままだ。かれは、的をはずすことのないよう、念のためかれらとの距離をさらに縮めて、弓に矢をつがえた。物音は立てなかったのだが、ちょうどその瞬間、何かがオー・アアをふり返らせた。
彼女の弓は、いつでも獲物を――彼女なり、ラーナが飛び立たせるかもしれない、どんな獲物でも――倒せるように用意できていた。ザークを認め、かれの弓が引き絞られているのを見たオー・アアは、さっと身をひるがえして矢を放った。ザークの弓も、それと同時にブーンとうなった。が、矢はラーナではなく、オー・アアにむけられていた。
ザークは射そこなったが、オー・アアの矢は、男の肩をグサリと貫通した。ついで、オー・アアはきびすを返して逃げだした。がにまたの短い足ではとても追いつくことができないと知って、ザークはかれのジャロクに激しく言葉をかけ、逃げてゆく娘を指さした。「ラー!」かれは噛みつくようにいった。ラーとは、殺せという意味だ。
獰猛《どうもう》な野獣は、追跡におどり出た。
波は風の前に逃げ去り、風が高まると、それにつれて高まった。ジョン・タイラー号にはぼろぼろになった帆が一枚あがっているだけだった。ジョン・タイラー号は扱いよい船だった。それに頑丈にできている。アー・ギラクはこの船のことが得意だった。嵐がほとんど大旋風級《トルネード》にまで達しても、かれは船のことを心配しなかった。
下の船室でちぢこまっていた王ガンバは、震えあがり、恐怖のためにわけのわからぬことを口走る痴者《しれもの》のようになりかかっていた。ダイアンは嫌悪のまなざしでかれを眺めていた。こんなやつが、厚顔にも愛のことばを語ろうとしたとは! ホドンは下の船室でいらいらしていた。すべての山男がそうであるように、かれもまた、広々とした外へ出たかった。目に見えるところで、嵐や危険と対決したかった。下では檻《おり》に入れられたけものも同然だ。船は激しく縦ゆれしていたが、ホドンは苦労して梯子段のところまでこぎつけ、ついで上の甲板に出た。
風と潮流は、意地の悪い怒りをこめてともども結束し、ジョン・タイラー号をすぐそこの陸地に叩きつけようとしていた。行く手には緑の島が無気味に迫っている。あの霧の中でオー・アアが海にとび込んだおりに、打ち上げられた島だ。アー・ギラクは観念した。もはや沖へ出ることはできない。わずか一・五キロしかない島と海岸の間を通過しなくてはならないのだ。海図のない海を通るのだから、逆《さか》巻く水面の下には砂洲もあろうし、岩もあろう。アー・ギラクは、やりきれない思いだった。
ホドンは、山なす大波を見て、はたしてこのような海に耐える船があるだろうかといぶかった。かれは陸の人間だったから、高波だけを脅威と見た。アー・ギラクは見えないところにあるもの――砂州や岩――を恐れ、かれと船とが戦っている潮流を恐れた。それは壮大な戦いだった。
ホドンは、転落しないように支柱にしがみついていたが、ジョン・タイラー号の甲板上でかれに迫りつつある真の危険には、まったく気づいていなかった。船はぐぐーっと持ち上がって大波と出会い、ついでどっと波くぼ深く落ちていった。しかし、緑色の海水をわずかにかぶるにとどまった。
アー・ギラクはホドンに目をとめた。歯のない口もとが憎しみにゆがんだ。風と、しのつく雨がかれの周囲に叩きつけている。大旋風《トルネード》が蓬々《ぼうぼう》たる白ひげを笞《むち》打った。〈あのくそいまいましいひょうろくだまを、海に叩きこむ必要はあるまいて〉。かれは考えた。ラジがホドンを見て大声で警告したが、風が声をのどに押しこめてしまった。
