従妹ベット(下)
バルザック/佐藤朔訳
目 次
五八 社会の大いなる破壊者たる貧苦
五九 つけ黒子《ぼくろ》考
六〇 はなやかなる登場
六一 一般的に見たポーランド人と個別的に見たスタインボック
六二 デリラをめぐる史的回想
六三 若きポーランドの芸術家はどうすればよかったのか?
六四 帰宅
六五 最初の心の痛手
六六 最初の夫婦げんか
六七 最初の心の痛手にまつわる疑い
六八 捨て子
六九 寝室に現われた第二の父親
七〇 母と娘のちがい
七一 寝室に現われた第三の父親
七二 マルネフ教会の五人の教父
七三 しぼられる父親
七四 悲しい幸福
七五 マルネフ夫人のような女はいかに家庭を破壊するか
七六 王侯愛妾談概略
七七 図々しい五教父のうちの一人
七八 もう一通の督促状
七九 門前ばらい
八〇 ある目覚め
八一 麩《ふすま》と二番粉と三番粉
八二 外科手術
八三 道徳的省察
八四 戦果、すべては陸軍省の責任
八五 別の災難
八六 別の化粧
八七 崇高なる娼婦
八八 クルヴェルの明言
八九 いつわりの娼婦が聖女となる
九〇 音色のちがうギター
九一 ユロ元帥の一面
九二 公爵の叱責
九三 ユロ将軍とヴィッサンブール公爵とのあっけない対決
九四 虚報の理論
九五 兄の叱責
九六 立派な葬儀
九七 放蕩親父の出奔
九八 ジョゼファの新しい一面
九九 身のふり方
一〇〇 ユロ元帥の遺産
一〇一 大きな変化
一〇二 ダモクレスの剣
一〇三 ユロ男爵の友人
一〇四 悪徳と美徳と
一〇五 トゥール・ビジュー商会の清算
一〇六 天使と悪魔と共同捜索
一〇七 もう一匹の悪魔
一〇八 警察
一〇九 トゥール親父からトレック親父へ
一一〇 ある家庭風景
一一一 もう一つの家庭風景
一一二 おどしの効果
一一三 コンバビュス
一一四 浮かれ女たちの晩餐
一一五 ヌーリッソンばあさんの活躍
一一六 一八四〇年の連れこみ宿
一一七 女芝居の最終幕
一一八 ヴァレリー復讐される
一一九 義捐金《ぎえんきん》募集の修道僧
一二〇 医者の話
一二一 神罰とブラジル人の罪
一二二 ヴァレリーの辞世
一二三 クルヴェルの辞世
一二四 投機の一面
一二五 なぜパリの暖炉職人はイタリア人なのかわからない
一二六 野生的だが、カトリック的ではないアタラ
一二七 前章の続き
一二八 確認
一二九 アタラの最後の言葉
一三〇 放蕩親父の帰宅
一三一 忘却礼賛
一三二 おそろしい、現実的な、真の結末
解説
バルザックのパリ
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主要人物
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◆ユロ男爵(ユロ・デルヴィー)……陸軍省の高官。美しい妻を持ちながら、飽くなき漁色家であり、資産を傾けてまで、終生、放蕩をつづける。
◆アドリーヌ(アドリーヌ・フィッシェル)……ユロ男爵の妻。夫の浮気のために、つねに苦境に追い込まれながら、わが身を犠牲にして、夫を許し、また一家の破滅を防ごうと尽力する貞淑な女性。
◆リスベット(リスベット・フィッシェル、通称ベット)……富裕な名家に嫁いだ従姉のアドリーヌの幸福を嫉んで、さまざまの術策を用いて、彼女を不幸にさせ、またユロ家を没落させようとする。
◆オルタンス……ユロ男爵の娘。スタインボックと結婚するが、彼女の幸福もベットから破壊されそうになる。
◆スタインボック(ヴェンツェスラス・スタインボック)……ポーランドの亡命貴族で、彫刻家。貧乏生活時代に、ベットに庇護される。
◆ユロ元帥(ユロ・ド・フォルツハイム)……ユロ男爵の兄。清廉潔白な将軍で、アドリーヌの味方。伯爵。
◆ヴィクトラン……ユロ男爵の息子。ユロ家の再建に尽力する、誠実で、有能な弁護士で、代議士。
◆セレスティーヌ……ヴィクトランの妻。クルヴェルの娘。
◆クルヴェル(セレスタン・クルヴェル)……成功した香水商で、ブルジョワの典型。国民軍隊長。のちにパリ第二区の区長、県会議員となる。
◆フィッシェル(ジョアン)……アドリーヌやリスベットの叔父にあたる。ユロ男爵の公金費消事件に関係して、責任を感じて、アルジェリアの刑務所で自殺する。
◆ヴァレリー……モンコルネ元帥の私生児で、陸軍省の役人の妻。夫マルネフは病身で、野心家で、奸智にたけた人間だが、娼婦型の妻を操る。そこでヴァレリーはユロ男爵、スタインボック、クルヴェル、モンテスを手玉にとり、そのあげく悲惨な最後をとげる。
◆モンテス(モンテス・デ・モンテジャノス)……ヴァレリーの初恋のブラジル人。男爵。金満家。
◆ジョゼファ(ミラー・ジョゼファ)……本名はイラムというユダヤ系の歌手。はじめクルヴェルに囲われ、ついでユロ男爵の妾となり、さらにデルーヴィル公爵に鞍替えする。
◆ビクシウ……有名な画家。
◆スティドマン……彫刻家。
◆ヴィニョン……文芸批評家。
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五八 社会の大いなる破壊者たる貧苦
「さあさあ、どうしたのよ、あなた」と、ベットは従姉の娘の美しい眼に涙がこぼれ落ちるのを見ながらいった、「絶望してはいけないわ。あなたの涙をコップいっぱいためたからって、一皿のスープ代にもなりゃしないのよ。いくら必要なの?」
「でも、五、六千フランいるんですもの」
「わたしにはせいぜい三千フランしかないわね」とベットはいった。「それでヴェンツェスラスさんはいま何をやってるの?」
「スティドマンさんと組んで、六千フランでデルーヴィル公爵のデザート用の食器をつくるお話があるの。これをやれば、レオン・ド・ロラさんとブリドーさんから信用でお借りした四千フランを、シャノールさんが払ってくださるんですって」
「まあ、モンコルネ元帥のためにたてた記念碑の立像と薄肉彫りの代金を受けとっておいて、借金のほうは払わなかったの!」
「でも」と、オルタンスはいった。「わたしたち三年前から年に一万二千フランずつつかうのよ、それにわたしの収入ときたら、二千フランですもの。元帥の記念像にしても、いろいろと経費を払ったら、一万六千フランにしかならなかったわ。ほんとに、ヴェンツェスラスが仕事をしないと、わたしたちこれからどうなるか、わたしにはわからない。ああ、わたしでも彫刻がやれるものなら、粘土くらいいくらでもこねるのに!」彼女は美しい両の腕を前へ差しのべながら、そういった。
この人妻が娘のころの期待どおりになっていることは、すでに見てきた。オルタンスの目はきらきらかがやいていた。血管には、鉄をおびた、烈しい血がたぎっていた。子供の世話で精力をとられてしまうことを彼女は嘆くのだった。
「ああ、かわいい小鹿さん、かしこい娘が芸術家と結婚するなら、その人の地位ができあがってからにすべきだよ。地位をきずこうとしているときにじゃないわ」
このとき、シャノールを送りだすスティドマンとヴェンツェスラスの足音や声が聞えた。それからまもなくヴェンツェスラスがスティドマンといっしょにはいってきた。スティドマンは新聞記者や、著名な女優、名の売れた娼婦たちの世界に売り込んだ芸術家で、優雅な青年だった。ヴァレリーは彼を自宅へ呼び入れたいと思っており、すでにクロード・ヴィニョンの仲立ちで紹介だけはすんでいた。スティドマンは、名の聞えたションツ夫人との関係が終わったところだった。夫人は数カ月まえに結婚して地方へ発ってしまったのだ。縁が切れたことをクロード・ヴィニョンから知ったヴァレリーとリスベットは、ヴェンツェスラスの友人であるこの男をヴァノー通りへ引き寄せる必要があると判断した。
スティドマンは遠慮してスタインボック家をめったに訪ねなかったし、先日クロード・ヴィニョンが彼を紹介したときにも居あわせなかったので、リスベットはスティドマンを見るのは初めてだった。この有名な芸術家をつぶさに観察していた彼女は、ふと彼がオルタンスのほうを二、三度ちらっと見たことに気づいた。その目つきから彼女は、たとえヴェンツェスラスがオルタンスを裏切っても、この男をスタインボック伯爵夫人の慰め役にさせることができるだろうとばく然と思った。事実、スティドマンは、ヴェンツェスラスが友だちでなかったら、オルタンスは、この若くてすばらしい伯爵夫人は、申し分のない愛人になるだろうと考えていた。しかし体面上おさえつけてはいたが、こうした欲望が、彼をこの家から遠ざけていたのだ。リスベットは、口説《くど》くわけにもいかない女の面前で、男がばつの悪い思いをするときの、はっきり意味のわかる困惑ぶりを目にとめた。
「いい男ね、若くって」と、彼女はオルタンスに耳うちした。
「あら、そう?」と彼女は答えた、「ちっとも気がつかなかったけど……」
「ねえ、スティドマン」と、ヴェンツェスラスは友だちの耳もとで、「ぼくたちの仲だから遠慮なしにいうが、じつはそこにいる老嬢とちょっと話があるんだ」
スティドマンは二人の女性にあいさつをして部屋から出ていった。
「話はすんだよ」と、スティドマンを送ってもどってきたヴェンツェスラスがいった、「だがあの仕事は半年かかる。そのあいだの生活が問題だけどね」
「わたしのダイヤがあるわ」と、いちずに愛する女の崇高なまでの意気込みで、若いスタインボック伯爵夫人はさけんだ。
ヴェンツェスラスの目に涙が浮かんだ。
「よし、きっと働いてみせるぞ」彼は妻のそばまでくると腰をおろしながらそう答えて、彼女を膝《ひざ》の上に抱きあげた。「これからは片手間の仕事をやっていくよ、結納《ゆいのう》品とか、青銅《ブロンズ》の群像とか……」
「それよりもね、わたしのかわいい子供たち」と、リスベットがいった、「――そうでしょう、だってあなた方はわたしの相続人なんですもの、ほんとよ、ちゃんとまとまったお金を残してあげるわよ、ことに元帥と結婚するようお手伝いしてくださったら、なおさらだわ、――その話がすらすらと運んだら、みんなわたしの家にきてもらうの、あなたたちも、アドリーヌさんも。ああ、そうなったらわたしたち、いっしょにいくらでも楽しく暮せるわ。いまのところは、年とったものの経験をきいてちょうだい。質屋になんか頼っちゃだめ、あそこから借りたらおしまいよ。この目でしょっちゅう見てきたんだから、受け出せなくなって満期を延ばしたい、けれど利子に入れるお金もない、で、元も子もなくしちゃうっていうのを。わたしがいえば、たった五|分《ぶ》の約束手形でお金を貸してくれる人がいるけど」
「まあ、ほんと! 助かるわ!」と、オルタンスはいった。
「そう、それじゃあなたね、ヴェンツェスラスさんにその人のところへ行ってもらいなさいな、わたしが頼めば面倒をみてくれるでしょうから。その人って、マルネフ夫人なの。おだててやれば、成り上がりと同じで、見栄《みえ》っぱりだから、とても親切にこの窮地から救ってくれるわ。あの家《うち》へいらっしゃい、オルタンスさん」
オルタンスは、絞首台にのぼる死刑囚のような面持ちで、ヴェンツェスラスを見つめた。
「クロード・ヴィニョンがスティドマンを紹介した家だ」と、ヴェンツェスラスは答えた。「とても気持ちのいい家だってね」
オルタンスはうなだれた。彼女が感じたものを、ひとことで説明できる。それは苦悩ではなくて、病気であった。
「でも、オルタンスさん、人生ってものを知らなくちゃ!」とリスベットは、オルタンスのそぶりが雄弁に語っていることをさとって、声を上げた。「さもないと、あなたのお母さんみたいに、人気《ひとけ》のない部屋へ島流しにされるわ、そしてオデュッセウスが旅立ったあとでカリュプソ〔オデュッセウスが漂着して七年間ひきとめられた孤島の女王〕みたいに、泣き悲しむのよ、それにもうテレマコス〔オデュッセウスの息子〕もいないような年になってね!……」彼女はいつかマルネフ夫人がからかった言葉を受け売りして、そうつけ加えた。「世間の人たちを日常の道具みたいに考えなきゃだめ、使い道によって、とったりすてたりするのよ。ですからね、マルネフ夫人を利用なさい、あとになったらほっとけばいいのよ。あなたをこんなに愛しているヴェンツェスラスが、あなたより四つも五つも年上の女に熱をあげやしないか、それがこわいのね? あんなうまごやしの束みたいにしおれてて、そのうえ……」
「ダイヤを質入れしたほうがまだいいわ」と、オルタンスはいった。「おお! ぜったいに行かないで、ヴェンツェスラス!……あそこは地獄よ!」
「オルタンスのいうとおりだ」ヴェンツェスラスは妻を抱きしめた。
「ありがとう、あなた」しあわせでいっぱいになって若妻は答えた。――「ほらね、リスベットさん、この人、天使みたいにやさしいのよ。遊びごともしないし、どこへいくのだっていっしょだし、これで仕事にとりかかってくださったら、……いいえ、それじゃあんまりしあわせすぎるわ。お父さまの愛人のところへ、なぜ顔を出さなきゃいけないの。お父さまを破産させて、わたしたちのけなげなお母さまに死ぬほど悲しい思いをさせている女じゃありませんか」
「あら、あら、あなたのお父さまを破産させたのは、あの夫人のせいじゃありませんよ。前の歌姫が破産させちゃったんですわ。それとあなたの結婚よ!」と、ベットは答えた。「なんてことでしょうね! マルネフ夫人はずいぶんお父さんの役に立ってるのに、ほんとに!……でもわたしがいうべきすじあいじゃないわね……」
「だれでも弁護なさるのね、ベットさん……」
オルタンスは子供の泣きさけぶ声で、庭へ呼び出された。それでリスベットはヴェンツェスラスと二人きりになった。
「あなたは天使を奥さんにしてるのよ、ヴェンツェスラスさん!」と、ベットはいった、「うんとかわいがってあげなくちゃ、これっぽちでも悲しい思いをさせちゃいけませんよ」
「ええ、それはもうとても愛しています。それでいまの窮状も彼女には隠してあるんです」と、ヴェンツェスラスは答えた、「でもリスベットさん、あなたにはお話してかまいません。……それでですね、あれのダイヤを公営の質へ持っていっても、ぼくたち、これ以上よくなるわけじゃないんですよ」
「ですから、マルネフ夫人から借りるのよ……」と、リスベットはいった。「オルタンスさんにあなたをあそこへいかせる決心をさせるのね、それとも、そうだわ、あの人に感づかれないようにいってしまうことよ!」
「ぼくもそれは考えたんです」と、ヴェンツェスラスは答えた、「オルタンスを悲しがらせまいと思って、何度かいくのをことわったときにね」
「聞いてちょうだい。ヴェンツェスラスさん、わたしはあなた方二人がとても好きだから、あぶないことはだまっているわけにいかない。あそこにいったら、あなたの心を両手でしっかりにぎっておくのよ、あの女は悪魔なんだから。会ったらさいご、みんな惚れこんでしまう。それくらいみだらで、心をそそるような女よ!……まるで傑作のようにうっとりとさせる女よ。お金は借りるんだけど、魂を抵当においてきてはだめよ。オルタンスさんが裏切られることにでもなったら、わたし、あきらめようがないから……おや、もどってきたわ!」と、リスベットは声を上げた。「これで打ちきりよ。わたしがちゃんと手はずをととのえますから」
「さあ、リスベットさんに接吻して」と、ヴェンツェスラスは妻にいった。「貯金をまわして、ぼくたちを窮地から救ってくださるんだ」
そういって彼はリスベットに何か合図をし、リスベットはうなずいた。
「それじゃ、お仕事にかかってくださるのね、あなた」と、オルタンスはいった。
「そうだよ」と、芸術家は答えた、「あしたからだ」
「そのあしたのために、わたしたちがこんなことになったのよ」そういって、オルタンスは夫にほほえみかけた。
「だけどね、考えてごらんよ、毎日じゃまだの、差しつかえだの、用事だのがあったじゃないか?」
「そうね、あなたのいうとおりだわ」
「ぼくは、ここんところに」と、額をたたきながらスタインボックはつづけた、「いろんなアイデアをもっているんだ!……みてろよ! とにかくぼくの敵をみんなびっくりさせてやりたい。十六世紀のドイツ趣味の食器セットをつくりたい、夢想家趣味のやつをね。虫がいっぱいとまった木の葉を何枚もくねらせる。そいつに子供をいくにんも寝かせて、新しい幻想を盛りこむ、真の幻想を、つまりぼくらの夢の本体をだ!……ぼくはそいつをつかんでいる! 彫りは深く、軽く、同時に複雑になるだろう。シャノールさんがすっかり驚嘆して帰ったからね……。ぼくは勇気づけてもらうことが必要だったんだ、なにしろモンコルネ元帥像のこのあいだの記事は、もののみごとにぼくをたたきのめしたんだから」
昼間、リスベットとヴェンツェスラスが二人だけになったほんのわずかなあいだに、芸術家は老嬢と、翌日マルネフ夫人を訪ねることにきめた。妻が許してくれたらいいが、そうでなければ、だまっていくつもりでいたからだ。
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五九 つけ黒子《ぼくろ》考
この上首尾をその日の夕方知らされたヴァレリーは、ユロ男爵に強要して、スティドマンとクロード・ヴィニョンとスタインボックを夕食に招かせることにした。彼女も近ごろでは、ちょうどこの種の女たちが老人を邪慳《じゃけん》にあしらうようにユロ男爵を横暴にあつかいだしたのだった。つまり老人たちは町じゅうをかけずりまわらされ、そういう情け容赦のない情婦たちの利益や虚栄心のために必要な男ならだれのところにでもいって嘆願してくるのである。
翌日、ヴァレリーは、パリの女が自分の利点をあますところなく味わいたいときに工夫するような化粧ですっかり身をかためた。決闘を目前にひかえた男が、突き手と引き手をためしてみるように、彼女もこの仕事を念入りにおこなった。くせ一つ、しわ一つなかった。ヴァレリーの肌は、いつにない美しい白さをもち、からだはあくまでもしなやかで、すらりとしていた。最後につけ黒子《ぼくろ》が、それとなく人目をひいた。
一般に十八世紀のつけ黒子は、すたれたか消滅したと思われているが、それはまちがいだ。こんにちでも、前の時代の女より役者が一枚上の女たちが、大胆な戦術をつかって、オペラグラスの襲撃をうけることに熱を上げている。ある女は例の、中心にダイヤのはめこんであるリボンの花結びをまっ先に考え出し、夜会のあいだじゅう視線を独占する。またある女は、ヘヤネットを復活させてみたり、彼女の靴下どめのことを思い出させるために、髪の毛に短剣を突き立てたりする。こちらの女が黒ビロードの袖口の服を着れば、あちらは垂れ布のついた頭巾《ずきん》姿を再現するといった具合である。こうした卓抜な努力、媚態《びたい》や愛のアウステルリッツの激戦は、それから下層社会の流行になるのだが、そのころには恵まれた創始者たちは別の趣向を探している。
今夜のパーティで成功をおさめたいと思うヴァレリーは、今宵《こよい》の集りのために、三つのつけ黒子をつけた。いつものブロンドの髪は、二、三日のあいだ色を変えておくために、ある化粧水をつかってとかしてもらったので、灰白色をしていた。スタインボック夫人は燃えるようなブロンドだから、ほんのわずかでも似ていないようにと思ったのだ。この新しい髪色は、ヴァレリーにどことなくどきつい、ふしぎな感じをあたえた。『今夜はまたどうしたんだ?……』と、モンテスが聞いたくらい、彼女の常連には気になった。つぎに彼女は、かなりゆったりした黒ビロードの首飾りをつけて、胸の白さを浮き立たせた。三つ目のつけ黒子は、われわれの祖母たちの悩殺ぼくろ〔目の下につける黒子〕にもくらべることができた。ヴァレリーはコルセットの胸部の張り骨の上方、胸のなかほどのいちばん愛くるしくくぼんでいるあたりに、すばらしくかわいいばらの花の飾りボタンをつけた。三十歳以下の男ならだれでも、それには目を伏せずにいられないほどだった。
「絵にかきたいようだわ!」鏡にうつしていろんなポーズをとってみながら、そう彼女はひとりごちたが、それはちょうど踊り子が何度も膝を曲げる動作をやってみるのにそっくりだった。
リスベットは中央市場へ出かけていった。夕食は、そのむかしマチュリーヌが隣りの教区の高位聖職者をもてなす司教のためにつくったような、とびきり上等の料理がならぶはずだった。
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六〇 はなやかなる登場
スティドマンとクロード・ヴィニョンとスタインボック伯爵は六時ごろ、相ついで到着した。普通の女だったら、といっていけなければ、天真らんまんな女だったら、こんなに待ちこがれている相手の名を聞いただけで飛び出していっただろう。だがヴァレリーは、五時からずっと自分の部屋で待ちかねていたくせに、三人の客をそのままにしておいた。きっと三人で自分のことを話題にするか、こっそりめいめいが心のなかで考えているにちがいないと確信してのことだった。
客間の飾りつけのとき、彼女は自分から指揮をとって、パリ以外のどんな町でもつくれない、こまごまとした楽しい趣味の品々――いってみれば、女の隠れた一面を感じさせ、その女をいかにも語っているような品々を人目につくようにならべておいたのだった。エナメル革の装幀《そうてい》に真珠をちりばめた記念帳、魅力的な指輪のいっぱいはいった杯《カップ》、フロランとシャノールが繊細な趣味で仕上げをほどこしたセーヴル焼とかザクセン磁器の傑作、そのほか小像の置き物やアルバムなど、いずれにしてもばかばかしいほど金のかかった品物で、女に夢中になった当初ののぼせあがった頭か、さもなければ、最後の仲なおりをしてもらいたい一心から製造者にあつらえる、くだらない品ばかりである。
それにヴァレリーはいま、成功がもたらす陶酔でうっとりしているところだった。クルヴェルに、マルネフが死んだら彼の妻になると約束してやった。すると、夢中になっているクルヴェルは、一万フランの年金をヴァレリー・フォルタンの名義に書きかえさせた、これは彼がこの三年来鉄道株であげている利益の金額、つまり、以前ユロの男爵夫人に提供しかけたあの十万エキュ〔三十万フラン〕の資本が生みだした利潤のすべてであった。だからヴァレリーは今では三万二千フランの年収を得ていた。クルヴェルはまた、自分のもうけを贈与するよりずっと重大な約束を口にしてしまった。二時から四時まで彼の公爵夫人から激しい情欲のうずのなかへ沈められたクルヴェルは(彼は自分の幻想をより完全なものとするために、貴族の姓にならった彼のいわゆる|ド《ヽ》マルネフ夫人に「公爵夫人」というあだ名をつけていたが)、そんな極点に達した情熱のさなかで、――というのもヴァレリーがドーファン通りでいつにない本領を発揮したからだが、――彼は自分に誓ってくれた貞節心を励ましてやらねばなるまいと思って、あるこぢんまりしたしゃれた邸を買ってやるようなことをついほのめかした。どこかの軽率な企業家がバルベット通りに建てた邸で、いま売りに出ているのだった。ヴァレリーは、中庭と庭園にかこまれ、馬車がおいてあるこの魅力あふれる邸に住む自分をいま思い浮かべていた!
「堅い暮しをして、こういうものがぜんぶ、わずかなあいだに、それもやすやすと手にはいると考えられるかしら?」先刻、化粧ができあがったとき彼女は、そうリスベットにいったものだ。
リスベットはきょうはヴァレリーのところで夕食をとることにしていた。自分のことだが、だれでも自分の口からはいえないようなことを、スタインボックにいってやるためだった。マルネフ夫人は幸福に顔をかがやかせ、しとやかなあいきょうを見せて客間へはいっていった、すぐあとにベットがつづいたが、衣裳が黄と黒ずくめで、アトリエでいう対比色になり、ヴァレリーの引き立て役になっていた。
「ようこそ、クロードさん」と、彼女は以前批評家で鳴らした男に手をさし出しながらいった。
クロード・ヴィニョンは、世間にいくらでも例があるように政治家になっていた。政治家とは、野望遂行の第一段階にいる野心家をさすためにつかわれだした新しい言葉だ。一八四〇年の政治家は、いわば、十八世紀の僧院長である。どんな客間《サロン》でも、常連に政治家がいないと完全とはいえないだろう。
「ねえ、あなた、こちらはわたしの義理の甥《おい》にあたるスタインボック伯爵」と、リスベットは、ヴァレリーが気がつかないようなようすなので、ヴェンツェスラスを紹介した。
「よく存じあげておりますわ、伯爵」と、ヴァレリーは芸術家に丁重《ていちょう》にうなずいてあいさつしながら答えた。「ドワイエネ通りでよくお見かけしましたし、ご婚礼のときにも列席させていただきました。――ですから、ね」と彼女はリスベットに向かって、「以前あなたがわが子のようにしていらしたこの方を、たとえいっぺんしかお会いしてなくても、お見それすることはむずかしいですわ。――スティドマンさん、ほんとうにようこそ」と、彫刻家にあいさつしながら、「先日からまだ間がございませんのに、お招きをお受けくださいましてお礼申しあげますわ。でも、必要の前には法律なし、って言いますもの! こちらのお二人ともお友だちでいらっしゃることを存じておりましたの。同席の方々がおたがいにどなたかわからない会食ほど、座の白ける、陰気なものはございませんわ。それでわたくし、こちらのお二人のためにあなたにご出席を願ったんですのよ。でもこのつぎは、わたくしのためにいらしてくださいますわね?……よろしいこと?……」
そして彼女は、スティドマンにだけ心を奪われているような様子をしながら、しばらくのあいだ彼といっしょに歩きまわった。つぎつぎにクルヴェル、ユロ男爵、それにボーヴィザージュという代議士の来訪が告げられた。いなかのクルヴェルともいえるこの人物は、弥次《やじ》馬になるためにこの世に生まれてきたような男の一人で、ジロー参事院議員とヴィクトラン・ユロの配下で、彼らから命ぜられるままに投票をしていた。あとの二人の政治家は、保守党の大軍のなかに進歩主義者の核をつくりあげようとしているのだった。ジローはときどき、夕刻にヴァレリーのところへくることがあって、彼女はいずれヴィクトラン・ユロも呼び寄せられるだろうとうぬぼれていた。だが、清教徒の弁護士は、これまで何かと口実を見つけては、彼の父や義父の勧めをしりぞけてきた。自分の母に涙を流させる女のところへ顔を出すのは、何か罪悪のように思えるのだった。ヴィクトラン・ユロは政界の清教徒たちにたいして、ちょうど信心家の婦人たちにたいする敬虔な女のようなものだった。
ボーヴィザージュは以前アルシで下着・編物類の製造販売業者をやっていただけに、パリ風俗を身につけたがっていた。下院の末席の一つを占めているこの男は、甘美な、うっとりするようなマルネフ夫人のところで、きたえられているところだった。クルヴェルに心をひかれた彼は、ヴァレリーからいわれて、クルヴェルを自分の手本とし、師匠とすることを承知したのだった。彼はどんなことでもいっさいクルヴェルに相談し、クルヴェルの行きつけの服屋の所番地をたずね、クルヴェルのまねをし、クルヴェルのようにそり身の姿勢になることもやった。要するにクルヴェルは彼が模範とする大人物だった。
ヴァレリーは、こうした連中や三人の芸術家にとりまかれ、うしろにリスベットをうまく従えているので、ヴェンツェスラスにはじつに立派な女に見えたが、そのうえにクロード・ヴィニョンがそばから熱に浮かされたようにマルネフ夫人のことをほめちぎって聞かせるので、彼女がますます立派に見えてしまった。
「まさにニノンのスカートをつけたマントノン夫人だ!」と、もと批評家はいった〔ニノンは十七世紀パリで、美貌と才知で名高かった女性〕。「彼女に気に入られるということ、これは夜会に才気のある人間が集まっている夜会ならできることだ。しかし、彼女から愛されるということ、こいつは男だったらじゅうぶん誇っていい勝利だし、男の一生をかけるにたりる勝利だよ」
ヴァレリーはもと隣人だった男に表面冷やかな無関心な態度をとっていたために、彼の虚栄心を傷つけた。もっともそうとは知らずにやったことではある。というのは、彼女はポーランド人の性格を知らなかったからだ。
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六一 一般的に見たポーランド人と個別的に見たスタインボック
スラヴ民族にはどこか子供らしい一面がある。ちょうど、元来は野蛮であって、実際に文明化したというよりも、むしろ文明化した国々へ侵入したといえる民族すべてがそうであるように、この民族は洪水のように広がって、地球上の巨大な部分をおおってしまった。彼らは荒寥《こうりょう》たる原野に住んでいるのだが、そこはじつに広大な空間がひらけているのでゆったりと暮している。そこではヨーロッパのようにひじを押し合うようなことはない。だから人間同士のたえざる接触や利害の衝突もないから、文明も開けない。ウクライナ、ロシア、ドナウ川の平原、要するにスラヴ民族は、ヨーロッパとアジアとの、文明と野蛮とのあいだの連結線である。
それゆえ、スラヴ民族のうちでももっとも豊かな分派であるポーランド人は、その性格のなかに、まだ髭《ひげ》も生えていない民族に特有な子供らしさと移り気なところがある。ポーランド人は勇気と才気と気力をもっているのだが、気まぐれをおこすから、この勇気と気力、この才気には、一貫した方式も精神もない。というのもポーランド人には、点々と沼地でたち切られたあの広大な平原を吹きまくる風のように動きやまない性質が見られるからだ。つまり彼らは、家をねじまげて吹き飛ばす冬の烈風のはげしさをもっているにしても、このすさまじい空のなだれと同様、ひとたび春一番の地があらわれ、溶けて水と化したら最後、そのなかに姿を消してしまうであろう。人間というものは自分の生活する環境から、つねに何らかの影響を受けるものだ。トルコ人とたえず戦っていたポーランド人は、東洋の華美にたいする好みを彼らから受けた。ポーランド人は人目に立つようにしばしば必需品を犠牲にし、女のように身を飾るが、しかし、気候は彼らにアラビア人のような頑丈な体格をあたえた。だからポーランド人は、苦痛のさなかにあっても崇高であり、さんざん迫害を加えさせたために圧制者の腕を疲れさせ、かくて十九世紀には、初期のキリスト教徒が示した光景を再現した。
いかにも率直で、いかにも開放的なポーランド人の性格に、英国人の陰険さを十分の一でも取りいれるなら、寛大な白鷲〔ポーランドの紋章〕は、双頭の鷲〔オーストリアの紋章〕がいつのまにかはいりこんでいるいたるところを、きょうにも支配するであろう。ポーランドにわずかでもマキャベリズムがあったならば、その国土を分割してしまったオーストリアを助けはしなかったであろう。高利貸しのようなプロシャから借金して、しだいに国力をしぼりとられたり、第一回の国土分割の際に、内部分裂をおこすようなことはしなかったであろう。ポーランド国の洗礼のとき、この魅力ある国にかずかずの輝かしい美点を贈った妖精たちから置きざりにされたカラボスの仙女〔せむしで意地悪い老婆の妖精〕が、きっとあとでやってきてこういったのにちがいない、『わしの姉妹たちがおまえにやたらと贈り物をしたが、まあだいじにとっておくがいいよ。ただし、おまえは自分の欲しいものが何なのか永久にわからずじまいなのさ!』たとえポーランドがロシアとの勇敢な決闘で打ち勝っていたとしても、ポーランド人は今も昔と変わりなくおたがいに相手が王位につくことを妨害するために、議会で同士打ちをやるであろう。血気の勇者ばかりでできているこの国家が、おのれの胎内にルイ十四世のような王を求め、その専制と王朝を受けいれる良識をもつ日こそ、この国の救われるときである。
ポーランドが政治において示したものを、大部分のポーランド人は私生活で示す。とりわけ災禍が生じたときにそうである。だから、ヴェンツェスラス・スタインボックも、三年来妻を熱愛し、妻にとっては自分が神のようなものであることを知っているだけに、マルネフ夫人がろくに目もくれないのを見てひどく癇《かん》にさわり、自分の名誉にかけてもいくらかでも夫人の注意をひかずにはおくまいと思った。彼はヴァレリーと妻をくらべてみて、前者に軍配をあげた。いつかヴァレリーがリスベットにいったように、オルタンスは美しい肉のかたまりだった。ところがマルネフ夫人は、姿態に才気があり、悪徳のぴりっとした味があった。オルタンスの犠牲的精神は、夫にしてみれば当然と思える感情である。絶対的な愛に無上の価値を認める気持ちも、やがて消えてしまう、ちょうど債務者がしばらくたつと借りた金を自分のものと思いこむようなものだ。そうした崇高な貞節は、いわば魂の日々のパンと化し、不貞がうまい菓子のように食指をそそるのである。こちらを無視してかかる女は、それが危険な女であればなおさら、香辛料がごちそうの味を引き立てるように、好奇心をかきたてるものだ。そのうえ、ヴァレリーが示した軽蔑は、非常にうまく演じられたものだけに、この三年間手にはいりやすい快楽になれてきたヴェンツェスラスにとっては新鮮なものだった。オルタンスは妻で、ヴァレリーは愛人だった。
妻を愛人にすることを知らないというのは、男が劣っていることの大きな証拠であるにもかかわらず、多くの男は同じ作品に妻と愛人という二つの版をもちたがる。女にこうした変種があるのは、無能のしるしだ。恒常不変こそは、つねに愛の真髄であり、絶大な力、詩人をつくる力のしるしであろう! 人はあらゆる女を妻たる女のうちにもつべきである、ちょうど十七世紀の貧しい詩人たちが、彼らのマノン〔娼婦の典型〕をイリス〔虹の女神〕にもすればクロエー〔ギリシャの牧歌的恋愛小説の女主人公〕にもしたように!
「どう?」と、リスベットはヴェンツェスラスが幻惑されたところを見すまして、「ヴァレリーさんをどう思って」
「きれいすぎる!」と、ヴェンツェスラスは答えた。
「だから、わたしのいうことをきいとけばよかったのに」と、ベットはすぐさま言いかえした。「そうなのよ、ヴェンツェスラスさん、わたしたちがずっといっしょにいたら、あなたはあんなに美しい魔女の愛人になれたのよ、あの人が未亡人になったらすぐにも、結婚できたのよ、そしたらあの人のもっている四万フランの年金もあなたにはいったんだわ!」
「ほんとうですか?……」
「ほんとうよ」と、リスベットは答えた。「さあ、ご自分に用心なさい、危険だってことはちゃんといってあるんだから、飛んで火に入る夏の虫にならないでくださいよ! さ、腕を貸してちょうだい、食事ができてるわ」
これほど道徳を乱す話し方はない。ポーランド人に深淵を見せたら、すぐそこへ飛びこんでしまうからだ。ポーランド国民はとりわけ騎兵の天才である。あらゆる障害物を突破し、勝利者となって脱出できると思っている。リスベットはこのように拍車をかけてヴェンツェスラスの虚栄心を傷だらけにしたが、食堂の光景は、さらに拍車の力を強めた。食堂にはすばらしい銀器類がかがやいていた、スタインボックはパリ流の豪華をつくした、ありとあらゆる精妙な、こりにこった品々をそこに認めた。
「おれはセリメーヌ〔モリエール『人間嫌い』中のコケットで才気のある女性〕と結婚したほうがよかったのだ」と、彼は心のなかでいった。
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六二 デリラをめぐる史的回想
晩餐会のあいだじゅう、ユロは、この席に娘婿の顔が見えることがうれしく、そのうえヴァレリーと仲なおりできそうなことが確かなのでいよいよ満足をおぼえ、というのも夫をコケの後継にすることを約束してやれば、この女も貞節を守るだろうとひそかに期待していたからで、なかなかの愛きょうぶりだった。
スティドマンは、男爵のみせる愛想に、しきりとパリっ子らしい冗談を飛ばしたり、芸術家らしい熱っぽさで応対した。スタインボックも友人に負けていたくないので持ち前の才気を発揮して機知を飛ばし、強い印象をあたえ、自分でも得意だった。マルネフ夫人は彼に何回となくほほえみかけて彼の機知がよくわかることを示してくれた。
豪華な料理や、強烈なワインがとどめをさし、ヴェンツェスラスを快楽の泥沼と呼ぶべきもののなかへ沈めてしまった。ほろ酔い気分に顔を染め、晩餐のあとで、心もからだも幸福感にひたりながら彼は長椅子のうえに横になったが、そのそばへマルネフ夫人が気軽に、ぷんと香水をにおわせ、天使さえも地獄に落とすほどのあでやかさでそっとからだをよせてきたので、その幸福感は絶頂に達した。彼女はヴェンツェスラスのほうへ身をかがめ、ほとんど耳にふれるようにして低く話しかけた。
「今夜はおしまいまで残ってくださらないと、ご用のことをお話しするわけにまいりませんわ。あなたとリスベットさんとわたくしだけでしたら、およろしいようにとりはかれますけれど……」
「ああ、奥さま、あなたは天使です!」と、ヴェンツェスラスも同じようにして答えた。「ぼくはリスベットのいうことをちっとも聞かなくて、とんでもないばかをしでかしました……」
「リスベットさん、どんなことを言いまして?」
「ドワイエネ通りにいたころですが、あなたがぼくを愛していたって言い張っていました!……」
マルネフ夫人はじっとヴェンツェスラスを見つめ、当惑したようなようすを見せて不意に立ちあがった。若くてきれいな女は、すぐ手にはいるという気持ちを、男に何の障害もなしにおこさせるようなことはぜったいにやらない。心の奥にひめてきた恋心を押えつけようとする、この貞淑な女らしいそぶりは、どんなに熱烈な恋の告白より千倍も雄弁だった。
だから欲望はヴェンツェスラスの内部ではげしくかきたてられ、ヴァレリーにたいして彼はいっそう注意を向けた。注目の的になっている女、渇望されている女! 舞台女優のおそるべき魔力は、そこに起因する。いちいち観察されていることを知っているマルネフ夫人は、まるで拍手喝采を浴びている女優のようにふるまった。彼女は満場を魅了し、完全な勝利を獲得した。
「ぼくの義父《ちち》の気違い沙汰も、もうおどろきませんよ」と、ヴェンツェスラスはリスベットにいった。
「そんなことをいうようでは、ヴェンツェスラスさん」と、ベットは答えた、「こうやって一万フラン借りられるようにしたことをわたしは一生後悔しますよ。あなたもそれじゃここにいる人たちのようになるんですか」と、彼女は会食者たちをさしながら、「あの女に気違いみたいに夢中になるんですか? 考えてもみなさいよ、お父さんの敵にまわるんじゃないの。とにかく、オルタンスさんをどんなに悲しませることになるか、よく考えてみることね」
「たしかにそうだ」と、ヴェンツェスラスはいった、「オルタンスは天使です。ぼくは悪魔になってしまいますよ」
「そんな人間は、親類に一人いるだけでたくさんよ」と、リスベットは答えた。
「芸術家ってものは、ぜったいに結婚すべきじゃないんだ!」と、スタインボックはさけんだ。
「そうよ、わたしがドワイエネ通りでいってたのはそこよ。あなたの子供というのは、群像とか、彫像とか、傑作とか、そういうものよ」
「そんなところで何のお話かしら?」と、ヴァレリーはふたたびリスベットといっしょになりながら、たずねかけた。「お茶をさしあげてくださいな、ベットさん」
スタインボックはポーランド人の虚勢から、この客間の妖精とは懇意にしているように見られたいと思った。彼は、さげすんだような目でスティドマン、クロード・ヴィニョン、クルヴェルと眺めまわしてから、ヴァレリーの手をとり、むりやり長椅子の自分のそばにすわらせた。
「お大名すぎますのね、スタインボック伯爵」と、彼女はちょっとさからうふうを見せた。
そしてそばへたおれかかりながら笑い出したが、胸もとを飾っている小さなばらのボタンが見えるようにした。
「ああ! お大名でしたら、お金の拝借にここへうかがいはしません」と彼はいった。
「おかわいそうに! わたくし覚えてますもの、ドワイエネ通りでいつも夜おそくまで仕事をしていらしたのを。あなたはすこしおばかさんでしたわ。まるでおなかをすかしてる人がパンに飛びつくみたいに結婚なすって。パリをちっともご存知ないんですわ! いまのあなたをごらんになればおわかりでしょ! それなのにベットさんがあれほどつくしても知らないふりをなすったし、パリのことならみんな暗記しているパリ女の恋にも目をふさいでらしたわ」
「もうなんにもおっしゃらないでください」と、スタインボックはさけんだ、「ぼくがばかなんです」
「一万フランはご用立ていたします、ヴェンツェスラスさん。でも、条件が一つありますけど」と、彼女は見事に巻きあげた髪の毛をもてあそびながらいった。
「どんなのです?」
「そのね、利子はいただきませんの……」
「奥さん!……」
「あら、おこってはいけませんわ。そのかわり青銅の群像をつくってくださいまし。この前サムソン〔旧約聖書。イスラエルの勇者、その怪力のもとである頭髪を愛人デリラに切られて、敵に捕えられる〕の物語を彫りはじめていらしたでしょう、あれを完成させていただきたいの……デリラがユダヤのヘラクレスの髪を切っているところがいいわ!……でもお聞きくださいましね、あなたは大芸術家になられる方ですもの、主題をおわかりいただけると思いますわ。問題は女の力をあらわすことです。サムソンはそこじゃ何の価値もないんです。ただ怪力男の死骸というだけ。デリラこそはすべてを破滅させる情熱ですの。この複製《ヽヽ》のように……、――こんなのをいうのですの、複製って?……」彫刻の話をしているのを聞きつけてそばへ寄ってきたクロード・ヴィニョンとスティドマンを見て、彼女は巧みにそう言いつくろった。「このヘラクレスがオムパレの足もとにひざまずいている複製は、ギリシャ神話よりずっと美しゅうございますわ! ギリシャがユダヤをまねたのでしょうか? ユダヤがギリシャからこの象徴を借りたのでしょうか?」
「ああ、奥さん、あなたは重大な問題を提起されましたよ! つまり旧約聖書のいろいろな部分がつくられたのは、いつの時代かということですね。あの偉大にして不滅のスピノザは、――彼が無神論者のなかに加えられているのはじつにばかげているんですがね、神の存在を数学的に証明したわけなんで、創世記にそれから旧約の、いってみれば、まあ政治的部分ですか、それらはモーゼの時代のものだと主張してますね、そして文献学的な証拠をいろいろあげて、あとから原文に書きいれられた言葉がいくらもあることを証明していますね。ですから彼は、ユダヤ教会堂の入口でナイフで斬りつけられたわけですが」
「わたくしがそんなに学者だとは知りませんでしたわ」ヴァレリーはさし向かいにじゃまがはいったことにじれて、そういった。
「ご婦人は本能的に何でも知っていらっしゃるものです」と、クロード・ヴィニョンが返した。
「では、お約束してくださいますこと?」と、ヴァレリーは恋する娘のような慎重さで、スタインボックの手をとって、いった。
「うまいことをしたな、君」と、スティドマンがさけんだ。「奥さんから何かねだられてるじゃないか?……」
「なんだい?」と、クロード・ヴィニョンがいった。
「青銅《ブロンズ》の小さな群像なんだけどね」と、スタインボックは答えた、「デリラがサムソンの髪を切ってるところなんだ」
「むずかしいね」と、クロード・ヴィニョンが注意を喚起するように、「寝台があるからな……」
「かえってたいへんやさしいんじゃございませんの」と、ヴァレリーはにっこり笑ってやり返した。
「いや、奥さんは彫刻してさしあげるべき方だよ!」と、クロード・ヴィニョンはずるそうな目でヴァレリーをちらりと見ながらやり返した。
「それで」と、彼女は言葉をつづけた、「わたくし、こんな構図を考えていますの。サムソンは、目が覚めてみると、ちょうどかつらをつけた、たいていのおしゃれ男みたいに、髪の毛がないわけ。この英雄は寝台のはしのほうにいます。ですから寝台といっても、シーツや垂れ幕で隠されている寝台のすそのところを形にあらわすだけでいいわね。カルタゴの廃墟に立つマリウスのように、腕をくみ、丸坊主の頭で、そこにたたずんでいる。セント・ヘレナのナポレオンってところね! おや、デリラは、ちょっとカノーヴァの『マグダラのマリア』を思わせるかっこうで、ひざまずいている。娘というものは男を破滅させると、かえって恋しさがつのるものですわ。わたくしの考えでは、このユダヤの女は、ものすごい怪力のサムソンこそ、こわかったのだけれど、坊やになったサムソンは、かわいいと思ったにちがいないの。ですから、デリラは自分のあやまちを嘆き悲しんで、できるものなら恋しい男に髪の毛を返したいと思っているんです。男のほうを見る勇気はない、でも見ているんですわ、微笑を浮かべながら、なぜって、彼女にはサムソンの弱さのうちに、自分を許してくれる気持ちが見えるんですもの。この群像と、それからあの誘惑に負けない残忍なユーディットの像ができたら、それこそ女というものの謎を解くことになりますわ。貞節な女は男の首を斬ります。多情な女は髪の毛を切るだけです。みなさまもご自慢のお髪《ぐし》にご用心なさいませ」
そう言い残して彼女は立ち去った。あっ気にとられた二人の芸術家は、批評家と口をそろえて彼女をほめそやした。
「あんな感じのいい女はいないな!」と、スティドマンがさけんだ。
「いやあ、まいったね!」と、クロード・ヴィニョンはいった。「ぼくが見たなかでいちばん聡明で、いちばん望ましい女だ。才気と美貌をかねそなえるというのは、めったにいるものじゃない!」
「カミーユ・モーパン〔『人間喜劇』中にしばしば登場する女流作家。ジョルジュ・サンドがモデル〕と親しくしたほどの君がそういう判定をするなら」と、スティドマンが受けて、「ぼくたちはなんと思えばいいんだい」
「伯爵、もしあなたがデリラからヴァレリーさんの彫像を仕立ててくださるんでしたら」と、一部始終を聞いていたクルヴェルが、ちょっとカルタの席をはずして話しかけてきた。「その群像一個を三千フランでいただきますよ。ええっ、ちくしょう! 三千フランだ、ふんぱつしますよ!」
「ふんぱつしますってのは、あれはどういうことですか!」と、ボーヴィザージュがクロード・ヴィニョンにたずねた。……
「それには奥さんがポーズをとってくださらんと……」と、スタインボックは、クルヴェルにヴァレリーを指さしていった。「聞いてごらんなさいよ」
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六三 若きポーランドの芸術家はどうすればよかったのか?
このとき、ヴァレリーがわざわざ自分でスタインボックにお茶をはこんできた。これは特別扱いという以上に、恩恵というべきものだった。女がこういう役をつとめるときの様子は、そのままがそっくりひとつの言葉になるが、女はそれをよく心得ている。だからこの一見なんでもない儀礼上の行為にともなう女の身ごなしや、しぐさや、目つきや、言葉遣いや、声の調子を調べてみるのは、おもしろい研究である。『お茶を召し上がります?――お茶をお入れしましょうか?――お茶でも一杯いかが?』と口先だけできいて、つぼをささげている美しい少女にお茶をもってくるように言いつけたりする女のそっけなさから、茶卓から茶わんを手にとって、愛するトルコ高官のところに近づくと、いかにも柔順なようすでそれを差し出し、なまめかしい約束を目にいっぱい浮かべて、愛撫するような声ですすめるハレムの女のなみなみならぬ詩情にいたるまであって、生理学者たるものは、そこに嫌悪や冷淡から、フェードルがイポリットにしたような恋の告白にいたるまで、女のありとあらゆる感情を観察することができる。女はこうした仕種で意のままに、侮辱と見えるまでにさげすんで見せたり、東方の国の奴隷の身かと思われるほどつつましくして見せることもできる。ヴァレリーは、女という以上に、むしろ女の姿をした蛇だったから、一杯のお茶を手にスタインボックのところまで歩みよることによって、彼女の悪魔的な仕事を完全にしたのだった。
「何杯でも、すすめてくださるだけちょうだいしますよ、あなたにこんなふうにお給仕していただけるのでしたら!……」と、芸術家は立ちあがって、ヴァレリーの指に自分の指が触れるようにしながらそっと耳打ちした。
「ポーズするって、なんのお話?」ひどく待ちわびていた男の情熱の爆発を、心臓のまんなかで受けとめたようには見せずに、彼女はたずねた。
「クルヴェルじいさんがあなたの群像を一個三千フランで買うっていうんです」
「三千フランですって? あの人が、群像を?」
「そうなんです、もしあなたがデリラのためにポーズしてくださるんなら」と、スタインボックはいった。
「あの人には無理じゃないかしら」と、彼女はつづけた。「あたくしがポーズをすることになれば、群像のほうがあの人の財産より高くなりますわ、だってデリラは少しばかりあらわな身なりをしなきゃならないんですもの……」
クルヴェルがその身になってみせるのと同じで、女にもそれぞれ勝ち誇った態度や、苦心のポーズというものがあって、それによって女は、どうにも見とれずにはいられないように男にしむけるのである。どこの客間《サロン》でも見かけることだが、胸着《シュミゼット》のレースを調べてみたり、夜会服《コーブ》の肩ひもをもとの位置に引き上げたり、そんなことばかりしている女がいるかと思えば、天井のほうを見つめながら、ひとみの輝きを演じてみせる女もいる。だがマルネフ夫人は、ほかの女のように面と向かって得意そうにするようなことはしない。いきなり背中を見せると、リスベットに会いにお茶のテーブルのほうへいってしまった。そのドレスを揺り動かす踊り子式の身ごなしは、かつてユロを征服した手であるが、スタインボックもそれに幻惑された。
「これであなたの仕返しは完全よ」と、ヴァレリーはリスベットに耳打ちした。「オルタンスさんは涙のかれるまで泣くでしょう、そしてあなたからヴェンツェスラスさんをとりあげた日を呪うわよ」
「わたしが元帥夫人にならないかぎり、なにもしたことにならないわ」と、ロレーヌの女は答えた、「けど|あの連中《ヽヽヽヽ》もみんなその気になってきたようね。……けさヴィクトランのところへいったのよ。あなたに話すのを忘れてたわね。ユロの若夫婦はヴォーヴィネから、男爵の手形を買いもどしたの、あした五分利で七万二千フランの借用証書に署名するんですとさ。返済期限は三カ年、抵当はいま住んでる邸だっていうわ。ユロの若夫婦もこれから三年間苦しむわけよ。こうなるとあの邸を担保にしてお金をつくるわけにいかないわね。ヴィクトランはすごい沈みようなの、おやじがどんな人間か、わかったのよ。これじゃクルヴェルだって娘夫婦と縁を切りかねないわ。だってそんなに男爵につくしたりされたんじゃ、かんかんになっておこるわよ」
「男爵だっていまじゃ無一物のはずよね?」と、ヴァレリーはユロのほうににっこり笑って見せながら、リスベットに耳打ちした。
「もう何一つ残っていないわ。もっとも九月からは、また俸給がとれるようになるけど」
「それと保険証書があるわ。またはいりなおしたのよ! さあ、いよいよマルネフを部長にすべき時ね。今夜はぎゅうの目にあわしてやろう」
「ちょっと、ねえ」と、リスベットはヴェンツェスラスのそばまでいって話しかけた、「もう引き取ってちょうだい、お願いだから。みっともないわよ。そんな目でヴァレリーさんを見ていちゃ、あの人が変に思われるじゃないの。あの人のご主人はけたはずれのやきもちやきだから。お義父《とう》さんのまねなんかしないで、うちへお帰りなさい。オルタンスさんが待ちかねているにきまってますから……」
「マルネフ夫人は最後まで残ってくれって言いましたよ、ぼくたち三人で例の話をきめるのだって」と、ヴェンツェスラスは答えた。
「いけません」と、リスベットはいった、「その一万フランはわたしがあなたにわたしてあげます。なにしろご主人があなたに目を光らせているから、いつまでもぐずぐずしているのは、分別がなさすぎます。あした九時に、手形をもっていらっしゃい。その時間なら、あのシナ人みたいなマルネフもお役所です。ヴァレリーさんだって安心です……あなた、それじゃ、群像のためにポーズしてくれって頼んだのね?……先にわたしの部屋へいらっしゃい……ああ、わたしちゃんとわかってたわ」と、リスベットはスタインボックが目でヴァレリーにあいさつしたその目色を、すかさず見てとっていった。「あなたが道楽者の卵だってことくらいはね。ヴァレリーさんはたしかにきれいよ。だけどオルタンスさんを悲しませないようにやってちょうだいね」
たとえ一時的な欲望にもせよ、とにかく一つの欲望と自分のあいだに、何かにつけて細君の顔が飛び出すことほど、亭主をいらだたせるものはない。
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六四 帰宅
ヴェンツェスラスは午前一時ごろ帰宅した。オルタンスは九時半ごろから待っていた。九時半から十時まで、心のなかでヴェンツェスラスがシャノールとフロランの所へひとりで夕食に招かれていったとき、こんなに遅くまで帰らないことは一度もなかったのにと思いながら、馬車のひびきに聞き耳を立てた。彼女は子供のゆりかごのかたわらで針仕事をしていた。というのもある程度のつくろい物くらいは自分でして、お針女の日当を倹約しはじめていたからである。十時から十時半になると、疑念が起き、彼女はいろいろ考えてみた。
「だけど、ほんとに、わたしにおっしゃったように、シャノールとフロランのところへ夕食にいらしたのかしら? 着がえのとき、いちばんいいネクタイといちばんいいピンを出してくれとおっしゃったわ。お化粧にもずいぶん時間をかけて、じっさいよりずっとよく見られたいと思う女みたいに……。おばかさんね、わたしも! あんなに愛していてくださるじゃないの。それよりもう帰っていらしたわ」
若妻が聞きつけた馬車は、とまらずに、走り去った。十一時から十二時になると、あたりの街はぱったり人気も途絶えて、オルタンスは言いようのない恐怖にとらえられた。
「もし歩いて帰っていらしたら」と、彼女は心にいった。「何かまちがいがあったのかもしれない!……歩道の端にぶつかったり、割れ目があるのを気づかずにいたりして死ぬことだってあるわ。芸術家だって、そりゃぼんやり屋さんなんだから!……もしも強盗につかまったら!……六時間半も一人ぼっちでほっておかれるなんて、はじめてだわ……なぜこんなにくよくよするんでしょう、わたしだけを愛していてくださるのに」
男たるものは、自分を愛する女に誠実であるべきであろう、霊の世界と呼ばれる崇高な世界で、真の愛が生み出すところの果しない奇蹟のことだけを考えても。情愛の深い女は、愛する男にたいしては、催眠術をかけられたような状態にある。催眠術者の男は、女に悲しい能力を、つまりこの世の鏡であることをやめて、ひたすら催眠状態で見たものを女として意識するという悲しい能力をあたえることになる。情熱は、予感というものが千里眼の幻視と等しいようになる恍惚状態にまで、女の神経の力を高める。女は自分が裏切られたことを察知する、だが自分の声を聞こうとはしない、いちずに疑ってしまう、それほどまでに愛しているのである! そして女は、自分の予言者的能力の叫びを否定する。このような愛の激発は、崇拝されて当然であろう。高潔な人びとにあっては、こうした神々《こうごう》しいほどの現象にたいする感嘆の思いが、いつも一つの障壁となって、彼らを不貞から遠ざけるであろう。
美しく才気ある女が、魂の力をこのように激しく現わすのを見たら、どうしてその女を崇《あが》めずにいられようか……午前一時になると、オルタンスは極度の不安におそわれていた、だから、呼び鈴の鳴らし方でヴェンツェスラスだとわかると入り口に向って飛んでいった。彼女は夫を両腕にかかえこんで、母親のように抱きしめた。
「とうとう、帰っていらした!……」と、彼女はやっとものがいえるようになっていった。「もういやよ、これからはあなたのいらっしゃるとこはどこへだってついていくわ、だってこんな苦しい思いでお待ちしているなんて、もう二度としたくないことですもの……。歩道にぶつかって頭の割れたあなたや、強盗に殺されたあなたのお姿が、はっきり見えたわ!……いいえ、一度なんか、自分でも気が違ってるんじゃないかって思ったくらい……。じゃ、ずいぶん楽しかったのね……わたしがいなくても? 悪い方!」
「だって、仕方がないだろう、きみ。今夜はビクシウがいて、ぼくらにまた別の注文をとってくれたんだよ。レオン・ド・ロラもいたしね、相変わらずしゃれがうまいんだな。それにクロード・ヴィニョンだろう、モンコルネ元帥の記念像ではいろいろ書きたてられたが、彼の記事だけはありがたかったからね。それから……」
「女の方はいなかったの?……」オルタンスはいそいでたずねた。
「尊敬すべきフロラン夫人……」
「今夜はロシェ・ド・カンカル亭だとうかがってましたけど……、じゃ、シャノールさんたちのところだったのね?」
「そうだよ、シャノールのところだ、言いまちがえたんだ……」
「帰りは馬車じゃなかったの?」
「ちがう」
「それで、トゥルネル通りから歩いていらしたの?」
「スティドマンとビクシウが大通りからマドレーヌ通りまで送ってくれたよ、道々話しながらね」
「じゃあ大通りもコンコルド広場もブルゴーニュ通りも、すっかり乾いているのね。ちっとも泥だらけになっていないわ」オルタンスは夫のエナメル靴をじろじろながめていった。
雨が降ったのだが、ヴァノー通りからサン・ドミニック通りでは、ヴェンツェスラスの靴がよごれるはずがなかった。
「ほら、五千フランだ、シャノールが気持ちよく貸してくれたよ」と、ヴェンツェスラスはまるで尋問のような質問をたち切るために、そういった。
借りてきた千フラン札十枚を彼は二包みに分けておいた。片方はオルタンス、もう片方は自分にとっておく分だった。というのはオルタンスの知らない借金が五千フランあるからだった。下彫り工と職人たちに借りがあったのだ。
「これできみも心配なしだ」と、彼は妻に接吻しながらいった。「ぼくもあしたから、仕事をするぞ! よし! あしたは八時半の出陣で、アトリエ行きだ。だから、早く起きられるようにすぐ寝るよ、いいだろうね?」
オルタンスの心に浮かんだ疑念は消えた。彼女は真実から千里も離れたところにいた。マルネフ夫人! 思ってもみないことだった。愛するヴェンツェスラスのためにおそれるのは、娼婦の社会だった。ビクシウやレオン・ド・ロラの名が、この、放縦な生活で有名な二人の芸術家が、彼女に不安な気持ちをあたえたのだった。
翌日、彼女はヴェンツェスラスが九時に出ていくのを見て、すっかり安心した。
「いよいよお仕事だわ」と、彼女は子供に着物をきせながら、心のなかでいった。「ああ、わかるわ、打ち込む気でいらっしゃるわ! これなら、ミケランジェロの名声とまでいかなくても、ベンヴェヌート・チェリーニくらいの名声は得られるわ!」
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六五 最初の心の痛手
いかにも彼女らしい希望で自分の心をまぎらわしながら、オルタンスはしあわせな未来を信じるのだった。そして一年八カ月になる男の子にむかって、赤ん坊をにっこりさせる例の擬音語ばかりの言葉で話しかけるのだった。そんなとき、十一時ごろだったが、ヴェンツェスラスが外出したのを知らなかった料理女が、スティドマンを案内してきた。
「失礼します、奥さん」と、芸術家はいった。「おや、ヴェンツェスラス君はもうお出かけですか」
「アトリエにいますけど」
「じつは仕事のことで打ち合わせをしようと思ってうかがったんですが」
「呼びにやらせますわ」と言いながら、オルタンスは手招きでスティドマンにすわるように合図した。
若妻は、心のなかでこの偶然の来訪を天に感謝しながら、昨夜の会のありさまをくわしく聞くためにスティドマンを引きとめておきたいと思ったのだ。スティドマンは軽く頭をさげて伯爵夫人の好意に謝意を表した。スタインボック夫人は呼び鈴を鳴らした。料理女がくると、アトリエへいって旦那さまを呼んでくるように言いつけた。
「きのうはずいぶんお楽しかったんじゃございません?」と、オルタンスはいった、「ヴェンツェスラスも、けさ一時すぎにやっともどったくらいですもの」
「楽しい……さあ、そうでしたかね」と、芸術家は答えた、昨夜彼はマルネフ夫人をものにするつもりだった。「ああいう集まりは、何か下心があっていくんだったら、楽しいでしょうがね。あの小柄なマルネフ夫人はひどく才気のある女性ですが、どうもコケットで……」
「それで、ヴェンツェスラスはどう申しまして?……」あわれなオルタンスはつとめて平静をたもつようにしながらたずねた。「わたくしには何も申しませんのよ」
「一つだけいえることなんですが」と、スティドマンは答えた。「たいへん危険な女だと思いますね」
オルタンスはまるで産婦みたいに青くなった。
「そうしますと、お夕食をなさったのは、もちろん……マルネフ夫人のお宅で……、シャノールさんのところ……じゃありませんのね……」と彼女はいった。「きのうは……ヴェンツェスラスもいっしょでしたろうに、あの人は……」
スティドマンは、なんのことやらわからなかったが、とにかく自分が何か不幸のたねをまいたなと思った。伯爵夫人は言いかけたままで、完全に気を失ってしまった。芸術家は呼び鈴を鳴らした、小間使いがとんできた。ルイーズがスタインボック伯爵夫人を寝室へ運びこもうとしたとき、きわめて悪性の神経的発作がものすごい痙攣になってあらわれた。スティドマンは、亭主が家庭のなかでせっかく嘘を積み重ねて築きあげた足場を、ちょっとした無意識の失言でこわしてしまう人間と同じことで、自分の言葉にそれほど力があろうとは思ってもいなかった。伯爵夫人はごくわずかな障害でも危険になるような病的な状態だったのだろうと思った。そこへ料理女がもどってきて運の悪いことに、大きな声で、旦那さまはアトリエにいらっしゃらないと報告した。発作のさなかで、伯爵夫人はその返事を聞きつけた。痙攣がまたはじまった。
「奥さまのお母さまをお呼びしてきて!……」と、ルイーズは料理女にいった。「駆けてゆくのよ!」
「ヴェンツェスラス君がどこにいるかわかってたら、知らせにゆくんだが」と、スティドマンは残念そうにいった。
「あの女の人のところです!……」と、あわれなオルタンスはさけんだ。「アトリエへゆくときと、服装がまるでちがっていましたもの」
スティドマンは、情熱のもつ|第二の眼力《ヽヽヽヽヽ》から生まれたこのとっさの推察にくるいはあるまいと思って、マルネフ夫人のところへ走った。ちょうどそのとき、ヴァレリーはデリラのポーズをとっていた。マルネフ夫人にとりついでくれと頼むような間抜けなことはしないスティドマンは、門番部屋の前を素通りして、大急ぎで三階へ駆けあがっていったが、心のなかではこんなことを考えていた、『マルネフ夫人に会いたいといえば、居留守をつかうだろう。スタインボックに会いたいなどと、ばかみたいにいおうものなら、鼻の先で笑われるだろう……よし、大騒ぎにしてやろう!』呼び鈴を鳴らすと、レーヌが出てきた。
「スタインボック伯爵にすぐくるようにいってください、奥さんが死にかけてるんです!……」
レーヌもスティドマンに負けないくらい機転のきく女だから、かなりとぼけた顔つきをして彼をながめた。
「さあ、そうおっしゃられても……なんのことやら……」
「こういっているんですよ、ぼくの友人のスタインボックがここへきているが、彼の奥さんが死にかけているとね。こちらの奥さんにはご迷惑でも、これはあんただってほっておけないことですよ」
そういってスティドマンは立ち去った。
「そうだ! やっぱり来ている」と、彼はつぶやいた。
はたして、しばらくヴァノー通りにいると、ヴェンツェスラスの出てくる姿が見えたので、スティドマンは早くくるように合図した。サン・ドミニック通りで演じられた悲劇のことを語ったあとで、スティドマンは、なぜ昨夜の会食のことは秘密にしておいてくれと先にいっておかなかったのかと、スタインボックをしかった。
「もうだめだ」と、ヴェンツェスラスは答えた、「しかし、君は無理ないよ。じつはけさ会う約束になっていたことをすっかり忘れていたんだ。それに夕食はフロランのところでしたことにすると、君にいっておかなかったのが悪かった。だけど、しようがない、あのヴァレリーって女のために気が変になっちまったんだよ。だって、君、彼女のためだったら名声だって、不幸だって何でもない。……ああ、あれこそ……、ちくしょう、ひどく厄介《やっかい》なことになってきたぞ! 知恵をかしてくれよ。なんていったらいいだろう? どう弁明したらいいだろう?」
「知恵をかせだって? ぼくはなんにも知らないんだぜ」とスティドマンは答えた。「だいいち、君の奥さんは君を愛しているんだろう? じゃ、どんなことでも信じるさ。とにかくこういってみるんだな、ぼくが君のうちへいくのといれちがいに、君はぼくのうちへきたんだとね。そうすりゃ少なくともけさのモデルの件だけは逃げられるだろう。じゃ、失敬する!」
レーヌから聞いて、スタインボックのあとを追っかけてきたリスベットは、イルラン・ベルタン通りの角で、彼に追いついた。リスベットには彼のポーランド人らしい素直さが気がかりだった。まきぞえをくいたくないと思った彼女は、ヴェンツェスラスに二言三言注意した。彼は急にうれしくなって、往来のまんなかでリスベットを抱きしめた。彼女はきっと芸術家に、夫婦生活の危機を乗り切るための助け舟を出したのだった。
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六六 最初の夫婦げんか
大急ぎで駆けつけた母親を見るなり、オルタンスはわっと泣きくずれた。だから神経の発作も、非常にさいわいなことに、様子が変わった。
「裏切られたの、お母さま!」と、彼女はいった。「ヴェンツェスラスは、マルネフ夫人のところへはいかないってあれほど約束したのに、ゆうべあそこでごちそうになって、朝の一時十五分すぎにやっと帰ってきたのよ!……そうなの、わたしたちはきのう、何もけんかをしたわけじゃないわ、ただなっとくのいくように話し合っただけだわ。わたし、ずいぶん悲痛なことまでいったのよ、『わたしはやきもちやきだから、ちょっとでも不実なまねをしたら死んでしまう。わたしはすぐおびえて不安になる女だから、わたしの弱い神経を大事にまもってくださらなきゃいけない。あなたを愛しているからこそこんなふうになっているのだから。わたしのからだにはお母さまの血と同じくらい、お父さまの血も流れている。裏切られようものなら、すぐその場で気違いになって、どんなばかなことだってやってしまう。仕返しだってやるし、あたしたちぜんぶの、あなたも、子供も、わたしも、みんなの顔に泥をぬることだってする。最後はあなたを殺して、自分もそのあとを追って自殺してしまう!』って。それなのにきのう出かけて、いまもいってるの! あの女はわたしたちみんなを悲嘆にくれさせようってつもりなんだわ! きのう、お兄さまとセレスティーヌさんは、あのあばずれ女のために振り出された七万二千フランの手形を買いもどすのに、借金をなすったんです……。そうよ、お母さま、お父さまは訴えられて、刑務所に入れられるところだったのよ。あのおそろしい女は、お父さまからしぼりとったり、お母さまを泣かせたりするだけではたりないというのかしらん? なぜわたしからヴェンツェスラスを奪いとろうとするのよ?……わたし、いくわ、いってあの女を殺してやるわ!」
ユロ夫人は、激昂したオルタンスが不覚にも口走ってしまったおそろしい秘密に胸を突かれたが、そこはりっぱな母親らしく雄々しい努力をして痛む心をおさえつけて、娘の頭を胸に抱くと何度も接吻をあびせた。
「いい子だから、ヴェンツェスラスさんが帰るまでお待ちなさい、そうすれば何もかもはっきりしますよ。困ったことが起きたにしても、あなたの考えているほど大げさな問題じゃありませんよ! ねえ、オルタンス、わたしだって裏切られたことがあります。あなたはわたしを美しいと思ってる、それにわたしは、潔白な身です。だけどこの二十三年間というもの、見すてられています。ジェニー・カディーヌだの、ジョゼファだの、マルネフだの、いろいろね!……こんなことあなたは知らなかったでしょう?……」
「まあ、お母さまが!……それをがまんしていらしたのね、ずっと二十……」
彼女はそれを考えて、言葉につまった。
「わたしのまねをなさい、いいわね」と、母親はつづけた。「やさしく親切にしておあげなさい、そうすればあなただって気持ちがやすらぎます。男の人が死の床で、『わたしの妻は一度もわたしにつらい思いをさせなかった!……』と、心でいうなら、神さまはその最後のつぶやきをお聞きになって、わたしたちのために、それをちゃんと覚えておいてくださいます。わたしがもしあなたのように憤慨していたら、どんなことになっていたでしょう?……あなたのお父さまはかっとなさって、たぶんわたしと別れておしまいになったでしょう。わたしを悲しませやしないかと思って、ふみとどまるようなことはなさらなかったでしょう。いまでこそ、わたしたちはすっかり破産しているけれど、これが十年は早くなっていたでしょうし、夫婦が別々に暮しているというんで、いい見世物になったことでしょう、なげかわしい、ひどい物笑いのたねですものね。なぜって、そうなったら家庭は破滅ですから。お兄さんにしても、あなたにしても、身をかためることなどできなかったでしょう……わたしは自分を犠牲にしました、根気よく勇気を出してね、だからお父さまにこんどのようなことさえなければ、世間ではわたしのことをいまでもしあわせな女だと思うでしょう。わたしはずいぶん勇気を出して世間の手前をつくろって、いままでエクトルを守ってきました。いまでもあの人は尊敬されてます。ただ、今度の場合は、老いさき短い人の色恋だから、ずるずると深みへ引きずられてしまうのです。それはわたしにもわかります。心配なのは、せっかくわたしが世間の人たちとわたしたちのあいだに立ててきた衝立《ついたて》を、あの人の狂乱でこわしてしまうのではないかということ……でもとにかく、二十三年のあいだ、そのカーテンをおさえつけてきた、そのかげでわたしは泣いていたのです。母もなく、打ち明けて話せる人もなく、救いといったらただ信仰だけ。こうして二十三年間、一家の名誉をたもってきました……」
オルタンスはまばたきもしないで母の言葉に聞き入っていた。その落ちついた声と、このうえもない苦悩に忍従しきった姿は、若妻の最初の傷のうずきをしずめてしまった。涙があふれてきた。それはこらえようにもとめどがなかった。母をいとおしむ心に激しくゆすぶられ、母の崇高な姿に打ちのめされて、彼女は母の前にひざまずいて、母の服のすそをつかんで、ちょうど敬虔なカトリック信者が殉教者の聖遺物に接吻するように、それに接吻した。
「お立ちなさい。さ、オルタンス」と男爵夫人はいった。「わが娘《こ》にそんな証《あかし》を見せられると、ずいぶんいやな思いも消えてしまいます! わたしの胸のところにきてちょうだい、あなたの悲しみだけでもう痛いくらいですよ。あなたの喜びがわたしのたった一つの喜びでしたもの。かわいそうに、わたしのかわいい娘が絶望しているのを見て、なんとしてもこの口からはがれないようにしてあったお墓の封印までつい破れてしまったの。そうよ、わたしは経帷子《きょうかたびら》をもう一枚よけいに重ねるみたいに、わたしのいろんな苦しみをお墓へもってゆくつもりでした。あなたの腹立ちをしずめようと思って、話してしまったけれど……神さまもお許しくださるでしょう。ああ、わたしの生があなたの生になるものだったなら、なんでもしてみせますよ!……男も、世間も、偶然も、自然も、神さまも、このうえない残酷な責苦と引きかえに、わたしたち女に、愛を売りつけるんだと思います。わたしなら二十四年間絶望し、たえず悲しみつづけ苦しんだっていいわ、十年しあわせでいられるものなら……」
「お母さまにはその十年があったじゃありませんか、それなのにわたしは、たった三年よ!……」と、恋する利己主義者《エゴイスト》はいった。
「ね、何もだめになったわけじゃありません、ヴェンツェスラスさんをお待ちなさい」
「お母さま」と、彼女はいった、「あの人、うそをついたのよ! だましたのよ……『いかないよ』っていったくせに、ちゃんといってるんですもの。それも、わが子のゆりかごの前でいっておいて!……」
「男はね、自分の楽しみのためには、どんな卑怯なまねでもするものなのよ。恥ずかしいことだって、罪を犯すことだってします。これはやはり男の本性なのね。わたしたち女は、犠牲になるようにできているんです。わたしの不幸もこのくらいでおしまいかと思っていたのだけれど、これからがはじまりね。だってわが娘《こ》のことで苦しむのと合わせて、二重の苦しみ方をしようとは、夢にも思っていなかったもの。勇気を出すことと、だまっていることね!……さ、オルタンス、あなたの悲しみはわたしだけに打ち明けて、人さまの前ではそのそぶりさえみせないと誓ってちょうだい……。さ、お母さんのように誇り高いところをお見せなさい!」
