E・R・バローズ
火星のプリンセス
目 次
はしがき――この本の読者に
一 アリゾナの山にて
二 死者の逃亡
三 火星に着く
四 捕虜
五 番犬はまいたが
六 白ザルとの決闘
七 火星の育児法
八 空から来た美女
九 火星語をおぼえる
十 幹部の資格
十一 デジャー・ソリスとともに
十二 権力のある捕虜
十三 火星の恋
十四 死の決闘
十五 ソラの身の上話
十六 逃亡を企てる
十七 奪還
十八 暗黒の牢獄
十九 闘技場で戦う
二十 大気製造工場
二十一 ゾダンガの偵察飛行士
二十二 デジャー・ソリスとの再会
二十三 大空のかなたに
二十四 タルス・タルカスの友情
二十五 ゾダンガ攻略戦
二十六 虐殺から歓喜へ
二十七 歓喜から死へ
二十八 アリゾナの洞窟で
あとがき
はしがき――この本の読者に
カーター大尉の不思議な原稿を一本として公刊するにあたり、この驚くべき人物にかんする若干の説明は少なからず読者の興味をそそることと思う。
カーター大尉にまつわる最初の思い出といえば、南北戦争が始まる直前に彼がバージニアの私の父の家で数か月を過ごしたときのことだ。当時の私はわずか五歳の子供にすぎなかったが、それでも自分がジャックおじさんと呼んでいた、背が高く、顔色の浅黒い、きれいにひげをそった、頑丈なからだつきの男のことはよく覚えている。
大尉はいつも笑っているように見えた。彼は自分と同年輩の男女が楽しむおとなの遊びごとに加わるときと変わりのない、心からうちとけた態度で子供たちの遊びの仲間入りをした。あるいはまた、私の年老いた祖母の前に一時間もすわりこんで、その全世界を舞台とする風変わりなむてっぽうな生活の数々を話して聞かせた。私の一家の者はみな大尉を愛していたし、奴隷たちときたら彼が歩いた地面を拝まんばかりだった。
大尉はこの上なく男らしい男だった。背たけはゆうに六フィート二インチをこえ、肩幅は広く、腰はひきしまって、見るからに鍛え上げた戦士らしい身のこなしだった。顔だちは端整で、髪は黒く、短く刈りこまれていた。そして目ははがねのような灰色で、激しい情熱と進取の気性に溢《あふ》れた強い誠実な性格を表わしていた。身だしなみは非のうちどころがなく、その優雅さは典型的な最上流の南部紳士のものだった。
大尉は馬に乗ると、とくに猟犬のあとを追う場合には、馬術の名人が多いこの地方でさえ人びとが目を見はり、ほれぼれするような腕前を示した。私はしばしば父が大尉の向こう見ずな乗馬ぶりに警告を与えるのを耳にしたが、彼はただ笑って、自分を振り落として殺せるような馬はこの世にいないと言うだけだった。
南北戦争が始まると、大尉は私たちの家から立ち去った。その後の約十五、六年間、私は一度も彼に会わなかった。だが、ある日なんの予告もなしに大尉は戻ってきた。彼が見たところ少しも年をとっていないし、ほかの点でも外見がぜんぜん変わっていないことに気づいて、私はひどく驚いた。ほかの人間といっしょにいるときには昔と変わらない愛想のいい快活な大尉だった。しかし、自分ひとりになると、何かに思いこがれながら、どうしようもないみじめさを噛《か》みしめているような顔つきで、何時間も空のかなたを見つめている姿を私は見た。夜になると、よくそんなふうに空を見上げていたが、何を見ていたのかは何年も後に彼の原稿を読むまでわからなかったのである。
戦後しばらくの間、アリゾナで鉱山の試掘や採鉱をやっていたのだと、大尉は私たちに語った。その仕事で彼は明らかに大成功を収めたらしく、いつもふんだんに金を持っていた。だが、その間の生活の詳細についてはひどく口が重く、事実上、何ひとつ話そうとはしなかった。
一年ほど私たちの家に滞在してから、大尉はニューヨークへ行き、ハドソン川のほとりに小さな屋敷を買った。当時、私は父とともにバージニア州一帯でチェーン・ストア形式の雑貨店を経営していた関係から年に一度ニューヨークの市場に出かけたが、そのついでに彼の家を訪れた。カーター大尉はハドソン川を見おろす絶壁の上の美しい別荘風の家に住んでいた。一八八五年の冬、私が最後に訪問したときに彼は何やら書き物で忙しそうだったが、今にして思えばこの原稿を書いていたのだろう。
そのおり、大尉は自分の身に万一のことが起こったら遺産の管理は私にやってもらいたいと言った。そして書斎の金庫の中の引出しの鍵《かぎ》を渡し、そのなかに遺書と個人的な問題を指示した書類がはいっているからと言って、万事そのとおりに実行することを私に誓わせた。
その後、私が寝室に引きあげたあとで窓の外を見ると、大尉が月の光を浴びながらハドソン川を見おろす切り立った崖のふちに立ち、何か訴えるかのように大空に向かって両腕をさしのべている姿が目にとまった。そのときは神に祈っているのだろうと思ったのである。彼のことを本当の意味で信心深い人間だと思ったことは一度もなかったのだが。
この最後の訪問から数か月後、たしか一八八六年の三月一日に、私はすぐにきてくれという電報を大尉から受け取った。私はつねづねカーターの身内の若い連中のなかでは大尉の一番のお気に入りだったので、急いで彼のもとへ向かった。
一八八六年三月四日の朝、私は大尉の所有地から一マイルほど離れた小さな駅に着いた。そして貸馬車屋にカーター大尉の家までやってくれと頼むと、相手はあなたが大尉の友人なら非常に悪いニュースを伝えなければならないと言って、ちょうどその朝、夜の引き明けに大尉の死体が隣屋敷の夜警に発見されたのだと教えてくれた。
どうしたわけか、私はこの知らせを聞いても驚かなかった。しかし、遺体の後始末やいろいろな管理事務の仕事をするために大急ぎで大尉の家にかけつけた。
せまい書斎にはいると、死体を発見した夜警が地元の警察署長や数人の町の人びとといっしょに集まっていた。夜警は死体を発見したときの模様を、二、三、話してくれた。見つけたとき、死体にはまだ暖かみが残っていたという。また、死体は頭上にあげた両腕を崖のふちにのばして、雪の上に長々と横たわっていたという。私はその死体発見の場所を聞いたとたんに、それが例の、夜になると何か訴えるように空に向かって両腕をさしのべていた大尉の姿を目撃したあの場所と同じであることに思い当たった。
死体には暴力を加えられた形跡はなかった。検視陪審は、地元の医者の助けをかりて、死因は心臓麻痺という結論を即座に出した。私は書斎にひとり残ると、金庫を開き、私にやってもらいたいことを指示した書類がはいっていると大尉が言っていた引出しの中身をとり出した。その指示のなかにはまったく奇妙な条項もあったが、私は一つ一つこまかい点に至るまでできるだけ忠実に実行したのである。
自分の遺体は防腐処置を施さずにバージニアへ移送し、かねて作らせてある墓所の中の蓋のない柩《ひつぎ》におさめるようにと、大尉は指示していた。あとでわかったことだが、この墓にはちゃんと換気装置がほどこされていた。このような指示を読んだ私は、必要とあらば人目を避けてでも、指示どおりに事が運ぶよう自分の手でとりはからわなくてはならないと痛感した。
大尉の遺産は、それから生じる全収入を二十五年間私が受け取り、その後は基本財産も私のものになるということになっていた。さらにこの原稿に関する指示として、十一年間は見つけたときの状態のまま開封しないで、読まずに保管すること、また、大尉の死後二十一年間はその内容を他人にもらしてはならないと書かれていた。
いまなお大尉の遺体が横たわっているあの墓には奇妙な特徴がある。それは頑丈な重い扉《とびら》に|内側からしか《ヽヽヽヽヽヽ》開けられない大きな金めっきのバネ錠が一つついていることである。
エドガー・ライス・バローズ 敬白
一 アリゾナの山にて
私はたいへんな年寄りだ。いくつになるのか自分でもわからない。たぶん百歳か、あるいはそれ以上だろう。しかし年齢がわからないのは、私にはほかの人たちのように老《ふ》けるということがなく、また子供のころの記憶がぜんぜんないからだ。思い出せるかぎりのところ、私はいつでも一人前の三十歳ぐらいの男だった。私の外見は現在でも四十年以上の昔と変わりがない。それでも、私とて永遠に生き続けるわけにはいかず、いつかは二度と甦《よみがえ》ることのない真実の死にぶつかるだろうと感じてはいる。わからないのは、なぜ私が死を恐れたりするかということだ。これまでに二度も死に、いまなお生きている私だというのに。だがやはり、私は一度も死んだことのない人びとと同じように死をひどく恐れている。私がいずれは死ぬべき運命にあることをこれほどまでに確信しているのは、きっとこの死にたいする恐怖のためだろう。
そしてこの確信があればこそ、私は自分の生と死にかんする興味深い物語の一部始終を書きとめておこうと決心したのだ。この不思議な出来事に説明をつけることは私にはできない。私にできることといえば、ただ、平凡な冒険好きな軍人としてペンをとり、私の死体がアリゾナの洞窟《どうくつ》の中に人知れず横たわっていたあの十年間にわが身にふりかかった奇妙な出来事を、順を追って書きとめることだけである。
私はまだこの話をだれにも語ったことがないし、この原稿は私の死後でなければ世人の目にふれることもないだろう。ふつうの人間は自分に理解できないことは信じようとしないものだ。だから私としては、いつかは科学的に実証されるはずの正真正銘の真実を語っているにすぎないのに、一般大衆や宗教界やジャーナリズムの物笑いの種になって大ぼら吹き扱いをされるのはご免こうむりたいのである。だがおそらく、私が火星において得た教訓や、ここに記録することができる知識は、地球の姉妹星の神秘――諸君にとっては神秘だが、私にとってはもはや神秘ではない神秘――の解明を早めることに役立つだろう。
私の名はジョン・カーター、というよりはバージニアのジャック・カーター大尉のほうが通りがいい。南北戦争が終わったときには、ほご紙同然の数十万ドルの南部連邦の金と、もはや存在しない南軍騎兵隊の大尉という地位を持っていた。つまり、南部の夢とともに消滅してしまった一国家の下僕だったのである。主人を失い、文無しになり、唯一の生活手段だった戦争も終わったので、私は南西部へ乗り出し、金鉱さがしで衰運の挽回をはかろうと決心した。
私は同じ南軍士官、リッチモンドのジェームズ・K・パウエル大尉といっしょに一年近く試掘を続けた。われわれはたいそう幸運だった。たびかさなる苦難を切りぬけたすえ、一八六五年の冬の終り近く、これまで夢にも思い描いたことがないほどすばらしい金を含有する石英の鉱脈を見つけたのである。鉱山技師の素養があるパウエルの話では、われわれが三か月ちょっとの間に掘り出した鉱石は百万ドル以上の値打ちがあるということだった。
われわれの採掘の装備はひどくいい加減なものだったので、どちらか一人が町へ引き返して必要な機械を買い入れ、本格的な採掘がやれるだけの人手を集めてもどってくることになった。
パウエルは採掘の機械類のことに精通しているばかりか土地の事情にもくわしかったので、この旅行には彼が出かけるほうがいいということに決まり、私のほうは万が一にもどこかの流れ者の金鉱さがしに横取りされたりしないように鉱区の権利を守るということに話がまとまった。
一八六六年三月三日、パウエルと私は二頭のロバの背に旅の荷物を積んだ。パウエルは別れを告げて馬にまたがると、谷に向かって山腹をくだり始めた。彼の旅程はまずこの谷越えから始まっていたのである。
アリゾナの朝はいつもそうなのだが、パウエルが出発した朝もくっきりと晴れわたっていた。私の目には、山腹をくだり谷に向かってゆっくりと進んでゆくパウエルと二頭のロバの姿がよく見えた。そして午前中ずっと、ときおり切り立った丘の上に登ったり平らな台地に出てきたりするその姿をちらちら見ることができた。午後三時ごろ、パウエルは谷の向こう側の山陰にはいり、それっきり見えなくなった。
それから三十分ほどたったころ、なにげなく谷を見わたした私は、さきほど友人と二頭のロバの姿を最後に見たのとだいたい同じ場所に小さな点が三つあることに気づいて愕然とした。もともと私はむだな心配はしないほうだ。ところが、パウエルの身に何も別状がある筈はない、彼が通ったあとに見えたあの点はカモシカか野生の馬なのだと信じこもうとすればするほど不安な思いがつのってくるのだった。
われわれはこの地方にはいりこんで以来、敬意を抱くインディアンには一度もでくわさなかった。そのために、しごくむとんちゃくになり、このあたりの道筋には凶悪な略奪者がやたらに出没して、その手中に落ちた白人たちを片っぱしから容赦なく殺したり責めさいなんだりするという話を笑いとばすようになっていた。
たしかにパウエルは武器を十分に用意していたし、その上、インディアン相手の戦闘にかけてはベテランだった。しかし、私もまた北部のスー族横行地帯で数年間戦いながら生活した経験があったので、もしもパウエルが狡猾《こうかつ》なアパッチの一団にあとをつけられたら勝ち目はあまりないということはわかっていた。やがて、それ以上気をもみながらじっとしていることに耐えきれなくなった私は、コルトの連発拳銃二丁とカービン銃を携《たずさ》え、二つの弾薬帯を腰に巻きつけて、馬に乗ると、朝パウエルがたどって行った道をくだり始めた。
わりあい平坦な地面に出ると、すぐに馬をゆるい駆け足で走らせ、そのまま進めるかぎりはその速度で急ぎ続けた。そして日暮れ近くにパウエルの馬やロバの足跡がまじっている場所を発見した。それは蹄鉄《ていてつ》を打ってない三頭の馬が疾走したとおぼしき足跡だった。
私は急いで足跡を追ったが、まもなくあたりが暗くなったので、やむなく月がのぼるのを待つことにした。そして月を待つ間に、こうやって追跡するのがはたして賢明なことかどうか、よく考えてみた。ひょっとすると自分はどこかの苦労性の古女房のように、まったく非現実的な危険を勝手な想像で作り上げているのかもしれない。パウエルに追いついたら、彼はこっちの苦労を大笑いすることになるのではあるまいか。しかしながら、私は本来あまり事の理非曲直を気にするほうではない。結果がどうなるにせよあくまで義務感に従って行動することが、私にとっては一生を通じて常に一種の神がかり的な信念になっていた。私が三つの共和国からすばらしい栄誉を授かり、また、大国の年老いた皇帝やいくつかの小国の君主たちのためにいくたびも剣を血に染めて働き、勲章を贈られ親交を結ぶようになったのも、もとはといえば、この信念のせいかもしれない。
九時ごろ、月の光は先へ進めるだけの明るさになった。私は早めの並足で、ところによっては威勢のよい速歩で馬を走らせながら、苦もなく足跡をたどることができた。ま夜中ごろ、パウエルが野営する予定にしていた小さな池のほとりに着いた。私はだしぬけにその場所に行き当たったのだが、そこにはまったく人影はなく、最近野営をしたような形跡もなかった。
パウエルを追跡している連中――いまでは追跡者であることを確信していた――の馬の足跡が池のほとりでちょっと停止しているだけで、あとはずっとパウエルと同じ速度で彼のあとを追い続けていることに、私は注目しないわけにはいかなかった。
追跡者がアパッチであること、パウエルを生けどりにして責めさいなみ、残忍な楽しみを味わおうとしていることはもはや確実だった。私は見込みがないとは思いながらも、パウエルが襲われる前にインディアンの悪党どもに追いつくことに万に一つの望みをかけて、しゃにむに馬を突進させた。
とつぜん、はるか前方から二発の銃声が聞こえた。もはや、あれこれ思いめぐらす必要はなかった。いまこそパウエルは私の助けを必要としているのだ。私はただちに馬を駆《か》りたて、細いけわしい山道を全速力で駆けのぼった。
それっきり何の物音も聞かずに一マイルほど進んだとき、急に道がひらけて、山頂に近いちょっとした台地に出た。私は切り立った崖が頭上にせまる狭い谷間をずっと進み続けていきなりこの台地にとびだしたので、眼前の光景に思わず肝をつぶした。
その小ぢんまりとした平地は一面にインディアンのテント小屋でまっ白に埋まり、およそ五百人ばかりのインディアンの戦士たちが野営地の中央近くにある何かのまわりに群がっていたのである。インディアンたちはその何かにすっかり注意を引きつけられていたので、私の存在には気づかなかった。だから私としては暗い峡谷の奥に引き返して無事に逃げることもわけなくできたはずだ。しかし、逃げるという考えが浮かんだのは翌日になってからのことで、あのときは、逃げれば逃げられると思いつつ、それでもなおかつ勇敢に突進したというようなことではない。だから、こんな話をしても、人から英雄あつかいされる資格はぜんぜんない。
私は自分には英雄の素質がそなわっていないと思う。なぜなら、私はいくたびとなく自分から進んで死に立ち向かったことがあるが、いつの場合にも何時間もあとにならなければ、そのときの自分の行動にかわる別の手段があることに思い当たったためしはないからだ。どうやら私は、めんどうくさい思考作用などには頼らず、なかば無意識のうちに義務感の命ずるままに活動するような頭の構造にできているらしい。それはともかく、私は自分が臆病になれないのを悔んだことは一度もない。
この場合、もちろん私は群がるインディアンに囲まれているのはパウエルに相違ないと考えた。しかし、そう考えたのと行動を起こしたのといずれが先だったかは自分にもわからない。とにかく、この光景が目にはいるやいなや間髪を入れずに私は拳銃を抜き、やつぎばやに発砲し、精いっぱいの喚声をあげながら敵の全軍に向かって突撃していた。たった一人で戦う私の戦術としてこれ以上に効果的なものはなかっただろう。不意を打たれたインディアンたちはまるで一連隊もの軍勢が攻めてきたように思いこみ、てんでに弓矢やライフル銃をとろうと四方八方へ散らばった。
連中があわをくって四散したあとの光景を見ると、私の心は不安と怒りでいっぱいになった。澄みきったアリゾナの月明りの下には、全身にインディアンの矢を受けてハリネズミのようになったパウエルが横たわっていた。彼がすでに死んでいることは認めるほかはなかった。もし生きていたら、私はすばやく彼を死の手から救いだそうとしたことだろう。それでも、アパッチの手で切りきざまれないうちに死体を救いだすためにはやはり敏速な行動が必要であった。
私はパウエルのそばまで馬を進めると、鞍《くら》の上から手をのばして弾薬帯をつかみ、鞍の前に引き上げた。そして、ちょっと背後をふり返って、いまきた方へもどるよりはこのまま台地を突っ切って進んだほうがまだしも危険が少ないと判断すると、馬に拍車をあて、台地の向こう側に見える山道の入口に向かって突進した。
このころにはインディアンたちも私がひとりだと気がついて、背後から呪《のろ》いの言葉や矢や銃弾を浴びせかけてきた。しかし、呪いの言葉はともかく、月明りの中でまともに弓矢のねらいがつけられるものではないし、それに私の思いがけない出現ぶりにインディアンたちがうろたえていたことや、こちらがかなりのスピードで動きまわる標的だったことなどのおかげで、私は敵のいろいろな恐ろしい飛び道具の餌食《えじき》になるのをまぬがれ、本格的な追跡が始まらないうちに付近の山陰にたどりつくことができた。
行先はほとんど馬にまかせて私は進んだ。峠《とうげ》への道筋は馬より私のほうがよく知っているというわけではなかったからだ。だが、そのために、無事に峠を越えて谷にはいれるものと思っていた山道ではなく、山脈の頂上に通じる狭い道にはいりこんでしまった。しかし、私が命拾いをして、その後の十年間かずかずの驚くべき経験と冒険にぶつかることになったのは、こうして道を間違えたおかげといえるだろう。
道を間違えたことに気がついたのは、追跡してくる野蛮人たちのわめき声がにわかに弱まり、どんどん左手のほうへ遠のき始めたときだった。
インディアンたちは台地のはずれにあるのこぎりの歯のような形をした岩層の左へ道をとり、私とパウエルの死体を乗せた馬はその右へ道をとったということらしい。
小さな岬《みさき》状に張り出した台地で馬をとめ、眼下の左手の道を見おろすと、追ってくるインディアンの一隊が隣の山のすそをまわって姿を消すのが見えた。
連中はまもなく道を間違えたことに気がつくだろう。そして私の馬の足跡を見つけしだい、こちらの方角を捜しはじめるにちがいない。
それからいくらも進まないうちに、高い絶壁に沿って続く、見たところいかにもすばらしい道が現われた。その道は平坦で、幅もかなり広く、登り坂になって、だいたい私が行きたい方角に向かっていた。絶壁は私の右側に四、五百フィートもの高さにそびえ立ち、左側には同じようにものすごい断崖が岩だらけの谷底に向かってまっさかさまに落ちこんでいた。
この道をたどって百ヤードほど行くと、道は急に右へ曲がって、大きな洞窟の前に出た。洞窟の口は高さ約四フィート、幅三、四フィートほどもあり、ここで道は行きどまりになっていた。
もう朝だった。いつもの通り、アリゾナの驚くべき特色として、夜明けの色をほとんど見せずに、にわかに明るくなる朝だった。
私は馬からおりて、パウエルを地面に横たえた。しかし、どう念を入れて彼の身体を調べてみても生きているきざしは毛筋ほども見あたらなかった。私は死人の唇をこじあけて水筒の水を流しこみ、顔を水で洗い、手をこすってやった。こうして、死んでいると知りながら、たっぷり一時間近くも休みなく努力を続けたのである。
私はパウエルが大好きだった。彼はあらゆる点から見てまったく男らしい男だったし、洗練された南部の紳士で、信頼のおける真の友人だった。だから、彼を生き返らせようというむちゃな努力をついに放棄したときには、この上なく深い悲しみを覚えずにはいられなかった。
そのままパウエルの死骸を岩棚の上に残して、私は洞窟の中にはいずりこみ、内部の様子をさぐろうとした。なかは非常に広く、さしわたし百フィート、高さ三、四十フィートもある大広間のようだった。床がすっかりすりへって、なめらかになっていることをはじめとして、遠い昔に人が住んでいたことを物語る証拠がたくさんあった。洞窟の奥のほうは深い闇につつまれて見通しがきかず、ほかの部屋へ通じる穴があるのかどうかは見定められなかった。
洞窟のなかを調べているうちに、心地よい眠気がじわじわと襲ってくるのを感じはじめた。長いあいだ懸命に馬を走らせた疲労や、戦ったり追われたりで興奮した反動のせいだろう。なあに、ここにいればわりあい安全だ。敵の大軍が押し寄せてきたって、この洞窟へはいる道なら一人で守ることができる……。
まもなく猛烈に眠くなり、洞窟の床に身を投げ出してちょっと休みたいという強い欲求をほとんど押えきれないほどになった。断じて眠ってはいけないことはわかっていた。そんなことをすればインディアンどもの手にかかって殺されるにきまっている。やつらはいつなんどき襲いかかってくるかわからないのだ。私はやっとのことで洞窟の入口に向かって歩きだしたが、たちまち酔っぱらったように足もとがふらついて壁にもたれかかり、そのままずり落ちて、床の上にうつぶせに倒れてしまった。
二 死者の逃亡
快い夢見心地にさそわれて全身の力をゆるめ、眠りたいという欲望に今にも屈服しようとしたとき、近づいてくる数頭の馬の足音が耳にはいった。急いで立ち上がろうとしたが、体がいうことをきかない。私はぞっとした。もう目はすっかりさめているのに、身体はまるで石にでもなったようにぴくりとも動かないのである。そのとき初めて、うすい蒸気のようなものが洞窟の中にたちこめていることに気づいた。その蒸気は非常に稀薄で、明るい洞窟の入口のほうをすかして見なければ目にとまらないくらいだった。その上、かすかに鼻を刺すようなにおいが漂っていた。なにかの有毒ガスにやられたのだとは見当がついたが、なぜ知能の働きに変わりがないのに身動きができないのか、どうも納得がいかない。
私は洞窟の入口のほうに顔を向けて横たわっていた。そこからは外の山道が少し見えた。洞窟から絶壁の曲がり角までの短い距離で、それから先は見えない。接近してくる馬の足音はきこえなくなった。きっとインディアンたちは、この私を生きながら閉じこめている墓穴のような洞窟に通じる細い岩棚を伝って、こっそり忍び寄っているのだろう。連中は酒の勢いに駆られたら、人にどんなまねをするか知れたものではない。その残虐な仕打ちの数々は考えるのもいやだった。いっそのこと、さっさと殺してもらいたいものだと思ったことを今でも記憶している。
たいして待つまでもなく、忍びやかな物音が連中の接近を告げ、つづいて戦闘用のインディアン帽をかぶり縞《しま》模様の彩色をした一つの顔が絶壁の角から用心深く突き出て、獰猛《どうもう》な目が私の目をのぞきこんだ。こいつの目に薄暗い洞窟の中にいる私の姿が見えたことは疑いない。早朝の日の光が入口からさしこみ、私の全身にふりそそいでいたからだ。
だが、そいつは私に近づこうとはせず、目をむき口をあけて突っ立ったままじっと見つめているだけだった。そこへ獰猛な顔がもう一つ現われた。つづいて三人目、四人目、五人目と出てきたが、いずれも狭い岩棚の上では前にいるやつを追いこすわけにいかず、仲間の肩ごしに首をのばした。どの顔もこれこそ畏怖《いふ》の念にうたれた顔の見本といったような表情を浮かべていたが、私にはその理由がわからなかった。そして、これがわかったのは十年後になってからのことなのだ。先頭に立っているインディアンたちが何か小声で後ろへ伝えたことから見て、私を見つめている連中の背後にまだほかの戦士たちがつめかけていることは明らかだった。
そのときふいに、低いが、はっきりとしたうめき声が私の背後の洞窟の奥から聞こえてきた。その声を耳にしたとたんにインディアンたちは度肝《どぎも》を抜かれて、さっと方向転換し、あわてふためいて逃げだした。私の背後の目に見えないものから必死になって逃れようとするあまり、インディアンの一人は断崖からまっさかさまに下の岩場へ転げ落ちた。こうして、しばらくの間は狂気じみた叫び声が峡谷にこだましたが、ほどなくすべてはふたたび静寂にもどった。
インディアンたちを仰天《ぎょうてん》させたうめき声はそれっきり二度と聞こえなかったが、私の背後の闇にひそんでいる恐ろしいものは何だろうと考え始めるにはそれだけで十分だった。ひと口に恐怖といっても相対的な表現にすぎない。だから、あのときの私の感情を測定するには、それ以前に危険な立場に陥ったとき経験した感情や、その後危険に遭遇した際に味わった気分と比較するしかない。しかし、ためらわずにこれだけは言える。もしもあのあと数分のあいだ私が耐え忍んだ気分が恐怖というものならば、臆病者に神の憐れみがありますように。なぜなら臆病者にとっては恐怖すること自体が恐ろしい罰なのだから。
凶暴なアパッチの戦士たちもその音を聞いただけで狼《おおかみ》に襲われた羊の群れのように総くずれになって逃げ出したほどの、なにか恐ろしい、えたいのしれない危険に背を向けながら、身動き一つできずにじっとしているということは、これまで頑丈な肉体の力を振りしぼって命がけで戦うことに慣れていた男にふさわしい、とっておきの戦慄《せんりつ》すべき状態だったという気がする。
数回、背後でだれかが用心深く動くようなかすかな物音が聞こえたと思った。だが結局、その音さえしなくなり、私は自分の陥った状態についてひたすら考えつづけることとなった。体が麻痺した原因はただ漠然としか推測できない。突然こんなことになったのと同じように、急に麻痺が直るのではないかと望みをかけるのみだった。
午後おそくなって、手綱を引きずりながら洞窟の前に立っていた私の馬は、どうやら食物と水を捜しに行くらしく、ゆっくりと山道をくだり始めた。置き去りにされた私のそばにいるのは正体不明の怪しげな「連れ」と友人の死体だけだった。パウエルの死体はけさ早く私が岩棚の上に置いたまま、私から見えるところに横たわっていた。
それからま夜中ごろまで、すべては死んだように静まりかえっていた。すると突然、けさ耳にした恐ろしいうめき声がして、私をはっとさせた。そしてふたたび暗黒の中から枯葉がかさかさ転がるような、何かが動く音が聞こえてきた。すでにさんざん痛めつけられている私の神経にとって、この衝撃はまったく恐るべきものだった。私は超人的な力をふりしぼってこの恐ろしい束縛から脱けだそうとした。力をふりしぼるといっても、私は小指一本も動かすことはできなかったから、筋肉の力ではなく、精神や意志や神経の力だ。しかし、それにもかかわらず、その力強さはすさまじいものだった。と、何かが急にくずれて、一瞬、吐き気を感じたと思うと、鋼鉄線がぷっつり切れるような鋭い音がして、私は洞窟の壁を背に正体不明の敵のほうを向いて立っていた。
そのとき、月の光が洞窟のなかいっぱいにさしこんだ。すると、私の目の前には私自身の体が、今までずっと倒れていたとおりの格好で、外の岩棚のほうを見すえ地面にぐったりと手を投げ出して横たわっているのだ。私はまず洞窟の床の上の生命のない人形のような自分を見つめ、それから立っている自分を見おろし唖然《あぜん》とした。そこに横たわっている私は服を着ているが、こっちに立っている私は生まれたときと変わりのない裸だったからだ。
この変化はあまりにも突然で思いもよらないことだったので、私は一瞬、自分の不思議な変身以外のことは何もかも忘れてしまった。そうか、これが死というものか! おれもとうとう永遠にあの世へ引っ越しをしたというわけか! まっさきに思い当たったのはこのことだった。しかし、そんなことはどうも信じられなかった。あばら骨の下では心臓が激しく鼓動する強い響きが感じられるからだ。これは先刻まで自分を束縛していた麻痺状態から脱出しようとして力をふりしぼったためではないか。それに呼吸は小きざみで息切れがしているし、全身の毛穴から冷汗が吹き出している。昔からよく言われているように自分の体をつねってためしてみると、何はともあれ自分が幽霊ではないことはわかった。
そのとき、またもや洞窟の奥からあの気味の悪いうめき声が聞こえたので、私は今この場をどう切り抜けるかという問題に急に引きもどされた。裸体だし、武器は何ひとつ持っていなかったから、自分をおびやかす目に見えないものに立ち向かうことはとうてい考えられない。
連発拳銃は横たわっているほうの私の腰についていたが、どうしたわけか、なんとしてもそれに触れる気になれなかった。カービン銃は鞍《くら》にくくりつけたサックに入れてあるが、かんじんの馬がどこかへ行ってしまったから、身を守る手段は皆無だった。こうなれば逃げるしか手はなさそうだと思ったとき、またかさかさという音がした。今度は、暗い洞窟の中で想像をたくましくしすぎたせいか、そのえたいの知れないものがひそかに私をめがけてはい寄ってくるような気がしたので、私の決心は固まった。
なんとしてでも、この恐ろしい場所から逃げ出したいという気にようやくなった私は、素早く洞窟の入口をすりぬけて、澄みきったアリゾナの星空の下に飛びだした。洞窟の外のさわやかな山の空気はたちまち強壮剤のような働きをして、新しい生命と勇気が私の全身を駆けめぐるようだった。私は岩棚のふちで一息つきながら、今になってみれば何の根拠もないように思える不安にかられていた自分を責めた。考えてもみろ――洞窟の中で何時間も手も足も出ない状態で横たわっていたのに、自分を苦しめるようなものは何もなかったではないか。そして筋道のはっきりした考え方ができるようになると、さらに思慮分別をとりもどして次のように確信した――あのうめき声のような音は何の害もない単なる自然現象が原因となって生じたものにちがいない。おそらく、あの洞窟は、ちょっとした風が吹くとあのような音を発する構造になっているのだろう。
調べてやろうと私は決心した。だが、まずその前に清くさわやかな山の夜の空気を胸いっぱいに吸いこんで元気を回復した。深呼吸をしながらはるか眼下を見わたすと、そこには岩だらけの峡谷やサボテンの点在する平坦な原野が月の光のもと、魔法にかかったようにおだやかな輝きと不思議な魅力をたたえながら美しい眺めを繰り広げていた。
月光に輝くアリゾナの美しい景色ほど人を元気づけるすばらしい見ものは西部にも少ないだろう。はるか彼方《かなた》の銀色に光る山々、切り立った山の背や水の涸れた峡谷に生まれる奇妙な光と影の交錯、ごつごつしてはいるが美しいサボテンの描きだすグロテスクな模様――これらが人の心を魅惑すると同時に元気づけるすばらしい光景をつくりだすのである。それはあたかも、地球上のどんな場所ともまるで趣《おもむき》の異なる、どこかの滅亡し忘れ去られた世界をはじめて垣間《かいま》見るような感じなのだ。
こうして物思いにふけりながらたたずんでいるうちに、私は眼下の景色から大空へ視線を移した。空には無数の星が輝いて、この地上のすばらしい光景にふさわしい豪華な天蓋をかたちづくっていた。私の視線はすぐに、遠い地平線の近くの大きな赤い星に引きつけられた。その星をじっと見つめていると、どうにも抵抗しがたい魅力に引きこまれて恍惚《こうこつ》となるのを感じた――あれは火星《マルス》、軍《いくさ》の神だ。軍人である私にとっては、いつもたまらない魅力を秘めている星だった。今は遠い昔のこととなったあの夜、私がじっと火星を見つめていると、あの星は想像もつかない広大な空間のかなたから呼びかけ、私を誘《さそ》い、磁石が鉄の小片を引きつけるように私を吸いよせると感じられた。
火星にたいする私のあこがれはどうにも抑えきれない強さになった。私は両眼を閉じ、自分の天職をつかさどる神に向かって両腕をさしのべた。と、あっと思う間もなく、道もない無限の空間に体が吸いこまれるのを感じた。一瞬、ものすごく寒くなり、あたりはまっ暗になった。
三 火星に着く
目をあけると、奇妙な薄気味の悪い眺めがとびこんできた。自分が火星にきていることは確実だった。気はたしかかとか、目は覚めているのかというたぐいの疑いはただの一度も感じなかった。眠ってはいなかったのだから、今度はわが身をつねってみるにも及ばない。心のなかの意識が、自分は火星にいるということをはっきりと教えてくれたのだ。これはふつうの人が自分は地球にいるということを意識によって知っているのと同じことである。だれもその事実を疑ったりはしない。私にしても同じことだった。
黄色味をおびた苔《こけ》状の植物の上に私はうつ伏せに横たわっていた。その植物は私のまわり一面に繁茂して、はてしなく広がっていた。私が横たわっているのは深い円形の窪地《くぼち》の中らしく、その外周沿いに低い丘陵がうねうねと連なっているのを見分けることができた。
昼の盛りだった。太陽はもろに照りつけ、その暑さは裸体の私にはいささか強烈すぎた。それでもアリゾナの砂漠で同様な状態に陥った場合を思えば大したことはない。地表のそこかしこからは石英を含んだ岩が少しずつ露出して、陽光にきらめいていた。そして私の少し左、ざっと百ヤードほどのところに、高さ四フィートぐらいの低い壁をめぐらした建物が見えた。水はなく、苔《こけ》のほかには何の植物も見当たらないし、それに喉もいくぶん渇いていたので、少し探検してみようと心を決めた。
私は跳び起きた。とたんに火星における最初の驚きを味わうことになった。地球でなら単にまっすぐ立ちあがるだけの力をこめたというのに、私の体は火星の空中高く三ヤードもはね上がったのだ。しかも、地上に降り立ったときもふわっと軽く、ショックといえるほどのショックは少しも感じられなかったのである。こうして私は一連の進化の階段を登り始めることになったが、それは当時でさえすこぶる滑稽《こっけい》なことに思われた。まず、もう一度はじめから歩き方を練習しなければならない。地球上で軽々と安全に歩かせてくれた筋肉の使い方は、火星では奇妙な道化踊りを演じさせることになるからだ。
とにかく歩こうとすると、とてもまともな格好で進むことはできず、ぴょんぴょん跳ね上がってしまうのである。そして、ひと足ごとに地面から二フィートも飛び上がり、二度目か三度目の跳躍の終わりには手足を大の字に広げてうつ伏せに倒れたり、仰向けにひっくり返ったりした。私の筋肉は地球の重力に完全に調和して、それに慣れきっているために、もっと小さい火星の重力や低い気圧と初めて取り組もうとすると、調子がめちゃくちゃに狂ってしまうというわけだった。
それでも私は、見わたしたところ居住者がいることを示す唯一の証拠である背の低い建造物を探検する決心だった。そこで思いついたのは移動の根本原理――つまり、はって進むこと――にたちもどるという独特のやり方である。これはかなり上手《じょうず》にできたので、まもなく建物の外側の低い壁にたどりついた。
目の前の壁には入口も窓もないようだったが、壁の高さはわずか四フィートぐらいだったから、私は慎重に立ち上がり、上からのぞきこんだ。すると、いまだかつて見たこともない不思議な光景が目にはいった。
その壁に囲まれた建物の屋根は厚さ四、五インチほどの頑丈なガラス張りで、その下には完全な球形の雪のように白い大きな卵が数百個も並んでいたのである。卵の大きさはほぼ一定していて、直径二フィート半ぐらいだった。
五、六個の卵はすでに孵化《ふか》していた。陽光を浴びて目をぱちぱちさせている生まれたばかりのグロテスクな動物の姿は、ひと目見るなり自分の頭がおかしくなったのではないかと思ったほど奇怪なものだった。この動物の体は大部分が頭といった感じで、それに骨ばった小さな胴、長い首、六本の足がついている。あとでわかったことだが、六本の足のうち二本が足で二本は腕、残りの二本は随意に腕としても足としても使える中間的な性格のものだった。二つの目は頭の中心より少し上の線の両側にはなればなれについていて、一つ一つ独立して前にも後ろにも向けられるように突き出している。だから、この奇妙な動物は頭の向きを変えずにどんな方向でも、あるいは同時に二つの方向でも見ることができるわけだった。
耳は目の少し上に、目よりはたがいに接近してついているが、この赤ん坊の場合で見ると、頭からせいぜい一インチほど突き出ている小さな茶わん形の触角といったところだ。そして鼻は顔のまん中の、ちょうど口と耳の中間にある縦長の裂け目にすぎない。
体には毛というものが少しもなく、全体はきわめて薄い黄緑色だった。このあとすぐにわかったことだが、成人になると体の色はもっと濃いオリーブ色がかった緑色になり、女性より男性のほうがいっそう濃《こ》くなる。それにまた、おとなの頭は赤ん坊の場合ほど全身との釣合がとれていないわけではない。
眼球の虹彩《こうさい》は白子《しらこ》の場合のように血のような赤い色だが、瞳孔《どうこう》は黒ずんでいる。眼球そのものはまっ白で、歯も同様だ。このまっ白な歯は、それでなくても恐ろしい顔つきをこの上なく獰猛《どうもう》な感じにしている。下顎から大きな曲がった牙《きば》が上向きに生え、その尖った先端は、地球の人間なら目の位置になるあたりまで達しているからだ。この歯の白さは象牙《ぞうげ》のような白さではなく、雪のように純白で、すばらしい光沢を放つ陶器を思わせた。濃いオリーブ色の皮膚の上ににょっきりと突き出しているまっ白な牙は、異様に恐ろしい凶器じみた印象を呈している。
このような細かな点は大部分あとで気づいたことだ。それというのも、この新しく見つけた驚異のことをゆっくり考えるひまがほとんどなかったからだ。ただ、目の前の卵が孵化しつつあることはわかった。そして、見るもいまわしい、ちっぽけな怪物が卵の殻を破って出てくるのをじっと見守っていたので、自分の後ろから成長した火星人の一団が近づいてくるのに少しも気づかなかった。
極地の凍結地帯とあちこちに散在する耕地を除けば火星の地表のほとんど全部を覆っている、やわらかな、足音のひびかない苔の上を、連中はやってきたのだった。だから、私を生けどりにすることもわけなくできただろうが、実際はそれよりもずっと凶悪な考えを抱いて忍び寄っていたのだ。ところが先頭の戦士がふと装具のふれ合う音を立てて、それが私に警告を与えることとなった。
そんな些細なことに私の生死がかかっていたほど危機一髪の場面だったのだから、よくもまあやすやすと逃げられたものだと今でもときどき不思議に思う。もしも一行の指揮者の鞍《くら》の横に装着してあるライフルがひょいと揺れて、金属の石突きのついた長い槍《やり》の柄にぶつからなかったら、私は死の手が迫っていることさえ知らずに殺されていただろう。だが、その小さな音で私は振り返った。すると、どうだ、私の胸から十フィート足らずのところに、長さ四十フィートもある大きな槍のぎらぎら光る穂先があり、私がいままで見つめていた赤ん坊に瓜《うり》二つの悪魔が獣《けもの》の背にまたがり、その槍を脇に低くかかえて身がまえているではないか。
だが、この巨大なものすごい、憎悪と復讐と死の化身にくらべたら、赤ん坊どもはなんとちっぽけな罪のないものに見えたことだろう。その男ときたら――男と呼んでいいのだろうが――身長はゆうに十五フィート、体重は地球でなら四百ポンドはあろうと思われるほどだった。そして、われわれが馬に乗るように下肢で胴をはさんで獣《けもの》にまたがり、二本の右腕は大きな槍をつかんで乗っている獣《けもの》のわきに低くかまえ、あいている二本の左腕はバランスを保つために横に広げていた。こいつが乗っている獣《けもの》にはくつわだの手綱《たづな》だのといった用具めいたものは何一つついていなかった。
その上、やつが乗っている獣《けもの》がまた、なんともたとえようのないものすごい怪物なのだ! 背丈は肩までで十フィート、足は両側に四本ずつあり、幅の広い平らな尾は根元よりも先が大きく、走るときにはこれを後方へぴんとのばす。口はとてつもなく大きく、鼻先から長いがっしりした首のあたりまで頭がまっ二つに裂けているようだ。
背中の主人と同じようにこの獣《けもの》にも毛は一本もなかったが、色は黒味がかった灰色であり、非常になめらかで光沢のある皮膚をしている。腹は白く、肩や腰のあたりの灰色は脚部でしだいに変色し、足の先ではあざやかな黄色になっている。足の先には肉がたっぷりついていて爪がない。このことは私に近づくときに足音をたてなかった理由の一つでもあるし、また、脚の数が多いということと共に火星動物群の特徴ともなっている。ちゃんとした形の爪を持っているのは最高級のタイプの人間ともう一つ火星にいる唯一の哺乳動物だけで、ここには蹄《ひづめ》のある動物は一匹もいないのである。
先頭に立って進んできた怪物の後ろには十九人の仲間がつづいていた。彼らはあらゆる点で同じように見えたが、あとになって、この連中にもそれぞれ固有の特徴というものがあることがわかった。われわれ人間がみな似たようなものではあっても、まったく同一の人間が二人いることはないのと同じことなのだ。私が長々と説明しているこの現《うつつ》の悪夢ともいうべき光景は、実際には、振り向いたとたんに私の目に映じた恐るべき一瞬の印象にすぎない。
私は何も武器はないし、おまけに裸だったので、このさしせまった危機を切り抜けるには自然の根本法則に従って行動する以外に手はなくなった。つまり、襲ってくる槍の穂先の前から逃げ出すことだ。そこで私は、火星人の孵化器にちがいないと判定した建物の屋根に飛び乗ろうとして、しごく平凡だが、それと同時に神業《かみわざ》に近い跳躍をやってのけた。
この跳躍はまんまと成功を収めた。火星の戦士たちは仰天《ぎょうてん》したようだったが、私自身もそれに劣らずびっくりした。なにしろ、私の体はゆうに三十フィートも空中に跳ね上がり、追手から百フィートも離れた、壁に囲まれた建物の向こう側に着陸したからだ。
私は何の支障もなく、楽々と、やわらかな苔の上に降《お》り立った。振り返ると、向こう側の壁沿いに並んでいる敵の連中が見えた。非常な驚きを示す表情――これはあとでわかったことだが――を浮かべて私を見つめているやつもいれば、私が赤ん坊に手出しをしなかったのでほっとしているらしいやつもいた。
連中はいろいろな身振りをして私のほうを指さしながら、何やら小声で話し合っていった。そして私のほうを見る目つきが前ほど凶暴な感じではなくなった。どうやら私が火星人の赤ん坊に危害を加えなかったことや、何も武器を持っていないことがわかったためらしい。しかし、あとでわかったことだが、私のために何よりもものを言ってくれたのは、あの見事なハードル越えを披露したことだったのである。
火星人はとてつもなく大きな図体《ずうたい》をしているが、その筋肉の力は火星の引力を克服するのにちょうどいいという程度のものにすぎない。その結果、体重の割合には地球人よりはるかに敏捷《びんしょう》さを欠いているし、力もない。もし彼らがいきなり地球に移されたとしたら、自分自身の体重も支えられるかどうか怪しいものだ。おそらくだめだろうと私は思う。
そのときの私の離れ業《わざ》は、地球でやれば当然そう見なされたように、火星でも驚嘆すべき事柄と見なされた。だから、私を殺すつもりだった火星人たちは急に考えを変えて、すばらしいものを見つけたから生けどりにして帰って仲間に見せてやろうというような目つきになったのである。
思いがけない機敏な行動のおかげで余裕を得た私は、次はどうしたものかと考え、戦士たちの様子をもっと細かく観察し始めた。というのも、私の心の中ではこの戦士たちを、つい一日前に私を追跡していたインディアンたちと切り離して考えるわけにはいかなかったからだ。
目の前にいる戦士たちはめいめい、例の大きな槍のほかにも数種類の武器を携帯していた。そのなかに明らかにライフル銃の一種と思われる武器があったので、私は跳躍によって逃げるのはやめることにした。なんとなく、連中はその銃の操作が特にうまいのではないかという気がしたからだ。
そのライフルは白い金属の銃身に木製の銃床がついていた。あとで知ったことだが、これに使われている木は非常に軽くて硬い、火星では珍重されている植物で、われわれ地球の住民はまったく知らないものだ。また、銃身の金属はアルミニウムと鋼鉄を主成分とする合金で、これを火星人たちはわれわれが見なれている鋼鉄をはるかにしのぐ硬度にまで鍛え上げる方法を知っていた。このライフルは、重量が比較的軽い。そして小型で爆発力の強いラジウム弾を使用し、銃身が非常に長いこの銃は、地球では想像もできないくらいの射程距離を持ち、恐るべき威力を発揮する。理論上の有効射程距離は三百マイルだが、実際には無線ファインダーと照準器をつけて使用した場合でせいぜい二百マイルを少し上まわる程度にすぎない。
火星人の銃砲類に多大の敬意をはらう気になるにはこれで十分すぎるほどであろう。あのとき、この必殺のライフル銃が二十丁も銃口を並べている前から白昼堂々と逃げ出すことを思いとどまったのは、何か精神感応力《テレパシー》のようなものが働いて警告を与えてくれたために相違ない。
火星人たちは何やらちょっと話し合ったあと、仲間を一人だけ建物のそばに残すと、やってきた方角に向きを変えて遠ざかって行った。そして二百ヤードほど進んだところで停止し、またこちらに向きを変え、建物のそばに残っている仲間をじっと見守った。
その戦士はすんでのことに私を槍で串刺《くしざ》しにしそうになったやつで、明らかにこの一行の指揮者だった。ほかの連中は彼の指図で現在の位置に移動したものと見受けられたからだ。部下たちが停止すると、彼は乗っていた怪獣から降りて、槍や小火器を地面に投げ捨てた。そして、まったくの素手になり、また、頭と手足と胸に飾りをつけている以外は私と同様の裸になって、孵化器の向こう側をまわり私のほうへやってきた。
私から十五フィート足らずのところまで近づくと、彼はばかでかい金属製の腕輪をはずし、それを手のひらにのせて私に差し出し、澄んだ響きのよい声で話しかけてきた。しかし言うまでもなく、それは私にはわからない言葉だった。それから彼は口をつぐみ、私の返答を待ちかまえるように触角のような耳をそばだて、奇妙な目をますます私のほうに突き出した。
しばらく沈黙がつづいて耐えきれないまでになったとき、私は思いきってこちらからも話しかけてみようと決心した。どうやら相手は和平交渉を開始しているらしいと思ったからだ。武器を投げ捨てたことや、部下の一隊を後退させてから私のほうへ進んできたことは、地球ならどこでも平和の使者を意味するはずではないか。それなら火星でも同じであって悪かろうはずはない!