船が島の風陰《かざかげ》に到達する直前、途方もない大波が船の上にぬっと立ちはだかった。と、何トンという水がどっとくずれかかり、船を水中に沈めた。ジョン・タイラー号は、このすさまじい衝撃によろめいたが、やがて水をはらいのけながらゆっくりと立ち直った。
アー・ギラクは目をやってほくそ笑んだ。もはやホドンの姿は支柱のそばになかった。島かげで、アー・ギラクは船を止め、錨《いかり》を下ろした。ジョン・タイラー号は、無事に嵐を乗り切ったのだ。
ラジの目は、逆巻く波間にホドンの姿をさがし求めたが、そのかいもなく、ホドンは見あたらなかった。メゾプ人は悲しげに首を振った。かれはあのサリ人が好きだったのだ。あとでダイアンが甲板に現われたとき、かれはそのことを語った。彼女もまた悲しんだ。だが、石器時代では、死は急激に、しかも頻繁に訪れてくるものだ。
「たぶんそれでよかったんでしょう」ダイアンがいった。「これで二人とも亡くなったのだから、どちらがあとに残って悲嘆にくれるということがないのですからね」彼女は、デヴィッドが死んだと思ったとき、自分がどんなにたびたび死を望んだかを考えていた。
アー・ギラクは空涙《そらなみだ》を流したが、メゾプたちをあざむくことはできなかった。そんなことは不可能だとわかっていなかったら、ホドンを海へ投げこむのにかれが一役買ったのだと、かれらは考えたことだろう。そして、アー・ギラクもまた、船からほうり出されていただろう。
大きなよせ波がホドンを波打ち際よりずっと奥に打ち上げ、くたくたになって半死半生のかれをそこに置いて引いていった。大海はかれをさんざんもてあそんだのだった。頭は、水面に出ているときよりも水面の下にあるときのほうが多かった。だが、潮と風と潮流はかれに味方した。慈悲深い神の加護もまた同様だった。というのも、恐ろしい海の怪物たちはかれをとらえなかったからだ。おそらくは、荒れ狂う海そのものが、大爬虫類を海面のはるか下の、比較的穏やかな場所に釘《くぎ》づけにして、かれを救ってくれたともいえよう。
ホドンは、長い間波打際に横たわっていた。ときどき、波が打ち寄せてはかれの周囲でたぎったが、どの場合もかれを海に引きもどすだけの深さも水量もなかった。やがてついに、かれはそろそろと立ち上がった。
ふり返ると、ジョン・タイラー号が島の後に錨泊《びょうはく》しているのが目にはいった。豪雨のために、船の姿がおぼろげに見わけられるだけだ。このぶんでは、船の連中にはかれがぜんぜん見えないだろう。火を燃やしたら、煙が相手に彼のいどころをつたえてくれるかもしれないと思ったが、火を作るものは何もない。
嵐が襲う前に、アー・ギラクは、メゾプたちが船を見捨てた地点に接近していっているように思うといっていた。もしそういうことなら、この島はオー・アアが海へ飛びこんだと考えられる場所に近いわけだ。もしも彼女が生きながらえていたら――かれにはそれが疑わしく思えた――ちょうど今頃、彼女は何百キロとへだたったカリにむかっている最中だろう。かれがこうしている間にも、おそらくはどこかこの恐怖に満ちた未知の国のどこかで、絶望的な旅をつづけているのだろう。たとえ彼女がここにいたとしても、この広漠たる平原と丘と山の広がりの中で彼女を発見するなど、とうていあり得ないことだとはわかっている。だが、チャンスというものがある。それに、彼女にたいするかれの激しい愛も。後をも見ずに、疾風《はやて》のホドンは北東のカリの方角に足をむけた。
一〇
オー・アアは風のようにかけた。ザークがジャロクを放ったとは知らなかった。ただひたすらに男から逃れることのみを考えていた。それに、あのがにまたではぜったいに追いつけないことはわかっている。