そのとき、オルタンスはびくっとした、夫の足音を聞きつけたのだ。
「スティドマンがきたらしいね」と、なかへはいりながらヴェンツェスラスはいった、「ぼくも彼のところへいったんだが、いきちがいになった」
「ほんとかしら?……」あわれなオルタンスは、侮辱された腹いせに、言葉を短剣がわりにつかう女のように、乱暴な皮肉をこめてそうさけんだ。
「もちろんだよ、いま会ったばかりだよ」と、ヴェンツェスラスはさもおどろいたふうに見せながら答えた。
「じゃ、きのうは?……」と、オルタンスはつづけた。
「あれね、あれはだましたんだよ、すまない。お母さまに裁いていただこう……」
こうした率直さが、オルタンスの心をうちとけさせた。真にけだかい女は、嘘よりも真実を好む。彼女たちは自分の偶像が堕落したのを見ることを望まない。かえってその支配を受けることにあまんじ、それを誇りにしようとする。
ロシア人のうちには皇帝にたいしてそのような感情が見られる。
「とにかく聞いてください、お母さん……」と、ヴェンツェスラスはいった、「ぼくは親切なやさしいオルタンスをとても愛しています。ですからぼくたちが経済的にどの程度窮迫しているか、隠してあったんです。そうするより仕方がなかったんです。彼女はまだ子供に乳をやっていたころですし、悲しいことを聞かせたらからだにひどくひびいたと思うんです。そんなとき女がどういう危険にさらされるか、お母さまはすべてご存知のはずです。せっかくの美しい顔も、みずみずしい肌も、健康も、みんなそこなわれるかもしれないのです。まちがっているでしょうか?……オルタンスは、ぼくたちが借りているのは五千フランだけだと思っていますが、ほかにぼくのほうの借りが五千フランあるんです。……おとといは、ぼくたちは絶望的でした!……世間の人はだれ一人、芸術家にはお金を貸そうとしません。ぼくたちの才能は、ぼくたちの気まぐれなみにしか、信用されていないんです。知ってるところはぜんぶあたってみたのですが、むだでした。リスベットさんは、自分の貯金を出そうといってくださったのです」
「それではお気の毒だわ」と、オルタンスがいった。
「お気の毒にねえ!」と、男爵夫人もいった。
「だけどリスベットさんの二千フランくらいで、どうなります? あの人にはそれでぜんぶでしょうが、ぼくたちには無いに等しい。そこでベットさんは、マルネフ夫人の話をもち出したのですが、オルタンス、きみもこれは知ってるね、その話だとマルネフ夫人は、自尊心の手前もあるし、男爵にもあれだけ世話になっていることだから、利息はいっさいとらないだろうというのです……。オルタンスはダイヤを質入れする気でした。そうすれば二、三千フランの都合はついたでしょうが、ぼくたちは一万フラン必要だったわけです。その一万フランがあのうちへゆけばちゃんと出る、無利子で、一年間!……ぼくはこう思いました、『オルタンスには何も知らせずにおくんだ、よし、借りにいこう』って。あの女はきのう男爵をとおして、ぼくを夕食に招待させました、つまりリスベットさんから話は聞いた、お金はご用立てするということを、それとなくいってきたわけです。オルタンスの絶望的な姿と、この招待のあいだで、ぼくは迷いはしませんでした。お話しすることはこれだけです。オルタンスは、二十四歳の、みずみずしい、純粋で、貞淑で、ぼくの幸福と名誉のすべてであるオルタンスは、結婚して以来そばを離れたこともないというのに、そのオルタンスよりもぼくがあの女を好きになるなどと、どうして考えられるでしょうか、えっ?……あんな渋茶色にやけた、ひからびた、パン粉をまぶしたような女を」と、彼は女の好きな大げさな表現で、自分の軽蔑のほどを信じさせるために、アトリエの隠語のひどい言いまわしをつかって、いった。
「ああ、お父さまがそんなふうにおっしゃってくだすっていたらね!」と、男爵夫人はさけんだ。
オルタンスはいかにも愛想よく、夫のくびに飛びついた。
「そうですよ、わたしだってそうしたでしょうよ」と、アドリーヌはいった。――「ヴェンツェスラスさん、この子はもう少しで死ぬところでした」と、彼女は厳粛な面持ちでつづけた、「この子がどんなにあなたを愛しているか、おわかりですね。なんといっても、この子はあなたのものですからね!」
そういって彼女は、深いため息をついた。
「娘を殉教者にすることも、しあわせな妻にすることもできる人なのだ」と、彼女は自分の心に言いきかせながら、娘を結婚させるときに母親ならだれでも考えるようなことを考えていた。――「わたしはもうじゅうぶんに苦しんでいるんですから」と、今度は声に出して、「子供たちのしあわせな顔ぐらい見られてもよさそうに思いますよ」
「だいじょうぶですよ、お母さん」と、ヴェンツェスラスは、さいわい先ほどからのあぶない場面が無事に終わったのを見て、すっかりうれしくなっていった。「二カ月もしないうちに、あのおそろしい女に金を返してしまいます。いまは仕方がないんですよ!」と、こうしたポーランド的な言葉をポーランド的な愛きょうをこめてくり返しながら、彼はつづけた、「悪魔から借りるときだってあるわけです。もともと、これはわたしたち一家の金なんですがね。それにせっかく招待されたものを、無礼なしうちに出たりでもしたら、ぼくたちにとってずいぶん高くついているこの金がはたして借りられたでしょうか?」
「まあ、お母さま、お父さまったらわたしたちをずいぶんひどい目にあわせるのね!」
男爵夫人は唇に指をあてた、それでオルタンスも不平を口にしたことを後悔した。それは崇高な沈黙によってこれまで雄々しくかばわれてきた父親にたいして、彼女が思わずもらした最初の非難だった。
「じゃ、これでさよならしますよ」と、ユロ夫人はいった。「どうやらまた空が晴れてきたようだから。でももうおたがいにけんかはおよしなさいね」
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六七 最初の心の痛手にまつわる疑い
ヴェンツェスラスと妻が男爵夫人を見送って部屋にもどってきたとき、オルタンスは夫にこういった。
「ゆうべの会のことを話してちょうだい!」
そして、話のあいだじゅう彼女はヴェンツェスラスの顔色をうかがいながら、こうした場合の女のつねとして口をついて出るままに矢つぎばやに質問をあびせて、話を中断させた。夫の話はオルタンスをもの思いにふけらした。そういうみだらな社会で芸術家たちが見出すにちがいない悪魔的な遊びごとが、なんとなく見えるような気がした。
「隠さずにいってちょうだい、ヴェンツェスラス!……ゆうべはスティドマンさんと、クロード・ヴィニョンさんと、ヴェルニッセさんと、あとはだれがいたの?……要するに楽しんだのでしょ、あなたも!……」
「ぼくが?……ぼくは一万フランのことしか頭になかったさ、心のなかではこんなことばかりいってたよ、『オルタンスが心配しなくてよくなるんだ!』って」
この尋問はリヴォニアの青年ヴェンツェスラスをくたくたに疲れさせた、そこで、ちょっと機嫌がなおったすきをとらえて、オルタンスにいった。
「じゃ、聞くがね、もしきみの彫刻家がまちがいを犯したんだったら、きみはどうしたね……」
「わたし」と、彼女はかわいらしい決意のほどを見せていった。「スティドマンさんを誘惑したでしょうね。けど愛してじゃないことよ、もちろん!」
「オルタンス!」と、スタインボックはさけぶやいきなり、芝居がかった動作で立ちあがって、「そんな暇があるものか、ぼくがきみを殺しちまうからな」
オルタンスは夫に飛びつき、息がとまるほど抱きしめ、いたるところに接吻して、いった。
「ああ! わたしを愛してるのね、ヴェンツェスラス! ほんとよ、なんにも心配ないわ! でもマルネフ夫人はもういや。あんな泥沼にもう二度と足を踏み入れないで……」
「誓うよ、オルタンス、一度だけ手形を取り返しに行くけど……」
彼女はすねてみせた、だが何かねだりたくてすねてみせる愛らしい女のすね方だった。朝早くからこんなことで疲れてしまったヴェンツェスラスは、妻には勝手にすねさせておいて、自分はサムソンとデリラの群像のひな型をつくりにアトリエへ出かけた。そのためのデッサンはポケットのなかにあった。オルタンスはすねたことが心配になり、ヴェンツェスラスを怒らせてしまったような気がして、アトリエにいってみたが、ちょうど夫は、芸術家を空想のとりこにしてしまうあの熱狂的な打ちこみようで、粘土をえぐって、だいたいの形をさぐりあてたところだった。妻の姿に気づくと、彼はざっとできあがった群像に急いで濡れた布を投げかけ、こう話しかけながらオルタンスを両腕で抱きしめた。
「ああ、ぼくたちはもうけんかなんかしていないんだね?」
オルタンスは群像を見てしまった。夫が布をかぶせてしまったが、なにもいわなかった。しかし、アトリエを出る前に、ふと振り向いて、しわくちゃの紙を拾って、そこに描かれたスケッチをじっとながめて、たずねた。
「なあに、これ?」
「そんな群像はどうかなって、ふっと思いついたのさ」
「じゃ、なぜお隠しになったの?」
「できあがってから見せようと思ったんだ」
「この女の人、ずいぶんきれいね!」と、オルタンスはいった。
すると心のなかに無数の疑惑が芽をふき、まるで東インド諸島のある種の植物が、芽をふいてから一晩で大きくなって、生い茂るかのようであった。
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六八 捨て子
三週間ほどたつと、マルネフ夫人はオルタンスにひどく腹が立ってきた。この種の女にもそれなりの誇りがあって、彼女たちは悪魔のけづめに人が接吻することを望み、その威力をおそれずに立ち向ってくる貞淑な女をけっして許さない。さて、ヴェンツェスラスは、あれ以来ただの一度もヴァノー通りをたずねてこなかった。デリラのモデルとしてポーズしてもらったあと、礼儀としてはたすべき訪問すらしていなかった。
リスベットがスタインボック家をたずねていっても、いつも家のなかはからっぽだった。旦那さまも奥さまもアトリエですごしているということだった。そこでリスベットが、仲むつまじい二羽のきじばとを追い求めて、グロ・カイユーの巣までいってみると、ヴェンツェスラスは熱心に仕事をしており、料理女から、奥さまは旦那さまのそばをけっして離れようとなさらないのだと聞かされた。ヴェンツェスラスは愛の独裁君主制にしばられているのだ。だからヴァレリーは自分のためにも、オルタンスを憎むリスベットに味方した。世の男たちが、数多くのうぬぼれ男から望まれる女に執着するように、女もやはり、競争相手のいる愛人に執着するのだ。そこで、マルネフ夫人についてくだした考察は、一種の男の娼婦ともいえるような女にもてる男にも完全に当てはまることだ。
ヴァレリーの気まぐれな恋は、まるで熱病だった。何よりも例の群像を手にしたいと思って、ある朝、ヴェンツェスラスに会いにアトリエへいくことを思い立ったのだが、この朝はちょうど、この種の女にとっては、fructus belli〔戦果〕と呼ぶことのできる重大事件がもちあがった。ヴァレリーがこのまったく個人的な事件をどのように知らせたか、そのいきさつはつぎのとおりである。彼女はリスベットとマルネフ氏といっしょに朝の食事をしていた。
「ねえ、マルネフ、あなた感づいているでしょう、またお父さんになりそうなことを?」
「ほんとか、できたのか?……よし、接吻させてくれ……」
彼は立ちあがって、食卓をまわりこんだ。そこで妻のほうは、接吻が髪の毛にふれるように加減して、額を突き出した。
「今度こそ」と、彼はつづけて、「わたしも部長だ、レジォン・ドヌール勲章ももてるぞ! そうさ! そうなんだよ。わしはスタニスラスに破滅させたくないからな! かわいそうなちびだ!……」
「かわいそうなちびですって?……」と、リスベットがさけんだ。「七カ月もあの子に会ってやらないじゃありませんか。わたしが母がわりに寄宿舎へよっているんですよ。なにしろあの子の世話をするのは、この家でわたしだけですからね!……」
「あんな子供でも三カ月に百エキュずつかかるんだから!……」と、ヴァレリーがいった。「とにかく、あなたの子供ですよ、あれは、マルネフ! あの子の寄宿代くらい、あなたの給料でちゃんと払うべきよ……そこへゆくと今度の子は、寮長の計算書を差し出すどころか、わたしたちを貧乏から救ってくれるわ……」
「ヴァレリー」と、マルネフは、ふんぞり返ったクルヴェルのまねをしながら答えた、「わたしはユロ男爵閣下が、ご子息のめんどうを見られることを希望するね。一介の平《ひら》役人にそんな役をまかされないことを望むね。男爵にはうんと手きびしいところを見せてやるつもりだ。だから確実な担保をとっておくんだね、奥さん! 何か今度の吉報のことにふれて書いたような手紙を、ぜひとも男爵からもらうようにすることだ。なにしろあいつはわたしの昇進のことはなかなか承知しようとしないんだから……」
そういって、マルネフは役所へ出かけていったが、局長とごく懇意だというので、十一時ごろに自分の部屋へいっても文句がでなかった。それにだれ一人知らぬものもない無能ぶりにくわえて、大の仕事ぎらいときているので、ろくに仕事もしなかった。
二人きりになるや、リスベットとヴァレリーは一瞬、何かの前ぶれのように、たがいに見つめあった。それからいっしょになってどっと笑いくずれた。
「ねえ、ヴァレリーさん、ほんとなの?」と、リスベットはいった。「それともただのお芝居?」
「肉体上の真実よ!」と、ヴァレリーは答えた。「オルタンスのおかげで、くさくさするの! それでゆうべ、この子供を爆弾みたいにヴェンツェスラスの家庭へ投げこんでやろうかと考えてたのよ」
ヴァレリーは自分の部屋にもどって、あとからついてきたリスベットに、すでに書きあげておいたつぎのような手紙を見せた。
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ヴェンツェスラス、わたしの大好きな人、わたしいまでもあなたの愛を信じています、あなたとはもうこれで二十日近くもお目にかかれませんのに。軽蔑していらっしゃいますの? デリラにはそうは考えられない。それよりも、いつかあなたがもうこれ以上愛してゆけないとおっしゃった人のために、身動きができないのではなくて? ヴェンツェスラス、あなたはとても偉大な芸術家です、そんなふうにしばられているのはおかしいわ。家庭なんて、名声の墓場です……。今のあなたは、ドワイエネ通りのころのヴェンツェスラスさんと似ていないでしょうか? わたしの父の記念像ではあなたも失敗しました。でも恋人のあなたは、芸術家のあなたよりずっと上ですわ、元帥よりも娘のほうで成功したのですから。あなたはお父さまになったのよ、わたしのいとしいヴェンツェスラス。わたしをこのままにしておいて会いにきてくださらないと、お友だちからずいぶん悪い人間だと思われてよ。だけど、わたしはあなたを気が狂いそうなほど愛しているから、あなたを呪うなどと、そんな元気はぜったいにありそうにない感じです。わたし心のなかでいつもこういっていいでしょうね。
あなたのヴァレリー
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「その手紙をあたしたちの親愛なるオルタンスが一人きりでいるときに、アトリエへ届けさせるって計画だけど、どう?」と、ヴァレリーはリスベットにきいた。「ゆうべ、スティドマンから聞いた話ではね、シャノールの店に何か用事があって、ヴェンツェスラスが十一時にスティドマンを迎えにゆくはずなの。だからあのけがらわしいオルタンスはひとりきりになるわ」
「そういう手をつかう以上」と、リスベットは答えて、「そのあとでは、もうおおっぴらにあなたと親しくしているわけにいかないわね。わたしあなたと縁を切らなくちゃいけない。もう会わない、口もきかないというふうに見られるようにしなくちゃ」
「もちろんそうよ」と、ヴァレリーはいって、「だけど……」
「あら! だいじょうぶ」と、リスベットがさえぎった。「わたしが元帥夫人になったら、また会えるようになるわよ。あの連中もいまじゃみんなそれを望んでるわ。男爵だけがこの計画を知らないのだけど、あなたからいわれたらその気になるのよ」
「でも」と、ヴァレリーは答えた。「ひょっとしたらあたし、もうすぐ男爵とまずいことになるかもしれない」
「オリヴィエのおかみさんぐらいだわ、あの人ならオルタンスにその手紙を押えられてもおかしくないわ」と、リスベットはいった。「アトリエへゆく前に、ひとまずサン・ドミニック通りへおかみさんをやることね」
「そうだわ! あのかわいい人、きっとうちにいるわ」そう答えながら、マルネフ夫人は、オリヴィエのおかみさんをつれてくるようにいうために、鈴を鳴らしてレーヌを呼んだ。
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六九 寝室に現われた第二の父親
この致命的な手紙を届けにやってから十分ほどして、ユロ男爵がやってきた。マルネフ夫人は猫のような身ごなしで、老人のくびに飛びついた。
「エクトル、あなたお父さんになったのよ!」と、彼女は耳もとでいった。「ほらね、けんかをして、仲なおりをすると、こういうことになるものよ……」
しばらくは隠そうとしなかった男爵のおどろきようを見ると、ヴァレリーは急によそよそしい態度になり、参事院議員を絶望的な気持ちにした。彼女は問いつめられるままに、決定的な証拠を一つ一つならべあげた。うぬぼれにやさしく手を引かれた確信が、老人の心にはいりこんだところを見すますと、とたんに彼女はマルネフ氏の憤慨ぶりを話した。
「ねえ、あたしの老兵さん」と、彼女は話しかけた。「あなたの編集責任者、というのがおいやなら、わたしたちの編集者のマルネフを部長に任命して、レジォン・ドヌール四等勲章の持ち主にしてやらないと、いよいよむずかしくなるわよ。だってめちゃくちゃにしてしまったんですもの、あなたが、あの男を。ずいぶんスタニスラスをかわいがってるのよ。あの人によく似てるの、あのちびの怪物《ヽヽ》、あたしにはがまんできないけれど。それよりスタニスラスに千二百フランずつの年金をやってくださらなくちゃ、もちろん虚有権だけで、用益権はあたしの名義でね」
「しかし年金を出すんなら、わしの子供の名義にしたいね、怪物《ヽヽ》になどやれんよ!」と、男爵はいった。
この不用意な言葉、そのうちでもわしの子供という言葉は、まるであふれんばかりの河のように大きくふくれあがってしまったが、一時間ほど話し合ったころには、それは、やがて生まれてくる子供に千二百フランの年金を出すという、はっきりとした約束に変わってしまった。ついでこの約束は、ヴァレリーの口先や表情に出て、まるで子供の手に太鼓をあずけたようなかたちになった。この先二十日間は、彼女はそれをおもちゃにするにきまっていた。
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七〇 母と娘のちがい
結婚してから一年がすぎて、そろそろあとつぎがほしいと思っていた男のように、ユロ男爵ははればれした気分でヴァノー通りから引きあげるころ、すでにオリヴィエのおかみさんは、伯爵にじかに手渡すはずの手紙をオルタンスに取り上げられていた。若妻はこの手紙に二十フランの金貨を払った。自殺する人間は、阿片とか、ピストルとか、炭とかに、わざわざ金を払う。
オルタンスは手紙を読んだ、また読み返した。黒い文字が並んでまだらになった白い紙しか目にはいらなかった。この広い自然界にあるのは、ただこの紙きれだけで、まわりのものは何もかもまっ黒だった。彼女の幸福の殿堂をなめつくす火炎がその紙片を照らし出していた。なぜならこのうえない深い夜の闇が彼女のまわりに立ちこめていたからだ。そのへんで遊んでいる幼いヴェンツェスラスのさけび声が、まるでこの子は谷底にいるかのように、そして自分は山の頂上にいるかのように、はるか遠くに聞えていた。二十四歳の若さで、しかも清らかな、献身的な愛にひときわかがやき、まばゆいばかりに美しくなっているときに、こんな侮辱を加えられるということは、短刀でぐさりとやられることでなく、そのままが死であった。最初のあの打撃は、純粋に神経的なものだった。嫉妬に責めさいなまれて肉体がのたうちまわった。だが、いまは、確信が魂をおそい、肉体は無になってしまった。オルタンスは十分くらいのあいだ、この魂をしめつける苦しみに圧倒されていた。母のまぼろしが現われて、彼女を一変させた。落ちついて冷静になり、理性をとりもどした。彼女は呼び鈴を鳴らした。
「ねえ、ルイーズにも手伝ってもらって」と、彼女は料理女にいった。「できるだけ急いで、ここにあるわたしのものぜんぶと、それから坊やのものぜんぶを荷物にまとめてちょうだい。一時間ですませるのよ。すっかり用意ができたら、広場へいって馬車を呼んできて、わたしに知らせてちょうだい。何もきかないで! わたしはこの家を出ます。ルイーズも連れていくわ。あんたは旦那さまといっしょにいてくださいね。よくめんどうを見てあげるんですよ……」
彼女は自分の部屋にいって、テーブルに向かうと、つぎのような手紙を書いた。
[#ここから1字下げ]
伯爵さま
ここに同封しました手紙で、このような決心をした事情がおわかりいただけると存じます。
これをお読みになるころ、わたしはすでにあなたのもとを離れて、坊やといっしょに母のそばへ帰っていることでございましょう。
わたしがいつか思いなおすだろうなどと、あてになさらないでくださいませ。これを若さゆえの腹立ちや無分別、年若な愛を侮辱されたための短気だなどと、お考えになりませんように。そうおとりになるとしたらたいへんなまちがいでございます。
この二週間というもの、人生のこと、愛のこと、わたしたちの結婚のこと、おたがいの義務のことについて、自分でもおどろくほど考えました。わたしは母が犠牲になったことをすっかり知りました、母は自分の悩みを打ち明けてくれたのです! 母は雄々しい人です、この二十三年間、一日としてそうでなかったことはありません。けれどもわたしには、母をまねるだけの気力があるとは思えません。何も母が父を愛するほどに、わたしがあなたを愛さなかったというのではなくて、わたしの性格がそうさせるのです。このままおそばにおりましたら、わたしたちの家庭は地獄に変わることでございましょう。そしてわたしは、あなたに恥をかかせ、わたしたちの子供に恥をかかせるほど取り乱してしまうことでしょう。わたしはマルネフ夫人のような女にはなりたくございません。それに、あのような道に足をふみいれたら、わたしのようなたちの女はおそらく途中では止まらないでしょう。わたしにしてみれば不幸なことなのですが、わたしはフィッシェル家のほうではなく、ユロ家の血をひいた娘ですから。
あなたのふしだらな行ないの見えるところから遠く離れて一人でおりますけれど、自分のことには責任をもつつもりでいます。強くてけだかい母のそばで、何よりも坊やのことに専念するつもりでございます。母の生活はわたしの心の騒がしい動きをしずめてくれるでしょう。あそこでしたら、いいお母さんになって、坊やをりっぱに育てて、生きてゆくことができます。あなたのおそばですと、妻が母を殺すようになるでしょうし、絶えまのない争いで、わたしの性格もとげとげしくなってしまうでしょう。
一突きで殺されるのでしたら死もいといません。けれども母のように、二十五年間も病人でいるのはたまらないと思います。三年のあいだたゆみない絶対の愛がありましたのに、あなたのおしゅうとさんの愛人のためにあなたはわたしを裏切ったのですもの、これから先まだどんな競争相手をおあたえになりますことか。ああ、あなたはわたくしの父よりもずっと早く、女道楽と浪費の生活をおはじめです、一家の父たるものの名を辱かしめ、子供たちの尊敬を失う生活、そしてその果てには、恥辱と絶望があるばかりのあの生活を。
わたくしは少しも執念深い女ではございません。いつまでも頑固な気持ちでいるのは、神に見守られて生きてゆくかよわい人間にはふさわしくはございません。もしもたゆまざるお仕事によって名声と地位を獲得なさいましたら、娼婦をすて、けがらわしい泥道をおすてになりましたら、そのときはあなたさまの妻として恥ずかしくない妻が、またおそばにもどることでございましょう。
あなたさまはあまりにも貴族でいらっしゃいますから、法律に訴えるようなことはなさるまいと信じております。伯爵さま、どうかわたしの意志もお認めくださって、母のもとにそっとしておいてくださいませ。ことに、けっしておたずねくださいませんように。あなたさまがあの醜悪な女からお借りになったお金は、いっさいお手もとに残してございます。では、これにてお別れいたします。
オルタンス・ユロ
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やっとの思いでこれだけの手紙を書いたが、ともすればオルタンスは、とどめを刺された情熱のもらすとめどない涙に、さけびに、身をまかせるのであった。いくどかペンをすて、また取り上げて、普通、こうした遺言書のなかで愛が朗読調でのべたてようとすることを、簡単に言いあらわそうとした。胸の思いは、さけびや、うめき声や、涙となってあふれ出た。しかし理性が、記すべき言葉を語ってくれた。
ルイーズから用意のできたことを知らされた若妻は、庭や、居間や、客間をゆっくりと歩いてまわり、最後の見おさめに、目にふれるものすべてをしみじみとながめた。それから料理女に、もし正直につとめてくれるつもりならそれだけの報いはするからと約束しながら、旦那さまが満足のゆくように気をくばってくれるよう、くれぐれも言いきかせた。最後にやっと、母のもとへおもむくために、彼女は傷ついた心をいだいて、馬車に乗った。小間使いも見ていて悲しくなるくらい泣きながら、そして幼いヴェンツェスラスには、いまなおこの子の父親にたいする愛をはっきりと物語るような狂おしいばかりの喜びを見せて、接吻をあびせかけながら。
男爵夫人はすでにリスベットから聞かされて、娘の婿のあやまちにはしゅうとが大いに関係があることを知っていたから、娘が帰ってきたのを見てもおどろかなかった、彼女は娘に同意し、手もとへおくことを承知した。アドリーヌは優しさと献身がついにエクトルを引きとめえなかったことを見てきたし、夫にたいする敬意も最近ではうすらぎかけていて、娘が自分とは別の方法をえらんだのも当然だと思った。
わずか二十日間で、あわれな母親は、その痛みが過去のあらゆる苦しみをしのぐような傷を、二度までも受けたのだった。男爵はまずヴィクトラン夫婦を苦境におとしいれた。つぎに、リスベットによると、ヴェンツェスラスが狂い出した原因も男爵で、彼は自分の婿を堕落させてしまったのだ。ばかばかしい幾多の犠牲によってじつに長いあいだ支えられてきた家長たるこの父親の威厳は、いまや地に落ちてしまった。ユロの若夫婦も、金をおしんではいないのだが、男爵にたいしては不信と不安を同時にいだいていた。ありありと見えるその感情に、アドリーヌは深い悲しみをおぼえ、一家の離散を予感するのだった。
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七一 寝室に現われた第三の父親
男爵夫人は娘を食堂に住まわせることにして、いそいで食堂を改造して寝室にしたが、それには以前元帥からもらった金があてられた。もとの応接間のほうは、多くの家でよく見かけるように、食堂になった。
自宅に帰って、残された二通の手紙を読み終わったヴェンツェスラスは、喜びと悲しみがともども相半ばするといった気持ちを味わった。このところいわば妻に監視されているような具合だったので、リスベット式の禁固状態を再現するやり方には、内心反撥を感じていたのだ。妻と同様、彼のほうでもこの二週間ばかりのあいだいろいろとものを考えさせられていたが、それというのもここ三年来、妻の愛情に満喫しきっていたからこそだった。そして家庭というものは背負うには重い荷物だと思うようになっていた。ヴェンツェスラスは、今しがた、ヴァレリーに慕われるようになったことでスティドマンからおだてられてきたところだった。というのはスティドマンは、容易に想像できる下心から、オルタンスの夫の虚栄心につけ入っておだてておくことがこの際得策であると判断したからだ。つまりそうしておけば、浮気の犠牲者であるオルタンスを慰める機会にもめぐまれるだろうと思ったのである。
こういうわけで、ヴェンツェスラスは、マルネフ夫人のところにもどれるのがうれしくもあった。しかしまた同時に、これまで味わってきたなにひとつ欠けるところのない清らかな幸福や、オルタンスのすぐれた人柄や、その賢さや、またその純情無垢な愛情を思って、妻に愛惜の念を覚えずにはいられなかった。許しを乞うために義母のもとに駆けつけようと思ったが、結局は、ユロやクルヴェルと同じ仕儀となった。つまりマルネフ夫人に会いに出かけ、あなたのおかげでこんな災難が降って湧いたといってみせるため、妻の手紙を持参した。いわばこうして不幸の手形を割り引いて、そのお返しに快楽の代償を情婦から引き出そうと思ったのだ。ヴァレリーのところにはクルヴェルが来ていた。区長はいまや得意を満面にみなぎらせて、激しい感激に動かされている男のように、客間のなかを行ったり来たりしていた。なにかしゃべりたそうな様子でぐっとそり身になって見せるのだが、さすがに口には出しかねていた。その顔つきは晴ればれとかがやき、窓のところに急ぎ足で歩みよっては窓ガラスを指でたたきなぞしていた。クルヴェルはヴァレリーをしみじみと感動した面持ちで眺めやっていた。彼にとって好都合なことには、そのときリスベットがはいって来た。
「ベットさん」とクルヴェルは彼女の耳もとにささやいた。「聞いたかね、わたしに子供ができたんですぜ。かわいそうだが、セレスティーヌさえ、前ほどにはかわいくなくなったような気がしてきてね。まったく、ぞっこんまいっている女に子供ができるとはねえ。これこそまさに、血のつながりに愛情のつながりをあわせ、正真正銘おやじになるってことですよ。ねえ、ヴァレリーにもそういってくれないか。わたしはその子のために精出して働くとね。その子には、なに不自由のない暮しをさせてやりたいからねえ。彼女の話じゃ、どうやら男の子らしいというじゃないか。それと思われるふしがいろいろあるそうだ。もし男の子ならクルヴェルの姓を名乗ってもらいたいものだな。ひとつ公証人に相談してみるとしよう」
「ヴァレリーさんがあなたを愛していることはわたしも知っているわ」とリスベットがいった。「でもね、あなたがた二人の将来のために、お願いですから我慢して、そんなにしょっちゅう手をこすったりしないでくださいな」
リスベットがクルヴェルと二人だけでこんなことをひそひそ話しているあいだ、ヴァレリーはヴェンツェスラスに例の手紙を返してくれといっていた。そして彼の耳もとにつぎのような言葉をささやいて、ヴェンツェスラスの憂うつを吹きとばしてしまった。
「やっと自由の身になったのね」とヴァレリーがいった。「大芸術家ともあろうものが、結婚なんかすべきものでしょうか。あなたがた芸術家にとっては、気まぐれと自由こそ、生きがいなのよ。ねえ、わたしの大切な詩人さん、あなたのことうんとかわいがって、奥さんのことなぞけっして思い出したりはしないようにしてあげますわ。でも、これは普通一般の人が考えがちのことだけど、それじゃあ世間体がまずいというんだったら、ちかぢかオルタンスさんがあなたのところに帰るように骨折ってあげてもいいことよ……」
「ああ、そうしてもらえればありがたいな」
「お安いご用だわ」とヴァレリーはむっとしながらいった。「あなたのおしゅうとさんは、お気の毒ながらあらゆる点からみて、もう|やき《ヽヽ》がまわっちまってるのよ。それなのに見栄を張ってまだもてるってところを見せたいのだし、女がいるってことをみんなに信じこませたがっているのね。こういうことについてのあの人の虚栄心は、そりゃあ大したもんだから、その点を利用して、わたしもうあの人をすっかり牛耳《ぎゅうじ》ってるの。男爵夫人はまだあの老いぼれエクトル――なんだか『イリアス』物語の話でもしているみたいね――を愛しているから、あの二人の老人がオルタンスを説得すれば、仲なおりするのは造作もないわ。ただ、あなたの家庭に風波《ふうは》を立たせたくないんだったら、二十日間ものあいだ、あなたの恋人のところにごぶさたするなんてまねはなさらないで……わたしもう死にそうだったのよ。ねえ、あなた、あなたも紳士だったら、女性をあんなにひどい目に会わせた以上、当の女性にたいしては敬意を払うものだわ。とくに、その女が、世間の手前、いろいろと気をつかわなけりゃいけないときにはね……ゆっくりして夕食でも食べてらっしゃいな……でも、あなたはいやでも目につくようなあやまちのそもそもの張本人なんだから、わたしあなたにはよそよそしなくちゃならないのよ。そこんとこをよく考えてね」
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七二 マルネフ教会の五人の教父
モンテス男爵の来訪が告げられた。ヴァレリーは席を立つと出迎えに走っていったが、モンテス男爵の耳もとにしばらくささやくと、ヴェンツェスラスにいまいったのと同じようなことをいって、慎重な態度を求めた。というのもブラジル人は、例の大ニュースを耳にするや、そうした場合にふさわしい大げさな表情をして見せたからである。この知らせは彼をすっかり喜ばせてしまった。
モンテスは自分が父親であることを疑ってもみなかったのだ! 恋人の状態にある男性の自尊心をたくみに利用したこの戦術のおかげで、ヴァレリーは、いずれも自分こそは熱愛されていると信じ、いずれもうれしそうで活気にあふれ、有頂天になっている四人の男を食卓にはべらせることができた。マルネフはその仲間に自分も加えて、冗談半分に、教会の五人の教父たちだね、とリスベットにいった。
ひとりユロ男爵だけが、それもはじめのうちだけ浮かない顔つきをしていた。そのわけはこうだ。ユロ男爵は役所から帰りがけ、人事局長に会いに行ってきた。局長はある将軍で、三十年来の友人だった。コケは辞職を承諾しているから、あとがまにマルネフを任命したいと男爵がいった。
「ねえ、君」と彼は局長にいった。「君とぼくのあいだで意見が一致し、君の同意が得られないかぎりは、元帥にこのお願いはしたくないのだよ」
「だが君」と人事局長が答えた、「ちょっといわせてもらいたいことがあるんだ。君自身のためにもその任命にはこだわらないほうがいいんじゃないか。君にはぼくの意見はもう前に言ったっけね。そんなことをすれば役所中の噂のたねになるよ。それでなくても、君とマルネフ夫人のことは大いに噂になっているのだからね。むろんこれはここだけの話にしておくよ。ぼくは君の痛いところはふれたくないし、なんであれ君の困るようなことはしたくないと思っているんだ。その証拠にたとえばこうしたらどうかと考えてもいるのさ。つまり、君がどうしてもというんなら、コケ君の地位がどうしても必要というんなら、これは陸軍省にとってはまったくの損失だが(彼は一八〇九年以来の古株だからな)ぼくは半月ばかりいなかに行ってようじゃないか。そうすれば君は元帥に自由にはたらきかけることができるだろう。なにしろ元帥は君を息子同様に愛しているんだからね。ぼくはその人事に賛成でも反対でもないってことになる。行政官としての良心に恥ずることもしないですむわけだ」
「ありがとう。君のいまいったことはよく考えてみるよ」
「ねえ君、こんなことをあえていわしてもらったのも、ぼく自身の仕事や自尊心の問題である以上に、それが君の個人的利害にかかわることだからなんだ。なんといっても元帥の気持ちしだいだし、それにねえ君、われわれはどうせ世間からいろいろと非難をあびているのだから、非難のたねが一つ増えようが減ろうが、いずれにせよ同じことかも知れないよ。世間から攻撃を受ける点にかけちゃ、どっちみちわれわれは|うぶ《ヽヽ》じゃないからね。王政復古のころなど、ただもう俸給をやるだけの目的で任用したもんだ。その人物がどんな仕事をするかなんていっこう気にもしないでね……。なにしろわれわれは昔からの仲間だ……」
「そうだとも」と男爵が答えた。「昔なじみの貴重な友情に傷をつけたくないからこそ……」
「いいとも」と人事局長はユロの顔に困惑の色が浮かぶのを見ていった。「ぼくは旅行に出かけることにしよう……しかし注意したまえよ。君には敵がいるのだ。つまり、君の素晴らしい俸給に目をつけている連中がいるってことだよ。しかも君はたった一個の錨でつなぎとめられているにすぎないのだからな。ああ、ぼくのように代議士になっていれば、君もなんにもおそれる必要はないのだがねえ。だから自重してくれたまえ……」
友情にあふれた話しっぷりに、参事院議員は大きな感銘を受けた。
「だがそれにしてもロジェ君、それはどういうことなんだね。ぼくにはなにもかもあけすけにいってくれてもいいじゃないか」
ユロがロジェと呼んだ人物は、ユロの顔をじっと見ると彼の手をとって握りしめた。
「おたがいに古いつきあいだから、意見をひとついわせてもらってもよかろう。もし君が地位を失いたくないんだったら、安心していられる場所を自分で作りださねばだめだと思う。だからもしぼくが君だったら、マルネフ君のためにコケ君の地位を元帥に求めるかわりに、むしろ元帥に、その影響力を利用して参事院の終身委員の席を都合してくれと頼むだろうな。そうすれば死ぬまで安心だからな。そして海狸《ビーバー》じゃないが、さっさと水にもぐって、局長の地位などは猟官屋どもにくれてやるさ」
「なんだって。元帥がまさかぼくのことを忘れてしまわれたわけではあるまい?」
「ねえ君、元帥は、閣議の席で君のことをじつによくかばってくれたんで、君を馘《くび》にしようなどとはもうだれも思っていないよ。しかし問題には一応なったんだぜ……だから口実はあたえないほうがいい……これ以上はぼくも言いたくない。いまなら条件をつけることだってできる。つまり、参事院議員兼上院議員になることもできる。しかしぐずぐずしていると、言いがかりのたねをまいたりすると、ぼくにはもうなんとも請け合えない……やっぱりぼくを旅に出させたいかね?」
「ちょっと待ってくれたまえ。元帥に会ってみよう」とユロが答えた。「いや様子をさぐるために、兄貴に頼んで元帥に会ってもらおう」
男爵がマルネフ夫人のもとにもどって来たとき、彼がどんな気持ちになっていたかは想像もつこうというものだ。自分が父親になったこともほとんど忘れかけていた。というのも、ロジェは、真実味のこもった友情を発揮して、彼がいま置かれている立場をあきらかにしてみせてくれたからだ。だが、ヴァレリーの影響力はたいへんなもので、晩餐も半ばごろになると、男爵は一同に合わせて浮かれた気分になり、まぎらさなければならない心配事が多ければ多いだけに、かえって陽気にはしゃぎだした。しかし不幸な男爵は、自分が、人事局長が注意したような危険と幸福とのあいだの板ばさみになり、マルネフ夫人が大事か自分の地位が大切か、こんばん選択をせまられることになろうとは夢にも思わなかったのである。
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七三 しぼられる父親
十一時ごろになって、夜会のにぎわいも今がたけなわという時分――それというのも、客間は人でいっぱいになっていたからだが――ヴァレリーはエクトルをいざなって、自分のすわっている長椅子のひと隅に腰かけさせた。
「ねえあなた」とヴァレリーは彼の耳もとにささやいた。「あなたのお嬢さんは、ヴェンツェスラスがここに来ることにたいへんご立腹で、とうとう亭主を置き去りにして家をとびだしちまったそうよ。オルタンスさんて勝手な人ね。あのおばかさんが書いた手紙をヴェンツェスラスに頼んで見せてもらうといいわ。好いた仲の二人が喧嘩わかれしちまったのも、もとはといえばわたしのせいだというわけで、わたしがひどい目にあいかねないわ。だって貞淑な奥さまたちがおたがいにやっつけあうときの手口はそんなものですもの。いかにも犠牲者然とした様子を気どるなんて、とんでもない話だわ。おまけにみなさんが喜んで来てくださる気持ちのいい家をもっているという以外には、なんにも悪いことをしてない女をつかまえて、難くせつけるなんて。もしもあなたがわたしをかわいいと思っているなら、|おしどり《ヽヽヽヽ》夫婦を呼びもどして、わたしの無実の罪をはらしてくださいな。それから、わたしあなたのお婿《むこ》さんを家にお招《よ》びしたいなんて、ちっとも思っていないのよ。あの人を連れて来たのはあなたじゃないの。連れて帰ってよ。もしあなたに家庭内での実権があるのなら、奥さんに要求して仲なおりの取りもちをしてくれてもいいはずだわ。あの、人のよいおばあさんに伝えてちょうだい。若夫婦を仲たがいさせただの、家庭の平和を乱すだの、おやじさんと婿の両方を取っただの、根も葉もないことでわたしを悪くいうようだったら、わたしにも覚悟がある。おやじさんと婿の両方を、わたし流のやり方でたっぷりいじめてやるから、ってね。だって、リスベットさんまでがここを出て行くという始末じゃありませんか……わたしより自分の親類が大事ですとさ。それもまあそれでいいけれど、若夫婦が仲なおりしないかぎり、ここにはいられないといっているのよ。そうなりゃほんとうに困っちまうわ。ここの物入りが三倍になるんですもの……」
「なるほど。そういうことなら」と男爵は娘が家出したことを聞いていった。「わたしがうまくはからってみよう」
「そうしてちょうだい」とヴァレリーがまたいった。「それからこれは別の話だけれど……コケの椅子はどうなって?」
「そのことだが」とエクトルは目を伏せながら答えた。「そいつは、不可能とはいわないが、ちょっとむずかしいんだよ……」
「不可能ですって? ねえ、エクトル」とマルネフ夫人は男爵の耳もとにささやいた。「マルネフがどんなにとんでもないことを仕出かすか、あなたはご存知ないのよ。わたしはもうすっかり彼に尻尾《しっぽ》をつかまれているの。男ってたいがいそうだけれど、あの人も自分の損得のこととなると不道徳なことだって平気でやるのよ。おまけに気の小さい人間や、力のない人間のご多分にもれず、とても復讐心が強いときてるのね。あなたのおかげで困った立場に置かれたわ。こうなればわたしなんかあの人のいうなりだわ。ここしばらく、あの人のご機嫌をとらないわけにはいかなくなったわね。あの人、わたしの部屋から出て行かなくなるかもしれなくてよ」
ユロは仰天して体をのけぞらした。
「部長にするって約束があったからこそ、これまでわたしに好き勝手なことをさせといてくれたんですもの。いやらしいとは思うけど、でも理屈は合ってるわね」
「ヴァレリー、わたしを愛しているかい」
「わたしがこんなに困った立場にいるのに、そんなことを聞くなんて、ねえあなた、それじゃまるで車夫馬丁にも劣る図々しさだわ……」
「じゃあいうが、元帥にマルネフのための椅子でも要求しようものなら、ちょっと口に出しただけで――いいかい、口に出しただけでだよ、わしは職を追われ、マルネフは馘《くび》になるだろうね」
「わたし、公爵とあなたとは親友だとばかり思っていたわ」
「そのとおりだ。公爵はその証拠をこれまでずいぶんと見せてくれたものだ。しかしなあ、元帥の上には別の人間がいる……たとえば閣議だってある……しかし、しばらくの時間をかけて、まわり道をすれば、目的を達することができるのだ。うまくやろうと思うなら、わしが何かものを頼まれるまで、時機を待つにかぎる。そのときこそわしは『頼みの筋は承知したが、こっちにもお願いがある』といってのけられるのさ」
「わたしがもしそんなことをマルネフにいおうものなら、あの人、きっとなにか意地の悪い細工をするにきまってるわ。そうだわ、時機を待てって、ご自分でおっしゃってよ。そんないやな役目、わたしはごめんだわ。やれやれ、これからどうなるかわたしにはちゃんとわかってるのよ。あの人、わたしの痛いところを知ってるんだもの。わたしの部屋にきっと居すわるにちがいないわ……子供のための千二百フランの年金、あれ忘れないでね」
ユロはマルネフを脇に呼んだが、自分の快楽の先行きがあやしくなったのを感じていた。そして、これまでの横柄な口調を捨てた。つまり、この半分死にかけたような男が、美人の寝室に居すわるのかと思っただけで、それほどあわてふためいてしまったのだ。
「なあ、マルネフ君」とユロがいった。「きょう、君の話が出たんだが、どうもすぐには部長になれそうもないよ……やっぱり貸すに時をもってせよ、ということだねえ」
「男爵、やっぱり部長にさせていただきましょう」とマルネフはきっぱりと答えた。
「そんなこといったって、君」
「いや、男爵、部長にさせていただきます」とマルネフは、男爵とヴァレリーの顔をかわるがわる見やりながら、冷然とくり返した。「あなたのおかげで、家内はわたしと仲なおりせざるを得ない立場に置かれましたな。家内はたしかにおあずかり致します。それに、|ねえあんた《ヽヽヽヽヽ》、家内はなかなか魅力的な女ですからねえ」とマルネフはぞっとするような皮肉をつけ加えた。「あなたが役所で局長|面《づら》をなさる以上にここではわたしが亭主面をさせてもらいますよ」
男爵は、胸中に歯の痛みにも似た激痛をおぼえ、あわや目に涙さえ浮かべそうになった。こうした束《つか》の間のやりとりのあいだに、ヴァレリーはアンリ・モンテスの耳もとにささやいて、マルネフの意志とかいうものを伝え、そうやって、彼をしばらくのあいだ追っ払っておく算段をした。
四人の崇拝者のなかでは、例の安上りな家をもっているクルヴェルだけが、この措置から除外された。そこで、その顔つきにまったく傍若無人としか言いようがないほどのうれしそうな様子をあらわし、ヴァレリーが眉をしかめて見せたり、意味ありげな表情をして見せたりして、いくらたしなめても、いっこうに効き目がなかった。父親たることのうれしさが、表情のいたるところに輝いていた。ヴァレリーが耳もとに非難めいた言葉をささやくと、クルヴェルは彼女の手をつかんで、
「あしたになれば、あの小ぎれいな邸は君のものになるんだよ、公爵夫人。あした最後の入札が行なわれるからね」と答えた。
「で、家具はどうなるの?」とヴァレリーが微笑しながら返事をした。
「わしは、ヴェルサイユ鉄道の左岸の株を千株持っているのだ。百二十五フランで買ったんだが、これが鉄道会社の合併で二百フランにはね上がることになってる。まだ秘密だが、わしはちゃんと……知っているんだ。君は女王さまのように見事な家具に取り囲まれることになるよ。……君はわしだけのものなんだろ、え?」
「そうよ、太っちょの区長さん」とこの下町のメルトゥイユ夫人〔ラクロ『危険な関係』中の人物。冷酷非情の女〕ともいうべき女は、笑いながらいった。「でも態度には気をつけてね。未来のクルヴェル夫人を尊重してちょうだい」
「兄さん」とリスベットが男爵にいっていた。「わたし、あすの朝早くアドリーヌさんのところに行くわ。だって、わたしここにいちゃ格好が悪いもの。わかってくださいな。わたし、あなたのお兄さまの元帥の世帯の切り盛りをするつもりよ」
「わしも今晩は家に帰るよ」と男爵がいった。
「まあそうなの。じゃ、わたし、あした朝ご飯をいただきに行くわ」とリスベットが微笑しながら答えた。
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七四 悲しい幸福
翌日もちあがるはずの家庭騒動には自分が立ち会うことがどんなに必要か、リスベットにはよくわかっていた。それで彼女は朝からヴィクトランのところに出かけて行き、オルタンスとヴェンツェスラスが別居したいきさつを伝えた。
男爵がその晩の十時半ごろ自分の家に帰ってみると、ちょうどその日じゅう忙しく立ち働いたマリエットとルイーズが、アパルトマンの扉を閉めかけていたところだったから、ベルを鳴らさないでも中にはいることができた。日ごろに似ないまじめな亭主ぶりがなんとなく気恥ずかしく、ユロはまっすぐに夫人の寝室に足を向けた。半開きになった部屋の扉から中をのぞいて見ると、妻はお祈りに没頭して十字架像の前にひざまずいているところだった。画家や彫刻家がそういう姿をたまたま目にし、しかも幸いにしてそれをよく表現することができたなら、必ずや名声を博するに相違ないような感動的な姿がそこにあった。アドリーヌはすっかりお祈りに夢中になって、言葉を声に出していっていた。
「神さま、どうかあの人の目をさまさせてくださいまし……」
このように男爵夫人は、エクトルのために祈っていたのだ。いましがた目にしてきた光景とはまるでちがうこうした場景を見て、またその日の出来事のために妻の口をついて出たこの言葉を耳にして胸をうたれた男爵は、思わず吐息《といき》をもらした。アドリーヌは、涙にぬれた顔のまま、ふり向いた。祈りが聞きとどけられたものとばかり思ったアドリーヌは、ふいに立ちあがると、うれしさに胸をおどらせながら力をこめて夫を抱きしめた。アドリーヌには女として打算などはもうまるでなかった。悲しみが思い出までも消してしまったのだ。彼女のうちにあるものは、ただ母性と、一家の名誉を思う気持ちと、道を踏みはずした夫にたいするキリスト教徒の妻としての清らかな愛情だけだった。こうした神聖な情愛こそは、女の心のなかにあって、なにものにもめげず生き残る感情なのだ。その様子を見れば、そうしたことがすべておのずから察しられるのだった。
「エクトル」とようやく彼女が口を開いた。「帰って来てくださいますのね? 神さまはわたしたち一家をあわれと思召《おぼしめ》されたのでしょうか」
「アドリーヌ」と男爵は、部屋のなかにはいり、自分のかたわらの肘掛け椅子に妻をすわらせながらいった。「おまえはわたしの知るかぎりもっとも清らかな心をもった女だ。そして、わたしがおまえにはふさわしくない夫となってから、もうずいぶんになるね」
「あなたはほんのちょっとしたことさえしてくださればいいのですわ」とユロの手をとりながらいったが、体をひどくふるわせていたので、まるで神経性の痙攣にでも襲われたかのようだった。「ちょっとしたことで、なにもかも簡単にもとどおりになりますのに……」
そのさきを夫人は口に出して言いかねた。言葉の一つ一つが非難になるということを感じたからだったし、思いがけず夫に会えて、奔流のように胸にあふれる幸福な気持ちを台無しにしたくなかったのだ。
「オルタンスのことで来たのだよ」とユロがいった。「あの子に早まったことをやられては、わたしたちがいい迷惑だ。それこそ、ヴァレリーへのわたしのばかげた恋よりももっと困ったことになる。まあしかしこのことは明朝話すとしよう。マリエットに聞いたんだが、オルタンスはもう眠っているそうじゃないか。寝かせておいてやろう」
「そうですわね」とユロ夫人は言ったが、ふいに深い悲しみに襲われていた。
男爵が家に帰って来たのも、家族のものに会いたくなったからではなくて、一家には関係のない計算がはたらいてのことだと、彼女にはわかったからだった。
「あしたもそうっとしておいてやりましょうよ。だってあの子はかわいそうにすっかりまいっているのですもの。きょうも一日じゅう泣いて暮していましたのよ」と男爵夫人がいった。
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七五 マルネフ夫人のような女はいかに家庭を破壊するか
その翌日、娘にくるようにと言いつけた男爵は、朝の九時、娘のやってくるのを待ちながら人気《ひとけ》のない大きな客間のなかをしきりに歩きまわっていた。なだめるにはもっとも手強《てごわ》い強情、つまり侮辱されて心《しん》からおこっている若妻の強情を打ち負かすにはどんな理屈をもちだしたものかと、男爵はいろいろ思いあぐねていた。身にやましいところのない若い人というものは、世間の色も欲も知らず、世の中の恥ずべきやりくりにも通じていないから、ひとたび立腹すると容易に怒りをとこうとはしないものだ。
「お父さま、なにかご用ですの」と、オルタンスがふるえ声でいった。心痛のためその顔はすっかり蒼ざめていた。
ユロは椅子の上に腰をおろすと、娘の腰を抱き、彼女を無理やり膝の上にすわらせた。
「なにかね」と男爵は娘の額に接吻しながらいった。「夫婦げんかをして、思いきりよく飛び出しちまったってわけかい……育ちのいい娘《こ》がすることじゃないね。家出をするとか、夫を捨てるとか、そういうたいへんなことをするときには、親に相談するものだよ。自分一人できめてしまうもんじゃないよ。ねえ、オルタンス、お母さまに相談してからにすれば、やさしいりっぱなお母さまのことだもの、わしにこんなつらい思いをさせなかったことだろうにねえ。……おまえはまだ世間を知らないんだよ。世間なんて意地の悪いものだ。おまえのことを、夫に追い出された出戻り娘だなんていうかもしれないよ。おまえたちのように母親にかわいがられて育った子供というものは、子供っぽさの抜けるのが普通より遅いのだ。だから人生がわからない。おまえがヴェンツェスラスにたいしてもっているような素朴でみずみずしい愛情は、残念ながらものの損得を計算することができない。なにもかも衝動的にやってのけてしまうんだね。かわいらしいおまえの心がさきにかけ出して、頭は後からのこのことついて行く。仕返しのためならパリだって灰にしかねない。重罪裁判所のことなどまるで念頭にないのだね。
おまえのやり方はいささか常識にはずれていると、こうおまえのお父さんがいっている以上、それを信じてもいいのだよ。しかも、今度のことでわしがどんなにつらい気持ちを味わったか、それはまだおまえにはいってない。じっさい、苦しい気持ちを味わわせられた。それというのも、おまえは、その人がどんな心の持ち主か、その人に敵意をもたれればどんなにおそろしいことになるかも知らずに、ある女性に非難の矛先を向けているからだ。残念ながらおまえは、無邪気で純情だもんだからなんにも気づいていない。おまえは世間の非難をあび、汚名を着せられるかもしれないよ。それにおまえは冗談を本気にしちまっているのだ。わしが請け合ってもいいが、おまえの夫は潔白だよ。マルネフ夫人は……」
ここまでのところ男爵は、手腕にたけた外交官のように、見事に調子よくお説教をつづけることができた。ごらんのように彼は、マルネフ夫人という名前を実にじょうずに持ち出してきたのだった。しかしこの名前を聞くとオルタンスは、傷つけられて激しい痛みをおぼえた人のようにぎくっとした。
「まあ、お聞き。わしには経験もあるし、いろいろとものを見て来てもいる」と父親は娘に口を開かせまいとしていった。「あの奥さんは、おまえの夫をたいへん冷たくあしらっているのだよ。そうなんだ。おまえは、冗談半分にからかわれたのだよ。その証拠をいまおまえに見せよう。そうそう、きのうヴェンツェスラスは晩餐によばれていたが……」
「あの人があそこに行っていたのですか……」と、若妻はすっくと立ちあがり、父親をじっと見つめながらいった。その顔には恐怖の色がありありと浮かんでいた。「きのうですって! わたしの手紙を読んでおきながら。……ああなんということでしょうか……結婚なんかしないで、どうして修道院にはいらなかったのかしら。わたしの命は、もうわたしひとりのものじゃないのです。子供があるのです」と彼女はすすり泣きながらつけ加えた。
この涙はユロ夫人の心にしみいった。夫人は自分の部屋から出て来ると、娘のところにかけつけた。そして娘を腕に抱きしめると、悲しみのあまり口をついて出る愚かしい質問を、思いつくままにつぎつぎにオルタンスにあびせた。
「やれやれ泣きだしたか……」と男爵は思った。「なにもかもうまくいっていたんだが。さてと、女二人に泣かれて、いったいどうしたものだろう」
「ねえおまえ」と、男爵夫人がオルタンスにいった。「お父さまのおっしゃることをよく聞くの。お父さまはわたしたちを愛してくださっているんだから、さあ……」
「なあ、オルタンス、おまえはわしのかわいい娘だ。泣くんじゃない。みっともない顔になるよ」と男爵がいった。「さあさあ、しっかりしておくれ。おとなしく自分の家にお帰り。ヴェンツェスラスを二度とあの家には足を踏み入れさせないと、わしが約束するよ。このところは少し辛抱しておくれ。好きな夫のささいなあやまちを許すなんてことが、辛抱のうちにはいればの話だがね。わしの白髪《しらが》にかけて、お母さんにたいするおまえの愛情にかけて、わしはそれをおまえにお願いしたい……おまえはわたしの余生をつらい、悲しい気持ちでいっぱいにしたいのかね……」
オルタンスはまるで気でも狂ったように父親の足もとに身を投げだした。その動作はいかにも思いつめたような激しいものだったので、よくとめてない髪の毛がばらばらにほどけしまった。彼女は父親にむかって両手をさし出したが、その動作には深い絶望がこめられていた。
「お父さま、ではこのわたしに死ねとおっしゃるのでしょうか」とオルタンスがいった。「お望みならこの命はさしあげますわ。でもそれならせめて清らかに汚《けが》れのないままで、命をとってくださいまし。わたし喜んで命をさしあげますわ。誉れを傷つけられ、罪を犯した女として死んで行けとはいってくださいますな。わたし、お母さまとはちがいますの。屈辱の思いをだまって噛《か》み殺していられるような女じゃありません。もしもわたしが夫のところにもどったら、わたしは嫉妬でヴェンツェスラスをしめ殺してしまうでしょう。いえ、もっとひどいことだってやりかねませんわ。わたしの力におよばないことを要求しないでくださいまし。生きる屍《しかばね》となって親を嘆かせるような女に、わたしをしないでくださいな。だってせいぜいよくてもわたしは気が狂ってしまうでしょうから……わたし気が狂うところまであと一歩だってことを感じているのです。きのうですって! きのうですって! あの人はわたしの手紙を読んだくせにあの女のところで晩ご飯を食べてたのだわ! ほかの男もみんな同じかしら……命はさしあげます。でもそれが不名誉な死にはなりませんように……あの人のささいなあやまちですって……あの女に子供まで生ませることがですか!」
「子供だって?」とユロが一歩後ずさりしていった。「それはもちろん冗談だよ」
そのとき、ヴィクトランとベットがはいって来たが、その場の光景を見て、じっと立ちつくしてしまった。娘は父親の足もとにひれ伏していた。何もいわない男爵夫人は、母親としての気持ちと妻としての気持ちの板ばさみになって、顔を涙にぬらしたまま、すっかり狼狽していた。
「リスベット」と男爵は老嬢の手をとり、オルタンスのほうをさし示しながらいった。「助け舟を出してくれ。オルタンスはかわいそうに頭がどうかしているらしい。ヴェンツェスラスがマルネフ夫人に愛されていると思っているんだ。マルネフ夫人は、要するに群像を作ってもらいたいと思っただけなんだが」
「その群像がデリラよ」と若妻がさけんだ。「結婚以来、たちまちのうちに作り上げたものといえば、それだけなのよ。あの方は、わたしや、息子のためには仕事に手がつかなかったけれど、あのいやらしい女のためなら熱心に仕事をしたのよ……ああ、お父さま、いっそひと思いにわたしを殺してください。あなたの言葉の一つ一つが、わたしの胸に匕首《あいくち》のようにささるのですもの」
リスベットは男爵夫人やヴィクトランのほうを向くと肩をすくめて見せた。彼女を見ることができないでいる男爵のほうを目顔で示して、情け無いことだといわんばかりの身振りをした。
「ねえ兄さん」とリスベットがいった。「あの女《ひと》の部屋の上の階に暮し、あの女の世帯の面倒を見るように兄さんにいわれたときは、わたしマルネフ夫人の人柄を知らなかったのよ。でも三年もすればいろんなことがわかってくるわ。あの女は娼婦ですよ。しかも堕落しきった娼婦で、その堕落ぶりときたら、ヴァレリーのあの見るのもいやらしい不潔な亭主以外には、ちょっとくらべられる人間はいないくらいなのよ。兄さんはだまされているんだわ。あなたはあの連中のいい|かも《ヽヽ》なのよ。さきざきどれほどひどい目にあうか、きっとあなたのご想像以上よ。これはあなたにはどうしてもはっきりいわなきゃならないわ。だってあなたは奈落の底に落ちこんでいるのですからね……」
リスベットがこういうのを聞いて、男爵夫人とオルタンスは彼女のほうに感謝のこもったまなざしを向けた。その目つきは、信心深い人びとが、一命をとりとめてもらったことを聖母マリアに感謝するときのまなざしにそっくりだった。
「あのおそろしい女は、ヴェンツェスラスさんの家庭をめちゃめちゃにしようとしたのです。なんの目的があってでしょうか。それはわかりません。こういうわけのわからない事件の真相なんか、わたしのようなぼんくらにはとてもつかめませんね。ほんとにこの事件ときたら、ひねくれていて、いやらしくて不潔ですわ。マルネフ夫人はお婿さんのことなんか好きでもなんでもないのに、ただ仕返しをしたいばっかりに自分のところに引き寄せておくんです。わたし、あの女を分相応にこっぴどくやっつけてやったところなんですのよ。あれは、恥知らずの売笑婦ですもの。わたしこういってやりました。もう家を出させていただく、こんな泥沼から足を洗ってわたしの名誉を守らせておくれ、とね。わたしにはなによりも親類が第一ですわ。わたし、オルタンスがヴェンツェスラスのところを出たと聞いたもんですから、さっそくこうやってかけつけて来たんですの。兄さんはあのヴァレリーを聖女のような女と思っているかもしれませんが、今度の夫婦別れもあの女が原因なんですよ。あんな女のところにいつまでもじっとしていられるものでしょうか。わたしたちの大事なオルタンスは」と、リスベットはいかにも意味ありげに男爵の腕に手をのせながらいった。「あの種の女によくありがちな気まぐれの犠牲になって、きっとだまされたんですわ。なにしろあの連中ときたら、宝石を一つ手に入れるために、家庭の一つぐらい犠牲にしかねませんからね。わたしヴェンツェスラスに落度があるとは思いませんが、でもあの人は気の弱い人ですし、じょうずに仕組まれた手管《てくだ》にしてやられないものでもありませんわ。わたしもうちゃんと覚悟をきめました。あの女は兄さんの命取りですよ。一文なしになるまでしぼりとる女です。わたし親類のものが破産するのに手をかすみたいには見られたくありませんわ。三年この方、そうならないようにと思う一心からあそこにいたのですけれど。兄さん、あなたはだまされているのよ。あのいやらしいマルネフの昇進問題には首をつっこまないと、はっきりここで言明してちょうだい。あんなことにかかわりあったらそれこそとんだことになるわ。あの問題じゃ、もう非難ごうごうだというじゃありませんか」
リスベットはオルタンスを抱きおこすと、かわいくてたまらないといった様子で接吻した。
「さあオルタンス、しっかりするのよ」とリスベットは耳もとでいった。
男爵夫人は、リスベットのおかげで日ごろのうっ憤を晴らしたような気がして、夢中で彼女に接吻した。父親のまわりを囲んで一家のものはじっと押しだまっていた。この沈黙がなにを意味するか、それがわからないほど男爵はばかではなかった。激しい怒りが、彼の額や顔の上にはっきりしたしるしとなって現われた。静脈はふくれ、目は血走り、顔にまだらの斑点が浮き出ていた。アドリーヌはいそいで彼の足もとにひざまずくと、その手を取って、
「あなた、お許しになって!」といった。
「みんなはわしを憎んでいるのだ!」と男爵は思わず、良心の声をもらした。
人間だれでも悪いことをすれば、悪いのは自分だと自分がいちばんよく承知しているものだ。相手に損害を与えれば、さだめし恨みに思っているであろうと、相手の憎しみを想像するのが常である。だから、どんなに猫をかぶってみせようとしても、思わぬ拷問に会えば、われわれの言葉や表情がつい自分の罪を告白してしまうのだ――むかし、罪人が死刑執行人の手にかかると、なにもかも自白してしまったように。
「子供も」と男爵は、ついもらした本音を取り消そうとしていった。「しまいには敵になるのか」
「お父さん……」とヴィクトランがいった。
「父親に話をさせないつもりか!」と男爵は息子をにらみつけながら、ものすごい声でいった。
「お父さん、聞いてください」とヴィクトランはしっかりとした声で、つまり清廉な国会議員らしい、てきぱきとした声でいった。「わたしはお父さんにどれほどご恩になっているかはよく承知していますから、けっしてお父さんに尊敬を欠くようなことはありません。わたしはいつまでもお父さんの、もっとも柔順ですなおな息子です」
議会の傍聴に行ったことのある人なら、ヴィクトランのこういうあらずもがなの前おきが、国会答弁の習慣からくるもので、時間をかせいでそのあいだに相手の思いをなだめようとしていわれたものであると気づかれるであろう。
「わたしたちがお父さんの敵だなんて、とんでもないことです」とヴィクトランがいった。「わたしなど、ヴォーヴィネの手から六万フランの手形を買いもどしたためにしゅうとのクルヴェルさんとけんか別れしたくらいなんですから。その六万フランの金はマルネフ夫人の手もとに行っているはずですけれど。いや、お父さん、わたしは非難しているんじゃありません」と、男爵がなにか言いそうになったのを見てヴィクトランがつけ加えた。「そうじゃなくて、わたしはただリスベットさんの声に、自分の声を合わせてこう言いたいだけなんです。つまり、お父さんにたいするわたしのまごころは盲目的なものであり、かぎりないものですけれど、しかし不幸にしてわれわれの財源にはかぎりがある、と申しあげたいのです」
「金か」と、いきりたった老人もこの理屈にはまいって、どっかと椅子の上に腰をおろしてしまった。「しかもそれがせがれのいうことなんだ……そのお金はいずれお返しするよ」と男爵はいって立ち上がった。
彼は扉のほうへ歩いて行った。
「エクトル!」
このさけびが男爵をふり向かせ、彼はふいに妻のほうに涙にぬれた顔を見せた。夫人は、絶望のあたえる強い力をこめて夫を抱きしめた。
「そんなふうにして行ってしまわないで……怒ったままで出ていらっしゃらないでください。わたしはあなたになにもいわなかったじゃありませんか……」
この崇高なさけびを聞いて、子供たちは父親の足もとにひざまずいた。
「わたしたち、みんなお父さまをたいせつに思っているんです」とオルタンスがいった。
リスベットは銅像のように身じろぎもしないまま、口もとに得意そうな薄笑いを浮かべて、ひとかたまりになったユロ家の人びとをじっと見ていた。そのとき、ユロ元帥が応接間にはいって来たらしく、その声が聞こえた。一家のものたちは、秘密を守らなければならないことを悟ったので、その場の光景が、たちまちおもむきを変えた。二人の子供は立ち上がり、それぞれ興奮を隠そうとつとめた。
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七六 王侯愛妾談概略
入り口のところでは、マリエットと一人の兵隊とのあいだでなにやら押し問答が行なわれていた。兵隊があまりうるさい様子なので、料理女は客間にはいって来た。
「旦那さま、アルジェリア帰りの糧秣《りょうまつ》部の兵士というのが、ぜひお目にかかりたいといってますが」
「待たせておけ」
「旦那さま」とマリエットは主人の耳に口を寄せていった。「伯父上の問題だとこっそり申しあげるように、いわれているんですけれど」
男爵はぞくっと体をふるわせた。手形の支払いにあてるため、二カ月ばかり前にひそかに頼んだ金が届いたと思ったのだ。彼は家族のものを残して応接間にかけつけた。するとアルザス人らしい顔が見えた。
「|イロットたん爵《ヽヽヽヽヽヽヽ》どのであられますか」
「そうだが……」
「まちがいなくご本人で?」
「本人にまちがいない」
糧秣兵は、こんな問答をしながらも軍帽の裏をしきりにまさぐっていたが、やがてそこから一通の手紙を取り出した。男爵がいそいで封を切り、読んでみるとつぎのようなことが書いてあった。
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お申しこしの十万フラン、お送りするどころの段ではなく、強力な手段を用いて小生を救助して下さらぬ限り、とうてい現在の地位を保持できそうもありません。われわれ、当地の某検事につきまとわれ、この男、軍政につき道徳がどうのこうのと下らぬ寝言を並べております。こいつを沈黙させることはまったく不可能で、陸軍省がこんな文官連にしてやられるようでは、小生には死あるのみです。本状持参の人物は信頼のおけるものです。できれば昇進させてやって頂《いただ》きたい。これまでにもずい分働いてもらった人物ですから。とにかく小生をお見捨てなきようくれぐれもお願いいたします。
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この手紙はまさに青天の霹靂《へきれき》だった。アルジェリアの統治については、今日でも軍部と文官のあいだで軋轢《あつれき》が絶えないのであるが、男爵はこの手紙を読んで内部の抗争がいよいよおもてに現われたなと思った。傷がおもてに現われてきた以上、早急に応急処置をほどこさないとたいへんなことになる。男爵は、兵士に翌日また来るようにいった。そして昇進のほうは引き受けたからと相手を喜ばせて帰し、男爵は客間にもどった。
「やあこんにちは、兄さん。悪いけどこれで失礼しますよ」と元帥にいった。
「じゃあみんな、さようなら。アドリーヌ、さようなら。リスベット、おまえはこれからどうするのかね」と彼はベットにいった。
「わたしは元帥の面倒を見させていただくことにするわ。だって、あなたたちのそれぞれにいろいろ奉仕して、わたしは自分なりにわたしの生活をまっとうしたいのですもの」
「ヴァレリーのところを出る前に、話したいことがあるんだ」とユロは、いとこの耳もとにささやいた。「オルタンス、さようなら。おまえは少しやんちゃだよ。できるだけおとなしくすることだね。大事な用件が持ち上がったから、亭主とのよりをもどす件は、また今度にしよう。よく考えといてくれ。かわいい小猫さん」といって、彼は娘に接吻した。
彼はいかにも心配そうな様子で出ていったので、夫人や子供たちは激しい不安にとりつかれていた。
「リスベット」と男爵夫人がいった。「いったいエクトルはどうしたのかしら。あの人があんな様子をしているのをわたしこれまで見たことがないわ。あの女《ひと》のうちにあと二、三日いてちょうだいな。彼はあの女にはなにもかもいうんだから、あなたにあそこにいてもらえば、なにが原因でエクトルが急に顔色を変えたのかもわかるにちがいないわ。心配しないでいいのよ。元帥とあなたとの結婚はわたしたちがまとめますから。だってこの結婚は、どうしても必要なものですものね」
「あなたが、けさがた見せてくださった勇気のことは、わたしけっして忘れないわ」とオルタンスはリスベットに接吻しながらいった。
「あなたは、気の毒なお母さんの敵討《かたきう》ちをしてくれたんですよ」と、ヴィクトランがいった。
元帥は、リスベットがしきりにちやほやされる光景を不思議そうに見ていた。リスベットはこのときの一部始終をヴァレリーに話すために帰っていった。
世故に通じていない無邪気な人でも、以上に素描した事の次第を知れば、マルネフ夫人のような女がいかにさまざまなやり方で家庭を破壊するものか、一見マルネフ夫人の類《たぐい》の女からははるかにへだったところにいるかに見える貞淑の人妻にも、こうした女たちがいかなる方法で害を加えるものかを理解するであろう。だが今かりにこうした種類の紛争が、社会のより上層において、王座のそば近くにおいて生じたと仮定してみよう。国王の情婦というものはどれほど金のかかるものかを考えれば、君主が善良なる風俗と家庭生活の範をたれている場合、人民はどれほどその君主に感謝せねばならないかおよそわかろうというものである。
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七七 図々しい五教父のうちの一人
