ゴリオ爺さん
バルザック作/小西茂也訳
目 次
下宿屋
二つの訪問
社交界への登場
不死身
二人の娘
爺さんの死
解説
年譜
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登場人物
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ゴリオ爺さん
かつて製麺業者として成功し、莫大な財産をきずいた商人。だが、愛妻を亡くしてからは、嫁いだ二人の娘の言うがままになって、ヴォケール夫人の下宿屋でひっそり暮らす。
アナスタジー・ド・レストー伯爵夫人
ゴリオ爺さんの上の娘。「サラブレッド」とあだ名される。父親から金をひきだすのがうまく、それがまた妹との喧嘩をひきおこす。
デルフィーヌ・ド・ニュシンゲン夫人
銀行家に嫁いだゴリオ爺さんの下の娘。名門に嫁いだ姉にたいする嫉妬にさいなまれている。ラスティニャックを夢中にさせ、親しくなる。
ウージェーヌ・ド・ラスティニャック
野望を胸にパリに出てきた二十二歳の青年。勉学に励んで学位をとる道と、社交界に進出して地位を手に入れるという、二股をかけた生活を送ろうとする。
ヴォーケル夫人
下宿屋の女主人。世間の苦労をなめつくしたやり手のおかみ。
ヴォートラン
得体の知れない四十がらみの大男。ラスティニャックの野心を見ぬき、金銭の援助を申しでる。
ボーセアン子爵夫人
パリ社交界の女王の一人。ラスティニャックの遠縁で、彼の上流社会進出に力をかす。恋の手練手管をラスティニャックに教えながら、いっぽうでは社交生活に虚しさを感じている。
シルヴィ
下宿屋の太っちょの料理女。
ヴィクトリーヌ・タイユフェル
百万長者の父親に認知してもらえず、死んだ母の遠縁にあたるクーチュール夫人と下宿屋にひっそりと暮らす娘。
ビアンション
ラスティニャックの友人の医学生。
ダジュダ・パント侯爵
ポルトガルの富裕な貴族。ボーセアン子爵夫人の愛人。
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雄偉にして令名赫々たる
ジョフロワ・サン・ティレールヘ
その著作と天才を讃美するしるしとして
ド・バルザック
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下宿屋
ヴォーケル夫人は旧姓コンフランという年配のおかみさんで、もう四十年来パリで下宿屋を開いていた。カルチエ・ラタンとフォーブール・サン・マルソーの間にある、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りでのヴォーケル館といえば、すこしは人にも知られ、下宿人に老若男女を迎え入れていたが、相当に信用があるその下宿館の風儀を、ついぞ云々《うんぬん》せられたこともなかった。もっともここ三十年、若い連中をお客にしたことは一度もなかったし、家からの仕送りがよっぽど乏しければ別だが、若い身空でいて腰が落ち着けるような下宿屋でもまたなかった。
けれどこのドラマの始まった当時の一八一九年には、一人の貧しい娘がそこに下宿人になっていた。ドラマなる言葉は最近のロマンチック文学で、ふんだんに濫用されて歪められた結果、すっかり信用を堕《おと》してしまっているが、ここではぜひともその語を用いておく必要がある。なにもそれは言葉の本来の意味からいって、この物語がドラマチックだからというのではない。一巻のこの物語が果てるや、パリの城壁の内と外で、おそらく若干の涙が流されるであろうからである。だがこの物語は、パリ以外のところでも、十分に解ってもらえるだろうか? そうした疑問も一応はもっともだ。観察だくさんで、しかも地方色に溢れた本情景の特異性といったものは、モンマルトルの岡とモンルージュの高台にはさまれ、いまにも崩れ落ちそうな壁土とどぶ泥の溝川とで、名を売ったこの谷底のなかでもなければ、その真味を知るわけにはゆかぬからである。
生々しい苦悩と、とかくは空ろな喜びとに溢れたこの谷底は、それこそ恐ろしいまでに動揺を呈しているので、幾分なりとも長続きのする感動を、そこに惹き起こそうがためには、何か途方もないようなものをでも、持ち出さなければならないだろう。しかも、そこには悪徳と美徳とがよりかたまって、由々しいどえらいものとなった苦悩が、あちらこちらに転がっている。それに接したら利己心も射倖《しゃこう》心も、佇立《ちょりつ》してそぞろ憐れを催さずにはいられまい。だがそうした際に覚える感銘とても、かぐわしい果実のように、たちまち食らいつくされてしまうのである。文明の車は、かのジャッゲルナットの山車《だし》〔印度クリシュナ神像を載せる車。往時迷信者は喜んで身をその轍《わだち》の下に投じ極楽往生を遂げたという〕と同じで、よしんば余人のようにやすやすとは轢き砕きがたい心をその轍にかけるにしても、車輪の回転速度をやや緩めたと思うまもあらばこそ、たちまちにもそんなものは圧しつぶし去って、勝ちほこった歩みをなおも続けてゆくのである。
読者諸君もこの車と同じように、きっと振舞われることだろう。諸君はこの本をその白い手にとって、「こいつ面白そうだぞ」と呟きながら、ふくよかな肱掛椅子に深々と身を沈められる。そしてゴリオ爺さんの人知れぬ不運話を読み終えてからのち、お手前の無感動は棚にあげ、ひとえに作者をけしからぬものにして、やれ誇張にすぎるの、詩的空想に堕しているなどと、おとがめ立てになりながら、夕食の卓に向われて健啖ぶりを示されることだろう。ああ! だがしかと心得おかれたい。このドラマは作りごとでもなければ、お話でもないのである。オール・イズ・トルーだ。してその正真正銘さといったら、誰でもが各自の家のなか、おそらくはまたその心の奥深くに、このドラマの要素を認めることができるに違いない。
さて、この下宿館につかわれている建物は、ヴォーケル夫人の持家である。ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りの下手《しもて》、ちょうど界隈の地形がラルバレート街のほうへ、馬匹もめったに上り下りせぬほどの急な険しい傾斜をなして、落ちかかろうとしているあたりにある。こうした地勢のおかげで、ヴァル・ド・グラースの円屋根《ドーム》とパンテオンのそれとの間におしつめられたこれら町々には、あたり一帯に静寂がみなぎっているのだが、この二つの記念建造物から投ぜられる黄ばんだ色調のため、まわりの雰囲気もさま変って、円屋根の放ついかめしい色合いは、界隈一帯をいかにも陰気くさいものにしている。そこいらの舗石も乾き上り、溝には泥も水もなく、塀にそって雑草が生い繁っている。どんな呑気な人間でも、ここらを通りかかれば皆と同じようにやっぱり気が滅入りこんでしまうだろう。馬車の音でさえここでは一つの事件となる。どの家も暗くじめじめとして、庭塀は牢獄を思わせる。ひょっこりと迷いこんできたパリ市民が、ここらあたりで見かけるものといったら、賄《まかない》つきの下宿屋か学校か病院、貧窮か倦怠、死に瀕した老残の姿か、苦役を強いられる華やかなるべき青春のさまなどであろう。
パリのどこの界隈でもこれほど陰惨で、そして敢て言うならば、これほど人に知られないところはないだろう。わけてもこのヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りは、この物語をはめこむブロンズの額縁としては、何よりふさわしい唯一のものである。しかもこの物語たるや、どんなにくすんだ色合いや沈重な思索で、著者が読者の頭を準備しておいても、けっして過ぎるということはあるまい。それはちょうど地下墓所《カタコム》のなかに観覧人が降りて行くとき、一段ごとに日の光が薄れ、案内者の歌声が次第に洞《ほら》にひびいてゆくのと同じである。まったくこれはぴったりとした比喩だと思う。空洞の頭蓋骨と、ひからびきった心と、さてどちらが見て怖ろしいか、誰にそれが決められよう?
この下宿屋の正面間口は小庭に面し、建物はちょうどヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りと直角をなしているので、奥行はすっかり消されてしまっている。正面間口に添って、ちょうど建物と小庭との間に、小砂利を敷いた、幅一間あまりの水盤状の空地があり、その前方の砂を敷いた小径の両わきには、天竺葵《てんじくあおい》や夾竹桃《きょうちくとう》や石榴《ざくろ》などが植わった、青や白の大きな陶器鉢が並べてある。この小径に通じている中型の門には、一枚の看板が掲げてあり、それには「メゾン・ヴォーケル」、そしてその下のほうには「男女其他御下宿」と麗々しく書かれてあった。
甲高い呼鈴がとりつけられた格子門のあいだから、小さな舗道の突き当り、ちょうど通りに面した突き当りの壁の上に、界隈の画家の筆になる、緑の大理石まがいのアーチ門を、昼間ならのぞき見ることができるだろう。絵筆でごままかしていかにも神龕《ずし》みたいにしてあるその下に、キューピッドの像が立っている。もっとも像の塗料も剥げちょろけになっているが、それを見て象徴趣味を好む手合いは、そこから程遠からぬところで治療されているパリ社交病〔パリ社交病はそこからほど近いサン・ジャック新町にあったカピュサン病院(ミディ病院)で治癒されていた〕の神話をでも、きっとそこに読みとることだろう。像の台座の下にある、なかば消えかけた次のような碑銘は、一七七七年パリに帰ったヴォルテールにたいして示された熱誠のほどを披瀝《ひれき》し、この装飾物の由緒ある年代を偲ばせている。
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人なべて知れ、汝の主《あるじ》はキューピッドぞ
彼は主なり、かつて主なりき、なお主たるべし
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夜になると格子門は完全な門に置き替えられた。正面間口と同じ長さを幅にしている小庭は、通りの庭塀と隣家の仕切塀とに囲まれていた。常春藤《きづた》のマントが隣家には一面に垂れかかっておおいつくし、パリの町なかだけに、それは絵のような効果をあげて、道行く人々の眼を惹いていた。どの塀も樹檣《じゅしょう》となった果樹や葡萄樹でおおわれ、その埃りっぽいひょろひょろした果実の実り具合はヴォーケル夫人の年々の懸念の種であり、下宿人相手の好個の話題となっていた。庭の両塀に添って、狭い小径が菩提樹《チュール》の木立にと通じてくる。コンフラン家の生まれながらヴォーケル夫人は、下宿人たちの再三の文法上的注意にもかかわらず、頑としてチュイユとそれを発音して止まなかった。左右の両小径の間に、円錐形に仕立てられた果樹の寄り添った朝鮮|蘇《あざみ》の方形花壇があって、その周囲はすかんぽ、ちしゃ、ぱせりなどで縁取られていた。菩提樹の木立の下には、緑色の円テーブル、腰掛がそのまわりにはおかれてあった。土用の候になると、コーヒー代ぐらいには事欠かぬ程度の客人たちが、卵もかえりそうな炎暑のさなかを、ここまでコーヒーを啜《すす》りに出張《でば》って来る。
正面建物は四階建てで、その上に屋根裏部屋がある。総体粗石づくりで黄色く塗りつぶされているが、パリのほとんどすべての家屋敷が、不名誉の凶相をかく呈しているというのも、もっぱらかかる黄色塗りのせいである。小さなガラスのはまった五つの開き窓が、正面の各階にはあって、それぞれにブラインドが取り付けられてあるが、それが思い思いの揚げ方をしているので、いっせいに並ばずに妙にちぐはぐである。建物の側面には各階に窓が二つずつ、一階のそれには金網張りの鉄格子が、飾りとしてついている。建物の裏手には、およそ三間幅ほどの中庭があり、豚、鶏、兎などが、仲よくそこに暮らしている。突き当りには薪をしまう物置小屋があって、物置と調理場の窓の間には肉類を入れる容器が吊してあり、その下を流し場の脂ぎった汚水が流れてゆく。この中庭にはヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りに面した狭い小門がついていて、悪臭は真平御免とばかり炊事女は、この汚水溜にざぶざぶと水を注いで、家うちの汚物を門から外へと掃き落してしまっている。
もちろん、一階は下宿営業用にあてられていて、そのとっつきの部屋は、通りに面した二つの窓から採光し、ガラス張りのドアで出入りするようになっている。このサロンにすぐ続いた食堂は、階段口で調理場から隔てられている。階段は蝋引きの着色タイルと木とでできている。艶のあるのとないのとで、互い違いの縞模様に織られた粗毛織の肱掛椅子や腰掛が、ずらり備えつけられたこのサロンほど、見る目にもの悲しい眺めはまたとないであろう。中央には灰白のサント・アンヌ大理石をはった丸テーブルがあり、その上には今日到るところに見受けられる白磁のコーヒーセットの、金の網目模様もなかば消えかかったやつが、飾りとしておかれてある。床張りの粗悪なこの部屋は、肱の高さぐらいまで、腰羽目が張られている。残りの壁の部分には、テレマークの主要場面を描いた、ワニス塗りの壁紙が貼ってあり、その古典的人物にはいずれも彩色が施してある。鉄網を張った窓と窓との間の鏡板には、ユリシーズの息子のためにカリプソが催した饗宴の図が、下宿人たちの展覧に供されている。四十年来この絵は、若い下宿人たちの冗談の種になって来た。懐《ふとこ》ろが淋しいのでやむなく忍んでいる下宿の飯を自嘲して、いつまでもこんな境遇に甘んじている身ではないと、思い上っていたからである。石の暖炉の焚き口がいつも綺麗なのは、よっぽどの特別な場合でもなければ、火がたかれぬことを現わしていた。暖炉棚には丸笠をかぶせた古ぼけた造花が、二つの花瓶に仰山に挿してあり、その近くにはいとも悪趣味な青大理石の置時計が飾りとしてでんと据えおかれていた。
このサロンの発散する匂いといったら、およそ言葉では言い表わしようがないが、強いて言ったら、「下宿屋の匂い」とでも評すべきものだろう。むっとしてかびくさく、腐った脂肉のような悪臭、ひやっとし、鼻にしめっぽく、衣服にまで浸み込む|てい《ヽヽ》の匂い、食べ終ったあとの部屋の匂い、調理場、食器室、遍路宿泊寺の匂い。老若下宿人めいめいからの、「その独特な」カタル性の発散気が放つ、嘔吐を催すようなこうした臭気の成分を、検定する方法でももし発見されたなら、おそらくかかる匂いをも描破することを得よう。だがなんと、こんな平俗ないとわしさを覚えるサロンではあったが、これでもお隣の食堂にくらべたら、まだしも貴婦人方の紅閨《こうけい》のように、優雅で香り高いものとも申せることが、おわかりになられよう。
その食堂たるや、すっかり羽目板づくりになっている。もとは何かの色で塗られてあったのであろうが、今はもうさだかではない。その地色の上を、塵垢が層をなして、奇怪な模様を描いている。壁わきのねばつくような食器戸棚の上には、切子の曇りガラスの水差し、波紋形のついた錫《すず》のお盆、青い縁とりをしたトゥールネ焼の厚手の磁器皿の一かさねなどがのっていた。片隅にある箱には、番号のついた仕切りがついていて、汚れたり、葡萄酒のしみがついたりした下宿人たちのナプキンが、そこにはしまわれている。よそだったらどこでもお払い箱の、ぶっこわしてもぶっこわれぬ家具類が、ここには陣取っていて、まるで養老院における文明の敗残者たちといった恰好で控えている。部屋には雨が降るとカプシン僧の人形が、顔を出してくる晴雨計があり、食欲も失わさせられるような俗悪な版画が、金線の入った漆塗りの木框にあちこちおさまり、銅の象嵌をした鼈甲《べっこう》型の掛時計、緑色のタイルの陶器製ストーブ、埃と油とが一緒についたアルガン式のケンケ洋灯。それにまた、細長い食卓の上の蝋引のテーブルクロスといったら、すっかり脂がしみついていたので、外から飯だけ食いにくる悪戯好きの病院助手だったら、外科用のメスでのように指をつかって、自分の名をそこに、書きとめることもできたであろう。それからまたびっこな椅子、スパルト繊維でできたみじめったらしい小さなわらマット、こいつはいつも巻きが戻ってしまっていたが、ついぞその姿を消したことがない。それに穴があき、蝶番《ちょうつがい》ははずれ、木も黒こげになった見る影もない足|炬燵《ごたつ》。これらの家具調度がどんなにおいぼれて、ひびだらけで、腐りはて、ぐらぐらにむしばまれ、片輪で片目でよぼよぼで、気息えんえんたるありさまであるか、それを逐一説明するには、およそ事詳しい描写が必要となるのであるが、それではあまりにもこの物語の興趣が殺《そ》がれ、せっかちな読者諸君はご容赦になってはくださるまい。
磨りへったためか、それとも色塗りしたためか、床の赤いタイルはくぼみだらけである。そんなわけでここに君臨しているのは、詩情のない貧窮といってよい。鬱積した、擦り切れきった貧窮である。まだ泥にこそまみれてはいないが、|しみ《ヽヽ》だらけの貧窮である。穴もつづれもない貧窮ながらに、いまにも腐ってしまいそうなそれである。
この食堂がもっともその光彩を放つのは、午前七時ごろ、ヴォーケル夫人の飼猫がご主人より先に現われて、食器戸棚の上に跳びあがり、小皿でそれぞれ蓋をしたお碗のなかの牛乳を嗅ぎまわって、ごろごろ朝方の咽喉ならしをする一時であろう。まもなくお女将《かみ》も姿を現わす。きざったらしくかぶったツル織の布帽の下からは、入毛の付髷《かもじ》がゆがんではみ出ている。しわだらけにすぼまったスリッパを、足に引きずってだ。老けた小肥りの顔の中央には、おうむのくちばしのような鼻が出張っている。小さなぽっちゃりした手、教会にしげしげ通う信心家のようにでっぷりとした物腰恰幅、充溢しきって波を打っている胴着、そういったすべては、打算心がうずくまり、わざわいが泄《も》ってきているこの部屋と、ぴったり調和をかもし出していた。ヴォーケル夫人は、生暖かいむっとする部屋の悪臭を吸っても、いっこうに胸も悪くせられないもようだった。秋の初霜のようなお女将の冷ややかな顔立ち、しわの寄った眼もと、踊子の作り笑いから、手形割引業者の苦い渋面にまでもかわるその表情具合、いってみれば夫人の人体《にんてい》のすべてが、この下宿屋を解明しつくしていること、下宿がお女将の人柄を含有しているがごとくにであった。そういえば徒刑場も看守なしにはすまされない。そのどちらかを抜きにしたら、そのものの想像はできないだろうからだ。背の低いこの青ぶくれの夫人は、こうした生活環境の所産だったのだ。ちょうどチフスが病院の発散空気の結果であるように。毛編みの下袴《したばき》が、上着のお古でつくったスカートからはみ出し、ひびいった布地のほころびから、綿がのぞき出しているといったそのあんばいは、よくこのサロンや食堂や小庭を、端的に表現するものであり、それは料理場をも予告し、あわせて下宿人たちをも予覚せしめている。されば夫人がその姿を見せてはじめて、この場の光景もここにその全きを得るわけである。
五十そこそこぐらいのヴォーケル夫人は、「よもの苦労をなめつくした女」のすべてに似たところがあった。ガラスのような眼玉をし、もっとよけいに玉代を払わせようとむきになる、遣手《やりて》婆さんの生《き》一本さがそこにはほの見えていた。しかも自分の運命をやわらげるためなら、どんなことだってやりかねぬ気象の女だった。もしも陰謀人のジョルジュなりピシュグリュ〔ジョルジュ・カドゥダルはブルターニュの王党派首領で、ナポレオン暗殺を企てて一八〇四年逮捕されて斬首。ピシュグリュ将軍もその連累者として同じ運命をたどった。『暗黒事件』参照〕なりが、いまだにお上に売り込めるものなら、すかさずやってのけたであろう。にもかかわらず、下宿人たちは、「根はいい女なのだが」とお女将のことを言っている。自分たちと同じようにお女将が泣きごとを言ったり、しゃくりあげたりするのを聞いて、めぐり合せの悪い人とばかり、思いこんでいたからである。亭主のヴォーケルとは、なにをしていた男だったのだろう? 亡夫のことをお女将は、ついぞ人に語り聞かせたためしがない。どうして亭主は破産したのだろう? 「不仕合せ続きでしてね」と、お女将はそれに答えていた。亭主は彼女にさんざんに苦労をかけ、その死後に遺したものといったら、泣くための眼と、住むためのこの家屋敷と、他人のどんな不幸にも同情する|せき《ヽヽ》はない権利とをだけだった。なぜなら苦しめるったけの苦しみを、みんな自分は嘗めたのだからというのが、このお女将の通り文句であったから。
女主人の小刻みな足どりを聞きつけて、でぶっちょの料理女シルヴィは、あわてて寄宿人たちの朝飯の仕度にとりかかった。外から食事をしにくる客は、概して夕飯の折だけで、これは月ぎめ三十フランの割りになっていた。
この物語のはじまった当時、下宿人は総勢七人だった。二階にはこの家で最上の二組の部屋があり、その小さいほうにはヴォーケル夫人が住み、もう一つをフランス共和国政府陸軍出納支払官未亡人たるクーチュール夫人が占めていた。母親代りになって同夫人は、ヴィクトリーヌ・タイユフェルというごくうら若い娘と一緒に暮していた。この二婦人の下宿代は千八百フランに上った。三階の二部屋もふさがっていて、一方はポワレという老人、もう一方は四十がらみで黒いかつらをつけ、頬ひげも染めたヴォートランと名乗る、もとは商人だったとかいう男が住んでいた。四階は四つの部屋から成り、その二つが貸されていた。マドモワゼル・ミショノーという老嬢と、以前はそうめんやマカロニやうどんなどの製麺業者で、ゴリオ爺さんとみんなから呼ばれて甘んじている老人とが、それぞれそこに住んでいた。ほかの二部屋は渡り鳥も同様な連中、ゴリオ爺さんやミショノー嬢と同じく、賄費と間代をあわせて、月に四十五フランしか払えぬような貧乏学生にと用意されてあった。ヴォーケル夫人は書生を置くことをあまり喜ばず、他に適当なのがない場合にだけ、迎え入れていた。書生はパンを食べすぎるからである。
ちょうどその頃、この二部屋の一つを、アングレーム近傍から法律の勉強にと、パリに上って来た一青年が借りていた。家族が多いので年に千二百フランの仕送りをするためには、彼の一家もそうとうな窮乏を忍ばねばならなかった。ウージェーヌ・ド・ラスティニャックというのが、その青年の名だったが、自分の逆境に発奮して、勉学へと志を立てた立身青年の一人で、双肩にかかった両親よりの嘱望のほどを年若くして彼は知り、学問のご利益をはやくも考え合せて、他日の立身栄達にそなえて、その学業の指針を社会将来の趨勢にあらかじめ順応させて、衆に先んじて社会を搾取してやろうという、年少気鋭の一人であった。
好奇の念に燃えた彼の観察と、パリのサロンに入り込みおおせた巧みなその手腕とがなかったら、この物語もこれほど真実味のある色調で、彩りつくすことはできなかったであろう。まさしくこれ彼の鋭敏なる頭脳の働きと、慄然たる状況の秘密を看破しようとした、その願望に帰すべきものである。しかもこの状況たるや、それを作り出した人たちからも、またそれを忍従している者からも、ひた隠しに隠されているところのものであったが。
四階の真上には洗濯物を吊して乾かす小室と、二つの屋根裏部屋とがあって、そこに下男のクリストフと、でぶっちょの炊事婦シルヴィとが寝泊りしていた。これら七人の下宿人のほかに、ヴォーケル夫人は法科や医科の学生たち、年にならして八名ばかりと、また近所に住み、夕御飯だけの契約の二三人の常連とをとっていた。だから夕飯時には、食堂に十八人ばかり集って来たが、二十人ぐらいまでは優に収容ができそうに見えた。しかし朝は七人の下宿人しか現われなかったので、朝飯のあいだのそのつどい具合といったら、家族たち内輪の食事時の観をば呈していた。それぞれに上靴のまま降りて来て、外から食事に来る連中の風采や態度、前夜の出来事などについて、ざっくばらんな意見が交され、水入らずの親しさでみんなは語りあっていた。これら七人の下宿人はヴォーケル夫人の駄々っ子たちだった。夫人はそれぞれの下宿料の額によって、その心尽しなり敬意なりを、さながら天文学者よろしくの精確さで測って、わかち与えておったのである。
偶然の巡りあわせから、ここに同宿することになった七人も、それと同じような斟酌《しんしゃく》をはたらかせていた。三階の下宿人二人は、月に七十二フランしか払っていない。クーチュール夫人だけはべつとして、こんな安い下宿料は、ラ・ブールブ慈善産院とサルペトリエール女性救護院とのあいだにある、サン・マルセル通りでもなければ、とうていに見られない相場で、多少なりと目立つ不幸の重荷の下に、これら下宿人はおしひしがれている連中に違いないことを、前知らせするものである。そんなわけでこの家の内部が、むき出しにしている荒涼たる光景は、その常連たる住人たちの、いちように損じた着衣のなかにも、繰り返されていた。男たちのつけている長上着は、怪しげな色にあせ、都雅な巷《ちまた》なら道ばたの隅に転がっているような靴を、それぞれにはいて、シャツは擦り切れ、下着はお化けとなっていた。女たちのローブも、これまた流行おくれの染直しや色あせもので、古いレースは繕《つくろ》いだらけ、手袋も使い古して垢光りし、襟飾りは万年褐色、肩掛けといったら総体がほぐれかかっていた。服のほうはこんなふうとしても、それをつけているからだのほうは、大部分ががっしりとした骨組で、人生の嵐に耐えきった体躯をし、顔つきは硬く冷たく、通用停止をくったエキュ銀貨のそれのように、微塵も艶っ気が見られなかった、萎《しぼ》んだ口許ながら、がつがつした歯が武張《ぶば》っていた。幕のおりたドラマか、あるいは現に演ぜられつつあるドラマが、これら下宿人からは予覚させられた。もっともそれは華やかな脚光を浴び、彩られた書割《かきわり》のあいだで演ぜられるドラマではなく、生ける無言のドラマ、心をあつく掻き乱し、血を凍らせるようなドラマ、いつ果てるとてもない持続のドラマである。
老嬢のミショノーはその虚弱な眼の上に、慈悲の天使をも瞠若《どうじゃく》たらしめるほどの真鍮の縁枠がついた緑の絹布の汚れた眼庇《まびさ》しをつけていた。やせて泣き出しでもしそうな、すりへった房のついたその肩掛けは、まるで骸骨でもおおっているかのようだった。それほどにその下にかくされたからだつきといったら、骨ばっていた。どんな酸類がこの老嬢から女らしい姿形を、かくも腐蝕してしまったのだろう? かつては彼女とても愛くるしく、すっきりとしておったのに違いはない。それは悪徳のせいか、苦悩のためか、それとも貪欲の結果でもあろうか? 色恋に耽溺でもしたのだろうか? 小間物屋の女行商人でもあったか、それとも単なる娼婦だったのであろうか? 快楽に飛びかかられた不遜な青春の勝ちほこった悦喜《よろこび》を、通行人も避けるような老醜によって、かく彼女はいま償《つぐな》っているのであろうか? その空白の眼差しはそぞろ人に寒気を与え、かじけたような顔立ちは、相手を嚇《おど》すかのようだった。彼女の甲走った声音といったら、冬のまぢかに茂みのなかで啼きたてる秋蝉さながらであった。なんでもその語るところによれば、無資産と思われて、子供たちから顧みられなかった膀胱カタル患者の老紳士を、彼女がねんごろに看護してやって、千フランの終身年金を遺贈されたそうだが、その支払期日がくるごとに、相続人たちから彼女は讒謗《ざんぼう》の的になり、一もんちゃく繰り返すのが毎々の慣いだという。情欲のすさびによって彼女の顔も、すっかり荒《すさ》みきっていたが、それでもまだいくぶんかは昔の色白さと、きめの細かさとをその面影にとどめて、肉体にも残んの色香を、まだ失ってはいないことを、思わせるにたるものがあった。
ポワレ氏は一種の機械人間であった。柔らかな古汚い鳥打帽をかぶり、黄ばんだ象牙の握りのステッキをかるく持ちそえ、ほとんど中身のない半ズボンを隠しもあえぬフロックコートの、色褪せた襞《ひだ》をひらつかせて、青靴下をはいた両脚を、酔っぱらいのそれのようにブルブル慄わせ、うす汚い白チョッキ、しわだらけの粗いモスリン・シャツの胸飾り(もっともそれは七面鳥のような首のまわりに結んだネクタイと、うまく結びつかずに、およそちぐはぐになっていたが)、そうした風体をして植物園の小径にそって、灰色の影のようにひょろついている彼の姿を眺めた人たちは、この影絵のような人間も、肩に風を切ってブルヴァール・イタリアンを闊歩する、ジャフェ〔ノアの息子の一人〕の血をひくあのたけだけしい種族に、やはり同じく属しているのかと、いぶからずにはいられないだろう。こんなに萎びきるとは、そもどんな稼業をしてきたからというのだろう。漫画にしたらこの世のものとも思えぬほどの、いたるところ脹れ上った彼のご面相を、いったいどんな情熱が、かつては輝かせたというのだろう。もとは何をしていた男なのだろう? おそらくは司法省の下っ端役人かなにかで、死刑執行人が親殺しの処刑に使う黒頭巾だの、首籠にいれる糠《ぬか》だの、処刑刀を上げ下げする綱などの消耗品の計算書でも、送付してくる課あたりに、働いていたに違いないだろう。それとも屠殺場の入口の受付番か、衛生局の副検査官ぐらいだったのかもしれない。つまりこの男は社会というわれわれの大きな粉挽場の臼まわし驢馬のなかの一匹、ベルトラン猿の存在さえ知らずに、火中の栗を拾うあのパリのラトン猫ども〔ラ・フォンテーヌの寓話『猿と猫』より。お先棒になって猫《ラトン》が拾う火中の栗を、猿《ベルトラン》が片端から食ってしまう〕の一人、社会の不幸・不潔をぐるぐると廻らせている機構《からくり》の下の心棒役、要するに我々が見て、「あんな人間もやっぱり要るのさ」という人間の一員だったもののように思われる。
だが精神や肉体の苦悩に蒼ざめたこれらの顔を、美しいパリは無視してしまっている。パリはまったくの大海原である。測深錘《ソンド》をそこに投じてみても、決してその深さはわかるまい。なんなら隈なくはせめぐって、探査しようとしてごらんになるがいい。いくら入念にはせめぐっても、また周到に探り尽くそうとしても、またこの海原に深い興味を抱いた探検家たちを、どんなに数多く集めたにしたところで、必ずそこには処女地が残り、未知の洞窟やら、花やら、真珠やら、妖怪やらに出会い、文学の潜水夫からは忘れられていた未曽有のなにかが、潜んでいることに気づかれるだろう。そしてこのメゾン・ヴォーケルも、そうしたけったいな奇怪事の一つだったのである。
他の下宿人や外来の常連たちの有象無象《うぞうむぞう》と、かなりと際立った対照を見せている二つの姿が、この家にはあった。その一人、ヴィクトリーヌ・タイユフェルは、萎黄《しゅくおう》病にかかった娘のように病的に青白く、常にうち沈んで、おもはゆげな物腰をし、貧相でか弱そうな様子をして、この画面の背景をなす全面的な苦悩に、結びついていたが、その顔はそう老《ふ》け込んでもいなかったし、態度や声音《こわね》もなかなかに敏活であった。この不仕合せな娘は、性の合わぬ土地に植えられて早々に、葉の黄ばんでしまった灌木にも似たようなところがあった。その茶褐色をおびた顔立ち、淡褐色のブロンド髪、華奢すぎるその体躯などには、現代の詩人たちが中世の小さな塑像に見出す、あの優美さが現われていた。黒みがかったその灰色の眼は、キリスト教的な柔和と諦観を見せていた。簡素な、あまり金のかからぬ着付けからも、若々しい体躯がこぼれ出ていた。そばに何かを添えてやれば、彼女は美しくなるような女性だった。だから仕合せを添えてやったなら、きっと目がさめるばかりに美しくなったことだろう。幸福は女の詩美《ポエジー》である。それはちょうど、お化粧が女の外飾りとなるがごとくだ。もしも舞踏会の歓喜が、その薔薇色の色合いを、この蒼白い顔の上に反映させるとしたら、または華美な生活の香わしさが、はやもう軽くこけ出した彼女の頬を、ふくよかにして紅く色づけたとしたら、もしもまたこの悲しげな眼が、恋心に燃えて活々《いきいき》としだしたとしたら、ヴィクトリーヌはさだめしどんな美しい娘とでも、その妍《けん》を競うことができたであろう。彼女には再度女を創造するところのもの、服飾品と恋文とが、欠けていたのである。
彼女の身の上話からは、優に一巻の書を著わすことができよう。わが子として彼女を認知のできぬわけがあると信じて、その父親は彼女を手許におくことを拒み、年にわずか六百フランしか仕送りをせず、全身代を息子に譲れるようにと、不動産から動産へと乗り替えてしまっていた。ヴィクトリーヌの母は、遠縁にあたるクーチュール夫人のところへ身を寄せ、とうの昔に嘆き死にしてしまったので、未亡人はこの孤児を、わが子のようにして育て上げて来た。けれど不幸にしてこの共和政府陸軍出納支払官未亡人は、その扶助料と予贈財産としか、この世に持ってはいなかったので、いつかは経験も資産もないこの憐れな娘を、浮世の荒波に一人のこして逝《ゆ》かねばならなかったのであった。心の優しい未亡人が、ヴィクトリーヌを日曜日ごとにミサヘ、そして半月ごとに告解懺悔の席へと伴ったのは、よしやどんな目に娘があおうと、決して信仰を棄てさせまいがためであった。
そして未亡人の考えは正しかった。父親から認知されぬこの娘に、信仰心は未来への希望を与えていたからである。彼女は父を愛し、母の寛恕《かんじょ》の言葉をたずさえて、毎年父親のところへ出かけたが、むごくも閉ざされた玄関先で、そのつど、門前払いをくらっていた。たった一人、父との間の執りなし役ともなるべきはずの兄は、四年のあいだつい一度でも彼女に会いに訪ねては来ず、すこしの援助をさえも、送りよこさなかった。彼女は父の眼があき、兄の心がやわらぐようにと神にすがり、二人になんのとがめ立てもするどころか、彼らのためにと天帝に祈っていた。こうした野蛮な仕打ちをうまく形容する非難語は、辞書のなかにも探すことがむずかしいと、クーチュール夫人とヴォーケル夫人とは、いきまいていた。そして破廉恥なあの百万長者を、口をきわめて二人が罵り出すと、ヴィクトリーヌは苦痛の叫びのなかにも、なお愛の情《なさけ》の失せない、傷ついた山鳩の歌にも似た優しい言葉つきで、父親のことをしきりと弁護するのであった。
ウージェーヌ・ド・ラスティニャックはいかにも南方人らしい顔立ちで、色白く、髪黒く、眼も青かった。彼の物腰なり挙措《きょそ》なり、その不断の態度なりには、名家の子弟の一員たることがうかがえ、伝統的な品のよい趣味ばかりを、幼時からの薫陶に受けてきたことが察せられた。着惜しみをして彼は、ふだんは昨年の服を、すり切れるまで着通していたが、それでもたまには高雅な青年のように着飾って、外出することなどもあった。いつもは古いフロックコートに汚いチョッキ、色あせたお粗末な黒ネクタイ、それも学生式に結びのだらけた代物、ズボンもそれにふさわしいような安物、長靴も底革を張り替えた捨物《すてもの》をはいていた。
二人のこの若い男女とほかの連中との間の、ちょうどその過渡期といったのが、頬ひげを黒く染めた四十男のヴォートランであった。彼は「あいつはがっしりした男だ!」と、そう世間から言われるような種類《たち》の人間だった。肩幅広く、上体はがっしりとし、筋肉も盛り上って、手は肉厚く角張り、指関節まで赤褐色の毛が、もじゃもじゃ密生しているのが、特に目立った。年の割には多くのしわがはや刻まれていたその顔には、迎合的でもの柔らかなその物腰にも似ない、厳刻《げんこく》さのしるしが現われていた。低音の彼の声音は、がさつな陽気さと調和していて、あまり不愉快な感じを人に与えなかった。なかなかに親切気もあって、笑い上戸だった。錠前の具合が悪かったりすると、さっそくにそれを取りはずして応急の修理をし、油をさし、鑪《やすり》をかけてのち、ふたたび取り付けてから、「こんなのお手のものでさあ」と言っていた。そればかりか船のこと、海のこと、フランス国内のこと、外国でのこと、商売のこと、人間のこと、世間での出来事、法律、官界、牢獄のことなど、彼はあらゆることに通暁していた。もし誰かが常になく愚痴をこぼしなぞすると、さっそくに彼は救助の手をさしのべてやるのだった。ヴォーケル夫人や同宿人のだれかれに、お金を融通してやったことさえも何度となくある。けれど彼から借金をした連中は、それが返せないようなくらいなら、いっそ死をも選んだことであろう。
人の好さそうなふうには見えたが、決断に富んだ奥深い彼の眼差しといったら、それほどの恐怖感を相手に与えていた。彼の唾の吐き方さえからしても、平然たる沈着ぶりがうかがわれたし、険呑な立場から脱するためなら、罪を犯すこともあえていとわぬといったその心意気のほどまでしのばれた。彼の眼は峻厳な裁判官のそれのように、あらゆる問題、良心、感情の奥底までをも、見透しがつきそうだった。日課のように朝食後に出かけて、夕食時に戻り、食後また外出しては真夜中に帰ってきた。ヴォーケル夫人から授かった合鍵を用いてであるが、彼一人がこうした恩恵にあずかっていた。それというのが、お女将とは|うま《ヽヽ》が合っていたためで、ママアと呼びながらその胴を抱きかかえてやったりしていた。もっともこれは十分にありがた味を知られたお追従とは申せなかろう。というのはお女将にすれば、やすやすと誰にもできる仕草とばかりこれを心得ていたごとくだからで、その実はヴォートラン一人だけが、どえらい貫目のこの胴まわりをかかえこめるだけの長い腕を、持っていたのである。食後に飲むブランデー入りの黒コーヒーのため、気前よく月に十五フランずつも払っていたのも、彼の気性の一つの現われであった。パリ生活の渦に巻きこまれたこの若い連中や、自分たちと直接関係のないことには、しごく無関心でいるこれらの年寄り仲間ほどに、うわっつらで放心家でない人たちだったら、ヴォートランから受けるちと胡散《うさん》臭い印象を、よもやそのままにはしておかなかったであろう。
なにしろ彼のほうでは、周囲にいる連中のしていることをちゃんとわきまえ、見抜いてもいたのに反し、連中一人として彼の腹中なり仕事なりを、見極めることはできなかったのである。うわべのお人よさや、いつにかわらぬ如才なさ、陽気さなどを、自分と他人との間をへだてる防塞として、築いている彼ではあったが、ときとしてその性格の怖ろしいまでの底深さを、ふとのぞかせるようなこともあった。時おり彼はユウェナリウスにも劣らぬような警抜な諷刺をもって法律を愚弄したり、上流社会を鞭打って、その自家撞着を責めたりして、痛快がっているように見えることさえあり、社会組織に対して彼が怨恨を抱いていることや、その生活の奥底には用心深く隠されているなんらかの秘密がひそんでいることを、人に思わせるような場合もあったからである。
タイユフェル嬢はおそらく自分でもそれと知らずに、ヴォートランのたくましさに、ないしはラスティニャックの美貌に、心惹かれていたものか、そのぬすむような眼差しと隠れた胸裡の思いを、この四十男と若い法学生の間に、わけあっていた。いつの日か偶然によって彼女の境遇も一変し、富裕な結婚相手ともならないでもなかったが、二人の男ともに、彼女のことを、想っているとは見えなかった。それにまたここの住人たちは、仲間の一人が申し立てる身の不運話の真偽のほどを、確かめようと骨折るものなども、てんでいあわさなかった。みんなそれぞれに他に対して、お互いの境遇の結果である、疑念の交った無関心さを抱いていたからである。それに他人の苦悩をやわらげる力のないことを自覚してもいたし、はや互いに苦しみを語りつくして、哀悼の盃をすでに空にしてしまってもいた。まるで老夫婦のように、彼らはもうなんの語り合うこともないのであった。彼らのあいだに残されているものといったら、機械的な生活のつながりだけ、油の切れた車仕掛の働きだけだった。だれもが街頭の乞食の前は、目もくれずにまっすぐ通りすぎたし、他人の不運な身の上話を聞かされても、いささかの憐憫すらも覚えず、苦悩問題の解決だったら死のなかに見出せばいいと、考えるまでにいたっていた。そしてどんな怖ろしい断末魔の苦しみにも、すっかり冷淡になってしまっていた。
これら荒廃の魂のなかで、もっとも運のよかったのは、この自由養老院に君臨していたヴォーケル夫人であって、寂寥《せきりょう》と寒冷、乾燥と湿潤とが、シベリア草原さながらの、広漠たる感じを与えているこの小庭も、夫人にとってだけは、えみこぼれんばかりの緑蔭であった。陳列台の緑青《ろくしょう》といった感じの黄色い陰気なこの建物も、お女将にだけは無上の愉悦を与えていた。なにしろこの監獄部屋は彼女の持物だったから。無期懲役を宣せられたこれら徒刑囚を、彼女は扶養してやり、あくなき勢威をふるって、彼らから尊敬をば受けていたのだから。まったく彼女の請求するような安いお値段で、こんなに豊富で衛生的な食事と、瀟洒《しょうしゃ》で快適とまではいかずとも、すくなくとも小ぎれいに、衛生的に、しようと思えばできるような部屋を、これら憐れな連中はいったいパリのどこで、見つけられるだろう。だから彼女が目にあまるような不公平をあえてしたって、犠牲者は愚痴一つこぼさずに、耐え忍んだに違いはないのである。
このような集《つど》いは全社会の諸要素を小規模に示すのがその償いであって、ここでもそのためしに洩れなかった。学校や世間でも同じことで、十八人の会食者のなかに、かわいそうに一人みんなから見下げられ、弄《なぶり》者になって、雨のごとくに冷罵を浴せられていた人間がいた。下宿に入った二年目のはじめから、ウージェーヌ・ド・ラスティニャックはまだこれから二年間、一緒に暮さねばならぬ定めのこれら連中のなかで、この弄《なぶ》られ者に一番に注目をひかれた。このいじめられっ子はその昔麺類製造業を営んでいたゴリオ爺さんであって、画家にしても物語作者と同じように、この爺さんの頭上に、画面の全光線を集注させることだろう。
だがどうした偶然からこの最古参の下宿人に、なかば憎しみのこもったこの侮蔑、憐憫の念のまじったこの迫害、不運な彼に対するこの無頓着ぶりが、襲いかかるようになったのだろうか? 放蕩や悪い道楽ならば人は許しはしても、ばかげたことや奇矯な行いとなると、世間はなかなかに大目に見てはくれないものだが、そうした振舞がやっぱり彼にもあって、こんな事態を生んでしまったのであろうか? だがこれらの問題は社会の不公正の多くと、密接なつながりを持っている。ほんとに謙虚な気持からにせよ、ないしは弱気からにせよ、あるいは無関心からにせよ、どんなことでも堪え忍んでしまう人間に対し、あらゆる酷い仕打ちを加えるというのが、人間の本性のなかにあるのではないだろうか。我々にしたって、何人《なんぴと》かの、あるいは何物かの犠牲において、我々の力を証拠立てて、快としているのではないだろうか? もっともかよわいところの子供ですら、霜の降る夜、戸ごとに呼鈴を鳴らしてみたり、真新しい記念碑に自分の名前を落書すべく、背のびをしたりしているではないか?
ゴリオ爺さんは六十九歳ぐらいの老人で、一八一三年に商売のほうはやめて、ヴォーケル夫人の下宿へ引籠りにきた。初め彼はクーチュール夫人がいま占めている一組の部屋に入り、千二百フランの下宿代を払い、百フランぐらいの多い少ないは、どうでもいいという気前よさを見せていた。なんでもヴォーケル夫人は、下宿代を前金で払わせて、この一組三間の部屋に手入れをし、黄色いキャラコの窓掛けとか、ユトレヒト|びろうど《ヽヽヽヽ》をきせたニス塗りの木製肱掛椅子とか、何枚かのテンペラ絵とか、場末の居酒屋でもいやがるような壁紙とか、俗悪なそうした室内装飾費を、うまうま拈出《ねんしゅつ》したものと言われている。この時分にはゴリオ旦那とうやうやしく呼ばれていたゴリオ爺さんは、きっとその無頓着な鷹揚さのため、いいようにごまかされて、金銭上のことは何もわからぬ抜け作のように、お女将から見くびられてしまっていたのだろう。
ゴリオは中身がぎっしりと詰った衣裳箪笥を持ち込んできたが、これは商売をやめるとき、金に糸目をつけずにしつらえた実業家の、あっぱれ見事な衣裳調度品であった。ヴォーケル夫人は中等オランダ麻のワイシャツが十八枚もあるのに、すっかり驚嘆してしまった。その生地の上等さもさることながら、ワイシャツに縫いつけられてある胸飾りには、一本の小鎖でつないだ二つの飾り針がついていて、大きなダイヤがそのそれぞれに嵌めこまれてあった。不断は薄青色の背広に、白のピケのチョッキを日ごと着ていたが、その下からは梨状をして突きでたお腹が波うって、飾りのついた重い金鎖をゆるがせていた。同じく金製の煙草ケースのなかには、記念品入れメタルがあり、女の髪の毛がいっぱいにそこに詰っていたので、艶福でさんざん罪作りをした男のように、ちょっと見るととれそうなあんばい式であった。それでお女将が彼のことを、「女たらし」と言って冷やかすと、まんざらでもない料簡をくすぐられたといったかたちで、町人風の陽気な微笑をゴリオは唇辺に漂わせた。彼の茶箪笥《アルモワール》(彼はこの言葉を下層階級の連中式に、オルモワールと発音していた)のなかは、世帯道具の銀器類でいっぱいであった。彼の荷解きをお女将は親切に手伝って、大さじだのシチューさじだの、揃いの食器だの薬味瓶だの、ソース入れだの皿類だの、金メッキした銀の朝飯用食器セットだのを並べ立てながら、すっかり眼を輝かせてしまった。そのほかにもまだ数マルクもの目方のある、かなりと美しい金銀食器類がいくつもあって、それらはなんとしても彼に手離すことのできぬ品々らしかった。というのは、それら贈物は彼の盛大な家庭生活の、思い出ともなるものばかりだったからで。
「これはね」と彼は嘴《くちばし》をついばみあっている二羽の雉鳩《きじばと》をあらわした蓋つきの小碗と、一枚の皿を取り片付けながらヴォーケル夫人に言った。「結婚記念日に女房がわしにくれた最初の贈物なんですがね、かわいそうに女房のやつ、娘時代の貯金全部を、これにそっくり使ってしまったというんですよ。ねえ、おかみさん、わしは爪で土を掻くような苦しみをしたって、こいつばかりは手放すこっちゃありませんや。わしもこれでありがたいこってすさ! 寿命の続くかぎり毎朝この茶碗で、コーヒーをすすれるのだもの。まあそう嘆くがものはないですわい。働かずに生きてゆける余裕が、末長くついてますしね」
最後にヴォーケル夫人はその鵲《かささぎ》のような目で、公債台帳への彼の登記証を四五枚見つけ出したが、ざっと総計してみても、このすばらしいゴリオ旦那は、八千から一万フラン近くの公債利子が入るご身分と知れた。コンフラン家生まれのヴォーケル夫人は、その当時四十八歳といって下らなかったが、表向きは三十九歳と触れ込んでいたくらいで、この日を境とし、いろんな思惑を抱くにいたった。ゴリオの涙嚢はまくれ返って、脹らみ垂れ下っていたため、しょっちゅうそこを拭いていなければならなかったが、それでもお女将は旦那のことを、なかなか様子のいい立派なお方と思い込んでしまった。それに肉づきのいい出張った彼のふくらはぎが、角ばったその長い鼻と同様に、彼に実直な品性のあることを推測させ、愚直でいかにも人の好さそうなその丸顔が、なおとそれを確証していたので、お女将はますます心惹かれたらしかった。
この男は全精神を情愛に傾倒のできる、体躯頑健なやっこさんに相違なかった。鬢髪《びんぱつ》は鳩翼状になって、おでこの上に五つの尖端を表わしたその頭髪にしても、顔立ちの立派な飾り物となっていた。毎朝、理工科学校の理髪師が、髪粉をつけにやって来ていた。ちょっと野暮臭いところもあったが、寸分の隙なくめかしこんでいたし、嗅煙草を豪勢に愛用し、煙草入れにはマクーバ葉が、いつもいっぱい詰っていることに、自信たっぷりな吸い方をしていたので、ゴリオ旦那がヴォーケル夫人の許に引っ越してきた晩など、お女将は亡夫の喪服も脱ぎ捨て、ゴリオ夫人に蘇りたいという欲望の炎にとらわれ、ラードにくるんだ鷓鴣《しゃこ》の焼肉さながらに、あつあつに心こがして床に就いたくらいであった。再婚したらこの下宿などは売り払い、町人階級《ブルジョアジー》のこの花形と腕を組んで歩きまわり、ここら界隈でもちっとは幅のきく奥さんになって、貧民救済の義捐《ぎえん》金募集には先頭に立ちなぞし、日曜日にはショワジー、ソワシー、ジャンチュイなどへ、郊外散歩に出かけ、七月にいつも下宿人の誰かからもらう劇作家招待券なんど、もうあてにしないで、好き勝手に観劇にも出かけ、しかもちゃんとした桟敷に陣取って見るといった、パリでの小市民生活のあらゆる黄金郷《エルドラド》を、お女将は夢みたりしたのである。
彼女は誰にも打ち明けたことはなかったが、かねて一スーずつ貯めあげたのが、もう四万フランの額にも達していたので、財産の点からいっても、確かに自分なら分相応の配偶者だと自負していた。「ほかの点なら、こっちはあの人に引けなんかとるものか」と寝床のなかでお女将は呟いた。毎朝、太っちょのシルヴィが、判で押したように讃め上げる自分の美しさを、われとおのれに確かめてみるかのように、寝床のなかで全身を眺めまわしなどしながら。
この日からおよそ三ヵ月というもの、ヴォーケル夫人はゴリオ旦那の理髪師に、自分もついでに頼みなどし、お化粧代にもすくなからぬお宝を費やした。この家にはれっきとしたお方もお出入りなさるから、屋敷にしても、またこの自分にしても、それに恥ずかしくないような体裁をつくろう必要があるというのが、その口実となった。彼女はあれこれと策を設けて、下宿人の顔ぶれを変えることに努め、爾後はどの点から見ても申し分のない立派な人たちでなければ、うちには置かないという抱負のほどを吹聴し、初めての人が来ると、パリでもっとも名の売れ、かつ信用のおける実業家の一人、ムッシュー・ゴリオがこの家をごひいきくださっていることを自慢などした。彼女は宣伝のチラシもまいたが、それはメゾン・ヴォーケルという見出しで、「当館はラテン区においてもっとも古くかつ信頼されし高等下宿にして、ゴブランの谷の絶景を見晴らす展望はすこぶる佳(その実は四階に昇らなければ見えなかった)|美麗なる《ヽヽヽヽ》庭園の奥には、菩提樹の並木道のびたり」とあって、さらに空気のよさと静かな環境とが、さかんに謳歌されてあった。このチラシに惹かれてきたのが、ランベルメニールと自称する年の頃三十六歳位の伯爵夫人で、|戦いの庭《ヽヽヽヽ》で戦死した将官未亡人として、当然受け取るべき扶助料の清算終了と支払いとを待っている身の上とのご披露であった。
ヴォーケル夫人はこの伯爵夫人の食事に、格別なる心づかいをはらい、六ヵ月近くもの間、サロンに暖炉の火を焚き、自腹を切ってまでチラシにうたった約束を実行に移した。それで伯爵夫人のほうでも、ヴォーケル夫人のことを「|親愛な人《シエール・アミ》」と呼ぶにいたり、友達のヴォーメルラン男爵夫人とピッコワゾー大佐未亡人に、この下宿を推薦してこっちに呼ぼうとまで約束をした。メゾン・ヴォーケルよりはるかに経費のかさむマレー街の下宿に、いまその二人はいるけれど、そことの契約期限もちょうど切れた様子だからというのであった。それにこの二人も、軍人援護局のほうの事務手続さえすめば、ごく裕福な身分になれる人たちだのに、「援護局といったら本当にのんべんだらりでね」と、伯爵夫人はしきりと慨嘆していた。
この未亡人同士は夕食後には揃ってお女将の居間にあがり、黒すぐり酒を飲んだり、ヴォーケル夫人の口ふさぎとして取って置きのお菓子をつまんだりして、よもの雑談に耽っていた。お女将のゴリオに対する目論見《もくろみ》に対し、ランベルメニール夫人は大いに賛意を表した。初めの日からもうその察しはついていたが、いかにもけっこうな目論見であって、自分もゴリオを申し分のない旦那と思うと、伯爵夫人はさかんにけしかけた。
「本当に奥様、あの旦那ときたら私の目の玉のようにピンピンしておりますし、年に似合わず若いんですもの、まだまだ女をうんと愉しませられますよ」と、ヴォーケル夫人は言った。
伯爵夫人はヴォーケル夫人の着つけが、その下心にややそぐわないといって、なにくれとない注意を惜しまなかった。「戦時体制をととのえなくては、だめじゃありませんの」と夫人は言った。いろいろと目算をたててのち、二人の未亡人は連れだってパレ・ロワイヤルに出かけ、ガルリ・ド・ボワで、羽毛飾りのついた帽子と、ボンネットとを買った。伯爵夫人はさらにお女将をラ・プチット・ジャネットの店に連れて行って、衣裳《ローブ》と肩掛けとを見立ててやった。こうした軍装をととのえ、武装おさおさおこたりなくなったヴォーケル夫人は、「ブーフ・ア・ラ・モード」〔料理の名〕料理店の絵看板にそっくりとなった。けれどご当人はこれで器量がいちだんと引き立ったものと思い込み、伯爵夫人を大いに恩に着て、ふだんのしみったれの性分にも似合わず、二十フランの帽子をむりやり夫人に贈ったりした。というのは打ち割った話が、お女将はゴリオの気持を伯爵夫人に打診方を頼み、老人の前でせいぜい自分のことを、よく言っておいてもらいたい肚《はら》があったからで。
ランベルメニール夫人はこうした方略に、こころよく力をかしてくれた。そして製麺業者だった老人につきまとって、首尾よく懇談の機会をつかんだ。お女将から横取りして、なんなら老人をこっちに籠絡してしまいたいという、格別の思し召しもあったこととて、伯爵夫人はいろいろと工作してみたが、断乎としてゴリオは拒むわけでもなく、ただもうはにかんでばかりいるので、彼女は相手のぶしつけさに憤然となって、席を蹴って戻ってきた。
「あんな男からは何一つ絞り出せやしませんとも。滑稽なくらい凝りぶかく、一文惜しみの握り屋で、馬鹿でとんまときているので、こっちは不愉快にさせられるばっかりですわ」と伯爵夫人はその親友たるヴォーケル夫人に語った。
ゴリオ旦那とランベルメニール夫人との間には、よほどのことがあったものと見え、夫人は彼と同じ屋根の下に住むことさえ欲せず、翌日、半年分の下宿代を払い忘れたまま、五フランにしかならぬ古着一枚を残しただけで、姿を晦《くらま》してしまった。ヴォーケル夫人は躍起となって、その行方を捜し廻ったが、ランベルメニール伯爵夫人に関しては、パリじゅう何一つの手掛りも得られなかった。この嘆かわしい事件のことを、お女将はよく口にのぼせて、自分は人を信用しすぎるためだと慨嘆していた。が、そのくせ彼女は本来が猫のように疑心深かったのである。要するに彼女は近くにいるものを猜疑し、行きずりに出会った人になら、気を許してしまうといった、世間の多くの連中に似ていたのである。まこと奇妙に見えようが、決して嘘ではないこの心理事実の根っ子は、人の心のなかにたやすく発見ができよう。一緒に暮している人からは、もうなんの得るところがないのを、痛感している連中が、ずいぶん世間にはある。つまりこっちの魂の空虚を、相手に見すかされているので、自分がそれ相応に手厳しく、相手からひそかに批判されていることを、感じているような場合がすなわちそれだ。だが自分に欠けている阿諛追従《あゆついしょう》を、人から受けたくて猛烈にたまらなくなったり、あるいは自分にありもしない長所を、持っているらしく見せかけたいという欲求にかられて、いつかはばれてしまうこともお構いなしに、そうした連中は見ず知らずの人の尊敬なり愛情なりを、だましとろうとはかるようになるのである。
それからまた生まれつき欲得ずくな根性で、友人や近親のものに対しては、すこしもつくしてやろうとしない人間がある。してやっても当然の義務と、されてしまうからなのであろう。ところがそれに反して、見ず知らずの他人につくしてやれば、それによって自惚れという儲けを、おさめることができよう。それでこういう連中は、その愛情の輪が自分に近ければ近いほど、人を愛することがすくなくなる。そして反対にその輪が自分に遠くなれば遠くなるほど、世話ずきの親切者となるのである。
ヴォーケル夫人はまさにこの二つの性格を、本質的に陋劣で虚偽で唾棄すべきこの両性格を、兼備していた女であった。
「おれがここにおりさえしたら」と、この話を聞いたとき、ヴォートランはお女将に言った。「そうした災難にはあわせなかったのだがなあ。そんなふざけたあまっ子の面皮は、ひんむいてやったものを。ああした人間どもの面《つら》なら、これでわしはずいぶんとあかるいんだぜ」
料簡の狭い人間の常として、ヴォーケル夫人は、事件の枠から身を抜けきって、その原因を究明してみるといったことのできない性分であった。彼女は自分の過ちを、えてして他人になすりつけたがった。それでこの被害を蒙ったときも、自分の災難のもとはといえば、みなゴリオにあるものときめ、このときからゴリオ旦那に対する迷夢も、どうやらさめ出したとかいうことである。いくら媚態を呈しても、また見栄を張って金を使ってみても、一切がむだだと彼女が気づいたとき、さっそくに何かいわくがそこにあることを察知しだした。あの下宿人はどうも前から|くせ《ヽヽ》(これは彼女の言い草だ)があったことを、そのときになってお女将は気づいたわけだった。結局のところ、あんなに大事にはぐくんできた希望が、空中楼閣の上に築かれたものであり、人を見るの明《めい》をそなえたようにも見える伯爵夫人の断言のとおりに、あの男からはなに一つ絞り出せぬことが、お女将に今こそはっきりわかったのであった。それで彼に感じていた親愛の度より、はるかに強烈な嫌悪のほどを、必然的にお女将はゴリオに対して覚えざるをえなかった。彼女の憎悪はその愛情に比例はせず、裏切られた希望に比例したのであった。人間の心は、愛の山道を登りながら中休みすることはあっても、憎しみの急坂を降りながら踏み止まるということはめったにない。
とはいえ、ムッシュー・ゴリオは、依然としてお客さんはお客さんだったので、お女将としても傷つけられた自負心の爆発を抑えざるを得ず、失望から出る溜息も押し隠して、復讐の欲求も制御にこれつとめなければならなかったことは、修道院長からいじめられた修道僧とそっくりであった。料簡の小さな連中は、ひっきりなしにくだらぬことをして、どうやらその感情を満足させるものである。お女将は女の底意地で、この犠牲者に対して陰険な迫害を、あれこれ考え出すにいたった。まずは食卓に導き入れられている贅沢物の削減をもって、お女将はその手始めとした。それで以前の献立に戻ろうというその日の朝、お女将はシルヴィに言った。「ピクルスもアンチョビーも、もうこれからはお止め。本当にしこたま散財させられたこと」
だがゴリオ旦那は、自力で身代を築き上げるほどの人間にはぜひ必要な倹《つま》しさが、慣い性にと堕したといった粗食家であった。スープと茹《ゆで》肉と一皿の野菜というのが、従来彼のもっとも愛好する献立だったし、今後といえども変わりはあるまい。そんなわけで彼の食物上の好みを傷つけて、いじめぬくという算段は、ヴォーケル夫人にとってはまったくの難事だった。攻め手のない男に面してすっかり絶望したお女将は、大いに彼をくさし出し、ゴリオに対する彼女の嫌悪を、他の下宿人たちのあいだにさかんに植えつけた。ところが下宿人連中も面白半分に、彼女の復讐にかしずいてくれた。
最初の一年が終る頃には、お女将の疑惑の度もいよいよ高まり、七八千フランの公債利子もつき、立派な銀器や、おめかけさんの持ちそうな美しい宝石まで持っているほどのこの富裕な商人が、その身代に比して、あまりにも僅かな下宿代を払って、彼女のところになんぞ転げ込んでいるわけを、いぶかり出すまでにいたった。その最初の年の大部分は、ゴリオは週に一回か二回、よく外で食事をとってきたが、それがいつからともなく、外での食事は月二回となってしまった。ゴリオ旦那の外でのおよばれは、ヴォーケル夫人の飯櫃とも密接な関係があったので、彼が下宿での食事を、欠かさずとるようになってきたことは、お女将としても決してありがたいことではなかった。こうした変化は彼の身代が徐々に減って行ったためともとれたし、お女将に対するいやがらせの気持からとも解せられた。およそこれら小人どもの心ぐせのなかで、そのもっともいとわしい癖の一つは、自分と同じけちくさい料簡を、他人も持っているようにきめてかかることである。
不幸にして二年目の終りにゴリオ旦那は、三階に移って下宿代を九百フランに値下げしてもらいたいと、ヴォーケル夫人に頼んできたので、自分が噂の的たる蔭口を、彼はここに裏書する結果となってしまった。冬の間でも部屋で火を焚かぬほどの、切りつめた節約をする必要に、彼は迫られていた。ヴォーケル夫人が前金で支払いを要求したのを、ゴリオ旦那は応諾した。その日以来、お女将は彼を|ゴリオ爺さん《ヽヽヽヽヽヽ》と呼び出した。
こうした凋落ぶりのわけを、みんなは競って当て推量しだした。とんだむずかしいこれはせんさくごとであった。偽伯爵夫人が言ったとおり、ゴリオ爺さんときたら黙りん坊の陰険屋だったからである。頭のからっぽな者は、詰らぬことしか言えぬので、総じて口が軽いが、そうした連中の論法に従うと、自分のしていることについて口を割らないものは、何か悪いことを働いているのに違いないということになる。そんな次第でこの立派な実業家も悪辣漢にされ、この「女たらし」も老いぼれの助平男にされてしまった。
ちょうどこの頃に、メゾン・ヴォーケルに引き移って来たヴォートランの見解によれば、ゴリオ爺さんは公債市場に出入りして、すっからかんに破産したあげく、経済用語のいとも凱切《がいせつ》なる言葉を用いれば、|呑み屋《ヽヽヽ》をやっていることにされてしまっていた。また一説では爺さんは、しがない博奕《ばくち》打ちの一人であって、毎晩勝負で十フランがとこ稼いでいる手合いとされたし、あるいはゴリオを特高警察に属する手先の一人とさえ見るものもあった。そんな芸当のできるほど、目先のきいたやつではないと、しかしヴォートランは強くこの説には反対していた。そのほか、ゴリオを烏金《からすがね》の高利貸をしている欲深爺いとするものもあれば、富籤《とみくじ》のたびに金額をふやして、同じ番号に張って行く因業男とも目され、悪徳や汚辱や無能などから生まれる、ありとあるいかがわしい存在にと、彼はされてしまっていた。さりながら彼の振舞なり悪徳なりが、いかにいまわしいかぎりにせよ、人が彼に覚える嫌悪の念は、彼を下宿から放逐させるほどまでには、到っていなかった。きちんと下宿代だけは払っておったからで。
それにまた彼は調法な存在でもあった。めいめいにその上機嫌なり不機嫌なりを、冗談文句にあるいは剣突《けんつく》文句にして、ゴリオの上にぶちまけることができたからである。
いかにもありそうなこととして、もっぱらみんなから採用されていたのは、ヴォーケル夫人の説であった。その言うところによると、年にも似合わずかくしゃくとしたあの爺さんは、お女将の目の玉のように達者で、まだまだ女をうんと愉しませることもできそうだから、あれはきっと変態趣味を持った助平親父に違いないというのであった。そしてお女将がその讒謗の論拠とする点は、次のような次第からなのであった。
あの災難な伯爵夫人が、半年もただでいてお女将にさんざ散財をかけたあげくに、ふいと姿をくらましてから数ヵ月のちの、とある朝のことであった。まだ寝床のなかにいたお女将の耳に、階段のほうで絹ずれの音と、身軽な若い女性の優しい足音とが、さとくも扉を開けて待っていたゴリオの部屋のほうへと、向ってゆくのが聞えた。そこへすぐとでぶっちょのシルヴィが、ご主人のところにやってきて、素人女にしては別嬪すぎる一人の娘が、「女神のように着飾って」土もついてない毛織の編上靴をはいて、通りから調理場まで鰻《うなぎ》のようにすっと入ってくるや、ゴリオ旦那の部屋をば尋ねたとご注進におよんだ。ヴォーケル夫人と料理女とは立聞きをして、いっとき続いた面談中に、優しく囁《ささや》かれたあまたの言葉を聞きとった。ゴリオ旦那が彼の「おんな」を見送りながら出て行くと同時に、でぶのシルヴィはすぐと籠を手にし、市場に行く振りをしながら、いい仲らしい二人の後をつけて行った。
「おかみさん」と帰ってくるなり女主人に、シルヴィは言った。「やっぱりゴリオ旦那は、どえらい金持に違いありませんよ。あれほどの贅沢を妾《めかけ》衆に許しておきなさるくらいだもの。だってレストラバード広場の角に、豪勢な馬車が待たせてあって、|あの女《ヽヽヽ》はそれにちゃっかり乗って行きましたからね」
食事のときヴォーケル夫人は、立って行ってカーテンを引いてやった。太陽の光線がゴリオの眼に直射し、彼が眩しがっているのを防いでやるためにだった。
「あなたは別嬪さんに好かれるのですね、ムッシュー・ゴリオ、お天道様まであなたを追いかけていますもの」とお女将はさっきのお客のことを当てつけて言った。「ほんとにあなたはご趣味のいいこと。さっきのお方、とてもお美しいのね」
「ありゃわしの娘でね」とゴリオは一種の得意らしさで答えたが、それを下宿人たちは、年寄りの体裁をつくろう愚にもつかぬ自惚れと見ようとした。
この訪問があって一ヵ月のち、ゴリオ旦那のところにまた来客があった。最初のとき、朝の化粧着のまま来た彼の娘が、今度は夕食後に、社交界にでも出かけるような盛装ぶりでやって来たのである。サロンで喋《しゃべ》り合っていた下宿人たちも、彼女の麗わしい金髪と、すんなりした身体つきの愛くるしさを見て、ゴリオ爺さんごとき者の娘にしてはあまりにも優秀すぎると、考えざるをえなかった。
「あれで二人目よ!」とすっかり以前の姿を見忘れてしまって、でぶのシルヴィはそう言った。
数日後、また別の、背が高くて恰幅がよく、小麦色の肌をし、黒い髪にいきいきした眼眸《ひとみ》をした娘が、ゴリオ旦那を訪れてきた。
「これで三人目!」とシルヴィは言った。
この二人目の娘も、初めのときはやっぱり朝方、父に会いにやって来て、その数日後、今度は舞踏会行きの服装をして馬車で乗りつけて来た。
「これで四人目!」とヴォーケル夫人もでぶのシルヴィも言った。最初訪ねてきたさいの朝方の簡素な身なりの娘の片鱗をすら、この堂々たる令夫人のうちに、認めることができなかったからである。
ゴリオはその時分まだ千二百フランの下宿料を払っていた。金のある男が四人や五人の情婦を持つことは、しごく当然の話だと、ヴォーケル夫人は思っていたし、それらを自分の娘と思わせることなど、なかなかに達者なものだとさえ考えていた。そしてそれら女たちを彼がメゾン・ヴォーケルに呼びよせることに対しても、お女将はそう気を悪くもしなかった。ただこんな訪問客があるということは、お女将に対するこの下宿人の無関心さを見せつけることだったので、二年目の初めからは彼のことを、あえて化け猫親父と呼ぶことにした。
この下宿人が九百フランに格下げをしたとき、お女将は例の女の一人が部屋から降りてくるのを見て、この家をなんだと心得ているのかと、ひどく横柄にきめつけた。するとゴリオはあれは自分の長女なのだと答えた。
「まあじゃあんたは娘さんを、三十六人も持っているんですかい?」と辛辣にお女将は言った。
「なにわしの娘は二人っきりですよ」とゴリオは貧窮からよろずにつけ従順となった零落者らしいもの柔らかさでこれに答えた。
三年目の終りごろ、ゴリオ爺さんはまたも経費を切りつめて今度は四階に移り、月に四十五フランの下宿代を払う身となった。煙草もなしですませ、理髪師も断り、髪粉を打つことも止めてしまった。ゴリオ爺さんが髪粉もない頭ではじめて現われたとき、醜いゴマ塩で、しかも緑がかっているその髪の色を見て、お女将は思わず驚愕の叫びを発してしまった。人知れぬ悲しみのため、いつとなく日ましに陰鬱になっていたゴリオのその顔付きといったら、食卓をかこむ連中のなかでも、一番に荒れ果てきって見えた。もうこうなっては一点の疑いをいれる余地もなかった。ゴリオ爺さんはやっぱり道楽者の老人だったのだ。彼の眼にしたって、医者の上手な処置があったればこそ、花柳病に必要な持薬の悪影響から免れていられたのだろう。見苦しい彼の髪の色も、つまりその放蕩の結果であり、かつそれを続けるため、さんざ服用した薬のせいだろうといったたわごとを、老人の精神的肉体的状態が、裏書をするといった始末に見えた。身の廻りのものを彼は着つぶしてしまうと、一オンス十四スーのキャラコを買って来て、その立派な下着類のかわりに用いていた。ダイヤも金の嗅煙草入れも、鎖も宝石類も次々に姿を消した。彼は薄青色の背広や、金目の衣裳類をすべてやめてしまい、粗い栗色ラシャのフロックコートに、山羊の毛のチョッキと鼠色の鹿|鞣革《なめしがわ》まがいのラシャズボンを、夏冬なしに着通していた。からだもどしどし痩せる一方、ふくらはぎの肉も落ちて、ブルジョワの幸福に満悦して、福々しかったその顔も、ひどくしなびてしまい、額にもしわがより、顎骨の輪郭までもがはっきりと見えた。
ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りに住みついた四年目には、もうゴリオは別人のように変り果ててしまった。六十二歳ながら四十歳ほどにも見えぬお人好しのこのそうめん作り、まるまると脂ぎって馬鹿達者でつやつやし、その陽気な活発さに行き逢う人々もつい好感を覚え、笑顔にもなんともいえない若々しさがあったこのブルジョワ、それが今では顔も蒼ざめ足許もふらつき、ひどくぼけはてた七十親父に見えるのであった。あんなにいきいきしていた彼の青い眼も、どんよりした鉄灰色を帯び、眼先もにぶくなって、涙も出なくばさばさに乾き上り、縁は赤ずんで血の涙を滲ませているように見えた。それで彼の姿を見て、ぞっとするものもあれば、ふびんがるものもあった。若い医学生たちは彼の下唇の下垂に気づき、顔面角度の頂点を測定して、さんざんうるさく質問攻めしたが、何も聞き出せないままに、クレチン病にかかっているのだと宣言するにいたった。
ある晩、夕食後のことだったが、ヴォーケル夫人はゴリオを冷嘲するように、「ねえ、この頃ちっとも逢いに来ないじゃないの、お嬢さんたち?」と、父親という彼の言い分を、いかにも疑うような言葉調子で彼に言った。するとゴリオ爺はお女将から刃物のさきで小突かれでもしたように、びくり身を縮めた。
「あの子たちもときどきは|やって来ます《ヽヽヽヽヽヽ》さ」と彼はうわずった声で答えた。
「ほう、いまでもときどきは|やってる《ヽヽヽヽ》んだって! すごいぞ、ゴリオ爺さん!」と学生たちは口々に叫んだ。
しかし老人は、自分の返答が招いた冗談口などは耳にも入らぬげに、そのまま深いもの思いに沈みこんでしまった。浅薄に彼を観察している連中は、それを知能の欠如による耄碌した老鈍とばかり考えていたもののようである。しかし連中がもし老人をよく識っていたなら、彼の肉体的精神的状態が呈する問題に、おそらく激しい興味を寄せずにはいられなかったであろう。だがまたそれほどむずかしいことも、およそ世上にないのである。ゴリオが本当に製麺業者だったかどうか、財産の額はどれほどだったのか、そんなことは調べるのにわけもないことだが、彼に対して好奇心を起こした年寄り連中は、この界隈から一歩も外に出たことがなく、岩にくっついた牡蠣さながら、下宿にばかり引き籠っていたし、そして若い連中のほうは、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りを離れるや否や、パリ生活独特の誘惑に惹かれて、ふだん馬鹿にしている貧しい老人のことなど、もうけろりと忘れてしまうのであった。狭量の年寄りどもにしても、また無頓着な若人たちにしても、ゴリオ爺の味気ない惨めさやその痴呆な態度など、彼の昔のなにがしかの財産とか商才などとは、てんで相容れぬ釣合わぬもののような気がしていたのである。
娘だとゴリオが称している女たちについては、一同はヴォーケル夫人の意見に賛成していた。宵の間をおしゃべりして過ごす婆さんたちの、なんでも臆測で片付けてしまう習慣からして身についたあの手厳しい論理をもって、ヴォーケル夫人にしてもこう言うのであった。
「もしゴリオ爺さんが、いつも逢いに来るあれらご婦人方のような、いかにもお金のありげな娘っ子さんを持っているんだったら、あたしの家の、しかも四階なんかに、月四十五フランで泊っているはずなんかないし、乞食のような身なりをして、外出するなんてわけが、第一あるもんですか」
こうした帰納法を否認できるような材料は、何一つなかったのである。それでこのドラマの幕が切って落された一八一九年十一月の終り頃には、下宿の誰もが哀れなこの老人に対して、一定見を抱くにいたってしまっていた。――すなわちゴリオはかつて妻も娘も持ったことがないのだ。ご乱行が過ぎて老人は、蝸牛《かたつむり》同然になってしまったのだ。分類するとなれば、破れ帽介殻類に属すべき、人間形態を有する軟体動物の一種なのであると、伝票で食事にくる常連の一人、博物館の吏員などはそう評していた。ポワレもゴリオにくらべれば、鷲でありジェントルマンだということになった。だいいちポワレなら喋りもし議論もし、答えもする。だが喋り論じ答えながらも、じつのところは彼は何も言っているのではなかった。なぜなら、他人の言ったことを、言葉だけ替えて繰り返すというのが、彼の癖だったからである。けれど彼にしても座談に花を添えたし、陽気で、打てば響くようなところがあった。それに反してゴリオ爺さんの話は、これまた博物館吏員の言葉をかりれば、たえず零度の凍りようであった。
ウージェーヌ・ド・ラスティニャックは休暇を終えてパリに戻ってきたとき、俊秀な若人や、逆境のせいで瞬間的に英材のきらめきを見せる青年が、経験したに違いない心的状態にと陥っていた。パリに留学した第一年のあいだは、法科大学でとる最初の単位が、そう勉強を必要ともしなかったので、物質的パリの目の法楽を味わうことが、彼には存分にできた。しかし一介の学生が各劇場の演《だ》し物に通暁しようとしたり、パリの迷宮の出口を研究しようとしたり、その慣習を知り、言葉になじみ、首都の特殊な歓楽に親しもうとしたり、目ぬきの場所や悪い岡場所を探ろうとしたり、面白い講義を聴こうとしたり、各博物館の宝物目録を作ろうとしたりなどすれば、それこそいくら時間があっても足りるものではない。そんなときその学生にはほんのくだらないことでも、じつにすばらしいもののように目に映って、すっかりそれに熱中してしまうものである。仰慕してやまぬ人物として、コレージュ・ド・フランスの一教授、聴講学生の頭の水準に身をとどめて、俸給をもらっているような教授などを、彼は崇拝したりする。オペラ・コミック座の二階桟敷にいる婦人を見て、彼はネクタイのかっこうを直したり、ポーズを気取ったりする。こうして漸次にこの道の奥義を極めて行くうち、彼のういういしい感情も硬化し、人生の視野も拡がって、やがては社会を構成している人間層の重なり合いを、理解するのにいたるのである。うるわしい陽光を浴び、シャン・ゼリゼに長蛇の列をつくる馬車に、はじめは驚嘆の眼をみはったのが、間もなくそれを羨望するにいたるのである。