ザークは、肩に食いこんだ矢を引き抜こうとした。矢はすんでのところで心臓をそれていた。ざらざらした石の矢尻が、敏感な傷口を引き裂こうとする。血が身体をつたって流れ落ちる。かれは悪態を吐いた。矢尻の先がかたよって心臓に触れないよう、慎重をきわめて矢柄を引いた。娘とジャロクは灌木の茂みを抜け、浅い凹地にしのびこんで姿を消していた。
ラーナは、二、三メートル後から軽《かろ》やかな足どりで、ひょいひょいと女主人について走っていた。突如として別のジャロクが閃光のようにかれを追い抜き、逃げる娘に一直線に襲いかかった。
疾風《はやて》のホドンは、北東のカリの方角に足をむけた。羅針盤の三十二方位にかんしては、何も知らなかったが、帰巣本能がサリの方角をかれに告げていた。故国サリの位置に関連してカリがどこにあるかはわかっていたから、どの方向をとるべきかは判然としていた。
しばらく歩いて、ひとかたまりの灌木の茂みからひょいと出ると、一人の男が木の幹にもたれてすわっているのに出くわした。ホドンの武器は短刀だけだ。未知の者同士の間の普段の挨拶が、「殺してやる」という世界では、充分とはいえない。
相手がこっちを見るまでに、かれはもうずいぶん近いところに来ていた。ひと目見るなり、相手の身体が血まみれで、左肩に近い胸部の傷口から細い一筋の血が流れ出て、胸をつたって流れ落ちているのをかれはみとめた。
ところで、サリ人は、デヴィッド・イネスとアブナー・ペリーの影響で、おおかたのペルシダー人よりは野蛮でない。ペリーは、マスケット銃や、大砲や、火薬で科学的に同胞を屠殺する方法を教えはしたが、また同胞愛の教義も説き聞かせた。したがって、現在もかれらの生活信条は、かれらが決して見ることのない世界に住んでいた人間、かつて話に聞いたこともなかった人間の忠告を基盤にしたもので、つまりアブナー・ペリーは、テディ・ルーズベルトの崇拝者だったのだ。
男は顎《あご》が胸につくほど頭をたれていた。息もたえだえだった。だが、何者かが近づいてきた気配に、目を上げて挑《いど》むようにうなった。殺されるな、とは予期したが、どうすることもできなかった。
ホドンは今しがた通ってきた茂みに引き返して、葉を集めた。その中でもっとも柔らかなものを選び出して小さくまるめ、男のところへもどってきた。そして男のかたわらにひざまずいて、胸の穴にその小さな草のだんごをつめ、出血を止めた。
ザークはどんよりした目にいぶかしげな表情を浮かべて、他国者《よそもの》の目をのぞきこんだ。「おれを殺さんのか?」かれはささやくようにいった。
ホドンは質問を聞いて聞かぬふりをした。「部落はどこだ?」かれはたずねた。「遠いのか?」
「それほどでもない」ザークがいった。
「そこへもどるのに手を貸してやろう。戦士たちがわたしを殺さないことを、おまえが約束するならだ」
「あんたを殺しはせん」ザークがいった。「おれは首長の息子だ。だが、どうして他国者にこんなことをする?」
「わたしはサリ人だからだ」ホドンが誇らしげにいった。
ホドンはザークを立ち上がらせてやったが、ザークはほとんど立っていられなかった。歩けないと見てとって、ホドンはザークを背負い、ザークは部落へ道案内した。
風は吹き、雨は降ったが、嵐は静まりつつあった。その中をホドンは首長の息子を背負って部落に運びこんだ。戦士たちが、武器をかまえながら家々から飛びだしてきた。ホドンは他国者《よそもの》だったから、ひと目で殺さなくてはならないのだ。ついでかれらはもはや意識不明になっているザークを見て、躊躇した。
ホドンは正面切っていった。「そこにつっ立って、わたしをにらみつけていないで、来ておまえたちの首長の息子を引き取って、家へ運んでやれ。女たちが手あてするだろう」
