ウジェニー・グランデ
バルザック/山口年臣訳
目 次
一 地方有産者|気質《かたぎ》
二 パリの従兄弟
三 田舎《いなか》の恋
四 欲の約束、恋の誓い
五 家族の悲しみ
六 これが世のならい
七 結び
解説
年譜
訳者あとがき
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あなたの肖像こそこの作品の世にもうるわしい飾りともなるのだから、そのあなたの御名がここに浄《きよ》き黄楊《つげ》の小枝〔復活祭直前の日曜日、つまり枝の日曜日に教会で聖められる黄楊の小枝。家に持ち帰った信者は、それをお守りとする〕のようにあらんことを。――いずこの木より折り取ったかはわからぬが、御教《みおし》えに聖《きよ》められて、敬虔《けいけん》なる手によってつねに緑あらたな、家の護りたる、かの黄楊の小枝のように。
ド・バルザック
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一 地方有産者|気質《かたぎ》
地方のあちらこちらの町には、このうえもなく陰気な修道院とか、このうえもなく侘《わ》びしい荒野とか、このうえもなく物寂しい廃墟《はいきょ》だとかが、人の心にそそるのとまったく同じ一種の哀愁の念を、見るからにいだかせるような家がよくあるものである。たぶん、こうした家々には、修道院のもつ静寂さと、荒野のもつ味気なさと、廃墟のもつ残骸《ざんがい》のような感じがともに含まれているからであろう。そこには生気も物の動く気配も少なく、じつにひっそりとしているので、見知らぬ人の足音を耳にして窓の手摺《てすり》ごしに修道者めいた顔をのぞかせるじっと動かぬ人間の、弱々しく冷たい視線にふいに出会うようなことがなければ、他所《よそ》からきた者は無人の家と思うにちがいなかろう。
ソーミュールの町の高みの、城塞《じょうさい》に通ずる山坂道のはずれにある一軒の住宅のたたずまいにも、そうした侘びしさがそのままにたちこめている。夏には暑く、冬には寒く、所々薄暗く、いまでは人通りもめったにないこの道は、いつもきれいで乾いている石ころだらけの小さな舗道がよく響くということや、曲がりくねった道幅の狭いことや、古い町の一部をなして城壁の真下になっている家々のひっそりとしていることなどで、特にきわだっている。そこには三世紀もたった建物が、木造ではあるが、いまもなお堅固に並んでいて、さらにはその独特な持ち味を出しているさまざまな家の構えによって、ソーミュールのこのあたりは好古趣味の者や芸術家の注目をひいている。
こうした家々の前を通り過ぎる者は、端のほうが奇妙な形に彫ってある巨大な樫《かし》などの厚板を見て感嘆しないではいられない。それは黒い浮彫り模様で、たいていは一階の上部を飾っている。ある家では、横木が石盤石でおおわれていて、家の弱々しい壁に青い線を描いている。間柱《まばしら》組みの屋根は年月のために反《そ》りかえって、腐った屋根板は雨と太陽のかわるがわるの作用でねじ曲がっている。またある家では、使い古され、黒ずんだ窓の手摺《てすり》が見えるが、そこに彫られた細かい模様はもうほとんどわからなくなっている。そして貧しい日雇い女の植えた石竹《せきちく》やばらがひょろ長くのびている茶色の粘土鉢《ねんどばち》がのっているが、それがあぶなっかしげなほどたよりなくみえる。さらに行くと、巨大な釘《くぎ》の打ちつけてある門がいくつかあって、そこにはわれわれの祖先が器用に書き残した、一家の歴史に関する奇妙な文字が見えるが、その意味はまったく知るよしもない。新教徒がおのれの信仰に印をしているかと思えば、また神聖同盟〔一五七六年、ギーズ公を中心として結成されたカトリック教徒の同盟。新教を奉ずる王族たちを駆逐して、王位をカトリック教徒の手に確保するのを目的とした。一五八八年、ギーズ公が暗殺されて崩壊〕の党員がアンリ四世〔ブルボン王朝の祖。一五八九年王位につく。当初、新教徒で、神聖同盟を敵としてたたかったが、一五九三年カトリックに改宗〕に対する呪《のろ》いの言葉を書きしるしているのもある。町民のだれかが、いまは忘れられた昔の町村吏員職の栄誉のしるしの「鐘の誉れ」の標章を刻んだものもある。フランスの歴史がまさにそっくりそこにあった。かつては大工が入念に鉋《かんな》をかけたであろうが、いまでは石壁と漆喰《しっくい》壁の、ぐらつくような家があるかと思えば、その隣には貴族の邸宅がそびえ、石造の門のアーチには一家の紋章の名残《なご》りが、一七八九年以来この国を乱したさまざまな革命でこわされたけれど、いまもなお見られる。
この道筋では、商家の一階は店舗の構えをしていない。中世の好きな人ならば、われわれの先祖の仕事場がその簡素な形のままでそこに見いだされると思うだろう。店先らしさもなく、陳列|棚《だな》もガラス台もない天井の低い広間は、奥行が深く、薄暗くて、内にも外にも装飾らしいものはなにもない。扉《とびら》は、無器用に金具を打ちつけた上下ふたつの部分に分かれて開かれている。上のほうは内側にたたみこまれてあるが、バネ仕掛けの呼び鈴がついている下のほうは、絶えず開いたりしまったりしている。大気と日光は扉の上のほうからや、間仕切《まじぎ》り壁や天井板や、肱《ひじ》ほどの高さの小さな壁のあいだにある隙間を通って、この湿った穴倉のような部屋へはいってくる。その小さな壁には頑丈《がんじょう》な雨戸がはめこんであって、朝には取りはずすが、夕方にはまたたてて、ボルトで締めた鉄の帯でささえておく。この壁が、商品の陳列所としての役をする。そこには、なんのごまかしもない。商売の種類によって見本はいろいろで、塩や鱈《たら》をいっぱいに詰めた桶《おけ》が二つ三つあったり、帆布の包みがあったり、綱具があったり、天井板の梁《はり》から真鍮《しんちゅう》の針金がさがっていたり、また壁にそって樽《たる》がおいてあったり、棚の上にラシャの布地がのせてあったりする。
中へはいってみませんか? 白い肩掛けをして、赤い腕を出した若々しく小ざっぱりしたきれいな娘が、編み物を手からはなして、父親か母親を呼ぶ。するとどちらかが出てきて、諸君の望むものを、二スーの品物だろうが二万フランの品物だろうが、当の売り手の性分によって、あるいは冷静に、あるいは愛想よく、あるいは尊大な態度で売ってくれる。
やがて諸君は、戸口のところに腰かけて、隣の男とおしゃべりをして暇つぶしをしている樽材商人を見かけるだろう。見たところは、酒びんをのせる粗末な棚板と小割《こわり》板の束が二つ三つしかないようだけれど、河岸《かし》にあるこの男の材木置場にはアンジュー州の樽《たる》屋という樽屋をまかなうほどのものがぎっしり詰まっている。この男は、ぶどうが豊作ならばどのくらい樽が捌《さば》けるか、まちがってもほとんど板材一枚のくるいぐらいのところまで知っているのだ。日照りならばこの男は金持になり、雨つづきだと破産する。たったひと朝で樽の値は十一フランになると思えば六フランに下落してしまう。トゥーレーヌ州と同じように、この地方でも天候の移り変わりが商売の死活を左右する。ぶどう作りも、地主も、材木商も、樽屋も、宿屋も、川船の船頭も、みんな太陽の一筋の光を待ちかまえている。夜寝るときも、翌朝になってみると、夜のあいだに霜枯《しもが》れていることを聞かされるのではないかと心配する。雨や風や旱魃《かんばつ》を恐れ、水とか暑さとか雨雲とかを、かってのときに思い思いに欲しがる。天と地上の利害とのあいだに絶えず決闘が行なわれている。晴雨計の目盛りが眉《まゆ》をくもらせたり、額《ひたい》の皺《しわ》をのばさせたり、浮き浮きさせたり、かわるがわる顔つきを変える。
ソーミュールの昔の大通りであるこの道の端から端まで、「黄金のお天気だぞ!」という言葉が戸口から戸ロへと符牒《ふちょう》のように伝えられる。するとだれもが、「金貨の雨が降るぞ」と隣へ答える。太陽の光が、折よい雨が、金貨をもちこんできてくれることをみんな知っているからだ。気候の良いころの土曜日の昼近くなどには、こうした堅気な商人の店では一スーの品物だって手に入れることができなかろう。皆はそれぞれ自分のぶどう畑や塀《へい》でかこった小さな畑をもっていて、土曜日曜の二日を田舎で過ごしに出かけてゆくからだ。この土地では、仕入れも、売り込みも、利益も、すべてあらかじめ見えているのだから、商人たちは十二時間のうち十時間というものは、楽しい勝負事に興じたり、絶えず人のようすを観察したり、とやかく注釈をつけたり、探りを入れたりして過ごすことになる。もしどこかの女房《にょうぼう》が鷓鴣《しゃこ》〔うずらに似た鳥。猟鳥として高く評価され、食用とされる〕を一羽買ったとすれば、その亭主はきまって隣近所の者から、焼けぐあいはちょうどよかったかと聞かれるしまつだ。若い娘が窓べに顔を出せば、きっと暇《ひま》な連中からいっせいに目をつけられる。だからこの道筋では、奥底の知れないような、暗くて、ひっそり静かな家々にもなにひとつ秘密がないのと同じに、人の心の底も見すかしなのだ。
ほとんどいつも暮らしは戸外でされている。どの家族も戸口に腰をおろし、そこで朝食も食べれば夕食も取り、喧嘩《けんか》も口論もそこでする。じろじろあら探しされないではだれひとり通り過ぎることはできない。だから、かつては田舎の町に他国者《よそもの》がやってくると門口ごとにひやかされたものである。そこからいろいろなおもしろい小噺《こばなし》が生まれ、そうした町方ふうの嘲弄《ちょうろう》が達者であったアンジェの住民に、からかい屋という綽名《あだな》がつけられたのもそうしたわけからである。
この古い町の昔ながらの邸《やしき》は、かつてこの地方の貴族が住んでいたこの道筋の上手《かみて》にならんでいる。この物語の中のいろいろな事件がおこった哀愁にみちみちたその家というのも、まさにそうした邸のひとつだった。これらの邸こそ、フランスの風俗から日ごとに失われてゆく簡素という特徴を、事物にしろ人間にしろ具えていた時代の尊敬すべき遺物である。そのほんのわずかな起伏にも思い出を目ざまされ、その全体の印象がなんとはなしに一種の夢想に誘いこむような、この絵のような道の曲がりくねりにそってゆくと、かなり薄暗い奥まった所があるが、その中央に|グランデさんがとこの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》邸の門が隠れている。ところで、この田舎ふうの言いまわしのほんとうの意味は、グランデさんの伝記を述べないと理解することはできない。
グランデ氏はソーミュールでの評判男であるが、そうした評判をとる原因や結果は、多少なりとも田舎暮らしをした人でないとまるきり理解できなかろう。グランデ氏のことをいまもまだグランデ親父《おやじ》と呼ぶ者もいるにはいるが、そうした老人たちは目に見えて数が減ってしまった。グランデ氏は一七八九年〔フランス革命の年〕のころには、読み書き算盤《そろばん》のできる、ごく暮らしの楽な樽《たる》屋の親方だった。フランス共和国がソーミュールの郡で聖職者の財産を公売にしだしたとき、当時四十歳だったこの樽屋は、ある金持の板材商人の娘と結婚したばかりのころだった。グランデは自分の現金と妻の持参金とをあわせた二千枚のルイ金貨〔四万フランに相当〕を身につけて郡役所に出かけていった。そして国有財産公売の監督をしていた堅物の共和党員の役人に、義父からもらったドゥブル・ルイ貨二百枚〔四千七百フラン〕をつかませて、公正とはいえないまでも、法律上合法的に、郡下でも最もみごとなぶどう畑と、古い修道院と、小作農と利益折半の田畑いくらかを、ごく安く手に入れた。ソーミュールの住民たちはいっこう革命的な人たちではなかったので、グランデ親父は、思い切った男、共和党員、愛国者として通り、新思想に走る男というように思われたが、樽屋にしてみればぶどう畑にただ惚《ほ》れこんだだけだった。彼はソーミュールの管区行政委員に任命され、そして彼のおだやかな勢力は政治の上でも商業の上でも郡内にゆきわたった。
政治上では貴族を保護し、亡命貴族の財産公売を力のおよぶかぎり妨げた。商業的には、共和政府の軍隊に白ぶどう酒を千樽か二千樽供給し、最後の分け前として残されてあったある婦人団体所有のすばらしい牧草地を、その代金として受け取った。執政政府時代に、グランデ|さん《ヽヽ》は町長になり、賢明に治め、さらに上手にぶどうの取入れをやった。帝政時代になるとグランデ|さま《ヽヽ》と呼ばれるようになった。ナポレオンは共和主義者を好まなかった。そこで、赤い帽子〔大革命当時の過激派のしるし〕をかぶっていたといわれるグランデさまをやめさせ、名まえの前にde〔貴族、大地主などには名まえの前につける。ここでは貴族であることを示す〕がつく男で、後に帝国の男爵になった大地主を町長に任命した。グランデ氏はなんの未練もなく栄誉ある町長の地位を去った。彼は町の利益のためにりっぱな道を何本もつくらせたが、それはみな彼の地所に通じていた。邸《やしき》も財産もはなはだつごうよく登録がしてあったので、税金はごくふつうに払うだけだった。あちらこちらにあるぶどう畑を格づけした結果、彼のぶどう畑は、絶えまなく手入れがしてあったおかげで、その地方の筆頭畑となった。筆頭畑というのは、最上のぶどう酒ができるぶどうを産する畑ということを表わすその道の言葉である。そこで彼は、まさに、レジオン・ドヌール勲章を要求するにたりるだけのことがあったわけである。
町長解任の出来事は一八〇六年のことだった。その時グランデ氏は五十七歳、妻はかれこれ三十六歳だった。ふたりの正統な愛の結晶であるひとり娘は十歳だった。
おそらく神の摂理が、彼が町長をやめさせられたということを慰めようとされたものであろうか、グランデ氏はこの年のうちに、グランデ夫人の母親でラ・ベルテリエール家の出であるラ・ゴージニエール夫人の遺産と、この亡《な》くなった夫人の父親のラ・ベルテリエール氏の遺産と、さらには母方の祖母にあたるジャンチエ夫人の遺産をもつぎつぎと相続したのだった。この三つの相続がどれほど莫大《ばくだい》なものだったかはだれにもわからなかった。その三人の老人は狂的なほどの守銭奴《しゅせんど》で、ひそかにながめて楽しむために、長年金をためこんできたのであった。ラ・ベルテリエール老人は、高利で金を貸して儲《もう》けるよりは、金貨をながめているほうがずっと御利益《ごりやく》が多いというわけで、金貸しなどは浪費|沙汰《ざた》だといっていた。そこでソーミュールの町の人たちは、不動産からの収入で、グランデの蓄財のほどの見当をつけていたのだった。
そのころグランデ氏は、狂的な平等論者であるわれわれも決して消し去ることのできないような新しい高貴な称号を手に入れた。彼は郡最高の多額納税者になったのである。彼は百アルパン〔アルパンは約四十二アール。百アルパンは約四十二ヘクタール〕のぶどう畑を耕作していたが、豊作の年にはこれでぶどう酒が七百|樽《たる》から八百樽とれた。十三の小作地と古めかしい修道院をもっていたが、税金を少なくするために、修道院のガラス戸やアーチ形の迫《せ》り持《も》ちや焼絵ガラスの窓を壁で塗っておいた。このために保存がきいた。それからまた百二十七アルパンの牧草地があって、これには一七九三年に植えた三千本のポプラが大きく育っていた。最後に、彼の住まっている家も自分のものだった。
こんなわけで、目に見える財産は勘定できた。ところが現金のほうのこととなると、ただふたりの人間だけが、その莫大なことを、しかもだいたいのところを推察できるだけだった。そのひとりはクリュショ氏といって、グランデ氏の高利貸しの代理を引き受けている公証人で、もうひとりはデ・グラサン氏といって、ソーミュールでいちばん金持の銀行家で、このぶどう作りが自分のつごうのよいときにだけこっそり儲け仕事をいっしょにする男だった。クリュショ老人もデ・グラサン氏も、田舎では信用と財産を産みだすことになるあの慎重さを十分にもってはいたけれど、グランデ氏に対しては深い敬意を公然としめすので、そのようすを念入りに観察する人ならば、相手に対する追従《ついしょう》の表わし方によって、元町長の資産の大きさのほどが推測できるのだった。
グランデ氏が特別な金庫を、金貨のいっぱい詰まっている隠れ場所をもっていて、夜分になると、黄金の山をながめては筆舌に尽くせない楽しみにふけっているという噂《うわさ》をなるほどと思わない者は、ソーミュールにはだれひとりいなかった。黄金の色がしみついたようなこのグランデ老人の目の色を見て、けちけちした連中はその噂はほんとうらしいと確信をふかめるのだった。自分の資産から莫大《ばくだい》な利を引きだすことに慣れた男の眼つきは、酒色にふける人間や賭博好きな人間や宮廷づきの人間の眼つきとおなじように、必ずなにかしら一定の癖にそまるもので、こそこそした、貪《むさぼ》るような、意味ありげな動きがあって、同じ宗旨《しゅうし》の者は、決してそれを見おとすことはない。この人知れぬ言葉がいわば情熱の秘密結社《フリー・メーソン》のようなものを作りだすのだ。
ところでグランデ氏は人々からうやうやしく尊敬されていたが、もともとだれにも借りがあるわけではなく、古くからの樽《たる》屋でぶどう作りで、自分の収穫したぶどうのために千樽つくるか、それともわずか五百樽つくったがよいかということを、まるで天文学者のような正確さで見抜くのだった。そして、投機はただの一度も失敗することはなかったし、取り入れたぶどうよりも樽の値のほうがよいときにはいつでも売るだけの樽をもっていたので、取り入れたぶどうはぶどう酒にして倉にしまっておいて、小さな地主たちが一樽五ルイで手放すときにも、一樽二百フランで引き渡せる時を待ちかまえる、という男だったので、尊敬されるだけの資格があった。一八一一年〔ぶどうが大豊作であり、彗星《すいせい》が現われたことで有名な年〕の彼の収穫は有名なものだが、慎重に引き締めて、ゆっくり売りこんだので、二十四万フラン以上の金がころがりこんだものだった。金儲《かねもう》けの点から言えば、グランデ氏は虎と大蛇《だいじゃ》に似ていた。身を伏せ、うずくまり、じっと長く獲物《えもの》に狙いをつけ、飛びかかることを心得ていた。それから財布の口を大きくあけて、金貨を一山のみこむ。そして平然と冷やかに順序立てて消化する蛇のように、静かに横たわる。
この男が通り過ぎるのを見ると、だれひとり尊敬と恐れの入りまじった賞賛の念をおぼえぬ者はない。ソーミュールの住人で、彼の鋼鉄のような爪《つめ》ですかりと引き裂かれる思いをしない者があるだろうか? ある人は土地を買うのに必要な金をクリュショ公証人を通じて借り受けたところ、一割一分の利息をとられた。またある人はデ・グラサン氏の手で手形を割ってもらったところ、これまた恐るべき利子を天引きされた。市場であれ夜の集まりであれ、グランデ氏の名が町の人々の話にでない日はめったになかった。ある人々にとっては、この老ぶどう作りの財産はお国自慢の種でもあった。それで、商人や宿屋の亭主が他国者《よそもの》にむかって、さも楽しげに、
「旦那《だんな》、この町には百万長者が二、三人はいますがね。でもグランデ爺《じい》さんときたら、自分で自分の財産がわからないんですよ!」と、いう者がひとりやふたりではない。
一八一六年に、ソーミュールで最も計算に巧みな者たちが、グランデ老人の不動産を四百万近いと見積もった。ところが、一七九三年から一八一七年のあいだ、毎年平均、内輪にみて十万フランの収益を地所からあげたはずだから、その不動産の価額とほぼ同じ額の現金をもっていると推定できる。そこでトランプ遊びの後とか、ぶどう畑での話し合いの後とかにグランデ氏の話がでると、ものわかりのいい者たちは、「グランデ親父《おやじ》かね?……グランデ親父なら五、六百万はもってるにちがいないよ」と、言うのだった。
「あんたがたのほうがこの私などより目が利《き》いていますな。私には全体の額などとうていわかりませんからな」と、クリュショ氏かデ・グラサン氏が、その話を聞いていたときには、こう答えたものだった。
だれかパリの人がロスチャイルド〔このロスチャイルドは、フランクフルトの銀行家で有名なマイエル・アンセルム・ロスチャイルドの息子をさす〕とかラフィット氏〔一七六七〜一八四四、ラフィット銀行の頭取で、財政家、政治家として活躍したシャルル・ラフィット。奇《く》しくも、本書が出版された翌日、投機に失敗して破産した〕だとかの話をすると、ソーミュールの人たちは、その人はグランデ氏と同じくらいの金持かとたずねるのだった。そしてもしそのパリの人が笑いながらさもばかにしたように肯定の返事を口に出すと、彼らはとても信じられないといったふうに頭をふりながら、互いに顔を見合わせる。
それほどの莫大《ばくだい》な財産が、この男のすべての行動を黄金のマントでおおっているのだった。初めのうちは、彼の特殊な生活のために物笑いと冷笑の的となっていたが、物笑いも冷笑もしだいに弱まってしまった。グランデ氏は自分のどんな些細《ささい》な行為にも、是非の判断を下した事項のような権威を与えていた。彼の言葉や、彼の衣服や、彼の身振りや、彼の瞬《まばた》きまでも、この地方の掟《おきて》として通っていた。この地方では、だれでも博物学者が動物の本能の作用を研究するように、彼を研究してみると、彼のどんなささやかな動きにも、深い無言の知恵がひそんでいるのを知ることができたからである。
「この冬はきびしいぞ。グランデ爺《じい》さんが毛皮の手袋をはめたものな。取り入れしなければならないぞ。――グランデ爺さんがたくさん樽《たる》材を仕入れていますぜ。今年はぶどう酒がうんとできますよ」などと、人々は言った。
グランデ氏は決して肉やパンを買ったことがなかった。小作人たちが、毎週、去勢して肥《ふと》らせた鶏《にわとり》や雛《ひな》や卵やバターや小麦などの食糧を、決められた小作料の一部として、たっぷりはこびこんでくるのである。彼は水車小屋をひとつもっていたが、それを借りている男は賃貸《ちんたい》料を払うほかに、一定の量の穀物をグランデ氏の所へ取りにきて、その分の糠《ぬか》と粉を届けなければならなかった。たったひとりの下女で、もう若くはなかった、のっぽのナノンというのが、土曜ごとに家じゅうのパンを焼くのだった。グランデ氏が小作人の野菜|栽培者《づくり》に野菜をもってくるようにと話がつけてあった。果物はどうかといえば、市場へ大部分売りにだすほどの大量な収穫があった。薪《たきぎ》は生垣《いけがき》を切ったものとか、古い立ち木から取って畑の隅にはこんでおいた半ば腐りかけたもので、小作人が小さく切って町まで荷車ではこびこんだうえ、親切にも薪小屋へ並べる。それで口先だけのお礼をうけるのだった。世間で知っている出費というのは、聖パンの代金、細君と娘の化粧代、教会の椅子代、灯火代、のっぽのナノンの給料、鍋《なべ》のめっき代、税金の支払い、建物の修理代、耕作の経費、といったものだけである。彼は近ごろ六百アルパンの森を買い、隣の番人に見張りをさせているが、手当をだす約束をしていた。おかげで、これを買い取って以来はじめて、彼は森の獲物を食べられることになったのだ。
この男の物腰態度ははなはだ簡単だった。彼はほとんど口をきかない。たいていの場合、格言ふうの短い言葉をやさしい声で述べて自分の考えを言い表わす。革命以来、彼は人目をひくようになったが、その当時からグランデ老人は長い話になったり議論をつづけなければならないようなときには、急にうんざりするほど口ごもるようになった。早口でわかりにくい話し方や、支離滅裂の言葉、考えのわからない、明らかに筋道の通らないべらべらとしゃべる言葉の流れは、教育のないせいだとされているが、それはわざとそうしているのであって、そのことはこの物語のいくつかの出来事によって十分に説明されるはずだ。そのうえ、代数の公式のように正確な四つのきまり文句をもっていて、生活上や商売上のどんな難関にも、いつでもそれを使って困難を解消し、切り抜けてしまう。「わしは知らない、わしにはできない、わしはそうしたくない。ひとつ考えてみよう」と、いうのだった。彼は決してそうだとかそうじゃないとかは口にしないし、手紙など一本も書きはしなかった。人から話しかけられたときにはどうだろうか? 左手の甲の上に右|肱《ひじ》をのせ、その掌《てのひら》の上に顎《あご》をささえて、そっけないようすで話を聞くが、どんな事がらにもひとつの意見を出して、決して取り消したりしない。どんな些細な商取引きにもじっくり考えこむ。巧みな話のあげく、相手が彼を引きこんだと思いこんで、かえって自分の要求の底をさらけだしてしまうと、彼は答えるのだった。
「わしはなにごとも家内に相談しなくては話は決められませんでね」
完全に奴隷《どれい》の状態にされてしまった彼の妻は、商取引きではこのうえもなく便利な衝立《ついたて》役をはたしていた。彼はだれの家をも決して訪《たず》ねなかったし、晩餐《ばんさん》の招待を受けようともしなかったし、招待することもしなかった。決して物音をたてなかった、そしてなにもかも、身を動かすことさえも倹約しているようにみえた。所有権をいつも変わらず尊重するという点から、他人のものをいっさい損じるようなことはなかった。けれども、いかに声がやさしく、慎重な物腰といっても、樽《たる》屋の言葉づかいや癖がふっと現われることがあるのだが、ことによそのどこよりも気兼ねのいらない自分の家にいるときにそうなるのだった。
体格からいうと、グランデは身長五尺、ずんぐりした角ばった男で、ふくら脛《はぎ》のまわりが一尺二寸もあり、膝頭《ひざがしら》が節くれだち肩幅が広かった。顔はまるくて渋《しぶ》茶色をし、あばたがある。頤《あご》は直角で、唇《くちびる》には皺《しわ》ひとつなく、歯はまっ白だった。物静かでいてしかも食い殺しそうな眼つきで、まるであの怪蛇《バジリタ》のようであった。額《ひたい》には横の皺がいっぱいあって、なにか意味ありげに隆起していた。〔この小説が書かれたころ、ドイツの医者が骨相学をつくりだしたという〕髪の毛は黄ばんだ灰色で、グランデ氏について冗談《じょうだん》口をたたくことがどんなに重大なことになるか知らない若い者たちは、それこそ銀と金だ、というのだった。先のほうが大きくなっている鼻には静脈の浮いている瘤《こぶ》がひとつついていて、俗人たちは、それには悪賢さがいっぱい詰まっていると言っていたが、まんざら理由のないことではなかった。こうした容貌《ようぼう》は、危険なほどの狡猾《こうかつ》さと、熱意のない誠実ぶりが表われ、その感情はすべて吝嗇《りんしょく》の楽しみの中と、自分にとっては真に大切なただひとりの跡取り娘のウジェニーの上とに集中している男の利己主義とを、はっきりと見せていた。それに、態度にも、物腰にも、ふるまいにも、彼のすべてに、事を企てればいつも成功する習慣から生じた自分への信頼というものが、ありありと示されていた。だから見たところ気さくで人当たりのよさそうな性質のようではあるが、グランデ氏は青銅のような強固な性格の持主だった。
いつも同じような服装をしていたので、今日の彼を見ることは、一七九一年このかたの彼を見ることになるわけだ。頑丈《がんじょう》な靴は革の紐《ひも》でむすばれていた。しょっちゅうラシャまがいの靴下をはき、銀の留《と》め金《がね》つきの栗色の粗《あら》ラシャの短い半ズボンをつけ、黄と赤褐色のだんだら縞《じま》のビロードのチョッキを着こんで、きちんとボタンをかけ、裾《すそ》の広い、栗色のゆったりした上着、黒いネクタイにクェカー〔キリスト教の一派で、十七世紀のなかばイギリスに起こった。衣服の簡素を重んじ、平和主義を唱えた〕教徒ふうの幅広の帽子といういでたちだった。憲兵の手袋と同じほど頑丈な手袋は一年半以上ももち、それをきれいにしておくために、脱いだときも、いつも決まった手順で、帽子のふちの同じ場所の上に置くのだった。この人物について、ソーミュールの人はこれ以上なにも知ってはいなかった。
町の人のうち、わずか六人だけがこのグランデ氏の家に出入りする権利をもっていた。最初の三人のうち、いちばん重だった人物は、クリュショ氏の甥《おい》だった。この青年は、ソーミュールの地方裁判所長に任命されて以来、クリュショという元からの姓にボンフォンという姓をつけ加えていて、しかもクリュショよりもボンフォンの姓のほうを世間に広めようと努めていた。すでにC・ド・ボンフォンと署名しているしまつだった。訴訟にかかわりのある人々が、うっかり「クリュショさん」などと呼ぼうものなら、法廷でたちまち自分の|へま《ヽヽ》さかげんをさとらされることになる。この司法官は自分を「裁判所長さま」と呼んでくれる人たちにはいちおうの力添えをするだけだが、「ボンフォンさま」と言ってくれるようなお世辞屋には、とびきり愛想のいい微笑を見せて支持してやるのだった。裁判所長は三十三歳、年収七千フランにのぼるボンフォン(|よき泉《ボン・フォンティス》)という地所をもっている。それに、例の公証人をしている伯父と、ツールのサン・マルタン大教会の参事という要職にあるクリュショ師という伯父の遺産を継ぐことを待ちかまえていた。ふたりの伯父はともに相当な金持としてとおっていた。これら三人のクリュショは、多くの親戚の支持をうけ、この町の二十軒ばかりの家と結んで、まるでかつてのフィレンツェのメディチ家〔十四世紀から十八世紀にかけて、イタリアのフィレンツェで非常な勢力のあった名家〕のように、ひとつの党派をつくっていた。そしてメディチ家と同じく、パッチ家〔フィレンツェの有力な一家。メディチ家と対抗し、これを滅ぼそうとしたが、逆に滅ぼされた〕のような競争相手があった。
デ・グラサン夫人には二十三歳になる息子《むすこ》があるが、そのかわいい息子のアドルフの嫁《よめ》にウジェニー嬢をもらいたくて、たいそう足しげくグランデ夫人のお相手にやってくる。銀行家のデ・グラサン氏は、あの欲深な老人にしょっちゅうないしょでこっそりと尽力をしてやり、夫人の作戦を強力に支援しておいて、そしていつもちょうどよい時機に戦場へやってくるのだった。この三人のデ・グラサン家のほうにも、同じように徒党があり、親戚があり、忠実な味方があった。
クリュショ家のがわでは、一家のタレイラン〔一七五四〜一八三八、フランスの有名な政治家、外交官。権謀術策に長じウィーン会議で活躍した〕格である神父が、兄の公証人の援助をうけながら銀行家の夫人と猛烈な陣地争いを演じて、甥の裁判所長のためにあの莫大《ばくだい》な財産をのこしておいてやろうとつとめていた。クリュショ家とデ・グラサン家とのこのひそかな闘《たたか》いは、ウジェニー・グランデとの婚約ということがその賞品であったわけだが、これこそソーミュールのさまざまな社会で熱烈な関心の的となっていたのだ。グランデ嬢は、裁判所長殿と結婚するだろうか、それともアドルフ・デ・グラサン氏と結婚するだろうか?
この問題について、ある人たちは、グランデ氏はどちらにも娘をやるまいと、答えるのだった。野心にとり憑《つ》かれた樽屋あがりは、花婿《はなむこ》にはだれか貴族院議員でも求めているのだ、年収三十万フランもあるのだから、グランデ家が過去、現在、未来にわたって樽屋だろうと、そんなことは見のがして娘をもらってくれるだろうというのである。またある者たちは、デ・グラサン夫妻は貴族だし、たいした金持でもあり、アドルフはなかなかの優男《やさおとこ》だから、ローマ教皇さまの甥《おい》をでも思いのままにするというのでもなければ、こんなけっこうな縁組みに身分の低い連中が満足しないはずはない、グランデが斧《おの》を手にした男であることはソーミュールの者ならだれでも知っていることだし、それにまた赤い帽子をかぶった革命党員ではなかったか、とやりかえす。なかでもとりわけ思慮のある人たちは、クリュショ・ド・ボンフォン氏はしょっちゅうグランデ家に出入りしているのに、いっぽう競争相手《ライヴァル》のアドルフは日曜日にしか招待されていないということに注目すべきだと言う。ある一派は、クリュショ家よりもデ・グラサン夫人のほうがはるかにグランデ家の女たちと親しくしているから、いろいろうまいことを吹きこんで、おそかれ早かれ成功するだろうと主張する。するとまたある一派はこれに答えて、クリュショ神父は人にとりいることにかけては天下に並ぶ者のないほどなのだから、女と坊主の取組みなら勝負は互角《ごかく》だろうという。
「どちらも一点ずつ取った勘定だ」と、ソーミュールのある気の利《き》いた男は、言うのだった。
いっそう消息に通じた土地の年寄りたちは、グランデ家は抜け目がなさすぎるので、一家の財産が人の手に渡るのをほっておくわけはないから、ソーミュールのウジェニー・グランデ嬢は、裕福《ゆうふく》なぶどう酒問屋であるパリのグランデ氏の息子と結婚させられるだろうと言い張った。それに対して、クリュショ派とデ・グラサン派は答えて、
「まず第一、このふたりの兄弟は三十年このかた二度とは顔を合わせていない。それに、パリのグランデさんは自分の息子については高望みだ。あの人はパリの区長で、代議士で、国民軍の大佐で、それに商事裁判所の判事でもある。ソーミュールのグランデ家など縁もゆかりもないと言っているし、ナポレオンのおかげでなったどこかの公爵家とでも縁組みするつもりなんだ」と言っていた。
二十里四方はもとより、アンジェからブロアに行く乗合馬車の中でも噂《うわさ》をされる跡取り娘について、人々がとやかく言うのも無理からぬことではなかろうか?
一八一八年の初めに、クリュショ派は、デ・グラサン派に対して、めざましい勝利をおさめた。フロアフォンの所領といえば、そこの荘園とか、みごとな館《やかた》とか、小作地や川や池や森などで人に知られ、三百万フランの値うちがあるといわれたものだったが、ド・フロアフォン若侯爵が、現金に換える必要にせまられて、それを売りに出したのだった。クリュショ公証人とクリュショ裁判所長とクリュショ神父は、味方の援助によって、土地の分割売りをさせないようにすることができた。公証人は、分売すれば代金を回収するまでに、落札人たちを相手に何回となく追訴を起こさなければならないだろうと説きふせて、その若い侯爵とはなはだ有利な取引きを結んだ。それよりむしろグランデ氏に売ったほうがましだ、あの人なら支払い能力は十分だし、それに現金で土地を買いこむことができるのだからといったわけである。こうしてフロアフォンのすばらしい侯爵領は、グランデ氏の食道へ送りこまれたのだが、ソーミュールの人たちがひどく驚いたことには、グランデ氏は正式の手続きをすませると、即金払いによって割り引きさせて支払ったのだった。この事件はナントでもオルレアンでも大評判になった。
グランデ氏はフロアフォンヘもどる荷車があったのを機会に、自分の館《やかた》を見にいった。いかにも主人らしい目つきで所有地をひとわたり見ると、これで資産を五分の利でまわしたことになるのを確かめて、彼はソーミュールヘ引き返した。フロアフォンの侯爵領にこれまでの自分の土地全部を合併して、そこを拡張しようという壮大な考えをいだいていたのだ。それから、ほとんどからになった金庫をあらたにいっぱいにするために、森や林を残らず切り払い、牧草地のポプラを伐採《ばっさい》することに決めた。
さて、いまはもうグランデさんが|とこ《ヽヽ》の邸《やしき》という言葉の意味がのこらず容易にわかってもらえるだろう。それは町の高台に位置して、城塞《じょうさい》の廃墟《はいきょ》をうしろにひかえた、あの蒼白《あおじろ》いように冷やかな、静まりかえった例の家である。その門の戸口を作っている二本の柱と丸天井は、邸と同じく、ロアール河沿岸特産の白い石の白亜《はくあ》でできている。これはやわらかい質なので、平均やっと二百年ぐらいしかもたない。風雨の影響で門柱や丸天井には不揃《ふぞろ》いな無数の穴が変な形になってあいているので、見たところ、フランス建築で使う虫食い模様の石のようであるし、どこか牢獄《ろうごく》の入り口に似たところがある。丸天井の上に、固い石に刻みこんだ長い浅浮彫りがのっていて、図柄は四季を表わしたものだが、すでにあちらこちら形がくずれているし、すっかり黒ずんでもいる。この浅浮彫りの上には笠石がぐっと突き出ていて、そこには黄色いイラクサや、ヒルガオの類や、オオバコや、すでにかなりのびた小さな桜の木など、偶然に生《は》える植物が育っている。
どっしりした樫《かし》材の栗色の扉《とびら》は、乾ききって、いたる所に割れ目があって、見たところ頼りなげだが、左右対称に並んだボルトの列で頑丈《がんじょう》に保たれている。真四角な小さい格子柵《こうしさく》が中門の扉のまんなかにうがってあり、目のつんだ赤|錆《さび》だらけの格子がはまっている。太い釘《くぎ》のつぶれた頭をたたく|たたき槌《ノッカー》がその扉に金輪でとりつけてあるが、この格子柵は、いわば、そのノッカーへの案内役のようなものだった。細長い形で、われわれの祖先が|鐘つき人形《ジャックマール》〔鐘や大時計の上にあって、槌《つち》でたたいて時刻を知らせる木や金属製の人形〕とよんでいた種類のこのノッカーは、形が大きな感嘆符に似ている。古物の愛好者が注意ぶかく調べるならば、そこに長年使っているので消えかかってはいるが、かつては道化《どうけ》の姿をしていた痕跡《こんせき》のまだいくらか残っていることに気づくだろう。
内乱の時代〔十六世紀後半の宗教戦争の時代〕に、敵味方を見わける役をした例の小さい格子柵から、好奇心にかられてのぞいてみると、薄暗く緑がかった丸天井の奥のほうに、庭園へのぼってゆく数段のくずれかかった階段が見える。ひよわな灌木《かんぼく》の茂みにおおわれ、水気がいたるところににじみでて、しめっぽい厚い石垣が、庭を絵のように区切っている。その石垣は城塞の胸壁だったもので、その上のあたりに隣近所の家の庭が重なりあっていた。グランデ家の一階のいちばん重だった部屋は、いわゆる広間であって、その出入り口は正門の丸天井の下にある。アンジュー、トゥーレーヌ、ベリーなどの小さな町で、広間がどんなに重要なものであるかということを、知っている人はごく少ない。広間は、控え室、客間、仕事部屋、婦人部屋、食堂を同時に兼ねている。まさに家庭生活の舞台であり、一家|団欒《だんらん》の場である。町の床屋が一年に二度やってきてグランデ氏の髪をかるのもそこだし、小作人とか司祭とか部長とか粉ひき場の小僧がはいってくるのもそこである。この部屋は、ふたつのガラス窓が道路に面していて、床《ゆか》は板張りになっている。まわりは古風な刳形《くりがた》で飾った灰色の羽目板で上から下まで張りつめてある。天井は、同じように灰色に塗った梁《はり》がむきだしにわたしてあって、梁と梁の間は毛くずをまぜた白い漆喰《しっくい》で塞《ふさ》いであるが、それもいまでは黄色くなっていた。貝がらを唐草《からくさ》模様にちりばめた銅製の古い振子時計が、へたな彫刻をほどこした白い石の暖炉|棚《だな》を飾っている。その棚には緑がかった鏡があって、厚みを見せるために斜めに切ったその両縁が、金糸を象眼《ぞうがん》した鋼製のゴチックふうの飾り壁にそって一筋の細い光を反射している。金泥塗りの銅の枝つき飾り燭台《しょくだい》がふたつ暖炉の両隅をそれぞれ飾っているが、ばらの花の形の蝋《ろう》うけ皿をとりのけることで、二通りの使い道があった。燭台の中心の幹は、古銅をあしらった大理石の台にはめこむようになっていて、その台がふだんの日につかう燭台になるわけだった。
古風な形の椅子には、ラ・フォンテーヌ〔一六二一〜九五、フランスの詩人〕の寓話《ぐうわ》を図にした綴《つづ》れ織が張ってあった。しかし、色があせてはいたし、図柄にはつくろったあとがあったので、あらかじめ心得ていないと、どんな話を表わしたものか見わけにくくなっていた。この広間の四隅《よすみ》には、上のほうが垢《あか》でよごれた重ね棚になっている食器戸棚のような三角戸棚があった。おもてが将棋盤になっている、寄せ木細工の古いトランプ台が、ふたつの窓の間の壁のところに置いてあった。この台の上のほうに、楕円形《だえんけい》の晴雨計がかかっている。黒く縁どった上に、金色の細長いリボンのように木の飾り縁がつけてあるが、蝿《はえ》がやたらにたかったので、はたして金箔《きんぱく》をつかったのかどうかわからなくなっている。
暖炉と向かいあっている壁には、二枚のパステル画がかかっていて、グランデ夫人の祖父で、フランス保安隊中尉の服装をしたラ・ベルテリエール老人と、羊飼いのかっこうをした故ジャンチエ夫人を描いたものだった。ふたつの窓にはツール産の赤い粗《あら》絹のカーテンがかかっていて、教会堂用のふさのついた絹の紐《ひも》でしぼりあげてある。グランデの習慣とはまるで調和しないこうした贅沢《ぜいたく》な装飾は、あの飾り壁や振子時計や、綴れ織の家具や、ばら材の三角戸棚とともに、邸《やしき》を買いとったときにいっしょについていたものである。
出入り口に近いほうの窓べには藁《わら》を詰めた椅子がひとつあるが、その脚《あし》は継ぎたして高くしてあった。グランデ夫人が腰かけたまま、通りすがりの人を見られるためである。色あせた桜材の裁縫台が窓口いっぱいをふさいでいた。そしてウジェニー・グランデ嬢の小さな肱掛《ひじか》け椅子がすぐそばにある。十五年このかた、母と娘は、四月から十一月まで毎日この場所で、絶えず仕事をしながら、静かにすごしてきたのだった。十一月一日になると、冬の場所として炉ばたに席をとってもいいことになっていた。その日になるとはじめて、グランデは広間で火をたくことを許したが、三月三十一日になるとその火も消させてしまうのだった。春先や晩秋の冷気のことなどはいっこう考えに入れないのだ。それで、のっぽのナノンが気をきかせて台所の火を残しておいてくれるので、グランデ夫人とお嬢さんは燠《おき》を行火《あんか》に入れて、四月や十月の冷えびえとした朝晩をすごすのだった。
母と娘とで、家じゅうの下着類のことは引き受け、お針子《はりこ》のするようなそうした仕事をたんねんにやって一日をすごしていたので、ウジェニーは母の襟《えり》に縁《ふち》飾りをしてやりたいときには、父親の目をごまかして明りをつけながら、自分の眠る時間をさいてそれをしなければならなかった。ずっと以前から、このけちんぼうは、娘とのっぽのナノンに蝋燭《ろうそく》を配給で渡している。パンや毎日に必要な食糧品も、朝になると同じように割り当てで渡していたのだった。
のっぽのナノンは主人の圧制を受け入れることのできる、おそらくはただひとりの人間だった。彼女は、身長五尺八寸という高さなのでこう呼ばれていたが、三十五年前からグランデに仕えていた。給金は年にわずか六十フランだったが、それでもソーミュールじゅうでいちばん金のある女中のひとりとしてとおっていた。その六十フランを、三十五年このかた積み立ててきたので、最近クリュショ公証人のところへ終身年金として四千フランを預け入れることができた。のっぽのナノンの長い間の辛抱強い倹約のこの結実は、ものすごい大金に見えた。どこの家の女中も、この哀れな六十近い婆さんの老後の糧《かて》を見ては、どんなに辛《つら》い奉公をしたあげくそれを手に入れたかということは考えずに、ただ彼女をしきりに羨ましがった。
二十二歳のとき、この哀れな娘はどこの家にも雇ってもらえなかった。それほどみっともない顔をしていた。確かにそうした感情をもつことははなはだまちがったことかもしれない。その顔が選抜歩兵〔背丈の高い選抜兵からなる歩兵中隊〕の肩の上にのっているならば、たいへんほめられることになるにちがいない。だが、世間の人が言うように、どんなことにも適不適がある。彼女はどこかの農家で牝《め》牛の番をしていたが、そこが火事になったので、やむをえず暇をとるとソーミュールヘやってきた。そして、どんなことでもいやがらないその逞《たくま》しい元気にはげまされて、奉公口をさがしまわった。
そのころグランデは結婚しようと考えていて、すでに所帯をかまえる用意をしていた。彼は軒《のき》並みに断わられているその娘に目をつけた。樽《たる》屋としての目でその体力を判断して、ヘラクレスみたいなからだつきをした女から、どんな利益が引き出せるかということを見抜いたのだ。六十年も根を張った柏《かしわ》の木のようにしっかり足をふんばり、腰は頑強で、背中は角ばり、荷車引きのような手をし、しかも汚れを知らぬ貞潔さと、固い誠実さをもっている女だった。樽屋はまだいろいろなことに心をはげしく動かす年ごろだったが、ナノンの戦士のような顔を飾っている|いぼ《ヽヽ》とか、煉瓦《れんが》のような顔色とか、筋ばった腕とか、ぼろの着物とか、そんなものにはすこしも驚きはしなかった。そこで彼はその哀れな娘にちゃんとした着物を着せ、靴をはかせ、食べ物をあてがい、給金をわたして、あまりどなりつけもせず働かせることにした。
そのように厚遇されるのをみて、のっぽのナノンは喜んでひそかに涙をながし、樽屋に心の底からなついた。しかし、樽屋のほうは封建領主みたいにしぼり取った。ナノンはなんでもやった。台所仕事もやり、汚れ物のあく抜きもやり、ロアール河へ下着の洗濯《せんたく》にいって、それを肩にのせてもって帰った。朝は明け方に起きて、夜はおそく寝た。ぶどうの収穫時には取入れ人夫の食事をいっさい引き受け、摘《つ》み残しをひろい集める連中の見張りをする。忠実な犬のように、主人の財産を守る。最後に、主人を盲目的に信頼して、とっぴきわまるその気|紛《まぐ》れな言いつけにも、なにひとつ文句を言わずに従ったのである。
あの世間に名高い一八一一年には、その取入れに前代|未聞《みもん》の苦労をしなければならなかったが、二十年間にわたる奉公のあげく、グランデは古時計をナノンにやることに決めた。それは後にも先にも彼女のもらったただひとつの贈り物だった。古ぼけた靴をグランデは彼女に下げてやっていたが(それが彼女の足にあったのだった)、この三か月ごとの頂戴物《ちょうだいもの》は、どうしても贈り物としては思われないほど使い古したものだった。必要上やむをえず、この哀れな娘はひどくけちになり、ついにはグランデから犬をかわいがるようにかわいがられることになった。そしてナノンのほうも刺《とげ》のある首輪をおとなしくかけることになったのだが、その刺さえももう別段痛いとも感じなくなっていた。
グランデがいささかパンをけちくさく切ってくれることがあっても、彼女はそれに不平を言うのでもなかった。かつてだれも病気になったことのない、この家のきびしいしきたりがもたらす衛生上の利益に、彼女も喜んであずかっていた。
それにナノンは家族の一員になっていた。グランデが笑うときには彼女も笑うし、グランデとともに悲しみ、寒さにこごえ、火にあたり、働くのだった。こうした平等のなかに、どんなにか多くのここちよい慰めがあったことだろう! ぶどう畑の桃や杏《あんず》や梅や椿桃《つばいもも》の実を木の下で食べても主人は女中を叱《しか》ったことはなかった。
「さあ、いいだけ食べるがよい、ナノン」と、枝もたわむほど実がなった年には、グランデはそう彼女に言ったものだったが、そんなときには、小作人は果実を豚にくれてやるよりほかしかたなかったのである。
若いうちからひどい仕打ちしかうけてこなかった農家の娘、お慈悲でむかえられた貧しい娘にとって、グランデ親父《おやじ》のわけのわからない笑いでも、ほんとうに一条の日の光であった。それに、ナノンの単純な心と狭い頭は、ただひとつの感情とただひとつの考えしか入れておくことができなかった。三十五年このかた、素足《すあし》で、ぼろを着てグランデ親父の仕事場へやってきた自分の姿を絶えず目に浮かべ、「なんか用かね、娘さん?」と言ってくれた樽《たる》屋の言葉が耳にきこえる。それで、感謝の念はいつも新たになるのだった。
時おり、グランデはこう考える。この哀れな女は人から喜ばされるような言葉は一度も聞いたことはないし、女が人の心にいだかせる甘い感情などいっさい知らないで、聖処女マリアその人よりもなお純潔のままに、神のまえにいつの日か姿を現わすかもしれない、と。そう思うとグランデは憐憫《れんびん》の念にとらわれて、じっと彼女の顔をみつめながら、
「かわいそうにな、ナノン!」と言う。
この感じいった言葉をきくと、きまって老女中はなんとも言えない眼差《まなざ》しを彼に注ぐのだった。時おり言われるこの言葉は、ずっと以前から、途絶えることのない友情の鎖を形づくっていて、そう言われるごとにひとつの環《わ》を加えていくのだった。グランデの心を占め、老いたナノンが喜んで受け入れるこの憐《あわれ》みには、なにかしら恐ろしいものがこもっていた。樽屋の老人の心に数知れぬ喜びを味わわせた、このいかにも守銭奴《しゅせんど》らしい残忍な憐みは、それがナノンにとっては幸福の全部だった。「かわいそうにな、ナノン!」という言葉はだれにでも言えるかもしれない。だが、神のみが、そういう言葉の声の抑揚《よくよう》と憐憫の情の微妙なあらわれから、その人が天使かどうか見分け給うのだろう。
ソーミュールには、もっと厚遇されている召使のいる家庭がたくさんあるが、その主人たちは、召使からいっこう満足されていない。それで、町ではまたこういう言葉もかわされた。
「いったいグランデさんの家ではのっぽのナノンにどういうことをしてやって、あんなになつかせたのだろう? あの女は、あの家のためとあれば、火の中へでも飛びこみかねないね!」
ナノンの受けもつ台所は、格子《こうし》窓が中庭に面して、いつもきちんと清潔でひんやりしていて、なにひとつ無駄《むだ》になることのない、まさに締《しま》り屋の台所だった。ナノンは夕食後、食器を洗い、残り物をしまい、火を消してしまうと、廊下ひとつで広間からへだてられているその台所を出て、麻を紡《つむ》ぐために主人たちのところへやってくる。一家のものが夜をすごすのに、ただ一本の蝋燭《ろうそく》があれば、それだけで十分なのだ。女中は、隣の家との境壁にあけさせてもらった窓からやっと光の射《さ》すような、廊下の突当りに寝る。健康で頑健なからだだったから、そんな穴のようなところに平気で住まえたのだが、そこにいても、夜といわず日中といわず家の中は静まりかえっているので、どんなわずかな物音でも聞きとることができた。彼女は、番犬のように片耳をたてて眠り、横になりながらもあたりに気をくばっていたのにちがいない。
この家のほかの場所の説明は、この物語のいろいろの出来事につれて行なわれるだろうが、このあらゆる豪華なものが光り輝いている広間のようすを素描《そびょう》しただけでも、二階のほうはなにも飾りのないことが、あらかじめ想像できるわけである。
一八一九年、十一月半ばの日の暮れ方、のっぽのナノンはその年はじめての火をいれた。その秋はとても良い日がつづいたのだ。その日は、クリュショ派もデ・グラサン派もよくよく承知の、ある祝日にあたっていた。そこで、六人の敵味方は、その広間で戦いをいどみ、友情の証《あかし》の示しあいで他にぬきんでるため、あらゆる武器で身を固めて出かけようと、準備をととのえていた。
その朝、ソーミュールじゅうの人々は、グランデ夫人とお嬢さんがナノンを供につれて、近くの教会ヘミサにあずかりに行くのを見て、みんな、その日がウジェニー嬢の誕生日であることを思いだした。そうしたしだいで、クリュショ公証人とクリュショ神父とC・ド・ボンフォン氏の三人は、デ・グラサンの一家がグランデのお嬢さんにお祝いに行くより前に着こうと、夕食のすむ時間を見はからいながら道をいそいでいた。三人はそれぞれ自分たちの小さい温室で摘《つ》んでこしらえた大きな花束を持参していた。裁判所長が贈り物にしようという花束の根元には、金の縁《ふち》どりに飾られた白じゅすのリボンが器用に巻いてあった。
その朝、グランデ氏は、ウジェニーの誕生日や祝命節〔洗礼式のとき、使徒や聖人の名を、クリスチャン・ネームとしてつけるが、このクリスチャン・ネームと同じ名の聖人の祭日〕の記念日にはいつもそうしているように、娘の寝台のところへやってくると、十三年このかたおさだまりになっている珍しい一枚の金貨を、父親の贈り物としてもったいぶってさしだしたのだった。
グランデ夫人はたいてい冬なり夏なりのドレスを、そのおりにしたがって娘に与えていた。この二枚のドレスと、一月一日や祝祭日に父親からもらう金貨などで、ほぼ三百フランばかりの収入になるのだったが、グランデは娘がこうして貯《たくわ》えをふやしてゆくのを見るのが楽しみだった。つまりそれは、自分の金をひとつの金庫から他の金庫へうつすだけのことではあるまいか。しかも、言ってみれば、跡取り娘の欲ばり根性を、手塩にかけてだいじに育てあげてゆくことではあるまいか。彼は時おり娘にむかって、昔ラ・ベルテリエール家からもらったものですでにかなりなものになっている彼女の財産を、いくらになっているかききながら、
「これがおまえの嫁入りの祝金《ドウザン》〔花嫁のもらう祝金。その貨幣の枚数はすべて十二《ドウズ》を単位としている〕になるだろうな」と言うのだった。
祝金《ドウザン》というのは、フランス中央部の二、三の地方で今なお実行され尊いものとして保存されている古くからの風習である。ベリーやアンジューでは、娘が結婚するとき、自分の家族あるいは新郎の家族の者は、それぞれの財産に応じて、金貨もしくは銀貨を十二枚、十二枚の十二倍、あるいは千二百枚を入れた財布を、新婦に贈らなければならない。どんなに貧しい羊飼いの娘でも、たとい中身は銅貨にすぎなかろうと、必ず祝金《ドウザン》をもらって嫁にゆく。イスーダンの町でいまなお噂《うわさ》されていることだが、ある金持の跡取り娘に贈られた祝金《ドウザン》には、ポルトガル金貨が百四十四枚はいっていたということだ。カトリーヌ・ド・メディチの伯父の教皇クレメンス七世は、彼女をアンリ二世と結婚させるとき、世にもすばらしい値うちのある古代金貨十二枚を贈ったのだった。
さて、夕食のあいだ、ウジェニーが新しいドレスを着ていちだんときれいになったのを見て、とてもうれしくてたまらず叫んだ、
「ウジェニーの誕生日なんだから、火をたこうじゃないか! よい縁起《えんぎ》になるだろうからな」
「お嬢さまはきっと今年じゅうにお嫁入りなさいますよ」と、のっぽのナノンは、樽屋仲間で雉《きじ》の代用をする鵞鳥《がちょう》料理の残り物を下げながら言った。
「ソーミュールではこの子の相手は見つからないけれどね」と、グランデ夫人は、おずおずと夫のほうをうかがいながら答えた。そのようすは、年齢《とし》のせいもあって、この女が奴隷《どれい》のように呻吟《しんぎん》しながら夫に仕えていることを、ありありとみせていた。
グランデは娘をしみじみと見て、上|機嫌《きげん》に大声をあげた。
「きょうでこの子も二十三になる。そろそろこの子のことも考えてやらなくちゃなるまい」
ウジェニーと母親とは、意味ありげにそっと視線をかわした。
グランデ夫人は脂気《あぶらけ》もなく痩《や》せこけて、木瓜《ぼけ》の実のように黄色く、無器用で、動作のにぶい女で、生まれつきひどく扱われるようにできているような女のひとりだった。骨太で、鼻は大きく、額《ひたい》も大きく目も大きく、一目見たところ、ぶよぶよして味もそっけもない果物《くだもの》にどことなく似ていた。歯は黒ずんでまばらだし、口もとには皺《しわ》があり、顎《あご》はしゃくれ顎というあれだ。このうえない善人であって、まさにラ・ベルテリエールの典型だった。クリュショ神父はいい機会を見て、昔はそんな悪い器量ではなかったと言うと、彼女はそれを真《ま》にうけるのだった。天使のようなやさしさ、子供にいじめられる虫のような諦《あきら》めのよさ、まれにみる慈悲心、いつも変わらぬおだやかな気性、親切な気持ち、こうした性分から、みんなにきのどくがられ尊敬されてもいた。
夫は一度に六フラン以上の小遣《こづか》いを渡したことはなかった。見かけは変なところがあったが、この女は持参金と相続財産とで三十万フラン以上の金をグランデ親父《おやじ》のところへもってきていたので、屈従的な奴隷のような境遇に深い屈辱を感じてはいたが、心のやさしさから、反抗することはできなかったし、一文の金もすすんで要求したことはなかった。またクリュショ公証人が署名を求めてさしだす証書類についても、ひと言も文句を言わなかった。こうしたばかげた、人目につかない自尊心と、絶えずグランデに無視され傷つけられる気高い魂が、この女の行為を支配していた。
グランデ夫人は緑がかった絹の服をいつでも変わりなく着ていたが、それを一年近くもたせる習慣になっていた。白|木綿《もめん》の大きな肩掛けをつけ、縫取りをした麦|藁《わら》帽子をかぶり、ほとんどいつも黒い琥珀《こはく》織のエプロンをかけていた。めったに家を出ることがなかったので、靴《くつ》はほとんど減ることがない。要するに自分のことでは、なにひとつ要求することはなかった。
それでグランデは、妻に六フランやってから長い日がたっているのを時おり思いだして気がとがめ、その年の収穫物を売るときに、買い手に頼んで妻への心付けを出してもらうように取り決めるのだった。そんなわけで、グランデのぶどうを買い取るオランダなりベルギーなりの商人からもらう四、五枚のルイ金貨〔二十フラン金貨〕がグランデ夫人の年々の収入の大部分をなしていた。ところが、夫人が五枚のルイ金貨を受け取ると、夫はしばしば、まるで財布は夫婦共通のものであるかのように、「四、五スー貸してもらえるかい?」と言う。するとかわいそうにこの女は、彼女の聴罪司祭からこれこそ自分の殿でもあり主であると言われているこの男になにかしてやれるのがうれしくて、まだ冬の最中なのに、例の心付けのうちからいくらかを渡してしまうのだ。
グランデは、娘の糸や針や化粧品などの小|遣《づか》いとして月ぎめの五フラン金貨をポケットから取り出すとき、財布にボタンを掛けてから、妻にきまって言うのだった。
「で、お母さんは、おまえもなにかほしいかな?」
「さあ」と、グランデ夫人は母親の威厳といったような気持ちにかられて答えるのだった、「考えておきますわ」
ところで、母親の気高さなどというものは、とっくになくなってしまっている! グランデのほうは、妻に対してはなはだ気前がいいと思いこんでいる。ところで、もし哲学者がナノンやグランデ夫人やウジェニーのような女に出会ったならば、皮肉こそ神の摂理の基本をなしていることを認める権利があるのではなかろうか?
