従妹ベット(上)
バルザック/佐藤朔訳
目 次
一 恋のゆくえ
二 義父と義母
三 ジョゼファ
四 香水商の感動
五 貧しい娘を嫁にやるには
六 国民軍大尉の敗北
七 男爵夫人の生いたち
八 オルタンス
九 ある老嬢
一〇 ベットの恋人
一一 老嬢と若い娘と
一二 エクトル・ユロ・デルヴィー男爵
一三 ルーブル界隈
一四 道楽者、美女に出会う
一五 マルネフ夫妻
一六 芸術家の屋根裏部屋
一七 ある亡命者の物語
一八 大きすぎた獲もの
一九 不倫の恋の終わるとき
二〇 去る女《ひと》あれば、来たる女あり
二一 娘のロマンス
二二 娘の才覚
二三 出会い
二四 僥倖《ぎょうこう》、久しからず
二五 マルネフの策略
二六 おそるべき暴露
二七 心の秘密
二八 ベットの変貌
二九 クルヴェル氏の生活と意見
三〇 クルヴェル氏の生活と意見(続き)
三一 キャリバンの最後の試み
三二 復讐の失敗
三三 夫婦財産契約のいろいろ
三四 妄信者の好例
三五 物語の序幕の終わり
三六 新郎新婦
三七 背徳についての道徳的考察
三八 クルヴェル氏の意見の効果
三九 美男ユロ男爵の破滅
四〇 パリの七つの害悪の一つ
四一 ベットの期待
四二 本妻、苦境に追いこまれる
四三 悲嘆にくれた家族
四四 晩餐会
四五 収入のある幽霊
四六 色男は何歳で嫉妬深くなるか
四七 高級な芝居第一場
四八 桟敷にふさわしい場面
四九 高級な女芝居第二場
五〇 クルヴェルの復讐
五一 クルヴェル氏の妾宅
五二 盛大な同業者団体の二人の同業者
五三 二人のまぎれもない気違い
五四 正式の夫婦の別の面
五五 大芸術家を生みだすもの
五六 新婚生活の芸術へ与える影響
五七 彫刻について
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主要人物
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◆ユロ男爵(ユロ・デルヴィー)……陸軍省の高官。美しい妻を持ちながら、飽くなき漁色家であり、資産を傾けてまで、終生、放蕩をつづける。
◆アドリーヌ(アドリーヌ・フィッシェル)……ユロ男爵の妻。夫の浮気のために、つねに苦境に追い込まれながら、わが身を犠牲にして、夫を許し、また一家の破滅を防ごうと尽力する貞淑な女性。
◆リスベット(リスベット・フィッシェル、通称ベット)……富裕な名家に嫁いだ従姉のアドリーヌの幸福を嫉んで、さまざまの術策を用いて、彼女を不幸にさせ、またユロ家を没落させようとする。
◆オルタンス……ユロ男爵の娘。スタインボックと結婚するが、彼女の幸福もベットから破壊されそうになる。
◆スタインボック(ヴェンツェスラス・スタインボック)……ポーランドの亡命貴族で、彫刻家。貧乏生活時代に、ベットに庇護される。
◆ユロ元帥(ユロ・ド・フォルツハイム)……ユロ男爵の兄。清廉潔白な将軍で、アドリーヌの味方。伯爵。
◆ヴィクトラン……ユロ男爵の息子。ユロ家の再建に尽力する、誠実で、有能な弁護士で、代議士。
◆セレスティーヌ……ヴィクトランの妻。クルヴェルの娘。
◆クルヴェル(セレスタン・クルヴェル)……成功した香水商で、ブルジョワの典型。国民軍隊長。のちにパリ第二区の区長、県会議員となる。
◆フィッシェル(ジョアン)……アドリーヌやリスベットの叔父にあたる。ユロ男爵の公金費消事件に関係して、責任を感じて、アルジェリアの刑務所で自殺する。
◆ヴァレリー……モンコルネ元帥の私生児で、陸軍省の役人の妻。夫マルネフは病身で、野心家で、奸智にたけた人間だが、娼婦型の妻を操る。そこでヴァレリーはユロ男爵、スタインボック、クルヴェル、モンテスを手玉にとり、そのあげく悲惨な最後をとげる。
◆モンテス(モンテス・デ・モンテジャノス)……ヴァレリーの初恋のブラジル人。男爵。金満家。
◆ジョゼファ(ミラー・ジョゼファ)……本名はイラムというユダヤ系の歌手。はじめクルヴェルに囲われ、ついでユロ男爵の妾となり、さらにデルーヴィル公爵に鞍替えする。
◆ビクシウ……有名な画家。
◆スティドマン……彫刻家。
◆ヴィニョン……文芸批評家。
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テアノ公ミケランジェロ・カエターニ氏に捧ぐ
これはある長い物語の断片ではありますが、この作品を捧げますのは、キリスト教界にあまたの法王を送り出した名門カエターニ家の当主としてのあなたにでもありませんし、ローマの王侯としてのあなたにでもありません。それはまさに該博《がいはく》なダンテ評釈家としてのあなたにたいしてであります。
近代人がホメロスに対抗せしめることのできる唯一の詩篇は、ダンテの『神曲』でしょうが、あなたはその詩の土台となったおどろくべき骨格をわたしに示してくださいました。あなたのお話に接するまで、『神曲』はわたしにとって巨大な謎でありましたし、その謎をとく鍵は、何人《なんぴと》によっても、訓詁《くんこ》を専門とする学者たちによってさえも、発見されてはいませんでした。あなたのようにダンテを理解することはダンテにひとしい偉大さをもつことでしょう。いな、あなたにとってすべての偉大さは、すでに自家|薬籠中《やくろうちゅう》のものなのです。
われわれがローマ見物に疲れて、くつろいでいたある夕、あなたは即席の講演をして、われわれを魅了してくれました。フランスの学者ならば、その話の内容を一巻の学術書として世に問い、講座をもち、多くの勲章を与えられることでしょう。あなたはおそらくご存知ないかもしれませんが、わが国の教授たちの多くはドイツ、イギリス、東方諸国、北の国々などを糧《かて》として生き、それを米塩の資としています。それはあたかも昆虫が樹木にたかって生きているようなものです。昆虫と同じように、彼らは自分の価値を、研究対象の価値から借りて、完全にその一部にしてしまっています。ところで、イタリアに関してはまだ講座も開かれていません。わたしの文学的な遠慮などはだれもなんとも思わないでしょう。もしあなたの学説を横どりしたら、わたしは三人分のシュレーゲルほどの学殖ゆたかな人間として通用したことでしょう。それなのにわたしはただ社会医学の単なる医師として、不治の病をあつかう臨床医としてとどまることでしょう。そしてわたしの名所案内人《チチェローネ》であるあなたに感謝の念をあらわすために本編を捧げ、あなたのお名前をポルチヤ、サン・セヴェリーノ、パレート、ディ・ネグロ、ヴェルジオジョーゾといった方々〔これらのイタリアの知己たちに、バルザックはそれぞれ自分の作品を捧げている〕のお名前にならべさせていただければ、それで本望であります。『人間喜劇』で、これらの方々の名前は、イタリアとフランスとの絶えることのない深い友情をあらわすものです。つとに十六世紀におきまして、かのおどけ草紙《ぞうし》の著者である、ル・バンデロ司教は、同じ流儀で両国間の友情のきずなを深めました。ちなみにこのおどけ草紙は、シェイクスピアのいくつかの作品の種本《たねほん》となったものでして、シェイクスピアは、ときには登場人物全員を、また文章もそのままに借用しています。
ここに献呈いたします二編〔この献辞は『従妹ベット』『従兄ポンス』の二編からなる『貧しい縁者』のための献辞として書かれた〕は、同じ一つの事実を両面からあらわしたものです。かの偉大なるビュフォンは Homo duplex〔人間の二面性〕と申しました。それにつけくわえて Res duplex〔事物の二面性〕といってはいけないでしょうか。すべてが、美徳さえも二面があります。ですから、モリエールはすべて人間の問題をあつかうときは、両面から描きました。ディドロもそれにならって、『これはお話ではない』を書きましたが、これはおそらくはディドロの最大傑作です。ディドロはこの作品で、ガルダーヌの犠牲となるラショー嬢の崇高な姿を、情婦に殺害される完璧な恋人の姿と対比して描いています。わたしの二つの作品は、あたかも男女の双生児のように、対《つい》としてつくられたものです。これは作者が、いちどぐらいは試みてもよいと思われる文学上の気まぐれでして、とりわけ、思想の衣装となるさまざまな形態をあらわそうとした作品のなかでは許されるべきものと思われます。
およそ人間の争いは、物識《ものし》りと無知な者とが同時に存在していて、それぞれ事物なり、観念なりの一面しか見ようとしないことに由来すると思われます。各人が自分の目にした面だけが唯一の真、唯一の善と主張してゆずらないのです。ですから、聖書はつぎのような予言を記しています。すなわち「神はこの世をもろびとの論議にゆだね給《たも》うた」と。一八一四年に、ルイ十八世の布告によって、この箴言《しんげん》は註釈をほどこされたわけですが、それにつけても、この聖書の一句からだけ考えてみても、ローマ法王庁が貴国に上下両院からなる政体を与えることを願わずにはいられません。
『貧しい縁者』二編が、あなたの才気と詩想によって加護されんことを祈ります。
あなたの親愛なる僕《しもべ》、ド・バルザック
パリ、一八四六年 八〜九月
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一 恋のゆくえ
一八三八年、七月半ばごろのこと、最近パリの広場に姿をあらわしたミロールという新型の馬車がユニヴェルシテ通りを走っていた。中には国民軍〔治安維持にあたった一種の市民軍〕大尉の制服の、中背のふとった男が乗っていた。
パリっ子は目が利きすぎると非難されるが、なかには平服よりも軍服のほうがはるかに洒落《しゃれ》ていると思いこんでいて、毛皮つきの軍帽や軍服は、婦人たちに、ひとかたならぬ好印象を与えると勝手に想像している手あいもいる。女というものは、それほど趣味がよくないと思っているのである。
第二連隊所属のこの大尉の顔つきは、いかにも得意気で、そのせいか彼のやや下ぶくれのあから顔は、つやつやとした光沢をみせている。商売でたんまり金をもうけて、楽隠居の身分になったような男の額などに、この種の色つやがみられることが多い。さしずめこの男もパリの有力な資産家か何かで、少なくとも区の助役ぐらいはやった人物に相違ない。だから、プロシャ軍人式にそりかえっている胸に、レジォン・ドヌール勲章の略綬がついているのも当然ではある。新型馬車の隅《すみ》に、傲然《ごうぜん》とかまえて、勲章をもったこの男は道行く人の上にその視線を移していた。そこにいもしない明眸《めいぼう》の美女に向けたこういう愛想笑いを、パリの道行く人はよく受けるものだ。
馬車は、ユニヴェルシテ通りがベルシャス通りとブルゴーニュ通りではさまれているあたりでとまった。それは、庭つきの古い邸宅の中庭の一部を利用して最近建築された、大きな家の門の前だった。古い邸宅には手をつけなかったらしく、広さが半分にへった中庭の奥に邸がもとのままで残っている。御者《ぎょしゃ》に手をかしてもらって馬車からおりた大尉の様子を見ただけで、彼が五十ぐらいの年配だということがわかる。身のこなしの明らさまな鈍重さが、出生証明書みたいに年齢を雄弁に語ることがあるものだ。
大尉は、右手に黄色い手袋をはめると、門番には言葉もかけずに、邸の一階の階段へと歩みよった。「あの女はおれのものだ!」という様子がそこには見えていた。パリの門番たちは目が利く。勲章をさげ、国民軍の紺の制服を着、足どりのゆったりした男なぞ、まちがっても足どめさせたりはしない。彼らが見れば金持ちかどうかすぐわかるのである。
邸の一階は、全部ユロ・デルヴィー男爵の住まいとなっている。男爵は共和政時代には支払命令の行政委員だった人で、元陸軍主計監、現在は陸軍省のもっとも重要な局長であり、参事院議員、レジォン・ドヌール二等勲章|佩用《はいよう》者等々の肩書をもっている。
このユロ男爵は出生地の地名をとってみずからデルヴィーと名乗っていたが、それは兄の有名なユロ将軍とまちがえられないためだった。兄というのはナポレオン皇帝の近衛連帯で擲弾《てきだん》隊大佐をつとめていた人で、一八〇九年の戦役では軍功を認められ、ナポレオンからあらたにフォルツハイム伯爵の位に任ぜられた人物であった。弟の面倒を引き受けた長兄の伯爵は、親身の配慮から、彼を軍政畑の地位につけたのだったが、兄弟二人して軍務にはげんだので男爵はナポレオンの寵遇《ちょうぐう》をえたし、またそれに値するだけの働きもした。一八〇七年には、ユロ男爵はスペイン方面軍の主計監に任ぜられた。
呼び鈴を押したあとで、国民軍大尉は、つき出た腹の動きで前も後もふくれあがってしまった上衣を、もとにもどそうとして大いに骨を折った。お仕着せを着た召使いは、彼の姿を目にするとすぐになかへ招じ入れたので、この恰幅《かっぷく》のいい、そしてもったいぶった男は、召使いの後についていった。召使いは、客間のドアを開けると、「クルヴェルさまがおみえになりました」といった。
名前の主にいかにもふさわしいこの名を耳にすると、年の割には若々しく、丈の高い金髪の女が、まるで電気の衝撃でも受けたかのようにはっとして立ちあがった。
「オルタンス、ベットさんとお庭へいっておいで」と、そばで刺繍《ししゅう》をしている娘に口早にいった。
大尉にしとやかな会釈《えしゃく》をすると、オルタンス・ユロ嬢はやせた老嬢をともなって庭に出ていった。老嬢は男爵夫人よりも五歳年下だったが、夫人よりも老《ふ》けて見えた。
「あなたの縁談よ」と、ベットは、従妹の娘にあたるオルタンスの耳もとにささやいた。ベットの気持ちなどは委細|頓着《とんちゃく》しないで、二人を遠ざけてしまった男爵夫人のやり口に、かくべつ気を悪くしているようにも思えなかった。もっともベットの身なりで、男爵夫人の不躾《ぶしつけ》な態度が説明できないこともない。
この老嬢は、ぶどう色のメリノ地で作ったドレスを着ていたが、その裁ち方と言い、ふち飾りと言い、王政復古時代の代物《しろもの》であった。刺繍つきの飾り襟は三フランも出せば買えそうな安物で、おまけに市場の売子などがかぶっていそうな、青|繻子《しゅす》の蝶結びのある麦藁帽子をかぶっている。どう見ても最下等の靴屋がこしらえたとしか思えない、山羊《やぎ》革の靴を目にすれば、知らない人はベットにあいさつするのを躊躇《ちゅうちょ》せざるをえないだろう。ましてやこの家の親類のものとしてはあつかうまい。日雇いのお針婆さんそっくりだったからである。とはいうものの、老嬢は出がけにクルヴェル氏に愛想よく会釈をしたし、クルヴェル氏のほうでもうなずいてそれに答えた。
「フィッシェルさん、あす来てくださるでしょうな」と彼がいった。
「お客さまが大勢でしょう?」と、ベットがたずねた。
「いや、子供たちとあなただけですよ」
「じゃあ、おじゃましますわ」
「奥さん、仰せにしたがってまいりました」と言いながら、国民軍大尉はあらためて男爵夫人に腰をかがめた。
そういって彼は、ユロ夫人を見つめたが、その様子はポワチエやクータンスなどで興行するいなかまわりの旅役者が、タルチュフを演じて、思い入れよろしくエルミールを見つめるときの仕種《しぐさ》にそっくりだった。
「どうぞこちらにおいでくださいまし。客間よりもこちらのほうがお話ししやすいと思いますので」家の間どりからいうと、遊戯室になっている隣室を指さしてユロ夫人がいった。
その部屋と、窓が庭に面している夫人の居間とは、わずかに薄い壁で仕切られているだけだった。ユロ夫人はしばらくクルヴェル氏をひとり残して出ていった。立ち聞きされないように、居間の窓とドアとをしめなくてはと思ったからである。用心深いことに、彼女は庭に通ずる客間の出口までしめてしまった。そして、出口をしめるとき、庭の奥の古びた亭《ちん》に腰をおろしている娘と従妹のベットとにほほえんでみせた。だれかが客間にはいって来たら、客間のドアの開く音が聞こえるようにと、遊戯室の入口のドアは開けたままにしておいた。
こんなふうに行ったり来たりしながら、夫人は、だれからも見られていないので、自分の気持ちを顔にあらわに出していた。だれかが居あわせてその表情を見たとしたら、そこにあらわれている心の動揺に、ほとんど愕然《がくぜん》としたことだろう。けれども客間の入口から遊戯室までもどってくるあいだに、夫人の顔は、心の底も容易にはあかさない、あのつつましやかな表情をとりもどしていた。女というものは、あけすけな人でも、ときに応じて、こうした顔つきになれるものらしい。
こうした下準備は、少なくとも奇妙ではあったが、そのあいだ国民軍士官は、彼がいる部屋の調度を仔細《しさい》にながめまわしていた。もとは赤かった絹のカーテンは、日焼けして紫色に色あせ、使い古されて襞《ひだ》がささくれだってしまっている。色の消えた絨毯《じゅうたん》、金色の塗装もはげた家具、まだらにしみがついているうえにほうぼうが破れている椅子の絹地、そういうものを見ていると、この成りあがり商人の平板な顔つきの上に、軽蔑と満足と希望の気持ちがかわるがわる正直にあらわれるのだった。帝政時代式の古い振子時計ごしに、彼は鏡に姿をうつしてわれとわが身を点検することを怠らなかったが、そのとき、衣ずれの音がして、男爵夫人がもどってきた。彼はすぐにふたたびとりすました。
一八〇九年ごろには、さだめし美しかったと思われる小さなソファに腰をおろすと、男爵夫人は肘掛け椅子を指さして、クルヴェルに坐るようにとすすめた。肘掛け椅子の腕木のはしには、青銅色に塗ったスフィンクスの頭部が彫ってあったが、塗料がはげてところどころ木地をみせている。
「ずいぶんと用心なさっているご様子だが、これは幸さきのいいしるしと思うでしょうな。もし……」
「恋こがれる男ならば、でしょう」国民軍士官の言葉をさえぎって夫人がいった。
「ところが、恋こがれるどころではないので」そう言いながら、クルヴェルは右手を胸にあて、目をぐるぐるまわしてみせた。こういう目つきを女性が冷静な気持ちで見れば、たいがいの女性は吹き出すにきまっている。「恋こがれる、いやむしろ恋に狂うといっていただきたい」
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二 義父と義母
「ようございますか、クルヴェルさん」と、笑ってのけるにはまじめすぎた男爵夫人は答えた。「あなたのお年《とし》は五十ですよ。夫のユロにくらべれば十もお若いことはわかっていますけれど、でもわたしの年になりますと、女もそうやすやすと恋にうつつを抜かしたりはいたしませんのよ。それにはやっぱりわけがいります。殿方の顔かたちがすぐれているとか、お若いとか、有名だとか、人物が抜きんでているとか、ともかくわたしたちに何もかも忘れさせてしまうもの、われを忘れて年さえも気にならなくさせてしまうほどのはなやかなものなどが必要ですの。なるほどあなたには五万フランの年収がおありですが、でもお年がお年ですから帳消しですわ。ですから、あなたは女が欲しいと思うものを何一つとしておもちにならないことになります……」
「でも愛情があるじゃありませんか」と、国民軍士官は立ちあがり、身をのり出していった。「この愛情は……」
「いいえ、あなたのは強情です」と、男爵夫人は滑稽《こっけい》な会話にけりをつけるためにさえぎった。
「なるほど、愛情と強情の両方というところかもしれません。ですが、それ以上のもの、権利だって……」
「権利ですって」とさけんだユロ夫人の顔は、軽蔑と不信といかりで気高い表情になった。「でも、こんな調子でお話をつづけていたら、いつになっても終わりませんわね。それにわたしたちの家がおたがいに親類同士なのに、ご交際を遠慮願わねばならない原因となったあのこと、わざわざそんなことをお話するためにおいでを願ったわけじゃありませんわ」
「そうでしたか。わたしはまた……」
「まだそんなことをおっしゃる。恋とか恋人とか、人妻の身のわたしにとってはけがらわしい言葉です。でもこうした言葉を、あっさりと、何のやましいところもなく口にすることができるというのも、わたしにあやまちを少しも犯さないだけの自信があるからです。何もこわくありませんわ。こうして男の方とふたりきりでいれば、人に変な目で見られるのではないか、そんな心配は別にありませんの。やましいところがあれば、こんなにしていられるわけがないじゃありませんか。それになぜおいでいただいたか、よくおわかりのはずですわ」
「それがわからないのでしてね」とクルヴェルは興ざめ顔でいった。口をかたく結ぶと、また気どった様子をした。
「では、おたがいにいやなお話ですから、手短かに申しあげましょう」そういってユロ男爵夫人は、クルヴェルを見つめた。
クルヴェルは皮肉をこめて頭をさげたが、同業者がその愛想のいい身のこなしを見たら、なるほどこの男は昔セールスマンをやっていただけのことはあると思うにちがいない。
「せがれは、お宅のお嬢さまと結婚いたしましたが……」
「これがやりなおせるものでしたら……」と、クルヴェルがいった。
「できればやりなおしたいくらいだ、とおっしゃるんでしょう」男爵夫人はすかさず答えた。「でも、クルヴェルさんにご不満はないはずですわ。せがれはパリの一流の弁護士ですし、それに一年前から代議士にもなっています。国会の初演説で評判になったくらいですから、まもなく大臣にだってなるでしょう。ヴィクトランは、重要法案の報告者に二度も指命されました。本人さえそのつもりになれば、最高裁判所の検事にだっていつでもなれますわ。ですから、財産もない男を婿《むこ》にしてしまった、とおっしゃりたいのでしたら……」
「それどころではなく、わたしのほうで扶助せざるをえない始末ですからね。持参金として娘に持たせてやった五十万フランのうち、二十万フランはもうなくなっていますよ。何に使ったか申しあげましょうか、息子さんの借金の返済に使った、ぐっと派手な家具を買った、五十万フランもする家に住んで、おまけに、その家のいちばんいいところに自分で住んでいるから、家賃収入だってわずかに一万五千フラン、そのうえ、家の代金のうち二十六万フランは未払いになっている……家賃だけじゃ借金の利息にもなりません。今年なぞ、娘のやりくりに、二万フランも援助することになりますかな。そのうえ、裁判所でなら三万フランの収入があるというのに、裁判所のほうはいいかげんにして、婿は議会のほうに本腰をいれるという話じゃありませんか……」
「クルヴェルさん。それはどうでもいいことで、本題は別にあるはずですわ。こんなお話はもういいかげんにしていただきたいからこそ申しあげるんですが、せがれが大臣になり、せがれの口入れで、レジォン・ドヌール勲章がもらえ、パリ市の参事会員になれれば、あなたはそれでよろしいではありませんか。もとをただせば香水屋だったあなたのことなんですもの」
「それが問題なんですよ、奥さん。わたしは、食料品店のおやじで、たかが小売商人です、もとはアーモンド・クリームやら、オーデコロンやポルトガル香水などを売っていたしがない男でして。その一人娘がユロ・デルヴィー男爵のご子息と縁組みできたなんて、名誉な話でさあね。娘もやがては男爵夫人ですからな。まさに摂政時代風と申しますか、ルイ十五世風と申しますか、『円窓物語』〔ルイ十五世宮廷秘史のこと〕を地でゆくようなものでさあ。まことにけっこう至極c…なにしろセレスティーヌは一人娘で、わたしゃかわいがっておりますよ。娘がかわいいから、あれに弟や妹を持たせたくない。それで再婚もしないで、パリにいながら、やもめ暮しの不便をかこっている始末(それも男盛りのこのわたしがですぜ)。ですがね、奥さん、いくら娘がかわいいからといったって、息子さんのために身上《しんしょう》をつぶしたいとは思いませんな。おまけに息子さんの金使いがどうもはっきりしない。もと商売人のこのわたしにですぜ……」
「ご不審がおありでしたら、今からでも商務省にいらして、もとロンバール街で薬屋をしておられたポピノさんに会ってくださいませ」
「ポピノは友だちですよ、奥さん。なぜかといえば、このわたし、セレスタン・クルヴェルはですな、もとセザール・ビロトーじいさんのところで番頭をしておった。そしてこのビロトーじいさんの店をあとから買いとったのもわたしなんですが、ビロトーじいさんは、ポピノの舅《しゅうと》で、ポピノはその店ではただの平店員でした。わたしのほうじゃそんなこと忘れてるんですが、彼のほうでよく覚えていて、そういったりするんですな。あの男は(これはたしかにあの男のえらいところですが)、年収六万フランもあるようなひとかどの人物に向っては、けっしていばったりせんので」
「それじゃ、あなたのお好きな摂政時代風とやらの物の見方は、人それぞれにそなわった価値で通用する今の世の中には、もうあてはまらないということじゃありませんか。だからこそ、あなただってお嬢さんを嫁にくだすった……」
「この結婚がどんなふうにしてまとまったか、ご存知ないのでしょう」とクルヴェルがさけんだ。「呪《のろ》うべきは、勝手気ままの独身生活というやつで。あんな放蕩《ほうとう》さえしなかったら、娘のセレスティーヌも、いま時分はポピノ子爵夫人におさまっていたのに……」
「もういちど申しあげますけれど、もうすんだことをどうのこうのいっても仕方がないではありませんか」と男爵夫人は力をこめていった。「それよりあなたのおかしななさり方にわたし、ひとこと苦情を申しあげたいのです。娘のオルタンスに縁談がありました。あなたの出方一つでまとまるところでしたし、わたしはあなたのご厚意を信じておりました。今まで夫だけのことしか考えてこなかった、わたしという女の気持ちも理解していただけるものと思っておりました。男の方にお会いして、あれこれ噂をたてられるまねがしたくないわけもわかっていただけるものとばかり思っていたのです。あなたは進んでわたしどもの親類となってくださったのですから、わたしどもの家のためにも、オルタンスと控訴院判事のルバさんとの縁組に喜んでお力ぞえくださるものとばかり思っていたのです……。それなのに、あなたはこの縁談をこわしておしまいになったではありませんか……」
「奥さん」と、もと香水商は答えた。「わたしはただ正直にいったまでですよ。オルタンスさんにつけられることになっている二十万フランの持参金は、はたして支払われるものかどうかと、ききにきた人がいましてね。わたしがした返事をそのまま申しあげるとこうです。『それはどうも保証のかぎりではない。ユロ家は、わたしの娘の結婚のときにもやはり二十万フランの持参金を約束したが、婿は借金があった。もしユロ・デルヴィー氏があすにでも死ぬようなことがあったら、あとに残された夫人はその日の暮らしにも事かくことになるだろう』まあ、これがわたしの返事でした」
「もし、わたしが妻としての義務をゆるがせにしていたとしても、やはりあなたはそんな返事をなさったでしょうか」とユロ夫人はクルヴェルをじっと見ながらいった。
「アドリーヌさん、もしそうだったら、わたしにはそんな返事をする権利はなかったでしょうな。持参金はわたしの財布から支払われることになりますからね」こういって、この奇妙な恋人は、男爵夫人の言葉をさえぎった。
こんな言葉を耳にして、ユロ夫人はその嫌悪の気持ちをだまっておし殺していたのだが、クルヴェルはそれをためらいととった。それで、言葉に実をそえるために、ふとったクルヴェルは、床に片膝をついて夫人の手に接吻した。
「娘の幸福を購《か》うために、わたしが……おお、クルヴェルさん、立ってください。でないとベルをならしますよ」
もとの香水商は、ぐずぐずしながら立ちあがると、ことの次第にいたく自尊心を傷つけられて、またさきほどのもったいぶった姿勢にもどった。男というものは、概《がい》してある好みのポーズをもっている。そうしたポーズをとって見せれば、身にそなわった風格がいっそう引き立つと思いこんでいるものなのである。その姿勢は、クルヴェルの場合には、ナポレオン式に腕を組み、顔をやや横向きにして、水平に見つめるといったものだった。目の位置は、画家が彼の肖像を描くときにさせるのと同じものである。
「あんな夫に貞節を守るとは、あんな道楽……」芝居気たっぷりに憤慨にたえぬという様子で、彼はいった。
「夫は夫です。しかも立派な夫ですわ」ユロ夫人は聞きたくない言葉を相手にいわせまいとしてさえぎった。
「ところでですな、奥さん、こいというお手紙だったんでやってきたんですが、奥さんは、わたしのやったことのわけを知りたいとおっしゃる。女王さま気どりでたいそうにかまえ、人をばかにしたような、おまけに軽蔑したようなそのご様子じゃあ、どうにもいやになっちまいますな。これじゃ、まるで奥さんの奉公人じゃありませんか。もういちど言いますがね、たしかにわたしには権利がある、その……奥さんにいい寄っていいだけの権利が……というわけは……まあよしましょう、奥さんを愛しているだけに、とてもわたしにはいうにしのびない……」
「おっしゃってください。もういく日かすれば、わたしも四十八ですもの、貞女ぶるほどばかではありませんわ。どんな話でもおうかがいできます」
「じゃあですな、わたしの名前をけっして出さない、この秘密をだれから聞いたか絶対にいわないと約束してくれますか、まじめなひとりの婦人として誓ってくれますか。わたしにとってあいにくなことに、奥さんは至極まじめな女性なんでして」
「そうしなければおっしゃっていただけないのでしたら、だれにもいわないと約束しますわ。だれがそのたいへんな秘密をわたしに明かしたか、夫にもいわないことにしますわ」
「それそれ、そのご主人にはとくに内密にしていただきたい。なにしろ話というのは、もっぱら奥さんとご主人のことなんだから……」
ユロ夫人の顔があおざめた。
「奥さん、今でもユロさんを愛しておいでなら、この話はつらいですよ。いっそいわないでおきましょうか」
「おっしゃってください。それをお聞きしなければ、あなたがこんなふうに奇妙にわたしに言い寄るわけも、わたしのような年の女をなぜ苦しめようとなさるのかもわかりませんもの。わたしはただ娘を早く嫁にやって、安らかに死にたいと思っているだけです」
「ほらごらんなさい、奥さんは不しあわせですよ……」
「わたしがですか」
「そう、美しくも気高い方!」と、クルヴェルが大声でいった。「まったくたいへんなご苦労だった」
「やめてください、そして出ていってください。さもなければ、ちゃんとまともな口をきいてください」
「奥さん、ユロ氏とわたしとがどこで知り合ったかご存知ですかな。女のところでですよ」
「まあ」
「わたしたちの女のところでですよ」芝居がかった口調でこうくりかえすと、クルヴェルは、せっかくのポーズをくずして、右手で身振りをした。
「ええ、それで?」と、男爵夫人は静かにいったので、クルヴェルはびっくりした。
軽薄な女たらしなぞには、偉大な魂がわからないのである。
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三 ジョゼファ
「わたしはこの五年というもの、やもめ暮しをしていますがね」と、クルヴェルは物語でもして聞かせるといったふうで語りはじめた。
「かわいい娘のために再婚もしないでいるのです。そのころ、とてもきれいな女店員がいたんですが、自分の家でおかしなまねはしたくないと思っていました。それで年のころ十五ばかりのかわいい女工に、家を一軒もたせてやったんです。まあ、世間でいう女を囲うということになりますかな。この女がまた、不思議なくらいきれいな女で実をいえば、わたしはすっかり首ったけになっちまった。わたしは、故郷《くに》から自分の叔母(おふくろの妹ですな)を呼び寄せましてね、いっしょに暮してこの素敵な美人を監視してくれ、とまあこう頼んだわけなんですよ。こういう、なんて申しますかな、合法的ではない境遇にいる女ですから、身持ちが悪くならんようにできるだけの手を打たねばいかんと、思ったんですな。この子には明らかに音楽の才能があったんで、教師をつけてやりました。ちゃんとした教育を受けたわけですな(遊ばせておくとろくなことはありませんからね)。それにわたしは、同時にその子の父親でもあり、恩人でもあり、あえていわせてもらえば、情夫でもある、そうありたいと思った。つまり一石二鳥、善行をほどこして、同時に愛人をうるというわけでさあ。わたしは五年間、しあわせでした。その子の声たるや、劇場のドル箱になるような、そんな美声です。いうなれば、デュプレを女にしたような声ですな。彼女をひとかどのオペラ歌手にするために必要な経費だけで、年に二千フランもかかりましたよ。おかげで、わたしもすっかり音楽に熱をいれましてね、彼女と娘のために、イタリア座の桟敷を一つ借りきってやったほどでした。わたしは、かわるがわる、今日はセレスティーヌ、あすはジョゼファ、といった具合にして、通ったもんでした……」
「まあ、あの有名なオペラ歌手のことなんですか」
「そうですよ、奥さん」クルヴェルは得意そうにいった。「わたしはあの有名なジョゼファの大恩人なんでさあ……。要するにですな、一八三四年に彼女がはたちになったとき、もう彼女は永久に自分のものだと思いました。それにわたしも、彼女にはたいへん弱くなりましてな。少しは気晴らしも必要だろうと思い、ジェニー・カディーヌというかわいらしい女優との交際を許してやりました。その人の境遇がまた、ジョゼファといくらか似ていた。この女優が、今日あるのも、手塩にかけて育ててくれたある保護者のおかげですが、その保護者というのが、ユロ男爵その人で……」
「存じております」と、男爵夫人は少しも変わらない落ちついた声でいった。
「ほう!」クルヴェルはおどろいていった。「なるほど、それじゃあ、あなたは、あの人でなしが、ジェニー・カディーヌを十三の年から囲っているということを知っていますか」
「それがどうだとおっしゃるんですの」
「彼女らが友だちになったとき、ジェニー・カディーヌは、ジョゼファとおない年のはたちでしたから、ルイ十五世がロマン嬢にしたと同じようなことを、一八二六年からずっと、男爵はしていたことになりますな。そのころ、奥さんは今より十二も若くて……」
「主人に自由な振舞いをさせていたのは、わけがあったからです」
「奥さん、そんな心にもない嘘をおっしゃるだけで、奥さんの犯した罪はみんな帳消しになりますよ。天国の扉は、奥さんのために開かれるでしょう」と、クルヴェルは気障《きざ》な調子で答えたが、その様子を見て男爵夫人は顔をあからめた。「気高く、愛すべき方よ、そういう嘘は、余人は知らず、このわたし、クルヴェルにいうもんではありませんな。いいですか、このクルヴェルじいさんは、おたくのぐうたら亭主殿とは女をまじえてさんざ遊んだ仲なんで、奥さんがどんな女かよくわかってるんでさ。ユロは、酒を飲みながらでも、ふと自分の身をとがめて、奥さんの美点をいろいろ話したりしたもんですよ。まったくねえ、わたしは奥さんがどんな人柄かちゃんと知ってますよ、奥さんはまるで天使ですわ。はたちの若い女と奥さんと、どっちを選ぶかといえば、わたしは迷いませんな、ただの道楽者なら、迷うかもしれませんがね」
「およしになって!……」
「いや、やめましょう。……ですがね、奥さん、あなたは立派で清らかな人だからご存知ないかもしれないが、亭主というものはいちど酔っぱらうと、色女を相手に、女房のことなぞいろいろしゃべるものでしてね。しかもまた女どもがそいつを聞いてげらげら笑うという次第で」
ユロ夫人の美しいまつ毛のあいだを流れるつつましやかな涙を目にすると、国民軍士官はぴたりと言葉をとめてしまった。そしてもはや気どった姿勢をとることも忘れた。
「話のつづきですがね。男爵とわたしとは、あだな女たちの取り持つ縁で昵懇《じっこん》になりました。放蕩者はみんなそうですが、男爵もたいそう愛想がよくて、しかも気のおけない人ですからな、すっかり好きになりましてね。ほら話のじょうずな男で……まあ、昔の思い出話はそのくらいにしておきましょう。……わたしたちは兄弟のような仲になりました……けしからん男で、まるで摂政時代式《レジャンス》ですな。しきりとわたしを堕落させようとしたり、婦人共有論をぶったり、大大名や、青銅着の殿さま風のやり方を教えこもうとしたりしたもんでした。ところがわたしはといえば、妻にしたいと思ったほど、あの娘《こ》に熱をあげていましたからね。もっとも子供ができると困るんで、結婚はしませんでしたが。いい年をしたおやじがふたり集まって、ちょうど……その、われわれのように親しい仲になれば、たがいの子供同士を夫婦にしたくなるのももっともな話じゃありませんか。ところが、彼の息子とわたしの娘セレスティーヌが結婚して三カ月目に、ユロは(あの男をなんて呼べばいいんだろう。いんちき野郎め、とにかくあいつは、奥さん、わたしたちをふたりともだましたんですからね)、あのいんちき野郎は、かわいいジョゼファをわたしからとっちまったんですよ。あの腹黒い男ときたら、いよいよ人気絶頂のジェニー・カディーヌの気持ちが、ある若い参事院議員や、それからある絵かき(ふたりとは見事じゃないですか)のほうにかたむいて、手前はふられかけているのを知ってたもんですから、わたしのかわいい愛人、たいせつなあの娘《こ》をわたしから横どりしちまったんですな。たしかあなたもイタリア座で、あの娘を見かけたことがあるはずですよ。イタリア座にはいれたのもあの男の信用のおかげなんですがね。
わたしとちがってあなたのご亭主には、けじめというものがないようですな。わたしは、それこそ五線紙みたいにきちんとしておりまさあね(あの男は、ジェニー・カディーヌにだってもうだいぶしぼられていたんですよ。かれこれ、一年に三万フランもかかっていましたからな)。ところがですよ、いいですか、彼はジョゼファのおかげで、もう完全に破産しかかってるんですぜ。奥さん、ジョゼファはユダヤ人でしてね、名前はミラーってんです(ヒラムをつづり換えたもんで)。こりゃ、後日見つけ出すためのヘブライ語の符牒《ふちょう》でしてね、ドイツで捨てられた子なんですな(わたしが調べたところ、ある金持ちのユダヤ人銀行家の私生児だってことがわかったんです)、ジョゼファは、舞台生活をしているうちに、ジェニー・カディーヌとか、ションツ夫人とか、マラガ、カラビーヌといった連中に教えこまれて、老人のあつかいかたを覚えちまったんです。わたしは、あの娘にまっとうで金のかからん道を踏ませておいたのに、昔のユダヤ人の、黄金や、宝石や、金の犢《こうし》を拝む本能が、おかげでたちまち目覚めてきました。名前が売れてきたこの歌劇女優は、金権亡者になりましてね、ただもう金が欲しいとばかり思うようになったんです。
だから、彼女は、男が彼女のためにおしみなく使う金を、自分では一文も使わない。ユロ先生を試験台にして腕だめしをやったようなもんです。なにもかもはぎとっちまった、はいだなんてもんじゃない、骨までしゃぶっちゃったんですよ。ジョゼファに夢中になっている男は数かぎりもなくいましたがね、かわいそうに、ユロは、彼同様熱をあげていたケレル一族のそれがしとか、デグリニョン公爵とさんざ張り合ったあげくのはてに、美術愛好家で名のとおっている、あの例の公爵にジョゼファを奪われかけてるんでさあ。なんて言いましたかね、あの公爵は、ほれ、あの寸足らずの男ですよ、そうそう、デルーヴィル公爵だ。あのご大名にいわせると、ジョゼファは自分ひとりの女なんだそうですよ。粋筋《いきすじ》の女たちのあいだじゃ、もっぱらの噂になってるんだが、男爵はいっこうにご存知ない。道楽者の世界も、この点じゃあ、他所《よそ》の世界と同じでさあね、知らぬは亭主ばかりなり、と言いたいところだが、知らぬは旦那ばかりなり、とでも言いますかね。