戦士たちがザークを肩から持ち上げたとき、ホドンはかれが意識不明になっているのを知って、とどのつまりは殺されることになるかもしれないとさとった。「首長はどこだ?」かれはたずねた。
ジャルーは家からこっちへやってきていた。「おれが首長だ」かれはいった。「おまえはきわめて勇敢な男か、それともおれの息子に傷を負わせておいておれのところへ運んできたばかものか、どっちかだな」
「わたしが傷を負わせたのではない」ホドンがいった。「怪我しているところを発見して、ここへ運んできたのだ。さもなければ、死んでいただろう。かれは、わたしがこのようにしても、戦士はわたしを殺さないといったのだ」
「おまえがほんとうのことをいっているのなら、戦士たちはおまえを殺さないだろう」ジャルーがいった。
「もしもこの男が、死ぬ前に意識を回復しなかったら、わたしがほんとうのことをいっているとどうしてわかる?」
「そいつはわからんな」ジャルーがいった。かれは戦士の一人にむかって、「優遇してやれ。ただし、逃げ出さないように見張ってろ」
「兄弟愛もけっこうだが」ホドンがいった。「相手がそれを知っている場合の話だな」何のことをいっているのか、かれらにはわからなかった。「あのまま死なせなかったわたしがばかだった」
「おれもそう思うね」ジャルーが相槌《あいづち》を打った。
ホドンは一軒の家につれて行かれ、女が食物を取りにやらされた。梯子の下には、二人の戦士が見張りについた。女が食物を持ってもどってきた。女はハラといった。ハラは、ハンサムな捕虜をいぶかしげに見た。まぬけのようには見えないが、かといって外見ばかりでは判断はできない。
「殺されるかもしれないってことがわかっているのに、なぜザークを連れて帰って来たの? あの人はあなたとどういう関係?」彼女は質問した。
「かれは同胞だ。そしてわたしはサリ人だ」というのがホドンの簡単な説明だった。
「あなた、サリ人ですって?」ハラが問いただした。
「そうだよ。なぜ?」
「あたしのところにサリ人が一人いるわ、いえ、いたわ。彼女、出かけていったの、猟に行ったんだと思うけど。帰ってこないのよ」
ホドンは青ざめた。「なんという名だった?」
「あら、あたしかんちがいしてた。彼女がサリ人じゃなく、彼女の夫がサリ人なのよ。彼女は別の国の出身ですって。そこの男性は背丈が三メートル近くあるそうよ。兄弟が十一人で、父親は王だとか」
「で、名はオー・アアだな」ホドンがいった。
「どうしてそれを?」
「オー・アアは一人しかいない」ホドンが謎めいた口調でいった。「どっちへ行った?」
「谷をのぼっていったわ。ザークがあとをつけていったんだけど。ザークは悪党よ。かれに傷を負わせたのはオー・アアにちがいないわ」
「だのに、わたしはやつを救ったんだ!」ホドンがさけんだ。「今後は、同胞愛なんぞは他の連中にまかせておくことにしよう」
「なんのこと、それ?」
「なんでもないよ。ここを脱出して彼女を追わなくては」
「脱出は無理よ」ハラがいった。と、突然彼女はことのしだいをのみこんで目をまるくした。
「あなた、疾風《はやて》のホドンね」
「どうしてそれがわかった?」
「それがオー・アアの夫の名よ。彼女がそういってたわ。夫はサリ人だって」
「脱出しなくては」
「できることなら力を貸してあげたいんだけど。あたし、オー・アアが好きだったし、あんたも好きよ。でも、ザークが意識を回復して、あなたを殺させないと約束したと話さないかぎり、あなたはこの部落から出られないわ」
「それじゃ、きみ、行ってかれが意識を回復したかどうか見てきてくれないか?」