初めてウジェニーの結婚が話に出たその夕食がすんでから、ナノンが主人の居間へすぐり酒〔すぐりの果実でつくった薬用酒〕のびんを取りにいったとき、おりてくる途中、あやうくびんを取り落とすところだった。
「大ばか者め」と、主人が言った。「おまえもほかの者みたいに落ちる気かい?」
「旦那《だんな》さま、階段のせいでございますよ、ぐらついていますので」
「もっともですよ」と、グランデ夫人が言った、「もう以前から修繕しておおきにならなくてはいけなかったのですもの。きのうもウジェニーが足をくじきそうになったのですよ」
「ようし」グランデは真蒼《まっさお》になっているナノンを見て、「ウジェニーの誕生日だし、おまえは落ちそうになったのだから、気つけにすぐり酒を一杯やれ」と言った。
「ほんとに、頂戴《ちょうだい》するだけのことはありますよ」と、ナノンは言った、「ほかの者だったらびんを割ってしまうところでしたでしょうから。でも私ならたとい肱《ひじ》が折れてもびんをさしあげていますよ」
「きのどくになナノン!」と、言って、グランデはすぐり酒を注いでやった。
「けがをしたの?」と、ウジェニーは同情の眼差しで言った。
「いいえ。腰をぐっと張ってこらえたものですから」
「よしよし! きょうはウジェニーの誕生日だ」と、グランデは言った、「ひとつ踏み段を直すことにしよう。おまえたちときたら、端のほうへ足をのせることを知らないんだから。あのへんはまだしっかりしているんだが」
グランデは蝋燭《ろうそく》を手にとると、妻や娘や召使を、燃え盛っている暖炉の火の光のほかなんにも明りのないところへ残したまま、パン焼部屋へ板と釘《くぎ》と道具をとりにいった。
「お手伝いいたしましょうか?」と、ナノンは踏み段をたたく音をきいて、大声に言った。
「いや、いや! こんなことはわしのお得意だ」と昔の樽屋は答えた。
グランデが若いころを思いだして口笛を吹き鳴らしながら、虫食いの踏み段を自分で修繕していると、三人のクリュショが表の扉をたたいた。
「クリュショさまですね?」と、ナノンは例の小さい格子《こうし》からのぞきながらたずねた。
「そうですよ」と、裁判所長が答えた。
ナノンは扉をあけた。すると丸天井に反射する炉の光で、三人のクリュショは広間の入り口がわかった。
「まあ! お祝いにおいでくださったので」と、ナノンは花の香に気づいて言った。
「すみませんですな」と、友人の声を耳にしてグランデが大声をあげた。「いますぐ行きますよ! わしはきさくな性分でしてな、こうして自分で階段の踏み段を直していますわい」
「どうぞ、どうぞ、グランデさん。炭焼きもわが家じゃ町長《メール》〔「炭焼きでもわが家では主人《メートル》」という警句を、グランデが元|町長《メール》だったのにかけてもじったもの〕ですからな」、だれにもわからない自分の寓意《ぐうい》をひとりでほくそ笑《え》みながら、裁判所長がもったいぶって言った。
グランデ夫人と娘は立ちあがった。裁判所長は薄暗いのをいいことにして、ウジェニーに言った、
「失礼ですがお嬢さま、お誕生日のこの日、あなたのおしあわせな年月と御健康がいつまでも続きますようお祈り申し上げますことをお許しください」
彼はソーミュールでは珍しい大きな花束をささげた。そして跡取り娘の両|肱《ひじ》をかかえて、ウジェニーが恥ずかしがるほど悦《えつ》に入りながら、首の両側に接吻した。大きな錆釘《さびくぎ》みたいな裁判所長は、それでも自分は女の御機嫌《ごきげん》をとっているつもりだった。
「おくつろぎくだされ」と、グランデがはいってきて言った、「所長さんには祝いの日にはいつもこんなにしていただいて、どうも」
「いいえ、お嬢さんがお相手ならば」と、これも花束をかかえこんだクリュショ神父が答えた、
「この甥《おい》は毎日だってお祝い日ですわい」
神父はウジェニーの手に接吻した。クリュショ公証人にいたっては娘の両の頬《ほお》にあっさり接吻してから言った、
「ほんとになんて大きくおなりのことか! とにかく毎年、十二か月ありますからな」
グランデは明りを振子時計の前にもどしたが、彼はこれはおもしろいと思った冗談は決してやめずに飽《あ》きるまでくりかえす性《たち》だったので、こう言った、
「きょうはウジェニーの誕生日なんだから、燭台に明りをつけることにしよう!」
彼は枝つき燭台の枝をていねいにはずして、それぞれの台に蝋《ろう》受け皿をはめこみ、端に紙を巻いた新しい蝋燭《ろうそく》をナノンの手から受け取ると穴にさしこみ、よく確かめてから火をつけた。それから友人と娘と二本の蝋燭をかわるがわる見ながら、妻のそばにもどって腰をおろした。クリュショ神父は、まるまると肥《ふと》った小男で、赤毛の平べったいかつらをつけて、賭事《かけごと》ずきな婆さんみたいな顔をしている男だが、銀の留《と》め金《がね》つきのじょうぶな靴をしっかりはいた両足を前に突き出しながら、
「デ・グラサンの家の人たちはまだ来ないのですか?」と言った。
「まだですわい」と、グランデが答えた。
「でも、おいでになるわけでしょうな?」網杓子《あみじゃくし》のようにあばたのある顔をくしゃくしゃにして、老公証人がたずねた。
「そう思いますわ」と、グランデ夫人。
「ぶどうの取入れはおすみになりましたか?」ボンフォン裁判所長がグランデにきいた。
「どこもかしこもすっかり!」そう言うと、老ぶどう作りは立ちあがって広間を縦に行ったり来たりしながら、どこもかしこもすっかり! というその言葉のように、傲然《ごうぜん》と胸を突き出してみせた。
台所に通じている廊下の扉《とびら》のところから、のっぽのナノンが炉ばたにすわりこんで明りをつけ、麻を紡《つむ》ぐしたくをしているのが見えた。お祝いのじゃまにならないようにというつもりなのだ。
「ナノン」と、グランデは廊下に出て言った、「台所の火と蝋燭《ろうそく》の火を消して、わしたちのところへ来ないかい? なあに、広間はたっぷり広いから、みんながいっしょになってもだいじょうぶだ!」
「でも旦那《だんな》さま、お客さまがたがおおぜいおみえになりますのに」
「みんなと身分がちがうというのかい? なあに、みんなおまえと同じようにアダムの肋骨《ろっこつ》から出てきたんだ」
グランデは裁判所長のほうへ引き返すと言った、
「ぶどうはもうお売りですか?」
「いいえ、私はとっておくつもりです。いまでもぶどう酒の値はわるくはありませんが、二年もしたらきっとよい値になりましょうからね。御存じのように、ぶどう園主は互いに固い約束をかわして協定値段を維持してきています。それで、今年はベルギー人にしてやられることはありますまい。たといあの商人たちが行ってしまったところで、なに、またもどってきますよ」
「さよう。だが、こちらもみんながよく協定を守らなきゃ」と、グランデは言ったが、その調子に所長はぞっとした。
≪さては、この男、契約でもすすめているかな?≫と、クリュショは考えた。
このとき、|たたき槌《ノッカー》の音がして、デ・グラサン家の人々がやって来たことを知らせた。それで、グランデ夫人と神父とのあいだに始まっていた会話も中断された。
デ・グラサン夫人は、元気のいい、ふっくらと肥《ふと》った、色白でばら色をした小柄な女で、田舎風の食養生と身持ちの固い生活の習慣のおかげで、四十になってもまだ若々しさを保っていた。こういう女は、晩秋にも咲きのこっているばらの花のように、見たところきれいだが花弁はなんとなく冷やかだし、香もうすい。夫人はいい身なりをし、身のまわりを飾る品々はパリから取りよせて、ソーミュールの町の人々のお手本をなし、時々夜会を開いていた。
彼女の夫は、オーステルリッツの戦い〔オーステルリッツはオーストリアのメーレン州の小都市。一八〇五年十二月、ナポレオンはオーストリア、ロシア連合軍を破った〕で重傷を負って退役した元近衛主計大尉であって、グランデには一目《いちもく》おいていたが、見たところでは、いかにも軍人らしいざっくばらんな態度をとるのだった。
「やあ、グランデ君」と、ぶどう作りに手をさしだしながら言って、さも相手より上に立つ者のようなふうをした。それでいつもクリュショ家の者たちを圧倒してしまうのだった。
「お嬢さん」と、彼はグランデ夫人に挨拶《あいさつ》をすましてからウジェニーにむかって言った、「あなたはいつもながらおきれいでおしとやかですな。まったくのところ、あなたにはこれ以上ご挨拶することはありませんよ」
そして、彼は下男にもたせてきた小箱をさしだした。その中には最近ヨーロッパヘ輸入された珍しいものである喜望峰のヒースの花がはいっていた。
デ・グラサン夫人はたいそう情愛ぶかくウジェニーに接吻し、その手を握って言った。
「私のささやかな贈り物は、是非アドルフが自分でさしあげると言いますのよ」
長身で、ブロンドの青白くてひよわそうな青年がウジェニーのほうに進み出た。態度はなかなか上品で、見たところ内気そうではあるが、これで、法律の勉強に行ったパリでは、下宿料のほかに八千フランだか一万フランだかを使ってきたばかりだったのだ。ウジェニーの両|頬《ほお》に接吻すると、裁縫箱をさしだした。中味の小道具はすべて銀台に金めっきをほどこしたもので、まったくの安物の品だったが、それでも、上の楯形の飾りにはE・Gというウジェニーの頭文字がゴチック体でかなりみごとに彫ってあり、一見したところなかなか念入りな細工に思えた。ウジェニーはそれをあけてみて、若い娘がうれしさに頬を染め、身をふるわせ、胸をときめかせるあの思いがけない満ちたりた喜びを味わった。彼女は受け取っていいものかを確かめでもするように、父親のほうに眼をむけた。するとグランデ氏は、
「いただいておきなさい!」とひと言、舞台俳優が名をあげそうな抑揚をつけて言った。
そのような豪華な物はいまだかつて見たこともなかった跡取り娘が、デ・グラサン家のアドルフに投げかける喜ばしげないきいきとした眼差しを見て、クリュショ家の三人はあっけにとられてしまった。
デ・グラサン氏はグランデ氏に嗅ぎタバコをさしだし、自分でもひとつまみ手に取ると、青い上着のボタン穴につけたレジオン・ドヌール勲章のリボンの上に粉をふるい落とした。それからクリュショ家の連中のほうを、「どうだ、この一突き、こたえたか?」と、いわんばかりに見やった。
デ・グラサン夫人のほうは、クリュショ家の花束がさしてある青い花びんにちらっと目をやった。いかにも、人をばかにするのが好きな女らしい、まじめくさったようすでクリュショ家の連中の贈り物をさがしまわる調子だった。こうした微妙な局面にあたって、クリュショ神父は、暖炉の前に輪になって腰かけているみんなを残して、グランデと広間の奥のほうへ歩きだした。デ・グラサンの連中からいちばん離れた窓口へくると、
「あの連中は、金を窓から捨てるようなことをしますな」と、神父は守銭奴《しゅせんど》の耳もとにささやいた。
「かまやしませんよ、それがわしの穴倉へはいってくるのなら」と、ぶどう作りは答えた。
「お嬢さんに黄金《こがね》の鋏《はさみ》をあげようとお思いになれば、あなたならいくらでもできましょうよ」と、神父は言った。
「鋏よりもっとましなものをやっていますよ」
神父は、乱れた髪のために浅黒い顔がさらにひきたたなくなった裁判所長のほうを見やりながら、≪甥《おい》のやつ、まったく|間抜け《クリュシュ》〔クリュショとかけた語呂合わせ〕だ≫と考えた。≪いかにも値うちのありそうに見える、なにかがらくたでも考えだすことができなかったものか?≫
「さあ、いつものトランプでも始めましょうよ、グランデの奥さま」と、デ・グラサン夫人が言った。
「ほんとにみなさんがおそろいですので、テーブルをふたつにしてできますわね……」
「きょうはウジェニーのお祝いなんだから、みんないっしょにロト遊び〔数字の打ってあるいくつかに仕切りのある盤と、数字札とで遊ぶゲーム〕でもしよう」と、グランデ親父《おやじ》は言った。「この子たちふたりも入れてな」どんな賭事《かけごと》もいっさいしたことのない昔の樽屋は自分の娘とアドルフをさした。「さあ、ナノン、テーブルを並べておくれ」
「お手伝いしましょう、ナノンさん」ウジェニーを喜ばせたのですっかりうれしくなったデ・グラサン夫人が陽気に言った。
「私、こんなに喜ばしく思ったことは、生まれてはじめてですわ」と、跡取り娘が言った、「こんなきれいなもの、どこでだって一度も見たことがありません」
「アドルフですのよ、それを見立てたのも、パリからもって帰ったのも」と、デ・グラサン夫人はウジェニーの耳にささやいた。
≪さあ、もっとつづけたら、憎たらしい腹黒女め!≫裁判所長は胸のなかで言うのだった、≪おまえにしろ、おまえの亭主にしろ、もし訴訟ということになったら、勝ち目はまずないぞ≫
片隅にすわっている公証人は、落ち着きはらって神父のほうをながめながら、心中では、≪デ・グラサンの者どもは無駄《むだ》骨をおるだけだ。わしの財産と兄の分と甥《おい》のとで合計百十万フランになる。デ・グラサン家は、せいぜいその半分だ、しかもやつらには娘がひとりある。思うぞんぶん贈り物をするがいいさ! 跡取り娘も贈り物も、いずれみんなわしらのものになるのだ≫
夜の八時半に、テーブルがふたつ用意された。器量よしのデ・グラサン夫人は、息子をうまくウジェニーの隣にすわらせてしまった。見たところいかにもありふれた情景だが、しかし、興味あふれるこの場の役者たちは、数字を打ったまだら塗りの厚紙の盤と青ガラスの数字札をもっていて、そして老公証人が数字札を引くたびになにか必ず注釈をつけて冗談をとばすのに、さも耳をかたむけているようにみえたが、そのじつ、みんなグランデ氏の何百万という財産のことを考えていたのだ。老樽屋は、デ・グラサン夫人のばら色の羽根飾りとみずみずしいお化粧や、銀行家の軍人らしい顔つきや、アドルフの顔や、裁判所長、神父、公証人などを、うぬぼれきった気持ちでながめていた。そして内心では、
≪この連中は、わしの金が目当てでこうしてここにきているのだ。わしの娘が目的でここへやってきて退屈してやがるのだ。ふん! 娘はどっちの連中にもやりやしないぞ。この連中はみんな、わしが魚をしとめるときの銛《もり》の役目をしてくれるのだわい≫
二本の蝋燭《ろうそく》に照らされている薄暗い、古ぼけた灰色の客間の中の、この家庭的なにぎやかさ。のっぽのナノンの回す紡《つむぎ》車の音を伴奏にしたこの笑い声。それも心からの笑いはウジェニーとその母親の唇にのぼるものだけだった。こんなにも重大な利害に結びついているけちくさい心根。自分ではなにも知らないのに、ただ人がつけた高い値段の犠牲となる小鳥のように、友情のしるしにだまされて、追いつめられ、羽交《はがい》締めにされているこの若い娘。こうしたことのいっさいが、この舞台を物悲しくもこっけいなものにしていた。それにしてもこうした情景はいつの時代にも、またいかなる所にも見られるものであるが、そのうちでも最も単純な表現として示されているものではなかろうか? 二組の家族の見せかけだけの情愛を巧みに利用して、莫大《ばくだい》な利益を引き出しているグランデなる人物こそ、この劇を支配し、活気をあたえているのだった。そしてこれこそ人の信仰する現代の唯一の神、全能の『金』が、ひとりのグランデなる人物の顔を借りて表われたものではなかろうか?
ここでは、人の世のやさしい感情は、ただ脇役の位置しか占めていない。そうした感情は、三つの純粋な心を、ナノンとウジェニーとその母親の心だけを動かしていたのにすぎない。しかも、彼女らの素直さのなかには、なんと多くの無知があることか! ウジェニーもその母親も、グランデの財産についてはなにも知らなかった。世の中のことについても、ぼんやりした考えに照らして判断するだけで、金銭などは、これまで身につけずに過ごすことに慣れていたので、特に欲しがりもしなければ、また軽んずることもなかった。知らぬまに傷つけられてはいるが、もともと根強いふたりの感情、世間と交渉のない暮らし方、そうしたもののため母と娘は、ひたすら物質だけで生きているこの連中の集まりの中で、奇妙な例外をなしていた。人間であることの、なんという恐ろしい条件! なんらかの無知にもとづかない人間の幸福というものはひとつだにないのだ。
この広間でこれまで賭《か》けられた金額のうち最も高額である十六スーの賭金をグランデ夫人がとって、その大金をポケットに入れるのを見て、のっぽのナノンがうれしそうに笑っていたとき、|たたき槌《ノッカー》の打つ音がこの家の表口で響きわたった。あまり大きな音だったので、婦人たちは椅子の上でとびあがった。
「あのたたき方では、ソーミュールの人間じゃありませんな」と、公証人が言った。
「よくもあんなにたたきつけられるものだわ」と、ナノンが言った、「うちの戸をこわす気かしら?」
「どこのどいつだ?」と、グランデがどなった。
ナノンは、二本の蝋燭《ろうそく》のうち一本を取ると、扉をあけにいったが、グランデがその後についていった。
「あなた、あなた!」と、その妻は漠然《ばくぜん》とした恐怖にかられて叫ぶと、広間の入り口のほうへ急いだ。
ロ卜遊びをしていた者たちは互いに顔を見あわせた。
「わしたちも行ってみようじゃないか」と、デ・グラサン氏が言った、「あの|たたき槌《ノッカー》の打ち方にはなにか悪意があるように思える」
デ・グラサン氏がかろうじて見ることのできたのは、ひとりの青年の姿で、その後から駅馬車会社の配達人が、大きなトランクをふたつかついで、旅行|鞄《かばん》を引きずってついてきた。グランデはいきなり妻のほうをふりむいて言った、
「おまえはロトのほうへもどりなさい。このかたとの話はわしにまかせるのだ」
そして彼は広間の入り口をぴしゃりとしめた。広間ではざわめきたった人たちも自分の席にもどったが、ロトを続けるどころではなかった。
「ソーミュールのかたでしたの、あなた?」と、デ・グラサン夫人は夫にたずねた。
「いいや、旅の人だったよ」
「パリからきた人にちがいありませんわ」
「そのとおりだ」公証人は、オランダ船のようなかっこうの、指二本がほどの厚みのある旧式の時計を引っぱりだしながら、「ちょうど九時だ。ちくしょう! 国営馬車ときたら決しておくれないわい」
「ところで、そのかたは若いかたですかな?」と、クリュショ神父がたずねた。
「そうですよ」と、デ・グラサン氏は答えた、「少なくとも三百キロはある荷物をもってましたな」
「ナノンがもどってきませんわ」と、ウジェニーが言った。
「どなたかご親戚のかたにちがいありませんよ」と、裁判所長。
「さあ、また勝負をはじめましょう」と、グランデ夫人が物静かに言った、「声からしますと、うちの人はあまり機嫌《きげん》がよくないようにみえましたわ。自分のしていることを、わたくしたちが話していると知ったら、きっといやな顔をしますわ」
「お嬢さん」と、アドルフが隣に話しかけた、「あのかたはきっとあなたの従兄弟《いとこ》のグランデさんですよ。私はヌチンゲン氏〔バルザックの『人間喜劇』中の人物。大銀行家〕の舞踏会で見たことがありますが、とてもりっぱな青年ですよ」
アドルフは、母親に足を踏まれて、言葉を切った。母親は大きな声で、賭《かけ》の金を二スー出すようにと息子に言ってから、「おだまりなさい、なんて間抜けなんだろう!」と、耳もとにささやいた。
ちょうどそのとき、グランデがもどってきた。のっぽのナノンはいっしょでなく、その足音が配達人の足音とともに階段のところで響いた。グランデの後には旅の男がつづいた。しばらくまえから、すっかり好奇心をあおりたて、想像力をはげしく掻《か》き立てていたので、この男がこの家に到着し、人々のまんなかへ下りたったようすは、蜂《はち》の巣に蝸牛《かたつむり》が落ちてきたとも、どこか村の薄暗い鳥小屋の中に孔雀《くじゃく》が舞い下りたとも言えるようなものだった。
「火のそばにお掛け」と、グランデが言った。
すわるまえに、青年は一同にうやうやしくお辞儀をした。男たちは立ちあがってていねいに頭をさげてこたえ、婦人たちはあらたまった会釈をした。
「さぞ寒かったでしょうね」と、グランデ夫人は言った、「きっとおたちになった所は……」
「女たちはいつもそれだ!」と、老ぶどう作りは手にもった手紙を読むのをやめて言った、「休ませてあげるんだ」
「でも、お父さま、このかた、たぶん、なにか召し上がらなくては」と、ウジェニーが言った。
「このかたにも、ものを言う口はある」と、ぶどう作りはつっけんどんに答えた。
この場面に驚いたのは、その見知らぬ男ひとりだった。ほかの人たちは親父《おやじ》の暴君のようなやりくちには慣れていた。それでも、二度にわたるそうした問答がかわされると、見知らぬ男は立ちあがって、背中を火にむけ、片足をあげて靴底を暖めながら、ウジェニーに言った、
「どうもありがとう。ツールで食事をしてきました、それに」と、グランデをみつめながらつけ加えた、「それになにも欲しくありませんし、ぜんぜん疲れてもいません」
「パリからおいでですか?」デ・グラサン夫人がたずねた。
シャルル、というのがパリのグランデ氏の息子の名だったが、そのシャルルは問いかけられたのに気づくと、首に鎖でつるしている小さい鼻眼鏡を手にとって右目にあてがい、テーブルの上にある物と、そこに掛けている人々を仔細《しさい》に見やってから、デ・グラサン夫人をひどく無作法に横目で見た。すっかり見終わると、
「そうです、奥さん」と、答えた。そして、「伯母《おば》さま、ロトをなさっているんですね」と、つけ加え、「どうぞ、おつづけになってください。とてもおもしろくて、途中でやめられるものではありませんから……」
デ・グラサン夫人は、≪たしかにこれが、従兄弟なんだわ≫と、横目でちらちら見ながら考えた。
「四十七」と、老神父が叫んだ、「さあ、札をのせてくだされデ・グラサンの奥さん。あなたの持ち数じゃありませんかな?」
デ・グラサン氏が妻の盤の上に数字札をのせてやったが、妻のほうは悲しい予感におそわれて、もうロトのことなど念頭になく、パリの従兄弟とウジェニーとをかわるがわる見つめるのだった。時おり、若い跡取り娘は従兄弟のほうにこっそり視線をなげかけたが、銀行家の妻は、そこに驚きの色や好奇の色がまさに漸次強音《クレセント》で高まっていくのを、容易に見てとった。
[#改ページ]
二 パリの従兄弟《いとこ》
シャルル・グランデ氏は二十二歳の美青年で、そのとき、これらの田舎者とは奇妙な対照をなしていた。みんなははやくも彼の貴族的な物腰にだいぶ反感をそそられて、なにか嘲笑の種はないものかとしきりにながめまわしていた。これには説明がいる。
二十二歳ぐらいのときは、青年といってもまだかなり少年期に近いのだから、ともすれば子供っぽい行ないをしてしまうものだ。だから、おそらく青年の九割九分までがシャルル・グランデと同じようにふるまうにちがいない。この夜の集まりの数日まえ、彼の父は、ソーミュールの兄のところへ二、三か月行ってこいと言ったのだ。たぶんパリのグランデ氏は、ウジェニーのことを考えていたのだろう。生まれて初めて田舎へ行くことになったシャルルは、当世ふうの青年としてひときわすぐれた風采《ふうさい》で現われ、あの贅沢《ぜいたく》な身なりにはとてもかなわないと、地方の連中が対抗心をすっかり諦《あきら》めてしまうようにしてやろう、田舎に一時代を画してやろう、田舎にパリ生活の創意をもちこんでやろう、と考えた。要するにひと言で言ってしまえば、彼はソーミュールではパリにいるときよりもさらに念を入れて爪《つめ》をみがいてやろう、そして凝《こ》りに凝った身なりをしてやろうと、思ったのだ。ところが、ほんとうに粋《いき》な青年ならば、そんなふうにするかわりに、時には、優雅なおもむきがなくはない、わざとなげやりな装いを選ぶものなのだ。
ところで、シャルルは、パリでもいちばんはでな狩猟服と、いちばんはでな猟銃と、いちばんはでなナイフに鞘《さや》とをもちこんできた。世にも気のきいたチョッキ類をあるだけ全部もってきた。それには、灰色のや、白いのや、黒いのや、金色に映《は》える玉虫色のや、金箔《きんぱく》をおいたのや、まだら染めのや、折襟《おりえり》にもなる立襟《たちえり》のダブルのや、金ボタンが首までかかるのなどがあった。カラーやネクタイは当時流行のあらゆる種類のものをそっくりもってきた。ブュイソン仕立ての服を二着と、最上等の下着をもってきた。母親から贈られた、金色の化粧道具ももってきた。伊達男《だておとこ》の使うくだらない物といっしょに、目のさめるほどきれいな小さい文箱《ふばこ》を忘れずにもってきたが、それは、少なくとも、彼にとっては世界じゅうでいちばん愛らしい女、彼がアネットと呼んでいる上流婦人からもらったものである。この女はどうやら行状を怪しまれたので、やむをえず一時その幸福を犠牲にして、いやいやながら夫とともにスコットランドを旅行していたのである。そんな彼女にあてて、二週間ごとに手紙を書くために、きれいな便箋《びんせん》をたっぷりもってきた。
それらは要するに、パリのつまらない品物をおよぶかぎりかき集めた完全な大荷物であって、決闘の口火を切るのに使う鞭《むち》から、その決着をつける飾り彫りのみごとなピストルにいたるまで、有閑青年が人生の田畑を耕すのに使う道具類がいっさいはいっていた。父親からは、ひとりで地味に旅をするようにと言われていたので、彼は乗合馬車の前仕切《まえじき》り席を借りきってやってきたのだが、例の上流婦人とかの、……きたる六月にバーデンの温泉場で落ち合うことになっている、あのアネットを迎えに行くためにあつらえておいたすばらしい旅行馬車をいためずにすむので、それで彼はけっこう御満足だった。
シャルルは、伯父のところで百人もの人たちと会い、伯父の森で狩猟の馬を駆り、要するにそこでお城のような暮らしをするつもりでいた。伯父がソーミュールにいるとは知らなかった。ソーミュールでは、ただフロアフォンヘ行く道をたずねるために、伯父のことを問い合わせたにすぎなかったのだ。しかし、伯父がその町に住んでいるとわかると、大きなお屋敷にいるとばかり思いこんだ。それで、ソーミュールにしろ、フロアフォンにしろ、とにかく伯父のところへ初めて乗りこむにはきちんとしたふうでなければというわけで、最も洒落《しゃれ》た、最もすっきりと凝《こ》った、つまり事物や人物の特別完全なようすを簡潔に表わすのに、当時用いられた言葉をつかって言えば、最も|ほれぼれするよう《アドラーブル》な旅装をしてきたのだった。ツールで、理髪屋に美しい栗色の髪の毛に鏝《こて》をかけてもらい、下着を着替え、色白のにこやかな顔がぐあいよくおさまるようにと、丸襟《まるえり》と組み合わせた黒繻子《くろじゅす》のネクタイをつけた。ボタンを半分だけはめた旅行服はからだにぴったりしていて、折襟式のカシミヤのチョッキをのぞかせ、その下に白いチョッキを重ねていた。そのへんのポケットに無造作にほうりこんである時計は、短い金鎖でボタン穴に結びつけてある。灰色のズボンは両横がボタンでとめてあって、そこの縫い目のところは黒い絹の刺繍《ししゅう》で縁飾りがしてある。彼は楽しそうにステッキをもてあそんでいたが、その彫刻した金色の握りも、灰色の手袋の真新しさを少しもそこなうようなことはなかった。最後に、その帽子がまたすばらしいものだった。まさにパリっ子だけが、それもごく上流のパリっ子だけが、そうしたかっこうをしてもこっけいに見えないし、こんなばかげたようすをして、それで得意になっているのでいかにも調和がとれるのだ。しかしそれにはみごとなピストルと、射撃の確かな腕前と、アネットはわがものだという若者らしい態度、自信たっぷりの態度が力をそえていた。
さて、諸君が、ソーミュールの人たちとパリの青年がそれぞれにいだいた驚きがどんなものかをよく理解しようとするなら、そして広間の陰気な薄暗がりの中や一家の家庭図をなしている人物たちの中に、この旅の男の粋《いき》な姿が投げこんだまばゆいばかりの輝きを完全に知ろうとするならば、クリュショ家の連中を心に思い描いてみていただきたい。その三人はみんな嗅《か》ぎタバコをたしなみ、襟がちぢんで襞《ひだ》の黄ばんでいる赤茶けたワイシャツの胸飾りのところに、鼻水や黒い粉菓子が散っても、もうずっと以前から気にしなくなっていた。だらだらのネクタイは首に巻きつけたときからすぐにもう縄《なわ》のようにねじれてしまう。下着類は山ほどあるので、そのためにかえって半年に一度あく洗いをすればすむし、箪笥《たんす》の底のほうにしまいこんでおけるというので、みんな日がたつにつれて、古色|蒼然《そうぜん》たるものになっている。まさに彼らのうちには無粋と老衰とが完全に手を組んでいたのだ。擦《す》り切れた衣服と同じように張りもつやもなく、ズボンと同じように皺《しわ》くちゃになった彼らの顔は、いかにも使い古され、こわばって、しかもしかめ面をみせていた。
ほかの者たちの衣服も一般にだらしなく、ちぐはぐで、こざっぱりしていないのは、田舎の人たちの身仕舞いの常であるが、人のために着飾ることはいつのまにかやめてしまい、手袋一組の値段にも気をゆるさなくなっていて、クリュショ家の連中のむとんちゃくとうまく釣り合っていた。流行が大嫌いなことこそ、デ・グラサン派とクリュショ派とが完全に気が合うただひとつの点だった。
このパリっ子のシャルルが鼻眼鏡を手にとって、広間の奇妙な装飾や、天井の梁《はり》とか、壁の板張りの色合いとか、その板壁に点々とついた、『項目式百科辞典』や『モニトゥール新聞』の句読点に使えるほどの無数の蝿《はえ》の糞《ふん》とか、そんなものを見渡しはじめると、ロトをしていた連中はすぐ顔をあげて、まるで麒麟《きりん》でも見るときのようなようすで、物珍しげにシャルルをながめたのだった。デ・グラサン氏とその息子は、流行界の男の姿を知らないわけではなかったが、やはり隣人たちと同じように驚いたようすだった。なんとなくその場のみんなの気持ちに影響されたのかもしれないし、あるいは皮肉たっぷりの目つきで『パリではみんなそうですよ』と仲間に言いながらも、内心では感心していたのかもしれない。
みんなは、この家の主《あるじ》の機嫌《きげん》を損じるのを気がねすることなく、ゆっくりシャルルを観察することができた。グランデは手にした長い手紙に読みふけっていた。彼は客たちのことも、彼らの遊びのこともいっこう気にかけずに、テーブルの上のただひとつの燭台《しょくだい》を取り寄せて読んでいた。ウジェニーのほうは、服装にしろ、容姿にしろ、これほど完璧《かんぺき》なお手本のような人間はこれまで全然見たことがなかったので、この従兄弟《いとこ》がどこか天上の世界から舞いおりてきたもののように思われた。彼女はうっとりとして、彼のじつに輝くばかりの、じつに優美にちぢれている髪の毛からにおう香気をすっていた。上等のきれいな手袋の白い皮にできれば触《さわ》ってみたいと思った。シャルルの小さな手、その顔の色つや、目鼻だちのみずみずしさや繊細《せんさい》さが羨《うらや》ましかった。要するに、絶えず靴下のつくろいや、父親の衣類のつぎあて仕事にかかりっきりで、一時間にひとりの通行人があるかなしかの静まりかえった往来をながめながら、うす汚ない羽目板にかこまれて毎日の生活をおくっている世間知らずの娘に、若い伊達男《だておとこ》があたえた印象を要約して言ってみれば、次のようになる。
従兄弟の姿は、ウジェニーの心に、ちょうどイギリス製の記念帳《キープセーラ》にウェストール〔一七六五〜一八三六、イギリスの画家〕の描いた幻想的な女人像が若い男の心にひきおこすような微妙ななまめかしい情緒《じょうちょ》を湧きたたせたのである。その絵はフィンデン〔一七八七〜一八五二、イギリスの彫刻家、版画家〕などの彫り物師がじつに巧みな腕で刻んだもので、そうした絵の刷ってある犢皮《こうしかわ》の上を一吹き吹けば、天界の幻のようなその姿はとびちってしまうのではないかと思えるくらいである。
シャルルはハンカチをポケットから取り出した。それはスコットランドを旅行している例の上流婦人が刺繍《ししゅう》してくれたものである。恋ゆえに手間ひまいとわず情愛をこめてつくりあげたその美しい品を見ると、ウジェニーは、それを実際に使うのかどうか知りたいと思って、従兄弟をじっと見まもった。シャルルの態度、身ぶり、鼻眼鏡をかける手つき、わざとらしい横柄さ、さっきは金持の跡取り娘をあんなにも喜ばせた小箱などは、明らかに、なんの価値もない、こっけいなものと軽蔑《けいべつ》しきったそのようす、要するに、クリュショ家やデ・グラサン家の連中の気を悪くさせたいっさいが、この娘にはひどく気にいったので、さだめし眠りにつくまえに、従兄弟たちのうちでもいちばんすばらしいこの従兄弟を長いこと夢見るにちがいない。
ロトの数字札を引く手はひどくゆっくりしていたが、やがてまもなくその遊びは中止になった。のっぽのナノンがはいってきて、大きな声で言った、
「奥さま、このお客さまの寝台の支度をしますので、敷布を出してもらわなければなりませんけれど」
グランデ夫人はナノンの後についていった。すると、デ・グラサン夫人が小声で言った、
「場銭をしまって、ロトをやめにしましょう」
みんなそれぞれ、縁のかけた古いコーヒー皿に入れておいた二スーを取りもどした。それからいっせいにざわざわ立ちあがると、暖炉の前に円陣をつくった。
「もうおしまいですかな?」と、グランデが手紙を手にもったまま言った。
「ええ、ええ」と、デ・グラサン夫人が答えて、シャルルのそばに席をとった。
若い娘の心に、ある感情がはじめて宿るといろいろな考えが生まれるものだが、ウジェニーもそうした考えのひとつに動かされて、母とナノンの手伝いをしに広間を出ていった。もし手慣れた聴罪司祭に問いただされたら、彼女は母のことやナノンのことを思って行くのではなくて、従兄弟《いとこ》の部屋をできるだけきれいに清潔にしておくために、実地に見てまわって、その場であれこれと世話をやいたり、手落ちなく用意をととのえて、必要なものをすえつけたりしたいという、そうした針で刺されるようなはげしい欲望に悩まされてのことであると、おそらく告解《こっかい》したであろう。ウジェニーは、はやくも、従兄弟の趣味や考え方のわかるのは、自分ひとりだけだと思いこんでいたのである。
実際、ちょうどよくまにあって、母親とナノンがなにもかも用が片づいたと思ってもどってくるのに、なにもかもやりなおしをしなければならないということを見せつけてやった。彼女は、のっぽのナノンに暖炉の燠《おき》を行火《あんか》に入れて寝床を暖めるという思いつきを教えた。古びたテーブルには自分で小型のテーブル掛けを置くと、ナノンに毎朝とりかえるように言いつけた。暖炉にはどんどん火をたく必要があることを母親に納得《なっとく》させ、そして父親にはひとこともことわらずに薪《たきぎ》の大きな束を廊下にあげておくように、ナノンに決心させた。亡《な》くなったラ・ベルテリエール老人から譲り受けた古い漆塗りの盆が広間の三角戸棚のひとつにはいっているのを取りにゆき、ついでにそこから六角のカットグラスのグラスと、金めっきのはげた小さいスプーンと、|愛の神《キューピッド》の彫刻のある古風な水差しをもってきて、意気揚々とそれらを暖炉の片隅においた。生まれてこれまでに考えついたことよりも、その十五分に考えついたことのほうがはるかに多かった。
「お母さま」と、彼女は言った、「脂蝋燭《あぶらろうそく》の臭《にお》いなんぞ、お従兄弟《にい》さんはがまんできなくてよ。白いのを買ったらいかが……」
そして小鳥のように身軽にとんでいって、その月の小遣《こづか》いにもらってあった百スーのお金を財布から取り出すと、
「さあ、ナノン、早く行ってよ」と、言った。
「まあ、あんたのお父さまがなんとおっしゃるかしら?」
グランデがフロアフォンの館《やかた》からもってきておいた古いセーヴル焼の砂糖|壺《つぼ》をかかえている娘を見たとき、こうした恐ろしげな異議がグランデ夫人の口から出た。
「それにお砂糖〔第一帝政時代には砂糖は非常に高価で珍しいものであったが、王政復古期のころからは安価になった。この物語のころは昔のことを思って、つましく消費されていた〕をいったいどこからもってくるつもりなの? 気でもお狂いなのかい?」
「お母さま、ナノンが白い蝋燭といっしょに買ってくればいいわ」
「でも、お父さまは?」
「そのお父さまの甥《おい》のかたが、砂糖水一杯も飲むことができないなんておかしいじゃありません? それに、お父さまはそんなことに気がつきゃしなくてよ」
「お父さまは、なんでもお見通しですよ」グランデ夫人は首をふりながら、そう言った。
ナノンはためらっていた。主人のことはよく心得ているのだ。
「いいからお行き、ナノン。私の誕生日なんだから!」
ナノンは、若い女主人のこれまで言ったことのない冗談をはじめて耳にすると、思わず笑いだしてしまい、そして言いつけに従った。ウジェニーとその母親が、グランデ氏が甥にあてがった部屋を一所懸命になって飾りつけているあいだ、シャルルはデ・グラサン夫人からしきりにちやほやされていた。夫人はさかんに気をひくようなしぐさや言葉をふりまくのだった。
「ほんとうにあなたさまは」と、彼女は話しかけた、「冬のあいだパリでのいろいろな楽しみをふりすててソーミュールに御滞在においでになるなんて、ずいぶん思いきりのよいおかたでいらっしゃいますわね。でも、もし私どもがそれほど御不快でなければ、こんなところでもまだけっこうお楽しみになれますわ」
こう言うと、夫人はまさに田舎ふうの流し目で彼をちらっと見やった。田舎の女というものは、習慣から、いかにも控えめで慎しみぶかい目つきをするのだが、いっさいの楽しみごとは盗みか、さもなければ過失のようなものと考える聖職者に特有なあの好色な目つきにどこか通じるものをもっている。
シャルルは広間ですっかり途方に暮れていたし、伯父が広壮な邸宅をかまえて、豪奢《ごうしゃ》な生活をおくっているものと想像していたのにすっかり当てがはずれてしまったので、デ・グラサン夫人をまじまじと見つめているうちに、その女にはどこかパリ女の面影《おもかげ》が消え残っていることに気づいた。彼は自分に向けられたいわば誘いの手に愛想よくこたえた。そうしてひとりでに会話がはじまり、デ・グラサン夫人は自分の打明け話の性質に調子をあわせるためにしだいに声を低めていった。夫人の心中にもシャルルの心中にも腹蔵《ふくぞう》なく話し合いたいという同じ欲求があった。これで、しばらくのあいだ、思わせぶりなおしゃべりや内心本気の冗談をかわしていたが、やがてこの抜け目ない田舎女は、そのころソーミュールじゅうの話題となっている、ぶどう酒の売買について話しているほかの連中に聞かれる心配はないと思って、こう話しかけることができた。
「わたしどもの宅へおいでくださるようでしたら、私同様に主人もさだめしどんなにか喜ぶことでしょう。私どものサロンは、ソーミュールでは、一流の商人や貴族のかたがお集まりになるただひとつのところでございますの。私どもはそのどちらの社会にも属していますし、どちらのかたがたからも、あそこなら楽しめるから落ち合ってもいいとおっしゃってくださいますのよ。主人は、自慢になりますけど、どちらからも同じように一目《いちもく》おかれています。それで、あなたさまがここに御滞在中の御退屈は、私どもでまぎらわしてさしあげるようにつとめましょう。もし、このグランデさんのお宅にじっとしていらっしゃったら、いったいどんなことになるでしょう、ほんとに! あなたの伯父さまはぶどうをふやす取り木のことしか考えていないけちんぼうですし、伯母さまのほうは、融通のきかないこちこちの信心家ときています。それにあなたのお従姉妹《いとこ》さんは、教育もない平凡なひとで、持参金もろくにない、ぞうきん刺しばかりして一生暮らしているような、おばかさんですものね」
≪この女はとてもいかすぞ≫と、シャルル・グランデは心中思いながら、デ・グラサン夫人の愛想笑いに答えていた。
「どうやらおまえは、このかたをひとりで買い占めるつもりらしいな」と、肥《ふと》って背の高い銀行家が笑いながら言った。
この意見がましい言葉にあわせて、公証人と裁判所長が多少意地のわるい言葉を口にした。しかし神父はずるそうな目つきでふたりをながめて、ひとつかみタバコをつまんでから、みんなにもそのタバコをすすめながら、ふたりの心を手短かにかいつまんで代弁した。
「ソーミュールじゅうで、このおかたをいちばんおもてなしできる者といえば、この奥さんにまさる人がいますかな?」
「ほ、ほう。どういうつもりでそうおっしゃるんですか、神父さん?」と、デ・グラサン氏がたずねた。
「あなたのためにも、奥さんのためにも、ソーミュールじゅうの人のためにも、いちばんためになる意味で申し上げていますのじゃ」と言うと、この抜け目のない老人はシャルルのほうをふりむいてつけ加えた、「このおかたのためにも、な」
クリュショ神父は、さきほどいっこう注意をはらっているようには見えなかったが、シャルルとデ・グラサン夫人との会話の内容を推察していたのである。
「あなたは」と、ついにアドルフがうちとけたようすを見せようとして、シャルルに話しかけた、
「私のことなどおぼえておいでかどうか知りませんが、ヌチンゲン男爵のところの舞踏会でカドリーユ〔男女の四人が一組となり四角にむきあって踊るフランスの社交ダンス〕のお相手をつとめまして、そして……」
「ほんとに、ほんとにそうでした」と、シャルルは自分が一座の注目の的になっているのに気づき、驚いて答えた。そして、
「このかたは、御令息ですか?」と、デ・グラサン夫人にたずねた。
神父は意地のわるい目つきで夫人を見まもった。
「そうでございますわ」と、夫人は答えた。
「そうすると、あなたはずいぶんお小さいときだったんですね、パリヘいらっしゃったのは?」と、シャルルは話をついで、アドルフにむかって言った。
「やむをえませんことでしてな、あなた」と、神父が言った、「ここらあたりでは、子供が乳離れするのが早いかバビロン〔古代メソポタミアの都市。バビロンの栄華とよばれ、文化が栄え、風俗が乱れた。ここではパリをさす〕ヘやってしまいますのでな」
デ・グラサン夫人は、驚くほど深い突き刺すような眼差《まなざ》しで、神父の顔をじろりと見た。
「やがて法学士にもなろうという息子さんがありながら」と、神父は平気でつづけた、「それでもこの奥さんのようにみずみずしい三十幾つという御婦人を見ようとするなら、やっぱり田舎へやってこなきゃなりますまい。昔、奥さんが踊るのを見ようとして、若い人たちや御婦人がたが椅子の上に立ちあがった日のことがありましてな。奥さんは、まだあの日と同じようにわしに見えますわい」神父は敵がわの夫人のほうを振り向いて、「このわしにとって、あの奥さんが評判をおとりになった日のことは、つい昨日のことみたいでしてな……」
≪まあ、この老いぼれの性悪《しょうわる》ったら!≫と、デ・グラサン夫人は心につぶやいた、≪さては、こちらの胸のうちが読めたのかしら?≫
≪このぶんだと、ソーミュールでは大成功をおさめられそうだぞ≫と、思いながら、シャルルは上着のボタンをはずして、チョッキに片手をつっこみ、シャントレー〔一七八二〜一八四二、イギリスの高名な彫刻家。名士の像をたくさん制作した〕の彫刻したバイロン卿の像のまねをして、あらぬかなたに目をやった。
グランデ親父《おやじ》がいっこうにあたりに注意をはらっていないようす、というよりは一心に手紙に読みふけっているようすを、公証人も裁判所長も見のがさなかった。彼らは、そのときちょうど、蝋燭《ろうそく》の光に照らしだされた老人の顔の目にもとまらぬほどの動きから、なんとか手紙の内容を推察しようと一所懸命だった。ところで、ぶどう作りはいつもの冷静な顔つきをやっとのことでもちつづけていたのだった。が、以下の破滅的な手紙を読めば、この男のむりに装った顔つきがどんなものだったか、だれしも思い描くことができるだろう。
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≪兄上さま、一別《いちべつ》以来、やがて二十三年になります。最後にお目にかかったのは、小生の結婚のことで、その節は愉快にお別れしました。当時、一家の隆盛《りゅうせい》を喜んでおられた兄上が、わが一門の支柱となられる日が来ようとは、実際、まるで推測することもできませんでした。この手紙が、お手もとに届くころには、小生はもはやこの世にいますまい。これまでの社会的地位からして、倒産の恥辱《ちじょく》にあいながらも、なお生き長らえようとは思いません。あくまで浮かびあがろうと、最後の瞬間まで、奈落《ならく》の縁にしがみついていた次第ですが、今となっては転落のほかありません。小生信用の株式仲買人およびロガン公証人、両者の破産で、万策尽きはて、小生は無一物となりました。負債はほぼ四百万フランの重荷に対し、提供しうる資産はその二割五分にすぎません。手持ちのぶどう酒も、御地の収穫の豊富と品質優良のため、破滅的な下落をこうむりました。三日もすれば、『グランデ氏はぺてん師だった』という声がパリじゅうにひろまることでしょう。
正直者の小生も、こうして汚辱の経帷子《きょうかたびら》を着せられて葬られるわけです。小生はわが子の名を汚し、母親から譲られたその財産をも奪い取ることになりました。深く愛するあの不幸な子は、この事はいっさい知りません。ふたりはやさしく別れの言葉をかわしました。この別れの言葉に、小生はわが生命の最後の流れを注ぎこんだのですが、幸いなことに、わが子は、なにも気づきませんでした。いつの日か、息子は小生を呪《のろ》うにいたるでしょうか? ああ、兄上、子の親に対する呪詛《じゅそ》はまことに恐ろしいものです。親の呪詛には、子は抗しうるが、子の呪いは取り消しえないものです。あなたは、わが兄なれば、なにとぞ義務と心得て小生をお庇《かば》いください、シャルルがわが墓に苦《にが》い言葉を吐きかけぬようになさってください!
兄上、たといこの手紙をわが血涙をしぼって書きつらねたとしても、この手紙にこの小生の苦悩は如実《にょじつ》にはあらわれますまい。というのは、涙を流し、血の出る思いをしようとも、死んでしまえば、もはや苦しみはないからです。しかるに今は苦しみ、涙も涸《か》れた眼で死に直面しているのです。されば、今こそ兄上はシャルルの父親なのです! 御存じのような理由により、彼には母方の親戚はひとりもありません。なぜ、小生は社会の通念に従わなかったのか。なぜ恋に負けてしまったのか。なぜ大貴族の妾腹《しょうふく》の子などを妻にめとったものか。シャルルにはもはや家がありません。ああ、不憫《ふびん》なわが子!
お聞きください、兄上、小生は決してわが身のために嘆願しているのではありません。しかも、おそらく兄上の財産も、三百万の抵当を引き受けるに十分なほど巨額なものとは思われず、嘆願はひとえにわが子のためなのです! 兄上、兄上を思い描いて合掌《がっしょう》し哀願している小生を、よろしく御推察くださるよう。この世を去るに際して、シャルルを兄上にお任せいたします。兄上が父親代わりになってくださると思えば、今こそなんの苦痛もなくピストルをながめられます。シャルルは小生を心から愛してくれました。小生もやさしく対し、かつてあの子の気持ちにさからったことはありません。それゆえ、あの子も小生を呪《のろ》うようなことはありますまい。しかも、いずれおわかりになることでしょうが、シャルルは母親似で心はやさしく、決して兄上に御心痛をおかけするようなことはありますまい。かわいそうにも息子は、贅沢《ぜいたく》な享楽に馴れ親しんで、われわれ兄弟が幼少のとき苦しんだ窮乏の生活をいささかも知りません。……しかるに今、落ちぶれはて、寄るべのない身となりはててしまいました。友人たちもすべて逃げ去ることでしょうし、ただに私のせいで、幾多の侮辱をうけることでしょう。ああ! 天国の母親のかたわらに一気にわが子をはこんでゆく強力な腕《かいな》があればと思います。これもばかげた繰《く》り言《ごと》にすぎません!
ふたたび小生の不幸、シャルルの不幸に筆をもどします。さて、わが子を兄上のもとにつかわしたのは、小生の死去とせがれの今後の運命について、適当なおりに兄上から知らせていただきたいと思ってのことです。なにとぞ、わが子のために父親に、よき父親になってください。一挙に無為徒食《むいとしょく》の生活を取り上げないでいただきたい、角《つの》を矯《た》めて牛を殺すことになりかねませんので。さて、息子は母親の相続者の資格において、小生に対し債権を行使できるのですが、それは放棄するようにと切願します。しかし、それは無用の願いでありましょう。シャルルにも名誉心はあるのですから、小生に対する債権者の仲間入りなどすべきではないと、はっきりさとるでしょう。さらにまた、有効期間中に小生に対する相続権を放棄するようにさせてください。小生の倒産のために、苛酷《かこく》な境遇におちいったことをお知らせになったうえで、なおも小生に愛情をいだいているならば、小生の名において、いっさいが失われているのではないことを、よく言ってきかせていただきたいのです。そうです、かつてわれわれ兄弟を救った勤労こそ、小生が奪い去ってしまった財産を取りもどすことができるのです。そしてもし、せがれにして父親の声を聞く心がありますならば、せがれのために、一瞬、墓からとびでんばかりの思いでおりますこの父は、国をたち、東インド諸国に出かけるようにと告げたいものです。
兄上、シャルルは誠実で勇敢な若者です、どうか交易雑貨をととのえてやってください。お貸しくださる最初の元金を返済できないようなことになれば、シャルルはむしろ死を選ぶにちがいありません。ですから、兄上は融通してくださるものと思います。もし御融通願えなければ、いつかかならず後悔なさるにちがいありません。ああ! もしもわが子が御援助と御厚情を受けることがないようならば、兄上の無情に対して永遠の復讐《ふくしゅう》を神に願うつもりです。小生にしてもいくらかの金額を救いえていれば、母親の遺産の若干を息子に引き渡すことができたでしょう。ところが、本日末の諸支払いの結果、いっさいの資金は尽きてしまいました。じつは、わが子の行く末を確かめぬままこの世を去るに忍びず、親しく兄上の手の暖かみのうちに清らかな約束を感じとり、安心もさせていただこうと願ったのです。しかし今はその余裕もありません。シャルルが旅をしているあいだ、小生は決算の作製を余儀なくされています。小生の平素の事業で重要な役割をはたしてきた誠実さによって、このたびの敗北には過誤も不正もないことを、証明しようと努力しています。これこそ、まさにシャルルを思うことではありませんでしょうか。
さらば、兄上。小生のお願い申し上げる後見、兄上はかならずお引き受けくださるものと信じて疑いません。その寛大な後見を愛《め》でて神の祝福がひとえに兄上のうえにありますように。いつかは共におもむくべきあの世に、小生はすでにまいっているのであって、そこで兄上のために祈りの声を絶やさぬでありましょう。
ヴィクトル・アンジュ・ギョーム・グランデ≫
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「お話ちゅうかな?」グランデ親父《おやじ》は手紙を元の折り目どおりにきちんと畳《たた》んで、チョッキのポケットにしまいながら言った。さまざまな感動と計算をその下に隠した、腰の低い、おずおずした態度で、甥《おい》を見やった。
「暖まったかね?」
「とても暖くなりました、伯父さま」
「そう。ところで女たちはどこへ行ったのかね?」甥が自分のところに泊まるということをもう忘れて、伯父が言った。ちょうどそのとき、ウジェニーとグランデ夫人がはいってきた。
「二階の用意はすっかりできたかい?」と、老人は落着きをとりもどして、ふたりにたずねた。
「はい、お父さま」
「ではと、疲れているようなら、ナノンがきみの部屋へ案内するからね。ほんとうのところ、伊達《だて》な若い衆向きの部屋というわけにはいくまいがな。一文無しの哀れなぶどう作りのことだから、まあがまんしてもらわないことにゃ。税金でみんな吸い上げられてしまうでな」
「グランデさん、私どももおじゃまする気はございませんでな」と、銀行家が言った。「甥御さんとゆっくりお話もあることだろうし、私どもはこのへんで失礼させていただきます。ではまた、明日」
この言葉に、一同は立ちあがり、そして思い思いの流儀で挨拶をした。老公証人は入り口のところへ提灯《ちょうちん》を取りにいって、デ・グラサン家の人たちに、送ってゆきましょうと言いながら火をつけた。デ・グラサン夫人は、この夜の集まりが思いがけない出来事で、こんなに早く切り上げになろうとは予期していなかったので、まだ召使が到着していなかった。
「どうぞ、私の腕をおとりくださいませんかね、奥さん?」と、クリュショ神父がデ・グラサン夫人に言った。
「ありがとうございます、神父さま。でも、息子がおりますので」と、夫人はそっけなく答えた。
「御婦人がたも、この私とならあぶないこともありますまいに」と、神父が言った。
「では、クリュショさんに腕をおかしになっていただきなさい」と、彼女の夫が言った。
神父は一行より数歩先立つために、きれいな夫人をすばやく連れだした。
「あの青年はなかなかりっぱですな、奥さん」そう言いながら、夫人の腕を締めつけた。
「≪さらばぶどう籠《かご》よ、取入れは終わりぬ〔このことわざは、事が失敗したこと、あるいは、単にすんでしまったことを意味する〕≫というところですな。奥さんも、ウジェニー嬢に、さらばと、別れを告げなければなりますまい。ウジェニーさんは、あのパリっ子のものでしょう。少なくも、あの従兄弟《いとこ》がだれかパリの女に惚《ほ》れてでもいないかぎり、お宅のアドルフ君にとっては、強敵が現われたというわけで……」
「かまわないでください、神父さま。あの青年《ひと》にしたってやがて気がつきますよ、ウジェニーさんがおばかさんで、みずみずしいところのない娘だってことが。ごらんになりまして? 今夜のあの娘、まるでマルメロの実みたいな黄色い顔をしているのを」
「おそらくもう、あの従兄弟にそのことを教えてあげなすったでしょうな」
「べつに遠慮することはありませんもの……」
「いつもウジェニーさんの横に席をお取りになることですな、奥さん。そうすればあの青年にわざわざなにも言わなくても、自分で比較するでしょうし、そして……」
「あの人は明後日、私どもの宅へ晩御飯に来てくださると約束なさいましたわ」
「ほう! 奥さんさえその気になれば……」と、神父は言った。
「私さえその気になれば、どうだっておっしゃるんですの、神父さま? そんなにして、私に悪い知恵でもつけてくださるおつもりですか? 私は三十九のこの年になるまで、ありがたいことに、悪い噂《うわさ》はなにひとつたてられたことはございません。大蒙古帝国と引き替えにだって、いまさら評判に傷をつけたくはありませんわ。もう私どもはお互いに、どういうつもりで口に出すかということがわかる年ごろになっていますのよ。聖職におありのくせに、ほんとうに淫《みだ》らなお考えをおもちですこと。いやですわね、『フォープラス〔ハーヴェ・ド・クーヴレーの小説『シュヴァリエ・ド・フォープラスの恋』の主人公。十八世紀末の乱れた恋愛を描いた作品〕』みたいなことをおっしゃって」
「では、『フォープラス』をお読みですかな?」
「いいえ神父さま、『危険な関係』〔ラクロの小説。上流社会の退廃的な恋愛を描いた傑作〕というつもりでしたの」
「ああ! あの本ならずっと道徳的です」と、神父は笑いながら言った、「それにしても、奥さんはこの私を、このごろの若い者と同じように堕落した人間だとおっしゃる。私はただちょっと奥さんに……」
「なにも悪知恵をつけることなどを考えていたのではないとおっしゃるつもりなんでしょ。でも、はっきりしていることじゃありませんか? あの若いかたが、あのかたがとてもりっぱなかただということは、私も認めますけれど、もし私に言い寄るようなことがあるとすれば、あのかたは従姉妹《いとこ》のことなど考えていないことになりますでしょう。パリでは、私も知っていますが、子供たちの幸福と財産のためなら、自分の身をささげるような母親がいますわ。でもね、ここは田舎ですからね、神父さま」
「さようで、奥さん」
「それに」と、夫人はつづけた、「私だって、アドルフにしたって、たとい一億でもそんな犠牲をはらってまでして欲しくはありません」
「奥さん、わしはなにも一億の金のことなんかお話ししたのじゃありませんよ。とにかく誘惑というものは、お互い私どもの力では、どうにもならないもののようですね。ただ、わしの考えじゃ貞淑な御婦人でも、しごくまじめな気持ちで、ちょっとした色っぽいしぐさをなさっても、いっこうにさしつかえないことでして、それは社交上の義務のひとつでもあり、そして……」
「ほんとにそうお思いですの?」
「いや、奥さん、お互いになるべく感じがよいように心がけるべきじゃありませんかな。……失礼、ちょっと鼻をかみます。……それは確かなことですがね」と、また言葉をついだ、「あの男が奥さんを横目で見る目つきは、わしなどを見るときよりもいささか媚《こ》びるようなところがありましたよ。もっとも老いぼれよりも美人に敬意を表わすのだから、許してやりましょうが……」
「明らかなことですよ」と、裁判所長が太い声で話していた、「パリのグランデさんが、息子をソーミュールによこしたのは、結婚本位の意図からだということは」
「ところが、そうすると、あの従兄弟《いとこ》がまるで鉄砲玉のようにふいにやってくることはありますまい」と、公証人が答えた。
「それはなんとも言えませんな」と、デ・グラサン氏が言った、「なんせ、爺《じい》さんは隠しだてが大好きですからな」
「ねえあなた、私、あのかたを晩餐《ばんさん》にお招きしましたのよ。ラルソニエール御夫妻とデュ・オートア御夫妻のところへ、お招きに行ってくださらなきゃ。もちろん、あのおきれいなデュ・オートアのお嬢さんもですよ。でも、その日にはきちんとした身なりをなさってくださればいいですがね! あのお母さんたら、妬《や》けるのか、とっても変なかっこうをさせておおきになるのだから。どうぞ、みなさんも来てくださいませね」夫人は行列をとめて、クリュショ家のふたりのほうを振り向いてつけ加えた。
「もうお宅ですよ、奥さん」と、公証人が言った。
デ・グラサン家の三人に別れの挨拶をすませてからクリュショ家の三人は家へ帰る途中、田舎者がもつ分析の才能をつかって、その夜の集まりの、クリュショ派とデ・グラサン派のそれぞれの立場を変えてしまった大事件をあらゆる面から検討するのだった。これらの偉大なる打算家たちの行動を支配している驚くべきすぐれた勘のはたらきで、互いに感じとったことは、共通の敵に対抗して一時的に同盟を結ぶ必要があるということだった。ウジェニーが従兄弟を愛することと、シャルルが従姉妹《いとこ》のことを考えるのをじゃまするのが、相互に必要なことではなかろうか? このパリっ子をだまそうとして、それから絶えずそのまわりをとりまくことになる不実なあてこすりや、甘ったるい中傷や、賞賛につつまれた悪口や、無邪気そうな否認などに、彼は抵抗することができるだろうか?