私は片手を胸にあてて火星人に向かって深く頭を下げると、あなたの言葉はわからないが、あなたの行動が明らかに平和と友好の意志を示していることは今の私にとって何よりも喜ばしいことだと述べた。もちろん、私が何を話しかけようと相手には小川のせせらぎ同然だったろうが、しゃべり終わった直後の行動は向こうも理解してくれたようである。
すなわち片手を火星人にさしのべながら私は前進し、相手の広げた手のひらから腕輪をとって自分の二の腕にはめると、にっこり笑いかけて、相手の出方を待ったのである。火星人はそれに答えて大きな口をあけ、にやりと笑うと、手足両用の腕の一本を私の腕にからませた。そのまま私たち二人は向きを変えて彼の乗用動物のところへ引き返した。それと同時に彼は部下たちに前進するように身振りで合図を送った。部下たちはいっせいにどっと駆けよろうとしたが、指揮者は手まねでそれをとめた。どうやら、もう一度私をおどかしたりしたら、今度は完全に見えないところへ飛んで行ってしまうのではないかと心配しているらしかった。
彼は部下たちと二言、三言しゃべり、そのなかの一人の獣《けもの》の後ろ側に乗るように私に合図してから、自分の獣にまたがった。護送役に選ばれた男は手を二、三本のばして自分の背後のつやつや光る獣《けもの》の背に私を引き上げた。私はその火星人の武器や装飾物をくくっている皮帯や紐《ひも》をたよりに懸命にしがみついた。
騎兵隊の面々はいっせいにくるりと向きを変え、遠い山なみをめざして全速力で駆け始めた。
四 捕虜
十マイルほど進んだと思われるころ、地形はにわかに登り坂になりはじめた。あとでわかったことだが、私が火星人と出会ったのは大昔に水の涸《か》れた火星の海の底で、このときはその海の旧海岸線に近づいているところだったのである。
まもなく山のふもとに着き、それから狭い峡谷を一つ渡ると、広々とした谷あいの盆地に出た。その盆地の果てのほうに低い台地があり、その台地の上に巨大な都市が見えた。そこへ向かってわれわれは疾駆《しっく》し、一筋に市中まで通じているらしい荒れた道路を伝って都市にはいった。だが、道路は台地の端までで、そこから急に幅の広い階段になっていた。
市中を通りながら、もっとよく観察すると、建物には人気《ひとけ》がなく、たいして崩壊してはいないが、長年の間、おそらくは何世代もの間だれも住んでいなかったらしいということがわかった。市の中心近くには大きな広場があった。そして、この広場とそのすぐ近くの建物には私をつかまえた連中と同じ種類の生物が九百人から千人ぐらい住んでいた。今となっては、やり方は穏やかだったにせよ、私はまんまと罠《わな》にかけられて捕虜になったのだと考えざるをえないようである。
彼らはみな身につけている飾りを別にすれば裸だった。女性は見たところ男性とあまり変わりがなく、ただ、身長のわりには牙《きば》がずっと大きく、なかには曲がった牙《きば》が頭のはるか上方にある耳の近くまでのびている者もいた。体は男性より小さくて、皮膚の色も薄い。また、手足の指には退化した爪らしきものがあるが、これは男性の場合にはまったく見られないものだ。おとなの女性の身長は十フィートから十二フィートといったところである。
子供は体の色が女性よりもさらに薄く、なかには背が高いもの――たぶん年かさの子供だろう――もいるということを除けば、どれもこれもまったく同じに見えた。
火星人には老齢の兆候というものがまるで見あたらなかった。四十歳ぐらいの成熟年齢の者から千歳ぐらいの高齢の者まで、見たところ目につくほどの相違は何もない。千歳ぐらいになった火星人はみずから進んでイス川をくだり、不思議な死出の旅に出る。このイス川がどこへ流れて行くのか、生きている火星人はだれも知らない。いまだかつてその川の果てから戻ってきた者はいないし、ひとたびその冷たい暗い川に船出したら、たとえ戻ったとしても生きることは許されない。
火星人千人のうち病死する者はわずか一人ぐらいで、およそ二十人は自発的な死出の旅に出る。残りの九百七十九人は、決闘や狩猟や飛行や戦争などで非業の死を遂げるが、群を抜いて死亡率が高いのは幼年時代で、多数の火星人の赤ん坊は巨大な白ザルの餌食《えじき》になってしまうのである。
成人年齢に達したあとの火星人の平均寿命はだいたい三百年くらいだが、非業の死を招くさまざまの条件がなければ千年近くまで生きのびることになる。ところが、この遊星の天然資源は減少しつつあるために、めざましい医療技術の発達によって寿命がどんどんのびてゆくのを逆にくい止めることが必要になってきたらしい。だから火星では人命が軽《かろ》んじられるようになり、そのあらわれとして危険なスポーツがさかんに行なわれ、さまざまな部族間でほとんど絶え間なく戦争が繰り返されている。
人口減少の傾向が生じるのにはほかにも自然の原因はあるが、何にもましてこの傾向に拍車をかけているのは、火星人が男も女も自らはけっして破壊のための武器を手放そうとはしないことである。
一行が広場に近づき私の姿が目にとまると、たちまち大勢の火星人がわれわれのまわりに群がってきた。彼らは護衛役の後ろに乗っているちっぽけな私をつまみ上げたがっているように見えた。一行の指揮者が何か一声叫ぶと、この騒ぎは静まった。われわれは急ぎ足で広場を横切り、およそこの世のものとも思われぬ壮麗な建物の入口に着いた。
その建物は高さこそたいしたことはなかったが、とほうもなく広大な面積を占めていた。それは輝かしい白い大理石造りで、あちらこちらにちりばめられた黄金や宝石が陽光を浴びて美しくきらめいていた。正面の入口は幅が百フィートほどもあり、建物の本体から突き出して玄関の広間の上に巨大な天蓋《てんがい》をかたちづくっていた。階段はないが、一階にはいるにはゆるやかな斜面を登るようになっていて、そのまま回廊に囲まれた大きな部屋に通じていた。
この部屋には見事な彫刻をほどこした木製の机や椅子《いす》があちこちに置かれていたが、正面の演壇の踏み段のまわりに集まっている四、五十人の火星人の男たちはいずれも床に腰をおろしていた。その演壇の上には、金属製の装身具、けばけばしい色彩の羽根、巧みに宝石をはめこんだ美しい皮細工の飾りなどをやたらに身につけた大きな戦士が一人すわりこんでいた。肩には目のさめるように赤い絹の裏地がついた白い毛皮の短いケープを羽織《はお》っている。
この集会と会場を見て何よりも異常な感じがしたのは、火星人たちと机や椅子《いす》やその他の家具の大きさがまるで釣合いがとれていないことだった。そこにある家具類は私ぐらいの人間にちょうどいい大きさなのである。これでは、とても火星人のばかでかい体を椅子に押しこむこともできないだろうし、机の下に長い足を入れる余地もあるまい。とすると明らかに、この火星には、私を捕虜にしたこの野蛮でグロテスクなやつらのほかにも住民がいることになる。だが、私の周囲の様子がきわめて古めかしい感じを与えることから見て、これらの建物は火星の太古の時代にすでに滅亡し、忘れ去られた民族のものにちがいないと思われた。
われわれの一行はこの建物の入口で止まり、私は指揮者の合図で地上におろされていた。指揮者はふたたび私と腕を組み、私といっしょに謁見《えっけん》室にはいって行った。火星人の首領の前に出るには固苦しい儀礼はたいして必要ではなかった。私をつかまえた男は、無造作に演壇に向かって大股に歩み寄り、ほかの連中はそれにつれて道をあけた。そこで首領が立ち上がって、私の護送者の名を呼ぶと、今度は相手が立ち止まって、この支配者の名と称号をとなえた。
そのときには、こんな儀礼や、彼らが口にした言葉は私にはちんぷんかんぷんだったが、あとでこれが緑色火星人どうしの習慣的挨拶であることを知るようになった。たがいに相手を知らず、名を呼び合うことができない場合には、無言で装身具を交換するのである。ただし、これは目的が平和的なものである場合のことで、さもない場合は撃ち合いになるか、そのほかの武器を使うかして出会いの決着をつけることになる。
私をつかまえた男はタルス・タルカスという名で、実質的にはこの部族の副首領格であり、政治家としても戦士としても非常に手腕のある男だった。彼は自分の遠征中の出来事を手短かに説明したらしかった。その中に私をつかまえた話も加えたと見えて、彼の報告が終わると、首領は私に向かってかなり長ったらしく話しかけてきた。
私はわるびれずに英語で答えたが、たがいに相手の言うことがわからないということをわからせただけだった。しかし、しゃべり終わった私が微笑を浮かべると、相手も同じように微笑を浮かべた。このことや、タルス・タルカスと初めて話したときに同じことが起こったことから見て、私と火星人との間には少なくともある共通点があることを確信した。それは微笑、つまり笑う能力を持っているということで、要するにユーモアのセンスがあることを示すものだ。しかし、やがて私は、火星人の微笑はまったくうわべだけのもので、その笑いは屈強な男たちをも恐ろしさに震え上がらせるものだということを知るのである。
緑色火星人のユーモア観は、何が笑いを呼び起こすかという点でわれわれ地球人の考え方とは非常にかけ離れている。この奇妙な生物が何よりも腹をかかえて大笑いをするものといえば、仲間の断末魔の苦しみをながめることだし、彼らの娯楽として一番ありふれたものといえば、いろいろと手のこんだ恐ろしい方法で捕虜を殺すことなのである。
集まった戦士や幹部たちは私の筋肉をつまんだり肌をなでたりして綿密に調べた。そのうちに首領は私の跳躍の実演が見たくなったらしく、手まねでついてくるように合図をすると、タルス・タルカスといっしょに外の広場へ出て行った。
ところで私は、最初に歩こうとして見事に失敗したあと、タルス・タルカスの腕にしがみついているとき以外は一度も歩こうとしたことはなかった。だから、いま歩こうとすると、机や椅子の間をバッタの化け物のようにぴょんぴょん跳びはねながら進むことになった。そのおかげで全身にひどい打ち傷をつくって火星人たちを大いに面白がらせたあとで、私はふたたび這って歩く手を使うことにした。ところが連中にはこれが気にくわなかったらしく、私のみじめな有様をながめて一番大笑いをしていた見上げるような大きなやつが荒々しく私をぐいと引き起こした。
そいつは乱暴に私を立たせると、かがみこんで私の顔をのぞきこんだ。私は、このように野蛮で無礼な、他人の権利をないがしろにする仕打ちを受けた場合に紳士がやる唯一のことをやった。つまり、こぶしを固めてもろに一発あごに食らわせてやったのだ。相手は牛が倒れるように地響きをたてて倒れた。こいつが床に横たわると、私はくるりと向きを変えて手近の机を背にした。仲間の連中が仕返しに押し寄せてきて、一気に打ちのめされるだろうと思ったからだが、それでも勝ち目のなさを承知の上で命のあるかぎり立派に戦ってやろうと決心した。
しかし、その心配にはおよばなかった。ほかの火星人たちは最初は驚きのあまり口もきけない様子だったが、やがて堰《せき》を切ったように爆笑と喝采《かっさい》の渦が巻き起こった。私にはそれが喝采であることがわからなかったが、のちに彼らの習慣をよく知るようになってから、彼らがめったに人に与えない賞賛を私はかちとったのだということがわかった。
私になぐり倒された男はそのまま横たわっていたが、仲間は一人として近よろうとはしなかった。タルス・タルカスは私に近寄って、腕を一本さし出した。こうして二人はその後は無事に広場へ進んで行った。むろん私は何のために広場へ出たのかわからなかったが、理由はまもなくはっきりした。火星人たちはまず、「サク」という言葉を何度も繰り返した。続いてタルス・タルカスが四、五回その「サク」という言葉を口にしては飛び上がって見せ、それから私のほうを向いて、「サク!」と言った。やっと彼らが求めているものがわかったので、私は力をふるい起こして「サク」をやってのけた。それはすばらしくうまくいき、私はたっぷり百五十フィートも跳躍して、しかも今度はバランスを失わず、ちゃんと倒れないで地上におり立った。それから私は軽く二十五フィートから三十フィートぐらいずつ飛び跳ねながら、小人数の戦士の一団がいるところへ戻ってきた。
このショーは数百人の一般火星人が目撃していたのである。彼らの間からたちまちアンコールの声が起こった。すると首領は私にもう一度やれと命じた。だが私は空腹だったし、喉も渇いていたので、連中のほうから何も察してくれない以上、こちらから要求しないことにはどうにも助からないと即座に判断した。そこで何度も繰り返される「サク」を要求する声を無視して、その声が上がるたびに私は手を口にあて、腹をなでてみせた。
タルス・タルカスと首領が何やらちょっと話し合った。それからタルス・タルカスは群衆の中の若い女に声をかけて、何やら指示を与え、私には手まねで彼女について行けと合図した。私は女がさし出した腕にしっかりつかまると、二人で広場を横切って向こう側にある大きな建物のほうへ歩いて行った。
連れの若い女は成熟したばかりの年ごろで、背の高さは八フィートぐらいあったが、それでもまだすっかりのびきってはいなかった。薄い黄緑色の肌はなめらかで、つやつや光っていた。あとで知ったことだが、この女はソラという名で、タルス・タルカスの従者の一人だった。彼女が私を連れて行ったのは、広場に面した建物の中の広い部屋だった。床の上に絹物や毛皮がちらばっていたので、だれか火星の住民の寝室だろうと私は思った。
部屋は大きな窓がたくさんあって十分に明るく、壁画やモザイク模様で美しく飾られていた。しかし部屋のいたるところに例のなんとも言いようのない古めかしい感じが漂っていて、これらのすばらしい創造物の作者たちは現在それを自分のものにしているがさつな野獣めいた連中とは何の共通点もない別の人種だということが歴然としていた。
ソラは、部屋の中ほどに積んである絹物の上に腰をおろせと身振りで私に合図した。それから振り返って、だれか隣室にいる相手に合図を送るようにシューッと歯の間から妙な音をたてた。それに応えてまたもや初対面の火星の怪物が現われて私を驚かした。そいつは短い十本足でよたよたとはいってくると、従順な子犬のように娘の前にすわりこんだ。その大きさはシェットランド産の小馬ぐらいだったが、あごに長い鋭い牙《きば》が三列に並んでいる点を除けば、頭部はいささかカエルに似ていた。
五 番犬はまいたが
ソラはこの獣《けもの》の意地の悪そうな目をじっと見すえながら、何かちょっと命令して私のほうを指さし、部屋を出て行った。私はこんな獰猛《どうもう》な顔つきの怪獣を私のような柔らかな肉のご馳走《ちそう》のすぐそばにほっておいたらどうなることか、と思わずにはいられなかった。だが心配は無用だった。怪獣はちょっとの間じろじろと私を見まわしてから、部屋を横切って戸外に通じる唯一の出口のところへ行き、戸口に長々と横たわった。
火星の番犬の世話になったのはこれが最初だったが、これが最後ということにはならなかった。こいつは私が緑色人の捕虜になっている間じゅう注意深く私を守って、二度も私の命を救い、一瞬も私のそばから離れようとはしなかったのである。
ソラがいない間に、私は自分が閉じこめられている部屋の模様をもっと細かく調べた。壁画にはすばらしく美しい風景が描かれていた。山、川、湖、海洋、草地、樹木、草花、曲がりくねった道、陽光に輝く庭――それらは植物の色どりの違いさえなかったら、地球上の風景を描いたものとしても通りそうだった。明らかに名匠の手になった作品らしく、なんとも微妙な雰囲気が漂い、完璧《かんぺき》きわまるテクニックが駆使されていた。だが、人にせよ獣《けもの》にせよ生き物の姿はどこにも見当たらなかった。だから、この緑色人とは異なる、たぶん絶滅したと思われる火星の住民がどんな姿をしていたものやら推察することはできなかった。
これまでに火星で経験した奇妙なとっぴょうしもない事態になんとか説明をつけようと空想のおもむくままに勝手なことを考えていると、ソラが食物と飲物を持って戻ってきた。彼女はそれを私のそばの床の上に置くと、少し離れたところに腰をおろして、じっと私を見つめはじめた。食物は一ポンドほどのチーズに似た手ざわりの固まりで、ほとんど味らしい味もなかったが、飲物のほうは何かの動物のミルクらしかった。いくぶん酸味はあるが、別にいやな味ではなく、少したつと非常にうまいと思うようになった。あとでわかったことだが、このミルクは動物性ではなく――火星にいる哺乳動物は一種類だけで、それも非常に数が少ない――ある大きな植物からとるものだった。この植物はほとんど水なしで育つが、土壌の成分や空気中の水分や太陽光線を吸収して多量のミルクを作りだす。この植物一本から一日八ないし十クォートのミルクがとれるということだ。
食事が終わると、大いに元気がでたが、休息の必要を感じて絹物の上に手足をのばして横になると、じきに眠ってしまった。四、五時間は眠ったらしく、目が覚めたときには暗くなっていた。その上、ひどく寒かった。だれかが毛皮をかけてくれたことに気がついたが、少しずり落ちてしまって、暗闇の中ではもとどおりに直せなかった。すると、急に手がのびてきて毛皮をかけ直し、そのあとすぐに、もう一枚かけてくれた。
私はこの注意深く世話をやいてくれる付き添いはソラにちがいないと思ったが、それに間違いはなかった。私が交渉をもったすべての緑色火星人のなかで、同情や親切や愛情などの心があることを示したのはこの娘だけだった。彼女は私が必要とするものには手落ちなく気をくばってくれたし、その心のこもった世話のおかげで私は数々の苦悩や困難から救われることになったのである。
やがてわかったことだが、火星の夜はおそろしく寒い。そして、夕暮れや夜明けというものはほとんどなかったから、明るい昼間があっという間に闇黒の夜に変わるのと同じく、気温の変化もだしぬけで、すこぶる不愉快な感じだ。夜は明るい光に照らされているか、非常に暗いかのいずれかである。火星の二つの月がどちらも空にない場合にはほとんどまっ暗になってしまうからだ。空気がないために、もっと適切に言えば空気がきわめて稀薄であるために、星の光はあまり遠くまで広がらない。これに反して、月が二つとも空にのぼっている場合には地表は明るく照らされる。
火星と二つの月の間の距離は地球と月の間の距離よりもはるかに近い。地球と月との距離がだいたい二十五万マイルであるのに、火星から近いほうの月まではわずか五千マイルほどだし、遠いほうの月まででも一万四千マイルを少しこえるにすぎない。近いほうの月は七時間半と少々で火星のまわりを一周するから、毎晩二、三回、この月が空を通過するたびにさまざまな形を見せながら、大きな流星のように突進してゆくのが見える。
遠いほうの月は三十時間十五分あまりで火星をまわり、その姉妹衛星とともに、夜の火星の輝かしくも無気味な壮観をつくりだす。自然がこれほど恵み深く火星の夜に光をそそいでいるのはまことに当を得たことである。それというのも、火星の緑色人はあまり知能の進んでない遊牧民族で、人工照明の方法はきわめて原始的なものしか知らないからだ。彼らの主要照明法は蝋燭《ろうそく》のようなたいまつと、燈芯《とうしん》を使わずにガスを発生させて燃やす独特の石油ランプである。
この石油ランプは強烈に輝く白光を遠くまで放つ。だが、それに必要な天然油の入手は遠方にそれぞれかなり隔って散らばっている数か所の産地に頼るほかはないので、その日その日のことしか考えようとしない緑色人たちはこのランプをめったに使わない。このように彼らは労働が大きらいなので、太古以来そのままの半未開状態にとどまっているのである。
ソラが毛皮をかけ直してくれたあと、私はふたたび眠りこみ、次に目が覚めたときには明るくなっていた。室内にはほかに女性ばかり五人の同居者がいたが、みんな雑多な色どりの絹や毛皮を高く積み上げてまだ眠っていた。戸口には、あの油断のない監視係の怪獣が前日最後に見たまま身動き一つしていない格好で、じっと私を見つめながら長々と横たわっていた。もしこっちが逃げようとしたら、どういうことになるのだろうか、と私は考え始めた。
これまでいつも、もっと賢明な人間ならまず手出しをしないでおくといった場合に、あえて冒険を求め、調べ、実験してみるという傾向が私にはあった。だから、この動物が私に対してどう出るかを知るのに最も確実な方法は部屋から出ようとしてみることだという考えが浮かんだ。ひとたび戸外へ出てしまえば、追跡されても逃げきれるという自信はかなりあった。自分の跳躍の才能に大へんな自信をもち始めていたからだ。その上、怪獣の足の短さからみて、こいつのほうは跳躍どころか走ることも満足にはできないだろうと判断したのである。
そこで私はそろそろと注意深く立ち上がった。だが、監視係のほうもまったく同じことをやり始めた。私は用心しながら怪獣のほうに進みだした。すり足で小刻みに歩くと、バランスが保てるばかりでなく、かなり速く進めることがわかった。私が近づくと、怪獣は用心深くそろそろと後退した。そして私が戸外へ出てしまうと、片側へ寄って通してくれた。それから私の背後にまわり、人気《ひとけ》のない街路を進んで行く私の十歩ほどあとからついてきた。
どうもこいつの役目はおれを守ることだけらしい、と私は思った。だが、都市のはずれまでくると、怪獣は急に奇妙な声を出し、醜い凶暴な牙《きば》をむきだして私の前に飛び出てきた。私はちょっとこいつをからかってやろうと考えたので、怪獣めがけて突進し、あわや衝突という瞬間ぱっと跳び上がって、怪獣よりずっと先の、都市からだいぶ離れた地点におり立った。すると相手はすぐにくるりと身をひるがえし、いまだかつて見たこともない驚くべき速さで私に向かって突進してきた。あの短い足では早く走れるはずはないと思っていたのに、その猛スピードときたら猟犬と競走させてもまるで段違いの差をつけると思われるほどだった。あとで私は、これが火星で最も速く走る動物だということを知った。利巧で忠実で、しかも凶暴性があるために、狩猟や戦争に使われ、また火星人の護衛係として利用されている動物なのである。
とっさのうちに私は、ただまっすぐに逃げていたのではこの獣《けもの》の牙をかわすのはとてもむずかしい、と見てとった。そこで急にあと戻りをして、今にもがっぷりやられるという瞬間に相手を跳びこえるという手で対抗した。この作戦はまんまと成功して私はかなり優勢になり、怪獣よりはだいぶ先に都市に戻ることができた。そして相手が猛烈な勢いで追いすがってきたとき、谷を見おろす建物の表側の、地上から三十フィートほどの位置にある窓をめがけて飛び上がった。
窓の下枠にしがみつくと、建物の中ものぞかずによじ登って腰をかけ、下でうろうろしている動物を見おろした。ところが喜んだのも束《つか》の間だった。窓枠にしっかり腰を落ち着けるか落ち着けないかのうちに背後から大きな手がのびてきて私の襟首《えりくび》をつかみ、乱暴に室内へ引っぱりこんだのだ。私はほうり出されて仰向けに倒れた。見ると、頭に逆立った剛毛がもじゃもじゃと生えているほかは毛が一本もない巨大な白いサルのような生き物が目の前に立ちはだかって私を見おろしていた。
六 白ザルとの決闘
今度の怪物はすでに出会っている火星人よりも地球人によく似ていた。そいつは大きな片足で私を床に押えつけながら、きゃっきゃっと叫んで何やら身ぶりをした。すると私の背後で、明らかに相棒と思われるやつがそれに答え、すぐに大きな石の棍棒《こんぼう》を持ってこっちへやってきた。その棍棒で私の脳天をたたきつぶすつもりなのだ。
こいつらはまっすぐに立って十ないし十五フィートぐらいの身長があり、緑色火星人と同様、上肢と下肢の中間あたりに腕とも足とも区別のつかないものをもう一組持っていた。両眼はたがいに接近しているが突出してはいない。耳はかなり上のほうにあるが、緑色人の耳にくらべれば側面にあると言える。そして鼻から口や歯のあたりにかけてはアフリカのゴリラにいちじるしく似ていた。要するに、緑色人と比較してみれば別に醜いとはいえない動物だった。
石の棍棒がぶるんと振りまわされて、いまにも仰向きになった私の顔に落下しそうになった瞬間、足ばかりたくさんある怪物が電光石火の勢いで戸口から飛びこんできて、まっこうから死刑執行人の胸もとへ飛びかかった。私を押えていたサルは恐怖の悲鳴をあげて窓から飛び出したが、相棒のほうは私の救いの神と取っ組み合いになり、すさまじい死闘を展開し始めた。救いの神はほかならぬ私の忠実な番犬がわりの動物だった。それにしても、どうもあの恐ろしい怪物を犬と呼ぶ気にはなれない。
私はできるだけ早く立ち上がると、壁を背にして、人間にはめったに見られない決闘を目撃した。力と敏捷さとがむしゃらな狂暴性という点でこの二匹の動物に匹敵するものは地球人の知るかぎりでは一つもいないだろう。私を救った怪獣は最初の一撃で、その強い牙を相手の胸深く食いこませて優勢だった。ところがサルのほうは、緑色人よりはるかに力の強い大きな腕や手で私の護衛係の咽喉《のど》を押えこんでじょじょにしめつけながら、頭と首を後方へ弓なりに折り曲げようとしていた。私はいまにも首の骨が折れて護衛係の怪獣はぐにゃりとなってしまうのではないかと思った。
首を折ろうとしているサルのほうは、そのお返しとして、胸の肉を万力《まんりき》のような強いあごでかぶりつかれ、もろに引きちぎられそうになっていた。二匹は組み合ったまま床の上をあちらこちらへ転げまわったが、どちらも恐怖や苦痛の声は一声ももらさなかった。そのうちに私の護衛係の大きな目玉が眼窩《がんか》からすっかり飛び出しそうになり、鼻孔から血が流れはじめた。やつがかなり弱ってきたのは明らかだが、それはサルのほうも同じことで、もがきまわる力はしだいに弱まりだしていた。
とつぜん私はわれに返った。そして、いつも私に義務を遂行せよと命じるように思えるあの不思議な本能に駆られて、この決闘のはじめに床に投げ出されたままになっている棍棒をつかむと、精いっぱいの力をふるってサルの脳天にまっこうから打ちつけ、卵の殻のようにたたきつぶした。
こうしてサルをしとめるやいなや、私はまた新たな危険に直面した。相棒のサルがさきほどの恐怖のショックから立ち直り、建物の内部を通ってこの決戦場へ引き返してきたのだ。その姿が戸口にたどりつく直前にちらっと私の目にはいった。いまや、床にのびている仲間の死体を見て大声でほえ、憤激のあまり口から泡を吹いている姿を見ると、正直なところ、私の心は恐ろしい予感でいっぱいになった。
情勢が圧倒的に不利でどうにも勝ち目がないという場合でないかぎりは私はいつも自分から進んで戦うことにしている。だが、このときは、自分のたかの知れた力をふるって、この鉄のような筋肉と狂暴な野獣性を持った、未知の世界の怒り狂っている怪物と戦ったところで何の栄誉も利益も得られないと見てとった。実際、こんな敵に立ち向かったら、またたくうちに殺されてしまうだけだという気がした。
私は窓の近くに立っていた。とにかく外の通りへ出てしまえば、怪物に追いつかれないうちに広場に着いて無事に逃げきれるかもしれなかった。少なくとも逃げれば助かるチャンスはあった。しかし、このままここにいれば、いかに死物狂いになって戦おうとも、死ぬことはまず確実だろう。
なるほど手には棍棒があるが、あの巨大な四本の腕を相手に、これで何ができるだろう? おそらく相手は棍棒を腕で受け止めようとするだろうから、最初の一撃で一本の腕はたたき折れるかもしれない。だが、それに成功したとしても、こっちが態勢を立て直して第二の攻撃をしかける前に相手は残りの腕をのばして、私の息の根をとめてしまうだろう。
こんな考えが一瞬のうちに頭の中を駆けめぐった。私は身をひるがえして窓のほうへ行こうとしていた。ところが、私の先刻までの護衛係の姿が目にとまると、逃げるという考えはたちまちどこかへ吹き飛んでしまった。やつは苦しげにあえぎながら床の上に横たわり、助けてくれと哀願するように大きな目でじっと私を見つめていた。その目つきはとても無視するにしのびなかったし、それに考えてみれば、こいつが私の命を救うために立派にやってくれたように、こちらからもお返しをしないで恩人を見捨てるなどということはできるものではなかった。
そんなわけで私は、もはや迷うことなく、怒り狂う雄ザルの攻撃に立ち向かおうとして向き直った。いまや、相手があまりにも接近しすぎていたので、棍棒を有効に使うのはむずかしかった。そこで、ただ精いっぱいの力をこめて棍棒を向かってくる巨体めがけて投げつけるほかはなかった。棍棒はサルの膝《ひざ》のすぐ下にぶつかった。この一撃で相手は苦痛と憤激のうめき声を上げ、しかも体のバランスを失って、踏みとどまろうと腕を大きく広げながら巨体をもろに浴びせかけてきた。
私はふたたび前日のように地球上の戦術にたよった。まず右のこぶしをあごの先に思いきりたたきこみ、つづいてすばらしい左の一撃をみぞおちにぶちこんだ。効果はすばらしかった。二発目を食らわしてからちょっと横へ寄ると、サルは巨体をぐらつかせて床に倒れ、苦痛に体を折り曲げて激しくあえいだ。私はその倒れた体を飛びこえて棍棒をつかむと、この怪物が起きあがらないうちにとどめの一撃を加えた。
その最後の一撃を振りおろしたとき、低い笑い声が背後から聞こえた。振り返ってみると、タルス・タルカスとソラ、それに三、四人の戦士たちが戸口に立っていた。彼らと目を合わせると、自分がふたたび彼らの賞賛――例のできるだけ表面に出すまいとする賞賛――を受けていることがわかった。
連中がここに現われるまでの経過は次のようだった。まず、ソラが目を覚まして私がいないことに気がつくと、すぐにタルス・タルカスに知らせた。タルカスはただちに数人の戦士を従えて私をさがしに出かけた。そして市のはずれ近くまできたとき、あの雄ザルが憤激のあまり泡を吹きながら建物の中に飛びこんで行くのを目撃した。
彼らは、あのサルのおかしな挙動がひょっとすると私の行方を知る手がかりになることもあろうかと考えて、ただちにあとを追った。そして私とサルとの一瞬に命をかける決闘を目撃したのである。前日の緑色人戦士とのなぐり合いや跳躍の離れ業《わざ》とともに、この決闘のおかげで、私はこの連中から非常に尊敬されることになった。彼らはどうも友情だの愛情だのといったもっと繊細な愛情はまったく持っていないらしいが、武術の腕前や肉体的な勇気を示す行為には十分な敬意をはらう。だから、彼らの賞賛の的になりつづけようと思うなら、自分の腕前や力や勇気を何度も繰り返して実証するにこしたことはない。
ソラは自分から進んでこの捜索隊に加わったのだが、私が必死になって戦っているのを見て笑わなかった火星人は彼女だけだった。それどころか彼女は真剣な顔に気づかわしげな表情を浮かべていた。そして私が怪物を片づけるやいなや、すっとんできて、けがはないかと私の体を念入りに調べてくれた。私がどこにも負傷していないことを確かめたソラは、おだやかに微笑し、私の手をとって戸口のほうへ歩きだした。
タルス・タルカスと部下の戦士たちは部屋にはいってきて、私の命を救い、また私に命を救われた護衛係の獣《けもの》を見おろしていた。この動物はいまでは急速に元気を回復していた。戦士たちは何かしきりに議論し合っている様子だった。ついには一人が私に話しかけたが、言葉が通じないことを思い出し、またタルス・タルカスのほうに向き直った。タルカスは何かひとこと身振りまじりにその男に命令すると、私とソラのあとについて部屋から出ようとした。
だが私は、私の護衛係に対する連中の態度になんとなく穏やかでないものを感じたので、成り行きを見届けるまで部屋を出るのをためらった。まったく、そうしてよかったのだ。タルカスの命令を受けた戦士は無気味なピストルを皮ケースから抜いて、いまにもこの動物を殺そうとしたからだ。とたんに私は飛び出して、戦士の腕をはね上げた。銃弾は木製の窓枠に命中して爆発し、その木の部分と外の煉瓦《れんが》を貫通した。
私はおどおどした顔つきの怪獣のそばにひざまずくと、相手を立たせてやって、ついてこいと合図した。私の行動にびっくりした火星人たちの表情はまったく滑稽《こっけい》だった。彼らには、感謝とか同情といったたぐいの気持はまるで幼児のようにほとんど理解できなかったのだ。私にピストルをはね上げられた戦士はいぶかしげにタルス・タルカスの顔を見たが、タルカスは好きなようにやらせておけと目くばせした。そこで私たちは広場に戻って行った。大きな護衛係は私のすぐあとに従い、ソラは私の腕をしっかりとつかんでいた。
火星上で、私には少なくとも二人の友ができた。それは母親のように気をくばって私の世話をやいてくれる若い女と、口をきかない恐ろしい獣《けもの》である。あとでしだいにわかったことだが、この獣はその哀れな醜い体の中に、火星の荒廃した都市や涸《か》れた海の底をうろつきまわる五百万の緑色人全部を合わせたよりも多量の愛と忠誠と感謝の心を秘めていたのだった。
七 火星の育児法
朝食は前日の食事とまったく同じ内容で、その後も私が緑色人といっしょにいる間じゅう食事にはほとんど変化はなかった。食後、私はソラに付き添われて広場へ行った。そこには部落じゅうの火星人が出てきて、古代の象のような巨大な動物を大きな三輪車につなぐ作業を見物したり手伝ったりしていた。この乗物はおよそ二百五十台もあって、その一台一台を一頭の動物に引かせていたが、見たところ、どれか一頭だけでも荷を満載した大荷車の群全体をやすやすと引いていけそうな感じだった。
車そのものは大きく、ゆったりしていて、豪華に飾られていた。それぞれの車の中には、金属製の装身具、宝石、絹物、毛皮などをやたらに身につけた火星人の女が一人ずつすわり、車を引く動物の背には若い火星人の御者が乗っていた。戦士たちがまたがっている馬がわりの動物と同じように、このさらに重量級の牽引用動物の場合も、くつわや手綱は使用されず、もっぱら精神感応の力によってあやつられていた。
この精神感応の力はあらゆる火星人の間にすばらしく発達している。彼らの言語が単純で、長い会話のときでさえ言葉のやりとりが比較的少ないのは主としてこのためなのである。これは火星の共通語になっていて、この逆説に満ちた世界の動物たちは高等なものも下等なものも、種族全体としての知能や個別的な発育の程度によって多少の差こそあれ、この力を通じてたがいに意志を伝え合うことができる。
この大部隊が一列縦隊に並んで行進の準備をととのえると、ソラは私を引っぱって空《あ》いた車に乗りこんだ。そして私たちは行列の仲間入りをして、前日私がはいってきたこの都市の入口に向かって進みはじめた。部隊の先頭には例の怪獣に乗った約二百人の戦士が五列縦隊になって進み、それとほぼ同数の戦士が後衛をつとめ、さらに二十五人から三十人が行列の両側面をそれぞれ固めていた。
私のほかは男も女も子供もみな厳重に武装していた。それぞれの車の後ろには一頭ずつの火星の猟犬がついて走り、私の番犬もすぐあとからついてきた。実際、この忠実な動物は私が火星で過ごしたまる十年間、自分のほうから私のそばを離れたことは一度もなかったのである。行列は都市の前の小さな谷を渡り、丘を越えて、私が例の孵化器から広場までくるときに横断した水の涸《か》れた海の底をめがけて下《くだ》っていった。やがて今日の旅の目的地はその孵化器のある建物だということがわかった。行列が海底の平地にはいるやいなや、全部隊は狂ったような勢いで突進しはじめたので、じきに目的の建物が見えてきた。
目的地に到着すると、車の群れは建物の四方に軍隊ふうにきちんと並べて置かれた。それから巨人の首領が指揮をとって、タルス・タルカスほか四、五人の幹部を含む十人の戦士が乗用獣からおりて建物のほうに向かった。タルス・タルカスが首領に何か説明し始めた。ついでに言えば、この首領の名は、なるべく忠実に発音を書き写せば、ロルクワス・プトメル・ジェドという。ジェドは王の称号である。
彼らが何を話し合っているのか、すぐに察しがついた。タルス・タルカスがソラに声をかけて、私をこっちへよこせと合図したからだ。私はこのころにはもう火星の小さな重力のもとで歩くややこしい技術をすっかり物にしていたので、ただちに命令に応じて戦士たちが立っている孵化器の前へ出て行った。
彼らのそばへ行くと、卵が一つ二つを残して全部かえり、孵化器の中に見るもいまわしい悪魔の赤ん坊がうようよしているのが一目でわかった。赤ん坊は身長が三フィートから四フィートまでぐらいで、食物を捜し求めるらしく囲いの中を休みなく動きまわっていた。
私がタルス・タルカスの前まで行くと、彼は孵化器の上を指さして「サク」といった。ロルクワス・プトメルの御前できのうの芸当をもう一度やってくれというわけなのだ。正直なところ、私は自分の跳躍の妙技には少なからぬ満足を感じていたので、すぐに注文に応じて跳躍し、孵化器の向こう側に並べてある車の群れまできれいに飛び越えた。私が戻ってくると、ロルクワス・プトメルは唸《うな》り声で何か私に言い、それから戦士たちに向かって、孵化器のことでちょっと指示を与えた。彼らはそれっきり私のことはかまわなかった。おかげで私はそばに残って、彼らの作業を見物できることになった。その作業というのは、孵化器の壁に火星人の赤ん坊が出られるだけの大きさの穴をあけることだった。
出口が完成すると、その穴の両側に女たちと少年少女の群れが立ち並び、車の列の間を抜けてはるかかなたの平原までつづく二列の堅固な人垣を作った。この人垣の間を火星人の赤ん坊たちはシカのようにむやみに飛び跳《は》ねながら走り抜けた。赤ん坊たちはこの通路の末端まで勝手に走るままにしておかれ、最後に女や少年少女たちに一人ずつつかまっていった。つまり、列の最後に並んでいる者がこの人垣の端に最初に到着した赤ん坊をつかまえ、その向かい側の者が次の赤ん坊をつかまえるという工合にして、ちびどもが一人残らず孵化器を出て、少年少女あるいは女の手につかまるまで続いたわけである。女たちは赤ん坊をつかまえると、列から離れて、めいめい車に引きあげた。いっぽう、少年の手に渡った赤ん坊はあとで女たちのだれかに引き渡された。
儀式――そう呼ぶことで格好がつくとすれば――が終わったようなので、ソラを捜すと、彼女は私たちの車の中で見るも恐ろしい赤ん坊をしっかりと抱きかかえていた。
緑色火星人の育児の仕事というのは、話し方と、生まれたその年からふんだんに与えられる武器の使い方を教えることだけである。卵の中で五年間の孵化期を過ごした赤ん坊は体の大きさ以外は完全に発育して生まれてくる。母親たちは自分の子供の見わけが全然つかないし、それに子供の父親を正確に指摘することもむずかしいといった状態なので、子供たちは部落の共有物になり、その教育は孵化器から出たときにたまたま彼らをつかまえた女の手にゆだねられる。
その養母のなかには、ソラの場合のように、孵化器の中に自分の卵をもたぬ者さえいる。ソラはほかの女の子供の母親になる一年たらず前に、やっと卵を生みはじめたにすぎないのだから。だが、こんなことは緑色人の間ではたいした問題ではない。親子の愛情というものは地球人の間ではだれでも知っていることだが、火星人の間ではだれ一人として知らないことだからだ。この哀れな連中に繊細な感情や高度の人道的本能がまるで欠けているのは、昔から続いてきたこの恐ろしい制度が直接の原因にちがいない。彼らは生まれたときから父や母の愛情も知らなければ、家庭という言葉の意味も知らない。そして、自分たちは、生きるに適していることを体格や獰猛さで実証できるようになるまでは、ただ生きることを許されているにすぎないのだということを教わる。万一どこか不具だとか欠陥があるということになれば、さっそく射殺されるのだ。彼らはほんの幼児のころから数多くの辛苦を味わうが、涙を流すことはただの一度もない。
べつにおとなの火星人が不必要に、あるいは故意に、子供たちを虐待するというわけではない。だが、彼らは滅亡に瀕している遊星上の激烈な生存競争のただなかにあるのだ。火星の天然資源は減少の一途をたどり、いまや、新たな生命を一つ維持しようとするごとに、その社会の負担が目に見えて増大するという段階にまで達している。
だから彼らは子供の中の最も頑健なものだけを慎重に選《え》り抜いて育て、神業《かみわざ》のような洞察力により出産率が死亡率を埋めるだけにとどまるよう調整している。火星人の女は毎年、約十三個の卵を生むが、その卵はみな大きさと重量と比重を測定されたのち、孵化しないように低温の地下貯蔵室の奥深くしまいこまれる。そして毎年、これらの卵は二十人の幹部が構成する評議会の慎重な審査を受け、年々供給される卵のうち最も完全なもの約百個のほかはことごとく破壊される。したがって五年目の終わりには生みだされる無数の卵の中から約五百個のえり抜きの完全な卵が残ることになる。次に、これらの卵はほとんど気密状態の孵化器の中に並べられ、さらに五年たったのち太陽光線によって孵化するわけだ。今日われわれが見た孵化はまったくその典型的なもので、約一パーセントの卵以外は二日の間にことごとく孵《かえ》ったのである。残りの卵が孵《かえ》ったとしても、そのちびどもがどうなったかは全然わからない。彼らは望ましくない子供なのだ。こういう子供の遺伝因子は孵化期を長びかせる傾向を子孫に伝えて、昔から続いてきたこの社会のしきたりを破壊してしまうおそれがある。つまり、おとなの火星人たちが孵化器のところへ戻ってくる時機をほとんど一時間の誤差もないところまで正確に算出するための拠《よ》り所をだいなしにされる危険があるわけだ。
孵化器は、他の種族に発見される心配のほとんどない僻地に要塞のように堅固に作られる。万一、他の種族に発見されるようなことがあれば、そのさき五年間は一族に子供が一人も生まれないという悲劇が生じるのだ。のちに、ある異なる種族の孵化器がこの悲劇に見舞われたさまを私は目撃することになったのだった。
私が運命をともにすることになった緑色火星人たちの種族は約三万人いて、南緯四十度から八十度の間の、東と西はそれぞれ広い沃野《よくや》と境を接した広大な乾燥地帯を流浪している。彼らの本拠はこの地域の西南のすみ、いわゆる火星の運河が二つ交差しているあたりにあった。
孵化器の所在地は彼らの領土からはるか北方の、住む者も訪れる者もないと思われる地域にあり、その先には、私にはかいもくわからないとほうもなく広大な土地が広がっていた。
荒れはてた都市に戻ってから四、五日はのんびりと過ごした。都市に帰った翌日、戦士たちはみな朝早く獣《けもの》に乗って出かけ、日没直前まで戻らなかった。あとで知ったことだが、彼らは卵を貯蔵してある地下室へ行き、その卵を孵化器に移してきたのである。孵化器はふたたび壁にふさがれ、このさき五年間は訪れる者もないというわけだった。
孵化器に移せるようになるまで卵をしまっておく地下貯蔵室は、孵化器のある地点から何マイルも南にあり、毎年一回、評議会の二十人の幹部が訪れることになっていた。どうして貯蔵室や孵化器をもっと本拠地の近くに作らないのか、私にはいつも不思議だったが、ほかの多数の火星の神秘と同じく、これは地球人の理屈や習慣で解釈がつくことではないのだろう。
ソラの仕事は今では倍増していた。私の世話をやくだけでなく、赤ん坊の面倒までみなければならなくなったのだから。だが、どちらもたいして手はかからなかった。それに私も赤ん坊も火星の教育程度からいえば似たようなものだったので、ソラは思いきって二人をいっしょに教育することにした。
ソラの大切な赤ん坊は身長約四フィートの、非常に丈夫な、申し分のない体格の男児だった。また、この子供は物覚えがよかったので、まもなく私と激しくせり合うようになったのは、少なくとも私にはなかなか面白かった。前にも言ったように火星の言葉はすこぶる簡単だったので、私は一週間で、自分の欲求をすべて相手にわからせ、話しかけられたことはほとんど全部わかるようになった。その上また、ソラの指導のもとに精神感応力を発達させ、まもなく自分の周囲の出来事はほとんど何でも感じとれるようになった。
ソラが何よりも驚いたのは、私がほかの連中からの精神感応による通信を、しばしば私に向けられたものではない通信さえ、たやすく感じとることができるのに、連中のほうはなんとしても私の心をさっぱり読みとれないということだった。このために最初のうち私はじれったい思いを味わったが、のちにはそれを大いに結構《けっこう》なことだと考えるようになった。つまり、私は火星人よりずっと有利な立場に立ったわけであるから。
八 空から来た美女
孵化器の儀式が行なわれてから三日目に、一行は本拠地に向かって出発した。ところが行列の先頭が都市の前の広い平地に出たか出ないうちに、ただちに引き返せという指令が出た。すると、まるでこの演習ならもう何年も訓練を積んでいるというように、緑色火星人たちは近くの建物の大きな戸口の中へ煙が吸いこまれるように姿を隠し、三分たらずのうちに行列は車も巨象も獣にまたがった戦士も一つ残らず見えなくなった。
ソラと私は都市の前面にある建物にはいった。それは私が白ザルと出会って戦った建物だった。私はこの突然の退却の原因を知りたかったので、階上へのぼって、窓から外をのぞき、盆地とその向こうの山々を見わたした。連中が急にあわてて隠れたわけはすぐわかった。一番近い丘の上空を、長い、扁平な形の、灰色に塗られた巨大な飛行船がゆっくりと飛んでいたのである。それに続いて一|隻《せき》、また一隻と飛来し、全部で二十隻の飛行船が地表を低くかすめながら、悠然とこちらに向かってきた。
飛行船の船体の上には奇妙な旗がいたるところに翻《ひるがえ》り、船首には何か風変わりな模様が描かれていて、それが陽光にきらめき、私たちがいるところからでもはっきりと見えた。前甲板と船体の上部には人影が群がっているのが見えた。われわれを発見したのか、それともただ荒廃した都市をながめているだけなのかわからなかったが、どのみち彼らは野蛮な歓迎を受けることになった。緑色火星人たちは突然、何の警告もなしに、巨大な空の船がおだやかに進んでくる谷間に面した建物の窓から、すさまじい一斉射撃を浴びせかけたのである。
たちまち眼前の光景は魔法にかかったように激変した。先頭の飛行船はたちまち方向を転換して舷側をこちらに向け、砲塔を動かして応戦の火ぶたを切った。と同時にわれわれの建物の正面と平行して少し進み、それから大きく円を描いて折り返すと、ふたたびこちらの火線と向かい合う位置に戻ってきた。ほかの飛行船もこのあとを追い、次々に旋回して態勢をととのえると、いずれも発砲してきた。だが、地上軍側の銃火はいっこうに衰えなかったし、命中しない弾丸は四発に一発もないのではないかと思われた。私はこんなに狙いの正確な射撃は見たことがない。まるで銃声が一発響くたびに船上の小さな人影が一つずつ倒れてゆくように見えるのである。と同時に、すさまじい砲火になぎ倒されて、旗や船体の上部は燃え上がる炎に呑みこまれていった。
飛行船側の砲火はほとんど効果がなかった。あとでわかったことだが、地上軍の最初の一斉射撃があまりにも予想外の不意打ちだったので、乗組員たちは完全に虚をつかれて、銃火器の照準装置をむざむざ相手の正確な射撃の餌食にしてしまったのである。
緑色人の戦士たちは、このような戦闘情況のもとでは、めいめい自分の射撃目標をきめて戦うことにしているらしい。たとえば、折紙つきの射撃の名手の一隊はもっぱら敵の船隊の主力砲の無線ファインダー照準装置に射撃を集中する。そして別の一隊は同じようにして小火器をねらい、さらに砲手を射つ者もあれば、士官を狙撃《そげき》する者もある。いっぽう、ほかの連中は残りの乗組員や、船体の上部、操舵《そうだ》装置、推進器などに集中射撃を加えるといった調子である。
最初の一斉射撃から二十分後、大船隊は旋回して向きを変え、最初に現われた方角へしだいに遠ざかっていった。数隻は目に見えて速度を落とし、残り少ない乗組員がやっとのことで操縦しているように見えた。その砲火は完全に沈黙し、ひたすら退却することに力をそそいでいるようだった。すると、地上軍の戦士たちは急いで陣取っていた建物の屋根の上に駆けあがり、退却する船隊めがけてすさまじい連続射撃の追い撃ちをかけた。
それでも船隊は一隻ずつ遠い山のかなたに姿を消して行き、ついにはかろうじて飛びつづけている一隻だけになった。この一隻はこちらの砲火の矢面《やおもて》に立った飛行船で、乗組員は全滅してしまったらしく、甲板上に動く人影は一つも見えなかった。そして、ふらつく哀れな飛び方でのろのろと向きを変えると、またこちらへ戻ってきた。ただちに戦士たちは射撃を中止した。その飛行船が完全に無力になり、こちらを攻撃するどころか、操縦の自由がきかず逃げることもできなくなっていることが歴然としていたからだ。
飛行船が都市に近づくと、戦士たちはそれを迎えようと大急ぎで外の平地に飛び出した。だが、明らかにまだ高度がありすぎて、甲板にとびつくわけにはいかなかった。私がいる窓辺の見晴らしのいい位置から見ると、あちこちに乗組員の死体が散らばっているのが見えたが、どんな生き物なのか見わけはつかなかった。船は微風に乗ってゆっくりと南東の方角へ流れていったが、生存者がいる様子はまったくなかった。
飛行船は地上五十フィートほどのところを漂っていき、百人ばかりを残して全戦士がそのあとを追っていった。残された戦士は屋根に引き返して、さきほどの船隊か援軍がまたやってきた場合に備えるよう命じられていた。やがて飛行船は私たちのいる地点から一マイルほど南にある建物の正面に衝突することが明白になった。追跡している戦士たちの様子を見ると、一団の戦士が船より先へ大急ぎで走って、獣を乗り捨て、船がぶつかろうとしている建物へはいっていった。
その建物に飛行船が接近して衝突する直前、戦士たちは窓から船上に群がり移り、長い槍を突っぱって衝突のショックをやわらげた。そして、またたくまに引っかけかぎをばらばらと投下すると、下にいる仲間たちが大きな船を地上にたぐり下ろしはじめた。
船体を固定すると、戦士たちは舷側に群がり、船内をくまなく捜索しはじめた。生きているやつはいないかと彼らが乗組員の死体を調べているのが見えた。やがて一団の戦士が何か小さな生き物を引きずって下のほうから出てきた。その生き物の身長は緑色人戦士の半分もなかった。そいつが二本足で立って歩くのが私のいるバルコニーから見えた。どうやら、まだお目にかかっていない火星の怪物がまた現われたようである。
戦士たちは捕虜を地上に移してから、船内の徹底的な略奪を開始した。この作業は数時間かかり、その間に多数の車がかり出されて戦利品の運搬が行なわれた。戦利品は武器、弾薬、絹物、毛皮、宝石、奇妙な彫刻をほどこした石の容器、多量の固形食糧と飲物などで、私が火星にきてから初めて見る水の樽《たる》もたくさんあった。
略奪物の最後の荷が運び出されたあと、戦士たちは船にロープを固くしばりつけ、南西の谷間の奥へ引いていった。それから二、三人が船に乗りこんで、せっせと何かやりだしたが、遠い私の位置から見たところでは、いくつかのガラスびんにはいった液体を乗組員の死体や甲板や艤装《ぎそう》部分の上にふりまいているらしかった。
この作業がすむと、彼らは急いで舷側を乗りこえ、張り綱を伝って地上にすべりおりた。最後の一人が甲板を離れる前に振り返って船の中に何かを投げこみ、そのままちょっと立ちどまって結果を見届けようとした。投げたものが落下した場所から小さな炎が噴きだすと、彼は身をひるがえして船べりをこえ、すばやく地上におりてきた。彼の足が地面に触れるやいなや、張り綱がいっせいに解かれ、略奪されて軽くなった巨大な空中戦艦は甲板や上部艤装を猛火に包まれながら堂々と空に舞い上がった。
船はゆっくりと東南の方角に流され、木造部分が燃えて重量が減ってゆくにつれてどんどん上昇していった。私は屋上にのぼって、遠ざかってゆく船がついに遠い空のはてに姿を消すまで何時間も見まもっていた。それはまったく、強烈な畏怖の念に打たれずにはいられない光景だった。はてしなく荒涼と広がる火星の大空を、あてもなく人もなく漂流してゆく巨大な船。その炎に包まれた姿は大宇宙の火葬と呼ぶにふさわしかった。この死と破壊に襲われて見捨てられた船は、運悪く敵意に満ちた緑色人の手中に落ちる結果とはなったが、それはそのままこの奇妙な野蛮人たちの運命を象徴しているのではあるまいか。
どうしてだか自分にもわからなかったが、ひどく憂鬱《ゆううつ》な気分になった私は、ゆっくりと外の通りにおりてきた。さきほどの光景を見て、緑色人の戦士が彼らと同じような火星人の敵軍を敗走させたというよりも、なんだか自分と同種族の連中の軍勢が負けて全滅させられたような思いがしたのだ。なぜこんな幻想が湧き起こるのかわからなかったが、その幻想を払いのけることもできなかった。しかし、どこか心の奥底ではこの未知の敵に対する奇妙なあこがれの気持が生まれていた。そして、もう一度あの飛行船隊がもどってきて、あの容赦のないむちゃな攻撃を加えた緑色人の戦士たちに復讐戦をしかけるのではないかという強い期待の感情がむらむらと湧き起こってきた。