これで、わたしの権利というのがご理解いただけましたでしょうかな。ご主人はですな、奥さん、わたしの幸福を奪ってしまった、女房をなくして以来のわたしの唯一《ゆいいつ》の楽しみを奪ってしまったんです。もしも、あの老いぼれにめぐり会わなかったら、ジョゼファは今でもわたしのものだったでしょうな。というわけは、わたしだったら、あの娘《こ》を舞台に出すようなまねはぜったいしませんからね。有名にもならず、おとなしくわたしに囲われていたことでしょう。まったく、今から八年前のあの娘の姿をお目にかけたいくらいですよ、ほっそりとしたからだつき、きびきびしていて、世間でよくいう、アンダルシア女の小麦色の肌というやつ、繻子《しゅす》のように艶《つや》のある黒髪、褐色の長いまつ毛に、きらきらとよく光る目だった。起居振舞《たちいふるま》いには、公爵夫人のような気品があって、しかも貧しい女の謙遜さを失わない。堅気な美しさに、野鹿のようなやさしさです。ユロ先生のおかげで、こういう魅力や清純さがすべて狼をひっかける罠《わな》になっちまった。百スー金貨をつりあげる餌《えさ》になったんですなあ。あの娘はいわば悪女の中の女王格ですぜ。それに、今じゃ、駄洒落《だじゃれ》までとばす。何にも知らない女だったのに、そんな言葉さえ知らなかったくせに」
このとき、もと香水商は、涙のにじんできた目をぬぐった。嘘や偽りのないこの悲しみは、ユロ夫人の心を動かし、夫人は、深いもの思いからさめたようだった。
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四 香水商の感動
「ねえ、奥さん、五十二にもなってこんな宝物のような女が二度とみつかるものでしょうか。この年になると、浮気をするにも年に三万フランはいるようになりますよ。あなたのご亭主のやってるのを見て、わたしもこの数字を知ったんですが、セレスティーヌがかわいそうで、娘を一文なしにさせたくないんですよ。お招きいただいた夜会で、はじめて奥さんにお目にかかったとき、わたしは、あのユロの奴がなんでまたジェニー・カディーヌのような女なぞ囲っておくのか、どうしても納得《なっとく》いかなかった……。あなたはまるで皇后さまのようだった。今だって、奥さんは三十にも見えませんよ、若くてしかも美しくておいでだ。これはまったく正直な話ですが、あの日、わたしはつくづく心を動かされました。わたしは、なにしろ、『ジョゼファがいさえしなけりゃ、ユロじいさんはほったらかしにしてるんだから、あの女《ひと》は、おれには手袋みたいにぴったりすることだろう』と、思いました。(あ、これは失礼、昔の地《じ》が出ましてね、香水屋をやっていたころの癖がときどき出るんで。代議士に打って出たくとも、出れない始末なんですよ)こんなわけで、わたしは、男爵におめおめとだまされる羽目になっちまいました。
わたしどものような道楽じじいのあいだじゃ、友人の色女は、神聖なもので手を出すべきものじゃないんですがね。そこで、わたしはあいつの細君を取りあげてやろうと決心しました。そうすりゃ、おあいこでさあね。男爵にはつべこべいう筋合いはないんですから、だいじょうぶ、われわれふたりはだれにとがめられる気づかいもない。わたしが、わたしの思いの丈《たけ》をあなたに申しあげた、その最初の言葉もいい終わらないうちに、奥さんはわたしを疥癬《かいせん》にかかった犬も同様に、追っぱらわれた。ところが、わたしの愛情は、いや、奥さんのおっしゃるとおり、強情ということにしておいてもかまいませんがね、とにかくわたしの気持ちは、かえってそれで、つのるばかりなんです。奥さんはわたしのものですよ」
「でも、どんなふうにしてですの」
「わたしにもわかりませんが、いつかはそうなるでしょうよ。奥さん、頭のあまりよくない香水商人(しかも隠居おやじだ!)でも、頭のなかに一つことしかなけりゃあ、何千ものことを考えている才子よりゃ、よっぽど強いですからね。わたしは奥さんに|首ったけ《ヽヽヽヽ》だ、しかもこの恋は、わたしの復讐でもある。とすりゃあ、わたしは二重に(惚惚《ほほ》れていることになる。わたしはもう決心はすっかりついてるんで、こうして腹蔵なくなにもかもお話するんですがね。奥さんが、『わたしはあなたのものになぞなりません』とわたしにおっしゃる、その調子とまったく同じほど冷静にわたしは話をしてるんじゃありませんか。つまり諺《ことわざ》にもいうとおり、わたしはトランプをちゃんとテーブルの上に出して、勝負してるんです。そうですとも、奥さんはわたしのものになりますよ、それはただ時間の問題にすぎません。たとえあなたが五十になっても、わたしはあなたを見捨てたりしませんよ。むしろそのときこそ、……わたしは、ご主人についてあらゆることを期待していましてね……」
ユロ夫人は、この計算高い商人を恐怖に満ちた眼差《まなざ》しでじっと見つめた。その目つきがあまりにもすわっていたので、彼は夫人が気でも狂ったのではないかと思って、口をつぐんだ。
「こんなことをいうようにあなたがしむけたんですよ。あなたはわたしをまるでばかにしてかかって、いえるものならいってみろというような顔をなさった。それでわたしはしゃべっちまったんですよ」彼は、自分が最後にいった言葉があまりにも乱暴だったので、弁解の必要を感じてそういった。
「ああ、娘は、わたしの娘は!」と、男爵夫人は、瀕死の声でさけんだ。
「いやわたしもなにがなんだかわからなくなってきた」とクルヴェルがまたいった。「ジョゼファを横どりされたときは、わたしはまるで、子供を取りあげられた雌の虎みたいでした……つまりいまのあなたのようになげき悲しんだものでした。お嬢さんはわたしにとって奥さん、あなたを自分のものにするための手段なのです。いかにも、お嬢さんの縁談を破談にした張本人はこのわたしですよ……しかも、これからさきだってわたしの助けをかりなけりゃあ、お嬢さんをかたづけることはできないんですぜ。お嬢さんがどんなに美人だろうと、持参金はいりますからなあ……」
「残念ながらおっしゃるとおりですわ」と男爵夫人が涙をぬぐいながらいった。
「じゃあひとつ、ご主人に一万フラン出してくれとたのんでみるんですな」といって、クルヴェルはまたポーズをつくり、そり身になった。
クルヴェルはまるで役者気どりで、思い入れよろしくだまって相手の出方を待った。
「万一かりに、ご主人にそれだけ持ち合わせがあるとしても、それはジョゼファのかわりの女にやってしまうでしょうな」とクルヴェルは声をはりあげていった。「いちど覚えた味ですからねえ、とまるものですか。なにしろあの人は女に目がなさすぎまさあね。(王様の言い種《ぐさ》じゃないが、何ごともほどほどがよろしいんですがね)おまけにそこに虚栄もまじっている。なにしろ色男ですよ! 手前の楽しみのためとありゃあ、妻子を飢えさせるなんざ、朝飯前ですな。もうそろそろ落ちぶれかけてきたじゃありませんか。このところだいぶお宅にも足が遠のいておりましたが、久しぶりにきてみると、客間の家具だって昔のとおり、古いまんまじゃありませんか。そのあたりの布地のほころびが、『金づまり』って言葉を口から吐き出していまさあ。身分のある方の貧乏暮し、こいつは貧乏の中でもとくにいやなものですが、そのいやなことのありありとした証拠を見せつけられて、逃げ出さない婿殿が世の中におりますかね。わたしはもと商売をしていた。だからわかるんですよ。ほんとうのお金持ちと、みかけだけのお金持ちを見わけるにゃ、パリの商人の眼光がいちばんですな。あなたは一文なしでしょう」とクルヴェルは声を低めていった。
「どこを見ても、たとえ召使いの服装を見ただけでも、それがわかりますよ。奥さんのご存知ないおそろしい秘密を教えてあげましょうか……」
「クルヴェルさん」といった夫人は、ハンカチがびっしょりぬれるほど泣いていた。「もうたくさんですわ」
「いいですか、わたしの婿は、父親に金をやってるんですぜ。さっき話のはじめに息子さんの暮しむきについていおうと思ったことは、じつはこのことなんです。まあ、しかしわたしは娘が損をしないようにちゃんと見張っています。ご安心なさい」
「ああ、オルタンスを早く嫁にやって死んでしまいたい」あわれにも夫人は気も顛倒《てんとう》していった。
「お嬢さんをかたづける方法は、ないことはないですな」とクルヴェルがいった。
ユロ夫人は希望をこめた目つきでクルヴェルをじっと見つめた。その希望は夫人の顔つきをまたたく間に変えてしまったのだが、その表情の動きだけで、クルヴェルがなみの人間なら胸を打たれ、そのばかばかしい計画を放棄してしまったことだろう。
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五 貧しい娘を嫁にやるには
「奥さんの美貌はまあ、あと十年はもつでしょうな」とクルヴェルは相変わらず気どったポーズをつづけながらいった。「少しはわたしにも愛想をよくしたらいかがです、そうすりゃあ、オルタンスさんだってお嫁にいかれるってわけですよ。ざっくばらんに取引きの条件を申しあげますが、気を悪くなさらんでくださいよ、わたしがこんな口を利く権利が生じたというのも、もとはといえばユロのせいなんでね。いや彼だって腹は立てんでしょう。じつは、三年ほど前から、資本をいささか有利に回転させたうえに、わたしの道楽といってもしれたものですから、三十万フランばかりの余剰金ができたんです。むろん、元金は別にしてですよ。このお金はなんならあなたにさしあげてもいいんですがね……」
「帰ってください」とユロ夫人はいった。「もう帰ってください、そして二度とわたしの目の前にあらわれないでください。オルタンスに縁談があったとき、あなたは卑怯なまねをなさった……その理由を知りたいからこそわたしはあなたにお目にかかったのです。……ええ、あなたのしたことは卑怯なことでしたとも」と夫人は、クルヴェルが何かいおうとするのをさえぎるようにして言葉をつづけた。「何の罪もない美しい娘に、かわいそうなあの娘《こ》に何であんなひどいことをなさったのです?……あなたのおこないの理由を知りたい、そう思いつめ、母親として胸をいためてさえいなかったら、わたしはあなたとお話などするはずではなかったのでした。わたしの家へ二度とおいでいただくはずではなかったのです。三十二年も守りつづけてきた女の誇りと操《みさお》は、クルヴェルさんなぞの侮辱にあったところでくずれるものではありませんわ……」
「そのクルヴェル氏とは、もと香水商、セザール・ピロトーの後をついで、サン・トーレ街の『|ばら《ヽヽ》の女王』店の二代目の主人におさまった人物」とクルヴェルはからかうようにいった。「かつては区の助役をつとめ、現に国民軍大尉で、レジォン・ドヌール五等勲章|佩用者《はいようしゃ》、もっともこの勲章は先代のピロトーも持っていましたがね……」
「夫のユロは」と男爵夫人はまた口をきった。「夫のユロは二十年ものあいだ、浮気ひとつしなかったんですが、それでも妻のわたしにあきたらなくなったのかもしれません。でも、それはわたしだけに関係したことですわ。夫は、浮気はしたかもしれませんが、わたしにはそれをひた隠しに隠していました。なにしろ、夫があなたにかわってジョゼファさんの意中の人になったということも、わたしが知らなかったくらいなんですから……」
「いやあ」とクルヴェルは大声でいった。「意中の人なんてもんじゃなくて、万事、金に|もの《ヽヽ》をいわせて釣るんですよ……ユロはここ二年間ばかりで、あの女のために十万フラン以上の金を使ったんですからな。まったくこのぶんじゃ、奥さんの苦労も当分つづきますぜ……」
「もうよしてください、クルヴェルさん。心になんのやましいところもなく子供に接吻でき、家族のものに尊敬され、愛されることほど、母親にとって幸福なことはないのですよ。わたしはあなたのために、母親としての幸福を捨てる気は毛頭ありませんわ。わたしは、なんのけがれもないままに魂を神さまのみ手にお返しするつもりでいます……」
「アーメン!」とクルヴェルはいったが、彼の顔には悪魔的な苦々しい表情が浮かんでいた。自分ではいっぱしの色男のつもりの男が、女をくどこうとして失敗するとこんな顔つきになるものだ。
「奥さんはどんづまりの貧乏というものをご存知ないでしょう……貧乏も極端になると、ただもう恥辱と不名誉あるのみでさあね……わたしは奥さんの目をさまさせてあげようと思った。奥さんと娘さんとを救ってさしあげようと思ったんです……いいですか、聖書の譬《たとえ》をもじっていえば、放蕩息子どころか『放蕩おやじ物語』の現代版を、はじめから終わりまで、そっくり地でゆくことになるんですぜ。奥さんの涙や、奥さんの立派な態度を見ていると、さすがのわたしもつらい。なにしろ好意を寄せている女性の涙を見るくらい、いやなことはありませんからね!……」とクルヴェルは腰をおろしながらいった。「アドリーヌさん、わたしにお約束できることといえば、あなたや、ご主人のためにならんことはいっさいしないこと、それだけですね。それにしても、わたしのところへ縁談の問い合わせなんぞで、人をよこさんでくださいよ」
「ではどうしたらいいのです?」とユロ夫人がさけんだ。
男爵夫人は、それまでクルヴェルの話をじっとこらえて聞いていたのだが、しかし内心では三重の苦しみに健気《けなげ》にもたえていた。つまり夫人は、女として、母として、そして妻として苦しんでいたのである。息子の舅《しゅうと》が横《おう》へいにかまえて、強引に口説《くど》こうとしていたあいだは、商人のむちゃなやり口に抵抗する必要から、おのずと気力も湧いてきた。だが、ユロ夫人にすげなくあしらわれ、国民軍士官のめんぼくもまるつぶれとなって腹を立てたクルヴェルが、ふとみせた好意は、ぴんとはりつめた夫人の神経をゆるめてしまった。彼女は両手をよじり、涙にくれた。気も心もくじけてぼう然としてしまったので、クルヴェルがひざまずいて彼女の手に接吻しても、さからおうとさえしなかったくらいだった。
「ああ、どうなることでしょうか」夫人は両の目をぬぐいながらいった。「娘がむなしく年をとってゆくのを、母親の身としてだまって見ていられるものでしょうか。素質にもめぐまれ、母の膝下《しっか》で清らかな日々を送ってきたすばらしい娘《こ》ですのに、行末はどうなることでしょうか。ときどき、娘が自分でもなぜか知らない悲しい思いにとらえられるとみえて、庭なぞを歩きまわっていることがありますの。目に涙さえ浮かべていることがありますわ」
「お嬢さんはたしか二十一でしたね?」とクルヴェルがいった。
「修道院にでもやるしかないのでしょうか」と男爵夫人は問いかけるようにいった。「なぜなら、こうしたつらい立場に身をおいた場合には、どんなに道心堅固でも自然の力には対抗できないことがあります。ほんとに信心深く育った娘さんでさえ、一時の気迷いから堕落するものですわ……それはとにかく、さあお立ちになって。おわかりになりませんの。こうなった以上、わたしたちの間柄もこれまでですわ。もうお目にかかるのもいやです。あなたは母親の最後の希望をくつがえしてしまったんですから……」
「では、もしもわたしがその希望をかなえさせてあげたら……」とクルヴェルがいった。
ユロ夫人はこの言葉を聞いて、うれしさのあまり前後を忘れてじっとクルヴェルを見つめた。クルヴェルは、その表情に胸を動かされはしたが、同情心をぐっとこらえた。というのも、『もうお目にかかるのもいやです』という夫人の言葉が頭に残っていたからだ。一般に美徳というものは、あまりにも一本調子なものだ。困難な立場におかれた場合は、妥協したり、含みのある言葉をいったりして、行きつもどりつなんとかして難局を切り抜ける工夫が肝心だが、貞女にはそんなまねはできないのである。
「今の世の中じゃ、オルタンスさんみたいに美しい娘さんを持参金もつけずに嫁にやるなんてことはしませんな」とクルヴェルがまた気どった調子で話しはじめた。「お嬢さんの美貌は、亭主にとっちゃ気苦労のたねですよ。手入れにうんと金がかかるので買い手がつかない名馬みたいなもんで。あんな美人と手を組んで道を歩いてごらんなさい。みんな亭主の顔をじろじろ見、後をつけ、あげくは、ひとつあの女房を手に入れてやれ、なんて気をおこしますからね。女房がもてるってことは亭主にとっちゃ、迷惑千万な話でね。だれだって女房の愛人と決闘なぞしたかあありませんや。だいいち、女房に男ができるたんびに片っぱしから殺すわけにもゆかないじゃありませんか。奥さんの境遇じゃあ、お嬢さんを嫁《かた》づけるには、やりかたは三つしかありませんな。わたしの援助をかりること。これがひとつ。ところが、これは奥さんのほうでおいやらしい。金がしこたまあって、子供がない、これから子供をつくろうという六十格好の老人をさがすこと、これが二つ。こういう老人はやたらにゃいないが、いるにはいますよ。ジョゼファや、ジェニー・カディーヌの類《たぐい》の女をめかけにしようという老人がちゃんといるんですから、同じようなばかげたまねをひとつ合法的にやろうという男がいないわけはありますまい……セレスティーヌや、ふたりの孫がいなかったら、わたしだってオルタンスさんと祝言《しゅうげん》したいくらいでさあ。さて、三番目のやりかただが、こいつはもっとも簡単です……」
ユロ夫人は顔をあげて、香水商あがりのこの男を心配そうにじっと見つめた。
「パリというところは、フランスの土地にまるで自生の若木のようにぐんぐん生え伸びてゆく|いき《ヽヽ》のいい男たちが集まる都会ですよ。ここには才能はあるのに暖をとるための火もなけりゃあ、住む家もないといった連中がうようよしてまさあ。ゆくゆくは一財産つくりあげようという、有能で果敢な青年が集まってきているんですからな……ところでこういう青年なら……(実は、わたしも昔はそういう青年のひとりだったんで、そういう連中をいくらも知ってましたな。ティエには、何がありました? 二十年前のポピノは、何を持っていたか?……やつらはふたりともピロトーじいさんの店でうだつもあがらずくすぶっていたんでさあ。やつらの資本といやあ、出世したいという野心だけ。もっともこの野心さえありゃあ、立派な元手を手にしているのと同じことですが……。資本は使ったらしまいだが、心意気だけは使いべりのするもんじゃありませんからな。昔のわたしに何がありました? 成りあがりたいという欲望、それから勇気だけです。今じゃ、ティエも第一級の名士たちと肩をならべています。あの小男のポピノは、ロンバール街でもいちばん金のある薬屋になって、代議士となり、今度はいよいよ大臣になりましたな……)
さよう、商売か、文筆か、さもなけりゃ芸術方面でなんとか一旗あげようという、まるで外人部隊の隊長みたいに威勢のいい男たち、一文なしのきれいな女を妻にめとろうなんていうのは、こういう連中だけでさあ。なにしろこの連中ときたら何につけても勇敢ですな。ポピノさんは、持参金なぞこれっぽっちもあてにしないで、ピロトーの娘と結婚しましたな。あの連中はまるで気違いですよ。自分たちの運命や才能を信じているのと同様、愛情なんてものまで信じているんですからね……お嬢さんにぞっこんまいってくる、こういう元気な手合いを探すんですな。そうすりゃあ、現在の状態など考えないで結婚してくれますよ。どうです奥さん、敵《かたき》同士の間柄にしちゃあ、わたしもずいぶんと親切でしょう。なにしろこんなことを申しあげれば、自分に不利になるんですからね」
「クルヴェルさん、仲たがいしたくないのでしたら、不和とかなんとか、そんなばかげた考えは捨ててくださいまし」
「ばかげた考えですって? 奥さん、そんなに自分から気をくさらせるもんじゃありませんよ。まあ、鏡で自分の顔の美しさをとっくり見てごらんなさい……わたしゃあなたにぞっこんまいっているんだ。あなただっていつかは折れて出てくるにきまってますよ。わたしゃ、いつか、ユロにこういってやりたいんでさあ、『おまえは俺からジョゼファを取りあげたろう、だから今度は、俺のほうでおまえの細君をちょうだいしたぞ』とね。因果応報というやつでさあ。わたしゃ、計画を達成すべくどしどしやりますよ、あなたがふた目と見れない婆さんにでもならんかぎりはね。わたしゃ|もの《ヽヽ》にしてみせる、そう言い切れる理由をなんなら申しあげましょうかね」こういうとクルヴェルは胸をそらして気どってみせ、じっとユロ夫人を見つめた。
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六 国民軍大尉の敗北
「奥さんには、金のある老人も、お嬢さんに惚れこんだ青年もみつからんでしょう」クルヴェルは一息《ひといき》いれたあとでこういった。「なぜなら奥さんは、お嬢さんを愛している以上、お嬢さんを好色な老人の慰みものなぞにしたくないでしょうし、有為な人物であれば身分なぞはかまわぬといったところで、男爵夫人ともあろう者が、行きあたりばったりのそのあたりにいる男を、娘の亭主にする決心はなかなかつきますまい。なにしろ奥さんは、かつて親衛隊の擲弾兵《てきだんへい》を指揮したこともある陸軍中将の義妹にあたる方ですからね。とにかく将来のある青年といったところで、一介《いっかい》の労働者にすぎないかもしれない。現在では、百万長者でも、十年前までは、ただの機械工なんてこともありますしね。あるいは、工場の現場監督か、さもなけりゃあ、平の職長かもしれませんぜ。そこでです、なにしろ二十歳という若さですから、お嬢さんだって奥さんの恥になるようなことをしでかさないものでもない。そこで、奥さんは内心こう思うようになる。つまり『どうせ恥をかくなら、娘よりもわたしが恥をかいたほうがましだ。もしクルヴェルさんが秘密を守ってくださるなら、わたしは娘の持参金用に、二十万フランお金もうけすることにしようかしら。あの手袋屋あがりの男……クルヴェルじいさんを十年もかわいがってやればすむことなんだから……』とね。お気にさわりましたか、わたしのいうことは、ひどく不道徳でしょう。そうでしょうとも、しかしですね、奥さんだって男が欲しくなったら、わたしに身をまかせるについちゃあ、このくらいの理屈はつけますぜ。男に惚れた女というものはこういう理屈が好きなんですな……そこですよ、娘のオルタンスのためということがあればこそ、良心をまげる……」
「オルタンスには伯父がついていますわ」
「どなたです? フィッシェルじいさんですか……目下財産整理の最中《さいちゅう》ですよ。これも実は男爵のおかげなんですがね。男爵は、手のとどくところにある金庫には、みんな熊手をひっかけてしまう御仁《ごじん》なんだから」
「するとユロ伯爵も……」
「そうですよ。ご主人は、老中将の貯《たくわ》えなんぞ、またたく間《ま》につかいはたしちまったんですよ。中将の金で、歌劇女優の家の飾りつけをやったんでさ。どうです、これでわたしをすげなく追い返すおつもりですか」
「失礼させていただきます。わたしのようにいい年をした女のことなぞすぐお忘れになりますわ。そしてクルヴェルさんも、キリスト教徒らしいまともな考えにおもどりになれますわ。神さまは、不幸な人びとを守ってくださるので……」
男爵夫人は国民軍大尉を帰らせようとして立ちあがり、有無をいわせず客間のほうへいざなっていった。
「ユロ夫人ほどに美しい方が、こんなきたない所に住んでいていいものなんですかね」とクルヴェルがいった。
そして、古ぼけたランプや、金塗りのはげた燭台や、絨毯《じゅうたん》がすり切れて糸目の出たところなどをさして見せた。白色とくれないと金色にいろどられたこの大きな客間も、今では帝政時代のはなやかな生活の残骸《ざんがい》と化し、贅沢な調度もぼろくず同然となっていたのだ。
「みかけはみすぼらしくとも、でも、そのうえには貞潔が輝いておりますわ。あなたはわたしのことを美しいとおっしゃいましたが、でもその美しさをわなにして男を釣ったり、お金をまきあげたりして、立派な家具をそろえたいなどとは思いませんわ」
大尉はさっき自分がジョゼファのあくどいやり口をけなすのにつかった言葉を、そのまま男爵夫人につかわれたのに気づいて唇をかんだ。
「ですが、だれのためにいったい辛抱しているんです?」
クルヴェルがこういったとき、夫人はすでに彼を戸口まで引っぱってきてしまっていた。
「浮気な亭主のためにですよ!」と彼は、いかにも俺は道心堅固で、おまけに百万長者だといわんばかりのふくれっ面をしてみせた。
「もしもあなたのおっしゃるとおりで、主人が道楽をしていたとしたら、わたしの貞節にもそれで多少のねうちがつくというだけの話ですわ」
夫人は早くやっかい払いをしたいという様子をあからさまに見せて、大尉に会釈をすると、いそいで奥へひっこんでしまったので、クルヴェルが最後にもう一度もったいぶって胸をそらすのを見そこなってしまった。それに夫人は、さきほどしめた客間の戸を開けに行ったので、クルヴェルが立ち去りぎわにしたおどかすような身ぶりにも気がつかなかった。彼女は、あたかも殉教者がローマの競技場《コロセウム》に並んだように、気高く、誇らかに歩いていた。とはいえ、夫人も疲れはてたとみえて、壁紙を青く張った自分の寝室の長椅子にぐったりと腰をおろした。いまにも昏倒するのではないかと思われるほどの様子だったが、それなのに、娘といとこのベットとが相変わらずおしゃべりをしている例のこわれかかった亭《ちん》からは、じっと目を離さなかった。
結婚の当初から今日にいたるまで、男爵夫人は夫を愛してきた。ジョゼフィーヌ妃も、しまいにはそういう愛し方でナポレオンを愛したらしいが、それは敬意のこもった愛であり、母親のような愛情であり、おしみなき愛であった。クルヴェルの口からさきほど聞いたようなこまかい事情こそ知らなかったが、しかしユロ男爵が二十年もまえから浮気をしているということは、夫人も知りすぎるほど知っていた。しかし、夫人は見て見ぬふりをして、ひそかに泣くことはあっても、非難がましい言葉なぞを口にしたことはなかった。夫人にこうした天使のようにやさしい気持ちがあればこそ、夫も彼女を尊敬し、まわりのものも、夫人を心から敬愛してやまないのであった。妻が夫に抱く愛情と敬意とは、家族の中にかならずひろまるものだ。オルタンスは、父のことを夫婦愛の鑑《かがみ》ともなるべき愛情の持ち主だと思いこんでいる。長男のヴィクトランは、父がナポレオン麾下《きか》の名将のひとりと目されて、世人の尊敬を集めているころに一人前になった。それで自分の地位は、もっぱら父の名声と身分と信用のおかげであるということを心得ていた。それにおさないころに受けた印象というものは、末長く影響を残すもので、彼は今でも父親をおそれていた。だから、クルヴェルが暴露したような父の不品行にたとえば気づいていたにしたところで、とがめだてさえできないほど父をうやまっていたし、こうした問題についての世間一般の男性観をたてに理屈をつけては、父のふるまいを大目に見ようとしたにちがいない。
さて、この美しく気高《けだか》い夫人の人並みすぐれた献身の由来を語らねばならぬ。夫人の身のうえはごく大ざっぱに説明すると、つぎのようなものである。
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七 男爵夫人の生いたち
ヴォージュ山脈のふもとの、ロレーヌ州の国境いに近いあたりのある村に、フィッシェルと名のる三人の兄弟がいた。しがない農民にすぎなかったが、共和国に徴集されて故郷の村を離れ、いわゆるライン軍に投じた。
三人兄弟の二番目のアンドレというのがユロ夫人の父である。この人は、そのころもう妻をなくしていたので、兄のピエール・フィッシェルが、一七九七年に負傷して兵役につけなくなっていたのを幸い、兄に娘をあずけて一七九九年に軍需品輸送の仕事をはじめた。こんな仕事をすることができたのも、支払命令官のユロ・デルヴィーの庇護《ひご》があったからである。ふとした偶然から、ユロはストラスブールにやって来てフィッシェル一家に会った。アドリーヌの父親とその弟は、そのころ軍隊に馬糧を納入する仕事をしていた。
アドリーヌは当時十六歳だったが、おなじくロレーヌ生まれの有名なバリー夫人にもくらべられる美少女だった。自然がとくに念をいれてつくりあげたとしか思われないような完璧、ひと目見て息をのむほどの美しさで、タリアン夫人式の美女のひとりだった。自然はこういう女性たちには貴重なおくりものをおしみなく与えるもののようだ。気品、高雅、優美、繊細、端麗、玉のような肌、偶然が秘密の工房で人知れず工夫をこらしてつくり出したかと思われるほどの色艶《いろつや》。こういう美人たちはたがいに似かよっている。ブロンツィノのすぐれた肖像画になって、今日に伝わるビアンカ・カペッロ、高名なディアーヌ・ド・ポアチエをモデルにした、ジャン・グージョン作のヴィーナス像、ドーリア画廊に、その肖像画がかざられているシニョーラ・オリンピア。それから、ニノン、バリー夫人、タリアン夫人、ジョルジュ嬢、レカミエ夫人、こうした美人たちは、年をとったり、恋をしたり、あるいは、極端に享楽的な生活を送っても、色香を失うことがない。そして、顔かたち、骨組、美しさのうちに、目立った類似美がある。人間の血統の大|海原《うなばら》のなかには、ある特殊な潮流があって、この潮流こそは世代ごとに美の女神たちをもたらすのであり、彼女たちはいずれも同じ波間に生をうけた女神たちだと思わせる。
アドリーヌ・フィッシェルは、これら女神の血を引く女たちのなかでも、とりわけ美しい女性のひとりだった。生まれながらの女王ともいうべきこうした美人たちの崇高な特性をそなえ、なだらかな姿かたちと悩ましい肌の持ち主であった。われらの母なるエヴァが神からさずかった金髪の髪の毛、皇后のような顔つき、豊麗な容姿、横顔の高貴な輪郭、村の乙女らしい謙遜な様子、これらが道行く男たちの歩みをとどめ、男たちは、美術愛好家がラファエロの絵のまえに来るとじっと魅《み》せられてしまうように、彼女を目にするとその美しさにひきいれられてしまうのだった。だから支払命令官は、彼女に会うと、正式な手続きをふんでから自分の妻とした。フィッシェル家の人びとは、目上の人は偉いものと思いこんでいただけに、この結婚にはびっくりしてしまった。
一七九二年の戦役の兵士で、ヴィッセンブルグの攻撃で重傷を負った長兄は、ナポレオンやナポレオンの軍隊に関することなら何にでも夢中だった。アンドレとジョアンは、ナポレオン皇帝のお気に入りだったユロ支払命令官の話になると、姿勢を正すのだった。それにユロは、彼らの恩人だった。なぜかというと、デルヴィーは、彼らが頭が良くてしかも正直なのを見こんで、二人ともども輜重《しちょう》兵だったのを抜擢《ばってき》し、戦時特別税の徴税官にしてやったからである。フィッシェル兄弟は、一八〇四年の戦役のあいだ勤務に服し、平和になると、ユロは彼らにアルザス州で馬糧納入の職を世話してやった。ユロは、後日、一八〇六年の戦役の準備のためにアルザス州のストラスブールに派遣されようなどとは、つゆ知らなかった。
ユロとの結婚は、若い百姓娘にとっては天にも昇る思いだった。美しいアドリーヌは、村の泥んこ道から、ナポレオン宮廷の楽園へと一挙にとび移ったのだ。というのも、当時、ユロ支払命令官は、彼の部署のなかでももっとも清廉《せいれん》、かつもっとも活動的な人物で、男爵に叙《じょ》せられ、皇帝の側近に侍《じ》し、親衛隊付の軍人となっていたからである。美しい村娘は、夫への愛情から健気《けなげ》にも勉強をはじめた。彼女は、夫にすっかり惚れこんでいたのである。それに、この首席支払命令官はちょうどアドリーヌと好一|対《つい》の美男子だった。選《え》り抜きの好男子のひとりだった。すらりと背が高く、金髪で、優雅なからだつき、燃えるように輝く碧眼《へきがん》の色と風情《ふぜい》は、人をひきつけずにはおかなかった。ドルセーとか、フォルバンとか、ウーヴラールなどの帝政時代の美男連のなかでもひときわ目に立つ存在だった。女好きなうえに、こと女性に関しては、執政官時代風の無頼な考えが骨の髄までしみている男だったが、それでも新妻への愛情のためか、彼の女性遍歴も、かなり長期にわたってぷっつりととだえたものだった。
そんなわけで、アドリーヌにとって男爵は、まちがえることなぞありえない神さまのような存在だった。彼女にしてみれば、何もかも夫のおかげだったのだ。まず財産、彼女には、馬車もあり、邸宅もあり、当時のあらゆる贅沢をわがものとすることができた。それから幸福、男爵は愛妻家でとおっていた。男爵夫人となったのだから彼女には肩書もあった。花の都パリで、美貌の男爵夫人と呼ばれていたから、有名でもあった。さらには、彼女にダイヤの頸《くび》飾りを贈った、ナポレオン皇帝の讃美をしりぞけるという名誉さえになったのである。皇帝は、その後もときどき、『ところで例のお美しいユロ夫人は相変わらず、道徳堅固かな』などとまわりのものにきいたそうだから、夫人のことをずっと気にとめていたらしい。そんなことをたずねる皇帝の口調には、自分が陥落させそこねた女をものにするような男がいれば、ただではおかぬぞという、男の復讐心がちょっぴりこめられていたのかもしれない。
だから、単純素朴で、美しい魂をもったユロ夫人が、夫をひたむきな情熱をこめて愛したとしても不思議はないし、その動機も、察するにはさしたる聡明さも要しないのである。夫はわたしにたいしてまちがった仕打ちなぞするはずはけっしてない、彼女はひたすらそう思いこんでしまった。そして、自分に現在の幸福を与えてくれた人のつつましい侍女となり、わき目もふらずに、その人につくそうと、ひそかに心を決したのであった。それに彼女はある大いなる賢《かしこ》さを、庶民の女に独特のあの賢明さをもそなえていて、それが彼女の教育を堅固なものにしたことに注意したい。社交の席では、あまり口をきかなかった。人の悪口もいわなかったし、才媛ぶりも見せなかった。何事につけ深く考え、人の意見をよく聞いて、そしてもっとも貞淑な婦人たちや名門のほまれ高い婦人たちを自分の手本にしたのである。
一八一五年には、ユロは親友のヴィッサンブール大公と作戦をともにした。そしてあの急ごしらえの軍隊を組織したのは、彼だったのだが、その軍隊も敗北を喫《きっ》して、ここにナポレオン戦争は、ワーテルローでその幕をとじた。一八一六年には、陸相のフェルトルにひどく嫌われたもののひとりだった。ユロが、陸軍経理部に復職したのは、一八二三年、スペイン戦争がはじまってどうしても彼の起用が必要になったからである。一八三〇年には、大臣つきの副官としてふたたび軍政に活躍するようになった。ルイ・フィリップがナポレオンの旧部下から人材を集めようとして、一種の徴兵を行なったときのことである。オルレアン王朝の再興とルイ・フィリップの即位には彼も大いに協力した。そして、以来陸軍省にとって、彼はなくてはならない局長のひとりとなっていた。それにさきだって、彼はすでに元帥の称号をえていた。だから国王にしたところで、大臣か、上院議員にでも任じないかぎりは、ユロの勲功にむくいる道はもうなかったのである。
一八一八年から一八二三年にかけて、ユロは仕事がなくてぶらぶらしていた。そこでそのあいだは、もっぱら婦人連のご機嫌をとることに精勤した。ユロ夫人のひそかに思うところでは、夫エクトルの不義な行ないは、どうやら帝政時代の終末とともにはじまったもののようだった。してみれば、男爵夫人は、とにもかくにも十二年間は、家庭にあって競争相手のない、プリマ・ドンナ・アッソルータ〔疑問の余地のないプリマ・ドンナ〕だったのであり、輝かしい女主人公の役を演じつづけてきたことにはなる。妻たちが、女主人公の役にはあきらめをつけて、たんにやさしく貞潔な人生の伴侶たる役割に甘んずるようになったのちでも、夫は彼女たちに、半ば習慣のようなしみじみとした情愛を抱くものだ。男爵夫人もその種の愛情なら、夫から受けていた。夫の情婦たちのだれにしたところで、彼女があからさまな抗議を申しこめば、すぐに手を引かざるをえまいと、夫人も考えないではなかった。しかし夫人は目をとじ、耳をふさぎ、夫の外での行状は知らないふりをしとおそうと思った。要するに、男爵夫人は、夫を遇するに母親がだだっ子をあつかうようなやりかたをもってしたのである。さきほどの夫人と、クルヴェルの会話にさきだつこと三年前、オルタンスはヴァリエテ座で父の姿を見かけたことがあった。舞台脇の一階の桟敷に、ジェニー・カディーヌとならんでいるのを目にして、オルタンスは『あそこにパパがいるわ』とさけんだものだった。
『何かのまちがいよ。だってお父さまは、元帥さまのお宅にいらしたのですもの』
これが男爵夫人の答えだった。しかし、夫人はジェニー・カディーヌの姿をしかとその目で見てはいたのだった。ジェニー・カディーヌの美しい容姿を見てくやしいと思うよりも、夫人はただ『エクトルもいけない人だこと! でもあの人は、あれで満足なんだわ』と心中《しんちゅう》ひそかにつぶやくのだった。とはいえ、彼女はやはりつらい気持ちだったし、人知れず激しい怒りに胸をふるわせていた。しかし、エクトルの前に出ると、十二年間にわたったかげりのない幸福な歳月が思い出されて、とがめだての言葉ひとつ口にすることができないのであった。いっそのこと夫は自分を気のおけない打明け相手にしてくれればいいのに、彼女はそう思ったが、しかし夫への敬意から、夫の情事を知っているとほのめかすことさえはばかられた。
こういうやさしい思いやりは、なぐられてもなぐりかえすことを知らない庶民の美しい娘にしか見られない。彼女らは、血管のなかに、古代キリスト教の殉教者たちの血の名残りをとどめているのであろう。名門に生まれた娘たちは亭主と同等だから、つい亭主をいじめてみたくなる。よしんば亭主の所業を大目に見ることがあっても、玉突きゲームで得点を数えるように、辛辣《しんらつ》な言葉で、亭主の失点をあげつらわずにはいられない。自分の優越を示すためか、それともしかえしの権利を確保するためか、ともかくそこには悪魔的な復讐の気持ちが働くのである。
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八 オルタンス
男爵夫人は熱狂的な崇拝者をひとりもっていた。彼女には義兄にあたるユロ陸軍中将がそれで、この人はかつてナポレオン親衛隊の擲弾《てきだん》歩兵隊を指揮した尊敬すべき人物で、晩年には元帥の称号をもえた人だ。この老将軍は、一八三〇年から一八三四年にかけて、ある師団区の司令官をつとめたが、当時彼の師団区に編入されていたブルターニュ州の諸県こそは、一七九九年から一八〇〇年にかけての彼の活躍の舞台となった場所だ。それから、老将軍は、弟に父親のようなかわらぬ愛情をかけていたので、弟のそばに暮すためにパリに居を定めた。この老兵は、弟の妻とよく気が合った。彼は、女性のなかのもっとも気高い、もっとも清らかな人として、義妹を敬愛していた。
彼は独身であった。というのも、アドリーヌのような女にめぐりあいたいものと思って、国々をめぐり、村々をさがしたがそういう女性にはついに会えなかったからである。ナポレオンは、この老共和主義者について『あの律儀なユロは、頑固《がんこ》きわまる共和主義者だが、しかし断じて俺を裏切るようなことはしない男だ』といっていた。こういう、一点非のうちどころのない、清廉潔白な老将軍にさげすまれるくらいなら、アドリーヌは今しがた受けた悲しみよりもいっそうつらい悲しみにだってたえたことだろう。しかし、すでに七十二の齢《よわい》を重ね、戦塵《せんじん》にまみれること三十|度《たび》、ワーテルローの会戦では二十七回目の負傷をしたというこの老人は、彼女にとって尊敬の対象ではあっても、たのもしい保護者ではなかった。あわれな老伯爵は、ほかにもいろいろとからだの不自由な点があったが、とりわけて耳らっぱをしないと耳が聞えなかったのである!