広間で身うち四人だけになると、グランデ氏は甥《おい》にむかって言った、
「もう寝なけりゃならん。もう遅いから、きみがこっちへやってくるようになった事情については、明日、いい時機をみつけて話し合うことにしよう。ここでは、八時に朝食をとる。昼は、果物と、ほんの一切れのパンを大急ぎで食べ、それに白ぶどう酒を一杯飲む。それからパリの連中と同じように、五時に夕食をとる。それがきまりだ。もし、町や近所を見物したいのなら、思いどおりにかってにするがよい。仕事があるので、いつもお伴《とも》をするわけにはいかない。たぶん、ここの連中がみんな、わしのことを金持だと言っているのを聞いているだろう、こっちでもグランデさん、あっちでもグランデさんとな! わしは言わせておくのだ、連中のおしゃべりはわしの信用を傷つけはせぬ。だが、わしは素寒貧《すかんぴん》なのだから、この年になっても、粗末な鉋《かんな》一|挺《ちょう》とじょうぶな二本の腕しかない、若い職人と同じように働いているのだ。汗水流して働かなくちゃならんようになったら、銭《ぜに》がどんなに値打ちのあるものか、やがて自分でわかるようになろう。さあ、ナノン、蝋燭《ろうそく》は?」
「お入り用のものはみんなそろえたつもりですが」と、グランデ夫人が言った、「でも、なにか欲しいものがあったら、ナノンをお呼びください」
「伯母さま、そんな必要はないと思います。身のまわりの物はのこらずもってきたつもりですから! ではおやすみなさい。ウジェニーさんも」
シャルルはナノンの手から火のついた白蝋燭を受け取った。アンジュー産の白蝋燭だが、長く店《たな》ざらしになっていたので黄色っぽくなって、脂《あぶら》蝋燭そっくりだったので、そんなものが家にあろうとは想像もできないグランデ氏は、その浪費には気がつかなかった。
「わしが案内しよう」と、爺《じい》さんは言った。
丸天井の下に通じている広間の入り口から出てゆくかわりに、グランデは格式ばって、広間と台所とを隔てている廊下を通っていった。楕円形の大きな窓ガラスをはめこんだ開き戸が、この廊下の階段のほうをふさいで、吹きこんでくる寒気をやわらげていた。しかし、冬にはやはりそこに北風がはげしく吹きこんでくるので、広間の扉《とびら》には詰め物がしてあったが、適当な暖かさに広間が保たれていることはほとんどなかった。
ナノンは大戸に閂《かんぬき》をかけにいって、広間をしめてしまうと、馬小屋に入れてある一匹の狼犬を放してやった。まるで咽喉《いんこう》カタルにかかっているような、しゃがれ声の犬である。それは評判の猛犬で、ナノンにしかなついていなかった。いずれも野育ちなので、お互いに気があうのだった。
虫食いの手摺《てすり》のついた階段が、伯父の重みでぐらぐらし、階段の取付け口あたりの壁が黄色っぽく、すすけているのを見て、シャルルの興ざめは|しだいに強く《リンフォルザンド》なっていった。鶏小屋のねぐらにでもいるような気がした。伯母と従姉妹《いとこ》は、いったいどんな顔をしているだろうかと振り返って見たが、ふたりはそんな階段にすっかり慣れっこになっていたので、彼が驚いている原因が推察できずに、なにかお愛想の表情だと感ちがいして、にっこり笑ってこたえたので、シャルルはがっかりしてしまった。
≪親父《おやじ》はいったいどんなつもりで、おれをこんな所へよこしたんだろう?≫と、思った。
二階の踊り場に上がると、エトルリア〔イタリア中部トスカナ地方の古名。赤い壺の陶器が有名〕の陶器の調子に赤く塗った、縁枠《ふちわく》のない扉が三つ、目についた。ほこりっぽい壁にめりこんだ扉で、ボルトで締めた鉄の帯がついているのが目立ち、この帯の先のほうは、細長い錠の両端と同じように、火炎型になっている。三枚の扉のうち、階段のてっぺんにあって、ちょうど台所の上にあたる小部屋の入り口になっている扉は、明らかに壁でふさいであった。実際、グランデの居間を通らなくては、その小部屋へはいることはできなかった。そこを彼は仕事部屋に使っていた。明りをとりいれるただひとつの窓には、鉄網をはった大きな格子《こうし》がついていて、中庭のほうを守っていた。
だれひとり、グランデ夫人でさえも、その部屋へはいることは許されていなかった。爺《じい》さんは、まるで炉の前の錬金《れんきん》術士のように、ただひとりでそこにとじこもりたがるのだった。たぶんそこには、ひどく巧妙に隠し場がこしらえてあるにちがいない。不動産の権利書がためこまれ、金貨をはかる秤《はかり》がかかっているだろう。そこでは、夜中にこっそり、支払済証書や受領書や計算書が作成されるだろう。そのために、グランデがいつも万事に用意をととのえているのを見て、取引関係の者たちが、この男は仙女《せんにょ》か悪魔をでも自在に使っているのではなかろうかと、想像するほどであった。ナノンが天井板をゆすぶるような鼾《いびき》をかいているころ、狼犬が中庭の番をしながらあくびをしているころ、グランデの妻と娘がぐっすり寝こんでいるころ、かつての樽《たる》屋はこの部屋へやってきて、自分の金貨をかわいがったり、なでたりさすったり、いとしげにながめたり、樽に詰めたり、たがをかけたりするのだろう。壁は厚く、鎧戸《よろいど》は秘密を外にもらさない。この仕事部屋の鍵《かぎ》を持っているのは彼だけであった。ここで彼は、果樹の植えこみが書きこんである図面を参照したり、収益を、ぶどうの取り木一本、柴一束にいたるまで細かく勘定したりするのだという噂《うわさ》だった。
ウジェニーの部屋の入り口は、この壁に塗りこまれた扉《とびら》の正面にあった。そして、踊り場の端に夫婦の部屋があって、この家の正面をすっかり占めていた。グランデ夫人は、ウジェニーの居間に隣りあわせに一部屋もっていて、そこへはガラスのはまった扉から出入りができた。主人の居間は細君の居間と仕切り壁でくぎられ、例の正体のよくわからない仕事部屋とは厚い壁でわけられていた。
グランデ親父《おやじ》は甥《おい》を、三階の、自分の居間の上に当たるところにある屋根裏部屋に寝泊まりさせることにした。シャルルがもし気紛《きまぐ》れに部屋を出入りしたばあいに、足音が聞こえるようにというのだった。ウジェニーとその母親は、踊り場のまんなかにくると、おやすみなさいの接吻をかわした。それからシャルルに「おやすみなさい」と、言葉すくなに言ってから、それぞれの居間へはいった。ウジェニーは口でこそそっけなかったが、心のうちは熱烈だったにちがいない。
「ここがきみの部屋だ」と、グランデ親父は扉《とびら》をあけてやりながらシャルルに言った、「もし外へ出たくなったらナノンをお呼び。ナノンといっしょでなければだめだよ! 犬がわんともいわないで咬《か》みつくからね。ぐっすり寝なさい。じゃ、おやすみ。は、はあ、女どもが火をたいたな」と言ったちょうどそのとき、のっぽのナノンが行火《あんか》をかかえて現われた。
「また、そんなことをする!」と、グランデは言った、「わしの甥を産婦かなんかと思い違いしておるのか? その燠《おき》はさっさともってゆくんだ、ナノン」
「でも、旦那《だんな》さま、敷布が湿っぽいのですよ。それにこちらさまはほんとに女のようにかわいいかたで」
「おまえがそう思うなら、まあ、よかろう」グランデは肩を押しやりながら言った、「だが、気をつけて火を入れておくれよ」そう言うと、けちんぼうはなにかぶつぶつ言いながらおりていった。
シャルルはあっけにとられて、トランクや鞄《かばん》のまんなかにつっ立っていた。屋根裏部屋の壁に張ってある、場末の居酒屋でつかう花束模様の黄色の紙や、見ただけで寒けがするような縦に溝《みぞ》のついた石灰石の暖炉や、ニス塗りの籐《とう》を張った、四角というよりなおも角ばってみえる黄色い木の椅子や、選抜|狙撃《そげき》隊の小柄な軍曹ならば楽にその中にはいれそうなナイト・テーブルや、天蓋《てんがい》のラシャの垂れがすっかり虫に食われて落ちそうになってゆれている寝台の下に敷かれた、ぼろ織の貧弱な敷物などに、目をなげかけてから、のっぽのナノンを真剣な目つきでみつめて言いかけた、
「ほんとにきみ、ここはほんとにグランデさんの家かい? ソーミュールの前の町長で、パリのグランデの兄さんに当たる人の?」
「そうでございますよ、ほんとに親切で、ほんとにやさしく、ほんとに申し分のない旦那さまのところですよ。荷物をとくお手伝いをいたしましょうか?」
「ぜひそうしてもらいたいな、兵隊さん! きみは近衛《このえ》の水兵だったことがあったんじゃないのかい?」
「おや、おや、まあ、まあ!」と、ナノンは言った、「いったいなんですか、その近衛の水兵というのは? やっぱり塩水にでもつかるのでしょうか? 海へ乗り出すのですか?」
「さあ、この旅行鞄にはいっているから部屋着をだしておくれ。ほら、ここに鍵《かぎ》がある」
ナノンは、緑色の絹地に金糸で花を描いた古代模様の部屋着を見て、すっかり感嘆してしまった。
「それを、おやすみのとき着るのですか?」
「そうだよ」
「まあ、もったいない! それならここの教会のりっぱなミサ台前飾りができますよ。ねえ、若さま、それは教会に寄付なさいまし。そうすれば魂が救われますよ。それを着たりしていると、魂がだめになってしまうでしょうに。まあ! そんなにして着ていらっしゃると、なんてごりっぱなんでしょう。ちょっとごらんにいれるために、お嬢さんを呼んできますわ」
「さあ、ナノン、ナノンという名だったね、きみは。おだまりよ。ぼくを寝かせておくれ、荷物は明日片づけよう。ぼくの部屋着がそんなに気にいったのなら、きみの魂を救ったらよかろう。ぼくはとても善良なキリスト信者なんだから、帰るときには、きみにあげずにはいられまい。きみのいいように使うがいい」
ナノンはその場に棒立ちになってつっ立ったまま、その言葉が信じられずにシャルルを見まもっていた。
「私にこんなりっばな衣装をくださるなんて!」と、彼女は立ち去りながら言った、「もう夢を見ていらっしゃるんですわ、このかたは。おやすみなさいませ」
「おやすみ、ナノン」
≪おれは何をしにここへ来たのだろう?≫と、シャルルはまどろみながら思った、≪うちの親父はばかじゃないんだから、この旅には目的があるにちがいない。まあいい! やっかいな事は明日〔紀元前四七八年の、テーベの暴君アルキアスの故事。酒宴の最中、陰謀の知らせがあったが、この言葉をはきすててそのまま酒宴をつづけ、しばらくして陰謀を企てたペロピダスの手で絞め殺された〕ってだれかギリシアの間抜けが言ったっけ≫
≪ほんとに、なんてやさしい人なんでしょう、お従兄弟《にい》さんは≫と、ウジェニーはお祈りを途中でやめて胸の中でつぶやいた。そのお祈りもその夜は終わりまでつづかなかった。
グランデ夫人は、べつになにも考えないで床《とこ》についた。彼女には、仕切り壁のまんなかにある出入りの戸を通して、けちんぼうが居間の中を行ったり来たりしている足音がきこえた。世間の内気な細君の例にもれず、彼女は自分の亭主の性格を調べぬいていた。鴎《かもめ》が雷雨を予知するように、彼女には、グランデをいらだたせている内心の嵐《あらし》を目にもとまらぬ兆候《ちょうこう》によって予感していた。そして、そんなときには、彼女の言い方を用いれば、死んだふりをするのだった。
グランデは仕事部屋の内側からわざわざ鉄板を打ちつけさせた扉《とびら》を見つめながら、考えた、≪弟のやつも、自分の子供をわしにあずけるなんて奇妙なことを考えたものだ。けっこうな遺産相続だ! 二十エキュー〔一エキューは一般に五フラン銀貨〕だってくれてやる金はもっちゃいないぞ。第一、あのお洒落《しゃれ》に二十エキューやったところでなんになる。あいつ、わしの晴雨計を火にくべてしまいたそうに横目でにらんでいやがった≫
グランデは、例の苦悩にみちた遺言の結果を考えてみながら、おそらく、それをしたためているときの弟よりもさらに心を乱していたろう。
「あの金糸の衣装が私のものになるのかしら?……」と、ナノンは、はやくもあのミサ台前飾りを着ているような気になってまどろみながらつぶやいた。ウジェニーが恋を夢見たように、生まれて初めて花模様とか、波紋《はもん》絹とか、緞子《どんす》とかを夢見ながら。
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三 田舎《いなか》の恋
若い娘の清純な、しかも単調な生活にも、日の光が心の底までそそぎこまれて、花がさまざまな思いをあらわしてくれるような、心臓の鼓動が心を豊かにする強い力を頭につたえてさまざまな考えをなにか漠然《ばくぜん》とした欲望に溶けこませるような、快い時が訪れてくるものだ。それは、ふとわけもなく沈みこんだり、心から心地よく笑い興じたりする日々である! 赤ん坊は目が見えはじめると、にこにこ笑う。娘は自然のうちに感情を垣間《かいま》見ると、赤ん坊のとき笑ったようにほほえむ。光明が生命の最初の恋だとすると、恋こそ心の光明ではあるまいか? この世の物事をはっきり見る時がウジェニーにもやってきたのだ。
田舎の娘の例にもれず、朝早く起きて、祈りをすますと、身じまいにとりかかった。今後ずっと、ひとつの意味をもつことになった仕事である。まず第一に彼女は栗色の髪に艶《つや》出しをかけ、編んだ髪の毛がほつれないように注意しながら、念には念をいれて縒《よ》って頭の上で大束にたばねて左右にわけた。その均斉のとれた形が、単純な髪型とすなおな顔の線とを調和させながら、内気そうなあどけない顔だちをいっそう引き立てるのだった。なんどもきれいな水で手を洗っているうちに、皮膚がひきしまり、赤くなってくる。彼女はふっくらと丸いきれいな腕をながめ、そして従兄弟《いとこ》はどういうふうにしてあんなに柔らかく白い手をし、爪《つめ》の手入れがゆきとどいているのだろうかと考えた。新しい靴下をつけ、いちばんきれいな靴をはいた。コルセットは細孔《あな》をとばさずにきっちりとしめあげた。最後に、生まれてはじめて、人目にも引き立って見えるようにと願いながら、真新しい、仕立てのよい服をもつしあわせを知った。事実、それを着た彼女は魅惑的だった。
身じまいがすんだ時、教会の大時計が鳴るのが聞こえた。数えるとまだ七時なのでびっくりした。身なりを十分にととのえるのに必要な時間がたっぷり欲しかったので、早く起きすぎたのだった。髪の毛の輪にしたのを十度もやりなおして、出来ばえを調べてみるような芸当を全然知らないウジェニーは、いたずらに両腕を組んで、窓べに腰をおろして中庭や、狭い庭園や、その庭園を見おろしている高台をながめやった。物悲しい、見晴らしのきかないながめだったが、人気のない場所だとか手のはいらない自然に特有な神秘的な美しさを失ってはいなかった。
台所のそばに、縁石《ふちいし》をめぐらした井戸があり、つるべの滑車は曲がった鉄の腕木にささえられ、それには季節のせいでしおれて赤くなり、霜にやけたぶどうの枝がからみついている。そこから蔓《つる》がくねくねとのびて壁にまといつき、家にそって走り、薪《たきぎ》小屋のところで終わっている。そこには書物好きの人の蔵書はこうもあろうかと思われるようにきちんと薪が積み上げてあった。中庭の敷石は、苔《こけ》むし、草がはえ、人の動きがないので、時とともに黒ずんだ色をみせている。厚い壁は緑色の下塗りをあらわし、長い褐色《かっしょく》のすじが波の模様をなしている。中庭の奥のほうにあって、庭園の入り口に通じている八段の踏み段がばらばらにくずれて、高い木々の下に埋もれている姿は、十字軍時代に未亡人の手で葬られた騎士の墓のようでもあった。ぼろぼろに欠けたひと並びの石の上に、朽ちはてて半分倒れかかった木の柵《さく》が立っていたが、それにも蔓草が思い思いにからみついている。透《す》かし格子《ごうし》の門の両側に、二本のねじけた林檎《りんご》の木が曲がりくねった枝を突き出している。砂利を敷いた三本の小道が並行して走り、その間の四角の空地はまわりに黄楊《つげ》の木を植えて土がとめてある。この庭園は、台地の下の菩提樹《ぼだいじゅ》の下で終わりになっている。一方の端には木苺《きいちご》があり、他方には大きな胡桃《くるみ》の木があって、その枝が樽《たる》屋の仕事場の上までたれている。中庭や庭園を飾るこうした絵のような品々や壁や木々の上に夜のうちにおりた霜を、ロアール河の流域では普通の、秋の日の晴れわたった美しい太陽が溶かしはじめていた。
ウジェニーは、以前はごく平凡に思われたこうした光景に、まったく新しい魅惑を見いだした。ぼんやりした考えが数知れず胸に湧きあがり、日の光が外にひろがるにつれてそれがしだいに大きくなっていった。ついに彼女は、雲が物体をおおいつつむように精神をつつむ、あの漠《ばく》とした、なんとも言いようのない歓喜の情をいだいた。彼女の深い思いは、この奇妙な光の最も細かい部分とつりあい、彼女の心の快い調べは、自然の快い調べと結びついた。
日|射《ざ》しが、鳩《はと》の胸毛のように色の変化する厚い葉の羊歯《しだ》がたれている壁の面の所にとどくころになると、希望に満ちた天来の光がウジェニーの未来を照らしだした。そのときから、その壁面や、蒼白《あおじろ》い草花や、青い釣鐘《つりがね》草や、あせしぼんだ雑草などをながめるのがこのましくなった。子供のころの思い出のようなやさしい思い出が、それにまつわったからである。この物音のよく響く中庭に、木の葉が枝から離れるときたてる音が、この若い娘のひそやかな問いにひとつひとつ答えてくれるのだった。彼女は、時のたつのも知らずに、一日じゅうそこにじっとしていたかもしれない。
やがて心が波立ちはじめた。いきなり立ちあがると、鏡の前に行き、誠実な作者が自分の作品をつくづくとながめては自分で批評し、自分自身を酷評するように、自分の姿に見いった。
≪あのかたにふさわしいほどきれいじゃないわ≫
こういうのがウジェニーの考え、あれこれ思い悩みながらの、へりくだった考えだった。哀れな娘は自分を正しく見積もったのではなかったが、謙譲というものが、さらには気づかいというものが、恋の最初の徳のひとつなのだ。ウジェニーは、小市民階級の子供によくあるような体格のがっしりした娘、その美しさも俗っぽく見えるような娘、そういう娘に属していた。しかし、彼女がミロのヴィーナス〔一八二〇年に発見された。この小説の書かれたときより十三年前のこと。このころは、ミロのヴィーナスのようなタイプは美人とされなかった〕に似ているとしても、その容姿には、古代の彫刻家が知らなかった、あの女性を純化し、気品をあたえるキリスト教的感情の優雅さによって、気高いところがあった。彼女の頭は大きく、額《ひたい》は男のようではあるが、フィディアス〔古代ギリシア最大の彫刻家〕のジュピターのように繊細なところがあり、眼は灰色で、そこには彼女の純潔な生活があますところなくうつしだされ、ほとばしるような光をたたえている。かつてはみずみずしくばら色だった丸い顔の輪郭は、痘瘡《とうそう》にかかっていくぶんはれぼったくなっている。痘瘡はかなり軽いものだったので痕《あと》は残らなかったが、肌《はだ》のビロードのようななめらかさはそこなわれてしまった。そうは言っても、まだじつにやわらかなきめの細かい肌であって、母親の清らかな接吻がしばらく赤いしるしをのこすほどだった。鼻すじはすこしきつすぎたが、しかしあざやかに赤い唇《くちびる》と調和がとれていて、無数にすじがついているその唇には愛情と親切がみちみちている。首は申し分のない丸みをおびていた。ふくらんだ胸もとは、気をつかっておおわれているが、人の目を引きつけ、とりとめのない空想にさそう。お化粧による美しさにはおそらく多少欠けているだろうが、目の利《き》く人には、この長くのびた胴のしなやかさのないところは、ひとつの魅力であるにちがいない。背が高くてがっしりしているウジェニーは、だから一般大衆の気にいるようなきれいさはなにひとつもっていないが、芸術家だけがたやすく見つけだして夢中になるような美によって美しかった。
この世の中でマリアのような天上の清らかさをもつ女性の典型をさがしもとめる画家ラファエロの見抜いたつつましくも気品のある眼差《まなざ》しや、懐妊という思いがけぬ事情によることが多いが、キリスト教的な純潔な生活だけによって保持されたり獲得されたりする、あの処女のからだの線を、女性というものに要求する画家、つまり、世にも稀《まれ》なモデルに恋いこがれる画家ならば、ウジェニーの顔の中に、彼女が気づかないでいる天性の高貴さを、たちまちに見いだしたことだろう。彼女の物静かな額《ひたい》には愛の世界を、目の切れぐあいや瞼《まぶた》の形に言いようのない神々《こうごう》しさを見いだしたことだろう。彼女の目鼻だち、顔の輪郭《りんかく》は、快楽の表情のためにそこなわれたり、ゆがめられたりしたことは一度もなく、はるかかなたの、波静かな湖がそっと引いている地平線に、さも似ている。この物静かで、咲きそめた美しい花のように光につつまれ、ほんのりと色づいた顔つきは、人の魂を休ませ、そこに反映する良心の魅力を伝え、視線を引きつける。
ウジェニーはいまなお、子供らしい幻影が花咲き、あとになればもはや知ることのできないあの歓喜にひたりながら雛菊《ひなぎく》を摘《つ》みとるような、そうした人生の岸べにたたずんでいた。だから、恋のいかなるものかまだ知らずに、鏡にうつる自分の姿を見ながら、胸の中につぶやいた、
≪あんまりみっともないんですもの、あのかたは私のことなど気にもとめてくださらないわ≫
それから彼女は、階段に出られる、部屋の扉をあけると、首をのばして、家の中の物音に耳をすました。
≪まだ、おやすみだわ≫ナノンがしきりに咳《せき》ばらいをするのを耳にして、彼女はこう思った。女中が行ったり来たりしながら、広間を掃《は》いたり、台所の火をつけたり、犬を鎖につないだり、家畜小屋で馬や牛に話しかけたりしている物音が聞こえてきた。ウジェニーはおりてゆくと、牛の乳をしぼっているナノンのところへ駆けていった。
「ナノン、ねえナノン、お従兄弟《にい》さんにさしあげるコーヒーのクリームをつくってね」
「でも、お嬢さま、それなら昨日《きのう》からとりかからなけりゃだめですよ」と言うと、ナノンは大きく笑い声を吹きだして、「クリームをこしらえるわけにはいきません。ところで、お嬢さまのお従兄弟《いとこ》さんは、まったくかわいいかたですね。ほんとに、ほんとにかわいい。金ぴかの絹の部屋着をお召しになったところを、お嬢さまはごらんにならなかったでしょう。私は見たんですよ、この私は。神父さまの白衣のような、きれいな下着をつけていらっしゃる」
「ナノン、じゃパン菓子をつくってよ」
「そんなら竃《かまど》に入れる薪や、粉や、バターはどなたがくださるのです?」と、ナノンは言ったが、グランデの総理大臣格のこの女は、ウジェニーやその母親の目に、時としてひどくものものしくうつった。「お嬢さまのお従兄弟さんをもてなすために、旦那《だんな》さまのものをくすねろとおっしゃるんですか? バターや、粉や、薪を、お嬢さまからおねだりしてみなされ。お嬢さまのお父さんなんですから、くださるかもしれません。ほら、ちょうど下りておいでになりました、貯《たくわ》えを見まわりに……」
ウジェニーは、父の足の下に揺れる階段の音を耳にすると、すっかり怖《こわ》くなって、庭へ逃げだした。彼女は、早くもあの深い羞恥《しゅうち》心や幸福に対する特別な意識がおよぼす作用をうけていたのである。われわれは、幸福を意識すると、考えていることが一目瞭然《いちもくりょうぜん》、顔にあらわれてしまうと考えるようになるものだが、それもおそらく理由のないことではなかろう。父のものであるこの家には、寒々とするほどなにもないことにやっと気づいたこの哀れな娘は、従兄弟《いとこ》の優雅さとわが家を調和させることができないことに、一種のくやしさをおぼえた。あのかたのためになにかしてあげたいというはげしい欲求をおぼえたが、いったい何を、と考えると、彼女にはなにひとつわからなかった。素直で純真な彼女は、自分の受けた印象や胸にうかぶ感情を疑ってみることもせずに、天使のような性質のままにおもむくのだった。従兄弟の姿を見ただけで、彼女の心には、女性に生まれながらそなわっている愛情が目ざめていたが、二十三歳になって知恵と願望に満ちあふれていただけに、その愛情はいちだんとはげしく発揮されるのである。生まれてはじめて、父の姿を見て、心の中に恐怖をおぼえ、父の中に自分の運命を支配するものを見てとり、自分の考えていることを打ち明けないでいるのは、なにか自分に落ち度があるようなうしろめたさを感じた。彼女は急ぎ足で歩きはじめた。自分の吸う空気がいつもよりいっそう清らかで、日の光がいっそう生き生きと感じられることに、そしてそこに精神的な熱気や新しい生命がくみとれることにわれながら驚いた。
彼女がパン菓子を手に入れるためにあれこれと計略をめぐらしている一方、のっぽのナノンとグランデのあいだに、冬の燕《つばめ》ほどにも珍しい口げんかがもちあがっていた。老人は鍵束《かぎたば》をたずさえて、その日に使うのに必要な食糧をはかりにやってきたのだった。
「きのうのパンは残っているかい?」と、ナノンにたずねた。
「ひとかけらもありません、旦那《だんな》さま」
グランデは大きな丸いパンを取り出した。アンジュー地方でパンをつくるときに使うあの平たい籠《かご》で型をとったもので、たっぷり粉がかけてあった。それを切ろうとすると、ナノンが言った、
「きょうは五人でございますよ、旦那さま」
「いかにもそのとおりだが」と、グランデは答えた、「おまえの焼くパンは六斤はかかるから、残りがでるだろう。それに、ああいうパリの若い連中は、いまにおまえにもわかるだろうが、パンなど食べやしないんだ」
「では、|フリップ《ヽヽヽヽ》を召し上がるんで」
アンジュー地方では、フリップというのは俗語で、パンにつける添《そ》え物のことを言い、薄切りのパンに塗るバター、つまり普通のフリップから桃や杏《あんず》のジャムなどの極上のフリップまである。それで、子供のころ、フリップだけなめてパンを残したことのある人ならだれでも、このナノンの言いまわしの効果はわかるだろう。
「いいや」と、グランデは答えた、「フリップもパンも食べやしない。ああいう連中はお嫁にゆく娘みたいなものだ」
いかにもけちくさくその日の献立を言いつけると、最後に老人は食糧倉庫ともいうべき戸棚をともかくもしめて、こんどは果物の貯蔵室のほうへ足を向けた。するとナノンは呼び止めて言った、
「旦那《だんな》さま、それじゃ粉とバターをお出しください。若いかたがたにパン菓子をつくってさしあげますから」
「おまえは、わしの甥《おい》のために、家じゅうをからっぽにするつもりかい?」
「私は旦那さまの犬よりも甥御さんを気にかけたわけじゃありません。旦那さまが気におかけになる以上に気にしたわけじゃありませんよ。おやおや、砂糖は六つしか出してくださらないのですね、八ついるのですよ」
「ほほう、ナノン。そんなおまえを、ついぞこれまで見たことはなかったよ。いったいなにを考えているんだい? おまえはここの主人かい? 砂糖は六つしかやれないね」
「じゃ、甥御さんは、どうしてコーヒーを甘くなさるのです?」
「ふたつ入れてやれ、私はなくてすませる」
「砂糖なしでおすましになるんですって、そのお年齢《とし》で! いっそのこと、私の小遣《こづか》いで、旦那さまのぶんを買ってきましょうか」
「よけいな口出しをするな」
砂糖は値段が下がっていたのだが、それでも樽《たる》屋の眼には、植民地産の食料品の中では最も高価なもので、彼にとっては、相変わらず一斤六フランもするものだった。ナポレオン帝政時代に砂糖は節約して使わなければならなかったので、それが彼の習慣のうちでもいちばん消しがたいものになっていた。
どんな女でも、たといいちばん愚かな女でも、自分の目的を達するためには策略を心得ているものだ。ナノンはパン菓子を手に入れるために砂糖の問題はひとまず中止した。
「お嬢さま」と、ナノンはガラス窓ごしに叫んだ、「パン菓子がほしいんじゃありませんか?」
「いいのよ、いいのよ」と、ウジェニーは答えた。
「さあ、ナノン」と、グランデは娘の声を耳にすると言った、「ほら」
彼は粉のはいっている桶《おけ》をあけて、一|桝《ます》出してやり、それから、すでに切っておいたバターのかたすみに、幾オンスかつけ加えてやった。
「竈《かまど》をたくのに薪がいりましょうね」執念《しゅうねん》ぶかいナノンが言った。
「よし! おまえが気にいるだけ使えばいい」と、彼はなさけなさそうに答えた、「だが、それじゃ果物のパイもこしらえるんだな。それに、その寵で食事のほうもすっかりつくってくれるんだな。そうすりゃ、二度も火をつけなくてもすむだろう」
「なんの、おっしゃるまでもありませんよ」と、ナノンは大声をあげた。
グランデは自分の忠実な大臣に、まるで父親のような一瞥《いちべつ》をなげかけた。
「お嬢さま」と、料理女はまた大声をあげた、「パン菓子がつくれますよ」
グランデ親父《おやじ》は、果物をかかえてもどってくると、台所のテーブルの上に最初の一皿をならべた。
「ごらんなさいまし、旦那さま」と、ナノンが話しかけた、「甥御さんのこのきれいな長靴を。なんていい革《かわ》でしょう、なんていいにおいでしょう。これはいったい何で磨くんでございましょう? 旦那さまの卵入りの靴墨《くつずみ》でも塗らなきゃなりますまいか?」
「ナノン、卵じゃその革をいためてしまうと、わしは思うよ。それに、おまえは、モロッコ革〔モロッコ特産で、良質な山羊のなめし皮〕の磨き方は存じません、とあれに言えばいいんだよ。そうだ、それはモロッコ革だよ。あれはこのソーミュールで艶《つや》だしを自分で買っておまえのところへもってくるだろうさ。よく光るようにするには靴墨《くつずみ》のなかへ砂糖をぶちこむという話を聞いたことがある」
「それじゃ食べられるのですかねえ」と、長靴を鼻先へもってゆきながら女中は言った、「おやおや、奥さまのオー・ド・コロンのにおいがする。なんて、変なこと」
「変だって!」と主人は言った、「靴なんかに、それをはく当人の値うちよりも金をかける、というのをおまえは変に思うんだね」
「旦那さま」と、主人が果物貯蔵所をしめて二度目にもどってくると言った、「週に一度か二度、肉と野菜のスープをお出しになりますか、あの旦那さまの……」
「そうしよう」
「それじゃ、肉屋へ行かなきゃなりますまい」
「そんな必要はない。鳥肉のスープをつくればいい。小作人たちがつぎつぎにもってきて、切らすようなことはあるまいさ。だが、わしはコルノアイエのところへ行ってカラスを殺してくれということにしよう。カラスだとこの世でいちばんおいしいスープができるからな」
「ほんとうでしょうか、旦那さま、カラスが死人を食べるということは?」
「ばかだな、ナノンは! やつらは、世間のみんなと同じように、見つけしだいになんでも食べるさ。わしらだって死人を食って生きてるんじゃないかな? いったい遺産相続ってのは何だな?」
グランデ親父《おやじ》は、もうなにも言いつけることはないので、時計を引っぱり出したが、朝食までにまだ三十分ばかりまがあるのを見ると、帽子をとり、娘のところへ接吻をしにいって、
「ロアール河岸の牧草地のほうへ散歩にいかないかね? あそこにちょっと用事があるんだがな」
ウジェニーは、ばら色の琥珀織《こはくおり》の裏のついた麦藁《むぎわら》帽子をとりにいった。それから、父親と娘とは曲がりくねった道を広場のところまでおりていった。
「朝っぱらから、いったいどこへお出かけですかな?」グランデに出会わしたクリュショ公証人が言った。
「ちょっと見るものがありましてな」と、老人は、これまた友人の朝の散歩にだまされるような人間ではなく、こう答えた。
グランデ親父が、ちょっと見にゆくときには、公証人はこれまでの経験から、いっしょについて行けば、いつもなにか自分にも儲《もう》け口があることを知っていた。そこで、くっついていった。
「おいでになるかな、クリュショさん?」と、グランデは公証人に言った、「あんたはわしの友人だ。肥えた土地にポプラを植えるってことが、どんなにばかげてるかということをひとつお目にかけてしんぜよう」
「じゃ、ロアール河のお宅の牧草地に植わっていたぶんで手にお入れになった六万フランは、勘定にはならんとおっしゃるんですか」クリュショ公証人は寝ぼけ眼《まなこ》をむいて言った、「あなたはまったくうまいことをなさったのでは?……ナントでポプラや樅《もみ》などが不足のおりに、あなたは木を伐《き》って、三十フランあたりでお売りになったんだから!」
ウジェニーはふたりの話を聞いていたが、いま自分の人生のうちで最も厳粛な時にさしかかっていることも、自分のことで、公証人がグランデに父親としての至上命令を出させようとしていることも知らなかった。
グランデはロアール河のほとりにもっているすばらしい牧草地に着いた。そこでは三十人ばかりの人夫が、以前ポプラの植わっていた場所を片づけたり、埋めたてたり、ならしたりして、せっせと働いていた。
「クリュショさん、ポプラがどんなに場所をとるものか見てごらんなされ」と、グランデは公証人に言った。それから「ジャン」と、ひとりの人夫に叫びかけた、「は、は、はかってみてくれ、おまえの尺でな。縦横す、す、すっかりな!」
「八尺の四倍です」と、人夫はすっかり終えると答えた。
「三十二尺の損失ですわい」と、グランデはクリュショに言った、「この列にポプラを三百本植えていたわけですな、そうでしょ? そこで、三十二、二尺の三、三、三百倍という土地が、乾草の五、五百束を、く、く、くっておったことになる。両側に同じだけとれるから二倍して加えると、千五百。まんなかにも同じほどありますからな。そこで、乾草を千束と、お、お、おいてみましょう」
「さようですな」と、クリュショが友人に助け舟を出して言った、「ここの乾草なら、千束あたり、ざっと六百フランの値うちはありますな」
「せ、せ、千二百フランですわい、二番刈のぶんが三、四百フランになりますからな。いいですか! か、か、か、勘定してみてくだされ、年に、せ、千二百フランが、ご、御存じの、ふ、複利にまわして四十年、す、す、するとどれくらいになりますかな」
「六万フランとみますかな」と、公証人が言った。
「そんなもんでしょうな。それでも六万フランには、な、な、なりましょうな。ところで」と、ぶどう作りはもう吃《ども》らず言葉をつづけた、「四十年たったポプラ二千本では、五万フランにもなりませんよ。損失ですわい。それがわかったのですよ、この私にな」グランデは胸をはって言った。それから、「ジャン」と、また言葉をつづけて、「穴はすっかり埋めてくれ、ロアール河のほうだけは残してな。そこには買ってきておいたポプラを植えるんだぞ」そして、クリュショのほうを振り向いて「川に植えておけば、お上《かみ》の費用で、ポプラはひとりで育ちますからな」と、つけ加えながら例の鼻の瘤《こぶ》をぴくりと動かしてみせた。それは最も皮肉な微笑ほどの値うちがあるものだった。
「まさしくそのとおりですな。ポプラなんてものは地味《ちみ》のやせた土地にしか植えるものじゃありませんな」クリュショは、グランデの計算に肝《きも》をつぶして言った。
「さ、よ、う、ですとも」と、樽屋は皮肉に答えた。
ウジェニーは、父の計算などには耳もかさずに、ロアール河の崇高な景色をながめていたが、やがて、クリュショが顧客《おとくい》の父に向かって話しかけている言葉に耳をそばだてた。
「ところで、パリからお婿《むこ》さんを呼び寄せられたようですな。ソーミュールじゅうが、甥御《おいご》さんの噂《うわさ》ばかりしていますよ。まもなく、私が夫婦財産契約書を作成するということになりますな、グランデさん」
「あ、朝、は、は、早くから、で、で、出てなさるのは、そ、そ、そんなことを、わ、わ、わしに、い、い、言いたかったのですな」と、グランデは例の瘤《こぶ》を動かしながら、意見をのべたてた、「よろしい、私と、あ、あ、あんたのあいだだ、ざっくばらんにいこう。あ、あ、あんたの、し、し、知りたいことを言ってしんぜよう。いいかな、む、む、娘を、あの従兄弟《いとこ》に、や、やるくらいなら、ロアール河へ、投げこんだほうがまだましだ。こ、これはだれに、は、は、話したって、か、かまやしない。いや、それより、かってに、世間のやつらに、しゃ、しゃ、しゃべらせておくさ」
この返事を耳にすると、ウジェニーは眩暈《めまい》がしてきた。彼女の心の中に芽ばえはじめていた遠くはるかな希望がふいに花開き、現実となり、花束となって編まれた、とみるまにそれがずたずたに切られて、地面に散ってしまったのだ。昨日からこのかたウジェニーは、魂と魂とを結びつける、あらゆる幸福の絆《きずな》によってシャルルに愛着の念をいだいていたのに、これから後は、苦悩がその絆を強めていくことになるのだ。はなばなしい運命よりも、苦悩のうちの気高さに惹《ひ》かれるということが、女性の尊い宿命ではなかろうか? どうして父親としての感情が、父の心の底から消えてしまったのだろう? シャルルにいったいどんな罪があるというのだろう? なんとも不可思議なことばかりだ! 彼女の生まれかかった恋はそれだけでも深い神秘であるのに、すでに早くもその恋は数々の神秘につつまれていたのである。彼女はふるえる脚で家路につき、例の薄暗い古い町筋にたどりついた。すると、さっきはあんなにも楽しかったその町筋が物悲しく見えた。時代や事物がそこに刻みつけた哀愁の気を、彼女は吸ったのだ。恋の教訓はあますところなく彼女の心に刻まれるのだった。
家の近くにくると、彼女は父に先だって戸口まで行き、表の戸をたたいてから、そこで父を待っていた。が、グランデは公証人がまだ帯封をしたままの新聞を手にもっているのを見ると、「国債はどんなじゃな?」とたずねた。
「あんたは私の言うことはちっともきこうとはなさらん、グランデさん」と、クリュショが答えた、「早いとこお買いなさい。まだまだ二年に二割の儲《もう》けがありますよ、八万フランにつき年五千フランというすばらしい利率は別としても、国債はいま八十フラン五十サンチームですよ」
「考えてみましょう」と、グランデは顎《あご》をなでながら答えた。
「おや、これは!」と、公証人が言った。
「なんです、いったい?」グランデは大声をあげたが、そのときクリュショは新聞を眼の前に突き出して、
「この記事を読んでごらんなさい」と言った。
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パリでも屈指の豪商グランデ氏は、昨日、ピストル自殺をとげた。平常どおり株式取引所に顔を出した後のことである。同氏はすでに衆議院議長|宛《あて》に辞表を提出したうえ、また商事裁判所判事の職も辞していた。氏の株式仲買人ロガン氏及び公証人スーシェ両氏の破産によって、氏もまた倒産するにいたったのである。ただしグランデ氏のうけていた尊敬と信用とをもってすれば、おそらくパリ取引所筋からの援助は求め得られたはずである。信用高い氏が、簡単に絶望に屈したのは遺憾《いかん》である、云々《うんぬん》。
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「このことなら知ってましたわい」と、老ぶどう作りは公証人に言った。
この言葉にクリュショ公証人はぞっとした。パリのグランデ氏は、おそらくソーミュールのグランデに数百万の融通を頼みこんで、それもむなしかったのだろうと考えると、公証人という商売がらどんなことにも平静なたちではあったが、背筋を冷たいものが走る思いがしたのだ。
「それで息子さんは? 昨日はあんなに楽しそうにして……」
「まだなにも知っちゃいませんよ」グランデは相変わらず落ち着いて答えた。
「では失礼します、グランデさん」クリュショは万事がわかったので、そう言うとボンフォン裁判所長を安心させようと、立ち去った。
グランデが家にはいると、朝食の用意がしてあった。グランデ夫人はすでに自分の台木つきの椅子に腰かけて、冬物の袖《そで》を編んでいたが、ウジェニーはその首にとびついて、ひそかな悲しみがひきおこすあの溢《あふ》れるような真心をこめて接吻した。
「おあがりになってください」と、大急ぎで階段をおりてきたナノンが言った、「坊っちゃんはまるで天使のように眠っておいでです。あの眼をつむったようすはなんてかわいいんでしょう! 私ははいっていって、お呼びしたんですよ。ところがどうです! うんともすんとも」
「寝かせておけばいい」と、グランデは言った、「きょうは悪い知らせを聞くんだから、いつ起きたって遅すぎるということはないんだ」
「いったい何がありましたの?」ウジェニーは、何グラムあるのかわからないが、老人が楽しみに、暇《ひま》なとき自分で刻む砂糖の小さな塊を二つコーヒーに入れながらたずねた。
「あれの父親がピストル自殺をしたのだ」
「叔父さまが?……」と、ウジェニーは言った。
「|かわいそう《ポーヴル》なあの子!」と、グランデ夫人は叫んだ
「そう、貧乏《ポーヴル》だ」と、グランデは応じた、「一文無しなんだからな」
「おやまあ! それなのに、あの人はまるでこの世の王様みたいなふうで眠っておいでになる」と、ナノンがしんみりと言った。
ウジェニーは食事の手をおいた。胸がふさがってしまったのだ。愛する男の不幸を知ってそそりたてられた同情の念が、初めて女の全身に流れわたるときにおぼえる胸のふさがる思い、あれであった。哀れにも彼女は泣いた。
「おまえはあの叔父さんを知りもしないのに、なんだって泣いたりするんだ?」と、父親はおそらく自分の黄金の山をながめるときもそんな目つきをするのだろうが、まるで飢えた虎のような目つきを娘になげかけながら言った。
「でも旦那《だんな》さま」と、召使が言った、「だれだっておきのどくに思わずにはいられますまい。かわいそうに、御自分の身の上も知らずに、ぐっすり眠っておいでになるあの坊っちゃんには」
「わしはおまえに言ってやしない、ナノン、黙っておれ」
恋する女はいつも自分の感情を包み隠しておかなければならないということを、ウジェニーはその時はじめてさとった。彼女は父に答えなかった。
「わしがもどってくるまで、あれになにもしゃべっちゃいけないよ、いいな、奥さん」と、老人は言葉をつづけた、「わしはこれから道路わきのあの牧草地へ行って、溝《みぞ》をきちんとつけさせてこなきゃならん。昼には飯にもどってくる、そこで甥《おい》と話し合うことにしよう。ところで、おまえはね、ウジェニー、あのお洒落《しゃれ》のやつのために泣いているのだったら、もうそれでたくさんだよ。あれは大急ぎで東インド諸国へ出かけるのだから。もう二度と会えやしない男なんだ……」
父親は帽子のつばのところにおいた手袋をとると、いつものように落ち着きはらって手を通し、両手の指を組んできっちりはめこんでから、出かけていった。
「ああ、お母さま、息がつまりそう!」ウジェニーは母とふたりになると叫んだ、「こんなに苦しいことは一度もなかったわ」
グランデ夫人は、娘が蒼《あお》い顔をしているのを見ると、ガラス窓をあけて、外気を吸わせてやった。
「いくらかよくなったわ」と、ウジェニーはしばらくして言った。
その時まで、見かけは落ち着いて冷静な性質だったのに、こんなにも神経質な感情のたかぶりを見せられて、グランデ夫人の胸に響くものがあった。母親におのずから授かっている、自分の愛情の対象物に対する直観的な思いやりをこめて、夫人は娘をじっとながめて、そしてすべてを見抜いた。しかし、じつを言えば、自然のあやまちから互いにひとつにくっつけられているハンガリアのあの名高い双生児姉妹の生活でも、ウジェニーとその母親との生活ほどには親密ではない。母と娘はいつもこのガラス窓の中でいっしょに暮らし、そろって教会へ出かけ、おなじ空気を吸っていっしょに眠る、という生活だったから。
「かわいそうにね、おまえも!」グランデ夫人はウジェニーの頭を自分の胸に押し当てながら言った。
この言葉を耳にすると、娘は頭をあげ、眼差《まなざ》しで母にたずねると、口に出して言ってくれない考えをさぐろうとして言った、
「どうしてインドヘなんかおやりになるのかしら? 不幸におなりになったのなら、ここにいらっしゃるのが当然ですわ。私たちのいちばん近い親戚じゃありませんの?」
「そうよ、おまえ、それがあたりまえのことかもしれない。でもね、お父さまにはお父さまのお考えがおありなのだから、私たちはそれに従わなくちゃね」
母親と娘は黙って腰かけていた。ひとりは台木つき椅子に、ひとりは小さな肱掛《ひじか》け椅子にかけ、そうしてふたりともまたそれぞれの仕事をはじめた。母親から示された心からのすばらしい理解にたいする感謝に胸がいっぱいになり、ウジェニーは母の手に接吻しながら、
「ほんとにやさしいかたね、お母さまは!」と言った。
長年の労苦にやつれた老母の顔は、この言葉にさっと輝いた。
「お母さまも、あのかたをいいかただとお思いになる?」と、ウジェニーはきいた。
グランデ夫人はただ微笑しただけだった。それからしばらく黙っていたが、低い声で、
「もうあの人を好きになったのかい? それはよくないことになるでしょうよ」
「よくないことですって」と、ウジェニーが言葉をついだ、「なぜなの? お母さまに気にいられ、ナノンにも気にいられているのに、なぜ私が好きになっていけないの! さあ、お母さま、あのかたのお食事の用意をしましょう」
彼女は針仕事をほうりだした。母親も同じようにして、
「どうかしてるのね。おまえは!」
そう言いながらも夫人は、娘の気違いざたにすすんで仲間入りをし、それも無理からぬことだと喜んで認めてやった。
ウジェニーは、ナノンを呼んだ。
「まだなにか御用ですか、お嬢さま?」
「ナノン、お昼までにクリームはできて?」
「ええ、お昼までならできますとも」と、老女中は答えた。
「じゃ、あのかたに濃いコーヒーをさしあげてね。デ・グラサンさまのお話ですと、パリではとても濃いコーヒーをつくるんですって。たくさんいれてね」
「で、どこからそのコーヒーをもってこいとおっしゃるんです?」
「買ってくるのよ」
「もし旦那さまにお会いしたら?」
「もう、牧草地よ」
「ひと走りいってきましょう。でも、フェサールさんたら、白|蝋燭《ろうそく》を渡しながら、お宅には三人の博士〔キリスト降誕を祝いに東洋からベツレヘムに来た博士たち。『新約聖書』「マタイ福音書」参照〕でもお泊まりかなんて、言ってましたよ。私たちの大散財が町じゅうに知れてしまいますよ」
「もしお父さまがなにかお気づきになったら」と、グランデ夫人は言った、「お父さまのことだから私たちをぶちかねませんよ」
「いいわ! もしぶたれるなら、ひざまずいてぶたれましょう」
グランデ夫人は、返事のかわりに眼を空にむけた。ナノンは頭巾《ずきん》をかぶると、出かけていった。ウジェニーはテーブル掛けやナプキンを出した。そして屋根裏の納屋の綱におもしろ半分にかけておいたぶどうの房を取りにいった。彼女は従兄弟《いとこ》の目をさまさないように、足音をしのばせて廊下を行った。が、その部屋の扉《とびら》のところでは、彼の唇《くちびる》からもれる同じ間をおいた規則正しい寝息に耳をすまさずにはいられなかった。
≪このかたが眠っていらっしゃるのに、不幸はそのあいだも眠らないでおきているのだわ≫と、心につぶやいた。
彼女はいちばん青いぶどうの葉を取って、老練なコック長がしたように、ぶどうをしゃれたかっこうに並べて、意気揚々とテーブルヘもってきた。父親が数えておいた梨《なし》を台所からくすねてくると、ぶどうの葉のあいだにピラミッド型に積み上げた。彼女は行ったり来たり、小走りに駆けたり、跳び上がったりした。できることなら父親の家の中にあるものをそっくりもちだしたいくらいだった。だが鍵《かぎ》はいっさい父親がもっていた。ナノンは新鮮な卵をふたつもってもどってきた。その卵を見ると、ウジェニーはナノンの首にとびつきたくなった。
「荒地のほうの小作人が籠《かご》の中にもっていたものだから、譲ってくれと言ったんですよ。すると私によく思われたいと思って、ただでくれてしまいましたよ」
二時間ばかりというもの、ウジェニーは二十ぺんも針仕事をやめてはコーヒーの沸きかげんを見にいったり、従兄弟が起き上がる気配《けはい》をうかがいにいったり、あれこれ気をくばったあげく、きわめて簡素でお金のかかっていない、といっても、この家の根強い習慣には恐ろしく違反する食事をととのえることができた。昼の食事は立ったままですることになっていた。各自がわずかなパンと果物かバター、それに一杯のぶどう酒をとるのだった。ウジェニーは暖炉のそばに置かれた食卓や、従兄弟の食器の前にすえられた肱掛け椅子をながめたり、果物を盛ったふたつの皿や、卵立てや、白ぶどう酒のびんや、パンや、コーヒー皿に積み上げられた砂糖をながめたりしながら、いまもし父親がはいってきたら、どんな目つきをなげかけるだろうかと、その時はじめて思いつくと、それだけで手足がふるえた。そこで彼女は、父親が帰ってくるまえに、従兄弟が食事をすることができるかどうか、時間をはかってみるため、なんども振子時計に目をやった。
「安心しておいで、ウジェニー。もしお父さまが帰っておいでになったら、私がみんな引き受けるから」と、グランデ夫人が言った。
ウジェニーは涙をおさえることができなかった。
「まあ、親切なお母さま」と、彼女は叫ぶように言った、「私、まだお母さまを愛したりなかったんだわ」
シャルルは鼻歌をうたいながら部屋の中をぐるぐる回ったあげく、やっとおりてきた。つごうよく、まだ十一時にしかなっていなかった。まさしくパリジャンである! 例のスコットランドに旅行中の貴婦人の館《やかた》に滞在しているときならかくもあろうかと思われような洒落《しゃれ》た身づくろいだった。青年に似つかわしい愛想のよいにこやかなようすではいってきた。これがウジェニーに悲しい喜びをひきおこした。シャルルは、期待していたアンジューの城〔「スペインの城」をもじった言葉。スペインの城というのは空中楼閣の意〕がむなしい夢にすぎなかったことを冗談にまぎらしてしまって、ひどく快活な調子で伯母に近づいた。
「よくおやすみになりましたか、伯母さま。そしてウジェニーさん、あなたは?」
「よくやすみました。で、あなたは?」と、グランデ夫人が言った。
「ぼくはぐっすりです」
「お腹《なか》がおすきでしょう、きっと」と、ウジェニーが言った、「どうぞ食卓へおつきください」
「でも、ぼくはお正午《ひる》まえには食事をしないんです、ちょうどそのころ起きるものですから。しかし、ここへ来る途中、ひどい食べ物でしたので、おっしゃるとおりにしましょう。それに……」と、彼はブレゲ〔一七四七〜一八三二、スイス出身の高名な時計師。精密な仕事で名高く、航海用、天文学用の測定器を多く発明、製作した〕のつくったもののなかでもいちばん見事な薄手の懐中時計を取り出して、「おや、まだ十一時だ。早く起きすぎた」
「早くですって?……」と、グランデ夫人が言った。
「そうです。でも、荷物を整理しようと思ったものですから。さて、なにかいただきましょう、ほんのすこしでけっこうです、鶏《とり》でも、鷓鴣《しゃこ》の雛《ひな》でも」
「ひゃー!」と、ナノンがこの言葉を耳にすると叫び声をあげた。
≪鷓鴣の雛≫と、ウジェニーは心の中で言った。自分の貯《たくわ》えを残らずはたいても鷓鴣の雛を買いたいものだと思った。
「どうぞお掛けなさいな」と、伯母が言った。
洒落男は、まるで美人がクッションつき長椅子にすわるといったかっこうで、誘われるままに肱掛け椅子に腰をおろした。ウジェニーとその母親は椅子をとると、暖炉の前の彼のそばに席をとった。
「いつもここでお暮らしなんですか?」シャルルは、部屋が、夜の光で見るよりも、日の光で見るとさらにきたなく思われたので、ふたりにこうきいた。
「ええ、いつもここですわ」と、ウジェニーは彼の顔を見ながら答えた、「ぶどうの取入れのときのほかは。その時にはナノンの手伝いに出かけて、ノアイエの修道院にみんな宿泊するのですわ」
「散歩はなさらないのですか?」
「日曜日には時々夕方のお祈りがすんでから、お天気がいいときには、橋の上へいったり、乾草の刈り入れを見にいったりいたします」と、グランデ夫人が言った。
「ここには芝居はありますか?」
「芝居見物にゆくんですって?」と、グランデ夫人は思わず声をあげて、「役者を見るんですか? でも、芝居見物なんて、それは大罪だということを御存じないんですの?」
「さあ、お客さま」と、ナノンが卵をもってきて言った、「殻つきの若鶏の御馳走《ごちそう》ですよ」
「ああ! 生みたての卵だね」と、シャルルはいかにも贅沢《ぜいたく》に慣れている者らしく、自分で言った鷓鴣《しゃこ》の雛のことはもう考えずに言った、「いや、これはすてきだ、バターがありますか、ええ?」
「まあ! バターですって! それじゃパン菓子ができませんよ」と、召使が言った。
「いいから、バターをおあげ、ナノン」と、ウジェニーが思わず声を高めた。
若い娘は、従兄弟《いとこ》が半熟卵にひたすパンを切るのをじっと見入りながら、それが楽しくてならなかった。それはちょうど、ひどく感じやすいパリのお針娘《はりこ》が、無実の者が勝利をおさめるという通俗劇《メロドラマ》を見ては楽しみを感じるのと同じだった。優雅な母親に育てられ、当世風の女に磨きをかけられたシャルルが、まるでおしゃれ女のように色っぽく、品があって、手のこんだ身のこなしをするのは事実だった。若い娘の憐《あわ》れみと愛情とには、ほんとうに磁石のような影響力があるものだ。だからシャルルも、自分が従姉妹《いとこ》と伯母の注意の的になっているのに気づくと、いわば洪水のように押し寄せてくるその愛情から、のがれるわけにはいかなかった。彼は好意とやさしい情愛に輝く眼差《まなざ》しでウジェニーを見た。微笑しているような眼差しだった。ウジェニーをつくづく見ると、その純な顔だちの快い調和や、無邪気な態度や、眼の魔術的な明るさなどに気づいた。眼には若々しい恋の思いがきらめいていたが、そこにある欲望はまだ官能の喜びを知らぬものだった。
「いやほんとに、ウジェニーさん、あなたが盛装してオペラ座の桟敷《さじき》にでもおはいりになったら、さっき伯母さまがおっしゃったのはほんとうだと保証しますね。あなたを見る男たちには羨望《せんぼう》の罪を、女たちには嫉妬《しっと》の罪を犯させることになりますからね」
このお世辞にウジェニーの胸は締めつけられ、喜びにはげしく波打った、その意味はなんのことか全然わからなかったけれど。
「まあ! こんな田舎の小娘をからかおうとなさって」
「いや、ぼくをよく知ってくだされば、ぼくが冗談など大|嫌《きら》いだということがわかっていただけるのですがね。冗談というやつは心をしぼませ、あらゆる感情を傷つけるものです……」そう言って半熟卵につけたパンにバターを塗って、ひどく気持ちよさそうにのみこんだ。「いえ、それに、ぼくはおそらく他人をからかうことができるほど才知のあるほうではないんです。これが欠点となって、ぼくはずいぶん損をしてるんですよ。パリでは『あいつは気立てのいいやつだ』と言って、人をやっつける手だってあるんですからね。この言葉は、『かわいそうに犀《さい》みたいにばかなやつだ』という意味になるんですよ。しかし、ぼくには金もあるし、どんなピストルをもたされても野原のまんなかで、三十歩の距離からただの一発で人形を射落とすことができるっていうことをみんな知っているので、冗談を言うやつは、ぼくを敬遠していますよ」
「お話をうかがっていますと、あなたが気立てのいいかただということがわかります」と、グランデ夫人が言った。
「きれいな指輪をしていらっしゃいますね」と、ウジェニーが言った、「見せてはいただけません?」
シャルルは指輪をはずしながら手をのばした。ウジェニーは自分の指先が従兄弟のばら色の爪《つめ》にさわったので顔を赤くした。
「ごらんなさい、お母さま、みごとな細工ですわ」
「まあ! どっさりの金《きん》だこと」と、コーヒーをはこんできたナノンが言った。
「それはなんです?」と、シャルルは笑いながらきいた。
そして、縁が灰色で、内側が釉薬《うわぐすり》を塗って陶器のようになった、茶|褐色《かっしょく》の細長い壺《つぼ》を指さした。壺の中には湯がぐらぐら煮たっていて、コーヒーが浮いたり沈んだりしていた。
「沸かしたコーヒーでございますよ」と、ナノンが言った。
「そうだ、伯母さま、ぼくがここへ立ち寄った記念にせめてなにかの役にたつことをしておきましょう。みなさん、ほんとに時代遅れですね! ひとつ、シャプタル式のコーヒー沸かし〔シャプタルは、フランスの化学者、政治家。応用化学、工芸等で有名だが、このコーヒー沸かしは作者のつくりごと〕でおいしいコーヒーをいれる方法をお教えしましょう」
彼はシャプタル式コーヒー沸かしの仕組みを説明してみせた。
「まあ、そんなにやっかいなものなら」と、ナノンが言った、「一生それにかかりきりでいなきゃなりますまい。私にはそんなコーヒーの沸かし方をする気はありません。ええ、そうですとも。それに、私がコーヒーをつくっているあいだ、だれが牝牛《めうし》の草を刈ってくださいますかね?」
「私が刈るわよ」と、ウジェニーが言った。
「子供みたいだね」と、グランデ夫人は娘を見ながら言った。
この言葉が、不幸な青年の上にまさに落ちかかろうとしている悲しみを思いださせたので、三人の女は黙りこんで、いかにも哀れでならないというようすでシャルルを見まもった。
それがシャルルを驚かせた。
「いったいどうしたのです、ウジェニーさん?」
「しっ!」と、グランデ夫人は、返事をしようとしたウジェニーに言って、「ねえ、お父さまが自分でお話をなさるっておっしゃったじゃありませんか、このおかたに……」
「シャルルと呼んでください」と、グランデ青年が言った。
「まあ、シャルルさんとおっしゃるんですか? いい名ですこと」と、ウジェニーが声をあげた。
予感された不幸は、ほとんどいつも実現するものだ。老樽屋のもどってくるのを思うと身ぶるいせずにはいられなかったナノンとグランデ夫人とウジェニーは、聞き慣れた響きをたてる|たたき槌《ノッカー》がひと打ち鳴ったのを聞いた。
「ほら、お父さまよ」と、ウジェニーが言った。
彼女は食卓布の上に砂糖をすこし残しておき、砂糖を盛ったコーヒー皿をとりのけた。ナノンは卵の皿をはこんでいった。グランデ夫人はおびえた牝鹿のように立ちあがった。それはまさに突然おそった恐慌状態だったが、シャルルにはなんのことかさっぱりわけがわからなく、ただ驚くばかりだった。
「いったい、どうしたんです?」と、彼は三人にたずねた。
「だって、父がもどってきたんですもの」と、ウジェニーが言った。
「それで?……」
グランデ氏がはいってきた。なんでも見通す眼差《まなざ》しを食卓とシャルルになげかけると、いっさいを見抜いた。
「おや、おや、あんたの甥御《おいご》さんをおもてなししていたんだね。けっこう、とてもけっこう、いやたいへんけっこうだ!」と、吃《ども》らず言った、「猫が屋根の上を駆けまわると、鼠《ねずみ》どもが天井で踊るってわけだな」
≪これが、おもてなし?……≫この家の掟《おきて》も習慣も想像さえできないシャルルは、こう心中につぶやいた。
「わしのグラスをおくれ、ナノン」と、老人が言った。
ウジェニーがグラスをもってきた。グランデはポケットから、角《つの》の柄《え》の広刃のナイフを取り出すと、パンを一切れ切って、バターを少しとり、念入りに塗りつけてから、立ったまま食べはじめた。そのとき、シャルルはコーヒーに砂糖を入れていた。グランデ親父《おやじ》は砂糖の塊を目にすると、妻をじろじろと見た。夫人は蒼《あお》くなって、二、三歩あとずさりした。彼は哀れな妻の耳もとまで身をかがめると、
「この砂糖はいったいどこから手に入れたのだ?」と言った。
「ナノンがフェサールの店へ買いにいったのです、家になかったので」
こうした無言の場景が三人の女にいだかせた深い関心が、どんなものであったかは想像もできないほどのものだった。ナノンは台所から出てきていたが、この場のようすがどんな事になるか見きわめようとして、広間の中を見まわしていた。シャルルはコーヒーを一口味わってみて、たいへん苦かったので、砂糖を入れようとしたが、グランデがすでにしまいこんでしまっていた。
「何が欲しいのかな?」と、老人が彼に言った。
「砂糖です」
「牛乳を入れなさい。そうすればコーヒーは甘くなる」と、この家の主《あるじ》は言った。
ウジェニーは、グランデがしまいこんでしまった砂糖を盛った皿をまた取り出すと、落ち着いたようすで父親をながめながら、それを食卓の上においた。たしかに、愛人の逃亡を助けようとして、絹でつくった縄梯子《なわばしご》を細腕でささえるパリ女でも、ウジェニーが食卓の上に砂糖をもどすときに発揮したほどの勇気を示せるものではない。そのパリ女は美しい腕が傷ついたのを誇らしげに見せて、愛人から償《つぐな》いを受けることだろうし、血の気の失せたその血管のひとつひとつは愛人の涙と接吻に洗われ、快楽によって療《いや》されるだろう。ところがシャルルのほうは、そのとき老樽屋の眼差しにちぢみあがっている従姉妹《いとこ》の心を千々《ちぢ》にうち砕く、底知れぬ不安の秘密などは、まったく知る由もなかったのである。
「おまえは食べないのかね」
あわれにも奴隷《どれい》女は進みでると、おずおずとパンを一切れ切って、梨をひとつ取った。ウジェニーは大胆にも父親にぶどうの房をさしだしながら、
「さあ、私の乾ぶどうの味をみてください、お父さま! あなたも召し上がってくださいません? あなたのためにこのきれいな房をとってきたのですわ」
「いやはや! ほっておいたら、この女どもはおまえさんのために、ソーミュールじゅうを荒らしまわることだろうよ。食事が終わったら、いっしょに庭へ出よう。いろいろ話さなければならないことがある。だが、それには砂糖っ気はないがな」
ウジェニーとその母親はシャルルのほうをちらっと見やった。その眼の色に、もう青年は思い違いすることもなかった。
「それはどういう意味でしょうか、伯父さま。母が亡《な》くなりましてから……(この言葉を言うと、彼の声はうるんだ)ぼくにはもう不幸などおきるはずはないんですが……」
「でもね、神さまが私たちを試《ため》そうとなさる苦しみ悩みは、だれにもわかりはしませんのよ」と、シャルルの伯母が言った。
「おっ、と、と、と、また戯言《たわごと》がはじまったな」と、グランデが言った。「ところで、おまえさんの白いきれいな手を見るとつらくてならないよ」彼は、腕の先に天から授かった羊の肩の肉のような手をさしだした。「こういうのが、金をかき集めるためにつくられた手なんだ! おまえさんときたら、わしらが商業手形をしまっておく紙入れの革《かわ》の中へ足をつっこむように育てられてきたのじゃ。だめだ! だめだ!」
「それはどういう意味ですか、伯父さま。たったひと言でもわかれば、首をくくられたってかまいませんがね」
「おいで」と、グランデは言った。
守銭奴《しゅせんど》は、小刀の刃をぱちんと鳴らしてしめ、白ぶどう酒ののこりを飲むと、ドアをあけた。
「勇気をお出しになってね!」
若い娘のこの言葉の調子は、シャルルをぞっとさせた。彼は極度の不安にとらわれながら、恐るべき伯父の後にしたがった。ウジェニーと母親とナノンは、これからじめじめした小さな庭で演じられようとしている劇のふたりの役者をのぞいて見たい好奇心を押えきれずに、台所へやってきた。まず、伯父は甥《おい》とともに、黙ったまま庭を歩きまわるだけだった。グランデは、シャルルにその父親の死を知らせることにはべつに当惑しなかったが、甥が一文無しになったと知って同情のようなものを感じた。それでこの残酷な真相を和《やわ》らげて言い表わすために、いろいろ言葉を考えていたのだ。≪おまえはお父さんを亡くしたのだよ!≫と、こう言うのはなんでもない。父親というものは、子供より先に死ぬものなのだ。だが≪おまえには財産というものはなにひとつないんだよ!≫という言葉には、地上のありとあらゆる不幸が結び合わさっている。それで老人は、庭のまんなかの小道を回ること、これで三度目だった。道の砂利は足の下できしんで鳴った。人生の重大事にあたっては、われわれの魂は、さまざまな喜びとか悲しみとかがわれわれに襲いかかってきた場所に、強く結びつくものである。それでシャルルは、その小さい庭の黄楊《つげ》の木や、散ってゆく枯葉や、くずれかけている石垣や、枝ぶりの奇妙なかっこうの果樹などを、とりわけ深い注意をはらってながめるのだった。この絵のような風景のひとつひとつは、この命も絶えようとするこの時と永遠に結びつき、激情に伴う特殊な記憶のはたらきによって、彼の思い出に刻みこまれて残るにちがいない。
「なかなか暑い、それにいい天気だ」と、グランデはあたりの空気を強く吸いながら言った。
「ええ、伯父さま。でもなぜ……」
「うん、それがなあ」と、伯父はひきとって、「おまえさんに悪い知らせがあるのだよ。おまえさんの親父《おやじ》さんはひどくぐあいが悪くて……」
「どうして、ぼくはこちらへ来ているんでしょう?」と、シャルルが言った。「ナノン! 駅馬車の馬を頼んでくれ」と叫んで、そしてじっと動かずにいる伯父のほうを振り向きながら、「このあたりにも馬車はあるでしょう?」と、つけ加えた。
「馬も馬車も無駄《むだ》なことだ」と、グランデはシャルルを見つめながら答えた。シャルルは黙ってじっとしていたが、その眼はすわってきた。「そうだよ、かわいそうにな。おまえさんも察しがついたようだな。死んだのだよ。だが、そんなことはなんでもない。もっと重大なことがあるんだ。親父さんはピストル自殺したんだよ……」
「父が?」
「そうだ。だが、そんなことは大したことではない。それについて、新聞がまるで当然の権利みたいに、いろいろと注釈をつけている。ほら、読んでごらん」
グランデは、クリュショから新聞を借りてきていたので、新聞の例の不幸な記事をシャルルの眼のすぐ下につきつけた。このとき、哀れな青年は、まだ子供のままの、感情が素直に現われる年ごろなので、わっとばかりに泣きだした。
≪さあ、これでよし≫と、グランデは思った。≪これの眼つきにはひやっとさせられた。が、いまは泣いている。これでこの子も救われたのだ≫
「それもまだなんでもないことだよ」と、シャルルが聞いているかどうかもわからずにグランデは声を高めて言葉をついだ、「それもなんでもないのだ、やがて諦《あきら》めもつこう。だが……」
「諦められなんかしない! 絶対に! ああ、お父さん! お父さん!」
「親父さんはおまえの財産をつぶしてしまったのだ。おまえは一文無しになったんだ」
「それがぼくにどうなんです! お父さんはどこなんだ、お父さんは?」
むせび泣く声は、恐ろしいまでにまわりの石垣に響きわたり、こだまとなって反響した。三人の女は、哀れみの情にかられて涙を流した。涙というものは、笑いと同じように伝染するものだ。シャルルは、伯父の言葉を耳に入れずに、中庭へ逃げこみ、階段をみつけて自分の部屋へ上がり、そして寝台の上に横向きに身を投げだすと、身内の者たちから離れて思いのままに涙を流そうとして、敷布に顔をうずめた。
「最初の夕立はやり過ごさなきゃならないんだ」と、グランデは広間へはいってゆきながら言った。
広間では、ウジェニーとその母親は大急ぎでそれぞれの席にもどると、眼をぬぐってから、ふるえる手で針仕事にかかっていた。
「それにしても、あの若者は、からきし駄目《だめ》なやつだな。金よりも死人のことに気を奪われているんだからな」
ウジェニーは、最も神聖な苦悩について、父親がそんなことを言うのを聞いて、身をふるわせた。この瞬間から、彼女は父親を批判するようになった。シャルルはすすり泣きをおしころしてはいたのだが、それでもこのよく響く家じゅうに響きわたっていた。地の下からもれてくるようなその深い悲嘆の声は、しだいに弱まっていって、夕方になってやっとやんだ。
「きのどくなお人」と、グランデ夫人が言った。
なんと宿命的な嘆声だろう! グランデ親父《おやじ》は妻とウジェニーと砂糖|壺《つぼ》とを見やった。彼は、不幸な親戚のためにととのえられた途方もない御馳走を思いだして、広間のまんなかに立ちどまった。
「おお、そうだ」と、いつも変わらぬ落ち着いたようすで言った、「無駄遣《むだづか》いはつづけないでほしいものだな、奥さん。あのつまらない若造に甘い餌《えさ》をくれてやるために、わしの金をおまえに渡したんじゃないんだからな」
「お母さまにはなんのかかわりもありませんのよ」と、ウジェニーが言った、「それは私が……」
「おまえはもう成年に達しているから」と、グランデは娘の言葉をさえぎって言った、「この私に逆らおうという気なのか? 考えてみるがいい、ウジェニー……」
「お父さま、お父さまの弟さんの息子さんが、お父さまの家で不自由なさるなんてことがあっていいはずはございません……」
「おっと、と、と、と」と、樽屋は半音階に調子を四段に変えて、「こっちじゃ、わしの弟の息子さん、あっちじゃ甥御《おいご》さんだと。シャルルなんか、わしらにとってなんでもありゃしない、びた一文無い男なんだぞ。あいつの親父は破産したんだ。それに、あのお洒落《しゃれ》は泣きあきたら、ここを出て行くだろう。わしは、あの男にこの家をひっかきまわしてもらいたくはない」
「なんですの、お父さま、その破産するっていうのは?」と、ウジェニーはきいた。
「破産するっていうことはな」と、父親は言葉をついだ、「人間のあらゆる恥さらしの中でもいちばん恥さらしな行ないをする、ということだよ」
「きっと大きな罪なんでしょうね」と、グランデ夫人は言った、「それであの弟さんは地獄へ堕《お》ちなさるんでしょうね」
「そらまた、おまえのくどい話がはじまった」と、彼は肩をすくめながら妻に言ってから、「破産するってことはな、ウジェニー」とつづけた、「盗みをすることなんだが、不都合なことに、法律が守ってくれるんだよ。ギョーム・グランデは正直な男だ、誠実な男だという評判を信用して、人々は商品を送った。するとあの男はそっくり取り上げてしまい、商人たちには泣くための眼しかのこしてやらない。追剥《おいはぎ》のほうが破産者よりまだましだよ。追剥はおそいかかってくるから、身を守ることができる。追剥は自分の首を賭《か》けてやっている。ところが、一方は……。要するにシャルルは不名誉を負わされたことになったというわけさ」
こうした言葉は哀れな娘の心の中に反響して、ずっしり重くのしかかった。森の奥に生《は》えでた花がかよわいと同じほどに誠実な彼女は、世の中の格言も、人をごまかす屁理屈《へりくつ》も、詭弁《きべん》も知らなかった。それで、父親が述べた破産についての残酷な説明をそのままに受けとった。父親は、過失による破産と、故意に計画的になした破産の区別を教えもしなかったのだ。
「じゃ、お父さま、お父さまがその不幸をくいとめることはできませんでしたの?」
「弟はわしになんの相談もしなかったのだ。それに、四百万の借金だからな」
「百万フランって、いったいどのくらいですの、お父さま」と、彼女は、欲しいものはすぐ見つかると信じこんでいる子供のような素直さでたずねた。
「百万フランかい? 百万フランと言や二十スー銀貨で百万枚だ。五フランつくるには、二十スー銀貨が五枚いるわけだからな」
「まあ、たいへんだこと!」と、ウジェニーは声をあげた、「どうしてまた叔父さまは四百万フランもおもちだったのかしら? そんな何百万フランももってる人が、フランスにはまだほかにあるんでしょうか?」
グランデ親父《おやじ》は顎《あご》をなでて、笑っていた。例の瘤《こぶ》がふくらんだようだった。
「でも、シャルルさんはこれからどうなるんでしょう?」
「東インドヘ出かける。父親の望みどおりに、そこで一所懸命になって一財産こしらえるんだよ」
「でも、そこへ行くお金がおありなのかしら?」
「旅費はわしが出してやるのさ。……そう、……そうだ、ナント〔フランス西部、ロワール河口に近い港町。ソーミュールから百マイルたらずのところにある〕までのな」
ウジェニーは父親の首にとびついた。
「まあ! お父さま、なんて親切なかたなんでしょう、お父さまは!」
彼女はグランデが恥ずかしくなるほど接吻したので、彼もいささか良心がとがめるのだった。
「百万フランためるのに、ずいぶん時間がかかるのでしょうか?」と、彼女はたずねた。
「そうとも!」と、樽屋は言った。「ナポレオン金貨がどういうものか知ってるだろう。いいか、それが五万枚なければ百万フランにならないのだ」
「お母さま、あのかたのために九日間のミサをしてもらいましょうね」
「私もそう思っていたのよ」と、母親は答えた。
「またそれだ。いつも金を使うことばかりだ」と、父親は大声をあげた、「おい、いったい、おまえたちはこの家に何千何百という金があると思いこんでいるのか?」
ちょうどこのとき、これまでにない悲しそうな痛ましい嘆声が屋根裏部屋に響きわたって、ウジェニーとその母親を恐怖でぞっとさせた。
「ナノン、階上《うえ》へ行ってみてこい、自殺でもしてやしないか」と、グランデは言った。そして、その言葉に真蒼《まっさお》になった妻と娘のほうにむきなおって、「ばかなまねをするんじゃないぞ、ふたりとも。わしはちょっと出かけてくる。今日帰国するオランダの商人たちのようすを見てくる。それからクリュショのところへいって、こんどの件を相談してくる」
そう言って出かけていった。グランデが戸口をしめると、ウジェニーと母親はほっとして息をついた。この朝までは、娘は父親の前で気づまりな思いをしたことは一度もなかったのだ。ところが、数時間まえからというもの、彼女の気持ちや考え方が絶えずくるくる変わった。
「お母さま、ぶどう酒一樽で何ルイになるのかしら?」
「私の聞いたところによれば、お父さんがお売りになるのは百フランから百五十フラン、時には二百フランということですよ」
「すると、千四百樽の収穫があるとすると……」
「そうねえ、おまえ、どのくらいになるものやら私にはわからないよ。お父さまは、お仕事のことはいっさい私にはおっしゃらないのだから」
「でも、そうとするとお父さまはお金持のはずね」
「たぶんね。でも、二年前にフロアフォンの地所をお買いになったって、クリュショさんが私におっしゃったわ。それで、お金に不自由なさっていらっしゃるのじゃないかしら」
ウジェニーはそれ以上は父親の財産について見当がつかなくなってしまったので、計算は打ち切ってしまった。
「坊っちゃまは私のほうなど一度もごらんになろうとはしませんでしたよ!」と、もどってきたナノンが言った、「ベッドの上にごろりと横になってマグダラのマリア〔キリストの弟子。七つの悪鬼に悩まされていたが、のちイエスに従う。『新約聖書』「ルカ福音書」参照〕のようにさめざめと泣いていらっしゃる。まさかあれほどとは思いませんでした! あのおきのどくなお坊っちゃまは、どんなにか悲しんでおいでのことか」
「早くいって慰めてあげましょうよ、お母さま。もし戸をたたく音がしたら、すぐおりてくることにして」
グランデ夫人は、娘の声のなだらかな調子にはさからいようもなかった。ウジェニーは気高かった。一人まえの女になっていた。ふたりは胸をどきどきさせながら、シャルルの部屋へ上がっていった。ドアはあいていた。青年はなにも見ようとも聞こうともしないようすだった。ただ涙にくれて、とぎれとぎれに嘆声をもらしているだけだった。
「どんなにかお父さまを愛していらっしゃることでしょう!」ウジェニーは低い声で言った。
この言葉の調子には、いつのまにか知らずに情熱の燃えあがった心のいだくかずかずの希望を認めないわけにはいかなかった。だからグランデ夫人も母性愛のこもった眼差《まなざ》しで娘をちらっと見やると、その耳もとに低い声で、
「気をおつけ、この人を好きになりますよ」と言った。
「好きになりますって?」と、ウジェニーが言葉をついだ。「ああ! お父さまがなんておっしゃったか、お母さまが御存じだったら!」
シャルルはちらっと振り向いた。伯母と従姉妹に気がついた。
「父は死んでしまいました。きのどくなお父さん! 不幸な秘密を打ち明けてくれてさえいたら、ふたりで働いて立てなおすのでしたのに。ああ! やさしいお父さん! またすぐ会えるつもりでしたので、そっけない別れ方をしてきたように思えるのです」
すすり泣きで声がとぎれた。
「お父さまのために、お祈りをしましょう」と、グランデ夫人は言った、「神さまのお心におまかせなさいね」
「勇気をおだしになってね!」と、ウジェニーは言った、「お父さまのお亡くなりになったことは取り返しのできないことですわ。ですから今は御自分の名誉を救うことをお考えになってね……」
女というものはどんな場合にも、たとい人を慰めているようなときでもよく気がきくものだが、そういう女のあの本能、あの鋭敏さでもって、ウジェニーは従兄弟《いとこ》の苦悩を、彼自身のことを考えるようにしむけることで、まぎらわせてやりたいと思ったのだった。
「ぼくの名誉ですって?……」青年は髪の毛を乱暴にかきあげながら叫んだ。そして寝台の上にすわりなおして、腕をくんだ。
「ああ、そうだ。伯父さまがおっしゃるには、父は破産してしまったんだ」彼は胸も張り裂けるような叫びをあげると、両手で顔をかくした。「かまわないでください、ウジェニーさん、ほっといてください! ああ! 神さま! 父をゆるしてやってください、父はずいぶん苦しんだにちがいありません」
計算も底意もない、こうした若々しい、真実の苦しみの表現をまざまざと目にすると、なにか恐ろしいほどひきつけられるものがあった。それはまさに清らかな悲しみであって、ウジェニーやその母親のような素直な心にはよくわかるものだったが、シャルルはそのとき、ほっておいてくれというような身振りをした。ふたりは階下へおりていって、いつものガラス窓のそばのめいめいの椅子に黙って腰をおろし、一時間ほどというものひと言も口をきかずに針仕事をした。ウジェニーはさっき、またたくまにすべてを見てしまう若い娘の視線で、青年の身のまわりの品をそっと見て、鋏《はさみ》だとか、金で飾った剃刀《かみそり》とか、きれいなつまらぬ化粧道具があるのに気がついた。悲しみをとおしてちらっと見た贅沢《ぜいたく》、おそらくは対照のせいだろうが、ウジェニーはいっそうシャルルにひきつけられた。いつも平穏と孤独の中にとじこめられて暮らしているこのふたりの女の想像が、こんなに重大な出来事、こんなに劇的な光景によってゆり動かされたことは一度もなかった。
「お母さま、叔父さまのために、私たち喪《も》に服しましょうね」
「それは、お父さまが決めてくださるわよ」と、グランデ夫人は答えた。
彼女らはまた沈黙にかえった。ウジェニーは規則正しい動きで針をはこんでいたが、注意ぶかい観察者ならば、彼女が深い物思いにしずみながらいろいろと考えをめぐらしていることを、そこに見抜いたことだろう。この愛すべき娘が第一に望んだことは、従兄弟《いとこ》とおなじように喪に服したいということだった。
四時ごろ、|たたき槌《ノッカー》がふいに鳴って、グランデ夫人の心に響きわたった。
「お父さまはどうかなさったのかしら?」と、夫人は娘に言った。
ぶどう作りはうれしそうなようすではいってきた。手袋をぬいでしまうと、両手をごしごしすりあわせた。その手はロシア革のような落葉松と香《こう》のにおいこそなかったが、あのなめし革のようになめされた手の皮でなかったら、皮膚がむけてしまったかもしれない。彼は歩きまわっては、時計に目をやるのだった。そして、とうとう、胸の秘密をもらしてしまった。
「ねえ、おまえ」と、彼は、吃《ども》らずに言った、「やつらをみんな一杯くわせてやったよ。うちのぶどう酒は売れたんだ! オランダ人たちもベルギー人たちも今朝出発しようとしていたんだが、わしはやつらの宿の前の広場をばか面《づら》をしてぶらぶら歩いていたのだ。すると、おまえも知っているなんとかいう男が、わしのところへやってきた。いいぶどう畑をもっている者たちは、取入れたのをしまっておいて、時期を待とうとしておる。わしはそれをさまたげようとはしなかった。それでベルギー人は買い付けができずにがっかりしておったわけだ。わしはそれがわかっていたのだ。取引きがすんで、一樽二百フランでうちのぶどう酒を引き取ってくれることになった。半分は現金だ、金貨で払ってくれたよ。手形も作らせた。ほら、おまえに六ルイやるよ。三か月もしたら、ぶどう酒の値はさがるだろうさ」
この最後の言葉はおだやかな調子で言われたが、深い皮肉がこもっていて、ちょうどそのころ広場に集まっていて、グランデがいましがたやった取引きの知らせに、がやがやと荒れ模様になっていたソーミュールの連中が、もしもこの言葉を聞いたら身をふるわせて怒ったにちがいない。それで恐慌でもおこったら、ぶどう酒の値段は五割がたも暴落しかねないだろう。
「今年は千|樽《たる》ほどあったのですね、お父さま?」と、ウジェニーが言った。
「そうだよ、|お嬢ちゃん《ヽヽヽヽヽ》」
この言葉は、老樽屋がうれしいときの最上級の表現だった。
「それじゃ二十スー銀貨で二十万枚になりますわね」
「そうだよ、グランデのお嬢さん」
「じゃお父さま、わけなくシャルルさんを助けておあげになれますわね」
『メネ・テケル・ペレス』〔『旧約聖書』ダニエル書第五章。バビロニア王ベルシャザルは酒宴のとき神をのろったので、王朝の滅亡を予言するこの文字が壁に現われたという。メネは「数えたり」、テケルは「秤《はか》れり」、ペレスは「分かたれたり」の意〕という文字を見たときのベルシャザルの驚きと怒りと呆然《ぼうぜん》たるさまといえども、グランデの冷やかな憤怒《ふんぬ》にはくらべることはできなかった。自分ではもう甥《おい》のことなど考えてもいなかったのに、その甥が娘の心に宿り、娘の計算の対象となっているのを見いだしたグランデの怒りは、そんなにもはげしいものだったのである。
「ああ、それだよ! あのお洒落《しゃれ》がわしの家へ足を踏み入れてからというもの、なにもかもがうまくいかないじゃないか。おまえたちはたいそう気取ってボンボンは買う、大御馳走はする、宴会はひらく、といった調子だ。わしはそういうことはしたくない。わしもこの年齢《とし》になっている、自分はどうふるまったらよいかということぐらいは、心得ているつもりだ! それに、自分の娘からだろうが、だれからだろうが、わざわざ教えてもらうようなことはない。甥《おい》のためには、それ相応なことをしてやるつもりでいる、おまえたちがわきから鼻をつっこむことなんかありゃしない。ところでおまえだがな、ウジェニー」彼女のほうへむきなおるとこうつけ加えた、「これ以上わしにそんなことを言うんじゃないよ。でなきゃ、ナノンをつけてノアイエの修道院へおくりこんでやるぞ、ほんとうに。へたをすれば、さっそく明日にもだ。ところで、どこにいるんだ、あの子は、おりてきたかな?」
「いいえ、あなた」と、グランデ夫人が答えた。
「じゃ、いったい何をしている?」
「お父さまのために泣いていらっしゃいますわ」と、ウジェニーが答えた。
グランデは言うべき言葉も見つからず、娘の顔を見つめた。彼だって、多少は父親らしいところもある。広間の中を一、二度歩きまわってから、国債投資の件をじっくり考えるために仕事部屋へ急いで上がっていった。二千アルパンの森の木をきれいに伐《き》りはらったので、六十万フランの金がはいってきた。その金に、例のポプラの代金と昨年と今年との定収入を加えると、いましがた契約してきた取引きの二十万フランは別として、総額九十万フランという金が積まれることになる。時価七十フランの国債を買っておけば、わずかの間に二割の儲《もう》けがあるというので、彼の気持ちをひいた。彼は聞くともなしに甥のうめき声を耳にしながら、弟の死を報じている新聞の上で、自分の投資の計算をした。
ナノンがやってきて、主人におりてくるようにと壁をたたいた。夕食の支度ができたのだった。丸天井の下、階段のおりきったところで、グランデはひとり言を言うのだった。≪八分の利子がはいってくるのだから、この仕事をやることにしよう。二年で百五十万フラン手にはいるわけだから、それをパリから金貨で引き出してやろう≫
「おい、甥はいったいどこにいるんだ?」
「なにも食べたくないとおっしゃっています」と、ナノンが答えた、「からだによくありませんのにね」
「それだけ倹約になるさ」と、主人は言い返した。
「それもそうでございます」
「なあに、いつまでも泣いているわけではあるまい。腹がへれば、狼《おおかみ》だって森から出てくるさ」
夕食は異様なほど物静かだった。
「ねえ、あなた」テーブル掛けやナプキンが取りのけられたとき、グランデ夫人が言った、「私たち、喪《も》服を着なきゃいけませんでしょうね」
「いや、まったく、グランデの奥さん。あなたという人はお金を使うためには何を考えだすかしれたものではない。喪《も》というものは心にあるもので、着物にあるんじゃありませんよ」
「でも、兄弟の喪はどうしても服さなければなりませんわ。教会のきまりもありますし……」
「さっきの六ルイで喪服を買いなさい。わしには喪章をこしらえてもらおう。それでたくさんだよ」
ウジェニーはひと言も口をきかずに空をあおいだ。それまで眠らされ、抑えつけられていた彼女の温厚な性質は、ふいに呼びさまされたかと思うと、生まれてはじめてつづけざまに傷つけられたのである。
その夜は、見たところ、彼らの単調な生活のいつもの夜と似たようなものだったが、確かに最も恐ろしい夜だった。ウジェニーは顔もあげずに仕事をした。昨夜シャルルが気にもとめなかった針箱は使おうともしなかった。グランデ夫人は袖《そで》を編んでいた。グランデは指をひねくりまわしながら、四時間というもの計算に夢中になっていたが、その結果は、明日にはソーミュールの連中を驚かすことになるはずだった。
その日はだれも訪れてくる者はなかった。ちょうどそのころ、町じゅうは、グランデの離《はな》れ業《わざ》、彼の弟の破産、甥《おい》の到着のことでわきかえっていた。ソーミュールの上流、中流のぶどう園の持主たちは、共通の利益についていろいろ話し合う必要から、デ・グラサン氏の家に集まっていた。そこでは元町長に対するはげしい呪《のろ》いが爆発した。
ナノンは糸を紡《つむ》いでいた。その紡ぎ車の音だけが、広間の灰色がかった天井の下で聞こえるただひとつの物音だった。
「だれも舌をつかわないのですね」彼女は、殻をむいたアーモンドのように大きく白い歯を見せて言った。
「なんにもつかう必要はない」と、グランデが物思いから呼びさまされて答えた。
彼は三年で八百万フランを手にする未来の自分を思い描いていた。広々とした黄金の波の上を帆をあげてすすんでいたのである。
「さあ、寝るとしよう。わしはみんなのかわりに甥のところへおやすみを言いにいこう。そしてなにか欲しいものがあるか見てくる」
グランデ夫人は二階の踊り場に立ちどまって、シャルルと老人のあいだにかわされる話を聞こうとした。母よりも大胆なウジェニーは、もう二段ばかり階段を上がった。
「どうだい、シャルル、ずいぶん悲しいだろうな。そうだ、泣くがいい、それが当然だ。父親はやっぱり父親だからな。だがな、不幸というものには、辛抱《しんぼう》が必要だ。おまえさんが泣いているあいだ、わしはおまえさんのことをとっくり考えた。親切な親戚だろうが。さあ、元気をお出し。ぶどう酒でも一杯やってみるか?」
ソーミュールではぶどう酒はただみたいなものである。東インドで一杯の茶を出すようにぶどう酒をふるまうのだ。「だが、明りがないな」と、グランデはつづけて、「よくない、よくない。なにかするときは、はっきり見えなきゃいかん」
グランデは暖炉のほうへ歩いていった。
「おやっ!」と、彼は叫んだ、「白|蝋燭《ろうそく》があるぞ。いったい白蝋燭なんか、どこから釣り上げてきたんだろう? うちの女どもは家の天井板をひっぱがしてでも、この男に卵を茹《ゆ》でてやりかねないぞ」
この言葉を聞いて、母親と娘は自分たちの居間へもどって、まるで怯《おび》えたハツカネズミが穴に逃げこむようなすばやさで、寝台の中にもぐりこんだ。
「グランデの奥さん。あんたは宝の山でもおもちなのかね?」と、彼は妻の部屋へはいってきながら言った。
「あなた、私はいまお祈りをささげていますので、ちょっとお待ちください」夫人はおずおずした声で答えた。
「おまえの神さまなんぞ悪魔にさらわれてしまえ」と、グランデはぶつぶつつぶやいて言い返した。
欲深な人間は未来を信じない、彼らにとっては現在がすべてなのだ。そう考えてみると、現代という時代が恐ろしいまでに明らかになる。現代は、他のいかなる時代よりも、金銭が法律、政治、風習を支配している。制度や書物や人間や主義学説など、すべてがひそかに協力して、千八百年以来、社会機構をささえてきた来世の信仰をしだいに弱まらせている。いまでは、死の柩《ひつぎ》は、だれも恐れはしないたんなる移り変わりである。「|死者のための祈り《レクイエム》」のかなたに待ちかまえている未来は、現在の中に移されてしまった。奢侈《しゃし》とむなしい享楽との地上楽園に、|手段のいかんを問わず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》到達すること、かつて人々が永遠の至福を目ざして死を賭《と》して苦しみ悩みに堪えたように、一時的な財産の所有のために心をかたくなにし、肉体を苦しめること、こうしたことが一般的な考えになっているのだ! しかもそれが、いたる所に記《しる》され、法律の中にまである考えなのだ。法律は立法者にむかい、≪どう考えるのか?≫と問うかわりに≪何を支払うか?≫と問いかけている。このような主義が、中産階級から一般の人々にまでひろがって、この国はどうなることか?