パリでは、政府諸官庁がそれぞれに小都市のようなものだが、ただそこには女がいない。だがそれにもかかわらずまるで女の住んでいるかのように、そこでは人の噂話や、陰謀がさかんに行なわれているのだ。三年という歳月のおかげで、マルネフ氏の立場は、歴然たるものとなり、白日のもとにさらされることになった。役所では、だれしもが「マルネフ氏はコケ氏の後任になるのか、ならないのか」と噂していたが、それはちょうどついさきごろ国会で「皇室費増額案は通るのか、通らないのか」〔一八四〇年、ルイ・フィリップ王の第二子、ヌムール公に五十万フランの歳費を給する案が議会に上程されたが否決された〕とみんなが考えていたのと同じようなものだった。人事局の動きは細大もらさず観察され、ユロ男爵の局の模様は根ほり葉ほり探られていた。ユロ参事院議員はなかなかに食えない男で、マルネフの昇進の犠牲となるはずの人物をすでに丸めこんでいた。その男は有能な働き手であったが、ここでマルネフのためにひと肌脱いでおけば、マルネフの後任になることはまちがいないと男爵はその人物に因果を含め、マルネフはいまにも死ぬようなことをいっておいたのである。その役人はマルネフを昇進させるための陰謀に加担していた。
ユロは、面会人で立てこんでいる応接室を通ったとき、ひと隅に蒼白い顔をしたマルネフがすわっているのに気がついた。マルネフが最初に呼ばれた。
「なんの用事だね、君」と男爵は不安な気持ちを押し隠しながらいった。
「局長、役所の連中がわたしをからかうんです。と申しますのは、人事局長がけさほど健康上の理由とかで休暇を取られたからで。一カ月ばかり旅行に出るのだそうです。一カ月も待つなんて、どんなことになるかおよそ見当がつこうというものですよ。局長は、わたしを敵の笑いものになさるおつもりですかね。片方からがやがやいわれるだけでいい加減いやになるのに、両方からいちどきにじゃ、いくらがんじょうな箱でも壊れちまいますよ」
「マルネフ君、目的を達するには大いに忍耐せねばならん。君はうまくいって部長になれるにしても、二カ月以内には無理だ。いまはわたし自身、自分の地歩を固めねばならないときだから、変な評判になるような昇進をはかるどころじゃないんだ」
「もしあなたがおやめになれば、わたしは永久に部長にはなれませんな」とマルネフは冷たくいった。「わたしを任命してくださいよ。任命したからって、どうせおやめになるなら同じことでしょう」
「というとつまり、君のためにわたしを犠牲にしろということかね」
「そうでもなけりゃ、わたしはあなたを買いかぶっていたことになりますな」
「マルネフ君、君はあまりにもマルネフ的だよ」と男爵は立ちあがり、次長に扉を示しながらいった。
「どうもたいへんおじゃまをいたしました」とマルネフはうやうやしく頭を下げた。
「なんといういやな奴だろう」と男爵は思った。「これじゃあまるで、『二十四時間以内に支払うべし。さもなくば強制執行をとり行なう』と督促するようなものじゃないか」
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七八 もう一通の督促状
それから二時間ばかりたったころ、男爵はクロード・ヴィニョンをしきりに説きつけていた。男爵は彼を司法省に使いにやり、ジョアン・フィッシェル所轄の官辺筋にあたりをつけて、何か情報を取ってこさせようと思ったのである。そのとき、レーヌが局長室の扉を開け、一通の手紙をユロに渡すと返事がいただきたいといった。
「レーヌをよこすなんて!」と男爵は思った。「ヴァレリーはどうかしている。彼女はわれわれみんなを危い目にあわす気なのか。こんなことをすれば、あのけがらわしいマルネフの任命だって危くなるのだ」
彼は、大臣の特別秘書をしているクロード・ヴィニョンを引き取らせると、つぎのような手紙を読んだ。
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ああ、なんというひどい目にわたしはあわされたことでしょう。あなたは三年以来、わたしを幸福にしてくださいましたけれど、そのお返しはたっぷりいたしました。あの人は、役所から身の毛もよだつようなおそろしい形相で帰って来ました。あの人が醜悪な男であることは知っていましたが、それどころではなく、まさに化物のように見えました。自分の歯は四本しか残っていませんが、その四本の歯がふるえているのです。わたしがあなたをうちによぶことを止めないのなら、そばにへばりついていてやるからそう思え、といって脅《おど》かすのです。わたしのかわいそうな猫さん、残念ながらこれからは来ていただくことはできません。わたしの涙の跡をごらんなさい。涙が便箋の上に落ちて、ぬれてしまいました。
エクトル、わたしの字が読めますか。ああ、あなたの心を抱きしめているつもりですし、さらにあなたに会えなくなり、あきらめなければならないのなら死んでしまいます。生まれてくる子供のことを考えてください。わたしを見捨てないで! でも、マルネフのためにあなたの名誉を汚《けが》すようなことはなさらないでください。脅かされてもいうなりになってはだめです! わたしいままでよりもずっと、ずっとあなたを愛しています。わたしあなたが、あなたのヴァレリーのために払ってくれた犠牲を、ひとつひとつみんな思い出しました。ヴァレリーはいまも、またこれからもけっして恩知らずな女ではありません。あなたこそは、わたしのただ一人の夫であり、これからもずっとそうです。数カ月後に生まれてくるはずの、あの小さなエクトルのために千二百フランの年金をお願いしましたけれど、そのことはもう考えなくてけっこうです……わたしもうあなたに余計な負担はかけたくないのです。もっとも、わたしの財産は、永久にあなたの財産になるのですけれど。
ああ、もしもわたしがあなたを愛しているほどにわたしを愛してくださるなら、もう役所はおやめになってください。わたしたちは、家族も、心配事も、憎しみばかりのまわりの人間たちもみんな置き去りにして、どこか景色のいいところ、ブルターニュでもどこでもあなたの好きなところに行って、リスベットといっしょに暮そうではありませんか。そういうところに行けば、だれにも会わなくてすみますし、世間からは遠くはなれて幸福に暮せます。あなたの退職年金と、わたし名義になっているわずかばかりの財産とで十分やってゆけます。あなたはちかごろ、やきもちやきにおなりですが、そうすればあなたは、あなたのヴァレリーがわたしのエクトルのことばかりを世話して毎日を送るのをごらんになるでしょう。あなたもこのあいだのように、大きな声をはり上げなくてすみます。わたし、子供は一人しか生みません。それはわたしたちの子です。それはもう確かです。ね、わたしの大事な老兵さん。
わたしがどんなに腹を立てているか、あなたにはおわかりになりません。あの人がどんなふうにわたしをあつかったか、あなたのヴァレリーにたいしてどんなひどいことをいったか、知っていただきたいものです。その言葉をここに書けば、この手紙を汚すことになってしまいます。それは、モンコルネ元帥の娘ともあろうわたしのような女が、一生に一度だって聞いてはならない言葉でした。ああ、もしもそのときあなたがそこにいらしたら、あなたにたいするわたしのもの狂わしい愛情を見せつけて、あの人をこらしめてやるのでしたのに。わたしの父なら、きっと軍刀であのみじめな男を切りつけたことでしょう。でも女の身のわたしにできることといえば、あなたを夢中になって愛することだけです。ですから、わたしの愛する人よ、わたしもうくやしくてくやしくて、とてもあなたに会うのをあきらめるなんてことはできません。そうです、ないしょであなたに毎日でも会いたいと思います! 女というものはこんなものです。あなたの不快と思われることは、わたしにとっても癪《しゃく》のたねなんです。お願いですわ。もしあなたがわたしを愛しているなら、あの人を部長にしないでください。あの人が次長のままでくたばりますように……わたしなんだか頭がぼうっとしてきました……あの人のののしる声がまだ聞えて来るようで……。ベットさんは、ここから出て行こうとしましたが、わたしを気の毒に思って五、六日ばかりいてくれることになりました。
かわいい人よ、わたしにはまだどうしていいかわかりません。逃げ出すことぐらいしか頭に浮かんでこないんです。わたし前からいなかが好きでした。ブルターニュでも、ラングドックでも、あなたの好きなところならどこでもいいですから、あなたをなんの気がねもなしに愛せるところに行きたいのです。かわいそうなお猫さん、ほんとにお気の毒に思います。だって、あなたはあの涙っぽい梅干しばあさんのアドリーヌのところにもどらざるをえないのですものね。だって、マルネフからお聞きになったでしょうけれど、あの人は昼も夜もわたしを見張っているそうですわ。警察を呼ぶなんていってますのよ。
うちには来ないでちょうだい。あの人はわたしを下劣な取引きの材料にするときめた以上、どんなひどいことだってやりかねないんですから、わたし、あなたがご親切にもわたしにくださったものは、全部あなたにお返ししたいとさえ思っております。ああ、エクトルよ、わたし、浮気心をおこしたり、はすっぱなまねをしたかもしれませんけど、でもヴァレリーは世の中のだれよりもあなたのことが好きなんです。あなたがいとこのベットさんに会いに来ることは、だれだってじゃまだてできる筋のものではありませんから、わたし、ベットさんと相談し、あなたにお目にかかって話のできるよう工夫してみます。
わたしの大切なお方よ、お願いですからちょっとひとことお便りをください。あなたがここにいらっしゃらない以上、せめてお手紙でもいただいて安心したいのです……(あなたをこの長椅子の上に坐らせるためなら、手を片方なくしてもおしくないのですのに)。お手紙をいただけば、それはわたしのためにお守りのような効き目をあらわしてくれるでしょう。あなたのりっぱなお心が現われているようなお手紙をください。お手紙はあなたにお返しします。だって慎重にしなければいけませんから。あの人はどこもかしこもかきまわすので、手紙を隠す場所もありません。あなたのヴァレリーを、生まれてくるあなたの子の母親を安心させてやってください。あなたに毎日会っていたわたしなのに、手紙など書かねばならないとは。ですからわたしリスベットに、『わたしは自分のしあわせがわからなかったのよ』って言いましたの。数知れないほどの愛撫を送ります。愛してくださいな。
あなたのヴァレリーより
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「しかもこの涙はどうだ……」とユロは読み終わってつぶやいた。「涙のために名前が読めなくなっている――いまどうしている?」と彼はレーヌにきいた。
「奥さまは床についていらっしゃいます。ふるえがきたんでございます」とレーヌが返事をした。「神経の発作で、体を縄《なわ》のようによじらせておしまいになって……手紙を書いてからのことでございますが……涙を流したためですわ……階段のところから旦那さまの声が聞こえたら、とたんにひきつけてしまったんです」
男爵はすっかり心配になって役所名の刷り込んである公用便箋につぎのような手紙をしたためた。
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わたしの天使よ、安心しなさい。あの男は次長のままでくたばるだろう。君の考えはすばらしく名案だ。いそいでパリを引きあげて、子供といっしょに楽しく暮すことにしよう。わたしは役所をやめ、鉄道会社か何かにいいポストを見つけることができるだろう。愛すべき恋人よ、君の手紙のおかげで若返ったような気がしてきた。人生をやりなおそう。わたしはわたしたちの子供のために、ひと財産作り上げるつもりだ。きっとだよ。『新エロイーズ』〔ルソーの書簡体恋愛小説。一七六一年刊〕よりもはるかに情熱的な君の手紙は、読むものの心に奇蹟を生ぜしめた。君にたいするわたしの愛情が、さらに強くなり得るとはとうてい考えられなかったのだが。今晩、リスベットのところで会おう。
いつまでも君のエクトルより
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レーヌは返事を持ち帰ったが、これは男爵が|愛すべき恋人《ヽヽヽヽヽヽ》に書いた最初の手紙だった。このような感動は、地平線のかなたでうなりをあげはじめた災難に、優に匹敵するだけの重みをもつものだった。しかも、男爵には、叔父のジョアン・フィッシェルの身に迫ろうとしている危険については、それを防禦するだけの自信があったから、いまのところ気になるのは金のやりくりがつかないことだけだった。
帝政時代の軍人の特徴の一つは、サーベルの力を信仰し、文官にたいする軍人の優越をかたく信じて疑わないことだ。アルジェリアは陸軍省が幅をきかせているところだったから、そこの検事のことなど、ユロはばかにしきっていた。人間というものはなかなかむかしの癖を捨てることのできないものだ。ナポレオン親衛隊の士官だったものなら、帝政時代の大都市の市長たちや、皇帝に任命され、小型の皇帝ともいうべき知事たちまでもが、親衛隊を出迎えに行ったときのことを忘れることができようか。市長や知事たちは親衛隊の通過に際してはわざわざ県境いまでやって来て丁重にあいさつをし、まるで君主にでもたいするような敬意を払ったものである。
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七九 門前ばらい
四時半ごろ、男爵はまっすぐにマルネフ夫人のところに行った。階段をのぼるとき、彼はまるで青年のように心臓をどきどきさせていた。というのも、ユロは「会えるだろうか、会えないだろうか」としきりに胸のなかで問いつづけていたからである。
だから、けさがた家中のものが涙にくれて、彼の足もとにひざまずいたときの光景などは、もうきれいに忘れはてていた。胸の上のポケットのなかに肌身はなさずしまいこんだヴァレリーの手紙は、魅力的な青年のだれよりも、彼のほうが愛されていることを証明しているのではなかったか。ベルを鳴らすと、不幸な男爵は病気もちのマルネフがスリッパを引きずり、おぞましくも咳払いをするのを聞いた。マルネフが扉を開けた。しかしそれは、傲然《ごうぜん》とそりかえって見せて、ユロに階段を指さして帰れという合図をするためだった。その様子は、さきほどユロが局長室の扉をさし示したときの身ぶりにそっくり同じだった。
「君はあまりにもユロ的だよ、ユロ君」とマルネフがいった。
男爵がかまわずに通ろうとすると、マルネフはポケットからピストルをとり出してねらいをつけた。
「おっと、参事院議員さん。人間もわたしのように下劣になると――あんたがわたしを下劣な奴と思っているらしいからこういうんだが――名誉を売り渡したその報酬ががっちりもらえない日にゃ、どんなひどいことだってやりかねないんですぜ。あんたは戦いたいらしいね。よろしい、とことんまでやりましょうや。情け無用ですぜ。二度と来ないでもらいたいね。無理やり通るなんてのはもってのほかでさあ。わたしの立場は、ちゃんと警察にも説明してありますからな」
あまりのことにユロがあ然としているすきに、マルネフは彼を外に押し出し、扉を閉めてしまった。
「なんという悪人だ!」とユロは、リスベットのところに行くために階段をのぼりながら思った。「今になって手紙の意味がやっとわかった。ヴァレリーといっしょにパリを離れよう。これからは、ヴァレリーは生涯わたしのものだ。わたしの死は、彼女にみとってもらおう」
リスベットは留守だった。オリヴィエのおかみさんの話によると、男爵に会えると思って、リスベットはユロ夫人のところに出かけて行ったとのことだった。
「あれもかわいそうな女だな。あの女が、あんなによく気のつく人間とは、わしも思わなかった」と男爵は、ヴァノー通りからプリュメ通りに行く道をたどりながら、リスベットの振舞いを思い出して思った。
ヴァノー通りからバビローヌ通りへまがる角まで来ると、|結婚の神《ヒーメン》が法の剣《つるぎ》をかざして彼をそこから追い払った楽園のほうを男爵はもう一度ふりかえって見た。ヴァレリーは窓のところへ出て、ユロの後ろ姿を見ていた。ユロが顔をあげると、ヴァレリーはハンカチを振って見せた。しかし人でなしのマルネフは女房の布帽子をなぐりつけると、窓のところから部屋のなかへ勢いよくひきもどしてしまった。参事院議員の目に涙が浮かんだ。
「こんなに愛されていながら、好きな女が虐待されるのを見ていなければならないとは! しかもおれはやがて七十に手が届こうとしている」と彼は思った。
リスベットはユロ一家に良い報せをもって来たのだった。アドリーヌとオルタンスは、男爵が役所中に恥をさらしたくないためにマルネフを部長に任命せず、そのためたちまちユロ嫌いになった亭主から、門前ばらいを食わされるであろうと、もうちゃんと承知していた。それで、喜んだアドリーヌは、晩餐の仕度を命じたが、それも、彼女のエクトルが家での晩餐をヴァレリーのところよりもおいしいと思ってくれるように気をつかった。そういうむずかしい目的がはたせるようにと、リスベットはマリエットを助けてかいがいしく立ち働いた。いとこのベットは偶像のようにちやほやされた。母娘《おやこ》はベットの手に接吻し、しみじみとうれしそうな口調で、ベットを家政婦にするよう元帥が承知したと告げた。
「そうなれば、奥さまにおさまるのはもうあと一歩というところだわ」とアドリーヌがいった。
「それに、ヴィクトラン兄さんが結婚の話をしたときも、元帥はいやとはいわなかったもの」と、スタインボック伯爵夫人がつけ加えていった。
男爵は一家のものたちに、いかにも愛情のこもった優しい態度で迎えられた。家族のものたちの様子にはしみじみとした好意がみちあふれていたから、男爵も自分の悲しみをかくさないわけにはゆかなかった。元帥も晩餐にやってきた。食事が終わってもユロは出かけて行かなかった。ヴィクトランが女房連れでやって来て、みんなでホイストをやった。
「エクトル」と元帥が重々しい口調でいった。「おまえがこういう晩の集まりを|われわれ《ヽヽヽヽ》のために開いてくれるのも、ずいぶんと久しぶりだなあ」
老元帥のいったこの言葉は、みんなに深い印象をあたえずにはおかなかった。元帥は日ごろは弟を甘やかしてはいるけれど、こんなことをいって、それとなく弟を叱ろうとしたのだった。その言葉には、一家の悲しみをすべて見抜き、その悲しみにこだまするように自分の心をいためている人の、久しいあいだの大きな心痛が感ぜられた。八時になると男爵は、リスベットを自分が送って行くと言いだし、またもどって来るからと約束した。
「ねえ、リスベット、|あいつ《ヽヽヽ》はヴァレリーをいじめているらしいねえ」と男爵は通りに出ると、ベットにいった。「ああ、わしはいまほど彼女が好きになったことはない」
「わたしも、ヴァレリーがあなたをこんなに愛しているとは思わなかったわ」とリスベットが答えた。「あの人はたしかにはすっぱな女だし、浮気なところもあるわ。ちやほやされて、恋の喜劇をみんなに演じてもらいたい人なのよ。自分でもそういっているくらいだわ。でもあの人が愛しているのはあなただけよ」
「わたしのためになにかいってなかったかね」
「いってたわ」とリスベットがいった。「あの人はクルヴェルに好意を示してやったことがあったでしょう。あなたも知っているはずだわ。クルヴェルさんのこと、おこっちゃだめよ。だって、そのおかげでヴァレリーは、一生お金の苦労をしないですむようになったんですもの。でもあの人はクルヴェルさんを嫌っているの。それに、もうだいたい、縁は切れているんです。ところが、ヴァレリーはあるアパルトマンの鍵を持っていて……」
「ドーファン通りのだろう!」と、ユロはうれしそうにさけんだ。「それだけのためだって、クルヴェルとのことなんぞ大目に見てやるよ……そこならわしも行ったことがあるから、知っている……」
「それがこの鍵よ」とリスベットがいった。「あしたじゅうに合鍵を作らせなさい。出来れば二つ」
「それで?」とユロがかたずをのんでいった。
「そうね、あすまたおたくに夕食を食べに行きますから、そのとき、ヴァレリーの鍵を返してください(だってクルヴェルじいさんが、鍵を返せっていうかもしれませんからね)。そして明後日、お会いになったらいいじゃありませんか。そしてゆっくりお話すればいいのよ。あそこならあなたは安全だわ。だって出口が二つあるんですからね。もしひょっとしてクルヴェルが路地のほうからやって来たら、――どう考えても、クルヴェルじいさんは、自分でもいっているとおり摂政時代《レジャンス》式に素行の悪い人ですからね――あなたはお店から出ればいいし、逆に店から来たら、路地へ抜ければいいんです。どうお、不良じいさん、こんなことができるのわたしのおかげよ。お礼に、わたしになにをしてくれて?」
「なんでもしてやるよ」
「じゃあ、あなたの兄さんとわたしとの結婚に反対しないでよ」
「君が、ユロ元帥夫人になるのか。フォルツハイム伯爵夫人におさまるつもりか!」とおどろいたエクトルがさけんだ。
「アドリーヌだって、男爵夫人になったんだから!」とベットは、ぎすぎすしたものすごい調子でいった。「ねえ道楽じいさん、わたしのいうことを聞いてください。やりくりがつかなくなっていることは、あなたが自分でいちばんよく知っているはずよ。あなたの家族は、その日のパンにもこと欠くような、貧乏の泥沼に落ちこんじまいますよ……」
「じつはそれがこわいのだ」とユロは愕然《がくぜん》としていった。
「お兄さんがおなくなりになったら、だれがあなたの奥さんや、お嬢さんを助けます? 元帥の未亡人なら少なくとも六千フランの年金がもらえるでしょう、ちがいます? わたしは、あなたの奥さんやお嬢さんに、その日その日のパンをあげたいばっかりに結婚するんですよ。あなたもものわかりの悪い人ねえ」
「そういう結果になろうとはわしも気がつかなかったよ」と男爵がいった。「ひとつ兄貴を口説いてみよう。とにかく君なら安心だからな。わしの天使によろしく。わしの命は彼女のものだといっておくれ……」
男爵は、リスベットがヴァノー通りにはいって行くのを見届けてから、ホイストをしに帰り、そのままずっと家にいた。男爵夫人は幸福の絶頂にいた。どうやら夫が家庭生活にもどってくれるらしい様子だったからである。
二週間ばかりのあいだ、朝九時になると彼は役所に行き、六時には帰って夕食をとり、晩は自宅で過ごした。男爵は二度ばかりアドリーヌとオルタンスを芝居に連れて行った。母娘《おやこ》は感謝のミサを三回も教会で唱えてもらった。そして、神が返したもうた夫と父とを、いつまでも自分たちの手もとに置いてくださいと祈った。
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八〇 ある目覚め
ある晩、ヴィクトラン・ユロは、寝室に引きとる父親のうしろ姿を見ながら母親にいった。
「お父さんがようやく帰って来てくれて、ぼくらもまあまあしあわせといえるようになりましたね。ぼくも家内もお金を使ったことは、後悔してませんよ。それでお父さんが……」
「お父さんはもうやがて七十に手が届くという年なのに」と男爵夫人が答えた。「それなのにいまだにマルネフ夫人に未練があるのよ。わたしにはちゃんとわかるわ。でもそのうちには忘れてくださるでしょう。女狂いは、賭けごとや、相場や、お金を貯める趣味とはわけがちがいますから、いつかはやむものです」
美しいアドリーヌは――彼女は五十にもなり、苦労もいろいろしているのに相変わらず美しかったからこそいうのだが――その点では思いちがいをしていた。女好きとは、愛するという貴重な能力を、自然によってさだめられた限界以上に与えられている人のことだが、こういう連中にはまずだいたいにおいて年齢というものがない。堅気にもどったこのわずかな期間のうちにも、男爵は三度もドーファン通りへ行き、ドーファン通りでの男爵は、もう七十歳の老人ではなかった。ふたたび燃え上がった情熱は、彼を若がえらせ、ヴァレリーのためなら名誉も、家庭も、なにもかも平気で投げ出したことだろう。ところが、ヴァレリーのほうはすっかり人柄が変わったようで、お金のことも口にしなければ、息子のための千二百フランの年金のこともとんと話題にしなくなっていた。反対に、彼女のほうでお金をめぐんでくれるほどで、ヴァレリーは、まるで三十六歳の女が美男の法科学生でも愛するように、詩的で情熱的な貧乏学生でも愛するように、ユロを愛していた。それなのにかわいそうなアドリーヌは、愛《いと》しいエクトルを取り返したものと思っていたのだ。
三度目の逢いびきのとき、二人の恋人は別れる間際に、四度目の密会の約束をした。むかし、イタリア喜劇の一座が、芝居が終わると翌日の出しものを予告したのとまるでそっくりだった。約束の時間は朝の九時ということになった。こうした幸福を楽しみにしていればこそ、色好みの男爵もつまらない家庭生活を辛抱していたわけだが、いよいよ約束の期限が来たその当日の朝になって、八時ころ、レーヌが男爵に会いに来た。ユロは、なにか困ったことが起きたのではないかと心配になりながら外に出てレーヌのところに行った。レーヌがアパルトマンのなかにはいって来たがらなかったからだ。忠実な小間使いは、つぎのような手紙を男爵に渡した。
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愛する老兵士さま、ドーファン通りには行かないでください。悪夢のようなわたしの亭主が、病気になりました。わたしは看病しなければならないのです。でも、こんばん九時にあそこに来てください。クルヴェルはコルベイユのルバさんのところに行ってますから、姫君を妾宅に招じ入れることはないわけです。わたしは夜は自由になれるようになんとか工夫しました。マルネフが目を覚ますまえに帰れるようにします。お返事をください。だって、今ではむかしとちがって、泣き虫の奥さんが、あなたをもう自由にはしてくれないかもしれませんもの。奥さんは今でもなかなか美人だというではありませんか。あなたはほんとに女好きですから、わたしを裏切りかねませんわ、この手紙は、読み終わったら焼いてください。万事、用心に越したことはありませんから。
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ユロは、簡単につぎのような返事を書いた。
[#ここから1字下げ] 愛する人よ、前にもいったことだが、二十五年このかた妻はわたしの楽しみを妨げたことはない。おまえのためならアドリーヌのような女など百人でも犠牲にする。こんばん九時、わたしはクルヴェル神殿で女神の到来を待つことにしよう。次長など早くくたばればいいと思っている。われわれはもうけっして別れまい。これがわたしの最大の願いだ。
おまえのエクトル
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晩になると男爵は、妻に、サン・クルーの大臣邸で仕事をしなければならないから出かけるが明朝の四時か五時にはもどるといって、ドーファン通りに出かけて行った。六月の末ごろのことであった。
死を目前にするというおそろしい気持ちをじっさいに味わったことのある人は、まず少ないだろう。断頭台に一度はひかれて、そこから助かってもどって来た人などは、そういう一人だ。しかし、夢見の悪い人のなかには、断末魔の苦しみを夢で味わった人がいる。そういう人は、なにもかも、感じたのだ。世明けとともに目覚めが訪れて、夢から解放される瞬間には、首に白刃があてられるのまで感ずるということだ……。
ところで、朝の五時、クルヴェルの粋《いき》でなにやらなまめかしい寝台のなかで、参事院議員が味わわされた気持ちは、一万人の観衆の二万個の視線の燃えるような輝きに射すくめられながら、断頭台の死の跳ね板の上にのせられた死刑囚の気持ちを、はるかに上まわるものだった。ヴァレリーはしどけない姿で眠っていた。眠っているときでも美しい女がいるものだが、ヴァレリーもそういう美女の一人だった。芸術の美しさが、自分のなかにはいりこんだかと思われるような美しさで、要するにそれは絵画が現実の姿となって現われたようなものだった。横になって寝ていたから、男爵の目は床上三尺ぐらいのところにあった。目覚めたばかりで、考えをよびさまそうとしている人の目は、だれの目でもそうだが、男爵もうつろな目をして、ふと見ると、名声などはかえりみようともしない画家ローラン・ジャンが描いた花模様の扉が目にはいった。死刑囚ならぬ男爵は、二万個の目の輝きを見たわけではないが、広場の一万の視線よりももっとするどく輝くただ一個の視線に出会った。快楽のさなかにあってのこうした気持ちはめったには味わえるものではないので、死刑囚の気持ちなどよりはるかにめずらしいものだ。憂うつ症にかかっている人の多いイギリス人のなかには、こういう気持ちを味わうためならば、高い金を払ってもおしくないという人がたくさんいるにちがいない。男爵は横になったまま、文字どおり冷汗をぐっしょりかいてしまった。自分の思いちがいであると考えようとしたが、その殺人的な目つきが何か語っていた。扉のうしろでなにかささやくような声が聞こえるのである。
「せめて、冗談におれをからかうつもりのクルヴェルであってくれればいいが」と、神殿にだれかはいりこんでいることをもう疑えなくなった男爵は思った。
扉があいた。役所の掲示の上では、国王の名前のすぐあとに来る尊厳なフランスの法律が、ずんぐりしたちゃちな警部の姿をかりてそこに現われた。そのうしろには丈のひょろ長い治安判事の姿が見えた。二人ともマルネフ氏に連れられて来たのである。
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八一 麩《ふすま》と二番粉と三番粉
警部は、靴ひもの結び目が泥でよごれている短靴をはいて突っ立っていたが、あたまのてっぺんは地肌が黄色くすけて、うすい髪になっていて、下卑た、冷やかし好きのくえない人間と知れた。おまけに彼はもはやパリ生活には秘密なしといった男だった。眼鏡で二重になった目から、ずるそうな、人をばかにしたような視線が、レンズを突きぬけてくる。もと代訴人だった治安判事のほうは、むかしからの女性崇拝者で、これから裁判所に連行する男がうらやましくてしようがなかった。
「役目柄ちょっと手荒なことをしましたがお許し願いたいものです、男爵閣下」と、警部はいった、「告訴人からの要請がありましてな。ここへ踏みこむには、この治安判事さんが立ち会われました。ご身分も存じておりますし、そこにいる共犯の女のことも承知しております」
ヴァレリーはびっくりした目を見開き、するどい悲鳴をあげた。舞台の上で発狂したことを知らせるために女優が考え出した悲鳴だった。彼女は寝台の上でからだをよじって、のたうちまわった。まるで中世紀の悪魔にとりつかれた女が、硫黄《いおう》を塗った肌着を着せられて火あぶり台にのせられている姿みたいだった。
「死んでしまう!……いとしいエクトル、警察ですって? いやっ! ぜったいよ!」
彼女はぱっととび出して、白い雲のように三人の見物人のあいだをすり抜け、両手で顔を隠しながら飾り机の下へうずくまってしまった。
「もうだめ、死んでしまう!……」と彼女はさけんだ。
「閣下」と、マルネフはユロにいった、「もしマルネフ夫人が発狂したら、あなたは道楽者だけじゃすみませんよ、人殺しですよ……」
自分のものではない寝台で、しかも自分が借りている家の寝台でもない寝台で、おまけに自分のものでもない女といっしょにいる現場をふいにおそわれた男に、いったい何ができ、なにがいえるだろう? 以下がそれである。
「刑事君と警部君」と、男爵は威厳をつけていった。「どうやら理性を失いかけているようだから、その不幸な女をいたわっていただきたい……、調書はそれからでいいでしょう。どうせ出口はぜんぶ閉めてあることだし、こんな格好のところを見られた以上、あれにしろ、わたしにしろ逃亡する心配はないですからな……」
二人の官吏は参事院議員の命令に従った。
「来たまえ、話がある、卑劣なやつめ!……」と、ユロはマルネフの手をとって自分のほうへ引き寄せた。「人殺しはわしのほうではない、おまえだ! おまえは部長の椅子とレジォン・ドヌール勲章がほしいといったな?」
「ぜひそう願いたいのです、局長」と、マルネフは頭を下げながら答えた。
「どちらもかなえてやるよ、細君を安心させたまえ、あの連中は返すんだ」
「だめです」とマルネフは抜け目なく否定した。「あの連中に現行犯の調書を作成してもらわなきゃならない、その書類がないと、つまり告訴の裏付けですが、そいつがないと、わたしのほうはどうしようもないでしょう? 役所のおえら方のなさることはぺてんだらけですよ。女房は盗む、部長にはしてくれないじゃね、男爵閣下、とにかく二日だけ待ちますから、きっぱりかたをつけてもらいます。このとおり手紙もあることですしね、つまり……」
「手紙だって……!」と男爵はさけんで、マルネフの言葉をさえぎった。
「そうです、証拠の手紙ですよ。これで、女房がいまおなかに宿している子供は、閣下の子供だってことがはっきりします……。おわかりでしょうな? その私生児が受ける分と同じ額の年金を、当然わたしの息子にもやってくださるべきです。しかしそこは穏当にゆきますよ、額のことなんかどうだっていいんです、それほど親ばかじゃありませんからね、わたしは! まあ百ルイの年金でじゅうぶんでしょう。それより明朝からコケさんの後任者にしていただきますよ。それとレジォン・ドヌール勲章をもらう国祭日関係の昇進者のリストのなかに、わたしの名前を記入してくださいよ、それとも……調書にわたしの訴状をそえて検事局へ提出してもらうかですがね。どうです、ものわかりがいいでしょう?」
「どうだね! たいした美人だ!」と、判事は警部にいった。「これで気でもちがったら、世間の連中にとってはえらい損失になるよ!」
「何が気が狂ってるもんですか」と警部はしかつめらしく答えた。
警察というものは、いつも疑惑の権化である。
「ユロ男爵閣下はわなにかかったんですよ」と、警部はヴァレリーに聞こえるように大きな声で、そうつけくわえた。
ヴァレリーは横目で警部をにらみつけた。目つきに現われるはげしい怒りを視線で伝えることができるものなら、その横目で警部はにらみ殺されたかもしれない。警部はにやりとした。自分のほうでもわなをかけたのだが、女がまんまとそれにひっかかったからだ。マルネフは妻に、寝室へもどってきちんと服を着るようにうながした。というのも、彼はすでにあらゆる点にわたって男爵と話し合いをすませてしまったからで、男爵も部屋着をひっかけて最初の部屋にもどった。
「諸君」と、男爵は二人の官吏にいった、「お願いするまでもないことだが、これは内密にしていただきたい」
二人の役人は頭を下げた。警部は扉を小さく二度ノックすると、書記がはいってきて例の飾り机のまえにすわった、そして警部が低い声で口述するのを書きはじめた。ヴァレリーは熱い涙をながして泣きつづけていた。彼女が身じまいをおえるとすぐに、ユロも寝室へいって服を着た。そのあいだに調書ができあがった。マルネフはそこで妻をつれて帰ろうとした。しかしユロはこれでヴァレリーとも見おさめになるような気がして、ひとこと話をさせてほしいと、哀願するような手つきをしてみせた。
「君、この奥さんにはわしもずいぶん犠牲を払っているんだから、お別れぐらいはいわせてくれたまえ……、もちろん、みなさんの面前でだがね」
ヴァレリーがやってきた。ユロは彼女の耳もとへこういった。
「もう逃げるしかないよ。どうやって連絡をとる? 裏切られてしまったんだから……」
「レーヌがいるわ!」と彼女は答えた。「でもね、こんなさわぎになったあとですもの、もう会うべきじゃないと思うわ。あたし恥ずかしくて。それに、みんながあたしの悪口をいうわ、あなただってそれを信じるようになるでしょうし……」
男爵は否定する身ぶりをした。
「きっと信じるにちがいないわ。でもあたしはそれを神さまに感謝するの。だってあたしがいなくても、そのうちあなたはどうとも思わなくなるでしょうから」
「次長のままじゃくたばりませんよ!」と、マルネフは妻をつれもどしにきて、参事院議員にそう耳打ちしたが、妻には乱暴な口調でこういった、「もういいだろう、君。おまえにはおれも甘いが、ほかの人にはばかにされたくないからね」
ヴァレリーはクルヴェルの妾宅を去ったが、去りぎわにいかにもすれっからしらしい視線を男爵に投げた。それでまた男爵は自分は惚れられていると思った。判事はマルネフ夫人に愛想よく手をかして、馬車まで送った。
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八二 外科手術
男爵は調書に署名しなければならないので、そのまま警部といっしょに、まるで腑抜《ふぬ》けしたような様子で部屋に残っていた。参事院議員が署名し終わったと見るや、警部は眼鏡ごしに、いかにもずるそうなようすで、男爵を見つめた。
「あのかわいらしいご婦人がだいぶお気に召しておられるようですな、男爵閣下」
「因果な話だが、ごらんのとおりで……」
「むこうでは閣下を愛していないのでしたらどうなさいますか」と、警部はつづけた。「もしだましているんだとしたら?……」
「そのことはすでに承知していたよ。ここで、君、この場所でだ……クルヴェル君とぼくとで、そのことを話し合ったことがあるのだ……」
「ほほう、ここが区長さんの妾宅だということをご存知なので?」
「知っているよ」
警部はちょっと帽子をもちあげて、老人に敬意を表してみせた。
「ずいぶんご執心のわけですな、それじゃ申しあげるまでもありません」と彼はいった。「女道楽も慢性になりますと、わたしもそっとしておきます。ちょうど病気でも慢性化しますと医者がそっとしておくようなもので……わたしの見ましたのでは、例の銀行家のド・ヌシンゲンさんが、やはりそのような恋わずらいをされたことがありますが……」
「わしの友人だ」と、男爵はつづけた。「あの美人のエステルとは何度もいっしょに夜食をしたことがあるが、あの男が二百万つぎこんだだけのことはあったよ」
「もっとでしょう」と警部はいった。「なにしろあの老銀行家の気まぐれのおかげで、四人の人が命をなくしていますからね。いやもう、女道楽もあそこまでいくと、まるでコレラですな」
「何か言いたいことがありましたかね」と、参事院議員は相手の遠まわしの忠告を悪くとって、たずねた。
「せっかくの夢をさますようなまねもできませんでしてね」と警部は返した。「閣下のご年配でそういう夢をもちつづけていらっしゃるというのは、たいへんめずらしいことです」
「さましてくれたまえ!」と参事院議員はさけんだ。
「どうも医者というやつはあとでうらまれますからな」警部はにやにやしながら答えた。
「頼むよ、警部君?……」
「それでは申しあげますが、あの女は亭主とぐるなんですな」
「なにっ!……」
「まあ十回のうち二回はこうしたものです。いや、こういうことにかけてはわたしどもはくろうとですから」
「どんな証拠があるんだね、共謀だとすると?」
「もちろん、まずあの亭主ですよ!……」と、抜け目のない警部は、切開手術になれた外科医のような落ちつきを見せていった。「あの平べったい残忍な顔に、ちゃんとやまをはったことが書いてあります。それより閣下は、何かあの女の書いたもので、子供のことが問題になっている手紙を非常にだいじにしておくつもりだったんじゃございませんか?」
「だいじな手紙だから、いつも肌身につけてるよ」ユロ男爵は警部にそう答えながら、かたときも肌身から離したことのない小さな紙入れをとりだそうとして、内ポケットをさぐった。
「どうぞ紙入れはそのままで」と、警部は検事の請求のように、電撃的な調子でいった。「手紙はこちらにあります。これでわたくしの知りたかったことは、ぜんぶわかりました。マルネフ夫人はその紙入れに何がはいっているか、もちろん承知していたはずですね」
「あの女だけはね」
「思ったとおりですな……。それではお言葉にしたがって、あのかわいい女が共犯だという証拠をお見せします」
「さあ、どうぞ!」男爵はまだ信じられないといった様子でそういった。
「わたくしどもがついたときにですな、男爵閣下」と警部はつづけた、「あの卑劣なマルネフがまっ先にふみこんで、この手紙をとりあげたわけです。もちろん奥さんがそこの家具の上へのせておいたんですな」と彼は、例の飾り机を指さしていった。「明らかにこの場所だってことが、夫婦のあいだできめてあった。ただし閣下が眠っておられるあいだに、あの奥さんが手紙をうまく盗みとったと仮定してのことですが、なにしろあの婦人が閣下にあてて書いた手紙は、閣下がおだしになった手紙とともに、軽罪訴訟にとって決定的な証拠になりますからな」
警部は男爵が陸軍省の事務室でレーヌから受けとった例の手紙を見せた。
「その手紙は訴訟書類の一部になりますから」と警部はいった、「どうかお返し願います」
「なるほどね」と、ユロはいった、顔が引きつった。「あの女は、ちゃんと日をきめて男をたらしこんでしぼりとっているんだ。もう確実だよ、あの女には愛人が三人いる!」
「よくあることです」と警部はいった。「いや、ほんとに、ぜんぶが往来に立っているわけじゃありませんからな。ああいう商売をですね、男爵閣下、馬車のなかとか、客間とか、自宅とかでやりますと、もう何フランだ何サンチームだという問題じゃないわけです。お話にありましたエステル嬢にしても、毒を飲んで自殺してしまいましたが、それこそ何百万という金をまきあげています……。まあ、わたしの言葉を信じてくださるなら、このへんで手をお切りになることですな、閣下。今度の相手は高くつきます。あのろくでなしの亭主は法律をたてにとっていますからな……。要するに、わたしがいなかったら、閣下はまたあの小女に食いつかれていたところですよ!」
「いや、感謝するよ」と参事院議員は、つとめて威厳ある態度を失わぬようにしながらいった。
「では閣下、アパルトマンの錠をおろしましょう。茶番はおしまいです。それから鍵は区長さんのほうへおもどし願います」
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八三 道徳的省察
ユロはたとえようのない暗いもの思いに沈んだまま、失神に近い、気落ちした状態で帰宅した。気高く、神聖な、清らかな妻を起こして、まるでおもちゃを取りあげられた子供のように泣きじゃくりながら、この三年間の物語を妻の胸にぶちまけた。気だけ若い老人の告白、聞くもおそろしい悲痛なその叙事詩は、アドリーヌを内心ほろりとさせたが、同時にまた心にこのうえないはげしい喜びをあたえた。彼女はこの最後の打撃を天に感謝した。なぜならこれからいつも夫は家庭にいて出歩かないだろうと思ったからだ。
「リスベットがいったとおりでございましたわ」と、ユロ夫人はむだな意見をするのはやめて、やさしい声でいった。「こうなるんだって、前からいっていましたもの」
「まったくだ! ああ、あんなふうに怒らずにあれのいうことを聞いていたら、かわいそうにオルタンスを夫のもとに返そうとした日だった、つまり、あの人の評判を傷つけちゃいかんといってな、あの……そうだ、アドリーヌ、ヴェンツェスラスを救ってやらんといかん! あの泥沼のなかにあごまでつかっているのだ!」
「あなたもおかわいそうね、女優さんなどとちがって、プティ・ブルジョワの女とならもうすこしうまくいくかと思いましたけれど」と、アドリーヌはほほえみながらいった。
男爵夫人は愛するエクトルの変わりようにびっくりした。その不幸な、苦しそうな姿、苦悩の重みに打ちひしがれた姿を見ると、なつかしさと、いとおしさと、やさしい思いで胸がいっぱいになった。ユロをしあわせにするためなら、彼女は自分の血までもささげたであろう。
「わたしたちといっしょにいてください、ね、エクトル。ああいう人たちって、どうやってあなたをそんなにひきつけますの、おっしゃってちょうだい。わたしも努力しますわ……。なぜあなたのお役に立つように、わたしをしつけてくださらなかったのでしょう。のみこみが悪いんでしょうか。まだまだきれいだから、言い寄る人もあるだろうなどと思われていますけれど」
結婚して家事や夫のことに専念している多くの女性は、ここで自問するかもしれない。いったいあれほど強くてやさしくて、マルネフ夫人のような女にもそんなになさけ深い男性が、なぜ自分の妻を、ことにそれがアドリーヌ・ユロ男爵夫人のような妻であるならなおのこと、なぜそういう妻を自分の気まぐれや情熱の対象にしないのだろうかと。
これはしかし、人間の構造のもっとも深い神秘にかかりあいがある。理性の莫大な濫用であり、偉大な魂の男らしくきびしい快楽である愛と、即売式の俗悪な快楽とは、同じ行為の異なった両面なのだ。偉大な将軍、偉大な作家、偉大な芸術家、偉大な発明家というものが一国のうちにまれにしかいないのと同様、性質の異なったこの広大な二つの欲望を満足させる女は、女性のうちでもまれである。すぐれた男もばかな男も、ユロのような男もクルヴェルのような男も、理想と快楽の両者の必要を同じぐらい感じている。どんな男でもそうした神秘な両性化、たいていは二巻物の著作になっているこの珍品をたえず探し求めている。このような探索は、社会にその罪を帰すべき堕落である。結婚は、まさに確実に、一つの務めとして受け入れられねばならない。それは夫婦がともに同じようにしなくてはならない日々の労苦とつらい犠牲をともなった生活である。放蕩者、つまりこうした宝の探求者は、他の悪人にくらべてそれほどきびしく罰せられていないが、罪の深さという点では同じだ。このように考察をしても、別に道徳でめっきをしようということではない。ただこう考えると、多くの理解されない不幸の理由がわかるというだけだ。だいいち、この物語自体、そんな付け焼き刃以上の教訓を含んでいるはずである
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八四 戦果、すべては陸軍省の責任
男爵はさっそく元帥ヴィッサンブール公爵のところへ出向いた。元帥の有力なうしろだてが最後の頼みの綱だった。三十五年来老将軍から目をかけられている彼は、いつでも自由に出入りを許されていて、このように元帥が起きたばかりの時刻に、アパルトマンのなかへはいってゆけた。
「やあ! おはよう、エクトル君」と、この偉大で善良な将軍はいった。「どうしたね、浮かぬ顔をしとるじゃないか。しかし、会期は終わったよ。また一つ過ぎ去った! さあ、今度はその話ができるというわけだ、むかし戦争の話をしたようにな。そういえばたしか新聞も、会期中のことを、議会戦と呼んでおるようだ」
「まったくの話、苦労しましたな、元帥。ほんとに不景気な時代ですよ!」とユロはいった。「どうにもならないじゃありませんか! 世の中がそんなふうになっているのですから。いつの時代でも不都合があります。一八四一年の最大の不幸は、王権も政府も、ナポレオン皇帝のような行動の自由がないことです」
元帥は鷲のような目つきで、ユロをじろりと見た。その凛々《りり》しい、明敏な、洞察力の鋭いまなざしは、この偉大な人物が老齢の身であるにもかかわらず、今もなお確固としてたくましいことを示していた。
「わしに何かしてもらいたいのだな?」と、元帥は快活な態度になっていった。
「やむを得ぬ事情がありまして、ぜひとも個人的なご厚情におすがりしたいのですが、じつはうちの次長の一人を部長に昇任させていただきたいのです。それとその男にも叙勲のご沙汰をたまわりたいので、レジォン……」
「名はなんという?」元帥は電光のような視線を男爵に投げて、そういった。
「マルネフです!」
「きれいな細君をもっている男だな、きみの娘さんの結婚式のときに会った……もしロジェが……、だがロジェはもうこの地にいない。エクトル、どうだ、問題はきみのお楽しみだろう。なんてことだ! まだやまらんのか? やれやれ、近衛《このえ》隊にとって名誉な男だ! 経理部づきになってこれだからな。何か秘密にしていることがあるのだろう!……その話はほっておくんだな、いいな、どうも色っぽすぎて役所には合わん」
「いや、元帥、それがちょっとしまつの悪い問題でして、なにしろ裁判所問題になりますから。元帥はわたしを裁判所に出頭させたいですか?」
「なにっ、そりゃいかんな!」と、元帥は心配そうな顔になってさけんだ。「あとをつづけたまえ」
「わなにかかった狐同然の状態をお目にかけることになりますが……。元帥はいつもたいへんご親切にしてくださいましたから、どうかまたわたしをこの恥ずかしい立場からお救い願いたいと存じます」
ユロは自分の災難を、できるだけ気のきいたふうに、できるだけ陽気に物語った。
「公爵」と彼は最後にいった、「あなたはあれほど愛しておいでになるわたしの兄が、傷心のあまり死んでもよいとおっしゃるのですか? 参事院議員である部下の一局長が恥さらしになるのをだまっておられるつもりですか? マルネフというやつはあさましい男です、二、三年もしたら退職させましょう」
「二、三年などと、きみ、いやにかんたんにいうね!」と元帥はいった。
「しかし、公爵、近衛隊は不滅ですよ」
「はじめて元帥に昇任された仲間で生き残っているのは、今ではわし一人だ」と、大臣はいった。「なあ、エクトル。きみはわしが、どれほどきみのことを気にかけているか知らない、だが今にわかる! わしが陸軍省を去る日がきたら、いっしょにやめようじゃないか。そうだろう、きみは代議士じゃない。おおぜいの連中がきみの椅子をねらっている。だからわしがいなくなれば、いまの地位にはいられまい。そう、わしはきみを守ってやるために、ずいぶん人とやりあったものだ……。よかろう、きみの頼みは二つとも承知した、その年で、しかもいまの身分で、訊問台にすわらせるというのは、あまりにも残酷だからな。それにしても、きみは自分の信用にえらく傷をつけたもんだ。今度の昇任で騒ぎがおきたら、連中はわしたちをうらむからな。なに、わしは平気だが、きみの足にはまた一本とげが刺さる。つぎの議会で、とびあがるぞ。なにしろきみの椅子は、あとがまをねらっている有力な五、六人の連中の前に、ちょうど餌《えさ》のようにぶらさがっているのだ。わしの理屈のつけ方が巧妙だったんで、どうにか地位が保てた形だ。わしはこういってやったのだ、きみが退職して、そのあとをだれかにまかす段になったとしてもだね、喜ぶやつは一人いるが、不平をいうやつが五人できる。ところがあと二、三年のあいだ、きみをぐらついた地位のままにしとくとだね、われわれに味方する票が六票あるわけだ、とな。それで閣議の連中も笑い出して、なるほど|近衛隊の古つわ者《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》もなかなか議会の戦術がうまくなったと認められたが……。ま、そういうことだ、この点はっきりいっとくよ。それに髪の毛もだいぶ白いじゃないか……。それでまだそんな窮地におちこむとは、よくよくしあわせな男だ! コッタン陸軍少尉〔ヴィッサンブール公爵の本姓〕が色女をいくたりもかかえていた時代は、どこへいったことか!」
元帥は呼び鈴を鳴らした。
「その調書は破棄させなきゃいかん!」とつけくわえた。
「閣下、閣下はほんとに父親のようにやってくださいます! わたしはこれまで、自分の心配事を、閣下にお話しする勇気がなかったのですが」
「ロジェがいてくれたらといつも思うよ」元帥は取次役のミトゥーフレがはいってくるのを見て、そうさけんだ。「それでつい呼びもどす気になるんだ。――さがってよろしい、ミトゥーフレ――それじゃきみは、辞令の用意をさせたまえ、署名するから。しかし悪だくみをしおったその破廉恥《はれんち》漢には、そうそううまい汁は吸わせておかんぞ。十分に監視していて、少しでもまちがいがあったら、責任者としてすぐに免職だ。さあ、これできみは助かった、エクトル、以後気をつけたまえ。友人たちを疲れさせてはいかんよ。辞令書は午前中に届けさせる、それとその男を受勲者にしてやる!……きみは今いくつだね?」
「あと三カ月で七十です」
「ずいぶん盛んなやつだなあ!」元帥は微笑をもらしながらいった。「きみこそ昇進のねうちがある。いや、重罰だ! ルイ十五世の時代とはちがうからな!」
ナポレオン軍の名誉ある残存者をたがいに結びつけている友情の現われは、以上のとおりである。つねに露営の地にあると信じ、いっさいのものにたいして、たがいに身を守り合わねばならないと思っているのだ。
「もう一度このような恩恵をえようとしたら」と、ユロは中庭を横切りながら心のなかでいった、「おれの破滅だ」
不幸な官吏はヌシンゲン男爵のところへ足をはこんだ。もう借金は取るにたらぬ額しか残っていなかった。それでさらにあと二年間俸給を担保に入れることにして、四万フラン借りることに成功した。しかしヌシンゲン男爵は、ユロが退職した場合には元利を償却《しょうきゃく》するまで、ユロの恩給の差し押え割り当て額をこの借金の返済に振り当てるように取りきめた。今度の契約も最初のときと同じようにヴォーヴィネの名義でおこなわれ、男爵はこの男に一万二千フランの手形を振り出した。翌日には、あの致命的な調書も、マルネフの訴状も、手紙も、すべて破棄された。マルネフ氏の恥さらしな昇任問題も、七月の国祭騒ぎにまぎれてほとんど注目をあびなかったため、新聞にもぜんぜんのらなかった。
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八五 別の災難
リスベットは表向きはマルネフ夫人と仲たがいしたことにして、ユロ元帥の邸に落ちついた。そのようないろんな事情があってから十日目に、この老嬢と著名な老将軍とが結婚するむねの最初の公示が教会で発表された。アドリーヌは元帥に、同意を得るため、エクトルをおそった財政上の破局を語り、このことは男爵にけっして話さないでくれと頼んだ。彼女がいうには、夫は暗く沈んで、ひどい落胆ぶりで、すっかり意気消沈していた……
「なんといっても、あの年ですから!」と彼女はつけくわえた。
リスベットは得意になっていた! いまや野心の目的は遂げられようとしている、念願の計画が成就し、うらみのはらされる日が目前にせまっている。彼女は、じつに長いあいだ自分をさげすんできた一家を支配するという幸福を、はやくも楽しんだ。これまでの保護者の保護者になってやろう、破産した一家を養う救いの天使になってやろうと心に誓った。鏡のなかの自分に会釈しながら、伯爵夫人! とか元帥夫人とか自分で呼んでみるのだった。アドリーヌとオルタンスは、貧苦と戦いながら悲嘆のうちに生涯を終えるだろう、それに反してベットは、チュイルリー宮殿にも出入りを許され、社交界に君臨するだろう。
一つのおそろしい事件がもちあがり、社交界の頂上にいるつもりで誇らしげにかまえていた老嬢を仰天させた。
最初の公示が出たその日に、男爵はアフリカから第二の伝言を受けとった。前とは別のアルザス生まれの男がたずねてきて、受取人がユロ男爵であることを確かめると、一通の手紙を手渡した。それから宿泊先の所書きを置いて立ち去った。あとに残された男爵は、手紙の最初の数行を読んで雷に打たれたような思いがした。
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甥《おい》殿、この手紙は、わたしの計算では八月七日に、お手もとに届くことと推察します。わたしどもの救援のご手配に三日、当地までの行程に二週間かかるものとして、救援到着は九月一日になります。
右の期限内に実行がかないますものなら、貴下の忠実なるジョアン・フィッシェルの名誉と生命は、貴下の手で救われるでありましょう。
貴下がわたしの共犯としてつかわした官吏が要望している件は、以下に記すとおりです。共犯と申すのは、目下の形勢から見て、わたしは重罪裁判所もしくは軍法会議にまわされる可能性があるからです。ご承知のごとくけっしてジョアン・フィッシェルはいかなる法廷にも引き出されることなく、みずから進んで神の法廷に立つ所存でおります。
貴下の派遣された官吏は性悪の男のように思われ、貴下の名誉を危険にさらしかねない人物に見受けられます。ただし詐欺師のごとく知恵のまわる男です。彼の主張するには、貴下はこの際、他の誰よりも声を大にして、われわれのもとへ検察官を派遣なさるべきである、つまり犯罪者を発見し悪弊を摘発するなど、要するに厳重な取締りをおこなうべき特別監察官を派遣する要があるといっております。しかし物議をかもしてまで、当方と裁判所側のあいだにはいって調停をはかる人物が果しているものでしょうか。
貴下の監察官が九月一日に当地に到着し、貴下派遣のむねが合言葉によって明確な場合、さらにまた現在われわれがこの遠隔の地に保管中と称する多量の糧秣を貯蔵庫へ買い戻すために貴下が二十万フランご送付くださる場合、われわれは清廉潔白な会計係とみとめられるでありましょう。
この手紙持参の兵隊にアルジェの銀行払いのわたしあての為替を託してくだされば結構です。わたしの親戚に当るかたい男で、持参品についてせんさくなどはいたさぬ人間です。この青年の帰路の安全についてはすでに策を講じました。万一、貴下に何らの手だてがない場合は、われらのアドリーヌをしあわせにしていただいたご恩義を思って、貴下のために喜んで自決するつもりです。
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愛欲の苦しみや喜び、それに色好みの生活の幕切れになった例の災難などにさまたげられて、ユロ男爵はあわれなジョアン・フィッシェルのことを考える折がなかった。ところが最初の手紙にはっきりと危険を予告してあったが、いまではその危険がいよいよ切迫したものになったのだ。男爵は混乱のあまり食堂を出ると、そのまま客間の長椅子にどっと倒れてしまった。ひどい堕落を経験したあとのように、まるで感覚がなくなり、ただぼう然としていた。絨毯《じゅうたん》のばら模様の一点に目をすえたまま、ジョアンの運命を決する手紙を持っていることにも気づかないようだった。
アドリーヌは自分の部屋で、夫が何かのかたまりみたいにどっと長椅子に身を投げ出すのを聞いた。その音がひどく奇妙だったので、卒中の発作かと思った。息がとまって、身もすくんでしまうような恐怖におそわれて、扉ごしに鏡のなかをのぞきこんだ。見るとエクトルがまるで地面へたたきつけられたような格好をしている。男爵夫人は爪先《つまさき》立ちではいっていった。エクトルには何も聞えないようなので、そのまま近づいていった。手紙が目についた。取りあげて読んでみた。全身にふるえがきた。からだに永久に痕跡が残るほどの激しい神経的発作を経験した。数日たってから、何かにつけてすぐ身ぶるいするようになった。それも最初の瞬間がすぎさってすぐには、とにかくなんとかしなければならないという必要から彼女は、生命力の根源からだけくみとれる、必死の気力をふりしぼったのであった。
「エクトル! わたしの部屋へいらして」と彼女は虫の息のような声でいった。「こんなところを娘に見られたらおしまいですわ。さあ、早く、あなた」
「二十万フランもの金をどこで工面する? クロード・ヴィニョンを検察官として派遣する許可はすぐとれる。あれは気転もきくし、頭のいい男だ……二日もあればこの件はすむ……問題は二十万フランだ、息子にあるわけはないし、あれの家は三十万フランの抵当にはいっている。兄貴にしても、貯金がせいぜい三万フランもあればいいところだ。ヌシンゲンは、笑って相手にはしてくれまい!……ヴォーヴィネか?……恥知らずのマルネフのせがれにやる金がたりなくて、一万フラン借りるのにさえ、しぶしぶだった。いや、ぜんぶだめだ。けっきょく元帥のところへいって足もとに身を投げだして、事のしだいを白状するしかない。悪党といわれ、悪口をさんざん浴びて、端然と没落していくだけだ」
「でもエクトル、そうなれば破滅だけじゃすみません、面目まるつぶれというものです!」とアドリーヌはいった。「かわいそうに叔父さんは自殺するつもりですよ。殺すのはわたしたちだけにしてちょうだい。その権利ならあなたにもあります。でもほかの人を殺してはいけません! もう一度勇気を出してください、助かる道もあります」
「それがないのだ!」と男爵はいった。「政府のうちにだれ一人、二十万フランの工面のつくものはいない、たとえ一省の存亡にかかることであってもだ!……おお、ナポレオン、おん身はいずこにありやだ?」
「叔父さん! 気の毒なひと! エクトル、叔父さんが面目を失って自殺なさろうというのに、見殺しにはできませんわ!」
「たしかに策がないこともないが」と彼はいった。「しかし……こいつはずいぶん冒険だ……、クルヴェルは娘と反目している……ああ、金はたんまりもってる男だ、まあ、あの男ぐらいだろう、あれなら……」
「ねえ、エクトル、叔父さんを見殺しにしたり、兄さんの生活や一家の面目が失われるのをだまっているくらいなら、わたしが死んだほうがましですわ!」男爵夫人はふと一すじの光明に打たれて、いった。
「そうですわ、わたしはあなたたちみんなを救うことができます……まあ、なんというさもしい考えでしょう! どうしてこんなことを考えたんでしょう?」
彼女は両手を合わせると、くずれるようにひざまずいて、祈った。ふたたび立ちあがってみると、夫の顔に狂ったような喜びの表情が見えた。そこでまた悪魔的な考えがおこり、それからアドリーヌは白痴のような悲しみに落ちこんだ。
「さあ、あなた、急いでお役所にいらして」彼女は麻痺状態からさめて気をとりなおすと、そうさけんだ、「検察官を派遣するように骨折ってください、どうしても必要ですわ。元帥をまるめこむのよ! そして、五時に帰宅なさるときにはたぶんできているでしょう……いえ、きっと二十万フランができていますわ。あなたの一家も、あなたの男としての、参事院議員としての、行政官としての面目も、あなたの誠実も、あなたの息子も、みんな救われるでしょう。ただ、あなたのアドリーヌは破滅です。もう二度とお目にかかることはありますまい。エクトル、あなた」と、彼女はひざまずきながら、夫の手をにぎって接吻しながらいった。「わたしを祝福してください、お別れのことばをいってください!」
胸がはりさけそうだった、あまりの悲痛さにユロは妻を抱き起こして接吻しながら、いった。
「おまえのいってることがわからんよ!」
「おわかりになったら」と彼女はことばをついで、「わたくし、恥ずかしくて死んでしまいます、そうでなくても、この最後の犠牲をなしとげる気力がなくなってしまいますわ」
「お食事の用意ができました」と、マリエットが知らせにきた。
オルタンスが父と母に朝のあいさつをしにきた。食事をしにいかなければならず、そして何くわぬ顔をしていなければならなかった。
「先にいって召し上がってください、すぐまいりますから!」と男爵夫人はいった。彼女は机に向かうと、つぎのような手紙を書いた。
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クルヴェルさま、ちょっとお願いしたいことがございます。けさ、お待ち申しあげます。女性におやさしくていらっしゃることを存じておりますので、あまりながくお待たせにならないと信じております。
あなたの忠実なしもべ
アドリーヌ・ユロ
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「ルイーズ」と、彼女は用事をしていた娘の小間使いにいった。「この手紙を門番のところにもっていって、すぐあて名のところへ届けるようにいってちょうだい。それから返事をいただいてくるようにね」
新聞を読んでいた男爵は、共和党派の新聞を妻のほうへさし出して、記事の一つを指さしながら、いった。
「間に合うかな?」
記事はつぎのとおりで、長ったらしい政治談義に色をつけるために、新聞にのせるあのおそるべき囲み記事の一つだった。
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本紙アルジェ通信員の報道によると、オラン地方の糧秣管理部の乱脈ぶりが発覚し、司法当局が調査を開始した。汚職の事実は明白で、犯人もすでにわかっているが、ここで粛清が厳重におこなわれないと、今後もわが国は、派遣軍の食糧におそいかかる汚職事件によって、アラブ人の銃剣や炎熱の気候で倒れるよりも、さらに多数の人命を失うことになろう。つぎの情報を待って、このなげかわしい問題の報道をつづけるが、一八三〇年の憲章によって認められた新聞のアルジェリア進出が一部の者にあたえる恐怖は、今や、ふしぎではなくなっている。
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「とにかく、服を着がえて役所へいってくる」と、男爵は食卓を離れながらいった。「ぐずぐずしておれんよ、人一人の命が一分一分ちぢまってゆくんだからな」
「おお、お母さま、わたしもう絶望ですわ!」と、オルタンスはいった。
そして、涙をこらえ切れずに、『美術評論』を母親にさし出した。ユロ夫人が目をやると、スタインボック伯爵作の『デリラ』群像の版画で、下のほうに「マルネフ夫人所蔵」と印刷してあった。解説記事は、ただVとだけ署名してあるが、最初の二、三行からしてすぐに、クロード・ヴィニョンの才能と調子の良さが読みとれた。
「かわいそうにね、おまえも!……」と男爵夫人はいった。
冷淡ともいっていい母親の口調にびっくりしたオルタンスは、母の顔をじっと見つめた。自分の悩みなど色あせてしまうほどのはげしい悩みが現われていた。それを見て母のそばにきて接吻して、こうたずねかけた。
「どうかなさったの、お母さま? 何かあったの? わたくしたち、このうえまだ不幸になれるものでしょうか」
「それがね、きょうのわたしの苦しみにくらべたら、いままでのおそろしい苦しみなど、なんでもないように思えるわ。いつになったら苦しまずにすむのかしらね?」
「天国にいってからですわ、お母さま」オルタンスは厳粛な調子でいった。
「それじゃね、わたしの天使さん、ちょっと着がえるから手伝っておくれ……いえ、いいわ……、おまえにはこんなお化粧の手伝いをさせたくない。ルイーズを呼んでちょうだい」
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八六 別の化粧
アドリーヌは、自分の部屋に帰ると、鏡に近より、自分の姿をしらべた。沈んだ気持ちで、しげしげとながめながら、こんなことを思った。
「まだきれいかしら?……男心をそそることができるかしら?……しわはよってないわね……」
彼女は美しいブロンドの髪の毛をかきあげて、額をあらわにした……どこも処女のように、みずみずしかった。アドリーヌはそれにつづいて、肩まで出してみたが、やはりみちたりた思いで、少々得意でもあった。美しい肩の美しさというものは、生活が清らかだった場合、女にあっては、とりわけ最後に消え去るものである。
アドリーヌは、衣裳と装身具とを念入りに選んだ。だが、敬虔で貞淑な女は、化粧にいくら小細工をしても、貞淑な身なりしかできない。ま新しいねずみ色の絹靴下、サンダル風の繻子の靴がなんの役に立つであろうか。というのは、貞淑な女はかんじんなときに、半分持ち上げたドレスから美しい足をちょっと出して見せて、男の欲望にたいして視界を新しく開いてやるというすべを、まったく心得ていないのだ。アドリーヌは、彼女の持っているなかで、いちばんきれいな、花模様の肩まであらわれる、袖の短い、モスリンの服をきちんと着こなしていた。だが、どこもかしこもむきだしなので気おくれして、美しい腕は薄い紗の袖で隠してしまい、胸と肩とは刺繍入りの肩かけでおおってしまった。イギリス風の髪型は、あまり思わせぶりなので、はなやいだ気持ちをきれいな帽子で消してしまった。だが、帽子があろうが、なかろうが、金髪の輪をまさぐりながら、華奢な手を見せびらかしたり、見とれさせたりする手管を夫人は心得ているのだろうか……さて、彼女の顔の化粧はといえば、罪を犯すことのたしかさと、過ちと知りながらもやってみようとする心がまえのために、この聖女のような女も激しい熱を呼びさまして、ほんの一時、若き日の色つやがよみがえるのであった。目は輝き、顔は赤く染った。だが、自分では魅力的になったと思うどころか、ふしだらなようにみえて、おそろしくなった。あるときリスベットは、アドリーヌにせがまれて、ヴェンツェスラスの不貞のありさまを物語ったことがあった。そのとき男爵夫人は、マルネフ夫人が一晩で、それも一瞬のうちに、芸術家を悩殺し、わがものにしたのを知って、心からおどろいたのであった。
「どういうふうにするんでしょうね、そういった人たちは」と男爵夫人はリスベットにたずねたものだった。操の正しい女たちが、こうした問題に寄せる好奇心の強さは、何物にもくらべることができない。彼女たちは、悪徳の魅惑を身につけても、なお、純潔を保っていたいと願うのだった。
「どうするって、ただ誘惑してしまうのよ。それがあの人たちのあり方なんだから」とベットは答えた。「それにまたあの晩のヴァレリーさんときたら、天使も堕落させるほどでしたもの」
「聞かせてちょうだい、どんなふうだったの?」
「理屈なんかないわ。この道では、経験だけがものをいうんですからね」と、リスベットはあざけるようにいった。
男爵夫人は、こんな会話を思い出して、ベットに相談したいと思った。だが、そんなひまもなかった。つけ黒子《ぼくろ》をするとか、胴の中央あたりにばらのつぼみを飾りつけるとか、男の衰えた欲望をかきたてる化粧法を知らないあわれなアドリーヌは、ただ衣裳の着つけに気を使うだけだった。だれでも思いどおりに娼婦になれるものではない!
「女は男のポタージュさ」とモリエールは、思慮深いグロ・ルネ〔『恋の意趣』中の人物。だがこのせりふは、『女房学校』の下男アランのもの〕の口を借りて、ふざけていっている。この比喩は、恋愛も一種の料理法と考えると、はじめてはっきりしてくる。このたとえにしたがえば、徳の高い、威厳のある女は、たっぷりした食事だし、燃えさかる炭火で焼かれた肉であるといえるだろう。逆に娼婦は、薬味や香料をきかせたカレーム〔タレーラン、アレキサンドル皇帝、ロッチルドなど当時の有名人の料理人を勤めた人〕の手のこんだ料理ということになるだろう。
男爵夫人は、マルネフ夫人のように、レースのすばらしい皿に盛って、自分の白い胸をさし出すことなどはできなかったし、そんなことは考えもしなかった。ある種のからだのこなしの秘訣や、ある種のまなざしの効果などは知らなかった。要するに、相手に不意打ちをくらわすことなどは知らなかったのである。この気高い女がどう策をろうしても、道楽者の何でも知りつくした目をひきつけることなどできない相談であろう。
世間にたいしては貞淑な、お高い女であり、夫にたいしてだけ、娼婦になるような女は、天才的な人妻で、そんな女はそうざらにはいない。そこにこそ、こうした二重のすばらしい能力を欠いている女たちには不可解な夫婦愛の秘訣がある。有徳なマルネフ夫人を想像してみるがいい!……まさしくペスカルラ侯爵夫人〔十六世紀イタリアの女流詩人、貞淑な女性の典型〕ではないか! あの偉大で、有名な女たち、美しくて有徳なディアーヌ・ド・ポワチエ〔アンリ二世の寵姫〕なども、そうした女たちである。
さて、パリの真剣な、おそろしい風俗研究であるこの小説の冒頭が、また再現されようとしている。だが、それには奇妙な相違があって、国民軍大尉が予言した貧困が、役柄をすっかり変えてしまった。三年前には、よくないことを胸に抱いて、馬車の上からパリっ子たちに微笑を振りまきながらやってきたのは、クルヴェルのほうだったが、今度はユロ夫人が似たような意図で、クルヴェルを待っていた。それにしても、おかしなことではないか! 男爵夫人は、不貞のなかでも、もっともいやしいもの、ある種の裁判官の目から見れば、情熱の誘惑をともなわないからこそ許しがたく思われる不貞に身をまかせながらも、彼女自身にたいして、また自分の愛にたいして忠実なのであった。
「マルネフ夫人のようにするには、どうしたらいいのかしら?」と、呼び鈴の鳴るのを聞きながら、彼女は思った。
彼女は涙をおさえた。熱っぽさが彼女の顔つきを生き生きとさせた。このあわれな、気高い女は、ちゃんとした娼婦になってみせると決意したのだ!