ウージェーヌは文科と法科の大学入学資格《パシュリエ》を得て、休暇になって帰省したとき、その知らぬうちに如上の修練を身につけてしまっていた。子供時代の空想や田舎での考えも、はや彼のうちから消え失せていた。変革されたその理解力、高揚されたその野望により、彼は父祖伝来の邸内、家族の者に取り囲まれたさなかにおいて、正しいものの見方ができるようになった。彼の両親、二人の弟、二人の妹、それに恩給を唯一の財産とする一人の伯母とが、ラスティニャックの小さな領地には住んでいた。領地といっても約三千フランの年収しかなく、それとても葡萄という純産業的収穫物を牛耳るところの、あの不安定さに従わされていた。にもかかわらず、そのなかから毎年彼のために千二百フランを拈出せねばならないのであった。けなげにも彼に隠されてあったこの絶え間ない窮乏のさまを、ウージェーヌは目にせずにはいられなかった。少年時代には美しいと思って見た妹たちと、かねて幻にえがいた美人の典型を、現実化しているようなパリの女たちとの間に、否が応でも彼は比較をうちたてねばならなくなった。自分を頼りとしている多数の家族たちの不安定な前途を思い、どんな微々たる生産物も、大切に蔵っておくといったしみったれた心遣いを目にし、葡萄圧搾器の搾り粕で、自家用飲料を造っているさまなどを眺めて、つまるところ、ここに並べ立てるのも無益な数々の事情からして、出世への彼の欲望はますますつのって、栄達へのその渇望は、いよいよ倍加するにいたった。
偉大な精神によく見られるように、彼もおのれの才能のみを恃みとした。しかし彼の精神はいちじるしく南方人的なため、いざ実行に臨むとなると、その決断力もためらいを覚えるのであった。それはちょうど大洋のまんなかに乗り出した青年たちが、どの方向にその漕力を向けたらいいか、またどんな角度に帆をはらませたらよいか、それがわからぬため感ずるあのためらいと、同じような質のものだった。勉強のなかに盲滅法《めくらめっぽう》に身を打ちこもうと、初めのうちこそそう考えたが、やがては人との交際をつくっておく必要があることに、心そそられる身とはなった。社会生活における女性の影響力の大きさに気づいた彼は、女性の後楯を得んがために、社交界に飛び込もうと、にわかに思い立つにいたった。高雅な挙措と、たやすく女心をとらえうる凛々しい男振りによって、その才知なり情熱なりを引き立たせられている、利発で熱烈な青年が、どうして女性の後楯に不足するなどということがあろうか? こうした考えが彼を襲ったのは、田舎道を散歩中にであった。昔は妹たちと一緒に楽しく散歩をしたものだったが、その妹たちもいまでは彼のことを、まるで別人のようになってしまったと思っていた。
伯母のマルシヤック夫人は昔宮廷に伺候していた関係で、社交界の錚々《そうそう》たるところをあまた識っていた。伯母が昔寝物語によくしてくれた思い出話のなかに、社会征服の手づるがいくたひそんでいることに、この野望家の青年は気づいた。して社会征服こそは、彼が法律の学校で狙っていた栄冠に、すくなくも劣らぬくらい重要なものだったのだ。姻戚のつながりがあるもののなかで、今でも交際を復活できるものがあるかどうかを、彼は伯母にたずねてみた。すると老女は樹式系図の枝を揺ってみたあとで、裕福な親類の利己的な連中ばかりのあいだで、この甥につくしてくれそうな人たちのなかから、いちばんに御しやすく思われるボーセアン子爵夫人に白羽の矢を立ててくれた。老女はこの若い貴婦人にあてて、古風な手紙を一通したため、それをウージェーヌに渡しながら、うまく子爵夫人に取り入ることができたなら、ほかの親戚にも紹介してもらえるだろうと語った。パリに着いて数日後に、ラスティニャックは伯母の手紙をボーセアン夫人に送った。子爵婦人は返事の代りに、翌日の舞踏会に彼を招待してきた。
以上が一八一九年十一月末におけるヴォーケル下宿館の、そのあらましの情況だった。
それから数日たってウージェーヌは、ボーセアン夫人の舞踏会に行き、午前二時ごろになって戻って来た。あたら空費した時間を取り戻すため、この雄々しい学生は、朝まで徹夜で勉強しようと、踊りながらもわが心に誓っていた。あたり界隈も静かななかで、初めて徹夜勉強しようとしたのも、社交界の華やかさを見て、その虚妄の活気にすっかり迷わされてしまったからである。その晩はヴォーケル夫人のところで、夕食をとらなかった。だから下宿人たちは彼がときどき、プラドの踊り場やオデオン座の舞踏会から、絹の靴下も泥だらけ、舞踏靴もいびつにしながら、朝帰りをしてきていたように、今度もあくる朝のうすら明けにならなければ、戻って来ないだろうと信じきっていた。
玄関に掛金をかける前、クリストフは開けて通りのほうを見まわしてみた。ちょうどそのときラスティニャックは姿を現わしたもので、音もなく自分の部屋にと彼は引き上げることができた。後からついてきたクリストフは、騒々しい物音を立てた。ウージェーヌは服を脱いで上靴をはき、汚い上着にと着換え、泥炭の火を熾《おこ》し、すばやく勉強の仕度にとりかかった。クリストフはその頃まだ大きな半靴で、どたばた騒音を立てていたので、青年の忍びやかに身仕度する物音もすっかり掻き消されてしまっていた。ウージェーヌは法律書に没頭する前、しばらくのあいだ考えに耽った。ボーセアン子爵夫人がパリの社交界の女王の一人であり、その邸宅はフォーブール・サン・ジェルマンでも、もっとも快適なものの一つとされていることを、今しがた彼は見て来たところだった。そればかりか子爵夫人は、その家柄と身代からして、社交界の重鎮の一人になっていた。伯母のマルシヤックのおかげで、かかる邸宅に歓待を受けた貧乏書生は、そうした愛顧がどれくらいにありがたいものであるかを、悟ってはいなかった。金色燦爛たるそのサロンに、お出入りを許されるということは、高貴な華族としての資格証明書を、授けられたにもひとしいのである。世にも排他的なこの集いに、顔を出したというだけで、彼にはどこへでも出入りをする権利が、できてしまったのであった。
かかる輝かしい集いに眩惑され、子爵夫人とは辛うじて数語を交えただけにすぎぬ彼ではあったが、この大饗宴にむらがりひしめいたパリの女神の群れのなかから、若い男が一目で恋慕するに違いないような女性の一人を見つけ出して、ウージェーヌは大いに満足を覚えた。背たけも高く体つきもよいアナスタジー・ド・レストー伯爵夫人は、パリでも秀逸な美形の一人としてかねて評判の女性であった。つぶらな黒眼、うるわしい手、なり恰好のよい足、疳のつよい動作、かのロンクロル伯爵が「|純血種の馬《サラブレッド》」と名づけたこの女性を、一つご想像になってみていただきたい。だがヒステリックなそうした感性の強さも、彼女からはなんの利点をも奪ってはいなかった。彼女は豊満なふくよかさを持ってはいたが、肥りすぎるといって非難されるほどでもなかった。古臭い愛の神話など、すべてダンディスムによって退けられ、「純血種の馬」とか「嫡流の女」といった言いまわしが、「天国の天使」とかオシアン風の詞姿《ことば》に代り出したのが、ちょうどその当時のことだった。
アナスタジー・ド・レストー夫人は、ラスティニャックにとっては、まさに待望の女性であった。彼女の扇子の上に書きこまれた、踊りのパートナーのリストのなかに、巧く彼は立ちまわってワルツ二番も自分の名前を書き入れてもらった。そして最初のカドリールの間に、こう彼女に囁くことができた。
「マダム、この次はどこでお目にかかれるでしょう?」女人衆には大のお気に入りの、あの力のこもった情熱で、いきなりそう言ったのだった。
「どこでって、ブーローニュの森でも、オペラ・ブーフォン座でも、またはあたしの家でも、どこでなりとも」
冒険好きのこの南方人は、うるわしい伯爵夫人と、かくとりあえずも交際を結んでしまった。もっともそれは若い男がカドリールやワルツの間に、一人の女性と交際をはじめた程度のものにしかすぎなかったが。ボーセアン夫人の従弟《いとこ》と名乗った彼は、どえらい貴婦人と思っていた相手から招待をうけて、その館にも出入りすることができるようになった。その貴婦人が彼に投げた別れぎわの微笑で、ラスティニャックは自分が訪ねてゆくことは、必定のさだめと観念をするにいたった。錚々たる当代不遜のともがら、モーランクール、ロンクロル、マクシム・ド・トライユ、ド・マルセイ、ダジュダ・パント、ヴァンドネスなどといった、それぞれのうぬぼれの栄光裡に、折からひたっていた連中のなかに交って、座には世にも優雅な貴婦人たち、ブランドン夫人、ランジェ公爵夫人、ケルガルーエ伯爵夫人、セリジー夫人、カリリアノ公爵夫人、フェロー伯爵夫人、ランティ夫人、デーグルモン侯爵夫人、フィルミアニ夫人、リストメール侯爵夫人、デスパール侯爵夫人、モーフリニューズ公爵夫人、グランリュー家の夫人方といった手合いがよりつどった席上のこととて、致命的な欠陥とされてしまうのに違いないラスティニャックの、いっこうに世間を知らぬお坊ちゃん振りを、そうべつに愚弄もしなかった一人の男に、席上で、彼は運よくも出会うことができた。それはランジェ公爵夫人の情夫で、子供のように単純な将官モントリヴォー侯爵であって、レストー伯爵夫人はデュ・エルデル街に住んでいることまでも彼に教えてくれた。
年も若く社交界にあこがれ、女性にも渇望しているさいちゅうに、二邸宅が自分のためにその門戸を開放してくれたのを見るとは! フォーブール・サン・ジェルマンでボーセアン子爵夫人の屋敷に片足を入れられ、ショッセ・ダンタンではレストー伯爵夫人の許で片膝をつけるとは! 一連のパリのさまざまなサロンにひと渡り目を投じられ、そこの女心のなかに、庇護と後楯を見つけられるほどの美青年だと、われから自負ができるとは! 踏みはずす気遣いがないという軽業師の確信をもって、強く張り渡した綱の上を、鮮やかに渡り切れる野心満々のおのれを感ずるとともに、綱渡りの支え棒の最上のものを、一人の美しい女性のうちにすでに見つけ出したとは!……泥炭の火の傍で、法典と窮乏に取りかこまれながら、眼前に気高く立っている女人の幻を想い見つつ、こうした考えに耽ったとしたなら、ウージェーヌのごとくに将来に計画を馳せずに、誰がいられようか。彼のように未来を成功でみたさずに、そも何人《なんぴと》がいられようか。とりとめない彼の思いは、未来の歓喜を烈しく先取りして、現にレストー夫人の傍にあるような気分に浸っておった折も折、聖ヨゼフのエイッという気合の掛け声にも似たうめきが、夜の静寂を破ってラスティニャックの心臓にひびき、瀕死の人の喘《あえぎ》のようにも、それは思われた。
彼は静かに扉をあけ廊下に出てみると、ゴリオ爺さんの扉の下から、一条の光がさしているのが見えた。隣人が急に加減でも悪くなったのではないかと気遣った彼は、眼を鍵穴に寄せ、部屋のなかをのぞいて見ると、老人は何か仕事にとりかかっているようなあんばいだった。そして、いかにもそれが悪いことでもしているように見えたので、自称製麺業者が夜なべに何をたくらんでいるのか、しかと見届けておくのも、社会に寄与するゆえんだと彼は考えた。見ると逆さにしたテーブルの横木に括りつけたのだろう、金メッキした贅沢な彫りの銀製の皿とスープ皿とに、ゴリオ爺は一種の太綱をまきつけて、潰し地金にしようと、どえらい力でそれを文字どおり捩《ね》じまげているのであった。「畜生、なんてやっこさんだろう!」とラスティニャックは、綱を使って金色の銀器を、まるで捏粉《こねこ》みたいに音もなくこねている老人の節くれ立った腕を見ながら思った。
「ではやっぱり泥棒か臓品故買者《けいずかい》だったのだな。安全に稼業をやって行けるようにと、愚鈍と無能をよそおって、乞食ぐらしをずっとやっこさんして来たのだろう」と、ちょっと立ち上りながら彼は思った。ふたたび彼は眼を鍵穴にあててみた。綱をほどき終ったゴリオ爺さんは、今度はその銀塊を取り上げ、毛布を敷いたテーブルの上におき、棒状に円めるためころがして、驚くくらいやすやすとその作業を仕上げてしまった。「ポーランド王オーギュストにも劣らぬ力持ちなんだなあ」と丸い銀棒があらかたでき上ったとき、ウージェーヌはそう考えた。ゴリオ爺さんは悲しげに自分の作業品を眺めていた。その両眼からは涙が溢れていた。捩じまげ仕事のためにつけておいた糸ローソクを、爺さんはやがて吹き消し、溜息つきながら寝床に就く物音がラスティニャックには聞えた。「気違いなんだな」と彼は思った。
「かわいそうな娘だ!」としかしゴリオ爺さんは、ふと声に出して言った。
この言葉を聞いてラスティニャックは、今夜の事件は誰にも黙っていて、隣の老人を軽々しく罪人扱いするのは、止めたほうが上分別だと考えた。そして部屋に引き返そうとしたとたん、ちょっと言葉には言い表わせぬような物音が聞えた。それはラシャの縁《へり》地でつくったスリッパをはいた男たちが、こっそり階段を上ってくる足音に違いなかった。ウージェーヌは耳を澄ましてみた。果して二人の男の息遣いが、交る交るに聞えた。と、ドアの軋みも人の足音も聞えぬのに、急に三階のヴォートランの部屋から、かすかな光が洩れて来るのが見えた。「一軒の下宿のなかにでも相当に秘密がひそんでいるものだなあ」と彼は考えた。階段を二三段おりて聴き耳を立ててみた。金貨のザラザラという音が、彼の耳を打った。間もなく明りが消え、ドアの軋む音も聞えぬうちに、二人の息遣いだけがまた聞えてきた。そして二人の男が降りて行くのに従って、その物音も微かになった。
「誰、そこを通るのは?」と、ヴォーケル夫人が部屋の窓を開けながら叫んだ。
「俺が帰って来たんだよ。ヴォーケルのおかみさん」とヴォートランが太い声で言った。
(へんだな! クリストフがちゃんと戸締りをしたのに)とウージェーヌは、部屋に戻りながら独語した。(身のまわりに起こることを、はっきり突きとめるためには、まったくもって寝ずの番を、パリではしなくちゃならないぞ)
これら小さな出来事で、恋の野心の黙想からそらされた彼は、ふたたび勉強にとりかかった。ゴリオ爺さんのことで胸にわき起こった疑念のためすっかり気を取られ、輝かしい運命の使いの女神のように、彼の前に時おりちらちらするレストー夫人の面影に、それよりもなおと心奪われて、ついに彼は床にもぐり込むや、ぐっすりと眠ってしまった。若人が徹夜勉強しようと思い立っても、十度のうち七度までは眠ってしまう。徹夜するには二十歳以上でなければ駄目である。
翌朝のパリは例の濃霧にすっかり包まれおおわれてしまっていたので、もっとも几帳面な人でさえ、時間を勘違いしたほどだった。仕事の上の会合もつぶれた。正午が鳴ってもみんなは八時だと思っていた。九時半というのに、ヴォーケル夫人はまだ寝床を離れなかった。クリストフとでぶっちょのシルヴィが、これもやはり寝坊をして、客用の牛乳の上っ皮のクリームをくすねて入れたコーヒーを、ゆっくり啜っていた。シルヴィはこのクリームを取るため、長いこと牛乳を煮たたせるのが常だった。不正に徴収したこの十分の一税の上前を、ヴォーケル夫人には悟られぬようにしてである。
「だがね、シルヴィ」とクリストフは最初の焼パンをコーヒーに浸しながら言った。「とにかくヴォートランさんも好いお人にはお人だが、昨夜もまた二人のお客にお会いなすった。マダムが気にかけても、なんにも言うんじゃないぞ」
「なにかお前さんにくれたかい?」
「今月は五フランくれなすった。黙っていろというわけさ」
「気前のいいのはあの人とクーチュール夫人とだけさ。他の連中ときたら、右手でくれたお年玉を、左手で取り返したがっている始末だもの」とシルヴィは言った。
「まったくそうだ、あいつらのくれるものときたらなあ!」とクリストフは言った。「ほんのはした金、しかもたった五フランときてる。もう二年ゴリオ爺さんは自分で靴を磨いてらあ。けちん坊のポワレも靴墨なしで過ごしてるが、手前の古靴になするのより、飲んでしまったほうがましだと大方思ってるんだろう。しかもあの貧乏書生ときたら、二フランくれたっきりだ。二フランじゃ、ブラシ代にもならねえ。おまけに古着も人にくれねえで、売ってしまいやがる。なんていうしみったれた屋敷だろう!」
「けどねえ」とシルヴィはコーヒーをちび飲みしながら言った。「こちとらの勤め口だって、この界隈じゃまだしもましなほうなんだよ、けっこう食べてゆけるもの。ときにお前、あの大男のヴォートラン大将のことで、何か人に聞かれはしなかったかい」
「そう言えば数日前、通りで出逢った男から、頬ひげを染めて肥った紳士の住んでいるのは、お前の家じゃないかって言われたんで、違いますぜ、あの人は染めてなんかはおりませんや、あんな賑やかな人に、そんな暇なんか、あるものですかいと答えてやったよ。あとでヴォートランさんにそのことを話したら、『出かしたぞ、いつもそう言って返事をしておいてくれ。こっちの弱身を嗅ぎつけられるほど、いやなことはありゃしないからな。それに結婚話の邪魔にもならあ』だってさ」
「そういえば市場で私に|かま《ヽヽ》をかけて、あの人がシャツを着替えるところを見たかって、訊ねる野郎がいるのさ。へん、馬鹿にしてるよ。おや」と彼女は言葉を切って、「あれは十時十五分前だね、ヴァル・ド・グラースで鳴っているのは。それなのに誰一人起きて来やしない!」
「よせよ、みんな出掛けてしまっているんだぜ。クーチュール夫人と例の娘は、八時早々にサン・テチエンヌ寺へ聖餅を食べに行ってしまったし、ゴリオ爺さんはなにか包みをかかえて飛び出して行き、書生のほうは十時に講義をすませてからでないと戻って来ないだろう。みんなの出て行くのを、階段を掃除しながら俺は見届けたんさ。ゴリオ爺いめ、持ってた包みを俺にぶっつけやがって。しかも鉄みたいにそれは硬いときてる。やっこさん、何をやっていやがるんだろう。|こま《ヽヽ》のようにきりきり廻りをみんなから、爺さん、させられているが、あれでもって根はいい人なんだぜ。やつら全部をあわせたより、ましなくらいのお人だよ。爺さん俺にたいしたものはくれもしないが、ときどき使いにやられる先の奥様方ときたら、しこたまに酒手をはずんでくれるからなあ。それに豪勢に着飾ってることといったら!」
「爺さんが娘だといってる女っ子どもかい、ええ? 何しろ一ダースがとこいるんだからね」
「なに俺が行ったのは二人だけだったぜ。それ、ここへも来たことのある例の女子《おなご》衆さ」
「おや、おかみさん起き出したようだ。ぎゃあぎゃあ騒ぎ出すよ、行ってやらなけりゃ。牛乳に気をつけてね、クリストフ、猫が控えてるから」
シルヴィは女主人のところへ上って行った。
「どうしたのさ、シルヴィ、もう十時十五分前じゃないか。ぐっすり|ひと《ヽヽ》を寝かしておくなんて! ついぞありゃしないこっちゃないか」
「庖丁でぶっ切らなきゃならないほどの霧のせいですよ」
「だって朝御飯は?」
「ご懸念にはおよびません。魔にでもつかれなすったか、お客衆は|朝っぱら《ヽヽヽヽ》からみんなずらかっています」
「ちゃんとした言葉でお話しよ、シルヴィ」とヴォーケル夫人は口を出した。「|朝明けっから《ヽヽヽヽヽ》って言うもんだよ」
「へえ、おっしゃるように申しましょう、マダム。とにかく十時には朝御飯を召し上りになれますよ。ミショネットとポワロは、まだ降りてはまいりません。家にいるのはあの二人だけです。まるで切株のようにぐっすり眠りこけてね」
「なんだい、シルヴィ、二人を一緒くたにさ、まるであの二人が……」
「まるで……なんです?」シルヴィは下品なばか笑いを洩らして言った。「だってあの二人は似た者夫婦じゃありませんか」
「不思議だねえ、シルヴィ、クリストフがゆうべちゃんと戸締りをしたのに、ヴォートランさんはどうやって入って来れたのだろう?」
「大違いですよ、マダム。ヴォートランさんの帰って来た物音を聞いて、クリストフが玄関を開けに降りて行ったのですよ。それをマダムは勘違いなさって……」
「不断着を出しておくれ。それから食事の仕度をいそいでね。羊肉の残りに馬鈴薯をつけあわせるといい。それに一個二リアールの梨を焙《や》いて出してやっておくれ」
しばらくしてヴォーケル夫人が降りてきたとき、牛乳碗にかぶせてあった小皿を、猫が前肢でおしのけて、大急ぎで舐めていたさいちゅうであった。
「あら、ミケが!」とお女将は叫んだ。いったん逃げたが、猫はすぐに引き返して来て、お女将の足にからだをすりつけた。
「おや、まあ、おべっかを使っているよ、このおいぼれの弱虫猫は!」とお女将は言って、「シルヴィ、シルヴィや」
「へい、なんですか、マダム?」
「猫が舐めちまったじゃないか」
「クリストフのやつが悪いんですよ、ナイフやフォークを出しておけって言っておいたのに、あいつ、どこへ行っちまったのだろう? でもマダム、ご心配にはおよびません。ゴリオ爺さんのコーヒーの分にまわしておきますから。水を割っておきましょう。なあに気がつくもんですか。あの人ときたら自分の食べるものにだってなんだって、ろくすっぽ注意も払っちゃいませんもの」
「あの変人ときたらどこへ出掛けたのだろう?」お女将は皿を並べながら言った。
「わかるもんですか、そんな。悪魔の親戚とだって取引きしてるような人のこと」
「あたしゃちと寝過ぎちまったよ」と、ヴォーケル夫人は言った。
「だからこそマダム、薔薇のようにいきいきなすっていらっしゃいますよ……」
このとき、呼鈴の音がして、ヴォートランがだみ声で歌いながらサロンに入って来た。
世界を俺は股にかけ
到るところに顔なじみ……
「よう、ヴォーケルのおかみ、おはよう」と彼は女主人を見るなり叫んで、意気っぽく両腕にかかえ込んだ。
「あれ、およしなさいったら」
「いけすかないよって、言うもんさ。ねえ、言ってごらんよ。はっきりとさ。どれ、一つお膳立てを手伝ってやろうか。なんて親切者だろう、どうです?」
栗毛の髪やブロンドに
思いこがしぬ……
「そうそう、俺は妙なところを見て来たぜ」
はからずも……
「何をですの?」とお女将はきいた。
「ゴリオ爺さんが朝っぱらの八時半というのに、古い金属食器類や|潰し金銀地金《ガロン》を買いこむ、ドーフィーヌ通りの金銀細工商《かざりや》の店先に、頑張っているのを見たんさ。銀の食器道具をいいお値段で売っていたようだったが、素人の細工にしては、どうしてなかなか潰しが利いていたぜ」
「へえ、ほんと?」
「そうとも、仲間の一人が、王立駅馬車で外国にお差立《さしたて》くうのを、おれは見送っての戻り道だったんだ。笑い話の種にって、爺さんそれからどうするか、一つ見届けてやろうとしたんさ。すると爺さん、この区へ舞い戻って、デ・グレ街のゴプセックという聞えた高利貸の家へ入って行くじゃないか。ところがこいつ先方は大変な代物でね。親父の骨でドミノの牌を作りかねないというやつなんだ。ジューだろうと、高利貸だろうと、またはペテン師だろうと、欲深金貸しだろうと、どんな野郎だってあいつから金をふんだくるのは骨のこったろう。なにしろフランス国立銀行に、有金全部預けてあるっていうんだから」
「ゴリオ爺さん、何をしたんでしょう?」
「何もしでかしゃせんさ。|ぶっこわし《ヽヽヽヽヽ》ただけよ。なにしろあまっ子に惚れこんで、空っけつにされるほどの大馬鹿の抜け作ときている。しかもその相手ときたら……」
「ほら、噂をすれば影!」とシルヴィ。
「クリストフ」とゴリオ爺さんは叫んだ。「ちょっと一緒に部屋まで来てくれんか」
クリストフはゴリオ爺について行ったが、まもなく降りてきた。
「どこへ行くの?」とヴォーケル夫人は下男にたずねた。
「ゴリオさんのお使いに」
「それはなんだい?」とヴォートランはクリストフの手から一通の手紙をひったくった。表書には「アナスタジー・ド・レストー伯爵夫人殿」とあった。
「で、行先は?」と手紙をクリストフに返しながら彼は訊ねた。
「デュ・エルデル街で。当の伯爵夫人じきじきにお渡しするよう、かたくいいつかって来ました」
「何が入っているんだろう?」ヴォートランは手紙を明るいほうにかざしながら言った。「お札《さつ》かな? いや、そうじゃないぞ」彼は封を半ば開けかけた。「やっ、支払済みの約束手形だ」と彼は叫んだ。「てへ、若い気でいるおいぼれ爺いめ、とんだ色男だ。さあ、行ってきな。太えの、ご祝儀はたんまりもらえるぜ」そう言いながら彼は大きな手を、クリストフの頭におっかぶせて、|さいころ《ヽヽヽヽ》のように下男をぐるり向うむきにさせた。
お膳立てもでき、シルヴィは牛乳を沸かした。ヴォーケル夫人が暖炉に火を焚きつけるのを、ヴォートランは手伝いながら、相変らず鼻唄で、
世界を俺は股にかけ
到るところに顔なじみ……
すっかり仕度ができ終ったところへ、クーチュール夫人とタイユフェル嬢とが戻って来た。
「奥さん、こんなに早く、どこへお出掛けでしたの?」とお女将は夫人に尋ねた。
「サン・テチエンヌ・デュ・モンヘお詣りをして来たところですの。きょうタイユフェルさんのところへお伺いするもんですからね。かわいそうにこの子ときたら木の葉のように震えていますよ」そう言ってクーチュール夫人は暖炉の前に坐った。暖炉口にかざした夫人の靴からは湯気が立ちのぼった。
「あなたもおあたりなさいな、ヴィクトリーヌ」とお女将。
「お父上のお心をやわらげようと、神様にお縋《すが》りをするのも、はなはだ結構なことですが、それだけじゃ、ちと足りませんなあ」とヴォートランは孤児の娘に、椅子をすすめながら言った。「世間なみの非難をあの海豚《いるか》に差し向ける役を、一つ買って出るような友達が一人あなたには要りますね。人の噂だとなんでも三百万もの金を握ってるくせに、あなたには持参金さえもよこさないという、先方は野蛮人じゃありませんか。当節ではどんなきれいなお嬢さんでも、持参金なしにはとつげないというのにさ」
「かわいそうにね」とお女将も口を添えた。「だけど元気を出すことだね。お前さんの人でなしのお父さんは、好きこのんで不幸を背負いこんでいなさるのだから」
この言葉にヴィクトリーヌの両眼は涙で濡れた。クーチュール夫人の眼くばせで、お女将も口をつぐんでしまった。
「せめてこれの父親に会えでもしたら、いっさいの事情を、私が話して、母親の最後の手紙までも渡せるんですがね」と出納支払官未亡人は言った。「当の手紙を郵便で送りつけるのじゃ危なっかしくてね。なにしろ先方では私の筆跡を知ってますし……」
「おお女よ、不運にして罪なく虐げられし者よ」とヴォートランは話に割り込んできて叫んだ。「あなたがそれなんだ、ねえ、そうでしょう? よろしい。ここ四五日のうちに、あなたの事件に、僕が一肌ぬいであげるとしましょう、すれば万事巧く行きますとも」
「どうぞお願いしますわ」とヴィクトリーヌは、涙に濡れた燃えるような眼差しを、ヴォートランに投げつつ言った。だがヴォートランはつゆ感動した様子も見せなかった。「父に近づく手段をもしご存じなのでしたら、父親の愛情と亡き母の名誉とが、私にとっては、この地上のあらゆる富にもまして、貴重なもののことを、どうかお話しになってくださいまし、父の頑《かたくな》な心をいくぶんでももしやわらげていただけましたら、あなたのため私は神様にお祈りいたしますわ。本当にご恩は一生……」
「世界を俺は股にかけ」とヴォートランは皮肉げな声で歌いだした。
ちょうどこのとき、ゴリオとミショノーとポワレが降りてきた。羊の残り肉にかけるため、シルヴィがこしらえていたバターソースの匂いに、きっと惹きよせられたものであろう。七人の下宿人が食卓について、朝の挨拶を交しているとき、十時が鳴った。通りで学生の足音がした。
「あら、ウージェーヌさん、ちょうどいいとこ」とシルヴィ。「きょうは皆さん方とお揃いで召し上れますわ」
学生は下宿人たちと挨拶を交し、ゴリオ爺さんの傍に坐った。
「奇妙なアヴァンチュール〔出来事・情事〕に僕はいま接してきたところなんですよ」とラスティニャックは言って、羊の肉をたっぷりと皿によそり、パンの塊を大きく切りとった。ヴォーケル夫人の眼は、ずっとそれを計っていた。
「へえ、情事にですって!」とポワレは言った。
「おや、なにをそんなにびっくりするんだい? 大将」とヴォートランはポワレに言った。「ウージェーヌ君は若い身空なんだぜ。アヴァンチュールに恵まれるようにできてるんさ」
タイユフェル嬢は若い学生のほうに、内気な眼差しを投げた。
「そのアヴァンチュールってのを一つご披露なさいな」とヴォーケル夫人が頼んだ。
「きのう僕は従姉《いとこ》にあたるボーセアン子爵夫人の舞踏会に行ってきたんです。まったく豪勢なお屋敷でしてね。部屋という部屋は絹づくめで飾られているのですよ。おりからそこでは盛大な宴会が開かれ、僕は本当に愉快でたまりませんでした。まるで王様《ロワ》……」
「トレ」とヴォートランは勢いよくそれをさえぎった。
「なんのことです?」ときっとなってウージェーヌは詰問した。
「トレとつけ加えたのさ。王様《ロワ》なんかより紅雀《ロワトレ》のほうが、ずっと世の中を愉快がっているぜ」
「しごく同感ですなあ。王様になるより、なんの気苦労もない小鳥のほうに、まったくなりたいもんですな。なぜって……」と口を出したのが同意見居士のポワレ先生。
「けっこうですね」と学生はポワレの言葉をおさえて続けた。「僕は舞踏会でも一番の美人と踊ったんです。それこそうっとりするような伯爵夫人で、あんな|ろう《ヽヽ》たけた麗人は今までついぞ僕は見たことがありません。桃の花を髪飾りにつけ、本当にきれいな花束、香りの高い生きた花束を、小脇にかかえていましたよ。しかしなんと述べてみたところで百聞一見にしかずで、ダンスに上気している佳人のさまを描写するなんて、とうていできやしません。ところがです、なんとけさの九時ごろ、僕はその女神さながらの伯爵夫人に、ひょっこり出会ったのですよ。しかもデ・グレ通りをてくられてるところを。やあ! まったく心臓がどきどきしましたね、僕はすぐ思ったんですよ、……」
「ここへ来るんじゃないかって、だろう」とヴォートランは学生のほうに、底深い眼差しを投げながら言った。「そのご婦人はきっと高利貸のゴプセック親父のところへ行ったんさ。パリ女の心中に探りを入れて見るがいい、恋人より先に高利貸が出てくるだろうから。君の伯爵夫人というのはアナスタジー・ド・レストーといってね、デュ・エルデル街に住んでるんだぜ」
この名を聞いて学生は思わずヴォートランを凝視した。と同時にゴリオ爺さんもあわてて顔をもたげて、懸念に満ちたきらきらしい眼眸《ひとみ》を、二人の話し手に向けたのを見て、下宿人一同びっくりしたくらいだった。
「クリストフが間にあわなかったので、じゃあの子はそこへ出掛けたんだな!」とゴリオは悲痛げな声で叫んだ。
「おれの思ったとおりでしょう」とヴォートランはお女将の耳に身をかがむようにして言った。
ゴリオはそれからは機械的に、何を食べているかもわからず、ただ口を動かしていた。彼がこのときほど愚かしく、かつ憑《つ》かれて見えたのは、これまでについぞなかったことだった。
「いったいぜんたい、ヴォートランさん、誰からあの人の名を聞いたんです?」とウージェーヌはたずねた。
「なんの、そんな。ゴリオ爺さんのような人でさえ知ってるのに、わしの知らないってわけはないじゃありませんかい」
「ゴリオ爺さん?」と学生は叫んだ。
「なんですな」とあわれな老人は言った。「じゃあの子は昨夜そんなにきれいでしたかい?」
「あの子って?」
「レストー夫人ですよ」
「あのおいぼれ爺いをごらんなさいよ」とお女将はヴォートランに言った。「両眼をあんなにきらきら光らして」
「じゃやっぱり囲っていたのでしょうか?」とミショノー嬢は低い声で学生に訊ねた。
「そうですとも。凄《すご》いくらいにきれいでしたよ」とウージェーヌは続けた。ゴリオ爺は貪るように彼を眺めた。
「もしもボーセアン夫人が座におらなかったら、僕のあの女神のような伯爵夫人こそ、舞踏会の女王になれたに違いないでしょう。青年たちの視線は、みんなあの人に集っていましたよ。あの人のダンス順番表では、僕はようやく十二番目でした。カドリールを全部あの人は踊ったので、他の婦人たちはさぞかししゃくにさわっていたことでしょう。きのう幸福な人間がもしいたとすれば、それはまさしく、あの人でしょうな。帆を張った快速巡洋艦《フリゲート》、疾駆する馬、踊る女性、この三つほど世に美しい観物はないと言いますが、まったくそのとおりですね」
「昨夜は公爵夫人邸で得意の絶頂、けさは手形割引人のところで失意のどん底、それがパリ女というものさ。なにしろその我儘放題な贅沢を、良人《おっと》に維持ができぬとなると、身を売るようなことまでもする。身を売ってももし買手がないと、ほかに何か金目のものはないかと、おふくろの腹までも割《さ》くにいたる。それどころか、あらゆる姦策詭計を、弄さぬとてはない。いやはや陳腐な話さ、古いぜ、もうそんな!」
学生の話を聞きながら晴れた日の太陽のように、輝きわたっていたゴリオ爺の顔も、ヴォートランのこの仮借のない講評に、急に陰鬱となった。
「ところであなたの色恋沙汰《アヴァンチュール》はどうなったの?」とヴォーケル夫人が言った。「そのお方に話しかけてみたの? 法律を習うお志はありませんかって?」
「僕の姿に気づかなかったようなのです。けれど舞踏会から朝の二時に戻ったはずの、パリきっての麗人の一人に、デ・グレ通りで午前九時ごろ出会うだなんて、まったく奇妙な話じゃありませんか。こんな出来事《アヴァンチュール》はパリででもなければ、とうていに見られない図ですよ」
「なあに、もっと奇妙なことだって、いくらでもあるさ」とヴォートランは叫んだ。
タイユフェル嬢はきょうこれからの日程を思い煩っていたので、ほとんど聴いてはいなかった。クーチュール夫人の合図を受けて彼女は着替えに立った。二人の婦人が出て行くと、ゴリオ爺さんもそれに倣った。
「どう、おわかり?」とお女将はヴォートランはじめ他の下宿人たちに言い聞かせた。「あの種の女に入れ揚げて、無一文になった男ということが、今こそはっきりしたでしょう」
「僕はぜったいに信じられませんよ。あの美しいレストー伯爵夫人がゴリオ爺さんの|れこ《ヽヽ》だなんて」と学生は叫んだ。
「だがこっちは君に、なにも無理矢理そう思い込ませようっていうんじゃないんだ」とヴォートランは青年をさえぎって言った。「君はまだあんまりお若いから、パリってものをご存じがないのさ。『情欲に憑《つ》かれた人間』って我々が言う手合いが、どんなにパリにはごろごろしているか、ずっとあとになって君にもきっとわかるだろうよ……」
この言葉に、ミショノー嬢は、わが意を得たといったふうに、ヴォートランのほうを見た。進軍ラッパの音を聞いた軍馬のようにと、それを形容してもよろしかろう。ヴォートランは、「は、はあ!」とうなずき、語るのを止めて老嬢のほうへ底深い視線を投げた。「人間誰だってそれぞれに、ささやかながら煩悩を持っているんじゃないでしょうか、私たち。あんただってもそうでしょう?」(老嬢は聖像を眼にした修道尼のように、眼を伏せてしまった)「そんなわけでさ」と彼はなおも続けた。「連中という連中、皆一つの固着観念に拘泥していて、あくまでそれにしがみついている。ある特定の泉から汲んだある特定な水でないと、その渇きをいやせないまでになっている。それも多くは澱《よど》み水ときているんさ。しかもそれを飲むためなら、妻子までも売りとばし、魂を悪魔に売ることだって辞さない。あるものにとっては、その泉とは賭博であり、相場であり、絵や昆虫の蒐集であり、音楽であることがあるし、また他のものにとっては、それは美快の調理法をよく心得ていて、ふんだんに快楽を供してくれる一人の女となることもある。そういう男に地球上のあらゆる女を提供してみたところで、鼻であしらわれるのが落ちだろう。なにしろ自分の情欲をみたしてくれる女をしか、望んではいないからね。ところがしばしばある慣いで、その当の女がこっちをちっとも愛さず邪慳《じゃけん》にし、一片の満足をきわめて高価に売りつけることも珍しくはないのさ。それなのに情欲に目くらんだほうではあきることを知らず、最後の毛布までも入質して、なけなしの銀貨一枚をも女に貢《みつ》いでしまうんだ。ゴリオ爺さんもやはりその一人なのさ。伯爵夫人に爺さん喰い物にされてるが、それというのも老人、口が堅いからなんだ。これが上流社会というやつさ。かわいそうに爺さん、あの女のことしか念頭にない。そうした情欲を抜きにすれば、ごらんのとおりゴリオなんて、動物みたいなけだもの同然だ。ところがいったんあの女のことに水を向けると、やっこさんの顔もにわかにダイヤのように輝き出す。その間の秘密を見破るのは、何もそうむずかしいことじゃないさ。爺さんはけさ銀食器を潰しに出した。デ・グレ街のゴプセック親父の店に入る姿を、げんにわしは見かけたよ。それから、やっこさん帰って来てレストー伯爵夫人の許に、さっそくクリストフの馬鹿を使いに出した。あの下男の見せた手紙の表書で、そのことは明らかさ。封書の中身は支払済みの約手だった。だから伯爵夫人のほうでもやっぱりその手形割引人のもとに出掛けたとすれば、火急の用があってのことはきわめて明白さ。ゴリオ爺さんは彼女のために、いさぎよく金をやりくりしたんだよ。そうした事情をつまびらかにするには、なにも二つの考えを縫い合せるまでもないことで、造作なくわかるとも。ねえ、お若い書生さん、君の伯爵夫人が笑ったり、踊ったり、|しな《ヽヽ》をつくったり、桃の花をゆるがせたり、着物の褄をとったりしている間にも、彼女は自分の約手なり恋人の約手なりが、不払いになることを考えて、世で言う『人の知らないやきもき苦労』をさんざしていたことが、これで君にもはっきり証明されたろう」
「お話を聞いて、無性に真相を突きとめたくなりましたよ。僕はさっそくあすレストー夫人のところに行ってみます」とウージェーヌは叫んだ。
「そうだとも」とポワレは言った。「あすレストー夫人のところへ、早急に行ってしかるべきだね」
「君はそこできっとゴリオ爺さんに出逢うぜ。とんだ男気《おとこぎ》の〆高を受け取りに、やっこさんまかり出ることだろうからね」
「そうだとするとあなたのパリは、まるで泥沼じゃありませんか」とウージェーヌは嫌悪の面持で言った。
「しかも奇妙きてれつな泥沼さ」とヴォートランは応じた。「馬車に乗って泥をはねかすものは紳士で、徒歩で泥をはねかされるものは悪党さ。なんでも構わないから一つ盗みを働くといった、不心得をばそこで出したが最後、裁判所の広場で、見世物みたいに晒されることになるが、百万フランも盗んだりすれば、徳行家としてサロンでたちまち名が売れるといった始末さ。しかもこういったモラルを維持するため、なんと三千万フランもの金を、警察や司法省に出しているんだからね、べらぼうな話さ」
「何ですって! ゴリオ爺さんがあの銀の朝食セットを潰したんですって?」とお女将は叫んだ。
「蓋の上に一つがいの雉鳩がついてはいませんでしたか?」とウージェーヌはたずねた。
「まさしくそうよ」
「非常に爺さん執着のある品々のようでした。お碗や皿を捩り潰し終ったとき、涙を流していましたから。偶然に僕は見たんですが」
「命のように大事にしてましたからね」
「わかったろう、老人いかに熱を上げているかが」とヴォートランは叫んだ。「あの女は爺さんの心をくすぐるすべを、ちゃんとわきまえているんだ」
学生は自分の部屋に上り、ヴォートランは外出した。それからしばらくしてクーチュール夫人とヴィクトリーヌが、シルヴィの呼んで来た辻馬車で出掛けた。ポワレはミショノー嬢に腕をかし、昼のうららかな二時間を植物園に二人して散歩に行った。
「おやまあ、まるで夫婦者気取りだよ」とでぶっちょのシルヴィが言った。「お揃いの外出はきょうがはじめてだけど、どちらもぱさぱさに乾いた同士だから、ぶつかり合ったら火うち石のように、火が出るかもしれないよ」
「ミショノーさんのボロ肩掛けには用心したがいいね」とヴォーケル夫人も笑いながら言った。「もぐさみたいに燃え上るおそれが十分にあるから」
午後四時ごろ、戻ってきたゴリオは、二つの燻《くすぶ》ったランプの明りで、ヴィクトリーヌが眼を赤く泣きはらしているのを見た。けさのタイユフェル宅訪問が無駄骨折りに帰したいきさつを、ヴォーケル夫人は聴いていた。タイユフェルは娘とこの老婦人に、毎年おしかけてこられるのに業を煮やして、ともかく、一応は会ってやって、きっぱりと片をつけようとしたのだった。
「ねえおかみさん」とクーチュール夫人はヴォーケル夫人相手に話していた。「呆れるじゃありませんか、あの男はヴィクトリーヌに坐れとさえも言わないのですからね。それでこの子はずっと立ち通しでしたよ。この私に対してはべつにおこったりしませんでしたがね。いかにも冷淡でね。毎年ご足労をわずらわすのも、互いに迷惑な話だから、止めにしてほしいなんて申すのですよ。そしてこのお嬢さんが(自分の娘がとも言わないのですからね)うるさく訪ねてこられるのに、(一年にたった一回だのに、なんという人でなしでしょう)自分はすっかり心証を害しているし、ヴィクトリーヌの母親は持参金なしで嫁入って来たのだから、お嬢さんは何も請求する権利はないなどと、そういった酷《ひど》いことをやたら言いだすもので、とうとうこの子も泣きくずれてしまいましたよ。それでもこの子は父親の足もとに身を投げて、勇気を出してこう言ったんですよ。これほど自分がしつこくするのも、母親のためを思ってであって、これからは愚痴一つこぼさずお父上のご意志どおりに従いますゆえ、その代りにはどうか亡くなった母君の遺書だけは、お読みになっていただきたいと、問題の手紙を取り出して父親に渡しながら、世にも美しい、また当を得た言葉を述べ立てたのでしたがね。いったいどこで覚えた文句でしょう、きっと神様がご口授遊ばしたものに違いありませんわ。それほどに神様のご啓示を受けて見えましたもので、聞きながら私はまるでばか女のように、泣き出してしまいましたよ。そのときあの人でなしは、何をしていたとお思いになります? 爪なんか切っていたのですよ。そしてあわれなタイユフェル夫人が、涙でしたためた手紙を受け取っても、暖炉棚のうえにほうり上げたきり、『よし、わかった』なんて言って、娘を助け起こそうとして出した手を、この子が掴んで接吻しようとしたのに、慌ててその手を引っ込めるような始末ですものね。なんという極悪非道ぶりでしょう。そこへひょっくり大馬鹿息子が入って来ましたが、妹のこれに挨拶一つしませんのよ」
「怪物一家じゃないのかな?」とゴリオは口を出した。
「そうしてね」とクーチュール夫人はゴリオの絶叫にも頓着せず話を続けた。「火急の用があるから失礼をすると、私に一礼してさっさと親子とも出て行ってしまいましたの。そういったのがきょうの顛末で。とにかくこの子に先方も逢うには逢ったのですが、いったいどうしてわが娘《こ》と認知しないのか、さっぱりわけがわかりませんわ。瓜二つといっていいくらい、この子は父親似なんですがね」
下宿人たち、館に寄宿しているのも外来のも、次々とそこにやって来て、互いに挨拶を交しながら、無駄口を叩きあった。パリのある種の階級にあっては、無駄口は滑稽じみた機知の構成分となっている。そしてばかばかしさがそうした機知の主要なる要素で、特に身振りや発音のなかに、その本領は発揮されているが、この種の隠語はたえず移りかわっている。そしてそれらを素因とする冗談口も、一ヵ月とは続かない。政治上の問題、重罪裁判所の訴訟、巷の流行歌、役者の駄洒落と、すべてはこのとんち遊びを演ずるのに役立ち、要は羽子板で羽根をつき合うように、思想や言葉を互いに応酬しあいさえすればよかった。最近発見された透視画《ディオラマ》は、全景画《パノラマ》より以上に眼の錯覚を起こさせるところから、画家のアトリエでは言葉の語尾に、|ラマ《ヽヽ》をくっつけて話すふざけ方が流行していて、それをヴォーケル館の常連の一画家も、ここに持ち込んでいたのであった。
「よう、ポワレの旦那」と博物館の吏員が言った。「ご尊台のサンテラマ〔ご健康〕はいかがで?」そしてその返事も待たずに、「ご婦人方、何か心配事がおありのようですな」とクーチュール夫人とヴィクトリーヌに話しかけた。
「早く飯にせんかいな」とラスティニャックの友人で、医学生のオラース・ビアンションが叫んだ。「僕の大事な胃の腑嬢は『踵《きびす》マデ』下降してしまったぜ」
「おっそろしいフロワトラマ〔寒さ〕だな。ゴリオ爺さん、もうすこしそっちへ寄ったらどうだね。なんだい、あんたの足で暖炉口全部を占領なんぞして」とヴォートラン。
「ヴォートラン大旦那」とビアンションは言った。「なぜフロワトラマなんておっしゃいました。発音違いですよ。フロワドラマというべきですぞ」
「いや、やっぱりフロワトラマだぜ」と博物館吏員は言った。「文法上から言ったって、ジェ・フロワ・トー・ピエ〔足がつめたい〕だもの」
「なるほどね」
「これはこれは偏頗《へんぱ》法博士ド・ラスティニャック侯爵閣下のご入来か」とビアンションは叫びながら、ウージェーヌの首っ玉をつかまえ、窒息せんばかりにしめつけた。
「オーイ、誰か来てくれ、オーイ」
ミショノー嬢が静かにそこに入ってきて、無言のまま一同に会釈し、三人の女のそばへと席をとった。
「あいつを見るといつも僕は寒気がしますよ。あのこうもり婆め」とビアンションはミショノーを指しながらヴォートランに小声で囁いた。「ガル〔ドイツの骨相学の大家〕の学説を信奉している僕には、ユダの頭蓋隆起があの女に認められるのでね」
「本当に反骨がわかりますかい?」とヴォートラン。
「一目瞭然ですとも」とビアンション。「誓ってもいいですよ。あの白っぽけた老嬢を見ると、僕は大梁《うつばり》をついには噛み切る長っぽいげじげじ虫といった感じを、受けてたまらないんです」
「まったくそのとおりさね、お若いの」と四十男は頬ひげをくしけずりながら鼻歌で、
薔薇は生きぬ 一朝の
その束の間の定めをば
「いよう、音に聞えしスープオーラマのお入りだぞ」クリストフがポタージュをうやうやしく捧げて入って来たのを見て、ポワレはそう言った。
「おあいにくさま、スープ・オー・シュー〔キャベツ入りのスープ〕ですのよ」とお女将は言った。若い連中は大笑いをした。
「ぺしゃんこだね、ポワレ」
「ポワールレット・ギャフンだ」
「ヴォーケルおかみさん、得点二点だ」とヴォートラン。
「けさの霧に気がついた人が誰かいますかい?」と吏員。
「まったく無我霧中の類例のないものだったね。いたましい悲しい青ざめた息詰るような霧だったぜ。さしずめゴリオ霧といったところかな」
「ゴリオラマさ、一寸先も見えなかったもの」と画家。
「おおい、ゴオリオット卿、御身《おんみ》のことが問題になっているんだぜ」
食卓の最下端、食事を運ぶ出入口の傍に坐っていたゴリオは、ナプキンの下に置かれた一片のパンの匂いを顔をあげて嗅いでみた。商売柄の古いくせで、ときどきこいつが出るのである。
「おやまあ、パンがよくないとでもいうんですかい?」とお女将は甲走った声でゴリオに叫んだ。その声はさじの音、皿音、話し声などを圧して一座に鳴り響いた。
「とんでもない、おかみさん、これはエンタンプの粉でできてる極上品ですよ」とゴリオは答えた。
「どうしてそれがわかるんです?」とウージェーヌがたずねた。
「白さと味とでね」
「鼻の味覚ででしょう、嗅いでたようだから」とお女将はつんつん言った。「あなたはひどく締り屋におなりになったから、台所の匂いを嗅いで、腹のくちくなる方法でも、しまいには発見することでしょうよ」
「そうしたらさっそく特許権をおとりになることですな。しこたまお金持になれますぜ」と博物館吏員が叫んだ。
「勝手にさせときたまえよ。自分がそうめん作りだったことを、みんなに納得させるための狂言なんだから」と画家は言った。
「するとあなたの鼻はコルニュ(彎形蒸溜器)ですかな」とまた博物館吏員はたずねた。
「コルなんだって?」とビアンション。
「コル・ヌイユ(山ぐみの実)」
「コル・ヌミューズ(風笛)」
「コル・ナリーヌ(紅めのう)」
「コル・ニシュ(蛇腹)」
「コル・ニション(小きゅうり)」
「コル・ボー(烏)」
「コル・ナック(象の御者)」
「コル・ノラマ(角)」
この八つの返事は連続射撃のような速さで、部屋の八方から発せられ、当のゴリオ爺さんは外国語でも理解しようと努めている人みたいに、愚かしげに会食者一同を見守ってばかりいたので、なおのこと一座の爆笑をさそった。
「コルって?」と彼はそばにいたヴォートランにたずねた。
「コル・オー・ピエ(底豆)のことさ、爺さん」そう言ってヴォートランは、爺さんの頭をポンと叩いて帽子をへし込んだため、眼の上までそれはずり落ちてしまった。
この不意打に呆気にとられ、老人は一瞬身動きもしなかった。クリストフはゴリオがスープを呑み終ったものと思い、その皿を下げた。そのため帽子をかぶり直したゴリオは、さじを手にしてテーブルの上をうっかりしゃくってしまったので、座はどっとばかりに笑い崩れた。
「あなた、本当に悪ふざけの好きなお人だ。二度とこんな帽子いたずらをなさると……」
「どうしたっていうんだい、とっつあん」と、ヴォートランはその言葉をさえぎって言った。
「どうもこうもないです、いつかは手痛く思い知ることがありますぞ……」
「地獄ででしょう、ねえ?」と画家は言った。「いたずら小僧を押し込める暗い隅っこのほうでかね」
「ところでお嬢さん」とヴォートランはヴィクトリーヌに言った。「ちっともあなたは召し上りませんな。するてえとお父さんは相かわらず頑固だったってわけですな」
「お話にもなんにもなりませんのよ」とクーチュール夫人。
「一つこっぴどく聞きわけさす必要があるなあ」とヴォートランは言った。
「それより扶養料の問題で、お嬢さんは訴訟を提起なさったほうがいい。なんにも召し上らずにいられるのだもの」とラスティニャックのすぐ近くから、ビアンションは言った。「ときに見ろよ、ゴリオ爺さん、ヴィクトリーヌ嬢を穴の開くほど見詰めているぜ」
なるほど老人は食べるのも忘れて、あわれな娘を凝視していた。娘の顔には父親を愛する否認された子供の悲痛さ、真の苦悩の色が、まざまざと見受けられた。
「ねえ、君」とウージェーヌは小声で言った。「ゴリオ爺さんを僕たちは見損っていたぜ。あれはばかでもなければ、無神経な男でもないよ。君のお得意のガルの学説を、一つあの男に適用して、ご所見のほどをうけたまわりたいものだね。昨夜爺さんが蝋でもまげるように、銀食器を捩じっているところを僕は見たし、今の様子にしたって、あの顔つきは異常な感情をあらわしているじゃないか。爺さんの生活はひどく神秘的だ。きわめる価値は十分にあると思う。本当だよ、ビアンション、笑うなよ、僕は冗談を言ってるんじゃない」
「あの爺いは医学的に見ても優に刮目《かつもく》に値するね。よしきた、お望みとあらばこの僕が解剖してやってもいいぜ」とビアンション。
「いや、あの頭だけでも探りを入れる必要があると思うな」
「なあんだ、そんな。でもやっこさんの愚鈍はもしかすると、伝染性のものかも知れんよ」
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二つの訪問
あくる日ラスティニャックはひどく瀟洒に着飾り、午後三時ごろ、レストー伯爵夫人の邸宅におもむく途中で、狂熱的な向う見ずの希望にすっかり心奪われていた。そうした期待のため、若人の日々は感動で美しく彩られ、障害や危険なども度外視され、万事に成功を予想し、空想の戯れのみでその生も詩化されるのである。しかしほしいままな欲望のなかだけで、生きてるにすぎぬ目論見が、いったんおおったりでもすると、惨めさを彼らは覚えたり、悲嘆にくれたりする。が、もしも彼らが世間知らずの臆病屋でなかったら、社会などはとうていに成立たぬことだろう。
泥がつかぬようにと、さまざまに心くばりながらウージェーヌは歩いていた。そうして歩きながらも彼は、レストー夫人に言うべき文句を思案していた。頭に機知を仕入れ、架空の会話の即答を工夫し、しゃれた言葉やタレイランふうの警抜文句を準備しつつ、自分の未来が基づいている愛の告白に、都合のよいあれこれの事件を、彼は心に思い描きなどした。そのうちつい|はね《ヽヽ》をあげてしまったので、パレ・ロワイヤルで長靴を磨かせ、ズボンに刷毛《はけ》をかけさせなければならなかった。不時の用にととっておいた三十スーの銀貨を、小銭に両替しながら彼は独語した。
「金さえあれば馬車で行けたものをなあ。そうすれば心おきなくもの思いに耽れたんだが」
ようやくとエルデル街に着いて、レストー伯爵夫人に面会を求めた。玄関に馬車の停る物音もさせず、徒歩で前庭を通ってきた彼に、召使どもが浴びせる蔑《さげす》むような眼つきに対して、自分の他日の栄達に確信ある人間の冷ややかな憤激をもって、彼は立ち向った。召使らのこうした視線は、いよいよ彼を過敏にさせるものだった。というのは浪費的生活の贅美を誇示し、パリのあらゆる歓楽への習熟をほのめかした小ぎれいな馬車に、勇ましくつけられた一頭立ての立派な馬が、前脚であがいている前庭に足を踏み入れたとたんから、すでに彼は身の引け目をば感じていたからであった。なんということなしに彼は不機嫌になった。頭のなかにあけておいた引出しには、機知がいっぱいに詰っているつもりだったのに、その引出しも閉ざされてしまい、彼はすっかり気がきかなくなってしまった。
来客の名を伝えに行った従僕が、伯爵夫人の返事をもたらしてくる間、ウージェーヌは控え室の窓ぎわに片足で突っ立ち、窓の掛金に肱を寄せかけて、なんとはなしに前庭のほうを眺めていた。時間がずいぶん長く感じられた。もしも彼に南方人独得のあの粘り強さがなかったら、とうの昔に帰ってしまったことだろう。だがこうした粘り強さが一直線に突き進むとき、思わぬ奇蹟がしばしば産み出されるのである。
「お客様」と従僕が言った。「奥様は居間でお忙しそうにしていらっしゃいます。ご返事もついいただけませんでしたが、なんなら客間にお通りくださいますか。前からお待ちの方もいらっしゃいますから」
ただの一言で主人の意向を悟ったり判じたりする召使連中のあの驚嘆すべき能力に、ほとほと感じ入りながら、ラスティニャックは、従僕が今出て来たドアを、思い切り強く開けてみた。家の主人たちとは昵懇《じっこん》のことを、これら不遜な召使どもに、思い知らせようというつもりだったに相違ない。ところが迂濶にも彼が飛び込んだ部屋は、ランプだの宴席用食卓だの湯上りタオルを温める器具だのおいてあり、そこからずっと、薄暗い廊下や裏階段にと通じていた。控え室からの忍び笑いが彼の耳にも聞えたので、ウージェーヌはすっかり狼狽に陥ってしまった。
「お客様、客間へはこちらからにてございます」という従僕の言葉には、うわつらだけの丁重さがこもり、なおのことそれは愚弄気味に感ぜられた。
ウージェーヌはあわてて後戻りしたため、浴槽につまずいてしまったが、運好く帽子をきつく冠っていたので、湯のなかに落さずにすんだ。と、このとき、小さなランプで照らされた長廊下の突き当りで、ドアの開くような音がし、レストー夫人の声、ゴリオ爺の声、接吻の音などを、ラスティニャックはいちどきに聞いた。彼は食堂に戻って、そこを通り抜け、従僕のあとについてとっつきのサロンに入った。そこの窓がちょうど前庭に面しているのを見て、思わず彼は窓の前に立ち止った。さっきのゴリオの声が、本当に彼の下宿のゴリオ爺さんのかどうか、見定めようと思ってであった。妙に胸が高鳴った。ヴォートランの怖ろしい見解が思い出された。従僕はサロンの戸口で、ウージェーヌを待っていた。と、急にサロンから瀟洒な一人の青年紳士が姿を現わして、苛立たしそうに言った。
「モーリス、僕は帰るよ。半時間以上も待たされたと、伯爵夫人に伝えておくれ」
この横柄な青年は、そう無遠慮に振舞ってよいだけの権利を、きっと持ってるのだろう、声ふるわせてのイタリア歌曲の一節を口吟みながら、ウージェーヌの構えていた窓のほうへ歩み寄って来た。それは学生の顔を見るためであり、前庭のほうをのぞくためでもあった。
「伯爵様、もうすこしお待ちになったほうがよろしゅうございましょう。奥様のご用もおすみのようですから」と控え室のほうを振り返りながら、モーリスは言った。
ちょうどそのとき、ゴリオ爺さんが小さな階段口を出て正門の近くあたりまでさしかかった。老人は洋傘を差し上げて拡げようと身構えた。ボタンに略綬をつけた若い男が馭して来た軽二輪馬車《カブリオリ》を通すため、大門が開かれているのに、気づかなかったゴリオは、あわてて後ずさりに飛びのいたので、やっとのこと馬車に轢き倒されずにすんだ。琥珀織の洋傘に驚いた馬は、軽くわきにそれて、正面階段のほうへと突進した。若い男はむっとしたように顔を振り向け、ゴリオ爺さんを睨んだが、老人の出て行く前にちょっと会釈をした。もっともそれは用のある高利貸に対して、心ならずも払うような敬意、あるいは不評判の人にもやむなく見せねばならぬ挨拶といった、いずれもあとになって自分がしたことを赤面するような場合の、あの会釈の仕方だった。しかしゴリオ爺さんのほうはお人好したっぷりの親しげな会釈を返した。稲妻のように早いそれは一瞬時の出来事であった。ウージェーヌはそれに気をとられ、座は自分一人でないことにも気づかなかった。だから伯爵夫人の声音を聞いたとき、彼は急にはっとした。
「あら、マクシム、お帰りになるの」ちょっと怨めしげなとがめ立ての口調で、夫人はそう言った。
伯爵夫人は軽二輪馬車の入って来たのにも気づかなかった。ラスティニャックはにわかに振り向いて夫人の容姿を見た。白カシミヤ地に薔薇色の結び目のある化粧服をあだっぽく着て、朝のうちのパリ女らしく、無造作に髪は束ねられ、えならぬ芳香があたりに漂っていた。沐浴《ゆあみ》をすませての後に違いなかった。磨きのかかったその美しさは、湯上りでいちだんとなまめかしくなったようで、両眼までも潤んでいた。青年の眼は何もかも見てとる。青年の心は女性から放射される輝かしさに、すぐと結びついてしまう。ちょうど植物が大気中から、おのれに適当な養分を吸いとるように。夫人の手の匂いやかなみずみずしさが、ウージェーヌには触るまでもなく感ぜられた。湯上りの化粧着がすこしはだけて、時おりちらちらカシミヤ地ごしに見える薔薇色の胸のあたりに、ラスティニャックの視線は落ちずにいられなかった。コルセットの技巧策も、伯爵夫人には無用のようであった。帯紐だけでそのしなやかな胴体はくっきりと目立ち、その首は恋情をそそり、上靴をはいた足ときたら、いかにもかわいらしかった。マクシムが接吻しようと夫人の手をとったとき、ウージェーヌはやっとマクシムの存在に気づき、夫人もそのときはじめてウージェーヌの姿を認めた。
「あら、あなたでしたの、ラスティニャックさん、よくいらっしゃいましたね」夫人のその言葉調子は、気の利いた連中ならどうとったらよいかをわきまえるべきはずのものだった。
マクシムはウージェーヌと伯爵夫人とを交る交るに見くらべていた。この闖入者を退散させるための、それはかなりに意味深い態度だった。(さあ、マダム、早くこのおかしげなやっこさんを、おっぽり出してもらいたいもんですね!)この言葉はアナスタジー伯爵夫人が、マクシムと呼んでいる、無礼なくらい傲慢な青年の眼つきを、はっきりわかりやすく言葉で翻訳したものである。夫人は服従の意向をもって、青年の顔をはかっていたが、その素振りは当人は気づかぬながらも、女心のことごとくの秘密を物語るに足るものだった。
ラスティニャックはこの青年に対して、激しい憎悪を覚えた。まずはマクシムの品よく縮らされた麗わしいブロンド髪によって、いかに自分の髪の毛が醜悪かを、思い知らされたからである。それにマクシムは華奢で汚れのない長靴をはいているのに、自分のには、来る途中、ずいぶんと注意はしたが、かるく泥の跡がついてしまっている。さらにマクシムの着ているフロックコートは、上体を優雅に締めつけ、まるで美しい女にも見まがうばかりなのに、この自分のときたら午後二時半というのに、黒い服のままだ。長身痩躯で明るい眼に青白い顔をし、孤児の財産でも費消しかねぬていに見えるこの伊達者に対して、衣裳着つけが与えている優越性を、ラ・シャラント生まれの才はじけた若者は、ほとほと痛感せずにはいられなかった。
ウージェーヌの返事も待ちあえず、レストー夫人は隣あったサロンヘさっとばかりに逃げ込んだ。化粧着の裾はひらひらと翻りなびいてさながら蝶のような感じだった。と、マクシムがその後に続いた。ウージェーヌも憤然として、マクシムや伯爵夫人の後を追い、三人は大きなサロンの中央、暖炉の高さのところで向き合って立った。この憎たらしいマクシムの、邪魔立てしていることは、百も承知の彼だった。レストー夫人のご機嫌を損ってもままよ、この伊達者を大いに悩ませてやることを、ラスティニャックは決心したのである。そういえばこの青年をボーセアン夫人の舞踏会でも見たことがあるのを、にわかに彼は思い出した。そしてマクシムがレストー夫人のなんであるかも察しがついた。とんでもないへまを演じさせるか、あるいはどえらい成功を博させる、あの若々しいたけだけしさから彼は独言した。「こいつがおれの恋敵なんだ。ぜひうち負かしてやらなけりゃ」
無謀な若者よ! 伯爵マクシム・ド・トライユはおのれを人に侮辱させておいて、いきなり先んじてぶっ放し、相手を射倒す人間であることを、なんと、知らずにいたのである。ウージェーヌとても狩猟の腕前は相当なものであった。が、射的において二十二発で二十の標的を倒すほどの域には、まだ達していなかった。若い伯爵は暖炉のそばの肱掛椅子にどっかと腰をおろし、火挾みをとって炉のなかを掻き廻すその仕草の荒々しさや不機嫌そうな顔つきに、アナスタジーの美しい顔もたちまちにして曇った。彼女はウージェーヌのほうに振り向いたが、なじるようなその冷ややかな眼差しは、ありありと(なぜお帰りにならないの?)と語っていたから、いっぱし礼儀を心得ている仁なら、とっさにこれを追い立て文句ともいうべきものと、解し得たのに違いはなかろう。
ウージェーヌはしかし快活げな態度を装って言った。「奥様、じつは至急お目にかかって……」
が、彼は急に言葉を切ってしまった。ドアが開いたからだった。二輪馬車を自ら馭して来たさっきの紳士が、いきなり姿を現わした。帽子も冠ってはいない。伯爵夫人に会釈もしない。胡散くさそうにウージェーヌを眺めてから、マクシムのほうに手を差し出し、「こんにちは」とさも親しげな顔つきで言うのには、ウージェーヌもひどく驚かされた。田舎出の若者などは、この種の三角関係生活の気易さなどは、とうていに解りようはずがない。
「主人のレストーです」と伯爵夫人は学生に良人を示しながら言った。ウージェーヌは低く頭を下げた。
「あなた、こちらさんはね」と続いて夫人はウージェーヌを、レストー伯爵に紹介しながら言った。「ラスティニャックさんとおっしゃって、マルシヤック家の方の関係から、ボーセアン子爵夫人のご姻戚にあたるお方なのですの。せんだっての舞踏会でお目にかかりましたのよ」
『マルシヤック家の方の関係から、ボーセアン子爵夫人のご姻戚』というこの言葉を、伯爵夫人が特に力をこめて言ったのは、一廉《ひとかど》の名あるものにしか、わが家の門戸は開かれぬことを、一家の女主人が見せつけようとする際に覚える一種の自尊心からであって、案の定、この言葉は魔術的な効果を奏した。伯爵は他人行儀な冷ややかな態度をかなぐり捨て、学生に挨拶しながら、「お近づきになれてうれしいと思います」と述べた。
伯爵マクシム・ド・トライユでさえも、そわそわした眼差しをウージェーヌのほうに投げて、にわかにその不遜な態度を改めた。
一つの家名の力強い調停によるこの魔術の杖によって、南国青年の脳裡にあった才知の引出しの数多くは、立ちどころに開かれ、前もって準備してきた機知を彼は取り戻すことができた。彼にとってはまだ真の闇であったパリ上流社会の雰囲気のなかに、にわかに一条の光明がさし、はっきり彼にはなにもかもが見えだしたのである。さてそうなるとヴォーケル館やゴリオ爺さんは、はるかに彼の頭から遠のいてしまった。
「マルシヤック家は断絶したと思っていましたが?」とレストー伯爵はウージェーヌに言った。
「そうなのです。私の大伯父のシュヴァリエ・ド・ラスティニャックは、マルシヤック家の跡取り娘と結婚しました。二人のなかには一人娘しか儲けられませんでしたが、これがボーセアン夫人の母方の祖父、クラランボール元帥に嫁したのです。僕たちは分家で、しかも大伯父の海軍中将は、国事にばかり忠勤をはげんで、全身代をすってしまいましたもので、非常に落魄いたしております。革命政府が東インド会社にたいして行った清算整理のさいにも、僕たちの債権を認めることを拒否されてしまいましたから」
「あなたの大伯父さんは一七八九年以前にヴァンジュール号の艦長をしておられませんでしたか?」
「そのとおりです」
「じゃワルウィック号の艦長をしていたわしの祖父を、ご存じのはずですよ」
マクシムはレストー夫人を見やって、ちょっと肩をすくめてみせた。それはあたかもこう言っているかのようだった。(伯爵がこの男と海軍の話でも始め出したら、それこそ|こと《ヽヽ》ですぞ)アナスタジーにはトライユ氏の眼言葉がよくわかった。それでにっこり笑った彼女は、女性特有のあの驚くべき権能を揮《ふる》って、こう言った。
「ちょっといらっしゃい、マクシム、お願いしたいことがありますのよ。お二人さんにはワルウィック号とヴァンジュール号で、お揃いで航海していただくとしましょうよ」
彼女は立ち上って、マクシムのほうに、叛心にみちた嘲り気味の合図を行った。そして二人は私室のほうへと向った。モルガナティック(馴れ合い)という妙味あるドイツ語の表現に、あてはまるような該当語がフランスにはないが、その馴れ合いの男女が戸口のところまで達し終らぬうちに、伯爵はウージェーヌとの会話を中断して、気むずかしそうに叫んだ。
「アナスタジー! ここにいなさい。お前、知らないはずはないと思うが……」
「すぐ来ますわよ、じきに戻りますったら」と彼女はそれをさえぎって言った。「マクシムさんへのお頼みをお話しする、ほんのちょっとの間だけですのよ」
彼女はさっそくに戻って来た。この種の女はみんなそうだが、自分の気儘を通すためには、良人の性格を見張っていなければならなかったので、よしや自分勝手に振舞っても、良人からの大切な信用を失わない限度は、ちゃんとうまく心得ていたし、人生の些事においては、決して良人の意に逆らわぬことにしていたので、アナスタジーは良人伯爵の口裏からして、私室に長居しては危険だと早くも察したからだった。こんな蹉跌もみんなウージェーヌのせいだというので、伯爵夫人は怨めしそうな物腰態度で、マクシムに学生のほうを指し示した。マクシムはきわめて皮肉そうな調子で、伯爵夫妻とウージェーヌに言った。
「ちょいと、あの、あなた方ひどくご用がおありのようで、お邪魔してもなんですから失礼させていただきますよ」そして彼は逃げ出して行った。
「まあいいじゃありませんか、マクシム!」と伯爵は叫んだ。
「一緒にお食事なさいましな」と伯爵夫人は言いながら、またもや伯爵とウージェーヌを置去りしたまま、とっつきのサロンまでマクシムの後を追って行った。伯爵がウージェーヌをその間にていよく放逐するだろうと、かなり長いこと二人はそこにとどまっていた。
ラスティニャックには二人の笑い声や話し声、それに話の合間の押し黙りなどが、かわるがわる聞えて来た。だがこの人の悪い学生が、伯爵相手に、自分の機知をひけらかしたり、お世辞を並べ立てたり、議論に引き込んだりしていたのは、伯爵夫人にもう一度会って、ゴリオ爺とどんな関係なのかを、つきとめたいと思ってであった。明らかにマクシムに惚れ込み、良人を尻のしたに敷いているこの女人が、老製麺業者とひそかに関係を結んでいるなどとは、まったく彼にとっては深い謎のような話だった。かかる謎を解きさえすれば、この生粋《きっすい》のパリ女たる伯爵夫人の上に、君臨できるものと、彼は虫のいい考えをしていたのだった。
「アナスタジー」伯爵はふたたび夫人を呼んだ。
「じゃ、マクシム、お気の毒ね」と彼女は青年に囁いた。「今はあきらめてね。また今晩……」
「|ナジー《ヽヽヽ》、あんな若造、以後は門前払いしておいてもらいたいね」とマクシムは夫人の耳元で言った。「君の化粧着がはだけるたびに、あいつ眼を炭火のように輝かしていたぜ。君に言いよって外聞でも悪くしたら、僕は余儀なくあいつを殺さねばならぬ羽目に陥るからね」
「おばかさんね、あんた」と彼女は言った。「ああいう書生さんは逆に、すばらしい避雷針になるじゃありませんの? あたしレストーに|あれ《ヽヽ》を妬かせるつもりでいるのよ」
マクシムは大きく笑い、帰って行った。それを送って出た伯爵夫人は、窓のところに立って彼が馬車に乗り込み、馬に足踏みさせ、鞭を振るうのをしばし眺めていた。大門が閉じられてから、やっとのことで彼女は戻ってきた。
「どうだい」と伯爵は夫人の入ってくるのを見るなり言った。「この方のご家族の住んでいられるところは、ラ・シャラント川に沿ったヴェルトゥイユから遠くはないんだぜ。この方の大伯父さんとわしの祖父とは、お知合いだったんだ」
「古馴染みのお国のご縁で、まあ嬉しいですこと」伯爵夫人はうわの空で返事をした。
「あなたのお思いになっていらっしゃる以上に、これで僕たちはご縁が深いんですよ」とウージェーヌは低い声で言った。
「まあ、どうして!」と夫人は勢いよくたずねた。
「だってお宅からさっき帰ってゆくのを見かけたあのお年寄りは、僕と同じ下宿で、しかも部屋まで隣合せのゴリオ|爺さん《ベール》でしたもの」
『爺さん』という文句で飾られたこの名前を聞くや、火を掻きたてていた伯爵は、火挾みで手を火傷でもしたように、いきなりそれを火中にほうり出して立ち上った。
「君、ムッシュー・ゴリオといえなかったものかね」と伯爵は叫んだ。
伯爵夫人は良人の苛立ちぶりを見て、はじめは蒼白となり、ついでまっかになった。明らかに狼狽の態《てい》であった。しかしつとめて平静を装った声音と、うわべだけはさあらぬ調子で答えた。
「呼び方を変えていただきたいような人に、私たち知合いなんかあるはずがありませんわ……」が、夫人はここで言いさして、ピアノのほうを見やって、ふと何か思いついたように、「あなた、音楽がお好き?」
「大好きです」まっかになったウージェーヌは答えた。なにかとんでもない|へま《ヽヽ》をやらかしてしまったという漠とした考えで、彼はぼうっとなっていた。
「お歌いになって?」そう彼女は叫ぶや、ピアノのところへ行き、指で激しくパラパラッと低音のドから高音のファまで、鍵盤ぜんぶを端から端へと勢いよく払った。
「だめなんです、奥さん」
レストー伯爵はあちこち歩きまわっていた。
「まあ、残念ね。成功への大きな手段を一つ欠いていらっしゃるなんて。――Ca-a-ro, Ca-a-ro,ca-a-a-ro, non du-bi-ta-re(愛する者よ、ためらうなかれ)」と伯爵夫人は歌った。
ゴリオ爺さんの名を口にしたばかりに、ウージェーヌは魔法の杖を揮ったことになったが、その効果は『ボーセアン夫人の姻戚』という言葉がさっき生んだそれとは、まさに正反対のものだった。彼の立場といったらちょうど骨董好きのところへ、特別のはからいで招かれた男が、彫像のたくさん入っている戸棚にうっかり突き当って、かたくとりついてはいなかった彫像首を、三つ四つ落してしまったようなものだった。彼は淵にでも身を投げてしまいたい気持になった。レストー夫人の顔もいかにも無愛想で冷淡になり、よそよそしくなったその眼は、この長っちりの学生の眼差しを避けるようにしていた。
「奥さん、どうやらご主人ともお話がおありのようですから、失礼ですが僕はこれで……」
「お越しくださればいつでも、主人もあたしも、よろこんでお目にかかりますことよ」と、伯爵夫人はウージェーヌの言葉を手ぶりで押し止めながら、早口に言った。
ウージェーヌは伯爵夫妻に丁寧にお辞儀をし、辞退するのも聞かずに控え室までついて来たレストー氏に見送られて門を出た。
「奥さんもわしも、あの男が来たら、これからはいつも留守だということにするんだぞ」と伯爵はモーリスに申し渡した。
ウージェーヌは降りようと踏段に足をかけたとき、雨の降っているのに気づいた。「やれ、やれ」と彼は独言した。「味噌をつけにわざわざやって来たようなものだ。いったいなにが|へま《ヽヽ》の原因で、どんなたたりがあったのか、さっぱりわからないが、おまけに服と帽子までも台無しにしてしまわなけりゃならない。隅っこに引っ込んで法律を勉強し、いかめしい法官にでもなる工夫を専心に考えていればよかったのだ。社交界でそれ相応に幅を利かすには、馬車も、磨きのかかった長靴も、いろんな不可欠の身のまわり品も、金鎖も、午前中には六フランもする鹿皮の白手袋も、夜分にはきまって黄色い手袋も、それぞれにみな要るというのに、このおれなんかが社交界には入れるわけなんかないじゃないか。ええい、あのいまいましいゴリオ爺いの老いぼれ畜生め、くたばりやがれ!」
通りに面した門の下まで彼が出てきたとき、おそらく新婚夫婦を送って行っての帰り道だろう、主人に内証で流しの一稼ぎをしようとした貸馬車の御者が、ウージェーヌが黒の夜会服、白チョッキ、黄色い手袋に磨きのかかった靴といういでたちで、傘もささずにしょんぼりしているのを見て、合図を送った。深淵に落ちこんだ青年が、幸運の出口を見つけようとして、ますます深みにはまってゆく際のあのひそかな激昂に、ウージェーヌはすっかりとらわれていた。御者の誘いかけに、うなずいて彼は応じた。ポケットに二十二スーとは持たぬくせに、彼は馬車に乗った。車中にはオレンジの花弁や金糸銀糸の断片などが落ちていて、花婿花嫁が今さっきまで乗っていたことを立証していた。
「旦那、どちらまで?」白手袋をすでに脱いでしまっていた御者はたずねた。
(ままよ、ころんでもただは起きられんぞ。馬車に乗り込んだ以上は、せめて何かの役に立てなけりゃ)そう考えてウージェーヌは、「ボーセアン邸までやってくれ」と大声で言った。
「どちらのです」と御者はたずねた。
この言葉にウージェーヌはうろたえた。新米のこの伊達者は、ボーセアン邸が二軒あることも知らなければ、自分のことなど眼中にもない親戚縁者が、おのれに沢山あることもご存じなかったのである。
「ボーセアン子爵。通りは……」
「ド・グルネル通り」御者は首をこっくり振って、彼の言葉をさえぎった。「ご承知でしょうが、サン・ドミニック通りにも、ボーセアン伯爵と侯爵のお邸がありますんで」そう言い添えながらすばやく昇降台をたたみ上げた。
「知っているよ」とウージェーヌは素気なく答えた。(きょうはみんながこのおれを馬鹿にしてやがる!)そう呟きながら前のクッションの上に彼は帽子をほうり出した。(こんな羽目はずしをして、王様の身代《みのしろ》金ほどにも俺にとっちゃ大金がかかるが、だがどうやらこれでわがはいの自称従姉ぎみに、貴族然たる堂々とした訪問ができるだけでもまだしもだろう。ゴリオ爺さんのため、もう少なくも十フランは使ってしまったわい。あの老いぼれの悪党爺いめ! よし、俺はこの出来事を、ボーセアン夫人に一つ話してやろう。きっと夫人を笑わせられるだろう。あの人のことだから、しっぽのない古鼠爺いとあの別嬪との臭い秘密を、おそらく見破ってもらえるかもしれないぞ。ひどく金遣いの荒いような印象を与えられる、しだらもないあんな女にぶつかってゆくのより、ボーセアン夫人に気に入られたほうが得だろう。美しい子爵夫人の名前だけでも、あんなに権勢があるのだもの、ご当人自身とすればどれほどの貫禄が備わっているものかもしれやしない。とにかく高所を目ざすとしよう。天界のなにかに挑むんだったら、上帝の神様を狙わなけりゃ!)