「グランデの奥さん、すみましたかい?」老樽屋は言った。
「あなたのためにお祈りしていますわ」
「それはけっこう! じゃおやすみ。明日の朝、話し合うことにしよう」
哀れな夫人は眠りについたが、それはまるで、学課を覚えることができなかったので、目がさめたとき教師の不機嫌《ふきげん》な顔を見るのがこわい生徒のような眠りだった。恐ろしくて、なにも耳にしたくないので床《とこ》の中で寝返りをうっていると、ウジェニーが下着一枚の素足でそっとはいってきて、額《ひたい》に接吻した。
「ああ、お母さま。明日、あれは私がしたのだと、お父さまに言いますわ」
「いいえ、いけません。そんなことをすれば、ノアイエにやられてしまいますよ。私に任せておきなさい。まさか取って食われることもありますまい」
「聞こえる、お母さま?」
「何が?」
「ほら、|あのかた《ヽヽヽヽ》はあい変わらず泣いていらっしゃるわ」
「さあ、いっておやすみ。足から風邪《かぜ》をひきますよ。床が湿っぽいからね」
このようにして、金持だが哀れな跡取り娘の全生涯に重くのしかかることになったその厳粛な一日は過ぎていった。もはや彼女の眠りは、これまでのように完全でもなく、清らかでもなくなった。人間生活のある種の行為には、文学的に言えば、いかに事実であろうとも、事実でないように見えることがしばしばあるものだ。しかしそれは、われわれが一種の心理的な光を、自然に生まれた決心にそそぎかけることを忘れてそうした決心を余儀なくせざるをえなかったひそやかな理由を説明してみないからではなかろうか? おそらくウジェニーの奥深い情熱も、最も繊細微妙な小さな繊維にわたって分析しなければなるまい。なぜならば、彼女の情熱はひとつの病気となって(と、口の悪い人なら言うだろうが)、彼女の全生涯に影響したからである。多くの人々は、精神の世界でひとつの事実を他の事実にひそかに結ぶ絆《きずな》や結び目や鎖などの力を測ろうとはせずに、むしろ問題の解決を否定したがるものだ。ところでこの場合、人間性の観察家にとっては、ウジェニーの過去が、彼女の無邪気な無分別や、突然な心情の吐露《とろ》というものの保証として役立つだろう。これまで彼女の生活が穏やかであっただけに、最も巧みに動く感情である女の情け深さが一段とはげしく彼女の心情に湧《わ》き立ったのである。
それゆえに、その日一日のいろいろな出来事に悩まされた彼女はいくども目をさまし、昨日から心に響きわたっていた従兄弟《いとこ》の溜息《ためいき》をまたしても聞いたような気がして耳をかたむけた。シャルルの悲嘆のあまり息も絶えそうな姿を思い描くこともあったし、飢えで死にそうな夢を見ることもあった。夜明けがた、恐ろしい叫び声を確かに聞いた。すぐに身支度をして、薄明りの中を、急ぎ足で、従兄弟のところへ駆けつけた。部屋の扉はあけ放してあった。蝋燭《ろうそく》は燭台の蝋皿の中で燃え尽きていた。自然の力には勝てないで、シャルルは肱掛け椅子にかけたまま、頭はベッドに落とし、着のみ着のままで眠っていた。胃の空になった人間は夢を見るものだが、彼も夢を見ていた。ウジェニーは思いのまま泣くことができた。苦悩のために血管が浮き出ている若々しく美しい顔、眠っていながらもまだ涙を流しつづけているような泣きはらした眼、そうしたものを彼女はほれぼれと見ることができた。シャルルはウジェニーがそばにいることを、本能的な力で感じとって眼を開き、彼女が涙ぐんでいるのを見た。
「これは失礼」と、彼は言ったが、いま何時なのか、自分がどこにいるのか、はっきりわからないようすだった。
「ここにはあなたのお気持ちがわかる者が何人かいますわ。|私たち《ヽヽヽ》、なにか御用がおありではないかと思いましたの。横になっておやすみにならなくてはいけませんわ。そのようになさったままではお疲れになりましてよ」
「それはそうですね」
「では、さようなら」
彼女は、その場を逃げだした。こうしてやってきたことが恥ずかしくもあり、うれしくもあった。無邪気な者だけがこうした大胆なことをやってのけるのだ。いろいろ知恵がつけば、徳もまた悪と同じように計算をめぐらすようになる。ウジェニーは従兄弟のそばではふるえなかったが、いったん自分の部屋へもどると、脚《あし》の力がぬけてしまい立っていられないほどだった。彼女の無知な生活は突然ここで終わってしまい、彼女は自分の行動をとくと考えるようになり、ことごとに自分を咎《とが》めだてするようになった。≪私のことをどうお考えになっていらっしゃるかしら? きっと、私が愛しているのだとお思いになるわ≫彼にそう思われることは、まさに彼女の最も望むところだった。率直な恋は物事を見抜き、恋が恋を唆《そそ》ることを知っている。若い男の部屋へあのようにこっそりはいっていったことは、この孤独な若い娘にとって、なんという大事件だったろうか! 恋しながら考えたこと、行なったことは、ある人たちにとっては、神聖な婚約と同じ価値があるのではないか!
一時間ほどしてから、彼女は母親の部屋へはいっていって、いつものように着つけを手伝った。それからふたりは、窓べのそれぞれの椅子に腰をおろして、不安な気持ちでグランデを待っていた。なにか一騒動おきるのではないか、罰せられるのではないかとびくびくしているときには、それぞれの性格によって、心をぞっとさせたり熱っぽくさせたり、締めつけられたりふくらませたりする、あの不安な気持ちだった。もっともその気持ちはごく自然なのであって家畜でさえもうっかりして傷ついたときは黙っているのに、懲罰のために少しでも痛むと不安を感じて鳴き叫ぶものである。老人がおりてきた。しかし彼は妻には気のないふうで話しかけ、ウジェニーに接吻すると、昨夜の嚇《おどか》しなど念頭にないようすで食卓についた。
「甥《おい》のやつはどうした? めんどうをかけないやつだな」
「旦那さま、あのかたは眠っておいでです」と、ナノンが答えた。
「なおさらけっこうだ。蝋燭がいらないからな」グランデはからかうような調子で言った。
そうしたいつにない寛大さと辛辣《しんらつ》なところがある陽気さとは、グランデ夫人をびっくりさせた。彼女はつくづくと夫の顔を見つめた。老人は……ここでちょっと断わっておいたほうがいいと思うが、老人《ボノム》〔ボノム bon homme は第一に「善良な人」の意、次いで「老人」の意がある〕という言葉はすでに何度もグランデを示すために用いてきたが、ツーレーヌやアンジューやポアトゥーやブルターニュの地方では、ごく人の良い人間にもごく残酷な人間にも、彼らが相応な年齢に達するとすぐ同じように与えられる。この呼び名は、温厚な人間に与えられると限らないのだ。ところで、この老人は帽子と手袋をとると、
「クリュショ家の連中に出会うように、広場をぶらついてくる」と言った。
「ウジェニー、お父さまは確かにどうかしていらっしゃるよ」
実際、グランデはあまり睡眠をとらない男で、夜の半分を予備的な計算をするのに使うのだったが、その計算のおかげで、彼の目的や観測や計画は驚くべき正確なものとなり、いつでも確実な成功をおさめ、ソーミュールの町の人たちの目を見はらせるのである。すべて人間の力というものは忍耐と時間の合成物である。力強い人間は意欲をもち、眠りをあまりとらない。守銭奴の生活というものは、この人間の力をただ一個人のためにのみ役立て、絶えることなく行使するのだ。それはただふたつの感情、つまり自己愛と私利私欲によってささえられる。しかし私利私欲は確固たる自己愛のようなものであり、実際上の優越を絶えず示すものであるから、自己愛も私利私欲も、利己主義というひとつのものの両面にすぎない。舞台で巧みに演じられるさまざまな守銭奴が、不思議なほど好奇心をかきたてるのも、おそらくそうしたところにあるのだろう。それらの舞台の人物は人間のあらゆる感情をそっくり縮めてもっているのだが、人間はだれでもこれらの人物たちと一筋の糸でつながっているのである。欲望のない人間など、どこにいるだろうか? 社会に生きる人間のどんな欲望が、金銭抜きで解決できるだろうか?
グランデは実際、夫人の言いまわしによれば、どうかしていた。あらゆる守銭奴と同じように、彼にも、ほかの人間を相手に一勝負して、その金を合法的にまきあげたいという根強い欲求があった。税金でも取り立てるように他人の金をまきあげることは、自分の威力をふるうことではなかろうか? あまりにも弱く、この世ではみすみす他人の餌食《えじき》となる連中を軽蔑《けいべつ》する権利をいつまでも自分のものとすることではないだろうか? ああ! 神の足下に安らかに横たわる小羊をだれがよく理解したろうか? その小羊は、あらゆる地上の犠牲者たちのもっとも哀れな表徴であり、未来の表徴であり、つまりは神の栄光を与えられた「苦悩」と「無力」なのだ。この小羊を、守銭奴は存分に肥《ふと》らせ、囲いに入れ、殺し、料理して食べ、そしてこれを軽蔑する。守銭奴の飼料は金銭と軽蔑とでできている。
夜のあいだに、老人の考えは方向が変わってしまった。それで彼は寛大な気持ちになっているのである。パリのやつらをばかにしてやろうとたくらんだのだ。やつらをねじりあげ、ころがし、こねあげ、行ったり来たりさせ、手こずらせ、望みをいだかせ、ついには真蒼《まっさお》にしてやろうとしたのだ。樽屋あがりは、ソーミュールの家の灰色の広間の奥で、虫のくった階段を上がったりおりたりしながら、パリの連中をからかってやろうと考えたのだ。甥《おい》のことが頭から離れなかった。彼は、甥も自分も一文も金はつかわずに、死んだ弟の名誉を回復したいと思った。彼の資金は三年間据え置きになる。もはや不動産を管理することしかなかった。そこで、彼の意地の悪い活動力にもなにか栄養物を与えなければならなかったが、彼はそれを弟の破産という事件の中に見つけたのだ。しぼりあげるものが足のあいだにすっかりなくなっているのに気づいて、シャルルのためにパリの連中を挽《ひ》き砕き、安上がりにりっぱな兄だということを示してやろうと思ったのである。一族の名誉ということなどは、彼の計画の中にはほとんどはいっていなかったのだから、彼の善意というのも、賭金《かけきん》を出さない一勝負にみごとな腕を示そうと思うあの博奕《ばくち》うちの欲望にもくらべられるべきものだった。そこで、彼にはクリュショ家の連中が必要だった。だが、こちらから会いに行きたくはなかったので、連中がやってくるようにさせて、筋書のできたばかりの芝居をさっそく今夜にも始めることに決めたのだ。こちらは一文も元手をかけずに、翌日には町じゅうの賞賛の的となろうというのであった。
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四 欲の約束、恋の誓い
父親の留守《るす》の間、ウジェニーはしあわせにも、おおっぴらに愛する従兄弟《いとこ》のせわをやき、たいせつな宝である憐憫《れんびん》の情をなんの気兼ねもなく彼にそそぎかけることができた。憐憫の情は、女性の崇高な美点のひとつで、女性が男に感じてもらいたいと思うただひとつのもの、男に存分に取らせることを許すただひとつのものである。三度か四度、ウジェニーは従兄弟の寝息をうかがいにいった。眠っているのか目をさましているのか見にいったのだ。やがてシャルルが起きあがると、クリーム、コーヒー、卵、果物、いろんな皿、グラスなど、朝食に必要なものが彼女の気をくばらなければならぬものだった。彼女は古い階段を身軽に駆け上がって、従兄弟のたてる物音を聞きにいった。着替えのさいちゅうかしら? まだ泣いていらっしゃるのかしら? 彼女は部屋のドアのところまできた。
「シャルルさん」
「あなたですか?」
「お食事は広間でなさいますか、それともお部屋で?」
「あなたのよろしいように」
「御機嫌《ごきげん》はいかがですの?」
「ウジェニーさん、恥ずかしいけれど、お腹《なか》がすいてしまいました」
こうしたドア越しの会話は、ウジェニーにとっては、まるで小説の一節であった。
「では、お食事はこの部屋へはこびますわ、父の機嫌を損じないように」
彼女は小鳥のように身も軽々と台所へおりていった。
「ナノン、あのかたのお部屋を片づけにいってね」
そんなにもしばしば上がりおりする階段は、どんな小さな物音も反響するのだが、ウジェニーには昔のままのように思われた。階段はむしろ輝いて見えたし、語りかけているようだった。彼女と同じように若々しく、その恋と同じように若々しかったし、彼女の恋に一役かっているのだった。ついに彼女の母親は、やさしく甘い母親は、娘の恋の気まぐれを認めてやる気になった。そうして、シャルルの部屋が片づくと、ふたりはそろって、不幸な男の相手をつとめようと上がっていった。キリスト教の愛は彼を慰めよと命じているではないか? このふたりの女は、自分たちのうわついた行ないの言いわけに、宗教の中から数々の屁理屈《へりくつ》を引き出した。
こうしてシャルル・グランデは、世にも情愛の深い、世にもやさしい心尽くしの対象になった。彼の痛む心は、ビロードのようなやわらかい友情の暖かさ、繊細な好意の暖かさを、はげしく感じた。いつも遠慮している母と娘は、その自然の領域ともいうべき忍従の場所においてひとときの自由を得て、そうした暖かさを存分に示すことができたのである。ウジェニーは、身内であることをたてにとって、従兄弟がもってきた下着や化粧道具などを整頓《せいとん》しはじめた。そして、ふと手にしたものを調べてみるという口実をつけて長いこともったまま、凝《こ》った細工の、金や銀の贅沢《ぜいたく》なつまらない品物のひとつひとつに思う存分感心することができた。シャルルは、伯母と従姉妹《いとこ》がよせてくれる寛大な心づかいを見ては、深い感動をおぼえずにはいられなかった。彼はパリの社交界のことをよく知っていたので、いまの自分の立場では、そこには無関心と冷淡な気持ちしか見いだされないだろうということは、よくわかっていた。彼にはウジェニーが特別な美しさをもって輝くばかりにすばらしく思われた。その時から、前の日ばかにしていた田舎の風俗の素朴さに感服するようになった。こうして、ウジェニーがナノンの手から、クリーム入りのコーヒーのいっぱいはいった陶器の茶碗をとって、やさしい眼差《まなざ》しをなげかけながら率直な感情をこめて従兄弟《いとこ》にすすめると、このパリの男は眼を涙でうるませながら、ウジェニーの手をとって接吻した。
「あら、またどうかなさいましたの?」と、彼女はたずねた。
「いいえ、これは感謝の涙です」と答えた。
ウジェニーは急に暖炉のほうを振り向いて、燭台《しょくだい》を取りあげた。
「ナノン、さあ、これをもっていって」
彼女は従兄弟のほうをながめたとき、まだその顔はかなり赤かったが、少なくも彼女の眼差しは嘘《うそ》をつくことができたし、心にあふれているなみなみならぬ喜びをみせてはいなかった。しかし、ふたりの魂が同じ考えにとけあっているように、ふたりの眼は同じ感情をあらわしていた。未来はふたりのものだという同じ思いを。
この快い感動は、はてしない悲しみの最中《さなか》にあるシャルルには、思いもよらないものであっただけに、なおさら甘美なものだった。
|たたき槌《ノッカー》がひと打ちされて、ふたりの女は自分たちの席に呼びもどされた。大急ぎで階段を駆けおりたので、グランデがはいってきたときには、つごうよく仕事にとりかかっていることができた。もし丸天井の下あたりで出会っていたら、それだけで十分グランデの疑いをひきおこすにちがいなかった。昼食がすむと、――老人は立ったまま食べたのだが、まだ約束の手当をもらえずにいる森の番人がフロアフォンからやってきて、そこの囲い場でとれた兎《うさぎ》や鷓鴣《しゃこ》の雛《ひな》や、粉ひきがつかまえた鰻《うなぎ》や二匹のカマスをもってきた。
「ほほう、コルノアイエか、いい潮時にやってきたな。おいしいかな、それは?」
「へえ、旦那《だんな》さま。二日前にとったものでして」
「さあ、ナノン、大急ぎだ。それをもっていけ。夕食にいいだろう。クリュショのふたりを今夜御馳走するんだ」
ナノンは愚かしく眼を大きく見開いて、みんなを見まわした。
「それじゃ、べーコンや薬味《やくみ》はどうしましょうか?」
「おまえさん、ナノンに六フラン出してやりなさい」と、グランデは夫人に言った、「それから、酒倉へわしが上等のぶどう酒を取りにゆくのを、忘れないようにそう言うんだよ」
「ところで、旦那さま」森番は手当の件を決めさせるつもりで、前もって長談義を用意して口を開いた、「グランデの旦那さま……」
「おっ、と、と、と、と」グランデは言った、「おまえさんの言いたいことはわかっている。おまえさんは気さくな男だ。その話は明日にしよう。きょうはひどく忙しいからな」と、言ってから、夫人に、「おまえ、百スーやってくれ」
グランデは自分の部屋へひきあげた。哀れな妻は十一フランくらいで平和があがなえるのがたいへんうれしかった。グランデからもらった小遣《こづか》い銭も、こうして一枚一枚とりあげられるのだが、その後二週間ぐらいはグランデも文句を言わないということを、夫人は知っていた。
「さあ、コルノアイエさん」と、彼女は十フランを手渡しながら言った、「お礼はまたいずれしますからね」
コルノアイエはなにも言うことはなかった。彼は立ち去った。
「奥さま」黒い頭巾《ずきん》をかぶって籠《かご》を手にしてナノンが言った、「三フランだけでけっこうです。あとはしまっておいてください。ほんとに、これだけあればまにあいますよ」
「おいしい御馳走をこしらえてね、ナノン。あのかたもおりていらっしゃるから」と、ウジェニーは言った。
「どうしたって、家にはなにかとんでもないことが起きますよ」と、グランデ夫人は言った、「私がお嫁にきてからこれが三度目ですものね、お父さまが人を食事におよびになるのは」
四時ごろになって、ちょうど、ウジェニーとその母親が六人分の食膳《しょくぜん》の用意を終わり、この家の主《あるじ》が、地方の人がだいじにしまっておく上質のぶどう酒を幾本か出してきたとき、シャルルが広間へはいってきた。蒼《あお》い顔をしていた。身振りにも態度にも、眼差《まなざ》しにも声の響きにも、優雅な品のよさにあふれた悲しみがあった。苦悩をよそおっているのではなくて、ほんとうに悲しんでいた。そして、苦しみの色にうすくおおわれた顔だちは、女たちがひどく好むあのなにか気をひくような風情《ふぜい》をそえていた。それだけに、ウジェニーはますます彼が好ましかった。おそらく、不幸そのものもまた彼を彼女に結びあわせたのだろう。シャルルはもはや彼女にとって近よりがたい世界にいる金持の美青年ではなくて、恐るべき貧困の底に沈んだ親戚の男にすぎなかった。貧しさは平等を生みだす。苦悩する人々を引き受けるところに女性と天使との共通点がある。シャルルとウジェニーは互いに互いの気持ちがわかり、ただ眼差しだけで語りあった。哀れにも伊達男《だておとこ》から転落した孤児は、片すみへひきこもって、そこで静かに誇りを失わずに、口をつぐんでいたが、時おり、従姉妹《いとこ》のやさしい愛撫するような眼差しが彼のところに輝きをおくり、いやおうなしに、彼に物悲しい考えを捨てさせ、彼女と共に希望《ヽヽ》と未来《ヽヽ》の世界へ飛び立つようにと強《し》いるのだった。彼女にはその世界へ共にはいってゆくということが、思っただけでも楽しかったのだ。
ちょうどそのころ、ソーミュールの町は、クリュショ家の人たちをグランデが晩餐《ばんさん》に招待したというので大騒ぎだった。それは、この地方のぶどうに対するいわば大逆罪を構成する、グランデのぶどう酒売却事件で昨日わきたった以上の大騒ぎだった。アルキビアデス〔紀元前四五〇?〜四〇四?、アテネの無節操で野心的な軍人、政治家。高価な犬の尻尾《しっぽ》を切って人々の喝采をうけようとしたという〕が犬の尻尾を切りとったのと同じ考えで、もしもこの政略的なぶどう作りが晩餐会をひらくことにしたのだとすれば、おそらく彼は大人物だったであろう。だが、絶えずソーミュールの町の連中をだましつづけてきた彼のほうがずっとうわてだったので、町の連中のことなど問題にしていなかった。グラサン家の人々も、まもなくシャルルの父親の変死と、破産したらしいことを知ったので、その晩すぐに顧客《おとくい》のグランデ家へ出かけてゆく決心を固めた。それは哀悼《あいとう》の意を表わして自分たちの友情のしるしを表わすとともに、こんな場合なのに、なぜクリュショ家の人々を食事に招くことにしたのか、その動機を知ろうということにあった。
ちょうど五時に、C・ド・ボンフォン裁判所長とその伯父の公証人がすっかり着飾ってやってきた。会食者一同はテーブルにつき、たらふく食べはじめた。グランデはもったいぶっているし、シャルルは黙っているし、ウジェニーも口をきかないでいた。グランデ夫人はいつもと同じように話をしなかった。そこでこの晩餐《ばんさん》はまさしく弔慰の宴《うたげ》のようであった。
みんなが食卓から立ちあがると、シャルルは伯父と伯母に言った、
「失礼ですがひきとらせていただきます。長い悲しい手紙を書かなければなりませんので」
「ああ、そうしなさい」
彼が出ていってから、老人は、シャルルにはなにも聞こえないだろうし、手紙を書くことに没頭しているにちがいないという見当がついたころ、なにげない目つきで妻のほうをながめた。
「なあ、グランデの奥さん、これからわしたちが話すことは、おまえさんにはなんのことやらとんとわかるまい。もう七時半だ。おねんねしたほうがいいな。おやすみ、ウジェニー」
彼はウジェニーに接吻した。ふたりの女は出ていった。
ここでいよいよ幕が切っておとされた。グランデ親父《おやじ》が世間の人たちとのさまざまの交渉で身につけた巧みな駆け引き、もっとも、そのためにしばしば、いささか手ひどく噛《か》みつかれた連中から老犬《ヽヽ》という渾名《あだな》をもらうことになったその駆け引きが、生涯のいかなるときよりもみごとに発揮されることになった。もしも、グランデがソーミュールの町長だったころ、もっと大きな野心をいだいていたとしたら、そしてなにか幸運な事情によって社会の上層部へあがって、国際間の諸問題を扱う会議へ派遣されることになり、その利己心のおかげで身にそなわった才能をその席でふるうことになったら、フランスにとって華々しく有益だったことは疑いない。そうはいっても、ひとたびソーミュールを一歩出たら、老人はみすぼらしい姿をさらすにすぎないということも、同じくありそうなことである。動物は生まれた土地からよそへ移されると、もう産みだす力をなくするものがあるが、人間にもそういった精神の持主があるかもしれない。
「さ、さ、さ、裁判所長さん、あ、あ、あなたは、い、い、い、言っておられましたな、は、は、破産というのは……」
老人がかなり以前からわざと真似をしているこんなせきこんだしゃべり方は、雨の日に老人がよく聞こえないと愚痴《ぐち》を言うのと同じに、生まれつきのものだと思われていたのだが、それがこの場合、クリュショ家のふたりにとってはひどくわずらわしいものになってくるので、彼らはぶどう作りが話すのを聞いているうちに、ことさら吃《ども》り吃り話すその言葉を、終わりまではっきり言ってしまってやりたいとでもいうように力をいれながら、思わず知らず顔をゆがめてしまうのだった。たぶん、ここらあたりで、グランデの吃りと遠耳《とおみみ》の由来について話しておく必要があるだろう。
よく聞こえる耳をもち、アンジュー訛《なま》りのフランス語を明確に発音できるという点において、この狡猾《こうかつ》なぶどう作り以上の者は、アンジューにはだれひとりいない。ところが昔のことだが、さすがに悪賢い彼も、あるユダヤ人にまんまとしてやられたことがある。商談のときに、そのユダヤ人はもっとよく聞きとろうとするためかのように耳に片手をラッパのように当てて、あれこれ言葉をさがしながら、ひどくわかりにくい話し方をした。そこでグランデは親切気をだして、その腹黒いユダヤ人がさがしているらしい言葉や考えをほのめかして思いださせたり、ユダヤ人の理屈《りくつ》を自分のほうでまとめてやったり、いまいましいそのユダヤ人がしゃべるはずのことを自分のほうから言いだしたり、要するに自分はグランデではなくて相手のユダヤ人の身になってやらなければならないように思いこんでしまった。樽屋は商談をまとめて、やっとその奇妙な争いから抜けだしたが、商人生活を通じて、彼が後になって不平たらたら嘆かなければならないような取引きは、これが唯一のものだった。だが、金銭的にいえば損をしたが、精神的にはそこからりっぱな教訓を得たわけで、後になって、その教訓からいろいろな成果をおさめることになった。そんなわけで、そのユダヤ人は、商売相手をじらし、自分の考えを相手が言うことにかかりきるようにしむけることで、絶えずこちらの考えを見失わせるという術を教えてくれたわけだから、老人はついにそのユダヤ人を祝福するにいたった。
ところで、いま問題になっている事件ほど、グランデが自分の考えをつつみかくして、遠耳や吃《ども》りや、何を言っているのかわからないような言いまわしを必要とする事件はなかった。まず第一に、彼は自分の考えていることに責任を負いたくなかったし、次に思いどおりの話し方をして自分の本当の意図をはっきりさせるようには、しないでおきたかったのである。
「ボン、ボン、ボンフォンさん」
グランデがクリュショの甥《おい》をボンフォンさんと呼んだのは、ここ三年このかたこれが二度目だった。裁判所長は、いよいよ自分もこの腹黒い老人の婿《むこ》に選ばれたのかと思いこんだほどである。
「あ、あ、あんたのお話では、は、破産は、ば、場合によっては、ふ、ふ、不服の申し立てが、で、で、で、できるのは……」
「商事裁判所それ自体ですね。そういうことは毎日のようにあることです」と、C・ド・ボンフォン氏は言った。彼はグランデ親父《おやじ》の胸の中をさぐりあてたか、さもなければうまく見抜いたと思い、親切にそれを説明してやろうとした。
「お聞きなさいますか?」
「聞きましょう」と、老人は辞を低くして答えた。が、表面は最大の注意をはらっているようにみえながら、内心では教師をあざわらっている生徒のようないたずらっぽいようすだった。
「地位もあり有名でもあるかた、たとえば、パリの亡《な》くなられた弟さんといったようなかたが、ですね……」
「わ、わしの弟が、ね」
「支払い不能に瀕《ひん》した場合には」
「し、し、支払い不能というのですか?」
「そうです。破産がさしせまってきた場合、管轄している(わかりますね)商事裁判所は判決によって、その商店に対する清算人を指名する権限をもっています。清算することは破産することではありません、おわかりですな? 破産すれば名誉は汚されますが、清算することになっても、りっぱな紳士でとおります」
「ずいぶんな、ち、ち、ち、違いですな。ひ、ひ、費用もそう、か、か、かからないとすれば」と、グランデは言った。
「ところで、商事裁判所の援助がなくても、清算はおこなうことができます。というのはつまり」裁判所長は嗅《か》ぎたばこをひとつまみかぎながら、「破産というものはいったいどのようにして宣告されるものでしょう?」
「さようですな、わしは一度も、か、か、考えたことがありませんな」
「第一に、」と、この司法官は言葉をつづけた、「当の商人なりまた正式に届け出のある代理人なりが、裁判所の書記課に資産負債明細書を提出する方法があります。第二には、債権者がわの申請によるものがあります。ところが、もし商人が資産負債明細書を提出しない場合、あるいはいかなる債権者も件《くだん》の商人の破産を宣告する判決を裁判所に要求しない場合には、いったいどういうことになるでしょう?」
「さ、さよう、ど、どうなりますかな」
「その場合、遺族か代理人か相続人、あるいはもし死んでいなければ当の本人、あるいはまた姿を隠しているとすればその友人が、清算します。おそらくあなたも弟さんの事件を清算なさりたいでしょうね?」と、裁判所長はたずねた。
「ほんとに、グランデさん、そうなさるとよろしい」と、公証人が大きな声をあげた、「こんな片田舎にも体面ということはありますからな。もしあなたがたのお名まえに傷がつかないようになされば、じっさいそりゃあなたがたのお名まえですからな、あなたは男として……」
「りっぱなものです」と、裁判所長が伯父の言葉に横から口を出した。
「確かに、わ、わしのお、お、弟は、わし同様にグランデを、な、な、名のっていました。そ、そ、そりゃ確実なことです。そ、そ、そうじゃないとは言いません。そ、そ、それに、その、せ、せ、清算というのは、わしの、か、か、かわいい、お、お、甥《おい》のために、ど、ど、どの点からみても、あ、あらゆる場合に、た、大変、ゆ、ゆ、有利かも、し、し、知れません。だが、よく考えてみなけりゃなりません。わしは、パリの、ずるい連中などと、つ、つ、つきあいがないのでね。わしは……、ソ、ソ、ソーミュールにいる、ごらんのとおり! と、と、取り木だ、み、溝《みぞ》だ、というわけで、け、けっきょく仕事が忙しい。一度も、て、て、手形など振り出したことはない。いったい、手形とはどんなものですかい? た、た、たくさんもらったが、自分で、しょ、しょ、署名なぞ一度もしたことはない。それは、げ、げ、現金に替えたり、わ、割り引いたりはする。わしの知ってることは、そ、それだけですわい。き、き、聞くところによれば、か、か、買いもどすことも、で、で、できるということだが、そのて、て、手……」
「そうですよ」と、裁判所長が、言った、「なにがしかの割り引きをすれぼ、手形は取引所で手に入れられるのですよ。おわかりでしょうか?」
グランデは手でラッパをつくって耳にあてた。そこで、裁判所長はもう一度くりかえして言ってやった。
「それでは」と、ぶどう作りは答えた、「そ、それには、儲《もう》けもあるが損もある、ということですな。わ、わ、わしは、この、と、としになっても、そ、そ、そんな、こ、ことは、い、いっさい知りません。わしは、ぶどうの、せ、せ、せわをするために、こ、こ、ここに、い、いつも、いなければなりません。ぶどうは、あ、集まってくる、そ、そ、そのぶどうで、し、支払いをするわけです。な、なにをおいても、と、取入れに、き、気をくばらなければなりません。フロアフォンにも、た、た、たいせつな、し、仕事がある、も、儲け仕事が。わしは、そ、そんな、て、て、てんで、わ、わ、わけのわからない、ご、ごたごたしたことのために、こ、こ、この家を、あ、あけることはできないことです。あ、あなたの話では、せ、せ、清算するためには、そして破産の宣告をやめさせるためには、わしはパリヘ行かなくてはならないわけですな。人間、一度に、ふ、ふ、ふたつの場所にいることはできない話ですものな。こ、こ、小鳥ならいざ知らず。……それに……」
「ごもっともです」と、公証人が大声をあげた、「でもね、あんたには友人があります。あんたのために献身的につくすことのできる古い友人がね」
≪そいつはどうだかな。それはそっちで決めてくれ!≫と、ぶどう作りは心中で思った。
「それで、だれかがパリヘ行って、弟さんのギョームさんのいちばん大口の債権者をさがしだして、その人にこう言えば……」
「ちょ、ちょっと待ってください」と、老人が言った、「その人に、何と言うのですかな? こ、こ、こんなぐあいにですかな、≪ソーミュールのグランデさまといえば、こ、こ、こっちでもソーミュールのグランデさま、あっちでもソーミュールのグランデさま、大したものです。弟思いで、お、お、甥《おい》思い。グランデはりっぱな、し、し、親戚で、とても心がけのいい人です。ぶ、ぶどうも良い値で売りました。は、は、破産の宣告はしないでください。あなたがたで集まって、せ、せ、清算人を、し、し、指名してくだされ。そ、そうすればグランデも、か、考えるでしょう。裁判所の連中に、は、は、鼻をつっこませるよりは、清算なさったほうが、はるかに得《とく》にな、なりますよ≫と。どうです、こんな調子ですかな?」
「まさにそのとおりですよ」と、裁判所長が言った。
「なぜかと言うと、ね、ボン、ボン、ボンフォンさん、け、決心をするまえに、考えてみなけりゃね。で、で、できないことは、で、で、できやしないんですよ。なんでも、ひ、ひ、費用のかかる、し、し、仕事をするには、し、し、身代《しんだい》をつぶすまいとすれば、自分の資金と必要な経費をよくわきまえておかなければね。どうです、ちがいますかな?」
「確かにそのとおりです」と、裁判所長が言った、「この私の意見では、数か月のうちに、しかるべき値段で債権を買いもどし、示談《じだん》によって全額の支払いができるだろうと思います。ハ、ハ! 一切れの脂肉《あぶらにく》を見せてやれば、犬どもはずいぶん遠くまでついてくるものですよ。破産の宣告もなく、しかも債権証書をあなたのものにすることができれば、あなたは雪のように潔白になるのです」
「ゆ、ゆ、雪のようにですって」グランデはまた手でラッパをつくって耳にあてて、くりかえした。「ゆ、ゆ、雪というが、わしにはわからない」
「それじゃ、まあお聞きください」と、裁判所長は大声をあげた。
「う、う、うかがいましょう」
「手形というものは、値上がりもすれば値下がりもする一個の商品なんです。これは高利についてのジェレミー・ベンサム〔イギリスの法哲学者、経済学者、功利主義思想家。最大多数の最大幸福説で知られる〕の原理から推《お》しての結論です。この政治経済学者は、高利貸しを手ひどく非難するのは偏見であって、それはばかげたことだということを論証したのです」
「ヘへえ!」
「ベンサムによれば、原則として、金銭は一個の商品であるが故に、金銭の代理をなすものも同じく商品なのだから」と、裁判所長はつづけた、「また周知のごとく、これこれしかじかの品物同様に、これこれしかじかの署名をもつ手形という商品は、あらゆる商業界を支配する通例の価格変動に左右されて、市場に溢《あふ》れたり姿を消したり、高くなったり無価値になったりするものであるから、裁判所はここに判決を下して……(これはこれは、ばかなおしゃべりをしまして、失礼しました)私の考えでは、あなたは弟さんの債権を二割五分で買いもどしができるだろうと思います」
「こう、お、お、おっしゃっていましたな、ジェ、ジェ、ジェ、ジェレミー・ベン……」
「ベンサム。イギリス人です」
「そのジェレミーとやらのおかげで、私たちもこの事件でずいぶん哀歌〔ジェレミーは、前七世紀ユダヤ王国の滅亡を告げた予言者エレミヤ(フランス語でジェレミー)に通じ、『旧約聖書』の「エレミヤの哀歌」にかけた駄洒落《だじゃれ》〕を唱えずにすむというわけです」と、公証人が笑いながら言った。
「イギリス人のなかにも、と、と、時には、ふ、分別《ふんべつ》のあるのがいるものですな」と、グランデは言った、「それで、ベン、ベン、ベン、ベンサムに、よ、よ、よ、よれば、弟の手形は、……値打ちがあるとしても……値打ちがないわけだ。そ、そ、そうですな。それはわしにもはっきりしている。……もしかしたら債権者たちは……いや、そんなことはない。わしには、わ、わかっている」
「そこのところはすっかり私に説明させてください」と、裁判所長が言った、「法律上から言えば、もしあなたが、グランデ商会によって当然支払われるべきいっさいの債権に関する証書を所有なされは、弟さんあるいはその相続人は、何人《なんぴと》に対しても債務はないことになります。よろしいですか」
「よろしい」と、老人はくりかえした。
「公正に言って、もし弟さんの手形がいくらか割り引かれたまま取引所に流通している場合(この、流通する、という言葉がおわかりですか?)、もしだれかあなたの友人がそこを通りかかって、その手形を買いとったとすれば、債権者たちは別段なんらかの暴力によってやむをえず手放したわけではないのですから、パリの亡《な》くなられたグランデ氏の遺産相続は正当に債務なしというわけです」
「なるほど。と、と、取引きは取引きですからな」と、樽屋は言った、「そうと、き、きめたとしても、……だが、それにしても、や、やっぱり、や、や、やっかいなことですぞ。わ、わ、わしには、か、金もないし、ひ、ひ、暇《ひま》もないし、ひ、暇もないし……」
「さようですね。あなたはお仕事を中断なさるわけにはいきますまい。それじゃ、私がパリヘ行ってさしあげましょう(旅費だけは出してもらいますが、それもごくわずかなものです)。向こうへ行ったら債権者たちと会って話をし、支払い延期をしてもらいます。そして、あなたが債権証書を取りもどすために、清算価格にいくらか足して支払いなされば、いっさいのかたがつきます」
「だが、そいつは、よ、よく考えてみましょう。うっかり、や、約束は、で、できもしないし、し、したくもないし……さよう、で、で、できないことは、できない。お、おわかりでしょう?」
「まったくそのとおりです」
「ど、どうも、が、が、がんがん詰めこまれたので、わしは頭が、ご、ご、ごたごたしてきた。なにぶん、生まれて、は、は、初めてですからな、こうして、む、む、無理やり、か、考えさせられたのは……」
「そうでしょうね、法律家というわけじゃありませんからね」
「わ、わしは、つ、つ、つまらぬぶどう作りですよ。あ、あ、あんたの話してくださったことも、なにひとつわかりゃしません。こ、こ、こいつは、とっくり、け、け、研究してみなくちゃね」
「そこでですね」と、裁判所長はこれまで述べてきたことを、手短かにまとめるつもりか、姿勢をなおした。
「おい、おまえ……」と、公証人がとがめだてするような調子で、それをさえぎった。
「なんです、伯父さん」
「グランデさんにはグランデさんのつもりがおありなんだから、それをとっくりうかがうことにするんだな。さしあたっての問題は重大な委任のことだからな。それはグランデさんが適当におきめにならなくちゃ……」
|たたき槌《ノッカー》の音がしてデ・グラサン家の人々の来訪を知らせた。彼らがはいってき、挨拶《あいさつ》をかわすのにさえぎられて、クリュショは終わりまで言うことができなかった。公証人は、こうしてじゃまがはいったのを、かえって幸いと思った。早くもグランデは横目でにらんでいるし、内心穏やかならぬことは、例の鼻の瘤《こぶ》のようすで明らかだった。それにしても用心ぶかい公証人はまず第一に、甥《おい》が債権者たちに譲歩してもらうためにパリまでわざわざ出かけていって、厳正潔白であるべき司法官の本分にそむくような、怪しげな企《たくら》みに手を貸したりすることは地方裁判所長の身分にふさわしくないと考えたのである。つぎに、金額はともかくとして、金を出そうという気持ちを、グランデ親父《おやじ》から全然聞いていないので、甥がこの事件に引っぱりこまれるのを本能的に恐れたのである。そこで、彼はデ・グラサン家の人々がはいってきたのをいい潮に、裁判所長の片腕をとって窓口のほうへ引っぱっていった。
「おまえはもう十分いいところを見せたよ。だが、骨をおってつくすのもそれくらいでたくさんだ。娘を手にいれたい欲に目がくらんでいるのだ。ばかな! 烏《からす》が胡桃《くるみ》を打ち落とそうとするように見境いなく深入りするものじゃない。こんどは船を操《あやつ》るのはわしにまかせるがよい。おまえは漕《こ》ぐことだけに手をかすのだ。裁判官の威厳をそこなうのが、おまえの役割りなのか、こんなことで……」
終わりまで言わなかった。デ・グラサン氏が手をさしのべながら、老樽屋にこんなことを言っているのを聞いたからである。
「グランデさん、あなたの一家に恐ろしい不幸がおきたということを耳にしましてな。ギョーム・グランデ商会が失敗して、弟さんが亡《な》くなられたとか。それでこの悲しい出来事にお悔みを述べようと思って、われわれは出向いてきたようなわけで」
「なあに、不幸というのは」と、公証人が銀行家の言葉をさえぎって言った、「グランデさんの弟さんが亡くなられたことだけですよ。それに、その弟さんにしても、兄上に救いを求めることを思いつかれたら、死ななくてもすんだでしょうがね。私たちの古なじみのグランデさんは、爪《つめ》の先まで、名誉を重んじるかたなので、パリのグランデ商会の負債を清算なさるおつもりなんです。で、私の甥《おい》の裁判所長が、まったく法律的なめんどうな手間をはぶいてさしあげるために、ただちにパリヘ向かって出発しようと申しでているんですよ。債権者たちと和解をはかり、適当に満足させてやろうというわけでしてね」
顎《あご》をさすっているぶどう作りの態度からして確かなことらしいこの言葉に、グラサン家の三人は異様なまでに驚いた。じつは、ここへ来る途中、グランデの貪欲《どんよく》ぶりをぞんぶんに罵《ののし》り、兄弟殺しといわんばかりに非難したのだった。
「ああ、そういうことはよくわかってましてな」と、銀行家は細君の顔を見ながら大声で言った、「ここへ来る途中おまえさんに私はなんと言ったかね? グランデさんは髪の毛の先まで、名誉心をもっていられるかただ、自分の名まえにほんのすこしでも傷がついたらがまんのできぬ人だとな。名誉なき金銭は病なりと言いましてな。こんな片田舎にも名誉心はあるんだ! それはけっこう、大いにけっこうですな、グランデさん。私は軍人あがりの老人だから、自分の思ったことを隠すことはできん。ざっくばらんに言わせてもらうが、そいつは、あんた、たいしたものだ、じつに見上げたもんだ」
「すると、み、み、見上げたものということは、と、と、とても高くつくものですな」と、老人は、銀行家が彼の手をとって、熱烈に振っているとき、そう答えた。
「でもね、グランデさん、裁判所長さんの前だが」と、デ・グラサンが話をつづけた、「これは純然たる商業上の問題だから、その道によく通じた商人のほうが望ましいんですよ。不渡手形返送勘定だとか、手付金だとか、利息の計算だとかに明るい必要がありはしませんかな? 私は自分の仕事でパリヘ行かなければなりませんが、ひとつそのついでにお引き受けしてもいいんですが……」
「それでは、あ、あんたとふたりで、で、で、できる範囲で、お互いがうまく折り合えるように、や、や、やってみましょうか、わ、わ、わしも、し、し、したくないことを、や、や、約束しなくてもすむように」と、グランデは吃《ども》りながら言ったが、「なぜかと言うと、裁判所長さんは当然のことながら旅費を請求なされましたからな」
この最後の言葉を、老人はもう吃らなかった。
「まあ」と、デ・グラサン夫人が言った、「でも、パリに行くのは楽しみですのに。私なら、自分でお金を払ってでもパリヘ行ってきますわ」
そうして夫人は、どんなにしても競争相手からこの委任の役目を横取りするように励ますつもりか、夫に合図をおくった。それからクリュショ家のふたりを皮肉たっぷりの目つきで見やった。ふたりは情けない顔つきをしていた。
すると、グランデは銀行家の上着のボタンのひとつをつかんで、隅のほうへ引っぱっていった。
「裁判所長よりはずっとあんたのほうを信用しましょうよ。それにちょっと企てていることがありましてな」と、例の瘤《こぶ》を動かしながらつけ加えた、「じつは、例の国債に手をつけてみたいのでしてな。年利四、五千フランになるだけの国債を買う金はもっているが、一枚八十フランでないと買う気がしない。なんでもこの国債というやつは、月末には下がるという話ですな。あんたは、こういうことをよく御存じのはずですな?」
「もちろんです! そうすると、四、五千フランの年利になる国債を買ってさしあげるわけですな?」
「最初は手軽にな。それに他言は無用にねがいます! わしはだれにも知られずに、この相場をやってみたいのでね。取引きは月末ということで、ひとつ話をとりきめてくだされ。しかし、クリュショ家の者にはなんにも言わないでいただきたい。いやな思いをさせることになりましょうからな。で、あんたはパリヘ行かれるのだから、ついでのことに、甥《おい》のために、事態はどんなことになっているか見てきてもらいましょうか」
「承知しました。明日、駅馬車でたちましょう」と、デ・グラサンは大声で言った、「そしていずれ最後の指図《さしず》をうけにまいりましょうが……何時にしますか?」
「五時、夕食まえに」と、ぶどう作りは両手をこすりながら言った。
両方の党派は、それからしばらくのあいだ相|対峙《たいじ》していた。デ・グラサンは、ちょっと間《ま》をおいてからグランデの肩をたたいて、
「こんなりっぱな親戚があるってことはしあわせなことですな……」と言った。
「さよう、さよう、そうは見えないが、これでもわしは、いい、し、親戚でしてな。弟をかわいがっていたものです。その証拠はいつでもお見せするが、か、か、金さえかからなければ……」
「そろそろお暇《いとま》しましょう、グランデさん」銀行家は、グランデが言い終わらないうちに、うまく言葉をさえぎって言った、「出発を早めるとすると、なにかと整理しなければなりませんので」
「そうとも、そうとも。わしも、御存じの、け、け、件で、わしのし、し、審議室へ、ひきこもることとしよう、クリュショ所長の言いぐさじゃないが」
≪畜生! もうボンフォンさんじゃないのか≫と、司法官は悲しげに考えた。その顔は、まさに口頭弁論にうんざりさせられた判事のような表情だった。
競争相手の両家の頭目たちはいっしょになって帰っていった。どちらの連中も、グランデがその朝ぶどう栽培地に対して犯した裏切りのことはもう考えていなかった。そして、こんどの新たな事件で、老人のほんとうの意図がどこにあるのかという点について、両家の者がどう考えているか互いに知ろうとして、めいめいが無益なさぐりを入れあっていた。
「ドルソンヴァル夫人のところへ、ごいっしょにいかがです?」と、デ・グラサンが公証人に言った。
「のちほどにいたしましょう」と、裁判所長が答えた。「グリボークールのお嬢さんにちょっと挨拶《あいさつ》に行く約束がありますので、伯父が承知なら、まずそちらへうかがいたいと思います」
「それでは、いずれまた、皆さん」と、デ・グラサン夫人は言った。そして、グラサン家の人々がクリュショ家のふたりからちょっと離れると、アドルフが父親にむかって、
「ふたりともひどく湯気をたてていましたねえ」
「おだまり」と、母親が言葉を返した。「まだ聞こえるかもしれないよ。それにおまえの言葉はどうも上品じゃありませんよ、法律学校くさいわ」
「まったく、伯父さん」と、裁判官は、デ・グラサンの人々が遠ざかっていったのを見ると大声で言った、「最初はボンフォン裁判所長さんときたが、終わりはただのクリュショになってしまいましたね」
「それでおまえが気を悪くしたのは、わしにもよくわかっていたよ。だが、風がデ・グラサン家にあつらえむきだったのさ。おまえも気がきくくせに、ばかだな。……グランデ親父《おやじ》の『考えておきましょう』にやつらをうまく乗らせておくがいい。それでおまえは安心しておいで。けっきょくウジェニーはおまえの女房《にょうぼう》になるのだろうから」
グランデが太っ腹な決心をしたという噂《うわさ》は、一度に三軒という調子でまたたくまにひろがって、町じゅうどこもかしこも、この弟思いの献身的な行為の話ばかりだった。だれもが、グランデが名誉を重んずるのに感心し、思いもよらないその寛大な心をほめそやして、彼がぶどう園主たちとの固い約束を破ってぶどう酒を売りはらったことは、つい見のがしてしまった。いったいフランス人の性格の中には、一時的に華々しい物事や、目先だけで、よく見ればつまらぬものに対して、熱狂したり、腹をたてたり、夢中になったりするところがある。してみると、群衆や民衆には、記憶というものがないのだろうか?
