E・R・バローズ
地底世界ペルシダー
目 次
プロローグ
一 永遠の焔に向かって
二 不思議な世界
三 新しい主人
四 美女ダイアン
五 奴隷
六 恐怖のはじまり
七 自由の身となって
八 マハールの神殿
九 死の顔
十 再びプートラで
十一 マハールの四死体
十二 追跡
十三 狡滑な男
十四 エデンの園
十五 再び地上へ
解説 地球空洞説の系譜
登場人物
デヴィッド・イネス……若く強靭な精神と肉体を持つ鉱山主
アブナー・ペリー……地下試掘機を製作した老技術者
美女ダイアン/毛深い男ガーク/狡猾な男フージャ/醜男《ぶおとこ》ジュバル
……以上、地底世界の住人。残虐な爬虫生物マハール族の捕虜
ジャ……メゾプ族の勇者
強者ダコール……美女ダイアンの兄
プロローグ
まずはじめにご承知おき願いたいと思うことは、私がこの物語を読者に信じていただこうと期待していないということだ。この前、ロンドンに出張した折、私は相手の見境もなく、王立地質学会の特別会員を掴まえてこの物語のあらましをとくとくとして語ってきかせたのだが、その折に私がどんな体験をしたかを諸君がごらんになっていたら、私がこういうのもしごく当然だとお思いになるだろう。
あの時あの場に居合わせたら、諸君は私がおそれ多くも国王陛下のコーヒーに一服盛り奉ったとか、あるいはロンドン塔から王家の表章を盗み出したとか、何かそういった大それた犯罪を冒してそれが露見したためにあんな仕打ちを受けているのだなと解釈されたにちがいない。
私が物語を打ち明けた当の博学の紳士は、話が半分もおわらない先に凍りついたようにすくんでしまった! ――もっともそのおかげでその紳士はかろうじて爆発するところをまぬかれたのだが――かくて王立地質学会の名誉会員となり、勲章を授かって栄誉の殿堂に不朽の名を留めるという夢は、かの紳士の北極の冷気にも似た峻厳な態度の前に、はかなくも消え失せたのだった。
とはいうものの、私自身この物語を信じている。諸君にしても、王立地質学会のあの博学の士にしても、私にこの物語を語ってきかせた当の男の口からじかに聞いていたら、おそらく信じていただろう。私のように、あの灰色の瞳に宿る真実の焔を目《ま》のあたりにし、あの穏やかな声の奥に誠実のひびきを聞き取り、物語の底に終始一貫して流れるペーソスを汲《く》みとっていたら――諸君もきっと信じておられたにちがいない。私が目のあたりにしたあの世にも無気味な嘴口竜《ランフォリンクス》のような怪物――その男が地底世界から持ち帰った怪物――を、決定的証拠として目で見て確かめるまでもなかったろう。
私が彼に遭遇したのは、あの広大なサハラ砂漠のはずれのことで、まったく予期しない不意の出会いだった。小さなオアシスの中の棗椰子《なつめやし》の木立の中央に羊皮で作ったテントがあって、その前に彼はつっ立っていた。すぐそばには八つか十ばかりのテントが集ってできたアラビア人のテント部落があった。
私は北方からライオン狩りにやって来たところで、砂漠の現住民を十二人ほど連れていた――つまり私はただ一人の「白人」だったわけだ。われわれ一行が、わずかばかりの緑草地に近づくと、その男はテントを離れて、小手をかざしてわれわれの方を喰い入るように凝視した。そして私の姿を見つけると、あたふたと進み出てわれわれ一行を迎えた。
「白人ですね!」男は叫んだ。「ありがたい! もう何時間もあなたがたを見張っていたんですよ。|こんどこそ《ヽヽヽヽヽ》白人がいるだろうと、はかない望みを抱いてね。今日の日付を教えて下さい。今は何年なんですか?」
私が教えてやると、男は顔面をしたたか殴られでもしたようによろよろと倒れかかり、私のあぶみ革をつかんでかろうじて身体《からだ》を支えた。
「そんなバカな!」ややあって男は叫んだ。「そんなバカな! ねえ、後生だから今のはまちがいか、ほんの冗談だったっていって下さい」
「ぼくは、ほんとうのことをいってるんですよ」私は答えた。「そんな、たかが日付くらいのことで、知らない人をだましたり、だまそうとしたりして何になります?」
しばらくの間、彼はうなだれたままで黙然とつっ立っていた。
「十年か!」ついに彼はつぶやくようにいった。「そうか、十年も経《た》っていたのか、それなのにわたしはせいぜい一年くらいだと思ってたんだ!」
その夜、男は身の上話をきかせてくれた――それをここに思い出せる限り彼が話した通りのことばでお話しようと思う。
一 永遠の焔に向かって
私は、今を去る三十年ほど前に、コネティカットで生まれた。名はデヴィッド・イネス。父は富裕な鉱山主だった。私が十九歳の時、父は亡くなり、全財産は私が成年に達した時に――それまでの二年間を、のちに相続することになるこの大事業に関する勉強に打ちこむという条件で――私のものになることになった。
私は父の遺志にそうように全力をつくした――それは何も遺産のせいではなく、父を敬愛していたからだった。六カ月間、私は採掘現場で、あるいは事務所で、骨身惜しまず働いた。それというのも、この事業に関することは細大洩らさず知っておきたかったからだ。
ペリーの発見に興味を惹《ひ》かれたのは、ちょうどそんな時だった。ペリーは、長い生涯の大部分を地下試掘機の完成に捧げてきた老人で、その合い間の息抜きに古生物学を研究していた。私はペリーの設計図に目を通し、論点に耳を傾け、実用模型を検分した――その上で、納得がいったので、実際に使える実物大の試掘機を建造するために必要な資金を融通してやった。
建造に際しての詳細は省《はぶ》くことにしよう――現在、機械はここから三キロほど先の砂漠に置かれている。明日、そこまで車で出かけて行って、見てこられるのもよろしかろう。大体のところを説明すると、その機械は全長三十メートルの鋼鉄製の円筒《シリンダー》で、必要とあれば固い岩石の間を縫って曲折して進行することができるような具合に節々《ふしぶし》が接続されている。一方の先端にはエンジンによって作動される強力な回転ドリルがついていて、ペリーの話ではそのエンジンの一立方センチあたりの出力は、他のエンジンの千七百立方センチあたりの出力をはるかに上まわるということだった。このエンジンを発明したということだけでもわれわれはどえらい金持になれるんだ、とペリーが日頃いっていたのを思い出す――それはともかくとして、最初の秘密実験が成功裡に終ったら全貌を公開することになっていたのだ――それなのに、ペリーはあの実験旅行から二度と再び帰ってはこなかった。そしてかくいう私は十年後にやっと帰ってくることができたのだ。
あの驚くべき発明の実用性をためすテストを決行することになっていたあの夜のことを、まるで昨日のことのように思い出す。私たちがあの堂々とそびえ立つやぐらに出かけて行ったのは真夜中近くのことだった。ペリーの称する「鉄製もぐら」は、この中で建造された。巨大な機首は、やぐらの床のむき出しの地面に接していた。私たちはドアを通り抜けて被筒《ジャケット》の中にはいり、しっかりとドアを閉めた。それからさらに進んで、操縦装置を備えた内部|筒《チューブ》の中のキャビンにはいって行って電灯をつけた。
ペリーは発電機《ジェネレーター》を調べ、次に巨大なタンクを点検した。この中には、消耗する空気と入れ換えに新鮮な空気を製造するもととなる生命の綱の化学薬品がはいっている。それから温度、速度、距離を記録する器具や、これから通過して行く物質を調査する機械を点検した。
次に操縦装置をテストし、そのものすごい速力をこの奇妙な乗物の機首にある巨大なドリルに伝達する大歯車に目を通した。
私たちは座席についてベルトを締めた。座席は横軸に支えられていて、試掘機が地中に向かって真下に掘り進んでいようと、大石炭層に沿って水平に進もうと、また、地表に向かって再び垂直上昇しようと、いつまでもまっすぐになっていられるようにできていた。
ついに準備は完了した。ペリーはうなだれて祈祷をささげ、私たちはしばし沈黙した。それから老人の手が発進レバーをつかんだ。と、私たちの下でものすごい唸《うな》りが起った――試掘機の巨体がビリビリと振動する――ビュッ、ビュッと音がして、ばらばらになった土くれが、内側と外側の筒《ジャケット》のあいだの空間をすっとんで、私たちが通過したあとにどんどん堆積されていく。私たちは発進したのだ!
轟音《ごうおん》は耳をつんざき、まったく生きた心地がしなかった。たっぷり一分間というものは二人ともどうすることもできず、溺死寸前の男さながらに、ぐらぐら揺れる座席の手すりにしがみついているのが精一杯だった。やがてペリーは温度計にちらと目を走らせて叫んだ。
「こいつはどうだ! こんなはずがないぞ――早く! 距離計にはいくらと出ている?」
距離計も速度計も、キャビンの私の側にあった。で、距離計を見ようとそっちの方に向いた時、ペリーがつぶやくのが目にはいった。
「五度あがっている――あり得んことだ!」見るとペリーは狂ったように舵輪と取っ組んでいる。
薄明の中でついに小さな指針を捜しあてた時、私はペリーが動揺している理由をそこに読み取って愕然《がくぜん》とした。しかし私は、自分にとりついた恐怖を隠して口を開いた。
「こいつを水平にもどせる頃には二百メートルの地下にもぐっていることになるよ、ペリー」
「それじゃ、きみの手を借りたほうがよさそうだ。わし一人ではとてもこいつを垂直からもどせそうもない。力を合わせたら、神のご加護でなんとかやってのけることができるかもしれん。さもなきゃおしまいだ」
私は、老人の横へ這《は》うようにして近づいた。私の若々しい、張り切った筋肉の力に、あの大きな舵輪がたちどころに屈するものと信じて疑わなかった。私のこの確信は単なる自惚《うぬぼ》れではない。というのも、私の体格は常に仲間の羨望の的《まと》で、とてもかなわないと思われていたからだ。そのことがまた、持ち前の体格にさらにみがきをかけるもととなった。私は、自分が体力に恵まれていることを誇りに思い、できるだけのことをして身体《からだ》と筋肉を大切にし、発達させるように努力したのだ。ボクシング、フットボール、野球などをして、幼少の頃から鍛練《たんれん》をつんでいた。
そんなわけで、巨大な鉄の舵輪をつかんだ時は自信満々だった。ところが、どうだろう、私が満身の力をふりしぼっても、ペリーがやった時と変りばえもせず、しかもそれで精一杯なのだ――びくともしない――冷酷非情なおそろしい舵輪は、私たちを捉えたまま、まっしぐらに死への道筋をたどっている!
やがて私は、無駄な努力をやめて無言で自分の席へもどった。この際、言葉など不必要だった――少くとも私はどんな言葉も思いつかなかった。もっとも、ペリーが祈祷をしたいというのなら別だが。私は、彼がきっと祈祷をするだろうと思っていた。彼は祈祷をはさむことのできる機会があれば、絶対に見逃さなかったからだ。朝、目がさめると祈り、食前食後に祈り、夜、床につく前にまた祈るのだ。その合い間にも、私のような俗人の目から見るとまるで関係がないように見えることにまで、なんとか理由をこじつけては四六時中祈っていた――そのペリーが今やまさに死のうとしているのだから、さぞや派手な祈祷|三昧《ざんまい》が見られるものと私は思いこんでいた――そんな厳粛な行為を、こんなふうにいうのはどうかと思うが。
ところが驚いたことには、死を目前に控えて、アブナー・ペリーは一変して別人となった。彼の唇から、祈祷どころか純粋かつ明瞭な罵詈雑言《ばりぞうごん》が奔流のようにほとばしり出たのだ。それらはすべてあのむっつりとした頑固な機械装置の一部に向けられていた。
「ねえ、ペリー」と、私はたしなめた。「信心深いことにかけては自他ともに認めるきみのことだ。死が迫っているこの際、悪態をつくよりは祈りそうなものだと思うがねえ」
「死だと!」ペリーは叫んだ。「きみは死ぬのがこわくてオタオタしているのかね? この世界がこうむる損失にくらべたら、そんなものは問題じゃない。いいかね、デヴィッド、われわれはこれまで科学が夢想だにしなかった数々の可能性をこの鉄製|筒《シリンダー》の中に実証したんだ。われわれは新しい原理をものにした。そしてその原理を応用して一片の鋼鉄に一万人に相当する力を与えて動かした。今、われわれを乗せて永遠の地底の焔に向かって突っ走っているこの物体を完成することによって、わしは数々の発見をし、それを立証した。その発見が、地中深く葬り去られようとしているんだ。この世界的な不祥事にくらべたら、二個の生命が消されることなどものの数ではないわ」
どんな損失かは疑問だが、世界がこうむろうとしていると考えられる損失がなんであれ、それよりも私自身にとっては、目先のことのほうが正直いってずっと気がかりだった。
世界は少くとも何を失おうとしているのか知らないのだし、一方、私にとってこれはまぎれもなくおそろしい現実なのだ。
「どうしたらいいんだろう?」私は低い平板な声の奥に不安を押し隠してたずねた。
ペリーは答えた。
「ここで止るもよし、そうして空気《エア》タンクがからになった時に窒息死するか、それとも、この先で、試掘機の進路を最終的には地上へもどれるような大円孤を描くように転換させることができるかもしれんという、はかない望みをかけてこのまま進むか、どっちかだな。地中のもっと高い温度に到達する前にそれが成功したら、あるいは生きのびられるかもしれん。成功のチャンスは、おそらく数百万に一つ、とわしは見るね――もし成功しなかったら、われわれの死期は早められるだろうが、腕をこまねいて、じわじわと忍び寄るおそろしい死の責苦を待つのも同じことさ」
私は温度計にちらと目を走らせた。四十三度だ。しゃべっている間に、巨大な「鉄製もぐら」は地殻の岩盤を一・六キロ以上も掘り進んでいたのだ。
「では、このまま進むことにしよう」と、私はこたえた。「この調子だとすぐに一巻の終りだ。こいつの速力がこんなに早いなんて一度もいわなかったね、ペリー。知らなかったのかい?」
「ああ。速度を正確に計算できなかったんだ。発電機《ジェネレーター》の偉大なる力を測定する器具がなかったもんでね。とはいっても、時速四百五十メートルくらいは出てると推測していたんだが」
「それが時速十一キロも出しているとはね」と、私は距離計に目を据《す》えたまま、彼の言葉を受けていった。「地殻って、どれくらいの厚さなんだい、ペリー?」
「そのことなら地質学者の数ほど多くの説があるが、ある学者は四十八キロだと推定している。というのは、地熱は深度十八メートルから二十一メートルごとに約一度あがるが、それでいくと、地表下四十八キロの距離では、地熱はもっとも耐熱性のある物質をも溶融してしまうほどだからだ。また、ある学者は、歳差と章動の現象から見て、地球には――かりにすっかり固形状でないとして――少くとも千三百キロから千六百キロくらいの厚さの殻があるとしている。ま、こんなところだが、きみの気に入った説を取るといい」
「それじゃ、もしも地球が固体だったら?」
「結末は同じことだよ、デヴィッド。どう見つもっても燃料油はせいぜい三、四日分だし、空気は三日以上ももたないだろう。だから一万三千キロの岩石を突破して地球の反対側へ無事到達するにはどっちも不足なんだよ」
「もしも地殻に充分の厚みがあったら、地下千キロと千百二十キロの間で止ったきりということになるな。でも最後の二百四十キロの行程でぼくたちは死骸になる。そうだね?」
「その通りだ、デヴィッド。こわいかね?」
「わからない。何もかもあんまり突然に起ったんで、ぼくたちが置かれた立場の真のおそろしさを、二人のどっちもが把握しているとは信じられないんだ。ぼくは恐怖に度を失っているべきなんだろうが、そうはなっていない。あんまりショックが大きかったんで、感覚が部分的に麻痺してしまったんだと思うよ」
再び私は温度計をふり向いた。水銀の上昇はさっきほど急速ではなく、現在六十度にしかすぎなかったが、それでも私たちは深度六キロ近くまで貫通していた。私がペリーにそれを伝えると、彼は微笑してただ一言、
「少くともわれわれは一つの学説をぶちこわしてやったな」と、いった。そして、こっちの方は任せておけ、とばかりに再び舵輪に向かって景気よく悪態をつきはじめた。海賊が罵言《ばげん》を吐くのを一度耳にしたことがあるが、その海賊がよりぬきの言葉を並べたとしても、ペリーの堂に入った科学的な呪詛の言葉にくらべたら足もとにも及ばなかったろう。
私は今一度舵輪に手をかけてためしてみたが、地球そのものをゆすぶろうとしたも同然だった。私の提案で、ペリーは発電機《ジェネレーター》を止めた。試掘機が停止すると、私は、髮一筋ほどでも動かしてやろうと、今一度全力を結集してしゃにむにやってみた――が、全速力で進んでいた時と同様、徒労に終わった。
私は悲しげに首を振って、発進レバーの方を身振りで示した。ペリーはレバーをぐいと引き寄せた。そして私たちは、再び時速十一キロの速力で果てしない行く手に向かって一路下降して行くのだった。私は温度計と距離計から片時も目を離さなかった。今では水銀はひどくのろのろと上昇していたが、たとえ六十二度でも、この窮屈な金属製の牢獄の中に閉じこめられているのは耐え難いほどだった。
正午頃、ないしはこの不運な旅路についてから十二時間後に、私たちは深度百三十五キロの地点まで掘り進んだ。水銀は摂氏六十七度を示していた。
ペリーは以前よりも望みありげになってきた。いったいどんな取るに足らぬ根拠が彼の楽観主義を支えているのかさっぱり見当もつかない。いままで呪っていたのが、こんどは歌をうたいだしたのだ――過度の緊張からとうとう頭に来たんだな、と私は思った。時おり彼が計器の示度をたずね、私がそれを伝えるほかは、これで数時間私たちはしゃべっていなかった。私の心は取り返しのつかない後悔でいっぱいだった。過ぎし日の数々の所業が思い出される。あと二、三年生きのびることができるなら、喜んで償いをしたものを。アンドーヴァーのラテン・コモンズで、キャルフーンと二人してストーヴに火薬をしのばせておいたことがあったっけ――すんでのことで教師の一人を殺してしまうところだったな。そうそう、それから――だがこんなことを考えて何になる。私は今やまさに死のうとしていて、それやこれや、そのほか一切合財《いっさいがっさい》をつぐなおうとしているのだ。すでに熱はあの世の前ぶれを感じさせるほどで、あと二、三度も上がればきっと意識を失うだろうと思われた。
「今、なんと出ている、デヴィッド?」ペリーの声が私の陰欝《いんうつ》な想念を中断した。
「百四十四キロで、七十二度だ」
「すごいぞ。われわれは地殻四十八キロ説を吹っ飛ばしたんだ!」ペリーはうきうきと叫んだ。
「ああ。だがそれがなんの役に立つというんだ」私はがみがみといい返した。
「しかしだね、きみ、あの温度で何か気がつかないかね? 九キロの間、上昇してないんだよ。よく考えてみたまえ、お若いの!」
「ああ、考えてるとも。だが空気を使い果たしてしまったら、六十七度だろうと、六万七千度だろうと、どんなちがいがあるというんだ? 死んじまうことに変りはないじゃないか。それに、どっちみち誰もそんなちがいは知らずじまいにおわるんだよ」とはいったものの、どういうわけか、温度が変らないということが、薄れつつあった私の希望をよみがえらせたということは認めなくてはならない。もっとも、何に希望をつないだのか説明しようにもできなかったろうし、また、しようともしなかったのだが。ペリーが苦心して説明したように、非常に正確かつ学術的な科学の仮説をいくつか打破したというそのこと自体が、私たちの行く手の地中に何ごとが控えているかを計り知ることは不可能だということを明示しているし、それならそれで最善を期待して希望をつないでいくほかはあるまい。せめて死ぬまでは――希望はわれわれの幸福にとって不可欠のものだが、死んでしまえばそれまでだ。これは非の打ちどころのない、論理的な理屈なので、私はこれにしがみついた。
百六十キロの地点で、温度は六十七度に|下った《ヽヽヽ》。そのことを告げると、ペリーは腕をさしのべて私を抱きしめた。
以後、二日目の正午まで温度は下降しつづけた。そしてついに、以前には暑くて耐え難かったように、こんどは寒くて、いてもたってもいられないほどになった。深度三百八十キロの地点では、耐え難いほどのアンモニアの臭気に鼻腔《びこう》をおそわれた。温度は零下二十三度《ヽヽヽヽヽヽ》まで下っている! 二時間近く、私たちはこの肌を噛むような酷寒にさいなまれたが、やがて地表から約三百九十キロのところで厚い氷層に突っこむと、水銀はするすると上昇して零度になった。つづく三時間、私たちは十六キロにわたる氷層を通過した。そしてついにまたアンモニアの充満した一連の層にはいった。ここで水銀は再び零下二十三度に下った。
水銀はいま一度ゆっくりと上昇した。これでいよいよ溶融した地球の内部に接近しつつあるのだということがわかった。六百四十キロの地点では六十七度に達していた。私はいたたまれない気持で温度計を見守った。温度はのろのろと上昇した。ペリーはもはや歌をやめてついに祈るようになった。
私たちの希望はあまりにも痛烈な打撃をこうむったので、熱は徐々に増加しているにもかかわらず、想像力が歪《ゆが》められたせいもあって実際よりもはるかに高いように思えた。それから一時間、私は非情な水銀柱がどんどん上昇するのをみつめていた。六百六十キロでは六十七度を示していた。二人は息の根がとまりそうな不安を抱いて計器の目盛りとにらめっこをはじめた。
六十七度といえは、氷層より上では最高温度だった。やっぱりここでとまってくれるのだろうか、それとも情《なさけ》容赦もなく上昇をつづけるのだろうか? 望みが絶たれたことはわかっていたが、生そのものに対する執着心から、私たちは目の前にある確固とした事実に抵抗してはかない望みを抱きつづけた。
すでに空気《エア》タンクの空気は減少の一途をたどっていた――貴重な気体はかろうじて十二時間もちこたえるだけしかない。とはいうものの、はたしてそれまで生きていられるだろうか! それはまったく信じ難いことのように思えた。
六百七十五キロの地点で、私はまた目盛りを見た。
「ペリー!」私は大声を出した。「ペリーってば! 温度が下っていく! 下っていくぞ! また六十六度になった」
「こいつは驚きだ!」と、彼は叫んだ。「どういうことなんだろう? 地球のど真ん中は寒いってことかな?」
「わからんね、ペリー。だが有難いことに、死ぬとしても焼死はまぬかれる――ぼくはそれだけをおそれていたんだ。どんな死に方でもけっこうだが、焼死だけはごめんだ」
水銀はどんどん下降して、地表から十一キロの地点と同じ低さになった。と、その時、突如として私たちは死がすぐそばにあることに気がついた。最初にそれを発見したのはペリーだった。彼は空気調節バルブをいじくっていたが、それと同時に私は息苦しくなってくるのを感じた。頭がくらくらして――手足がだるくなってくる。
私は、ペリーが座席にヘタヘタとくずおれるのを見た。彼は身体《からだ》を一度ゆすぶってしゃんと坐り直し、それから私の方を向いた。
「さようなら、デヴィッド。どうやら最後が来たようだ」そういって彼は微笑を浮かべて目を閉じた。
「さよなら、ペリー。幸運を祈るよ」私は微笑を返して答えた。だが私は懸命になってあのおそろしい睡魔をはねのけた。まだ若いんだ――死にたくない。
一時間のあいだ、私は四方八方から取り囲んでじりじりと冷酷に迫ってくる死と戦った。まず私は、はるか頭上の骨組によじのぼったら、生命の源である貴重な気体をもっと多く得られるということに気がついた。そしてそれからしばらくの間、そこの空気を吸ってしのいだ。ペリーが倒れてから確か一時間後だったと思う。ついに私はこれ以上運命に抗《あらが》ってこの不利な戦いを続けることは不可能だと悟った。
意識の最後のひらめきとともに、私は機械的に距離計の方にふり向いた。距離計は、地表から八百キロきっかりを示している――と、ふいに私たちを乗せている巨体が停止した。中空の筒《ジャケット》を通って岩が飛び去るガラガラという音もぴたりとやんだ。巨大なドリルがやたらと回って、それが空気中《ヽヽヽ》で空転していることを物語っていた――と、また別の事実にはたと気がついた。試掘機の先端が私たちの上《ヽ》にあるのだ。ようやく思い出した。それは氷層を通過している時から上にあったのだ。私たちは氷の中で方向転換をして、地殻に向かって急上昇したのだ。有難い! 助かったぞ!
試掘機が地中を通っている間に地質見本をキャビンの中へ採取するはずになっていた吸いこみパイプに私は鼻をつけた。私の虫のいい望みは現実となった――新鮮な空気が鉄のキャビンの中へどんどん流れこんでいる。その反動で私はふらふらとなり、気を失ってしまった。
二 不思議な世界
意識を失っていたのは、ほんのつかのまのことだった。というのも、それまでしがみついていた大梁から前方へ飛び出して、キャビンの床の上にすさまじい音をたてて倒れたはずみにそのショックで正気に返ったからだ。
真先に頭に浮かんだのはペリーのことだった。今まさに救われるという瀬戸際に死んでしまっているのではないかと考えて慄然《りつぜん》とした。彼のシャツをしゃにむに引きちぎって開き、胸に耳を押しあててみた。そしてほっとして思わず歓声をあげるところだった――ペリーの心臓は規則正しく鼓動していたのだ。
私は水槽でハンカチを濡らし、彼の額や顔を、そのハンカチで数回はげしくひっぱたいた。有難いことに、彼はすぐにまぶたを開いた。そしてしばらくの間、目をぱっちりと見開いたまま朦朧《もうろう》としてそこに横たわっていたが、やがて徐々に正気を取りもどすと、怪訝《けげん》そうな顔で空気を吸いこみながら上体を起した。
「こいつはどうだ」と、彼はついにさけんだ。「デヴィッド、空気だ。わしは生きている。これは――これはどういうことなんだ? わしらはいったいどこにいるのかね? 何ごとが起ったんだ?」
「心配しなくてもぼくたちはちゃんと地上にかえったんだよ、ペリー」と、私は叫んだ。「でも、どこにいるのかわからないんだ。まだ試掘機を開いてないんでね。きみを蘇生《そせい》させることで精一杯だったんだよ。それにしても危いところをよくぞまあ生き返ってくれたなあ!」
「地上へ帰ったって? どうやって? わしはどれくらい意識を失っていたのかね?」
「たいした時間じゃないよ。ぼくたちは氷層で方向転換したんだ。座席がいきなりグルグルと回転したのを覚えていないかい。あのあとで、ぼくたちの下にあったドリルが上になったんだ。ぼくたち、その時には気がつかなかったんだが、ぼくは今になって思い当るよ」
「それじゃ何かい、われわれは氷層でもと来た方角に方向転換したというのかい、デヴィッド? そいつは不可能だよ。この試掘機は、機首を曲げない限り方向転換できないんだ。もしも機首が、外部から――外的な力、もしくは抵抗によって――曲げられたとしたら、内部の舵輪がそれに応じて動いたはずだ。ところが、デヴィッド、舵輪は出発以来びくとも動いていない。それはきみも承知のことだろ」
「確かにそれは知っている。とはいうものの、現にこうしてドリルは空中で空転しているし、大量の空気がキャビンに流れこんでいるじゃないか」
「氷層で方向転換はできなかったはずだ。ペリー、それはぼくにもよくわかっているよ。でも、事実方向転換したんだ。だって今この瞬間、ぼくたちは再び地上にいるんだからね。ぼくはこれから外へ行って、ここがどこか見てくるよ」
「朝まで待ったほうがいい、デヴィッド――今はきっと真夜中だよ」
私はクロノメーターに目を走らせた。
「十二時半だ。ぼくたちは七十二時間もぐっていたんだから、今は真夜中にちがいないな。ま、何はともあれ、二度と見られないとすっかりあきらめていた有難い空を、ちょいと拝んでくるよ」そういいながら私は閂《かんぬき》を持ち上げて内側のドアをさっとひらいた。筒《ジャケット》には、こなごなになった物質が山のようにたまっていて、その向こうの外被にあるドアまで到達するにはシャベルで除去しなくてはならなかった。
私は、向こうのドアが現われるだけの土砂や岩石を短時間でキャビンの床に移した。ドアを押し開いた時、ペリーは私のすぐ後にいた。試掘機の上半分が地上に出ている。私は呆気《あっけ》に取られてふり返り、ペリーを見た――なんと外は白昼ではないか!