以上の言葉は、彼が漂わされた千一つの考えをつづめたものである。雨の降るのを眺めているうちに、彼はいくらか平静と信念を取り戻した。残りの貴重な五フラン銀貨二枚を濫費するにしても、それは服や靴や帽子の保全のために費されるのだとまで、彼は思いなおした。御者が「開門願います!」とどなるのを聞いたとき、彼にしてもいささか気分をよくしないわけにはいられなかった。
赤い服に金モールをつけた門番が、邸の大門の肱金《ひじがね》をきしらせた。馬車がアーチの下をくぐり、前庭をぐるりまわって正面玄関の雨除け庇《びさし》の下にとまったのを見て、ウージェーヌは甘い満足感にひたった。赤で縁どった青い大きな外套を着た御者は、昇降台を下しに来た。ウージェーヌは馬車から降りながら、柱廊の蔭から洩れる忍び笑いを耳にした。三四人の召使が、この俗っぽい花嫁馬車について、早くも冗談口を叩き合っていたのだった。そこにとまっていたパリのもっとも優雅な箱馬車の一つと、自分の乗り物をば、ウージェーヌはそのとき見較べて、初めて召使どもの笑ったわけが明らかになった。その箱馬車につながれた元気のよい二頭の馬は、耳には薔薇の花をつけ、しきりと轡《くつわ》を噛んでいた。髪粉をちゃんとつけ、襟飾りもきちんと結んだ御者は、いまにも馬に走り出されるのを恐れるかのように、しっかりと手綱を握っていた。
ショセ・ダンタンではレストー夫人の前庭に、二十六歳の若者がみずから馭す、きゃしゃな一頭立二輪馬車を見た。ここフォーブール・サン・ジェルマンでは、三万フラン出しても買えないような乗り物、大貴族の豪奢な馬車が待っていた。誰が来ているのだろうと、ウージェーヌは考えた。パリではつきまとわれていない女性は、ごく僅かしかなく、またそういった女王たちの一人を征服するには、血を流せばすむどころの沙汰ではないことを、遅まきながらも彼は悟り出したのであった。
心に死を抱いて、彼は階段を上った。彼の姿に玄関のガラス戸は開かれた。馬櫛《ばぐし》で掻かれている驢馬のように、召使たちは厳粛そうだった。さきに彼のつらなった舞踏会は、ボーセアン邸の一階にある応接用の大広間で催されたし、舞踏会と招待状との間には、従姉を訪問する時間の余裕もなかったので、彼はまだボーセアン夫人の部屋に、足を踏み入れたことがなかった。それで清楚な女人の心ざまや暮しぶりが、よくあらわれたこの私生活の高雅さに彼ははじめてこれから接するわけだった。レストー夫人のサロンが、彼にもっけの比較の対象を供してくれたので、それはいよいよと興味深い研究になった。四時半からが子爵夫人の面会時間であった。もう五分早かったら夫人は従弟を追い返したことであろう。パリのさまざまなエチケットを、からきしわきまえなかったウージェーヌは、花をいっぱいに飾り、赤い絨毯を敷き、金色の手すりのついた純白な大階段を昇りつめて、ボーセアン夫人の居部屋にと導かれた。
口頭で伝えられているボーセアン夫人伝を、いっこうに知らない彼だった。なにしろそれはパリのサロンで、夜ごと耳から耳へと、囁かれている変りやすい物語の一つであったからだ。子爵夫人はここ三年来、ポルトガルの貴族のなかでも、とびきり著名で富裕な一人、ダジュダ・パント侯爵と親交を結び、それはかく結ばれた同士にとっては、座に第三者をまじえるのに堪えられぬほどの、数々の魅力に富んだ生《き》一本な結びつきとなっていた。それでボーセアン子爵も否応なしにこの|馴合い関係《ユニオン・モルガナチック》を尊重して、世間に自らその範を示していたのであった。
二人の交際が始まった当時のこと、子爵夫人を午後二時ごろ訪ねてきた客人は、きまってそこにダジュダ・パント侯爵の姿を見るのが常だった。せっかくの来客に面会謝絶はひどく失礼に当るもので、ボーセアン夫人は余儀なく客に接していたが、いとも冷ややかな態度で遇《あし》らい、熱心に軒蛇腹《のきじゃばら》を眺めてなぞばかりいたので、どんなに夫人の邪魔になっているかを、客はみな察せざるをえなかった。それで午後二時から四時の間に、ボーセアン夫人を訪ねるのは夫人の迷惑になることが、かくしてパリじゅうに知れ渡り、申し分のない孤独のなかに、夫人はひたることができたのであった。時おり夫人は良人やダジュダ・パント氏と打ちつれて、ブーフォン座やオペラ座へと出掛けた。しかしボーセアン氏は世慣れた紳士だけに、夫人と侯爵とを席に就かせてのち、きまって自分は座をはずしてしまったのであった。
だがそのダジュダ氏はほかの女と結婚する肚《はら》になっていた。相手はロシュフィード家の令嬢であった。上流社会全体のなかで、まだこの結婚を知らぬのは、たった一人しかいなかった。そしてそれはボーセアン夫人その人であった。女友達のいくたりかが、それとなくこの話をしかけても、夫人は一笑に付すばかりだった。嫉《ねた》ましいこっちの幸福に、友達が水をさそうとしていると、思い込んでいたからで。だが今や結婚予告が、近く発表されようとしていた。美貌のポルトガル人は結婚のことを子爵夫人に告げ知らせようと思ってやって来たが、裏切りの言葉をつい言いそびれてしまっていた。なぜだろう、確かにこの種の最後通牒を、女性にたいして送るくらいむずかしいものはない。女に二時間も悲歌《エレジー》を聞かされたあげく、死んだ真似をされ、気つけ薬を求められるのよりは、決闘場で心臓に刃をつきつけられて、大の男に威《おど》されるほうが、遥かに気は楽だと思う殿方も、きっと若干はあることだろう。
そんなわけでちょうどそのとき、ダジュダ・パント氏も茨の上にいるような思いで、帰りたくってたまらなかったのであった。いずれそのうち一切は、ボーセアン夫人の耳にも伝わろうし、彼女の心臓をぐさりやるにしても、なまの声でよりは手紙でのほうが好便なので、書簡を書くことにしようなどと、侯爵は思案していたところであった。そこへ子爵夫人の従僕が、ウージェーヌ・ド・ラスティニャック氏の来訪の旨を告げに来たので、侯爵はうれしさに内心小躍りを覚えたくらいだった。
しかし恋する女性というものは、快楽をいろいろに変えるすべに巧みであるよりも、疑惑をつくりあげることのほうに、はるかに敏《さと》いものである。女が、まさに捨てられようとしているときには、恋情を告げる遠くの微粒子を嗅ぎつけるウェルギリウスの馬よりもさとく、相手の男のちょっとした動作の意味をも、すばやく見抜いてしまうものである。だからボーセアン夫人が彼の思わず知らずの軽い、しかしぞっとするほどむきだしな小躍りを、見逃すはずのなかったことは、もちろんの話であろう。
パリでは誰の家を訪れるにしても、その家の事情に通じている友人からでも、当の夫妻や子供たちの身の上話を、話してもらった上でなければ行くべきではないことを、ウージェーヌは知ってはいなかった。それは|へま《ヽヽ》な真似を、しでかさない用心のためである。そうした|へま《ヽヽ》を演じて泥の中にはまった難場から、きっと引っ張り出すためだろう、「五頭の牛を車に繋げよ!」という、生々した言い廻し文句が、ポーランドにはある。会話上のこうしたしくじりを言い表す適切な文句が、まだこのフランスにはないというのも、すぐに悪口を言われて大変な名折れとなるので、そんな間違いはとうていありっこがないときっと、思われているからであろう。レストー夫人の邸で泥んこのなかに陥り、五頭の牛を車に繋ぐ余裕すらも、夫人から与えられなかった当のウージェーヌのことゆえ、ボーセアン夫人の邸にまかり出て、牛追い稼業をまたもや繰り返す恐れは、十分にあった。だがさっきはレストー夫人やトライユ氏に、とんだ気まずい思いをさせた彼も、ここではダジュダ氏を窮境から救うことになったのである。
贅美さが高雅そのものとなっている、鼠色と薔薇色のしゃれた小さなサロンに、ウージェーヌが入って来たとき、これ幸いと侯爵は、「ではさようなら」と言いつつ、急いでドアのほうへと行きかけた。
「どうぞまた晩にね」ボーセアン夫人は振り向いて侯爵を見やりながら言った。「ブーフォン座に一緒にまいるはずでしたわね」
「すこし差し支えがあって、ちょっとそれは」そう言って侯爵はドアの取手に手をかけた。
ボーセアン夫人は立ち上るや、ウージェーヌには目もくれず、侯爵を自分の傍らにと呼び戻した。目を奪うあたりの華麗さの煌《きら》めきに、茫然と突っ立ったままウージェーヌは、アラビアン・ナイトの実在を信じ、この自分には一瞥すら与えぬ夫人を前にし、穴あれば入りたいくらいにまで思った。子爵夫人は右手の人さし指をあげ、あでやかな身ぶりで自分の前の席を侯爵に示した。その態度には情熱の圧制的な狂暴さがあった。侯爵はドアの取手から手を放して、戻って来ざるをえなかった。
ウージェーヌは侯爵を見て羨望の念に堪えなかった。
(これが箱馬車の主人公なんだ!)と彼は考えた。(それにしてもパリ女の眼をひくためには、勇み立った馬や、お仕着せを着た従者や、ふんだんの黄金が、やっぱり必要なんだな)
奢侈の悪魔が彼の心にくいいった。利得熱にうかされ、黄金への渇望にその咽喉《のど》もひりついた。三ヵ月に百三十フランの仕送りしか受けていない彼である。両親と弟妹、それに伯母とを加えて、田舎では皆で月二百フランとは使っていないくらいなのだ。そうした現在の境遇と、しとげねばならぬ未来の目標とを、すばやく見くらべた結果、まったく彼は茫然とするほかなかった。
「どうしてブーフォン座においでにはなれませんの?」と笑いながら子爵夫人はきいた。
「用事があるんです。英国大使のところで、食事することになっていますので」
「用事なんかうっちゃらかしなさいよ」
一度嘘を言うと、いやでも嘘に嘘を重ねざるを得なくなる。ダジュダ氏はそこで笑いながら言った。
「強いてとおっしゃるのですね?」
「もちろんですわ」
「僕もあなたにそう言ってもらいたかったのですよ」ほかの女だったら、安堵させられたであろうような、こすい眼差しを投げながら、彼はそう答えた。そして子爵夫人の手をとり接吻してから出て行った。
ウージェーヌは右手で髪の毛を掻き撫で、いざおじぎしようと身をくねらせかかった。いよいよボーセアン夫人が、こっちにかまってくれるだろうと見たからである。
ところが夫人はいきなり飛び出し、廊下のほうに走り出て、窓辺によって、侯爵が馬車に乗るさまを眺めに行ってしまった。そして耳を澄まして、行先をどう言いつけるかを、洩れ聞こうとした。守衛が御者に、ロシュフィード邸へと繰り返す声が耳にはいった。その言葉と、侯爵が馬車にどっかと腰をおろした態度とは、夫人にとっては稲妻と雷電のショックであった。世にも恐ろしい憂苦にとらわれて、夫人は引き返してきた。上流社会において、もっとも恐ろしい大変異《カタストロフ》といったら、さしずめこの種のたぐいがそうであろう。子爵夫人は寝室に入り、テーブルに向って美しい便箋を取り出した。そして書いた。
「イギリス大使館でなく、ロシュフィード家へお食事にいらっしゃったからには、ぜひご釈明していただかなくてはなりません。おいでをお待ち申します」
手が震えたため形が崩れたいくつかの文字を添削したあとで、夫人は前姓のクレール・ド・ブルゴーニュを意味するCを署名してから、呼鈴を鳴らした。
「ジャックや」すぐとはせつけてきた従僕に言いつけた。「七時半にロシュフィード邸に行ってね、ダジュダ侯爵がおいでかどうかをたずねて、もしいらっしゃったらこの手紙をお渡ししてきておくれ。お返事はいりません。またもしおいででなかったら、手紙はそのまま持ち帰ってちょうだい」
「奥様、サロンでお待ちの方がいらっしゃるようですが」
「ああ、そうだったわね」そう言って夫人はサロンの扉を押した。
ウージェーヌはひどく居心地の悪い思いになりかけていたとき、ようやく子爵夫人の姿に接することができた。
「ごめんなさい。ちょっと、いそぎの手紙を書いていたものですから。でももうすっかり身体はあきましてよ」と彼に言ったその語気の感動的なこと、ラスティニャックは肺腑を鋭くつかれる思いがした。何を喋ってるのか、夫人は自分でもわからないらしかった。というのは頭のなかで夫人は、(ああ、あの人はロシュフィードの令嬢と結婚するつもりなんだわ。そんな自分勝手な真似ができるかしら。今夜にもこの結婚は、破談にしてみせてやる。さもなかったら私……いいや、あすになったらこんな問題は人の口の端にものぼらなくなるだろう)などと、思いに耽っていたからで。
「従姉《ねえ》さん……」ウージェーヌは呼んだ。
「えっ?」見ず知らずの他人に声をかけられて答えるように、夫人は言って、彼のほうをちらりと見たその傲慢な無礼さに接し、彼は身うちの凍るような思いがした。ウージェーヌにはこの「えっ?」がよくわかった。ここ三時間にたくさんのことを覚えた彼は、しぜん警戒の構えにあった。
「奥さん」赤くなって彼はすぐに言い直し、ちょっとためらったあとで、続けた。「お許しになってください。わずかな縁続きでは甘えられないほどのたくさんのご庇護を、僕は必要としているんです」
ボーセアン夫人は微笑した。それも悲しげに。彼女はすでに不幸を感じていた。自分の身のまわりにそれがなりはためいているのがわかった。
「私たち一家の者の現状を、奥様がご存じくださいましたら」とウージェーヌは続けた。「奥様はおとぎ話の妖女の役を、あの守護しているものたちのまわりから、障害を取り除いてやっている役割を、きっと喜んで演じてくださるに違いないだろうと思います」
「あら、いったいどんなお役に私が立つとおっしゃるの?」と笑いながら彼女は言った。
「そんなことが、どうしてこの僕にわかるでしょう? 闇のなかに没しているような遠縁関係にせよ、奥様といささかながら繋がりがある、そのことだけでもすでに大きな幸運なんです。奥様のために僕はすっかり心乱されてしまいましたので、何を申し上げにまいったのかも、わからなくなってしまいました。パリでの僕の知合いといったら、奥様お一人しかないのです。ああ、それで僕は奥様のご助言をお求めしたいのです。奥様のスカートに縫いつけられることを願い、奥様のために死ぬことをわきまえているあわれな子供として、僕をお認めくださるようにと、こうしてお頼みに上ったのです」
「では私の頼みでしたら、人一人殺してくださいます?」
「二人でも殺してご覧にいれますとも」とウージェーヌは答えた。
「坊やねえ! まったくあなたは赤ちゃんよ」と夫人は涙を抑えながら言った。「あなただったら、真剣に私を愛してくださるでしょうね?」
「もちろんですとも」彼は大きくうなずいて見せた。
ウージェーヌの野心満々のこの答えに、子爵夫人は激しい興趣を彼にたいして抱いた。南国青年はその最初の策略を、ここで初めて働かしたわけだった。レストー夫人の青い私室と、ボーセアン夫人の薔薇色のサロンとの間で、彼はあの「パリ法」の三ヵ年を修得してしまったのであった。それはべつに口ずから講義され得るものではないが、なにしろ高等社会法学の一部をなすものゆえ、十分に究めて応用しさえすれば、よろず意のごとくに達せざるはない。
「ああ、そうそう、お話し申し上げようと思いましたのは、お宅の舞踏会でレストー夫人に近づきになって、けさがたお屋敷に上ってきたことです」
「きっとあの方、ご迷惑なさったでしょう」微笑しながらボーセアン夫人は言った。
「まったくそのとおりで、からきしの世間知らずですから、あなたのお力添えをいただけないとなると、僕は世間全体を敵にまわしてしまいそうですよ。若く美しく金のある雅《みやび》やかな女性、それでいてまだ恋人がないという女人に、パリででっくわすのは、いたってむずかしいこととは、よく存じていますが、そういう女性が僕には、一人ぜひ必要なんです。あなたがたご婦人方が、よく心得ていらっしゃるもの、つまり世間というものを、僕は教えていただきたいのです。ところがどこへ行ってもトライユのような人に、僕は出会っちまうんです。じつはここへお伺いしましたのは、あなたから謎を解いていただいて、あそこで僕の演じた失態が、どんな性質のものであったか、それをお教え願いたいのです。ある爺さんの話を僕はしたところ……」
「ランジェ公爵夫人がおいででございます」とそこヘジャックが告げにきたので、話の腰を折られた学生は、すこぶる不機嫌そうな様子を見せた。
「もしあなたが成功なさろうとお望みなのでしたら」と、子爵夫人は低い声でささやいた。「第一、そんなに露骨にご自分の感情をおあらわしになるものではありませんよ」そして立ち上って、「まあ、ようこそ」と言いながら公爵夫人を迎えに立ち、まるで親身の姉妹にでも対するような、いそいそとした真心こめて、公爵夫人の手を握った。公爵夫人も愛くるしい甘え振りを見せて、これに応えた。(二人は親友同士なんだな)とラスティニャックは考えた。(俺はこれから二人もの後楯を持てるぞ。この二人はきっと一つ心を持ってるはずだから、公爵夫人もこの俺に関心を寄せてくれるだろう)
「アントワネット、どうした風の吹きまわしでわざわざ来てくださったの、本当に嬉しいこと」とボーセアン夫人は言った。
「だってダジュダ・パント様がロシュフィード邸に入るのをお見かけしたので、きっとあなたお一人だろうと思ってまいったんですのよ」
ボーセアン夫人はべつに唇を引きすぼめもしなければ、顔あからめもせず、その眼差しもいつもとは変らなかった。むしろ公爵夫人がこの由々しい言葉を口にしている間に、彼女の顔はかえって明るさを増したようだった。
「けどお客様がいらっしゃると知っていましたら……」と公爵夫人はウージェーヌのほうをかえりみながら言い添えた。
「この方、あたくしの従弟にあたる、ウージェーヌ・ド・ラスティニャックさんですの。ときにあなた、モントリヴォー将軍の消息をご存じ? セリジーからきのう聞いたのですけど、ちっともお姿をお見かけしないのですってね。きょうお宅にもお見えになりませんでしたこと?」
ぞっこん惚れ込んでいたモントリヴォー将軍から、弊履《へいり》のごとくに棄てられたという評判のこの公爵夫人は、むごい質問の穂先で心臓を貫かれた思いで、赤くなってこう答えた。
「きのう、あの方はエリゼ宮殿でしたのよ」
「まあ、お役柄でしたの」とボーセアン夫人。
「ねえ、クララ、もちろんご存じでしょうけれど」公爵夫人は底意地悪そうな眼差しをたっぷり投げながら反撃してきた。「あす、ダジュダ・パント様とロシュフィードのお嬢さんとの結婚予告が、公示されるってお話ですわ」
が、この一撃はあまりにもきつすぎた。子爵夫人は蒼くなった。けれど笑いにまぎらせて、
「それ、お馬鹿さんたちがおもしろがって触れまわっている例のゴシップの一つですわよ。ダジュダさんともあろう方が、ポルトガルのもっとも輝かしい家名の一つを、ロシュフィード家のものに名乗らせるなんてはずはありませんとも。だってロシュフィード家なんて、ごく昨今の成上り貴族じゃありませんか」
「けれど世間の噂だと、年収二十万フランもベルトについているんですってね」
「ダジュダさんは豪勢なお金持ですもの、そんなこと勘定には入れておりませんわ」
「だってロシュフィードのお嬢さん、お綺麗じゃありませんの」
「そうかしら!」
「つまりあの方が今晩お屋敷にお呼ばれになったのも、結婚の条件がすっかりまとまったからなんですのよ。あなたあんまりご存じがないようね、あたし不思議だわ」
「それはそうと、ラスティニャックさん、どんな|へま《ヽヽ》を遊ばしたとおっしゃるのですの?」とボーセアン夫人は言った。「ねえ、アントワネット、このかわいそうな坊やは、つい近ごろ社交界に入ったばかりで、さっきからの私たちのお話、さっぱり様子がのみこめないらしいゆえ、ひとつこの方に免じて、そうしたお話はあすにのばしましょうよ。あすになればみんなきっと正式《オフィシェル》なものになり、あなたのお話も、|非公式な《オフィシウ》(おせっかいな)ものだってことに、なるでしょうから」
公爵夫人はウージェーヌのほうに、横柄な眼差しを向けた。それは頭のてっぺんから足の爪先までもじろじろ測って、相手をぺしゃんこにさせ、ゼロの状態にまでたちいたらすといった不遜きわまるそれだった。
「奥さん、僕はそれとは知らずに、レストー夫人の心臓に、短刀を突き刺すようなことを、やらかしてしまったのです。それと知らなかったことが、この僕の何よりの落度でした」ウージェーヌの才はようやくに働き出し、二人の女のさも親しげな言葉つきの蔭にひそんでいる、辛辣な皮肉を解するにいたったので、彼はさらに続けて言った。「あなたがたの悩んでいる秘密を知り、ことさらにそこを衝いてくる人たちと、依然としてあなたがたは交際を続け、おそらくは相手を恐れてさえもいらっしゃるでしょう。ところがあなたがたを傷つける相手が、その傷の深さを知らない場合だと、今度はそれを馬鹿者扱いになさり、何も利用するすべを知らぬ鈍物として、軽蔑されてしまうのです」
ボーセアン夫人が学生に投げた流し目には、感謝と威厳とが同時にこもっていたが、それは偉大なる魂のみがなしうるところのものだった。今しがた公爵夫人が彼を値踏みした、競売評価吏のような一瞥に、心傷つけられた思いのラスティニャックにとっては、こうした流し目は彼の心を鎮めた芳《かん》ばしいバルサン剤さながらであった。
ウージェーヌはなおも語を続けた。「幸いと僕はレストー伯爵の厚意をかち得ることができました。と申しますのは」そう言いつつ彼はへり下りながらもこすそうな態度で、公爵夫人のほうに向き直って、「これは一つこちらの奥様に、ぜひ申し上げておかなければならないことですが、じつは僕はまだ一介の貧乏書生で、寄辺のないまことに憐れな……」
「ラスティニャックさん、そんなことはおっしゃるものではありませんよ。私たち女というものは、誰もが気をつかわぬものに、決して気などはつかいませんから」
「これはどうも」とウージェーヌは言った。「僕はまだ二十二にしかなっていないんです。青二才の不利益を受けねばならぬことは、覚悟の前です。それに僕は懺悔しにここへお伺いをしたのです。こちらほど美しい懺悔台にひざまずくということは、考えられませんもの。どうやらこちらでは罪を犯して、|あっち《ヽヽヽ》へ行って懺悔することになるんでしょうけれど」
公爵夫人はこの反宗教的言辞に、ぞっとしたような振りをし、彼の悪趣味なのを排斥するごとく、ボーセアン夫人に向って、「この方はあの新しく……」
ボーセアン夫人は従弟や公爵夫人に対し、遠慮もなく笑って、
「そうなの、新しく着いたばかり。上品なご趣味を仕込んでくれる女の先生を、探していらっしゃるところなの」
「公爵夫人様」とウージェーヌは言った。「我々の心を魅する秘密に立ち入りたがるのは、これまた自然の情ではないでしょうか?」(さあて、おれは確かに陳腐な床屋口調に堕しかかっているぞ)と胸のなかで彼は独語した。
「でもレストー夫人は確かトライユさんの女生徒だと思いますけど」と公爵夫人は言った。
「そんなことを僕はちっとも知らなかったのです、奥様。それで向う見ずにも二人の間に割り込んで行ったのです。初めはとにかく、ご主人とは話もうまく合いましたし、夫人も、しばらくは僕を辛抱していてくれたのですが、そのうち僕はふと、さっき廊下の奥で伯爵夫人に接吻して、裏階段から出て行くのを見かけた男は、僕の知人であると告げてみたい気になったのです」
「それ誰ですの?」二人の婦人はこもごもにたずねた。
「サン・マルソー新町の奥で、貧乏書生の僕と同じく、月二十フラン金貨二枚の割りで暮している老人なんです。みんなから愚弄されている本当に気の毒な人で、ゴリオ爺さんと僕たちは呼んでいますけど」
「まあ、なんてあなたは子供なんでしょう」と子爵夫人は叫んだ。「レストー夫人はゴリオの娘さんじゃありませんか」
「そう、製麺業者の娘ですわ」と公爵夫人は横合いから話した。「あの女《ひと》が宮廷にはじめてまかり出たとき、さる製菓業者の娘も同じく拝謁にまいっておったのですって。クララ、あなた覚えていらっしゃらない? 王様は莞爾《かんじ》とあそばされ、メリケン粉についての巧い洒落を、ラテン語でおっしゃったそうよ、そら、なんとかなんとかって……」
「Ejusdem farinoe」(同じ粉、牛は牛連れ)とウージェーヌは言った。
「そう、それよ」と公爵夫人。
「へえ、じゃあれは父親なんですか」と学生は驚いたような身振りをして言った。
「そうですとも。あのお爺さんには娘が二人あって、娘のほうでは二人ともに父を否認しているのですけど、お父さんのほうでは半気狂いのように、娘たちをかわいがっているのですよ」
「二番目の娘さんは確かニュシンゲン男爵という、ドイツ名前の銀行家に娶がれているのじゃなくって? デルフィーヌってお名前ではなかったかしら」とランジェ夫人のほうを見ながら、子爵夫人は言った。「オペラ劇場に側面桟敷をお取りになり、ブーフォン座にもお見えで、人目をひくためひどく高い声でお笑いになるブロンドの髪の方じゃないこと?」
公爵夫人は微笑して言った。「まあ、あなたにはまったく感心してよ。どうしてあんな人たちのこと、そんなに関心をよせていらっしゃるの。粉屋さんの娘のアナスタジーにぞっこん惚れこむなんて、レストーさんもそうですけど、よっぽどのご執心でもなければ、できないことですわね。しかもその取引の結果は大損にきまってますのにね。あのお方はトライユさんの掌中のものとなり、やがてはあの男のため身を滅ぼされてしまうでしょうからね」
「ではあの人たちは、自分の父親を否認したのですね」とウージェーヌは繰り返した。
「ええ、そうなの、自分たちの父上を、ててぎみを、おとこおやを」子爵夫人は続けた。
「なんでも噂ではとても優しい父親で、娘たちを立派に縁づけて仕合せにしようと、それぞれに五六十万フランずつもわけてやり、自分の分としては年に八千か一万フランの年金をしか、手許に残しておかなかったそうですの。娘たちはきっといつまでも娘たちでいて、自分がいとしまれかしずかれる二軒の家、二つの家庭を、それら娘たちのところに設けたつもりで、お父さんはおったんですのよ。ところが二年もたつとお婿さんたちは、まるで下賤な匹夫かなにかのように、舅《しゅうと》を自分たちの社会から追い出してしまったのですからね……」
ウージェーヌの両眼からは数滴の涙がまろび落ちた。彼はまだ若々しい信念に魅せられている年頃であった。つい最近帰省してきたばかりの彼は、家庭に対する清純な清い感動で、胸裡をさわやかにしてきたところであった。そしてきょうこそパリ文明の戦場における、彼の初陣の日であったのである。
真実の感動は伝わり易く、しばしの間は三人とも、黙って互いに顔を見合せるきりだった。
「いやですわね」とランジェ夫人はついに言った。「まったくほんとに恐ろしいことだと思いますわ。しかも毎日、そうしたことを私たちは見せつけられているんですものね。そうなるには何かわけがあるのではないでしょうか。ねえ、クレール、お婿さんというものについて、あなた考えたことおありにならなくって? 私たち、あなたにしろ私にしろ、千もの絆で結ばれている大事な愛娘《いとしご》を、こうして育て上げているのも、みんなその男、お婿さんのためになんですからねえ。娘子といったら十七年もの間の家庭の喜び、ラマルチーヌ式の言い方でいえば、家庭の『白い魂』であったそれが、後には家庭の悩みとなってしまうのですわ。なにしろお婿さんは私たちから娘を取り上げてしまうや、まずもって自分の愛情を斧のように握って、当の天使がその実家と結ばれているあらゆる感情を、その心からも身体からも、断ち切ってしまうのですものねえ。きのうまでは、娘は私たちにとってすべてでした。それがあすになると、娘は私たちの敵になってしまうのですよ。こうした悲劇が毎日演ぜられているのを、私たちは目にしないでしょうか。息子のためにすべてを犠牲にした舅に、世にもひどい無礼を働く嫁がここにはあるかと思えば、あちらには妻の母親を追い出すような婿もおりますわ。今日びの社会に、ドラマチックなものは何もないではないかという声も聞きますわ。私どもの結婚悲劇なんかは、およそ馬鹿げたものになってしまったのですから、論外としましても、この種の婿のドラマなどといったら、おそろしい限りじゃありませんこと。あの老製麺業者の身に起こったことどもも、私にはよく納得がまいるのですわ。たしか私の覚えているところでは、あの|フォリオ《ヽヽヽヽ》は……」
「ゴリオでございますよ、奥様」
「そうそう、その|モリオ《ヽヽヽ》とかいうのは、革命中、彼の地区の区長をしておりましたそうですの。ところがあの有名な食料品欠乏時代の楽屋裏に立ちまわって、当時の公定価の十倍にも、麦粉を高く売りつけたのが、あの人の財産のできはじめなんだそうですわ。なにしろあの人は、欲しいだけの麦粉を、入手することができましたものね。それというのは、私の祖母の家令が、闇で彼に売りつけていたからですのよ。ああいった連中の常で、この|ノリオ《ヽヽヽ》もきっと公安委員会あたりと、結託しておったのに違いありませんわ。だってその家令が、私の祖母に向って、『大船に乗った気でこのグランヴィリエにおられますよ、あなた様の麦が、何よりもたしかな公民証でございますから』と言っていたのを、私憶えておりますもの。ところでその|ロリオ《ヽヽヽ》、人類屠殺人どもに闇麦を売っていたその男には、たった一つのパッションしかなかったのですの。人の話ですけど、娘さんたちに対し、大変な子|煩悩《ぼんのう》だったのですって。それで上の娘を、玉の輿でレストー家にかたづけ、下の娘は王党派になった大金持の銀行家、ニュシンゲン男爵に縁づけましたの。帝政時代には、二人の婿たちも、『九十三年老人』をわが家に迎えることを、そう気に掛けもしなかったことは、おわかりになりますでしょう。|ブオナパルテ《ヽヽヽヽヽヽ》の頃なら、まだそれでもよかったのですわ。ところが、ブルボン王朝が復活したとなると、老人はレストー伯や、それよりことにニュシンゲン男爵の邪魔者になってしまったのです。でも娘たちのほうはたぶんずっと父親を愛していたようで、山羊とキャベツ〔山羊とキャベツと狼という、三巴の仲悪同士を一緒に運ぶ農夫の困惑を語った寓話から来ている。互いに傷つけずにすますには、どうすればよいかというのである〕つまり父親と良人のどちらの顔もたてて、巧くそのあいだをとりなそうとしていたようですの。誰もいないときに限って、この|トリオ《ヽヽヽ》を引き入れておりましたもの。そして、『お父様、いらっしゃってよ。このほうがかえって気楽じゃありませんか。水入らずになれて!』などと、いかにも愛情のありそうな口実文句を、でっち上げていましたのよ。けれど、ねえ、本当の感情は、ちゃんと見る目も知力も備えているものだと思いますわ。ですからこの気の毒な『九十三年老人』も、心の中ではさだめし血の涙を流していたことでしょう。娘たちが、自分のことで気恥ずかしい思いをし、それぞれに亭主を愛しているとすれば、婿たちの邪魔に自分がなっていることを、ご当人としても見てとらずにはいられませんわ。そうなれば、自分を犠牲にするほかに、ないじゃありませんか。それで自分を犠牲にしたのですの。なぜなら、自分は父親だったからですわ。あの人は自分から出て行ってしまいました。娘たちがそれに満足しているのを見て、好いことをしたと悟りました。そしてこのささやかな犯罪に、父娘とも共謀していたわけですの。しかし、こうしたことはどこにでもございますわね。あの|ドリオ《ヽヽヽ》爺さんは、娘たちのサロンのなかでは、汚い油|しみ《ヽヽ》のようなものだったのではないでしょうか。それに自分でもサロンなどに出ると、窮屈な思いがし、さだめし当惑気味だったことでしょう。あの爺さんに起こったことは、世にも美しい女性とその最愛の男との仲にも、起こり得ることなのですわ。もしも女の愛情が男の鼻についてくれば、男は離れてしまうでしょう。女から逃げるためには、どんな卑劣な真似をも、いとわないでしょう。すべて感情というものは、そういうものですもの。私たちの心は宝の庫、それを一挙に傾けつくしたら、それこそ身の破滅となってしまいますわ。すっかりさらけ出された感情に対しては、一文なしの人を相手にするときと同じで、私たちは何の情けも容赦もかけませんもの。それはそうとあのお爺さんは、すべてを与えつくしたのですわ。二十年もの間、娘たちに愛と情けとを与え、そのうえ、一時に全財産までもやってしまいましたの。ところが搾りつくされたレモンのように、その|かす《ヽヽ》を娘たちは街の隅っこにとすててしまったのですわ」
「世間ってなんてひどいんでしょう」と子爵夫人はショールの糸をほぐしながら、うつ向いたまま言った。ランジェ夫人が話のなかで、彼女にあてつけて言った言葉が、ひどく身にこたえたからである。
「ひどいですって! いいえ、違いますわ」と公爵夫人は応酬した。
「世間ってそんなふうに動いているものなのですのよ、ただそれだけのことですわ。私だってじつはあなたと同じように考えてますのよ」そう言いながら子爵夫人の手を握りしめた。「世間ってほんとに泥沼ですわ。けれどお互いに高みにとどまっているように、努めようじゃありませんこと」
彼女は立ち上り、ボーセアン夫人の額に接吻しながら言った。「あなた、きょうはとてもお美しくいらっしゃること。それにお顔色の艶々しいっていったら、ついぞお見受けしたことのないくらい」
そしてウージェーヌのほうを見て、軽く頭を下げてから出て行った。
「ゴリオ爺さんて、まったく崇高な人ですね!」真夜中に銀食器を捩っていた老人の姿を思い起こしながら、ウージェーヌは言った。
ボーセアン夫人は聴いてはいなかった。物思いに打ちしずんでいたからで。しばらくのあいだ沈黙が続いた。かわいそうに学生は気恥ずかしいやらあきれかえるやらで、立ち去ることも、居坐ることも、話しかけることもできなかった。
「世間ってなんてひどい意地悪者なんでしょう」と、やっとのことで子爵夫人は呟いた。「なにか災難が起こるとすぐ、待ってましたとばかりに、それをご注進にくる友達が、きまっているんですからね。そして短刀の柄の立派さを見せびらかしながら、その短刀でこちらの心臓に探りを入れるのですもの。もうさっそく諷刺と嘲弄! ああ! こっちでも本当に身を守らなくちゃ……」
事実そのとおりだったが、偉大なる貴婦人のごとくに、夫人はすっくと頭をもたげた。誇り高いその両眼からは、稲妻のような閃きが走った。
「あら! あなたまだいらっしゃったの!」夫人はウージェーヌを見て叫んだ。
「はあ、まだおりました」しょんぼりとして彼は答えた。
「ねえ、ラスティニャックさん。世間なんてその分相応に相手をしておけばいいのよ。あなた出世なさりたいんでしたわね。あたしお力添えしてあげますわ。女性の堕落がどんなに底深いか、男性の惨めな虚栄心がどんなに幅広いか、あなたはそれを測ることになるでしょう。あたしも世間という本を、ずいぶん読んだつもりでしたが、まだまだあたしの知らなかったページが、たくさんにあったのですの。が、やっと今ではすっかりわかりました。冷酷に打算すればするほど、あなたは先へ先へと進んで行けるのですわ。情け容赦もなく撲りなさい。そうすれば人から畏敬されますわ。中継の駅ごとに、乗り潰して捨ててゆく駅馬なみに、男でも女でも扱いなさい。そうすればあなたの望む絶頂へと、達することができますわ。
いいですか。あなたに関心を寄せるような女性がいなかったら、社交界ではてんで物の数にもされませんのよ。それも若い金のある優雅な女性が要りますわ。けれどもしもあなたが真心なんて持っていらっしゃるのだったら、それは宝物のように隠しておきなさいよ。決してそれを気取られていけませんわ。でないと取返しのつかぬことになってしまいますからね。あなたは死刑執行人になれずに、犠牲者になってしまいますわ。ですから、もしも恋をなさるようなことがあっても、心の秘密だけは大事に蔵っておきなさいよ! あなたの心を打ち明ける相手の正体を、よく掴まぬうちは、決してその秘密を漏らさないようになさいね。まだ現にはないこれからの恋愛を、あらかじめ守護しておくためには、世間の人の誰にも、決して気を許さぬ修業を、まずは積んでおくことですわ。わかって、ミゲル……(彼女はそれと気づかずに、うっかりダジュダの名を口にしていた)あの娘たちが二人とも父親を見棄てて、その死ぬのを願っていることよりもっともっとおそろしいことが、この世の中にはあるんですのよ。それはあの姉妹同士の敵対心ですの。レストーは名門なので、その奥さんも上流社会に迎えられ、宮廷にも伺候しておりますが、妹のほうの金もあり美しいデルフィーヌ・ド・ニュシンゲン夫人は、実業家の妻のため、姉への嫉妬にさいなまれて、死ぬ苦しみをしていますのよ。姉との間に百里もの懸隔《へだたり》があるため、姉がもう姉ではなくなり、父を二人が否認したように、お互い同士否認しあっていますのよ。ですからニュシンゲン夫人は、あたしのサロンに入るためなら、サン・ラザール通りからグルネル通りまでの間の、泥んこ全部をだって、なんなら舐めるのを辞さないでしょう。ド・マルセイにすがれば自分の目的を適えさせてもらえるだろうと、あの人はド・マルセイの奴隷になり、うるさくつきまとってはいますけど、マルセイのほうではてんで問題にもしていないようですのよ。ですからあなたがあの人を、あたしにお引き合せになれば、あなたはあの人から末っ子かわいがりされ、さだめしあの人はあなたを拝跪いたすことでしょう。できたらその後であの人を愛することになさいな。さもなければあの人をうまく利用なさることだわ。盛大な夜会で客の大勢たてこんだ折なら、あたし一度か二度ならあの人に逢ってあげますわ。でも午前中の面会は絶対にお断りよ。あたしあの人にお辞儀してあげるわ。それだけでもう十分でしょう。あなたという人はゴリオ爺さんの名前を口になさったばかりに、伯爵夫人の門から自分で自分をお締め出しになったのよ。そうですわ、あなたはたとえレストー夫人のところへ、二十回足をお運びになっても、二十回ともお留守の門前払いをくいますわ。あなたはお出入り差止めなんですもの。ですから、ゴリオ爺さんに頼んで、デルフィーヌ・ド・ニュシンゲン夫人に引き合せてもらいなさいよ。美しいニュシンゲン夫人なら、あなたのいい看板になることよ。あの人から格別な好意を持たれるような男性におなりなさい。そうすればご婦人たちは、みんなあなたに熱中してきますわ。あの人の敵も味方も親友までもが、あなたを横取りしようとしてかかるでしょう。他の女がすでに選んだ男を愛するといった女性が、じつに世間には多いものよ。ちょうどあたしたちの帽子をかぶって、それであたしたちの物腰を身につけようとしている隣れな町人女が、たくさんにいるようにね。きっとあなたはご成功なさるわ。パリでは成功がすべてよ。これが権力への鍵なんですもの。もしも女たちがあなたの機知なり才能なりを認めれば、男たちもそれを信ずるにいたるでしょう。ただし、あなたが彼らの誤りを悟らせないかぎりはね。さてそうなれば、あなたはなんでも望むことができ、どこへでも足掛りがつきますわ。そのときになって世間とはどんなものかお解りになりますわ。つまり瞞す人間と瞞される人間との寄り集りだということがね。けれどそのどちらの組にも入ってはいけませんことよ。この迷宮にわけ入るための道しるべの糸として、あたしの名前を貸してあげますわ。でもそれに泥を塗ってはいけませんよ」そう言って彼女は首を彎曲させ、女王のような眼差しを学生に投げながら、「真白なままであたしにお返しになってくださいよ。では、どうぞお帰りになって。あたしたち女にも、やはりしなければならない戦いがありますから」
「あなたのためなら欣んで坑道を爆破にでも赴くような男が、もしも将来ご入用でしたら」とウージェーヌは夫人の言葉をさえぎって言った。
「そうしたら?」と彼女は訊ねた。
ウージェーヌは胸をポンと叩いた。そして夫人の微笑にほほえみ返して出て行った。
五時になっていた。彼は空腹を覚えた。食事時間に間に合わないことが気遣われた。パリの町なかを迅速に馬車で運ばれてゆく快感を、こうした懸念から彼は味わうことになった。それはまったくの機械的な快感だったので、むらがり寄せるさまざまの思いに、とっぷり彼はひたることができた。この年ごろの青年は人から軽蔑を受けると憤激し、躍起となって、社会全体を拳骨でおどし、復讐の念に燃え、そしてまた自己懐疑にと陥るものである。ラスティニャックはこのとき、「あなたは伯爵夫人の門から、自分で自分をお締め出しになったのよ」と言った子爵夫人の言葉に、すっかり圧倒されていた。彼は呟いた――。「なに俺は行ってやるぞ! もしもボーセアン夫人の言うとおり、お出入り差止めだったら……よし、俺はレストー夫人の行く先々のサロンに、顔を出してやろう。俺は剣を習おう。ピストルを練習しよう。あの人から大事なマクシムを殺してやろう。それにしても金だ!(彼の心は彼に叫んだ)だがいったいどこからそれを見つけてくるつもりなんだ?……」
するとにわかにレストー夫人の客間に並べてあった高価な品々が、彼の眼先にくりひろげられた。ゴリオの娘が惚れ込みそうな贅沢品、金ピカ類、一目で高価なものとわかる品々、成金の愚劣な奢侈、囲われた女の浪費を、そこに彼は見たのであったが、この蕩《とろ》かすような幻影も、たちまち壮麗なボーセアン邸の幻によって掻き消されてしまった。パリ社交界の高大な領域にと運ばれた彼の想像力は、その心に数々の邪念を吹き込み、彼の理性や良心を弛緩させた。彼は社会をそのあるがままに見た。富者にたいしては法も道徳も無力であることを知り、成功こそ「この世の最後の手段」であることを発見するにいたった。「なるほどヴォートランの言うとおりだ。成功は美徳だ」と彼は心に思った。
ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りに着くや、いそいで彼は部屋に駈けあがり、降りて来て御者に十フランを与えた。そして胸糞の悪くなるような例の食堂に入った。秣草《まぐさ》棚に向った家畜のように、十八人もの会食者がそこで、はみくらっている真最中なのを見た。こうしたみじめなありさまやこの部屋の光景は、いかにもあさましく彼には感ぜられた。あまりにも急激な移り変り、あまりにも極端なこの対照は、彼の心のなかにいやが上にも大きな野望を、掻き立てずにはおかなかった。一方では世にも優雅な社交生活の新鮮で魅力的な姿、技巧と贅美の粋を凝らして取り囲まれた若い溌剌とした姿態、詩情に溢れた熱情的な顔立ち。ところが他方では、泥で縁取られたまがまがしい画面、欲情がその骨と筋ばかりとしか残していないような面つき。棄てられた女の憤りに駆られ、ボーセアン夫人の口をついて出た訓戒の言葉や、狡知に富んだ提案が、彼の記憶によみがえった。この惨めな情景が、彼女の言葉にみごとな註釈をつけていた。
ラスティニャックは成功に達するために、平行した二つの壕を掘って行こうと決心をした。すなわち学問と恋愛とに恃《たの》んで、法学の大家になり、かたわら当世の流行児になろうというのが、その肚のうちだった。まだまだ彼は坊やであった! この二つのラインは、決して相会うことのない漸近線なのだから。
「いやに浮かぬ顔をしていますな、侯爵閣下」とヴォートランは彼に言い、鋭い視線を向けた。どんなに心の奥深く隠された秘密をでも、見透すといったのがこの男の眼つきだった。
「侯爵閣下なんて人のことを呼んだりする冗談口を、聞きずてにするような気持には今なっておりませんよ」と彼は答えた。「パリで本当の侯爵になるには、年に十万フランの利子が入るご身分でなけりゃ駄目です。メゾン・ヴォーケルに厄介になっているようでは、福の神の寵児でないことだけは、確かですからねえ」
ヴォートランはなかば父親的、なかば軽蔑的にラスティニャックを眺めた。それはあたかも(この小僧め、貴様なんか一口で食ってしまえるんだぞ)とでも言いたげな様子だった。
ややあって彼は答えた。「いやにご機嫌斜めですなあ。さてはお美しいレストー夫人のところで、まんまとしくじりめさったな」
「あの人の父親と、一つ釜の飯を食ってると、うっかりしゃべったばかりに、僕はお出入り差止めをくらったんですよ」とラスティニャックは叫んだ。
会食者一同は顔を見合せた。ゴリオ爺さんは両眼を伏せた。そして体の向きを変えるや眼を拭った。
「あんた、煙草の紛がわしの眼に入りましたぞい」とゴリオはその隣席の男に言った。
「ゴリオ爺さんをいじめるやつは、これからはこの僕が相手ですぞ」と元製麺業者の隣にいたその男を睨みつけながら、ウージェーヌは言った。「この人は僕たちみんなが集ったってかなわないくらいの立派な人なんだ。もっともご婦人方は別ですがね」とタイユフェル嬢のほうを向いて彼は言い添えた。
この言葉で一段落がついた。ウージェーヌの言葉調子は、会食者一同が押し黙らざるを得ぬような、いやに高飛車なものだった。ヴォートラン一人だけは冷やかすように彼に言った。
「君がゴリオ爺さんを一手に引き受けて、その責任編集人になるというからには、剣をとることも、ピストルを撃つことも、立派にできんけりゃいかんね」
「そのつもりでいますよ」とウージェーヌは言った。
「じゃきょうから戦端開始というわけだね?」
「たぶんね。だけど僕は自分のやることを、誰にだって報告する義務はありませんよ。なにしろこっちだって人が夜中にやっていることを、見抜こうなんてつもりは持ってはいないんだから」
ヴォートランは横目でラスティニャックを睨んだ。
「おい、坊や。操り人形に騙されまいと思ったらね、楽屋にすっかり入って、裏から見なくては駄目だぜ。垂れ幕の穴から覗いて、好い気になっているようじゃいかん。けれど、話はもう止めよう」彼はウージェーヌが向っ腹を立てそうなのを見て言い添えた。「そのうち君のいいときにいっぺん話そうじゃないか」
食事は陰気で冷たくなった。学生の言葉ですっかり深い苦悩に陥らされてしまったゴリオ爺さんは、みんなの自分に対する気持が一変したことも、みんなの迫害を沈黙させるほどの力量のある青年が、自分の擁護に立つことになったのにも、いっこうに気づいてはいなかった。
「じゃゴリオ旦那は、現に伯爵夫人になっている方の、お父上なのですの?」とヴォーケル夫人は低い声で言った。
「それに男爵夫人のお父さんでもありますよ」と、ラスティニャックはお女将に答えた。
「たったそれだけしか能がない男さ」とビアンションはラスティニャックに言った。「爺さんの頭に触ってみたがね。ほんの一つ頭蓋隆起があったきりだったよ。父性たる才能を示す隆起がね。まさに『永遠の父親』だよ」
ウージェーヌはひどく深刻な気持になっていたので、ビアンションの冗談に笑い出すどころではなかった。彼はボーセアン夫人の忠告を徒《いたず》らにしまいと思った。どこでどうやって金を手に入れようかと思案した。彼の眼前にくりひろげられた世間という大草原が、空虚であると同時に充実しているのを見て、不安顔になった。食事が終ったとき、彼一人を食堂にのこして、皆は出て行ってしまった。
「じゃあ、わしの娘にお会いなさったのですね?」と感動した顔でゴリオ爺さんは話しかけてきた。
老人のため瞑想から引き戻されたウージェーヌは、ゴリオの手をとり、一種の感激をこめた眼差しで相手を見詰めた。
「あなたはじつに立派な偉いお人だ」と彼は答えた。「あとでお嬢さんたちの話を、二人でするとしましょう」
ウージェーヌはゴリオ爺さんの返事を聞こうともしないで立ち上った。そして自分の部屋に引き籠るや、母にあてて次のような手紙をしたためた。
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愛する母上様、僕のために胸拡げてくださる第三の乳房を、母上はお持ちではないでしょうか。僕は今にわかに一身代をこしらえられる立場におります。それにはしかし千二百フランの金がぜひともに要るのです。これだけはなんとしても必要不可欠なものなんです。どうか僕の無心のことは父上には申さないでください。きっと反対なさるでしょうから。もしも僕にその金が手に入らなければ、僕は絶望の虜となって、この頭をピストルで射抜くのほかはないのです。わけは今度お目にかかったとき、何もかもお話し申し上げます。僕のいま陥っている窮状をおわかり願うには、浩瀚《こうかん》な巻物にでもして書き送らねばならないからなのです。母上様、僕はべつに賭博に耽ったのでもなく、一文の借財があるわけでもありません。ですがあなたがお与えくださったこの命を、なおも保たせたいというおつもりでしたら、さっき記した金額を僕のために調達してくださらなくてはいけません。じつは僕はボーセアン子爵夫人のお宅に伺って、そのご庇護に今あずかっているのです。僕は社交界に出なければならないのですが、こざっぱりした手套一つ買おうにも、一文の金もないという現状なんです。僕はパンだけを噛り、水だけを呑んでいてもいっこうに構わないのです。必要とあれば断食もいたしましょう。しかしこの土地にいて、葡萄畑を耕すための用具類を持たずに済ますわけにはまいりません。自分の道を切り拓いて行くか、それとも泥のなかに踏み止まるか、僕にとっては道はそれしかないのです。家の人たちの希望のすべてが、この双肩にかかっているのを十分承知している僕は、それを急速に実現したいと望んでいるのです。母上様、何か昔の宝石類なりと、お売りになってはくださいませんか。遠からずして代りのを、僕がきっと差し上げますから。家の状態はよく承知いたしておりますから、こうした犠牲のありがた味は、ひとしおわかるつもりです。徒らにかかる犠牲を払っていただくため、お願いしているのでないことは、お信じになってくださるでしょう。さもなければ僕は人非人といってもいいんです。どうか僕のこの懇請のなかに、のっぴきならぬ逼迫の叫びのみを、お汲みとりになってください。僕たちの将来ことごとくは、この補助金いかんにかかっているのですから。それをもって僕は戦闘を開始するつもりなのです。まったくこのパリの生活ときたら、不断の闘争です。もしも所要の金額をととのえるため、伯母上のレースまでも売り払うよりほか、手段のないような場合には、もっと立派なものを、いずれ僕が後でお送りすることを、なにとぞ伯母上にもご伝言おきになってください。……下略」
[#ここで字下げ終わり]
彼は妹たちにもめいめい手紙を書いて、その貯え金を無心し、彼女たちが喜んで捧げてくれるに違いないこの犠牲について、家庭内で迂闊《うかつ》に喋らせぬよう、妹たちのうら若い胸のなかで、強く張り切って高く鳴り響く廉恥心の琴線にと触れ、一途に彼女らの繊細な気持にと訴えたのであった。これらの手紙を書き終えたとき、われにもあらず彼は戦慄を覚えずにはいられなかった。胸がどきどきし体も慄えた。この若い野心家にしても、孤独のなかに埋れている妹たちのその純真無垢な気高さは、よく知っていた。自分が妹たちにどんな気苦労をかけるか、そしてまたそれが彼女たちにとってはいかな喜びとなるか、どのように愉しい思いで、菜園の奥で妹たちが愛する兄のことを、こっそり語りあっているか、ちゃんとそれが彼には解っていた。彼の自意識は急に冴え冴えとし、妹たちの姿が眼前に浮かんできた。ささやかなその貯え金を、こっそり勘定しているさまだの、乙女のおぼこげな術策を弄して、その金を匿名で送りつけ、気高く振舞おうと、生まれてはじめて欺瞞を企てている図なのが、彼の目先には見えるようだった。「妹の心は清純なダイヤ、愛情の深淵だ!」と彼は呟いた。手紙を書いたことが気恥ずかしくなった。彼女たちの祈願はなんと力強いものであり、天への彼女たちの魂の飛翔は、いかに浄いものだろう。そもいかなる歓喜をもって彼女たちは、わが身を犠牲にしていることだろう。もしも母にこの金額を調達ができぬとき、どのような苦しみに母君は陥ることだろう! こうしたうるわしい感情、怖ろしいようなこの犠牲は、すべてデルフィーヌ・ド・ニュシンゲンに達するための梯子《はしご》として、彼に利用されるのだ。数滴の涙が、彼の眼からは落ちた。家庭という神聖な祭壇に献ぜられた、それは最後の幾粒かの薫香であった。絶望に溢れた心の動揺のあまり、彼は部屋のなかを行ったり来たりした。半開きになっていたドアの隙から、このさまを見たゴリオ爺さんは入ってきて、
「どうなさったのじゃ?」とたずねた。
「ああ、隣のお爺さんですか。あなたが父親であるように、僕もまた母の息子であり、妹の兄なんですよ。アナスタジー伯爵夫人の身を、あなたが気遣われているのはまったくもっともですね。マクシム・ド・トライユ氏という悪い虫がついていますものね。あのぶんではいつかは破滅させられてしまうでしょう」
ウージェーヌには何がなんだかわからない言葉を、ぶつぶつと呟きながら、ゴリオ爺さんは出て行った。
翌日、ラスティニャックは手紙をポストに入れに行った。最後の瞬間まで彼はためらっていたが、ついに「おれはきっと成功してみせる!」と言いながら、なかに手紙を抛り込んだ。賭博師もこう言うし、大将軍もこう言うが、人を救うのより亡ぼすことのほうが多い、これは不吉な言葉である。
数日後、ウージェーヌはレストー夫人を訪れたが、会ってはもらえなかった。三度行ってみたが、マクシム・ド・トライユ伯爵の来ていない時刻を選んで訪ねたのにもかかわらず、三度とも門前払いをくらった。確かに子爵夫人の言ったとおりだった。彼は勉強もそっちのけにした。講義に顔を出すのも、出席の返事をするためだけで、出席が確かめられると、さっそくに講義をずらかった。学生の多くがするような便法を、彼も考えだした。つまり、勉強は試験間際までのばして、二学年と三学年の聴講届けだけは一緒にやっておき、最後のぎりぎりになったら、真剣に、しかも一気|呵成《かせい》に、法学を習得してしまおうというのだった。それでどうやら十五ヵ月の暇ができるので、そのあいだに、パリの大海を漕ぎまわって、女性からの愛顧あさりや一身代釣りに、専念してゆこうというつもりであった。
その週のうちに彼は二度もボーセアン夫人邸をおとずれ、ダジュダ侯爵の馬車が立ち去るのを見すましてのち、夫人に案内を乞うた。フォーブール・サン・ジェルマンでのもっとも詩的な女人たるこの著名な子爵夫人は、まだここしばらくの間は勝ちほこっていることができた。ロシュフィード嬢とダジュダ侯爵との結婚話を、みごと沙汰止みにさせたからである。けれど自分の幸福を失いはしないかという懸念から、それら最後の日々は、世にも狂熱な烈《はげ》しいものとなり、ために大詰もいよいよ速められたかたちになった。
ロシュフィード家の人たちと肚を合せていたダジュダ侯爵は、ボーセアン夫人との衝突や仲直りを、むしろ好都合な次第だと思っていた。というのは、しまいにはボーセアン夫人も、情人の結婚という考えに慣れ切り、男の将来を慮《おもんばか》り、その未来も考えて、やがては朝の逢曳を諦めるようになるだろうと、彼らは期待していたからである。毎日のようにいとも神聖な誓いを繰り返していたダジュダ侯爵も、だからお芝居を演じていたにすぎず、そして子爵夫人もかく騙されているのを、かえって喜んでいたくらいであった。
「あの人は窓からひと思いに飛びおりる代りに、階段をずり落ちるのに任せているんですよ」と、親友であるランジェ公爵夫人は、こう評していた。けれどこの最後の栄光の残照は、かなり長く続いて輝いていたので、そのあいだボーセアン夫人はパリにとどまり、過度の愛着をよせていたその若い従弟に、十分つくしてやることができた。一方ウージェーヌも夫人に対して、満腔の献身と同情をば惜しまなかった。真の憐憫と慰藉《いしゃ》とを、誰の眼差しのなかにも認め得ないような立場に、折も折ボーセアン夫人は陥っていた際であった。そんなとき、甘い言葉をかけてくる男性があるにしても、それはなんらかの打算心からのことにすぎぬ。
ニュシンゲン家に乗り込みを試みる前に、十分に自分の盤局を見極めておきたいと思って、ラスティニャックはゴリオ爺さんの前身を洗っておこうと考え、確かな情報を集めまわったが、それらを要約すると、だいたい次のようなものになった。
ジャン・ジョアシャン・ゴリオは大革命前には、腕のよい一介のそうめん作りの職人だった。倹約家で、かなりと企業心にも富んでいた彼は、たまたま一七八九年の最初の騒乱の犠牲になった主人の店や株を買いとり、小麦市場に近いラ・ジュシエンヌ街に居を構え、その地区の区長を引き受けるという抜け目なさまでも示した。なんにせよ、物騒なご時世だったので、幅利きの有力者を後楯に、自分の商売をうまく守ろうという、これは俗識からだった。このさかしい遣り口が、彼の身代を肥らせるもとになった。ちょうどその頃、本当に食料欠乏なのか、それとも人為的なそれだったのか、とにかくその結果として、パリでは穀類がどえらい高値を呈したところから、彼の懐ろはにわかに暖かくなりだした。人民たちはパン屋の店先に殺到したが、特殊な人たちだけは取り合いもせずに、食料品店に麺類を闇買に行っていた。この一年で公民《シトワイヤン》ゴリオの蓄めこんだ金が、ずっと後になって彼の営業資金に役立ち、巨額な金がその所有者に授けるあらゆる優越性を、彼に賦与することになった。絶対的でない当面の才能をしか持ち合せぬ人に起こるようなことばかりが、彼の身にも起こった。すなわち彼は凡庸なるがゆえに助かり、無事息災でおれたのであった。それに彼に財産があることが、世間に知れ渡ったのは、金持でいてももうなんの危険もなくなったときで、従って人の羨望をさまでそそることもなかった。
穀類商売に彼は全知能を傾けつくしているの観があった。小麦や麦粉や穀粉に関し、その品質や産地の見分け、保存の注意、相場の予想、豊作か不作かの予言、安価の仕入れ、シシリアやウクライナからの買付けなどの問題において、このゴリオにかなう者は一人もなかった。商売への彼の指図ぶりや、穀類輸出入の法規を解釈して、その精神を究め、法の欠陥をつかむの機敏さなどを見たら、誰しも彼のことを、国務大臣でもつとまる仁と考えたであろう。勤勉で、辛抱づよくて精力的、堅実無比で仕事が速くて炯眼《けいがん》だった彼は、すべてに先手をうち、すべてを予見し、すべてを呑み込み、すべてを隠し、画策においては外交官、邁進においては兵卒さながらであった。
それがいったん商売から離れて、地味な薄暗い店の閾《しきい》先に出て、肩をドアの堅木にもたせ、暇な何時間もそこにじっとしているようなときには、彼はまた愚鈍で粗野な職人に逆戻りをし、理屈ひとつわからぬ、精神的快楽にはいっさい無感覚な、芝居を見に行っても居睡りするていの、パリのドリバン〔シュダール・デフォルジュの喜劇『つんぼ』の主人公。めがね違いで大変な婿を愛娘におしつけて失敗した父親〕の一人、愚直だけが唯一の取柄といった男になってしまうのであった。
こういった性格の男には、そのほとんど全部に似たりよったりなところがある。すなわち大概のそれら男の心のなかには、崇高な感情が見出せることである。ところで、この製麺業者の場合には、二つの偏狭な感情が彼の心をいっぱいにしていて、その潤いをすっかり吸いつくしてしまっていたのは、さながら穀物商売が彼の脳味噌を、ありったけ搾り取ってしまったのと同じであった。
彼の妻はラ・ブリの豪農の一人娘で、彼にとっては宗教的な讃美の的、無限の愛の対象となっていた。妻の性質のうちには折れそうでいて芯は強いところがあり、感情鋭いながらも愛くるしい趣もあって、自分とは激しい対照をなしていたのを、ゴリオはひどく嘆じ入っていた。人間の心に持って生まれた感情がもしあるとすれば、それは弱いものの肩を持って、何かにつけ庇護することに覚える誇りの感情ではないだろうか。この感情に情感を、すなわち豪儀なあらゆる魂が、その快楽の本体に対して抱く温かい感謝の念を、つけ加えてみるならば、人間の心の不可思議な謎の多くを、解することができるであろう。
いささかの暗雲もない幸福な七年の歳月を終った後で、ゴリオは不幸にも彼の妻を喪《うしな》った。ちょうど感情の世界の外でも、妻が彼に権威を揮いかけ始めたところだった。もしも天が彼女に寿命をかしたならば、必ずや良人の鈍い性質を練磨して、社会や人生の問題についてのその知性的分野を、啓発していたことだろう。こうした境遇のためゴリオのうちに父性愛的感情は、常軌を逸するまでに伸展して行った。死によって欺かれた愛情のはけ口を、二人の娘の上に彼は求め、最初は娘たちも彼の全感情を存分に満足させてくれていた。商人や百姓たちは、ゴリオの後妻に自分の娘をすすめようと競い合い、すばらしい縁談話をさかんに持ち込んだが、ゴリオはやもめで通す肚《はら》を変えなかった。ゴリオとはただ一人気の合っていた彼の舅は、ゴリオが妻に対して、よしんば妻が亡くなったからといって、不実な真似は決してしないと誓ったのを、確かに知っていると言い張った。この崇高な狂的さを理解のできない穀物市場の連中は、冗談半分にきわめてグロテスクな渾名《あだな》をゴリオに進呈した。彼らのうちの一人が、取引のかため酒を飲みながら、はじめてこの渾名を口にしたところ、いきなり肩口に製麺業者の拳骨をくらって、オブラン通りの車除けの杭の上に、頭から先に叩きつけられてしまったことがあった。
ゴリオがその娘たちに寄せた無反省な献身ぶり、怖《お》じやすい小心翼々たるその愛情は、誰知らぬものとてはないほどで、ある日のこと彼の商売敵の一人がゴリオを取引所から追い出し、相場を自分で牛耳ろうと考えて、デルフィーヌがいましがた馬車に轢き倒されたと彼に虚報を伝えた。ゴリオは蒼白になってすぐと市場を飛び出した。この嘘の警報で受けた驚愕と安堵との、こもごも相反する感情の反動の結果、数日のあいだ彼は寝ついてしまったほどだった。この男の肩口に凶暴な平手打ちなど、ゴリオは加えはしなかったが、その代りにあるときの経済恐慌にさいして、この男を破産の余儀なき目に立ちいたらせて、市場から放逐してしまった。六万フラン以上もの年金の入る裕福な身でいて、ゴリオは自分のために千二百フランも使わずに、ただただ、娘たちの我儘勝手をかなえさせてやるのを、無上の喜びとしていた。よい教育を受けた看板となる数々の技芸を、娘たちにも授けるため、錚々たる教師たちを惜し気もなく彼は招いた。娘たちに付添婦人《シャブロン》までも傭った。娘たちはしごく幸いなことに、才はじけた趣味の高い女性を、これに選ぶことができた。娘たちは馬に乗り、馬車を抱え、金のある老領主の愛妾のような栄華な暮しを送っていた。どんなに金のかかる望みでも、口に出しさえすれば父親が、いそいそとそれをかなえてやるのだった。父はその喜捨のお返しとして、一遍の愛撫を求めるのにすぎなかった。ゴリオは娘たちを天使の列にまつり上げ、必然的に自分より高い上のものにした。かわいそうな男! 彼は娘たちからあたえられる苦しみすらをも、愛していたのである。
娘たちが結婚する年ごろになったとき、彼女たちはその好みにあった良人をとりどり選ぶことができた。それぞれに持参金として、父の身代の半分をもらうことになっていたからだった。美貌を見込まれてレストー伯爵から求婚されたアナスタジーは、貴族かぶれしていたので、上流社会に打って出るため、父の家を後にする気になった。デルフィーヌはお金を尊敬していた。それで神聖ローマ帝国の男爵となったドイツ生れの銀行家、ニュシンゲンにと嫁した。ゴリオは引き続いて製麺業を営んでいた。
かく商売が彼の全生命だったにもかかわらず、すぐと娘たちや婿たちは、父が商売をあくまで続けているのに気色を害しだした。五年間、彼らからさんざん切願された末に、店や権利を売り払った金と、ここ数年間に儲けた純益とをかかえて、引退することを彼は承諾した。ヴォーケル夫人のところへ彼が身を落ち着けたとき、八千から一万フランの年収とお女将が見積ったのは、この隠居|金《がね》であった。二人娘たちが良人に強いられて、父を家に引き取るどころか、大ぴらに出入りすることさえも拒んだのを見て、絶望にかられたあげくに、こんな下宿に彼はころがり込んできたのであった。
以上の情報は、ゴリオの店や株を買いとったミュラという男が、ゴリオ爺さんについて知っていたことの全部である。ラスティニャックがランジェ公爵夫人から聞かされていた推測も、かくして確認されたわけだった。人目につかぬながらも怖ろしいこのパリ悲劇の前置きは、しかしここらで終りにすることにしよう。
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社交界への登場
十二月第一週の終りごろ、ラスティニャックは二通の手紙を受け取った。一通は母から、他の一通は上の妹からだった。見覚えのあるこれらの筆跡に、彼の胸は嬉しさにおどると同時に、恐怖におののいた。薄っぺらなこの二つの紙片には、彼の希望に対する生か死かの裁定が含まれているわけだった。だが、自分の身内の窮乏を思い出し、いくらかの恐怖をかく覚えたのは、彼に対する一家の身贔屓をかねて熟知していたこととて、家族一同の最後の血の一滴をまで、搾り取ることになったのを、恐れずにはいられなかったからである。母の手紙の内容は、次のとおりだった。
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愛するウージェーヌ、お頼みのものをお送りします。このお金はどうか生かして使ってください。お前の命に関わるような場合だって、二度と再びお母さんには、こんな巨額のお金を、お父さんに知れずにご用立てはできませんし、もしも知れたらそれこそ家庭の円満を紊《みだ》すもととなるでしょう。第一、これだけの金子を私たちがこしらえるには、地所を抵当にでも入れなければかなわない話です。知りもしない計画のよしあしを判じることは、まさかにできもしませんが、母にまでそれを打ち明けるのを恐れるとは、いったいどんな性質のものなのでしょう? そういう説明は、なにも巻物になるほど長くかかることもないじゃありませんか。私たち母親にはたった一言ですべてが通じますし、その一言があったら、不確かなこんな苦しみをしないで、すむのです。お前の手紙でどんないたましい感銘をお母さんは受けたか、それは隠しているわけにはゆきません。愛するウージェーヌ、母親の心にそれほどの恐怖を投げ込まなければならなくなったお前のせっぱつまった感情というのは、そもなんなのでしょう。お母さんに書き送りながら、さだめしお前も苦しんだに違いないと思います。なぜってお前の手紙を読みながら、お母さんはとても苦しみましたもの。いったいお前はどんな道に入って行こうというのです? お前の生活なり幸福なりを、自分でないものに自分を見せかけようとすることに、とうてい負担に堪えないほどのお金がかかり、勉強のための貴重な時間を潰したりせずには、入って行けないような、社交界を見ることなどに、まさか、かけているのではありますまいね。
ねえ、ウージェーヌ、お母さんの心を信じてください。曲りくねった道を通ったのでは、人間決して大成はしません。忍耐と諦めとは、お前のような境遇にある青年の美徳であるべきです。私はなにもお前を叱るのではありませんよ。せっかくの私たちの喜捨に、苦渋を添えるつもりは毛頭にありませんもの。私の言葉は、わが子に信頼を寄せ、同時に先見の明もある一母親としての声なのです。お前は自分の義務がどういうものか知っているはずですし、こちらの私もどんなにお前の心が清純か、また考えが立派かを、よくわかっております。だからなんの不安もなく次のようにお前に言うことができるのです。――行けよ、わが子、いざ進め!――私が危惧でふるえているのは、私が母なるがゆえにです。そしてお前の一歩一歩は、私たちの祈願と祝福で、やさしく伴われていることでしょう。くれぐれも身を慎重に願います。一人前の大人のように、節度を守らなくてはなりませんよ。お前に親しみ深い五人の運命は、ひとえにお前一人にかかっているのですからね。そうです。私たちすべての運勢は、お前一人に宿っているのです。ちょうどお前の幸福が、私たちのそれであるように。お前の企てに神様のご庇護がありますよう、みんなでお祈りしています。
伯母さんのマルシヤックも今度のことでは、ついぞないほどのご好意を示してくださって、お前が書いてよこした手套のことまでも、あれこれ案じてくれました。「どうもあの総領息子がかわいくてたまらないものでね」などと、上機嫌におっしゃっておいででしたよ。ウージェーヌや、伯母さんを決して粗末にしてはいけませんよ。お前のために伯母さんが何をしてくださったか、それはお前が出世してくれた暁に、話すことにしましょう。今話したらお前の指は、伯母さんの金できっと火傷してしまうだろうからね。大事な形身の品々を犠牲にすることはどんなことか、お前たち年端のいかないものには、わからないだろうけど、お前のためとあれば私たちは、そもなんの犠牲を惜しみましょうか。お前の額に接吻することのお伝言を、私は伯母さんから言いつかっておりますよ。頻々《ひんぴん》と仕合せでいられる力を、その接吻でお前にお授けになりたいのだって。神経痛で指がお痛みでなかったら、あの優しい伯母さんは、きっとお前にお筆をおとりになっただろうけれど。
お父さんはお元気です。一八一九年度の収穫は、私たちの期待以上でした。では、ウージェーヌ、さようなら、妹たちのことはべつに書きません。ロールがお前に書くそうだから、家うちのこまごましたことを喋る楽しみを、あの子に譲ってやるとしましょう。神様のお恵みで、どうかお前が成功しますように。本当にだよ、ウージェーヌ、必ず成功しておくれ。二度と私には耐えられないような苦悩を、お前のためお母さんは嘗めさせられたのだもの。子供に与えるための財産がほしいと今度こそは思い、つくづくと貧乏とは何かを知らされましたよ。ではさようなら。欠かさず便りをお願いしますよ。お母さんがお前に送る接吻を、最後にここに受けておくれ。
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この手紙を読み終ったとき、ウージェーヌは涙|滂沱《ぼうだ》たるものがあった。娘の約束手形を払ってやるため、銀食器類を捩じまげて売りに行ったゴリオ爺さんのことを彼は思い浮かべた。(お前の母は宝石を曲げたのだぞ!)と彼は独語した。(お前の伯母も形見の品々の幾つかを売り払うにさいしてきっと泣いたに違いないだろう。なんの権利があってお前は、アナスタジーを悪く言えるのだ? 彼女がその愛人のためにしたことを、お前は自分の将来に対するエゴイズムから真似したのではないか! お前とあの女と、いったいどっちがましな人間だというのだ?)堪えがたい熱火の感覚で、学生は臓腑を掻きむしられる思いがした。社交界も断念し、この金に手をつけるのは止めにしようとまで考えた。気高く美しいひそやかな悔恨を、彼は胸に覚えた。人が人を裁くとき、このような悔恨の値打は、滅多に高くは買われはしないが、地上の裁判官により罰せられた罪人も、かかる悔恨のおかげで神の天使によって、赦されることがじつにしばしばである。ついでラスティニャックは妹の手紙を開いた。その優しいあどけない文面は、彼の心を甦らせてくれた。
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愛する兄上様、お手紙、ちょうどいいときに着きましたのよ。アガトと私、私たちのお金の使い途について、すっかり考え方が違ってしまい、結局なにを買うことにしようかと、決しかねておりましたさいちゅうでしたの。スペインの王様のお持ちの数々の時計を、ひっくり返してしまったときの家隷のような役を、兄さんはしてくださったので、私たちの意見もさっそくに一致しましたわ。本当に私たち、てんでに自分のほうの望みにばかり花を持たせようとして、しょっちゅう言い争ってばかりおりましたのよ。そして二人の望みをそっくりと満してくれる使い途が、兄さん、どうしても見つからないでいたところでしたの。だからアガトはもう踊り上って喜んでしまいました。結局、私たちは一日じゅうまるで、二人の気狂い女みたいでしたの。『じゃによって』(これは伯母さんの口癖ですわ)お母様は、「嬢やたち、いったいどうおしなんだね?」と厳しいお顔で申されたくらいですのよ。ちょっぴりお叱言でもちょうだいしていたら、私たちもっとうれしかったろうにと、思いましてよ。なぜって愛するもののために苦しむことに、多くの喜びを女は見出さなくてはなりませんもの。けれどそうした喜びにひたりながらも、私だけ一人、つらい情けない思いに耽りましたの。私はきっといい奥さんになれないと思いますわ。だってお金使いが荒いんですもの。私は飾り帯を二本と、コルセットに小環を通す小孔をあけるためのかわいい錐などのごく詰らない代物を、すでに買ってしまっていたので、懐ろの暖かいアガトよりも貧乏なのですよ。アガトといったら締り屋さんで、鵲《かささぎ》のようにお金をためこんでいますの。もう二百フランも持っていますわ。ところが兄さん、私はたった五十エキュ(百五十フラン)しかないの。それもこれもみんな罰があたったんですわ。飾り帯なんかいっそ井戸のなかに、投げ込みたいくらいですのよ。そんなの締めていたら、いつになっても辛い思いがしますもの。私は兄さんのものを盗んだのも同然ですわ。でもアガトは本当にかわいい子ですわ、こんなことを言うんですもの。「じゃ私たち二人の名で、三百五十フラン送って上げることにすれば、兄さんにもわからないじゃないの」ですって。でも私、ありのまま隠さずに兄さんに申し上げねば、とうていにこの気が済みませんのよ。
兄さんのお言いつけどおりにするのに、私たちどう才覚をしたかご存じ? 二人は赫々《かくかく》たるお宝を持ち出して、散歩に行くていを装い、街道に出るなり、大急ぎでリュフェクに走って行き、王立輸送会社の事務をやっているグランベールさんに、金額をきれいさっぱり渡してきたんですのよ。帰りは燕のように身も軽々と戻ってまいりましたわ。「幸福は身を軽くするものでしょうか?」って、アガトは私に言ったくらいですのよ。二人でいろんなことを喋り合ったのですけど、ここで繰り返すのは止めにしておきますわ。パリっ子の兄さん、兄さんのことばかりが話題になったのですよ。ああ、兄さん、私たちとても兄さんを愛していますのよ。そう申しただけで、私たちの話のなかみは尽きてしまいますわ。みんなにはくれぐれも内緒にとのことですが、伯母さんの言い草ではありませんが、私たちのようなやんちゃ娘、なんでもでき、人に黙っていることだって造作ありませんわ。お母さんは伯母さんとお忍びで、アングレームヘまいりましたの。私たちや男爵閣下をも遠ざけての長時間の会議の結果が、そのお忍びとなったのですが、ご旅行の高等政策については、お二人ともに沈黙を守っておられますの。ためにラスティニャック王国では人民たちは重大な臆測に、心奪われておりますわ。透しの花模様をちらしたモスリンのローブを、王妃様のために刺繍している王女殿下たちの仕事も、隠密のうちにはかどっておりますわ。あと二|布幅《ぬのはば》をあますのみとなりました。ヴェルトゥイユ側の壁塀はこしらえないことにきまりましたの。そこは生垣にするのだそうです。ラスティニャック王国はそのため果実や果樹棚を侵略されることでしょうが、他国の人々にとっては、美しい眺望が得られることになりましょう。もしもお世継の一御子《いちのみこ》様がハンケチをご所望なら、大公主マルシヤック様には、ポンペイ及びヘルクラヌムと名づけられし、その貴重品箱と行李とを掻き探しておいでのうち、ふと大公主にも御覚えのない壮麗なオランダ麻のものを発見せられしことを、取りあえずお知らせ申し上げます。アガトとロールの二王女は、もしも世嗣の王子様のご用命とあれば、その針と糸、そして相かわらずやや赤味がかったその手とを、動かすのをすこしもいといませぬ。
二人の幼き王子ドン・アンリとドン・ガブリエルは、依然として悪い癖がまだ直りません。葡萄ジャムをたらふく食べたり、姉さんたちを怒らせたり、からきし勉強はする気がなく、鳥の巣を荒らして喜んだり、大騒ぎをやらかしたり、国法をないがしろにして、柳の小枝を切って鞭《むち》を作ったりなどばかりしております。法王様の特派使節、俗に申せば司祭様には、いくさごっこにトネリコの髄を抜いて、玩具銃《カノン》ばかり二人が作っておって、文法の神聖な規則《カノン》をほったらかしておりますので、破門するぞと王子たちをおどしつけになりました。さようなら、兄上様、あなたのご幸福のために、これほどの祈願と満された愛情とをたたえた手紙は、決してございませんでしょう。お帰りになったら、私たちにお話しくださることが、どっさりとおありのわけですわね! 私は長女でもう大きいんですもの、何もかも一切お話しになってくださいますのでしょうね。伯母さんが私たちに、ちょっと匂わしてくださったのですが、兄さんは社交界ではや成功をお収めになったのですってね。
さる貴婦人とのみ聞けど仔細は語られず
私と兄さんとだったら以心伝心よ。ねえ、おっしゃってちょうだい、私たちハンケチなんかなくったって、済まされますわ。お望みならそれでシャツを作って差し上げましょうか。この問題のこと、折返しご返事くださいまし。仕立ての立派な見事なのが至急ご入用のようでしたら、すぐとそれに取り掛らねばなりませんもの。もしまた私たちの知らない仕立て方がパリにありましたら、型紙をお送りくださいませんか。特に袖口のところの型を。さようなら、さようなら、兄さんの額の左側、私だけが独占している左のこめかみの上に接吻をします。便箋の片方はアガトのために残しておきますわ。私の書いたところは決して読まないという妹の約束ですけど、念のために妹が書くあいだ、私はそばについていることにしますわ。
あなたを愛する妹
ロール・ド・ラスティニャック
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「おう、そうだ」とウージェーヌは心に誓った。「よし、何を措いても成功だ! このような献身は、どんな宝を積んだって贖《あがな》えるものじゃない。ありとあらゆる幸福をひっくるめて、家族の者たちにもたらしてやりたい。千五百五十フラン!」ちょっと彼は間をおいてから、さらに独語を続けた。「この金を使うにしても、その一枚一枚が、覘《ねら》いの的に当らなくてはならん。ロールの言うとおりだ。ちくしょう、おれには粗いキャラコのシャツしかない。自分でもないものの仕合せのためだというと、若い娘は泥棒ほどにも悪賢くなるんだなあ。自分のことだと無邪気一方、俺のことになると、先見の明がそなわる。妹は天使だ。地上の過失を、わけもわからずに宥《ゆる》している天国の天使だ!」
社交界は彼のものだった! すでに裁縫師も呼び寄せられ、いろいろとその胸中を探った上で、すっかりこっちのものにしてしまった。トライユ氏を見てラスティニャックは、裁縫師が青年の生活の上に及ぼしている影響を承知していた。裁縫師は仕立てがすっきり合うかどうかによって、不倶戴天の敵となるか、それとも無二の親友となるかいずれかであって、悲しいかな、この両極端の間の中途な関係はあり得ない。ウージェーヌが出会った裁縫師というのは、自分の稼業の父親的役割を知っていて、青年の現在と未来との間の連結線のように、自分を心得ている男だった。それでラスティニャックも大いに感謝して、ずっと後のことであるが、彼がついに秀でるところとなった警句で、次のようなことを言って、この裁縫師に商売繁昌をもたらしてやった。「あの男の仕立てた二着のズボンが、年収二万フランという持参金つきの結婚を、二つもまとめたのを、この私は知っていますよ」
千五百フランと、思いのまま|掛け《ヽヽ》で作れるはずの衣裳! このとき、貧しいこの南方人は、なに一つ気遣う必要がなかった。なにがしかの大金を握った青年に見うけられるあの名状しがたい様子をして、彼は朝飯にと降りて行った。いったい学生のポケットにお金が滑り込むや否や、その心中には彼の支えとなる幻想的な柱が打ち樹てられる。前より足取りまでもしっかりとし、おのれの挺子《てこ》のための支点を自覚し、はちきれそうな眼差しも一直線となり、身ごなしまでもきびきびとしてくる。前日までは卑屈で内気で、甘んじて人から打擲《ちょうちゃく》を受けもしたのが、あくる日には総理大臣でさえぶん殴りかねぬ勢いとなる。彼のうちに前代未聞の奇蹟が生じたのである。彼にはあらゆることが望め、あらゆることができる。欲望をやたらに逞しくし、陽気で、太っ腹で、感情をもう抑えきれない。要するに今まで翼をもがれていた鳥が、その翼をまた見つけ出したのである。金のない学生は快楽の端きれをも咥《くわ》え取ろうとする。それはちょうど犬が万難の危険を冒して骨を一つかっぱらい、それを噛みくだいて髄までしゃぶってから、また走って行くのと同じである。何枚かの逃げ足の速い金貨を、ズボンのポケットにチャラチャラさせている青年は、その快楽の味をさきみながら、つぶさになれ親しみ楽しんで、天国を天翔《あまが》けり、貧乏《ヽヽ》という言葉の意味などすっかり忘れてしまっている。パリはそのことごとくが彼のものである。すべてのものが光り、輝き、閃々《せんせん》たる年ごろ! 男も女も若者以外には誰一人として利用のできぬ喜ばしい力にあふれた年ごろ、借金と、烈《はげ》しい不安によって、あらゆる快楽が十層倍にされる年ごろ! セーヌの左岸、サン・ジャック街からサン・ペール街の間を、通暁したものでなくては、人生の味は、とうてい解らないだろう!
(ああ、パリの女たちが知ってさえくれたらなあ!)ヴォーケル夫人の供した、一個一リヤールの焼梨を、がつがつ食べながら、ラスティニャックは独語した。(俺から愛されたいと思って、やつらみんなここへ押し掛けてくるだろうに)
と、このとき、王立輸送会社の配達人が、格子戸の呼鈴を鳴らしてから、食堂へと姿を現わした。ウージェーヌ・ド・ラスティニャックさんはと呼んで、渡すべき二個の包みと、署名のための帳簿とをその配達人は差出した。彼に投げたヴォートランの底深い眼差しに、ラスティニャックはそのとき、革帯でなぐられるような感じを受けた。
「剣術の稽古代や射撃場の費用には、どうやら事欠かずに済みますかな」とこの男はウージェーヌに言った。
「宝船が着きましたね」とヴォーケル夫人も包みを見ながら彼に言った。
ミショノー嬢は、お金のほうに目をやるのを怖がった。欲しそうな目付きを、人に見られるのを恐れてである。
「いいお母さんをお持ちなのね」とクーチュール夫人は言った。
「君にはいいお母さんがありますな」とポワレは繰り返した。
「そうさ、お袋は血の出るような思いをしたんさ」とヴォートランは言った。「さて君もこれからはわるさの仕放題だぜ。社交界へ行って持参金釣りをし、髪に桃の花をかざした伯爵夫人と踊ったりができるぜ。だがねえ、若いの、悪いことはいわない、射撃の練習だけは怠ってはいかんよ」
ヴォートランは相手に銃の狙いをつける男のような身振りをした。ラスティニャックは配達人にチップをやろうとしたが、ポケットには一文もなかった。ヴォートランは自分のポケットを探って、二十スー配達人に投げ与えた。
「君なら信用貸しできるよ」と彼は学生を見ながら言った。
ラスティニャックはボーセアン夫人のところから戻って来た日、この男と険悪な言葉で渡り合って以来というもの、忍びがたいやつと相手のことを思っていたが、いまの場合は余儀なくお礼の文句を述べなければならなかった。ここ一週間ウージェーヌとヴォートランは、同席しても口を利かず、互いに睨みあっていた。なぜだろうと考えたが、ラスティニャックにはわからなかった。確かに思想というものは、それが形づくられる力に正比例した勢いで発射される。そして臼砲《きゅうほう》から射ち出される砲弾を導く数学的法則にも比すべき法則に従って、脳髄が送り出す方向へとぶつかって行く。だがその効果たるやまちまちである。相手の思想を射ち込まれて荒廃してしまう柔らかい性格もある一方には、堅固な防備を施した性格、金城鉄壁の備えを有した頭蓋骨もある。こんなのにぶつかったら他人の意志など、城壁にさえぎられた弾丸のように、ぺしゃんこになって落っこちてしまう。それからまた綿のようにふわふわした性格のもあって、角面堡《かくめんぽう》の軟土に勢いを殺がれる砲丸のように、相手の思想も弱められてしまう。ところがラスティニャックの性格といえば、火薬がいっぱいつまった頭のそれで、ちょっとした衝撃にも爆発しやすかった。
他人からの思想の投射なり、感情の伝播なりは、われわれの知らぬまにさまざまの不可思議な現象をきたして、我々をひどく驚かすものであるが、ラスティニャックには、なにしろはち切れそうな若さが漲《みなぎ》っていたため、これら投射なり伝播なりに、動かされずにはいられなかった。彼の心眼は、山猫のように鋭いその目に劣らぬ明敏な力を有していた。こうした彼の二重感覚のことごとくは、神秘的な度合いを持っていて、その進退往来にも柔軟性があり、それはまた卓越せる人たち、どんな鎧であろうともその隙間を探すのに巧みな決闘者などの場合にも見出され、我々を驚嘆させずにはおかぬところのものである。
それにこの一ヵ月来、ウージェーヌのうちにあっては、長所ものびたが短所ものびていた。その短所とは社交界と、彼のいやます欲望が成就されかかっていることから、もたらされたものだった。彼の長所のなかには、難局を解決のためまっしぐらに邁進する、南国人特有の気性の烈しさがあった。ロワール川以南の人たちは、こうした気性があるため、なんらかの不決断のうちに留まっていることができぬのであるが、しかしこの長所をば北国人は短所だとしている。すなわち彼らの考えでは、この気性がミュラ〔南仏出身、ナポレオンの義弟。一八〇八年ナポリ王となるが、最後には銃殺された〕の栄誉の起因であり、また同時に彼が命をおとした原因であるともする。さてそうなると南国人がそのロワール川以南の大胆果敢に、北国人の狡知を併せ得たなら、長短おぎなうを得てスウェーデンの王〔ベルナドット。初めフランス元帥、一八一三年連合軍に内応、一八一八年から四四年までシャルル十四世としてスウェーデン王となる〕としてとどまれるという結論をでも、引き出さなければならないだろう。
そんなわけでラスティニャックは、敵か味方かもわからぬヴォートランの砲火を、このうえながく浴びているわけにはいかなかった。この奇怪な人物は、ラスティニャックの熱情を見抜き、その心のなかまで読み取っているような気が、ときおり彼にはした。それに反し、相手の正体は、ことごとく秘密のうちに閉ざされ、すべてを知り、すべてを見ながら、黙して語らぬスフィンクスさながらの奥深さをたたえている感じであった。懐中が暖かくなったことを自覚するにつれ、ウージェーヌは反抗心を起こし出した。
「ちょっと待っていただきましょうか」ヴォートランがコーヒーの残りをゆっくり呑みほしてのち、立ち上って出て行こうとするのを、ウージェーヌは呼びとめた。
「なぜだね?」と、四十男は答えながら鍔広の帽子を冠り、鉄のステッキを手にとった。四人の追剥に襲われてもびくともせぬといったふうに、彼はステッキをくるくる振りまわすのが癖だった。
「お金をお返ししますから」そう言ってラスティニャックは急いで包みの一つをほどき、百四十フラン数えてヴォーケル未亡人に渡して言った。「『親しき仲にも勘定あり』ですからね。これで大晦日のぶんまですませましたよ。さあ、それからこの百スー、崩してくれませんか」
「勘定足りて友誼は完全、か」とヴォートランを眺めながらポワレは繰り返した。
「はい、二十スー」とラスティニャックはかつらをつけたスフィンクスに、銀貨を差し出した。
「わしにすこしでも恩誼を蒙るのを、まるで怖がっているみたいだな」とヴォートランは叫んで、青年の心の底を見'透すような眼差しを投げつけ、嘲弄と皮肉《シニック》をこめた微笑を浮かべた。このうす笑いにウージェーヌは、いままで何度かんしゃく玉を破裂させそうになったかわからない。
「いや、……そう、そうですとも」と答えて学生は、二つの包みを手に持つや、立ち上って自分の部屋に上ろうとした。
ヴォートランはサロンヘ続くドアから出ようとしていたので、学生は階段の取付き場に通じているドアから出て行こうとした。
「ラスチニャコ|ラマ《ヽヽ》侯爵閣下、ご存じかな、そこもとの申されたことは、まったく礼儀にかなっておらんということを」と、そのとき、ヴォートランはサロンヘのドアをステッキで大きくたたいてのち、彼のほうを冷ややかに眺めている学生のほうへやって来ながら言った。
ラスティニャックは食堂の扉を締め、ヴォートランを階段下へ伴った。そこは食堂と調理場とをへだてる方形の場所で、庭に面して木の扉があり、鉄格子のついた長いガラスの扇窓がその上部にはあった。調理場から出て来たシルヴィを前にして、そこのところで学生は言った。
「ヴォートラン旦那《ヽヽ》、僕は侯爵でもなく、ラスチニャコラマという名前でもありませんぞ」
「あの二人、決闘をしそうよ」とミショノー嬢は無関心な調子で言った。
「相討つんだ!」とポワレは繰り返した。
「とんでもない、そんな……」とヴォーケル夫人はお宝の山をなでながら言った。
「だってあの人たち、菩提樹の下のほうに行くわ」とヴィクトリーヌは立ち上って、庭のほうを眺めながら叫んだ。「なんていったってあの気の毒な学生さんのほうが道に合ってますわ」
「ねえ、二階に上るとしようよ。私たちに関したことじゃないんだから」とクーチュール夫人は言った。
クーチュール夫人とヴィクトリーヌは立ち上ったが、ドアのところで、肥ったシルヴィと出会って、行く手をさえぎられた。
「どうしたってんですね?」とシルヴィは言った。「ヴォートランさんたらウージェーヌさんに、『話をつけよう』と言って腕を引っ張り、いま二人は朝鮮アザミのなかを歩いて行きましたよ」
と、このとき、当のヴォートランが姿を現わした。「ヴォーケルおかみ、心配はいらんぜ。菩提樹の下でピストルをちょいと試してみるだけなんだ」とにやにや笑いで言った。
「まあ、あなた」とヴィクトリーヌは、両手をあわせながら言った。「なぜウージェーヌさんを殺そうとなさいますの?」
ヴォートランは二歩ばかり後ろにすさって、ヴィクトリーヌを凝視した。
「こいつ違う話になってきたぞ、さては……」と、からかうような声でヴォートランは叫んだので、かわいそうに娘はまっかになってしまった。「ウージェーヌ君はかわいい若者じゃありませんか、ねえ? そうだ、あなたからいいことを思いついた。お二人を仕合せにしてあげましょう、どうですね、お嬢さん」
クーチュール夫人はヴィクトリーヌの腕をとって連れて行きながら、その耳元で言った。
「ほんとにヴィクトリーヌ、けさのお前ったらどうかしているよ」
「あたしの家で、ピストルなんかぶっ放すことは、まっぴらですよ」とヴォーケル夫人は言った。「ご近所を騒がせるし、朝っぱらからお巡《まわ》りさんが飛んでくるじゃありませんか」
「なあに、心配しなさんな。まあ、まあ落ち着いて。じゃわしらは射撃場に行くことにするから」
ラスティニャックに彼は追いついて、親しげにその腕をとった。
「三十五歩はなれてスペードの一に、続けざまに五度も命中させられるわしの腕前をお見せしたら、君の勇気を挫くことになりはせんかな。君はすこし怒りっぽいお人のようだが、まるで阿呆みたいに、自分から殺されようと仕向けているとしか思えんぜ」
「怖《お》じ気がついたんですか?」とウージェーヌ。
「わしの癇の虫にさわらんでもらいたいね」とヴォートランは言いかえした。「けさは寒くないから、あそこに腰をおろそうじゃないか」と緑に塗った腰掛を指さした。「あそこなら誰にも聞えない。わしは君に話がある。君は善良な愛すべき青年だ。わしは別に悪い気持なんかは持っておらん。君には惚れこんでいるんだ。いや、まったくさ、このトロン……(くわばら! くわばら!)このヴォートランの名にかけてね。どうして君に惚れこんでるか、その訳を一つお話し申そう。いやその前に言うが、わしは生みの親みたいに、君のことはよく知ってるんだ。その証拠をお見せしようか。まあその金包みは下におきたまえな」と彼は丸テーブルを指しながら言った。
ラスティニャックはテーブルの上に金をおき、腰をおろした。いましがた殺すと言いかけておきながら、急に保護者気取りに納まったこの男の、うって変っての態度の豹変ぶりに、彼のうちなる好奇心は、いやがうえにも高まらざるを得なかった。
「わしが何者か、何をして来た男か、現にいま何をしてるのか、知りたくて君はうずうずしているのだろう」とヴォートランは続けた。「そいつは君、ちと好奇心が過ぎるぜ。まあ、あせるなよ。他にもたくさん、君に聞いてもらいたいことがあるんだから。なにしろ、わしは災難続きだったんでね。まずこっちの話を聞いて、そのうえで、君の返事を聞かしてもらおうじゃないか。わしの前身は、次の数言に尽きるんだ。わしは何者か? ヴォートランだ。何をしているのか? 気の向いたことをさ。が、まあ話題を転じよう。君はわしの性格を知りたいのか? わしはこっちによくしてくれる人間、あるいはわしと心意気の合う連中に対しては、じつに優しい男なんだ。そういう相手なら、何をされても許せるんだ。向う脛を蹴とばされたって、わしは≪やい、気をつけろ≫なんて叫びもせんぜ。だがね、わしをうるさがらせたり、こっちに虫が好かない野郎だったりすると、畜生とばかり、わしは悪魔みたいに質《たち》悪くなるんだ。それに君も知っといたらいい、わしはね、人間一匹殺すのなんか、唾をこう吐くぐらいにしか、思っとらんのだよ」そう言って、彼はペッと唾をはいてみせた。
「ただね、どうしてもやっつける必要があるときには、手ぎわよく片づけることに精を出すね。わしは君たちの言う芸術家なんだ。わしはベンヴェヌート・チェリーニの回想録を読んだよ。ほんとうだよ、しかもイタリア語の原本でさ! この豪儀な傑物《えらぶつ》からわしが学んだのは、でたらめに人の命を奪う天の摂理にならうこと、それからまた到るところに美を見出して、それを愛すことなどだった。それにしても、たった一人で万人を敵にまわして、しかも旗色がいいなんて、天晴れな勝負ぶりじゃないか。わしはね、君たちの今の社会的無秩序の組立てっていうものを、とっくりと考えてみたよ。ねえ君、決闘なんてものは子供のいたずらで愚の骨頂さ。生きてる二人の人間のうち、どちらかを消滅させねばならぬといった場合、それを偶然に委ねるなんて、じつに愚かしいかぎりじゃないか。決闘って何か? 銭投げの表か裏さ、ただそれだけの話だよ。わしはスペードの一に続けて五発、それも一発ごとに前の弾丸の上に射ち込んでみせるぜ、しかも三十五歩の距離からね! こんなちょっとした腕前があれば、相手を斃《たお》せることは確実だと思い込んでもいいだろう。ところがだね、おれは二十歩の距離からある男を狙って、射ち損じたことがあるんだ。しかも相手の野郎は、ピストルなんて、生まれて初めて手にしたというやっこさんさ。ちょっと見てくれ」そう言って、世の常ならぬこの男は、チョッキの前をはだけて、灰褐色の毛が熊の背中のようにもじゃもじゃ生えている、胸元をさらけだした。ウージェーヌは恐怖の交った一種の嫌悪を催した。
「その青二才がね、わしの胸毛を焼き焦したってわけさ」そう言い添えながら、ラスティニャックの指を、胸に残っている傷痕に押し当てさせた。「けどその頃はこのわしも子供でね、君と同じ年ごろの二十一、まだ何かを信じられたね、女の愛だとか、君がいま血道をあげかけているたくさんのくだらない真似とかをさ。ところでわしたちは決闘しかけたっけね、そうじゃないか? 君はこのわしを斃せたかもしれん。かりにわしが地下に眠ったとして、いったい君はどうなるね? この場をずらかってスイスにでも逃れ、さなきだにかぼそい親父の脛でも、噛らんければならんだろう。ところで一つこのわしが、君の今いる立場を、はっきりと解らせてやろうじゃないか。が、そいつもこの世のことどもを究めつくしたあげく、盲従か反逆か、とるべき途はそのいずれかしかないことを、見極めきった人間の、超然たる立場から申し上げるんだぜ。わしはなにものにも服従はせん。こいつははっきりしたね? ところで君がいま乗りかかろうとしている船で、なにが必要かを君はご存じかい? 百万フランだ、それも早急にだろう。それがなかったら、お手前の逸《はや》ったご気性では、最高至上なる上帝がござらっしゃるものかどうかを見に、セーヌ川に身を投げ、サン・クルーの土左衛門網のところまで、ぶらつきにまいられることになってしまう。さて問題の百万フラン、そいつを一つわしが君に進呈しようじゃないか」そう言ってヴォートランは話を切って、ウージェーヌの顔を眺めた。――「ははあ! なんとこのヴォートラン親父に、君はいとも|げんきん《ヽヽヽヽ》な顔付きをして見せるものだね。百万フランの言葉を聞いて、まるで男に今夜、逢いましょうといわれて、ミルクをなめる猫みたいに唇をなめまわしながら、いそいそ身づくろいをしている若い小娘に、君はそっくりになったぜ、まあ結構、結構。さて、それはそうとして、わしらの問題に移ろうじゃないか。
ねえ、君、君の身上報告を申し上げようか。君の故郷にいるのは、親父、阿母《おふくろ》、大伯母、妹二人(十八と十七)弟二人(十五と十)以上がその乗船者名簿だろう。伯母さんが妹たちの躾を見ている。神父さんは弟たちにラテン語を教えに来る。家庭では白パンよりも栗の実の入ったすいとんのほうを食べることが多く、おやじさんはズボンをなるべく傷まぬようにはき、おっかさんは夏ものも冬ものも一着ずつですませ、妹たちもせいぜいできるだけのことしかしておらん。わしはなんでも知ってるぜ。南にいたことがあるんでね。君に年々千二百フランの仕送りをし、猫の額の土地の上りは三千フランしかないとなりゃ、お宅の暮し向きはだいたいそんなところだろう。炊事女と下男が一人ずつ。パパは男爵だから、体裁も飾らなくちゃならんわけだ。さて其許《そこもと》のことだが、尊公には野心がある。ボーセアン家を姻戚に持ってはいるが、テク車で歩きまわり、出世はしたいが金はなし、ヴォーケル内儀さんのごたいそうなシチュー料理を食わされているくせに、フォーブール・サン・ジェルマンのおいしいご馳走が、もうやみつきになっている。粗末な寝台に起臥しながら、豪勢な大邸宅を望んでおられる。が、なにもそうした君の欲望を、わしは咎めているんじゃないぜ。野心を抱くってことは、誰にでもできるこっちゃないからな。どんな男性を求めるかって、ご婦人にきいてみたまえ、野心家って言うにきまってるから。野心家っていうやつは、ほかの人間に較べて、腰っ骨もずっと強いし、鉄分のより豊かな血液、はるかに熱高い心にも、恵まれているからなのさ。それに女というやつは気強く感じたときには、ひどく心楽しく、また美しくなるものだから、人なみすぐれた力を持った男には心を惹かれ、たとえその男のため自分が打ちくだかれる危険を冒そうとも意に介さぬ。わしがこう君の欲望を棚卸ししてみたのも、一つ問題を提出してみたいからなんだ。その問題とはこうだ。お手前は狼のようにがつがつし、乳歯までもが門歯のように鋭くとがっている。しかし、きみは竈《かまど》の煙を絶やさぬ用心を、どうやりこなすおつもりかな。貴殿はまず法律を噛らねばなるまい。こいつ、いっこうに面白くもないし、なんの足しにもならんが、しかしそんなことは言ってはおられん。まあいい。やがて貴公は法官になって、ゆくゆくは重罪裁判所長の椅子に坐り、お手前よりもましな連中に対し、かわいそうにも肩にT・F(徒刑囚)の烙印をおしつけて懲役送りをする。それもひとえに枕を高く眠れることを、金持どもに保証してやらんがためにさ。だがどうもこいつはあまり愉快なことじゃないし、おまけに手間ひまがかかる。さしずめまず二年間はパリでじりじり待たされ、咽喉から手が出そうなご馳走を、指くわえたまま横目で睨んでいなければならん。いつまでたっても満されない欲望をかかえてるなんて、たまったものじゃないぜ。君がもし血の気が薄く、軟体動物みたいな性質の男だったら、なにもこっちは心配はせんよ。だが獅子の熱血と、日に何度となく馬鹿げた真似をやりかねない欲望とを持った君のことだ。この責苦にきっと君は負けてしまうぜ。お優しい神様のあの地獄のなかにだって、見当らぬようなこのうえもなく烈しい責苦だものね。かりに君がおとなしい人間で、酒を嫌ってミルクばかり呑み、辛い運命の哀歌《エレジイ》をうたっているような性分だとしよう、なにしろ殊勝な君のことだ、犬でさえ発狂しかねぬ倦怠と窮乏とを数多く忍んで、あげくはどこかの馬の骨のお代理役、副検事ぐらいには納まって、町の穴っこのようなところでお勤めあそばし、屠殺業者の犬に投げ与える残飯さながらに、お上から年俸千フランをお情け頂戴だ。泥棒のあとを吠えつき、金のある人間の肩を持ち、心ある人をギロチンにかける。それが仕事さ、ありがたいこった。だが後楯がなかったら、君は田舎の裁判所で老い朽ちてしまうんだぜ。三十になって、まだ君が法服を脱ぎすてていなかったら、年俸千二百フランの判事ってわけだ。四十にして君は製粉業者あたりの娘を、娶ることができよう。年収六千フランぐらいの持参金つきをね。おありがたいことさ。だが後楯がもし君にあるとするね。三十にして年俸三千フランの初審裁判所検事だ。そして町長の娘をお嫁にもらえる。またもしも君が何かの政治的|陋劣《ろうれつ》を、たとえば投要用紙のマニュエ|ル《ヽ》をヴィレー|ル《ヽ》と読みかえたりするようなことを、(もっとも韻は合うから、良心の苛責はないだろうが)やらかしさえすれば、四十にして君は検事長、そして末は代議士ぐらいにはなれるだろう。
いいかい、君。良心にやましい思いをし、二十年も人知れぬ苦労と倦怠を重ね、妹たちには嫁入りの口もなく、二十五の年を越させねばならないんだぜ。そのうえだよ、ご注意までに申し上げるが、フランスはぜんぶで二十人の検事長しかないのに、その官職をねらっているのが、なんと二万人もいて、なかには一階級昇進するためなら、家族まで売ろうっていう不心得者までもあるんだ。そんな職業は願い下げだというんなら、ちとべつの方面を見てみようかね。
ラスティニャック男爵には弁護士になるお望みはおありかな? こいつはいい。十年の間、ひどい目にあわされ、月々千フランも持出しで、図書室や事務室まで設けねばならんし、社交界に出入りして、事件をまわしてもらうためには、代訴人の法服には接吻し、舌で裁判所を舐め清めるまでのことをしなくちゃならん。こんな商売ででもうまく成功するんなら、べつに文句は言わんさ。けれど五十になって年々五万フラン以上稼げる弁護士が、パリに五人でもいたら、一つ教えてもらいたいね。冗談じゃない、そんなことで魂をすり減らすくらいなら、いっそ海賊にでもなったほうが気がきいてるよ。
じゃ他のところで金を稼ぐか? けれどどいつもこいつも決して愉快なものじゃないね。女房の持参金をあてにという金づるも、あることはある。どうだい、結婚する気はないかね? だがそいつは首に大石をぶらさげるのも同じだぜ。もし君が金のために結婚するとすれば、尊公の廉恥心や高潔な精神は、いったいどうなっちまうんだい。そんなことなら世間の因襲に抗する君の反逆を、きょうからでも始めるがよいわさ。女房の前で蛇のように這いまわり、姑の足までも舐め、牝豚でさえぞっとする汚らわしいことをするなんど、あえて意に介さぬとでもおっしゃるのかい。いやだ、いやだ! まあそれでもせめて幸福でも掴めるっていうんならね。ところがそんな具合に結婚した女と、ともに暮したって、君は下水の石のようにじめじめした不仕合せに陥るのが関の山なんだぜ。女房相手に闘うのより、男どもを向うにまわして争ったほうが、まだしもだろう。
さて人生の分れ途といったら、先に述べたとおりだ、お若いの、さあ、とくと選ぶことだな。いや、君はもう選んでいたのだっけな。君は従姉のボーセアンのところに行き、栄耀栄華の匂いを嗅いできた。君はゴリオ爺さんの娘のレストー夫人のところへ行って、パリ女の匂いも嗅いできた。あの日、帰ってきた君の顔に、『出世するんだ!』という文字が、記されてあったのが、わしにははっきりと読み取れたぜ。なんとしても出世しようとな。偉いぞ! そうわしは思ったね。好漢、俺の気に入ったぞって。それにしても先立つものはお金さ。どうやってこしらえるんだろう? そう思っていたところが、君は妹たちの生血を搾った。男の兄弟というものは、みんな多少なりと女の姉妹からくすねとるもんさ。君のふんだくった千五百フランの金にしたって、なにしろ五フランの銀貨より栗の実のほうが多いっていう田舎のことだ、どんな具合にして調達されたか、神のみぞ知りたもうだが、そのお金だって掠奪にきた兵隊のように、またたくうちに消えてなくなるぜ。さてその後はどうするね? 働くかい? しかし働くったって、君が今考えているような働きじゃ、ポワレごときの才能の若造だったら、その老後になってメゾン・ヴォーケルでの|一組の部屋《アパルトマン》に納まるくらいが、まあせいぜいだろうね。手っ取り早い出世、これはいま君と同じような立場にいる五万の青年たちが、解決しようと躍起になっている当面の問題で、君だってそうした数のなかの一単位さ。これからしなければならぬ努力と、その血闘の凄烈さとを考えてもみたまえ。壺のなかの蜘蛛みたいに、君たちは友喰いをせんけりゃならん。いい地位が五万なんてありっこはないんだからね。いったいどうやってパリでは、自分の道を切り拓いて出世して行けると思うね? それには才分を輝かせるか、あるいは器用に堕落するかしかないさ。人間のかたまっているこの密集のなかを、大砲の弾丸のように突破するか、またペスト菌のように忍び込んで行くのほかはないんだ。誠実だなんて、なんの役にも立つものか。天才の力の下に凡人は屈しているが、天才を憎んで、蔭では躍起になってあげつらっている。天才は分配しないで独占してしまうためさ。しかし天才が頑張っているかぎり、凡人は屈服している。簡単に言えば天才を泥中に葬り去ることができないうちは、膝まずいて崇めたてまつるってわけなんだ。堕落は隆盛だが才能はまれだ。うようよしているぼんくらどもの武器は堕落なんだ。到るところに堕落の先端《さきっぽ》を、君は感ずることができるだろう。だから見たまえ、ご亭主のほうは後にも先にも六千フランの年収しかないのに、その女房はお化粧代に一万フラン以上も使っているのがあるかと思えば、俸給千二百フランの小役人でいて、地所を買込むのもあるし、ロンシャンの中央車道を駆ける資格のある貴族院議員の息子の馬車に同乗したいばかりに、身を落とすのもいとわぬという女たちもある。君も知ってるだろう、あのゴリオ爺の馬鹿は、娘の裏書きした為替手形を、止むを得ず支払ってやったが、当の亭主ときたら、五万フランの年収があるんだぜ。ちょっとパリを一足出歩いても、なんらかの極悪な陰謀に陥らずにはすまぬことは、君と賭けをしてもいいくらいなんだ。
気に入った出会いがしらの女に、ただし金があり若く美しい女に限るが、それにはまって君は苦しい羽目に陥るに違いないんだ。嘘だったらこのサラダ菜の頭とわしの首とをすげ替えてもいい。女という女は抜け目なく掟をくぐり、よろずにつけ良人と戦いを交えている。女がその情人《いろ》のため、衣裳のため、子供のため、家庭のため、あるいは虚栄のため、どんなだいそれた駆け引きを弄しているか、そいつを説明するとなったらきりがなくなってしまうよ。だがね、美徳のためになにかをやるなんてことは、女にはめったにはないんだ。そいつだけは請け合っておくぜ。
そんなわけで律義者は万人から敵視されている。ところで律義者ってなんだね? パリでは律義者といえば、口出しもせず、分前にあずかることも拒む人間のことさ。どこで働いたってその労働の酬いられたためしのない憐れな国家奴隷のことを、なにもわしは話しているんじゃないぜ。あんな連中は、神様にも見はなされた間抜け職人衆さあ。確かに彼らのところには美徳が、その愚鈍の花をいっぱいに咲きひろげている。が、そこにはまた貧乏神も住みついているんだ。もしも神様が最後の審判にご欠席あそばすような悪ふざけをなされたら、これら実直な連中がどんなに渋い顔をするか、今からまるで目に見えるようだぜ。
だからもし君が一足跳びに出世したいと望むんなら、すでに金があるか、でなくば、あるように見せかけなくちゃならん。金持になるためには、大芝居をうつことが先決だ。それができなければ、ちびちび賭けして、はては元も子もすってしまってそれきりだ! 君にたずさわれる百もの職業のうちに、一躍のしあがった十人の成功者が出たにしろ、世間ではそれを泥棒呼ばわりするだろうて。さあて、君も結論を出したがいい。わしの述べたのがありのままの人生ていうもんだ。決して調理場以上にきれいなところじゃない。やはり、同じように臭気|芬々《ふんぷん》としている。うまい汁を吸いたけりゃ、手を汚すのを覚悟せにゃならん。だがその手をよく洗っておくことだけは忘れちゃいかんぜ。そのことがすなわち現代のモラルそのものなんだからな。こんなふうに社会のことを君に語るのも、わしにはその権利が社会から与えられてるからなんだよ。わしは社会をよく知っとる。社会をわしが非難してると思うかね? とんでもないよ。社会はいつの世だって、こんなものなんだ。道学者が改良しようったって、決してできるもんじゃない。人間というやつは不完全極まるものなんだ。時として多少は偽善者になる。すると阿呆が道徳観念がいいとか悪いとかいって、騒ぎだす。わしは民衆の肩を持って、金持を責めるつもりなどはない。人間なんて上流でも下流でも中流でも、みんな同じだからね。
ところが、この高等家畜の百万ごとに、十人の傑物が現われて、すべてのものの上に立ち、法律さえをも超越するんだ。何を隠そう、わしもじつはその仲間の一人なんだ。君がすぐれた人間なら、頭をあげて、まっしぐらに突進するがいい。ただしそれには羨望や讒謗《ざんぽう》や衆愚と闘い、全社会を相手にまわす決意を要するぜ。ナポレオンもオーブリという陸軍大臣に出会って、すんでのことに植民地へまわされかけたこともある。自分の身をよく顧みて見たまえ。毎朝、前日にも増した決断力を抱いて、寝床を蹴って起きあがれるかどうか。それがもしできるようだったら、誰でもいやとは言いそうもない提案を、一つ君に出してやろう。
よく聴きたまえよ、ねえ、わしには一つの考えがあるんだ。その考えとは、たとえば合衆国の南部かなにかで、十万アルパンの大領地の真中において、酋長みたいな生活を送ろうっていうのさ。わしは開拓者となって行って、奴隷を使役し、牛や煙草や材木を買って、ざっと数百万ためこんで、君主のような暮しをし、思うがままに振舞って、漆喰の巣穴のなかにうずくまってるようなことでは、とうてい想像もおよばない生活を一つ送ってみたいんだ。わしは大詩人なんだ。わしの詩は書くんじゃない、行動と感情のなかに成り立っているんだ。わしはいま五万フラン持っているが、これではせいぜい四十人の黒人奴隷しか買えやしない。わしの酋長生活の趣味を満たすためには、二百人の奴隷が要り、二十万フランの金がほしいのだ。黒人奴隷っていうのはいいかい、成人した子供みたいなもので、好きなようにこきつかったって、ほじくり屋の検事から何の報告を求められる心配もないんだぜ。この黒い資本で、十年もたてば三四百万はもうかる。成功してしまえば、『お前は誰だ?』なんて訊ねるやつもないからね。こっちは合衆国市民四百万旦那だものな。その頃はわしも五十になるだろうが、まだ老い朽ちる年ではなし、わしなりにどうやら娯しむこともできようて。
てっとり早く言おう、君に百万フランの持参金つきの嫁御を世話するから、わしに二十万フランばかりくれないか? 二割のコミッションだ、どうだね、高すぎるかい? 君はそのかわいい娘っ子から惚れられるように仕向けるのだ。そして結婚しちまったら、落ち着かない、なんだか後悔しているような顔して、二週間ばかりしょげこんで見せるんだ。そしてある晩、さまざまな作り顔をしたあとで、接吻と接吻の間に、二十万フランの借財があることを、『かわいいお前!』なんて言いながら、打ち明けるのだ。こんな茶番は毎日、上流階級の若者たちが演じていることさ。若妻は心奪われている相手に、財布を渡さないなんてことはないよ。君はそれで損をしっきりだと思うかね? どうして、どうして。事業をやれば二十万フランぐらいはすぐと回収がつくぜ。君の金力と才気とをもってすれば、いくらでもほしいだけの大身代が築けるよ。|かるがゆえにだね《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、六ヵ月のうちに、君は自分と、かわいい女房と、それにこのヴォートランおやじの幸福とを作り上げられるんだぜ。薪がなくて、冬は指に息を吹っかけている君の一家の幸福はいわずもがなさ。わしの提案だって、要求だって、なにも驚くにはあたらんさ。パリであげられる六十組の美々しい結婚のうち、その四十七組はこれと似たりよったりな取引の上に成り立っているんだからね。公証人会が無理にも……」
「で、僕のしなければならないのは、どんなことなんです?」とラスティニャックはヴォートランの言葉をさえぎって、貪るように訊ねた。
「とりたてて言うほどのことじゃないんだ」とこの男は、釣糸の先に魚の手応えを感じた釣師の、あの押し隠した表情にも似た喜悦の色をほの見せながら答えた。「いいかい、不幸な貧しい娘の心ってものは、恋愛を吸い込みたくってがつがつし、一滴の愛情でもたらしこめば、さっそくに膨れ上る干からびた海綿も同じことなんだ。孤独と絶望と貧窮の境涯にいて、幸運が舞い込んで来ようなどとは、夢にも思っていない娘に言い寄るなんて、やあ、まったくそいつは申し分なく揃ったカルタの手の内、当り番号を前もって知って買った富籤、確実筋の消息に通じていて公債相場に手を出すのと同じことさ、君はしっかりした杭の上に、ゆるぎない結婚を築き上げることができるぜ。何百万という金がその娘に転がり込めば、彼女はその金を石ころのように君の足下に放り出して言うだろう。『とっておいてちょうだい、わたしのあなた、お取りになってよ、アドルフ。アルフレッド。お取りになってよ、ウージェーヌ』って。そのアドルフなり、アルフレッドなり、ウージェーヌなりが、彼女のために身を犠牲にしてまでの心意気を示したんなら、女はきっとそう言うだろうぜ。身を犠牲にするって言う意味は、古着を売った金で、女をカドラン・ブルー料理店へ連れ込み、きのこをのせたパンを一緒に食べ、夜だったらそこからアンビギュ・コミック座を見に行くとか、あるいは女にショールを買ってやるため、懐中時計を質屋に入れたりするくらいの程度のもんさ。女たちがひどくありがたがっている恋文の書きながしや、くだらぬ手管《てくだ》、たとえば、遠く女から離れているとき、涙もどきに水の雫を、手紙の上にたらしておくなんて手口の必要であるのは、いまさらいうにおよばぬだろう。君は愛情の隠語《アルゴ》を、もうすっかり心得ているらしいものな。
いいかい、君、パリは新大陸の森林さながらで、イリノイ原地人だとかヒューロン部族といった、二十種もの野蛮種族が闊歩していて、いろんな社会的狩猟であげる獲物によって、暮しをたてているんさ。君は数百万フランの狩人だ。大金を仕止めるのには係蹄《わな》とか黐《もち》竿とか囮《おとり》などを使う。なにしろ狩りにもさまざまな方法があるからな。持参金を追うやつもあるし、遺産を漁るものもある。人の良心を釣ろうとするのもあれば、身内の手足を縛りあげて売り渡すのもいる。しかし獲物袋をいっぱいにして戻ってくりゃ、上流社会からは喝采され、祝福され、歓迎を受ける。こう親切にもてなしてくれるこの土地柄のよいところも、一つ認めておいてやろうじゃないか。世界でも一番に愛想のいい都と、君はかかり合いがあるんだぜ。たとえヨーロッパの全首都の傲慢な貴族社会から、お仲間入りをこばまれた破廉恥な百万長者であろうと、このパリばかりは手をさしのべ、彼の祝宴に馳せ参じ、晩餐のご馳走にあずかって、彼の破廉恥な行いに乾杯を取り交してくれるんだから」
「けれどお話のような娘っ子は、いったいどこにいるんです?」とウージェーヌは言った。
「君と一緒の家、君の目の前にさ!」
「ヴィクトリーヌ嬢!」
「まさに図星」
「えっ、なんですって?」
「あの子はもう君に惚れてるぜ、君のかわいいラスティニャック男爵夫人は!」
「だって一文無しじゃありませんか」とびっくりしてウージェーヌは言った。
「いや、そこなんだよ、君。もう少し訳を話せば、すっかりわかるだろう。タイユフェル親父というのは大革命時代に、友達の一人を殺害したとされている、なかなかのしたたか者で、人の意見や評判なんか屁とも思わぬ我党の士の一人さ。銀行家でフレデリック・タイユフェル合資会社の代表社員だ。一人息子があるので、それに全身代を譲ろうとして、ヴィクトリーヌなどは除け者扱いだ。だがそういう筋違いはわしは大の嫌いでね、ドン・キホーテのように強い者に楯ついて、弱い者の肩を持つってのがこっちの好みなんだ。だからもしも神様の思し召しで、当の息子が天国に召されるようなことにでもなれば、タイユフェルだってあの娘を引き取るだろう。いずれ何か相続人が要るだろうからね。そこが人情の愚かしいところさ。わしは知ってるよ、いくらなんだってもう子供はできんさ、年が年だもの。ヴィクトリーヌは穏やかで優しいから、すぐと父親に巻きつき、感情の鞭をくわえてドイツ独楽《ごま》のように、ぶんぶん廻りを親父にさせることだろう。それに君の愛情にほだされていて、まさかに君を忘れるようなことはなく、結婚するにいたるだろう。このわしのほうは、神様の役割を引き受けて、天の思し召しを一つ果してやることにしようじゃないか。わしに絶対的に心服している一人の友人があるんだ。ロワール旧帝国軍の大佐だったが、最近転向して近衛王軍に勤仕した。このわしの忠告を入れて、急進王党派になったってわけさ。持論にあくまで固執するようなばかなやつじゃないからね。君に授けるべき忠告がもう一つあるとすれば、それはだね、いいかい、君、自分の意見や言葉をなぞ、決して堅持はしないことだな。ほしいというやつがあったら、そんなものは売ってやるさ。断じて意見を変えぬと威張るのは、終始一直線に突っ走るのを自分の務めと心得て、誤謬絶無と信じている間抜け者たちさ。原理なんてものはない。あるのは事件だけさ。法則なんてものはないんだぜ。状況があるだけなんだよ。傑れた人物は事件と状況に順応して、おのれが有利にそれを導いているんだ。もしも一定不変の原理なり法則なりが存在していたとすれば、シャツを脱ぎ代えるように、あっさりそれを国民が変えられるってわけはないじゃないか。個人だって国民よりも、控え目でなくてはならぬという理由は一向にないんだぜ。フランスに対してつくすことのもっともすくなかった人間が、盲信の的になっているのは、いつも極端な共和主義を、やっこさん一枚看板にしていたからなんだ。だがそんな男はラ・ファイエットとでも名札をつけて、機械類と一緒くたに工芸博物館にでも祭り込んでおくのが、せいぜいといったところさね。それに反して人間どもを蔑視し、せがまれるがままに数々の宣誓を、人間連中の顔に唾はいた公爵は、ウィーン会議でフランスの分割問題を阻止したのに、みんなから石を投げつけられている。栄冠をこそこのタレイラン公爵には捧ぐべきなのに、人々は公爵に泥をひっかけている。ああ、君、俺は事情通なんだよ、このわしはね。多くの人の秘密をわしは掴んでるんさ。もうたくさん、たくさん。一つの原理の適用について、三人の意見が一致するなんて場面にでも出会ったら、そのときはこのわしも確固不動たる定見を持つことにしてやろう、どうせ先の長い話だろうからね。裁判所でも、法律の条文一つについてだって、判事三人の意見が一致することは、金輪際ないんだからね。
さて例の男の話に戻ろうか。この男はわしが言いつけさえすれば、イエス・キリストを十字架に磔《はりつ》けなおすことだって、やってのけるよ。あの哀れな妹にただの百スーも送ってやらんどこかの人でなしの兄貴に、ヴォートラン親分の一言で、この男は喧嘩をふっかけ、そして……」そう言ってヴォートランは立ち上って、構えの姿勢をとり、剣術師範が右足を踏み込んでのお突きの仕草をして、――「そして闇へと葬るんさ!」と言い添えた。
「なんという怖ろしい……ヴォートランさん、冗談におっしゃったのでしょう?」
「まあ、まあ、落ち着いて」と、この男は続けた。「子供じみたことぬかすなよ。だが君の気がすむっていうんなら、憤慨したっていいさ、赫《かっ》となったっていいさ。俺を悪党、無頼漢、山賊、人でなし、なんとでも好き勝手に言ってくれよ。ただし詐欺師だの|いぬ《ヽヽ》だなどとは言わせんぜ。さあ、罵りたいことを思い切り罵るがいい! 許してやるよ、君の年ごろではそれが当り前なんだから。このわしだって、そうだったもの。ただね、とっくり考えてもらいたいんだ。君だっていつかはもっとひどいことをやらかすぜ。上流の美人のところへ媚を売りに行って、金をせしめて来たりぐらいはね。現にその手を君は考えたんじゃないか!」とヴォートランは言った。「だって色恋でも当てこまなけりゃ、どうやって君は成功しようっていうんだい? おい、学生君、徳操っていうものは細分はできないんだぜ。徳操があるかないかのどちらかだけなんだ。罪の償いをするなんてことをよく人は言うね。悔悛の行為でもって、犯した罪が帳消しになるなんて、こいつまた、いやはや結構な社会のシステムさ。社会階梯のしかじかの段までのしあがるために、人妻を誘惑したり、家庭の子女たちの間に不和の種を蒔いたり、つまり個々人の快楽ないしは利害を目的に、暗々裡にまたは公然と行われている、かような破廉恥行為が、そもそも信仰と希望と博愛とからの行為であるなんて、君はいったい思っているのかい。子供からその財産の半分を、一夜にして奪うような真似をした伊達男は、二ヵ月の禁錮ですみ、それよりはるかにせっぱつまった情況から、千フランの紙幣を盗んだ哀れな男には苦役の刑が課せられることは、いったい、どうした訳なんだい? それが君たちの法律なんだ。どんな法律の条文だって、とどのはては、不条理に達せざるものなしさ。手套をはめ、猫なで声をした紳士が、人殺しをする。血は流さぬ代りに欺きたぶらかしてだ。ところが人殺しのほうは、錠前破りでドアをこじ開ける。いずれも夜の暗い犯罪たることにはかわりはないじゃないか。わしの君への提案と、君がいずれやることとは、ただ血を流すか流さぬかの違いがあるっきりなんだぜ。君は、この世に何か一定不変の標準でもあると思ってるのかい。そんなことより、人間どもを軽蔑し、法網をうまくくぐる隙間でも見つけたほうがいいぜ。はっきりした根拠もなくできあがった大身代の蔭には、手際よく行われたばかりに、世間からは忘却されている犯罪が、みんな潜んでいるんだからね」
「止めてください。もう聞きたくはありません。あなたの話を聞いてると、自分で自分を疑わされてしまいます。さしあたっての今の僕には、感情だけが残された唯一の術《て》なんですから」
「好きなようにするがいいさ、坊や、もっと君を強い人間だとわしは見損っていたがね。もう何も言うまい。が、ただ最後に一言」ヴォートランは学生をきっと見詰めた。「君は俺の秘密を握ったんだぜ」
「あなたの提案を拒んだ若者なら、そんなことを忘れるすべぐらいは心得ていましょう」
「よく言った。俺も嬉しいよ。他のやつだったら、そう行き届いた心遣いはできぬものだからね。君のためにわしがしようとしたことを、よく覚えておいてくれたまえ。二週間の猶予をやろう。そしてそのときになってから取捨の選択をまかすとしよう」
ヴォートランがステッキ小脇に、悠然と立ち去って行くのを見送りながら、ラスティニャックは独語した。「あの男の頭ときたらまるで鉄《くろがね》づくりだ。ボーセアン夫人が婉曲に述べたことを、じつにずけずけと言やあがった。俺の心を鋼鉄の爪で引き裂いたも同じだ。ニュシンゲン夫人のところへ、なぜ俺は行きたがっているんだろう? 俺の動機をあいつ、見破ってしまいやがったぞ。しかも俺がそんな考えを起こすと同時にだ。結局、俺が今まで人の口や物の本から、美徳について学んで来た以上のことを、あの無頼漢の口から教わったのも同じだ。美徳が妥協を許さぬものだとすると、じゃあ俺はこいつを妹たちから盗んだ訳になるかな?」そう言ってテーブルの上に、金包みを放り出した。彼は腰をおろし、長いことそこで頭がじーんとするような瞑想に沈んでいた。――「美徳に忠実であること、確かにそれは崇高な殉教だ! チェッ、みんな美徳を信じている。だが徳行家はどこにいるか? もろもろの国民は自由を崇拝している。だが地球上のどこに自由な国民がいるのか? 俺の青春は雲のない空のように、まだ青く晴れわたっている。偉くなりたい、あるいは金持になりたいと願うことは、嘘をつき、ぺこぺこし、這いまわり、反身《そりみ》になり、へつらい、いつわることを、われと決心したのではなかろうか? 嘘をつき、ぺこぺこし、這いまわったことのある連中の下僕《しもべ》に、甘んじてなることを、われと承知したのではないだろうか。彼らの共謀者となる前に、彼らの手先となってつかえなければならないんだ。いやだ、そんなことはやめだ。俺は高く清く働いて行きたい。夜昼なしに働いて、俺の勤勉労苦だけで成功をかち得たい。それは一番のろい成功となるかもしれない。だが毎晩、いささかの邪念にも煩わされずに、安らかに俺は枕につけるんだ。自分の生活を振りかえって、百合のようにそれが清浄なのを見るのほど、美しいことがまたとあろうか。俺と俺の生活とは、青年とその婚約者《フィアンセ》のようなものだ。結婚後十年にして起こることを、ヴォートランのやつは俺に教えやがった。畜生! 頭がこんぐらかる。何も考えたくない。心だけが一番確かな道案内《ガイド》なんだ」
仕立屋の来たのを告げる太っちょのシルヴィの声で、ウージェーヌはそうした瞑想からさまされた。二つの金包みを手に持ち、彼は仕立屋の前に現われた。このような都合になったのを、決して悪い気はしなかった。夜会服をいろいろためし着してのち、新調した朝の服装に着かえた彼の姿は、すっかり見違えるばかりだった。
「トライユ氏なんかに、ひけはとらんぞ」と、彼は思った。「これで俺も、どうやら紳士の恰好だけはついたな」
そこへゴリオ爺さんが、ウージェーヌの部屋に入ってきて言った。「あんた、ニュシンゲン夫人のよばれ先を、知っているかのお訊ねでしたっけな?」
「ええ」
「そんなら、あの子は今度の月曜に、カリリアノ元帥の舞踏会に行きますぞ。あなたもそこへいらっしたら、わしの娘たちが楽しそうにしておったか、どんな衣裳を着けてたか、要するに何もかもを、この私にきっと聞かしてくださるでしょうな」
「どうしてそのことがわかったんです、ゴリオのお爺さん?」とウージェーヌは爺さんを火の傍に坐らせながらたずねた。
「あれの小間使が教えてくれましたのじゃ。あの子たちのしていることことごとくを、わしはテレーズやコンスタンスから聞いていますのでな」と爺さんは嬉しそうに言った。女に気づかれずにその消息を、計略で探れるのに悦に入っている、まだ青臭い恋人に似たようなところが、この老人にはあった。「あんたはあの子たちに会えるのですなあ!」と悩ましげな羨望の色を、無邪気に見せながらゴリオは言った。
「さあ、どうですかしら」とウージェーヌは答えた。「元帥夫人に紹介してもらえるかどうか、一つボーセアン夫人のところへ行って訊ねて見なくてはね」
これからはいつもしていられる身なりで、子爵夫人のもとへ顔を出せることに、内心彼は一種の愉悦を感じていた。道学者が人間の心の深淵と称しているものも、じつはたんなる人の目をくらます考え、個人的な利害からの無意識的な衝動からのことが多い。しばしば非難される、あの心境変化や急激な移り変りは、快楽のためにされる打算心からなのである。ラスティニャックはりゅうとした衣服、立派な手套、美しい長靴をつけた自分の姿を眺めて、さきほどの徳義にかなったあの決意も、はやもう忘れかけてしまっていた。青年時代は良心が邪曲のほうに傾きかけたときには、良心の鏡におのれを写してみようとはあえてしない。ところが分別のつく年ごろには、ちゃんと良心の鏡に照らしてみる。そこがこの二つの人生相の、大いに相違している点なのである。
数日来、隣同士のウージェーヌとゴリオ爺さんは、大の仲好しになってしまっていた。このひそやかな友情は、ヴォートランと学生との間に、対立感情を招来したあの心理的理由に、同じく繋がっていた。我々の感情が身体に及ぼす力を、からだの分野のなかで検証しようとする大胆な学者は、その感情の物質的な効果のほどが、人間と動物との間におりなされている関係のうちに、一再ならずあらわれているのを見出すであろう。犬には見知らぬ人間が自分を愛してくれるかどうかが、立ちどころにわかるが、どんな観相学者とても、そうした犬ほどすばやくは、人の性格を判ずることはできまい。鉤形《かぎがた》原子(atomes crochus)という言いまわしから、虫がすく、というような、誰もが使う諺《ことわざ》めいた表現法が出てきているが、これは根源語の残滓《ざんさい》を|ふるい《ヽヽヽ》にかけることの好きな連中が、さかんに没頭している学問的暗愚をへこませるために、言語のなかに残っている実例の一つであろう。人は愛されていることを感づく。感情はあらゆるもののなかに印刻される。そして空間をものりこえる。一つの手紙は一つの魂であり、それは語る人の声の忠実な|こだま《ヽヽヽ》であるゆえ、繊細な心の人は、愛情のもっとも豊かな宝物の一つに、手紙をば数えているのである。
ゴリオ爺さんの無反省な感情は、その犬のような性質が崇高な域にまで達していたので、学生の心のなかに自分に対する若々しい共感、感嘆にあふれた好意、憐憫の情などが動いているのを、いちはやく嗅ぎつけたのである。しかし、かく芽ばえた結合も、まだ打ち割った話を二人がしあうまでには、到っていなかった。ウージェーヌは、ニュシンゲン夫人に会いたい希望を洩らしはしたが、それはなにも、夫人の家に出入りするため、ゴリオに紹介を頼むつもりではなかった。ただ老人がうっかり口を滑らしでもしたことを、なにかの役に立てたいという肚《はら》はあった。またゴリオのほうでも、ラスティニャックが二つの訪問をした日、思わずみんなの前で喋ってしまったこと以外には、べつに娘たちのことについて、青年に何も話そうとはしなかった。
「ねえ、あんた」と彼にゴリオはその翌日だったが言った。「わしの名を口にしたため、レストー夫人があんたを恨んどるなんて、そんなことがいったい考えられますかいな。娘たち二人はこのわしを非常に愛しとります。わしは幸福な父親ですわい。ただ二人の婿がわしに対してきつく当りますんでな、わしと婿との仲たがいから、かわいい娘たちを苦しめてはと思って、こっそり会うことにしましたのじゃ。こうした内証ごとにも、好きなときに娘に会える世間の父親たちにはわからぬ娯しみがありますんじゃよ。わしは勝手に娘に会えんものでな、いいですか、そいでお天気の日には、娘たちが外出するかどうか小間使に訊ねた上で、シャン・ゼリゼに行き、通路に待ちかまえていますのじゃ。馬車が来かかるとな、わしの胸は高鳴って、盛装した娘たちを、それこそほれぼれと眺めますのじゃ。通りすがりにあの子たちも、軽い微笑をわしに投げてゆく。するとうららかな日の光が降り注ぐように、わしにはあたりのものが金色に見えてきますのじゃ。娘たちは戻ってくるはずじゃから、わしはまだそこに残っておりますよ。もう一度娘たちに会えるんですものなあ! 新鮮な空気が薬になったかして、あの子たちの頬も、すっかり薔薇色になっとる。わしの周囲では『別嬪《べっぴん》だな!』と囁く声が聞え、このわしの心は嬉しさで膨れ上る。なんせわしの血を分けた娘たちですものなあ、あんた。――娘たちの馬車を引いてゆく馬でさえもかわいく、あの子たちの膝にいる小犬に、いっそわしはなりたいくらいにまで思いますよ。娘たちの喜びを、わしは生き甲斐にしとるんです。人にはそれぞれの愛し方があり、わしのも誰の迷惑にもなっておらんですよ。なのに世間のやつらは、なんだってわしにお節介するんでしょう。わしはわしなりに仕合せなんじゃい。あの子たちが夜分、舞踏会に行くため家を出るまぎわに、このわしが会いに行くのは、法律に違反しますかいな? 遅れて着いて、奥様はもうお出かけでと言われたときのわしのつらさっていったら! ある晩などは二日ほど会わなかったナジーに逢おうと思って、朝方の三時までも待ったことがありますよ。逢えたそのとき、わしは嬉しさのあまり、危く死にかけましたくらいでしたわい!