「いったいあの律儀な男爵夫人が、わしになんの用があるのだろう」と、クルヴェルは思案しながら、大階段をのぼっていった。「そうか! セレスティーヌとヴィクトランとわしとのいさかいのことだな。だが、その話なら、言いなりにはなれないぞ」
ルイーズについて客間にはいった彼は、彼流にいうと、その場所が殺風景なのを見て、こうつぶやいた。
「あわれな女だ!……これじゃまるで絵を解さない男に、屋根裏部屋に放ったらかしにされている名画みたいなものじゃないか」
商務大臣ポピノ伯爵が絵や彫像を買い集めているのを知っているクルヴェルは、パリの芸術家保護者のひとりとして、有名になりたいと思っていた。こうした連中の芸術愛好などというのは、二十フランのねうちの作品を二十スーで探すことなのである。
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八七 崇高なる娼婦
アドリーヌは、クルヴェルに愛想よくほほえんで、自分のまえの椅子をさした。
「お呼びを受けて、とんできましたよ。奥さん!」とクルヴェルはいった。
区長殿は、政治家になってから、黒服を着用することにしていた。その顔はこの服の上だと、黒雲のたなびく上方にかかった満月のようにみえた。どれも五百フランはする大粒の三つのダイヤで星をちりばめたようなシャツは、その力量のゆたかさをはっきり見せていた。彼は口癖のように「わしを見れば、将来の議政壇上の闘士だということがわかるだろう」といっていた。ぶこつな大きな手には、朝っぱらから黄色い手袋がはめてあった。エナメルの長靴は、一頭立ての濃色の小型馬車できたことをはっきり示していた。
三年来、野心のために、クルヴェルのポーズは変わっていた。偉大な画家ではないが、今やまるで第二期の様式にあった。上流社会にいるとき、ヴィッサンブール公爵とか、県庁とか、ポピノ伯爵とかの家を訪問したときは、ヴァレリーの教えどおりに、くつろいだ様子で帽子を手にし、もういっぽうの手の親指をしゃれた格好でチョッキの脇に突っこみ、頭や目で愛嬌をふりまきながら歩いた。こうしたすまし方も、悪戯《いたずら》ずきのヴァレリーのせいで、区長殿を若返らせると称して、もうひとつこっけいさを彼につけ加えたのであった。
「わざわざお出でいただいてほんとうにおそれ入りますわ、クルヴェルさん」と男爵夫人は、乱れがちな声でいった。「実はとても重大な事件がございまして……」
「わかっていますよ、奥さん」とクルヴェルはずるそうにいった。「でも、それだけはごめんこうむりましょう……いえね、わしだって頑固おやじではありませんよ。ナポレオンの言い種ではないが、四角四面の、けちな男ではありませんがね。いいですか、奥さん。わしの子供たちが自分で散財してにっちもさっちもいかないのなら、わしだって助けてやりますよ。だけど、あなたのご主人の借金の肩がわりではね、奥さん。……ドブに捨てる銭のようなものだ。いっこう改悛の様子もない父親のために、家は三十万フランの抵当にはいっている。かわいそうに。あいつたちにはもうなんにも残っていない。それも楽しいことをした報いというなら、まだわかる。こうなっては、生きていくのに、ヴィクトランが裁判所で稼ぐものしかない。せいぜい弁じていただきましょうか、ご子息に!……ああ、大臣になってもらいたかったですよ、あの大先生には。われわれみんなの希望でしたからね。りっぱな曳き船ですよ、実に簡単に坐礁してしまった。そうじゃありませんか、出世するための借金だったり、議員にふるまったり、票集めや勢力拡張のための借金ならば『さあ、わしの財布だ、つかいたまえ』と言いたくもなるが、父親の気違いざた、まえもって注意しておいたような気違いざたの肩がわりではね。ああ、親父のおかげで、権力からすっかり遠のきましたな……大臣になるとしたら、このわしですよ」
「クルヴェルさん。きょうのお話って、子供たちのことではないのです。かわいそうに、あの子たちは、いろいろつくしてくれます……ヴィクトランやセレスティーヌにあなたの心がとざされても、それだけわたしが愛してやりますわ。あなたが怒られて、あの子たちの美しい魂が受ける苦痛を、わたしがなだめてやれると思いますわ。あなたはご自分の子供のよいおこないを罰しているのです!」
「そうですとも。やり方がまずい。半罪《ヽヽ》です」とクルヴェルは自分のしゃれに満足していった。
「よいおこないをするとは、クルヴェルさん」と男爵夫人は答えた。「ありあまった財布からお金を出すことなんかではありませんわ。自分の寛大さのために困苦にたえることです。善行のために苦しむことです。忘恩も当然と思うことです。少しでも苦労のない慈善なんて、神さまがお認めになりません」
「奥さん、聖者たちが養老院で死ぬのは勝手です、だって、そうした人たちは、そこが天国の門だと知っているのですからね。ですが、わしは俗物ですよ。神を畏《おそ》れているが、それ以上に貧乏の地獄をおそれている。文なしというのは、現代の社会制度では、最大の不幸ですよ。わしは現代に生きている男です。金を崇拝します!……」
「おっしゃるとおりです」とアドリーヌはいった。「世間的通念からすれば」
彼女は用件からすっかり遠ざかってしまっていた。叔父のことを考えると、火あぶりにされている聖者ローランのように、いてもたってもいられない気持ちであった。ピストルの引き金に手をかけている叔父の姿がありありと目に浮かんだ。彼女は目を伏せたあとで、天使のようなやさしさをたたえた目をあげて、クルヴェルをじっと見た。それは、あのヴァレリーの挑発的で淫蕩な、才気にあふれたまなざしとはちがっていた。三年前だったら、クルヴェルは、このすばらしいまなざしに、魅了されたことだろう。
「以前はもっと気前がよろしかったようでしたのに」と彼女はいった。「お大名みたいに、三十万フランなんてなんでもないようなお話しぶりだったのに」
クルヴェルはユロ夫人を見つめた。しおれかかった百合のようだと思った。なんとなく気づくものがあったが、この聖女を尊敬するあまり、そんな疑惑をみだらな心の底のほうへ押し返してしまった。
「奥さん、わしは変わっていませんよ。ただ商人あがりのものは、大貴族になっても、その流儀や節約ってことは捨てられるものではないし、また捨てるべきではないでしょう。何事も秩序を守る気でいます。若気の過ちをした者と取り引きしたり、信用貸ししてやったり、少しぐらいの儲けなら犠牲にもする。だけど元手に手をつける……これは狂気のさたですよ。わしの子供たちは、当然わしの財産を相続するでしょう。家内のとわしのをね。だけど、子供たちにしたところで、おやじが世の中がいやになり、坊主になって、ミイラになることなどは望まないはずだ……生きることはまったく楽しい! わしは、愉快に河をくだっていますよ。法律や愛情や家庭から課せられた義務を残らずはたしているし、手形は期日にきちんと支払ってきた。わしの子供たちが家庭で、わしのようにやってくれたら、なんにもいうことはないのだが。それに今のわしは浮気もしているが、わしだってやっているけど、だれの財布のやっかいになっているわけでもない。もっとも鴨《ゴゴ》〔だまされやすい人〕は別ですがね……これは失礼、株屋のこんな符丁《ふちょう》はご存知なかったですね……だから子供たちには、わしをとがめだてする筋合いは何もないはず。それにわしがぽっくりいけば、かなりの財産がころがりこみますからね。あなたのお子さんたちはこんな具合にはいきませんよ。自分のむすことわしの娘を破産させはしても、なんとか女をものにしたがっているユロさんではね……」
話が進むにつれて、男爵夫人は、ますます目的から遠ざかっていった。
「主人をたいへんおうらみのようですが、クルヴェルさん。でも、わたしがか弱い妻だということにお気づきになったら、主人のいちばんいいお友だちになってくださるでしょうに……」
彼女はクルヴェルに熱い流し目を送った。だが、摂政をあまりないがしろにしたデュボワ〔十八世紀フランス摂政オルレアン公フィリップと枢機員デュボワの仮装舞踏会での逸話。この舞踏会で摂政の仮装をしたデュボワがデュボワの仮装をした摂政を文字どおり家来としてあつかった〕と同じことになってしまった。仮装しすぎたのである。そこで、香水商にみだらな考えがよみがえってきて、こんなふうに思った。
「この女はユロに復讐したいと思っているのかな?……国民軍時代のわしよりも、区長のわしが気にいったのかな?……女っていうものはわけがわからない?」
彼は第二期の様式でポーズをとり、摂政時代の態度で、男爵夫人をながめた。
「まるで」と夫人はつづけた。「あなたのお心に添わなかった貞淑な女にたいする遺恨をはらすために主人にあたっているみたいですのね。でも、その女をそれほどお嫌いではなかったはず……お買いになってもいいとお思いに……」と蚊の鳴くような声でつけ加えた。
「神々しい女をね」とクルヴェルは答えて、意味ありげに男爵夫人に微笑んだ。男爵夫人は目を伏せた。そのまつ毛はぬれていた。「だって、あなたはよく侮辱をしのんできましたからね……三年間も……そうでしょう、あなた」
「わたしの苦しみの話なんかやめてください、クルヴェルさん。人の力にはあまるほどですもの。でも、まだわたしを愛していらっしゃるのなら、わたしは地獄にいるのです。やいたヤットコではさみつけられたり、四頭の馬で引き裂かれたという王殺しも、わたしにくらべれば、バラの床にいたようなものですわ。あのような罪人たちは、からだをバラバラにされただけですが、わたしは、心を四頭の馬に引き裂かれていますので……」
クルヴェルは、手をチョッキの脇からはなし、帽子を仕事台の上にのせた。彼はポーズをくずして、ほほえんだ。この微笑は、あまりにも間が抜けていたので、男爵夫人は意味をとりちがえて、善意のあらわれだと思った。
「あなたの目の前にいるわたしは、絶望した女ではなくて、女の誇りまで捨てようとして、いろいろな罪悪を防ぐために、どんなことでもする決心をする女です」
オルタンスが来たらたいへんと思って、彼女はドアに閂《かんぬき》をかけた。それから、そのついでに、クルヴェルの足もとにひざまずいて、彼の手をとり、接吻した。
「わたしの救いの神になってください!」
この商人の心にも寛容な琴線があるだろうと思って、身を汚すことなしに二十万フランを手にいれる希望が、突然彼女の頭に閃いて、それにとらわれた。
「魂をお買いになってください。貞節をお買いになろうとしたあなたでしたけど」彼女は必死のまなざしを相手にそそいでつづけた。「妻としてのわたしの誠実、わたしの貞節を信じてください。その堅固なことはご存知のとおりです。わたしのお友だちになってください。家族全体を破滅から、恥辱から、絶望から救ってください。泥沼に落ちて、のたうちまわって、泥が血まみれにならないようにしてください。お願いです、理由はおききにならないで!」と彼女は、クルヴェルが何か話したそうなそぶりをしたのにたいしていった。「それに『まえにいったとおりじゃないか』と他人の不幸をうれしがる友だちのような口をきかないでください。さあ……、あなたが愛してくださった女、そしてあなたの足もとにこうしてひざまずいているのが、このうえなく高貴なことかもしれない女であるわたしの願いをかなえてください。なんにもお求めにならないで。ご恩はけっして忘れはいたしません……いいえ、恵んでくれなどとはいいません。貸してください。あなたがいつかアドリーヌと呼んだこのわたしに……」
ここで、涙がとめどもなくあふれ、アドリーヌはさんざんすすり泣いて、クルヴェルの手袋をすっかりぬらしてしまった。「わたしには二十万フラン必要なのです……」という言葉もあふれる涙でかきけされた。まるでどんな大きな岩石でも、雪解け水にあふれたアルプスの滝では、水底に没してしまうようであった。
操のかたい女の世間知らずとはこうしたものだ! 不身持ちな女は、マルネフ夫人の例でもわかるように、なにかをねだったりはしない。何もかも吐き出させてしまう。こういう種類の女たちがものをせがむのは、相手が自分なしには生きていけないとわかったときとか、石膏がすくなくなった採石場、つまり、石切工のいう廃坑を発掘するかのように、男を最後のかすまでしぼるときとかにかぎられている。
「二十万フラン」という数字を耳にして、クルヴェルはすべてを了解した。それで彼は失礼な言葉を口にしながら、丁重に男爵夫人を抱きおこした。「まあ、落ちつくんですな。おばさん」アドリーヌはとり乱していたので、それが聞えなかった。場面が変わってしまった。クルヴェルが、彼の言葉によれば、この場の支配者となった。
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八八 クルヴェルの明言
金額のとてつもない大きさが、クルヴェルに強い印象を与え、そのため、自分の足もとに泣きくずれている美しい女をみて感じた強い興奮が、吹きとんでしまった。それに、どんなに天使のようで、清らかな女でも、さめざめと泣いてしまっては、その美しさは消えてしまう。マルネフ夫人のような女たちは前に述べたように、ときには泣くまねをし、頬づたいに一粒の涙を流したりはするが、涙にむせたり、目や鼻を泣きはらしたりするような過ちはけっしてしないものだ。
「さあ、|あんた《ヽヽヽ》、落ちつくんですな。まったく困ったもんだ」とクルヴェルは答えて、美しいユロ夫人の手をとって軽くたたいた。「どうしてわしの二十万フランが必要なんです? どうしようっていうんです? いったいだれのために……」
「わけをおききにならずに、だまって貸してくださいまし!……」と彼女は答えた。「そうすれば三人の生命が助かり、子供たちの体面も保たれるのです」
「では、おばさん」とクルヴェルはいった。「半気違いのような女に頼まれたからといって、金のはいっている引き出しかどこかに、その女にすくい上げてもらうために、おあつらえ向きに、ため込んである二十万フランを探しに、あたふたと、とび出す男がパリにいると思っているんですか? それで人生とか、世事がわかっているつもりですか?……ご家族の方がたは、ご重態のようですな、坊さんでも呼んだらどうですか。だって、パリ中にそんな奇蹟をおこせるのはだれもいませんからね、神々しい銀行妃殿下か、かの有名なヌシンゲンか、わしらが女に惚れこむように、黄金にぞっこんまいっている訳知らずのしわんぼうとかは別としましてね。王室費だって、どんな王室費だろうが、あすもういちど出なおしてきてくれといわれるにきまっていますよ。だれだって手前の金を生かして、できるだけじょうずに投機に使っている。ねえ、いいですか、現在の統治者がルイ・フィリップ王だと思ったら大まちがい。ルイ・フィリップ王にしたってそんな錯覚はしていません。王は、わしら同然、憲章の上には、神聖で、崇《あが》め奉《たてまつ》られ、堅固で、愛すべき、優美で、美しい、高貴で、若々しい、万能な五フラン金貨が君臨していることをご存知だ。ところで、いいですか、金は利息を要求する。利子のとりたてにいつも忙殺されている。『ユダヤ人の神よ、汝は勝ちたり!』と大ラシーヌもいっていますよ〔『アタリー』第五幕第六場〕。要するに、結局、黄金の子牛という永遠の比喩に帰着しますな。……モーゼの時代には、砂漠で投機していたんですからね! わしらも旧約時代に逆もどりですな。黄金の子牛は、世界最初の台帳でしょうよ」と彼はつづけた。「アドリーヌさん、あなたはプリュメ通りのこんなところで、世間から忘れられて暮している。エジプト人はヘブライ人にばく大な借金をしたが、神の民のあとを追いまわしていたわけではなくて、金のあとを追いかけていたまでですよ」
そして「わしにも機知があるでしょう」と言いたげなふうに、男爵夫人をながめた。
「世間の人たちが、少しずつため込んだ財産に、どんなに執着するものか、あなたはご存知ないらしい」と少し間をおいて、彼はつづけた。「失礼ながら、わしの話をよく聞いてもらいたい。あなたは二十万フラン欲しいとおっしゃる……だが、ほかに投資してある金を動かさなければ、だれだってそんな融資はできませんよ。計算してごらんなさい!……|現なま《ヽヽヽ》で二十万フランの金を手にするには、三分利で七千フランばかりの公債を売らなければならない。それでも、金がはいってくるのは、二日あとでしょう。それがいちばん手っとり早い道なんです。それに一財産手離すようにだれかを説得するには、二十万フランとなれば、たいていの人には全財産ですからな、それがどうなるのか教えていただかんとね、どんなわけで……」
「クルヴェルさん、二人の男の生命がかかっているのです。ひとりは悲しみのあまり死んでしまうでしょうし、もうひとりは自殺するにちがいないのです。それに、わたしだってどうなってしまうことか。きっと気が狂ってしまうでしょう。もうちょっとおかしいのじゃありませんこと?」
「いやそれほどもないですなあ」と言いながら、ユロ夫人の膝を抱きかかえた。「クルヴェルおやじにも価値はありますよ。あんたが、わしのことを考えてくれたのだから」
「膝を抱かれても、じっとしていなくてはいけないらしい!」と清らかな、気高い夫人は考えて、手で顔を隠した。「むかしは一財産くださるとおっしゃったのに」といって、顔をあからめた。
「ええ、おばさん、三年前はね!……」とクルヴェルは答えた。「いや、あなたはむかしよりずっとお美しい」とさけんで、男爵夫人の腕をとると、それを自分の胸に押しつけた。「あなたはもの覚えがいい、まったくかわいい人だ……どうです、猫をかぶってまちがっていたことがわかったでしょう。だって、あなたがご立派にも拒絶した三十万フランは、他の女の財布におさまっているんだから。わしはあなたが好きだったし、いまも好きです。だが、いまから三年前にもどってみましょう。あなたに『あなたをものにしてみせます』といったとき、わしがなにを考えていたか? あのユロの奴に思い知らせてやろうと思っていたんですよ。ところが、あなたのご亭主は、いいですか、宝石のような、真珠のような女を情婦にしたんです。いま二十六だから、あのときは二十三で、こすい女でしたよ。それで、わしはこのかわいらしい女を、ユロから失敬するほうが、ずっとおもしろいし、ずっと申し分がなく、ずっとルイ十五世式だし、ずっとリシュリュー元帥式だし、ずっと手応えがあるとわかったんで。それに、その女のほうでもユロなんかにまるで気がなくて、三年来、このわしに首ったけなんですぜ」
そう言いながら、男爵夫人がその手を引っこめたのをしおに、クルヴェルはもとのポーズに帰った。チョッキの両脇に手をいれ、両手で胴体を翼のようにしてたたいた。そうすれば自分が好ましい、魅力的な男になれるとでも思ったらしい。「これが、あなたに門前ばらいをくらわせられた男ですよ」といわんばかりであった。
「というわけで、わしは復讐をなしとげ、ご主人もそれを思い知った。寝とられたことに有無もいわさぬように見せつけてやりましたからね。つまりいっぱいくわせたやつにくわせてやったんで。……マルネフ夫人はわしの色女《ヽヽ》です。それに万一マルネフの亭主が、ぽっくりいけば、わしの妻になるというわけで……」
ユロ夫人は、じっとした、ほとんど虚ろな目で、クルヴェルをながめた。
「エクトルは知っていたんですか!」
「ええ、それなのに、奴さんまたもどっていきましたがね」とクルヴェルは答えた。「だけどわしは、黙認しましたよ。なにしろ、ヴァレリーが局長夫人になりたいというんでね。それに、男爵どのをだまして、二度と顔だしできないように運ぶからと、かたく約束したもんでね。わしのかわいい公爵夫人は、――あの女は、あれでも、生まれは公爵令嬢なんですよ、ほんとうの話が――ちゃんと約束を守りました。あなたのエクトルは、ヴァレリーの洒落た言い方によると、終身女房孝行の刑に処せられて、お手もとに返されたというわけです。……こらしめはきいたはずです。さよう、手厳しくやられましたからな。もう踊り子にしろ、素人の女にしろ囲おう気になんてなりますまい。すっかりなおったはずです。なにしろビールのジョッキみたいにきれいに洗われたんですから。もしあのときあなたがわしを辱しめたり、追い出したりしないで、いうことをきいていれば、四十万フランはあなたのものだったのにね。わしの復讐は、それくらい金がかかっていますよ。だがマルネフが死ねば、金はもとどりわしのものとにらんでいるのですがね。……未来の妻に投資したというわけです。それがわしの浪費の秘密です。安くお大名になるという難問を、わしは解《と》いてしまったのです」
「あんな女を、お嬢さまに母と呼ばせるのですか?……」とユロ夫人はさけんだ。
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八九 いつわりの娼婦が聖女となる
「奥さん、あなたはヴァレリーのことをご存知ない」とクルヴェルはまじめな様子で答え、第一期の様式のポーズになった。「生まれのいい、きちんとした、みんなの尊敬を集めている女です。たとえば、きのうなどは、教区の助任司祭があれのところで、晩餐をとっている。信心深い女だから、わしらは教会にすばらしい聖体顕示台を寄進した。利口だし、気が利くし、感じはいいし、教養はあるし、なにもかも申し分なしの女です。たとえば、わしなど、アドリーヌさん、なにもかも、あのかわいい女のおかげになっている。わしの精神は活発になったし、ごらんのように、わしの言葉も洗練されてきた。あれはわしの駄洒落をなおしてくれ、表現法や考え方を教えてくれた。わしはもう不作法なことは少しもいわなくなった。わしがとても変わったことははっきりしている。あなたも気づいたでしょう。それに、あれはわしの野心を目ざめさせてくれた。代議士になっても、大失策はしないですむ。どんなつまらんことでも、わしのエーゲリヤ〔ローマ王ヌーマに暗示を与えた水の精〕と相談できますからな。えらい政治家はだれでも、現在の有名な大臣ヌーマ〔ギゾーのこと〕にしても、めいめい泡から生まれた巫女を持っていた。ヴァレリーは二十人ほどの代議士を招待するし、なかなか勢力を持ちつつある。それに、まもなく立派な邸に移るが、車つきだから、そうしたら、パリでも有数な黒幕のひとりになる。あんな女は、自慢したくもなる牽引車といったところだ! じっさい、あなたのきびしかったことをなんど感謝したかしれないほどですぜ」
「神さまのお力を疑わせるようなお話ですわ」と怒りのあまり涙もかわいて、アドリーヌはいった。「いいえ、そんなことはありませんわ、神さまの正義は、そんな人の頭上から見おろしているはずです」
「世間をご存知ないですな、奥さん」とひどく心証を害した大政治家クルヴェルは答えた。「世間はですね、アドリーヌさん、成功が好きなんだ! ねえ、二十万フランの正札つきの、あなたのすばらしい貞操を、世間が買いにきてくれますかね……」
この言葉にユロ夫人はぞっとして、神経がピリピリ震えた。香水商あがりの男が、ユロに復讐したように、卑劣にも彼女に復讐していることがわかった。いやらしさに胸がむかつき、ひきつったようになり、のどがつまって、声が出なかった。
「お金!……お金のことばかりね!」と彼女はやっとのことでいった。
「さっきはほんとうに心を動かされましたよ」と、その言葉から相手の零落ぶりに気づいたクルヴェルはつづけた。「あなたが、わしの足もとで泣いているのを見たときは……そう、信用してくださらんかもしれないが、財布をもっていたら、さしあげたところです。それで、それだけのお金がどうしてもいるんですね?」
二十万フランという大金を含んだこの言葉を聞いて、アドリーヌは、安物のお大名の、俗臭ふんぷんたる侮辱を忘れてしまった。これは、彼女にうまくいくかもしれないと匂わせて、その秘密を探り出して、ヴァレリーといっしょに笑いものにしようというクルヴェルが、老獪《ろうかい》に投げかけた言葉だったのである。「ああ! わたしはなんでもいたしますわ」と不幸な女はさけんだ。「ええ、貞操も売りますし……必要とあれば、ヴァレリーみたいな女にもなってみせますわ」
「それは、むずかしいでしょうな」とクルヴェルは答えた。「ヴァレリーは、あの種の女として最高ですからね。いいですか、おばさん、二十五年も貞淑な生活を送っていれば、手当ての悪い病気と同じでいつも人を反撥させる。それに、あなたの貞節もここで、すっかり黴《かび》が生えてしまった。でも、わしがあなたをどんなに愛しているか、お目にかけましょう。その二十万フランを、手にいれるようにしてあげましょう」
アドリーヌは、ひとこともいえないままに、クルヴェルの手をつかんで、それをしっかりと胸に押しあてた。喜びの涙がそのまぶたをぬらした。
「待ってください。話はそう簡単にはいきませんよ! わしはのん気だし、人はいいし、偏見はないから、ぶしつけにいいますぜ。あなたはヴァレリーのようにしたいという、わかりました。だけど、それだけでは埒《らち》があかない。鴨《ゴゴ》がいる、株主がいる。ユロみたいな男がいる。わしはむかし食品商で、いま編物商をやっている金持ちを知っている。愚鈍で、粗野で気のきかぬ男だが、わしが教育しているところだが、もっともいつになったら一人前になるか見当もつかんが。でも奴は代議士だ。ばかで、見栄っぱりでね。ハイカラぶったかみさんに押えつけられて、いなかの奥にとじこめられていたもんで、パリ生活の豪奢や楽しみということでは、てんで何も知らない。だが、ボーヴィザージュ(これが奴の名ですがね)は、百万長者です。そこで三年前のわしのように、上流夫人に好かれるためなら、十万エキュも投げ出すだろう。……そうですとも」と彼は、アドリーヌの仕種を正しく読みとったと思って、いった。「あいつはわしが妬《ねた》ましくってしようがないんだ。わかりますか?……そうだ。マルネフ夫人とのわしの幸福が妬ましくってしようがないんだ。だから、あいつなら、地所を売り払ってでも、ものにしたいという男で……」
「もうやめてください、クルヴェルさん」とユロ夫人は、もはや嫌悪の情を隠そうともせず、顔に羞恥の色をいっぱい浮かべていった。「わたしは自分の罪以上の罰を受けました。必要という鉄の腕にしめつけられていたわたしの良心は、このうえもない侮辱で、そんな犠牲はとてもできないとさけんでいます。わたしにはもう自尊心はありませんし、昔のように怒る元気もありません。こんなひどい目にあったのに、『出ていってください』という力もないのです。そんな権利もありませんものね。娼婦のように、あなたに身売りしようとしたんですから。……そうです」とクルヴェルの否定するような身ぶりに答えて、彼女はつづけた。「これまでくもりのなかったわたしの人生を、いやらしい目論見で汚してしまいました。それに……許しがたいことに、承知のうえだったのです……あなたにあびせられた侮辱はどれもこれも当然のものです。このうえは神のみ心がはたされますように! 神さまのもとにまいるのにふさわしいふたりの死をお望みになるならば、ふたりとも死にますように。わたしはふたりの死をいたみ、ふたりのために祈りましょう。もしわたしたちの家族が屈辱を受けることがみ心ならば、懲罰の剣のもとに身をかがめ、キリスト教徒らしく、それに口づけをいたしましょう。わたしに残された日々の苦悩の糧となるこの一瞬の恥を、どう償ったらいいかはわかっています。こうしてあなたに話しかけているのは、もはやユロの妻ではありません。あわれな、卑しい罪人《つみびと》です。心には後悔というただひとつの感情しかなく、身も心も祈りと慈善とにささげつくそうとしている信者です。過ちの重さからみて、わたしは女の屑《くず》にすぎませんが、後悔ということでは、だれにも遅れはとらないつもりです。あなたはわたしを理性にもどらせ、わたしの心のなかに聞える神の声に立ち帰る動機になってくださいました。お礼申しあげます」
彼女は、この時以来、その身にとりついて離れなくなった震えにおののいていた。やわらぎにみちたその声は、家族を救うために身を汚すことも辞さなかった女の熱っぽい言葉とまるでちがっていた。頬からは血の気が失せ、顔面は蒼白で、目は乾いていた。
「それに、わたし、役がうまく勤められませんでしたね、そうでしょう?」と彼女は言葉をつづけて、殉教者がローマ総督をみつめたとき、目に浮かべたと思われる優しさで、クルヴェルを見た。
「真実の愛、ひとりの女の清らかな、献身的な愛には、売春の市で買える快楽とは別の喜びがあります……でもなんでこんなこと口にするのでしょう?」と彼女は、反省をしながらいった。このようにして彼女は完徳の道にまたも一歩踏みいったのである。「まるで皮肉をいっているみたいですわ。そんな気は少しもないのに。ごめんくださいね。それに、わたしが傷つけようとしたのは、きっとわたしだけかもしれないのです」
徳の威厳と、その神々しい光とが、女の瞬時の不純さを吹きはらっていた。その特有の美に照り輝いた彼女は、クルヴェルには急に大きくなったように思われた。この瞬間、アドリーヌは、昔のヴェネチアの画家たちが描いた、十字架に勇気づけられた宗教画の人物のように崇高だった。彼女は、わが身の不幸の偉大さと、傷ついた鳩のように進んで身をゆだねたカトリック教会の偉大さとをあらわしていた。クルヴェルは目がくらんで、ぼう然としていた。
「奥さん、おおせのとおりにしますよ、無条件で!」と彼は寛容の衝動にかられていった。「問題を検討してみましょう。それで……仕方がないではありませんか? ね、どうにもならないのでしょう? わしがやってみましょう。公債をフランス銀行に担保として預けましょう。二時間後に、必要なお金が手にはいるでしょう」
「ああ、なんという奇蹟でしょう」とあわれなアドリーヌはひざまずいていった。
彼女は、おごそかに祈りを唱えたので、クルヴェルは深く感動した。ユロ夫人が祈りを終えて立ちあがったとき、彼の目に涙が光っているのが見えた。
「お友だちになってくださいね」と彼女はいった。「あなたはなさることやおっしゃることやお言葉より、はるかに立派な心をおもちです。神さまがあなたに善良な心を与えていらっしゃるというのに、あなたは世間やご自分の情念から、いろいろな考えを引き出しているのです。わたしはあなたがもっと好きになれそうですわ」と彼女は、その天使のような熱情でさけんだが、それは先ほどまでのへたくそな、こせこせした、媚《なま》めかしさからは、想像もできないほど別のものをあらわしていた。
「もうそんなに震えないでください」とクルヴェルはいった。
「わたしが震えていますって」と男爵夫人はたずねた。不意に襲ってきたその病気に気がつかなかったのである。
「ええ、そう、ごらんなさい」とクルヴェルはいって、アドリーヌの腕をとり、神経性の震えがおきているのを示した。「さあ、奥さん」と彼はうやうやしくいった。「落ちついてください。フランス銀行に行ってきますから」
「すぐにもどって来てくださいね。いいですか」と彼女は、その秘密を明かした。「主人の過失のまきぞえで、お気の毒なフィッシェル伯父さんの自殺を止めさせなくてはならないのです。いまはあなたを信頼していますから、何もかも申しますわ。もし間に合わないようなことになれば、あんなに繊細なお心の元帥のことですもの、二、三日でおなくなりになってしまわれるにちがいありません」
「ではすぐに行ってきます」とクルヴェルはいうと、男爵夫人の手に接吻した。「でもいったいユロは何をしでかしたのです?」
「国のお金に手をつけたんです」
「ああ、そいつは……一走り行ってきますよ、奥さん。ご同情しますし、敬服もいたします」
クルヴェルは片膝をかがめると、ユロ夫人のドレスに接吻し、「またすぐに」というと、出ていった。
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九〇 音色のちがうギター
間が悪いことに、プリュメ通りから自宅に国債証書をとりに行くために、クルヴェルはヴァノー通りを通った。すると彼のかわいい公爵夫人の顔をどうしても見たくなってしまった。彼は取り乱したままの顔でヴァレリーの家に着いた。ヴァレリーの部屋にはいると、彼女はちょうど髪を結わせているところだった。彼女は鏡の中のクルヴェルの顔をさぐり、自分以外の原因で、思いつめた気持ちに動揺しているのを見てとった。こういう種類の女にありがちのことだが、わけもわからずに、腹が立ってきた。
「ねえ、どうしたのよ?」と彼女はクルヴェルにいった。「かわいい公爵夫人のところにそんな顔ではいってきてもいいの! もうあなたのために公爵夫人気どりをするのはごめんだわ。いつまでも、あんたのかわいいかわいい子でたくさんよ。老いぼれの人でなし」
クルヴェルはさびしそうな微笑で答えて、レーヌのことを示した。
「レーヌ、今日はこれでいいわ。あとはあたし自分でやるから。シナ絹の部屋着をとってちょうだい。だってあたしの旦那ときたら、おかしな顔で、シナ人みたいだから……」
レーヌは、あばた面《づら》で、ヴァレリーにお誂《あつら》え向きにできているような娘であった。彼女は女主人と微笑をかわすと、部屋着を持って来た。ヴァレリーは化粧着をぬいだ。下はシュミーズ一枚であった。草むらに身をひそめた蛇のように彼女は、部屋着のなかにくるまっていた。
「奥さんはどなたかお待ちで?」
「ばかなこと聞くもんじゃないわよ」とヴァレリーはいった。「さあ、いってごらん、わたしの子猫、左岸の鉄道の株でもさがったの?」
「ううん」
「あの邸の競売価格がせり上がったの?」
「ううん」
「あたしのお腹の子のパパじゃないなんて疑ぐりはじめたの?」
「ばかな!」と愛されていることを確信している男は答えた。
「さっぱりわからないわね」とマルネフ夫人はいった。「シャンパンの栓を抜くように、友だちの悩みをさっぱりさせなくてはならないとなると、あたしって、なにもかもうっちゃって……もう帰ってちょうだい、あんたにはうんざりだわ」
「たいしたことじゃないんだ」とクルヴェルはいった。「二時間内に二十万フランつくらなくてはいけないんだ」
「そんなこと! こしらえられるわよ、ほら、あたしまだユロ事件の五万フランを使っていないし、アンリに五万フラン頼んでもいいわ」
「アンリ! いつもアンリだ!……」とクルヴェルはさけんだ。
「太っちょのマキァヴェリのひよこさん、あんた、わたしがアンリを追っぱらうとでも思っているの? フランスが、艦隊の武装解除をやる? だけど、アンリは鞘《さや》におさめて釘にかけた短剣だわ。あの子は」と彼女はいった。「あんたがあたしを愛しているかどうか知るのに役にたつわ……けさだって愛してくれていないわ」
「ヴァレリー、わしがおまえを愛していないなんて!」とクルヴェルはいった。「百万フランみたいに愛しているよ」
「それじゃあ足りないわ……」と彼女は答えて、クルヴェルの膝にとびのって、頸のまわりに、帽子掛けのように、両手をまわしてぶらさがった。
「千万フランみたいに、この世のありとあらゆる黄金みたいに、いいえ、それよりもっともっと愛して欲しいのよ。アンリだったら五分もたてば、心がかりなことを話してくれるわ。さあ、どうしたの? 洗いざらいぶちまけることよ……あんたのかわいい子には、なにもかもはっきりといってしまうことよ」
こういって、彼女は自分の髪の毛でクルヴェルの顔をこすり、彼の鼻をひねった。
「こんな鼻をしていて」と彼女は言葉をつづけた、「どうして、あんたのヴァヴァレレリリーに隠しごとなんかできるの!」
ヴァヴァで鼻は右側に行き、レレで左側に、リリーでもとの位置にもどされた。
「つまりね、わしはいま……」
クルヴェルは口をつぐんで、マルネフ夫人を見た。
「ヴァレリー、いいかい、おまえの名誉にかけて、いや、わしらの名誉にかけてだ、これからの話は、だれにももらさないと約束してほしいのだ」
「わかったわ、区長さん、手をあげて宣誓するわ、ほら!……ついでに足もあげてね」
彼女は、ラブレー流の言い方をすると、クルヴェルを脳天から踵《かかと》までグニャグニャにさせるようなポーズをとった。霧がかかったように薄いバチスト麻布をすかして見える彼女の裸身は、それほど妙味があり、崇高でもあった。
「わしは貞操の絶望を見てきたところだ!……」
「貞操があるの、絶望に?」といって、彼女は首をふり、ナポレオン風に腕を組んだ。
「あわれなユロ夫人のことさ、二十万フランいるんだ。そうでないと元帥とフィッシェルじいさんが脳天をぶち抜くことになる。そこでかわいい公爵夫人さん、おまえにも少々原因があるから、罪のつぐないをしようと思ったのさ。あれは聖女だ。わしはよく知っている。あれは全部かえしてくれるさ」
ユロ夫人という言葉と、二十万フランという数字を聞いて、ヴァレリーの広い目のあいだに、砲煙のなかの大砲の閃光のように、まなざしがひらめいた。
「あんたの同情をひくためにどんなことをしたのよ、あのばあさんは? あんたに、何を見せたの……あいつの……信心深さでしょう?」
「あの人をからかうのはやめてくれ。ねえ、おまえ、ほんとうに聖女だ。とても高貴で、信心深い、尊敬に値する人だ!」
「それじゃあたしは尊敬に値しないっていうの?」とヴァレリーはいって、陰険な顔でクルヴェルをみつめた。
「そんなことをいってやしない」とクルヴェルは答えた。貞節をほめたたえたことが、マルネフ夫人をどれほど傷つけたか、よくわかったのである。
「あたしだって敬虔な信者だわ」と彼女はいって、肘掛け椅子に座を移した。「でも、信仰心を売りものにしたりはしない。教会にだって、隠れていくわ」
彼女は黙りこんで、もうクルヴェルのほうに目もくれなかった。クルヴェルは、たいそう心配になって、ヴァレリーが深々と腰かけている肘掛け椅子の前にやって来た。彼が愚かにも目ざめさせた考えにふけっているところであった。
「ヴァレリー、わしのかわいい天使……」
ヴァレリーはだまりこくっていた。かなりあやしいが、涙らしいものをそそくさとぬぐった。
「なにかひとこといっておくれよ、わしのかわいい子」
「あんた!」
「なにを考えているんだ、ねえ、おまえ」
「クルヴェルさん、あたしは最初の聖体拝受の日のことを考えているの。あたしはきれいで、純真で、清らかだった!……マリアさまみたいに純潔で無垢《むく》だった!……ああ、あのときだれかが母のところに来て、『あなたのお嬢さんは、|ふしだらな女《ヽヽヽヽヽヽ》になりますよ。夫をあざむきますよ。いつかは妾宅で刑事につかまるような目にもあいますよ。ユロのような男を裏切って、クルヴェルのような男に身売りをしますよ。ふたりとも、|ひひ《ヽヽ》じじいですけどね』といったとしたら、ああ……情けない、母は、最後まで聞かずに、死んじまったにちがいない。だって、あたしをとてもかわいがってくれたんだもの、かわいそうなお母さん……」
「落ちついておくれ」
「不義をはたらいた妻の心をしめつける悔悛の声をだまらせるには、どんなに相手の男を愛さなければならないか、あんたにはわからないわ。レーヌが帰ってしまって残念だわ。あの子なら、けさ、あたしが涙を浮かべて、神さまにお祈りしていたといってくれたのに。よくって、クルヴェルさん、あたしはね、宗教をばかにしたりしません。あたしがこのことでひとことでも悪口をいうのを聞いたことがあって?」
クルヴェルは反対の身ぶりをした。
「わたしの前で、宗教の話を禁じているのです。……わたしはなんでもお好み次第で茶化します。王さまでも、政治でも、経済でも、世間にとって神聖だと思われるものでも、裁判官、結婚、恋愛、若い娘、老人のことでも! でも教会だけは……神さまだけは……そのことになると、話をやめてしまう! わたしにはよくわかっている。わたしが悪いことをしている、またあなたのためにわたしの将来を犠牲にしているということは……それなのにわたしがどんなにあなたを愛しているか考えようともしない」
クルヴェルは手を組んだ。
「ああ、わたしの心のなかにはいって、わたしの信念がどのくらいであるかはかってみなければ、あなたにたいするわたしの犠牲の大きさでは、とてもわかってもらえませんわ!……わたしはマグダラのマリアのような女になるような気がする。ですから、わたし司祭さまたちをとても尊敬しているでしょう。わたしが教会にとてもたくさん献納しているではありませんか! わたしの母はわたしをカトリックの信仰で育てたわ。ですから、わたしには神さまのことがわかるのです。神さまがいちばんおそろしい話しかけをなさるのは、わたしたち堕落した女にですから」
ヴァレリーは両頬に流れた二筋の涙をぬぐった。クルヴェルは恐怖におそわれた。マルネフ夫人は立ちあがり、興奮してきた。
「落ちついてくれよ、わたしのかわいい女。……おどろくじゃないか」
マルネフ夫人はひざまずいた。
「神さま、わたしは悪い女ではございません」と合掌していった。「あなたの迷える子羊を拾いあげてください。傷つくほど、打ちのめしてください。子羊をけがらわしい姦婦にする手から奪いかえしてください。小羊は喜んであなたの肩にうずくまることでしょう! すっかり幸福になって羊小屋に帰ることでしょう」
彼女は立ちあがって、クルヴェルを見た。クルヴェルには、ヴァレリーのその白目がおそろしかった。
「それに、クルヴェル、いいこと、わたしときどきおそろしくなるの……神さまの正義があの世と同じように、この世におこなわれることを考えるとね。わたしなんか神さまからどんな恵みが期待できて? 神さまの復讐はあらゆる手段で罪人の上にふりかかってきます。それは不幸のありとあらゆる形をとります。愚かな人たちが説明できないような不幸は、みんな贖罪《しょくざい》なのです。わたしの母が死の床で、老年のことを語りながらこんなふうにいっていました。だからもしあなたを失ったら」とつけ加えて、彼女はクルヴェルを荒々しく力をこめて抱きしめた。「わたしは死んでしまいます」
マルネフ夫人はクルヴェルから離れると、また肘掛け椅子の前にひざまずき合掌した。(それがなんというすばらしいポーズだったろう!)そして想像もできないような厳粛さで、こんなお祈りを唱えた。
「わたしの守護神であられる聖女ヴァレリーさま、あなたさまはなぜもっとひんぱんにあなたのみ手にゆだねられた女の枕辺に、訪れてはくださらないのですか? おお、今夜も、けさと同様、おいでくださって、わたしによい考えをおさずけくださいまし。そうすればわたしもあやまった道から立ちのくことができます。マグダラのマリアさまのように、わたしもいつわりの喜びや、この世のむなしい輝きや、わたしが深く愛している男さえあきらめます」
「わしのかわいい子!」とクルヴェルはいった。
「いいえ、あなたのかわいい子なんかもうおりません」
彼女は操の正しい女のように、誇らかにふり向いた。そして涙でぬれた目をした彼女は、高貴で、冷たく、つれないように見えた。
「放っておいてください」といって、クルヴェルを押しのけた。「わたしの義務はなんでしょうか?……夫のものになることです。夫は死にかかっているというのに、わたしのしていることといったら、墓のそばにいるあの人をだましているのです。あの人はあなたの子供をわが子だと思いこんでいます……あの人にほんとうのことをいって、あの人に許してもらいましょう。神さまに許していただくまえに。わたしたちは別れましょう!……さようなら、クルヴェルさん……」彼女は立って冷たい手をクルヴェルに差し出しながら、「さようなら、クルヴェルさん、こんどお会いするときはもっとましな世界でお会いしましょう……罪深いことでしたけれど、わたしのおかげで、あなたも少しは楽しい時がすごせたはずですわ。こんどこそは……、そうですわ、あなたの尊敬をえたいのです……」
クルヴェルは熱い涙を流していた。
「太っちょのとんま!」と彼女はさけんで、急にけたたましく笑った。「信心深い女っていうのは、こんな具合にやって、二十万フランまきあげるのさ! それにあんたったら、ラヴレースを地でいったみたいなリシュリュー元帥の話をもちだす癖に、スタインボックの言い種じゃないが、そんな月並みなやり口に簡単にひっかかるんだね。その気になりゃ、あたしだっておまえさんから二十万フランを何度でもせしめられるよ。大ばかさん!……お金はしまっておきなさいな! あんたには余計なお金かもしれないが、それはあたしのだからね! 五十七にもなったので、信心深そうにしているご大層な女にたとえ二スーだってやったとしたら、もう二度と会わないよ。あの女を情婦にすりゃいい。その翌日になって、ごつごつした手で愛撫されて傷だらけになって、あの女の涙や、ちっぽけなナイト・キャップや、愛情のしるしとばかりさんざん流す空涙などにふらふらになって、あたしのところへ帰ってくるにきまっている!……」
「じつは」とクルヴェルはいった。「その二十万フランというのは……」
「信心深い女というのは、たいした貪欲ね。……ああ、まったくあきれるわ。あたしたちが、快楽という地上でもっともめずらしくて、もっとも確かなものを売るよりも、説教を高値で売りつけるんだから。……それにいいかげんな話をでっちあげてね。いいえ……あたしにはああした女たちがよくわかっている。母のところでよく会っていましたからね。教会のためなら、なにをやってもいいと思っているのよ。……そうよ、あんたは恥ずかしいと思わなくちゃいけないことよ。けちなあんたを……だってこれまでのを全部あわせたって、あたしに二十万フランくれてないじゃないの」
「いいや、そんなことはない」とクルヴェルは答えた。「こんどの小さな邸だけだって、そのくらいはする」
「それじゃ四十万フラン持っているの」と彼女は夢見るようにしていった。
「いいや」
「じゃ、わたしの邸の分の二十万フランを、あの老いぼれの化物《ばけもの》に貸そうというつもりだったの? まるでかわいい子の権利の侵害だ!」
「わしの話もきいてくれ!」
「そのお金をどこかのばかばかしい博愛事業にでも寄付すれば、将来性のある人として世間に通るわ」と活気づいて、「それならあたしだってまっ先にすすめたいくらいだわ。だってあんたはあまりにばか正直だから、政治的な大著述をして名前をうるというわけにはいかないし、パンフレットをでっちあげるには、文章がへたくそだし、あんたみたいな人は、こんな場合だれでもするように、社会的、道徳的、それでなければ一般的な事業の先頭にたって、名前を栄光で輝くようにしなくてはだめよ。慈善なんてあんたの期待とはちがって、最近やり方がおかしいんじゃない……軽い前科者のほうが、貧乏な堅気者より楽な暮しをすることになったりして。とにかくもう古いわよ。あんたには、その二十万フラン使って、もっとむずかしい、ほんとうに有益なことをやってもらいたいの。そうすれば、人はあんたのことを『小さな青外套』〔エドム・シャンピオンのこと。王政復古のころ青い外套を着てセーヌ河岸で貧者にスープをふるまった〕やモンティヨン〔その遺産がフランス文学院に寄付されて、文学賞と善行賞とができた〕のように噂になるわ。そうなればあたしだって肩身が広い! でも二十万フランを聖水盤に投げすてたり、なんかわけがあって夫から捨てられ、そうよ、かならずわけがあるわ(だってあたしを捨てる男がいて?)夫から捨てられた信心ぶった女に貸すなんていうのは、ばかげているわ。そんな考えは、現代では香水商あがりの頭のなかにしか生まれないわ。香水屋の売場の匂いがする。二日もたったら、鏡をまともにのぞく勇気もなくなってしまうから。さあ、そのお金を減債基金部にあずけに行きなさい。急いでよ。額面どりの領収書をもってこなかったら、もういれてあげないから。さあ、早く、すぐもどってくるのよ!」
彼女は、クルヴェルの額にまた貪欲さがみなぎってきたのを見て、肩を押して、部屋の外に出した。アパルトマンのドアがしまると、彼女はいった。
「これでリスベットも十分すぎるくらいうらみをはらしたわけだわ……リスベットが老元帥のところに行っていてほんとうに残念、ふたりで思うぞんぶんに笑えたのに……あのばあさんたら、あたしの口からパンを奪いとろうというんだわ……ようし、そんなら、あの口をひんまげてやる!」
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九一 ユロ元帥の一面
軍の最高の地位にある者にふさわしい家に住まざるをえないユロ元帥は、貴族の邸宅もあるモンパルナス通りの豪壮な邸に住んでいた。一軒借り切ってはいたが、じっさいに使用していたのは一階だけで、リスベットが引越して来て、家事のとりしきりをやるようになると、すぐ二階をまた貸ししたがった。そうすれば家全体の家賃はまかなえるし、伯爵の家賃はただも同然になると考えたのだ。
だが老元帥は、この意見に賛成しなかった。数カ月来、元帥は暗い考えに苦しめられていた。義妹の困窮を見抜いていて、その不幸を感づいてはいたが、原因がわからなかった。耳は遠いが、陽気だったこの老人は、寡黙になり、いつかは自分の邸がユロ男爵夫人とその娘オルタンスの安住の地になるであろうと考えて、二階をそのままにしておいた。フォルツハイム伯爵の財産の少ないことはよく知られていたので、陸軍大臣ヴィッサンブール公爵は、この昔からの戦友に押しつけるようにして住宅手あてを受けとらせたほどであった。ユロはこの手あてをつかって、格調のある一階の飾りつけをした。なぜなら、彼の言い方によれば、元帥杖をつるして歩くようなことはしたくなかったからである。邸は帝政時代に、ある元老院議員のものだったので、一階の客間はすべて白と金色に塗られ、彫刻がほどこされていて、かなり豪華なつくりで、保存もひじょうによかった。元帥は周囲と釣合うりっぱな古い家具をそこにすえた。車庫には、一台の馬車がおいてあり、その鏡板にX字形に組み合わされた元帥杖が描かれていた。馬は、儀式や祭事で、大臣や王のところへ盛装して出かけなければならないときは、借りることにした。召使いとしては、三十年来、六十歳になる旧軍人が仕えており、その妹が料理人になっていたので、一万フランばかりの金の節約ができた。その金はオルタンスに贈る小さな宝物に加えられた。毎日、老元帥は徒歩で大通りを通って、モンパルナス通りからプリュメ通りまで歩いてきた。傷痍《しょうい》軍人はだれでも、元帥が歩いてくるのを見ると、かならず整列して、敬礼をした。すると元帥は、老兵たちに微笑で答えるのであった。
「あんたたちが敬礼しているのは、いったいだれだね?」とある日、若い労働者が廃兵院の老大尉にたずねたことがあった。
「教えてやろう、小僧」と士官は答えた。
少年はおしゃべりの話を仕方なしに聞くような格好になった。
「一八〇九年に」と傷痍軍人はいった、「わしらは、ウィーンに向って進軍するナポレオン皇帝の指揮下にある軍隊の側面を守っていたのだ。わしらはある橋にたどりついたが、そいつは岩山のように積みあげた三層の砲台、つまり橋に縦射撃を加えられるように折り重なった三つの角面堡《かくめんぽう》で守られていた。わしらはマッセナ元帥の指揮下にいた。あそこを行く方は、そのとき近衛歩兵第一中隊の連隊長で、わしはその隊にいた。……味方の縦隊と角面堡とは、川をへだてて対峙していた。三度、橋を攻撃したが、三度とも追いかえされてしまった。『ユロを呼んで来い! あそこを突破できるのは、あいつとその部下だけだ』わしらが駈けつけた。橋の前から引きさがってきた最後の将軍が、砲火のなかでユロを引きとめて、橋を攻略する方法を語って、そこを動こうとしなかった。『お指図《さしず》よりも、通れる場所をあけていただきたい』と大佐はおだやかにいうと、縦隊の先頭に立って橋を渡りかけた。そのとき、ドドドドン、三十門の大砲が、わしらめがけて口をひらいて……」
「ああ、おそろしいこった!」と労働者はさけんだ。「それで松葉杖をつく人たちが出たのもあたりまえだ」
「小僧、おまえだって、あのとてもおだやかにいわれた大佐の言葉を、わしと同じように聞いていたら、地面に頭をなすりつけて敬礼したくなるさ。アルコーレ橋の戦いほど有名ではないが、もっと壮烈なものだったろう。わしらはユロといっしょに砲台のなかにおどりこんだ。あそこで骨を埋めた勇士に名誉あらんことを!」と士官はいって、帽子をぬいだ。「ドイツ兵たちはその攻撃ぶりにびっくり仰天した。それであの方は伯爵になった。隊長が爵位を受けられて、わしらも面目をほどこしたといったわけだ。王政になってから、元帥になったのも、まったく当然のことだ」
「元帥万歳!」と労働者がいった。
「もっと大きくさけぶんだ、さあ! 元帥は大砲の音を聞きすぎて、耳が遠いんだ」
この逸話は、傷痍軍人たちがユロ元帥をどれほど尊敬しているかをあらわしている。また元帥が一貫してその共和的意見を変えないでいることが、そのあたりの民衆の共感をも得ていた。
元帥のおだやかな、純真で、高貴な魂のなかに、苦悩がはいりこんだのを見るのは、痛ましかった。ユロ男爵夫人は、女のたくみな嘘で義兄におそろしい真実をいつわり、隠しおおせてきたのであった。その不幸な朝のこと、老人の通例として、よく眠れない元帥は、リスベットから弟の事情について打ち明けた話を聞いた。打ち明けてくれたら結婚してもいいと約束の上のことであった。元帥の邸に移って来てから、未来の夫である元帥に打ち明けたいと思っていた内緒話を、聞き出されるにまかせて、話したときの老嬢の喜びがどれほどであったかは、だれにもわかるであろう。これで元帥との結婚話もかたまったからである。
「あなたの弟さんはいっこうに改まっていませんよ!」とリスベットは、元帥の聞こえるほうの耳にさけんだ。
ロレーヌ生まれの女は、その強い冴えた声のおかげで老人と話ができた。彼女はできるだけ声をふりしぼった。未来の夫に、彼女とならば話が通じないことはないことを、どうしても示したかったのである。
「三人も女があったって」と老人はいった。「アドリーヌみたいな女を妻としているというのに……かわいそうなアドリーヌ!」
「わたしの考えを聞いてくださいまし」とリスベットはさけんだ。「ヴィッサンブール公爵は、あなたのいうとおりにしてくださる方ですから、わたしの従姉《いとこ》がちゃんとした地位につけるようにお願いしてみたら。従姉にはその必要があるでしょう。男爵の給料はむこう三年間抵当にはいってしまっているのですから」
「陸軍省へ行って」と彼は答えた。「元帥に会って、弟のことをどう思っているのか聞いてこよう。それにアドリーヌに積極的な保護を頼んでみよう。あれにふさわしい地位ってどんなのがあるかな……」
「パリの慈善団体のご婦人方が、大司教さまから許可をえて、慈善協会をつくりました。そこではほんとうに困っている人たちを見つけて歩く役目の女の視察員が必要なのです。報酬もよろしいようで、こんな勧めならアドリーヌさんにぴったりですし、あの人の心に適うでしょう」
「馬を頼んできてくれ」と元帥はいった。「着がえをしてくる。必要ならヌイイ〔ルイ・フィリップ王の居住地〕まで行ってくる」
「なんという思いやりだろう! このぶんだと、いつでも、どこへ行ってもあの女とかち合うだろう!」とロレーヌ生まれの女はいった。
リスベットはすでにこの邸で君臨していたが、それは元帥の目の届かないところであった。二人の召使いに恐怖の念を抱かせ、自分のために小間使いをやとって老嬢らしい気ぜわしさで立ち働いていた。どんなことでも報告させ、すべてを点検し、あらゆることで元帥が居心地のいい思いをするようにつとめた。未来の夫と同じように共和主義者だったリスベットは、その庶民的な点でたいそう気に入られていた。それにおどろくほどじょうずにご機嫌を取り結んでいたのである。二週間以来、元帥は、前より快適に暮し、母親が子供の面倒をみるように世話してもらって、リスベットを理想の妻とみとめるほどになっていた。
「元帥さま!」と彼女は玄関の石段まで見送りながら、さけんだ。「窓を閉めてくださいまし。風にあたるとからだに毒ですから。わたしのためにそうしてくださいまし」
これまで甘やかされたことのない、独身の老元帥は、心に深い悲しみをいだきながらも、リスベットにほほえみかけて、出て行った。
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九二 公爵の叱責
この時ちょうど、ユロ男爵は陸軍省の事務室を出て、公爵ヴィッサンブール元帥に呼びつけられて、大臣室へと歩いていた。大臣が局長を呼びつけることには、なにも変わったことはなかったが、ユロの良心はやましいところがあったので、ミトゥーフレの顔になにか不吉な、冷ややかなものを見た。
「ミトゥーフレ、公爵のご機嫌はどうだい?」と彼は、大臣室の扉を閉め、先に立って歩いていく取次役に追いついて、たずねた。
「ひどくご立腹の様子ですよ、男爵さま。声にしろ、目つきにしろ、顔にしろ、たいへんな荒れ模様ですからね」
ユロはまっさおになって、口をつぐんでしまった。控室、広間を通って、大臣室の前に来たときには、心臓が大きく波打っていた。
そのとき、元帥は、七十歳であった。髪はすっかり白く、顔はこの年だけの老人らしく渋色だった。何よりも広い額が特徴的で、想像力のある人なら、そこに戦場が見られた。雪をいただいた、灰色の円屋根の下に、ぐっと突き出た眉毛にかげって、いつも悲しい、苦い思い出や悔恨にみちたナポレオン風の蒼い目がかがやいていた。ベルナドット〔フランスの将軍、スウェーデン王の養子となり、一八一八年以来スウェーデン王となる〕の好敵手だった彼も、どこかの王位につきたいと思ったこともあったが、その目は、今でもはげしい感情がやどると、おそろしい閃光となった。たいていはうつろな声なのに、そんなときには甲高《かんだか》いさけび声に変わった。怒ると、公爵は軍人にかえり、コッタン陸軍少尉時代の言葉を話し、もはやなにものも容赦しなかった。ユロ・デルヴィーはこうした老獅子に出会ったのである。髪の毛をたてがみのように振り乱し、暖炉の炉飾りに背をもたせかけ、眉をひそめて表面は放心したような目つきであった。
「お呼びですか、公爵」と愛想よく、くつろいだ風にいった。
将軍は、局長が戸口から彼に数歩のところに来るまでじっと局長をみつめていた。その冷たい、射るようなまなざしは、神のそれのようで、ユロはそれにこらえきれず、おそれ入ったように目を伏せた。
「なにもかも知っているな」と彼は考えた。
「君は良心にいささかもやましいところはないかね?」と将軍は、低い、含み声で聞いた。
「閣下にご相談もせずに、アルジェリアで略奪をしましたのは、多分よからぬことと思います。この年になり、いろいろ好みもありながら四十五年も勤めあげてこれという資産もない始末です。閣下はフランスの四百人の選良たちのやり口をご存知です。こうした人たちは、どんな地位でも虎視たんたんと狙っていて、大臣の俸給をけずったりしたのですから、何をかいわんやです……年寄りの公僕のためだからといって、連中に金を無心してごらんなさい。……また政務官のような金払いの悪い連中に、期待するのもむだです。なにしろ、ああいう連中ときたら、現在一家族最低の生活費が四十スーしか支払わないし、パリで暮している官吏に六百フラン、千フラン、千二百フランの薄給をあてがうことの残酷さを考えてみようともしません。しかもわれわれの報酬が四万フランだったりすると、われわれのポストを手に入れようとしたりする……それに王家にたいしては、一八三〇年に没収した王家の財産の一部を返却することを拒絶し、また、ルイ十六世が所有する金でえた取得財産の返却を、ある零落王族に与えようとして頼んだのにもかかわらず、却下しています。閣下も財産をお持ちにならないと、わたしの兄みたいに、大臣の手あてだけで放っておかれるでしょう。閣下が、わたくしといっしょに、ポーランドの沼沢地帯で、ナポレオンの軍隊を救ったことなどだれも思い出してはくれません」
「君は国の金に手をつけた。重罪裁判所に行くのが当然なことをしでかした」と元帥はいった。「あの国庫出納官吏のようにね。それなのに、君はそんなふうに軽く考えていいのかね?」
「閣下、まったくの濡れぎぬです!」とユロ男爵はさけんだ。「わたくしが自分に任せられた金庫に手を突っこんだりしたことがありましょうか?」
「こんな破廉恥なおこないを、君のような立場にいる人が、しかもへまにやるというのは、二重の罪なのだ。君は、ヨーロッパ一の清廉潔白さを誇ってきたわれわれの中央行政部に泥を塗った。それも、君、たった二十万フランの金と、売女《ばいた》のためではないか!」と元帥はおそろしい声でいった。「きみは参事院議員だ。これがただの兵卒なら、連隊の備品を売り払っただけでも、死刑になるところだ。あるとき、槍騎兵第二連隊のプーラン大佐からこんな話を聞いたことがある。サヴェルヌで、大佐の部下の一人がアルザスの小娘と恋におちた。ところが、その小娘がショールを欲しくてたまらなくなり、さんざんねだるものだから、その槍騎兵は、小娘にショールを買ってやる気になって、二十年勤続で、連隊の誉れになっていて、いずれ曹長に昇進するはずだったのに、自分の中隊の所属物を売り払ってしまったのだ。その槍騎兵がどうしたか知っているかね、ユロ男爵? 窓ガラスをこなごなにくだいて呑みこんだんだ。そして、十一時間も苦しんだあとで、病院で死んだ。君も卒中かなにかで死ぬようにしたまえ。君の名誉が傷つかないですむように……」
男爵はとげとげしい目つきで、老将軍をみつめた。元帥は、卑怯者まる出しのこの表情を見て、頬をあからめ、目を光らせた。
「わたくしをお見かぎりですか?」とユロはつぶやいた。
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九三 ユロ将軍とヴィッサンブール公爵とのあっけない対決
ちょうどこのとき、ユロ元帥が、部屋にいるのは弟と大臣だけだと聞いて、案内もこわずにはいってきた。そして、耳の遠い人らしく、公爵のところに一直線に近寄っていった。
「ああ」とポーランド戦役の英雄はさけんだ。「君の来訪の目的はわかっている……だがなにもかもむだだ」
「むだだって?」とこの最後の言葉しか聞えなかったユロ元帥は、くりかえした。
「そうだ。君の弟の弁護に来たんだろう。だが、君の弟がどんな男か知っているのか?」
「わしの弟だって?」とつんぼの元帥はたずねた。
「いいか」と元帥はさけんだ。「こいつは君と似ても似つかない卑劣漢だ」
そして、元帥は怒りのあまり、稲妻のような眼光を放った。ナポレオンの眼光のように、他人の意志も思想も打ちくだいてしまうものであった。
「出たらめいうな、コッタン!」とまっさおになったユロ元帥は言いかえした。「きさまの元帥杖を投げろ、わしもそうする!……おまえの条件に従う」
公爵は親友のところにまっすぐ歩みよるとじっと見つめて、その手を握り、それから、耳のところでいった。
「貴公は男か?」
「男か男でないか、いまにわかる」
「そうか、それでは気をしっかりしてもらおう、なにしろ貴公にとって最大の不幸になることだからな」
公爵はふりむいて、テーブルの上から書類をとりあげ、ユロ元帥の手におしつけて、さけんだ。
「読んでみろ」
フォルツハイム伯爵は、書類の上にのっていたこんな手紙を読んだ。
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内閣総理大臣殿
(親展)
アルジェ、×月×日
親愛なる公爵殿、同封いたしました訴訟記録で明らかなごとく、われわれは非常に厄介な事件に当面しております。
要約いたしますと、ユロ・デルヴィー男爵は、オラン州に叔父の一人を派遣して、倉庫係を共犯者としたうえ、穀物、糧秣の量目のごまかしをはかったのです。倉庫係は情状酌量を得ようとして、自首しましたが、現在逃亡中であります。初審裁判所検事は、二人の下級官吏のみを関係者と考え、事件を徹底的に調査しました。一方ユロ経理局長の叔父ジョアン・フィッシェルは、重罪裁判所に召喚されそうな形勢を察し、監獄において、釘で自殺をとげました。
これで事件は落着したはずでありますが、共犯者と甥にあざむかれていたのにちがいない、この立派な、正直者フィッシェルは、まずいことに、ユロ男爵に手紙を書き残していきました。検事局に押収されたこの手紙は、検事を一驚させるにたる内容のもので、検事は小生に面談に来ました。参事院議員であり、ベレジナ渡河後、経理部の再建によってフランスを救うなど、数々の功績があり、忠勤なる経理局長ユロ男爵を逮捕し告訴することは、はなはだしい打撃と存じ、関係書類をすべて小生があずかることにしました。
事件を進展のままにゆだねるべきでしょうか? あるいは主犯と思われる者の死によって、倉庫係を欠席裁判にかけて、事件を打切りにすべきでしょうか?