グランデ親父は扉をしめると、ナノンを呼んだ。
「犬を放さないようにしてな、そしておまえも眠るんじゃないぞ。わしといっしょに仕事がある。十一時になると、コルノアイエがフロアフォンから馬車に乗って戸口につくはずだ。それで、あいつが戸口をたたかないように、やってくるのに耳をすましていて、そっとはいってくるように言ってくれ。警察のきまりで夜の騒音は禁じられている。それに、界隈《かいわい》の者に、わしが出てゆくのを知らせる必要はないからな」
そう言うと、グランデは自分の仕事部屋へもどっていった。ナノンの耳には、そこで彼が用心はしているものの、動きまわったり、なにか探しまわったり、行ったり来たりする物音が聞こえてきた。明らかに彼は妻や娘の目をさまさせたくないらしい。とりわけ甥《おい》の注意をひきたくないらしい。初め甥の部屋に明りがついているのに気づいて、悪態をついていたのだった。
真夜中ごろ、従兄弟《いとこ》のことばかり気をとられていたウジェニーは、瀕死《ひんし》の人のもらす溜息《ためいき》を耳にしたように思われた。彼女にとって瀕死の人というのはシャルルである。別れたとき、あんなに蒼《あお》ざめて、あんなにひどく悲しんでいたのではないか! 自殺でもしたのではないか。すぐさま彼女は、頭巾《ずきん》のついたマントのようなケープに身をつつんで、部屋を出ようとした。するとまず、ドアの隙間《すきま》から射《さ》しこむ強い光を見て、火事かと思ってびくっとした。それから、まもなく、ナノンの重たい足音と、何頭もの馬のいななきにまじった彼女の声が聞こえたので、ほっと安心した。
≪お父さまは、あのかたをどこかへ連れていっておしまいになるのかしら?≫と思いながら、扉がきしまないように十分用心しながらも、廊下でどんなことが起こっているか見えるように、戸口を少しあけた。
いきなり、彼女の眼は父親の眼とぶつかった。なにかぼんやりした、ひとのことなど気にかけないような視線だったが、彼女は恐ろしさに凍りつくような思いだった。老人とナノンは、大きな節くれだった丸太棒の両端をそれぞれ右肩にかけ、太い綱でつり下げた樽をかついでいた。グランデが暇つぶしにパン焼き部屋でおもしろ半分にこしらえているような樽だった。
「なんとまあ、旦那さま、こりゃ重い!」と、ナノンが低い声で言った。
「これがみんな銅貨ばかりだから情けないわい。燭台にぶつからんように気をつけろ」
その場のようすは、階段の手すりの柵《さく》と柵とのあいだにおかれた一本の蝋燭で照らしだされていた。
「コルノアイエ」と、グランデは無給《ヽヽ》の森番に呼びかけた、「ピストルをもってきたかい」
「いいや、旦那さま。そうでしょうが、銅貨ばかりだというのに、なにを恐《こわ》がることがありますか?……」
「ああ、なにもないさ」
「それに、すぐ行っちまいまさあ」と、番人は言葉をついだ、「小作人たちが、旦那のためにいちばんよい馬を選んでくれましただからね」
「よし、よし。だが、まさか小作人に、わしの行先を言やしなかったろうな?」
「おらも知りませんだもの」
「よろしい。馬車はしっかりしてるのか」
「これですかね、旦那さま? なあに、三千は積めまさあ。いったい重さはどれくらいあるんですかい、このやっかいな樽は?」
「そりゃね」と、ナノンが言った、「私がよく知ってるよ! 千八百近いところだね」
「黙ってろ、ナノン! 奥さんには、田舎へ出かけたと言ってくれ。わしは晩飯までにはもどってくる。コルノアイエ、急いでくれ。九時まえにアンジェに着かにゃならん」
車は出発した。ナノンは大戸に閂《かんぬき》をかけ、犬を放して、肩の傷はそのままに寝た。そして界隈の者はだれひとりグランデが出かけたことも、その旅の目的にも気がつかなかった。老人の用心のよさは完璧《かんぺき》だった。金貨がぎっしり詰まっているこの家で、銅貨一枚見た者はなかった。昼のうちに船着き場で噂《うわさ》話を聞いて、老ぶどう作りは、ナントで多数の船が艤装《ぎそう》されているために金の値うちが倍になったことや、投機師たちがそれを買いあさりにアンジェへやってきていることを知ったのだった。そこで、自分の小作人からちょっと馬を借りただけで、そこへ行って自分の金貨を売り、例の国債を買うに必要な金額をこの投機で肥《ふと》らせてから、収税官振り出しの国庫支払いの証券に替えてもって帰ろうという策に出たのであった。
「お父さまは行っておしまいになった」階段の上で、なにもかも立ち聞きしていたウジェニーが言った。
家の中はまた静まりかえり、遠くのほうの車輪の音もしだいにやんで、眠りにおちいったソーミュールの町には、もうなんの物音もしなかった。ちょうどそのとき、ウジェニーは、仕切りの壁をつらぬいて、従兄弟《いとこ》の部屋からやってくる呻《うめ》き声を、耳で聞くよりさきに心で聞きとった。剣の刃ほどにも細い一条の光がドアの隙間からもれて、古びた階段の手すりを水平に横切っていた。
「苦しんでおいでだわ」と言いながら、彼女は階段を二段あがった。二度めの呻き声に、部屋の前の踊り場まで行ってしまった。扉は少しあいていたので、彼女はそっと押した。シャルルは古びた肱掛け椅子の外へ頭をたれて眠っていた。その片手はペンを落としたまま、ほとんど床に触れそうになっていた。姿勢のせいで荒くなっている青年の息づかいに、ウジェニーはぎょっとして、急いで部屋の中へはいった。
≪とてもお疲れになっていらっしゃるのだわ≫そう思いながら、見ると封をした手紙が十通ばかりある。ファリー・ブレールマン馬車製造商会御中とか、ビュイソン洋服店殿とかいった宛《あて》名を読んだ。
≪すぐフランスをおたちになれるように、きっと、いろんな用事を整理なさったんだわ≫と思った。
ふと、開いたままの二通の手紙に目がとまった。そのうちの一通の、≪恋しいアネット……≫という書きだしに、彼女は思わず目がくらみそうになった。胸がはげしくうち、足が敷石の上に釘《くぎ》づけになった。
≪恋しいアネット、このかたは愛し、愛されていらっしゃるんだわ! もう私に希望はないわ! でもどんなことを書いていらっしゃるのかしら?≫
こうした考えが、彼女の頭と胸をよぎった。彼女はいたるところに、敷石の上にまでも、炎で書かれた≪恋しいアネット≫の文字が読めるような思いだった。
≪もうこのかたのことは諦《あきら》めなければならないなんて! いいえ、この手紙は読みますまい。出ていかなければならないわ。でも、もしこの手紙を読んだら?≫
シャルルを見つめた。その頭をそっと起こして、肱掛け椅子の背にもたせかけてやった。彼はまるで、眠っていながらも母親と知って、眼もさまさずにその世話や接吻を受ける子供のように、されるがままになっていた。母親のように、ウジェニーはたれている片手を上げてやり、母親のようにそっと髪の毛に接吻をした。≪恋しいアネット!≫この言葉を悪魔が彼女の耳もとで叫んだ。
「たぶんいけないことだとわかっているけれど、でも、この手紙を読もう」と言った。
ウジェニーは顔をそむけた。彼女の気高い誠実な心が不平を鳴らしたからである。生まれて初めて、善と悪とが心の中で相|対峙《たいじ》したのであった。それまで自分のどんな行為にも顔を赤らめる必要はなかった。が、情熱と好奇心とが彼女を打ち負かしたのだ。手紙の一節ごとに、彼女の心はふくれあがり、その手紙を読んでいるあいだ、彼女の生命を生き生きとさせたはげしい情熱は、初恋の喜びをいっそう甘美なものにした。
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恋しいアネット
どんな慎重な人間でも予知することはできなかったような不幸に、いまぼくは打ちひしがれているのだが、もしこれさえなければ、なにものもぼくたちを引き離すことはありえない。ぼくの父は自殺してしまい、父の財産もぼくの財産もすっかり失われてしまった。ぼくは、ぼくの受けた教育の性質からいえば、まだ子供として通せる年ごろなのに、早くも孤児となってしまったのだ。というものの、ぼくの落ちこんだ深淵《しんえん》から、大人《おとな》として立ち上がらなければならない。ぼくはいま夜の時間をさいて、自分としての計算をいろいろ立ててみたところだ。ぼくが律義《りちぎ》な男としてフランスをたとうとしたところで、これは疑いのないところだが、運だめしに東インド諸国なりアメリカなりへ行ってみようとしても、百フランの持ち合わせもない。そうなのだ、ぼくのアンナ〔アネットの本名。アネットは愛称〕。ぼくはそんな危険きわまりない風土の所へ、財産を築き上げるために行くのだ。そんな土地では、財産は確実にしかも迅速《じんそく》につくれるという話を聞いている。パリにとどまるということは、ぼくにはとうていできないことだろう。ぼくの心も顔だちも、破滅した人間、破産した息子を待ち受けている恥辱や冷淡や軽蔑《けいべつ》に耐えるようにはできていないのだ! ああ、二百万の負債! パリにいたら、一週間のうちに決闘で殺されてしまうにちがいない。だからパリには決してもどるまい。かつて男の心を気高くした愛のうちで、最も献身的な、最もやさしいきみの愛をもってしても、ぼくをパリヘ引き寄せることはできなかろう。ああ、愛するひとよ、最後の接吻を交《かわ》すためにきみのいる所へ行くだけの金もない。その接吻を受けたら、ぼくの計画に必要な力も汲《く》みとれるだろうに。
[#ここで字下げ終わり]
「かわいそうなシャルルさん。読んでよかったわ! 私はお金をもっている、それをこのかたにさしあげよう」と、ウジェニーは言った。
彼女は涙をぬぐってから、また手紙を読みつづけた。
[#ここから1字下げ]
ぼくはこれまで、貧困のみじめさなど、一度も考えたことはなかった。船賃に必要な百ルイがかりにあるとしても、雑貨を仕入れる金のほうは一文も無いということになろう。いや、その百ルイどころか一ルイさえも無いだろう。パリで負債を整理してからでなければ、いくら残るのか、ぼくにはわからない。たとい一文無しでも、ぼくは平気でナントヘ行って、一水夫として船に乗りこむだろう。そして、若いころは一文無しの身から始めて、東インド諸国から金持になって帰ってきた精力的な人々のように、ぼくもやってみるつもりだ。今朝から、自分の将来を冷静に直視している。ぼくを熱愛してくれた母にだいじにされ、またとないいい父にかわいがられ、そして社交界に出ればすぐアンナのような女性の愛にめぐりあった、そんなぼくには、将来はほかのだれよりも恐ろしい! ぼくは人生の花しか知らなかった。こんな幸福が長つづきするはずがない。だがしかし、愛するアネットよ。今のぼくは、なんの心配もない青年、ことにパリでいちばん魅惑的な女性の愛撫になれ、家庭の楽しみにあやされ、家ではだれからも微笑をむけられ、望むものはすべて父にかなえてもらえる、そうした青年だったぼくにはとうてい思いもよらないほどの勇気をもっている。……ああ、アネット、その父も亡《な》くなった。……ところでぼくは、自分の立場をよく考えてみた。きみの立場もよく考えてみた。この二十四時間で、ぼくはすっかり老《ふ》けてしまった。愛するアンナ、たといパリでぼくをそばに引きとめておくために、きみの贅沢《ぜいたく》、きみのお化粧、きみのオペラ座の桟敷などの楽しみのいっさいを犠牲にしてくれても、ぼくの浪費生活に必要な費用はとても埋め合わせられないだろう。それにぼくにしても、そんなに多くの犠牲を受け入れることはできない。だから、今日かぎり永遠に、ぼくたちは別れることにしよう。
[#ここで字下げ終わり]
≪このかたとお別れになる、まあ、なんてうれしいんでしょう≫
ウジェニーはうれしさにとびあがった。すると、シャルルが身動きしたので、おびえてひやっとしたが、さいわいなことに、彼は目をさまさなかった。彼女はまた読みつづけた。
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いつになったら、ぼくは帰れるだろう? ぼくにもわからない。東インド諸国の気候風土はヨーロッパ人を、ことにせっせと働くヨーロッパ人をはやく老《ふ》けさせる。かりにここに十年おくとしよう。十年たてば、きみのお嬢さんは十八歳、きみのいい連れになり、きみの言動をうかがうようにもなろう。社交界はきみにとって残酷なものとなるだろうが、お嬢さんはおそらくそれ以上にきみに対して厳しいものになるだろう。社交界のそうした批判とか、若い娘のそうした恩知らずの例を、ぼくらはいくつも見てきた。その教訓を生かそう。この幸福な四年間の思い出を、ぼくが胸に秘めておくように、きみも胸の底に秘めておいてほしい。そして、きみの哀れな友に、できることなら忠実であってほしい。けれどそれは、ぼくには要求できることではないかもしれない。というのは、愛するアネット、ぼくは自分の境遇に順応《じゅんのう》し、人生を俗物の目でながめ、それをできるかぎり正確に計算しなければならないのだから。したがって、ぼくの新しい生活に必要なもののひとつになっている結婚のことを考えなければならない。そこで正直に言うと、ぼくはここ、ソーミュールの伯父の家で、従姉妹《いとこ》に出会ったのだ。物腰も顔だちも頭のはたらきも気立ても、きみの気にいるだろうし、そしてそのうえ、ぼくにはこう思われるのだ……。
[#ここで字下げ終わり]
≪よほどお疲れになっていたのだわ、書きさしのままになさって≫と、ウジェニーは途中で切れている手紙を見ながら、心の中でつぶやいた。
彼女は従兄弟《いとこ》のことはなんでも正しいと弁護するのだった! だから、この無邪気な娘が、この手紙のなかにあらわれている冷淡さに気づくなんてことは不可能ではなかろうか? 宗教的に育てられ、世間知らずで純真な若い娘にとって、ひとたび恋の魔法の土地に一歩ふみこんだとたん、いっさいは恋となる。彼女たちは、自分たちの魂が投げかける天界の光につつまれて恋の魔法の土地を歩む。そして、その光は恋人の上に光芒《こうぼう》を放ってそそぎかかる。彼女たちは自分自身の感情の炎で恋人を染めあげ、自分たちの美しい考えを、そっくり恋人の考えだと思いこむ。女のあやまちはたいていのばあい、これは善《よ》いことだと信じこんだり、これは真実だと頼みにすることから生じる。ウジェニーにとって、≪恋しいアネット、ぼくの愛する人≫というこの言葉は、このうえないきれいな恋の言葉として、心のなかに響きわたり、そして魂をやさしく愛撫するのだった。それは子供のころ、教会のパイプオルガンがくりかえし奏した≪|いざ来たりて《ヴェニテ》、|主をあがめよ《アドレムス》≫〔キリスト降誕賛歌のなかの合唱部〕という神々《こうごう》しい調べに愛撫されたようなものであった。そのうえ、シャルルの目をまだ濡らしている涙が、若い娘なら魅せられるにちがいない、心のあらゆる気高さを強調しているように思われるのだった。
シャルルが父親をそんなにも愛し、心の底から涙を流しているとしても、そうした情愛が彼の心のやさしさからきているというよりも、父親の慈愛によるものだということを、ウジェニーははたして理解することができたろうか? かつてギョーム・グランデ夫妻は、息子の気紛《きまぐ》れをいつも満足させてやり、金で買える楽しみはなんでも与えてやり、多少とも邪悪なところのある恐ろしい計算をシャルルがしないようにしてやってきたのだった。パリでは大部分の若者たちは、パリの享楽を前にして、さまざまの欲望をいだいたり、さまざまな計画をたてるものだが、両親が生きているため、それが絶えず延期され遅らされるのを残念ながら見ていなければならぬとき、そうした計算を立てるのだから。そうした父親の金にあかせたやりかたは、息子の心になんの底意もない、ほんとうの親思いの気持ちを植えつけるところまでいった。とは言ってもシャルルは、パリの風習によって、アネットという女によって万事を計算することにならされて、青年の顔つきの下にすでに老人の心をもったパリの若者だった。すでに社交界の恐るべき教育をうけていた。そこでは、司法官が重罪裁判所で罰するよりはるかに多くの犯罪が、頭のなかで、言葉の上で、一夜のうちに行なわれるのだ。社交界では、気のきいた言葉が偉大な思想を暗殺する。そこでは正しくものを見ないかぎり強者として通用しない。そして正しく見るということは、なにごとをも、感情をも人間をも、実際の出来事さえも、信じないことなのだ。社交界の出来事というのは偽りの出来事なのだ。ものごとを正しく見るためには、毎朝、友人の財布の重さをはかってみなくてはならず、あらゆる周囲の出来事の上に、駆け引きを用いて超然としていることができなければならない。芸術作品にしろ、気高い行為にしろ、さしあたりなにごとにも感心してはならず、あらゆることのその動機には個人的な利害を与えなければならないのだ。例の貴婦人、美しいアネットは、かずかずのばかなことをしたあげく、シャルルにものをまじめに考えるように強《し》いた。彼女は香水のにおう手でシャルルの髪の毛をかきなでてやりながら、将来の地位について、話したのだった。髪の毛を巻いてやりながら、人生を計算づくでわたるように教えた。つまりシャルルを女性化し、物質的な人間にしたてた。二重の堕落ではあったけれど、優雅で繊細な、よい趣味の堕落だった。
「あんたはばかなかたね、シャルル」と、彼女は言うのだった。「あんたに世の中というものを教えてあげるのは、ずいぶん苦労するわね。あんたはデ・リュポー〔バルザックの『人間喜劇』中の人物。ほかの十二の作品に名まえを出す〕さんにたいしてとてもまずいやりかたをなさったわね。あのかたがいっこう尊敬できない人物だってことは、私もよく存じています。でも、あのかたが勢力をなくすまでお待ちにならなければだめよ。そうなったら、あんたは存分に軽蔑《けいべつ》なさればいいのよ。カンパン夫人〔ルイ十五世の王女たちの教育掛。のちマリ・アントアネットの侍女となり、革命後、ナポレオンの引立てで、女子教育家となった〕がこんなことを言ったのを御存じ? ≪皆さん、人が大臣になっているかぎり、その人を尊敬なさい。もし失脚したら、ごみためへ引きずってゆくお手伝いをなさい。勢威をそなえているときは、いわば神さまです。でもいったん打ち倒されたら、下水道のマラー〔一七四三〜九三、フランス大革命期の革命家。一時はダントン、ロベスピエールとともに最高権力を握ったが、反対派の少女コルデに浴室で暗殺された。彼の胸像はパリ市中を引きまわされ下水溝に投げこまれた〕にも劣ります。なぜならマラーは死んでいるのに、その人は生きているからです。人生は組み合わせの連続です。ですから、いつも良い地位を保つようになるには、その組み合わせを研究し、それをたどっていかなければなりません≫とね」
シャルルはあまりにも流行児でありすぎ、両親にあまりにも絶え間ない幸福を与えられすぎ、社交界であまりにもちやほやされすぎたので、りっぱな感情をもつことができなかった。彼の心に母親が投げこんでくれた黄金の粒も、パリというダイス板にかけられて引き伸ばされてしまい、それを外見の飾りとしたので、摩擦《まさつ》のためにすりへってしまうことになった。しかもシャルルはまだ二十一歳にすぎなかった。この年ごろでは、生命のみずみずしさは魂の純真さと分ちがたいようにみえる。声や眼差《まなざ》しや顔だちが、感情とよく調和しているようにみえる。だから、いかに厳しい司法官でも、いかに疑い深い代訴人でも、いかに口うるさい高利貸しでも相手の瞳《ひとみ》がまた清らかにうるみ、額《ひたい》に皺《しわ》がすこしも刻まれていないのを見れば、老人のような心をもち、腐敗した計算をしていると信じることは、いつだってためらうものである。シャルルはこれまで一度もパリふうの道徳の金言を用いる場合がなかった。それで今日までは、未経験のために美しかった。だが、自分の知らないうちに、利己主義という毒に感染していた。彼の心のうちに潜伏しているパリっ子用の術策にみちた経済学の萌芽《ほうが》は、彼が実生活という芝居ののんきな見物人から舞台の役者に転じるや否や、早くも花を咲かせることになったのである。
ほとんどたいていの若い娘は、こうした見かけの快い末頼もしさに夢中になってしまうものだ。しかし、ウジェニーが、ある種の田舎娘ほどに慎重で深い観察をはたらかしていたにしても、彼女の心中に、従兄弟《いとこ》の物腰や言葉づかいや行動が、なお心のあこがれと調和しているようなときに、その従兄弟を信用しないというようなことが、はたしてできるものだろうか? 彼女にとって致命的なことだが、偶然にも彼女は、この青年の心にのこっていた真情の最後の流出に遭遇したのであって、いわば、彼の良心の最後の息吹きを聞いたのであった。
そこで、彼女は、愛に満ち溢《あふ》れているように思えるその手紙を下におくと、ぐっすり眠っている従兄弟をひとり満足してながめはじめた。やはり生命のみずみずしい影がその顔の上にたわむれているように思われる。彼女はまず、永遠に彼を愛することを自分自身に誓った。それから、たいして慎みがないこととも思わずに、もう一通の手紙に目をやった。そして、それを読みはじめたのは、彼女もすべての女と同じく、自分の選んだ人は高尚な性質の持主だと思いこんで、そうした新しい証拠を手に入れようとしてであった。
[#ここから1字下げ] 親愛なるアルフォンス君、きみがこの手紙を読むころは、ぼくにはもう友人というものがないだろう。だが打ち明けて言えば、友情という言葉をむやみに使うことになれっこになっている社交界の者たちを疑っても、ぼくはきみの友情を疑ったことはない。そこできみに頼みがあるのだが、ぼくの身辺を整理してもらいたい。ぼくの所有するいっさいのものを有利に片づけてくれるものと思ってだ。今はもうぼくの立場をきみに知ってもらう必要がある。ぼくはもう無一物だ、そして東インド諸国へ出かけようと思っている。ぼくはなにがしかの借金があると思われる人々にはみんなのこらず手紙を書いたところだ。思いだすかぎり正確に書いたリストを同封しておく。ぼくの蔵書や家具や馬車や馬その他で、ぼくの借金を払うのに十分だ、と思う。ぼくが残しておきたいのは、これからの外地向け雑貨商売を始めることに役立つ、値打ちのないがらくただけで十分だ。アルフォンス君、上記の売却のために、異議申立てにそなえて、正式の委任状を当地からきみに送ろう。ぼくの武器類はすべてこちらへ送ってくれ。それからブリトン号はきみがとっておいてくれたまえ。あのすばらしい馬に値をつけようというものはだれもいないだろう。だから死にぎわの人間が使いなれた指輪を遺言執行人に遺贈するように、きみに進呈するほうがいい。ぼくはファリー・ブレールマン商会でとても快適な旅行用馬車をこしらえさせたが、まだ引き渡しはすんでいない。損害賠償など請求しないでそのままとっておいてくれるように納得《なっとく》させてくれ。もし向こうがそういう取決めを拒絶するとしても、今のぼくの事情だから、ぼくの誠実を汚す恐れのあるようなことはいっさい避けてくれたまえ。トランプで負けて、そのイギリス人に六ルイ借りがある、間違いなくその金はあの男に……。
[#ここで字下げ終わり]
「いいかたね、シャルルさんは」と言いながら、ウジェニーは手紙をおいて、燃えている蝋燭を一本もって自分の部屋へ小刻みな足どりで逃げもどった。
部屋へはいると、彼女は樫《かし》の木で造った古い箪笥《たんす》の引出しをあけたが、喜びのはげしい感動が湧《わ》かずにはいなかった。箪笥は文芸復興期《ルネサンス》と名づけられた時代の、きわめてりっぱな工芸品のひとつで、その上には半ば消えかかっていたが、有名な王室の山椒魚《さんしょううお》の紋章〔フランス国王フランソワ一世(一四九四〜一五四七)の、山椒魚をあしらった紋章〕が見えていた。彼女は、金の総《ふさ》のついた、すり切れてはいるが金糸銀糸で縫取《ぬいと》りのしてある、祖母の形見の赤いビロードの大きな財布を取り出した。それから、ひどく誇らしげにその財布の重みをはかっていたが、勘定することも忘れていたささやかな貯《たくわ》えを、喜んで確かめはじめた。まず、一七二五年に、ジャン五世〔一六八九〜一七五〇、スペイン継承戦争期のポルトガル王〕治下に鋳造《ちゅうぞう》された、まだ新しいポルトガル金貨二十枚を選《え》りわけた。父の話によれば、リスボン金貨五枚、もしくは各一枚が百六十八フラン六十四サンチームに両替できる値打ちがあるということだが、まるで太陽のように輝いているその金貨の珍しさ、美しさからして、慣例の価格は百八十フランだった。
なおまた、ジェノア貨幣、つまりジェノアの百リーヴル金貨が五枚。これもまた珍しいもので、両替すれば八十七フランだが、金貨愛好家ならば百フランの値をつけるもの。これは、ラ・ベルテリエール老人からもらったものである。
同じくまた、一七二九年鋳造のフィリッペ五世〔一六八三〜一七四六、スペイン王〕時代のスペイン金貨五枚。ジャンチエ夫人からもらったものだが、これをくれるたびに、夫人はいつでも同じ文句をくりかえすのだった、「このかわいいカナリヤさんはね、この小さな黄金はね、九十八フランの値打ちがあるのよ! だいじにしまっておくのよ、お嬢さん。これはあんたの宝物でいちばんすばらしいものになりますよ」
さらにまた、父親が最も高く評価していたもの(それらの純度は二十三金以上だったのである)、一七五六年鋳造で、一枚およそ十三フランの値打ちのあるオランダ金貨百枚。
なおまた、ひじょうな珍品!……守銭奴《しゅせんど》たちにとっては貴重品ともいうべき古銭で、黄道十二宮の天秤座《てんびんざ》を打ちだしたインド金貨三枚と、乙女《おとめ》座を打ちだしたのが五枚、いずれもみな二十四金という純金で、ムガール皇帝時代のすばらしい貨幣。目方で換算すれば、それぞれ三十七フラン四十サンチームであるけれど、金貨いじりの好きなその道の目|利《き》きならば少なくとも五十フランの値をつけるものである。
さらにまた、一昨日もらったまま、赤い財布の中に無造作に投げこんでおいた四十フランのナポレオン金貨一枚。
この財宝の中には、まだ新しくて未使用のもの、真の芸術品ともいうべきものが含まれていて、グランデ親父《おやじ》は時おりようすをたずね、見せてくれと言った。それというのも、貨幣の縁の美しさ、表面の光沢、くっきりした線がまだすり減っていない文字のふくよかさなどとともに、それぞれに固有な金そのものの価値を娘にこまごまと述べたてるためだった。しかし彼女は、それが珍しいものだということも、父親がそれに夢中になっているということも、父親にとってそんなにも貴重な宝物を手放したら自分の身にどんな危険がおきるかということも考えはしなかった。いや、彼女はただ従兄弟《いとこ》のことばかり考えていたのだ。そして何回か計算を間違えたあげく、ついに額面ではおよそ五千八百フラン、通り相場なら六千フラン近くに売れるものを自分がもっているということが、彼女にわかった。
自分のそうした高価な財産をながめながら、彼女はまるで、溢《あふ》れでる喜びを無邪気なしぐさに現わさないではいられぬ子供のように、手を打ちはじめた。こうして父と娘は、それぞれ自分の財産を勘定してみたのだった。父親は金貨を売りに行くために、ウジェニーは自分の金貨を愛情の海原《うなばら》に投げこむために。
彼女は金貨を古い財布にまたしまいこむと、それをもって、ためらうこともなくまた階上へ上がっていった。ひとの知らない従兄弟《いとこ》のみじめな境遇のことを思いつめて、今が夜の夜中ということも、世のしきたりに反するということも忘れてしまっていた。それにまた、良心と献身的な気持ちと幸福感のために、彼女は強い女になっていた。
彼女が片手に蝋燭、片手に財布をもって、部屋の敷居ぎわに現われたちょうどそのとき、シャルルは目をさまして従姉妹《いとこ》の姿を見て、驚きのあまりしばらく呆然《ぼうぜん》としていた。ウジェニーは部屋の中へはいると、蝋燭をテーブルの上におき、感動にみちた声で言いかけた。
「シャルルさま、私、たいへん悪いことをしてしまいました、お許しをいただかなくては。でもその罪は神さまもきっと許してくださいましょう、あなたさまさえ忘れてやろうとおっしゃれば」
「いったい、なんですか?」シャルルは目をこすりながら言った。
「その二通の手紙を読んでしまったのです」
シャルルは赤くなった。
「どうしてそんなことになったのでしょう?」と、ウジェニーはつづけた、「なぜお部屋へなんぞはいってきたのでしょう? ほんとうに、今となってはもうわかりませんの。でも、その手紙を読んでしまったことを、たいして後悔しなくてもいいのではないかという気持ちになっています。だって、その手紙のため、私にもわかりましたもの、あなたきまのお気持ちやら、お心やら、そして……」
「そして、なんです」と、シャルルはたずねた。
「あなたさまの御計画や、お金がどうしても必要だということや……」
「ウジェニーさん……」
「しっ、静かに、シャルルさま、そんな大きな声をなさらないで、だれかが目をさますといけませんわ。これは」と、財布をあけながら言った、「お金なんかなんにもいらない哀れな娘の貯金ですの。シャルルさま、どうぞ受け取ってくださいませ。今朝まで、私はお金ってどんなものか存じませんでしたが、あなたがそれを教えてくださいましたわ。お金って、手段にすぎないものなのですね。それだけのことですわね。従兄弟というのは、兄弟のようなものですわ。あなたの姉妹の財布ならいくら借りたってなんでもないことじゃありませんか」
一人まえの女でもあり若い娘でもあるウジェニーは、断わられるとは思ってもいなかったが、シャルルは黙ったままだった。
「まあ、受け取ってくださらないのですか?」と、ウジェニーはたずねた。胸の鼓動が深い静けさのなかでどきどき鳴った。
従兄弟のためらっているのに、彼女は面目を失った気持ちだったが、相手の逼迫《ひっぱく》している境遇のほうがずっとはげしく彼女の心に思い描かれた。そこで彼女はひざまずいた。
「このお金を受け取ってくださらないかぎりは、私は立ちあがりませんわ! シャルルさま、お願いです。なんとかおっしゃってください。……私の気持ちをかってくださるかどうか、心の広いかたかどうか、それが知りたくて……」
気高い絶望の叫びを聞くと、シャルルはひざまずかせまいとして握った従姉妹《いとこ》の手の上に、涙をぽろぽろと落とした。熱い涙をうけると、ウジェニーは財布にとびついて、テーブルの上に中身をあけた。
「では、承知してくださいますね?」彼女は喜びのあまり涙をうかべながら言った、「なにも御心配なさることはありませんわ、あなたはお金持におなりになるんですもの。このお金が幸運をもたらすでしょうし、いつか返していただきますもの。それに私たちごいっしょに協力しましょう。どんな条件でもおっしゃるとおりにいたしますわ。でも、この贈り物をそんなにたいしたものとは思ってくださいますな」
シャルルはやっと自分の気持ちを言いあらわすことができた。
「そうです、ウジェニーさん、もしこれを受け取らないとしたら、ぼくの心もずいぶん小さいことになりますね。けれども、無には無、信頼には信頼をですからね」
「とおっしゃいますと?」彼女はびっくりして言った。
「聞いてください、ウジェニーさん。ぼくはあそこに……」彼は言いかけて、衣装戸棚の上にのっている、革《かわ》の袋でつつんだ四角い箱を指さした、「ほら、あそこに命と同じほど貴い物をもっているのです。あの箱は母からの贈り物です。今朝がたからずっと考えていたのですが、もし母が墓から出て来られるとしたら、ぼくがかわいいばかりにこの箱に惜しげもなくふんだんにつかった金《きん》を、自分の手で売りはらうだろうということです。しかし、ぼく自身がそういうことをするとなると、そんなことは罰当《ばちあ》たりのように思えます」
ウジェニーはこの最後の言葉を聞くと、従兄弟《いとこ》の手をいきなり強く握りしめた。
「そうです、ぼくは」ふたりはほんのしばらくのあいだ、うるんだ瞳《ひとみ》で見合っていたが、やがて彼は言葉をつづけて、「これをこわしたくないし、また旅にもってゆく危険をおかしたくもないのです。ウジェニーさん、これをひとつ預かっておいてください。どんな親しい友達同士だって、これほど神聖なものを預けあったりすることはありますまい。どんなものか調べて見てごらんなさい」
彼は箱をとりにいって、袋から出して蓋《ふた》をあけた。金の値打ちより細工のためにはるかに高価なものになっているその箱を、驚嘆の眼を見はっている従姉妹《いとこ》に、悲しそうな顔で示した。
「あなたが感心なさっているものなんかなんでもありません」そう言いながらばねをおして、二重になっている底を開いた。「ほら、これですよ。ぼくにとっては地球全体ほどにも値打ちのあるものです」
彼は二枚の肖像画を取り出した。ミルベル夫人〔一七九六〜一八四九、上流人の肖像を数多く残し、特にルイ十八世の肖像が有名な、細密肖像画家〕の描いた傑作で、まわりには真珠が豪華に飾ってあった。
「まあ、おきれいなかた! このかたじゃありませんの、あなたのお手紙の……」
「いいえ」彼はにっこりして言った、「これはぼくの母です。そしてこちらが父です。あなたの叔父と叔母ですよ。ウジェニーさん、この宝物を大事に取っておいてくださいと、ひざまずいてお願いしなければならないところなんです。もしもぼくが、あなたのこのかわいい財産をなくして死んでしまったら、この金がその償いをしてくれましよう。それに、この二枚の肖像をのこしてゆけるのは、あなただけです。あなたはこれをもっていてくださるのにふさわしいかたです。しかし、他の人の手に渡ることのないように、もしものときは破いてください……」
ウジェニーは黙っていた。
「では、承知してくださるのですね?」彼はやさしくつけ加えた。
さっき自分が言ったばかりの同じ言葉を耳にすると、ウジェニーは恋する女の眼差《まなざ》しをはじめて相手にそそいだ。深い思いとともに色っぽさの含まれた眼差しだった。シャルルは彼女の手をとって接吻した。
「天使のように純潔なかただ、あなたは! ねえ、ぼくたちのあいだでは……金銭なんかまったくなんの価値もない、そうでしょう。金銭をなんらかの意味あるものにしてくれる愛情、これが今後は大切なのです」
「あなたはお母さまによく似ていらっしゃいますわ。お声もあなたのお声のようにおやさしくいらしったのですの?」
「いや、もっとずっとやさしい声でした……」
「さっきのこと承知いたしましたわ。あなたのために」眼を伏せながら、そう言った、「さあ、シャルルさま、どうぞおやすみなさいませ。お疲れでしょうもの。また明日」
彼女は、従兄弟《いとこ》の両手に握られた手を、そっとはずした。シャルルは彼女の足もとを照らしながら、彼女を送っていった。ふたりが部屋の敷居の所までくると、
「ああ、どうしてぼくは落ちぶれてしまったんだろう?」
「そんなこと! 父はお金持ですわ。そう思います」と、彼女は答えた。
「赤ん坊ですね、あなたは」シャルルは部屋の中に一歩はいると、壁によりかかって言葉をついだ、「そうだとしたら、ぼくの父が死んでゆくのを、だまってほっておきはなさらなかったでしょうし、あなたをこんながらんとした所にほったらかしにしておくようなことはなさるまい。つまり、もっと別の生き方をなさるはずです」
「でも、フロアフォンをもっていますわ」
「で、フロアフォンにどれほどの値打ちがあるのです?」
「存じませんわ。でもノアイエももっています」
「つまらない小作地でしょう!」
「ぶどう園もありますし、牧草地も……」
「つまらないものばかり」と、シャルルはさもばかにしたように言った、「もしあなたのお父さんに、せめて二万四千フランの年収でもあったとすれば、こんな寒々としたからっぽの部屋にあなたは住んでおいででしょうか?」左の足を前へ突き出して、そうつけ加えた。「ところで、ぼくの宝物はそこへおさまるわけですね」と、彼は自分の考えをかくすために、古ぼけた箪笥《たんす》を指さしながら言った。
「さあ、あちらでおやすみになって」と、彼女は、散らかっている部屋へ入れまいとして言った。
シャルルは引きさがった。そしてふたりは、おやすみを言うかわりに、互いにほほえみをかわした。
ふたりとも同じ夢をみながら眠りについた。シャルルは、このときから、喪《も》の悲しみを、いくらかばら色の気持ちでおおいはじめた。
翌日の朝、グランデ夫人は、娘が朝食まえにシャルルと連れだって散歩しているのを見た。青年はまだ悲しそうだった。いわば悲嘆のどん底に降りた不幸な男が、自分の落ちこんだ深淵《しんえん》の深さをはかりながら、将来の生活のあらゆる重みを感じとったとき、そうであるにちがいないような悲しみの色だった。
「お父さまは夕御飯まではお帰りにならないわ」ウジェニーは母親の顔に描かれた不安の表情を見て言った。
ウジェニーの物腰や顔つきや、おさえた声の異様なやさしさの中に、従兄弟《いとこ》とのあいだに同じ考えがかよいあっていることが、容易に見てとれた。ふたりの魂は、おそらく、お互いをひとつに結びつけるさまざまな感情の力を十分に感じるよりまえに、熱烈に和合したのだった。シャルルは広間に残ったが、みなは彼の憂愁を察してそのままそっとしておいた。三人の女はそれぞれ仕事があった。グランデは仕事を忘れて行ってしまったのでかなりたくさんの人がやってきた。屋根屋や鉛|細工《さいく》師や石工《いしく》や土方《どかた》や大工やぶどう畑の作男や小作人たちが、ある者は修繕についての仕事の契約を結びに、ある者は小作料を納めたり、勘定をもらいにやってきた。そこで、グランデ夫人とウジェニーは行ったり来たりして、職人たちや百姓たちのとめどもない長話に返事をしなければならなかった。ナノンは台所で小作料がわりにおさめる物を受け取っていた。自宅用に残しておくものと、市場へ売りに出すものとの区別について、いつも主人の指図《さしず》を待つのだった。老主人は、田舎の旦那衆のたいていのものと同じように、うちでは悪いぶどう酒を飲み、傷《いた》んだ果物を食べるのが習慣だった。
グランデは、夕方の五時ごろアンジェからもどってきた。一万四千フランの金《きん》をもっていったが、今は紙入れの中に、例の国債を買いこむ日まで利子のつく国庫払いの証券をしまいこんでいた。コルノアイエはアンジェにのこしてきた。疲れきった馬の世話をさせ、十分休息させてからゆっくり連れてかえらせるためだった。
「アンジェヘ行ってきたよ、おまえ」と、彼は言った、「腹がへった」
ナノンは台所から大声で呼びかけた、
「昨日からなにも召し上がらなかったのですか?」
「なんにも」と、老人は答えた。
ナノンはスープをはこんできた。ちょうど家族のものが食卓についているときに、デ・グラサンが顧客《おとくい》の指図をうけにやってきた。グランデ親父《おやじ》は甥《おい》のほうにちらっとも眼をむけなかった。
「ゆっくりあがってください、グランデさん」と、銀行家は言った、「そのままで話しましょう。いま、アンジェで金がどのくらいしているか知ってますかね。ナントヘもってゆくために、人々がアンジェヘはいりこんでいるらしい。私も送ってみようと思っているが」
「送らないほうがいいですな」と、老人は答えた、「もうあまるほどありますわい。お互いに親しい間柄なので、無駄《むだ》な時間をつぶすようなことはさせたくありませんからな」
「しかし、金《きん》の値は十三フラン五十サンチームしてますぞ」
「いや、していたんですわい」
「いったいどこからそんな金がはいりこんだのですか?」
「じつは、ゆうベアンジェへ行きましたよ」と、グランデは低い声で答えた。
銀行家は不意をうたれてぎょっとした。やがてふたりはひそひそ話をはじめた。そのあいだデ・グラサンは何度もシャルルのほうを見やった。たぶん樽屋あがりが銀行家に、年利十万フランの国債を買いつけるように頼んだときだろうが、デ・グラサンはまたもや思わずひどく驚いた身振りをみせた。
「グランデさん」と、彼はシャルルに言った、「私はパリヘ出かけます、なにか私に任せてもらうことでもありましたら……」
「ありがとう。が、べつになんにも」と、シャルルは答えた。
「もっとていねいにお礼を言うんだよ。このかたはギョーム・グランデ商会の整理に行ってくださるんだよ」
「では、まだいくらか望みがあるのでしょうか?」
「だっておまえ」と、樽屋はさも誇りを重んじるといった調子で声を大きくした、「おまえはわしの甥《おい》じゃないか。おまえの名誉はわしの名誉だ。おまえもグランデを名のっているんじゃないかね?」
シャルルは立ちあがってグランデ親父《おやじ》にだきついて接吻すると、蒼《あお》い顔をして出ていった。ウジェニーは感激して父親をながめていた。
「それじゃ、さようなら、デ・グラサンさん。どうかよろしく。連中をうまく丸めこんでもらいましょ」
駆引きにたけたふたりは握手をかわした。樽屋あがりは銀行家を戸口まで送っていった。それから、戸をしめてもどってくると、肱掛け椅子にふかぶかと腰をおろしてナノンに言った、
「すぐり酒をもってきてくれ」
しかし、興奮のあまりじっとしていられず、立ちあがるとラ・ベルテリエール氏の肖像画をながめ、やがて、ナノンが踊り足と呼んでいる足取りをしながら歌いだした。
あたいの父ちゃん
近衛《このえ》にいたのよ……
ナノンとグランデ夫人とウジェニーは、黙ったまま互いに顔を見合わせた。ぶどう作りの喜びが絶頂に達すると、三人はいつも恐れをなすのだった。
やがて宵《よい》のひとときも終わった。まず初めにグランデ親父が早く寝たいと言った。彼が寝るとなると、この家ではみんなが寝なければならなかった。まさに≪アウグスト王盃を乾《ほ》すや全ポーランド酩酊《めいてい》す〔ポーランドの王フレデリック・アウグスト三世(一六九六〜一七六三)のことで、フリードリッヒ大王の詩句〕≫といった調子だった。それに、ナノンもシャルルもウジェニーもこの家の主人に劣らず疲れていた。グランデ夫人のほうは、これは眠るのも、食べるのも、飲むのも、歩くのも、みな夫の望みしだいといった調子だった。それにしても、食後の休息の二時間ほどというもの、樽屋あがりのグランデは、かつて一度もみせたことのないほどのおどけようで、彼独特の警句じみた文句をやたらに口にした。そのひとつをあげるだけでも、彼の才気のほどが知れよう。彼はすぐり酒を飲みほすと、グラスをじっとながめた。
「唇をつけたと思うと、グラスはもう空《から》っぽだ! これが世の常というもの。人間いつも同じというわけにはいかん。お金にしたって、ころがりこんでくるものでもなし、財布にじっとしているものでもない。でなけりゃ世の中なんてけっこうすぎるて」
彼は陽気で寛大になっていた。ナノンが紡《つむぎ》車をはこんでくると、
「おまえも疲れているだろう。麻を紡ぐのはやめておくがいい」
「へえ……でもたいくつするでしょう」と、女中が答えた。
「かわいそうなナノン! すぐり酒でもどうだ?」
「はあ、すぐり酒ときちゃ、いやとは申しません。奥さまは、どこの薬屋よりもじょうずにお造りになります。薬屋で売っているのは、ありゃ薬ですものね」
「砂糖を入れすぎるのじゃ。なんにも匂《にお》いがありゃしない」
翌日、八時に朝食のために集まった家族は、ほんとうにむつまじいようすを見せた。
不幸のために、グランデ夫妻とウジェニーとシャルルはいちはやく打ち解けてしまっていたし、ナノンさえも、知らぬうちに三人と気持ちがひとつになっていた。この四人でひとつの家族をつくりはじめた。ぶどう作りの老人のほうは、貪欲《どんよく》が満たされたし、洒落《しゃれ》男がナントまでの旅費以外にべつに金をかけずとも、もうじき立ち去ることもはっきりわかったので、彼がわが家にいることをほとんど気にしていなかった。ふたりの子供、こうシャルルとウジェニーのことを彼は呼んでいたが、グランデ夫人の眼のとどくところなら、ふたりの子供に思いどおりの自由にさせておいた。それにもともと彼は、公衆道徳と宗教道徳に関しては完全に夫人を信用していた。彼のほうは、牧草地や国道沿いの溝《みぞ》の線を整理したり、ロアール河沿いの土地にポプラを植えたり、ぶどう園やフロアフォンで冬にそなえる仕事をしたりすることで手いっぱいだった。
このとき以来、ウジェニーにとって恋の初春がはじまった。従兄弟《いとこ》に自分の財宝を与えたあの夜の場面このかた、彼女の心も財宝を追っていったのだ。同じ秘密を分ちあうふたりは、互いに理解しあっていることを、じっと顔を見合わすことで表わした。この理解がふたりの感情をふかめ、いわばふたりをありふれた生活の外におしこむことによって、その感情をいっそう共通なものに、いっそう親密なものにするのだった。声の調子にいくらかやさしさをこめたとしても、眼差《まなざ》しに愛情が含まれているとしても、それはいとこ同士ということで許されることではなかろうか。そうしたしだいで、ウジェニーは、生まれたばかりの恋の子供っぽい喜びにつつまれて、従兄弟の苦悩を眠らせるのが楽しかった。
恋のはじまりと人生のはじまりとには、なにか風情《ふぜい》のある類似点がありはしないだろうか。子供は快い子守歌とやさしい眼差《まなざ》しに揺られて眠るのではなかろうか。未来を金色に彩《いろど》るすばらしい物語を聞かせてもらうのではなかろうか。子供には、希望が輝かしい翼をいつもひろげているではないか。喜びの涙と悲しみの涙をかわるがわる流すではないか。たわいもないことのために、ぐらぐらする宮殿をつくろうとして集める小石のために、草花を切ってつくったかと思うとすぐ忘れてしまう花束のために、子供はけんかをするのではないか。時の流れをつかみとろうとして、早く人生に乗りだそうとして、夢中になっているではないか。恋愛はわれわれの第二の変移である。幼年期と恋愛は、ウジェニーとシャルルのあいだでは同じひとつのものだった。それは子供っぽさを伴った生まれてはじめての情熱であり、その子供らしさは、ふたりが憂愁につつまれているだけになおさらふたりの心をやさしく愛撫するのだった。
喪《も》の薄絹の下でもがきながら生まれたこの恋は、それだけにこの荒れはてた家の田舎びた素朴さにいっそうよく調和していた。そのひっそりとした中庭の井戸のそばで従姉妹《いとこ》と言葉をかわしたり、日の沈むころまで小庭の苔《こけ》むしたベンチの上に腰をおろして、とりとめもないことを、だがふたりにとっては大切なことを一心に語りあったり、あるいは教会堂の拱廊《きょうろう》にたたずんでいるときのように、城塞とこの家のあいだにたちこめる静寂の中で敬虔《けいけん》な思いにふけることもあった。こうして、シャルルは恋の神聖さというものがわかった。というのは、例の貴婦人、彼の恋しいアネットは、嵐《あらし》のような恋の騒乱しか教えてくれなかったからだ。今ではシャルルは、浮気で、虚栄にみちた、派手なパリふうの情熱をすてさって、清らかで真実の恋愛にむかった。彼はこの家が好ましくなり、その風習もそれほど滑稽《こっけい》に思われなくなった。
グランデが毎日の食糧をあてがいに出てくるまえに、しばらくでもウジェニーと話し合うことができるようにと、シャルルは朝になるとすぐおりてきた。そして老人の足音が階段で響くと、庭へ逃げていった。ウジェニーの母親にも秘密で、ナノンも気のつかぬふりをしていたこの朝のあいびきにはささやかな罪の気持ちがこもっていて、世にも清らかなその恋に、禁じられた楽しみのもつはげしさを刻みこんだ。それから、朝の食事がすんで、グランデ親父《おやじ》が地所や農地を見まわりに出かけてゆくと、シャルルは母と娘の間にはいりこんで、糸を紡《つむ》ぐ手伝いをしたり、ふたりが仕事をするのをながめたり、ふたりのおしゃべりに耳をかしたりすることに、これまで知らなかった深い喜びをおぼえるのだった。まるで修道院のようなこうした生活の素朴さは、世間を知らない母と娘の魂の美しさをまざまざと見せてくれ、彼の胸をはげしくうった。彼はこうした風習はフランスにはありえないものだと思っていた。せめてドイツならあるかもしれないが、それもお伽話《とぎばなし》のようなもの、アウグスト・ラフォンテーヌ〔一七五九〜一八三一、ドイツの小説家。平凡きわまる感傷的な家庭小説を二百あまりも書いた〕の小説にでも出てくるようなものと思いこんでいた。やがて彼には、ウジェニーがゲーテのマルガレーテ〔ゲーテの『ファウスト』の女主人公。ファウストに誘惑された〕のような、それもあんな過失をおかさないマルガレーテのような理想の女になった。
ついに日がたつにつれて、彼の眼差しや言葉はウジェニーの心をすっかり魅了し、彼女は恋の流れにうっとりと身をゆだねた。川を泳ぐ人が流れから脱けだして岸べで休むために柳の小枝にすがるように、彼女は無上の幸福にすがりついた。近くシャルルがいなくなるという悲しみが、暮れやすい今日このごろのいちばん楽しい時間を、はやくももう悲しいものにしているではないか。毎日、ちょっとした出来事が近づく別離をふたりに思いおこさせるのだった。こうして、デ・グラサンが出発して三日目、シャルルは父親の遺産相続放棄の証書に署名するために地方裁判所へ出向いたが、田舎の人がこうした場合にみせるあのもったいぶったようすをしたグランデに連れられていった。なんと恐ろしい遺産放棄! いわば、親子の縁の放棄ではなかろうか。シャルルはクリュショ公証人の所へ行って、一通はデ・グラサンのため、もう一通は彼の家財道具などの売却を一任してある友人のため、二通の委任状をこしらえてもらった。それから、外国へ行くための旅券を手に入れるのに必要な、数々の手続きもとらなければならなかった。シャルルがパリヘ注文しておいた簡素な喪《も》服がとどくと、ソーミュールの仕立屋を呼んで、無用の衣類を売りはらった。この行為がグランデを奇妙なまでに喜ばせた。
「ああ、それでこそおまえも、船に乗りこんで、財産つくろうとする男らしくなったわい」と、厚ぼったい黒ラシャの上着を着たシャルルをながめながら、「けっこう、たいへんけっこうだ!」と、グランデは言った。
「どうぞ信じてください、伯父さん」と、シャルルは答えた、「ぼくだって境遇に応じて気がまえができるということを」
「それはいったいなんだい?」シャルルが見せたひと握りほどの金《きん》に気づくと、老人は眼を輝かしながらたずねた。
「ボタンとか指輪とか、ぼくのもっている無用の品物で、いくらか金目になりそうなものをすっかり集めてみたんです。ところが、ソーミュールにはだれも知り合いがいないので、今朝、伯父さんにお願いして……」
「買ってもらいたいのだね?」グランデは途中でさえぎって言った。
「いいえ、伯父さん。だれか堅い人を教えていただきたくて……」
「ちょっとかしてごらん、二階《うえ》へいって値ぶみしてみるから。すぐもどってきて、どれくらいの値のものか、一サンチームも違わないところを教えてあげるよ。金の装身具だな」長い鎖を調べながら、「十八金か十九金というところだ」と言った。
老人は大きな掌《てのひら》をさしだして、ひと塊の金製品をさらっていった。
「ウジェニーさん、失礼ですがこのふたつのボタンをあなたにさしあげます。袖口《そでぐち》にリボンをおつけなさるときに役に立つかもしれません。そうすれば今とてもはやっている腕輪になりますよ」
「遠慮なくいただきますわ」と言いながら、万事のみこんだような眼差《まなざ》しをおくった。
「伯母さん、これはぼくの母の指貫《ゆびぬき》です。旅行用の化粧箱に入れて大切にしまっておいたものです」こう言いながら、シャルルは、きれいな金の指貫をグランデ夫人にさしだした。夫人は十年このかた、そういったものをひとつ欲しいと思っていたのだった。
「なんとお礼を申してよいかわかりませんわ、シャルルさん」と、老夫人は眼に涙をためながら言った、「朝に晩に、お祈りのときに、今のあなたにいちばん必要なお祈りをつけ加えましょう。旅人のためのお祈りをね。私が死んだら、ウジェニーにこの宝を預かってもらいましょう」
「九百八十九フラン七十五サンチームあったぞ、シャルル」と、グランデは扉《とびら》をあけるなり、言った。「だが、おまえがこれを売る手間がはぶけるように、わしが現金に替えてやろう……リーヴルでな」
リーヴルという言葉は、このロワール河流域では、六リーヴルの銀貨が割り引きなしに六フランに通用する、ということなのである。
「そこまでお願いするつもりはなかったのですが」と、シャルルは答えた、「そうは言っても、ぼくの装飾品を、あなたがたが住んでおられるこの町の古道具屋に売りはらうのも、なんだかいやな気がしましてね。汚れた下着は家で洗うものだ、とナポレオンが言ってますからね。伯父さまの御厚意をありがたくお受けいたしましょう」
グランデは耳をかいた。そしてほんのしばらく沈黙があってから、
「伯父さま」と、シャルルは言葉をつづけて、相手の感情を傷つけるのを恐れるかのように、心配そうなようすで見つめながら、「ウジェニーさんも伯母さまも、ぼくのささやかな記念品を喜んでお受けしてくださいました。こんどは伯父さまも、ぼくにはもう不用になったカフスボタンを、どうぞお受けください。それがきっと哀れな男のことを思いださせてくれるでしょう。今後は親戚といってはあなたがたしかないのだから、遠く離れていても、ぼくは皆さんのことをきっと考えるにちがいありません」
「まあ、まあシャルル、なにもそんなにまでして無一文になることはないさ。……ところで、何をもらったんだい、おまえは?」と、彼は妻のほうを、欲深そうな顔をして振り向きながら言った、「ああ、金《きん》の指貫《ゆびぬき》か。で、ウジェニー、おまえはダイヤモンド入りの留《と》め金《がね》だね。それじゃ、シャルル、わしはそのカフスボタンをいただくとしよう」と言って、シャルルの手を握った。「だがそのかわり……ひとつおまえさんに……出させてくれんか……その…-おまえさんの東インド諸国までの船賃を。そうだ、おまえさんの船賃を払ってやりたいのだ。さっきおまえさんの装身具の値ぶみをしたとき、地金の値しか計算しなかったが、おそらく細工のほうでもなにがしかになるだろう。そこでと、話は決まった。千五百フランおまえさんにあげよう、……リーヴルでな。クリュショが貸してくれるだろう。手もとには銅貨ひとつありはしないんだからな。なにしろ、ペテロのやつが小作料をおくらせているので、あれが払ってくれんことには、な。そうだ、あれのところへ行ってみよう」
グランデは帽子をかぶり、手袋をはめると、出ていった。
「それではやっぱり、行っておしまいになりますのね」と、ウジェニーは、悲しそうな眼差《まなざ》しに感嘆の気持ちをまじえてシャルルを見やりながら、言った。
「そうしなければならないのです」と、彼は頭をたれて答えた。
数日まえから、シャルルの物腰、態度や言葉つきは、深く思い悩んではいるが、背負いきれぬほど重い債務がのしかかっているのを感じて、その不幸のうちに新たな勇気を汲《く》みとろうとしている男のそれになっていた。もう溜息《ためいき》はつかなくなっていた。彼は一人まえの男になっていたのである。だからウジェニーも、厚ぼったい黒ラシャの服を着ておりてくる従兄弟《いとこ》を見たときほど、彼の性格を好ましく思ったことはなかった。その喪服は彼の蒼《あお》ざめた顔や沈んだ物腰によく似合っていた。その日、母も娘も喪服を着て、故ギョーム・グランデの霊のために教区でとり行なわれた死者のためのミサに、シャルルとともに参列した。
昼食のとき、シャルルはパリから何通かの手紙を受けとって、それを読んだ。
「いかがですの、シャルルさん、お仕事のほうはうまくはこんでいますの?」と、ウジェニーが小さい声でたずねた。
「そんなことは決してきくものじゃないよ、おまえ」と、グランデが引きとって言った、「いいかね、わしだって自分の仕事のことをおまえに話しゃしない。どうしておまえが従兄弟《いとこ》のことに口を出すのだ。かまわないでおいてあげなさい」
「いいえ、ぼくには秘密なんてありませんよ」と、シャルルは言った。
「おっ、と、と、と。いずれおまえにもわかることだが、商売のこととなれば、自分の舌に轡《くつわ》をかましておかなきゃならん」
恋人どうしが庭でふたりだけになると、シャルルはウジェニーを、胡桃《くるみ》の木陰の例の古いベンチのところへつれていって、
「アルフォンスは思っていたとおり良い男でした。とてもうまくやってくれましたよ。慎重にしかも忠実に、ぼくの用事をしまつしてくれました。パリにはぜんぜんもう借金はありません。家具はみんないい値で売れました。そして、残った三千フランは、ある遠洋航海の船長のすすめで、東インド諸国へもってゆけばすばらしい儲《もう》けになるというヨーロッパの骨董品《こっとうひん》をひと荷物買った、という知らせです。その荷はナントヘ送ってくれました。ジャワ行きの貨物船があそこに停泊しているのです。ウジェニーさん、ここ五日で、ぼくたちはおそらく永久に、少なくとも長いあいだのさようならを言わなければなりません。さっき言った骨董品と、ふたりの友人が送ってくれる一万フランの金が、ぼくのごくささやかな商売の元手《もとで》です。何年かしなければ、帰ってくることなど考えられません。ウジェニーさん、そんなわけですから、ぼくの生活とあなたの生活を秤《はかり》にかけないでください。ぼくは駄目《だめ》になってしまうかもしれないが、あなたにはたぶんりっぱな縁談があることでしょうから……」
「私を愛してくださいますの?……」
「ええ、もちろんですとも」と、深い調子の声で答えた。その声には、気持ちにも同じような深さのあることがあらわれていた。
「待っていますわ、シャルルさん。あら、父が窓べにいますわ」彼女は接吻しようとして近づいてきた従兄弟をおしのけながら言った。
彼女は丸天井の下へ逃げこんだ。シャルルは追ってきた。それを見るとウジェニーは階段の下にしりぞくと跳《は》ね戸《ど》をあけた。そして、どちらへ行ったらいいかよくわからぬままに、ウジェニーはナノンの小部屋のそばにきてしまった。廊下のいちばん暗い場所だった。あとを追ってきたシャルルは、そこまでくると、彼女の片手をとると自分の胸のあたりにもってゆき、腰をいだいて、そっと自分のほうに引き寄せた。ウジェニーはもうさからわなかった。彼女は、このうえもなく清らかな、このうえもなく甘美な、しかしまた最も完全な接吻を受け、そして返した。
「ウジェニーさん、従兄弟というものは兄弟よりいいですね、あんたと結婚できるのだから」と、シャルルは言った。
「どうぞそうなりますように!」と、ナノンが、むさくるしい部屋の扉をあけながら大声で言った。
びっくりして、ふたりの恋人は広間へ逃げていった。そこでウジェニーはまた仕事にとりかかり、シャルルのほうはグランデ夫人の祈祷書《きとうしょ》のなかの聖処女マリアにささげる連祷を読みはじめた。
「おやおや! だれもかれもみんなお祈りしておいでだ」と、ナノンが言った。
シャルルが出発の意向をつげると、さっそくグランデは自分も甥《おい》のために大いに気をつかっていると思いこませようと、あれこれと動きまわった。一文も金のかからないことには、なんでも気まえのいいところを見せ、荷造り人を見つけだす世話をしたのだった。そして、あの男は荷造りの箱をとても高く売りつけるつもりだ、と言いだして、こんどはどうしても自分でつくりたいといって、古い板をそれにつかった。朝早くから起きだして、鉋《かんな》をかけたり、切りそろえたり、小割《こわ》り板に釘《くぎ》を打ちつけたりして、たいそうりっぱな箱をつくりあげて、その中ヘシャルルの衣類などをいっさい詰めこんでやった。そして、ロワール河を下る舟に積みこみ、保険をかけ、適当な時にナントヘ送ることまで引き受けた。
廊下で接吻をかわして以来、ウジェニーにとって時間は恐ろしいほどの速さで過ぎ去っていった。時には、従兄弟《いとこ》について行きたいとも思った。さまざまな情熱のなかでも最も心をひきつけられる情熱、しかも年齢や歳月や死病や、人間の宿命的なもののために、日一日とその期間が縮められてゆくような情熱、そういった情熱を自分でよく知っている人ならば、ウジェニーの苦しみがよくわかるだろう。彼女は庭をそぞろ歩きしながら、しばしば涙を流した。その庭も今では彼女にはあまりにも狭すぎた。中庭も、家も、町も狭すぎた。早くも彼女の心は広々とした海風の上をとんでいた。
ついに出発の前日がきた。朝のうち、グランデとナノンがいないあいだに、例の二枚の肖像画のはいっている貴重な小箱が、箪笥《たんす》のただひとつの引出しにおごそかに納められた。引出しは鍵《かぎ》がかかるようになっていて、例の空《から》になった財布もそこに納められた。この宝物の受け渡しは、いくたびもの接吻と涙のうちにおこなわれた。ウジェニーは引出しの鍵を胸元にしまうと、そのところにシャルルが接吻しようとするのを押しとどめる勇気がなかった。
「この鍵はもうここから離しませんわ、シャルルさん」
「では、ぼくの心もいつまでもそこにあります」
「まあ、シャルルさん、それはいけませんわ」と、少しとがめるような調子で言った。
「ぼくたちはもう結婚しているわけじゃないか。きみはぼくに約束してくれた。こんどもぼくが約束をする」
「いつまでも、永久に!」ふたりは二度くりかえした。
この世でかわされたどんな約束も、これ以上に清らかではなかった。ウジェニーのあどけなさが、しばらくのあいだ、シャルルの愛を聖《きよ》らかなものにしたのだった。
次の日の朝の食事は悲しいものだった。シャルルから例の金色の部屋着と、百姓女のまねで貴婦人がさげるビロードのリボンをつけた十字架をもらったにもかかわらず、ナノンも心のうちを思いのままにあらわして、眼に涙をうかべていた。
「おきのどくに、こんなかわいい坊っちゃんが海の向こうへおいでになるなんて。どうぞ神さま、お導きくださいますように」
十時半に、ナント行きの乗合馬車のところまで、一家の者たちはおくっていった。ナノンは犬を放ち、戸口をしめてから、シャルルの旅行袋をはこんでゆきたいと申しでた。古い街道の商人たちはのこらず、店先に出てきて、一行の通り過ぎるのを見送った。広場の所で、クリュショ公証人が一行に加わった。
「泣くのはおよし、ウジェニー」と、母親が言った。
「シャルル」と、グランデが旅籠《はたご》の入り口でシャルルの両の頬《ほお》に接吻して言った、「文無しで出かけて、金持になって帰ってくるんだよ。そのときにはわかるだろうが、おまえの親父《おやじ》の両目はつぶれないようにしておくからな。それはこのわしが、グランデが引き受けた。だから、とにかくかんじんなのはおまえが……」
「ああ! 伯父さん、おかげで出発のつらさがいくらかやわらぎました。それがなによりの御|餞別《せんべつ》ですからね」
途中でさえぎられたので、老樽屋が言おうとする言葉はわからないままに、シャルルは伯父の日焼けした顔に感謝の涙をふりそそいだ。そのあいだ、ウジェニーは従兄弟《いとこ》の手と父親の手を力いっぱい握りしめていた。ただ公証人だけは、グランデのずるさに感心しながら、うすら笑いをうかべていた。彼にだけ、老人の腹の内がよくわかっていたからである。
ソーミュールの町の四人は、おおぜいの人にとりまかれて、馬車が出発するまでその前に立っていた。やがて、馬車が橋の上に姿を消し、ただ遠くのほうからだけ馬車の音が響いてくるようになったとき、
「おさらばじゃ」と、ぶどう作りは言った。幸いなことに、この言葉を耳にしたのは、クリュショ公証人ただひとりだった。ウジェニーと母親は、まだ乗合馬車の見える河岸のあたりまで行って、白いハンカチを振って合図をおくっていた。シャルルもハンカチでそれに応《こた》えた。
「お母さま、ほんのちょっとのあいだでもいいから、神さまのような力がほしいわ」ウジェニーは、もうシャルルのハンカチが見えなくなったときに、そう言った。
グランデ家の中でおこったさまざまな事件の経過をとどこおりなく述べるには、あらかじめ、老人がデ・グラサンの手を介してパリでおこなった工作に一応目をとおしておく必要がある。銀行家のデ・グラサンがパリヘ向かって出発してから一か月たったころ、グランデは正味八十フランで買いとった年利十万フランの国債証書を手に入れていた。この証書の代金と証書とを引き替えるに当たって、用心深い彼がどんな方法を思いついたかについては、彼の死後、財産目録を調べてみても全然見当がつかないのである。クリュショ公証人は、ナノンが自分ではそれと知らずに、その資金の運搬に忠実な道具になったのではないかと考えた。そのころ、フロアフォンヘなにか用事を片づけにゆくという口実で、女中は五日間留守をした。だが、老人は物事をだらだらと長引かせておくことのできる人間だろうか。ギョーム・グランデ商会のことについては、樽屋あがりの見通しはすべて現実となってあらわれた。