「ぼくたちの計算か、クロノメーターか、どっちかが狂っていたらしいね」と、私がいうと、ペリーは首を振った――目には奇妙な表情が浮かんでいる。
「外へ出てみよう、デヴィッド」と、彼は叫んだ。
二人は連れ立って、森閑と静まり返った景観の中に降り立った。それは無気味であると同時に美しい景色だった。目の前には、低く平坦な浜辺が波一つない海に向かってつづいている。見渡すかぎりの水面には、小さな島が無数に点在していた――中には草一本生えていない花崗岩《かこうがん》がそそり立つ島もあるが、その他の島は、目のさめるような鮮やかな花を無数にちりばめた絢爛《けんらん》たる熱帯植物の衣装をまとっていた。
私たちの背後には、陰々として、足を踏み入れることもはばかられるような森林が天をついていて、太古の熱帯森林によくある木々にまじって、巨大な樹木のような羊歯《しだ》類が欝蒼《うっそう》と茂っている。巨大な蔓《つる》植物が木から木へと大きな弧を描いて垂れさがり、倒れた幹や、落ちた枝がもつれ合っているその上一面に、びっしりと下生《したば》えがはびこっている。森の外側には、島々を飾っているのと同じく目もあやな花々が無数に咲き乱れているのが見えるが、濃い下闇《したやみ》のなかでは、何もかもが墓場のようにどんよりと陰欝《いんうつ》に見える。
そして、これらすべてのものの上に、真昼の太陽が雲一つない大空から焼けつくような光線を降り注いでいた。
「いったいぜんたい、ぼくたちはどこにいるんだろう?」私は、ペリーをふり返ってたずねた。
ちょっとの間、老人は答えなかった。彼はうなだれて物思いにふけっていた。が、やがてついに口を開いた。
「デヴィッド、われわれは地球|上《ヽ》にいるかどうか疑わしいよ」
「なんだって、ペリー?」私は叫んだ。「それじゃきみは、ぼくたちが死んで、そしてここが天国だとでも思っているのかい?」
彼は微笑してふり返り、私たちの背後の地面から突き出ている試掘機の機首を指さした。
「そのことなんだがね、デヴィッド、あの試掘機さえなかったら、わしはわれわれがほんとうに三途《さんず》の河を越えた国へ来たんだと信じたかもしれん。だが試掘機があるからにはそういう理論はなり立たない――こいつが天国へ昇るなんてことは絶対にあり得ないんだ。とはいっても、わしは、われわれが常日頃親しんできた世界とは別の世界に事実上いるのかもしれんということを認めるにやぶさかではないつもりだ。地球|上《ヽ》にいるのでないとすれば、地球内にいるのだと考えざるを得まい」
「あるいは地殻を貫通して西インド諸島のどこかの熱帯の島にひょっこり出て来たのかもしれないじゃないか」と、私はもちかけてみたが、ペリーはまたしても首を振った。
「まあ、ようすを見ることにしようや、デヴィッド。この間に海岸線をあっちこっちと歩いて、ちょいと探険をしてみてはどうだろう――ひょっとすると原住民に出くわすかもしれん。そうしたら何かわかるだろう」
二人で海岸線に沿って歩いた。ペリーは水の向こうを長々と、熱心に見つめている。明らかに彼は大問題と取っ組んでいるのだ。
「デヴィッド」彼はふいにいった。「水平線のことだが、何か異常なことに気がついたかね?」
私は、ここの景色を見た当初から、奇怪で不自然なものに目を迷わされているようなその景色の異様さが気にかかっていたが、そういわれて見ると、その原因がやっとわかりはじめた――|水平線がないのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》! 目の届くかぎり海がつづき、海面には小さな島々が浮かんでいて、はるか沖にある島などは微細な点と化している。ところがその彼方もまだずっと海なのだ。目の届く範囲でいちばん遠いところを見ようとすれば、ついには|見上げる《ヽヽヽヽ》といった感じになり、それが実に真に迫っているのだ――彼方の海がさらに彼方の海に呑まれて消えている、というだけのことで、視野の下の地球の俯角《ふかく》が作り出す明確な水平線というものがないのだ。
「今、たいしたことがわかりかけているところなんだ」と、ペリーは時計を取り出しながらつづけた。「この謎の一部はとけたと思うよ。今、二時だな。試掘機から出て来た時、太陽は真上にあった。今どこにある?」
ひょいと見上げると、偉大な天体はなおもじっと中天にかかっている。それにまた、なんという太陽だ! さっきはさして気にもとめなかったが、これまで馴染《なじ》んできた太陽のたっぷり三倍はあって、しかもあんまり近くにあるので、手を伸ばせばもうちょっとで触れるという気がしてくる。
「驚いたな、ペリー。ぼくたちはどこにいるんだろう?」と、私は大声で口走った。「まったくいらいらしてくるよ」
「はっきりいわせてもらうとだな、デヴィッド、われわれは――」と、ペリーはいいかけたが、それ以上言葉をつづけることはできなかった。背後の試掘機の付近で、今まで聞いたこともないような、なんともすさまじい、雷鳴のような咆哮《ほうこう》が聞こえたのだ。二人がいっせいにふり向くと、そのものすごい声の持主がそこにいた。
もしや地球にいるのではないかという疑いがまだ心の中にあったとしても、私が目《ま》のあたりにした光景はそれをきれいさっぱり吹っ飛ばしてしまったろう。森の中からぬっと姿を現わしたのは、熊に非常によく似た大怪獣だった。象のいちばんでかいやつくらいの大きさは充分あって、太い前足には巨大な爪をそなえている。そいつの鼻、というか、鼻|面《づら》は、まるで象の鼻が退化したように下|顎《あご》の三十センチ近くまで垂れ下っている。そして巨大な図体には濃い剛毛が密生している。
怪獣は、身の毛もよだつような声で怒号しながら、重い、引きずるような足取りで足早に向かって来た。この場は逃げるが勝ちだとペリーにいおうと思ってふり向いた――が、明らかにペリーの方が先に同じことを思いついていたのだろう。彼はとっくに百歩も先にいて、ぴょんぴょんはねるような驚異的な足取りでどんどん遠ざかって行く。この老紳士が、こんなに逃げ足が早いとは思いもよらなかった。
彼は、私たちが立っていたところからさほど遠くない海に突き出た森のせまい一角に向かっていた。一目見たとたん、彼にかくもめざましい行動を起させた巨大なけだものは、その間にも着々と迫って来ていたので、私はペリーのあとを追って――といっても、ペリーよりはいくぶん上品な足取りで――駆け出した。追ってくる巨大なけものがスピードの出る身体《からだ》つきをしていないことは明らかだった。そこで、距離を充分離しておいて木にたどりつき、追いつかれる前に大枝の安全な場所によじ登ることができれば大丈夫だと考えた。危険が迫っているにもかかわらず、私は、ペリーが今やっとたどりついた木の下枝に登ろうと無我無中になっている格好を見て、失笑を禁じ得なかった。その木の幹は、下から五メートルくらいのところまですべすべしていて、手がかりになる枝も何もなかった――少くともペリーが登ろうとした木は全部そうだった。森の大木の中でも大きいほど安全だという気持からそんな木に惹きつけられることになったのだろう。彼は巨大な猫のように何回となくよじ登ろうとしたが、地面に逆もどりするばかりで、そのつど、迫ってくるけものの方を怯えた目つきでちらとふり返ってはおそろしげな悲鳴をあげて、欝蒼《うっそう》とした森のこだまを呼びさますのだった。
そのうちに、彼は腕くらいの太さの蔓が垂れさがっているのを見つけた。そして私がその木に到着した時には、両手を交互に使って死物狂いでその蔓を登っているところだった。が、蔓がかかっているいちばん下の枝に今にも手が届こうという時に、蔓が彼の重みでぷっつりと切れ、彼は私の足もとにうつ伏せに落下した。
こうなっては彼の失敗も笑いごとどころではなかった。というのは、すでにけものは安閑としていられないくらい近くまで迫っていたからだ。私はペリーの肩をつかんで引き起し、ペリーが楽に腕と足を巻きつけることができるくらいの、もっと小ぶりな木にダッとばかりに駆け寄って、できるだけ高く押し上げてやり、あとは彼の運命に任せることにした。というのは、肩越しにちらと見ると、怪獣はもう私におどりかからんばかりのところに来ていたからだ。
私が難をまぬかれたのも、ひとえにけものが大きかったからで、何しろあの巨体だから動作がひどく緩慢で、私の若々しい筋肉の敏活さには太刀打《たちう》ちできなかった。そこで私はひょいと体をかわして、のろまなけものがまごまごしている間にそいつの真後《まうしろ》にまわった。
これで二、三秒かせぐことができたので、その間に、ペリーがやっとの思いで避難所を見つけた木から二、三歩のところにある木の枝に無事逃れることができた。
無事に逃れた? その時は、これでもう安心だと思ったし、ペリーもそう思った。ペリーは、私が救われたことを感謝して、声を上げて祈っていた――そして、あいつが木に登れなくて有難うございました、と唱えおわったとたん、けものはペリーの下で、巨大な尾と後足を使ってふいにぬっと立ち上り、見るもおそろしい爪の生えた前足を、ペリーがうずくまっている木の枝に近々とさしのばした。
つづいてとどろいた咆哮は、ペリーの悲鳴にかき消されてしまい、おそろしい前足から逃れようと泡を喰ってじたばたしたペリーは、下であんぐり開いた口の中にすんでのところでまっさかさまに落ち込むところだった。彼が無事に上の枝に登ったのを見届けた時にはほっとして思わず溜息が出た。
ところが、つぎにこの野獣は、私たちをあらためてぞっとさせるようなことをやりはじめた。木の幹を強力な前足でぐいと鷲《わし》づかみにすると、巨体の重みと頑丈な筋肉にみなぎる底力を結集してぐいぐいと引き下したのだ。徐々にではあるが確実に幹はけものの方にたわみはじめた。垂直に立っていた木がたわむにつれて、けものはじりじりと前足を木の方に移していった。ペリーは腰を抜かさんばかりに怯えて、歯をカタカタ鳴らしながらしがみつき、たわみ揺れる木を上へ上へと這い登った。木のてっぺんは地面に向かってどんどんしなだれていく。
この大怪獣がこんなにとほうもなく大きい前足を持っている理由が今やっとわかった。けものは自然が配慮したとおりに、その前足を使っている。こののろまな生物は草食で、その巨体を養うために木をまる裸にしてしまうのだ。やつが私たちを襲ってきた理由は、獰猛《どうもう》で愚鈍なアフリカ犀《さい》の喧嘩早い性質と考え合わせると容易に説明がつく。だが、こういったことはあとになって考えたことだ。その時は、真近に迫る死の手からペリーを助けることだけを考え、ペリーの身の上を案じて気も狂わんばかりだったからだ。
平地に出たら、この無器用な野獣を引きはなすことができるということに気づいた私は、老人がもっと大きな木に登って安全を確保する間だけけものの注意をそらしてやろう、とそれだけを念頭に葉の間の避難所から飛びおりた。付近には、あの大怪獣のものすごい腕力をもってしてもたわませることができないような木はいくらもあった。
地面に足が着くと、私は、ジャングルのような地面をびっしりとからみ合っておおっている下生《したば》えから、折れた枝を一本ひっつかみ、けものの毛むくじゃらの背の後に、気づかれないようにひょいと近づいて痛烈な一撃を浴びせた。私の計画はたちどころに効を奏した。先刻の緩慢さから察して、このけものがこの時のように驚異的な敏捷さを発揮するとは思いもよらなかった。
けものは、木を放すと四つ足で立ち、同時に太い邪悪な尾をビュッと振った。もしも私に当っていたら、身体中の骨がこなごなにくだけていたろうと思えるほどの勢いだった。だが、幸い、私は山のような背中に一撃を喰わせると間髪を入れずにきびすを返し、すたこら逃げ出していた。
怪獣が私を追って駆け出した時、私は広々とした海岸の方へ出ずに森の縁に沿って逃げるという過ちをおかしてしまった。たちまち私は朽《く》ちた植物に膝《ひざ》まで埋まってしまった。抜け出そうとじたばたもがいているうちに、背後の怪獣はどんどん迫ってくる。
この時、一本の倒れた丸太がその場を有利に導いてくれた。というのは、それによじ登ってそれから二、三歩先にある別の丸太に飛び移り、というふうに順々に飛び移って行くことによって、周囲の地面を隙間なくおおっているどろどろしたものに足を踏みこまずに逃げることができたからだ。だがそのためにジグザグコースをとらなくてはならなかったので大きくハンディキャップがつき、追跡者はじりじりと差をつめて来た。
と、その時突如として後方で、殷々《いんいん》たる遠吠えと、けたたましい吠え声がきこえた――一群の狼がいっせいに吠えたてる時によく似た声だ。私は思わず後をちらとふり向いて、この新たに耳にはいった殺気立った鳴き声の主を発見した。が、その結果、足もとを誤って、またもや堆積した朽葉の中にべったりと大の字に倒れてしまった。
巨大な敵は、もはやきわどいところまで接近していたので、立ち上れる前にあのおそろしい前足がのしかかってくるだろうと観念した。が、驚いたことに、一撃は降ってこない。新たに出現した一隊の遠吠えや歯を鳴らす音や吠え声はしだいにたかまって、すでに喧騒をきわめていたが、それが今や私のすぐ後に集中されているらしいということがわかった。私は両手をついて身体を起し、ちらと後をふり向いてみた。
|ダイリス《ヽヽヽヽ》――このけものがこう呼ばれていることはあとになってわかったのだが――の注意をそらせて私を追うことを断念させたのが何ものだったかがこれでわかった。
怪獣は、数百頭の狼のようなけものの一群――どうやら野性の犬らしい――に包囲されていた。彼らは牙をむき、歯を鳴らして八方から飛びかかり、白い牙を鈍重な野獣に突き立てては相手の巨大な前足が届かない先に、あるいは尾で打ちのめされない先に、さっと身を引くのだった。
だが、驚く私の目に飛びこんで来たのはそれだけではなかった。人間に似た生物の一団が、下枝の茂みをぬってキャッキャッと騒ぎ立てながら、犬どもを駆り立てて現われた。彼らの外見はアフリカのニグロにそっくりだった。肌は真黒で、面相はより典型的なニグロに酷似しているが、ただ頭部が目の上でいきなり後退していて、額はほとんどないといってよい。ふつうの人間より胴の割に腕が長く、足が短い。それにあとになって気づいたことだが、足指が大きくて、足に対して直角につき出ている――これはおそらく彼らが樹上生活を営むためだろうと推察される。細長い尾が後に垂れ下っていて、木登りをする時には手足を使うのとまったく同じように使っていた。
狼犬《ウルフ・ドッグ》がダイリスを追いつめているのが目にはいった瞬間、私はよろめきながら立ち上った。私を見つけると、獰猛《どうもう》な犬どものうちの数頭が大怪獣をいためつけるのをやめて、牙をむき出してしのび寄って来た。そこで再び下枝の茂みに安全な逃げ場を求めて駈け出そうとした時、いちばん手近の木の葉隠れに、大勢の人猿《マン・エイプ》がとんだりはねたりしてキャッキャッと騒いでいるのが目にはいった。
人猿か、背後のけだものか、どっちかをえらぶ以外にない。だが、これらのグロテスクな人間のできそこないどもがどんなふうに私を処遇するかについてはまだしも疑問の余地はあるが、それにひきかえ、獰猛《どうもう》な追跡者がむき出した牙のかげに私を待ち受けている運命に関しては疑問の余地はまったくなかった。
そこで私は、人間みたいなやつらが群がっている木を通り越して、その先の木に避難しようと、木立に向かって一目散に駆け出した。だが狼犬《ウルフ・ドッグ》はすぐ後に迫っていた――もはや逃れることを断念したいくらいだった。と、その時、頭上の木にいた人猿の一匹が、大枝に尾を巻きつけておいて頭からビューッと舞いおりて来た。そして私をひょいと小脇に抱えると仲間たちのいるところへ助け上げた。
彼らはたちまち大騒ぎをして物めずらしげに私を調べはじめた。衣服や、髪や、肉をいじってみて、それから私を後向かせて尾があるかどうかを調べたが、尾がないということがわかると、どっと哄笑した。彼らの歯はやたらと大きく、真白で、よく揃っていたが、上顎《うわあご》の犬歯だけが他の歯よりも心持ち長く、口を閉じてもわずかに外へ突き出ていた。
彼らはしばらくの間私を調べていたが、そのうちに一人が、服は私の身体の一部ではないということを発見した。そのあげく狂ったように笑いどよめきながら、寄ってたかって一枚一枚着衣をはぎとり、猿らしく自分たちでそれを着てみようとした。だが彼らはそこまで器用にできていなかったので、途中であきらめてしまった。
そうこうする間も、私はペリーの姿がちょっとでも見えないかと目を精一杯に見開いていたが、彼が最初に逃げこんだ木立はここからよく見えているのに、彼の姿はどこにも見当らなかった。彼の身の上に何ごとかが起ったのではないかと思うと気が気ではなく、大声で数回呼んでみたが応答はなかった。
やがて猿どもは、私の服をもてあそぶのに飽きて地面に投げ捨てた。そして私の腕を両側からひょいとつかむと、おそろしい早さで木のてっぺんをぬって移動しはじめた。あんな旅を経験したのは、あとにも先にもあの時だけだ――いまだにあの血も凍るような体験のおそろしい記憶にうなされて、深い眠りからさめることがしばしばある。
敏捷な猿どもは、まるでむささびのように木から木へひょいひょいと飛び移った。一方私は足もとの深みを垣間見て額に冷汗ぐっしょり。私を抱えている猿のどっちかが一歩踏みあやまれば、私はあっという間《ま》に投げ出されるのだ。彼らが私を抱えて移動している間中、さまざまな疑念が私の心を占拠していた。ペリーはどうしたろう? 再会できるだろうか? 私が手中に落ちたこの半人間どもは、私をどうするつもりだろう? 彼らは私が生まれた世界と同じ世界の住人なのか? 否、そんなことはあり得ない。といって、ほかのどこだというのだ? 私は生まれ故郷の地球を離れてはいない――それは確かだ。そのくせ、この目で見たものと、まだ生まれながらの世界にいるのだという確信とを結びつけることもできない。私は嘆息まじりに考えごとを放棄した。
三 新しい主人
暗い無気味な森を数マイルも移動して来たと思われる頃、突如として高い木の枝の間に建てられた密集部落が目の前に現われた。私たちがその部落に近づくと、私の護送者は蛮声をはりあげて叫んだ。と、時を移さず部落内から応答があって、一瞬のちには私を捉えた連中と同族の奇妙な住人たちが、私たちを迎えにぞろぞろと姿を現わした。またしても私はかしましい一群の興味の的《まと》となった。あっちからもこっちからも引っ張られるし、おまけにつねられるは、こづかれるは、ぶたれるはでしまいには青黒いあざだらけになる始末。それでも私は、彼らがこんな仕打ちをするのは彼らが残酷だからとか、悪意があるからだとは思わなかった――私は世にも珍妙なしろものであり、できそこないであり、見なれない玩具なのだ。彼らの幼稚な頭脳では、現に目にしているものをさらにあらゆる感覚器官で確かめて裏づけをしなくてはおさまらないのだ。ほどなく彼らは私を部落内へ引きずって行った。大枝と葉で作った原始的な小屋が、枝の上に数百戸建っていて部落を構成している。小屋は、時には不揃いに曲がりながら軒《のき》並みにつづいていて、小屋と小屋との間には枯れ枝や小ぶりの幹が敷かれ、樹上にある隣接の小屋どうしをつないでいる。こうした小屋や小道は網の目のように連携を保っていて、地上優に百五十メートルの高さでかなりしっかりした床を形成していた。
これらのはしっこい連中がなぜ木と木の間をつなぐ橋を必要とするのか不思議に思っていたが、のちに、彼らが部落で飼っているなかば飼い馴らされた野獣の雑多な集団を見るにおよんで、こういった小道の必要性を納得した。部落には、私たちが立ち去る時あのダイリスに噛みついていた狼犬どもと同類の獰猛《どうもう》な狼犬の一群がいた。また、山羊のような動物がたくさんいて、そのはちきれそうな乳房が彼らの存在理由を物語っていた。
私の護送者は一軒の小屋の前で立ちどまり、私をぐいと中へ押しこんだ。それからそのうちの二人が入口の前にどっかり腰を据えた――私の逃亡を防ぐためだということはいうまでもない。もっとも、逃げるといってもどこへ逃げたらよいのやら、私にはさっぱり見当もつかないことだった。小屋の内部の暗がりに足を踏み入れたとたん、祈りを捧げている聞き馴れた声が耳に飛びこんで来た。
「ペリー」私は大声をあげた。「ペリーじゃないか! よかった、無事だったんだね」
「デヴィッド! きみが逃げられたなんて夢じゃなかろうか!」そういって老人はよろよろと駆け寄り、両腕に私を抱きしめた。
彼は私がダイリスの前に落下したのを見たのだが、それから人猿に捉えられ、梢《こずえ》づたいに運ばれて彼らの部落へつれてこられたのだった。彼を捉えた連中は、私のときと同様、彼が着ている見なれない衣服をさんざんに詮索したので、彼もまた私と同じていたらくになっていた。二人はたがいに相手を見て笑い出さずにはいられなかった。
ペリーがいった。「しっぽをつけたら、きみは立派なエテ公になるよ、デヴィッド」
「ひとつしっぽを拝借するかな」と、私もつりこまれていった。「どうやら今シーズンの流行らしいからね。やつらはぼくたちをどうするつもりだろう、ペリー。根っからの野蛮人には見えないが、きみはやつらを何者だと思う? あの毛むくじゃらのフリゲート艦がぼくたちに襲いかかってきたとき、きみはぼくたちがどこにいるか話そうとしていたっけ――それできみにはほんとうに何かわかっているのかい?」
「ああ、わかっているとも、デヴィッド。われわれがどこにいるか、わしにはちゃんとわかってるんだ。われわれはすばらしい発見をしたんだよ! われわれは地球の内部が空洞だということを証明したのさ。地殻をすっぽり通りぬけて地底の世界にやってきたんだよ、われわれは」
「ペリー、きみはどうかしてるよ!」
「とんでもない、デヴィッド、あの試掘機は地上世界の下にある地殻をつらぬいて、四百キロにわたってわれわれを運んだ。その地点で試掘機は厚さ八百キロに及ぶ地殻の引力の中心に到達したわけだ。そこまではずっと下降して来た――むろん、下降といっても方角は相対的なものにすぎないがね。それから座席が一転したあの瞬間――われわれが方向を転じて急上昇しているときみが思ったあの時のことだが――われわれは引力の中心を通過した。そして、べつだん進行方向を変えたわけでもないのに、実際には上に向かって急速に進んでいた――地底世界の地表めざして進んでいたわけだな。われわれは奇妙な動植物を目《ま》のあたりにしてきたが、それでもきみは、きみが生を受けた世界にいるのではないということを得心できないかね? それにあの水平線だが――われわれが実際に一個の球体の内部に立っているのでないかぎり、水平線が、われわれが二人ながらに気づいたようなあんな奇妙な様相を呈することができるだろうか?」
「だが太陽はどうなんだ、ペリー!」私は迫るようにいった。「八百キロもの厚い地殻を通して、いったいぜんたいどうやって太陽が射しこむというんだ?」
「ここで見る太陽は地上世界の太陽とはちがう。永遠の真昼の光輝をこの地底世界の表面に投げかけているのは、もう一つの太陽――ぜんぜん別個の太陽なのだ。今見てごらん、デヴィッド――この小屋の戸口から見えるならの話だが――相変らず天空のどまん中にかかっているのがわかるだろう。もうここにはずいぶん長い時間いるのに――まだ真昼だ。
が、これとて簡単明瞭なことなんだよ、デヴィッド。その昔、地球はもやもやとした塊だったが、それが冷却した。そして冷却する際、同時に凝縮した。ほどなく固形物質の薄い殻が表面に形成された――一種の外皮だな。ところが内部には、一部溶融した物質と、高度に膨脹《ぼうちょう》した気体があった。地球は冷却しつづけたが、それにともなって何が起ったか? 遠心力が、どろどろした中心部の物質の粒子を、それらが固体化していくに従って地殻に向けて急激にはねとばしたのだ。現代のクリーム分離器にこの同じ原理が応用されているのを見たことがあるだろうが。やがて冷却していく気体が収縮することによって、そのあとにできた内部の大空洞に、ガス状の物質からなる小さな過熱した核だけが残った。地殻のあらゆる方向から均等に加えられる引力によって、この発光核は地球の空洞のちょうど中心にとどまることになった。その名残《なご》りが今日きみの見た太陽――すなわち地球のどまん中にある比較的小さな物体――なのだ。この太陽は、常時不変の白昼の光と炎熱をこの地底世界のすみずみまで均等に投げかけている。
この地底世界は、外部の地殻上に生命が出現した時よりずっとのちになって、動物が棲息できるていどに冷却したのにちがいない。が、しかし、この世界にも地上と同じ作用が働いているということは、われわれが先刻|目《ま》のあたりにした動植物が同じ形体をしているということからも明白だ。たとえば、われわれを襲った例の大怪獣を見たまえ。あれは、まぎれもなく地上世界の後期鮮新世における大瀬獣《メガテリウス》の分身だ。南米で化石化した骨格が発見された動物だがね」
「しかし、この森のあのグロテスクな住人たちはどうなんだ?」私は語気を強めてたずねた。
「まさか、あいつらの分身は地球の歴史にはいないだろ」
「そんなことわかるもんか。彼らは類人猿と人間の間の橋わたしの役割をしているのかもしれんぞ。そういった形跡は、外部地殻を襲った無数の変動によって一切合財《いっさいがっさい》のみこまれてしまったんだろう。それともやつらはごくわずかちがった系統の種族が進化したその子孫というだけのことかもしれん――いずれにしても、大いにありうることだ」
それ以上考察をつづけることはできなかった。私たちを生け捕《ど》った連中が数人、小屋の入口に姿をあらわしたのだ。そのうちの二人が中へはいって来て私たちを引きずり出した。危っかしそうな小道にも、周囲の樹にも皮膚の黒い人猿やその妻子たちが鈴なりになっている。彼らは装飾品も武器も衣服もつけていなかった。
「創造の段階からいうと、だいぶていどが低いな」と、ペリーが寸評を加えた。
「でも、ぼくたちに危害を加えるには、このていどで充分だぜ」私は彼の言葉に応じていった。
「さて、やつらはこれからぼくたちをどうするつもりだろう。きみはどう思う?」
それはすぐにわかった。部落へ来た時と同じように、私たちは腕っぷしの強い二人にむずとつかまれ、木の梢を疾風のように連れ去られた。私たちの周囲や背後には、なめらかな黒い皮膚をした猿どもがキャッキャッとかしましい声をあげ、ニタニタ笑いを浮かべながら全速力でついて来た。
私をささえていたやつらは、二度も足を踏みはずした。眼下にからみあっている枯枝に向かってもんどりうって落ちて行った時には、息の根がとまりそうだった。落ちてしまえばそれっきりだ。しかし、二度ともあの柔軟で丈夫な尾がひょいと伸びてささえになる枝を見つけたし、二人とも私をつかまえた手をゆるめなかった。事実、こんなできごとは、地上世界でいえば道路を横断中に石にけつまずいたていどのものなのだろう。彼らはカラカラと笑って先を急いだだけだった。
しばらくの間、森の中をつっきって進んだ――どのくらいかかったかは見当がつかない。というのも――これはあとになって私の心に強烈に刻みこまれたことだが――時間を計る方法が存在しなくなったその瞬間から、時間はもはや問題ではなくなるのだということが私にもわかるようになっていたからだ。時計はなくなっていたし、しかも静止した太陽のもとに暮しているのだ。すでに私は、私たちが地底世界の地殻を貫通して以来経過した時間をどうして算出したらよいのか途方にくれていた。何時間かもわからないし、ひょっとすると何日もたっているのかもしれない――常時真昼の世界ではまったく見当のつけようもないではないか! 太陽によると時間はぜんぜんたっていない――が、私の判断では、この不思議な世界にこれで数時間すごしたにちがいない。
やがて森はおわり、平地に出た。目前の、さほど遠くないところに、背の低い、岩だらけの丘陵地がある。私たちを捉えたやつらはその丘陵に向かって私たちをせきたて、ほどなく細い小道を通って小さな円形の谷間に連れこんだ。ここで彼らは仕事にとりかかった。それで、私たちは、闘技場の露と消えるのか、あるいはどんな死にざまをするのかはわからないが、とにかく死だけはまぬかれないのだということをすぐに悟った。岩だらけの丘の間にある天然の闘技場に足を踏み入れたとたんに、彼らの態度ががらりと一変したのだ。彼らは笑わなくなり、兇悪な面相にはなんとも無気味で獰猛な表情が現われ――むきだしになった牙が私たちを脅かした。
私たちは円形闘技場の中央に置かれた――何千人という人猿たちが、大きな輪をつくって周囲をぐるりと取り巻いた。と、一頭の狼犬《ウルフ・ドッグ》――ペリーはそいつのことを|ヒエノドン《ヽヽヽヽヽ》と呼んだ――が連れてこられて、闘技場の中の私たちと一緒に放たれた。体格はマスティフ犬の成犬ほどもあって、脚は短く、がっしりとしており、幅広いがっちりした顎をしている。背と脇腹は、どす黒いごわごわした毛におおわれていたが、胸と腹は真白だ。そいつは唇をまくりあげてものすごい牙をむき出し、なんともすさまじい形相を見せてしのび寄って来た。
ペリーはひざまずいて祈っている。私は、つと身をかがめて小石を拾い上げた。私のこの動作を見て、けだものはわずかに方向を変えて離れ、こんどは私たちの周囲をぐるぐるとまわりはじめた。以前にも石をぶつけられた経験があることは明白だ。人猿どもは踊りあがって野蛮な叫び声を上げ、けものをけしかけた。私が投げないのを見て、ついにけものは飛びかかってきた。
かつて私は、アンドーヴァーと、それからその後エールで、決勝チームの投手をつとめたことがある。私のスピードとコントロールは、いずれも並はずれたものであったにちがいない。カレッジの最上級に在学中、私が大記録を樹立したというので、メジャー・リーグの大チームから正式に勧誘されたほどだ。しかし、過去において遭遇したもっとも息づまるようなピンチでも、今ほどコントロールが切実に必要だったことはない。
投球モーションを起しながら、私は神経と筋肉を完全にコントロールしきっていた。かっと開いた顎が、すさまじいスピードで迫ってくる。と、私は、体重と筋肉と|わざ《ヽヽ》のすべてをこの一投に結集して石を放った。石はヒエノドンの鼻先にまともに命中し、ヒエノドンはどうと仰向けに倒れた。
それと同時に、周囲の観衆の中から金切り声と喚声がどっと湧《わ》きあがったので、つかの間《ま》、私は彼らの闘士が倒れたのがその原因だと思っていた。が、すぐに自分の思いちがいに気づいた。見ると、人猿どもは、四方八方ちりぢりになって周囲の丘に逃げて行く。その時になって、彼らが動揺した真の原因がはっきりした。彼らの背後の、谷に通じる峠を、槍や、斧や、長い楕円形の楯で武装した毛深い、ゴリラのような人間の大軍が、ひしめき合いながら押し寄せてくるではないか。
彼らは悪鬼のように人猿どもに襲いかかった。すでに意識を回復して立ち上ったあのヒエノドンは、おびえて吼《ほ》えたてながらゴリラ人間の前を一散に逃げていく。追われるものも、追うものも、洪水のように私たちの側《そば》を通り過ぎていった。毛深い連中も私たちにはちらと一瞥《いちべつ》をくれただけだった。やがてそれまで闘技場を占有していた連中は一人残らず姿を消して闘技場はからになったが、ほどなくゴリラたちは私たちのいるところへ引き返して来た。そのなかの統率者らしい一人が、私たちを一緒に連れてこいと命じた。
円形闘技場を通りぬけて大平原に出た時、男女の一隊が目にはいった――私たちのような人間だ――この時はじめて希望が湧き、救われたという気持でいっぱいになった。あふれるばかりの幸福感に、大声をあげて叫びたくなるほどだった。確かに一行は半裸で、見かけは粗野だが、少くとも私たちと同系の形をした人間なのだ――この奇怪な世界に住む他の生物のようなグロテスクなところもなければおそろしいようすもしていない。
だが、近づいていくにしたがって私たちは再び打ちのめされたような気持になった。というのは、この哀れな連中はえんえんと数珠つなぎに鎖で首をつながれていて、ゴリラ人間はその番兵だったのだ。無造作に、私とペリーは一行の最後尾につながれた。そしてそれ以上面倒なこともなしに、中断していた行進は再開された。
騒ぎのおかげでこの時までは目が冴《さ》えていたが、太陽に焼かれた平原を横切って、退屈で単調な行進がえんえんとつづいたために、長い間の不眠から生ずるあらゆる苦痛が襲って来た。いまわしい真昼の太陽のもとに、私たちはよろめきながら先へ先へと進んだ。倒れようものなら鋭い槍の穂先でつつかれた。鎖につながれた他の仲間たちは、よろめきもせず、昂然と頭をあげて大股に進み、ときたまたがい同士で単音節の言葉をかわしあっていた。彼らは気品のある種族で、形のいい頭と申し分のない体格をしている。男たちは濃いひげを生やしており、背丈も高く、筋骨《きんこつ》隆々としている。一方、女たちは男より小柄で、優美な肢体をしていて、烏《からす》の濡れ羽色のようなゆたかな黒髪を頭頂部でゆるやかに束ねている。男女ともによくととのった目鼻立ちだ――地上世界の水準から判断しても、不器量だといえるような顔は一つも見あたらない。また、彼らは装飾品を何一つつけていない。が、これはあとになってわかったことだが、彼らを捉えたやつらが貴重品のたぐいをいっさいはぎ取ったためだった。女たちは、衣服として豹の皮によく似た、まだらの明るい色の皮の一重《ひとえ》の長衣を身にまとっていた。彼女たちは、一筋の皮紐で腰のまわりをしばって、一方の膝の下に衣の一部が垂れているような着方をしたり、あるいは一部を片方の肩越しに優雅にかけて着こなしていた。足には皮のサンダルをはいている。男たちは、毛深いけものの皮の腰布をしめていて、長い両端をそれぞれ前と後に地面とすれすれにまで垂らしていた。中には、この両端に、この毛皮の主のけものの頑丈な爪をつけているのもあった。
先刻、ゴリラに似た人間と説明した私たちの番人は、ゴリラよりも幾分軽量なつくりではあるが、それにしても実際ものすごい連中だった。腕や足のつりあいは、まあまあ人間並みだが、身体一面茶色の剛毛におおわれていて、顔ときては、故郷の博物館で見た二、三のゴリラの剥製《はくせい》と同じくらい獰猛そのものだった。
唯一のとりえといえば、耳から上とその後にかけての頭部の発達状態で、この点においてはわれわれ人間と少しも変るところがなかった。彼らは薄い布地で作った膝までのチューニックのような服を着ていた。その下には同じ材質の腰布をしめているだけで、足には、この地底世界に住む巨大な生物の厚い皮で作られたということが一見してわかる、かなりごついサンダルをはいていた。
腕や首には金属製の――それも主として銀製の――装飾品がいくつも巻きつけてあって、チューニックには小さな爬虫類の頭部が、異様で、しかもかなり芸術的なデザインに縫いつけてある。彼らは私たちの両側を進みながら、仲間うちで会話をとりかわしたが、私たちの連れの捕虜たちが使っている言葉とちがっているように感じられた。捕虜たちに話しかける時には、第三の言葉と思われる言葉を使っていた。あとになってわかったことだが、これは一種の混合語で、いわば中国の苦力《クーリー》が使う通商英語《ビジン・イングリッシュ》のようなものだった。
どれくらい進んだのか見当もつかない。ペリーも同様だった。二人とも、止まれの号令がかかるまでの何時間もの間、ほとんど眠っていた――そして号令がかかるやいなや、その場にへなへなとへたりこんでしまった。「何時間もの間」とはいったが、時間が存在しないところでどうやって時間を計ることができよう! 行進が開始された時、太陽は天頂にかかっていた。そして休止した時、私たちの影はなおも天底をさしていた。地上の時間でいって、一瞬が飛び去ったのか、それとも永遠の時が流れたのか、誰にいえよう。あの行進は、私が地底世界で過した十年間のうちの九年と十一カ月を占めていたのかもしれないし、あるいはほんのまばたきする間のできごとなのかもしれない――私にはわからないのだ。しかしこれだけはわかっている――私がこの地上世界に別れを告げて以来、十年が経過したと貴方は教えてくれたが――私は時間の観念というものをすっかり失ってしまったのだ――だいたいそんなものは、貧弱で底の知れた人間の頭の中以外に存在するのかどうか、現在私は疑問を感じはじめている。
四 美女ダイアン
番兵に起こされたとき、私たちはずっと爽快な気分になっていた。彼らは食物をくれた。それは乾し肉の細片だったが、新たな生命と力を私たちの体内に注ぎこんだ。そこで私たちも頭をしゃんと上げ、堂々と大股に進んだ。少くとも私はそうした。私は若かったし、威勢もよかったからだが、気の毒なペリーは歩くのが大の苦手《にがて》だった。地上では、ちょっとそこまで行くにも彼がタクシーを呼ぶのを見かけたものだ――今になってその埋め合わせをしているわけだが、足もとがよぼよぼしておぼつかないので、私は彼の身体に腕をまわしてなかば抱えるようにしてあの悲惨な行軍の残る道程を進んでやった。
土地はようやく変化を見せはじめた。一行は、ついに平原を出て、処女花崗岩の雄大な連山を登っていった。低地帯の熱帯草木は姿を消し、耐寒性の植物がそれにとってかわったが、間断ない暑熱と光の威力は、ここでさえ繁茂する葉むれと咲き乱れる花々に歴然と現われていた。水晶のような清流が、はるか上方に見える万年雪から水を送られて、岩だらけの河床をごうごうと音をたててほとばしっている。雪を頂く峰々の上には、雲の塊がどんよりと垂れこめていた。ペリーの説明によると、明らかにこれらの雲が溶融する雪を補充し、直射日光から雪を保護するという二重の役目をはたしているのだった。
この頃には、番兵が話しかける混合語が生《なま》かじりにわかるようになっていた。同時に、仲間の捕虜たちの使うかなり魅力的な言葉にもよく通じるようになってきていた。一本の鎖につながれた捕虜の中の私のすぐまえに若い女がいた。一メートルの鎖が私とその女性とをいやおうなしに親しくさせたわけだが、少くとも私はすぐにそのことを喜ばしく思うようになった。というのは、彼女が快く教師の役をしてくれるということがわかったからで、私は彼女の一族の言葉や、地底世界の――少くとも彼女がよく通じている地域の――生活慣習を多々学んだ。
彼女が話すところによると、彼女は『美女ダイアン』と呼ばれているそうで、『ダレル・アズ』すなわち『浅い海』の上にそびえる断崖に住む『アモズ族』に属しているとのことだった。
「あなたはどうやってここへ?」私は彼女にたずねた。
「わたくし、『醜男《ぶおとこ》ジュバル』から逃れる途中でしたの」彼女はまるでそれでよくわかるだろうといわんばかりの返事をした。
「『醜男ジュバル』って? どうしてその男から逃げたんです?」
彼女は驚いて私を見た。
「なぜ女が男から逃げるか、ですって?」彼女は問い返した。
「ぼくがもといたところでは逃げたりしませんよ」私は答えた。「女が追っかける時だってあるくらいですから」
だが、彼女にはわからなかったし、また、私が別世界の人間だということを理解させることもできなかった。彼女は、地上世界でも多くの人間がそう思いこんでいるように、自分たちの種族と自分が住んでいる世界だけを作り出すために創造の業《わざ》がなされたのだと思いこんでいるのだ。
「ところで、ジュバルのことですが」と、私は追求した。「彼のことを話して下さい。それに、逃げたあげくに首を鎖でつながれ、苦しめられながらこの世界をえんえんと旅しておられるわけも」
「『醜男ジュバル』はわたくしの父の家の前に戦利品を置きました。大きな|タンドール《ヽヽヽヽヽ》の首です。首はそこに置かれたままで、しかもそれをしのぐ戦利品がそのかたわらに置かれなかったのです。そこでわたくしは『醜男ジュバル』がわたくしを妻にするためにやってくるということを悟りました。彼ほど強い者は他に誰もわたくしを望んでくれませんでした。もしもそんな人がいたら、もっと大きなけものを倒して、ジュバルから私を勝ち取ってくれたことでしょう。父は腕のたつ猟人ではありません。以前はそうだったのですが、|サドク《ヽヽヽ》が父を振り落したので、二度と再び右腕を存分に使うことができなくなったのです。わたくしの兄『強者《つわもの》ダコール』は、サリの国へ妻とする女を略奪に行っています。そんなわけで、父にしろ、兄にしろ、また恋人にしろ、私を『醜男ジュバル』から救ってくれるものは誰もいないのです。だからわたくしは逃げだしてアモズの国を囲む丘に身を隠しました。そこへ『サゴス族』が来てわたくしを見つけ、捕虜にしたというわけです」
「やつらはあなたをどうしようというのです? われわれをどこへ連れて行くのですか?」私はたずねた。
またしても彼女は信じられないという顔をした。
「あなたが別世界のお方だということが信じられるような気がしますわ。だって、そうでもなければこんなことをご存じないなんて説明がつきませんもの。あなたはサゴス族が『マハール族』の手先だということを知らないと本気でおっしゃるのですか?――『ペルシダー』をわがものとし、その地表を歩き、そこに育つもの、地を這い、穴に棲み、湖や大海に泳ぎ、空中を飛ぶものいっさいを支配しているのだとみずから信じているあの大マハール族の手先だということを? それならこんどは、マハール族なんて聞いたこともないとおっしゃるのでしょう!」
そんなことをいってこれ以上彼女の侮蔑《ぶべつ》を買うのはなんとも気が進まなかったが、知識を吸収するにはほかにどうしようもないので、大マハール族に関しては自分は哀れにもまったくの無知であるということをつつみ隠さず白状した。彼女はショックを受けたが、できるかぎり懇切丁寧に教えてくれた。もっとも、彼女が話してくれたことも私にはさっぱりわからなかったのだが、彼女は、マハール族のこういうところは|シプダール《ヽヽヽヽヽ》に似ている、とか、またああいうところは毛のない|リディ《ヽヽヽ》に似ているとかいったふうに、主としてさまざまなものと比較して説明した。
それらを総合してみると、マハール族というのは、見るもおぞましいやつらで、翼とみずかきを持っていて、地下に作られた都市に住み、潜水したまま長距離を泳ぐことができ、そしてこの上なく利口なやつらだということになる。サゴス族は彼らの攻防の武器、彼女のような種族は彼らの手足――つまり手仕事いっさいを引き受ける奴隷兼召使い、そしてマハールは地底世界の頭――すなわち頭脳《ブレーン》なのだ。私は、この驚くべき超人の一族をぜひともこの目で見たいものだと思った。
ペリーは私と一緒に言葉を学んだ。われわれ一行はしばしば休止したが――といっても休止から次の休止までの間が何年にも感じられたものだ――そのつどペリーは、美女ダイアンのすぐ前につながれている『毛深い男ガーク』ともども会話に加わった。ガークの前には『狡猾な男フージャ』がいた。フージャも時々会話に首をつっこんできた。たいていの場合、彼は美女ダイアンに向かって話しかけた。少しでも目の開いている人間なら、彼がなみなみならぬ心境に陥っているということはすぐに見抜けることだった。ところが女の方では、彼の見えすいた言い寄りにぜんぜん気がついていないふうなのだ。見えすいた言い寄り、と今いったが、ニュージーランドかオーストラリヤか忘れたが、いとしいと思う女性に対して優先権を示すために、当の女性の頭をこん棒でぶん殴る男たちがいる。この手口にくらべたら、フージャの求愛ぶりなどはまだしもつつましいといえるだろう。最初のうちはフージャのようすを見てはげしく赤面した。これまでに、レクタースや、その他ブロードウェイを離れたあまりぱっとしない所や、ウィーンや、ハンブルグで数回|大晦日《おおみそか》を過したことがないでもないというのに。
だが女の方はどうだ! なかなかどうしてたいしたものだ。彼女が、自分自身は現在の環境や仲間たちとはまるでかけはなれた高いところにいるのだと考えているということは容易にわかった。彼女は、私や、ペリーや、無口なガークとは口をきいたが、それというのも私たちが丁重だったからだ。だが彼女は狡猾な男フージャなど眼中になく、いわんや耳を貸そうともしなかった。これがフージャをかんかんに怒らせた。彼はサゴス族の一人にいって、女を自分のすぐ前に移してつなぐようにさせようとしたが、サゴスはフージャを槍でこづいて、あの女はおれさまの持ち物に選んだのだ、プートラに到着しだいにマハール族から買いとることになっているのさ、といっただけだった。どうやらプートラというのが私たちの目指す都市らしい。
最初の一連の山を越えたのち、一行は塩の海の沿岸を通った。海面には気味の悪いものがうようよと無数に泳いでいた。あざらしのような生物がいて、巨大な胴体から鎌首を三メートル以上ももたげている。その蛇のような頭部は、とがった無数の牙をむき出しにしてがっと開いた口のために真二つに裂けている。また、とてつもなく大きな亀が、他の爬虫類にまじってバシャバシャと泳いでいる。ペリーにいわせると、彼らはリアス統の蛇頸竜《プレシオザウルス》だそうだ。彼の言葉が真実かどうかについては、私は疑問をさしはさまなかった――やつらが何ものなのかわかったものではないからだ。
ダイアンの話では彼らは|タンドラジス《ヽヽヽヽヽヽ》、すなわち海のタンドールで、彼らと戦うために時どき水底から浮き上ってくる別のやつらは|アズダイリス《ヽヽヽヽヽヽ》、つまり海のダイリスということだった――ペリーは彼らのことを魚竜《イクシオザウルス》と呼んだ。鰐《わに》の頭部を持った、鯨によく似た生物だ。
学校で習ったわずかばかりの地質学は忘れ去っていた――頭に残っているものといえば、先史時代の怪物の復原図が刻みつけた恐怖感と、それから豊かな想像力さえあれば誰でもこれはと思う旧石器時代の怪物をたいがいは「復原」することができ、したがって一流の古生物学者としての地位を獲得できるものだというはっきりした確信だけだ。だが、彼らが巨大な頭を振り立てながら大海から姿をあらわし、なめらかな身体に日光を浴びて、てらてら光るのを見た時、また、海面に浮き沈みしながらあっちこっちとすべるように泳ぐたびに、しなやかな身体から水がいくつもの小滝となってうねり落ちるのを見た時、そして、互いに口をがっと開き、シューシューと音をたて鼻を鳴らしながら凄絶な無限の闘争を展開するのを見た時、私は造物主の驚くべき才知と比較していかに人間の貧弱な想像力がむなしいものであるかを思い知った。
それに、ペリーときたら! 彼は腰も抜かさんばかりに仰天していた。彼自身そういったのだから。
あのおそろしい海の沿岸を長時間にわたって行進したあと、彼はいった。
「デヴィッド、わしはもと地質学を教えていたし、自分が教えていることを信じているつもりだった。ところが今になってみるとあの当時は信じていなかったんだということがわかる。自分の二つの目で確かめないかぎり、こういった事柄を信じるのは不可能なんだということがわかったよ。何度も繰り返し教えられ、それを反証する手だてもないとなると、たぶんそれが当り前のことになってしまうんだな――たとえていえば宗教みたいなものだ。しかしわれわれは宗教を信じているんじゃない、信じていると思っているだけだ。もしきみが地上世界に帰ったら、真っ先にきみのことを嘘つきだとこきおろすのは地質学者や古生物学者だということがわかるだろう。なぜなら、彼らは自分たちが復原したようなそんな生物は存在していなかったのだということを知っているからだよ、そういった生物が、同様に想像上の時代に存在したと想像しているうちはいい――だが、いまとなってはどうだ? プーッ、お笑い草だよ!」
次に休止した時、狡猾な男フージャは、ダイアンに届くだけの鎖のたるみをどうにか都合して、後にいるダイアンのすぐそばへ這い寄って来た。われわれ一行はみんな立っていたのだが彼がにじり寄ってくると、女は実に地上の女そっくりのしぐさでくるりと背を向けたので、私は微笑を禁じ得なかった。だがそれもつかのまのことだった。というのは、その瞬間、フージャの片手が女のむき出しの腕をつかみ、ぐいと手荒く引き寄せたのだ。