オー・アアは、すぐ後に荒々しいうなり声を聞いた。ふりむいて見ると、知らないジャロクが後足で立って、今にも彼女をとらえて引き倒そうとしている。カモシカのように敏速にとびのいたオー・アアは、ついで別のものを見た。ラーナが、見知らぬジャロクにとびかかり、地面に投げ倒そうとしている。つづいて演じられた争いは、血なまぐさく、凄絶なものだった。二頭の残忍な野獣は、ほとんど黙々として闘った。双方とも、ただ怒りに啀むばかり。二頭がたがいに相手を引っ裂こうともつれあっている間、オー・アアは、槍を手に周囲をめぐって、ラーナの敵対者を芋刺しにする機会を狙っていた。だが動きが激しいため、あやまってラーナを傷つけはしまいかと恐れて、あえて槍を突きたてようとはしなかった。
ラーナに助けはいらなかった。ついにかれは、それまで狙いつづけてきた相手の急所をとらえた――相手ののどもとにがっぷりと喰いついたのだ。強力な顎が噛み合わされた。ラーナは、テリヤがねずみを振りまわすように、相手を振った。それもすぐに終わり、ラーナは死骸を下へ落として、オー・アアの目をじっと見上げた。そして尾を振った。オー・アアはひざまずいて、かれが血まみれなのもかまわず抱きしめた。
彼女は必要な葉と、小川を見つけて、そこでラーナの傷口を清め、葉の汁をそこへすりこんでやった。それがすむと、彼女は野兎を二羽ばかりと、地上からは百万年も前に姿を消している珍鳥を数羽狩り出した。そして、ラーナに食べさせ、自分も生のままの肉を食べた。火を起こそうにも乾いたものは何もなかった。
彼女はあえて部落へもどろうとはしなかった。ザークを殺したかもしれないし、殺さなかったかもしれない。彼女は両方の場合を恐れた。前者の場合、彼女のやったことが露見したらジャルーに殺されるだろうし、後者の場合はザークに殺されるだろう。カリへ旅をつづけよう。だが、眠るのが先決だ。大木のかげに彼女は横たわった。そして、兇暴なヒエノドンは彼女のかたわらに寝そべった。
一一
大暴風雨は去った。太陽はふたたび輝き、波は静まった。悲しみにくれながら、ダイアンはサリに引き返すように提案した。
「これ以上、進んでも何になりましょう? あの人たちはみんな死んでしまったのです」
「そうとはいいきれませんよ」ラジがいった。「みんながみんな死んでしまったかどうか。デヴィッドもアブナーもガークも、それに二百名をこす戦士たちも、ペルシダーのどこかで旅をつづけていると考えられないことはないのですから。われわれがサリへ帰り着いたら、待っているかもしれませんよ」
「では、できるだけ早く帰ることにしましょう」ダイアンがいった。
「それに、オー・アアやホドンにも、望みがあるかもしれないのですからね」
ダイアンは首を振った。「二人がいっしょにいるなら可能性もありますが、一人では無理ね。それに、たとえばホドンが岸に泳ぎついたとしても、かれは短刀だけしか身につけていないのですよ」
そこで一行は錨《いかり》をあげ、転回して、無名海峡に針路をむけた。
同じ頃、デヴィッド、ペリー、ガークの三人は、いわば作戦会議というものを開いていた。戦いといっても、それは地勢との戦いだけだ。マスケット銃を装備し、弾薬を充分にあてがわれた二百名の勇猛果敢なサリ族とともに、一行はなんら別条なく、この野蛮な世界を進んできた。
かれらは、獲物、果物、野菜、木の実が豊富な土地で食いつないできた。しかし、地勢はもはやかれらをほとんど打ちのめしたも同然だった。横断をこころみようと計画していた大半島の背梁は、ヒマラヤ山脈のようにおかしがたい一連の山脈となっていて、褌《ふんどし》一丁の男たちには、事実上|登攀《とうはん》不可能だった。氷と雪にとざされた山の上は、石器時代の全裸に近い男たちには、越えがたい障害を呈していた。