私のすぐ後ろには、いまでは当然のことのように、火星の猟犬ウーラがついてきていた。通りへ出ると、ソラが、さっきから捜していたところだというように急いで飛んできた。緑色人の大部隊は広場に引き返しているところだった。この日の本拠地への出発は中止になったのである。結局、飛行船の反撃を警戒したために、あらためて出発したのは一週間以上たってからだった。
ロルクワス・プトメルは抜け目のない老練な戦士だったので、車や子供の大行列を連れて広いむきだしの平野で敵の襲撃を受けるようなまねはしなかった。そこで一同は危険が去ったと思われるまで荒廃した都市にとどまることとなった。
ソラといっしょに広場にはいると、ある光景が目にとまった。とたんに私は、希望と恐怖、歓喜と失意のいりまじった激情が一気に全身を駆けめぐる思いがした。だが、そんな気分のなかでもひときわ強かったのは微妙な安堵の気持と幸福感だった。群衆に近づいたとき私の目にとびこんできたのは、二人の緑色人の女に手荒く引っぱられながら近くの建物の中へ連れこまれようとしているあの空の軍艦の捕虜の姿だったのである。
それは私がこれまでの人生を過ごした地球の女に何から何まで似ている、すらっとした女らしい姿だった。最初その女は私には気づかなかったが、彼女の牢獄となる建物の入口に姿を消しかけたとき、ふと振り返って、私と視線を合わせた。彼女の顔は卵形をしていて、すばらしく美しかった。目鼻だちはどの部分も優美で彫りが深く、目は大きくつややかに輝き、頭の上の波打つ漆黒《しっこく》の髪は風変わりだがよく似合う髪形にゆったりと結い上げられていた。肌は薄い赤味がかった銅色で、まっ赤に輝く頬と形のよい真紅の唇がその肌色に映《は》えて不思議な効果を増していた。
彼女はいっしょにいる緑色人と同じく衣服をまとっていなかった。あからさまに言うならば、凝った細工の装身具を除くと完全に裸体だったが、その申し分なく均整のとれた肢体の美しさを見れば、どんな衣装も無用のものとしか思えなかった。
彼女は私を見ると、驚いて目を見張った。そして自由のきくほうの手を動かして何やらちょっと合図をしたが、むろん、私には何のことだかわからなかった。ほんの一瞬、私たちはたがいに見つめ合った。それから私を発見したとき彼女の顔にみなぎった希望と勇気の色は消えてゆき、嫌悪と軽蔑のいりまじった完全な落胆の表情にかわった。私は自分が彼女の合図に答えなかったことをさとった。そして火星人の習慣は知らなかったが、彼女が援助と保護を求めたのだということを直観的に感じた。あいにく私が無知だったために、その求めに応じることはできなかったのである。やがて彼女の姿は荒れはてた建物の奥深く引きずりこまれて見えなくなった。
九 火星語をおぼえる
私はわれに返ると、この出会いをそばで見ていたソラにちょっと目を向けた。そして、いつもは無表情な彼女の顔に奇妙な表情が浮かんでいるのに気づいてびっくりした。しかし彼女が何を考えているのかはわからなかった。私の火星語の知識はまだやっと日常の必要なことをみたす程度にすぎなかったからだ。
私たちが住んでいる建物の入口に着くと、奇妙なことが待ち受けていて、またもや驚かされた。一人の戦士が自分のものと同じような武器や装飾品や装飾具一式をかかえて近づいてきたのだ。彼は何やら二言三言わけのわからないことを言いながら、丁重であると同時に威嚇的な態度でこれらの品物を差し出した。
あとで、ソラは数人のほかの女たちの手をかりて装具の型を直し、私の小さな体に合うようにしてくれた。それができあがると、私は完全武装に身を固めて歩きまわった。
そのときからソラはさまざまな武器の扱い方の秘伝を教えてくれた。私は火星人の子供といっしょに毎日数時間ずつ広場で練習をした。まだすべての武器に熟達するまでにはいかなかったが、類似の地球の武器には大いに習熟していたおかげで、めったにいない利発な生徒になり、上達ぶりは申し分なかった。
私や火星人の子供たちの訓練はもっぱら女たちにまかされていた。女たちは子供に個人的防御と攻撃の技術を仕込む役を引き受けているだけでなく、職人役もつとめ、緑色人の発明した品物をことごとく作っている。そのほかにも女は火薬や弾薬筒や火器を作る。要するに、価値があるものはすべて女の手で作られるのだ。戦時には女たちは予備部隊に編入され、いざという場合には男をもしのぐ聡明《そうめい》さと狂暴性を発揮して戦うのである。
男たちのほうは、戦争技術のもっと高度の部門、つまり戦略や大部隊を動かす方法を仕込まれる。また男たちは必要に応じて法律を作る。だから、緊急事態が起こるたびに新しい法律ができる。裁判を行なうにあたって彼らは判例に縛られるということはない。慣習法は長年の間の反復によって伝えられているが、慣習法を無視した者の処罰は、その犯罪者と同等の者たちで構成される陪審が個々に処理すればよいことになっている。裁判をやりそこなうということはめったにないが、全体としてはいささか法の優位に反する判決が出る傾きがあると言ってもよいだろう。少なくとも一つの点で火星人は幸福な連中だといえる。弁護士というものがいないからだ。
最初に出会ってから四、五日して、私はふたたびあの捕虜の姿をちらりと垣間見ることができた。彼女は、私が初めてロルクワス・プトメルと対面した謁見《えっけん》室に連れこまれるところだった。私は監視係が彼女を不必要に手荒くあしらうことに注目しないではいられなかった。それはソラが私に示す母性的といえるほどの思いやりや、わざわざ私を歓待してくれる二、三の緑色人の礼儀正しい態度とはおよそかけ離れたものだった。
最初に見かけたときもそうだったが、今度もこの捕虜の女は監視係と言葉をかわしていた。これで彼らが共通の言葉を話すか、あるいは少なくとも意志を通じ合える共通の言葉を知っていることがわかった。これが新たな動機となって、私はソラを困惑させるほどうるさくせっついて火星語の教育を急がせた。そして、それから二、三日のうちに一とおり何でも通じる程度にしゃべり、聞いたことはほとんど全部理解できるまでに火星語に熟達してしまった。
この当時、私たちの宿舎には、ソラと、彼女が育てている子供と、私と、それに火星犬のウーラのほかに、三、四人の女と二人の孵化したばかりの子供が住んでいた。女たちはいつも、夜、寝床にはいったあと眠るまでのひとときは、とりとめのないおしゃべりをして過ごすならわしだった。今では彼女たちの言葉がわかるようになったので、けっして自分から口をはさみはしなかったが、私はいつも熱心に聞き耳を立てていた。
捕虜の女が謁見室へ連れて行かれた日の夜は、結局このことが話題になった。私はじっと耳をすました。あの美しい捕虜についてソラに質問することはためらわれた。はじめて捕虜の女に出会ったあとでソラの顔に浮かんだ奇妙な表情がどうも気になっていたからである。ソラの表情が嫉妬《しっと》を表わしていたとは言いきれないだろう。それでも、いままでどおりに地球の尺度で万事を判断すれば、私が案じている相手にたいするソラの態度がもっとよくわかるまでは無関心をよそおっているほうが間違いはないと感じたのだ。
この宿舎仲間でサルコジャという年長の女は捕虜の監視係の一人として謁見室に行っていたので、何かと質問は彼女に集中することになった。
「あの赤色人がもだえ死にするのを見物できるのはいつなんだろうねえ」と一人の女がきいた。「それともロルクワス・プトメル様はあの女をつかまえておいて賠償をとるつもりなのかしらね」
「いっしょにサークまで連れて帰ることに決まったのさ。そしてタル・ハジュス様の前で行なわれる競技大会であの女の断末魔の苦しみをみんなに見せることになったんだよ」とサルコジャは答えた。
「どんな死に方をするのかしら」とソラが言った。「あんなに小さくてきれいなんだから、人質にすればいいと思っていたんだよ」
サルコジャとほかの女たちはソラが弱気を見せたことに腹を立てて、ぶつぶつ言いだした。
「ソラ、あんたが百万年前に生まれなかったのは残念なことさ」とサルコジャが意地悪く言った。「そのころなら地面のくぼんでいる所はどこもかしこも水がいっぱいで、住んでいる連中ときたら自分たちが船を走らせるその水と同じようにふにゃふにゃと頼りなかったんだからね。だけど、いまでは時代が進歩して、そんな気持は弱さと古臭さのあらわれということになっているんだ。あんたがそんな堕落した気持をもっていることがタルス・タルカスにわかったらまずいことになるよ。母親という大事な役目をあんたみたいなひとに任せる気にはなれないんじゃないかね」
「あたしがあの赤色人の女に関心を示したからって何も悪いことはないじゃないの」とソラはやり返した。「あの女は何もあたしたちに害を加えたわけじゃないし、かりにあたしたちがあの女につかまったとしても、べつに何もされないでしょう。戦争をしかけてくるのはあの種族の男たちだけだわ。それに、いつも考えていることだけど、むこうがあんな態度をとるのも、もとはといえばこっちの態度が攻撃的だからなのよ。あの連中はどうしても戦争をしなければならない場合以外は、仲間同士みんな仲よく暮らしているわ。ところが、あたしたちはだれとも仲よくしないじゃないの。赤色人に対してだけでなく自分の仲間うちで年じゅう戦っているのよ。現にこの部族の間でさえ、みんなてんでに戦っているわ。まったく、あたしたちの生活ときたら卵の殻を破って生まれた日からあの神秘の川の奥深く喜んではいってゆく日まで、恐ろしい流血騒ぎの連続なんだわ。あの暗黒のイス川の永遠の流れはあたしたちを未知の世界へ運んで行くというけれど、そうなれば少なくともこの不愉快な恐ろしい生活をこれ以上つづける必要はなくなるのよ! 早死にする者こそ幸運なんだわ。何でも言いたいことをタルス・タルカスに言うがいいわ。この恐ろしい生活をつづけること以上にひどい目にあわされるなんてことはありっこないんだから」
ソラのこの突発的な暴言にほかの女たちはすっかり肝をつぶしてしまったので、漠然とした叱責の言葉が二、三でたあとはみんな黙りこみ、まもなく眠ってしまった。こうしてソラがあの哀れな女に好意を持っていることが明らかになり、さらにまた、私がほかの女でなくソラに預けられたのがどんなに幸運だったかということがわかった。ソラが私に好意を抱いていることは前からわかっていたが、いまでは彼女が残酷さや野蛮さを憎んでいることがはっきりしたので、私とあの捕虜の女が逃げるときには助けてもらえるという確信が生まれた。もちろん、そんなことができればの話だが。
逃げたところで今よりよいところへ行けるのかどうかさえわからない。しかし、これ以上この恐ろしい血に飢えた緑色火星人の間にとどまるよりは、思いきって自分とそっくりの姿かたちをした人間の中に飛びこんでみたかった。だが、どこへ、いかにして行くべきかは、有史以来、地球の人間が捜しつづける永遠の生命の泉と同様、まるで見当のつかない謎だった。
そこで私は、機会があり次第ソラに何もかも打ち明けて、率直に助けを求めようと決心した。こうはっきり心を固めると、絹物と毛皮の中で寝返りを打ち、夢も見ずにぐっすりと火星の一夜の眠りに落ちた。
十 幹部の資格
翌朝は早々と床を離れた。都市から出ないかぎりは自由に歩きまわっていいとソラが言っていたとおり、私にはかなりの自由が与えられていた。しかしソラは、けっして武器を持たずに外出するようなまねをしてはいけないと警告した。この都市に似た古代火星文明の遺跡には、私が火星へきて二日目に出会ったあの巨大な白ザルがたくさん住みついているからだった。
またソラは、もし私が都市の境界線を越えようとすれば、ウーラがなんとしてでもそれを妨げるだろうと言った。そして、もしも禁止区域に近づきすぎたら、ウーラの警告を無視して彼の獰猛な性質を呼び起こしてはいけないとしきりに念を押した。ウーラの性質からみて、私があくまで逆らったら、生死にかかわらず私を連れて帰るだろうというのである。「殺してでもよ」と彼女はつけ加えた。
この日の朝、いままで通ったことのない街路をたどって様子を調べていると、とつぜん都市の境界まで出てしまった。眼前には低い山なみがうねうねとつづき、その間を縫って魅惑的な峡谷が走っていた。私は目の前の土地を探検したくてたまらなくなった。私の先祖の開拓者たちと同じように、まわりを取り巻く山々の頂上に登ったら、その向こうにどんな景色が現われるのか見たくなったのである。
それにまた、これはウーラの性質をためす絶好の機会だという考えが浮かんだ。この怪獣が私を愛していることは確信していた。人間だろうと獣だろうと火星のほかのどんな動物にもましてこの怪獣に愛情のもちあわせがあるという証拠を見ていたし、それに、その命を二度救った私に対する感謝の気持は、愛情というものを知らない残忍な飼い主たちが押しつけた義務感をしのいで余りあるという確信があったのだ。
私が境界線に近づくと、ウーラは気づかわしげに私の前を走り、私の足に体を押しつけた。その表情は獰猛というよりは哀願しているようだったし、大きな牙をむき出したり、恐ろしい警告のうなり声を上げたりすることもなかった。私は同じ地球人相手の友情や交際とは無縁になっていたので、ウーラやソラに少なからぬ愛情を抱き始めていた。正常な地球人なら何か自然の愛情のはけ口というものを持たなければならないからだ。そこで私は、この巨大な怪獣にも同じような愛情本能があるだろうから、それに訴えてやろうと決心し、期待を裏切られることはあるまいと思った。
これまで私がこの獣を愛撫したことは一度もなかった。しかし今は地面にすわりこむと、地球上で愛犬やそのほかの小さな愛玩動物にするように、この獣の太い首を抱きかかえてやさしく撫でさすり、覚えたての火星語で話しかけた。すると、怪獣はめざましい反応を示した。気持よさそうに大きな口を精いっぱいにあけると、上顎に並んだ牙が全部むき出しになり、鼻の頭にしわが寄り、大きな目がたるんだ肉のひだに埋まってほとんど見えなくなってしまったのである。コリーが笑うのを見たことがある人なら、ウーラのゆがんだ顔が多少は想像がつくかもしれない。
ウーラは仰向けになって私の足もとで転げまわったかと思うと、ぱっと跳ね起きて私に飛びつき、その巨体の重みで私を押しころがした。それから子犬がふざけるように私の周囲をのたうちまわり、なでてくれというように背中をさし出した。私はこの光景が滑稽《こっけい》でたまらなくなり、腹をかかえて大笑いをした。それはまったく久しぶりの笑いという感じだった。正確に言えば、パウエルが野営地を出発した日の朝、しばらく人を乗せなかった彼の馬がいきなりパウエルをまっさかさまにササゲ豆の鍋《なべ》の中に振り落としたとき以来の笑いである。
私が笑うのを見ると、ウーラは急におびえて、ふざけるのをやめた。そして、哀れっぽく私のほうにはいよると、その醜い頭を私の膝《ひざ》の間へ押しこんできた。そこで私は火星では笑うことが何を意味しているかを思い出した――そう、連中が笑うのは他人の苦痛や死をながめるときなのである。
私は笑うのをやめると、しばらくの間この哀れな動物の頭や背中をなでながら、やさしく話しかけてやった。それから、きっぱりとした口調でついてこいと命令し、立ち上がって山のほうに向かい歩きだした。
私とウーラの間に厳然とした関係が生じたことはもはや疑いはなかった。この瞬間からウーラは私の忠実きわまる奴隷になり、私は彼のかけがえのない主人になったのだ。山までは数分しかかからなかった。だが、かくべつ興味をひくものは何も見つからなかった。目もあやな色どりの奇妙な形をした野生の花が峡谷のあちこちにたくさん咲いていて、一番手前の丘の頂上から見わたすと、さらに別の山なみが北に向かって広がり、その先にも一つ、また一つと起伏が重なって、最後はかなり大きな山脈の中に溶けこんでいた。もっとも、高さ四千フィート以上の山は火星じゅうに数えるほどしかないことがあとでわかったから、ここで大きいというのも比較の問題にすぎない。
この朝の散歩は私にとって大きな意味を持つものだった。なぜならタルス・タルカスが信頼できる番人として私につけたウーラと完全に理解し合うことになったからだ。今では私は名目的には捕虜でも事実上は自由の身なのである。そこで、ウーラの変節を元の主人たちに気づかれないうちに急いで境界線まで引き返した。私はこの冒険をしたことによって、永久にここから出て行く準備ができるまでは指定された行動地域の外へ二度と出ないようにしようと決心した。もし見つかれば、ウーラはおそらく殺されるだろうし、そのうえ私の現在の特権は剥奪《はくだつ》されることになるだろう。
広場に戻ってきたとき、私は三たび、あの囚われの女を見かけた。彼女は監視係といっしょに謁見室の入口に立っていたが、私が近づくと、高慢な目つきでちらとこちらを見るなり、さっさと背を向けてしまった。その身ぶりがいかにも女らしく、地球の女性を彷彿《ほうふつ》とさせたので、私は自尊心を傷つけられはしたものの、なつかしさで胸が熱くなる思いがした。この火星上に自分のほかにも文明社会の人間らしい本能を持っている者がいると知ることは、たとえそれによって苦痛や屈辱を味わうにしても喜ばしいことだったのだ。
もし緑色火星人の女が嫌悪《けんお》や軽蔑の感情を示そうと思ったら、おそらく剣を突き出すか銃の引き金を引くかするにちがいない。もっとも、彼女たちの感情はあらかた退化してしまっているから、そんな激情を喚起するにはよほどひどく感情を傷つけなければならないだろう。ただ、断っておくが、ソラは例外だ。彼女が残酷なことをしたり乱暴なふるまいをしたりするのは一度も見たことがないし、その思いやり深さや気立てのよさはいつも変わりがない。仲間の女が言っていたように、彼女はまったく古くさいのだ。たがいに愛し愛される生活を送っていた先祖に立ち返ったような昔|気質《かたぎ》の、稀少価値のある火星人なのだ。
捕虜の女が群衆の注目を浴びているらしいことを知ると、私は立ちどまって様子をうかがった。と、まもなくロルクワス・プトメルが幹部連中を従えて建物に近づき、監視係に捕虜を連れてくるよう合図をして謁見室にはいった。私は思いきって謁見室にはいりこみ、なかの話を聞いてみることにした。自分がいくらか特別待遇を受けていることはわかっていたし、それに戦士たちは私がすでに彼らの言葉に熟達していることは知らないから、謁見室へはいってもあまり気にしないだろうと考えたのである。私は、火星語を完全に覚えるまでは話をすることを強要されたくないからという理由で、言葉を解することは秘密にしておいてくれるようソラに頼んであった。
幹部会の面々は演壇の踏み段の上にうずまくり、その前の低いところに捕虜と二人の監視係が立っていた。監視係の一人はサルコジャだった。これでこの女が昨夜、宿舎の女たちに成り行きを伝えていた前日の審問の場に居合わせたわけがわかった。サルコジャの捕虜に対する態度は非常に荒々しく苛酷だった。捕虜の体をつかまえるときには、退化した爪を哀れな女の肉に深く食いこませたり、腕をねじり上げてひどい苦痛を与えたりした。また、位置を移動させる必要があるときには、いきなり乱暴に引っぱるか、思いっきり前へ突き飛ばすかした。その様子はまるで、想像もつかない遠い昔の獰猛な祖先たちの時代から彼女の九百年の人生を通じて流れつづける憎悪と残酷さと獰猛性と悪意のありったけを、この身を守るすべもないかわいそうな女にぶちまけているようだった。
もう一人の監視係の女はそれほど残酷ではなかった。それというのもまるで無関心だったからだ。もしも捕虜の身柄がこの女ひとりに預けられていたら――さいわいにも夜間だけはそうだったが――こんなに虐待されることはなかっただろうが、また、さっぱり面倒をみてもらえないということにもなったろう。
ロルクワス・プトメルは捕虜に話しかけようとして顔を上げたが、ふと私が目にとまると、タルス・タルカスのほうを振り返ってちょっと何か言い、いらだたしげな身振りをした。タルス・タルカスが何か答えた。私には聞きとれなかったが、ロルクワス・プトメルはそれを聞いてにやりとし、それっきり私には注意を向けなかった。
「おまえの名は何というのだ」とロルクワス・プトメルは捕虜にきいた。
「ヘリウムのモルス・カジャックの娘、デジャー・ソリスです」
「で、あの遠征隊は何のためだ」
「あれは純粋な科学調査隊で、気流図を作り直し、大気の密度を調べるために、私の祖父にあたるヘリウムの皇帝《ジェダック》が派遣したものです」と美しい捕虜は低い落着いた声で答えた。
「わたしたちは戦闘準備はしていませんでした」と彼女はつづけた。「旗や船の色にも示されていたように、平和的な使命をおびていたからです。わたしたちが行なっている仕事は、わたしたちばかりでなくあなたがたの利益にもなることです。なぜなら、あなたがたもよくご存じのとおり、わたしたちが苦労に苦労を重ねて生みだした科学の成果がなかったら、この火星にはたった一人の人間の生命を維持するだけの空気や水さえなかったはずですものね。わたしたちは長年にわたって、空気と水をほとんど減らさずに、同じように供給しつづけてきました。しかもそれは、あなたがた緑色人の野蛮で無知な妨害を受けながらのことなのです。
いったい、どうしてあなたがたは自分の仲間と仲よく生きてゆくようにならないのですか! どうしていつまでも、あなたがたのために働いている口のきけない獣たちと大差のない生活をつづけなければならないのですか! あなたがたは文字もなく、芸術もなく、家庭もなく、愛もない民族――恐ろしい部落思想の永劫《えいごう》の犠牲者なのです。女や子供にいたるまでありとあらゆるものを共有しながら、結局、何ひとつ共有していないことになっているではありませんか。あなたがたは自分たち以外の種族を憎んでいるのと同じように、自分たちの間でもたがいに憎み合っているではありませんか。さあ、わたしたちの共通の祖先のやり方に立ち戻りなさい。もう一度、思いやりと友情の灯をともしなさい。道はあなたがたの前に開けているのです。あなたがたの目の前に、赤色人が援助の手を差しのべているではありませんか。わたしたちが力を合わせれば、この瀕死状態の火星を生き返らせるためにもっと多くのことができるでしょう。歴代の赤色人|皇帝《ジェダック》のなかで最も偉大な皇帝《ジェダック》の孫娘がお願いしているのです。承知していただけますか?」
若い女が口をつぐむと、ロルクワス・プトメルと戦士たちはしばらく何も言わずに相手の顔を一心に見つめていた。彼らの心の中にどんな思いが駆けめぐっていたかはわからないが、彼らが心を動かされたことは確実だったと思う。もしだれかひとり彼らのうちで地位の抜きんでた者が慣習を乗り越えるだけの強さを持っていたら、この瞬間から火星の新しい偉大な時代が始まっていたことだろう。
タルス・タルカスが立ち上がって、何かしゃべろうとした。彼の顔には、いまだかつて緑色人戦士の顔には見かけたことのない表情が浮かんでいた。それは彼が心の中で自分自身や伝統や昔からの習慣と懸命に戦っていることを物語っていた。彼がしゃべろうとして口を開いたとき、その獰猛な恐ろしい顔には、一瞬、やさしい思いやりと言ってもいいほどの心の輝きが浮かび上がった。
だが、彼の唇から出てくるはずの重要な言葉はついに声にはならずじまいだった。ちょうどその瞬間、年長者たちがひとしく考えはじめたことを感じとったらしい一人の若い戦士が演壇の踏み段から飛びおりて、かよわい捕虜の顔をこっぴどくなぐりつけたからである。戦士は床に倒れた女の体に片足を乗せて幹部会の一同を振り返ると、急に恐ろしい陰気な声で高笑いしはじめた。
一瞬、私はタルス・タルカスがこの戦士をなぐり殺すかと思った。それにロルクワス・プトメルの顔つきも、この野蛮人の行為を少しも喜んではいない感じだった。しかし、そんな感じはすぐに消え去って、彼らの本来の姿がふたたび浮かび上がってきた。すなわち彼らは微笑したのである。それでも彼らが大声で笑わなかったのは驚くべきことだった。なぜなら、緑色人のユーモアの倫理からすれば、若い戦士の行為は腹の皮をよじって大笑いをするほどの滑稽なことだったからだ。
戦士が女をなぐり倒したときの模様をこんなに長々と書いてはいるが、私はそんなに長い間なにもしないでじっとしていたわけではない。いまにして思えば、私は一瞬前に事態を察知したにちがいない。仰向きの、訴える表情の美しい顔が殴打されようとするのを見たときには、私はもう飛びかかろうとして身をかがめていたからだ。そして戦士の手が振りおろされる前に、私は広間のなかほどまで飛び出していた。
ぞっとするような笑い声が響きわたった瞬間、早くも私は戦士に襲いかかっていた。この野蛮人は身長が十二フィートもあり、完全武装をしていたが、すさまじい憤激に駆られていた私は広間じゅうの戦士を相手にしてでも戦ったにちがいないと思う。私は勢いよく飛び上がると、こちらの警告の叫びに振り返る相手の顔をまっこうからなぐりつけた。そして相手が短剣を抜くと、私も短剣を抜いて、ふたたび敵の胸元めがけて飛びあがり、片足を相手のピストルの台じりにかけ、左手で大きな牙をつかみながら、巨大な胸を何度も突き刺した。
私の体がぴったりとへばりついていたために、戦士は短剣をうまく使えなかった。また彼は、仲間同士の私闘の際は攻撃してきた相手と同じ武器で戦わなければいけないという火星の掟をまるで無視してピストルを抜こうとしたが、それもできなかった。結局、私を振り落とそうとしてめちゃくちゃにもがきまわるだけだった。そして、ばかでかい図体はしていながら、かくべつ私より強いというわけではなかったので、ほんのちょっとの間に血まみれになって床に倒れ、息たえてしまった。
デジャー・ソリスは片肘をついて身を起こし、目をいっぱいに見開いてこの決闘を見守っていた。私は起き直ると、彼女を抱き上げ、部屋の片隅の長椅子に運んだ。
今度もまた、だれも邪魔しようとはしなかった。私は自分の絹のケープを引き裂き、女の鼻孔から流れ出している血を止めようとした。この負傷はただの鼻血と変わりのない程度のものだったので、出血はすぐに止まった。女は口がきけるようになると、片手を私の腕にかけ、下から私の目をじっとのぞきこみながら言った。
「なぜこんなことをしたのです? わたしが最初にあぶない目に会っていたときには、やさしい顔さえ見せてくれなかったではありませんか! それなのに今度は命がけでわたしのために自分の仲間を殺してくださるなんて。わかりませんわ。ほんとうにあなたは、なんという不思議なかたでしょう。緑色人といっしょに暮らしていらっしゃるけれど、姿かたちはわたしたちの種族とまったく同じだし、それに皮膚の色はあの白ザルとほとんど同じくらいの白さだなんて。教えてください。あなたは人間なのですか。それとも人間以上の方なのですか」
「まったく、妙な話なのです」と私は答えた。「しかし、今お話しするのは長すぎるし、自分でも疑わしい気がするほどなので、ほかの人には信じてもらえないんじゃないかと思います。ともかく今は、私はあなたの味方だということだけ言っておきましょう。私たちをつかまえている連中が許してくれるかぎり、私はあなたを守り、あなたのために働きます」
「では、あなたも捕虜なのですか? でも、それなら、その武器やサーク族の幹部の記章はどうしたわけなのですか。名前はなんとおっしゃるの。国はどこなのです」
「私も捕虜なのです、デジャー・ソリス。私の名はジョン・カーター、国は地球のアメリカ合衆国のバージニアというところです。しかし、なぜ武器の携帯を許されたのかは私にもわからないし、これが幹部の記章だということは知りませんでした」
このとき、一人の戦士が武器や装具や装飾品を持って近づいてきたので、私たちの話は中断された。そのとたんに彼女の質問の一つに対する解答が頭にひらめいて、一つの謎が解けた。私はさきほど戦った相手の死体から身につけているものが何もかもはぎとられてしまったことに気がついたのである。そして、その決闘の勝利の記念品を私のもとへ持ってきた戦士の威嚇的だが丁重な態度を見ると、このまえ軍装一式を持ってきてくれた戦士がこれとまったく同じ態度を示したことを思い出した。その結果、今になってやっと、先日この同じ謁見室で戦った相手が私の一撃で死んでしまったことに気づいたのだった。
いまや、連中が私に示した態度の意味はすっかり明らかになった。いわば、私は名をあげたということなのだ。つまり、常に火星人の行動の規範となり、また、何にもまして私が火星を逆説の遊星と呼ぶ理由となっている|未開の正義《ヽヽヽヽヽ》の名のもとに、私は勝利者が受けるべき栄誉として、殺した相手の装具と地位を与えられたのである。まさしく私は火星人の幹部になっていたのだ。私が大きな自由を与えられ、謁見室での行動を大目に見られたのもこのおかげだということがあとでわかった。
死んだ戦士の装具を受けとろうとして振り返ったとき、タルス・タルカスと数人の連中が近寄ってくるのに気づいた。タルカスはひどく冷笑的な目つきで私を見すえ、やがて話しかけてきた。
「つい二、三日前はつんぼで唖《おし》だったやつにしては、ばかにうまくバルスーム語をしゃべるじゃないか。どこで覚えた、ジョン・カーター」
「そういうきみのおかげだよ、タルス・タルカス」と私は答えた。「なにしろ、すばらしく優秀な女教師をつけてくれたからね。上達のお礼はソラに言わなければならない」
「あの女はよくやったな。しかし、ほかの点では、おまえの教育はまだかなり磨きをかける必要がある。今おまえがつけている金属飾りの持ち主だった二人の幹部のうちどちらか一人でも殺しそこなっていたら、あのとてつもない向こう見ずのおかげでどんな目に会っていたか、わかっているのか」
「殺しそこなった相手に殺されていただろうな」と私は微笑しながら答えた。
「いや、ちがう。火星人の戦士が捕虜を殺すのは自衛上どうにもほかに手段がない場合だけだ。捕虜はほかの目的のためにとっておくことにしているのだ」タルカスの顔つきは考えるだにおぞましいことを暗示していた。
「しかし、おまえの助かる道が一つある」と彼はつづけた。「もしも、おまえがずばぬけた勇気や獰猛さや武勇によってタル・ハジュスに認められ、部下にする価値があるということになれば、おまえはこの部族の一員として迎えられ、一人前のサーク人になれるだろう。とにかく今はロルクワス・プトメルの考えで、われわれがタル・ハジュスの本拠に帰りつくまでは、おまえが自分の行動でかち取った尊敬にふさわしい待遇を与えておこうということになっているのだ。だから、おまえはサーク族の幹部としての待遇を受けることができる。しかし、おまえより上位の幹部たちはいずれも、われわれの勇猛きわまる偉大な支配者のもとへおまえを無事に連れて行く責任を負っているのだということを忘れてはいけないぞ。話はこれだけだ」
「よくわかった、タルス・タルカス」と私は答えた。「だが、きみたちにもわかっているとおり私は火星《バルスーム》人ではないから、きみたちとは習慣がちがう。だから私としては、これからも今までと同じように自分の良心の命ずるところに従い、自分の国の人間の規範に基づいて行動するしかない。この私に何も干渉しないでほっておいてくれるなら、私はおとなしくやってゆくつもりだ。しかし、もし干渉するなら、私が相手にしなければならない火星《バルスーム》人の一人一人に異国の人間としての私の権利を尊重させてくれ。さもなければ、その結果どんなことになろうと、その当人だけの責任だということにしてもらいたい。ところで一つだけ、念を押しておきたいことがある。きみたちがこの不幸な若い女性をどうしようと思っているにせよ、このさき彼女に危害や侮辱を加える者はだれでも私を相手に決着をつける覚悟をしてもらいたい。きみたちが寛大とか思いやりといった感情をくだらないと思っていることはわかっている。だが、私はそうは思わない。私はこうした感情が戦う能力と矛盾するものではないということを、きみたちのなかで最も勇猛な戦士にも思い知らせることができるのだ」
ふだんの私には長々と熱弁をふるう癖はないし、大言壮語を吐いたこともなかった。しかし私は、緑色火星人の心の琴線《きんせん》に当たりをつけていたのだ。そのねらいははずれなかった。どうやら私の長広舌は彼らに深い感銘を与えたらしく、その後の私に対する態度はいっそう丁重なものになったのである。
タルス・タルカス自身は私の返答が気に入ったようだったが、いささか謎めいた言葉を返しただけだった――「自分はサークの皇帝タル・ハジュスをよく知っているつもりだ」
そこで私はデジャー・ソリスに注意を向けて、彼女を助け起こすと、幹部連中の好奇心にみちた視線もうろうろする監視係の怪物女たちも無視して、二人で出口のほうに向かった。今では私も幹部ではないか! それなら、その役目を引き受けてやろう。連中は私たちを引き止めようとはしなかった。そこでヘリウムの王女デジャー・ソリスとバージニアの紳士ジョン・カーターの二人は、忠実な火星犬ウーラを従えて、火星《バルスーム》のサーク族の王《ジェド》ロルクワス・プトメルの静まり返った謁見室から出て行ったのである。
十一 デジャー・ソリスとともに
広場に出ると、デジャー・ソリスの監視係に任命されている二人の女があらわれて追いかけてきて、ふたたび彼女を連れて行こうとした。哀れな小娘はおびえて私にすり寄った。二つの小さな手が私の腕をしっかりと掴まえるのが感じられた。私は手を振って女どもを追い払いながら、これからはソラがこの捕虜の付き添いになるのだと告げ、さらにサルコジャに向かって、これ以上デジャー・ソリスを虐待したらひどい目にあって命を落とすことになるぞと警告した。
この脅迫はあいにくなことにデジャー・ソリスのためにはならず、かえって悪い結果を招くことになった。あとでわかったことだが、火星では男は女を殺さず、女は男を殺さないことになっていたからである。だからサルコジャは険悪な目つきで私たちをにらんだだけで立ち去ったが、私たちに悪魔の復讐をたくらむことになった。
まもなく私はソラを見つけたので、これまで私の世話をしてくれたようにデジャー・ソリスの世話をしてもらいたいと話し、サルコジャに邪魔されないようにほかの宿舎を見つけてくれと頼んだ。そして最後に、私自身は男たちの宿舎で寝起きすることにすると告げた。
ソラは私が手に持ったり肩からかけたりしている装具類に目を走らせながら言った。
「あんたはもう立派な幹部なのよ、ジョン・カーター。あたしはあんたの命令に従わなければならないんだわ。もっとも、あたしはどんなことだって大喜びでやりますけどね。あんたが持っている飾りの元の持ち主は若い男だったけれど、その人はたいした戦士で、どんどん人を殺して昇進し、タルス・タルカスの地位に迫っていたのよ。タルス・タルカスの上といえばロルクワス・プトメルだけですものね。あんたは十一番目だわ。つまり、部落には、あんたより腕前がすぐれた幹部は十人しかいないということ」
「では、もし私がロルクワス・プトメルを殺したとしたら?」
「あんたが第一位になるのよ、ジョン・カーター。でも、その栄誉をかちとるには、まず、ロルクワス・プトメルがあんたと決闘するということを幹部会が全員一致で決めなければならないわ。さもなければ相手のほうからあんたを攻撃してきた場合ね。それなら自衛のために殺してもいいのよ。そうして第一位になれるわ」
私は笑って、話題を変えた。べつにロルクワス・プトメルを殺したいとは思わなかったし、ましてサーク族の王《ジェド》になろうという望みなどはなかったからだ。
新しい宿舎捜しに出かけるソラとデジャー・ソリスに私はついていった。宿舎はある建物の中に見つかった。この建物は今までの宿舎より謁見室に近く、もっとはるかにけばけばしい作りだった。この中には本格的な寝室があって、大理石の天井から太い金鎖で吊るされた見事な金属細工の古風なベッドが備えられていた。室内の壁の装飾は精巧をきわめ、これまでに見たほかの建物の中のフレスコ壁画とちがって、構図のなかには多数の人間の姿がとり入れてあった。描かれているのは私と同じような人間で、デジャー・ソリスよりずっと白い皮膚の色をしていた。いずれも金属や宝石で飾りたてた優雅なゆったりとした長い衣装をまとい、ゆたかな髪は美しい黄金色か赤味がかった青銅色をしていた。男たちにはひげがなく、武器を持っている者はごく少数だった。描かれている場面は大部分、白い肌色の金髪の人びとが遊び興じているところだった。
デジャー・ソリスはこの遠い昔に滅亡した民族の手になるすばらしい芸術作品を見つめて夢中になり、両手を組み合わせて感嘆の声を上げた。それにひきかえ、ソラのほうは見ようともしない様子だった。
私たちは、この広場を見おろす二階の部屋をデジャー・ソリスとソラの居間にし、奥にある隣室を台所として使うことに決めた。それからソラに、戻ってくるまで私がデジャー・ソリスの見張りをするからと言って、寝具や食糧や料理道具などを取りに行かせた。
ソラが出かけてしまうと、デジャー・ソリスは微笑を浮かべて私のほうを向いた。
「あなたが見張らなくても、わたしがどこへ逃げるものですか。どこまでもあなたに従って、あなたの保護をお願いし、この数日あなたという方を悪く解釈していたことを許していただきたいと思うばかりですわ」
「おっしゃるとおりですよ。逃げるときには必ずいっしょに逃げるのです」
「あなたがタルス・タルカスという男にきっぱり言っていらした言葉を聞きました。それでこの緑色人の中でのあなたの立場はわかったと思いますが、どうにもわからないのはあなたがバルスームの人間ではないとおっしゃったことです。
そこで、私の祖先の名にかけておききしますが、いったいあなたはどこからいらしたのですか? あなたはわたしの一族に似ていらっしゃるけれど、それでもまるで違うところがおありになる。あなたはわたしと同じ言葉をお話しになるけれど、最近おぼえたばかりだとタルス・タルカスにおっしゃっていましたわ。氷に覆われた南の果てから同じく氷に覆われた北の果てまでバルスームの人間はみな、文字は違っても同じ言葉を話します。ただ、イス川がコルスの行方知れずの海にそそぐあたりにあるドールの谷では別の言葉が使われているそうです。そして、昔からの伝説のなか以外には、バルスーム人がコルスの海辺のドール谷からイス川をさかのぼって戻ってきたという記録はまったくありません。まさかあなたはそうやって戻ってこられたのではないでしょうね! もしそうだったら、このバルスームのどこへ行こうと、あなたはむごたらしく殺されてしまうことでしょう。ねえ、そうではないのでしょう!」
彼女の瞳には気味の悪いほど不思議な輝きが溢れていた。その声は哀願の響きをおび、私の胸にさしのべられた小さな手は、その私の胸の底から否定の言葉をしぼりだそうとするかのように強く押しつけられていた。
「デジャー・ソリス、私はあなたたちの風習は知りませんが、私の国のバージニアでは、紳士は自分が助かるからといって嘘をついたりはしないものです。私はドール谷からきた人間ではありません。神秘のイス川は見たこともないし、コルスの行方知れずの海は私には最初から行方知れずですよ。信じていただけますね?」
そのとき突然、どうして自分はこんなに彼女に信じてもらいたがっているのだろうという考えがふと頭に浮かんだ。それは、自分がそのバルスームの天国だか地獄だかから帰ってきたのだと人びとに信じこまれたら恐ろしい結果になるのを心配したというわけではなかった。それなら、どうしたというのだ! なぜ彼女の考えることが気になったりするのか? 私は彼女を見おろした。美しい顔が私を見上げ、すばらしい魅力をたたえた瞳の奥には彼女の魂そのものがのぞいていた。そして彼女と視線を合わせたとき、なぜ彼女に信じてもらいたいと思うのか、その理由がわかって――私は身震いをした。
同じような感情の高まりが彼女の心にも湧き起こっているらしかった。彼女は溜息をついて私から離れた。それから真剣な美しい顔で私を見上げながらささやいた。「信じます、ジョン・カーター。わたしには『紳士』というのがどんなものかわかりませんし、バージニアという土地は聞いたこともありません。でもバルスームでは男《ヽ》は嘘をつかないことになっています。本当のことを言いたくないときには何も言わないのです。そのあなたの国のバージニアというのはどこにあるのですか、ジョン・カーター」
あの遠い過ぎ去った日に、あの非の打ちどころのない美しい唇からバージニアという言葉がもれたときほど、私の美しい故郷の美しい名が美しく聞こえたことはなかったような気がする。
「私は別の世界の人間です」と私は答えた。「私たちが火星と呼んでいるこのバルスームの軌道のすぐ内側を通って同じ太陽のまわりをまわっている地球という大きな遊星からやってきたのです。どうやってここへきたのかはお話しできません。私にもわからないのですから。しかし、とにかく私はここにいるのだし、ここにいるからこそデジャー・ソリスのために働くことができるのですから、ここにいることを喜んでいます」
彼女は目に当惑の色を浮かべて、長い間いぶかしげに私を見つめた。私の話が信じがたいことはよくわかっていたし、どんなに彼女の信頼と尊敬をえたいと望もうとも、この話をたやすく信じてもらえるとは思えなかった。いっそ自分の素性《すじょう》のことなど何も話さないほうがよかったのではないかと思ったが、あの目の奥をのぞきこんだら、どんな男でも彼女の求めは何一つしりぞけるわけにはいかなかったろう。
やがて彼女は微笑して、立ち上がりながら言った。「たとえわからなくても信じなければいけないのでしょうね。あなたが現在のバルスームの人間でないことはすぐにわかります。わたしたちに似ていらっしゃるけれど、やはりちがいますもの――でも、どうしてこんなことで頭を悩ます必要があるでしょう。信じたいから信じるのだとわたしの心が言っていますのに!」
あざやかな論理――まさに地球の女性の論理だった。これで彼女が満足するなら、もちろん私はとやかく言うことはなかった。実際のところ、この私の難関にあてはまる論理はこれだけしかなさそうだった。やがて私たちは話題を広げて、たがいにいろいろなことを尋ねたり答えたりし始めた。彼女は地球の人間の習慣を知りたがったが、すでに地球上の出来事を驚くほどよく知っているらしかった。あまりにもよく知っているようなので、そのわけを追及すると、彼女は笑いだして叫んだ。
「だってバルスームの学校の子供たちはみんな地理や動物や植物のことをよく知っていますし、あなたたちの遊星の歴史だって自分たちの遊星と同様にとてもよく知っていますもの。あなたが地球と呼んでいらっしゃる星の上の出来事は何もかも見えるのではないかしら? ちゃんと空に浮いてはっきりと見えているではありませんか」
実を言うと、私の話で彼女がびっくりしたのと同じように今度は私が面くらった。私がそのことを言うと、彼女は自分の種族が長年にわたって改良を重ねながら使用している器具のことを簡単に説明してくれた。その器具を使用すれば、すべての遊星と多くの恒星で起こっていることを完全な映像としてスクリーンに投影することができるのである。そしてこの映像は細部にいたるまで非常に鮮明なので、写真にとって引き伸ばせば草の葉ぐらいの大きさの物体でもはっきりと見分けられるのである。私はのちにヘリウムで、この器具はもちろん、それを使って写した写真もたくさん見た。
「そんなによく地球のことをご存じなら、私があの遊星の住民と同じだということが見分けられないのはどうしたわけですか?」と私は尋ねた。
いつまでも質問をやめない子供にうんざりしてしまったように、彼女はふたたび微笑した。
「そのわけはこうですわ、ジョン・カーター。このバルスームと類似した大気条件を持っている遊星や恒星には、ほとんど例外なく、あなたやわたしと同じような生物の姿が見うけられるからなのです。それに地球人はほとんどみな、わたしたちには目的のわからない奇妙な見苦しい布切れで体をおおい隠し、頭にはぞっとするような変なものをかぶっているでしょう。ところが、あなたはサーク族の戦士に発見されたとき、体に妙なものは何もつけていなかったし、飾りもつけていなかったのではありませんか。
あなたが飾りをつけていなかったということはバルスームの生まれではないことの有力な証拠ですけれど、いっぽう、おかしなものをまとっていなかったことを考えれば、地球人ということも怪しくなってくるわけですわ」
そこで私は地球から離れたときのことを詳しく話し、私の体はちゃんとその地球人の奇妙な衣服をまとって地球上に横たわっていると説明した。そのとき、ソラが戻ってきた。ソラはわずかばかりの荷物をかかえ、自分が養育している子供を連れていた。むろん、この子供もいっしょに暮らすことになるわけだった。
ソラは、留守中にだれか訪ねてこなかったかと尋ねた。そして私たちがだれもこなかったと答えると、ひどく驚いたようだった。そこで話を聞くと、この部屋のある二階へ登ってくる途中、サルコジャが降りてくるのに出会ったというのだ。きっとサルコジャは盗み聞きをしていたのだということになったが、べつに大事なことを話し合った覚えもなかったので、これからはできるだけ注意し合うことを約束しただけで、些細なこととして片づけてしまった。
それからデジャー・ソリスと私はこの建物の美しい部屋を次々にまわって建築様式や装飾を調べはじめた。彼女の話では、これらの芸術を生みだした民族の繁栄期はおそらく十万年以上も前だろうということだった。この民族は彼女の種族の初期の先祖なのだが、もう一つの初期火星人の大種族である皮膚の色が黒といっていいほど濃い民族や、同じころに繁栄していた赤黄色の民族と混血することになった。
これらの文明度の高い火星の三大民族はやむをえない事情から強力な同盟を結ばなければならなくなった。火星の海の水が涸れたために、もともとたいしてないうえに減少の一途をたどる肥沃な土地を捜し求める必要に迫られたし、また、新しい生活条件のもとで野蛮な緑色人の大群に対して身を守らなければならなかったからだ。
こうして長年にわたって緊密な関係と相互結婚を重ねてゆくうちに赤色人の種族が生まれることになった。デジャー・ソリスはこの種族の美しい末裔《まつえい》なのだ。長いあいだ苦難の道を歩み、緑色人との戦いのみならず仲間の種族間の争いが絶え間なくつづいて、環境の変化にまだ順応できないでいるうちに、金髪の火星人の高度の文明と芸術はあらかた失われてしまった。しかし現在の赤色人種は、新しい発見や、もっと実用的な文明によって、数えきれない歳月をへだてた遠い昔、古代バルスーム人とともに永遠に埋もれてしまったいっさいのものを取り返したと感じられるまでに進歩していた。
これらの古代火星人は非常に教養の高い民族だったが、そのように何世紀にもわたって次々に新しい環境に適応しようと苦闘をつづけているうちに、進歩や生産が完全にとまってしまったばかりでなく、古文書や記録や文学までほとんど全部失ってしまったのである。
デジャー・ソリスは、この高尚で心のあたたかい滅亡した民族について数々の興味深い事実や伝説を話してくれた。その話によると、われわれが陣取っているこの都市はコラッドという名で知られた商業と文化の中心地だったらしい。昔は、すばらしい丘に囲まれた美しい天然の良港に築かれた都市だったのだ。彼女の説明によれば、その港の名残《なご》りをとどめているのは都市の西側にある小さな谷だけで、いっぽう丘の間を抜けて昔の海の底までつづいている道は水路にあたり、それをたどって船が都市の入口まできたということだった。
古代の海の岸辺にはこうした都市が点々と並んでいたのだ。そしてしだいに数は少なくなるが、もっと小さな都市が海の中心に近づくにつれて集中しているのが見られるそうだ。当時の民族は後退してゆく海岸線を次々に追っていかなくてはならず、ついには、最後の手段としていわゆる火星の運河に救いを求めざるを得なくなったのである。
私たちは建物の調査と会話にすっかり夢中になっていたので、いつのまにか午後もだいぶ遅くなっていた。そしてロルクワス・プトメルの使者がただちに出頭しろという命令を私に伝えにきたとき、やっとわれに返った。私はデジャー・ソリスとソラに別れを告げ、ウーラにここへ残って見張りをするよう命じると、急いで謁見室へ行った。そこではロルクワス・プトメルとタルス・タルカスが演壇の上にすわりこんでいた。
十二 権力のある捕虜
私が室内へはいって会釈をすると、ロルクワス・プトメルは前へ出るよう合図し、大きな恐ろしい目で私を見すえながら次のように話しだした。
「おまえがわれわれと暮らし始めてからまだ二、三日にしかならないが、その間におまえはみごとな腕前によって高い地位をかち取った。だが、それはどうあろうと、やはりおまえはわれわれの種族の者ではない。われわれに忠節を尽くす義務はまったくないわけだ。
おまえの立場はおかしなことになっている。おまえは捕虜だというのに命令をだして他の者を服従させることができる。また、異民族だというのにサーク族の幹部になっている。そして小さな体をしているくせに巨大な戦士を一撃のもとに殺すことができる。ところで、おまえがもう一人の異民族の捕虜とともに逃亡をもくろんでいるという知らせがはいっているぞ。そのもう一人の捕虜はおまえがドールの谷から帰ってきたのではないかとなかば疑っていることを自分の口からもらしているそうだな。つまり、おまえは二つの非難を受けているわけだが、そのいずれか一つでも立証されたら、おまえを処刑する十分な理由になる。しかし、われわれは公正な民族だ。サークに帰って、タル・ハジュスが命令したら、裁判を受けさせてやろう」
「だがな」と彼は咽喉《のど》にからんだ荒々しい声で話しつづけた。「もしもおまえがあの赤色人の女と逃亡したら、タル・ハジュスに対して責任をとらなければならないのはこの私なのだ。そうなれば、私はタルス・タルカスと対決しなければならなくなる。そして、自分に指揮権があることを身をもって証明するか、あるいは死体となって、自分よりすぐれた者に飾りを奪われるか、いずれかになるだろう。それがサーク族の掟だからだ。
私はタルス・タルカスには何の文句もない。われわれは二人で力を合わせて緑色人の小部族のなかでは最大の部族をりっぱに統治している。われわれは仲間同士で争いたくはない。だからジョン・カーター、もしおまえが死んでくれれば私には喜ばしいことなのだ。しかしながら、タル・ハジュスの命令を受けずにおまえを殺すことができるのは二つの場合しかない。一つは、だれかがおまえに攻撃されて、自衛のための決闘で殺す場合、もう一つはおまえが逃亡をくわだてて逮捕された場合だ。
だから、公正な立場をとるからには警告しておかなければならないが、われわれとしてはこの重大な責任から早く逃れようとして、この二つの口実のうちどちらかが生まれるのをひたすら待ちうけているというわけだ。あの赤色人の娘をタル・ハジュスのもとへ無事に連れて行くのが何にもまして重要なことなのだ。サーク族がこんな捕虜をつかまえるなどというのは絶えて久しくないことだ。あの女は赤色人の皇帝《ジェダック》のなかで最も偉大な皇帝《ジェダック》の孫娘だ。そして、その皇帝《ジェダック》こそわれわれの怨《うら》み重なる仇敵《きゅうてき》なのだ。さあ、話はすんだ。あの赤色人の娘はわれわれには人間らしいやさしい感情がないと言っていたが、われわれは公正で嘘を言わない民族なのだ。もう行ってもいいぞ」
私は後ろを向いて謁見室から出ていった。いよいよ、サルコジャの迫害が始まったというわけか! あの事実をこんなに早くロルクワス・プトメルの耳に伝えられるやつはサルコジャのほかにいるわけはなかった。私は今になって、デジャー・ソリスとの会話のなかで逃亡と私の身元の話が出たことを思い出した。
サルコジャはこのころ、タルス・タルカスの配下の女のなかでは最も年長で最も信頼されていた。一方、この有能な副首領ほどロルクワス・プトメルの厚い信任を受けている戦士は他になかったから、このような地位を占めているサルコジャは隠然たる勢力を持っていたわけである。
しかしながら、私はロルクワス・プトメルに会ったおかげで、逃亡の考えを捨てるどころか、全力を集中して逃亡計画を押し進める気になった。今では、とにかくデジャー・ソリスだけは絶対に逃がさなければならないということが前にもまして痛感された。タル・ハジュスがいる本拠地で何か恐ろしい運命が彼女を待ちうけていることは確実と思われたからだ。
ソラの言葉によると、このタル・ハジュスという怪物は先祖代々の残酷さや狂暴性や野蛮さのすべてを一身に具現しているようなやつらしかった。そして、冷酷で狡猾で打算的である上に、一つの点で同族の大部分の連中とはいちじるしく違っているという。すなわち、この瀕死の遊星において子孫を作る要求がしだいに減少していったために火星人の胸の中でほとんど消えかけている肉欲の火の奴隷だという点なのである。
あの純潔そのもののデジャー・ソリスがそのような底知れぬ欲情の犠牲になるかもしれないと思うと、もうそれだけで冷汗が出てくるようだった。私の故国の勇敢な辺境の女性たちがインディアンの魔手に落ちるよりは自殺することを選んだように、われわれも最後の瞬間にはみずからの手で死ぬことにしたほうがはるかにましではないか。