当時、私はペルシダーにおける風習や社会道徳には通じていなかったが、たとえ通じていなくても、女があのすばらしい瞳から訴えるような視線を私に投げるのを待つまでもなく、私はすぐに次の行動に出た。フージャの意図を問ういとまもなく、私は彼がもう一方の手でダイアンをつかむ前に右拳の一撃を彼の顎《あご》の先端に浴びせていた。フージャはその場にばったりと倒れた。
この寸劇を目撃した他の捕虜やサゴスの間から、どっと喝采が上った。が、あとになってわかったことだが、これは何も私が女の身を守ったからではなく、私がみごとに、しかも彼らから見れば驚くべき手段によってフージャを倒したからだった。
ところで女は、最初目をぱっちり見開いてふしぎそうに私を見たが、やがてうなだれて、顔をなかばそむけた。ほんのりとした赤味が頬にみなぎっていた。ちょっとの間、彼女は黙ってそのまま突っ立っていたが、やがて昂然と頭を上げて、フージャに対してしたように私にくるりと背を向けた。捕虜たちの何人かは声を立てて笑った。毛深い男ガークが私をさぐるような目で見て、ひどくけわしい顔つきになった。ダイアンの頬から、さっと血の気が引くのがわかった。
行進が再開された直後、美女ダイアンの機嫌を何らかのかたちでそこねたということはわかったものの、口をきいてくれるように彼女を説得することはできなかった。どんな過ちを冒したのか教えてもらいたかったのだが、事実、スフィンクスに話しかけるのも同然で、なんの注意を惹くこともできなかった。さすがに私の愚かな自尊心が頭をもたげてきて、それ以上なんとかしようという気持を押しとどめた。知らず知らずのうちに私にとって非常に大切なものとなりつつあった交わりは、こうして断ち切られたのだった。以後、私は会話の相手をペリーだけにかぎった。フージャはあらためて女に言い寄ろうとはしなかったし、あえて私にも近寄らなかった。
退屈で、果てしない行進は、私にとって再びこの上なくおそろしい悪夢に変った。ダイアンの友情がかけがえのないものであったということをさとり、その確信が深まるにつけ、失った友情がますます惜しまれてならなかった。そしてそれとともに、つまらぬ自尊心の障壁もいっそうゆるぎないものになっていった。だが、私はまだまだ若かったので、ガークに説明を求めようという気にはならなかった。頼めばきっと説明してくれるだろうし、そうすれば何もかも再びうまくいったのかもしれない。
行進している間も、休止の時も、ダイアンは終始一貫して私を無視した――視線を私のいる方に動かすときには、私の頭越しに見るか、あるいは私をつきとおして向こうを見るのだった。とうとう私はいてもたってもいられなくなってきた。そこで、ここは一つ自尊心をぐっとのみこもう、そしていま一度、どうして彼女の機嫌をそこねたのか、償いをするにはどうすればよいのか、教えてくれるように頼みこもうと決心した。この次に休止したとき、ぜひともそうしよう。この時、一行は別の山脈に接近しつつあった。ふもとに到着すると、山を迂回《うかい》しながら登って行って上の方にある峠を越すという経路をとらずに、天然の大トンネルにはいっていった――中は一連の入り組んだ小洞窟になっていて、地獄の境のように真暗だった。
番兵たちは松明《たいまつ》とか灯火のたぐいをいっさい持っていなかった。事実、ペルシダーに来て以来、人工の灯火や火らしいものを見かけたことがない。永久に真昼がつづく国では、地上では灯火など不必要だが、それにしてもこの暗い地中の道を通るのに足もとを照らす手だてを何一つとして持ち合わせていないのには驚いた。一行はしょっちゅうつまずいたりころんだりしながら、かたつむりのようにのろのろと腹這いになって進んだ――番兵は先頭に立って一本調子なお経のような歌を歌いながら進み、時々一定の高い音域の声をはさんだ。それがいつも凸凹の個所や、曲がり角を示すためだということがわかった。
今ではもっと頻繁《ひんぱん》に休止をとるようになっていたが、私は、ダイアンが私の謝罪をどのように受け取るかその表情から読み取ることができるようになるまで話しかけたくなかった。やがてついにかすかな光が行く手に現われて、トンネルの終局を予告した。少くとも私は心底《しんそこ》から有難いと思った。やがて急な曲がり角を曲がって、一行はさんさんとふりそそぐ真昼の陽光のもとに姿を現わした。
だが外に出たとたん、私にとって真の破局を意味するできごとが起ったことに気がついた――ダイアンがいなくなっていたのだ。そしてほかに六人の捕虜も。番兵もそれに気がついた。彼らが怒り狂うさまは、見るもおそろしかった。彼らは醜いけものじみた顔を悪鬼のようにゆがめて、この手落ちの責任をたがいになすり合った。そしてついには私たちに襲いかかり、槍の柄や、斧で私たちを打ちのめした。すでに一行の先頭近くにいた二人を殺し、残る捕虜をいっきに片づけてしまおうという時になって、ついに彼らのリーダーがこの残忍な殺戮《さつりく》をやめさせた。生涯で、これ以上におそろしい、けものじみた怒りが発散される光景を見たことがない――ダイアンがここに残って、他の捕虜たちとともにこの光景に耐える破目《はめ》にならなかったことを私は神に感謝した。
私の前方につながれていた十二人の捕虜のうち、ダイアンからはじまって一人おきに脱走していなくなっていた。フージャもいない。ガークは残っていた。これはどういうことだ? どうやって逃げたのだろう? 番兵の指揮官が調査していたが、ほどなく彼は、首輪をとめてあったお粗末な鍵が巧妙にはずされているのを発見した。
今では私の次につながれているガークが、つぶやくようにいった。「狡猾な男フージャはな」と、彼は私の方をちらちらと見ながらつづけた。「きみが拒絶したあの女をさらって行ったのだよ」
「ぼくが拒絶したって!」私は叫んだ。「そいつはいったいどういう意味です?」
彼はちょっとの間私をしげしげとみつめた。
「きみたちが他の世界から来たという話をわたしは今まで疑っていた」彼はついに口をひらいていった。「だが、それ以外にきみがペルシダーの習慣を知らないということが説明できないな。きみは、ダイアンを怒らせたということと、なぜ怒らせたかということをほんとうに知らないというのかね?」
「ほんとうに知らないんだよ、ガーク」私は答えた。
「では教えて進ぜよう。ベルシダーでは、男と、その男がわがものにしようとしている女との間に、別の男が割りこんだ場合、その女は勝利者のものとなる。美女ダイアンはきみのものだ。きみは彼女をわがものと宣言するか、さもなければ自由の身にしてやるべきだったのだ。きみが彼女の手を取れば、それはきみが彼女を自分の妻にしたいという欲望をしめし、きみが彼女の手を彼女の頭上に上げさせて、それから手を放して下へ落させれば、彼女をきみの妻として望まず、きみに対するいっさいの負目から解放してやるという意味になる。そのいずれの態度も示さなかったということで、きみは彼女に対して、男が女に与え得る最大の侮蔑を与えた。今では彼女はきみの奴隷なのだ。どんな男も彼女を妻にしようとはしないし、また、きみを決闘で破るまで正式に彼女をめとることはできない。それに男たちは奴隷女を妻にはしない――少くともペルシダーの男たちはな」
「知らなかった」私は叫んだ。「知らなかったんだよ、ガーク。言葉にしろ、そぶりにしろ、行為にしろ、ぼくが美女ダイアンを傷つけようなんて。彼女をぼくの奴隷にしたいと思わないし、ぼくの――」だがここで私はぐっとつまった。ふんわりとした想像の靄《もや》の中に、あの可憐《かれん》で無垢《むく》な顔が幻となってぽっかりと浮かんだ。もはや私のものではなくなったあのほのぼのとした友情の追憶のみに愛着を感じているのだと思いこんでいたのだが、それが今では美女ダイアンを妻として望まないといい切ることが彼女に対する不実ででもあるかのような気がしてくるのだ。これまで、彼女のことを、異様で残酷な世界の得難い友人としてしか考えたことはなかった。そしてこの期《ご》に及んでさえ、彼女を愛しているとは思えないのだ。
ガークは、私が口にした言葉より私の表情からいっそう多くの真実を読み取ったにちがいない。ほどなく私の肩に手を置いていった。
「他の世界から来た男よ、きみを信じよう。唇はいつわることがあっても、心は目を通して真実のみを語るものだ。きみの心はわたしに語った。きみが美女ダイアンを侮蔑するつもりではなかったということはもうわかっている。彼女はわたしの一族のものではないが、彼女の母親はわたしの妹だ。彼女のことを知らない――母親はダイアンの父親に略奪されたのだ。彼は大勢のアモズ族を従えて、われわれ一族の女たち――ペルシダーでもっとも美しい女たち――を略奪するために戦いを挑んで来た。当時、ダイアンの父親はアモズ族の王で母親はサリ族の王の娘だった――サリ王の息子であるこのわたしは、その後王位を継承した。ダイアンは王家の娘だ。もっとも父親は、サドクに振り落されて醜男ジュバルに王位を奪われて以来、もはや王ではない。彼女の血統のゆえに、きみが彼女に対して冒した過ちは目撃者一同の目にいっそう重大なこととして映ったのだ。彼女は絶対にきみを許さないだろう」
知らないこととはいいながら、私が彼女に課した奴隷の身分と恥辱から彼女を解放してやる方法はないものだろうか、と私はガークにたずねた。
「彼女を見つけさえしたら、方法はある」と、ガークは答えた。「人々の面前で、彼女の手を高く上げさせて、その手をはなしてやればいい。それだけで彼女は解放されるのだ。が、しかし、いったいどうやって彼女を捜し出す? きみ自身、地中都市プートラで一生奴隷として暮さなくてはならない運命だというのに」
「逃げる手段はないんですか?」
「狡猾な男フージャは、仲間を連れて脱走した。だがプートラへの道程にはもう暗い場所はないし、いったんプートラへ到着したら、脱走はそれほど容易ではない――マハール族は非常に利口だからな。たとえプートラから脱出してもシプダールがいる――やつらは逃亡者を見つけたが最後――」毛深い男は身震いした。「だめだ、マハール族の手から逃れることは到底できないよ」
明るい見通しだ。私はペリーに、どう思うかとたずねてみた。だが彼は肩をすくめただけだった。そしてさきほどから専念している長ったらしいお祈りをさらにつづけた。私たちが囚われていた期間の唯一の取り得は、時間がたっぷりあって、いつでも気のむくままに祈祷の言葉を創作することができたことだ、と彼はよくいっていた――彼にとって祈祷は一つの妄執となっていたのだ。サゴス人たちは、行進している間中ブツブツと祈祷を唱えている彼の癖に気づきはじめて、そのうちの一人が彼に、いったい何をいっているのか、誰に話をしているのかとたずねた。その質問を耳にして一つの考えがひょっこりと私の頭に浮かんだ。そこで私は、ペリーが口を開く前に急いで答えた。
「邪魔をしてはいけない。彼は、われわれが生まれた世界では非常に神聖な人間なのだ。彼はあなたたちの目には見えない霊魂に語りかけている――彼の邪魔をしてはいけない。さもないと霊魂がたちどころに現われて、あなたたちをこんなぐあいに八つ裂きにするぞよ」私は、こういうなり大きなサゴス人の前にとび出して、「そら、出たァ!」と大声でいった。サゴス人はまごまごして後退した。
これで私は相手の機先を制したわけだが、ペリーの罪のない狂信ぶりを利用するならもっとも効果のあるうちにやっておきたかったのだ。これがすばらしい効を奏した。残る道程では、サゴス人は私たち二人をいとも丁重に扱い、その後、二人のことを彼らの主人マハール族に伝えた。
このことがあってから、あと行進を二回重ねてプートラの都市に到着した。花崗岩でできた二つの高い塔が、この都市の入口を示し、地中都市に通じる階段を守っていた。広大な平原に百以上も散在している他の塔と同様、この塔でもサゴス人が見張りをしていた。
五 奴隷
一同がプートラの主要街路に通じる広い階段をおりていった時、私はこの地底世界を支配する一族にはじめてお目にかかった。彼らの一匹が、私たちを調べようと近寄って来たので、私は思わずちぢみ上って後退した。これ以上醜怪なものを想像することは不可能だろう。ペルシダーに君臨する全能のマハール族とは、細長い頭と大きな丸い目を持った、体長二メートルを越す巨大な爬虫類だったのだ。
嘴《くちばし》状の口には鋭く白い歯がずらりと並び、巨大な蜥蜴《とかげ》のような身体をしていて、背中には、首から長い尾の先端にいたるまで鋸歯状のギザギザが連なっている。足には三指にわかれたみずかきをそなえている一方、前脚から生えている膜質の翼は後脚のすぐ前で胴体にくっついていて、四十五度の角度で後方に突き出し、その先端は身体から一、二メートル上にあって鋭くとがっている。
そいつはペリーを調べようと私の前を通り過ぎたので、私はペリーにちらと目をくれた。老人は驚異の目を見開いて、おそろしい生物をまじまじとみつめていた。そいつがさらに次のものへと移って行くと、ペリーは私をふり返った。
「オリティック中期のランフォリンクスだ。デヴィッド。それにしてもなんとでかいんだろう! われわれがこれまでに発見したもっとも大きな化石でも、普通の鴉《からす》より大きくはなかった」
プートラの主要街路をさらに進んでいくと、何千というマハールがその日の仕事で往き来しているのに出会ったが、彼らは私たちにほとんど目もくれなかった。プートラは地下に設計された都市で、頑丈な花崗岩を切り開いて作られたものだが、その統一のとれた整然たるできばえは、工学技術の驚異的な手腕を物語っている。道幅は広く、天井の高さは一様に六メートルで、ところどころにこの地中都市の屋根をつらぬいて管《チューブ》が通っていた。レンズや反射鏡をつかってこの管《チューブ》から太陽光線を取り入れているのだが、光線は柔らげられ拡散されて都市を照らし、闇を追い払っている。さもなければこの都市は常闇《とこやみ》に包まれていたことだろう。また、空気も同様の方法で摂取されていた。
ペリーと私は、ガークともども大きな役所の建物に連れてこられた。私たちの見張りをつとめて来たサゴス人が、ここでマハール族の役人に私たちを捕虜にした際の状況を説明した。この二者の間の対話の方法には一驚させられた。話し言葉はいっさい交さないのだ。彼らは一種の身振り言葉を採用している。あとからわかったことだが、マハール族には耳がなく、話し言葉も持っていなかった。マハール同士の間では、ペリーのいわゆる四次元で知覚できる第六の感覚ともいうべきもので意志を伝達し合っている。
ペリーは多くの機会を捉えてそのことを説明しようと努力したが、私にはさっぱりわからなかった。私は、テレパシーじゃないのかといったのだが、ペリーは、いや、ちがう、彼らはたがいに同席している時だけしか対話ができないし、仲間同士で対話をする時に使う方法でサゴス人や他のペルシダーの住人たちと話をすることができないのだから、テレパシーではない、といった。
「彼らは、聞き手が第六の感覚で彼らを知覚できると感じたら、思考を四次元に投射するんだよ。わかるかね?」
「いいや、わからないね」と、私は答えた。彼はどうしようもないといったふうに首を振って、仕事にもどった。彼らは、厖大《ぼうだい》な量のマハールの書籍を、一室から他の部屋に運んで本棚に並べるという仕事を私たちに命じていた。私はペリーに、ここはプートラの公立図書館だろう、といったが、のちほど彼らの文話を解読する鍵を発見するにおよんで、ペリーは、私たちが扱っているのは一族の古文書にまちがいないと話した。
こうしている間も、私は絶えず美女ダイアンのことを考えていた。彼女がマハールから逃れたということや、プートラに着きしだい、彼女を買い取ってやるとおどしたあのサゴス人がほのめかしていた運命を免れたことは、むろんうれしいことだった。あの少数の逃亡者の一行は、彼らを捜しに引き返した番兵に追いつかれただろうか、と私はしばしば考えた。ときとしては自分でもはっきりしなかったが、それにしてもダイアンが狡猾な男フージャの思いのままになっているという考えよりは、このプートラにいるとわかった方がずっとうれしいにはちがいなかった。
ガークとペリーと私は、なんとか脱出する方法はないかとたびたび話し合ったが、このサリ人は、奇跡による以外、誰もマハールの手を逃れることはできないと一生かけて信じこんでいたので、大した助けにならなかった――彼の態度は、奇跡が先方からやってくるのを待つ人のそれだった。
私の提案で、ペリーと私は、私たちが起居している監房にある廃物の中から発見した鉄屑で剣をいくつか作った。私たちは、割り当てられた建物の内部にかぎり、ほとんど束縛を受けずに自由に行動することを許されていた。プートラの住人に仕える奴隷の数があんまり多いので、あてがわれる仕事量が過重になることもなく、また、主人たちに不親切な仕打ちを受けるものもなかった。
私たちは新しい武器を寝床になっている皮の下にかくした。次にペリーは弓矢を作ることを思いついた――これはペルシダーでは明らかに未知の武器だ。次は楯ということになったが、これは、この建物の監房の外にある看守室の壁から失敬した方が簡単だと気がついた。
プートラを出てからの護身のために、これらの武器の手配を完了した時、脱走した捕虜を逮捕するために派遣されていたサゴス人が、捕虜のうちの四人を連れてもどって来た。フージャもその一人で、ダイアンとあと二人は難を免れたのだった。たまたま、フージャは私たちと同じ建物に監禁された。彼は、暗い洞窟のなかでいましめを解いてやって以来ダイアンにも他の捕虜たちにも会っていない、とガークに語った。彼らがどうなったのか、フージャはぜんぜん知らないのだ――餓死していないとしても、入り組んだトンネルの中で道に迷い、いまだにさまよいつづけているのかもしれない。
今では、ダイアンの運命がますます気にかかる一方だった。彼女に寄せる愛が、友情以上のものによって拍車をかけられているのではないかと最初に気づいたのはこの時のことだったように思う。目がさめている間は絶えず彼女のことを考え、眠れば眠ったで彼女のいとしい顔が夢枕に現われる始末に、私はこれまでにもましてマハールを逃れる決心を固めるにいたった。
「ねえ、ペリー」私はひそかに老人にうちあけた。「たとえこの小さな世界のすみずみまで捜さなくてはならないとしても、ぼくは美女ダイアンを捜し出すよ。そしてぼくが知らずに冒した過ちを正すつもりだ」私はペリーのためにこう弁明した。
「小さな世界だと!」彼はあざけるようにいった。「きみは自分でいっていることがわかっちゃいないね」そういうと、彼はつい先頃整理していた文献の中から発見したペルシダーの地図を見せた。
「ごらん」と、彼は指で示しながら叫んだ。「明らかにこれは水で、これは全部陸地だ。この二つの区域の大体の地形に気がついたかね? 地殻の外部では海になっている個所がここでは陸地なんだ。これらの比較的せまい区域を占める海は、地上世界の大陸の輪郭におおむね沿っている。
地殻の厚さが八百キロだということはわかっているから、ペルシダーの内径は一万千二百キロということになるね。とすると、表面積は四億二千八百六十万平方キロメートルだ。これの四分の三が陸地なんだよ。考えてもみたまえ! 三億二千百四十四万五千平方キロメートルもの陸地だ! われわれの世界では、わずか一億三千七百二十七万平方キロメートルが陸地で、その残りの表面は水におおわれている。われわれは国同士を、その国に属する陸地によってしばしば比較するが、同様にしてこの二つの世界を比較すると、より小さい世界の内部により大きい世界が内包されるという奇異で変則的な事態になるのだ! 広大なペルシダーのどこにダイアンを捜そうというのかね? 星も、月も、変化する太陽もなくては、たとえ彼女のいそうな場所がわかっていたところでどうやって捜し出すことができる?」
この議論に反駁《はんばく》の余地はなかった。私は非常なショックを受けたが、そういわれるとかえって何がなんでもやってやるぞという決心が固まるのだった。
「もしもガークがついて来てくれたらやれるかもしれないじゃないか」と、私は提案した。
ペリーと私は彼を捜しあてて単刀直入にたずねた。私はいった。
「ガーク、ぼくたちはこの奴隷の境涯から脱出する決心をしたんです。あなたも一緒に来ませんか?」
「やつらはシプダールにわれわれを追跡させるだろう」彼はいった。「そうなったらわれわれはやられてしまう、だが、しかし――」彼はいいよどんだ――「脱出できて一族のもとへ帰れる見込みがあると思ったら、わたしは一か八かやってみるよ」
「あなたの国へ帰る道がわかりますかね?」ペリーがたずねた。「デヴィッドがダイアンを捜し出す手助けをしてくれますか?」
「しましょう」
「でも、どうやって見知らぬ国を旅することができるのです」ペリーは執拗にたずねた。「道しるべとなる天体も羅針儀《らしんぎ》もないのに?」
ガークには、ペリーのいう天体とか羅針儀の意味がわからなかったが、ペルシダーの人間なら目隠しをして世界の果てまでつれて行っても、いちばん近い道をたどって真直ぐに家に帰ってくることができるのだと請け合った。これを聞いて私たちがいささかなりとも不思議そうなようすを見せたので、彼は驚いたようだった。それは地上のある種の鳩が所有している帰巣本能のようなものにちがいない、とペリーがいった。むろん、私にはわからなかったが、それで一つの考えが浮かんだ。
「それじゃ、ダイアンは一族の人々のもとに迷わず帰ることができたはずですね?」私はたずねた。
「そうとも」と、ガークは答えた。「ただし、猛獣にやられなければの話だが」
私は今すぐにもこの脱出計画を実行したかったが、ペリーもガークも、幾分でも成功のめどが立つような何か都合のよい事件が起るまで待てと忠告した。いつも真昼で、しかも住人が一定した睡眠の習慣を持たない国の社会全体に影響を及ぼすような、どんな事件が起るのだろうか。マハール族の中には、ぜんぜん眠らないものがいるということは確かだ。ときたま、住居の下の奥まった暗がりへ這い込んで、まるくなって眠りこけるものもいるにはいるが。
ペリーがいうには、マハール族はたとえ三年間一睡もしなくても、一年間連続的に仮眠するだけでそれまで寝なかった分を取りもどすのだそうだ。こういったことはすべて真実かもしれない。だが私自身、三匹が眠っているのを見たことがあるだけだ。この三匹を目撃したことから、私は脱走の手だてとして一つのヒントを得たのだった。
私たち奴隷が住む場所になっている地下の底深く――おそらく建物の一階から十五メートルも下だろう――廊下や部屋が網の目のように交錯している中を探索していた折のことだ。三匹のマハールが獣皮の寝床にまるくなって眠っているところへだしぬけに行き当った。最初は死んでいるのかと思ったが、彼らが規則正しく呼吸をしているのを知って、私の判断が誤っていたことを悟った。これらの睡眠中の爬虫類が、われわれを油断なく監禁しているやつらや、用心深いサゴス人の見張りの目をかすめる絶好の機会を提供してくれるだろう――こんな考えがその時稲妻のように頭にひらめいた。
私は急いでペリーのところへもどった。彼は、私の目にはまったく無意味に見える象形文字の古色蒼然たる文書を山積みにして読みふけっていた。私の計画を説明すると、驚いたことに彼は身の毛をよだたたせた。
「それじゃ殺人だよ、デヴィッド」彼は叫んだ。
「爬虫類の怪物を殺すのが殺人だって?」私はあきれて問い返した。
「デヴィッド、ここでは彼らは怪物じゃない、彼らはこの世界を支配する民族だ――われわれが『怪物』――つまり下等動物なんだよ。ペルシダーでは、生物は地上世界とはちがった方向に進化して来たのだ。繰り返し起った自然のものすごい激変が生き残った種を一掃してしまった――しかし、このことがなかったら、こんにちわれわれ自身の世界を竜脚類期《サワロゾイック》の怪物が支配していたかもしれん。われわれがここで目のあたりにしている事柄は、われわれ自身の歴史にも充分起り得た事柄なんだよ。もしもこの世界と同じ条件のもとに置かれていたらね。
ペルシダーの生命体は、地上世界のそれよりもはるかに若い。ここでは人類は、われわれの世界の歴史でいえば、石器時代と同じ段階にやっと到達したばかりだ。が、しかし何百万年という数え切れないほどの歳月を経てこれらの爬虫類は進化して来た。わしは、彼らが第六の感覚を持っていると信じているのだが、あるいはその第六の感覚が他の生物やもっとすごい武器を持った仲間たちよりも有利な地歩を彼らに与えたのかもしれん。だがこれはわれわれには絶対に解明できないことかもしれない。彼らはわれわれが家畜を見るような見方でわれわれを見ている。これは彼らの記録から学んだことだが、マハールの中でも別の種族は人間を食料にしているということだ――われわれが家畜を飼うように大量に飼って、ごく念入りに育て上げ、まるまると太ったところで殺して喰うのだ」
私は身震いをした。
「何がそんなにおそろしいんだね、デヴィッド?」老人はたずねた。「彼らには、われわれがわれわれの世界の下等動物を理解するていどにしか、われわれのことがわかっていないのだ。実は、ここで非常に学問的な論文に遭遇したんだがね。|ギラクス《ヽヽヽヽ》、つまり人間は、何らかの形で意志の相互伝達方法を所有するや否やという疑問に関する論文なんだ。ある執筆者などは、われわれが思考力すら持っていないのだと主張している。すなわちわれわれの行動のいっさいは、機械的なものか、あるいは本能的なものだ、とね。ペルシダーの支配者一族は、人間が相互に会話をするということや、思考力を持っているということをまだ知らないのだよ、デヴィッド。彼らと同じ方法で会話をしないものだから、われわれが会話をするなんて想像もつかないんだ。われわれが、われわれの世界のけものたちに関して考えていることも、かくのごとしさ。彼らはサゴス人が話し言葉を持っていることは知っているが、まだその言葉を理解することはできないし、その表現法もわかっていない。彼らは聴覚器官を持ち合わせていないからな。ただ唇の動きだけで意味を通じ合っているのだと思いこんでいる。サゴス人がわれわれと話ができるということなど、彼らには到底理解できないことなんだ。お聞きの通りだ、デヴィッド」彼は話を結んだ。「きみの計画を実行に移すことは、結果的には殺人を冒すことになるのだよ」
「けっこうだ、ペリー。ぼくが殺人者になろう」
ペリーは、いま一度細心の注意をはらって計画を検討させ、どういうわけかその時はわからなかったのだが、私が今しがた探索して来た部屋や廊下のきわめて入念な見取り図を書くようにと主張した。
やがて彼はいった。「どうだろう、デヴィッド。その気違いじみた計画を実行する覚悟を決めたからには、ついでにペルシダーの人類にとって非常に実際的かつ永続的な利益となるようなことをしてやるわけにはいかないものだろうか。いいかね、わしはこれらのマハールの古文書から驚嘆に価するようなことをずいぶんと学んだが、わしの計画をきみに正しく評価してもらうために、この一族の歴史の概略を話そう。
かつて男性は全権を握っていたことがあったが、大昔に女性が漸時主権を獲得していった。その後、長年の間、マハール族の間に目立った変化は起らなかった。一族は女性たちの才気|煥発《かんはつ》で慈非深い統治のもとに発展をつづけた。そして科学が長足の進歩をとげたのだ。このことは、とりわけわれわれのいわゆる生物学と優生学にあたる科学に関していえることだった。やがて、ついにとある女性科学者が、産卵後に化学的に卵を受精させる方法を発見したと発表した――きみも知っての通り、純粋の爬虫類は卵から孵《かえ》る。
するとどういうことが起ったか? たちまち男性の必要性がなくなってしまったのだ――一族はもはや男性に頼らなくなった。そして年月を重ねるうちに、現在のように一族が女性だけで構成されるにいたった。だが、いいかね、問題はここだ。すなわち、この化学式の秘密はマハールの一種族のみによって守られているのだ。それはこのプートラの都市にある。わしが大変なかんちがいをしているのでもないかぎり、きみが今日通って来た地下の説明から判断して、それはこの建物の地下室に隠されている。
彼らは二つの理由から、それを後生大事に守っている。まず第一に、マハール族の生命そのものがその秘密にかかっているためだということと、第二に、そもそものはじめがそうだったのだが、その秘密が公共の所有物であった時に、大多数のものがそれをためしたので、人口過剰が非常に深刻化してきたためだ。
デヴィッド、もしも脱走することができて、しかも同時にこの偉大な秘密を持ち出すことができたら、われわれはペルシダーの人類のために大したことをしてやれるだろう!」
考えただけでも気の遠くなるようなことだ。私たち二人が、地底世界の人類を万物の中の正当な地位につける役目をするとは。そうなると、サゴス族だけが、人類が絶対的な主権を握る障害となるだろう。サゴスが権力をふりまわしているのも、マハール族のより偉大な知性のおかげだということだけは確かだ――このゴリラのようなけだものが、ペルシダーの人類の中で特に優秀な知能を持っているとはとうてい思えない。
私は叫んだ。「ペリー、きみとぼくとで一つの世界をそっくりそのまま取りもどすことができそうだ! ぼくたち二人して人類を無知の暗闇から進歩と文明の光の中に導き出すことができる。彼らを石器時代から一足飛びに二十世紀に移し変えることができるんだ。すばらしい――考えただけでも実にすばらしいことだ」
「デヴィッド、わしは神がそのことのためにこそわれわれをここへ遣わしたもうたのだと信じるよ――神のお言葉を彼らに教え、彼らの心身を文明のしきたりに従って鍛練《たんれん》すると同時に、神の恵みの光の中に彼らを導くことをわしの生涯の仕事としよう」
「きみのいう通りだ、ペリー。きみがお祈りを教える一方では、ぼくは戦いを教えよう。そしてぼくたち二人のいずれにとっても誇りとなるような一族を二人して作り上げるのだ」
私たちが話しおわるすこし前からガークが部屋にはいって来ていた。そして、いったい何をそんなに昂奮して話しているのか知りたがった。彼にはあんまり知らせないのが何より得策だというのがペリーの考えだったので、私は脱出の計画があるのだとだけ説明した。計画のあらましを語って聞かせると、彼は先ほどのペリーと同様、愕然《がくぜん》としたようだった。だがその理由はペリーとちがっていた。ガークは、発見された場合に私たちのものとなるおそろしい運命のことだけを考慮していたのだ。が、ついには、私の計画が実行可能な唯一の計画なのだと説得して認めさせた。そしてさらに、つかまった場合には、私が全責任を負うと保証すると、不承不承同意した。
六 恐怖のはじまり
ペルシダーでは、時機をいつにしようと同じことだった。私たちの計画的脱走を隠蔽《いんぺい》してくれる夜はない。すべては白昼に決行しなくてはならないのだ――建物の地下の部屋で私がやらなくてはならない仕事以外は。そこで私たちは、時を移さず計画をテストしてみることにした。さもないとそこへ行き着く前に、この計画を可能にしてくれるマハールが目を覚ますおそれがある。だが私たちの前途には失望が待ち受けていた。というのは、地下の穴に向かう途中、建物の一階まで来たとたんに、幾群かの奴隷が屈強なサゴスの番兵にせき立てられて急ぎ足に建物からむこうの大通りに出ていくのにぶつかった。
他のサゴス人たちは残りの奴隷を捜して右往左往していた。私たちは姿を現わしたとたんに取っつかまえられ、前進する行列の中へさっさと押しこまれてしまった。
この総動員の目的も性質もわからなかったが、やがて、脱走した男女二人の奴隷が連れもどされたのだという噂が捕虜の列の内部から伝わって来た。どうやらわれわれは二人が処罰されるところを見に行くらしい。というのは、男が追手の分隊のサゴスを一人殺したためだ。
この知らせに、私は心臓が咽喉《のど》もとまで飛びあがるほど驚いた。その二人はまちがいなくフージャとともにあの暗い洞窟内で脱走した奴隷で、女はダイアンにちがいないと思ったからだ。ガークもペリーと同様、そう思った。
「なんとかして彼女を救い出す方法はないんですか?」と、私はガークにたずねた。
「ないね」と、彼は答えた。
私たちは混雑した通りを押し合いへし合いして進んだ。番兵は、まるでわれわれも仲間の殺害に加担したかのように、異常なほど酷《むご》く当った。今回の式典は、計画的な脱走が危険で無益なものであり、優位にあるものの生命を奪ったら死を招く結果となるということを他の奴隷全員に見せしめとするためのものだった。だからサゴスどもはことごとに私たちをできるだけ苦しくつらい目に会わせるのを当然至極のことと心得ているのだな、と私は思った。
彼らは槍で私たちをこづき、ちょっと向かっ腹が立ったといっては斧《おの》でなぐりつけた。もっとも、腹を立てていない時でも同じことだったが。半時の間さんざんな目に会って、ついに私たちは、低い入口から巨大な建物に追いこまれた。中央にかなり大きな闘技場がある。ベンチがこの広大な区域の三方を囲み、残る一方には闘技場の縁にそって巨大な石が高く積み上げられてあって、天井まで届く石段を形成していた。最初、この岩を積み上げた壮大な段が、その前の闘技場で演じられる活劇のための、粗野でしかも画趣に富んだ背景として以外に、なんのためにあるのかわからなかった。が、ほどなく木のベンチが奴隷とサゴスどもで満席になると、ようやくこの石段の目的がわかった。この時、マハール族が列をなしてくりこんで来たのだ。
彼らは闘技場を横切り、向こう側の石段めざして直進した。そしてそこで蝙蝠《こうもり》のような翼を拡げて闘技場の高い壁の上に舞い上り、積み上げた石の上にとまった。あれは指定席、つまりおえら方のための特等席だったのだ。
彼らは爬虫類なので、大きな石のごつごつした表面は、われわれのいわゆる豪華なビロード張りとでもいうところなのだろう。彼らはそこにしどけなく寄りかかり、醜怪な目をしばたたきながら、きっと第六感四次元語《ヽヽヽヽヽヽヽ》でたがいに話をしているのにちがいなかった。
ここではじめて私は一族の女王にお目にかかった。私のような地上世界の人間の目から見れば、他のマハールとくらべて目立つ相違点は見当らなかった。実のところ、私にはどいつもこいつも同じように見えた。だがお供の女どもが残らずそれぞれの岩にとまった後、いよいよ闘技場を横切ることになった女王は、これまで見た中でももっとも大きい、雲つくようなサゴス十人に先導されて進み出た。彼女の両側には巨大なシプダールがそれぞれ一頭ずつよたよたと従い、別に十人のサゴスの護衛がしんがりをつとめていた。
壁ぎわまでくると、サゴスどもはまさしく猿そのものの敏捷さで切りたった壁面をよじ登った。一方、尊大にかまえた女王は、見るもおそろしい二頭の竜を身近かに従えてサゴスのあとから舞い上り、支配者一族のために確保してある闘技場の一方の端の、ちょうど中央にあるいちばん大きな岩の上に舞い降りてその場にうずくまった。見ていて胸が悪くなるような、しかもいっこうにぱっとしない女王だ。そのくせ、うぬぼれの強い地上世界の王者と同様、みずからの美貌と神聖なる統治権に確固たる自信をいだいている。
それから音楽がはじまった――音のない音楽だ! マハールどもは聞くことができないので、地上世界の楽隊につきもののドラムや、横笛や、ホルンは、彼らの間では知られていない。「楽隊」は十人そこそこのマハールによって構成されている。一行は、岩の上のマハールに見えるように、闘技場の中央に列を作って繰りこんで来た。そしてそこで十五分か二十分の間、演奏をしたのである。
彼らの演奏というのは、拍子をとって尾を振り、頭を動かし、それを規則的につづけて、最後にカデンツァにはいるという仕組みだが、これが明らかにマハールの目を楽しませた。ちょうど器楽のカデンツァがわれわれの耳を楽しませるようなものだ。また、時には全員がいっせいに足並み揃えて前後左右に行ったり来たりした――私には、何もかもがばかばかしくてくだらないことのように思えたが、最初の一曲がおわると、岩の上のマハールどもは、はじめて感激の色を示した。ペルシダーの支配者一族が感情を表に現わすのを見たのはこの時が最初だった。彼らは大きな翼をバタバタさせ、偉大な尾で岩の座席を打って大地をゆるがせた。やがて楽隊は次の曲をはじめた。するとすべては再び墓場のようにしんと静まり返った。これだけがマハール音楽の非常にけっこうなところだ――たまたま演奏曲目が気に入らなかったら、目を閉じてさえいればいい。
レパートリーを演奏しつくすと、楽団員はひらりと舞い上り、女王の上後方の岩の上にとまった。それからいよいよ当日のメイン・エベントがはじまった。一組の男女がサゴスの番兵二人に闘技場へ押し出された。私は女を観察するために席から思い切り身体をのり出した――彼女がダイアン以外の女であってくれればいいがとむなしい望みを抱きながら。女はちょっとの間、私に背を向けていた。高々と結い上げた豊かな漆黒の髪を見て、私はどきっとした。
ほどなく闘技場の一方の壁にある扉が開いて、巨大な、毛むくじゃらの牡牛のような生物がはいって来た。
「ボスだ」ペリーが気もそぞろに囁《ささや》いた。「あの種の生物は、大昔に穴熊やマンモスと一緒に地上をさまよっていた。われわれは百万年も前、すなわち地球の揺籃期《ようらんき》に連れもどされたわけだよ、デヴィッド――これは驚くべきことじゃないかね?」
だが、私は半裸の女の漆黒の髪しか眼中になかった。目の前の女の姿に、口もきけないほどの苦痛を感じ息の根がとまりそうだったし、博物学上の驚異に目をとめる余裕もなかった。ペリーとガークがいなかったら、きっと闘技場の床に飛びおりて、この石器時代の貴重な宝にふりかかろうとしている運命を、それがどんな運命であれ、わかち合っていたことだろう。
ボスの出現と同時に――ペルシダーではこの生物を|サグ《ヽヽ》と称している――二本の槍が闘技場の囚人の足もとに投げこまれた。このものすごい怪物にかかっては、この貧相な武器は豆鉄砲ほどの役にしかたたないだろうと思われた。
けだものが唸り声を上げ、地上の牡牛を何頭も合わせたほどの勢いで前足で地面を引っかきながら二人に接近していった時、私たちのすぐ下の別の扉が開いて、かつて聞いた中でももっともすごい咆哮《ほうこう》が、いきりたつ私の耳にとびこんで来た。最初、私にはこのおそるべき挑戦の叫びを発した野獣の姿は見えなかったが、その声が犠牲《いけにえ》の二人をとっさにふり返らせた。と、その時女の顔が見えた――ダイアンじゃない! 私はほっとして泣き出しそうになった。
いまや恐怖のために二人がその場に釘づけになっていると、あのものすごい声の持主がしのびやかに私の視野の中に姿を現わした。巨大な虎だ――世界の揺籃期に原始林の中であの大きなボスを追っていた|やから《ヽヽヽ》だ。姿かたちは私たちの世界のあの高貴なベンガルの虎に似ていないこともないが、図体がとほうもなくでかいのと同様、色彩もまたどぎついものだった。鮮烈で毒々しい黄色。綿毛のように白い腹の毛。黒い縞模様は最良質の無煙炭のように艶やかで、毛並みは山羊のように長く、ふさふさしている。美しい動物だということに異議はないが、身体が何倍も大きく、色彩もどぎついのだから、さぞや性格もいちだんと兇暴なことだろう。人喰い虎は、彼らの仲間のうちではめずらしい存在ではない――虎という虎がすべて人喰い虎なのだ。しかし彼らは人間だけを餌食《えじき》にしているのではない。魚肉と獣肉とを問わず、ペルシダー中で彼らが賞味しないものはないのだ。彼らは絶えず苦労してその巨体が満足するだけの食物を摂取し、旺盛《おうせい》な体力を維持している。サグは唸り声を発しながら一方から不運な二人をめがけて前進し、その反対側からは恐ろしい|タラグ《ヽヽヽ》が口をがっと開き、牙からよだれをしたたらせながらじりじりと迫っていく。
男は二本の槍を手に取ると、一本を女に渡してやった。虎の咆哮を聞きつけて牡牛は逆上した。それまでの唸り声はたちまち狂気の怒号にとって変わった。この二頭の野獣が発したようなものすごい地獄の雄叫《おたけ》びをかつて耳にしたことがない。それが醜怪な爬虫類にはいっさい聞えないとは! 見世物は彼らのために演じられているというのに。
いまや一方からサグが、そしてもう一方からタラグが突進して来た。二頭にはさまれて立つちっぽけな二人の生命は、あわや風前の灯かと思われた。ところが、二頭の野獣がまさしく襲いかかろうとしたその瞬間、男は連れの女の腕を引っつかみ、二人して脇へ飛びのいた。と、怒り狂うけだものは二台の機関車が正面衝突するような勢いでぶつかった。
つづいて凄絶な闘争が開始された。その恐怖に満ちたあくなき兇暴さの故に、戦いは想像を絶して筆舌につくし難いものと化した。牡牛は虎を何回となく宙に放り上げたが、大猫のほうでは、地面に足がつくたびに、ますます憤怒がつのるらしく、その怒りと、疲れを知らぬ体力とで再び相手に立ち向かっていくのだった。
しばらくの間、男も女も二頭のけものをよけるのに精一杯だったが、やがて二人ははなればなれになって、それぞれが闘争する野獣の一頭にこっそりとしのび寄っていった。虎は今や牡牛の幅広い背中にのしかかり、太い首根っこに強力な牙を突き立ててその場にしがみつく一方、長い強靱な爪で牡牛の厚い皮膚をズタズタに引き裂いた。
牡牛は、つかのま、唸り声を上げ、身をわななかせながら双蹄をそなえた足をふんばって尾を左右にはげしく打ち振っていたが、やがて自分を八つ裂きにしようとしている乗り手をなんとかして振り落とそうと死物狂いになって跳ねあがり、闘技場の中を駆けずりまわった。女はあやうく体をかわして、手傷を負ったけものの最初の突進をよけた。
虎を振り落とそうとする努力はすべて徒労に終ったかに見えたが、そのうちに牡牛はやけくそになって地面に横倒しになり、そこら中をごろごろと転げまわった。いくらもたたないうちに、虎は度胆を抜かれたものか、まごついて相手を離してしまった。すると巨大なサグは、猫のように素早く立ちあがり、あのものすごい角でタラグの腹部をずぶりと芋《いも》刺しにして闘技場の地面に突き立てた。
虎は相手の毛むくじゃらの頭に爪を立ててかきむしった。たちまち目はつぶれ、耳はちぎれて、ずたずたになった血みどろの肉が頭蓋骨の上に幾筋か残るだけとなったが、それでも牡牛は、この凄惨な報復が行われている間じゅう苦痛に耐えて、敵を地面に突き立てたまま身じろぎもしなかった。そこへ、盲になった牡牛はもはや恐れるに足りないと見てとった男がひらりと踊り出て、タラグの心臓を槍でぐさりと貫いた。
相手の爪のおそろしい攻撃がおさまると、牡牛は血みどろで、しかも目の見えない頭をぬっともたげた。そしておそろしい声で一声咆哮すると、闘技場を突っ切って駆け出し、猛烈な勢いでとんだりはねたりしながら、私たちが坐っている真下の壁にまっしぐらに突進して来た。たまたま高くとびあがった拍子に壁をとび越した牡牛は、私たちのすぐ前の奴隷やサゴスのまっただなかにとびこんだ。鮮血に染まった角を右に左に振り立てながら、けものは目の前にいる者をなぎ倒し、蹴散らして私たちの席に向かって一直線に突進して来た。奴隷やゴリラ人間は、この野獣の断末魔の脅威――そうとしかいいようのないほどものすごい暴走だった――から逃れようと、どっとわれ勝ちに逃げ出した。
番兵は、私たちのことも忘れて、出口に殺到する群衆に加わった。数ある出口の大部分は私たちの背後の壁を貫いて外部に通じていた。ペリーとガークと私は、野獣が闘技場の壁をとび越えてからひとしきりあたりを支配した混乱のさなかに、はなればなれになってしまった。それぞれ、われとわが身をかばうのに夢中だったのだ。
私は右の方に走って、恐怖のあまり狂乱状態に陥った暴徒が逃げようと先を争ってひしめいているいくつかの出口を通り越した。このありさまを人が見たら、サグの群全体が背後でいっせいに放たれたのだと思ったことだろう。だが、恐怖をきたした群衆とはそんなものだ。
七 自由の身となって
けものが突進してくる進路からいったん離れると、たちまち恐怖感は去ったが、別の感情――希望――がそれにおとらず素早く私を捉えた。番兵は混乱状態に陥っているから、逃げるなら今、この一瞬だ。
私は、ペリーのことを考えた。私が自由の身になった方が、彼を解放してやるのに好都合だろうという成算がなかったら、私は自由の身になるという考えをその場で捨てていたにちがいない。だが私にはその成算があったから、サゴスが逃げて行かない出口を求めて右をさして急いだ。そしてついに目的を達した――暗い廊下に通じる、低くてせまい出口を発見したのだ。
あとはどうなろうとままよ、私は地下道の暗闇にとびこんだ。そして手探りで闇の中をあるていどまで進んだ。闘技場の騒音は刻々と遠ざかり、やがてあたりは墓穴のようにしんと静まった。かすかな光が、ところどころにある通風管や採光管から洩れていたが、人間である私の目で闇を見通すにはとうてい足りなかった。そこでやむなく用心に用心を重ねて横壁を手探りしながら一歩一歩進んだ。
ほどなく明るさが増して来て、有難いことにはそれからいくばくもなく上に達する階段を偶然に発見した。階段の上の、地面に開いた穴から真昼の太陽のまばゆい光線が射しこんでいる。
用心深く階段を這って上り、地下道の終点に達したところで外をのぞいてみた。目前にはプートラの大平原がひろがっていた。正面には、地下都市のいくつかの入口を示してそびえる無数の花崗岩の塔があり、背後には、近くの山のふもとの丘まで平原が切れ目なくなだらかにつづいている。つまり私は都市を通り抜けて地上に出て来たというわけだ。これで逃亡できる見込みがぐっと強まった感じだった。
とっさに私は、暗くなるのを待ってから平原を越えようと考えた。習慣的な考え方というものはこれほど深く根を下しているものなのだ。が、ペルシダーは常時白昼の光に包まれているのだということをとたんに思い出した。私は苦笑しながら日光の中に足を踏み出した。
プートラの平原には、丈高い草が腰の高さまで伸びて茂っていた――地底世界のこの華麗な開花草は、どの葉先にも五弁の小さな花をつけている――色とりどりの目もさめるような小ちゃな星が、緑の葉群れにきらめいて、無気味ながら美しいこの地底の景色にいちだんと魅力をそえていた。
とはいえ、さしあたって私の注意を惹いたのは、彼方の丘だけだった。隠れ場が見つかるといいが、と心に念じて、はやる足もとに無数の花を踏みつけながら、私は先をいそいだ。ペリーの話では、地底世界の表面における引力は、地上世界よりも小さいということだ。以前に一度その一部始終を説明してくれたが、私自身そういった事柄に関してはとりたてて明るい方ではないので、ほとんど頭から抜けてしまっていた。なんでも、ペルシダーの表面で引力を測定した地点の真裏にあたる地殻上にある対抗引力が、二者間の引力に差異を生ずる原因の一部となっているそうだ。それはとにかく、ペルシダーでは、地上にいた時よりもずっと敏速に動いているように感じる――なんだか足取りがうきうきと軽やかで、ひどく爽快な気分だし、身体がふわりと浮いているような感じなのだ。こんな感じは、時々夢の中で経験するあの感じ以外にくらべようもない。
当時、あたり一面に花が咲き乱れるプートラの平原を横切りながら、私はほとんど宙を飛んでいるような心地だった。もっとも、こんな心地がするのはどこまでがペリーの暗示によるもので、どこまでが現実だったのかはわからない。ペリーのことを考えれば考えるほど、私は自分が新たに発見した自由を楽しむことはできなかった。老人とともにわかち合うのでないかぎり、私にとってペルシダーには自由はあり得ないのだ。彼を解放してやるなんらかの方法を発見できるかもしれないという希望だけが私をプートラに帰らせなかったのだった。
さてどうしたらペリーを救出できるか、私には想像もつかなかったが、何か偶発的な事件が発生してこの問題を解決してくれはしないかと願った。とはいうものの、奇跡同然のことが起らないかぎり、まず私にはどうしようもないということは歴然としている。裸で、武器もなしに、いったいこの異邦の世界で何ができるというのだ? この平原が見えなくなるところへいったん行ってしまったが最後、もと来た道をたどってプートラへ帰りつけるかどうかもあやしいものだ。かりにそれが可能だとして、いかに遠くまでさまよったところで、どんな援助をペリーにもたらすことができよう?