周知のように、フランス国立銀行は、パリや各県の資産家に関するきわめて正確な情報を集めている。ソーミュールのデ・グラサンやフェリックス・グランデの名も知られていて、抵当などにはいっていない広大な地所に基盤のある、著名な財産家にふさわしい敬意を受けていた。そんなしだいで、パリのグランデ商会の清算を名誉にかけておこなうことを一任されていると言われているソーミュールの銀行家が到着すると、それだけでもう十分に、今は亡《な》き大商人も債務弁済不能の汚名をまぬがれることができるのだった。差押えの封印の解除が、債権者たちの立会いのもとにおこなわれた。そしてグランデ商会の公証人が相続財産の目録作成に法のとおりにとりかかった。まもなくデ・グラサンは債権者たちの召集をおこなった。満場一致の声によって、おもだった利害関係者のひとりである大銀行の頭取のフランソア・ケレル〔『人間喜劇』の他の六巻に登場する〕とソーミュールの銀行家が清算人として選ばれ、グランデ家の名誉と債権をともに救うために必要ないっさいの権利を委任された。ソーミュールのグランデの信用と、デ・グラサンという代行者によって債権者たちの心にまきちらされた希望が、和解を容易なものにした。債権者のなかに強情を張る者はひとりもいなかった。だれひとりとして、自分の債権を損益勘定に移してしまおうとする者もなく、≪ソーミュールのグランデが払ってくれるだろう!≫と、各自が考えていた。
六か月が過ぎた。パリの商人たちは出まわっていた手形を買い取って紙入れの奥深くにしまいこんだ。樽屋が当てにしていた最初の成果である。
第一回の会合から九か月後に、ふたりの清算人は各債権者に対して四割七分の金を分配した。この金額は、故ギョーム・グランデ所有の有価証券、地所、家財道具などの売り立てから生じたもので、その売り立ては細心忠実におこなわれた。
きわめて正確で誠実な態度が、その清算のすみずみにまでゆきわたっていた。債権者たちは、グランデ一家のこの非の打ちどころのないりっぱな義理堅さを認めて満足した。こうした賞賛の声がかなり世間にひろまったころ、債権者たちは残額の支払いを要求した。それで、ふたりは連名の手紙をグランデ宛《あて》に出さなければならなかった。
「いよいよ、おいでなすったな」樽屋あがりはそう言って、その手紙を火の中へ投げこんでしまった。「まあ、辛抱《しんぼう》がかんじんだ、皆さん」
手紙に書かれていた申込みに対する返事として、ソーミュールのグランデは、すでに支払い済みの分の領収書に添《そ》えて、弟の遺産に対する現存の債権証書をのこらず公証人に寄託してほしいと要求した。会計検査をおこなって、正確に遺産の明細書を作成したいという口実であった。この委託ということが、数々の苦情や難題を生んだ。
一般に、債権者というものは、一種の偏執者である。今日は話をまとめるつもりでいるかと思うと、明日にはすべてを御破算にしてしまおうとする。もっと後になると極端なお人好しになってしまう。今日は女房は上機嫌《じょうきげん》だし、かわいい末っ子には歯がはえるしで、家の中は万事うまくいっているのだから、一文もまけたくはない。明日になって雨が降ると、外に出られないので気がふさいでくる、すると、相手のどんな申し出にも、それで事が片づくのなら承知と答えてしまう。さてその翌日になると、担保が必要だと言いだし、はては月末になると、この冷血漢は強制執行にかけると言いだす。ひとはよく子供に雀《すずめ》の尻尾《しっぽ》に塩をひとつまみのせてごらん、というが、雀はなかなかつかまるものではない。債権者というものは、そのつかまらない雀のようなものだ。ところが、債権者のほうでは、自分がちっともつかまえることができないのは債権なのだから、その雀の比喩《たとえ》は、債権そのものに向けられるべきだと言う。
グランデは債権者たちの気持ちが変わりやすいことを、かねて経験をつんでよく知っていた。そして弟の債権者たちも、彼の計算どおりに動いていた。ある者は腹をたてて、例の債権証書委託をきっぱり断わってきた。
「よろしい、これでうまくいく」グランデはその件についてデ・グラサンが書いてよこした手紙を読むと、もみ手をしながらそう言った。
ほかの何人かは、件《くだん》の委託に同意はしたが、それは、自分たちの権利を十分に確認してもらうこと、いかなる権利も放棄しないこと、破産宣告をする権利をも留保することを条件にしてであった。新たに手紙のやりとりをしたあげく、ソーミュールのグランデは、相手の要求しているいっさいの留保に同意した。こうした譲歩のおかげで、寛大な債権者たちは強硬な債権者たちの説得にかかった。いくらかの苦情がないでもなかったが、委託はおこなわれたのである。
「あの老人は、あんたやわれわれを愚弄《ぐろう》してるんですよ」と、デ・グラサンに言う者がいた。
ギョーム・グランデが死んでからほぼ二年たったころ、たいていの商人は、パリの多忙な用件に引きこまれて、グランデに対する債権取立てごとなどは忘れてしまっていた。たまたま思いだすことがあっても、
≪どうやら、あの四割七分が、例の債権から取り立てられる全部かも知れないぞ≫と思うだけだった。
樽《たる》屋は、年月の力というものを計算に入れていた。彼の言葉によれば、時は愛すべきやつなのだ。三年目の終わりごろに、デ・グラサンは、グランデ商会の負債残額二百四十万フランの一割を支払えば、証書を返してもらえるところまで、債権者たちを引っぱってきたと、グランデに書いてよこした。するとグランデはその返事として、弟を死にいたらしめた恐るべき破産を引き起こした、|当の《ヽヽ》公証人と仲買人が生きていて、けっこうな身分になっているかもしれない。やつらを訴訟にかけて多少なりとも引き出して、こちらの不足額の足しにすべきだと書いてやった。
四年目の終わりには、法にもとづいて正式に残額は百二十万フランと決定された。清算人と債権者、そしてグランデと清算人とのあいだに、六か月の間談判がつづけられた。結局、債務の履行《りこう》を強くせきたてられたソーミュールのグランデが、その年の九か月目ごろ、ふたりの清算人に対して答えた返事には、東インド諸国で財産をこしらえた甥《おい》が、父親の負債を全額返済する意志を表明してきている。甥と相談しないでこっそり清算するようなことは引き受けかねる、したがって甥からの返事を待っていると書かれてあった。
五年目の中ごろになっても、この卓抜な樽屋が時おりもらす|全額支払い《ヽヽヽヽヽ》という言葉によって動きがとれなかった。樽屋のほうは腹のなかでほくそ笑《え》み、≪あのパリのやつらときたら……≫と、きまってうすら笑いと罵《ののし》りをもらすのだった。それにしても債権者たちは、商業の記録のなかで、前代|未聞《みもん》の運命を背負わされたわけである。この物語の事件につれて、彼らもまたどうしても姿を現わしてくるのだが、そのときもグランデが封じこめたままの境遇にとどまっていることだろう。
国債が百五十フランに達したとき、グランデ親父《おやじ》はそれを売って、金貨で二百四十万フランをパリから回収した。それは複利六十万フランといっしょにして、いくつかの樽に詰めこんだ。デ・グラサンはパリに滞在していた。その理由は次のとおりであった。第一には、代議士に選ばれたためである。つぎに、一家の父親でありながらソーミュールの退屈な生活にあきあきしていた彼は、王弟姫《マダム》劇場〔パリの最古の劇場のひとつ、今日のゲーテ座〕のいちばんきれいな女優のひとりであるフロリーヌ〔『人間喜劇』の『幻滅』その他の諸作品に登場する〕というのに夢中になって惚《ほ》れこんだからである。兵站《へいたん》部付き将校だったころの癖が銀行家に再発したのだ。彼の行状をここで語ることは無益なことだが、ソーミュールではひどく不道徳なことだと判断された。夫人のほうは財産を分けてもらったし、ソーミュールの家を切りまわしてゆくだけの頭はあったので、はなはだ幸せだと思った。夫のデ・グラサンの羽目をはずした不行跡で彼女の財産は大穴があいたが、その埋め合わせをするため、彼女の名義で銀行の仕事はつづけられたのである。クリュショ派の連中が、彼女の寡婦《やもめ》同然の怪しげな立場を、尾鰭《おひれ》をつけて悪く言いふらしたので、娘をひどく悪いところへ縁づけることになり、息子をウジェニー・グランデと結婚させることは諦《あきら》めなければならなかった。アドルフはパリで父のデ・グラサンといっしょになったが、噂《うわさ》によれば、たいへんな不良になったという。クリュショ一家が勝利を占めたのだった。
「あんたの主人は分別がない」と、グランデは担保つきでデ・グラサン夫人に金を貸してやりながら言った、「奥さんはたいへんおきのどくだ。あんたはいいかただのにね」
「でもねえ、グランデさん」と、哀れな夫人は答えた、「あなたの家からパリヘ出かけたあの日が、身をもちくずす初めになろうとはだれが思いましょう」
「天に誓って申し上げますがね、奥さん。このわしは最後の最後まで、パリヘお出かけにならないようにとお引き留めに手をつくしたんですよ、裁判所長さんがどんなことをしても代わりに行きたいと言っておられたんですからね。でも、御主人があんなに行きたいとおっしゃっていられたわけが、今になってわかりましたよ」
こうして、グランデはデ・グラサンになにひとつ負い目がなくなったのである。
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五 家族の悲しみ
どんな場合にも、女というものは男よりも多く苦悩の原因をもっていて、男より苦しむことが多い。男には力があり、その権力をふるうことができる。行動し、前進し、没頭し、思考し、将来を見て取り、そこに慰めを見いだす。まさに、シャルルがそうだった。しかし、女というものはひとつ所にじっとしていて、どうにも紛らしようのない悲しみと顔をつきあわせたままである。悲しみが掘った深い淵《ふち》の底までおりて、その深さをはかり、しばしば祈願や涙でその深みを満たす。ウジェニーがそうだった。彼女は自分の運命をはっきりさとっていた。感じ、愛し、苦しみ、自分をささげる、それが女の一生の道の常なのだろう。ウジェニーもやはり一人まえの女にちがいなかったが、ただ慰めとなるものを欠いていた。彼女の幸福は、ボシュエ〔一六二七〜一七〇四、フランスの文学者、神学者。雄弁家としても有名で、『世界史論』『新教諸教会変遷史』などの著書がある〕の高尚な表現にしたがえば、壁のあちらこちらに打ちこまれた釘《くぎ》のようなもので、いつか寄せ集めてみても、掌《てのひら》いっぱいにもなるはずのないものである。悲しみというものは、決して人を待たせないもので、ウジェニーのところへも間もなくそれはやってきた。シャルルが出発した翌日、グランデ家はだれの目にも元通りの姿にかえったように見えた。だがウジェニーにとっては別で、家の中がにわかにがらんとなってしまった。父には知らせずに、彼女はシャルルの部屋は、彼が残していったままにしておきたいと思った。グランデ夫人もナノンも、すすんでこの現状維持《スタス・クオ》の共犯者となった。
「私たちが思っているよりも早く帰っていらっしゃるかもしれなくてよ」と、ウジェニーは言った。
「ほんとに早くお目にかかりたいものですよ」と、ナノンが答えた、「私はすっかりあのかたにおなじみになりましてね。ほんにおやさしく、ほんにりっぱなおかたでした。娘みたいにおきれいで、髪をちぢらして」
ウジェニーはじっとナノンの顔を見つめた。
「あれまあ、お嬢さま、魂の抜けたようなお眼をなさって! そんなふうに人を見ないでくださいまし」
この日以来、グランデ嬢の美しさは、新しい特徴をおびてきた。彼女の魂にゆっくりにじみこんでゆく真剣な恋心と、愛される女のもつ威厳とが、画家たちが後光で表わす一種の輝きを、彼女の顔だちにあたえた。従兄弟《いとこ》が来るまえには、ウジェニーは受胎前の聖処女マリアにたとえることができた。しかしシャルルが立ち去った後では、聖母マリアに似かよっていた。恋を受胎したからである。このふたりのマリアはずいぶん違いがあって、スペインの画家たちはじつに巧みに描きあらわしているが、それこそキリスト教の世界に豊富に見られる最も輝かしい絵姿のひとつである。シャルルが出発した翌日、日参の誓いを立てて行ったミサの帰りに、町の書店で世界地図を買ってくると、居間の鏡のそばに釘《くぎ》でつるした。東インド諸国に向かった従兄弟の船路のあとをたどるためだった。従兄弟をはこんでゆく船に夜となく昼となくわが身も乗りこんだ気になり、彼の顔を見ながらあれこれとたずねかけ、こんなふうに言ってみたいためである。
「お元気ですの? 気分が悪いんじゃありません? あのお星さまをごらんになりながら、私のことをよく考えてくださる? 以前、あのお星さまの美しさやそれを利用する方法を教えてくださいましたわね」
それから、朝のうちは、胡桃《くるみ》の木陰で、虫食いだらけで灰色の苔《こけ》むしたベンチに腰をおろし、じっと物思いにふけるのだった。そのベンチは、ふたりがかずかずの楽しいこと、たわいのないことを語りあい、ふたりのかわいらしい家庭について、空中に楼閣を築くような夢想をしたところだった。彼女は、壁で仕切られた狭い視野から空を見上げては未来を思い、そしてまた古びた石壁や、シャルルの部屋の上の屋根に眼をうつすのだった。つまりそれは、孤独な恋、根強い真実の恋、どんな物思いのなかにもしのびこんで、古人の言葉によれば人生の素材となるような、その実質となる恋であった。
夜になって、グランデ親父《おやじ》の自称友人たちがトランプでもしにやってくると、ウジェニーは快活にふるまって、なにげないふりをした。しかし昼のあいだはずっと、母親やナノンとともにシャルルの噂《うわさ》をしていた。ナノンは、若い女主人の悩みに同情しても、老主人に対する義理を欠くことにはならないということがわかっていたので、ウジェニーに言うのだった、
「もし私にいい男があったら、きっと……地獄にでもついてゆきますよ。……どこだって……ついてゆきます。その男のためなら、身を粉にしてでも働きます。でも……そんな人はありゃしない。私はこの世の味なんて知らずに死んでゆくでしょうね。お嬢さま、あのいい年をしたコルノアイエが、あれでも親切な男なんですがね、この私を追いまわすんですよ。それが私の年金目当てでしてね。ちょうど旦那《だんな》さまのためこんでいなさるのを嗅《か》ぎつけて、お嬢さまの御機嫌をとりにやってくる連中のようなものですの。私にもそれぐらいのことはわかります。いくら塔のように肥《ふと》っていても、まだまだ細かく気がつきますからね。ところでお嬢さま、どうせ惚《ほ》れたはれたの話ではないにしても、やっぱりうれしい気持ちになりますよね」
このようにして二か月が過ぎた。以前はあれほど単調だった家庭生活は、三人の女をいっそう親密な仲に結びつけている秘密についての果てしもない関心によって活気をおびてきた。彼女らにとっては、その広間の灰色の天井の下に、いまなおシャルルが暮らし、行ったり来たりしているのだった。夜となく昼となく、ウジェニーは例の化粧箱をあけて、叔母の肖像にながめいった。ある日曜日の朝、肖像の目鼻だちにシャルルの面影を一心に捜しもとめているところを、母親に見つかってしまった。グランデ夫人はそのときはじめて、旅にいるシャルルがウジェニーの財宝とそれとを交換した恐ろしい秘密を知らされた。
「みんなあげてしまったのね」と、母親はびっくりして言った、「お父さまにどう言うつもりなの、元日《がんじつ》にお父さまが金貨をお見せとおっしゃったとき」
ウジェニーの眼がすわった。ふたりの女は、その日の午前中を、ほとんど死ぬような恐怖のうちに過ごした。荘厳ミサヘ行くのも忘れてしまうほど取り乱し、やっと兵士のためのミサにまにあうしまつだった。
あと三日で、一八一九年は終わろうとしていた。あと三日たてば、ある恐ろしい事件が始まろうとしていたのだ。毒薬や短剣や流血こそないが、登場人物に関するかぎり、有名なアトレウス一家〔ギリシア神話中のミュケナイ王アトレウスを祖先とする一家。子供のアガメムノン、その弟のメネラオス等が、数々の血なまぐさい悲惨な事件をくりかえした〕に起こったあらゆる惨劇《さんげき》よりもはるかに残酷な、町人悲劇が始まるはずだった。
「どうなることだろうね、私たちは?」グランデ夫人は編物を膝《ひざ》の上において、娘に言った。
哀れな母親は、二か月このかた心配ごとが多くて、自分の冬着に必要な毛糸の袖《そで》がいまだに編みあがらなかった。よそ目には、いたってささいなこの家庭内の出来事が、彼女にとって悲しい結果を生みだすことになる。夫の恐ろしい怒りのために汗をかいて、ひどい風邪《かぜ》をひくのだが、それはこの袖がないためであった。
「ねえおまえ、私は考えたんですがね、もしおまえが秘密を私に打ち明けてくれたら、パリのデ・グラサンさんに手紙を書く暇があったろうに、とね。あの人なら、おまえの金貨と同じような金貨を送りとどけてくださることができたでしょうにね。お父さまがいくらよくおまえの金貨を御存じでも、おそらく……」
「でも、そんなにたくさんのお金がどこにありまして?」
「私の財産を抵当に入れてね。それに、デ・グラサンさんならきっと……」
「もう暇がないわ」と、ウジェニーはいつもと調子の変わった低い声で母親の言葉をさえぎった、「明日の朝には、新年の御挨拶に、お父さまのお部屋へ行かなければならないじゃありませんか」
「でもね、おまえ、クリュショさんたちに会いにいってみたらどうだろうね?」
「だめ、だめ、そんなことをすればこの私をあの人たちに引き渡すようなことになって、あの人たちの思うようにされてしまうわ。それに、私は決心がついているの。私、いいことをしたのだし、なにも後悔していません。神さまのお守りがありますわ。神さまの聖なる思召《おぼしめ》しが成就《じょうじゅ》いたしますように。ああ、もしお母さんがシャルルさんのお手紙をお読みになったとしたら、きっとあのかたのことしかお考えにならないにちがいないわ」
その翌日、一八二〇年の一月一日、眼の前にせまった恐怖にとらわれた母と娘は、あまりの恐《こわ》さに、グランデの部屋へ正式に行かなくてもすむ、ごく自然な口実を思いついた。一八一九年から一八二〇年にかけての冬は、その当時での最も厳しい冬のひとつだった。雪が屋根に山のように積もっていた。
グランデ夫人は、夫が部屋で動く気配を聞きつけるとすぐ話しかけた、
「あなた、ナノンに言いつけて、私の部屋に少し火をたかせてくださいませんか。とてもひどい寒さで、お布団《ふとん》の中にいても凍えてしまいそうですわ。私はもうからだをいたわらなければならない年齢《とし》になりましたのね。それに」と、夫人はちょっとまをおいてから言葉をつづけた、「ウジェニーもこちらへ来て着替えをするでしょうから。こんな時期に、あの子の部屋で着替えをすれば、かわいそうに病気になってしまうかもしれませんわ。それから、広間の火のそばで、新年の御挨拶をいたしますわ」
「おっ、と、と、と、なんとよく舌がまわることだ。新年早々、どうしたのだい、グランデの奥さん? おまえがそんなにおしゃべりしたことはこれまでになかったことだ。ぶどう酒につけたパンを食べたわけじゃあるまいにね、おそらく」
しばらく沈黙がつづいた。
「よろしい、それじゃ」おそらく細君の申し出に納得がいったのだろう、老人は言葉をつづけて、「おまえの言うようにしてあげよう、グランデの奥さんや。おまえはほんとによい女房だし、それに、いくらラ・ベルテリエール家の連中が総じてセメントのように(頑丈《がんじょう》にできているにしても、おまえがまだ年齢《とし》の満期のこないうちに、困ったことになってもらいたくないからな。な、そうじゃないか?」それからちょっと間《ま》をおいてから、大声で言った、「結局、あの家の遺産をついだのだから、まあ大目に見ることにするさ」
そう言って咳《せき》をした。
「今朝はまた陽気ですのね、あなた」と、哀れな女はゆっくり言った。
「いつだって陽気さ、わしは。……
[#ここから1字下げ]
陽気な、陽気な、樽屋さん、
たらいをうまくなおしておくれ!」
[#ここで字下げ終わり]
こうつけたしながら着替えをすますと、妻の部屋にはいってきた。
「なるほど、ちくしょうめ、なんとしてもこれはひどく寒いわい。ところで、今朝は御馳走だよ、おまえ。デ・グラサンが松露《しょうろ》入りの鵞鳥《がちょう》の肝《きも》のパイを送ってくれたのだ! わしは乗合馬車の駅まで、取りに行ってくるよ。ウジェニーにやるナポレオン金貨もいっしょにきているはずだからな」と、妻の耳もとまできて言った、「わしはもう金貨は一枚もないのだよ、おまえ。おまえだから話すが、古い金貨がいくらかまだあるにはあったが、商売のためともなれば手放さなければならなかったのでな」
それから、元日の祝いを言おうとして、妻の額《ひたい》に接吻した。
「ウジェニーや」と、やさしい母親は叫んだ、「お父さまは、いったいどんな寝かたをなさったんだろうね。今朝はとても御気嫌《ごきげん》がいいんだよ。――まあ、これならなんとかうまくゆくかもしれないわよ」
「いったい、どうなさったんでしょうね、旦那さまは?」火をたきに女主人の部屋へはいってきながらナノンも言った、「まず、私にこうおっしゃったんですよ、『お早よう、新年おめでとう、太っちょさん! 家内が寒がっているから、あれの部屋へ火を入れておくれ』って。そして私に手をさしだして、傷ひとつついていない六フラン銀貨を一枚くださったときには、私はぽかんとしてお顔をみてしまいました。ほら、これです奥さま、ごらんくださいまし。ほんとに、いいおかたで。やっぱり、りっぱなおかたです。世間には、年齢《とし》をとればとるほど因業《いんごう》になる人がいるもんですが、旦那さまは、奥さまのお造りになるすぐり酒のように甘くおなりだ。前よりもよくおなりだ。ほんに申し分のない、親切なおかたで……」
こうした上機嫌の秘密は、グランデの投機が完全に成功したことにあった。デ・グラサン氏は、例のオランダ商人が振り出した手形十五万フランを割り引いてやったので、グランデにその手数料の貸しがあったし、年利十万フランの国債の購入に必要な金が足りなかったのを立て替えた分もあって、そのふたつを国債の半期の利子から差し引いた残り、三万フランを銀貨で、駅馬車便で送ってきたのだった。そのうえ、国債の値上がりも知らせてきていた。それによると時価八十九フランで、この一月末には、九十二フランで有名な金融業が買いに出るということである。そこで、グランデはここ二か月以来、一割二分の儲《もう》けを得ていたが、会計の計算をしてみると、今後六か月ごとに、税金とか諸払いなどを払う必要がなくて五万フランずつ受け取ることになるのだった。田舎の人は、国債への投資というと、手のつけられないほどいやな顔を見せるが、グランデはやっと国債というものがわかった。五年後には、大した苦労をせずに、六百万フランに膨《ふく》れあがった金の持主になり、それに所有地の地価を加えたなら、巨大な財産になるということがわかった。ナノンに与えた六フランは、おそらく、彼女が知らずに主人に尽くした限りない働きに対する報酬だったのであろう。
「おや、おや! いったいグランデ親父《おやじ》はどこへ行くんだろう? 朝っぱらから、まるで火事場へ駆けつけるように走って」店の戸をあけかかった商人たちはこう言うのだった。
やがて、膨らんだ袋を手押車につんではこんでくる駅馬車会社の配達人を従えて河岸からもどってくるグランデの姿を見かけると、
「水はいつも川へ流れこむ。爺《じい》さんはお金に向かって走る、というわけだな」ひとりが言った。
「パリからも、フロアフォンからも、オランダからも、金はやってくるのさ!」と、ほかの者が言った。
「いまにソーミュールを買いとってしまうな」と、三人目の男が叫んだ。
「寒さなんかにかまわずに、いつだって仕事なんだよ、あの人は」と、ひとりの細君が亭主に言った。
「もし、もし、グランデさん。お困りのようなら、お手伝いいたしますよ」と、すぐ隣のラシャ商人が声をかけた。
「なあに、みんな銅貨でな」と、ぶどう作りは応じた。
「銀貨だよ」と、配達人が低い声で言った。
「心付けが欲しいなら、口にしっかり轡《くつわ》をはめておくんだよ」老人は戸口をあけながら、配達人に言った。
≪おや、古狐《ふるぎつね》め。つんぼとばかり思っていたが、寒いおりにはよく聞こえるとみえる≫と、配達人は思った。
「ほら、お年玉の二十スーだ。よけいなことはしゃべるな! さあ、帰った、帰った!」と、グランデは言った、「ナノンが車は返しにゆく」
「ナノンや、紅《べに》ひわたちはミサにいったのかい?」
「さようです、旦那さま」
「さあ、急げ! 仕事だ」と、叫びながら、袋を背負わせた。
たちまちのうちに銀貨は老人の部屋へはこびこまれ、老人はそこにとじこもった。
「朝食の用意ができたら、壁をこつこつたたいてくれ。それから車は駅馬車屋へ返しておいてくれ」
十時になってやっとみんなは朝の食事をとった。
「このぶんだと、お父さまもおまえの金貨を見せてくれとおっしゃらないかもしれないね」グランデ夫人は、ミサからもどると娘に言った、「それに、寒くてたまらないふりをしたらいいよ。そうすれば、おまえのお誕生の日までには、まだ日があるから、金貨は元通りにためられるかもしれないし……」
グランデは、パリからの銀貨をさっそくに良貨の金貨に取り替えることや、国債の投機事業がとてもうまくいっていることを考えながら、階段をおりた。こうして、国債の相場が百フランに達するまでは、いろいろの収入をそっくり投資することに肚《はら》をきめた。ウジェニーにとっては致命的な考えである。
彼ははいってゆくと、さっそくふたりからの新年の挨拶をうけた。娘は首にとびついて甘え、グランデ夫人は重々しく、もったいぶってお祝いの言葉をのべた。
「よし、よし、ウジェニー」と、グランデは娘の両|頬《ほお》に接吻して言った、「わしはおまえのために働いているのだ、わかるかい?……おまえのしあわせを願っているんだよ。しあわせになるには金が必要だ。金がなければ、なにもかも駄目《だめ》だ。さあ、新しいナポレオン金貨をやるよ。パリから取り寄せたのだ。いまいましい話だが、うちには金《きん》なぞ一粒もないからな。金をもっているのはおまえだけなんだ。おまえの金貨を見せておくれ、娘や」
「でも、寒くてたまらないわ。お食事にしましょうよ」と、ウジェニーは答えた。
「では、後でな。そのほうがみんなの消化《こなれ》にいいだろう。この御馳走もあのデ・グラサンの太っちょが送ってくれたのだ」と、彼は言葉をついで、「だから、おまえたち、おあがり。一文もかかっておらんからな。うまくやってくれるよ、デ・グラサンは。わしもあれには満足してるよ。抜け目のない古狸《ふるだぬき》みたいなやつだが、シャルルのためにもよくやってくれる、しかもただでな。あのかわいそうな死んだ弟の後始末もとてもうまくやってくれているんだ。――うーん、うーん」しばらくしてから、口いっぱいにほおばって、うなった、「こりゃうまい! おまえもお食べ! 少なくとも二日分の栄養がつくぞ」
「私、お腹《なか》がすいていませんの。よく御存じのように、病身なものですから」
「うーん、なんだって! 少しぐらい詰めこんだって、腹の裂ける心配なんかありゃしない。おまえもラ・ベルテリエール家の生まれだ、頑丈な女じゃないか。もっとも顔色がちょっと黄色いようだが、わしは黄色は好きなんだ」
死刑囚が公衆の面前で不名誉な死を待っているときの気持ちよりも、グランデ夫人とその娘が、この一家の朝食のけりをつけるはずの出来事を待っているほうが、おそらくもっと恐ろしいものだったろう。ぶどう作りの老人が陽気にしゃべったり食べたりすればするほど、ふたりの女の心はいっそうしめつけられるのだった。けれども、娘のほうはこんな情況でも心のささえがあった。自分の恋から力を汲《く》みとっていたのである。
≪あの人のためなら、あの人のためなら、なんど死んだってかまやしないわ≫と思った。
こうした考えから、彼女は勇気に燃える眼差《まなざ》しを母親のほうへ投げかけるのだった。
「みんな片づけておくれ」と、グランデは、十一時ごろ食事がすむと、ナノンに言った、「だが、テーブルはそのままにしておくんだ。そのほうがおまえの小さな宝を見るのに楽だからな」と、ウジェニーの顔を見ながら言った、「小さな、いや、そうじゃない。おまえのもっているのは、額面だけの値打ちだって、五千九百五十九フラン、それに今朝の四十フランを加えれば六千に一フラン足りないだけだ。よろしい! わしが、このわしがちょうどになるように一フラン出してやろう。というわけはな、お嬢ちゃん……おい、なんだって立ち聞きしているんだ、ナノン、さっさと行かんか。仕事にとりかかるんだよ」と、老人は言った。
ナノンは姿を消した。
「いいかね、ウジェニー。おまえの金貨をもらわなくちゃならんのだ。お父ちゃんの言うことをいやだとは言うまいな、お嬢ちゃん、どうだね?」
ふたりの女は黙っていた。
「わしにはもう金貨はないのだ、わしには。まえにはもっていたが、今はもうないのだよ。おまえにリーヴルで六千フラン返してあげよう。そしてわしのこれから言うようにおまえは投資するのだ。もう婚礼の祝儀《しゅうぎ》のことなど考えなくたっていい。おまえを嫁入らすときにはな、それももう間《ま》もないことだが、この地方では聞いたことのないほどりっぱな祝儀をおまえにくれるようなお婿《むこ》さんを、わしが見つけてあげるよ。だから、よくお聞き、お嬢ちゃん。今はとてもよい機会なんだ、それで、おまえの六千フランを政府《おかみ》に預け入れるといいのだ。そうすれば、半年ごとに二百フラン近くの利子がはいってくる。それには税金もかからなけりゃ、諸掛りもいらず、雹《ひょう》や霜《しも》や潮《しお》や、収入のじゃまになるものはなにひとつないというわけだ。おそらくおまえは金貨と別れるのはいやだろうな、え、お嬢ちゃん? まあ、とにかく金貨をもっておいで。オランダのやら、ポルトガルのやら、ムガールのルーピーやら、ジェノアのやらを、またおまえに集めてあげるよ。そのうち、おまえのお祝いのたびにわしが金貨をあげるのだし、三年もすれば、おまえのかわいらしいちょっとした宝の半分ぐらいはもどってくるよ。どうだね、お嬢ちゃん? 顔をあげて。さあ、行ってもっておいで、あのかわいいものを。こうやって、お金が生きるか死ぬかという秘密を教えてあげるのだから、おまえのお父さんの目の上に接吻でもしなけりゃいけないね。まったく、お金というものは、人間みたいに生きていて、動きまわるものなんだ。行ったり来たり、汗水流したり、子供を産んだりするものなんだよ」
ウジェニーは立ちあがった。しかし、ドアのほうへ二、三歩行ってから、ふいに向きなおると、父の顔をまともに見つめて言った、
「|私の《ヽヽ》金貨はもうありません」
「もう金貨はないんだって!」グランデは叫ぶなり、十歩ぐらいの所で発射された加農《カノン》砲の音を聞いた馬のように、その場に棒立ちになった。
「はい、もうありません」
「なんかの思い違いだろう、ウジェニー」
「いいえ」
「ちくしょう、たしかにそうなのか!」
樽屋がこう口汚なく罵《ののし》ると、床板がびりびりとふるえた。
「あらまあ、たいへん! 奥さまが真蒼《まっさお》におなりで」と、ナノンが叫んだ。
「あなた、あんまりお怒りになると、私は死んでしまいますよ」と、哀れな女が言った。
「おっ、と、と、と。この家でおまえを死なせてたまるか!――おい、ウジェニー、おまえの金貨をどうしたんだ?」と、詰めよりながら叫んだ。
「お父さま」と言って、娘はグランデ夫人の膝《ひざ》にすがりながら言った、「お母さまはとてもかげんがおわるいのですよ。ごらんなさい、お母さまを殺さないで」
さっきまで、あんなに黄色かった妻の顔色が蒼《あお》ざめてしまっているのを見て、グランデはぎょっとした。
「ナノンや、横になるのを手伝っておくれ」と、母親はかぼそい声で言った、「死にそうだわ」
すぐさまナノンは女主人に腕をかし、ウジェニーも同じように手をかしたが、夫人の部屋まで連れて上がるのは、なかなかの苦労だった。階段を上がる一段一段ごとにくずれおちそうになるからだった。グランデはひとり階下にのこったけれども、しばらくして彼は、七、八段上がってきて叫んだ、
「ウジェニー、お母さんが横になったら、おまえはおりてくるんだぞ」
「はい、お父さま」
母親を安心させてから、じきにおりてきた。
「さあ、おまえ、宝をどこへやったか、言うんだ」
「お父さま、私の自由にできないような贈り物をくださったのなら、これを受け取ってください」ウジェニーは冷やかに答えながら、暖炉|棚《だな》の上から先ほどのナポレオン金貨を取り上げて、父親にさしだした。
グランデはさっとナポレオン金貨をつかむとポケットにすべりこませた。
「これからはもうおまえにはなんにもやらないからな。これっぽちもな!」と、親指の爪《つめ》を前歯にあてて鳴らしながら言った、「いったい父親をばかにしているんだな。父親を信用できないというんだな。じゃ父親というものがどういうものか、おまえは知らないんだな。父親はおまえにとっていちばん大切なものだ、さもなけりゃ、そんなものは父親でもなんでもない。さあ、宝はどこだ?」
「お父さま、いくらお怒りになっても、私はお父さまを好きだし、尊敬もしています。でも、たいへん生意気なようですけれど、私も二十三歳になっております。お父さまもこれまでたびたび、おまえももう成年だぞ、忘れるな、とおっしゃったじゃありませんか。私のお金は、私の好きなことに使いました。確かなところへ預けてありますので、御安心くださいまし……」
「どこだ?」
「それは犯すことのできない秘密ですわ。お父さまは秘密をおもちではありませんの?」
「わしは一家の主《あるじ》だ。そのわしに仕事があって悪いかね?」
「これだって私の仕事ですわ」
「父親にもいえないようなら、それはよくない仕事にきまってる。グランデのお嬢さん」
「とてもすばらしい仕事ですわ。お父さまにだって言えません」
「せめてこれだけは言っておくれ。いつあの金貨を出したのだ?」
ウジェニーは頭を横にふった。
「誕生日には、まだ手もとにあったろう、え?」
父親が貪欲《どんよく》のためにずるいように、ウジェニーも恋のために悪賢くなっていて、またも頭を横にふった。
「まったく、こんな強情なやつも、こんな泥棒も見たことがないぞ」グランデの声はだんだんと強音となって、しだいに家じゅうに響きわたった。
「なんということだ! ここで、このわしの家の中で、だれかがおまえの金貨をとってゆくなんて! しかも家じゅうで、あれだけしかなかった金貨をだ! そいつをだれだかわしが知らんときている! 金貨というものは貴重なものだ。どんな堅い娘でも間違いをすることはある、なにか知らんが人にくれてやることはあるだろうさ。大貴族の家庭には、いや町方の家にだってそういうことはある。だが金貨をひとにくれてやるなんてことは。なぜって、おまえはだれかにやってしまったんだろう、そうだろう?」
ウジェニーは眉《まゆ》ひとつ動かさなかった。
「こんな娘は見たことがないわい。おまえのお父さんはわしではないのか? 預けたのなら、受取があるだろう……」
「私がいいと思ったことに使うのは自由でしょう? それとも自由じゃないのですか? あれは私のものではありませんでしたの?」
「だが、おまえはまだ子供だ」
「成年になっています」
娘の理窟《りくつ》に肝《きも》をつぶしたグランデは、顔を蒼《あお》くして、地団駄をふみ、罵《ののし》りわめいた。やがて、やっと言葉をみつけると、叫びたてた、
「蛇《へび》のような腹黒娘め! ああ、出来そこないめ、わしにかわいがられていることを知って、うまくつけあがりやがる。父親の身代《しんだい》をつぶしてしまう女だ! ちくしょう、あのモロッコ革《がわ》の長靴をはいているくせに、はだしの乞食野郎めの足もとに、わしたちの財産を投げてやってしまったんだろう。ちくしょうめ、どんなにしたっておまえを廃嫡《はいちゃく》にすることはできないんだ、残念なことにはな! だが、おまえを呪《のろ》ってやる、おまえを、おまえの従兄弟《いとこ》を、おまえたちの子供を! そんなことでは、これからなにひとついいことはないぞ、わかったか? もしも、そいつがシャルルだったら、……いいや、とんでもない。そんなことがあるはずはない。なんだと……あの性悪《しょうわる》のお洒落《しゃれ》がわしのものをかっぱらったと……」
娘を見すえたが、娘は黙って冷然とかまえていた。
「身動きひとつしやがらん、眉毛一本動かしやがらん。わしがグランデである以上にグランデらしい娘だ。少なくとも、ただで金貨をくれてやってしまったんじゃあるまいな。さあ、なんとか言ってごらん」
ウジェニーは父親の顔を見つめた。その皮肉な眼差《まなざ》しが、グランデの気にさわった。
「ウジェニー、おまえはわしの家に、おまえの父親の家にいるんだぞ。ずっとここにいるのなら、父親の命令に従わなければならん。神父さんからも、私の言うことをきくように言われているだろう」
ウジェニーは頭をたれた。
「おまえは、わしのいちばん大切なもののことで、わしに腹をたたせたのだから、素直に言うことをきかないかぎり、おまえの顔を見たくない。さっさと自分の部屋へ行け。出てきてもいいとわしが言うまで、そこにひきこもっていろ。ナノンがパンと水をはこんでゆく。わかったな、さあ、歩け!」
ウジェニーはわっと泣きだして、母親のそばへ逃げていった。
グランデは、雪の積もった庭の中を、寒さも気づかずにぐるぐるなんどもまわってから、娘は妻のところにいるにちがいないと思った。そこで、よし、自分の言いつけにそむいている現場をおさえてやろうと、猫のように身軽に階段を駆け上がり、グランデ夫人の部屋へ姿を現わした。そのとき、夫人はその胸に顔を埋《うず》めているウジェニーの髪をそっとなでてやっているところだった。
「もう気を静めなさい、ウジェニー。お父さまもいまに機嫌《きげん》をおなおしになるから」
「もう父親なんていないんだ」と、樽屋は言った、「おい、奥さん、おまえとわしかい、そこにいるような親不幸な娘を育てたのは? りっぱな教育さ、とりわけ信心が大切という教育はな。ところで、おまえは自分の部屋にいないじゃないか。さあ、行った、牢屋《ろうや》だ、牢屋だ、お嬢さん」
「あなたは私から娘を取り上げるのですか」グランデ夫人はそう言って、熱で赤くなった顔をあげた。
「離したくないのなら、いっしょに連れてゆくがいい。ふたりとも家からとっとと出てゆけ。ちくしょう、金貨はどこだ、金貨はどうなったのだ?」
ウジェニーは立ちあがって、父親に誇らしげな視線を投げつけると、自分の部屋へはいっていった。老人は鍵をかけた。
「ナノン、広間の火を消せ」と、グランデは叫んだ。
それから妻の部屋の暖炉の片隅にある肱掛《ひじか》け椅子に腰をおろしながら言った。
「あのみじめな女たらしのシャルルにでもやってしまったんだろう。あいつはわしたちの金だけが目当てだったのだ」
グランデ夫人は、娘がおびやかされている危険を感じ、娘をかわいそうに思い、気力をふるいおこして、見たところ冷淡な、口もろくにきかない、耳もかさないといった態度をとった。
「私はそういうことはなにも存じませんでした」そう夫人は答えて、夫のぎらぎらする眼差《まなざ》しを避けようとして、壁のほうを向いた。「あなたがあんまり乱暴なふるまいをなさるんで、私はとても胸が苦しいのです。どうやら虫の知らせでは、私は自分の足で立ってこの部屋を出られそうにありません。こんなときぐらい、せめていたわってくださってもいいじゃありませんか、あなた。私はこれまで一度もあなたに辛い思いをさせたことはないと、少なくとも私はそう思っています。あなたの娘はあなたを愛しています。私はあの子は生まれたばかりの子供のように罪はないと信じていますのよ。だからあの子を苦しめないでください。あの足止めの罰は取り消してやってください。寒さがとても厳しいのですから、重い病気にでもかかるかもしれませんわ」
「会いもしないし、話しもしてやらない。この父親に納得がゆくまでは、パンと水だけで部屋にひきこもっているのだ。ちくしょう、一家の主《あるじ》たるものが家の金貨の行方《ゆくえ》を知らないでどうする。あれのもっていたルーピー金貨は、どうかするとフランスにはあれしかなかったかもしれないものだぞ。それにジェノア金貨やオランダ金貨や……」
「あなた、ウジェニーは私たちのただひとりの子ですよ。たとえ、金貨を川に投げこんだにしろ……」
「川へだと?」と、老人は大声をあげた、「川へだと? 気でも狂ったんだな、グランデの奥さん。知ってのとおり、わしがいったん口に出したからには、あとへはひかん。家の中を穏やかにしたいと思うなら、娘に白状させろ、鎌《かま》をかけて引き出せ。こんなことはわしらより女どうしのほうがうまく話がつくというものだ。あいつがなにをしでかしたにせよ、まさか取って食いはしない。わしが恐《こわ》いのかな? あいつが従兄弟《いとこ》の頭のてっぺんから足の先まで金ぴかずくめにしてやったにしろ、いまごろは海のまっただなかだ、そうだろう、追っかけてゆくわけにはいかん……」
「それでは、あなた……」
神経の発作《ほっさ》でたかぶっていたのか、それとも娘の不幸のせいで情愛も知恵も深くなったためか、グランデ夫人はちょうど答えようとしたとき、敏感にも、夫の鼻の瘤《こぶ》が恐ろしい動きをしているのに気づいた。それで、考えは変えたが、声の調子はそのまま変えないで、
「それでは、あなたは、私のほうがあなた以上にあの子に力がふるえるとでも、おっしゃるんですか。あの子は私にはなにも言いませんでしたよ、あなたそっくりですよ」
「なになに、今朝はばかによく舌がまわるんだな! おっ、と、と、と、おまえはわしを鼻先であしらうんだな。きっとあいつと示し合わせているんだろう」
彼は細君をじっと見すえた。
「ほんとうに、あなた、もし私を殺そうとなさるなら、その調子でおつづけになるだけでたくさんですわ。私はきっぱり申し上げます、たとえ命にかかわろうと、くりかえして申します。あなたの娘への仕打ちは間違っています。あの子のほうがあなたよりもずっと道理をわきまえています。あのお金はあの子のものでした。あの子はそれをいいことに使っただけのことですわ。それに私たちのすることの善悪を見分ける権利は神さまだけのものですわ。あなた、ごしょうですから、ウジェニーをゆるしてやってください。……そうすれば、あなたの御立腹のせいで受けた私の胸の痛みもやわらぎますわ。おそらく命も助かるでしょう。娘を、どうぞ、娘を返してください」
「わしは退散するとしよう。わしの家だがとても守りきれない。母親と娘が理窟《りくつ》をこねて、その話しぶりときたら、まるで……ぶるるる! たまらん! ひどいお年玉をくれたものだ。ウジェニー」と、彼は大声をあげた、「そうだ、そうだ、泣くがいいわい! おまえは自分のしたことがもとで、後悔するぞ、いいかな。三か月に六回も聖体をいただく信心が、いったいなんの役にたつんだ。もうなにもくれてやるものがなくなりゃ、おまえの心までもしゃぶろうというのらくら者に、父親の金をないしょでやってしまうような娘だ。モロッコ革《がわ》の長靴なんかはいて、虫も殺さんような顔をしているけれど、おまえのあのシャルルがどんな値打ちの男か、いまにおまえにもわかるだろうさ。心もなければ魂もないやつだ。哀れな娘の宝を親たちの承諾もなくさらってゆくやつだからな」
表の道に面した戸口がしまると、ウジェニーは部屋から出て母親のそばへやってきた。
「私のためにずいぶん勇気をだしてくださったのね」と、言った。
「ごらん、おまえ、間違ったことをすると、私たちがどんなことになるか。……おまえは私に嘘《うそ》をつかせたんだからね」
「ほんとうに私、私だけ罰してくださいといって、神さまにお願いしますわ」
「ほんとでございますか」ナノンが驚いたようすでやってきて言った、「お嬢さまがこれからずっとパンと水だけでお暮らしになるというのは」
「それがどうしたのよ、ナノン?」ウジェニーは落ち着きはらって言った。
「まあ! うちのお嬢さまがバターもつけずにパンだけ召し上がるというのに、私がフリップを食べるなんてことはできることじゃありません。いいえ、とんでもない」
「そんなことひと言もしゃべるんじゃないよ」とウジェニーが言った。
「口に蓋《ふた》をしておきましょう。でも、今にわかります、見ててください」
グランデは、二十四年このかた初めてひとりで夕食を食べた。
「やもめ暮らしでございますね、旦那さま」と、ナノンが言った、「おうちにはおふたりの女のかたがありながら、やもめ暮らしというのはあんまり楽しくありませんね」
「おまえなんかに口をきいていやしない。頤《あご》をしめておけ、さもないと追い出してしまうぞ。かまどで煮《に》えているのが聞こえるか、鍋《なべ》には何がはいっているんだい?」
「脂《あぶら》をとかしていますんで……」
「今晩はお客があるから、火をたいておくようにな」
クリュショ一家と、デ・グラサン夫人とその息子らが八時にやってきたが、グランデ夫人も娘も姿を見せないのにびっくりした。
「家内はちょっとかげんを悪くしましてな。ウジェニーはそばについているようなしだいで」と、老ぶどう作りは答えたが、その顔にはいささかも感情を表わしていなかった。
意味もない世間話が一時間ほどつづいたころ、グランデ夫人を見舞いにいったデ・グラサン夫人がおりてきたので、みんなは、
「いかがです、奥さんは?」ときいた。
「およろしくないですよ、ほんとうに。あの容態ではとても心配ですわ。あの年齢《とし》ごろでは、いちばん用心しなければなりませんよ、グランデのお父さま」
「ようすを見ましょう」ぶどう作りはなにかに気をとられているような調子で答えた。
一同は彼に暇《いとま》をつげた。クリュショ家の者が通りへ出ると、デ・グラサン夫人が話しかけて、
「グランデさんの家には、なにか変わったことがあるんですよ。奥さんのようすはとてもよくないんですよ。ただ御自分ではそうお思いになっていないだけで。お嬢さんのほうは、長いこと泣きとおしたあとのように、眼を真赤《まっか》になさっていましてね。無理やりに結婚でもさせるつもりでしょうかね?」
ぶどう作りが寝てしまうと、ナノンが上履《うわばき》の音を忍ばせてウジェニーのところへやってきて、鍋《なべ》でつくった例の肉入りパイを出した。
「さあ、お嬢さま」と、気のいい女中は言った、「コルノアイエが兎《うさぎ》を一匹くれましたので。お嬢さまはほんとに少食ですから、このパイならたっぷり一週間はもちますよ。それにこの凍えるような寒さですから、いたむ心配はありません。まずまず、パンだけですごさなくてすみます。ほんとにからだにはよくないことですからね」
「まあ、ナノン」と、ウジェニーは女中の手を握って言った。
「ほんに上手に、ほんにおいしくつくりましたよ。|あのかた《ヽヽヽヽ》は少しもお気づきではございませんでした。脂《あぶら》も月桂樹の葉も、みんな私の六フランで買ってきました。だれにもとやかく言わせはしませんよ」
そして、女中は逃げるようにして出ていった、グランデの足音を聞いたような気がしたので。
数か月のあいだ、ぶどう作りは、日によって時刻はまちまちだったが、ちょいちょい妻のところに顔を出した。しかし、娘の名はひと言も口にせず、顔も見ようとはせず、娘のことをそれとなくにおわせるようなこともしなかった。グランデ夫人は部屋から一歩も離れず、容態は日に日に悪くなっていった。が、樽屋あがりの老人は、なんとしても譲ろうとはしなかった。花崗岩《かこうがん》の柱のように揺《ゆる》がず、ざらざらして、冷たかった。習慣どおりに行ったり来たりしつづけていたが、しかし、もう吃《ども》らなくなり、口数が少なく、仕事のことではこれまでよりもさらに冷酷な態度を見せるようになった。そのくせ、計算をちょいちょい間違うようなことがあった。
「グランデのところでは、なにかがあったぞ」と、クリュショ派もデ・グラサン派も言っていた。
「グランデ家には、いったい何がおこったんだろうね?」ソーミュールの町では、どこの夜の集まりでもいつもきまってこういう質問が出るのだった。
ウジェニーはナノンに連れられて礼拝に行くのだった。教会堂を出てくるとき、デ・グラサン夫人に、なにかと話しかけられることがあったが、彼女はお茶をにごすやり方で、相手の好奇心を満足させてやらなかった。そうはいっても、二か月もたてば、クリュショ家の三人に対しても、デ・グラサン夫人に対しても、ウジェニーの蟄居《ちっきょ》の秘密をかくしおおすことは不可能だった。いつも姿を見せないのでは、時には言い逃れの口実もみつからない場合もある。やがて、だれが秘密をもらしたということもなく、グランデのお嬢さんは、父親の命令で、元日から、火もなく、パンと水だけで部屋にとじこめられている、ナノンが別に食物をつくって、夜分にはこんでゆく、ということが、町じゅうの人に知れわたった。そして父親が留守のあいだのときにしか、母親に会うことも看護することもできないということも知れわたった。
こうして、グランデの行為はてきびしく批判された。町じゅうが、彼をいわば追放者あつかいにし、これまでの彼の裏切りや冷酷なやり口や無情な行為を思いだした。彼が通りかかると、みんなはこそこそささやきながら、後指《うしろゆび》をさすしまつだった。
ウジェニーがナノンに連れられて、ミサや夕ベの祈りに出かけるために、曲がりくねった道をおりていくと、通りの住民たちはみんな窓べに寄って、金持の跡取り娘の態度とか、天使のような物悲しさとやさしさのうかんでいる顔を、好奇の眼でつくづくと見まもるのだった。
自分のとじこめられていることも、父親の不興をかっていることも、ウジェニーにはなんでもなかった。世界地図や小さいベンチや、庭や、石壁を見ていられるではないか。愛の口づけが残していった蜜《みつ》のような甘みを唇《くちびる》に味わいかえすことができるではないか。しばらくのあいだ、彼女は自分が町の人々の噂《うわさ》の種になっていることを、父親が知らなかったようにまったく知らなかった。信心が厚く、神の前に清らかな彼女は、その良心と恋心とに助けられて、父親の怒りや復讐《ふくしゅう》にがまんづよく堪えていた。だが、ひとつの深い苦悩が、ほかのすべての苦悩を抑えつけてしまった。やさしくて情愛深い彼女の母親、墓場に近づくにつれて魂から発する輝きでますます美しくなった母親が、日ましに衰えてゆくのである。ゆるやかに、残忍に母をむしばんでゆく病の思いがけぬ原因が自分であることについて、しばしばウジェニーは自分を責めたてた。この悔恨《かいこん》の念は、母親になだめられはしたが、かえっていっそう彼女を強く恋に結びつけた。毎朝、父親が家を出てゆくと、母親の枕もとへ行くのだった。そこへ、ナノンが朝の食事をもってくる。だがウジェニーは、母の苦しみに悲しく苦しくなって、哀れにも、無言の身ぶりでナノンに母の顔をさし示して泣くばかりで、自分から従兄弟《いとこ》の名を口に出す元気はなかった。やむなく、グランデ夫人のほうから言いだすのだった、
「今ごろは、|あの人《ヽヽヽ》どこだろうね? なぜあの人は手紙をくれないんだろうね?」
母も娘も、距離のことを全然知らなかった。
「お母さま、心の中で考えて、口には出さないでおきましょう」と、ウジェニーは答えた、「お母さまは苦しんでいらっしゃるんですもの、すべてに先立ってお母さまのことよ」
|すべて《ヽヽヽ》というのは、|あの人《ヽヽヽ》のことだった。
「私はね」と、グランデ夫人は言うのだった、「すこしも命に未練はありませんよ。神さまが私を守ってくださって、苦しい生涯の終わりを、喜んで迎えることができるようにしてくださっているのですから」
この女の言葉はいつも聖《きよ》らかで信心ぶかかった。夫が彼女のそばで朝食をとるようなとき、部屋の中をぶらぶら歩きだしたりすると、最初の一、二か月のあいだだけであったが、彼女はいつも同じ言葉をくりかえすのだった。天使のようにやさしくはあるが、死期がせまって一生のあいだもてなかった勇気を初めて与えられた女の示す確固たる調子で言うのだった。
「あなた、私の容態を気にかけてくださってほんとうにありがたく思いますわ」彼がごくありふれた見舞いの言葉を口にすると、彼女はいつもこう答えるのだった、「でも、私の最後の時を辛いものにしないで、私の苦しみをやわらげてくださるおつもりなら、私たちの娘にやさしくしてやってください。信仰のある人らしく、夫らしく、父親らしくしてくださいまし」
この言葉を耳にすると、グランデは寝台のそばに腰をおろして、ちょうど、俄雨《にわかあめ》にあった男が軒《のき》下に悠々《ゆうゆう》と雨宿りするような態度をみせる。黙って妻の言葉を聞き、ひと言も答えない。このうえもなく悲痛な、このうえもなく情愛の深い、このうえもなく敬虔《けいけん》な嘆願をさしむけられても、
「今日は、少し顔色がよくないな、おまえ」と、言うのだった。
娘のことを完全に忘れてしまっているらしいようすが、砂岩のような額《ひたい》にも、きりっと結んだ唇にも刻みこまれていた。いつもほとんど変わりのない彼のとりとめもない返事を聞いて、妻の蒼白《あおじろ》い顔には涙が流れるのだが、それにも、全然、心を動かしはしなかった。
「神さまがあなたをおゆるしくださいますように、私がいくらでもあなたをゆるしてあげていますように。いつかは、あなたにも神さまのお慈悲が必要になってくることでしょう」
妻が病気になってこのかた、例のいやらしい「おっ、と、と、と」は使わなくなったが、やはり彼の暴君のようなふるまいは、顔に咲きでた心の美しさに追いやられて、顔だちのよくなかったところが日に日に消えていった妻の天使のような柔和さにも、やわらぐことはなかった。
夫人はまったく魂そのものだった。生まれつきの祈りの心が、顔だちのいちばんごつごつしたところを清らかにし、やわらげて、顔を輝かしいものにしたように思われた。魂の日々の習慣は、世にも粗野な目鼻だちの顔にも、崇高で清浄な精神の高揚による特別な生気を刻みつけることによって、そのとげとげしい線を消しさってしまうものだが、そうした聖徒の顔に見られるような変化の現象は、だれでも気づくことだろう。この女の肉体を痩《や》せ衰えさせてゆく苦悩によってなされたそうした変化を目にしては、さすがに青銅のような性質の樽屋あがりの老人も、かすかではあったが、影響されずにはいられなかった。それにしても言葉づかいが横柄でなくなったというだけのことで、一家の長としての威厳を保つために冷然として口をきかない態度を日常におしとおした。
彼の忠実なナノンが市場に姿を現わすと、主人に対する嘲笑《ちょうしょう》や悪口が不意に耳をかすめることがよくあった。しかし、いかに世間の評判がグランデ親父《おやじ》をとがめだてようと、女中は胸を張って主家をかばうのだった。
「そりゃね」と、老人の悪口をいう者にむかって言う、「だれだって年齢《とし》をとれば頑固《がんこ》になろうじゃないか。あの人が少しばかりかたくなになったって、どうしていけないのさ。嘘《うそ》ばかりつかないでおくれ。お嬢さんは女王さまのようにお暮らしだよ。そりゃひとりでお暮らしになっているが、自分が好きでそうなさっているんだよ。それにうちの御主人さまがたには、やむをえないわけがおありなんだよ」
春の終わりのある晩のこと、病気よりもむしろ悲しみのためにいっそう胸をさいなまれていたグランデ夫人は、いくらお祈りしても、ウジェニーとその父親を仲直りさせることができなかったので、人知れぬ苦しみをクリュショ家の人たちにひそかに打ち明けた。
「二十三にもなる娘さんに、パンと水だけをあてがっておくとは……」と、ボンフォン裁判所長は叫んだ、「しかも動機もなしに。だがそれは不法虐待罪を構成しますな。当人ハコレニ異議ヲ申シ立ツルコトヲ得、コレニ関シ、コレニ対シ、同ジク……」
「さあ、おまえ」と、公証人が言った、「そんな裁判所のわけのわからん言葉はやめておくれ。安心してください、奥さん、明日からでも、そんな座敷牢《ざしきろう》はやめにさせますから」
自分のことの話が聞こえてきたので、ウジェニーは部屋から出てきた。
「皆さま」と、気品のある身のこなしで進みながら言った、「どうぞこんどのことにつきましてはおかまいくださいませんように。父はこの家の主《あるじ》です。私がこの家に住んでいるかぎり、父の言うことに従わなければなりません。父のふるまいは世間の人たちから善《よ》し悪《あ》しを言われるすじあいのものではありません。神さまにだけ申し開きがたちさえすればよろしいのです。このことにつきましては、どこまでも秘密にしておいてくださるように、ぜひともお願いいたします。父を非難することは、私たちが世間から受けている尊敬を傷つけることになりますわ。私のことをいろいろ気にかけてくださいまして、それは心から感謝いたします。けれども、町にひろがっているひどい噂《うわさ》をもみ消してくださいますなら、なおのことありがたく思います。そんな噂のことを、耳にしましたので」
「この子の言うことはもっともでございます」と、グランデ夫人が言った。
「お嬢さん、世間の者がとやかく言うのを封じるいちばんよい方法は、あなたを自由の身にしてさしあげることですよ」と、老公証人はうやうやしく答えた。とじこもった生活や愁《うれ》いや恋の思いがウジェニーの顔に刻みこんだ美しさに心を打たれて。
「それでは、ウジェニー、うまく処理してくださるというのだから、クリュショさんにこのことはお任せしたらどうかね。このかたはお父さんをよく御存じなのだし、どう扱えばよいかもよく心得ていらっしゃるんだよ。私はもうこの先長くはないけれども、その短いあいだだけで私のうれしい顔を見たいと思うなら、どんなことをしてでも、お父さまと仲直りをしておくれ」
その翌日、グランデはウジェニーの蟄居《ちっきょ》以来の習慣どおりに、裏の小庭を何回もぐるぐるまわった。彼はこの散歩を、ウジェニーが髪の手入れをする時刻にするのだった。太い胡桃《くるみ》の木のところへくると、その木の幹のうしろへ隠れて、しばらくのあいだ、娘の長い髪の毛をじっとながめる。頑固《がんこ》な性格と、娘を抱きしめたいという望みとが、それぞれに思いつかせるいろいろな考えに思い迷っているのにちがいない。
彼はしばしば朽ち木のベンチに腰をおろしてじっとしていた。それはシャルルとウジェニーが永遠の愛を誓いあったベンチであって、父がそこにいるときには、ウジェニーのほうもこっそり父を見まもったり、鏡に映る姿を見たりするのだった。父がまた立ちあがって歩きはじめると、彼女は気をきかせて窓べに腰をかけ、とてもきれいな花のしだれている石垣のあたりをながめるのだった。石垣の割れ目からは、孔雀《くじゃく》シダや昼顔やベンケイソウがはえていた。このベンケイソウは、ソーミュールやツールのぶどう園にはふんだんにあるもので、黄や白の花をつける葉の厚い草だった。
六月のある天気のいい日に、クリュショ公証人が朝早くやってくると、老ぶどう作りは例の小さいベンチに腰かけて、隣家との境の壁に背をもたせかけ、一心に娘のほうをながめていた。
「何か御用ですかな、クリュショ先生」と、公証人の姿を目にすると、彼は声をかけた。
「ちょっと用事があってきましたよ」
「ああ、銀貨と引き替えてくださる金貨が少しは手にはいりましたかな?」
「いやいや、お金のことではなくて、お嬢さんのウジェニーさんのことでしてな。町じゅうの者がお嬢さんとあんたの噂でもちきりですよ」
「いらぬお世話じゃないかな。炭焼きもわが家では主《あるじ》ですからな」
「ごもっとも。でも、炭焼きは自殺するのも自由、いや、悪くすると、自分の金を窓から捨てるのも自由ですな」
「なんですかな、それは?」
「いえなに、ところで、奥さんはとてもお悪いんですな。ベルジュラン先生に診察してもらわなくちゃいけますまい、奥さんは今にも危ないというのだから。然《しか》るべき手当てもせずにもしものことがあれば、あんたもおだやかな気持ちではいられますまい」
「おっ、と、と、と。あんたは家内の容態がどうだってことは御存じだ。だが、医者なんてものは、いったん家の中に足を踏みこんだら最後、一日に五度も六度もやってくるんですからな」
「結局のところ、グランデさん、あんたの思うようになさるんですな。私たちは古くからの友達同士の間柄ですわ、ソーミュールじゅうのどこにだって、この私ほどあんたのことを気にかけている男はいやしませんぜ。だから、そんなことを言っておかなくちゃならなかったわけだ。いまはもう、あんたは子供じゃあるまいし、どんな結果になろうとも、どうふるまったらいいか御存じなんだ、そうでしょう。それに私は、そんな用件でやってきたわけじゃない。あんたにとっては、おそらくもっと重大な問題かもしれない。要するに、あんたは奥さんを死なせたくない、奥さんはあんたにとってとても役にたつかたですからな。考えてもみてください、もし奥さんが亡《な》くなられたら、あんたは、娘さんに対してどんな立場になるかということを。あんたは奥さんと財産を共有にしているのだから、ウジェニーさんに共有財産を報告する義務がある。お嬢さんはあんたの財産の分割を要求し、フロアフォンの地所を売りに出させる権利がありますぞ。つまり、娘さんは母親の財産を相続するが、あんたは継ぐわけにはいかないというわけです」
こうした言葉に、老人はまるで雷に打たれたようであった。商売のことに通じているほどには法律に明るくない老人は、競売のことなど、ぜんぜん考えていなかった。
「だから、お嬢さんにもっとやさしくしてあげたほうがいいですな」と、クリュショは話をむすんだ。
「だが、あれがどんなことをしたとお思いかな、クリュショさん」
「なんですか?」公証人はグランデ親父《おやじ》の打明け話も聞きたいし、いざこざの原因も知りたかった。
「金貨をやってしまったんですぞ」
「ああ、それはお嬢さんのものだったんじゃありませんか?」
「みんながきまってそれを言う!」老人は悲劇役者のような身振りで、両腕をたれた。
「そんな些細《ささい》なことで」と、クリュショは言った、「奥さんが亡くなられたときに、娘さんに頼みこもうという権利譲渡を、自分のほうから邪魔しようとなさるんですか」
「おやおや、六千フランもの金貨を、些細なことだと言われるのか?」
「いいですかな、もしウジェニーさんが要求されるとすれば、奥さんの相続財産の目録作成と遺産分与に、どのくらいの費用がかかるか御存じですか?」
「どれほど?」
「二十万か三十万、おそらく四十万ほどですかな。ほんとうの価格を知るためには、競売にかけて売却しなければならない、あなたがたのあいだで話合いがつかなければね……」
「とんでもないことだ」と、ぶどう作りは蒼《あお》くなって腰をおろして、大声を出した、「考えてみよう、クリュショさん」
しばらくのあいだ、口をききたくないのか、それとも苦悶《くもん》のためか、老人はじっとしていたが、やがて公証人の顔をじっと見つめながら、
「世の中はまったく辛いものだわい! ずいぶん苦しいことがありますな。クリュショさん」と、彼はいかめしい調子で言葉をついだ、「まさか、あんたはこのわしをだましているんじゃありますまいな。あんたが今しゃべったわけのわからんことは、ちゃんと法律上の根拠があるってことを、名誉にかけて誓ってもらいますぞ。法典を見せてくだされ、わしはこの目でその法典を見たいものだ!」
「まあ、グランデさん、私が自分の仕事のことに暗いとでもおっしゃるのか?」と、公証人は答えた。
「それじゃ、やっぱりほんとうだな。してみるとわしは、娘に身ぐるみはがれ、裏切られ、殺され、骨までしゃぶられるんですな」
「娘さんが、母親の財産を継ぐ、というだけのことですよ」
「いや、子供なんてものはなんの役にたつんだ! ああ、女房はいい。幸いなことにあれは頑丈にできておる。ベルテリエール家の女だ」
「一か月ともちませんぞ」
樽屋は額《ひたい》をたたいて歩きだしたが、またもどってくると、クリュショのほうに、恐ろしい眼差しを投げかけながら、
「どうしたものだろう?」と、言った。
「ウジェニーさんは、母親の遺産相続をあっさり簡単に放棄なさるかもしれん。あんただって、まさか廃嫡《はいちゃく》なさるつもりじゃありますまい。だが、そうした種類の分与権の譲渡を受ける気なら、娘さんをひどいめにあわせないことですよ。こうして私の言っていることは、私の利益に反することです。私がどんな仕事をしなければならんか、というと、……清算、財産目録作成、売却、分与……」
「まあ考えてみましょう、よく考えてみましょう。もうその話は、それだけにしておきましょう、クリュショさん。腸《はらわた》をひっかきまわされるようだ。ところで、金貨は手にはいったかな?」