不吉な予感におそわれながら広場を歩きまわっていると、謁見室から帰る途中のタルス・タルカスが近づいてきた。彼の態度は相変わらずだった。そして、つい今しがた別れたばかりとはとても思えない態度で挨拶した。
「おまえの宿舎はどこだ、ジョン・カーター」と彼はきいた。
「きめていない」と私は答えた。「一番いいのは自分だけの宿舎にするか、ほかの戦士たちのところに同宿するかだろうが、きみの意見をきく機会を待っていたところだ。なにしろ」と言いながら私は微笑した。「サーク族の習慣にはまだすっかり通じてはいないからね」
「ついてこい」とタルス・タルカスは言った。そこで二人は連れ立って広場を横切り、ある建物の前まで行った。うれしいことにその建物はソラと彼女の預りものの女と子供が住みついている建物と隣り合わせだった。
「私の部屋はこの建物の一階だ」とタルス・タルカスは言った。「二階も戦士たちでいっぱいだが、三階から上は全部あいているから、そのなかから選べばいい」
「ところで」と彼はつづけた。「おまえは自分の世話をしてくれる女を赤色人の捕虜にやってしまったようだな。なるほど、おまえが言うとおり、おまえのやり方はわれわれとはちがうらしい。しかし、おまえは立派に戦うことができる男だから、やりたいようにやれ。自分の女を捕虜にやりたかったら、勝手にそうするがいい。だが、幹部として、おまえは世話をしてくれる女どもを持つべきだ。掟に従えば、おまえがつけている飾りの元の持ち主の配下からどんな女でも、なんなら全部でもとっていいのだぞ」
私は礼を言って、自分は食物を調理すること以外は人手をかりなくても立派にやっていけるから大丈夫だと答えた。するとタルス・タルカスは食事の支度に女たちをよこす約束をして、さらに、武器の手入れや弾薬の製造はぜひとも必要なことだから、それも女たちにやらせろと言った。私は、ついでに決闘の戦利品として私のものになった寝具用の絹物と毛皮を女たちに持ってこさせてくれと頼んだ。夜は寒かったし、自分の寝具は一枚も持っていなかったからだ。
タルス・タルカスはこの頼みを引き受けて立ち去った。ひとりになると、私は適当な部屋をさがそうと回廊づたいに階上へ登った。ほかの建物と同じく、ここにも美しい芸術作品が並んでいた。例によって私はすぐに夢中になり、次から次へと調べたり新発見をしたりして歩きまわった。
ようやく三階の表側の一室を自分の部屋にきめた。隣の建物の二階にあるデジャー・ソリスの部屋に少しでも近いところにいられるからだ。そして、このくらい近ければ彼女が私の助力や保護が必要になったとき合図ができるような連絡手段を何か作りだせるはずだという考えがふと頭にひらめいた。
私の寝室に隣接して浴室や化粧室があり、さらにほかの寝室や居間など全部で十ばかりの部屋がこの階にあった。奥の部屋の窓は大きな中庭に面していて、この中庭を囲んで建物が四方に立ち並び、その表側はそれぞれ別の街路に面していた。そして、この中庭は現在、付近の建物に住みついている戦士たちの動物置場になっていた。
中庭には、ほとんど火星の地表を覆いつくしているあの黄色い苔状の植物が一面に生えていたが、それでも噴水や彫像やベンチや|あずまや《ヽヽヽヽ》のようなものがいくつもあって、過ぎ去った昔の美しさを物語っていた。それは、苛酷な不変の宇宙の法則によって故郷のみならずあらゆるものから追いはらわれ、いまでは子孫たちの伝説の霧の中に存在しているにすぎないあの金髪の陽気な民族が優雅な光を投げかけた時代の名残《なご》りなのだ。
その昔、この中庭に火星の植物が美しくゆたかに生い茂って、躍動する生命と色彩をみなぎらせていた光景がありありと目に浮かんでくる。美しい女たちの優雅な姿、誠実な、立派な風采の男たち、楽しげに遊びたわむれる子供たち――すべては陽光に輝き、幸福と平和にあふれている。そんな彼らが滅亡したというのは納得しにくいことだ。しかし彼らは滅亡し、何世紀にもわたる暗黒と残酷と無知の時代を経たのちに、ようやく、その文化と人道主義の遺伝本能がこの現在の火星を支配している最後の混血民族の中にふたたび息を吹き返しているのである。
そのとき数人の若い女たちが現われたので、私は物思いからわれに返った。女たちは、武器、絹物、毛皮、宝石、料理道具、食糧や飲物の樽《たる》などたくさんの荷物を運んできたが、そのなかには例の飛行船から分捕った品物もかなり混じっていた。これらの品物はすべて私が殺した二人の幹部の所有物だったが、それが今度は、サーク族の掟によって私のものになったということらしい。女たちは私の指図に従って奥の一室に荷物を置くと、すぐに出て行ったが、やがてまたもや荷物を持って戻ってきた。そして、これで私の所有物は残らず持ってきたと報告した。二度目の荷物運びのときに、新たに十人から十五人ぐらいの女や少年少女がいっしょにやってきたが、これも死んだ二人の幹部の従者のようだった。
彼らは死んだ幹部の家族ではないし、また妻でも召使でもなかった。その関係はきわめて風変わりなもので、われわれ地球人の常識からはまるでかけ離れているから説明は非常にむずかしい。緑色火星人の間では財産はすべて部族社会の共有であるが、ただ個人の武器、装飾品、寝具用の絹物、毛皮は例外になっている。彼らが確実に所有権を主張できるのはこれらの品物だけで、それも実際の必要量以上にためこむわけにはいかない。余分の品物はただ保管するだけで、必要に応じて若者たちにゆずり渡してゆくのだ。
一人の戦士につき従っている女や子供たちはいわば軍隊の一部隊のようなもので、彼らを率いる戦士は、教育、規律、生活の維持、たび重なる放浪の旅や、ほかの部族や赤色人との果てしのない戦闘のような危急の場合など、いろいろな点で責任を負っている。女たちはけっして妻ではない。緑色人は妻という地球の言葉に該当する言葉を使っていない。彼らの男女の交わりはもっぱら共同社会の利益を目的とするもので、自然淘汰などとは関係なく行なわれている。各部族の幹部評議会は、ケンタッキー競馬の種馬の持ち主が品種全体の改良のために自分の馬の血統の科学的な育成をはかるように、この問題を完全に管理しているのである。
これは理論としては、理論というものがしばしばそうであるように、なかなかよさそうに思える。しかし、長年の間、子供の社会的利益は母親のそれにまさるという考え方とあいまって、この不自然な習慣を押し進めてきた結果は、この種族の冷酷きわまる性格と、陰気な、愛も喜びもない生活ぶりに歴然と現われている。
なるほど緑色人は、タル・ハジュスのような変質者は別として、男も女もこの上なく道徳的だということになるが、たとえときおり脱線することがあろうとも、人間の性格というものはもっと調和がとれているほうがいい。
いやでも応でもこの女たちの責任者にならねばならないことがわかったので、私は腹をすえて、女たちに上の階で暮らすように命令し、三階は自分のために残しておくことにした。そして私のために簡単な料理を作る役目を一人の女に与え、そのほかの連中にはこれまでやっていたさまざまな仕事をつづけるように命じた。その後はあまり彼女たちには会わなかったし、会いたいとも思わなかった。
十三 火星の恋
飛行船団と一戦を交えたあと、この緑色人部族はさらに数日間は都市にとどまり、船団が引き返してこないとはっきり見きわめがつくまでは本拠地に向かって出発しようとはしなかった。緑色人ほどの好戦的な連中でも、車や子供の行列をかかえて遮蔽物《しゃへいぶつ》のない平原のまん中で攻撃されるのは、およそありがたくない話だったからである。
この待機期間中に、タルス・タルカスはサーク族の戦争のしきたりや兵法をいろいろと教えてくれたが、そのなかには戦士たちを背に乗せて走るあの巨大な獣の乗り方も含まれていた。ソートと呼ばれているこの獣は飼い主と同じように危険で癖の悪い動物だが、いったん抑えつけてしまうと、かなり扱いやすくなって緑色人の役に立った。
この動物が二頭、私のものになった。身につけている飾りと同じように私が殺した戦士たちが持っていたものだ。まもなく私は、この火星の馬ともいうべき動物を火星の戦士たちとほとんど同じ程度に巧みに乗りこなせるようになった。乗り方は簡単そのものだった。乗り手は精神感応で命令を送り、火星馬《ソート》がすばやくそれに応じなかったら、ピストルの台じりで耳の間を力いっぱいどやしつける。それでも、いうことをきかないようなら、獣がおとなしく服従するか、あるいは乗り手が振り落とされるかするまで殴りつづけるのである。
乗り手が振り落とされた場合には、人と獣の間で生きるか死ぬかの決闘が始まる。乗り手は機敏に行動してピストルを使うことができれば、無事に生きのびてまたこの獣に――ただし、別の火星馬《ソート》に――乗ることができるが、失敗すれば、体をずたずたに引き裂かれ、配下の女たちがその死骸を拾い集め、サーク族の習慣に従って焼くことになる。
私はウーラを相手にしたときの経験から、自分の火星馬《ソート》にも思いやり深い扱い方をためしてみることにした。私はまず、この動物に私を振り落とすことはできないのだということを教え、ときには耳の間をひどく殴りつけることまでして私の主人としての権威を身にしみこませた。それから、いくたびとなく地球の馬に試みたのと同じやり方でしだいに彼らの信頼を得ていった。私はもともと動物の扱い方は上手だった。そして、常に動物たちにやさしく思いやり深くしたのは、そのほうがいつまでも変わらない好結果をもたらすからというだけでなく、性格的にそうしないではいられなかったからだ。何もわからず何の罪もない哀れな動物の命を奪うよりは、やむをえず人間を殺すほうが気がとがめることは少ない。
二、三日のうちに、私の火星馬《ソート》は部族全員の驚異の的になった。私の火星馬《ソート》は犬のように私のあとについてきて、大きな鼻づらを私の体にこすりつけて愛情をぎこちなく表現したし、私の命令には何でもすぐに、すなおに従った。これを見た火星の戦士たちは、私が何か自分たちの知らない地球人独特の力を持っているせいだと考えた。
「どうやって魔法をかけたのだ?」ある日の午後、宿舎の中庭で私の火星馬《ソート》の一頭が苔のような植物を食べているうちに歯の間に石のかけらをはさんでしまったので、私が大きな口のなか深く片腕をつっこんで取ってやろうとしていると、タルス・タルカスがやってきて尋ねた。
「思いやりという魔法さ」と私は答えた。「いいかね、タルス・タルカス、やさしい感情というものは戦士にとっても価値のあるものなんだ。行軍のときはもちろん戦闘のまっ最中でも私の火星馬《ソート》はかならず私の命令に従うだろう。したがって戦闘能力は高まる。つまり私は、思いやり深い飼い主であるがために、いっそう優れた戦士になれるわけだ。もしも、きみたちほかの戦士がこの動物の調教に私の方法を採用すれば、自分自身のためにも部族のためにもなるだろう。つい二、三日前にきみ自身言っていたではないか――この大きな動物の気まぐれな性質のために勝つべき戦いも敗北に変わることがよくある。なにしろ、かんじんなときに乗り手を振り落として踏みつぶしてしまうからだ、とね」
「どうやればそんな工合にいくのか、教えてくれ」タルス・タルカスの返答はこの一点にしぼられていた。
そこで私は、自分の火星馬《ソート》の調教をできるだけ綿密に説明した。あとでタルス・タルカスは、ロルクワス・プトメル以下の戦士たちが集まっている前で私にその説明を繰り返させた。そのときからこのソートという動物の新生活が始まることになった。そして私がまだロルクワス・プトメルの部族といっしょにいるうちに、だれが見ても感心するほど従順で扱いやすい乗用馬の群れにお目にかかれることになったのである。これによってもたらされた軍事活動の正確性と迅速性の増大はまったくめざましいものだったので、ロルクワス・プトメルは、一族に対する私の功労を認めたしるしとして、自分の足から大きな黄金の足首飾りをはずして、私にくれた。
飛行船との戦いから七日目に、一同はふたたびサークに向かって進軍を開始した。ロルクワス・プトメルは再び攻撃を受ける見込みはほとんど消滅したと判断したのである。
出発直前の二、三日は、デジャー・ソリスにはほとんど会わなかった。火星馬《ソート》の訓練をするほかにも、タルス・タルカスから火星人の戦法を習うので非常に忙しかったからだ。二、三度、彼女の宿舎を訪ねたが、ソラといっしょに通りを散歩しているか、広場周辺の建物を調べにいっているかして、いつも留守だった。私は彼女たちに広場からあまり遠くへいかないように警告しておいた。私がその獰猛さを身にしみて知っているあの巨大な白ザルが現われるのを恐れたからだ。しかし、どこへ行くにもウーラがついて行くし、ソラも十分に武装しているはずだから、あまり心配することはなかった。
出発の前夜、東から広場に通じる大通りで向こうからやってくる彼女たちを見つけた。私は進みよって彼女たちを迎えると、ソラにデジャー・ソリスの護衛は私が引き受けるからと言って、ちょっとした用事をいいつけて彼女を宿舎へ返した。私はソラが好きだったし、信用もしていたが、なぜかデジャー・ソリスと二人きりになりたかった。
私が地球上に残してきた気心の合った人間同士の親密なつきあいに含まれるすべてのものを彼女は象徴しているように思えたのである。私とデジャー・ソリスとの間は、それぞれ四千八百万マイルも離れて宇宙を勢いよく進行している二つの異なる遊星上に生まれたとはとても思えない、まるで同じ屋根の下に生まれた者同士のような共通の利害関係で固く結ばれているようだった。
この点ではデジャー・ソリスも同じように感じているにちがいなく、私が近づくと、美しい顔から哀れな絶望の表情が消えた。そしてうれしそうな微笑を浮かべて私を迎え、小さな右手を私の左の肩にのせて、赤色火星人の正式の挨拶をした。
「サルコジャがソラにこう言っていましたわ」と彼女は言った。「あなたは完全にサーク族の一員になってしまわれたから、私はもう、ほかの戦士の場合と同じようにあなたにもお目にかかれないのだって」
「サルコジャはとんでもない嘘つきですよ。サーク族は嘘はつかないということを誇りにしているはずなんですがね」
デジャー・ソリスは笑った。
「たとえこの部族の一員になられても、あくまでわたしの友人でいてくださることはわかっていました。バルスームの諺《ことわざ》にもあるとおり、『戦士は装具を変えても心は変えない』ものですもの」
「あの人たちはわたしたちを引き離しておこうとしています」と彼女はつづけた。「あなたが勤務についていらっしゃらないときには、必ずタルス・タルカスの従者のなかの年長の女が何か口実を作ってソラと私を人目につかないところへ行かせるようにしていますもの。わたしを建物の地下の穴ぐらへ行かせて、あのひどいラジウム火薬を混合して恐ろしい弾丸を作る仕事を手伝わせているのですよ。あの弾丸の製造は人工照明の下で行なわなければいけないのです。日光にさらされると必ず爆発するからなの。あの人たちの弾丸が目標にあたると爆発することは知っていらっしゃるでしょう? 不透明な外側の被覆物が衝撃で破壊されると、先端に微量のラジウム火薬がつまった純度の高いガラスの円筒が露出します。そして日光が少しでもこの火薬にあたったとたんに、何であろうと吹き飛ばしてしまうようなすさまじい勢いで爆発するのです。夜の戦闘をごらんになれば、この爆発が起こらないことに気がつかれるでしょう。しかし、その翌朝は日の出とともに前の晩に発射された弾丸がいっせいに大爆発を起こすことでしょう。でもふつうは夜間は爆発しない弾丸が使用されています」
〔原注 この火薬の説明をするのにラジウムという言葉を使ったのは、地球における最近の発見に照らし合わせると、これはラジウムを主剤とする混合物に相違ないと思われるからである。カーター大尉の原稿のなかでは、この火薬のことは常にヘリウムの文章語で使われる名称で出てきている上に、象形文字で記されている。これは翻訳するのはむずかしいし、また無用なことだと思う〕
私はこの驚くべき戦争道具の説明を聞いて大いに興味を覚えたが、それよりさらに気になったのは、その話をしているデジャー・ソリスが連中からひどい扱いを受けているという当面の問題だった。やつらが彼女を私から遠ざけようとしているのは驚くまでもないことだったが、危険な骨の折れる仕事をさせていることについては激しい怒りが起こってきた。
「残酷な仕打ちや恥辱を受けたことはありませんでしたか、デジャー・ソリス」と私は尋ね、祖先から受けついだ闘争本能が全身を駆けめぐるのを感じながら彼女の返答を待ち受けた。
「たいしたことはありませんわ、ジョン・カーター。わたしの自尊心を傷つけようとしているだけです。あの人たちは、わたしが万世一系の皇帝の子孫で、家系をさかのぼれば最初の大運河の建設者まで切れ目なくたどれることを知っています。そして、自分自身の母親さえ知らないあの人たちはわたしをねたんでいるのです。あの人たちは心の中で自分たちのいまわしい運命を憎んでいるので、自分たちが持っていないあらゆるもの、何よりも熱望しながら絶対に手に入れられないもののいっさいを表象しているわたしに腹いせをしているのです。そんなあの人たちをあわれんでやりましょう、わたしの幹部さま。たとえあの人たちの手にかかって死ぬとしても、わたしたちはあわれみを与えることができます。わたしたちはあの人たちより偉大ですし、そのことはあの人たちにもわかっているのですもの」
もしもこのとき、赤色人の女が男に向かって「わたしの幹部さま」と呼びかけることが何を意味するかを知っていたら、私はたいへんな驚きを味わっていたにちがいない。だが、そのときはもちろん、それから何か月もあとまで私はその意味を知らなかった。バルスームにはまだ私の知らないことがたくさんあったのである。
「できるだけいさぎよく運命に従うのは賢明なことだと思いますよ、デジャー・ソリス。しかし、緑だろうと赤だろうと、あるいはピンクだろうとスミレ色だろうと、今度どこかの火星人がたとえしかめ面《つら》を向ける程度のことでもあなたに失礼なまねをするときには、そばにいて、とっちめてやりたいものです、私の王女さま」
デジャー・ソリスは私の最後の言葉を耳にするなり、はっとした様子を示し、息づかいを早めながら目を見張って私を見つめた。それからちょっと奇妙な笑い声を立てて口の両端にえくぼを浮かべると、かぶりを振って叫んだ。
「まるで子供みたいなことを! あなたは立派な戦士なのに、よちよち歩きの子供と同じなのね」
「私が何をしたというのですか」と私はすっかり当惑して尋ねた。
「いつか教えてさしあげますわ、ジョン・カーター、もしわたしたちが生きていられたらね。でも、わたしからは教えるわけにはいかないかもしれません。それに、タルドス・モルスの息子モルス・カジャックの娘は怒りもせずに聞き流したのだし」彼女の言葉は最後は独りごとになった。
それからデジャー・ソリスはまた急に陽気な楽しげな気分にもどった。サーク族の戦士として見事な武勇を示している私がやさしい思いやりのある心を持っているのが面白いといって私をからかった。
「もしも誤って敵を傷つけたとしたら、あなたは相手を連れて帰って、よくなるまで介抱してやることでしょうね」そう言って彼女は笑った。
「まさしくそのとおりにします、地球では」と私は答えた。「少なくとも文明人の間ではね」
この返答を聞くと、彼女はまた笑った。彼女には理解できないことなのだ。やさしい心と女らしい愛らしさを持っていても、やはり彼女も火星人なのである。火星人にとって敵といえば殺すものでしかない。一人でも敵を殺せば殺すだけ、生き残った者の間で分配するものが多くなるのだ。
私は、たったいま私が言ったことか、したことかでデジャー・ソリスがあんなに動揺したのはなぜなのか、そのわけが知りたくてたまらなくなったので、教えてくれとしつこく頼みつづけた。
「だめです」と彼女は叫んだ。「あなたがあのことを口にお出しになり、わたしがそれをはっきり聞いたということだけでもう十分です。そしてジョン・カーター、それがおわかりになるときがきたら、そしてわたしがすでに死んでいたら、おそらく遠いほうの月があと十二回バルスームをまわらないうちにそうなることでしょうが、そのときにはわたしがあなたの言葉をはっきり聞いたこと、そして――微笑したことを思い出してください」
私には何のことやらわけがわからなかった。しかし私がしつこく説明を求めれば求めるほど彼女はますますきっぱりとはねつけるので、どうにも見込みはないと感じてやめることにした。
すでに日は沈み、夜だった。バルスームの二つの月の光に照らされる大通りを、緑色の目のように輝く地球に見おろされながら歩きまわっていると、この宇宙には私たち二人しかいないような気分がした。そうであってくれたらいいのにと、少なくとも私は思った。
火星の夜の寒気がひしひしと迫ってきたので、私は自分のまとっている絹物をぬいでデジャー・ソリスの肩にかけた。腕が彼女の体に触れた一瞬、これまでどんな人間の体に触れたときにも感じたことのない戦慄が私の全身を駆けめぐった。彼女がわずかに身をもたせかけてきたような気がしたが、はっきりそうだという確信は持てなかった。ただ、絹物をかけ終えたあとで、まだちょっと私の腕が彼女の肩におかれていても、彼女が身を引こうとも何か言おうともしなかったことだけは確かだった。こうして無言のまま私たちは瀕死の遊星の上を歩いていた。しかし少なくともその一人の胸のうちには永遠に古く永遠に新しい感情が生まれていたのである。
私はデジャー・ソリスを愛しているのだ。彼女の裸の肩に腕を触れたときの戦慄がまぎれもない言葉でそれを物語ってくれた。そして、死の都コラッドの広場で初めて視線を交えたあの瞬間から彼女を愛していたことが今になってわかった。
十四 死の決闘
最初に湧き起こったのは、自分の愛を彼女に告白したいという衝動だった。それから、われとわが身をどうすることもできない彼女の哀れな立場のことを考えた。囚《とら》われの身の苦悩を少しでもやわらげ、サークに着いたら対決しなければならない何千人もの親代々の仇敵からなんとか守ってやることができるのはこの私だけではないか。それならば、まず報われる見込みのない愛を告白したりして、このうえ彼女の苦しみや悲しみを増すようなまねはできるものではない。そんなうかつなことをすれば、彼女の立場は今よりいっそう堪えがたいものになるだろう。それに、私が彼女の頼るもののない弱い立場につけこんで心を動かそうとしているのだと彼女は思うかもしれないではないか――そう考えると、もう内心を打ち明けることはどうしてもできなくなってしまった。
「なぜそんなに黙っているのですか、デジャー・ソリス」と私は尋ねた。「きっと、ソラのいるあなたの部屋へ戻ったほうがいいのでしょうね」
「いいえ」と彼女はささやくように言った。「ここにいるのが楽しいわ。ほんとにどうしてなのでしょうね、見知らぬ国のジョン・カーターといっしょにいるといつも幸福で安らかな気持がするなんて。それにこうしていると、危険などは何もないような感じがして、もうすぐあなたといっしょに父の宮廷に帰って、父の力強い腕に抱きしめられ、母の涙まじりの接吻で頬をぬらすことができるような気がするのです」
私は彼女が使った接吻にあたる言葉の意味を問いただし、その説明を聞いてから尋ねた。
「それでは、バルスームでも接吻をするのですね?」
「ええ、両親、兄弟、姉妹は接吻をします。それから」と彼女は低い思慮深い口調で言い足した。「恋人たちも」
「で、あなたには両親も兄弟も姉妹もおありになるのですね」
「ええ」
「では――恋人も?」
彼女は何も答えなかった。私もこの質問を繰り返す勇気はなかった。やがて彼女が思いきったように言った。
「バルスームの男が女性に個人的な質問をするのは、自分の母親と、自分が戦って勝ちとった女にたいしてだけです」
「それなら私だって戦って――」と言いかけてから、私は自分の舌を切りとっておけばよかったと思った。はっとして口をつぐんだときには、もう彼女はつんと横を向いて、私の絹物を肩からとって私に押しつけていたからだ。彼女は一言《ひとこと》も口をきかず、女王のように毅然《きぜん》とした態度で広場の自分の宿舎の戸口に向かって進んでいった。
私はそのあとを追おうとはせず、ただ彼女が無事に建物に着くのを見とどけようとしたが、それもやめてウーラに彼女について行くように命じると、わびしい思いできびすを返し、自分の宿舎にはいってしまった。そして何時間もむっつりと絹の寝具の上にあぐらをかいてすわりこみ、われわれ哀れな人間にふりかかる気まぐれな運命のいたずらについて考えた。
そう、これが恋というものか! 私は地球の五つの大陸とそれを取り巻く海を流浪していた長い年月の間にも恋のとりこになったことは一度もなかった。美しい女性に会ったこともあるし、恋の衝動を感じかけたこともある。また、なかば恋を求める気はあったし、絶えず理想の女性を捜し求めてもいた。それにもかかわらず恋をしたことがなかった私が、いまになって、似てはいるが自分と同じとは言えない別世界の人間に激しい絶望的な恋をしてしまったのだ。その相手は卵から生まれ、千年にも及ぶ寿命を持ち、習慣も考え方も変わっている種族の女で、その希望も、楽しみも、美徳や善悪の基準も、緑色人の場合と同様、私とはまるで異なっているかもしれないのだ。
たしかに私は愚か者だった。しかし私は恋をしていた。そして、いまだかつて経験したことのない恐ろしくみじめな気持を味わっているにもかかわらず、たとえバルスームじゅうの財宝をもらっても、この気持を捨てようとは思わなかった。それが恋というものだ。そして恋のあるところではどこでも、恋人とはこのようなものなのだ。
私にとって、デジャー・ソリスは完璧《かんぺき》の化身だった。高潔なもの、美しいもの、気高いもの、善なるもののすべてだった。コラッドのあの夜、バルスームの近いほうの月が西の空を通過して地平線に向かい、太古の部屋の黄金や大理石や宝石をちりばめたモザイク模様を明るく照らしているとき、絹の寝具の上にあぐらをかいてすわりながら、私は心の底からそう信じたのだ。そして今、ハドソン川を見おろす小さな書斎の机の前にすわっているこの瞬間もそう信じている。あれからすでに二十年の歳月が流れている。その間の十年はデジャー・ソリスとその一族のために闘って生き、あとの十年は彼女の思い出を生き甲斐にしてきたのである。
サークに向かって出発する日の朝は晴れわたって暑かった。極地の雪がとける六週間を除けば火星の朝はいつもこうなのだ。
私は動きだした車の大群の中からデジャー・ソリスの姿を捜し出したが、彼女はすげなく顔をそむけた。その頬に赤い血がのぼるのが見えた。もしこのとき、自分があなたにいったい何をしたのか、少なくともそれがどんなに悪いことなのか全然わからないのだと私が訴えていれば、最悪の場合でも半分は仲直りができていたのだろうが、恋の愚かさから私はあべこべのことをやった。つまり一言《ひとこと》も口をきかなかった。
それでも彼女が居心地よくしていられるように気をくばらなければいけないという義務感から、彼女の車の中をのぞいて、絹物や毛皮の工合を直してやった。そのとき、彼女の片方の足首が太い鎖で車の側面につながれているのに気がついて愕然とした。
「これは何のまねだ」と私はソラのほうを振り返って叫んだ。
「サルコジャがそうしておくのが一番いいと言うものだから」ソラは自分はこんなことはいやなのだがという顔つきで答えた。
その足かせを調べてみると、頑丈なばね錠がかかっていた。
「鍵はどこなんだ、ソラ。こっちへよこせ」
「サルコジャが持ってるわ、ジョン・カーター」
私はそれ以上何も言わずにその場をはなれると、タルス・タルカスを捜しだした。そして、恋する者の目から見て、デジャー・ソリスに不当な屈辱と残酷な仕打ちが加えられていることに激しく抗議した。
「ジョン・カーター、もしきみとデジャー・ソリスがサーク族の手から逃げるとしたら、それはこの旅の途中ということになるだろう」とタルス・タルカスは答えた。「きみがあの女といっしょでないかぎり逃げださないことはわかっているのだ。きみが手ごわい戦士だということは証明ずみだし、きみの行動の自由は束縛したくない。そこで、最も簡単で、しかも確実にきみたち二人を引きとめておく方法を採用したというわけだ。言うことはこれだけだ」
その理屈にちゃんと筋道が通っていることを私はすぐに見てとり、考えを変えてくれと訴えても無駄だとさとった。そこで、サルコジャから鍵を取りあげて、今後はあの捕虜に手出しをしないよう命令してくれと頼んだ。
「タルス・タルカス、このくらいのことは、私がきみにたいして抱いている友情に免じて、やってくれてもいいだろう」
「友情だと」と彼は答えた。「そんなものはありはしないぞ、ジョン・カーター。だが、望みはかなえてやろう。サルコジャにあの女をいじめるのをやめるように命令して、鍵は私が自分で保管することにしよう」
「鍵の保管を私には任せたくないというのならね」と私は微笑しながら言った。
彼はまじめな顔つきでまじまじと私の顔を見つめてから口を開いた。
「われわれが無事にタル・ハジュスの宮廷に到着するまで、きみもデジャー・ソリスも逃げようとしないと約束するなら、鍵を渡してもいいし、あの鎖をイス川に投げこんでもかまわない」
「やはり鍵はきみが持っていたほうがいいだろうな、タルス・タルカス」と私は答えた。
彼はにやりとして、それっきり何も言わなかった。しかしその夜、一行が野営の準備をしているとき、自分の手でデジャー・ソリスの足かせをはずしている彼の姿が目にとまった。
その獰猛で冷酷な性格にもかかわらず、タルス・タルカスの心の底には何か別のものが流れていて、いつもそれを抑えようと懸命に努力しているように見えた。遠い祖先の人間らしい本能の名残りが息を吹き返して、いまさらのように一族の恐ろしい生活ぶりが気になってしかたがないのかもしれない!
私はデジャー・ソリスの車に近づく途中、サルコジャのそばを通った。私に向けられた彼女の毒々しい悪意に満ちたまなざしを見ると、久しぶりに胸のつかえがおりるような、痛快きわまる思いがした。それにしてもたいへんな憎まれ方だ! サルコジャの憎悪は剣で切りとれそうな棘《とげ》になって体から突きだしている感じだった。
その少しあとで、サルコジャがザドという名の戦士と何かしきりに話し合っているのを見た。相手の戦士はばかでかい図体の、見るからに強そうな野獣のようなやつだが、まだ一人も幹部を殺したことがなく、そのためにいまだに|オー《ヽヽ》・|マッド《ヽヽヽ》――名前が一つしかない男――だった。だれか幹部を殺してその装具を自分のものにしないかぎり、二番目の名前を名乗ることができないのである。この掟によって、私はすでに自分が殺した二人の幹部のいずれの名前でも名乗る資格を獲得していた。事実、戦士のなかには私のことをドタール・ソジャットと呼ぶ連中がいたが、これは、私が装具を奪った、つまり正々堂々と戦って殺した二人の幹部の姓を組み合わせた名前なのである。
サルコジャがザドと話をしている間に、ザドは何回か私のほうに目を向けた。どうやらサルコジャはこの男に何かやるようにしきりに勧めているらしかった。このときはたいして気にしなかったが、翌日、いやでもこのことを思い出させる事件が起こり、サルコジャが私に復讐をするためにはどんなことまでやる気になっているか、その憎悪の深さを垣間《かいま》見ることになった。
デジャー・ソリスはその日の晩も、私を相手にしようとはしなかった。私が呼びかけても返事をしないし、私がいることにも気がつかない顔をしてまばたき一つしなかった。私は思案にあまって、こんな場合たいていの恋する者がやるだろうと思われることをやった。つまり、相手の親しい者を通じてその心を知ろうとしたのだ。この場合、その親しい者はソラだったので、野営地のデジャー・ソリスのいるところから離れた場所でソラをつかまえた。
「デジャー・ソリスはどうしたのだ」と私はいきなりソラにきいた。「なんだって私に口をきこうとしないんだ」
ソラは不思議そうな顔つきだった。二人の人間がこんな子供じみた奇妙なふるまいをするなんてどうにも合点がいかないといった様子だった。
「あんたに腹を立てているってことしか言おうとしないわ。ほかにはただ、自分は王《ジェド》の娘で皇帝《ジェダック》の孫だというのに、おばあさまのソラックの歯もみがかせてもらえない者に侮辱されたって言っただけよ」
私はちょっと考えこんでから尋ねた。
「そのソラックっていうのはなんだい、ソラ」
「赤色人の女が飼ってかわいがっている、あたしの手ぐらいの大きさのちっぽけな動物のことよ」とソラは説明した。
おばあさまの飼い猫の歯もみがかせてもらえない男だって! このおれもデジャー・ソリスにはずいぶん見くびられたものだと思ったが、この、妙に家庭的で、その点ではきわめて地球的ともいえる奇妙な比喩《ひゆ》には思わず笑わずにはいられなかった。私はふとホームシックを感じた。この表現が「彼女の靴もみがかせてもらえない」という文句にあまりにもよく似ていたからだ。すると、いままで考えもしなかったことが次々に頭に浮かび始めた。故国の人びとはどうしているだろうか? もう何年も会っていない。バージニアには、近い親類のカーター一家がいて、私は偉いおじさんとか何とかいうことになっていたのだった。私はどこへ行っても二十五歳から三十歳ぐらいの年齢ということで通っていたが、偉いおじさんなどといわれると、いつもひどくくすぐったい気分がしたものだ。私の考えや感情は少年とえらぶところがなかったからだ。そう、カーター家には幼い子供が二人いた。私はあの子供たちを愛していたし、子供たちのほうは地球上にジャックおじさんほど偉い人はほかにはいないと思いこんでいたようだ。いま、バルスームの月明りの空の下に立っていると、あの子供たちの姿がありありと瞼《まぶた》に浮かび、なつかしさが胸にあふれてきた。いまだかつてこれほど人をなつかしいと思ったことはなかった。生まれつき放浪癖のある私は家庭という言葉の本当の意味を知らなかったが、あのカーター家の大広間こそ、私にとっては家庭という言葉が意味するすべてのものを表わしていた。いま、この冷淡な情け知らずの連中に取り囲まれている私の心は、自然とあのカーター家の大広間を思い浮かべていた。デジャー・ソリスまでが私を軽蔑したではないか! 私は卑しい人間なのだ。彼女のおばあさまの猫の歯もみがかせてもらえないほど卑しい人間なのだ。それでも私にユーモアのセンスがあったことが救いとなって、いやな気分から脱けだすことができた。私は笑いながら絹と毛皮の寝床にはいり、月光のふりそそぐ地面の上で疲れた健康な戦士らしくぐっすりと眠った。
翌日、一行は早々とテントをたたんで出発し、たった一度休息をとっただけで日が暮れる寸前まで前進しつづけた。だが、その途中で旅の単調さを破る事件が二つ起こった。正午ごろ、一行ははるか右手のほうに明らかに孵化器と思われるものを発見し、ロルクワス・プトメルはタルス・タルカスにその調査を命じた。タルス・タルカスは私を含めて十二人の戦士を従え、ビロードの敷物のような苔の上を壁に囲まれた小さな建物めざして疾駆した。
それはまさしく孵化器だった。しかし、その卵は私が火星に到着したときに孵化するところを見た卵にくらべると非常に小さかった。
タルス・タルカスは火星馬《ソート》からおりて建物を綿密に調べたのち、これはウォーフーン族の孵化器で、まだ壁をふさいだセメントもろくに乾いていないと言った。
「やつらが立ち去ってからまだ一日とはたっていないぞ」タルス・タルカスはたちまち獰猛な顔に闘志を浮かべて叫んだ。
孵化器はまたたくうちに始末された。戦士たちは壁を破って穴をあけると、二人がなかへもぐりこみ、小刀をふるって卵を一つ残らず打ち砕いてしまった。それから一同はふたたび火星馬《ソート》に乗って駆けもどり、部隊に合流した。その途中、私はタルス・タルカスと並んで走りながら、いま破壊した卵から生まれるウォーフーン族というのはきみたちサーク族より小さな体をしているのかと尋ねた。
「いまの卵は、きみたちの孵化器でかえるところを見た卵よりずっと小さかったじゃないか」
その理由をタルス・タルカスはこう説明してくれた――破壊された卵はあの孵化器に入れられたばかりのところだったが、すべての緑色人の卵は五年間の孵化期間中にしだいに大きくなって、最後には私がバルスーム到着の日に見た大きさにまで成長するというのだ。これはまったく興味深い新知識だった。というのは、緑色人の女がいくら大きな体をしているからといっても、子供がはいだしてくるのを見た卵のようなあんな巨大な代物《しろもの》を生むとは驚くべきことだと前々から思っていたからだ。実際には、生みたての卵はふつうのガチョウの卵とほとんど変わらない大きさだし、それに日光にあてないかぎり成長しはじめないから、幹部たちは一度に数百個もの卵を地下の貯蔵室から孵化器まで大した苦労もなく運ぶことができるのである。
ウォーフーン族の卵の事件後まもなく、一行は動物を休ませるために停止した。この日の第二の興味深い事件が起こったのはこの休憩時間中だった。私はこの日の行軍は二頭の火星馬《ソート》に交替に乗るつもりだったので、一頭の背にのせてある敷物をもう一頭の背に移そうとしていた。と、そこへザドが近寄ってきて、何も言わずにいきなり長剣を抜いて私の火星馬《ソート》にすさまじい一撃をくらわせた。
こんなとき、緑色人の掟からいってどう応戦すべきかはもう十分に心得ていた。実際には憤激のあまりピストルを引きぬいてこの野獣のような男を射殺したい衝動が抑えきれないほどだったのだが、相手は長剣を抜いて待ちかまえているので、こちらとしては相手が選んだ武器か、それより劣る武器を使って正々堂々と戦うほかはなかった。
相手の武器より劣る武器ならいつでも使っていいことになっていたから、小刀でも短剣でも斧《おの》でも、そうしたければ|こぶし《ヽヽヽ》でも自由に使うことができたが、相手が長剣しか持っていないのに火器や槍を使うことはできないことになっている。
私はザドと同じ武器を使うことにした。いつも彼が長剣の腕前を誇っていることを知っていたし、どうせやっつけるなら相手の得意な武器でやっつけてやりたいと思ったからだ。こうして開始された決闘はいつはてるともなくつづき、行軍の再開を一時間も遅延させることになった。部族全員がわれわれを取り囲み、決闘の場として直径百フィートほどの円形の空地をつくった。
ザドはまず、雄牛がオオカミに立ち向かうように猛烈な勢いで突進してきた。だが、私の動きはそれよりはるかに敏速だった。私が横へ寄って彼の突撃をかわすたびに、彼は私の横をすり抜けて、腕や背中に私の剣を浴びるだけということになった。こうして、たちまち五、六か所に軽い傷を負って血まみれになったが、私のほうも効果的な一撃を与えるチャンスがなかなかつかめなかった。そのうちにザドは戦法を変え、慎重な、巧妙きわまる戦い方になって、力で失敗したことを今度は技《わざ》で成功させようとした。彼がすばらしい剣の使い手だったことは認めないわけにはいかない。もし私が耐久力において彼にまさり、火星の少ない引力のおかげでめざましい身軽さを発揮できるということがなかったら、あのような見事な戦いを展開することはできなかったかもしれない。
二人はしばらくの間、たがいに相手にたいした打撃を与えることもできないままその場を旋回していた。長い、まっすぐな針のように鋭い二本の剣が日の光を浴びてきらめき、それが切り結ばれて、あざやかに受け流されるたびに甲《かん》高い金属音が静寂を破って響きわたった。ついにザドは私よりも疲労してきたことを自覚して、一気に接近戦にもちこんで勝利をものにしようと決心したようだった。その彼が襲いかかってきたとたんに、ぱっとまばゆい光がひらめいて私は目がくらんだ。そのために接近してきた相手の姿も見えなくなり、やみくもに横へ飛びのいて、早くも自分の急所にふれたような気がする巨大な刃《やいば》から身をかわそうとするのがやっとのことだった。だが、かわしきれなかったらしく、たちまち左肩に激痛を感じた。ところが、ふたたび相手の姿を捜して見まわしたとたんに、この傷のことも忘れさせるような光景が目に映《うつ》って愕然とした。デジャー・ソリスの車の上には、彼女とソラとサルコジャの三人が立っていた。立っているのはもちろん前にいる連中の頭ごしにこの決闘を見るためなのだが、その三人の人影にちらっと目を走らせた瞬間、私は死ぬまで忘れられない光景を見た。
デジャー・ソリスが急に若い雌のトラのように憤然としてサルコジャに襲いかかり、高く上げているサルコジャの手から何かをたたき落としたのだ。たたき落とされたものは日の光にきらめきながら地上にころげ落ちた。これでさきほど戦いの決定的瞬間に私に目つぶしをくらわせた光の正体がわかった。そしてサルコジャがいかにして自分では手をくださずに私を殺す方法を考えだしたかもわかった。さらにもう一つ驚くべき場面を目撃して、ほんの一瞬それに気をとられ、かんじんの敵のことも忘れてしまったので、すんでのことにその場で命を失うところだった。デジャー・ソリスに小さな鏡をたたき落とされたサルコジャは憎悪とやりばのない怒りに顔を土色にしたかと思うと、いきなり短剣を抜き、デジャー・ソリスめがけて切りつけたのだ。その瞬間、ソラが、愛すべき忠実なソラが二人の間に飛びこんだ。最後に私の目に映ったのは、楯《たて》がわりになったソラの胸に振りおろされる大きなナイフだった。
私の決闘の相手はすでに体勢を立て直して、じわじわと私に迫っていたので、私はやむをえず戦いに注意を向けなければならなかったが、心は落ち着かなかった。
かわるがわる何度も激しい攻撃をしかけて戦っているうちに、とつぜん剣で受けとめることも身をかわすこともできない一撃をくらって鋭い剣先が胸に突き立つのを感じた。とたんに私はどうせ死ぬなら相手も道連れにしてやる覚悟を固め、思い切り剣を突き出しざま全身の体重をかけて相手にぶつかった。はがねの刃《やいば》が自分の胸に深々と突きささるのが感じられた。と、目の前がまっ暗になり、頭がくらくらして、がっくりと膝《ひざ》が折れるのを感じた。
十五 ソラの身の上話
意識を回復すると、私はすばやく立ち上がって剣をさがした。私が倒れていたのはほんの一瞬のあいだにすぎなかった。私の剣はザドの緑色の胸に柄《つか》まで突き刺さっていた。ザドの体は太古の海底の黄土色の苔の上に横たわり完全に息たえていた。私はすっかり正気をとりもどすと、ザドの剣が私の左胸を貫通していることに気づいた。ただ、それは肋骨をくるんでいる筋肉だけをつらぬいて胸のまん中近くから肩の下へ抜けていた。最後の突きをいれたときに無意識のうちに身をかわしたので、敵の剣は筋肉を刺しつらぬいたにとどまり、痛みこそ激しいが致命傷にはならなかったのである。
私は自分の体から剣を抜きとり、さらに自分の剣を死体から抜きとった。そして、むごたらしい死体に背を向けると、はげしい苦痛にふらふらしながら私の従者や持ち物を運ぶ車のほうへ歩いていった。火星人たちの賞賛のざわめきが聞こえたが、そんなものはどうでもよかった。
私が血にまみれて、ふらつきながら女たちのところにたどりつくと、こんなことには慣れている女たちはすばらしい特効薬を使って傷の手当てをしてくれた。この薬は手当てのひまもなく即死してしまうような致命傷でもないかぎりどんな傷でもなおしてしまうのだ。まったく、火星人の女にかかったら死神も頭をかいて引きさがらなければなるまい。女たちはじきに私の手当てを終えた。すると、出血のために衰弱した感じがするのと、傷口のあたりが少しひりひりする以外はたいした苦痛も感じなくなった。地球でこの傷の治療を受けたとしたら、疑いなく数日間は床につかなければならないことだろう。
手当てがすむと、私は急いでデジャー・ソリスの車に近づいた。かわいそうにソラは胸に包帯を巻いていたが、サルコジャに刺されたのもたいしたことはない様子だった。サルコジャの短剣はソラが胸につけていた金属製の飾りのふちにあたって横にそれ、肉を傷つけただけですんだのだという。
デジャー・ソリスのそばへ行ってみると、彼女は絹物や毛皮の上にうつ伏し、しなやかな体をふるわせてすすり泣いていた。私がいることには気がつかなかったし、車から少し離れたところに立っているソラと私が話をしても耳にははいらないようだった。
「けがはなかったのか?」私は頭をふってデジャー・ソリスのほうを示しながらソラにきいた。
「けがはないわ。あのひとはあんたが死んだと思ってるのよ」
「おばあさまの猫の歯をみがくやつがいなくなっちまったと思っているわけか」と私は微笑しながら言った。
「あんたはあのひとを誤解していると思うわ、ジョン・カーター」とソラは言った。「あたしにはあのひとやあんたの考え方はわからないけれど、でも一万代もつづいている皇帝《ジェダック》の孫娘が自分より身分が低いと見くだしている者の死をあんなに悲しむはずはないと思うわ。ほんとうはだれにもまして愛している人でなければ悲しまないはずだわ。あのひとの一族は誇り高い種族だけれど、すべてのバルスーム人と同じように公正な人たちよ。あんたはあのひとの心をひどく傷つけるような悪いことをしたのにちがいないわ。だから、あのひとはあなたが死ねば嘆き悲しむのに、生きているうちは許そうとしないのよ。
「バルスームでは人が涙を流すのを見ることはめったにないわ」とソラはつづけた。「だからその涙の意味を知るのはむずかしいことよ。でもあたしはデジャー・ソリスのほかに二人だけ泣くところを見たことがあるわ。一人は悲しみのあまり泣き、もう一人は怒りのやりばがなくなってくやし涙を流したの。悲しくて泣いたのはあたしの母で、ずっと昔、殺される前に泣いたわ。くやし涙を流したのは、今日あたしから引き離されたときのサルコジャよ」
「きみの母だって!」と私は叫んだ。「だけどソラ、きみたちは自分の母親がだれだかわからないはずじゃないか」
「でも、あたしにはわかっていたのよ。父親もね」とソラはつけ加えた。「この不思議な、バルスーム人らしくない身の上話を聞きたかったら、今夜、車までいらっしゃい、ジョン・カーター。あたしがこれまでだれにもしゃべったことのない話を聞かせてあげるわ。さあ、もう行軍が始まる合図が出ている。あんたも行かなくちゃ」
「今夜、行くよ、ソラ」と私は約束した。「デジャー・ソリスには私がぴんぴんしていると忘れずに言っといてくれ。私のほうから無理に会うつもりはないからね。それから私が彼女の泣いているところを見たことは黙っていてくれ。あのひとに私と話をする気があるなら、むこうから何か言いだすまで待つことにするよ」
ソラは行軍の隊列に加わろうとして動きだした車によじ登った。私は急いで火星馬《ソート》のところへ行くと、行列の|しんがり《ヽヽヽヽ》についているタルス・タルカスのそばの自分の持ち場まで全速力で走っていった。
一行が見わたすかぎり黄一色の大平原を長蛇の列を作って進んでゆく有様はまったく目を見張るような壮観だった。二百五十台の凝《こ》った装飾と派手《はで》な彩色をほどこした車の大行列――その前衛として約二百人の騎馬の戦士や幹部が百ヤード間隔の五列縦隊を作って行進し、後ろにも同人数の後衛が同じ隊形でつづき、さらに両側をそれぞれ二十騎あまりの側衛が固めている。このほかにもジティダールと呼ばれる例の車を引いている巨象のような動物の残り五十頭ばかりと、余分の火星馬《ソート》五、六百頭が戦士たちの中空方陣隊形に囲まれながらそれぞれ勝手に走っている。男女の身を飾るきらびやかな金属や宝石の輝き、同じように派手な火星象《ジティダール》や火星馬《ソート》の飾り、それにまじる豪華な絹物や毛皮や羽根の目のさめるのような色彩――これらはインドの王様もうらやましがるほどの原始的な華麗さを生みだしていた。
この苔におおわれた海の底では、車の巨大な幅の広い車輪も、裏に肉のついた動物たちの足もまったく音を立てないので、一行は巨大なまぼろしのように沈黙の行進をつづけた。ただ、ときおり追いたてられた火星象《ジティダール》のうなり声や、けんかをする火星馬《ソート》の悲鳴がこの沈黙を破った。緑色人はめったにしゃべらないし、しゃべってもたいてい一言《ひとこと》か二言《ふたこと》、遠いかすかな雷鳴のように低い声をもらすだけである。
一行は見わたすかぎり苔に覆われた道なき荒野を突っ切って進んだ。苔は大きな車輪や動物の足に踏まれて倒れても、すぐまた元通りにぴんと立つので、われわれが通ったという痕跡は何も残らなかった。まったく、行進の物音や痕跡がないという点からいえば、われわれはこの瀕死の遊星の涸れた海で死んだ者たちの亡霊であるかのようだった。このような人間と動物の大群が|ほこり《ヽヽヽ》も立てずに足跡も残さずに行進するのを見るのは、これが初めてだった。火星で|ほこり《ヽヽヽ》が立つ土地は冬季の耕作地しかないし、それさえ強い風が吹かないから、ほとんど目につかない程度なのだ。
その夜は二日のあいだ目標にして近づいてきた、この涸れた海の南の境界線にあたる山のふもとで野営をした。動物たちは二日間水を飲んでいなかったが、実際はもう二か月近く、サークを出発した直後からずっと水なしの毎日だったのである。しかし、タルス・タルカスの説明によると、動物たちはほとんど水を必要とせず、バルスーム全土を覆っている苔を食べていつまででも生きていけるということだった。たいして水分を必要としない動物たちには、苔の細い茎の中に含まれている水分だけで十分なのだという。
チーズに似た食物と植物性ミルクの夕食を平らげたあとで、私はソラを捜した。ソラは|たいまつ《ヽヽヽヽ》の明かりを頼りにタルス・タルカスの装飾品の手入れか何かをやっていたが、私が近づくと顔を上げて、うれしそうな明るい表情を見せた。
「よくきてくれたわね。デジャー・ソリスは眠っているし、ひとりぼっちで寂しかったわ。あたしの仲間たちはあたしをきらっているのよ、ジョン・カーター。みんなとちがいすぎるからなのね。こんな人たちの中で一生を送らなければならないなんて悲しい運命だわ。本当の緑色火星人の女らしく愛も希望も持たない人間になれたらどんなにいいかと思うことがよくあるの。だけどあたしは愛というものを知ってしまって、そのためにどうしていいかわからなくなっているのよ。
あたしの身の上話を聞かせる約束をしたけれど、ほんとうはあたしの親たちの話といったほうがいいと思うわ。あなたやあなたの国の人たちの考え方についてわかったことから察するに、きっとこの話はあなたにとっては不思議でも何でもないでしょうね。でも緑色人の間ではサーク一の古老の記憶にもないことだし、伝説にもあまり類のない話なのよ。
あたしの母は体は小柄なほうで、母親になることを許してもらえなかったほどだったの。幹部たちが子供を生ませるのはだいたい体の大きい女ばかりなんです。また母はたいていの緑色人の女ほど情け知らずではなかったわ。だから仲間とはあまりつきあおうとしないで、よく一人きりでサークの人気《ひとけ》のない通りを歩きまわったり、近くの丘に登って野生の花が咲いているなかにすわったりしては、物思いにふけったり夢を描いたりしていたの。こんなことが理解できるのは今のサークの女のなかではあたし一人でしょうね。やはり娘だからじゃないかしら。
そしてその丘の上で母はある若い戦士に出会ったのよ。その戦士は放し飼いの火星象《ジティダール》や火星馬《ソート》が丘の向こうへさまよい出ないように見張りをする任務についていたの。最初のうち二人はサークの部族に関係した話しかしなかったけれど、そのうちにたびたび会うようになって、それももう偶然に出会っているのではないということがたがいにわかってくると、自分の好みや野心や希望など自分自身のことを話し合うようになったの。母はその戦士を信頼して、自分たち一族の残酷さや、いつまでも恐ろしい愛のない生活を送らなければならないことにたいして感じている嫌悪感を打ち明けてしまいました。そして相手の冷やかな固く結ばれた唇から激しい非難の言葉がどっと飛び出してくるものと思っていると、意外にも戦士は母を抱き寄せて口づけをしたの。
二人は自分たちの恋を六年間も秘密にしていたわ。あたしの母はタル・ハジュスの従者の一人で、恋人のほうは自分の装具しか持っていないふつうの戦士でした。もしも二人がサーク族の昔からの掟にそむいたことが露見していたら、大闘技場に引き出されてタル・ハジュスや群衆の目の前で罰を受けていたでしょうね。
あたしがはいっていた卵は、大昔のサークの都の半分こわれかけた塔の中で一番高くて登りにくい塔のてっぺんの大きなガラスの容器の下に隠されていました。卵は孵化するまで五年間そこに置かれ、母は年に一度ずつそれを見に行ったのよ。でも、それ以上は行こうとしなかった。ひどく気がとがめて、自分の行動がいちいち監視されているような気がしたからなの。この間に父のほうは戦士としてどんどん名をあげ、数人の幹部から装具を奪ったけれど、母に対する愛は少しも薄れませんでした。父の一生の望みは、皇帝《ジェダック》のタル・ハジュスから装具を奪うまでの地位に登ってサーク族の支配者になり、母を自分のものと公然と宣言し、それとともに、事実が明るみに出ればそくざに殺されてしまう自分の子供を権力によって守ろうということだったの。