時間をかけて熟考すればするほど、この一件はますます悲観的な様相を呈してくる。それでも私は意固地になって、山のふもとの丘めざして前進した。後方には追手が現われるきざしもなく、行く手には生物一匹見あたらない。まるで死に絶えて忘れ去られた世界を進んでいるようだ。
平原の果てに到着するまでどのくらいの時間がかかったか、むろん知る由もなかった。だがついにふもとの丘に到達して、美しい小峡谷をつたって山に登っていった。かたわらでは小川が波を立ててたわむれ、さざめきながらいそいそと静かな海に向かってくだっていった。静かな淀みには、二キロ前後の小魚がたくさんいた。大きさと色を度外視するなら、外見はわれわれの世界の海にいる鯨と似ていないこともない。たわむれる魚を眺めているうちに、彼らが子供に乳を飲ませるばかりか時々水面に浮き上っては呼吸をし、水面のすぐ上の岩に生えているある種の草や奇妙な赤い地衣を食べるということを発見した。この、水面に浮び上ってくるという習性のおかげで、私の切なる願い――ペリーの称する草食鯨の一尾を捉えて、とりたての温血魚を材料に、腕によりをかけたご馳走を作りたいという願い――が、はからずもかなえられることとなった。だがこの頃には、なんでも生《なま》のままで食べるということにあるていど馴れてきていた。それでもまだ目玉や内臓に手をつけることができず、大いにガークをおもしろがらせたものだった。こういう珍味のたぐいはいつもガークにまわすことにしていた。私は小川の岸にしゃがみこんで、紫色をした小鯨の一尾が浮き上って来て水面に垂れ下った長い草に喰いつくまで待った。そして、猛獣のようにおどりかかり、そいつがまだ逃げようとしてもがいているうちから空腹を満たした。人間はけだものだとはよくいったものだ。
それから小川の淀みの澄んだところで水を飲み、手と顔を洗ってから逃走をつづけた。小川の源の上《かみ》手で、岩のごろごろした登り道に出た。その道は連綿と連なる尾根の頂上に通じていた。そこを越すと、急勾配の下り坂がおだやかな内海の岸までつづいていた。波一つない海面には美しい島がいくつか浮かんでいる。
その風景はとびきり美しかったし、新たに手に入れた自由を脅かすような人間も野獣も見あたらないので、私は絶壁の縁をひょいと越えて、すべったりころんだりしながら爽やかな谷底へと降りていった。そこは一見して平穏無事な安息所と見うけられた。
私はなだらかに傾斜した岸にそって歩いた。奇妙な形や色をしたおびただしい数の貝が浜を一面におおっている。貝殻だけのもあるし、それぞれに多種多様な軟体動物を宿している貝もある。同類は地上世界の太古の海の波静かな岸辺で、物ぐさな日々を過していたかもしれない。歩きながら、私はあのもう一つの世界の最初の人間と自分とを比較せずにはいられなかった。私をとりまく孤独はそれほど徹底したものだったし、成長期にある自然の初々《ういうい》しい美と驚異はそれほど原始的で新鮮だったのだ。自分が第二のアダムで、世界の揺籃期を一人淋しくイヴをもとめてさまよい歩いているような気分だった。が、そう考えたとたん、あのすばらしい漆黒の髪をゆるやかに結い上げた非の打ちどころのない優美な顔の輪郭が、まぶたの裏に浮かんだ。
私は足もとの浜辺ばかり見て歩いていたので、すぐそばへくるまで|それ《ヽヽ》に気がつかなかったのだが、その時まで孤独と安心立命の境地にあって原始時代の君主になったような気分で美しい夢をむさぼっていたのが、これでいっぺんに吹っとんでしまった。|それ《ヽヽ》というのは中身をくり抜いた丸太で、砂地に引き上げておいてあった。お粗末な櫂《かい》が一本その底に横たわっている。
何か新しい危険がまちがいなく迫ってきているらしいと感じて、私は強烈なショックを受けた。と、その時、ちらばった石を踏む音が崖の方角から聞え、私はそっちの方をふり向いて闖入者《ちんにゅうしゃ》の姿をみとめた。赤銅色の肌をした大男がこっちに向かって急いで駆けてくる。その急ぎようにはただならぬものが感じられたので、槍をしごいている恰好やおそろしい顔を見るまでもなく、こいつは危険だぞと悟った。だが実際いって、どこへ逃げるかが重大問題だ。
あのスピードだから、障害物のない海岸ではとても逃げ切れそうもない。とるべき道はただ一つ――あのお粗末な丸木舟だ――私は相手に負けない敏捷さでそいつを海へ押し出し、水に浮かんだところで最後の一押しをくれておいて艫《とも》から這いあがった。
原始的な舟の持主が怒声をはりあげた。と、一瞬おくれて重い石の穂先のついた槍がピューッと私の肩をかすめて飛んで来て、舳先《へさき》にぐさりと突きささった。私は櫂を握りしめ、ぐらぐら揺れるたよりない舟を死物狂いでせき立てて海面に漕《こ》ぎ出した。
肩越しにちらとふり向くと、赤銅色の男は私を追って水中に飛びこみ、ぐんぐん泳いで迫ってくる。あの並はずれたストロークでは、われわれの間の距離はすぐにも縮まるだろう。というのは、いくら精一杯漕いでも、馴れない舟はなかなか進まず、頑固に鼻先をあっちこっちに向けて、肝心の行きたい方角には向いてくれないのだ。無愛想な舳先を進路にもどすだけで私はエネルギーの半分を消耗してしまった。
岸から百メートルほど進んだ時、追手はあと六ストロークほどで艫《とも》をつかむにちがいないということがはっきりした。無駄なこととは知りつつも、なんとかこの場を逃れようと必死になって原始的な櫂をたよりにしゃにむに漕ぎまくったが、赤銅色の巨人はなおもぐんぐん迫ってくる。
彼の片手が艫の方ににゅうっと伸びたその時、光沢のあるくねくねしたものが水底から矢のように浮かび上ってくるのが見えた。男もそれを見た。恐怖の色がみるみる彼の顔中にひろがった。私は、もうこれでこの男に関して気を揉《も》む必要はなくなった、と思った。確実に迫る死に対する恐怖を彼の顔から読み取ったからだ。
と、その時、太いぬらぬらしたものが男の身体に巻きついた。例の先史時代の海底に住むグロテスクな怪物――巨大な海蛇だ。牙のある顎。素早く動く二叉《ふたまた》にわかれた舌。ギョロリと飛び出した目。頭と鼻先にある骨質の突起は短くて頑丈な角を形成している。
すでに勝敗の明らかな闘争を見ているうちに、この死神に見こまれた男の目と私の目がばったりと合った。その時――断言してもいい――私は絶望的な哀願の色が浮かぶのを見たのだった。だが、見ようと見まいと、この男に対する哀れみがふいに私の心をよぎった。はっきりいって彼の同胞なのだ。私を捉えたが最後、喜々として殺したであろうということも、絶体絶命の危機にさらされている彼を見てさっぱりと忘れてしまった。
蛇が浮き上って私の追手にからみついた時、私は無意識のうちに漕ぐ手をとめていたので、丸木舟は今や彼らのすぐそばに漂っていた。怪物は、そのおそろしい顎で喰いついて海底の暗い穴にひきずりこんで餌食にする前に、獲物をただもてあそんでいるようすだった。太い、蛇のような身体を獲物に巻きつけてはほどき、獲物の目の前でものすごい顎をパクパクさせて、二叉《ふたまた》の舌を稲妻のように素早くチラッチラッと閃かせては赤銅色の肌をなめていた。
大男はなんとか逃れようと敵の醜怪な身体《からだ》をおおっている骨質の鎧《よろい》を石斧でめった打ちして奮戦したが、平手打ちを喰わせたほどの損害も相手に与えることはできなかった。ついに、同胞が見るもおそろしい爬虫類に引きずりこまれて凄惨な死をとげるところを、これ以上傍観しているにしのびなくなった。舟の舳先には男が――にわかに助けてやる気になった当の男が――今しがた後から投げた槍が突きささっている。私はぐいとその槍を引き抜くと、ぐらぐらする丸木舟の中で仁王立ちになり、両腕に渾身の力をこめて、水棲動物《ハイドロフィディアン》のがっと開いた口内にぐさりと突き立てた。
海蛇はシューッと大きな音をたてると、獲物を離して私に向かってこようとした。だが咽喉《のど》に突きささった槍が邪魔になって、私を捉えることはできなかった。とはいえ、私を捉えようとのたうちまわったので、丸木舟はもう少しのことで転覆するところだった。
八 マハールの神殿
明らかに無傷だった原始人の男は、急いで舟に這い上った。そして私と一緒に槍をつかんで猛り立つ蛇を寄せつけないように加勢してくれた。傷を負った爬虫類から流れ出る血は、私たちの周囲の水を真紅に染めた。やがて、もがく力が弱まってきたことから、私が致命傷を与えたことがはっきりした。ほどなく、私たちに近づこうとするあがきもまったくやんだ。そして二、三度ひくひくと痙攣《けいれん》したと思うと、ぐらりと腹を見せて完全に息絶えた。
その時になって私は、われとわが身を窮地に陥れたということに翻然《ほんぜん》と気づいた。私が舟を盗み取った男の手中にすっぽりと落ちこんだのだ。なおも槍にしがみついたまま彼の顔をのぞきこむと、なんと彼の方でも私をじろじろと眺めまわしている。たがいにあっけらかんとして相手の顔に見とれながら、死んでも離すものかとばかりに槍にしがみついたままの恰好で、二人は数分間突っ立っていた。
彼が心中で何を思っていたかはわからない。だが私の方は、いったいいつになったらこいつは再び襲いかかってくるのだろうと、そればかり考えていた。
ほどなく彼は私に話しかけてきたが、私にはわからない言葉だった。私は、彼のことばを知らないということを示すために首を振って見せると同時に、サゴス人がマハールの人間奴隷と会話をする時に使っていた混合語で話しかけた。
うれしいことにこれが通じて、彼は同じ混合語で答えてくれた。
「おれの槍をどうしようというのだ?」彼はたずねた。
「あんたにこいつで刺されたくないだけのことさ」と、私は答えた。
「そんなことはしない。おまえはたった今、おれを助けてくれたじゃないか」そういうと、彼は槍を放して舟底にどっかりとうずくまった。
「おまえは誰だ」と、彼はつづけていった。「どこの国から来た?」
私も槍を二人の間に置いて腰をおろし、どうやってどこからこのペルシダーに来たか説明しようとしたが、私の語る不思議な話を彼に理解させるか、ないしは信じさせるということは、おそらく地上世界にいる人々に地底世界の存在を信じてもらうのと同様不可能なことだった。
彼にしてみれば、自分の足の下にもう一つ別の世界があって、自分と同類の人間が住んでいると想像するのはなんともばかばかしいことのように思えるのだ。そのことを考えれば考えるほどおかしくなって、彼はげらげらと大笑いする始末だ。だが実際ずっとそうだったのだ。われわれの実に憐むべき貧相な人生経験の範囲内にはいってこなかったものは、われわれにとって存在し得ない。われわれの限られた思考力では、宇宙の漂石の間を縫って細々《ほそぼそ》と進む、取るに足りない一粒の埃《ほこり》――われわれが「世界」と誇らしげに呼んでいる湿った一個の土くれ――の表面に住むわれわれの間で通用している条件のもとに存在しているのでないものは、理解することができないのだ。
そこで私はあきらめて、こんどは彼自身のことをたずねた。彼はメゾプ族の者で、名前はジャといった。
「で、メゾプ族ってどんな人種なんだい?」私はたずねた。「どこに住んでいるの?」
彼は驚いて私を見た。
「これじゃまったくの話、おまえさんが別世界から来た人間だということを信じそうになるよ。ペルシダーの人間なら、こんなに物を知らんはずがないからな! メゾプ族は、海に浮かぶ島に住んでいる。おれがこれまでに聞いたかぎりでは、メゾプはほかの土地には住んでいないし、メゾプ以外の種族は島にいない。そうはいっても、ほかの遠い国々では事情がちがうかもしれない。それはおれにもわからん。とにかくこの海とこの付近の海では、島暮しをしているのはおれの種族の人間だけだということは事実だ。おれたちは漁民だが、同時に優秀な猟師でもある。大きい島以外にはあんまりいないような獲物を求めて時々本土へ行く。それにおれたちは戦士でもあるのだ」
彼は得意そうにいいたした。「マハール族のところにいるサゴス族でさえおれたちを恐れるほどだ。その昔、ペルシダーの初期の時代には、サゴスは他のペルシダーの人間を奴隷にするのと同様、われわれを奴隷にする習慣だった。この習慣はわれわれの間で代々受け継がれてきた。だがわれわれは必死になって戦い、大多数のサゴス人を殺し、また捕虜になったものもマハールの都市で多くのマハールを殺したので、とうとう彼らもわれわれには手出しをしない方が得策だと悟った。その後、マハール族は、楽しみのため以外には魚をとることすらなまけるようになった。彼らにとって入用な魚を補給するためにはわれわれが必要だったので、二つの種族の間に休戦協定が成立した。現在彼らはわれわれがとった魚の見返りとして、われわれが生産できない物品を供給してくれる。こうしてメゾプとマハールは仲よく暮しているわけだ。
マハールたちは、われわれの島にまでやってくる。彼らは、身内であるサゴス人の詮索好きな目を逃れてはるばるこの島へ来て、われわれの援助で建てた神殿で宗教的な儀式を取り行うのだ。おまえがおれたちと一緒に暮すなら、彼らの礼拝の様式をきっと見るにちがいない。実に奇怪千万な礼拝で、しかもその儀式に参列するために連れてこられた哀れな奴隷たちにとっては不快きわまるものだ」
ジャが話をしている間、私は彼をしげしげと観察する絶好の機会を得た。彼は雲つくような大男で、身長は二メーートルあまりはあろうか。みごとな体格をしていて、赤銅色の肌はわが北米インディアンに似ている。容貌についても同じことがいえる。彼の鼻はインディアンのうちでも高等な部族によく見かけるような鉤《かぎ》鼻で、頬骨は高く、髪も目も黒いが、口もとはもっといい形をしている。総じていえば、ジャははなはだ印象的で、男前だということになる。それに、われわれが余儀なく使用する間《ま》に合わせの言葉ではあったが、彼は上手にしゃべった。
私たちが話をしている間に、ジャは櫂を取り上げて勢いよく漕いで、本土から八百メートルほど離れた大きな島へと丸木舟を進めた。ほんの今しがた私が無器用な手並みを披露したあとだけに、彼が粗末で不便な舟をたくみに操るさまを見て、私はほとほと感心した。
美しい平坦な浜辺に着くと、ジャは舟からとびおりた。私もあとにつづいた。それから二人して丸木舟を引き揚げて、砂浜を越えたずっと向こうの灌木の茂みの中に引きずりこんだ。
「カヌーは隠しておかなくてはならないんだ」ジャが説明した。「ラウナのメゾプ族は常時おれたちと戦争状態にあるので、見つけしだいカヌーを盗んでいくからな」
彼ははるか沖合いにある一つの島に向かって首を傾けて見せた。島といってもあんまり遠くにあるので、はるか彼方の空に浮いた一点の|しみ《ヽヽ》のようにしか見えない。ペルシダーの表面は上向きの曲線をえがいていて、地上世界から来た人間の目を見張らせるような、奇抜な現象を絶えず見せてくれる。陸と海は、はるか遠方で上向きの曲線を形成していて、まるで海も陸も横向きになっているように見えながら彼方の空にとけこんでいるし、内海や山は、すぐ頭上につるされているように感じる。こういったことを見たり感じたりしていると、知覚力も推理力もまるっきり転倒してきて、頭がぼうっとしそうになる。
カヌーを隠しおわるやいなや、ジャはジャングルの中へとびこんだ。ほどなく、細いことは細いが、それとはっきりわかる道へ出た。すべての未開人の道がそうであるように、この道もうねうねと曲折していたが、このメゾプの道には、地上地底を問わずこれまで私が見た他の道とちがう一つの特色があるということにあとになって気づいた。
道は、平坦に、くっきりとつづいているかと思うといきなり混沌《こんとん》としたジャングルのまっただ中でふっつりと途切れてしまうのだ。するとジャは、今来た道をそのまま真直ぐにちょいと引き返して、それからいきなり一本の木にとび上り、その木によじ登って向こう側へ出て倒れた丸太の上にとびおり、低い灌木をひととびにとび越して、再びはっきりした道に降り立つ。次にその道をまたちょっと引き返してからそこでまわれ右をして、今来た足跡をたどって歩き出す。それから一キロ半と行かないうちに、この新しい道は最前の道と同様、また藪《やぶ》から棒に、そしていわくありげに途切れてしまう。すると彼は、何か足跡のつかないものを仲介にして再びそれを通り越して向こう側に出、いったん途切れた筋道をたどって進むのだった。
この一風変った道の目的を悟った時、これを思いついたメゾプの遠い祖先の生まれながらの知謀に感服せずにはいられなかった。敵をまいてジャングルの奥深く隠れた都市まで追跡してこようとするのを手間取らせ、敵の裏をかこうという、なみなみならぬ策略なのだ。
あなたがた地上世界の人間には、まだるっこい遠回りのように思えるかもしれないが、あなたがペルシダーの人間なら、時間が存在しないところでは時間は問題にならないのだということがわかるだろう。道はうねうねと複雑をきわめて入り組んでいるし、道と道との接合点もさまざまなら、次の道を発見するまでにたどらなくてはならない距離も一様でないので、メゾプ族の中には自分の都市から海までの道すら覚えてしまわないうちに成人に達するものもしばしばあるくらいだ。
事実、メゾプの若者の教育の四分の三はこれらのジャングルの道を覚えることで、成人してからの地位は主として自分の島の道をどれだけ知っているかということで決定される。一方女たちは、他の村の男性に略奪されて妻となるか、あるいは部族の敵との戦いで捕虜となる以外は、生まれた村のある開拓地を生涯出ないので、ぜんぜん道を覚えない。
ジャングルの中を八キロ以上奥地へはいったにちがいないと思われる頃、私たちは突如として広い開拓地に出た。中心部には想像の所産のような奇異な外観を呈した村がある。
大木が地上五メートルから六メートルの高さで切り落され、その上に小枝を編んで上から泥を塗った球形の住居が建っているのだ。このボールのような家には、一軒ごとに一風変った彫像がのっけてあった。ジャの話によると、この彫像はその家の持主を示しているのだそうだ。
採光と通気のために、高さ十五センチ、幅五、六十センチの隙間が水平に開けられている。家の入口は木の根方にある小さな穴で、そこをはいってから粗末な梯子《はしご》をつかって幹の空洞を登り、上の部屋に到達するという仕組だ。家の大きさは、二部屋のものから数室のものまでさまざまで、私が訪れたいちばん大きい家は二階にわかれていて八室もあった。
村の周辺一帯、つまり村とジャングルの中間には、みごとに開墾された畑がひろがっていて、メゾプは必要な穀物や果物や野菜を栽培していた。私たちが村にやって来た時、女や子供がこの農園で働いていた。彼らはジャに目をとめてうやうやしく挨拶したが、私には一|瞥《べつ》もくれなかった。中には戦士が多数まじっていたし、また、耕作地の端にも大勢の戦士がいたが、彼らも槍の穂先をすぐ前の足もとの地面につけて、ジャに敬礼した。
ジャは村の中央にある大きな家――八室ある家――に私を案内して中へ招じ入れ、食物と飲物を供してくれた。ここで私は彼の妻に会った。器量のいい女で、乳飲み児を抱いていた。私に生命を助けられた経緯《いきさつ》をジャが語ると、それ以後彼女は私を下へも置かない歓待ぶりで、ジャの話では将来部族を支配することになっているという赤ん坊を抱いてあやすことさえ許してくれた。どうやらジャはこの部族の族長のようだった。
私たちは食事をし、休息をとった。私は眠ったが、これがまたジャをおもしろがらせた。彼自身、睡眠をとることはあってもきわめてまれなことらしい。それからこの赤色人は私に、村からさほど遠くないマハールの神殿にいっしょに行ってみないかともちかけた。
「行ってはいけないことになってるんだが、マハールは耳が聞えないし、気をつけて目につかないようにしていれば、われわれが来ているということには気づくまい。おれ自身は、彼らを常日頃から憎んでいるのだが、島にいる他の族長たちは、二種族の間に現存している友好関係を維持していくのが得策だと考えている。そうでもなければ是が非でも戦士を率いてあのおぞましい輩《やから》のまっただなかに攻め入って皆殺しにしてやりたいところだ――あいつらがいなかったらペルシダーはもっと住みよいところになるだろうに」
私はジャの信念に心から賛同したが、ペルシダーを支配する種族を消滅させるのは困難なことのように思えた。こんな話をしながら私たちは入り組んだ道をたどって神殿に向かった。神殿はちょっとした空地に建っていて、石炭紀の地上世界に繁茂していたと思われるような巨木にかこまれていた。
岩を切って、ほぼ楕円形に積み上げて建てた壮大な神殿で、円屋根の数カ所に大きな孔が開けてあった。建物の側面には戸口も窓も見あたらず、またその必要もなかった。ただ奴隷のための通用口が一つあればそれでよかったのだ。というのは、ジャの説明によると、マハールは空中を飛んで儀式場へ行き来して、屋根にある孔から出入りするということだった。
「ところが」と、ジャは言葉をついで、「土台のそばに入口が一つあるんだ。マハールさまでもご存じない入口がね。来たまえ」というと、彼は先に立って空地を横切り、建物のはずれを回って壁の土台に岩を積み上げてあるところへ行った。彼が大きな岩を二個ばかり動かすと、なんとそこに建物の内部へ直結している――あるいは直結しているらしく見える――小さな孔が現われた。とにかくジャにつづいて足を踏み入れると、中はせまくて真暗だった。
「ここは外壁の中なんだ」ジャがいった。「空洞になっているんだよ。ぴったりくっついて来たまえ」
赤色人は、二、三歩手探りで進んだところで原始的な梯子《はしご》を登りはじめた。地上から彼の家の階上に通じていたのと同じような梯子だ。十二メートルほど登ったところで、壁の間の空洞の内部がしだいに明るくなりはじめ、やがて内壁にある孔の正面に出た。そこから神殿の内部がくまなく見通せた。
一階は澄んだ水を満々とたたえた厖大な水槽になっていて、醜怪なマハールが行ったり来たり、のらりくらりと無数に泳いでいた。花崗岩の人造島が、この人造湖のそこここに点在していたが、そのうちのいくつかの島に私のような人間の男女がいた。
「人間がここで何をしているんだ?」私はたずねた。
「いまにわかる。女王のご入来のあとで取り行われる儀式で、彼らは主役を演じるのだ。彼らと同じように壁の向こう側にいなくてよかったときみは思うだろうよ」
彼の言葉がおわるかおわらないかに、上の方で羽ばたきがきこえ、つづいてすぐにペルシダーのおそろしい爬虫類が長い行列をつくって屋根の中央の孔からゆうゆうと舞い降りて来た。そして神殿の中を威風堂々と輪をえがいて舞った。数匹のマハールを先頭に、少くとも二十匹のぞっとするような翼竜《プテロダクテイル》――ペルシダーではシプダールと呼ばれている――がつづいている。そしてそのあとからいよいよ女王が、あのプートラの闘技場の時と同じように、他のシプダールに側面を守られて入場した。一行は楕円形の室内を三度まわって、最後に湿った冷たい岩の上にとまった。一方の縁の中央にあるいちばん大きい岩は女王の玉座で、女王はおそろしげな護衛たちにとりまかれてそこに着席した。
席に着くと一同は数分間いっせいになりを静めた。黙祷《もくとう》を捧げているのかと思うほどだった。
小島にいる哀れな奴隷たちは、目を大きく見開いてこの恐ろしい生物たちを見守っている。男たちはたいがい腕組みをし、堂々と直立して運命を待機しているが、女や子供はたがいにひしと抱き合って男たちの後に隠れていた。これらのペルシダーの穴居人は、容姿のりっぱな民族で、もしもわれわれの祖先が彼らだとしたら、地上世界の人類は年月の進行にともなって進化したというよりか、むしろ退化したのだといえよう。彼らは機会に恵まれなかっただけのことだ。われわれは機会には恵まれているが、そのほかには何も持ち合わせていない。
いよいよ女王が動き出した。彼女は、醜い頭をもたげて周囲を見回してから、ひどくおもむろに玉座の端まで這って行き、音もなく水中にすべりこんだ。そして長い水槽を行ったり来たりして泳いだ。水槽の端までくると、囚《とら》われのあざらしが小さな水槽の中でやるように仰向けに回転して水底にもぐるのだった。
こうして女王はしだいしだいに島に接近していった。そして最後に玉座の真向かいにあるいちばん大きい島の手前で一息入れた。女王は醜怪な頭を水面からぬっともたげて、まるい大きい目で奴隷たちを見すえた。奴隷たちはよく肥ってつややかな肌をしていた。彼らは遠いマハールの都市にある人間飼育場からはるばる連れてこられたもので、そこではわれわれが食肉用の牛を飼育して肥らせるように、人間が飼育され肥らされるのだ。
女王は、ぽっちゃりとした一人の少女に視線を定着させた。犠牲《いけにえ》は顔をそむけようとして両手で顔をおおい、一人の女の後にひざまずいた。だが爬虫類はまばたきもせずに凝視をつづけた。その視線は、女を射抜き少女の手を貫いて、ついには少女の脳髄にまで達したと断言できるほどのすさまじさだった。
女王の頭がゆるやかに左右に動きはじめた。だが目は怯える少女に刺すような視線をおくることをやめなかった。と、犠牲《いけにえ》が反応を示した。少女は恐怖にとりつかれた目をいっぱいに見開いてマハールの女王を見たのだ。そして、そろそろと立ち上ると、まるで何か目に見えない力に引きずられるように、恍惚状態になって爬虫類に向かって一途《いちず》に進んでいった。呆然と見開いた目は女王にすえられたままだ。
水際まで来ても止まろうともせず、そのまま小島のそばの浅瀬に足を踏み入れた。今や犠牲をおびき寄せるようにじりじりと後退するマハールに向かって少女は進んで行く。水は少女の膝《ひざ》の高さまで来たが、それでも少女はあの冷やかにねばりつくような目に見入られてなおも前進する。もはや水は腰に、そして腕の付け根にと、どんどん上ってきた。島の上の仲間たちは恐怖にかられて成り行きを見守っていた。少女の運命を転じてやろうにも彼らには手のほどこしようがなかった。彼女の運命は、そのまま彼らの運命の前ぶれなのだ。
マハールは長い上|嘴《くちばし》と目だけを水面上に残して身を沈めた。一方、少女は気味の悪い嘴の先端が顔前わずか四、五センチのところまで前進した。恐怖にみちた目は爬虫類の目に釘づけになったままだ。
もはや水は少女の口と鼻を越えた――目と額だけが見えている――それでもなお少女は後退するマハールを追って進んだ。女王の頭がゆっくりと水中に消え、つづいて犠牲《いけにえ》の目も水中に没した――あとには二人の消えた場所を示すゆるやかな波紋が、岸をさして拡がっていくばかりだった。
一時《いっとき》の間、神殿の内部は森閑と静まり返っていた。奴隷たちは恐怖のあまりみじろぎもしなかった。マハールたちは女王が再び姿を現わすのを待って水面を凝視していた。ほどなく水槽の一方の端に女王の頭がゆっくりと浮かび上った。そして水面にもどって来たが、目はあの無力な少女を兇運に引きずりこんだ時と同じように前方を見すえたままだ。
と、その時、少女の額と目がゆっくりと水中から現われたのを見て私はすっかり動転した。水面から没した時と同様、爬虫類の凝視に見入られたままだ。少女はさらに前進して、水がわずかに膝を浸すところまで来て立ち止った。とっくに溺死しているだけの時間、水中にいたというのに、髪から水滴がしたたって身体《からだ》が濡れて光っている以外に、それまで水中にもぐっていたという形跡はぜんぜんない。
女王は繰りかえし少女を水底に引き入れてはあがって来た。そのうちに、私はこの儀式のこの世のものならぬ無気味さにいても立ってもいられなくなってきた。しっかり自分を抑えていなかったら、今にも少女を救うために水槽にとびこみそうだった。
一度二人はこれまでよりずっと長い間水中にいた。そして再び姿を現わした時、私は少女の腕がなくなっているのを見てぞっとした――肩のところでぷっつりと噛み切られている――。しかし哀れな少女は痛みを感ずるふうもなく、ただ見すえた目に恐怖の色がいっそう濃くなっているように見えるばかりだった。
その次に姿を現わした時にはもう一つの腕がなくなっていた。それから乳房、そして顔の一部――それは凄惨《せいさん》な光景だった。島の上で自分たちの運命を待っている哀れな奴隷たちは、この恐ろしい光景を見まいと手で顔を隠そうとしたが、今や彼らもまたあの爬虫類の催眠術の魔力にかかっていて、目前に展開するむごたらしい儀式に目をすえたまま、恐怖にうずくまっているばかりだった。
最後に女王は、これまでになく長時間にわたって水中に潜っていたが、浮き上って来た時は女王だけだった。そしてけだるそうに泳いで自分の岩へもどって行った。女王が岩に登った瞬間が、他のマハールが水槽にはいる合図だったらしい。女王が犠牲《いけにえ》に演じさせた奇怪な儀式の繰り返しがいっそう大規模に開始された。
とりわけ弱くて肉が柔らかいことから、婦女子ばかりがマハールの餌食《えじき》となった。一同が人肉に満腹した時には――中には二、三人たいらげたものもあった――十人ほどの成人男子が残っているだけとなった。何かわけがあって助命してもらえるのだろうと思っていたら、実はぜんぜん見当ちがいだった。最後のマハールが自分の岩によじのぼると同時に、女王のシプダールどもは矢のように空中に舞いあがり、神殿を一周したかと思うとシューッと蒸気エンジンのような音を発して急降下して残る奴隷たちめがけて襲いかかった。
こんどは催眠術は使用されなかった。残忍非道な肉食獣は、ひたすら肉を引っ裂き、もぎ取り、のみ下した。が、それにしてもあのマハールの奇怪なやり口の恐ろしさにくらべれば、まだしもましだった。シプダールどもが奴隷の最後の一人をたいらげた頃には、マハールたちは一人残らず岩の上で眠りこけていた。大翼竜どもはたちまち女王のかたわらの部署に舞いもどって、これもまた眠りにおちた。
「マハールたちは、めったに眠らないものだと思っていたが」私はジャにいった。
「やつらはこの神殿で、他の場所ではしないようなことをずいぶんするよ」彼は答えた。「プートラのマハール族は人肉を食わないことになっているが、それでも何千人という奴隷がここへ連れてこられるし、たいていの場合それを喰うマハールには事欠かないありさまだ。やつらがサゴスをここへ連れてこないのは、この行事を恥じているためだと思う。こんなことは、やつらの種族のうちでももっとも下等な連中だけがすることになっているんだ。だが、折れた櫂《かい》におれのカヌーを賭けてもいい、人肉が手に入りしだい喰わないマハールはいないよ」
「われわれを下等動物と見なしているというのが事実なら、なぜ人肉を喰うことに抵抗しなきゃならないんだろうな?」
「やつらが人肉を食う連中を忌《い》み嫌っているように見せかけているのは、何もわれわれを同等と見なおしているからじゃない。単にわれわれが温血動物だというそれだけの理由だ。やつらは、われわれが珍味だと考えているサグの肉を喰おうともしないが、それはちょうどわれわれが蛇を喰うことなど思いも及ばないのと同じことだ。実際、なぜこういう感情がやつらの間に存在するのか説明困難だよ」
「犠牲《いけにえ》はもう一人も残っていないんだろうか」と私はいって、神殿をもっとよく調べようと岩壁の孔から身体《からだ》を乗り出した。真下の壁面に水がひたひたと打ち寄せている。ちょうど私がいる地点の岩に割れ目があり、周囲の壁にもそういった割れ目が数カ所あった。
私は、壁の一部を形成している小さな花崗岩に手をかけていた。だが岩は私の体重をささえきれずにぐらりとはずれ、私の前方へ飛び出してしまった。つかまるものもなく、私はもんどり打って水中に転落した。
幸い、落下したところの水は深かったので怪我はしなかったが、水面に浮きあがりながら自分の置かれた状況を考えてぞっとした。爬虫類の目が睡眠を妨害したものの上にそそがれた瞬間に、無残な運命が私を見舞うだろう。
できるだけ長く水中を泳いで島のある方向へと急いだ。生命を最大限に引き伸ばしたい一心だった。やがてついに空気を吸うために浮上しなくてはならないはめになった。マハールやシプダールのいる方向をおそるおそる一瞥《いちべつ》した私は、呆然自失するところだった。先刻やつらを見かけた岩の上には一匹も残っていないのだ。神殿を見回したが、内部には一匹として見あたらない。
ちょっとの間、私は理解に苦しんだが、やがて思いあたった。聾《つんぼ》の爬虫類には、私が水に転落した音がきこえるはずもなかったし、ペルシダーには時間というものがないから、私がどれくらいの時間水に潜っていたかはわからないのだ。この経過した時間という一件を地上世界の基準によって解明しようとするのは困難だ。しかし熟考の末、私が潜水していた時間は一秒ないしは一カ月だったかもしれないし、あるいはぜんぜん潜ってもいなかったのかもしれないと思うようになった。地上世界では時間を測定する方法はいくらもあるが、そんなものがいっさい存在しないことから生じる奇異な矛盾や奇想天外な現象をあなたはおわかりにならないだろう。
奇跡的に助かった喜びをかみしめようというときになって、ふとあのマハールの催眠術の魔力を思い出して不安がこみ上げてきた。彼らはあくまでも私にあの奇怪千万な術をかけて、神殿にいるのは私一人だと思いこませているだけなのではないだろうか。そう考えると冷汗《ひやあせ》が全身の毛穴からどっと吹き出した。小島の一つに這い上った時には、木の葉のように震えていた。――この身の毛もよだつような恐怖はあなたには想像できないだろう。あのペルシダーのおぞましいマハールのことをちょっと考えただけでこみ上げてくるこの恐怖感。彼らの手中に落ち、ぬらぬらした、胸の悪くなるようなやつが、水中に引きずりこんで飢食にしようと這い寄ってくるその時の気持。まったくぞっとする。
ところが彼らは現われなかった。それでついに私も、神殿の中にいるのはほんとうに私だけなのだという結論に達した。逃げ道を求めて再び死に物狂いで泳ぎまわっている最中に私を襲った次の疑問は、いつまで一人でいられるかということだった。
数回ジャを呼んだが、私が水槽に転落したあとで立ち去ったと見えて、応答はなかった。きっと私が隠れ場所から落ちたのを見て、その時に私が感じたように彼もまた私の運命がきわまったと感じたのだろう。そして彼自身も発見されることをおそれて、急いで神殿をぬけだして村へ引き返したのにちがいない。
屋根にある出入口のほかに、どこかに入口があるにちがいないということはわかっていた。人肉に対するマハールたちのあくなき欲求をみたすためにここへ連れてこられた何千人という奴隷が、みな空中を運ばれて来たとは考えられないからだ。そこで探策を続けているうちに、そのかいあってとうとう神殿の一方の端にある石造りの壁の花崗岩のブロックが数個ゆるんでいるのを発見した。
外へ這い出すだけの石をどけるには大した手間はかからなかった。ほどなく私は、神殿とジャングルの間にある空地を突っ切って、欝蒼《うっそう》たるジャングルめざして一目散に走っていた。