お願いです、わしの娘たちがどんなに親孝行かを言うとき以外には、わしのことは口にせんでおいてくださいよ。あの子たちはわしに、なにかと贈物をどっさりしたがってるんじゃ。わしはそれを押し止めて、『金は大切になさいよ! わしがそんなものをもらって、どうすると思うんじゃ? わしはなんにも要らんのだから』って言ってやりますのじゃ。ほんとになあ、あなた、このわしはいったいなんじゃろう? 魂はあの子たちの行く先々について行ってる惨めな屍《しかばね》同然ですわい」老人はちょっと押し黙ったのち、ウージェーヌが外出しかかっているのを見て言い添えた。「ニュシンゲン夫人にお会いになったら、後であの子たち姉妹のうちどちらがお好きか、ぜひ私に教えてくださいよ」
ウージェーヌはボーセアン夫人の屋敷に行く刻限になるまで、チュイルリ公園をぶらぶらして来ようと思っていた。
この散歩は学生の一生を宿命的に決するものとなった。何人かの婦人が彼に目をとめた。それほどに彼は美貌で、若くて、好みのいい高雅な身なりをしていた。ほとんど嘆美といっていいくらいの注視の的に、自分がなっているのを見て、彼はもう妹たちや伯母から絞り取ったことも、徳義にかなった潔癖な嫌悪の念をも、忘れてしまっていた。天使ともまるで見まがうような悪魔が、自分の頭上をかすめて行くのが見えた。極彩色の翼をしたこのサタンは、ルビーを撒きちらし、宮殿の正面に黄金の矢を放ち、女たちに緋衣をまとわせ、いたって単純な王座を、ばかばかしく華やかに輝かせる。彼はあの虚栄の神のがちゃがちゃ鳴らす物音に耳を傾けた。それら安手の金ぴか物は、力の象徴のようにも、ときとして人の目には映ることがある。ヴォートランの言葉は、それがどんなに人生白眼視的なものであったにせよ、ウージェーヌの心に深く食い入ってしまっていた。ちょうど「お金も恋も仕放題に!」と、そそのかす小間物行商屋のやり手婆さんの醜い顔つきが、乙女の記憶の底に刻みつけられるように。
ウージェーヌはものうそうにぶらついてから午後五時ごろ、ボーセアン夫人の邸を訪れたが、年若い心には防ぐみちもない怖ろしい打撃の一つを、彼はそこで受けることになった。これまで彼が接してきたのは、貴族的な教養の贈り物である洗練された温和さと、蜜のように甘い優雅さとをたたえていた子爵夫人であった。だがそうしたものは心から流露したものでなければ、決して完全とはいえぬのである。
彼が入って行くと、ボーセアン夫人は素気ない態度で、ぶっきらぼうに言った。
「ラスティニャックさん、今だけはだめ、お会いしてはいられないのよ、用があるんで……」
観察力の鋭い者にとっては(そしてラスティニャックもたちまちのうちに、そうした一人になっていたが)これらの文句、態度、眼付き、語調は、貴族階級の性格と慣例の全歴史とを示しているものであった。彼はビロードの手套の下に鉄の手を、もったいぶった物ごしの下に自我とエゴイズムを、ニスに塗られた下に素地の木目を見つけ出した。彼は、上は王座の羽飾りの下から始まり、下は末席貴族の兜飾りの下で終っている「|我ぞ王《ル・モワ・ル・ロワ》!」の声を、そこに聞いたのである。ウージェーヌは子爵夫人の口先に、他愛なく身をまかせきり、夫人の心を一途に気高いものと思い込んでいた。不仕合せな人間はみんなそうだが、彼もまた恩恵を施す者と、施される者とを結ぶべきはずの麗しい契約に、誠心誠意の署名をしていた。この契約の第一条には、すぐれた心同士は完全に平等のことが認められている。二人の人間を一体にしてしまう親切心や恩恵などというものは、真の恋愛と同様、滅多にあるものではなく、また、あまねく理解もされていない神聖なパッションである。そうした愛と親切心とのどちらもは、美しい魂から惜しみなく与えられたものである。ラスティニャックは、カリリアノ公爵夫人の舞踏会に行きたかったので、こうしたつっけんどんさを受けても、じっとのみこんだ。
「奥様」と彼は興奮した声音で言った。「ちょっと大事なことだったもので、奥様をわざわざわずらわしにまいったのです。どうかあとでお目にかからせてはくれませんか。お待ちしておりますから」
「そんならあたしと一緒に、夕御飯を召し上りにいらっしゃい」夫人はさっきの口の利きようが酷だったのに、やや痛み入ったごとくに返事をした。この女性はまったくのところ、その生まれが高かったくらいに気立ても優しかったのである。
にわかなこの態度の豹変に、ウージェーヌは感動を覚えたが、それでも帰り途には彼もこう考えた。「這いつくばるんだ。どんなことをでも我慢するんだ。女のなかでも一番という人が、ちょっとの間にしろ友情の約束を反故《ほご》にしたり、古靴のように人を見棄てたりすることさえあるからには、他の女どもときたら、それこそどんなことをやらかすか解りゃしないぞ。するてえと、みんな自分ばかりがかわいいのかな? それは確かに夫人の家は商売屋じゃないさ。夫人に用があるというこっちこそ得手勝手なんだ。ヴォートランの言ったように、砲弾になって、こっちはぶつからなきゃならないんだ」
だが学生のこうした苦い反省も、子爵夫人のところで晩餐をするという期待の楽しさで、すぐと一掃されてしまった。
こうして、一種の宿命によって、彼の生活の些細な出来事すらもが、彼をその経歴のなかへと押しやるべく図ったのであった。すなわち、その経歴における彼たるや、メゾン・ヴォーケルの恐ろしいスフィンクスの言に従えば、その身、戦場にあるのも同じで、殺されたいためには敵を殺し、欺かれないためには相手を欺き、良心も心情も棚矢来に置き捨てて、仮面の人となり、相手を情け容赦なくなぶりものにし、スパルタにおけるがごとくに、栄冠に値いするがためには、人に知られぬうち幸運をつかまねばならぬのであった。
彼が子爵夫人の邸へ引き返したとき、夫人はいつに変らぬあの優しい好意に満ちあふれて迎えてくれた。二人は一緒に食堂に入った。そこには子爵が夫人を待っていた。誰もが知るとおり、王政復古時代下にその最極点にと達していた食卓の贅美さが、食堂いっぱいにその輝きを放っていた。ボーセアン子爵はさんざ歓楽に飽き果てた多くの人と同じく、美食の楽しみ以外には、もうこれといった道楽もなくなっていた。食道楽にかけては、彼は、ルイ十八世やデカール公爵の流れをくんでいた。されば彼の食卓には容器と内容との二重の贅美があらわれていた。社会的権勢を世襲しているこの種の邸宅で、はじめて食事をしたウージェーヌにとっては、すべてが眼をみはるような豪勢さであった。帝政時代には軍人たちが屋内屋外において、彼らを待っていたあらゆる戦いに備えるため、精力をつけておく必要のあったところから、舞踏会のあとでは夜食が出されることになっていたが、昔のそうした流行も、当時ちょうど廃《すた》りになったばかりであった。それにウージェーヌはまだ舞踏会にしか、出たことがなかった。後年になってとくに彼をきわだたせたその落ち着きぶりは、この頃からもう彼の身につき始めていたので、愚かしくあっけにとられるようなこともなかったが、それでも彫りのある銀食器類や、凝った豪勢な山海の珍味を眺め、物音一つ立てぬ給仕の仕方に初めて接しなぞして、内心彼は驚嘆せざるを得なかった。熾烈な想像力を持った男として、その朝これからたずさわろうと決心したばかりの窮乏生活よりも、こうした絶えず雅趣ある優美な生活のほうを、好まないわけにはいかなかった。彼の思いはしばしのあいだ下宿屋のほうにと馳せた。と、にわかに彼は甚だしい嫌悪を覚え、正月になったら必ずあそこを引き払おうと心に誓った。もっとこざっぱりした家に住むためもあったが、肩にのしかかっている感じのヴォートランの大きな手から、逃れたいつもりもなくはなかった。
騒然たるないしは暗黙の堕落が、パリにおいてとっているさまざまの形式にと考えおよぶならば、良識の士は国家がここに学校を設け、全国の青年子弟を集めているのは、なんという甚だしい錯誤であるかを、いぶからずにはいられまい。それにまたどうしてパリでは美女がこんなに尊重されているのか、両替屋によって木椀に並べられた金貨が、どうして魔術のように消え失せてしまわないのか、それを同じく怪しまずにはいられまい。しかもパリでは犯罪事例が、青少年の犯す軽犯罪をも併せて、じつに僅少であることに思いをいたすならば、自己の心と闘いながら、ほとんどいつも勝利を得ているこれら辛抱づよいタンタルスたちに対し、すくなからぬ敬意を表してしかるべきではないだろうか。貧乏学生とパリとの間の闘争のさまが、本当に描かれるとしたら、我々の近代文明のもっとも劇的な主題の一つに、必ずやそれはなることであろう。
ボーセアン夫人はラスティニャックに、話を切り出すようにとしきりに目くばせしてみたが無駄だった。子爵の前では彼は何も言いたくはなかったのである。
「今夜、イタリア座へ連れて行ってくださる?」子爵夫人は良人にたずねた。
「喜んでお伴をしたいんだが、ヴァリエテ座である人と落ち合わねばならんのでね」
子爵の返事には嘲弄するような慇懃《いんぎん》さがあったが、ウージェーヌにはそれが看破できなかった。情婦とだな、と夫人は思った。
「今夜はダジュダは迎えに来んのかい?」と子爵はたずねた。
「ええ」不機嫌そうに夫人は答えた。
「そうかい、どうしても連れがいるんなら、ラスティニャックさんに頼んだらいいさ」
子爵夫人はほほえみながらラスティニャックを見やった。
「では、あなたの評判をさだめし危くすることになるでしょうね」
「フランス人が危険を愛するは、そこに栄光あればなりと、シャトーブリアン氏は言っております」とラスティニャックは一礼しながら答えた。
それから暫くして、彼は軽快な箱馬車にボーセアン夫人と同乗して、当時人気のあった劇場に行って、正面桟敷におさまり、麗しい衣裳を着けた子爵夫人とともに、満座のオペラグラスの目標になっているおのれに気づいたとき、さながらお伽《とぎ》の国に遊ぶような思いがした。恍惚郷から恍惚郷へと、彼は移ったのだった。
「お話がおありなんでしたわね」とボーセアン夫人は彼に言った。「あら! ごらんなさい、あそこ、ここから三つ目の桟敷、あれ、ニュシンゲン夫人よ。あの方の姉さんとトライユ氏とは、ちょうど真向いの桟敷だわ」
そう言いながら子爵夫人は、ロシュフィード嬢のいるはずの桟敷のほうを見やったが、ダジュダ氏の姿がそこに見えぬため、夫人の顔は異常な輝きを帯びた。
「綺麗な方ですね」とニュシンゲン夫人を眺めてからウージェーヌは言った。
「でも白い睫毛をしていますわ」
「ええ、しかし、すんなりした愛らしい身体つきじゃありませんか」
「手が大きくってね」
「美しい眼!」
「顔が長いでしょ」
「しかし面長な顔は品位がありますよ」
「品位が備わっているとしたら、さだめしご当人も大喜びでしょう。ごらんなさい、あの鼻眼鏡をかけたり外したりの仕草を。身振りのすべてにゴリオの血がうかがわれるじゃありませんこと」こうした子爵夫人の言葉に、ウージェーヌはすっかりたまげてしまった。
実際のところボーセアン夫人は劇場内をオペラグラスで眺め渡してばかりいて、ニュシンゲン夫人などには目もくれない様子であったが、しかし、その一挙一動をも見逃してはいなかったのである。なみいる観客はえもいえずに美しかった。デルフィーヌ・ド・ニュシンゲンも、ボーセアン夫人の若く美しく瀟洒な従弟の関心を、自分一人が集めているのに、まんざらでもない気がしていた。それほどにウージェーヌは、彼女から眼を離そうとはしなかったのである。
「あの方ばかりそんなに見つめていらっしゃると、人になにか言われますよ、ラスティニャックさん。そのように猛烈に持ち掛けたら、何にでも成功はなさらなくってよ」
「ねえ、従姉《おねえ》さん、僕はもうずいぶんとあなたのお力添えにあずかりましたが、お世話ついでに最後の仕上げまで一つすましてくださると、僕にとっては大変ありがたいのですが。あなたならほんの造作もないことなんですもの。僕はもうすっかりのぼせきってしまいましたよ」
「あらもう!」
「ええ」
「そしてあの方に?」
「僕の言い分をあなた以外に聴いてくれる人が他にいるでしょうか?」と彼は突き刺すような眼差しを、従姉に投げつつ言った。「たしかカリリアノ公爵夫人は、ベリ公妃のご側近でしたね」彼はちょっと間をおいてからまた続けた。「あなたもきっと公爵夫人にお逢いになることがあるでしょ。僕を紹介して月曜日の舞踏会に連れて行ってはくれませんか。そこでニュシンゲン夫人に会って、最初の小手調べをやってみたいんです」
「お安いご用ですわ」と夫人は言った。「あの方をはやもうお気に召したのなら、あなたの胸中三寸のことはうまく運びますでしょうよ。ほら、ガラシオンヌ公爵夫人の桟敷にマルセイさんがいるでしょう。見せつけられてニュシンゲン夫人は大苦しみ、内心口惜しくって堪らないんですよ。ですから、あの女人に近づくには、またとない好機ですわ。それに、なにしろ銀行家の妻ですし、ショセ・ダンタン街のご婦人連ときたら、皆さん復讐が大好きですからね」
「じゃあなただったらそんな場合、どうあそばします?」
「あたしなら黙って耐え忍んでいますわ」
この時、ダジュダ侯爵がボーセアン夫人の桟敷に現われた。
「あなたに落ち合わなくちゃならないので、僕のほうの首尾はだいなしにして、ここへはせつけてきましたよ。あなたにそのことをお知らせして、ぜひ犠牲の埋め合せはつけていただかなくちゃ」
子爵夫人の顔の輝きから、ウージェーヌは真剣な恋の表情を見分けるすべを、パリ女のコケットな嬌態《しな》とそれを取り違えてはならぬことを知ったのである。彼は従姉に感嘆し、口すくなになり、溜息をつきながらダジュダ氏に自分の席を譲った。(女というものはこのように相手を愛している場合、なんという気高い、崇高なものだろう!)と彼は考えた。(それなのにこの男は人形同然な女のために、こういう立派な女性を裏切ろうとしている! どうしてこんな女性を裏切るなんてことができるんだろう?)子供のような憤激を彼は胸に覚えた。ボーセアン夫人の足下にのたくりまわりたいと思った。悪魔のような力があったら、彼女を自分の心のなかに運び込みたいとも思った。乳をまだ吸っている白いかわいい山羊を、鷲が野原からその巣ヘとひき攫《さら》って行くように。
この女性美の大博物館のなかにいて、自分の絵《ヽ》が、自分のものである情婦《ヽヽ》がいないのに、彼はなにがなし屈辱を覚えた。(情婦を持ち、王者にほぼふさわしい地位につくこと、それが権勢のあるしるしなんだ!)と彼は思った。そして辱められた男が相手を睨みつけるような眼で、ニュシンゲン夫人を眺めた。子爵夫人は彼のほうに振り向いて、後ろにと引き下った彼の心づかいに、深い感謝の眼くばせをした。第一幕が終った。子爵夫人はダジュダ侯爵に言った。
「あなたはニュシンゲン夫人をよくご存じなのでしょう。ラスティニャックさんを紹介してあげてくださらない?」
「そりゃあの方も喜ばれるでしょう」と侯爵は言った。
美男のポルトガル人は立ち上って学生の腕をとった。次の瞬間にはもうラスティニャックはニュシンゲン夫人の傍にいた。
「男爵夫人」と侯爵は言った。「ボーセアン子爵夫人の従弟であるシュヴァリエ・ウージェーヌ・ド・ラスティニャック氏をご紹介申し上げます。深い感銘をあなたから受けられた模様なので、当の偶像の傍らにお連れして、幸福感をまったからしめてあげたいと思ったんです」
この言葉はやや失敬なニュアンスを含む冷嘲気味をもって言われたのであったが、巧みにぼかしつくろってありさえすれば、決して女性の気持を損ねるようなことはない。ニュシンゲン夫人は微笑して、今しがた出て行った良人の席を、ウージェーヌにすすめた。
「わたくしの傍に長くいらっしゃいとは、決して申しませんわ」と彼女は話しかけた。「ボーセアン夫人とご一緒にいられるような幸福なお方なんですもの、心はあちらに飛んでいらっしゃるのでしょう」
「ですが奥様、ここにご一緒においていただけたほうが、従姉には気に入るんじゃないかと思うんです」とウージェーヌは低い声で言った。そして並の声にかえって、「侯爵様が来られるまで、従姉と僕はあなた様のことやら、お人柄のすぐれていらっしゃることを、しきりとお噂申しておったのですよ」
ダジュダ侯爵は引き返して行った。
「ほんとに、あなた、あたくしのそばに残っていてくださるおつもりですの?」と男爵夫人は言った。「ではお近づきになりましょうね。レストー夫人からお聞きして、ぜひともお会いしたいと思っておりましたのよ」
「でもあの方は誠意のない人ですよ。僕に門前払いを喰わせておきながら」
「まあ、どうして?」
「奥様、包み隠さずにその理由を申し上げましょう。このような秘密を打ち明けるにあたって、あなた様のご寛容をまずは願っておかなければなりませんが、僕はご尊父の隣室に住んでいる者なんです。ところがレストー夫人があの人のお嬢さんだったことをつゆ知らず、不用意にもご尊父のことを口にしてしまったのです。もちろん悪気もなくですが、ためにあなたのお姉様とそのご主人のご機嫌を、すっかり損じてしまいました。しかしランジェ夫人やボーセアン夫人が、そうした親不孝を、どんな悪趣味のものと考えたかは、あなたのご想像のほかですよ。僕がそのときのもようをお話ししましたら、あの人たち、まるで気でも狂ったように、大笑いしましたもの。そのときですよ、ボーセアン夫人はあなたとお姉様とを較べて、あなたのことを激賞して僕に話し、僕の隣人であるゴリオさんに、どんなにあなたがお優しかったかを語り聞かせてくれました。実際、あの年寄りならあなたにしたって愛せずにはいられないでしょう。僕がすでに妬ましくならずにはいられないくらい、あの人は熱烈にあなたを愛し切っておりますもの。今朝も二時間ばかり、ご尊父とあなたのことを話し合いました。それで、ご尊父の僕へのお話で、頭がいっぱいだった僕は、今夜従姉と食事を共にしながら、あなたのお心が美しいほど、お姿も美しいなんてことはあり得ないとつい申してしまったのです。ところが僕のその熱烈な讃美の情に、便宜を与えてやろうと思ったのでしょうか、ボーセアン夫人はいつもの優しい口調で、あなたにきっとお逢いできるだろうと申しながら、僕をここに連れて来てくださったのです」
「おやまあ」と銀行家の妻は言った。「ではあたくしもうあなたのご好意に、あずかっておったことになりますのね? もうすぐ、あたしたち古くからのお友達同士のようにきっとなれますわ」
「あなたのご友情なら並の感情のようになる気遣いはないでしょうけど、僕はたんにあなたの友達でなんか、いたくはないんです」
初心者用のこうした愚かしい極り文句でも、女性には常に魅惑的に感ぜられるもののようである。冷静な眼で読むからして貧寒に思われるのである。青年の物腰なり口調なり眼差しなりが、こうした文句に無量の価値を賦与する。ニュシンゲン夫人もラスティニャックを気持のいい青年だと思った。そして学生が露骨に持ちかけた問題に、女性の常としてなんとも返事ができかね、話をほかにそらしてしまった。
「そうですの、あの気の毒な父に対してとっている姉の仕打ちは、まったく間違っておりますわ。ほんとに父はあたしたちにとって、神様のような方でしたもの。宅のニュシンゲンが、午前中でなければ父に逢ってはならぬと、厳しくあたしへ申しつけられ、その点だけはやむなく譲歩しておりますのよ。この問題では長いこと悩みましたし、泣きもしましたわ。結婚の野蛮さについでの、このような無法さは、あたくしの家庭生活をもっとも擾《みだ》している理由の一つなのですの。他目《よそめ》にはあたくし、パリでもっとも幸福な女のように、確かに見えますけど、そのじつは一番に不幸な女なのですの。あなたにこんなことまで申し上げて、気狂い女と思われるかもしれませんが、父をよく識っていらっしゃるあなた、それだけでもうあたくしには、あなたが他人とは存ぜられませんですの」
「あなたのものになりたいと、世にもはげしい望みを僕ほどに燃やしている人間に、ついぞお逢いになられたことはないだろうと思います」とウージェーヌは夫人に言った。「あなた方ご婦人は何を求めていらっしゃるのです? 幸福をでしょう」と魂に沁み入るような声音で彼は続けた。「それならご婦人方にとって幸福とは、愛され崇められること、自分の欲望なり空想なり悲哀なり歓喜なりを、打ち明けることのできる男の友達を持つこと、心をすっかり裸にして、その愛すべき欠点や美しい長所を相手にさらけ出しても、なんの裏切られる心配もないこと、――もしもそうしたものであったなら、どうかこの僕を信じてはくださいませんか。常に熾烈で献身的な心は、青年の裡《うち》にのみ見出せるものなのです。夢多きその青年は、あなたの合図一つで死ぬことをわきまえ、まだ世の中も知りませんし、世界のことも知ろうともしたがりません。というのは、あなたが彼の世界になっているからです。僕を、僕の世間知らずを、きっとあなたはお笑いになるでしょう。僕は田舎の山奥から出て来てまったくの新米で、それこそ清純な心情しか知らないのです。僕は恋などには耽るまいと思い定めました。ところが従姉に逢い、その心根を真近に見せつけられ、情熱にも、多くの宝があることを教えられたのです。僕はシェリバン〔ボーマルシェの『フィガロの結婚』に出てくる小姓〕のように、あらゆる女性に愛慕し、そのなかの一人にわが身を献げることのできる日を待っておりました。僕はここへ入ってきてあなたを見たとき、まるで瀬に流されるように、あなたのほうへ引き寄せられて行く自分を感じました。僕は前からあなたのことを、さかんに空想に描いていたんです。けれど実際、あなたがこれほどまでにお美しかろうとは、夢にも思いませんでした。あなたをあまり見詰めてはいけないと、僕はボーセアン夫人にたしなめられたほどです。あなたの赤いきれいな唇、白いお顔色、優しい眼差しなど、どんなに人の目を惹きつけるか、それをボーセアン夫人は知らないからなのです。僕もやはりあなたに気狂いじみたことを申し上げました。しかし、どうかこのまま言わせてください」
こうした甘い囁きを聞かされるほど、女人にとって心楽しいものはあるまい。どんなに敬神の念に篤《あつ》いかたくなな女でも、易々《いい》として耳をかす。そんな相手になってはならぬような場合においてさえもである。かく話を切り出したラスティニャックは、低い声音で媚《こび》を呈しながらその思いのたけを洗いざらい述べた。ニュシンゲン夫人はガラシオンヌ公爵夫人の桟敷に居続けのマルセイのほうを、時おり眺めながら、微笑を洩らしてやることによりウージェーヌの気をさらに鼓舞した。ニュシンゲン夫人を連れ帰るため、彼女の良人が迎えに来たときまで、ラスティニャックはその傍らに留まっていた。
「奥様」と、ウージェーヌは言った。「カリリアノ公爵夫人の舞踏会より前に、一度お訪ねいたしたいのですが」
「家内がどうぞと言われるんじゃけん、あんたさん歓迎は請け合いじゃに」とアルザス生まれのずんぐりした男爵は答えたが、その丸顔には油断のならぬ狡猾さがうかがわれた。
「これでよしと。まずまず仕事は万事順調に行ってるぞ。(僕を愛していただけるでしょうか?)って切り出しても、あの人はべつに気色を悪くもしなかった。さあ、おれの馬に轡《くつわ》はついた。ひとつまたがって手綱を操るとしようか」そうウージェーヌは考え、ボーセアン夫人が席を立って、ダジュダと引き揚げようとしているところへ挨拶しに行った。気の毒にも学生には、男爵夫人がうわの空だったことがわからなかったのである。心を引き裂くような最後的な手紙が、マルセイから来はしないかと、男爵夫人は案じてばかりいたのであった。彼の似而非《えせ》首尾にすっかり気をよくしたウージェーヌは、一同がめいめい馬車を待っている柱廊のところまで、子爵夫人を送って出た。
「お従弟さんは別人のようになってしまいましたね」とウージェーヌが立った後で、ポルトガル人は笑いながら子爵夫人に言った。「あの人は銀行を破産させてしまいそうですよ。鰻のようになめらかなお人ですから、ずっと高所にまで達することができるでしょう。慰めをもっとも必要とする心境に、ちょうど今あるご婦人を、あの人のために選び抜いてやるだなんて、まったくあなたでたければできない芸ですな」
「しかし」とボーセアン夫人は言った。「あの女《ひと》、自分を棄てた男をまだもって愛しているかどうか、わからないじゃありませんの」
学生はイタリア座からヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りまで歩いて帰る途中も、このうえもなく楽しい目論見に思い耽っていた。子爵夫人の桟敷にいたときでも、またニュシンゲン夫人の桟敷ででも、レストー夫人が自分のほうを注意して見守っていたことを、彼はちゃんと気づいていた。そして伯爵夫人ももう玄関払いを自分にくらわせないだろうと察知した。元帥夫人にもなんとか取り入るつもりでおったので、パリの上流社会の中枢に、早くもこれで四つの立派な|つて《ヽヽ》が、彼にはできかかっていたわけだった。その手段についてはとっくり考えもしなかったが、損得問題の絡まった社会の複雑なこの機構のなかでは、その機関の上部のほうにいようと思ったら、車輪にでも噛りつかねばならぬことだけは、早くも見極めがついていたし、また車輪を制御するくらいの力なら、自分にも自信もあった。「ニュシンゲン夫人が俺に関心を抱いているようなら、亭主の操縦法を一つ仕込んでやろう。あの亭主は金儲け仕事が得意のようだから、一挙にして一財産を作れるようななにかの手引きを、この俺にしてくれるかもしれないぞ」
だが何もあからさまに、そう先々まで思いめぐらしたわけでもない。こうした事態を計画し、評価し、打算するほどの政治性は、まだ彼に備わってはいなかったので、これらの考えも薄雲の形で、遠く地平線に漂っていたにすぎなかった。ヴォートランの考えほどの苛烈さは、もとよりそこにはなかったが、良心の坩堝《るつぼ》で分析したなら、いささかの純良な分子もそこに得られはしなかったに違いないだろう。この種の処理を続けて行くうち、現代に幅を利かせているあの道徳の弛緩に、人は陥ってしまうのである。どんな時代に較べても、現代ほど真直ぐな人間の稀なることはない。これら美しい魂の人は絶えて悪に屈することなく、真直ぐな道から少しそれても、それを罪悪のように見なす。かかる至誠の英姿は、二つの傑作として人類の遺産になっている。モリエールのアルセストがその一つであり、近くは、ウォルター・スコットの作のジェニー・ディーンズとその父である。それらと対照的な作品として、社交界の野心家が体裁はつくろいながらも目的を達しようと、自分の良心をごまかしながら悪とすれすれのところを歩んでいるその紆余曲折のさまを描くのも、おそらくは美しくないこともないし、劇的でないこともないだろう。
下宿の閾《しきい》口に達したとき、ラスティニャックの心は、すっかりニュシンゲン夫人にとらえられていた。夫人が彼には燕のようにすんなりして華奢に思えた。人を酔わせる甘美な眼差し、下に血の通っているのが見えるような、きめの細かい絹地さながらの肌、魅惑的な声音、ブロンドの髪毛、それらのすべてを彼は思い起こした。それはまたおそらく歩行のため、彼の血行がさかんになって、心を惹く夫人の蠱惑《こわく》がいや増しにされたせいもあるであろう。彼はゴリオ爺さんの扉を乱暴に叩いた。
「お隣さん、デルフィーヌ夫人に逢って来ましたよ」と彼は言った。
「どこで?」
「イタリア座で」
「あの子は愉快そうでしたか? まあまあお入りなさい」寝まきのまま起き上って来た老人はドアを開け、またすぐ寝床にもぐり込んで、「さああの子の話を聞かしてくだされ」と夢中になって催促した。
ゴリオ爺さんの部屋に初めて入ったウージェーヌは、その娘の艶《えん》な身仕舞に讃嘆してきた直後だけに、当の父親の住んでる陋屋《ろうおく》を見て、驚愕の情を制するわけにはいかなかった。窓にはカーテンすらない。壁紙は湿気のためほうぼうが剥がれてしわくちゃに縮み、煙で黄色くなった漆喰をのぞかせていた。老人の横たわった粗末な寝台には薄い毛布と、ヴォーケル夫人の古上着の切れで作った、綿の入った足蒲団があるきりだった。床のタイルはじとじとして埃《ほこり》でいっぱいだった。ガラス窓の正面に、薔薇木でできた古箪笥があり、それは前面が彎曲し、花や葉を飾りにした葡萄蔓さながら捩じ曲った鋼《はがね》の引き手がついていた。木棚のついた古道具の上には、水差しの入った洗面器、それにひげ剃りに必要な道具一式がのっていた。隅っこにはぼろ靴類、寝台の枕許には扉も大理石板もないナイトテーブル。火を焚いた跡さえ見えぬ暖炉の傍には、クルミの角テーブルがあり、その横木を使ってゴリオ爺さんは、例の銀製の食器類をつぶしたのだった。それと爺さんの帽子がのってる粗末な文机、わらの座台の肱掛椅子と二つの並椅子、以上が惨めな家財道具の全部を成していた。ぼろ紐で天井に結びつけられた寝床のカーテンつりの金具は、赤や白の碁盤縞の俗悪な帯布を支えていた。どんな貧しい使丁の屋根裏部屋にせよ、ヴォーケル夫人のところのゴリオ爺さんよりは、ちっとはましな家具を備えているに違いないだろう。この部屋のありさまは見る人に寒気をおぼえさせ、その心を締めつけた。それは牢獄のもっとも侘しい監房にも似通っていた。ウージェーヌがナイトテーブルの上に燭台を置いたとき、その顔つきにあらわれた表情を、ゴリオは幸いなことに目にしなかった。老人は顎まで毛布にくるまったまま学生のほうに振り向いた。
「で、あんたはレストー夫人とニュシンゲン夫人と、どちらのほうがお好きですかい?」
「デルフィーヌ夫人のほうですよ」と学生は答えた。「なぜって、あの人のほうが、あなたをずっと愛していますもの」
熱をこめて言われたこの言葉に、老人は寝床から片腕を出し、ウージェーヌの手を握りしめた。
「ありがとう、ありがとう」とすっかり感動して老人は答えた。「わしのことを、いったいあの子はどう話してましたか?」
学生は男爵夫人の言ったことを、さらに輪をかけて美化して述べた。老人はまるで神の言葉にでも聴き入るように耳傾けていた。
「なんてかわいい子だ! そうですとも、そうですとも、あれは本当にわしを愛していますよ。だがあの子の話したアナスタジーのことは、本当にしないでくださいよ。二人は互いにわしのことでそねみあっているんですからね、わかりましたか。まあそれもまた二人の心根が優しいことの証拠なんですがね。レストー夫人だってやはりわしを愛しておりますとも、わしにはちゃんと解るんです。父親の子供たちに対するは、ちょうど神様が私たちに対するのと同じで、心の底まで突き入って、その気持を判じられるんですとも。娘たち二人ともに同じくらい優しい子なんですよ。ああ、わしに好い婿たちがあったら、冥加《みょうが》がすぎるというものですわい。だがこの下界には完全な幸福なんて、まさしくありませんものなあ。もしもわしがあの子たちの家に住めて、ちょうどあの子たちがまだわしの家にいた時分のように、その声を聞いたり、居場所が解ったり、出入りするさまでも見られたら、ただそれだけのことでこのわしの胸は、どんなに喜びに弾むことでしょう。……それで娘たちは綺麗な衣裳を身に着けておりましたか?」
「もちろんですとも。けどゴリオさん、あんな立派なところに片づいたお嬢さんがあるのに、どうしてあなたはこんなむさくるしいところに住んでらっしゃるのです?」
「けれどあなた、もっといいところに住んだって、それがなんのたしになるというんです?」と、うわべはいかにも無頓着そうに彼は言った。「わしには巧くそうした訳を説明ができんが。筋道立った文句を続けて喋るのがどうも苦手でしてな。万事はここにあるんですよ」そう言い添えて彼はポンと胸を叩いた。「わしの生活ってものは、二人の娘のなかにあるんでさあ。あの子たちが楽しく仕合せに暮し、豪勢な身なりで絨毯の上を歩いていられさえすれば、どんなぼろをわしがまとおうと、どんなところに寝起きしようと、いっこうに構やせんですわい。あの子たちさえ温かければ、わしは決して寒いとは思わんし、あの子たちさえ笑っておられれば、わしは決して鬱陶《うっとう》しくもならんのですよ。わしの苦労するのは、ただ娘たちの心配事だけですよ。将来、あなたもやはり人の父となって、子供たちの愛らしく喋るのをお聞きなさるときには、(これはわしから生まれ出たんだ!)と考え、その幼い者があんたの血の一滴一滴に、もとづいているのを感ぜられるでしょう。子供は微妙な血の華ですぞ。まったくですとも。子供の肌にこっちはぴったり結びつけられ、子供が歩けばこっちまで歩いているような気になります。あの子たちの声は、到るところでわしの耳に鳴っていますんじゃ。あの子たちの眼差しが悲しげな折は、わしの血は凍るような思いですわい。わが身の幸福より子供たちの幸福によって、遥かに仕合せな気になれるものじゃということが、いつかはあなたにも解りますとも。そうした詳しいわけをあなたに説明はできませんや。身うちの到るところに喜びを蔓らせる心のなかの情緒ですものなあ。そんなわけでわしはこの自分と娘の、三重の命を生きているんですよ。すこし妙竹林《みょうちくりん》なことを、あなたにお話ししてもいいですかな。わしはね、父親になって初めて神様がわかりましたのじゃ。神様は到るところに存在してござらっしゃる。なぜなら森羅万象は神様から出たものだからじゃ。あんた、わしは娘たちに対して、ちょうどそれと同じなのですよ。ただ、神様が世界を愛するより、わしはもっと、娘たちを愛していますのじゃ。それというのはこの世界は神様ご自身ほどには美しくはないが、娘たちはわしよりも美しいからですわい。あの子たちはわしの魂にしっかと結びついておりますので、あなたが今夜娘たちにお逢いになることを、わしはちゃんと感じておりましたわい。ああ、わしのかわいいデルフィーヌを、深く愛されている奥さんのように、仕合せにしてくれるお人がいたら、わしはその男のために靴も磨こうし、使い走りもいといませんぞ。あのマルセイというやつは性悪の犬畜生だということを、わしは娘の小間使からも聞いてますよ。あいつの首をねじ切ってやりたい衝動に、わしは何べんも駆られました。モデルのようにからだつきがよく、夜鶯《ナイチンゲール》にも負けぬ声音をもち、女のなかの宝玉ともいうべきあの子を愛さないだなんて! それにしてもアルザス生まれのあんないやしい鈍物に嫁ぐなんて、あの子はいったいどこに眼をつけておったのかしらん。娘たち二人には、気立ての好い若くて美しいお婿さんが、ぜひとも必要だったのになあ。つまりあの子たちの気儘にやったことなんじゃが……」
ゴリオ爺さんは崇高であった。父性愛の情熱にこれほど燃えているゴリオを、ついぞウージェーヌは見たことがなかった。とくに注目に値したのは、感情の持っている煎じ出しの力の強さであった。どんながさつな人間でも、強烈真実の愛情を吐露することになると、特殊な流動体を発散し、ためにその顔つきも変り、態度も活気づき、声までもいろづく。いかな愚鈍なものでも、情熱に動かされるときは、弁舌においてとはいえずとも、精神のなかにおいて、最高の雄弁の域にまで達することがしばしばであって、あたかも光の圏のなかを動いているようにも見える。このときのゴリオ老人の声なり態度なりのなかには、名優の名をなすあの伝達的な迫力が、そこにはあった。けだし、われわれの美しい感情というものは、意志の詩情《ポエジイ》ではないだろうか。
「ではお嬢さんがマルセイとたぶん別れることになるだろうという噂を申し上げても、あなたはきっとご立腹にはなりますまいね。あの伊達男はお嬢さんを棄てて、ガラシオンヌ公爵夫人のほうにくっつきました。ところが僕のほうでは、今夜すっかりデルフィーヌ夫人に惚れ込んでしまったのですよ」
「まさか!」とゴリオ爺さん。
「いえ、本当なんです。僕はお嬢さんのご気色を悪くしたとは思えません。一時間ばかり僕たちは恋の話をしたくらいですもの。明後日の土曜にも逢いに行くはずなんですから」
「あんたがあの子の気に入ってくだされば、どんなにわしもあんたを愛することじゃろう。あんたはお優しいから、あの子を苛《いじ》めはなさいますまいね。もしもあんたが娘を裏切るようなことがあったら、まずもってあなたの首をちょん切りますぞや。恋は女には二つとない。いいですか! いやどうも、ウージェーヌさん、とんだ馬鹿なことをぬかしまして。あなたにはこの部屋は寒いでしょう。そうそう、娘とお話しになったんでしたな。それで何かわしにことづけはありませんでしたかい?」
なんにもないさと、ウージェーヌは心に思ったが、口に出して言った。「娘としての心からの接吻を、あなたにお送りするって申していましたよ」
「ではお休み、お隣さん、ぐっすり眠って楽しい夢でもごらんなさい。わしは今のことづけで、いい夢が結べますわい。どうか神様があなたの望みのすべてをおかなえくださいますように! 今夜のあなたはわしにとって、優しい天使も同然じゃった。娘の息吹《いぶき》を持ち運んできてくださったもの」
「かわいそうになあ」とウージェーヌは床に就きながら思った。「大理石のような心の持主だって、ほろりとさせられるところがある。ところが娘ときたら父親のことを、トルコ皇帝のことほどにも考えおよんではいないのだからなあ」
この会話以来ゴリオ爺さんは、隣のラスティニャックを意外の相談相手、友達とまで見なすにいたり、二人の間に築かれた関係たるや、この老人が他人と結ぶことのできた唯一のそれであった。情熱というものは、決して目算ちがいはしないものである。ゴリオ爺さんはもしウージェーヌがデルフィーヌ夫人と親密な仲になったら、自分ももっと娘に近づくことができ、よりよく歓待を受けるだろうと予期していた。それに老人はその悩みの一端を、青年に洩らしてもいた。彼が一日に何度となくその幸福を祈っているニュシンゲン夫人は、まだ愛の歓びを味わったことがない。確かにウージェーヌは、ゴリオの言葉をかりれば、これまで会ったうちでも、かくも「気立ての優しい若者」はついぞ見たことがないほどだったので、デルフィーヌには奪われていたあらゆる快楽を、必ずや学生が娘に与えてくれるだろうと、父親として予感していたようだった。それで老人は日増しに増大して行く友誼の念を、学生に対して抱くようになったが、そうした友情がもしもなかったら、この物語の始末は、けだし知るよしもなく終ったに違いないことだろう。
あくる朝の朝食の席、ゴリオ爺さんがウージェーヌの傍に坐って、彼のほうを親しげに眺めるさまや、進んで話しかけたり、いつもの石膏のマスクのような顔つきまでも一変させたのに、下宿人一同はびっくりした。例の会談以来はじめて学生と顔をあわせたヴォートランは、彼の心中を読もうと努めているらしかった。ヴォートランの計画を思い出し、ウージェーヌは昨夜眠りに入る前に、おのれが眼前にひらけた宏大な領域を測り、タイユフェル嬢の持参金のことを、いやおうなしに考えさせられたので、いとも有徳な若者が金持の跡取り娘を眺めるように、ヴィクトリーヌのほうを眺めずにはいられなかった。偶然に二人の眼はあった。この憐れな娘も新しい装いのウージェーヌを、素敵だと思わぬわけにはいかなかった。二人の交した眼つきは、かなりと意味深長なものだったので、あらゆる乙女の覚えるあのぼんやりした欲望の対象に、自分が彼女にとってはなっていることを、ラスティニャックは思わざるを得なかった。心を惹かれた最初の男に、乙女たちが結びつけられてしまうのは、かような欲望のしわざである。
「八十万フランだぞ!」と彼に叫びかける声があった。が、にわかに彼は前夜の記憶に立ち戻って、ニュシンゲン夫人に対する彼の誂《あつら》えたような情熱が、彼の邪念に対する無意識の解毒剤だと考えた。
「昨夜イタリア座でロッシーニの『セヴィラの理髪師』をやっていましたが、あんな快い音楽を、ついぞ僕は聞いたことがありません」と彼は言った。「ああ、イタリア座に桟敷を一つ持っていたらどんなに仕合せなことでしょう」
犬が主人の身振りをさとるように、ゴリオ爺さんもすばやくこの言葉の意味を悟った。
「ほんとに呑気でおうらやましいこと、あんたがた男衆って、好きなこと何でも仕放題じゃないの」とヴォーケル夫人は言った。
「どうやって帰って来ました?」ヴォートランは訊ねた。
「歩いてですよ」とウージェーヌ。
「わしだったら」と誘惑者は続けた。「中途半端な楽しみなんかはいやだね。自分の桟敷にお抱えの車で乗りつけ、帰りもしごく快適に戻ってくるというんでなくちゃ。オール・オア・ナッシング! これがわしのモットーさ」
「いいモットーですこと」とヴォーケル夫人。
「ニュシンゲン夫人に会いに、たぶん、行かれるんでしょう」とウージェーヌは小声でゴリオに言った。「きっと大手をひろげて先方は迎えてくれますよ。僕について何か詳しいわけを、あなたから聞き出したがっているでしょうから。あの人は何をおいても僕の従姉、ボーセアン子爵夫人のサロンヘのお出入りを、許されたがっていると聞きました。あの人を愛している僕に、その件でご満足の行くようなはからいがつきそうだということを、忘れずにどうか伝えておいてくださいな」
ラスティニャックはすぐに法科大学に出掛けた。こんなおぞましい下宿に、これ以上とどまっていたくはなかったからである。あまりにも激越な希望に憑《つ》かれた若者たちによく見られる、あの頭脳熱の虜となって、ほとんどまる一日を、彼はぶらぶらと歩きまわって過ごした。ヴォートランとの間の議論から社会生活というものを、いろいろに熟考させられた。ちょうどそのとき、リュクサンブール公園で彼は友人のビアンションにひょっこり出会った。
「どうしてそんなまじめくさった顔つきをしているんだい?」宮殿の前を散歩しようと、この医学生は法科学生の腕をとった。
「おれは悪い考えに悩まされてるんだ」
「どんな種類のだい? 治るぜ、考えなんかだったら」
「どうやって?」
「その考えに応じればいいんさ」
「どんな問題かも知らずに君は茶化してるんだね。ときにルソーを読んだことあるかい?」
「もちろん」
「シナの老大官を、パリから一歩も離れずに、ただ念力だけで殺して大金持になれるとしたら、さて読者はどうするかと、作者が訊ねているくだりがあったのを覚えてるかい?」
「うん」
「君ならどうする?」
「ふん、僕は三十三人目の大官に、いまぶつかっているんだぜ」
「冗談はよせよ。いいかい、もし確かにそういうことができて、かぶり一つ振るだけで事が達せられるとしたら、君はそれをやるかね?」
「その大官って、よっぽどの年寄りかい? まあ、若くても年とっていても、または中風病みだろうと、ぴんぴんしていようと……そうさな、えい、畜生、同じことだ、おれはやらんよ」
「ビアンション、君は見上げた男だ。だがね、もし君の心がそぞろになるくらい惚れ込んだ女がいたとして、その女のため、やれ化粧代だ馬車代だと、あらゆる女の勝手気ままをかなえるために、たくさんなお金が要り、どうしてもその金がほしいときには、いったいどうするね?」
「おい、それじゃまるで君は俺の理性を奪っておいて、そのうえで道理のあることを言えって、責めるようなものじゃないか」
「そうなんだ、ビアンション、俺は正気を失ったんだ。どうか治してくれ。俺には美と純真の天使みたいな二人の妹がいて、それの幸福を衷心から俺は願ってるんだ。二人の持参金の二十万フランずつを、今から五年のうちに、どうやって手に入れたものだろう。ねえ、君、人間一代のうち大博奕を打たなければならぬ場合も、たまにはあるんだ。はした銭なんか稼ぐために、自分の幸福を損じまいとすればね」
「だが君の持ち出してる問題は、人生の首途にあって、人間誰しもがぶつかっていることなんだぜ。君はゴルディウスの結び目さながらの難問を、快刀乱麻に断ちたがっている。が、そう振舞うには、君、アレクサンダー大王でなければだめなんだよ、さもなければ監獄行きさ。僕はね、親父の跡をついで田舎で地味な暮しを立て、こつこつやって行けたら仕合せだと思うよ。人間の性情なんてものは、どんな狭い圏内でだって、広い円周にいるのと同じに、十分に満足ができるものなんだ。ナポレオンだって晩飯を二度はとらんし、カピュサン病院のインターン医学生よりも、はるかに多くの恋人を持つわけにもいかん。ねえ、君、僕たちの幸福といったって、きまってこの足の裏から後頭部までの間に、集っているものなんだぜ。年に百万フランかかろうと、あるいは二千フランかかろうと、我々のうちなる内在的の知覚においては、毫《ごう》も変りがないんだからね。だから僕の結論はといえば、シナ大官を生かすことになるね」
「ありがとう、ビアンション、いいことを聞かしてくれた。僕たちいつまでもよい友達でいようね」
「ときにね」と医学生は言葉を続けた。「キュヴィエの講義があっての帰り途、植物園で僕は、ミショノーとポワレが、一人の男とベンチに腰かけて話し込んでいるのを見たんだよ。その男というのが去年の騒動のとき、衆議院の近くで見かけたことのあるやつでね、年金で暮している堅気な市民に、警察のやつがなりすましているんじゃないかって印象を受けるような男なんだよ。どうだい、一つあの二人を探ってみようじゃないか。わけは後で話すよ。じゃ失敬、僕は四時の講義の出席調べに、返事をしに行かなくちゃならんから」
ウージェーヌが下宿に戻ると、ゴリオ爺さんが彼を待っていた。
「ほら、あの子からの手紙ですよ」と老人は言った。「どうです、このうるわしい水茎の跡!」
手紙の封を切ってウージェーヌは読んだ。
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ウージェーヌ様にはイタリア音楽がお好きとのことを、父から承りましたので、あたくしどもの桟敷席にお坐りいただけましたら、はなはだ仕合せと存じますわ。土曜日にはフォードルとペリクリニとが歌いますので、あなたにも無下にお拒みにはならないだろうと、確信いたしておりますの。打ちくつろいで拙宅で晩餐をともにいたしたいと、主人からも申し添えられました。もしもご承引くださいましたら、お伴を仰せつかる良人の苦役を免れることとて、主人も大いに喜ぶことにてございましょう。ご返事は要りませぬ。ぜひともおいでくださいまし。
ディ・ド・エヌ
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「わしにも見せてくだされ」老人はウージェーヌが手紙を読み終るや言った。「もちろん行かれるんでしょう、ねえ」と、手紙を嗅いでからゴリオは言い添えた。「こりゃいい匂いがする! あれの指が触ったせいだな、きっと」
(女ってものはこんなふうに男の首ったまに、飛びついて来るものじゃないんだが)と学生は考えた。(俺を|だし《ヽヽ》に使って、マルセイを呼び戻したい魂胆なんだな。ただもう口惜しい一方の気持から出たことなんだろう)
「ねえ、あんた何を考えているんです?」とゴリオ爺さんは言った。
当時の若干の婦人連中が取りつかれていた、虚栄心の逆上ぶりを、ウージェーヌときたらさっぱり心得ていなかった。フォーブール・サン・ジェルマンのサロンに迎え入れられるためなら、どんな犠牲をもいとわぬ心意気で銀行家の妻がいたことも、彼にはとんと解らなかったのである。このころはじまりかけたならわしとして、フォーブール・サン・ジェルマンの社交界に顔をつらねていた貴婦人たちは、「プチ・シャトーの貴婦人《ダーム》」と呼ばれて、あらゆる女性群の最上位におかれ、なかでもボーセアン夫人やその友達のランジェ公爵夫人、モーフリニューズ公爵夫人などは、その一流中の一流であった。ショセ・ダンタンのご婦人連中が、同性の花形たちが綺羅星のように輝きを放っているこの上層のサークルに入ろうと、いかなる狂熱につかれておったか、それを知らぬものはわがラスティニャック一人だけだった。けれど彼の疑心は大いに裨益《ひえき》するところがあった。そうしたもののおかげで彼は、冷静にもなれたし、条件をつけられるかわりにこちらから条件を持ち出す、という陰鬱な力をも授かったからで。
「ええ、行きますとも」と彼は答えた。
そんなわけで好奇心に惹かれて、ニュシンゲン夫人のところへ行くことになったが、もしも夫人から軽蔑されたのであったら、おそらく彼は情熱に駆られて、やはり押しかけて行く気になっただろう。けれど彼は一種の焦慮を覚えさせられて、あすの日を、出掛ける刻限を、待ち遠しがらずにはいられなかった。青年にとっては、おそらく初恋のなかに味わうのと同じくらいの魅力が、最初の恋の密謀のなかにもある。上首尾という確信から生まれる|よも《ヽヽ》の楽しさを、男たちは口に出してこそ言わないが、若干の女性のあらゆる魅力は、そこに存しているのである。欲望は征服の困難さからとおなじく、その容易さからも生ずる。恋愛帝国を二つに区分けするこの二つの原因のいずれかによって、男の情熱のすべては、まさしく刺激されたり、あるいは維持されたりしているのである。なんといわれようと、人間社会をげんに支配している「体質《タンペラマン》」という大問題の結果に、こうした区分けは、おそらく基づいているものであろう。男の沈鬱《メランコリック》な体質のものの場合は、女の媚態という強壮剤が要るかもしれぬが、神経質な男や多血質な男だったら、もしも女の抵抗があまりにも頑強だったら、引っ込んでしまうことになろう。言葉をかえていうと、悲歌《エレジイ》的なのは本質的に淋巴質であるとすれば、バッカス頌歌的なのは本質的に胆汁質的であるといってよい。
ウージェーヌは身仕度を整えながら、こまごましたささやかな幸福感を味わっていた。若い連中は人に嘲《あざけ》られるのを恐れて、口に出して、これらの幸福を云々しはしないが、存分に自惚れ心はくすぐられているのである。自分の漆黒の巻毛にそって、美人の眼差しが流れるさまを想像しながら、彼は髪を櫛けずった。舞踏会に出るための衣裳を着けている若い娘のような、子供っぽい|しな《ヽヽ》を、臆面もなく彼はやってみたりした。上着の折り目を伸ばしながら、自分のすらりとした体つきを、快よげに見まわしてみて、「確かに、世間にはもっと恰好の悪いやつはいくらでもいるからな!」と彼は独語したりした。そして階下に降りて行ったとき下宿の常連はみんな食卓についていたので、彼の瀟洒な身なりがひき起こした馬鹿馬鹿しい歓声を、機嫌よく彼は浴びせられた。下宿屋におけるもっとも際立った風習の一つは、念入りな身支度がまき起こす吃驚の念である。誰であろうと新しい服を着て出ると、下宿人一同は、一言なかるべからずといった状態になるものらしい。
「クト、クト、クト、クト」馬を駆り立てる御者のように、ビアンションは口蓋《こうがい》を舌で鳴らした。
「公爵・衆議院議員といった風采だわね!」ヴォーケル夫人。
「女人征服にお出掛けですのね?」とミショノー嬢も口を出した。
「コケコッコ!」と画家は叫んだ。
「奥さんにはどうかよろしく」と博物館雇員が言った。
「旦那に奥さんがあるのかい?」とポワレはたずねた。
「さよう、奥さんは船舶防水区画室において、他とまったく隔絶しておりまして、水を防ぎ水に浮かび、濡れても色のはげぬこと請合い、お値段は二十五スーから四十スーまで、最新流行の碁盤縞模様、洗濯はきき、着心地は満点、麻と綿毛のまぜ織り、歯痛、その他の諸病に利くこと、王立医学アカデミーの折紙つきじゃ! お子供衆には効果てきめん、さらにまた頭痛、胃拡張、食道関係諸疾病、眼、耳のわずらいには大の妙薬」とヴォートランは大道|香具師《やし》の口調とその滑稽な饒舌ぶりとで叫んだ。「さあさあお立会い衆、当の妙薬、値いかほどと思し召さるるか? 二スー! いや、滅相な、畏れ多くもモンゴル皇帝にご用達申し上げし残りの品にて、バーデン大公申すにはおよばず、ヨーロッパじゅうずういとその隅から隅までの国王君主方、天覧ご所望あそばされし品にてござるぞ! さアさア、まっすぐお入りお入り! お代はこちらの小さなテーブルヘ。おーい、楽隊、ブカブカドンドン、始めたりや始めたりや」ヴォートランはしゃがれ声でさらに続けた。「ちょいと、クラリネットの旦那、調子がはずれてるよ。なぐるぜ、お前の指関節を」
「ほんとに、この人ったら、なんて面白いこと!」と、お女将はクーチュール夫人に言った。「この人と一緒なら、決して退屈はしませんわね」
面白おかしく述べたてたこの口上をきっかけに、どっとばかり笑いや冗談が湧き起こったさなかに、ウージェーヌはタイユフェル嬢のぬすむような眼差しを、とらえることができた。ヴィクトリーヌはクーチュール夫人のほうへ身をかがめて、その耳に何か囁いていた。
「馬車が来ましたよ」とシルヴィが告げた。
「どこへ飯を食いに行くんだい?」とビアンションはたずねた。
「ニュシンゲン男爵夫人のところですってさ」
「ゴリオさんの令嬢ですよ」と学生は答えた。
その名前でみんなの眼は元製麺業者の上に注がれた。ゴリオは幾分か羨ましそうな眼付きをして、ウージェーヌを眺めていた。
ラスティニャックはサン・ラザール通りに着いた。円柱廊も|ちゃち《ヽヽヽ》でその円柱も細く薄っぺらな構えの屋根の一つだった。こんな邸宅がパリのいわゆる美観《ヽヽ》を形づくっているのだが、いかにも銀行家の邸宅らしく凝った装いに金をかけ、壁は化粧漆喰細工、階段の踊り場はモザイックの大理石になっていた。ニュシンゲン夫人はカフェを思わせるような室内装飾に、イタリア風の油絵をいくつか掛けている小さなサロンのなかにいたが、妙に打ち沈んでいた。その苦悩を見せまいとする彼女の努力には、すこしもわざとらしさがなかったので、ウージェーヌの関心は、いやがうえにもそそられた。自分が姿を現わせば、女という女が嬉しがると思い込んでいた彼は、相手から絶望しているさまを見せつけられたので、こうした当てはずれに、すくなからず自尊心を害された。
「奥様、すこしも僕を信頼してはいただけないのですね」と彼は屈託げな夫人を悩まし抜いたあげくに言った。「僕がお邪魔なら、何事にも真正直なあなたじゃありませんか。はっきりとそうおっしゃってください」
「一緒にいてちょうだい。あなたに行ってしまわれたら、一人ぼっちになりますわ。宅は外で食べてきますのよ。あたし一人きりでいたくはないの。気をまぎらすものが必要なんですもの」
「いったいどうなさったというのです?」
「あなたにだけはどうしてもそれを申し上げたくはないの」と夫人は叫んだ。
「じゃぜひともに承りたいものですね。すると僕もその秘密に、なにか関係でもあるんですか」
「たぶんね! いいえ、嘘よ。胸の奥にたたんでおかなくてはならない夫婦喧嘩のことですもの。一昨日あなたに申し上げませんでしたかしら? あたし幸福じゃないってこと。鎖のなかでも金の鎖ほど重いものはありませんからね」
青年が女から自分は不幸だと打ち明けられた場合、もしもその青年に才気があり、服装も立派でポケットに千五百フランの遊び金でもあれば、人間誰しもウージェーヌが考えたようなことを考え、そして自惚れ男になるに違いはないだろう。
「これ以上何を望まれることがあるのでしょう?」と彼は答えた。「あなたはお美しく、お若く、それに愛されていて、お金もあって……」
「あたしのことはおっしゃらないで」と夫人は言って、忌々しげに首を振った。「ご一緒に差向いで食事をして、世にも妙《たえ》な音楽でも聞きに参りましょうか。どう、あたしあなたのご趣味にあいまして?」そう言って彼女は立ち上り、いとも豊麗なペルシア模様の白いカシミヤのローブの全身を示した。
「あなたのぜんぶが僕のものだったらと望んでいるのですよ。あなたはじつにお美しい」
「わびしい持物を背負い込むことになりましてよ」と苦々しく微笑して彼女は言った。「ここには不幸に見えるようなものは何一つありませんわ。けれどそうした外観にもかかわらず、あたし絶望に陥っておりますの。苦悩のため夜も寝られず、きっと顔も醜くなってしまうことでしょう」
「いや、そんなことあるものですか」と、学生は言った。「しかし献身的な愛情でも消せないといったその苦悩を、ぜひとも承りたいものですね」
「だってあなたにお打ち明けしたら、あたしからきっとお逃げになってしまいますわ。あなたがあたしを愛してくださっても、まだそれは殿方衆によくある、女にちやほやなさるお気持の上でだけ。もしも真剣に愛してくださるようになったら、恐ろしい絶望にあなたは陥りますことよ。あたしが口をつぐんでいなければならぬわけが、それでお解りになったでしょう。ねえ、お願い。ほかの話に移りましょう。あたしのお部屋を見てくださらない?」
「いや、ここのほうがいいですよ」そうウージェーヌは答えて、暖炉の前の二人用長椅子に、ニュシンゲン夫人と並んで腰をおろした。そして、夫人の手をしっかととった。
夫人はなされるがままになって、烈しい感動をあらわすあの力の籠った仕草で、その手を青年の手にぐっと押しつけた。
「ねえ、心配事がおありでしたら、僕に打ち明けてくださらなければいけません。僕は私利私欲を離れ、あなたのためにのみあなたを愛していることを、証拠立てたいのですからね。お話しになって悩みの種を申してくだされば、僕が一掃してあげますとも。たとえ六人の男を殺さねばならぬようなことになってもです。さもなかったら僕はお暇《いとま》を願って、二度とやっては来ませんったら」
「ではそれなら」と夫人は叫び、絶望の思いにとらわれて、思わず自分の額の上を叩いた。「さっそくにあなたを試すことにしますわ」
夫人は心の中で、(そうだ、こうするよりもうしかたがない)と思い、呼鈴を鳴らした。
「旦那様の馬車に馬はつけてあって?」と夫人は従僕にたずねた。
「はい、マダム」
「あたしがそれ使うわ。旦那様にはあたしの車と馬をまわしてちょうだい。晩餐は七時ってことにしてね」
「では参りましょう」と夫人はウージェーヌを促した。夫人と並んでニュシンゲン箱馬車《クーペ》におさまっている自分が、まるで彼には夢の出来事のようだった。
「パレ・ロワイヤルヘ」と夫人は御者に命じた。「テアトル・フランセの近くへね」
途中、夫人は気が昂ぶっているらしく、ウージェーヌのいろんな質問にも答えることを拒んだ。つけ入る隙のないこの無言の鈍い抵抗を、どう解してよいか彼にはわからなかった。(もうじきこの女は俺から逃げて行くな)と心に思った。
馬車が停ったとき、男爵夫人が学生のほうを見やったその態度には、躍起となってしまっていた彼の世迷い言を、押し黙らせる威圧があった。
「ほんとにあたしを愛してくださる?」と夫人は言った。
「もちろんですよ」不安にとらえられた気持を押し隠しつつ彼はそう答えた。
「どんなことをお願いしても、あたしのことを悪くはお思いにならない?」
「ええ」
「あたしの言いつけに従うお気持が本当にあって?」
「盲目的に」
「じゃあなた賭博場にいらしったことおあり?」と夫人は慄え声で聞いた。
「一度もありません」
「ああ! それで安心したわ。あなたきっと芽が出るわ。さああたしの財布、持って行ってちょうだい。百フランありますから。それがこの幸福きわまる女の持ってる有金そっくりよ。賭博場へ行って来てちょうだい。どこにあるのか知りませんが、パレ・ロワイヤルにあることだけは確かよ。ルーレットという賭けに、この百フランを張って、そっくりとられるか、それとも六千フランにして持って来てちょうだい。あたしの心配事、戻っていらっしたらお話しすることにしますわ」
「何をどうしたらよいのか、それから先のことは、さっぱりわかりませんが、ともかく、仰せのとおりにやってみましょう」と言いつつも彼は、(彼女は俺と危い橋を渡ろうというのだな。もう俺の言うことなら、なんでもいやとは言わせないぞ)と考え、はしゃいだ気持は彼のその声にまでも出た。
ウージェーヌは小綺麗な財布を受け取り、古着を着た男に一番近い賭博場を教わって、九番地に駆けつけた。そこへ彼はあがって帽子を預けたのち、入って行ってルーレットをやっている場所を尋ねた。常連たちが呆気にとられているなかを、部屋のボーイに案内され、長い台の前にと立った。見物人がぞろぞろとウージェーヌのあとについて来た。どこへ賭金をおいたらいいのかと、彼はべつに恥とも思わずに訊ねてみた。「これらの三十六のなかの番号の一つに一ルイを賭け、それがもし当ったら三十六ルイになるんですよ」と白髪の人品卑しからぬ一老人が彼に教えてくれた。
ウージェーヌは自分の年、二十一の番号の上に百フラン投げ出した。われに返る暇もないうちだった、驚異の叫び声があがった。それと知らずに勝っていたからである。
「お金を引っ込めなさい。同じ手で二度とは巧く行きませんから」と老紳士が彼に言った。
ウージェーヌは老人の渡してくれた熊手をとって、三千六百フラン自分のほうに掻き寄せ、相変らず賭けのことは何一つ知らずに、それを赤の上にと張った。彼が賭け続けるのを見て、満座は羨ましそうに眺めた。円盤が廻った。また彼は勝った。胴元はさらに三千六百フラン投げてよこした。
「七千二百フランがあんたのものになったのですぞ」と老紳士は彼の耳に囁いた。「私の言うことを信用してここからお帰りなさい。赤は八度も続きましたぞ。慈悲深いお心がもしあなたにあったら、この忠告のお礼として、不如意のどん底にいるナポレオン時代の前知事の窮乏を、和げていただけますでしょうな」
茫然としたラスティニャックは、白髪の男が二百フランちょうだいするがままに任せた。七千フラン持って彼は階段を下りた。賭博のことはまだすこしもわけが解らず、自分の幸運にただ呆れ返っていた。
「はいこれ! さあ今度はどこへ僕を引っ張って行くのですか」馬車の扉が閉められると、彼はニュシンゲン夫人に七千フラン見せて言った。
デルフィーヌは彼を狂気のように抱き締めて、激しく、しかし熱情のこもらぬ接吻をした。「あたしを救ってくださったのね!」喜びの涙が彼女の頬の上をおびただしく流れた。
「ではすっかりお話しいたしますわ。あたしのお友達になってくださるのよ、よくって。あたしお金があって裕福で何一つ不自由しない、すくなくともうわべはそう見えるって、あなた思っていらっしゃるんでしょう。ところがね、何を隠そう、ニュシンゲンはあたしに一文だって自由にさせてはくれませんのよ。家のかかりはすべて、あたしの馬車の経費にしろ、桟敷代にしろ、良人がみんな支払って、あたしの衣裳代に十分なお金も、こっちに寄越してはくれませんのよ。主人は、あたしを人知れぬ窮乏に落し込もうと計っているのですの。あたしだって誇りってものがありますわ。主人になんか懇願はできません。主人があたしに売りつけたがっているお値段で、主人の金を買うとしたら、あたしは屑の屑の女になりさがってしまうではありませんの。七十万フランもの持参金のあるあたしが、なんだって剥ぎとられるがままになっているのでしょう。気位からですの、腹立たしさからですの。あたしが夫婦生活をはじめたのは、本当にまだ若く、まだ純真な頃でした。良人に金をせびらねばならないなんて、そんなこと、とても口が裂けても言い出せませんでしたわ。あたしはどうしてもそんな勇気が出ず、自分の貯金や気の毒な父からもらったお金で、どうやら凌いでいるうち、とうとうおきまりの借金をするようになりましたの。あたしにとって結婚は、世にも恐ろしい瞞着《まんちゃく》事でした。その詳しいわけなんか申し上げられませんわ。別れ別れの部屋でなく、ニュシンゲンと一緒に暮さねばならないとしたら、あたし窓から身を投げるだろうということを、あなたに知っていただけばもう十分ですわ。ですから、宝石やいろんな小間物買いで、(隣れな父はあたしたちの言いなり放題に、何でも買ってくれましたので、そんなだらしない習慣がこの身についてしまったのですの)こしらえた若妻の借財を、良人に打ち明けねばならなくなったとき、あたしはずいぶんと苦しみましたわ。でもとうとう勇気を出して、良人に申しましたの。あたしだって一財産自分にあるのですものねえ? ところがニュシンゲンはかっと向っ腹を立てて、破産させられてしまうなどと、さんざこっちに悪態口をつきましたわ。あたしは地の底へもぐりたいと思いましたわ。持参金を良人は握っているのですもの、結局、払ってくれるには払ってくれましたが、あたしの身のまわりの費用を、それからは定額のあてがい扶持にきめ、家庭の平和のためあたしもそれを観念しましたの。それから、あたし、あなたもご存じの人の自惚れを満足させてやろうとしましたの。あたし彼から欺かれたとしましても、あの人は品性のそう卑劣なお方でもないと、そのいいところも認めておかないと、あたし公平でなくなりますわ。けれど結局、あの人は卑劣にもあたしを棄て去りました。女が窮迫しているとき、たくさんのお金を恵んでやったならば、決してその女を見棄てるべきではありません。いつまでも愛してやるべきですわ。二十一歳の美しい魂をお持ちのあなた、若くて純情なあなたには、女がどうして男からお金を受け取ることなどできるのかと、不思議になるかもしれませんわね? ああ! お互いが幸福に暮している相手と、何もかもわけあうのは自然ではありませんかしら? すべてを与え合っているとき、そのほんの一部のことなんか気にやむ必要はないじゃないの? 愛情が消滅したときにはじめて、お金というものが問題になってくるんです。生命あるかぎりと、あたしたちは結ばれていたのではないでしょうか? 本当に愛されていると信じながら、別れるのを誰が予想できましょう。殿方が女性に永遠の愛をお誓いになる以上、個々の利害問題なんぞ、どうして起こりようがありましょう。きょうニュシンゲンから六千フラン出すのをきっぱり拒絶され、どんなにあたしが苦しんだか、あなたにはお解りにならないでしょう。ところが彼は毎月それくらいの金を、情婦であるオペラ座の女優には貢いでいるのですよ。あたし死んでしまおうとまで思いました。気狂いじみた考えが、いろいろと頭に浮かびました。あたしはしがない女中やうちの小間使の身の上さえも、羨ましいと思うことがよくありますのよ。父に逢ってねだってみる、これも駄目ですわ。アナスタジーとあたしとで、父をすっかり搾りあげてしまいましたもの。父は自分が六千フランになるなら、自分の身までも売ってくれるでしょう。結局は徒らに父を絶望させるだけということになりますの。
ところがあなたは汚辱と死とからあたしを救ってくださいました。あたしは苦悩で逆上《のぼ》せあがっておったのです。ああ、あなた、お話しすると約束したのは、以上のようないきさつですの。あたしあなたに対してすっかり常規を逸してしまいましたわね、まるで気狂いみたいに。さっきあなたが立ち去られ、お姿が見えなくなったとき、あたし歩いて逃げ出そうと思いましたのよ! どこへって、自分でもわかりませんわ。まあこういったのがパリの女のその半数の生活ですのよ。うわべは贅沢でも、心のなかは痛ましいほどの気苦労。あたしよりもっと不幸な女性たちだって、いくらでも知っていますわ。御用商人ににせの計算書を作らせなければならない細君もいますし、余儀なく良人から金をちょろまかしている奥さんもおりますわ。だから良人のなかには二千フランのカシミヤ織の肩掛けを、五百フランと思いこまされているのもあれば、また五百フランのを二千フランの値段だと、信じさせられているのもあります。子供たちにひもじい思いをさせてまで、けちけちお金を溜め込んで、それで一枚の服を買おうとする憐れな人妻もありますわ。けれどあたしはそんなおぞましい誤魔化しは、やったことがありませんの。ためにあたしは苦悩のどん底に陥ったのですわ。おのれを良人に売って、良人を操縦して行こうとする奥さんも、世間にはありますが、あたしはすくなくとも自由の身です! ニュシンゲンに黄金でこの身をおおわせることも、あたしはしようと思えばできます。ですがあたしは尊敬のできる男の方の胸に、顔を埋めて泣くほうがいいのですの。ああ、今夜はマルセイさんも、金を貢いでやった女として、あたしを眺める権利は持たないでしょう」
彼女はウージェーヌに涙を見せまいとして、両手で顔をおおった。彼はその手をとりのけて彼女の顔をじっと見た。その瞬間の彼女は崇高の極みであった。
「金と愛情を一緒くたにするなんて、恐ろしいじゃありませんの? これからはもうあたしを愛してはいただけませんでしょうね」と夫人は言った。
女性を偉大ならしめるあの優しい感情と、現代社会機構が女性にやむをえず起こさせる過失とのこの混り合いに、ウージェーヌの心はすっかり動転し、苦悩の叫びのあまり、かほどナイーヴにはしたないところを見せたこの美女に見惚れながら、優しい慰めの言葉をしきりと口にした。
「こんなことを種にして、あとでおどしなんかしちゃいやよ。しませんって約束してちょうだい」
「ああ、奥さん、そんな真似のできる僕じゃありませんったら」
夫人は彼の手をとり、感謝と優雅にあふれた仕草で、自分の胸にとあてがった。
「あなたのお蔭で、あたし自由と快活とを取り戻しましたわ。あたし、鉄の手でおしつけられて生きていたんですの。これからは地味に、なんの無駄使いもせずに暮して行きますわ。どんなにあたしが立派な女になってみせるか、よく見ててくださるわね。これ取って置いてちょうだい」そう言って彼女は六枚の紙幣しか取らなかった。「正直に申しますと、あなたに三千フランの借りがありますのよ。あなたと半分わけするつもりでおりましたもの」
ウージェーヌは処女のように拒んだ。しかし男爵夫人は彼に、「もしあなたが共犯者になってくださらなければ、あたしの敵《かたき》と思いますわよ」とまで言ったので、彼はその金を受け取り、「まさかの場合の賭金の元手に、これはとっておくことにしましょう」と言った。
「そうおっしゃりはしないかと、あたし恐れていましたのよ」と蒼くなって彼女は叫んだ。「もしあたしがあなたにとって何かであることをお望みなら、あたしに誓ってちょうだい、もうこれからは決して二度と賭博場へは足を踏み入れないって。ああ、あたしがあなたを堕落させでもしたら! それこそあたし悩み死にしますわ」
二人は家に帰り着いた。窮乏と豪富とのこうした対照に、茫然となっていた学生の耳底に、ヴォートランの忌わしい言葉が鳴りひびき出した。
「そこへお坐りなさいよ」と男爵夫人は自分の部屋に入るや、炉辺の長椅子を指して言った。「あたしこれから七面倒な手紙を書くの。お知恵を拝借してよ」
「書くのなんかおよしなさい。お紙幣《さつ》を封筒に入れ、宛名を書いて、小間使に持たしてやればいいじゃありませんか」
「あなたってほんとに気の利いたお方! まったくよ、それでわかりますわ、躾よくお育ちになったってことが。生粋のボーセアン風ですのね」と夫人は微笑しながら言った。
(彼女はとても魅力がある)そう考えてウージェーヌはますます恋心をつのらせた。彼はまわりを見まわしてみた。金のある娼婦の好みといった逸楽的な雅趣の漂っている居間だった。
「どう、この部屋お気に召して?」そう言って夫人は呼鈴を鳴らして小間使を呼んだ。
「テレーズ、お前、自分でこれをマルセイさんのところに持って行って、手ずからあの人に渡してきておくれ。もしおいでにならなかったら、手紙は持って帰って来てね」
テレーズはウージェーヌのほうをいたずらっぽく見やってから出て行った。晩餐の支度もできていた。夫人に腕をかしたラスティニャックは、気持のいい食堂に案内された。従姉のところで感服した卓上の豪奢さを、ふたたび彼は眼にした。
「イタリア歌劇のある日は晩餐を共にしに、ここへいらっしゃってね。そして一緒に劇場へとまいりましょう」
「こんな快適な生活が続いたら、癖がついてしまいますよ。なにしろ僕は貧乏学生、これから出世しなくちゃならんのですからね」
「大丈夫、出世なさるわよ」と夫人は笑いながら言った。「ねえ、世の中ってなんとか納まりがつくものね。あたしこんなに仕合せになれるとは、思ってもいませんでしたわ」
可能によって不可能を証明したり、予感によって、事実をぶちこわしたりする傾きが女性の性質のなかにはある。ニュシンゲン夫人とラスティニャックがブーフォン座の桟敷に入ったとき、彼女はいかにも満足そうな様子をし、ひどく綺麗に見えたので、だれでもが例のつまらぬ讒謗をあえてしたほどであった。そうした讒謗に抗して女たちには、身を防ぐすべとてもない。ためにことさらに捏造されたでたらめまで、まことしやかに信ぜられてしまうことがしばしばである。パリを知っている人なら、そこで言われていることを何一つ信ぜぬし、またそこでなされていることを、何一つ口にしようとはせぬ。ウージェーヌは男爵夫人の手をとった。二人は手を強く、あるいはゆるく握りあって、音楽によって与えられる感動をかたみに通じあいながら、心でともに語り合った。二人にとっては、陶然たる一宵であった。二人は一緒に出た。ニュシンゲン夫人はウージェーヌをボン・ヌフまで送って行こうとした。途中ずっと夫人は、パレ・ロワイヤルであんなに熱烈に惜しみなく与えた数々の接吻の一つをも、許そうとはしないで拒み続けた。夫人の矛盾をウージェーヌは責めた。
「さっきのは予期せぬあなたの献身ぶりへのお礼心でしたの。これからのはお約束ってことになりますからね」
「そしてあなたはその約束を何一つしてはくださらない、恩知らず」と彼は腹を立てた。恋する男の心を奪うような、いらいらしい短気な仕草で、彼女は接吻させるためにその手を差出した。彼が不機嫌そうにその手をとったことが、夫人を興がらせた。
「では月曜日、舞踏会でね」と彼女は言った。
美しい月光のなかを歩いて帰る途中、ウージェーヌは真剣な考えに耽っていた。彼は仕合せを覚えると同時に不満を覚えた。それは彼の欲望の的であったパリのもっとも美しくもっとも高雅な女性の一人が、たぶんわがものになるという結末のアヴァンチュール〔情事〕から湧いた仕合せ感であったし、また一財産をこしらえる目論見がくつがえったのを見てとった不満の念であった。そして彼はこのとき、一昨夜ふけったあの曖昧模糊とした考えを、具体的につかむことができた。不成功によって我々は常に自分の自負の力を思い知らされる。ウージェーヌはパリ生活を享楽すればするほど、世に知られずに貧乏暮しをするのは真平だと思った。彼はポケットのなかの千フラン札がしわくちゃになるまで握りしめ、わが物としてそれを納得するために、虫のいい理屈をいろいろこしらえ上げていた。ようやくヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りの家に着いた。そして階段の上までくると、明りが見えた。ゴリオ爺さんが扉を開けっぱなしにして、ローソクをつけておいたからだった。爺さんの言い草ではないが、学生が「娘の話をする」のを忘れないようにと思ってであった。ウージェーヌは何一つ隠さずに話して聞かせた。
「なんですと」ゴリオ爺さんは嫉妬から来る烈しい絶望に駆られて叫んだ。「あの子たちはわしがおちぶれたと思っとるって。わしにはまだ千フランの年金があるのですぞ。とんでもない、なんだってあの子はここへ駆けつけなかったのだろう、かわいそうに。なんなら年金証書を売り払ってやったものを。必要な額を差引いた残りで、わしの終身年金を設定ができるんだに。あなたまたなんだってあの子の窮状を、わしに打ち明けにきてはくださらなかったのじゃ。かわいそうな虎の子の百フランの小金を、賭博《ばくち》に張りに行くなんて料簡に、まあどうしてなったんじゃろう。まるでこの胸を引き裂かれるようじゃわい。婿どもなんていったら、そういうやつらなんですからなあ! おお、とっつかまえられたら首根っ子を絞めあげてやるんだが。ああ、泣いてたか、あの子は泣いてましたか」
「僕のチョッキに顔を押しあててね」とウージェーヌは言った。
「おお! そのチョッキをわしにくだされや、何としたことだ! 小さいときはついぞ泣いたことのないあのかわいいデルフィーヌ、わしの娘の涙が、ここについとるのか! おお! あなたには替りのを買ってあげますじゃ、もうそれは着ないで、わしにくだされ。夫婦財産契約によれば、あの子は自分の財産は自由に使えるはずなんだに。ああ、わしはあすさっそく代訴人のデルヴィルに会いに行こう。あの子の財産投資を当人の名に書き換えるよう要求する手続きをさせるとしよう。わしは法律には明るいんだ。名に負う古狼だもの。また牙をむいて見せてやろう」
「ねえ、お爺さん。ここに千フランあります。博奕で儲けたなかから、お嬢さんが僕にくれるといって、きかなかったのです。あの人のために蔵っておいてください。チョッキのなかにでも入れて」
ゴリオはウージェーヌを見詰め、つと手をのばして学生の手を握りしめるや、その上に一滴の涙を落した。
「あなたは世間に出てご出世なさるじゃろう」と老人は彼に言った。「ねえ、神様は公正でましますんじゃ。わしは正直な性質というものをよく心得ておる。そのわしが断言するんじゃ、あんたのような方は滅多にあるもんじゃない。あんたもやはりわしのかわいい子供になりませんかな? さあ、帰ってお休みなさい。あなたは眠れましょう。まだ父親ではないから。あの子が泣いたってことを、わしは教えてもらった。わしがここで阿呆のようにのんびり食事しておったあいだ、あの子は苦しんでおったのか。わしは、このわしは、二人の娘に一滴の涙をも免れさせるためなら、聖父と聖子と聖霊をも売っていいくらいに思っとるのに!」
(確かに俺は生涯誠実な男として暮せそうだぞ。良心の声に従うのは心持のいいものだなあ)とウージェーヌは床につきながら考えた。
人知れず善行をつむのは、神を信ずる人々以外におそらくないだろう。そして、ウージェーヌは神を信じていた。
[#改ページ]
不死身
その翌日、舞踏会の刻限、ラスティニャックはボーセアン夫人の屋敷を訪れ、カリリアノ公爵夫人に紹介を請うて、一緒に連れて行ってもらった。元帥夫人である同夫人から、いともねんごろな歓待を受けた。その席でニュシンゲン夫人にも再会した。ウージェーヌからもっと好かれるため、一座の人たちにまずは好かれようという魂胆で、身を飾ってきたデルフィーヌは、ウージェーヌの一瞥を受けようと、もどかしがっていた一方、そうした焦慮の念を傍目には、隠しおおせたもののように思っていた。
女の胸のうちを見抜きうるものにとっては、この種の瞬間こそ快心きわまりないものがある。自分の意見の開陳をじりじり女に待たせ、こっちの喜びはていよく押し隠して、相手に催させた懸念のなかに、その愛の告白を見出し、ちょっとこちらでほほえんでやりさえすれば、吹き消せるていの女心の気づかいを、心のうちで楽しむことを、しばしばこころよしとしなかった男性が、果しているであろうか?