たった五年のうちにタル・ハジュスから装具を奪おうというのは無謀きわまる夢だったけれど、父の出世はめざましく、じきにサークの幹部会でも重きを置かれるようになったわ。ところがある日、父の野望を実現するチャンスは永遠になくなってしまった。少なくとも愛する者たちを救うのには間に合わなくなったの。つまり、父は氷にとざされた南の地域へ長い遠征の旅に出る命令を受けたのです。遠征の目的はその地域の住民に戦いをしかけて毛皮を略奪することでした。なにしろ、他人から略奪できるものは自分では作ろうとしないのが、緑色人のやり方ですものね。
父は四年間、行ったきりだったの。そして戻ってきたときには何もかも終わってから三年もたっていました。それというのも父が出発してから一年ほどたったころ、孵化器で生まれた子供たちを連れに行った遠征隊が戻ってくる直前に、あたしの卵がかえったからなの。それ以来、母はあたしをそのまま古い塔の中に隠しておいて毎晩会いにきたわ。そして、部族のなかの生活では味わえるはずのない愛情をかぎりなくそそいでくれたの。母の望みは、孵化器へ行った遠征隊が帰ってきたら、タル・ハジュスの本拠に割り当てられる子供たちのなかにあたしをまぎれこませたいということでした。こうして、緑色人の掟にそむいた罪が発覚したら必ずふりかかってくる恐ろしい運命からのがれようとしたわけね。
母は急いで一族の言葉や習慣をあたしに教えてくれたわ。そしてある晩、いままであんたに話したことを話してくれたの。それから、このことは絶対に秘密にしておかなければいけないと言って、ほかの子供たちといっしょになったら、自分の教育がほかの者より進んでいることをだれにも感づかれないようにしなければいけないし、他人の前では母に愛情を持っていることや両親を知っていることをそぶりにも見せないようにくれぐれも気をつけなければいけないと注意しました。そして、あたしをそばへ引き寄せ耳もとに口を寄せて父の名をささやいたの。
そのとき、塔の部屋の暗闇に明かりがぱっと輝いた。見るとそこにサルコジャが立っていたのよ。あの女は悪意に満ちた目に火のような憎しみとさげすみをこめて母をにらみつけていたわ。そして憎たらしい悪罵の雨を母に浴びせかけてきたので、幼いあたしの心は恐ろしさに凍りついてしまうようだった。明らかにサルコジャは話をすっかり盗み聞きしてしまったのね。あの女は前々から母が夜になると部屋を長い間あけるのを怪しんでいたので、あの運命の夜にあそこに現われるようなことになったの。
それでも一つだけサルコジャの耳にはいらなかったことがあったわ。母がこっそり耳うちした父の名前です。これはあの女が不義の相手の名を言えと何度も母に迫っていたことからも明らかだった。でも、どんなに罵《ののし》っても脅《おど》しても父の名を母に言わせることはできなかった。そして、あたしをよけいな責め苦から救おうとして母は嘘をついたの。つまり、父の名は自分だけが知っていることで、子供にさえ教えるつもりはないとサルコジャに言ったのね。
サルコジャは最後に呪《のろ》いの言葉を吐くと、急いでこのことを報告しにタル・ハジュスのもとへ飛んで行きました。その間に母は自分の夜着の絹や毛皮にあたしをくるんで人目につかないようにすると、塔をおりて通りへ飛び出し、町はずれに向かって狂気のように走って行ったの。それは遠い南の土地に向かう方角――保護を求めることはできないけれど、死ぬ前にもう一度だけ顔が見たい人のいる方角でした。
母とあたしが都の南のはし近くまできたとき、苔に覆われた平原のかなたから物音が聞こえてきたわ。それは丘の間をぬけて都の城門に通じる一本道の方角からで、この道は東西南北いずれの方角からきても都にはいるには通らなければならない道でした。あたしたちの耳にはいってきたのは火星馬《ソート》の甲高《かんだか》い声と火星象《ジティダール》のうなり声、それにときおりまじる武器のふれあう音で、明らかに戦士の一隊が近づいてきたことを告げていました。まっさきに母の胸に浮かんだ考えは父が遠征から戻ってきたのではないかということだったの。でもサーク族らしい抜け目なさを発揮して、いきなりむてっぽうに飛び出して迎えにいくようなまねは思いとどまりました。
ある建物の戸口の陰に隠れて待っていると、まもなく一行は通りへはいってきて隊形をくずし、大通りいっぱいに広がって群がり進んできたの。行列の先頭があたしたちの前を通りすぎたとき、小さいほうの月が張り出した屋根から顔をだしてあたりの光景を皓々《こうこう》と照らしだしました。母は戸口の陰でいっそう身をすくめながら、様子をうかがいました。そしてその一隊が父の遠征隊ではなく、サーク族の赤ん坊を連れて戻ってきた連中だということを知ったの。たちまち母は計画を思いつきました。巨大な車が隠れ場所のすぐそばを通りかかったとき、母は後ろに引きずられている尾板を伝ってこっそり車の中にはいりこみ、高い横板の陰に身をかがめると、いとおしさに狂ったようになってあたしを胸に抱きしめたのです。
あたしにはわからないことだったけれど、母はこの夜かぎり二度とあたしを胸に抱けなくなるし、たがいに顔を合わすことさえないだろうということを知っていたのね。こうして広場の混乱を利用して母はあたしをほかの子供たちのなかにまぎれこませました。旅のあいだ子供たちの世話をしていた人たちはこのときにはもう任務から解放されていました。あたしはほかの子供たちといっしょに大きな部屋のなかにいれられ、この旅にはついていかなかった女たちから食物をもらいました。そして翌日、幹部たちの従者の手に分散して預けられたの。
その夜かぎりあたしは母に会えなくなったわ。母はタル・ハジュスの手で投獄されてしまった。あの連中はこの上なく恐ろしい屈辱的な拷問《ごうもん》をはじめありとあらゆる手を使って父の名前を白状させようとしたけれど、母はあくまでも頑張って父に対する貞節を守りとおしました。そしてとうとう何か恐ろしい拷問を受けているときにタル・ハジュスや幹部たちの笑い声を浴びながら死んでしまったの。
あとで知ったことだけど、母はあたしがつかまっても自分と同じような目にあわないように、自分の手であたしを殺し、死体は白ザルに投げ与えてしまったと言ったのだそうよ。だけどサルコジャだけはこの話を信用しませんでした。今でもあの女はあたしの素性《すじょう》を感づいているという気がするけれど、とにかく今のところはそれを暴露しようとはしないのよ。きっと、父がだれかということまで見当がついているからじゃないかしら。
父が遠征から帰ってきて、タル・ハジュスの口から母の死を聞いたとき、あたしはその場に居合わせました。父は顔の筋ひとつ動かさず、感情のかけらも見せなかったわ。ただ、タル・ハジュスが愉快そうに母のもだえ死ぬ様子を語っても笑おうとはしなかった。この瞬間から父はだれにも負けない残酷きわまる人間になったのよ。そしてあたしは、父が野望を達成して、タル・ハジュスの死骸を足で踏みつけるようになる日がくるのを待っているの。だって、父は恐ろしい恨みをはらす機会がくるのをひたすら待ちかまえているにちがいないし、父の胸のなかには四十年前に父を生まれ変わらせたときと同じように大きな愛の火が激しく燃えているに決まっているからよ。これはもう、あたしたちが、他人がみんな眠っている間にこうやって太古の海の浜辺にすわっているのと同じくらい確かなことだと思うわ」
「で、ソラ、きみの父だという男はいま私たちといっしょにいるのかね」
「ええ。でも父のほうではあたしが娘だということは知らないし、母の一件をタル・ハジュスに密告したのがだれかということも知らないのよ。父の名前を知っているのはあたしだけ。そして、父の愛する女に拷問と死の運命をもたらす密告をしたのがサルコジャだということを知っているのは、あたしとタル・ハジュスと当のサルコジャだけなの」
私たちはちょっとの間、黙りこんだ。ソラは恐ろしい過去の暗い思い出にすっかり沈みこみ、私のほうは、一族のおろかしい冷酷な習慣のために憎悪にみちた愛のない悲惨な生活を送るように生まれついている人びとにあわれみを感じていた。やがてソラが口を開いた。
「ジョン・カーター、もしこのバルスームの冷たい死の地面を本当の人間が歩いているとすれば、それはあんたよ。あんたが信用できる人だということはわかっているし、それに、あんたに知っておいてもらえば、いつかあんたが、父か、デジャー・ソリスか、あたし自身かの役に立つことになるかもしれないから、あんたに父の名前を教えておこうと思うの。そして、あたしとしては他人にしゃべるなとも言わないし、何か条件をつけるつもりもないわ。いずれ時期がきて、そうすることが一番いいと思ったら真実をほかの人たちに話してください。あたしがあんたを信用するのは、どんな場合にも絶対に嘘はいわないという恐ろしい性質があんたにはないとわかっているからなの。あんたは自分の国のバージニアの紳士らしく、嘘をつくことで他人を悲しみや苦しみから救える場合なら嘘をつくことができる人だからだわ。あたしの父の名はタルス・タルカス」
十六 逃亡を企てる
その後のサークまでの旅路は平穏無事だった。旅はすでに二十日間つづき、一行は二つの海の底を横断し、多数の荒廃した都市を通り抜けたり迂回《うかい》したりした。たいていの都市はコラッドより小さかった。また、地球の天文学者たちが運河と呼んでいる有名な火星の水路を二度こえたが、この水路に近づくときには、高性能の双眼鏡を携えた戦士を一人、ずっと先のほうまで偵察に行かせることになっていた。そして赤色火星人の大部隊が近くにいないとなると、ひそかに前進してできるだけ水路に近づき、そこで日が暮れるまで野営する。夜になると、この水路地帯の耕作地にじょじょに接近し、一定の間隔をおいてこの地域を横切っている多数の広い道路の一つを見つけだし、物音を立てずに向こう側の乾燥した土地までわたって行くのである。このような水路地帯の横断では、一度も休まずに行進して五時間かかったこともあるし、まる一晩がかりで横断し、高い壁で囲まれた耕地の外へ出たときにはもう太陽が輝きはじめたこともあった。
このような暗闇の横断を行なうときには、ほとんど何も見えなかったが、ただ、バルスームの空を狂ったような勢いで絶えず旋回している近いほうの月がときおりあたりの風景をわずかながら照らしだすたびに、地球の農場によく似た感じの、壁に囲まれた耕地や、屋根の低い、でたらめに建増ししたような建物が闇の中から浮かび上がった。たくさんの木が整然とした配列で植えてあるのも見えたし、そのなかにはとてつもなく高い木もあった。囲いの中に動物がいれてあるところもあった。それがわかったのは、私たち一行の奇妙な野獣や、それ以上に野獣的な人間のにおいを嗅《か》ぎつけたと見えて、そのけだものどものおびえた鳴き声や鼻を鳴らす音が聞こえたからだ。
一度だけ人間を見かけた。それは一行が進んでいる道が、この耕作地帯をまん中から縦に二分している幅の広い白い道と交差する地点でのことだった。その男は道ばたで眠っていたらしく、私がそばまで行くと片肘をついて身を起こした。そして近づいてくる行列をちらっと見るなり悲鳴を上げて飛び起きるや死に物狂いで逃げだし、びっくりした猫のような身軽さで近くの壁をよじ登って姿を消した。サーク族の面々はこの男のほうを見向きもしなかった。戦いを挑むときではなかったからだ。彼らがこの男に気づいたことを示すものといえば、行進の歩調が早くなったことだけだった。こうして一行はタル・ハジュスの領土の入口にあたる国境の砂漠に向かって急いでいた。
デジャー・ソリスとは一度も話をしなかった。彼女は自分の車のそばへきてもいいとは言ってこなかったし、私のほうはまた、ばかげた自尊心にこだわって自分から言い寄ろうとはしなかった。まったく、武勇にすぐれた男らしい男ほど女の扱い方は下手なものである。柔弱な者やのろまな男がしばしば女を喜ばせることにかけてはすばらしい腕を持っているというのに、無数の真の危険には恐れずに立ち向かっていく闘士にかぎって、相手が女となるとおびえた子供のようにこそこそ隠れてしまうのだ。
私が火星にきてからちょうど三十日目に、一行は古都サークにはいった。この緑色人の群れは遠い昔のこの都市の住民から名前まで奪いとってサーク族と名乗っているのだ。この種族は総勢およそ三万人で、二十五の部族に分かれている。各部族ごとにその王《ジェド》と幹部たちがいるが、そのすべてをサークの皇帝《ジェダック》タル・ハジュスが支配していた。部族のうち五つはサークの都を本拠にしていたが、残りの部族はタル・ハジュスが領土にしている地域のあちこちにある荒廃した古代都市に散らばっていた。
一行は午後早く、都の大きな中央広場にはいった。遠征隊が帰ってきたからといって熱狂的な歓迎があるわけではなかった。たまたま近くに居合わせた連中がばったり顔を合わせた戦士や女たちの名前を呼んだが、これがこの一族の正式の挨拶だった。しかし、一行が二人の捕虜を連れてきたことがわかると、もっと大きな関心がわき起こり、デジャー・ソリスと私は群衆の好奇心の的になった。
一行はまもなく新しい宿舎を割り当てられた。そして、この日の残りの時間はもっぱら新しい環境に腰を落ち着けることに費やされた。今度の私の宿舎は広場の南口に通じる道路に面していた。この道はわれわれがくるときに都の門から行進してきた大通りだった。私の宿舎は広場の一番はずれのほうにあり、一つの建物全部を私だけで使うことになった。コラッドの建物のいちじるしい特徴だった建築様式の華麗さはここでも目についたが、ただ、ここのほうが一段と規模が大きく、贅沢《ぜいたく》にできているようだった。私の宿舎は地球でなら最も偉大な皇帝の宮殿にしてもいいほど豪華なものだったが、この奇妙な緑色人たちは部屋の大きさということ以外は建物というものに何の関心も持っていなかった。つまり彼らにとっては、大きければ大きいほど良い建物なのである。だからタル・ハジュスは、昔は何か公共の建築物だったと思われるこの都市で一番大きな建物に住んでいたが、それは住居にはまるで不向きな建物だった。そして二番目に大きな建物はロルクワス・プトメルの住居、三番目はその次の地位の王《ジェド》のものという工合にして五人の王《ジェド》の建物が順々に決まっていた。戦士たちは自分が部下として配属されている幹部と同じ建物に住むか、あるいは無数にある無人の建物のなかから自分の宿舎をさがしてもよいことになっていた。しかし、この場合、各部族にはそれぞれ都市のなかの一定の区域が割り当てられているので、建物の選択はその区域内で行なわなければならなかった。ただし、王《ジェド》の場合だけは例外になっていて、彼らはみな広場に面した巨大な建物を占領していた。
ようやく家の中を整頓し終わったときには、というよりは整頓されたのを見とどけたときには、もう日暮れが近づいていた。私はソラと彼女が預っている捕虜を捜しだそうと思って急いで外へ出た。デジャー・ソリスと話をして、彼女を逃亡させる方法をなんとか見つけだすまでは少なくともけんかを中止する必要があることを納得させようと私は決心していたのだ。ソラたちの居場所はなかなか見つからなかった。だが、大きな赤い太陽がいままさに地平線のかなたに姿を消そうとする最後の瞬間に、私の宿舎と同じ通りの向かい側で、もっと広場に近い位置にある建物の二階の窓からウーラの醜い頭がのぞいているのを見つけた。
もう向こうから招かれるのを待とうなどとはせず、私は二階に通じる回廊を一気に駆け上がって、表側の大きな部屋に飛びこんだ。ウーラが狂喜して私を迎え、大きな体で飛びついてきたので、もう少しで押し倒されそうになった。こいつは私に会えたのがうれしくてたまらず、耳まで裂けた大きな口をあけて三列に並んだ牙をむき出し、お化けのような笑顔を見せているのだが、その様子は私をむさぼり食うのではないかという気がするほどだった。
静かにしろと命令しながら頭をなでてウーラをなだめると、私はすばやく夕闇の迫ってくる室内を見まわしてデジャー・ソリスの姿をさがしたが、見あたらないので名前を呼んだ。すると部屋のずっと奥のほうからかすかな返事が聞こえた。すばやく二、三歩、大またに歩みよると、古めかしい彫刻をほどこした木製の椅子の上に毛皮や絹物にくるまってうずくまっているデジャー・ソリスのすぐそばに立つことになった。そのまま黙って立っていると、彼女はすっくと立ちあがり、私の目をまともに見つめながら言った。
「これはまた、サークの幹部ドタール・ソジャットさまが捕虜のデジャー・ソリスに何のご用でしょう?」
「デジャー・ソリス、私はどうしてあなたを怒らせたのか、わけがわからないのです。あなたを守り、慰めてあげたいと私は思っていたのです。そのあなたを傷つけたり怒らせたりしようなど私が考えるはずはないではありませんか。私を許したくなければ、許さなくてもよろしい。しかし、あなたの逃亡を成功させるためには――もしそんなことができるとすればですが――あなたは私に協力してくれなければいけません。これは頼むのではなく、命令するのです。あなたが無事に父上の宮廷に戻られるようになったら、私のことは好きなようになさればいい。だが、今からその日までは私が命令をくだします。あなたは私の言うことに従い、私に協力しなければなりません」
デジャー・ソリスは真剣な顔つきで、まじまじと私を見つめた。私にたいする気持がやわらいできたように思えた。
「おっしゃることはわかりました、ドタール・ソジャット」と彼女は答えた。「でも、あなたという人はわたしにはわかりません。あなたは子供とおとな、野蛮なものと高尚なものとがまじり合った奇妙な方です。あなたの心のうちを読むことができればいいのに」
「あなたの足もとをごらんなさい、デジャー・ソリス。あのコラッドの夜以来ずっと私の心はそこからあなたを見上げているのです。そして死が私の胸の鼓動をとめる日まで、いつまでもそこであなたを見上げていることでしょう」
彼女はほんの少し私のほうへ足を踏み出し、美しい両手をさしのべて何かをさぐるような奇妙な身ぶりをした。
「それは何のことですの、ジョン・カーター。何を言おうとしていらっしゃるのですか」と彼女はささやくように言った。
「私が話しているのは、少なくともあなたが緑色人の捕虜である間はけっしてあなたに言うまいと自分に誓ったことなのです。この二十日間のあなたの私に対する態度から考えてけっしてあなたに言うまいと思っていたことなのですよ。いいですか、デジャー・ソリス、私が言っているのは、この私は身も心もあなたのもので、あなたのために働き、あなたのために戦い、あなたのために死ぬ覚悟だということなのです。そのかわり、一つだけお願いしたいことがあります。それは、あなたが無事に一族の人びとのところへ帰られるまでは、私の言うことをとがめたり、あるいは認めたりする様子はいっさい見せないでいただきたいということです。また、私にたいしてどんな感情を持たれるにせよ、その感情を感謝の気持でゆがめないようにしていただきたいのです。私があなたのために何をするにせよ、それはみな自分本位の動機ですることです。なにしろ、あなたのために働くということが私には楽しいのですから」
「あなたの希望どおりにいたしますわ、ジョン・カーター。そうなさろうというあなたの動機がよくわかるからです。あなたの権威に服従するのと同じように喜んであなたの奉仕を受けましょう。あなたの命令にはどこまでも従います。わたしは二度もあなたを誤解しました。また許していただかなくてはなりませんわ」
このときソラがはいってきたので、二人だけの話はそれ以上できなくなった。ソラはいつもの冷静で落ち着いた態度はどこかへ捨ててきたようにひどく興奮していた。
「あのいやなサルコジャのやつがタル・ハジュスのところへ行ったのよ」とソラは叫んだ。「そして広場でみんなが話していたことから考えると、あんたたちは二人ともほとんど助かる望みはないわ」
「どんな話をしていたの?」とデジャー・ソリスがきいた。
「年に一度の競技大会に一族の者たちが集まったら、大闘技場であんたたちは狂暴な火星犬《キャロット》の群れにほうりこまれるっていうのよ」
「ソラ」と私は口を開いた。「きみはサーク人だが、私たちと同じように自分の一族の習慣をひどくきらっている。思いきって私たちといっしょに逃げないか? きっとデジャー・ソリスはきみが赤色人といっしょに無事に暮らしていけるように保護してくれるだろう。赤色人のところへ行ったって、ここにいるよりひどい目にあうはずはないじゃないか」
「そうよ」とデジャー・ソリスが叫んだ。「いっしょにいらっしゃいよ、ソラ。ここにいるよりヘリウムの赤色人といっしょに暮らしたほうが、ずっと幸福になれますよ。わたしたちといっしょに暮らせるだけでなく、あなたが生まれつき求めていて、しかも種族の残酷な習慣のために与えられたことがない愛情というものが味わえるようになることを約束しましょう。いっしょにいらっしゃい、ソラ。あなたを残して逃げることもできるでしょうけれど、あとでわたしたちの逃亡を助けたと思われたら、それこそ恐ろしい目にあうでしょう。たとえそんな恐ろしい目にあうとわかっていても、あなたがわたしたちの逃亡を邪魔するような人でないことはわかっています。それでも、いっしょに逃げてもらいたいのです。太陽と幸福のあふれる国へ、愛や同情や感謝の意味を知っている人たちがいるところへ来てもらいたいのです。さあ、ソラ、来ると言ってください。わたしたちといっしょに来ると」
「ヘリウムに通じる大水路までここから南へ五十マイルしかないわ」とソラはなかばひとり言《ごと》のようにつぶやいた。「足の速い火星馬《ソート》なら三時間で行けるわ。そこからヘリウムまでは五百マイルで、途中は大部分、人のあまり住んでいない土地よ。でも、みんなはすぐに気がついて追いかけてくるわ。ちょっとの間なら大きな木の並んでいる林の中に隠れていられるけれど、逃げきれる見込みはほとんどないでしょうね。みんなはヘリウムの入口まででも追いかけて、なんとしてでも殺そうとするでしょうよ。あんたたちにはあの連中のことがわかっていないのよ」
「ヘリウムに行く道はほかにはないのだろうか」と私はきいた。「通らなければならない地域の略図を描いてくれませんか、デジャー・ソリス」
「はい」と答えて、彼女は髪飾りの大きなダイヤモンドをはずすと、大理石の床の上に、私がはじめて見るバルスームの地図を描いた。その地図は無数の長い直線が平行に走ったり、大きな円に向かって集中したりして、やたらに交差していた。彼女の説明によると、その線は水路を、円は都市を示し、私たちのいる地点から遙か北西の方角にある円がヘリウムの都だということだった。そして彼女は、もっと近くにも都市はたくさんあるが、その全部が必ずしもヘリウムにたいして友好的というわけではないから、それらの都市へ行くのは危険だと言った。
今では部屋中にさしこんでいる月明りのもとで私は注意深く地図を見まわした。そして最後に、現在いる地点からはるか北方にあって、同じくヘリウムに通じていると思われる水路を指さし、デジャー・ソリスにたずねた。
「この水路はあなたのおじいさまの領土を通り抜けているのではありませんか」
「ええ、でもそれはここから二百マイルも北へ行ったところです。私たちがサークへくる途中で横切った水路の一つです」
「まさか私たちがそんなに遠くの水路から逃げるなどとは連中も考えないでしょう。だからこそ、逃げるのには一番いい道筋だと思います」
ソラは私の考えに賛成した。そして、今夜、私が自分の二頭の火星馬《ソート》を見つけて準備をととのえ次第、ただちにサークから立ち去ることに三人の意見がまとまった。ソラが一頭の火星馬《ソート》に乗り、デジャー・ソリスと私がもう一頭に乗る手筈になった。そして、そんなに遠距離の道中では火星馬《ソート》をあまり急がせるわけにはいかないので、めいめい二日分の食糧と飲物を持ってゆくことにした。
私はソラに、デジャー・ソリスを連れて人通りの少ない道を通り都市の南の境界線まで行っているように命じ、私もできるだけ早く火星馬《ソート》を連れてそこへ行くことにすると言った。それから、必要な食物や絹布や毛皮をかき集める二人の女を残して、こっそり一階の裏側にまわり、中庭にはいった。そこでは動物たちが落着かない様子で動きまわっていた。この動物たちは夜の眠りにつく前にはいつもこの調子なのだ。
暗い建物の陰や、冴《さ》えわたる火星の月明りの下で、火星馬《ソート》と火星象《ジティダール》の大群が動きまわっていた。ジティダールは咽喉《のど》から押しだすような低い声でうなり、火星馬《ソート》はときおり甲高《かんだか》い悲鳴を上げていた。こうした鳴き声を聞くと、これらの動物は怒りに気をたかぶらせるのがもう習慣のようになっていて、一生こんな調子なのだということがよくわかる。人間がいないので、ふだんよりは静かにしていたところなのだが、私のにおいを嗅《か》ぎつけると、いっそう落ち着かなくなり、ますますいやな鳴き声をあげて騒ぎだした。夜、ひとりで火星馬《ソート》の置場へはいるのは、いたって危険な仕事だ。動物たちの騒ぎが大きくなれば近くにいる戦士たちが何が起こったかと警戒するかもしれないし、それにまた、ちょっとしたことが原因で、あるいは原因など何もなくても大きな雄の火星馬《ソート》がまっさきに私に襲いかかってくるかもしれないからである。
今夜のように秘密と迅速が事の成否を左右するときには、なんとしてもこの動物たちを怒らせたくはなかったので、私は建物の陰にぴったり身をよせて、いざとなったらただちに近くの戸口か窓のなかに飛びこむ身がまえをした。そして、中庭の裏手から通りへ出られるようになっている大きな門のほうへ静かに進んでいった。こうして出口近くまでくると、私の二頭の火星馬《ソート》を小声で呼んだ。と、ほどなく中庭の向こう側から二つの巨体が押し合う動物の群れをかきわけて私のほうへやってくるのが見えた。私はこの狂暴な物言わぬ野獣の愛情と信頼をかちとっておくという先見の明を与えてくれた神の摂理に、感謝せずにはいられなかった。
二頭の火星馬《ソート》は私のすぐそばまでくると、鼻づらを私の体にこすりつけ、いつも褒美《ほうび》にやっている食物のかけらをさがした。私は門をあけて二頭の大きな獣《けもの》に外へ出ろと命じ、そのあとから自分もそっと抜けだして門をしめた。
私はその場ですぐに火星馬《ソート》に乗ろうとはせず、建物の陰をこっそりと歩いて、デジャー・ソリスやソラと落ち合う手筈になっている地点に通じる人気《ひとけ》のない大通りに向かった。私と動物たちは幽霊のように物音一つたてず、さびしい通りをひそかに進んだ。だが、都市のなかの平原が見えるところまでは、緊張のあまり息を殺しつづけていた。私は、ソラとデジャー・ソリスがだれにも見とがめられずに約束の場所までくるのには別に苦労はあるまいと思っていたが、大きな図体《ずうたい》の火星馬《ソート》を連れていかなければならない自分自身のほうにはそれほど確信は持てなかった。しかし日が暮れてから戦士が都市の外へ出て行くということはめったにないことだった。というのは、ちょっとやそっと火星馬《ソート》を走らせたところで、どこにも行き場所はないのである。
私は無事に約束の場所にたどりついた。しかしデジャー・ソリスとソラがきていないので、ある大きな建物の玄関の広間に火星馬《ソート》を引き入れた。きっと同じ宿舎の女たちのだれかがソラのところへ話をしにやってきて、それで出発が遅れているぐらいのことと思ったので、彼女たちが姿を見せないまま一時間近くたつまではあまり心配はしなかった。しかし、さらに三十分経過したころには、いたたまれないほど不安な思いがつのってきた。そのとき、夜の静寂を破って一団の人間が近づいてくる物音がした。その物音から判断すれば、自由を求めてひそかに逃亡しようとする者たちでないことは明白だった。その一行はすぐに私のそばまできた。戸口の暗い物陰からそっとのぞくと、二十人ばかりの火星馬《ソート》に乗った戦士の群れが見えた。そして彼らが私の前を通過しながら、しゃべっている言葉を耳にすると、激しい衝撃に心臓が頭のてっぺんまで飛び上がる思いがした。
「おそらく、やつは町を出たところで落ち合う手筈にしているだろう。だから――」そこまで聞こえたところで、戦士たちは通り過ぎてしまった。しかし、これで十分だった。私たちの計画は見破られたのだ。これでもう恐ろしい最期をとげるまで逃亡のチャンスは皆無になったといってもいいだろう。今となっては、せめて人知れずデジャー・ソリスの宿舎に引き返して、彼女がどうなったのか知りたいと思った。しかし、もうおそらく町じゅうの者が私の逃亡を知って起き出しているだろうから、巨大な火星馬《ソート》を二頭も連れながらどうやって引き返すかがたいへんな難問題だった。
ふと、名案を思いついた。このような火星の古代都市は一区画ごとに中庭を中心にして周囲を建物が取り囲む構造になっていることを思い出し、それを利用しようと考えたのである。火星馬《ソート》についてこいと声をかけると、私は手さぐりで暗い部屋の中を進んだ。火星馬《ソート》の大きな図体では通り抜けるのは一《ひと》苦労する戸口もあったが、そこは都市の目抜き通りに面した建物で、すべてが堂々とした作りになっていたから、身動きがとれなくなることもなく、なんとかすり抜けることができた。こうして、ついに中庭に出た。そこには予想したとおり、あの苔に似た植物が一面に生えていた。これなら、もとの囲いに戻せるようになるまで火星馬《ソート》を隠しておいても、食糧や飲物の心配はいらない。動物たちがここでも満足しておとなしくしているだろうという点については確信があったし、発見される恐れもまず皆無といってよかった。このような町はずれにある建物には、緑色人が恐怖を感じる唯一のものと思われる例のバルスームの巨大な白ザルがよく出没するので、連中はあまり中にはいりたがらないのだ。
私は馬具をはずすと、いま中庭にはいるのに通り抜けた建物の裏戸口のすぐ内側にそれを隠した。そして火星馬《ソート》を放してから、すばやく中庭を横切って向こう側の建物の裏手へ行き、さらにその向こうの大通りへ向かった。戸口の陰で様子をうかがい、だれも近づく者がいないことを確かめると急いで大通りを横切り、また手近かの戸口から中庭へはいった。こうして、大通りを横切るときにわずかながら発見される危険を冒《おか》すだけで次々に中庭を通り抜けて進み、ついに無事にデジャー・ソリスの宿舎の裏側の中庭にたどりついた。
むろん、この中庭にも付近の建物に住みついている戦士たちの動物が置いてあった。だから、いきなり建物の中へはいれば戦士たちに出会うかもしれなかった。だが、幸いにも私にはデジャー・ソリスがいるはずの階上へ行くのにもっと安全な別の方法があった。私はまず、どのへんが彼女の部屋だったかと考え、できるだけ正確に見当をつけた。この建物を中庭のほうから見るのははじめてだったのである。それから私の体の強い力と身ごなしの軽さを利用してぱっと飛び上がり、彼女の部屋の裏側と思われる二階の窓の下枠にしがみついた。そして部屋の中へはいると、建物の表側のほうへこっそりと進んだ。そして、ほとんどデジャー・ソリスの部屋の戸口のまん前まで行ったとき、とつぜん中から聞こえる人声に気がついた。
あわてて部屋の中へ飛びこんだりはせず、私は戸口の外で耳をすませた。なかにいるのがはたしてデジャー・ソリスなのか、また、室内へはいっても危険はないのか、それを確かめようと思ったからだ。まったく、この用心は大いに有効だった。なぜなら、私の耳にはいったのは数人の男が低いしゃがれ声で話し合っている声だったし、最後に聞こえてきた言葉はまことに時宜《じぎ》を得た警告を与えてくれることになったからである。しゃべっているのは幹部の一人で、部下の四人の戦士に指示を与えているところだった。
「で、やつがこの部屋にもどってきたら、いいか、町はずれに女がやってこないとなれば必ずもどってくるんだからな。そうなったら、おまえたち四人はやつに飛びかかって、武器を取り上げてしまえ。コラッドから帰ってきた連中の言ってることが本当なら、四人が束《たば》になってかからなくてはだめだぞ。やつをしっかり縛りあげたら、皇帝《ジェダック》の宮殿の地下室へ連れて行って、しっかり鎖でつないでおけ。タル・ハジュスさまが会いたいと言われたら、すぐに連れ出せるようにしておくのだ。だれとも話をさせるんじゃないぞ。それから、やつがくる前に、だれもこの部屋にいれるな。あの女がここへもどってくる気づかいはない。今ごろはちゃんとタル・ハジュスさまに抱かれているだろうよ。まあ、あの女もせいぜい祖先さまにでもあわれんでもらうことだ。タル・ハジュスさまにはあわれみのあの字もありゃしないからな。まったくサルコジャの婆さんは結構な夜なべ仕事をやってのけたものさ。さあ、おれは帰るぞ。やつがもどってきたとき、つかまえそこなったりしやがったら、おまえらの死体をイス川の冷たい水にたたきこんでやるからな」
十七 奪還
しゃべっていた男は口をつぐむと、部屋から出ようとして私が立っている戸口のほうを向いた。もう、まごまごしている必要はなかった。話は十分聞いてしまったし、心のなかは不安でいっぱいだった。そこで私は忍び足で戸口から離れると、はいってきたときと同じ経路で中庭へ引き返した。そしてたちどころにこれからの行動計画をたてた。そして中庭を横切り、向こう側の大通りをこえると、じきにタル・ハジュスの宮殿の中庭にはいっていた。
一階の部屋にはみな明かりがいっぱいに輝いていたので、まず、そこから様子をみることにした。窓ぎわに近づき、なかをのぞきこむと、忍びこむのは思ったほど容易ではないことがすぐにわかった。中庭に面している裏部屋は、どこもかしこも戦士や女たちでいっぱいだった。そこで上の階をふり仰いでみると、三階には明かりがついていないようなので、三階から忍びこむことにきめた。私は一瞬のうちに三階の窓に飛びつき、すぐにまっ暗な部屋の中に忍びこんだ。
幸いにも、私がはいりこんだ部屋にはだれもいなかった。忍び足で廊下へ出ると、行く手の部屋に明かりが見えた。その部屋の戸口と思われるところまで行ってみると、それは戸口ではなく、私の位置の二階下にあたる一階から私のはるか頭上の丸天井まで吹き抜けになっている大広間の窓の一つにすぎなかった。この巨大な円形のホールは多数の幹部や戦士や女たちでごった返していた。そしてホールの一方のはしに大きな壇があって、その上にいまだかつて見たことがないほど恐ろしい、いやな感じのする野獣のようなやつがすわりこんでいた。そいつは緑色人戦士の冷酷無残な恐ろしい特徴をことごとくそなえていたが、長年の間ふけりつづけてきた獣欲のために、それらの特徴がいっそうあくどい、いやらしいものに変質していた。その野獣じみた顔つきには威厳とか誇りといったものは影も見あたらないし、ばかでかい図体でべったりと壇上にすわりこんでいる格好は巨大なタコの化け物か何かのようで、六本の手足がぞっとするほどその感じを強めていた。
だが、私が戦慄したのは、その化け物の前にデジャー・ソリスとソラが立っているのを見たからである。化け物の飛び出した大きな目は悪魔のようないやらしい光をたたえてデジャー・ソリスの美しい体の曲線をさも満足げにながめまわしていた。彼女は何か言っていたが、私には聞きとれなかったし、それに答えて化け物が低い声でぶつぶつ言ったのも何だかわからなかった。デジャー・ソリスは少しも臆することなく毅然として化け物の前に直立していた。遠くはなれた私のところからでも、恐れげもなく堂々と相手を見くだす彼女の顔に軽蔑と嫌悪の色が浮かんでいるのがわかった。まさしくデジャー・ソリスは、そのかわいい小さな体の骨の髄《ずい》まで連綿たる皇帝《ジェダック》の血筋をひく誇り高き娘なのだ。まわりを取り囲む戦士たちの巨大な体躯にくらべれば彼女の姿はあまりにも小さく、かよわいものに見えたが、その姿の中に周囲の者たちを完全に圧倒し卑小なものにしてしまう威厳が備わっていた。彼女こそ、広間にいる者のなかで最も偉大な存在だった。このことは緑色人たちも感じていたにちがいない。
やがてタル・ハジュスは二人の囚人だけを残して広間から出て行くように一同に合図をした。幹部や戦士や女たちはのろのろと動きだして周囲の暗い部屋のほうへ姿を消し、デジャー・ソリスとソラだけがサークの皇帝《ジェダック》の前に立っていた。
一人だけ広間から出てゆくのをためらっている幹部がいた。その男は巨大な円柱の陰に立って、いらだたしげに大きな剣の柄《つか》をいじりまわしながら、残忍な目に執念深い憎悪をこめてじっとタル・ハジュスを見つめていた。それはタルス・タルカスだった。その憎しみをむき出しにした顔つきを見れば彼の心のうちは手にとるようにわかった。四十年前にこの野獣のような皇帝《ジェダック》の前に立った別の女のことを考えているのだ。もしもこのとき私が彼の耳もとで一言ささやくことができたら、タル・ハジュスの天下も終わりを告げていたことだろう。だが、とうとうタルス・タルカスも広間から出て行った。だれよりも憎んでいる男の手に自分の娘の命をまかせたことも知らずに。
タル・ハジュスは立ち上がった。私は彼がやろうとしていることをなかば恐れ、なかば待ちうけながら急いで階下に通じる回廊に走り寄った。あたりには邪魔する者は一人もいなかった。おかげで、だれにも気づかれずに大広間にたどりつくと、タルス・タルカスがつい今しがた立っていた円柱の陰に身をひそめた。私が広間に着いたとき、タル・ハジュスはしきりにしゃべっていた。
「よく聞け、ヘリウムの王女。おまえを無事に一族のもとへ帰してやりさえすれば、やつらから莫大な賠償をしぼりとることもできるだろう。だが、わしはそれよりもおまえの美しい顔が拷問の苦しみに悶《もだ》えてゆがむのをながめるほうが千倍も面白いのだ。いいか、拷問はうんと長く、じっくりやってやるぞ。わしがおまえたちの一族にいだいている愛情を示すには、十日ぐらいの楽しみではあまりにも少なすぎるからな。おまえの恐ろしい死に方はこれからさき永遠に赤色人どもが夢に見て悩まされつづけることになるだろう。赤色人の子孫たちは父親から緑色人の恐ろしい復讐と、タル・ハジュスの権力と憎悪と残酷さの話を聞かされて、夜の闇のなかで身震いすることだろう。だが、拷問の前に少しの間だけおまえをわしのものにしてやろう。そして、そのこともおまえの祖父のヘリウムの皇帝タルドス・モルスにちゃんと知らせてやることにしよう。やつが悲しみ悶えて地面をのたうちまわるようにな。拷問は明日から始める。今夜のおまえはタル・ハジュスのものだ。さあ、こい!」
タル・ハジュスは壇から飛びおりて荒々しくデジャー・ソリスの腕をつかもうとした。だが、その手が彼女の体に触れるか触れないうちに私は二人の間に飛びこんでいた。私の右手には鋭い短剣がきらめいていた。やろうとさえ思えば、私の襲撃をさとるひまも与えずにこの短剣を腐りきった心臓に突き立てることもできたはずだった。だが、ふりかぶった短剣を打ちおろそうとした瞬間、ふとタルス・タルカスのことが頭にひらめいた。私は怒りと憎悪に全身が燃え立っていたにもかかわらず、タルス・タルカスが長い年月の間じっと待ち望んできた歓喜の一瞬を横取りする気にはなれなかったのだ。そこで短剣のかわりに右の|こぶし《ヽヽヽ》をふるってまっこうから相手のあごに一撃を加えた。タル・ハジュスは声も立てず、死んだように床に倒れた。
私は無言のままデジャー・ソリスの手をつかむと、身ぶりでソラについてくるように合図して、三人いっしょにそっと広間を抜けだし、急いで階上へ向かった。だれにも見とがめられずに裏側の窓のところまでくると、私の装身具の絹や皮の紐をロープがわりにして、まずソラを、次にデジャー・ソリスを地面におろした。私はそのあとから軽く飛びおりると、二人を連れて建物の陰をまわり、すばやく中庭を通り抜けた。こうして私たちは、ついさきほど私が町はずれからくるときにたどった経路を引き返していった。
ついに火星馬《ソート》を置いてきた中庭にたどりついた。馬具をつけると、急いで建物の中を抜けて、その向こうの大通りへ出た。一頭の火星馬《ソート》にソラを乗せ、もう一頭にまたがった私の後ろにデジャー・ソリスを乗せると、三人はサークの都をはなれ、山の間を通って南に向かった。
都のまわりを後戻りするように迂回して北西に進めば、一番近い水路へ簡単に行けるのだが、私たちはその方角には進まず、北東に進路を向けて、一面に苔の生えている荒野を進みはじめた。長い危険な二百マイルの道程のかなたには、ヘリウムに通じる別の大きな水路が待っているのだ。
都からかなり離れるまで、だれも一言も口をきかなかったが、やがて、かわいい頭を私の肩にもたせかけて、しがみついているデジャー・ソリスがすすり泣きながらつぶやく声が聞こえた。
「わたしの幹部さま、もしもわたしたちが無事に逃げのびたら、ヘリウムの人びとはあなたから大きな恩を受けることになります。それはもう恩返しのしようがないほど大きな恩です。また、もしこの脱出が失敗に終わったとしても、大恩を受けたことに変わりはありません。ヘリウムの人びとには永遠に知ってもらえないでしょうが、あなたは皇帝の血をひく最後の人間を死よりもひどい運命から救ってくださったのですもの」
私は何も答えなかったが、そのかわりに自分の脇腹に手をやって、そこにしがみついている小さな愛らしい指を握りしめた。それから私たちはめいめい深い思いに沈みながら、月光に照らされた黄色い苔の上を黙々と急ぎつづけた。深い思いにふけるといっても、デジャー・ソリスの温かい体にぴったり寄りそわれている私としては、どのみち喜び以外のものを感じるわけにいかなかった。まだまだ危険はこれからだというのに、私の心はもうヘリウムの都の門をくぐっているかのように楽しくはずんでいた。
最初の逃亡計画がみじめな失敗に終わったので、いまの私たちには食糧も飲物もなく、武器を持っているのも私だけだった。そこで火星馬《ソート》をやたらに駆り立て、これでは旅の第一段階も終わらぬうちに火星馬《ソート》がへたばってしまうと思われるほどの速力で走りつづけた。
私たちはその夜から翌日いっぱい、途中で二、三回短い休息をとっただけで走りつづけた。二晩目は私たちも動物も疲れきってしまったので、苔の上に横たわって五、六時間眠り、夜明け前にふたたび出発した。次の日も一日じゅう火星馬《ソート》を走らせたが、午後遅くなってもバルスームじゅうの大きな水路の目印になっている林は、どこを眺めてもその影すら見えなかった。そのとき、恐ろしい事実が私たちの頭にひらめいた――道に迷ったのである。
明らかに私たちは方向を間違えて回ってしまったのだ。しかし、どの方角へ回ったのかつきとめるのは容易なことではなかったし、昼間は太陽を、夜は月と星を頼りにして進むこともできそうには思えなかった。とにかく水路は見えなかったし、三人とも空腹と喉の渇《かわ》きと疲労のために今にも倒れそうになっていた。はるか前方の、やや右寄りの方角に低い山影が見えたので、あの丘の上からながめれば水路が見つかるかもしれないと思い、そこまで行ってみることにした。だが、行きつかないうちに日が暮れ、私たちは疲労と衰弱から気を失ったように横たわり、そのまま眠りこんだ。
朝早く、何か大きなものが体を押しつけてくる気配がして目が覚めた。驚いて目をあけると、ウーラのやつが私に体をすり寄せていた。この忠実な動物は、私たちがどうなろうとどこまでも運命を共にする気で道なき荒野をこえて追いかけてきたのだ。私はウーラの首を抱きかかえて頬をすり寄せた。そんなことをしても、また、私に対する彼の愛情を思いやって涙があふれてきても恥かしいとは思わなかった。まもなくデジャー・ソリスとソラが目を覚ました。そして、ただちに前進して前方の丘まで行ってみようということになった。
だが、一マイルと進まないうちに、前日の昼ごろからあまり無理はさせてなかった私の火星馬《ソート》がなんともみじめな格好でよろよろしはじめたかと思うと、急にどっと横に傾いて勢いよく地面に倒れた。デジャー・ソリスと私はあっさり振り落とされたが、やわらかな苔の上に倒れて、ほとんど何の衝撃も感じなかった。だが、火星馬《ソート》のほうはまったく哀れな状態で、私たちの重みから解放されても立ちあがることすらできなかった。ソラは、夜になれば涼しくなるし、しばらく休息させれば元気を回復するだろうと言った。そこで私は、この火星馬《ソート》を殺さずに置いてゆくことにした。最初は、置き去りにして飢えと渇きで死なせるのはかえって残酷だから殺そうと考えたのだ。火星馬《ソート》の馬具をはずして、かたわらに投げ出すと、私たちはこの哀れな動物の生死は運まかせにして、もう一頭の火星馬《ソート》を連れてどうにかこうにか進みだした。ソラと私は歩き、遠慮するデジャー・ソリスを無理に火星馬《ソート》に乗せた。こうして、めざす丘まであと一マイルほどのところまで進んだとき、火星馬《ソート》に乗っていて一番見晴らしのきくデジャー・ソリスが急に叫び声を上げた。数マイルかなたの山あいの道を騎馬の大群がぞくぞくとおりてくるのが見えるという。ソラと私は彼女の指さす方角を見た。まさしく数百の騎兵の姿が見えた。彼らは南西の方角に向かって進んでいるようだった。それなら私たちから遠ざかっていくわけだ。
それは私たちをつかまえるために派遣されたサークの戦士たちにちがいなかった。だが、反対の方角に向かっているので、私たちは安堵の溜息をついた。そして、すばやくデジャー・ソリスを抱きおろして、地面に横になるよう火星馬《ソート》に命じると、私たち三人もその場に伏せて、できるだけ戦士たちの目にとまらないようにした。
山道から出てくる戦士たちの行列が見えたのはほんのちょっとの間のことで、すぐに彼らの姿は別の丘の陰にはいって見えなくなった。その丘は私たちにとっては天の助けだった。彼らが見晴らしのきくところにいる時間があれ以上長かったら、まず間違いなく私たちを発見していたにちがいないからだ。だが、そのとき最後の戦士が山道から出てきて立ち止まった。そして、驚いたことには小型だが性能のいい双眼鏡を目にあてて、太古の海底のあちこちを丹念に見まわしはじめたのだ。この戦士は幹部にちがいなかった。緑色人が行軍隊形をとるときには幹部が縦隊のしんがりをつとめることになっているからである。その双眼鏡がこちらに向けられたとき、私たちは胸の鼓動がとまる思いがした。私は全身の毛穴から冷たい汗がにじみだすのを感じた。
やがて双眼鏡はぴったり私たちに向けられ――そのまま動かなくなった。私たちは緊張のあまり今にも神経がおかしくなりそうだった。双眼鏡に見つめられていた数秒の間、私たちはみな呼吸もしていなかったのではないかと思う。やがて戦士は双眼鏡をおろした。そして丘の陰に姿を消した戦士たちに向かって叫んでいる姿が見えた。しかし戦士はほかの連中が戻ってくるのも待たず、くるりと火星馬《ソート》の向きを変えると、私たちのほうへ狂ったように突進してきた。
対抗策は一つしかなかった。成功の見込みは薄く、しかも迅速を要することだった。私は奇妙な火星のライフルをかまえて狙いを定めると、引き金がわりのボタンを押した。弾丸は目標に命中して激しい爆発を起こした。突進してくる戦士は疾走する火星馬《ソート》の後方へころがり落ちた。
私は飛び起きて火星馬《ソート》を立たせると、ソラに向かって、デジャー・ソリスを連れて火星馬《ソート》に乗り、緑色人の戦士たちが襲ってこないうちになんとしても向こうの丘までたどりつくようにと命じた。峡谷のなかへもぐりこめば、しばらく身をひそめる場所ぐらい見つかるだろうし、たとえそこで飢えと渇きのために死ぬとしてもサーク族の手に落ちるよりはましだろうと考えたのだ。私は二丁の拳銃を二人に押しつけた。少しでも身を守るのに役立つだろうし、ふたたびつかまった場合に必ずふりかかる恐ろしい死をのがれるための最後の自決手段にもなるからだ。ソラはすでに私の命令どおり火星馬《ソート》にまたがっていた。私はデジャー・ソリスを抱き上げてソラの後ろに乗せた。
「さようなら、私の王女さま」と私はささやいた。「いつかまたヘリウムでお会いできるかもしれませんよ。なにしろ私はこれよりひどい状態を何度も切り抜けていますからね」私は心とはうらはらに微笑しようとした。
「なんですって」と彼女は叫んだ。「あなたはいっしょにいらっしゃらないのですか」
「そんなことができるものですか、デジャー・ソリス。だれかがしばらく、やつらを防ぎとめなければなりません。それに私は三人いっしょよりも一人のほうがうまく逃げられますからね」
デジャー・ソリスはさっと火星馬《ソート》から飛びおりた。そして私の首に抱きつくと、ソラに向かって落ち着いた厳然とした口調で言った。
「お逃げなさい、ソラ! デジャー・ソリスはここに残って、愛する人といっしょに死にます」
あの言葉は私の心に深く刻みこまれて、いまもなお消えることはない。いま一度あの言葉を聞くことさえできるなら、私はいつでも喜んで命を捨てるだろうに。だが、あのときは彼女の甘い抱擁に有頂天《うちょうてん》になっているひまはただの一秒間もなかった。私は彼女に初めての口づけをすると、その体を抱き上げて、ふたたびソラの後ろに乗せ、力いっぱい押さえつけていろと断固とした口調でソラに命令した。それから火星馬《ソート》の脇腹をぴしゃりとたたき、二人が運び去られて行くのを見まもった。デジャー・ソリスは最後までソラの手をふりほどこうともがいていた。
振り返ると、緑色人の戦士たちが丘に登って、さきほどの幹部を捜しているのが見えた。彼らはすぐに幹部を見つけ、つづいて私を見つけた。しかし彼らに発見されるかされないうちに、私は苔の上に腹ばいになって撃《う》ちはじめていた。ライフルの弾倉にはちょうど百発の弾丸がはいっていたし、背中の弾帯にもあと百発あった。私はたてつづけに撃ちまくって、ついに丘の陰から最初に引き返してきた戦士の一団がことごとく死ぬか、または急いで隠れるかするまで手をゆるめなかった。
しかし、息つくひまはほとんどなかった。まもなく千人にも達する軍勢がいっせいに姿を現わし、私をめがけて猛烈な勢いで突進してきたからだ。私は弾丸がなくなるまで撃ちまくった。彼らはもう目の前まできていた。私はちょっと振り返って、デジャー・ソリスとソラが丘の間に姿を消してしまったのを見てとると、はね起きて役に立たなくなったライフルを投げ捨て、二人の女が逃げたのとは反対の方角に逃げだした。
まったく、遠い昔のあの日、私の逃げっぷりに度肝《どぎも》を抜かれた連中ほど見事な跳躍を見た火星人は他にいなかっただろう。しかし、そのおかげでデジャー・ソリスから彼らを引きはなすことはできたものの、やつらに全力を集中して私をつかまえようという気を起こさせてしまった。
連中はすさまじい勢いで追いかけてきた。ついに私は地面から露出していた石英につまずいて、べったりと苔の上に倒れてしまった。顔を上げたときには彼らはもう襲いかかってきた。私はできるだけ敵を倒してから死んでやろうと思って長剣を抜いたが、|けり《ヽヽ》はすぐについた。私は一瞬のうちにめちゃくちゃに殴りつけられてふらふらになり、目まいがしたかと思うと何も見えなくなり、彼らの足もとに倒れて気を失ってしまった。
十八 暗黒の牢獄
気がついたときには、五、六時間たっていたにちがいない。自分が死んでいないとわかったときの激しい驚きを今でもよく覚えている。
私は小さな部屋の片すみに絹と毛皮にくるまれて横たわっていた。部屋の中には数人の緑色人戦士がいて、一人の年老いた醜い女がかがみこみ、私の顔をのぞいていた。
私が目を開くと、女は振り返って戦士の一人に言った。
「もう大丈夫です、王《ジェド》さま」
「それは結構だ」王《ジェド》と呼ばれた戦士はそう言って立ち上がると、私の寝床に近寄ってきた。「この男は競技大会ではさぞ面白い慰みものになってくれることだろう」
ここで相手をよく見ると、その男はサーク族ではないことがわかった。身につけている飾りや金属がサーク族のものではない。ものすごく大きなやつで、顔と胸にひどい傷跡があり、牙が一本折れていて、片方の耳がなかった。胸の上には左右に一つずつ人間の頭蓋骨がくくりつけられていて、そこから干からびた人間の手が何本もぶらさがっていた。
この男が口にした競技大会という言葉は、サーク族のもとにいる間にさんざん聞かされていたので、けっきょく私は煉獄《れんごく》から地獄へ移動しただけだということがわかった。
王《ジェド》はさらに二言三言、女と話し合った。女は、もう旅をさせても大丈夫だと私の回復ぶりに太鼓判を押していた。話が終わると、王《ジェド》は全員すぐに火星馬《ソート》に乗って本隊を追跡するという命令をだした。