ユロ・デルヴィー男爵が美男子だったうちは、いくら浮気をしても財産にひびははいらなかった。しかし五十の声をきくと、女にもてるにも金がかかるようになった。この年になると、老人の恋は悪に変じて、そこに気違いじみた虚栄がまじるようになる。それで、そのころ、アドリーヌは、夫がひどく身だしなみに気をつかうようになったのに気づいた。髪の毛や頬ひげを染めるかと思えば、バンドをいくつもしめたり、コルセットをはめたりした。万難を排しても美男子でいたいらしかった。かつては人がお洒落《しゃれ》に身をやつすのを見ると、笑うべきこととして容赦なくあざけったものだが、今ではごくつまらないことにまで気をくばり、おめかしにこるようになった。
情婦たちのところにふんだんに注ぎこまれる財貨は、実はことごとく彼女のもとから流れ出たものであると、アドリーヌも気がつくようになった。ここ八年間のあいだに、ばく大な財産が使いはたされ、しかもその放尽ぶりは徹底していた。だから二年ほど前、息子のヴィクトランが結婚して世帯を持ったとき、男爵もついに妻にむかって、自由になる金といえばただ彼の給料だけだ、と白状せざるをえない仕儀となった。
「さきざきわたしたちはどうなるのでしょう」アドリーヌは、ただそれだけをいった。
「安心なさい」と参事院議員は答えた。「わたしの俸給はそのままおまえに渡す。オルタンスを嫁にやったら、わたしたちがさきざき暮す金は、商売でもやってなんとかするから」夫の権力と地位と能力と人格にたいする妻としての深い信頼感が、この場の一時の不安をしずめたのであった。
さてこれだけいえば、クルヴェルが帰ってしまったあと、男爵夫人が何を思いなにゆえに悲しみにうち沈んだか、完全に了解されるはずだ。あわれにも、夫人は二年前から奈落《ならく》の底に自分が落ちこんでいることを知っていた。しかしそこに落ちこんでいるのは、自分だけだと思っていた。息子の縁組がどういういきさつで行なわれたかも、夫のエクトルとどん欲なジョゼファとの情事も、夫人はいっこうに知らなかったのである。要するに、自分の悩みは、だれにも知られていないものと思っていたのだ。ところでクルヴェルは、男爵の放蕩三昧の生活ぶりを遠慮会釈もなく暴露してしまった。その結果、さすがに男爵夫人も、夫エクトルにたいする尊敬の念を失いかけていた。もと香水商人が腹立ちまぎれにしゃべりまくった下品な話を聞いているうちに、弁護士をしている息子の結婚も、どうやら不潔千万ななれあいからまとまったらしいとわかってきた。ふたりの娼婦が、この結婚に司祭として立ち会ったのだ。ふたりの老人が恥ずかしいつきあいを重ね、よっぱらってどんちゃん騒ぎをしている途中で、持ち出された縁談なのだ。
『それにしてもオルタンスのことまでは気がまわらなかったらしいわ!』と彼女は思った。『でも、娘の顔は、毎日見ているんだから、そのうちに放蕩仲間のなかからでも、婿をさがし出してくるつもりなのかしら』
妻よりもいっそう強い母性が、このとき口をきいていた。というのも、オルタンスがベットといっしょになって青春のあのくったくのない高笑いをしているのが見えていたからである。夫人は、オルタンスのこの神経質な笑い声が、庭をひとり涙ぐんでそぞろ歩きをしているときの、もの思いとまったく同じほどに、おそろしいなにかの徴候であることを知っていた。
オルタンスは母親似だった。なだらかに波うって、目を見はるほど豊かな金色の髪の毛の持ち主だった。肌の輝きは真珠を思わせた。彼女の姿を見れば、この娘が、正しい結婚と気高く清らかな、そして力強い愛情の果実であることがすぐにわかるのだった。あかるい顔つきで表情にはいきいきとした動きがあった。青春のはつらつとした生気、みずみずしい活気、ゆたかな健康、そういうものが彼女のまわりにおののき、電光のような輝きを放っていた。オルタンスは人の目をひきつける女だった。清純|無垢《むく》な光のうるんでいる群青色《ぐんじょういろ》の彼女の目が、通りすがりの男のうえにとまると、見られたほうの男は、思わず知らずぶるっとしてしまう。それに金色の髪の毛の女には、ときとしてそばかすの|しみ《ヽヽ》なぞがあって、乳色の肌を台無しにしてしまうものだが、そんな|しみ《ヽヽ》はオルタンスにはひとつもなかった。
すらりと高いからだつきで、ふくよかではあったがふとっているわけではなかった。しなやかな腰つきの気品は、母親のそれに勝るとも劣らず、むかしの作家たちが乱用した、女神という称号にまさしくふさわしい女だった。だから、通りなどでオルタンスを見かけると、だれだって『これはこれは、なんてきれいな娘なんだろう』とさけばずにはいられなかった。彼女は心《しん》から無邪気《むじゃき》な娘だったから、そんな言葉を耳にすると、家に帰って母親に『男の方っておかしいのね。わたしのことをきれいだなんて! そばにいたお母さまのほうが、よっぽどきれいなのに』というのであった。まったく、男爵夫人は、年こそ四十七だったが、のぼる朝日よりも沈む夕日の輝きを好むものだったら、娘よりも母親のほうがいいというかもしれなかった。なぜなら、夫人連の言いかたをかりれば、夫人は胸まわりの美しさをいっこうに失ってはいなかったからである。とりわけパリでは、これは大変にめずらしい現象で、そのためニノン〔美貌と才気をもって十七世紀の社交界に令名をはせた〕は、十七世紀の醜婦《しこめ》たちの美の分け前をひとりじめにしてしまった、と陰口をたたかれるほどだ。
娘のことを考えているうちに、夫人のもの思いは、娘の父親のことにもどっていった。日一日と社会の泥沼のうちに落ちこんでいって、しまいには、役所も|くび《ヽヽ》になるかもしれないのだ。夫が偶像の場から落ちて、自分たちもクルヴェルが予言したような得体の知れない不幸におちいってしまうのだと思うと、ひきさかれるようなつらい気持ちだった。聖女たちが、彼らを思って恍惚《こうこつ》としてわれを忘れたような具合に、夫人もいつしか気を失ってしまった。
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九 ある老嬢
いとこベットは、オルタンスと話をしていたが、客間にもどるしおどきを見るために、ときどきこちらに目をやっていた。しかし、オルタンスからいろいろと質問をあびせかけられていたので、男爵夫人が客間の入口をあけたときも、それに気づかなかった。
リスベット・フィッシェルは、ユロ夫人よりも五歳年下だったが、フィッシェル兄弟のなかの長兄の娘だった。いとこのユロ夫人とはちがって、義理にも美しいとはいえない容貌だったから、昔からアドリーヌのことをひどくねたんでいた。嫉妬が、この女のエキセントリックな性格の基盤をなしている。『エキセントリック』とは、貧しい人のそれではなくて、裕福な人の奇矯な言動をさすために、英国人が使いだしたうまい言葉である。ヴォージュ地方の百姓娘、という言葉があらゆる意味でこの女にあてはまる。やせていて、色は浅黒く、髪の毛は黒びかりに光っている。濃いげじげじ眉、力のありそうな長い腕、ぶあつい足、猿を思わせる長い顔のところどころにはいぼがある。この年まで男を知らないですごしたこの女の肖像をざっと描けばこんなものだ。
一つ世帯で暮していたフィッシェルの一家は、器量よしの娘のために、不美人のほうの娘を犠牲にし、美しい花のために、すっぱい果実を犠牲にした。いとこのアドリーヌがちやほやされているあいだに、リスベットのほうは畑仕事をやらされていた。それである日のこと、アドリーヌがひとりでいるのを見すますと、リスベットは近所の婆さんがつね日ごろ感嘆しているアドリーヌの鼻を、正真正銘のギリシャ鼻をちぎり取ろうとしたものである。意地の悪いこんな行ないのためにリスベットはこっぴどくぶたれたが、それでも人並み以上に恵まれた美しいいとこにたいして、ドレスをひきさいたり、襟《えり》飾りをめちゃくちゃにしたり、わるさをつづけたものだった。
いとこの夢のような縁談がまとまると、さすがのリスベットも運命のまえには膝を屈した。ナポレオンの兄弟姉妹たちが、帝位の威光と支配の権力のまえに膝を屈したのと同じである。善良で心根のやさしいアドリーヌは、パリに出てもリスベットのことは忘れなかった。それで、しかるべき嫁入りの口をさがし、貧乏な境涯《きょうがい》から救い出してやるつもりで、一八〇九年にパリに呼びよせた。しかし、目が黒く、眉毛ときたら墨をぬったようで、読み書きもできないこの娘には、アドリーヌが考えたほどおいそれと嫁入りの口があるものではなかった。それで、男爵はさしあたりの就職口を世話してやることにし、宮廷御用の有名な刺繍《ししゅう》商、ポンス兄弟の店に見習いとして住みこませることにした。
リスベットは、金や銀のモールの飾りひもをこしらえる職人となり、つづめてベットと呼ばれるようになった。山国の女特有の根気強さをみせて、読み書き、算術をおぼえた。こういうことを知らないとさきざき刺繍店を出すときに困るだろうと、義理のいとこの男爵にさとされたからだった。彼女は一財産こしらえたいと思った。二年もするうちに、ベットの人柄はすっかりかわってしまった。一八一一年には、この百姓娘は、小ぎれいで、相当に目はしもきけば、頭も悪くない女工|頭《かしら》になっていた。
金銀モール業とよばれたこの商売は、肩章とか、サーベルのさげ緒《お》とか、飾りひもとか、要するにフランス軍の制服や、文官服のうえできらきらしているぼう大な数にのぼる装飾品を一手にひき受けて製造する仕事であった。ナポレオン皇帝は、服装を飾りたてるのが好きなイタリア人の常として、部下の服には何でもかでも金糸銀糸の刺繍をつけさせたがった。しかもナポレオンの帝国は、百三十三県にわたっていたのである。できあがった品物は、金もあれば商売もたしかな洋服屋に納めるか、さもなければ身分の高い役人に直接渡した。だからこれはあぶなげのない仕事だといわれた。
ベットが、ポンス商会でもいちばん腕のたつ職人となり、職人たちに指図をするようになって、そろそろ店をもって一本立ちしてもよかろうというときになって、思いがけなくも帝政が崩壊した。ブールボン王家が手に持って登場した平和のしるしのオリーヴの枝がリスベットをがっかりさせた。リスベットはこの商売もそろそろ落ち目だと思った。なにしろ百三十三県あったのが八十六県にへって、需要もがた落ちだし、おまけに軍隊の人員が大幅に縮小されたからである。要するに、金銀モール業の前途をいろいろ考えて怖気《おじけ》づき、店を出させてやるという男爵の申し出も断わってしまった。男爵は、リスベットの正気を疑ったが、彼女はその見通しの正しさを証明するためかのように、ポンス商会の権利を買いとったリヴェ氏ともけんかをしてしまった。男爵は、このリヴェ氏を共同経営者にして、ベットに店をはらせるつもりだったのである。こんな次第で、ベットはまたもとの職人にもどった。
フィッシェルの一家は、以前、男爵のおかげで不安定な境遇から抜け出すことができたのだが、またもや危険な境遇に落ちこんでしまっていた。
フォンテーヌブローの破局〔一八一四年四月のナポレオンの退位のこと〕のために、元も子もなくしたフィッシェルの三人兄弟は、やけくそになって一八一五年の義勇軍に参加した。リスベットの父にあたる長兄は、戦死した。アドリーヌの父親は、軍法会議で死刑を宣告されたがドイツに逃亡し、一八二〇年にトリールで死んだ。末弟のジョアンは、一家の女王アドリーヌを頼ってパリにやって来た。金や銀の食器で食事をしている、人前に出るときに、皇帝から拝領した|はしばみ《ヽヽヽヽ》ほどにも大きいダイヤをかならず頭や首につけている、という噂を聞いていたので、アドリーヌならなんとかしてくれるだろうと思ったのである。ジョアン・フィッシェルは当時四十三歳だったが、男爵から一万フラン出してもらうと、ヴェルサイユでちょっとした馬糧納入商をはじめた。男爵は、むかし主計監だっただけに、陸軍省に残った友人たちにこっそり口をきいてもらって、その許可をえたのである。
ベットは、パリが地獄ともなり、天国ともなる、人間たちや、利害や、事件の激しい動きを目にするにつけても、自分はこの巨大な世間の動きのなかで、とるにたらない存在だと思うようになった。こういう気持ちに加えるに、さらにフィッシェル一家の不幸とか、ユロ男爵の失脚とかがベットの感情を押えつけてしまった。アドリーヌとはり合ったり、アドリーヌと自分の身をひきくらべてみようとする考えをなくしてしまった。それにアドリーヌがいろいろな点ですぐれていることも認めないわけにはゆかなかったのだ。そうはいっても、いとこをねたむ気持ちは、ベットの心の奥深く依然としてくすぶっていた。それはちょうどペスト菌のようなもので、外国から送られてきた羊毛の小梱《こごり》にペスト菌がひそんでいるとしたら、そのおそるべき小梱を開いたら最後、菌はたちまちのうちに孵化して、町じゅうに猛威をふるうようになる。ときどきリスベットは『アドリーヌとわたしとは同じ血をうけた親戚だわ。父親は兄弟どうしだった。それなのに、あの人はお邸《やしき》に住み、わたしは屋根裏部屋にいる』と思うのだった。しかし、毎年正月の元旦と誕生日には、男爵夫人と男爵から何がしかの贈りものをもらっていた。リスベットにたいして好意的だった男爵は、冬の薪代を払ってくれた。ユロ老将軍のところで晩餐をごちそうになることもときどきはあったし、いとこのところへ行けばきまって食事になった。みんな彼女のことをよくからかったが、しかし親戚にこんな女がいるといって、恥じいったりするようなことはなかった。要するに、パリで一本立ちの生活をさせてもらって、気の向くままに暮していたのである。
事実、この女は束縛《そくばく》を受けることを何であれいやがった。いっそわたしたちといっしょに暮してみたら……いとこはそうもいってくれたが、奉公人の立場の窮屈さがすぐに頭にきた。何度となく、男爵はベットを結婚させるという難事を解決しかけたのだが、はじめは乗り気なようで、しばらくするとベットのほうからことわるのが常だった。しかるべき教育を受けていないこと、無知であること、財産がないことなどを非難されはしないかと思って、おそれをなしてしまうのであった。では、叔父のジョアンと暮して、他人を雇えば高くつくにきまっている家政婦のかわりになって、叔父の家の采配《さいはい》をふるったら、と男爵夫人にいわれると、そのくらいなら結婚するほうがましだと答えるのであった。
野蛮人はいろいろ考えるが、ほとんどしゃべらない。そういう野蛮人とか、発育の遅れたものとかに見られる風変わりなところが、ベットのものの考え方のなかに見受けられた。彼女はもともと、いかにも百姓女らしい頭のはたらきの持ち主だったが、工場でおしゃべりしたり、男女の職人たちとつき合ったりしているうちに、さらにパリ風の辛辣なところがこれに加わってきた。彼女の性格は、コルシカ人の性格とそっくりで、強い性格を持った人間の本能にはまるで感じなかったことだが、彼女は弱い男を保護することが好きだったのかもしれない。しかし、パリに暮したおかげで、首都が彼女の性質をうわべだけかえてしまった。パリ風のつやが、強く鍛えられた彼女の性質のうえに、錆《さび》のようにうっすらとかかっていた。ほんとうの意味での独身生活を送っている人はだれもそうだが、頭が鋭く、|目はし《ヽヽヽ》がきいて、おまけにものの考え方には、どこかぴりっとしたところがあったから、もっと別の境遇にいたら、彼女もおそろしい女に思われたことだろう。意地悪く出れば、至極円満な家庭にだって、不和の種を蒔《ま》くぐらいは、平気でやってのけただろう。
はじめのころ、人にこそ打ち明けなかったが、自分の未来の生活についてある種の希望をもっていたので、そのころはコルセットをつけたり、流行を追ったりしたもので、これなら嫁入りの口もあるだろうと男爵も考えたほど、はなやかな時期もあった。そのころのリスベットは、フランスの古い物語によく出てくる、ちょっと男好きのする栗色の髪の毛の女だった。鋭い目つきとか、小麦色の顔色とか、すんなりした腰つきは、休職の陸軍少佐ぐらいなら誘惑できたかもしれない。しかし、彼女が笑いながらいっていたが、自分で自分の姿に見とれているだけでたくさんだということだった。それに経済的な心配もなくなって、彼女は自分の生活を幸福だと思うようになっていた。日の出のころから一日じゅう働いたあとで、夕飯は毎日かならず親類の家で食べた。だからベットは、昼食代と家賃さえ払えばよかったのである。それに服ももらえたし、砂糖とか、コーヒーとか、ぶどう酒とか、もらってもおかしくない食料品なら、もらいものがいくらもあったのである。
一八三七年には、ユロ家と叔父のフィッシェルになかば養ってもらうような生活をもう二十七年間もつづけていた。そのころベットは、わらくず同然の身のうえにもすっかりあきらめ、無遠慮にあつかわれても平気になっていた。お客がたくさん来る正式の晩餐会には出たがらず、内輪の夕食会のほうを好んだ。内輪だけなら彼女なりに、多少のねうちがあることを認めてもらえたし、自尊心を傷つけられずにすんだからである。ユロ将軍のところでも、クルヴェルのところでも、あるいはユロの長男や、リヴェのところへ行っても、どこでも彼女は家のもの同然にあつかわれた。彼女はポンス商会のあとを継いだリヴェとも仲なおりをし、彼は彼女がくると歓待した。男爵夫人の家では、彼女は家族の一員のような気がした。最後にベットは、どこへ行っても、召使いたちにちょっとした心づけをときどきやったり、客間に通る前に、彼らとしばらく世間話をしたりして、召使いたちを手なずける工夫を忘れなかった。
ベットはもったいぶらずに、奉公人たちとうちとけたから、奉公人たちのあいだで人気があった。こういうしもじものものの人気は、食客にとっては、おろそかにできないものである。『親切で律儀な女だ!』みんなが彼女のことをそういっていた。彼女の親切さは、頼まれもしないときにかぎって際限のないものになったが、彼女の見かけだけの人の好さと同様、これは境遇からいって、彼女にはどうしても必要なものであった。自分がみなの世話になっているのに気がついて、人生というものの姿がわかるようになった。すべての人によく思われたいと思っていたので、若い人たちとも冗談を言い合った。若い人たちというものは、お世辞にはすぐころりとまいるもので、そういう一種のお世辞を使って、若い連中の好感をえていたのである。ベットは若者たちの望んでいることを見抜いたり、その代弁者になってやったり、彼らを叱る権利もなかったので、彼らから見れば、格好な相談相手のように見えたのであった。おまけに口のかたいことは無類だったから、中年の人びとからも信頼された。
かつてニノンがそうだったように、彼女の性格にはどこか男そっくりなところがあったのだ。一般に、打ち明け話は、目上の人よりも、むしろ目下の人にむかってされる場合が多い。秘密の用件には、目上のものより目下のほうが使いやすい。こういうわけで、目下のものは、人にはいえない秘密な考えや、相談事に加わったりするものだ。例のリシュリュー〔十七世紀フランスの宰相でルイ十三世に仕えた〕だって、御前会議に出席する権利をえたときには、功なり名を遂げたと思ったものである。かわいそうに、この娘はみなのお情けにすがって生きているのだから、ぜったいに口を割るはずがないと思われていた。ベットは、わたしは一家の懺悔《ざんげ》所だ、と自分で称していた。ただ男爵夫人だけは、子供のころ、ベットが年下のくせに自分よりも強くて、いじめられたことを覚えていたので、彼女に一種の不信感を抱いていた。それに恥ずかしい気持ちもあって、自分の家庭的な苦労は、神さまだけにしか打ち明けていなかったようである。
ここでちょっと記しておいたほうがいいと思うことは、ベットの目から見れば、男爵夫人の邸宅は相変わらず豪勢さを誇っているかのように見えたことである。ベットは成りあがり香水商人とはちがって、虫の食った肘掛け椅子や、黒ずんだカーテンや、かぎ裂きのできた絹地のうえにありありと現われている一家の貧窮には気がついていなかった。自分自身の姿を見るのと同じように、見慣れてしまう家具というものがある。第一、ユロ男爵がそうだが、毎日自分の姿を見ていると、自分は相変わらず若いと思いこんでしまう。ところが他人が見れば、髪の毛にはチンチラりすの銀ねずみ色が混じり、額には|へ《ヽ》の字が寄り、下腹は突き出て大きなかぼちゃ腹になっているのである。ベットにしてみれば、ユロ男爵の屋敷は、帝政時代は盛んに打ちあげられた戦勝記念のベンガル花火の輝きに今もあかあかと照らされて、つきせぬ威光を放っているように見えたのである。
ときとともに、いとこのベットには、老嬢特有のかわった癖が出てきた。そこで、たとえば流行の移りかわりに従うかわりに、流行のほうが自分のやり方に合うように、ひどく時代遅れな自分の気まぐれに流行のほうが従うことを望んだ。男爵夫人が彼女に、新型のきれいな帽子や流行に合わせたドレスなどをくれても、家に帰るとすぐに、何でも自分流に作りかえてしまうのであった。そして、せっかくのドレスを、帝政時代の流行や、ロレーヌ地方の古風な服装の型に合わせるために、台なしにしてしまうのであった。三十フランもする帽子ががらくた同様になり、新品のドレスがぼろくずになった。こういうことについては、ベットは|らば《ヽヽ》のように頑固だった。自分にだけ気に入れば、それでもういいので、しかもそうしていれば、魅力が出るものと思いこんでいた。こういう服装は、頭のてっぺんから爪先まで、彼女をいかにも老嬢らしい女にしてしまうという点では調和がとれていたわけで、そのためにひどく滑稽《こっけい》に見えたから、ベットを正式の晩餐会の日などに、自分の家に招く段になると、どんなに好意を持っている人でも、ためらわないわけにはいかなかった。
他人に頼らず、気まぐれで、強情な気質で、説明のつかないいなか者まる出しのこの女の性質を見て、男爵は笑いながら|めやぎ《ヽヽヽ》というあだ名をたてまつった。なにしろ男爵が見つけてくれた花婿殿を四人までもことわり、(部下の事務職員、少佐、陸軍省出入りの食糧請負人、退役大尉)のちに産を成すにいたったある金銀モール商との縁談まで袖にしたのだから、こんなあだ名をつけられるのも当然だった。しかし、このあだ名は、ごく表面の風変わりなところとか、一般に人と交際するときに見せるかわった態度にしかあてはまらないものだった。よくよく観察すると、農民階級に特有な残忍な面をもっていたこの女は、依然として、むかし、いとこの鼻をもぎ取ろうとした子供であり、分別がでたからよかったものの、さもなければ嫉妬に狂って、アドリーヌを殺しかねない子供であった。野蛮人さながらに、たちまちにして感情から行動に移る、農民特有の生来の直情径行をおさえることのできたのは、彼女がただ世間を知り、法律を知っていたからにすぎなかった。
自然人と文明人の相違は、おそらくそういうことにある。野蛮人は感情しかないが、文明人には感情と観念とがある。だから野蛮人の場合は、頭脳はいわば観念の刻印がなく、感情に襲われると、たちまちそのとりこになってしまう。ところが文明人の場合には、いろいろな観念が心のうえにふりかかり、心を変形してしまう。文明人は、同時に多くの利害と少なからぬ感情をもつけれど、野蛮人には一時に一つの観念しかない。ときとして子供が両親の手にあまることがあるのは、そのためである。ただ子供の場合には、欲望が満足されると、たちまちおとなしくなってしまうのに、自然に近い人間の場合は、それがいつまでもつづく。ロレーヌ地方の野性的な女で、陰険なところが多少あったベットは、まずこの種の人間だった。こういう性格は、下層民のあいだに意外に多く見かけられるもので、革命時代の彼らの行動は、これで説明がつく。
この物語がはじまったころ、ベットが流行の服を着る気さえあったら、またパリ娘たちのように、いつも新しい流行を身につけることに慣れていたら、人前に出しても恥ずかしくなく、我慢もできる女だったろう。しかし、彼女はまるで棒きれのようにこちこちであった。ところで、パリでは、どこかにやさしさがないと、女であって女ではない。ベットの髪の毛は黒く、美しい目はかたくなで、顔の輪郭はいかつい感じであった。カラブリヤ人風の浅黒く乾いた顔色は、ベットをジョットの絵にでも出てきそうな女にしていた。
こうした容貌でも根っからのパリ女なら、なんとか一工夫して少しは風情《ふぜい》のある姿に見せるところだろうが、とくにベットの一風変わった服装は、彼女をあまりにも珍妙にしてしまったので、サヴォワ地方の少年猿まわしが引きまわす、女の衣装を着けた猿そっくりなことがよくあった。ただ彼女の暮していた家と縁つづきのかぎられた家では、その人柄がよく知られていたし、社会的な発展といっても、このサークルだけにかぎっていたし、出無精な性分だから、そのとっぴな服装に、おどろくものもいないし、外出したところで、パリの町の激しい雑踏のなかでは、それも埋没してしまうのであった。パリでは、美人だけしか人目を惹《ひ》かないのである。
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一〇 ベットの恋人
このとき、オルタンスの笑い声が聞えてきたのは、三年来かたくとざして開こうとしなかったベットの口を割らせることができたからであった。なかなか言いたがらないことをとうとう白状させることができたという得意な笑い声であった。
老嬢の秘密主義はなるほど徹底したものではあったが、それでもある感情的な弱点をつかれると口を割らないわけにはいかなかった。その弱点とは、つまり虚栄心である。三年このかた、オルタンスはある種の事柄について非常な好奇心をはたらかせて、ベットを質問ぜめにしていた。もっともそれはごく他愛のない質問で、ベットはどうして結婚しないのか、そのわけを知りたいというだけのことだった。オルタンスはベットが花婿候補を五人まで袖にしたことを知っていたから、勝手に小説風な物語をこしらえあげて、ベットには心ひそかに思う人があるのだと思いこんでしまった。
そこではげしい冗談合戦がはじまったわけである。オルタンスは、自分とベットのことをいっしょにして『わたしたち未婚の娘たち!』という言葉を使った。ベットは何度となく、冗談めかして、『わたしにだって恋人のひとりくらいいるかもしれないわよ』と答えた。真偽のほどはたしかでないにせよ、『ベットの恋人』は、軽い冗談の格好な話題になってしまった。要するに二年間ものながいあいだこうした冗談を言いあったあげく、まえにベットが来たときなぞは、オルタンスは出会いがしらに、
「ちかごろ、いかが、あなたの恋人は」などと聞く始末であった。
「むろん、元気よ。でもちかごろからだの調子があまりよくないらしい」
「あらそう。きゃしゃな方なのね」と男爵夫人が笑いながら口をはさんだ。
「だと思うわ。金髪ですもの……わたしのように黒髪の女は、お月様のような色をした金髪の男しか好きになれないのよ」
「でもいったいどんな方、お仕事は?」とオルタンスが聞いた。「王子さま?」
「わたしは糸巻きのお姫さまで、あの方は鑿《のみ》の王子さまだわ。わたしなんか貧しい女ですもの、家屋敷や国債なんかもっている資産家や、公爵さまや議員さまや、あなたのお好きなお伽《とぎ》ばなしのなかの美男の王子さまに好かれるわけはないでしょう」
「あなたの恋人、一目見たいわねえ」とオルタンスはほほえみながらいった。
「こんなおばあちゃんの|めやぎ《ヽヽヽ》なんかに夢中になるのは、どんな人だろうと思ってるんでしょ」
「|やぎ《ヽヽ》ひげをはやした、老いぼれの腰弁さんじゃないこと」とオルタンスは母親の顔を見ながらいった。
「それが、おあいにくさまなのよ」
「でもやっぱり恋人がいることはたしかなのね」とオルタンスは思ったとおりにいったというふうにいった。
「あなたに恋人がいないのと同じぐらいたしかなことよ」ベットはむっとして答えた。
「そんなら、ベットさん、恋人がいるのになぜその方と結婚なさらないの」と男爵夫人は娘に目くばせをして「三年も前からの話なんだから、そろそろ人柄もわかったでしょう。今でもかわらずにあなたを愛しているなら、そろそろ結婚してあげればいいのに。どっちつかずの状態じゃ、男のほうでもうんざりしてしまうと思うわ。まあ、それもけっきょく気持ちの問題でしょうけれど、でもお若い方ならかえっていいじゃありませんか。あなたもそろそろ、行末、杖とも柱とも頼れるような殿がたが必要よ」
ベットは、男爵夫人をきっと見つめた。そして彼女が笑っているのを見るとこう答えた。
「まるで飢えと渇きとが結婚するようなもんだわ。彼もわたしも職人ですから、子供ができたらやっぱり職人になるしかないわ……おおいやだこと、心だけで愛し合っていたほうがよっぽどまし……だいいち安あがりだわ!」
「なぜ恋人を隠しておくの」とオルタンスがたずねた。
「菜ッ葉服しかもってないんだもの。人前にも出せやしないのよ」老嬢は笑いながら答えた。
「あなたその人がお好きなの」と男爵夫人がきいた。
「でしょうねえ。とにかくわたしの気持ちは純粋よ。もう四年ものあいだ、あの人のことを心のなかで大事にしているんだから」
「ほんとうに恋人がいるのでしたら、そしてしんからその人のことを大事に思っているんでしたら、あなたのしていることは、罪なことですわ。愛するとはどういうことかおわかりになってないのね」
「そんなこと、女に生まれたならだれでも知ってるわ」とベットがいった。
「それがそうでないのよ。女のなかには、愛しているくせに、いつまでも自分のことしか考えない人がいるものなのよ。あなたもそういう女のひとりだわ」
そういわれてベットは下をむいた。うつむいて糸巻きを見つめていたからいいようなものの、にらまれたらぞっとするようなおそろしい目つきをしていた。
「あなたの恋人とやらを、わたしに紹介してくれれば、エクトルにしても、どこかにみいりのある職をお世話できるでしょうけど」
「そうは問屋《とんや》がおろさないでしょう」
「でもなぜ……」
「つまりまあ、ポーランド人で、亡命者なのよ」
「謀反《むほん》をおこした人?」とオルタンスがさけんだ。「おしあわせね……いろんな冒険をなさった方でしょう?」
「そりゃね。祖国のポーランドのために戦ったのですもの。高等学校の先生をしているうちに、生徒が謀反をおこしたんですって。あの人はコンスタンチン大公のお世話で奉職したといういきさつがあったものですから、恩赦ののぞみはないという話ですわ」
「何の先生でしたの?」
「美術のよ」
「で反乱軍が負けて、パリに逃げていらしたわけなのね」
「一八三三年に、ドイツを歩いて通ってきたのよ」
「お気の毒に。それでお年は?」
「謀反の当時二十四そこそこで、今では二十九よ」
「あなたより十五も年下ね」と男爵夫人がいった。
「何で暮していらっしゃるの?」ときいたのはオルタンスである。
「自分の才能でよ……」
「わかったわ、どこかで教えてらっしゃるのね」
「いいえ、反対に習ってるのよ。その修業がまたつらいらしいわ」
「で、その方のお名前は? きれいな名前?」
「ヴェンツェスラスっていうのよ」
「年のいったお嬢さんになると、変なことを考えだすものね。リスベットさん、知らない人は、真にうけてよ」
「そうじゃないのよ、お母さま。その方は故郷《くに》にいると体刑にされるでしょう。だから、ベットさんといると、その、なぐさめてもらっているのよ」
三人とも笑い出した。オルタンスは『おお、マチルドよ』〔ロッシーニの『ウイリアム・テル』の詠唱の一節〕をもじって『ヴェンツェスラスよ、わがいとしのきみよ』と歌い出した。しばらくのあいだ、三人の会話は休戦模様となった。
「小娘ときたら、男に惚れられるのは自分たちだけだと思いこんでいるんだから」オルタンスがそばへもどってきたとき、ベットはまじまじとオルタンスの顔をみながらいった。そういわれたオルタンスは、ベットとふたりきりになると答えた。
「ヴェンツェスラスは、でたらめのただの|お話《コント》じゃないってことを証明してくださらない。黄色のカシミアのショールをあなたにあげるから」
「だってヴェンツェスラスはコントじゃなくて伯爵《コント》なのよ」
「ポーランド人はだれでも伯爵ね」
「だってポーランド人じゃないのよ。彼はリ……。ええと、リト……」
「リトゥアニア?」
「いいえ……」
「リヴォニア?」
「そうそれよ」
「名前はなんていうの?」
「まあ、待ってよ。あなたが秘密を守れる人かどうか見さだめてからでないと、うっかりいえないわよ」
「まあ、ベットさん、わたし|おし《ヽヽ》になるわよ」
「お魚みたいに?」
「ええ、お魚みたいによ」
「あなたの後生《ごしょう》にかけて?」
「後生《ごしょう》にかけて誓うわ」
「まだたりないわ。この世のあなたの幸福にかけて誓う?」
「誓うわ」
「じゃいうわ。ヴェンツェスラス・スタインボック伯爵っていうのよ」
「カルル十二世の麾下《きか》の将軍に、同じ名前の人がいたわね」
「それがあの人の大伯父さんなのよ。あの人のお父さまはスウェーデンのその王さまが死んだあとで、リヴォニアに落ちついたのだけれど、一八一二年の戦役のときに財産をなくしたの。それから、そのころまだ八つだったヴェンツェスラスを残して死んでしまった。コンスタンチン大公は、あの人がお金もなくて途方にくれているのを見かねて、スタインボックの名をおしんで、面倒を見てくれる気になり、学校へ入れてくれたのよ……」
「わたし、約束は守ってよ。その方がほんとうにいる証拠を見せてくだされば、黄色のショールはあなたのものだわ。あの色は、栗色の髪の毛の人にとってもよく似合うのよ」そうオルタンスがいった。
「秘密を守ってくれる?」
「わたしも秘密を打ち明けてもよくってよ」
「それじゃあ、今度くるときには証拠を持ってくることにするわ」
「本人を連れてらっしゃれば、それが何よりの証拠よ」とオルタンスはいった。
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一一 老嬢と若い娘と
パリにはじめてきたときから、カシミヤの肩掛けがほしくてたまらなかったベットは、黄色いカシミヤの肩掛けがいよいよ自分のものになるかと思うとわくわくせずにはいられなかった。しかもその肩掛けは、男爵が一八〇八年に妻に贈ったもので、さらに一八三〇年によくある家庭の習慣にしたがって母から娘へと譲られたものだった。もう十年も前から、肩掛けはすっかり使いふるしになっていたが、それでもこの高価な織物は、いつも白檀《びゃくだん》の箱にしまわれて大事にされていた。老嬢の目には、それが男爵夫人の家具と同様、相変わらず真新しいもののように思えていたのである。それで、架空の恋人の実在を証拠だてるつもりで、わざわざ手さげ袋にいれ、贈り物をもってきた。これは実は誕生日のお祝いに、男爵夫人に贈ろうとかねがね思っていた品物である。
この贈り物は、銀製の印章で、木《こ》の葉《は》模様をあしらった三つの小像が、たがいに背中あわせになって、地球をささえているというものだった。三つの人物は、信仰と希望と慈愛とをあらわしていた。像の足は、三頭の怪物をふまえ、怪物がおたがいにかみ合っているあいだを蛇がくねり、邪悪を象徴していた。フォーヴォー嬢や、ヴァグナーや、ジャネや、フロマン・モーリスなどの彫刻家や、あるいはリエナールのような木彫家は、ベンヴェヌート・チェリーニ〔十六世紀イタリアの彫刻家〕の芸術に長足の進歩をもたらしていた。だから、現代の人なら、ベットの持ってきたこの傑作を見てもさして目もみはるまい。しかし、この物語のころの娘で、オルタンスのように多少とも宝石細工に通じているものだったら、だれだってこの印章を手にして、その美しさにぼう然としたいにちがいない。
ベットは「ほらこれ、どう思う?」と言いながら、相手に手渡した。人物の像は、構図からいっても、衣服のひだの彫り方からいっても、あるいはその動作から見てもラファエロの流れをくむものだった。仕上げの具合からゆくと、ドナテルロ、ブルネレスコ、ギベルティ、ベンヴェヌート・チェリーニ、ジョヴァンニ・ダ・ボローニャなどを生んだフィレンツェの青銅鋳造家の一派を思わせた。フランス・ルネサンスの彫刻家たちも、よこしまな情念をあらわしたこの三頭の怪物以上になまなましい怪物像を彫ることはできなかった。三つの徳をかたどった人物像のまわりにある|しゅろ《ヽヽヽ》や|しだ《ヽヽ》や、燈心草や、|あし《ヽヽ》などは、その道の人を、一瞥《いちべつ》、慨嘆《がいたん》させるにたる効果と趣向とできばえとをそなえていた。三つの頭は、リボンによって結びつけられ、頭と頭とのあいだにできたすき間には、Wという文字と、一頭のかもしかとfecit〔ラテン語、これを作るの意〕という言葉が彫ってあった。
「だれがこれを彫ったの」とオルタンスがたずねた。
「だからわたしの恋人が彫ったのよ」とベットは答えた。「これを作るのに十カ月もかかっているのよ。サーベルの下げ緒《お》をこさえるわたしの仕事のほうがよっぽど割がいいわ。スタインボックというのは古いドイツ語で岩場の獣、つまり|かもしか《ヽヽヽヽ》という意味だそうよ。だからかもしかを刻《きざ》んで署名のかわりにしたわけね……じゃあ、肩掛けをくれるわね……」
「どうして?」
「こんな立派なものがわたしに買えると思って? 恋人にきまっているじゃないの!」
オルタンスは、美しいものにむかって心が開かれている人が、思いがけなくも欠点のない完璧な傑作を目にしたときの常で、突然の激しい感動をおぼえた。けれども、リスベット・フィッシェルでさえ、それと気づいたならぞっとせずにはいられないほどそらとぼけて、感心した気持ちをこれっぽっちも見せようとはしなかった。
「おや、なかなか悪くないじゃないの」
「そうよ。かわいいでしょう」と老嬢が答えた。「でもわたし、オレンジ色のカシミヤの肩掛けのほうがいいわ。ねえ、オルタンスさん、わたしの恋人は年じゅう、こんなものばかりこさえているのよ。パリにきてから、もう三、四年もこんなばかげたものばかり作っているわ。四年間の勉強と修業の結果がこれなのよ。鋳造《ちゅうぞう》師や、鋳物《いもの》師や、宝石細工師のところに弟子入りして……さんざ、お金まで使ったってわけ。でも、先生、もう、四、五カ月もすれば、名前も出て、お金もはいるようになるなんていっているけれど……」
「じゃあ、その人と会っているのね」
「まあ、なにおっしゃるの。つくり話だと思ってたの。冗談にかこつけて、ほんとうのことをいったのよ」
「で、ベットさんのこと、好きなの」とオルタンスは口早にたずねた。
「大好きなのよ」とベットはまじめな様子になっていった。「あの人はね、北国の蒼白《あおじろ》い、ふやけた女しか見たことがなかったのよ。わたしみたいに、肌は小麦色で、すらりとして若い女を見ると、なんとなくほのぼのとするらしいわね。でも、内緒よ。約束したんだから」
「その人も、いままでの五人と同じ結果になるこってしょうよ」とオルタンスは、印章を見やりながら茶化したふうにいった。
「五人じゃなくて六人。ロレーヌの田舎にひとり残してきましたからね。その人、今だって、わたしのためなら、たとえ火のなか水のなか、天までのぼってお月さまをはずして持ってこようというほどの熱なのよ」
「こっちの方がいいわ。これを作った人なら、太陽ぐらい持ってきてよ」とオルタンスが答えた。
「でも、これをお金にするにはどうしたいいの。太陽だけじゃだめで、穀物を育てるには、土地もたくさんいるのよ」
やつぎばやにこんな冗談を言いあいながら、ふたりの女はふざけていた。その笑い声を耳にしながら、男爵夫人は、青春のほがらかさに心をゆだねきっている現在を見るにつけても、娘の行末が案じられていっそう憂慮を深めるのであった。
「でも、六カ月もかかる細工をあなたにくれるからには、きっとあなたに大恩があるにちがいないわね」とオルタンスがいったが、この細工は彼女をすっかり考えこませてしまったもののようだった。
「おやおや、何もかもいっぺんに聞き出そうたって、無理よ。……そうね、でもなんなら計りごとの仲間にあなたを加えてあげてもいいわ」とベットがいった。
「あなたの恋人も仲間に入ってるの?」
「まあ! よっぽど見たいらしいわね。でも、わかってよ、わたしみたいなオールド・ミスが五年ものあいだ、恋人をつなぎとめておかれたんだから、今になると、もう人には見せたくないものよ。……だから、ほっといて。わたしは猫も、カナリヤも、犬も|おうむ《ヽヽヽ》も飼ってないでしょ。わたしみたいなおばあさんにだって、かわいがったり、いじめたりするものがひとつくらいなくっちゃ。だからわたし、ポーランド人をひとり自分にあてがったってわけよ」
「その人、頬ひげをはやしている?」
「こんなに長いの」と言いながら、ベットは相手に金糸のからんだ杼《ひ》を見せた。
彼女は、外出するとき、かならず仕事をもって出て、夕食を待つあいだでも、手を動かしているのであった。
「あなたみたいにうるさくきく人には、何も教えてあげないわ。二十二のあなたが、四十にか、そろそろ四十三にもなるわたしよりもっとおしゃべりなんだもの」
「じゃだまってきくわ。何にもいわない」
「わたしの恋人はね、高さ十メートルぐらいもある青銅の群像をこしらえたのよ」とベットはきり出した。「サムソンがライオンの口を裂いているところをあらわしたものなんだけれど、あの人はそれを地面に埋めて、錆をつけたわけ。だから知らない人が見れば、この群像は、まるでサムソンと同じくらい古い時代のものみたいに見えるのね。この大傑作は、今のところ、うちの近くのカルーゼル広場の古道具屋に陳列してあるのよ。あなたのお父さまは、農商務大臣のポピノさんや、ラスティニャック伯爵とお知り合いの仲でしょ。こういうえらい方がたに、通りすがりに、時代ものの群像を見かけたが、とでも話していただきたいものだわ。こういうおえら方は、わたしたちが作るサーベルの下げ緒《お》よりも、ああいうもののほうが好きらしいわ。あの青銅のがらくたを、おえら方が買ってくれりゃ、まあ、見にくるだけでも、あの人は、一財産こさえることができるらしいのね。あの人ったら、あんなつまらないものも、古代ものと思いこんで、たんまりお金を出す人がいるだろうなんていってるの。それから、群像を買ったのが大臣だったら、出かけて行って自分が作者であることを証明する、そこでいっぺんに名声があがるっていう目論見《もくろみ》なのよ。まるでもうえらくなったようなつもりよ。あの人ときたら、新米の伯爵のふたり分ぐらいの気位《きぐらい》があるんだから、おそれいっちゃうわ」
「ミケランジェロの再来ってわけね。でもその人、恋はしていても、気がまわるのね。で、いくらぐらい欲しいっていってるの?」とオルタンスがいった。
「千五百フランとか、……古道具屋のほうで、それ以下ではいやらしいわ。手数料が欲しいのでね」
「パパはいま、王室顧問をしているので、毎日議会で、あなたのおっしゃった大臣ふたりに会ってるわ。だから今のお話、きっとひき受けてくださるわよ。わたしにまかせときなさいな。あなたはお金持ちになり、スタインボック伯爵夫人になれるわ」
「だめ、あの人、とても怠けものなの。何週間も、ただ赤蝋《せきろう》をいじくっているばかりで、仕事はちっとも進まない。あきれたことに、ルーヴル美術館や王室図書館へ行っては、版画をながめたり、写したり、そんなことしかしないのよ。ぶらぶら好きなのね」
こんなふうにふたりはきりもなくふざけあっていた。オルタンスは、笑っていたけれども、無理して笑っているような感じだった。それというのも、若い娘をとらえる、未知の男性への恋心に、彼女もまた動かされかかっていたからである。それはごくばく然とした恋心で、窓の縁に、風に吹きよせられた麦わらに氷の花が結ぶように、偶然、与えられたある人の面影の周囲に、いつしか恋の思いが結ばれる、といったふうなものだった。十カ月以来、オルタンスは、ベットの架空の恋人を実在の人物に仕立ててしまっていた。母親同様、オルタンスも、ベットはもう結婚しまいと思っていたから、あんなふうに一生独身を通しているからには、秘密の恋人がいるはずだと思いこんでしまったのである。ところが、一週間ばかり前から、まぼろしの恋人は、ヴェンツェスラス・スタインボック伯爵となり、その夢に戸籍謄本がつき、霧がかたまって三十歳の青年となった。オルタンスが手にした印形《いんぎょう》は、神のお告げのようなもので、そこには天才の輝きが光芒《こうぼう》を放ち、護符《ごふ》のような力をもった。オルタンスはすっかり幸福な気持ちになった。そして自分は作り話が実話なのではないかと思うほど、血がわきたつような気持ちになったので、ベットにそれを見透かされまいとして、彼女は狂ったように笑うのだった。
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一二 エクトル・ユロ・デルヴィー男爵
「おや、客間のドアがあいたようよ。クルヴェルさんが帰ったかどうか見てきましょうよ」とベットがいった。
「お母さまは、ここ二日ばかりとても悲しそうだわ。例の縁談はこわれてしまったらしいわね……」
「なあに、またやりなおせばいいのよ。(もういってもかまわないと思うんだけど)結婚話というのは、控訴院の判事さんがお相手なのよ。あなた控訴院長夫人になりたい? クルヴェルさんも、縁談に一役買っているとすりゃあ、わたしにも何かひとこというはずだけど。あすになれば、脈があるかどうかわかるわ」
「ベットさん、印形はわたしに貸しといて。お母さまのお誕生日までは、あとひと月もあるわ。だいいち、その日の朝にあなたに返したっていいじゃないの?」
「だめ。返してちょうだい。箱に入れておかなくちゃあ」
「だってお父さまに見せるのよ。大臣に話すからには、このことにも通じてなくちゃいけないわ。お役人たちにへたなことをいうわけにはいかないのよ」
「じゃ、いいわ。ただお母さまには見せないでね。それだけお願いしとくわよ。なにしろ恋人がいるのがわかると、あなたのお母さまにからかわれちゃうもの……」
「約束するわ」
男爵夫人が気を失ったのは、ちょうどふたりが夫人の部屋の入口まできたときのことで、オルタンスのあっとさけんだ声に、夫人は気をとりもどした。ベットが、気つけ薬をとりにいってもどってきてみると、母と娘はたがいに抱きあっていた。母親はしきりに、不安がる娘をなだめていた。
「なんでもないのよ。ちょっと気分が悪くなっただけ。――ほらお父さまが帰ってらしたわ。お父さまにはこんなこと話すんじゃありませんよ」呼び鈴《りん》のならし方で男爵の帰宅を知ると、夫人はこういった。
アドリーヌは、夫を迎えるために立ちあがった。夫人は、夫を庭に連れだし、夕食を待つひとときを利用して、娘の縁談が破談になったことを話すつもりだった。また、これからの生活の見通しについても夫の考えをただし、自分の意見も述べようというつもりだったのである。
エクトル・ユロ男爵は、いかにも国会議員らしい、ナポレオン風の服装で姿をあらわした。だいたいにおいてアンペリオー〔つまりナポレオンの帝政時代に愛着している人びと〕を見わけることは簡単で、彼らの軍隊風に胸をそらした姿勢や、金ボタンを胸もとまできちんととめた紺《こん》フロックや、黒色のタフタのネクタイを見ればすぐにそれと察しがつく。おまけに、帝政時代のめまぐるしい情勢のなかで、独裁的な命令を下すのになれているから、彼らの身のこなしは、どこかいばったようなところがある。どう見ても、男爵の風采には老人くさいところがなかった。視力もまだたしかで、眼鏡なしでも字が読めた。男爵の面長《おもなが》の美しい顔は、おしいことに黒みがちな頬ひげにかこまれ、顔の血色はつややかだが、ところどころ斑《まだら》が浮いているという血の気の多い体質であった。バンドでしめあげてある下腹は、ブリヤ・サヴァランの言い種ではないが、どっしりとした重みをたたえている。クルヴェルといっしょになって粋《いき》な遊びにふけったりする放蕩ものだが、それでも貴族的な悠揚《ゆうよう》せまらざるもの腰と、愛想のいい人品がそれをうまくかくしていた。だが彼こそまさに、美人を見ればとたんに目を輝かせ、もう二度とめぐり会わないような通りすがりの美女であろうと、だれかまわずにほほえんで見せずにはいられないといった男のひとりだった。