この夜宴のさいちゅうウージェーヌは、自分の立場の有力さをにわかに測り知って、ボーセアン夫人の従弟として今や公認された自分が、社交界に確固たる地歩を占め得たのを、悟ったのであった。それにまたニュシンゲン男爵夫人を早くも征服したように、みんなから信ぜられていることが、彼の存在をいよいよ際立たせ、すべての青年は彼に羨望の眼差しを送っていたが、そのいくつかの視線を捉えて、彼は自惚れの最初の快楽を味わったのであった。
サロンからサロンヘと、人込みをわけて移りながら、自分の幸運をほめそやされるのを彼は耳にした。女たちはみんな彼に成功を予言していた。デルフィーヌも彼を失うのを恐れて、前々日はあれほど許すのを拒んだ接吻を、今宵は断らぬことを約束してくれた。この舞踏会でラスティニャックは、数々の招待を受けた。若干の貴婦人にも従姉から紹介をされたが、相手はいずれも都雅なことを鼻にかけているお歴々ぞろいで、その邸宅はすべて快適をもって世に聞えていたところであった。さればパリでももっとも盛大華麗な社交界のなかに、彼は自分が打って出たのを見たのであった。この一宵は彼にとって輝かしい初舞台の魅力にみち、老後になっても忘れられないのに違いはなかった。ちょうど数々の喝采を自分が博した舞踏会を、乙女が一生涯忘れないように。
翌日、朝飯を食べながら、彼は下宿人たちを前にして、ゴリオ爺さんに自分の成功を語り聞かせていたとき、ヴォートランは悪魔的な薄ら笑いを浮かべ出したが、やがてこの残忍な論理学者は口を出して、
「それで君は当世流行の若いもんが、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りのメゾン・ヴォーケルになんか、住んでいられると、いったい思っているのかい? そりゃ確かにあらゆる点からして、ここは気の利いた下宿ではあるが、ハイカラなところは薬にしたくもないね。いかにも豪勢、ふんだんなところもあり、ラスティニャック氏のような名士の仮りのお宿たる光栄に浴してもいるが、しょせんヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りにあるため、豪奢などとはお義理にも申せず、まったくは純パトリアルカロ|ラマ《ヽヽ》(家長制)の下におかれている。ねえ、そうでしょう、お若いの」とヴォートランは父親のような嘲り口調で言葉を続けた。「もしもパリで幅を利かそうと思ったら、三頭の馬匹のほかに、昼間の乗物として軽二輪馬車、夜間用としての箱馬車が必要だ。車馬代として締めて九千フランさ。それに服屋に三千フラン、香料屋に六百フラン、靴屋に三百フラン、帽子屋に同じく三百フランと、しかしそれっぽっち使ったぐらいじゃ、君の隆運にはちと位負けがするね。そのうえ、洗濯女にも千フラン払わなくちゃならん。アラ・モードの若いもんだったら、下着類だけはそれこそきちんとしていなくってはいかんからね。一番そこが人目につくって、いうじゃないか? 恋愛と教会はともにその祭壇の上に、きれいな掛布《クローズ》を必要とするもんさ。いままで数え上げただけで、はや一万四千フランにもなるんだぜ。君が博奕や賭けや贈物で失う金は、べつに計算に入れちゃないよ。その他、小遣いとして二千フランはどうしても用意しておかなくちゃならんだろう。わしもそうした生活を以前は送ったものさ。出費のほうはいささか心得なきにしもあらずさ。それら是が非でもいる掛りのほかに、食代《くいしろ》の六千フラン、鳥屋賃《とやちん》の千フランを加えてごろうじろ、ねえ、大将、するってえと年に、正味二万五千フランは、ぽっぽから出さなくっちゃならんことになる。さもなけりゃ窮乏のどん底に陥って、人から笑いものにされ、未来も成功も情婦も、すべてだいなしにしてしまわなくっちゃならないんだ。そうそう、忘れていた。従僕や馬丁も要りますぜ。艶書の使いにいったいクリストフをやれますかい? 君が今使っているような紙に、恋文が書けますかい? そんなことをしたら自滅も同然。まあまあ経験の豊かな年寄りの言うことは聞くもんだな!」彼はそのバスの声を漸次強音に強めながら語を続けた。「さもなければ清貧に甘んじて屋根裏部屋に引籠り、そこで勉強と取っ組むか、さもなけりゃあるいは全然別の道をとるこったね」
そう言ってヴォートランはタイユフェル嬢のほうをぬすみ見ながら、その片目をしばたたいてみせた。堕落させるため学生の心に、彼が蒔いた先日のあの誘惑たっぷりな理屈づけを、その眼つきは想起させた。
数日は経った。その間ラスティニャックはひどく放逸な日々を送った。ほとんど連日ニュシンゲン夫人と晩餐をともにし、社交界にお伴して行った。朝方の三時か四時に戻り、昼ごろに起きて身仕度をし、お天気がいいとデルフィーヌと、ブーローニュの森に散歩に出た。こうして時間の貴重さも知らず、無為のうちに彼は遊び暮した。棗椰子《なつめやし》の萼《がく》の雌しべが、雄しべの花粉をいらいらしく待ち設ける熱烈さをもって、奢侈贅沢のあらゆる教え、あらゆる誘惑を彼は吸い込んだ。そして大きな勝負事をやり、うんとすったり儲けたりして、ついにはパリの青年の変則な並外れた暮し振りを、その身につけてしまった。最初に儲けた金のうちから、千五百フランを母や妹たちに送り、立派なお返しの贈物まで添えてやった。メゾン・ヴォーケルを去りたいと、人に口外までしていたくせに、一月の末になっても、まだ彼はそこにごろごろし、どうして出たらいいかも算段がつかなかった。
青年というものはほとんど皆一つの準則に従っている。それは一見いかにも不可解な定則《ルール》である、が元来が年の若いこと自体と、快楽めがけて突進するその激情とが、縁由《いわれ》となっている掟なのである。すなわち貧富の別なく青年は、その気紛れのためには惜し気もなく金をつかうくせに、いざ生活の必需品にかける金銭となると、絶対に惜しむというところのあの準則である。掛けで手に入るものにはなんでも大まかだが、その場で現ナマを要するものには、よろずけちけちし、手に入るものを濫費して、手に入らぬものに対する鬱憤ばらしを、行っているようにまで見える。この間の事情をもっとはっきり述べるなら、たとえば学生は衣服よりも帽子のほうを大切にしている。儲けが大きいため、洋服屋のほうは本来、信用貸しをしてくれるが、儲けの少ない帽子屋のほうは、学生の談判しなければならぬ相手のなかでは、もっとも手ごわい部類の一人となっているからだ。劇場の二階桟敷に陣取った青年が、美人たちのオペラ・グラスに、あるいはすばらしいチョッキを見せたにしても、この青年が靴下をはいているかどうかは、はなはだもって疑わしい。靴下商というやつは、これまた青年の財布をかじる穀象虫《こくぞうむし》の一つだからである。ラスティニャックの当時の状態といったら、ちょうどそれだった。
彼の財布はヴォーケル夫人に対してはいつも空っぽで、虚栄の要求だと常に膨らんでいた。気紛れな、それでいて周期的な財布の干満盛衰があって、至極当然な支払いとなると、必ず乱調を呈するのがそのきまりであった。彼の自負心が周期的に挫かれる、むさ苦しいこのぼろ下宿を出るには、お女将に一月分の下宿代を払って解約し、伊達者《ダンディ》の部屋にふさわしい家具調度を買い入れねばならなかったが、そんなことはいつになっても、とてもできそうもない相談であった。賭事にいるお金を工面するためなら、儲けたときに大金を投じて、宝石商から買っておいた時計や金鎖を、青年たちにとっては陰気ながら口の堅い友人たる質屋さんに、持って行くぐらいの算段なら、ラスティニャックにもどうやらついたが、食扶持や部屋代を払ったり、高雅な暮しを営むために不可欠な家具類など買込むだんになると、さて彼にはなんの才覚もつかなければ、そんな大胆な気持にもなれぬのであった。俗な日常の経費や、過去において必要だった物のために生じた借金などになると、これというましな知恵も出なかった。僥倖を頼みとするかかる生活に、覚えのある人の多くはみなそうだろうが、ブルジョワどもの眼には、神聖犯すべからざるものとされている借債のその支払いを、彼は最後のぎりぎりのときまでものばしていた。ちょうどミラボーが、為替手形という高飛車な形式の下に提出されないかぎりは、決してパン代を支払わなかったのとそれは同じに。
この頃、ラスティニャックは賭博に負けて一文なしになり、借金までも背負っていた。ちゃんとした固定資産がないかぎり、こうした生活を続けるのは不可能ということが、わかりかけて来た。不安定な立場のために蒙った苦しい打撃に、さんざん悲鳴をあげながらも彼は、こうした生活の法外な享楽を断念ができぬと観念し、どんな犠牲を払ってでも、それを続けて行こうと望んでいた。一攫千金の期待を彼がつないでいた僥倖も、はかない夢となって終り、現実の障害は増大してゆく一方であった。
ニュシンゲン夫妻の家庭内の秘密に、精通するようになってはじめて彼は、恋愛を出世の方便にするためには、あらゆる恥を掻き捨てにし、青春の過ちのあがないとなる気高い考えなど、いっさい放棄せねばならぬことに気づいたのであった。外見はいかにも華やかながら、しかし悔恨というさなだむしに蝕まれ、はかないその快楽も、執拗な苦悩で高価に購《あがな》われている生活、それをラスティニャックは自分から求めて、ラ・ブリュイエールの「放心者」さながらに、どぶ泥のなかに寝場所をつくって、そこにころがりまわっていたのであったが、しかし「放心者」と同じく、まだ服しか彼は汚してはいなかった。
ある日のこと、ビアンションは食卓を離れながらラスティニャックに言った。
「ところでシナの大官を往生させたかい?」
「まだなんだ。もっとも大官、虫の息だがね」
医学生はこの言葉を冗談と思ったが、しかし実のところはそうではなかったのである。珍しくウージェーヌは、下宿で久しぶりに晩餐を食べたのだが、食事しながらも物案じげであった。デザートになっても彼は出て行こうとせず、食堂に居残ってタイユフェル嬢のそばに坐り、ときおり意味ありげな眼差しを令嬢のほうに投げていた。
座には依然として食卓についたまま、クルミを食べているのもいれば、始まった議論を続けながら、あちこちと歩きまわっている下宿人もあった。毎夜の例で、話に惹かれる興味の度合により、あるいは自分の消化の過程の難易に応じて気の向くままにみんなは勝手に振舞っていた。冬の間は、食堂が八時前にがらあきになるようなことは滅多になかった。八時にでもなって、居残っているのが四人の女たちだけになると、男ばかりの集りの席で、つつましく口をつぐんでいなければならなかった腹いせを、彼女たちはぺしゃくちゃと行うのであった。
ウージェーヌの屈託している様子にびっくりしたヴォートランは、はじめそそくさと出て行きそうになったのに、そのまま食堂に居残って、ウージェーヌの目につかぬようなところに、ずっと腰を落ち着けていたため、学生はヴォートランが立ち去ったものとばかり思っていたに違いない。どんじりに引き揚げて行った下宿人たちとも一緒に出ないでヴォートランは、こすくもサロンのなかに踏み止まっていた。彼は学生の胸のなかを読み、決定的な徴候をそこに予感したのである。
事実、ラスティニャックは、青年の多くが経験した覚えがあるのに違いない、あの困却した立場に陥っていた。愛しているのかそれとも弄《もてあそ》んでいるのか、ニュシンゲン夫人は彼に対して、パリ女の慣用手段たるあの女人外交の秘術を尽したので、真剣な情熱の味わうあらゆる苦悩を、つぶさに彼はなめさせられていた。ボーセアン夫人の従弟をしょっちゅう身近にひきよせ、世間の聞えをすっかり夫人は悪くしてしまった後でいて、その彼が享受しているように見える権利を、まだもって夫人は現実的に彼に与えるのをためらっていた。この一月来、ウージェーヌの感覚をひどく刺激させたあげく、彼女は彼の心に食い入るまでにいたってしまっていた。二人の関係の初めのうちは、ラスティニャックも支配者気取りでいたのだったが、それが今では夫人のほうがとみに優勢になっていた。それは手練手管の助けをかりてだったが、これは彼女が計画的に考えたものであろうか。いや、そうではない。女というものはどんな甚しい嘘っぱちの真最中にあっても、常に真実なのである。なぜなら彼女たちは、自然的ななにかの感情に、つい負けてしまったのにすぎないからだ。おそらくデルフィーヌは一度はこの青年の権勢下におかれ、並々ならぬ愛情をいったんはあらわしすぎたあとになって、急に自尊心を感じ出し、自分の譲渡を翻意するなり、あるいはそれを中途半端にして、打ち興じていたものであろう。
情熱に釣り込まれた渦中にあっても、堕落のなかばでためらったり、将来を託そうとする相手の心を試そうとしたりするのは、パリ女にあっては、きわめて当然なことである。ニュシンゲン夫人の希望のことごとくは、初手にはや一度裏切られた経験があり、エゴイストの貴公子に対しての彼女のまごころは、すっかりと無視されてしまった直後のことであった。だから彼女が妙に疑念深くなっていたのも、大いに許されてもよかろう。とんとん拍子の上首尾に、思いあがったウージェーヌの態度のうちに、二人の立場の奇妙さから起こった夫人に対する一種の軽侮の念を、おそらく彼女は気づいたのでもあろう。そしてこんな年ごろの若人に対しては、威厳をとりつくろって見せようと望み、自分を捨てて行った男の前で、あんなに長いこと小さくなっていた後とて、この青年の前では、せめても大きいところを示そうと欲したものに違いない。
それに彼女がマルセイに属していたことを、ウージェーヌが知っていただけに、なおのことこの青年からは、自分がたやすく征服できる女とは、思われたくなかった。人でなしの若い蕩児の劣等な快楽に従わされた直後のことだけに、彼女にとっては恋の花園を逍遥することが、このうえもなく楽しく、花園の景色を眺めたり、木の葉のざわめきにしばし聞き惚れたり、純潔なそよ風にじっと身をなぶられていることが、快い魅力だったのである。だからいってみれば、まことの恋が偽りの恋を償っていたわけであった。欺瞞の初嵐に若い女性の心の花が、どんなになぎ倒されるものか、それを男性が悟らないかぎりは、このような辻褄の合わぬ誤解は、不幸にして今後といえども頻繁に起こることだろう。
その動機はともあれ、デルフィーヌはラスティニャックを翻弄し、またそれに興じていた。もちろんそれは自分が愛されていることを知っていたし、女心のかたじけない思し召しによって、情人の煩悶なら造作なく取り除けられるという自信が、自分にあったからであった。それにウージェーヌのほうでも自尊心が働き、自分の初陣を敗北に終らせたくはなかったので、なお執拗に追撃の手を止めようとしなかった。ちょうどサン・ユベール狩祭り初出場の猟人が、ぜひとも鷓鴣《しゃこ》を一匹射止めようと、心に深く思い決したようにであった。彼の煩悶、傷つけられた自尊心、真偽こもごもの絶望感は、ますます夫人に彼を結びつけることになった。
パリじゅうがニュシンゲン夫人を、彼のものときめているのに、初めて会った日以上の進展を、夫人に対して彼はしていないのであった。婦人の媚態はときには恋の快楽よりも、もっと男冥加なことがあるのを、まだ知らなかった彼は、やるかたない憤激に取りつかれてしまっていた。女が恋を許さずにあらがっている季節《シーズン》さいちゅう、走りの果実を摘むことが、よしんばラスティニャックにかなったにしても、それはまだ青くて酸味があり、風趣は絶佳にしても、かなりと高くつく代物となる。一文なしとなり、先々の望みも断たれてしまうや、ときどきはラスティニャックにしても、良心の叫びに耳ふさぎ、タイユフェル嬢との結婚のなかに、可能性があることをヴォートランから示されたあの一|身代《しんしょう》の手蔓《てづる》など、考え出すまでにいたったのであった。
ところで、ちょうどその頃、窮乏のどん底に陥っていたラスティニャックは、その眼差しにしばしば見こまれていたあのおそろしいスフィンクスのたくらみに、ほとんど無意識裡に落ち込もうとしていたのだった。ポワレとミショノー嬢が部屋に引き揚げ、あとにはヴォーケル夫人と、暖炉のそばで居眠りしながら、毛糸の袖口を編んでいたクーチュール夫人とのほかには、座に誰もいないと考えたラスティニャックは、タイユフェル嬢が伏目にならずにはいられないくらい、優しげに彼女のほうを見守っていた。
「ウージェーヌさん、何かご心配事でも?」と、ヴィクトリーヌはちょっと黙っていた後で彼に話しかけた。
「心配のない人なんているでしょうか」とラスティニャックは答えた。「ぼくたち青年が常に一身を擲《なげう》ってでも尽そうと思っている相手から、熱誠をもって酬いられ、本当にこっちも愛されていることが確信できるとしたら、心配なんてきっとなくなるのでしょうがねえ」
タイユフェル嬢が返事として彼に投げた一瞥には、まがうことなき真剣なものがあった。
「お嬢さん、あなたはきょう、ご自分の心に自信を持っていらっしゃる。決してそれが変ることがないと、お請合いになれますか」
あわれな娘の唇辺にはっと微笑が浮かんだ。それは魂からほとばしり出た一筋の光のようだった。その顔全体も輝いてきた。感情をこんなに激しく激発させたことに、ウージェーヌはやや慌て気味となった。
「どうです! もしも先ゆき、あなたがお金持の仕合せな娘になり、天から巨万の富があなたに降って来たとしても、貧乏だった頃に好きだった貧しい青年を、あなたはなおも愛し続けることができますか?」
愛くるしく彼女はうなずいてみせた。
「どんな不運な若者でも?」
彼女はまたこっくりした。
「何をつまらないこと言ってるのさ?」とヴォーケルお女将は叫んだ。
「うっちゃっといてください」とウージェーヌは答えた。「僕たちはせっかく意気投合してるんですから」
「するってえと、シュヴァリエ・ウージェーヌ・ド・ラスティニャック氏とヴィクトリーヌ・タイユフェル嬢とのあいだに、婚約でも成立するっていうわけかな?」不意に食堂の戸口に姿を現わしたヴォートランは、持前のその太い声音でそう言った。
「ああら、びっくりした」とクーチュール夫人とヴォーケルお女将は、同時に叫んだ。
「もっと悪い選定を僕はするかもしれませんよ」と笑いながらウージェーヌは答えたには答えたが、かつて味わったことがないほどの烈しい胸さわぎを、ヴォートランの一声のために覚えさせられた。
「悪い冗談はよしてくださいよ、皆さん」とクーチュール夫人は言った。「さあ、ヴィクトリーヌ、お部屋へ戻りましょう」
ヴォーケル夫人も二人の女の後に続いた。炭火とローソクを倹約のため、二人の部屋で宵のうちは過ごしていたからである。ウージェーヌはヴォートランと二人差し向いになった。
「君がここまで来るだろうことは、ちゃんとわかっていたよ」と、びくともせぬ落ち着きぶりでヴォートランは言った。「まあ、聴きたまえ、わしにだって人並みの細かい心遣いはあるんだ。今の今、なにもきめなくっていいさ。いつもの君とは、すこし違っているようだからな。それに借金も背負っているしさ。感情的な気持や捨鉢な気持からでなく、あくまで理性をもって僕のほうに君が、歩み寄ってきてほしいんだ。おそらく君は何千エキュという金子《きんす》が要るんだろう。持って行きたまえよ、よかったら」
この悪魔はポケットから紙入れをとり出し、三枚の紙幣を抜きとり、それを学生の目の前でひらひらさせた。
ウージェーヌはもっともつらいジレンマに陥っていた。彼はダジュダ侯爵とトライユ伯に、賭博ですった三千フランを口約束で借りていたのだった。その金がないばかりに、今夜招ばれていた、レストー夫人の集りへも、行く気になれないでいた。お菓子を食べたりお茶を飲むだけの、ごくあっさりしたそれは集りだったが、ホイストで六千フランも負けるようなこともあるのだった。
「ヴォートランさん」発作的な激しい胴震いを、辛うじて押し隠しながらウージェーヌは言った。「あのようなお話を伺った以上、あなたのご恩義を受けるわけにはまいらぬ仔細は、もうとうにお解りだと思いますが」
「話を違えて持ち出さねばならない面倒を、君は人に掛けようっていうんだね」と誘惑者は言葉を続けた。「君は立派な青年だ。気立ては優しく、獅子のように誇り高く、乙女のごとく穏やかだ。悪魔の絶好の餌食に、きっと君はなるだろうぜ。若いもんのそういうところが、じつはわしも好きなんさ。二三もっと高遠な駆け引きにいつか思いをいたすならば、世間というものの正体がありのままに、君にも解るようになるぜ。世間という大舞台で、道徳《モラル》にかなったちょっとした小芝居でも演じさえすりゃ、よっぽどの凡人ででもないかぎり、平土間のばか者どもの大喝采裡に、その気まぐれをことごとく満足させることができるんさ。遠からずして君もわが党の士になることだろうよ。まったくさあ! わしのお弟子になる気さえあれば、どんなことでも成就させてあげるのになあ。本当に君のお望み次第に、なんでも即座に叶えて進ぜますぜ。それこそ栄誉であろうと、財産であろうと、なんでもお好みのままにさ。なんなら全文明を打って一丸として、君に供える神饌《おくもつ》にしてもいいぜ。君をわしの駄々っ子、猫っかわいがりの|末っ子《パンジャマン》としよう。君のためなら喜んで死んでゆこうし、邪魔なものは一切根絶やしにしてあげよう。君がまだしぶってるってのは、わしを悪党だと思い込んでるからなんだろう? しかしだね、君が今なお持ってると信じている程度の誠実さは持ち合せていたあのチュレンヌ元帥〔一六一一―七五。フロンドの乱のとき、オランダに亡命してスペイン軍と結び、祖国に弓を引こうとしたことがある〕だって、スペイン山賊めと手を握りながらも、面汚しだなんてそれを考えてやしませんでしたぜ。君はわしから恩義を負うってのが、お気に召さないのかい、ええ? そんなことはまあどうだっていいじゃないか」ヴォートランはにやりと笑って、さらに言葉を続けた。「このぼろ紙幣《さつ》をとっておきたまえ。そしてここへ横書きにするするって書いてくれよ」彼は一枚の証書を取り出した。「金三千五百フラン受取り申し候。返済期間一ヵ年ってね、それと年月日をさ。利子はかなりと高いがね。君の良心の気兼ねを解いてやろうと思ってなのさ。わしを高利貸《ジュー》と呼んでもけっこうだ。感謝なんか一切する必要なしと、そう考えればいいじゃないか。今のところはまだ君に軽蔑されていようや。後日、わしが君から好かれることを、こっちは確信ができるからね。君はわしのうちに底知れぬ深淵、凝集した絶大な感情を、見出すかもしれんよ。ばかどもはそれを悖徳《はいとく》と呼んでるがね。しかしわしが決して卑怯者でも恩知らずでもないことを、君はわきまえるのに違いないんだ。一言でいえばわしは将棋の歩でも角行《ビショップ》でもない、わしは飛車なんだよ」
「いったいあなたはなんなのです?」とウージェーヌは叫んだ。「あなたは僕を責めさいなむために、この世に生まれてきたんですか」
「とんでもない、わしは大のお人好しで、たとえ自分は泥だらけになっても、君の一生は泥んこからかばってあげたいと思ってるんだ。なぜそんな献身ぶりを示すのかって、君は怪訝がってるんだね。よろしい。いずれその訳はお教えしよう。こっそりと君の耳の管のなかへね。社会組織の本性やその機構《からくり》の働きなんか、いつぞや君に種明しをして、いきなり君をびっくりさせてしまったが、君の最初の驚きなんか、戦場に立たせられた新兵のそれと同じで、すぐに消えてしまうだろうよ。王と僭称するやつらに身をつくして、一身なげうつ覚悟をした兵隊たちと同じだと、人間のことを見なすような考えに、君もすぐに慣れてくるだろうさ。まったく時世もすっかり変ったもんだよ。昔だったら刺客に命じて、『おい、百エキュやるぞ。誰それを殺して来い』と、ほんのつまらぬことから人間一匹、闇から闇にと葬ったあげく、何くわぬ顔で晩餐を食っていられたんだが、今日びではかぶり一つ振ればすばらしい幸運を得られ、しかもなんの危い橋を渡るんでもない提案に対してでも、君ときたら尻込みするんだからなあ。まったく意気地のないご時世さね」
ウージェーヌは手形に署名し、それと引き換えに紙幣を受け取った。
「よしきた、じゃ一つ筋道立った話に移ろうかね」とヴォートランは言葉を続けた。「わしはここ二三ヵ月のうちに、煙草栽培にアメリカに旅立とうと思ってる。友情のしるしに、君にシガーをあっちから送ってやるよ。もし金ができたら君にご援助もしよう。またもしもわしに子供ができなかったら、(おそらく駄目だろうね。挿枝で自分をこの世に植替えるような物好きは、このわしは真平だから)そしたらわしの財産も、君に遺贈してやろう。友達甲斐の義理立てからか。決してそうじゃない。わしは君が大好きだからだ。他人のために身命を捧げるのが、このわしの道楽でね。前にもそんな経験があるんさ。ねえ、君、わしは他のやつらよりも一段と高い領域に生きてるんだ。行動を手段と考えて、自分の眼中には目的しかないんだ。わしにとっていったい人間とは何か? 歯糞も同じことさ」そう言って栂指の爪を歯にあててカチカチいわせた。「人間は全か無かのいずれかだ。ただしポワレなんて名前のつくときは、無以下だがね。あんなやつは南京虫のようにつぶしたってもいい。それこそぺしゃんこになって臭気を発するだろうがね。だが人間も君に似たような場合には神だよ。もう人間の皮をかぶった機械じゃなくて、美しい感情の躍動する一つの舞台だ。いったいこのわしは感情だけで生きてる人間なんだ。だが感情とは想念のなかの世界じゃないかしら? ゴリオ爺さんを見たまえ。二人の娘は老人にとっては全宇宙だ。娘たちが糸しるべになって、爺さんは万象のなかを分け入ることができるんだ。ところでね、人生を深く掘りさげてみたこのわしにとって、現実の感情といったら、たった一つしかない。つまり男と男との間の友情だ。ピエールとジャフィエ、あれにわしは凝ってるんだ。『救われたヴェニス』〔英劇作家オトウェー作、ピエールとジャフィエはその主人公で親友同士〕を、わしは、そらで覚えてるくらいだよ。友達に『さあ行って叩っ殺して来よう!』とさそわれて、文句もいわずお説教も述べずについて行くような肝《きも》のすわった人間が、そう世間にざらにいるかしら。だがこのわしはそれをやったよ。わしはこんな調子で、誰にでも喋りちらすわけじゃないんだぜ。けど君はなみの人間とは違うんだから、なんでも言えるしまたなんでも解ってもらえるだろう。俺たちのまわりを、ここで取り巻いてる蝦蟇《がま》のようなやつらの住んでる泥沼なんかに、いつまでもはねまわってるような人間じゃ君はないもの。さて、これで話はすんだ。君は結婚してくれるね。目的に向ってめいめいの鋩《きっさき》を進めるとしようぜ。わしは鉄づくりだから、へなへなにはならんさ。さあこい来たれだ!」
ヴォートランは学生の渋りがちの返事を聞きたがらずに、出て行ってしまった。ウージェーヌを楽な気持にしてやろうというつもりもあってのことだった。自分の手前をつくろって、やましい行為を人が自己弁護するさいの、あのささやかな抵抗や葛藤の秘密を、ヴォートランは百も承知のように見えた。
「あいつしたいようにするがいいさ、おれはタイユフェル嬢なんかと、絶対に結婚なんかするものか!」とウージェーヌは独語した。
嫌悪している相手ながら、その破廉恥な考え方や、社会を呑んでかかっている図太さに、この男はラスティニャックの眼に、次第に大きく映って来ていたが、ついにその男と契約を結んでしまったという考えに、ラスティニャックは内心の恐怖からくる不安を、ひとしきり覚えたのち、着替えをして馬車を頼み、レストー夫人の許にとはせつけた。
数日来レストー夫人はラスティニャックに対して、その心尽しを倍加していた。上流社会の中心にどんどん踏み込みだしたこの青年の権勢は、他日必ずや恐るべきものがあるだろうと、夫人には思われたからだった。彼はトライユとダジュダ両氏に借金を返し、夜のいっとき、ホイスト遊びに耽って、以前負けたぶんをすっかり取り戻すことができた。出世の途を拓いて行かねばならぬ連中の大部分は、多少ともにみな運命論者であるが、ラスティニャックも例外ではなかった。彼は、正直に踏み止まろうという自分の堅忍ぶりを、神がみとめて、かかる幸運を自分にお授けくだされたものとそれを考えたがった。
翌朝、彼はさっそくヴォートランに向って、自分の手形をまだ持っているかどうかとたずねた。その肯定の返事に接するや、飾り気のない喜びを満面にたたえながら、彼は三千フランの金を返した。
「こっちは何もかもうまく行ってますぜ」とヴォートランは彼に言った。
「けれど僕はあなたの相棒じゃありませんよ」とウージェ―ヌは言い返した。
「わかってる、わかってる」とヴォートランはそれをさえぎって、「相かわらず君は駄々っ子みたいだね。|とば《ヽヽ》口にぶっ立たずに、ええ、なかにお入りはこちら、お入りはこちら!」
それから二日後、ポワレとミショノー嬢は、植物園の物さびしい小路にある日当りのよいベンチに腰を下し、胡散臭いやつとビアンションが睨むのももっともと思われる男相手に話をしていた。
「マドモワゼル」とゴンデュローという名のその男は言った。「どうしてあなたが尻込みなされるのか、私にはさっぱり解りませんな。なにしろ王室警察大臣閣下にも……」
「へえ、王室警察大臣閣下にも……」とポワレは鸚鵡《おうむ》返しに言った。
「そうです、閣下におかせられても、本件に深甚なご関心を抱かれておるのです」とゴンデュローは言った。
頭こそからっぽであるが、ポワレとても以前は官吏であり、世間の道理ぐらいはまさしく心得ているのに違いない。その彼がビュフォン通りに住む年金生活者と自称しながら、警察という言葉を口にして、実直そうな男の仮面のかげに、ジェリュザレム街〔当時のパリ警視庁の所在地〕の手先といった面構えを見せだした相手の言葉口に、依然として聴き入るなどということは、およそありうべからざるもののように思われるだろう。だがじつはこれほど自然なことはないのである。現在までまだ公に披露こそいたらないが、二三の観察家連中がすでになしたところの次なる評言によって、人間という阿呆どもの大世帯のなかで、このポワレが属していた特殊なる種族を、人はよく理解することができるだろう。
すなわち世間には鵞筆にぎりの月給|とり《ヽヽ》種族というものがあって、緯度第一度から第三度までの間に、国家予算の枠内で閉じ込められて棲息している。その第一度は年俸千二百フランという行政上のグリーンランド地帯であり、第三度は年俸三千から六千フランと、やや懐ろも暖かい温暖地帯であって、ボー|ナス《ヽヽ》の茄子《なす》も移植がきき、栽培こそむつかしいが、一花《ひとはな》咲くことは咲くのである。
これら小役人どもの下劣な偏狭さを、もっともよく際立たせるその特徴の一つは、てんで読めぬ花押《かおう》を通じてのみ、『大臣閣下様』という五文字の下に、属僚どもが知っている全役所のダライラマに対しての、無意識な、機械的な、本能的な一種の尊敬ぶりである。「大臣閣下様」なるこの言葉は「バグダッドの回教主《カリフ》」にも匹敵するものであって、これら平つくばった連中の眼には、訴えどころのない神聖な権力として大きく映るのである。キリスト教徒にとって法王がそうであるように、役人の眼には大臣閣下は、行政的に絶対不過誤なるものである。大臣の放つ威光たるや、その言行や、彼の名をもってする一切のものにまで及び、それはすべてを大臣の刺繍でおおって、大臣の命によってなされるあらゆる行為を、合法化している。閣下という尊称が、彼の意向の純良さと、彼の意志の神聖さとを証明し、いとも許しがたい観念をまで、やすやすと通過させてしまう。自分の身がかわいくても、これら憐れな属僚どもには、思い切ってどうしてもやれぬようなことでも、「閣下」という一言を聞けば、われ先にと実行に移すのである。軍隊に盲従があるごとく、お役所にもそれがある。官僚制度は良心を窒息させ、人間性を絶滅し、時とともに、人間を行政機構のねじ釘やねじ受けにと同化してしまう。
人を見る目の利くらしいゴンデュロー氏は、ポワレをそうした役人ばかの一人とすばやく見破ったので、自分の計画を打ち明けて、ポワレていの人間を眩惑するの要があるというまぎわに、されば「閣下」なる護符的文句を、最後の助け神として持ち出してきたのも、じつはそうしたわけからであったし、彼にとってはポワレごときは、ミショノーを雄にしたとしか見えず、そのミショノーもポワレを雌にしたみたいにしか、思われないのであった。
「閣下御自ら、大臣閣下がそれを親しく……となると、なるほど、話はぜんぜん違ってまいりますな」とポワレは言った。
「あなたはこの方のご意見になら、信頼を寄せておられるようですが、ただいまの言葉をお聞きとりになられたでしょう」と偽年金生活者は、ミショノー嬢に向って話を続けた。「ところで閣下はいま絶対のご確信をもって、メゾン・ヴォーケルに下宿している自称ヴォートランなる人物は、ツーロン徒刑場で『不死身』の名の下に知られていた脱獄囚に、相違ないとしておられるのです」
「へえ、不死身《ヽヽヽ》ですって!」とポワレは言った。「その名のとおりだとしたら、じつに仕合せなやつですな」
「まったくですよ」とこの刑事長は続けた。「どんな危なっかしいことをやっても、冥加にも命だけは全うして来られたことから、その綽名はついたのです。いやはや、まったく物騒きわまるやっこさんなんですよ。なかなかの長所も持ち、人に図抜けたところもあります。宣告を受けてかえってあいつは、仲間うちから限りない尊敬をうけているような始末で……」
「するてえと、尊敬にたる男ってわけですな?」とポワレは訊ねた。
「まあまあ、あいつなりにね。とにかくひどくかわいがっていた美青年の偽造罪を、あいつ自分で背負いこんだのです。賭博好きの若いイタリア青年の犯した罪でしたが、その後軍務に就いてからはその若者も、立派に身を持ち直したようですが」
「しかし警察大臣閣下殿がヴォートランさんを、確かにその『不死身』だとおっしゃっておいでなのでしたら、なぜこのわたしになんか、ご用がおありなんでしょう?」とミショノー嬢は言った。
「まったくだ」とポワレも言った。「もしあなたがお話しくださったように実際、大臣閣下がなんらかのご確信をお持ちなのでしたら……」
「確信といってはちと言い過ぎなんです。ただ嫌疑をかけているだけなんですから。その仔細はすぐお解りになりますよ。不死身《ヽヽヽ》と綽名されているあのジャック・コランは、三徒刑場の囚人どもから絶大の信頼を受け、その代理役《エージェント》兼出納係に選ばれているくらいなんです。そして彼はこの種の事務にたずさわって、大儲けをしています。なにしろ顕著《マーク》な人間でないとできない仕事ですから」
「ああ、なるほどね。マドモワゼル、今の洒落がわかりましたか」とポワレは言った。「この旦那が顕著《マーク》な人間といま言われたのは、烙印《マーク》を捺《お》されたやつだからなんですよ」
「偽ヴォートランは」と刑事は続けた。「懲役人たちから受け取った金を投資し、保管し、それを脱獄囚たちに用立てたり、遺言で指定された遺族に渡してやったり、囚人がその情婦への送金を、彼あての為替で振り出してきたら、そっちへ届けてやったりしておるのです」
「情婦へですって! 女房へのお間違いじゃないのですか?」とポワレは口を出した。
「いや、徒刑囚は一般に内縁の妻しか持っておりません。私たちのあいだでは、情婦《いろ》とそれをば言っておりますがね」
「じゃみんな内縁関係で?」
「そういう訳になりますな」
「ふうむ、そんな忌わしいことを大臣が黙認しておられるのはじつにけしからん」とポワレは言った。「あなたは閣下にお目にかかることもできますし、お見受けいたしたところ、人道的なお考えをお持ちのお方のようですから、一つああいった連中の不道徳な所業については、あなたから閣下のお耳に入れておくのが然るべきだと私は思いますね。他の社会に非常な悪例を示しとるじゃありませんか」
「しかし政府は徳行のお手本に供しようと、あいつらをぶちこんでいるわけではありませんかしら」
「なるほどそれもそうですな。しかしね、私に言わせれば……」
「あなた、この方のお話を先に、うけたまわろうじゃありませんの」とミショノー嬢は言った。
「お解りですね、マドモワゼル」と、そこでゴンデュローは続けた。「世間の噂によればかなりの金額にのぼるといわれる、彼の不法金庫の手入れについて、政府当局は甚大な関心を寄せざるを得ないというわけが。なにしろ不死身のやつは仲間の何人かの所有にかかる金子ばかりでなく、一万組合から出る金をも一緒に隠匿して、巨額におよぶものを仕舞い込んでいるんですから……」
「一万人の泥棒組合ですと!」びっくりしてポワレは叫んだ。
「いや、一万組合というのは大泥棒のより合い、つまり大仕掛けな悪事専門で、一万フランの儲けにもならんようなけちな仕事には、いっさい手出しをしないといった連中の組織するところなんですよ。この組合はまっすぐ重罪裁判所ゆきと、きまってる悪党どものなかでも、とくに頭株の大物連中ばかりの集りで、成立っているんです。なにしろやつらときたら法律をよく心得ていて、つかまっても死刑を適用されるような|どじ《ヽヽ》は、決して踏んではおりません。コランはそれらの連中から信頼を受けていて、その顧問役なんですよ。巨額な金力の助けをかりて、やつは私設の諜報機関をつくり、かなり広範囲な網を張って、測り知れぬ秘密でいっさいを包み隠しています。もう一年このかた我々は、スパイを彼のまわりに張りめぐらしているのですが、あいつの手の内がなんとしてもつかめんのです。やっこさんの金箱と才略とが、たえず悪徳に給銀を支払い、犯罪に基金を提供し、社会と恒久的な戦争状態にある悪党どもの軍隊を、維持してるってわけなんです。ですから不死身《ヽヽヽ》を逮捕し、その金箱を拿捕《だほ》することは、悪を根こそぎつぶすことにもなります。それであいつの征伐は、国家的な問題、高等政略の部類に属するんで、これに協力していただいて首尾よくいった暁には、こいつたいした表彰ものですよ。あなただってもう一度お役人に返り咲いて、警察署書記に任ぜられる望みさえありますとも。しかも退職年金を受け取るのに、なんの支障も起こらないようなポストにね」
「でもどうして不死身《ヽヽヽ》は金庫を持ち逃げしてしまわないのでしょう?」とミショノー嬢はたずねた。
「とんでもない」と刑事長は言った。「囚人の金なんかを盗んだら、どこへ高飛びしても、暗殺の密命を帯びた男に、つけ狙われますよ。それに金庫をかっさらうにしたって、良家の令嬢を誘拐するような、そんな生易しいわけにはゆきませんや。かつまたコランはそのような真似のできる、業晒《ごうさら》しのやつじゃありません。それこそ名折れだと当人きっと思うでしょうからね」
「そうですとも、あなた」とポワレは言った。「それこそ名折れになりますとも」
「でも今まで伺ったお話ですと、どうしてあの男をさっさと捕縛なさらないのか、あたしにはさっぱりわけがわかりませんわ」とミショノー嬢は口をはさんだ。
「それでは、お答えしましょう。けれどマドモワゼル」刑事長は彼女の耳もとに口をよせて囁いた。「この人に話の腰を折らせないでください、さもないといつまで経っても埒《らち》があきませんから。この爺さん、自分の話を人に聞かせるため、いいかげんに身代《しんしょう》を潰したんじゃないのですかい。……とにかく不死身《ヽヽヽ》はこの地にやってきて、真人間の皮をかぶり、パリの立派な市民になりすまして、目立たぬ下宿にころがりこんだのです。なにしろくえないやつですから、めったに尻尾《しっぽ》はつかませませんや。そんなわけでヴォートラン氏は、かなりな商売をやってのけている資産家って触込みが世間一般に利いているのです」
「まったくね」とポワレは独りごとを言った。
「それでもし間違って逮捕したのが、本物のヴォートランといった人だったりすると、パリ実業界や一般世論に、背を向けられることになりますので、大臣閣下はびくびくものでありますし、警視総監殿も敵が多いもので、地位がはなはだあぶなっかしく、ひょっとして過ちでもやらかしたら、その後釜を狙っている連中は、総監を失脚させようと、自由党側の攻撃や非難に、えたり賢しと乗じてくることでしょう。ですからこの問題は偽者のサント・エレーヌ伯爵〔本名ピエール・コニアール。前身脱獄囚、サント・エレーヌ伯爵と自称し陸軍少将になり、盗賊団の首領となっていたが遂に発覚し終身刑に処せられた〕、例のコニアールの事件のときと同じような措置を、当方としましても執らざるを得んのです。本当のサント・エレーヌ伯爵だったりすると、とんだことですからなあ。それで我々としても十分に確かめんけりゃならんので」
「それでわかりましたわ。でもそんな役なら、別嬪さんがお入用なんでしょう」とミショノー嬢は勢いよく言った。
「不死身《ヽヽヽ》は女を近づけんのです」と刑事長は述べた。「一つ秘密をお明ししましょう。あいつは女嫌いなんです」
「でもそんな見届け役にこのあたしが、なんのお役に立つのやら、さっぱり解りませんわ。かりにあたしが二千フランでお引き受けすると、仮定しての話なんですけど」
「なんの造作ないことなんですよ」とこの素姓の知れぬ曲者は言った。「卒中を起こすように仕向けた薬を、小びんに入れてお渡ししましょう。生命にはなんの別状もなく、脳溢血に似た症状をたんに起こすだけで、葡萄酒にもコーヒーにも混ぜられる薬ですから。そうしたらすぐと相手を寝台に運んで、息があるかどうかを調べる振りで、服を脱がせて、あたりに誰もいない折を見計らって、奴さんの肩を叩く、ピシャリとね。すれば烙印の文字が現われてくるかどうかで一切が解ります」
「まったくわけのないこってすな、そいつは」とポワレも言った。
「どうです、承知してくれますか?」とゴンデュローは老嬢にたずねた。
「でも、あなた、烙印が出ないときでも、二千フランはやっぱりいただけるのですの?」
「それは駄目です」
「するとお手当はいかほど」
「五百フランで」
「それっぽっちで、こんなだいそれたことするなんて! あなた、良心の咎めは同じことですわよ、こっちは良心を抑えなければならないんですからね」
「そうですとも、私は断言してもいい」とポワレは口を出した。「このミショノー嬢にはとても良心があるばかりか、心根もいたって優しく、ものわかりのすこぶるいい方なんですぞ」
「ねえ、じゃこうしましょうよ、もしも不死身《ヽヽヽ》だったら三千フランちょうだいするとして、堅気の人だったら一文もいらないってことに」とミショノー嬢はさらに語を続けた。
「よろしい!」とゴンデュローは言った。「ただし明日じゅうにやるという条件つきでですぞ」
「それでは早過ぎますわ、あたし懺悔聴聞《ざんげちょうもん》僧に相談しなくてはなりませんもの」
「抜け目のないお人だ!」と刑事長は言って立ち上った。「じゃ、あすまたお会いしましょう。私に急な用事でもありましたら、ラ・サント・シャペル寺院の境内のはずれ、サント・アンヌ小路へ来てください。アーチの下の通路には門は一つしかありません。そこでゴンデュローと呼んでください」
キュヴィエ教授の講義の帰り道、ビアンションは「不死身」というかなり風変りな名前にふと聴き耳を立て、名だたる保安部長の「よろしい!」という言葉をちらり小耳にはさんだ。
「なぜ話をきめてしまわなかったのです。終身年金三百フランにもなるボロ仕事じゃありませんか」とポワレはミショノー嬢に言った。
「なぜって、よく考えてみなければならないでしょう。もしもヴォートランさんがその不死身《ヽヽヽ》だったとしたら、ご当人に渡りをつけたほうが、ずっと得じゃないかしら。もっともあの人にお金を要求することは、予告してやることになり、一文も出さずに姿をくらましかねない人体《にんてい》だからいまいましい|どじ《ヽヽ》踏みってことに、こっちはなるかもしれないけど」
「やっこさん予告を受けたって、さっきの人も言ってたとおり、きびしい監視をつけられているんですぜ。もっともそうなるとあなたのほうは、虻蜂とらずになってしまうわけだが」
(それにあの男、どうも虫が好かない。こっちに不愉快なことばかり言うんだもの)とミショノー嬢は心で思った。「ですから、あっちに味方したほうが得ですよ」とポワレは続けた。「さっきの男、身なりもなかなかきちんとしているうえに、人柄もよさそうじゃありませんか。あの紳士の言ったように、社会から罪人を駆逐することは立派な遵法《じゅんぽう》行為ですからね。どんな徳望のある罪人にせよ、そうですわい。いちど染った悪習は、容易に抜けるもんじゃないんですからね。わしらぜんぶを皆殺しにしようなんて出来心を、あいつに起こされたらどうします? くわばら、くわばら! わしらが真先に犠牲になるのはもとよりのこと、そうした殺戮を幇助した罪までも、着なくちゃなりませんものね」
ミショノー嬢はひどく考え込んでいたので、締めたりない水道の栓から、ぽたぽたもれ出る水滴のように、ポワレの口から一つ一つ落っこちてくる言葉に、耳をかしている余裕などなかった。老人いったんその口文句の逐次連発を始め出すとなるや、ミショノー嬢がさえぎりでもしないかぎりは、巻いた機械と同じことで、めんめんとしてとめどがなかった。切出しの初めの主題から脱線し、結論もなにも出ないうち、ぜんぜん逆の問題を論じ出すといった具合になったからだった。
メゾン・ヴォーケルヘ着いたとき、とりとめのない例証や引用の続きのなかに、もぐり込んでしまっていたポワレは、ラグローとモラン夫人の事件に、弁護側の証人として自分が出廷したさいの供述の話にまでおよんでいた。下宿へ入りしなにミショノーは、ウージェーヌ・ド・ラスティニャックとタイユフェル嬢とが、睦じく話し込んでいるさまを見のがしはしなかった。話がよほど佳境に入っていたものと見え、二人の下宿人が食堂を通り抜けて行くのさえ、若い二人は気づかずにいた。
「ああなるに違いないと思っていましたよ」とミショノー嬢はポワレに言った。「ここ一週間来、二人とも魂を奪いあうような眼つきを、交しあっていましたからね」
「そうなんですよ」とポワレは答えた。「だから彼女は有罪になったのです」
「誰が?」
「モラン夫人」
「私はヴィクトリーヌ嬢のことを言ってるんですよ」とミショノーは言いながら、うっかりしてポワレの部屋に入って行ってしまった。「それだのにあんたときたら、モラン夫人のことを答えるだなんて。いったいその女はなんなの?」
「どうしてヴィクトリーヌ嬢に罪があるんです?」とポワレはたずねた。
「ウージェーヌ・ド・ラスティニャックさんなんかに、惚れ込んだ罪ですよ。どうなるかも知らずに、深みへはまりこんでゆくのよ、かわいそうね、何も知らない娘って!」
その日の午前、ウージェーヌはニュシンゲン夫人のため、絶望の底に突き落されていた。その心うちでは、ヴォートランに彼はすっかり身を委せてしまっていて、この並みはずれた男が彼に対して抱いている友情の動機など、べつに探ろうともしなければ、このような結びつきの前途をも、考えてみようともしなかった。
タイユフェル嬢といとも甘美な約束を交しつつ、もう一時間も前から足を踏み入れてしまっていた深淵から、彼を引っ張り出すためには、よほどの奇蹟でも待つよりほかはなかった。ヴィクトリーヌは天使の声を聞く思いだった。彼女のために天も開かれ、舞台の御殿に道具方がほどこすような幻想的な色合いで、メゾン・ヴォーケルも華やかに飾りつけられて見えた。彼女は愛し、愛されていた。すくなくもそう信じていた! 家じゅうの人のうるさい眼を遁れての一時《いっとき》、ラスティニャックの顔を見、その甘い囁きを聞くとしたら、どんな女でもやはり彼女と同じように、そう信じこまずにはいられなかったであろう!
ラスティニャックは良心と闘いつつ、悪いことをしているのも承知なら、その悪いことをあえてしようとも心がけ、一人の女を幸福にすることによってこの軽罪もつぐなえると、自分の心に言い聞かせていた。そうした絶望感から彼の顔には新規な美しさがくわわって、胸に抱いた地獄の業火で一面に照り輝いていた。彼にとっては仕合せなことに、奇蹟がそこに起こったのであった。というのはヴォートランがなかなかの上機嫌でいきなりそこへはいってきたからで、その極道な奸知の働きで、彼が縁結びをした若い二人の胸中を読みとるや、嘲るようなのぶとい声で、
わたしのファンシェット、かわいい娘
うぶで素直で……
と歌い出して、二人のお楽しみを、やにわに彼は邪魔してしまったからだった。
ヴィクトリーヌはその場を逃げ出して行った。こしかたの生活でなめた不仕合せほどにも、大きな仕合せを抱きながら。かわいそうな娘! 手を握られ、ラスティニャックの髪で頬を撫でられ、耳許で囁かれた言葉に学生の唇の熱さを感じさせられ、ふるえる腕で抱き締められて、首筋に彼女は接吻をうけた。そしてそれらこそ彼女の情熱を湧き立たせた婚約のしるしであった。近くにいる太っちょのシルヴィが、この光り輝く食堂のなかに、今にも入ってきはしないかという懸念が、かかる婚約のしるしを、もっとも著名な恋物語に述べられた熱誠のうるわしいあかしにもまして、はるかに焼けつくような烈しく心そそるものにしたのであった。われらが祖先のいみじき表現をかりて言えば、これらの「密祷加持《ムニュ・シュフラージュ》」は、半月ごとに告解に行く信心深い乙女には、まるで罪悪のようにも思われたのである。この一時に彼女が惜しみなく与えたほどの心の宝には、ずっと後になって富と仕合せとを得た彼女が、その身ことごとくを与える際のそれをも、けだし凌駕するものがあったであろう。
「策略、図にあたったぜ、君」とヴォートランはウージェーヌに言った。「ご存じの二人の伊達者は、決闘することになったぜ。万事は型どおり運び、見解の相違ということにことはきまった。我々の鳩がわしの鷹を侮辱してきたんだ。あすクリニャンクールの広場にてだ。八時半ごろ、タイユフェル嬢がここで呑気に細長いバタ付パンを、コーヒーに浸している間に、親父の愛情と財産を相続することになるんさ。考えてみればおかしな話じゃないか? タイユフェルの小伜は剣術が巧みでね、キング三枚握ったカルタ師のように自信たっぷりなんだが、なあに、わしの工夫した一撃で血塗れになるとも。そいつは剣を上段に構えて、相手の額を突く手なんだ。このお突きの型は君にもそのうちご伝授しよう。おそろしく有効なんだから」
ラスティニャックはぼんやりした面持で聞いていたので、これになんの返事もできなかった。と、このときゴリオ爺さんやビアンションや、その他二三の下宿人たちが入ってきた。
「わしの望んだとおりに君はなったわけだな」とヴォートランは彼に言った。「君のせんけりゃならんことは、百もおわかりだろう。よろしい、わが若鷲君、ほかのやつらを君は牛耳るんだ。君は強く、逞しくて行動力がある。君はわしの尊敬をかち得たぞ」
そう言ってラスティニャックの手をとろうとした。学生は激しく手を引っ込めるや、真蒼になって椅子にべったり腰をおろしてしまった。彼は目の前に血の沼が見えるような気がした。
「ああ、君はまだ廉潔《れんけつ》なんてよごれのついたおむつをくっつけているんだね」とヴォートランは低い声で言った。「頑固《ドリバン》爺いは三百万フラン握ってる。わしはやつの財産を知っているんさ。持参金が転げ込んでくれば、花嫁の式服のように君は純白になれるよ。そして自分の目にそう映るだろうとも」
ラスティニャックはもうためらわなかった。その晩のうちにタイユフェル父子のところへ、警告しに行こうと決心をした。と、このとき、ヴォートランが彼の傍を離れたので、ゴリオ爺さんが寄って来て学生の耳に囁いた。
「さっぱり元気がありませんな。このわしが陽気にしてあげましょう。ついていらっしゃい!」
そして老製麺業者はランプの火を糸ローソクにつけた。ウージェーヌは好奇心に胸おどらせながら、その後に従った。
「あんたの部屋に入りましょう」と老人はもうシルヴィから学生の部屋の鍵を受け取っていた。「あの子の愛情が薄いとでも、けさ方は恨んでいたんでしょう、ねえ?」とゴリオは続けた。「あの子にむりに追い立てられたもので、腹を立ててお戻りになったんですか、お馬鹿さん。あの子はね、じつはわしを待ってたんですよ。わかりましたか。ここ三日以内にあんたが引っ越して行く先の、きれいな部屋の備え付けの仕上げに、わしたちは行くことになってたんですからね。わしが喋ったなんてばらしちゃいけませんぜ。あの子はあんたをびっくりさせるつもりでおるんだから。だがわしにはどうもこれ以上、あんたに内証にはしておけんのじゃ。サン・ラザール通りから眼と鼻のダルトワ通りに、あんたは王子様のように住まうことになるんですぞ。花嫁御でも迎えるような家具調度を、あんたのためにちゃんと支度しておきましたぜ。あんたの知らんうちにここ一ヵ月来、わしたちはたくさんなことをやらかしましたよ。わしの代訴人も運動を開始し、娘には持参金の利子として、年に三万六千フラン入ることになるでしょう。あの子の八十万フランはしっかりした不動産に投資しておくことを、わしは要求するつもりですからね」
ウージェーヌは口をつぐんで両腕を組んだまま、乱雑な自分のぼろ部屋のなかを、あちこち歩きまわった。学生が背を向けた隙をうかがって、ゴリオ爺さんは暖炉棚の上に、赤いモロッコ革の小箱をのせた。革の上にはラスティニャック家の紋章が、金地で浮き出ていた。
「ときにウージェーヌさん」と憐れな老人は言った。「今度のことでわしはすっかり一心不乱になりましたが、それというのがわしのほうにも、ちと手前勝手な算段があっての話じゃ。あんたが宿を変えられるのは、このわしにも関係があることなんですよ。ねえ、一つお願いしたいことがあるんですが、まさか嫌だとはおっしゃらんでしょうな?」
「どんなお願いです?」
「あなたの部屋の真上の六階に、付属した一部屋があるんです。わしはそこに住みたいんですが、どんなものでしょう? そろそろ年をとってきたし、娘たちからもあまりに離れすぎてるわしだ。決してあなたにご迷惑はかけません。ただ上の部屋にいるだけの話ですよ。そして毎晩あの子のことを、話して聞かせてもらいますよ。ねえ、それしきのことなら、そう煩わしくもなんともないでしょう。どうです。あなたがお戻りになる、わしは寝床にいて、あなたの足音を聞きながら、(わしのデルフィーヌに逢ってきたんだな。舞踏会にでも一緒に行ったんだろう。あの子もおかげで仕合せだわい)って思えますからな。よしんばわしが病気になったって、あなたが戻って来たり、身動いたり、出て行ったりする気配を聞けば、心の慰めになりまさあ。あんたのうちにはわしの娘が、どっさりといるんじゃもの。それからまたあの子たちが毎日通るシャン・ゼリゼに行くにしても、あそこからならほんの一走りでいいし、きまって姿を拝めもしようが、ここだとときどきは遅れることがないでもないでな。それにきっとあの子も、あんたのところへ立ち寄るでしょうから、その声も聞けるし、朝の絹外套を羽織って、小猫のようにかわいらしくちょこちょこ歩く姿も、眺めることができましょうて。あの子もこの一月ばかりで、以前のような陽気で小意気な娘に逆戻りしましたぜ。心のわずらいも回復期に入ったんですな。あんなに幸福になれたのも、みんなあんたのお蔭ですよ。ああ、どんな及びつかんことでも、わしはあんたのためならしてあげたい。さっきも帰りしなに、あの子は言っていましたよ。『パパ、あたしとても幸福よ』って。娘たちから堅苦しく『お父さん』などと言われると、わしはぞっとしますが、『パパ』と呼ばれると、あの子たちがまた小さい時分に返ったような気がして、いろんな思い出が、わしには蘇って来ますのじゃ。あの子たちの父親に、自分が一層なったような気がしてね。あの子たちはまだ誰のものにも、なっておらんような気までも、してくるんですよ」
老人は眼を拭いた。泣いていたのだった。
「そうだ、パパという言葉を聞かなくなってから、もうずいぶんになる。あの子は長いことわしに腕を貸してくれなかった。そうだ、わしが娘の一人と並んで歩かなくなってから、もう十年もの歳月がたつ。あの子の服に擦れ合い、その歩調にこっちの足を合わせ、あれの腕の暖かみを感じとるというのは、じつに心楽しいもんですなあ。それでわしは今朝がたデルフィーヌを、ほうぼうへ連れて歩き、あれと一緒にあちこちの店に入り、そしてそれから家まで送り届けてきましたのじゃ。おお、わしをぜひあんたのそばに置いといてくださいよ。用事を頼めるような人がほしいことが、ときたまはおありでしょう。そんな時は、このわしが控えていることをどうかお忘れなくね。ああ、あのアルザス生まれの肥った鈍物めがくたばれば、あいつの足痛風が気をきかして胃まで攻め上ってきてくれたらば、わしのかわいそうな娘も幸福になれるんじゃが。そんなときは君もわしの婿殿になって、娘の天下晴れてのご亭主になれるわけですさ。不仕合せにもあの子は現世の楽しみときたら何一つ知らないもんで、わしはもうなんでもかでも赦してやっておりますのじゃよ。神様にしても愛情深い父親の肩を持ってくれんけりゃならんはずですよ。あの子はあなたをまったく熱愛しとりますぞ!」彼はちょっと口をつぐんでから、かぶりを振り振り続けた。「歩きながらもわしとあんたの噂で持ち切りじゃ。『ねえ、お父様、あの方様子がいいわね。心もお優しくって。何かあたしのこと話していらしって』なあんてね。それがダルトワ通りからパノラマ歩廊まで、途中ずっと喋っとったのですぞ、どっさりとな。そんなわけであの子は、心をわしの心に注ぎ込みましたわい。楽しいきょうの午前中は、この自分がすっかり年取ったのも忘れ、一オンスの重さも、身にも心にも感じませんでしたわい。あなたが千フランの紙幣をわしに返したと申しましたらな、なんてかわいいんでしょう、あの子ったら涙を流して感動していましたよ。おや、その暖炉の上にのってるのはなんでしょう?」ラスティニャックが身動きもせずにじっとしていたので、とうとう辛抱しきれなくなって、ゴリオ爺さんは口を出した。
ウージェーヌはすっかり茫然自失のていで、ゴリオをぼんやり眺めてばかりいた。ヴォートランからあすと告げられた決闘と、彼の大望の実現との、あまりにも強烈な対照のため、彼はまるで悪夢をでも見ているような思いがしていた。暖炉のほうに振り向くと、小さな四角の小箱が、そこにはあった。それを彼は開けてみた。紙に包まれてプレゲ製の時計が出て来た。紙の上には次のような言葉が書かれてあった。
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四六時ちゅうあたくしのことを、|ちくたく《ヽヽヽヽ》考えていていただきたいのですの。|なぜなら《ヽヽヽヽ》……
デルフィーヌ
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この終りの言葉は二人の間に起こったなんらかの場面を仄めかしてのものに違いなかった。ウージェーヌは心打たれた。箱の内側の金地にも、彼の紋章がエナメルで描かれてあった。あんなに前からほしがっていたすばらしい時計、その鎖も龍頭も型も意匠も、まったく彼の望みどおりの品だった。ゴリオ爺さんも顔輝かしていた。この贈り物をもらってのウージェーヌの驚きかたの逐一をでも、語り聞かせる約束を、きっと娘にしてきたのに違いない。若い二人の感動からすると、第三者の立場にあったにもかかわらず、ゴリオも負けず劣らずに幸福そうに見えた。彼は娘のためにも、また自分のためにも、はやもうラスティニャックに惚れ込んでいた。
「今夜あの子に逢いにいらっしゃるでしょうな。向うでも待っていますよ。アルザス生まれのあの図太い鈍物は、踊り子のところへ晩餐に行きましたからね。はあ、はあ、わしの代訴人が当然の非難を、あいつに差し向けたときのやっこさんの馬鹿づらといったらね! 崇拝したいくらいにわしの娘を愛してるなんて、言い張るじゃありませんか。娘に手でも振り上げようものなら、わしはあいつを叩っ殺してやりますよ。わしのデルフィーヌがあいつの……(ゴリオは大きく溜息をもらした)そう思っただけで、わしは犯罪でも犯したいような気にむらむらとなります。だが決してそれは人殺しにはなりませんよ。豚の胴体に仔牛の頭がついてる相手じゃありませんか。ねえ、あなたはわしを階上に引き取ってくださるでしょうな?」
「もちろんですよ、ゴリオの父さん。どんなに僕があなたを愛しているか、もうお解りのはずじゃありませんか」
「解っとりますとも。わしのことを恥じなさらんのは、あんただけじゃ。わしにあんたを抱かしてくだされ」
そう言ってゴリオは学生を両腕で抱きしめた。
「あの子を幸福にしてやってくださいますでしょうな。わしに堅く約束をしてください。今夜は逢いに行かれるんでしょうね」
「ああ、そうだ。のっぴきならない火急の用事で、僕は出かけなけりゃならんのです」
「わたしに何かできることでもあったら?」
「どうぞお願いします。ニュシンゲン夫人のところへ僕が行っている間に、タイユフェルの父親を訪ねて、しごく重大な問題について、お話し申したいから、今晩一時間だけ割いてはもらえないかと、僕との面会を申し込んできてはくれませんか」
「やっぱり本当だったのか、君」とゴリオ爺さんは顔色を変えて叫んだ。「下の馬鹿どもが騒いでおるとおり、君はあの娘に求婚しておったのかい?……呆れ返った話だ! 君はゴリオ一流の平手打ちが、どんなものかを知らんのじゃな。それどころか、もし君が我々を瞞したんなら、それこそ拳骨ものですぞ……おう、君がそんなことをするなんて、とても信じられんわい」
「僕はあなたに誓いますよ」と学生は言った。「僕の愛してるのは世界じゅうでわずか一人の女性だけです。自分でたった今、それを知ったところなんです」
「ああ、なんてうれしいことだ!」とゴリオは叫んだ。
「しかし、タイユフェルの息子の決闘はあすに迫っているんです。その結果殺されるということを、僕はいま小耳にはさんだのですよ」と学生は言葉を続けた。
「それがあんたになんの関係があるんじゃ?」
「だって息子に行かせないように、父親に教えてやらなくては……」とウージェーヌは叫んだ。
だがちょうどこのとき、ヴォートランの部屋の戸口あたりから、彼の歌声が聞えてきたので、ラスティニャックは話の続きをさえぎられてしまった。
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おおリチャード、おおわが王!
世界は御身を見棄てたり……
ブルーン! ブルーン! ブルーン!
ブルーン!