ジャングルにたどりつくと、巨木の陰の草地にへたりこみ、ぜいぜいとあえぎながら震えていた。それもそのはず、墓穴の底から、牙をむき出して笑っている死の手を逃れて来た心地だったのだから。たとえこの島のジャングルの中にどんな危険が秘められていようと、たった今脱出して来た危険ほど恐ろしいものはまたとあるまい。これで勇気を持って死に立ち向かう覚悟ができた。といっても、それが見なれたけものか人間の形をとって現われた場合の話だ。あの醜怪きわまるマハール以外ならなんでもいい。
九 死の顔
くたくたに疲れて眠ってしまったにちがいない。目がさめた時にははげしい空腹をおぼえた。しばらくの間果実を捜し回ってから、海岸線を求めてジャングルの中を出発した。島はあんまり大きくないとわかっていたから、まっすぐに進みさえすれば簡単に海へ出られるのだが、進路を定めてそれに従って進むことができないので困ってしまった。太陽はむろんいつでも頭の真上にあるし、木がびっしりと林立しているので、一直線に進むための目じるしになるような遠くの目標物を見きわめることができなかったからだ。
それでも相当な道のりを歩いたにちがいない。海にたどりつくまでに四回食事をし、二回眠ったのだから。だが、ついに海に到達した。海が見えた時はうれしかったが、浜に出るちょっと前に、偶然につまずいて、隠してあったカヌーを発見したことから、喜びは倍増した。
私は、すぐさまその扱いにくい舟を水辺に引きずり出して、沖に向かってぐんと押し出した。ジャと出合った時の経験から学んだことは、もしもカヌーを盗むなら素早くやってのけて、できるだけ早く持主の手の届かないところへ逃げ出すということだった。
どうやらジャと私が上陸した場所とは反対側に出てしまったらしく、本土はどこにも見えなかった。私は遠くに本土が見えるまで長時間にわたって海岸の周囲を――といってもずっと沖に出ていたが――漕いでまわった。そして本土が目にはいると、時をうつさず舟の進路をその方角に向けた。というのは、もうかなり前からプートラにもどってペリーや毛深い男ガークと再び一緒になるために投降しようという決心ができていたからだ。
一人で脱走しようなんて、ばかげたことを企てたものだ。とりわけ、三人一緒に脱走しようと、すでに計画を練り上げてあったというのに。むろん、私たちが計画した冒険が成功する見込みは薄いということは承知しているが、じいさんが生きているかぎり、一人で自由を楽しむことは絶対にできない。それに、いったん離れたら、彼を捜し当てる可能性がほとんどないということもわかっていた。
もしペリーが死んでしまっているのなら、私は体力と知力を結集して私が現在いるこの野蛮な原始世界を相手に対抗する手段を発見するまで、どこかの岩穴に一人引きこもって暮すこともできよう。そしてなんらかの手段を発見した暁には、旅立つのだ――今では目ざめている間いつも私につれそい、夢の中にも中心人物として現われるいとしい人の面影を求めて。
だが私の知るかぎりでは、ペリーはまだ生きていたし、彼と二人で発見したこの不思議な世界の危難と変転をともにするべく彼と再会するのが私の義務であり、のぞむところでもあった。それにガークのこともある。この毛深い大男は、私たち二人の心の中にすでに根をおろしていた。というのも、彼が申し分のない男であり、王者だったからだ。二十世紀の無気力な文明の尺度で、それもことのほか厳密に評価すれば、無骨者かもしれないし、野蛮なところもあるが、それと同時に堂々とした風格があって、勇気があり、愛敬もあった。
はからずも運命はジャのカヌーを発見したあの浜辺へと私を導いた。それからまもなく、私はプートラの平原から脱出して来た経路をたどるべく、けわしい斜面をよじのぼっていた。だが頂上を越えて峡谷に足を踏み入れたとたん、はたと当惑した。分水界を越えた地点でいくつもの峡谷が合流しているのだ。そのうちのどの峡谷を渡って山道に出たのか、まったく記憶がない。
ままよ、ここは運まかせだ。私はもっとも進みやすそうに見える道筋を下りはじめたが、これがそもそものまちがいだった。人生の方針を選ぶ際にわれわれの多くが冒《おか》すのと同じ過ちを冒してしまったわけだ。もっとも抵抗の少い進路をたどることが必ずしも最善ではないということを私はいま一度思い知った。
八回食事をして、睡眠を二度とった頃には、こいつは道をまちがえたなと気がついた。プートラから内海へ出るまでの間は、一度も眠らなかったし、食事も一回きりしかしなかったからだ。今来た道をたどって分水界の頂上に引き返し、別の峡谷を探索するのがこの問題の唯一の解決策のように思えたが、その時峡谷がいきなり目前で平坦にひらけた。どうやらここから先は平地になるらしい。あらたな発見にはげしい誘惑を感じて、引き返す前にちょいとだけ前進してみようと決心した。
次の角を曲ると峡谷の口部に出た。目前に幅の狭い平地があって海に達している。右手には、峡谷の側面が波打際まで続き、左には谷が横たわっていて、ゆるやかに傾斜した裾が徐々に海中に没入してそこに平坦で広々とした浜辺を形成している。
見なれない木々の木立が、ほとんど波打際まで点々としていて、ひょろ長い草や羊歯《しだ》類が木立と木立の間に生えている。植物の種類から、ふもとの丘と海との間の土地は湿地帯だと判断した。もっとも、すぐ前の土地のようすでは、波がひっきりなしに寄せては返す砂浜までずっと乾燥しているように見える。
その風景は非常に美しいものだったので、私は好奇心から足を早めて浜辺へと急いだ。からみ合って密生する湿地帯の植物のそばを通った時、左の方で羊歯が動くのを見たような気がした。二度とは動かなかったし、それに何ものかがそこにひそんでいたとしても、深い茂みを見透して識別することは不可能だった。
ほどなく私は岸に立って、寥々《りょうりょう》として広がる大洋を眺めていた。
何ぴともかつて越えたことのない無気味な海原の彼方に、どんな摩詞《まか》不思議な国が横たわっているのか、隠れた島々がどんな富を、驚異を、あるいは冒険をひめているのか、探険したものはいない。どんな蛮族が、どんなに兇暴で手ごわい野獣が、今この瞬間に彼方の岸で打ち寄せる波を見守っていることだろう! この海はどこまでつづいているのだろうか! ペルシダーの海は、地上世界の海にくらべて狭いとペリーはいっていたが、たとえそうだとしてもこの大海は何千キロも先まで茫洋とひろがっているのかもしれない。そして果てしなくつづく海岸線に幾星霜《いくせいそう》の間、寄せては返しながらも、浜辺から目の届くごくわずかな範囲を越えた向こうは何一つ知られていないのだ。
私は空想の魔力にすっかりとりつかれていた。地上世界の創世期に引きもどされて、人類が足跡を印すずっと以前の陸や海をながめているような心地だった。未踏の新世界が、さあ探険してくれと私を招いている。ペリーと私がマハールの手を逃れることができさえしたら、どんな血湧き肉踊る冒険が前途にひかえているだろうかと夢想していると、その時、何か――かすかな物音だったと思う――が背後で私の注意を惹いた。
ふり向いたとたんに、架空のロマンスも、冒険も、発見も一挙に消し飛んで、目の前にその三つを現実にしたようなものすごい怪物が向かってくるのが目にはいった。
ぬらぬらした巨大な両棲類だ。身体《からだ》はひき蛙に似ていて、両顎は鰐《わに》のようにすごい。そいつの途方もない巨体は何トンとあるにちがいないのに、敏捷に、音もなく迫ってくる。一方は峡谷から海につづく断崖。もう一方は今しも忍び寄る怪物が姿を現わした無気味な沼。背後には道のない大海原がひかえている。安全な場所に行ける前方の細道のどまんなかには、威嚇《いかく》するように無気味に迫ってくる大山のような怪物の巨体が立ちふさがっている。私の相手が、大昔、有史以前に絶滅した生物だということにまちがいはない。一見するだけで充分わかることだ。遠く地上世界の三畳紀の地層にさかのぼって化石が発見される巨大なラビリントドンだ。それなのに私ときては武器も持たず、腰布のほかはまったく生まれたまんまの素裸。あのはるかな先史時代の朝、今しも謎を秘めて波打つ海のかたわらに私を追いつめているこの化け物の先祖に初めて遭遇した私の第一代のご先祖が、どんな気持だったか想像がつく。
ご先祖が逃げのびたということに疑問の余地はない。でなければこの私は、ペルシダーにもどこにも存在していなかったはずだ。私はご先祖からさまざまな特質を受け継いでいると思うのだが、それらの特質とともに、自己保存本能を具体的に適用する能力が伝わってくれているとよいがと願った。現在私の真近に無気味に迫る運命から、その昔ご先祖を救ったのもその能力であるはずだ。
沼や海に逃げ道を求めるのは、獅子《しし》から逃げて獅子の穴に飛びこむのと変らない。海にも沼にもこういった両棲類がうようよしているに決まっているし、たとえそうでなくとも私を脅かしているこの怪物自体、海でも沼でも同じように楽々と私を追ってくるだろう。
腕をこまぬいて最後の時を待つ以外になさそうだ。私はペリーのことを考えた。私の身の上をどんなに案じていることだろう。また、地上世界にいる友人たちのことを考えた。みんなは私がこんな奇怪きわまるおそろしい運命に見舞われているとは露《つゆ》知らず、私の断末魔の苦悶に立ち会った周囲の無気味な景色など思案のほかで、営々と暮していることだろう。
そんなこんなを考えるにつけても、世間一般の暮しや幸福にとって、それが誰であれ人間一人の存在というものがいかに取るに足りないものであるかということが痛感された。われわれは寸時の予告もなしにこの世から消されるかもしれないのだ。すると、友人たちはほんの一日くらいは声をひそめてわれわれのことを語り合ってくれるが、翌朝|蚯蚓《みみず》の最初の一匹が棺桶のつくりを黙々と調べているうちに、早くも彼らはゴルフ場に出て一番ホールめざして第一球を打つ。そして、死んだ当人にとってはあいにくだった死の訪れを悲しむよりももっと痛切に、球がスライスしたことを悔やんでいることだろう。
ラビリントドンは、今では速度を落して接近しつつあった。どうやら私が逃げられないと見てとったらしい。確かに私の窮境を察知して、牙の並んだ巨大な口をひんむいてニタニタと愉快そうに笑っているとしか思えなかった。それとも汁気たっぷりなご馳走を、もうすぐあのおそろしい歯でぐちゃぐちゃに噛みしめる期待にわくわくしているのだろうか?
あと十五メートルばかりという時、左にある絶壁の方向から私を呼ぶ声が聞こえた。声のする方に目をやった私はうれしさのあまり大声をあげるところだった。ジャだ、ジャがそこに立って、こっちに向かって狂ったように手を振り、その場を逃れて断崖のふもとまでこいとしきりに招いている。朝めしに狙いをつけた怪物からそう簡単に逃げ出せるとは思わなかったが、これで少くとも一人で死なずにすむ。人間の目が私の最期を見届けてくれるのだ。心細い気安めだとは思うが、そう考えることによってわずかながら平静を得たのだった。
逃げるということは、それもとりわけ足がかりのないけわしい崖に向かって逃げるということは、ばかげたことのように思えたが、それでもやはり私は逃げ出した。ジャが、小さな突起や、そこここに根を下している丈夫な蔓《つる》にしがみつきながら切り立った岩の表面を猿のように敏捷に這い下りてくるのを、私は走りながら見た。
明らかにラビリントドンは、ジャが人肉のご馳走を二倍にするためにやってくるのだと考えた。そこでこの別口のご馳走を脅かして逃がしてしまわないために、断崖めざして逃げる私をあわてて追うことはせずに、ただ小走りにあとをついて来た。
断崖のふもとに到達した時、ジャが何をしようとしているかが読めた。しかし果たしてそれが成功するかどうかは疑わしかった。彼は下から六メートル以内の地点まで下りて来て、手を小さな岩棚にかけてぶらさがり、堅い岩の表面に生えている灌木の小株におっかなびっくり両足をかけて長槍の穂先を地上二メートルくらいのところまでくり出した。
槍の細い柄を登るのはいいが、赤銅色の肌をしたこの男が私を救い出そうとしている死の淵《ふち》にともども引きずりおろして二人そろって転落しないように登ることはどう見ても不可能なことのように思えた。そこで槍のそばまでくると私はジャにそういい、また私自身を救うために身を賭してもらうわけにはいかないともいった。
だが彼は、自分のしていることは心得ているからおれ自身危険なことはないんだと言い張った。
「危険なのはきみの方だ」彼はどなった。「今よりもっと素早くやらないと|シシック《ヽヽヽヽ》はきみに襲いかかって、槍を半分も登らないうちに引きずりおろしてしまうぞ――やつは後足で立つことができるし、おれがいるところより下ならどこでも楽にきみに届くことができるんだ」
なるほど、ジャのことだから万事心得た上で行動しているにちがいない。そう考えて私は槍をつかみ、赤色人めざしてできるだけ素早く登った――とはいっても祖先の類人猿とは大変な相違だったが、ジャのいうのろまなシシックは、その時急に私たちの意図を察知して、二倍になるとあてこんでいた食事が、二倍どころか元も子もなくしてしまいそうだと感づいたらしい。
私が槍を登って行くのを見て、大地を揺るがすようなシューッという声を発すると、猛然と突進して来た。その時には槍の上部まで到達していた――というか、到達しかかっていた。つまり、あと十五センチでジャの手につかまるところだったのだ。不意に下の方でぐいと槍がねじられるのを感じて、私はおそるおそる下をのぞいて見た。なんと怪物があのものすごい顎に槍の鋭い穂先をくわえている。
私は死物狂いでジャの手をつかもうと手を伸ばしたが、シシックがすさまじい勢いでぐいと槍を引いたので、ジャは岩の表面の不安定な足場からもう少しで投げ飛ばされそうになり、槍は彼の指からするりと抜けてしまった。私は槍にしがみついたまま死刑執行者の上に足もとから落下した。
槍がジャの手を離れたと感じた瞬間に、怪物は私を受け止めようと巨大な顎をがっと開いたにちがいない。私がなおも槍の石突きにしがみついたまま落下していった時、穂先はまだ怪物の口の中にあったので、研《と》ぎすました尖端がぐさりと下顎を貫通した。
怪物はその痛みに思わずガチッと口を閉じた。私は怪物の鼻先に落ちて槍を放してしまい、怪物の顔から頭へ、短い首から幅広い背中へと転がって地面に転落した。
地面にふれるやいなや飛び起きて、このおそろしい谷へはいる時に通った小道めざして無我夢中で駆け出した。肩越しにちらとふり返ると、シシックは下顎に刺さった槍を前足で懸命にひっかいている。怪物がそっちの方にすっかり気をとられていたので、私は、彼が追跡を開始する態勢を整える前に、安全な断崖の上に逃げのびることができた。谷間に私の姿が見えないと知った怪物は、シューッという声を発しながら、沼に繁殖している丈高い植物の中に突進していった。怪物の姿を見たのはそれが最後だった。
十 再びプートラで
私はジャのいる絶壁の縁へと急いだ。そして足もとのしっかりした場所に彼を助け上げた。もうちょっとで失敗するところだったとはいうものの、私を救おうとしてくれたことに対して礼をのべると、彼はいっさい耳を貸そうとはしなかった。
「きみがマハールの神殿に転落した時は、もうだめだと思ったよ」ジャがいった。「いかなおれでも、やつらの手中からきみを救出することはできないからな。だから本土の海岸に引き揚げてあるカヌーを見て、かたわらの砂地にきみの足跡を発見した時の驚きはきみにも想像できるだろう。そこですぐさまきみを捜しに出発した。兇暴な野獣や爬虫類はむろんのこと、人間も含めて本土に住む数々の危険に対してきみは武器を持たず、まったくの無防備だということを知っていたからね。ここまであとをつけてくるのは容易なことだったよ。ま、まにあってよかったな」
「でも、なぜこうまでしてくれたんだい?」私は、別世界の、しかも人種も皮膚の色もちがう人間が、このように友情を示してくれたことを不思議に思ってたずねた。
「きみは生命《いのち》の恩人だ」彼は答えた。「あの瞬間から、きみを保護し、助力することがおれの義務になったんだ。もしもこの明白な義務を回避していたら、おれは真のメゾプ族ではなかったろう。だが現在ではそれも喜びとなった。きみが好きだからだ。おれと来て一緒に暮してもらいたい。きみをおれの部族の一員にしよう。おれたちのところは山の幸、海の幸には最高に恵まれているし、きみはペルシダー中でもっとも美しい女たちの中から妻を選ぶのだ。どうだね。一緒にこないか?」
そこで私は、ペリーのこと、美女ダイアンのことを話して、彼らに対する義務がすべてに先行することを説明した。後日もどって来て彼を訪《たず》ねよう――もし彼の島を見つけることができたらの話だが。
「そんなことはなんでもない」と、彼はいった。「『雲の山々』のなかでいちばん高い峰のふもとへくれば、それでいいんだ。そこには『ルラル・アズ』に注ぐ一筋の河があって、その河の河口の真向かいにあたるずっと沖に、三つの大きい島が見える。あんまり遠くにあるので見えないくらいだが、河口から向かって左の端にあるのが『アノロック』、つまりおれがアノロック族を支配している島だ」
「でも、その『雲の山々』はどうやって捜せばいいんだい?」
「ペルシダーの半分から見えるという話だがね」と、彼は答えた。
「で、ペルシダーの面積は?」私はこういった原始人が、彼らの住んでいる世界の形体や構造に関してどういった考えを抱いているのかと質問してみた。
「マハールの話では、このペルシダーはトーラ貝の内側のように丸いのだそうだが、ばかげた話だよ。だってそうだろ、もしそれが本当ならばどの方向でもとにかく遠くへ進んで行けば仰向けにひっくり返ることになるじゃないか。それに、ペルシダーの中の水が一カ所に集中して来て、おれたちはアップアップだ。ちがうね。ペルシダーはまったく平板で、あらゆる方角に見当もつかないほど遠くまでひろがっているんだ。先祖伝来の記録によると、果てには大壁があって、土や水がペルシダーの浮かんでいる燃える海に流れこまないようになっているそうだ。おれはアノロックからそこまではるばる出かけていってこの目でその壁を確かめて来たわけではないが、この説が真実だと信じるのはきわめて理にかなったことなのだ。かたやマハールのばかげた信念にはなんの根拠もない。やつらにいわせると、反対側に住んでいるペルシダーの住人はいつでも頭を下にして歩いているそうだよ!」
ジャは、考えるだけでもおかしいと呵々《かか》大笑した。
この地底世界の人類の学問が、これまでに大した進歩をとげていないということはこれで明白で、醜悪なマハールたちが彼らよりはるかにすぐれていると考えることはなんとも情ないしだいだった。たとえペリーと私にまかせられたとしても、これらの人々を向上させ、無知の状態から脱却させるにはいったいどれくらいの年月がかかるだろうか。地球の揺籃期における暗黒と迷信に敢然と挑戦した地上世界のあの人々のように、私たちもまた苦心のかいもなく殺されるかもしれない。だが、もしも機会が到来したら、やってみるだけのことはある。
その時、ここに一つの機会があるということに気がついた――ジャを相手に少しずつ取りかかってみてはどうだろう。彼は私の友人だし、彼にためしてみることによってペルシダーの住人に私の講義がどういった効果をもたらすかを見ることができる。
「ねえ、きみ」私はいった。「もしもぼくが、マハールのペルシダー形体論に関する限り正しいのだといったら、きみはなんていうかな?」
「そうだな、きみがバカか、それともおれのことをバカだと思っているかどっちかだっていうね」
「しかしだね、ジャ」私は力説した。「もしも彼らの説が誤りなら、ぼくが地上世界から地球の外殻を貫通してペルシダーにやってくることができたという事実を、どう説明するね? きみの説が正しければ、われわれの足の下はどんな民族も生存することのできない一面の焔《ほのお》の海だが、ぼくは人間や、獣や、鳥や、大海の魚がいっぱいいる大きな世界から来たんだよ」
「それじゃきみはペルシダーの裏側に住んでいて、いつも頭を下にして歩くのかい?」彼はひやかした。「そんなことを信じるとしたら、きみ、おれはまさしくキ印《じるし》だよ」
私は地球の引力を説明して聞かせようと試みた。そして落下した果実の例をあげて、どんな状況下にあっても地球から物体が落ちるということがいかに不可能なことであるかを説明した。彼がひどく熱心に傾聴したので、さてこそ感銘を受けたかと思い、真実を部分的にでも理解させようと一連の説を述べはじめた。だが、それは思いちがいだった。
「きみがあげた例証自体、きみの説が嘘っぱちだということを証明しているよ」彼はついに口を開いてそういうと、一個の果実を手から地面に落としていった。「ほらね、ささえがなくてはこんな小さい果実でもぶつかって止まるまで落下するんだ。もし焔の海によってささえられていなかったら、ペルシダーだってこの果実と同様、落下してしまうだろう――きみはみずからこれを証明したんだよ」こんどは彼にしてやられた――彼は、どんなもんだいといった目つきをした。
どうやらのぞみうすと見て、少くとも当座はこれで打ち切ることにした。というのは、われわれの太陽系と宇宙に関して必要な説明について考えてみると、相手がジャだろうと、またペルシダーの住人の誰だろうと、太陽や、月や、惑星や、無数の星をそのまま説明することがいかに無駄な試みであるかということを悟ったからだ。地底世界に生を受けたものにとってそういった事柄は、地上世界のわれわれが空間とか永遠とかいった言葉をわれわれの高の知れた頭脳で評価できるていどの要因にまとめる以上に、理解できないことなのだ。
「ま、いいさ」私は笑った。「足を下にして歩こうが上にして歩こうが、ぼくたちはここにいるんだ。いちばん肝心な問題は、ぼくたちがどこから来たかということではなくて、今からどこへ行くかということだ。ぼくとしては、きみがプートラまで道案内してくれると有難いんだがね。プートラへ着いたら、ぼくはあらためてマハールに投降する。そして闘技場に狩り集められて、番兵を殺害した奴隷の処罰を見学させられた時にサゴスによって中断された逃亡計画を、友人と一緒に実行に移したいと思う。今となってはあの闘技場から逃げなければよかったと思うよ。だって今頃は友人もぼくも脱走計画を決行していたかもしれないからね。ぼくたちの計画は今回遅れをとったばかりに、いっさいだいなしになるかもしれないんだ。ぼくたちの計画を達成するもしないも、ぼくたちが監禁されていた建物の地下の穴に眠っていた三匹のマハールが眠りつづけるということにかかっていたんだから」
「それじゃまた捕虜に逆もどりかい?」ジャは叫んだ。
「友達があそこにいるんだよ」私は答えた。「きみは別として、彼らはペルシダーでは唯一の友達だ。こんな場合にほかにどんな方法がある?」
ジャはちょっとの間黙って考えこんだが、やがて悲しげに首を振っていった。
「勇気のある男で、しかもよい友人なら、そうするだろうな。だが、ばかげきったことのような気がするよ。というのはだね、きみが脱走したということでまちがいなくマハールは死刑を宣告するだろう。そうなったら、もどったところできみの友人になにもしてやれなくなるんだからね。自分の自由意志でマハールのもとへかえる囚人なんて、生まれてこの方《かた》聞いたこともないよ。逃亡するものはめったにいないが、それでも幾人かはいる。彼らは再び捉えられるくらいなら、むしろ死を選ぶだろうよ」
「ほかにどうしようもないんだ、ジャ。確かにプートラへ行くくらいなら、ペリーを追って地獄《シオル》へ行く方がまだしもましだと思うよ。もっとも、ペリーはおそろしく信心深い人間だから、ぼくがわざわざ地獄《シオル》まで救い出しに行くようなことにはなりそうもないがね」
ジャが、地獄《シオル》ってなんだいと聞くので、できるだけうまく説明してやると、彼はいった。
「きみは『モロプ・アズ』のことをいってるんだな。ペルシダーが浮かんでいる焔の海のことだよ。地面に埋められた死者はみんなそこへ行く。そしてそこの小鬼どもに身体を一片ずつ『モロプ・アズ』へ運ばれるんだ。こんなことがわかるのも、墓を開いて見ると死体が一部ないし全部運び去られているからだ。そんなわけで、われわれアノロックは死者を高い木の上に置く。死体を鳥が見つけて、一片ずつ『恐ろしい影の国』の上にある『死の世界』に運んで行ってくれるようにするためだ。敵を殺した場合は、『モロプ・アズ』へ行くように死体を地面に埋める」
話しながら私たちは、先刻私が下って来て海とシシックに遭遇したあの峡谷をさかのぼっていた。ジャは、私がプートラへ帰るのをなんとかして思い止まらせようと説得につとめたが、私が覚悟を決めているのを見てとって、都市のある平原が見える地点まで案内することを承諾した。あきれたことに、私がジャと再会した海岸からごくわずかの距離しか離れていなかった。曲がりくねった峡谷の、つづら折りの道をたいそうな時間をかけてたどっていたことは明白で、プートラの都市は尾根のすぐ向こうにあり、したがってすぐそばまで何回も来ていたのだ。
尾根に登り、花が咲き乱れた足もとの平原に花崗岩の門塔が点在しているのを目のあたりにした時、ジャは、気違いじみた決心を捨てていっしょにアノロックへ帰ろうと最後の説得を試みたが、私の決心は固く、ついには彼も別れを告げた。彼は心中で、私を見るのもこれが最後だと確信していた。
私はジャがすっかり好きになっていたので、別れるのはつらかった。アノロック島にある彼の秘密の都市を根拠地とし、彼の精悍な戦士たちをペリーと私の護衛にしたら、ずいぶん多くの探険ができたろう。もしも脱走計画が成功したら、後日アノロックにもどって来たいものだ。
しかしその前にまず遂行しなくてはならない重大問題がある。少くとも私にとっては重大なこと――それは美女ダイアンを捜し出すことだ。知らぬこととはいいながら、彼女を怒らせたその償いがしたかったし、それに――とにかく彼女と再会して、ともにいたかった。
山腹を下り、絢爛《けんらん》と花が咲き乱れる野を通り、さらになだらかに起状する土地を突っ切って、プートラの地下都市に通じる道を守っている影のない柱に向かって進んだ。最寄りの入口から四百メートルのところでサゴスの番兵に発見された。たちまち四人のゴリラ人間が駆けつけて来た。
彼らは長槍を振りかざし、野蛮なコマンチ族のように喚声をあげたが、私はものともせずに、まるで彼らの存在に気がつかないような顔をして、平然と彼らに向かって歩いて行った。私のこの態度は、願ったとおりの効を奏した。接近するにしたがって彼らは野蛮な喚声をあげるのをやめたのだ。彼らを見るやいなや私がくるりと方向転換して逃げ出すものと期待していたことは明白だった。私が、彼らのもっとも喜ぶ動く人間標的になったら、槍を投げつけてやろうと思っていたのだ。
「ここで何をしている?」と一人はどなってから私に気がついて、「ホー! こいつは別世界から来たとぬかしていやがった例の奴隷じゃないか――サグが闘技場で暴走した時に逃亡したやつだ。それにしても、いったん逃げることができたのに、なんだってまた帰って来たんだ?」
「『逃亡』したんじゃない」私は答えた。「他の人たちと同じようにサグをよけて逃げただけだ。逃げる途中で長い通路に迷いこみ、プートラの向こうの山のふもとで道を見失ってしまったが、今しがた帰り道を捜し当ててもどって来たんだ」
「それじゃ、きさまは自分の自由意志でプートラへもどって来たのか!」番兵の一人が叫んだ。
「ほかにどこへ行けばいい? ぼくはペルシダーには不案内だ。プートラ以外に知っているところはない。プートラへ帰って来たいと考えるのが当然じゃないか? 食物はどっさり貰えるし、丁重に扱われるし、幸せな身分じゃないか。これよりけっこうな話がどこにある?」
サゴスどもは頭を掻《か》いた。こんなことははじめてだというので、まねけな猿どもは私を主人のところへ連れていった。私がもどって来た謎を解明するには、ご主人様の方が適していると考えたのだ。彼らは謎だと思いこんでいるわけだ。
脱走を企てていることを嗅ぎつけられないよう相手を瞞着《まんちゃく》するために、私はあんなふうにしゃべったのだ。いったんは脱走する絶好のチャンスに恵まれていながら、自発的に引き返してくるほどプートラにおける身分に満足しているのだ、と彼らが考えたら、プートラへ帰ったとたんに別の脱走計画をたてるとは夢にも思わないだろう。
彼らは、大きな部屋の中のぬらぬらした岩にとまっている、ぬらぬらしたマハールの前に私を連れていった。ここがそいつの事務室なのだ。マハールは冷やかな、爬虫類独特の目で、私の薄っぺらな嘘の皮を突き通して心の底を読んでいるように見えた。私が帰って来た顛末《てんまつ》をサゴスが話している間中、そいつはゴリラ人間の唇や指に注目して話に注意を集中していた。それからサゴスの一人を通して私に質問した。
「おまえは、ほかのどこにいるよりもプートラにいる方が安楽だから自発的に帰って来たというんだな――われわれの学者たちは、すばらしい科学研究に従事しているが、その研究のために生命を捧げる奴隷として次におまえが選ばれるかもしれないということを知らないのか?」
そんなことは聞いたこともなかったが、ここは無視するのがいちばんだと考えていった。
「裸で、武器もなく、未開のジャングルや人里離れた平原にいるよりは、ここにいた方が危険がありません。プートラへ帰って来てほんとうに幸運だったと思っています。なんといっても、大シシックの顎にかけられて死ぬところを、ほうほうのていで逃げて来たんですからね。なんといわれようと、プートラを支配しているような知性のすぐれた方々《かたがた》の手に身を託している方が安全でいられるにきまっています。少くとも私の世界、つまり私のような人間が最高の地位についている世界ではそうです。そこでは、高等な民族は、ふところに飛びこんだ異邦人に保護の手をさしのべ、厚遇します。この世界の異邦人として、私も当然同じような待遇を受けるものと思いますが」
マハールは、私が話を終え、サゴスが私のことばを主人に通訳した後、しばらくの間黙然として私を見ていた。じっと考えこんでいるようすだった。が、やがてサゴスに何か伝達した。するとサゴスはくるりと向き直って、ついてこいと私に合図して爬虫類のもとを退出した。私の背後と両側を、残りの番兵どもが粛々《しゅくしゅく》と歩いて来た。
「マハールたちはぼくをどうしようというんだ?」私は右側にいるやつにたずねた。
「おまえは学者たちのところへ出頭することになってるんだ。学者たちは、おまえが来たというそのおかしな世界のことに関して訊問するだろう」
ちょっとの間沈黙して、それから彼は再び私の方を向いた。
「ところでおまえに聞くが、マハールは嘘をついた奴隷にどんな仕打ちをするか知っているのかね?」
「知らんね。それにそんなこと興味ないよ。マハールに嘘をつく気は毛頭ないからね」
「それなら、今しがたソル・ト・トに話したようなありもしない話を二度としないように注意しろ――ヘッ! 人間が支配する別世界とはな!」彼は軽蔑しきった口調で言葉を結んだ。
「でも、ほんとうなんだ」私は執拗にいった。「それじゃほかのどこから来たというんだ? ぼくはペルシダーのものじゃない。それは目をつぶっているものにだってわかることだ」
「それじゃ、目をつぶっているものに鑑定してもらえないのがきさまの不運だな」彼はそっけなくいった。
「ぼくをどうするんだろう」私はたずねた。「もしも連中にぼくを信じようという気持がないとしたら?」
「闘技場行きを宣告されるか、地下の穴で学者たちの研究材料に使われるかだな」
「地下の穴でどうしようというんだ?」私は追求した。
「マハールと、それから彼らといっしょにそこへ行ったもの以外は誰も知らんことだ。しかし後者は帰って来たことがないんだから、そんなことがわかったってなんにもならんわけさ。なんでも、学者たちは研究材料を生きたまま切り開いて有用なことを数多く学ぶのだそうだよ。もっとも、切られる方にとっちゃ、たいして有用なことだとおれには思えないがね。むろん、これは単なる憶測にすぎないさ。ま、このことについちゃ、そのうちにおまえさんの方がおれよりも詳しいことになるだろうよ」彼はニタニタしながらいった。サゴスどもはなかなか味のあるユーモアのセンスを持ち合わせている。
「で、闘技場行きの場合だが」と、私は言葉をついだ。
「この場合はどうなるんだ?」
「おまえはタラグやサグと決闘した二人を見たろう? おまえが脱走したあの時のことだ」
「見たよ」
「あの二人のために用意されたのと同じ最後が、おまえを闘技場で待ち受けているのさ。もっとも、あの時と同種の動物は起用されないかもしれないがね」
「じゃ、どっちにしても死は免れないんだな?」
「学者たちと地下へ行ったものがどうなるかおれは知らんし、知っているものもない。だが闘技場へ行ったものは、生命《いのち》をまっとうして自由を獲得することもあるのだ。おまえが見たあの二人のようにな」
「二人が自由を獲得したって? どうやって?」
「野獣が引き揚げるか、あるいは殺されたあとも、闘技場に生き残っていたものは釈放するのがマハールの習慣だ。われわれが奴隷狩りで捉えて来た遠国の勇士たち数人が、放たれた猛獣と戦って殺し、その功によって自由を獲得したこともある。おまえが居合わせた時には、野獣どもは相討ちで死んでしまったが、それでも結果は同じだ――あの男女は釈放され、武器をもらって帰国の途についた。二人はめいめい左肩に焼印を押された――マハールの焼印だ――この焼印が二人を永久に奴隷狩りから守るのだ」
「それじゃ、闘技場へ送られた場合はわずかのチャンスはあるが、学者どもがぼくを地下の穴へ引きずりこんだら、一巻の終りなんだな?」
「そういうことだ。だがいいか、もし闘技場へ送られることになったとしても、早合点して喜ぶなよ。生命をまっとうするものは千人に一人もないんだからな」
驚いたことに、私は、脱走する前にペリーやガークといっしょに監禁されていた同じ建物に連れもどされ、戸口でそこにいる番兵に引き渡された。
「こいつは、きっともうすぐ調査官の前に呼び出されるから、いつでも引き渡せるようにしておけよ」
あらたに私の身柄を引き受けた番兵は、私が自発的にプートラへ帰って来たということを聞いて、私が脱走する以前の習慣どおり、建物の内部で自由にさせておいても安心だと感じたことは明らかだった。そこで、これまでの仕事がなんであれ、引きつづきその仕事にもどるようにと命令した。
私が最初にしたことはペリーを捜し出すことだった。彼は、ただ埃《ほこり》を払って新しい書棚に並べ変えておけばよいことになっている分厚い本を相変らず読みふけっていた。
私が部屋にはいって行くと、彼はちらと目を上げて愛想よくうなずいてみせ、それから、まるで私がそれまでどこへも行っていなかったかのようにすぐにまた読書を続けた。私は彼の無関心さに驚くとともに気を悪くした。ただひたすらに義務感と愛情から死を賭して彼のもとに帰って来たというのに!