「いいや、でも古い金貨ならいくらかあります、十枚あまり。それをさしあげましょう。とにかく、ウジェニーさんと仲直りしてくださいよ。ソーミュールじゅうの者がみんなあんたの悪口でもちきっていますからな」
「ばかものどもが!」
「ところで、国債は九十九フランになっておりますよ。一生に一度くらいうれしそうな顔をみせてください」
「九十九フランだって、クリュショさん?」
「さようで」
「ほ、ほう、九十九フラン!」老人はそう言いながら、老公証人を表の戸口まで送っていった。
それから、いま聞いたばかりの話に心をかき乱されて、いても立ってもいられずに、妻の部屋へ上がっていって、こう言った、
「さあ、お母さんや、きょうは娘と一日じゅういっしょにいてもいいよ、わしはフロアフォンヘ行ってくる。ふたりでおとなしくしておいでよ。な、おまえ、きょうは、わしたちが結婚した日だ。ほら、銀貨が十枚ある、それで聖体祭の仮遷置所〔聖体を奉持した行列が道路でやすんだとき、聖体を安置させる祭壇〕でもこしらえたらいい。ずいぶんまえから、ひとつこしらえたいといっていたのだから、大いに楽しむことだ! 気を晴らして、陽気に、元気に暮らすことだ。楽しむことが第一だ」
彼は六フラン銀貨十枚を妻のベッドの上に投げだし、妻の頭をいだくと、額《ひたい》に接吻した。
「どうだね、おまえ、少しは気分がいいだろう」
「どうして、慈悲ぶかい神さまを家に迎えいれようなんて考えられるんでしょうね、娘のことを自分の心から追いだしてしまっておいでのくせに」
「おっ、と、と、と」と、老人はいやにやさしい声で言った、「そのことは考えておくことにしよう」
「ああ、ありがたい! ウジェニーや」母親はうれしさのあまり顔を上気させて叫んだ、「こちらへきて、お父さまに接吻しておあげ! 許してくださるのよ」
だが、老人は姿を消してしまった。こんがらかった考えをなんとか筋道を立てようとして、ぶどう畑のほうへ大急ぎで逃げだしていったのである。グランデはこのとき七十六歳になったばかりだった。この二年このかた、特に彼の貪欲は、人間のあらゆる根強い情熱がそうであるように、しだいに大きくなってきていた。
貪欲や野心や、なにか支配的な考えに一生をささげているような人間を仔細《しさい》に観察してみればわかるように彼の感情は、自分の情熱の象徴《しょうちょう》に特別な執着をいだいていた。金貨をながめることや、金貨を所有するということが、病的な偏執となっていた。横暴な気性もまた欲張り根性が強くなるとともに大きくなり、妻が死んだら、彼の財産のごく僅《わず》かにしろその管理を放棄するということは、彼には|自然に反する《ヽヽヽヽヽ》ことに思えるのだった。自分の財産を娘に公表し、動産と不動産をもれなく一括した財産目録を作成し、競売に付すなんてことは。……
「そんなことはわれとわが咽喉《のど》をかき切るようなものだ」ぶどうの株を調べながら、畑のまんなかで思わず大声を出した。
やっと決心がつくと、夕食時にソーミュールヘ帰ってきた。最後の息をひきとる瞬間まで、巨万の財産の管理権をしっかり握りこんで、王者らしく死ねるように、ウジェニーの前に膝《ひざ》を折り、うまくおだててまるめこんでやろうと肚《はら》を決めた。たまたま合鍵《あいかぎ》をたずさえていた老人は、妻の部屋へ行くつもりで、忍び足で階段を上がっていった。そのときちょうどウジェニーは、例の美しい小箱を母の枕《まくら》もとにもってきていた。ふたりは、グランデがいないので、シャルルの肖像を彼の母親の肖像と見くらべながら、しきりに楽しんでいた。
「額と口もとがそっくりだわ!」と、ウジェニーが言っているとき、ぶどう作りがドアをあけた。小箱の金《きん》に投げかけた夫の眼差《まなざ》しに気がつくと、グランデ夫人は大声をあげた、
「ああ、神さまお慈悲を賜わらんことを!」
老人は、眠っている子供に虎がおそいかかるように、その小箱にとびついた。
「それはいったいなんだ?」と言いながら、その宝物を取りあげると、窓ベヘ行った。
「いい金だ! 金だ!」と、彼は大声をあげた、「たくさんの金だ! 二リーヴルはある。おまえのりっぱな金貨と引き替えにシャルルはそれをくれたんだな。いったい、なぜそれを話さなかったのだ。それはいい取引きだよ、お嬢ちゃん! やっぱりわしの娘だ、見直したよ」
ウジェニーは手足がふるえていた。
「そうだろう、それはシャルルのだろう?」と、老人は言葉をつづけた。
「そうです、お父さま、私のじゃありません。その箱は大切な預り物です」
「おっ、と、と、と。あいつはおまえの財産を取り上げたんだぞ。おまえのかわいい宝を元どおりにしてくれなくちゃ」
「まあ、お父さまは?……」
老人は板金を一枚はがすためにナイフを取り出そうとしたので、その小箱を椅子の上に置かなければならなかった。ウジェニーは飛びついて取り返そうとしたが、娘と小箱との双方に眼をくばっていた樽屋は、片手をのばして、はげしく娘を押しのけたので、彼女は母親のベッドの上に倒れた。
「あなた、あなた」と、母親はベッドに起きあがって叫んだ。
グランデはナイフを抜いて、金をはがそうとした。
「お父さま」と叫んで膝《ひざ》をつくと、一歩でも老人のそばに近づこうとしてにじり寄り、ウジェニーは手をさしのべて、「お父さま、あらゆる聖徒の名にかけて、聖母マリアさまの名にかけて、十字架の上でお亡《な》くなりになったキリストさまの名にかけて、お父さまの後生にかけて、お父さま、私の命にかけて、どうかそれに手をふれないでください! その化粧箱はお父さまのものでも私のものでもありません。不幸な親戚の男のかたのもので、私は預かっているだけなのです。それは元のままでお返ししなければなりません」
「預かり物なら、なぜあんなに見ていたんだ。見るほうが触《さわ》るのより悪いぞ」
「お父さま、壊《こわ》さないでください、さもなければ私の面目はまるつぶれになってしまいます。お父さま、おわかりになって?」
「あなた、後生ですわ!」と、母親が叫んだ。
「お父さま」ウジェニーはつんざくばかりの声をあげたので、ナノンがびっくりして上がってきた。
ウジェニーは手のとどく所にあったナイフにとびついて、それで身構えた。
「そりゃなんだ?」グランデは冷やかに笑いながら、落ち着きはらって言った。
「あなた、あなた、私を殺すのですね!」と、母親は叫んだ。
「お父さま、そのナイフでちょっとでも箱の金に傷をおつけになったら、私はこれで自分を突き刺しますから。お父さまはすでにもうお母さまを死ぬほどの病気になさったのに、こんどはまた自分の娘を殺そうとなさるんですか。さあ、おやりなさい、傷には傷ですわ」
グランデはナイフを小箱にあてたまま、どうしたものかとためらいながら娘のほうを見た。
「そんなことがやれるのか、ウジェニー?」
「やりますよ、あなた」と、母親が言った。
「お嬢さまはおっしゃったとおりになさいます」と、ナノンが叫んだ、「どうか、一生に一度、ききわけてあげてくださいますように、旦那さま」
樽屋は金《きん》と娘をしぼらくのあいだかわるがわるにながめていた。グランデ夫人は気を失った。
「ほら、ごらんなさい、旦那さま、奥さまが死にそうになっていらっしゃる」と、ナノンが叫んだ。
「さあ、ウジェニー、小箱なんかのことで、いざこざはやめにしよう。ほら、もってゆけ!」樽屋は勢いこめて叫ぶと、ベッドの上へ化粧箱を投げだした。
「ナノン、おまえはベルジュラン先生を呼んでこい。――さあ、お母さん」彼は妻の手に接吻しながら、「ほら、なんでもありゃしない。わしたちは仲直りしてしまったんだから。そうだろう、お嬢ちゃん? もうバター無しのパンだけじゃない、なんでも好きなものを食べればいい。ああ、眼をあけたな。さあ、お母さんや、お母ちゃんや、お母ちゃんや、さあ、さあ。ほれ、ごらん、こうやってウジェニーに接吻してやっているよ。この子は従兄弟《いとこ》を好きなんだ。その気ならいっしょにしてやろう、その小箱も大切にしまっておくがいい。ところで、長く生きるんだよ、お母さん。さあ、ちよっとからだを動かして! いいかい、ソーミュールではこしらえられたことのないようなりっぱな仮遷置所がおまえのものになるんだよ」
「ああ、自分の妻と娘によくもこんな仕打ちができたものだ」と、グランデ夫人はかぼそい声でいった。
「もうしやしない、もう」と、樽屋は叫んだ、「いいかい、いま見せてやる」
仕事部屋へいってルイ金貨をひとつかみもってもどってくると、寝台にばらまいた。
「ほら、ウジェニー、ほら、おまえ。これはおまえたちのものだ」ルイ金貨をいじりながら言った。「さあ、陽気になっておくれ、おまえ。元気になっておくれ。おまえにはなにひとつ不自由させやしない。ウジェニーもそうじゃ。ほら百ルイの金貨だ、これはおまえにやる。まさかそれまで渡しゃしまいな、ウジェニー、え?」
グランデ夫人とその娘は、びっくりして互いに顔を見かわした。
「それは元のようにおしまいになってください、お父さま。私たちはやさしいお気持ちだけで十分です」
「そうか、そうか」と言うと、金貨をポケットにしまいこんで、「仲よく暮らそう。みんな広間へおりて、夕食を食おう。毎晩、二スー賭《か》けてロト遊びをすることにしよう。楽しく暮らそうや。どうかね、奥さん?」
「ああ、私だってそうしたいものですわ、あなたに喜んでもらえるんですもの。でも、私は起きあがれないんですよ」と、死にかけている夫人は言った。
「かわいそうなお母さん」と、樽屋は言った、「私がどんなに愛しておるか知らんだろう。ウジェニー、おまえもだ!」
彼は娘をだきしめて接吻した。
「ほんとに、いざこざのあとで、娘に接吻するのはいいものだな、お嬢ちゃん! ほら、お母ちゃん、ごらん、もう今はわしたちは一心同体だ。さあ、それは大事にしまっておきなさい。もう、なんにも心配することはない。もう二度とその箱のことは口に出さない、二度とはな」
ソーミュールでいちばん有名な医師のベルジュラン氏はまもなくやってきた。診察を終えると、グランデにむかってきっぱりと言った。奥さんの容態はとても悪い、だが精神をきわめて安静にたもち、きちっと栄養をとり、手当てに心をくばれば、あるいは秋の終わりまで、死期をのばせるかもしれないと。
「高いものにつきましょうか?」と、老人は言った、「薬もいりましょうな?」
「薬は少しでよろしい、だが、看病には手をつくさんとな」そう答えた医師は、思わずにやりと笑った。
「とにかく、ベルジュラン先生」と、グランデは言った、「先生はかたいおかただ、そうでしょう。先生を信用しますから、いつでもつごうがいいとお思いになるとき、いつでも家内を診《み》にやってきてください。どうか家内の命をもたせてやってください。これでもわしは家内をたいへん愛しているのです。よそみにはそうは見えないかもしれませんが、なにしろわしは胸におさめて、ひとりでくよくよする性質《たち》なものでして。じつは、わしには悲しいことがありましてな。弟のやつが死ぬと悲しいことが家へ舞いこんできましたのじゃ。弟のことで、パリでずいぶん金を使っております、……眼の玉がとびだすほどたくさんに。それでもまだけりがつかないんですよ。じゃ、先生、さようなら。助かるものなら家内を助けてやってください、百フランや二百フランかかってもかまやしません」
妻の遺産相続でも始まれば、それこそ自分の命取りの第一歩だというわけで、グランデは熱心に妻の健康を願った。そして呆気《あっけ》にとられている妻や娘に、どんなことにも言いなりになって愛想をふりまき、親切にしてやった。そしてウジェニーはやさしい看病のかぎりをつくしたのだった。そうしたことにもかかわらず、グランデ夫人は急速に死に近づいていった。日ごとに弱まってゆき、そうした年齢で病気にとりつかれたたいていの女が衰えてゆくように、衰えていった。秋の木の葉のように、もろくなっていった。そして、日の光に透《す》けて金色に見える木の葉のように、天国の光が彼女の顔を輝かせていた。それは彼女の一生にふさわしい死であり、きわめてキリスト教信者らしい死であった。つまり、崇高な死と言えるものではなかろうか。
一八二二年の十月、グランデ夫人の美徳と、天使のような忍従と、娘への愛が、特にきわだって発揮された。そして、ひと言も不平をもらさずに死んでいった。汚れのない小羊として天国へ召されていったが、この世のただひとつの心残りは、自分の寂しい生涯のやさしい伴侶《はんりょ》だった娘のことであって、臨終のさいの眼差《まなざ》しは、数多くの不幸を予言しているかのようであった。自分と同じように清浄潔白な小羊をただひとり、生身《なまみ》のまま皮をはぎ、宝を奪おうとする利己主義者の世間のまっただなかに残しておくことを思って、心をふるわせていた。
「ねえ、ウジェニー」と、息をひきとるまえに言った、「幸福というものは天国にしかありませんよ。いつかおまえにもわかることだろうがね」
こうして母が死んだ翌日、ウジェニーは、自分が生まれたこの家、さんざんに苦しみを味わったこの家、そして母が亡くなったばかりのこの家に、心をひかれる理由を新たに見いだした。広間のガラス窓や台木つきの椅子を見るたびに涙があふれてきた。そして、年老いた父が世にもやさしく世話をやいてくれるのを見ると、彼女は、これまで父の心を誤解していたのではないかと思った。朝食に階段をおりてゆくときには、彼女に腕をかしてくれたし、長いあいだ、お人好しともいえる目つきでながめていたりする。要するに、娘が黄金の卵ででもあるかのように、ふところであたためているのだった。
老|樽《たる》屋はすっかり人が変わってしまったようで、娘の前に出るとすっかりおろおろしているので、そんな弱気のようすを目の前に見たナノンやクリュショ家の人は、よる年波のせいだろうと考え、からだのどこかが弱ってきたのではないかと心配した。ところが、一家が喪《も》に服した日の夕食がすんだとき、はじめて、老人のそうしたふるまいの謎がとけた。その夕食はクリュショ公証人も招かれていたが、彼だけは顧客《おとくい》先のグランデの胸中を知っていたのだった。
「ウジェニーや」食卓が片づけられて、ドアが念入りにしめられたときに、彼は言いだした、「これでおまえはお母さんの遺産相続人になったわけだ。そこでわしらふたりのあいだで、ちょっと取り決めをしなけりゃならんことがある。そうですな、クリュショさん?」
「さよう」
「それは、きょうしなければならないのですか、お父さま?」
「そう、そうなんだよ、お嬢ちゃん。わしは、あいまいな状態がつづくのは、やりきれんのでな。まさかわしに気苦労をかけさせるつもりじゃなかろうな」
「まあ、お父さま」
「よろしい、今晩のうちにすっかり片づけなくちゃな」
「いったい、私にどうしろとおっしゃいますの?」
「いや、お嬢ちゃん、それは私から言うべきことじゃない。じゃ、クリュショさん、話してやってくださらんか」
「お嬢さん、あなたのお父上は、御自分の財産を分割したり、売却したり、また、お手もちの現金にかかってくる莫大《ばくだい》な税金を払ったりするようなことをしたくない、とおっしゃるわけです。そこで、そのためには、現在あなたとお父さんのあいだで共有になっている全財産の目録は、作らないですますことにしなければならない、ということになるわけでして……」
「クリュショさん、子供のまえでそんなふうに話して、そりゃ大丈夫ですかい?」
「まかせておいてください、グランデさん」
「なるほど、なるほど。まさか、あんたにしろ娘にしろ、私を身ぐるみ剥《は》いでしまおうというんじゃあるまい。そうじゃろう、お嬢ちゃん?」
「だけど、クリュショさん、私はどうすればいいんですの?」と、いらいらしてウジェニーがたずねた。
「それじゃ」と、公証人が言った、「この証書に署名していただくことになりますかな。これによって、あなたはお母さんの遺産相続を放棄なさることになり、お父さんとの共有財産のいっさいの共用益権〔一般に、他人の所有物(この場合は共有財産)を使用し収益し得る権利。虚有権はこの用益権のなくなった所有権〕をお父さんに譲られることになるわけです。一方、お父さんのほうは、虚有権をあなたに保証してくださることになりましょう……」
「あなたのおっしゃることは、私、なんにもわかりませんけれど」と、ウジェニーは答えて、「その証書を見せてくださいませ。そして、どこに署名するのか教えてくださいませ」
グランデ親父《おやじ》は、証書から娘へ、娘から証書へと、かわるがわるじっと眼差《まなざ》しを向けた。そして、はげしい感動のため額《ひたい》にうかんだ汗の玉をふいていた。
「お嬢ちゃんや」と、彼は言った、「その証書を登記するとなると、どえらい金がかかるのだから、署名するかわりに、かわいそうな死んだお母さんの相続権を、おまえがきれいさっぱりあきらめて、将来をわしにまかせてくれたら、わしはそのほうがいいのだがな。そうすれば、わしは毎月百フランという大金をおまえにやることにする。そうなりゃ、おまえはミサをあげてもらっている人々のために、好きなだけミサ料を払うことができるというものだ。……どうかね、月に百フラン、リーヴルで」
「なんでもお好きなようにいたしますわ、お父さま」
「お嬢さん」と、公証人が言った、「それは私の義務だから、ちよっと注意までに申しますが、あなたは身ぐるみ剥《は》いでまでも……」
「まあ! そんなことはなんでもありませんわ」
「おだまりよ、クリュショ君。話はきまった、きまった」グランデは叫ぶなり、娘の片手をとって、それで自分の手をたたいた。「ウジェニー、おまえはあとになって取り消すようなことはあるまいな、おまえは誠実な娘だものな、どうだね?」
「まあ、お父さま……」
グランデは真心をこめて娘に接吻して、息のつまるほど両腕でだきしめた。
「やれやれ、おまえのおかげで、わしは命びろいをしたよ。もっとも、おまえはもらったものを返したわけだがな。それでお互いに貸し借りなしだ。取引きというものはな、こんなふうにやるものさ。人生も取引きだよ。いや、感心した。おまえはりっぱな娘だ、お父さん思いだ。さあ、もういいから、好きなようにしなさい。では、クリュショさん、また明日」と、彼は呆気にとられている公証人を見ながら言った、「裁判所の書記課に出す相続権放棄の証書をととのえることは、あなたによろしくたのみますよ」
その翌日の正午ごろ、ウジェニーはその申告書の署名をすませたが、こうして自分で自分を強奪することをやってのけたのである。
ところが老樽屋は、口約束したにもかかわらず、一年たってもまだ、あんなにもったいぶって娘に約束した月百フランの金を、まだ一文も渡してなかった。それで、ウジェニーに冗談半分にそれを言われたとき、さすがに赤面せずにはいられなかった。彼は大急ぎで仕事部屋へ上がってゆき、すぐもどってくると、甥《おい》からまきあげた宝石の三分の一ほどを彼女のまえにさしだした。
「ほら、おまえ」と、皮肉たっぷりの口調で言った、「千二百フランのかわりにこれでどうだい?」
「あら、お父さま、ほんとうに、それをくださるんですの?」
「来年もまた同じくらいやるよ」と、言って、彼女のエプロンに投げこんだ。「そうすりゃ、わずかなあいだに、|あいつ《ヽヽヽ》の飾り物はそっくりおまえのものになるわけだ」とつけ加えながら、娘の気持ちにつけこんでうまくやったことがうれしくて、両手をもむのだった。
だが、まだ頑丈《がんじょう》ではあったが、老人は一家の切り回しの秘密を娘に教えこむ必要のあることを感じた。二年間ひきつづいて、目の前で、一家の献立をつくらせたり、年貢《ねんぐ》を受け取らせたりした。ぶどう園と小作地の名と広さをつぎつぎとゆっくり覚えこませた。三年めごろには欲深なやり口にすっかり慣れさせてしまい、それを実際に娘の習慣にまでしてしまったので、もうなんの心配もなく、食糧庫の鍵《かぎ》を渡し、一家の女主人に任じた。
ウジェニーとその父親の単調な生活に、べつだんこれという出来事もなく五年が過ぎ去った。それは古びた振子時計の規則正しい時の動きにつれて絶えずくりかえされる同じ行為だった。グランデ嬢の深い憂愁《ゆうしゅう》は、だれひとり知らないものはなかった。しかし、その原因はめいめい推測することはできても、この大金持の跡取り娘の心情について、ソーミュールのあらゆる社会の人々がいだいている疑念は、彼女の口から出るどんな言葉をもってしても裏打ちされはしなかった。彼女のつきあう相手はわずかにクリュショ家の三人と、彼らの仲間でいつのまにか連れてこられるようになった数人の者にすぎなかった。彼らはウジェニーにカードのホィスト遊びを教えこんで、毎晩、勝負をしにやってくるのだった。
一八二七年になると、からだの衰えを感じるようになったグランデは、やむをえず不動産の秘密を娘に教えることにした。そして、めんどうなことが起こったばあいには、公証人のクリュショに相談するように、あの男の誠実なことはよくわかっているのだから、と言うのだった。それから、その年の終わりごろ、当時八十二歳の老人は、ついに中風《ちゅうぶう》にとりつかれて病状が急速に悪くなっていった。グランデはベルジュラン先生に死の宣告をされてしまった。
ウジェニーは、まもなくこの世にひとりぼっちになってしまうのだと考えながら、いわばいっそうぴったりと父親によりそって、この最後の愛情の環《わ》をいっそう強くひきしめた。彼女の考えでは、恋するすべての女と同じように、恋こそ世界のすべてであったが、シャルルは近くにはいないのだ。年老いた父親に対しなにくれとなく世話をしたり気をつかったりする彼女の姿は気高かった。からだの能力は衰えはじめていたものの、グランデの欲張り根性は本能的に力をもちつづけていた。だからこの男の最後は、その生涯とくらべてみても特別異なるところはなかった。
朝になるとすぐに、金貨がいっぱい詰まっているにちがいない仕事部屋のドアと部屋の暖炉の間を、車椅子に乗って行ったり来たりさせる。身動きもしないでそこいらにじっとしていることもあったが、見舞い人があると、裏に鉄板を張った仕事部屋の扉と相手の顔を、心配そうにかわるがわる見まもるのだった。どんなわずかな物音でも聞きつけると、それを調べて報告させた。そして、公証人のひどく驚いたことには、飼い犬が中庭で欠伸《あくび》をするのさえ聞きわけるのだった。小作料を受け取ったり、ぶどう園の作男と勘定をしたり、あるいは領収書を出さなければならない日には、ちょうどその時刻に、見たところ昏々《こんこん》と眠っているようなのにきちんと眼をさます。そして、車輪のついた肱掛《ひじか》け椅子を動かして、仕事部屋の扉の前まで行く。娘にその扉をあけさせ、娘が自分の手でそっとひとつずつ金袋を積み上げて、また扉をしめるのを、じっと見張っている。それから、娘が貴重な鍵を返すとすぐさま黙ったまま元の場所へもどってゆく。鍵はいつもチョッキのポケットに入れてあって、時々それを手でさぐってみるのだった。
ところで、彼の旧友の公証人は、もしシャルル・グランデが帰ってこないとすると、金持の跡取り娘は甥《おい》の裁判所長と必然的に結婚することになると考えて、いっそう世話をやいたり、気をくばったりするのだった。毎日のようにグランデの指図《さしず》を受けにやってきて、その命令どおりにフロアフォンや、あちらこちらの土地や、牧草地や、ぶどう園などへ出かけていったり、収穫物を売ってやったりする。そうしていっさいのものを金貨銀貨に変えてやり、その金がひそかに袋に集められて、仕事部屋に積みこまれるのだった。
ついに断末魔の苦しみの日がおとずれた。その数日間、老人のがっしりした骨組みは破壊の手と戦った。彼は、仕事部屋の扉を前にして、暖炉のそばにじっとすわっていたがった。夜具をかけてやると、それを自分のほうに引き寄せてみんな丸めてしまい、そしてナノンにむかって、
「しまっておけ、これをしまっておけ。盗まれるといけないからな」と言った。
全生命が逃げこんでしまっているような両眼を見開いていられるようなときには、財宝が隠されている仕事部屋の扉のほうにすぐ眼を向けながら娘に言うのだった、
「あそこにみんなあるかい? みんなあるかい?」その声音《こわね》は、大恐慌にみまわれたようであった。
「ありますわ、お父さま」
「金貨を見張るんだよ。わしの前へ金貨を並べておくれ」
ウジェニーがテーブルの上にルイ金貨をひろげると、まるで物が見え始めたときの赤ん坊が同じ物をぼんやりとながめているように、何時間もルイ金貨の上に眼を釘《くぎ》づけにしていた。そして、まるで赤ん坊のように、泣きだすような微笑を浮かべるのだった。
「これで暖まるわい」と、このうえない満足の表情を顔に見せながら時おり言うのだった。
教区の司祭が終油を授けにやってきたとき、数時間まえから見たところ死んでしまっていたようだった彼の眼は、銀の十字架や燭台《しょくだい》や聖水盤を見ると、またもや生気をとりもどしてじっとそれらを見まもった。そして鼻の瘤《こぶ》がそれを最後にぴくりと動いた。司祭が金めっきをした十字架を彼の唇に近づけて、キリストの像に接吻させようとすると、恐ろしい身振りをしてそれをつかみとろうとした。この最後の努力が命とりになった。彼はウジェニーを呼んだ。彼女はすでに彼の前にひざまずいていて、はやくも冷たくなっている手を涙でぬらしていたが、もうその姿は眼にはいらなかったのである。
「お父さま、最後のお言葉で、私を祝福してくださいませ……」
「なにもかも、よく気をつけるんだよ。あの世で、また報告してもらうからな」と、彼は言ったが、この最後の言葉こそ、キリスト教は守銭奴たちの宗教でもあることを証拠だてたわけである。
ウジェニー・グランデは、こうしてこの世にひとりぼっちになって、その家に取り残された。眼差《まなざ》しひとつ投げかけるだけで気持ちが通じ、わかってもらえるという安心感がもてる相手はナノンひとりだった。ナノンこそ心から愛してくれ、心の悲しみを語りあえるただひとりの人間だった。のっぽのナノンはウジェニーにとって守護神であった。だからもう女中ではなくて、控え目な友人であった。父が死んでから、ウジェニーはクリュショ公証人から、ソーミュール郡内の不動産から年収三十万フランがあがること、六十フランで買ったのが時価七十七フランになっている三分利の国債に、六百万フランの投資がしてあること、それに加えて、未収の利子は勘定に入れなくても金貨で二百万フランと銀貨で十万フランあるということを聞かされた。彼女の財産の見積もり総額は千七百万フランにのぼるものだった。
「シャルルさんは、いったいどこにいらっしゃるのかしら?」と、彼女は心につぶやいた。
クリュショ公証人が、正確な決算ずみの相続財産報告書を渡した日に、ウジェニーはナノンとふたりだけで、ひどくがらんとした広間の暖炉の両側に向かいあって腰かけていた。母が腰をおろしていた台木つきの椅子から従兄弟《いとこ》が使っていたグラスにいたるまで、広間にあるものはみな思い出の種だった。
「ナノン、私たちふたりきりなのね」
「はい、お嬢さま。あのかたが、あのかわいい坊ちゃんがどこにおいでかわかっておれば、歩いてでもさがしにまいりますのに」
「私たちの間には海があるわ」
哀れな跡取り娘は、彼女にとって全世界であるこの冷え冷えとした薄暗い家の中で、こうして年とった召使女を相手に涙を流しているあいだに、ナントからオルレアンにかけては、グランデ嬢の千七百万フランの噂《うわさ》でもちきりだった。彼女がまずはじめになしたことは、ナノンに終身年金として千二百フラン与えたことだった。ナノンはすでに六百フランの別口をもっていたので、これで裕福な結婚相手になったのだ。一か月とたたないうちに、グランデ嬢の地所の番人頭を命じられていたアントアーヌ・コルノアイエにかたづいて、娘の身分から妻の身分に移った。コルノアイエのおかみさんは、ほかの同年輩の者にくらべると、はるかに多くのとりえがあった。五十九歳にもなっていたのに、四十以上には見えなかった。ごつごつした顔だちが、よる年波を押し返してしまっていた。修道女の生活のような食養生のおかげで、顔の血色もよく、鉄のように健康で、老年など鼻先であしらうしまつだった。おそらく、結婚の当日ほど元気だったことはこれまでなかったことだろう。彼女は醜女《しこめ》ゆえの利益をいろいろとうけたし、どんなことにも壊《こわ》れそうもない頑丈《がんじょう》一方の顔だちに幸福そうな表情を浮かべて、肥《ふと》って脂《あぶら》ぎってたくましい姿であらわれた。そのようすを見て、なかにはコルノアイエの幸運を羨《うらや》む者もいた。
「血色がいいな」と、ラシャ屋が言った。
「いくらでも子供ができるぞ」と、塩商人が言った、「まるで塩水《ソーミュール》に漬《つ》けておいたように、もちがいいぞ、こう言っちゃなんだが」
「なにしろ金持だからな、コルノアイエのやつ、うまくやりやがったな」別の近所の男が言った。
隣近所のみんなから好かれていたナノンは、古い屋敷を出て、町の教会へ行くために、曲がりくねった道をおりてゆく途中、人々から祝いの言葉ばかりを受けた。
ウジェニーは、結婚の祝いに三ダースの食器類を贈った。そのあまりのすばらしさにびっくりしたコルノアイエは、女主人のこととなると、眼に涙を浮かべて話すのだった。彼女のためには、わが身を切り刻まれてもいとわなかったにちがいない。ウジェニーの腹心の相談相手になったので、コルノアイエのおかみさんは、それ以後、亭主をもったしあわせにも等しいしあわせを味わった。ついに彼女は、亡《な》くなった主人がしたように、食糧庫を自由にあけたりしめたり、朝になると食糧をわける役についたのである。そのうえ、料理女と、家の者の下着類のつくろいやお嬢さんの衣装をつくる役の小間使とのふたりの召使を監督することになった。コルノアイエは番人と管理人との役を兼任した。ナノンが選んだ料理女と小間使が、まったく真珠のような申し分のない女であったことは言うまでもない。こうして、グランデ嬢は、限りない忠勤をはげむ四人の奉公人をもった。小作人たちは、老人の死んだことに気づかなかった。それほど老人の土地管理は厳重にしきたりや習慣ができあがっていて、それを念入りにコルノアイエ夫婦が引き継いでいたのである。
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六 これが世のならい
三十歳になったが、ウジェニーはまだ人生の幸福をなにひとつ知らなかった。彼女の蒼白《あおじろ》く物悲しい少女時代は、いつも気持ちを誤解され、傷つけられて苦しんでいた母親のかたわらで過ぎたのだった。この世を喜んで去っていったその母親は、この先生きてゆかなければならない娘を不憫《ふびん》がり、娘の心に、軽い良心の苛責《かしゃく》と消えることのない思慕の情を残していった。初めての、しかもただ一度のウジェニーの恋も、彼女にとっては、ただ憂愁《ゆうしゅう》の種となっただけである。数日のあいだ恋人の顔を見ただけで、ひそかにやりとりした二度の接吻のあいだに心をささげてしまったが、やがて彼は、ふたりのあいだに広い世界をへだてて、出ていってしまった。
父親に呪《のろ》われたこの恋は、彼女にとってはほとんど母親の命と引き替えにしたものであり、ただはかない希望のいりまじった苦悩をひきおこすだけだった。こうしてこのときまで、彼女は幸福に向かって飛び立ちながら、引き替えるものもなく、ただ力を失ってゆくだけであった。肉体的な生活と同じように精神的な生活においても、吸う息と吐く息とがある。魂にも、ほかの魂のさまざまな感情を吸収し、同化し、これをいっそう豊かにして返してやる必要がある。こうした美しい人間的な現象がなければ、人の心にはなんの生命もありはしない。空気が足りなければ、心は苦しみ、衰えてしまう。ウジェニーも苦しみはじめた。彼女には、財産はなんの力にもならなければ慰めにもなりはしなかった。恋と宗教と未来への信頼とによってしか生きてゆけなかったのだ。恋は永遠ということを解き明かしてくれた。
恋心と福音《ふくいん》書が、待ち望むべきふたつの世界をさし示してくれた。夜となく昼となくその限りないふたつの思いにひたりきったのだが、ふたつといっても、おそらく彼女にとっては、ただひとつのものであったろう。彼女は愛しながら、愛されていると信じながら、自分の心に引きこもってしまっていた。七年このかた、その恋の情熱はあらゆるものにしみわたった。彼女の宝は、利息が積もってゆく何百万フランの金ではなくて、シャルルの小箱だった。寝台のそばに掛けてあるふたつの肖像画だった。父親から買いもどしたのを、箪笥《たんす》の引出しに綿をしいて誇らかに並べてあるあの装身具だった。母の使っていた、叔母の指貫《ゆびぬき》だった。そして彼女は毎日その指貫をうやうやしく手にして刺繍《ししゅう》をするのだが、その刺繍は、思い出にみちたその金の指貫をただ指にはめたいばかりのことで、いわばペネロペの仕事〔ホメロスの『オデュッセイア』中の人物オデュッセウスの妻で、貞女として有名。二十年間夫の帰りを待った。夫の留守中、多くの求婚者をしりぞけるために、父の屍衣を織り上げたら結婚すると言って、昼間織ったのを夜のあいだにとき、はてしなく仕事をつづけた。終わることのない仕事をさす〕だった。
グランデ嬢が喪《も》に服しているあいだに結婚する気になろうなどということは、とうてい考えられないことだった。彼女の信仰深いことはよく人に知られていた。そこで、老神父にたくみに政略を指導されているクリュショ一家は、いまのところは、この跡取り娘をとりまいて、きわめて情愛のこもった世話をするだけで満足することにした。彼女の家では、毎晩、この土地の最も熱烈で献身的なクリュショ派の連中で、広間がいっぱいになるのだった。その連中は思い思いの調子でその家の女主人の賛歌をうたいあげようとするのだった。彼女には侍医があり、御用司祭があり、侍従があり、衣装担当の侍女があり、総理大臣があり、とりわけ内大臣があった。いっさいを報告する気の内大臣だった。跡取り娘が裳裾《もすそ》持ちの小姓がほしいと言えば、だれかがすぐにもひとり見つけてくれたにちがいない。まさに女王だった。しかも、どんな女王よりちやほやされる女王だった。お世辞というものは、大人物の口からは決して出ないもので、それは小才をきかす連中につきものなのだ。この連中は、強い引力で引かれる人物の生活圏にうまくはいりこもうとして、さらに小さな人間になってしまう。お世辞には裏面に利欲がかくされている。そこで、グランデ嬢の広間に毎晩集まってくる連中は、彼女のことをド・フロアフォン嬢と呼んだりして、ほめそやすことにみごとに成功した。ウジェニーにとっては耳新しいこの賛歌の合唱に、彼女は初め顔を赤らめたが、いかにそうしたお世辞が粗野なものであったにしろ、彼女は自分の美しさをほめちぎる言葉にいつのまにか慣れてしまっていて、もしだれか新来の者があって、彼女をみっともない女だとでも言おうものなら、その非難は八年前よりもはるかに強く胸にこたえたにちがいない。やがては彼女は耳に快い言葉が好きになってしまい、それを今度は自分の偶像であるシャルルの足下に、そっとささげるのだった。こうして、女王のような扱いをうけることや、自分の宮廷が、毎晩、人々でいっぱいになるのを目にすることに、しだいに慣れてしまった。
ボンフォン裁判所長が、この小さな集まりの立役者で、彼の才気や人柄や教養や、またその親切さが、絶えずほめそやされた。ある者は、彼が七年このかた、ずいぶん財産をふやしていること、ボンフォンの土地は少なくとも一万フランの年収があり、デ・クリュショ家のあらゆる財産と同じようにその土地も、跡取り娘の広大な領地にとりまかれていること、などを吹聴《ふいちょう》するのだった。
「御存じですか、お嬢さん」と、常連のひとりは言うのだった、「クリュショ家は四万フランの年収があるんですよ」
「それに貯《たくわ》えの金もあるんですよ」と、クリュショ派のひとりであるグリボークール老嬢が言葉をひきとって言った、「最近、パリのおかたがいらっしゃって、クリュショさんにその事務所を二十万フランで譲ってもらえないかと申し出されたんですよ。治安裁判所の判事にでも任命されるようでしたら、どうせお売りになったほうがよろしいのでしょうがね」
「ボンフォンさんのあとをついで裁判所長になるおつもりで、それで慎重にしていらっしゃるのですよ」と、ドルソンヴァル夫人が答えた。「なにしろ、裁判所長さまはいずれ控訴院の判事、それから院長におなりになりましょうからね。たいした手腕家なのですから、きっとおなりになりますわ」
「さよう、たいした傑物ですよ。そうお思いになりませんか、お嬢さん?」と、別の者が言うのだった。
裁判所長は、自分が演じようとする役柄にふさわしい人間になろうとして、大いに努めてきた。四十歳という年配にもかかわらず、また、大部分の裁判官の顔がそうであるように、渋紙《しぶがみ》色で、とっつきにくそうで、しなびた顔だちであったにもかかわらず、彼は若づくりをして、籐《とう》のステッキを振りまわし、ド・フロアフォン嬢のところでは決してタバコをすわず、いつも白いネクタイをつけてやってくるのだったが、そのシャツの胸飾りの襞《ひだ》が大きすぎて、七面鳥の一族と同類らしいかっこうに見えるのだった。美しい跡取り娘になれなれしく話しかけたり、「ぼくたちの親愛なるウジェニーさん」と呼びかけたりする。
要するに、以前のロト遊びがトランプのホィスト遊びに変わり、グランデ夫妻の姿が見えなくなったものの、人物の数はべつとして、舞台はこの物語が始まったときと、月日が過ぎさっただけで、ほとんど変わりがなかった。猟犬の群れはあい変わらずウジェニーと巨万の富を追いかけている。しかし以前よりも数の多くなったその群れはいっそううるさく吠《ほ》えたて、いっしょになって獲物をとりまくのだった。もしシャルルが東インド諸国の奥から帰ってくるとすれば、まえと同じ人物と同じ利害をまた見いだすことだろう。デ・グラサン夫人は、ウジェニーからきわめてやさしく親切にもてなされていたが、クリュショ家の連中を執拗《しつよう》に苦しめていた。だがそれにしても、昔と同じように、ウジェニーの姿はその場面でひときわ目立つだろうし、また昔と同じように、シャルルがまたそこで最高の座につくにちがいなかった。そうはいうものの、進歩があった。かつてウジェニーの誕生日ごとに裁判所長が贈っていた花束は、いまでは定期的になっていた。毎晩のように彼は、金持の跡取り娘のところに大きくて豪華な花束をもちこんでくる。それをコルノアイエのおかみさんがおおっぴらに花瓶《かびん》にいける。が、お客がみんな帰ってしまうとすぐに、中庭の隅へこっそりすててしまうのだった。
春の初めごろ、デ・グラサン夫人は、ド・フロアフォン侯爵のことをウジェニーに話して、クリュショ派の幸福をかきみだそうとした。もし跡取り娘が今では自分のものになっている土地を夫婦財産契約によって侯爵に返せば、没落した侯爵家も再興するだろうというのだった。デ・グラサン夫人は、貴族院の身分や侯爵夫人の称号を声高らかに吹聴《ふいちょう》したあげく、ウジェニーの軽蔑《けいべつ》したうす笑いを同意のしるしと思い違いして、クリュショ裁判所長との結婚話は、世間が思っているほど進んでいる話ではないとふれてまわった。
「ド・フロアフォンさまは五十歳になっていらっしゃるが、クリュショさんほど老《ふ》けては見えませんよ。そりゃ男やもめで子供さんもおありです。それはそうですが、侯爵さまですし、いずれ貴族院議員におなりです。いまどきこんなよい縁組みはめったにありませんよ。これは確かな話ですが、グランデ老人が自分の不動産を全部フロアフォンの領地にまとめなさったのは、フロアフォン家と接木《つぎき》するように縁組みなさるおつもりだったのですよ。よく私にそうおっしゃいましたわ。なにしろ抜け目のない人でしたからね、あの老人は」
「どうなんだろうね、ナノン」と、ある晩ウジェニーは寝しなに話しかけた、「七年のあいだ、一度もお手紙をくださらないなんて……」
こうしたことがソーミュールでおこっているあいだに、シャルルは東インド諸国でひと財産つくりあげていた。初めのころもっていった雑貨がとてもよく売れた。たちまちのうちに、六千ドルの金を手に入れた。赤道祭りのおり、彼はこれまでのさまざまな偏見をすててしまった。財産をつくるいちばん良い手段は、ヨーロッパと同じく熱帯地方でも、人間を売り買いすることだ、ということに気づいた。そこで彼は、アフリカの沿岸にいって、黒人|奴隷《どれい》の売買をやり、そのかたわら、利益につられていろいろの市場に出かけて最も有利に交換できる商品を売りさばいた。商売には寸暇《すんか》をおしんで精を出した。大金持という威光につつまれて、パリにふたたび姿を現わしたい、昔そこからすべり落ちた身分よりさらに輝かしい身分をふたたびつかみたい、という考えに支配されていたのである。
人々のあいだを縫って国々を転々と歩き、そこでそれぞれまるであべこべの風俗習慣を知ったおかげで、シャルルの考えは変化し、懐疑的になった。ある国では美徳とされることが、別の国では罪悪と非難されるのを見るにおよんで、彼は正邪についてもはや一定の観念がもてなくなった。絶え間なく利害の問題に接して、彼の心は冷やかになり、縮まり、ひからびてしまった。グランデ家の血はその宿命をあやまつことがなかった。シャルルは利益にがつがつする冷酷無情な男になった。シナ人や黒人や燕《つばめ》の巣や子供や芸人を売って、法外な大|儲《もう》けをした。関税をごまかす習慣がついて、人間のいろいろの権利など少しも気にかけなくなった。サン・トマ島〔カリブ海、小アンチーユ群島にある島〕へ出かけてゆき、海賊が略奪《りゃくだつ》してきた品物を捨て値で買いこみ、そういう品の不足している所へもちこんだ。
最初の船旅のあいだは、ウジェニーの気高い清らかな顔が、スペインの水夫たちが船首に飾るマリア像のようにつきそっていたし、最初のころの成功は、あのやさしい娘の誓いと祈りの魔法のような力のおかげだと考えたにしろ、時がたつにつれ、黒ん坊の女や、白黒あいの子の女や、白人の女や、ジャワの女や、エジプトの踊り子など、あらゆる色の女たち相手の底抜け騒ぎや、さまざまな国での冒険が、従姉妹《いとこ》やソーミュールやあの家やベンチや廊下でした接吻の思い出をきれいさっぱり消してしまった。古めかしい石垣にとりかこまれた小庭のことだけは覚えていた。というのは、彼の伸《の》るか反《そ》るかの運命がそこから始まったからである。しかし、彼は伯父の一家を親戚とは思っていなかった。伯父は、彼の装身具をかたり取ったおいぼれ犬にすぎなかった。ウジェニーは彼の頭にも胸にもなく、ただ六千フランの債権者として、取引きのことでちょっと心に残っているだけであった。こうした行状、こうした考えが、シャルル・グランデの音信不通の理由を説明してくれる。
この山師は自分の名に傷がつかぬように、東インド諸国やサン・トマ島やアフリカ沿岸やリスボン、アメリカ合衆国ではセファードという仮名を用いていた。いかなる手段を講じてもひと財産つくろうと決心し、いったん巨富を得たら足を洗って、余生をまっとうな人間として暮らそうという気だったので、カール・セファードという名でなんの危険もなく、いたるところで、執念深く大胆に貪欲《どんよく》にふるまうことができた。こうしたやり口で、財産はたちまちのうちに目ざましい額になった。そこで一八二七年に、王党派のある商会所属のきれいな二本マストの帆船マリー・カロリーヌ号に乗ってボルドーへ帰ってきた。しっかり|たが《ヽヽ》をはめた砂金の樽《たる》を三つ、百九十万フランの金高になるものをもっていて、それをパリで金貨に替えて、七、八分の利ざやをかせぐつもりだった。同じ船にシャルル十世陛下〔一七五七〜一八三六、フランスの国王。ルイ十六世、ルイ十八世の弟。七月革命で亡命し、イタリアで没した〕の侍従ドーブリオン氏も乗っていた。この人のいい老人は、社交界でもてはやされた女を妻にするというばかげたことをした男で、西インド諸国に財産をもっていた。ドーブリオン夫人の濫費《らんぴ》の穴埋めに、領地を金に替えにいっていたのだった。ドーブリオン夫妻は、最後の領主が一七八九年〔フランス革命の年〕の革命前に死んだドーブリオン・ド・ビューシュ家の出であったが、こんどの財産処分で年収は二万フランばかりに減ったうえに、かなり醜い娘がひとりあった。夫人は自分の財産だけではパリで暮らすこともむずかしかったので、娘を持参金なしで結婚させたがっていた。社交界の者は、もてはやされている女には巧みに手をさしのべてやるものだが、この縁談の企てだけはだれの眼にも成功はおぼつかなくうつった。だから、ドーブリオン夫人自身も、娘の顔を見ては、いくら貴族にあこがれている男でも、無理に押しつけるわけにはいくまいと、半ば諦《あきら》らめていた。
ドーブリオン嬢は、|お嬢さん《ドモアゼル》と同音異義の昆虫、つまりとんぼと同じようにひょろ長いお嬢さんだった。痩《や》せて、ほっそりしていて、人をばかにしたような口もとである。その口の上に、先の太い、長すぎる鼻、ふつうは黄色がかっているが、食事のあとでは完全に赤くなる鼻がたれさがっており、しかも蒼《あお》ざめて当惑したような顔のまんなかにあるので、ほかのどんなところにあるより不愉快な、植物的現象のようであった。要するに、三十八歳になっているが、まだまだ美しくて、自惚《うぬぼれ》気をもっている母親の引き立て役にはもってこいだった。しかしながら、こうした不利な点をおぎなうために、ドーブリオン侯爵夫人は、娘にきわめて上品な物腰をおぼえさせ、一時的にせよ鼻にまともな肉色の調子を保たせる摂生法をとらせ、趣味のよい身なりをととのえる術《すベ》を教えこみ、感じのいい立ち居ふるまいを身につけさせ、男の気持ちをそそるような目つき、さんざん探しまわったがどうしても見つからなかった天使にやっとめぐり会えたと思いこませるような憂愁《ゆうしゅう》にみちた目つきを教えこんだ。例の鼻が無作法にも赤くなるとたんに、すかさず足を前に出してその小さなかわいいところを感心してもらおうというわけで、足の動かし方をやってみせさえした。こうして、娘をはなはだ満足すべき結婚相手にまで仕立てた。ゆったりとした袖《そで》、人目をあざむく胴着、ふっくらして念入りに飾りをつけたドレス、胸までしめつけるコルセット、こうしたもので、じつに珍しい婦人用品をこしらえあげたのだが、これは世の母親たちへの教育に、博物館に陳列してしかるべきものであった。
シャルルはドーブリオン夫人と親交を結んだが、夫人のほうもまさしくそれを望んでいた。美人のドーブリオン夫人は、航海のあいだ、そんな金持の婿《むこ》をつかまえるためにはいかなる手段もおろそかにしなかった、と言いはる者たちさえあるほどだった。一八二七年六月、ボルドーで下船したドーブリオン夫妻とその令嬢とシャルルは、同じホテルに宿泊し、いっしょにパリヘたった。ドーブリオン邸は何重にも抵当に入れられていて、シャルルが抵当を解くことになっていた。母親は早くも、自分の家の一階を婿と娘に譲り渡すことになっているので、そのうれしさを口にしていた。貴族というものについて、ドーブリオン氏ほど偏見をいだいていない夫人は、親切なシャルル十世から勅命を賜わるようにしてあげましょうと、シャルル・グランデに約束していた。勅命が下れば、彼グランデは、ドーブリオンを名乗り、その紋章をつかい、しかも年収三万六千フランの世襲不動産を設定することによってド・ビューシュおよびドーブリオン侯爵の称号をもって、ドーブリオンの地を受け継ぐことができるわけである。両家の財産をひとつにして仲むつまじく暮らし、なにか閑職につけば、ドーブリオン邸は、十何万フランの年金を手に入れることができるだろう。
「それに、十万フランの年収があり、名前と親戚があり、宮廷へ出仕すれば、――だって、私はあなたを侍従に任命してもらうつもりですもの、なんでも望みどおりの身分になれますわ」と、夫人はシャルルに言うのだった。「ですから、選《よ》り取り見取りで、参事院の請願委員にでも知事にでも大使館書記官にでも大使にでもなれますわ。シャルル十世はドーブリオンが大好きでいらっしゃいます。ふたりは子供のときからの知り合いの仲ですわ」
この女のために野心に酔い痴《し》れたシャルルは、航海のあいだじゅう、心から心へそっと打ち明けられる内証話のように、巧妙な手練でさしだされたさまざまな希望を、撫《な》でさするように胸にいだいて楽しんでいた。父親の事件は伯父がかたをつけてくれたものと思いながら、彼はこうして不意にサン・ジェルマン郊外街に錨《いかり》をおろした。その街はだれでもがはいりたがっていたところであるが、彼はマチルド嬢の青鼻の陰に身をひそめて、かつてドルー一家がある日ブレゼ家として突然姿を現わした〔ドルー伯爵は革命のため亡命したが、王政復古によりブレゼ侯爵の領地、爵位を手に入れてブレゼ家を名乗った〕ように、ドーブリオン伯爵となってふたたび姿を見せたのである。彼が国を離れるころには不安定であった王政復古の繁栄に眩惑《げんわく》され、貴族思想の輝きにとらわれて、船上で始まった陶酔はパリに着いてもおさまらなかった。あの義理の母になる利己主義の女が垣間《かいま》見せてくれた高い地位にたどりつくためには、どんなことでもやってのけようと決意した。そうしたわけで、彼にとって従姉妹《いとこ》のことなどは、こうした輝かしい前途の見通しの中にあっては、小さな点のような存在にすぎなかった。
彼はアネットにふたたび会った。社交界の女らしく、アネットは昔の愛人に、この縁談を結ぶように熱心にすすめた。そして、野心的な彼の企てを全面的に援助すると約束した。アネットは、醜くて人をうんざりさせるような令嬢を、東インド諸国に滞在してたいへん魅力的になったシャルルと結婚させることが愉快でならなかった。シャルルの顔は栗色にそまり、態度がきびきびして大胆になっていていかにもてきぱきと人を支配し成功をおさめることに慣れた男らしくなっていた。シャルルは、パリで自分も一役演じるのだと見てとって、気楽に息をしていた。デ・グラサンは彼の帰ってきたこと、近く結婚すること、その財産を知って、三十万フランあれば彼の父親の負債を返済できることを話してやろうと思って会いにいった。シャルルはちょうど、ドーブリオン嬢への結納《ゆいのう》のための装身具を注文しておいた宝石商と、協議をしていて、商人は下絵を彼に見せていた。シャルルが東インド諸国からもってきたダイヤモンドはすばらしかったが、そのほかに細工の費用とか、銀器とか、若夫婦むきの役にたたぬのと実用的なのとの宝石類などで、すでに二十万フランを越えていた。シャルルはデ・グラサンに会ったが、もう覚えていなかった。それで、東インド諸国で、いろいろな決闘で四人の男を殺してきた社交界の寵児《ちょうじ》らしい横柄な応待ぶりだった。デ・グラサン氏のほうは、それでもう三度目の訪問だった。シャルルはよそよそしい態度で聞いていたが、やがてよくのみこみもせずに、
「親父《おやじ》の事件はぼくの事件じゃありませんからね。いろいろ御配慮をしていただきありがたいしだいですが、ぼくはその恩恵に浴するわけにはゆかない。ぼくは親父の債権者たちの頭に投げつけるために、額《ひたい》に汗してざっと二百万の金をかき集めたわけじゃないんですからね」
「では、ここ数日のうちに。お父上が破産の宣告をお受けになるとしたら、いかがなさいます?」
「ぼくは数日うちにドーブリオン伯爵という名になります。ですから、そのことはぼくには完全に無関係だということは、よくおわかりでしょう。それに、年収が十万フランある男の父親が破産するということは決してない、ということは、ぼくよりあなたのほうがよく御存じでしょう」と、つけ加えながら、デ・グラサン氏をドアのほうへ慇懃《いんぎん》に押しやった。
この年の八月の初めに、ウジェニーは従兄弟《いとこ》が永遠の愛を誓った例の小さな木のベンチに腰をおろしていた。天気のいい日には、よくそこで朝の食事をするのだった。とてもすがすがしい、とても気持ちのいい朝だったので、哀れな娘はそのとき、自分の恋の大小の出来事や、それにつづいて起こった不幸ないろいろな出来事を思い浮かべて楽しんでいた。すっかり亀裂ができて、いまにもくずれてしまいそうになってはいるものの、あのなつかしい石垣は太陽の光に照り映《は》えていた。コルノアイエは女房にむかって、いつか石垣がこわれてだれかが圧し潰《つぶ》されるぞと、しょっちゅうくりかえして言っていたけれど、気紛《きまぐ》れな跡取り娘は、その石垣には手を触れてはならないと言っていた。ちょうどそのとき、郵便配達夫が表の戸をたたいて、コルノアイエのおかみさんに一通の手紙をわたした。おかみさんは庭へやってきながら叫んだ、
「お嬢さま、お手紙です!」
そして、こう言いながら女主人にわたした、
「お待ちかねのお手紙ではございませんか?」
この言葉は、中庭や裏の庭の壁に響きわたったが、ウジェニーの心にも強く響きわたった。
「パリ! あのかたからだわ。帰っていらっしゃったのだ」
ウジェニーは蒼《あお》ざめて、しばらく手紙を見つめていた。はげしく動悸《どうき》がして、封を切ることも読むこともできなかった。のっぽのナノンは、腰に両手をあてたまま突っ立っていたが、日に焼けた顔のひびから立ちのぼる湯気のように、うれしさが立ちのぼっているようにみえた。
「さあ、読んでごらんなさいよ、お嬢さま……」
「ねえ、ナノン、どうしてパリヘお帰りになったのだろう? ソーミュールからたっておゆきになったのに」
「読んでごらんなさい、わけがわかりますよ」
ウジェニーはふるえながら手紙の封を切った。中から、ソーミュールのデ・グラサン夫人=コレ銀行支払いの為替《かわせ》が落ちた。ナノンがそれを拾った。
親愛なる従姉妹《いとこ》よ……
≪もう私をウジェニーと呼んでくださらないのだわ≫と思った。胸がつまってきた。
あなたは……
≪|きみ《ヽヽ》と呼んでくださっていたのに!≫
彼女は腕を組んだ、もう読む元気もなかった。そして大粒の涙が沸《わ》きでた。
「お亡《な》くなりになったのですか?」と、ナノンがきいた。
「そんならお手紙などお書きになれやしないわ」
彼女は以下のような手紙を読んだ。
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親愛なる従姉妹《いとこ》よ、あなたは、ぼくの事業が成功したことを知って喜んでくださることと思います。あなたがぼくに幸福をもたらしてくださったので、ぼくは金持になって帰ってきました。伯父上の御忠告を守ったのです。その伯父上と伯母上のお亡くなりになったことは、デ・グラサン氏から聞きおよびました。両親が先立つことは自然の定めです。そしてわれわれがあとを引き継ぐのが当然のことです。今はもう気を落とさずにお暮らしのことと思います。なにものも時というものには勝てないのです。ぼくもそのことを経験しました。そうなのです、親愛な従姉妹よ、ぼくにとって不幸なことには、空想にふける時期は過ぎ去ってしまったのです。これもいたしかたないことでしょう。ぼくは数多くの国々を旅しているあいだ、人生について考えをめぐらしました。出発のさいは子供でしたが、大人になって帰国したのです。今では、昔は考えてみたこともないような多くの事を考えています。あなたは自由なのです。従姉妹よ、そしてぼくもまた自由なのです。見たところ、ぼくたちの小さな計画の実現を妨げるものはなにひとつありません。しかし、ぼくは律義《りちぎ》者なので、ぼくの現在の状況を隠しておくわけにはいきません。ぼくが自分ひとりで行動できない男だということは片時も忘れたことはありません。あの長い旅路のあいだにもいつも思いだしていたことは、あの小さな木のベンチで……
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ウジェニーは真赤《まっか》な炭火の上に腰をおろしていたかのように立ちあがると、中庭の石段へ行ってすわりなおした。
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あの小さな木のベンチで、ぼくたちの永遠の愛を誓ったことでした。あの廊下、あの灰色の広間、例の屋根裏部屋のことでした。そしてあなたの細かいお心尽くしでぼくの将来をずっと楽なものにしてくださったあの晩のことでした。そうです、こうした思い出が、ぼくの勇気をささえてくれたのです。そして、ぼくは心に思ったのです。あなたはいつもぼくのことを考えていてくださるだろう、ちょうどぼくがよくあなたのことを、ふたりで取り決めた時刻のことを考えるように、と。九時に雲をしっかりごらんになりましたか? もちろん、そうでしょうね。そんなわけで、ぼくは自分にとって神聖な友情を裏切りたくはないのです。そうです、ぼくはあなたをあざむいてはならないのです。今ちょうど、ぼくには結婚話があって、それはかねてぼくがいだいていた結婚観とぴったり一致するものなのです。結婚において、恋愛などは妄想《もうそう》にすぎません。ぼくの経験は、今はぼくに告げています、結婚に当たってはあらゆる社会的法則に従うべきであり、世間のあらゆる慣習と一致すべきであると。ところで、ぼくたちのあいだに、すでに年齢の相違〔ウジェニーのほうが一歳上〕があります。それはおそらく、ぼくの将来よりも、むしろあなたの将来に影響がありましょう。パリ生活にまったくふさわしくなく、ぼくの今後の計画とはきっと合致しない、あなたの風習や教育や習慣などについては、ぼくもいまは申し上げますまい。大邸宅をかまえ、大勢の人々に出入りしてもらうこともぼくの計画にありますが、ぼくの記憶するところでは、あなたは穏やかな静かな生活が好きなかたでしたね。いや、もっと率直に申し上げましょう、そしてあなたにぼくの立場の審判者になってもらいたいのです。あなたはぼくの立場を知る義務があり、それを判断する権利があります。今日ぼくは八万フランの年収があります。この財産のおかげで、ドーブリオン一家と結ばれ、その跡取りの十九歳の若い令嬢と結婚することで、ドーブリオンの名と、爵位と侍従職と、世にも輝かしい地位をもたらしてくれます。親愛なる従姉妹《いとこ》よ、白状しますが、ぼくはドーブリオンの令嬢など全然好きではない。しかし、彼女との縁組によって、ぼくは子供たちに将来はかり知れないほど有利な社会的地位を保証することができます。日に日に、王権思想が人気を取りもどしてきているのですから。そこで、何年か先には、ぼくの息子はドーブリオン侯爵になり、年収四万フランの世襲財産をもち、思いのまま国の要職につくことができましょう。われわれには自分たちの子供に対する義務があります。従姉妹よ、よくわかっていただけるでしょうか、ぼくは誠意をつくして自分の心の状態や自分の希望や財産の状態を申し述べたしだいです。七年も不在にしたのですから、ぼくたちの子供っぽい約束など、あなたのほうではお忘れになっているかもしれません。しかしぼくは、あなたの寛大な心も、ぼくの言った言葉も忘れてはいません。どんな言葉も、ごくかるい気持ちで言った言葉でも、すべて覚えています。ぼくほど良心的でない青年なら、ぼくほど若々しくもなく、ぼくほど誠実でない青年なら、考えてもみないことでしょう。打算的結婚のことしか考えていないと言いながらも、ぼくたちの子供らしい恋のことを今なお覚えていると申し上げるのは、ぼくがあなたの御意志のままに完全に従うということ、ぼくの運命はあなたにおまかせするということではないでしょうか。そしてぼくが自分の社会的野心を諦《あきら》めなければならないということになれば、あなたがあれほど感動的な姿をいろいろ見せてくださったあの素朴で純粋な幸福に、すすんで満足するものであると、申し上げることではありますまいか……
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「タン、タ、タ。――タン、タ、チ。――チン、タ、タ。――ツーン!――ツーン、タ、チ。――チン、タ、タ。……」などと『もう飛ぶまいぞ、狂い蝶《ちょう》』〔モーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』中の歌〕の曲を歌いながら、シャルル・グランデは次のように署名したのだった。
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あなたの献身的な従兄弟《いとこ》 シャルル
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「ちくしょうめ! これも浮世の義理というものだ」と、心につぶやいた。そして為替《かわせ》を捜しだして、次のようにつけ加えた。
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追伸。デ・グラサン銀行があなたに金貨で支払う八千フランの為替《かわせ》を同封いたします。御親切にお貸しくださった額の元利合計です。ぼくの永遠の感謝のしるしとして、あなたにさしあげたい品があるのですが、その箱がボルドーから着くのを待っているところです。ぼくの化粧箱は駅馬車便で、イルラン・ベルタン街ドーブリオン邸まで御返送くださいますよう
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「駅馬車便でですって!」と、ウジェニーは言った、「あのためなら千度でも命をさしあげるつもりだったのに!」
恐るべき完全な難破だった。船は希望の大海原に乗りだして、綱一本、板一枚のこさずに沈んでしまったのだ。
自分が捨てられたとなると、ある種の女たちは、恋人を恋敵《こいがたき》の腕から奪いかえそうと出かけてゆき、女を殺して世界の果てまで逃げて、絞首台や墓の中に姿を消してしまう。確かにそれは美しいことである。この罪の動機は、人間による裁きを圧する崇高な情熱である。またなかにはうなだれて黙ったまま苦しむ女たちもいる。最後の息をひきとるまで、涙を流しながら、相手を許しながら、神に祈りながら、思いだしながら、死んだようになって諦《あきら》めて生きてゆく。それこそ愛から発するものであり、真の愛、天使のような愛、自分の苦悩に生き、苦悩に死ぬ誇り高い愛である。あの恐ろしい手紙を読んだあとのウジェニーの気持ちがそうであった。彼女は、母の最後の言葉を考えながら、天をあおいだ。死んでゆくある種の者のように、彼女の母親も、未来について、深い洞察力のある明晰《めいせき》な一瞥《いちべつ》を投げかけたのである。やがてウジェニーは、この母の予言的な生と死を思い浮かべながら、自分の運命のいっさいを一目で見抜いた。もはや、天国をめざして翼をひろげ、解放の日まで祈りながら生きるほかはなかった。
「お母さまのおっしゃったとおりだわ」と、涙をうかべながら言った、「苦しむこと、そして死んでゆくことだわ」
ゆっくりした足取りで庭から広間へはいった。いつもとはちがって、廊下を通らなかった。しかし、その古びた灰色の客間にも暖炉棚にも従兄弟の思い出がのこっていた。暖炉棚の上にはいつもコーヒー皿がのっていて、それは、あの古いセーブル焼きの砂糖壺と共に、毎朝の食事のときに使っていたものである。その日の朝は、彼女にとっていろいろと事件の多い厳粛《げんしゅく》な朝だったにちがいない。ナノンが教区の司祭がきたことを知らせた。その司祭はクリュショの親戚で、ボンフォン裁判所長の利益をはかっている者であった。数日まえから、クリュショ家の老神父に説きつけられて、グランデ嬢に、結婚すべき義務について、純粋に宗教的な意義から話そうと決心していたのだった。司祭を見るとウジェニーは、貧しい人々に毎月寄進している千フランをもらいにきたのだと思って、ナノンにもってくるように言いつけた。ところが、司祭は微笑を浮かべて、
「きょうは、お嬢さま、ソーミュールの町じゅうの人たちの心配の種になっている、あるきのどくな娘さんのことで話があってまいったのです。その娘さんはわれとわが身に対する慈悲心を欠いているために、キリスト教徒らしい生き方をしていないのですよ」
「まあ、司祭さま、あいにくのことですけれど、いまはちょうど人さまのことを考えてはいられませんわ。自分のことでとても忙しいものですから。私はほんとうに不幸な身で、もう教会へおすがりするよりほかにありません。教会の広い胸にお頼《たよ》りすれば、私どものすべての悩みは受け入れていただけますし、その豊かな愛におすがりすれば、いくら汲《く》んでも汲みつくす心配はありませんもの」
「そうなんですよ、お嬢さん、いま申した娘さんのことを心配するということは、つまりお嬢さんのことを心配することになりますので。まあ、お聞きください。もしあなたが永遠の救いをお望みになるなら、行くべき道はふたつしかありません。つまり、この世を去るか、あるいは自然の掟《おきて》に従うかのふたつの道です。この世のあなたの運命に従うか、あるいは天上の運命に従うかです」