世界を長らくへめぐって
面を知られたこの拙者……トラ・ラ・ラ・ラ
[#ここで字下げ終わり]
「皆さん」とクリストフが叫んだ。「お食事ですよ。皆の衆待っていますから」
「おーい」とヴォートランは呼んだ。「おれのボルドー葡萄酒を一本持って来てくれ」
「あの時計、すばらしいと思いませんか?」とゴリオは言った。「あの子は好みがいいでしょう、どうですね!」
ヴォートラン、ゴリオ爺さん、ラスティニャックは、揃って階下に降りて行ったが、遅くなった関係で、三人は並んで食卓についた。
ヴォーケル夫人の眼には、非常に愛想よく映ったヴォートランが、ついぞないほどの機知をあたりにふりまいていたにもかかわらず、ウージェーヌは食事中、この男に対してひどくよそよそしい冷ややかな態度を見せていた。ヴォートランは頓知百出で、一座の人たちをすっかり調子づけてしまった。彼の泰然たる確信とくそ落ち着きに、ウージェーヌは呆れた。
「きょうはいったいどうしたというんですの?」とお女将はヴォートランに言った。「まるでカワラヒワのように陽気だこと」
「うまい取引をやってのけたときは、おれはいつも朗らかなのさ」
「取引?」とウージェーヌは思わずきき返した。
「そうだ、そうなんだよ、商品の一部を引渡したんだが、たんまりコミッションを請求する権利が得られたんでね。おや、ミショノーさん」と彼は老嬢からじろじろ見られているのに気づいて言った。「あんたはわしをアメリカ土人(インディアン)の探るような目付きでばかりごらんだが、わしの面にもしやお気に触ったところでもあるんですかい? ぜひそれを言ってくださいよ。あなたのお気に召すように、顔の造作を変えますからね……ポワレさん、こんな放言でわしたちの仲は、まさか気まずくなりはしまいね、どうですな?」と古手役人を横目で見ながらさらに彼は言った。
「こいつあ素敵だ! ヘルキュール道化師《ファルスー》〔有名な彫像ヘルキュール・ファルネーズに掛けた駄洒落。次の墓場のヴィーナスというのも、ミロのヴィーナス、メジチのヴィーナスなどと同列にペール・ラシェーズのヴィーナスと冷罵したのである〕のモデルに、あなたはうってつけですぜ」と若い画家はヴォートランに言った。
「よしなってやろう、もしミショノー嬢が墓場《ベール・ラシェーズ》のヴィーナスのモデルになるというのなら」とヴォートランは答えた。
「じゃポワレさんは?」とビアンションが言った。
「ポワレはポワレのポーズに立つさ、果樹園の神様になれる!」とヴォートランは叫んだ。「梨《ポワル》からもともと出たんだもの……」
「ぐにゃぐにゃ梨だ!」とビアンション。「するともう今や梨とチーズの間〔デザート〕ってわけですね」
「まあ、くだらないことばっかり」とヴォーケル夫人は言った。「それよかあなたのボルドー葡萄酒を、みんなに振舞ってくださったほうがよさそうよ。壜が顔をのぞかせているのを、わたしはさっき見てしまいましたよ! 座を賑やかにしてくれるばかりでない、胃《エストマック》〔胃《エストマ》を無学のためエストマックと発音した〕にも利きますからね」
「満場の諸君」とヴォートランは言った。「女議長が静粛にと我々に申しておられます。クーチュール夫人やヴィクトリーヌ嬢は、諸君のふざけたお喋りに、感情を害するようなことはありますまいが、しかしゴリオ爺さんの純情を、一つ尊重いたすことにしようではありませんか。私は諸君にボルドー葡萄酒の小壜|ラマ《ヽヽ》をご提供しよう。ラフィットの名〔ラフィットはフランス銀行総裁、後に政界に入り総理大臣となった。ボルドー産赤葡萄酒にシャトー・ラフィットというのがあり、この二つを取り合せた洒落〕で二重に有名になったしろものです。といって政治にあてつけての謂《い》いではありませんが。――おい、こら、瘋癲《ふうてん》!」と彼はクリストフのほうを眺めながら言ったが、瘋癲人は動こうともしなかった。「さあ、クリストフ、来るんだ。お前は名が聞えんのか、この瘋癲め、飲物を持って来い!」
「お待ち遠さま!」クリストフは壜を差出しながらヴォートランに言った。
ウージェーヌとゴリオ爺さんの杯に彼はなみなみと注いでから、ゆっくりその幾滴かを自分の杯にたらして、隣の二人が飲んでいるあいだに利き酒をしていたようだが、にわかに渋い顔をした。
「畜生、コルクの匂いがしやがる。クリストフ、こいつはお前が飲むことにしろ。別なのを持って来てくれ、右手のやつだ、わかってるな? 総勢十六人だから八本ばかりおれの部屋からおろしてこい」
「そんなに豪勢に気張るんなら、負けずに僕も栗を百個、奢りましょうや」と画家は言った。
「おおーおおー」
「ぶうううー」
「ぷるるるるー」
みんなの発した歓声は、打ち上げ花火のように揚った。
「さあ、ヴォーケル・ママ、シャンパンを二瓶おごった、おごった!」とヴォートランはお女将に言った。
「ほら、おいでなすった! この家よこせって、どうして言わないのさ。シャンパンを二本だなんて。十二フランもかかるのよ! そんな大金、あたしに埋め合せられると思って。だめ、だめ。その代りにウージェーヌさんが払ってくださるのなら、すぐり酒をご馳走してあげてもいいわ」
「ここのすぐり酒ときたら、甘露蜜《マンナ》下剤のようにお腹を浄めるという大変なしろものだよ」と医学生は低い声で言った。
「言わんでくれ、ビアンション」とラスティニャックは叫んだ。「マンナなんて聞いただけで、僕はもう胸が……よし、シャンパンと行こう、僕が払ってやる」と学生は言い足した。
「シルヴィ」とヴォーケル夫人が言った。「ビスケットと|おつまみ《プチ・ガトー》をお出し」
「お内儀のところの小菓子《おつまみ》は、ちと大きくなりすぎてますぜ。かびのひげが生えてますからね。それよかビスケットを持って来なよ」とヴォートランは言った。
たちまちのうちにボルドー酒はゆき渡って、一座は景気づき、陽気な騒ぎは倍増しになった。凄じい笑い声のさなかを、いろんな動物の鳴き真似ごっこがつんざいた。博物館の雇員が、さかりのついた猫の鳴き声そっくりな、パリ市じゅうの呼び売りの声を真似ようと考え出すと、たちまちに八つの声が次のような叫び文句を、いっせいにほえ立てだした。
「鋏《はさみ》小刀研ぎ」
「小鳥えさのハコベはいかが!」
「女子《おなご》衆好物の巻き煎餅!」
「瀬戸物のやきつぎ屋でござい!」
「牡蠣《かき》屋、牡蠣!」
「女房叩きにもなる洋服叩きはいかがですね」
「古着古帯古帽のおはらい!」
「さくらんぼう、甘いさくらんぼはいかが!」
鼻にかかったアクセントで、「傘や、こうもりや!」とがなったビアンションに、けっきょく栄冠は落ちた。
しばらくのうちに座は頭が割れそうな騒ぎ、頓珍漢《とんちんかん》な言葉のやり取りとなって、オーケストラの楽長よろしく、ヴォートランが指揮するオペラそっくりになった。すでに酔いのまわったらしいウージェーヌとゴリオに、一方、ヴォートランは、監視の眼を怠らなかった。ご両人とも酒はほとんど飲まず、椅子に背をもたせたまま、このいつにない乱痴気騒ぎを、鹿爪らしく眺めていた。二人とも今夜じゅうにやらねばならぬことに気を取られていたが、さりとて席を立つこともできかねるような気分だった。傍目づかいに二人の顔付きの変りざまを、見守り続けていたヴォートランは、彼らの眼がとろんとして、塞がりそうに見えた瞬間、ラスティニャックの耳許にかがみこんで、こう囁いた。
「おい若いの、このヴオートラン・パパに楯つこうったって、お前さんぐらいのこざかしさじゃ、まだまだ無理だぜ。それにこのパパはお前さんが大好きだもんで、馬鹿な真似なんかさせたくはないんさ。わしが何かやろうと決心をした以上、神様のようなお強い方でもなければ、行く手を塞ぐことはできんのだぜ。ほう、お前さんタイユフェル親父にご注進に及ぼうなんて、青臭い過ちをやらかそうっていうのかい! パン窯《がま》には火も入り、パン粉も捏《こ》ね上げてあるんだぜ。パンは長柄のシャベルにもうのっかっているんだよ。あすになればおいしいパンにむしゃぶりついて、パン屑なんかパッパと払い落せばすむというのに、窯に入れるのを邪魔立てしようっていうのかい。……いや、いかん、うまく焼き上るんだから! ちっとは後味悪くったって、そんなのは消化でこなれちまうぜ。ぐっすり一眠りしている間に、伯爵フランチェシニ大佐がその剣先で、ミシェル・タイユフェルの相続分を、君のほうにと道を穿《うが》ってくれてるんだ。ミシェルの後を継げば、ヴィクトリーヌには一万五千フランばかりの年金がころがりこむじゃないか。わしはもうちゃんと調べ上げておいたよ。母親のほうの遺産だって三十万以上にものぼってるんだぜ……」
この言葉を聞きながらもウージェーヌは、答える気力もなかった。舌が上顎に硬《こわ》ばりついた感じだったし、どうにもならない睡魔に襲われていた。食卓も一座の連中の顔も、明るい霧を透して見るように、ただもうぼんやりしていた。まもなく騒ぎも鎮まって、下宿人たちは一人一人行ってしまった。そして残っているのはお女将とクーチュール夫人とヴィクトリーヌ嬢と、それにヴォートランとゴリオ爺さんとだけになったとき、ラスティニャックの眼には、ちょうど夢でも見るように、ヴォーケル夫人が卓上から集めてきた壜底の残り酒を、あちこちからあけて、一杯にした壜をつくろうとしているさまが映った。
「ああ、なんていう馬鹿騒ぎでしょう……みんな気だけは若いのね!」と未亡人は言った。それがウージェーヌにわかった最後の言葉だった。
「こんな悪ふざけを考えるだなんて、ヴォートランさんのほかにはありませんわ」とシルヴィも言った。「おや、クリストフったら、|こま《ヽヽ》のうなっているような鼾《いびき》具合だわ」
「それじゃママ」とヴォートランは言った。「わしはブールヴァールに行ってマルティのやる『荒山』を見てくるぜ。『孤独者』から脚色したお芝居だ。よかったら連れて行こうか。二人のご婦人方も一緒にな?」
「せっかくですけど」とクーチュール夫人は断った。
「まあ、奥さん!」とヴォーケル夫人は叫んだ。「アタラ・ド・シャトーブリアン〔フランソワ・ルネ・ド・シャトーブリアンの間違い。『孤独者』の作者の名も間違えている〕の書いた『孤独者』からとったお芝居を見るのをお断りするだなんて。あの評判小説、夢中になってあたしたち読んだじゃありませんか、この夏も菩提樹の下でさ。そしてさめざめ泣かされちゃいましたわね。あれはヴィクトリーヌの教育上にも、ためになろうっていう教訓的なものよ」
「お芝居に行くことは、あたくしたち神父様から禁じられておりますから」とヴィクトリーヌは答えた。
「おや、このご両人、夢路の国へとお発《た》ちあそばしたか」そう言ってヴォートランはおどけた恰好で、ゴリオとウージェーヌの頭をゆすった。
そして楽に眠れるように学生の頭を、椅子の背にもたれさせてから、次のように歌いつつ学生の額へ愛情をこめた接吻をした。
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眠れよ、わがいとしきもの
われ見守らん、夜をこめて
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「ウージェーヌさん、ご病気じゃないかしら?」とヴィクトリーヌは言った。
「じゃ残って介抱なすってくださいよ」とヴォートランは答えた。「従順な妻としてのそれはあなたの義務ですぞ」と彼は彼女の耳元で囁いた。「この青年はあなたを熟愛していますぞ。そしてあなたは彼のかわいい細君になるでしょう。そのことは私が予言しておきますよ」そして彼は声を高め、「『かくて二人は国じゅうより尊敬を受け、末長く幸福に暮し、多くの子孫を儲けるにいたりました』ていうのが、あらゆる恋物語の結びでござい。――さあ、ママ」と彼はヴォーケル夫人のほうへ向き直って、お女将を抱きながら言った。「帽子をかぶって、花模様の美しい他所《よそ》行きを着て、伯爵夫人に買わされたあの肩掛けを身につけるんだ。わしはママのために馬車を探しに行ってくるからね……ご自身でね」そして歌いながら出て行った。
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お日様、お日様、お天道《てんと》様
お前さんのおかげでかぼちゃも熟《う》れる。
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「ねえ、クーチュールの奥様、あのような人と一緒だったら、さだめし屋根の上でだって楽しく暮せますわね。――おやおや」お女将は製麺業者のほうを向きながら言った。「ゴリオ爺さんまで寝込んでる。このしわんぼ爺いときたら、|ひと《ヽヽ》をどこかへ連れて行こうなんて、一度だって考えたこともないんだからね。あらあら、床の上へころげ落ちそうだこと。いい齢をして、こんなに正体をなくすなんて、ほんとにいけすかない。もっとも初めからないものは、なくなす心配はないって言われそうだけど。……シルヴィ、爺さんを部屋にかつぎ上げておやりよ」
シルヴィは老人の脇の下を抱えるようにして歩かせ、服を着せたまま、まるで荷物のように、寝台に横ざまに放り込んだ。
「かわいそうにね!」とウージェーヌの眼の上に垂れかかった髪の毛を、掻きあげてやりながらクーチュール夫人は言った。「まるでお嬢さんみたい。飲み過ぎたらどうなるかさえ、この人は知らないんだわ」
「ほんとにね、あたしもこの下宿をひらいて三十一年、ずいぶん多くの青年を、それこそ手塩にかけてきましたけど、このウージェーヌさんほど気立ての優しい上品なお人は、ついぞ見たことがありませんわ。なんてこの寝顔のかわいらしいこと! クーチュールの奥さん、あなたの肩の上に、ラスティニャックさんの頭をもたれさせておやりなさいよ。おや、おや、ヴィクトリーヌさんの肩のほうにとしぜんに倒れかかる。若い者たちにはちゃんと神様がついているのですね。もうすこしのことで椅子の角で頭を打ち割るところだったじゃないの。この二人を合せると、ほんにかわいらしい夫婦《みょうと》びなができるじゃありませんこと」
「おかみさん、よしてよそんな……」とクーチュール夫人は叫んだ。「滅多なことは……」
「なあに、聞えるもんですか。――じゃシルヴィ、着替えの手伝いをね。大きなコルセットを着けるから」
「なんですって、お食後に大きなコルセットをですって、マダム?」とシルヴィは言った。「だめですよ、コルセットを締める人は他に探して来てくださいよ。主人を締め殺す役なんて真平ですからね。命にもかかわろうっていう無茶を、マダムはなさるおつもりなんですか」
「構わないよ、ヴォートランさんにこっちも礼だけは尽さなくっちゃ」
「そんなにご自分の遺産相続人がかわいいんですか?」
「行こう、シルヴィ、つべこべはごめんだよ」と寡婦は出て行きしなに言った。
「あの齢でね!」とシルヴィはヴィクトリーヌに、お女将を指しながら言った。
クーチュール夫人とヴィクトリーヌとだけが、食堂に居残った。ウージェーヌは乙女の肩にもたれたまま寝入っていた。クリストフの鼾がひっそりかんとした家のなかに響いて、幼な児のようにすやすややすんでいるウージェーヌの穏やかなそれと、きわだった対照をなしていた。女の全情感を流露ができ、自分の上で青年の心臓が鼓動しているのを、後ろめたい気持もなく感じることができる、そうした博愛のわざに及べることで、ヴィクトリーヌはすっかり幸福感を覚え、母性的なかばいだてといったものが、その顔つきにも働き、誇りやかな色がうち輝いていた。彼女の心のなかに湧き起こった考えを貫いて、肉悦《ヴオリュプテ》のざわざわしい衝動があり、純な若い熱気の交換を、それはしきりとそそって止まなかった。
「かわいそうね、ヴィクトリーヌも!」とクーチュール夫人は言って、娘の手を握りしめた。
幸福の後光がさしそめたあどけない悩ましげなヴィクトリーヌの顔を、老婦人はほれぼれとして、見惚れた。画家がこまごましい付属部をぜんぶ無視して、ただ金色に空が反射して見えるような、黄色い色調の顔だけをのこして、静かな昂然たる画筆の魔術をふるった、あの中世の素朴な絵画の一つに、ヴィクトリーヌは似通っていた。
「二杯以上とは召し上らなかったのですのにねえ、おばさま」とヴィクトリーヌはウージェーヌの髪の毛を指で梳《す》きながら言った。
「でも道楽者だったら他の人と同じように、この人だって酒に負けやしなかったでしょうよ。酔っぱらってこの方はかえって面目を施したってわけ」
馬車の音が通りで響いた。
「おばさん、ヴォートランさんが帰ってきたわ。ウージェーヌさんを引き受けてちょうだい。あの人にこんなところを見られたくはないの。心を汚すような物の言い方をなさる方だし、服でもぬがされたみたいに、極りの悪い思いを、女の人にさせる眼つきを、あの人はいつもなさるんですもの」と乙女は言った。
「いいえ、それはお前の思い違い、ヴォートランさんは親切なお人ですよ。ちょっと死んだ良人のクーチュールに似たところがあってね。がさつだけど根は優しく、無作法ながらに頼もしいところのあるお方なんだよ」とクーチュール夫人はとりなした。
このとき、ヴォートランはそっと入ってきた。ランプの柔らかい光に愛撫されているようなこの二人のつくり出している画面に眺め入って、腕組みしながら彼はつぶやいた。
「ほう、これは『ポールとヴィルジニー』の作者、優しいあのベルナルダン・ド・サン・ピエールに、美しい描写の数ページのヒントを与えそうな場面だな。青春はじつに美しいもんだね、クーチュール夫人!――かわいそうに、坊や、よくお眠り、果報は寝て待てだから」とウージェーヌを眺めながら言い、クーチュール夫人のほうに向き直って、「マダム、わしがこの青年に気を惹かれ、心動かされるというのも、彼が顔つきと同じように、精神までそれに釣り合って美しいことを、知っているからなんですよ。ねえ、まるで天使の肩によりかかった天使童児《ケルビム》といった図じゃありませんか。まったくこの坊やは愛されるだけの値打が十分ありますよ! わしがもしも女だったら、彼のため死にたい(いや、そんなばかな!)、彼のために生きたいと思いますね。こうやって二人の姿を見てると、ねえ奥さん」ここで彼は声を低め、夫人の耳許に身をかがめて、「神様は二人をめあわせるために、お造りになったのだとしか、考えられませんなあ。神のご摂理は冥々のうちに運ばれ、人の腰っ骨(度胸)や心をお試しになるのですよ」ここで彼は声を高めた。「あなた方がそうやって結ばれている――同じような純潔さで、あらゆる人間的感情で、そう結ばれていなさるのを見ると、将来においてもお二人が離れることは、絶対にないような気が、わしにはしますね。神様は公正ですからなあ。――それにさ」と彼はヴィクトリーヌに言った。「あなたに幸福の手筋があったのを、いつぞや見たような気がしますしね。手を貸してごらんなさい、ヴィクトリーヌさん。わしは手相に精しいんだ。よく人に占ってやったことがある。さあ、怖がることはないじゃありませんか。やあ、こりゃなんというすばらしさだ。嘘じゃない。あんたは近いうちにパリで一番裕福な遺産相続人になりますぞ。あなたの愛している男を、それこそ幸福で有頂天にさせることにね。それにお父さんはあなたを呼び戻しますぜ。しかもあなたは爵位のある、若い美しい男に熱愛されて、めでたく添いとげることになりますぞ」
このとき、めかしこんだお女将の階段を下りてくる重い足音で、ヴォートランの占いもさえぎられてしまった。
「いよう、ヴォーケエル・マンマアア、美しきこと天なる星《ほーし》のごとく、寸分の隙なく綺羅《きいら》を飾って参られたよな。――だがすこし息苦しくはないですかい?」そう言ってコルセットの張鋼《はりはがね》の上に手を触れた。「胸のところがいやに堅くしめつけられてますな、マンマア! 泣きでもしたら、それこそ破裂してしまいますぜ。もっともそのときはわしが古物愛玩家の丹念さで、破片を拾い集めてあげますさ」
「あの人ったらフランス式の|意気な言葉《ギャラントリ》まで心得てるのね!」とお女将はクーチュール夫人の耳許にかがみ込んで囁いた。
「じゃお若い方々、さようなら」とヴォートランはウージェーヌとヴィクトリーヌのほうに振り向いて続けた。「君たちを祝福しますぜ」そう言って二人の頭の上に片手ずつのせて彼は言った。「お嬢さん、わしの言うことを信じなされ。誠実な人間の祈願だもの、ちっとは何かになって、幸福でももたらすのに違いないですよ。神様はちゃんと聴いていてくださるでしょうからね」
「では行って来ますよ、奥様」とお女将はクーチュール夫人に言った。そして低い声でつけ加えた。「ヴォートランさん、このあたしに気があるんじゃないでしょうか、どうお思い?」
「おやまあ!」
二人の女だけになったとき、ヴィクトリーヌは大きく溜息をついて、両手を眺めながら言った。「ねえ、おば様、あの親切なヴォートランさんのおっしゃったこと、本当であってくれればねえ!」
「そのためには、たった一つのことだけでたくさんなんだよ。つまりあの人でなしの兄さんが、馬からでも落ちてくれさえすりゃ……」
「まあ、おば様!」
「そうだったね、敵に悪運を望むってことも、やっぱり罪咎《つみとが》の一つなんだろうね」と未亡人は言った。「そのことで私は懺悔をするとしよう。だけど本当のところ、あの男のお墓へなら、いそいそとお花を供えに行きたいね。まったく腹黒いやつだもの! 自分の母親のために弁護をする勇気もなく、お前を押しのけて、母親の遺産を悪だくみで横領までしてしまったのだからね。お前のお母さんには相当の財産があったのにねえ。夫婦財産契約のなかに、お母さんの持参金のことがちっとも触れてなかったのが、まったくお前さんにとっては不運の極みさ」
「誰かの命を犠牲にしてえた幸福なんかでしたら、あたしそんなのにあずかるのは、苦しい思いのしどおしですわ」とヴィクトリーヌは言った。「幸福になるため、お兄さんが姿を消さねばならないというのでしたら、いつまでもここにこのままでいたほうがましですの」
「ほんとね、あの優しいヴォートランさんの言うとおりだわ。あの人、とても信仰に篤いってこと、よくわかったでしょう」とクーチュール夫人は続けた。「神様のお話をするのに悪魔がするのよりすくない畏敬の念をもってする他の連中とは大ちがい、ヴォートランさんは不信心者でないということがわかって、私にしてもとてもうれしかったわ。まったくよ、神様の摂理がどう私たちをお導きになるか、誰にわかるもんですか!」
シルヴィに手伝われて二人の婦人は、やっとこさウージェーヌを部屋うちに運んで、彼の寝床にと寝かしつけた。楽になれるようシルヴィは学生の服の前をはだけてやった。部屋を出て行く前、クーチュール夫人がひょいと背を向けた隙に、ヴィクトリーヌはウージェーヌの額の上にそっと接吻をした。それはこの罪深い盗みキッスから胸にみなぎったに違いない、あらゆる幸福感をもってしてであった。彼女は、彼の部屋を見まわし、きょう一日に味わった数々の喜びを、たった一つの想念のなかにとりあつめ、それで一幅の画面をつくり、いつまでもそれを見詰めながら、床に入ってついには眠り込んでしまった。パリで最も仕合せな女性と、自分のことを思いながら。
ウージェーヌとゴリオ爺さんに麻酔剤入りの葡萄酒を飲ませるため、ヴォートランが考え出した酒盛りは、彼の破滅を決定づけてしまった。なかば酔っぱらってビアンションは、「不死身」のことでミショノー嬢に詰問するのを、すっかり忘れてしまったからである。もしも彼がこの名を口にしていさえすれば、きっとヴォートランの、というよりは本名に返って、徒刑囚仲間で名の売れたジャック・コランの警戒心を、呼び起こしたに違いはないだろう。それにまたコランの気前のよさを頼みにして、あらかじめ彼に警告を与え、夜のうちに逐電させたほうが、結局のところ得ではないかと、ミショノー嬢が胸算用していた時も時、墓場のヴィーナスなどと彼から渾名をつけられたため、彼女はこの脱獄囚を、お上《かみ》に引き渡してやろうと肚《はら》をきめるにいたったのである。
ミショノーはポワレにともなわれて外出した。サント・アンヌ小路の名だたる保安警察総本部長に会うつもりで、相手はゴンデュローという高級官吏だと、まだ思い込んでいた。当の司法警察主任は愛想よく彼女を出迎えた。そして仔細によろずの話しあいをつけてから、ミショノー嬢は烙印の検証をするため必要な薬液を求めた。サント・アンヌ小路の大立物は事務机の引出しからガラス壜を取り出しつつ、いかにもにこにこした顔をして見せたので、ミショノー嬢はこの捕物がたんなる脱獄囚の逮捕以上に、もっと重大ななにかがあるのに違いないことを察した。それでいろいろ脳味噌をしぼったあげく、徒刑場の裏切人から得た情報にもとづいて、警察当局は莫大な金品を押収するためわざと時をかして、今日あるのを待ち設けていたのではないかとまで疑った。それでこの狡猾な|いぬ《ヽヽ》に自分の推測をぶちまけてみると、ゴンデュローはにやりと笑って、老嬢の邪推をはぐらかそうとした。
「そいつは誤解というもんですな。泥棒仲間にあってもコランのやつほど物騒きわまるソルボンヌを持ったものは、いまだかつてないんですよ。理由はそれだけです。悪党どもはそのことをちゃんと心得ているんですよ。コランはやつらの旗印であり、支柱であり、一言にしていえばそのボナパルトなんです。やつらは残らず彼に惚れ込んでいます。あいつがグレーヴ広場でそのトロンシュをさらさせるなんてことは、絶対にないでしょうからね」
ミショノーにはさっぱり訳がわからなかったので、ゴンデュローは今使った二つの隠語を説明して聞かせてやった。つまりソルボンヌとトロンシュは、人間の頭を二面から考える必要があるのを、真先に痛感した泥棒仲間で話される力強い二つの表現法であって、ソルボンヌとは生きた人間の頭であり、その意見であり、その考えであるのに対し、トロンシュというのはちょん切られると、人間の頭はいかに詰らぬものになるかを、言い表わすのに用いられた軽蔑語であった。
「コランのやつめ警察を愚弄しておるんです」と彼は続けた。「イギリス式に鍛えられた鋼鉄の棒みたいな、この種の手剛い人間に遭遇した場合、逮捕のさいに、すこしでも彼らが抵抗の気配を見せれば、殺してもよいという奥の手が我々にはあります。あすの朝、逮捕にさいしてコランが暴行でも働いてくれればよいと、ひそかに我々は期待しているんですよ。すればあいつを殺せますし、訴訟も監視の費用も食扶持もいらないで、社会から厄介払いができますものねえ。訴訟手続とか証人の召喚とか証人への日当支払いとか刑の執行などといったぐあいに、あれらあばれん坊を片づけるのに法律的に必要ないっさいの経費をあわせますと、あなたがおもらいになる三千フランを、優《ゆう》に上まわるんですよ。それは第一、時間の経済にもなりまさあ。だから不死身の土手っ腹を銃剣でぐさり突き刺せば、およそ百件もの犯罪を我々は防止ができ、違警罪裁判の御用になる程度で、小利口に立ちまわっている悪党ども五十人の堕落をば阻止できるんです。これが腕のいい警察っていうもんでさあ。かように振舞うことこそ、犯罪を予防するゆえんだと、本当の博愛家だったら、きっとそう申すことでしょうよ」
「かつまた国家に対するご奉公でもあるわけですな」とポワレは言った。
「そうなんですよ」と部長は答えた。「今夜はあなたにしても、なかなかの筋の通ったことをおっしゃる。まさしくそのとおりで、我々は国家へご奉公をしているつもりなんです。ですから世間は我々に対して、きわめて不公正であると申さざるをえません。この我々は社会に対して、人知れぬ大きなご奉公をしておるんですぞ。優れた人間というものは、俗悪な偏見などを超越しておらんけりゃなりません。またキリスト教徒であったならば、一般に承認された考えに従ってなされたのでない善事が、たまたま災難を伴ったにしても、その災難をば甘受すべきでしょう。要するにパリはパリなんだ。ねえ、そうでしょう? この言葉がわたしの生活を説き明かすものですよ。――ではこれで失礼するとしましょう。ミショノーさん。あす、部下をつれて植物園に行っておりますよ。ビュフォン通りのゴンデュロー氏宅、以前お会いしたあの家へ、クリストフをよこしてください。――それからポワレさん、ご用がありましたらいつでもどうぞ。もし何か盗まれ物でもありましたら、この私を利用してください。きっと取り戻してあげますから。私はなんでもあなたにお尽ししてあげますよ」
「どうです」とポワレはミショノーに言った。「警察という言葉だけで、気を転倒してしまう馬鹿者が世間にはいますが、あの紳士は非常に如才がないですな。それにあなたに頼んだことだって、おはようみたいに簡単なことじゃありませんか」
その翌日はメゾン・ヴォーケルの歴史において、もっとも大きな異変の日ともなるべき定めにあった。従来この静かな生活においてのもっとも突飛な出来事といえば、ランベルメニール偽伯爵夫人の彗星的出現ぐらいのものであったが、このたびのどえらい大事件を前にしては、どんなものでも色褪せてしまうことだろうし、ヴォーケル夫人の永遠の話題と、これこそなるのに相違がなかった。
まずは、ゴリオとウージェーヌ・ド・ラスティニャックだが、二人は朝の十一時まで寝込んでいた。ゲーテ座から真夜中に帰ったヴォーケル夫人は、十一時半まで床にいた。ヴォートランにもらった葡萄酒を、すっかり平らげてしまったクリストフの長時間の熟睡が、下宿のサーヴィスを種々とどこおらす原因ともなった。ポワレとミショノー嬢は朝飯の遅れたことについて、べつに愚痴もこぼさなかった。クーチュール夫人とヴィクトリーヌまで朝寝坊をした。ヴォートランは八時半に外出したが、朝飯の支度ができたところへ、ちょうど戻ってきた。十一時十五分ごろ、シルヴィとクリストフが、朝飯の待っていることを触れまわって、各自のドアを叩いてまわったとき、そんなわけで誰一人抗議するものもなかった。シルヴィと下男がこうして座をはずしている間に、ミショノー嬢は真先に降りて行って、ヴォートランの銀の湯呑に例の薬液をつぎ込んだ。湯呑にはコーヒーのためのミルクがもう入っていて、他の連中のと一緒に湯煎器のなかで温められていた。下宿のこうした慣習に乗じて、そのたくらみを果そうと、老嬢にはかねて期するところがあったのである。
七人の下宿人が揃うのに、ちょっと手間ひまがかかった。ウージェーヌが両手を大きく拡げて伸びをしながら、一番遅れて降りて来たちょうどそのとき、使いの者がニュシンゲン夫人の手紙を彼に手渡した。その文面は次のとおりだった。
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あなたに対してあたくし、虚勢張った見栄も持っておりませんし、また怒ってもおりません。夜中過ぎの二時まで、昨夜はお待ちしておりました。愛する人を待つ身の辛さ、それがどんなものかを一度知ったら、それを他人に対してとうてい加えられませんでしょう。あなたが恋愛には始めてのお方だということが、そのことからつくづくとあたくしには思い知らされました。いったいなにが起こったというのでしょう。あたくしすっかり不安の虜となりました。心の秘密を世間にあかすのを憚りませんでしたなら、あなたの身に起こったことが幸か不幸か、それを知るためさっそくに駈けつけもいたしたことでしょう。ですが、あんな時刻に外出いたすのは、歩いてにせよ、馬車に乗ってにせよ、この身の破滅になりはしないでしょうか。女と生まれたことの不幸を、あたくしはしみじみと感じました。どうかあたくしを安心させてくださいまし。父から伝言があったはずですのに、なぜお出でになれなかったのか、そのわけを聞かせてくださいな。あたくし怒るかもしれませんが、あなたを赦して差上げますわ。それともご病気なのでしょうか? なぜあなたはあんな遠くにお住まいなのでしょう。お願いです。ひとことお洩らしになってください。すぐお逢いできるでしょうね? もしもお忙しければ、ほんの一言で結構です。『行く』とか『病気中』とか。でも、もしご加減が悪かったのなら、父が知らせに来たはずですのに! いったいどうあそばしたというのでしょう?……
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「そうだ、あの結果はどうなったろう?」と叫んでウージェーヌは、読み終らぬその手紙を鷲づかみにしたまま、食堂にと駈け込んで行った。
「今何時です?」
「十一時半だよ」とヴォートランはコーヒーのなかに砂糖を入れながら言った。そしてこの脱獄囚は冷たい射すくめるような眼差しを、ウージェーヌに向って投げた。そのような眼差しで、いちじるしく磁気力を持ったある種の人間なら、精神病院の狂暴性患者を、たった一にらみでおとなしくさせることができるといわれている。ウージェーヌは全身に戦慄を覚えた。
通りで馬車の止まる音が聞えた。タイユフェル氏のお仕着《しきせ》をきた下男が、(クーチュール夫人はそのお仕着ですぐ、誰かということがわかったが)うろたえた顔でいきなり入ってきた。
「お嬢様」と彼は叫んだ。「お父上様がお呼びで。……大椿事が起こりました。フレデリック様が決闘をなさって、額に一突き受けられたのです。お医者様方ももうさじを投げておられます。今なら最後のお別れに辛うじて間に合うかも存じません。もうご意識はございませんが」
「若いのにお気の毒な!」とヴォートランは叫んだ。「たっぷり三万フランは年収がある身というのに、なんだって喧嘩なんかするんだろう? まさにいまどきの若い連中は、身を処するすべを知らん!」
「口が過ぎますぞ!」とウージェーヌは彼に叫んだ。
「え、どうしたって、坊や?」とヴォートランは言って、悠然とコーヒーを飲みほした。彼の一挙一動をミショノー嬢はひどく熱心に眼で追っていたあまり、一座の人たちを戦慄させたこの異常なニュースになど、感動を覚えるどころではなかった。「パリでは毎朝のように決闘があるじゃないか、君?」とヴォートランは続けた。
「あたしも一緒に行くよ、ヴィクトリーヌ」とクーチュール夫人は言った。そして二人の女は、ショールも帽子もなしに飛び出して行った。しかし出掛けて行く前ヴィクトリーヌが、眼に涙をいっぱいためて、ウージェーヌに向って投げた眼差しは、ちゃんと次のように語っていた。(あたくしたち二人の幸福を涙であがなわなければならないなんて、ちっとも思ってはいませんでしたわ)
「まあ、あんたはたいした予言者だこと、ヴォートランさん」とヴォーケル夫人は言った。
「なんにだってわしはお手のものなんだ」とジャック・コランは答えた。
「なんて奇妙な人だこと!」ヴォーケル夫人はこのたびの事件について、意味のない言葉を一連に数珠《じゅず》なりにして続けた。「死は相談なしに私たちに襲ってくるんだもの、若い人だって年寄りより先に死ぬことがちょくちょくあるわ。私たち女は決闘しないですむから仕合せだこと。その代りには男たちにはない病気が、たくさんと女にはあるわ。子供を産まなければならないし、身二つになる苦しみといったら、容易なことでは済みやしない。ヴィクトリーヌさんはなんてまがいいんでしょう! 今度ばかりはいやでもお父さんにしてもあの子を引き取らずにはいられますまい」
「どうだね!」とヴォートランはウージェーヌを眺めながら言った。「きのうまでは一文なしだったあの子が、けさは数百万の金持娘なんだぜ」
「ちょいと、ウージェーヌさん」お女将は叫んだ。「あんたうまいところへ手をつけていたわね」
この不躾な言葉にゴリオ爺は学生を見た。そして、彼が手紙をしわくちゃに握っているのに気づいた。
「手紙をまだ読み残していなさる! どういう意味ですかい、それは。あんたもやっぱり世間並みの男だったのかなあ」と彼は言った。
「お女将さん、僕は絶対にヴィクトリーヌ嬢とは結婚なんかしませんよ」とウージェーヌは一座の人がびっくりするくらいの嫌悪と不愉快さをあらわにしながら、ヴォーケル夫人に向って言った。
ゴリオ爺さんは学生の手をつかんでぎゅっと握った。いっそその手に接吻したいくらいの思いだった。
「おう、おう!」とヴォートランは言った。「イタリア人はうまいことを言っているぜ。col tempo(何事も時とともに)だってさ」
「お返事をお待ちしてるのですが」とニュシンゲン夫人の使いの者が、ラスティニャックに催促した。
「まいりますと伝えてください」
使いは出て行った。ウージェーヌは烈しい興奮状態に陥っていたので、慎重に心をくばる余裕もなかった。
「どうしたらよかろう?」彼は大きな声で独り言を言ってしまった。「証拠はないんだが」
ヴォートランはうす笑いを浮かべた。このとき、胃に吸収された薬液は、その作用をあらわしかけて来たのだったが、根がひどく強健だった彼は立ち上って、ラスティニャックをじっと眺めて、うつろな声で言った。
「お若いの、果報は寝て待てだってさ」
そして彼は致命の打撃でもこうむったように、にわかにどしんとその場に倒れた。
「やっぱり天罰|覿面《てきめん》だ!」とウージェーヌは叫んだ。
「へえ、優しいヴォートランに、天罰のあたるようななにがあったっていうんです?」
「卒中だわ!」とミショノー嬢は叫んだ。
「シルヴィ、さあ、行ってお医者さんを呼んできておくれ」とお女将は言った。――「ラスティニャックさん、ビアンションさんのところへ一走り行って来てくださいよ。かかりつけのグランプレル先生に、もしかするとシルヴィは逢えないかもしれないから」
ラスティニャックはこの怖ろしい穴倉を脱け出る口実ができたのを喜んで、駆けるようにして逃げて行った。
「クリストフ、お前は薬屋へはせつけて、卒中にきくものをなにかもらってきておくれ」
クリストフは出て行った。
「それからゴリオ爺さん、この人の部屋へ病人をかつぎ上げるんです。手をかしてくださいな」
ヴォートランはみんなにかかえられ、狭い階段をやっとこさ、寝床のなかまで運び込まれた。
「わしはなんの役にも立ちそうもないから、娘に会いに行ってきますぜ」とゴリオは言った。
「エゴイストな年寄りだこと!」とヴォーケル夫人は叫んだ。「さっそく行くがいいですよ。お前さんなんか犬のように野垂れ死にをするのが関の山さ」
「エーテルをお持ちかどうか、行って見て来てくださらない?」とミショノー嬢はお女将に言った。ポワレの手をかりて、老嬢は、すばやくヴォートランの服を脱がせていた。
ヴォーケル夫人が自分の部屋に降りて行ったので、戦場の主導権はミショノー嬢の手に移った。
「さあ、早くシャツを脱がせ、からだをうつむきにさせてくださいよ。男の人の裸姿なんか、私に拝ませないように、なんとか才覚できないの。ポカンとしてそんなところに突っ立っていないでさ」ポワレに老嬢は言った。
ヴォートランの身体はうつむきにされた。ミショノー嬢は病人の肩を強く平手で叩いた。肌膚の赤くなった箇所のまんなかに、致命的なT・Fという二文字が白く現われた。
「やあ、いやにあっさりお礼の三千フランにありついたもんだな」とポワレはヴォートランの半身を支えながら叫んだ。その間にミショノーはすばやく彼にシャツを着せた。
「うへっ、なんて重いんだろう!」とポワレは言いながらヴォートランを寝かせた。
「うるさいわね。金庫がもしあるとしたら?」老嬢は勢い込んでそう言って、壁まで射透さんばかりの眼つきで、室内の些細な調度品にいたるまでを、貪欲そうにじろじろ見まわした。
「ねえ、何か口実を設けて、この机開けられないかしら?」
「そいつはちっと悪かろうぜ」とポワレは答えた。
「構うもんですか。盗んだお金ならみんなのものだったのだから、今ではもう誰のものでもないじゃありませんか。でも時間がないわ。お女将の来る足音がする」
「はい、エーテル」とヴォーケル夫人は言った。「まあ、きょうはなんて事件の多い日だこと。あら! この人、病気なんかじゃなくってよ。からだだって雛鳥のように白いし」
「ほう、雛鳥のようにかね?」とポワレは繰り返した。
「心臓だって規則正しく打ってるしさ」とお女将は心臓の上に手をあてて言った。
「規則正しくだって?」と素頓狂なポワレは聞き返した。
「この人、別にどうもないわ」
「そうかね?」とポワレは訊ねた。
「そうですとも。まるで眠っているようよ。でもシルヴィはお医者さんを迎えに行っちゃったのね。どう、ミショノーさん、病人はエーテルを嗅いでますよ。なんだ! ただのひっつり(痙攣)だったのね。脈だって順調よ。根が牛のように頑健な人ですもの。ごらんなさいよ、ミショノーさん、胸から腹にかけてもじゃもじゃ毛、こういう人は百までも生きるでしょうね。それにしてもこのかつらはびくともしていないのね。なあんだ、ぴったり貼りつけてある。赤毛だもんで、この人はつけ毛してるんだわ。赤毛の人はまるっきりの善人か悪人のどっちかだっていうけど、じゃこの人はいい人ってわけなのかしら」
「吊りさがるにいいほうだよ」とポワレは言った。
「別嬪さんの首っ玉にって、いうつもりだったんでしょう」とミショノー嬢は急いでそれを言い繕った。「ポワレさん、あっちへ行ってちょうだい。あんたがたが病気のとき、看護するのはあたしたちのお役目ですからね。吊りさがるにこれぞという相手でも探しに、散歩してらっしゃいよ。お女将とあたしとで、このヴォートランさんは、大事に介抱していてあげますからね」
主人に蹴とばされた犬のように、ポワレはなんの不平もこぼさず、静かに出て行った。
ラスティニャックは歩きまわるため、外の空気を吸うため、下宿を出た。息がつまりそうだった。定刻にちゃんと行われた犯罪、それを昨夜は阻止する気でいた。それがどうなったのだろう? 自分はどうすべきだったろうか? ついに自分もその共犯者となったことを思って、彼は震え上った。ヴォートランの沈着ぶりに、なおのこと彼は畏怖の念を覚えた。
「もしもヴォートランが、何も喋らずに死んでくれさえしたら?」とラスティニャックは考えた。
彼は猟犬の群にでも追いつめられているごとく、リュクサンブール公園の小径を突っ切るようにして歩いた。犬の吠え声までも聞えるような気がした。
「おい!」とビアンションが彼に声をかけた。「けさのピロット新聞を君は読んだかい?」
ピロット新聞とはチソー氏の主宰する急進的な新聞で、他の朝刊より数時間遅れて、地方向きにその日のニュースをのせた版を発行していたので、当時は各県で他の新聞よりも、二十四時間もニュースを先んずることができたのであった。
「大変な記事が出ているぜ」とコシャン病院付医学生は言った。「タイユフェルの息子が、旧近衛将校のフランチェシニ伯爵と決闘して、前額に深さ二|吋《プース》の重傷を受けたそうだ。それであのヴィクトリーヌも、パリでもっとも裕福な縁組相手の一人となったわけさ。どうだい、前からわかっておったらなあ! 死っていうやつはまったく一六勝負みたいなもんだね。おい、本当かい、ヴィクトリーヌが君に色目をつかっていたというのは?」
「よしてくれ、ビアンション、僕は絶対にあの娘とは結婚しないよ。すばらしい女性を僕は愛しているんだ。その人からも愛されているし、僕は……」
「不実な真似はしたくないってんで、さんざもがいたが駄目だっていった口ぶりだね、それは。じゃタイユフェルの財産なんか、棒にふっても惜しくないというそんな別嬪に、わがはいもぜひお目にかからせてもらいたいもんだね」
「あらゆる悪魔のやつ、僕のうしろから追いかけて来るのか」とラスティニャックは叫んだ。
「おい、誰のことなんだいそれは、気は確かか? 手を貸してごらん、脈を見てやるから。やあ、熱があるな」とビアンション。
「それよか、ヴォーケルお女将のところへ行ってみてくれ。ヴォートランの悪党が死んだように今ぶっ倒れたところなんだ」とウージェーヌは言った。
「そうか! 僕が探ってみようと思っていた疑惑が、君の話ですっかり確認されたよ」ビアンションはそう言うや、ラスティニャックをあとに残して、慌しく立ち去って行った。
法科学生の長い散歩は、彼にとって厳粛なものだった。彼は良心の世界を遍歴していたのだった。よしんば彼がわれとぶつかり、自己検討をし、躊躇しかけたにせよ、結局あらゆる試練に堪え切った鉄棒のように、すくなくとも彼の誠実心だけは、この苛烈にしておそろしい討論《ディスカッション》の試練から、つつがなく出て来ることができたのだった。彼はゴリオ爺さんが昨夜話してくれたうち明け話を思い浮かべ、デルフィーヌの屋敷のすぐそばのダルトワ通りに、自分のために部屋を選んでもらってあることを思い起こした。彼は彼女の手紙をまた取り出して再読し、それに接吻した。
「こういう恋愛がまさかのときの僕の頼みの綱なんだ」と独語した。「あの老人もかわいそうに心のうちでは、ずいぶんと苦しんだようだ。悲しみを口にこそ出してはいないが、その察しのつかないものはないだろう。そうだ、親父のように思って、この僕が面倒をみてやろう。無数のよろこびを爺さんに与えてやるとしよう。彼女は僕を愛しているのなら、昼間は僕のところにちょくちょくやって来て、父親のそばで過ごすことになるだろう。レストー伯爵夫人なんかは人でなしの女で、父親をまるで門番風情あつかいだが、優しいあのデルフィーヌ! 彼女なら老人にずっと親切にしている。まったく愛する価値のある女だ。ああ、今夜はきっと俺はもてるぞ!」
彼はもらった時計を取り出して、じっとそれに見惚れた。
「万事俺は大成功だ! 二人が永久に愛しあうのなら、助けあうのは当然の話じゃないか。俺はこの時計をもらっておいてもいいだろう。それに俺は確かに出世するんだから、なんでも百倍にして返すことができるさ。二人の関係には罪悪視すべき理由もなく、またどんなに厳しい道徳家にだって、眉をしかめさせるような何物もないはずだ。立派な人でこうした関係を結んでいるのは、世間にいくらでもあるじゃないか。僕たちは誰を欺いているわけでもない。我々を卑しくさせるのは、虚偽を働く場合だけだ。嘘をつくのは俺というものを棄て去ることではないか? 彼女は、長い前から良人と離れて暮しているのだもの、いっこうに差支えはない。それに俺はあのアルザス人に言ってやることにしよう、女房を仕合せにできないようなら、この俺に渡してくれって」
ラスティニャックの心の闘争は、長いこと続いた。青年らしい道義心が結局は勝ちを制さなくてはならないはずだったが、それでも、日も暮れかかった午後の四時半ごろになると、永遠におさらばしようとわれと誓ったメゾン・ヴォーケルのほうに、やむにやまれぬ好奇心から彼は惹き寄せられて行った。ヴォートランが死んだかどうかを、見極めたかったのである。
ビアンションは病人に吐剤を与えることを思いついて、ヴォートランの戻したものを化学分析するため、自分の病院へ届けさせた。吐潟物を捨てようとミショノーがしきりに言い張るので、ビアンションの疑惑はますます募ったのだった。それにヴォートランがあまりにも造作なく回復したので、下宿のこの陽気な花形に対し、なんらかの陰謀がたくらまれたことを、ビアンションはもう疑わなかった。それでラスティニャックが戻ってきた頃には、ヴォートランは食堂のなかの暖炉の傍に立っていた。タイユフェルの息子の決闘の知らせで、いつもより早目につめかけて来た下宿の常連たちは、事件の詳細や、それがヴィクトリーヌの運命にどう響くかを知りたがって、ゴリオ爺さんを除いてはみんなの顔が揃い、今度の出来事についてしきりと語り合っていたところだった。入って行ったウージェーヌの眼は、ヴォートランの落ち着き払った眼にぶつかった。彼の心に深く食い入ったヴォートランの眼差しは、青年の邪念をはげしくゆすぶったので、思わず彼は慄然としたくらいだった。
「よう、坊ちゃん」と脱獄囚は声をかけた。「死神もわしにはおいそれと手が出ないね。ご婦人方の話だと、牡牛もころりと行きそうな卒中を、なにしろ見事に持ちこたえられたのだから」
「あら、猛牛といったほうが似つかわしくてよ」とヴォーケル未亡人は叫んだ。
「わしがピンピンしているのを見て、君はがっかりというところじゃないかな?」学生の肚の底を見抜いたぞ、とばかり、ヴォートランはラスティニャックの耳許で言った。「そうだとしたら、世にもしっかりした男っていえるんだが」
「まったくだ、ミショノー嬢がおととい、不死身って渾名の男の話をしていたが、そんな名があなたにはうってつけだなあ」とビアンションは言った。
この言葉は、ヴォートランの上に電撃のような効果を与えた。彼は蒼白になりよろめいた。彼の磁気的な眼は烈日のようにミショノーの上に落ちた。この強烈な意志力の奔出に、老嬢はへなへなとなって、椅子の上に崩れるように坐り込んでしまった。彼女の身の危険を悟って、ポワレはあわてて二人のあいだに割って入ったくらい、今まで本性をおおい隠していた親切男の仮面もかなぐり捨てられて、徒刑囚の形相には、ありありとそこに凶暴きわまる色が浮かんだ。このドラマの意味が、まださっぱりとわからなかった下宿人一同は、呆気にとられて立ちすくんだ。と、そのとき、通りの舗道から数人の男の足音と、兵隊の銃のガチャガチャという物音とが響いてきた。コランは窓や壁を見まわして、機械的に逃げ場をさがし出そうとした瞬間、四人の男が、サロンのドアのところに現われた。先頭は保安警察部長で、続く三人は保安警察官たちだった。
「法律と国王の名において!」と警官の一人が言ったが、その声は座の驚愕の呟きで掻き消されてしまった。
たちまち食堂のなかには沈黙がみなぎった。二列に分れた下宿人たちは、脇ポケットに手を突っ込み、装填したピストルを堅く握りしめた三人の警官に、途をひらいた。警官について来た二憲兵がサロンの戸口を守り、階段のほうに通ずるドアにも、二人の憲兵が姿を現わした。正面建物に沿った砂利道の上に、幾人もの兵隊の足音や、銃を引きずる物音が聞えた。脱走の希望もことごとくに断たれた不死身《ヽヽヽ》の上に、一同の眼差しは否応なしに注がれた。部長は彼に向ってまっしぐらに進むや、まず頭に烈しい平手打ちを一発くらわせ、そのかつらを吹っとばしたので、醜悪のかぎりであるコランの地頭が、そこにむき出しになった。赤煉瓦色の短い頭髪は、精悍と奸知のまざった恐ろしい特性を一同に示し、その頭と顔は上半身とぴったり調和して、地獄の劫火《ごうか》にでも照らされているように、輝きわたっていた。ヴォートランの全貌が、そのとき初めてみんなにわかった。彼の過去も現在も未来も、容赦のないその教義も、我欲への信奉も、彼の思想や行動の冷笑主義《シニズム》から与えられている威風も、どんなことにも堪えられるその体質の強さも、なにもかもが一同には、にわかに理解ができたのであった。
彼の顔には血がのぼり、両眼は野良猫のそれのように輝いた。彼は凶暴な精力をみなぎらせた動作でいきなり躍り上り、物凄い吼え声を出したので、下宿人たちことごとくは恐怖の金切り声をあげた。獅子のようなこの動作に、警官たちは満座の叫喚に支えられて、ピストルをとり出した。いっせいにピストルが撃鉄を光らせているのを見て、自分の身の危険を悟ったコランは、突然に人間に及ぶかぎりの最高の能力のしるしをあらわした。恐ろしくもまた厳かなそれは光景であった。彼の顔つきが見せた急激な変化は、山でも持ち上げかねぬ蒸気力にみちみちた汽鑵が、冷水の一滴によってたちまちに気が抜けてしまうあの現象にでも較べるよりほかには、たとえようのないところのものであった。彼の激怒をかく冷却した水滴は、稲妻のように閃めいた一つの反省であった。彼はにやりと笑って、かつらを眺めやった。
「礼儀作法ってことを、きょうは忘れちゃったのかい」と彼は保安警察部長に言った。
そして頭を振って憲兵をさしまねきながら、両手をさし出した。
「憲兵君、手錠でも指鎖でも、なんでも俺にかけてくれ。俺が抵抗しなかったってことは、ここにいる連中みんなが証人だぜ」
この人間火山のなかから、熔岩と火花とが出たかと思うとすぐまた引っ込んだその神速自在さに、驚嘆する呟きが部屋うちにざわめいた。
「どうだい、あてがはずれたろう、大袈裟に騒ぎ立てやがって」徒刑囚は司法警察の名だたる部長を睨みすえながら言った。
「さっさと服を脱ぎやがれ!」とサント・アンヌ小路の男は、軽蔑にみちた面持で言い返した。
「なぜだい?」コランは言った。「ご婦人方の前だぜ。わしはなにも否認はしないよ。神妙に控えてるんだぜ」
彼はちょっと黙った。そして意表外のことを言い出そうとする弁士のように、座を一渡り見まわしてのち、
「書いてくんな、ラシャペルのとっつあん」逮捕にさいしての調書をしたためるべく、紙挾みから書類を取り出して、テーブルの端にどっかと坐った白髪の小柄な老人に向って、コランは言った。「俺は二十年の懲役を宣せられたジャック・コラン、通称『不死身』に相違ないことを認めるぜ。そのあだ名を毫《ごう》もはずかしめなかったことは、ついさっき実証して見せたとおりだ。いいかね、俺がちょっとでも手を振り上げようものなら、(そう下宿人たちに言い聞かせた)この三人の|いぬ《ヽヽ》どもはヴォーケル・ママの床の上に、俺の血をのこらず流しやがっただろう。術中に俺を陥れようとこいつらたくらんで来やがったのだから!」
ヴォーケル夫人はこの言葉を聞いて、気持が悪くなった。
「まあ、ぞっとすること。あたしはきのうあの男と、ゲーテ座に行ったんだからね!」とお女将はシルヴィに言った。
「冷静になんなよ、ママ」とコランは続けた。「きのうゲーテ座へ俺と一緒に行ったことが、災難だとでもいうんかね?」と彼は叫んだ。「お前さんたちは俺よりちょっとはましな人間だとでもおっしゃるのかい? 俺たちが肩にしょっている汚名にくらべれば、おめえたちの心の中のほうが、よっぽど汚ねえじゃねえか。堕落社会のぐにゃぐにゃした片割れどもめ、手前たちのなかで一番ましな人間だって、俺の持ちかけた話に抵抗ができなかったじゃねえか」眼をラスティニャックの上にとめて、優しい微笑を彼は送ったが、それは彼の顔の険しい表情とは、およそ奇妙な対照を見せた。――「俺たちの協定はいつまでも有効だぜ、ただ君が承知してさえくれりゃだ、わかったね」そして彼は歌い出した。
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わたしのファンシェット、かわいい娘
うぶで素直で……
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「当惑するにはあたらんよ」と彼は続けた。「貸した金を取立てるすべは、ちゃんと俺は心得てるんだ。みんなばかに俺をこわがってるから、ごまかそうなんて気は起きねえさ、この俺様に対しちゃね!」
徒刑場というものが、その習俗と言語、ユーモラスから身の毛の総毛立つまでの急激なその移りかわり、畏怖すべきその巨大さ、その狎々《なれなれ》しさ、卑賤さといったものを伴って、突然にこうした態度のなかに表現せられた。彼はもうたんなる一介の男ではなく、堕落した異狄《いてき》全般のタイプ、野蛮ではあるが一応の理屈をもち、凶暴ながら順応性にも富んだ一種族の典型となっていた。一瞬にしてコランは、ただ一つ悔悛の情をのぞけば、その他のあらゆる人間的感情を描きつくす奈落の詩人となっていた。彼の眼差しは常に闘争を望んでやまぬ大魔王のそれであった。ラスティニャックは自分の邪念の贖罪でもするかのように、この男との罪のつながりを、いさぎよく認めて自分の眼を伏せた。
「誰が俺を売りやがったんだ?」と、コランは言って、恐ろしい眼つきで一座をねめまわした。そしてミショノー嬢の上に眼をすえるや、
「貴様だな。不見転《みずてん》婆あめ! 偽の卒中を俺にくらわしやがったのは。おせっかい女め! ……俺がちょっと口をききゃあ、一週間のうちに貴様の首なんか鋸引《のこぎりびき》の刑だぞ。だが手前をゆるしてやらあ。俺はクリスチャンだからなあ。それに俺を売りつけたのはなにも貴様とのみは限らねえ、じゃ誰の仕業だ? ――ははあ、階上《うえ》で引っ掻きまわしてやがるな」司法警察の手先たちが、彼の部屋の戸棚を開け、持ち物を押収している物音を聞きつけて彼は叫んだ。「巣立ちして鳥は昨日、もう高飛びしちまったぜ。それになにがお前らにわかるもんか。俺の元帳はここにあるんだもの」と彼は頭を叩きながら言った。「誰が俺を売りやがったのか、今ははっきりわかったぞ。あの絹糸《ヽヽ》の野郎に違いねえ。なあ、そうだろう、岡っ引の旦那」と警察部長に言った。「おいらの札束を階上に溜めていたのと、この手入れとはあんまり折がうまく合いすぎてやがる。もうなんにもねえぜ、捕手衆。絹糸《ヽヽ》のやつ、お前さんがた全員かかってあいつをかばったって、一週間のうちには墓の下だぞ――。ところでこのミショネットには、いくらお駄賃をくれてやったんだい?」と彼は警官たちにたずねた。「三千フランそこいらか! この俺様はもっと値打物なんだぜ。おい、骨|絡《がら》みのニノン〔ニノン・ド・ランクロ。十七世紀きっての妖婦〕、ぼろまといのポンパドゥール〔ルイ十五世の愛妾〕、ペール・ラシェーズ墓場のヴィーナスめ、お前この俺に耳打ちしてくれりゃ、六千フランにもなったんだぜ。そこに気がつかなかったのかい、この淫売婆あめ。お前がそうしてくれりゃ、俺のほうも選り好みができたんだ。そうとも、もちろん六千フラン出して、こっちは癪にさわる、その上に出費の多い官費旅行なんか、避けることにしたろうによう」彼は手錠をかけられながらわめいた。「こいつらときたら、俺を退屈させるため、いつまでも審理を引き延ばして面白がってやがるやつどもなんだ。俺をすぐ徒刑場へ送りさえすりゃ、オルフェーヴル河岸のけちな御用聞きどもが、いくら躍起になったって、さっそくにこちとらの仕事をおっぱじめるからいいか。向うへ行きゃ、連中たち残らずみんな、その大将と仰いでるこの不死身の親分を脱獄させようと、車輪玉にのぼせ上るんだ。おい、お前たちのうちに一人だって、この俺みたいに、どんなことにでも力をかそうって子分を、一万人以上も抱えているのがあるかい?」彼は傲然とたずねた。「それっていうのも、ここにいいとこがあるからさ」と彼は胸をポンと叩いた。「俺は人様を決して裏切ったことはねえ! ――おい、不見転《みずてん》、下宿のみんなの顔を見ねえ」と老嬢に向かって彼は罵《ののし》った。「みんなは俺をこわがって見てるが、貴様の面は見るだけでも胸がむかつくっていってるんだぞ。今に泣きっ面をかくなよ」
彼は下宿人たちを眺めながらしばらく黙っていた。
「手前ら、何をポカンとしてるんだ! 徒刑囚を今までに見たことがねえっていうのかい? ここにおいであそばすコラン様のような|たち《ヽヽ》の徒刑囚はな、ほかのやつらほど弱腰な男じゃねえんだ。師事しているのを俺が誇りとするジャン・ジャックが言ったようにな、社会契約の根強い欺瞞に、これで反抗してる男なんだぜ。つまり俺はたった一人で、裁判所や憲兵どもや予算をしこたま握ってる政府に立ち向い、やつらを翻弄してるんだ」
「やあ! まったくスケッチしておきたいくらい、威勢のいい面構えだな!」と画家は言った。
「おい、死刑執行人太子様の侍従閣下、まった後家さん(これは徒刑囚たちが絞首台《ギロチン》につけているおそろしい詩情にあふれた名称だ)の総督閣下」保安警察部長のほうに、彼は身を振り向けてそう言った。「いい子になって、一つ俺に教えてくんないか、俺を売りやがったのは絹糸《ヽヽ》かどうかをさ。他人の罪をあいつが背負うんだったら気の毒だし、ちっと公平でもねえからな」
このとき、彼の部屋をくまなく調べて目録にすっかり書きとって来た警官たちが戻り、派遣隊長に低い声で耳打ちをした。逮捕の調書の作成も一段落した。
「皆の衆」とコランは下宿人たちに向って言った。「いよいよ連行されてゆきやすぜ。ここに滞在中はいろいろとお世話になり、なんとも感謝に堪えませんや。お別れの挨拶を受けておくんなさい。プロヴァンスの無花果《いちじく》を皆さんにお送りしてあげますぜ」
彼は数歩あるきかけたが、ラスティニャックを見るため振り返った。
「あばよ、ウージェーヌ」と今までの荒っぽい演説口調とは、ひどく異なる穏やかな淋しい声音で言った。「何か困ったことがあったらなあ、親身になってくれる友達を一人、君のためにはのこしてあるぜ」
手錠をかけられているくせに、彼は剣術の防衛の姿勢をとり、剣道師範のような足踏みをし、「一、二」と叫ぶや、右足を前に出して突っ込む構えをした。
「何か災難でもあったら、あいつと相談するといいぜ。人手だろうと、金だろうと、なんでも君の御意のままだからな」
奇怪なる人物はこの言葉を、かなりおどけた調子で口にしたので、彼とラスティニャックの間にしか、その意味は通じなかった。憲兵や兵士や刑事たちが、すっかり下宿から引き払って行ったとき、女主人のこめかみを酢で揉んでいたシルヴィは、茫然としている下宿人たちを眺めてこう言った。
「ともかくなんていったって、豪儀《ごうぎ》な男だったわねえ」
このような光景に湧き立ったおびただしい雑多な感情に制せられ、一同が陥っていた呪縛状態は、シルヴィのこの一言によって破られた。彼らは互いに顔と顔とを見合せてのち、みんないっせいにミショノー嬢のほうを見た。ミイラのように痩せ干乾びて寒々しい老嬢は暖炉のそばにうずくまって、その|目庇し《アイ・シェード》の蔭だけでは、自分の目の表情を隠せぬことを気遣うかのように、じっと両眼を伏せていた。ずっと前からなんとなく虫の好かなかった彼女のつらつきが、にわかに一同には合点がいった。異口同音の嫌悪をあらわすつぶやき声が、くしくも一体となってぼそぼそ伝わった。ミショノーはそれを聞きながらも、座を外そうとはしなかった。口火を切ったのはビアンションだった。彼は隣の男のほうに身をこごめて、
「あの婆あとこれからも一緒に飯を食わなきゃならないんだったら、僕はこの下宿を出て行くぜ」と小声で言った。
一瞬のうちにポワレを除いて一同は、医学生のこの提案に賛意を表した。みんなの同意を得て気強くなったビアンションは、ポワレのほうに進みより、
「ミショノー嬢と格別に親しくしておられるあなたから、一つ話してやってくれませんか」と彼は言った。「今すぐこの下宿を立ち退くべきだということがわかるようにね」
「今すぐにですって?」とポワレはびっくりして繰り返した。
そして老嬢のそばに行き、なにか耳許に囁いた。
「だって私は下宿代もちゃんと払ってありますよ。皆さんと同じように、自分の金で堂々とここにいるんですからね」と下宿人たちのほうへ蝮《まむし》のような眼差しを投げながら老嬢は言った。
「そんなことだったら心配は無用だ! みんなで割前を出しあって返してやるぜ」とラスティニャックは言った。
「あなたは妙にコランの肩をもつのね」と彼女は毒々しい探るような眼つきで、学生を見ながら答えた。「なぜだかそのわけを知るのは、むずかしいことじゃなくてよ」
この言葉にウージェーヌは、老嬢にとびつきその首を締めんばかりの剣幕で突進しかかった。彼女の眼差しから胸にはっと閃めく恐ろしいものがあり、ウージェーヌは、ミショノーの裏切りをはっきり悟ったのであった。
「構うな、構うな」と下宿人たちは叫んだ。
ラスティニャックは腕組みしてじっと口をつぐんでしまった。
「ユダ婆あの件は、なんとか早く|けり《ヽヽ》をつけてもらいたいね」と画家はヴォーケル夫人のほうに向って言った。「おばさん、もしミショノーを追い出さないのなら、僕たちみんなこのボロ下宿を出てゆくからね。そしてここにはスパイと徒刑囚としかいないって、ほうぼうへ行って吹聴してやるぜ。それとも僕たちの言うとおりにするんなら、今度の事件は内証にしといてやろう。結局のところこんな事件は、懲役囚の額に烙印でも捺して、やつらがパリ市民に化けるのを防ぎ、連中の性根にたがわぬふざけた馬鹿ったらしい真似するのを、防止でもしない限りは、上流社会にだって起こりかねない事件だものね」
この弁舌に、奇蹟的に元気を取り戻したヴォーケル夫人は立ち上って両腕をくみ、涙のあともない澄んだ眼を大きくまたたいた。
「まあ、あなたったら、私の下宿をつぶそうっていうつもりなんですの? あのとおりヴォートランさん……おや、おや」お女将は自分で言葉を切って独語した。「あの人を堅気の人の名で、どうしても呼んでしまうわね」そして続けた。「ほら、それで一部屋あいたでしょう。そのうえ、みんなおさまるところへおさまり、腰を落ち着けてしまったっていうシーズン半ばなのに、またぞろ貸間を二つもつくれっていうんですの?……」
「諸君、帽子をかぶって、ソルボンヌ広場のフリコトー軒で食事するとしましょうや」とビアンションは言った。
ヴォーケル夫人は一目で得なほうを見てとるや、ミショノー嬢のところへ転げるように行って、
「さあ、あなた、私の下宿がつぶれてもいいってわけのものじゃないでしょう、ねえ? この人たちから私がどんな窮地に追い込まれているか、よっくおわかりでしょう。今晩のところはどうかお部屋に帰っていてくださいな」
「いかん、いかん」と下宿人たちは叫んだ。「今すぐ出て行ってもらうんだ」
「だが食事もすましてないぜ、かわいそうにこの人は」とポワレがあわれげな声を出した。
「すきなところへ行って食ったがいいさ」と二、三の声が叫んだ。
「牝|いぬ《ヽヽ》なんか追い出せ!」
「|いぬ《ヽヽ》どもを叩き出せ!」
「皆さん」とポワレは、さかりのついた牡羊の勇気の域に、にわかに到達して叫んだ。「女性《セックス》を敬ってください」
「|いぬ《ヽヽ》にセックスなんかないぞ」と画家が言った。
「たいしたセックス|ラマ《ヽヽ》(阿魔《あま》)だ!」
「ア・ラ・ポルトラマ(叩き出せ)だ!」
「皆さん、それは不作法というものですぞ。雇人を追い出すにしても、礼儀をもってせんけりゃならん。わしたちはちゃんと部屋代は払ってあるんだから、|てこ《ヽヽ》でもここは動きませんぞ」ポワレは鳥打帽を冠り直し、ミショノー嬢の傍の椅子にどっかと腰をおろして言った。お女将は老嬢にしきりとお説教していた。
「横着者!」と画家はおどけたふうをして言った。「この尻重《しりおも》め、とっととうせろ」
「ようし、そっちが出て行かぬというのなら、こっちのほうからみんな御免こうむらあ」とビアンションは言った。
そして下宿人たちは一塊になって、客間のほうへぞろぞろ動き出した。
「ねえ、ミショノーさん、どうする気なんですよう?」とお女将は叫んだ。「下宿がつぶれちゃうじゃありませんか。あなたがいてくれちゃ困ります。あの人たち、ついには乱暴な真似でもしかねませんからね」
ミショノー嬢は立ち上った。
「行くぞ!」――「出て行くものか」――「出て行くとも!」――「行きゃしないよ!」
交る交るに言われたかような台詞《せりふ》、敵意に満ちたこんな文句が、彼女を的にかわされ出しては、ミショノー嬢とても出て行かぬわけにはいかなかった。お女将と低い声でなにか約束してから、
「ビュノー夫人のところへ行くからいいわ」と脅かすように言った。
「どうぞお勝手に」とヴォーケル夫人は答えた。商売敵として、したがってお女将が当然憎んでいた相手のところを、老嬢がことさら選んだということに、このうえない侮辱を覚えたからである。「ビュノーのところへお行きなさいよ、羊が踊り出すようなすっぱい葡萄酒と、屋台店から安く買って来たお惣菜ばかりが出るでしょうからね」
下宿人たちはいとも大いなる沈黙のうちに、二列に分れた。ポワレはミショノーを情深げに眺め、後を追うべきかそれとも残るべきかと、思い惑う気持をありありとさらけ出した。ミショノーが出て行くのを見て喜んだ下宿人たちは、顔を見合せながら笑い出した。
「うし、うし、うし、ポワレ〔犬をけしかけるときの言葉である〕」と画家が叫んだ。「さあ、行け、よいやさ」
博物館の雇員は聞えた歌謡の序曲を面白おかしく歌い出した。
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シリアに向けて出で立てる
若き美男のデュノワは……
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「さあ、行けよ、行きたくってうずうずしてるんだろう。trahit sua quemque voluptas(人は皆おのれの好むところに惹かれる)」とビアンションは言った。
「このウェルギリウスの句を自由訳すればだね、たで喰う虫もすきずきってわけさ」と復習教師が説明した。
ミショノー嬢はポワレを眺めながら、その腕をとろうとする身振りをした。この呼びかけに彼は抗することができず、ついに行って老嬢を支えた。喝采がどよめき、爆笑が起こった。
「ブラボー、ポワレ!」――「ポワレ老、あっぱれ!」――「アポロン神ポワレ!」――「マルス神ポワレ!」――「豪勇ポワレ!」
このとき、一人の使丁が入って来て、お女将に手紙を渡した。彼女はそれを読み終えるや、椅子の上にへなへなと尻餅をついてしまった。
「こうなったら後はこの家が焼けるのを待つばかりだわ。いっそ雷でも落ちるがいい! タイユフェルの息子は三時に死んだそうですよ。あのかわいそうな青年を犠牲にして、ご婦人たち二人の幸福を祈った私の罰が、みんな当ったんですわ。クーチュール夫人とヴィクトリーヌは、荷物を渡してくれって言ってきたんですよ。タイユフェルさんの屋敷に住むことになったからって。クーチュール夫人を娘の後見役としてとどめておくのを、父親がきっと許したんでしょう。これで四部屋もあいて、五人ひとが減ってしまった!……」
お女将は坐り直して、泣き出さんばかりの面持だった。「貧乏神が家に入りこんだんですよ」と彼女は叫んだ。
来かかった馬車のとまった物音が、にわかに通りのほうから響いてきた。
「また災難がやって来た!」とシルヴィは叫んだ。
ゴリオがひょっこり姿を現わした。幸福に輝いた上気した顔つきで、まるで若返ったようだった。
「ゴリオが馬車で?」と下宿人たちは言った。「いよいよこの世の終りがやって来たぞ」
片隅でもの思わしげに沈んでいたラスティニャックのところへ、老人はつかつかと進みよって、その腕をとった。
「さあ行きましょう!」と爺さんは喜色満面で言った。
「何が起こったのか知らないんですね?」とウージェーヌは老人に言った。「ヴォートランは死刑囚だったので、さっき逮捕されましたよ。それにタイユフェルの息子も死にました」
「それが私たちにいったいどうだっていうんです?」とゴリオ爺さんは答えた。「わしは娘と一緒に君のところで、ほら、お解りでしょう、食事を共にするんですよ。あの子は待ってます、さあ行きましょう」
彼はラスティニャックの腕を乱暴に引っ張って、無理矢理に歩かせた。まるでそれは情婦をかどわかして行くような剣幕であった。
「こっちも食事にしましょうや」と画家は叫んだ。そしてみんなはてんでに椅子を引き寄せて食卓についた。
「おやおや、きょうは何から何までなんて間が悪いんでしょう」とでぶっちょのシルヴィは言った。「私の羊肉シチューも焦げついちゃったわ。しかたがない、焦げたんでも我慢して召し上ってくださいよ、お気の毒ですけど」
ヴォーケル夫人は食卓のまわりに、十八人の代りに十人しかいないのを見て、一言も発する元気も出なかった。けれどみんなはお女将を慰め、その気を引き立たせようと努めた。初めのうちこそ外来の連中は、ヴォートランのことやらきょうの事件などについて語り合っていたが、やがていつもの会話の調子となって、話題はそれからそれへと延び、決闘とか、徒刑場、裁判所、法律の改正、牢獄のことにまで移って行った。そしてジャック・コランやヴィクトリーヌやその兄などからは、千里も遠く離れてしまった。座には十人しかいなかったのに、二十人もいるような賑やかさで、いつもの人数よりも多く感じられたくらいだった。この食事と前日の食事とで、違っているのはただこの点ばかりであった。これらエゴイストの社会のいつもながらの無頓着さは、あすになればあすになったで、パリのその日その日の事件から、また別の引き裂いてくらうべき餌食を見つけ出すのは、きわめて当り前のことながら、そうした無頓着さがこの座の空気を支配していたのだった。そしてヴォーケル夫人までもが、太っちょのシルヴィの言葉に希望づけられて、はや落ち着いた気持になりかかっていた。
この日は夜になってもウージェーヌにとって、まるで幻のなかにでもいるような気がしたに相違ない。強い性格と明晰な頭とを持っていた彼ではあったが、ゴリオ爺さんと並んで馬車にいる自分に気づいたとき、自分の考えをどうまとめてよいか、見当もつかなかった。いつにない喜びをあらわしているゴリオの言葉も、数々の衝動を受けた後のラスティニャックの耳には、まるで夢のなかで聞く言葉のようにしか響いて来なかった。
「ようやくけさで終りましたよ。三人揃って一緒に、いいですか、一緒に晩御飯を食べようっていう算段ですわい。わしのデルフィーヌ、あのかわいいデルフィーヌと食事を共にするなんて、まったく四年ぶりのことですからなあ。今晩は遅くまで、あの子をわしは引きつけておくことができるんですよ。けさからわしたちはあんたの部屋におったのです。わしは上着を脱いで人足のように立ち働きましたぜ。家具を運ぶ手伝いをしたりなどしてね。いやあ、あの子が食事のとき、どんなにわしに優しくしてくれるか、君には見当もつかんでしょう。『さあ、パパ、これを召しあがれ、おいしいわよ』なんて、このわしに世話を焼いてくれるのですぞ。するとこのわしはな、もう胸がいっぱいになってろくろく咽喉《のど》に通らんのじゃ。ああ、これからわしたちが味わおうとしてる、あの子との打ちくつろぎも、これでわしにはずいぶん久し振りのことなんですよ!」
「しかし」とウージェーヌはゴリオに言った。「きょうはなんだか世界がひっくり返ったような気がしますね」
「ひっくり返った?」とゴリオ爺さんは繰り返した。「とんでもない。どんな時世時節でも世界がきょうほど真直ぐに突っ立ってることはありませんぜ。通りで出逢うのはみんなにこにこした顔ばかりで、握手しあったり抱きあったりしているさましか、このわしの眼には映りませんよ。誰も彼も娘の家に呼ばれて、あの子がわしの前でカフェ・デ・ザングレのコック長に注文したような、洒落た料理をご馳走になりに行くみたいに、いそいそした仕合せそうな連中ばかりですわい。しかしご馳走なんか要りませんや。あの子のそばでなら、苦い蘆薈《ろかい》の液汁だって、蜜のように甘く感ぜられますものなあ」
「生き返って来たような気が、なんだか僕にもしだしてきたよ」とウージェーヌは言った。
「さあ、とっとと走らせんかい、御者!」とゴリオ爺さんは前部のガラス窓を開けながらどなった。「もっと早くやってくれ。さっきのところまで十分間で行ってくれれば、酒手に五フランはずんでやるぞ」
この約束を聞いて、御者は電光の迅さで、パリ市中を横切って行った。
「のろいな、この御者ったら」とゴリオ爺さんは何度も繰り返した。
「いったい僕をどこへ連れて行くんです?」とラスティニャックは爺さんにたずねた。
「どこへって、君のところへさ」とゴリオ爺さんは答えた。
馬車はダルトワ通りでとまった。老人はまっさきに降り、愉悦の絶頂にあって、もうなんであろうと頓着しなくなっているやもめ男の気前よさをもって、御者に十フランを投げ与えた。
「さあ上りましょう」と彼はラスティニャックに言って、中庭を横切って、立派な構えの新築家屋の裏側になっている四階のアパートの戸口まで案内して行った。
ゴリオ爺さんが呼鈴を鳴らすまでもなく、ニュシンゲン夫人の小間使テレーズが、二人のためにドアを開けてくれた。ウージェーヌが入った快適な独身アパートは、控え室と、小さなサロンと、寝室と、庭を見はらした書斎の四部屋から成っていた。小さなサロンのなかは、その調度といい装飾といい、およそ他の壮麗で優雅ないずこのサロンに較べても、毫《ごう》も遜色がなかった。ローソクの明りでそこに彼はデルフィーヌの姿を認めた。炉辺の二人用長椅子から立ち上った彼女は、火除団扇《エクラン》を暖炉棚の上におき、情愛のこもった声音で彼に言葉をかけた。
「こっちからお迎えが要るなんて、本当に気のきかない方ねえ!」
テレーズは出て行った。学生はデルフィーヌを両腕にかかえ、激しく抱きしめて嬉し泣きに泣いてしまった。数々の刺激で頭も心も疲れはてたきょう一日に、彼が見てきた光景と、今ここに見る光景とのこの最後のとどめの対照が、ラスティニャックのうちに神経敏感性の発作を惹き起こさせたのだった。
「お前をこの人が熱愛していたことを、わしはちゃんと知っとったよ」とゴリオ爺さんはごく低い声で娘に言った。その間にもラスティニャックはただもうげっそりとして、長椅子に横たわったまま、一言も口も利けなければ、この最後の魔法杖がどんな風に揮われたのかも悟れずにいた。
「さあ来てごらんになってよ」とニュシンゲン夫人は言って彼の手を引っ張り、伴って行った一部屋は、そこの絨毯といい、家具といい、こまごました調度類といい、デルフィーヌの部屋のそれを小型に模造したものであることが、学生の記憶に蘇った。
「寝床がありませんね」とラスティニャックは言った。
「そうですの」彼女は顔を赤らめながら答えて、彼の手を握った。
ウージェーヌは彼女を見つめた。そして恋する女の心のなかにこそ、真の羞らいがあることを、若い心にも悟ったのであった。
「永遠に人が崇めなければならないといった方々のうちの、あなたはその一人なんですのよ」と彼女は彼にささやいた。「そうですわ。思い切ってお話ししますわ、あたしたちこんなによく理解しあっているのですもの。愛情が烈しく真摯であればあるほど、いよいよもってよそ目には隠して、秘密にしておかなくてはなりませんのよ。ですからあたしたちの秘密は、誰にも洩らさぬようにいたしましょうね」
「おお、わしはその『誰にも』のなかに入るんじゃなかろうな」とゴリオ爺さんは不平をもらした。
「ご存じのくせに。あなたは『あたしたち』のなかじゃありませんか、お父様……」
「ああ、わしもそう望んでおったのじゃよ。だがわしには気をつかわんでおってもらいたいな、わかったね。わしは見えん代りにどこにでもいられ、そのいることだけが感じられるといった妖精のように、出たり入ったりしたいものだなあ。どうだい、デルフィネット、ニネット、ドデル、『ダルトワ通りに立派なアパートがあるが、あの人のために家具を入れよう』って、お前にわしが言ったことは、どうかね、間違ってはいなかったろう。だがお前はあまり乗り気にならなかったな。やっぱりこのわしなんだ、わしはお前の生みの親であるように、お前の喜びのそれでもあるんだ。父親は幸福でいようと思ったら、しょっちゅう与えなくちゃならん。常に与える、それが父親というもんさ」
「いったいこれはどうしたわけなんです?」とウージェーヌは訊ねた。
「うん、はじめはこの子は乗り気にならなかったのじゃ。世間からくだらぬことを言われるのが怖くってな。まるで世間が幸福をでも得させてくれるように、この子は心得ておったのじゃから。だがどんな女だって、この子のしてるようなことをしたいと、夢には思い描いているもんさ……」
ゴリオ爺さんは聞き手もなしにおしゃべりしていた。ニュシンゲン夫人はラスティニャックを、書斎のなかに連れて行ってしまったからで、ごくしのびやかに取りかわした二人の接吻ではあったが、キッスの音が書斎のほうから響いてきた。書斎もこのアパートの雅趣と釣り合いがとれ、至れり尽せりのものだった。
「あなたのお好みにあいましたかしら?」
食卓につくためサロンのほうに戻りながら、そう彼女はたずねた。
「ええ、もう期待以上ですとも。ああ、この完備した贅美、実現された美しい夢、青春高雅な生活の詩、それが僕にはしみじみと感じられ、ほしいと思わぬどころではありません。けれどこれをあなたからいただくなんて、ちと筋が違います。なにしろ僕はまだあまりにも貧乏で……」
「あら、もうあなたはあたしに楯を突こうとおっしゃるの」女性が何か相手の気遣いを、巧みに消散させるため、一笑に付するときにやる、あの美しい顰《しか》め面をしながら、なかばふざけたような威儀をとりつくろって彼女は言った。
この日一日じゅう、ウージェーヌはひどくきびしい自己審問を行ったばかりか、ヴォートランの逮捕により、あやうく彼が転落の憂目をみるところだった深淵の深さをのぞかせられ、彼の高潔な情操と廉恥心は、いちだんと強固になったばかりのこととて、健気な彼の考えに対するこの優しい反駁にも、屈しようとはしなかった。深い悲哀の情に、彼はとらわれてしまっていた。
「まあ、なんですって、お断りになるとおっしゃるの?」とニュシンゲン夫人は言った。「そのような拒絶が、どんな意味になることかご存じ? あなたは将来を危ぶんで、あたしと思い切って結ぼうとはなさらないのね。じゃあなたは、あたしの愛情を裏切るのが怖いんでしょう? もしもあなたがあたしを愛し、そしてあたしも……あなたが好きだとしたら、なぜこんな些細な恩誼を受けるのを、尻込みなんかあそばしますの? あたしどんなに喜んでこの独身アパートの設備万端をしたか、それをご存じでしたら、少しもためらうことなぞなく、済まなかったとあたしに一言おっしゃるはずですわ。あたしあなたのお金をお預りしていたでしょう。それを生かして使ったまでの話じゃありませんか。あなたは大きいところを見せたつもりでいらっしゃるけど、そこがあなたの料簡の小さいところよ。あなたはもっとどえらいことを、あたしにご要求なさったくせに……(ウージェーヌの眼がそのとき情熱に燃え輝いたのを見て、まあ! と彼女は思った)くだらないことには、いやにお気取りあそばすのね。あたしを愛していないのだったら、ええ、もちろん、お断りなすっても結構よ。あたしの運命はあなたの一言にかかっているのですわ。さあおっしゃってよ! ――ねえお父様、なにか巧いことを言って、この方を納得させてちょうだいな」と彼女はちょっと間をおいてから、父のほうに向きなおって言った。「あたしたちの外聞というものについて、この方よりあたしのほうが、神経を使わずにいるとでも、思っていらっしやるのかしら?」
この美しいいさかいを見聞きしながら、ゴリオ爺さんはアヘン吸飲者のようなこわばった微笑を浮かべていた。
「子供だわね! あなたはまだ人生のほんのとば口にいらっしゃるだけなのよ」ウージェーヌの手をとりながら彼女は続けた。「多くの人にとってはのりこえられぬ柵に面していられるあなたに、女の手でそれを開けて差上げようと申すのに、あなたときたら尻込みなすっていらっしゃるのね。でもあなたはきっとご成功なさいますわ。輝かしい未来をお築きになれますわ。あなたの美しい額には、ちゃんとそのことが書いてあるじゃありませんか。そのときになってあたしからきょう借りたものを、返せばいいじゃありませんの。昔の貴婦人たちはその騎士に、甲冑や剣や兜や鎖|帷子《かたびら》や馬匹を贈って、野試合で貴婦人《ダーム》の名において闘いにおもむけるように、一切合切やっていたではありませんか。ねえ、ウージェーヌ、あたしがあなたにお贈りするのも、現代の武器、ひとかどのものたろうとするには、なくてはならない道具類ですわ。あなたのいらっしゃる屋根裏部屋が、パパのお部屋そっくりだとしたら、さぞかしお立派でしょうね! さあ、お食事しましょうよ。あたしを悲しませたいとお思いなんですの? お返事なさいました?」そう言って彼の手をゆすぶった。――「ねえ、パパ、この人に決心させてちょうだいよ。さもなければあたし帰るわ、そしてもう二度とこの方とはお会いしなくってよ」
「どれ、わしがあなたに決心つけさせてあげましょう」とゴリオ爺さんは恍惚状態からやっとわれに返って言った。「ねえ、ウージェーヌさん、お金を高利貸から借りることならどうですね?」
「場合によればそうでもするよりほかはないですね」と彼は言った。
「よし、じゃあんたはわしのもんだ」そう言って老人は、擦り切れた汚い革財布を引き出した。
「わしは高利貸《ジュー》になりましょう。ぜんぶの請求書はこのわしがみな払っておいたんです。ほら、ここにある。この家にあるもの一切合切、あなたは一文だって人に借りんでもよいのじゃ。なに、たいした額じゃない、せいぜい五千フランがとこだ。わしがそれをあなたに貸しましょう。このわしがですぞ。まさかいやとはおっしゃらんでしょうな、わしは女ではありませんからのう。紙きれに一つ証文を書いといてください。そしていずれ返していただくとしましょうや」
びっくりして顔見交したウージェーヌとデルフィーヌの眼からは、数滴の涙が同時に流れ落ちた。ラスティニャックは老人の手をとって、堅く握りしめた。
「おや、どうしたんじゃ、あんたがたはわしの子供たちじゃないのかね?」とゴリオは言った。
「だって、お父様、どうやってご工面あそばしたの?」とニュシンゲン夫人は言った。
「ああ、その話かね、それはこの方をご近所に住まわせることを、お前に決心させ、まるで花嫁御でも迎えるように、お前がいろんなものを買ってるさまを見て、わしはこう思ったんだよ。『この子はいまに金に詰ることになるぞ』ってね。代訴人の話では、お前の財産を取り戻すための良人相手の訴訟は、半年以上もかかるそうじゃないか。よしきたとわしはそこで、年額千三百五十フランの無期年金(公債)を売払ったのじゃ。そしてそのなかの一万五千フランで低当流れの千二百フランの終身年金を買い、そして資金の残りでお前の商人たちに、すっかり支払いをすませてやったのさ。なあにわしはこの階上に、年ぎめ百五十フランで一部屋借りたし、一日二フランあれば王侯のような暮しができるんじゃ。だからうんとお釣がくるよ。それにわしは持ちがいいほうだから、服なんぞほとんどいらんしさ。『二人は仕合せになれるぞ!』って思いながら、ここ二週間ばかりというものわしは肚んなかで笑っておったよ。どうじゃ、仕合せではないかな!」
「おお、パパ、パパ!」と叫んで父親にとびついたニュシンゲン夫人を、ゴリオは両膝の上にかきのせた。彼女は父親を接吻でおおい、そのブロンドの髪で父の頬を撫で、晴れやかに輝いた老いの顔の上に涙を注ぎかけた。
「お父様、あなたこそ本当の父親よ! いいえ、天《あま》の下にあなたのようなお父さんは二人とはありませんわ。ウージェーヌはもう前からあなたが好きなのに、これからはどういうことになるでしょう!」
「だってお前たち」娘の心臓が彼の胸の上で鼓動するのを、もう十年も感じたことのなかったゴリオ爺さんは言った。「だってデルフィーヌ、お前はわしを喜び死にさせようっていうのかい! わしの弱い心臓は破裂しちまうよ。さあ、ウージェーヌさん、わしたちはもうこれで対等になったんですぞ」そして老人は熱狂して荒々しく娘を抱きしめたので、「あっ、痛いわ!」と娘は思わず叫んだ。
「なに、痛くした!」そう言って父親は真蒼になり、超人的な苦悩の表情で娘を眺めやった。この父性愛のキリストの面ざしを巧みに描写するには、パレットの巨匠《プリンス》たちが世人のための救世主の受難を、描こうとして想を擬《こら》したいくたの肖像画のなかにでも、比較を探すよりほかはないだろう。指できつく圧しすぎた娘の帯のあたりに、ゴリオ爺さんは穏やかに口づけをした。
「いや、いや、わしはお前に痛い目をみさせるどころか、お前のほうこそそんなに叫んだりして、わしの胸をきつく痛めさせたじゃないか。そのほうがずっとひどいぞ」微笑をもって娘にたずねながら彼はそう言った。そして用心しいしい娘に接吻しながら、その耳許にささやいた。「だがね、うまくウージェーヌの手前をわしはつくろわんけりゃならん。さもないと彼は、お前に痛いことをしたというので、このわしに怒り出すだろうから」
だがウージェーヌはこの老人の尽きることを知らぬ献身ぶりに唖然となって、素朴な感嘆の情をあらわにして(これが青年の信念を形づくるものだが)ゴリオを眺め入っていた。
「僕はこれらすべてに価いする人間に、きっとなってみせますよ!」と彼は叫んだ。
「おお、ウージェーヌ君、ご立派なお言葉じゃ」
ニュシンゲン夫人は学生の額に接吻した。
「この人はお前のためにタイユフェル嬢と、それに何百万というその大身代を拒んだのじゃぞ」とゴリオ爺さんは言った。「そうとも、あの娘はかわいそうにあんたに惚れとったよ。ところが兄さんが死んだので、クレジュス王のような大金持になったんじゃ」
「なんだってそんなことをおっしゃるのです?」とラスティニャックは叫んだ。
「ウージェーヌさん」とデルフィーヌは彼の耳に囁いた。「今のあたしにはたった一つの心残りがあるだけ。それは今夜このままでお別れしなければならないということ。でもあたしはあなたを心から愛しますわ、それこそ永遠に」
「娘たちが結婚して以来、わしはきょうほど楽しい日を迎えたことがない」とゴリオ爺さんは叫んだ。「お前たちから苦しめられるのでないかぎり、わしはどんな苦しみをだって、神様からお気のすむままちょうだいしても結構だ。『今年の二月には、他の人たちが一生かかっても得られないような幸福なひとときを、わしは恵まれたんだ』って心に思えるんだもの。フィフィーヌ、こっちに顔を向けておくれ!」と彼は娘に言った。「どうですな、まったくもって美人じゃありませんか。ねえ、こんな綺麗な顔色と、こんなかわいいえくぼをもった女に、あなたはたくさん出会われたことがおありかね。いや、ない、そうでしょう。ねえ? ところでこのすばらしい別嬪さんをこしらえたのは、このわしなんですぞ。これからは君のお蔭で仕合せになって、器量が千倍も上りますぞ。わしは地獄に堕ちてもかまわんのだ。わしの天国での場席を、もしもご入用ならあなたに差上げてもいい。さあ、食べよう、食べよう」何を言っているのか自分でもわからずに彼は続けた。「なにもかもわしたちのものなんだから」
「まあ、お父さんったら!」
「お前がどんなに造作なくこのわしを仕合せにできるか、それをお前が知っとってくれたらなあ」と彼は言って立ち上り、娘のところに行ってその頭を抱きかかえて、編毛のまんなかに接吻をした。「ときどきはわしに会いに来ておくれ。わしはこの上にいるんだから、ほんの一足のばせばいいんだよ。ねえ、約束してくれるだろうね」
「ええ、お父さん」
「もう一度言っておくれ」
「承知しましたわ、パパ」
「もうよい。そのまま聴いていると、わしは百遍でもお前にそう言わせなくてはならなくなる。さあ、食事にしよう」
その夜更けるまで彼らは子供のようなはしゃぎ振りをした。なかでもゴリオ爺さんは一番に気違いじみた振舞いに耽り、娘の足に接吻しようとして伏しまろんだり、娘の眼のなかを長いことのぞき込んだり、彼女のローブに頭をごしごしこすりつけたり、いってみれば世にも年若く心優しい情人がしかねぬような痴態を、さんざんに演じつくしたのであった。
「おわかりになって?」とデルフィーヌはウージェーヌに囁いた。「お父さんと一緒だと、すっかりお父さんのものにならなくてはいけないのよ、煩わしい気がすることも、これからはときたまあるでしょうね」
すでに何度となく嫉妬の衝動を感じていたウージェーヌは、あらゆる忘恩の種をはらんでいるこの言葉を、咎め立てもできなかった。
「いつこのアパートの備え付けはすむんです?」とウージェーヌは部屋をぐるりと見まわしながら言った。「とにかく今晩は引き上げなければなりますまい」
「ええ、でもあすお食事にいらしてね」と彼女はこざかしそうに言った。「あすはイタリア歌劇の日ですから」
「わしは平土間に行っていよう」とゴリオ爺さんは言った。
もう真夜中だった。ニュシンゲン夫人の車は待っていた。互いの激しい情熱の間での、奇妙な言葉争いまでが生じたほどの、いやます熱誠をもって、ゴリオ爺さんと学生は、デルフィーヌのことを語りあいながら、メゾン・ヴォーケルヘと歩いて戻った。なんの私利私欲にも汚されていない父親の愛が、その根強さや拡がりからいって、彼の愛を圧倒しさっていることを、ウージェーヌは認めないわけにはゆかなかった。父親にとってその偶像は常に浄く美しく、そしてその仰慕の情は、過去のすべてから発展し、未来からも増進していた。
下宿に入ってみるとヴォーケル夫人が、シルヴィとクリストフにはさまれて、ストーブの隅にしょんぼりしていた。老女将のそのさまは、カルタゴの廃墟を目の前にしたマリウスそっくりであった。シルヴィと泣きごとをこぼしあいながら、残されたたった二人の下宿人を、折から待っていたところであった。バイロン卿はタッソーに世にも美しい悲嘆の言葉をよせたが、それとてもヴォーケルお女将の口から洩れた、深い愁嘆のこもった真実味には、遠くおよばぬであろう。
「シルヴィや、あすの朝のコーヒーはたった三杯つくればいいのだよ。ねえ、あたしの家がこんなにからっぽになったなんて、まったく断腸の思いじゃないか。下宿人たちのいないあたしの人生だなんて、いったいなんだろう? ほんとに無意味じゃないか。あたしの家屋敷から人間という家具が取りはずされちゃったのさ。生活ってものは家具のなかにあるんだのにね。こんな災難を招くとは、いったいなにをあたしはしたっていうんだろう? うちの隠元豆や馬鈴薯は、二十人分も仕入れてあるんだよ。警察があたしの家に入り込むなんて! これからは馬鈴薯ばかり食べていなくっちゃならないね。クリストフには暇を出すとしよう!」
居眠りしていたサヴォワ生まれの従僕は、にわかに眼をさまして、
「何かご用ですかい?」
「かわいそうに、まるで番犬みたい」とシルヴィは言った。
「それにさ、みんなもう尻を据えてしまっていて、季節《シーズン》外れときてる。下宿人たちが天からうちに降って来る気遣いはないさ。それを思うとあたしは気が狂いそうだよ。それにあのミショノーの鬼婆あめ、ポワレまで連れて行ってしまうなんて。犬ころみたいにあんな婆あの尻っぺたにくっつくなんて、あの男ったらなんの妖術に魅入られて、あんな女のあとなんか追ったんだろう?」
「それはね、マダム」とシルヴィもうなずきながら言った。「ああいうオールド・ミスたちは、いろんな術策を心得てるからなんですよ」
「気の毒なヴォートラン旦那も、徒刑囚にされっちまうしさ」とお女将は続けた。「だけどね、シルヴィ、そんな馬鹿なことって、あるもんかね。あたしはいまだに信じられないんだよ。あんな陽気な人柄だったし、毎月十五フランも出してグロリヤを飲んでくれ、しかもお勘定はきちんきちんといただいてたしね」
「それに気前がよくってね!」とクリストフは言った。
「きっとなにかの間違いでしょう」とシルヴィは言った。
「間違いじゃないよ、自分でそう白状してたもの」とヴォーケル夫人は続けた。「それにしても、猫の子一匹通らぬ淋しい界隈のこのあたしの家で、あんな事件が起こるなんて、まったくこちとらのような堅気のものには夢のような話さね。そりゃお前、あたしたちだってルイ十六世がご災難にお遭いなすったのも見たし、ナポレオン皇帝が失脚し、また帰って来て百日天下で没落したのも見たよ。けれどそれはみんな起こりうることが起こったのにすぎないけど、下宿屋であのようなことが起こるなんて、万が一にもないことじゃないの。王様なんかなくったってすませられるけど、食べるほうだけはいつの世だって、事欠かすわけにはゆかないじゃないか。しかも、コンフラン家生まれの真正《まっしょう》なこのあたしが、腕によりをかけて作ったご馳走をだよ。世の終りでも来ないかぎりは……そうだ、これじゃまったく世の終りだよ」