「どうした、ペリー!」私は叫んだ。「ずいぶん久しぶりだというのに、何もいってくれないのか?」
「久しぶり!」彼は明らかに驚いたようすで鸚鵡《おうむ》返しにいった。「それはどういう意味かね?」
「気でも狂ったのかい、ペリー? 闘技場の中でサグに襲われてわかれわかれになったあの時以来、ぼくがいなくて寂しいとは思わなかったのかい?」
「『あの時』だって?」彼は反復した。「いいかね、わしは今しがた闘技場からもどったばかりだよ! それにきみは、わしとほとんど同時にここへ入って来たじゃないか。もっとずっときみが遅かったら、そりゃあ、わしだって心配したろうし、それならそれで、きみがどうやってあの野獣を逃れて来たかたずねる気もしたろうよ。この実に興味深い一節の翻訳を終りしだいにね」
「ペリー、きみは|どうかしてるんだよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」私は叫んだ。「ぼくがどんなに長い間ここを離れていたか、神のみぞ知るだ。ぼくはよその土地へ行き、ペルシダーの新しい種族の人間を発見し、マハールどもの秘密の神殿で礼拝式を目撃し、あやうく彼らの魔手を逃れ、その後遭遇した大ラビリントドンをかわして、見知らぬ世界をあきあきするほど長い間さまよい歩いて来たんだ。きっと何カ月もここにいなかったにちがいないよ。だというのに、ペリー、きみはぼくが帰って来ても仕事からろくろく顔も上げないで、しかもぼくたちはちょっとの間別れていただけだと主張する。これが友人に対する態度かい? きみにはほとほとあきれたよ、ペリー。きみがこの本ほどもぼくのことを気にかけていないということをちょっとでも考えついたら、きみのためにマハールの手におちて死ぬ危険を冒してまで帰ってこなかったろうよ」
老人は長い間私をみつめていたが、やがて口を開いた。皺《しわ》だらけの顔には当惑した表情が刻まれ、目には慨嘆《がいたん》の色を浮かべていた。
「デヴィッドよ、きみにたいするわしの愛を片時でも疑うとはなんということだ? ここにはわしに理解できない何か不思議なことがある。わしが狂っていないということはわかっているし、きみが狂っていないということも確かだ。といってみたところで、この前会った時以来、お互いが時間の経過ということに関して抱いているらしい奇妙な幻覚をいったいどう説明したらいいのだろう。きみは何カ月も経過したと確信しているらしいが、わしの方にも、一時間とたたない前に闘技場できみの横に坐っていたという確信があるんだ。二人とも正しくて、また同時に二人ともまちがっているなんてことがあり得るだろうか? まず時間のなんたるかを教えてくれたまえ、そうしたらたぶん、このわしにもわれわれの問題を解決することができるだろう。わしのいう意味がわかるかね?」
私にはわからなかったので、そういってやった。
「そうだ」老人は言葉をついだ。「二人とも正しいんだ。読書に専念しているわしには、時間の流れというものが存在しなかったのだ。わしはエネルギーを消耗するようなことはほとんど何ひとつしなかったのだから、食物も睡眠も必要としなかった。だがこれに反してきみは歩き、そして戦って体力と体組織を消耗した。これでは滋養物や食物でこれを補わなくてはならない道理だ。そこできみはこの前わしに会った時以来、何度も食事をし、睡眠をとった。当然きみは、大部分こういった行為によって時間の経過を計ることになる。実際いうとね、デヴィッド、わしは時間などというものは存在しないんだという確信を急速に抱くようになってきているんだよ――むろん時間をはかったり、記録したりする手だてもないペルシダーでは、時間なんてものはあり得ない。マハール自身、時間などというものは考慮に入れていないんだからねえ。ここにある彼らの著作物には、すべてただ一つの時制、つまり現在時制があるだけだ。彼らには過去も未来もないらしい。むろんわれわれごとき地上世界の人間の頭脳では、こういった状態を把握することは不可能だが、われわれの最近の体験が、そういった状態が存在することを物語っているように思える」
私には大き過ぎる問題だったから、そういった。だが、どうやらペリーはこの問題について思考をめぐらすのが無上の喜びとでもいったふうで、私が身をもって過ごして来た冒険談に興味深く耳を傾けたあと、彼は再び話題をもとにもどした。そしてそのことについて微に入り細にわたってとうとう論じていたとき、サゴスがはいって来て話は中断された。
「こい!」と、闖入者《ちんにゅうしゃ》は私に合図を送って命令した。「調査官どのが、きさまに話をするそうだ」
「さよなら、ペリー!」私は老人の手をにぎりしめていった。「たぶんこの世には現在だけしかなくて、時間なんてものはないのかもしれないけど、どうやらぼくは二度と帰れない来世へ旅立つような気がするよ。もしもきみとガークがなんとか脱出できたら、美女ダイアンを捜し出して、私が彼女を心ならずも怒らせたことを許してほしいといい残したということと、何よりも私が彼女に対して冒した過ちの償いをするだけの時間がほしかったといっていたということを彼女に伝えると、約束してくれたまえ」
ペリーの目に涙が浮かんだ。
「きみが帰ってこないなんて信じられないよ、デヴィッド。きみなしで、残る生涯をこのいとわしい怪物どもの中で暮すことを考えるとぞっとするよ。きみが連れ去られるのなら、わしは金輪際《こんりんざい》脱走はしない。この埋もれた世界のどこにいるのもここにいるのも、わしにとってはけっこうな暮しなのだという気がするからね。さよなら、デヴィッド、さよなら!」彼は老いの声をつまらせて絶句した。彼が両手で顔をおおった時、サゴスの番兵は私の肩を手荒くつかんで部屋から突き出した。
十一 マハールの四死体
ほどなく私は十二匹のマハールの前に立っていた――プートラの社会科学調査官たちだ。彼らはサゴスの通訳官を介して質問を浴びせてきた。私はどの質問にも正直に答えた。とりわけ彼らは、地上世界と、それからペリーと私をペルシダーに運んで来た奇妙な乗物の話に興味を惹かれたようすだった。私としては彼らを納得させたつもりだった。取調べがすむと、彼らは長い間沈黙していたが、私はそのあとでもとの宿舎へ帰れという命令が出るものと期待していた。
このうわべの沈黙がつづいている間、彼らは不思議な無言の言葉で私の理非曲直を討議していたのだった。そしてついに裁判長が会議の結論をサゴスの番兵の担当官に伝達した。
「こい」とサゴスは私にいった。「きさまはそのばかげた話を臆面もなくならべたてて、偉大な方々の知性をあえて侮辱したかどにより、地下の実験室に送られることに決定した」
「それじゃ、ぼくの話を信じないというのか?」私はすっかり驚いてたずねた。「信じるだと!」彼はわらった。「きさまはそんな法外な嘘を誰かが信じてくれるとでも思っていたのか?」
もはやどうしようもなかった。私は黙々と番兵の後について、暗い廊下や走路をいくつも通って恐ろしい運命に向かった。階下には灯《あか》りのともった部屋がたくさんあって、大勢のマハールが黙々と仕事に従事していた。そういった部屋の一つに番兵は私を連れていった。そして立ち去る前に、私を部屋の側面の壁に鎖でつないだ。ほかにも同じように鎖でつながれた人間がいた。私が部屋へ連れてこられたときには、すでに一人の犠牲者が長い手術台の上に寝かされていた。数匹のマハールが周囲に立ってこの哀れな男が動けないように押さえつけている。そして別のマハールが、鋭利なメスを三本指の前足に握りしめて犠牲者の胸部と腹部を切開していた。麻酔剤は使われていなかったので、切りさいなまれている男の悲鳴と呻《うめ》きは聞くに耐えないほどものすごいものだった。じつに無残な生体解剖だ。すぐにも自分の番がまわってくるのだと思うと、冷汗がどっと吹き出した。時間というものが存在しない世界では、死が最後に私を解放してくれる時まで苦痛は何カ月もえんえんとつづくかもしれない。それは容易に想像できる!
マハールどもは、私が部屋に連れてこられた際も一片の注意もはらわなかった。彼らは仕事に没頭しきっていたので、サゴスが私といっしょにはいって来たことすら知らなかったにちがいない。戸口はすぐそばにある。戸口に届くことができたら! だが重い鎖がそうはさせてくれなかった。この縛《いまし》めから逃れるすべは何かないかとあたりを見まわした。と、私とマハールの中間の床の上に小さな外科手術用具が落ちている。マハールの一匹が落としたやつにちがいない。ボタン|掛け《フック》に似ていないでもないが、ずっと小ぶりで先端がとがっている。少年の頃、ボタン|掛け《フック》を使って何度錠前をこじ開けたかわからない。あのキラキラ光る小さな刃物さえ手にはいったら、少くともこの場は逃れることができるかもしれない。
鎖の届くかぎり這って行って、片手を精いっぱい伸ばしてみたが、まだあのどうしても手に入れたい器具に一インチにたりないということがわかった。そのじれったいことといったら! 身体《からだ》中の繊維を極限まで伸ばしてみても届かない。
ついに私は向きを変えて、片足を器具の方に伸ばしてみた。心臓が咽喉《のど》まで飛び上がった! 器具にちょっと触れることができたのだ! だが、こっちへ引き寄せようとしてうっかりもっと遠くへ押しやってしまってぜんぜん届かなくなってしまったら! 身体《からだ》中の毛穴から冷汗がどっと吹き出した。そろそろと、用心深くやってみる。爪先《つまさき》がひやりとした金属の上にかかった。手の届く範囲にはいったと感じるまで徐々に引き寄せておいて、次に身体《からだ》の向きを変え、貴重な器具を手中に収めた。
それから、鎖にかけてあるマハールの錠をせっせと開きにかかった。あっけないほど簡単だった。子供にだってこじあけることができたろう。一瞬後には自由の身になっていた。マハールどもは今や明らかに手術台の仕事をおえようとしていた。一匹はすでに手術台を離れて他の犠牲者を検分している。明らかに次の実験材料を選定しようとしているのだ。
手術台の連中は私に背を向けているのだから、こっちに向かって歩いてくるやつさえいなければその場で脱出できたろう。マハールはじわじわと私に接近して来た。と、そいつは私の二、三メートル右につながれている巨大な奴隷に注意を惹かれて、そこで立ち止った。そしてその哀れな男を詳細に調べはじめた。調べているうちにそいつは一瞬私に背を向けた。私は、すかさず二度大きく跳躍して室内から外の廊下へとび出した。そしてあらんかぎりの速力で廊下を駈け出した。
どこにいるのか、どこへ向かっているのかわからない。とにかくあの恐ろしい拷問室との間の距離をできるだけ引き離すことだけしか念頭になかった。
やがて速力を落して早足で歩いた。そして慎重にしなくてはまたいろんな苦境に遭遇する危険があると悟って、その後はいっそうゆっくりと用心深く進んだ。ややあって、不思議にも見覚えのあるような気のする通路に出た。そしてそれからほどなくその廊下から通じている一室に偶然目をやった私は、三匹のマハールが皮の寝床にまるくなって眠っているのを発見した。ほっとして思わず歓声をあげるところだった。これはあの同じ廊下、しかもプートラ脱出の際にあれほど重要な役割を務めさせる予定だった、あの同じマハールじゃないか。まったく私は|ついて《ヽヽヽ》いた。マハールどもは今なお眠りつづけていたのだ。
今となっては、最大の危険はペリーとガークを捜しに上の階へもどることだったが、ほかにどうしようもないので上へ向かって急いだ。建物の中でも往来のはげしい場所に来た時、荷造りした皮が一隅に山積みにしてあるのを発見した。そこでこれを頭の上に載せ、顔がまったく隠れるように四|隅《すみ》と端が両肩のあたりに垂れるような具合に担いで偽装して、ついにペリーとガークを捜し当てた。二人は私たちが起居していたもとの部屋にいた。
二人とも私を見て喜んだのはいうまでもないが、裁判官どもが私に下した運命に関しては、むろん知る由もなかった。もはや一刻の猶予もせずに脱出計画を実行に移すべきだということになった。この先長くサゴスから身を隠していられるというのでもなかったし、かといって皮の荷物をいつまでも頭上にのっけておいて怪しまれないというわけにもいくまい。とはいうものの、今一度階上の混雑した通路や部屋を無事に通り抜ける分には皮も役に立つだろうということになり、ペリーとガークといっしょに出発した――生乾きの皮の臭気に、私は今にも窒息しそうだった。
私たちは一団となって建物の一階のすぐ下の階の廊下まで来た。ここでペリーとガークはいったん止まって私を待つことになった。この建物は石灰岩の層を鑿《さく》岩して作ったもので、建築様式にはこれといった見どころもない。長方形の部屋もあれば、円形のもあり、また楕円形のもある。それらの部屋と部屋とをつなぐ廊下は狭く、一様にまっすぐというわけではない。室内は大通りの照明と同じように採光管を通して反射する太陽光線の散光によって照明されている。下の階へ行くほど部屋は暗く、大部分の廊下にはぜんぜん照明がほどこされていない。マハールどもは、少々暗くてもよく見えるのだ。
一階へ降りる途中、私たちは大勢のマハールやサゴスや奴隷に会ったが、私たちは建物の中の生活の一部になりきっていたから、ぜんぜん注意を惹かなかった。そこから大通りに通じる入口は一カ所しかなく、しかもその入口にはサゴスの番兵によって厳重に監視されている――われわれはこの戸口だけ通行を禁止されていた。われわれは、命令を受けた特別の機会以外はもっと下の廊下や部屋にはいってはいけないことになっているのだ。しかしその反面、われわれは知恵のない下等動物だと考えられていたので、侵入したからといってなんらかの危害を及ぼすのではないかと懸念される理由もあんまりなかった。そんなわけで、私たちは階下につづく廊下にはいったが誰にもとがめられなかった。
私は、ペリーと二人でこしらえた三振りの剣と、弓二|張《は》りと、矢を皮にくるんで携帯していた。大勢の奴隷が皮包みを抱えて行き来していたから、私の荷物に文句をつけるものもなかった。ガークとペリーに別れた場所には、ほかに誰も見あたらなかったので、私は包みから剣を一振り取り出し、残りをペリーに預けて、単身階下に向かった。
三匹のマハールが眠っている部屋に到着すると、私はマハールが聴覚を持っていないことも忘れてこっそりと部屋の中へ忍びこんだ。そして素早く心臓を一突きして最初のやつを仕止めた。だが二突き目はそれほどうまくいかなかった。とどめを刺すことができないでいるうちに次のマハールは三匹目のやつに、もろにぶちあたった。三匹目は素早く跳ね起きて、口をガッと開いて向かって来た。だがマハール族は戦いを好まなかった。そいつは、私がすでに仲間二匹を屠《ほふ》って剣を血に染めているのを見てとると、私から逃れようとダッととび出した。だが私もそうはさせなかった。マハールは跳躍したり、宙を飛んだりしながら廊下をあたふたと逃げていき、私はすぐ後に追いすがった。こいつが逃げれば私たちの計画も水の泡だ。それにおそらく私も即座に生命を落とすことになるだろう。こう考えて私はますます足を早めたが、どんなに急いでも目前をとんだりはねたりして逃げて行くマハールを捕えることはできなかった。
突如としてマハールは方向を転じて廊下の右手にある一室にとびこんだ。一瞬遅れて駈けこんだ私は、二匹のマハールと対面することになった。われわれがとびこんだときそこにいたその一匹は、数多くの金属容器で実験をしていた。実験台の上に立ち並ぶフラスコから推察して、粉末や液体をその容器の中へ入れていたらしい。私は、自分がどこへまぎれこんだのかすぐに気がついた。ペリーが道順を詳細に教えてくれた部屋、ほかならぬマハール族の偉大な秘密が隠されている地下室だったのだ。フラスコの横の台には皮装丁の書物が載っている。眠っている三匹のマハールを始末したあとで私が捜すことになっていた書物――一族の秘密が記された唯一の本だ。
今私が二匹のものすごい爬虫類に面して立っているこの戸口のほかに、この部屋からの出口はない。逃げ場に窮した二匹が悪鬼のように戦うだろうことは承知している。それに、いざ戦うとなれば彼らには充分な装備があるのだ。二匹はいっせいに襲いかかってきた。私は、時を移さず一匹の心臓を刺し貫いたが、もう一匹がギラギラする牙で剣を握った右腕の上膊部にがっぷり噛みついた。そして研《と》ぎすました爪で私の身体《からだ》を掻きむしった。どうでも腸《はらわた》を引きずり出してやろうという魂胆だ。私の腕を身体《からだ》から引きちぎろうとしている強力な万力のような顎から腕を引き抜くのはとても無理とわかった。激烈な痛みを感じたが、それも相手を倒してやろうという闘志をますますかき立てただけにすぎなかった。
われわれは床の上を一進一退して闘った――マハールは、私を八つ裂きにしようとはげしく打ってかかった。私は左手で身体《からだ》をかばおうとする一方、今では役に立たなくなった右手から、急速に力の失せていく左手に剣を持ち変える機会をうかがっていた。だがついにはそれに成功した。そして最後に残った力を振りしぼって敵の醜悪な身体《からだ》に刃《やいば》を突き立てた。
交戦中もそうだったが、相手は声一つ立てずに死んだ。私は痛みと出血で弱ってはいたものの、勝利に意気|軒昂《けんこう》として、はげしく痙攣《けいれん》しながら硬直していく敵の死体を乗り越えて、この世界に最大の影響力を持った秘密を奪い取った。ペリーが説明してくれたものがそれだということは一目瞭然だった。
その書物を手中に収めた時、これがペルシダーの人類にとってどんな意味を持っているか私は考えただろうか――まだこの世に生をうけていない幾多の世代の同胞が、私のたてた手柄の故に私を崇拝するようになるだろうと一瞬たりとも考えただろうか? 否。私の脳裡に浮かんだのは、豊かに波打つ漆黒の髪に縁どられ、澄みきった瞳でみつめる美しい瓜実《うりざね》顔だった。私は神が口《くち》づけのために作りたもうた真紅の唇を想った。こうして、ペルシダーのマハール族の秘密の一室にただ一人たたずんだ私は、美女ダイアンを愛していることに、まったく唐突に、思いあたったのだった。
十二 追跡
つかのま、私は彼女に思いを馳《は》せてそこにたたずんでいたが、やがて溜息《ためいき》とともに腰布を縛っている革紐の間に本をさしこみ、踵を返して部屋を出た。地下の部屋から上に通じる廊下の奥で、あらかじめ打ち合わせておいた合図に従って口笛を鳴らした。ペリーとガークに私が成功したことを知らせる合図だ。彼らはすぐさま姿を現わした。驚いたことに、狡猾な男フージャもいっしょだった。
「いっしょに来たんだ」ペリーは弁明した。「ことわるわけにもいくまい。やつは狐だ。脱走計画を嗅ぎつけたんだよ。今このチャンスを妨害されるよりはと思ったので、やつに、きみのところへ連れていって、いっしょに来てもよいかどうかきみに決定してもらうといったんだ」
私は、フージャに対してなんの好意も持っていなかったし、信用もしていなかった。自分に有利になると思ったら、われわれを裏切るに決まっている。だがいまさらどうしようもないし、予定していた三匹だけではなくて四匹ものマハールを殺したので、脱走計画に彼を加えることも可能になっていた。
「よかろう」私はいった。「一緒に来てもいいぞ、フージャ。ただし、ちょっとでも裏切る気配が見えたらたちどころに刺し殺すからそう思え。わかったな?」
彼はわかったと答えた。
それからしばらくして私たちは四匹のマハールの皮を剥《は》ぎ、その中にもぐりこむことに成功した。これで誰にもとがめられずにプートラを出て行ける成算は充分ありそうに思えた。死体から皮を剥《は》ぐのに腹を断ち割ったのだが、断《た》ち目を接《つ》ぎ合わせるのがまた容易なことではなかった。私は他の三人に手を貸して中へ縫いこめてやり、全部終るまで外に残っていた。それからこんどはペリーが、彼の皮の胸の部分に残しておいた隙間《すきま》から手を出して、私を縫いこめてくれた。
こうして、私が思ったよりずっとうまくことが運んだのだった。私たちは首の内部に剣を立ててどうにか頭を真直ぐに起しておくことに成功した。同様にして、頭を生きているように動かすこともできた。もっとも苦労したのは水かきのついた足だったが、その問題も結局は解決して、動いてみるとまったく自然な動きができた。私たちの頭がはいっているだぶだぶの咽喉《のど》には小さな穴をあけておいたので、そこからよく見えて進行するのに支障はなかった。
こうして一同は建物の一階さして上って行った。ガークが先頭を進み、次にペリー、それからフージャ、そして私がしんがりをつとめた。私はフージャに、ちょっとでもひるむようすを見せたら変装している皮の頭部を貫いて彼の急所を刺すことができるように剣をかまえているぞ、と警告しておいた。
急ぎ足に歩く足音が聞こえて、いよいよ一階のにぎやかな廊下に来たんだなと悟った。心臓が口もとに飛び出しそうになるほどどきどきした。自分が怯えているということがわかったが、恥ずかしいとは感じなかった――魂も萎《な》えるような苦痛と不安が私をひしひしと包んでいた。生涯でこんな体験をしたのはあとにも先にもこの時だけだ。もしも血の汗をしたたらせるというようなことがあり得るとしたら、その時の私がまさしくそれだった。
翼を使用しない時のマハールの独特の歩き方を真似て、私たちは奴隷やサゴスやマハールが雑踏する中を這って進んだ。永遠とも感じられる時間が流れて、私たちはプートラの主要街路に通じている扉にたどりついた。大勢のサゴスが戸口の付近をぶらぶらしていた。ガークが彼らの間を歩いて行くと、彼らはちらりとガークを見た。次にペリーが通り、それからフージャが通過した。いよいよ私の番だ。と、その時、傷を負った腕から生温かい血が流れて着用しているマハールの皮の足を伝ってしたたり落ち、隠しようのない血痕を舗道に残しているのに気がついた。私は愕然として立ちすくんだ。一人のサゴスがその血痕を見つけて仲間の注意をうながしていたからだ。
衛兵は私の前に進み出て、血のしたたっている私の足を指さして、この二つの種族が意志伝達に使用している手真似言語で話しかけた。たとえ彼のいっていることがわかったとしても、私がかぶっている死んだ皮では返答のしようもなかった。以前に大マハールが無礼なサゴスを一《ひと》にらみでその場に釘づけにしてしまうところを見たことがあるが、どうやらその手を使う以外にのぞみはなさそうなのでやってみることにした。私はその場に立ち止って剣を動かした。こうすれば死んだ頭がゴリラ人間に怪訝《けげん》そうなまなざしを向けたように見える。長い間私は身じろぎもせずに死んだ目でそいつをにらみつけて立っていた。それから頭をおろしておもむろに歩き出した。つかの間《ま》どうなることかと肝を冷やしたが、私が近づく前に衛兵はわきへよけ、私は大通りへ出たのだった。
一同は広い通りを進んで行った。だが周囲には敵がうようよしていたのでかえって安全だった。幸い都市から一キロそこそこの地点にある浅い湖に向かうマハールの大集団があった。彼らはそこへ出かけて行って、水中に潜って小魚を取ったり、ひんやりとした水の深みを楽しんだりして両棲類としての性癖を満足させるのだった。そこは浅い淡水湖で、大型の爬虫類も棲息していない。大型の爬虫類はペルシダーの大海を同族以外のものに利用させなかった。
私たちはひしめき合う群衆にまぎれて階段を上り、平原に出た。しばらくの間、ガークは湖に向かう一行と行動をともにしたが、やがてガークはとある小峡谷の底で、停止した。私たちはみんなが通過して私たちだけになるまでそこにじっとしていた。そして変装したままの姿で一路プートラをあとにした。
垂直に降りそそぐ太陽光線のために、私たちの気味の悪い牢獄は刻一刻と耐えがたいものになってきていた。そこで低い分水界を越えて身を隠すのに好都合な森林にはいると、ここまで無事に私たちを連れて来てくれたマハールの皮をついに脱ぎ捨てた。
あの艱難辛苦《かんなんしんく》にみちた逃避行の顛末をここに詳述してあなたを退屈がらせるようなことはしますまい。へとへとになってその場に倒れるまで根かぎり走ったこともあったし、奇怪で恐ろしい野獣に襲撃されたこともあった。また、地上世界でももっとも大きい猫科の動物が卑小に感じられるような、そんな大きさの虎やライオンの残忍な牙を命からがら逃れたこともあった。
私たちはプートラからできるだけ遠ざかることだけを念頭にどんどん進んだ。ガークは私たちを自分の国――サリの国――へと導いていた。追手のくるきざしは見えないとはいうものの、後方のどこかで非情なサゴスどもが私たちのあとをつけているにちがいなかった。ガークの話では、彼らは狙い定めた獲物はつかまえるか、ないしは彼らを上回る軍勢に追い返されるまで追跡をやめないということだった。
またガークは、私たちにとって一縷《いちる》ののぞみは彼の一族のもとにたどりつくことだといった。彼の一族は山塞《さんさい》を擁していて、サゴスがどれだけ押し寄せても撃退できるほど強力なのだそうだ。
それから何カ月たったかと思われる頃――今から考えると何年も経過していたのかもしれないが――ついに私たちはサリの国の山麓《さんろく》を固めている要塞のある丘の急斜面が見えるところにたどりついた。とほとんど同時に、それまで前後に油断なく目を配っていたフージャが、はるか後方、私たちがたどって来た道程にある低い尾根に一隊が登ってくるのが見えると告げた。久しく予期していた追手の一隊だ。
私は、彼らに追いつかれない先にサリに到着することができるだろうかとガークにたずねた。
「できるかもしれん」彼は答えた。「だが、きみにもわかるだろうが、サゴスは信じ難いほどの速さで進むことができるのだ。それに彼らはまったくといっていいくらい疲れを知らないから、われわれよりもずっと元気だといってまちがいない。そこへいくと――」彼はペリーをちらりと見て口をつぐんだ。
私には彼がいおうとする意味がわかった。老人はほとんど消耗しきっている。逃避行の大部分を、ガークか私が半分ささえてやって進んで来たのだ。こんなハンディキャップがあっては、サゴスより足の遅い追跡者でも、目前に立ちはだかるけわしい山を私たちが登る前に容易に追いつくだろう。
「あなたとフージャは先に進んでください」私はいった。「ペリーとぼくは行けたら行きます。ぼくたちは、あなたやフージャのように速くは進めないし、そのために全員がむざむざやられる必要はない。しかたのないことです――やってみるよりほかはないでしょう」
「わたしは友人の一人を置き去りにはしない」ガークの答は簡単だった。この大きな毛深い原始人がこんなりっぱな気質を秘めているとは知らなかった。これまでいつも彼のことを好もしく思ってはいたが、今やその上に尊敬の念が加わった。そして、むろん、愛情も。
それでもなお私は、もし彼が一族のもとにたどりつくことができたら、サゴスを撃退してペリーと私を救出できるだけの軍勢をつれてくることができるかもしれないからと力説して、先に行ってくれと促した。
しかしガークは頑として私たちを離れなかったので、それ以上どうしようもなかった。だが彼は、フージャが先を急いでサリ人に王の危険を知らせてはどうだろうかと提案した。フージャを出発させるにはせっつく必要はなかった――この提案を聞いただけでもう彼は今たどりついたばかりの山麓の丘に私たちに先んじて飛びこんでいた。
ペリーは、自分がガークと私の生命を危険にさらしているということに気がついた。彼がサゴスの手中におちいることを考えて恐ろしさに身も心もあらぬ思いをしていることは私にはわかったが、それにもかかわらず老人は自分を置いて行ってくれと哀願せんばかりに頼んだ。とうとうガークは、この問題をいくらかなりとも解決する策を講じた。ペリーを彼の頑丈な腕で抱え上げて担《かつ》いで行くことにしたのだ。こうすることによってガークの速度は落ちたが、それでもよろよろする老人を半分ささえるよりはこの方が早く進むことができた。
十三 狡滑な男
サゴスはぐんぐん迫って来ていた。私たちの姿をみとめるやいなや、彼らは大幅に速度を上げたからだ。ガークがサリの山に近づくために選んだ狭い峡谷を私たちはよろめきながら登って行った。両側には目のさめるような色が入りまじった岩の断崖がそそり立ち、足もとには山の草が密生して、柔らかで足音のしない絨毯《じゅうたん》を広げていた。峡谷にはいってからは、一度も追手の姿を見かけなかったので、私たちは彼らが私たちの足跡を見失ったのではないかという希望を抱きはじめた。そして、今や急速に接近しつつある断崖にたどりついて、追いつかれない先に登りたいものだと念願するようになった。
前方には、フージャが伝令に成功したことを示すきざしはぜんぜん見えず、また聞えなかった。今頃はサリの前哨点《ぜんしょうてん》に到達しているはずだし、だとすると、救いを求める王の訴えに応じて少くとも一族のものが大挙して戦闘準備にかかる荒々しい鬨《とき》の声が聞えてもいいはずだ。そしてまたたくうちに威圧するようにそびえる前方の断崖が、原始人の戦士で黒々と埋まってしかるべきなのだ。だが、そういったことは何一つ起らなかった――実のところ、狡猾な男は私たちを裏切ったのだ。サリの槍兵たちがフージャのあとについて私たちを救いに駆けつける姿を待ち受けていた頃、あの卑怯な裏切り者は、いちばん近くにあるサリの村はずれをこっそりと迂回《うかい》していた。私たちを救出するにはもはや手遅れという時機になってから、山の中で道に迷ったのだと称して反対側から姿を現わそうという魂胆《こんたん》だったのだ。
フージャは、私がダイアンを守るために彼を打ったということから、いまだに私に恨みを抱いていた。そして私に対して復讐するためなら三人とも犠牲にするというくらいの悪意を持っていたのだ。
障壁となっている断崖に近づいてもサリの救援隊が現われないので、ガークは立腹すると同時に不安を感じはじめた。やがてぐんぐん接近してくる追手のどよめきが耳に達したとき、彼は肩越しに私に声をかけて、道に迷ったと告げた。
後をふり返ると、かなりの距離を一直線につづいている峡谷の向こうの端に、サゴスの先頭がちらりと見えた。私たちが今しがた通り抜けて来た峡谷だ。と、醜い追手の姿は急な曲がり角で視界から消えたが、背後に湧き上った勝鬨《かちどき》の声が、ゴリラ人間どもが私たちを発見したことを証明していた。
峡谷は再び急角度に左折していた。だが右手にも別の坂道があって、目的地のある大体の方向からさほどはずれずに先へつづいていた。その逆の方が左手の道よりも本筋に見えた。サゴスどもは二百五十メートル後に迫っている。私は計略を使うよりほかに逃れる道はないと見てとった。ガークとペリーを救うわずかなチャンスはある。峡谷の分岐点に達するや、私はそのチャンスに賭けることにした。
私はその場で停止して、サゴスの先頭が視界にはいるまで待機した。ガークとペリーが角を曲がって左手の峡谷に姿を消したあと、サゴスの野蛮な喚声が私を発見したことを告げると、私はひらりと方向を転じて右手の岐道をいっさんに駆け出した。計略は図に当った。人狩りの一隊は泡を喰っていっせいに私のあとを追って一方の峡谷に駆けこんだ。その間にガークはもう一つの道をたどってペリーを安全な場所に運び上げた。
徒競走は必ずしも私の得意な競技ではなかった。私の生命そのものが足の速さにかかっているこの際だというのに、私の見るも哀れな走塁ぶりを見て応援団が声を枯らして「ぐずぐずするな」、「タクシーを呼べ」と叱咤《しった》を浴びせたあの当時よりも決して早いとはいえないのだ。
サゴスどもは急速に追いすがってくる。中でもひときわ足の早いやつがいて、そいつがきわどいところまで接近していた。峡谷とはいっても、今では単に岩だらけの隙間になっていて、道は向かい合った二つの峰にはさまれた峠らしいところに向かって急角度に上っていた。その向こうに何があるのか見当もつかない――たぶん何十メートルという深い谷底になっているのだろう。さては袋の鼠《ねずみ》となったか?