検事長は書類が閣下のもとに転送されることに同意しております。そしてユロ・デルヴィー男爵はパリに住んでいますので、訴訟はパリ高等裁判所の管轄かと存じます。われわれは、姑息《こそく》なことと知りながら、この困難な事件から一時手をひく方法を見つけたのであります。
しかし、親愛なる元帥閣下、速《すみや》かなる処置を講じられるよう願います。この不祥事件はすでに世評に高く、初審裁判所検事、予審判事、検事長、と小生だけが承知している重要人物の共犯事実が、もし洩れるような事態になりますと、その人物ばかりではなく、われわれにまで災厄がおよぶことを恐れるからであります。
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ここで、ユロ元帥の手から書類が落ちた。彼は弟を見て、書類を読む要のないことを悟った。しかし、ジョアン・フィッシェルの手紙を探し出すと、すばやく読んで、弟に手渡した。
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わが甥よ、お前がこの手紙を読むころには、わたしはもうこの世の人ではない筈だ。
安心するがいい。お前が不利になるような証拠は残していない。わたしが死に、あの猫かぶりのシャルダンが逃亡したからには、訴訟は立ち消えになるだろう。お前のお蔭で、幸福になったアドリーヌの顔を思い浮かべると死ぬのもつらいとは思わない。もう二十万フランを送ってくれる必要はない。
この手紙は信用できそうな抑留者に預けるから、無事にお前の手に届くだろう。
ジョアン・フィッシェル
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「すまなかった」とユロ元帥は、ヴィッサンブール公爵に、人の胸に迫る男らしい態度でいった。
「なんだ、ユロ、急に改まったりして、おかしいじゃないか」と陸軍大臣は答え、旧友の手をにぎった。「さっきの話の槍騎兵は自決して、だれにも迷惑をかけなかったのだ」といって、彼はユロ・デルヴィーをじろりと見て、ちぢみあがらせた。
「使いこみはいくらだ?」とフォルツハイム伯爵は、きびしい語調で弟にたずねた。
「二十万フランです」
「わが親友よ」と伯爵は大臣にむかっていった。「四十八時間以内に、金は返す。ユロを名のっている者が、国家に一文たりとも損失をかけたなどといわれないようにな」
「なんて子供っぽいことをいうのだ」と元帥はいった。「その二十万フランのありかは、わしにはわかっている。それをもとへもどさせるまでだ。君は――辞表を出して、退職したまえ!」と彼はいって、参事院議員が、脚をふるわせながら、すわっていたテーブルまで、二つ折の大型の紙を投げた。「事件が裁判ざたになったら、わしら全員の恥になる。だから閣議で、わしのいちぞんで処理する許可をえたのだ。君の名誉も、わしの信用も失った人生、つまり堕落した人生でもかまわんというのだから、それにふさわしく退職したまえ。ただ世間からうまく忘れられるようにすることだ」
元帥は呼び鈴をならした。
「マルネフは来ているかね?」
「はい、閣下」と取次役は答えた。
「ここに来るように」
「おまえと」とマルネフの顔をみると、大臣はさけんだ。「おまえの妻とが、ここにいるデルヴィー男爵を計画的に破産させた」
「大臣閣下、おことばですが、わたしどもはとても貧乏で、生きていくのに、わたしの俸給を頼りにするほかありません。子供が二人おりますが、小さいほうは、男爵さまの種でして」
「なんという悪党だ!」と公爵は、ユロ元帥にマルネフを指し示しながらいった。「スガナレルみたいな口のきき方はやめてもらおう」と言葉をつづけた。「二十万フラン返すか、それがいやならアルジェリア行きだ」
「ですが大臣閣下、閣下はわたしの家内をご存知ないんで、あれはみんなつかってしまいました。男爵さまは、毎日六人も晩餐に招待なさるし……うちでは、一年に五万フランもつかったのでして」
「さがるがいい」と大臣は、戦いの最中に突撃命令を下したあのおそろしい声でいった。「二時間以内に転勤の辞令を出す。……行け」
「そんなことなら、やめさしてもらいましょう」とマルネフは横柄にいった。「現在のあわれなわたしを、このうえ打ちのめすなんてあんまりだ。もう我慢できない、わたしは!」
そういって、彼は出ていった。
「なんという恥知らずだ!」と公爵はいった。
この場面のあいだじゅう、ユロ元帥は、立ったまま、微動だにせず、死人のように蒼白になって、弟の様子をひそかにうかがっていた。やがて公爵のところにいって、その手を取り、こうくりかえした。
「四十八時間以内に、物質的な損害はつぐなおう。だが名誉は!……失敬する、元帥! これは致命傷だ……生きてはおれん」と公爵の耳もとでいった。
「なぜよりによって、こんな朝にやって来たんだ?」と公爵は感動して答えた。
「こいつの奥さんのために来たんだ」と伯爵はエクトルを指しながら答えた。「パンにもことかく始末なんだ……ことにこんなことになっては」
「退職金があるじゃないか!」
「抵当にはいっているんだ!」
「悪魔に魅入られたんだな!」と公爵はいって、肩をすぼめた。「いったいあんな女たちからどんな惚れ薬をのまされて、そんな腑抜《ふぬ》けになったんだ?」と彼はユロ・デルヴィーに聞いた。「フランスの行政官庁が、どんなに細々《こまごま》と正確にすべてを書きとめて、書類にし、ばく大な用紙をつかって、何スーの出入りまで確認しているかを、君も知っているだろう? 一兵士を除隊させたり、馬ぐしを買ったりするような些細なことまで、無数のサインがいることを、こぼしていたじゃないか? そんな君がどうして長いあいだ盗みを隠しおおせると思ったのだ? 新聞もあるし、ねたむやつだっているし、君の地位を狙っているやつもいる。そうした女たちにかかると、良識がなくなってしまうのか? くるみの殻で目がふさがれてしまうのかね? それとも君は僕らとは人種がちがうのか? もはや人間ではなく、情念のかたまりになり果てたときに、役所をやめるべきだったんだ。君の罪に加えて、これだけの愚行を重ねているところみると、行きつく先は……これは言いたくないが……」
「アドリーヌのことを引き受けてくれるか、コッタン?」となにも聞えず、ただ義理の妹のことしか頭になかったフォルツハイム伯爵はたずねた。
「承知した!」と大臣は答えた。
「では、頼む。失敬する。――さあ、行こう」と弟にいった。
公爵は、うわべはおだやかな目で、態度も、からだつきも、性格もまったくちがう二人の兄弟をながめた。兄は勇敢であり、厳格であり、潔白であり、弟は卑劣で、肉欲的で、汚職者だった。そしてこう思った。
「あの卑劣漢は、死ぬことなど思いもよるまい! ところがユロは、誠実な男だから、覚悟をきめている、さすがに!」
彼は肘掛け椅子にすわり、アフリカからの公文書をまた読みはじめた。その態度には、将軍としての沈着さと、いくつか戦場の光景を見た経験から来る深い憐憫の情とが、同時に現われていた。なぜなら、表面は苛酷のように見えても、戦争の習慣から戦場に必要な、あの絶対的な冷静さをそなえた軍人ほど、じっさいには人間的な者はいないからである。
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九四 虚報の理論
翌日、いくつかの新聞が、いろいろな見出しで、さまざまな記事をかかげていた。
[#ここから1字下げ]
ユロ・デルヴィー男爵が辞表を提出した。アルジェリア派遣軍の経理部の会計の乱脈が、一職員の自殺と、他の一名の逃亡とによって明白になったために、この高官は辞表の決意をした。不幸にも、その信頼しきっていた職員たちの過失を聞くと、ユロ男爵は大臣室で卒倒した。
ユロ元帥の実弟、ユロ・デルヴィー氏は、四十五年勤続した。氏は断固として辞意をひるがえさず、その引退は、そのすぐれた性情と行政的手腕とを知るすべての人によって惜しまれている。ワルシャワでの親衛軍首席支払い命令官としての献身的行為、そして一八一五年ナポレオンが急いで編成した軍隊の種々の兵站《へいたん》業務を組織化した迅速な活躍を、何人も忘れてはいない。
帝政時代の栄光がまた一つ舞台から消えていく。一八三〇年以来、ユロ男爵は常に参事院と陸軍省における欠くべからざる大立物の一人であった。
(アルジェ)二、三の新聞が誇大に書き立ててきた、いわゆる糧秣事件は、主犯の死によって、結末を告げた。|ジョアン《ヽヽヽヽ》・|ヴィッシュ《ヽヽヽヽヽ》は牢獄で自殺し、共犯者は逃走中だが、いずれ欠席裁判になるであろう。
もと陸軍御用商人ヴィッシュは、正直な非常に尊敬されていた人物で、逃走中の倉庫係シャルダンにだまされたという考えに耐えられなかったものと思われる。
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そしてパリ雑報欄にはこんな記事があった。
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陸軍大臣ヴィッサンブール元帥は、将来このような不祥事件を防ぐために、アフリカに糧秣部を設置することを決定した。この部の責任者として省内の一部長にマルネフ氏が任命される筈である。
ユロ男爵の後任についてあらゆる野心家が策動している。この地位は、ラスティニャック伯爵の義弟にあたる、代議士マルシャル・ド・ラ・ロッシュ・ユゴン伯爵に内定している噂である。参事院請願委員マッソル氏は参事院議員に、クロード・ヴィニョン氏は請願委員にそれぞれ任命されるはずである。
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あらゆる種類の虚報のうち、政府反対派の新聞にとってもっとも危険なのは、政府筋から流される虚報である。どんな悪賢い新聞記者でも、クロード・ヴィニョンのように、新聞界から、官界の上層部に移った者の巧妙さにはかならず、おりおり、故意にしろ、また不本意にしろそのごまかしにかかってしまう。新聞を打ち負かすことのできるのは、新聞記者によってのみである。したがって、ヴォルテールの言葉〔戯曲『エディプス王』参照〕をもじって、こんなことがいえるかもしれない。
「パリ雑報は、軽薄な人民が考えているようなものではない」
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九五 兄の叱責
ユロ元帥は弟をつれて帰った。弟は、うやうやしく兄に車の奥の席をゆずり、自分は車の前部にかしこまっていた。二人の兄弟は、ひとことも言葉をかわさなかった。エクトルはうちのめされていた。元帥は、力を集中させ引きしめて、強大な重みに耐えている人間かのように、何か思いつめていた。邸に帰ると、だまったまま、有無をいわさない仕種で、弟を書斎に導いた。伯爵は、ナポレオン皇帝から、ヴェルサイユ工場製の豪華なピストル一対を下賜されていた。ふたに、『ナポレオン皇帝よりユロ将軍に下賜』という銘の彫ってある箱を、机から取り出して、弟に見せていった。
「これがおまえの医者だ」
半開きのドアからこの様子をうかがっていたリスベットは、馬車のところに走って行き、大急ぎでプリュメ通りに行くようにと命じた。男爵が元帥から脅迫されていることをしらせて、彼女は二十分ほどで、男爵夫人を連れて元帥邸にもどってきた。
伯爵は、弟のほうを見ようともせずに、呼び鈴を鳴らして、彼の用人で、三十年来つかえている老兵を呼んだ。
「ボー・ピエ〔ユロ男爵の部下、ジャン・ファルコンの綽名。足の達者な者の意〕、公証人とスタインボック伯爵と姪のオルタンスと国庫債券仲買人とを呼んで来ておくれ。いま、十時半だから、正午にはみんな集って欲しい。車に乗っていけ……もたもたするなよ」と彼はむかしよく口にした共和党的な言いまわしをつかった。
そしておそろしい仏頂面をした。一七九九年、ブルターニュのエニシダのしげみを彼が鋭い目でにらんでいたときに、部下を緊張させたあの仏頂面である。〔『ふくろう党』参照〕
「かしこまりました、元帥殿」とボー・ピエは挙手の礼をした。
弟のことはかまわずに、老人は書斎に帰り、机のなかに隠されていた鍵を出して、鋼鉄に孔雀石を張った小箱を開けた。それはアレクサンドル皇帝の贈り物であった。ナポレオン皇帝の命令をうけて、彼はロシア皇帝に、ドレスデンの戦いで仏軍が手に入れた個人財産を返しに行ったことがあった。ナポレオンはその代償に、ヴァンダム将軍を釈放してもらうつもりでいた。ロシア皇帝はユロ大将を手厚くもてなし、この小箱を与え、いつかはフランス皇帝にも同じ礼を返す機会をもちたいといった。だがヴァンダム将軍を釈放しようとはしなかった。ロシア皇室の紋章が、全体に金をちりばめたこの箱のふたに、金で描かれていた。元帥は、そのなかの紙幣と金貨とを数えた。十五万二千フランあった! 彼は思わず満足そうな様子をした。このとき、ユロ夫人がそんな機略に富んだ裁判官の心も動かすような風情で、部屋にはいって来た。ユロ夫人はエクトルに抱きつくと、ピストルの箱と元帥とを交互に、気が狂ったような様子でながめた。
「あなたの弟をどうなさるのです? わたしの夫が何をしたのです?」とよく響く声でいったので、元帥にも彼女のいっていることがわかった。
「こいつはわしらみんなの顔に泥を塗ったのだ!」と共和国の老将は答えた。こう答えているうち心の傷口がまた開いた。「こいつは国家の金を盗んだ! こいつのおかげで、自分の名前が嫌になった。死にたくもなってきた。こいつはわしを殺したのだ。わしには金を返そうという気力しかない。わしは、共和国のコンデ公ともいうべき人、わしがいちばん尊敬しているヴィッサンブール公の目のまえで恥ずかしい目にあったり、公爵の言葉を不当にも嘘だなどときめつけてしまったのだ……これがなんでもないことかね? これが? こんなことをこいつは国家にたいして仕出かしたのだ」
彼は涙をぬぐった。
「こんどは家族内のことだ」と彼はつづけた。「こいつはわしがおまえのためにたくわえておいたパン、三十年間の倹約のあげくの結実、老兵が窮乏のうちに作った財宝を取りあげてしまうのだ。これはわしがおまえのためにためていたものだ!」と彼はいって、紙幣を指した。「こいつはフィッシェル叔父さんを殺した。アルザス生まれの高貴で、立派な人だった。こいつとちがって、百姓だというのに、自分の名に汚点がつくという考えにたえられなかったのだ。それに神さまがあがめるべき寛大さからあらゆる女のうちでも天使のような女を選ぶことを許してくださったというのに。アドリーヌのような女を妻にするという、かつてない幸福を手に入れたというのに、こいつはアドリーヌを裏切り、悲嘆にくれさせ、アドリーヌをみすてて、娼婦とか、売女とか、浮かれ女とか、女優とか、カディーヌとか、ジョゼファとか、マルネフとかのもとに走ったのだ。わしがわが子のようにかわいがり、誇りにしていた男の正体がこれだ!……さあ、ろくでなしめ、自分でつくったいまわしい人生をみとめる気なら、出ていってくれ! わしには、これまでさんざんかわいがってきた弟を、呪《のろ》う力はない。アドリーヌ、おまえと同じくらい、わしもこいつには弱いのだ。だが、わしのまえに二度と顔をみせないでくれ。わしの葬式に参列したり、わしのお棺についてくることもやめにしてもらいたい。罪を後悔しないにしても、せめて恥ずかしいと思うがいい」
元帥はまっさおになり、厳粛な話に疲れ果てて、書斎の長椅子に倒れた。そしておそらく生まれてはじめて涙が、元帥の目からあふれて、頬をぬらした。
「かわいそうなフィッシェル叔父さん!」とリスベットはさけんで、目にハンカチをあてた。
「お兄さま」とアドリーヌは元帥のまえにひざまずきながらいった。「わたしのために生きていてください! わたしのしていることを助けてください。わたしはエクトルを立派に立ちなおらせ、その過失をつぐなわせたいと思っているのです!」
「こいつ!」と元帥はいった。「こいつは生きているかぎり、罪を犯すのをやめはしない。アドリーヌのような女の価値がわからず、わしが一生懸命吹きこんだ真の共和主義者としての感情、つまり国家、家族、貧者にたいする愛を、心の内で消してしまった男だ。そんな男は怪物だ、豚だ。……おまえがこんなやつにまだ未練があるのなら、連れていってくれ。わしには心のなかで、ピストルに弾をこめて、こいつの脳天を打ち抜けとさけんでいる声が聞えるのだ! こいつを殺せば、おまえたちみんなを助けることになるし、こいつ自身を救うことにもなるのだ」
老元帥がおそろしい動作で立ちあがったので、あわれなアドリーヌはさけんだ。
「いらっしゃい、エクトル」
彼女は夫の手をつかむと、その手を引いて、元帥の邸を立ち去った。夫を引きたてたものの、すっかり弱り果てていたので、車に乗せてプリュメ通りの自宅まで連れて帰らなければならなかった。男爵は床についた。ほとんど廃人のようになって、何日間も寝込んだまま、食物をまったく受けつけずに、だまりこくっていた。アドリーヌは泣きの一手でやっと夫を言いくるめて、スープをのませた。彼女は、夫の枕元にすわって、看病した。そして、これまで彼女の心をいっぱいにしていたあらゆる感情のうち、深い憐憫の情しか感じないのであった。
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九六 立派な葬儀
十二時半にリスベットは元帥の書斎に公証人とスタインボック伯爵とを招き入れた。愛する元帥のあまりの変わりようにびっくりした彼女は、元帥のそばにつきっきりだったのである。
「伯爵」と元帥はいった。「わしの姪、つまりきみの細君の名義で登録してある国債を売り払いたいので、それに必要な許可の署名がいただきたいのだ。オルタンスの名で登録してあるといっても、名義上だけのことだ。――フィッシェルさん、あなたには用益権をすてて、この売却に同意してもらいたい」
「よろしいですとも、伯爵さま」とリスベットは少しのちゅうちょもなく答えた。
「よろしい」と老兵は答えた。「せいぜい長生きして、このお礼をしたい。あんたのことは信じていた。それでこそほんとうの共和主義者だ、民衆の娘だ」
彼は老嬢の手をとると、そこに接吻した。
「アヌカンさん」と公証人に、「代理の形式で必要な証書をつくってくれないか。二時間でお願いできるだろうか。今日じゅうに株式取引所で国債が売り払えるようにだ。名義はわしの姪、スタインボック伯爵夫人のものになっている。まもなくここに来るはずだから、あなたが証書を持って来てくれたときに、フィッシェル嬢といっしょにサインしてもらいましょう。伯爵はお宅まで同行して、そこでサインするでしょう」
芸術家は、リスベットの合図で、元帥にうやうやしく接吻して出ていった。
翌朝十時に、フォルツハイム伯爵はヴィッサンブール公爵に取次ぎを頼み、すぐに通された。
「どうした、ユロ」とコッタン元帥は新聞を旧友にさし出して、「なんとか外面を取りつくろったよ。……読んでみたまえ」
ユロ元帥は旧友の机の上に新聞をおき、二十万フランを差し出した。
「弟が国から盗んだ金だ」
「なんていうことを!」と大臣はさけんだ。「わしらには」と大臣は、元帥がさし出した耳ラッパを手にすると、元帥の耳のなかに言いたした。「金を返却するわけにはいかんのだ。そんなことをすれば、貴公の弟の汚職を認めざるをえない。それを隠蔽するために、あらゆる手を打ったのだから……」
「貴公がいいように処理すればいい。わしとしてはユロ家の財産に一文なりとも国家から盗んだ金がまじっているのを容認するわけにはいかないのだ」と伯爵はいった。
「それでは王の裁断を仰ぐことにしよう。もうこんな話はやめだ」と大臣は答えた。老人のいちずな頑固さを曲げることができないことを見てとったからである。
「さようなら、コッタン」と老将軍はヴィッサンブール公の手をとって、「わしの心は凍《い》てついてしまったようだ……」
それから、一歩あるいて、振りかえり、公爵をみつめた。公爵が深く感動しているのを見ると、彼は腕を開いて、公爵を抱きしめた。公爵も元帥を抱擁した。
「わたしには貴公を通して、軍団の全部と別れを告げているような気がする……」
「では、さようなら。すばらしい旧友!」と大臣はいった。
「うん、さようなら。わしはこれから、かつてその死を悼んだ兵士のみんなに会いに行くのだ」
このとき、クロード・ヴィニョンが部屋にはいって来た。ナポレオン軍の生き残りの二人の老将は、感動のあとをすっかり隠して、おごそかに敬礼しあった。
「公爵殿、新聞にはご満足いただけたでしょうか?」と近く参事院請願委員になるはずのヴィニョンがいった。「巧く工作して、反対派の新聞にもわれわれの秘密をあばいたように思いこませたのです……」
「不幸にして、すべては徒労となった」と大臣は答えて、元帥が応接間を通って立ち去って行くのを見た。「最後の別れを交したところだ。つらかった。ユロ元帥は三日と生きながらえないだろう。昨日から、それはわかっていた。神のように誠実な男で、あんなに勇敢だったのに、弾丸にはやられなかったあの男が……そら、……そこで、その肘掛け椅子のところで、致命傷を受けたのだ。それも、わしの手で、一枚の紙で!……呼び鈴を鳴らし、車を用意させてくれ。ヌイイの王宮へ行ってくる」といって、彼は大臣用の折り鞄に、二十万フランを入れた。
リスベットの看護にもかかわらず、三日後に、ユロ元帥は逝去した。元帥のような人は、その参加している党の名誉である。共和主義者にとっては、元帥は愛国主義の理想的な姿であった。そこで共和主義者は全員葬列に加わり、それに多数の一般人もつづいた。軍隊も、官界も、宮廷も、民衆も、だれもかれもが至高な美徳と完璧な誠実と純潔な栄光をそなえた人に、最後の敬意を表しにきた。だれでも思いどおりに、こんなに多くの人びとを葬列に加えることができるものではない。この葬儀では、また、フランス貴族の長所と栄光をときおり思いおこさせる繊細さと上品さと真情にあふれたしるしが見られて、それが目立っていた。というのは、元帥の棺のうしろにしたがってモントーラン老侯爵の姿が見えたからである。老侯爵は、一七九九年みみずく党の反乱のときにはユロの敵、それも不幸な敵であった人の弟にあたる。兄のほうの侯爵が、共和党員の弾丸にあたって死ぬ間際に、共和国の兵士ユロに弟の将来を頼んだのであった。〔『ふくろう党』参照〕ユロは、この貴族の口述の遺言をよく守って、そのとき国外に逃亡していた青年の財産を救うことに成功した。こんなわけで、古いフランス貴族も、九年まえ、ベリー公爵夫人を敗退させた将軍にたいして礼をつくしたのである。
結婚の最後の公示の四日前に襲った元帥の死は、リスベットにとっては雷が落ちたようなもので、折角刈りこんで納屋にしまいこんでおいた収穫を納屋ともども焼いてしまった。ロレーヌ女は、世間でよくあるように、ことをあまりにうまく運びすぎたのだ。元帥は、彼女とマルネフ夫人とが、元帥の親族であるユロ家に加えた打撃がもとで、死んだのだ。それが上首尾に運んで老嬢のうらみも晴されたようにみえたが、その希望のすべてが裏切られたために、うらみはますますつのってきた。
リスベットは、マルネフ夫人の家にいって、くやし涙にくれた。というのは、住むところもなくなってしまったからである。元帥は、借家の期限を彼が死ぬまでとしていたからだ。クルヴェルは、愛するヴァレリーの親友をなぐさめようと、その貯金をとりあげ、それに自分の金を十分につけたして、五分利の公債を買い、彼女に用益権を与え、所有権はセレスティーヌの名にした。この投資のおかげで、リスベットは、二千フランの終身年金の所持者となった。元帥の遺産調べのさい、元帥の義妹、姪のオルタンス、甥のヴィクトランあての依頼状がみつかり、それには、三人で、彼の妻になるはずであったリスベット・フィッシェル嬢に千二百フランの終身年金を払うようにと書いてあった。
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九七 放蕩親父の出奔
アドリーヌは、男爵が生死の間をさまよっているのをみて、数日のあいだ元帥の死を隠しおおせることができた。しかし、リスベットが喪服で訪ねてきたので、葬式から十一日たってその重大な事実が知れてしまった。このおそろしい打撃が病人の精力を回復させた。ベッドから立ちあがると、サロンにゆき、喪服を着た家族の全員が集っているのに出会った。彼の姿を見て、みなはだまってしまった。半月で、幽霊のようにやせおとろえたユロは、彼自身の影のように見えた。
「なんとか決心しないといけない」と彼は消えいるような声でいうと、肘掛け椅子にすわり、クルヴェルとスタインボックはいなかったが、家族全部揃っているのを見まわした。
「ここにもういるわけにはいきませんわ。家賃が高すぎますから……」こんなことをオルタンスは、父親が姿をみせたときに、いったのであった。
「住居の件に関してなら」とヴィクトランは、重苦しい沈黙を破っていった。「ぼくが提供しますよ、お母さんに……」
自分をのけものにしたこの言葉を聞いて男爵は、見るともなしに絨毯《じゅうたん》の花模様をながめていた目をあげ、息子の弁護士のほうに情《なさ》けなさそうな視線を投げた。父親の権利というものは、その父親が卑劣であり、不名誉なことを仕出かした場合でも、いつも神聖なもので、ヴィクトランは口をつぐんでしまった。
「おまえのお母さんにね……」と男爵はくりかえした。「おまえのいうとおりだよ」
「離れの、わたしたちの上の部屋を使っていただきますわ」とセレスティーヌは、夫の言い残したことをおぎなった。
「わしがいては、じゃまかね?」と男爵は、自分の罪を自覚した男のやさしさでいった。「さきのことは心配しなくてもいいんだ。お父さんのことを嘆くようなことはもうないはずだ。こんど会うときは、おまえたちに顔をあかくさせたりはしないつもりだ」
彼はオルタンスを抱き、額に接吻した。息子のヴィクトランには腕をひろげたが、父親の考えていることを察したヴィクトランは、その腕に絶望的に身を投じた。男爵の合図で寄ってきたリスベットには、その額に接吻した。それから、彼は自分の部屋に退《しりぞ》いたが、アドリーヌは心配のあまり、ついてきた。
「兄貴のいうとおりだよ、アドリーヌ」と彼女の手をとって、「わしは家庭生活をする資格のない男だ。子供たちを心のなかで祝福するよりほかどうにもならなかった。子供たちの振舞いは立派だった。こういってやってほしい、わしは接吻しかあたえることができなかったとな。だって、家庭の保護者や名誉となるかわりに、卑劣な男、人殺し、家庭の厄病神になった父親の祝福なんて、不吉ではないだろうか。だが、遠くから毎日、祝福するよ。おまえのことは、全能の神さまだけが、おまえの功徳《くどく》につり合った報酬をさずけてくださる。……許しておくれ」といって妻のまえにひざまずき、手をとって、涙でぬらした。
「エクトル! エクトル! あなたの罪はたしかに大きいものです。ですけど、神さまのお慈悲はかぎりないものです。わたしといっしょにいてくださっても、すべての償いはできるはずです……あなた、神さまにおすがりして、立ちなおってください。わたしはあなたの妻で、裁判官などではありません。あなたのものです。お好きなようになさってください。あなたの行くどこへでも、連れていってください。心からあなたを愛し、あなたのお世話をし、あなたを大事にすることで、あなたをなぐさめ、あなたの人生をもっとましなものにすることができるように思えます。……子供たちは一人前になっていますから、もうわたしの助けなどはいりません。あなたの遊び相手になり、気晴らしの種になれますように、やらせてみてください。あなたの追放生活、貧乏暮しの苦しみを分けていただき、わたしにやわらげさせてください。おそばにいれば、なにかのお役にたつはずです。女中の費用なんかも節約できるのではありませんか……」
「わしのかわいい、大好きなアドリーヌ、それではわしを許してくれるのかい?」
「もちろんですとも。さあ、お立ちになってください」
「よし、おまえに許してもらえれば、生きていけるぞ」と立ちあがり、「部屋に帰ったのは、子供たちにわしの落ちぶれたのを見せたくなかったからだ。ああ、わしのような罪を犯した父親と毎日顔つきあわせるということには、父権を低下させ、家庭を崩壊させるおそろしさがある。だから、おまえたちのあいだにとどまっているわけにはいかない。おまえたちに権威を失った父親のみじめな姿を見せつけないために、ここを出ていこうと思っている。わしの家出に反対しないでくれ、アドリーヌ。そんなことをされるとおまえがピストルに弾丸をつめて、このわしに脳天をぶちぬかせるようなものだ。……それに、わしの隠れ家にまでついてきてくれるな。そんなことをされると、わしに残っている唯一の力、後悔という力までなくなってしまうから」
エクトルの決心のかたさに、憔悴したアドリーヌはだまってしまった。相ついで襲ってきた数々の破局の最中《さなか》でさえ、毅然としてきたこの女は、夫との親密なつながりのうちに、勇気をくみとっていたのであった。なぜなら、夫を自分のものと考え、夫をなぐさめ、家庭生活にもどし、良心の安らぎをえさせるという崇高な使命を自覚していたからであった。
「エクトル、あなたは、わたしが絶望と不安と心配とから死んでしまうのを放っておくつもりなの!」と彼女は、自分の力の根源が奪いさられると思って、いった。
「おまえのもとにもどってくるよ。天から舞いおりた天使、それもわしのためにわざわざおりてきてくれたように思えるのだ。おまえたちのところにもどってくるよ。金持ちにはなっていないだろうが、少なくとももっとましな生活ができるくらいにはなってね。いいかい、アドリーヌ。数え切れないほどの理由から、わしはここにいるわけにはいかない。まず、六千フランばかりになるわしの恩給だが、むこう四年間抵当にはいっている。だから、わしは無一物だ。そればかりではない。ヴォーヴィネに振りだした手形のために、数日中に差し押えになるのにきまっている……だから、せがれのヴィクトランが、その証書を買いもどしてくれるまで、隠れていなくてはならない。せがれには正確な指示を残しておくつもりだ。わしがいないほうが、手続きがうまくいくはずだ。わしの恩給が自由になり、ヴォーヴィネへの支払いがすんだら、おまえたちのもとにもどってくる。……おまえがついて来たのでは、わしの隠れ家のありかがわかってしまう。安心しているがいい。泣くな、アドリーヌ……たった一カ月のことだ……」
「どこへいらっしゃるのです? どうなさるのです? どうなるのです? あなたの面倒はだれがみるのです? もうお若くはないのですよ。あなたとごいっしょさせてください。外国へいっしょにまいりましょう」と彼女はいった。
「うん、考えておこう」と彼は答えた。
男爵は呼び鈴を鳴らし、マリエットに、彼の身のまわり品を全部集めて、気づかれないように、手早くトランクに入れるように命じた。それから妻をこれまでにないほどのやさしさでつよく抱擁すると、ヴィクトランに必要な指示を書いておきたいからしばらくひとりにしてくれと頼み、家を出ていくのは夜にはいってからで、彼女といっしょにゆくと約束した。
男爵夫人が客間に帰るとすぐに、狡猾な老人は化粧室を通って控え室にはいり、こんな文句を書いた四角な紙切れをマリエットに手渡して、家から出ていった。「わしのトランクは、コルベーユ鉄道でコルベーユ駅どめ、エクトル氏宛に発送すること」マリエットが旦那さまはお出かけになったところです、と紙切れを男爵夫人にもってきたときには、男爵は辻馬車に乗って、すでにパリの街中を走っていた。アドリーヌはいままでになくひどくふるえながら、いそいで部屋にとんでいった。するどいさけび声が聞えたので、おどろいた子供たちが、そのあとを追った。失心した男爵夫人をみなは抱きおこした。彼女を床にふせなくてはならなかった。というのは、彼女は神経性の熱病にとりつかれ、その後ひと月も、生死の間をさまようことになったのである。
「あの人はどこにいるの?」彼女の口をついて出てくる言葉はこれだけだった。
ヴィクトランの捜索はなんの成果もあげなかった。それはこんな理由からである。
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九八 ジョゼファの新しい一面
男爵はパレ・ロワイヤル広場まで馬車を走らせた。そこで、この男は、苦悩と悲しみとに打ちのめされて、寝床に横たわっていたときに考え出した計画を実行するのに必要なだけの機知をとりもどして、パレ・ロワイヤルを横切ると、ジョクレ通りまで豪華な馬車を借りにいった。御者は、指図にしたがって、ヴィル・レヴェック通りにあるジョゼファの邸の中庭に乗りつけた。御者の声に応じて、邸の正門は、この華麗な車のために、なんなく開かれた。好奇心にかられて、ジョゼファが出てきた。彼女の召使いの取次ぎによると、手足の自由のきかない、車からおりることができない老人が、彼女にほんの少しのあいだでいいから玄関先までおいでを願いたいといっている、とのことであった。
「ジョゼファ! わしだよ!」
有名な歌姫は、声を聞いてはじめてユロだとわかった。
「まあ、あんたなの、かわいそうなおじいさん。……あんたはまったく、ドイツのユダヤ人にごしごし洗われて、両替屋からことわられる二十フラン金貨にそっくりだわ」
「残念ながら、そのとおりだ」とユロは答えた。「死神の手から逃げてきたところだからな。だがそれにしてもおまえは相変わらずきれいだ。わしに親切にしてくれるかい?」
「事と次第、話によりけりだわ」と彼女はいった。
「聞いておくれ」とユロはつづけた。「屋根裏にある召使い部屋に数日置いてくれないか? わしは一文もないし、希望もなく、パンもなく、恩給もなく、女房もなく、子供もなく、家もなく、名誉もなく、勇気もなく、友達もないのだ。それにもっと悪いことに、手形の期限が切れているのだ……」
「かわいそうなおじいさん。まるでないものだらけね。そんならズボンもないの?」
「おまえ、わしをからかうのか。わしもおしまいだ!」と男爵はさけんだ。「だが、おまえのことは頼りにしていた。グールヴィルがニノンを頼りにしたようにね」〔グールヴィルは十七世紀の政治家、財政家。数年にわたる留守の間、恋人ニノンに宝石箱をあずけたが、彼女はあらゆる誘惑をしりぞけ、それを忠実に守り通して、もとの持ち主に返したエピソードをいう〕
「噂によると、あんたをこんな目にあわせたのは上流社会の女だっていうじゃないの?」とジョゼファはきいた。「道化役の女たちのほうが、わたしたちより、おばかさんから金をまきあげることにかけてはずっとうまそうね。……あんたまるで骸骨みたいね、鳥だって見むきもしないわ……お陽さまが透けて見えてよ」
「時間がないんだ、ジョゼファ!」
「おはいんなさい、おじいさん。わたしひとりきりだし、召使いはあんたのことを知らないし、車を返しなさい。払ったの?」
「うん」と男爵はジョゼファの腕に支えられて車をおりた。
「よかったら、わたしの父親っていうことになっていただくわ」とあわれをもよおした歌姫はいった。
彼女は、二人が最後に会った豪華な客間に、ユロをすわらせた。
「噂はほんとうなの? おじいさん」と彼女は話しつづけた。「ほんとうにあんたは、その公爵夫人と二人して、お兄さんや叔父さんを殺し、家族を破産させ、子供の家を二重抵当に入れ、アフリカの政府の公金を使いこんだの?」
男爵は悲しそうに頭をたれた。
「そう、わたしそういうのって好きよ」とジョゼファはさけび、感激のあまり、立ちあがった。「なにもかも焼き払ってしまったのね。サルダナパロスみたいな溺れようね。えらい! 申し分ないわ! わたしなんて下種《げす》な女だけれど、勇気はもっているのよ。それでわたし、あんたみたいに、女に夢中になる穀《ごく》つぶしのほうが、冷たい、魂のない銀行家なんかよりずっと好きだわ。だって、あの連中ときたら、道徳的だなんていわれていながら、鉄道を敷いては幾千という家庭を破産させているじゃないの。やつらにとっては、鉄道のレールは金かもしれないけれど、だまされた鴨《ゴゴ》にとっては鉄じゃあないの。ところが、あんたは、あんたの家族を破産させただけだし、あんただけ身をあやまったんだものね! それにあんたには言いわけがある。肉体上の、精神上のね……」
彼女は悲劇のポーズをとって、いった。
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「そは餌食にまとわりついたヴィーナスの女神」〔ラシーヌ『フェードル』のなかのせりふ〕
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「といったわけね!」と彼女は、くるっとからだをまわして、つけ加えた。
ユロは、悪徳によって自分の罪が許されたような気がした。悪徳がその並はずれた栄華のなかで、彼に微笑みかけたのである。いろいろな罪の偉大さがそこにあって、ちょうど陪審員にとっての情状酌量のようなものであった。
「あなたのその上流社会の女というのは、少なくともきれいな方なんでしょうね?」と歌姫は、最初の施しとしてユロの気をまぎらわそうとして、聞いた。ユロの悲痛な顔を見ていると、胸がえぐられる思いがしたのであった。
「まあ、おまえと同じくらい美しいな!」と男爵は抜け目なく答えた。
「それで……とてもおどけるんですって? だれかがそういっていたけど。いったい何をしてくれたのよ? わたしよりもっとおもしろい女なの?」
「その話はやめにしよう」とユロはいった。
「噂によると、その女、わたしのクルヴェルや、かわいいスタインボック、それにあの美丈夫のブラジル人までたらしこんだらしいわね」
「そうかもしれん……」
「この邸と同じくらい立派なのを、クルヴェルさんからもらって、住んでいるんでしょ。あの商売女、わたしより役者が上だわ、わたしが手をつけた連中に、止めを刺しているんだから。だからわたし、どんな女なのか知りたいのよ。ブローニュの森で、車に乗って通り過ぎるのをちらっと見たわ。それも遠くからだった。……あれで、カラビーヌの話だと、たいしたくわせ者らしいじゃないの。クルヴェルをしゃぶりつくそうとしているんですってね。でも、まあかじるくらいしかできないでしょうよ。クルヴェルはしまり屋だから! 人のよさそうな顔していて、いつでも、『いいよ』なんていう癖に、自分の思いどおりのことしかしない。あの人は見栄っ張りで、情熱家だけれど、お金に冷たいわ。ああいうつわものたちからは、しぼったところで、月にせいぜい千フランから三千フランどまりね。出費が少し大きくなると、川に突きあたったロバみたいに、立ちどまってしまう。それは、おじいさん、あんたとはちがうわ。あんたは情におぼれる人だから、祖国まで売りとばしてしまいそうね! だから、いいこと、あんたのためならなんでもしてあげるわよ。あんたはわたしの父だし、わたしを売り出してくれたんですもの、恩にきなくちゃね。なにがいるの? 十万フラン? それだけあんたにもうけさせるためには、骨身をけずってでも、都合するわ。食事とベッドのことなら、かんたんよ。あんたは毎日ここで食事をしてかまわないし、三階のいい部屋にいてもいいし、おこづかいとして、月に百エキューあげるわ」
男爵は、このあたたかいもてなしに感謝して、発作的に、これが最後という気高い感情を抱いたのだった。
「いや、おまえは誤解している。わしは養ってもらおうと思って、来たんじゃないんだ」と彼はいった。
「あんたの年で、こんなこと、自慢して有頂天になってもいいことじゃないの!」と彼女はいった。
「いいかい、わしの頼みは、こうなんだ。おまえのデルーヴィル公爵はノルマンディーに広大な領地を所有している。わしはトゥールという名で、その管理人になりたいのだ。わしは能力もあるし、誠実でもある。だって政府の金を使いこんだからといって、金庫に手を出すとはかぎらんじゃないか」
「おや、おや」とジョゼファはいった。「一度ついた癖は、なおらないというじゃないの」
「要するに、三年のあいだ、人に隠れて暮せればいいんだ」
「そんなことなら、お安いご用。今夜、食事のあとで、わたしが口きいてあげる。こっちがその気にさえなれば、公爵はわたしといっしょになる気よ。でも、わたしは公爵くらいの財産ならもっているし、それ以上のものが欲しいの。……つまり、彼から尊重されることよ。あの人は貴族は貴族でも、由緒のある公爵よ。背は低いけれど、ルイ十四世とナポレオンとをたして二でわったみたいで、高貴で、上品で、偉大だわ。それにわたし、公爵に、ションツがロシュフィッドにしたようなことをやってあげたの、というのはわたしの入れ知恵で、最近、彼は二百万フランもうけたのよ。それで、いいこと、ここんとこをよく聞いてちょうだい、変なおじいさん……わたしには、あんたという人がよくわかっているの。あんたは女好きよ。だから、ノルマンディーへ行けば、きれいなノルマンディーの小娘たちを追いまわすことになるわ。その結果、若者や娘たちの父親からひどい目にあわされ、公爵はあんたをくびにせざるをえなくなる。あんたがわたしを見る目つきで、フェヌロンの言い種ではないけれど、青年《ヽヽ》はあんたのなかでまだ死んでいない、ということがわからないとでも思うの? そんな管理なんてあんたにふさわしくはないわ。いいこと、おじいさん、切ろうと思ったってそう簡単にパリや、わたしたちと切れるもんじゃないわ。エルーヴィルなんかに行けば、あんたは退屈して死んでしまうわよ」
「では、どうしたらいいんだ?」と男爵はたずねた。「だって、わしはいつまでもおまえのところにやっかいになりたくはない。身のふり方がきまるまでだ」
「そんなら、わたしの思うように、あんたの身のふり方をきめてもいい? じゃ、聞いてちょうだい、浮気なおじいさん!……」
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九九 身のふり方
「あんたには女っ気がいるわ。女さえいれば、あんたはどんなことでも我慢する。クールチーユの麓《ふもと》のサン・モール・デュ・タンプル通りに、わたし貧しい一家を知っているのだけれど、その一家に宝物があるの。かわいい娘よ。わたしが十六のときより、もっとかわいいくらい……ああ、あんたもう目を光らせているのね。その子は、絹物商人の注文を取って、極上の布地に刺繍する仕事をしているんだけれど、日に十六時間働いて、稼ぎは十六スーつまり、一時間にたったの一スーよ。あわれなもんでしょう。……あの子の食べものといったら、アイルランド人みたいに、ジャガイモ、それもねずみの油であげたものよ。パンは週に五度口にするだけだし、水は、セーヌ河のが高すぎるからって、ウールク川のを市の水管を利用して飲んでいるの。それに、六、七千フランの都合ができないから、お店をもつこともできないのよ。だから、あの子は七、八千フラン手に入れるためなら、どんな凄《すご》いことでもしでかすわ。あんたはあんたの家庭や奥さんにはうんざりなんでしょう?……それに、神さまでいられたところでは、乞食になりさがるわけにはいかないしね。金もなく、名誉もない父親なんて、剥製にして、飾り窓の裏においておくものだわ。……」
男爵はこの残酷な冗談に苦笑せざるをえなかった。
「それで、そのかわいい娘のビジューが、あす刺繍をした部屋着を持ってくるの、それはすてきな部屋着よ。刺繍に六カ月もかけたんだもの。あんなすばらしい布地の服もっている人なんかいないわ。ビジューはわたしが好きなの。だって、お菓子やお古の洋服なんかを、やっているんですもの。それに家族には、パンの引換券や、薪やお肉の引換券を送っているの。だからわたしがしてくれといえば、あの人たちは、だれであろうとかまわず、そいつの向こう脛をへし折ってくれるわ。わたし少しはましなことをしたいなと思っているの。ひもじいときに味わった苦しみは、忘れられないもの。ビジューはいろんなことを打ち明けるのよ。アンビギュ・コミック座の踊り子の衣裳があの子のうちにきているんですって。ビジューの夢というのはね、わたしのようなきれいなドレスが着られること、それになによりいちばん馬車を乗りまわせることなの。わたしあの子にいってやるわ。『ねえ、おまえ、旦那欲しくない? その方の年はね……』あんたいくつ?」と彼女は話を中断してたずねた。「七十二?……」
「年なんかもう覚えてないよ」
「わたしのあの子にこういってやる。『おまえ、旦那欲しくないかい? その方の年は七十二で、その方はたばこなんかのまないし、とても清潔だし、わたしの目のようにしっかりしていて、若い人に負けやしない。おまえは、その方と夫婦みたいにして暮すの。その方はおまえの家族にもやさしくしてくれるだろうし、お店のために七千フラン出してくれるだろう。おまえの部屋にはマホガニー製の家具を入れてくれるし、それに、おとなしくしていれば、たまにはお芝居にも連れていってくれるよ。月にお小づかいとして百フラン、家計費として、五十フラン貰えるよ』ビジューがわたしにはわかるの、十四のときのわたしだもの! あのいやらしいクルヴェルが、こんなおそろしい申し出をしてきたときには、わたし小踊りして喜んだわ。それで、おじいさん、三年ぐらいならあの子に夢中になっているあいだに過ぎてしまうわ。おとなしい、まじめな子よ。それにあの子も、三、四年なら夢をもつでしょうけれど、それ以上は無理ね」
ユロには迷いはなかった。ことわる決心はついていた。しかし、善良で、立派な歌姫に、彼女流の善行を感謝するために、彼は悪徳と美徳を選びかねているようなふうをした。
「あらまあ、十二月の舗道みたいに、冷たいのね」と彼女はびっくりしていった。「いいこと、一つの家族の幸福がかかっているのよ。注文取りにいそがしい祖父《おじい》さんと、身を粉にして働いている母親と、二人の姉妹、そのうちの一人は、とても醜《みにく》いけど、その二人が目の悪くなるほど働いても一日三十二スーにしかならない。そんな家族を幸福にしてやれば、あんただって一家を不幸にしたつぐないになるんじゃないこと。マビーユへ踊りに行く浮かれ女のように、楽しみながら、罪ほろぼしができるのにね」
ユロは、ジョゼファの誘惑をはねのけるために、金を数える仕種をした。
「お金のことなら心配いらないことよ」とジョゼファはいった。「公爵があんたに一万フラン貸してくれるわ。ビジューの名で刺繍店を出すのに七千フラン、家財道具をそろえるのに三千フラン、それに三カ月ごとに、ここで六百五十フランの小切手をさしあげるわ。恩給がまた手にはいるようになったら、一万七千フランを公爵に返してくれればいいのよ。それまでは、のんびりとお暮しなさい。警察に見つけられないような穴のなかに身を隠してね。カストリーヌの粗末なフロックを着れば、あんたはその近所での裕福な地主に見えるわ。トゥールと名乗るのが、あんたの思いつきなら、そうなさったらいい。ビジューには、あんたはドイツから破産して逃げてきたわたしの伯父だといっておくわ。あんたは神さまのように大事にされるわよ。こういったわけなの、パパ!……どう? なにか思い残すことがある? いい服を一着だけ取っておいて、もし退屈したら、ここに来て、夕食をたべて、一晩遊んでいくことにしたらいいじゃない」
「わしは高潔で、堅実な人間になることにしたのだ……そうだ、二万フランばかり融通しておくれ。そうしたら、ヌシンゲンに破産させられたわしの友人デーグルモンみたいに、アメリカに行って、ひと花咲かせてくるから……」
「あんたが!」とジョゼファがさけんだ。「そんな身持ちのよさなんか、小物商人や平の兵卒にまかしておきなさいよ。自分を見せびらかすのに、堅実さしかもちあわせていないフラララランス市民にね! あんたはね、お人よしなんかより、もっと他のものになるために生まれついているのよ。あんたは、わたしが男に生まれかわったようなものだわ。つまり、根っからののらくら者よ!」
「一晩たてばいい考えも浮かんでくるだろう。あすまた話しあうことにしよう」
「今晩は、公爵と食事をするのよ。デルーヴィル公爵は、あんたをまるで国家の救済者みたいに、丁重にもてなすわよ! そして、あす、覚悟をきめることね。さあ、元気を出しなさいよ、おじいさん! 人生なんて着物みたいなものよ。汚れたときにはブラッシをかけ、穴があいたらつくろうの。でも、着られるだけ着ることよ」
この悪徳の哲学と彼女の陽気さとが、ユロの激しい苦痛を霧散させてしまった。
翌日、正午に、滋養のある食事をとったあとで、ユロは、世界じゅうでただパリだけが製作できる生きた傑作の一人がはいってくるのを見た。こうした生身の傑作は、豪奢と悲惨、悪徳と誠実、押えつけられた欲望とたえずくりかえされる誘惑との間断のない混交によって生まれるものである。これがパリをニネベとかバビロンとか帝政ローマとかの後裔《こうえい》にしている理由である。オランプ・ビジュー嬢は、十六歳の小娘で、ラファエロのマドンナ像のような崇高な顔をし、過度の労働で愁いをおびた無邪気な目をしていた。その目は、黒くて夢みるようで、長いまつ毛にまもられ、その潤いは、よなべの灯で枯れていた。疲労のために暗い影のある目である。しかし、肌の色は陶器のようで、病的なほど白かった。口はといえば、開きかけのざくろのようであり、胸はふくよかで、からだの線は張りきっており、手はきれいで、歯は美しく、髪は黒く、豊かであった。一メートル七十五サンティームの更紗《さらさ》の服を着て、刺繍をしたえり飾りをし、釘なしの革の短靴をはき、二十九スーの手袋をはめていた。自分の価値を知らないこの小娘は、りっぱな奥さまの家へくるために最高のおめかしをしてきたのであった。この小娘を見て、また情欲の爪に引っかけられた男爵は、全生命が自分の目から抜け出したように思った。このすばらしい小娘を前にして、何もかも忘れてしまったのである。まるで獲物を見つけた猟師のようであった。こうした人たちは、皇帝の前であろうとどこであろうと、見つけた獲物には狙いをさだめてしまう。
「それに」とジョゼファは男爵の耳もとでささやいた。「新品保証つきよ。誠実なのに、食べものにもこと欠いているんだから。これがパリよ! わたしもそうだったわ」
「きめた」と老人は立ちあがって、もみ手をした。
オランプ・ビジューが帰ると、ジョゼファはいたずらっぽい目をして男爵を見つめた。
「パパ、いやな思いをしたくなかったら、検事席の検事総長のように厳格にしていなさい。小娘をしっかりしばりつけて、バルトロ〔狂的な嫉妬家のタイプ〕になんなさい。オーギュストとか、イポリットとか、ネストルとか、ヴィクトルとか、|オル《ヽヽ》のつく男はみんな用心するのよ。……一度あの子がいい洋服を着て、ご馳走を食べ、そっくり返るようになると、ロシア人みたいな目にあわされるわよ。……引越しのときには見に行くわ。公爵が万事うまくやってくださるはずよ。あんたに一万フラン貸してくださる、ということは、あんたに一万フランくれるということよ。それから公証人のところに八千フランあずけるわ。公証人はあんたに三月ごとに六百フラン支払う手はずなの。だって、わたし、あんたがあてにならないんだもの。……わたしって親切でしょう?」
「ほれぼれするよ!」
家族をすててから十日たって、エクトルは、ちょうど家族の者が、「あの人はどうしているんでしょう?」とかぼそい声で言いつづけている瀕死のアドリーヌの床のまわりに集まって、悲嘆にくれているとき、トゥールという名前で、トゥール・ビジュー商会という看板を出した刺繍店の主人におさまって、オランプといっしょにサン・モール通りに居をかまえた。
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一〇〇 ユロ元帥の遺産
ヴィクトラン・ユロは、一家に猛烈におそいかかる不幸によって、人間を完成させるか、まったくだめになってしまうか、最後の加工を受けた。彼は完全な人間になった。人生の大きな嵐のなかで、人は、暴風に出会って大きな積荷をすてて、船を軽くする船長のような態度をまねる。ユロ弁護士は、内心の傲慢《ごうまん》さ、上っ面の自信、演説家としての横柄な態度、それに政治的野心をすてた。要するに、アドリーヌを男にしたような人間になった。妻のセレスティーヌは、彼の夢を満たしてくれる女ではなかったが、彼女を受け入れることにした。そして、一般的な規則として、すべてだいたいのところで満足しなくてはならないと悟って、人生を健全に判断するようになった。
だから、自分の義務をはたすことをみずから誓ったが、それほど、父親の振舞いにはいや気がさしたのだ。こうした気持ちは、母親が命をとりとめた日に、強固なものとなった。この最初の幸福は他の幸福を道連れにしてきた。ヴィッサンブール公爵の命令で、ユロ夫人の容体を毎日聞きにきていたクロード・ヴィニョンは、代議士に再選されたヴィクトランに、ある日大臣のところまでいっしょに来てくれるようにと頼んだ。
「閣下は、あなたの家族の件であなたと相談したいとのことです」とヴィニョンはいった。
ヴィクトラン・ユロと大臣とは旧知の間柄であった。それで、元帥は、あの特徴のある、吉報をもたらすようなやさしい態度で、彼を迎え入れた。
「ユロ君」と老元帥はいった。「わしは、この部屋で、君の伯父さんに、君のお母さんの面倒を見ると約束した。君の清らかなお母さんはやがて元気になられるだろう。君たち一家の傷に手あてを加えるときが来た。ここに二十万フランある。この金を君に手渡す」
弁護士は伯父の元帥にふさわしい身ぶりをした。
「安心したまえ」と公爵は微笑した。「これは介立遺贈なんだ。わしの生涯も先が見えている。いつまでもここにいられるわけのものではない。だから、これは受けとってくれたまえ。そして、わしにかわって一家の面倒をみて欲しい。この金を使って、君の家にかかっている抵当をとくことだってできるではないか。この二十万フランは君のお母さんと妹さんのものだ。この金をユロ夫人に直接渡すと、夫にたいする献身ぶりから見て、すぐ浪費される心配がある。それにこの金を返す人たちも、この金がユロ夫人や娘のスタインボック伯爵夫人の生活費のたしになればと考えているのだ。君は賢い男だ。君の気高いお母さんにふさわしい息子だし、わしの親友の元帥の真の甥《おい》だ。君はここでもよそと同じように評判がいい。一家の守護天使となって、君の伯父さんの遺産と、わしの遺産とを受けとってくれたまえ」
「閣下」とユロは大臣の手を取って握りしめた。「閣下のような方は言葉のうえの感謝がなんの意味もなく、感謝の心は実証されるべきものであることをご存知でいらっしゃいます」
「君の感謝の心を実証してくれたまえ」
「どうすればよろしいので?」
「わしの申し出を受け入れることだ」と大臣は答えた。「陸軍省の訴訟顧問になって欲しいのだ。パリ要塞工事のおかげで、築城本部に訴訟事件が山積している。それに警察庁の法律顧問と王室会計顧問にもなってもらいたい。この三つの職をあわせると、君の手あては一万八千フランになるし、君はそれで、拘束を受けることはまったくない。議会では、君の政治上の意見と良心にもとづいて投票したらいい。……思うように行動してくれたまえ。……反対してくれる人がいなくなってしまったら、わしらはかえって困ってしまう。要するに、君の伯父さんが息を引きとる数時間まえに書いた指示にしたがって、君のお母さんのために、わしは動いたまでだ。元帥はお母さんを心から愛しておられた!……ポピノ夫人、ラスティニャック夫人、ナヴァラン夫人、デスパール夫人、グランリュー夫人、カリリヤノ夫人、ルノンクール夫人、ラ・バティ夫人などが、君の愛するお母さんのために慈善視察員の地位をこしらえてくれた。これらのご婦人方は、慈善団体の会長さんだが、なにもかも一人でやるというわけにはいかない。会長のかわりになって積極的に働いてくれる誠実な婦人が必要なのだ。不幸な人を見舞ったり、慈善が公正にほどこされているかどうかを調べたり、援助が必要な人にきちんと渡っているかどうかを調査したり、貧苦をはじている人たちを見つけだしたりするのが、その仕事だ。君のお母さんは天使の役割をはたすわけだ。それに接触する人たちといったら、司祭と慈善団体の婦人だけだ。手あては年に六千フラン、交通費は別に出る。わかるだろう、君、清廉潔白な君の伯父さんは草葉のかげから、いまだに君らの一家を見守っている。君の伯父さんのような名前は、ちゃんと組織だった社会では、不幸にたいする守りの楯であるし、またそうでなければならぬ。君の伯父さんのたどった道を行くがいい。それを踏みはずさないようにな。君がすでにその道にいることは、わしも知っている」
「これほど親切にしていただくのも、公爵、伯父の親友からだと思えば、それほどふしぎとは思えません」とヴィクトランはいった。「ご期待にそうよう努力いたします」
「さあ、早く帰って、君の一家をなぐさめてやりたまえ。……ああ、ちょっと」と公爵はヴィクトランと握手をかわしながらいった。「君のお父さんは姿を隠したって?」
「ええ、そうなんです」
「けっこうじゃないか。気の毒な奴だが、気はきいていた。それだけは今でもなくしていないらしい」
「手形を心配しているのです」
「そうだ、君のその三つの地位の謝礼金を、六カ月分先にお渡しすることにしよう。そうすれば、高利貸の手からその手形証書を引きとる助けになるだろう。それにわしもヌシンゲンに会うことにする。もしかすると、君にも、また陸軍省にも一文の負担にならずに、君のお父さんの恩給をとりもどすことができるかもしれない。ヌシンゲンは、上院議員になっても銀行屋根性が消えない。あくことを知らん男だ。なんの権利だか知らないが、その認可を頼んできている……」
こんなわけで、プリュメ通りにもどると、ヴィクトランは自分の家に母親と妹を引きとる計画を実行することができたのである。
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一〇一 大きな変化
この有名な青年弁護士は、パリでも美しい部類の不動産を一つもっていた。それは彼の全財産で、結婚の準備に一八三四年に買った家で、ラ・ペー通りとルイ・ル・グラン通りとのあいだの大通りに面していた。ある投機家が、通りと大通りとに面して二軒の家を建てておいたが、そのまんなかに、二つの小さな庭と中庭にはさまって、すばらしい離れが、豪華なヴェルヌイユの大邸宅の名残りとして建っていた。ヴィクトラン・ユロは、クルヴェル嬢の持参金をあてにして、このすばらしい地所が競売になったとき、百万フランで落札し、当座に五十万フランを支払った。自分は離れの一階に住み、家の残りを貸して、地所の未払い金にあてるつもりでいた。
だが、パリでは、土地の投機が確実なものだとしても、それは時間がかかり、気まぐれなものなのである。なぜなら、それは予測しえない事情に左右されるからである。パリの街々を歩きまわる閑人ならばとっくに承知しているように、ルイ・ル・グラン通りとラ・ペー通りとのあいだの大通りはずっとのちになってから利を生むようになった。大通りはなかなか清潔にならず、美化されなかったので、商人たちがそこに腰を落着けて、豪華な陳列窓を飾ったり、両替屋の金や、夢をさそうような流行品、法外な贅沢品をならべるようになったのは、一八四〇年になってからのことであった。
クルヴェルは、娘の結婚で自尊心を満足させていたころ、それにまだユロ男爵にジョゼファを盗《と》られていないころ、娘に二十万フランを与えた。ヴィクトランは、その持参金とは別に七年間でさらに二十万フランを支払ったのに、父親につくしてやったために、その不動産にのしかかっている負債はまだ五十万フランという額にのぼっていた。さいわいなことに、うちつづく家賃の騰貴や場所のよさなどが、このころになってやっと、二軒の家のねうちを高めることになった。投機は、八年目に実を結ぶことになったが、この八年間、ユロ弁護士は借金の利子や、返却しなくてはならない元手にくらべてとるにたらない金を支払うために疲れはててしまった。商人たちは、借家人の権利をむこう十八年間もつという条件ですすんで有利な家賃を申し出てきた。商業の中心地が変わり、そのころ取引所とマドレーヌ広場とのあいだに定着したので、それ以後そこがパリにおける政治と経済の権力の本拠になり、アパルトマンの家賃も高くなった。
大臣から返却された金に、前払いで支給されたその年の分の報酬と、借家人が承知した割増し金とで、ヴィクトランの借金は二十万フランにへらすことができた。収益のあがるこの二軒の家は、すっかり借り手がついていたから、年に十万フランになるはずであった。これから二年間、ヴィクトラン・ユロは、元帥から与えられた地位によって二倍になった謝礼金で暮していくのだが、その二年が過ぎれば、りっぱな立場に立つことになるだろう。それは天からふってきた|食べ物《マナ》であった。ヴィクトランは母親に離れの二階全部を、妹には三階を与えることができた。リスベットは三階の二部屋を占めるはずであった。それにいとこのベットが、家事を切りまわせば、この三世帯の家は、一切の費用をまかなって、しかも有名な弁護士に似つかわしいりっぱな外観になることであろう。パリ高等法院の花形弁護士たちは、つぎつぎに姿を消していた。そこで賢明な話し方をし、徹底した誠実さのあるヴィクトラン・ユロは、判事にも裁判官にも傾聴されていた。彼は事件をよく研究し、証明できないことは口にせず、どんな事件でも見境いなく引受けるようなことはしなかった。要するに、彼は法曹界の誉れとなっていたのである。
男爵夫人にとって、プリュメ通りの住居は、とてもいやだったので、いわれるままに、さっさとルイ・ル・グラン通りに引越した。息子の配慮から、アドリーヌはすばらしいアパルトマンに住むことになった。生活のこまごました雑用もやらないですむことになった。というのは、リスベットがマルネフ夫人のところで磨きをかけた金銭上のやりくり算段を、ここでもはじめることを引き受けたからである。リスベットは、そうすることがこの三人の気高い人たちに陰険な復讐を思い知らせる手段になると思ったからである。彼らこそは、彼女の希望がまったく消えてしまったために、ますますあおりたてられた憎しみの的となったのであった。
月にいちど、彼女はヴァレリーに会いに行った。オルタンスとセレスティーヌの命を受けてであった。オルタンスはヴェンツェスラスの消息を知りたがり、セレスティーヌは、自分の姑《しゅうとめ》と義妹を破産と不幸とにおとし入れた女と、自分の父親との、父親みずから白状もし、人も認めている関係がとても気がかりだったからだ。想像されるように、リスベットはこの好奇心を利用して、好きなだけヴァレリーと会った。
およそ二十カ月がたった。その間に男爵夫人の健康はもとどおりになったが、その神経性の震えはとまらなかった。彼女は次第にその仕事にもなれてきた。それは彼女の苦悩にとって高貴な気晴らしになり、その魂の神々しい能力には、糧《かて》を提供した。勤めの性質上、パリのあらゆる区域に足を運ぶので、それが偶然に夫を見つけだす手段にもなると考えていた。この間に、ヴォーヴィネの手形の支払いもすみ、六千フランの恩給もユロ男爵に有利に清算され、ほとんど自由になった。ヴィクトランは介立遺贈によって元帥から手渡しされた資金の利子の一万フランで、母親とオルタンスの費用をいっさいまかなった。ところで、アドリーヌの手あては六千フランだったから、男爵の恩給の六千フランを加えると、やがてなんの抵当義務がない一万二千フランの年収が母と娘とにころがりこんでくるわけである。
アドリーヌは、一家に微笑みはじめた幸運を、男爵にもわけてやりたいと思っていたが、夫の運命については絶えず不安が消えなかった。こうした心配がなければ、また夫に見すてられた娘に会うこともなければ、それにまたリスベットのおそろしい性格がぞんぶんに発揮されて、無邪気《ヽヽヽ》におそろしい打撃を彼女に加えることがなかったならば、このあわれな女はほとんど幸福といってもいいくらいであった。
一八四三年三月初旬に起こった一場面は、リスベットの胸に根強くひそんでいる憎しみが、例によってマルネフ夫人にたきつけられて、どんな結果を生んだかを説明するであろう。二つの大きな事件が、マルネフ夫人のところで起こった。まず第一に子供が生まれたが育つ見込みがなく、死んでしまったことである。そこで、この子供の柩は二千フランの年金に相当したことになる。第二は、夫のマルネフのことだが、リスベットは、十一カ月まえ、マルネフ邸に様子をさぐりにいっての帰りにこんな報告を一家にもたらした。
「けさ、あのおそろしいヴァレリーが、ビアンション先生を呼んだのよ」とベットはいった。「先夜、ご亭主は他の医者たちから見放されたけれど、その診断がたしかかどうか知りたかったんでしょうね。先生のおっしゃるには、このけがれた男には、今夜にでも地獄からお迎えがくるだろうって。クルヴェルさんとマルネフ夫人とが医者を送って出て、いいこと、セレスティーヌさん、あんたのお父さんが、いい知らせだからといって、先生に金貨を五枚もお礼にあげたのよ。客間にもどってくると、クルヴェルさんは、まるでバレリーナみたいにはねまわっているのよ。あの女を抱いて、『これで、おまえもやっとクルヴェル夫人になれる……』とさけんだりしてね。それから、あの女がわたしたち二人を残してぜいぜいいっているご亭主の枕辺につきそいにいってしまうと、あんたのお父さんは、わたしにこういうのよ。『ヴァレリーを妻にしたら、上院議員になってやろう。わしは土地を買うぞ。ねらっているやつがあるんだ。セリジー夫人が売りたがっているプレールの土地だ。そうなれば名前も、クルヴェル・ド・プレールになり、わしはセーヌ・エ・オワーズの県会議員になり、それから代議士になるつもりだ。男の子もできるだろう! なりたいものなんにでもなってやる』――『それで、娘さんのセレスティーヌさんは?』ときくと、『ああ、あれは娘さ。それにユロ家の人間と変わりがなくなっているじゃないか。ヴァレリーはああいう連中がきらいなんだ。……わしの婿なんか、ここへ一度だって来ようとしないじゃないか。なんであいつは指導者や堅物や清教徒や博愛家ぶったりするんだ? それに娘とは、もう片がついている。母親の財産全部と、そのうえ二十万フランやってあるのだ。だからわしはどうしようが、わしの勝手さ。わしが結婚するとき、わしの婿と娘とがどんなやつかがわかる。やつらの出方次第で、わしも態度をきめる。新しいお母さんにやさしくしてくれれば、わしも考える。わしも男だからな。わしも!』とばかなことばかりいって、記念碑に突っ立っているナポレオンみたいな格好をするんですからね」
ナポレオン法典にさだめてある正式のやもめ暮しの十カ月は、数日まえに終わっていた。プレールの土地もすでに購入されていた。ヴィクトランとセレスティーヌは、魅力的な未亡人とセーヌ・エ・オワーズの県会議員になったパリ区長との結婚の消息をさぐらせに、その日の朝、リスベットをマルネフ夫人の家にやった。
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一〇二 ダモクレスの剣
セレスティーヌとオルタンスは、同じ屋根の下にいることで、愛情のきずなが引きしめられ、ほとんどいっしょに暮していた。男爵夫人は、誠実な気持ちから自分の勤めを大げさに考えて、自分が仲立ちであった慈善事業に献身的に働いた。ほとんど毎日のように、十一時から五時まで出歩いていた。二人の義理の姉妹は、めいめい子供の世話をすることで結びついて、子守りを共同にすることになり、家に残っていっしょに働いていた。片方は陽気で、他方は沈みがちな姉妹は、人をほろりとさせるような仲のよさで、なんでも打ち明けて話し合う間柄になっていた。不しあわせな妹のほうは、美しくて、生命にみちあふれ、生き生きとしていて、よく笑い、才気があったから、じっさいの境遇を打ち消しているように見えた。それにたいして沈みがちで、おだやかで、落着いていて、理性のように平静で、いつももの思いに沈んで、考え深そうな姉のほうは、ひそかな悩みごとがあるように見えた。おそらくこのような対照が、かたい友情をはぐくむ力になったのである。この二人は相手に欠けているものを、たがいに貸し合っていた。小庭園のまんなかにある小さな亭にすわって、二人はリラの芽ばえを見て楽しんでいた。この小さな庭は、自分用にこの百ピエ平方の土地を残しておきたいと考えた、この邸を建てた人の気まぐれで、保存されていたのである。リラの芽生えは、パリ以外のところでは充分に楽しめない春の祭である。パリに住んでいる人は、半年間草木を忘れて、人の海が波立っている石の絶壁にかこまれて暮すからである。
「セレスティーヌさん」とオルタンスは、こんないい天気に、夫は議会にとじこめられていると嘆いている兄嫁の愚痴に答えていった。
「あなたはご自分の幸福がよくわかっていないように思うわ。ヴィクトランは天使みたいな人なのに、あなたは時どきいじめたりするもの」
「でもね、男っていじめられるのが好きなんじゃないの。くってかかるのも愛情のしるしよ。あなたのお母さんが気むずかしい方ではなくても、いつでもそうなれるお気持ちがあったら、あなたがたも、ひとに同情してもらうほど、こんなひどい目にはあわなかったと思うけど」
「リスベットはなかなか帰ってこないのね! マールバロの歌でもうたってみようかしら」とオルタンスはいった。「早くヴェンツェスラスのことが知りたいわね……どうやって生活しているのかしら? 二年このかた何も仕事していないのよ」
「ヴィクトランの話だと、このあいだあの憎らしい女といっしょにいたそうよ。たぶんあの女に養われていてなまけているんじゃないのかって。……オルタンスさん、あなたがその気なら、まだご主人を連れもどせるわ」
オルタンスは否定的に頭を振った。
「いいこと、あなたの生活はいまに我慢ならないものになるわ」とセレスティーヌはつづけた。「最初のうちは、怒りとか絶望とか憤《いきどお》りとかが、あなたに力を貸してくれたわ。それからわたしたち一家を圧しつぶした前代未聞の災難、不幸が二つもつづいたり、お父さまが破産して、どうにもならなくなったりして、あんたの身も心もそれでいっぱいだった。だけど、いまはもう落ちついて静かに暮しているのだから、生活の空虚さに簡単に我慢できなくなるわ。それにあなたは貞淑という道を踏みはずすこともできないし、そんなことを望みもしないでしょうから、やはりヴェンツェスラスさんと仲なおりしなければならないわ。あなたを愛しているヴィクトランも同意見よ。わたしたちの気持ちだけではどうにもならないものがあるわ。それが自然というものよ」
「あんな卑怯な男!」と勝ち気なオルタンスはさけんだ。「あの女を好きなのは、養ってもらえるからなのよ……それなら、あの女、あの人の借金も払ってくれたわけね。……ああ、昼も夜もわたしはあの人のことを考えているわ。一人の子供の父親だっていうのに、自分で体面をなくしてしまって……」
「お母さんをみならったら、どう」とセレスティーヌは答えた。
セレスティーヌは、ブルターニュの百姓を説得するのに十分な理屈を教わると、なんべんでもその単純な論法をくりかえすような種類の女であった。やや平たくて、冷たい、俗っぽい顔つきで、そのまんなかから分けた淡い栗色のこわそうな髪、それに顔色も、すべてが、魅力のない、だが弱々しさもない、話のわかる、女であることを示していた。
「男爵夫人は、名誉をなくした夫でも、そのそばにいて、なぐさめてあげたり、自分の心のなかに隠れて、世間の視線から守ってあげたいと思っているのよ」とセレスティーヌはつづけた。「二階にお父さんの部屋を用意させて、あすにでもお父さんを見つけて、そこに住んでいただくみたいだわ」
「お母さまはごりっぱよ!」とオルタンスは答えた。「お母さまがごりっぱなのは、今日、はじまったことではなく、どんな場合でも、どんなときでも、二十六年もまえから、そうだったわ。でも、わたしはお母さまとはちがうわ。……しようがないじゃない! 時どき、わたし、自分に腹を立てることがあるの。セレスティーヌさん、あなたにはわからないわ。卑劣な人とうまくやっていくということが、どんなことなのかが!」
「それじゃ、わたしの父はどうなの?……」とセレスティーヌは静かに答えた。「わたしの父は、まちがいなくあなたのお父さまが身をほろぼした道に、はいりこんでいるわ。たしかに父は男爵より十も年下だし、商人あがりよ。でも、どんなことになるのかしら? あのマルネフ夫人ときたら、父を自分の犬みたいにしてしまって、父の財産も、考え方も思うがままにあやつっているの、どうやっても父の目をさますことはできないわ。父の結婚の公示がされるときを考えるとぞっとするわ。ヴィクトランがなんとかしようとはしているの。社会や一家のために復讐をとげること、あの女にこれまでの罪のつぐないをさせることを義務だと考えているの。オルタンスさん、ヴィクトランのような気高い人やわたしたちのような心をもった者には、世の中やそのからくりがすぐにはわからないのね。これはね、オルタンスさん、秘密よ、あなたに打ち明けるのは、あなたに関係があると思うからよ。でも言葉でも、そぶりでも、リスベットさんにも、お母さんにも、だれにも、このことをけどられてはだめよ。そのわけは……」
「ああ、リスベットさんだわ」とオルタンスがいった。「どう、リスベットさん、バルベ通りの地獄の様子は?」
「あなたたちにとって、思わしくはない話よ。――オルタンスさん、ご主人はまえよりずっとあの女に熱をあげていますよ。もっとも女のほうもご主人に無我夢中ですがね。――セレスティーヌさん、あなたのお父さんは、このうえもないほれこみ方で何もわかっていないわ。でも、こんなのは大したことではない。二週間ごとに見ていることですもの。ほんとうにわたしは男なんてものを知らなかったのでしあわせよ。……まったく獣と変わりはないのね。あと五日したら、ヴィクトランとあなたは、お父さまの財産をなくしますよ!」
「公示が出されましたの?」とセレスティーヌはたずねた。
「ええ、そうよ」とリスベットは答えた。「あなたのために一席弁じてきたところなんですよ。ユロ男爵の二の舞を演じているお父さまにいってやりました、家の抵当を解いて、ヴィクトランさんたちを現在の苦境から救いだしてあげれば、感謝のあまり、新しいお母さんも受け入れるでしょうってね……」
オルタンスはおびえたような仕種をした。
「ヴィクトランがどうにかするわ……」とセレスティーヌは冷ややかに答えた。
「区長さんがどう答えたか、おわかりになる?」とリスベットはつづけた。「『わしはあいつらを困らせたままにしておくんだ。馬を調教するには、食物を与えず、眠らせず、砂糖だけをやるよりほかないんだ』ユロ男爵のほうがクルヴェルさんよりましでしたわ……こんなわけで、遺産の相続はあきらめたほうがいいわよ。大した財産なのにね! お父さんは、プレールの土地に三百万フランも払ったというのに、まだ三万フランの年金が残っているんですからね! あの人は、わたしにはなんでも話してくれるんですよ。バック通りにあるナヴァランの邸を買うとかいってましたよ。それでマルネフ夫人のほうは、四万フランの年金があるのですからね……あら、わたしたちの守護天使、あなたのお母さんがお帰りだわ……」と彼女は車の音を聞いて、さけんだ。
事実、男爵夫人はやがて踏み段をおりてきて、一家の集まりに加わった。アドリーヌは、五十五歳になって、あれほどの苦しみに痛めつけられて、熱病にかかったかのように、たえず震えて、血の気が失せて、皺が多くなっていたが、美しい背丈と、すばらしい輪郭と、もって生まれた気高さを保っていた。彼女と会った人たちは、『とても美しい人だったにちがいない』というのだった。夫のゆくえがわからず、このパリのオアシスで、隠遁と静寂とのうちに、一家が受けようとしている幸福を、夫にわけることができない悲しみにとらわれて、彼女は廃墟のもつ心地よい荘厳さを見せていた。希望のほのかな灯が消えるたびに、捜索が無益なものになるたびに、彼女は暗い憂うつな思いに沈んで、子供たちを絶望させるのであった。
男爵夫人は、その朝、あてがある様子で出かけていったので、みんなが首を長くして待っていた。ユロの世話になった者で、そのおかげで官界に出世できたある主計官が、アンビギュ・コミック座のボックスで、男爵がすばらしく美しい女といっしょにいるところを見たといったからであった。アドリーヌは、ヴェルニエ男爵のところにいった。この高官は、かつて世話になった男爵を見たと断言し、芝居のあいだその女といる様子からすると、二人は内縁関係らしいと推測し、男爵は、自分と会うのを避けるために、芝居が終わるまえに出ていってしまったというのであった。
「世帯じみている感じでした。服装から見ると、暮し向きは苦しそうでした」というのが結論であった。
「どうでしたの?」と三人の女は、男爵夫人にたずねた。
「ええ、ユロはパリにいますわ。わたしたちの近くにいることがわかっただけでも、ちょっとした幸福です」とアドリーヌは答えた。
「あの方は身持ちを改めてはいないようですね」とリスベットは、アドリーヌがヴェルニ男爵と会ったときの模様を話し終えるといった。「どこかのお針女とくっついたのね。でも、どうやってお金を都合しているのかしらん? きっと昔の女にたかっているのね、ジェニー・カディーヌとかジョゼファとかに」
男爵夫人の例の神経性の震えがひどくなった。目にあふれた涙をぬぐって、それを苦しそうに天に向けた。
「レジォン・ドヌール二等勲章の佩用者が、そんなに堕落するなんて、信じられませんわ」と彼女はいった。
「自分の楽しみのためなら」とリスベットは答えた。「なにをしでかさないというのです? 国家のお金に手をつけた人じゃありませんか。他人のお金など平気で盗むでしょうし、ことによったら人殺しだってしかねません……」
「まあ、リスベット!」と男爵夫人はさけんだ。「そんなおそろしい考えを口にしないでちょうだい」
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一〇三 ユロ男爵の友人
このとき、ルイーズが一家の集まっているところへやってきた。この集まりには、ヴィクトランの二人の子供とヴェンツェスラスの子供とが加わった。彼らはおばあさんのポケットにお菓子がないかと見にきたのである。
「どうしたの、ルイーズ?……」
「男の方がフィッシェルさんを訪ねて来ています」
「どんな男?」とリスベットがきいた。
「ぼろを着て、羽根ぶとん屋みたいに羽根をつけて、赤い鼻をし、ぶどう酒とブランデーとの臭いをぷんぷんさせている男です。週の半分だけやっと働く職人ですよ」
こんなふうに男の風体はあまりきこえがいいものではなかったのに、リスベットはいそいそとルイ・ル・グラン通りの家の中庭へいった。そこで、リスベットはパイプをふかしている男に会った。パイプについた|やに《ヽヽ》から見ると、たばこ好きの職人のようであった。
「シャルダンじいさん、どうしてこんなところまで来たの? 毎月、第一土曜日にバルベ・ド・ジューイ通りのマルネフ邸の玄関に来る約束じゃないの。今日は、五時間も待ちぼうけさせて、来なかったくせして!……」