「ああ、ちょうど、どなたかにおうかがいしようと思っていたときに、あなたのお言葉がいただけましたわ。そうです、神さまがきっとあなたさまをここへおさしむけになったのですわ。私はこの世に別れをつげて、静かに世間から離れたところで、神さまだけのために生きることにします」
「そういう思いきった覚悟をなさるには、じっくり考える必要がありますな。結婚は生ですが、修道女のヴェールは死ですからな」
「そうです、死! その死をすぐに、司祭さま」恐ろしいほどはげしい調子で言った。
「死ですって! ですがお嬢さん、あなたには社会に対して果たさなければならない大きな義務がありますよ。あなたは貧しい人々に、冬には薪《たきぎ》を、夏には仕事を世話していらっしゃるが、あなたはそういう貧しい人たちの母ではありませんか? あなたのこの大変な財産はいわば借り物で返さねばならないものだし、あなたもそういう気持ちで清くお受けになったわけだ。修道院に身を埋《うず》めるなんていうことは、それは利己主義というものでありましょう。また、いつまでも独身でいるということも、やっぱりなすべきではありません。第一に、あなたひとりで莫大《ばくだい》な財産を管理してゆけましょうか? ひょっとするとみんななくしてしまうことになりかねません。やがて、際限もなく訴訟ざたがもちあがり、抜き差しならぬやっかいな問題に引きずりこまれるかもしれません。この私の言うことを信じてください、あなたには夫というものが必要なのです。あなたは、神さまがくださったものを、守らなければならないのです。私は愛する小羊に話しているように、あなたに話しているのです。あなたは神さまを真心から愛していられるのだから、この現世にあっても永遠の救いをお受けになれないはずはありません。あなたはこの世の最も美しい誉《ほま》れであり、その清らかなお手本となられるのです」
ちょうどそのとき、デ・グラサン夫人の来訪が告げられた。夫人は復讐《ふくしゅう》の念と、深い絶望にかられてやってきたのだった。
「お嬢さん」と、夫人は言った、「ああ、司祭さまもいらっしゃっているのですね。それじゃ話はやめましょう、仕事のことで話しにきたのですけれど、なにか重大なことをお話ししていらっしゃるようですから」
「いや、奥さん、私がお暇《いとま》いたしますから」
「ああ、司祭さま」と、ウジェニーが言った、「じきまたいらっしゃってください。あなたさまのお力添えが、今の私にはどうしても必要なのですから」
「そうですとも、おかわいそうに」と、デ・グラサン夫人が言った。
「なんでしょうか、それは?」と、グランデ嬢と司祭とが共にきいた。
「あなたのお従兄弟《いとこ》さんがお帰りになったことや、ドーブリオン令嬢と結婚なさるということを、私が知らなくてどうしましょう?……女というものは、決してうっかりなんかしていませんからね」
ウジェニーは顔を赤らめて、黙っていた。しかし、父親がよく、うまくやっていた何食わぬ顔つきを、自分もまねてやろうと決心した。
「そうしますと、奥さま」と、皮肉たっぷりに答えた、「私はきっとうっかりしているんでしょう、私はなにも知らないんですから。お話なさってください、司祭さまのまえでおっしゃってください。御承知のように、司祭さまは私を導いてくださるかたですから」
「では、お嬢さま、ここにデ・グラサンが書いてよこした手紙があります。どうぞお読みください」
ウジェニーは次のような手紙を読んだ。
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拝啓、シャルル・グランデは東インド諸国より帰国、一か月前からパリに滞在している。……
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「一か月も前から!」と、ウジェニーは心の中でつぶやいて、手を落としてしまった。
しばらくして、また手紙を読みだした。
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……二度も控えの間に待たされたあげく、やっと未来のドーブリオン伯爵と話をすることができた。パリじゅうにこの結婚の噂《うわさ》はひろまり、婚姻《こんいん》公示もいっさいすんだのだが……
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「では、私に手紙をくださったときには、……」と、ウジェニーは心の中で言った。
彼女はしまいまで言わなかった。パリ女のように『この女たらしめ!』とも叫ばなかった。しかし、言葉に出して言わなかっただけに、その軽蔑《けいべつ》の念はやはり強烈なものだった。
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……この結婚は成就しそうもない。ドーブリオン侯爵は破産者の息子などに令嬢をやることはあるまい。彼の伯父とこの私とが、彼の父親の事件に関していろいろと尽力したこと、しかも巧みな策で今日まで債権者たちを静かにおさえてきた事情を侯爵に知らせておいた。ところが、あの無礼きわまる青二才は、五年間というもの昼夜をわかたず彼の利益と名誉のために献身してきたこの私にむかって、『父の事件はぼくの事件ではない』と、面と向かって答えるしまつ。商事裁判の弁護士だったら、当然の権利として、債権額に対する一分の割合で三、四万フランの謝礼を要求するところだ。けれども、まずここは辛抱《しんぼう》のしどころ、とにかくあの男は法律的に百二十万フランを債権者に支払う義務がある、それで私は彼の父親に対する破産宣告の手続きをとるつもりだ。もともと、私はあの古鰐《ふるわに》のグランデの口車にのせられてこの事件に乗りだしたのだが、家名をかけて私は約束したのだ。たとえドーブリオン伯爵が自分の名誉を重んじようとしなかろうと、私の名誉は私にとってきわめて重大なことだ。だから、近く、私の立場を債権者たちに説明するつもりでいる。とはいえ、私はウジェニー嬢に対しては深く敬意をはらっているし、楽しかった昔、そなたとふたりしてウジェニーとの縁組を考えたこともあるのだから、この件に関してはそなたがウジェニー嬢に話してくれぬうちは、私は動きにくいわけで……
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そこのところで、ウジェニーは読むのをやめて、冷やかに手紙を返した。
「ありがとうございました」と、デ・グラサン夫人に言った、「いずれよく考えてみたうえで……」
「いまのお言葉は、亡《な》くなられたお父さんそっくりですわ」と、デ・グラサン夫人が言った。
「奥さま、金貨で八千フラン払っていただかなくちゃなりませんよ」と、ナノンが言った。
「そうでしたわね。すみませんが、私といっしょにきてください、コルノアイエの奥さん」
「司祭さま」と、ウジェニーはこれから言おうとしている考えから自然に生じた気高い冷静な口調で言った、「結婚して娘のままでいるということは、罪になりましょうか?」
「それは私などにはわかりかねる良心の問題でしてな。あの有名なサンチェス〔一五五〇〜一六一〇、スペインの神学者でイエズス会士〕の『婚姻全書』の中で、その問題をどんなふうに考えているか、もしお知りになりたいのなら、明日おつたえしましょう」
司祭は出ていった。グランデ嬢は父親の仕事部屋へはいっていって、昼のあいだじゅうひとりで過ごした。夕食時に、ナノンがしつこくせがんでもおりてこようとはしなかった。晩に、常連が集まるころに、姿を現わした。その夜ほどグランデ家の客間がいっぱいだったことはかつてなかった。シャルルが帰国したこと、ばかげた裏切りをしたことの噂《うわさ》は、すでに町じゅうにひろがっていた。しかし、訪問客がどんなに注意ぶかくしていても、好奇心は少しも満足させられなかった。そんなことだろうと待ちかまえていたウジェニーは、心をかき乱す残酷な感動をすこしもその落ち着いた顔にのぞかせなかった。さも悲しそうな目つきや言葉で同情を表わそうとする連中に、にこやかな笑顔で応《こた》えることができた。彼女は礼節のおおいで不幸をつつみおおすことができたのだ。
九時ごろ、勝負がすんで、賭《かけ》をしていた連中はテーブルを離れて、互いに賭金を払ったり、最後のホィストの手を論じあったりしながら、ほかの世間話に興じている一座のところに加わった。一同がこぞって立ちあがり、客間を出て行こうとしたそのときに、ソーミュールの町に、いや、さらに郡一帯に、ついにはまわりの四つの県に響きわたった一大事変がおこった。
「ちょっとお残りになってくださいませ、裁判所長さま」と、ウジェニーが、ステッキを手にしようとするボンフォン氏を見て、言葉をかけた。
この言葉に、大勢の中ではっと思わなかったものはひとりもいなかった。裁判所長は顔を蒼《あお》くして、へなへなと腰をおろしてしまった。
「所長さんに、何百万が当たるってわけなのね」と、グリボークール老嬢が言った。
「そりゃわかりきったことだ。ボンフォン裁判所長さんとグランデのお嬢さまが結婚なさるんだもの」と叫んだのはオルソンヴァル夫人。
「最高の勝負手だな」と、神父。
「まさに総ざらいの手だよ」と、公証人が言った。
各自がそれぞれ意見を述べ、それぞれ駄じゃれをとばした。だれの眼にも、台座の上の女神のように、巨万の富の上に立つ跡取り娘の姿が映った。九年まえに始まった悲劇《ドラマ》の大詰めがきたのだ。大勢のソーミュールの人の面前で、裁判所長にちょっと残ってくれと言うことは、つまり彼を夫にするつもりであることを表明したことではないか。小さな町では礼儀作法がまことに厳しく守られるものだから、この種の礼節に反した行ないは、きわめて厳粛《げんしゅく》な約束をしたことになる。
「所長さま」ウジェニーはふたりだけになると感動のこもった声で言った、「あなたが私をお気に召してくださっていることは存じています。それで、生きているあいだは自由にしてくださること、結婚によって私に対しておもちになれる権利はいっさいお口になさらないこと、このことを誓ってくださるならば、私は結婚のお約束をいたしますわ」彼がひざまずこうとするのを見て言葉をつづけて、「まあ、まだすっかり申し上げたわけではございませんわ。私はあなたをあざむくわけにはまいりません。私は心にどうしても消すことのできないひとつの感情をもっています。ですから、私が夫となるかたにささげることのできるただひとつの感情は友情なのです。夫になるかたを傷つけたくもないし、また自分の心の掟《おきて》に背《そむ》きたくもないからです。でも、その前に、たいへんな御用をしていただかなければ、結婚のお約束をしたり、私の財産をさしあげることはできませんのよ」
「どんなことでもいたすつもりです」
「ここに百五十万フランございます、所長さま」と、言って、フランス国立銀行株の百株分の証書を懐中から取り出した。「明日と言わず、今夜と言わず、即刻にパリヘおたちくださいませ。デ・グラサンさまのところへおいでになって、私の叔父の債権者のこらずの名まえをきいて、その人たちを集めて、借りた日から返済日まで五分の利息計算で元利とも、叔父の遺産に負債としてかかる金額をすっかり払ってください。そして最後に、公証人の手になる正規の金額支払証書を作成させるようにしてくださいませ。あなたは司法官でいらっしゃいますし、この件はあなた以外にお任せするかたはございません。あなたは誠実なおかたですし、信義を重んじなさるおかたです。私はお言葉を信じてそれに頼り、あなたのお名まえに守られて、この世の荒波を乗り越えたいのです。お互いに寛大な気持ちですごしましょう。もう長いあいだの知り合いで、ほとんど親戚同然ですもの。まさか私を不幸な女になぞなさらないと存じますわ」
裁判所長は、喜びと苦しさで胸を波うたせながら、金持の跡取り娘の足下にひれ伏した。
「あなたの奴隷《どれい》になりましょう!」と、言った。
「その支払証書が手にはいりましたら」冷やかな視線をちらっと投げながら言葉をついだ、「それを債権証書全部とともに、従兄弟《いとこ》のグランデのところへもっていってください。そしてこの手紙を渡してくださいませ。お帰りになったら、お約束どおりにいたしますわ」
所長は、恋の意趣ばらしに、自分はグランデ嬢をもらうことになったのだと、のみこめた。そこで、恋人同士だったふたりのあいだにすこしでも和解の気持ちがはいりこまないようにと、さっそく大急ぎに命令の実行にとりかかった。
ボンフォン氏が出てゆくと、ウジェニーは肱掛け椅子にくずれて涙にくれた。すべてが片づいたのだ。裁判所長は駅馬車に乗りこむと、翌日の夕方にはパリに着いていた。着いた日の翌日にデ・グラサンの所へいった。司法官は債権者たちを公証人役場に召集した。そこには債権証書が寄託されていたし、だれひとり召集に応じない者はなかった。いかに債権者とはいえ、認めるべき点は認めてやらなければならない。彼らは几帳面《きちょうめん》だった。そこで、ボンフォン裁判所長は、グランデ嬢の名において、債務の元金および利息を支払った。利息までも支払ったということは、当時のパリ商業界にとってきわめて驚くべき出来事のひとつだった。
支払済証書の登記もすみ、デ・グラサン氏に、奔走《ほんそう》代としてウジェニーが割り当てておいた五万フランの金を渡してしまうと、所長はドーブリオン邸へ出かけていった。するとそのとき、シャルルは義父になる人からさんざんに痛めつけられて部屋へもどったところだった。老侯爵は、ギョーム・グランデの債権者のすべてに支払いをすませないうちは、娘をやることはできないと宣告したのだった。
裁判所長はまず次のような手紙を手渡した。
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前略ごめんくださいませ。ボンフォン裁判所長さまがお引き受けくださったので、叔父さまの負債金額の支払済証書と、あなたからお送りいただきました金額の受領証とをお届けいたします。私も破産の話を耳にいたしました!……破産者の令息ではドーブリオン令嬢と結婚あそばすことも、あるいはむずかしいかと存じられます。ほんとうに、私の気性と立ち居ふるまいについてのあなたの御判断はまことに当をえたものでした。私はおそらく世の中のことはなにひとつ知らず、世間の駆け引きも慣習もわきまえませず、あなたがお望みになるような楽しみを、あなたにさしあげるようなことはとてもできますまいと存じます。あなたは社会のしきたりにしたがって、わたしたちの初恋を犠牲になさったからには、そのしきたりどおりに御幸福にお暮らしあそばせ。あなたの幸福が申し分のないものになりますために私のできることは、ただお父上さまの体面を保ってさしあげることだけです。ではごきげんよう。あなたのいつまでも変わらぬ忠実な友である従姉妹《いとこ》
ウジェニー
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公正証書を受け取ったとき、さすがにその野心家も感嘆の声を押えきれなかったが、その声を聞くと裁判所長はにやりとした。
「われわれはお互いに結婚の披露《ひろう》をすることになりますな」と、彼は言った。
「ああ、あなたがウジェニーと結婚なさるんですか。そうですか! それはぼくもうれしい。いい娘ですからね。ところで」と、彼はふいに思い当たるところがあって、「金持なんですか、彼女は?」
「グランデ嬢は」と、裁判所長はからかうような口調で答えた、「四日まえまでは千九百万フラン近くまでもっておられましたが、いまではもう千七百万しかありません」
シャルルは芒然《ぼうぜん》とした顔で相手を見つめた。
「千七……百……」
「千七百万。そうです。結婚すれば、グランデ嬢のと私のとで年収七十五万フランになります」
「あなたもぼくの従兄弟《いとこ》ということになるし」と、やや正気をとりもどしてシャルルは言った、
「ぼくたちは互いに助けあうことができますね」
「そうですね」と、所長は言って、「それから、この小箱をどうぞ。これもあなたにじかにお渡ししなければならないそうで」と、つけ加えながら、例の化粧箱がはいっている手箱を机の上においた。
「ねえ、あなた」と、ドーブリオン侯爵夫人がはいってくるなり、クリュショのほうには注意も向けずに言った、「さきほどドーブリオンが言ったことなんかちっとも気にすることはありませんよ。ショーリゥ公爵夫人になにか言われて頭がどうかしていたんですわ。くりかえして申しますが、あなたの結婚になにひとつ障害はございませんのよ……」
「なにひとつありません」と、シャルルは答えた、「父がまえに借りた三百万の金は昨日すっかり清算になりました」
「現金ですの?」
「元利とも全部です。ぼくはこれから亡《な》き父の名誉回復の手続きにとりかかるつもりです」
「なんてばかなこと!」と、婚約者の母親は叫んだ。「おや、このかたは?」夫人はクリュショを目にすると、婿《むこ》の耳もとにささやいた。
「ぼくの代理人です」と、シャルルは低い声で答えた。
侯爵夫人はボンフォン氏にばかにしたような会釈をすると、出ていった。
「早くもお役にたちましたね」と、裁判所長は帽子をとりながら言った、「では、失礼」
「ひとをばかにしてやがる、あのソーミュールの白インコめ。どてっぱらに穴をあけてやりたいもんだ」
裁判所長は帰っていった。三日後、ソーミュールに着くと、ボンフォン氏はウジェニーとの結婚を披露《ひろう》した。六か月後にはアンジェの控訴院判事に任命された。
ソーミュールを去るまえに、ウジェニーは、あんなに長らく心中大切に思っていた装身具の地金《じきん》を溶かさせ、従兄弟のよこした八千フランの金貨といっしょにして金の聖体|盒《ごう》を作らせて、かつて|あの人《ヽヽヽ》のためにあれほど神に祈った教会に寄進した。
アンジェヘ移ったものの、彼女はやはりソーミュールとのあいだを行ったり来たりしていた。彼女の夫は、政治情勢に処して献身的に働いたおかげで控訴院部長になり、さらに数年後には院長になった。議会に席を占めるために、次の総選挙をじりしりしながら待っていた。そして早くも貴族院議員の自分を渇望《かつぼう》していた。そうなったら……。
「そうなったら、国王さまと親類づきあいができるでしょう」女主人がやがて自分ものぼる高い地位についていろいろ話してやると、ナノン、のっぽのナノン、今ではソーミュールの裕福な町民であるコルノアイエ夫人は、こう言うのだった。
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七 結び
しかしながら、ボンフォン控訴院長は(彼はついにクリュショという父祖伝来の姓をやめてしまった)、野心満々たる考えをなにひとつ実現するにはいたらなかった。ソーミュール地方選出の代議土になって八日目に死んでしまったのである。
いっさいを見抜き決して誤ったとがめだてをなさらぬ神は、彼のさまざまな計算や、クリュショ公証人の助言で、夫婦財産契約の原本を作成したときの法律上の巧妙な手段に対して、きっと彼を罰し給うたものにちがいない。その契約書によると、未来の夫婦は、≪彼ラニ子ナキ場合ハ動産不動産ニカカワラズ彼ラノ包括財産ヲ≫互いに贈与しあうことになっていた。しかもそれは≪ナンラノ除外オヨビ留保ヲ付サズ、完全ナル所有権ヲ具エタママ、相続財産目録ノ作成ヲ省キ、前記ノ財産目録作成ノ省略ガ、両者ノ相続人アルイハ権利人ニヨッテ異議ノ申立テトナルコトナク、ナオ前記ノ贈与ガ、云々《うんぬん》≫というわけだった。この条項から説明できることだが、ボンフォン夫人の意志に対して、独り暮らしに対して、つね日ごろ、院長は深い敬意をはらっていた。女たちは、きわめて思いやりの深い人の例として院長を引き合いに出しては彼に同情をし、しばしばウジェニーの苦悩や情熱を非難するまでにいたったが、同じ女どうしの悪口をいうときの、このうえない残酷な手加減を加えるのだった。
「ボンフォン院長の奥さまは、よほどの御病身にちがいないわ、御主人を独り暮らしのままほっておかれるなんて。おきのどくな奥さん。すぐお癒《なお》りになるかしら? 胃カタルでしょうか、それとも癌《がん》かしら? どうしてお医者にかからないんでしょう? ここしばらくのうちに、顔色が黄色くおなりだわ。パリの有名な先生に診察してもらわなくてはね。どうしてお子さんを欲しがらずにいられるのでしょう? とても御主人思いだという話ですけれど、どうして、あんな地位にいらっしゃる御主人の跡取りをつくっておあげにならないんでしょうね、恐ろしい話じゃありませんか。もし、それがあのかたのわがままのせいからとすれば、きっと罰《ばち》があたりましょうに。おきのどくな院長さま」
孤独に暮らす隠者《いんじゃ》は、絶えざる瞑想《めいそう》によって、また自分の圏内に落ちてくるさまざまな事物をとらえる絶妙な眼力によって、鋭敏な感覚を働かせるものだが、ウジェニーも生まれつきそうした感覚を具え、そのうえわが身の不幸や最近の教訓のおかげで、いっさいを見抜く習慣がついていたので、夫の院長が巨大な財産をひとり占めするために、自分の死を望んでいることを知っていた。しかもその財産は、神が気まぐれに呼び寄せ給うた伯父の公証人と神父の遺産相続によっていっそう大きく殖《ふ》えていた。隠者の暮らしをしている彼女は、院長をきのどくに思っていた。だが、夫のほうはウジェニーが心の糧《かて》としている希望なき情熱をなによりも強力な保証として敬意をはらっていたが、神の摂理は、そうした夫の打算や卑劣な冷淡さに対して、彼女にかわって復讐《ふくしゅう》し給うたのである。子供が生まれるということは、院長が心の中にたいせつにしている利己主義の希望や、野心の喜びを殺すことではなかろうか?
そこで神は、その囚《とら》われ人であるウジェニーに金貨の山を投げ与えることになったけれども、そのウジェニーは金貨などには無関心で、ひたすら天国にあこがれ、神聖な思いにふけりながら、信心深く善良に生き、いつもひそかに不幸な人たちを助けていたのである。
ボンフォン夫人は三十三歳で未亡人となり、年収八十万フランの金持だった。まだ美しかったが、四十歳近い女の美しさだった。顔は白く、安らかで、落ち着いていた。声はやさしく、思いに沈んだようで、立ち居ふるまいには飾り気がない。苦悩のもつあらゆる気高さと、世間との接触に魂を汚されない人の持つ聖《きよ》らかさをそなえていた。それでいて、老嬢のもつ醜《みにく》さと、田舎の狭い生活からくる安っぽい習慣が身についていた。八十万フランの年収がありながら、哀れなウジェニー・グランデのころと同じ暮らし方をしている。かつて父親が広間の暖炉に火をたくのを許した日まで、自分の居間には火の気がなく、若いころ行なわれていた筋書どおりに火を消してしまう。母親が着ていたような服装をいつもしていた。ソーミュールの例の家、日当たりの悪い、暖かみのない、絶えず陰になっていて陰鬱《いんうつ》な家、これが彼女の生活の象徴である。彼女はいろいろな収入をたんねんに積み上げているが、もしもその財産をりっぱな使い道にあてることで、世間の悪口を打ち消さなかったならば、おそらくいかにもけちくさい女に見えただろう。彼女が貪欲《どんよく》だと非難する人もあるにはあるが、そんな非難は当たらないことを、毎年、証拠だてているのが、宗教慈善団体とか、養老院とか、教会経営の小学校とか、多くの寄付金をもらった公共図書館である。ソーミュールの方々の教会堂には、彼女の寄進した装飾の品々がある。ボンフォン夫人は、冗談に「お嬢さん」と呼ばれているが、あらゆる人に宗教的な敬意をいだかせる。かつては、このうえなくやさしい感情にしか躍動しなかったその気高い心も、やはり人間的な利害にもとづく計算に屈服してしまったのだった。金銭は、その天使のような生活に、貨幣の持つ冷たい色合いをつたえ、全身これ感情であったこの女に、感情に対する不信感をうえつけることになった。
「私のことを思ってくれるのは、おまえひとりだわ」と、ナノンに言うのだった。
この女の手は、あらゆる家庭の人目につかない傷の手当てをしている。ウジェニーはかずかずの善行という供《とも》をつれて、天国へと歩いている。彼女の魂の偉大さは、彼女の教育の低いことも若いころの生活の習慣も、べつだん問題にすべきことではなくなってしまった。以上が、この世にありながらこの世のものならぬ女、りっぱな妻として母親として暮らすことのできる身でありながら、夫もなく子供もなく家庭もない女の物語である。
ここ数日まえから、彼女の再婚がとりざたされている。ソーミュールの人たちは、彼女とド・フロアフォン侯爵のことをしきりに気にしている、侯爵の一族は、かつてクリュショの一族がしたように、金持の未亡人をとりまきはじめている。世間の話では、ナノンとコルノアイエが侯爵の味方をしているとのことだが、じつはこれ以上の嘘《うそ》はない。のっぽのナノンにしろ、コルノアイエにしろ、世の中の腐敗ぶりがわかるほど知恵の働く人間ではない。
パリ 一八三三年九月
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解説
バルザックの生涯
〔父と母〕 オノレ・ド・バルザック Honore de Balzac は、大革命の末期、一七九九年五月二十日、「フランスの庭園」と呼ばれるツーレーヌ州の主都ツールで生まれた。(本来、オノレ・バルザックであるが、父親は妹が生まれたとき、貴族のしるしである |de《ド》 をつけて届けた。それでオノレも後年ドをつけてオノレ・ド・バルザックと称したのである)。詩人ロンサールや、偉大なユマニストであり作家であるラブレーや、哲学者デカルト、詩人、作家ヴィニーらと同郷であるわけだが、オノレにはツーレーヌ人の血は流れていない。当時父親は同地に駐屯する第二十二師団の糧秣《りょうまつ》部長兼市助役をしていたが、この土地の人間ではなく、南仏ラングドック州、現在のタルン県の農民の出であったし、母親は生粋《きっすい》のパリっ子であった。彼女の家は代々パリの商人であるが、父親は陸軍の経理部の高官だったこともあり、富裕なブルジョア階級だった。当時父親ベルナール・フランソア・バルザックは五十三歳、母親ロールは二十一歳で、夫婦の年齢の開きは三十以上だったので、オノレが少年のころには、若くて美しい母親は、よく彼の姉ではないかといわれたという。父親は、いたって楽天的で、からだが頑健《がんけん》で、放埓《ほうらつ》なところもあったが、母親は神経質でヒステリックなところがあり、スエーデンボルク流の神秘主義に凝《こ》っていた。それで夫婦の争うことが多かったらしく、夫への嫌悪《けんお》の念が、≪義務の子≫である長男のオノレヘうつされたのか、オノレは母親の愛を知らずに育てられた。それに反して、密通によってできた≪愛の子≫である弟アンリは甘やかされていた。しかし、この両親に共通なのは金銭欲と名誉欲だった。
〔学校〕 オノレは誕生まもなく里子《さとご》に出され、五歳のときある塾《じゅく》に預けられた。八歳になると、ツールから五十キロほど離れたところのヴァンドームという町の有名な寄宿学校に入れられた。ここで六年間を過ごすことになったが、この間に、無情な母親は二度しか訪れてこなかった。この家庭から完全に隔離された学院生活は、オノレ少年にとってまるで牢獄のようであった。オラトワール派修道士のスパルタ的教育、きびしい体罰。オノレ少年は学課にはちっとも精を出さず、図書館に入りびたって読書と夢想にふけることで、息苦しいような学院生活を耐えしのんだ。しかし、はげしい濫読《らんどく》と、教父たちの課すきびしい体罰とによって、ひどい神経衰弱にかかってしまい、ついに父母の家へつれもどされた。
一年ほどぶらぶらしているうちに、父親が第一師団|糧秣《りょうまつ》部長となったので、一家はパリのマレー区に住むことになり、彼は大学受験のためにルピートル私塾へかよった。そして、十七歳から十九歳までパリ大学法学部の聴講生になり法律の勉強をした。そのかたわら、父親の命令で訴訟代理人の事務所や公証人事務所の見習書記となり、法律事務を実地に学ぶことになった。その法律を学んだ三年間の経験が、後年、小説を書くことにたいへん役だつことになったわけだが、当時の彼はそんなことに気づくはずもなく、やむをえず通っている法学部の教室よりも文学部の教室に熱心に通い、ラブレーやモリエールの作品に読みふけったりした。
〔文学を志す〕 二十歳のとき、文学者になりたい、と宣言して両親をびっくりさせた。そのころ父親はすでに退職していたし、文筆家という職業は社会的にも確立していなかったので、両親は叱《しか》ったり宥《なだ》めたりして、堅実な出世の道である法律家の勉強をすすめたが、オノレはどうしても聞き入れなかった。両親は、しかたなくあきらめた。しかし、それから二年間だけ猶予をあたえるから、その間に文学的天分を証明するにたりる作品を書け、という条件つきで妥協したのだった。二年どころか一年もすれば、夢はさめてしまうだろうと思ったのである。そのころ、一家はパリ郊外ヴィルパリジに移り住んでいたが、母親は、オノレが少しでも早くその計画をあきらめるようにと、パリの貧民街の一室を選んであてがった。この屋根裏生活の中で、文才証明のための作品、韻文《いんぶん》悲劇『クロムウェル』を苦心して書きあげた。だがこれは、家族、近親からも悪評をこうむったばかりでなく、批評を依頼されたもと大学教授などは、「この人物はなにをしてもいいが、文学以外のことにかぎる」と酷評したという話が伝わっている。
一八二五年、二十七歳のときまで、変名でたくさんの小説を書いたが、それらはすべて後年の天才の影すら見えない駄作《ださく》ばかりで、今日ではだれも読む者もないほど忘れさられてしまっている。それらは、当時流行の大衆小説が大部分であったが、ただ多少の原稿料を得たことと、小説作法を身につけたのがせめてもの幸いであった。「私はほんの習作のつもりで長編小説を七つ書いた。対話、描写、人物表現、構想などを学ぶために」と、後年思い出を語っている。
「ぼくには、恋と名声という二つの情熱しかない」とそのころの手紙に書いている彼は、いっこうに芽の出ない小説によってではなく、一挙に光栄と富を手に入れようとして出版をはじめた。しかし、みごとに失敗し、それにこりずに次には、印刷、活字|鋳造《ちゅうぞう》の事業にも手を出したが、いずれも失敗して、一八二八年には五万フランの債務をせおってしまった。相当な暮らしの一家も年三千フランもあれば十分とされたころのことであるから、それはかなりな巨額である。一八五〇年、五十二歳で死ぬまで、彼が一生涯借金取りにつきまとわれたことは、人のよく知るところである。
こうしてまた文学にもどったのだが、出版事業を始めるとき、ベルニー夫人という女性から四万五千フランの出資をあおいでいる。
〔ベルニー夫人〕 ロール・ド・ベルニー夫人というのは宮廷音楽師の娘で、王妃マリー・アントアネットの名づけ子であった。ヴェルサイユ宮殿で少女時代を送ったが、十七歳のときガブリエル・ド・ベルニーという青年貴族と結婚した。バルザック家とベルニー家とは、パリでもパリ付近のヴィルパリジでも互いに家が近かったので親しい交際があった。しかしベルニー夫人とオノレが初めて会ったのは、夫人が四十四歳、彼が二十二歳のときである。夫人は四十四という年齢でもあり、九人の子供を産んでいたにもかかわらず、その顔は生き生きとして魅惑に富み、大きな眼にはやさしい光と才気がきらめいていた。そればかりでなく、宮廷や貴族社会で育ってきた彼女は、物腰が優雅で、話術にたけていた。
はげしい情熱にあこがれていた無名作家オノレは、まず夫人の上品な容貌《ようぼう》や豊かな肉づきに心をひかれた。夫人のほうもオノレの明るい性質や、若々しい文学熱に母親らしい愛情と好意をよせていたが、オノレのひたむきな情熱にかられて、やがて愛人として愛するようになった。
ベルニー夫人は、バルザックを初めて愛した女、初めて彼の天分を見つけた女であった。夫人は、無名の文学青年であるオノレを力づけ、励まし、十年の辛苦に満ちた修業時代に、つねにかわらずやさしく慰めをあたえたのだった。もちろん、ふたりの年齢があまりにも違いすぎていたために、誤解や嫉妬《しっと》もあって、必ずしもふたりの間がらは坦々《たんたん》たるものであったわけではないが、もし夫人がいなかったら、後年のバルザックができあがったかどうかは疑問であろう。このベルニー夫人こそは『谷間のゆり』の女主人公の原型である。
〔出世作以後〕 一八二九年の春、オノレは初めて本名で『ふくろう党』を出版した。これはブルターニュ地方における王党|一揆《いっき》を描いた歴史小説で、共和軍と王党派、貴族、農民、兵士という政治的社会的対立の中での人間群像をみごとに描いたもので好評を博し、これが出世作となった。同年に『結婚の生理学』を発表して爆発的な大成功をおさめると、その後は奇蹟的ともいえる速度で続々と作品を発表した。
夕食をほおばって寝ると真夜中に飛び起き、ものすごい勢いでペンを走らせ次の日の昼すぎまで書きつづけて、眠るのはわずか六時間だけという仕事ぶりであった。白いだぶだぶの僧服が仕事着で、時々窓によりかかって五分ほど休息する。酒もタバコものまない。そのかわり、ミルクも砂糖も入れない濃いコーヒーを飲みつづけながら書きまくる。年譜を見ればわかるように、年に長編を二つ三つ、中、短編を十あまり発表したほか、社会事評や書評や手紙を無数に書いた。
こうして毎日十八時間ずつ、二十年にわたる労働の結果、十九世紀の巨大な金字塔『人間喜劇《コメディー・ユメーヌ》ができあがったのである。一八四一年秋、バルザックは自分のほとんどの作品を『人間喜劇』という総題のもとにまとめた。これはダンテの『神曲』 Divina Commedia に対抗してつけた名である。『人間喜劇』については、「主要作品」のところで述べるので、内容についてはここでは触れないでおく。
〔女性遍歴〕 出世作以来文名があがると、ヴィクトル・ユゴーなどと交わり、女流文学者のジョルジュ.サンドやデボルド・バルモールと親交を結びサロンに出入りしはじめた。依然としてベルニー夫人との親交もつづき、二十七歳のころ知りあった、ナポレオン軍の将軍未亡人のダブランテス公爵夫人との交渉もつづいていたが、文壇的名声が確立した一八三〇年代になると、多くの女性がはいりこんでくる。三十一年には代議士選挙に立候捕して落選したが、このころからカシニ街のアパートを飾りつけたり、馬車を買いこむなどの濫費癖《らんぴへき》がはじまった。が、この年の十月、カストリー侯爵夫人からはじめて手紙をもらい、この夫人によって貴族社会に紹介された。バルザックはこの夫人に夢中になったが、イタリア旅行の途中、夫人にひどく愚弄されて目がさめた。この苦《にが》い体験は『ランジェー公爵夫人』などに生かされることになった。彼の作品の中で、冷酷な上流夫人のモデルはたいていこのカストリー夫人であるという。
一八三二年の春、ウクライナのオデッサから「異国の女」という署名のファンレターを受け取った。翌年一月から、名まえを明かした文通がはじまって、手紙の上で急速に親しくなり、やがて恋が芽生え、彼女の最初の手紙から十九年目に、ふたりは結婚することになる。この女性は、ポーランド貴族の娘で、ウクライナの大地主ハンスキ氏と結婚していたエヴリーナ・ハンスカで、最初の手紙のときは三十三歳、バルザックより一歳下である。このころ、マリア・デュ・フレネーと愛人関係にはいったが、この女性について詳しいことはわかっていない。三十三年九月、ヌーシャテルではじめてハンスカ夫人に会い、五日間ハンスキ夫妻とともに同地ですごした。翌年には、ジュネーブでハンスカ夫人と会い、愛人関係にはいった。
このころバルザックの創作活動はますます旺盛になり、重要な作品が多数完成されているが、そうした多忙な文筆生活のあいだにも、ハンスカ夫人に会うためにウィーンへ行ったり、イタリアの貴族ヴィスコンチ伯爵夫人に恋して、一八三六年にはトリノ、三七年にはミラノ、ヴェネチアに出かけたりしている。債権者につきまとわれて、ひそかに住居を移したりしていたバルザックの窮迫をすくったのは、この金持の伯爵夫人だった。
そのほかにもいろいろの女性がバルザックと交渉をもったが、作家バルザックに直接寄与したのは、やはり最初の女性ベルニー夫人、それからダブランテス夫人、カストリー夫人の三人で、ハンスカ夫人とは結婚したが、バルザックにどれほどの文学的影響を与えたかということはよくわかっていない。ただわかっていることは、夫人は、バルザックの死後、負債の整理や全集刊行のことに従事しているし、バルザックが彼女に与えた大部の書簡が残っていて、バルザックの伝記や作品を調べる上におおいに役だっているということである。
〔晩年〕 『人間喜劇』の発刊が開始されたのは一八四二年であるが、その年の一月、ハンスカ夫人からの手紙で、夫のハンスキ氏の死亡が知らされた。バルザックは、多年の夢である夫人との結婚ができるということが重大な関心事となってきた。だが夫人のほうは、バルザックの多額の負債と浪費癖、不身持ちのことなどを理由として結婚を断わった。何度も手紙のやりとりのあげく、一八四三年夏、ペテルスブルグ(現在のレニングラード)で八年ぶりにハンスカ未亡人と会い、愛人関係を復活させ、四五年から四六年にかけて、夫人とともにドイツ、ベルギー、オランダ、スイス、イタリアと大旅行をした。その間に、心身に極度の疲労をおぼえながら、『浮かれ女盛衰記』『従妹ベット』『従兄ポンス』などの傑作を完成している。
四七年には、パリのフォルチュネ街(現在のバルザック街)に落ち着いたが、四八年にはまたウクライナを訪れ、五〇年春までの一年半、夫人の手厚い看護をうけ、三月十四日、ウクライナで結婚式をあげた。そのころ未亡人は全財産を娘に譲っていた。五月、ふたりはパリにもどったが、バルザックの病状はますます悪化し、六月末には執筆不可能におちいり、八月十八日、ヴィクトル・ユゴーが訪れ、その数時間後に、生涯をおえた。
二十一日に盛大な葬儀が行なわれ、ヴィクトル・ユゴーが追悼の辞をのべた。遺骸《いがい》はペール・ラシェーズの墓地に葬られた。
『ウジェニー・グランデ』について
――沈黙のなかのドラマ
この作品は一八三三年九月、最初の部分が雑誌『ユーロップ・リテール』に「地方物語」として掲載《けいさい》され、同年十二月にはじめて全編が「地方生活情景」におさめられて出版された。「地方生活情景」には『谷間のゆり』や『幻滅』『ツールの司祭』などが含まれることになるが、フランスの近代小説の傑作には、地方における人間生活を描いたものが数多くある。スタンダールの『赤と黒』、フローべールの『ボヴァリー夫人』、モーパッサンの『女の一生』などがそれである。こうした地方生活の文学的表現はきわめて重要なものであるが、バルザックは『ウジェニー・グランデ』の第一版の序文に、地方生活について次のように述べている。
「片田舎には、まじめな研究にあたいする人間、独創性にあふれる性格、表面は穏やかだが、はげしい情熱によってひそかにかき乱されている生活、そうしたものが存在する。しかしながら性格のきわめて強烈な荒々しさも、きわめて情熱的な熱狂も、地方風俗の不断の単調さのうちに消滅してしまう。いつも静まりかえり、移りゆくこうした生活の現象をどんな文学者《ポエート》も表現したことはなかった」
この言葉は、バルザックの「地方生活情景」に対する考えを端的に表わしている。そして「地方生活情景」はたえず「パリ生活情景」と対比関係におかれている。あらゆる人間の欲望がうずまき、あらゆる階層の快楽追求、華麗な生活活動の舞台であるパリ生活は、『人間喜劇』中でも大きな部分を占めているが、そのパリ生活にくらべれば、田舎では、見たところ穏やかな、陰気で、緩慢な、単調な植物的な生活が営まれている。しかし、そこにも人間の劇的なドラマがうごめき、はげしい情熱がひそんでいる。この「沈黙のなかのドラマ」をバルザックは描きだしたのである。
『ウジェニー・グランデ』は、バルザックの作品としては決して長いほうではなく、分量からいえば雄編大作ではない。しかし、バルザックの傑作の中でも最も完璧《かんぺき》なものと認められ、バルザックの特徴のすべてがあり、しかも古典的な伝統の風格があり、バルザックと仲の悪かった批評家サント・ブーヴさえも傑作として嘆賞をおしまなかった。
バルザックの時代は強烈な意欲と奔放《ほんぽう》な情熱の時代であったが、それは『人間喜劇』の中の多くの人物の性格として特徴化されていて、バルザックのおもな人物はほとんど情熱と意欲の権化《ごんげ》である。そしていろいろな情熱のうちでも、金銭に対する貪欲《どんよく》が、情熱の象徴となっている。グランデ老人の守銭奴《しゅせんど》ぶりも超人的で、一種の厳粛味さえもおびている。臨終の枕《まくら》もとに並べられた金貨を見て、これでからだが温まると喜び微笑する老人。終油のときの十字架などどうでもよく、それにメッキされた黄金の光だけがあの世への導きの光だった。
グランデという人物を創造するにあたって、バルザックが十七世紀のモリエールの喜劇『守銭奴』の影響をうけ、それを小説によって近代化したものであるということはだれしも指摘するところである。
「モリエールは貪欲を描いたが、ぼくは貪欲家を描く」と、バルザックは手紙に書いているが、モリエールのアルパゴンを抽象的人間像として実現させたのである。しかし、この守銭奴の中にある、娘に対するただひとつの人間的な愛情を見のがしてはいけない。冷酷きわまる老人が、拘禁《こうきん》中の娘のお化粧姿を中庭のベンチからそっとながめるその姿を思いだせばよい。こうした強烈な性格創造のために、『ウジェニー・グランデ』の主人公はグランデ老人のように思われがちだが、主人公はやはり、娘のウジェニー・グランデである。
物欲の権化ともいうべき父親と、貞淑でやさしい母親のもとに、ウジェニーは平穏無事に育てられる。快楽のために表情をゆがめたことのない純潔を保って、心理のあやなどおよそ縁のないこの田舎娘のまえに、突然、パリ仕込みの洒落《しゃれ》者である美貌《びぼう》の青年が現われる。ここで田舎娘ははじめて目覚め、恋が芽生えて一人まえの女性の心理にまで発展してゆく。この心理過程はじつに自然に描かれ、読む者にいささかの不審や疑惑をいだかせない。こうして、このグランデ家の悲劇的物語は、ひたすら大詰にまで読者をはこびさるが、結果的にはすべてヒロインのウジェニーに集中してゆく。『ウジェニー・グランデ』という題名どおり、この小説のほんとうの中心人物はやはりウジェニーである。
この小説は青年子女の絶好の読物である、とはフランスの哲学者、批評家アランの言葉であるが、若い女性の恋心の芽生えという愛の主題から見て、それは当然のことと思われる。ウジェニーの汚れのない愛の生涯はきわめて美しく純粋で、物思う年ごろの人々に共感をよぶところが多々あろう。しかし、彼女は純情|可憐《かれん》な控え目な娘であるばかりでなく、一方では父親ゆずりの頑固《がんこ》さ、強情の持主でもある。従兄弟《いとこ》のシャルルに対する愛情は鉄のような意志に貫かれていて、七年間待ち暮らしてついに裏切られた初恋を守り通し、ボンフォン裁判所長との結婚後も、夫には友情以上のものは許さないのだ。それは純情がこり固まって非情ともなった感をいだかせるが、ここにわれわれは「初恋に憑《つ》かれた女」を見、バルザック一流の「憑かれた意志」を見いだす。「父親よりよほどグランデ的」な性格を与えられたウジェニーでなくては、恋の初一念の意志を貫くことはできなかったろう。それは意地であって、もはやシャルルに対する愛など問題ではなく、たんに初志を守り通すのが目的で、むしろ現実のシャルルなどは軽蔑しているのだ。
母の死につづく父の死後、巨万の富の中でただひとりとなったウジェニーは、お追従《ついしょう》と阿諛《あゆ》にとりまかれて、たんなる純情な娘で通してはいられなくなる。守銭奴であった父親の処世術をまねて、「よく考えてみましょう」と、父親そっくりな口調でいう。この変化を見落としてはならない。
守銭奴の執念と愛の執念が全編を貫く縦の主題とすれば、父と娘の争いは横の主題とも言えようか。シャルルの到着によって目覚めたウジェニーの愛は、愛を許そうとはせぬ父との争いの原因となり、父親を批判し始めると、父と娘の争いがくっきりと浮かびあがる。と、同時に、彼女にはグランデ家の血である頑固さがあらわになる。そして、ウジェニーの心中に、どんなに因業《いんごう》な、兇暴《きょうぼう》な男に対しても対抗してゆくだけの勇気があふれ出てくる。みごとな構成で、『ウジェニー・グランデ』が傑作といわれるのも当然である。
そのほかの人物、巨万の富をめぐって抗争するクリュショ家とデ・グラサン家の人々、ウジェニーとの初恋を裏切ってドーブリオン侯爵令嬢と結婚するシャルル、これらはみな、物欲につながる底流をなしているが、両者の抗争の描写は、辛辣《しんらつ》な批判をまじえた地方生活のみごとな戯画《ぎが》となっている。
主要作品解題
バルザックには百編を越える作品があり、おもなる長編だけでも四十編以上もある。その中から代表的なものを選ぶことは、はなはだ困難なことであり、ここに詳述する余裕もない。作者自身、大部分の作品を「人間喜劇」という総括的な題名のもとに分類したのであるが、それについて簡単に述べてみよう。
バルザックの作品は、その題材と形式からいってきわめて多様であり、作品の数がますにつれて多様化ははなはだしくなるばかりだった。「この小説家は相互になんらの関連のないばらばらの作品を産み出す。要するに一時のあてこみをねらう小説製造屋の気紛《きまぐ》れな作にすぎない」と言われた。溢《あふ》れでる思想にかりたてられて、狂熱的に制作に没頭するバルザックは、こうした言葉を聞くにつけても、それぞれの小説が事件の羅列《られつ》に終わることを恐れて、一貫した統制のもとにまとめあげて、雑多と混乱という作品の欠点を防ごうと考えるにいたった。こうした考えの萌芽は一八三〇年に出版された小説集「私小説情景」においてうかがうことができる。三一年には「哲学的短編・長編集」や、「哲学的短編集」(一八三二年)がある。こうして、小規模ながらしだいに統一と集成の傾向にむかったが、一八三三年、バルザックは突然、社会の全貌《ぜんぼう》を描いてみようという大きな計画をいだいた。そして彼の脳裏には一生を費やして書くべき小説のあらゆる題材、その事件のごく些細《ささい》な点にいたるまで、あざやかに浮かびあがったのである。この一瞬に百編に近い作品のほとんど大部分がほぼ決定されたという。
こうした意図のもとに続々と作品を産みだしたが、一八四一年秋、『人間喜劇』という総括的な名称によってまとめたのである。バルザック自筆の計画目録によると、百四十三編の小説が含まれるはずであったが、生前にはその三分の二だけ実現されたにすぎなかった。それでも九十近い厖大《ぼうだい》な作品数であり、そこに登場する人物は約二千人、地理的には全フランスにわたり、歴史的には大革命から二月革命にいたるフランスの経済的、政治的、社会的な詳細な見取り図をつくりあげたのである。
ここに収められた作品は、もちろん個々のものとしてりっぱに独立した小説ではあるが、『人間喜劇』と題された巨大な物語の一部にあたるわけであって、個々の作品に登場する人物が他の数編または数十編の小説に登場する。これは後にゾラがならって、その『ルゴン・マッカール叢書《そうしょ》』で行なったものである。
その『人間喜劇』の構成とその部門の名称は次のようになっている。
第一部 風俗研究
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第一編 私生活情景 第二編 地方生活情景第三編 パリ生活情景 第四編 政治生活情景 第五編 軍隊生活情景 第六編 田園生活情景
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第二部 哲学的研究
第三部 分析的研究
こうして、それまで単に『ウジェニー・グランデ』の作者とか、多産な作家とか呼ばれているにすぎなかったバルザックが、『人間喜劇』の作者と呼ばれるようになった。
以下に、これらの作品の中で特に有名なものについて、きわめて簡単な紹介をしておこう。
〔ゴリオ爺《じい》さん〕(一八三四〜三五年)
「私生活情景」に属する作品。ゴリオ爺さんは、結婚してそれぞれレストー夫人、ニュチンゲン夫人となっている娘に、自分の身を犠牲にして尽くすが、娘たちはそれに忘恩をもって報い、年老いて貧しいゴリオが、サント・ジュヌヴィエーヴのみじめな下宿屋ヴォーケルで暮らしているのに、会いにこようともしない。同じ下宿屋にいるウジェーヌ・ド・ラスチニャックはニュチンゲン夫人の愛人となり、ゴリオ爺さんの臨終に立ち会い、遺骸《いがい》をぺール・ラシェーズの墓地に葬る。その後、パリに対して深い軽蔑の念をいだき、人生の征服者たろうと決心する。一方、元徒刑囚のヴォートランは手っ取り早く出世する方法を彼に教えこむ。しかしラスチニャックは従姉妹《いとこ》のボーセアン夫人に頼んで、貴族街サン・ジェルマン郊外町のサロンに紹介される。ラスチニャックは、野心と恋、その喜びと苦しみを代表し、パリという激動の社会で、父性愛の権化《ごんげ》ゴリオ老人と社会的反抗者ヴォートランから生き方を学びとったのである。
〔従兄ポンス〕(一八四七年)
「パリ生活情景」にはいる作品。音楽家のポンスは、そのわずかな収入を美術品の収集に消費してしまう。彼の周囲の者はだれひとりとして彼の収集の価値を認めず、彼は「貧しい縁者」としてあつかわれる。しかし彼の収集品の価値がわかると、それを奪い取ろうとして彼の周囲にむらがる。彼らは病気であるポンスの死期を早め、ポンスは自分の財産が奪われるのを見て絶望しながら死ぬ。悽愴《せいそう》な感銘を与える傑作。バルザック在世中の最後の作品。
〔従妹ベット〕(一八四六年)
やはり「パリ生活情景」の作品。ベットは初め単なる百姓女にすぎなかったが、社交界の婦人となり、しかもきわめて邪悪《じゃあく》な女となった。彼女の周囲にはユロ男爵という偏執的な好色漢がいて、彼女は完全に堕落してしまう。『ウジェニー・グランデ』を売りだし当時の代表作とすれば、この作品は円熟期の代表作である。
〔農民〕(一八四四年)
「田園生活情景」にはいる作品。大地主であるモンコルネ将軍は、不正直な忌《い》むべき村の農民たちと闘う。農民のきわめて特徴的な典型を描きだし、彼らの暗黒面をあばきだした。この作品の第二部は、ノートをもとにしてハンスカ夫人が編集したものである。ゾラの『大地』とともに、農民文学の代表的作品とされている。
〔絶対の探求〕(一八三四年)
「哲学的研究」に属する作品。バルタザール・クラエスは化学の実験に夢中になり、夫であり父親である義務をおろそかにしてしまう。ついに零落《れいらく》し、中風にかかり、「見つけた!」と叫んで死んでしまう。風変わりな致命的な情熱にとらわれたバルタザールは、バルザックの知的|貪欲《どんよく》の権化《ごんげ》である。
〔川もみ女〕別名「男世帯」(一八四二年)
「地方生活情景」の作品。恩給を受けている陸軍中佐が、金持の伯父を「川もみ女」という渾名のある女中と結婚させ、その死期を早め、こんどは自分がその女と結婚して、伯父の財産を手に入れる。この女は、長いあいだ、漁師たちに手伝って川の水をにごす仕事をしていたので、この渾名があるのだった。
〔浮かれ女盛衰記〕(一八三九〜四七年)
「パリ生活情景」の作品。一「幸福なエステール」、二「老人になって恋はいくらにつくか」、三「悪い道はどこへ通じるか」、四「ヴォートランの最後の化身」からなる四部作である。
これは『幻滅』の続編とも見ることができるもので、リュシアン・ド・リュパンプレは元徒刑囚のヴォートランの手先となり、ヴォートランに享楽させてもらうかわりに、世間でその身代わりをつとめる。リュシアンは高級娼婦エステール・ゴブセックを熱烈に愛するようになる。しかし、ヴォートランはエステールを銀行家ニュチンゲンに売り、リュシアンを貴族の娘と結婚させる。エステールは毒薬自殺をとげ、リュシアンとヴォートランは逮捕される。リュシアンは罪が明らかになり獄中で首をくくって死ぬが、ヴォートランは当局を買収して捜査課長の地位につく。
〔谷間のゆり〕(一八三六年)
初め「地方生活情景」に入れられたが、バルザックの死後、その遺志により、「田園生活情景」におさめられた。母に愛されなかった青年フェリックス子爵がツールで初めて会った貴婦人モルソーフ夫人にたちまち恋心をおぼえ、夫人が死にいたるまで清らかな愛をそそいで夫人の地獄のような生活に堪えさせる。夫人はフェリックスをはげしく愛しながら、宗教と道徳の掟《おきて》をまもり、死に際して、知ることのなかった肉体のよろこびについて心残りを告白する。心理小説の典型的な作品であり、清純な恋の奥に、はげしい肉のもだえがひそんでいる。
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年譜
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一七九九 五月二〇日、フランスのツーレーヌ州の主都ツールで生まれる。父ベルナール・フランソアは五三歳、母アンヌ・シャルロット・ロールは二一歳。
一八〇四 (五歳) この年まで、妹のロールとともにツール近郊の乳母のもとで育てられ、四月、ツールのル・ゲー塾にはいる。
一八〇七 (八歳) 六月二二日、ヴァンドームのオラトワール派学院の寮生となる。一八一三年四月二二日まで在学。
一八一四 (一五歳) 夏の間、ツール学院に通学。一一月、一家はパリのタンプル街にうつる。
一八一五 (一六歳) マレー区ルピートル塾にはいり、一〇月からガンセール塾にうつる。
一八一六 (一七歳) パリ大学(ソルボンヌ大学)法学部の聴講生となり、一一月、かたわら訴訟代理人ギョネ・メルヴィルの事務所に見習書記として通う。文学部講義もきく。
一八一八 (一九歳) 四月、公証人パッセの事務所にうつる。『魂の不滅に関するノート』
一八一九 (二〇歳) 一月、法学部第一次卒業試験通過。第一師団糧秣部長を退職した父は、家族とともにパリ郊外ヴィルパリジにうつる。オノレは作家志望を宣言してパリの屋根裏部屋にこもる。韻文悲劇『クロムウェル』にとりかかる。
一八二〇 (二一歳) 『クロムウェル』を家族と知人の前で朗読。悪評。文学者アンドリューの批評を乞い酷評された。生前は出版されなかった。秋、下宿をやめてヴィルパリジの家にもどる。
一八二二 (二三歳) 前年、初めて会ったベルニー夫人バルザックの愛人となる。一〇月、一家はマレー区のロア・ドレ街にうつる。匿名で多くの小説を出版。一月『ビラーグの跡取り娘』、三月『ジャン・ルイ』、七月『クロチルド・ド・リュジニャン』、一一月『百歳の人』『アルデーヌの助任司祭』
一八二三 (二四歳) 夏の間、ツーレーヌ州に滞在。五月『最後の妖精』
一八二四 (二五歳) 夏の終わり、一家はふたたびヴィルパリジにうつる。ひとりツールノン街のアパートに住む。
一八二五 (二六歳) ベルニー夫人に資金をあおぎ、モリエールとラ・フォンテーヌの作品を刊行して失敗。妹の紹介で、ダブランテス公爵夫人と親しくなる。『ワン・クロール』『紳士の法典』
一八二六 (二七歳) 六月、印刷業の免許を得て、マレー・サン・ジェルマン街(今日のヴィスコンチ街)に印刷所を設ける。夏、一家はヴェルサイユにうつる。
一八二七 (二八歳) 財政悪化にかかわらず、活字製作所を開く。ベルニー夫人が出資者。
一八二八 (二九歳) 春の初め、天文台近くのカシニ街のアパートにうつる。八月、印刷所を清算、負債約五万フラン。文学にもどり、九月一五日から一〇月終わりまで、父の友人フージェールのポムール将軍を訪ねて滞在、『ふくろう党』執筆。
一八二九 (三〇歳) サロンに出入りしはじめる。六月、父死亡。三月、初めて本名で『ふくろう党』を発表。好評を博す。一二月、匿名で『結婚の生理学』発表。
一八三〇 (三一歳) 新聞雑誌に執筆。五月、ベルニー夫人とともにツーレーヌ地方を旅行し、六月にはロアール川を下り、ブルターニュ半島のル・クロワジックにいたる。七月、ツール近郊の柘榴《ざくろ》屋敷に滞在。秋、シャルル・ノディエのサロンに出入りする。四月、「私生活情景」初版『ゴブセック』『ソーの舞踏会』『二重家庭』など。
一八三一 (三二歳) 八月、哲学的小説『あら皮』。この成功により文壇的地位定まる。
一八三二 (三三歳) ウクライナのハンスカ夫人から「異国の女」の署名で初めて手紙を受けとる。カストリー侯爵夫人と親しくなり、その紹介で貴族社会に出入りする。六月〜八月、はじめはサシェに、のちマングームのカロー家に滞在。八月下旬、サヴォアの温泉地でカストリー夫人と落ちあい、九月、同地を出発イタリアヘ旅行したが、ジュネーヴで求愛をこばまれた。幻滅を感じ、フォンテーヌブローの森に近いヌムール近郊のベルニー夫人邸に向かい三週間滞在。一二月、パリヘ帰る。政治論文を発表。四月、『風流滑稽譚』第一集、『ツールの司祭』『ルイ・ランベール』『シャベール大佐』
一八三三 (三四歳) ハンスカ夫人との文通はじまる。九月、ヌーシャテルで初めてハンスカ夫人に会う。五日間同地でハンスキ夫妻とすごす。一二月、夫妻の滞在するジュネーヴにおもむく。七月『風流滑稽譚』第二集、九月『田舎医者』、一二月『ウジェニー・グランデ』
一八三四 (三五歳) 二月八日、ジュネーヴを去る。滞在中に夫人と愛人関係にはいる。五月、初めてグィドボニ・ヴィスコンチ伯爵夫人と会う。六月、マリア・デュ・フレネー、バルザックの子と想定される女児を生む。「第十九世紀風俗研究」の公刊を始める。「パリ生活情景」『十三人組物語』、一一月「私生活情景」第三巻『絶対の探究』
一八三五 (三六歳) 春、デュラン未亡人の名で、シャイヨーのバタイユ街の秘密のアパートヘうつる。債権者の目をのがれるためと、ヴィスコンチ伯爵夫人と会うため。五月、ウィーン滞在中のハンスカ夫人と再会、六月中旬、パリヘ帰る。以来、八年間夫人とは会わない。一月「哲学的研究」第一巻、三月『ゴリオ爺さん』、二月『セラフィータ』
一八三六 (三七歳) 四月二七日より五月四日まで、国民軍就役不履行の理由で禁固。五月、ヴィスコンチ夫人にバルザックの子と推定される男子生まれる。七月末、ヴィスコンチ伯爵家の遺産整理問題で、伯爵の代理としてイタリアヘおもむく。八月下旬、パリヘ帰り、ベルニー夫人の死(七月二七日)を知る。六月『谷間のゆり』、九月「哲学的研究」第二巻。
一八三七 (三八歳) 二月、ふたたびイタリアヘ行く。ミラノ、ヴェネチア、ジェノア、フイレンツェ、コモ湖などを経て、五月三日パリヘ帰る。六月、ヴェルデ書店に対する契約不履行のかどで執達吏に追求され、ヴィスコンチ夫人に金を借りて逮捕をまぬがれる。『老嬢』『幻滅』第一部『セザール・ビロトー』
一八三八 (三九歳) 二月末、女流作家ジョルジュ・サンドを訪れ、ノアン邸に数日滞在。四月、サルディニア島に向かう。古代ローマ人の銀の廃鉱を採掘して巨利を得るためであったが、廃鉱はすでに他人の手に帰していた。七月、セーヴルにジャルディー荘を建てて住む。九月『平役人』『ニュチンゲン銀行』『浮かれ女盛衰記』第一部。
一八三九 (四〇歳) 八月一六日、文芸家協会会長に選ばれる。九月、リヨンに近いベレーの町へ行き、ペーテル事件を調査し、被告ぺーテルの無罪を主張。ペーテルは一〇月死刑。三月『骨董屋』、六月『エヴァの娘』『幻滅』第二部、一二月『ベアトリックス』
一八四〇 (四一歳) 三月一四日、五幕のドラマ『ヴォートラン』上演、一六日、内務大臣の命令で上演禁止。七月、月刊誌『ルヴュ・パリジァンヌ』を創刊し、三日で廃刊。同誌でスタンダールの『パルムの僧院』を激賞。一〇月、バス街に住む。現在、バルザック記念館となっている。
一八四一 (四二歳) 一〇月二日、フュルヌ書店と全集『人間喜劇』刊行の契約。一月『暗黒事件』、五月『村の司祭』
一八四二 (四三歳) 『二人の若妻の手記』『ユルシュール・ミルーエ』『人生の門出』『川もみ女』
一八四三 (四四歳) 一八四一年一一月一〇日以来、未亡人となっているハンスカ夫人のもとに滞在。九月二六日、オデオン座で、五幕物『パメラ・ジロー』上演。『暗黒事件』『オノリーヌ』『幻滅』第三部。
一八四四 (四五歳) 『モデスト・ミニヨン』『農民』第一部。
一八四五 (四六歳) 五月から八月、ハンスカ夫人と、ドレスデンで落ちあい、共にドイツ、フランス、オランダ、ベルギーを旅行。秋、ハンスカ夫人とイタリア旅行。一一月、パリにもどる。
一八四六 (四七歳) 三月から五月に、ハンスカ夫人とともにロ―マに滞在し、ついでスイス、フランクフルトまで旅行。一二月初め、ハンスカ夫人より死産の知らせを受ける。『従妹ベット』
一八四七 (四八歳) 二月から五月にかけて、ハンスカ夫人パリに滞在。バルザックはフォルチュネ街(今日のバルザック街)に居をかまえる。六月二八日、遺言書を作成。九月、ウクライナに向けて出発、五か月以上滞在。『従兄ポンス』『浮かれ女盛衰記』第四部。
一八四八 (四九歳) 二月一五日パリに帰る。二二日、二月革命勃発、サシェでの最後の滞在。九月の下旬からウクライナに滞在。『現代史の裏面』第二部。
一八四九 (五〇歳) ウクライナに滞在。留守中、アカデミー・フランセーズ会員の補欠選挙に二度敗れる。健康状態悪化。
一八五〇 (五一歳) 三月一四日、ウクライナのヴェルディチェフでハンスカ夫人と結婚。五月二〇日、夫妻はパリヘもどる。六月末執筆不能となり、八月一八日死亡。
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訳者あとがき
バルザックがこの小説をいつごろから書きだしたかということは、あまりはっきりしていないが、一八三三年の六、七月からだろうといわれている。ソーミュールの町を旅行のついでに数回訪れているという。ハンスカ夫人に与えた手紙に『ウジェニー・グランデ』の名がはじめて現われたのは一八三三年八月十九日付のものである。バルザックはいつもの例だが、原稿を同時に五つ六つ書き進めていたのだが、『純愛』を書いているときももちろんそうであった。文通によってのみ愛をかわしていた夫人がスイスにいると知ったバルザックは、九月に、『ウジェニー・グランデ』の執筆を一時中止してスイスに向かい、ヌーシャテルで初めて会って将来を誓い、五日間滞在して帰った。そのとき十二月にジュネーヴで再会する約束があったせいか、帰ってきてからはたいへんなスピードで書きすすめた。十月中旬にはすでに半分ほどできあがり、十一月の二十日から三十日までの十日間に、最初の部分の校正をしながら最後の百ページを書き上げた。
十二月に刊行されるとすばらしい好評を博し、それがバルザック前半の傑作となったのだが、彼はその好評をパリに残して、二十五日にジュネーヴに到着して、翌年二月まで滞在し、夫人と愛人関係にはいった。つまり本書はふたりの恋の記念的な作品である。
本書の巻頭の献辞をささげられている「マリア」なる女性がはたしてだれであるのか、いろいろ推察がおこなわれているが、この小説の制作当時バルザックの心を最も大きく占めていたハンスカ夫人ではないかとも言われている。この推測ももっともではあるが、やはり当時バルザックの愛人であり、彼の子供を産んだマリア・デュ・フレネーという可憐な女性であろうとされている。この献辞は、最初からつけられていたものではなく、シャルパンチエ版に初めて載せられたものである。マリア・デュ・フレネーについては、作者の妹ロール宛《あて》の手紙に書かれているが、詳細については不明らしい。
翻訳の底本には主としてガルニエ版を用い、グラシク・ラルース版をも参照し、ともにその注釈を大いに利用した。両者には多少の差異があるが、そのときにはガルニエ版に従った。この両版とも極度に改行が少ないので、読みやすいように、古いガルニエ版にほぼ従って改行をふやした。
なお、本書の挿絵はコナール版によるものだが、村上菊一郎教授のおせわにより、本書を飾ることができた。ここに記して謝意を表したい。(訳者)
〔訳者略歴〕
山口年臣(やまぐち・としおみ) 一九一一〜八六 フランス文学者。文化学院、慶応義塾大学仏文科に学ぶ。おもな訳書、ゾラ『ナナ』、モーパッサン『死よりも強し』、ボナール『友情論』、バルザック『谷間のゆり』など。