山脈に到達すると、一行は北に進路を取って山道をさがした。何回も眠ったが、それでもなお〈恐ろしい山々〉の切れ目のない壁は、サリへの道をさえぎっていた。こんどこそ、通り抜けることのできる山あいがありはしないかと念じつつ、何度も深い渓谷をたどっては、また何度もあともどりをしなくてはならなかった。そして今や、靄《もや》の中に視界が消えるまで、目のとどくかぎりの間、〈恐ろしい山々〉は無限とも見えるかなたまでえんえんとつづいているのだった。
「こっちの方角へはこれ以上進んでもむだだな」デヴィッド・イネスがいった。
「しからば、いったいどっちの方角へ進んだらよいのかね?」アブナー・ペリーが返答を求めた。
「後さ」デヴィッドかいった。「〈リディ平原〉にも、〈恐ろしい影の国〉にも、山はない。そこを横断して東海岸へ出て、そこから海岸ぞいにサリへ北上するんだ」
というわけで、一行は南西に後もどりして、あらためて、故郷への長途の旅路についた。
その後、何回も眠った後のこと、デヴィッドがつねに本隊よりずっと前方に出している三人の尖兵《せんぺい》が、こっちへやってくる戦士たちを発見した。尖兵の一人は、かけもどってデヴィッドに注進した。ほどなくサリ人は、細長い散兵線をしいて前進した。相手が射ってくるまで射つな、射つときは敵の頭ごしに一斉射撃を浴びせよ、というのが命令だった。たいがいはこれで充分だということを、デヴィッドはすでに経験から知っていたのだ。とどろく銃声と硝煙とで、敵はたいていの場合退散した。
デヴィッドが驚いたことに、見知らぬ戦士たちも同じく散兵線をしいているではないか。これはデヴィッドによってペルシダーにもたらされた新戦術なのだ。帝国陸軍のもとに訓練を受けた戦士だけが用いるものと、かれは考えていたのだが。二つの戦列はたがいにじりじりと接近していく。
「メゾプ族のように見えるが」と、デヴィッドがガークにいった。「赤銅色の肌をしている」
「どうしてまたメゾプ族がここに?」とガーク。
デヴィッドは肩をすくめた。「わからんね」
不意に、前進していた赤銅色の戦士たちの戦列が停止した。ただし、一人だけをのぞいて。その男は、平和のしるしを作って近づいてきた。そしていくばくもなく、デヴィッドは相手を見わけたのだった。
「まずマスケット銃が目にはいりましてね」とジャがいった。「それからあなたがわかったのですよ」
ジャは、オー・アアを失ったこと、ジョン・タイラー号を放棄したこと。そして、そのジョン・タイラー号がアー・ギラクだけを乗せて沖に出ていったありさまを語った。
「これで二人とも失ったわけだな」デヴィッドが悲しげにいった。
「アー・ギラクは惜しくもないが」と、ジャがいった。「娘は――惜しいことをしました」
かくて、ジャとケイとコーと、他のメゾプたちはサリ人と合流し、〈リディ平原〉と〈恐ろしい影の国〉さして、行軍は再開されたのだった。
一人の戦士が、ホドンの監禁されている家に通じている梯子の下にやってきた。かれが番兵たちに話をすると、一人がホドンに声をかけた。「サリ人、降りてこい。ジャルーさまがお呼びだぞ」
ジャルーは、ザークの横たわっている家の前で、腰掛にすわっていた。渋面を作っているので、ホドンはてっきりザークが死んだものと思った。
「ザークがしゃべりおった」ジャルーがいった。「おまえのいったことはほんとうだそうだ。ほかにもいっておった。あれに傷を負わせた矢を放ったのはオー・アアだったのだ。彼女にはそうする権利があったのだとザークはいっていた。彼女を殺そうと後をつけていったのだ。今は後悔している。彼女の捜索に、戦士をつけて進ぜよう。見つけようと、見つけまいと、戦士たちはきみをここまで連れもどすか、あるいは〈恐ろしい山々〉の麓《ふもと》まできみに同行しよう。あそこはオー・アアが行きたがっていたところだ。これは、きみがザークにしてくれたことにたいする恩返しだ。きみはザークを殺そうと思えばできた。ザークがこうするようにわしに頼んだのだ。いつ出発したいかね?」