「いや、行きましたよ、女中さん」と羽根ぶとん屋は答えた。「ですが、クール・ヴォラン通りの、カフェ・デ・サヴァンで、賭けの最中でしてね。人それぞれ道楽がありまさあ、あっしは玉突きでしてね。玉突きさえやらなけりゃ、りっぱにおまんまが食べられるってわけですがね。なぜって、ここのところをわかってほしいんですがね」と破れたズボンのポケットのなかの紙切れを探しながら、「玉を突くっていうと、ちょっとひっかけたくなるんで。それに、ほろ酔い機嫌になりゃ、こんどは強い酒をあおりたくなってね……金がかかりますよ。ほかの道楽と同じことで、余計なことにくわれるんでさ。ここへ来るのはとめられていることは、知っていますがね、なにぶんじいさんが大弱りなので、禁を犯してやって来たっていうわけで……もし、あっしのつめる羽根ぶとんの羽根が、全部正真正銘の羽根だったら、安心してその上で寝られもしようが、ところが、まざりものがあるんでね。神さまだって、世間でいうようにみんなのためというわけにはいきませんや。好き嫌いがありまさあ。それは神さまの権利だがね。あんたの親類で、羽根ぶとんの大好きな人の書きつけを持ってきたよ……あの人の政治的意見といったものでしてね」
シャルダンじいさんは、右手の人差し指で、空に稲妻の形を描こうとした。
リスベットはそれに耳もかさずに、こんな文句を読んだ。
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リスベット、助けてくれ! 今日じゅうに三百フラン欲しい。
エクトル
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「どうしてこんなにお金がいるのだろうね?」
「あんなべっぴんを抱えてちゃあね!」と相変わらずわけのわからない模様を描きながら、シャルダンじいさんはいった。「それに、あっしのせがれがアルジェリアから、スペイン、バイヨンヌを通って、帰って来たのでね……それがいつもとちがって、手ぶらで帰って来たのさ。というのは、せがれはあんたのまえだが、しようのないごろつきでね。でもしようがねえ、腹をすかしているんでね。だが借りたものは返すはずだ。だって、一旗あげるとかいっていたからね。いろんな考えがあるらしいが、そのためにひどい目にあうかもしれない……」
「裁判所に引っ張られるのがおちさ」とリスベットは答えた。「わたしの伯父を殺した奴だからね。これは忘れないよ」
「あいつがですか! にわとりの首をしめることもできない男で」
「さあ、三百フランあるよ」とリスベットは、財布から十五枚の金貨を出して、いった。「とっととお行き。もう二度とここへ来てはいけないよ」
彼女はオランの糧秣部倉庫係の父親を、門のところまで送っていった。そこで彼女は酔っぱらいの年寄りを、門番に示して、
「あの男が来たらいつでも、万一もどって来たら、中にいれないでおくれね。わたしはいないといってね。もし、ヴィクトラン・ユロさんや、ユロ男爵夫人がここに住んでいるかどうかきいたら、そんな人は知らないと答えておくれ……」
「かしこまりました」
「へまをやると、それがうっかりでも、おまえさんの地位は保証しないよ」と、老嬢は門番の女の耳にささやいた。「ヴィクトランさん」とリスベットはちょうど帰ってきた弁護士にいった。「たいへんなことが起こりましたよ」
「どうしたんです?」
「あなたの奥さんは、ここ数日のうちに、マルネフ夫人をお母さんにすることになりそうです」
「さあどうかね!」とヴィクトランは答えた。
リスベットは、六カ月前から、かつての自分の面倒をみてくれたユロ男爵の保護者となって、わずかながら毎月きちんと男爵に手当を出していた。彼女はユロ男爵の隠れ家を知りながら、アドリーヌの涙を楽しんで味わっていたのだ。そして、アドリーヌが元気な、希望にみちた様子をしているのを見ると、いましがた見たように、こんなことをいうのであった。「そのうちに新聞の『裁判所便り』の欄に、わたしのかわいそうな従兄の名がのる覚悟をしていたほうがいいわ」
この点でも、まえと同じように、彼女は行き過ぎた復讐をくわだてていたのだ。用心深いヴィクトランを警戒させることになったのである。ヴィクトランは、リスベットにたえず見せつけられるダモクレスの剣と、母や一家の多くの不幸のもとであるこの悪魔のような女とけりをつける決心をした。
マルネフ夫人の身持ちを知っていたヴィッサンブール公爵は、ユロ弁護士のひそかな企《くわだ》てを支持した。公爵は、クルヴェルの迷いをさまし、悪魔のような娼婦の爪から、その財産を守るために、ユロ弁護士に警察がひそかに介入することを、まるで首相の約束かのように、約束したのであった。公爵は、ユロ将軍を死なせ、参事院議員を完全に破滅させたことで、この女を許しがたいと思っていたのである。
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一〇四 悪徳と美徳と
「昔の女にたかっているのね」リスベットがいった言葉が、一晩じゅう男爵夫人の心から消えなかった。やぶ医者に救いを求める見放された病人のように、ダンテの描いているような絶望のおそろしい最終段階に達した人のように、ただよっている棒切れを錨索《いかりなわ》とかんちがいする溺れた人のように、まえには疑っただけでも憤慨したのに、彼女は夫の卑劣な行為も信ずるようになり、憎らしい女の一人に助けを求めることを考えるようになったのであった。
翌朝、子供たちに相談もせず、だれにもひとことももらさずに、オペラ座のプリマドンナであるジョゼファ・ミラー嬢の家へ、鬼火のように輝いている希望を求めに、または希望をなくすためにでかけたのであった。正午に、この有名な歌姫の小間使は、歌姫にユロ男爵夫人の名刺を手渡し、この方が、お目にかかれるかどうかと聞いてから、玄関で待っていると告げた。
「部屋の掃除はできているのね?」
「はい」
「花は新しいのにかえてある?」
「はい」
「ジャンに部屋をもういちど見るようにっていってちょうだい。みっともないところがないようにねって。それから、夫人をご案内するのだよ。くれぐれも礼儀正しくしてね。それがすんだら、わたしの着がえを手伝いにくるのだよ、とびきり美しくしたいんだから」
彼女は姿見をのぞきにいった。
「着かえよう!」とひとりごとをいった。「美徳のまえに出たら、悪徳は鎧《よろい》で身を固めなくちゃ。かわいそうな人! わたしになんの用かしら?……胸がどきどきするわ、あの人に会うなんて」
「不幸の崇高な犠牲者よ!……」
この名高いオペラの曲を歌い終わりかけたとき、小間使いがはいってきた。
「奥さま」と小間使いがいった。「お客さまが神経質にぶるぶるふるえておいでですけれど……」
「橙花水か、ラム酒か、スープをさしあげたら」
「そういたしました、奥さま。でもちょっと具合が悪くて、神経が過敏なだけだとおっしゃって、何もお飲みにならないのです……」
「どこへお通ししたの?」
「大広間でございます」
「さあ、早くしておくれ、わたしのいちばん美しいスリッパと、ビジューが刺繍した花模様の部屋着と、レースの飾りをみんな出すんだよ。女の人でさえびっくりするような髪に結っておくれ……あの人は、わたしと反対の役をなさるのだからね。奥さまに申しあげておくれ……(だって、いいかい、あの人は貴婦人なのだよ。それどころじゃない、おまえなんかけっしてなれっこないお方さ。あの人のお祈りで、煉獄にいる人たちの魂が救われるんだから!)奥さまにこう申し上げておくれ。昨夜、芝居に出ましたので、まだベッドにいますが、すぐに起きますってね」
男爵夫人は、ジョゼファのアパルトマンの大広間に通されると、たっぷり三十分待たされたのだが、そんなに長いとは感じなかった。この小さな邸にジョゼファが移ってきてから、模様がえした広間は、マッサカと金色の絹地で張りめぐらしてあった。かつて、大貴族は、妾宅で贅沢三昧をしたものだが、そのさまざまの豪華な遺跡が、彼らの名前を高からしめた気違いざたを証明している。そうした豪華さが、この邸の四つの開け放たれた部屋で、近代的技術による完璧さで輝いていた。部屋の心地よい温度は、開き口が目には見えない暖房装置で保たれていた。男爵夫人は、ぼう然として、芸術作品を一つ一つ深いおどろきをもってながめていた。快楽と虚栄が強烈な火で熱したるつぼ、そのなかにとけてしまったいくつもの財産のゆくえを、彼女はそこに見出したのであった。
二十六年来、帝政時代の豪奢の冷えきった遺物にかこまれてきた彼女は、花模様の消えた絨毯とか、金箔のはげた銅像とか、彼女の心のようにすりきれた絹織物などをながめて暮していたが、悪徳の誘惑の強さをちらっと見て、その結果をはっきりと目のまえにしたのであった。これらの美しい物を、現在のパリを形づくり、またヨーロッパ的な作品をつくっている無名の偉大な芸術家たちみんなが協力したこれらのすばらしい品々を、羨望の目でながめないわけにはいかなかった。そこではすべてのものが、それ一個しか実在しない物の完璧さによって人目をおどろかした。原型がこわされているので、品物の形も、小像も、彫刻もすべてがオリジナルであった。つまり今日の贅沢の極致である。あちこちの店にころがっている高価な品をならべただけで贅沢だと思いこんでいる多数の裕福なブルジョワによって俗化されていない物を所有すること、それこそ真の贅沢のしるしであり、パリの空に一瞬かがやいて消えてゆく星のような現代の大貴族の贅沢なのである。
男爵夫人は、たぐいまれな異国の花々に満ち、いわゆるブール象眼がされ、彫刻した青銅のブロンズのかざってある植木棚をながめているうち、このアパルトマンがたくさんの高価な品々を所有しているので、おそろしくなってきた。むろん、こうした気持ちは、このような高価な品々を周囲にいっぱいきらめかせている人に影響をおよぼさずにはおかなかった。アドリーヌは、ジョゼファ・ミラーという女が、隣の居間にかけられているジョゼフ・ブリダップの筆になるその輝かしい肖像から推しても、マリブランのような天才的な歌姫だろうと考えて、ほんとうに牝獅子のような女が現われるものと身構えるのであった。
彼女はここに来たことを後悔した。しかし、彼女はひじょうに強い、自然な感情、打算のない献身の情に動かされていたので、あるだけの勇気をふりしぼって、この対面にそなえるのであった。それに、これは彼女をしっかりつかんでいる好奇心を満足させてくれる機会でもあった。つまりパリの土壌という貧弱な鉱脈から、これほどの金を採掘するこの種の女たちの魅力を研究することができるわけであった。男爵夫人は、この贅沢な雰囲気のなかで自分がしみのようにみっともないのではないかと心配になって、自分の身なりを点検した。しかし、彼女はすばらしいレースの美しい襟のひろがった肩衣づきのビロードの服をうまく着こなしていたし、同じ色のビロードの帽子もよく似合っていた。自分にはまだ女王のような威厳があるのを見て、たとえ落ちぶれても女王は女王なのを見て、彼女は不幸の気高さは才能の気高さと劣らない価値があるものと考えた。
いくつかのドアが開いたり、しまったりする音が聞えてから、ようやくジョゼファの姿が現われた。歌姫は、アロリの描いたジュディットにそっくりであった。ピッティ宮殿の大広間の入口ちかくで、その絵を見たすべての人の記憶に刻みこまれている姿そのものであった。同じように誇らかな態度、同じように崇高な顔、無造作にたばねた黒い髪、無数の花を刺繍した黄色い部屋着、それは、ブロンツィノの甥が描いた不朽の殺人者が着ていた錦織りとまったく同じものであった。
「奥さま、こんなむさくるしいところへお越しくださって、ほんとうに光栄でございます」と貴婦人の役を演じてみせようと誓った歌姫がいった。
彼女は、男爵夫人に肘掛け椅子をすすめ、自分は折り畳椅子にすわった。彼女には、男爵夫人のかつての美しさがよくわかり、また男爵夫人が神経性の震えにかかっていて、ちょっと興奮してもすぐ痙攣状態になるのを見て、深い憐れみの心にとらわれた。一目で、昔ユロやクルヴェルが描いてみせた清らかな生活が読みとれて、彼女は男爵夫人と争おうなどという気をなくしたばかりではなく、自分が理解した偉大さのまえに頭を下げたのであった。崇高な芸術家は、娼婦が嘲弄するものに、感動したのだ。
「どうしようもなくなってまいりました。藁《わら》にでもすがるつもりだったのでして……」
ジョゼファの身ぶりで、男爵夫人は、彼女が多くの期待を寄せている人を傷つけたことをさとった。彼女は歌姫をみつめた。この嘆願に満ちたまなざしが、ジョゼファの目の炎を消し、彼女はしまいに微笑んだ。それは、この二人の女にとっては、おそろしいほど雄弁なパントマイムであった。
「主人が家出してからもう二年半になります。パリにいることはわかっていますが、それがどこなのか見当がつきません」と男爵夫人はおずおずした声でいった。「夢を見まして、ばからしい考えかもしれませんが、あなたが主人に関心がおありではないかと思いついたのです。主人に会わせてさえいただけますれば、生きているかぎり、毎日、あなたのために神さまにお祈りいたしましょう……」
歌姫の目のなかに大粒の涙がもりあがってきた。それが彼女の答であった。
「奥さま」と彼女はひどく謙虚な調子でいった。「わたしはあなたを存じあげずに、悪いことをいたしました。でも、こうしてお会いして、この世の美徳のなかでもいちばん崇高な姿を垣間見るという幸福を経験した今となっては、わたしの罪の大きさがよくわかり、心の底から後悔しています。ですから、その償いのためでしたら、なんなりといたしましょう……」
彼女は男爵夫人の手をとり、男爵夫人が押しとめる暇もないうちに、その手にうやうやしく接吻して、片膝を折るほどに卑下した。それから、彼女はマチルド〔ロッシーニ作『ウィリアム・テル』〕の役で舞台に登場するときのように、昂然と身を起こして、呼び鈴を鳴らした。
「馬に乗っていってちょうだい」と彼女は召使いにいった。「馬を乗りつぶしたっていいんだよ。サン・モール・デュ・タンプル通りに行って、ビジューを見つけて、ここに連れてきておくれ。車に乗せて連れてくるんだよ。飛ばしてくれるように、御者にはチップをおはずみ。一分でもむだにするんじゃないよ。……さもないとくびにするから。――奥さま」と男爵夫人のほうを向いて、うやうやしい声で、「わたしを許してくださいまし。デルーヴィル公爵をパトロンにするとすぐ、わたしは男爵さまをあなたにお返ししたんです。わたしのために男爵さまが一家を破産させるような目にあっていると聞いたからですわ。それ以上のことが、わたしにできまして? 劇壇では、デビューのとき、どうしてもパトロンが必要なのです。わたしたちのお給金では、必要なお金の半分にもなりません。ですから、一時的な夫がいるのです……男爵のために、金持ちで、ばかで、見栄っぱりの男と別れましたが、ユロ男爵が好きだったわけではないのです。クルヴェルじいさんだったら、きっと正式に結婚してくれたにちがいありません……」
「わたしにもそういっておりました」と男爵夫人は、歌姫の話をさえぎった。
「そうでしょう、奥さま! そうでしたらいまごろわたしは、きっと貞淑な女になっていたんですわ。法律上、正式な夫だけをもってね」
「あなたには申し分があります。神さまもわかってくださることでしょう。でも、わたしは、あなたを責めにきたのではなく、逆にご恩を受けにまいったのです」
「奥さま、間もなく三年になりますが、そのあいだわたしは男爵さまをお助けしていたのです……」
「あなたが!」と男爵夫人は、目に涙を浮かべて、さけんだ。「ああ、どうやってお礼を申したらいいものやら。ただお祈りするばかりです」
「わたしと、それにデルーヴィル公爵。公爵もまた、気高い心をもった、いかにも貴族らしい方でして……」
ジョゼファは、こうしてトゥールじいさんの新居の様子を語ったのであった。
「それでは、なんですね」と男爵夫人はいった。「主人は、あなたのおかげで、何も不自由しなかったわけでございますね」
「できるだけのことはいたしました、奥さま」
「で、どこにいるのですか」
「公爵の話ですと、六カ月ほど前、ユロ男爵は、――公爵の公証人にはトゥールという名で通っているのですが、三カ月分にわけてもらうことになっていた八千フランを使いはたしてしまったそうです。その後、わたしもデルーヴィル公爵も、男爵の消息を存じません。なにしろ、わたしたちの生活ときたらいそがしくって、仕事に追われていまして、トゥールじいさんにかまっているわけにはいきませんでした。悪いことに、六カ月以来、わたしの刺繍をしてくれるビジューが、男爵の……どういったらいいのでしょうか」
「お妾さん」とユロ夫人はいった。
「お妾さんが」とジョゼファはおうむ返しに「ここへ姿を見せないんです。オランプ・ビジュー嬢は手を切ったのにちがいありません。このあたりでは、よく別れたりするんです」
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一〇五 トゥール・ビジュー商会の清算
ジョゼファは立ちあがり、植木棚のめずらしい花を折って、男爵夫人のために美しい、気持ちのいい花束をこしらえた。男爵夫人の期待はすっかりあてがはずれてしまった。天才とは他の人間とはちがったふうに、食べ、飲み、歩き、話す一種の怪物と考えている善良なブルジョワと同じことで、男爵夫人は、悩殺型のジョゼファ、歌姫としてのジョゼファ、気の利いた、ほれっぽい娼婦としてのジョゼファに会うものとばかり思っていた。ところが男爵夫人が会ったのは、おだやかな、落着いた、才能のある気高さと、夜になれば女王になることを知っている女優の単純さをもった女であった。それどころか、最後に、夫人が見たのは、それよりもっとましなもの、聖歌の「嘆きの聖母」のような貞淑な女に、まなざしや、態度や、物腰で、完全な鑚仰《さんぎょう》をささげ、イタリアでマドンナ像に花を捧げるように、相手の傷に花をささげるところの娘であった。
「奥さま」と三十分後にもどってきた召使いが、「ビジューの母親がまいります。オランプ嬢はあてになりません。奥さまのお針女《はりこ》は、おかみさんになってしまいました。結婚しましたので……」
「同棲したんだろう?」とジョゼファがきいた。
「いいえ、奥さま、ほんものでございます。大きな店のおかみさんにおさまっています。デ・ジタリアン大通りにある、何百万という商いのある大きな小間物店の持ち主といっしょになったのです。もとの刺繍の店は、姉と母親にまかせっきりです。今ではグルヌーヴィル夫人と言います。その金持ちの商人は……」
「クルヴェルみたいな男だろう」
「そうです、奥さま。ビジュー嬢に、結婚の際、三万フランの年金をくれたそうです。姉のほうも間もなく金持ちの肉屋と結婚するようです」
「どうもこの一件は具合が悪くなるようですね」と歌姫は、男爵夫人にいった。「男爵は、わたしが世話したところにもういません」
十分たって、ビジューの母親がやってきた。ジョゼファは、用心して、男爵夫人を彼女の部屋に通し、境の帳を引いた。
「奥さまがおいでだと、気おくれするといけませんから」と彼女は男爵夫人にいった。「あなたがあの女の話に関係があるとわかりますと、なんにもいわなくなりますわ。わたしにまかせてください! ここに隠れていらして、話は全部聞こえますわ。こんな場面は舞台の上と同じで、人生にもよく演ぜられることですわ。――ビジューおばさん、どう?」と歌姫は、タルタンという格子縞の毛織物の布地を身にまとい、晴着を着た門番女といった格好の老婆にいった。「みんな幸福なんでしょう? あんたの娘さんは運がよかったわね!」
「幸福だなんて!……娘は月に百フランしかくれませんよ。娘は車を乗りまわし、銀の食器を使い、どっさりお金があるっていうのに……オランプさえ、その気になれば、楽隠居できるんですがね。この年で、働いているんですから!……こんなことってあるでしょうかね?」
「恩を忘れるなんていけないわ。自分が美しいのも、あなたのおかげなんですもの」とジョゼファは答えた。「でも、どうして、あの子はわたしに会いに来ないんだろうね。貧乏から救い出して、わたしの伯父といっしょにさせたのは、わたしじゃないの……」
「ええ、奥さま、トゥールじいさんですがね……なにぶん年とっているし、もうろくしていますからね……」
「それで、どうしたっていうの? あんたのところにいるの?……トゥールじいさんと別れるなんて、ばかなことをしたもんだね。今はあの人、何百万というお金持ちなんだから……」
「ああ、まったくいまいましい」とビジューの母親はいった。「あの子がやさしさのかたまりみたいなトゥールじいさんにつれなくしていたときに、そういってやったんですがね。かわいそうなじいさん! ほんとうにあの子に苦労させられたんですよ! オランプは悪い子になってしまいましたよ、奥さま」
「どんなふうに?」
「奥さまのまえで、なんですがね、サン・マルソー区の年とった羽根ぶとん屋の甥孫《おいまご》で、劇場の喝采屋と親しくなりましてね、そいつが、色男の例にたがわずのらくら者で、芝居の宣伝屋ですけど、タンプル大通りの人気者で、芝居がかわるたびに仕事をして、そいつの言い種だと、女優の舞台の出の面倒をみているんだというんですがね。昼のうちにちゃんと食事をし、芝居のまえに、元気を出すためにといって、晩ご飯をたべます。それに、生まれながらお酒と玉突きとが好きでしてね。『あんなのは正業じゃないよ!』と、オランプにいってやったもんですよ」
「気の毒だけど、そうした正業もあるのよ」とジョゼファはいった。
「それでね、オランプはその男に夢中になってしまいましたよ。ところが、奥さま、そいつはよくない連中とつきあっていましてね、その証拠には、泥棒たちが集まる酒場で捕まりそうになったんで。だけど、そのときには、喝采屋の親分のブローラールさんが受け出してくれましてね。金のイヤリングなんかしていて、ふところ手で、色男に夢中になる女たちに養ってもらって、暮しているんですよ。トゥールさんが娘にくれたお金を、残らず食いつくしてしまったんです。店がにっちもさっちもいかなくなって。だって、売り上げはみんな玉突屋のほうにいってしまうんで。そのころ、そいつには、奥さま、きれいな妹がいましてね、兄貴と同じようなことを学生町でやっていて、大した女じゃありませんでしたよ」
「ショーミエールあたりの娼婦でしょう」とジョゼファはいった。
「そうなんで、奥さま。そこでイダモールは、そいつの名前はイダモールっていうんですが、これが通り名でしてね、ほんとうの名前はシャルダンというのです。そのイダモールが、あなたの伯父さんは、口でいっているよりもっとお金があるにちがいないと見当をつけて、わたしの娘が気づかないうちに、エロディーとかいう名の、これも芝居のほうの名前らしいんですがね、妹を、まんまとお針女にして、家に送りこみましてね。おどろいたのなんのって、うちのなかをめちゃめちゃにしてしまったんですよ。かわいそうに店のほかの娘たちを堕落させ、あなたの前ですが、どうにもならないようなことになってしまいましてね、……それで、エロディーは勝手なことをして、とうとうトゥールじいさんをものにして、どこかへ連れて行ってしまったというわけ。そのためにわたしたちは手形の支払いに大困りでしたよ。いまでも支払い切れない始末です。でも、娘がああいうところへ片づきましたもんで、支払日は気をつけていてくれます。……イダモールは、妹がトゥールじいさんをとりこにしたのを見ると、わたしの娘を放り出して、今ではフュナンビュール座の娘役をやる女優といっしょになっていますよ……それが原因で娘が、これからお話しますが、結婚して……」
「それで羽根ぶとん屋がどこに住んでいるのか知っているのだね?」
「シャルダンじいさんですか? 住むもなにもあったものではありません。……朝の六時から酔っぱらっていて、月に一枚のふとんをこしらえては、一日じゅういかがわしい酒場にいて、めんどりをしているんで……」
「えっ? めんどりをしているって?……勇ましいおんどりだこと!」
「奥さまにはおわかりになりますまい。玉突きの賭でいうめんどりのことで。毎日それで三、四フラン稼いでは、飲んでいるのです……」
「めんどりのお乳をね! でも、イダモールは大通りの芝居小屋で働いているんだから、わたしの友だちのブローラールに頼めば、見つかるでしょう」
「どうですかね。こんなことは半年も前に起こったことですから。イダモールなんかはきっと軽罪裁判所にいって、そこからムランの刑務所、それから、後は……ええと……」
「徒刑場行きね」とジョゼファがいった。
「ええ、何でもご存知ですね」とビジュー婆さんは微笑みながらいった。「わたしの娘もあんなのに引っかからなければね……でも、あれも結局、運がよかったんでして、そうでしょう? だってね、グルヌーヴィルさんにほれられて、結婚したんですから。……」
「どうして、そんな結婚することになったの?」
「オランプの絶望が原因ですよ、奥さま。娘役をやる女優に乗り換えられたとわかって、腹を立てたり、悪態ついたりしましてね……それにほれられていたトゥールじいさんを横どりされると、男なんかもうたくさんという気になったんです。そんなときに、うちでたくさん買物をなさるグルヌーヴィルさん、この方は三月ごろに刺繍をしたシナ絹の肩掛けを二百枚も買ってくださるんですが、あの子をなぐさめてやろうという気になったんです。ところが、あの子は、正気かどうか存じませんが、市役所と教会で式をあげないことには、てんで耳を貸そうともしません。『堅気になりたい。……さもなければ死んでしまう』と言いつづけて、がんばったんですよ。グルヌーヴィルさんも、結婚に賛成したんですけれども、娘がわたしどもと縁を切るならという条件でしたので、わたしどもも承知して……」
「いくらかもらったんでしょう?……」と洞察力のあるジョゼファはいった。
「ええ、奥さま。一万フランいただきました。それともう働けないうちのおやじには年金を……」
「娘さんにはトゥールじいさんをしあわせにしてくれとお願いしたのに、伯父さんを泥のなかに投げ込んでしまったのね。いけないわ、わたし、もうだれの世話もしないわ。慈善なんかに身を入れると、この始末だわ。儲け仕事としてやるつもりなら、慈善もいいものだけどね。でもオランプも、そのごたごたをわたしの耳に入れるぐらいするべきだわ。もし、トゥールじいさんを二週間以内に見つけだしてくれたら、千フランあげるわ……」
「むずかしいですね、奥さま。でも、千フランといえば、百スー銀貨がどっさりになりますから、その賞金を儲けることにしましょう。……」
「さようなら、ビジューさん」
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一〇六 天使と悪魔と共同捜索
部屋に帰ると、歌姫はユロ夫人がまったく意識をうしなっているのを見た。しかし、意識をうしなっているにもかかわらず、切断された蛇の胴体が動いているのと同じように、例の神経性の震えで、夫人はおののきつづけていた。強力な気づけ薬とか、冷たい水とか、その他通例の手あてを何でもしたおかげで、男爵夫人は意識をとりもどした。というより、苦悩の感覚がさめたといったほうがいいだろう。
「ああ、どこまで、あの人は堕落してしまったのでしょう!……」と男爵夫人は歌姫に気がつき、彼女と二人きりなのを見ていった。
「元気を出してください、奥さま」とジョゼファは答えた。男爵夫人の足もとにあったクッションにすわって、彼女はその手に接吻した。
「きっと見つかりますわよ。泥のなかにいるのなら、洗い落とせばいいのですわ。そうですとも、育ちのいい人にとっては、それは着物だけの問題です。……あなたにたいするわたしの罪をつぐなわせてください。なぜって、あんなに身持ちが悪い方なのに、あなたがどんなにご主人を思っていらっしゃるかが、わかったのですもの。わざわざこんなところまでいらっしゃったのですから……あのお気の毒な方は、女の人が大好きで……ですから、いいですか、あなたにわたしたちの粋なところが少しでもおありでしたら、あの人もあんなに浮気をしなかったでしょうにね。だって、あなたにだって、わたしたちと同じようなことができたでしょうから。つまり一人の男にとって、どんな種類の女にもなれるということですわ。政府は、貞淑な奥さまたちのために術策をさずける学校をつくらなくてはいけませんわ! でも政府なんてこちこちでしてね!……その政府は、わたしたちが引きずりまわしている人たちにぎゅうじられているんです。民衆がかわいそうになってきます。……でも、笑っている場合ではありません、あなたのためにひと働きしなくては……ご安心なさい、奥さま。お宅に帰って、くよくよなさらないことです。あなたのエクトルを、三十年前の姿にして、お返ししますから」
「お願いですから、いっしょにグルヌーヴィル夫人のところまで行ってください。夫人はなにかを知っているにちがいありませんわ。おそらくきょうにでもユロに会えて、すぐに貧乏と汚辱とから救ってやれるかもしれないのです……」
「奥さま、しがない歌姫ジョゼファ、それにデルーヴィル公爵の囲いものであるわたしが、美徳のもっとも美しい、もっとも神聖な姿であるあなたのそばに立つことなどは、とんでもないことで、その名誉にはお礼申しあげますが、それだけはお許しくださいまし。あなたとごいっしょに出歩くことなどはおそれ多いことです。これは女優としての謙遜ではなくて、奥さまへの尊敬でございます。奥さまの手や足が棘《とげ》で血だらけになっておいでですけれど、奥さまの進まれる小道をわたしがついて行かなかったことが悔まれますわ。でも、仕方がありません。奥さまが美徳の道に属していられるように、わたしは芸術の道を歩いているのですもの……」
「お気の毒な方!」と男爵夫人は自分の悩みで胸がいっぱいだったのに、ふしぎなあわれみの情に動かされていった。「あなたのために神さまにお祈りしましょう。だって、あなたは、見世物を必要とする社会の犠牲者なんですもの。年をとったら、償いをなさい。……あなたの願いは聞きとどけられるでしょう。神さまがわたしのような女の祈りを聞きとどけてくださればです。……わたしのような……」
「殉教者です、奥さまは」とジョゼファはいって、うやうやしく男爵夫人の衣服に接吻した。
ところがアドリーヌは、歌姫の手を取って引き寄せ、その額に接吻した。歌姫はうれしさのあまり、顔をあかくしてアドリーヌを車のところまで、とてもへりくだった態度で送っていった。
「どこかの慈善会の夫人さ」と召使いが小間使いにいった。「なぜって、うちのご主人があんなふうなのは見たことがないよ。親友のジェニー・カディーヌさんにだって、あんなふうにしやしない」
「数日お待ちください、奥さま。きっとお会いになれますわ。さもなければ、わたしは祖先の神さまなんか捨ててしまいます。こうした覚悟ですれば、ユダヤ女は、成功疑いなしなのですわ」
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一〇七 もう一匹の悪魔
男爵夫人がジョゼファの家を訪れていたとき、ヴィクトランは事務室で七十五歳くらいの老婆と会っていた。この女は、有名な弁護士と面談するために、警視庁保安課長のおそろしい名前を持ちだした。給仕はこう取り次いだ。
「サン・テステーヴ夫人」
「変名をつかわしてもらいましたよ」と老婆は腰をおろしながらいった。
ヴィクトランは、このおそろしい老婆を見て、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。身なりは贅沢なものだったが、皺のいっぱいよった、白い、筋張った、平たい顔が現わしている冷たい意地悪な人相には、ぞっとした。マラーを女にして、同じ年格好にすれば、このサン・テステーヴ夫人のように、恐怖時代の生きた象徴になったことであろう。この不吉な老婆の、小さな透きとおった目には、血に飢えた虎の貪婪《どんらん》さが現われていた。その獅子鼻は、もっとも残忍な猛禽の嘴《くちばし》に似ていて、楕円形にひろがった鼻孔は、地獄の火を噴いているかのようであった。悪企みにたけた性質は、その低い残忍な額にやどっていた。顔じゅうのくぼみに勝手に生えた長い毛は、その企みが男性的なものであることを告げていた。この女に会った人はだれでも、これまでの画家はどれもこれもメフィストフェレスの顔を描くのに成功していないと考えることであろう……
「旦那さん」と彼女は保護者めかした口調でいった。「もうだいぶまえから人さまのことには口を出さない主義にしているんだがね、旦那のためにひと肌ぬごうって気になったのは、わたしが息子よりも大事にしているかわいい甥《おい》のことを考えてなんだよ。……ところで、警視総監が、旦那のことで、総理からちょっと耳打ちされて、シャピュゾと相談の結果、警察がそうした事件にはくちばしを入れるべきではないと、きめたようだね。わたしの甥はいっさいをまかされたんだが、まあ、相談にのるだけのことだろうね。身を危険に曝《さら》すわけにはいかないよ。……」
「それでは、あなたはあの人の伯母さんで……」
「ああ、そうだよ。わたしにはあの子が少しばかり得意でね」とユロ弁護士の話をさえぎって、彼女は答えた。「だって、あの子はわたしの教え子だが、すぐ先生格になってしまったんでね……わたしたちは、旦那の一件を検討したんだよ。脈を調べてみたんだがね。それできれいさっぱり片づけてあげたら、三万フランもらえますかね。片づけてあげるよ。支払いは、仕事が終わってからで、結構だが……」
「当事者をご存知ですか?」
「いいや、旦那、教えてもらいましょうか。聞いたところでは、『とんまな老人がいて、それがある未亡人につかまっている。この二十九になる未亡人というのが、泥棒商売にすぐれていて、二人の父親から四万フランという年金をせしめた。そして、六十一歳になるお人好しと結婚して、八万フランの年金をのみこもうとしている。その女は、お人よしの律儀な家庭を破産させ、もうろくした亭主をさっさと片づけて情人の子供に、そのばく大な資産をゆずるだろう……』こうしたことが問題なんだろう」
「そのとおりです」とヴィクトランは答えた。「わたしの義父のクルヴェル氏なんですが……」
「もと香水商人で、区長さんだね。わたしはあの人の区に、ヌーリッソンばあさんという名で住んでいるんだよ」
「もう一人の人物は、マルネフ夫人です」
「その女は知らないね」とサン・テステーヴ夫人はいった。「でも、三日もすれば、肌着の数まで数えてみせましょう」
「結婚を阻止できるでしょうか?」とユロはたずねた。
「話はどこまで進んでいるのかね?」
「二度目の公示が出たところです」
「女をさらう必要があるね。きょうは日曜だから、三日しかない。だって水曜には結婚するんだろうからね。無理な相談だ。女を殺してやってもいいがね」
ヴィクトラン・ユロは律儀な男なので、平静な口調でいわれたこの言葉を聞いて、とびあがってしまった。
「殺すって!……どうやって?」
「旦那、四十年このかた、わたしらは運命のかわりをつとめているのですよ」と彼女はさも得意そうにいった。「パリでは、これと思ったらなんでもやりおおせてしまう。サン・ジェルマン街のお屋敷までが、一軒ならずわたしに秘密を打ち明けたからね。まったくのところ、数え切れないほどの縁談をまとめたり、こわしたり、ずいぶん遺書も破いたし、対面をたくさん汚さずにすましてやったのさ。ここにね」と彼女は頭をさして、「秘密がいっぱいしまってある。これで、三万六千フランの年金をかせいでいるからね。それで、旦那もわたしの小羊の一匹になるというわけさ。わたしのような女は、やり口を話してしまったら、おしまいだよ。実行あるのみ! いいかね、先生、起こったことはなにもかも、偶然の仕業ということになり、旦那は心にやましいところは少しもないという仕掛だよ。旦那は、催眠透視者から病気をなおしてもらったようなものさ。一月たてば、みんな自然がやったことと思いこんでしまうよ」
ヴィクトランは冷汗をかいた。死刑執行人の姿を見ても、徒刑場の教誨師《きょうかいし》のように、もったいぶった、生意気なこの老婆ほどには、心を乱されはしなかったであろう。その酒糟《さけかす》色の服を見ていると、血に染まっているかと思われた。
「奥さん、ぼくはあなたの経験と活動の助けを借りるわけにはいきません。それがうまくいくために、だれかが命を落としたり、たとえ少しでも犯罪がされるものなら、まっぴらです」
「旦那はやっぱり子供だよ。敵がほろびりゃいいと思っていながら、自分では清廉潔白でいたいんだろう」
ヴィクトランは否定するような身ぶりをした。
「旦那の望みは、そのマルネフ夫人とやらが、口にくわえている餌食を放り出すことだね。だがどうやって虎の口から牛肉をはなさせるのかね? その背中をなでて『仔猫ちゃん……仔猫ちゃん……』とでもいうのかい? 話の筋が通らないね。戦争を命令しておいて、けが人は困るなんて言い出すんだから。まあ、それでは、ご執心の清廉潔白は、贈り物としてさしあげておこう。わたしはいつも清廉潔白には、偽善の下地が隠されていると思っていたがね。ここ三カ月のうちに、あわれな坊さんが、慈善事業とか、中近東の砂漠で崩れた僧院のためにとかいって、四万フランの無心にくるよ。もし自分の運勢に満足していたら、その坊さんに四万フランやっておくれ。ほかに税金をもっととられるだろうがね。旦那の手にはいってくるものにくらべたら、それでも大したことはありますまいよ」
彼女は立ちあがった。その大きな足は繻子の靴にはいりきらず、足の肉がはみ出していた。彼女はにやりとしてあいさつをすると、出ていった。
「悪魔には妹があるとみえる」とヴィクトランは立ちあがりながらいった。
彼は、私立探偵の巣窟から呼び出されてきたおそろしい見知らぬ女を送り出した。この女は、まるで夢幻舞踏劇で妖精が杖を振ると、オペラ座の奈落《ならく》の底から姿を現わす怪物のようであった。裁判所で仕事を終えると、ヴィクトランは、この得体《えたい》の知れない女について知りたいと思って、警視庁のある重要な部の部長をしているシャピュゾ氏をたずねた。
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一〇八 警察
シャピュゾ氏が部屋にひとりきりなのを見て、ヴィクトラン・ユロはその助力を感謝した。
「部長は、犯罪の面から見てパリを擬人化したような老婆をまわしてくれましたね」
シャピュゾ氏は眼鏡を書類の上において、びっくりしたようにユロ弁護士をながめた。
「どんな種類の人間でも、あなたにあらかじめ知らせずに、紹介もせずに、いきなり向けるようなことは、しませんよ」と彼は答えた。
「では警視総監が……」
「そうは思いませんね。つい最近、ヴィッサンブール公爵が内務大臣のところで会食されたときに、警視総監殿とお会いになって、あなたのおちいっておられる苦境をお話になり、助けてやれないものかとおたずねになったのです。総監殿は、公爵があなたの家庭問題について心配しておられるのに打たれて、その件でわたしに相談なさいました。現在総監殿が、とかくの非難を受けながら、大いに役立っている警視庁の管理を主宰されるようになってから、まず最初に、プライバシーには立ち入らないという原則を立てたのです。原則として、モラルとしては、総監殿の考えは正しかったのですが、しかし事実としてはあやまっていたようです。警察は、わたしが勤めて四十五年のあいだ、一七九九年から一八一五年まで、家庭に大きな奉仕をしてきましたからね。ところが、一八二〇年来、新聞と立憲政体とがわれわれの存在条件をすっかり変えてしまいました。ですから、わたしの考え方もこうした事件には首を突っこまないほうがいいというのだったのです。総監殿もわたしの意見に賛成で、わたしの目の前で、保安課長に事件に介入しないように申しつけました。ですから、万一、課長がだれかをあなたにつかわしたのなら、わたしは彼を懲戒処分にしなくてはならない、まあ、首でしょうな。『警察が始末するよ』なんて、簡単に言いすぎますよ。警察! 警察! とおっしゃるが、いいですか、先生、元帥も、内閣議長も、警察の実体をご存知ない。それを知っているのは、ほかならぬ警察だけです。王さまたち、ナポレオンとか、ルイ十八世は、ご自分の仕事ならよく知っていたでしょうが、警察のことになると、まあ、その実体をおぼろげながらわかっていたのは、フーシェとか、ルノワール氏とか、サルチーヌ氏とか、二、三の頭のいい総監だけだったでしょうな。……今日では、事態がすっかり変わってしまいました。わたしたちの力は弱くなり、もうほとんど皆無にひとしいのです。それでちょっと口出しすれば防げたような、多くの家庭の不幸が起こるままにしておきました。わたしたちの力を奪った人たちも、あなたのように、まるで泥を払いのけるように、払いのけなくてはならない、道徳的に醜怪な事件に直面したときには、わたしたちが弱体なのを残念がることでしょうよ。政治上のことで、公共の福祉が問題な場合は、警察は、あらゆる予防手段をとる義務があります。しかし、家庭は神聖ですからね。国王の暗殺計画を発見し、それを阻止するためなら、どんな手段でも辞しません。家の壁などは見透して、徹底的に調べます。しかし、家庭内に、個人の利害問題に手をだすことは!……けっしてやりません。少なくともここにわたしがいるかぎりはね。なぜって、おそろしいんですよ……」
「何がです?」
「新聞がですよ。中央党左派の代議士殿!」
「どうしたらいいのでしょうね?」としばらくしてから、ヴィクトラン・ユロがいった。
「おどろきましたね。りっぱな家庭をおもちなのでしょう」と議長は答えた。「問題はありませんよ。思うとおりにおやりなさい。でも、あなたは助けてもらったり、警察を恋愛や個人的利害の道具にすることはできませんよ。……ここに、いいですか、前の保安課長が迫害された秘密があるのです。司法官連中はあの当然の迫害を不法だと言いますがね。ビビ・リュパンは、私事に警察を使いましたからね。社会的には、大きな危険をふくんでいましたよ。彼が自由にできた手段をもってすれば、おそろしい人間にもなれたでしょうし、運命に近い存在にもなれたでしょうから……」
「でも、わたしの立場になってみれば……」
「おや、わたしに相談なさるのですか。それはあなたの商売ではありませんか!」とシャピュゾ氏は答えた。「さあ、先生、からかうのはやめていただきましょうか」
ユロは部長にあいさつをして、引きさがった。彼を見送るために立ちあがった部長が、思わず、かすかに肩をそびやかしたのには気がつかなかった。
「あれで政治家になりたいというんだからな」とシャピュゾ氏はひとり言をいって、書類をまたとりあげた。
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一〇九 トゥール親父からトレック親父へ
ヴィクトランは家に帰っても、相変わらずわだかまりを感じ、そのうえその気持ちをだれにも打ち明けることができずにいた。夕食の席で、男爵夫人はうれしそうに子供たちに向って、一カ月以内に男爵が自分たちのなにひとつ不自由のない生活に加わり、余生を家庭で平安のうちにすごすようになるだろうと告げた。
「男爵の顔をここで拝見できるのなら、わたしの年金の三千六百フランを投げ出してもいいわ」とリスベットがさけんだ。「でも、アドリーヌさん、ぬか喜びはしないほうがいいのではないこと」
「リスベットさんのいうとおりよ」とセレスティーヌがいった。「お母さま、確かな事実を待ったほうがいいわ」
男爵夫人は、愛情と期待とで胸をいっぱいにして、ジョゼファ訪問の有様を語り、ああいう娘たちは幸福そうに見えても、実は不幸であることがわかったと言い、羽根ぶとん屋で、オランの倉庫係の父親であるシャルダンの話をして、こうしたわけで自分はむなしい希望に頼っているのではないことを示した。
翌朝、七時に、リスベットは、辻馬車をトゥールネル河岸に走らせていた。彼女はポワシー通りの角で車をとめた。
「ベルナルダン通り七番地にお使いに行っておくれ」と御者にいった。「門番はいなくて、勝手に出入りできる家だから、どんどん五階にあがって、左側のドアの鈴を鳴らしてください。そのドアには、『シャルダン嬢、レースとカシミヤの繕い師』と出ていますよ。だれか出てきたら、『佩勲者《ヽヽヽ》に会いたい』といってください。すると『外出していません』というでしょうから、そうしたら、『よくわかっています。探してきてください。というのは、あの方の下女《ヽヽ》が馬車で河岸にきて待っていますから』というのです」
二十分後に、一人の老人がおずおずと姿を現わし、馬車のなかに、リスベットをみつけると、扉のところまでやってきた。その老人は、八十歳ぐらいに見え、総白髪で、老婆のように青白い、皺の寄った顔をして、鼻ばかりが寒さで赤らんでいる。ラシャの縁布《ふちぬの》製のスリッパをはいた足を引きずり、背を丸め、はげたアルパカのフロックコートを着て、勲章はつけていない。手首に毛糸のチョッキの袖をのぞかせ、気になるほど黄色くなったワイシャツを着ていた。
「ああ、お兄さん、なんてかっこうしているんでしょう」
「エロディーが自分のためにみんなとっちゃったんだよ。シャルダンの奴らときたら、どいつもあつかましい悪党だよ……」
「わたしたちのところへもどりたくはないの?」
「いやだ、いやだ。アメリカへ渡りたいよ……」
「アドリーヌがあなたの跡をかぎつけたのよ……」
「だれかわたしの借金を払ってくれないだろうか」と男爵はうたぐり深い様子でたずねた。「だってサマノンがわしを追いまわしているのでね」
「兄さんの前の借金がまだ片づいていないんですよ。ヴィクトランさんは十万フランの借金をまだ背負っています」
「かわいそうな奴だ」
「それにあなたの恩給は七、八カ月たたないと自由にはなりませんよ。……それまで待ってくださるのなら、ここに二千フランあるのだけれど」
男爵は、貪婪な、おそろしい身ぶりで、手をさし出した。
「おくれ、リスベット! 神さまのお恵みがあるぞ! おくれ! 隠れ場はあるんだ!」
「でもわたしには教えてくれるんでしょうね、しようのないおじいちゃん?」
「もちろんだ。八カ月待つのはなんでもない。だって天使みたいな、かわいい娘を見つけたんだ。清純で、まだすれっからしという年じゃない」
「重罪裁判所のことも考えなさいよ」とリスベットはいった。彼女はいつかユロがそこに引っ張り出されるのを期待していたのだった。
「シャロンヌ通りだよ」とユロ男爵はいった。「なにが起こったって、人目につかないところだ。もちろん、見つかりゃしないさ。リスベット、わしはトレックじいさんに姿を変えたんだ。むかしの家具職人ぐらいで通っている。娘はわしを好いているし、それに今度は勝手なまねをされるようなへまはやらない」
「もう、されちゃったものね」とリスベットはフロックコートをながめながら、「そこへ送ってあげようかしら、兄さん?」
男爵は、エロディー嬢に別れの挨拶もせず、読み終わった小説をほうりだすようなあんばいに、彼女を捨てて、馬車に乗った。
三十分ほどして、リスベットは男爵に二千フランを渡したうえ、サン・タントワーヌ区シャロンヌ通りにある、あやしげな、崩れかかった家の戸口まで男爵を送った。そこまでのあいだじゅう、車のなかで、ユロ男爵は、リスベットにかわいいアタラ・ジュディチのことばかり話していた。というのも、男爵は老人を破滅させるおそろしい色欲に、しだいに引きずられていたからであった。
「さよなら、兄さん。今度の名前はトレックじいさんでしたね? 使いの人だけをよこしてくださいよ。それもかならずいつも別のところで探すのですよ」
「わかったよ。ああ、わしはとても幸福だ!」と男爵はいった。その顔は、目前にある、まったく新しい幸福の喜びで輝いていた。
「あそこなら、わかりっこないわ」とリスベットは思った。彼女は車をボーマルシェ大通りでとめ、そこから、乗合馬車でルイ・ル・グラン通りに帰ってきた。
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一一〇 ある家庭風景
翌日、クルヴェルは子供たちのところにやってきた。ちょうど昼食がすんで、一家が客間に集まっているところだった。セレスティーヌは駈けていって、父親の首にとびつき、まるできのうも顔を合せていたかのように振舞った。じっさいは、二年以来はじめての訪問なのであった。
「こんにちは、お父さん!」とヴィクトランは手をさし出していった。
「こんにちは、子供たち!」とクルヴェルはもったいぶって、「男爵夫人、つつしんでごあいさつ申しあげます。まったく、子供というのは大きくなってしまうものですね! わたしどもを追っぱらって、『おじいちゃん、ぼくに陽のあたる場所をください!』なんて言いますからね。――伯爵夫人、相変わらずおきれいですね!」と彼はオルタンスを見つめながら、つけ加えた。「ああ、大事な人を忘れていた、かしこい生娘《きむすめ》のベットさん。みなさんおそろいでしあわせそうですな……」と彼はそれぞれに言葉をかけ、そのたびに大笑いしたが、その赤らんだ、どっしりした大きな顔は、それほどには動かなかった。そして彼は娘の客間を、軽蔑するかのようにながめた。
「セレスティーヌ、おまえにソーセー通りの家具をみんなあげよう。ここにぴったりだ。ここの客間も模様がえするときだ。おや、これはヴェンツェスラスのちびか! おとなしくしているかね? お行儀よくしないといけないよ」
「お行儀のよくない人のためにね」
「リスベットさん、その皮肉はわしにはあてはまらないよ。いいかね、みんな、わしも長いことやもめ暮しをしてきたが、ここらで打ち切ることにしたんだ。そして、一家の良き父親として、人のいいことだが、こうしておまえたちに結婚を知らせにきたのだ」
「結婚なさるのはご自由ですが」とヴィクトランはいった。「ぼくとしては、お父さんがセレスティーヌとの結婚を許してくださったときの約束をおかえししたいと思います……」
「どんな約束だ?」
「結婚なさらないという約束ですよ」とユロ弁護士は答えた。「ぼくがその約束をお父さんに求めたのではなくて、ぼくの気持ちと反対にお父さんのほうからすすんで約束なさったのではありませんか。あのとき、ぼくはそんなふうにご自分を縛ってはいけないと注意してあげたんですからね」
「うん、そうだったな」とクルヴェルは恥ずかしそうに、「だけど、いいかい、……みんな、クルヴェル夫人とうまくやってくれれば、あとで後悔しないですむんだから、……ヴィクトラン君、君の心づかいには恐縮する……わしに寛大にしてくれると、損はない。……ねえ、どうだ、おまえたちの新しいお母さんをこころよく迎えることにして、わしの結婚式に来ておくれ」
「お父さま、ご婚約なさった方はどなたですの?」とセレスティーヌがいった。
「空とぼけるのはやめにしてもらおう」とクルヴェルはいった。「知っているくせに。リスベットから聞いたはずだ……」
「クルヴェルさん」とロレーヌ女が答えた。「ここでは口にできない名前もありますよ」
「そうか、それはマルネフ夫人さ」
「クルヴェルさん」とユロ弁護士は、厳粛な調子で、「ぼくも妻も結婚式に列席するわけにはまいりません。利害関係から列席しないのではありません。それはさきほど、誠実にお話ししたことでもおわかりいただけるはずです。そうです、あなたがこんどの結婚で幸福になられることがわかれば、ぼくもとてもうれしく思うでしょう。しかしぼくは体面とか、微妙な気持ちも大事にしたいのです。それにあなたにもおわかりのはずですし、ここで口にするわけにはいきません、そんなことをすれば、まだ血の滴っている傷を、また疼《うず》かせることになりますから……」
ユロ男爵夫人がヴェンツェスラス伯爵夫人に合図をすると、伯爵夫人は子供を抱きあげていった。
「さあ、おぶうにはいりましょ、ヴェンツェスラスちゃん、――さようなら、クルヴェルさん」
男爵夫人はだまってクルヴェルに会釈した。クルヴェルは、突然お湯をつかわされることになって、びっくりしている子供を見て、微笑《ほほえ》まざるえなかった。
ユロ弁護士は、後に残ったのがリスベットと妻と舅《しゅうと》とだけになったとき、さけぶようにしていった。
「あなたが結婚なさる相手は、ぼくの父の生き皮をはぎ、父を現在の境遇に平気で追いやり、舅を破滅させたあとで、こんどはその婿と同棲し、ぼくの妹に死ぬほどの苦しみを味わわせた女です。……それをあなたは、ご自分の気違い沙汰をわたしたちが出席することで承認されるとでも思っているのですか? クルヴェルさん、まことにお気の毒に存じます。あなたには家族の感覚がなく、その異なったメンバーを結びつける名誉による連隊ということがおわかりにならない。情熱には理屈は無用です。(不幸にもぼくはそれがわかりすぎるほどわかるのですよ)情熱にとらわれた人間は、聾《つんぼ》で、しかも盲《めくら》なんですから。あなたの娘のセレスティーヌは、義務感にあふれていますから、あなたを責めるようなことはひとこともいわないでしょう」
「いってみるのもおもしろいことさ!」とクルヴェルは小言を早くおしまいにしてもらいたくていった。
「セレスティーヌが、少しでもあなたをとがめるようなことをいったら、離縁します。しかし、ぼくは、あなたが深淵に足をとられるまえに、とくにぼくが無私無欲な証拠を見せたあとですから、あなたを引きとめようとしてもいいと思います。心配なのは、あなたの財産ではなく、あなたご自身のことなのです。……それに、ぼくの気持ちがわかっていただけるように、あなたのこれからの結婚契約のことで、あなたの安心のためだけにでも、つけ加えておきますが、ぼくの財産は十分ですから、ぼくたちはなんにも欲しくはありません……」
「わしのおかげじゃないか!」とクルヴェルは、顔を紫色にしてさけんだ。
「セレスティーヌの財産のおかげです」とユロ弁護士は答えた。「それで、あなたからの持参金として、セレスティーヌに、母親がのこした財産の半分にもあたらない額を与えたことを後悔しておられるのなら、あなたにそれをお返しする用意があります」
「婿殿」とクルヴェルはポーズをとって、「マルネフ夫人が、わしの姓を名乗るようになれば、クルヴェル夫人として、世間にたいして、行為の責任をとるということをご存知かね?」
「愛情に関する事柄や、情熱の犯したあやまちという点では、それはおそらくとても貴族的な態度でしょうし、寛大な処置でしょう。しかし、ぼくの父から、卑劣な手段でかすめとった三十万フランの盗みをつぐなうことができるような名前も、法律も、資格も、ぼくは知りません。お義父《とう》さん、はっきり申しますが、あなたの婚約した女は、あなたに値しません。あなたを裏切って、ぼくの義弟のスタインボックにぞっこんほれこんで、その借金を払ってやっているのです……」
「それを払ったのは、わしだ!」
「けっこうです。スタインボック伯爵にかわって、お礼申しあげます。あれもいつかは返済できるようになるでしょう。ですが、あれは愛されていますよ。とても、しばしば……」
「奴が愛されているって」と、顔に内心の動揺を現わして、「女を中傷するなんて、卑劣だ、汚らしくて、下劣で、下品なことだ。……そういうことを言いだすときには、証拠を示すべきだ。……」
「証拠ならお目にかけます」
「見せてもらおう」
「明後日、クルヴェルさん、あなたの婚約者のおそろしい堕落ぶりを、あなたに、見せて上げられる日時を、お知らせしましょう」
「よろしい、楽しみにしていよう」と冷静さをとりもどしたクルヴェルはいった。「さよなら、みんな、ではまた、――さようなら、リスベット。……」
「送っていってちょうだい、リスベットさん」とセレスティーヌはベットの耳もとでいった。
「こんな帰り方ってありますか?……」とリスベットはクルヴェルにさけんだ。
「ふん」とクルヴェルはリスベットにいった。「奴も相当|手強《てごわ》くなったものだ、ヴィクトランも。ねれてきたな。裁判所と議会、裁判上のペテンと政治上のペテンとが、奴をしっかり者にしたんだ。ははあ、あいつ、わしがこんどの水曜に式をあげるのを知っていやがる。それで日曜日に、つまり三日以内に、ヴァレリーがわしにふさわしくない女だというところを見せる日時を、わしにいおうなどというのだ……なかなかうまく考えてある。……わしは帰って契約書に署名してやろう。さあ、わしといっしょにおいで、リスベット!……奴らには何にもわからんさ! セレスティーヌに四万フランの年金を残してやるつもりだったが、今のヴィクトランの態度で、その気はまったくなくなった」
「クルヴェルさん、十分ほど、門のところで車に乗ったまま待っていてちょうだい、外出の口実を見つけてきますから」
「うん、わかった……」
「みなさん」と客間にいる一家のところにもどったリスベットがいった。「クルヴェルと出て来ます。その内容を、みなさんにお知らせできると思いましてね。あの女を訪問するのも、おそらくこれが最後になるでしょう。お父さんはおこってますよ。あなた方には、遺産を一文も残さないつもりですって……」
「あの人の見栄が、そうはさせないさ」とユロ弁護士は答えた。「プレールの土地は欲しがっていたから、あれは手放しますまい。ぼくにはよくわかっている。子供ができたところで、セレスティーヌは遺産の半分はもらえる。全財産をだれか一人に与えることは、法律で禁じられている……だが、こんな問題はとるにたらない。ぼくが考えているのはぼくらの名誉ということだけだ。……さあ、リスベットさん」といって、彼女の手を握って、「契約書をよく見てきてください」
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一一一もう一つの家庭風景
二十分後に、リスベットとクルヴェルは、バルベ通りの邸にはいっていった。そこではマルネフ夫人がクルヴェルに命じた段どりの結果を、期待で胸をふくらませながら待っていた。ヴァレリーは、一生に一度は女の胸を締めつけるはげしい恋心を、次第にヴェンツェスラスにたいして抱くようになっていた。この芸術家のなりそこないは、マルネフ夫人の手にかかって、恋人として申し分のない男になったので、マルネフ夫人にとって彼は、以前、ユロ男爵にとっての彼女と同じような関係になっていた。ヴァレリーは片手でスリッパをもち、もういっぽうの手をスタインボックにあずけて、頭を男の肩にもたせかけていた。その表扉に『複製を禁ず』としてあるちかごろの長編の文学作品のように、とぎれては、またいつまでもつづく会話というものがある。クルヴェルがでかけてから、二人はそうした会話にふけっていた。当然のことながら、この内密な詩の傑作ともいうべきものが、芸術家の口の端に、ぐちをのぼさせた。彼は苦々しげにいった。
「ああ、なんでおれは結婚なんかしたんだろう。待っていたら、リスベットもいっていたように、いまごろ君といっしょになれたのに」
「身も心も捧げている愛人を、奥さんにしたいなんて考えるのは、ポーランド人だけね」とヴァレリーはさけんだ。「恋愛を義務と、快楽を倦怠と交換するなんてね!」
「だけど君は浮気者だからな」とスタインボックは答えた。「リスベットと、ブラジル人のモンテス男爵のことを話しあっていたじゃないか?」
「追い払ってしまえというのね?」
「それが君とあの男を会わせない唯一の手段だからね」と彫刻家を廃業した男が答えた。
「いいこと、わたしは、あの男を夫にしようと思って、適当にやっていたこともあったわ。あんたにはなにもかも話してしまうんだから……あのブラジル人とわたしがした約束が……ああ、あんたを知るずっとまえのことよ」とヴェンツェスラスの身ぶりに答えて、「それでね、あの男はその約束を楯《たて》に、わたしにうるさくつきまとってくるので、わたしは秘密に結婚しなければならないのよ。だって、わたしがクルヴェルと結婚することがわかったら、あの男だったら……わたしを殺しかねないんですもの……」
「そんな心配か!……」とスタインボックは、ポーランド人に愛された女にとっては、そんな危険はおそるるにたりないという意味の軽蔑するような仕種をした。
事実、勇敢ということでは、ポーランド人にはもはや虚勢は少しもない。それほど彼らは事実、ほんとうに勇敢なのである。
「それなのに、あのクルヴェルのばかときたら、わたしとの結婚で、お祭り騒ぎをやって、お金を湯水のようにつかおうっていうのだから、どう切り抜けたらいいものやら困っているのよ!」
ヴァレリーは、ほれている男にこんなふうに打ち明けられるだろうか? つまり、ユロ男爵が追い出されてから、アンリ・モンテス男爵は、夜いつでも彼女のところにしのんでくる特権を引きついだということ、それにまた、どんなに巧妙な彼女でも、モンテス男爵が自分のほうが悪いのだと思いこむような、仲たがいの原因をいまだに見つけられずにいるということである。彼女は、リスベットの性格によく似ている男爵のほとんど野蛮な性格を、知りすぎるくらい知っていたので、リオ・デ・ジャネイロのモール人のことを考えると、身ぶるいするのであった。車の音を聞いて、ヴァレリーの腰に手をまわしていたスタインボックは、彼女のそばから離れて、新聞をとりあげ、それを読むのに余念がないというような格好になった。ヴァレリーも、一心不乱に、婚約者のためのスリッパに刺繍をした。
「ヴァレリーの悪口は中傷よ!」とリスベットは、戸口のところで、この光景をクルヴェルに示しながら、耳うちした。
「あの髪をごらんなさいな。乱れていないでしょう。ヴィクトランの話のとおりだと、二羽の雉鳩《きじばと》が巣のなかでむつまじくしているところが見られたはずじゃありませんか?」
「リスベットさん」とクルヴェルはポーズをとって、「アスパジア〔娼婦〕をルクレチア〔貞女〕にするには、恋を吹きこむだけで十分なのだ」
「わたしがいつもいっていたでしょう、女はあんたみたいな太った道楽者が好きだって」
「それに、そんなことをするようじゃ、あれも恩知らずだ。だって、わしがここで使った金といったら、それを知っているのは、わしとグランドだけだ」
そういって彼は階段を指さした。クルヴェルが自分のものと考えている邸を改築するのに、グランドは、デルーヴィル公爵がジョゼファの家の建築を依頼した、いま流行の建築家クルレッティと腕を競《きそ》おうとしたのであった。しかし、芸術のことなどはわからないクルヴェルは、他のブルジョワと同様、あらかじめきめられた一定の金額しか支出しようとしなかった。グランドは、建築家としての夢を実現することが不可能になった。ジョゼファの邸とバルベ通りの邸とのあいだにあるちがいは、物の独自性と通俗性とのあいだにあるちがいであった。ジョゼファの家で、人が賞美したものは、ほかのどこにも見あたらなかった。クルヴェルのところで輝いていたものは、どこでも買えるものであった。この二つの豪奢は、百万という額の河によってへだてられていた。たった一つしかない鏡は、六千フランの値だが、金儲けのために職工がつくる同じような鏡は、五百フランしかしない。ブールのほんもののシャンデリヤは、競売で三千フランにもなるが、同じ型のシャンデリヤなら、千フランないし千二百フランで製造される。ラファエロの絵が美術における評価と同じ評価を、骨董として前者はもっている。後者はその複製である。ラファエロの複製を諸君はどれくらいに値ぶみするだろうか? つまり、ジョゼファの邸が芸術家の住居のもっともみごとな典型なのにたいして、クルヴェルの邸は、愚者の贅沢のすばらしい見本であった。
「平和交渉、成立せずだ」とクルヴェルは、未来の妻のほうに歩み寄りながらいった。
マルネフ夫人は呼び鈴を鳴らした。
「ベルティエさんを呼んで来てちょうだい」と召使いにいった。「きっと連れてくるのよ。――話がうまくいったのだったら」とクルヴェルにしなだれかかりながら、「わたしの幸福をおくらせてでも、世間をびっくりさせるようなお祭騒ぎをやるのもいいわ。でも、家族全体が結婚に反対しているとすると、世間体からいっても、目だたないように式をあげるほうがいいと思うの。それに、花嫁は再婚ですもの」
「いや、わしは反対にルイ十四世式の派手なところを見せつけてやりたいのだ」としばらくまえから十八世紀などはけちくさいと思いはじめていたクルヴェルはいった。「新しい車を注文したのだ。花嫁、花婿用の馬車で、美しい箱馬車が二台。四輪馬車が一台、それにユロ夫人みたいに震える、すばらしい御者台つきの豪華なベルリーヌ馬車が一台だ」
「『わしはやりたいのだ』ですって……それじゃ、もうわたしの子羊じゃないのね? いや、いや。わたしのいうとおりにしてくれなければ、いや。今夜、わたしたちだけで契約書に署名しましょうよ。それから、水曜日に、公式に結婚しましょう。ちゃんと式をあげるのよ。でも、それも、わたしの母がいっていたように、こっそりとね。わたしたちは、簡単な服装をして、歩いて教会に行き、ミサをあげましょう。わたしたちの証人は、スティドマンさん、スタインボックさん、ヴィニョンさんにマッソルさんで、みんな話のわかる人たちばかり、ぐうぜん、市役所にいたという形で、わたしたちのために我慢して、ミサに立ち会ってもらう。あんたの同僚の区長さんに、例外として、朝の九時に式をあげてもらい、ミサは十時ということにし、十一時半にここでお食事ということにすればいいわ。わたしは、お客さんには食事が終わるのは、夜になるといってあるの。きていただくのは、ビクシウさん、ビロトーのお店で昔あなたの仲間だったデュ・ティエさん、ルーストーさん、ヴェルニッセさん、レオン・ド・ロラさん、ヴェルヌーさん、みなさん才人中の才人ばかりで、わたしたちが結婚したことなど知らずにくるのよ。みんなをかついでやりましょう。わたしたちは、ほんの少し酔っぱらって、それにリスベットにも、一枚加わってほしいわ。結婚がどんなものだかわかってほしいわ。ビクシウさんがいろいろと教えてくれるはずよ……つまり、おばかさんのところをなおしてやるのよ」
二時間にわたって、マルネフ夫人はこんな愚にもつかないことをしゃべった。その結果、クルヴェルも、こんなもっともな考えをもつようになった。
「こんなに陽気な女が、堕落しているはずはない。はしゃぐことの好きな女だが、性根の腐った女じゃない。……ばかばかしい!」
「あなたの子供たちは、わたしのことをなんていったの?」とヴァレリーは、クルヴェルを引き寄せて長椅子に腰かけたとき、聞いた。「おそろしいことをたくさんいったんでしょう」
「奴らは、おまえが、貞淑そのもののおまえが、ヴェンツェスラスと道ならぬ恋をしているというのだ」
「そうよ。わたし、愛しているわ。わたしのかわいいヴェンツェスラス!」と彼女はさけんで、芸術家を呼びよせて、その頭をかかえて、額に接吻した。「後ろ楯もなく、財産もないかわいそうな子! そのうえにんじん色をしたキリンみたいにひょろ長い女にばかにされるなんて! しようがないじゃないの、クルヴェル! ヴェンツェスラスは、わたしの詩人よ。わたしは、わたしの子供のように、大っぴらに愛しているわ。貞淑な女というのは、どこにでも、なんにでも、悪い面しか見ないのね。そうなのよ、ああいう女たちは、男のそばにいると、きまって悪いことをするんじゃない? わたしって、なんでも聞いてもらえる駄々っ子みたい。あめなんか出されたって、興奮したりしないわ。かわいそうな女たちに同情するわ……それでだれがそんなにひどいことをいったの?」
「ヴィクトランだ」
「へえ、それだったら、どうして、|ママ《ヽヽ》さんの二十万フランの一件をもち出して、あのおうむみたいな弁護士の口をふさがなかったの?……」
「男爵夫人は、逃げ出しちゃったのよ」とリスベットがいった。
「リスベット、あの人たちに気をつけるようにいってちょうだい」とマルネフ夫人は眉をひそめて、いった。「さもなければ、わたしを招待すればいい。大歓迎でね。そして、みんなそろってわたしのところに訪ねてくることね。そうしないと、あの人たちを、ユロ男爵よりは、ずっと低いところに落としてやるから。(わたしからだといって、そういうふうにいってちょうだい)……しまいには、わたしだって、意地悪したくなるわ! 悪っていうのは、善を刈りとる鎌なんだと、わたし、本気に思っているのよ」
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一一二 おどしの効果
三時に、カルドの後継者、ベルティエ公証人が結婚の契約書を読みあげた。そのうちの条項のいくつかは、ユロ若夫婦の出方次第によるものだったので、クルヴェルとベルティエは、その前に簡単な相談をした。クルヴェルは、未来の妻につぎのような項目からなる財産を与えることを認めていた。一、名義人指定の四万フランの年金。二、邸とそれに付属したすべての動産。三、現金三百万フラン。このほかに、彼は未来の妻に法律で許されているかぎりの贈与を行なった。それに財産目録を作る労をいっさい彼女から免除した。それにまた、どちらかが死亡して、子供がない場合には、おたがいにどちらかに動産と不動産を含めた、すべての財産を譲ることになっていた。この契約で、クルヴェルの財産を二百万フランにへらした。新しい妻に子供ができるようなことがあれば、ヴァレリーにたいして認めた財産の用益権のために、セレスティーヌの分け前を五十万フランに制限することになった。それは彼の現在の財産のほぼ九分の一であった。
リスベットは、絶望の色を顔に出して、ルイ・グ・グラン通りへ夕食にもどった。彼女は結婚の契約書を説明し、それに註釈を加えた。ところが、セレスティーヌもヴィクトランも、この不幸な知らせを聞いても、顔色一つ変える様子もなかった。
「あなた方はお父さんをおこらせてしまったのね。マルネフ夫人は、あなた方がクルヴェルの奥さんを招待するか、あちらの家にでかけていくか、かならずそうさせるといっていますよ」
「そんなこといやよ」とセレスティーヌはいった。
「絶対、ごめんだね」とヴィクトラン。
「わたしもまっぴらだわ」とオルタンスはさけんだ。
リスベットは、ユロ一家のこうした尊大な態度を打ちこわしてやりたい気になった。
「あっちではあなた方をやっつける武器をもっているようよ……」と彼女は答えた。「なんのことだか、よくわからないけれど、そのうちわかりますよ……ばく然といったところでは、アドリーヌさんに関連した二十万フランの話らしいわ」
ユロ男爵夫人は、すわっていた長椅子の上で音もなくひっくりかえり、それからおそろしい痙攣にとらえられた。
「あの女のいうとおりにしてちょうだい!」と彼女はさけんだ。「家にも呼んでやんなさい! クルヴェルさんは、卑劣な人だ! 最高の刑罰を受けても当然の人だわ。……あの女のいうとおりにしなさい。……ああ、ほんとうにおそろしい人! あの女は、なにもかも知っているのだ!」
涙とすすり泣きをまじえながら、こういったあとで、ユロ夫人は、勇気を振い起こして娘とセレスティーヌにかかえられながら、部屋にあがっていった。
「いったいどうしたっていうのでしょう?」とリスベットは、ヴィクトランと二人きりになるとさけんだ。
ユロ弁護士は、当然のことながらあ然として、突っ立ったままで、リスベットの言葉など、耳にはいらなかった。
「どうしたの、ヴィクトラン?」
「びっくりしたんだ」とユロ弁護士の顔は、険悪になっていた。「ぼくの母に手を触れる奴は、ただじゃおかないぞ! もう手心を加えたりなんかしないぞ。できることなら、まむしを踏みつぶすように、あの女を踏みにじってやりたい。……あの女は、ぼくの母の命と名誉とに危害を加えようというのだ!……」
「ここだけの話ですがね、ヴィクトランさん、あの女は、あなた方みんなをお父さんより、もっとひどいところに住むようにさせてやるといっていましたよ。……アドリーヌさんをあんなにおびえさせたらしい秘密をばらして、あなたの口を封じなかったと、クルヴェルさんをやっつけていたわ」
医者が呼びにやられた。男爵夫人の容体が悪化したからである。医者は、阿片入りの水薬を処方した。アドリーヌは、その水薬を飲むと深い眠りにおちた。しかし、一家は激しい恐怖のとりことなった。翌日、ユロ弁護士は朝早く裁判所に向けて家を出て、途中、警視庁に立ち寄った。そこで彼は保安課長ヴォトランに、サン・テステーヴ夫人をよこしてくれるように懇願した。
「あなたの世話をやいてはいけないととめられているんですがね。でも、サン・テステーヴ夫人は商売人だから、ご用に応ずることでしょう」と有名な課長は答えた。
家に帰ると、あわれな弁護士は、母親が発狂するおそれがあると聞かされた。ビアンション医師とララビ医師、それにアンガール教授とが、診断に立ちあって、頭にのぼった血をさげるために、思いきった処置を講じることをきめたところであった。ビアンション医師が、同僚は絶望しているにもかかわらず、発作がおさまりそうだと期待している理由を、ヴィクトランに詳しく話しているときに、召使いが弁護士に、サン・テステーヴ夫人の来訪を告げに来た。ヴィクトランは、ビアンションを話の途中でほうり出して、びっくりするほどの早さで階段をかけおりていった。
「この家には狂気の伝染性の要素があるのかね?」とビアンションはララビのほうをふりかえっていった。
医者たちは、助手を一人残して、帰っていった。その助手は、ユロ夫人を看護するようにいわれた。
「貞淑な一生が!……」発作以来、病人が口にした唯一つの言葉が、これであった。
リスベットは、アドリーヌの枕もとを離れなかった。彼女は前の晩から看護していた。そのために二人の若い女からすっかり感嘆された。
「サン・テステーヴさん」と弁護士はおそろしい老婆を書斎に入れて、ドアに念入りに鍵をかけてから、いった、「どんな具合になっていますか」
「ところで、旦那」と彼女はヴィクトランを冷笑するような目つきでながめて、「少しは考えてみたかね?」
「動いてくれましたか?」
「五万フランくれるね?」
「ええ」とヴィクトラン・ユロは答えた。「だって、やらなくてはならないんです。いいですか、たったひとことで、あの女は、母の生命と理性とを危険にさらしてしまった。だから、はじめてください!」
「もうはじめたよ」と老婆は答えた。
「それで?……」とヴィクトランは身を震わしながら、いった。
「それで、金の出しおしみなんかしないだろうね?」
「おしむものですか」
「というのは、もう二万五千フランかかっているのでね」
ヴィクトラン・ユロは、ぽかんとして、サン・テステーヴ夫人をながめた。
「おやおや! あなたはそんなに世間知らずなのかね、裁判所でも有能な裁判官のあんたがねえ?」と老婆はいった。「それだけのお金で、小間使いの良心と、ラファエロの絵を一枚手に入れたんだから、高くはあるまいが」
ユロは相変わらずぼんやりして、目を大きくみひらいていた。
「いいかね」とサン・テステーヴ夫人がまた口を開いた。「レーヌ・トゥーザール嬢を買収したんだよ。マルネフ夫人は、彼女に何んでも打ち明けるからね……」
「わかりました……」
「だけど費用を出しおしみするのだったら、そういってもらおう」
「ご入用なだけ信用して払いますよ」と答えた。「母は、あの連中は最高の刑にしてもいいといっていたので」
「もう車裂きの刑など流行らないよ」と老婆は答えた。
「成功はうけあってくれますね」
「まかしておきなさい」とサン・テステーヴ夫人はいった。「あんたの復讐は、着々と準備中なのだから」
彼女は時計をながめた。時計は六時を指していた。
「あんたの復讐は、着換えをしているところさ。ロシェ・ド・カンカル亭のかまどに、火がはいり、馬車の馬は、足踏みしている。わたしの鉄ごては、焼けている。あんたのマルネフ夫人のことは、何もかもわかっている。準備は完了だよ。ねずみとりには、肉だんごが仕掛けてある。あすになったら、ねずみが毒を食べるかどうか教えてあげよう。そうなると思うがね。さようなら」
「さようなら」
「英語を知っているかね?」
「ええ」
「『マクベス』を英語で上演したのを見たことがあるかね?」
「ええ」
「それでは、『おまえは王になるよ!』つまり遺産は、あんたのものさ!」とシェイクスピアならその正体を看破したかもしれない、そしてシェイクスピアをよく知っているらしい、おそろしい魔女がいった。
彼女は、あ然としているユロを、書斎の戸口に釘づけにして、出ていった。
「急速審理が明日あることを、お忘れないようにね!」と訴訟狂になりすまして、彼女はしとやかにいった。
二人の人影が近づくのを見て、彼女はその人たちにパンベーシュ伯爵夫人〔ラシーヌの喜劇の人物、訴訟狂〕のような女に見られたかったのである。
「なんとあつかましい女だろう!」とユロは、そのにせの依頼人にあいさつしながら考えた。
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一一三 コンバビュス
モンテス・デ・モンテジャノス男爵は、洒落者だったが、得体の知れないところがあった。パリの流行界、競馬関係者、浮かれ女たちが、この外国貴族のえもいわれないチョッキ、エナメル塗りの申し分のない長靴、ほかでは見られない細身のステッキ、みなの羨望の的の馬、完全に奴隷化され、よくしつけられた黒人を御者にした馬車などに、目を見張った。そのばく大な資産で知られた、有名な銀行デュ・ティエのところに、七十万フランの預金があるとされていた。だが、彼はいつもひとりだった。芝居の初日に行くことがあっても、土間の特等席にひとりでいた。どこかのサロンに入りびたりすることもせず、浮かれた女と腕を組んで歩くこともかつてなかった。上流社会のどんな美女の名前とモンテスの名が結びつけられることもなかった。気晴らしといえば、ジョッキー・クラブでトランプのホイストの賭けをするくらいであった。
こんなわけで、世間の人たちは、彼の品性や、さらにもっと奇妙なことに、その身体のことをとかく中傷せずにはいられなかった。世間の人は、彼のことをコンバビュスと呼んだ。……ビクシウ、レオン・ド・ロラ、ルーストー、フロリーヌ、エロイーズ・ブリズトゥー嬢、それにナタンが、ある晩、例の有名なカラビーヌのところで、多くの洒落者や伊達《だて》女と夕食をともにしたとき、こんなひじょうに滑稽な説明をでっちあげたのだった。マッソルは、参事院議員の資格で、クロード・ヴィニョンが、もとギリシャ語教師という資格で、無知な浮かれ女たちに、ロランの『古代史』のなかにある、コンバビュスに関する、あの有名な逸話を話してやった。それによると、コンバビュスとは、自分からアベラール〔エロイーズの恋人で、うらみを受け去勢された神学者〕の役を買って出て、アッシリア、ペルシア、バクトリア、メソポタミア、その他古代東洋についての学問を創始したダンヴィル教授の業績を継承したボカージュ老教授の地理の本でなければ、出てこないような名前の国々の王妃を守護するように命ぜられた男である。