サゴスを引き放して峡谷の頂上に到達できる見込みがないと悟った私は、いちかばちか一時的に彼らをくいとめてやろうと覚悟を決めた。そして手造りの弓をはずして背に吊った矢筒から矢を一本引き抜き、右手で矢をつがえざま立ちどまってさっとゴリラ人間の方に向き直った。
生まれ故郷の世界ではかつて一度も弓を引いたことはなかったが、プートラを脱出して以来、小さな獣を仕止めては一行に供給していたので、必然的に腕前も相当正確になっていた。プートラからの逃避行の途中、ガークと私は巨大な虎を矢と槍と剣で攻めたててついに仕止めたことがあって、その虎の頑丈な腸《ガット》の一部で弓の弦を張り直しておいた。弓幹はずば抜けて腰の強い堅木でできていたし、新しい弦の強度と弾力性とを合わせて私は自分の武器になみなみならぬ信頼を寄せていた。
この時ほど神経を静める必要を感じたことはない――そしてこの時ほど神経と筋肉が意のままになったこともかつてなかった。私は藁《わら》の標的を狙うようにじっくりと狙いをつけた。サゴスはこれまで弓矢を見たことがなかったが、私がやつに向かってかまえているものが何かの武器だということは、やつのにぶい頭にもとっさに閃《ひらめ》いたのにちがいない。向こうでも立ちどまると同時に、斧をびゅんびゅんと振って投擲《とうてき》の態勢を取った。彼らはこの武器を種々の方法で用いるが、これもその一つで、しかもその腕前たるやもっとも不利な情況下でさえ奇跡的なまでに正確だった。
私は弓をきりきりと引き絞り、鋭い矢先を敵の左胸にぴたりと定めた。と、敵は斧を投げ、私は矢を放った。双方の飛び道具が空を切った瞬間、私はさっとわきへ飛びのいたが、サゴスは余勢を駆って槍で一突きにしようと前へ飛び出した。斧が私の頭をかすめるシュッという音を感じるのと、サゴスの兇猛な心臓を私の矢が貫くのと同時だった。相手は一声うめくと私の足もとのすぐそばに突っ伏して息絶えた。
そいつのすぐ後に二人がつづいていた――五十メートルくらいあいていたろうか――だが、それだけ距離があったおかげで死んだ衛兵の楯を拾いあげるひまがあった。彼に斧を投げつけられてきわどい目に会ったばかりだったから、楯の必要性を痛感していたわけだ。プートラで盗んだ楯は大きくて、私たちを無事にあの都市からつれ出してくれたあのマハールの皮の中に隠し切れなかったので、持ってくることができなかった。
私は楯を左腕の上部にはめ、二の矢を放った。狙いたがわず二人目のサゴスがどうと倒れた。ついでその仲間の斧が空を切って飛んでくるところをはっしと楯で受け止めておいて、さらに矢をつがえた。だが相手は矢が飛んでくるのを待っていなかった。それどころかくるりと背を向けると本隊に逃げ帰った。このままではとうてい太刀打《たちう》ちできないと悟ったのだろう。
私は再び逃走を開始した。サゴスどもは明らかに以前ほど接近して来たがらない。私は妨害を受けずに峡谷の頂上にたどりついた。そこから岩のごろごろした下の裂け目まで百メートルに及ぶ断崖が屹立《きつりつ》している。だが左手には、張り出した断崖の肩部をめぐって狭《せま》い岩棚がつづいていた。この岩棚にそって進んでいくと、峡谷の末端から二、三メートル手前で道は急に折れて道幅が広くなり、左手に大洞窟がぽっかり口を開けていた。岩棚はさらにその先もつづき、次の突出部から先で見えなくなっている。
ここなら敵は一度に一人ずつしか進んでこられないし、角を曲がって向うから顔を合わせるまで私が待ちかまえていることは敵にわからないから、大軍でもやっつけることができるぞと私は思った。頭上の断崖からくずれ落ちて来た石が付近にちらばっている。大きさも形もさまざまだが、貴重な矢のかわりに弾として使用するには手頃な大きさの石がごろごろしていた。石をたくさん集めて来て洞窟の入口の横に積み上げ、サゴスが現われるのを待った。
私は敵の接近を告げる最初のしのびやかな物音に聞き耳を立てながら息を殺してじっとしていた。と、その時、洞窟の奥の暗闇で起ったかすかな物音が私の注意を惹いた。何か巨大な野獣が、ねぐらの岩の床から起きあがって身動きしたらしい、そんな物音だ。それとほとんど同時に、曲がり角の向こうの岩棚で、皮のサンダルがひたひたと音をたてるのを聞いたような気がした。つづく二、三秒間、私の注意力は真二つにわかれた。
と、右手の墨《すみ》を流したような暗闇の中かららんらんと輝く火のような二つの目が私の目をにらみつけているのに気がついた。私の頭上六十センチあまりのところだ。むろん、その目の持主は、洞窟の内部の岩棚に立っているのかもしれないし、あるいは後足で立ちあがっているのかもしれない。私はこれまでにペルシダーの怪物にはさんざんお目にかかってきたから、目の前にいるそいつが、これまでのどの怪物をもしのぐ大きさと兇暴さを備えた恐ろしい新種の巨獣なのかもしれないということは察しがついた。
どんなやつかわからないが、とにかくそいつはゆっくりと洞窟の入口に向かって進んで来ていた。そしてこんどは腹の底にひびくような無気味な声で低く唸《うな》った。この声の持主と、岩棚の所有権をめぐって争うつもりは毛頭ない。唸り声は大きくなかった――はたしてサゴスどもに聞えたかどうかも疑わしい――だがその声の具合から背後にひそむものを察すると、あんな声を発するのは巨大で獰猛《どうもう》な野獣にほかならないということはわかった。
私はじりじりと岩棚を後退して、ほどなく洞窟の入口を通り越した。そこまでくると、もはやあの恐ろしい火のような目は見えなかったが、次の瞬間、洞窟の入口の向こうの断崖の角を曲がって油断なくこっちへ進んでくる一人のサゴスの悪鬼のような顔が目にはいった。そいつは私をみとめるやいなや岩棚をひょいひょいと渡って追って来た。その後から仲間の連中が踵《かかと》を連ねてぞくぞくとやってくる。同時に野獣が洞窟からぬっと姿を現わした。狭い岩棚の上で野獣とサゴスはばったりと出会った。
恐ろしくでかい穴熊《あなぐま》だ。後足で立って肩までゆうに二・五メートルはある巨獣で、鼻先から短い尾の先端までならたっぷり三・五メートルはある。穴熊はサゴスどもを見て世にも恐ろしい咆哮を発し、がっと口を開いて猛然と襲いかかった。先頭のゴリラ人間は悲鳴をあげ、くるりと背を向けて逃げようとしたが、後からつめかけていた仲間にもろにぶち当った。
つづく二、三秒間の惨劇は筆舌につくし難い。穴熊のいちばん近くにいたサゴスは、逃げ道が閉ざされているのを見てとると、くるりと方向を転じて九十メートル下の峨々《がが》とした岩場に身を投じて悲惨な死をとげた。すると穴熊は巨大な顎をぐいと突き出して次にいたサゴスをくわえた――胸がむかつくような音がして骨は噛み砕かれ、めちゃくちゃになった死体は断崖の縁から振り落とされた。巨大な野獣は立ちどまろうともせず、岩棚を悠然《ゆうぜん》と進んでいく。
今やサゴスどもは悲鳴をあげながら、穴熊から逃れようと無我夢中で絶壁から身をおどらせていた。私が最後に見たときには熊は戦意を喪失した人狩りの一行の生存者をなおも追って曲がり角を曲るところだった。猛獣の恐ろしい咆哮にまじって、彼の餌食《えじき》の発する悲鳴や叫び声が長い間聞こえていた。が、やがてついに陰惨きわまる騒ぎも遠のいて彼方に消えてしまった。
あとになってガークから聞いたことだが――ガークは結局部族のもとへたどりつき、一隊をひきいて私を救出するために引き返して来たのだった――|ライズ《ヽヽヽ》と呼ばれるあのけだものはサゴスの一行を追いつめて全滅させてしまったということだ。むろんガークは、私があの恐ろしいけだものの餌食《えじき》になってしまったものと思いこんでいた――やつはまさしくペルシダーのけものの王者だ。
私は、穴熊か、もしくはサゴスどもの餌食《えじき》になるかもしれないと思ったので、あえて再び峡谷へ引き返そうとはしなかった。そして、山の周囲を渡って行けば別の方向からサリの国へたどりつくことができると信じて、さらに岩棚を渡って進んだ。だが結局その時にはサリの国へ到達せず、その後久しい間も行きつくことがなかった。明らかに私は曲折する峡谷や涸《かれ》谷に迷ってしまったのだった。
十四 エデンの園
道しるべとなる天体もないのだから、これらの雄大な丘の入り組んだ迷路に迷ってしまったのも不思議はない。実際はこれらの丘を一つ残らず通り抜けて谷の向こう側に出て来たのだった。長時間さまよっていたことはわかっていた。ずっと手前では花崗岩だった山肌が石灰岩の層に変っていて、たまたまその石灰岩層の面に小さな洞窟を発見した時には疲れ切って空腹だった。
私の気に入ったこの洞窟は、高い断崖の切り立った側面の中途にあって、そこへ到達する道はけわしく、とりわけ手強《てごわ》い野獣どもが頻繁に訪れるとは思えなかった。それに洞窟そのものも、小さい哺乳動物や爬虫類ならとにかく、その他の動物が居心地のよい棲家《すみか》とするほど大きくはなかった。それでも私は用心に用心を重ねて内部の暗がりに這っていった。
洞窟の中はかなり広い部屋になっていた。頭上の岩の細い割れ目が明かりとりの役目をしていて、てっきり内部は真暗だろうと予期してはいって行ったところが、その割れ目からかなりの日光が射しこんで闇を幾分やわらげていた。洞窟は空《から》で、最近何ものかが住んでいた気配もまったくない。入口は比較的小さかったので、下の谷間から苦心して引っぱり上げて来た大石で完全にふさぐことができた。
それから谷にとって返して草を腕一杯に摘んできた。その時に、幸運にもペルシダーの小型の馬といえる|オルトピ《ヽヽヽヽ》を一頭倒した。フォックステリヤくらいの小動物で、この地底世界のいたるところに繁殖しているやつだ。かくて食物と寝床を作る材料をたずさえてねぐらに帰還した。今ではすっかり慣《な》れた生肉の食事をすませると、石を入口の前に引き寄せて草の寝床にまるくなって寝た――有史以前のご先祖さながらに、野蛮きわまる太古の裸の穴居人になりきっていた。
目がさめると、疲労は癒えていたものの空腹だった。石を横に押しやって、玄関のポーチになっているちょっとした岩棚に這って出た。目の前には、狭いながらも美しい谷が展開していて、その中央を澄み切った一筋の河がきらめきながら曲折して内海に注いでいる。青々とした内海の水が、この小楽園を抱擁する二つの山脈のはざまにちょっぴり見えた。正面にある丘の側面は若葉の緑一色におおわれている。頂上を形成してそびえている赤や黄や緑青色の岩の先端のほかは、大森林にすっぽり包まれているためだ。谷そのものには豊かな草が敷きつめられていて、そこここに点在する野性の花の群があたり一面の緑とは対照的に鮮烈な色彩をまきちらしている。
谷の斜面には椰子《やし》に似た木が、たいてい三、四株の小さなかたまりになって点々としていて、木蔭にはカモシカがたたずんでいた。そのほかに、広々とした草原で草を食うものもあれば優雅な足どりで近くの沼へ水を飲みに行くものもあった。この端麗《たんれい》な動物にはいくつかの種類があって、中でももっともすばらしいやつはアフリカの大カモシカに多少似ていた。ただちがっているのは、螺旋《らせん》状にうねった角が耳から後方にぐっとカーヴを描き、耳の下を通って前方にもどってきてその鋭い先端が目よりも上の位置で顔の前方六十センチのところまで達していることだ。大きさは生粋のヘレフォード牛を思わせるが、非常に敏捷で足も早い。濃色の間に黄色の幅広い縞模様があるので、初めて見たときには縞馬かと思った。まずは端麗な動物で、新居の前に展開する奇異な美観にいま一つの味をそえていた。
私はこの洞窟を本拠として、これを根城にサリの国を求めて周囲の土地を組織的に探索しようと決心した。そこでまず先刻眠りにつく前に屠《ほふ》ったオルトピの肉の残りをたいらげてから、「偉大な秘密」を洞窟の奥の壁の深い凹《くぼ》みに隠し、入口に石を転がした。そして弓矢と剣と楯をたずさえて静かな谷間へと下っていった。
私が通りかかると、草を食べていた動物の群はわきへ寄って道をあけ、小さなオルトピは持ち前の用心深さをまる出しにして安全な距離まで駆けていった。すべての動物は私が接近すると食べることをやめた。そして自分たちで安全だとおもう距離まで移動しておいてから、耳をぴんと立て、真剣なまなざしで私をじっとみつめるのだった。一度、縞模様のあるカモシカの年老いた雄の一頭が、頭を低くして怒ったように唸った。おまけに二、三歩私の方に進み出たので、てっきり襲いかかってくるのだと思ったが、私が通過するとまるで何ごともなかったかのように再び草を喰いはじめた。
谷の低地帯のはずれで、多数のタピルスとすれちがった。河の向こう岸には、現代の犀《さい》の祖先である角を二本持った巨大なサドクがいる。谷のはずれで左手の断崖は海中に没入していた。私の希望通りにそこを迂回しようとすれば、その先もひきつづき進んでいけるような岩棚を求めてその断崖を登っていかなくてはならない。ふもとから十五メートルばかりのところに、断崖の側面ぞいに天然の道を作っている突出部がある。私は、海の上に突き出たこの道を通って断崖の果てに向かった。
そこまでくると、岩棚は急な昇り坂となって断崖の頂上に向かっていた――背後の山脈ができた際に、この部分を構成している地層が急角度に押し上げられたものとみえる。用心しながら登っていると、ふいにシューッ、シューッという奇妙な音と羽ばたきに似た音を耳にした。私は、はっとして注意を空中に向けた。
ペルシダーでさえ見たこともないようなものすごいやつが、いきなり視野に飛びこんできて、私はすっかり度胆をぬかれた。地上世界の伝説やお伽話《とぎばなし》に出てくるような巨竜だ。全長十二メートルはあるにちがいない。蝙蝠《こうもり》のような翼は端から端までのばしてたっぷり十メートルはある。がっと開いた顎には鋭く長い歯が並び、足には恐ろしい爪をそなえている。
最初に耳を捉えたシューッ、シューッという音は、そいつが咽喉《のど》から発した音で、私より下の方にいる何ものかに向けられているらしいのだが、私には見えない。私の立っている岩棚は二、三歩先でぷっつり途切れていたが、その端まで行って見て、竜が昂奮している原因をつきとめた。
その昔、地震が起った時にここに断層が生じ、私の立っている地点の先の地層は六メートルばかり地すべりを起してさがっていた。その結果、岩棚の続きは六メートル下にあって、そこもまた、今私が立っているところと同じようにいきなりぷっつりと途切れている。
そして、そこに竜の攻撃目標があった。岩棚が中断しているためにそこから先へ進むことができず、逃げる途中で挫折したのだろう、一人の女が頭上に舞う恐ろしい死の影を見まいとするように両腕に顔を埋めて狭い岩棚の上で身をすくめていた。
竜はしだいに低く舞い降りて来た。そして今にも餌食《えじき》に襲いかかるように見えた。ぐずぐずしてはいられない。恐ろしい武器をそなえたこの怪物に勝てる見込みがあるかどうか思案しているひまもない。しかし眼下におびえている女を見てむらむらと勇気が湧いてきた。そしてそれとともに異性を保護したいという本能――太古の人間においては自己保存本能にもひとしかったにちがいない本能――が抗し難い磁石のように私を女のそばに惹きつけたのだった。
結果がどうなるかということもほとんど念頭になく、私は自分の立っている岩棚から、六メートル下の狭い岩棚に身をおどらせた。竜が女めがけて襲いかかるのと同時だった。だが、いきなり私がその場に飛びこんで来たので、竜は驚いたのかひらりと方向を転じて再び私たちの頭上に舞いあがった。
私がかたわらに飛び降りた際の物音で、女は私が竜だと思いこみ、いよいよ最後が来たと観念した。だが非情な牙が噛みついてくるようすもないので驚いて目を上げた。私を見たとたんに名状し難い表情がその目に浮かんだ。だが彼女の気持は私に劣らず複雑だったにちがいない――目を大きく見開いてまじまじと私の目に見入っているのは美女ダイアンだったのだ。
「ダイアン!」私は叫んだ。「ダイアン! 間に合ってよかった」
「あなたでしたの?」そうつぶやくと、彼女は再び顔を伏せた。私が来たことを喜んでいるのか、怒っているのか判断がつかない。
竜は、再度私たちめがけて急降下して来た。あまりの速度に弓を下すひまもなかったので、石を拾い上げて怪物の醜悪な顔めがけて投げつけるのが精一杯だった。今回も私の狙いは狂わなかった。苦痛と怒りにシューッという声を発すると、竜はまたもや方向を転じて舞い上った。次の攻撃にそなえて私は急遽《きゅうきょ》弓に矢をつがえた。準備を整えながら私は女の方を見下した。彼女はこっそりと私を盗み見していたので、はっとしてすぐに再び両手で顔をおおった。
「ぼくの方を見ておくれ、ダイアン」私は懇願した。「ぼくに会えてうれしくないのかい?」
彼女は私の目をまともに見た。
「あなたが嫌いです」と、彼女はいった。そこで、私のいい分を公平に聞いてくれないかと頼もうとした時、彼女は私の肩越しに指さして、「シプダールがくるわ」と、いった。私は再び振り返って爬虫類を待ち受けた。
こいつがシプダールだったか。気がつかなかったとはうかつな話だ。こいつはマハール族の残忍な番犬《ヽヽ》で、地上世界ではとっくに消滅した翼竜《プテロダクテイル》だ。だがこんどはやつがこれまで立ち向かったことのない武器で応戦した。私はいちばん長い矢を選び出し、渾身《こんしん》の力をこめて矢先が左手の親指にかかるまで弓を引き絞った。そして大怪獣が襲いかかってくるところを、その厚い胸板めがけてはっしと矢を放った。
怪物は蒸気機関の安全弁のようなシューッという音をたててきりもみしながら矢を胸に突き立てたまま眼下の海に墜落した。
私は女の方に向き直った。女は私の向こうを見ていた。シプダールの死を目撃したことは確かだ。
「ダイアン、後生だからぼくに見つかったことを後悔していないといってくれないか」
「あなたが嫌いです」彼女は一言こう答えた。だが、その口調には以前ほどのはげしさがないように思えた――もっとも私の勝手な想像だったかもしれないが。
「どうしてぼくが嫌いなんだ?」と私はたずねたが、彼女は答えなかった。
「ここで何をしていたんだね? フージャがきみをサゴスの手から解放してからこの方、きみの身の上にどんなことがあったの?」
最初、私をまったく無視するものと思っていたが、とうとう彼女も思い直して口を開いた。
「また醜男《ぶおとこ》ジュバルから逃げていましたの。サゴスのところを脱走してから一人で自分の国へ帰ろうとしたのですが、ジュバルのことがあるので村へははいらず、あたしが帰ったことをどの友人にも知らせませんでした。ジュバルに知れるのがこわかったからです。長い間村のようすを見張っていて兄がまだ帰還していないことがわかったので、あたしはそのまま一族のものがめったにこない谷のそばの洞窟で暮していました。兄が帰って私をジュバルから解放してくれる日をひたすら待ちつづけていたのです。
それでも、もしや兄が帰っているのではないかと父の洞窟へこっそり近づいたところをとうとうジュバルの猟師の一人に発見されてしまいました。知らせを聞いてジュバルは追跡を開始しました。彼は数々の土地を越えて追って来ました。もうかなり近くまで迫っているはずです。もしやって来たら、あなたを殺して私を彼の洞窟へ連れて帰るでしょう。ジュバルは恐ろしい男です。あたしは逃げられるだけ逃げて来ました。でももうだめですわ」そういって彼女は恨めしそうに六メートル上にある岩棚のつづきを見上げた。
「でも、彼のものになど、なるもんですか」彼女は突如としてはげしい口調で叫んだ。「そこに海があるわ」そして断崖の縁の向こうを指さした――「ジュバルに身をまかせるくらいなら、海に飛びこみます」
「でも、ぼくがついているよ、ダイアン」私はさけんだ。
「ジュバルにも、他の誰にもきみを渡しはしない。きみはぼくのものだ」そういって私は彼女の手をとった。だが解放してやるしるしとして、その手を彼女の頭上に上げてそこから落すことはしなかった。
彼女はすでに立ち上っていた。そしてまっすぐ喰い入るように私の目をみつめていた。
「信じられないわ。だってもしもあなたがその気なら、他の人たちの面前でこうしたはずです――そうしたら、あたしはまぎれもなくあなたの妻になっていたでしょうに。今あなたがこうしているところを見ているものはありません。立ち会い人がいない場合は、こんなことをしても二人は結ばれないのだということをあなたはご存じなのですわ」そういうと彼女は手を引っこめてそっぽを向いた。
私に誠意があるのだということを納得させようとしたが、彼女はあの時に私が与えた屈辱感を忘れることができないのだった。
「もしもあなたのおっしゃることがすべてほんとうなら、証明するチャンスは充分ありますわ。ジュバルがあなたをつかまえて殺さなければね。あたしはあなたの思いのままなんですから。あなたがあたしをどう扱ってくださるかということであなたのお気持が何よりもはっきりと証明されることになりますわね。あたしはあなたの妻ではありませんし、もう一度いっておきますが、あなたが嫌いです。再会していなかったらよかったのですわ」
確かにダイアンは率直だった。それは否定できない。事実、ペルシダーの穴居人は率直かつ虚心|坦懐《たんかい》で、それが彼らの顕著な特質であるということを私は知った。最後に私は、なんとかして二人で私の洞窟へ行こうじゃないかと提案した。あそこならジュバルの探策を逃れることができるかもしれない。あの兇暴きわまる人物に好きこのんで会う気がしないということは素直に認める。彼のすごい腕前のほどは、ダイアンに会った当初に彼女から聞いた。彼はちっぽけな短剣一つで穴熊と渡り合って、相手を倒したことがあるというし、あの鎧《よろい》のように固いサドクの身体《からだ》に、五十歩離れたところから槍を投げてもののみごとに突き通すことができるということも聞いた。また、突進してくるダイリスの頭蓋を戦闘用のこん棒の一撃で粉砕したこともあるそうだ。とにかく、醜男ジュバルに会うことは遠慮申し上げたいし、自分からやつを捜しに出かけるなんてまっぴらだ。ところが、よくあることだが、事態はそれからすぐに思わぬ方向に進展して、私は醜男ジュバルに対面することになったのである。
ことの起りはこうだ。私はダイアンをともない、彼女が来た道をたどって断崖の頂上に通じる道を求めて岩棚を引き返した。そこを越えたら、私のものであるあの小渓谷のはずれに出られるとわかっていたし、そこへ出ることさえできたら断崖の頂上からのはいり道が見つかるにちがいないと感じていた。岩棚を進みながら、私は万一私の身の上に何かが起った場合にそなえて、ダイアンに私の洞窟へ行く道順をくわしく教えた。私のねぐらに着きさえしたら、きわめて安全に追手から身を隠していることができるだろうし、谷間で獲れるもので充分暮していけるだろう。
その一方では、彼女の態度がひどく癪《しゃく》にさわった。私は憂欝《ゆううつ》だった。何か私の身の上に恐ろしいことが起るかもしれない――ひょっとすると実際に殺されてしまうかもしれない――とほのめかして、すまないという気持ちを起させてやりたかった。だが少くとも私が察することができるかぎりでは、なんの効果もなかった。ダイアンはあのみごとな肩をすくめて、そんなに簡単に罰を免れることはできないわ、とかなんとかそういった意味のことをつぶやいただけだった。
しばらくの間、私は黙りこくっていた。すっかり意気消沈していたのだ。二度までも攻撃から守ってやったじゃないか――二度目などは彼女の生命を救うためにこっちの生命までかけたというのに。たとえ石器時代の娘にもせよ、こうまでも恩知らずで薄情だとは信じられないことだ。もっとも、彼女は彼女の時代独持の気質を備えているのかもしれない。
ほどなく私たちは断崖に亀裂を発見した。上の台地から流れ落ちる水の作用で浸蝕され、大きくひろがっている。そこを伝わって頂上に登るのはかなり困難だったが、それでもついに後方の主要山脈まで数マイルにわたってひろがる平坦な地卓《メーサ》の上に出た。私たちの背後には茫洋とした内海が横たわっていた。水平線はなく、海ははるか沖合いで上向きの弧を描きながら青空に溶けこんでいるので、どう見ても海そのものが私たちの頭上で弓なりに折れ返って、ずっと向こうの山の彼方に没しているように見える。――ペルシダーの海は、とてもこの世のものとは思えない神秘的な様相を呈していて、筆舌に表わし難い。
右手には欝蒼《うっそう》とした森が控えていたが、左の方角には障害物のない広々とした土地が台地の果てに向かってつづいていた。目ざす方角はこっちだったので、私たちは再び先へ進むことにして踵《きびす》を返した。その時、ダイアンが私の腕に触れた。私は、彼女が仲直りを持ちかけようとしているのだと思ってふり向いたが、それは私の勘ちがいだった。
「ジュバルだわ」彼女は森の方に首を振ってみせた。
見ると、密林の中からものすごい大男が姿を現わしてこっちへやってくる。身長二メートルはあるにちがいない。そしてそれ相応に均斉のとれた体格をしている。だが、まだ遠すぎて容貌ははっきりしない。
「逃げたまえ」私はダイアンにいった。「きみが充分遠くへ行くまでやつを引きとめておく。たぶんきみが逃げ切ってしまうまで足止めすることができるだろう」そういって私は後も見ずにジュバルに向かっていった。ダイアンが一言《ひとこと》優しい言葉をかけていってくれたらと思った。彼女のために死地に赴くのだということは、わかっているはずだからだ。だが彼女は、さようならともいってくれなかった。私は沈痛な心を抱いて、花の吹き乱れる野を越えて死地に向かった。
容貌が識別できるほど近くまで来た時、ジュバルが「醜男《ぶおとこ》」という仇名をつけられた理由がのみこめた。明らかに、何か恐ろしい野獣が彼の顔面の片側をすっかりむしり去っていたのだ。目も鼻もなく、肉はことごとく剥《は》ぎ取られて顎と全部の歯が露出しており、その鬼気迫る傷跡を通してニタニタ笑っているような形相だ。
おそらく以前は、一族の他のものたちと同様、端麗で申し分のない容貌をしていたのだろう。この災難が招いた恐ろしい結果が、元来剛気で野蛮な性格をねじけさせたのかもしれない。それはとにかく、決して見よいものでないことは確かだ。それが、今またダイアンが他の男といるところを目撃して、怒りに顔を――というか、顔の残骸を――ゆがめた形相はまさしく鬼気迫るものがあった。――そして、対戦するのはそれにもまして恐ろしいことだった。
そのとき、すでに彼は駆け出していた。そしてこっちへ向かって来ながらものすごい槍を高々とかまえた。一方、私は立ち止って弓に矢をつがえ、できるだけ正確に狙い定めた。これにはいつもより長くかかった。というのは、白状するが、このものすごい男を見るだけで気遅れがして、膝がガクガクするほどだったからだ。獰猛きわまる穴熊ですら恐怖の対象とはならないこの剛胆な戦士と対戦して、どれほどの勝目があろう! サドクやダイリスを身一つで倒した男に勝てるのぞみがあるだろうか? だが率直にいって、私は自分自身の運命に関してよりも、ダイアンのために恐れていた。
巨大な怪人は、石の穂先のついた太い槍をはっしと投げた。私は楯をかまえて猛烈な勢いで飛んでくる槍を受けた。衝撃によろめいて膝をついたが、楯は飛んで来た槍をはねとばしたので私は無傷ですんだ。次にジュバルは残る唯一の武器――見るも恐ろしい短剣――を手に突進して来た。じっくりと射程をとるには接近しすぎているので、私は突進してくる相手に向かって狙いもつけずに矢を放った。矢は太腿の肉づきのよい個所を貫通し、痛烈な手傷を負わせたが、足がきかなくなるほどのものではなかった。と、敵は私に踊《おど》りかかった。
私は持ち前の敏捷さで、相手の振りあげた腕の下をかいくぐってその場を逃れた。方向を転じて再び私にとびかかろうとした時、彼は剣の切先が彼の顔にまともに向けられているのに気がついた。そしてその一瞬後には、この切先が短剣を振っている腕の筋肉を三、四センチ突き刺すのを感じて、それ以後はもっと慎重になった。
こうなっては戦法の問題だ――毛深い巨人は、なんとか私の防備の内ふところに突っこんでその途方もない腕力を駆使してやろうと虎視眈々《こしたんたん》としていたし、私は私で知力を傾倒して相手を腕の届く範囲内に入れまいとした。彼は三たび突っこんで来たが、私は三度とも短剣の切先を楯で受け流し、そのつど剣で相手の身体《からだ》に手傷を負わせた――そのうちの一撃は相手の肺をぐさりと貫いた。この頃には相手は血だるまになり、内出血からはげしい咳の発作を起こしていた。醜怪な口と鼻から真紅の血がどくどくと流れ出し、顔面も胸部も血の泡におおわれた。それは世にも凄絶な光景だったが、それでも彼は死ぬどころではなかった。
決闘がつづくうちに、私はしだいに自信を抱くようになった。憤怒と憎悪をこめて叩《たた》きつけられたあの恐ろしい武器の最初の一撃を切り抜けることができるとは思いもよらなかったのだ。ジュバルの方でも、これまで私を徹底的に軽蔑していたのが、しだいに畏敬《いけい》の念を抱くようになってきたのだと思う。そしてその素朴な心にも、おそらくついに自分をしのぐものに遭遇して最期を迎えることになるのだなという感慨が勃然《ぼつぜん》と湧き起こったのではなかろうか。
いずれにしても、私としてはこういう仮説に立脚しないかぎり彼が次に起こした行動がのみこめない。それは万策につきた最後の手段――いわば一種のはかないのぞみとでもいうべきもので、今すぐ私を倒さなければ、私に倒されることになるのだ、という信念から生まれた行動だ。彼が四度目に襲いかかってきた時のことだった。彼は短剣で切りつけるかわりに武器を捨て、両手で私の剣の刃を掴むと、まるで赤ん坊の手からもぎとるように楽々ともぎとった。
そしてそれをぽいと遠くへ投げ捨てると、一瞬の間、仁王立ちとなって身じろぎもせず私をにらみすえた。憎悪をこめて勝ちほこったようににらみつけるそのすさまじい形相に、私は今にもへなへなと挫《くじ》けそうになった――が、その瞬間彼は素手で襲いかかって来た。しかし、今日という今日はジュバルが新しい戦法を教えられる番だった。彼が弓矢を見たのは今日が最初だったし、この決闘まで剣というものを見たことがなかった。そして今また、戦闘の心得のあるものなら拳でどんなことができるかということを思い知ることになったのだ。
大熊のように彼は襲いかかってきた。私は彼が突き出した手の下をまたしてもひょいとかいくぐってかわし、態勢を整えるや相手の顎に痛烈なパンチを一発お見舞いした。山のような肉塊がどさりと地面に腹這った。虚をつかれ、呆然として彼は起き上ろうともせず数秒間その場に倒れていた。私はわきに立ちはだかり、彼が立ち上ったらまたしても一発ぶちこんでやろうと手ぐすねを引いて待ちかまえていた。
ついに彼は怒りと口惜しさに今にも吼《ほ》え立てんばかりの勢いで立ち上った。が、それも長つづきはしなかった――私が顎の先端にみごとなレフトを喰わせたので、彼はばったりと仰向けに倒れた。この時分にはジュバルも憎悪のために狂乱状態になっていたのだと思う。正気の人間ならこれほど何回も起きあがって立ち向かってこなかったろう。彼がよろよろと立ち上るたびに、私は間髪を入れず殴り倒した。しまいには地面に倒れている時間が長くなり、起きあがってくるたびにその前よりも刻々と弱っていた。
肺に受けた傷からの出血は、今やおびただしい量となっていた。やがて心臓めがけてぶちこんだ猛烈な一撃で彼はぐらりとよろめいてどうとばかりに地面に倒れ、そのまま動かなくなった。どういうわけか私には、醜男ジュバルが二度と再び立ち上ってこないだろうということがすぐにわかった。だがそこに小山のように横たわっている凄惨な死体を見ても、獰猛な野獣を次々と倒してきた男――石器時代の巨大な鬼を私が単身で打ち破ったとは信じられなかった。
私は剣を拾い上げ、その剣によりかかって敵の死体を見下した。そしていましがた戦って勝利を得た決闘を思い返しているうちに、すばらしい想念が脳裡に浮かんだ――この決闘の結果と、ペリーがプートラの都市で提案したことだ。もし技術と科学が、この巨大な獣人を制する力を比較的小さな人間に授けることができるのだとしたら、この獣人の仲間たちは同じ技術と科学でどんなことでも成し得るだろう。そうなったら全ペルシダーは彼らの意のままだ。そして私は彼らの王、ダイアンは女王になるのだ。
ダイアンだと! 疑念が小波《さざなみ》のように私の心に押し寄せた。たとえ私が王になったとしても、ダイアンが私を見下すおそれは多分にある。彼女ほどすぐれた人間に出会ったことがない――しかも彼女には、彼女がすぐれた人間だということを否応なしに相手に思い知らせる力がある。とにかく洞窟へ行ってみよう。そしてジュバルを倒したことを知らせてやろう。そうすれば私に対する気持を柔らげてくれるかもしれない。なんといっても私は彼女を苦しめる者の手から救ったのだから。彼女が容易にあの洞窟を発見していてくれればよいが――またしても彼女を見失うのはごめんだ。私はふり向いて楯と弓を拾い上げ、急遽彼女のあとを追おうとした。ところが驚いたことに、彼女は十歩と離れていない後に突っ立っているではないか。
「ダイアン!」私は叫んだ。「こんなところで何をしているんだ? ぼくがいった通りに洞窟へ行ったものとばかり思っていたのに」
彼女は頭をきっともたげた。彼女のまなざしを受けて、私の身体《からだ》中から威厳が抜け去り、さながら宮廷の小使かなんぞのような気持になった――もしも宮殿に小使がいるならの話だが。
「あなたがいったとおりに、ですって!」彼女は小さな片足をとんと踏み鳴らして叫んだ。
「あたしはあたしの好きなようにします。あたしは王の娘ですよ。それにあなたなんか嫌いです」
私は唖然《あぜん》とした――これがジュバルから救ってやったお礼だというのか! 私はふり向いて死体を眺めた。「ひょっとすると、おれはお前さんをもっとひどい運命から救ってやったのかもしれんな」私は死体に向かってそういったが、ダイアンには聞えなかったらしい。まるで気にもとめていないふうだった。
「ぼくの洞窟へ行こう。疲れたし、腹もすいた」
ダイアンは私の一歩後からついて来た。二人とも口をきかなかった。私はかんかんに立腹していたし、彼女は彼女で身分の卑しいものと言葉をかわそうとも思っていないことは明瞭だった。私は道々腹の立てっぱなしだった。せめて有難うの一言《ひとこと》くらい言って私をねぎらっても罰はあたるまい。彼女の尺度からいっても、私は一対一の決闘で恐るべきジュバルを倒すという壮挙をなしとげたのにちがいないのだから。
私のねぐらは難なく見つかった。私は谷間におりていって小さなカモシカをたおし、けわしい坂道を引きずって入口の後の岩棚に運んで来た。私たちはそこで黙々として食べた。彼女が野獣かなんぞのように手と歯を使って生肉を引き裂いている図を見たら、さぞかし百年の恋もさめはてるだろうと思って、私は時折彼女の方をちらちらと盗み見た。ところが驚いたことに、彼女は私の知り合いのもっとも洗練された女とおなじくらい品よく食べているではないか。しまいには、彼女の丈夫な白い歯の美しさに、愚かにもうっとりと見惚れる始末。恋とはこんなものだ。
食後、私たちは一緒に川におりていって手と顔を洗った。そして心ゆくまで水を飲むと洞窟に引き返した。私は一言も口をきかずに洞窟のいちばん奥にもぐりこみ、まるくなってすぐに眠ってしまった。
目をさますと、ダイアンは入口にすわって谷を眺めていた。私が奥から出てくると、彼女は私が通れるようにわきへのいたが、それでも口はきかなかった。彼女を嫌いになりたいと思ったが、だめだった。彼女を見るたびに、何かが咽喉《のど》にぐっとこみあげてきて今にも窒息しそうになる。これまで一度も恋をしたことはなかったが、誰の助けを借りなくても私のこの症状は診断できた――確かに私の症状は恋|患《わずら》いで、しかもかなりの重症なのだ。あの美人で、驕慢《きょうまん》で、人の心をかき立てる先史時代の女を私はどんなに愛していたことか!