「今です」ホドンがいった。
戦士二十名と、そのジャロクたちとともに、かれはオー・アア捜索に出発した。
オー・アアは長い時間眠った。いや、それともわずか一秒間のことだったかもしれない。時間のない世界ペルシダーで、いったいだれにわかろう? だが、地上世界の時間にしても、かなりのものだったにちがいない。なぜなら、彼女が眠っている時に、一秒やそこいらでは起こりえないようなことがつぎつぎ起こっていたからだ。
彼女はラーナのうなり声に目をさまされた。たちまちのうちに、目はさめきっていた。身体中の機能が、意識のもとで働いているのが感じとれた。石器時代の世界でこんなふうに目をさますということはない。ぱっと眠りからさめて、もう武器に手を置いているというぐあいだ。
オー・アアもそうだった。そして彼女はすばやくあたりを見まわした。ラーナが、彼女に後をむけて、背筋を総毛立てている。そのかれのむこうに今しも忍びよってくるのは、地底世界の巨大な虎、タラグだ。しかしラーナは女主人を死守する覚悟でその場に立ちふさがっていた。
オー・アアは一瞬のうちにその場の情景を目におさめ、いっさいを読みとっていた。ラーナと自分と両方を救うには、取るべき道は一つしかない。彼女はそれを実行した。それまでそのかげで眠っていた木に、弓矢を持ってよじのぼったのだ。「ラーナ!」彼女が声をかけると、ジャロクは目を上げて彼女を見た。と、タラグが襲いかかった。生命がけで娘を救う必要のなくなったラーナは、敵の手からさっととびのいた。タラグは、あとを追ったがラーナはあまりにも早かった。
このように出端《でばな》をくじかれて、獰猛な野獣は、怒号した。ついでオー・アアを追って木にのぼろうと、はねあがった。だが、とらえた枝は、かれの大きな図体をささえるには細すぎたので、仰向けにどうと地面に落ちた。すかさずラーナがとびこんで来て噛みつき、さっととびのいた。巨大な虎は、またしてもジャロクの背後からとびかかったが、ラーナのほうがずっと足が速かった。オー・アアは声をたてて笑い、タラグとその祖先を大声で、思いつくかぎりの悪口雑言をならべて罵倒した。
タラグは、たぶんあまり気の長いほうではないのだろうが、このタラグは、ひどく空腹だったし、だれでも空腹のおりは、食物を手に入れるためには少々がまんをするものだ。タラグは、やってきて木の下に寝そべり、上にいるオー・アアをにらみつけた。だが、ラーナを見張っておくべきだった。ジャロクは背後からこっそり忍びよると、だっととびだしてタラグの尻に猛然と噛みつくや、ふたたび身をひるがえして逃れた。またしても無駄な追撃。
そして、タラグは今一度もどってきて木蔭に寝そべった。だがこんどはラーナを見張っている。オー・アアは弓に矢をつがえて、タラグの背にはっしと射込んだ。憤怒と苦痛にひと声絶叫して、虎は宙におどった。だが、ちっぽけな矢一本では、怒らせるのが関の山だった。
つづいて二の矢。今回は、それがどこから来たか、タラグは気がついた。そして、ひどくゆっくりと、一歩一歩木の幹をのぼってきた。オー・アアはさらに上の枝へ後退した。ラーナが突進してきてタラグの尻に爪を立てたが、野獣はおかまいなしにのぼりつづけた。
もはやオー・アアは笑うどころではなくなっていた。末路は目に見えている。虎は彼女を追ってのぼってきて、ついには両者を合わせた体重が先細りの枝をぼっきりへし折り、地面に転落させるだろう。