私は火星馬《ソート》にしっかりと縛りつけられた。この火星馬《ソート》はいままで見たことがないほど荒っぽい手に負えないやつで、暴走しないように両側を二人の騎兵が固めた。こうして一行は猛スピードで本隊を追跡しはじめた。私の傷はほとんど痛みも感じなかった。それほど女が治療に用いた薬や注射は迅速にすばらしい効目《ききめ》を発揮したし、傷口は包帯や膏薬《こうやく》で巧みに処置されていたのである。
夜になる直前に、一行は本隊に追いついた。ちょうど本隊は野営の準備を終わったところだった。私はただちに指揮者の前へ連れていかれた。それはウォーフーン族の皇帝《ジェダック》だった。
私を連れてきた王《ジェド》と同じように、皇帝《ジェダック》にも恐ろしい傷跡があり、胸にはやはり頭蓋骨と手の干物《ひもの》の飾りをつけていた。どうやらこの胸の飾りはサーク族にもまさるウォーフーン族の残忍性を示しているだけでなく、彼らの間では偉大な戦士の記章になっているらしい。
皇帝《ジェダック》のバル・コマスはまだかなり若い男だった。そして、私をつかまえた王《ジェド》のダク・コバはその年老いた副官役をつとめていたが、皇帝《ジェダック》をひどく妬《ねた》み憎んでいた。私はダク・コバが皇帝《ジェダック》にたいして故意に侮辱的な態度をとっているのに気づかずにはいられなかった。
ダク・コバが私を連れて皇帝《ジェダック》の前に出たとき、彼は正式な挨拶はまるでしようとせず、いきなり支配者の前へ私を乱暴に突きとばすと威嚇的な大声でどなった。
「サーク族の飾りをつけた妙なやつを連れてきたぞ。こいつを競技大会で荒っぽい火星馬《ソート》と闘わせたら愉快だろうな」
「この男の生死は、おまえの皇帝《ジェダック》のバル・コマスが決めることだ」と若い支配者はもったいぶった態度できっぱりと答えた。
「生死はだと?」とダク・コバはどなった。「この首からさげた死人の手にかけて言うが、この男は殺すにきまっているのだ、バル・コマス。おまえのような泣き虫の腰抜けにこいつの命が救えるものか。まったく、ウォーフーンの統治を早くほんとうの皇帝《ジェダック》の手にまかせなくてはいかんな。なにしろ、この老いぼれのダク・コバでさえ素手で飾りを奪いとれるような女々《めめ》しい意気地なしが皇帝《ジェダック》などと称しているのだから!」
バル・コマスは一瞬、その傲慢な顔に露骨な軽蔑と憎悪の色を浮かべて、この無礼きわまる反抗的な部下をにらみつけた。それから武器もとらず、一言も口をきかずに中傷者の喉もとめがけて襲いかかっていった。
私はそれまで緑色人の戦士が素手で決闘をするのを見たことはなかったが、つづいて展開された狂暴な野獣同士が戦う光景は、正常な頭では想像もつかないような恐ろしいものだった。二人はたがいに手で相手の目や耳をかきむしり、白く光る牙でやたらに切り裂いたり突き刺したりして、ついには二人ともずたずたになってしまった。
バル・コマスのほうが力も強く、敏捷で抜け目がないので、態勢はずっと有利だった。やがてこの決闘も片がつきかけて、あとは最後のとどめをさすだけかと思われたとき、もみ合っている相手からはなれようとしたバル・コマスが足をすべらせた。それはほんの一瞬の隙だったが、ダク・コバにはそれで十分だった。彼はさっと相手の体に飛びつくと、一本しかない巨大な牙をバル・コマスの腿《もも》のつけ根に突きたて、最後の力を振りしぼって若い皇帝《ジェダック》の体をまっ二つに引き裂いてしまった。巨大な牙は最後にはバル・コマスのあごの骨に深く食いこんでいた。勝者も敗者もぐったりと動かなくなって苔の上にころがった。それは引き裂かれて血にまみれた一つの巨大な肉のかたまりにすぎなかった。
バル・コマスは完全に死んでいた。同じく死んでも不思議はなかったはずのダク・コバが助かったのは、彼を看護する女たちの超人的な力があればこそだった。三日後、彼は人の助けもかりずにバル・コマスの死体のところまで歩いていった。死体は、慣習によって、倒れた場所に置かれたままになっていた。ダク・コバは元の支配者の首に片足をかけながら、ウォーフーンの皇帝《ジェダック》の称号を奪った。
死んだ皇帝《ジェダック》の手と首は切りとられて、勝利者の胸飾りに加えられることになった。死骸の残りは気ちがいじみた恐ろしい笑い声に包まれながら女たちの手で火葬にされた。
この一族は、孵化器を破壊された仕返しとして、サーク族の小さな部落を襲撃しようとしているところだった。しかしダク・コバの負傷のために行軍がひどく遅れてしまったので、この遠征は競技大会が終わるまで中止することに決まった。そこで一万人にのぼる戦士の全部隊はウォーフーンめざして引き上げはじめた。
この残忍な血に飢えた連中の行状というものは、私がこれまでに目撃したようなことはほんの序の口にすぎず、その後、彼らといっしょにいる間そんな光景にはほとんど毎日のようにお目にかかることになった。彼らはサーク族よりも人数の少ない一族だったが、もっとずっと凶暴だった。いろいろなウォーフーンの部族のなかで、だれかが決死の戦いを行なわない日は一日もなかった。たった一日のうちに八組も死の決闘を見たこともある。
一行は約三日間の行軍ののちウォーフーンの都に到着した。私はすぐに地下牢に投げこまれ、鎖で床と壁に厳重につながれた。食物はときどき運ばれてきたが、牢の中がまっ暗だったので、いったいここにいた日数がどのくらいだったのか、私にはまるでわからない。これは私の生涯を通じて最も恐ろしい経験だった。あの暗黒の恐怖の中でよくも気が狂わなかったものだと、いまだに不思議に思っている。地下牢の中には何か這いまわる生きものがたくさんいた。横たわっていると、冷たいくねくねしたものが私の体の上をこえていった。また、ときおり闇黒の中に小さな火のように光る目が現われて、身の毛がよだつほどまじまじと私を見つめていることがあった。地上からは何の物音も聞こえてこなかった。私は最初のうち、食物を運んでくる牢番にやたらに質問を浴びせかけたが、こいつは一言も口をきこうとはしなかった。
ついに私はなかば正気を失いかけて、この恐ろしい場所に私をほうりこんだひどい連中にたいする気ちがいじみた憎悪のことごとくを、この牢番一人に集中するようになった。私にとっては、この男が全ウォーフーン族の象徴になってしまったのである。
牢番はいつも、たいまつを手にして歩み寄り、私の手のとどく場所へ食物を置いてゆくのだが、食物を床に置こうとして身をかがめるときに彼の頭が私の胸のあたりの高さになることに私は目をとめた。そこで、次に牢番がやってくる足音を耳にすると、私はいかにも狂人じみた悪知恵を働かせて牢の一番奥にひっこんだ。そして私を束縛している太い鎖をたるませて片手に持ちながら、猛獣のように身をちぢめて待ちかまえた。やがて牢番が食物を置こうとして身をかがめたとたん、私は鎖を振り上げ、相手の頭に力いっぱい鎖の鐶《かん》をたたきつけた。牢番は声ひとつ立てず床に倒れて即死した。
私は白痴のように――たしかに白痴になりかけていたのだ――おかしな声で笑い、妙なことを口走りながら、うつ伏せに倒れている牢番の体にとびつき、喉のあたりをまさぐった。じきに、先端にいくつも鍵がぶら下がっている細い鎖をさぐりあてた。その鍵に指が触れると、たちまち私は正気にもどった。もはや私は妙なことを口走る白痴ではなく、脱出の手段を手中に収めた正気の思考力のある人間だった。
手さぐりで死体の首から鍵の鎖をはずそうとして、ふと顔を上げると、闇の中から六組の光る目がまばたきもせずに私を凝視しているのが見えた。それらの目はじわじわと私のほうに近づいてきた。それにつれて恐怖のあまり私もじわじわと後退し、ふたたび牢の片すみにもどると、両手を広げて前にかざしながら身をちぢめた。忍び寄る恐ろしい目の群れは私の足もとの死体のところまで迫っていた。と、今度は何か引きずるような奇妙な音を立ててそれは引き返しはじめ、やがて地下牢のずっと奥の闇の中に消えてしまった。
十九 闘技場で戦う
私は少しずつ落着きをとりもどし、やがてもう一度、牢番の死体から鍵をはずそうとした。だが、闇の中をさぐるうちに、私は慄《ふる》えあがった。死体がなくなっている。そして、一瞬のうちにすべてをさとった。あの光る目を持ったやつらは私がしとめた獲物を引きずっていってしまったのだ。どこかそのへんの巣でむさぼり食うために。やつらは、私がこのいつ果てるともしれない地下牢生活を送っている間じゅう、私が死んでご馳走にありつけるときがくるのを執念深くじっくりと待ちかまえていたのである。
二日間、食物は運ばれてこなかった。しかしまた別の牢番が現われ、私の監禁生活は前と同様につづいた。だが、もう二度と恐怖のあまり正気を失うようなことはなかった。
この事件後まもなく、別の囚人が投獄されて、私のそばに鎖でつながれた。|たいまつ《ヽヽヽヽ》のかすかな光でそれが赤色人だということがわかると、牢番たちの立ち去るのが待ちきれないほど話しかけたくてたまらなくなった。牢番たちの足音が遠ざかり消えてしまうと、私はさっそく火星人の挨拶の言葉を使って「カオール」と低い声で呼びかけた。
「そこの暗闇から話しかけているのはだれだ」と相手の男は答えた。
「名前はジョン・カーター。ヘリウムの赤色人の味方です」
「私はヘリウムの者だが、きみの名前は聞いたことがないな」
そこで私はこれまでの一部始終を相手に話して聞かせたが、ただ私がデジャー・ソリスを愛していることについては何も言わなかった。男はヘリウムの王女の消息を聞くと非常に興奮した。そして、デジャー・ソリスとソラは私と別れた地点からならたやすく安全な場所にたどりついたにちがいないと確信を持ったようだった。ウォーフーン族の戦士たちが私たちを見つけたときに通っていた細い山道は自分たち赤色人が南進する場合に通る唯一の経路だから、あのへんの地理はよく知っているという。
「デジャー・ソリスとソラが逃げこんだ丘から五マイルと離れていないところに大きな水路があるのです。たぶん今ごろは無事に逃げのびていることでしょう」と彼は請け合った。
相棒の囚人はカントス・カンという名前で、ヘリウム海軍の大尉《パドワール》だった。彼はあのデジャー・ソリスがつかまったときのサーク族の襲撃を受けた不運な遠征隊の一員であり、あの空中艦隊の敗北後の出来事を手短かに話してくれた。
ひどい損害を受け、乗組員もほんのわずかになった船団はのろのろとヘリウムに向かって進んだ。しかし、バルスームの同じ赤色人でヘリウムの宿敵であるゾダンガの都の近くを通過しようとしたとき、空中戦艦の大群の攻撃を受けて、カントス・カンが乗っていた船以外はことごとく破壊されたり、ぶん取られたりしてしまった。彼の船は数日間ゾダンガの戦艦三隻の追跡をうけたが、やっとある月のない夜、闇にまぎれて逃げのびることができた。
デジャー・ソリスが捕虜になってから三十日後、つまり私たちがサークの都に到着したころ、カントス・カンの飛行船は最初に乗り組んでいた七百人の士官や兵士のなかから生き残った十人ばかりの人間を乗せてヘリウムにたどりついた。ただちに百隻の大戦艦からなる艦隊が七つも編制されて、デジャー・ソリスの捜索のために派遣された。そして、これらの戦艦からひっきりなしに二千の小型飛行船が飛びたって行方不明の王女の捜索をつづけたが、失敗に終わった。
この艦隊の報復攻撃によって二つの緑色人部族が全滅しバルスームから姿を消してしまったが、デジャー・ソリスの行方はどうしてもわからなかった。彼らがこれまで捜索していたのは北部の緑色人部族のほうで、つい二、三日前からやっと捜索の目を南に向けはじめたところだった。
カントス・カンは一人乗りの小型飛行船に乗りこんで捜索活動に加わっていたのだが、ウォーフーンの都を探索しているうちに運悪く緑色人に発見されてしまったのだ。この男の大胆不敵な活動ぶりにはまったく感嘆するほかはなかった。彼はたった一人でこの都市の境界線近くに着陸し、そこから歩いて都市にはいり、広場周辺の建物にまで忍びこんだ。そして二日二晩、ウォーフーン族の宿舎や地下牢をさぐりまわって王女を捜したのだが、結局、デジャー・ソリスがここには捕えられていないことを確めただけで引き返そうとしたときに、ウォーフーンの連中につかまってしまったというわけなのだ。
監禁されている間にカントス・カンと私はたがいによく知り合い、あたたかい友情を感じ合うようになった。ところが、それから二、三日しかたたないうちに、私たちは競技大会のために地下牢から引き出されることになった。二人は朝早く巨大な円形闘技場に送りこまれた。この闘技場は地上に建てられたものではなく、地面を掘り下げて築いたものだった。その一部は土や岩の破片に埋まっていたので、もとの大きさは見当がつかなかったが、現在の状態でもウォーフーンの全部族二万人を収容することができた。
闘技場そのものは広かったが、ひどくでこぼこしていて乱雑だった。周囲には、動物や捕虜が観客席へ逃げこむのを防ぐために、古代都市の廃墟から集めてきた石が積み上げられていた。そして両端には、出場する人や獣を、むごたらしい最期をとげる順番がくるまで入れておく檻《おり》が造ってあった。
カントス・カンと私は二人いっしょに檻の一つに閉じこめられた。ほかの檻の中には、野生の火星犬《キャロット》や火星馬《ソート》、狂暴な火星象《ジティダール》、緑色人の戦士やほかの部族の女、その他いままで見たことのないバルスームの奇妙な獰猛な野獣がいっぱい閉じこめられていた。それがいっせいに吼《ほ》えたり、うなったり、金切り声を上げたりしている騒がしさは耳をつんざくばかりだったし、どれを見てもその恐ろしい姿は、いかに剛毅《ごうき》な人間でも不吉な予感を感じないではいられないほどだった。
カントス・カンの説明によると、今日じゅうにこれらの捕虜のうち一人(または一匹)だけが自由を獲得し、あとはみんな死体となって闘技場に横たわることになるという。つまり、今日のさまざまな試合に勝ち残ったものたちは次々に勝者同士の決闘をさせられて死んでゆき、最後の一組の決闘の勝者だけが動物たると人間たるとを問わず釈放されるわけだ。そして明朝はまた新たな犠牲者の群れが檻につめこまれ、こうして十日間の競技大会の間じゅう同じことが繰り返されるのである。
私たちが檻に閉じこめられてから少したつと、観客がはいりはじめ、一時間たらずのうちに円形の観客席は満員になった。ダク・コバは配下の王《ジェド》や幹部を従えて闘技場の片側の中央にある広い壇の上に腰をおろした。
やがてダク・コバの合図とともに二つの檻の扉がさっと開かれ、十二人の緑色人の女が闘技場の中央に追いやられた。その一人一人に剣が与えられたと思うと、遠い端のほうから十二頭の狂暴な火星犬《キャロット》が女たちめがけて檻から放された。
野獣の群れがうなり声を上げ、口から泡をふきながら、無防備同然といってもいい女たちに襲いかかったとき、私は顔をそむけて恐ろしい光景を見まいとした。大群衆のわめき声や爆笑がこの競技のすばらしさを物語っていた。カントス・カンがもう終わったぞと教えてくれたので、ふたたび闘技場のほうを見ると、三匹の勝ち残った火星犬《キャロット》が犠牲者たちの死体のそばで歯をむきだして、うなっていた。女たちはけなげに戦って死んだのである。
次に、狂いたった火星象《ジティダール》が一頭、生き残った犬どものなかに放された。こんな工合に恐ろしい試合は暑い一日じゅうえんえんとつづけられた。
その間に私は最初は人間と戦わされ、それから野獣と取り組まされた。しかし私は武器として長剣を与えられていたし、つねに相手より敏捷で、それにたいていの場合、体力でもまさっていたので、私にとっては勝つのは造作もないことだった。私はいくたびも血に飢えた大群衆の喝采を浴びた。終幕近くなると、私を闘技場から出して、ウォーフーン族の仲間にしてやれという叫びまで飛びだした。
ついに三人だけが生き残った。どこかはるか北方の種族の巨大な緑色人戦士とカントス・カンと私の三人だった。まずカントス・カンと緑色人戦士が戦い、その勝者と私が、最後の勝者に与えられる自由をかけて決勝戦を行なうことになった。
カントス・カンはそれまでに何度も戦って、私と同じように勝ちつづけていたが、そのなかには紙一重の差で勝利を収めた危い戦いもあり、とりわけ相手が緑色人戦士のときに苦戦していた。それゆえ、この日すべての相手をなぎ倒して圧勝をつづけてきたこの巨大な敵を、カントス・カンが打ち負かすということはほとんど期待できなかった。相手の緑色人は身長が十六フィート近くもあるというのに、カントス・カンのほうは六フィートに数インチ足りない程度なのだ。だが、二人が進み出て対決したとき、私は初めて火星人の剣の極意の一つを見ることになった。カントス・カンは勝利と生の希望のすべてを、こののるかそるかの一撃に賭《か》けていたのだ。巨大な相手から二十フィートほどのところまで進み寄ったとき、彼は急に剣を持った腕を肩ごしに思いきり振りかぶったかと思うと、すさまじい力をこめて剣を緑色人戦士に投げつけた。剣は矢のように正確に飛んで鋭い切《き》っ先で相手の心臓をつらぬき、哀れな悪魔は闘技場に倒れて死んでしまった。
いよいよカントス・カンと私が最後の決闘をやらされることになった。しかし二人が戦うために歩み寄ったとき、私は彼に、なんとか試合を長引かせて暗くなるまで待とうとささやいた。暗くなれば何か逃げだす方法が見つかるかもしれない。やがて群衆は私たちに戦意がないことに感づいたらしく、どちらも必殺の攻撃をしかけないのを怒ってわめき声を上げはじめた。だが、あたりが急に暗くなってきたと見るや、すぐに私はカントス・カンに向かって剣を私の左腕と胴の間に突き刺せと小声で言った。彼が言われたとおりにすると、私は腕でその剣を固く押えつけながら後方へよろめき、そのまま剣が胸に突き立っている格好で地面に倒れた。カントス・カンは私の名演技を見ると、すばやく走り寄ってきて、片足を私の首にかけて剣を引き抜き、首に|とどめ《ヽヽヽ》を刺してみせた。頸動脈を断ち切るはずの|とどめ《ヽヽヽ》の冷たい刃《やいば》は私の首を傷つけずに闘技場の砂に突き刺さった。はやくも闇に包まれた闘技場では、だれが見ても彼がまさしく私を殺したとしか思えなかった。私はカントス・カンに、すぐ釈放を要求して、この都市の東方の丘で私を待っていてくれとささやいた。カントス・カンはすぐに立ち去った。
円形闘技場に人影がなくなると、私はこっそりと地上へはい上がった。この巨大な穴のような闘技場は都心の広場から遠く離れた人気のない廃墟の中にあったので、かなたの丘まで行くのにたいして苦労はなかった。
二十 大気製造工場
丘の上で二日間カントス・カンを待ったが、彼はやってこなかった。そこで一番近い水路があると彼から聞いていた北西の方角に向かって歩きだした。食糧といえば、例の貴重な植物から豊富にとれる植物性ミルクだけだった。
二週間ものあいだ私はさまよいつづけた。夜のあいだ星明りだけを頼りによろめきながら進み、昼間は突き出した岩の陰や、ときたま越える山の中に隠れて休息をとった。数回、野獣にも襲われた。それは見たこともない異様な怪物で、闇の中からいきなり飛びかかってくるので、たえず長剣を握りしめ身構えていなければならなかった。たいていの場合は私が火星にきてから習得した精神感応力のおかげで十分な余裕をもって襲撃を感じとることができたが、一度だけ殺気を感じるひまもなく襲いかかられたことがあった。はっとしたときにはもう私の首すじに恐ろしい牙が迫り、毛むくじゃらの顔が私の顔に押しつけられていたのだ。
どんな動物に襲われたのかはわからなかったが、大きな、重い、足のたくさんあるやつだということだけは感じでわかった。私は牙で首をがぶりとやられないうちに、両手をそいつの咽喉に当てて押し返し、じりじりと毛むくじゃらの顔を押しやりながら、咽喉笛《のどぶえ》をいっぱいしめつけた。
野獣も私も声ひとつ立てずにその場にころがった。野獣はなんとしてでも恐ろしい牙で私の喉にかぶりつこうとし、私のほうはそうはさせまいと懸命に腕を突っぱりながら相手をしめ殺そうとしていた。だが、しだいに私の腕はこのすさまじい格闘に耐えきれなくなって、相手の燃えるような目と光る牙はじわじわと目の前に迫ってきた。ついに毛むくじゃらの顔がふたたび私の顔に触れたときには、もうだめだと思った。と、そのとたんに闇の中から何か生きものが猛然と飛びだしてきて、私を地面に押えつけている野獣にまっこうから襲いかかった。二つの生きものはうなり声を上げて苔の上をころげまわりながら、たがいにものすごい勢いで引き裂き、かきむしり合った。だが、それもすぐに終わり、もう少しで私を殺すところだった野獣の死骸の喉のあたりに口を近づけて、私の命を救った生きものが立っていた。
そのとき突然、近いほうの月が地平線から飛びだしてバルスームの夜景を照らしだしたので、私の救い主がウーラだったことがわかった。しかし、ウーラがどこからやってきたのか、どうやって私を見つけたのか、どうにもわからなかった。また、ウーラが私のそばにきたのを喜んだのは言うまでもないことだったが、どうしてデジャー・ソリスから離れたのだろうかと考えると、不安のあまりウーラに出会った喜びも消えてしまう思いがした。私の命令にあれほど忠実なウーラが彼女のそばを離れたとすれば、理由は彼女が死んだからとしか考えられないではないか。
早くも皓々と輝きはじめた二つの月の光で見ると、ウーラは見る影もなくやつれた姿だった。そして彼が私の愛撫の手を離れて足もとの死骸をがつがつと食いはじめたとき、この哀れな動物がほとんど飢え死にしかかっていたことがわかった。私自身もほとんど同じくらい空腹だったが、どう考えても生《なま》の肉を食う気にはなれなかったし、火を起こす道具もなかった。ウーラが食べ終わると、私はまた、いっこうに姿を見せようとしない水路を捜し求めて、退屈な果てしのない放浪の旅をつづけた。
水路を捜しはじめてから十五日目の明け方、私は水路の存在を示す高い木立を発見して狂喜した。正午ごろ、疲れた足を引きずって巨大な建物の入口にたどりついた。その建物はおよそ四平方マイルにも広がり、空高く二百フィートもそびえたっていた。疲れきった私がぐったりとすわりこんだのは小さな戸口の前だったが、その戸口のほかには巨大な壁に窓ひとつ見当たらず、人のいる気配も全然なかった。
呼びりんも見つからないし、そのほか私がきたことを内部の者に知らせる仕掛けらしいものは何もないようだった。ただ、戸口のそばの壁に小さな丸い穴が見つかったので、これにちがいないと考えた。その穴は鉛筆の太さぐらいの小さな穴だったが、通話管のようなものかもしれないと考え、口を当てて呼びかけようとした。と、そのとたんに穴のほうから声が飛びだして、おまえは何者だ、どこから何の用できたのか、と問いかけてきた。
私は、ウォーフーン族から逃げてきた者で、飢えと疲労で死にそうになっていると答えた。
「おまえは緑色人戦士の飾りをつけて、火星犬《キャロット》を連れているのに、体のかたちは赤色人と同じだ。しかも皮膚の色は赤でもなければ緑でもない。いったい全体、おまえはどういう人間なのだ」
「私はバルスームの赤色人の味方です。飢え死にしそうなのです。かわいそうだと思ったら、なかへいれてください」
まもなく目の前の扉が奥へ引っこみはじめ、壁から五十フィートほど後退したところで停止し、そこでするっと左へすべりこんだ。するとコンクリートの細い廊下が現われ、それが少しつづいた突きあたりにはいま通り抜けた扉と瓜《うり》二つの別の扉が見えた。最初の扉は私とウーラが通り抜けるやいなや、人影はどこにもないのに、すぐに背後で音もなく急速に後退し、正面の壁の中の元の位置にもどった。扉が横にすべりこんで開いたとき、私はそれがとてつもなく厚く、ゆうに二十フィートはあることに気がついた。そして扉が私たちの背後で閉じて元の位置までもどったとき、太い鋼鉄の円柱が数本、扉の後ろの天井から下がってきて、その先端が床にあいている穴にぴったりとはまった。
二番目と三番目の扉も最初の扉と同じように目の前から後退し、片側にすべりこんで開いた。こうして、やっとたどりついたのは広い奥の一室で、大きな石のテーブルの上に食物と飲物が並べてあった。また、声が聞こえてきて、空腹をみたし火星犬《キャロット》にも食べさせてやれと言った。そして私が食事をしている間、この姿を見せない主人はやたらに質問を浴びせて厳重な調査を行なった。
「おまえの話はまったく驚嘆すべきことだ」と、その声は尋問し終わると言った。「しかし、おまえは明らかに本当のことを話している。そして、おまえがバルスームの人間ではないということもまた間違いない。おまえの脳の構造や内臓の奇妙な配置、心臓の形や大きさなどからみてはっきりとわかる」
「私の体の中まで見えるのですか」と私は叫んだ。
「そうだ。おまえの考えていること以外は何でも見とおせる。おまえがバルスーム人だったら、考えていることもわかるのだが」
やがて部屋の奥の扉が開き、干からびたミイラのような妙な小男が私のほうへやってきた。その男が身につけているものは一つしかなかった。それは小さな黄金の首輪で、その首輪から大きな皿ほどもある飾り物が胸の上に垂れ下がっていた。その飾りは周囲に大きなダイヤモンドをぎっしりとちりばめ、その中心に直径一インチほどの見なれない宝石をはめこんだものだった。奇妙な宝石は九種類の異なる色の光を放っていたが、地球のプリズムの七色以外の二色はこれまで見たこともなく、名前も知らない美しい光だった。生まれながらの盲人に赤という色を説明することができないのと同様に、この二つの色を言葉で説明することはできない。わかっているのは、きわめて美しい色だったということだけなのだ。
その老人はすわりこんで何時間も私と話し合った。この話し合いで何よりも奇妙だったのは、私には相手の考えることがいちいち読みとれるのに、向こうは私がしゃべらないかぎり少しも私の心の中が見抜けないということだった。
私は自分にこのような能力があることを老人に話さなかった。そのおかげで多くのことを知り、それがあとで非常に役に立つことになったのだが、もしも私がこの不思議な能力を持っていることを感づかれていたら、そのような知識は絶対に得られなかったにちがいない。なぜなら火星人は自分の精神活動を自由自在にコントロールする力を持っているので、その気になれば考えたいことしか考えないようにすることもできるからだ。
私がはいりこんだ建物の中には、火星の生物の命を維持している人工大気を製造する機械がすえつけられていた。そして、この大気製造法の秘密は、私の前にいる主人の胸に美しく輝いている大きな宝石の九番目の光線を利用することが要点になっていた。
この光線は巨大な建物の屋上に設置されている精密に調整された器械によって太陽の他の光線から分離されるのであり、この建物の四分の三はこの第九光線の貯蔵所になっている。次に、この光線を電気で処理する。もっと正確に言えば、一定量の微妙な電気振動を加えるのである。こうしてでき上がったものは、この遊星の五つの主な空気センターにポンプで供給され、そこから放出されると宇宙のエーテルとの接触によって大気に変化する。
この巨大な建物の中には、現在の火星の大気を千年間維持するだけの第九光線が常に貯蔵されていた。心配なのはポンプ装置に何か故障が起こることだけだと老人は言った。
老人は私を奥の部屋に連れていった。そこには二十台のラジウム・ポンプ装置が並んでいたが、その一台一台に合成大気を火星じゅうに供給するだけの性能があるということだった。老人は、これらのポンプの一つ一つが交替で一日ずつ、つまり地球時間でいえば二十四時間半と少々ずつ活動するのを八百年間見張ってきたのだ。老人には助手が一人いて、この見張りの仕事を分担していた。二人は火星の一年を半分ずつ受け持って、つまり地球の約三百四十四日間ずつ、この巨大な孤立した工場の中でひとりきりの生活を送るのである。
赤色火星人はだれでもみな幼年時代にこの大気製造の原理を教わるが、この巨大な建物にはいる方法を知っている者はつねに二人しかいない。厚さ百五十フィートの壁で囲まれているこの建物はまったく難攻不落の要塞で、屋根まで飛行船の攻撃に備えて厚さ五フィートのガラスで覆われているのである。
もっとも、バルスームの人間はみな、火星上の全生物が生きていけるのはこの工場が絶え間なく活動しているおかげだということをよく認識しているから、攻撃される恐れがある相手としては緑色人か、頭のおかしくなった赤色人ぐらいしか考えられなかった。
私は老人の思考を読みとっているうちに面白いことを発見して好奇心をそそられた。それは外部への通路を遮断している扉の開閉操作はすべて精神感応力によって行なわれているという事実だった。錠はきわめて精密に調整され、思考波の一定の組み合わせの作用で扉が開くようになっているのだ。私はこの新発見の玩具をためしに動かしてみたくなったので、老人の油断をねらってこの組み合わせをつきとめてやろうと考えた。そこで、さりげない口調で、どうして奥の部屋からあの大きな重い扉をあけてくれるようなことができるのか、と尋ねた。ほんの一瞬、老人の頭の中に九つの火星語の単音がひらめいたが、それはだれにも言えない秘密だと老人が答えるとすぐに消えてしまった。
そのときから、老人の私にたいする態度が変わった。まるで、油断して重大な秘密をもらしてしまったのではあるまいかと心配しているような様子だった。しゃべる口調は今まで通りもっともらしかったが、表情からも思考からも疑惑と不安を読みとることができた。
その夜、私が寝床にはいる前に、老人は近くにいる農業監督官にあてて紹介状を書いてくれる約束をした。その役人がここから一番近い都市のゾダンガへ行く道中、面倒をみてくれるだろうという。
「だが、ゾダンガの連中には、あんたがヘリウムへ行こうとしていることは言わないようにしなさい。連中はいまヘリウムと交戦中だからな。わしと助手の二人はどこの国の人間でもない。わしたちはバルスーム全体のものなのだ。このお守りを身につけていれば、どこの国へ行っても身を守ることができる。たとえ緑色人の領土でもな――もっとも、避けられるものなら、連中の手に身をまかせたくはないがね」
「では、おやすみ」と老人はつづけて言った。「たっぷり眠って、よく休みなさい――たっぷり眠ってな」
そして彼は愛想よく微笑したが、内心では私をこの建物の中へ入れなければよかったと考えているのがわかった。つづいて、夜中に彼が私の寝床のそばに立ってのぞきこんでいる姿、ひらめく短剣、「かわいそうだが、これもバルスームのためなのだ」という曖昧《あいまい》なつぶやきが次々に読みとれた。
老人が私の部屋を出てドアを閉めると、その姿とともに思考もぱったり消えた。思考の移動についてあまり知識のない私には奇妙なことに思えた。
ところで、私はどうしたらよいのだろう? この頑丈きわまる壁の中から、どうやって脱け出せるのだ? 危険が迫っていることが先にわかったのだから、相手を殺すことは簡単だろうが、あの老人を殺してしまったら、それこそもう逃げることはできなくなる。そして、この大工場の機械の活動がとまって、私はこの遊星上のすべての住人とともに――もし生きていればデジャー・ソリスをも巻き添えにして――死ななければならない。ほかの人間のことなどはどうでもよかったが、デジャー・ソリスのことを思うと、悪い了見《りょうけん》を起こしている老人を殺そうという考えは吹き飛んでしまった。
私は用心深く部屋のドアをあけると、ウーラを従えて、一番内側の巨大な扉を捜しに出かけた。老人の心の中から読みとった九つの思考波でなんとかあの大きな錠をあけてやろうという無謀な計画を思いついたのだ。
足音を忍ばせて次々に廊下を通り抜け、あちらこちらへ曲がりくねっている通路を歩いていると、ついに、けさ久しぶりに食事にありついた大広間にたどりついた。老人の姿はどこにも見あたらないし、夜はどこにいるのかもわからなかった。
思いきってその広間に足を踏み入れようとしたとき、背後からかすかな物音が聞こえたので、急いであともどりして廊下の暗いくぼみに身をひそめた。そしてウーラを引きよせ、闇の中でちぢこまった。
まもなく老人がやってきて私のすぐそばを通った。そして、いま私が通りぬけようとした薄暗い明かりのついた広間にはいると、長い細身の短剣を取りだして石の上で研《と》ぎはじめるのが見えた。その心の中では――これからラジウム・ポンプの点検に行くと、三十分ほどかかるな、それからあの男の部屋へ引き返して、片づけることにしよう、と考えていた。
老人が大広間を通り抜けて、ポンプ室に通じる通路のほうへ姿を消すと、私はこっそりと隠れ場所から抜けだした。そして、私と外の自由な世界との間に立ちふさがる三つの巨大な扉のうちの一番内側の扉の前まで行った。
私はがっしりした錠を見つめて精神を集中し、九つの思考波を投げかけた。そして息を殺して待ちかまえると、ついに巨大な扉は私のほうに向かって音もなく動きはじめ、静かに片側へすべりこんで開いた。残りの頑丈な扉も次々に私の命ずるままに開き、ウーラと私は外の闇の中に飛びだして自由の身になった。しかし、空腹がおさまったということ以外は、事態がここへくる前より別によくなったわけではなかった。
急いで巨大な建物の陰から離れると、私たちはできるだけ早く幹線道路に出ようと思って一番近い十字路に向かって進んだ。夜が明けたころにその十字路に着いた。私は最初に目についた囲い地の中にはいって、人影をさがした。
そこには低いコンクリートの建物がとりとめもなく立ち並び、入口は頑丈なびくともしないドアに閉ざされていた。いくら戸をたたいても声をかけても、何の返事もなかった。私は睡眠不足で疲れきっていたので、ウーラに見張りを命じると地面に身を投げだして横になった。
しばらくすると、ウーラのものすごいうなり声で目が覚めた。見ると、ちょっと離れたところに三人の赤色人がライフル銃をかまえて立っていた。
「私は武器を持っていないし、敵ではない」と私はあわてて言った。「ずっと緑色人につかまっていたのだが、逃げだしてゾダンガへ行く途中なのだ。この火星犬《キャロット》といっしょに何か食物をもらって、しばらく休息し、ゾダンガへ行く道を教えてもらおうと思っているだけなんだ」
三人はライフルをおろして、にこやかに歩み寄ってくると、めいめい右手を私の左肩に置いて、しきたり通りの挨拶をした。そして私の身の上や放浪の旅についていろいろと質問したあとで、すぐそばにある彼らの一人の家へ私を連れて行った。
私が朝早く戸をたたいた建物は家畜や農作物の置場にすぎず、ほんとうの住居は巨木の立ち並ぶ林の中にあった。そして、すべての赤色人の家の例にもれず、夜間は大きな丸い金属製のシャフトで地面から四、五十フィートも上まで押し上げられるようになっていた。このシャフトは、家の玄関に設置されている小型ラジウム・エンジンの働きで、地中に埋まっている管の中を上下する仕掛けだった。赤色人は|さし《ヽヽ》錠や|かんぬき《ヽヽヽヽ》のような面倒なものは使わずに、夜はただ家を高く押し上げて安全をはかるのだ。また、外出する場合のために、外の地面から家を上下させる秘密装置もついていた。
この三人は兄弟で、妻子といっしょに農場内の三軒の同じような家に住んでいた。彼らはこの農場の管理をしている政府の役人であり、農作の労働をやっているわけではなかった。労働をやっているのは、囚人、戦争の捕虜、債務を履行せぬ者、それにあらゆる赤色人政府が独身者にかけている高い税金を払えない者などだった。
三人兄弟の一族は心から親切にもてなしてくれた。私は彼らとともに四、五日暮らして休息し、長い間の苦労にいためつけられた健康を回復した。
彼らは私の話を聞くと――デジャー・ソリスと大気製造工場の老人の話はすべて省いたが――私に体を染めてもっと赤色人に似るようにしてゾダンガへ行き、陸軍か海軍に職をさがしてみたらどうだと勧めた。
「きみが信頼できる人間だということを証明して、宮廷の貴族連中のなかに支持者を作らないことには、きみの話はまず信じてもらえそうもないよ。だが、これは軍人になれば、きわめて容易にできることなんだ。なにしろ、われわれはバルスームでも戦争好きな民族だからね」と兄弟の一人が説明してくれた。
「勇士には何よりも好意を示すのさ」
いよいよ私が出発しようとすると、彼らは飼いならされた小さな雄の火星馬《ソート》を一頭くれた。これは赤色人が乗用に使っている動物で、大きさは地球の馬ぐらいで、性質もいたっておとなしいが、体の色や格好は巨大で獰猛な野性の兄弟と少しも違わなかった。
私は兄弟が持ってきてくれた赤っぽい色の油を全身に塗った。そして兄弟の一人が私のひどくのびている髪を切り、後ろ側の毛をまっすぐそろえて前髪を垂らした流行の髪形に変えて、バルスームのどこへ行っても一人前の赤色人として立派に通用するようにしてくれた。また、装具や飾りもすっかり取り替えて、プトール家にゆかりのあるゾダンガの紳士らしいスタイルになった。プトールというのは私の恩人たちの家名である。
兄弟は私が腰につけている小さな袋にゾダンガの金をいっぱいつめてくれた。火星の通貨は、貨幣が卵形をしている点を除けば地球の通貨と何の変わりもない。紙幣は個人がそれぞれ必要に応じて発行し、年に二回、回収することになっている。もし回収できる以上に発行した者があれば、政府が債権者にその全額を支払い、債務者はすべて国営になっている農場か鉱山で働いて借金を返すことになる。債務者以外はだれも彼もこの制度に満足している。なぜなら、火星の広大な人里離れた耕作地は、野獣や、それ以上に狂暴な人間が住んでいる荒野の中を極地から極地まで細い帯のように幾筋も広がっているので、自発的に働く者だけで必要な労働力を確保することはむずかしいのである。
私は兄弟に、こんなに世話になっては恩返しのしようがないと言った。すると彼らは、バルスームで長く暮らしていれば、そんな機会は必ずいくらでもくると答えた。そして私に別れを告げると、私の姿が幅広い白い道路から見えなくなるまで見送っていた。
二十一 ゾダンガの偵察飛行士
ゾダンガへ向かう旅の途中、私は数々の奇妙な面白いものに目をひかれた。また、立ち寄った数軒の農家ではバルスームの風俗習慣について今まで知らなかった有益なことをたくさん学んだ。
たとえば、火星の農地をうるおす水は、二つの極地にある巨大な地下の貯水池に万年氷のとけた水を集めて、これを長い水道管であまたの居住地区へ送っているのである。この水道管の両側に沿って切れ目なくえんえんと耕作地がつづいている。これらの農地はだいたい同じ面積の地区に分割され、各地区は一人ないし数人の役人に管理されている。
また、地球上の灌漑のように、やたらに水を畑の表面に流して多量の水をむだに蒸発させてしまうようなまねはしないで、貴重な水は地下に網目のように広がる細いパイプを通って植物の根に直接送られている。火星では旱魃《かんばつ》も雨も強風もないし、昆虫や害鳥もいないから、農作物の収穫高はつねに一定している。
この旅の途中、私は地球をはなれて以来はじめて肉料理を味わうことができた。それは農場の栄養十分な家畜の肉で作った大きな汁気の多いステーキやチョップだった。また、新鮮なうまい果物や野菜も食べたが、地球の産物とそっくり同じ食物は一つもなかった。草も花も野菜も家畜も、すべて長年にわたる入念な科学的栽培法や飼育法によって見事に改良されているので、それにくらべると地球の作物や家畜はまったく色褪《いろあ》せたつまらないものに思えるほどである。
二番目に立ち寄った家で私は貴族階級の教養のある人びとに出会った。そして語り合っているうちに話題はいつしかヘリウムのことになった。年長の一人は数年前に外交官としてヘリウムに行っていたことがある男だったが、ゾダンガとヘリウムの二国がいつも交戦状態に追いこまれていることを残念がりながら次のような話をした。
「連中がヘリウムの女はバルスームじゅうで一番美しいと自慢しているのも、もっともなことだよ。だが、たくさんいる美女のなかでも、モルス・カジャックのすばらしい娘デジャー・ソリスこそ、まさに絶世の美女というべきだな。
なにしろ、連中ときたら彼女が歩いた地面をほんとうに拝んでいるくらいなんだ。だから、彼女があの不運な遠征で行方不明になって以来、ヘリウムじゅうの人間が悲嘆にくれているよ。それにしても、あの遠征隊の船団がふらふらになってヘリウムに引きあげるところを攻撃するなんて、わが国の皇帝も、またまたとんでもないへまをやってくれたものだ。いずれゾダンガはもっと賢明な人間を皇帝にしなければならないのではないかな。
現在でも、わが軍はヘリウムを包囲して勝ち誇っているが、ゾダンガの国民は不満を口にしているのだ。それというのも、今度の戦争は正義にもとづいていないというので国民の受けが悪い。わが軍はヘリウムの主力艦隊が王女の捜索に出ている隙につけこんで攻撃し、やすやすとあの都を窮地に落とし入れることができたのだ。遠いほうの月があと二、三回もまわらないうちにヘリウムは陥落するという噂ではないか」
「で、あなたは王女のデジャー・ソリスはどうなったと思いますか」と私はできるだけ何げない口ぶりで尋ねた。
「死んでいるね」と相手は答えた。「これだけは最近わが軍が南部でつかまえた緑色人戦士の口から聞くことができたのだ。王女は別世界からきたという奇妙な男といっしょにサーク族のもとから逃げだしたのだが、結局またウォーフーン族につかまったのだ。王女たちの火星馬《ソート》が海の底をさまよっているのが見つかったそうだし、その近くには血まみれの争いの跡も発見されたということだ」
この情報はいっこうに希望の光を投げかけてくれるものではなかったが、デジャー・ソリスが死んだという確実な証拠にもならなかった。そこで私は全力をつくして一刻も早くヘリウムに行き、タルドス・モルスに、彼の孫娘の行方について私の知っているかぎりの情報を伝えようと決心した。
プトール三兄弟のもとを離れてから十日後に私はゾダンガに着いた。ところで私は、赤色人とつき合うようになったときから、ウーラを連れているためにひどく人目を引き、あまりいい顔をされていないことに気がついていた。この大きな野獣は赤色人にはどうしても飼いならすことのできない動物だったのである。もしもウーラを連れてゾダンガの都にはいったりすれば、ライオンをお供に連れてブロードウェイを散歩するのと同じような騒ぎを巻き起こすことになるだろう。
この忠実な動物と別れるのは、考えただけでも心の底から悲しみが湧き起こってくるほど辛いことだったので、ゾダンガの入口が目の前に見えるところにくるまで別れを引きのばしていた。だが、ついに、どうしても別れなければならなくなった。問題が単に私自身に危険が迫ったり、不愉快な思いをしたりするというだけのことだったら、このバルスームでいつも変わらぬ愛情と忠誠を示してくれた唯一の仲間を追い払うような気持には断じてなれなかったにちがいない。しかし、デジャー・ソリスのためなら喜んで命も捨てる覚悟をしている私が、これから彼女の行方を求めてこの未知の都市の測り知れない危険に立ち向かおうとしている今となっては、たとえウーラの命を犠牲にしても、この冒険の成功をおびやかすようなまねをするわけにはいかないのだ。ましてウーラのうたかたの幸福が失われることなどかまってはいられなかった。ウーラもじきに私のことなど忘れてしまうのではないかとも思える。そこで私は哀れな獣に愛情をこめて別れを告げ、もしもこの冒険を無事にやりとげたら、なんとかしておまえを捜しだすようにしようと約束した。
ウーラは私の言うことがすっかりわかったらしく、私が後ろを向いてサークの方角を指さすと、悲しげに引き返しはじめた。私もウーラの後ろ姿を見ていられないほど悲しかった。しかし決然としてゾダンガのほうに顔を向けると、痛む心をかかえながら都のいかめしい城壁に近づいていった。
プトール兄弟からもらってきた手紙のおかげで、すぐに城壁をめぐらした大きな都の中にはいることができた。まだ早朝だったので、通りにはほとんど人影がなかった。金属製の円柱で高く押し上げられている住宅は巨大な鳥の巣に似て、まっすぐな円柱は鋼鉄の幹のように見えた。商店はおおむね地面から押し上げられてはいなかったが、戸口には何の戸締まりもしてなかった。バルスームでは物を盗まれるということがほとんどなかったからである。あらゆるバルスーム人がたえず恐れているのは暗殺されることで、赤色人の住宅が夜間や危急の際に地面から高く押し上げられるようになっているのも、もっぱらこのためなのだ。
プトール兄弟は、宿泊設備や役所がある地区へ行く道筋をはっきり教えてくれて、役人あての紹介状まで持たせてくれていた。その道筋をたどって行くと、どこの火星の都市にもある中央広場に出た。
ゾダンガの広場は一平方マイルもあって、そのまわりに皇帝《ジェダック》や王《ジェド》の宮殿、その他の王族や貴族の邸宅が立ち並び、さらに主要な公共の建物、レストラン、商店などが並んでいた。
すばらしい建築や広い芝生一面に広がる華麗《かれい》な深紅色の植物にすっかり感心しながら大きな広場を横切っていると、一人の赤色人が活発な足取りで大通りから現われ、こちらへやってくるのが目についた。その男は私には目もくれなかったが、すぐ横まできたとき私は気がついて振り返り、相手の肩に片手をのせて呼びかけた。
「|やあ《カオール》、カントス・カン!」
相手は目にもとまらない素早さで、さっと振り返ったかと思うと、私が手もおろしきらないうちに、もう長剣の切《き》っ先を私の胸に突きつけていた。
「だれだ」と彼はどなった。とたんに私がぱっと後ろへ飛びのいて相手の剣から五十フィートも離れると、彼はかまえていた剣をおろし、笑いだしながら叫んだ。
「これほどいい返事はないぞ。ゴムまりのように跳《は》ねまわれる人間なんてバルスームじゅうに一人しかいないからな。しかしジョン・カーター、いったい全体、どうやってここへきたんだ。思いのままに体の色を変えるなんて、ダルシーン〔火星のカメレオン〕にでもなったのか」
そこで私はウォーフーンの闘技場で彼と別れてからの冒険のあらましを手短かに話して聞かせた。
「それにしても、さっきはおかげさまで寿命がちぢんだぞ」とカントス・カンはまた話しはじめた。「私の名前や出身都市をゾダンガの連中に知られた日には、たちまちコルスの行方知れずの海で、ご先祖さまと対面することになるからな。ところで私がここへきている目的は、ヘリウムの皇帝タルドス・モルスのために王女デジャー・ソリスの行方をつきとめることだ。ゾダンガの王子サブ・サンがこの都に王女を隠している。しかも王子は王女に恋してしまって、たいへんなのぼせ上がりようなんだ。父親のゾダンガの皇帝《ジェダック》サン・コシスは、もし王女が息子との結婚を承諾するなら両国間の平和を成立させるという提案を持ちかけてきた。しかしタルドス・モルスはこの要求を受け入れず、自分も国民も王女が気に染まない男と結婚するのを見るくらいなら、その死に顔を見たほうがましだと考えているし、また皇帝として、自分の家の飾りとサン・コシスの家の飾りを結合させるくらいなら、滅亡するヘリウムの炎とともに最期をとげたほうがましだと思っていると言ってやったのだ。この返答はサン・コシスとゾダンガ人に対してこの上ない侮辱を加えることになったが、ヘリウムの国民はこのためにいっそう皇帝《ジェダック》を愛するようになり、いまではヘリウムにおけるタルドス・モルスの威信はかつてないほど高まっている」
「私は三日前からここにきている」とカントス・カンはつづけた。「しかし、デジャー・ソリスがどこに閉じこめられているのか、まだつきとめられないのだ。私は今日、航空偵察隊員としてゾダンガ海軍にはいることになっている。サブ・サン王子は航空偵察隊の司令官をやっているから、彼の信用を獲得してデジャー・ソリスの居所《いどころ》をさぐりだしてやろうと思っているのさ。きみがきてくれたのは実にうれしいよ、ジョン・カーター。きみが王女にたいして忠節を誓っていることはよくわかっているし、二人で協力すれば大いに活躍できるはずだからな」
広場はすでに、一日の仕事に出かける人びとの往来で雑踏しはじめていた。商店も戸をあけはじめ、レストランは早朝の客でいっぱいになっていた。カントス・カンはその豪華なレストランの一つに私を連れていった。そこでは客に対するいっさいのサービスが機械仕掛けで行なわれていた。食物が原料のまま店に運びこまれたときから、客が小さなボタンを押して注文する料理がうまそうな湯気をたてて目の前のテーブルの上に現われるまで、人手は全然いらないのである。
食後、カントス・カンは私を航空偵察隊の司令部に連れて行き、上官に私を紹介して、偵察隊の一員として採用してやってくれと頼んだ。それには規則に従って試験を受けなければならなかったが、カントス・カンはその点は自分がうまくやるから心配するには及ばないと言った。そして私の受験命令書を持って自分が試験官のところへ行き、ジョン・カーターになりすましてこの問題を片づけてしまった。
「この策略はいずればれるさ」と彼は愉快そうに言った。「私の体重や全身の寸法、そのほかの認識データを調べられたときにね。だが、それまでには数か月かかるだろうし、われわれの任務の成否はそのずっと前に決着がついているよ」
それから二、三日の間は火星人が偵察用に使っている瀟洒《しょうしゃ》な小型飛行船の複雑な操縦法や修理技術をカントス・カンから教えてもらうことになった。この一人乗り飛行船の船体は長さ十六フィート、幅二フィート、厚さ三インチほどの大きさで、先端は前後とも細く尖っている。操縦者はこの船を推進させる小型の無音ラジウム・エンジンの上に作られた操縦席にすわる。浮力のもとになるものは船体の薄い金属板の内部に包みこまれているが、これは第八光線、別名推進光線と呼ばれる光線から作られている。
この光線は、第九光線と同様、地球では未知のものだが、火星人はたとえ光源が何であろうと、あらゆる光にこの推進力という固有の特性があることを発見したのだ。つまり、太陽の光を推進してさまざまな遊星まで到達させるのは太陽の第八光線の働きだし、個々の遊星がこうして受けとめた光をふたたび宇宙に推進し返す、つまり「反射する」のは、その遊星の第八光線の作用だということを知ったのである。太陽の第八光線は火星《バルスーム》の地表に吸収されることになるが、火星の光を宇宙に推進する火星の第八光線は絶えずこの遊星から放射されて、引力に反撥する力を生みだしている。そして、この推進力を一か所に閉じこめると、莫大な重量のものを地表から浮上させることができる。
火星人はこの光線を利用することによってすばらしい航空術を完成し、地球人には想像もつかないほど重い巨大な戦艦でも、バルスームの稀薄な空気の中で風船玉のように軽く、優雅に走らせることができるようになった。
この光線が発見された最初のころには、このすばらしいエネルギーの計量や制御の方法がまだ完全ではなかったので、とんでもない事故が何度も起こったものだった。たとえば九百年ほど前には、第八光線の貯蔵庫を備えた最初の大戦艦が建造されたが、あまりにも多量の光線を積みこんだために、この船は五百人の士官や兵士を乗せてヘリウムから舞い上がったきり、二度と帰ってこなかった。
その戦艦は火星の引力に対する反撥力があまりにも強すぎたので、宇宙のはるかかなたまで運び去られてしまったのだ。今日でも、高性能の望遠鏡を使えば、火星の一万マイル上空を勢いよく飛んでいる戦艦の姿が見えるはずだ。こうして、この船はバルスームのまわりを永遠に旋回しつづける小さな衛星と化しているのである。
ゾダンガにきてから四日目に私は初飛行をやってのけた。その結果、昇進して、サン・コシスの宮殿に住みこめるようになった。
私は都の上空に舞い上がると、カントス・カンがやっていたとおりに数度旋回した。それからエンジンを全速力にして、ゾダンガから南へ向かっている大水路をたどり猛烈なスピードで飛んだ。
一時間たらずで二百マイルほど飛んだとき、はるか下界で三人の緑色人戦士が火星馬《ソート》をがむしゃらに走らせて、走って逃げる小さな人影を追跡している光景が目にとまった。追われている人間は壁に囲まれた農場の中に逃げこもうとしているらしかった。
私はこの連中に向かって急速に降下し、戦士たちの背後にまわりこんだ。と、追われているのは、私が所属している航空偵察隊の飾りをつけた赤色人だということがすぐにわかった。少し離れたところに小型機が横たわり、そのまわりに工具が散乱していた。どうやら故障の修理をしている最中に緑色人戦士の不意打ちを食らったらしい。
緑色人たちはもうほとんど追いつこうとしていた。彼らの火星馬《ソート》は小さな人間めがけてものすごい速さで突進し、戦士たちは火星馬《ソート》の右側に低くかがみこんで身を乗り出し、ぎらぎら光る巨大な槍をかまえていた。三人ともこのゾダンガ人をまっ先に突き刺してやろうと懸命になっているようだった。もしも私がちょうどいいところへ現われなかったら、この赤色人の運命も幕を閉じていたことだろう。
私はまっすぐに戦士たちの背後をめざして全速力で快速機を飛ばし、たちまち追いつくと、そのまま速度を落とさずに一番手前の戦士の頭に機首を突き当てた。厚さ数インチの鋼鉄板も突き破るような衝撃が起こり、首のなくなった戦士の体は火星馬《ソート》の頭ごしにすっ飛んで、苔の上に大の字なりにころがった。残りの二人の火星馬《ソート》はびっくりして甲高《かんだか》い悲鳴をあげると、くるりと向きを変え、左右に別れてまっしぐらに逃げだした。