「演説でもなさいましたの?」と、アドリーヌは、夫の気色がなんとなくすぐれないのを見ていった。
「いや、そうじゃないんだが、二時間もたてつづけに議論を聞かされて、まいった。おまけに、けっきょく、裁決にもならない……壮絶な舌戦といいたいところだが、連中の演説ときたら、いくら突撃してもいっこうに敵をけ散らすことのできない騎兵隊みたいなもんだ。元帥にもさっきいったんだが、ちかごろじゃからだを動かすかわりに口を動かす、ところが、行進になれたものは、それじゃとんとおもしろくない。やれやれ、大臣といっしょにすわって退屈するのにはもうあきあきした。ちとはしゃごうじゃないか……やあ、|やぎ《ヽヽ》さん、|めやぎ《ヽヽヽ》さん、こんにちは」
そういうと、ユロ男爵は、娘の首をつかんで、接吻したり、くすぐったりした。膝の上にすわらせると、娘の頭を自分の肩にもたれさせ、美しい金色の髪の毛を自分の顔にふれさせた。
(疲れて、くしゃくしゃしていらっしゃるのだわ。お話を今すれば、なおのことくしゃくしゃするにちがいない。あとにしよう)とユロ夫人は考えた。「今夜は、うちにいらしてくださる?」と夫人は声をあげてたずねた。
「いいや、夕食がすんだらまた出かけるよ。やぎさんや、子供たちや兄貴《あにき》がくる日なんで、わざわざ帰ってきたんだ……」
男爵夫人は、新聞を手にすると、演芸欄のところを見た。オペラの番組欄のところに、『悪魔のロベール』と出ているのを見ると、新聞を下に置いた。半年ほど前に、イタリア座からフランス座に移ったジョゼファが、アリスの役で歌っていた。こういう動作が男爵の目にはいらないわけはなく、男爵はじっと妻の顔をながめた。アドリーヌは目を伏せると、つと立ちあがって庭に出た。男爵もそのあとを追った。
「どうしたのかね、アドリーヌ」と言いかけて、男爵は妻の腰に手をかけるとひきよせて抱きしめた。「ほかのだれよりもおまえを愛しているのがわからないのか……」
「ジェニー・カディーヌや、ジョゼファよりも?」と、夫人は夫の言葉をさえぎると大胆にいってのけた。
「だれから聞いたのだ?」そういうと男爵は妻から手をはなし、二歩ばかり後ずさった。
「匿名《とくめい》の手紙を受け取りましたの。手紙はもう焼いてしまいましたけれど、オルタンスの結婚がこわれたのは、わたしたちがお金に困っているせいだと書いてありました。ねえ、あなた、わたしは妻としては何も申しませんわ。あなたとジェニー・カディーヌのことも、知っていて何もいわなかったくらいですもの。でも、オルタンスの母親として、わたしはほんとうのことを教えていただきたいのです……」
ユロはしばし口を開かなかった。それは夫人にとってはおそろしい沈黙のときで、その心臓が高鳴った。ユロ男爵は、腕組みをとくと、夫人を抱きよせ、胸に押しあてた。そして額に口づけすると、感動と力とをこめて「アドリーヌ、おまえは天使だ、そしてこのわたしはひどい……」
「いいえ、いいえ」と夫人は答えると、突然、夫の口に手をあてて、それ以上、夫に、自分で自分をののしるようなまねをさせまいとした。
「わたしは今のところオルタンスにやるお金は一文もない。わたしは不幸な男だ。おまえが率直にいってくれたのだから、わたしもおまえに自分の悲しみを打ち明けさせてもらう……おまえの叔父のフィッシェルは、今たいへん困っているのだが、それというのもみなわたしのせいなのだ。フィッシェルは、わたしのために二万五千フランの手形を書いてくれたのだ……しかもそれが、わたしをだましたり、陰ではわたしのことをばかにして、老いぼれの染め毛猫などといっている女のために! ああ、……一家を養うよりも、ひとつの邪念を満足させるほうが高くつくのだからおそろしい……しかも我慢ができないのだ……たとえ、今、おまえに、もう二度とあのおそるべきユダヤ女のところに足を運ばぬ、と誓ってみたところで、あの女からほんの二行ばかりの手紙でもくれば、皇帝の馬前にかけよる兵士のように、わたしは女のところへかけつけてしまう」
「そんなに苦しまないでください。あなた」とあわれな妻は、夫の目に涙が光るのを見て、娘のことも忘れていった。「そうだわ、わたし、ダイヤモンドを持ってましたわ。とにかく叔父さんを助けてあげてくださいまし」
「おまえのダイヤはいま売ったところで二万フランにもなるまい。それだけじゃフィッシェルじいさんの急場を救えない。だからそあれはオルタンスの結婚のためにとっておいてくれ。あした元帥に会ってみよう」
「お気の毒な方」と男爵夫人はさけぶと、夫の手をとって接吻した。
夫に|るる《ヽヽ》と述べるつもりだった不平不満もそれで片がついてしまった。アドリーヌは、自分のダイヤモンドの提供を申し出た。父親は、それをオルタンスに与えた。そして夫人は、この努力を崇高なものだと思い、張りつめた気持ちもゆるんでしまった。
「あの人は主人なのだから、ここにあるものは何だってもっていってかまわないのに、わたしにダイヤモンドを残しておいてくださる。神さまのような方だわ」
これがこの女の考え方だった。だが夫人は、そのやさしさで、ほかの女が嫉妬の怒りを爆発させてうる以上のものをたしかにえてはいたのである。
育ちはよいが身持ちはひどく悪いといった人のほうが、道心堅固な人よりも愛想がいいということは、道学者といえども否定しえないだろう。身持ちのよくない人は、つぐなわなければならぬ罪を犯しているせいで、彼らを裁く立場にいる人には、いやな顔ひとつ見せない。そうやってあらかじめ寛大な処置を願っておき、親切ないい人という評判をえておくのである。なかには、徳もあれば、愛嬌もあるといった人柄の人もいないではないが、がいして、徳というものは、それ自体で自分は立派なのだからあえて骨折って、人の好意をうる必要もあるまいと思いがちだ。それから、偽善的な人は別にして、ほんとうに徳のある人というものは、自分たちの立場に多少の疑惑をもっている。彼らは、人生という取引き場において、どうも他人にだまされているような気がしている。そのために、自分は社会からみとめられないと自称している人びとと同様、彼らの口をついてでる言葉には|とげ《ヽヽ》がある。
そういうわけで、男爵は、自分は一家の破産を招いたのだというやましい気持ちがあるものだから、妻にたいし、また子供たちや、ベットにたいしても、機知と、女たらしの愛嬌をありったけ発揮した。男爵は、息子と、それから赤ん坊を抱いたセレスティーヌ・クルヴェルがむこうからやってくるのを目にした。すると、義理の娘にもさかんに愛想をふりまき、お世辞をいった。こういうお世辞には、セレスティーヌはなれていなかった。なぜなら、同じ金持ちの娘でも、この女くらい取りえのないつまらない女はめずらしいくらいだったからである。ユロ男爵は、孫を抱きあげると接吻し、かわいい子だ、美しい子だといった。乳母が子供をあやすときにいうような言葉をつかって、赤ん坊に話しかけ、この子は俺よりも偉くなるなどと予言めいたことをいうのだった。それから、息子のヴィクトランにむかって二言《ふたこと》、三言《みこと》お世辞をいってから子守をしている、ふとったノルマンディー女に子供を返した。セレスティーヌは、男爵夫人と顔を見あわせたが、そこには『なんて愛嬌のある方でしょう』という気持ちがこめられていた。こんなくらいだから、実の父がユロ男爵をわるくいうと、義理の父の肩をもって弁護するのも当然だった。
愛想のよい舅《しゅうと》、大甘《おおあま》のおじいさんというところをさんざ見せておいて、男爵は息子を庭に連れ出した。そして、けさがたから生じたある微妙な政治情勢に関連して、議会でいかにこれに対処すべきかについて、思慮にとんだ卓見を述べるのであった。その洞察の深いことに、青年弁護士は感嘆し、父の親しげな口調や、とりわけて今後は息子を自分と同等にあつかいたいらしく見える、一種の鄭重《ていちょう》な態度に、感動するのであった。
息子のほうのユロ氏は、まさしく一八三〇年の革命が生みだした青年である。三度の飯より政治が好きで、一見重厚な態度を装おってはいるが、胸には満々たる野心をたたえ、すでに名をなした人を羨望《せんぼう》することはなはだしく、フランス語会話の金剛石ともいうべき直截な言葉を用いるかわりにだらだらとしゃべりまくる。だがもの腰はいたって端正で、乙《おつ》にかまえていれば威厳があるものと思いこんでいるといったふうだ。こういう連中は、ふらふら動きまわる棺桶みたいなもので、そのなかには昔のフランス人がおさまっている。そのフランスがときどき動きだし、英国風のその棺桶を、中側からこつこつたたくこともあるが、野心というものになだめられて、しぶしぶと息のつまりそうな棺桶のなかで小さくなっている。こういう棺桶青年は、きまって黒い服を着ている。
「やあ、兄貴がやってきた」そういうとユロ男爵は、伯爵を迎えるために客間の入口に行った。死んだモンコルネ元帥の後釜《あとがま》にどうやらすわることになるらしい兄に接吻してから、男爵は兄の腕をとると大げさな身ぶりで敬意やら愛情やらを示しながら、奥に招じ入れた。
耳が聞えないので会議に欠席してもいいことになっているこの上院議員は、立派なかっこうをした頭も、老齢のために寒気だっているが、灰色の髪の毛は帽子に押されてべったり頭の地につくぐらいには残っていた。背が低く、がっしりとしたこの男は、年とってひからびてはいたものの、陽気なふうを失わぬ、矍鑠《かくしゃく》たる老人だった。これといってする仕事もなかったので、まだまだ元気な体力をもてあまし、もっぱら散歩と読書に日を送っていた。彼のおだやかな生活ぶりは、色の白い顔や、落ちついた立居振舞いや、もののわかった誠実な言葉のはしはしにもあらわれていた。かつて戦争や合戦の話なぞしたことがない。わざわざ手柄話なぞして聞かせなくとも、自分の武勲についてはみんなが知っているものと考えているからだ。社交の席では、何かと夫人連に気をつかい、いつでも彼女たちの意を迎えるように心がけていた。
「みんな楽しそうな顔をしているじゃないか」と、男爵のためにこの家族の集まりがにぎやかに浮きたっているのを見ていった。しかし、義妹のユロ夫人がどこかに悲しみの色をとどめているのに気がつくと、「だがオルタンスの結婚話はまだまとまらんのじゃな」とつけ加えた。
「だいじょうぶ。こういう話は案外早くまとまるものだから」と、ベットは、老人の耳に口をあてて大声でどなった。
「おや、きてたのか。花も咲かせぬこのろくでなしの種めが」と笑いながら答えた。
フォルツハイム戦役のこの英雄は、ベットにはかなりの好意をよせていた。というのも、ふたりのあいだには似ているところがいろいろあったからである。教育もなく、出身もいやしい彼が、軍人として栄達をとげたのは、もっぱらその勇気のおかげだった。彼にあっては良識が才気のかわりをしていた。栄光をきわめ、身にやましいところとてなく、彼の愛情をことごとく集めているこの一家にかこまれて、元帥はその美しい生涯を輝かしく終ろうとしていた。そして、まだ表面には現われていない弟の不行跡については、まるで気がついていなかった。
彼以上に、この家族の集《つど》いの美しい光景に心楽しんでいるものはいなかった。この一家には、不和の種とてもなく、兄弟姉妹たがいに同じような愛情をもっていつくしみあい、セレスティーヌもまた一家の一員のようにあつかわれていた。だから、背の低い、真正直なユロ伯爵は、ときとして、なぜクルヴェルは、姿を見せないのかとたずねたくらいであった。そうすると、「父は今いなかに行っていますの」とセレスティーヌは、答えるのを常とした。今度も、ユロ伯爵が同じ質問をするので、もと香水商は、目下旅行中であると、人びとは言いつくろった。
真心のこもったこういう家族の集まりを見ていると、男爵夫人の胸には、
「いろいろと幸福があるなかでも、これこそはいちばん確かなしあわせだ。だれがこの幸福をわたしたちから奪うことができよう?」という思いが浮かぶのであった。
老将軍は、お気に入りのアドリーヌが男爵からさかんにちやほやされているのを見ると、そのことをしきりに冗談の種にした。それで男爵は、こっけいに見られるのをおそれて、お愛想を息子の嫁のほうにふりむけた。晩餐のあいだじゅう、セレスティーヌが男爵から何かとお世辞をいわれ、あたたかくもてなされたりしたのも、男爵には嫁の口ききでクルヴェルじいさんの怒りをといて、彼をもういちどここへ連れもどしてこようという下心があったからである。
一家|団欒《だんらん》のこうした情景を目にしたら、だれしも、父親は追いつめられて苦境に立ち、母親は絶望にくれ、息子は父の将来に関して極度の不安を抱き、しかも娘は母のいとこから恋人を奪い取ろうとしているなどとは、とても信じられなかったに相違ない。
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一三 ルーブル界隈《かいわい》
七時に、男爵は、兄や息子や妻や娘がトランプをはじめたのを見て、オペラ座の舞台にたつ情婦に拍手を送るために、ベットを連れて家を出た。ベットは、ドワイエネ通りに住んでいたが、いつもこの界隈の人気《ひとけ》のないのを口実にして、夕食が終わるとさっさと帰ることにしていた。パリに住んでいる人なら、老嬢の用心にも一理あると認めないわけにはゆかないだろう。
ルーヴル宮の古い建物に沿って、ひとかたまりの陋屋《ろうおく》がたてこんでいるが、これは、フランス人が良識にさからうことがいかに好きかということを示す好例である。ヨーロッパが、フランス人にたいしていたずらな恐怖心を持たないために、そしてフランス人はそう明だとはいってもたかが知れている、とそう思いこませるために、わざわざこんな汚ならしい街区《がいく》が保存されているにちがいない。多分、そこには、無意識のうちにある深遠な政治的配慮が働いているのだ。今日のパリのこの一角を描写しておいても、それはあながちなくもがなの余談ということにもなるまい。後世になれば、この光景は、想像するのさえ困難なものとなるだろうからだ。われわれの孫たちの代には、たぶん、ルーヴル宮の新築工事も完了しているだろう。そうなれば、パリの中央部に、しかも過去三十六年間にわたって宮廷がおかれ、フランスとヨーロッパの選良が迎えられた宮殿のまん前に、こんな野蛮な町なみがあったとは、まったく信じがたいこととなるだろうからだ。
たとえ、二、三日の予定であろうと、およそパリを訪れた人ならだれでも気づくに相違ないと思われるのは、カルーゼル橋に通ずるルーヴル宮の通用門から、博物館通りにいたるあたりにたてこんでいる十軒ばかりの家なみである。建物の正面は、こわれはてているが、家主も張り合いがないとみえていっこうになおそうとはしない。これは、ナポレオンがルーヴル宮を完成することにきめて、それ以来とりこわされることになっている古い町の残骸である。ドワイエネ通りと、ドワイエネ袋小路、これだけが、陰気で人気のないこの一郭のなかの道路で、とんと人影の見られないところをもってすれば、住んでいるのは狐狸《こり》妖怪のたぐいであろう。その舗道は、博物館通りよりもずっと低いところにあって、だいたいフロワマントー通りと高さが同じである。カルーゼル広場の地あげ工事のために、それでなくてもこの家なみは穴の底にでも埋められたような感じがしているのに、しかもルーヴル宮の高くそびえた回廊のせいでいつも日陰になっている。そして、ルーヴル宮の回廊のこちら側は、北風のためにすっかり黒ずんでいる。暗闇と、静けさと、ひやりとする冷気、さらには地面がくぼんでいること、これらのさまざまの原因で、ここの家はどれもこれも、寺院の地下などにある納骨堂か、さもなくば墓のような感じがした。
辻馬車なぞに乗って、なかば死の町と化したこの界隈を通り抜けると、たまたまドワイエネ小路の奥が目にはいることがある。そうすると、思わず寒気がして、こんなところにいったいだれが住んでいるのだろう、日が暮れてこの小路が物騒な場所となり、夜のマントにくるまって、パリの悪人どもが跳梁《ちょうりょう》する時刻には、ここではいったいどんなことが起きているのだろう、といったような疑念がわいてくるのだ。そんなことを考えただけでもいいかげんにぞっとしてくるのに、家とは名ばかりのこの家なみを、帯状にとりかこんでいる周辺の光景を目にすると、疑念は恐怖へとかわる。リシュリュー通りの側は沼地になっている。チュイルリー宮の側は、まるで波のようにでこぼこしている一面の舗石、ルーヴル宮の回廊の側は、小さな庭や、陰気なバラック建築、ルーヴルの旧館の側には、建設用の石材やら、建物をとりこわしたあとのがらくたが一面にちらばって、原っぱになっている。月の明るい晩などには、この人気のない原っぱで、ズボン下をさがすアンリ三世とその小姓たちや、自分の首をさがすマルグリート女王の愛人たちが、サラバンドの舞曲でも踊っているのに相違ない。
空地の一角には、礼拝堂の円天井が、まだ取りこわされないまま見おろすように立っているが、それはまるでフランスでその威光を誇るカトリック教は、何ものにもまして生き長らえることを証拠だてるためかのようだ。もうかれこれ四十年も前から、ルーヴル宮は、壁の穴や、あけた窓から、「おれの顔にできたこの|いぼ《ヽヽ》を取ってくれ!」とさけんでいる。たぶん、この物騒な界隈も、その有用なことが公に認められているのだろう。華麗な建築と、悲惨な家なみとをパリの中心に並べておいて、それによってこの花の都の特徴ともいうべき華麗と悲惨の密接な結合を象徴しようとする必要性が公に認められているのにちがいない。だから、そのなかで王党派の機関紙が死病にとりつかれたこのぞっとするような廃墟や、博物館通りのみじめなバラック建築や、通りを占拠している露天商の板囲いなどは、たぶん三つの王朝よりもさらに長命と繁栄を誇るにちがいないのだ。
早晩とりこわしになるはずのここの家は、間代がひどく安かったので、一八二三年以来、ベットはそこに住んでいた。もっとも近所が物騒なせいで、暗くなるまでには帰宅しなければならなかったけれども、太陽ととともに起きて、太陽とともに寝るという農民の習慣を相変わらずくずさないベットにとっては、これはおあつらえむきだった。田舎の人は、そうやって灯《あか》りと暖房の費用を節約するのである。そういうわけで、彼女は、カンバセレスの住んでいた有名な邸が取りこわされたあと、カルーゼル広場が見通せるようになった家のうちのひとつに、ずっと住みついていたのである。
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一四 道楽者、美女に出会う
ユロ男爵が、妻のいとこをこの家の入口におろして、「さようなら、いとこ」といったとき、ひとりの若い女性が、やはり家のなかにはいるために、馬車と壁のあいだを通り抜けていった。それは小づくりの、すらりとした美しい女で、きらびやかに着飾って、上等な香水のかおりを放っていた。この婦人は、ふと男爵と視線をかわしたが、別に考えがあってそうしたわけではなくて、同じ家に部屋を借りている女のいとことは、どんな男かちょっと見てやれといった程度の軽い気持ちだった。けれども女好きのユロ男爵は、強い印象を受けた。パリの男たちはみなそうなので、昆虫収集家のいうデジデラータ〔日ごろから探していたものの意〕というやつだ。男たちは、日ごろから夢想しているような美女に出会うとはっとするものなのだが、ただ普通の男の場合は、こうした印象も束《つか》の間のものにすぎず、やがて忘れられてしまう。ユロ男爵は、体裁をつくろうために、馬車にのる前に片方の手袋を仔細ありげにゆっくりとはめたが、目は若い女のあとをじっと追っていた。その若い女のドレスは、あのいんちきで醜悪きわまる硬布《クリノリーヌ》の下袴のためではなく、何かもっとほかのもののために気持ちよくゆれていた。
「ああいうかわいらしい女を幸福にするためなら、俺も一肌ぬいでやってもいいんだが」と、男爵は考えた。「あれなら俺にも幸福を与えてくれるだろうからな」
見知らぬ女は、通りに面した母屋に通じる階段の下にきたとき、建物の入口のほうにちらりと流し目をくれた。振り返ってみるというほどでもないが、感嘆のあまりその場に釘づけにされ、欲望と好奇心でいっぱいになって立ちつくしている男爵の姿を、見るともなく見たのである。こうした男爵の様子は、パリの女性たちが、路傍にふと見かけて、気ばらしにかいでみる花のようなものだった。義務に忠実で、まじめで、しかも美しいといった女たちのなかには、散歩の途中、ちょっとした花束さえ作れなかったときには、不機嫌な顔で家へ帰る女がいるものだ。
若い女は、足早に階段をのぼった。間もなく三階の部屋の窓があいて、女が顔をだした。それと並んで頭の禿《は》げた男が見えたが、別に腹を立てたような目つきでもないところを見れば、どうやら女の亭主らしかった。
「ああいうかわいい女にかぎって、すばしこく頭がはたらくものだな。ああやって自分の部屋を教えている。それにしても、こんな界隈にしては、いささか話が早すぎるな、あぶない、あぶない」そんなことを考えながら、男爵は馬車に乗りこみ、顔をあげて上を見た。すると、夫婦者は男爵の顔がメドゥサ〔ギリシャ神話に出てくる魔女で、見るものを石に化したという〕の首にでも見えたのか、あわてて顔をひっこめた。「俺の顔を知っているのかな。それなら話はわかる」と男爵は思った。じじつ、馬車が博物館通りをのぼりきったとき、男爵が窓から顔を出して見ると、見知らぬ女は、また窓のところにもどっていた。自分の讃美者をのせた馬車の幌《ほろ》をじっと見つめているところを見られて気まりが悪くなったのか、女はいそいで窓のうしろに姿を隠した。「|めやぎ《ヽヽヽ》女史にきけばだれだかわかるだろう」と男爵は内心思った。
この夫婦は、やがて読者にもおわかりのように、参事院議員の姿を見て、深い興奮にとらえられていたのだ。
「ありゃおまえ、ユロ男爵だぜ! 俺はあの人の下で働いているんだよ」と夫は、窓のバルコンのそばを離れながら大声でいった。
「へえ、そうなの。じゃあ、中庭の奥の四階で、若い男と暮しているオールド・ミスは、あの人のいとこってわけなのね。今日になって、しかも偶然そんなことがわかるなんておかしいわね」
「フィッシェルさんが若い男と同棲しているんだって!」と役人は細君の言葉をくり返した。「そりゃ、根も葉もない陰口だろう。陸軍省へ行けば、お天気もその人次第というほど力のある、議員閣下のいとこのことをそんなに軽々しくいうもんじゃない。さあ、夕飯にしよう。四時間も待ってたんだぜ」
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一五 マルネフ夫妻
明眸《めいぼう》の美女マルネフ夫人は、ナポレオン麾下《きか》の名将のひとり、モンコルネ伯爵の私生児で、二万フランの持参金をもって陸軍省の下っぱ役人のところに嫁にきた女だった。死ぬ十カ月前に元帥の位を極めるにいたったほど盛名のあったモンコルネ中将の威光によって、亭主の筆耕先生は、自分の課の首席吏員という思いがけない地位にありついた。ところが、今度は次長に任命されるという段になって元帥が死んでしまったので、マルネフとその妻の希望は、根こそぎ切りとられてしまった。マルネフ先生の財産は、もともとわずかなもので、ヴァレリー・フォルタン嬢がもってき持参金も、役人の借金の支払いや、独身男が世帯を持つのに必要な道具類の購入のためにすでにあとかたもなくなっていた。それにマルネフ夫人は、母親といっしょに暮しているじぶんから贅沢《ぜいたく》な暮しになれていて、結婚後も派手な暮しがあきらめきれなかった、それやこれやで、美人女房に贅沢をさせるためには、家賃を節約するしかなかったのである。
陸軍省からも、パリ市の中心からも目と鼻の先にあるドワイエネ通りは、位置からしてマルネフ夫妻には好都合に思われた。そんなわけで、四年ほど前から、夫妻は、フィッシェル嬢と同じ建物に住んでいたのである。
ジャン・ポール・スタニスラス・マルネフ氏は、堕落から生ずるある種の力のおかげで、かろうじてばかにもならずにすんだといったサラリーマンのひとりだった。背の低いやせた男で、髪の毛もひげもまばらで、蒼《あお》白い顔にはつやがなく、しわがよったというより面《つら》の皮がたるんだという感じである。まぶたがうす赤くただれていて、そのうえに眼鏡をのっけている。歩きかたもぶざまだが、態度物腰はそれ以上にみじめである。風俗壊乱の罪で裁判所に引きずり出された男といえば、まずこんな男と思えばまちがいあるまい、そんなタイプの男だった。
この夫婦は、パリで世帯をはっている夫婦ものの典型とでもいえそうで、住んでいるアパルトマンには見かけだけ贅沢な品物が並んでいた。客間には、色のさめた木綿ビロードのかかった家具だの、フィレンツェの青銅彫刻を模した石膏の小像だのが置かれている。かと思うと、ただ彩色しただけでろくな細工もしてなく、まがいの水晶の蝋皿《ろうざら》のついたシャンデリアがかかっている。絨毯《じゅうたん》はひどく安いと思って買ったらあとになって綿が多量にまじっていることがわかったというしろもので、もう今では肉眼でみてもそれとわかるようになっている。それからダマスクスまがいの|らしゃ《ヽヽヽ》は、三年とは寿命がもたないということを、訪ねる人に実地に教えるためにぶらさがっているかのようなカーテン類――これらすべては、教会堂の入口で、ぼろをまとい慈悲を乞うている貧乏人さながら、あからさまに貧しさを訴えていた。
食堂は、ひとりしかいない女中がろくに掃除もしようとしないものだから、いなかの宿屋の食堂のように汚ならしく、胸のわるくなるような外観を呈している。何もかも垢じみていて、やりっぱなしだった。
旦那の部屋には、独身用のベッドと独身用の家具が置いてあるが、書生部屋にそっくりで、どれも古ぼけて、部屋の主と同じようにがたがたに使いふるされており、部屋の掃除は一週にいちどだけである。この部屋では、何もかも散らかしっぱなしで、古靴下が毛づめの椅子にひっかかっているかと思えば、その椅子の花模様がほこりのなかに浮きあがって見える、といった具合である。この不潔な状態を見れば、部屋の住人は、家庭には無関心で、もっぱら外で時間をすごし、賭博場や、喫茶店や、あるいはその他の場所に入りびたっている人間であることがわかる。
カーテンはいたるところ煙やごみのために黄色くよごれていたし、子供にはだれもかまい手がないとみえて、ほうぼうにおもちゃが散らばっている。こうした無軌道ななげやりぶりは、いやしくも公務員のアパルトマンの名誉をはなはだしく傷つけるものといわなければならないが、ただ細君の部屋だけは、例外だった。通りに面してたてられた棟《むね》と、中庭の奥にあって隣地に接しているほうの棟とは、一方の側でだけつながっていたのであるが、ヴァレリーの寝室と化粧室は、ちょうどそのふたつの棟をつないだ棟のなかにあった。このふたつの部屋は、壁をペルシャらしゃで瀟洒《しょうしゃ》にかざり、家具は紫檀《したん》づくりで、絨毯はモケット地だった。部屋じゅうが美しい女のかおりをただよわせ、あえていえば、めかけの部屋といった感じだった。ビロード張りの暖炉棚には、流行の振り子時計が置いてある。飾り棚にはいろんなものがおいてあるし、贅《ぜい》をこらしたシナ製の植木鉢なども立っている。寝台、化粧台、鏡つきの衣装戸棚、二人掛けのソファー、その他いろいろの装飾品は、すべて当世風のきどりや思いつきをあらわしていた。
上品さとか、豪華さという点から見れば、いずれも三流品で、しかも三年ぐらい前に買いととのえられたものばかりだったが、それでも、成り金趣味が気になるところをのぞくと、気むずかしい洒落《しゃれ》者の目をもってしても、かくべつ非難すべき点もないくらいだった。いい趣味の人が選択してはじめてえられる、芸術味、気品といったようなものは、露ほどもなかった。軽薄なこれらの宝飾品のいくつかでも、社会学博士に見せたなら、そこに情夫の存在をかぎつけたことだろう。人妻のところにいつも入りびたっていながら、そのくせ影も形も見えない、あのなかば神さまみたいな芸当をやってのける情夫だけがこんな贈りものをなしうるのである。
夫と妻と子供がしたためた夕食は、――四時間も遅れたとかいうその夕食は、この一家の経済的な行きづまりをありありと示していた。というのも、食事の献立は、パリの家庭にあっては、その財政状態のもっともたしかなバロメーターだからである。隠元豆のはいった野菜スープ、じゃがいもつきの仔牛肉にソース風のものをかけたもの、隠元豆に安物のさくらんぼ、こういった料理がすでにふちのかけた皿に盛って出され、しかもスプーン、フォークの類は、響きのにぶい洋銀製だった。これがこの美しい女にふさわしい食事だろうか。男爵がここに居合わせたら悲しくなって涙を流すことだろう。ぶどう酒用のガラスびんはつや消しだったが、横丁の酒屋からはかりで買ってきた安ぶどう酒のけちな色は、いかんともしがたい。ナプキンはこの一週間まるで同じものが使用されている。要するにどれをとってみても、そこにはなりふりかまわない貧乏暮しと、家庭生活にたいする夫婦の無関心さがあらわれていた。どんなにうかつな人間であろうと、この夫婦の様子を見れば、ふたりは今や生活の必要からさし迫った立場におかれ、ばれない程度のものならひとつやふたつの悪事ぐらいははたらきかねない状態にいることをさとったことだろう。
この夕食は、どうやら給金めあてで奉公している女中が作ったものらしかったが、ヴァレリーが最初に亭主にいった言葉で、この夕食が遅れた理由がわかる。
「サマノンはね、五割引きでなけりゃ、あんたの手形を引きとらないそうよ。おまけにあんたの月給を抵当《ていとう》にするから、その受け取り委任状をよこせって」
金づまりは、陸軍省の局長の場合には、まだ表面にはあらわれず、しかも特別手当をべつにしても、その二万四千フランという高給が風よけの役をしていたが、ここの下っぱ役人のところでは、とことんまできていたわけである。
「おまえ、局長をひっかけたね」と夫が女房をじっと見ながらいった。
「そのつもりよ」と、女房のほうは、劇場関係のものがつかうこの隠語を耳にしても、かくべついやな顔を見せるでもなくいった。
「俺たちどうなるのかな」とマルネフがまた口を開いた。
「あしたになれば、家主が差し押えにくるぜ。おまけに、君のおやじときたら、どういう思いつきか知らんが、遺書も書かずに死んじまったしなあ。まったく、帝政時代の連中ときたら、ナポレオンと同様、自分たちまで永遠に不滅だと思いこんでるんだ」
「お父さんもかわいそうに。わたししか子供がなかったのよ。わたしのことかわいがっていたわ。ひょっとしたら伯爵夫人が遺書をもやしちゃったのかもしれない。ときどき、わたしに千フランのお札《さつ》をいっぺんに三、四枚もくれていたくらいですもの、お父さんがわたしのこと忘れるはずはないわ」
「家賃の滞納が四期分、しめて千五百フランか。家財道具にそれだけのねうちがあるかどうか、シェイクスピアがいったよ、ソレガ問題ダって、ね」
「さてと、じゃあ、行ってくるわよ」とヴァレリーは、仔牛の肉を二口、三口ほおばっただけでもう立ちあがった。この仔牛の肉は、アルジェリアから帰還した自分のいろ男のために肉汁をしぼりとった|かす《ヽヽ》だった。
「大病には荒療治よ」
「ヴァレリー、どこへゆくんだ」とマルネフは、女房の行く手に立ちふさがりながらいった。
「家主に会いに」と彼女は、美しい帽子の下の、イギリス巻きにした髪の毛に手をやりながら答えた。
「あんたは、あのオールド・ミスと仲よくしといてよ、局長のいとこだとすればの話だけどね」
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一六 芸術家の屋根裏部屋
同じ屋根の下に住む借家人同士が、たがいの社会的地位について皆目《かいもく》知らないということは、パリではよくあることで、パリ生活がいかにあわただしいものか、この一事をもってしてもわかる。もっとも、亭主のほうは、毎日朝早くから役所づとめをしているうえに、毎晩出歩いていて、家に帰るのは夕食のときだけ、女房のほうは、パリの歓楽にふけっている女だとすれば、この夫婦が、中庭の奥の四階に住むオールド・ミスのことなぞとんと知らなかったのも無理はない。おまけにフィッシェル嬢の習慣が習慣だけになおさらである。
リスベットは、この建物の住人のなかではいちばんの早起きで、だれにも話しかけず、さっさと牛乳とパンと火を取りにゆく。そして日が沈めば寝てしまう。手紙がくることもなければ、訪れる客があるわけでもない。近所づきあいにもまるで縁がない。ときどきこんな人物が家のなかにいるもので、まるで昆虫のような存在、無名そのものの存在だといっていい。四年間も同じ家に暮したあげく、おどろいたね、うちの五階にいる老人は、ヴォルテール、ピラストル・デュ・ロジエ、ボージャン、マルセル、モレ、ソフィ・アルヌー、フランクリン、ロベスピエールなんてえ人物と交際のあった人だとさ、などといったことがよくあるものだ。さっきマルネフ夫妻が、リスベットについていったことも、この界隈がさびれていてほかとあまり交渉がないことや、ふたりが貧乏していて多少なりと門番と交際し、門番の好意をたいせつにしないわけにはゆかないところから、夫婦の耳にはいったことであった。
ところで、オールド・ミスのリスベットのお高い様子や、無口や、冷淡な態度のせいで、門番のほうも彼女にたいしてはばかていねいな態度を示していた。リスベットと門番との間柄に見られるようなこういうよそよそしい関係は、目下のほうのものがひそかに不満を抱いていることを示している。それに、門番のほうでは、わずか二百五十フランの家賃を払っているにすぎない賃借人と、自分たちとではかくべつ身分がちがうわけでもなく、裁判所の言葉でいえば、出るところへ出れば対等の人間だと思っていた。だからベットがいとこの娘のオルタンスにした打明け話は、ほんとうのことだったのだし、門番のおかみは、マルネフ夫婦との世間話のおりなぞ、フィッシェル嬢の噂話をしただけのつもりが、実は彼女にたいするとんでもない中傷になっていたことも理解される。
ベットは、門番のオリヴィエのおかみさんから手燭を受けとると、つと前に出て自分の部屋の上の屋根裏部屋に灯《あか》りがついているかどうか見ようとした。七月のこの時刻でも、中庭の奥はひどく暗かったので、ベットは灯なしで床《とこ》につくわけにもいかなかったのである。
「心配はご無用ですよ、スタインボックさんはちゃんと家にいますよ。一歩も外にはお出かけにならなかったようですからね」とオリヴィエのおかみさんは、意地の悪い口調でフィッシェル嬢にいった。
老嬢のほうでは返事をしなかった。彼女はこういう点にかけてはいまだに百姓女そのままで、自分に直接関係のない人間が、何をいおうと相手にしない。百姓にとって目にはいるものは、自分たちの村だけであるのと同様、ベットも自分の暮している小さな、かぎられた環境に住む人びとの意見だけを重んじていた。だから、ベットは、おかみのこんな言葉を耳にしても、自分の部屋にではなく、断固としてくだんの屋根裏部屋にあがっていった。先刻の晩餐《ばんさん》のあとでデザートが出たとき、ベットは、恋人にやるつもりで仕事袋のなかに果物やら菓子やらをとりこんでおいた。今、彼女はそれをやろうとして屋根裏部屋にやってきたのであるが、それは老嬢が飼い犬に菓子をやろうとするのとまったく同じであった。
ベットが部屋にはいってみると、オルタンスの夢想の主人公である、金髪で、顔の蒼白い青年が、水のいっぱい入ったガラス球《だま》を通して光線が強まる仕掛けの、小さなランプの明りで仕事をしていた。青年は、彫刻の道具や赤い(蝋箆《ろうへら》や、荒けずりのすんだ台座や、型にとった青銅やらがいっぱいのっている一種の仕事台の前にすわり、上っぱりを着、これから型にとろうとする蝋の小さな群像を手にしていた。そして、詩作中の詩人のような注意をこめて、それにじっと見いっていた。
「ほら、ヴェンツェスラスさん、おみやげよ」とベットは言いながら、手燭を仕事台の片隅に置いた。
それから、注意深い手つきで、菓子や果物を袋のなかから取り出した。
「どうもすみません」と亡命青年は元気のない声で答えた。
「これをたべればいくぶん元気が出ますよ。お気の毒に、こんなに年じゅう仕事をしていては頭に血がのぼってしまいますよ。あなたはもともとこんな仕事をするような生まれの方じゃないんですものね」
そういわれて、ヴェンツェスラス・スタインボックは、おどろいたような様子でベットを見あげた。
「さあ早くめしあがれ」と彼女はぶっきら棒にいった。「わたしの顔をじろじろ見ていないで。いったいわたしが気に入った作品とでもいうの」
そうどやされて、青年のおどろきはやんだ。目の前に立っているのが、自分の女メントール〔ホメロス『オデュッセイア』中の人物。忠言者、指導者の意〕であることにようやく気づいたからである。彼は常日ごろ乱暴にあつかわれるのになれていたので、ベットの親切さはいつも彼をびっくりさせた。スタインボックは、もう二十九歳になっていたが、金髪の青年にはよくあることで、五つか六つは若く見えた。青年の若々しさは、亡命生活の疲労と窮乏のためにいためつけられてはいたが、それでも青年のみずみずしい顔を老嬢のひからびたかたくなな顔つきと並べて見たなら、自然はこのふたりに、まちがってあべこべの性を与えてしまったのだとだれしも思わずにはいられまい。
彼は立ちあがると、黄色いユトレヒトびろうどの張ってある、古ぼけたルイ十五世式の肱掛け椅子のほうへ歩いて行って腰をおろした。しばらくやすんでいたいような様子だった。すると老嬢のベットは、李《すもも》の実をひとつとって相手にやさしく渡した。
「ありがとう」と青年は李を手に取りながらいった。
「お疲れになって?」とベットはさらにもうひとつ果物を手渡しながらたずねた。
「ぼくは仕事に疲れたんじゃなくて、人生に疲れたんです」と彼が答えた。
「また変なことを考えはじめたのね」と、ちょっと辛辣《しんらつ》な調子でベットはいった。「あなたのことをたいせつに守ってあげているわたしという女がいるじゃないの」ベットは彼に菓子をとってやり、うまそうにたべるその様子をじっと見た。「わたしは、いとこのところにご飯に呼ばれたときでも、あなたのことを忘れちゃいないのよ……」
「あなたがいなかったら、ぼくはもうずっと前からこの世に生きちゃいません。それはわかっています。ですが、芸術家には気晴しが必要なんですよ……」そういうとヴェンツェスラスは、リスベットのほうに、やさしく訴えるかのような目つきをむけた。
「ほらほら、はじまった」と彼女は青年の言葉をさえぎり、腰に両のこぶしをあてると、激しい目でにらんだ。「あなたはいかがわしい場所に出入りして、からだを台無しにしようっていうんでしょ。しまいには病院に行って死んじまう職人みたいにね。だめ、だめ、まず一身上《ひとしんしょう》つくりなさい。年金でもはいるような身分になったら遊びなさい。しょうがない道楽者ねえ。医者に払う金ができてから遊んでもおそくはないじゃないの」
ベットにまくしたてられ、磁気の焔にからだを射抜《いぬ》かれるかと思うばかりの激しい目つきににらまれて、ヴェンツェスラス・スタインボックは頭をうなだれた。彼らふたりのあいだがらについて、いちばん意地の悪い陰口をたたいていた人だって、ふたりのこういうやりとりを見れば、オリヴィエ夫婦が言いふらしている悪口が根も葉もないものであることを悟っただろう。彼らふたりの口調、身振り、視線など、ひとつとしてふたりの人の目にふれない生活が、純潔であることを示していないものはなかった。老嬢は、荒けずりではあるにせよ、ともかくほんとうの母性愛を発揮していた。青年は、まるで孝行息子のように、ベットの母親風の圧力に屈していた。こういうふたりの奇妙なあいだがらは、弱い性格にたいして――つまりスラヴ民族特有の優柔不断な性格にたいして、強い意志をもった人間がたえずはたらきかけた結果と思われた。スラヴ民族は、戦場で英雄的な勇敢さを発揮するが、日常の行動では信じがたいほど支離滅裂で、しかも精神的に無気力である。こうした無気力は生理学者の研究対象になっていいはずだ。そもそも、生理学者と政治との関係は、昆虫学者と農業との関係のようなものだからである。
「じゃあ、もしぼくが金持ちになる前に死んじまったら?」とヴェンツェスラスは憂うつそうにたずねた。
「死ぬですって?……」と老嬢がさけんだ。「あなたが死ぬのをわたしがだまって見ているものですか。わたしにはふたり分の元気があるのよ。いざとなれば、わたしの血をあなたのからだのなかに注ぎこんであげます」
激しくて素朴なこうしたさけびを聞くと、ヴェンツェスラスのまぶたは涙でぬれた。
「悲しそうにするのはおやめなさい、ヴェンツェスラスさん」と、リスベットは感動していった。「そうそう、いとこの娘のオルタンスね、あなたの作った印形のことをとても美しいっていってたわよ。さあ、あなたの青銅製の群像もちゃんと売ってあげるし、そうすれば、わたしにも義理をすませるというものよ。好きなこともできるし、自由になれるわ。さあ、少しは元気を出しなさい」
「あなたに義理をすますなんてことはとてもできません」と亡命青年はいった。
「なぜなの?」ヴォージュ生まれの百姓女は、彼女自身の利益とは反対に、リヴォニア人の肩をもってそうたずねた。
「なぜかって、ベットさんは、貧乏しているぼくに衣食住の世話をしてくれただけではなく、ぼくに力をあたえてくれたからです! 今日のぼくは、すべてあなたがつくり出してくれたものです。ベットさんは、よくぼくにつらいことを言い、ぼくをいじめたこともありますけれど……」
「わたしが? またあなたは、詩だの芸術だのといって、つまらないおしゃべりをはじめるの? 理想美だの何だの、北国の人たちは、ばかな話が好きなのねえ。そのうちにまた興奮してきて指を鳴らしたり、腕をひろげたりしはじめるにきまってるわ。美なんてものは、じょうぶなものにはかないませんよ。じょうぶなものとは、つまりこのわたしのこってすよ。あなたは、頭のなかにいろんな考えをもっているでしょうとも。けっこうなことよ。はばかりさま、わたしだってちゃんと考えはあるんですからね……でも、せっかく思ったことが心にあっても、それを実際に移さなきゃあ、何にもならないじゃないの。考えのある人だって、何にも実行しなけりゃ、考えのない人よりえらいなんていえやしない……夢みたいなことを考えないで、働くことよ。わたしの留守のあいだに、どれだけやったの?……」
「その美しい娘さんは何ていったんです?」
「美しい娘だなんて、だれが言いました?」とリスベットが語気も鋭くいったが、そこにはすさまじい嫉妬心が呻《うめ》いていた。
「だれがって、あなたが自分でそういいましたよ」
「そういえば、さぞうれしそうな顔をすると思って、ためしにいってみたんですよ。女の子の尻を追いまわしたいの。あなたは女好きなのね。そんなら、そんな気持ちは、銅像にでもとかしこんでとじこめてしまいなさいよ。ここしばらくは、お色気抜きでやらなくちゃいけないからよ。いとこの娘なんて、もってのほかだわ。あなたがいくら鼻をうごめかしても、あなたにつかまる獲物《えもの》じゃありません。あの娘には、六万フランの年金のあるような男が入用なんですからね……それももう見つかったのよ。おやおや、まだベッドの用意ができないのね」そう言いながら、彼女は隣の部屋をのぞきこんだ。「かわいそうにあなたをほったらかしにしてしまったわ」
そういうが早いか、元気のいいこの女は、外套や、帽子や、手袋を脱ぎすて、芸術家が寝るのに使っている、寄宿舎の寝台のような小さなベッドを、まるで下女のように手早く整頓した。リスベットが、この男にたいして、権力をもち、まるで自分のものでもあるかのようにできたのも、こんなふうなぶっきら棒で乱暴なやり方と、親切とのごっちゃになった行動を見れば納得がいく。人生は、その善悪がかわるがわるあらわれるからこそ、われわれをひきつけるのではなかろうか。
もしリヴォニアの亡命青年が、リスベット・フィッシェルに出会うかわりにマルネフ夫人にでも出会っていたなら、同じような庇護を受けることがあったとしても、かわいがられ、大事にされて、ついには自堕落な悪の道へとひきずりこまれていったのにちがいない。ヴェンツェスラスはむろん仕事に打ちこむこともなかったろうし、芸術家としての才能も開花しなかったろう。それで、老嬢の苛酷な貪欲をうらみながらも、理性的に考えてみると、同郷の仲間のあるものが送っているような、怠惰な生活にくらべたら、むしろ老嬢の鉄の腕のほうがましであると思わないわけにはゆかなかった。
ポーランドではよくあることだそうだが、強い女性と弱い男性との一種矛盾した結合が生まれるようになったことについては、そもそものはじめに、つぎに述べるような事件があった。
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一七 ある亡命者の物語
一八三三年のことである。そのころ、フィッシェル嬢は、仕事のたくさんあるときには、時として夜なべをすることがあったが、そんなある晩のこと、朝の一時ころ、炭酸ガスの強い臭気がして、今にも死にそうな男のうめき声を聞いた。炭酸ガスのにおいとうめき声は、彼女のアパルトマンになっている二間つづきの部屋の上の屋根裏部屋からもれてくるらしかった。最近、この家に引越して来た青年で、三年前から貸し間になっている屋根裏部屋を借りた男が、自殺しようとしているのだとベットは考えた。彼女はいそいで屋根裏部屋にかけあがると、ドアに金てこをあてがい、ロレーヌ女のばか力にものをいわせて扉をこじ開けた。
なかにはいってみると、間借りの男は、断末魔の痙攣《けいれん》をおこし、革帯の粗末なベットの上でもがいていた。ベットは、すぐにガス焜炉の栓をとめた。戸を開けると風がはいって来て亡命者は一命をとりとめた。それからリスベットは、彼を病人のようにベッドの上に寝かせた。そして彼が寝入ってしまったとき、ベットが、この二間つづきの屋根裏部屋を見まわしてみると、そこが、まったくのがらんどうであることに気づき、自殺の原因を了解した。粗末なテーブルと、二脚の椅子しかなかったのである。
テーブルの上には、つぎのような書置きが残されていた。
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小生は、リヴォニアのプレリーの生まれでヴェンツェスラス・スタインボック伯爵というものです。
小生の死に関して何人をも責めないでください。小生が死を選んだ理由は、コシウスコの Finis Poloniae!〔ポーランドは滅亡せり〕という言葉につきています。
カルル十二世の勇敢な将軍を大叔父にもつ小生は、貧しても乞食だけはしたくありませんでした。ひよわなからだなので、兵隊になることもできませんでした。そして、ドレスデンからパリまで持ってきた百ターレルも、いよいよきのうで使い果してしまいました。テーブルの引き出しのなかに、二十五フラン残しておきましたから、家主への間代の払いにあててください。