「おまけにこんな酷《ひど》い目にこっちをあわせたあのミショノーが、人のうわさでは三千フランもの年金にありついたなんてことを考えますとね」とシルヴィは叫んだ。
「そんないまいましい話はよしてくれ、あんな鬼婆あの話なんぞ!」とお女将は言った。「それにさ、おまけにビュノーのところへ宿替えするなんてね。だけど、あんな女はなんだってやりかねない女さ。きっと恐ろしいことをさんざんやって来たのに違いないよ。あれで若い頃は人殺しもしたし盗みも働いたんだろう、お気の毒なヴォートランさんの代りに、あんな女こそ徒刑場へ行くべきだよ……」
このとき、ウージェーヌとゴリオ爺さんが呼鈴を鳴らした。
「あら、やっと帰って来た。あのたのもしい二人客が」とお女将は溜息をつきながら言った。
だが、たのもしいこの二人客も、下宿屋を見舞った災厄なんか、ろくすっぽその念頭にはなく、ショセ・ダンタンに引っ越すことを、お女将に向ってなんの遠慮もなく通告した。
「ああ! シルヴィ!」とお女将は言った。「もういけないよ、万事窮すだ。お二人さんに最後のとどめを刺されたよ。あたしゃ胸をどきんとやられた。棒がまるでここんところにつかえてるようだ。きょう一日であたしゃ十年もふけたようだよ。まったく気が狂いそうだ。隠元豆をあんなに買い込んで、どうしたらいいだろう? ああ、このあたし一人だけになるんなら、あすお前は出て行っておくれ、クリストフ。さよなら、皆さん、お休みなさい」
「どうしたんです?」とウージェーヌはシルヴィにたずねた。
「どうしたってあんな事件があったんで、皆さん出て行ってしまったからですよ。それで頭がくしゃくしゃしてるのでしょう。ほら、泣き声が聞えるでしょう。ちっとはおろおろ泣きも薬でしょうよ。雇われてからこっち、あのお内儀さんがめそめそ泣くのなんて、あたし、きょうが初めてですわ」
翌日、ヴォーケル夫人も、その言い草に従えば「肚《はら》がすわった」ようだった。下宿人を一人残らず失って、生活を引っくり返されてしまった女らしく、しおれたふうはしていたが、理性はもうすっかりとり戻していた。そして自分の利益を傷つけられたり、生活の習慣を破られたりしての悲しみ、真の悲しみ、深い悲しみが、どんなかを現わしていた。恋人の部屋の窓を見返るながの別れぎわの情夫の眼差しとても、ヴォーケル夫人が客のいない食卓に向って投げた眼差しほどには、確かに悲痛味にあふれてはいなかったであろう。ウージェーヌはお女将を慰めて、二三日中にインターン期間の終るビアンションが、きっと自分の後釜にここへ来るだろうし、博物館の雇員も、クーチュール夫人の部屋に入りたいという希望を、かねて洩らしていたから、そのうちには下宿人の頭数も、以前どおりに揃うだろうと励ましてやった。
「あなたのおっしゃるようになるといいですがね。でも災いがこの家にはつきまとっているんですよ。十日もたたないうちに、きっと死神のお見舞いでもあるでしょうよ。見ててごらんなさい」そう言って彼女は食堂の上に縁起でもない眼差しを投げた。「今度は誰の番だやら?」
「引っ越すことにして、僕たちいいことをしましたね」とウージェーヌは低い声でゴリオ爺さんにささやいた。
「マダム」と息せき切って駈け込んできたシルヴィは叫んだ。「ここ二三日まるっきり猫のミスティグリの姿が見えないんですが」
「まあ、あたしの猫が死んだとすれば、あたしたちから去って行ったものとすれば、じゃこのあたしは……」
この恐ろしい前兆に叩きのめされて、かわいそうに未亡人はそう言いも終らず、合掌したまま肱掛椅子の上に、仰向けざまにぶっ倒れてしまった。
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二人の娘
お昼ごろ、郵便配達夫がパンテオン区にまわってくる時分、ウージェーヌはボーセアン家の紋章で封印してある優雅な封筒を受け取った。一ヵ月来予告されていた子爵夫人邸での大舞踏会に、ニュシンゲン夫妻への招待状が入っていた。そしてウージェーヌあての簡単な手紙も、一緒に同封されてあった。
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ニュシンゲン夫人へのあたくしの感情を、喜んであなたがお伝えしてくださると考えましたので、かねてご依頼の招待状を、あなたあてにお送りいたしておきます。そしてレストー夫人のお妹さんと、お近づきになれますことを、当方ではなによりの楽しみにしております。どうかあのお美しい方を、あなたがお連れになって来てくださいませ。でもあなたの愛情を、すっかりあの方が独占するというのでは困りますわ。あたくしがあなたに抱いている愛情のお返しも、少なからずこっちに酬いてくださらなくてはいけませんもの。
ボーセアン子爵夫人
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「なるほど」とウージェーヌはその手紙を再読しながら考えた。「ニュシンゲン男爵のほうは真平だと、ボーセアン夫人は相当はっきりと言ってよこしたな」
彼は急いでデルフィーヌのところに赴いた。彼女に吉報をもたらすことができるかと思うと、うれしくてたまらなかった。間違いなくご褒美がもらえると思ったからで。ニュシンゲン夫人はちょうど入浴中だった。夫人の私室で待っていたラスティニャックは、一年間の欲望の対象であった恋人を今や占有しようというまぎわの、熱烈で性急な青年には無理からぬあの焦躁の念に駆られていた。これは青年の生涯のなかでも、二度と出会うことのない感動である。男が愛着する最初の真に女らしい女、すなわちパリの社交界が求めている輝かしい属性を身につけて、男の前に現われる女性は決して恋敵を持たない。パリでの恋は他の恋とまったく趣を異にしている。体裁上から各人が、そのいわゆる欲得はなれた愛情に対し、陳腐なお座なりをもって、うわべを飾っている見せかけに、まんまと欺かれるような男女は、パリには一人もおらない。パリという土地柄では、女人はたんに心や官能を満足させるだけでは足りず、人生を構成するいくたの虚栄心を、満さねばならぬ大いなる義務を、おのれが有していることを、十分に心得ている。さればとくに恋愛は本質的に増上慢であり、図々しく、浪費的で、法螺ふきで、驕奢きわまるものとなっている。
ルイ十四世が、ヴェルマンドワ公爵〔ルイ十四世とマドモワゼル・ド・ラ・ヴァリエールの間の庶子〕の社交界入りに便益を与えんがため、袖飾りがおのおの千エキュもするのを忘れて、それらを引き裂いたとき、宮廷のじょうろう衆は大王のこの情欲へのたぶらかされに、マドモワゼル・ド・ラ・ヴァリエールを羨まぬとてはなかったとしたなら、その他の社会はどうか、それは推して知るべきではないだろうか。
若くて金があって爵位がなくてはならぬ。できたらそれ以上のものを、持つに越したことはない。偶像の前で焚《た》くべき香が多ければ多いほど、偶像の受けはよくなる。もっともこれは崇めるべき偶像があっての話だが。恋愛は宗教だ。その祭式は他の宗教のそれよりも、高いお賽銭《さいせん》を払わなくてはならない。そのお祭りは慌しく通り過ぎる。腕白小僧のようにその通った道筋がわかるくらい、狼籍のあとをのこして。だが、感情の豊かさは屋根裏部屋の詩である。そうした豊かさがなかったら、屋根裏部屋での恋愛など、およそ存在しようがないではないか。パリ法典のこの苛酷な掟に、もしも例外があるとしたら、それは孤独のなかの魂である。社会の教説などにさそわれず、澄んだかぼそい、しかし滾々《こんこん》としてつきぬ泉のほとりに住む魂、緑の樹蔭の傍らを離れず、あらゆるもののなかに、また自分自身のうちにも感得のできる、自分のために書かれた無限《ヽヽ》の言葉に、耳傾けることを楽しみ、地上の人々を憐れみつつ、天翔ける翼がおのれに備わるのを、気長に待っているところの魂である。
早くから権勢を重んじていた青年の大多数と同じく、ラスティニャックは社会という闘技場に、すっかり武装に身を固めた上で、打って出ようと思っていた。彼はすでに烈しい欲望にとらわれ、おそらく社会を制圧する力を、われと感じてもいた。しかしそうした野望の目的も、またそれをとげる手段も、まだわきまえていなかったのである。生命を充実させる浄い純愛がなくとも、こうした権勢への渇望は美しいものとなることができる。あらゆる私利私欲を脱ぎすてて、国家の繁栄を目標に邁進すればよいからだ。だがラスティニャックは、人生の全過程を見極めて、判断を下すことのできる大人の域にまで、まだ達してはいなかった。それどころか田舎に育った少年の瑞々しさを、緑の葉叢《はむら》でのように包んでいる、新鮮で甘美な思いの魅力をも、それまでの彼はまだ残りなく振り落してさえもいなかった。パリのルビコン〔ルビコン河をシーザーはさんざん躊躇の末に渡って祖国に侵入した。非常なる決断と勇気とを要したのである〕を渡る決心が、絶えず彼にはつきかねていた。熱烈なその好奇心にもかかわらず、真の貴族が田舎のお城で暮すあの幸福な生活への下心を、常に彼はいくらか持ち続けていた。
けれど彼の最後の心とがめも、昨夜、彼のアパートにおさまる自分の姿を見たとき、すっかり掻き消えてしまっていた。家柄からくる精神的な利益を、前から享受してきた彼は、栄達の物質的な利益を味わうにおよんで、ここに田舎者の殻を脱ぎすて、輝かしい前途を望見できる立場に、悠然とわが身を置いたのであった。
それでデルフィーヌを待ちながら、すこしは自分のものにもなりかけたこの美しい婦人部屋に、やんわり腰をおろした彼は、昨年パリに上京した頃の自分とは、昔日の観があるような気がして、心の眼鏡をとおしておのれを顧みながら、今の自分は果して本当の自分自身に、似ているかどうかなどと考えていた。
「マダムは居間にいらっしゃいます」と、不意にテレーズが言いに来たので、彼ははっとなった。
行ってみるとデルフィーヌはすがすがしくうちくつろいで、暖炉の傍の安楽椅子の上に横になっていた。モスリンの波間の上にただよっているような彼女の姿を見て、花のなかに実のなるインドの美しい植物にくらべずには、彼はいられなかった。
「まあよくいらっしゃったわね」と情のこもった声音で彼女は言った。
「何を持ってきたか、あててごらんなさい」と言ってウージェーヌは、夫人のそばに腰をおろすや、その腕をとって手に接吻をした。
招待状を読みながらニュシンゲン夫人は、うれしそうな身振りをした。そしてうるんだ眼をウージェーヌに向けて、彼の首に両腕をまきつけ、虚栄心の満たされた嬉しさに酔って、彼をぐっと引き寄せた。
「そうしてこの幸福はみんな|あなた《ウー》のおかげよ、――|あんた《トワ》の」彼女は彼の耳もとで囁いた。「だってテレーズが化粧部屋にいるのですもの。用心しましょうね。――ほんと、あたしはあえて幸福って言いますわ。あなたから入手していただいたのですもの、たんなる自惚れの勝利感どころではありませんわ。だって誰もあたしをあの社交界に、紹介しようとしてはくれなかったのですよ。今のあたしをあなたはきっと、パリ女らしい蓮っ葉だ、上調子のつまらぬものに、思し召していらっしゃるのでしょう。でもねえ、あたしはあなたのためなら、なんでも犠牲にする覚悟ができてるんですのよ。サン・ジェルマン街に入りたいと、今までよりも烈しくあたしが願っているというのも、あなたがそこに出入りしていらっしゃるからなんですわ」
「ボーセアン夫人は舞踏会に、ニュシンゲン男爵を招きたくはないと、暗に匂わせているのだとお考えにはなりませんか?」とウージェーヌは言った。
「そうですとも」と男爵夫人は言って、手紙をウージェーヌに返した。「ああいう女人は傲慢にふるまう才能を、したたかに持ってますからね。でも、構いませんわ、あたし行ってやるから。姉も行くはずですのよ。素晴らしい衣裳を用意しているって聞きましたわ、それはね、ウージェーヌさん」と彼女は低い声で続けた。「おぞましい世の疑惑を一掃しようと思って、姉はそこに行くんですのよ。姉について伝わっている噂、ご存じじゃないでしょうね。ニュシンゲンがけさ、あたしに告げに来たのですけど、クラブなどではきのうおおっぴらに話題に上っていたそうですわ。それがね、女としての、また家庭としての名誉に、大いにかかわることなんですのよ。何分にも肉身の姉のことだけに、妹のこのあたしまで攻撃され、傷つけられたような気がしましたわ。なんでも二三の人の噂話によると、トライユさんが署名した十万フランにものぼる手形が、ほとんどみな不渡りになって、あの人は訴えられかけたのですって。そうした窮場だもので、姉はダイヤをユダヤ人に売ってしまったらしいのですよ。あなたも姉がつけているのをごらんになったことがあるでしょう。あの立派なダイヤは、レストーのお母さんから伝わったものなんですの。それでここ二日間、その噂で世間は持ち切りなんですの。ですから姉は金銀箔の衣裳を作らせて、綺羅《きら》びやかに着飾り、問題のダイヤをつけ、ボーセアン夫人のところにあらわれて、一座の衆目を奪おうという考えなのに違いないと思いますわ。こちらだって姉にひけを取りたくはありません。姉ときたら、いつもあたしを踏みつけにしようとはかり、いっぺんだって|ひと《ヽヽ》に優しくしてくれたこともありませんもの。こちらではずいぶんと姉につくし、お金がないといえば、どんなときでも用立ててあげたのですのに。けれど、世間のことなんか、どうだっていいわ。きょう一日あたし、ほんとに楽しくすごしたいと思うのよ」
ラスティニャックは午前の一時になっても、まだニュシンゲン夫人のところにいた。夫人はあの恋人同士の別れ、来るべき喜びにいっぱいのあの別れを、彼に惜しみなく与えながら、ふと、愁わしげな面持をして言った。
「あたしとても怖がりやで迷信深いのよ。このいやな予感を、なんとでも好きにおっしゃってけっこうだわ。けどあたしこんな幸福はなんか恐ろしい破局《カタストロフ》で、償わなくちゃならないのではないかと、じつはびくびくものなの」
「子供ですね」とウージェーヌは言った。
「あら、今夜はあたしのほうが子供扱いにされちゃった」と笑いながら夫人は答えた。
ウージェーヌはあす引っ越す肚《はら》をきめて、メゾン・ヴォーケルに帰った。あらゆる青年が幸福の後味を、まだ唇に残しているときにひたるような甘美な夢想に耽りながら、家路をたどったのである。
「どうでした?」とラスティニャックがゴリオ爺さんのドアの前を通ると、老人から声がかけられた。
「ええ、あすすっかりお話ししますよ」とウージェーヌは答えた。
「すっかりですぞ、いいですか?」と老人は叫んだ。「ゆっくりお休みなさい。あすからわしたちの幸福な生活が、始まるんじゃから」
翌日、ゴリオとラスティニャックはこの下宿を立ち退くのに、ただ運送屋の手を借りるのを待つばかりとなっていたとき、ちょうどお昼ごろ、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りに馬車の音がなりひびいて、それはぴったりメゾン・ヴォーケルのまん前で停った。ニュシンゲン夫人が車から降り、父はまだ下宿にいるかとたずね、シルヴィの肯定的な返事に、軽快に階段をのぼって行った。
ウージェーヌはそのとき自分の部屋にいたのだったが、それをゴリオ爺さんは知らなかった。彼は朝食のとき、ゴリオ爺さんに午後四時にダルトワ通りのアパートで落ち合う約束をし、自分の荷物を運ばせておくことを頼んでおいた。学校で出席の返事をあわててすませて来た彼は、老人が運送屋を頼みに行った間に、だれ知らぬうち下宿に戻っていた。ヴォーケルお女将に勘定をすませるためで、彼に熱狂しているゴリオ爺さんのことだから、代って払うのに違いないので、そんな負担を老人にかけるのがいやだったからだった。ところがお女将も留守だった。ウージェーヌはなにか忘れ物はないかと思って、自分の部屋にあがってみた。机の引出しのなかに、ヴォートランに対して署名した白地小切手があったのを見つけて、念のために部屋を改める気を起こしたことを喜んだ。これは彼が金を返済した日、無頓着にそこに放りこんでおいたものである。火の気もなかったので、きれぎれに引き裂いてしまおうと思った瞬間、デルフィーヌの声を聞きつけたもので、彼はなんの物音を立てるわけにもゆかなくなった。そして彼女が自分に対して、べつに秘密があるはずはないと考えて、なかの様子を洩れ聞こうと立ち止った。ところが親子の間の会話は、最初の数言からして、すこぶる彼の興味をそそるものだったので、そのまま立ち聞きせずにはいられなくなった。
「ねえ、お父様」と彼女は言った。「あたし一文なしにされてしまう前でよかったわ。あたしに財産の収支報告を要求するようにって、お父さんが気がついてくださったことは、本当に神様のお助けだと思いますのよ。誰も聞いてやしないかしら」
「ああ、家はからっぽだよ」とゴリオ爺さんは妙にかすれた音声で言った。
「まあ、どうなさったの、お父様?」ニュシンゲン夫人がたずねた。
「お前のためにわしは頭に、斧の一撃をくらったからだよ。しようのない子だ。わしがどんなにお前を愛してるか、わからないのかい。わかっていたら、そんなことを藪から棒に言い出せるはずはない。ましてやなにもかもだめになったというわけでもないのにさ。これからすぐにもダルトワ通りに移ろうという矢先に、こんなところまでやって来るなんて、いったいどんな急用が起こったというのかね?」
「だってお父さん、とてもの一大事が起こっての最初の衝撃《ショック》を、じっと制してなんかいられるでしょうか。あたし気が狂いそうだったわ。後になってきっと起こったに相違ない災難を、お父様の代訴人が、早目にあたしに気づかせてくれたのですのよ。お父様の商売上の古い経験が、大いに必要になったので、溺れる者が木の枝にでもすがりつく気持で、あたしお父さんを探しにここまではせつけて来たのですわ。デルヴィルさんは、ニュシンゲンがなにかとつべこべ抗弁するもので、訴訟沙汰にすれば裁判長の許可がすぐ取れるからといって、脅したのですの。するとけさになってニュシンゲンは、あたしのところへ来て、夫婦ともどもに破産したい気なのかとたずねるので、あたしは答えてやりましたわ。そういうことはいっさいわからないが、自分には財産があるのだから、それを自分が握るのは当然の話で、今度のいざこざに関したことは、みんな代訴人に任せてあるから、あたしは何も知らないし、話を聞く耳も持たないって、言ってやりましたの。そう言えってお父様がおっしゃったのでしたわね?」
「うん、そのとおりだよ」とゴリオ爺さんは答えた。
「すると良人は事業の実情を、すっかりあたしに打ちあけてくれましたの。ニュシンゲンは自分の資産もあたしのも、始めたばかりの企業にすっかり投資してしまい、しかもその企業には巨額の金がいかにも注ぎこんであるように、見せかけなければいけないのですって。ですからあたしの持参金を提示するよう強要したら、良人は破産を告示しなければならない羽目に陥りますわ。ところが、あたしが一年間待ってれば、あたしの財産を二倍も三倍にもして返すって、名誉にかけて良人は約束していますの。なんでも土地企業に私の財産を投資すれば、最後には土地家屋もろともあたしのものになるのですって。お父さん、あの人あんまり真剣なので、こっちはぞっとしましたわ。自分の行いが悪かったって謝罪し、あたしの名義の下に事業の管理を、すっかり自分に任せてくれるなら、あたしを自由にして、好き勝手に振舞うのを許そうってまで言うのよ。そして自分の誠意をあたしに証拠だてようとして、所有主にあたしを設定した証書類が、適法に記載されているかどうか、こっちの好きなときにいつでもデルヴィルさんを呼んで、調べてもらってもいいなんて約束しましたわ。つまり、無条件であたしに投降して来たわけですの。それからニュシンゲンはここ二年間は自分が家計を見たいといい、あたしにもお手当金以上のものは、使わないでくれって頼むのですのよ。今のところは外聞を保って行くだけで精いっぱいだから、例の踊り子とも手を切ったし、できるだけ厳しく、しかも、目立たぬように経済を切り詰め、信用を落さずに投機事業の清算期限まで待たなくてはならぬって、あたしに告げますのよ。そこであたしはやりこめてやりましたわ。何もかも疑いかかって、良人をとことんまで追いつめ、もう少し詳しく聞き出そうと思いましたの。良人は大事な帳簿を見せたり、しまいには泣き出したり、あんなざまの男の人って、あたし今までに見たことないわ。ニュシンゲンは正気を失い、自殺するなどと口走って、まるで精神錯乱の態、まったくかわいそうなくらいでしたわ」
「そいでお前はそんなたわごとを信じとるのかい」とゴリオ爺さんは叫んだ。「あいつは狂言師なのだ! わしは商売の用でドイツ人に接したことがあるが、あの連中ときたら、ほとんどみな誠実で無邪気なものだ。だがいかにも淡白な好人物らしい様子の蔭に隠れて、いざ悪どい瞞着をやつらがやり出したとなったら、それこそその悪党ぶりは天下一品だ。お前の良人はお前をだましてるんだよ。やつは追い詰められたと知って、死んだふりをしてみせたんだ。自分の名前でやるよりお前の名義でのほうが、勝手にできると思ってるんだ。この機会を利用して、専業上の蹉跌《さてつ》をした場合の逃げ場を、こしらえておくつもりなんだよ。あいつは抜け目がないし不信実だ。とにかくたいした悪党だよ。いかん、いかん、わしは無一文になった娘たちをあとに残して、ペール・ラシェーズの墓場に入るわけにはまいらん。わしだってまだちっとは商売のことなら心得とるぞ。やつは資産をすっかりその企業に投じたといったな。よし、そんならやつの持ち分は有価証券なり証書なり契約書なりに記載されているはずだ。それらを提示させて、お前との決算をすませてやろう。そのなかでもっとも確実な投機を選んで、一つ乗るかそるか、俺たちもやってみようじゃないか。≪ニュシンゲン男爵とは別有財産の妻デルフィーヌ・ゴリオ≫という名目で、俺たちは署記承認状を法廷へ出しておこうじゃないか。あいつはわしらを能なしとでも考えとるのかのう? お前が財産もパンもなしにすておかれるという考えに、このわしが二日間も辛抱してられるとでも、あいつ思っとるのかしらん? 一日だって、一晩だって、二時間だって、そんなこと考えるのはわしにはたまらん。そんなことが本当だったら、わしはもう生きてはおられんわい。えい、なんということだ。人生の四十年をわしは働いて過ごしたのじゃ。粉袋を背に担い、滝のような汗を流し、一生涯不自由な目をしのんで来たのも、みんなお前たち二人のためなんだぞ。天使のようなお前たちのことを思えば、どんな仕事でも精が出たし、どんな重荷でも軽かったのじゃ。それがきょうになって、わしの財産、わしの全生涯が、煙のように消え失せるだなんて! わしは腹が立って死にそうだわい。天地神明にかけて、わしらはやっこさんの事業の現状を明るみにさらけ出し、帳簿を、金庫を、その企業とかいうやつを、調べあげるとしよう。お前の財産がそっくり残ってることを確かめんかぎりは、わしはもう眠らん、床にもつかん、食事もとらん。ありがたいことにお前の財産は分離されとるし、代訴人としてデルヴィルさんがついている。さいわいあれは正直一方のお人だ。うまいぐあいにお前は死ぬまであの小百万の財産と、五万フランの年金を握ってられるだろう。さもなけりゃわしはパリで一騒動起こしてやる。そうとも、もしも裁判所がわしたちに曲事《ひがごと》を働いたんなら、国会に訴え出てやるんだ。金銭の面ではお前も安楽に幸福に暮していられるという考えで、わしのあらゆる苦労も軽くなり、どんな悲しみも鎮められていたのだ。金、それが人生だ。金さえあればなんでもできるんだ。アルザス生まれのあの鈍物め、何をわしらにほざいとるのか? デルフィーヌ、お前を鎖につないで不幸な目にあわしているあのでぶっちょに、たとえ四分の一リヤールであろうと、譲歩なんかしてはいかんぞ。あいつがお前なしにはすませぬというのであったら、そのときはしたたかあいつを叩きのめして、性根を入れ替えさしてやろう。ああ、わしは頭が火のようだ。頭蓋のなかでなにかが燃えてる。わしのデルフィーヌが一文なしになるなんて! おお、わしのフィフィーヌ、お前が! えい、畜生め! わしの手套はどこだ? さあ、出かけよう。わしは行って何もかも見たいんだ。帳簿も、事業も、金庫も、往復文書も、今すぐにだ。お前の財産が危険にさらされてないという証拠を、この両の眼ではっきり見とどけんことには、わしは落ち着いちゃいられんわい」
「まあ、お父様、でも慎重にやってちょうだいね。もし、この問題に、ちょっとでも仕返ししてやろうなどの底意で当ったり、敵意をあらわにでも見せたりすると、あたしはもうおしまいになってしまいますからね。良人はお父さんの気性はよく知ってるし、お父さんの差し金で、あたしが自分の財産のこと、気にするのも当り前だと思ってますわ。けれど本当のところ、良人はあたしの財産を掌中にして、あくまでそれを握っていたいのよ。ニュシンゲンはあたしたちをすっぽかして、あり金のこらずあさって逐電ぐらいは、しかねない男なのですもの、なにしろ腹黒なんですからね。あたしが訴え出て、げんに今名乗っている家名に、自分から傷をつけるような真似はしないことを、あの人はちゃんと承知し抜いているんですわ。良人は強いと同時に弱いんです。あたしは何から何まで調べ上げましたわ。もしもあたしたちがあの人を窮地に追い込むと、こっちの身までも破滅になりますの」
「なんだ、それじゃ悪辣漢《あくらつかん》も同じじゃないか」
「そうなのよ、お父様」そう言って椅子の上に身を投げて泣き崩れた。「あのような|たち《ヽヽ》の男と結婚したのを、お父さんが嘆かれるかと思って、あたし実は打ち明けたくはなかったのよ。私行と良心、精神と肉体、何もかもあの人ときたら、釣り合って醜いかぎりなのよ。ぞっとするくらいに。あたしは良人を憎み、軽蔑してますわ。ほんとよ、あのニュシンゲンの口から、何もかも聞いてしまった以上、もうあんな下劣な人なんか、とても尊敬はできませんわ。あたしに話したようなあんな商売上のからくりに、足をつっこめる男なんて、繊細な感情なんかこれっぽっちだってありませんわ。あたしの懸念は良人の肚のなかを、すっかりこっちが読んでいるところから来てるんですの。あの人は良人のくせに、はっきりとあたしに自由をゆるそうと、持ちかけて来たその意味が、お父様にはおわかりにならなくって? いざという場合には、あたしを|だし《ヽヽ》に使ってもいいか、つまり良人の案山子《かかし》になることを、条件としての上なのですからね」
「だって法律っていうものがあるぞ! そのような婿のためには、グレーヴ広場ってものがあるぞ!」ゴリオ爺さんは叫んだ。「死刑執行人がいなかったら、わしがこの手であいつを絞首台にかけてくれよう」
「いいえ、お父様、あの人に対しては法律もなにもないのよ。ニュシンゲンの妙に遠まわしな言い方を剥《は》いで、ざっくばらんに要約すれば、こうなるのよ。――『さもなかったら万事は窮すだ。お前は一文なしに零落するんだぞ。なぜならおれはお前以外の人間を、まき添えに選ぶことはできんのだからなあ。それがいやなら事業がうまく運ぶよう、おれに任せておいてくれ』って。はっきりしてるじゃないの。良人はまだあたしにすがってるのですわ。女らしい私の誠実さに、安心しきっているのですわ。あたしがあの人の財産はそのままにして、自分のだけで満足するだろうと、承知しぬいてるんですわ。まったく不正直な泥棒根性の契約ですのよ。一文なしになるのがいやだったら、同意しないわけにはゆかないのですもの。あたしの良心を買収し、その代償にあたしが好き勝手にウージェーヌの情婦になるのを、許そうという魂胆なんですもの。『お前が過ちを犯すことも許してやる。だから気の毒なやつらを破産させるおれの罪も、大目に見ていてくれ!』こんな言い草ですもの、ずいぶんはっきりしてるじゃありませんか。あの人が投機をやるって称してること、どんな手順だかご存じ? 自分の名義で買い取った敷地に、傀儡《かいらい》の連中をつかって家屋を建てさせるのよ。そしてそれらの連中に、建築のためいろんな請負師と契約を結ばせ、長期の手形で支払いをすますことにし、一方ではまたそれらの連中に、わずかの額でニュシンゲンに家屋の譲渡を同意させるのよ。そして主人はまんまと家屋の所有主になり、傀儡の連中のほうは破産したふうに見せかけて、だまされた請負業者に対する債務を免れてしまうんですもの。ニュシンゲン商会の名前が利いて、気の毒な請負師たちは眼をくらまされてるのですわ。その間の事情があたしにもわかりましたわ。それにまたいざというとき、莫大な金額の支払いをした証拠を作ろうと、ニュシンゲンはアムステルダムやロンドンやナポリやウィーンに、巨額の有価証券を送ってあるのですの。なぜだかその理由も呑み込めましたわ。そんなものが、どうしてこのあたしたちの手で差し押えられるでしょう?」
ゴリオ爺さんが両膝をついた鈍い物音が、ウージェーヌの耳に聞えた。おそらく老人は床の上に倒れかかったのだろう。
「おお、神様、わしはなんということをしでかしてしまったのだろう。あんな人非人にわしの娘を渡してしまったからには、あいつ、やろうと思えばどんなことでも、娘に要求ができるんだ。許しておくれ、デルフィーヌや」と老人は叫んだ。
「ええ、あたしがこんな淵に落ちたというのも、たぶんはお父さんの罪かもしれなくってよ」とデルフィーヌは言った。「あたしどもが結婚する場合、分別なんてほんの僅かですものね。あたしたちに世間や商売、男性や習俗なんかがわかるでしょうか。父親が娘のために、それらを考えてくださらなければいけなかったのですわ。でもお父様、あたしなにもお父様を咎め立てしてるのではないのですのよ。今のようなことを言って、ごめんなさいね。今度の過ちだって、みんなこのあたしにあるんですもの。いやよ、パパ、お泣きになっては」そう言って父親の額に接吻した。
「お前も泣くのはお止め、デルフィーヌ。お前の目をおかし、わしの接吻で涙を拭きとってやるから。さあ、わしも一つ前のように頭を絞って、お前の良人がもつらかした仕事のもつれを、解きほぐしてやるとしよう」
「いいえ、それはこのあたしに任せてちょうだい。あの人の操縦ならちゃんと心得てますから。良人はあたしに惚れていますのよ。ですから良人に対するあたしの羽振りを利用して、さっそくに他所にいくらか注ぎ込むように、仕向けてみせますわ。あたしの名義でアルザスにあるニュシンゲンという土地を、買い戻させることにしましょう。きっとできると思いますわ。良人はあの土地に未練を持っていますから。あすは帳簿や事業を調べるだけに、おいでになってくださいね。デルヴィルさんも商業方面のことになると、まるっきりご存じがないのですもの。あら、駄目、あすは止めにしましょう。あたし、気が転倒すると困りますから。だってボーセアン夫人の舞踏会が明後日ですもの、あたし美しく心安らかに出られるように、せいぜい気を鎮めてなくっちゃ、ウージェーヌさんの顔をつぶしますからね。さあ、あの人のお部屋に行ってみましょうよ」
このとき、一台の馬車がヌーヴ・サント・ジェヌヴィエーヴ通りにとまり、階段のところでシルヴィに、「父はおりますか?」というレストー夫人の声が聞えた。ウージェーヌは寝床にとび込んで狸寝入りをきめようと考えていたが、こうした事情で助かったのは、もっけの幸いであった。
「ときにお父さん、アナスタジーの噂をお聞きになって?」とデルフィーヌは姉の声を聞きつけて父に言った。「姉さんの家庭でも何か変ったことが起こったらしいのよ」
「何が起こったのじゃ!」とゴリオ爺さんは言った。「そんな話じゃわしの寿命はもうもたん。わしの頭は二重の不幸には堪えられやせんからのう」
「こんにちは、お父様」と入って来ながら伯爵夫人は言った。「あら、デルフィーヌ、あなた、いたの」
レストー夫人は妹に出会って、いささか困惑の面持だった。
「こんにちは、ナジー」と男爵夫人は言った。「あたしの来てるのが珍しいとでもおっしゃるの、このあたしは毎日お父様にお会いしてるのよ」
「へえ、いつから?」
「あなたが来てればわかったはずよ」
「ひやかさないでちょうだい、デルフィーヌ」と伯爵夫人は悲しそうな声で言った。「あたしとても不幸なのよ、お父様、あたし破滅ですわ、今度という今度こそ!」
「どうしたんだね、ナジー」とゴリオ爺さんは叫んだ。「すっかり話してごらん。おや、デルフィーヌ、姉さんが真蒼だ。助けておやり、姉さんには優しくするもんだよ、わしはできるだけお前を、うんとかわいがってやるからね」
「かわいそうにナジー」と姉を腰掛けさせながらニュシンゲン夫人は言った。「話してよ。いつにかわらずあなたを愛してるのは、このあたしたち二人っきりじゃありませんこと。どんなことがあったって、あなたをゆるしてあげられるのは。ねえ、わかって、肉親の愛情が一番に確かなものなのよ」
彼女は姉に気付けの塩を嗅がせたので、伯爵夫人はやっとわれに返った。
「わしはもうたまらん」とゴリオ爺さんは言って、泥炭の火を掻き起こしながら話を続けた。「さあ、お前たち二人とも、もっとそばにお寄り、わしは寒くてかなわん。ナジー、どうしたのだ。早くわけを話しなさい、愚図愚図してるとわしはもう……」
「じゃ話すわ。良人がすっかり知ってしまったのよ。ねえ、お父様、ほら、ついこの間のマクシムの手形の一件、あれ、覚えていらっしゃるでしょう。あれが初めてではないのよ。その前にももうずいぶんあたし払ってやったの。一月の初めころだったかしら、トライユさんがとても心配そうなご様子なの。あたしには何も言わないけど、愛してる人の心のなかは、造作なく読めるし、ちょっとしたことでも十分だわ、それに予感ってものがありますもの。つまり、あの人、かつてないくらい優しく愛情濃かったもので、あたしずっと幸福でしたの、かわいそうなマクシム! 心のなかであたしに永《なが》のお別れを告げていたのよ、自分でもそう言ってましたわ。きっとピストルで頭をぶち抜くつもりだったのでしょう。結局、さんざんにせがんだり問い詰めたり、二時間もあの人の膝に縋りついたあげく、あたしは白状させましたのよ、十万フランの借財をつくったことを! おお! パパ、十万フランよ! あたし気が変になりましたわ。お父様のところにはありっこない、あたしがみんな絞り取ってしまったし……」
「うん、泥棒にでも行かんかぎり、わしにはそんな大金は算段できやせんわい。だがナジー、わしは泥棒に行くのを辞さんぞ! これからだって行くとも」
瀕死の人間の喘ぎのように、悲痛な調子で吐き出されたこの言葉は、無力となりおわった父性愛の苦悶を、まざまざとあらわしていたので、二人の姉妹はちょっと固唾をのんだ。深淵に投げ込まれた石のように、その底深さを反響させたこの絶望の叫びには、どんなエゴイズムの者でも冷淡な顔はしていられないであろう。
「それであたしは自分のものでもない品物を処分して、そのお金を工面したのですの、お父様」と伯爵夫人は言って泣きくずれた。
デルフィーヌも心を動かされて、姉の首の上に頭をのせたまま泣き出した。
「では噂はやっぱり本当だったのね」と彼女は言った。
アナスタジーはうなだれてしまった。ニュシンゲン夫人は姉の全身を抱きしめて優しく接吻し、自分の胸にもたせかけてやった。
「ここでなら姉さんはいつも愛されるだけ。裁かれる心配は決してないことよ」と彼女は姉に言った。
「わしの天使たち」とゴリオは弱々しい声音で言った。「お前たち二人を仲好くさせるのは、いつも災難のおかげばかりというのは、いったいどうしたことじゃろう?」
「マクシムの命を救うため、つまりあたしのすべての幸福をとりとめるため」と伯爵夫人は胸をうつこの温かい愛情のしるしに、力を得て話を続けた。「ご存じのあの高利貸、どんなことにも感動せず、地獄の業火で鍛えられたような男、ゴプセックのところへ、レストーがとても大切にしている家宝のダイヤはもとより、あの人のもあたしのも、宝石という宝石類はみんな持って行って売り払ってしまったのですの。売ったんですよ、おわかりになって? それで、あの人は助かりました。けれどこのあたしは破滅ですわ。レストーにすっかり知れてしまったのですもの」
「誰から? どうしてだ? そんなやつ、叩っ殺してやりたい!」とゴリオ爺さんは叫んだ。
「きのう、良人の部屋に呼ばれたので行きました。……『アナスタジー』とあたしに言うその声、……その声音だけでもう十分でしたわ。あたしには何もかも察しがつきましたの。『お前のダイヤはどこにある?』『お部屋に』『嘘だ』と良人はあたしをにらんで、『そこにある。わしの小箪笥の上に』そう言ってハンケチにくるんだ宝石箱をあたしに見せるんです。『どこから戻ってきたか知ってるか?』そう言われてあたしは良人の膝に身を投げて……涙を流しましたの。どんな死に方でもするから、そう言ってくれって言いましたの」
「そんなにまでお前は言ったのか!」とゴリオ爺さんは叫んだ。「神の御名にかけてじゃ、お前たちのどちらをでも、責め苛むようなやつがあったら、わしが生きておるかぎりは、とろ火で焼かれる覚悟が要ろうぞ! そうだ、膾《なます》にたたいてやろう、ちょうど……」
ゴリオ爺さんは黙ってしまった。言葉が咽喉のなかでかすれ消えてしまったからである。
「それでね、デルフィーヌ、良人はあたしに死ぬよりもっと辛いことを要求したのよ。あたしが耳にしたことを、神様、どうぞあらゆる女性には聞かせないようにしてくださいまし!」
「あの男を殺してやるぞ」とゴリオ爺さんはゆっくりと言い放った。「あいつは命を一つしか持っておらんが、二度殺してもあきたりんやつだ。それでどうしたね?」とアナスタジーを眺めながら、ゴリオは言葉をついだ。
「それでね」と伯爵夫人は言った。「ちょっと間をおいてから、良人はあたしを見詰めながら言いましたの。『アナスタジー、わしはすべてを秘密のうちに葬ることにする。このまま一緒に暮そう、子供もあるしするからね。わしはトライユさんを決闘などで殺しはせん。仕損ずるかもしれんからね。それにまた他の方法で亡きものに計ることは、法に触れるだろう。お前の腕に抱かれているところを殺したりすれば、子供たちの名誉にもかかわる。だからお前の子供たちもその父親も、またこのわしも、破滅を見ないようにするため、二つの条件をお前に課することにする。まず第一にわしのほんとうの子があるのかどうか答えてくれ』あたしはあると答えました。『どの子だ?』とたずねるものですから、長男のエルネストですわと答えましたの。すると『よし、それではたった一つの条件だが、今後いつなりとわしの言うとおりにすると誓いなさい』そう言われて誓わされましたの。『いいか、わしが要求するときには、お前の財産の売渡しに署名するんだぞ』ってそのときに言われたんですの」
「署名なんかしちゃならん」とゴリオ爺さんは叫んだ。「決して署名なんかするでない。あ、あ! レストー旦那、あんたは女を幸福にすることをご存じがないな。女というものは幸福のあるところを求めて行くものですぞ。それなのにご自分の愚かしい無能さを棚に上げて、当の女を罰しようとなされるのか。……ちょっと待った。わしが、このわしが控えておりますぞい。行手をさえぎってみせてやるから。ナジーや、安心するがいいよ。おお、やっこさんは跡取り息子をかわいがっているのだっけな。よし、よし、あいつの息子を捕えてやろう。だがなんということだ、このわしの孫をかどわかすだなんて。あの子なら確かにわしも会えるだろう、わしの田舎にでも連れて行って、よく面倒を見てやるとしよう、心配せんでもいいよ。そしてあの人非人を降参させてやるんだ。『二人で話をつけよう。伜がほしければ娘に財産を返せ。そしてしたい放題にさせといてくれ』って、やつにわしは言ってやるんだ」
「お父様!」
「そうだ、お前の父親だ! ああ、わしはほんとの父親なんだ。どうかあの華族様の馬鹿が、わしの娘らを虐待しませんように! 畜生、わしの血管にどんな血が流れてるか、知れたものではないぞ。虎の血だって流れてるんだ。あの二人の婿を啖《くら》い殺してやりたい。おお、娘たち、お前らの生活《ヴィ》はそんなだったのかい? それじゃまったくわしは|お陀仏《モール》じゃないか。わしがこの世にいなくなったら、お前たちはどうなってしまうんだろう。父親は子供たちが生きてるかぎりは、どうあっても生きなくちゃならん。ああ、神様、あなたの世界はなんてつくりが拙《まず》いんでしょう。そのくせあなたにも一人息子がおありだというじゃありませんか。そんならわしたちが子供で苦労しないように、庇ってくださりそうなものだが。かわいいわしの天使たち、なんということだ! 悩みのあるときでなければ、わしのところへ姿を見せてはくれないなんて。お前たちの涙をしか、このわしには見せんではないか。まあ、それもよかろう、お前たちがわしを愛しとることは、よくわかってるからね。おいで、涙を流しにここへおいで。わしの心は大きいから、なんでも受け入れることができるんだ。そうだ、お前たちがわしの心臓を断ち切ったところで、どうにもならんよ。その切れ端がまた父親の心臓になるのだもの。お前たちの悩みを引き受けて、わしが代って苦しんでやりたい。……ああ、ちっちゃかった頃は、お前たちもずいぶんとしあわせだったがなあ……」
「あたしたちが楽しかったのは、本当にあの時分だけでしたわ」とデルフィーヌは言った。「大きな納屋のなかで、粉袋のてっぺんから滑って遊んだあの時代は、いったいどこへ行ってしまったのでしょう?」
「お父様、話はそれだけじゃないのよ」とアナスタジーがゴリオの耳許で囁いたので、老人はぎょっとなった。「ダイヤは十万フランには売れなかったのよ。マクシムは訴えられてますけど、あと一万二千フランだけ払えば、無事にすむのですって。これからは身持を改めて、博奕もしないと、あの人あたしに約束しましたわ。あたしにとってこの世に残ってるのは、あの人の愛情だけ。あたし非常な犠牲を払ったのですもの、もしもあの人に逃げられでもしたら、それこそ死ぬよりほかはありませんわ。財産も名誉も心の平和も子供たちも、あの人のために犠牲にしたこのあたしです。おお、せめてあの人が自由の身となり、体面も堕《おと》さず、人なかに出入りができるようにだけは、してやってくださいな。あの人のことですから、きっとひとかどの地位に坐れるようにはなりますわ。今となってはただあたしの幸福だけが、危いばかりではありませんの。あたしたちの子供だって一文なしになってしまいます。もしもあの人がサント・ペラジー〔借金を払えぬ者や新聞法違反者が投獄されていた牢獄〕にほうりこまれたら、もう万事はおしまいなんですもの」
「ところがわしにはそれだけの金がもうないんじゃ、ナジー、何もない、もうすこしも持っとらん。世の終りじゃよ。おお、世界は崩れるぞ、間違いなしじゃ。さあ逃げるんだ、お前たち真先に逃げたがいい! ああ、そうだ! わしはまだ銀の留金に六組の食器がある。わしが社会に出て初めて買った品じゃ。結局のところわしに残ってるのは、千二百フランの終身年金きり……」
「それでは恒久年金(公債)はどうなさったの?」
「あれか、あれを売り払って、暮しに必要なごく些細な額だけを、終身年金のほうから仰ぐことにしたのだよ。フィフィーヌに一部屋設備してやるのに、どうしても一万二千フラン要ったものでな」
「あんたの家でなの。デルフィーヌ?」とレストー夫人は妹にたずねた。
「おお、そんなことはどうだっていい、一万二千フランはもう使ってしまったんだから」とゴリオ爺さんはすぐ言った。
「わかったわ、ラスティニャックさんのためでしょう」と伯爵夫人は言った。「ああ、デルフィーヌ、お止めなさいよ、今のあたしがいいお手本だわ」
「だってお姉様、ラスティニャックさんは恋人を零落させるなんてことのできるお人じゃないことよ」
「ご挨拶だわね、デルフィーヌ、窮境に陥っているあたしに。もっとあんた同情してくれるだろうと思ってたのに。考えてみればあたしを、一度だって愛してくれたことなかったのね」
「そんなことはない、この子はお前を愛しとるよ、ナジー」とゴリオ爺さんは叫んだ。「たった今もそのことを話しておったのだ。二人でお前の噂をしていたとき、お前は美人だが、あたしは小綺麗なだけだと、この子はわしに言っとったよ、この子ったら!」
「この子ったらね!」と伯爵夫人はくりかえした。「この子は美々しく冷たいのよ、心がね」
「たとえあたしがそうとしても、お姉さんのあたしに対する仕打ちったらどうなの?」とデルフィーヌは真っ赤になって言った。「妹を妹とも思ってくれず、あたしが行きたいと思う家の門を、どこもかしこも閉めさせてしまい、ちょっとでもあたしをおとしめる機会があれば、一度だってのがさなかったじゃありませんか。あなたがやって来てこの気の毒なお父さんから、千フラン、また千フランと身代をせびり取って、今のようなていたらくにしてしまったようなことを、いつこのあたしがやりました? みんな姉さんの仕業じゃありませんか。あたしはできるだけお父さんに会い、お父さんを追い出すなんてまねは一度だってしないわよ。用のあるときだけお父さんの手を舐《な》めにやって来るだなんて、このあたし大きらいだわ。あたしのためにお父さんが、一万二千フラン出してくださったことさえ、こっちではいっこうに知らなかったのですよ。あたしはだらしないの大きらい、このあたしはね、ご存じでしょう。それにパパがあたしに贈物をしてくれたって、こっちからねだったことなど、昔から一ぺんだってないわ」
「あんたはあたしより幸福だったからよ。マルセイさんはお金持でしたものね。それでちっとは思い当ることがあるでしょう。お前はいつも黄金のようにいやしい子供だったものね。さよなら、あたしには妹もなんにも……」
「おだまり、ナジー!」とゴリオ爺さんは叫んだ。
「世間でももう本当にしていないようなことを、蒸し返すだなんて、姉さんのほかにはありませんわ、なんてひどい人なんでしょう」とデルフィーヌも言い返した。
「これ、これ、娘たち、黙らんかい、さもないとお前たちの前でわしは自殺しちまうぞ」
「いいわ、ナジー、あたしあなたをゆるしてあげるわ」とニュシンゲン夫人は言葉を続けた。「あなたは不仕合せなんですもの。けれどあたしのほうがずっと姉さんよりも人柄はいいわ。あんたを助けるためなら、どんなことでもしてやろう、良人の寝室に入ることだってもと……なにしろ並大抵ならそんなことはできませんからね、自分のためだろうと、誰のためだろうと……そんな気持にちょうどなっていた時も時、あんなことをあたしにおっしゃるだなんて、九年の間あたしに意地悪ばかりして来たあんたに、まったく似つかわしいことですわ」
「さあ、子供たち、子供たち、接吻しあっておくれ! お前たち二人とも天使じゃないか」と父親は言った。
「いいえ、かまわないでいてちょうだい」ゴリオに腕をつかまれた伯爵夫人は、父親の抱擁をふりほどきながら叫んだ。「お前ったらあたしの良人よりも酷薄なのね。それで世間からはお前さん淑徳のとり揃った権化として立てられてるんだから、なんとも呆れた話だわ」
「トライユさんに二十万フラン以上も貢ぎましたなんて白状するより、マルセイさんにお金を借りてると噂されたほうが、まだしもだとあたしは思うわ」とニュシンゲン夫人も負けずに答えた。
「デルフィーヌ!」と叫んで伯爵夫人は一歩詰め寄った。「あなたが中傷なさるから、あたしは本当のことを言ってあげたまでよ」と男爵夫人も冷ややかに答えた。
「デルフィーヌ、お前ときたら……」
ゴリオ爺さんは飛び出して伯爵夫人を抑え、手で彼女の口を塞いで、その喋ろうとするのをさえぎった。
「まあ、お父様、けさ、何にさわったのですの、むさい手だこと」とアナスタジーが言った。
「やあ、ごめんごめん、悪かった」と憐れな父親はズボンで両手を拭きながら答えた。「お前たちが来るとは知らなかったものでな、じつは引っ越しの荷造りをしておったのだよ」
老人は姉娘の非難をわが身に招いて、その怒りを自分のほうにそらせられたのに、ほくほくのていであった。
「ああ!」と老人は腰をべったりおろして言った。「お前たちのためにわしは心を引きちぎられたよ。死にそうだよ、まったくの話がさ。頭のなかが火でもついたように、かっかっと燃えついている。さあ、おとなしくして、互いに愛し合っておくれ。お前たちはわしを殺してしまうぞ、デルフィーヌもナジーも。お前たちの言うことも一応はもっともであるが、間違ってもいるんじゃ。なあ、ときにデデルや」と彼は涙をいっぱい湛えた眼を、男爵夫人のほうに向けて言った。「姉さんには一万二千フラン要るのだから、なんとか工面してやろうじゃないか。ほら、二人ともそんなに睨み合わないでさ」彼はデルフィーヌの前にひざまずいた。「わたしを喜ばせるために、姉さんに謝っておくれでないか」そしてデルフィーヌの耳許に囁いた。「姉さんのほうがずっと不仕合せなんだから、わかったね」
「ナジー、あたしが悪かったわ、接吻してちょうだい……」デルフィーヌは父親の面上に、苦悩が刻んだ荒々しく狂おしい表情にびっくりして、そう言った。
「ああ、デルフィーヌ、それがわしの心には何よりの慰安なんだよ」とゴリオ爺さんは叫んだ。「それにしてもその一万二千フランという大金を、どこで手に入れたものじゃろう? 兵役の代理人にでも、わしは志願してみようかしら?」
「ああ、お父様、だめよ、だめよ」と二人の娘は父を取りかこんで口々に言った。
「そこまで考えていただくなんて、神様からお父さんにご褒美が出ますわ。あたしたちの生活なんてそんな値打はありませんもの。ねえ、ナジー?」とデルフィーヌが言った。
「それにお父さん、それっぽっちのお金じゃ、ほんのちょっとの足しにしかなりませんわ」と伯爵夫人は所見を述べた。
「しかしわしの血を売ってでも、なんとかできんもんかな?」と絶望した老人は叫んだ。「お前を救ってくれる人があったら、わしはこの身を捧げたってもいい。ナジー、その人のためなら人殺しだってもわしはいとわんよ。ヴォートランのようなことでもやるぞ、徒刑場へだって行ってやるぞ! わしは……」まるで雷にでも打たれたように、ここでふっと老人は口をつぐんでしまった。「一文なしなのだ!」と、彼は髪の毛をかきむしった。「盗みに行く目あてでも、これであったらなあ。だが盗むものを見つけるんだって、なかなかに容易なこっちゃない。それにフランス国立銀行を襲うにしたって、仲間も要れば時間も要るじゃろう。こうなったら生きてはおられん。死ぬよりほかに道はない。そうだ、わしはもうなんの役にも立たん。父親としての資格もなしじゃ。まったくじゃ、この子はわしに頼んどる。金がいるんだ。それなのにこのわしときたら、情けなや、一文なしの素寒貧だ。ああ、貴様は終身年金なんか買い込んだな、この老いぼれの悪党め、娘たちがあるというのに! じゃ貴様はいったい娘たちを愛してはおらんのか? くたばれ、貴様なんか犬のように野垂れ死にしろ! そうだ、わしは犬畜生にも劣っとる。犬ならわしのように振舞いはしなかろう! おお、頭が……沸きたぎるようだわい!」
「まあ、パパ、だめよ」二人の娘は父親を取りかこんで、壁に頭を打ちつけようとする老人をさえぎった。「しっかりしてちょうだいよ!」
ゴリオ爺さんはむせび泣きをした。ウージェーヌは愕然として、ヴォートランに対して署名した手形を手に取った。ずっと巨額の手形にしても差支えのない証券印紙が貼ってあった。彼は額面を訂正して、受取人をゴリオに指定した一万二千フランの正式手形に、それをこしらえあげてから、隣りの部屋に入って行った。
「ここにご入用の金額がそっくりあります、奥さん」と彼は手形を差出して言った。「眠っていたところを、あなたがたのお話し声で眼をさまし、ゴリオさんに借りがあったのを、急に思い出したってわけです。さあこの手形を交換にまわしてください。間違いなく僕のほうでは落しますから」
伯爵夫人は凝然としたまま手形を手にとり、真蒼な顔をして、「デルフィーヌ!」と激怒から、身をぶるぶる慄わせながら言った。「あたしはあんたをすっかり赦してあげた。それは神様もご照覧よ、でも、こればっかりは許せない! じゃこの方は始終あそこにいらしったのね、お前それを知ってたんでしょう! あたしの秘密も生活も、子供たちの生活も、あたしの恥も外聞も、この方につつ抜けにさせて、それでお前は仕返しをしようっていうけちな料簡だったのね! さあ、もうあんたなんかとはすっかり赤の他人だ、あたしはあんたを憎んでやる、あらゆるひどい目にあわしてやる、あたしは……」
あまりの怒りに言葉も途切れ、咽喉も乾きひっついてしまった。
「とんでもない、この人はわしの息子だ、わしたちの子供、お前の兄弟、お前の救い主じゃないか」とゴリオ爺さんは叫んだ。「さあ、ナジー、この人に接吻なさい! ほら、わしならこうやって接吻する」と、ゴリオは言葉を続けながら、まるで狂乱のていでウージェーヌを抱きしめた。「おお、わしの息子! わしはあんたにとって父親以上のものとなろう。わしは家族になりたい。わしは神様となって、君の足もとに世界を投げて進ぜたい。さあ、ナジー、この人に接吻しなさい。この人はただの人ではなく、天使だ。それこそ本当の天使なんだ」
「お父さん、構わないでおきなさいよ、姉さんはいま気が変なのだから」とデルフィーヌは言った。
「気が変! 気が変だって! それじゃあんたはなにさ?」とレストー夫人はやり返した。
「これ、娘たち、そんなふうに続けるんなら、わしは死んじまうぞ」老人はそう叫ぶや、弾丸にでもあたったように、ばったり寝床の上にたおれてしまった。「娘たちはわしの寿命を縮めおる!」と彼は独り言を洩らした。
伯爵夫人はウージェーヌを眺めた。この場のすさまじいありさまに、ラスティニャックは肝をつぶし、じっと棒立ちのままだった。
「ラスティニャックさん」身振りと言葉と眼差しとで、彼を穿鑿《せんさく》しながらそう言ったアナスタジーは、デルフィーヌが素早くチョッキの胸を弛めてやっている父親のほうになど、てんで目もくれなかった。
「奥さん、僕はきちんと払いますし、口外もしませんよ」と彼は伯爵夫人の質問も待たずに、先手を打った。
「あなたがお父様を殺したのよ、ナジー!」とデルフィーヌは言って、前後不覚となった父親を姉に指さした。アナスタジーは逃げ出して行った。
「あの子をわしは赦してやるよ」と老人は眼を開いて呟いた。「あれの立場は恐ろしくつらいんだ。どんな頭のしっかりしたものでも、あれでは取り乱すよ。ナジーを慰めて、優しくしてやっておくれ。さあ、死にかけているこの哀れな父親に、そのことを約束してくれるね」と彼はデルフィーヌの手を握りしめながら頼んだ。
「でもどうなさったのよ、お父様?」とすっかり怯えて彼女はたずねた。
「何でもない、何でもないよ」と父親は答えた。「すぐよくなるだろう、額のところが圧えつけられるように痛いんだ、偏頭痛かな。……かわいそうなナジー、先行きどうなることだやら!」
と、このとき、伯爵夫人は戻って来て、父親の膝にとりすがるや、
「許して!」と一声叫んだ。
「解った、解った、お前にそう言われると、さっきより今のほうが、わしのからだには毒になるくらいだよ」とゴリオ爺さんは言った。
「あなた」と伯爵夫人は涙に濡れた眼を、ラスティニャックに向けた。「苦悩のためついさっきは、無礼な振舞いにおよんでしまいまして。あたしの兄弟になってくださいますこと?」と彼のほうに手を差出しながら言った。
「ナジー」と言ってデルフィーヌは姉に抱きついた。「ねえ、ナジー、さっきのことすっかり水に流して、忘れてしまいましょうよ」
「いいえ、あたしには忘られませんわ、このあたしのほうは!」
「さあ天使たち」とゴリオ爺さんは叫んだ。「わしの眼の上にかかっていた幕を、お前たちは取りのけてくれたんじゃ。お前たちの声音でわしもどうやら元気づいたわい。さあ、もう一度、二人で接吻しあいなさい。――ところでナジー、この手形でお前は救われるんじゃろうな?」
「そう思いますわ。でもパパ、裏書をしていただけません?」
「そうそう、そいつを忘れるなんて、なんてこのわしはばかなんだろう! だがからだ加減がちと悪かったでな。ナジー、悪く思ってはいかんよ。急場をうまく切り抜けられたら、すぐ知らせをおくれ。いや、わしのほうから行こう。いや、いや、行くのはよしにしよう。もうこれからはお前の良人には会えん。その場でやつを殺してしまう気遣いがあるから。お前の財産を乗り換えるなんていったって、このわしががんばっとるから大丈夫だよ。早く行きなさい、ナジーや、マクシムが身持を改めるように、よく注意をするんだよ」
ウージェーヌは呆気にとられていた。
「かわいそうにアナスタジーは昔から癇癖《かんぺき》が強かったのよ。でもあれで心のうちはいいんだけれど」とニュシンゲン夫人は言った。
「手形に裏書してもらうためだけに、引き返してきたんですよ」とウージェーヌはデルフィーヌの耳に囁いた。
「あなた、そう思って?」
「できればそう考えたくはないんですがね。しかし姉さんに気を許してはいけませんよ」口に出すのを憚らざるを得ない考えを、神に向って告げるかのように、彼は天を仰ぎながらそう答えた。
「そうね、姉にはいつもちょっと芝居気がありましたもの。お父様はかわいそうに、姉の作り顔にたぶらかされてしまっているんですのよ」
「ゴリオさん、お加減はどうですか?」とラスティニャックは老人にたずねた。
「わしは眠りたい」と老人は答えた。
ウージェーヌは手をかしてゴリオを寝かせてやった。デルフィーヌの手を握りながら老人が眠ってしまうと、さっそくに彼女は身をひいた。
「今夜イタリア歌劇でね」と彼女はウージェーヌに言った。「そのとき、お父さんの容体を知らせてちょうだい。お引越しはあすになさいな。あなたのお部屋を見せてよ。まあ、なんてひどいところでしょう」彼女は部屋に入るなり、そう言った。「これじゃお父様のところより、ずっと惨めだわ。でもウージェーヌ、さっきのあなたの振舞いったら、天晴れなものでしたわ。あたしにできたら、もっとあなたに惚れ込みたいくらい。けどね、一身代つくろうと思うのだったら、あんなふうに窓から一万二千フラン投げ捨てるような無駄づかいは、もうこれからは禁物よ。トライユ伯爵は病みつきの賭博打ちなのですよ。それを姉は見て見ないふりをしてるのですわ。だからトライユさんは、自分がお金の山を、取ったり取られたりしているお馴じみの場所へ、その一万二千フランを工面しに行けばよかったのです」
うめき声がしたので二人はゴリオの部屋にとって返したが、見たところ老人は眠っているようだった。しかし二人の愛人が近づいて行ったとき、こんな言葉が聞えた。「娘たちは仕合せじゃないのだなあ!」眠っているにせよ、眼ざめているにせよ、その語調には激しくデルフィーヌの胸をうつものがあった。父の横たわっている粗末な寝台に、彼女は進みよってその額に接吻した。と、ぽっかり老人は両眼を見開いて、
「おお、デルフィーヌか」
「お父様、ぐあいは?」
「いいよ、心配はいらん。わしは外出してくる。お帰り、お帰り、子供たち。仕合せになるんだよ」とゴリオは言った。
ウージェーヌはデルフィーヌを家まで送って行ったが、残してきたゴリオの容体が気懸りだったので、彼女と食事をともにするのを断って、メゾン・ヴォーケルヘと戻った。ゴリオ爺さんは起き出して食卓についていた。ビアンションは製麺業者の顔をよく観察のできる位置に、座を占めていた。老人がパンを手にして、その粉の良否を嗅ぎわける例の動作のなかに、行為意識ともいうべきものが全然欠けて純然たる機械的なアクションとそれがなっているのを見て、医学生は絶望的に首を振った。
「僕のそばへ来て坐らないか、コシャン病院インターン先生」とウージェーヌは声を掛けた。
老下宿人のそばにも坐れることになるので、ビアンションはよろこんで席を移してきた。
「老人のぐあいはどう?」とラスティニャックは訊ねてみた。
「見立て違いでないかぎり、まあ絶望といっていいね。なにか異常なことが、やっこさんの身にあったのに違いない。今にも脳に漿液の溢出《いっしゅつ》が起こる卒中の危険性があるようだぜ。顔面下部は平常だが、顔の上部は否応なしに額のほうに引っつられている。見たまえ、あの眼は大脳のなかへの漿液の侵入を示す、きわめて特殊な症状なんだよ。細微な埃でいっぱいといった眼じゃないか。あすの朝になったら、もっとはっきりしたことが解るがね」
「なにか治療法はないのかい?」
「ない。仮りに反動《レアクション》を四肢、ことに足のほうに向けさせる方法が見つかったにしろ、せいぜい死期を遅らすというだけだな。あすの晩になってもあの徴候がやまないようだと、気の毒だが老人もおしまいだよ。なんの出来事から病気が起こったのか、君は知ってるんだろう? 何かひどい衝撃を受けたもので、精神がまいってしまったのに違いないんだ」
「そうなんだ」とラスティニャックは二人の娘が、父親の心を休みなしに痛めつけていたことを思い出してそう言った。(だがすくなくともデルフィーヌのほうは父親を愛している。彼女だけは別だ!)と彼は心に考えた。
その晩、イタリア歌劇でラスティニャックは、ニュシンゲン夫人をあまり心配させないようにと、幾分の手心を加えてゴリオの容体の話をした。
「気遣いはべつにいらないことよ」と彼女はウージェーヌが二言三言話しかけると、それをさえぎるようにして答えた。「父は根が丈夫なんですもの。ただけさ、あたしたちちょっとパパに、ショックを与えてしまったのね。でもあたしたちの財産が問題なんですもの。この不幸がどんなに大きいか、おわかりになれて? 今までは死ぬ苦しみの心配と思ってたことが、あなたの愛情によって無神経でいられるようになりましたけど、さもなければあたし生きてはいられないでしょう。今ではあたしにとって、たった一つの不安、たった一つの不幸があるきりですの。それは生きる楽しさを、あたしに感じさせてくれた愛を失うことで、こうした感情を除けば、ほかのすべてなんか、あたしにはどうだってよく、この世に好きなものはもう何一つありませんわ。あたしにとってはあなたがすべてなのですもの。だから裕福であることを楽しく感ずるのも、あなたにもっと気に入られないからですのよ。お恥ずかしい話だけど、父より恋人のほうがあたしには大事なの。なぜでしょう? 自分にもわかりませんわ。あたしの生命ぜんたいはあなたのうちにあるんですのよ。父はあたしに心臓を授けてくれました。しかしそれを鼓動させたのはあなたですもの。世間ぜんたいから咎められたって、やむにやまれぬ恋情から犯した罪を、あなたさえ許してくださるなら、あたしいっこうに平気だわ。あなただって恋ゆえの咎を、あたしにお怨みになる権利はないでしょう。あたしを親不孝な娘だとお思いになって? いいえ、違いますわ。あたしたちのパパのような優しい父を、愛さずになんかいられませんとも。けれどもあたしどもの惨めな結婚の当然の成行を、父に見せないようにすることができたでしょうか。なぜ父はあたしたちの結婚をさまたげなかったのでしょう? あたしたちのためにとくと考えてくれるのが、父としての役目ではなかったでしょうか。今ではあたしにもわかります、父があたしたちと同じくらいに悩んでるってことが。けれどそれをあたしたちにはどうしようもないではありませんの。父を慰めるんですって? あたしたちは父を慰めようがまるでないのですわ、あたしたちの非難や愚痴が、父に辛い思いをさせる以上に、父があたしたちのあきらめで、より多くの苦しみを、味わわなくてはならないんですもの。人生には何から何までが、苦しみに変るといった場合がありますのよ」
ウージェーヌは黙して語らなかった。真実な感情の純真な流露に、感じやすい彼はすっかり感動させられてしまっていた。
パリ女というものは不実で、虚栄に酔い、自分勝手でコケットで、冷淡なことが、往々にしてあるとしても、いざ真剣に恋をしたとなると、その情熱を立てて、自己の感情など犠牲にすることは、他郷の女たちよりはるかに多いこともまた確かである。彼女たちはそのあらゆる卑小さを持ったまま、偉大となり崇高となるのである。
ついでウージェーヌは女が恋愛などの独占的愛情によって、もっとも自然的な肉親の情などから、離れた距離に身を置いた場合、人情のしからしむるその自然感情を批判する深く鋭い精神のその働きぶりに、すっかり驚いてしまったのだった。ウージェーヌが沈黙を保っているのに、ニュシンゲン夫人は気を悪くして、
「いったい、なにを考えていらっしゃるの?」と彼女はたずねた。
「あなたのおっしゃったことが、まだこの耳にこびりついているのですよ。僕は今まであなたが僕を愛しているより、僕のあなたへの愛のほうが大きいとばかり思い込んでいました」
彼女は微笑した。つつしみを失わない限度に会話を押しとどめようとして、胸に覚えた喜びを大きく自制した。若い真摯な恋情の表現を、ついぞ聞いたことがない彼女である。もうすこし話を続けられたら、もう自制することもなにもできなくなってしまっただろう。
「ウージェーヌ」と彼女は話頭を転じて言った。「どんなことが起こっているか、ご存じないの? 全パリはあすボーセアン夫人のお宅へつめかけるわよ。ロシュフィード家とダジュダ侯爵は、合意の上で公表を堅く差し控えていたのですけど、あすいよいよ王様が結婚契約にご署名をなさいますのよ。それなのにあなたのお従姉《ねえ》さんは、まだなんにもご存じないの。いまさら招待を取り止めるわけにもいかないでしょうし、侯爵も、その舞踏会には見えないでしょう。この事件で話はいま持ち切りですわ」
「世間っていうやつは人の不面目をあざ笑い、いい気になってそれに浸《つか》っているんです。ボーセアン夫人はそのために死ぬってことが、あなたにはおわかりにならんのですか?」
「わかりませんわ」と微笑しながらデルフィーヌは言った。「あの種のご婦人ってものがどんなか、あなたはいっこうにご存じないのね。とにかくパリじゅうがあの方のお邸に集るでしょうし、このあたしもまいりますわ。そこに行けるって仕合せも、あなたのお蔭ですものね」
「しかしそれはパリ十八番《おはこ》の、例の根も葉もない風評の一つじゃないでしょうか」とラスティニャックは言ってみた。
「あすになれば真相がわかりますわ」
ウージェーヌはメゾン・ヴォーケルに帰らなかった。新しいアパートを愛用しないではいられなかったからで、前夜は夜中の一時にデルフィーヌと別れて、帰らなければならなかった彼だったが、その晩は今度はデルフィーヌが夜中の二時ごろ、彼と別れて邸に戻って行った。
翌日、かなり遅くまで寝坊をして、ラスティニャックは昼近くニュシンゲン夫人が昼食に来るのを待っていた。若い連中はこうした楽しい幸福には、すっかり夢中となる。ラスティニャックもゴリオ爺さんのことをほとんど忘れていた。自分の持物となったこれら優雅な品の一つ一つに、馴染んでゆくことはウージェーヌにとっては、果てるともない祭典であった。またそこにはニュシンゲン夫人がいて、すべてのものに新しい値打を添えていた。けれど四時ごろ、二人の恋人もゴリオ爺さんのことを思い出して、この家に移り住むについての老人の楽しい期待を考えた。老人が病気になるとしたら、早くここへはこび込む必要があることを、ウージェーヌは言ってみた。そしてデルフィーヌと別れて、メゾン・ヴォーケルヘと彼は急いだ。ゴリオ爺さんもビアンションも、しかし食堂にはいなかった。
「よう」と画家が彼に声をかけた。「ゴリオ爺さんは病の床だ。階上《うえ》でビアンションがつき添ってるよ。老人は娘の一人レストー|ラマ《ヽヽ》伯爵夫人に会ってから、外出したので病気をいちだんと悪くしたようだぜ。我々グループもそのもっとも輝ける名物男を、まさに失わんとしているぜ」
ラスティニャックは階段のほうへ突進した。
「ちょいと、ウージェーヌさん!」
「ウージェーヌさん、マダムが呼んでますよ」シルヴィが叫んだ。
「あなた」と未亡人が彼に言った。「ゴリオさんとあなたは二月の十五日に引っ越すはずでしたわね。もう十五日を過ぎること三日、きょうは十八日ですよ。お二人さんから一月分いただかねばなりませんが、あなたがゴリオ爺さんの分を保証してくださるなら、口約束だけで結構ですわ」
「なぜさ? おばさん、信用しないのかい?」
「信用! だってもし老人が正気に戻らず、あのまま死んでしまったら、娘たちからはびた一文も払ってもらえず、あの人の持物ぜんぶあわせたところで、十フランにもなりゃしませんからね。けさも最後の食器類を持って出かけましたよ、なぜだか知るもんですか。それに妙に爺さん若づくりをしてね、おかしな話だけど、顔に紅さしていたようですよ、すっかり若く見えちゃって」
「せんぶ僕が保証しますから」とウージェーヌはぞっとするような身慄いを覚えながら言った。大詰《カタストロフ》を彼は予感しのだった。
ゴリオ爺さんの部屋にあがると、老人は寝台に横たわり、ビアンションがそのそばにいた。
「こんにちは、ゴリオさん」とウージェーヌは言った。
老人は穏やかにほほえみかえした。そしてどんよりした眼を彼のほうに向けて答えた。
「あの子はどうしています?」
「元気ですよ。あなたのほうは?」
「まあどうにかね」
「疲らせてはいかんぜ」とビアンションはウージェーヌを部屋の隅に引っ張って行って言った。
「どうなんだい?」
「助かるとしたらまあ奇蹟だね。大脳漿液過多のための充血が起こってるんだ。芥子泥の膏薬を貼ったが、幸いに当人も膏薬を感じたからね、ちっとは効能を見せているよ」
「動かせるかしら?」
「だめだ。絶対安静にして身体を動かすことも、感情を刺激することも、いっさい禁物にしなくっちゃ……」
「ありがとう、ビアンション君、僕たち二人で病人を看病してやろう」
「病院の主任医師にも、もう来てもらったよ」
「それで?」
「あすの晩までははっきりしたことは言えないそうだ。病院の勤務がすんだら、あとでまた来てくれるという約束だよ。間の悪いことに、このお人好し爺さん、けさ方、軽はずみなことをやらかしたもんでね、そのわけについちゃご当人いっこう説明したがらないんだが。なにしろ驢馬みたいに頑固だからな。僕がたずねても聞えない振りをし、返事をしないようにと眠ってしまう。眼を開けているときは、ぶつくさなにか呟いてばかりといったありさまなんだ。けさがた出かけ、どこか知らんが、パリをてくてく歩きまわり、自分の持ってる金目のものは、すっかり運び出して行ったよ。自分の力にあまるような何かいまいましい取引でも、やりに行ったらしいぜ。娘の一人が来たもんでね」
「伯爵夫人がかい?」とウージェーヌは言った。「背が高く栗色髪で、切れのいい生々した眼をし、脚がきれいで、身体つきのしなやかな?」
「そのとおり」
「ちょっと座を外してくれないか。白状させてみるから。僕にならなんでも打ち明けるだろう」とラスティニャックは言った。
「その間に僕は食事をしてくる。ただあんまり興奮させないようにしてくれよ。望みなきにしもあらずなんだから」
「おっと承知した」
「あの子たちもあすはお楽しみだな」と、二人きりになったとき、ゴリオ爺さんはウージェーヌに言った。「大舞踏会に行くんで」
「夕方、床に就いていなくちゃならないほど加減を悪くするなんて、パパ、けさはいったいなにをしたんです?」
「なにもせんよ」
「アナスタジーが来たっていうじゃありませんか?」
「うん」
「さあ、隠さないで言ってください。あの人また何をあなたにせがんだんです?」
「ああ!」喋るためにありったけの力をふりしぼって老人は話しだした。「あの子はとても不運でね。こうなんだよ、君。ダイヤの事件以来、あの娘は一文なしなんだ。今度の舞踏会に金銀箔の衣裳を注文したんだが、宝石台のように、きっとナジーには似合うこったろう。ところがその裁縫師というのがけしからん女でな、あの子に信用貸しをせんので、娘の小間使が衣裳代の内金として、千フランの金を立て替えたのさ。かわいそうなナジー、そこまでも落ちぶれているんだ! わしは断腸の思いじゃて。ところがレストーのやつ、ナジーをすっかり信用しなくなったものだから、小間使は金を損しては大変とばかり、裁縫師と肚をあわせて、千フラン返さなければ衣裳を渡さぬと言い出しおったのじゃ。舞踏会はあすだし、衣裳は仕上っている。ナジーは絶体絶命になって、わしの食器類を借りて入質しようというんじゃよ。売りとばしたという噂の例のダイヤを、娘がつけて舞踏会に行き、パリじゅうに見せびらかすのを、良人は望んでおるのでな。しかし『千フランの借金がありますから、払ってくださいな』と、娘があの人でなしに言えますかいな? 言えるもんじゃない。わしにはその気持がよくわかる。妹のデルフィーヌもすばらしいおめかしをして行っておるじゃろう。姉のアナスタジーが妹におくれをとるなんてわけにもいくまいて。そんなわけでかわいそうにあの子は、涙に溺れておりましたわい。わしはきのう一万二千フランを用立ててやれなかったことで面目無うて、罪ほろぼしにこの惨めな生命の残りを、いっそ投げ出したいくらいじゃったよ。ねえ、君、わしはどんなことにも耐えられる力を持っておったが、今度という今度の金詰りには、心張り裂けざるを得んじゃった。おお、おお、わしはもう四の五のためらわなんだよ。せいぜい晴着にめかしこんで出て行き、食器と留金を六百フランで売り、終身年金の証書を、期限一年担保でゴプセック親父から、一時払いで四百フラン借りましたのさ。なあに、わしはパンを噛ってすましますさ。若いときはそれで結構しのげたもの。今だってなんとかいきまさあ。せめてもあの子は、楽しい一夜を過ごせるのじゃ、わしのナジーはな。さぞかしあでやかな姿じゃろうて。わしの枕の下には千フラン札がおいてある。かわいそうなナジーを喜ばせられるものが、頭の下にあるってことは、胸あたたまる思いですぜ。あの根性悪の小間使、ヴィクトワールをナジーも叩き出せますよ。主人を信用しない召使なんて、いったいありますかいな。あすになればちっとわしもよくなることでしょう。ナジーは十時に来るのでな、あの子たちに病気だと思われたくないのですわい。娘たちはきっと舞踏会に行くのを止めて、わしを看病するでしょうからな。あすはナジーがわしを、親身の子みたいに接吻してくれますよ。あの子の愛撫でわしはけろりなおってしまいますぜ。病気で薬屋にかかれば、どうせ千フランがとこはとられるでしょう。それくらいならわしの万能楽たるナジーに、千フランやったほうがずっといいですぜ。すくなくともあの子の窮乏を慰めてやれますもの。それに終身年金を買ったわしの過ちの埋合せともなるしな。あの子はどん底に落ちている。それをこのわしには引っ張り上げてやる力がないんじゃ。そうだ! わしは商売をまた始めるとしよう。オデッサまで行って小麦を買い込もう。こっちの三分の一の値段で仕入れられるから。穀類の輸入も現物では禁止されているとしても、麦を主原料としている製品まで取り締ることは、法律を作ったお役人衆もうっかりしてござるようだ。ひ、ひひ、……わしはそこに気づいたんじゃよ、ついけさね、このおれは! 澱粉でなら、たんと好い商売ができますさ」
「どうもすこし気が変だぞ」とウージェーヌは老人を眺めながら独語した。「さあ、安静になさって。もう喋ってはいけませんよ……」
ビアンションがあがって来たので、代ってウージェーヌは食事に降りて行った。それから二人は交代で病人の看護に夜を徹した。ビアンションは医学書を読みながら、ラスティニャックは母や妹たちに便りを認《したた》めながらにだった。
翌日、病人の容体にあらわれた徴候は、ビアンションの説によると、有望なしるしであった。けれど不断の注意を必要とし、それにあたれるのはこの二人のほかにはなかった。老人の衰弱したからだに水|蛭《ひる》をくっつけ、さらに続いては罨法《あんぼう》、脚湯、それに若い二人の骨折りと献身とを必要とする、医学上の諸手当があわせ施された。レストー夫人はついに来なかった。金をもらうために使丁をよこしたきりだった。
「本人が来るとばかり思っておったんだが、まあ使いでも悪くはないさ。わしの病気であの子に心配をかけずにすんだもの」と、こうした手違いをかえって病人は喜んでるらしく、そう言った。
晩の七時に、テレーズがデルフィーヌの手紙を持ってきた。
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なにをしていらっしゃるのでしょう? 愛されてすぐもう私は、構われなくなってしまったのでしょうか? 心から心へと注ぎかわしたあの打明け話のなかで、あんなに美しい魂をお見せくださったあなたですもの、愛の感情にはどんな多くの音調《ニュアンス》があるかを目になされても、決して心変りはなさらぬお方とは、存じ上げておりますわ。「エジプトのモーゼ」〔ロッシーニ作のオペラ〕の祈りをお聞きになりながら、『人によって一本調子に聞えても、聴く人にとってはこれは無限の音楽である』とあなたがおっしゃられたとおりでございますわね。今夜はボーセアン夫人の舞踏会に行くため、あなたをお待ちいたしておることを、どうぞお忘れくださいますな。
ダジュダ氏の結婚契約はけさ王宮でついに署名が終りました。お気の毒に子爵夫人は、それを午後の二時までご存じなかったようです。パリ上流界こぞって夫人のところに、さぞかし押し寄せることでございましょう。処刑の行われる日に人民がグレーヴ広場に殺到いたしますように。あの方が心の苦悩を隠しおおせるかどうか、深くこの世に暇を告げるかどうか、それを見物にまいるなぞとは、なんとおぞましいかぎりではありませんか。私にしても以前にお邸へうかがったことがあるならば、今夜は確かにまいりはいたしません。けれどあの人はもう二度と人を招待なんぞはしないでしょうし、それに私が払って来たこれまでの苦心も、それでは水泡に帰することになってしまいます。私の立場は他の人とすっかり違っておりますもの。それにまたあなたのためにも、あそこへまいるのですわ。至急おいでをお待ちしております。二時聞以内においでくださらないときには、あなたの反逆を許してあげられるかどうか、この自分でもわかりませんことよ。
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ラスティニャックはペンをとって、次のような返事を書いた。
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あなたの父上の寿命にまだ一脈の望みがあるかどうか、それを知ろうと思って、医者の来るのを待っています。瀕死の状態なんですが、はっきりした医者の診断を持って、さっそくに参上いたしましょう。死の宣言となるのを、じつは恐れておりますが、あなたが舞踏会に行けるかどうかも、その知らせいかんではっきりといたすでしょう。
愛する者より
[#ここで字下げ終わり]
医者は八時半に来た。脈のあるような所見は吐かなかったが、死期がそう切迫しているとも考えていなかった。病勢は一進一退するだろうと告げ、老人の生命と意識はそうしたバランスにかかっているとのことであった。
「ぽっくり死んだほうが当人のためには幸いなんだがね」これが医者の最後に言った言葉だった。
ウージェーヌはゴリオ爺さんの看護をビアンションに託し、ニュシンゲン夫人に会いに行った。娘としての義務感がまだ染み込んでいる夫人にすれば、どんな享楽も沙汰止みにしなければならない悲しい知らせを、伝えようがためだった。
「心配せずに楽しく行って来いと、娘にそう伝えてやってください」ゴリオ爺さんはまどろんでいたようだったが、ウージェーヌが出掛けようとするまぎわに、寝台の上に身を起こして、そう叫んだ。
青年は傷心の面持でデルフィーヌの前に現われた。彼女は髪も結い終り、靴もはきおえて、あとは舞踏服をつければよいだけになっていた。けれど画家が絵を仕上げるまぎわの筆づかいにも似て、その最後の支度は画面の全|素地《したじ》に要する時間よりも、もっと暇がかかりそうなもようだった。
「あら、なぜお着替えをなさらないの?」と彼女は言った。
「だってマダム、あなたのお父さんが……」
「まだ父のことをおっしゃってらっしゃるの!」と夫人は彼をさえぎるようにして叫んだ。「父への義務なんか、あなたに教えていただかなくてもけっこうよ。父の気性は昔からよく知ってますからね。もう一言もお断りよ、ウージェーヌさん。あなたが盛装して来ないうちは、聞く耳を持ちませんわ。テレーズがあなたのお部屋に、すっかり準備しておきましたからね。あたしの馬車が用意してあります。それに乗って行って、すぐにもどってらっしゃい。父のことは舞踏会に行く途中で、お話しするとしましょう。早目に出掛けなければだめですわ。馬車の列のなかにはいりこんだら、うまくいっても、十一時でないと向うへは着けませんからね」
「マダム!」
「早く行ってらっしゃい。文句なんか言わずに」そう彼女は言って首飾りをとりに、化粧室に駈け込んで行った。
「さあ、行ってらっしゃい、ウージェーヌ様、マダムを怒らせてしまいますよ」とテレーズは言って、この優雅な親殺し娘にびっくりしていた青年を、ぐいぐい押し出した。
彼はいたって悲しい、世にも気落ちした省察に耽りながら着替えに赴いた。世間というものを、一度足を踏み入れたが最後、首まで沈み込んでしまう泥の大海のように思った。――(世間じゃただけち臭い罪悪しか行われていない。考えてみればヴォートランのほうがずっと偉いや)と彼は思った。彼は社会の三つの大きな表われを見てきた。「服従」「闘争」そして「反抗」、換言すれば「家族」「世間」「ヴォートラン」。そのいずれを選んだらよいか、彼にはためらわれた。「服従」は退屈だし、「反抗」はできっこないし、「闘争」は不安定に思われた。自分の家庭のなかに彼の心は引き戻された。あの穏やかな生活の純粋な感動が思い起こされた。自分を愛してくれる人たちのなかで過ごした日々のことが、懐しくしのばれた。家庭の自然な掟に従って、これらいとしい人たちは、なんの苦悩もない充実した、不断の幸福をそこに見出しているのだ。――だがそうした殊勝な考えにもかかわらず、「愛」の名においてデルフィーヌに、「孝行」を行うように命ずることも、また純な魂の信仰告白を、あえて彼女に対してなす勇気も、おのれにないのを、彼は感ずるほかはなかった。始まったばかりの彼の教育だったが、すでにその実を結んでいた。はや彼はエゴイスチックな恋をしていたのである。敏感な彼はデルフィーヌの心の本性を看破することができた。そして父親の屍をのりこえてでも、舞踏会に行きかねぬ女人ということを予感していた。なのに彼にはいさめる役割を果たす気力もなければ、夫人の機嫌を損ねる勇気もなく、また彼女と別れてしまう正義感とてもなかった。
「こんな場合、その非をあばいたんじゃ、彼女も俺を容赦はすまい」と彼は考えた。そして医者の言葉に勝手な注釈をつけた。こっちの思っているほどゴリオ爺さんは、危険な容体ではないと、強いて考えようとした。こうして彼はデルフィーヌの振舞いを是認視《ジャスティファイ》し得る謀殺的な理屈づけを、次から次へと重ねて行った。――彼女は父親がどんな状態にあるかも知らないのだ。老人だって、もし彼女が見舞いに行ったら、むりやり舞踏会に行かせるに違いない。性格の相違とか、利害や立場の多様さなどにより、罪を罪としないでよいことが、家庭内には無数にあって、明らかに罪悪と思われることも、大目に見のがされている場合があるが、形式を和げられない社会の掟は、そういうものを有罪ときめつけることが、しばしばなのではないか。ウージェーヌは、自己を偽瞞しようと欲した。彼女のために、自分の良心を犠牲にする覚悟がようやくについた。
ここ二日来、彼の生活はすっかり変ってしまった。女人がそこに乱脈さを投じ、家庭というものの影を薄らがせ、おのれに有利なように、すべてを取り上げてしまったのであった。ラスティニャックとデルフィーヌは互いに相手によってもっとも烈しい享楽を感ずるには、絶好な条件のなかにあった。十分に熟しきっていた二人の情熱は、ふつうだったら情熱を消すところのもの、享有《ヽヽ》によっていよいよ大きくなっていった。彼女をわがものとしてウージェーヌははじめて、今までの自分が、ただ彼女を欲求してたにすぎなかったのに気づいた。彼は幸福を得た翌日になって、ようやく彼女を愛しはじめたのである。おそらく恋愛というものは、快楽の謝恩《ルコネッサンス》にすぎぬのかもしれない。彼女が陋劣たると崇高たるとを問わず、彼は持参金のように彼女にあたえ得た肉の悦びと、彼女から受けた性の歓喜ゆえに、デルフィーヌを熱愛した。同じくデルフィーヌのほうでも、タンタルスが彼の餓えを満たしに来た天使なり、咽喉のひりつくような渇きをいやしに来てくれた天使なりを愛するように、ラスティニャックを愛したのであった。
「それでお父さんはどうなの?」と、彼が舞踏会の服を着て戻ってくると、ニュシンゲン夫人は訊ねた。
「非常に悪いんです。愛の証拠を僕にお示しくださるというのでしたら、これから二人でお見舞いに馳けつけましょう」
「ええ、行くわ、でも舞踏会がすんでからね。ウージェーヌ、おとなしくね。お説教はごめんですよ。じゃまいりましょう」
二人は出かけた。途中しばらくのあいだ、ウージェーヌは口をつぐんでいた。
「あら、どうしたの?」
「お父さんのあえいでいるのが僕の耳には聞えてくるんです」怒ったような口調でそう答え、熱を帯びた青年らしい雄弁さで、レストー夫人が虚栄にかられて、残忍な振舞いにおよんだこと、父親としての最後の熱誠が、致命的に病状を決定づけてしまったこと、アナスタジーの金銀箔の衣裳が、高価な犠牲を払うにいたったことを語り聞かせた。デルフィーヌは涙にくれていた。『お化粧が台なしになる』そう彼女は考えた。と、涙もたちまち乾上ってしまった。
「あたし父の看病に行くわ。金輪際、枕許を離れませんわ!」と彼女は言った。
「ああ、それでこそ僕の望みのとおりのあなただ!」とラスティニャックは叫んだ。
五百台からの馬車の角灯が、ボーセアン家の付近の闇を照らしていた。照明された大門の両側には、憲兵が一人ずつ闊歩していた。社交界の連中がこぞって押し寄せ、失墜のまぎわにある貴婦人を、一刻も早く見んものと駈せつけて来たので、ニュシンゲン夫人とラスティニャックが顔を出したときには、館の一階の部屋という部屋は、もう満員の盛況であった。
ルイ十四世のために愛人との仲を割かれた大姫様〔モンパンシェ公妃。ローザン公と相愛の仲になったが、ルイ十四世から仲を割かれ、ローザン公は投獄された〕の屋形へ、宮廷一統が押し寄せたことがあって以来、このボーセアン夫人の場合ほどの、はなばなしいセンセーションを巻きおこした恋の破局は、そのためしがなかったくらいだった。準王家ともいうべきブルゴーニュ家最後の娘として、子爵夫人はこのような立場に陥っても、自分の悲運に超然たる態度を示して、最後の瞬間までも社交界に君臨していた。彼女が社交界の虚栄をかく許容しておったのも、みずからの感情の制御に資さんがためにはほかならなかった。パリでのもっとも美しい貴婦人たちが、その衣裳と微笑とではなやかにサロンを活気づけていた。宮廷の顕官、大使、閣僚と、各界の名士たちは十字勲章や大勲章や色とりどりの綬章を飾り立てて、子爵夫人のまわりに押しよせていた。宮殿の(ただし当の女王にとっては砂漠も同じであったが)贅をこらした金ピカの天井の下ではオーケストラの楽の音が、次から次へと演奏せられていた。ボーセアン夫人は第一サロンの戸口のところに立って、友達顔してくる客人たちを迎えていた。純白の衣裳をまとい、簡素に編んだその髪にはなんの飾りもつけず、落ち着きすました彼女の態度には苦悩の色も傲慢さも、そらぞらしいはしゃぎぶりも、ついぞ見られなかった。一人として夫人の胸中を読めるものもなかった。それはさながら大理石のニオベの像〔ニオベはギリシア神話に出るタンタルスの娘でテーベの王妃。ユーノーの怒りを買い、子供を皆殺しにされ、彼女自身は石に化した〕をしのばせるものがあった。親しい友に見せるそのほほえみには、時に嘲るような色が浮かんだ。だが、皆の眼には、いつもの彼女とすこしも変りがなく、幸福に光り輝いていた時分とそっくりそのままだったので、どんな無感覚な連中とても驚嘆せざるはなかった。ちょうど死のまぎわに微笑してみせることを心得た闘士たちに、若いローマの女たちが喝采を送るように。パリ社交界はその女王の一人に、最後の別れを告げるにあたって、かく美装を凝してつどったかのようであった。
「お見えにならないのではないかと、心配しておりましたわ」と彼女はラスティニャックに言った。
「奥様」夫人の言葉を咎めととった彼は、感動した声音で答えた。「最後まで居残るつもりでやってまいりましたのです」
「ありがとう」そう言って夫人は彼の手をとった。「ここにいる人たちのなかで信頼することのできるのは、おそらくあなたお一人きりよ。ねえ、愛するのならいつまでも愛することのできる女の方になさいよ。見捨てたりしては罪ですからね」
彼女はラスティニャックの腕をとって、みんながカルタを戦わしているサロンの長椅子のところに連れて行った。
「侯爵のところへ行っていただきたいのよ」と彼女は言った。「従僕のジャックがご案内しますから、あの人に手紙を渡してきてくださいね。あたしの手紙を返していただくためです。ぜんぶ返してくれると思いますわ。いくらなんでも。そして手紙を受け取ったら、あたしの部屋にあがっていてください。誰かがあたしに知らせてくれるでしょうから」
やはりやって来た親友のランジェ公爵夫人を迎えるため、彼女は立ち上った。ラスティニャックは出かけて、ロシュフィード邸でダジュダ侯爵に面会を求めた。侯爵はその晩、そこにいるに違いないと、果して思ったとおりであった。侯爵は青年を自宅にともなって、一つの小箱を渡し、「ぜんぶそこに入っていますから」と言った。彼はウージェーヌに何か話したげであった。舞踏会のもようや子爵夫人のことをたずねたかったのか、あるいはひょっとすると自分の結婚に早くも絶望を感じていることを――事実、後にはそうなったのだが、――ラスティニャックに洩らしたいつもりもあったのかもしれない。けれど自尊心の閃めきが彼の両眼に輝き、自分の高潔な感情を、闇に葬るというつまらぬ侠気《おとこぎ》を見せてしまった。
「僕のことは何も夫人に言わないでください、ウージェーヌさん」
そしてもの悲しそうに心をこめてラスティニャックの手を握り、立ち去るようにと合図をした。ウージェーヌはボーセアン邸に戻り、子爵夫人の部屋に通された。そこにはすでに出発の旅支度もととのっていた。彼は暖炉の傍に腰をおろし、杉の小箱を眺めながら、深い憂愁に沈んでいた。彼にとってはボーセアン夫人は、イリアッドのなかの女神たちのような宏大さを持っていたから。
「あら、ウージェーヌ」と子爵夫人は入ってくるなり、ラスティニャックの肩に手をおいた。
従姉が涙|滂沱《ぼうだ》たるのを彼は認めた。夫人は天井を仰ぎ一方の手を上にあげ、片方の手を震わせていた。いきなり小箱を取り上げて火中に投じ、その燃えてゆくのを眺めながら、
「みんなは踊っている。あの人たちはきちんと遅れずにやって来たけど、どうして死神が訪れて来るのは遅れてなのでしょう。しっ! いけませんわ」何か話し出そうとするラスティニャックの口の上に、一本の指を当てがって彼女は言った。「あたしはパリも社交界も、二度とは見ないつもりなんですの。朝の五時にここを出発して、ノルマンジーの奥地に埋れに行きますわ。午後の三時から旅支度をしたり、証書に署名したり、後始末をしたり大童《おおわらわ》でしたの。だからだれかを使いに出すこともできませんでしたのよ、ほら、あの……(彼女は言いよどんだ)居場所は確かに……(彼女は悩みに堪えかねて、また口をつぐんでしまった。こういう場合にはすべてが苦悩であり、ある種の言葉は口に出すこともできぬのである)それでね、今晩あなたに頼んで、この最後のお手伝いをしていただこうと、じつは思っていましたのよ。あなたにあたしの友情のしるしを、なにか差上げましょうね。これからもあなたのことを、しばしば思い出すでしょう。あなたは優しく高潔な、若い純情な方だと感じておりましたわ。そういう美質はこんな社交界では、滅多にあるものではありません。ときどきはあたしのことも、思い出しになってくださいね、そうね」そう言って彼女は周囲を見回し、「ここにあたしが手套を入れていた箱があるわ。舞踏会やお芝居へ行く前、きまってあたしはこの箱から手套をとりだしながら、自分を綺麗だって感じていましたの。だって幸福に暮していたのですもの。それでこれに触れるたびに、なにかと愉しい気持をあとに秘め残しましたのよ。だからこのなかにはあたしの多くが籠っておりますわ。これからはいなくなるボーセアン夫人が、そっくりとなかに入っていますことよ。これをお受けになってちょうだい、ダルトワ通りのお宅に持たせてやりますから。今夜はニュシンゲン夫人はたいそうお綺麗でしたわね。しっかりとあの方を愛しておあげなさいよ。あたしたちもう二度と互いに会えなくっても、お優しくしてくださったあなたのために、あたし祈っているということを、お信じになってくださいね。さあ、下へ降りましょう。泣いていると人に思われたくはありませんから。これからの永い年月、あたしは一人ぼっちですの。そうなればあたしの涙をうるさく穿鑿する人もありませんわ。さあもう一度このお部屋を最後の見納めに」
彼女は立ち止った。そしてちょっとの間、片手で両眼をおおっていたが、やがて涙を拭って清水で眼を洗い、学生の腕をとって「行きましょう」と言った。かくも気高く苦脳を抑制したそのけなげさには、ラスティニャックは、今までについぞ感じたことのないほどの激しい感動を覚えさせられた。
舞踏場に戻ると、ボーセアン夫人はウージェーヌを伴って、部屋じゅうをぐるりと連れまわってくれた。彼に対するこの優雅な女性の、これが最後の優しい心づくしであった。
まもなくレストー夫人とニュシンゲン夫人の姉妹の姿を、彼は見かけた。ありったけのダイヤを身に誇示した伯爵夫人は、なかなかに偉彩を放ってはいたが、しかしダイヤはご当人には焼けつくような思いだったに違いないし、また身につけるのもこれが最後のようであった。彼女の誇りと愛とがどんなに強かろうと、良人の視線には彼女は堪うべくもなかった。こうした光景はラスティニャックの考えを、依然として陰気なものたらしめた。この姉妹のダイヤの蔭に、ゴリオ爺さんの横たわっている粗末な寝台が、見えてくるような気がしたから。彼の沈鬱そうな態度を、思い違えして子爵夫人は、彼からその腕を引っ込めて、