私は速度をゆるめて旋回すると、びっくりしているゾダンガ人のそばに着陸した。彼は私の救援に心から感謝し、この手柄にふさわしい報酬がもらえるようにすると約束した。私が命を救った相手は、ほかならぬゾダンガの皇帝《ジェダック》の|いとこ《ヽヽヽ》だったのだ。
緑色人戦士たちが火星馬《ソート》をしずめたらすぐに引き返してくることはわかりきっていたので、むだな話をしているひまはなかった。私たちは急いで故障した偵察機のところへ行くと、全力を傾けて修理してしまおうとした。修理がほとんど終わりかけたとき、二人の緑色人が私たちの左右から全速力で駆けもどってくるのが見えた。だが、彼らが百ヤードたらずのところまで近寄ると、火星馬《ソート》がまたいうことをきかなくなり、さきほどおどかされた飛行船のほうへは、それ以上一歩も進もうとしなかった。
戦士たちはついに火星馬《ソート》からおりた。そして火星馬《ソート》が逃げださないように脚を二本そろえて縛ると、長剣を抜き放ち、歩いて近づいてきた。私は大きいほうの戦士を相手にしてやろうと進み出ながら、もう一人のほうと全力をつくして戦ってくれとゾダンガ人に声をかけた。私はもう、こんなことには熟練しきって平気になっていたので、ほとんど何の苦もなく相手をしとめた。そして急いで新しい仲間のもとへ引き返してみると、彼はまさに危機一髪のところだった。
ゾダンガ人は手傷を負って倒れ、敵は大きな足で彼の喉を踏みつけながら、|とどめ《ヽヽヽ》を刺そうと大きな長剣をふりかぶっていた。私は五十フィートほどの距離を一気に飛んで二人のそばにおり立つやいなや、思いきり突きだした剣先を緑色人の体に深々と突き通した。緑色人の剣はむなしく地面にころがり、巨大な体はぐったりとゾダンガ人の体の上にくずれ落ちた。
急いでゾダンガ人の体を調べてみたが、命にかかわるほどの傷は見あたらなかった。しばらく休息をとると、彼は、もう空を飛んで帰っても大丈夫だと言った。しかし、この小ぢんまりとした優雅な飛行船は一人乗りだったので、彼は自分の船を操縦して帰らなければならなかった。
急いで彼の船の修理を終えると、私たちはいっしょに、おだやかな雲一つない火星の空に上昇していった。そして、あとは何事もなく、ものすごいスピードでゾダンガに引き返した。
都に近づくと、手前の平原に一般市民や軍隊が大勢くり出しているのが見えた。そして上空には、海軍の艦艇や、自家用や公共用の遊覧飛行船がてんでに派手な色の絹の吹き流しや、奇妙な絵柄の旗を翻《ひるがえ》しながら無数に飛びまわっていた。
私の相棒は、速度を落とせと合図をすると、私の船のすぐそばに自分の船を近づけ、もっと接近してこの式典を見ようと言った。彼の説明によると、さまざまな武勲功労のある士官や兵士の表彰式が行なわれるところだということだった。それから連れの赤色人は、ゾダンガ王家の一員が乗っていることを示す小さな旗を船に掲《かか》げ、私といっしょに低空を飛びまわる艦船の間を縫って進み、まもなくゾダンガの皇帝《ジェダック》と幕僚たちのま上に到達した。だれもかれもが赤色人特有の飼いならされた小型の雄の火星馬《ソート》にまたがっていた。そして馬具や装飾には派手な色彩の羽根飾りをふんだんにつけているので、こいつはアメリカ・インディアンの部隊にそっくりではないかと思わないわけにはいかなかった。
幕僚の一人が上空を指さして、私の連れが空にいることをサン・コシスに教えると、皇帝《ジェダック》は着陸しろと合図を送ってきた。軍隊が整列するのを待っている間に、皇帝《ジェダック》と着陸した|いとこ《ヽヽヽ》の二人は何か熱心に話し合っていた。そして皇帝《ジェダック》と幕僚たちは何度も空にいる私のほうを見上げたが、私にはその話は聞こえなかった。やがて最後の一部隊が皇帝《ジェダック》の前に整列し終わると、皇帝《ジェダック》は話をやめ、一同は火星馬《ソート》からおりた。幕僚の一人が全軍の前に進み出て、一人の兵士の名を呼び、前に出るように命じた。つづいて幕僚は皇帝の表彰を受けることになった兵士の英雄的な行為を声高らかに説明した。それから皇帝《ジェダック》が進み出て、この幸運な兵士の左の腕に金属の飾りをつけた。
こうして次々に十人の兵士が勲章を授けられたとき、幕僚が大声で呼んだ。
「偵察飛行士、ジョン・カーター!」
生まれてこのかた、これほどびっくりしたことはなかったが、軍隊の規律を守る習慣が深く身にしみこんでいる私は、すばやく小型船を着陸させると、ほかの表彰を受けた連中がやっていたように歩いて前へ出ていった。幕僚の前で立ちどまると、彼は集まっている兵士や見物人のすべてに聞こえるような大声で私に言った。
「ジョン・カーター、きみはめざましい勇気と業《わざ》を発揮してサン・コシス皇帝《ジェダック》の|いとこ《ヽヽヽ》にあたる方の身を守り、単身よく三人の緑色人戦士を打ち倒した。わが皇帝《ジェダック》はその功を多として、ここに賞賛のしるしを授ける」
それからサン・コシスが出てきて、私の腕に飾りをつけると、次のように言った。
「おまえのすばらしい手柄のことは、|いとこ《ヽヽヽ》からくわしく聞いている。まるで神業《かみわざ》のような働きではないか。皇帝《ジェダック》の|いとこ《ヽヽヽ》の身をこれほど見事に守ることができるなら、皇帝《ジェダック》のわしの身は、いっそう立派に守ることができるだろう。それゆえ、おまえを親衛隊の士官《パドワール》に任命して、今後はわしの宮殿に住まわせることにしよう」
私は皇帝《ジェダック》に礼をのべ、彼の指図に従って幕僚といっしょに並んだ。式典終了後、私は小型飛行船を航空偵察隊の兵舎の屋上にある格納庫にもどし、それから、宮殿からきた当番兵に案内されて、宮殿内管理を担当する士官のもとへ出頭した。
二十二 デジャー・ソリスとの再会
侍従長役の士官は私を護衛として皇帝《ジェダック》の身辺に配置するようにと指令を受けていた。戦時中は、皇帝《ジェダック》にはたえず暗殺の危険がつきまとっているのだ。戦争になったら、どんな手段に訴えてもかまわないというのが火星人の戦争道徳のすべてである。
そこで侍従長はすぐに、サン・コシスのいる部屋へ私を連れて行った。支配者は息子のサブ・サンや数人の家臣と話をしているところで、私がはいってきたことには気がつかなかった。
その部屋の四方の壁は見事なつづれ織《おり》のカーテンですっかり覆われていて、その背後に窓や戸口があるのかどうかもわからなかった。天井とその数インチ下にもう一枚の天井のように張りつめられているすりガラスの間に封じこめられた太陽光線が、部屋を照明していた。
私を連れてきた男がカーテンの一枚を横に引くと、カーテンと壁のあいだにかなりの隙間があって、部屋を取り巻く通路のようになっていることがわかった。侍従長は私に、サン・コシスが部屋にいる間はこの通路に隠れていて、皇帝が部屋を出たら、あとについて行けと命じた。私の任務は、できるだけ人目につかないように支配者を護衛することだけだった。四時間たったら交替がくると言い捨てて、侍従長は立ち去った。
目の前のカーテンはまったく不思議な織物だった。向こう側から見たときには分厚いどっしりとした織物に見えたのに、この隠れ場所から見ると、まるでカーテンなどは全然ないかのように部屋の中の出来事が何もかも見とおせるのである。
私がこの持ち場につくやいなや、部屋の向こう側のカーテンが開いて、四人の親衛隊の兵士が一人の女を囲みながらはいってきた。兵士たちはサン・コシスの近くまでくると、左右に退いた。と、皇帝の前、私から十フィートとは離れていないところに、美しい顔に晴れやかな微笑を浮かべて立っているのはデジャー・ソリスだった。
ゾダンガの王子サブ・サンが進み出て彼女を迎えると、二人は手をとり合って皇帝《ジェダック》のすぐ前まで歩み寄った。サン・コシスは驚いて顔を上げ、立ちあがって彼女に挨拶した。
「これはまた、どうした風の吹きまわしかな、ヘリウムの王女さまにおいでいただけるとは。二日前には、わしの誇りも踏みつけにして、息子と結婚するくらいならサークの緑色人タル・ハジュスのものになると言いきったではないか」
デジャー・ソリスはますます微笑するばかりだった。そして唇の隅にいたずらっぽい|えくぼ《ヽヽヽ》を浮かべながら答えた。
「バルスームの歴史が始まって以来、気の向くままに心を変えて、とぼけた顔をするのは女の特権というものでございます。このことは、サン・コシスさま、あなたも王子さまと同じように許してくださることでしょう。二日前には王子さまのわたしにたいする愛がまことのものかどうか、確信が持てませんでした。でも、いまは確信しています。ですから、わたしの浅はかな言葉は忘れていただきたいと存じます。そして、ヘリウムの王女は時期がくれば必ずゾダンガの王子サブ・サンと結婚するということをお伝えしにまいったのです」
「よくぞ決心してくださった」サン・コシスは答えた。「こうなれば、もとより、ヘリウムの人びととこれ以上戦いをつづけようとは思わぬ。さっそく、あなたの約束を公式に記録して、わが国民に布告することにしよう」
「でも、サン・コシスさま」とデジャー・ソリスは口をはさんだ。「その布告はこの戦争が終わってからにしたほうがよろしいのではございませんか。ヘリウムの王女が戦いの最中に敵国の王子と結婚するというのでは、わたしの国の者たちにも、こちらの国の人びとにも、あまりにも異様なことに思えるでしょう」
「戦争はすぐにも終わらせることができるではありませんか」とサブ・サンが口を開いた。「サン・コシスがひとこと命令をくだしさえすれば平和はやってくるはずです。そうしてください、父上、私に幸福がおとずれる日を早め、この評判の悪い争いを終わらせる命令をだしてください」
「まあ、とにかく」とサン・コシスは答えた。「ヘリウムの連中がどういう反応を示すか、ためしてみるか。講和の申しこみだけはしてみよう」
デジャー・ソリスは、そのあとちょっと話をしただけで、また護衛に付き添われながら部屋から出ていった。
こうして私が夢見た束《つか》の間の幸福の幻影は、きびしい現実の壁にぶつかって砕け散った。私が命を捧げてもいいと思っていた女――ついこの間は自分の口から私への愛の告白までした女が私の存在さえも簡単に忘れてしまって、にこやかに笑いながら最も憎むべき敵国の王子に身をまかせようとしているのだ。
たしかに自分の耳で聞いたことなのに、私には信じられなかった。どうしても彼女の部屋を捜しあてて、私ひとりの前でもう一度この無残な真実をしゃべらせないことには納得できなかった。そこで私は勝手に持ち場を離れると、急いでカーテンの裏側の通路をたどり、デジャー・ソリスが出ていった戸口に向かった。戸口からそっと抜け出すと、やたらにあちこちへ分岐したり曲がったりしている迷路のような廊下にぶつかった。
その廊下を次から次へと素早く走りまわったが、たちまち道に迷ってとほうにくれた。そして廊下の壁にもたれてあえいでいると、近くから話し声が聞こえてきた。その声は私がもたれている壁の向こう側から伝わってくるらしかった。と、すぐにデジャー・ソリスの声がまじっていることがわかった。何を言っているのかは聞きとれなかったが、あの声を聞き違えるはずはない。二、三歩先へ行くと、また別の廊下があって、その突き当たりにドアがあった。私はずうずうしく戸口に歩み寄り、部屋の中へ押し入った。そこは小さな次の間になっていて、さきほどデジャー・ソリスに付き添っていた四人の護衛がいた。すぐに一人が立ち上がって私のほうへ近づき、何の用だと尋ねた。
「サン・コシスさまの用事できたのだ」と私は答えた。「ヘリウムの王女デジャー・ソリスと内密に話がしたい」
「では、通行証は?」
何のことやらわからなかったが、自分は親衛隊員だと答え、相手の返事も待たずに奥のドアへ大股に歩み寄った。ドアの向こうからデジャー・ソリスの話し声が聞こえていた。
だが、そう簡単に奥の部屋へははいれなかった。衛兵は私の行手に立ちふさがって言った。
「サン・コシスさまのところからきた者が通行証も合言葉もないというはずはない。どちらかを示さなければ、通すわけにはいかないぞ」
「なあ、きみ、私がはいりたい所へはいるのに必要な通行証は、ここにぶらさがっているものだけなんだ」と私は腰の長剣を叩きながら答えた。「おとなしく通すのか、通さないのか、どっちだ」
これに応じて、衛兵はさっと自分の剣を抜き放ち、加勢にこいと仲間に呼びかけた。こうして四人の衛兵が白刃をかまえて私の行手に立ちふさがることになった。
「きさまはサン・コシスさまの命令できたのではないんだな」と、最初に私を呼びとめた男が叫んだ。「ヘリウムの王女の部屋へはいらせはしないぞ。それどころか、ひっつかまえて皇帝《ジェダック》のところへ引きずって行って、どうしてこんなとんでもないことをしたのか、問《と》いただしてやる。さあ、剣を捨てろ。四人に勝てるはずはないぞ」彼はしゃべり終わると、にやりと気味の悪い笑い方をした。
私の返答は目にもとまらぬ剣の一突きだった。そして敵の数は三人になった。しかも彼らは相手にとって不足のない立派な剣の使い手だった。私は必死になって戦ったが、たちまち壁ぎわに追いつめられた。そこで私は苦労しながら少しずつ部屋の片すみに寄っていった。そこなら一度に一人しか向かってこられないようにすることができる。こうして戦いは二十分以上もつづき、|はがね《ヽヽヽ》の打ち合う甲《かん》高い音が小さな部屋いっぱいに騒然と響きわたった。
この騒ぎを聞きつけてデジャー・ソリスが部屋の戸口まで出てきた。その肩ごしにソラものぞきこんだ。そして二人は戦いが終わるまでそこに立っていた。デジャー・ソリスの顔はまったく無表情で、眉《まゆ》ひとつ動かさなかった。私がわからないのだ。ソラも同じことだった。
ようやく、まぐれ当たりの一撃で二人目の衛兵が倒れた。残りの敵が二人だけになると、私は戦法を変えて、これまであまたの敵を打ち倒したやり方で一気に襲いかかった。二人目が倒れてから十秒とたたないうちに三人目が倒れた。その二、三秒後には最後の一人が血まみれの床に倒れて死んだ。四人の衛兵はいずれも勇気のある立派な戦士だった。やむなく彼らを殺してしまったことを私は悲しんだ。しかし、そうしなければデジャー・ソリスのそばへ行けないというのなら、バルスームじゅうの人間を皆殺しにすることさえいとわなかっただろう。
血染めの白刃を鞘《さや》におさめると、私は火星の王女のほうへ歩み寄った。彼女はまだ私がわからないらしく、無言のまま私の顔を凝視していた。
「いったい、あなたは何者です」と彼女は小声で言った。「みじめなわたしをこのうえ苦しめにきた敵なのですか」
「私は味方です。親友だった男ですよ」
「ヘリウムの王女の味方がそんな飾りを身につけているはずはありません。でも、その声は! 聞き覚えがあるわ。だけど、そんな――そんなはずはないわ――あの方は死んでしまったのですもの」
「それでも、私の王女さま、まさしくそのジョン・カーターですよ。たとえ体の色を変え、妙な飾りをつけていようとも、このあなたの幹部の心がおわかりにならないのですか」
私が近寄ると、デジャー・ソリスは両手をさしのべて私のほうへ身を乗り出したが、私が抱きしめようとすると、身を震わせ、悲痛なうめき声を上げて、さっと後ろへ逃げてしまった。
「遅すぎました。遅すぎましたわ」と彼女は悲しげに言った。「ああ、わたしの幹部さまだった方、わたしはあなたが死んでおしまいになったと思っていたのです。もう一時間だけ早く戻ってくださっていたら――でも、もう遅すぎます。遅すぎるのです」
「それはどういう意味なのですか、デジャー・ソリス」と私は叫んだ。「私が生きていることを知っていたら、ゾダンガの王子と結婚する約束などはしなかったというのですか」
「ひとたびあなたに心を捧げたこのわたしがすぐにまたほかの男に思いを寄せるとでも思っていらっしゃるのですか、ジョン・カーター。わたしの心はウォーフーンに襲われたとき、あなたの亡骸《なきがら》とともに墓に埋めてしまったつもりでした。だから今日、勝ち誇るゾダンガ軍がもたらす災害からヘリウムの人びとを救うために、このすでに心のない私の体をほかの男に与える約束をしたのです」
「しかし私は死んでいなかったのですよ、王女さま。私はあなたを自分のものだと主張するためにきたのです。ゾダンガ人に邪魔させるものですか」
「でも遅すぎるのです、ジョン・カーター、わたしは約束してしまいました。バルスームでは、いったん結婚の約束をしたら、もう取り消しようはありません。あとで行なう結婚式などはただの形式にすぎないのです。それは結婚の事実をもう一度たしかめるだけのものです。皇帝《ジェダック》が死んだとき、葬式によってその死を確認するのと同じように。ですから、ジョン・カーター、わたしはもう結婚したも同然なのです。もはや、わたしのことをあなたの王女とお呼びになってはいけません。もうあなたは、わたしの幹部さまではないのです」
「デジャー・ソリス、私にはあなたがたバルスームの人たちの風習はほとんどわかりません。しかし、私があなたを愛していることだけはよくわかっています。そして、あのウォーフーン族の大軍が襲いかかってきて私たちが別れたときに、あなたが最後に言われた言葉があなたの本心なら、ほかの男にあなたを花嫁と呼ぶようなまねをさせるものですか。そうだ、あのときあなたは本気でおっしゃった。そしていまも、本心は同じなのだ! さあ、そうだと言ってください」
「わたしは本気で申しました、ジョン・カーター」と彼女はささやくように言った。「でも、今それを繰り返して言うことはできません。わたしはもうほかの男のものになっているからです。ああ、あなたがわたしたちの|しきたり《ヽヽヽヽ》さえご存じだったら」と彼女は半ば自分に言いきかせるようにつづけた。「結婚の約束はもう何か月も前にあなたのものになっていたでしょうに。そして、だれよりも先にわたしを自分のものにすることができたでしょう。そうなっていたら、ヘリウムは滅亡していたかもしれません。それでも、わたしのサークの幹部さまのためなら自分の帝国も捨てていたでしょう」
それからデジャー・ソリスは声を高めて言った。「わたしがあなたに腹を立てた晩のことを覚えていらっしゃるでしょう? あなたは結婚の申し込みをしていないのに、わたしのことをご自分の王女と呼び、そのうえ、わたしのために戦ったではないかと誇っておいででしたね。あのときあなたは何もご存じではなかったのですから、わたしは怒ったりしてはいけなかったのです。今になると、それがよくわかります。でも、わたしがお教えするわけにはいかなかったことを、あなたに教えてくれる人間は一人もいませんでした。それは、バルスームの赤色人の国では女は二種類に分けられるということだったのです。つまり、男たちがそのために戦って結婚を申し込む女と、戦うことは戦っても結婚を申し込もうとしない女の二種類があるのです。そして、男は戦って女を勝ちとったら、その女のことを自分の王女とでも何とでも、自分のものだということを示す言葉で呼ぶことができるのです。あなたはわたしのために戦ってくださいましたが、結婚は申し込みませんでした。ですから、あなたがわたしのことをご自分の王女と呼んだとき、そのとき――」と彼女は口ごもった。「わたしは気持を傷つけられたのです。でも、ジョン・カーター、それでもまだわたしは怒ってあなたを追い払おうとはしませんでした。しかし、あのとき怒らなければいけなかったのです。そうしなかったために、あとであなたが、自分だって戦ってわたしを勝ちとったなどと言ってわたしを侮辱し、事態をさらに悪くしてしまうようなことになってしまったのです」
「今となっては許してくださいというのも無駄なことですね、デジャー・ソリス」と私は叫んだ。「しかし、何もかも、私がバルスームの習慣を知らなかったせいだということを忘れないでください。そして私は、これがずうずうしい、けっして喜ばれないお願いだということを百も承知の上で、いままで口にしなかった言葉をいま口にします。デジャー・ソリス、私の妻になってください。私の体内にみなぎるバージニア人の闘志にかけて、必ずあなたを妻にしてみせます」
「やめてください、ジョン・カーター、無駄なことです」と彼女は絶望した顔つきで叫んだ。「サブ・サンが生きているかぎり、あなたの妻にはなれないのです」
「ということは彼に死刑を宣告したことですよ、私の王女さま――サブ・サンは死にます」
「それでもだめなのです」と彼女は急いで説明した。「たとえ自衛上からでも夫を殺した男と結婚することはできないのです。そういう掟なのです。バルスームの人間は掟に従って生きています。ですから、サブ・サンが死んでもだめなのです。あなたはわたしとともに、この悲しみに耐えなければなりません。少なくとも悲しみだけは、二人でわかち合えるのです。それに、あのサーク族に囲まれて過ごしたはかない日々の思い出だけは。さあ、もうここから立ち去らなくてはいけません。そして二度とわたしに会いにきてはいけません。さようなら、わたしの昔の幹部さま」
私はひどくがっかりして部屋から引きさがった。しかし、完全に意気沮喪してしまったわけではなかったし、結婚式が実際に行なわれるまでは、もはやデジャー・ソリスは自分のものではなくなったと認める気もさらになかった。
迷路のような廊下をさまよい歩いているうちに、またすっかり道に迷って動きがとれなくなった。
とにかく、このゾダンガの都から逃げださないことには希望の糸が断ち切られてしまうことはわかっていた。四人の衛兵が死体になっていることは追及されるにきまっている。道案内でもいなければ元の持ち場にたどりつくこともできない私が、あてもなく宮殿の中をうろついているところを発見されたら、必ず疑いがかかるだろう。
まもなく、下の階に通じる螺旋《らせん》状の通路に出た。この通路をたどって四、五階下へ降りてゆくと、多数の衛兵がいる大きな部屋の戸口に行きあたった。この部屋の壁には例の不思議なカーテンがかかっていたので、私はその背後にこっそり忍びこんだ。
衛兵たちはかくべつ私には関心のない世間話をしていたが、やがて一人の士官が部屋にはいってきて、四人の兵士に、ヘリウムの王女の護衛勤務の交替に行けと命令した。さあ、いよいよ面倒なことになるぞと思ったが、その始まり方はあまりにも早かった。交替の衛兵が部屋を出ていったと思うと、そのなかの一人がすぐに息を切らして駆けもどってきて、向こうで四人の仲間が殺されていると叫んだのである。
たちまち宮殿じゅうが大騒ぎになって、多数の人間が右往左往しはじめた。衛兵、士官、伝令、召使、奴隷などが情報や命令を伝えたり、暗殺者の手がかりを捜し求めたりして廊下や部屋をあたふたと走りまわった。
成功の見込みはたいしてなさそうだったが、逃げるチャンスは今しかないだろう。そこで、一隊の兵士が私の隠れ場所の前を走りすぎようとしたとき、その後尾にまぎれこんで、いっしょに迷路のような宮殿の中を走りはじめた。やがて、ある広間を通り抜けたとき、大きな窓がいくつも並んで明るい外光がさしこんでいるのが見えた。
私はここで兵士の群れから離れ、一番近い窓にこっそり近づいて、逃げ道を捜した。窓の外は、ゾダンガ大通りを見おろす大きなバルコニーになっていた。地面は三十フィートほど下にあり、同じく三十フィートほど建物から離れたところに、厚さ一フィートぐらいの光沢のあるガラスで作られた、ゆうに二十フィートの高さの防壁があった。赤色火星人なら、この径路をたどって逃げることはとうてい不可能と思ったろうが、地球人の体力と身軽さのある私にはもう脱出は成功したも同然だった。心配なのは、日が暮れる前に発見されることだけだった。どのみち、下の庭や防壁の向こうの大通りはゾダンガ人の群れでごった返していたので、昼間のうちは跳躍するわけにもいかなかったからである。
そこで私は夜になるまでの隠れ場所を捜した。そしてふと見あげると、床から十フィートほどの高さのところに天井から大きな飾りがぶらさがっているのが目にとまった。私は飛び上がって、その鉢形をした大きな飾りの中にわけなくもぐりこんだ。そして腰を落ち着けたとたんに一団の人間が広間にはいってくる物音が聞こえた。その連中は私の隠れ場所の下で立ち止まったので、しゃべっていることを一言《ひとこと》もらさずはっきりと聞くことができた。
「これはヘリウム人のしわさだ」と一人が言った。
「そうですとも、皇帝陛下《ジェダック》。それにしても、どうやって宮殿にはいりこんだのでしょうか。いかに衛兵たちが熱心に見張っていても、たった一人の敵ならなんとか奥まで忍びこむということも考えられますが、六人も八人もの兵士が忍びこんできて、どうして人目につかなかったのかさっぱりわかりません。しかし、その謎もすぐに解けることでしょう。王室づきの心理学者がやってまいりましたから」
一人の男が新たにこの一団に加わり、支配者に固苦しい挨拶をしてから、次のように言った。
「偉大なる皇帝陛下《ジェダック》、私は陛下の忠実な衛兵たちの死んだ心を読みとってまいりましたが、なんとも不思議な事実がわかりました。あの衛兵たちを殺したのは何人もの兵士ではなく、たった一人の敵なのです」
心理学者はちょっと口をつぐんで、この声明の重要性を聞き手の心に深くしみこませようとした。だが、彼の話はほとんど信じてもらえなかったらしく、いらだたしげなサン・コシスの声が聞こえた。
「ノータン、おまえはまた、なんというおかしな話をしにきたのだ?」
「陛下《ジェダック》、これは本当の話でございます」と心理学者は答えた。「そのような意識がはっきりと四人の衛兵の頭の中にきざみこまれておりました。彼らの敵は非常に背の高い男で、陛下の親衛隊員の飾りをつけておりました。その戦闘力は信じられないほどすばらしく、堂々と四人全部を相手にして戦い、すぐれた腕前と超人的な力と忍耐によって一人残らず倒してしまったのでございます。ですから陛下《ジェダック》、ゾダンガの飾りをつけてはいても、このような男はゾダンガだろうとどこだろうとバルスームでは見かけたことがございません。
また、ヘリウムの王女の心も調べ、いろいろと質問してみましたが、何の収穫もありませんでした。王女は心を完全に抑制してしまっているので、何ひとつ読みとることができないのでございます。王女は戦いはちょっと見たが、衛兵たちと切り合っていた相手は一人だけで、見覚えのない男だったと言っておりました」
「私を救ってくれた男はどこにいる」と別の男が口を開いた。その声で、私が緑色人戦士から救いだしたサン・コシスの|いとこ《ヽヽヽ》だということがわかった。「どうみても、話の様子があの男にぴったりだ。とくに戦う力からいってあの男としか思えない」
「あの男はどこにいるのだ」とサン・コシスが叫んだ。「すぐにここへ連れてこい。|いとこ《ヽヽヽ》よ、おまえはあの男のことをどれだけ知っているのだ。今になって考えれば、今あんな戦士がゾダンガにいて、今日まで名前も知らなかったなどというのは妙な話だ。それに、ジョン・カーターとかいうあの男の名前にしたって、これまでバルスームでは聞いたこともない妙な名前ではないか!」
まもなく、宮殿の中から航空偵察隊の兵舎の元の部屋まで捜したが、私の姿はどこにも見あたらないという報告がもたらされた。また、カントス・カンを見つけて尋問したが、彼も私の居場所を知らず、つい最近ウォーフーン族の捕虜になっている間に知り合っただけだから、前歴についてもほとんど何も知らないと答えたということだった。
「その男からも目をはなすな」とサン・コシスは命令した。「そいつもえたいの知れないやつだ。おそらく二人ともヘリウムの人間だろう。一人がいるところへ、いずれもう一人もやってくるだろう。航空パトロールを四倍にしろ。そして、空からでも陸からでも都をはなれようとする男は一人残らず厳重に調べるように」
そのとき、また伝令がやってきて、私はまだ宮殿の中にいるはずだという情報をもたらした。
「今日この宮殿に出入りした人間全部の人相と姿かたちをくわしく調べてみましたが、この親衛隊の新任|士官《パドワール》の人相に合致する者は、宮殿にはいったということが確認されているだけで、それらしき者は外へは出ておりません」
「それなら、じきにつかまるだろう」とサン・コシスは満足げに言った。「その間にわれわれはヘリウムの王女の部屋に行って、この事件について問いただしてみることにしよう。ノータン、王女はおまえに言ったこと以上に何か知っているかもしれないぞ。さあ、ついてこい」
サン・コシスたちは広間から出て行った。窓の外はすでに暗くなっていたので、私は隠れ場所から身軽に飛びおり、急いでバルコニーへ出た。もう人影は少なかったので、近くにだれもいない瞬間を見すまして、すばやくガラスの防壁の上に飛び移り、そこから宮殿の敷地の外の大通りへ飛びおりた。
二十三 大空のかなたに
隠れようともしないで、私は足早やに元の宿舎の近くまで行った。宿舎へ行けば、カントス・カンに会えるにちがいないと思ったのだ。宿舎に近づくと、私はもっと用心深くなった。思ったとおり、建物には見張りがついていた。民間人の飾りをつけた男が四、五人、玄関の近くをうろついていたし、裏口のほうにも同じような連中がいた。見とがめられずに私たちの部屋のある階上へ行くには、隣の建物を利用する以外に手がなかった。そこで、いろいろと作戦を考えたすえ、数軒さきの商店の屋根に首尾よく登ることができた。
それから屋根から屋根へ飛び移ってゆくと、じきに、めざす建物の開いている窓にたどりついた。そして次の瞬間には部屋の中へはいって、カントス・カンの前に立った。
部屋には彼一人だった。そして私がきてもいっこうに驚いた様子は見せず、勤務時間はだいぶ前に終わっているはずだから、もっと早く帰ってくると思っていたと言った。
彼は今日の宮殿内の出来事を何も知らなかったのである。そして私から話を聞くと、すっかり興奮してしまった。デジャー・ソリスがサブ・サンと結婚の約束をしたことを聞くと、彼はうろたえて叫んだ。
「そんなばかなことがあるものか。とうてい信じられないことだ! われらの愛する王女をゾダンガの支配者に売りわたすくらいなら、ヘリウムの男たちは一人残らず死を選ぶだろう。そんなとんでもない取引きに同意するなんて、王女は気でも狂ったにちがいない。われわれヘリウムの人間がどんなに王家の人びとを愛しているか、それを知らないきみには、私がこのひどい縁組みをどんなに恐ろしく感じているかわかってもらえないだろうな。だが、ジョン・カーター、なんとかならないだろうか。きみは機略に富んだ男だ。この恥辱からヘリウムを救う方法を何か考えられないか」
「剣で戦えるところまでサブ・サンに接近することができれば、ヘリウムの難局だけは打ち破ることができるのだが、私には個人的な理由があって、デジャー・ソリスを自由の身にする戦いはほかの人間にやってもらいたいのだ」
するとカントス・カンはまじまじと私を見つめ、おもむろに口を開いた。
「きみは王女を愛しているんだね! 王女はそのことを知っているのか」
「知っているんだ、カントス・カン。そして、サブ・サンと婚約したからというだけの理由で私をはねつけているのだ」
カントス・カンはすばらしいやつだった。彼はぱっと立ち上がると、片手で私の肩をつかみ、もう一方の手で剣を高く上げながら叫んだ。
「バルスームの第一王女の婿《むこ》選びの仕事を私にまかされたとしても、きみ以上に似合いの相手を選ぶことはできなかったろう。さあ、ジョン・カーター、私はきみの肩に手を置いて誓うぞ。わが愛するヘリウムのため、デジャー・ソリスのため、そしてきみのために、この剣で必ずサブ・サンを殺してみせる。今夜すぐ、宮殿の中のやつの部屋に行ってみよう」
「どうやって行くんだ。きみには厳重な見張りがついているし、空のパトロールは四倍に増強されているぞ」
カントス・カンはちょっとうつ向いて考えこんだが、すぐに顔を上げて、きっぱりと言った。
「ここから抜けだすことさえできればいいんだ。そうすればやれるよ。私は宮殿の一番高い尖塔《せんとう》に秘密の入口があるのを知っている。ある日、パトロール勤務で宮殿の上を飛んでいるときに偶然見つけたんだ。パトロールのときには何でも変わったことを発見したら調べろということになっているから、高い尖塔からだれかがのぞいているのを見つけると、これは変だと思って近づいて行ったのだ。すると、のぞいていたのは、ほかならぬサブ・サンじゃないか。王子は私に見つかるとちょっと困った顔をして、このことはだれにも言うなと命令しながら、塔から自分の部屋まで直通の通路があって、これは自分だけしか知らない秘密なのだと説明してくれたよ。だから、兵舎の屋上まで行って、私の偵察機を手に入れることができれば、五分間でサブ・サンの部屋に行ける。しかし、きみのいうように見張りがついているとすると、どうやって、ここから抜け出したものかな」
「兵舎の格納庫には、どのくらいの見張りがついているんだ」
「夜はいつも、屋上に番兵が一人いるだけだ」
「では、カントス・カン、この建物の屋上へ行って、私を待っていてくれ」
私は計画を説明しようともせず、すぐに来た径路をたどって通りへ戻り、急いで兵舎へ向かった。しかし、兵舎の中へはいる気にはなれなかった。建物の中には航空偵察隊の隊員が大勢いて、いまではゾダンガじゅうの人間と同様に私の行方に目を光らせているのだから。
この兵舎は実に巨大な建物で、上空高くそびえ立つ屋上まではゆうに千フィートもあった。この兵舎より高い建物はゾダンガにも少なかったが、それでも、これよりさらに二、三百フィート高い建物がいくつかあった。海軍の巨大な戦艦のドックは地上から千五百フィートの高さにそびえていたし、商船隊の貨物船や客船の桟橋もほとんど同じくらい高いところにあった。
この建物の外壁をよじのぼって行くのは時間もかかるし、たいへんな危険を伴う仕事だったが、ほかに方法がないので、やることにした。それでも、バルスームの建築物にはやたらに飾りがあるおかげで、この神業《かみわざ》は思ったよりずっと楽だった。あちこちに突出している装飾物が立派に梯子の役目を果たしてくれて、頂上の軒先《のきさき》までたいした苦労もなく登ることができたからだ。だが、軒先まできて初めて障害にぶつかった。頂上の軒《のき》は私がしがみついている外壁から二十フィート近くも張り出していて、巨大な建物のまわりを一周してみても切れ目はどこにも見当たらなかった。
最上階の部屋はどこも兵士が大勢いて、てんでに気晴らしをしていた。だから、建物の中を通って屋上へ行くわけにもいかない。
成功の見込みの少ない、向こう見ずな方法が一つだけあった。それをやるしかないと私は決心した――デジャー・ソリスのためなのだ。彼女のような女性のためなら、男はみな千回でも死の危険を冒すことだろう。
私は両足と片手で壁にしがみつきながら、身につけている装具の長い皮ひもを一本はずした。これは先端に大きな鉤《かぎ》がついていて、飛行船の乗組員がいろいろな修理のときに舷側や船底にひっかけたり、上陸部隊が戦艦からおりるさいにロープがわりにしたりして使うものだった。
私は注意深く数回、この鉤《かぎ》を屋上めがけて投げかけ、やっとひっかけることができた。それから静かに皮ひもを引っぱって支えの強さをためしてみたが、はたして私の体重を支えられるかどうかはわからなかった。鉤《かぎ》は屋根の端《はし》にほんのちょっとひっかかっているだけかもしれない。それなら、私の体が皮ひもにぶらさがって外へ揺れ動いたとたんに鉤がはずれて、私は千フィート下の舗道まで一気に墜落してしまうだろう。
一瞬、私はためらった。が、すぐに突出した飾りを押えている手足をはなし、皮ひもの先につかまって空中にぶらりと飛びだした。はるか眼下には、明るい灯に輝く街路と固い舗道と死が待ちかまえていた。支えの軒先《のきさき》の近くで張りつめた皮ひもが急に動き、鉤《かぎ》がすべって、ぎいっといやな音を立てた。一瞬、私はひやりとした。だが、鉤はそのまま動かなくなり、私は無事だった。
素早く皮ひもをたぐって軒先にしがみつくと、屋根の上によじのぼった。だが、立ち上がると、すぐ目の前に拳銃の銃口をつきつけて番兵が立っていた。
「だれだ。どこからきたのだ」と番兵は叫んだ。
「私は偵察飛行士だよ。もう少しで死ぬところだった。なにしろ、この下の大通りまであやうく墜落しそうになったのだからね」と私は答えた。
「だが、どうやって屋上までやってきたんだ。この一時間、空から着陸した者もいないし、建物の中から登ってきた者もいない。さあ、早く説明してみろ。さもないと警備の連中を呼ぶぞ」
「まあ待てよ、きみ。いま、私がどうやってここまできたか、そのためにどんなに危い目にあったか教えてやるよ」私はそう言って、屋根の端《はし》のほうを振り返った。そこから二十フィート下の皮ひもの先には私の武器が全部ぶらさがっていた。
番兵は好奇心に駆られたらしく、私のそばへ寄ってきたが、それが運のつきだった。彼が軒の下をのぞこうとして身をかがめたすきに、私はその喉と、拳銃を持っている腕とをつかみ、相手の体を屋上にたたきつけた。握っていた拳銃が落ちた。助けを呼ぼうとして叫びかけた口を手でふさいだ。それから|さるぐつわ《ヽヽヽヽヽ》をはめて、縛り上げてしまうと、ついさっきの私と同じように番兵の体を屋上の端《はし》からぶらさげた。こうしておけば夜が明けるまでは発見されることもないだろう。できるだけ時間をかせいでおかなければならない。
装具や武器を身につけると、私は急いで格納庫へ行きすぐに私とカントス・カンの偵察機を引っぱりだした。カントス・カンの機を私の機の後ろにしっかり結びつけてから、エンジンをかけた。そして屋上の端《はし》をかすめるように飛びたち、ふだん航空パトロールが飛ぶときよりはるかに低い高度をとって市街に向かい降下していった。一分たたぬうちに、私は無事に宿舎の屋上にたどりつき、カントス・カンが唖然《あぜん》として立っているそばに着陸した。
私は事の次第を説明するのも早々に切り上げて、さっそくこれからの計画の相談に移った。そして、カントス・カンが宮殿に忍びこんでサブ・サンを片づけている間に、私のほうはヘリウムに向かうことになり、カントス・カンも事が成功すれば私のあとを追うことに決まった。カントス・カンは私の機の羅針盤をヘリウムの方角に合わせてくれた。この精巧な計器は、バルスームじゅうどこでも一定の地点を絶えず指し示すようにしておくことができるのである。やがて、別れの言葉をかわすと、二人はいっしょに飛びたち、宮殿の方角めざして急いだ。宮殿もヘリウムへ行く方向にある。
高い塔に近づいたとき、偵察機が一機、上空から矢のように降下してきた。私の機は強烈なサーチライトの光をいっぱいに浴び、停止を命じる大声が聞こえた。その声を無視すると、たちまち銃弾が飛んできた。カントス・カンはすばやく降下して闇の中に逃げた。私はどんどん上昇して、猛烈なスピードで火星の空を疾走した。後ろからは、十機あまりの偵察機が追跡に加わって飛んできた。そのうちに百人の兵士が乗りこみ速射砲を備えた快速巡洋艦も追跡に加わった。私はやたらに自分の小型機の向きを変えて上下左右に飛びまわり、サーチライトにはほとんどつかまらないようにすることができた。しかし、この戦法をとったためにしだいに追いつかれてきたので、ついに、一か八かの危険を冒して一直線に飛び、運命と機の速度にすべてをまかせようと決心した。
私はカントス・カンから、ヘリウムの海軍の人間しか知らないギアの特殊操作法を教わっていた。この方法を使えば、この小型機のスピードを非常に増大させることができるのだ。だから、ほんの少しの間だけ弾丸をさけることができれば、追手を引き離せるにちがいないと思った。
ま一文字に空中を突進しはじめると、すさまじい音をたてて機のまわりに弾丸の雨がふりそそいできたので、これでは奇跡でも起こらないことには、とても逃げ切れるものではないという気がした。だが、もう、あとへはひけない。私は全速力をあげると、ヘリウムめざして一直線に飛んだ。追手との距離はしだいに開きはじめていた。そして幸運な脱出を喜ぼうとしたとたんに、巡洋艦から放たれた見事な狙いの一弾が私の小型機の機首のあたりで炸裂《さくれつ》した。その衝撃で機はあやうく転覆しそうになったかと思うと、とんぼ返りをうって夜の闇の中へ急速に落ちていった。
どのくらい落下したのかはわからないが、ようやく機の操縦ができるようになったときには地上すれすれのところまで落ちていたにちがいない。ふたたび上昇しはじめたとき、下のほうで動物の鳴き声が聞こえたからだ。ふたたび上昇すると、追手の姿を捜して夜空を注意深く見まわした。と、はるか後方に明かりが見え、どうやら私を捜して着陸しようとしているらしいことがわかった。
その追手の明かりがついに見えなくなってから、小さな懐中電灯の光で羅針盤を見ようとして、私は愕然とした。砲弾の破片は私の唯一の道案内である羅針盤も速度計も完全に破壊してしまったのである。星をたよりに、だいたいの見当でヘリウムの方向へ行くこともできるだろうが、目的地の正確な位置も飛んでいる速度もわからないというのでは、ヘリウムを発見できる見込みはあまりなかった。
ヘリウムは、ゾダンガの南西千マイルの位置にあり、ちゃんと羅針盤があって、事故もなければ、四、五時間のうちに到達できるはずだった。それが、このとおり、高速で六時間近くも飛びつづけて朝になっても、依然として広大な水の涸《か》れた海の上を飛んでいる始末なのだ。まもなく、眼下に大きな都市が見えてきたが、ヘリウムではなかった。ヘリウムは、およそ七十五マイルの距離をへだてた二つの都市から成り、その一つ一つが巨大な円形の城壁に囲まれている。このような首都はバルスームじゅうでヘリウムだけだったから、私が飛んでいる高度からでもたやすく見わけがつくはずである。
北西に飛びすぎたにちがいないと考えて、南東の方角に引き返し、午前中にさらに五つ六つの大都市の上を通過したが、いずれもカントス・カンから話を聞いたヘリウムとはまるでちがう都市だった。二つの都市から成っているということのほかに、ヘリウムのもう一つの特徴は二つの巨大な塔があることだ。一つの塔は目のさめるような緋色《ひいろ》をしていて、一方の都市の中央からほとんど一マイルも空高くそびえたち、もう一つの塔は明るい黄色で、もう一方の都市に同じ高さでそびえて人目をひいているはずなのだ。
二十四 タルス・タルカスの友情
正午ごろ、古代の巨大な廃都の上空を低く通過し、その先の平原をかすめるように飛んで行くうちに、数千の緑色人戦士がすさまじい戦闘を繰り広げているところへま正面からぶつかった。私が戦士たちを見つけたかと思うと、もう一斉射撃の銃弾がこちらに向かって飛んできた。彼らの正確きわまる銃弾を浴びて私の小型機はたちまち破壊され、よたよたと地上に落ちていった。
墜落した所は凄惨な戦場のまっただ中だった。しかし、まわりの戦士たちは死ぬか生きるかの戦いに夢中になっていたので、私が落ちてきたことにも気がつかなかった。戦士たちは火星馬《ソート》からおりて長剣で戦っていた。そして、戦場から少し離れたところにいる狙撃兵がときおり発砲しては、この敵味方いり乱れた集団からちょっとでも離れる戦士を射ち倒していた。
偵察機が戦場のまん中に落ちたとき、こいつは戦わないことには死ぬだけだ、どのみち死ぬ可能性のほうが大きいにしても戦わなければいけないと私は悟った。そこで、できるかぎり自分の身を守る覚悟を固め、長剣を抜いて地上におり立った。
私が墜落した地点のすぐそばで、巨大な怪物のような男が三人の敵を相手に戦っていた。その闘志にあふれた獰猛な顔にちらっと目を向けると、それがサーク族のタルス・タルカスであることがすぐにわかった。私は彼の後方寄りにいたので、彼のほうは私に気づかなかった。戦っている敵はウォーフーン族だった。そのとき、相手の三人の戦士が同時に切りかかっていった。豪勇のタルス・タルカスはたちまち一人を片づけたが、もう一人の一撃をかわそうと後ろへ退いたとたんに、死体につまずいて倒れ、たちまち窮地に陥った。敵はすばやく襲いかかった。この一瞬、私が倒れている大男の前に飛びこんで敵の攻撃を受けとめていなかったら、タルス・タルカスはあっという間にあの世へ行っていたことだろう。私が敵の一人を仕止めたときには、剛勇のサークの戦士も立ちあがって、あとの一人をすばやく片づけた。
タルス・タルカスは私をひと目見るなり、冷酷な口もとにちらりと微笑を浮かべ、私の肩に手をかけながら言った。
「ジョン・カーター、もう少しでおまえだとは気がつかないところだったよ。だが、私のためにこんなまねをしてくれる人間は、バルスームじゅうにおまえしかいないからな。どうやら私にも、友情とかいうものがあることがわかってきたようだ」
タルス・タルカスはそれだけしか言わなかったし、言うひまもなかった。ウォーフーン族がまたもや押し寄せてきたのである。そして私たち二人は、その日の暑い午後の間じゅう、肩をならべて戦いつづけた。だが、ついに戦いの形勢が一変し、獰猛なウォーフーン族の生き残った戦士たちは後退して火星馬《ソート》に飛び乗り、迫りくる夕闇の中へ逃げ去った。
この大決戦には一万人の戦士が参加し、戦場には三千の死体が横たわった。両軍ともに容赦なく徹底的に殺し合い、相手を捕虜にしようともしなかった。
戦闘が終わったあと、私はタルス・タルカスといっしょにサークの都にもどり、すぐに彼の宿舎へ行った。まもなくタルス・タルカスはいつも戦闘の直後に開かれる会議に出席し、その間、私はひとりで宿舎に残った。
タルス・タルカスの帰りを待っていると、隣室で何かが動く物音が聞こえた。その方角へ目をやったとたんに、巨大な怪物がいきなり飛びついてきて、それまで体をもたせかけていた絹と毛皮の山の上へ私を突き倒した。ウーラだった――忠実な、情の深いウーラだった。ウーラはちゃんとサークに戻っていたのだ。あとでタルス・タルカスから聞いた話によると、都に戻るとすぐに私の元の宿舎に行き、そこで哀れにも、とても帰ってくるとは思えない私の帰りを一心に待っていたのだという。
「ジョン・カーター、タル・ハジュスはおまえがここにいることを知っているぞ」と、皇帝《ジェダック》の宮殿から戻ってきたタルス・タルカスは言った。「われわれが引きあげてきたとき、サルコジャがおまえを見て、気がついたのだ。タル・ハジュスは今夜おまえを連れてこいと私に命令した。さあ、ジョン・カーター、私は火星馬《ソート》を十頭持っている。その中から好きなやつを選べ。ヘリウムへ通じる一番近い水路までいっしょに行ってやろう。タルス・タルカスは残酷な緑色人戦士だが、友だちにもなれる男なのだ。さあ、すぐ出かけなくてはいけない」
「そんなことをして、帰ってきたらきみはどうなるんだね、タルス・タルカス」
「たぶん、狂暴な火星犬《キャロット》の相手をするか、あるいは、もっとひどいことになるだろう。もしもタル・ハジュスと戦う機会がつかめなければだが。私はずいぶん長い間その機会を待ちつづけてきたのだ」
「ここにとどまろう、タルス・タルカス。そして今夜、タル・ハジュスに会うんだ。きみを犠牲にはしないよ。それに、今夜きみの待ちかねた機会が到来するかもしれない」
彼は激しく反対した。タル・ハジュスは私に打ちのめされたことを思いだすだけでも、しばしば癇癪《かんしゃく》を起こしているのだから、ここでつかまったりしたら、どんなひどい目にあわされるか見当もつかないというのだ。
やがて二人で食事をとっている間に、私は、いつかの晩サークへ向かう旅の途中の海底でソラが話してくれた身の上話をタルス・タルカスに語って聞かせた。
彼はほとんど口をきかなかった。しかし、その冷酷な恐ろしい生涯を通じて彼が愛したただ一人の人間に加えられた残忍な仕打ちを思い起こして、彼の顔の筋肉は激怒と苦悶にぴくぴく動いていた。
話し終わった私が、二人でタル・ハジュスのところへ行こうと言っても、彼はもはや反対はせず、ただ、その前にサルコジャと話がしたいと言った。そこで、彼の言うままに、いっしょにサルコジャの宿舎へ行った。サルコジャは毒々しい憎悪にみちた目つきで私を見た。その目つきを見ただけでも、はからずもサークに戻ってきた私の身にこれからどんな災難がふりかかってくるか知れたものではないことが十分にわかった。
「サルコジャ」とタルス・タルカスは言った。「四十年前にゴザバという女が拷問を受けて死んだのはおまえのせいだったのだな。その殺された女を愛していた戦士がおまえがあの事件で何をやっていたか、知ってしまったのだ。いいか、サルコジャ、その戦士はおまえを殺しはすまい。それが掟だからな。しかし、おまえの首に皮ひもをかけて狂暴な火星馬《ソート》に結びつけ、おまえがいつまでも一族とともに生きのびる力があるかどうかをためすだけなら、やっていけないはずはない。その戦士はあすの朝これを実行すると言っていた。私はそれを聞いたから、おまえに警告してやらなければいけないと思ったまでだ。私は公正な人間だからな。サルコジャ、イス川まではたいした道のりではないぞ。さあ、行こうか、ジョン・カーター」
翌朝、サルコジャの姿は見えなくなった。その後この女を見かけた者はいない。
私たちは無言のまま急いで皇帝《ジェダック》の宮殿に行った。すぐに彼の前に通された。皇帝《ジェダック》は私に会うのが待ちきれない思いだったらしく、私が部屋へはいったときには壇の上に突っ立ち、入口のほうをにらみつけていた。
「その男をあの柱に縛りつけろ」と皇帝《ジェダック》は金切り声を上げた。「偉大なタル・ハジュスをなぐったりしたやつがどういうことになるか、じっくり見とどけてやる。鉄を焼け。わしのこの手で目玉を焼きつぶしてやる。二度とあの卑しい目でわしの姿を冒涜《ぼうとく》することができないようにな」
「サークの王《ジェド》ならびに幹部諸君」私はタル・ハジュスを無視して、部屋に集まっている面々に向かって叫んだ。「私はきみたちの間で幹部をつとめたことがあるし、今日はまた、サークのために、一族の最も偉大な戦士と肩を並べて戦いもした。だから、少なくとも私の話を聞くぐらいの義理は諸君にもあるはずだ。私は今日、そのくらいの働きはしたはずだ。諸君はかねて公正な一族だと誇っているではないか――」
「だまれ」とタル・ハジュスがわめいた。「そいつに|さるぐつわ《ヽヽヽヽヽ》をはめて、命令したとおり縛り上げてしまえ」
「公正が大切ですぞ。タル・ハジュス」とロルクワス・プトメルが叫んだ。「長い間のサークの掟を無視することはあなたにもできません」
「そうだ、公正が大切だ!」と十人あまりの者が同調して叫んだ。そこで、憤激のあまり口から泡を吹いているタル・ハジュスを尻目に私はしゃべりつづけた。
「きみたちは勇敢な一族だ。何よりも勇敢な行為を賛美している。だが、今日の戦闘の間、きみたちの偉大な皇帝《ジェダック》はいったいどこにいたのだ。戦いのまっ最中には彼の姿は見えなかった。彼はいなかったのだ。身を守る術《すべ》のない女や幼い子供たちを彼は自分のねぐらで八つ裂きにしたりしているが、その彼が近ごろ男を相手に戦っている姿を見た者がいるか。いないだろう。こいつは、体をくらべれば小人《こびと》のような小さな私でさえ、握りこぶしの一撃でわけなく打ち倒せるような男なのだ。サーク族はこんな男を皇帝《ジェダック》にしているのか。私のすぐそばに立派なサーク人がいるではないか。偉大な戦士、堂々とした男がいるではないか。王《ジェド》ならびに幹部諸君、タルス・タルカスをサークの皇帝《ジェダック》にしたらどうだ」
この提案に喝采を送る声がどっと湧き上がった。
「あとは幹部会が決定をくだすだけのことだ。そうすれば、タル・ハジュスは支配者としての資格があることを証明しなければならなくなる。彼が勇気のある男なら、タルス・タルカスに決闘を申し込むだろう。タルス・タルカスをきらっているはずだからな。しかし、タル・ハジュスにはそれが恐ろしいだろう。きみたちの皇帝《ジェダック》タル・ハジュスは臆病者だからだ。なにしろ、私が素手でも殺すことができる男だし、当人もそれを知っているのだ」
私の話が終わると、緊張した沈黙がおとずれ、部屋じゅうの人間の目がタル・ハジュスに集中した。彼は何もしゃべらず、身動きもしなかった。しかし、そのできものだらけの緑色の顔は鉛色《なまりいろ》に変わり、唇には泡がこびりついていた。
「タル・ハジュス」とロルクワス・プトメルが冷やかな、きびしい口調で言った。「私の長い生涯の間でも、サークの皇帝がこれほどの侮辱を受けたのを見るのははじめてです。この非難に対する答は一つしかありません。それを見せていただきたい」それでもまだ、タル・ハジュスは石になったように動かなかった。
「王《ジェド》ならびに幹部諸君」とロルクワス・プトメルはつづけた。「皇帝《ジェダック》タル・ハジュスに、タルス・タルカスを支配する資格があるかどうか証明させようではないか」
壇のまわりには二十人の王《ジェド》や幹部がいたが、二十本の剣がさっと高く掲げられて同意を示した。