身寄りのものもありませんから、小生の死に関心をもつ人はだれもいないでしょう。同国人の方にもどうか、フランス政府を非難しないでいただきたいのです。亡命者として名乗り出たこともありませんし、何一つ要求したこともないのですから。他の亡命者に出会ったこともありませんし、小生がここにいることを知っているものは、パリには一人もおりません。
小生はキリスト教徒らしい気持ちで死んでゆきます。神よ、スタインボック家の最後の末裔《まつえい》をゆるし給《たま》わんことを。
ヴェンツェスラス
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フィッシェル嬢は、死ぬ間際になっても間代のことを忘れないこの男の正直さにひどく感心した。テーブルの引き出しを開けてみると、実際、五フランの金貨が五つはいっていた。
「かわいそうに!」と彼女はさけんだ。「しかも、この人を哀れと思う人さえだれもいないんだからねえ」
リスベットは、自分の部屋へおりてゆくと、やりかけの仕事をもって屋根裏部屋にもどった。リヴォニアの貴族の看病をしながら、仕事をするつもりだったのである。亡命者が目をさましたとき、枕もとに女がいるのを見てどんなにおどろいたかはいうまでもない。彼は夢のつづきではないかと思った。軍服用のモールを作りながら、ベットは、眠っているヴェンツェスラス青年の顔をつくづくとながめ、この気の毒な男を保護してやろうというつもりになっていた。青年伯爵がすっかり目をさましたとき、リスベットは彼をはげまし、暮しの道を立ててやるために、いろいろと問いただした。ヴェンツェスラスは、身の上話をしたあとで、自分が祖国にいるころ、学校教師をしていたのは、芸術家としての天分を認められたからであること、もともと自分は彫刻に向きそうな気がしていたことなどを語った。またさらにつけ加えて、しかしながら、それを研究するに必要な時間が、金もない自分にはいささか長すぎるように思われるし、目下のところ、こまかい手仕事をするにも、あるいは大きな彫刻に取りかかるにしても、どうやらからだがすっかり弱ってしまっているように思われると語った。こういう話は、リスベットにとってはちんぷんかんぷんで、いっこうに理解できなかった。ただ彼女は、パリには生活の道がいくらもあるのだから、働く気持ちさえあれば、生活できないはずはないと答えた。辛抱という元手さえあれば、勇気のある人は、パリで野たれ死にすることはけっしてないとも答えた。
「わたしなんぞ、どうということもない、ただの百姓女ですけれど、ちゃんとパリで一人だちして暮しているじゃありませんか」と彼女は最後にいった。「それじゃあ、こうしませんか。もしあなたがほんとうにまじめに働く意志があるならば、わたしにも多少のたくわえがありますから、毎月生活するのに必要な額だけお貸しすることにしましょう。でもそれは、生活のための必要最低限のお金で、道楽したり浮気をしたりするためのお金を貸すわけにはいきませんよ。パリでは、一日に二十五スーもあれば夕飯がたべられます。お昼はわたしのといっしょに、わたしが毎日つくってあげましょう。部屋に家具を入れ、あなたが必要だと思うなら、職業をおぼえるための勉強の費用も出してあげましょう。そのかわりわたしがあなたのために使うお金にたいしては、ちゃんとした証書をいれてください。そしてお金持ちになったら、みんな返してくださいな。でも、もし仕事をしないのだったら、こんな約束はなかったことにしてもらいますわ。そしてあなたのことは、もういっさい面倒をみませんから」
「ああ!」と不幸な男はさけんだ。はじめて抱きしめた死の苦しさがまだからだのなかに感じられた。「すべての国の亡命者が、フランスにくるのも道理です。それは煉獄にいる亡者の魂が、天国にあこがれるようなものです。いたるところに、こんなきたない屋根裏部屋にさえも、親身になってくれる心のひろい人がいるとは、なんという国なんでしょう。あなたはぼくにとってすべてです。親愛な恩人、ぼくはあなたの奴隷になります。ぼくの友だちになってください」と彼は、大げさに親愛の情を示しながらいった。こういう過度の愛情表現は、ポーランド人に固有なもので、そのために不当にも彼らは卑屈な国民だという汚名をきせられているのである。
「そりゃだめだわ。わたしはやきもちやきだから、あなたを不幸にしてしまうわ。でもあなたのお仲間ぐらいなら、喜んでなりますよ」とリスベットは答えた。
「ああ! パリのまん中にほっぽりだされてひとりぼっちでじたばたしていたとき、たとえ暴君でもいい、とにかくぼくに用があるといってくれる人がいたら、とどんなに激しく呼びさけんだことでしょう。国へ帰れば、皇帝は、ぼくをシベリヤに追放するでしょうが、そのシベリヤさえ、なつかしく思えたのです。……ぼくの運命の神になってください……きっと仕事をしますから、今だって悪い人間だというわけではありませんが、もっともっといい人間になってみせますから」
「わたしがしろということなら、何でもおやりになって?」とベットがたずねた。
「やりますとも」
「じゃあ、わたしの子供にしてあげるわ」と彼女はほがらかにいった。「棺桶のなかから出てきた子供といっしょ暮すってわけだわね。さあ、じゃあ、はじめましょう。わたし、ちょっと買物に行ってくるから、そのあいだに服を着てらっしゃい。天井を箒《ほうき》の柄でつついたら、ご飯をたべにおりてらっしゃいな」
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一八 大きすぎた獲もの
翌日、注文主の業者のところへ仕事をとどけに行ったフィッシェル嬢は、彫刻家とはどういうものかと、いろいろ問いあわせてみた。何やかやと人にきいたあげく、彼女はやっとのことで、フロランとシャノールのアトリエをさがしあてた。このアトリエでは、高価な青銅器や、贅沢な銀細工を鋳造したり、刻んだりしているのだった。彼女はそこに見習い彫刻師ということで、スタインボックを連れて行ったが、見習い彫刻師にしてくれといわれてもアトリエのほうでは不審に思うばかりだった。というのも、このアトリエは、高名な芸術家が作った原型にしたがって器《うつわ》や細工を製造する場所なので、彫刻を教えるところではなかったからである。しかし、老嬢はさんざんねばって頼みこんだあげく、ようようのことでスタインボックを装飾図案係として採用してもらった。スタインボックは、たちまちのうちに飾り彫りの型を描けるようになったし、新しい図案を考案するようにもなった。
天分とはさすがにおそろしいものだ。彫金の見習いを終わって五カ月もしたころ、スタインボックは、フロランの店の主だった彫刻家で名声の高いスティドマンと知り合いになった。二十カ月ののちには、ヴェンツェスラスは師のスティドマンをしのぐ腕前になってしまった。しかし、三十カ月ほど過ぎたころには、老嬢が十六年かかってこつこつためたたくわえがすっかりなくなってしまっていた。金貨にして二千五百万フランだ! リスベットが終身年金の元金にしようと思っていたお金である。それが何に化けたのか。得体の知れないポーランド人が書いた約束手形にである。そんな次第で、このころ、リスベットは、リヴォニア青年の出費にあてるために、若いころのように精を出して働いていた。
金貨が消えてなくなったかわりに、手もとに残ったのは一枚の紙きれだけという状態になったとき、逆上した彼女は、リヴェ氏のところに相談にいった。十五年このかたリヴェ氏は、彼の店のいちばんの古顔で、しかもいちばん腕の立つ職人であるリスベットの相談相手ともなれば、友人ともなっていたのである。事の次第を聞くと、リヴェ夫妻はリスベットを叱り、その非常識を責めた。亡命者一般を非難し、祖国再興のためとかなんとかいって、商業の繁栄を乱すような陰謀を企《くわだ》てるとはけしからん、なによりも大事なのは、平和だと述べたてた。それから、商売でいう担保をとるにかぎると老嬢をけしかけた。
「その男があんたに出せる担保といやあ、まあ自分の身柄ぐらいなものだろうね」そのとき、リヴェ氏はこんなふうにいったのだった。
アシル・リヴェ氏は、商事裁判所の判事だった。
「外国人にとっちゃ、それが冗談事じゃないのだな。フランス人なら五年も牢屋にいれば、借金を払わなくったって、娑婆《しゃば》に出てこれる。そのあと借金を返す返さないは、良心の問題で、どうということはない。ところが、外国人となると、ぜったいに牢屋からは出られん仕掛けになっている。わたしに、その約束手形をよこしなさい。まずあんたは、その約束手形をわたしの帳簿係にあてて振り出すのだ。すると帳簿係は、手形の不渡りということで、手形の支払い拒絶証書を作り、あんたとその男を起訴する。対審の形で、民事拘束の判決がおりる。なにもかも型どおりにすんだところで、帳簿係にあんたにたいする権利放棄の秘密証書を作らせるのさ。こうしておけば、利息はつくし、ポーランド人にたいしては、いつも弾丸《たま》のはいっているピストルをつきつけたも同然というわけだ」
老嬢はいわれたとおりの手続きをすませた。そしてスタインボックには、何も心配することはない、いくらかお金を貸してくれた高利貸のために、担保がわりにこんな手続きをしただけだと言い含めた。この口実も、機転の利く商事裁判所判事に教えてもらったものだった。純情な芸術家のヴェンツェスラスは、恩人だと思っていちずにベットに信頼をよせていたので、印紙のはってある書類が送られて来ても、パイプに火をつけるのにつかってしまった。なぜなら、必ず市民をまぎらわせようとする人や、ありあまる精力をもてあます人は、みんなやたらとたばこをふかすくせがあるからである。
ある日のこと、リヴェ氏は、フィッシェル嬢に一枚の書類を見せながらこういった。「ヴェンツェスラス・スタインボックは、がんじがらめに縛られたも同然で、もう完全にあんたのものだよ。二十四時間以内に、クリシーの牢屋にほうりこんで、一生そこに入れとくことだってできるんだからね」
商事裁判所のこの廉直で立派な判事は、その日ご満悦であった。彼が味わったのは、良くない善事をやってのけたという満足感であった。良くない善事とは妙な言い方だが、パリでは善行といってもいろいろな種類があるので、この表現は、その善行の一種類をうまく言いあらわしているのである。リヴォニア青年を、商事訴訟の綱でがんじがらめにしばりあげてしまうと、そのつぎには借金の支払いをさせる段どりになった。というのも、有力な商人リヴェ氏は、ヴェンツェスラス・スタインボックを一種の詐欺師だと思っていたからである。心情とか、誠実とか、詩とかいうのは、彼の目をもってすれば、商売上損になるものだった。
フィッシェル嬢は、リヴェ氏の言葉をかりていうと、ポーランド人にうまい|かも《ヽヽ》にされたのであった。で、リヴェ氏は、|かも《ヽヽ》られたフィッシェル嬢のためを思って、スタインボックがまえに働いていた銀細工の製造所に足をはこんだ。パリの金銀細工の名匠たちの助力をえて、フランス美術を今日のような完成に導き、フィレンツェやルネサンス期の芸術と覇《は》をきそって遜色のないまでにしたのは、スティドマンであるが、そのスティドマンは、金モール商のリヴェ氏がシャノールの事務所を訪れたとき、たまたまそこにいあわせた。リヴェ氏は、ポーランド人の亡命者で、スタインボックとかいう男について問い合わせようと、そこにやって来たのである。
「あなたはだれのことを指して、スタインボックとかいう男などといっているのですか」と、スティドマンは、冷やかし半分に大きな声でいった。「ひょっとしたら、それは、まえわたしの弟子だったリヴォニアの青年のことではないですかな。とすれば、申しあげますがね、その人物は偉大な芸術家ですよ。世間の評判じゃ、わたしは自分を悪魔だと思いこんでいるんだそうですがね、あの男は、自分じゃいっこうに知らないが、神さまにだってなれる人間ですよ……」
「なるほど。それにしても、セーヌ県裁判所判事なる光栄を有するものにむかって、あなたの言葉づかいはちと荒っぽい……」
「いや、これは失礼!」と言いながら、スティドマンは、手の甲を額にあてて挙手の礼をした。
「しかし、ただ今のお話をうかがってすこぶる満足です。するとなんですな、その青年は将来、金をもうけることができるのですな……」
「むろんです」とシャノール老人がいった。「ただし、それには働くことが肝心です。彼がずっとわたしどものところにいたなら、今ごろはすでに相当の金を残しているんですがね。いやどうもいたしかたのないことで、なにしろ芸術家はしばられるのが大嫌いなもので」
「芸術家は、自分の価値というもの、自己の品位というものを知っているからね」とスティドマンが答えた。「ヴェンツェスラスが、独立独歩、一本立ちで名をなそうとし、偉大な人間たらんとしていることを、ぼくは責めたくないね。それは彼の権利だもの! しかし、彼に去られて、ぼくの失ったものは大きいよ」
「それそれ」とリヴェがさけんだ。「大学を出たての若僧のうぬぼれというやつですわ……いや、それよりも、まずだいいちに、年金でもはいるように金をためること、名誉は、そのあとにすることですな」
「金もうけをすると腕がにぶるんでね」とスティドマンが答えた。「金を持って来るのは、名誉の役目だよ」
「いたしかたありますまい?」とシャノールがリヴェにいった。「芸術家をしばっておくことはできませんので」
「しばっても、その綱をたべちまうからね」スティドマンが応じた。
「あの方がたは」とシャノールがスティドマンの顔を見ながらいった。「才能があればあるほど、気まぐれなものでして。金づかいの荒いこと。女ができる、金は湯水のように使う、仕事をする時間がなくなる。すると注文をほったらかす。仕方がないから、わたしどもは、職人に仕事をたのむのです。職人は、腕じゃ芸術家におよびもつかないが、しかしけっこう、金を残すんですよ。そうすると、芸術家たちは、時世が悪いという。その実、働いてさえいりゃ、彼らだって山ほどお金をためられたはずなんですのにねえ」
「リュミニョンじいさん、きみの話を聞いていると、大革命の前にいたとかいう本屋の話を思い出すね」とスティドマンがいった。「その本屋はこういったんだそうだ。『モンテスキューだの、ヴォルテールだの、ルソーだのてえ、ろくでもないやつらを屋根裏部屋にとじこめちゃって、先生たちのズボンをたんすに蔵《しま》いこんでしまったら、先生たちは、俺のために、いい本をさぞかしいっぱい書いてくれるこったろうに。そうすりゃあ、俺はしこたま金もうけができるってえわけだ!』りっぱな作品が釘でも作るようにどしどしできるものなら、いくらでも商売人が作って目方で卸してくれるさ……ぼくに千フランよこしたまえ、そして、もうつべこべ言いなさんな」
好人物のリヴェは、フィッシェル嬢のためにすっかり喜んで家に帰った。フィッシェル嬢は、毎週月曜日にリヴェのところで夕食をとる習慣で、その日も彼の家に来ることになっていた。
「もしあんたが、彼をしっかり働かすことができればだね」とリヴェがいった。「あんたは、利口ものだということになるし、おまけに幸福にもなれるよ。元手はすっかりもどってくるうえに、利息と訴訟費用まで返ってくるからね。あのポーランド人は、才能があって一人前の稼ぎのできる男だよ。だが、あの男のズボンと靴はしまってしまうことだね。ショミエールやノートル・ダム・ド・ロレットなんかの遊び場所に行かれないように、首に縄でもつけてしばっておくんだね。そうでもして用心しないと、あの彫刻家は、ふらふら遊びだすから。芸術家のふらふら遊びときたら、まったくひどいもんだからねえ、千フラン札が一日で消えてなくなるんだとさ」
右に述べたような挿話は、ヴェンツェスラスとリヴェの私生活上におそるべき影響を与えた。リスベットは、自分の資本金がどうやら無駄になりそうだと思ったときなど、亡命者ヴェンツェスラスのパンを、叱責の苦いアブサン酒のなかにひたした。しかも、彼女が、自分の資本金はふいになったと思ったことは、いちどや二度ではなかった。善良な母親が、継母となり、あわれな子を叱りつけた。彼をいためつけ、働きかたがのろいといっては非難し、わざわざ難しい職業を選んだといってはなじった。リスベットは、赤蝋《あかろう》の原型や、小像や、飾り彫りの下書きや、試作などが、金になろうとは信ずることができなかった。けれども、すぐそのあとでは自分の苛酷な仕打ちに気がとがめて、やさしく世話をしたり、気をつかったりして、つらくあたった跡を消そうとするのであった。
青年は、メジェールのような悪女の尻の下にしかれ、ヴォージュの百姓女に首根っこをつかまれてぎゅうぎゅういわされたあとで、やさしくあつかわれたり、生活の、ただ物質面に関することだけではあったが、母親のような親切さを見せられたりすると、すっかりうれしくなってしまうのであった。つまり、彼は、はかない一時の仲なおりのために一週間の虐待を許してしまう女みたいなものであった。こうしてフィッシェル嬢は、青年の心を思うがままに支配するようになった。老嬢の心のなかで、ほんの芽のままに押えられていた支配欲が、みるみるうちに大きくなってしまった。彼女は自分の自尊心と活動欲を満たすことができた。ひとりの人間を自分のものにしているではないか。その人間を、叱ることもできれば、指導したり、機嫌をとったり、幸福にしたりすることもできるではないか。しかも競争者の出てくるのを心配する必要もない。
リスベットの性格の善悪の両面が、同じようにあらわれてきた。ときとして、あわれな芸術家を虐待するかと思えば、野の花の美しさもしのばせるやさしい振舞いに出るのだった。彼が、これといって不自由なく暮しているのを見て心から喜んだ。彼のためなら命も投げだしたろうし、ヴェンツェスラスもそのことをよく知っていた。美しい魂をもった人ならだれしもそうであるように、青年はこの女の性格の悪いところや、欠点を忘れてしまった。彼女は、それに、自分の無骨な性格の弁解のつもりで、自分の半生を青年に語って聞かせた。こうして、ヴェンツェスラスは、ただ彼女から受けた恩だけをおぼえていた。ある日のこと、老嬢は、ヴェンツェスラスが仕事をしないでぶらぶらしに外に遊びに行ってしまったといって腹を立て、かっとなってくってかかった。
「あなたは、わたしのものなんですよ」とリスベットはいった。「もしあなたがまっとうな人間なら、わたしにたいする借金を一日も早く返そうと努力するのがあたりまえじゃありませんか……」
名門、スタインボック家の血がにわかによみがえってきて、彼は顔面蒼白となった。
「ああ、困ったわ」とベットがいった。「もうじき、わたしたちは、このあわれなわたしが稼ぎだす三十スーで暮すよりほかなくなってしまうんですよ……」
ふたりの貧乏人は、激しい言葉のやりとりをしているうちに、だんだんおたがいに気色ばんできた。芸術家は、彼の恩人にむかって命を救ってくれたことをはじめて非難した。死の虚無よりももっと苦しい徒刑囚の生活をするくらいなら死んでいたほうがましだった、死には少なくとも休息があるのだから、と彼はいった。そして逃げ出してしまうともいった。
「逃げるんですって……」と老嬢はさけんだ。「やっぱり、リヴェさんのいったとおりだったわ!」
それから、彼女は、ポーランド人にむかって、二十四時間以内に彼を牢におしこめることもできれば、一生そこにとじこめておくことだってできるのだという次第を、歯に衣《きぬ》を着せずに説明した。それは棍棒《こんぼう》の一撃であった。スタインボックは、暗澹《あんたん》たる憂鬱《ゆううつ》にとらえられ、すっかりだまりこんでしまった。その翌日の夜のこと、リスベットは自殺の用意をしているらしい物音を聞きつけ、居候青年の部屋にあがってゆくと、書類と正規の受領証をさし出した。
「これを取ってください。そしてかんにんしてくださいね」そういって、彼女は目をうるませた。「わたしと別れて幸福になってちょうだい。わたしはあなたをあんまりいじめすぎるわ。でも、とにかく自分でたべていけるまでにしてあげたかわいそうな女のことを、ときどきは思いだしてくださいな。でもどうしようもなかったの。わたしが意地悪なことをしたのも、あなたのせいなのよ。だって、わたしが死んだら、そのあと、あなたはどうなると思って……あれほどいらいらして、あなたが早く売れるものを作るようにと、じれたのもそのためなの。わたしのお金を返してくれとはいわないわ。それはかまわないのよ。あなたの夢想とかいう、だらだらの怠けぐせが、わたしにはこわいの。あなたが、ものを考えているあいだ、空なんかながめて、何時間でも時間を無駄にするでしょう、それがおそろしいの。わたしは、あなたに仕事をするくせをつけてもらいたいと思ったのよ」
それは、心の気高い芸術家の胸をつかずにはおかないような、口調であり、目つきであり、涙ながらの、真心のこもった態度であった。彼は恩人のからだを抱くと、胸におしつけ、額に接吻した。
「この書きつけはもっていてください」と、彼は一種ほがらかな調子をこめていった。「ぼくをクリシーなんかに送る必要はないんですよ。だって、ぼくは感謝の気持ちだけで、ここからもう動けないでいるんですから」
彼らのひそかな共同生活の生んだこんな挿話は、いまから六カ月ほどまえのことだが、これがきっかけで、ヴェンツェスラスは三つの仕事をした。一つは、オルタンスが持っている印形、一つは例の骨董《こっとう》屋に置いてある群像、そしていま一つは、いま仕上げにかかっているすばらしい振子時計で、原型の最後のねじをしめつけているところであった。
この振子時計は十二の「時」をあらわしていた。「時」は十二の女人像でかたどられていたが、彼女らが手をつないで、狂ったように踊っている舞踏は、あまりにも急速なので、花と果実の山の上によじのぼっている三人のキューピッドも、ただ、「深夜の時」の女人像をひとりようやく引きとめている格好だった。彼女のマントは引きさけて、三人のうちでもっとも大胆なキューピッドの手に握られていた。このような趣向の彫刻が、見事な飾りつけのある円形の台座にのっていた。台座には、数頭の怪獣の狂奔するさまがほりこまれていた。そのうちの一頭の口が大きくかっと開かれると、そこに時刻が示されるという仕掛けになっていた。各々の時刻は、たくみに考案された象徴によって形どられていたが、これらの象徴は、いずれも人々の日常のいとなみをあらわすものであった。
以上、おおよそ述べたところによって、フィッシェル嬢が、リヴォニア青年にたいして抱くようになった異常な執着が、そもそもどんな性質のものか理解されることだろう。彼女は、青年の幸福を願ったのに、彼が、屋根裏部屋にとじこめられて、日ごとにやせおとろえ、力を失ってゆくのを見すごしていた。こうしたおそろしい事態がなぜ生じたのかは、いわずもがなであろう。ロレーヌの百姓娘は、母親のような情愛で、この北国の青年にたいするとともに、女の嫉妬心と、竜のようなきびしい精神で、彼を監視していたのであった。そして、青年をいつも一文なしの状態にしておいて、どんな気ばらしも、どんな放蕩もできないようにしておいたのである。自分の犠牲者を、自分だけの伴侶としていつまでもとっておきたいとのぞんだからだが、しかし、青年は今こそ無理やりにおとなしくさせられているものの、ベットの願望が、野望きわまる理不尽なものであることが、彼女にはわからなかった。というのも、彼女自身は、これまであらゆる艱難辛苦《かんなんしんく》にたえてきたからである。ベットは、スタインボックの女房におさまろうなどという気はおこさないほど、彼を愛していた。しかし、青年を他の女に譲ろうとするには、やはり愛しすぎていた。ただ母親としての役割に甘んじることもできなければ、それ以外のものとして自分を考えることは、気違い沙汰だと思わないわけにはゆかなかった。
こうした矛盾や残忍な嫉妬心や、自分だけのためにひとりの男を所有するという幸福などが、どれもがこの女の心をひどくかきみだしていた。四年来、心《しん》から惚《ほ》れ切っている彼女は、それ自体、無理な、そして出口のない、こんな生活をいつまでもつづけてゆきたいものと、むちゃな望みを抱いていたのだった。だが、こんな望みをいつまでも捨てないでいれば、彼女がわが子とよぶ青年の身をやがては破滅させる結果になることは必定だった。本能と理性とのこうした戦いは、彼女を不当で暴君的な女に仕立ててしまった。自分が若くも、美しくもなく、金持ちでもないといううらみを、この青年の上にはらそうとした。そして、うらみをはらしたあとでは、彼女は自分で自分の不正に気づき、下手《したで》に出て、限りない情愛を注ぐのだった。自分の偶像に斧をふるって、そこに自分の力のしるしを刻みつけたあとでないと、その偶像に捧げものをする気になれないのであった。要するに、これは、シェイクスピアの『あらし』の物語を逆にしたようなもので、キャリバン〔魔法の心得のあるプロスペロに呼び出される醜悪な怪物。エアリエルは精霊〕がエアリエル、それにプロスペロの主人になってしまったのである。
高邁《こうまい》な魂をもちながらも、瞑想《めいそう》的で、ともすれば怠りがちなこの不幸な青年のほうは、パリの動植物園につながれたライオンのように、目に砂漠のように索漠《さくばく》とした表情を浮かべていた。そして、この砂漠こそは、彼の保護者が、青年の心のなかにつくり出したものだったのだ。リスベットが要求する強制労働も、彼の心の欲求を満たしてはくれなかった。憂鬱はやがて肉体の病《やまい》となり、しばしば必要かくべからざるものである放蕩のための金を、ねだることも、自分で稼ぎだすこともできないままに、青年は憔悴《しょうすい》していった。日によって活力のみなぎったときなど、自分の不運を思う気持ちから激しい怒りにあおられて、喉のかわいた旅人が、草も木もない海岸をたどりながら塩からい海の水をながめるときはかくやと思われるような目つきで、リスベットの顔をしげしげと見つめるのであった。
貧困と、パリでの蟄居《ちっきょ》から生まれた酸《す》っぱい果実を、リスベットは喜んで味わっていた。どんなものであれ、奴隷の胸にちょっとでも恋心がきざせば、たちまち彼女のもとから逃げ出すにちがいないと思うと、ベットはおそろしくてたまらなかった。この詩人を押えつけたり、叱ったりして、小さな装飾品を彫る大彫刻家に仕立てようとしたのはいいが、それによって生活の道をおぼえこませ、結局、ベットなしでも生活できるように仕向けたのはまずかったと、彼女はよく後悔するのであった。
さてその翌日、三人三様にみじめな三人の生活、つまり絶望の淵に沈む母親と、マルネフ夫婦と、亡命青年の三人の生活は、いずれもオルタンスの素朴な恋と、ユロ男爵のジョゼファにたいする不幸な恋の奇妙な結末によって重大な影響をこうむることになった。
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一九 不倫の恋の終わるとき
参事院議員のユロ男爵は、オペラ座にはいろうとして、ルペルチエ通りのこの芸術の殿堂がいささか暗いことに気がついた。いつもとちがって、警官の姿もなければ、あかりもともっていない。劇場の係員も出ていないし、群集をせきとめるための柵も見あたらない。男爵はあらためておもてにはり出されているプログラムを見ると、そこにはつぎのような決定的な言葉が白い紙に書いて貼《は》り出されていた。
出演者の病気のため休場
男爵は、さっそく、ジョゼファのもとに飛んでいった。オペラ座専属の俳優は座の近所に住んでいるものが多く、ジョゼファもショーシャ通りに住んでいた。
「もしもし、ご用はなんですか」と、門番に呼びとめられて、男爵はびっくりしてしまった。
「俺にもう見おぼえがないというのかね」と男爵は不安げにたずねた。
「とんでもございません。おぼえているからこそ、『どちらへ』とおたずねしてるんで」
ぞっとする悪寒が、男爵の背筋を走った。
「いったい、どうしたんだね」
「閣下。ミラーさんのアパルトマンにおいでになればわかりますが、エロイーズ・ブリズトゥーさん、ビクシウさん、レオン・ド・ロラさん、ルストーさん、ヴェルニセさん、スティドマンさん、そのほか派手に着かざった婦人がたがお集まりになって、引越し祝いをしているところですがね……」
「そうか、それじゃどこへ引越したのかね、その……」
「ミラーさんですか。それを申しあげていいものかどうか、手前にはわかりかねます」
男爵は、五フラン銀貨を二枚、門番の手に握らせた。
「いやどうも、ミラーさんは、ヴィル・レベック通りに引越しましたよ。なんでも人の噂じゃ、デルーヴィル公爵が買っておやりになったお邸《やしき》だそうで」と門番は声を低めていった。
邸の番地を聞くと、男爵は四輪馬車に乗り、門が二重になっている真新しい立派な邸宅の前まで来た。門柱のガス燈からして、すでにその贅沢さがわかるような家だった。
青いらしゃの上着、白ネクタイ、白チョッキ、南京《ナンキン》木綿の黄色いズボン、エナメル塗りの靴、糊でかたい胸飾り、こういう服装をしたユロ男爵は、この新しい楽園の門番の目には、遅れてやって来た招待客のように見えた。男爵の堂々たる風采、足の運び方などからして、そう思ったのも無理はなかった。
門番が鐘をならしたので、従僕が柱廊にあらわれた。男爵が、「この名刺をジョゼファさんに渡してくれたまえ」といかめしい身振りをまじえて従僕にいうと、邸同様に新しい従僕は、男爵をなかへ招じ入れた。
女好きの男爵は、招じ入れられた部屋を機械的に見まわした。それは応接間だったが、めずらしい花がいっぱい飾られ、家具だけでも四千エキュはくだるまいと思われた。召使いはもどってくると、食事が終わってコーヒーになるまで、客間でお待ち願いたいということだった。
男爵は、帝政時代の奢侈《しゃし》を知っていた。帝政時代の栄華は、長つづきこそしなかったけれども、きわめて豪勢なもので、しかもばかばかしいほどの多額の費用がかかったものばかりだった。男爵の目はそういうわけで、贅《ぜい》をつくした美しいものになれていたのではあるが、それにもかかわらず、この客間を見て、幻惑され、たまげないわけにはゆかなかった。客間には窓が三つあって、いずれも庭に向って開かれていたが、それは妖精物語にでも出てきそうな庭園であった。土をよそから運んで来、草花もよそから植えかえて一カ月でつくりあげられた庭で、芝生はまるで化学薬品か何かを利用してこしらえあげられたような感じだった。男爵は、凝《こ》った金の飾りや、いわゆるポンパドゥール風の高価な彫刻や、すばらしい織物に感心した。しかし、そんなものはそのへんの食料品屋のおやじでも買えないことはないし、金貨を山と積みさえすれば手にはいるような品物だった。男爵が、それ以上に感嘆したもの、そして王侯貴族だけが選んだり、見つけたり、買ったり、見せたりできるもの、それはつぎのようなものだった。つまり、グルーズとリトーの絵が二枚ずつ、ヴァン・ダイクの肖像画が二枚、ルイスダールの風景画が二枚、グァスプレが二枚、レンブラント、ホルバイン、ムリリョ、ティチアーノがそれぞれ一枚ずつ、テニールス、メトジュが二枚ずつ、ヴァン・ホイスムとアブラハム・ミニョンが一枚ずつなどで、要するにすばらしい額ぶちにおさめられた二十万フラン相当の絵であった。しかもその額ぶちが、絵とほぼおなじくらいのものばかりだった。
「ちょいと、ぼんくらじいさん、これでわかったでしょ」とジョゼファがいった。
音もなく部屋の扉を開けると、ペルシャ絨毯の上をそっと爪先《つまさき》ではいってきたジョゼファは、彼女の崇拝者がぼう然としているところを不意にとらえたのだった。男爵は、ぼう然自失のあまり、耳ががんがんし、聞えるものといえば、ただわが身の破綻を告げる弔鐘《ちょうしょう》だけだった。
「ぼんくらじいさん」といわれて、男爵はその場に釘づけになってしまった。ユロ男爵のように政府の要職にある人をつかまえて、「ぼんくらじいさん」と呼んでのけるジョゼファのやり口を見れば、この種の女が、どんなに大胆不敵に高位高官の人士まで足下にふみにじるものであるか、理解されるというものだ。今宵《こよい》の夜会のために、白と黄色の衣装で美しく着飾ったジョゼファは、あたかも稀有《けう》な宝石のように、常識をこえたこの部屋の贅沢さのなかでも、なおかつ光り輝いて見えた。
「なかなかみごとなもんでしょ」とジョゼファがまたいった。「公爵は、関係していた合資会社の株が高く売れたので、そのもうけをみんなここにつぎこんだのよ。あれで、わたしの公爵もばかじゃないのね。石灰を金《きん》にかえることができるのは、昔ながらのお大名だけだわ。晩餐のまえに、邸の取得証書を公証人が持って来たし、それは代金の受領証も兼ねていたわよ。今、あちらにはえらいお殿さま方がみなさんお集まりよ。デグリニョン、ラスティニャック、マクシム、ルノンクール、ヴェルヌーユ、ラジンスキー、コシュフィド、ラ・パルフェリース、それに銀行家のヌチンゲン、デュ・ティエ、それから、アントニア、マラカ、カラビーヌ、ラ・ションツといった方々。みなさん、あなたの不幸には同情してらっしゃるわ。そうね、おじいさん、あなたもあちらへいらっしゃいな。ただ、みなさんもう陽気になってるから調子を合わせるために、ハンガリー・ワインとシャンパンとケープ酒を二本分すぐに飲まなきゃだめよ。わたしたちここであんまりはしゃぎすぎちゃったもんだから、オペラ座のほうは、休演にしちゃったの。舞台監督なぞ、もうぐでんぐでんで、大声をはりあげているわ」
「おお、ジョゼファ!」と男爵がさけんだ。
「ばからしい講釈なんかしないでよ」と彼女はにっこり笑いながらいった。「邸と家具の代金、六十万フラン分の価値があなたにあるっていうの? わたしに三万フランの年金証書を持ってくることができて? 公爵はその証書をボンボン入れに使う白い紙袋にいれて、わたしにくれたわ。……なかなかしゃれた思いつきじゃなくて?」
「なんといういやしさだ!」と参事院議員はさけんだが、彼はいまや憤怒のあまり、二十四時間だけ、デルーヴィル公爵のかわりをすることができるなら、妻のダイヤモンドさえ投げ出しかねなかった。
「いやしいのがわたしの商売よ」とジョゼファが答えた。「やれやれ、それがあなたの考え方なのよ。どうしてあなたも合資会社をはじめなかったの? でもねえ、わたしの染毛猫《そめげねこ》さん、あなたはわたしにお礼をいってもいいのよ。あなたがわたしといっしょに、奥さんの老後のお金や、お嬢さんの持参金をたべてしまおうというときに、わたしのほうで別れてあげようっていうんだから、おまけに……おや、泣いているのね。帝政時代も遠くなりにけりだわ。帝政よ、さようならってとこかしら」
彼女は、悲劇役者よろしく、ポーズをとると、
「人、汝をばユロと呼ぶか。されどわれ、御身を知らず……」〔コルネーユの詩句をもじったもの〕
そういうとなかへひっこんでしまった。
なかばあいた扉から、一閃《いっせん》の稲妻のように、光がもれているのが見え、高まってゆく饗宴のざわめきと、贅沢な宴会の香気がただよって来た。
歌姫はまたもどって来て、扉を半開きにして様子をうかがったが、ユロがまるで銅像のようにそこに立ったままでいるのを見ると、一歩前に出てまた姿をあらわした。
「もしもし、ショーシャ通りのあばら家は、ビクシウさんの愛人のエロイーズ・ブリズトゥーさんにお譲りしましたよ。あなたの枕帽子と、長靴鉤《ながぐつかぎ》と帯と、チックがご入用でしたら、ちゃんとあなたにお返しするように頼んでありますからね」
このおそるべき嘲弄《ちょうろう》は、あたかもロト〔旧約聖書、創世記十九章〕が、ゴモラの邸を出なければならなかったように、男爵を邸から出させた。そして、ロトの妻とはちがって、後を振り返って見ようともしなかった。
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二〇 去る女《ひと》あれば、来たる女あり
ユロは、憤懣《ふんまん》やるかたなく、ひとりでぶつぶつ言いながら、家に帰ったが、もどってみると、家族のものたちは、出がけにそのはじまるところを見たワン・カードにつき二スーのウィスト遊びを静かにやっているところだった。夫の顔を見たアドリーヌは、何かおそろしい身の破滅か、不名誉な事件でも起きたのではないかと思った。アドリーヌは、トランプのカードをオルタンスに渡すと、ユロを例の小さな客間に引っぱっていった。五時間ほどまえ、クルヴェルが、彼女に、もっとも恥ずべき貧困の悲惨を予言した、そのおなじ部屋である。
「あなた、どうなさったの?」と不安にかられながらたずねた。
「いや、わしを許してくれ。だが、まあ聞いてくれ、実にけがらわしい話なんだ」
ユロは、十分間にわたって彼の怒りを吐き出した。
「だって、あなた」とあわれな妻は雄々しく答えた。「そういう女たちは、愛情なんてものを知らないんですよ。あなたは清らかで、献身的な愛を受けるのにふさわしい人ですのに。あなたほどそう明な方が、どうして何百万ものお金と競争して勝てるなんてお思いになったのかしら?」
「かわいいアドリーヌ!」と男爵は、妻を抱くと、胸の上に押しつけていった。
夫人は、傷つけられて血をふき出した自尊心の上に、香油を塗ってやったのである。
「もしもデルーヴィル公爵に財産がなかったら、むろんあの女はわしのほうを選ぶにきまっているんだ」と男爵がいった。
「ねえ、あなた」とアドリーヌは最後の勇気をふりしぼっていった。「もしどうしてもあなたに女が必要だったら、どうしてクルヴェルさんのように、安あがりな女を選ばないんです? 少しのお手当てで、長いこと幸福でいられるような身分の女をどうして選ばないんです? そうすれば、みんなが助かるじゃありませんか。あなたには女の人がいるということは、わたしにもわからないでもありませんけれど、どうしてあなたがそんなに見栄を張るのか、ちっとも納得がゆきませんわ」
「まったくおまえは、何て気のやさしい立派な女だろう。わしは老いぼれの気違いじじいだ。おまえのような天使のような女性を妻とする資格はない」
「わたしは、わたしのナポレオンのジョゼフィーヌなのよ」と夫人は、一抹《いちまつ》の憂愁に表情をかげらせていった。
「おまえはジョゼフィーヌ以上に立派な女だよ」と男爵はいった。「兄貴や子供たちとウィストでもやってこようか。父親としてのつとめをはたし、オルタンスも嫁にやらなくてはいかん。遊び人根性とはきっぱりと縁を切らなくてはな……」
アドリーヌは、こうしたやさしい言葉を聞いて、しんみりとしてしまった。「エクトルみたいないい人を捨てて、ほかの男のものになるなんて、あの女も男を見る目がないわ。わたしだったら、この世のお金を全部積まれたってあなたをあきらめる気にはなれないわ。あなたに愛される幸福を思えば、捨てることなんてとてもできないはずですもの……」
男爵は、夫人の思いつめた愛情に感謝のまなざしを返したが、妻はそれを見て、優しい情愛を柔順な態度以上に強い、女の武器はない、とつくづく思うのだった。ところがその点について、夫人は思いちがいをしていた。高潔な感情も極端になると、最大の悪徳と同じ結果を生むものだ。ボナパルトは、民家に霰弾をあびせかけたおかげで、ナポレオン皇帝になれた。ところがナポレオンが、こうやって出世のいと口をつかんだ場所のすぐそばで、ルイ十六世は、ソースなにがしという男の一命を重んじたばかりに、王国を失い、首を刎《は》ねられてしまったのだ……。
その翌日のこと、眠っているあいだも印章を手離したくない一心で枕の下にいれて一夜をあかしたオルタンスは、朝早く起きると服を着がえ、お目ざめになったら庭にきてくれるようにと、父への伝言を女中に言いつけた。
九時半ころ、父親は娘にせがまれるまま、娘の腕をとりながらセーヌ河岸を散歩した。ロワイヤル橋を通ってカルーゼル広場に出た。
「ぶらぶら、散歩しているふうに見せかけましょうよ、ね、お父さま」ルーヴル宮の通用門を通って、そのだだっぴろい広場に出たときオルタンスがいった。
「こんな場所をかい?」と父親は茶化し半分にいった。
「博物館に行くんだってことにすればいいじゃないの。それからあそこのね」と言いながらオルタンスは、ドワイエネ通りに直角にまじわっている家々の壁を指さしながらいった。その壁にもたれて掘立小屋がいくつも立っている。「ね、あそこに骨董品や、絵を売っている店があるのよ……」
「ベットはあのへんに住んでいるんだよ……」
「知ってるわ。でもベットさんに見つからないようにしましょう」
「いったい、おまえはどうしようっていうんだね」と、男爵は、マルネフ夫人の家の窓のところからおよそ三十歩ばかりのところに来たとき、突然マルネフ夫人のことを思い出しながらいった。
オルタンスは、父親をとある商店のまえまで引っぱって来た。それはルーヴル宮旧館の回廊に沿ってナント館に面しているひとかたまりの家のひとつで、通りの角にあたる店だった。オルタンスは、父親をおもてに残したまま店のなかにはいった。父親のほうは、前日、彼の老いたる色男の目のうちに、その容姿を焼きつけたかわいらしい若奥さんの家の窓をしきりにながめていた。彼がたまたまあんな美女に出会ったというのも、その晩、男爵が受けねばならなかった心の傷をあらかじめしずめておいてやろうという天の配剤かもしれぬ。してみれば、男爵が、妻の忠告を実行に移す気になったのも当然かもしれない。
「堅気の町女房でも口説いてみるか」と彼はマルネフ夫人のかわいらしい姿を思い浮かべながら考えた。「あの女なら、がめついジョゼファのことなぞすぐに忘れさせてくれるだろうて」
さて、つぎに述べるのは、例の骨董店のおもてとなかで同時に起きた事件である。
男爵は、ついきのうから思いそめたばかりの住人の家の窓をしきりにながめているうちに、ふとその夫を見かけた。亭主は、自分の上衣にブラシをかけながら見張っていたので、広場にだれかが来るのを待ちかねているようだった。色好みの男爵は、見つかってはまずいと思ったので――あとではじっさい見つかったのだが――ドワイエネ通りのほうには背を向けた。しかし、ときどき横目で様子をうかがうために、こころもちからだをドワイエネ通りのほうに向けてはいたのである。ところが、こうしてからだの向きをかえたとたん、男爵は、ほとんど真正面からマルネフ夫人と顔を合わせてしまった。セーヌの河岸のほうからやってきたマルネフ夫人は、広場につき出ている家並みの一角をまわってこれから自分の家へ帰るところだった。ヴァレリーは、男爵のおどろいたような目つきに出会って、一瞬、はっとしたようだったが、いかにも堅気の若奥さまらしい流し目を男爵にくれた。
「美しい女《ひと》だ。こういう女《ひと》のためなら、男もずい分のぼせて無分別なこともするだろう」と男爵はさけんだ。
「まあ!」と、何かを思い切ったかのように、マルネフ夫人は振り返りながら答えた。「もしかあなたはユロ男爵さまではございませんか」
いよいよおどろきの意を深くした男爵は、いかにもそのとおりだという身振りをしてみせた。
「そうでございましたか。たまたまわたしは二度もお目にかかり、しあわせにもあなたさまのお目にとまったのですから、思いきって申しあげますけれど、無分別なことをなさるくらいなら善行を積んでくださいませ……夫の運命もあなたさま次第なのでございます」
「とおっしゃいますと?」と男爵はいかにも色男らしくたずねた。
「夫は陸軍省で、ユロ男爵さまの局で働いている官吏でございます。ルブランさまの部の、コケさまの課でございます」と彼女はかすかに笑いながらいった。
「ご便宜をおはからいしないでもありませんが、それにしてもマダム……マダム……」
「マルネフと申します」
「美しいマルネフの奥さん、……あなたのきれいな目を見ていると、とても人妻とは思えませんが、……わたしのいとこがあなたと同じ建物に住んでおりましてね。ちかぢか会いに行くことになっていますが、そのおりにでも何かお話があればうかがうことにいたしましょうか」
「あつかましいお願いをお許しくださいませ。でも、だれひとりたよりにするものもない身の上ですと申しあげれば、わかっていただけると存じます」
「なるほど」
「まあ! 誤解しないでくださいませ」と言いながらマルネフ夫人は目を伏せた。ぴしゃりと一本やられた男爵は、一瞬あたりがまっ暗になったような気がした。
「わたしは途方にはくれておりましても、でもまじめな女でございます」と彼女がいった。「半年ほど前に、わたしのただひとりの保護者だったモンコルネ元帥も、世を去ってしまいました」
「ああ、あなたは元帥のお嬢さんでしたか」
「そうですわ。でも元帥はとうとう認知してくれませんでした」
「財産の一部をわけてさしあげられるようにというご配慮からでしょうな」
「でも、何ひとつ残してはくれませんでしたの。それというのも遺書が見つかりませんで」
「それはお気の毒に。元帥は卒中にやられて、急におなくなりになったんでしたっけねえ……まあ、しかし気を落さないでください。ナポレオン帝政のバイヤール騎士〔勇猛と清廉をもって知られる十六世紀の騎士で、シャルル八世、ルイ十二世、フランソワ一世に仕えた〕の娘ごをほったらかしにしておくことはできませんからね」
マルネフ夫人はしとやかに会釈をして、立ち去った。うまくいったと内心ほくそ笑んでいたが、それは男爵とても同じように得意な気持ちだった。
「こんなに朝早く、いったいどこへ行った帰りだろう?」と男爵は、マルネフ夫人のドレスが、波打ってゆれながら去って行くのをしげしげと見ながら考えたが、夫人はもしかしたらことさらなまめかしい足どりで着物をゆすぶっていたのかもしれない。「朝風呂の帰りにしては、いかにも疲れたような顔をしていたし、亭主が家で待っているというのもおかしい。どうにも説明がつかん。こいつはとっくり考えねばいかんな」
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二一 娘のロマンス
マルネフ夫人が行ってしまうと、男爵は、店のなかで娘は何をしているのかと気になってきた。ところが男爵は、マルネフ夫人の家の窓のほうを見ながら店にはいったので、勢いよく出て来た額のあお白い青年とぶつかりそうになってしまった。青年は、きらきら光る灰色の目をした男で、メリノらしゃの夏外套をひっかけ、雲斎織《うんさいおり》のズボンをはき、黄色い革ひものついた靴をはいていた。青年は、マルネフ夫人の家のほうへ走って行き、その同じ家のなかに姿を消した。店にはいったとき、オルタンスは、すぐに群像に気がついた。群像は目につきやすいように、入口のすぐそばの、店の真ん中のテーブルの上に立ててあったからである。
オルタンスは、まえからこの彫刻のことを聞いて知っていたわけであるが、たとえそうでなくとも、この作品は彼女の心をとらえたにちがいない。この群像には、偉大なものにはかならずそなわっているあるブリオ〔イタリア語、はつらつの意〕とでもいうべきものが感ぜられ、それが、イタリアでならば、ブリオとよばれる彫刻のモデルになったと思われる娘の心をひきつけたに相違ないからである。