この綽名《あだな》は、十五分間も、カラビーヌのお客たちを笑わせ、アカデミー・フランセーズからモンティヨン賞などをもらえる道理もない作品のなかでさえ、お目にかかれないほどのさまざまの冗談の対象となった。その冗談のなかで、美男の男爵の、たてがみのようにふさふさした髪に落ちついたこのコンバビュスという名前は、みんなの注意をひいた。ジョゼファは、男爵のことを、すばらしい|カトグザンタ《ヽヽヽヽヽヽ》〔鞘翅類の一種〕と呼ぶように、|すばらしいブラジル人《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と名づけていた。カラビーヌは、浮かれ女のなかでもいちばん名前が知られていて、その繊細な美貌と機知とで、不倫の恋の女王の笏《しゃく》を、テュルケ嬢から、世間の通り名でいえば|マラガ《ヽヽヽ》から奪いとったのだった。彼女の本名は、セラフィーヌ・シラネといって、彼女と銀行家デュ・ティエとの関係は、ジョゼファ・ミラーとデルーヴィル公爵との間柄のようなものだった。
さて、サン・テステーヴ夫人がヴィクトランに成功を予言した日の朝の七時ごろ、カラビーヌがデュ・ティエにこういった。
「お願いだから、ロシェ・ド・カンカルで、こんばんご馳走してくださらない。そしてコンバビュスも連れてきてほしいの。あの人に意中の人がいるかどうか、決定的なところが知りたいのよ……わたしはいるほうに賭けたの……勝ってやりたいわ……」
「いつもプリンス・ホテルにいるから、これからよってみよう」とデュ・ティエは答えた。「一つ楽しくやろうじゃないか。われわれの仲間みんなに声をかけよう。ビクシウの奴とか、ロラの奴とか、つまりわれわれの一党にだ」
ロシェ・ド・カンカルといえば、ヨーロッパじゅうの人びとが食事をするレストランであった。七時半、そこのいちばん美しい広間のテーブルに、豪華な銀の食器が一そろい輝いていた。それらの食器は、見栄から、小切手で勘定を支払うような晩餐会用に、特別にこしらえたものであった。いく筋かの光の流れが、銀の食器の彫刻のへりに滝の模様を描いていた。年齢さえもっととっていたら、いなか者の目には、外交官に見えたにちがいないようないく人かの給仕が、チップを過分にもらえることを心得ているような顔つきで、落ちつきはらって立っていた。
先着の五人が、残りの九人を待っていた。その五人とは、まずビクシウで、彼はあらゆる知的な料理の塩であり、一八四三年にはまだ元気で、絶えず新しい冗談を鎧にしていた。これはパリでは、美徳と同じくらいまれな現象だった。それから、レオン・ド・ロラで、現今の風景画家として、また海洋画家として第一位を占めていて、競争者にくらべて、デビュー当時から腕が落ちていないという長所をもっていた。浮かれ女たちは、この二人の警句の王様がいないと、どうにもならなかった。彼らなしでは、夕食も昼食も集会もなりたたなかった。カラビーヌという通り名のセラフィーヌ・シネは、接待役という資格で、早くからきている一人であった。まばゆいほどの光のもとで、彼女は、パリでもたぐいまれな肩、ろくろ細工人がねり上げたような、皺ひとつない首、気の強そうな顔、青地に藍の錦織りをした繻子のドレスをきらきらさせていた。それを飾るイギリス製のレースは、一つの村を一カ月養うのに十分な分量があった。美しいジェニー・カディーヌは、その姿が知れわたっているから、なにもいう必要はあるまいと思うが、舞台が休みだったので、信じられないほど豪奢な衣裳をつけてやってきた。こうした女たちにとっては、集まりは、衣裳くらべの機会で、それぞれ自分のパトロンの百万長者に栄冠を得させたり、また競争相手の女には、「わたしのねうちはこんなものよ」といっているみたいであった。
三番目の女は、おそらくこうした道にはいったばかりらしく、恥ずかしそうにして、二人の先輩たちの落ちつきはらった、贅沢に着飾った姿をながめていた。青い房飾りのついた白いカシミヤの簡単な服装で、髪は花の形に結いあげていた。髪結いがへたなかつら屋みたいな者だったのか、その結いあげ方はへただったが、それがかえって、すばらしいブロンドの髪に、間の抜けた優美さを添えていた。まだドレスが窮屈らしく、きまり文句を使えば、「初舞台には避けられないおじけたところがあった」それは、途方もないみずみずしさ、死にかけた男の欲望までかきたてるようなあどけなさ、ノルマンディーが首都のあちこちの劇場に供給した美人にも劣らないほどの美しさを売りこもうとして、ヴァローニュからパリに出てきた女であった。その純真無垢な顔の線は、天使らしい純潔という理想を現わしていた。彼女の乳白色の肌は、光線をよく反射するので、鏡のようであった。頬の色は、絵筆で描いたように微妙であった。女の名は、シダリーズといった。あとではっきりするように、この女は、ヌーリッソンばあさんがマルネフ夫人を相手に打って出る勝負には必要な駒であった。
「あんたは名前とはちがってきれいな腕をしているわね」とカラビーヌが連れてきた、この十六歳の傑作を紹介されたときに、ジェニー・カディーヌがいった。事実、その腕は、引きしまって美しく、ざらついてはいるが、血の気が多くて赤味がかっていて、だれもがほれぼれするのであった。
「あの子、いくらだろう?」とジェニー・カディーヌは、低い声でカラビーヌにたずねた。
「一財産ね」
「どうするつもり?」
「コンバビュス夫人にするつもりよ」
「あの子をとりもって、あんたへのお礼は?」
「あててごらんなさい!」
「上等な銀の食器?」
「三組ももっているわ!」
「ダイヤ?」
「売るほどあるわ……」
「緑色の猿?」
「ううん、ラファエロの絵よ!」
「どうして急にほしくなったの、そんなもの?」
「ジョゼファに絵の自慢されるので、うんざりなのよ」とカラビーヌは答えた。「あの人のよりもっといい絵がほしいのよ……」
デュ・ティエが、晩餐の主客であるブラジル人を連れてきた。そのあとつづいて、デルーヴィル公爵がジョゼファをともなって、やってきた。歌姫は質素なビロードのドレスを着ていた。しかし首のまわりには、十二万フランもするネックレスが輝いていた。その真珠は、白椿のような肌とほとんど見わけがつかなかった。お下げにした黒い髪に一輪だけ赤い椿をさし、それがつけぼくろと同じで、とても印象的だった。両腕にはおもしろ半分に真珠の腕輪を十一組ずつ並べてつけていた。彼女がジェニー・カディーヌにあいさつにくると、カディーヌがいった。
「その手袋をちょっと貸してくれない?」
ジョゼファは腕輪をはずすと、皿にのせてカディーヌに渡した。
「すごいものね!」とカラビーヌはいった。「公爵夫人だけのことはあるわ。真珠もこれで品切れになってしまうわ。公爵さま、海を洗いざらいになさって、恋人を飾りたてたってわけね?」と彼女は小柄なデルーヴィル公爵のほうを向きながら、つけたした。
女優は、一組の腕輪だけを借り、あとの十組の腕輪を歌姫の美しい腕に返して、そこに接吻した。
文壇の居候であるルーストー、ラ・パルフェリーヌとマラガ、マッソルとヴォーヴィネ、ある有力な政治新聞の出資者の一人テオドール・ガイヤールが客に加わった。デルーヴィル公爵は、大貴族らしくだれかれの差別なく丁重だったが、ラ・パルフェリーヌ伯爵にたいしては、特別なあいさつをした。それは、尊敬とか、親密の情とかをあまり強調することはなく、『わたしたちは同じ一族、同じ種族で、価値も同じだ!』ということを万人に告げているような会釈であった。この会釈こそは、貴族の試金石であって、上層ブルジョワジーの才人たちを絶望させるために、つくり出されたようなものであった。
カラビーヌは、自分の左手にコンバビュスを、右手にデルーヴィル公爵をすわらせた。シダリーズがブラジル人の隣りにすわり、ビクシウがそのノルマンディーの娘の横に並んだ。マラガは公爵の隣りの席についた。
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一一四 浮かれ女たちの晩餐
七時に、晩餐は牡蠣《かき》ではじまった。八時、料理のあいまに、冷やしたポンスを賞味した。九時になると、十四人のあいだで、種々のぶどう酒が四十二本もからになったことから察しられるように、おしゃべりに花が咲いた。デザート、四月のおそろしいデザートが出た。こののぼせるような雰囲気も、ノルマンディーの娘しか酔わせなかった。彼女はクリスマス・カロルを口ずさんでいた。このあわれな娘は別として、だれも理性を失っていなかった。飲み手も、女も、パリの夜会での選り抜きだった。機知が笑い、目は光っていたが、知性にあふれていた。しかし唇だけは、諷刺や、逸話や、すっぱ抜きになりがちであった。そのときまで会話は、競馬とか馬とか、株式取引所の失敗のこととか、伊達者の長所くらべとか、評判のスキャンダルとか、同じ話題をいつまでも、むしかえしていたが、だんだん内輪話になり、ばらばらの差し向いのグループがいくつもできそうになった。
カラビーヌが、レオン・ド・ロラ、ビクシウ、ラ・パルフェリーヌ、それにデュ・ティエに目くばせして、恋愛を話題にし出したのは、そんなときであった。
「ちゃんとしたお医者さまは医学のことなんかお話にならないし、ほんとうの貴族は祖先のことを話題にしないし、才能のある人は自分の作品のことを話したりしないものよ」とジョゼファがいった。「それなのになぜわたしたちは自分の商売の話などはじめるの?……オペラ座を休場にさせてここに来たのも、仕事をするためじゃないわ。だから、みなさん気どるのはやめにしましょう」
「真実の恋の話よ、あなた」とマラガはいった。「そうした恋に落ちこむと、父も母も破滅させ、妻も子も売り、クリッシーの牢屋にぶちこまれてもかまわないような恋のことよ……」
「それじゃ、話してちょうだい」と歌姫が答えた。「関係ないもの!」
『関係ないもの!』……はじめパリの浮浪児たちの隠語だったこの言葉が、浮かれ女たちの用語になり、彼女たちの目と表情とに助けられて、その口から出るのを聞くと、まるで詩のようであった。
「それでは、わしはおまえを少しも愛していないというのかね、ジョゼファ」と低い声で公爵がいった。
「わたしをほんとうに恋してもいいことよ」と歌姫は微笑みながら公爵の耳もとでいった。「でも、わたしは、みなさんがいうような愛し方をしないわ。愛する男がいないと、世界がまっ暗になってしまうような恋なんて、まっぴらよ。あなたはわたしの気に入っているし、便利な方でもあるわ。でも、どうしても必要だ、ということはないのよ。それに、あすにでもあなたがわたしを捨てるようなことになったら、一人どころか、三人も公爵を手に入れてみせるわ……」
「パリに恋が存在するのだろかね?」とレオン・ド・ロラがいった。「パリでは、財産をつくる暇もないというのに、水が砂糖を溶かすように、人間を溺れさせる真実の恋などに、どうして耽《ふけ》っていられるだろうか? 恋をするには、大金持ちでなくてはならない。なぜって、恋はここにいるわれらの男爵のように、人間をまるで無力にしてしまうからね。ずっと前にもいったように、『過ぎたるは及ばざるがごとし』というわけ。真実の恋人なんて、宦官みたいなものでね。彼にとっては、女はもうこの世に存在しないんですからね。神秘的で、ほんもののキリスト教徒みたいで、隠遁地に一人きりでいる。この善良なブラジルの方を見てほしいね!……」
全員そろってアンリ・モンテス・デ・モンテジャノスをじろじろ見た。みんなの視線の的になって、男爵は恥ずかしそうな様子をした。
「男爵はそこで一時間前からもぐもぐやっているが、牛みたいなもので、お隣りに、パリでもっとも……美しいとはいわないけれど、もっともみずみずしい女がいるのにお気づきでない」
「ここでは何でもみずみずしいのよ、お魚だって。それがこの店の看板ですものね」とカラビーヌがいった。
モンテス・デ・モンテジャノス男爵は、風景画家を愛想よく見ながらいった。
「とてもけっこうなお話で! あなたのために乾杯!」
そしてレオン・ド・ロラのほうに頭をちょっと動かして会釈すると、ポルト酒をなみなみとついだ杯を傾けて、みごとに飲みほした。
「それではあなたは恋をしているの?」とカラビーヌは、乾杯の意味をそんなふうに解釈して、隣人にきいた。
ブラジルの男爵は、杯をまたなみなみとつがせると、カラビーヌに会釈して、乾杯をくりかえした。
「奥さまの健康のために!」と、そのとき浮かれ女がふざけた調子でいったので、風景画家も、デュ・ティエも、ビクシウも吹き出してしまった。
ブラジルの男爵は、銅像のように厳粛だった。このとりすました態度が、カラビーヌをいらだたせた。モンテスがマルネフ夫人を愛していることはよく知っていたが、信じきっている男の、これほどの絶対的な確信、これほどの頑固な沈黙を予期していなかった。情婦の態度で、しばしば男が判断されるように、恋する男の素振で、女は判断される。ヴァレリーを愛し、彼女に愛されていることを得意にしている男爵の微笑は、これらの老練な通人たちにとっては皮肉な色合と見えた。それに男爵の態度はみごとだった。ぶどう酒に顔色も変えず、その目は、磨きのかかった金に特有の光で輝き、心の秘密を守っていた。だから、カラビーヌは心のなかでこう考えた。
「なんてえらい女だろう! この男の心をこんなにまで封じこめたとは!」
「まるで岩だ!」と低い声でビクシウもつぶやいた。彼はこれを諷刺と見ただけで、この要塞の攻略に、カラビーヌがどんなに躍起となっているかは疑ってもみなかった。
外見は軽薄な話が、カラビーヌの右手でとりかわされているあいだ、左手では、恋愛についての討論が、デルーヴィル公爵とルーストー、ジョゼファ、ジェニー・カディーヌとマッソルとのあいだで、つづけられていた。真実の恋などというまれにある現象は、情熱によって生み出されるものか、それとも執着か、情愛によるものかを詮議する話になっていた。ジョゼファは、こうした理屈にすっかりあきてしまって、話題を変えたいと思った。
「全然知らないことを話しあっているのね。あなたたちのうちには、一人の女を、それも自分に値しないような女を愛して、自分と子供の財産を食いつぶし、自分の未来を台なしにし、過去を傷つけ、国家のお金を使いこんで、徒刑場に送られそうになり、伯父と兄を殺しながら、徹底的に目隠しされてしまっているものだから、それが最後の冗談に、自分が突き落された深淵を見させないためのものだとは気がつかないでいるような人は、ひとりだっていないじゃない? デュ・ティエさんは、左の胸の下に金庫をもっているし、レオン・ド・ロラさんは、才智がおありだし、ビクシウさんは、自分より他の人間がお好きになれば、自分を冷笑してしまうでしょうし、マッソルさんは、心臓のかわりに大臣の椅子をもっている。ルーストーさんは、胃袋しかもっていない。この人ったら、ラ・ボードレイ夫人に捨てられても平気なんですもの。公爵さまは金持ちすぎて、破産して恋の証しをするわけにもいかないし、ヴォーヴィネさんなんか、物の数にもはいらないわ。手形仲買人なんか、わたし、人間の数に入れていないんですもの。だから、あなたたちは恋をしたことはないのね。わたしも、ジェニーさんも、カラビーヌさんもよ。……わたしの経験では、たった一度だけ、いまいったような現象を見たことがあるわ。それは」と彼女はジェニー・カディーヌに向って、「わたしたちのかわいそうなユロ男爵よ。わたし、迷子の犬みたいに、あの人のことを広告に出したいと思っているの。だって、見つけ出したいんですもの」
「おや!」と、カラビーヌはジョゼファを曰《いわ》くありげな目つきでながめながら、心ひそかに考えた、「ジョゼファがわたしと同じ役割をやっているところをみると、ヌーリッソンばあさんは、ラファエロの絵を二枚もっているのだわ」
「かわいそうな男さ!」とヴォーヴィネがいった。「あれはりっぱで、すばらしい奴だった。なんという態度、なんという風采だったろうか! フランソワ一世みたいだった。火山のようなエネルギー! それにお金をこしらえるのがじょうずで、天才的だった! どこにいても、お金を探し当ててしまう。パリの城門近くの、場末町に見られる骨でつくった壁のなかからでも、お金を掘り出しているにちがいない。おそらくあのあたりに隠れているのだろうがね……」
「それも、あのいやらしいマルネフ夫人のためさ」とビクシウがいった。「悪がしこい女だ!」
「あの女は、わしの友人クルヴェルといっしょになるんだ!」とデュ・ティエが口をはさんだ。
「それにあの女は、ぼくの友人スタインボックに夢中だ」レオン・ド・ロラがいった。
この三つの言葉は、モンテスにとって、胸のまんなかを射抜いた三発の弾丸であった。彼はまっさおになり、激痛をおぼえて、立ちあがるのもやっとであった。
「あなたたちは卑劣だ!」と彼はいった。「堕落した女たちの名前と、貞淑な女の名とをいっしょにするなんてひどい! それに、ことさら笑いもののたねにするなんて」
モンテスは、いっせいにあがった喚声と拍手とにさえぎられた。ビクシウ、レオン・ド・ロラ、ヴォーヴィネ、デュ・ティエ、マッソルが音頭をとった。まるで合唱であった。
「皇帝万歳!」とビクシウがいった。
「戴冠式だ!」ヴォーヴィネがさけんだ。
「メドールなんかやっつけろ! ブラジル万歳!」ルーストーがさけんだ。〔メドールはアリオストの『オルランド狂乱』中の人物で、美しいアンジェリカの愛人〕
「ああ、銅色の男爵よ、あなたはわれらのヴァレリーがお好きなのか?」とレオン・ド・ロラがいった。「女ぎらいになったのではなかったのか!」
「彼がいったことは丁重ではないが、立派だよ!……」とマッソルが指摘した。
「だけど、あなたはわたしの大事なお得意だし、わたしがあずかっている身柄ですからね。あなたの銀行家としては、あなたの世間知らずのおかげで、損害をこうむりそうですな」
「ほんとうのところを教えてください! あなたはまじめな方だから……」とブラジル人は、デュ・ティエにたずねた。
「するとわれわれはみんな、不まじめだというわけですか、おそれ入りました」とビクシウはいって、会釈した。
「確実な証拠があることをいってくれませんか?……」とモンテスは、ビクシウの言葉などは気にかけずに、つけ加えた。
「よろしい」とデュ・ティエは答えた。「謹《つつし》んで申しあげるが、わたしはクルヴェルの結婚式に招待されているのだ」
「コンバビュスがマルネフ夫人の弁護をするとはね!」とジョゼファはいって、重々しく立ちあがった。彼女は悲劇的な様子で、モンテスのところまで行き、頭を親しげに軽くたたいて、顔に滑稽な感嘆の情を浮かべて、しばらく彼をながめてから、頭をふった。
「ユロが『何がなんでも』という恋のお手本の最初だとしたら、この人は二番目ね」と彼女はいった。「でもこの人は、数にははいらないわね。だって熱帯から来たんですもの」
ジョゼファが、軽くブラジル人の額をたたいたとき、モンテスは椅子にふたたび腰をおろし、目でデュ・ティエに語りかけていた。
「もしぼくがあなた方パリっ子の嘲笑の玩具になっているのなら」とデュ・ティエにいった。「もし、ぼくの秘密を見抜こうとしたのなら……」
そういって、ブラジルの太陽がぎらぎら輝いているまなざしで全員を見まわし、その火の帯でテーブル全体を包むようにした。
「後生だから、教えてください」と彼は嘆願するような、ほとんど子供じみた様子でつづけた。「でも、ぼくが愛している女を中傷することだけはやめていただきたい……」
「いいこと」とカラビーヌは耳もとで答えた。「でも、あなたがヴァレリーに卑劣な仕方で裏切られ、だまされ、もてあそばれているのだとしたら、その証拠を一時間以内に、わたしの家で見せてあげるとしたら、どうなさるつもり」
「ここでは、いえない、こんなにイヤゴーたちがいる前では……」とブラジルの男爵はいった。
カラビーヌには、イヤゴーが「|尾なし猿《マゴ》と聞えた。
「それじゃ、おだまんなさい!」と、彼女は笑いながら答えた。「パリでいちばん才気のある連中から笑われないようにしたほうがいいわよ。わたしの家へいらっしゃい。お話するわ。……」
モンテスは意気阻喪してしまった。
「証拠だ!……」とつぶやいた。「よく考えてみてくれ……」
「証人なら、いくらでも見せてあげるわ」とカラビーヌは答えた。「でも、疑っただけで、こんなに頭にくるんだから、確かなことになったら、気がふれるのじゃないか、心配だわ……」
「強情張りだね、この人は。死んだオランダ国王〔ナッサウ家のウィリアム一世〕より始末が悪いや!」
「おい、ルーストー、ビクシウ、マッソル! それに、そっちの方々! みんな、あさっては、マルネフ夫人の昼食によばれているんだろう?」とレオン・ド・ロラがたずねた。
「|さよう《ヤー》」とデュ・ティエが答えた。「男爵、重ねて謹んで申しあげるが、万一あなたがマルネフ夫人と結婚なさる意志をおもちだったら、法律案になぞらえていえば、あなたはクルヴェルという名の票で否決されてしまった。わたしの友、わたしの昔の同僚、クルヴェルは、八万フランの年金をもっている。おそらくあなたはそれだけのお金をちらつかせなかったのではないですか。そうしておけば、あなたのほうが好かれたでしょうからね」
モンテスは半ば夢みるような、半ば微笑むようにして聞いていた。それがみんなにはおそろしいことと思われた。ボーイ長がこのときやってきて、カラビーヌに、彼女の親戚の方が広間で、お話ししたいことがあるといって待っていると耳うちした。浮かれ女は、立ちあがって、部屋を出た。ヌーリッソンばあさんが黒いレースのヴェールをかぶって、そこにいた。
「それで、わたしのほうからおまえさんのところへ行くのかね、どうしよう? うまく食いついてきたかい?」
「ええ、おばさん、ピストルがあんまりうまく装填されたので、爆発しないかと思って心配よ」とカラビーヌが答えた。
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一一五 ヌーリッソンばあさんの活躍
一時間後に、モンテスとシダリーズとカラビーヌとは、ロシェ・ド・カンカルを出て、サン・ジョルジュ通りにあるカラビーヌの小さなサロンにはいっていった。浮かれ女は、ヌーリッソンばあさんが、暖炉の隅の安楽椅子にすわっているのを見て、
「おや、わたしの伯母さんだわ」といった。
「ああ、わたしですよ。いつものお手あてを、わたしのほうからちょうだいに来ましたよ。おまえさんは、心根はやさしいけれど、わたしのことなんか忘れてしまうんだからね。あす、いくつかの手形を払わなくてはならないんでね。衣装屋なんて、いつも困っているんだよ。おまえさん、いったいだれをお連れしたのかね?……この旦那、なんだかひどく不機嫌そうじゃないか……」
二目と見られないほど醜悪なヌーリッソンばあさんは、このとき完全な変身をとげていて、人の好さそうな老婆に見えたが、椅子から立ちあがって、カラビーヌを抱擁した。カラビーヌもこの老婆の手でおそろしい悪徳の道に投げこまれた百何人かの売春婦の一人であった。
「この人、オセロなんだけれど、オセロみたいに思いちがいはしないですみそうよ。紹介させていただくわ。こちらモンテス・デ・モンテジャノス男爵さま……」
「ああ、旦那のことは存じていますよ。いろいろお噂を聞きましたのでね。あなたの通り名は、コンバビュス。たった一人の女だけを愛しているとかで。それじゃ、パリには、ほかに女がまったくいないみたいじゃありませんか。それで、ご不興の原因は、旦那の意中の方のことですかね? マルネフ夫人とか、クルヴェルの女のことでしょう?……それなら旦那、ご自分の運命を責めたりしないで、ありがたく思いなさいよ。……あれは全然つまらない女で、けちくさい女ですよ。あの女のやることなら、よく知ってますがね!……」
「およしなさいよ」とカラビーヌはいった。ヌーリッソンばあさんは、彼女を抱擁しながら一通の手紙をその手にこっそり渡した。「ブラジル人のことを、知らないくせに。ブラジル人は、どうしても自分の心まで串刺しにしたいほど、荒っぽい人たちなのよ。……嫉妬深いうえに、もっと嫉妬深くなろうっていうんですからね。この人はね、みんなを殺してやる、なんていっているけれど、虫一匹殺せない人よ。だって恋しているんですもの。つまり、男爵さまをここへ連れて来たのは、スタインボックの小僧から手に入れたこの人の不幸の証拠を見せてあげるためなの」
モンテスは酔っていた。その話は、自分に関係がないように思われた。カラビーヌは、ビロードの短いマントを脱ぎすてると、つぎのような恋文の複写《コピー》を読んだ。
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わたしの猫さん、今夜、彼《ヽ》はポピノのところに夕食に行くの。そして十一時ごろ、オペラ座にわたしを迎えにくることになっています。五時半ごろ、家を出て、わたしたちの天国で、あなたにお会いするつもり。晩ご飯は、メゾン・ドールからの出前にしてちょうだい。服装は、オペラ座にわたしを連れて行けるような正装のこと。わたしたちは四時間いっしょにいられるわ。この手紙は返してください。ヴァレリーはあなたを疑ぐっていませんわ。あなたのためなら生命だって、財産だって、名誉だって、おしくない。でも、運命の悪戯がこわいの。
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「男爵さま、これが今朝、スタインボック伯爵に送られた艶書よ。宛名をごらんなさい。もとの手紙は焼かれてしまったわ」
モンテスは紙をためつすがめつして、女の筆跡であることを認めた。そして、ふと当然のことを思いついたが、彼の頭がどんなに混乱していたかはそれでわかる。
「ところで、あんた方はどんな利害関係があってぼくの心を引き裂くのだ。だって、この恋文をしばらく手もとにおいて、複写させる権利を、高く買ったのにちがいはあるまい」と彼はカラビーヌを見ながら、いった。
「たいへんなおばかさんね!」とカラビーヌはヌーリッソンばあさんに合図されて、「あなたはこのあわれなシダリーズが目にはいらないの。……十六の子供で、三カ月以来、食欲もなくなり、あなたに恋こがれているというのに、あなたはこの子をまだちょっと見てやることもしないんですってね。この子はそれで悲観しているのよ」
シダリーズは目にハンカチをあてて、泣くまねをした。
「この子はね、おとなしそうに見えるけれど、惚れた男が、男たらしにたぶらかされているのを見て、腹を立てているんですよ」とカラビーヌはつづけた。「この子はヴァレリーを殺しかねないわ」
「それは」とブラジル人がいった。「ぼくのやる仕事だ」
「殺すんだって……おまえさんが?」ヌーリッソンばあさんがいった。「そんなことは、ここじゃもう流行らないよ」
「ぼくはこの国のものではない! ぼくは!」とモンテスが答えた。「ぼくは治外法権者なんだ、フランスの法律なんか眼中にない。だから、証拠さえ出してくれれば……」
「おや、それでは、この恋文ではだめなんですか?」
「だめだね」とブラジル人はいった。「筆跡なんか信じない。ぼくは見たいんだ……」
「見たいんですって!」とカラビーヌは、にせの伯母の新しい身ぶりの意味を、みごとに読み取って、「それじゃなにもかも見せてあげるわ。一つ条件つきでね……」
「どんな条件だ?」
「シダリーズを見てちょうだい」
ヌーリッソンばあさんの合図で、シダリーズは情愛をこめてブラジル人を見つめた。
「この子を愛してくれる? この子の面倒を見てくれる?」とカラビーヌはたずねた。「このくらい美しい娘だったら、お屋敷に住んで馬車を乗りまわすだけねうちがあるんじゃない? この子を車なしでほうっておくなんて、非人間的だわ。それにこの子には……借金があるのよ。……いくらだっけ?」とカラビーヌはシダリーズの腕をつねった。
「ねうちだけのことはある子です」と、ヌーリッソンばあさんがいった。「これで買い手があれば申し分ないんですがね」
「それでは」と、このすばらしい傑作がようやく目にはいって、モンテスはさけんだ。「ヴァレリーを見せてくれるね?」
「スタインボック伯爵もいっしょにね」とヌーリッソンばあさんはいった。
十分前から、老婆はブラジル人を観察していた。彼のうちの楽器が、注文どおり、殺人の音域にまで高められているのを見た。また、とりわけ自分がだれにあやつられているのか用心しようともしないほど、めくらになっていることを悟った。そこで彼女は話に割ってはいった。
「ブラジルの旦那、シダリーズは、わたしの姪でね。だから、この件はいささかわたしに関係があるんで。だけど、そんなことなら、十分間で解決がつきますよ。だって、スタインボック伯爵に家具つきの部屋を貸しているのが、わたしの友だちでね。いまごろはきっとその部屋で、あんたのヴァレリーはコーヒーを飲んでいるでしょうよ。コーヒーといってもおかしなもので、あの女が勝手にコーヒーと呼んでいる代物《しろもの》ですがね。そこで、話をつけましょうよ、ブラジルのお方! わたしはブラジルが好きですよ。暑い国でしょう。わたしの姪の将来は、どうなるんで?」
「おいぼれ駝鳥《だちょう》め!」とモンテスは、ヌーリッソンばあさんの帽子についている羽根に目をとめていった。「話を終わりまで聞いてくれ。あんたがぼくに見せてくれるなら……ヴァレリーと彫刻家がいっしょにいるところを見せてくれるのなら、……」
「あなたがあの女といたいような格好でいるところをね」とカラビーヌはいった。「わかったわ」
「そうしたら、このノルマンディー娘を引き受けて、連れていくよ……」
「どこへ?」とカラビーヌがきいた。
「ブラジルだよ」と男爵が答えた。「ぼくの女房にする。ぼくの伯父は、十里四方の土地を残してくれたが、売るわけにいかない。それで、いまだにその農場をもっている。そこには百人の黒ん坊がいる。だが黒ん坊だけだ。男と女と子供と、ぼくの伯父に買われた奴らばかりだ。……」
「奴隷商人の甥というわけね!……」とカラビーヌはふくれ面をして、「ちょっと考えものね――シダリーズ、あなた、黒ん坊好き?」
「さあ、もうばかな話はやめにしておくれ、カラビーヌ」とヌーリッソンばあさんはいった。「ほんとうだよ、旦那とわたしとは商談をしているんだからね」
「もしフランス女とまた仲よくなるようなことになったら、女をすっかりぼくのものにしたい。あらかじめことわっておくけれど、お嬢さん、ぼくは王さまだ。それも立憲君主などじゃない。ロシア皇帝だ。家来はみんな買いとってある。だからだれだってぼくの王国から逃げ出すわけにいかない。人里から百里も離れているし、奥地のほうは蛮人どもにかこまれ、海からは、このフランスぐらい大きい砂漠でへだたっている……」
「パリの屋根裏部屋のほうがずっといいわね」とカラビーヌはいった。
「ぼくもそう思ったんだ」とブラジル人は答えた。「そこで領地を全部売り払い、リオ・デ・ジャネイロでの持物全部を手放して、マルネフ夫人に会いに来たんだ」
「そんな旅行をむだにする手はないわよ」とヌーリッソンばあさんがいった。「あんた自身、女に慕われるだけのことはある。とりわけとても好男子だから……ね、いい男だよ」と彼女はカラビーヌにいった。
「ほんとうにいい男だわ。『ロンジュモーの御者』よりも男ぶりがいいわ」〔オペラの題名。そのリフレインで、「ロンジュモーの御者はいい男」という〕と浮かれ女は答えた。
シダリーズはブラジル人の手をとったが、モンテスはその手をできるかぎり礼儀正しくはらいのけた。
「ぼくがここへもどってきたのは、マルネフ夫人をさらってゆくためだった」とブラジル人はまたその論法を蒸しかえして、「帰ってくるのに、どうして三年もかかったか、わかるまい?」
「わかんないわ、野蛮人のやることは」とカラビーヌがいった。
「というのは、彼女が何度も何度もぼくと二人きりで砂漠で暮したい、といったからだ……」
「野蛮人なんかじゃないわ」とカラビーヌは吹き出して、「文明開化のお人好し族だわ」
「彼女が何度もそういうもんだから」と男爵は浮かれ女の嘲笑などには平気でつづけた。「あの広大な領地のまんなかに、とても住み心地いい家をつくったのだ。ヴァレリーを連れにフランスにもどって、再会した夜に……」
「再会とはお上品ね」とカラビーヌがいった。「わたしも覚えておこう!」
「あの女は、あのマルネフの奴が死ぬまで待ってくれというので、それに同意して、ユロの世話を受けたことも許してやった。悪魔が女に化けたのかどうかは知らないが、それ以来、あの女はぼくのどんな気まぐれも、どんなわがままも満たしてくれた。つまり、ほんのちょっとでも、彼女を疑ぐる気など起こさなかった!……」
「これは少し猛烈だわ」とカラビーヌはヌーリッソンばあさんにいった。
ヌーリッソンばあさんは同意のしるしに頭をふった。
「あの女を愛しているのと同じくらい、あの女を信じている」とモンテスは涙を流しながら、「さっきは、食卓で、あやうくみんなに平手打ちをくわせるところだった。……」
「そんなことだろうと思ってたわ」とカラビーヌがいった。
「もし、ぼくがだまされているのなら、あの女が結婚するのなら、それにいまごろスタインボックの腕のなかにいるというのなら、殺しても殺したらない女だ。蝿をたたきつぶすみたいに殺してやる。……」
「憲兵はどうする?……」とヌーリッソンばあさんは、ぞっとするような、老婆の微笑をたたえていった。
「刑事とか、判事とか、重罪裁判所とか、その他もろもろはどうするの?……」とカラビーヌがいった。
「あんたはうぬぼれやだね」とヌーリッソンばあさんはモンテスの復讐計画をよく知りたいと思って、口をはさんだ。
「殺してやる!」とモンテスは冷ややかにくりかえした。「さっきは、ぼくのことを野蛮人だといったね。……それで、ぼくがあんたたち、フランス人のばからしさをまねして、薬屋に毒薬でも買いに行くと思っているのか?……ここへ来る途中で、あんたたちがいうとおりの場合には、どうやって復讐してやろうかと考えていた。ぼくの黒ん坊のなかに、効き目のもっとも確かな動物性の毒をもっているやつがいる。それは植物性の毒よりずっときくおそろしい病気で、ブラジルでしかなおらないものだ。シダリーズにそれを感染させて、それからぼくが受けつぐ。つぎには、クルヴェル夫妻の血のなかにまわって命があぶないころには、ぼくはアゾーレス群島の向うへ、あんたのいとこといっているだろう。それから、シダリーズの病気をなおして、ぼくの妻にする手はずだ。われわれ野蛮人には、われわれの流儀があるのだ!……シダリーズは」と彼はノルマンディー娘を見て、「ぼくに必要な獣だ。借金って、いくらだ?」
「十万フランよ!」とシダリーズがいった。
「口数は少ないけれど、口のきき方はうまい子ね」と、カラビーヌは小さな声でヌーリッソンばあさんにいった。
「気が狂いそうだ」とモンテスはうつろな声でさけび、長椅子にくずれるようにすわった。「死んでしまうだろうが、それでも見たい。だって、そんなことはありえないからだ。複写の恋文!……だけど、それがにせものではないとだれにいえるんだ? ユロ男爵がヴァレリーを愛したって!……」と、ジョゼファの話を思い出して、「だが、男爵が愛していなかった証拠は、ヴァレリーが生きているということだ!……もし彼女がすっかりぼくのものでなかったら、ぼくは、だれにだって生かしたまま彼女を渡すようなことはしない。……」
モンテスは見るもおそろしい顔つきだったが、その声はもっとおそろしかった! 怒声を発し、身体をよじらせた。手に触れるものは、すべてこわし、紫檀の道具もガラスのように割ってしまった。
「よくこわすわね!」とカラビーヌはヌーリッソンばあさんを見て、「ちょっと」とモンテスを軽くたたいて、「たけり狂うローランなんて、詩のなかでは、とても格好がいいけれど、部屋のなかでは、散文的で、高くつくばかりよ」
「いいかね」とヌーリッソンばあさんは立ちあがり、打ちひしがれたモンテスの前に立ちはだかって、「わたしもあんたと同じ宗旨だよ。ぞっこん惚れたのなら、死ぬほど好きになったのなら、命がけで恋するべきだね。逃げていく者は、なにもかもむしりとっていく、そりゃそうだ! すっかりぶちこわしてね! わたしはあんたを尊敬するよ、感心だよ、同感だね。とくにあんたのやり口は気に入ったから、わたしは黒ん坊びいきになれそうだ。でも、あんたはほれているから、尻ごみするんじゃないかね?……」
「ぼくが!……あいつがそんな恥知らずだったら、ぼくは……」
「いいかね、あんたはしゃべりすぎる」とヌーリッソンばあさんは正体を現わして、「復讐をしてやるとか、野蛮人のやり方でやるとかいう男は、別な態度をとるものさ。あんたの女を楽園で見たいというのなら、シダリーズを連れて、女中のまちがいで、偶然はいったようなふりをするんだよ。だけど、騒ぎをはじめちゃいけないよ! 仕返しをしたいというのなら、おどおどした様子をし、絶望したようなふりをし、あんたの女に手玉にとられているようなふりをするんだ。……わかったかい?」とヌーリッソンばあさんは、モンテスを見ながらいった。モンテスは、巧みに仕組んだ悪だくみにどぎもを抜かれていた。
「よし、駝鳥ばあさん」彼は答えた。「行こう!……よくわかった」
「さようなら、おまえ」とヌーリッソンばあさんは、カラビーヌにいった。
老婆は、シダリーズに合図して、モンテスといっしょに下へいかせて、カラビーヌと二人きりになった。
「こうなると、いいかね、たったひとつ心配なことがある。あの男がヴァレリーを絞め殺さなけりゃいいと思ってね! そんなことになったら大弱りだよ。だって、内密に事を運ばなくてはいけないからね。だけどわたしの想像では、ラファエロの絵はおまえのものだよ。ところがね、あれはミニャールの絵だといっている人がいるのさ。安心おし、その方がずっときれいだから。ラファエロの絵ときたら、真黒だっていうじゃないか、ところがその絵は、ジロデーの絵みたいにきれいなんだよ」
「ジョゼファに勝ちさえすればいいのよ」とカラビーヌはさけんだ。「ミニャールでも、ラファエロでも、どっちだって構わないわ。……あの泥棒女ったら、今夜真珠をたくさんつけていたのよ……あのためなら地獄へ落ちてもいいくらいね!」
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一一六 一八四〇年の連れこみ宿
シダリーズとモンテスとヌーリッソンばあさんとは、カラビーヌの戸口にとまっていた辻馬車に乗りこんだ。ヌーリッソンばあさんは、御者に低い声で、イタリアン大通りの一郭にある家を教えた。ほどなくそこに着いた。というのは、サン・ジョルジュ通りから七、八分の距離だったからである。だがヌーリッソンばあさんは、ル・ペルティエ通りにはいり、とまっている馬車を調べられるように、ゆっくり進むように命令した。
「ブラジルの旦那!」とヌーリッソンばあさんがいった。「あんたの天使の召使いと馬車とを捜してみなさいよ」
男爵は、辻馬車がちょうどその前を通ったときにヴァレリーの馬車を指さしてみせた。
「召使いに十時に来るようにいってあるんだよ。自分は辻馬車であの家までいって、いまごろはスタインボック伯爵といっしょさ。あそこで晩餐をすまして、三十分たたないうちに、オペラ座に行くのさ。うまく仕組んだものだ」と、ヌーリッソンばあさんはいった。「これで、あんたが長いあいだ、だまされていたわけが、わかったろう」
モンテスは答えなかった。虎のような男に変身して、晩餐のあいだあれほど称賛されたゆるぎない冷静さにもどっていた。それは破産の宣告を受けて、一夜明かした日の破産者のような落ちつき方だった。
目ざす家の戸口に、会社の名前をそのままとって、『コンパニー・ジェネラル』と呼ばれる、二頭立ての貸し馬車が、とまっていた。
「馬車のなかで、待っていておくれ」と、ヌーリッソンばあさんはモンテスにいった。「ここは料理屋にはいるようには、いかないんだ。呼びにくるからね」
マルネフ夫人とヴェンツェスラスの楽園は、クルヴェルの妾宅とまるで似ていなかった。もっとも、クルヴェルは例の家をマクシム・ド・トライユ伯爵に売り渡してしまった。そんな家は、もう無用だと、考えたからである。その楽園は、二人だけでなく、多くの人々の楽園でもあったが、イタリアン大通りの一郭にあって、階段に通ずる五階の一部屋からなっていた。その家の各階には、踊場に連続した部屋があり、かつてはアパートの台所として、建てられたものであった。しかし、その家がある種の旅館に変わって、人目をしのぶ恋人たちに、法外な値段で貸すのを見ると、主だった借家人、つまりヌーヴ・サン・マルク通りの古着屋とかヌーリッソンばあさん自身が、それらの台所の計りしれない価値を正しく見積って、一種の食堂に模様がえしたのである。それらの部屋は、どれも、隣りと、二枚の厚い壁で隔てられ、あかりを通りに面した窓からとり、踊場に出る入口を、二重鍵の分厚い、観音開きの扉で塞いだので、外界とは完全に遮断されていた。そこで、盗聴される心配もなく、食事をとりながら、重要な秘密を話すことができた。より確かな安全をはかって、窓には、外側によろい戸、内側には板戸がはめてあった。以上の長所のために、これらの部屋は月に三百万フランもとられた。楽園と秘密をはらんだ、この家の部屋代は、二万四千フランにもなって、ヌーリッソンばあさん一号は、自分で取りしきることはしなかったので、管理人のヌーリッソンばあさん二号に給料を払っても、平均して二万フランは稼いでいた。
スタインボック伯爵が借りた楽園には、ペルシャ絨毯《じゅうたん》が敷きつめてあった。蝋引きの、赤くなった、板石張りの、みすぼらしい、床の冷たさとかたさは、ふくらした絨毯の下になって、歩いても感じられなかった。家具には、二脚の美しい椅子と|壁の凹み《アルコーヴ》にすえた寝台とがあり、寝台は、その折、上等な夕食の残りをのせたテーブルで、半ば隠されていた。そこには、首の長い二本の酒瓶と、氷に冷やした気の抜けたシャンパンの瓶とが、ヴィーナスが耕したバッカスの畑の広さを物語っていた。たぶんヴァレリーがもちこんだものであろうが、暖炉用の低い椅子の横に、坐り心地よさそうな老人用肘掛け椅子が並び、それにポンパドゥール様式で、縁がみごとな鏡つきの、紫檀の美しい衣裳タンスが見られた。天井のランプは、卓上と暖炉を飾っている蝋燭とともに、部屋をうす明るく照らしていた。
以上の素描は、一八四〇年のパリでは、秘められた恋がどんなにみみっちくなったかを、万人に描いてみせるであろう。ウルカノース〔ギリシャ神話。鍛冶の神。目に見えない網をつくって不義の妻を捕えた〕の網によって、道ならぬ恋が象徴されていた三千年前とは、なんというちがいだろう!
シダリーズと男爵が階段をのぼっていたとき、ヴァレリーは、大束の薪が燃えている暖炉の前に立って、ヴェンツェスラスにコルセットをしめさせていた。それは、しなやかで端麗なヴァレリーのように、太りすぎても、やせすぎてもいない女が超自然的な美しさを見せるときである。潤《うるお》いをおびたバラ色の肌は、眠気で重たい眼《まなこ》も、開かせずにはおかない。裸同然の女体は、ペチコートのはっきりした襞と、コルセットの綾織布とで、くっきりと浮き彫りにされていた。別れなくてはならないとなると、何にでも愛惜の念が湧くものだがこうした女には抵抗しがたいものがあった。鏡のなかで微笑んでいる、幸福そうな顔、じれている足、なかなかもとどおりに結えない乱れ髪をいじくりまわしている手、感謝にあふれた目、それに、夕日のように、顔のすみずみまであかね色に染めた、満足の火、こうしたすべてがこの瞬間を思い出の宝庫と化していた。……たしかに、自分の若気の過ちを思い返して、このように甘美な場景のいくつかを蘇らせたならば、だれしも、ユロやクルヴェルのような連中の気違い沙汰を許す気にはならないとしても、おそらく理解することはできるはずである。女は、こんなとき、自分の魅力を十分知っているものなので、あいびきの二番刈りとでもいうべきものをきまって手に入れる。
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一一七 女芝居の最終幕
「さあ、早くしてよ! 二年たっても、コルセットひとつしめられないのね! あんたもまた、典型的なポーランド人ね。もう十時よ。ヴェンツェス……ラス!」と、ヴァレリーは笑いながら、いった。
このとき、意地の悪い女中が、アダムとイヴの身を守っていた観音びらきの扉の掛け金を、ナイフの刃でたくみにはずして、乱暴に開けてしまった。というのは、こうしたエデンの園に来る人たちは、わずかな時間をやりくりして、訪れて来るからである。そこで、展覧会でよく見受ける、ガヴァルニ風の魅惑的な風俗画が、一枚さらけ出されることとなった。
「こちらです、奥さま!」と女中がいった。
シダリーズが、モンテス男爵をしたがえて、部屋にはいった。
「でも、お客さまがいらっしゃるじゃないの!……ごめんください、奥さま」と、ノルマンディー娘はびっくりして、いった。
「なんだ、ヴァレリーじゃないか!」と、モンテスはさけぶと、扉を荒々しくしめた。
マルネフ夫人は、隠しきれないほどの激しい動揺にとらえられて、暖炉の隅の低い椅子にへたへたとすわりこんだ。涙が目に浮かんだが、すぐに乾いた。モンテスのほうを見て、シダリーズの姿に気がつくと、不自然な笑い方をした。傷つけられた女の威厳が、中途半端な身仕度のふしだらさを消してしまった。彼女は、モンテスに近寄って、その顔を見つめた。彼女のまなざしは横柄きわまりないもので、目は刃物のように光っていた。
「ああ、そうなの」と、ブラジル人の前に立ちはだかって、シダリーズを示しながら、「あんたの忠実も、裏をかえせば、こんな始末なの? 愛など信じない女を説き伏せてみせると、繰り返し約束していたくせに! あんたのために、いろいろつくして、罪まで重ねたというのに!……あんたの目には狂いはないわね、こんなに若くって、きれいな子にくらべたら、わたしなんかつまらない女ですもの、……わかっているわよ。あんたの言いたいことぐらい」と、ヴェンツェスラスを指し示した。そのだらしのない格好が、打ち消しようのない明白な証拠となっていた。「あんたには、関係ないことよ。こんな卑劣な裏切りを見せつけられては、いやになるわ。わたしのあとをつけまわして、ここの階段を一段一段買いあげて、女将や女中や、きっとレーヌまで買収したんでしょうから――ごりっぱだわ!――こんな卑劣な男に、まだすこしでも未練があれば、男の愛が倍にもなるような、わけをきかせてあげるのだけど……でも、あんたの疑いはそっとしておきましょう。そのうちに後悔するでしょうから……――ヴェンツェスラス、ドレスをとってちょうだい――」
ドレスを受け取って、それを着ると、鏡を見ながら、着つけをなおした。ブラジル人をまったく無視し、ひとりきりでいるみたいにゆっくりを身仕度を終えた。
「ヴェンツェスラス、仕度はできたの? 先へ行って」
鏡のなかで、モンテスの顔色をうかがっていたが、その青ざめた顔には、こうした強い男を、女の魅惑のとりこにさせる、あのか弱さのきざしが、ふたたび見られるように思えた。そこで、近寄って彼の手をとって、恋人を酔わせる、あのおそろしい、お気に入りの香水を嗅がせようとした。そして彼がふるえ出したのを感ずると、咎《とが》めるようなまなざしで、彼を見つめた。
「クルヴェルさんに、あんたの探検のもようを話しに行くお気持ちなら、どうぞご遠慮なく。あの人は、あんたの話なんか信じないわ。だからあの人と、結婚できるのだわ。あさってから、あたしの夫よ……しあわせにしてあげるつもりよ!……さようなら! わたしのことは忘れて……」
「ヴァレリー」と、アンリ・モンテスはさけぶと、彼女を抱きしめ、「こんなふうに別れるのはいやだ!……ブラジルへ来てくれ!」
ヴァレリーが男爵をみると、そこにふたたび奴隷の姿を見た。
「アンリ、わたしのことがまだ好きなら、二年したらあんたの奥さんになってあげるわ。でも、今のあんたの顔は、とても腹黒い人みたい」
「おまえに誓うよ。無理に酔わされて、にせの友だちから、この女をおしつけられたんだ。なにもかも偶然のせいだ」
「では、まだ許せるっていうわけね?」と、彼女は微笑《ほほえ》んだ。
「それで、やっぱり結婚をするのかい?」と、男爵は、不安に胸をえぐられながらたずねた。
「八万フランの年金がついているの!」と、彼女はなかば滑稽な熱意を示していった。「それに、クルヴェルはほれているから、結婚をやめたら、死んでしまうわ!」
「ああ! そうか」と、ブラジル人はいった。
「それじゃ、近いうちに、話し合いしましょう」と、彼女はいうと、意気揚々と、階段を降りていった。
『もう迷う余地はない』と、男爵は一瞬立ちすくんで考えた。『なんということだ! あの女はおれの恋をだしにして、あのばかのクルヴェルを厄介ばらいしようとしている。前にマルネフの破滅を当てにしていたように!……おれは神の怒りを実現する道具となろう!』
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一一八 ヴァレリー復讐される
二日後、マルネフ夫人を散々こきおろしたデュ・ティエの招待客たちが、一時間前に、パリ区長の光栄ある名前に改名して、過去を清算したマルネフ夫人の邸の食卓についていた。このような二枚舌は、パリではごくありふれた軽薄さのひとつである。ヴァレリーは、うれしいことに、教会で、ブラジル人の男爵に出会った。正式の夫になったクルヴェルが、得意になって、彼を招待したのだ。
昼食の席にモンテスが連なっているのを見ておどろく人はいなかった。一座の才人たちは、情事の破廉恥ななりゆきや快楽の売買には、かなり以前から、不感症になっていた。それまで天使のようにあがめていた女をかろんじだしたスタインボックの沈うつな様子が、すぐれて趣《おもむき》があるように見えた。そんな様子で、ポーランド人は、ヴァレリーとの仲はすっかりきれたと、言いたげであった。リスベットは、親友のクルヴェル夫人を祝福しに来たが、アドリーヌの加減が思わしくないので、午餐会は失礼すると言いわけをした。
「安心しておいで」と、彼女は、別れぎわに、ヴァレリーにいった。「あの連中は、そのうちあんたを招待するだろうし、ここにもくるさ、『二十万フラン』と、聞いただけで、アドリーヌは死にかけているんだからね! あんたは、その一件で、みんなの首根っこを押えているのよ。でも、わたしには聞かしてくれるだろうね?……」
結婚してから、一月とたたないうちに、ヴァレリーはスタインボックと十ぺんほどけんかをした。彼は、アンリ・モンテスについて、釈明を求めたり、楽園の例の場面でのモンテスのいったせりふを口にしたりした。そして、ヴァレリーを、軽蔑した口調でののしるだけでは満足せずに、きびしく監視するので、彼女はもはやほんの一瞬も自分の自由にはならず、ヴェンツェスラスの嫉妬と、クルヴェルのしつこさの板ばさみとなって、どうにも動きがとれなくなっていた。そんな折の助けの神、リスベットがそばにいないので、とうとう癇癪を起こして、貸した金を手きびしく催促するようになった。これには、さすがのスタインボックも、自尊心を深く傷つけられて、それ以来クルヴェルの邸には姿を見せなくなった。ヴェンツェスラスをしばらく遠ざけて、自由をとりもどしたいという、ヴァレリーの意図は達せられたわけである。
クルヴェルは、新夫人を社交界へ進出させることについての交渉でいなかにいるポピノ伯爵家まで旅行しなければならなかったが、ヴァレリーは、その機会を待って、モンテス男爵とあいびきの約束ができた。一日じゅう、男爵をひとりじめにして、その恋心をあおらずにはおかないような理由をいろいろと与えるつもりだった。その日の朝、もらった大金のお礼で、罪のおそろしさを知ったレーヌは、もちろん見知らぬ他人より自分の主人のほうが大事なので、ヴァレリーに警告しようとした。しかし、口を割ったらサルペトリエルの狂人病院に監禁するとおどかされていたので、はっきりしたこともいえなかった。
「いま、奥さまはとてもおしあわせなのに、なぜ、あんなブラジル人と関係なさるのです?……あの男は信用できませんわ!」
「おまえのいうとおりだよ、レーヌ。だから、これかぎりで、別れるよ」
「まあ、奥さま、それで安心しましたね。ぞっとするんですの、あの黒ん坊は! どんなことをするかわかりませんもの……」
「ばかだね、おまえは。差し向かいになれば、こわがるのは先方だよ」
このときリスベットがはいってきた。
「わたしの大好きな、やさしい小やぎさん、ずいぶん久しぶりね」と、ヴァレリーは、いった。「とても困っているの……クルヴェルときたら、うるさいし、ヴェンツェスラスとは別れたの。けんかしたの」
「知っているわ」と、リスベットは答えた。「そのことで、来たのよ。ヴィクトランが見かけたのでね。ヴェンツェスラスは、夕方の五時ごろ、ヴァロワ通りの二十五スー均一の安食堂にはいろうとしていたところだったそうで。空き腹でいるのを、気の毒に思って、ルイ・ル・グラン通りに連れて帰ってきたのよ。……オルタンスも、やせて、苦労している、みすぼらしいヴェンツェスラスを見ると、すぐに仲なおりの手をさしのべたのよ。……あんたは、こんなふうに、わたしを裏切ったのね!」
「アンリさまがお見えです、奥さま」と召使いが来て、ヴァレリーに耳うちした。
「きょうは、かんべんして、リスベット。あす、なにもかもお話するわ」
しかし、後で述べるように、まもなくヴァレリーは、だれとも何にも話ができなくなってしまった。
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一一九 義捐金《ぎえんきん》募集の修道僧
五月の終わりごろ、ユロ男爵の恩給は、ヴィクトランがヌシンゲン男爵に分割払いをした結果、抵当をきれいに解かれた。周知のように、恩給は生存証明書の提示を待って、はじめて支払われる。ユロ男爵の居所がわからなかったので、ヴォーヴィネの申請によって差押え解除に署名したので、その未払い分を受け取るには、本人を探し出さねばならなかった。男爵夫人は、ビアンション医師の手当のおかげで、健康を取りもどした。気立てのやさしいジョゼファが、一通の手紙をくれたので、アドリーヌの回復を大いに助けた。その手紙は、正確な綴り字からみて、デルーヴィル公爵の手のあとが歴然としていた。四十日にわたる、熱心な探索のあとで、歌姫はこういうふうに書いてきた。
[#ここから1字下げ]
男爵夫人さま
ユロ男爵は、二カ月前まで、エロディー・シャルダンというレース物のつくろいをする女と、ベルナルダン通りに同棲しておりました。例のビジューから、男爵をとりあげた女です。しかし男爵は持ち物全部をそこに残して、姿を消し、どこへ行かれたのか、わからなくなりました。わたしは、落胆せずに、男爵の捜索をある男に頼みましたところ、すでに、ブルドン大通りで、男爵を見かけたということです。
あわれなユダヤ女ではございますが、キリスト教信者のあなたさまの約束は守ります。天使が、悪魔のためのお祈りをいたしますように! 天国では、そんなこともときにはあるはずです。
心からの尊敬の念をこめて、永遠にあなたの貧しい召使いとしての、ジョゼファ・ミラー
[#ここで字下げ終わり]
ユロ・デルヴィー弁護士は、その後、おそろしいヌーリッソンばあさんの噂もきかず、義父は結婚するし、義弟は家に帰ってくるし、新しい義母のヴァレリーからは、いやがらせもなく、また、母の容体も日ましに快方に向っているので、一時間が一日に数えられるパリ生活のあわただしい流れに押し流されながら、政治や裁判所の仕事に打ちこんでいた。代議院に報告書を提出する任務があったので、会期の終わりごろ、一晩徹夜することになった。
九時ごろ、書斎にはいると、召使いが笠つきの燭台を持ってくるのを待ちながら、父親のことを考えていた。父親の捜索を歌姫にまかせきりなのに気がとがめ、翌日、シャピュゾ氏をたずねることにした。そのとき、窓辺の薄暮のような光のなかに、脳天が黄色く禿げあがり、まわりに白髪のある老人の、おごそかな顔が浮かんでいるのに、気づいた。
「旦那さま、修道院再建のために、砂漠を出発して、義捐金を集めているあわれな修道僧に会ってくだされい」
この幻が口をききはじめると、ユロ弁護士はおそろしいヌーリッソンばあさんの予言を、とつぜん思い出して、身震いした。
「あの老人を通しなさい」と、彼は召使いにいった。
「書斎が臭くなりますよ」と、召使いは答えた。「あの褐色の服はシリヤから出発して以来、着っぱなしで、シャツもつけていないとか……」
「あの老人を通しなさい」と、弁護士はくりかえした。
老人がはいってきた。ヴィクトランは、この行脚僧と称する老人を疑わしそうに見つめた。その法衣はナポリ貧民のボロ服と大差なく、僧自身が人間の屑なので、サンダルも革の屑からできていて、いかにもナポリ修道僧のみごとな見本らしかった。まちがいなくほんもののようなので、いちまつの疑いを抱きながらも、弁護士はヌーリッソンばあさんの妖術を信じ込んだ自分を叱《しか》ったくらいであった。
「いくらほしいのだ?」
「思召《おぼしめ》しだけで」
ヴィクトランは、積み重ねてあった五フラン銀貨から一枚を抜きとると、見知らぬ男に差しだした。
「五万フランにくらべると、だいぶ少ないですな」と、砂漠の乞食僧はいった。
それでヴィクトランの疑惑はふき飛んだ。
「天は約束を守ったのかね?」と、ユロ弁護士は眉をひそめていった。
「お疑いは、天にたいする侮辱ですぞ」と、修道僧は答えた。「葬式が出るまでは、金を出せないというのなら、よろしい。一週間後にまいりましょう」
「葬式だって!」と、ユロ弁護士は立ちあがり、さけんだ。
「手は打ちましたよ」と、老人は退《の》きながら、いった。「パリでは、死体はさっさと始末されますよ」
目を伏せていたユロが、答えようとしたとき、すばしこい老人の姿は、すでにそこになかった。
「さっぱりわからない」と、ユロ弁護士は、ひとりごとをいった。「一週間たって、親父が見つからなかったら、捜索を依頼しよう。それにしても、ヌーリッソンばあさんは、(そうだ、あのばあさんは、こんな名だった)どこで、あんな役者を見つけるんだろう?」
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一二〇 医者の話
その翌日、ビアンション医師は、一月前から、軽い気管支炎で、引きこもっているリスベットを診察し、それから男爵夫人には、庭に出ることを許した。学識の深い医師は、リスベットに関しては、決定的な症状を観察するまで、診断をくだすのをさし控えたが、関心をもっていた神経的な震えが、二カ月の引籠《ひきこも》りの後で、大気から受ける影響はどんなものかを観察するため、男爵夫人といっしょに庭に出た。この神経症の治療が、ビアンションの天才を誘惑した。この偉大で、有名な医者が、腰を落ちつけて、しばらく時間をさいてくれるのを見ると、男爵夫人も子供たちも、儀礼的にいろいろ言葉をかけた。
「先生の生活は、それはおいそがしく、たいへんお辛いこともあるでしょうね!」と、男爵夫人がいった。「一日じゅう、肉体的な悲惨や苦痛のさまをながめてお暮しになるんですもの。お察ししますわ」
「奥さま」と、医者は答えた。「慈善事業にたずさわっておられる奥さまが、どんな光景を目撃されるか、わたしも知っております。しかし、われわれ同様、奥さまも、次第に慣れていかれるでしょう。それが社会の法則です。聴罪司祭も、裁判官も、代訴人も、職業精神で人間的感情を抑えつけなければ、やっていけません。こうした現象がなかったら、だれも生きてはいけません。軍人も、戦時には、われわれより、ずっと残酷な光景を目にします。しかし実戦の経験がある軍人は、みんな善良です。われわれには、治療に成功したときの喜びがある。奥さまがたには、ある家族を、飢えや堕落や不幸の恐怖から救い出し、労働や社会生活に復帰させるという喜びがあります。しかし、裁判官や検事や代訴人には、どんな慰めがあるでしょう? ああいう人たちは、不成功を残念がるけれど、後悔することのない社会的怪物を、つまり、私利私欲のもっとも悪辣《あくらつ》なたくらみを、一生、あばきつづけるのですからね。社会の半分は、他の半分を観察することに、一生を費すのです。わたしの旧友で、いまは隠居の身の代訴人がいますが、その話によると、十五年このかた、公証人や代訴人は、訴訟依頼人を、依頼人の相手方と同じように信用していないそうです。ご令息は弁護士でしたね。どうですか、弁護依頼人のために、ひどい目にあったという経験はありませんか?」
「ええ、しょっちゅうです」と、ヴィクトランは微笑した。
「こうした根深い罪悪は、なにが原因でしょうか」と、男爵夫人がたずねた。
「宗教心の欠如と、エゴイスムのかたまりでしかない金銭の横行からでしょうな。むかしは、金がすべてではありませんでした。それに優《まさ》るものが認められていました。たとえば、家柄とか、才能とか、国家にたいする奉仕とか。ところが、今日では、法律が金をいっさいの尺度とし、また、政治能力の土台としています! 裁判官でありながら、被選挙権をもっていない人がいる。ジャン・ジャック・ルソーも、そんな一人でしょう。遺産は、なにかにつけて、分割されるばかりなので、だれもが、二十《はたち》になると、自分のゆくすえを考えざるをえない。ところが、地位をつくる必要に迫られて、手段が卑劣になるし、それを妨げるものは何もない。フランスでは、カトリック再興に献身しているひとの、賞讃すべき努力にもかかわらず、宗教心が欠如しています。これが、まあ、わたしのように、社会の腹わたをながめている者の、一般的感想でしょうな」
「それでは、楽しいことはないわけですわね?」とオルタンスがいった。
「ほんとうの医者は、学問に情熱を燃やします」と、ビアンションは答えた。「社会の役に立っているという確信と同じくらい、医者はこの情熱に支えられています。いま、わたしは一種の学問的喜びにひたっています。おおかたの皮相な人たちは、わたしを冷酷な男にすぎないと考えているでしょうが、あす、医学会で一つの発見を報告します。現在、消滅したはずの病気を観察しているのです。それは死病で、インドでなら治せるのですが、温帯では手の施しようのない病気です、中世に猛威をふるった病気ですがね。こんな敵と取り組んでいる医者の格闘は、見ものです。十日以来、その患者のことしか念頭にありません。患者は二人で、夫婦です。あなたのご親類ではありませんか? 奥さまは、クルヴェルさんのお嬢さんでしょう?」と、セレスティーヌに向っていった。
「まあ! 先生の患者とは、わたしの父ですか?」と、セレスティーヌがいった。「その方の住いは、バルベ・ド・ジュイ通りですか?」
「そうです」と、ビアンションは答えた。
「病気は不治なのですね?」と、ヴィクトランは、びっくりして、聞きかえした。
「父のところに行ってきます」と、セレスティーヌが立ちあがると、
「それは、ぜったいにいけません、奥さま」と、ビアンションは、冷静に反対した。「伝染性の病気ですから」
「でも、先生は行かれるではありませんか?」と、若いセレスティーヌが反撥した。「娘の義務は、お医者さまの義務よりも軽い、とおっしゃるのですか?」
「奥さま、医者は病気に感染しない術を心得ています。ところが、あなたは、親たいせつの一念から、前後をかえりみずに、わたしのように、慎重な行動はとれますまい」
セレスティーヌは立ちあがり、部屋に帰ると、外出の仕度をした。
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一二一 神罰とブラジル人の罪
「先生」と、ヴィクトランがビアンションに話しかけた。「クルヴェル夫妻は助かりました?」
「助かるように、願っていますが、絶望的です」と、ビアンションは答えた。「わたしには、事実が不可解でしてね……あの病気は、黒人とかアメリカ土民とか、皮膚の組織が、白人種とは異なる人種に、固有なものです。ところが、黒人なり、赤銅色の肌の人間なり、混血児なりと、クルヴェル夫妻とのつながりが、どうしてもつかめない。それに、わたしども医者にとっては、とてもすばらしい病気ですが、他の人たちにとっては、おそろしい病気です。きれいな方だったそうですが、お気の毒に、罪つくりな場所が、ちょうど、罰せられてしまいました。今日では、目もあてられないほど醜くなってしまいました。形をとどめていないくらいです……歯は抜け、髪は抜け落ち、まるで癩病やみのようです。自分で、自分をこわがっています。手は見るもおそろしいほど、腫《は》れあがり、緑がかったおできにおおわれ、爪ははがれて、かき傷につきささるといった始末です。つまり、手足の末端がすべて、血膿になって、腐っていくのです」
「そうした障害の原因はと言いますと?」と、ユロ弁護士はたずねた。
「ええ、原因は血液の急性変質です。血液が、おそろしい速度で、腐敗しています。この血液にはたらきかけたいと思って、分析を頼んでいます。これから家へ帰って、わたしの友人の、有名な化学者デュヴァル教授から、分析結果をもらって、わたしどもがおりおり死にたいして試みる最後の、思いきった処置を講じようと思っています」
「神罰がくだったのです」と、男爵夫人は深く感動した声で、いった。「あの人から、いろいろひどい目にあわされ、気が狂いそうになったときには、あの人に神の裁きがくだるようにと、祈ったこともありましたが、いまは、先生のご成功をお祈りします」
ヴィクトラン・ユロはめまいを覚えた。自分の考えを見抜かれはしないかと、戦《おのの》きながら、母と妹と医者とを、かわるがわる見た。自分こそ人殺しだと、思った。オルタンスは、神は正しいと思った。セレスティーヌがふたたび姿を見せ、夫に同伴をせがんだ。
「あそこに行くのでしたら、奥さま、ご主人もですが、病人のベッドから一尺離れていなさい。そうすれば、安心です。病人を抱擁しようなどという気を起こしてはいけませんよ! ですから、ユロさんは、ごいっしょなさって、奥さまが、この命令にそむかないように注意なさったらいかがです」
アドリーヌとオルタンスは、二人だけになると、リスベットのお相手をしにいった。オルタンスは、ヴァレリーに激しい憎悪を抱いていたので、その爆発をおさえかねて、こうさけんだ。
「ベットさん! お母さんやわたしの復讐がかなったのよ……あの毒蛇は、自分で自分を噛んだのよ。あの女は、腐りかけているんですって!」
「オルタンス」と、男爵夫人がいった。「そんなひどい口をきくものではありません。あの不幸な人が、悔い改めるように神さまにお祈りするのが、キリスト教徒としての道です」
「なんだって!」と、ベットはさけぶと、椅子から起きあがった。「ヴァレリーのことなの?」
「ええ」と、アドリーヌは答えた。「見込みがないんですって。容体を聞いただけで、身の毛がよだつような、おそろしい病気で死にかかっているのです」
ベットの歯がカチカチ鳴り、冷汗がにじんだ。激しい震えが襲ってきた。それは、ヴァレリーにたいする、厚い、深い友情の表現だった。
「わたし、ゆくわ」と、彼女はいった。
「でも、お医者さまから、外出を禁止されているのでしょう?」
「かまうもんですか! 様子を見てきます!……かわいそうなクルヴェルさん。どんな気持ちでいることか、だって、奥さんを愛してましたからね」
「クルヴェルさんも危いの」と、スタインボック伯爵夫人が答えた。「わたしたちの敵は、みんな、悪魔の手のなかに落ちたのだわ」
「神のみ手ですよ、オルタンス」
リスベットは身仕度をした。ご自慢の黄色いカシミヤの肩掛けと、黒いビロードの外套をはおり、半長靴をはいた。そして、アドリーヌやオルタンスの忠告に耳をかそうともせず、どうにもならない力に押されているかのように、家を出ていった。
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一二二 ヴァレリーの辞世
リスベットは、ユロ夫妻に少しおくれて、バルベ通りに着くと、七人の医者に出会った。めずらしい病例の診察のために、ビアンションが呼び集めた医者たちである。ビアンションも、彼らに合流した。医者たちは客間に立ったまま、病気について、議論の最中だった。ときたま、だれかが、ヴァレリーかクルヴェルを診察に行き、その場の観察にもとづいた説をもたらして、もどってきた。
二つの主要な見解が、これら医学の権威たちを二分していた。一人の医者は、彼だけの見方だったが、毒殺であると考え、個人的|怨恨《えんこん》による復讐説を唱えて、中世紀の記録に述べられた病気の再発を否定した。他の三人の医者は、リンパ液と体液との腐敗に原因があるとしていた。二番目のグループ、つまりビアンションのグループは、この病気が、未知の病原体に犯された血液の腐敗から生じたと、主張していた。ビアンションは、デュヴァル教授による血液の分析の結果をたずさえていた。治療手段は、一か八かの、まったく実験的なものだったが、それもこの医学上の問題の解決いかんにかかっていた。
リスベットは、サン・トマ・ダカンの助任司祭が、友人の枕もとにすわり、一人の慈善修道女が看護に努めているのを見ると、ヴァレリーの瀕死のベッドから三歩のところで、化石したように、立ちどまっていた。宗教は、五感のうち視覚だけをとどめた、この腐敗のかたまりのなかに、救うべき魂を見出していたのだ。ヴァレリーの看病役を、ただひとり引き受けたという慈善修道女は、ベッドから離れたところにいた。こうして、カトリック教会、つまり万事において、犠牲という霊感でいつも生きているこの神聖な団体は、霊と肉との二重の形で、このいまわしい、悪臭の瀕死の病人にかしずいて、病人を無限の包容力でくるみ、無尽蔵の慈悲の宝を与えているのだ。
召使いたちはおそれをなして、主人や女主人の寝室へ出入りするのをことわった。彼らは、自分のことしか考えず、主人たちが、こうした罰を受けるのは当然だと考えていた。部屋は、悪臭がはなはだしく、窓をすっかり開け、香りの高い香水を振りまいても、長くはそこにいられなかった。宗教だけが、そこで、看護をつづけていた。ヴァレリーのように才気のある女なら、どんな利益のために、教会の二人の代表者がそこにふみとどまっているのか、疑問にせざるをえないだろう。そこで、瀕死の病人は、司祭の声に耳をかたむけるようになった。病いのために憔悴し、美しさが破壊されるにつれて、後悔の念が、この邪悪な魂を侵食しはじめた。繊細なからだつきのヴァレリーは、病気にたいして、クルヴェルより弱かった。それに、最初に病気に犯されたという事情もあって、まっさきに死ぬべき運命にあった。
「わたしもねこんでいたので、看病にこられなかったのよ」と、リスベットは、友人の弱々しい目と会うと、やっと口をきいた。「きょうで二週間も、いや二十日《はつか》も、部屋にこもっていたわ。でも、あんたの容体を、お医者さんから聞いて、いそいできたのよ」
「リスベットさん、まだ、わたしのことを考えてくれるのね、あんたときたら! わかっているわ、いいこと、わたしには、もうきょうか、あすしか、考える日がないのよ。生きているなんていえないもの。これでは、ちゃんとしたからだではなく、泥のかたまりでしかないもの……鏡も見せてくれないの。……当然の報いだろうけどね。お慈悲で天国に行かれますように、これまでの悪事のつぐないがしたいわ」
「そんな口をきくようになっちゃ、あんたも、ほんとうにおしまいね」と、リスベットはいった。
「この方の改悛を妨げないでください。心静かに、主のことを考えさせてあげましょう」と、司祭がいった。
『すべてがなくなってしまった』リスベットは、そらおそろしくなってきた。「あの人の目も口も、変わってしまった。昔の面影は、あとかたもないわ。あの利発さも、どこかへ消えてしまった! おそろしいことだ……」
「あんたには、わからないんだよ」とヴァレリーがまた、口を開いた。「死や死後の世界が、お棺のなかにどんなことがあるか、考えないわけにいかないという事実がね。からだは、虫にくわれてしまうだろう。でも、魂はどうなるの?……リスベット、わたしは、あの世があるような気がする。……それで、すっかり怖気《おじけ》づいて、おそろしさのあまり、腐っていくからだの痛みさえ感じないのよ。……わたしときたら、聖女のような人を嘲弄して、神さまの復讐は、あらゆる不幸の形をとるなどと、クルヴェルに笑いながらいったものだけれどもね……みてごらん、わたしは予言者だったのよ。……リスベット、神聖なものをばかにしてはいけないよ。あんたがまだ、わたしのことを思ってくれるのなら、わたしにならって、悔い改めるんだね」
「このわたしが!」と、ロレーヌ生まれの女はいった。「この世界のどこを見たって、目につくのは復讐ばかりよ。昆虫は攻撃されると、復讐心を満足させるために、身を犠牲にする! この人たちも」と、司祭を指さし、「『神は復讐し、その復讐は永遠なり』っていっているじゃないの?」
司祭は、リスベットをやさしく見つめると、こういった。
「あなたは、神を信じておられないのですね」
「わたしのこのざまを見てちょうだい」と、ヴァレリーがリスベットにいった。
「どうして、そんな壊疽《えそ》にかかったの?」と、リスベットは、農民特有の疑り深さを捨てきれずに、たずねた。
「アンリからの手紙で、自分の運命は、はっきりわかっているわ。わたしは殺されたのよ。貞淑に生きようと思った矢先《やさき》にね、それもみんなにきらわれて……リスベット、復讐なんて考えは、すっかり捨てなさい! あの人たちに、つくしてあげなさい。わたしも、法律で許されるかぎりの財産を譲るように遺言しておいたわ。さあ、帰ってちょうだい。おそろしさのあまり、わたしの部屋から、逃げださないのは、あんただけなんだけれど、お願いだから、帰ってちょうだい。わたしをひとりにしてほしいの……神さまにおすがりする時間しか残ってないんだもの!……」
「うわ言をいっているのだわ」と、リスベットは部屋の戸口のところで、考えた。
女同士の友情という、この世でもっとも激しい感情も、教会のもつ英雄的な忠実さをもってはいない。リスベットは、悪性の毒気にむせびながら、部屋を離れた。医者たちは、相変わらず、議論をつづけていた。だが、ビアンションの見解が受け入れられて、今はその実験方法が議論の対象となっていた。
「どうしたところで、またとない解剖ができる」と、反対者の一人がいった。「遺体が二つあるのだから、いろいろと比較ができる」
リスベットは、ビアンションの後についていった。医者は、病人の寝台のほうに、そこから立ちのぼる臭気に気づかない様子で近寄った。
「奥さん」と、医者はいった。「思いきった治療をやりましょう。それが、あなたを救う最後の手段です……」
「命が助かったら、前のように、きれいになれるの?」
「おそらくね!」と名医は答えた。
「おそらくだなんて。つまり、火のなかに落ちた女のようになるんでしょう! 教会に、このままあずけてください! こうなっては、神さまのお気に召すよう努めるだけですわ。一生懸命、罪の許しを願ってみましょう。これが、わたしの最後のあだっぽさというわけです。そうよ。神さまの鼻毛を、抜いてみせなくては」
「これが、かわいそうなヴァレリーさんの辞世だわ。ヴァレリーらしいわ」と、リスベットは泣きながらいった。
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一二三 クルヴェルの辞世
ロレーヌ生まれの女は、クルヴェルの部屋に、顔を出さねばならないと、考えた。そこには、ペスト患者のベッドから、三歩離れたところに、ヴィクトラン夫婦がすわっていた。
「リスベットさん」と、病人はいった。「妻の病状を知らせてもらえんのだ。あれに会ってきたんだろう。どんな具合だね?」
「容体はよろしいようよ。自分では、もう救われたといっているわ」と、リスベットは、一人合点の地口をたたきながら、クルヴェルを安心させようとした。
「それはけっこうだ」と、区長は答えた。「わしの病気が伝染したのかと、心配していたんだ……香水屋のセールスマンなんかやった人間は、どこかで報いを受けるものさ。自責の念はあるが、あいつがかわいくて、どうにもならん」
クルヴェルはベッドの上にすわって、ポーズをとろうとした。
「お父さま」と、セレスティーヌがいった。「お父さまがお元気になったら、新しいお母さまを、家にお招《よ》びしましょう。それは誓いますわ」
「かわいいセレスティーヌ」と、クルヴェルは答えた。「さあ、接吻しておくれ!」
走りかけそうにした妻を、ヴィクトランがひきとめた。
「ご存知ないかも知れませんが、ご病気は伝染するんですよ」と、ユロ弁護士は、おだやかにいった。
「そうだった」と、クルヴェルは答えた。「医者は、絶滅したとされていた、中世の何とかいう疫病が、わしのからだに発見されたと、大喜びで、大学で吹聴しているようだが……まったくおかしな話だ!」
「お父さま」と、セレスティーヌはいった。「元気を出して。病気を負かしてください」
「安心おし。死神だって、パリ区長にはおいそれとはかかってこないよ」と、滑稽なほど冷静にいった。「二度も当選させ面目をほどこさせた男を、奪いとられるほど、わしの区が不幸ならば、(どうだ、わしの弁舌は、大したものだろう!)即刻荷づくりだってする。むかしは、セールスマンだった、旅には慣れている。いいか、おまえたち、わしは自由思想家だよ」
「お父さま、枕もとに、神父さまを呼ぶと、約束してください」
「それはことわる。仕方がないよ! わしは、大革命の乳を吸って育った。ドルバック男爵の才智は、もちあわせないが、肝《きも》の強さでは負けはしない。いまは以前より、さらに摂政時代式、灰色の近衛騎兵式〔灰色の馬に乗るブルボン王朝の近衛兵〕、デュボワ僧正式、リシュリュー元帥式なのだ! ばかばかしい! わしのあわれな妻は、頭にきたとみえて、法衣の男をよこした。ベランジェの心酔者、リゼットの友人、ヴォルテールとルソーの申し子みたいなわしにね……医者は、わしが病気に打ちのめされていないかどうかを知るため、さぐりをいれに、こんなことをいった。『神父さんには会いましたか?』そこで、わしは大モンテスキューのまねをして、医者を、それ、こんなふうに見て」と、自分の肖像画と同様、少し斜めに構えて、手を大仰《おおぎょう》にさし出すと、「いったものさ。
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……奴隷が到着し、
命令書を示せど、得るところはなかりき。〔ラシーヌ作『バジヤゼ』一幕一場〕
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命令書《ヽヽヽ》とは、うまい洒落だ。モンテスキュー高等法院長殿が、臨終の間際まで、魅力ある才智を失わなかったことがこれでわかる。彼を訪れて行ったのは、ジェズイット派の坊主だからだ!……わしは、このくだりが好きだ。……モンテスキューの生涯はいただけないが、死に方はりっぱだ。|くだり《パッサージュ》! またひとつ洒落ができた! モンテスキュー路地《パッサージュ》とな」
ヴィクトラン・ユロは、悲しそうに義父をながめながら、愚鈍と虚栄とは、魂の真の偉大さと同じような強さをもっているのではないかと考えた。魂のバネを動かす原因は、結果と無関係のように見えた。大悪人が発揮する力も、死刑台におもむくシャンスネ〔フランス革命に反対したかどで、ギロチンにかけられた〕のような男が、誇示する力と同じものではないだろうか?