「行らっしゃい! あなたのお楽しみのじゃまはしたくないわ」と言った。
ウージェーヌはすぐデルフィーヌにつかまった。彼女は自分の与え得た効果に得々とし、迎え入れられることをかねて望んでいた社交界から摘みとった礼讃を、学生の足許に捧げたくてたまらなかった。
「ナジーをどう思う?」と彼にたずねた。
「あの人は父親の死までをも、手形割引してしまったのですよ」とラスティニャックは答えた。
朝の四時ごろにはサロンの人影も疎らになりかけた。やがて音楽ももう聞えなくなった。大サロンはランジェ公爵夫人とラスティニャックとだけになった。子爵夫人は学生だけが残っているものと思っていた。それでまずボーセアン氏に別れを告げてから、大サロンに来た。良人は「それは間違ってるよ、お前の齢で引き籠ってしまうだなんて。私たちと一緒にこのままいたらどうだい」と何度もくりかえしながら寝に行ってしまった。
公爵夫人を見てボーセアン夫人は、驚きの叫びをあげずにはいられなかった。
「あたしの察していたとおりね、クララ」とランジェ夫人は言った。「二度と帰らぬお覚悟で、お発《た》ちになるのでしょう。けれどあたしの申すことを聞いて、お互いに理解しあってからでなくては、行ってはいけませんことよ」彼女は友の腕をとって隣のサロンに連れて行き、そこで涙にうるんだ眼で見詰めながら、ボーセアン夫人を両腕に抱いて、その頬に接吻をした。
「冷ややかな気持であなたとお別れはしたくないの。あまりにも堪えがたい後悔の種になりますもの。ご自分と同じように、このあたしをお信じになってちょうだいな。今夜のあなたはとてもご立派でしたわ。あたしもあなたにふさわしい人間になろうと思い、その証拠を見ていただきたいのよ。あたしあなたに対して間違っていたと思いますの。ときには意地悪いことまでしたようですわね。でもどうぞお許しになってね。あなたのお気持を傷つけたことは、ぜんぶなかったことにしておいてくださらない。あたしの失言をすべて取り消したいと思いますの。同じような苦悩があたしたちの魂を結びつけたのですわ。あたしたちのうちのどちらが一番に不仕合せか、それこそわかりませんわ。モントリヴォーさんも今夜ここへ来ておりませんでしたの。それでおわかりになったでしょう。今夜の舞踏会であなたを見た人は、ねえクララ、あなたのことを決して忘れないわ。でもあたし、最後の努力はしてみますわ。もしも失敗したら、修道院に入りますの! あなたはどこへいらっしゃるおつもり?」
「ノルマンジーのクールセルへ。神様がこの世からあたしをお召しになる日まで、愛したり祈ったりしに」
「ラスティニャックさん、こちらへいらっしゃい」青年が待っているのに気づいた子爵夫人は、しみじみとした声音で言った。
学生はひざまずき、従姉の手をとって接吻した。
「アントワネット、さようなら」とボーセアン夫人は言った。「幸福にお暮しになってね」それから学生のほうに向って、「あなたは幸福ね。それにお若いし、何かを信じられるのでしょう。死にかけている人が特別の恩典に浴するように、あたしも社交界から立ち去るにあたって、敬虔で真摯な感動を、身辺にこうして与えることができたわけですわね!」
ボーセアン夫人を旅行用の大型馬車に送りこみ、涙に濡れた最後の別れを受けてのち、ラスティニャックは五時ごろようやく帰宅した。民衆へおもねるデマゴーグたちは、民衆に信じ込ませようとしているようだが、どんな高貴な身分の人とて、心情の掟のそとにおかれているわけでもないし、苦悩を味わわずに過ごせるはずとてもない。ボーセアン夫人の涙が、その何よりの証拠であった。雨催いの肌寒い天候のなかを、ウージェーヌは歩いてメゾン・ヴォーケルまで戻った。彼の教育は完全に終了していた。
「気の毒だがゴリオ爺さんは助からんぜ」ラスティニャックが老人の部屋に入って行くと、ビアンションがそう言った。
「君」とウージェーヌは眠っている老人を眺めたあとでこの友人に言った。「欲望を自分で限ったつつましい天職の埓内で、君はあくまで邁進して行きたまえよ。僕は地獄に墜ち、そこにとどまらなくてはならないんだ。社交界をどんなにあしざまにいう者があっても、それは君、嘘じゃないぜ。黄金と宝石におおわれたそのおぞましさをすべて描破することは、ユウェナリウスにしかできはしないだろうからね」
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爺さんの死
翌日、ラスティニャックは午後の二時にビアンションから起こされた。外出しなければならぬので、ゴリオ爺さんの看病を頼むというのであった。老人の容体は朝のうちからひどく悪化していた。
「老人はあと二日、ことによると六時間も、もたないかもしれんぜ」と医学生は言った。「そうかといって僕たちは病魔との戦いを、止めるわけにはいかんしな。金のかかる手当を施す必要がまずある。僕たちで十分に看護の手はつくしてやろうじゃないか。ところでこの僕ときたら一文なしなんだ。病人のポケットを引っ繰り返し、箪笥のなかも掻きまわしてみたが、結局はゼロさ。爺さんが正気になったとき、そのことをきいてみたんだが、一リヤールも手許にないという話さ。ときに君はいくら持ってるね?」
「二十フラン残ってる。これで賭博をやって儲けて来よう」とラスティニャックは答えた。
「もし負けたら?」
「爺さんの婿たちや娘たちに金を出させるよ」
「連中がもし出さなかったらどうする?」とビアンションは続けた。「さしあたっての急務は金をこしらえることじゃなくって、爺さんの足から腿の半分までを、熱い芥子《からし》泥でくるむことなんだ。病人が叫びでもしたらまだ脈があるよ。君、どういうふうにやるか知ってるだろうね。それにクリストフにも手伝ってもらったらいい。僕は薬屋へまわって、こっちの必要とする薬ぜんぶ、掛けで売るように交渉してくる。爺さんを僕の病院に運ぶことができなかったのは残念だよ。そうすれば手当もよく行きとどくしさ。さあ、来たまえ、君は病人のそばにがんばっていて、僕が帰ってくるまで離れちゃいかんぜ」
二人の青年は病人の寝ている部屋に入った。老人の蒼白な、ひどく憔悴し引きつったような顔の変りざまに、ウージェーヌはびっくりしてしまった。
「どうですか、パパ?」と寝床の上にかがみこむようにして彼はたずねた。
ゴリオはどんよりした眼をウージェーヌのほうに向けて、じっと見つめていたが、相手が誰かもわからなかった。学生はこうした光景に堪えられなかった。涙が彼の両眼をうるおした。
「ビアンション、窓にカーテンはいらんだろうか?」
「いいよ、病人はもう外界の情況にはなんのかかわりもなくなっているんだ。暑さ寒さを感ずるようなら、しめたものなんだがね。しかし火だけは必要だぜ。煎薬やその他、いろんなものの支度があるからね。柴束を持って来させておくから、薪が手に入るまで使っていたまえ。きのうから昨夜にかけ、君の薪も爺さんの泥炭も、すっかり燃やしつくしてしまった。湿気がひどくて、壁から滴が垂れるんだ。やっと部屋を乾かしきれたよ。クリストフが掃除して行ったが、まったくここは廐舎だね。杜松《ねず》の実まで燃したんだが、臭いのなんのって」
「まったくね!」とラスティニャックは言った。「それだのにあの娘たちときたら!」
「ねえ、もし飲み物をほしがったら、これをやってくれたまえよ」とインターン医学生は大きい白い壺を指さした。「苦痛を訴えるうなり声をあげ、腹が熱っぽく堅くなってたら、クリストフに手伝ってもらって、やるんだぜ。ほら、あの……わかってるだろう。灌腸をさ。ひょっとして病人がひどく興奮したり、喋りまくったり、つまりちょっとした精神錯乱に陥っても、そのままにしておくんだよ。べつに悪い徴候じゃないんだからね。そしてクリストフをコシャン病院へ知らせによこしてくれたまえ。病院の医師と、僕か同僚かが、お灸をすえに来るからね。けさ、君の眠っている間に、ガル博士のお弟子と、市立病院の主任医とうちの先生とがみんな立会って、大診断をやったのだ。珍しい徴候が認められると諸先生方はいって、医学上かなり重要ないくつかの点を解明するため、病気の進行過程を見守ることになったんだ。医師の一人が主張するところだと、漿液の圧迫が脳の一つの機関に対して、他の機関より強く働く場合には、特殊な現象を呈することがあり得るのだそうだ。だから、病人が何か言ったら、よく聴いておいて、その言葉が観念《イデエ》のどういう種類に属するものかを、検証してほしいのだ。つまりそれが記憶か、洞察か、判断か、それらのどの働きから出たものか、物質と感情のどちらによけい心を働かしているか、未来のことを勘定しているか、過去のほうをばかり振りかえっているか、要するに、正確なそういった報告ができるように、頭を使ってみてくれないか。漿液の侵入が脳ぜんたいに起こるということもあり得るしね。そうすれば、今のような愚鈍状態で、そのままに死ぬことだろう。まったくこの種の神経性疾患ときたら、奇怪至極だからね。もしもここのところでポンと破裂するとだね」とビアンションは病人の後頭部を示しながら言った。「数々の特異現象が生ずるよ。脳もその機能の若干を回復し、死期もずっと遅らされるんだ。漿液も脳からそれて、死体を解剖しなければわからぬ別のコースをとるってこともあり得る。養老不具院に一人の痴呆な老人がいるが、この男の漿液溢出は脊柱をずっと下降して行った。ひどく苦しんでいるが、ご当人まだ生きてはいるよ」
「あの子たちは楽しんどりましたか?」とウージェーヌに気づいて、ゴリオ爺さんは言った。
「ほら、娘たちのことしか頭にはないんだぜ」とビアンションが言った。「昨夜は百度以上も言ってたぜ。『あの子たちは踊ってるだろう。あの子にも衣裳ができた』なんてさ。二人の名前をずっと呼び続けでね。例の抑揚をつけてさ。『デルフィーヌ! わしのかわいいデルフィーヌ! ナジー!』などと聞かされると、こん畜生と思いながらもつい涙が出ちまったぜ。ほんとに泣けて泣けてしようがなかったよ」
「デルフィーヌだって」老人は言った。「あの子は来てるんでしょう、ねえ? わしはちゃんと前からわかってましたよ」彼の眼は狂的な活気を取り戻して、周囲の壁やドアのほうに注がれた。
「下へ行って芥子泥の支度をシルヴィに言いつけてくるぜ」とビアンションは叫んだ。「今が一番いい時機だから」
ラスティニャックは老人の傍らに一人居残って、寝台の足許に腰をおろし、見るもいたましく恐ろしいゴリオの顔を凝視していた。
――(ボーセアン夫人は身を隠すし、こちらでは死にかけている。美しい魂はこの世にながく留まっていることができんのだ。実際、高邁な感情が、この陋劣《ろうれつ》でけちくさい、うわつらだけの社会と、どうして提携なんかできるものか)そう彼は独語した。
彼のつらなった舞踏会のイマージュがその記憶に蘇り、この死の床の光景と激しい対照をみせた。にわかにビアンションが現われた。
「ねえ、ウージェーヌ、いま主任の先生に会って、さっそく駈け戻ってきたのだが、もし理性回復の徴候が見え、話をしだすようだったら、首のところから亀尾《かめのお》まで、芥子でくるむようにして長い芥子泥膏薬を貼ってから、すぐ僕たちを呼んでくれたまえよ」
「すまんなあ、ビアンション君」とウージェーヌが言った。
「なあに、医学上の研究材料だからさ」と新人信徒の熱心さで医学生は答えた。
「なあんだ、じゃこの哀れな老人を、情けをもって介抱してるのは、僕一人っていうわけか」とウージェーヌは言った。
「俺のけさの介抱ぶりを見ていたら、君にしてもそんな口はきけないと思うが」とビアンションは言った。ラスティニャックの言葉に、そう腹を立てたふうにも見えなかった。「経験に富んだ医者は病気をしか見ない。僕なんかはまだ病人が目につくんだよ、君」
ビアンションが去り、ウージェーヌは老人と一緒に取り残された。発作が起こりはしないかと気遣っていたが、果然、まもなくその徴候があらわれた。
「ああ、あんたでしたかい、ウージェーヌさん」とラスティニャックに気づいて爺さんは言った。
「すこしはいいほうですか?」とたずねながら学生は老人の手を握った。
「さよう、頭が万力ででも緊めつけられるように苦しかったが、今は楽になりましたわい。娘たちにお会いになりましたか? 間もなく来るでしょうね。わしが病気と知ったら、飛んで来るはずですものな。ラ・ジュシエンヌ通りにいた頃は、ほんとによく看病してくれましたからね。ああ! あの子たちを迎えて恥ずかしくないように、この部屋を小綺麗にできたらなあ! 若い男がここにいて、わしの泥炭をみんな燃してしまいましたぜ」
「クリストフの足音がします。その若い男があなたによこした薪を、運び上げにきたんですよ」とウージェーヌが言った。
「それはありがたいが、どうやって薪代を払ったものだろう。わしは素寒貧だ。すっかり、何もかも与えつくしてしまった。乞食同然に成り下ったわけだ。だが、せめてもあの金銀箔の衣裳だけは、立派だったでしょうね。(ああ! 苦しくなってきたぞ!)――ありがとう、クリストフ、神様からご褒美がありますように。わしはもう無一文だから」
「僕がお礼のほうはきばるからね、君とシルヴィには」とウージェーヌは下男に耳うちした。
「クリストフ、娘たちからすぐ来るということづけが、お前さんにあっただろう、ねえ、そうだろう。もう一度、行ってみてくれんか、五フランやるから。わしの加減が思わしくなく、死ぬ前に一遍、会って接吻したがっていると伝えて来ておくれ。ただあまりあの子たちをびっくりさせないように言うんだよ」
ラスティニャックに合図されて、クリストフは出かけて行った。
「娘たちはさっそくやって来ますとも。わしはあれたちの気立てをよく識ってますよ。あの優しいデルフィーヌに、わしが死んだら、どんな嘆きをかけるこったろう。ナジーにしても同じこと。わしは死にとうない、娘たちを泣かせたくないものな。死ぬということは、ウージェーヌさん、あの子たちにもう会えんていうこと。あの世へ行ったら、さぞかしわしも退屈するじゃろうて。父親にとって地獄とは、子供たちなしでいることだもの。もっともあの子たちがとついで以来、わしはすでにそのほうの年期は入れて来ましたがね。わしの天国はラ・ジュシエンヌ通りに住んでいた頃じゃった。わしがもし天国に行っても、精霊になって地上にまた戻り、娘たちのまわりにいられるかどうか、教えてみてくださらんか。なんでもそんなふうなことを、わしは聞いたような覚えがある。本当でしょうかな? ラ・ジュシエンヌ通りにいた時分のあの子たちの姿が、今でもありあり目の前に浮かぶようじゃ。朝おりてきてあの子たちは、『お早よう、パパ』って言うと、わしは膝の上に抱き上げ、さんざんからかったり、ふざけあったりしたもんじゃった。優しく向うでもこのわしのことを、えらく大事にしてくれましたよ。みんな揃って朝飯を食べる。晩飯までも一緒じゃった。つまりわしは父親じゃった。わしの子供たちを享楽することができましたのじゃ。あの子たちもラ・ジュシエンヌ通りにいた頃は、理屈もこねず、世間のことはなに一つ知らず、ほんとにわしを愛しとったわい。ああ、どうしてあの子たちは、いつまでもちっちゃくていてくれなかったのかしら?(おお、苦しい、あたまを引き抜かれるようだ)ああ、ああ、後生だ、娘たち! わしはおっそろしく苦しい。お前たちのお蔭で、苦しみにはさんざ慣れてるこのわしだが、こいつ本当に苦しいわい。ああ、せめてあの子たちの手でも握っていられたら、こう苦しまずにすむんだが。娘たちは来てくれるじゃろうと思いますかい? クリストフはあんな馬鹿だからなあ! このわしが自分で出かけて行くべきだった。だがあいつはあの子たちに会えるんだ、あんな分際でいて。――あんたは昨夜舞踏会に行ったのでしょう。娘たちはどうでした。話して聞かせてくださいよ。あの子たちはわしの病気を、ちっとも知らんのでしょう、ねえ、そうなのでしょう? 知ってたら踊りなんかはしなかったでしょう。かわいそうに! おお! わしは病気なんどしてはおれん。娘たちはまだまだわしの力を、うんとかりんけりゃならんのだから。あの子たちの財産が、危険にさらされてるんだ。なんというひどい亭主たちに、娘をやってしまったのだろう! 癒りたい、わしを癒してくだされ!(うう! 苦しい! あ、あ、ああ!)さあ、わしはどうあっても癒らんけりゃならん。あの子たちは金の必要に迫られとるし、しかもわしは金儲けに出掛けるあてが、ちゃんとついてるんだ。わしは結晶体澱粉を作りに、オデッサヘ行きますぞ。わしはその道の猛者《もさ》だ。数百万儲けてみせるから(おお、なんと苦しいんだろう!)」
ゴリオは一時《いっとき》のあいだ口をつぐんでいた。苦痛をこらえるために全身の力を集めて、努力している様子であった。
「あの子たちさえいてくれたら、わしはこうまで愚痴などこぼさんのだが。そうだ、なんのこぼすわけがあろう」
にわかに軽い仮眠に彼は陥って、それがいつまでも続いた。クリストフは戻ってきた。ラスティニャックは老人が眠っているとばかり思って、かまわず彼に使いの趣を、大きな声で報告させた。
「まず伯爵夫人のところにまいりましたが、お話ができませんでした。夫人はご亭主と大喧嘩《おおもめ》のまっさいちゅうなんで。しつこくねばったもので旦那が自分で出てきて、こうわしに言うんですよ。『なにゴリオさんが死にそうだって。ほう、それはあの人にとっても一番けっこうな話さ。奥はいまわしと大事な話し合いをつけてるから、それが済むまでは行かれんよ』伯爵はおこったようなふうをしていました。そこで私は帰ろうとしますと、気のつかなかったドア口から、奥さんが控えの間へ出て来られまして、『クリストフ、お父さんに言ってちょうだい、主人といま口論中だから出られないって。子供たちの死活の問題なので、終ったらすぐ行きますからね』って申されました。
男爵夫人のほうはまた話がべつなんで。ぜんぜん会えないし、話すこともできませんでしたよ。小間使がこう言うんです。『あら、奥様は舞踏会からけさの五時十五分過ぎにお戻りになって、今お休み中ですわ。お昼前にお起こししようものなら、それこそ叱られてしまいます。お呼びになりましたら、お父様がたいそうお悪くなったことを、お伝えしておきましょう。悪い知らせには言い出す時期ってものがありますからね』もちろんいくら頼んでもだめで、ちぇっくそでしたよ。旦那のほうに話そうと思ったら、留守なんですとさ」
「なに、どちらも来ないのか!」とラスティニャックは叫んだ。「じゃ二人に手紙を書いてやろう」
「どちらもだって」と老人は言って寝床の上に起きなおった。「夫婦喧嘩があったり朝寝坊で眠ったりじゃ来られはせん。わしはちゃんとわかっておったよ。子供ってどんなものか、死ぬときでなくちゃまったくわかりはせん。ああ、ウージェーヌさん、結婚なんかおよしなさい。子供は持つものじゃありませんぞ。こっちが生命を与えてやったのに、向うでは死をよこす。上流社会に入れてやれば、そこからこっちを追い出してしまう。いや! あの子たちは来るもんですか! わしには十年も前からわかってましたよ。幾度となくそう自分にも言い聞かせたのじゃが、いくらなんでもと、信じられずにおりましたのさ」
涙の玉が一滴ずつ両眼に浮かんだが、赤ずんだ眼縁にとまって、ころげ落ちようとしなかった。
「ああ、もしもわしが金持なら、財産を握っておって、あの子たちにやりさえしなかったら、娘たちはきっとやって来ただろう。その接吻でわしの頬っぺたを舐めただろう! わしだって立派な屋敷に住み、美しい部屋を擁し、従僕をかかえ、火などに不自由はせんじゃったろう。そして娘たちも涙にくれて、その亭主や子供たちと一緒に、はべってくれたことだろう。わしにはそれが一切できたのじゃったが、今となっては何一つ持っておらん。金というものはなんでも与えてくれるんじゃ。娘たちでもじゃ。おお、わしの金、それは今どこに? のこしてやる財宝《おたから》があったら、あの子たちもさだめしわしを介抱し、看病するじゃろうに。あの子たちの声も聞き、顔も見られただろうに。
ああ、あんたはわしの愛《いと》し子、わしのたった一人の子供じゃ、ラスティニャックさん、わしはむしろ棄てられて一文なしのほうがいいわさ。不仕合せな人間が愛されてる場合は、愛されていることだけは、すくなくも確信が持てますものなあ。いや、やはり金がほしい。そうすればあの子たちに会えるもの。本当にわからんものだ! あの子たちは二人とも巌《いわお》のような心を持っておったのじゃ。わしがあまりにもあの子たちに愛情を抱いておったので、わしへのあの子たちの愛をはぐくむまでにいたらなかったのじゃろう。父親はいつも必ず金持でなくてはならん。じゃじゃ馬と同じく子供たちの手綱を、しっかととっておかにゃならんのだ。それなのにこのわしときたら、あの子たちの前にひざまずいておったのだ。親不孝どもめ! ここ十年間のわしに対するあのけしからん仕打ちにふさわしい最後の花を、娘たちは飾ったわけじゃ。結婚の初めごろはわしに対して、どんなに細かい心遣いを示してくれたか、それをあんたがご存じだったらなあ!(おお! こりゃなんという痛みようだ!)なにしろわしは八十万フラン近くをめいめいに分けてやったもので、あの子らも、また亭主たちにしてもわしに対して突慳貪《つっけんどん》はできんかった。『お父様どうぞこちらへ。父上どうぞあちらへ』っていって迎えてくれたものじゃ。わしの箸《はし》茶碗も、ちゃんと娘たちの家に備えつけられてあった。婿たちとも晩餐を共にしておったが、下へもおかぬもてなしようじゃったよ。わしもまだそこばくかの金を握っておるように見えたのじゃな。なぜかっていうと、懐《ふところ》ぐあいをいっさいしゃべっておらなかったからさ。娘たちに八十万フランも与えるような男は、ちやほやするに足りるってわけだったのじゃな。わしは細かな心づくしを受けたが、それもみんなわしの金のためじゃ。
上流社会なんていったって決して綺麗なもんじゃない。わしはこの目でちゃんと見ましたぜ! 馬車で劇場には連れて行ってくれた。夜会では自分でいたいだけいることができた。あの子たちもわしの娘と自称し、わしを父親として人前でも認めておった。だがわしはその頃まだまだぼんやりではなかった。どうして何一つ見逃しなんかするもんですか。なにもかもが急所を打ち、わしの心を刺しつらぬきましたのじゃ。みんなうわべだけの親切ってことが、わしにはちゃんとわかったんですものなあ。だがこうしたみせかけはつける薬なしで、どうにも手の下しようがありませんや。わしは娘たちのところへ行っても、下の食堂ほどにも気が楽じゃありませんでしたよ。何を言っていいか、てんで口不調法なもんでな。社交界の連中のだれかが、婿たちの耳許できくんですよ、『あの方はどなたです? ――金持の義父ですよ、唸るほど持っています。――ほう、そうですか!』そしてお金に対して払うべき尊敬をもって、わしを眺めておりましたじゃ。だがときにはあの子たちに、いくらか気まずい思いをさせたにしろ、そうした過失なんか優に償ってあまりあるはずですわい。それに過失もない完全な人間だなんて、どこにいったいいるでしょう?(わしの頭はがんがん痛む!)わしは今死の苦しみにもまさる苦しみをしておる。
ウージェーヌさん、それにしたって娘に恥を掻かせるようなばかげたことを言ったというので、アナスタジーから初めてキラッと睨まれたときのわしの悩みにくらべれば、てんで物の数にもなりませんや。あの子の眼差しで全身の血管という血管を、抉《えぐ》られたような思いじゃったもの。わしはなにもかも知りたい、学びたいとつくづく思いましたよ。だがわしのはっきりと知り得たことは、この世でわしがよけい者だということじゃった。翌日、気を慰めるためデルフィーヌのところへわしは行きました。ところがそこでもまた|へま《ヽヽ》をやらかして、あの子をすっかりおこらせてしまったんですよ。わしは気狂いのようになりましたわい。一週間ばかりどうしたらよいのか、もうわけもわからなくなって過ごしてしまったんですよ。わしは娘たちに叱られるのがこわくて、会いに行く勇気も出ませんでした。そんなことから、とうとう娘たちの屋敷から、締め出しを喰ってしまったんです。
おお、神様! わしが忍んで来た悲惨も苦悩も、あなた様はよくご存じのはずでしょう。わしが老いぼれて見る影もなくなり、髪も白く気息|奄々《えんえん》となったこの永の年月の間、匕首《あいくち》で突き刺されたその回数までも、数えていらっしゃるのでしょう。なぜにわしをきょうこんなにまでお苦しめになるんです。娘たちを愛しすぎた罪は、十分にあがなったじゃありませんか。あの子たちはわしの愛情に仇をなし、拷問人のように、鉄鉗《やっとこ》で挾んでさいなんだではございませんか。ところが父親っていうものは、じつに愚かなもんですなあ! かわいくてたまらずに、またぞろ娘のところに足が向いてしまいましたわい。ちょうど賭博好きが賭場を見限れないのと同じこった。娘たちはわしにとって悪い道楽であり、色女であり、つまりはすべてなんでしたわい! 娘二人ともなにやかやほしがっておりました。衣裳や装身具のたぐいをな。小間使がわしにそれを言うもので、わしは優しく迎えてもらいたいばかりに、せっせと貢ぎましたぜ。だがそれと同時にあの子たちは社交界にまじわっての身の処し方を、わしに講釈しましたよ。けれどあすの成果を待ってはくれませんでした。あの子たちはわしのことを恥じ出したんです。子供たちに立派な教育をつけてやったこれがむくいですよ。わしもこの年になって、まさかに学校へお行儀を習いに行くわけにもまいりませんや。(ひどく苦しい、神様! お医者さん! お医者さん! 頭を切り開いてでももらったら、いくらか苦しみもしずまるのだろうが)
娘たち、アナスタジー、デルフィーヌ。わしは一目会いたい。巡警をやって、力づくででも連れて来てくだされ! お裁きはわしの味方じゃ。人情からいっても、民法からいっても、すべてがわしのほうについていてくれるんじゃ。わしは抗議を申し立てる! 父親が足もとに踏みにじられるようになったら、その一国は滅亡するじゃろう。それはわかりきった話じゃないか。社会も世間も父性の上に基礎をおいてるんだ。子供が父親を愛さないのなら、何もかもが崩壊してしまおう。おお、あの子たちの姿を見、声を聞きたい。あの子たちがわしに何を言おうと、ただその声を聞けさえしたら、わしの苦痛も和ぐのじゃが、とりわけデルフィーヌのときたらなあ。だがあの子たちが来たら、いつものような冷淡な眼で、わしを見ないようにと、注意してやってくだされよ。ああ、わしの親切なお友達のウージェーヌさん、黄金のように輝く眼眸《ひとみ》が、にわかに灰色の鉛に変ってしまうのを見るのは、どんな気持のものかご存じありますまい。娘たちの目がわしの上に輝かなくなって以来、わしはここでの永遠の冬に鎖《とざ》されておりましたよ。嘗《な》めるものといったら悲しみしかなく、しかもその悲しみをわしは嘗めつくしましたじゃ。わしははずかしめられ、侮られるためにのみ、生きておりましたよ。わしは娘かわいさのあまり、あらゆる侮辱をじっと忍んで来ましたわい。その償いとして娘たちはわしに、お恥ずかしいくらいちょっぴりな喜びを、高く売りつけてくれましたのじゃ。父親が娘を見るために、隠れて待っているなんて! わしはあの子たちに、命を授けてやったのに、きょう、そのわしに、一時間も割いてくれようとはせんのか! 渇き、餓え、胸は焼きつきそうじゃというに、あの子たちはわしの断末魔の苦しみを、慰めに来ようともしないのか。そうじゃ、わしは死ぬんじゃ、自分でもわかっておる。あの子たちは、父親の屍を踏んづけて歩くのが、どんなことかも知らないというのかしら! 天にはちゃんと神様がござっしゃる。親たちが止め立てしようと、神様は我々父親のために、仕返しをなされるのじゃ。いや、あの子たちは来るとも! さあ、おいで、かわいい娘たち、来てわしに接吻しておくれ、最後の接吻を。お前のお父さんの臨終の聖餐《ヴィアティック》がわりになるんだから。お父さんはお前たちのために神様に頼んでやろう、お前たちが孝行娘だったといって、神様の前を弁護してやろう! 結局のところお前たちには罪はないんだもの。
ねえ、ウージェーヌさん、あの子たちには罪はありませんとも。そのことははっきりと、世間の誰にでも言ってくださいよ。親不孝なんてことで、肩身の狭い思いを娘にさしちゃかわいそうだ。みんなわしの過ちから出たことなんだもの。わしを踏みつけにするような習慣を、娘につけさせてしまったからなんだもの。そうされるのがわしは好きだったのじゃ、このわしは。だから誰にも関係のないこと、人間の裁きにも神の裁きにも、かかわりのないことなんですぞ。もしも神様がわしに対する仕打ちのゆえをもって、あの子たちを罰せられるとしたら、それは不公正というもんですぞ。わしは自分の身の振り方を知らなかったのじゃ。自分の権利をわれから放棄するという愚を演じたのじゃ。娘たちに対して、わしは自分で自分を堕落させてしもうたのじゃ! どうにも仕方のないことさ! どんな美しい性質の人でも、どんな立派な魂の持主でも、こういった親馬鹿の堕落乱脈には陥ってしまうものじゃけに。わしはあさましい人間じゃい。当然の報いを受けたにすぎんわ。娘たちの放埒も、このわし一人が原因なのだ。わしが甘やかしすぎたのがいかんのじゃい。あの子たちは昔ボンボンをほしがったように、今では快楽をほしがっておるんじゃ。娘たちの気儘をわしはずっとかなえさせて来たからなんじゃ。十五のときにもう娘らは、馬車を持ってましたからなあ! わしは何一つさからえなかったのじゃ。わし一人に罪があるんさ。しかも子煩悩からの罪なんじゃ。あの子たちの声は、わしの心を気持よう開いてくれるんじゃ。声が聞える。やって来るな。おお! そうとも、きっと来るじゃろう。親の死に目に会いに来ることは、法律も望んでおる。法はわしの味方じゃもの。それは馬車代一回分しか、かからんではないか。車賃ならこのわしが払おう。遺贈分としてわしに数百万の金があると、ひとつあの子たちに書き送ってくだされ! 嘘じゃありませんぞ。わしはオデッサにイタリアうどんを作りに行くんじゃ。商法には明るいこのわしじゃ。わしの計算だと、数百万は儲かりまっさ。誰もこいつに気づいちゃおらんからな。それに小麦やメリケン粉と違って、あれなら輸送の途中でいたむ心配もありゃせん。そうそう、それから澱粉はと? こいつでも数百万儲かるぞ! 嘘をつくことにはなりゃせんから、数百万と言ってやってくださいよ。欲にひかれてあの子らが来るにしても、わしはよろこんで欺されて、会ってやりますわい。わしは娘たちがほしい! わしがこしらえたものだから、このわしのもんなのだ!」
そう言って寝床の上へ起きなおり、ウージェーヌに面した老人の白髪頭を振り乱した恐ろしいその剣幕といったら、威嚇や脅迫のあらわし得るかぎりのすべてをもって、学生の肝を冷やしたのであった。
「さあ、ゴリオのお爺さん、また横におなりなさいよ。二人に僕が手紙を書きますから。ビアンションが戻って来次第、僕が出かけて行きますよ。もしも二人が来ないようだったら」
「二人が来ないようだったら」と老人は啜り泣きながら繰り返した。「そうだったらわしは生きてはおらん。憤怒に、憤怒の発作に駆られて、死ぬだろうて! わしは激怒のあまり発狂しそうだわい! 今という今、わしは全生涯が見透せた。わしは瞞されておったのじゃ! あの子たちはわしを愛してはおらん。一遍だって愛したことなんかないんだ! それははっきりしているわい。今までに来ないんだから、これからだって来るものか。来るのが遅れれば遅れるほど、わしを見舞って喜ばせようという気が、薄らぐのじゃ。あの子らの根性はよくわかっておる。わしの悲しみも苦しみも望みも、あの子たちは一度だって察してくれたことがなかったのじゃ。だからわしの死ぬのだって察しられんのだろう。かわいがってやるわしの深い心のうちも、すこしだって知ってはおらなかったのじゃ。そうだ、わしにはよくわかる。娘たちに対してわしは、心底をあけっぱなしにする習慣があったもんで、わしのしたすべてのことのありがたみが、さっぱりあの子らには通じなくなったのじゃ。わしの眼をくり抜かせてくれと、娘から頼まれれば、わしはよし来たと答えたことだろうからな。わしはとんでもない大馬鹿だった。父親というものはみんなこのわしのようじゃと、あの子たちは思い込んでおるのだろう。だが人はいつでも自分の値打を、はっきりと主張しておかなくちゃならん。わしへの親不孝の仕返しを、娘らの子供たちがしてくれることになるだろうて。だからここへ来るってことは、あの子らの|ため《ヽヽ》にもなることなんだ。あの子たちの臨終が業報の時とならぬよう、注意してやってくだされよ。このたった一つの咎めから、娘たちはあらゆる罪障を犯すことにもなるんじゃけに。さあ、行って来てください。あの子たちに伝えてくだされ、来なければ親殺しになるとな! なにもそんな罪過をつけ加えずとも、もうかなりの罪業を重ねておるではないか。わしが今叫ぶように、大声で叫んで来てくだされや。『おーい、ナジー、おーい、デルフィーヌ! お父さんのところへおいで。お前たちにあんなに優しかったお父さんが、今苦しんどるんだからのう!』って。……物音一つせん。誰一人も来ん。じゃ、わしは犬のように野垂れ死をすることになるんか? これがわしの報いなのか、このうっちゃらかしが。あの子らは恥知らずの極道者ぞろいじゃ。わしは憎んでやる。呪ってやるぞ。夜になったらわしは棺桶から起き上って、繰り返しあの子らを呪ってやるぞ。だって皆さん、いったいこのわしが間違っていましょうか? あの子らの仕打ちがまあ憎いじゃありませんか! ねえ、どうです? わしは何を喋っておったのかしらん? 君はデルフィーヌが来ておると言わなかったかな? 姉妹のなかでは、まだしもあれのほうがましじゃ……。君はわしの伜じゃ、ウージェーヌさん、君という人はね! あの子を愛してやってくださいよ。あの子のために父親がわりになってくださいよ。姉のほうはとても不仕合せなんだ。それにあの子たちの財産! ああ、神様! わしは息が絶えそうだ。あんまりこれじゃ苦しすぎるわい。わしの頭を切ってしまってくれ。ただ心臓だけは残しておいてくだされや」
「クリストフ、行ってビアンションを呼んできてくれ」とウージェーヌは叫んだ。老人の哀訴と叫喚が異常な性質を帯びて来たのにびっくりしたからである。「それから馬車を拾ってきてくれ。――ゴリオさん、僕が二人を迎えに行って、必ず連れてきてあげますよ」
「力づくでな、否応なしに連れてきてくださいよ! 近衛兵でも、戦列隊でも、なんにでも頼んでな! それこそなんにでも」と老人は理性に輝く最後の眼差しを、ウージェーヌに投げながら言った。「政府にでも、検事にでも話して、あの子らを引っ張って来させてください、わしのたってもの願いじゃけに!」
「でもさっきは娘さんたちを呪っておりましたね」
「誰がそんなことを言いました?」と呆れ顔で老人は答えた。「わしがあの子らをかわいがり、熱愛してることは、よくご存じのはずじゃありませんか。あの子たちの顔を見れば、わしは癒ってしまいますさ。……さあ、お隣さん、わしの愛し子のウージェーヌさん、行ってきてくだされ。あんたは親切なお方じゃ。何かお礼をしたいが、臨終の人間の祝福以外には、あんたに差し上げるものがない。ああ! デルフィーヌに会って、あんたへの恩返しを、わしに代ってすることだけでも、せめて遺言して行きたいものじゃが。ナジーは来られなくとも、デルフィーヌだけは連れて来てくださいよ。もし来たがらぬようだったら、もう愛してやらぬぞと言って脅しなさい。たいそうあんたを愛しとるから、きっとあの子も来ますよ。――何か飲み物をください、お腹んなかが燃えるようだ! 頭の上にもなにかのせてくださいな。それが娘たちの手じゃったら、わしも助かるのではないか、そんな気がしますよ。……神様! もしもわしが行っちまったら、誰があの子たちの財産を建て直してくれるんです? わしは娘たちのためにオデッサヘ行きたい。マカロニを作りにオデッサヘ」
「これをお呑みなさい」とウージェーヌは瀕死の病人を起き上らせ、左の手でその身体をかかえ、右手で煎薬をいっぱい入れた茶碗を持ち添えてやった。
「あんたはご両親を愛していらっしゃるお方に違いない。あんたはな!」とウージェーヌの手を、老人は気力のない手で握り締めながら言った。「わしがあれら、わしの娘たちに会わずに、死んで行くちゅうことがどんなかおわかりかな? 常に渇きを覚えながら、とうとう何も飲めなかった――それがわしのここ十年来の生活じゃった。……二人の婿がわしの娘たちを殺しおったからですわい。そうだ、あの子たちが結婚してのちは、わしにはもう娘もなくなったのじゃ。世の父親たちよ、結婚禁止についての法律を作るよう、議会に請願をすることじゃな。娘がかわいかったら嫁にやってはいかん。婿なんてものは娘のなにもかも台無しにし、すっかり汚してしまう大悪漢ぞろいじゃ。結婚なんか絶対反対! 娘を親の手から奪い、死に目にも会えなくさせるのが結婚というやつじゃないか。父親の死についても、法律を作らせるのじゃ。これじゃあんまり恐ろしいこったもん! 復讐だ! 娘たちの来るのをじゃましとるのは婿どもなんじゃい。やつらを殺せ! レストーをやっつけろ! アルザス者め、叩っ殺しちまえ。あいつら二人がこのわしの謀殺者じゃ! 死か然らずんば娘を返せだ! ああ、もうおしまいだ! わしは娘たちにも会えずに死んでゆくのじゃ! 娘たちよ! ナジー、フィフィーヌ、さあ、おいで、来ておくれ! お前たちのパパはあの世へ……」
「ゴリオさん、気をお鎮めになってくださいよ。いいですか、じっと寝てるのですよ。興奮したり、考え込んだりしないでね」
「あの子たちに会えん、わしの末期の苦悶はそれだけじゃ!」
「いま会えますよ」
「本当か!」と老人は狂激のていで叫んだ。「おお、娘たちに会えるって! あの子らの顔が見られる、声が聞ける。そんならわしは幸福に死ねるだろう。うん、そうだとも。わしは生きたいともべつに思わぬ。もうこれ以上は堪えられん。わしの苦悩はいや増すばかりじゃもの。ただあの子たちの顔を見て、服にさわる、おお、ほんの服のはしにだけでもよいのじゃ、なんて欲のない僅かなこっちゃないか。だがそれだけでもあの子らの何かを、わしは感ずることができるんじゃ。わしの指に娘の髪の毛をつかましてくだされ……毛を……」
棍棒の一撃でもくらったように、枕の上に頭をがっくりと彼は落した。両手を夜具の上でわななかせていた。あたかも娘たちの髪の毛でもつかもうとするかのように。
「わしはあの子らを祝福してやるんじゃ」と彼はやっとの思いで呟いた。「神様の恵沢《おめぐみ》をな」にわかに彼はへたへたとなった。ちょうどそのとき、ビアンションが入って来た。
「クリストフに会ったよ、辻馬車をいま君に呼んで来るって」そう言ってから病人を眺め、むりに瞼を開けさせた。熱のないどんよりした眼を、二人の学生はそこに見た。――「これっきりで回復はせんな。どうもそうらしい」とビアンションは言って、脈をとって調べ、老人の心臓の上に手をあててみた。
「内臓機関のほうは相変らずしっかりしている。それだけにかえって不幸だね。こんな立場なら、いっそ早く死んだほうがいいのに!」
「まったくそのとおりだ」とラスティニャックも賛成した。
「どうしたんだ、君は、死人のように真蒼だぜ」
「僕はいま老人の叫喚や泣きごとを聞かされたところなんだ。神様は上天にまします! おお、確かに神様はいらっしゃるのに違いない。そしてよりよい世界を、我々のためにお作りになっているのだ。そうでなかったとしたら、我々の世界だなんて、まったく無意味なもんじゃないか。老人の身の上がこんなに悲劇的でなかったら、僕は涙に暮れることもできるんだが、これじゃ涙なんか出ず、胸や腹をひどく締めつけられる思いばかりだ」
「ねえ、いろんなものがこれからは必要となるんだが、さて金策のほうはどうするね?」
ラスティニャックは時計を取り出した。
「さあ、いそいでこれを入質してくれたまえ。僕のほうは一刻も猶予できんから、途中で寄り道するわけにもいかんのだ。クリストフを待ってるんだが、一文なしなのさ。帰ってきたら御者に、支払わんけりゃならんからね」
ラスティニャックは階段を駈け下り、デュ・エルデル通りのレストー夫人の屋敷へ出掛けた。その途中でも彼の想像力は、いま目撃して来たあの恐ろしい光景にうたれて、憤怒に燃え立っていた。控えの間にはいってレストー夫人に会見を申し込むと、どなた様にも面会はお断りでと答えられた。
「だって僕は危篤になっているお父上のところから、いっさんに駈けつけて来たんだぜ」彼は従僕に言った。
「しかし、旦那様からきつく申し渡されておりますので」
「じゃ旦那がご在宅なら、舅《しゅうと》さんがご危篤のことを伝えて、ぜひともお話ししたい火急の用があると言ってくれたまえ」
ウージェーヌは長いこと待たされた。(ちょうど今ごろ、老人は息を引き取ったかもしれない)と彼は思った。
従僕に導かれて最初のサロンに入ると、レストー氏は火の気もない暖炉の前に突っ立ったまま学生を迎えて、椅子をすすめようともしなかった。
「伯爵、あなたのお舅御が、薪を買う一文の金もなしに汚い陋屋で、今にも息を引き取ろうとしております。まさに死期も間近でして、それでお嬢さんに会いたがって……」
「私はゴリオ氏に対しては、ろくに愛情も寄せてはおらんのです。そのことはあなたもお気づきになられたことと思うが」とレストー伯爵は冷ややかに彼に答えた。「あの人の性格が私の家内にわざわいして、私の生活を不幸にと陥れたのです。私の心の安静をみだした敵だとさえ、あの人のことを思っています。だから彼が死のうと生きようと、私にはまったく無関係なことなんです。これがあの人に対する嘘偽りのない私の感情です。世間では私のことを非難するかもしれません。しかし私は世論を軽蔑します。世間のばか者や弥次馬どもが、私のことをどう考えるかにかかずらうのよりか、私にはいま果さねばならぬもっと重大なことがあるのです。レストー夫人はというと、ちょっといま手が放せないでおります。外出どころではありません。それに私も家内が目下家を離れるのに賛成しかねます。家内が私に対し、私の長男に対し、その義務を果たし次第、すぐに会いに行くだろうと、ゴリオ氏にはお伝えおきください。あれが父親を愛しているなら、ほんのまたたく間に手がすくはずなんですから……」
「伯爵、あなたはレストー夫人のご主人なのですから、そのあなたのなさりようを、とやかく批判する権利は、僕にはありません。ですが、あなたの誠実に信頼してもよろしいでしょうね? 一つお約束くださいませんか。ご尊父はもう一日とは持つまいこと、死に目に会いにまいられぬので、はやもう呪っておられたということ、それだけを奥さんにお伝えくださるという約束を……」
「ご自分でおっしゃってはいかがです」とレストー氏は答えた。ウージェーヌの語調に溢れた憤激の情に、驚かされたからだった。
ラスティニャックは伯爵に導かれて、いつも伯爵夫人のいたサロンに入って行った。夫人は涙に伏し沈み、死のうとしている女のように、安楽椅子のなかに身を埋めていた。それは彼にあわれを催させるようなさまであった。ラスティニャックを眺める前に、夫人が良人に向って投げたおずおずした眼差しは、精神的および肉体的の暴虐によって、夫人がその力も打ちのめされ、まったき虚脱に陥ってしまったことをあらわしていた。伯爵は頷いてみせた。口を利いてもよいという許しと、夫人はこれを解して気を振り起こした。
「すっかり伺っておりましたわ。あたしの今の立場を、父がもし知ってくれたら、きっとあたしを許してくれるだろうと、そう父におっしゃってください。こんな刑罰を受けようとは、夢にも思っておりませんでしたわ。あたしの力にもあまるんですけれど、あたし最後まで抵抗してみせますわ」と彼女は良人のほうに向って言った。「あたしは母親なのですもの。――たとえうわべはどう見えようと、あたしは父に対して、咎めをうけるような引け目は毫《ごう》もないのだと、そう父におっしゃってみてください」と夫人は学生に絶望の面持で叫んだ。
ウージェーヌは夫人が恐ろしい危機に陥っていることを察し、伯爵夫婦に一礼するや茫然としてそこを引き上げた。レストー氏の口調から、彼は自分の奔走が無益だったことが悟れたし、アナスタジーが自由を束縛されていることも推察された。彼はニュシンゲン夫人のところへ馳せつけてみたが、夫人は床に就いていた。
「お気の毒ね、あたし加減が悪いのよ」と彼に夫人は言った。「舞踏会の帰りに風邪を引いてね、肺炎になるといけないと思って、お医者さんを呼んであるの……」
「あなたが死にかかっているとしても」ウージェーヌはそれをさえぎって言った。「お父さんのそばに匐《は》ってでも行かなくてはなりません。あなたを呼んでるのですよ! あの人の叫びをちょっとでも聞いたら、病気なんぞ吹っ飛んでしまうでしょう」
「ウージェーヌ、父はきっとあなたのおっしゃるほどの重態ではないのでしょう。けれどもあなたの眼に、あたしがちょっとでも悪い女として映るのでは、とても心苦しいのですから、あなたのお好きのようにいたしますわ。この外出であたしの病気が重くなって命取りにでもなったら、父は悲しみ死にするに違いありません。父のあの気性ですもの、あたしよくわかりますわ。でもいいわ、医者が来次第、行くことにしますから。あら、なぜあなた時計を持っていらっしゃらないの?」と鎖が見えないので彼女はたずねた。ウージェーヌは赤くなった。「ウージェーヌ、ウージェーヌ、もしあなたがもう売ってしまったり、失くしてしまったりしたのだとすれば……まあ、ずいぶんひどい人」
学生はデルフィーヌの寝床の上に身をかがめて、その耳もとに囁いた。
「わけを知りたいとおっしゃるんですか? よろしい、申し上げましょう。あなたのお父さんは今夜にでも着なければならぬ経帷子《きょうかたびら》を買うお金さえもないんですよ。あなたからもらった時計は質に入っています。僕も無一文だったので」
デルフィーヌはいきなり寝床から跳び出すや、手文庫のところに走りよって、財布を取り出してラスティニャックに渡した。そして呼鈴を鳴らして叫んだ。「あたしも行くわ、行くわ、ウージェーヌ。着替えして来ますからね。行かなかったらあたし人でなしになりますもの! さあ、先にお出掛けになってちょうだい。あたしはあなたより先に着いてますからね。テレーズや」と彼女は小間使に叫んだ。「旦那様にすぐお話ししたいことがあるから、いらっしてくださいと伝えてちょうだい」
娘の一人が来ることを瀕死の病人に告げられる嬉しさに、ウージェーヌはほとんど喜色満面の態で、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りに着いた。御者にその場で支払おうと財布のなかを掻き探してみた。あの豪奢で高雅な若い夫人の財布に、なんと七十フランしか入っていなかった。階段の上のところまで来ると、ビアンションに支えられたゴリオ爺さんが、医師の立会の下に病院の外科医から、手当を受けているさまが目に入った。背中にお灸を据えられているところだった。医学上の最後の手段であるが、結局は徒労な手段というほかはない。
「熱いのが感じられますか?」と医師がたずねていた。
しかし学生の姿をちらっと見たゴリオ爺さんは、こう答えた。
「あの子らは来るんでしょう。ねえ?」
「ええ」とウージェーヌは答えた。「デルフィーヌさんがすぐあとから来ますよ」
「うまく行くかもしれませんよ」外科医は言った。「口を利いたもの」
「どうかしら。娘たちのことはさっきから言い通しなんだから。話に聞く串刺の刑に処せられた人間が、水に渇して叫ぶように、爺さん、娘たちのことばかり言ってるのじゃないか」とビアンションは言った。
「やめよう」と医師は外科医に言った。「施すすべなしだよ。病人はとうてい助からん」
悪臭を発する粗末なベッドの上に、ビアンションと外科医は、瀕死の病人を平らに寝かせつけた。
「それにしても下着や敷布ぐらいは替えてやったほうがいいな」と医師は言った。「なんの望みがないったって、人間性だけは尊重してやらねばいかん。ビアンション、また来るからね」と学生に言った。「もしまだ苦痛を訴えるようだったら、横隔膜の上にアヘンを塗ってやりたまえ」
外科医と医師は帰って行った。
「さあ、ウージェーヌ、ひとふんばりしようじゃないか」と二人きりになったとき、ビアンションはラスティニャックに言った。「きれいなシャツを着せて寝床を替えてやるんだ。シルヴィに敷布を持って手伝いに上ってくるように言ってくれよ」
ウージェーヌが降りて行くと、ヴォーケルお女将はシルヴィと一緒に、お膳を並べているところだった。ラスティニャックが話を切り出しかけると、お女将は学生のほうへ近づいて来て、損をしたくもなし、お客の機嫌も損じたくなしといった、猜疑心の強い女商人の持つあの酷薄なくせに甘ったるい口調で答えた。
「ウージェーヌさん。ゴリオ爺さんがもう一文なしのことは、あなただってあたしに劣らずご存じなんでしょう。眼を瞑《つむ》りかけている人間に、敷布を取り替えてやるなんて丸損じゃありませんか。おまけに屍をくるむのに、一枚は儀牲にしなければならないんですから、なおさらですわ。あなたにはもう百四十フランも前貸しになっていますよ。それに敷布代の四十フランや、その他のこまごましたもの、シルヴィが出したローソク代などを入れると、ぜんぶですくなくも二百フランにはなりますからね。あたしのような貧乏後家には、損してすむような端た金じゃありませんよ。ウージェーヌさん、公正な立場でお願いしますよ。それでなくったってここ五日ばかり、うちは貧乏神に舞い込まれて、ずいぶんと損しているんですからね。あなたのおっしゃった日に、爺さんが立ち退いてくれたのだったら、私は三十フラン出してもよかったのですよ。なにしろほかのお客さんたちに響きますからね。施療院に爺さんを運ばしちまおうと、危く思ったくらいですがね。つまるところあたしの立場にもなってくださいよ。何よりもまず下宿第一ですよ。あたしにはこれで生命なんですからね。このあたしにとっては」
ウージェーヌは急いでゴリオ爺さんのところへ上って行った。
「ビアンション、時計のお金は?」
「テーブルの上にある。三百六十何フランかしか残っておらんぜ。掛けで買っていたものの支払いを、ぜんぶすませたからね。質札は金の下に置いてあるよ」
「さあ、おかみ」ラスティニャックは階段をころげ落ちんばかりにして馳け降り、嫌悪の念で夫人に言った。「僕たちの勘定を頼む。ゴリオさんもそう長くはあんたのところに滞在はせんだろう、それに僕だっても……」
「ええ、かわいそうに爺さん、棺のなかに入って出て行くってわけね」二百フラン数えながらお女将は、なかば嬉しそうな、なかば悲しそうな面持でそう答えた。
「そんな話は止めてくれ」とラスティニャックは言った。
「シルヴィ、敷布をお出し。それから階上のかたたちにお手伝いをしておあげ」
「シルヴィのことはお忘れなくね」とヴォーケルお女将はウージェーヌの耳にささやいた。「もう二晩も徹夜してるんですからね」
ウージェーヌが背を向けるや否や、老婆は炊事婦のところに駈け寄って、「第七号の裏返し物の敷布をお出し。あれだって死人にはもったいないくらいだよ」とシルヴィに耳打ちした。
ウージェーヌは階段をすでに数段のぼってしまっていたので、お女将のこの言葉は耳に入らなかった。
「さあ、シャツを着替えさせてやろう」とビアンションは彼に言った。「病人をまっすぐに起こしてくれたまえ」
ウージェーヌは枕許のほうにまわって、瀕死人の身体を支え、ビアンションがそのシャツを脱がせた。すると老人は胸の上のなにかを握りでもするような手つきをしたかと思うと、いきなり哀れげな呂律《ろれつ》のまわらぬ叫び声をあげた。それは大きな苦痛をあらわすときの動物の叫喚さながらであった。
「おお、おお!」とビアンションが言った。「さっきお灸を据えるのではずした、髪の毛の鎖と形見入れのメダルを、欲しがっているんだろう。かわいそうに! 返してやらなくちゃ。暖炉の上にあるよ」
ウージェーヌは取りに立った。灰色のブロンド髪で編んだ髪鎖、きっとゴリオ夫人の髪の毛なのだろう。メダルの片側にはアナスタジー、他の側にはデルフィーヌの名が刻んであった。常に彼の心臓の上におかれていたこれらの品は、彼の心の像《すがた》といってよかろう。メダルのなかに入っていた巻毛は、非常に細やかだったから、娘たちがまだ幼女の頃に、切ったものに違いなかった。メダルが彼の胸に触れたとき、老人はハアーッと長い息を吐いた。それは見るのも恐ろしい満悦の情をあらわしていた。彼の感覚力の最後の反響の一つであった。我々の交感性《サンバシー》が出たり向けられたりする未知の中枢の奥に、彼の感覚力もそれをかぎりとして、引っ込んでしまったように見えた。ひきつった彼の顔にも、病的な喜悦の表情が浮かんだ。思考力《パンセ》が失われたあとでも、生き残っている感情の力の恐ろしいこの破片に、心打たれた二青年は瀕死の病人の上に、こもごも熱涙を落した。すると老人は鋭い喜びの叫びをあげた。
「ナジーか! フィフィーヌか!」と彼は叫んだ。
「まだ生きている」とビアンション。
「生きててなんになるんでしょう?」とシルヴィは言った。
「苦しむのに役立つさ」とラスティニャックは答えた。
ビアンションはラスティニャックに、自分の真似をするようにと合図してから、ひざまずいて病人の膝関節の下に両腕を差し入れ、ラスティニャックも寝床の反対側から、同じように爺さんの背の下に両手を入れた。シルヴィはそのそばに控えて、病人が持ち上げられたら、素早く敷布を引き抜き、持って来た新しいのに敷き替える用意をしていた。学生らの涙を娘たちのそれと、きっとゴリオは勘違いしたものであろう。最後の力をふりしぼって差しのばした彼の両手は、寝床の両側にいた学生たちの頭にふと触れたので、はげしく彼は二人の頭髪を引っつかんだ。そして『おお! |わしの天使たち《メ・ザンジュ》!』とつぶやくのが、かすかに聞えた。それはこの言葉とともに飛び去った魂から発せられた二言《ふたこと》、音勢《アクサン》のあるつぶやき声であった。
「かわいそうな爺さんだこと」とシルヴィは言った。嘘のなかでももっとも恐ろしい、もっとも無意識な嘘によって、最後に燃え立たせられた最後の感情が、まざまざとあらわれたその叫喚には、この炊事婦までもがほろりとしたのであった。
この父親の最後の吐息は、喜びの吐息だったに違いない。そしてこの吐息こそ彼の全生涯の表現であった。またもや彼は最後にも瞞着されたのである。ゴリオ爺さんはうやうやしくボロ寝台の上に寝かされた。この瞬間から彼の顔つきには、人間の喜怒哀楽をつかさどる脳の知覚を失った肉体のなかで、生と死の闘争が行われている傷々しい痕跡ばかりがのこっていた。死の破壊はもう時間の問題でしかなかった。
「数時間こんな状態を続け、人の気づかぬうちに息を引き取るのだろう。死にぎわのあの喘鳴《のどなり》さえも立てずにね。脳も完全に侵されてしまったらしいよ」
このとき、息を切らした若い女の足音が、階段のほうで聞えた。
「今ごろ来たって間に合うものか」とラスティニャックは言った。
それはデルフィーヌではなく、小間使のテレーズであった。
「ウージェーヌ様」と彼女は言った。「奥様がお父様のためにお頼みになったお金のことから、旦那様との間に大変な悶着が起こりまして、奥様は気絶、医者がまいってさっそくに刺絡《しらく》せねばならないという騒ぎになりました。奥様には『お父様が死にそう、パパに会いたい!』って叫ばれ、それを伺っておりますと、こっちの胸まで張り裂けそうでして……」
「もういい、テレーズ、あの人が来たところで、今となっては後の祭りだ。ゴリオさんにはもう意識はないのだから」
「お気の毒にね。そんなにお悪かったのでございますか!」とテレーズは言った。
「あたしにもう用はありませんね。お食事の支度がありますものでね。もう今四時半ですから」とシルヴィは言って出て行ったが、階段の上で危うくレストー夫人と衝突しかかった。
伯爵夫人の出現は深刻で、恐ろしい感じを与えた。たった一本のローソクでぼんやり照らされている臨終の寝床を見やり、生命の最後の顫えがなおもピクピクわなないている父親のマスクを認めて、彼女も涙にかきくれた。ビアンションは遠慮してその場をはずした。
「これ以上早く家を抜け出して来ることができなかったのです」と夫人はラスティニャックに弁解した。
学生はそれを肯定するようにうなずいてみせた。悲しみのいっぱいあふれた調子であった。レストー夫人は父親の手をとって接吻した。
「許してください、お父様! あたしが呼べばお墓からでも蘇ってくると、いつぞやおっしゃいましたわね。ではどうぞ一瞬なりとも生き返って、前非を悔いたあなたの娘に、祝福を与えてくださいまし。お聞きになれますか。恐ろしいことが起こったのです。将来この世であたしを祝福してくださるのは、たったお父様一人となったのです。みんながあたしを憎んでおります。愛してくださるのは、たった一人、お父様だけですわ。あたしの子供たちでさえ、このあたしを憎むことでしょう。あたしも一緒に連れて行ってください。あたしはお父様を愛し、たいせつにかしずきましょう。……あら、もう何も父には聞えないようだわ、あたし気が狂いそう……」
彼女はべったりひざまずいて、錯乱の表情で父の残骸に見入った。
「あたしの不幸もこれ以上なしというところまで行き着きましたわ」とウージェーヌを眺めながら彼女は続けた。「トライユさんは莫大な負債を残して、海外に行ってしまいましたの。あの人にすっかり瞞されていたことが、ようやくあたしにも解りましたわ。良人は決してあたしを赦してはくれますまいし、あたしの財産も、すっかり良人に握られてしまいましたのよ。あたしの幻もすべて消え失せましたわ。ああ! 誰のためにあたしは、自分が愛されている唯一の心を、(そう言って父親を指した)裏切ったのでしょう! あたしは父の恩を忘れ、父を追い出し、酷い仕打ちをかずかず父に加えました。なんというあたしは人非人でしょう!」
「お父様もそのことはご存じでしたよ」とラスティニャックは言った。
ちょうどそのとき、ゴリオ爺さんは両眼をまたたいた。しかしそれは痙撃の結果にすぎなかった。もしやの希望にひかれてした伯爵夫人の唐突な身振りには、瀕死人の眼を見るのにも劣らぬ凄愴なものがあった。
「あたしの言ったのが聞えたのかしら?」と伯爵夫人は叫んだ。「やっぱりそうじゃないのね」そうつぶやいて寝台の傍らに坐りこんでしまった。
レストー夫人は父親を看護したい希望を述べたので、ウージェーヌはちょっと腹ごしらえするため階下へ降りた。下宿人たちはもう集っていた。
「どうかね」と画家が彼に声をかけた。「階上《うえ》ではモル|トラマ《ヽヽヽ》(死人)が見られそうだっていうじゃないか」
「おい、シャルル」とウージェーヌは答えた。「冗談口というものは、もっと悼ましくない事柄に対して、叩くべきが至当だと思うがね」
「じゃここでもう笑ってもいけないというのかい?」と画家はやり返した。「ビアンションの話だと、老人はすでに知覚がないっていうから、そんなことは一切かまわんじゃないか?」
「つまりだね」と博物館吏員は言った。「爺さんは生きてたときと同じように、死ぬってわけだね」
「父が亡くなりましたわ!」という伯爵夫人の叫びがそのとき聞えた。
この恐ろしい悲鳴にシルヴィ、ラスティニャック、ビアンションらは階段を馳せ上った。レストー夫人は気絶していた。いそいで夫人を正気づかせて、待たしてあった馬車に抱え込み、テレーズに介抱を頼んで、ニュシンゲン夫人のところへ連れて行くようにと、ウージェーヌは言いつけた。
「なるほど、確かに息を引き取ってしまったよ」とビアンションは降りてきて言った。
「さあ、皆さん、テーブルにお着きになってくださいよ」とヴォーケル夫人は言った。「スープが冷えてしまうじゃありませんか」
二人の学生は並んで腰をおろした。
「さあ、これからどうすればいいのだい?」とウージェーヌはビアンションに訊ねた。
「眼もつぶらせてきたし、一応の措置はもう済ませておいたがね。あとは我々の届出によって、検屍医が死亡を確認したら、屍体を屍衣のなかに縫い込んで埋葬することだけさ。ほかにどうしようって言うんだい、君は?」
「爺さん、こんなふうにしてパンの匂いを嗅ぐってことも、もうなくなったわけだな」と老人のしかめ面を真似しながら下宿人の一人が言った。
「もうたくさんだ、諸君」と復習教師は言った。「ゴリオ爺さんの話なんか打ち切ろうぜ、これ以上食傷させられてはたまらん。もう一時間もごてごて盛られて、げっぷが出そうだぜ。パリというありがたい都の特権の一つはだね、誰の眼にもつくことなく、生まれ、生き、死んで行けるってことだぜ。そうした文明の恩沢に、我々もあずかることにしようじゃないか。毎日六十人からの死者があるんだぜ。パリのこの血祭りに、いちいち哀悼の涙を注いでいられるかね? ゴリオ爺さんがくたばったというのは、ご当人にすればかえって仕合せじゃないか! あの爺さんが好きで好きでたまらんというのなら、行って墓番でもするがいいさ。そして我々のこりの連中には、静かに飯を食わせてもらいたいね」
「ええ、ええ、そうですとも」とお女将も相槌を打った。「まったくあの人は死んだほうがよかったのですよ。かわいそうに一生涯、いやな目に逢い通しのようだったじゃありませんか」
ウージェーヌにとっては「父性」の象徴であったかの仁に対して、これが捧げられた唯一の追悼の辞であった。十五人の下宿人はいつものようにお喋りを始めた。ウージェーヌとビアンションが食事をすませたとき、フォークやスプーンの音、会話の笑い声、無頓着で大食いなこれらの連中のさまざまな顔の表情、みんなの無関心さ、そうしたすべてはぞっとするような嫌悪の念を、この若い二人の心に与えた。
二人は食堂を出て、死人の傍らで夜っぴてお通夜をし、お祈りをあげるお伽《とぎ》の司祭を一人頼みに行った。二人の自由になる僅かばかりの残った金のうちから、老人につくすべき最後のいろんなお役目を、勘定しいしい支払わなくてはならなかった。
夜の九時ごろ、はだかの部屋のなかで遺骸は折畳み式寝台にと移され、両側にローソクが一本ずつともされて、司祭は死者の傍らに腰をおろした。ラスティニャックは寝る前に、回向《えこう》料や葬式費について聖職者にあれこれとたずねてから、ニュシンゲン男爵とレストー伯爵に手紙を書き、埋葬の費用いっさいを賄うために、執事なり世話人なりをよこすようにと頼んだ。そしてクリストフをその使いに立ててから床へ就くなり、疲労のためぐっすり眠り込んでしまった。
翌朝、ビアンションとラスティニャックは、自分たちでやむなく死亡届を出しに行かねばならなかった。正午ごろになって検屍はすんだが、それから二時間たっても、二人の婿からは金子をとどけて来るでもなし、両家の名前で代理の人が来るでもなかった。ラスティニャックは早くも司祭の謝礼を払う必要に迫られていた。老人を屍衣《しい》にくるみ、縫い込むその費用として、シルヴィも十フランの金を要求していた。ウージェーヌとビアンションは金勘定してみた結果、もしも死者の親族がなんの面倒もみてくれないとなると、どうやら葬儀費用も十分に支払えないことがわかった。そこで医学生は自分の病院から、安い値段で施療患者用の棺桶を分けてもらい、人手を借りずに自分で遺骸を納棺することを引き受けた。
「きゃつらにいやがらせをしてやろうじゃないか」とビアンションはウージェーヌに言った。「ペール・ラシェーズ墓地に五年契約で墓地を買い入れ、教会と葬儀社には三等の葬式を頼むんだよ。もし婿どもや娘たちが、君の立替金を返済しないようだったら、『レストー伯爵夫人およびニュシンゲン男爵夫人の父にして、二人の学生の出費により埋葬せられたゴリオ氏、ここに永眠す』って、墓石にひとつ彫らそうじゃないか」
ウージェーヌはニュシンゲン夫妻やレストー夫妻の邸を訪れたが、いずれも無駄骨折りだったので、ついにビアンションの勧告に従ってやろうという気を起こした。彼は両家の門より先には入れなかったのである。両家とも門番は厳重な命令を受けていたようだった。
「旦那様も奥様も、いっさいどなたにもお会いにはなりません」と門番は言った。「お父様がお亡くなりになられましたので、お二方様とも世にも深い悲しみに沈んでおられます」
ウージェーヌはパリ社交界の経験をかなりと積んでいたので、面会を強要すべきではないという心得ぐらいはわきまえていた。デルフィーヌのそばまでも行けぬ自分を思うと、彼は異様に胸を締めつけられるような思いがした。
――「なにか装身具でもお売りなさい。そして父上の葬儀が外聞悪くなく執行されるように計らってください」
そう彼は門番のところで書いて、手紙を封ずるや、テレーズを通じて、男爵夫人に渡すようにと門番に頼んだ。しかし門番はニュシンゲンに渡したので、男爵はこれを火中に投じてしまった。
いっさいの準備をすませてウージェーヌは、三時ごろ下宿屋に戻ったが、人通りのない通りのその中型の門のところに、黒布でお体裁におおっただけの棺桶が、二脚の椅子の上におかれて出されてあるのを見て、落涙を禁じえなかった。聖水がいっぱい入っている銀メッキの銅皿のなかには、まだ誰も柩に注ぐために手にふれてもおらぬ俗悪な灌水器が、おかれっぱなしになっていた。
門には黒幕さえも張ってなかった。それは飾りも会葬者も知己も身寄りもない貧民の葬式だった。病院に詰めていなければならなかったビアンションは、ラスティニャックに置き手紙して、教会と交渉してきた転末を報じていた。それによるとミサは法外もない値段なので、あまり金のかからぬ晩祷のお勤めで甘んじなければならなかったこと、葬儀社のほうへはクリストフをやって、話をつけさせたことがしるされてあった。
ウージェーヌはビアンションの走り書きを読み終ったとき、娘たちの髪の毛を入れたあの金の輪型の形見入れのメダルが、ヴォーケル夫人の手のなかにあるのを見た。
「どうしてそれを取っちまったのです?」と彼はお女将に言った。
「へえ、これも一緒に埋めなくちゃならないの? だって金でできてるんですよ」とシルヴィは答えた。
「もちろんですとも!」ウージェーヌは憤然として言った。「二人娘の身代りになるたった一つの品物ぐらい、せめて一緒に持たせてやらなくってどうするんです」
霊柩車が来たので、ウージェーヌは棺桶をふたたび邸内に運び入れ、釘付けにしてあった蓋をあけ、老人の胸の上にうやうやしく例のメダルを載せてやった。老人が断末魔の叫びのなかで言ったように、それはデルフィーヌもアナスタジーも、まだ『理屈をこねなかった』若い純な清い時代に溯ったところの記念品《イマージュ》であった。
ラスティニャックとクリストフだけが、二人の葬儀社の男と一緒に、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りからほど遠からぬ教会、サン・テチエンヌ・デュ・モンに、老人を運んで行く馬車のあとにと付添った。教会について、遺骸は低い陰気な小さな礼拝堂に安置された。学生は礼拝堂のまわりをまわってゴリオ爺さんの娘たちやあるいは婿たちの姿をあちこち探してみたが無駄だった。
彼とクリストフの二人きりであった。クリストフはときどきお祝儀をたんまり稼がしてくれた老人に対して、最後のお義理を果たすのが当然と考えてやって来たのであった。二人の司祭や聖歌隊の少年や寺男を待つ間、ラスティニャックはクリストフの手を強く握った。彼は一語も発することができなかった。
「まったくですよ、ウージェーヌさん」とクリストフは言った。「ともかくも律儀でまっとうな人でしたね。大声一つ立てるでもなく、誰に意地悪をするでもなく、人に仇をするってことの全然できないお人でしたからねえ」
二人の司祭と聖歌隊少年と寺男とがやって来た。無料で祈祷をしてやるほど、宗門は裕福なご時世でもなかったが、七十フランのお値段だけのお勤めはいっさいやってくれた。聖職者たちは聖詩のリベラやデ・プロフォンディスを詠《うた》った。儀式は二十分ほどで終った。墓地行きの馬車は一台しかなく、司祭一人と聖歌隊の少年だけを乗せることになっていたのだが、ウージェーヌとクリストフも、それに便乗させてもらうことにした。
「お見送りの人もございませんな。では遅れぬように早くまいることができますでしょう。もう五時半ですからなあ」と司祭は言った。
けれど柩を霊柩車のなかに運び入れたちょうどそのとき、レストー伯爵家とニュシンゲン男爵家の紋章をつけた二台の馬車が空っぽのままで現われて、ペール・ラシェーズまで葬列に従って行った。午後六時、ゴリオ爺さんの遺骸は、穴のなかに降ろされた。そのまわりに立っていた両家の傭人たちも、学生が金を出して爺さんのために頼んだ短いお祈りがすむや否や、司祭と一緒にさっそく姿を消してしまった。二人の穴掘り人夫は棺をおおうため、いくらかの土をシャベルでかけるや、身を起こしてなかの一人がラスティニャックに酒手を要求した。ウージェーヌはポケットを探してみたが、一文もなかったので、クリストフに一フラン借りねばならなかった。このこと自体はほんの些細なことにすぎなかったが、ラスティニャックのうちに、恐ろしい悲哀を決定づけてしまった。
陽は落ちた。湿っぽい黄昏《たそがれ》が彼の神経を苛立たせた。彼は墓穴を眺めて、そこに青春の最後の涙を埋めたのであった。それは清純な心の清い感動からほとばしった涙であった。地面に落ちるや、天までもはね上るかと思われるそれは涙の一つであった。彼は両腕を組んでじっと雲に見入った。ウージェーヌのこのさまを見たクリストフは、そのまま帰って行ってしまった。
一人残されたラスティニャックは、墓地のほうへ数歩あゆんで、セーヌ河の両岸に沿ってくねくねと、打ち伏しているパリを、ようやく灯火が輝きそめたパリを、俯瞰《ふかん》した。彼の眼はヴァンドーム広場の勝利柱と廃兵院の円屋根との間に、ほとんどむさぼるように吸いつけられて行った。そこにこそ彼が入り込みたいと望んでいたあの美しい社交界が、息づいているのだった。唸りをたてているこの蜜蜂の巣に向って、彼が投げた眼差しは、前もってそこからもう蜜を吸い上げているかのようであった。やがて、彼は次なる雄々しい言葉を吐いた。
「さあ、これからはパリと俺の一騎打ちだぞ」
そして社会に発した挑戦の第一歩として、ラスティニャックはニュシンゲン夫人の邸に、晩餐をとりに出掛けて行った。
一八三四年九月
サッシェにて
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解説
近代生活の栄光と悲惨
バルザックは、その作品を『人間喜劇』という総題のもとにまとめましたが、これは、登場人物の総数およそ二千人を数え、全九十一篇からなる膨大な作品群です。バルザックは、こういう作品群を完成することによって、十九世紀社会を全体として再現し、時代の総合的壁画たらしめようとしたのです。「ナポレオンが剣によってなし得なかったことを、わたしはペンで実現するのだ」と、バルザックは、書斎に飾ったナポレオン像の下に記していたそうですが、彼の野心はじつに壮大でしたし、その人生は、数々の夢と幻影に満たされていました。
ひと言で言えば、バルザックの生涯とは、倦むことなく幻影を追い求め、夢を実現するために惜しみなく生命を燃焼しつくした人の人生だったと言えるのではないでしょうか。バルザックは、一七九九年に生まれ、一八五〇年に世を去っています。
大雑把に言ってこの時代は、フランス市民社会の成立期です。フランス革命によって崩壊した旧い秩序にかわって、まったく新しい社会が生まれた時代です。産業の発達は、富にたいする激しい欲望を生み、身分的な秩序が崩れたかわりに、社会は競争原理によって支配されるようになりました。人口は増大し、同時に農村人口の都市への流入が見られます。精神的にも、教会の権威が低下して、現世的で個人主義的な思想が一般化しました。要するに近代化と呼ばれる現象こそ、バルザックの時代の特質であり、またその小説の背景にあったものです。そして『人間喜劇』の作者は、このようにして生まれた近代社会の最初の描き手となり、近代生活の栄光と悲惨をあますところなく描いたのです。
いうまでもなく、近代社会の成立にあたって、その主要な担い手となったのは市民、すなわちブルジョアです。バルザックは、その作品において、新興市民階級の人々を描き、彼らの欲望やエネルギーを表現しましたが、バルザック自身も、当時の典型的な市民階級に生まれ、育ちました。
幼少時代
バルザックの父親は、貧しい農民の出でありながら、フランス革命の混乱を利用してたくみに立身をとげた人物で、バルザックの出生当時は、陸軍の糧秣《りょうまつ》部長でした。彼はいうなれば、『人間喜劇』に登場するさまざまの野心家たちの原型なのです。他方、母親は、パリの古い商家の出身です。後年のバルザックは、その書簡などで、母親の不人情な性格について、最大限の非難の言葉を述べ、自伝的要素の強い『谷間の百合』においては、主人公のフェリックスに託しつつ、母性愛にめぐまれない不幸な少年時代を語っています。バルザックの母親がとくに冷酷な女性であったという証拠はありませんし、バルザックあての母親の書簡を読みますと、公正を欠いたのはむしろ息子のほうであるという印象を受けるのですが、しかもなおかつ、バルザックの少年時代が、われわれにはよく知られていないなんらかの事情によって、母親愛にめぐまれぬ不幸なものであったことは事実でしょう。
さて、バルザックは、生まれ故郷のトゥール市で幼少時代を送ったのち、一八〇七年から一八一三年にかけて、ヴァンドーム学院という、オラトリオ修道会の経営する学校に寄宿生として学びました。学院時代のバルザックは、あらゆる種類の書物を耽読し、学友や教師からは理解されず、その生活は、孤独と憂鬱のうちに終始したようです。
一八一六年以降、バルザックはパリ大学法学部に籍をおき、かたわら法律事務所で見習い書記として働くことになります。当時の中産階級にとって、子弟に法律を学ばせ、公証人、ないしは代訴人としての経歴を踏ませるのはごく普通のことで、これが職業上のもっとも安定した道と考えられていたのです。
一八一九年になりますと、バルザックは両親の期待に反して、文学志望を表明いたします。そして結局、父親は、条件つきで息子の希望を認めることになりますが、その条件とは、年額千五百フランの生活費を二年間支給するから、その間に自己の文学的才能を証明せよ、というものでした。こうしてバルザックは、パリの屋根裏部屋にたてこもり、文学修業にはげむことになります。執筆と読書に日夜を過ごし、仕事に疲れると下宿に近いぺール・ラシェーズの丘にのぼるのがつねでした。彼はきっと、『ゴリオ爺さん』のラスティニャックのように、パリを見おろしつつ、いつの日かこの都を征服して栄光をおのれのものにしようと夢見ていたにちがいありません。
小説家を志して
父親から与えられた二年の猶予期間に、バルザックが書いたのが五幕韻文悲劇『クロムウェル』です。バルザック家に依頼され、作者の才能を判定するために、この戯曲を一読したアンドリューという文学者は、「『クロムウェル』を書いた男は、なにをやってもいいが、文学だけはよしたほうがよかろう」という読後感を残しました。『人間喜劇』の作者の才能が驚くべきものであることはもちろんですが、しかしこの才能は努力によって獲得されたものでもあります。処女作『クロムウェル』をはじめとして、青年時代の習作はいずれも今日読むに耐えません。驚くべきことは、このように駄作しか書けなかった男が、努力と忍耐によって、『人間喜劇』という絢爛たる大作を完成するにいたったということです。
文学的才能を証明するのに失敗したバルザックは、当時バルザック家が居を定めていたパリ近郊のヴィルパリジスに帰りましたが、しかし彼は文学志望をあきらめたわけではありません。一八二一年から一八二四年にかけて、バルザックは多数の通俗小説を書きました。これらは主として経済的な理由から書かれたもので、文学的価値に乏しいことは認めざるを得ません。しかし、バルザックが偽名で刊行したこれらの作品には、ユーモア小説、暗黒小説、感傷小説など、当時流行した大衆小説の技法がふんだんにとり入れられており、バルザックは、これらの習作を書くことによって小説作法を学んだのでした。
初恋の人、ベルニー夫人
バルザックとベルニー夫人との、長年にわたる恋愛がはじまったのもこのころのこと、正確に言えば一八二二年です。ベルニー夫人は、ヴィルパリジスにおけるバルザック家の隣人でしたが、すでに四十代の半ばで、数多い子供たちの母でした。幼時を宮廷で過ごし、ルイ十四世を名づけ親とする彼女は、過ぎ去った時代の貴族的な雰囲気を身につけていました。そして野心と才能にあふれてはいても、粗野で世なれぬ年下の青年バルザックに、趣味と世間知とを教えたのでした。以後、夫人は、一八三六年に世を去るまで、物心両面においてバルザックに援助を惜しまず、彼もまた夫人の思い出を終生軽んずることがありませんでした。ベルニー夫人との恋愛によってバルザックが体験したものは一種の感情教育でありますが、母親の愛情にめぐまれなかった彼にとって、それはある意味で母性体験でもありました。
さきほど述べたように、二十代前半のバルザックは、多数の通俗小説を書き、それによって一応の経済的独立を得ることができました。けれども、それが彼の夢見た富と栄光にはなはだ遠いものであったことはいうまでもありません。一八二五年、社会的成功をいっきょに得ようとしたバルザックは、まず出版業、ついで印刷業にのり出します。こうしてバルザックが実業にたずさわった期間、すなわち一八二五年から二八年にかけて、彼はほとんど作品を執筆しておらず、残された書簡もまれです。それゆえ、この期間の彼の生活には不明な点が多いのですが、しかし確実に言えることは、この期間が終わるとき、バルザックはそれまでの彼とはまったく異なる相貌を――すなわち『人間喜劇』の作者としての相貌をあらわしたということです。実業に関するバルザックの企てはすべて惨憺たる結果に終わり、一八二八年五月、業務を停止して清算が行なわれたとき、バルザックには六万フランという膨大な借金が残りました。そしてバルザックはふたたび文学に戻り、そのときに書いたのが、すなわち『人間喜劇』の第一作『ふくろう党』です。
『人間喜劇』の出発
バルザックは『ふくろう党』を一八二九年に刊行し、このときはじめて自分の本名を作品に冠しました。この小説の世評は、あまり芳しいものではありませんでしたが、つづいて発表された『結婚の生理学』が、その大胆な内容によって評判となり、これがバルザックの出世作となりました。このころからバルザックは、さまざまの雑誌や新聞に寄稿し、サロンにも出入りするようになります。要するに文壇に一応の地歩をきずいたことになります。
文壇登場当時から一八三三年ころまでのバルザックは、『ことづて』『グランド・ブルテーシュ綺譚」のような家庭小説で、のちに『人間喜劇』中の『私生活情景』に収められる作品を発表するかたわら、他方では、『あら皮』のような、のちに『哲学研究』中に一括される幻想小説も書いています。つづいて、一八三三年には『ウジェニー・グランデ』、三五年には『ゴリオ爺さん』を刊行します。
とくに、『ゴリオ爺さん』は、バルザックの小説技法の重要な柱である、「人物再登場」の手法がはじめて広汎に用いられたという意味で、記念すべき作品です。「人物再登場」とは、要するに同一人物が、くり返し異なった作品に登場するということです。
以後のバルザックは、おびただしい数の作品を完成するため、超人的な努力を続けます。出版業および印刷業の失敗によって莫大な借金をしょいこみ、しかも浪費癖があったため、借金は増えるばかりでした。債鬼に追われながらも、バルザックは、あたかも創造の魔にとりつかれたかのごとく、一日十数時間も執筆し、ときにはいく日間ものあいだ一睡もせずに書き続けました。しかも、彼は、作品を筆のおもむくままに書きなぐったのではなく、しばしば十校をこす校正の過程で、満足のゆくまで作品に手を入れたのです。こうして、『谷間の百合』『幻滅』『セザール・ビロトー』『村の司祭』『従妹ベット』などをはじめとする多数の傑作が、わずか十数年の期間に書きあげられました。
ハンスカ夫人
一八三〇年代のバルザックは、『ランジェ公爵夫人』のモデルとなったカストリ侯爵夫人、おそらくバルザックの一子をもうけたと想定されるマリヤ・デュ・フレネー、『谷間の百合』のダッドレー夫人のモデルといわれるギドボニ・ヴィスコンチ夫人など、多数の女性と恋愛しています。しかし、バルザックの後半生に最大の影響をおよぼしたのは、なんといってもハンスヵ夫人でしょう。バルザックがはじめてハンスカ夫人に会ったのは一八三三年秋のことで、当時彼女は三十三歳、ウクライナに広大な領地と、三千人あまりの農奴を有する名門、ハンスキ家の夫人でした。以来、バルザックは彼女との文通を続け、また一八三五年には、ウィーンで再会もしておりますが、一八四一年に、ハンスカ夫人の夫が世を去るにおよんで、彼女との結婚が、にわかにバルザックの関心事となってまいります。
結婚を熱烈に望んだのはバルザックであり、それをためらったのは夫人のほうでした。おそらくバルザックは、富裕なハンスカ夫人と結婚することによって、累積した借金を返済し、過労と浪費と借金という悪循環を断ち切って、安定した家庭生活をもちたいと願ったのでしょう。夫人との結婚は、バルザックにとって一種の固定観念となり、同時に彼の健康はしだいに衰えをみせてまいります。ハンスカ夫人あてのバルザックの書簡は、全部で四百数十通、刊本にして二千五百ぺージの膨大なものですが、今日ではこれは完全な形で刊行されております。そしてこのハンスカ夫人あてのバルザックの書簡は、一八四三年ごろからしだいに痛ましい調子を帯びて来るのです。バルザックは、くり返し結婚の希望を語るとともに、健康の不調、創作力の衰退を訴えているからです。
一八四六年には『従妹ベット』、その翌年には、『従兄ポンス』のような傑作をなお完成しておりますが、バルザックの創作力は急速に衰えていったようで、一八四八年以降になれば、執筆はもうほとんど行なわれなくなります。一八四九年は、もっぱらウクライナのハンスカ夫人の領地で過ごされ、いくつかの作品が書きはじめられておりますが、いずれも断片にとどまりました。ウクライナ滞在中のバルザックの生活はほとんど不明ですが、いずれにせよ病床にふせることが多かったものと思われます。一八五〇年の三月、バルザックは、ウクライナの小村ベルディチェフの教会でハンスカ夫人と結婚しました。長年にわたる願望がかなったわけですが、しかし結婚生活は長くは続きませんでした。この年の五月、長途の旅に疲れはて、結婚したばかりの夫人をともなってパリに帰りついたとき、バルザックの病は、すでに不治のものとなっていたからです。八月、バルザックは、パリ、フォルテユネ街(現在のバルザック街)の、夫人を迎えるために用意した豪奢な邸宅で世を去りました。
『ゴリオ爺さん』について
この作品は、一八三四年十二月から翌年の二月にかけて「パリ評論」誌上に掲載されたものです。『ゴリオ爺さん』の主題については、創作ノートの記述などを見ても、すくなくとも執筆開始当時における意図が、父性の化身、ゴリオを描くことにあったことは確かです。事実、この作品はバルザックの小説の多くがそうであるように、固定観念と化した情念(この場合、父性愛の情熱)の物語です。けれども、作者の当初の意図とはべつに、この作品をあるがままに見るならば、これはゴリオを主人公とする父性の物語であるよりはむしろ、ラスティニャックを主人公とする青春の物語であるように思われます。青春の物語――さらに正確にいえは、これは、青年における社会と人生への開眼の物語です。
ラスティニャックは、いかにも青年らしい素朴な心と、大きな野心をいだいてパリに出て来ます。彼の野心とは、人生にたいして青年がもつ渇望そのものであるといってもいいので、その渇望ゆえに、彼は勉学にはげみ、社交界に出ようとします。しかしやがて彼は社会の苛酷な現実に触れ、そのおそるべき実態を知るにいたります。彼がヴォーケル館において、また社交界において知る社会の現実とは、人々がもっぱら金銭的な利害によって動く世界、虚栄と虚偽に満ちた場所です。弱者は強者によっておしつぶされ、ゴリオがいだいたような純粋な愛情はたちまち蹂躙《じゅうりん》されてしまう場所なのです。社会は欺く人と欺かれる人、社会の醜悪な法則を利用して成功する強者と、その法則を知らないために敗北する弱者からなる――ラスティニャックはこのような現実を発見します。ゴリオの死は、こうした現実を啓示する中心的な役割を果たすわけですが、しかしそれだけでなく、ラスティニャックが目にするものはすべて象徴的な、もしくは「教育的な」価値をもつといえます。ラスティニャックは、パリ社会をへめぐりつつ、さまざまな欲望と、さまざまな考え方に接します。ボーセアン夫人は、彼に社交界の裏面を教え、ヴォートランは、社会制度の虚偽を告発しつつ、社会への反抗を語ります。ゴリオが死に、ラスティニャックの「教育」が完成したとき、彼はペール・ラシェーズの丘にのぼり、こうしてその醜い全容をあらわしたパリ社会の現実にむかって、「さあ、こんどはおれとお前の勝負だぞ」と叫ぶのです。
青春小説としての『ゴリオ爺さん』は、若き日のバルザックが人生にたいしていだいたみずみずしい熱情を伝えています。しかしまた同時に、この作品が、バルザックの他の多くの小説と同様、金銭欲と競争原理によって青年の夢を色あせたものにしてしまう、「近代」そのものへの疑惑をふくむことは否定できません。さきにも述べたように、バルザックは「市民的近代」の最初の描き手でありますが、同時にその批判者でもあったからです。 (高山鉄男)
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年譜
一七九九 五月二〇日、フランスのツーレーヌ州の主都ツールで生まれる。父ベルナール・フランソアは五三歳、母アンヌ・シャルロット・ロールは二一歳。
一八〇四(五歳) この年まで、妹のロールとともにツール近郊の乳母のもとで育てられ、四月、ツールのル・ゲー塾にはいる。
一八〇七(八歳) 六月二二日、ヴァンドームのオラトワール派学院の寮生となる。一八一三年四月二二日まで在学。
一八一四(一五歳) 夏の間、ツール学院に通学。一一月、一家はパリのタンプル街にうつる。
一八一五(一六歳) マレー区ルピートル塾にはいり、一〇月からガンセール塾にうつる。
一八一六(一七歳) パリ大学(ソルボンヌ大学)法学部の聴講生となり、一一月、かたわら訴訟代理人ギョネ・メルヴィルの事務所に見習書記として通う。文学部講義もきく。
一八一八(一九歳) 四月、公証人パッセの事務所にうつる。『魂の不滅に関するノート』
一八一九(二〇歳) 一月、法学部第一次卒業試験通過。第一師団糧秣部長を退職した父は、家族とともにパリ郊外ヴィルパリジにうつる。オノレは作家志望を宣言してパリの屋根裏部屋にこもる。韻文悲劇『クロムウェル』にとりかかる。
一八二〇(二一歳) 『クロムウェル』を家族と知人の前で朗読。悪評。文学者アンドリューの批評を乞い酷評された。生前は出版されなかった。秋、下宿をやめてヴィルパリジの家にもどる。
一八二二(二三歳) 前年、初めて会ったベルニー夫人バルザックの愛人となる。一〇月、一家はマレー区のロア・ドレ街にうつる。匿名で多くの小説を出版。一月『ビラーグの跡取り娘』、三月『ジャン・ルイ』、七月『クロチルド・ド・リュジニャン』、一一月『百歳の人』『アルデーヌの助任司祭』
一八二三(二四歳) 夏の間、ツーレーヌ州に滞在。五月『最後の妖精』
一八二四(二五歳) 夏の終わり、一家はふたたびヴィルパリジにうつる。ひとりツールノン街のアパートに住む。
一八二五(二六歳) ベルニー夫人に資金をあおぎ、モリエールとラ・フォンテーヌの作品を刊行して失敗。妹の紹介で、ダブランテス公爵夫人と親しくなる。『ワン・クロール』『紳士の法典』
一八二六(二七歳) 六月、印刷業の免許を得て、マレー・サン・ジェルマン街(今日のヴィスコンチ街)に印刷所を設ける。夏、一家はヴェルサイユにうつる。
一八二七(二八歳) 財政悪化にかかわらず、活字製作所を開く。ベルニー夫人が出資者。
一八二八(二九歳) 春の初め、天文台近くのカシニ街のアパートにうつる。八月、印刷所を清算、負債約五万フラン。文学にもどり、九月一五日から一〇月終わりまで、父の友人フージェールのポムール将軍を訪ねて滞在、『ふくろう党』執筆。
一八二九(三〇歳) サロンに出入りしはじめる。六月、父死亡。三月、初めて本名で『ふくろう党』を発表。好評を博す。一二月、匿名で『結婚の生理学』発表。
一八三〇(三一歳) 新聞雑誌に執筆。五月、ベルニー夫人とともにツーレーヌ地方を旅行し、六月にはロアール川を下り、ブルターニュ半島のル・クロワジックにいたる。七月、ツール近郊の柘榴《ざくろ》屋敷に滞在。秋、シャルル・ノディエのサロンに出入りする。四月、「私生活情景」初版『ゴブセック』『ソーの舞踏会』『二重家庭』など。
一八三一(三二歳) 八月、哲学的小説『あら皮』。この成功により文壇的地位定まる。
一八三二(三三歳) ウクライナのハンスカ夫人から「異国の女」の署名で初めて手紙を受けとる。カストリー侯爵夫人と親しくなり、その紹介で貴族社会に出入りする。六月〜八月、はじめはサシェに、のちマングームのカロー家に滞在。八月下旬、サヴォアの温泉地でカストリー夫人と落ちあい、九月、同地を出発イタリアヘ旅行したが、ジュネーヴで求愛をこばまれた。幻滅を感じ、フォンテーヌブローの森に近いヌムール近郊のベルニー夫人邸に向かい三週間滞在。一二月、パリヘ帰る。政治論文を発表。四月、『風流滑稽譚』第一集、『ツールの司祭』『ルイ・ランベール』『シャベール大佐』
一八三三(三四歳) ハンスカ夫人との文通はじまる。九月、ヌーシャテルで初めてハンスカ夫人に会う。五日間同地でハンスキ夫妻とすごす。一二月、夫妻の滞在するジュネーヴにおもむく。七月『風流滑稽譚』第二集、九月『田舎医者』、一二月『ウジェニー・グランデ』
一八三四(三五歳) 二月八日、ジュネーヴを去る。滞在中に夫人と愛人関係にはいる。五月、初めてグィドボニ・ヴィスコンチ伯爵夫人と会う。六月、マリア・デュ・フレネー、バルザックの子と想定される女児を生む。「第十九世紀風俗研究」の公刊を始める。「パリ生活情景」『十三人組物語』、一一月「私生活情景」第三巻『絶対の探究』
一八三五(三六歳) 春、デュラン未亡人の名で、シャイヨーのバタイユ街の秘密のアパートヘうつる。債権者の目をのがれるためと、ヴィスコンチ伯爵夫人と会うため。五月、ウィーン滞在中のハンスカ夫人と再会、六月中旬、パリヘ帰る。以来、八年間夫人とは会わない。一月「哲学的研究」第一巻、三月『ゴリオ爺さん』、二月『セラフィータ』
一八三六(三七歳) 四月二七日より五月四日まで、国民軍就役不履行の理由で禁固。五月、ヴィスコンチ夫人にバルザックの子と推定される男子生まれる。七月末、ヴィスコンチ伯爵家の遺産整理問題で、伯爵の代理としてイタリアヘおもむく。八月下旬、パリヘ帰り、ベルニー夫人の死(七月二七日)を知る。六月『谷間のゆり』、九月「哲学的研究」第二巻。
一八三七(三八歳) 二月、ふたたびイタリアヘ行く。ミラノ、ヴェネチア、ジェノア、フイレンツェ、コモ湖などを経て、五月三日パリヘ帰る。六月、ヴェルデ書店に対する契約不履行のかどで執達吏に追求され、ヴィスコンチ夫人に金を借りて逮捕をまぬがれる。『老嬢』『幻滅』第一部『セザール・ビロトー』
一八三八(三九歳) 二月末、女流作家ジョルジュ・サンドを訪れ、ノアン邸に数日滞在。四月、サルディニア島に向かう。古代ローマ人の銀の廃鉱を採掘して巨利を得るためであったが、廃鉱はすでに他人の手に帰していた。七月、セーヴルにジャルディー荘を建てて住む。九月『平役人』『ニュチンゲン銀行』『浮かれ女盛衰記』第一部。
一八三九(四〇歳) 八月一六日、文芸家協会会長に選ばれる。九月、リヨンに近いベレーの町へ行き、ペーテル事件を調査し、被告ぺーテルの無罪を主張。ペーテルは一〇月死刑。三月『骨董屋』、六月『エヴァの娘』『幻滅』第二部、一二月『ベアトリックス』
一八四〇(四一歳) 三月一四日、五幕のドラマ『ヴォートラン』上演、一六日、内務大臣の命令で上演禁止。七月、月刊誌『ルヴュ・パリジァンヌ』を創刊し、三日で廃刊。同誌でスタンダールの『パルムの僧院』を激賞。一〇月、バス街に住む。現在、バルザック記念館となっている。
一八四一(四二歳) 一〇月二日、フュルヌ書店と全集『人間喜劇』刊行の契約。一月『暗黒事件』、五月『村の司祭』
一八四二(四三歳) 『二人の若妻の手記』『ユルシュール・ミルーエ』『人生の門出』『川もみ女』
一八四三(四四歳) 一八四一年一一月一〇日以来、未亡人となっているハンスカ夫人のもとに滞在。九月二六日、オデオン座で、五幕物『パメラ・ジロー』上演。『暗黒事件』『オノリーヌ』『幻滅』第三部。
一八四四(四五歳) 『モデスト・ミニヨン』『農民』第一部。
一八四五(四六歳) 五月から八月、ハンスカ夫人と、ドレスデンで落ちあい、共にドイツ、フランス、オランダ、ベルギーを旅行。秋、ハンスカ夫人とイタリア旅行。一一月、パリにもどる。
一八四六(四七歳) 三月から五月に、ハンスカ夫人とともにロ―マに滞在し、ついでスイス、フランクフルトまで旅行。一二月初め、ハンスカ夫人より死産の知らせを受ける。『従妹ベット』
一八四七(四八歳) 二月から五月にかけて、ハンスカ夫人パリに滞在。バルザックはフォルチュネ街(今日のバルザック街)に居をかまえる。六月二八日、遺言書を作成。九月、ウクライナに向けて出発、五か月以上滞在。『従兄ポンス』『浮かれ女盛衰記』第四部。
一八四八(四九歳) 二月一五日パリに帰る。二二日、二月革命勃発、サシェでの最後の滞在。九月の下旬からウクライナに滞在。『現代史の裏面』第二部。
一八四九(五〇歳) ウクライナに滞在。留守中、アカデミー・フランセーズ会員の補欠選挙に二度敗れる。健康状態悪化。
一八五〇(五一歳) 三月一四日、ウクライナのヴェルディチェフでハンスカ夫人と結婚。五月二〇日、夫妻はパリヘもどる。六月末執筆不能となり、八月一八日死亡。