天才の作品だからといって、どれもおなじ程度にこのきらきらするようなもの、万人の目に、素人《しろうと》の目にさえもはっきりと見えるこの光輝をそなえているわけではない。たとえば、ラファエロの「キリストの変容」や「フォリニョのマドンナ」や、ヴァチカン宮殿の「スタンツァ」の壁画などは、スキャラ画廊の「ヴァイオリンをひく男」やピティ画廊の「ドニ家人物像」「エゼキエルの幻覚」、ボルゲーゼ画廊の「十字架を担って」やミラノのブレラ美術館の「聖母マリアの結婚」などとちがって、たちまち見る人に感嘆の念をおこさせるというようなものではない。トリブナ画廊の「バプテスマの聖ヨハネ」、ローマ学院の「聖母マリアの髪をくしけずる聖ルカ」などには、レオ十世の肖像や、ドレスデンにある聖母マリア像にあるような魅力がない。といってもこれらはいずれ劣らぬ名作ばかりだったのである。それどころか、「スタンツァ」の壁画とか、「キリストの変容」とか、例の単彩画とか、ヴァチカン宮殿の三枚の小品などは、崇高と感性の極致を示しているのである。しかし、これらの傑作にたいするとき、この道に通じた人にたいしても一種の緊張を要求するし、それらを細部にわたって理解するためには、研究が必要なのだ。これに反し、「ヴァイオリンをひく男」や「聖母マリアの結婚」や「エゼキエルの幻覚」は、二つの目の戸を通す人の心のなかに、自然にはいってくる。そして心のなかにだまってすわってくれる。見る人は、何の苦労もなくそれらを愛し、受け入れることができる。それは芸術の極致ではなくて芸術の幸福なのである。こうした事実は、家族のなかに子供が生まれるのと同様、芸術作品の誕生にも偶然が作用することを証明している。生まれながら才能にめぐまれ、美しく、母親にも苦労をかけず、なにもかも首尾よくいって成功するような子供がいる。要するに恋に咲く花があると同様、天才の生涯にも、花を咲かせる時期もあれば、実をみのらせる時期もあるということだ。
翻訳しがたいブリオというイタリア語は、初期作品の特徴をよく示すものである。それは若い才能のはつらつとした勢いと血気がもたらすものだ。こういう勢いは、あとになってもときとして運よくもどってくることがあるが、その場合には、それはもはや芸術家の心から発するものではない。芸術家は、火山が火を噴くようにそれを作品の上に投げつけるのではなく、その勢いにひきまわされるのだ。そのとき、勢いは偶然の状況とか、慈愛とか、競争心とか、憎しみとか、あるいは、しばしば自分の名声をもちこたえるための必要から生まれる。
ヴェンツェスラスの群像は、彼がこれからさき完成すべき作品のなかで、ラファエロの全作品において「聖母マリアの結婚」が占めるような位置を占める作品だった。「聖母マリアの結婚」は、比類のない美しさをもって完成された、才能の最初の笑みであった。そこには幼な児の元気はつらつと、愛すべき充実が見られる。その力は、白くばら色の肌の下にかくされ、顔に浮かぶえくぼは、まるで母親のほほえみにこたえるためにあるようだった。ウージェーヌ公は、この絵を買うために四十万フランだしたそうだ。しかし、ラファエロの絵が一枚もない国にとっては、これは百万フラン出してもおしくない作品だろう。壁画のほうは、芸術的価値からいえばこの絵よりもずっとすぐれているが、その壁画中の最高傑作にでも、とても百万フランは出すまい。
オルタンスは自分のとぼしい貯金のことを考え、群像から受けた感動をつとめておさえようとした。何げないふうをよそおいながら、店の主人にたずねた。
「これは、いかほどですの」
「千五百フランでございます」と主人は店の片すみの腰掛の上にすわっていたひとりの青年にめくばせしながら答えた。
その青年は、ユロ男爵が育てた生身《なまみ》の傑作を目にしてぼう然としていた。店の主人の様子でなんとなく事情を察したオルタンスは、苦労にやつれたあお白い青年の顔に赤味がさすのを見て、青年が作者であることをさとった。オルタンスが群像の値段をたずねたのを聞いて、青年はその灰色の目をきらきらと輝かした。オルタンスは、青年のやせて憔悴《しょうすい》した顔を見て修道僧のような人だと思った。そしてその形のよいばら色の唇と、ほっそりとした小さなあごと、いかにもスラヴ人らしい絹のようにほそい栗色の髪の毛とを好ましいものに思った。
「これがもし千二百フランならばお届けいただくんですのに」とオルタンスが店の主人に答えた。
「これは古代ものでございましてね」と主人はいった。骨董屋はだれでもそうだが、この店の主人も、「古代もの」という言葉が、骨董に関する極めつけの形容だと思いこんでいる。
「そうおっしゃいますけれどね、これは今年できたものですわ」とオルタンスはさり気なく答えた。「もし千二百フランでよろしかったら、この作品をお作りになった方をわたしのところによこしていただきたいんですの。もしかしたらかなり重要な注文をご紹介してさしあげられるかもしれないので」
「作者が千二百フランとったら、わたしはどうなるんですかね。わたしはこれでも商売でやってるんですからなあ」と店のおやじは人が好さそうにいった。
「まあ、そうだったわね」とオルタンスは、ついばかにしたような顔を見せていった。
「お嬢さん、その値段でけっこうですよ。こちらとはぼくが交渉しますから」とリヴォニア青年はわれを忘れていった。
オルタンスの気高い美しさと、その言葉のはしはしに見てとれる芸術にたいする愛情に胸をおどらせた彼は、さらにつけ加えて、「ぼくはこの群像の作者です。十日も前から、一日に三度はここに来ています。だれかぼくの作品の価値を認め、買ってくれる人はないかと見にきているんです。ぼくの作品を認めてくだすったのはあなたが最初です。だから、どうぞ持っていってください」といった。
「一時間ほどしたら、ここの主人といっしょにおいでくださいまし。これが父の名刺ですの」とオルタンスが答えた。
それから、骨董屋が隣の部屋へ行って群像を布につつんでいるのを見すますと、さらにつづけてこういった。
「ヴェンツェスラスさん、これはあなたの将来のことに関係しているんですけれど、この名刺はフィッシェルさんには見せないでください。それから群像を買った人の名前もいわないでください。フィッシェルさんは母のいとこですの」そういわれて、ヴェンツェスラスは、ただおどろくばかりで、夢でも見ているのではないかと思ったほどだ。
|母のいとこ《ヽヽヽヽヽ》という言葉を聞いて、ヴェンツェスラスは、目もくらむような思いだった。天上の楽園を目のあたりにしたかと思い、そこに立っているのは、天上から舞いおりた天女なのではないかと自分の目を疑った。彼は、リスベットから話に聞いて、「親類の美しい娘」を夢にまで見、オルタンスのほうでも母のいとこの恋人のことをひそかに夢想していたところだったのである。オルタンスが骨董店にはいってきたとき、スタインボックは、「その娘がこの人みたいな人だったら!」と考えたくらいだったから、たがいに思いを寄せあうこのふたりが、どんな目つきでたがいの顔を見つめたかがおよそ想像できようというものだ。それは炎のような視線だった。まじめな恋人たちというものは、少しの偽善も知らないのである。
二二 娘の才覚
「おいおい、いったいそこで何をしているのかね」と男爵は娘にたずねた。
「わたし、千二百フランの貯金を使っちゃったわ。さあ、いきましょう」オルタンスは、『千二百フランもねえ』とくり返しいっている父親の腕をとった。
「千三百フランかもしれないわ……たりないところはだしてくださるでしょ」
「で、何を買ったんだい。……あの店で……その金を使ったのかね?」
「だって」と娘はうれしそうに答えた。「それでお婿さんが見つかれば、安いものじゃなくて?」
「お婿さんだって。あの店でか?」
「ねえ、お父さん、わたし、大芸術家と結婚しちゃいけないかしら」
「いや、いけないことはないよ。現代では偉大な芸術家は、肩書きのない王侯のようなものだ。社会的な価値としていちばん大事なもの、つまり名誉と金があるからね。いや、もっとも、名誉や金といっても、それ以上に、正しい行ないのほうがたいせつなことはもちろんだが」と男爵は、もっともらしい顔つきをつくってつけ加えた。
「おっしゃるとおりだわ。で、彫刻ってものをどうお思いになる?」
「あまりぱっとせんな」と男爵は、首を振りながらいった。「すぐれた才能がいるうえに、有力な保護者が必要だ。なぜかといえば、今じゃ、彫刻を買いあげるのは政府だけだからね。大名貴族の豪勢な生活とか、富豪とか、宮殿とか、世襲財産などが、もうなくなった以上、彫刻は買い手のない芸術だ。われわれが自分の家に置けるものといえば、小さな絵だの、小さな肖像彫刻ぐらいなものだからね。だから、芸術もだんだん小粒になるかもしれないね」
「でも、買い手も簡単に見つかるような大芸術家だったら?」とオルタンスがいった。
「それなら問題はないさ」
「おまけに保護者があって!」
「ますます申し分ないね!」
「しかも貴族で!」
「おやおや」
「伯爵よ!」
「伯爵が彫刻なんかするのかね」
「お金がないんですもの」
「それで、オルタンス・ユロ嬢の財産をあてにしているってわけか」と男爵は、何かさぐり出すような視線で娘の目をのぞきこみながら、茶化し半分にいった。
「男爵さま、その大芸術家の、伯爵兼彫刻家は、閣下のご令嬢にさきほどはじめてお目にかかり、それも五分間話をしただけでございます」とオルタンスは、平然たる様子で父親に答えた。「ねえ、お父さま、きのうお父さまが議会に出てらっしゃったとき、お母さまは気絶なさったのよ。お母さまはそれを神経のせいになすったけれど、ほんとうはそうじゃなくて、わたしの結婚がうまくゆかなかったのを心配なさったからなの。だって、お母さまもおっしゃってたけれど、お父さまは早くわたしを厄介ばらいしようと……」
「おまえをあんなにかわいがっているお母さんが、そんな言葉を使うわけがないよ、そんな……」
「そんな非政治的な言葉を、とおっしゃりたいんでしょ」とオルタンスが笑いながらいった。「そりゃそうよ、お母さまはそんなこと、いわなかったわ。でも、年ごろになっても嫁入りさきのきまってない娘というものが、まじめな親たちにとって、どんなに気苦労なものかっていうことぐらい、わたしもわかっているのよ。それで、気力と才能のある人で、三万フランの持参金でも文句をいわない人があれば、わたしたちみんなのしあわせのために好都合だ、っていうのが、まあ、お母さまのお考えなのよ。つまり、わたしの将来のこともごくごく地味に考えて、あんまりはなやかな夢は追わないほうがいいというわけね、結局、お母さまのおっしゃったことを簡単にいえば、わたしの縁談がだめになったっていうこと、それから持参金がないっていうこと」
「お母さんは、実に気立てのよい、気高くて立派な人だ」と父親は答えた。男爵は、娘に打明け話をされて、うれしくないではなかったが、同時に大きな屈辱感も感じていた。
「きのう、お母さまにきいたら、わたしの結婚のために、ダイヤモンドを売ってもよいとお父さまはおっしゃったそうね。でもわたし、お母さまのダイヤモンドは売らないでおいてほしいわ。ダイヤなんか売らないで夫を見つけたいの。それにもうわたし見つけたように思うわ。お母さまの目論見《もくろみ》にちょうど合うお婿さんを」
「あんなところでかね……カルーゼル広場で……朝、ちょっと散歩しただけでね」
「わがやまいには深き仔細ありて、よ」〔ラシーヌ『フェードル』一幕三場〕とオルタンスは人の悪そうな様子で答えた。
「そうかね。ねえおまえ、その仔細とやらをお父さんに話してごらん」と男爵は、不安な気持ちをおし隠して、つとめてやさしくいった。
ぜったいに秘密を守るという約束で、オルタンスはベットとの会話のあらましを話した。そして家に帰ると、例の印章を出してきて父親に見せ、自分の推測がいかに当をえたものであったかを証拠だてた。父親は、内心では、本能に動かされて行動した娘の実に巧妙なやり口に舌をまいた。そして、夢のような恋心が、一夜のうちに、この純情可憐な娘にさずけた計画が、単純かつきわめて効果的なものであることを認めないわけにはゆかなかった。
「さっきわたしの買った傑作をお目にかけるわ。届けてくれることになっているのよ。ヴェンツェスラスさんも、骨董屋の主人といっしょにくるわ。あんなすばらしい群像の作者ですもの、出世しないわけはないと思うわ。でもお父さまの信用で、銅像をひとつつくらせてちょうだいね。それから芸術院にも入れるようにして……」
「やれやれ、たいへんな肩の入れようだね。おまえの好きにさせておいたら、法定期間も終わるか終わらないうちに、十一日目ぐらいで結婚しちゃうんじゃないか……」
「十一日間も待つの?」とオルタンスは笑いながらいった。「だってほんの五分間で、わたしもう好きになっちゃったのよ。お父さまがお母さまに会って好きにおなりになったのと同じだわ。あの人も、まるで二年もまえから知り合いだったみたいに、わたしを好きになってくださったの。そりゃちゃんとわかるわ」父親が、疑わしそうな身振りをしたのを見て、娘はつけ加えた。「あの方の目のなかに、あなたが好きです、という言葉が本にして十冊分ぐらい書いてあったのよ。あの方が天才であることが証明されても、お父さまやお母さまにわたしの夫として認めていただけないでしょうかしら。彫刻は芸術のなかでも、第一等の芸術よ」と彼女は、手をたたきながらあたりをとび跳ねた。「いいわ、わたしお父さまに何もかもいってしまうわ」
「まだ何かいうことが残っているのかい」と男爵は、笑いながらいった。
こんなふうにごく無邪気に何もかもしゃべってしまうのを見て、男爵の不安も消えてしまった。
「とっても大事なことを白状するわ」とオルタンスは答えた。「わたしあの方に会う前からもう好きだったんだけれど、一時間ほど前にお目にかかってからは、すっかり夢中になっちゃったのよ」
「夢中になり方が、おまえのは少し極端だよ」と男爵はいったが、娘のこの素朴な恋を見て、彼もなんとはなしに心がなごむ思いだった。
「せっかく正直に白状したんだから、叱らないでちょうだい。『わたしは愛しています。わたしは幸福です』と自分の父親に打ち明けるのはほんとにいいことなんですもの」とオルタンスは答えた。「もうすぐヴェンツェスラスさんがやってくるわ。もの思わしげなすばらしい額よ。天才の輝きできらきらするような目つきよ、それになんともいえない上品なもの腰。お父さま、どうお思いになる? リヴォニアって美しい国かしら? あの方の母親にでもなれそうな年をしているくせに、ベットさんがあの方と結婚するなんて! まるで人殺し同然よ。ベットさんが、これまであの方のためにしてあげたことが、わたしうらやましいわ。ベットさんは、わたしたちの結婚のことをこころよくは思わないでしょうね」
「とにかく、何もかもお母さんにいったほうがいいね」
「だってそれにはお母さまにこの印章を見せなきゃならないでしょう。わたし、ベットさんに、お母さまにはこの印章を見せないって約束しちゃったのよ。ベットさんはお母さまにからかわれるのがいやなんですって」とオルタンスは答えた。
「印章のほうにはずいぶん気をつかうくせに、恋人をベットから横どりしても平気なのかい?」
「印章のほうは約束したけれど、印章の作者については、何も約束してないもの」
オルタンスの恋は、昔風の淳朴そのものだったが、この一家の内々の事情を考えると、妙なことに、実はこの一家にとって、好都合なものだった。それで男爵は、娘にむかって正直に打ち明けたことをほめてやり、今後、この問題については、両親の慎重な配慮にしたがって行動しなければいけないと注意した。
「よくわかっていることだろうと思うけれど、ベットの恋人が、はたしてほんとうに伯爵かどうか、正規の証明書を持っているかどうか、品行の点についても問題はないかどうか、そういうことを調べるのはおまえの仕事じゃないよ。それからベットのことだが、いまより二十歳も若かったころでさえ、せっかくの縁談を五つも断わったくらいだ。おまえの結婚のじゃまをすることもあるまい。彼女のことはわしが引き受けるよ」
「ねえ、お父さま、首尾よくわたしがお嫁入りするのが見たかったら、夫婦財産契約に署名する間際まで、わたしの恋人のことはベットさんにいわないでくださいね……もう半年もまえから、このことについてベットさんにいろいろ聞いてるんだけれど、あの人の考えには、よくわからない点があるの」
「何だって?」と父親は不安になってたずねた。
「たとえ冗談半分にでも、ベットさんにあの人の恋人のことをたちいってたずねると、目つきがけわしくなるのよ。調べるべきことは、お調べになってちょうだい。でも舵とりはやっぱりわたしにとらせてくださいね。正直に打明けたんですもの、もう心配ないでしょう」
「イエス・キリストは『幼な児をわれに来たらしめよ』といわれた。おまえは、キリストのそばにきた幼な児のひとりなのさ」と男爵はいく分茶化していった。
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二三 出会い
昼食がすんだころ、群像がとどけられ、骨董屋と芸術家の来訪が告げられた。娘の顔が急にあかくなったのを見て、男爵夫人ははじめて心配になり、それから娘の言動に注意を払うようになった。オルタンスのどぎまぎした様子や、燃えるような目つきを見て、若い心が隠すことも知らなかった秘密をすぐに見破ってしまった。
黒ずくめの服装であらわれたスタインボック伯爵は、男爵の目にはたいへん上品な青年のようにうつった。
「銅像なんかもおやりですか」と男爵は群像を手にしながら、スタインボックにたずねた。
男爵は、群像を感嘆の面持ちでつくづくとながめてから妻にわたした。あいにくと夫人は、彫刻のことはいっこうに知らなかった。
「ねえ、お母さま、美しい彫刻でしょう?」とオルタンスは母親の耳もとにささやいた。
「銅像ですか。銅像でしたら、この方にお願いして持ってきていただいた振子時計なぞにくらべると、ずっとやさしい仕事です」と彫刻家は男爵の問いに答えた。
骨董屋は、キューピッドが十二人の時の女神たちをつかまえようとしている振子時計の原型を、食堂の食器戸棚の上に形よくすえようとして、しきりに骨折っているところであった。
「この振子時計は、わたしにあずからせてください。内務大臣や、商務大臣にも見せてやりたいから」と、男爵は作品のあまりの美しさにぼう然としながらいった。
「おまえはあの青年にとても興味があるらしいけれど、どういう方なの」と男爵夫人は娘にたずねた。
「この原型をもとにして鋳造するだけのお金のある芸術家なら、十万フランはかるくもうけましょうて」と骨董商がいった。そしてオルタンスと彫刻家がたがいの顔を見つめ合っているのを見て、察しのよい意味ありげな様子をしてみせた。「一個八千フランのものを二十個ほど売ればよいわけで。一個につき三千フランの原価がかかりますから。でも、それぞれに番号を打って原型をこわしてしまえば、二十人ぐらいの美術愛好家を見つけるのは造作もないことです。なにしろこの作品を持っているのは自分たちだけだという満足感がありますからな」
「十万フラン!」とスタインボックはさけんで、骨董商と、オルタンスと、男爵と、男爵夫人の顔をかわるがわる見まわした。
「そうですとも、十万フランですよ」と骨董商はくり返していった。「もしわたしにお金があったら、二万フランを出して、あなたから買うところですがね。原型さえこわしてしまえば、作品の所有権は自分のものにしたのも同然になりますからな。それどころか、高貴なお方のなかには、こういう傑作になら三、四万フランも出して、自分の客間の飾りにしたいと思う方もおられるにちがいありません。美術品にもいろいろありますけれど、お金持ち連と、その道の通人とを両方満足させるような振子時計を作ったものはいません。ところがこの作品は見事にこの難問を解決したんでして……」
「どうもご苦労さま」と言いながら、オルタンスは帰ろうとする骨董商人に金貨を六枚にぎらせた。
「ここへ来たことはだれにもいわないでくれたまえ」とヴェンツェスラスは、門のところまで商人のあとを追ってきていった。
骨董商人は、委細承知したというしるしにうなずいて見せた。
彫刻家がなかへもどってくると、「お名前は?」と男爵がたずねた。
「スタインボック伯爵です」
「何かご身分を証明する書類をお持ちですか」
「ええ持っています。ロシア語とドイツ語で書かれた書類ですが、まだフランス政府の公認は受けていません……」
「九フィートの銅像を作る気がありますか」
「ええ、あります」
「そうですか。それじゃあ、もしこれからわたしが相談する方がたが、あなたの作品に満足したらですね、モンコルネ元帥の銅像の製作をあなたに依頼するように取りはからってあげましょう。ペール・ラシェーズの元帥の墓の上に、故人の銅像をたてることになっていますのでね。陸軍省と旧ナポレオン親衛隊の士官たちがかなりの額のお金を出していますから、彫刻家を選ぶ権利は、われわれにあるんです」
これほどたくさんの幸福がいちどきにやってくるのを見て、スタインボックはぼう然とし、「おお、そうなれば、わたしの運も開けます」とさけんだ。
「ご心配なく」と男爵は好意を面《おもて》にあらわしていった。「あなたの群像とこの原型を、ふたりの大臣に見せますが、もし大臣たちがこの作品に感心したら、あなたの前途は洋々たるものですよ……」
オルタンスは、痛いほど力いっぱいに父親の腕をつかんでいた。
「身分証明書をもってきてください。それから今いったことはだれにも、わたしたちのいとこのベットさんにも、いわないでいただきたい」
「リスベットですって?」とユロ夫人がさけんだ。ことのいきさつはいっこうにのみこめなかったけれども、どうやらこの話はベットにも関係しているらしいことがようやくわかったのである。
「奥さまの胸像を作らせていただければ、わたしの技倆のほどもお目にかけられるのですが……」とヴェンツェスラスがつけ加えていった。
ユロ夫人の美しさにおどろいた彫刻家は、さきほどから母と娘をたがいに見くらべていたのである。
「まあ、あなたにとって、人生はこれから生きがいのあるものになるかもしれません」ユロ男爵は、スタインボック伯爵の繊細で上品な様子にすっかり心をひきつけられて、こういった。「パリでは、才能を持っているものが認められないでいることもないし、たえずこつこつ仕事をしていれば、いつかはかならず報われることが、すぐわかりますよ」
オルタンスは頬をあからめながら、金貨の六十枚はいっているアルジェリア風の美しい財布を青年にさし出した。貴族風なところがまだすっかり抜けきっていないスタインボックのほうもやはり、だれが見てもすぐに目につくほど顔をあかくしてしまった。
「もしかしたら、お仕事でお金をおもらいになるのは、これがはじめてではございませんの?」と男爵夫人がたずねた。
「はあ、芸術の仕事でははじめてですが、つまらぬ仕事をしてお金をもらったことはあります。職人をしておりましたから……」
「そうですか。では、娘のさしあげたお金が縁になって、あなたのご運が開けますように」と、ユロ夫人が答えた。
「遠慮せずにとってください」ヴェンツェスラスが財布をしまおうとせずに手に持っているのを見て、ユロ男爵がそういった。
「そのお金は、どうせ取り返しがつくんですよ。この見事な作品をぜひ欲しいという大名か、華族が、そのうちにきっとあらわれて、そのくらいのお金は利子をつけて返してくれるにきまっていますからな」
「まあお父さま、こんな大事なもの、皇太子さまにだって、おゆずりできませんわ」
「お嬢さまには、これよりももっときれいな群像を作ってさしあげてもよろしいのですが……」
「でもそれとこれとは、やっぱりちがいますもの」
そして、思わず自分の気持ちを見せてしまったのが恥ずかしくなったものか、庭に出ていった。
「では、帰りましたらさっそく、原型と鋳型はつぶすことにします」とスタインボックがいった。
「それでは、忘れずに書類を持ってきてください。もしあなたが、わたしの期待に添う人間だとわかったら、いずれこちらから連絡しますから」
この言葉をきくと、スタインボックはそれ以上長居をするわけにもゆかなくなった。別れのあいさつをかわすためにわざわざ庭からもどってきたオルタンスとユロ夫人に会釈をすると、チュイルリー庭園に散歩をしに行った。ヴェンツェスラスは自分の屋根裏部屋にもどる気がしなかった。そこに帰れば、暴君が待っていて、彼を質問ぜめにし、秘密を聞き出そうとするにきまっているからであった。
オルタンスに思いを寄せる青年は、幾百もの群像やら銅像やらを思い描き、みずから大理石を切りきざむほどの力を身内に感じた。病的なからだにむち打って大理石を刻もうとし、そのためにあやうく死にかけたカノーヴァそっくりだったのである。ヴェンツェスラスは、オルタンスによって別人となり、オルタンスは、彼にとって霊感の源となった。
「まあまあ、これはいったい、どういうことなの」と男爵夫人は娘にいった。
「つまりね、お母さまがいまお会いになった人は、ベットさんの恋人なのよ。もっともこれからはわたしの恋人になるはずだと思うけど。でも、目をつぶっていて。知らん顔をしていてちょうだいな。いいわ、お母さまには何もいうまいと思っていたんだけれど、みんないってしまうわ……」
「じゃあ、わしはちょっと出かけてくるよ」と男爵はいって、娘と妻に接吻した。「わしはたぶん|やぎ《ヽヽ》さんに会ってくるからね。ベットに会えばあの青年のこともいろいろわかるだろう」
「大事をとってくださいな、お父さま」
「まあ、おまえという娘《こ》は!」オルタンスが自分の恋のロマンスをひとくさり母親に語ってきかせ、けさがたの散歩のいきさつにまで語りおよんだとき、男爵夫人は思わずこうさけんだ。「そうだわねえ、やっぱり世の中でいちばん抜け目のない女はだれかといえば、純情なおぼこ娘のことなのねえ」
恋にしろ、欲にしろ、本物であれば、かならずそこに本能が見られる。食い気のはった男に、皿から果物を一つ選ばせて見るがよい。たとえ、目隠しをして取らせても、いちばんおいしい果物を選んであやまつことがないだろう。それと同じように、しつけのよい娘に自分の気持ちで夫を選ばせてみるとよい。名ざす相手をかならず夫にできるというのであれば、娘たちはまず選択をあやまることはないはずだ。自然はけっしてまちがえることがない。恋愛においては、こうした自然の業《わざ》を「ひと目惚れ」というのだ。恋の道では、最初のひと目が、すなわち千里を見通す眼力でもある。
男爵夫人は、母親の威厳によっておし隠してはいたものの、その喜びは娘のそれにもおとらなかった。クルヴェルのいう三通りの縁組方式のうちでも、自分にとって最良と思われるものがどうやら実現しそうな気配だからである。夫人は、たまたまこんないきさつになったのも、自分の熱心な祈りに神さまが答えてくださったのにほかならないと思った。
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二四 僥倖《ぎょうこう》、久しからず
フィッシェル嬢の囚人は、とにかく帰らないわけにもいかないので、恋人としての喜びを芸術家としての喜びでごまかすことにした。芸術家が自分の最初の成功に気をよくするのは当然ではなかろうか。
「大成功ですよ。群像はデルーヴィル公爵に売れました。公爵はほかにも仕事を注文してくれるそうです」とスタインボックは言いながら、老嬢のテーブルの上に千二百フランの金貨を投げだした。
「おや、それはよかったわね」とリスベットは答えた。「わたしももう仕事でへとへとになっていたところでしたからね。あなたのみたいな仕事じゃ、お金もなかなか手にはいらないことがこれでわかったでしょう。なにしろ、五年間もこつこつやって、これが最初にもらったお金なんですからね。わたしのたくわえがただの手形に化けちまってから、それからずっとあなたにかかった費用だって、この額じゃたりるかたりないかっていうところです。でも安心してちょうだい」とベットは、金を勘定しおえてからつけ加えていった。「このお金はみんなあなたのために使うことにしましょうよ。これだけあれば一年は楽に暮せますわ。この調子で収入があればそのあいだに、わたしへの借金も返し、自分でもたくわえもできます」
自分の策略がうまく図にあたったのをみると、ヴェンツェスラスはデルーヴィル公爵についていろいろ出まかせをならべたてた。
「あなたにいま流行の黒い服を着せてやりたいわ。それに下着も買いかえなくちゃ。なにしろうしろだてになってくださる方々に会うときにはちゃんとした服装が大事ですからね」とベットが答えた。「それに、こんなきたならしい屋根裏部屋なんかじゃなくて、もっとちゃんとした大きなアパルトマンがいるわ。そして家具も買いそろえなくては。なんだかばかにうれしそうね。人が変わったみたいよ」とベットは、ヴェンツェスラスの顔をじろじろ見ながらつけ加えていった。
「だってなにしろ、ぼくの群像は傑作だっていってくれたんですからね」
「そりゃよかったじゃないの。もっとたくさん作りなさいよ」と、実利一点ばりで、芸術家の勝利の喜びも、芸術の美しさも解しえない、このひからびた老嬢は答えた。「もう売れた作品のことは考えるにはおよばないわ。これから売ろうっていうのを何か作りなさいね。手間と時間を勘定にいれないでも、あのサムソンとかいうのを作るのに、二百フランもかかったのよ。振子時計だって鋳型をとって現物を作るには、二千フラン以上もお金がかかるんですからね。そうそう、少年がふたりで女の子の頭に矢車草の冠をかぶせてやっている彫刻ね、あれは早く仕上げたほうがいいわよ。パリの人はああいうのが好きなんだから。じゃあ、わたし、クルヴェルさんところに行くついでに仕立屋のグラフさんのところによって行きますからね。自分の部屋にいってちょうだい。わたし、服を着かえなければならないから」
その翌日、マルネフ夫人にすっかり夢中になったユロ男爵は、さっそくベットに会いにでかけた。ベットは、扉を開けてみるとそこに男爵が立っているのですっかりおどろいてしまった。それまで男爵は、ベットを自宅に訪れるなどということはしたことがなかったのである。そこでリスベットは、『オルタンスはわたしの恋人に気があるのかな』と内心思った。そう思ったのも、前の晩、クルヴェルのところで、オルタンスと控訴院の判事との結婚話がだめになったのを聞いて知っていたからである。
「まあ、これはおめずらしい、こちらへいらっしゃったのははじめてですわね。でもお目あてはわたしじゃないんでしょう。わたしの目がきれいだからそれを見にきたというわけでもないわね」
「いや、まったく君の目はきれいだね、こんなすばらしい目は見たことがない……」
「ご用は何ですの。まあ、こんな汚ないところで、恐縮ですけれど」
ベットのアパルトマンになっている二間つづきの部屋の一方は、客間、食堂、台所、仕事場などを兼ねていた。家具は、比較的暮しの楽な職人の家などでよく見かけるようなものだった。つまり|くるみ《ヽヽヽ》材のわら椅子、同じくくるみ材の小さな食卓、仕事机、うす汚れた額ぶちにはいっている極彩色の版画、窓にかかっているモスリンのカーテン、くるみ材の大きな衣装だんすなどであった。床はぴかぴかにみがきあげられ、ちりひとつなく、なんとなく冷たい感じがいっぱいにただよっているところは、テルボルヒの絵を思わせた。昔は青い色をしていたらしいが、古びて亜麻色になってしまった壁紙の灰色の色調まで、テルボルヒの絵にそっくりである。寝室のほうには、まだだれも足を踏みいれたものがない。
男爵はひと目で部屋の様子を見わたすと、どこにも凡俗の烙印を読みとるのだった。そして『なるほど堅気の生活とはこういうものか』と内心思いながら、胸がむかむかするような気分を味わっていた。
「何の用かって?」と彼は大きな声で答えた。「君もなかなか目はしのきく女だから、どうせしまいには見抜かれてしまうんだ。いっそのこと、正直にいってしまうことにするよ」と言いながら、男爵は腰をおろし、しわくちゃのモスリンのカーテンを細目にあけて、中庭ごしにおもてをのぞいた。「この建物にきれいな女がひとり住んでいる……」
「マルネフの奥さんでしょう。ああ、わかったわ。でもジョゼファさんは、どうしたの?」とベットはいったが、彼女には何もかもはっきりしてきた。
「残念ながら、ジョゼファとは縁が切れた。わしは、下男同様に追い出されたのだ」
「で、こんどは何をたくらんでいるのです?」と男爵の顔をじろりと見ながら、リスベットは高飛車にたずねた。貞淑ぶる女はだれでもそうしたものだが、相手がろくろくものもいわないうちにもう腹を立てている。十五分ほどは立腹するのが早すぎるのだ。
「マルネフ夫人は役人の女房だが、なかなか上品な女だ。君が近所づきあいをしてもおかしくはあるまい」と男爵がいった。「少しつきあって親しくしてもらいたいのだ。いや、心配はない。局長のいとことあれば、君にたいして礼儀を失するようなことはしないはずだよ」
そのとき、階段のあたりに衣《きぬ》ずれの音と、上等の編上靴をはいているらしい女の足音とが聞えた。音は踊り場のところでとまった。
入口をノックする音が二つほどして、マルネフ夫人が姿をあらわした。
「突然、おじゃまして申しわけありません。実はきのうもお訪ねしたんですけれど、お宅にいらっしゃいませんでしたので。わたしたちはおとなり同士ですし、もしも、フィッシェルさんが、参事院議員閣下のおいとこにあたることを前から存じあげていましたら、閣下によろしく取りはからっていただくよう、とうにお願いしておりましたのに。わたし、さきほど、局長閣下がこちらにおはいりになるのを見かけしました。それでこうして図々しくおじゃまにまいったのですの。と申しますのも、男爵さま、主人の話によりますと、人事異動に関する草案があす大臣に提出されるとか」
すっかりあがって胸をどきどきさせているというふうに見せかけていたが、実は階段をかけあがってきたために息を切らしていたにすぎなかった。
「お美しい奥さん、なにもそんなあらたまったあいさつをなさるにはおよびませんよ。わたしのほうこそお宅におじゃまにあがりたいと思っていたくらいですから」と男爵が返事をした。
「まあそうでしたか。では、ベットさんさえよろしかったら、これからいらっしゃいませ」とマルネフ夫人がいった。
「どうぞ、どうぞ。わたしもあとからまいりますから」ベットは用心深くそう答えておいた。
パリ育ちのマルネフ夫人は、局長閣下の訪問と、ものわかりのよさそうな様子に大いに期するところがあったから、こういう場合にふさわしい念入りな化粧をあらかじめしておいただけではなく、部屋もきれいに飾っておいた。月末払いの勘定で買った花を朝っぱらからいけておいた。マルネフも妻の手伝いをして、家具にみがきをかけ、ごくつまらないものまでぴかぴかにしておいた。何もかも石けんで洗い、ブラシをかけ、ちりを払った。ヴァレリーが、小ざっぱりした部屋で男爵を迎えたいと思ったのは、男爵に好かれたかったからだ。そして、男爵に好かれたかったのは、残酷な仕打ちをする権利がえたかったからだし、あめ玉を高くかかげて子供をじらすように、現代的な戦術を用いて、男爵をじらせたりなぶったりしてやろうと思っていたからである。彼女は、ユロの性格をちゃんと見抜いていた。パリの女を窮地に追いこみ、そのあげく二十四時間の猶予を与えてみたまえ。役所のひとつぐらいわけなくひっくりかえしてしまうだろう。
ユロ男爵は、帝政時代の人間で、帝政風のやり方になれていたから、当世風の恋の駆け引きにはとんと通じていなかった。ちかごろはやりの手練手管《てれんてくだ》、一八三〇年以後になってあみ出された恋の口説《くぜつ》については、「あわれむべきかよわい女性」が、恋人の欲望の犠牲になることになっている。女は、傷にほうたいを巻いてくれる施療院の尼さんか、さもなければ身を捧げる天使みたいなものだというわけだ。この「新恋愛作法」の特徴は、悪魔の作業をなしとげるのにやたらに福音書の言葉を使うことだ。曰《いわ》く、恋は殉教である。理想と、無限なものにあこがれて、男も女も、恋愛によって善導されるのを望むな、といった具合である。こういった美辞麗句は、恋愛を実行に移すにあたって、今までよりもさらに熱っぽくし、堕落にあたっては、さらに猛烈をきわめるための口実なのだからおそれいる。現代の特徴であるこうした偽善が、恋愛の風雅をすっかりだめにしてしまった。ふたりの天使といった顔をしながら、実は、ふたりの悪魔のように振舞う。戦いのあいだを盗んでささやかれた恋には、みずからを分析するひまなどはない。だから一八〇九年には、ちょうどナポレオンの帝政が、たちまちのうちに勝利をおさめたように、恋愛も手っとり早かった。ところで、王政復古時代になると、またもとの女たらしにもどった美男のユロ男爵は、政治という天空から落ちてきた流星というべき、没落した昔なじみの女友だちをなぐさめたりしていたのだが、それから年変わりになって、ジェニー・カディーヌや、ジョゼファのような女たちのとりこになるという始末であった。
マルネフ夫人は、夫から局長閣下のこれまでの行跡をくわしくきくと、ユロ男爵を陥落すべく着々と準備をすすめた。夫は役所でいろいろと情報を仕入れてきたのである。当世風の恋愛喜劇が、どうやら男爵の新しいもの好きな気持ちに投じそうに思われたので、ヴァレリーの決心はきまった。けさがたのちょっとした力だめしが、彼女の期待どおりにうまくいったことも忘れずにいっておこう。感傷的な、小説的な、そしてローマン的な駆け引きのおかげで、ヴァレリーは自分のほうは何も約束を与えないで、亭主のために次長の椅子とレジォン・ドヌール勲章をせしめてしまったのである。
こうした恋のこぜりあいには、ロシェ・ド・カンカル〔当時の高名な料理店〕での晩餐や観劇がつきもので、おまけにヴェールや、スカーフや、ドレスや宝石などの贈り物が、ふんだんにあったことはもちろんである。ドワイエネ通りのアパルトマンはどうも感じがよくないので、ヴァノー通りのしゃれた現代風の建物のなかにアパルトマンをひとつ借りて、それを派手に造作しよう、男爵はそんなことまで目論《もくろ》んだのだ。
マルネフ氏には一カ月後に、半月間の休暇が出ることになった。郷里に帰って財産整理を行なうためというのが表向きの理由で、おまけに特別手当まで出るはずだった。マルネフは、スイスに小旅行して、そこで女性研究の実をあげようと考えていた。
ユロ男爵は、マルネフ夫人のお相手に忙殺されていたが、それでも自分がそのうしろだてになることを約した彫刻家のことを忘れたわけではなかった。商務大臣のポピノ伯爵は芸術愛好家だった。ユロ嬢と彼の手もとにしか作品が残らないように鋳型をつぶすという条件で、彼はサムソンの群像を二千フランで買いとった。この群像は、ある高貴な方の目にとまり、その人に振子時計の原型を見せるとそれを注文してくれた。そして自分の所有するもの以外には同じものがないようにという特別の希望で、三万フラン出した。例のスティドマンもそのひとりだったが、政府から相談を受けた芸術家たちは、これら二作の作者ならば、銅像製作の任にたえうるに相違ないと答えた。ただちに、陸軍大臣で、モンコルネ元帥記念碑募金委員会の委員長であるヴィッサンブール公は委員会を招集して、銅像の製作をスタインボックに依頼することを決定した。当時、国務次官をしていたラスティニャック伯爵は、スタインボックに何か彫ってもらいたいと思った。その栄光にたいしては競争相手の彫刻家たちでさえ喝采《かっさい》をおしまないほどの名声をたちまち獲得したこの芸術家の作品を、自分も欲しいと思ったのである。ラスティニャック伯爵は、少女の頭に花冠をのせているふたりの少年をあらわしたすばらしい群像を手にいれることができた。そして周知のように、グロ・カイユーにある、政府の大理石保管所のアトリエをスタインボックに与える約束をした。
それは成功であった。しかもそれはパリにしか見られないような気違いじみた成功で、それをがっしりと受けとめるだけの強い肩や腰を持っていないと――ついでにいえばそうした不幸な例は案外多いものなのだが――それに押しつぶされてしまう。本人も、フィッシェル嬢も少しも知らないうちに、新聞や雑誌はしきりにヴェンツェスラス・スタインボック伯爵のことを書きたてていた。
毎日、フィッシェル嬢がそとで夕食をとるために外出するとすぐに、ヴェンツェスラスは男爵夫人のところに出かけていった。そしてベットがユロ家をたずねてくる日をのぞいては、一、二時間、そこですごすのが常であった。こういう状態が数日のあいだつづいた。男爵はスタインボック伯の技倆や身分のたしかなことに安心していたし、男爵夫人は彼の性格や素行に満足していた。オルタンスは、自分の恋が両親に認めてもらえたことが、また自分の未来の夫が輝かしい名声をえたことを誇らしく思っていた。それでユロ家の人びとはこの結婚のことをはっきり口に出して話すことをもうためらわなかった。要するに、スタインボックは幸福の絶頂にいたのである。ところが、そのとき、マルネフ夫人が余計なことをしゃべったばかりにとんでもないことがもちあがった。その次第はつぎに述べるとおりである。
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二五 マルネフの策略
ユロ男爵は、マルネフ一家の様子をさぐるため、リスベットとマルネフ夫人を交際させたがっていたが、そのリスベットは、すでにヴァレリーに呼ばれて晩餐をともにするほど、一家と親しくなっていた。ヴァレリーのほうでも、ユロ家の内情を知りたいと思っていたので、老嬢をちやほやしていたのである。こういうわけでヴァレリーは、今度新たに居《きょ》をかまえることになったアパルトマンの転居祝いにフィッシェル嬢を呼ぶことにした。老嬢は、また一軒ごちそうになりに行ける家がふえたのがうれしかったし、言葉たくみにおだてられたものだから、マルネフ夫人がすっかり好きになってしまった。
ベットとつきあってくれる人はいろいろいるけれども、マルネフ夫人ほどベットのために金をつかってくれる人はいなかった。ただ金をつかうだけでなく、フィッシェル嬢のためになにかとこまめに世話をやいてくれた。実をいうと、マルネフ夫人のベットにたいする関係は、ベットと、ユロ男爵夫人や、リヴェ氏や、クルヴェルや、要するにベットを夕食に招いてくれる人びとの関係に似ていた。つまり、マルネフ一家は、自分たちのひどい貧乏をベットに見せて、ベットの同情をかっていたのだ。しかしその貧乏を相変わらずの|おためごかし《ヽヽヽヽヽヽ》で美化してみせていた。親切にしたのに恩にもきてくれない友人たちとか、病気に苦しんだこととかを話した。母親、つまりフォルタン夫人には、一家の貧窮は知らせないでおいたから、相変わらず自分たちの生活は豊かなものと思いこんで死んでいったが、そのかげにはマルネフ夫妻の血のにじむような犠牲があったのだ、などである。
「ほんとにお気の毒な方たちだわ」とベットはユロ男爵にいった。「あなたがあの夫婦のお世話をなさっているのは、いいことだと思うわ。あの人たちにはそれだけのねうちもあるし、働きもので心のいい人たちですもの。次長として役所からもらう三千フランのお給料じゃ生活するだけでもやっとだわ。だって、モンコルネ元帥に死なれてからだいぶん借金がたまっているようですものね。妻も子もあるお役人にたいして、二千四百フランの給料でパリで暮せというのは、だいたい政府がむちゃなんですよ」
ベットにたいしていかにも好意的な態度をとり、何でも包まずにいってくれる女、何かにつけ彼女に相談し、彼女の人となりをほめそやしてその言いなりになるように見せてくれる若い女、ベットの目にそんなふうに見えたヴァレリーは、たちまちのうちに偏屈な老嬢のベットにとって、親類以上に大事な人間になってしまった。
男爵は男爵で、マルネフ夫人の礼儀正しいこと、教養のあること、立居振舞に品があることなどに感服していた。そういうものは、ジェニー・カディーヌにもジョゼファにも、またその仲間の女たちにもなかったものだった。要するに、男爵は一カ月たらずのあいだにマルネフ夫人にすっかり惚れこんでしまったので、一見もっともらしく見えるものの、実は気違いじみた老人の恋だったのだ。じっさい、マルネフ夫人は、人を愚弄したり、乱痴気騒ぎをしでかしたり、ひどい浪費をすることもなかった。生活が堕落しているわけでもないし、社会常識を踏みにじったり、人の思惑を考えずに勝手気ままな振舞に出ることもなかった。要するに、男爵が女優や歌姫とつきあっていたころに、さんざん彼の手をやかせたようなものはまるでなかったのだ。それからまた、砂地が際限もなく水を吸いこむように金を吸いこんでしまう娼婦に特有の貪婪《どんらん》さもなかったのである。
男爵の気のおけない友だちとなり、打明け相手となったマルネフ夫人は、男爵からちょっとした贈り物をもらうにもじつに奇妙な態度に出た。
「お役所の地位とか、手当とか、あなたの力で政府からもらってくださるものは、わたし喜んでいただきますわ。でも、あなたが愛しているとかおっしゃっている奥さまの名誉を傷つけるようなことはなさらないでくださいまし」とヴァレリーはいった。「さもないとわたしもうあなたを信用できなくなりますから……わたしあなたを信じていたいのですもの」とヴァレリーはつけ加え、目を細目にして天を見る聖女テレサのような目つきで、男爵に色目をくれるのだった。
ひとつ贈り物をするのにさえ、城を攻めおとしたり、相手の良心を犯したりするほどの苦労がいった。ごくつまらないもの――といってもそれなりに金目のものではあったが――を贈るのにあわれな男爵はいろいろ工夫をこらした。そしてようやく操のかたい女にめぐりあえたことや、自分の長年の夢を実現しえたことをとても喜んだ。この素朴な家庭(これは男爵の言葉だ)に行くと、男爵は自分の家にいるのと同じほど大きな顔ができた。マルネフの亭主のほうは、神さまのようにえらい役所の上官が、黄金の雨と化して女房の頭上にふりかかろうとしているとは露知らぬ顔をして、ひたすらこの尊敬すべき上司のご機嫌をとり結ぼうと、下僕のように仕えていた。
二十三歳の若妻、マルネフ夫人は、清純で気の小さい山の手風の女だ。ドワイエネ通りにうもれていた野の花で、今では男爵に嫌悪の情をもよおさせるだけの娼婦風の堕落や背徳はまるで知らないようだ。ユロ男爵は、これまで、操のかたい女が誘惑と戦うときに発揮する魅力というものについぞお目にかかったことがなかったから、気の小さいヴァレリーは、歌の文句ではないが、「小川づたいにいつまでも」、そのような魅力をたっぷりと味わわせてくれた。
エクトルとヴァレリーとの間柄がこんなふうであった以上、大芸術家のスタインボックとオルタンスとの結婚が近々にとり行なわれるという内輪の話をヴァレリーがユロ男爵から聞いて知ったとしてもだれもおどろくまい。不倫の恋をとげようという恋人と、おいそれとはなびこうとしない女とのあいだでは、気持ちと気持ち、言葉と言葉のあいだに激しい戦いがくりひろげられるものだ。稽古のときの竹刀《しない》にだってときたま真剣の気合いがはいるように、口説《くど》いていると思わず胸のうちの秘密ももらしてしまうものである。そういうときには、ごくごく慎重な男でもテュレンヌ殿〔十七世紀フランスの名将〕の失敗をくりかえすことになる。男爵は、娘さえ結婚してしまえば、何をしようと自分の自由になるとついヴァレリーにいってしまった。それも、ヴァレリーがくりかえし何度も「すっかりわたしたちのものになってくださらない殿がたのためにあやまちを犯すなんて、とてもわたしにはできませんわ!」といったからで、男爵は、愛情のこまやかなヴァレリーのこういう言葉になんとか返事をしないわけにはゆかなかったのである。すでに、男爵は、二十五年以来ユロ夫人と彼との間柄は、何もかも終わりになっていると、何度も誓わせられていた。「だってたいそうな美人だという評判ですもの。証拠を見せていただきたいわ」
「いまに見せてあげるよ」と男爵は、ヴァレリーがだんだんのっぴきならない立場にたちいたったのに気をよくしていった。
「でもどうやってですの? いつもわたしのそばにいてくださればそれが何よりの証拠になりますわ」とヴァレリーが答えた。そういわれると、エクトルは返答につまって、ヴァノー通りにヴァレリーのための新居をかまえるという目下準備中の計画を知らせてやった。それというのも、本来ならばあげて正妻のためにささげられるべき生活の、その半分をヴァレリーにわけ与えよう、それは昼と夜が市民の生活を平等にわけあっているようなものなのだ、というわけをヴァレリーに証拠で示す必要があったからだった。娘さえ結婚してしまえば、体《てい》よく妻を置きざりにして家を出ることができるともいった。男爵夫人は、オルタンスや息子のところへ行ったりきたりして毎日をすごすことになる。柔順な女だから心配はいらない。