もう一度食事をした後、私はダイアンに、もうジュバルは死んだのだから、一族のもとへ帰るつもりをしているのかどうかたずねた。だが彼女は悲しげに首を振って、帰ろうにも帰れないのだと答えた。まだジュバルの弟――いちばん上の弟――が控えていることを考慮しなくてはならないというのだ。
「それがどうしたんだ? そいつもきみのことを欲しがっているのか? それともきみを妻に選ぶのが家伝にでもなっていて、代々引き継がれることになっているのかい?」
彼女には私のいう意味がはっきりつかめなかった。
「ジュバルの死に対して一家全員が復讐しようとする可能性は充分にありますわ――みんなで七人います――七人の恐るべき男たち。もしもあたしが一族のもとへ帰るとしたら、誰かが七人を皆殺しにしてくれなくてはならないでしょう」
どうやら私にとっては荷のかちすぎる役目を引き受けたような恰好だった――事実、およそ七倍の役目だ。
「ジュバルにいとこはいるのかい?」私はたずねた。最悪の事態が考えられるとしたら、今ついでに聞いておくにこしたことはない。
「ええ、でも関係ありませんわ――みんな妻帯者ですから。ジュバルの弟たちは妻を持っていません。ジュバルが妻を得ることができなかったからです。彼があんまり醜いので、女たちはみな彼のもとから逃げ出しました――ジュバルの妻になるくらいなら、とアモズの断崖から『ダレル・アズ』に身を投げたものさえいるくらいです」
「でも、そのことと、彼の弟たちとどんな関係があるんだ?」
「あなたがペルシダーの人でないということを忘れていましたわ」とダイアンは哀れみと軽蔑の入りまじったまなざしでいった。彼女の軽蔑心は必要以上に手きびしいもののように感じられた。――まるでそれを私に無視させまいというふうな態度だった。
「いいですか」彼女は言葉をついだ。「弟は兄たち全員が妻帯するまで妻を迎えてはいけないことになっています。ただし、兄がその特権を放棄した場合は別です。でもジュバルはそうはしませんでした。弟たちを独身のままにしておけば、それだけ熱心に彼の妻を捜す手助けをしてくれるということを知っていたからですわ」
ダイアンがよくしゃべるようになってきたのに気がついて、少しは彼女の気持がほぐれてきたのかと希望を抱きはじめた。だが、どんなかぼそい糸に自分が希望をつないでいたか、私はすぐに思い知ったのだった。
「アモズに帰るに帰れないとしたら」と、私は思い切っていった。「きみはどうするんだ? そんなにぼくが嫌いなら、ここにいっしょにいても幸せとはいえないだろう?」
「あなたのことを我慢して暮さなくてはなりますまい」彼女は冷然と答えた。「頃合を見てあなたがどこかへ出て行ってあたしを一人気楽にさせて下さるまではね。そうなったらあたしは一人でちゃんと暮していきますわ」
私はあきれはてて彼女を見た。たとえ先史時代の女だろうと、こうまでも冷酷で恩知らずになれるとは信じ難いことのように思えた。そこで私は立ち上った。
「それなら|今すぐ《ヽヽヽ》出て行ってやる」私は高飛車《たかびしゃ》にいった。「きみの恩知らずと侮辱にはほとほと嫌気《いやけ》がさしていたところだ」そういっておいて私はくるりと背を向け、谷に向かって悠然《ゆうぜん》とした足取りで下って行った。しんと静まり返った中を百歩も進んだとき、ダイアンが叫んだ。
「あんたなんか嫌いよ!」それで彼女の声は途切れた――怒っているんだな、と私は思った。
私はこの上なくみじめだった。それでもさほど遠くまで行かないうちに、彼女を保護者もなしに一人きりであそこへ置き去りにはできない、未開世界の危険のまっただなかで食物を捜させるなど、とてもできない、と悟りはじめた。彼女はこれまでと同様、私を厭《いと》い、悪口雑言を浴びせ、いやが上にも私を侮辱するかもしれない。そしてついには私も彼女を嫌わざるを得なくなるだろう。だが、悲しいかな、彼女を愛しているという哀れむべき事実が残っていて、あそこへ彼女一人を置き去りにすることができないのだ。
考えれば考えるほど無性に腹が立ってきて、谷へ着く時分にはかんかんになっていた。そのあげく、私はくるりと踵《きびす》を返し、おりて来たときと同じようにまっしぐらに断崖を登って行った。ダイアンはもう岩棚にはおらず、洞窟の中へはいったあとだったが、そのあとを追ってすぐさま中へ駆けこんだ。彼女は、私が寝床にと積み上げてやった草の上にうつ伏せに横たわっていた。私がはいって来たのを聞きつけると、彼女は雌虎のようにさっと立ち上った。
「あなたなんか嫌い!」彼女は叫んだ。
まばゆい白昼の太陽のもとから、薄暗い洞窟の中へ飛びこんだので彼女の表情は見えない。だが彼女の表情から憎悪を読み取ることを思うとぞっとしなかったから、かえってその方が幸いだった。
最初、私は一言《ひとこと》も口をきかなかった。ただ洞窟の中を大股に突っ切って行って、彼女の左右の手首をつかんだ。もがくので、彼女の両腕をぴったり脇に押さえつけるようにして片腕で抱きすくめた。彼女は雌虎のように反抗したが、私はあいている方の手で彼女の頭をぐいと仰向けにそらせた――私は突如として野獣に変身したらしい。十億年を逆行して女を力ずくでわがものにする正真正銘の穴居人に逆戻りしたのだ――そして美しい口もとになんどもなんども口づけをした。
「ダイアン」私は荒々しく彼女をゆさぶりながら叫んだ。「きみを愛しているんだ。きみにはわからないのか? この世界の、そしてぼくの世界の何ものにもましてきみを愛しているのだ。きみはぼくのものになるんだ。ぼくのような男の愛は拒絶することができないのだ!」
ふと、彼女が私の腕の中でひどくおとなしくしているのに気がついた。目が光に馴れてくるにつれて、彼女が微笑しているのがわかった――満足しきった、幸せそうな微笑だった。私はすっかり面喰《めんくら》った。やがて彼女がそっと自分の腕をほどこうとしているのに気がついて、私は握っていた手をゆるめた。彼女はゆっくりと腕を上げて私の首筋に巻きつけ、それから再び私の唇を自分の唇に引き寄せて長い間押しつけていた。やがて彼女はいった。
「どうして最初にこうして下さらなかったの、デヴィッド? ずいぶん長い間待っていましたのよ」
「なんだって」私は叫んだ。「きみはぼくが嫌いだといったじゃないか!」
「あなたが私を愛しているかどうかもわからない先から、あなたの腕に飛びこんで行ってあなたを愛していますというとでも思ってらしたの?」
「でもぼくはきみを愛しているといいつづけてきたじゃないか」
「愛は行動で示すもの。口ではいいたい放題のことがいえますわ。でも今、あなたがいらしてあたしを抱きしめて下さったとき、あなたの心は女心に通じる言葉で私の心に語りかけていました。デヴィッド、あなたはなんておばかさんなんでしょう」
「それじゃ、きみはぼくを嫌ってなんかいなかったんだね、ダイアン?」
「あたしはずっとあなたを愛していましたわ」彼女はささやいた。「初めてお目にかかった時から。といっても、あなたが狡猾な男フージャをなぐって、それからあたしを拒絶なさるまでは気がついていませんでした」
「でも、あれはきみを拒絶したんじゃないんだ」私は叫んだ。「きみたちの習慣がわからなかったんだよ――今でもわかってるかどうかあやしいものだが。あれほどぼくのことを悪《あ》しざまにいいながら、一方ではぼくを愛していてくれたなんて信じられないような気がする」
「あたしはあなたのもとを去りませんでしたね。あたしをあなたにつないでいるものが憎悪ではなかったということが、その時にわかって頂けたはずですわ。あなたがジュバルと戦っていた時、あたしは森のはずれまで逃げることだってできましたし、あの決闘の結果がわかった時にあなたをまいて一族のもとへ帰るのは簡単なことだったでしょう」
「でもジュバルの弟たちや、いとこたちのことは――」私は念のためにたずねてみた。「あれはどうなんだ?」
彼女はにっこり笑って私の肩に顔をふせた。
「|何か《ヽヽ》いわなきゃならなかったんですもの」彼女はささやいた。「あなたのそばにいる口実が必要だったんですわ」
「いけない人だね、きみは!」私は叫んだ。「それじゃきみは、なんのいわれもなく、さんざんぼくを苦しめてきたんだな!」
「あたしの苦しみはそれ以上でしたわ」彼女はあっさりと答えた。「あなたは愛して下さらないのだと思っていたし、あたしの方からどうしようもなかったんですもの。今あなたがあたしのもとに来て下さったように、あたしの方からあなたのところへ行って、あたしの愛に答えて下さいと要求するわけにはいかなかったのです。さっきあなたが行っておしまいになった時、あなたとともに、希望も去ってしまいました。あたしは不幸で、恐ろしくて、みじめで胸が張り裂けそうでした。そしてあたしは泣きました。母が死んだ時以来、泣いたことがなかったのに」
見ると彼女の目に涙がにじんでいる。この哀れな娘の来《こ》し方《かた》を思いやって、私も思わず貰い泣きするところだった。母もなく保護者もなしに、この娘は野蛮な原始世界の山野や密林に棲息する無数の恐ろしい居住者たちの攻撃にさらされながら、あの醜怪な獣人に追い回されていたのだ――とにかく今日まで生きのびて来たということ自体が奇跡だ。
地球上の人類が生きつづけるために、大昔の祖先が耐えなくてはならなかったさまざまな事態を私はあらためて思い知ったのだった。こういう女の愛を勝ち得たと思うと鼻が高かった。むろん彼女は読み書きはできないし、あなたがたのいわゆる教養とか洗練とかいった尺度からいえば、彼女には教養もなく洗練されたところもみじんもない。だが彼女は善良で、勇敢で、高貴で、貞淑で、つまり女の持ついっさいの美徳の権化《ごんげ》なのだ。こういった美徳を守りとおすには、苦難と危険と死の可能性がたえずつきまとうのが実情だが、それにもかかわらず、彼女はこれらいっさいをそなえていた。
最初からジュバルのものになっていたらどんなに楽だったことか! 彼女はジュバルの合法的な妻になっていただろうし、自分の国では女王になっていたろう――穴居人の女が石器時代に女王になるということは、現代の女が今の時代の女王になるのと同じだけ重要な意味を持っている。どんな観点から見ようと、名誉とは比較的なものだ。こんにち、地球上に半裸の野蛮人だけが住んでいるとしたら、ダホーミイの酋長の妻になるということは大した名誉だと人は思うだろう。
私は、ダイアンの行為を私の知っているニューヨークのある素敵な若い御婦人のそれと比較しないではいられなかった――ここで「すてき」というのは、見た目によし、話相手によしということだが。彼女は私の親友――さっぱりした男らしいやつ――にぞっこん惚れていたのに、くたびれきった、悪名高い老いぼれ遊蕩児と結婚してしまった。それというのも、その男が地図にも色わけしてないようなヨーロッパのちっぽけな公国の伯爵だったからだ。
それにつけても私はダイアンのことが誇りに思えてならなかった。
その後しばらくして、私たちはサリに向けて出発することに決めた。私はペリーに会いたくてたまらなかった。彼の身辺が万事うまくいっているかどうかぜひとも知りたかった。ダイアンに、ペルシダーの人類を解放する計画について語ってきかせたところ、彼女はすっかり夢中になってしまった。兄のダコールが帰還さえすれば、容易にアモズの王になることができるし、彼が王になればガークと同盟を結ぶこともできる、と彼女はいった。そうなったら快調なスタートがきれるというものだ。というのは、サリもアモズも強力な部族だからで、いったん彼らが剣と弓矢で武装して、その使用法について訓練を受けたら、マハール襲撃計画を実行に移す大連合軍に参加することをしぶる部族を、かたっぱしから傘下《さんか》に収めていくことができるという自信があった。
私は、破壊力を持つ種々の兵器について説明した――火薬、ライフル、大砲等々、ちょっとした実験をすませたらペリーと二人で作ることができる。ダイアンは手を打って喜び、私の首に抱きついて、あなたってなんてすてきな人なんでしょうといったものだ。まだ話をしただけで実際には何もしていないのに、彼女はもう私のことを全能者だと考えるようになっていた――だが、それが恋する女の常だ。もしも妻や母親の考えている十分の一も優秀だったら、その男は世界を思いのままに動かすことができるだろう、とペリーはよくいっていたものだ。
サリに向かって最初に出発した際、私は谷へ着く前に毒蛇の巣に踏みこんでしまい、小ちゃなやつに踵を噛まれた。ダイアンは私を洞窟へ引き返させた。そしてもしかすると命取りになるかもしれないから動いてはいけないといった――彼女の話では、もしも私を噛んだやつが成長した蛇だったら、巣から一歩と離れられなかっただろうということだ――猛毒だから、その場で命を落すところだったのだ。そうでなくても私はかなりの期間引きこもっていなくてはならなかったにちがいない。しかしダイアンが薬草や葉で湿布をしてくれたので、やがて腫《は》れも引き、毒気も取れた。
この出来事は、結果的に見て非常に僥倖《ぎょうこう》だった。というのも、この出来事のおかげで、攻防の飛び道具としての私の矢に、千倍の威力を加えるアイデアが浮かんだのだ。動きまわれるようになると、ただちに私を噛んだのと同種の蛇の成長したやつを捜し出し、殺しておいてそいつの毒液を抽出し、数本の矢先に塗りつけた。のちにこの矢の一本でヒエノドンを射たところ、矢は擦過傷を負わせただけなのに、ヒエノドンはほとんど即座にころりと死んでしまった。
さて、私たちはあらためてサリ族の国へと旅立った。二人のうるわしのエデンの園に、私たちはしみじみとした哀惜の想いをこめて別れを告げた。比較的平和で安定したこの楽園で、私たちの生涯のもっとも幸せな一時《ひととき》を過したのだった。それがどれだけの期間だったかはわからない。いつもいったように、あの永遠の真昼の太陽のもとでは、私にとって時間は存在しなくなってしまったからだ――地上世界の時間でいえば、一時間だったかもしれないし、一カ月だったのかもしれない。私にはわからない。
十五 再び地上へ
私たちは河を渡り、向こう岸の山を越えて、やがて見渡すかぎりにつづく大平原に出た。どの方向につづいているのかとたずねられても答えようがない。ペルシダーに滞在中、方角を示す方法としてはこの土地独特の方法以外にはついにわからずじまいだった――東西南北はない。はっきりと明示することのできるのは上《ヽ》くらいのものだ。むろんそれとて地上世界の人々にとっては下《ヽ》なのだ。太陽は昇ることも沈むこともないので、高い山、森、湖、海といった目に見える目標以外に方角の示しようがない。
この平原の位置をペルシダー人が説明するとしたら、「雲の山々」にもっとも近い岸辺に打ち寄せる『ダレル・アズ』の側面にそびえる白い断崖を越えたところにある、というのがせいぜいだから、『ダレル・アズ』とか、白い断崖とか、『雲の山々』とかいった場所のことを耳にしたことのない人は、何か頼りないような気がして、地上世界の北東とか、南西とかいった昔ながらのわかりやすい呼称をひとしきり恋しく思うだろう。
大平原にはいるかはいらないかに、私たちは二頭の巨大な動物がはるか彼方から接近してくるのを発見した。あんまり離れているのでどんなけものなのか識別できなかったが、近づいてくるにしたがってそれらが体長二、三十メートルもある巨大な四足動物だということがわかった。おそろしく長い首のてっぺんに小さな頭がちょいとのっかっている。地面から頭までゆうに十二、三メートルはあるにちがいない。けものはひどくゆっくり動いている――つまり動作が緩慢なのだが、それでも歩幅がとてつもなく大きいので、実際には人間が歩くよりずっと早く進んでいた。
彼らがさらに近づいた時、それぞれの背に人間が一人ずつ乗っているのが見えた。これでダイアンには彼らの正体がわかった。もっとも彼女はこれまでこのけものを見たことがなかったのだが。
「あれはスリア族の国から来たリディだわ」彼女は叫んだ。「スリアは『恐ろしい影の国』のはずれにあって、ペルシダーのあらゆる種族の中でスリア族だけがリディに乗るのですよ。リディはあの暗闇の国の隣接地帯以外にはいないのです」
「『恐ろしい影の国』って?」
「『死の世界』の下に横たわる国のことですわ。『死の世界』は、『恐ろしい影の国』の上、太陽とペルシダーの中間に浮かんでいて、ペルシダーのこの地域に大きな影を投げかけているのです」
私には彼女のいう意味がすっかりのみこめなかったし、いまだにわかったとはいい切れない。というのも、その『死の世界』が見える地域へは一度も行かなかったからだ。しかしペリーにいわせると、それはペルシダーの月――惑星の内部の小惑星――で、地軸にあって地球と同時に公転しているのだそうで、そのために常時ペルシダーの同一地点の上に存在するのだそうだ。『死の世界』のことを話した時、ペリーがひどく興奮したことをおぼえている。どうやら彼は、従来説明のつかなかった章動現象や歳差運動がこれで明らかになると考えたらしい。
リディに乗った二人がずっと近づいたとき、一人は男で、いま一人は女だということがわかった。男は平和のしるしとして掌《てのひら》を私たちの方に向けて両手を上げた。私も同じようにしてこれに答えた。と、その時突然男は驚きと喜びの声をあげた。そして巨大な動物の背からすべり下りると、ダイアンに駆け寄って両腕に抱きしめた。
一瞬私は嫉妬にかられて蒼白になったが、それもつかの間のことだった。ダイアンが急いでその男を私の方に近づけ、これはデヴィッドで、自分の夫だとその男に告げたからだ。
「これは私の兄、強者《つわもの》ダコールですよ、デヴィッド」彼女は私にいった。
女はダコールの妻と見受けられた。サリ族の中に気に入った女がなく、スリアの国へ到達するまでの間にも見つけることができなかったダコールは、ついにスリアでこの美貌のスリア人の少女を見|初《そ》め、戦い取って彼の一族のもとへ連れ帰るところだった。
私たちの話と計画を聞くと、彼らはサリまで私たちと同道することに決めた。同盟を結ぶということに関してダコールとガークの間で協定が成立するかもしれないというわけだ。というのは、ダイアンや私と同様、ダコールもマハールやサゴスを絶滅する計画に非常に熱意を抱いていたからだ。
ペルシダーにしてはひどく平穏な旅をつづけたのち、私たち一行は白堊質の大断崖に掘鑿《くっさく》した百から二百の洞窟からなるサリ族の最初の部落に到着した。ここでペリーとガークを二人とも発見した私たちは大喜びした。じいさんは、私がとっくの昔に死んでしまったものとあきらめていたので、私を見て気もそぞろだった。
ダイアンを妻として紹介した時、彼はなんといったらよいのか言葉に迷った。だがあとになってこんなことをいった――二つの世界から選《よ》り取り見取りで選んだとしても、これほどいい嫁御はおまえさんにゃ見つからなかったろうよ。
ガークとダコールの間では非常に友好的に話合いがつき、サリの個々の部族の族長が集って開かれた会議では、統治機関の最終的な形体が漸定的に承認された。簡単に説明すると、個々の王国はひきつづき実質上の独立を保つのだが、その上に大君主、ないしは皇帝を一人置くこととなった。そして、私はペルシダー王朝の初代の皇帝と決定された。
私たちはまず女たちに弓矢や毒を入れる袋の作り方を教えることから始めた。若者たちは毒液を出す毒蛇を捜し歩いた。鉄鉱を採掘し、ペリーの指導のもとに剣を作ったのも彼らだった。
この熱は部族間に次々と急速に波及し、ついにはサリ人も聞いたことがないような遠い国から代表者がやって来て、私たちの要求通り同盟に加入する宣誓をして新兵器の作り方と使用法を学ぶほどになった。
私たちは若者を同盟諸国に指導員として派遣した。そしてこの運動は、マハールが発見する前に厖大な規模に成長していた。マハールが最初このことに勘づいたのは、彼らの派遣した奴隷狩りの大部隊が、やつぎばやに三隊までも全滅させられたときだった。彼らには、下等動物が突如として実に恐るべき力を身につけたということが理解できなかった。
奴隷狩り部隊との小競《こぜ》り合いはたびたびあったが、あるとき、サリ族は大勢のサゴスを捕虜にした。その中に、私たちがプートラにいたときに拘留されていた建物で衛兵をしていた二人がまじっていた。建物の地下室で起きた事件を発見したとき、マハールは憤怒のために狂乱状態になった、と彼らは語った。主人の身の上に何か非常に恐ろしいことが起きたのだということはサゴスたちにもわかった。しかしマハールは、彼らがこうむった致命的な災難の真の内容がいささかでも外部へ洩れないよう細心の注意を払った。マハール一族が消滅するにはどれくらいの時間がかかるか推測もつかなかったが、彼らが最終的に消滅するということは避け難いように見えた。
マハールは、私たちを生け捕《ど》ってきたものに対して法外な懸賞を積むと同時に、誰でも私たちに危害を加えるものには、むごい刑罰を科すると脅かした。マハールの意図は歴然としていたが、サゴスどもにはこの一見矛盾した命令が理解できなかった。マハールはあの「偉大な秘密」をほしがっていたのだ。そしてその「秘密」を彼らにもたらすことができるのは私たちだけだということを知っていた。
弾薬製造とライフルの製作に関するペリーの実験は、私たちが望んでいたようにはすらすら運ばなかった――この二つの技術に関してはペリーの知らないことがずいぶんあったのだ。これらの問題を解決することによってペルシダーの文明が一挙に何千年も前進するのだと私たち二人は確信していた。そのほかにも私たちが紹介したいさまざまな技術や科学があった。機械的な詳細さえわかれば、それらに営利的ないしは実用的な価値が生じるのだが、われわれ二人の知識はそこまで及ばなかった。
またもや弾薬製造に失敗して火もつかない弾薬ができてしまった直後、ペリーはいった。
「デヴィッド、われわれ二人のうち一人が地上世界へ帰って、欠けている資料を持ち帰らなくてはなるまい。ここには地上世界で製作されたものならどんなものでも再現できるだけの労働力と材料がある――知識が欠けているだけだ。帰ってその知識を仕入れてくるんだ。つまり、本を持って帰ってくるんだな。そうすればこの世界はわれわれのものになるだろう」
というわけで、私が試掘機に乗って地上へ帰ることになった。試掘機は、この地底世界へ最初にやって来たあの森林のはずれにそのまま横たわっていた。ダイアンは、私の出発計画にはことごとく不賛成だった。自分もいっしょに行くのでなくてはいやだというのだ。彼女が同行したいというのを私はうれしく思った。私の世界を見せたいということもあったし、私の世界の人々に彼女を見てもらいたかったからだ。
私たちは多数の男たちからなる一隊をひきいて、「鉄製もぐら」めざして行進した。ペリーはそいつを簡単に吊り上げて、機首を外の世界に向けた。そして機械装置をくまなく丹念に点検した。空気《エア》タンクを補充し、エンジン・オイルを製造した。ついに準備万端整って、いざ出発という時、それまで長い列を作って私たちのキャンプの周囲を取り巻いていた警備隊から、サゴスとマハールらしい大軍がプートラの方角から接近してくるという報告がはいった。
ダイアンと私はまさに出発しようとしていた。だが私は、敵対するペルシダーの二種族の大軍同士がはじめて対戦するところを見たかった。この戦いは、この地底世界を賭けた大戦争の歴史的な発端となるだろう。ペルシダーの初代皇帝として、この重大な戦闘の渦中に身をおくことが私の義務であり、また同時に権利でもあるのだ。
敵軍が接近するにしたがって、サゴスの兵士にまじってマハールも大勢いることがわかった――これを見ても、主権を握る種族がいかにこの戦闘を重要視しているかがうかがえる。というのも、マハールがサゴスの奴隷狩りに積極的に参加することはまれだったからだ――彼らが下等動物に戦いをしかけるのは奴隷狩りの折だけだった。
ガークもダコールも私たちとともにいた。二人とも試掘機を見学するのがそもそもの目的で来ていたのだが、私はガークと彼の部下のサリ族の一部を戦線の右翼に配置した。ダコールが左翼を固め、私は中央の指揮にあたった。われわれの背後には、ガークの首脳の一人を指揮官とする充分な手勢の予備隊を配置した。サゴスの軍勢はものすごい槍を手に、着々と進撃して来た。私は矢の射程距離に充分はいりきるまで敵を前進させ、それから発射を命じた。
毒矢の最初の一斉射撃を浴びてゴリラ人間の最前列がどっと大地に倒れた。だがその背後にひかえていた連中が、味方の死骸を乗り越えて槍をふりかざして狂ったように猛然と突撃して来た。二度目の一斉射撃が一瞬敵を喰いとめた。すかさず私の予備隊は、剣と槍で敵と交戦すべく第一線の射手の間を縫って飛び出した。
サゴスのお粗末な槍は、サリ人やアモズ人の剣の敵ではなかった。サリ人やアモズ人は突きかかる槍を楯で受け流し、軽量で使いやすい武器を手にサゴスのふところに飛びこんで行った。
ガークは部下の射手を敵の側面にまわらせ、味方の剣士が前方で交戦している間に敵の無防備な左翼に次々と矢を射込んだ。マハールは、ほとんど戦いらしい戦いもせずに、かえって戦闘の邪魔になっていたが、それでも時にはサリ人の腕や足に強力な顎で喰いつくものもあった。
戦闘はそれほど長くはつづかなかった。というのはダコールと私が抜き身をかざし部下をひきいてサゴスの右側面に回った頃には、敵はすでに戦意を喪失していて、くるりと背を向けざまにほうほうのていで逃げ去ったからだ。われわれはしばらくの間追撃した。そして捕虜多数を捉え、百人近い奴隷を取り返したが、なんとその中には狡猾な男フージャがまじっていた。
彼は故郷へ帰る途中で捉えられたのだが、マハールは、彼から「偉大な秘密」の所在を聞き出せるだろうということで、生命を助けてくれたという。だがそれよりも私とガークは、ペリーの手もとにその書物があるだろうと見当をつけたフージャがこの遠征隊をサリの国へ導いて来たのだと考えたが、証拠がないので、彼を好むものがいないにもかかわらず彼を引き取って同志の一人として扱った。私のこのような寛大な処置に対して、彼がどんな返礼をしたか、まもなくおわかりになるだろう。
捕虜の中にはマハールが大勢いた。味方の人々は彼らを非常に恐れ、皮で全身をおおってこの爬虫類から身を隠した上でないと近づこうとはしなかった。ダイアンまでが、マハールの怒りの目にさらされると恐ろしいことが起るという巷間《こうかん》の迷信を信じていた。私は彼女の恐怖心を笑ったものの、少しでも彼女の気休めになるのならと、進んで彼女に調子を合わせた。そんなわけで彼女は試掘機から離れて坐っていた。試掘機のすぐそばにはマハールが鎖でつながれていたからだ。一方、ペリーと私は機械の各部をくまなく再点検した。
ついに私は操縦席についた。そして外にいる男の一人にダイアンを呼んで来てくれと命じた。たまたま昇降口のすぐ近くにフージャがいた。だから彼女を連れていったのはフージャだったのだが、私はこのことを知らなかった。しかし、他に誰かが悪だくみに加担していて彼に手を貸したのでもないかぎり、いったいどうやってあの悪魔のような行為をやってのけることができたのか、私にはわからないし、また信じられない。というのも、私の部下はそろって私に忠実だったし、かりにフージャが他の誰かに相談する時間があったとしても、あのような非情な計画を打ち明けようものなら彼らはたちどころにフージャを殺してしまったろう。万事があんまり手っ取り早く運んだので、彼が突如としてそういった衝動にかられたところへ、ちょうど周囲の状況が彼にとっては好都合に働いたとしか信じようがない。
私にわかっていることといえば、洞窟に住む巨大なライオンの皮を頭のてっぺんから足の先まですっぽりかぶったダイアンを試掘機へ連れてきたのがフージャだったということだけだ。彼女は、マハールの捕虜が陣中に連れてこられて以来、ずっとその皮をかぶったままだった。フージャはかついできたものを私のかたわらの座席に下した。出発準備は完了していた。別れの挨拶も交したあとだった。ペリーは最後に私の手を握りしめ、長い間別れを惜しんだ。私は外側と内側の扉を閉めて、閂《かんぬき》で閉ざした。そして再び操縦装置の座席につき、発進レバーを引いた。
鉄製の怪物を試運転したあのずっと以前の夜と同じように、下からものすごい唸りが起った――巨大な骨組がビリビリと振動する――ビュッ、ビュッと音がして、ばらばらになった土くれが内側と外側の筒《ジャケット》の間の空気をすっ飛んで、私たちが通過したあとにどんどん堆積されていく。試掘機は再び発進したのだ。
だが出発した瞬間、試掘機はいきなりぐらぐらと揺れて私はあやうく座席から投げ出されそうになった。最初は何ごとが起きたのかわからなかったが、やがてしだいにわかりはじめた。地殻に突入する直前に試掘機の巨体が、それまで試掘機をささえていた足場からはずれて、地面に垂直にはいらずにちがった角度から没入してしまったのだ。そのままの進路で行けは、地上のどの地点に出られるのか見当もつかなかった。私はこの特異な体験をダイアンがどう感じたか気になってふり向いた。彼女はまだ大きな皮をかぶったまま坐っていた。
「さあ、さあ」と、私は笑いながら大声でいった。「殻から出ておいで。マハールの目はここまで届かないよ」そして身体をのり出してライオンの皮を剥ぎ取った私は、次の瞬間あまりのことにぞっとして座席に身をすくめた。
皮の中にいたのはダイアンではなく、醜怪なマハールだったのだ。私は即座にフージャの仕組んだ奸計《かんけい》とその目的を悟った。私を永久に葬れば、ダイアンは思いのままになると彼は考えたに相違ない。私は試掘機をペルシダーに向けてもどそうと必死になって舵輪と取っくんだ。だがあの時と同様、舵輪は髪一筋ほども動かせなかった。
あの旅路の恐怖感や単調さは詳述するまでもない。それは、私たちを地上世界から地底世界へと運んだあの最初の旅と、ほとんど変りなかった。地面に突入した角度のせいで、旅程は大方一日長くかかったし、念願の合衆国ではなく、このサハラ砂漠に出て来てしまったのだ。
私はここで何カ月もの間、白人がくるのを待っていた。見失ってしまうかもしれないという不安から、あえてこの試掘機を離れなかった――砂漠の流砂はすぐに試掘機をおおいつくすだろう。そうなったら、いとしいダイアンと、彼女のペルシダーに帰る望みは永遠に消え失せるのだ。
彼女に再会することは、ほとんど不可能だという気がする。引き返すとしてもペルシダーのどの地点に到着するかわからないからだ。――東西南北のないあの広大な世界をどのように旅して、別れてきた愛するひとが私を想い、悲嘆にくれて横たわっている小さな一点にたどりつくことができよう?
* * *
これが、あの大サハラ砂漠の辺境の羊皮のテントの中で、デヴィッド・イネスが私に語ってくれた物語である。翌日、彼は試掘機を見に連れていってくれた――それは彼の説明と寸分ちがわなかった。あまりにも巨大なものだったから、この地方の輸送機関ではこんなに辺鄙《へんぴ》な場所へ運んでくることはできなかったはずだ。デヴィッド・イネスがいったように、地底世界ペルシダーから地殻を突破してここへやって来たとしか考えられない。
私は彼とともに一週間過し、それからライオン狩りを中止してすぐに沿岸に引き返してロンドンへと急いだ。ロンドンでは、彼がペルシダーへ帰る折に持って行きたいと考えている物品を、たくさん買った。書籍、ライフル、回転銃《リヴォルヴァ》、弾薬、キャメラ、化学薬品、電話、電信用器具、電線、工具などで、そのほかにも、地球上のありとあらゆることに関する図書多数があった。彼は、石器時代に二十世紀の不思議を再現できる図書館がほしいといっていた。数さえそろえればそれでいいというものでもなかろうが、とにかく私は彼のために大量の図書を買いこんだ。
私はこれらの物品を自らアルジェリアまで運んで来て鉄道の終点まで行った。だが重要な仕事のために、そこからアメリカへ呼び戻された。しかしながら、運搬隊《キャラヴァン》の指揮者として、信用のおける男を雇うことができた。この前サハラに向かう旅に私と同道したガイドだ。私は、イネスに宛てて長文の手紙をしたため、その中に私のアメリカにおける住所を記した。それから隊が南に向かうのを見送った。
そのほかイネスに送ったものの中に、全長八百キロメートル以上もある非常に細い二重の絶縁線があった。彼の提案でその電線は特殊なリールに巻きつけてあった。出発前にこの地上に一方の端を固定しておき、試掘機の後部から電線をほどいていって、内外の世界の間に電信用の電線を引こうというのが彼のアイデアだったのだ。私は彼に宛てた手紙の中で、出発前に会えない場合には電線の端がはっきりとわかるような石塔《ケルン》を高く積み上げて目印とすることを忘れないようにとしるしておいた。そうしておけば、幸い彼がペルシダーに到着できた暁《あかつき》には、電線の端は容易に見つかって彼と通話ができるだろう。
アメリカへ帰ってのち、彼から数通の手紙を受け取った――事実、彼は北へ向かう隊商《キャラヴァン》に出会うたびになんらかの便りをことづけた。最後の手紙は、出発予定日の前日に書かれたものだった。それはこうだ。
親愛なる友よ
明日、私はペルシダーとダイアンを求めて出発します。もしアラビア人が私を捉えなければの話ですが。彼らは最近非常に悪辣《あくらつ》になってきています。原因は不明ですが、彼らは二度までも私の生命を脅かしました。他のアラビア人よりは友好的な一人のアラビア人が知らせてくれたことによると、彼らは今夜攻撃をかけてくるそうです。今にも出発しようという時になってそのような事態が発生するとは、まことに不運といわざるを得ません。
しかし私にとってはどちらでも同じことなのかもしれません。というのは、出発の時が迫るにつれて、成功の見込みがしだいに薄れていくような気がするのです。
今ここに、その友好的なアラビア人が来ていて、この手紙を北へ持っていってくれることになっています。では、さようなら、数々のご親切に対し、神のお恵みがありますように。
アラビア人は、急いでくれといっています。南方に砂塵《さじん》が舞い上るのが見えるというのです――私を殺すためにこっちへ向かっている一隊だと彼は思っているのです。私と一緒にいるところを見られたくないというわけです。それではもう一度、さようなら。
デヴィッド・イネス
一年後、私は今一度イネスと別れた場所を求めて鉄道の終点にやって来た。例のガイドが、私がここへくる二、三週間前に死んだと聞いて、まずがっかりした。その上前回の一隊の隊員であの場所に私を案内することができる者を一人も捜し出すことができなかった。
何カ月もの間、あの灼熱の砂漠を捜し歩き、イネスとあのすばらしい「鉄製もぐら」にかんして聞いたことのある者をなんとかたずねることはできないものかと、数え切れないほど多くの族長《シーク》たちと会見した。目もくらむような不毛の砂地に絶えず目をこらして、ペルシダーに通じる電線がその下にあるはずの石塔《ケルン》を捜し求めた――が、いつも不成功に終わった。
そしてデヴィッド・イネスと彼の不思議な冒険について考えるとき、このように恐ろしい疑問の数々がいつも私を悩ますのだ。
やはりアラビア人は、出発前夜に彼を殺してしまったのだろうか? それとも彼は地底世界に再びあの鉄製の怪物の機首を向けて出発したのだろうか? 彼はペルシダーに到着しただろうか? それとも大地殻のどこかに深く埋もれてしまっているのだろうか? かりに再びペルシダーに到着したとして、ペルシダーの広い内海の底へ出たのではなかろうか? もしかすると、彼の魂が求める土地からはるかに離れた野蛮人の住む土地に出たのではないだろうか?
答は、広大なサハラ砂漠のふところのどこか、失われた石塔《ケルン》の下に隠された二本の細い電線の端に秘められているのだろうか?
私にはわからない。(完)
解説 地球空洞説の系譜
エドガー・ライス・バロウズの手になるシリーズもののうちで、もっともよく知られているのはなんといっても〈ターザン〉、その次が〈火星シリーズ〉、そしてその次がこの〈ペルシダー〉ということになるだろうか。
本来ならば、ここでERB≪エドガー・ライス・バロウズ≫の略歴や作品目録から入るのが筋だろうが、そいつは逆にさきへ送ることにしようと思う。
地球が実はガラン洞の球体で、その中心部には太陽がもうひとつあって球体の殻の内側――つまるところ饅頭の皮の|裏の表面《ヽヽヽヽ》にももうひとつの世界があるという〈ペルシダー〉の基本設定は、非常にユニークなものに思えるけれど、よく調べてみるとかなり古くからそのアイデアは存在していたようである。
考えてみれば、それも至極当然のことだと言えるだろう。たとえば洞穴である。山の中腹かなにかにぽっかりと大きな洞穴があったとする。黒々と深くつづく洞穴――ひょっとするとこの中の深いところに誰か住んでいるかもしれない……。人々は当然そんなことを想像するだろうし、そうなれば――その住人は暗闇の中でどんな生活をしているのだろうか? という疑問に当然つながるだろうし、それをジュール・ヴェルヌの〈地底旅行〉のように特殊な発光物質のために地底世界も明るいのだ――という風に解決するか、さもなくばコウモリみたいに闇の中でも眼が見えるとするか、もしそうでなければ地底にはもうひとつ太陽があって――ということになってくるのはしごく自然のなり行きだろう。それに地震だとか噴火などという自然現象が、地底にはなにかが――という人間の想像をかき立てるのに大いに役立っていることは、わが国の鯰《なまず》、ヨーロッパのノーム(地底に住む小人の妖精)などを引き合いに出すまでもないが、専門の学者の間でさえ、この地球空洞説がとなえられてからすでに三百年近くもたっているのである。
たとえば、ハレー彗星でその名を知られているイギリスの天文学者エドマンド・ハレーは一六九二年に地球空洞説を発表している。ニュートンと親交のあった彼はその万有引力の法則を天体の軌道計算に応用して、いわゆる周期彗星の存在を発見したのだが、その観測作業の最中にぶつかったオーロラが、実は地磁気と関係があるのではないかという仮説を立てて研究をすすめるうちに、その地磁気の微妙な変化を地球の空洞説によって説明しようと試みたのである。磁石の針というものが南北を指すその角度は、時々刻々、そして場所によって、きわめてわずかながら変化するのは、地殻というものが実は三重になっていて――ボールの中にもうひとつさらにその中にもうひとつボールが入っているようなもので――その三つの皮の自転速度がそれぞれ違うためなのだというわけである。そして三つ目の皮の内部には高熱を発する物質、つまり太陽があるのだが、これは三枚の皮で包まれているため、表側《ヽヽ》からはまったく見ることができないのだ……。
八十年後の一七七〇年頃にはスコットランドの物理学者のJ・レスリーという人が新説を発表した。彼によると皮は一枚だけだが、内部には太陽が二つ、いわゆる連星の形になっているという……。さらにおなじ頃、例の〈オイラーの定理〉で有名なスイスの数学者レオナルド・オイラーも似たような――ただし太陽は一個――説を出している。しかし、この二人がどんな根拠からこれを考えついたのかはよくわからない。
十九世紀に入ると今度はアメリカでこの説をとなえる男があらわれた。実はこのあたりから少々おかしくなってくるのだが、そもそもこのての話はおかしくなければつまらない。気宇壮大な気分にしてくれればしてくれるほどうれしいわけであるが、この説を発表したのはアメリカの政治家J・C・シムスという人。日本では知られていないが、アメリカーナあたりをひいてみると、かなりのスペースを割いているところからみてアメリカでは一応知られた人物らしい。彼の説はハレーとおなじような考えで、ただ、皮《ヽ》が五層もあるというのだが、抜群なのは、その五枚の皮にすっぽりと大きな穴があいているというアイデアである。北極と南極に直径が四千マイルと六千マイル(一説によると一千マイルと二千マイルともいう)の巨大な穴がぱっくりと口を開いていて、|一枚目の皮の表《ヽヽヽヽヽヽヽ》――つまり地表の海はそのまま裏《ヽ》側にまでつづいているというのだ。いわば巨大な薄いドーナッツ、あるいはトーラスが五つ重なった形である。魚なんかは気楽に裏側へ出入りしているという……。かれがどこでこんなことを思いついたのかはさだかでないが、とにかくこの説を裏付けるために北極探検を企図してその趣意書五百部を政界、財界、学者に配布した。一八一八年のことだが、自分は精神病者ではないという医師の診断書までついた周到なその趣意書は、あとで紹介するようにのちのちまで非常に大きな影響を与えているのだが、肝心の北極探検を実行するだけの金はあつまらなかった。アメリカ連邦議会では賛成二五票、反対多数でこの計画への援助を否決したといわれ、フランス・アカデミーでも、大変な議論のあと、やはり反対多数で否決されてしまった。
しかし、それから十年後のことである。
シムスのもとに一通の封書が届けられた。差し出し人はとみれば、なんとこれがロシア皇帝! これには彼も仰天した。だがよく考えてみれば、ロシア皇帝が大真面目になるのも無理はない。なにしろ十九世紀の初頭といえば、その頃まだロシア領だったアラスカとシベリアとが陸続きではなく、ベーリング海峡がその間に存在することがやっと確認されたくらいのもので、あとはまだ皆目見当がつかない時代である。それをあろうことかあるまいことか、そのシベリアだかアラスカだか、いずれにしろとにかく自国の領土の中にぱっくりと、直径が数千マイルの巨大な穴が開いているというのである。となれば、表からつづく裏側はすべてロシアの領土だということになる。クナシリ、エトロフどころの話ではない。これでとびつかなければ、ロシア皇帝たるもの暗君のそしりを受けてもいたしかたあるまい。
シムスのところへとびこんだその手紙は、もちろん、ロシア政府の派遣する北極探検隊の隊長に就任してほしいという皇帝じきじきの要請状であった。
もちろんシムスに異存のあろうわけはない、この返事でOKを出した。ところが世の中とはこうしたもの、その直後にふとした病気がもとで床についたまま、それから二年後、わずか四九歳の若さで彼は不帰の人となったのである。
今日もオハイオ州のどこやらには、彼のその地球空洞説を記念する碑が立っているという。写真によるとそれは高さが三メートルほどある細長い台の上に、まるで芯をくり抜いたリンゴみたいな地球がちょこりとのせられている……。
バロウズが〈ペルシダー〉ものを書くに至ったのは、このJ・C・シムスの空洞説に大きく影響されたのが原因だとされている。
もう数年前のこと、アメリカの古書の目録をみていて The Hollow Earth-The Greatest Geographic Discovery in History(空洞地球――史上最大の地理学的発見)というパンフレットを発見した。ウヌ、これこそはかの有名なるJ・C・シムスの北極探検の趣意書に相違あるまいと思って、値段があんまり安いのには一抹の不安をおぼえながらも、とにかく注文してみたのである。そしてやっと到着したのを見たら、J・C・シムスのものではなかったが、もっととんでもないものだったのだ。
極地探検で有名なR・E・バード少将が一九五六年の南極探検飛行の最中に、その大穴《ヽヽ》の中へ迷いこんだ――というのである! パンフレットはガリ版刷りだが大判で一〇〇ページ余りもあるもので、著者はレイモンド・バーナード博士、ニューヨーク大学とコロンビア大学で三つの学位をとっている。ほほォなるほどと、おもって読んでいったまではよかったのだが、そのうちにこの博士がバイオソフィックスとかジェリアトリックスとかいろんなむずかしい学問の権威だとかで、巻末にある著作目録によると、〈水道の水を飲むのが万病のもとだ〉とか〈肉を食うと長生きしない〉とか〈石からつくったパンは栄養が豊富で長寿のもと〉最後には〈土食《ヽヽ》健康法〉などどというやつまであらわれ、おまけに止しゃあいいのに、「この空洞説のパンフレットは博士のもっとも有名なる著書である――」という註釈があらわれるにいたってがっくりきた。要するに空洞の内側が〈空飛ぶ円盤〉の基地だといいたいらしいのである。阿呆らしいといえは阿呆らしいが、なかなか自由奔放な発想でなまじっかなSFを読むよりもたのしいから、いずれこの巻末解説で紹介しようと考えている。
ところでわれわれは、ギリシア時代このかた今日まで、人類というものが地球という球《ヽ》の表面にへばりつくようにして生活してきたと信じこんでいるがはたしてそうか?
馬鹿いうな、海岸に行ってみろ、水平線がまるくなってるじゃないか――とあなたはいうかもしれないし、おまえ、アポロ宇宙船が撮った丸い地球の写真を見たことないの? というかもしれない。だがそいつが眼の錯覚じゃないと断言できるか?
すべて誤解のもとは、ギリシア以来人類が|愚かにも《ヽヽヽヽ》光は真進するものと勝手に信じこんだせいなのだ――と主張したのはアメリカのU・G・モロウ教授という人である。一八九七年のこと。そして一九二五年には、この説にいたく共鳴したカール・ニューパートというドイツ人がその説をさらに深く研究《ヽヽ》し、その成果を一冊の本にして刊行しているのである。馬鹿な話だなァとあなたは思うかもしれないが、ナチス海軍はそう思わなかった。ニューパートの言うとおり、この地球表面と呼ばれている人類の居住地が、実は無限につづく岩塊のなかにぽっかりとひらいた球状の空間の内部――つまりペルシダーみたいなものだ――としたら、こいつは、なにか新兵器に応用できないか――とナチス海軍の首脳部は考えた。一九四三年のことだというから、もうかなりドイツもあぶなくなってきた頃である。そこで特別研究チームがつくられ、赤外線写真の専門家であるハインツ・フィッシャー博士がその最高責任者に任ぜられ、バルチック海の孤島に研究所を開設した。そして、ツァイス社に特註した超望遠カメラをずらりと海岸にならべてせっせとなにやら撮影を開始した。おかしなことに、そのレンズは水平線から四五度ほど上向きの、あらぬ空の一角を狙っていたという。もしも、ニューパートの説が正しければ、目に見える水平線より上を狙って赤外写真をとれば、はるか遠方にいる連合軍の艦船がキャッチできるにちがいない――その巨大なレンズの砲列には、ドイツ海軍のそんな願いがこめられていたのである……。(野田昌宏)