ちょうどこの場にホドンとユータンと他の戦士たちが現われた。ユータンはラーナに気づいて、オー・アアがこの木にいるにちがいないと知った。ラーナは、この新たな脅威に牙をむけた。そこでユータンは、オー・アアにむかって、ラーナに声をかけて注意をそらせてくれとどなった。この勇敢なけものを殺すにしのびなかったからだ。
オー・アアは、ほっとして人間の声を聞いた。この際、どんな人間でも歓迎しただろう。そして、彼女はラーナにひとこと、「パダン」と声をかけた。ジャルーはホドンに武器をくれてあった。ここで二十一の弓の弦《つる》が鳴り、二十一本の矢がタラグの身体をつらぬいた。しかし、これでもタラグはまいらなかった。矢を受けたタラグは木から降りてきて、この新たな敵に襲いかかった。
男たちは八方に散った。なおも矢を浴びせつづけた。そしてけものが一人に襲いかかるたびに、ジャロクはとびこんできてけものを掻きむしった。だが、ついに野獣は死んだ。一本の矢が、かれの兇猛な心臓に達したのだった。
オー・アアは木から降りてきた。彼女はただ突っ立って、目を大きく見開いたまま、無言でホドンを見つめていた。やがて二筋の涙が頬をつたって、流れ落ちた。そして戦士たちの居並ぶ前で、疾風《はやて》のホドンは彼女を抱きしめたのだった。
一二
ジャルーの部下の二十人の戦士は、〈恐ろしい山々〉までホドンとオー・アアに同行してくれた。
「きみたち、とてもここはこせないよ」ユータンがいった。「引き返して、われわれの部族に仲間入りしたほうがいい。ジャルーは、きみたちを迎え入れるといっていた」
ホドンは首をふった。「われわれはサリの人間だ。妻もわたしも、サリに到達することは絶対にできないかもしれないが、やってみる義務がある」
「あたしたちはサリに着くわ」オー・アアがいった。「あなたとあたしとラーナがいっしょなら、どこへでも行ける。あたしたちサリ人に、できないことはないのよ」
「きみは、背丈が三メートルもある男たちがいるカリの出身だと思ったが」ユータンがいった。
「あたしの夫の国は、あたしの国。あたしはサリ人よ」オー・アアがいった。
「カリにきみのような娘がほかにもいると思ったら、出かけて行ったろうな」ユータンがいった。
「オー・アアのような娘はペルシダー中に二人といないよ」疾風《はやて》のホドンがいった。
「だろうな」ユータンがいった。
ジャルーの戦士たちは、食事をし、睡眠をとった。そしてかれらの部落に帰っていった。ホドンとオー・アアは長途の旅路についた――ただし反対の方角に。二人は北東にむかったのだ。だが、結局はそれが正しい方角だったことがわかった。なぜなら、二度目の睡眠をとる前に、デヴィッドとその一行に遭遇したからだ。みんながみんな、死から立ちもどった旧友に再会する心地だった。
はるばる〈リディ平原〉、〈恐ろしい影の国〉と進んで、東海岸に渡り、北上してふたたびサリに帰るまでの四千キロになんなんとする、このとほうもない行軍に、いったいどれだけかかったか、だれにわかろう? だが、ついにかれらは部落へ、ほとんどの者が二度とふたたび目にすることはあるまいと思っていた部落へたどりついた。そして、最初にかれら一行を出迎えた者の中に美女ダイアンの姿があった。ジョン・タイラー号は、長途の旅を無事に終えたのだった。
だれもみな幸福だった。ただし、アー・ギラクとガンバだけは例外だ。アー・ギラクは、オー・アアを見るまでは幸福だったのだが。ガンバは絶対にしあわせになれない人間だ。アブナー・ペリーは、しあわせのあまり泣きだすしまつだった。それはそうだろう。自分の不注意から死に追いやってしまったと考えていた人々が無事に故郷に帰って来たのだから。早くも心の中では、かれは潜水艦を発明していた。(完)