「そうなればわしのほんとうの生活も、ほんとうの家庭もヴァノー通りということになるのさ」
「まあ、わたしのことをどうにでも勝手にできる女だと思っているのね」とマルネフ夫人がいった。「夫はどうなるの?」
「あのろくでなしか?」
「あなたにくらべればろくでなしかもしれないわね……」とヴァレリーは笑いながらいった。
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二六 おそるべき暴露
マルネフ夫人は、スタインボック伯爵の話を聞くと、その青年にどうしても会いたくなった。同じ屋根の下に住んでいるあいだに、宝石細工でも彫ってもらいたいと思ったのであろう。ところがこの好奇心はひどく男爵のご機嫌をそこね、もうけっしてスタインボックの顔を見たいなどとは思わぬ、と男爵に誓いをさせられた。この気まぐれな思いつきをきっぱりと捨てるかわりに、セーヴルの古陶器で素焼きの茶道具一式を買ってもらった。ところが、スタインボックに会いたいという気持ちは、備忘録に記したメモみたいなもので、彼女の心のなかから消え去ることがなかった。それである日のこと、自分の部屋でいっしょにコーヒーを飲まないかといってベットをさそってくると、話題をベットの恋人のほうにむけ、安全なやり方でくだんの青年に会える方法はないものか、さぐりをいれてみた。
「ねえあなた」とヴァレリーがいった。「今ではふたりはずいぶん親しい口のきき方をしていたのである。「どうしてあなたはあなたの恋人をわたしに紹介してくださらないの?……あの人がまたたく間に有名になったことはご存知?」
「あの人が有名になったんですって?」
「だってあの人のうわさでもちきりよ」
「へえ、そうなの」
「父の銅像を作ることになってるのよ。その彫刻を作るのについては、わたしも多少のお役に立てることがあるの。わたし、モンコルネ元帥が若くて美男だったころの姿をうつした微細画をもってるのよ。一八〇九年にサンがかいた傑作で、ワグラムの戦いのまえに母に贈られたものよ。モンコルネ夫人はそんなものもっちゃいないわ……」
サンとオーギュスタンは、帝政時代の画壇のふたりの巨匠だった。
「あの人、銅像を作るんですって?」
「陸軍省から注文があったもので、九フィートの大作よ。おやおや、あなたなにをぼやぼやしてたのよ。わたしに聞くまでそんなことも知らないでいたなんて。政府はスタインボック伯爵にグロ・カイユーのアトリエと官舎を与えようとしているのよ。あなたの恋人のポーランド青年は、グロ・カイユーの大理石貯蔵所の所長になるだろうって話だわ。そうなりゃ、二千フランの年俸をもらって、胸に勲章でもぶらさげるようなご身分よ……」
「どうしてあなたそんなこと知っているの? このわたしが知らないでいるのに」リスベットは、ようやくわれにかえってそういった。
「まあまあ、あまり話をいそがせないでよ、ベットさん」とマルネフ夫人はにこやかにいった。「あなたはどんなことがあっても変わらないかたい友情を持つことができる? わたしたちが姉と妹のような間柄になることを望んでくれる? わたしがあなたにたいして秘密を持たないのと同様、あなたもわたしに秘密を持たないと誓ってくれる? わたしもそうするから、あなたもわたしの探偵になってくれる? それから、夫にも、ユロさんにも、だれにもわたしの告げ口をしないと、あなたにわたしがこんなことをいったことも内緒にすると誓える?……」
マルネフ夫人は、闘牛をじらす闘牛士の仕事を途中でやめた。ベットの顔つきが彼女をおびえさせたのである。ロレーヌの百姓女の顔つきはものすごいものになっていた。ベットの黒い射るような目は、虎の目のようにじっと動かなくなっていた。古代ギリシャの巫女《みこ》もかくやと思われるばかりのものすごい形相《ぎょうそう》で、歯がかちかち鳴らないようにぐっとくいしばり、おそろしいほど手足がひきつって、ぶるぶるとふるえていた。やせ細ってかぎ形になった手を布帽子の下にさしいれて髪の毛をつかみ、急に重くなった頭をひっぱりあげていた。全身がもえるようなのだ! ベットの全身にまわった火の手は、彼女の顔の皺から煙を吹き出していた。火山が噴火して山腹の亀裂《きれつ》から煙を噴き出すようなものだ。それは目をみはるような光景だった。
「どうしてだまってしまったの?」とベットはひびきのない声でいった。「これまであの人につくしたくらい、こんどはあなたにつくすわよ。ああ、あの人のためなら血をやってしまってもおしくないほどだったのに……」
「じゃあ、あの人が好きなの?」
「まるでわたしの子供みたいに!……」
「まあ、そうなの」ほっと安心してマルネフ夫人は言葉をつづけた。
「子供を愛するように愛しているだけなら、いいことがあるのよ。だってあの人の幸福をのぞんでいるんでしょう?」
リスベットは、気の狂った人間がよくそうして見せるように、いそいで頭をたてに振ってみせた。
「ひと月のちに、あなたのいとこのお嬢さんと結婚するそうよ」
「オルタンスと?」と老嬢はさけぶと、額をこぶしでたたき、立ちあがった。
「おやまあ、やっぱりあの青年が好きなのね?」とマルネフ夫人がいった。
「ねえあなた、こうなったら生きるか死ぬかの問題よ」とフィッシェル嬢がいった。「もしあなたが浮気をするなら、わたしは骨身をおしまないわ。あなたが悪いことをするのが、わたしにしてみればありがたいことなのよ。わたしにはあなたにして欲しいのよ。悪いことを!」
「じゃあ、やっぱりあの人といっしょに暮していたのね?」とヴァレリーがさけんだ。
「いいえ、あの人の母親でいたいと思ったの……」
「そうなると、わたしにはさっぱりわからないわ。それならあなたはべつにだまされたわけでも、おもちゃにされたわけでもないじゃないの? あの人が立派に結婚できるのを喜ぶはずじゃありませんか。これであの人も出世の糸口をつかんだのよ。それにいまさら後のまつりよ。あの人は、あなたが食事のために外出するとすぐに、毎日、ユロ夫人のところに出かけているんですからね……」
「アドリーヌのところへ!」とリスベットは口には出さずに胸のなかで思っていた。
「いつかきっと仕返しをしてやる。わたしよりももっと醜い女にしてやる……」
「まあ、あなた死人みたいにあおい顔をしているわ!」とヴァレリーがいった。「何かわけがあるのね。……そうだったわ、わたしもばかね。母親のほうも、娘のほうも、この結婚のことをあなたにひた隠しにしていたくらいだから、あなたが結婚のじゃまになるってことは先刻ご承知なわけね。でも、もしあなたがあの青年といっしょに暮していたわけではないのだとすると、何が何だかさっぱりわからないわ。うちの亭主の気持ちよりも、もっとわけがわからないくらいよ……」
「あなたは知らないのよ」とリスベットが答えた。「それがどんなに陰険なたくらみなのか、あなたはわかってないのよ。わたしはとどめの一撃をさされたわ。これで、わたしは魂の奥で傷つけられてしまった。もの心ついてからというもの、わたしはアドリーヌのためにずっと犠牲になりどおしだった。わたしのほうはぶたれてばかりいるのに、あっちは、ちやほやされどおし。わたしは|おさんどん《ヽヽヽヽヽ》みたいな服を着せられているのに、むこうは貴婦人みたいに着飾っていたのよ。こっちは庭を掘ったり、野菜を選りわけたりしてるのに、あちらは、十本の指を動かすときといえば、服をつくろうときぐらいなもの……。そのうちに男爵さまと結婚する、ナポレオン皇帝の宮廷に出て、花とうたわれる。ところがこのわたしは一八〇九年まで、田舎の村にうずもれて四年間も嫁入りの口を待ってたんだわ。ユロ一家はわたしをパリに呼んではくれた。でも、わたしを職人にしたあげく、腰弁だの、門番みたいな顔をした大尉と結婚させようとしたりして、あんまり人をばかにしているわ……二十六年のあいだ、あの一家のおこぼればかりちょうだいしてきたんですよ……。旧約聖書のお話じゃないけれど、貧しい女が一頭の子羊を持っていてその子羊だけを楽しみに暮していたのに、羊の群《むれ》をいくつもいくつももっている金持ちがその子羊をねたんで、こっそり盗んでしまったんです。あらかじめことわりもしないで、ゆずってくれと頼むでもなく、いきなりですよ。アドリーヌはわたしの幸福をすり取っていったのです。アドリーヌ! アドリーヌ! わたしはお前を泥んこのなかにつき倒してやる、わたし以上に落ちぶれさせてやる。オルタンスはわたしがかわいがってやっていたのに、わたしをだました……おまけに男爵は……いいえでもそんなはずはない。ねえ、ヴァレリー、あなたの話のなかでほんとうのところだけをもういちどわたしにいってくれない?」
「まあまあ、落ちついてちょうだいな」
「ええ、落ちつくわ」言いながらこの奇妙な老嬢は、ふたたび腰をおろした。「気を落ちつかせるためにどうしても見せてもらいたいものがあるの。つまり証拠を見せてほしいのよ!」
「だってオルタンスさんがサムソンの群像を持っているのが、何よりの証拠だわよ。ほら雑誌に群像の石版刷りが出ているわ。オルタンスさんは群像を自分の貯金で買ったそうよ。そしてあの人を世間に出し、成功させるためのお膳だてをしたのが、つまり男爵というわけ。未来のお婿さんのために肩入れしたのね」
「水を持ってきて!……水を!」とリスベットは、雑誌の石版刷りの上に目を落してその頁の下に『ユロ・デルヴィー嬢所蔵の群像』という文句を読むとさけんだ。「水! 頭が焼けそうだ! 気が狂いそうだ!」
マルネフ夫人が水を持ってくると、老嬢は布帽子をとり、黒い髪をほどいた。そして知りあって間もないこの友だちが差し出す金《かな》だらいのなかに頭をつっこんだ。そして頭を何度も水にひたしては、頭に血がのぼりそうになったのをやっとしずめた。頭を水で冷やすと、気持ちもすっかり落ちついてきた。
「わたしのいったことは、だれにもひとこともいわないで……ほら、もう平気な顔してるでしょ。もうみんな忘れちまった。たいして気にもかからなくなったわよ!」
「この様子じゃ、あしたあたりはシャラントンの精神病院に行くようだわ」とマルネフ夫人はロレーヌ女の顔をまじまじ見つめながら考えていた。
「どうしたらいいのかしら」とリスベットが口を開いた。「わたしだまって頭を下げてなくちゃならないのかしら。そして、水が低いほうへ流れて行くように、まっすぐお墓まで行かなくちゃいけないの。何を仕出かしてやったらいいの。わたし、あの連中を、アドリーヌだの、娘のオルタンスだの、男爵だのをこっぱみじんにしてやりたいのよ。でも、金持ちの一家をむこうにまわして、わたしみたいに貧しい女に何ができるのかしら……まるで土つぼが金《かね》つぼにぶつかりに行くようなものだわ」
「そうね、そのとおりよ」とヴァレリーが答えた。「まあどこでもいいから、甘い汁は吸えるところから吸っておくことね。それがパリの生活の秘訣よ」
「それに」とリスベットがいった。「わたしももう長いことはないわ。わたしはいつまでもあの子を子供のようにかわいがって、ずっといっしょに暮すつもりだったんだから、あの子と別れてしまえば、もう生きていく張り合いもないし……」
ベットは目に涙をため、そこでふと言葉をきった。しなびてひからびきってしまったこの老嬢が、こんなに心を動かされるのを見て、マルネフ夫人は身をふるわせた。
「あなたと友だちになれたということが、不幸のなかでもせめてもの慰めだわね」とベットはいいながら、ヴァレリーの手をとった。「わたしたち、仲良しになりましょうね。それに別れるはずもないじゃありませんか。あなたと張り合おうってわけじゃなし。わたしはだれに好かれることもないでしょうよ。わたしと結婚しようっていった男たちは、みんなユロ男爵の引きをあてにしてたんですから……。天国にまでもよじのぼって行くだけの精力がありながら、パンや水や古着を手にいれたり、屋根裏部屋の部屋代を払うためにあくせくして一生を終わってしまうのね。ああ、わたしはまるで殉教者みたいなもんだわ。もうすっかりくたびれてしまった」
リスベットはふいにしゃべるのをやめた。そしてマルネフ夫人の青い目をじっとみつめたが、ベットの黒い目は、まるで心臓をつきさす短刀のようにこの美しい女の魂をさしつらぬくかと思われた。
「なぜわたしこんなことをいうんでしょう」とベットは自分で自分を責めた。「わたしこんなにおしゃべりしたことは今までなかったわ。やれやれ、|人をだませばむくいあり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、よ」とベットは子供のつかう言葉をそのまま使っていうとちょっとやすんだ。「あなたのおっしゃることはやっぱり賢明よ。せいぜい抜け目なく立ちまわって、甘い汁を吸えるだけ吸ってやりましょうよ」
「そのとおりよ」とマルネフ夫人はいったが、ベットの興奮にすっかりおびえてしまって、自分で自分のいったことを忘れてしまっていた。「あなたのおっしゃるとおりだと思うわ。人生は長くないんだから、それをなるたけ活用しなくちゃ。他人を利用して自分の楽しみをふやすことね。わたし若いのに、この年でもうそんな気持ちになってるのよ。わたしさんざん甘やかされて育った女なの。ところが、父はわたしを猫かわいがりにかわいがって、王女さまみたいに育てておきながら、出世のためにいまの未亡人と結婚し、わたしのことなぞ忘れたも同然のつれなさだったのよ。かわいそうに母は、子供のころのわたしにははなやかな夢を抱かせてくれたものだけれど、わたしが年俸わずか千二百フランしかない腰弁と結婚するのを見て、泣きながら死んでいったのよ。それも無理はないわ。なにしろ、亭主ときたら、三十九歳の冷酷な道楽じじいで、牢屋のなかみたいに性根はくさりきっているし、わたしをただ出世の道具と思って妻にしたような男ですもの。その点では、わたしもあなたもかわりないのよ。ところがよ、わたしは今ではこの男は世にも理想的な亭主と思ってるのよ。わたしよりか、裏町の汚ない商売女のほうが好きなかわりには、わたしを自由にしておいてくれるもの。月給は自分で全部つかっちまうかわりには、わたしが自分のお金をどう使おうといっさいつべこべいわないもの」
今度はヴァレリーのほうが口をつぐむ番だった。自分の打明け話の調子にのりすぎたと思い、リスベットがあまり真剣な顔つきで話に聞きいっているので、とっておきの秘密をあかすまえにベットの本心をたしかめておかねばならないと考えたようだった。
「こんな話をするのも、あなたを信用しきっていればこそよ」とマルネフ夫人はリスベットにいったが、そういわれたリスベットはひどくたのもしげにうなずいてみせた。
重罪裁判所の宣誓よりも、目つきや、ただうなずくだけの誓いのほうがずっと厳粛なことがよくあるものだ。
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二七 心の秘密
「わたしは、外から見ればどう見ても堅気な女としか見えないわ」とマルネフ夫人は、あたかも誓いをかわすためかのように、片手をリスベットの手の上に重ねながらいった。「わたしは人妻でありながら、しかも勝手きままよ。マルネフが朝役所に出がけに、わたしに言葉をかけて行く気をたまたま起こしたとしても、もしわたしの寝室の戸がしまっていれば、そのまま出かけて行ってしまうくらいなものよ。マルネフは子供をまるで愛してないの。チュイルリー公園の河神像の下のところに、遊んでいる子供をかたどった大理石の彫刻があるわね。わたしがあの大理石の子供をかわいいなと思うほどにも、マルネフは自分の子供を愛してないのよ。わたしが夕飯どきに帰らなくても、夫はけっこう平気で女中といっしょに食事をすませるほど。なにしろ女中はまるで夫の味方なんですものね。夕飯のあとは、夫はおもてに出かけていって、夜の十二時か、一時にでもならなけりゃ帰って来ない始末。残念ながら、一年このかたわたしには自分専用の小間使いがいないの。つまり、一年このかた、わたしはやもめ暮しをしているっていうこと……わたし恋といえば、ただのいちどきりよ、幸福だったわ……金持ちのブラジル人で、一年前に出かけちまったきりだけれど……わたしのただいちどの浮気よ! フランスに永住する気で、財産を売って何もかも整理するためにいったん帰ったんだけれど、どうしたのかしら。帰ってきたらわたしのことどう思うかな。ごみためのようにくさった女。かまやしない。あの人が悪いんで、わたしが悪いんじゃないわ。帰ってくるのがどうしてこんなにおくれるのかしら。もしかしたら、わたしの貞操同様、あの人も難破しちゃったのかしらね」
「さようなら」と突然ベットがいった。「わたしたち、もうけっして別れないわね。わたし、あなたが好きだし、尊敬もしているし、どこまでもつくすつもりよ。ユロ男爵は、わたしをヴァノー通りのあなたの新居にすまわせようとして、いろいろうるさくいってるけれど、わたしことわったわ。だって、一見親切そうな話だけれど、わたしには男爵の腹はちゃんとわかっているんですからね……」
「まあ、そんなことがあったの。わたしをあなたに見張らせるつもりね。きまってるわ」とマルネフ夫人がいった。
「親切そうな申し出にもちゃんとそれなりのわけがあるのよ」とリスベットが答えた。「パリでは、人に恩をかけるといっても、その半分は打算です。恩知らずな行ないのまず半分は、復讐であるのと同じこと。貧しい親戚の女が相手ですもの、ねずみを生け捕るために脂肉をえさにするのと同じ手でくるのよ。わたしこうなったら、男爵のいうとおりにしてやるわ。この家にはもう暮す気がしなくなった。そりゃそうと、わたしたち身のためにならないことをいうほどばかじゃないし、いわなきゃならないことは、ちゃんというくらいの機転はきくわね。いいこと、おたがいさま、秘密厳守でゆきましょうね。そして仲良くやりましょうね……」
「どんなことがあってもよ」とマルネフ夫人はうれしそうにさけんだ。用心棒ともなり、打明け相手ともなり、いわば気のおけないおばさんのような友だちが見つかってうれしかったのである。「ちょいと、ねえあなた、男爵はヴァノー通りの新宅のほうは念をいれてやってるんでしょうね……」
「そりゃそうよ」とリスベットが答えた。
「三万フランも使ったくらいですもの。まったく、ジョゼファ、例のあの歌手ね、ジョゼファにすってんてんにされたくせに、どうやってお金の工面をしたのかしらね。あなたはいい人にぶつかったもんね。男爵は、あなたの手みたいにかわいらしいすべすべした白い手で、心臓をぎゅっとにぎってくれる女のためなら、泥棒くらいしかねない人よ」
「それじゃあ」とマルネフ夫人は、いかにもくよくよしない呑気な女らしくいった。「こうしたら、引越した先で、あなたのお役に立ちそうなものは、なんでもここから持ってったら……このたんすでも、この鏡つきの衣装戸棚でも、絨毯でも、壁紙でも……」
リスベットの目は、気も狂いそうなほどのうれしさで大きく見開かれた。こんな贈り物をもらえるとは、とても信じられなかった。
「金持ちの親戚が三十九年間かけてもやってくれなかったことを、あなたは一瞬のうちにわたしのためにしてくれたわ!」とリスベットはさけんだ。「家具に不足はないかどうかときいてみてくれたこともなかったのよ。しばらく前に、男爵がはじめてわたしの家にきたときなんか、わたしの部屋のお粗末なのを見て、さも金持ちらしくしかめ面をしていたわ……じゃあ、ありがたくいただいとくわ、ありがとう、このご恩返しはきっとしますからね。どうやって恩返しをするか、見ていていただきたいわ」
ヴァレリーは、階段の踊り場までリスベットを送って行き、そこでふたりは接吻しあった。
「まるで蟻《あり》みたいな匂いがしたわ……」とこの美しい女は、ひとりになると思った。「あの人とたびたびは接吻したくないわ。でも、あの人には愛想よくしなくっちゃ。役に立つ人だもの、わたしにひと財産こしらえさせてくれるかもしれないわ」
いかにもきっすいのパリ女らしく、マルネフ夫人は、骨を折って仕事をするのが大嫌いだった。どうしても必要にせまられたときでないと走ったり、とんだりしないめす猫と同じで、のらくらするのが好きだった。この女にとって人生とは遊びでなければならず、遊びとは骨の折れないものでなければならなかった。花が好きだったが、それもだれかが持ってきてくれればの話だった。芝居見物も、自分専用の桟敷があって、そこへ馬車でいけるのでなければいやだった。こういう娼婦|気質《かたぎ》を、ヴァレリーは母親から受け継いでいた。ヴァレリーの母親は、モンコルネ元帥にパリで囲われ、二十年のあいだ、すべての人が彼女の足もとにひざまずくのを見てきた。浪費家で、贅沢三昧な生活におぼれ、何もかも蕩尽《とうじん》し、何もかもまきちらした。こういう派手な暮し振りはナポレオンの没落以後、とんと見かけられなくなった。帝政時代の高官たちは生活の野放図な点では、昔の大名たちにもひけをとらないくらいだったのである。
王政復古時代になると、貴族たちは、大革命のときにうちのめされ、略奪されたことが忘れられず、二、三の例外をのぞくと、諸事につけしまりやで、おとなしく、先のことまで心配するようになった。要するにブルジョワ的になって、大きいところがなくなったのである。それから、一八三〇年の革命が、一七九三年の革命がはじめた仕事を完成した。今後、フランスには、偉大な個人はあっても、名門富貴というものはなくなるだろう。政治上の変革でもあれば別だが、それもちょっとありそうにない。フランスでは何もかも個人の刻印をもつようになった。もっとも慎重な連中の財産にしてもせいぜい一代限りである。家というものは破壊されてしまったのだ。
貧困に羽がいじめにされ、かみつかれて血を流していたヴァレリーは、亭主のマルネフの言い方をもってすると、ユロを|ものにした《ヽヽヽヽヽ》日、自分の美貌を金もうけのための道具とすることに心をきめたのであった。それで、しばらくまえから、マルネフ夫人は死んだ母親の流儀にならって、自分のかたわらに、気心の知れた女友だちが欲しいと思っていた。小間使いにもいえないようなこともいえる女、自分のために、行ったりきたり、動いたり考えたりしてくれる女、つまり割にあわない人生の分け前に甘んじてくれるような奴隷的な人間、そういう女が欲しかったのだ。ところで、ヴァレリーは、男爵が自分とベットとを交際させたがっているのはどういうわけかをリスベットが見抜いたのと同じほど正確に見抜いていた。長椅子に寝そべったまま何時間でもぶらぶらしていて、そのあいだに人の心や、感情やたくらみの暗いすみずみにまで観察の角燈で照すのに余念のない女だった。こういう型のパリ女特有のおそるべきそう明さのおかげで、敵方の間諜を自分の味方にする方法をあみ出すことができたのだ。
もしかすると、オルタンスの結婚に関するあのおそるべき暴露もあらかじめ考え抜かれたものだったかもしれない。ベットという熱情的な女、熱情を注ぐ相手がいなくてからまわりしているこの女の真の性格をちゃんと見抜き、そしてその女を自分の手下にしようとしたのだ。だから先刻の会話も、旅人が、淵《ふち》の深さを測ろうとして谷底に投げてみる石のようなものだった。そして、つつましく、こわいところなんかまるでないこの女のうちに、イヤゴーとリチャード三世をいっしょにしたような心を見出して、おそれおののいたのである。
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二八 ベットの変貌
一瞬のうちに、ベットは自分自身となった。一瞬のうちに、このコルシカ人と野蛮人の性格をあわせもったような女は、彼女の個性をたわめていたわずかな束縛をふりきった。ちょうど、子供が樹の上についたままになっている青い果実を盗もうとして、折り曲げた樹の枝が、子供が手をはなすとすぐに、もとの高さにもどるように、ベットの性格は、本来のおそるべき高さへともどってしまったのだ。
およそ世間の人情風俗を観察するほどの人ならだれでも、童貞の男女は、頭のはたらきが完全で、迅速で、しかも完璧なことに感心しないような人はいないだろう。
童貞には、あらゆる畸形《きけい》なものと同じように、独特のゆたかさと、強烈な偉大さとがある。生命は、その力が節約された結果、童貞の人にあっては、抵抗力と、はかりしれないほどの持続力を持つようになる。頭脳は、余力がつもりつもってたいへんゆたかになっている。純潔を守る人が、自分の体力なり精神力なりを必要とするとき、行為や思索の力をかりようとするとき、筋肉のうちに、鋼鉄を見出し、知性のうちに、先天的な知恵を見出す。それは悪魔的な力であり、意志の魔法なのである。
この点に関して、処女マリアをしばらく単なる象徴としてのみ考えるならば、処女マリアはまことに偉大であって、インド、エジプト、ギリシャのすべての女性の典型を凌駕《りょうが》している。万物の母〔magna parens rerum〕である処女性は、その美しく白い手に、天上界へいたる扉の鍵を握っている。要するに処女性という壮大でおそるべき例外的な現象は、カトリック教会がそれに与えている栄誉に値するねうちを持っているのだ。
ベットは、一瞬のうちにモヒカン族のような女となった。モヒカン族の罠《わな》をよけて通ることはむずかしく、その秘密をさぐることは困難であって、その電光石火の決断は体の諸器官の異常な発達に由来している。ベットは憎しみと復讐の権化《ごんげ》となったが、その憎しみと復讐とは、イタリアやスペインや東方諸国におけるように、妥協を知らぬものであった。この二つの感情は、裏をかえせば、絶対的なものとなった友情であり、愛情なのだが、これは、太陽の光にゆたかにめぐまれた国々にしか見られないものである。しかしリスベットは、あくまでもロレーヌ地方の女だった。つまり、どんなことがあっても、相手にいっぱいくわさなければ気がすまなかった。
もっとも、さすがのベットにしても自分の演ずべき役割の最後の部分をすすんで演じようとしたわけではない。ひどい無知のせいで、彼女はまず奇妙なことを企てた。ベットは牢獄とは、子供が想像するとおりのものと思いこんでいた。そして禁固とたんなる拘留とを混同していたが、禁固刑とは、刑事犯にのみ適用される重い刑罰なのである。
マルネフ夫人のところを出ると、リスベットは、リヴェ氏のところにかけつけた。リヴェ氏はおりよく書斎にいた。
「リヴェさん」とリスベットは書斎のドアに錠前をかけてからいった。「やっぱりリヴェさんのおっしゃったとおりでしたわ。ポーランド人なんて……悪党ばかりですわねえ……みんな信仰も義理もない連中ですわ」
「ヨーロッパに火をつけようとしている連中だよ」と平和主義者のリヴェ氏がいった。「祖国のためには、全ヨーロッパの商業を崩壊させてもかまわんと思っているのだ。しかも、その祖国ときたら、沼地だらけで、コサックや、百姓はもちろんのこと、おそろしいユダヤ人がうようよしているというじゃないか。コサックだの、百姓だのは、まちがって人類のなかにいれられた残忍な野獣なのだよ。ポーランド人には、今の時代がわかってないのだ。われわれ現代人はもう野蛮人じゃない。戦争は過去のもので、王たちとともに姿を消しちまったものなのさ。現代とは、オランダをして今日あらしめたもの、つまり商業と工業と、ブルジョワ的英知の時代だ。そうですとも」と、リヴェ氏は、話に夢中になってつづけた。「今や、どの国の国民も、自由の合法的な発展によって、いっさいをえなければならん時代だ。また立憲的な制度の平和的運営によって、いっさいを獲得せねばならん時代だ。そこのところがポーランド人はわかっていない……ところで何のお話でしたかな、ベットさん」とリヴェ氏は、高級な政治論をやったところで、ベットにはいっこうにわかりそうにもないと、ベットの様子でわかったので、話を途中でやめた。
「書類をもってきましたわ」とベットは答えた。「わたしがせっかくためた三千二百十フランをなくしたくないからには、あの悪人を牢屋にいれるしかありませんから……」
「それごらんなさい。わたしのいったとおりですよ」とサン・ドニ地区の予言者はいった。
リヴェ商会は、ポンス兄弟商会のあとを継いだもので、ひきつづきモーヴェーズ・パロール通りのもとランジェ家の邸だった建物の一角に店をはっていた。むかし、大名たちがルーヴル宮のまわりに住んでいたころに、この由緒ある名家によって建てられた家である。
「だからここへくる道々、リヴェさんの祝福を祈っていましたわ」とリスベットが答えた。
「むこうが何にも気づかないでいりゃあ、明け方の四時からでも牢屋にほうりこめるよ」と商事裁判所の判事は、日の出の時刻を暦で調べながらいった。「それでも、そりゃ明後日のあけ方のことだがね。なぜなら、民事拘束によって支払命令を執行すべく逮捕する旨を、あらかじめ通告してからでないと投獄できないことになっているからな。だから……」
「なんてばかげた法律でしょう」とベットがいった。「だって、そのあいだに債務者は逃げてしまうじゃありませんか」
「逃げる権利はあるわけですな」と判事は笑いながらいった。「だからこうすればよい……」
「それならわたしが通知状をもって行きますわ」とベットが判事の言葉をさえぎっていった。「どうしてもお金を工面する必要にせまられて、貸主のいうとおりこんな書類を作ったといって。あのポーランド人の性質はよくわかってますもの。書類をあけてみることもしないで、パイプに火をつけるのに使っちまいますわ」
「そりゃ悪くない。悪くない思いつきですな、フィッシェルさん。そういうわけなら、ご安心なさい。この件は簡単に片づきますよ。しかしちょっと待ってくださいよ。牢屋にほうりこめばそれでいいというもんじゃありませんぜ。お金を返させたいばっかりに、ご苦労なことだが、わざわざ牢屋へなんぞはいってもらうんだから。だれに借金を返させるつもりです?」
「あの人にお金をやっている人にですわ」
「ああ、そうでしたね。陸軍大臣がうちのおとくいだったモンコルネ元帥の銅像を、あの人に注文したんでしたっけ。モンコルネ元帥には、ずい分軍服をおさめましたよ。なにしろ大砲の煙で、新調したと思ったらもうまっ黒にしちまうんだから! 勇敢な軍人でしたな! しかも支払いは几帳面《きちょうめん》で!」
元帥はナポレオン皇帝の命を助け、祖国を救った人だ。商人にいわせれば、「支払いが几帳面だった」というくらいが元帥にたいする最大の讃辞になるのだ。
「じゃあ、リヴェさん、金モールの平総《ひらふさ》は土曜日までに仕上げますから。それから、わたしドワイエネ通りは引き払ってヴァノー通りに引越すことにしましたの」
「そりゃよかった。あんな穴ぐらみたいなところに暮しているのをお気の毒に思ってましたよ。わたしはね、政府に反対するようなことは言いたくないんだが、しかしありゃあルーヴル宮の面よごしですよ。カルーゼル広場もあれじゃあ台なしだ。わたしはルイ・フィリップ王は大好きですよ。崇拝しています。王は、ブルジョワ階級を基礎として王朝を建設されたが、王こそ、そのブルジョワ階級の尊厳な、正確な代表者ですからな。ルイ・フィリップ王が、国民軍の制度を復活されて、金モール製造業のためにつくされたことは、忘れようたって忘れられるもんじゃない……」
「お話をうかがっていると」リスベットがいった。「あなたは、どうして代議士にならないのかと不思議に思いますわ」
「王室にたいするわたしの敬愛の念が警戒心を呼ぶんでしょうな」とリヴェが答えた。「わたしの敵は、すなわち王の敵ですよ。ああ、まったくじつに高邁《こうまい》なご気性だ。しかもなんと立派なご一家だろう。要するに」とリヴェは議論をつづけた。「王は我々の理想だ。その品性といい、質素なお暮しといい、すべてわれわれの理想だ! しかしルーヴル宮の完成は、われわれがルイ・フィリップ王にご即位をお願いしたときの条件のひとつだった。いかんながら、王室費の内容を確定しておかなかったために、パリの中心はいぜんとして嘆かわしい状態にある……わたしが、パリの中央が面目を一新するのを願ってやまないのは、わたし自身、政治的には中央穏健派に属するからでもある。あなたの今住んでいるところは、まったくぞっとさせる。ぐずぐずしていると、人殺しにでも出会うのがおちです。……ところであなたのお知り合いのクルヴェルさんが、国民軍の大隊長に任命されそうだが、ひとつ大きい肩章をご注文願いたいもんですな」
「こんばん、クルヴェルさんのところでお食事することになっていますから、話しておきますわ」
リスベットは、リヴォニア青年を牢屋にいれて、世間との交渉を絶ってしまえば自分のものになったも同然であると思いこんでいた。仕事をしなくなれば、世間からも忘れられ、地下の穴倉におしこめたのと同じことになる。彼に会いに行くのは自分ぐらいなものだ。こんなふうに考えたので、リスベットは、二日ばかりは楽しい気持ちでいられた。男爵夫人とオルタンスに致命的な打撃を与えることになると思ったのである。
ソーセー通りに住むクルヴェル氏のところに行くのに、ベットはカルーゼル橋を渡り、ヴォルテール河岸とオルセー河岸を通り、ベル・シャッス通り、ユニヴェルシテ通りを抜けて、最後にコンコルド橋とマリニー大通りを歩いて行った。どう見ても理屈にあわないこの道順は、情熱の理屈から選んだもので、情熱はいつも足の敵である。リスベットは河岸を通っているあいだ、セーヌ河の右岸のほうを目で追いながらゆっくり歩いていった。彼女の思ったとおりだった。家を出る前に、ヴェンツェスラスに服をきかえる余裕を与えておいたから、彼女から解放されるとすぐに、さっそく、近道を通って男爵夫人のところにかけつけるに相違ないとにらんでいたのだ。はたして、河のほうをじっと見張り、思いを河の向う岸にはせながら、ヴォルテール河岸の胸壁ぞいに歩いていくと、ロワイヤル橋を渡ろうとしてチュイルリー通用門を抜けようとする彫刻家の姿が目にはいった。ベットは、ロワイヤル橋のところで不実な男に追いつき、気がつかれずに、後からつけてゆくことができた。恋する男というものはめったにうしろを振り向かないものだからである。リスベットは、ユロ夫人の家の前までつけて行き、ヴェンツェスラスがいかにも通《かよ》いなれている男といった様子でその家のなかにはいっていくのを見とどけた。
マルネフ夫人の話を裏書きするこんな情景を目にして、ベットは気も狂わんばかりに興奮してしまった。最近、国民軍の大隊長に選ばれたばかりのクルヴェルの家にたどりついたとき、ベットは人殺しでもやりかねないほど、いらだった気持ちのままだった。クルヴェルは、客間で子供たち、つまりユロ家の若夫婦のくるのを待っているところだった。
ところで、セレスタン・クルヴェルという男は、パリの新興成金のうちでもとくに典型的な人物で、正真正銘の成りあがりものとしか言いようのない人間である。だからセザール・ピロトーのこの幸福な後継者の家のなかに、前置きもなしに、いきなりずかずかとはいって行くわけにもゆくまい。セレスタン・クルヴェルは、彼だけで優にひとつの世界である。したがって、この物語のなかにくりひろげられる家庭劇で、彼がはたす役割の重要さからしても、リヴェ氏以上に、ふんだんに絵具を使って、彼の姿を描いてやる必要がある。
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二九 クルヴェル氏の生活と意見
子供のころ、あるいは世間に出て間もないころ、人は、自分でもそれとは気づかずに自分の生活上のお手本をつくりあげるものだということに、お気づきになったことはないだろうか。たとえば、銀行員は、頭取の家の客間にはいるたびごとに、自分もいつかはこんな客間がほしいものだと思ったりする。二十年たち、かつて平の銀行員だった男が、運よく出世して、さて自分の家の客間をかざる段になると、その男が客間に持ちこむのは、流行の装飾品ではなく、かつて彼の目を幻惑したが今ではもう時代遅れになってしまった装飾品なのだ。過去の羨望にもとづくこうした愚かなことをあげてゆけばきりがない。自分勝手にきめたお手本を模倣しようとして躍起となり、月みたいに他人の光で自分の姿を輝かせようとして、競いあい、狂奔する。まことに狂気のさたというべきだが、案外に知られていない事実である。
クルヴェルが区の助役になったのは、昔、主人のセザール・ビロトーが助役をやっていたからだ。国民軍の大隊長になったのも、主人の肩章がうらやましくてたまらなかったことがあったからである。クルヴェルには、主人のビロトーが盛運にのって、建築家グランドの設計になる豪壮な邸宅を建てたのを見て驚嘆したことがあった。だから、クルヴェルは、自分のアパルトマンを装飾する段になると、彼自身の言葉をかりていえば、「一も二もなく」、目をつぶり、財布をあけて、グランドに設計を依頼した。ところが、クルヴェルの時代には、グランドは世間からすっかり忘れられた存在だったのである。名声は、いっぺん消えたあとでも、時代おくれの崇拝者のおかげで、案外あとをひくものである。
グランドは、依頼を受けるとこれが千度目の、相も変わらず、金色と白色にかざられて赤いダマスカス織りの壁かけのかかった客間をつくりあげた。これといってこったところもない、ありきたりの日用品のような簡単な彫刻で、紫檀製の家具だったが、それでも工業博覧会のころには、地方にたいするパリ工業界の当然の誇りの種となったものだ。燭台、椅子の腕、暖炉の灰受け、シャンデリヤ、振子時計など、いずれもロカイユ式のものだった。客間のまん中にどっかりと置かれた大理石の丸テーブルには、イタリアのや、古代のや、あらゆる種類の大理石がはめこまれていた。これはローマからとりよせたもので、ローマでは、服屋の見本のようなこんな鉱物標本をつくっているのである。このテーブルは、クルヴェルを訪れるブルジョワたちが月にいちどはかならずほめる品物だった。
亡くなったクルヴェル夫人とクルヴェル自身とクルヴェルの娘とその夫の肖像が、いずれも対《つい》をなして壁にかかっていた。肖像画の作名はブルジョワたちのあいだで評判の高いピエール・グラスーであるが、クルヴェルが何かにつけてバイロン風の気どったポーズをして見せるのも、この画家の描く人物たちにそんなポーズをしているものが多いせいだ。額縁は、ひとつ千フランもする贅沢品だったが、この客間のカフェ風のけばけばしい調度によく似合った。ほんとうの芸術家が見れば、肩をすくめるにきまっている代物《しろもの》である。
金持ちというものは、自分の愚かさを示す機会があれば、それをめったには逃さないものだ。パリの商人には、小金をためて隠居するものが多いが、もし彼らにイタリア人のように偉大なものにたいする本能があったら、今ごろパリにはヴェネチアの町が十ぐらいできていることだろう。今日でも、ミラノの商人ならば、大聖堂《ドゥオモ》の丸天井を飾っている巨大な聖母マリア像に金箔をかぶせるために、五十万フランぐらいは平気で遺贈することだろう。カノーヴァは遺書のなかでは、四百万フランの教会を建立《こんりゅう》するように弟に命じている。しかも弟は、いくばくかの私財もさいて、その建設事業にあたったのだ。パリのブルジョワたちは(いずれも心の底では自分たちのパリを愛する気持ちを抱いているのだが)、ノートル・ダム寺院の塔にあるべくしてない鐘楼を建てることに考えおよんだことがあったろうか。ところで、相続人がないために国家のものとなる財産がどのくらいの額に達するものか勘定してみていただきたい。クルヴェルのような人間が、ここ十五年来、ろくでもないボール細工や、金ぴか装飾や、まがいものの彫刻についやした費用をもってすれば、パリの町はことごとく美化されていたはずである。
客間を出たところには、プールまがいのテーブルと戸棚をおいた豪華な書斎がしつらえてある。
ペルシャ更紗《さらさ》を一面にはりつめた寝室も、やはりこの客間につづいている。食堂はマホガニーずくめだが、みがきがかかりすぎていて雰囲気を台なしにしている。スイスの風景が、贅沢な額ぶちにおさまって壁を飾っている。スイス旅行は、かねてからのクルヴェル老人の夢で、じっさいにスイスを見物に行くまで、せめて絵でなりと、この国を自分のものにしておきたいと思っていたのだ。
もと助役、レジォン・ドヌール勲章拝領者、国民軍士官などの肩書を持つクルヴェルは、ごらんのように不幸な先輩〔クルヴェルの主人だったセザール・ビロトーのこと。『セザール・ビロトー』の主人公で、一八一九年に破産した〕の豪奢な生活ぶりを、家具の類にいたるまで模倣した。王政復古時代になって、たちまち没落してしまう人間があるかと思うと、他方、それまではだれにも顧みられなかった人間が、急に頭角をあらわしたりした。これは運命の偶然のなせる業《わざ》というよりも、むしろ事の成行《なりゆ》きのしからしめるところといったほうがあたっている。革命の時代は、暴風の吹きあれる海と同じことで、しっかりとした価値を持ったものは、底のほうへ沈んで行き、目方の軽いものが、波間にただようことになるのだ。セザール・ビロトーは、王政復古時代は王党派で、時流に乗って人に羨まれ、反対派のブルジョワたちから目の敵《かたき》にされた。そして今や、クルヴェルが、勝ち誇ったブルジョワ階級の代表者格の人物に成りあがったのだった。
家賃が年額三万フランもし、お金で手にいれることのできるありとあらゆるくだらない装飾品でいっぱいになったこのアパルトマンは、中庭と裏庭にはさまれた古い邸宅の二階をしめていた。そこでは何もかも、ちょうど鞘翅《しょうし》類が昆虫学者によって保存されるような具合に、保存されていた。というのも、クルヴェルはめったにここに住んだことがなかったからである。
この豪奢な住宅は、野心満々たるブルジョワ、クルヴェルの表向きの住居であった。料理女と従僕をひとりずつ使っていたが、政治上の友人や自分のお大尽ぶりを見せつける必要のある人間を招待するときとか、あるいは親戚のものを呼んだりするときには、さらにふたりばかり臨時の召使いを雇いいれて、シュヴェ料理店から豪勢な料理を運ばせるのだった。クルヴェルの生活のじっさいの本拠は、エロイーズ・ブリズトゥー嬢のところで、もとノートル・ダム・ド・ロレット通りにあったものだが、今ではショーシャ通りに引き移っていることは、さきに述べたとおりである。もと商人(隠居したブルジョワはきまって自分たちのことを|もと商人《ヽヽヽヽ》と呼ぶ)のクルヴェルは、毎朝二時間はソーセー通りの自宅で商売上の事務を片づける。そして残りの時間は、あげてザイール嬢のために使うわけだが、これにはザイール嬢もほとほとまいってしまうのだった。オロスマーヌ=クルヴェル〔オロスマーヌはヴォルテールの悲劇『ザイール』の主人公。ザイールに恋するマホメット教国の君主〕は、ザイール嬢とごくごく|手堅い《ヽヽヽ》取引きをつづけている。つまり彼女は、月々、五百フランの歓楽費を、くり越し勘定なしで、もらっていた。クルヴェルは、そのほか、晩飯の費用と、そのほかに臨時費もすべて出した。彼は、ふんだんに贈り物をしたから、この契約は、プレミアムつきであったが、それでもむかし、歌姫のジョゼファをかこっていたころのことを考えれば、いたって安あがりに思われた。自分の娘をかわいがるあまり、やもめ暮しをかこっている商人に会うと、クルヴェルは、馬を専用のうまやに置いておくよりは、月ぎめで馬を借りたほうがよいというのが常であった。しかし、ショーシャ通りの門番がユロ男爵にいったことを思い出してみれば、借り馬を愛用するクルヴェルにしたところで、御者や馬丁の費用まで節約するわけにはゆかなかったことがわかる。
こういう次第で、クルヴェルは、娘にたいする愛情を自分の享楽のためにうまく利用したのであった。彼の不道徳な生活も、高尚な道徳的理由によって正当化されていたのだ。それに香水商あがりのこの男は、こうした生活(やむをえない生活、すさんだ生活、摂政時代風の生活、ポンパドゥール風、またはリシュリュー元帥風の生活)から、うわべだけではあったが、いかにもひとかどの人物らしい外観をひき出していた。クルヴェルは、もののわかった男、小粒ながらひとかどの大名、けちけちしない太っ腹な人物としてふるまった。しかも、その元手は月にわずか千二百フランから千五百フランというのだから安あがりである。なにも政治上の野心があってわざとこんな生活をしているのではない。ブルジョワ的な見栄からやっているにすぎないのだが、結果は同じことである。株式取引所では、時代に先き駆ける男としてとおっていたし、なによりも道楽者としてとおっていた。
そして、道楽にかけては、先代のビロトーじいさんよりは自分のほうがはるかにうわてであると、クルヴェルは思いこんでいた。
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三〇 クルヴェル氏の生活と意見(続き)
「やれやれ」とクルヴェルは、ベットの顔を見るが早いか、腹立たしげな口調でどなった。「あんたは、大事な青年伯爵をユロの娘と結婚させるつもりらしいね。あの青年をわざわざ親身に世話をしたのは、ありゃなにかい、ユロ男爵令嬢と結婚させるためだったのかい」
「それでは迷惑だとでもおっしゃるの?」とリスベットは、クルヴェルのほうに鋭い目つきをむけていった。「クルヴェルさんは、オルタンスの結婚のじゃまをして何の得をなさるの。だって、人の話じゃ、ルバさんの息子との結婚話も、あなたのせいで破談になったというじゃありませんか」
「あんたは好い人だ。それに口もかたい」とクルヴェルはいった。「だからこそいうんだが、ユロ殿がわしのジョゼファを横どりしたのを、このわしが許すとでも思っているのかね。わしが、老後になったら結婚しようと思っていた堅気の娘をだね、あばずれの、いかさまの、オペラ・ガールなんぞにしやがって……とてもじゃないが許せんわい」
「でもユロさんは悪い人ではありませんわ」とベットがいった。
「如才のない男だよ。ひじょうに……いや如才がなさすぎる。かくべつわしはあの男にうらみを持っているわけじゃあない。ただ仕返しをしたいのさ。かならず仕返しをしてみせる。こりゃわしの執念なのだ」
「あなたがユロさんのお宅においでにならないのは、そのためですの?」
「まあね……」
「ああ、わかったわ。じゃ、あなたはわたしのいとこを口説こうとしたんでしょう」とリスベットはにやりと笑いながらいった。「そんなこったろうと思ってたわよ」
「ところが、このわしは犬畜生同然のあつかいを受けた。犬どころか、むしろ従僕だ。いやむしろ犯人あつかいといったほうがいい。しかしきっとどうにかしてみせるぞ」とクルヴェルは、こぶしを握りしめ、額をたたいていった。
「女に逃げられたあげく、奥さんに浮気されたんじゃ、ユロさんもお気の毒なこと」
「ジョゼファがユロを袖にしたって」とクルヴェルが大声をあげた。「たたき出したのか、追いだしたのか、でかしたぞ、ジョゼファ。おまえはわしの仕返しをしてくれた! さすがはわしの女だっただけのことはある! 耳飾りに真珠を二つ贈ってやるぞ!……ちっとも知らなかった。アドリーヌに呼ばれた日の翌日、わしはおまえに会ったが、それからコルベイユのルバ家へ行って、ついきのう帰ってきたばかりだから、エロイーズの奴、どうしてもわしにいなかへ行けと言いおってきかなかった。いや、そのわけはわしにもわかっておった。わしのいないところで、芸人や、大根役者や、文士たちを呼んで、ショーシャ通りの転居祝いをしたかったのさ。わしはまんまといっぱいくわされたようなもんだが、まあよい、大目に見ておこう。なにしろあれはおもしろい女だ。いうなれば、かくれたるデジャゼ〔当時の有名な女優〕だ。まったく傑作な女だ。昨晩、先に帰ってみたら、あれからこんな手紙がきていた。