もはや道は一つしかなかった。この判定はくつがえしようのないものだった。そこでタル・ハジュスは長剣を抜き、タルス・タルカスと戦うために前へ出た。
決闘はあっという間に終わった。そして、死んだ怪物の首に片足をかけて、タルス・タルカスはサークの皇帝《ジェダック》になった。
新しい皇帝《ジェダック》の初仕事は私を正式の幹部に任命したことだった。こうして私は、捕虜になっていた数週間のあいだに決闘によって獲得した地位を不動のものにすることになった。
私は戦士たちがタルス・タルカスと私に対して好意を持っていることを見きわめると、機会をとらえて私のゾダンガに対する戦いに協力してもらおうとした。そこでタルス・タルカスにこれまでの私の冒険を語り、私が考えていることを簡単に説明した。
「ジョン・カーターが提案していることがある」とタルス・タルカスは一同に向かって言った。「私はそれに賛成だが、諸君にも手短かに説明しよう。われわれの捕虜だったヘリウムの王女デジャー・ソリスは、現在、ゾダンガの皇帝《ジェダック》にとらえられている。そして王女はゾダンガ軍によって自分の国が蹂躙《じゅうりん》されるのを防ぐために、皇帝《ジェダック》の息子と結婚しなければならない窮地に陥っている。
そこでジョン・カーターは、王女を救い出してヘリウムへ送りとどけようと提案しているのだ。もちろんゾダンガからは、すばらしい戦利品が奪い取れるだろう。それに私はしばしば考えていたことだが、われわれがヘリウムの一族と同盟を結べば、生活はもっと豊かで安全なものになり、子孫を孵化させる規模や回数も増大することができるのではなかろうか。そうなればわれわれは疑いもなく、バルスームの緑色人のなかで最もすぐれた一族になれるだろう。諸君はどう思う」
戦争はできるし、戦利品も手にはいるとあっては、いやも応もあろうはずはなかった。戦士たちはうまい餌に食いつく魚のように賛成した。
サーク人たちは気ちがいじみた熱意を示しはじめた。それから三十分とたたぬうちに、二十人の火星馬《ソート》にまたがった伝令が、遠征部隊を召集するために水の涸れた海底を全速力で走っていた。
三日後には、われわれはゾダンガに向かって総勢十万の軍勢を進軍させていた。タルス・タルカスは、ゾダンガから大量の戦利品が奪えるからという約束で、三つの小部族を遠征隊に参加させることができたのである。
私は偉大なサークの勇士と並んで行軍の先頭に立ち、私の火星馬《ソート》の後ろには愛すべきウーラが小走りについてきた。
われわれは夜の間だけ行軍し、進む速度を調節して昼間は荒廃した都市で野営するようにした。そして野営地では日中は全員屋内に閉じこもり、動物にいたるまで外へは出さないようにした。行軍の途中、タルス・タルカスはそのめざましい才能と政治力を発揮して、さまざまな部族からさらに五万人の戦士を参加させた。こうして、出発後十日目のま夜中にゾダンガの都の巨大な城壁の外に遠征部隊が停止したときには、総勢十五万の大軍にふくれあがっていた。
この獰猛な緑色人戦士の大軍の戦闘力は、十倍の人数の赤色人の軍勢に匹敵するものだった。このような緑色人戦士の大軍が進撃したことはバルスームの歴史はじまって以来ないことだとタルス・タルカスは言った。彼らの間に協調らしきものを保つだけでもたいへんな大仕事だったが、その彼らをたいした内輪もめも起こさせずにゾダンガまで引き連れてきたタルス・タルカスの手腕には、ただもう驚嘆するほかはなかった。
しかも、ゾダンガに近づくにしたがって、彼らの心の中には仲間同士の争いなど吹き飛ばしてしまうような赤色人に対する激しい憎悪の火が燃え上がってきたのだ。とりわけゾダンガ人は長年にわたって緑色人を容赦《ようしゃ》なく絶滅させようという政策をとりつづけ、とくに孵化器を目のかたきにして破壊していたから、その憎悪はいっそう激しかった。
いよいよゾダンガに到着したので、今度は都の中に侵入する手段を考えなければならなくなった。そこでまず、タルス・タルカスに指示して、全軍を二つに分け、それぞれの部隊を大きな門の前方の、都から物音を気づかれない地点に待機させるようにした。それから私は火星馬《ソート》からおりた二十人の戦士をひきいて、城壁に短い間隔をおいて作られている小さな門の一つに近づいた。これらの小さな門には正規の衛兵はいないが、歩哨が警備にあたることになっていた。歩哨は、地球の都会の警官のパトロールと同じように、城壁のすぐ内側に沿って都市を一周する大通りを巡察していた。
ゾダンガの都の城壁は高さが七十五フィート、厚さが五十フィートあり、巨大なカーボランダムのブロック造りだった。この城壁をこえて都に侵入するということは、私についてきた緑色人戦士たちには、とうてい不可能なことと思えたろう。その連中は小部族の戦士なので、私がどんな能力を持っているか知らなかったのである。
私は三人の戦士を城壁の前に向こうむきに並んで立たせ、たがいに腕を組ませた。それから別の二人に三人の肩に登れと命じ、さらに六人目にその二人の肩によじのぼらせた。一番上の戦士の頭は地上から四十フィート以上の高さになった。
こうして、私は六人の戦士を使って地上から一番上の男の肩まで三段になる階段を作った。それから私は少し後方から走り寄ってきて、すばやく一段ずつ飛びあがり、最後に一番上の男の大きな肩から跳躍して巨大な城壁のてっぺんにしがみつき、そっと広い頂上へはい上がった。それから、前もって六人の戦士の皮ひもを結び合わせて作っておいたロープを引き寄せると、その一方の端を一番上にいる戦士に握らせ、もう一方の端を城壁の内側の大通りのほうへ注意深くおろした。あたりに人影はなかったので、私は皮のロープを伝っておりられるだけおり、残りの三十フィートほどは飛びおりた。
門のあけ方はカントス・カンから教わっていたので、たちまちのうちに二十人の巨大な戦士が不運なゾダンガの都に侵入していた。
ありがたいことに、われわれが侵入したのは広大な宮殿の敷地を囲む防壁が低くなっている部分だった。はるかかなたに、まばゆい明かりに輝く宮殿の建物が見えた。そのとたんに私は、主力の大軍が兵舎を攻撃している間に自分は一隊をひきいてまっすぐ宮殿に踏みこんでやろうと決心した。
戦士の一人を伝令に送ってタルス・タルカスにこの考えを伝え、五十人の戦士を派遣してくれと頼んだ。それから十人の戦士に大きな門の一つを占領して開けるように命じ、その間に私は残りの九人を連れて、もう一つの大きな門を占領しに行った。この作戦は気づかれぬようにやる必要があったので、私が五十人のサークの戦士をひきいて宮殿に行くまでは、発砲もせず、総進撃も行なわないことにした。計画はうまくいった。私たちが出会った二人の歩哨はたちまちあの世へ送られ、二つの大きな門の衛兵たちもおとなしくそのあとを追った。
二十五 ゾダンガ攻略戦
巨大な城門が開くと、タルス・タルカス自身がひきいる五十人のサークの戦士がたくましい火星馬《ソート》にまたがって乗りこんできた。私は彼らを連れて宮殿の防壁の前まで行くと、助けもかりずにわけもなく防壁を乗りこえた。だが、なかにはいってみると、門をあける仕事がかなりの難物だった。それでも、やっと大きな蝶番《ちょうつがい》をきしませて門は開いた。そして、またたくうちに五十人の戦士はゾダンガの宮殿の庭を突っ切って火星馬《ソート》を走らせていた。
宮殿に近づくと、一階の大きな窓から明るく輝くサン・コシスの謁見室が見えた。この大広間は貴族とその夫人たちでごった返し、何か重要な儀式が進行しているようだった。宮殿のまわりには衛兵の姿は一つも見あたらなかった。おそらく、都の城壁も宮殿の防壁も難攻不落だと考えているためだろう。そこで私は近寄って、なかをのぞきこんだ。
広間の片側には、ダイヤモンドをちりばめた大きな金色の玉座があり、サン・コシスと皇后が盛装した将官や高官に囲まれてすわっていた。彼らの前には両側に軍人が立ち並んで広い通路を作っていた。見まもるうちに、広間の向こう側から行列が現われ、この通路を通って玉座のほうへ進んできた。
先頭に立っているのは四人の親衛隊士官で、大きな盆を捧げ持っていた。盆の上には緋色の絹のふとんが敷かれ、首輪と錠が両端についている大きな金の鎖がのせてあった。士官たちのすぐあとから、また四人の士官が同じような盆を捧げてやってきた。この盆の上にはゾダンガ王室の王子と王女のすばらしい装身具がのっていた。
玉座の前で二組の士官は左右に別れ、通路の両側に向かい合って立ちどまった。つづいて、また高官や侍従や軍人がやってきて、最後に二人の人間が近づいてきたが、どちらも全身を緋色の絹で包み隠しているので、何者なのかまったくわからなかった。この二人は玉座の前でサン・コシスのほうを向いて立ちどまった。行列の残りの者がすっかり広間にはいって所定の位置につくと、サン・コシスは前に立っている二人に話しかけた。私にはその言葉は聞きとれなかったが、すぐに二人の士官が進み出て、玉座の前にいる一方の人間の緋色のローブをとりさった。とたんに私はカントス・カンの壮挙が失敗に終わったことをさとった。目の前に姿を現わしたのは、ゾダンガの王子サブ・サンだったのである。
やがてサン・コシスは盆の一つから一組の装身具を取り上げると、金の首輪の一つを息子の首にはめて、しっかりと錠をかけた。そして、また何かちょっとサブ・サンに言ってから、もう一人の人間のほうを向いた。士官たちがいよいよその人間の絹のローブをとりのぞくと、はたしてヘリウムの王女デジャー・ソリスが姿を現わした。
これが何の儀式であるかは、もうわかりきっていた。あと一瞬ののちにはデジャー・ソリスはゾダンガの王子と永遠に結ばれてしまうのだ。それは感銘深い美しい式典なのだろうが、私にはこれまで見たこともない悪魔の祭典のように思えた。ついに装身具が彼女の美しい姿に合わせて調節され、彼女の首につける金の首輪がサン・コシスの手の中で開かれたとき、私は長剣を振り上げて、重い柄《つか》で大きな窓のガラスをたたき割り、驚く会衆のまっただ中へ飛びこんだ。私はサン・コシスのそばの玉座の踏み段まで一飛びで近寄り、彼が驚きのあまり立ちすくんでいるうちに、デジャー・ソリスをほかの男に結びつけるところだった金の鎖を長剣でたたき落とした。
たちまち大混乱になった。無数の剣が抜き放たれ、四方八方から私に迫ってきた。サブ・サンは結婚式の装身具の中から抜きとった宝石をちりばめた短剣をかまえて飛びかかってきた。彼を殺すのはハエをひねりつぶすぐらいに容易なことだったが、バルスームの古い掟が私の手を押えた。そこで、私の心臓めがけて突き出された短剣をかわすと、彼の手首をつかんで力いっぱい押えつけ、長剣で広間のかなたをさし示しながら叫んだ。
「ゾダンガは陥落したぞ。見ろ!」
すべての目は私のさし示した方角を見た。そこでは、タルス・タルカスと五十人の戦士が火星馬《ソート》にまたがって入口から悠々と乗りこんでくるところだった。
人びとの間から驚愕と警戒の叫びが上がった。だが、恐怖の言葉は一つも聞こえなかった。たちまちゾダンガの軍人や貴族たちは進んでくるサークの戦士に向かって突進していた。
私は壇上からサブ・サンをまっさかさまに突き落とし、デジャー・ソリスを引き寄せた。玉座の背後に狭い戸口があって、そこでサン・コシスが長剣をかまえて私に立ち向かおうとしていた。たちまち二人は戦いはじめた。サン・コシスはなかなか勇敢な相手だった。
二人が広い玉座の上をまわりながら戦っていると、サブ・サンが父親を助けようとして踏み段を駆け上がってきた。しかし、彼が私に切りかかろうと手を振り上げたとたんに、デジャー・ソリスが彼の前に飛びだしてしがみついた。次の瞬間、私の剣は見事に敵をさしとめ、サブ・サンはゾダンガの皇帝《ジェダック》になった。父親の死体が床の上にころがると、新しい皇帝《ジェダック》はデジャー・ソリスを振りきって、ふたたび私と向かい合った。すぐ四人の士官が加勢にきた。私は金色の玉座を背にして、またもやデジャー・ソリスのために戦った。激しく攻めたてられて身を守るのが苦しくなったが、それでも、サブ・サンを殺して、同時に愛する女性を手に入れる最後のチャンスをふいにするつもりはなかった。私は白刃を目にとまらぬ早さで振りまわし、敵の突きや切りつけを受け流した。二人の武器をはね飛ばし、一人を打ち倒したとき、さらに数人の者が、新しい皇帝《ジェダック》を助けて前の皇帝《ジェダック》の仇を討とうと走り寄ってきた。
「女だ! 女だ! あの女を殺せ。みんな女の策略だ。殺せ! 殺せ!」彼らは駆け寄りながら叫んだ。
私はデジャー・ソリスに私の背後にまわれと声をかけ、玉座の後ろの小さな戸口へしゃにむに近づこうとした。あそこに陣どれば、剣士が何人押し寄せようとデジャー・ソリスを守ることができると思ったのだ。しかし、士官たちは私のもくろみを見抜き、たちまち三人が背後にまわって道をさえぎった。
サークの戦士たちは広間のまん中で戦うのに精いっぱいで、とても加勢にくる余裕はなかった。奇跡でも起こらないことにはデジャー・ソリスと私が助かる見込みはなさそうだと思われはじめたとき、群がる小人《こびと》の群れをかきわけてこちらへ突き進んでくる巨人タルス・タルカスの姿が見えた。彼の巨大な長剣が一閃すると、十人あまりの死体が足もとにころがり、たちまち血路がひらけた。そして次の瞬間には玉座の上の私の横に立ちはだかって、四方の敵に必殺の剣をふるった。
それにしてもゾダンガ人の勇敢さは畏敬の念を起こさせるほどで、だれひとり逃げようとする者はいなかった。そして戦いが終わったとき、大広間に生き残っていたのはデジャー・ソリスと私のほかはサークの戦士ばかりだった。
サブ・サンは父親のそばに倒れて死んでいた。血まみれの修羅場《しゅらば》と化した広間の床には見わたすかぎりゾダンガえりぬきの貴族や騎士の死体が横たわっていた。
戦いが終わるとすぐに考えたのはカントス・カンのことだった。そこでデジャー・ソリスをタルス・タルカスに預けると、十人あまりの戦士を引きつれて宮殿の地下牢へ急行した。看守たちも全員とびだして広間の戦闘に加わっていたので、だれにも邪魔されずに迷路のような地下の牢獄を捜索することができた。
新しい廊下や独房に行きあたるたびにカントス・カンの名を呼びながら進んでゆくと、ついに応答するかすかな声が聞こえた。その声の方角へ進むと、まもなく暗い牢獄に監禁されているカントス・カンが見つかった。
彼は私に会って、牢獄までかすかに物音が聞こえていた戦いの意味を知ると躍《おど》り上がって喜んだ。そして、自分は例の宮殿の尖塔に到着しないうちに航空パトロール隊につかまってしまい、サブ・サンの顔を見ることもできなかったのだと語った。
独房の鉄格子や、彼を束縛している鎖はとても断ち切れそうもないことがわかったので、彼の言うとおりに私は階上へ引き返して、死体を次々に調べ、独房と鎖の錠をあける鍵を捜しまわった。
幸いにも、まっさきに調べた死体の山の中に看守の死体があったので、すぐにカントス・カンを救いだし、いっしょに広間に戻ることができた。
どなり声やわめき声にまじって猛烈な銃声が街のほうから聞こえてきた。タルス・タルカスは外の戦闘を指揮しようと急いで出ていった。カントス・カンも案内役としてタルス・タルカスについて行った。緑色人戦士たちはゾダンガの残りの敵と略奪の獲物を求めて宮殿の中を徹底的にあさりはじめた。こうして広間にはデジャー・ソリスと私だけがとり残された。
彼女は金色の玉座の一つにぐったりとすわりこんでいた。私が顔を向けると、弱々しい微笑を浮かべてみせた。
「ほんとうになんという方なのでしょう!」と彼女は叫んだ。「あなたのような方はバルスームには絶対にいませんわ。地球の男はみんなあなたのようなのでしょうか。たった一人で見知らぬ国にきて、追いまわされたりおどされたり、迫害されたりしているというのに、あなたはほんの二、三か月のうちに、バルスームの歴史はじまって以来だれ一人やったことがないことをやっておしまいになったのです。涸れた海の底に住む野蛮な部族の人びとを集めて、赤色人の国の味方として戦わせるなんて、ほんとに奇跡のようなことですわ」
「答は簡単ですよ、デジャー・ソリス」と私は微笑しながら答えた。「この仕事をやってのけたのは私ではなく、愛の力です。デジャー・ソリスに対する愛の力です。この力こそ、あなたがごらんになったことよりもっと偉大な奇跡を生みだすものなのです」
デジャー・ソリスは美しい顔を赤く染めて答えた。
「ジョン・カーター、もうそのことを口になさってもかまわないのです。私もそれを聞いてもいいのです。自由の身になったのですもの」
「言わなければならないことはまだたくさんあります。またまた手遅れになったりしないうちにね。私は今日まで生きてくる間には不思議なことをいろいろとやってきました。もっと賢明な人間ならやろうとしないようなこともたくさんやってきました。しかし、デジャー・ソリスのような女性を自分のものにしようなどとは夢にも思いませんでした――なにしろ、広い宇宙のはてにヘリウムの王女のような女性がいるなどとは想像もつかないことでしたからね。あなたが王女だからうろたえるというわけではなく、あなたが現実にそこにいるということだけで、こうして私のものになってくださいと頼んでいる自分はいったい正気なのかという気がしてくるのです」
「お頼みにならないうちから、その返答をよくご存じの方が、どうしてうろたえる必要がありましょう」デジャー・ソリスはそう答えて立ちあがると、愛らしい両手を私の肩にかけた。私は彼女を抱きしめて接吻した。
こうして、戦いの雄叫《おたけ》びと死と破壊に蹂躙《じゅうりん》された騒々しい戦乱の都のまっただ中で、軍神|火星《マース》の娘デジャー・ソリスは、バージニアの紳士ジョン・カーターとの結婚を誓ったのである。
二十六 虐殺から歓喜へ
やがてタルス・タルカスとカントス・カンがもどってきて、ゾダンガは完全に陥落したと告げた。ゾダンガ軍はことごとく殺されるか捕虜になるかして、都の中にはもはや抵抗するものはなかった。数隻の戦艦が脱出したが、何千もの軍艦や商船はサークの戦士の支配下にあった。
小部族の戦士たちは略奪や内輪げんかをはじめていた。そこで、集められるだけの戦士を集めて、ゾダンガの捕虜といっしょに、できるだけ多くの艦船に乗りこませ、一刻も早くヘリウムに向かって出発することに決めた。
五時間後、われわれは十万人近い緑色人戦士を乗せた二百五十隻の戦艦からなる大艦隊を編成し、火星馬《ソート》を積んだ輸送船団を従えて、高いドックの建物の屋上から出発した。
われわれのあとには、約四万の小部族の緑色人戦士が野獣のように暴れまわる死の都が残された。彼らは略奪と虐殺と仲間同士の殺し合いをはじめていた。いたるところに火が放たれて、都の上空には無数の黒煙が立ちのぼり、まるで下界の恐ろしい光景には太陽の光もとどかないような有様だった。
午後も半ば近くなったころ、ヘリウムの緋色と黄色の塔がみえた。と、ほどなく、ヘリウムの都を包囲しているゾダンガ軍の陣地から戦艦の大群が飛びたち、われわれを迎え撃とうと進んできた。
こちらの艦船はいずれもヘリウムの旗をいっぱい翻していたが、ゾダンガ軍にはその旗を見るまでもなく敵だということがわかっていた。ゾダンガ軍が飛びたつとほとんど同時に、緑色人戦士たちは攻撃の火ぶたを切っていたからである。戦士たちはその恐るべき名射手ぶりを発揮して、近づいてくる艦隊めがけて一斉射撃を繰り返した。
ヘリウムの双子《ふたご》都市は、われわれが味方であることを知ると、数百隻の船を援軍として飛びたたせた。そして、まもなく私がはじめて目撃する大規模な空中戦が開始された。
私たちの緑色人戦士を乗せた艦船は、ヘリウム艦隊とゾダンガ艦隊が戦っている上空を旋回しつづけるだけになった。海軍を持たないサークの戦士は海軍の砲術を知らないので、艦の備砲も使いようがなかったのである。それでも彼らの小火器の効果は実にすばらしく、この決戦の勝敗が彼らの存在によって決したとまでは言えないにしても、多大の影響を受けたことは確かだった。
最初のうち、両艦隊は同じ高度をとって旋回し、たがいに片舷斉射を繰り返していた。やがてゾダンガの陣地から飛びたった一隻の巨大な戦艦の船体に大きな穴があいた。と、見るまに戦艦は大きく傾いて転覆し、乗組員たちは豆をまいたように空中に投げだされ、身もだえしながら千フィート下の地面に落ちていった。そのあとを追って戦艦もすさまじい速さで墜落し、古代の海のやわらかな壌土《じょうど》の中にほとんど見えなくなるほど埋まってしまった。
ヘリウム艦隊から激しい歓声が上がった。そして前に倍する勢いでゾダンガ艦隊に攻め寄った。ヘリウムの二隻の軍艦はあざやかな動きを見せて敵の上空に舞いあがり、船底の爆弾投下口から爆弾の雨を浴びせかけた。
こうして、一隻また一隻とヘリウムの戦艦はゾダンガ艦隊の上に舞いあがることに成功した。そして、わずかな時間のうちにヘリウム包囲軍の多数の戦艦は戦闘能力を失って、大ヘリウムの空高くそびえる緋色の塔のほうへ漂流していた。ほかに脱出をこころみた艦が数隻あったが、たちまち数千の小型飛行船に包囲され、巨大なヘリウムの戦艦が頭上に覆いかぶさって、敵船乗込み隊を降下させた。
戦いは終わった。地上の包囲軍の陣地からゾダンガ艦隊がわれわれを迎え撃とうと意気高らかに飛びたってから一時間少々しかたっていなかった。敗れたゾダンガ艦隊の撃破をまぬかれた艦には拿捕《だほ》船回航員が乗りこんでヘリウムの都に向かわせた。
この大艦隊の降服には、きわめて悲壮な一幕があった。昔からの掟によって、降服の合図として敗れた艦の艦長はみずから地上に身を投げなければならないことになっていたのである。勇敢な男たちは次々に、頭上高く艦旗を掲げて巨大な船の高い船首から飛びおり、壮烈な最期をとげた。
残った船の艦長が一人残らずこの無惨な投身自殺をとげて降服の意を示すまでは戦闘は停止されなかった。そのために幾多の勇士がむだな犠牲となって死んでいった。
こうして戦いが終わると、私たちはヘリウム艦隊の旗艦に接近せよという信号を送った。旗艦が声のとどく距離まで近づいてくると、私は声をはりあげて、われわれの船にデジャー・ソリス王女が乗っていることを伝え、王女をただちに都へ送りとどけるために旗艦に移したいと告げた。
私の言葉の意味が完全にゆきわたると、旗艦の甲板から大きな歓声があがり、次の瞬間には艦の上部のいたるところからヘリウムの王女の旗がいっせいに現われた。艦隊のほかの艦船も送られてきた信号の意味をさとって、歓呼の声をあげ、輝く陽光の中に王女の旗をひるがえした。
旗艦は見る見るうちに接近し、私たちの船にぴったりと寄り添うと、十人あまりの士官がこちらの甲板に飛び移ってきた。彼らは、そのとき物陰からぞろぞろ出てきた何百人もの緑色人戦士を見ると、びっくりして立ちすくんだ。しかし、彼らを迎えに進み出たカントス・カンの姿を見ると、いっせいに走り寄って、彼をとり巻いた。
それからデジャー・ソリスと私が進み出た。士官たちは王女以外の者は目にはいらないようだった。デジャー・ソリスはしとやかに彼らの挨拶を受け、一人一人の名前を呼んだ。彼らはいずれも祖父の皇帝《ジェダック》に仕えて重く用いられている者たちだったので、彼女はよく知っていたのだ。
「ジョン・カーターに挨拶をなさってください」と彼女は私のほうを振り返りながら言った。「ヘリウムの王女が無事にもどってきたのも、今日の勝利が得られたのも、この方のおかげなのです」
士官たちはきわめて礼儀正しく私に話しかけ、いろいろと思いやりの深い、賞賛の言葉を述べた。しかし、彼らが最も感銘を受けたと思われるのは、デジャー・ソリスの救出とヘリウムの救援に獰猛なサーク族の助けをかりることができたということらしかった。
「お礼なら私よりもう一人の人間に言ってください」と私は言った。「ここにいる人です。ご紹介しましょう。こちらはバルスームで最も偉大な戦士であり政治家であるサークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカスです」
士官たちは私に示したと同じような洗練された礼儀正しい態度で、偉大なサークの戦士に挨拶の言葉を送った。驚いたことにはタルス・タルカスのほうも士官たちにさして劣らない落ち着いた態度と風格のある言葉づかいで応答した。サーク族は口数は多くないが、きわめて儀礼を重んじる民族なので、そうした習慣が非常に役に立って、威厳のある礼儀正しい態度が生まれたのだろう。デジャー・ソリスは旗艦に乗り移ったが、私がいっしょに行こうとしないので、ひどく不機嫌になった。しかし私は、戦争は勝ったとはいっても、まだ完全に終わったわけではない――まだ都を包囲しているゾダンガの地上軍を片づけなければならないから、それまではタルス・タルカスのそばを離れるわけにはいかないのだ、と彼女に説明した。
ヘリウム海軍の司令長官はわれわれの地上攻撃に呼応して都の中からヘリウム陸軍を出撃させるように手配すると約束してくれた。そこで両艦隊はわかれ、デジャー・ソリスは勝ち誇る人々とともにヘリウムの皇帝《ジェダック》タルドス・モルスの宮廷へ運ばれていった。
はるか遠くに緑色人戦士の火星馬《ソート》を積んだ輸送船団が浮かんでいた。戦闘中ずっと待機していたのだ。着陸用桟橋がないので、広い平原のまん中に動物たちをおろすのは非常にむずかしい仕事になるだろうが、ほかに手段はなかったから、われわれは都から十マイルほど離れた地点へ行って、仕事にとりかかった。
火星馬《ソート》を地上におろすには|つり《ヽヽ》索を使わなければならなかった。この仕事は明るいうちには終わらず、夜中までかかった。その間に二度、ゾダンガの騎兵隊が襲撃してきたが、ほとんど損害はなかったし、日が暮れると敵も引き上げてしまった。
最後の一頭の火星馬《ソート》がおろされるや否や、タルス・タルカスは進撃の命令をくだした。われわれは三つの部隊に分かれ、北と南と東の三方向からゾダンガ軍の野営地に忍び寄った。
野営地の一マイルほどの手前で敵の前哨部隊と遭遇した。そこで、あらかじめ打ち合わせてあった通り、これを合図に突撃を開始した。戦いに興奮して甲高いいやな悲鳴を上げる火星馬《ソート》とともに、われわれはすさまじい野獣のような喊声《かんせい》を上げながらゾダンガ軍めがけて襲いかかった。
敵も油断はしていなかったので不意打ちというわけにはいかなかった。たちまち、巧みに掘られた塹壕《ざんごう》線にぶつかった。われわれは何度も撃退された。そして正午近くになると、私はこの戦闘のなりゆきを心配しはじめた。
ゾダンガ軍は極地から極地まで彼らの水路が帯状に広がっている全地域から動員した百万に近い兵力を集めていたが、これに対抗する緑色人戦士は十万にも満たなかった。ヘリウムの援軍はまだ到着していなかったし、何の連絡もなかった。
だが、ちょうど正午に、ゾダンガ軍とヘリウムの都の間の戦線全域にわたって激しい砲声が聞こえはじめた。待ちかねた援軍がやってきたのである。
ふたたびタルス・タルカスは突撃の命令をくだした。そして、またもや巨大な火星馬《ソート》は恐ろしい戦士を乗せて敵の堅陣めがけて突進した。それと同時にヘリウムの軍勢が反対側のゾダンガ軍の防御線に押し寄せたので、たちまち敵軍は石うすにはさまれたように崩れはじめた。彼らは立派に戦ったが、結果はむなしかった。
最後のゾダンガ兵が降服したとき、都の前方の平原はすさまじい屠殺場と化していた。しかし、ついに殺戮は終わり、捕虜はヘリウムへ行進させられていった。そして、われわれは勝利の英雄として、堂々と行列を作ってヘリウムの門をくぐった。
広い通りの両側には女や子供たちがぎっしりと人垣を作っていた。男も少しはいたが、これは戦闘のあいだ都にとどまらなければならない任務をおびた者たちだった。われわれを迎える歓声はいつはてるともなくつづき、金、プラチナ、銀、宝石などの装身具がばらばらと降ってきた。都じゅうが狂ったように喜んでいた。
何よりも群衆を熱狂させたのは獰猛《どうもう》なサークの戦士の姿だった。いまだかつて緑色人戦士の部隊がヘリウムの門をくぐったことはなかった。その彼らが同盟軍としてやってきたことが赤色人たちの胸を感激でいっぱいにしたのである。
私がデジャー・ソリスのために働いたことをヘリウムの人びとはすでに知っているらしかった。あちこちから私の名を呼ぶ大きな声が聞こえたし、宮殿に向かって大通りを進んで行くと私と私の火星馬《ソート》にたくさん飾りをつけてくれた。そして、獰猛な顔つきのウーラがいるにもかかわらず、人びとは私のまわりに群がってきた。
壮大な宮殿の建物に近づくと、一団の士官が私たちを暖かく出迎えた。そして、タルス・タルカスとサーク族の王《ジェド》、その同盟部族の皇帝《ジェダック》と王《ジェド》、それに私にはタルドス・モルスの感謝の気持を受けていただきたいから、火星馬《ソート》からおりて、いっしょにきていただきたいと言った。
皇帝《ジェダック》一族は、宮殿の正面玄関に通じる大きな階段の一番上に立っていた。私たちが階段の途中まで登ると、上にいる一人が階段をおりてきて私たちを迎えた。その男は見るからに男らしい男で、背の高い、筋骨たくましい体をしゃんとのばし、自然ににじみ出る支配者の風格をそなえていた。だれに聞くまでもなく、この男こそヘリウムの皇帝《ジェダック》のタルドス・モルスであった。
彼が挨拶した最初の相手はタルス・タルカスだった。そして、その口から出た最初の言葉は、この二つの民族の間に生まれた新しい友情を永遠に変わらぬものにした。
「バルスーム随一の偉大な戦士にお会いできることは、タルドス・モルスにとって、この上ない名誉です」と皇帝《ジェダック》は誠意をこめて言った。「しかし、そのあなたの肩に友人として手を置くことができるのは、それにもまして喜ばしいことです」
「ヘリウムの皇帝陛下《ジェダック》」とタルス・タルカスは答えた。「バルスームの緑色人戦士に、友情というものの意味をはじめて教えてくれたのは、別世界からやってきたこの男なのです。サークの一族があなたのお言葉を理解し、やさしいお心づかいに感謝することができるのも、すべてこの男のおかげなのです」
次にタルドス・モルスは緑色人の皇帝《ジェダック》や王《ジェド》たちに挨拶し、その一人一人に友情と感謝の言葉を述べた。
やがてタルドス・モルスは私に近づき、私の肩に両手をのせて言った。
「ようこそ、私の息子よ。ヘリウムじゅうで、いや、バルスームじゅうで最も貴重な宝石を、喜んできみにさしあげることにしよう。それが私の心からの感謝のしるしだ」
それから私たちは、小ヘリウムの王《ジェド》でありデジャー・ソリスの父であるモルス・カジャックに紹介された。彼はタルドス・モルスのすぐ後ろについていたが、皇帝《ジェダック》以上にこの会見に感動しているようだった。
彼はいくたびとなく私に感謝の気持を伝えようとしたが、感動のあまり声をつまらせて、しゃべることができなかった。しかし、あとで知ったことだが、モルス・カジャックは戦争好きなバルスーム人の間でもめざましい勇猛ぶりと大胆さで聞こえた戦士だった。彼はすべてのヘリウム人と同様に、娘のデジャー・ソリスを熱愛していたので、彼女が危くのがれてきた災難の恐ろしさを思い、深い感動に襲われずにはいられなかったのである。
二十七 歓喜から死へ
サーク族とその同盟部族は十日間にわたって盛大なもてなしを受けた。それから、高価な贈り物の山をかかえ、モルス・カジャックのひきいる一万人のヘリウムの兵士に護衛されながら、それぞれの故国に向かって出発した。小ヘリウムの王《ジェド》は少数の貴族を連れて、はるばるサークまで緑色人について行き、新しく生まれた平和と友好の|きずな《ヽヽヽ》をいっそう堅固なものにした。
ソラも、父のタルス・タルカスについて行った。タルス・タルカスは一族の王《ジェド》や幹部がことごとく集まっている前で、ソラを自分の娘として認めた。
三週間後、モルス・カジャックと貴族たちは、タルス・タルカスとソラを連れ、戦艦に乗って戻ってきた。この戦艦は、デジャー・ソリスとジョン・カーターの結婚式に間に合うように彼らを連れてくるべくサークに派遣されたものだった。
九年間、私はタルドス・モルス家の王子としてヘリウム評議会の委員を勤め、ヘリウム軍の軍人として戦った。国民は飽くことなく私に栄光を与えつづけ、私のかけがえのない王女デジャー・ソリスに寄せる人びとの敬慕のしるしが届けられない日は、ただの一日もなかった。
宮殿の屋上に置かれた黄金の孵化器には、雪のように白い卵が一つはいっていた。もう五年近くの間、十人の親衛隊の兵士がたえず孵化器のそばに立って見張りをしていた。私が都にいるときは毎日必ずデジャー・ソリスと連れ立って、この私たちの小さな聖堂の前に立ち、優美な卵の殻が破れる日を指折りかぞえながら、あれこれと将来の計画を語り合った。
あの最後の夜のことは今でもありありと思い浮かべることができる。私たちは孵化器のそばにすわって、二人を結びつけた不思議な運命的なロマンスや、やがて二人の幸福をいっそう増大し、希望をかなえてくれるはずのこの子供の誕生という奇跡について、静かに語り合っていたのだ。
そのとき、遠い夜空のかなたに、こちらへ向かってくる飛行船の白く輝く明かりが見えたが、べつに珍しいことでもないので、なんとも思わなかった。だが、飛行船の明かりはすさまじい勢いでヘリウムめざして飛んでくるので、ついに、その速さだけから考えても、何か変事が起きたと思わないわけにいかなくなった。
飛行船は、皇帝《ジェダック》に緊急報告を持ってきたことを信号灯で知らせると、宮殿のドックに誘導してくれるパトロール船がぐずぐずしているのを待ちかねて、いらだたしげに旋回していた。
急使が宮殿に到着してから十分後、伝令がきて私は会議室に呼ばれた。行ってみると、評議会の委員たちが集まっていた。
タルドス・モルスは緊張した顔つきで、玉座のある壇の上を歩きまわっていた。そして、全員が席に着くと、こちらを向いて口を開いた。
「今朝、バルスームの数か国の政府にこういう知らせがはいった。大気製造工場の管理人が二日前から無線報告を一つもよこさないし、二十の首都からほとんど絶え間ない呼び出しをしてもまったく応答がないというのだ。
ほかの国の大使たちは、わが国がこの問題の処理を引き受けて、急いで助手の管理人を工場へ送るようにと依頼してきた。そこで千隻の巡洋艦に一日じゅう助手の行方を捜させたが、たったいま、その一隻が助手の死体を運んで戻ってきた。助手は自分の家の地下室で何者かに体をばらばらに切断されて死んでいたのだ。
この事態がバルスームにとって、いかなる意味を持つかはいまさら言うまでもあるまい。あの巨大な壁を突き破るには何か月もかかることだろう。実際のところ、その作業はすでに開始されている。ポンプ装置のエンジンが過去何百年のあいだ動いていたように、ちゃんと動いているのであれば、ほとんど心配することはないだろう。しかし、どうやら最悪の事態が起こったようなのだ。バルスームの全域にわたって気圧が急速にさがっていることが計器に示されている――すなわちエンジンがとまっているのだ」
「諸君、われわれが生きていられるのは、せいぜいあと三日だ」と皇帝は最後に言った。
数分の間会議場は静まりかえった。やがて一人の若い貴族が立ちあがると、剣を抜いて頭上に高く掲げながらタルドス・モルスに言った。
「ヘリウムの人間は、古来、赤色民族はいかに生きるべきかという手本をバルスームじゅうに示してきたことを誇りとしています。いまや、いかに死ぬべきかという手本を示す機会が訪れたのです。まだ千年も生きるのだというような余裕ある態度で、われわれの義務を果たそうではありませんか」
会議室には拍手が響きわたった。実際、われわれが手本を示すことによって人びとの恐怖をやわらげるほかにはどうしようもなかったので、一同は顔に微笑を浮かべ、心に悲しみを抱きながら立ち去っていった。
私が自分の宮殿にもどったときには、この噂はすでにデジャー・ソリスの耳にもはいっていた。そこで私は聞いてきたことをすっかり話した。
「ジョン・カーター、わたしたちはほんとうに幸福でしたわ」と彼女は言った。「どんな運命がわたしたちの身にふりかかるにしても、二人いっしょに死ねることを感謝しています」
次の二日間は空気の供給にそれとわかるほどの変化は認められなかったが、三日目の朝になると屋上などの高いところでは呼吸が困難になってきた。ヘリウムの大通りや広場は群衆でいっぱいになった。あらゆる仕事は停止していた。大部分の人びとはもはや変えようのない死の運命に雄々しくまっこうから対決していた。しかし、どうにもたまらなくなって、そっとすすり泣く男女も、そこかしこにいた。
その日の正午近くになると、虚弱な者の多くは倒れはじめ、一時間たらずのうちに何千ものバルスーム人が窒息死の前に起こる失神状態に陥りはじめた。
デジャー・ソリスと私は、王家の一族の人びとといっしょに宮殿の奥庭の窪地《くぼち》にある花園に集まっていた。私たちは忍びよる冷酷な死の影におびえて、ろくに口もきかなかったが、たまに話すときには低い小さな声でしゃべった。ウーラまでが今にもふりかかろうとしている災厄の重圧を感じているらしく、哀れっぽく鼻を鳴らしながらデジャー・ソリスと私にすり寄ってきた。
デジャー・ソリスの頼みで、小さな孵化器は宮殿の屋上からここまで運ばれていた。彼女はもはや永遠に知ることのできない未知の小さな生命をまじまじと見つめていた。
呼吸がかなり困難になってきたとき、タルドス・モルスが立ちあがって言った。
「さあ、たがいに別れを告げよう。バルスームの偉大な時代が終わるのだ。明日の太陽は死の世界を見おろすことだろう。その死の世界は思い出さえも存在しない天空を未来|永劫《えいごう》とびまわらなければならないのだ。すべては終わりだ」
タルドス・モルスは身をかがめて一族の女たちに接吻し、力強い手を男たちの肩にのせた。
私は悲しみに打たれて皇帝《ジェダック》から離れると、デジャー・ソリスを見た。彼女はがっくりとうなだれ、どう見ても生気はなくなっていた。私は叫び声を上げて彼女のもとに駆けより、その体を抱き上げた。
彼女は目を開き、私の目をのぞきこんだ。
「キスしてください、ジョン・カーター」と彼女はつぶやいた。「愛しています! 愛していますわ! わたしたち二人が引き離されるなんて、なんという残酷なことでしょう。愛と幸福にみちた生活がはじまったばかりだというのに」
いとしい唇に自分の唇を押しつけたとき、不屈の力を信じる昔ながらの感情が私の心に湧きあがった。私の体内を流れるバージニアの闘争の血が一気によみがえってきたのだ。
「そんなことにはさせないぞ、私の王女」と私は叫んだ。「何か方法がある。必ずあるはずだ。愛するきみだけのために見知らぬ世界で戦いながら生き抜いてきたジョン・カーターが必ずそれを見つけよう」
そう言ったとたんに、長いあいだ忘れていた九つの単音《たんおん》が意識の入口まで這い上がってきた。闇にひらめく稲妻のようにその九つの音《おん》の意味するものが私の心にひらめいた――そうだ、大気製造工場の三つの巨大な扉を開く鍵だ!
私は死にかかっている愛する女を腕に抱きしめたまま、とつぜんタルドス・モルスのほうを振り返って叫んだ。
「皇帝《ジェダック》、飛行船を! 大至急、宮殿の屋上に一番速い飛行船をまわすよう命じてください。まだバルスームを救うことができます」
皇帝《ジェダック》は理由を聞こうともせず、ただちに一人の衛兵に一番近いドックへ駆けつけるよう命じた。屋上では空気が薄く、ほとんどなくなりかけていたが、人びとはバルスームの技術が生みだした最も速い一人乗りの偵察機をどうにか引っぱりだすことができた。
私はデジャー・ソリスに何度も接吻し、ついてこようとするウーラに、ここにいてデジャー・ソリスを守るように命令すると、昔ながらの身軽さと体力を発揮して宮殿の高い防壁の上に飛びあがり、一瞬ののちには、全バルスームの希望がかかっている目的地をめざして進んでいた。
なんとか呼吸をするためには低く飛ぶ必要があったが、古代の海の底を横切る直線コースをとったので、地上わずか二、三フィートのところを飛ばなければならなかった。
私は猛烈なスピードで飛んだ。私の使命は死を相手に早いもの勝ちの競争をすることだった。デジャー・ソリスの顔がたえず目の前に浮かんだ。宮殿の庭を立ち去りながら最後に振り返ったときには、彼女はよろめいて、小さな孵化器のそばの地面に倒れるところだった。彼女は最後の昏睡《こんすい》に陥ったのだ。このまま新しい空気が補給されなければ、死んでしまうにきまっている。私は慎重さをかなぐり捨てて、エンジンと羅針盤以外のものは身につけている飾りにいたるまで全部機外へ投下した。そして甲板に腹ばいになって片手でハンドルを握り、もう一方の手で速度レバーを全速の目盛りにまで押しながら、瀕死の火星の稀薄な空気の中を流星のような速さで突っ切っていった。
日没の一時間前、大気製造工場の巨大な壁がにわかに行手に浮かび上がってきた。私は目のまわるような勢いで、この遊星の全住民の死命を制している小さな扉の前の地面に地響き高く突っこんだ。
扉のそばでは大勢の男たちが壁に穴をあけようとして骨を折ったのだが、堅い壁の表面にひっかき傷を作ったぐらいのもので、今では大部分のものが、もう空気があったところで目覚めようのない最後の眠りについて横たわっていた。
状態はヘリウムよりここのほうがはるかに悪く、呼吸もほとんど困難になっていた。まだ意識のある者が二、三人いたので、私はその一人に話しかけた。
「ここの扉をあけることができれば、だれかエンジンを動かせる者がいるかね」
「私が動かせます」と男は答えた。「今すぐ扉があけられるならですよ。私の命ももうほんの少しの間しかもちませんからね。しかし、むだでしょう。管理人は二人とも死んでしまって、このとんでもない錠のあけ方を知っている人間はバルスームじゅう捜してもほかにはいないのです。三日の間、恐怖のあまり気の狂った連中がこの扉の前へ押しかけて、謎をとこうとしましたが、むだでした」
しゃべっている余裕はなかった。私もひどく弱ってきて、理性を保っているのも困難になりかけていた。
私はがっくりと膝をついて倒れたが、最後の気力をふりしぼって目の前の恐怖の扉を見つめ、九つの思考波を投げかけた。さっきの火星人は私の横に這い寄っていた。二人は前方の扉をにらみつけ、死の沈黙の中でじっと待った。
巨大な扉はじょじょに後退した。私は立ちあがり、扉の動きについて行こうとしたが、体がいうことをきかなかった。
「行け」と私は火星人に言った。「ポンプ室まで行ったら、全部のポンプを動かすのだ。バルスームが明日という日を迎えるたった一つのチャンスだぞ!」
私は倒れたままの場所から二番目の扉を開き、さらに三番目も開いた。そして、バルスームの最後の希望の火となった男が弱々しく四つんばいになって最後の戸口を通り抜けるのを見たとき、気を失って倒れた。
二十八 アリゾナの洞窟で
ふたたび目を開いたときには、暗くなっていた。私の体は奇妙なごわごわした衣裳にくるまれていた。上体を起こしてすわると、衣裳は音を立てて砕け、こなごなになって落ちた。
私は上から下まで自分の体に触れてみた。全身に衣服をまとっている。あの小さな戸口で意識を失ったときには裸だったのだが。目の前には、ぎざぎざの裂け目があって、そこから月明りの空がほんの少し見えていた。
両手で体をさぐっていると、ポケットにぶつかり、その一つに油紙でくるんだ小さなマッチの包みがあった。それを一本すってみると、ほの暗い炎に照らしだされたのは大きな洞窟らしく、その奥のほうに、奇妙な人間のかたちをした動かないものが小さなベンチを前にして身をかがめているのが見えた。近づいてみると、それは長い黒い髪をした小柄な老婆のミイラだった。かがみこんだミイラがのぞいているのは木炭こんろの上にのせた丸い銅の容器で、その中には少量の緑色の粉末がはいっていた。
老婆の背後には、人間の骸骨がいくつも生皮の|ひも《ヽヽ》につるされてぶらさがり、洞窟いっぱいにずらりと並んでいた。骸骨をつるしてある|ひも《ヽヽ》から別の|ひも《ヽヽ》がもう一本のびていて、その先端は老婆の手が握っていた。私がその|ひも《ヽヽ》にさわると、骸骨の行列は枯れ葉がふれあうような音をたてて揺れ動いた。
それはなんともグロテスクな恐ろしい光景だった。私は急いで外へ飛びだして、新鮮な空気を吸いこみ、あのような気味の悪い場所から逃げだしたことを喜んだ。
洞窟の入口からつづいている狭い岩棚に出たとき、私はふと目の前の風景を見て胆をつぶした。
目に映ったのは見知らぬ空と見知らぬ景色だった。はるか遠くには銀色に光る山脈が連なり、空にはほとんど動かない月がかかり、眼下にはサボテンの点在する谷間がひらけている。どこを見ても火星の景色ではなかった。私は自分の目が信じられない思いがした。だが、しだいに真実が浮かび上がってきた――私は十年前に強いあこがれの目で火星を見つめていたときと同じ岩棚に立って、アリゾナの風景を見つめているのだ。
私は傷心と悲嘆に頭をかかえ、洞窟からつづく山道をくだって行った。
頭上には、赤い目のような火星が四千八百万マイルのかなたに恐ろしい秘密を抱いて輝いている。
あの火星人は無事にポンプ室にたどりついただろうか。はたして、命の綱の空気の供給が間に合って、あの遠い遊星の住民を救うことができただろうか。私のデジャー・ソリスは生きているだろうか。それとも、あの美しい体は、ヘリウムの皇帝《ジェダック》タルドス・モルスの宮殿の奥庭の窪んだ花壇の中で、小さな黄金の孵化器のかたわらに冷たい死骸となって横たわっているのだろうか。
十年間、私はこれらの疑問に対する答が得られることを祈りながら待ちつづけた。十年間、私は失われた恋人の世界へ連れ戻されることを祈りながら待ちつづけた。彼女から何千万マイルも離れて、この地球で生きているよりは、死んで彼女のそばに横たわっているほうがましだと思う。
十年前に発見した鉱山はあのままだれにも手をつけられずに残っていた。おかげで私はとほうもない大金持になった。だが、富が何になろう!
私は今夜、こうしてハドソン川を見おろす小さな書斎にすわっているが、私が最初に火星で目を開いたときから、ちょうど二十年の歳月が流れたことになる。
机のそばの小窓から空を仰げば、火星が輝いているのが見える。今夜は火星がふたたび私を呼んでいるような気がする。あのアリゾナの長い死の夜以来たえてなかったことだ。はてしない宇宙のかなたで、美しい黒い髪の女が宮殿の庭に立ち、自分にまつわりつく小さな男の子に大空のはての地球をゆびさしている姿がありありと目に浮かんでくる。そして二人の足もとには、黄金の心を持つ巨大な醜い動物がひかえているのだろう。
彼らは火星で私を待っているにちがいない。もうすぐそれがわかるのだ。なんとなくそんな気がする。(完)
あとがき
E・R・バローズの「火星シリーズ」を知らない人でも、同じ作者の「ターザン・シリーズ」なら、すでに映画やテレビでおなじみだろうと思う。あのターザン――ジャングルに住み、めっぽう強くて、正義派で、自分のことをI(私)と言わずに「ターザンは……する」などと奇妙に舌たらずの三人称で語り、美人の細君とジャングルの動物たちをこよなく愛している男――オリンピック選手だったワイズミュラーなどが演じて忘れられない印象を残したあのヒーローの創造主が、すなわち本書の作者バローズである。
エドガー・ライス・バローズ Edgar Rice Burroughs は一八七五年にシカゴで生まれ、一九五〇年、七十五歳で亡くなるまでに、二十冊あまりのターザン物、十冊の「火星シリーズ」、そのほか金星や月や地底やアメリカ西部を舞台にした数多くの小説を書いた、非常な多作の作家である。それらの作品のなかで一番有名なのが「ターザン・シリーズ」と「火星シリーズ」で、アメリカでは初版以来多くの版を重ね、一九六三年に「火星シリーズ」がポケット・ブックの双書「バレンタイン・ブックス」に収められてからは、バローズのファンは更に広い層にまで拡がったようである。
本書「火星のプリンセス」A Princess of Mars はその「火星シリーズ」の記念すべき第一作で、一九一二年「オール・ストーリー・マガジン」という雑誌に「火星の月の下で」Under the Moons of Mars なる題で連載されたのち、一九一七年に現在の題名で単行本として出版された。これが好評を得たので、バローズは同じ雑誌に第二作「火星の女神イサス」、第三作「火星の大元帥カーター」を書きつづけ、こうして「火星シリーズ」が誕生したわけである。
このシリーズの主人公はジョン・カーターといい、めっぽう強くて、美女や動物をこよなく愛するところはターザンにも似ているが、ターザンと違う点は、この人物が元職業軍人であり、南北戦争が終ると同時に職業と収入を一挙に失い、しかもアメリカ南部の有産階級のよき伝統――いわゆる紳士階級の騎士道精神を失わぬ人間として描かれていることである。たとえばマーガレット・ミッチェルの「風とともに去りぬ」に描かれている諸人物や状況を思い出してみれば、ジョン・カーターのような主人公が生まれた背景が理解しやすくなるかもしれない。バローズの父親は南北戦争中、南軍の少佐で、バローズ自身も第一次大戦には陸軍少佐として応召している。こうしてみるとジョン・カーターは作者バローズの理想像であったと言えるだろう。作者は、アメリカ南部の出身者が南北戦争後に失われたと感じた精神的諸価値への郷愁のようなものからこのヒーローを創造したに違いないのだが、それはまた異常な経済発展の渦中にあって人間的なものの喪失にひそかな不安と恐怖を覚える大多数の大衆が夢みる英雄でもあったわけである。ジョン・カーターは、したがって、何よりもまず精神的な男であり、打算や損得勘定を嫌うという特質を持っている。
私は自分には英雄の素質がそなわっていないと思う。なぜなら、私はいくたびとなく自分から進んで死に立ち向かったことがあるが、いつの場合にも何時間もあとにならなければ、そのときの自分の行動にかわる別の手段があることに思い至ったためしはないからだ。どうやら私はめんどうくさい思考作用などには頼らず、なかば無意識のうちに義務感の命ずるままに活動するような頭の構造にできているらしい。それはともかく、私は自分が臆病になれないのを悔やんだことは一度もない。
ここで主人公が「めんどうくさい思考作用」と呼ぶものは、すなわち近代的・合理主義的な考え方のことであり、それとは縁遠いと自ら宣言する主人公(作者)が空想科学小説《サイエンス・フィクション》の分野に入りこんでいったことは、たいそう興味ぶかい事実である。これは失地回復の望みを断たれた南部人の胸にひそむ新天地開拓の夢が、火星や未開の密林や地底や月世界という舞台を借りて、このようなかたちで発現したとみることはできないだろうか。少なくともジョン・カーターという人物の意外なほどの現実性がこのシリーズの成功の原因の一つであることは疑う余地がないと思う。そして以後のSF、ことにスペース・オペラと呼びならわされた宇宙冒険物語に、いつも極端に異なる二つの傾向――科学の面での発明や工夫に最大の興味を抱く技術者的な明るい傾向と、古いゴシック・ロマンふうの異常で狂暴な筋立てや多少デカダン的な詩情を好むむしろ暗い傾向とが、ぴったり貼りついて同居していることもまた事実であろう。この「火星シリーズ」はそのような傾向の|はしり《ヽヽヽ》なのである。
ところで、一九一二年頃の宇宙科学一般の水準や、火星にかんする知識は、今日と比べて遙かに低かったから、この物語のなかのサイエンスの部分が今日の読者には時としてお粗末に感じられることがあるかもしれない。火星における数々の科学兵器や科学的設備のアイデアは恐ろしく先進的ではあるけれども、それにしても、たとえば主人公がアリゾナから火星まで「あこがれ」の力だけで飛んで行く場面は、どんなにバローズに好意的な読者でも失笑してしまうだろうと思われる。だが、それを補って余りあるのは、作者の強烈な想像力が描き出した火星の光景である。バローズが想像した火星は弱肉強食の――ターザンの物語におけるジャングルのように――部族社会であって、たぶん地球上の未開民族の生態にヒントを得たのだろうと類推される「火星人」たちのしきたりや風習は、科学的真実が欠落しているためにかえっていっそうの奇妙な現実性をもって私たち読者に迫ってくる。そしてバローズの筆致は、ロマンチックな内容とは裏腹に、たいそう論理的であり、記録文学のように冷静である。この点にも「火星シリーズ」がSFの古典として名誉ある地位を保つ理由があるのだろう。
何はともあれ、きわめて男っぽい男ジョン・カーターの勇敢な大活躍や、絶世の美女デジャー・ソリスとの哀愁味を帯びた恋の一部始終を読むことは、矮小な事物にわずらわされることの多い私たち現代の読者にとって、まことに一服の清涼剤である。いわゆる古き良き時代への郷愁とともに、新しい未知なるものへの飽くことを知らぬ挑戦と、幼児のように素直な賛嘆の心とは、この「火星シリーズ」の生命の長さを保証しているもののようである。(訳者)