その週の終わりに、クルヴェル夫人は、言語を絶した苦しみのあとで、他界した。クルヴェルは、二日遅れて、妻のあとを追った。
葬儀の翌日、ユロ弁護士は、あの老修道僧に再会した。無言のまま、修道僧を招じ入れると、僧がだまって手を出したので、ヴィクトラン・ユロ弁護士も終始沈黙したまま、八十枚の千フラン紙幣を手渡した。それは、クルヴェルの机から発見した金の一部だった。ヴィクトラン・ユロ夫人は、プレールの土地と、三万フランの年金とを相続し、またクルヴェル夫人は、三十万フランをユロ男爵に遺贈していた。腺病質のスタニスラスは、青年に達すると、クルヴェルの邸と二万四千フランの年金とを相続することとなった。
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一二四 投機の一面
パリにある、多くの崇高な、カトリック慈善団体のうち、ラ・シャントリー夫人の団体は、善意の内縁関係を結んだ下層民を、法律的にも、宗教的にも、結婚させることを目的として、創設された。登記からあがる収益に大いに執着している立法者も、公証人の手数料を後生大事にしている支配的な市民階級も、下層民の大部分が、十五フランの結婚契約の手数料が支払えない事実に目をつぶっている。この点では、公証人組合は、パリの代訴人組合より遅れている。パリの代訴人たちは、ずいぶん悪口をいわれてはいるが、困窮者たちの訴追を無料で引き受けているのに、公証人たちは、貧者の結婚契約書を無料で作ることにはまだ踏みきっていない。
この点、国庫のきびしい態度を緩和させるには、あらゆる政府機関を動かす必要があるだろう。登記はつんぼで、めくらだ。教会は教会で、独自に結婚税を徴収している。フランスの教会は、税の取りたてにたいへん熱心である。教会は、神の家での腰掛けや椅子のいまわしい取り引きまでやっていて、これには外部のものが憤慨している。教会自身、神殿から商人たちを追い払った救世主の怒りを、忘れるはずもないはずである。教会が、こうした税を手放すことをしぶるのも、教会財産といわれる税が、今日、教会の財源の一つだからである。とすれば、教会の過失は国家の過失といえよう。
黒人や、軽犯罪者の保護が重視される結果、辛抱して日々を送っている市民が放置されている時代に、右へ述べたような事情から、正常な家庭の多くが、三十フラン、つまり、公証人と登記所と市役所と教会にたいする、二人のパリの住人が結ばれるための最低料金がないばかりに、内縁関係にとどまっている。貧しい家庭を、宗教的、法律的な正道に連れもどす目的で設立されたラ・シャントリー夫人の団体は、こうした内縁関係の夫婦を探していた。そして、彼らの法的身分を問題とする前に、生活困窮者として救助してやったので、それだけこの種の男女をたやすく見つけ出すことができた。
ユロ男爵夫人は、健康がすっかりまえどおりになると、以前の仕事にもどった。尊敬すべきラ・シャントリー夫人が、アドリーヌに、彼女がすでに取りなし役をやっている慈善事業の他に、内縁関係を正常化する仕事を引き受けてほしいと頼んできたのは、そのころのことだった。
男爵夫人は、この仕事を、かつて「小ポーランド」と呼ばれた、陰気な界隈ではじめてこころみた。それは、ロシェ通りと、ラ・ペピニエール通りとミロメニル通りにかこまれた一郭で、サン・マルソー区の出店みたいな感じのするところだった。ぶらぶらしている実業家、うろんくさい屑鉄屋、危険な商売に駆りだされる貧乏人が住みこんでいて、家主たちが部屋代の請求に顔を出すこともなく、部屋代の払えない借家人を追い立てるための執達吏も見あたらないといえば、この一郭を十分描いたことになるだろう。最近、投機的な建築が盛んで、パリのこの界隈も様相が変わりはじめ、アムステルダム通りとフォブール・デュ・ルール通りとをへだてる空地に、新しい借家が建つ傾向があって、おそらく、この区域の住民も一変するにちがいない。
パリで建築熱というものは、想像以上に文明的行為なのである。門番つきの美しい、瀟洒《しょうしゃ》な家を建て、歩道を設けて、店をひらけば、投機家は、高い家賃をきめて、浮浪者や、家財道具をもたない家庭や、性質の悪い借家人などを遠ざけてしまう。こうして、あちこちの区は、警察でさえ、裁判所の命令なしには、足を踏み入れられない貧民窟や不吉な住民たちを厄介払いしているのである。
一八四四年六月、ラボルド広場とその周辺の様子は、まだ少しも安心できるものではなかった。風流な歩兵がペピニエール通りから、偶然、このおそろしい通りに迷いこむと、貴族と隣あわせに、卑しい浮浪者が住んでいるのを見て、おどろいたりした。無知な貧困と、追いつめられた不幸とがかろうじて生きているこうした地域に、パリで見られる最低の代書屋が栄えている。どこかの中二階や、泥だらけの一階の窓ガラスに、「代書屋」と三字を筆太に書いた白い紙が貼られていれば、その地域には、たくさんの無知な人間、つまり、不幸と悪徳と犯罪とがひそんでいると、考えてさしつかえない。無知はあらゆる犯罪の母である。犯罪とは、なによりもまず、分別の不足である。
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一二五 なぜパリの暖炉職人はイタリア人なのかわからない
さて、男爵夫人が神の再来とあがめられている界隈に、夫人の病気中、一人の代書屋が現われ、太陽路地に住みついた。太陽路地という名は、パリっ子の好きな反語である。つまりこの路地は、ほかにもまして、暗いということだ。ドイツ人らしいといわれた、この代書屋は、ヴィデルという名で、若い娘と同棲していた。嫉妬深い男で、サン・ラザール通りの実直な暖炉職人――暖炉職人の例にもれず、パリに、むかし移住してきたイタリア人であるが――の家にしか、娘を出入りさせなかった。暖炉職人たちは、破産しそうになり、貧困のどん底に落ちこみそうなところを、ラ・シャントリー夫人のために働いているユロ男爵夫人の手で助けられたのだった。数カ月後には、安楽な生活が貧困にとってかわり、それまで神を呪《のろ》っていた心に、宗教が、イタリア人特有の激しさではいりこんだ。
こんなわけで、男爵夫人が、病後第一に訪れたのは、この家庭だった。サン・ラザール通りの、ロシェ通りに近い、これら善良な人たちの家の奥で目にふれる光景が、夫人にはうれしかったのだ。いまは、商品がいっぱいにつまり、ドモ・ドソラ流域出身のイタリア人の見習いと職人ばかりが働いている倉庫と仕事場の階上に、一家は小さなアパートを構えていた。そこには、働くことで手に入れた豊かさが見られた。男爵夫人は、聖母のように、迎えられた。主人の帰りを待たなくては、店の様子が知れないので、しばらくあたりを見まわしてから、アドリーヌは、神聖な諜報活動をはじめて、どこかに不幸な人のいるのを知らないか、とたずねた。
「ああ、奥さま、あなたなら地獄に落ちた者まで救えるでしょう」と、イタリア女がいった。「この近くに、破滅から救い出していただきたい娘がおりますが」
「その子のことをよく知っているの?」と、男爵夫人がたずねた。
「主人のもとの親方の孫娘でして。その親方は、革命時代に、一七九八年ですが、もうフランスに移住していました。名前はジュディチ。その親父は、ナポレオン時代には、パリでも指おりの暖炉職人でした。一八一九年に死んだときたいそうな財産を残したのですが、そのせがれが悪い女に引っかかって、全財産を食いつぶし、あげくのはてに、その女より、もっと食わせ者の女といっしょになりました。そのかわいそうな娘は、この女とのあいだにできた子で、十五になったばかりです」
「それで、その子がどうしたの?」と、男爵夫人は、ジュディチという男の性格と、夫の性格とが似ているのに強く感動してたずねた。
「奥さま、その子は、アタラという名ですが、両親のもとを去って、このすぐ近くで、どう見ても、八十にはなっている年寄りのドイツ人と同棲しています。その老人は、ヴィデルとかいう名で、読み書きができない連中の相談相手をやっています。せめて、あの助平《すけべい》じじいが、母親から千五百フランで買いあげたという噂ですが、あの子の籍を入れてくれれば、老い先が長いことはないだろうし、何千フランかの年金があるとかということなので、かわいそうな、天使のようにかわいい、あの娘は、悪の手から逃れられるでしょうし、なによりも堕落するような貧苦から救われると思いますよ」
「善行のたねを教えてくれてありがとう」とアドリーヌはいった。「でも、慎重に行動しないとね。そのお年寄りって、どんな方ですの?」
「それはいい人ですよ、奥さま。あの娘を幸福にしたし、常識もありそうだし。だって、ジュディチが住んでいる近所を避けたのも、わたしの考えでは、母親の毒牙から、あの娘を守るためと思いますよ。あの母親ときたら、娘に未練があったようで、器量のいいことをたねにして、|お嬢さま《ヽヽヽヽ》にしようと企んでいたんですから……アタラは、わたしたちのことを覚えていて、じいさんを説得して、この近所に引越してきたんです。じいさんも、わたしたちの気心を知ると、あの娘が家へくるのを許しました。二人をいっしょにしてやりなさいな、奥さま。それは、あなたにふさわしい善行ですわ……結婚してしまえば、あの娘は自由になるし、あの娘をつけまわして、芝居に出すか、いまのおそろしい職業でもっと成功させるかして、甘い汁を吸おうという母親の手から、逃れさせられるのですから」
「どうして、そのお年寄りは結婚しないの?」
「必要ないからですよ」とイタリア女はいった。「ヴィデルじいさんは、極悪人じゃありませんが、わたしの見るところでは、抜目がなくって、あの娘の主人でいたいのでしょ。結婚して、ほかの年寄りとそっくり同じ目にあうのが、こわいのでしょ……」
「その娘さんを呼んできてくれませんか」と、男爵夫人はいった。「ここで会ってみれば、どうしたらいいかわかるでしょう……」
暖炉職人の女房が、合図をすると、長女がすぐに出ていった。十分後に、一人の少女が、長女に手を取られて、やってきた。十五、六の娘で、イタリア的な美人であった。
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一二六 野生的だが、カトリック的ではないアタラ
ジュディチ嬢は、父親の血筋から、昼間見ると黄色味をおび、夜、燈光の下では輝くほどの白さに変わる肌と、大きな、形のよい、東洋風の輝きをたたえた目と、黒い、小さな、羽毛のように太い弓なりの眉と、漆黒の髪と、ロンバルディア生まれの女に特有な、日曜日、ミラノを散歩する外国人に、門番の娘を女王と見あやまらせるあの気品とを受けついでいた。
アタラは、暖炉職人の娘から、噂の高い貴婦人との対面と聞くと、いそいで、美しい絹のドレスを着こみ、半長靴をはき、優雅なケープをはおった。桜色のリボンをつけた帽子が、顔の感じを十倍もひきたてていた。娘は、単純な好奇心を丸出しにしていて、男爵夫人を横目で観察していた。そして、彼女が神経質に震えているのには、ほんとうにおどろいたようだった。男爵夫人は、売春の泥沼のなかに、女の傑作があるのを認め、深い溜息をもらして、娘を徳の道に連れもどそうと誓うのであった。
「名前は何というの?」
「アタラよ」
「読み書きはできる?」
「いいえ。でも、それはどうでもいいことよ。あたしの旦那が知っているもの……」
「両親に連れられて、教会へいったことはある? 聖体拝受はすんだの? 教理問答は知っているの?」
「そんなことを、父はあたしにさせようとしたけれど、母が反対して……」
「お母さんが!……」と、男爵夫人はさけんだ。「いけない人ね、あなたのお母さんは?」
「あたしを、いつもぶつの。どういうわけか、いつも、あたしが、父と母のけんかのもとになり……」
「では、神さまのお話を聞いたことはないのね?」と、男爵夫人はさけんだ。
娘は目を大きく見開くと、かわいらしい無邪気さで、答えた。
「ああ、父も母も、始終いってたわ。『神の聖なる名!』『神の雷!』『聖なる神』〔いずれも罵詈雑言〕って」
「教会を見たことはないの? なかにはいろうという気をおこしたこともないのね?」
「教会?……ああ、ノートルダムやパンテオンだったら、父とパリを散歩したとき、遠くから見たわ。でも、たまによ。あたしが住んでいたところには、教会はなかったわ」
「どこに、住んでいたの?」
「城外区《フォブール》……」
「どこの城外区?」
「シャロンヌ通りに、きまっているじゃないの」
サン・タントワーヌ城外区の住民たちは、この有名な区域を、城外区としか呼ばない。そこが、彼らにとって、城外区らしい城外区、城外区の王様格だからであり、工場主たちも、城外区といえば、サン・タントワーヌ城外区のことだった。
「なにが正しく、なにが悪いことか、教えられたことはないのね?」
「母は、いうとおりにしないと、あたしをぶったわ」
「でも、ご両親のもとを離れて、お年寄りと同棲するなんて、いけないことだと思わなかった?」
アタラ・ジュディチは傲慢《ごうまん》な態度で、男爵夫人を見つめ、だまりこんでいた。
『まったく野蛮な子だわ』と、アドリーヌは思った。
「奥さま、城外区には、こんな娘がたくさんいますよ」と、暖炉職人の妻がいった。
「でも、この娘はなんにも知らないのね。なにが悪いかということさえも。――なぜ、答えないの?」と、男爵夫人はたずね、アタラの手を取ろうとした。
アタラは怒って、一歩退くと、こういった。
「この気違いばあさん! 父も、母も、一週間、なんにも食べていなかったんだ。母はあたしに、とてもいけないことをさせようとした。父が、この盗人《ぬすっと》といって、母をぶったんだもの! そのとき、ヴィデルさんが、ふたりの借金を払ったうえに、お金をくれた……袋一杯ね!……それから、あたしを連れ出した、父はずいぶん泣いたけれど……別れなくてはならなかったのよ!……これが悪いこと!」
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一二七 前章の続き
「そのヴィデルとかいう人が、好きなのね!」
「あの人を好きかって?……うん、好きだよ、奥さん! あの人は、毎晩、楽しいお話をしてくれるし、美しいドレスや下着やショールを買ってくれるんだもの。あたしは、王女さまみたいに、着飾れるし、木靴なんかはかないですむ! ここ二カ月のあいだひもじい思いをしたこともない。じゃがいもを、かじらなくってもいい。あの人は、ボンボンや、砂糖焼の巴旦杏《はたんきょう》を買ってきてくれる! おいしいよ、チョコレートと、砂糖焼の巴旦杏《はたんきょう》が混ざったお菓子は!……チョコレート一袋で、あの人の願いはなんでもかなえさせてしまうわ! それに、大好きなヴィデルじいさんは、とても親切で、あたしをとても大事にしてくれる、ほんとうの母親ってこんなのだろうな。……いまに、あたしに年寄りの女中をつけてくれるって。台所仕事であたしの手を汚すのは、いやなのだって。ここ一月以来、猛烈に稼ぎだしたわ。毎晩、三フランずつもって帰ってくるわ。あたし、それを貯金箱に入れておくの! ただ、あたしが外に出るのをいやがるのよ。ここだけは例外……男の愛ってそういうものね! あの人も、あたしを好きなようにしたいの……『わたしのかわいい子猫』って呼ぶわ。母には、『あまっちょ』『売女《ばいた》』『盗人《ぬすっと》』『毒虫』としか呼ばれたことがないのにね」
「なぜ、ヴィデルじいさんを夫にしないの?」
「していますよ」と、娘は得意そうな様子で、顔をあからめもせず、晴れやかな顔つき、穏やかな目をして、男爵夫人をながめた。「あたしを、愛する妻って、呼んでくれたわ。でも、一人の男のものになるってほんとに面倒臭い……砂糖焼の巴旦杏つきでなかったら、まっぴらだわ!」
『まったく』と、男爵夫人は心のなかでつぶやいた。『こんなに無邪気で、清らかな子につけいるなんて、どんな怪物だろう? この子を正しい道に連れもどせば、たくさんの罪がつぐなわれる! わたしは、自分のやっていることを自覚してきたのに』と、クルヴェルとのことを思い浮かべて、『この娘はなにも知らない』
「サマノンさんを知ってて?」と、かわいいアタラが、甘ったれた調子で聞いた。
「いいえ、知らないことよ。どうして?」
「ほんとに知らないの?」と、無邪気な少女は聞きかえした。
「奥さまをこわがることは、ないんだよ、アタラ……」と、暖炉職人の妻がいった。「天使のようなお方なんだから!」
「あたしの猫ちゃんは、サマノンに見つかるのがこわくって、隠れているの。……あの人がすっかり自由になれればね……」
「なぜ?」
「そうなれば、ポピノ座やアンビギュ座に、連れて行ってもらえるもの!」
「なんてかわいい子でしょう!」と、男爵夫人は、娘を抱擁した。
「あんたはお金持ち?……」と、アタラは、男爵夫人の袖口をまさぐりながら、たずねた。
「場合によるわ」と、男爵夫人は答えた。「あなたみたいに、善良で、かわいい娘が、神父さまから、キリスト教信者の務めを教わって、正しい道を考えているときは、わたしは金持ちよ」
「どんな道? わたしは健脚よ」
「徳の道よ」
アタラは、ずるそうに、嘲けるように、男爵夫人を見つめた。
「この奥さんをごらんなさい。教会のふところに帰ってから、しあわせなんですから」と、男爵夫人は暖炉職人の妻を指さした。「あなたは、動物がつがいになるように、結婚しただけよ!」
「あたしが?」と、アタラは反問した。「あんたが、ヴィデルじいさんと同じだけのものをくれるのなら、結婚なんかしたくないわ。うんざりだわ! 結婚って、どんなことだか知っているの?」
「あなたみたいに、ある人と結ばれたのなら」と、男爵夫人は答えた。「道徳上、その人に貞淑でなくてはいけませんよ」
「その人が死ぬまでね?……」と、アタラはずるそうにいった。「長くはないわ。ヴィデルじいさんは、咳ばかりして、息切れがひどいんだもの……、フーフーってね」と、老人のまねをした。
「道徳や倫理的な観点から」と、男爵夫人は答えた。「神を代表する教会と、法を代表する市役所とによって、あなた方の結婚は神聖にされなくてはなりません。奥さんをごらんなさい。正式に結婚されているのよ……」
「すると、もっとおもしろい?」と、娘は聞いた。
「もっとしあわせになるわよ」と、男爵夫人が答えた。「結婚のことで咎《とが》められることはないし、神の思召《おぼしめ》しにも適うことですもの! 奥さんにたずねてごらんなさい、婚姻の秘蹟を受けずに、結婚なさったかどうかと」
アタラは、暖炉職人の妻を見た。
「奥さんが、あたし以上のなにかをもっているっていうの? あたしのほうがきれいだし」
「でも、わたしは貞淑な女だよ」と、イタリア女はやり返した。「おまえさんは、卑しい名前で呼ばれたって、しかたがないさ」
「神さまや人間の掟を踏みつけにしていたら、神さまに見はなされてしまいます」と、男爵夫人はいった。「教会の戒律にしたがう者に、神さまが天国を用意されていることは知っているでしょう?」
「天国に、なにがあるの? 芝居があって?」と、アタラがいった。
「ええ、天国には」と、男爵夫人が答えた。「どんな楽しみだってあるのよ。まっ白な翼を生やした天使たちがいっぱいいて、栄光に包まれた神さまにお目にかかれ、そのお力を分けていただいて、いつでも、いつまでもしあわせでいられるの!……」
アタラ・ジュディチは、音楽でも聞いているかのように、男爵夫人の話に耳をかたむけていた。アドリーヌは、アタラにわかってもらえそうもないと見て、他の手段によらねばならないと思った。老人に直接話してみることである。
「家へお帰りなさい。わたしがヴィデルじいさんに会いにいきますから。その方は、フランス人?」
「アルザス生まれよ。あの人は金持ちになるわ。あんたが、あのサマノンとかいう奴に、借金を払ってくれればね。そのお金は返しますよ。あの人の話だと、あと数カ月すると、六千フランの恩給がはいるそうなの。そうなったら、ヴォージュ地方の人里離れたいなかで、ひっそり暮すの……」
ヴォージュ地方と聞いて、男爵夫人は、深いもの思いに沈んだ。故郷の村の姿が彷彿《ほうふつ》としてきたのだ。
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一二八 確認
商売の繁盛ぶりを見てもらいたくって、顔を出した暖炉職人からあいさつされて、男爵夫人は、つらいもの思いから、われにかえった。
「あと一年したら、奥さん借金を返しますからね。ありゃ、神さまのお金、貧しい人や不しあわせな人のお金だからね。一財産こしらえたら、わしの財布を自由に使ってもらいますよ。お助けくださった分を、奥さんの手を拝借して他人《ひと》さんに返したいので」
「さしあたって」と、男爵夫人はいった。「あなたのお金は必要ないわ。それより善行に、一役買ってほしいの。いま、ジュディチに会ったところだけれど、年寄りと同棲しているんですってね、その二人を、神さまの前でも、法の前でも、正式にいっしょにさせてあげたいの」
「ああ、ヴィデルじいさんですか、人柄のいい、立派な方で、頼りになる相談相手でして。じいさん、ここへ越してから、まだ二カ月しかたっていないのに、近所に、もう、友だちをこしらえているんです。わしも、じいさんに見積書の清書をしてもらっています。なんでもナポレオン皇帝によく仕えた連隊長だったそうでね。……ナポレオンがほんとうに好きでね! 勲章をもっているんだが、ぶらさげていたことはない。以前の生活に帰れるのを待っているのでしょうが、借金があってね、お気の毒に!……世間から隠れて暮しているらしい。執達吏に追いかけられてね……」
「あの娘と結婚してくれれば、わたしが、借金の肩がわりしてあげると伝えてください……」
「ああ、そんなことなら、お安いご用で。しかし、奥さん、いっしょにまいりましょう。すぐそこの太陽路地ですから」
男爵夫人と暖炉職人とは外に出て、太陽路地に向かった。
「こっちですよ、奥さん」と、暖炉職人はペピニエール通りを指さしながらいった。
じじつ、太陽路地は、ペピニエール通りからはじまってロシェ通りに抜ける道だった。最近開通したばかりで、家賃が格安の店が軒をならべている路地のまんなかあたりに、無遠慮な通行人からのぞかれないような高さに、緑色のタフタ布を張りめぐらしたガラス窓が、夫人の目にふれた。そこには、「代書屋」としてあり、扉には、
代書人事務所
請願書、見積書等代書します
秘密厳守、迅速第一
と書かれていた。
店のなかは、パリの乗合馬車の乗換え場の待合室に似ていた。内階段は、店に付属しているあかりとりが廊下にある中二階のアパートに通じているらしかった。黒くなったもみ材の机、書類ばさみ、古道具屋で買ったきたならしい肘掛け椅子などが、夫人の目についた。目|庇《ひさし》つきの帽子や、真鍮《しんちゅう》の針金の枠《わく》に緑色のタフタ布を張った、垢だらけのランプの笠とは、姿をくらますための用意ともとれ、また、老人にありがちな視力の弱さを保護するためとも考えられた。
「じいさんは上ですよ」と、暖炉職人がいった。「呼んできましょう」
男爵夫人は、ヴェールをさげ、腰をおろした。重い足どりが、狭い木の階段を揺さぶった。アドリーヌが、その方を見ると、夫のユロ男爵が灰色の毛糸のジャケット、灰色のメルトンの古ズボンに、スリッパという格好で、階段をおりてきた。夫人は、思わず鋭いさけび声をあげた。
「なんのご用で、奥さま」と、ユロは愛想よくいった。
アドリーヌは、立ちあがり、ユロをつかまえた。そして、感動のあまり、しわがれた声でいった。
「やっと、見つけたわ!……」
「アドリーヌ!……」と、男爵はびっくりしてさけび声をあげて、店の扉をしめると、暖炉職人に向かってさけんだ。「ジョゼフ! 裏口から、出ていってくれ」
「あなた」と喜びのあまり夢中になって、男爵夫人はいった。「家へ帰ってください。わたしたちはお金持ちになりました。ヴィクトランは、十六万フランの年金があります。あなたの恩給も抵当解除になりましたし、生存証明書さえ提出すれば、一万五千フランの延滞金がいただけます。ヴァレリーは死んで、あなたに三十万フラン残しています。世間ではあなたの噂をする人もいません。さあ、世間へ帰っていらっしゃい。まず、ヴィクトランのところに、一財産が待っていますわ。帰ってらっしゃい。わたしたちの幸福は、これで完全になりますわ。あなたを探しはじめて、もう三年になります。でも、お会いできると信じていましたから、お部屋の用意はすっかりできています。さあ、ここを出てください。いまのおそろしい境遇から、抜け出してください」
「それには異存はないが」と、男爵はまだおどろきからさめきらない様子でいった。「しかし、|あの娘《ヽヽヽ》を連れていっていいんだろうね?」
「エクトル、あの娘はあきらめてください! これまで、一度だって、あなたに犠牲をお願いしたことのないわたしのために! あの娘には、持参金をつけ、しかるべきところに嫁にやり、教育も受けさせることをお約束しますわ。あなたを幸福にした女の一人ですもの、幸福な身分になって、悪徳の泥沼に、二度と落ちこまないようにしてほしいわ」
「わしを結婚させようという人は、おまえだったのか?」と、男爵は微笑を浮かべた。「ちょっと、待っていておくれ。上で着換えてくるから。トランクには、きちんとした服が、しまってあるんだ」
アドリーヌはひとりきりになると、改めてこのおそろしい店の様子が目について、泣き出してしまった。
「こんなところで、暮していたのだわ」と、彼女はひとり言をいった。「わたしたちが、何の不自由もなく、ぬくぬくと暮しているあいだに?……かわいそうな方! ひどい罰を受けたわけね、優雅そのもののような人だったのに!」
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一二九 アタラの最後の言葉
暖炉職人が、恩人にあいさつにきた。夫人は、車を一台頼んだ。暖炉職人がもどってくると、男爵夫人は、アタラ・ジュディチを引きとって、すぐに連れていってくれるように、頼んだ。
「あの娘には、こういってください」と、夫人はつけたした。「マドレーヌ寺院の司祭のお導きで、最初の聖体拝受を受ける日になったら、三万フランの持参金をあげるし、すばらしい夫を、正直な青年を見つけてあげますとね」
「わしの長男は、どうでしょうか、奥さま! 二十二になりますが、あの娘に首ったけなんです」
このとき、男爵がおりてきた、その目は潤《うる》んでいた。
「おまえと同じくらいの愛情で、わしのことを思ってくれる、たった一人の娘と、おまえは別れろというのだ」と、妻の耳もとでいった。「あの娘は、涙にくれている、あのまま捨てるわけにはいかない……」
「安心しなさい、エクトル! きちんとした家庭に引きとられるんですから。あの娘の身持ちのことなら、わたしが受けあいます」
「ああ、それなら、安心しておまえについていく」と、男爵はいって、妻を貸馬車のほうに導いた。
デルヴィー男爵にもどったエクトルは、青いラシャのズボンとフロックコート、白いチョッキを着て、黒いネクタイをしめ、手袋をはめていた。男爵夫人が馬車の奥に腰をおろしたとき、アタラが、蛇のようにからだをくねらせて、割りこんできた。
「奥さま、あたしも連れていって! いいでしょ。ねえ。おとなしくして、いうことをきくわ。言いつけどおりなんでもする。でも、わたしの恩人で、いいものをくれるヴィデルじいさんから、離さないで。また、ぶたれるのは、きらいだもの!……」
「おい、アタラ」と男爵がいった。「これはわしの妻だ。わしたちは別れなくてはならない」
「この方が! こんなばあさんが!」と、無邪気な少女は答えた。「それに、葉っぱみたいに震えていてさ! なんて顔しているんだろう!」
そして、男爵夫人の震えているのを、嘲るようにまねした。ジュディチの後を追って、暖炉職人が馬車の昇降口にやってきた。「この娘を連れていって!」と、男爵夫人がいった。
暖炉職人はアタラを抱きかかえると、無理に自宅へ連れ帰った。
「あきらめてくだすって、ありがとう」と、アドリーヌはいうと、男爵の手をとり、気違いみたいな喜びようで、握りしめた。「やつれたわね! ずいぶん苦しんだのね! 子供たちもびっくりするわ!」
アドリーヌは、長く留守したあとで再会した恋人たちのように、一度にいろいろなことを話すのであった。
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一三〇 放蕩親父の帰宅
十分後に、男爵夫妻は、ルイ・ル・グラン通りに着いた。そこでは、一通の手紙がアドリーヌを待ち受けていた。
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男爵夫人さま
デルヴィー男爵さまは、一カ月のあいだ、シャロンヌ通りに、エクトルをもじってトレックという名で、住んでいました。現在は、ヴィデルと名前を替えて、太陽路地にいます。男爵は、アルザス生まれと称して、代書屋を営み、アタラ・ジュディチという娘と同棲しています。奥さま、くれぐれもご用心くださいませ。どういうつもりか存じませんが、男爵を血眼になって、探している者がおりますので。
わたしは女優ですけれど、約束を守りました。そして、相変わらず、あなたさまの卑しい召使いと思いながら。
J・M
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男爵の帰宅は、家族を喜びでみたし、それを見て男爵は家庭生活に引きもどされた。アタラ・ジュディチのことは忘れた。女色に溺れた結果、男爵は、まるで子供のように、気が変わりやすくなっていた。しかし、一家の幸福は、男爵のあまりにも変わりはてた姿を見て不安だった。子供たちのもとを去ったときは、まだかくしゃくとしていたのに、彼は百歳に近い老人かのように老いぼれて、背中が曲がり、顔の面影もすっかり変わって、帰って来た。セレスティーヌが手早くこしらえた豪華な夕食を前にして、老人はあの歌姫の晩餐を思い出し、わが家の贅沢さにあ然としていた。
「放蕩親父の帰宅祝いだね」と、彼はアドリーヌに耳うちした。
「だまって!……すんだことじゃないの」と、彼女は答えた。
「リスベットは?」と、その姿が見えないので、男爵がたずねた。
「かわいそうに!」とオルタンスが答えた。「リスベットは床についたきりで、もう起きあがれないの。まもなく、お別れだと思うと、悲しくなるわ。夕食がすんだら、お会いしたいそうよ」
翌朝、陽の出るころに、ヴィクトラン・ユロは、門番から、警察隊員が家を取り巻いていると、知らされた。司法当局は、ユロ男爵を捜索していたのだ。門番女に案内されてきた債務執達吏が、ユロ弁護士に正規の判決書をさし出し、父のかわりに、支払う意志があるかどうかとたずねた。サマノンとかいう高利貸しに振り出された一万フランの手形の件だった。おそらく、高利貸しは二、三千フランを、デルーヴィル男爵に用立てたにすぎなかった。ヴィクトラン・ユロは、執達吏に頼んで、警察隊員に引きあげてもらい、金を支払った。
「これで、全部だろうか?」と、彼は、不安そうにつぶやいた。
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一三一 忘却礼賛
ユロ一家の上に輝く幸福で、すでに不幸な思いになっていたリスベットは、ユロ男爵の帰宅という幸福な事件にたえられなかった。病状はさらに悪化し、ビアンション医師から、一週間の寿命と宣告された。数多くの勝利で飾られた、長い戦いの終末になって敗北したのだった。肺結核のおそろしい断末魔の最中でも、彼女は、その憎悪を秘密にしていた。アドリーヌやオルタンス、ユロやヴィクトラン、スタインボックやセレスティーヌや彼らの子供たちが、そろって寝台のまわりに集まり、涙ながらに、彼女を一家の天使としてなげくのを見て、最高の満足感を味わった。ユロ男爵は、三年あまり忘れていた、滋養のある食事を取りだしてから、体力を回復し、ほとんどもとどおりになった。この回復ぶりを見て、アドリーヌは大喜びで、その強度の神経性の震えもおさまりかけたほどだった。
「この人は、やはり、幸福の星のもとに生まれているのかしらん」と、リスベットは、死の前日に、考えた。オルタンスとヴィクトランから、妻の苦しみを聞かされた男爵が、アドリーヌを一種の畏敬の念をもって遇しているのを見たからである。
この感情が、いとこベットの死期を早めた。その葬儀は、涙にくれた家族全員によってとりおこなわれた。
男爵夫妻は、隠居すべき年になったと思って、スタインボック伯爵夫妻に、二階の豪華なアパートを譲り、三階に引越した。男爵は、ヴィクトランの口ぞえで、一八四五年のはじめに、ある鉄道会社に、俸給六十フランの地位を得た。六千フランの退職年金と、クルヴェル夫人から相続した遺産とを加えると、合計で、二万四千フランの年収になった。オルタンスは、夫と喧嘩別れをしていた三年間、財産も夫と別にしたので、ヴィクトランは、安心して、妹の名義で介立遺贈の二十万フランを投資し、一万二千フランの年金がはいるようにしてやった。妻が富裕になると、ヴェンツェスラスは、不貞をはたらかなくなった。しかし、小品を製作する気力も失い、ただぶらぶらと、その日を送っていた。|名ばかりの《ヽヽヽヽヽ》芸術家である彼は、サロンの人気者となり、素人《しろうと》の連中の相談を受けることになった。要するに、そのデヴュー当時にまやかしものだった無能力者の例にもれず、彼は批評家となってしまったのだ。
こんなわけで、三組の家庭は、一家族として暮してはいたが、別々の運命を辿《たど》っていた。多くの不幸のために目のさめた男爵夫人は、ヴィクトランに資産の管理を任せ、男爵には、俸給だけを自由にさせておいた。小づかい銭の不足が、むかしの乱行をくりかえさせないことになるだろうと、考えたからである。さいわいなことに、――もっとも、その幸福は不可解で、アドリーヌにとっても、ヴィクトランにとっても、意外のものではあったが――男爵は、女に興味がなくなったようにみえた。それも年のせいだということで男爵の落ちつきは、一家をすっかり安心させてしまい、デルヴィー男爵が、むかしどおり、愛想よくなり人づきあいがよくなったことを、みんなはすっかり喜んでいた。
妻と子供たちに気をつかいながら、男爵は、彼らのおともで、劇場にも、復帰した社交界にも、顔出しした。また、息子のサロンでは、洗練された優雅さで、接待役をつとめた。要するに、帰宅したこの放蕩親父は、家族に最高の満足感を与えた。すっかり老いぼれていたけれど、機知があり、むかしの悪徳が残っていても、それを社交上の美徳にしてたもっているといった愉快な老人だった。こんなわけで、当然、みんなは、安心しきっていた。子供たちも男爵夫人も、二人の伯父の死んだことを忘れて、家長をほめちぎっていた。人生は、多大な忘却なしには、過せないのだ。
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一三二 おそろしい、現実的な、真の結末
ヴィクトラン夫人は、リスベットに教えこまれて身についた主婦としての手腕を発揮して、この大家族をとりしきっていたが、料理人を雇わないわけにはいかなかった。その料理人に、炊事女が必要となった。炊事女というのは、今日、野心的な連中で、料理長の秘伝をかぎ出すことばかり考えていて、ソースのこしらえ方を覚えると、もう、すぐに女料理人に昇格する。だから、炊事女はめまぐるしく変わる。
一八四五年十二月のはじめ、セレスティーヌは、炊事女に、ノルマンディー地方、イジニー生まれのふとった女を雇い入れた。胴がずんぐりで、太い腕は赤く、下品な顔をし、きわものの芝居みたいに愚劣で、低ノルマンディー地方の娘たちがかぶっている古風なナイトキャップを、なかなか脱ごうとしない女だった。乳母のように丸々とふとった、この娘の綿織物の服は、腰のあたりで張りさけそうだった。その赤ら顔は、小石を刻んだように見えるほど、黄色の輪郭はいかつかった。
このアガートという名の娘が雇われたことに、ユロ家のだれも、もちろん、関心を示さなかった。地方から、毎日のように、パリに送りこまれてくる、あつかましい娘の一人だったのだ。料理人もアガートにあまり気をとめなかった。言葉づかいがぞんざいだった。それまで、車夫相手の場末の居酒屋で、働いていたからである。そこで、料理人の心をつかみ、料理の秘訣を教えてもらうどころか、ばかにされてしまった。料理人は、スタインボック伯爵夫人の小間使いのルイーズに言い寄っていた。ノルマンディー女は、冷たくあしらわれて、わが身の不運をなげいていた。料理の仕上げのとき、ソースの出来あがりのときには、なにかの口実できまって外へ追い出された。
「まったくついてないよ」と、彼女はいった。「他の家へ移るかな」
それにもかかわらず、すでに二度も、暇を願いでたくせに、彼女は、ユロ家にとどまっていた。
ある夜、妙な物音で目をさましたアドリーヌは、かたわらのエクトルのベッドが空《から》なのに気づいた。二人は、老人らしく、ベッドを並べて寝ていた。一時間待ったが、男爵は帰って来なかった。脳溢血のような、なにか悲しい破局に襲われたのではないかと心配になって、召使いたちの寝ている屋根裏部屋が並んでいる階上へあがっていった。そこで、アガートの部屋に、引き寄せられた。細目に開いたドアから、明るい光がもれるのが見え、二人で囁きかわす声が耳にはいったからだ。それが夫の声だとわかると、恐怖のあまり、彼女は立ちすくんだ。アガートの魅力のとりことなった男爵は、この醜悪な女の計算ずくの抵抗にあって、こんなおそろしい言葉まで口にしていた。
「わしの家内も、もう長くはない。おまえさえよかったら、男爵夫人にしてやるよ」
アドリーヌは、さけび声をあげ、燭台を落とすと、その場を逃げ去った。
それから三日後、男爵夫人は、前日に終油の秘蹟を授かって、臨終の間際であった。涙にぬれた家族が、そのまわりをとりかこんだ。息を引きとる少し前に、彼女は、夫の手をとって握りしめて、その耳もとでいった。
「あなた、あなたにさしあげるものといっては、もうこの命しかございません。間もなく、あなたは自由の身になって、新しい男爵夫人がおもちになれますわ」
めったにないことだが、死者の目から涙がこぼれるのが見られた。悪徳の残忍さに、天使の忍耐が負けたのだった。来世への門出で、天使がはじめて、非難の言葉をもらした。
ユロ男爵は、妻の葬儀から三日後に、パリを去った。十一カ月後、ヴィクトランは、アガート・ピクタールと父との結婚が、一八四六年二月一日、イジニーで挙げられたことを、人づてに聞いた。
「親は、子供の結婚に反対できるが、子供は、子供にかえった親の気違い沙汰を阻止するわけにはいかない」と、ユロ弁護士は、この結婚のことで話しかけた、もと商務大臣の次男であるポピノ弁護士に答えた。 (完)
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解説
〔超人的な作家〕
バルザックは、九十数編の小説を書き、そのなかに二千名の人物を登場させ、作品群を「人間喜劇」と名づけて、十九世紀前半のフランスの壮大な風俗誌を書き上げた。小説によって「十九世紀フランスの完全な社会史」を描こうという意図を持っていたのである。そこで彼はあらゆる時期のあらゆる階層、あらゆる地方のあらゆる職業の人々の生活感情と生活形態を写実的に、また物語的につぎつぎに書いていった。「風俗研究」の他に、さらにフランスの社会の「哲学的研究」と「分析研究」を、小説によって試みようとしたその抱負と構想は非常に大きかった。この不屈な小説家が、不幸にして計画の中途で倒れることがなかったら、あと何十編かの作品を残して、その意図を完全に成就したことであろう。
バルザックが創作に打ち込んで大作をつづけて発表した期間は、およそ三十歳から五十歳までの二十年間である。彼が死んだのは五十一歳であるから、さして長命だったとはいえない。しかし、その間に彼は常人の二倍も三倍もの仕事をし、さらに恋愛もし、旅行もし、また文学以外のことにも野心を燃やして、いろいろな事業に手を出し、政界にまで乗り出そうとした。まことに超人的な作家であった。事業家としてはいつも失敗し、政治家にもなれず、結局、彼は小説家に留まったのだが、実業界や政界のことはその作品のなかで好材料とされている。それからハンスカ夫人との困難な大恋愛も最後は結婚まで漕ぎつけたのであるから、これは大した努力と情熱の賜物である。しかし、新夫人とともに暮らすつもりで準備した新居に長く住むこともなく彼は世を去ってしまった。バルザックは、創作と恋愛とに精魂を傾けて一生を終わった人物といえるであろう。
〔家庭環境〕
バルザックの生まれたのは一七九九年、フランスの中部地方にあるトゥールである。この地方はしばしば彼の作品の舞台になっている。父はフランス南部の農村の出であり、母はパリの商家の生まれであった。バルザックの生まれたとき、父は陸軍省の糧秣部長をつとめており、母の実家はらしゃ、刺繍、飾り紐などの商売をしていた。このような両親の生活や職業から得た知識が『従妹ベット』のなかにも利用されているが、その他どこかの田舎の町とか、パリのある地区とか、または役人や商人の職業について書く場合、バルザックは記憶、経験、調査など、あらゆる方法を用いて精密を期し、少なくとも本当らしく思えるほど正確な描写をしている。しかし、彼の作品のなかに幼時の楽しい回想が述べられていることがほとんどないのは、幼時の家庭環境が楽しくなかったからであろう。
バルザックは、父が五十二歳、母が二十歳のときの子供である。両親の年齢が三十歳以上もちがっていたので、家庭のなかがしっくりいってなかった。母親はことにバルザックにたいして、あまり愛情を示さなかった。彼は生まれてすぐ四歳まで里子に出され、八歳からはヴァンドーム学院の寄宿生にさせられたので、母子がむつまじく暮らす期間はあまりなかった。この学院時代の暗い思い出は『ルイ・ランベール』のなかに織り込まれている。バルザックは、ルイ・ランベールと同様たいへんな読書家で、学校の勉強はあまり熱心ではなかったから成績は芳しくなかったが、図書室にはよく通って、神学、歴史、哲学、科学などの本を片端から読んだ。その記憶力は旺盛で、読んだものは少年の頭脳のなかにすべて蓄積された。そのためか心身を害し、一時、学院を休学しなければならないほどだった。しかしルイ・ランベールとはちがって、彼は狂人にもならずにすんで、その後また上級の学校に通うようになったが、そこでもやはり思索や空想にふける生活をつづけていた。
〔作家志望〕
パリに出て、法科大学に籍をおいた彼は、とくに法律の勉強をせず、むしろ哲学や歴史の講義を聞きに行っていた。両親の希望で、代訴人や公証人の事務所で見習いの事務をやらされたが、それもいやいやであり、むしろ彼は、この頃から作家として身を立てたいと願っていた。しかし、いくらバルザックでもそう簡単に作家になれるものではない。両親から特別の許可をもらって、二年間作家修業に励んだけれども、なかなか世間から認められるだけの作品が書けるわけではなかった。処女作の戯曲は、大失敗に終わり、未完の小説をいくつも書き、また匿名で通俗小説をさんざん書きなぐったりしていた。さらに印刷出版業を目論んで、一儲けしようとしたが、これも成功しなかった。
バルザックには事業欲といったものがあり、株をやったり、鉱山の事業を思いついたり、新聞を発行したりしたが、いずれも失敗に終わり、いつも思惑が外れる結果になった。しかもそのために多くの借財をしょい込み、長年、その返済に悩まされる始末になった。借金を返すためにも、原稿をせっせと書かねばならないのであったが、性こりもなくまた何か新しい事業を思いついては、精力と時間とをむだ使いして奔走したり、無茶な投資を行なったりしていた。
バルザックの事業欲は、金儲けをして一財産つくって、経済的な基盤をつくってから創作に励みたいという気持ちがあったからにちがいない。しかし、彼はもともと社会の構造とか実業界の現状とかに異常な関心を持っていた。たとえ、失敗しようと、予期したように金儲けができなかろうと、近代の産業社会がどういうものか、どうすれば成功するかということをたえず調査もし、考えもし、そのいくつかを実行してみたのである。だから知識としては、あらゆる職業のことに通じており、商業、農業、工業、銀行、株式などからできている産業社会の構成、さらに官界、政界、法曹界、軍部の実態などを実によく知っていた。
これほど世間をよく知り、あらゆる職業の表裏を知り抜いているバルザックが自分で事業に手を出したり、政界に打って出ようとすると、ことごとく失敗しているのはなぜであろうか。これはアンドレ・モーロワもいっているように、一般的に、いやとくに彼の場合、「実際的活動と芸術的創造とは両立しがたい」からであろう。しかし、結果的にいえば、パルザックの実生活におけるさまざまの失敗や齟齬は、彼の小説の世界を養い、豊かにし、芸術的創造を成功させることになっていたのである。
〔女性関係〕
実生活と作品との反作用について、モーロワはこうもいっている。
「バルザックはカストリ夫人を手に入れることはできないけれど、『ランジェ公爵夫人』を書くことができる。そしてこのほうが結構なことなのである」
カストリ夫人というのは、バルザックの何番目かの恋人で、ついに彼の思いどおりにならなかった公爵夫人のことだが、それが幸いして『ランジェ公爵夫人』のような名作が書けたではないかというのである。しかし、女性獲得は事業ではないし、バルザックはこの方面で失敗ばかりしていたわけではない。むしろ艶福《えんぷく》家のほうであろう。年譜でわかるように、彼の生涯を彩る何人かの上流夫人がおり、最後にはハンスカ公爵夫人との結婚に成功している。ハンスカ公爵夫人との関係がはじまった頃のバルザックはことに多忙であったが、その余暇に書いた手紙(『異国の女への手紙』)だけでも、三千ベージに及ぶというからその精力には驚かざるを得ない。『従妹ベット』はこうした恋愛と旅行と繁忙を極めた生活のなかで書かれた作品である。
バルザックの最初の愛人は、ベルニー夫人で、彼が二十二歳のときのことである。夫人のほうがはるかに年上で親子ほどの年齢の開きがあった。彼の初恋の女が年上であったことは、彼の女性像形成にとって重要である。ベルニー夫人は、彼の恋人であり、助力者であり、また母親でもあり、保護者でもあった。彼を愛してくれると同時によく理解してくれ、彼によく尽し、よく慰めてくれた女性であった。実の母親よりもっと母親らしいところのある恋人であった。こうしたタイプの女性が「人間喜劇」のなかにあちこちに登場しているし、バルザックは若い令嬢の美しさを書くよりも、人妻や年上の女の魅力を描くときのほうが生彩を放っているように思われるのも、こうした体験に基づくのであろう。『谷間のゆり』の女主人公モルソーフ夫人は、ベルニー夫人をさらに理想化したものとされている。
ベルニー夫人は、バルザックにいつまでも愛情を持ちつづけていたが、彼のほうは移り気で、その後ダブランテス公爵夫人とかカストリ公爵夫人とかに想いを寄せるようになった。現実に、バルザックには貴族の称号に憧れ、上流社会に非常に心を惹かれる傾向があったので、爵位の高い夫人を理想化して考えていた。と同時にそれには上流夫人を征服したいという気持ちが伴っていたこともいなめない。
バルザックの小説中に描かれた恋愛には、女性を理想化した、純粋で精神的なものと、現実的で肉体的なものがある。貴婦人と娼婦を並べると、前者にたいしては憧憬的で、後者にたいしては肉欲的になるのは自然だが、貴婦人にたいする恋愛もつねにきれいごとに終わるとはかぎらない。相手がどんな身分であろうと、どんな境遇にあろうと、男は恋する女を征服したく思うものだからである。だから理想的な恋愛が肉体的な恋愛に変わるのではなくて、恋愛にははじめから二つの要素が存在していて、男は貴婦人のなかにも娼婦的なものを探し求めることになるのである。
そこにバルブックが好んで取り上げた高等娼婦の存在の意味がある。彼の書く高等娼婦は一八三〇年頃のブルジョワ勃興期のパリでの特産物かもしれない。貴婦人と娼婦のあいだにあって、ブルジョワ社会に寄生していて、上流社会の一員であるかのように暮らしている高等娼婦の野望と策略は、上流社会にたいする憧憬、金銭にたいする異常な執念から来ている。そしてこの憧憬と執念はブルジョワ階級の持っているものでもあり、高等娼婦とブルジョワは当時の「パリ生活場景」に不可欠の要素である。バルザックがこうしたブルジョワ社会の寄生者の生態を描くことに巧みなことに、彼の女性観がうかがわれ、『従妹ベット』のなかのヴァレリーは、その好例である。
ボーランドの貴族ハンスカ夫人は、バルザックがこれまで交際した夫人のなかでも、とりわけ身分の高い名門の貴婦人だけあって、夫人を女神のように敬いながら、いつかは夫人を征服しようと苦心惨憺していることが手紙をとおしても知れることである。だからその手紙には、崇拝と欲望、祈願とエロスとが奇妙にいりまじっていた。しかし、ハンスカ夫人は遠く異国に住み、めったに会うことができない女性なので、彼の願いや欲望をただちに満たすことは困難であった。そうした複雑な欲望や不満が彼の小説のなかでさまざまな女性像となって描かれている。だから、ヴァレリーのような高等娼婦にも、ハンスカ夫人への作者の欲望が秘められていないとはいえないのである。
『従妹ベット』
この小説が書かれたのは、バルザックの晩年に近く、ハンスカ夫人との結婚も間近という頃であった。夫人への手紙には、この小説の計画や予定がたびたび告げられているが、実際に書きはじめられたのは一八四六年の夏からである。『貧しい縁者』という総題で『従妹ベット』と『従兄ポンス』の二部作が考えられていた。どちらも貧しい身寄りの者が、一門から邪魔にされたり、大切にされたりする物語で、円熟した筆致で書かれた傑作である。
『従妹ベット』は、二カ月ぐらいで書き上げる予定だったらしいが、途中でだんだん長くなり、「コンスティテュショネル」紙に連載され(十〜十二月)、完成したのは十一月の末である。頑健そのもののバルザックの健康も、この頃になると、過労のためにようやく衰えを見せてきたが、それでも相変わらず毎日十時間以上も机に向かっていて、「昨日は十九時間仕事をしました。今日は二十二時間仕事しなければならないでしょう」とハンスカ夫人に悲壮な手紙を書いているほどである(十月三十日)。バルザックは校正刷りに何度も手をいれ、これに新しい原稿を書くのと同じくらい時間をかける癖があるので、連載小説が進むにしたがって、仕事の量がますます多くなる。同時にいくつかの小説を書き、校正し、構想をねるという離れ業をやることもしばしばであった。こうした生活を二十年もつづけてきたのであるから、健康を害するのも無理はない。それにハンスカ夫人のために家を買って、ぜいたくな家具調度をいれたりして大いに散財もした。またハンスカ夫人が、バルザックの子を宿して、のちにその死産の知らせを受けたりして、彼は心身ともに疲れ果ててしまった。こうした事情も『従妹ベット』のなかに、挿話としてあちこちに利用されている。
〔作中人物〕
ベット
この小説の作中人物のモデルについては特記するほどのこともない。ベットについては、バルザックが「シュエット(ふくろう)」と綽名をつけていた家政婦ブリュニョル夫人だとされている。この家政婦はハンスカ夫人に嫉妬して、その手紙を盗み、バルザックを恐喝したことがあり、それに彼女はまた凡庸な木彫家と結婚しそこなっているので、その点ベットとスタインボックとの関係に似ていると考えられる。
しかし、ベットのアドリーヌにたいする嫉妬と復讐の念は、現実離れしているほど凄まじく執念深い。従姉の幸福を羨み、「貧しい縁者」としての自分の不幸を嘆き、ユロ一家を破滅させようと企む彼女は、腹黒い、陰険な、恐ろしい人物である。いつもユロ家の厄介になり、家族の者から目をかけられ信頼されていながら、それを逆用して、アドリーヌを、ユロ男爵を、オルタンスを、苦境に陥れて、彼らが悩み、悲嘆にくれるのを眺めては、こっそり喜んでいる。しかし、最後に、その復讐が成就するかと思われる直前に、運命のいたずらか、死んでしまい、そのためにかえって彼女の仇敵たちが窮境から脱して、幸福になってしまう。ベットは、小説の題名となるにふさわしい怪物であるけれど、彼女に劣らず強烈な印象をあたえる者に、ユロ男爵とヴァレリーがいる。
ユロ男爵
ユロ男爵のモデルは、さる銀行家の息子のアレクサンドル・ドゥメルクという遊蕩児だという説もあるが、それはさして重要ではない。小説ではユロ元帥の弟で、エルヴィーに生まれたので、ユロ・デルヴィーといい、兄の世話で陸軍省入りをしたが、美男で、色好みで、美しいアドリーヌを妻に迎えてからも、浮気話が絶えない男である。この小説の初めの頃すでに六十歳だが、相変わらずその不身持ちは改まらず、いつも家出同然で、情婦のだれかの家へいっている。ジェニー、ジョゼファ、ヴァレリーというふうに相手の女が変わり、というより女からつぎつぎに捨てられている。
このヴァレリーは一番のしたたか者で、彼女にはすっかり牛耳られる。男爵は家庭をまったく顧みず、すべてを女に貢ぐために、あらゆる手段で借金をし、しまいには公金まで使い込む。老齢のユロ男爵が女をつなぎとめるには、金銭の力に頼るより仕方がない。好色漢にとって、みずからの老いを感じ、金銭にすがらざるを得ないことほど、悲しく無念なことはあるまい。しかし、どんなに尽しても、結局捨てられてしまう。するとまた別の若い娘を探して来ては、同じ手で誘惑する。最後に、夫の放蕩に愛想をつかしながらも愛していてくれる貞淑な妻が死にかけているというのに、またもや炊事女に手を出す。その漁色ぶりは徹底しており、どんなに老いぼれてもあきらめることを知らない。バルザックは、他にも吝嗇漢グランデ(『ウジェニー・グランデ』)、父性愛の権化ゴリオ爺さんというような怪物を創造しているが、好色漢ユロ男爵も、極めてバルザック的な怪物の一人である。
ヴァレリー
ヴァレリー・マルネフは、いやらしい存在で、四人の情夫を巧みに操る妖女であり、高等娼婦である。夫と共謀してユロ男爵を散々な目に会わせて破滅させてしまう。バルザックの書いた高等娼婦のなかで、もっとも腕のいい、男たらしの女であり、それだけに魅惑的で妖艶な女である。ユロ男爵の妻アドリーヌとはまったく正反対の性格で、善玉と悪玉の差があるが、男爵は悪女の魅力に惹かれて、貞淑な妻を見向きもしない。こうした高等娼婦と貞淑な妻という二種の女人像を、バルザックがハンスカ夫人と結婚する直前の小説のなかに書いたということは興味がある。この異国の女に向かって、バルザックはアドリーヌの美徳を讃えるような文章を手紙で書き、ひとり居のときは同じ異国の女にひそむ官能的魅力を思い出していたと思われるからである。
クルヴェル
彼もまたバルザック的な人物である。やはり金持ちの好色漢であるが、彼がバルザック的な人物というのにはもう一つ理由がある。一八三〇年頃の新興階級のブルジョワを代表する一典型だからである。彼はセザール・ビロトーの手代から出発し、香水商として成功し、株や土地で大儲けをし、区長にまでなった成り金で、七月革命の時代の世相をよく現わしている人物である。
この小説で扱われている時期は、一八四〇年前後で、ルイ・フィリップ王の治政下にあり、産業革命が行なわれ、金銭第一の考え方がはびこっていた頃である。人生の目標は金持ちになることにあり、人々は金儲けに目の色を変えていた。バルザックの事業欲もそうした時代色に影響されたところが少なくなかった。だからこの時代は貧しい者から見れば金持ちが羨ましくてならず、人々は何事につけても金銭第一に考え、就職も、結婚も、恋愛も、友情も金銭本位になっていた。
バルザックの小説には給料、年金、持参金、遺産などのことがいつも出てくるが、彼以前にはこれほど金銭が小説のなかに堂々と登場したことはなかった。彼の小説でもことに「パリ生活場景」という小説群では、さまざまの職業の人物が登場するけれど、その主人公はむしろいつも金銭であったといってもいい。作中人物は、破滅したり、病死したり、失綜したりして、消え失せるけれど、彼らが所有していた金銭は持ち主が変わるだけで、いつまでも生き残って権力を振るっているからである。
クルヴェルは、このような金銭本位の世のなかを巧みに生き抜き、成功した人間である。最後には悲惨な死に方をするけれど、物質的な点では、没落階級のユロ男爵などはとうてい彼の敵ではない。ヴァレリーのような女は、いつもよりぜいたくをさせてくれる男のほうになびくので、そうした男爵などはさっさと捨てられてしまうのである。
バルザックの小説
「人間喜劇」の特色として、同一の作中人物がいろいろな小説に再登場するということがあるが、『従妹ベット』では重要な人物についてはあまりない。ユロ元帥(『ふくろう党』)、モンコルネ将軍(『農民』)、クルヴェル(『セザール・ピロトー』)ぐらいのもので、あとは傍役的人物ばかりである。ところがビクシウとかヴィニョンとかいう傍役も、バルザックの人間像のなかでは重要で、ただ再登場するというだけではなく、ある時代、ある場景を生き生きとさせる役割を果たしている。ボードレールがバルザックの書く人物は、門番まで天才的だといったが、この小説でも門番、公証人、警部など、傍役中の傍役がじつに髣髴として描かれている。
写実主義の巨匠としてバルザックの小説は、人物や場所の観察や描写が的確で、微細を極めているのは当然だが、傍役的人物描写にいたるまで、その容貌、服装、声音、外観が如実にとらえられている。場所については、具体的状況を精密に調査して、実証的に描かれている。しかし、人物や風景にどんなモデルがあるにしても、実在の人物や風景を精密に写してあっても、「人間喜劇」のなかのそれらは、結局バルザックの想像し、創造したものである。一八四〇年前後のパリの歴史的、地理的状況を背景にした小説であっても、『従妹ベット』の世界は、バルザックの創造した世界である。彼は現実のすぐれた観察家であると同時に、現実の背後にひそむもの、現実を超えたものを探し求める。だから、バルザックの写実主義の底にはいろいろな意味がひそんでいて、単なる現実尊重ということばかりではない。一人の人物のなかにも複数の人物が隠れているし、さらに作者自身までも姿を変えてそこにひそんでいるかもしれないのである。
「人間喜劇」の演出家は、あくまでもバルザックであり、登場人物はどんなに現実的に本当らしく見えようと、演出家の指揮にしたがって動いている俳優なのである。そして、そのバルザックの小説のドラマの主題とは、さまざまの情念であるというより仕方があるまい。その情念は、金銭、恋愛、野心、羨望、復讐、献身などにひたすら向けられ、それらのために、多くの場合、登場人物たちは破滅に導かれ、悲劇の人物と化している。それが「人間喜劇」というものなのである。
この翻訳は Garnier, Conard, Pleiade 版などの原典により、各章の小見出しは Garnier 版にしたがった。なお、水野亮氏の翻訳を参照させていただいたことを感謝する。
一九六八年二月 訳者
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バルザックのパリ
バルザックはパリの生まれではなかったが、一八一四年、十五歳のときにパリに出て来てからは、死に至るまでほぼ生涯をパリに過ごし、パリの持つあらゆる魅惑につかれるとともに、その激しい病毒にも苦しんだ人であった。そしてちょうど『神曲』の読者が詩人とともに地獄と煉獄と天界とを遍歴するように、「人間喜劇」を読む人は、パリ社会をそのもっとも悲惨な生活からもっともきらびやかな情景にいたるまでことごとくめぐることになる。
バルザックが「人間喜劇」に描いたのは、ほぼ一八一五年から四八年にいたる時代のフランスである。したがって王政復古とそれにつづくルイ・フィリップ王政の両時代のパリこそは、バルザックが生きかつ描いたパリだということになる。これはパリが、フランス社会の近代化と工業化にともなって急速に変貌、かつ膨脹しつつあった時代だ。たとえば、パリの人口は一八○○年から一八五〇年までのあいだに五十万から百万へと倍加した。だがしかし都会としてのパリはまだ中世的な様相を多くとどめ、今日のパリを知るものには想像できないような古めかしい面をもあわせ持っていた。
たとえば、『従妹ベット』を読まれた方なら、ヴァレリー・マルネフとリスベットがはじめ住んでいるドワイエネ通りの陰惨な光景を覚えておられるにちがいない。バルザックの小説では、主人公の個性と周囲の環境とはいつも正確に照応しているのだが、この場合にもこれは濃艶な悪女と執念の化け物のような老嬢とを住まわせるのにいかにも適当な場所だ。「ドワイエネ通りとドワイエネ袋小路、これだけが陰気で人気のないこの一角のなかの道路で、とんと人影の見られないところをもってすれば、住んでいるのは狐狸妖怪のたぐいであろう」とバルザックは書いている。この陰気な通りの、とある建物のなかに一人の美女が姿を消すのを見るところがら、ユロ男爵の破滅がはじまるわけだが、周囲の光景が醜悪であればあるだけ、かえってマルネフ夫人の美しさは凄みを帯びていたのかもしれない。そしてこの出会いの場所の不吉さは、いわばこの女がユロの運命にもたらす不吉さを象徴し、予言するごとくなのである。
パリの中心部に、しかもチュイルリー宮のすぐとなりにこんな物騒で陰惨な街区があったとは信じられないことだが、事実はバルザックが描いたとおりで、この街並みが取り壊されるのは一八五〇年代になってからである。現在では、小ざっぱりとしたカルーゼルの広場が花壇と樹木に飾られてそこに広がっている。カルーゼルの凱旋門からはるかに西方を望むと、チュイルリー庭園やコンコルドの広場の彼方にシャン・ゼリゼ通りがゆるやかな傾斜を描いて登って行くのが見え、その果ての小高い丘の上にはエトワールの凱旋門が立っている。これはパリでもっとも美しい眺望ということになっているが、バルザックの時代にはむろんこんな景色は見られなかった。
第一、カルーゼルの凱旋門のすぐとなりにはチュイルリー宮があって、その壮大な建物が眺望を妨げていたはずであるし(チュイルリー宮がパリ・コミューンの火事で焼けるのは一八七一年のことだ)、シャン・ゼリゼ通りは名前のとおりの野原《シャン》だったのである。ドワイエネ通りの場合がその一例だが、およそバルザック時代のパリは現在のパリよりもはるかに不潔で、はるかに混乱した町だったと思えばまちがいない。当時のパリは、ちょうど今日の東京のように急速な近代化がもたらすさまざまな不幸に苦しみっつ、古いパリから新しいパリヘの脱皮の過程にあった。脱皮が完成するためには数十年の歳月と、ナポレオン三世下の名知事オースマンの手腕が必要だったのである。
当時のパリは、いちじるしい人口増加にもかかわらず、住宅、道路、上下水道などにおいてきわめて立ち遅れていた。バルザックの『ゴリオ爺さん』に描かれたヴォーケール館や、ユゴーの『レ・ミゼラブル』に出てくるゴルボー屋敷の光景は現在の読者を慄然とさせるが、そのような老朽家屋はいたるところにあったらしい。屋内には光線もあまりさしこまず、穴のように狭い中庭には汚物があふれた。道路も不完全で、ルイ・フィリップ王政下でランビュトーがパリの知事になったとき、パリ全市の舗道の全長はわずかに十六キロにすぎなかった。大部分の道は馬車も通れぬほど狭く、大雨が降れば道路は泥の川となった。目抜き通りをのぞけば、多くの道路には街灯がなかったから、夜ともなれば街並みは完全な闇にとざされた(だからユロ邸で夕食をとったあと、ベットが帰りを急ぐのはきわめてもっともなのだ)。たまたま街灯があっても、それはガス灯でさえなく、要するに一種の灯油ランプにすぎなかった。絶えず失業者の群が存在し、常時少なくとも十万人のパリジャンが飢えていた。おまけに衛生状態の悪いところからしばしばコレラが流行し、一八四九年のコレラでは死亡率は千人中四十七人に達した。上水道の設備などもひどく粗末だった。だからパリには水売りがいて、奇妙な売り声をあげながら一桶一スーで水を売り歩いていた。
パルザックの生きたパリはこのように古めかしく、このように前近代的な町であったのだ。とはいえ、当時のパリはやはりヨーロッパの知的中心であり、花の都でもあった。パリのもっともはなやかな通りは、バスティーユ広場にはじまってマドレーヌ教会にいたる、いわゆるブールヴァールと称せられた通りだ。とくにガン通り(現在ではこの名前はなくなっている)やオペラ座の周辺は、パリの伊達男たちが集まるところだった。街路樹が大きな影を落とし、有名な料理店が軒をつらねていた。
もしわれわれが晴れた日の午後、ガン通りを通りかかるなら、「人間喜劇」に活躍する才気にあふれた瀟洒な青年たち、ド・マルセーやラスティニャックの姿を見ることができたはずだ。のみならず、もしそれが日暮れどきであれば、太った体躯を最新流行の服につつみ、トルコ玉に飾られたステッキをついてバルザック自身が歩いてくるのに出会えたはずである。バルザックはこの界隈の高級料理店、カフェ・アングレやロシェ・ド・カンカルにしばしばかよったものだったから。有名な商店が建ちならんでいるのもこのブールヴァール界隈である。香水商のウービゴー、有名な洋服屋のビュイソン……。バルザックはこの洋服屋にいつも多額の借金をしていたが、そのかわりに彼を作品のなかでしばしば引用し、その「比類なき」技量を讃えたものだ。
ブールヴァールがいわば当時のパリにとって東京の銀座のようなもので、パリ随一の繁華街だったとすれば、セーヌ河左岸のサン・ジェルマン地区は貴族たちの高級住宅街だった。いわゆるサン・ジェルマン地区は、単に地理上のある区域を指すにとどまらず特定の社会層をも意味したわけだが、それだけにその位置を明らかに画することは困難である。およそ現在の廃兵院《アンバリード》の東側一帯と考えればよいのではあるまいか。
ユロ男爵邸のあるユニヴェルシテ通りはむろんそのサン・ジェルマン地区の一部である。国王の住むチュイルリー宮が王宮《シャトー》とよばれたのに対し、サン・ジェルマン地区の貴族たちの社交界は小王宮《プチ・シャトー》と名づけられ、十九世紀前半、とくに王政復古時代には、そこにはなやかな社交と饗宴がくりひろげられていた。ボーセアン子爵夫人、ランジェ公爵夫人など「人間喜劇」に描かれた社交界の女王たちはいずれもそこの住人である。ただしサン・ジェルマン地区に住み、金があるだけではその社交界の一員となることはできなかった。たとえばニュシンゲーヌ男爵夫人はサン・ジェルマン地区のブールボン通りに豪壮な邸宅を持っていたが、しかし本当の意味での「サン・ジェルマン」にはついに出入りすることができなかったのである。しかしそのように高度に貴族的な社会であればあるだけ、当時の青年たちにとってその一員となることは大きな夢であり、野望であった。だからこそ、『ゴリオ爺さん』の末尾で、青年ラスティニャックはペール・ラ・シェーズの丘から、廃兵院の丸天井の見えるあたり、サン・ジェルマン地区の上にじっと瞳をこらしつつ「今度は俺とお前の勝負だ」とパリにむかって挑戦の言葉を投げかけるのである。
バルザック自身にとっても、サン・ジェルマンの社交界に出入りすることは長年の夢であった。一八三一〜三二年ごろ、ようやく文名を得たバルザックはほうぼうのサロンに顔を出し、そしてサン・ジェルマン地区のうちでももっとも格式の高いカストリ公爵家の夫人の知遇を得て、足繁くカストリ邸にかよったものだった。もっとも夫人にたいするバルザックの恋愛はやがてみじめな幻滅に終わるのだが。
しかし、サン・ジェルマンの社交界も、一八三〇年にブルジョワ的なルイ・フィリップ王政が実現してからは、じよじょに衰退していった。貴族たちの多くは自分の領地に引きこもり、実権を得たブルジョワは右岸のショセ・ダンタン通りに多く彼らの邸宅を構えるようになった。かつて二百を数えたサン・ジェルマンの貴族たちの邸宅も、現在は大部分もう姿を消してしまっている。
バルザックが愛し、倦むことなく描いたパリとはこのようなものだった。それは、多くの古きものをとどめつつも、急速に美しく豊かになりつつあったパリ、富と快楽を求めて人々が狂奔し、しかも同時にもっとも崇高な理想にも動かされていた場所、そこにおいては「いかなる感情も事物の奔出に抵抗し得ず」、活動的パリが「創造的意志の幾千もの奔流となってほとばしり出て」(『金色の目の娘』)いたところであった。
バルザックの描いたパリは、エネルギーの巨大な塊である。「人間喜劇」全体を動かしているのと同じもの、すなわち生命のエネルギーの異様な興奮がそこにあふれ、それは人間の意志と欲望とが高揚し、活動し、そして結局消耗して行く場所なのであった。(高山鉄男)