『親愛なるおじいさま、わたくし、ショーシャ通りにテントを張ることにしました。友だちを呼んで新宅のほこり払いをすませました。万事好調です。お好きなときおいでくださいませ。ハガル〔旧約聖書中のアブラハムの妻〕はアブラハムを待っておりますから』
エロイーズにきけば、およそのことはわかるこったろう。なにしろジョゼファのことならば、何でも知ってる女だからな」
「でもユロさんは、あんな女とわかれてよかったと、かえって喜んでますよ」
「そんなはずはないね」といって、クルヴェルは時計の振子のように同じところを行きつもどりつしていたのだが、ふと歩くのをやめた。
「ユロさんもそろそろお年ですからね」とリスベットは、意地悪くいった。
「そりゃあわかっている。しかしあの男はある意味じゃわしにそっくりなところがある。つまりユロは女なしじゃ生きてゆけんのさ」とクルヴェルはいった。「しかしあの男、女房のところへもどるかもしれんな。あの男らしくないやりかただが、それじゃあ、こっちの復讐はおじゃんになる。おや、フィッシェルさん、笑っているじゃないか。あんた何か知っているね」
「クルヴェルさんの考え方がおかしいからよ」とリスベットが答えた。「そうね、アドリーヌはまだきれいだから、男に惚れられても不思議はないわ。わたしが男だったら、あの人に惚れるわ」
「いちど覚えた味は忘れられんものだよ。ユロが女房のところにもどったなんて冗談もいいかげんにしろ。男爵はかわりの女を見つけたんだろう」
リスベットは、そうだというしるしにうなずいて見せた。
「さっそくジョゼファのかわりができるなんて、あいつも運のいい男だな」とクルヴェルがつづけた。「といっても、べつにおどろかんがね。なにしろユロは若いころ、わしといっしょに夜食をとりながらいったもんだ。女っ気のなくならないように、いつも三人の情婦を用意することにしているとね。ひとりは捨てかけている女、ひとりは現役、ひとりは将来のために機嫌をとっておく女だという話だった。蓮っぱ娘のひとりやふたり生簀《いけす》に飼っておいたろうさ。あいつの放鹿園《パルコ・セール》〔ルイ十五世が寵姫を住まわせた〕にね。あいつはルイ十五世式だからな。なかなかやるよ。ま、美男に生まれてしあわせな男だ。だが、あいつも老《ふ》けた。顔の小皺は隠せんものだ。どうせこんどの女は、しがない女工かなんかだろう」
「とんでもないわ」とリスベットが答えた。
「ああ」とクルヴェルがいった。「なんとかしてあの男から一本とってやりたいもんだ。ジョゼファを取り返そうとやってはみたが、うまくゆかなかった。ああいう種類の女というものは、初恋の男のところにはもどってこないんだな。それに下世話にいうじゃないか、よりをもどしたところで恋じゃない、とね。だがなあ、ベットさん、あの色男から女を取りあげて、こちとら国民軍大隊長で、将来はパリ市長にもなろうっていう、腹もできてりゃ、頭もあるひとかどの人物だ、ってことを証拠だてることができるとなりゃあ、たっぷり奮発しますぜ。はっきりいえば、五万フランは出してもいいね。とにかくこっちとしちゃあ、飛車《ダーム》をとられた以上、歩《ふ》ぐらいならして王手とゆきたいところだ……」
「わたしの立場としては」とベットが答えた。「何もかも聞いたうえで、知らん顔しているよりほかしょうがないわ。心配しないで何をおっしゃってもよろしいのよ。打明けられたことは、ひとことだって人に申しません。いままでそうしてきたのですから、クルヴェルさんとの場合にかぎって、自分のやりかたをわたしがかえるわけもないでしょう。そんなことをしたらだれにも信用されなくなりますわ」
「わかってますよ。あんたはオールド・ミスのなかじゃまず上出来の模範的人物だからね。でもねえ、いくら模範的人物だって、たまには例外をこしらえてもいいじゃないか。ところで、ユロ家じゃ、あんたに年金を作ってくれたってこともないようだが……」
「だって、わたしにも自尊心がありますもの、だれにも負担はかけたくありませんわ」とベットがいった。
「なるほどな。もしあんたが、わたしの復讐の手助けをしてくれたら、あんたに元金一万フランの終身年金を出すがどうかね。ジョゼファの後釜《あとがま》に坐ったのはだれかね。そいつをいってくれりゃあ、あんたは、家賃と朝食代ぐらいは払えるだけの金が手にはいるんだぜ。あんたの好きなコーヒーも飲める……純モカのコーヒーだって飲めるんだぜ。純モカはうまいからな」
「元金一万フランの終身年金というと、年に五百フランぐらいのお金がもらえることになるけれど、それよりわたし、口がかたいという評判のほうが大事ですわ。だってクルヴェルさん、考えてもごらんなさいな、ユロ男爵はわたしには、とても親切にしてくださるのよ、家賃も払ってくださるそうだし……」
「まあ、さぞかし長つづきすることだろうね。せいぜいあてにするがいい。それにしてもあの男、いったいどこで金を工面するんだろう」
「そんなこと知りませんわ。とにかく三万フラン以上は使ってますわね。あの奥さんを住まわせるアパルトマンの費用に……」
「奥さんだって! へえ、するとそれは上流の女かい。けしからん奴だ。女という女をみんなひとりじめにしやがって!」
「人妻で上品な方」とベットがいった。
「ほんとうかい」とクルヴェルは目をむいたが、その目は「上品な方」という魔術的な言葉を聞いて、たちまち物欲しげな輝きを帯びてきた。
「ほんとうですとも。才があって、音楽ができて、二十三歳の若さで、あどけないきれいな顔、目のさめるような白い肌、子犬のような歯ならび、星のような目、立派な額……それに小さなかわいい足、まるでコルセットの張り骨ぐらいしかないんですの、あんなきれいな足は見たこともないわ」
「じゃあ耳は?」とクルヴェルはたずねたが、この男は美女の人相書を聞いているうちに、急にはしゃぎだしてきた。
「型にでもとっておきたいほど良い格好よ」
「じゃあ手も小さくてかわいいだろう?」
「ひとことでいっちまえば、何から何までかわいくて、きれいで、それに性質が良くて、つつましやかで、心のやさしい方! 気性の立派な、天使のような人で、しかも品がある……それもそのはず、なにしろ元帥の娘ですもの……」
「元帥だって?」クルヴェルはそうさけぶとものすごい勢いでとびあがった。「畜生! あいつめ、やりやがったな! なんてことだ! いやどうも、ベットさん、これは失礼。しかし、わしは気が狂いそうだ。こうなったら十万フランでも出すぞ!」
「まあ、そうですの。もう一度念のために申しますけれど、まじめで貞淑な人なんですからね。男爵はやり方がお上手でしたわ」
「だって、あの男は一文なしだぜ」
「ご亭主のほうをひいきにしてやったんですよ」
「どういう方法で?」とクルヴェルは言いながら、無念そうな笑いをうかべた。
「もう次長に任命してもらったんですから、夫としても悪いようにはしないでしょうよ。それに勲章ももらえるようになってますしね……」
「政府はもっと注意しないといかんな。やたらに勲章をばらまいたりしないで、受勲者にもっと権威をもたせなければいかん」いかにも公益をおもんばかっているような口調で、クルヴェルは腹を立ててみせた。「それにしても、あのおいぼれ男爵のどこがいいんだろうな。わしだって、あの男にひけをとるとは思えんのだが」とクルヴェルは、言いながら、鏡に自分の姿を写し、ポーズをつくった。「エロイーズはよくわしにいったもんだ。しかも女が嘘をつく心配のないようなときにな。あなたは素敵だわ、とね」
「なるほどね」とベットが答えた。「女はふとった人が好きなのですわ。人のいいかたが多いですもの。クルヴェルさんと男爵とくらべたら、わたしなら、クルヴェルさんのほうがいいわね。ユロさんは、才気もあって好男子だし、押し出しも立派だけれど、クルヴェルさんのほうが、しっかりしているもの。それに……そうそう、クルヴェルさんのほうが、ユロさんよりもずっと|わる《ヽヽ》に見えますもの!」
「女というものは、信心深い女までが、そういう男が好きなんだからおそれいる」とクルヴェルは言いながら、ベットの腰を抱いた。それほど悦にいっていたのである。
「まあそんなことは、どっちみちたいしたことじゃありませんわ」とベットはつづけた。「それより、そんなにいろいろ世話になっている以上、女の身になってみれば、ちっとやそっとのことでパトロンを裏切るようなまねはしたくないでしょうね。十万フランやそこらは出さなきゃ、無理ですわ。なにしろ、二年もすれば、亭主が部長になるというので、奥さんのほうもすっかり楽しみにしているんですから……あの天使のようなかわいらしい奥さんが、堕落したのも、もとはといえば貧乏のせいなんですから」
クルヴェルは、気でも違ったかと思われるほど落ちつきをなくして、客間のなかをやたらに歩きまわった。
「ユロは、そうとうな熱のいれ方だろうね」しばらくしてクルヴェルはそうたずねたが、そのあいだに彼の欲望はリスベットにあおられて、手がつけられないほどになっていた。
「あたりまえじゃありませんか。でもまだ|もの《ヽヽ》にしたわけではなさそうよ」と、親指のつめで、真白な前歯をはじいてみせながら、ベットがいった。「しかももう一万フラン見当の贈り物をしたんですからおどろくわ」
「ふむ。一足さきにわしがちょうだいしたら、ちょいとしたお笑い種だな」
「まあわたしとしたことが、こんなおしゃべりをしちまって、悪いことしてしまったわ」とリスベットは後悔するふうをしていった。
「なあにかまわんさ。わしはあんたの親戚に恥をかかしてやりたいんだ。あす、利まわり五分として六百フランの年金があんたの手にはいるように、終身年金を設定してあげるよ。だから、何もかもこのわしにいってもらいたい。その奥方の名前と住所をね。わしは正直にいうがね、これまで実はちゃんとした淑女と恋をしたことがない。そして、わしの最大の野心は、そういう淑女とねんごろになることなのさ。わしは上流の婦人はああだろう、こうだろうとしきりに想像はしてみているが、わしの想像している上流婦人の姿にくらべりゃ、マホメット教の天女なんざあ、ものの数じゃないね。つまり、それはわしの理想であり、熱情だ。だからこそ、わしには、ユロ夫人が五十歳であって、五十歳の女には見えんのだよ」とクルヴェルはいったが、はからずもクルヴェルは、十八世紀のもっとも警抜な才人の言葉と一脈相通ずる考え方を、それとは知らずに述べたことになる。「そうだ、ベットさん、だから、わしは十万、いや二十万出しても……おっと子供たちがきたようだ。中庭を通ってくるのが見えるて。あんたからは何も聞かなかったことにしておくからね。いや、それは誓ってもいい。あんたが男爵の信用をなくした日にゃ、わしだって困るのだよ。困るどころか、大いに支障をきたすのさ。ユロ先生はさだめしその女に熱をあげてるんだろうな」
「首ったけですよ」とベットがいった。「娘を嫁にやるのに、四万フランがどうしても工面できなかったくせに、今度の浮気のためにはちゃんとそれだけのお金をどっかからか、探してきたんですものね」
「じゃ、女のほうには気があるんだろうか」とクルヴェルがきいた。
「ユロさんもあの年じゃねえ……」と老嬢のベットが答えた。
「いや、わしもついばかなことをきいた。エロイーズが、どこぞの芸術家なんかといい仲になっても、だまって見すごしてやっているこのわしなのに。いや、わしの流儀というのは、アンリ四世のご寵愛のガブリエルが、ベルガルドと浮気をするのを大目に見てやった流儀なのじゃよ。ああ、年はとりたくないものだな。やあ、セレスティーヌ、こんにちは。坊主はどうした。ああ、いたいた。こりゃあどうも、だんだんわしにそっくりになってくるわい。今日は、ユロさん、元気でやってますかな?……近いうちに、身内でまた婚礼がありまさね」
セレスティーヌ夫婦は、リスベットの手前まずいというしるしに、目くばせをしてみせた。そして、セレスティーヌのほうは図々しくも父親に「どなたが結婚なさるの?」ときいてのけた。クルヴェルは、うっかりまずいことをいってしまったが、すぐ何とかごまかせるさという意味の、ずるそうな目つきをしてみせた。
「オルタンスさ。もっともすっかりきまったわけじゃないがね。ルバさんところの息子で控訴院判事をしている方に、ポピノさんの娘はどうかなんていう話だったよ。息子さんは、地方の裁判所長になりたいらしいのだよ……まあ、飯にしようじゃないか」
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三一 キャリバンの最後の試み
七時に、リスベットは乗合馬車に乗って自分の家に帰った。それも、二十日ばかりも前から自分をだましつづけているヴェンツェスラスの顔を早く見たくてしようがなかったからである。ベットに急に好意を持ちはじめたクルヴェルが、果物かごに果物をいっぱいつめてくれたのを、ヴェンツェスラスに持っていってやろうと、ベットは屋根裏部屋にいそいでかけあがった。息をきらしてやってきてみると、スタインボックはオルタンスに贈る手箱の彫刻を夢中になって仕上げているところだった。ふたの縁かざりは、愛の妖精があじさいの花のなかでたわむれているところを形どったものだ。あわれな恋人は、孔雀石《くじゃくいし》をはめこんだこの手箱製作の費用を捻出するためにフロラン・エ・シャノール商会に二つの燭台を買ってもらい、しかもその複製権まで譲りわたしてしまったのだ、この二つの燭台はすばらしい傑作だったのに。
「ここしばらく、あなたはつめて仕事をしすぎるわ」とリスベットは、汗の流れているヴェンツェスラスの額をぬぐい、そこに接吻しながらいった。「八月の暑いさかりに、そんなに働いちゃ、からだに毒だわ。冗談じゃなしに、病気になっちまいますよ。さあ、クルヴェルさんのところから桃とプラムをもらってきてあげたわ……あせるのはおよしなさいね。二千フラン、ちゃんと借りてきてあるし、それだって、よっぽどまずいことでもないかぎり、振子時計を売れば、返せるお金なんだから……でも、お金を貸してくれた人のやり方が、なんだかおかしいのにはおかしいのよ。こんな印紙のついた書類を送ってきたんだけれど」
ベットは、モンコルネ元帥の素描の下に、民事拘束の通知書をいれた。
「この仕事はだれの注文なの?」とたずね、ヴェンツェスラスがくだものをたべるために、下に置いた赤蝋《あかろう》のあじさいの枝を手にとった。
「宝石屋にたのまれたんですよ」
「何ていう宝石屋なの?」
「知りません。スティドマンがひとひねりしてくれってたのんできたんです。彼はほかに仕事があって忙しいらしいですね」
「まあ、これは|あじさい《オルタンシヤ》じゃないの」とリスベットが元気のない声でいった。「わたしのためにはいちどだって細工をしてくれたことがないじゃないの。ちょっとした指輪とか、小箱とか、何か記念になるようなものをこしらえるのは、そんなにむつかしいことだったのかしらねえ」と、ベットは、芸術家のほうにぞっとするような目つきを向けながらいった。さいわいにもスタインボックは目を伏せていた。「そのくせ、口じゃわたしのことをたいせつに思っているなんて!」
「嘘だというんですか、……マドモワゼル?」
「マドモワゼルなんて、いやに他人行儀な言い方をするじゃないの。わたしはね、あそこであなたが死にかけているのを見てから、あなたのことだけを考えて生きてきたんですよ。あなたの命を救ってあげたとき、あなたは身も心もわたしに捧げるといったじゃありませんか。この約束のことを、これまで口に出したことはなかったけれど、でも心のなかでは、ちゃんと心をきめていたんです。『この人がわたしに身も心も捧げるといっている以上、わたしとしても何とかしてこの人をしあわせにし、お金持ちにしてあげなければいけない』とね。ところが、やっとあなたをお金持ちにしてあげられる方法が見つかったんですよ!」
「どうやってですか」と、あわれにも芸術家は、幸福の絶頂にいるものと思っていたし、わなをしかけられたのではないかと疑ってみるには、あまりにも素朴すぎた。
「それはこういうわけなのよ」
リスベットは、ヴェンツェスラスをじっと見つめると、荒々しい喜びを感じないわけにはゆかなかった。というのは、ヴェンツェスラスは、息子が母親を見るときのような目つきでリスベットを見つめ、しかもその目にはオルタンスへの愛情があふれていたので、リスベットはすっかり思いちがいをしてしまったのである。生まれてはじめて男の目に情熱の火を見た彼女は、自分であると思いこんでしまったのだ。
「もしあなたにわたしと結婚する気があれば、お店を出すもとでに、十万フラン出してもいいといってくれたのよ。あの老人も妙なことを考え出したもんだわね……あなたどう思う?」
芸術家は死人のようにあおざめ、光のない目で恩人をじっと見た。そしてその目つきが何ものよりも正直に彼の心を語っていた。スタインボックは、あ然とし、ただだまってリスベットの顔を見つめるばかりだった。
「わたしがおそろしく醜い女だってことを、あなたのその目つきほど、はっきり証明してくれたものはなかったわ」とベットは苦笑いをうかべながらいった。
「リスベットさん、命の恩人がぼくにとって醜い女であるはずがありません。ぼくはあなたに人なみ以上の好意を持っているつもりです。でもぼくはまだ三十歳にもなっていませんし……」
「それにわたしは四十三歳にもなっているといいたいのね。わたしのいとこのユロ夫人は四十八だけれど、それでも男心を夢中にさせているのよ。だって、あの人はわたしとちがって美人ですものねえ!」
「あなたとぼくでは十五も年がちがうんです。どんな家庭ができるでしょうか。おたがいのためによく考えたほうがいいと思いますね。あなたをありがたい人と思うぼくの気持ちの深さは、あなたから受けた恩の大きさに、けっしておとるものではありません。それに、お借りしたお金も近いうちにお返しするつもりです」
「お金ですって!」とベットはさけんだ。「あなたはまるでわたしを人情なぞはまるでない高利貸し同様にあつかおうというのね」
「すみません。でもあなたがお金のことをちょくちょくおっしゃったものだから……とにかく、あなたはせっかくぼくをこれまでにしてくださったんだから、今になってまたぼくをぶちこわさないでください」
「わたしから離れたいのね。わかったわ」とベットは首を振りながらいった。「恩知らずな行ないをあえてする力をだれがあなたにつけたのかしらねえ。だってあなたは張子の人形みたいにもろい人間だったんだもの。わたしのことを信用しないの? あなたの守り神なのに。あなたのためにあんなにちょくちょく夜なべまでして働いたじゃありませんか。あなたのために一生かかってためたお金を出したじゃあありませんか。四年のあいだ、自分のたべるパンをあなたにわけてきたんですよ。しがない女工のパンをわけてあげたんですよ。あなたのためには何もかも、自分のもっている生きる力のすべてを、投げ出してきたんですよ」
「もういいです。やめてください」といいながら、ヴェンツェスラスはひざまずいて、リスベットのほうに腕をさしのべた。「もう何もおっしゃらないでください。三日したら、何もかもいいますから。おねがいです」ヴェンツェスラスはベットの手に接吻した。「ぼくを幸福にさせてください。ぼくは愛している女があるんです。そしてその女からも愛されているんです」
「まあ、そうなの、じゃあ、しあわせにおなりなさい、わたしの坊や」といってベットはヴェンツェスラスを助けおこした。
それから、死刑囚が命ある最後の日の朝を味わうようにでもあろうか、と思われるほど、狂おしくヴェンツェスラスの額と髪の毛に接吻した。
「ああ、あなたは女のなかでももっとも気高い、もっとも心の優しい方です。ぼくの恋人だって、あなた以上ではありません」と芸術家がいった。
「わたしはやっぱりあなたが好きだから、あなたのこれからの生活が心配でしようがないわ」とリスベットは、暗い顔つきでいった。
「ユダは首を吊ったわ……恩を忘れた人はみんな終わりがよくないのよ。あなた、きっとわたしのそばを離れたらもうろくな仕事はしなくなるわ。わたしはね、おばあちゃんだし、ええ、そのくらいはわかっているのよ、あなたの青春を、つまりあなたの言い種《ぐさ》をかりればあなたの時を、ぶどうのつるみたいにひからびたわたしの腕で押しつぶそうなんて思わないわ。あなたと結婚しようなんていう了見はもうおこさないわ。でもね、せめてこのままいっしょにいられないものかしら。あのね、わたしには商才があるのよ。倹約にかけちゃお手のものだから、十年も働けばあなたのためにひと身代をこさえてみせるわよ。もし若い娘と結婚すれば、若い女なんてものは、金をぱっぱと使うことしか知らないものだから、あなたはいっさい合財なくしちまいますよ。女を喜ばすことだけを目的にして生きるようになっちまいますよ。しあわせな生活っていうのは、ただあとに思い出を残すだけ。わたし、あなたのことを考えだすと、仕事が手につかなくなるほど思いつめてるのよ。……ねえ、ヴェンツェスラス、どこにも行かないでちょうだい……。そうよ、いいことを思いついたわ。女をこしらえればいいじゃないの。マルネフさんみたいなかわいい女を恋人にすれじばいいじゃないの。マルネフさんだって、あなたに会いたがっているんだし、あの人ならわたしにはあげられないような幸福を、あなたにあげることができるわ。そして、わたしがあなたのために三万フランの年金をこしらえてあげたあとで、だれとでも結婚すればいいじゃないの」
「あなたは天使のような人ですね。ぼくはきょうのことはけっして忘れません」とヴェンツェスラスは、涙をぬぐいながらいった。
「わたしが好きなのは、そういうときのあなたよ」とベットは酔い心地でじっと相手の顔を見守った。
人間は万事自分の好都合のように考えがちなものだ。リスベットはこれでもうだいじょうぶだと思った。なにしろマルネフ夫人との浮気を大目に見るほどの譲歩をしたのだから! ベットはついぞ感じたことがないほどの激しい感動を味わい、生まれてはじめての歓喜の波が胸をひたすのをおぼえた。もういちど、こんな喜びを味わうためだったら、悪魔にでも魂を売り渡しかねなかった。
「ぼくはもう約束してしまったんです。ぼくは、ある女性を愛しています。どんな女であれ、ぼくにとってその女性以上のものであることはできないのです。でもあなたは、ぼくにとっては、死んだぼくの母親の身がわりともいうべきたいせつな人です」
この言葉は、もえあがる火山の噴火に雪がなだれ落ちたようなものだった。リスベットは坐りこみ、ヴェンツェスラスの若々しい顔つきを、その上品な美しさを、芸術家らしい額と、見事な髪の毛とを見つめた。それらは押えつけられていた女性としての本能をそそらずにはいないものばかりであった。浮かんでくるかと思うとすぐに乾いてしまう小粒の涙が、一瞬、彼女の目をぬらした。中世の工匠たちが、墓の上に刻んだ、かぼそい石像そっくりな姿だった。
「わたしあなたのことをうらみはしないわ」と、ベットは、不意に立ちあがりながら、いった。「あなたは子供なんですもの。神さまの加護があなたにありますように!」
リスベットは下におりて行き、自分の部屋にとじこもった。
「おれに惚れているのだな。かわいそうに」とヴェンツェスラスはつぶやいた。「それにしてもよくしゃべったな。どうかしているんだろう」
ひからびきった、堅実一点ばりの、この女が、美と詩そのもののようなヴェンツェスラスをそばにひきとめようとして試みた最後の努力は、激烈をきわめたものだった。岸べに泳ぎつこうとして必死の力をふりしぼる難破人のがむしゃらなあがき――それにさえくらべられるべきものだった。
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三二 復讐の失敗
翌々日の朝、四時半ころ、スタインボック伯爵がぐっすり眠りこんでいると、屋根裏部屋のドアをノックする音がきこえた。ドアを開けてみると、服装のあまりよくない男がふたりはいってきて、さらにそのあとから、身なりから判断するにどうやらありがたくもない執達吏かと思われる三人目の男が姿をあらわした。
「あなたは、スタインボック伯爵のヴェンツェスラスさんでしょうな」と三人目の人物がいった。
「そうです」
「わたしはグラッセと申すものです。ルーシャール氏のあとをついだ債務拘留執達吏です」
「で、ご用は?」
「あなたを拘引します。クリシーの拘置所までいっしょにきてください……服を着てください……ごらんのとおり、われわれは手荒なことをしませんから……警官は連れてきておりませんし、下には辻馬車が待たせてあります」
「案外まともな服を持ってるじゃないか。この分じゃ借金は払えそうだね」と執達吏の助手のひとりがいった。
スタインボックは服を着ると、両腕を執達吏の助手にかかえられて階段をおりた。辻馬車にのせられると、御者のほうで行先をちゃんと心得ているらしく、何もいわないのに、馬車はすぐに走り出した。三十分もすると、あわれな外国人はしかるべき手続きのあとで、とどこおりなく収監されてしまった。抗議をするのも忘れるほどで、ただびっくりしていた。
十時になると、拘置所の事務所に呼ばれた。行ってみると、リスベットがきていた。リスベットは、不自由をしないように、それから仕事をするために広い部屋がもらえるようにといって目に涙をいっぱいためながら、金をくれた。
「牢屋にいれられたことをだれにもいっちゃいけませんよ」とベットはいった。「だれにも手紙を書いちゃいけません。そんなことをすれば、あなたの将来はめちゃくちゃになります。こんな不面目なことはみんなに隠しておかなくちゃ。安心してらっしゃいな。わたし、じきにお金を工面してここから出れるようにしてあげますから。仕事をするのに必要なものは持ってきてあげますから、手紙に書いてちょうだい。わたしがきっとあなたをここから出してあげます」
「おお、ぼくはこれで二度あなたに命を助けられたわけだ」とヴェンツェスラスはさけんだ。「世間から悪者あつかいされたら、ぼくは命よりもたいせつなものを失うことになるでしょうから」
リスベットは、いそいそとして表に出た。ヴェンツェスラスを穴にとじこめておき、オルタンスには、ヴェンツェスラスには実は妻があって、その妻の骨折りでとくに放免されてロシアに帰国した、そういっておけば、ふたりの結婚は破談になると思っていた。それでこの計画を実行に移すため、その日はユロ家で晩餐をとる日にあたっていなかったのに、三時ごろユロ家に出かけていった。それに、いつもいるはずのヴェンツェスラスが姿を見せなければ、オルタンスはさぞ心配するだろうから、その苦しむ様子をとっくりと眺めて、楽しみたいという気もあった。
「ベットさんご飯をたべにいらしたの」と男爵夫人は、がっかりした気持ちを隠しながらいった。
「そりゃそうよ」
「じゃあ」とオルタンスが答えた。「食事の用意をきちんとするようにいってくるわ。だって、ベットさんは食事のおくれるのがお嫌いだから」
オルタンスは、母親に目くばせして、心配しなくてもだいじょうぶという合図をした。というのも、オルタンスは従僕に言いつけて、スタインボックがきたら帰らせるようにしておこうと思ったのである。けれども従僕は外出していたので、やむなく小間使いにそのことを言いつけた。小間使いは、仕事をしながら応接室でスタインボックの訪れるのを待ちかまえるつもりで、自分の部屋に針仕事の道具を取りに行った。
「ときに、ちかごろわたしの恋人のことをちっともきいてくれないじゃないの」とオルタンスがもどってきたとき、ベットがいった。
「そうそう、どうしていらっしゃるの。すっかり有名になったじゃありませんか。あなたはさぞご満足でしょうね」とオルタンスは、ベットの耳もとに小声でいった。「どこへ行っても、ヴェンツェスラス・スタインボック氏の話でもちきりよ」
「有名になりすぎたわ」とリスベット大きな声で答えた。「なんだかあの人そわそわしているようよ。ふわふわと浮かれ出て、パリの誘惑に負けないように、あの人をしっかりとひきとめておくぐらいの力は、わたしにもあったわ。でもねえ、天才芸術家を自分の手もとに置きたくて、ニコライ皇帝が赦免のご沙汰《さた》をくださるというんじゃねえ……」
「まあ、そうなの」と男爵夫人がいった。
「どうして知っているの」オルタンスがそうたずねたが、オルタンスの胸は、不安にかられて痙《けい》れんでもおきたように、痛んだ。
「だって」と残忍なベットは答えた。「神聖なきずなであの人が結ばれている人、つまりあの人の奥さんがきのう手紙をよこしたのよ。あの人は帰国するそうよ。フランスを捨ててロシアに行くなんて、ずいぶんばかげた話じゃないの……」
オルタンスはしばらく母親の顔をじっとみつめていたが、そのうちに頭がぐったりとかしいだ。男爵夫人は気絶した娘をあやういところで腕にだきとめた。オルタンスの顔は、肩かけのレースみたいに真青《まっさお》になっていた。
「リスベットさん、あなたのおかげで娘は死んでしまいます」と男爵夫人がさけんだ。「あなたはわたしたち一家を不幸にするために生まれてきたのね」
「おや、妙なことをおっしゃるのね。わたしがどんな悪いことをしました? アドリーヌさん」ロレーヌの百姓女は、そういいながら形相もすさまじく立ちあがったが、男爵夫人はうろたえていて、それには気づかなかった。
「わたしが悪かったわ」とアドリーヌはオルタンスを抱きかかえながらいった。「ベルを鳴らしてちょうだい!」
そのときドアがあいた。ふたりがいっしょにふりむくと、そこにヴェンツェスラス・スタインボックが立っていた。小間使いがいなかったので、料理番がなかへ通してしまったのだ。
「オルタンス!」とさけぶと、芸術家は三人の女がいっしょにかたまっているところにかけよった。
そして、母親の見ている前でいいなずけの額に接吻したが、それはいかにも敬虔《けいけん》にされたので、男爵夫人はいっこうに気を悪くしなかた。その接吻は、どんな気つけ薬よりも効果があった。オルタンスは目を開け、ヴェンツェスラスの顔を見ると生気をとりもどした。しばらくすると、すっかりもとどおりになった。
「あなたが隠していたのは、これだったのね」とベットは言いながら、ヴェンツェスラスにうす笑いを浮かべてみせた。ユロ母娘《おやこ》が周章狼狽しているのを見て、はじめて真相を悟ったという顔をした。「あなたはわたしの恋人をどうやって横どりしたの?」とベットは、オルタンスに言いながら、彼女を庭のほうに引っぱっていった。
オルタンスは自分の恋物語をありのままにリスベットに語った。父も母もベットさんは結婚しないものと思いこんでいたので、スタインボック伯爵がうちに出入りするのを許したんです、とオルタンスはいった。ただ、さすがのオルタンスも群像を買ったことと、その群像の作者が家に訪ねてきたいきさつについては、それを偶然のせいにして、いかにも年をとって世なれたアニェス〔モリエールの喜劇『女房学校』の主人公。無邪気な若い娘〕といったふうをみせた。オルタンスにいわせれば、芸術家が自分の作品の最初の買い手の家を訪れたく思うのは当然である、というのだ。
間もなく、スタインボックはふたりのそばへやってきた。そして自分をすぐ出牢させてくれたことについて、リスベットに真心をこめて礼をのべた。それにたいしてリスベットのした返事は、老獪《ろうかい》なものだった。債権者があいまいな約束しかしてくれなかったから、ヴェンツェスラスを引き取りに行けるのは明日になるものとあきらめていたが、こうして無事に出て来られたところを見れば、貸主のほうで自分の非道な仕打ちが恥ずかしくなって、出牢の手続きをすすんでやってくれたものだろう、と答えた。それに老嬢はいかにもうれしそうな様子をつくって、ヴェンツェスラスの幸福な恋を祝福した。
「あなたも人が悪いのね」とリスベットは、オルタンス親子の前でヴェンツェスラスにいってみせるのだった。「おとといの晩、あなたとは思い思われる仲のそのお相手の女性とは、オルタンスだってことをちゃんといってくださればよかったのに。そうすれば、わたしもあんなに泣かなくてすんだのよ。わたしを捨ててどこかへ行っちまうと思ったのよ。古いお友だちで、おまけに先生の役までやってあげたこのわたしを置きざりにしてね。ところが、実はそうじゃなくて、あなたはわたしの親戚になるんじゃないの。これからは親類ということで、あなたとわたしはつながるのよ。遠縁にはちがいないけれど、もともとあなたとわたしの間柄は、深刻なものじゃなかったんだから、ちょうどいいのよ……」
こういって、ヴェンツェスラスの額に接吻した。オルタンスはリスベットの腕に身を投げて、涙にくれた。
「わたしがしあわせになれるのは、あなたのおかげよ」とオルタンスがいった。「けっして忘れないわ」
「ベットさん」と男爵夫人は、何もかもがまるくおさまったことがうれしくて有頂天になりながら、ベットを抱擁していった。
「夫とわたしとは、あなたに借りができてしまいましたね。きっとお返ししますわ。お庭でその相談をしましょうよ」と男爵夫人はいうと、ベットを庭に連れ出した。
こうしたわけで、リスベットはユロ一家の守護天使のような役割を演じたのだった。彼女は、クルヴェルからも、ユロからも、またアドリーヌやオルタンスからもありがたく思われたのである。
「わたしたちは、もうあなたにこれ以上働かせたくないのよ」と男爵夫人がいった。「あなたの収入が、一日に四十スーとすると、日曜日は働かないから、年に六百フランになる勘定だわね。それで、あなたのたくわえはいまどのくらいになっているの……」
「四千五百フランよ」
「まあ、お気の毒にねえ!」
男爵夫人は空を見あげた。三十年かかってこれだけの金額がたくわえられるまでには、ずいぶん骨も折れたろうし、さぞ不自由な思いもしたろうと、しみじみとした思いに胸をふさがれるのだった。リスベットは、相手のさけび声をかんちがいして、そこに出世しおおせた女の軽蔑を感じた。そして、アドリーヌのほうが、子供のころ、自分をさんざんいじめたいとこにたいして持っていた警戒心をさっぱりと捨てたときに、リスベットのほうは、うらみを増し、いっそうはげしい憎しみをもやしたのである。
「その額に、一万五百フランたしてあげるわ」とアドリーヌが話をつづけた。「それを全部あわせて公債にし、名義はあなたを用益権者、オルタンスを虚有権者ということにしましょう。そうすれば、あなたは毎年六百フランの利子をもらえることになるわ……」
リスベットは幸福の絶頂にあるかのように見えた。ベットは、うれし涙をおさえるためか、ハンカチを目にあてて客間にもどった。すると、オルタンスから、一家の寵児となったヴェンツェスラスが、どんなに世間の好意を集めているかということを聞かされたのであった。
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三三 夫婦財産契約のいろいろ
男爵が帰宅してみると、家族のものが全員集まっていた。というのは、男爵夫人はスタインボック伯爵をもう正式に一家の婿としてあつかい、夫の承認さえあれば、二週間後には挙式の運びをすることまできめてしまったからである。それで、参事院議員が客間に姿をあらわすと、待ちかねたように妻と娘がそばへかけよってきた。そして片方からは耳もとに何ごとかをささやかれ、片方からは接吻された。
「わたしになんの相談もなしにちとやりすぎたようだな」と男爵はきびしくいった。「この結婚はまだきまったわけじゃない」と男爵は、スタインボックのほうをちらりと見ていった。スタインボックの顔があおざめた。
不幸な芸術家は『さては投獄されたことがばれたんだな』と心のなかでつぶやいた。
「こっちへおいで」男爵はこうつけ加えると、娘とその花婿候補を庭に連れ出した。
そして苔むしたあずまやのベンチの上に娘たちとならんで腰をおろした。
「伯爵、あなたは、わたしがこの子の母親を愛したほどに、この子を愛していますか?」と男爵がヴェンツェスラスにきいた。
「もっと愛しております」と芸術家が答えた。
「この子の母親は百姓の娘で、財産は一文もありませんでしたよ」
「嫁入り仕度もなんにもしないで、ここにいらっしゃるままでオルタンスさんをくださいませんか……」
「よくおっしゃってくだすった」と男爵は微笑しながらいった。「オルタンスは、参事院議員、陸軍省局長、レジォン・ドヌール二等勲章受勲者で、しかもユロ伯爵の弟にあたるユロ・デルヴィー男爵の娘です。ユロ伯爵は不朽の軍功に輝く武人で、やがて元帥にも叙せられようという人だ。それに……この子には持参金もついています」
「おっしゃるとおりです」と恋する芸術家がいった。「いかにも野心があるように見られるかもしれませんが、たとえお嬢さんが、職人の娘であっても、結婚するでしょう……」
「それが知りたかった」と男爵がいった。「オルタンス、おまえはむこうへ行っていなさい。伯爵と少し話があるから。伯爵がおまえをまじめに愛しておられることは、これでわかったろう」
「まあ、お父さま、お父さまがふざけてらっしゃるということは、ちゃんとわかっていましたわ」と娘はしあわせそうにいった。
「スタインボック君」と、男爵は芸術家とふたりになると、きり出した。男爵の語調は、ものやわらかで、態度には魅力があふれていた。「わたしは息子が結婚したときには二十万フランの金をつけてやる約束をしました。ところが、せがれはまだ一文も受け取っていません。今後も受けることはないでしょう。娘の持参金も二十万フランということになるでしょうが、それはもう受け取ったことにしていただきたい……」
「承知しました……」
「そう早合点しないで、まあ聞いてください」と参事院議員がいった。「せがれになら、都合が悪いから我慢しろともいえますが、婿にむかっては、そんなことをいえたものではありません。せがれは、わたしが何をしてやれるかちゃんと知っていた。せがれは大臣になるでしょうし、二十万フランくらいは、自分で造作なく手にいれるはずです。ところが、スタインボックさん、あなたの場合は、ちょっとわけがちがう。あなたには、オルタンス名義の六万フランの公債をさしあげます。利子は五分です。ただしこのなかからリスベットに小額ながら年金をやらないといけません。しかしあれはもう長いことはないでしょう。ここだけの話ですが、あれは胸が悪いんですよ。だれにもいっちゃいけませんよ、安らかに死なせてやりたいので。娘には二万フランの嫁入り仕度をもたせてやりますが、そのうち六千フランは母親のダイヤモンドです……」
「どうもおそれいります」スタインボックはあっけにとられていた。
「あと十二万フラン残ることになるが……」
「もうけっこうです。ぼくがほしいのはオルタンスさんだけなのですから……」
「あせらずに話をきいてください。残りの十二万フランについては、わたしには持ちあわせがない。しかし、それもいずれさしあげます……」
「もういいんです」
「それも政府から受けとることになるでしょう。その分だけ注文をとってあげますよ。これはたしかにお約束してもいい。早い話が、近く政府の大理石保管所のアトリエにはいれることになっているじゃありませんか。二つ三つ立派な作品を出品すれば、美術院にはいれるように取りはからってあげます。政府の高官のあいだでは、みんなわれわれ兄弟に好意を持っていてくれるから、ヴェルサイユ宮の彫刻の仕事もあなたに依頼するように運動すれば、成功すると思う。それだけでいまいった十二万フランの四分の一の金額になる。さらにパリ市からも注文があるだろうし、上院からも注文がくるでしょう。注文が多すぎて、助手を使わなければさばききれないくらいになるでしょう。まあ、わたしのつもりでは持参金の払いはそんなふうにしてすませたいのだが、それでさしつかえないかどうか、ひとつ自分の力を考えたうえで、検討してみてください……」
「そんなに助けていただかなくったって、自分だけの力で妻のために一財産こしらえる力はあるつもりです」と心の気高い芸術家は答えた。
「そりゃ立派な覚悟だ」と男爵はさけんだ。「わたしは少しも遅疑逡巡しない、はつらつとした若い者が大好きだ。わたしだって女のためなら大軍もけちらすくらいの意気があった。さあ」と男爵は青年彫刻家の手をとって、それをたたいていった。「娘の結婚に同意します。つぎの日曜日に契約書をつくり、そのつぎの土曜日には式ということにしましょう。日もちょうど妻の誕生日にあたるから」
「うまくいったようよ」と窓に顔を押しつけてじっと見守っていた娘に、男爵夫人がいった。「お婿さんとお父さまが抱きあってらっしゃる」
ヴェンツェスラスは、その晩、自分の家にもどってみて、はじめて釈放されたわけがわかった。門番のところに封印つきの大きな包みがとどいていた。それはヴェンツェスラスの債務に関する証書であったが、それには正規の受領証がそえてあり、受領証には裁判所の印があった。さらに、一通の手紙がそえてあり、それはつぎのような文面だった。
[#ここから1字下げ] 親愛なるヴェンツェスラス君
さる高貴なお方が、君と近づきになりたいといっておられるので、君に会いに今朝十時におうかがいしたのだが、英国人〔商事裁判所の警吏のこと〕が彼らの小島のひとつに君を拉致《らち》したことを知った。その小島の首府は、クリシー城〔借金を返済しない債務者を収監したクリシー監獄のこと〕とか呼ばれている。
そこで、小生はさっそくレオン・ド・ロラのところにかけつけた。そして、四千フランの金がないだけで君がいなかから出てこれない次第と、後援してやろうといっているその高貴の方に、君が会えないとなれば、君の将来にとって損失になるといった事情を笑いながら話したのだ。さいわいなことに、苦労人で、君のことも知っている天才画家のブリドゥーがちょうどそこに居あわせた。レオン・ド・ロラとブリドゥーが出しあって必要な金をつくってくれた。それで、小生は、君を牢屋にいれるなど、天才を冒涜するもはなはだしい犯罪を行なったベドワン人に、金を払いに行ったのだ。十二時にチュイルリー宮に行かなければならない用事があったので、君が自由な空気を吸うところを拝見することができなかった。君が紳士だということはぼくも知っている。ふたりの友人たちに君のことは小生がうけあっておいた。しかしあすあたり君もふたりを訪ねてほしい。
レオンもブリドゥーも君の金は受けとるまい。お金よりも群像がほしいというだろう。もっともだとぼくも思う。君の競争者と言いたいところだが、実は君の友だちにすぎない、
スティドマン
追伸 殿下には、君が明日にならなければ旅行から帰らないといっておいた。殿下は「じゃあ、明日!」といわれた。
[#ここで字下げ終わり]
ヴェンツェスラス伯爵は、その晩、「幸運」の女神がしいてくれた皺ひとつない真紅のしとねにくるまって寝た。幸運の女神は、びっこの女神で、天才にとっては「正義」や「財運」の女神よりもさらにいっそうのろのろと歩いてくるものだ。ジュピターが、この女神に目隠しをさせなかったからいけないので、いんちき山師どもの見せかけにすぐだまされて、この女神は、きょろきょろして、彼らの服装や、法螺《ほら》に気をとられ、ていさいだけのごまかしに心を奪われて、たいせつな時間を浪費している。そんなひまに、幸運の女神は、世の片隅に埋もれている真に価値ある人をさがし出してくれればいいのに、そうはなかなかしない。
さて、ユロ男爵は、オルタンスに持参金として持たせるための金をいかにして集めたのか。また、一方ではマルネフ夫人を住まわせるべき豪華なアパルトマンの莫大な費用を、どうやって捻出したのか。それを説明しなければならない。ユロ男爵のやりくりを見ると、そこには浪費家や漁色家を、その身の破滅となる危険がいたるところにひそんでいる沼地に引きずりこむ。しかし、この才能は、いろいろな悪の与える奇妙な力を説明するものであり、この力があればこそ、野心家とか、漁色家とか、要するに悪魔の手下どもは、時として鮮やかな離れわざをやってのけるのである。
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三四 妄信者の好例
その前日の晩、ひとりの老人、つまりジョアン・フィッシェルは、甥のユロ男爵に用立ててやった三万フランの金が払えなくて、男爵からの返金がないかぎり、いまにも破産寸前というところに追いこまれた。
七十歳になる白髪の、この立派な老人は、ユロにたいして盲目的な信頼をよせていた。ナポレオン崇拝者の彼にとって、ユロはナポレオンという太陽が放つ輝かしい光そのもののように思われた。それで、フィッシェルは、金を取りにきた銀行の給仕を相手に、一家の客間のなかを落ちつきはらって歩きまわっていた。家賃は八百フランの小さな家で、ここで老人は、穀物や馬糧をあつかう雑多な商《あきな》いをやっているのだった。
「女中のマルグリットが、つい目と鼻の先まで金をとりに行っているところなんじゃ」とフィッシェル老人は、銀行の給仕にいった。
灰色の服に銀のかざりひもといった格好の給仕は、このアルザス生まれの老人の正直さをよく知っていたから、三万フランの現金は受け取らないまま帰ろうとした。すると、老人は、まだ八時にもならないじゃないか、といってむりやりに引きとめた。そのとき、一台の馬車が家の前でとまった。老人はいそいで通りにとび出すと、崇高なほど確信にあふれた面持ちで男爵のほうに手をさしのばした。男爵は、老人に三十枚の札を渡した。
「二、三軒先でお待ちください。わけはあとで申しあげます」と老フィッシェルがいった。
「さあ、金がとどいたよ」と老人は家のなかにもどると、札を算えて銀行の使いのものにわたし、入口まで送っていった。
銀行の男の姿が見えなくなると、フィッシェルは、かつてナポレオンの右腕であり、フィッシェル老人がかぎりない尊敬を捧げている人物、老人の甥が乗っている馬車をひきかえさせた。老人は、男爵を家のなかに招じいれた。
「あなたが手形に裏書きなどなさって、その金をわたしのところに返しにきた、こんなことがフランス銀行のものに知れてはよくありますまい? あなたのような方の署名が手形の裏にのることだって、あんまり感心できたことではないからのう」
「フィッシェルじいさん、庭の奥へ行こう」と高級官僚がいった。「あんたはまだまだ達者だね」とユロ男爵はいうと、ぶどう棚の下に腰をおろし、兵役代理人の斡旋業者が、代理人のからだつきをじろじろ眺めまわすように、老人のからだをまじまじと見つめた。
「終身年金がかけられるほど頑丈で」と老人は、愉快そうに答えた。小柄で、やせていて、機敏そうで、その目は生き生きしている。
「暑さには弱いほうかね?」
「それが、その反対で」
「アフリカはどうだね」
「いいところじゃなあ。フランスの軍隊がちび隊長〔ナポレオンのあだ名〕と遠征したところでね」
「われわれみんなを助けるためにアルジェリアに行ってもらいたいんだが……」と男爵がいった。
「ここの商売はどうします?」
「陸軍省の退職官吏で、生活に困っているのがいて、その男があんたの店を買おうといっている」
「アルジェリアで何をすりゃあいいんだね?」
「陸軍に糧秣《りょうまつ》をおさめる仕事さ。穀物とか、馬糧とか。用命書はもうこしらえてきた。アルジェリアでなら、陸軍の買い上げ価格の七割以下で、糧秣を仕入れることができる」
「どんな連中から仕入れるのかね?」
「匪賊《ひぞく》や、役人や、王さまなどからだ。アルジェリアには(フランス軍はもう八年も駐屯しているが、実情はいっこうに知られていない)穀物、馬糧などいくらでもあるのだ。ところが、そういう品物がアラブ人の手のうちにあると、フランス人は何のかんのと理屈をつけて取りあげてしまう。品物がこちらの手に渡ると、今度はアラブ人のほうでそれを取り返そうとする。穀物がもとでよく戦闘がおこる。しかし、どれだけ掠奪して、どれだけ掠奪されたか、正確にはだれにもわからんのだよ。なにしろ平地だからね。中央市場で小麦の分量を計ったら、アンフェル街で秣《まぐさ》の重さを計ったりするような具合には行かないのでね。アラブの酋長は、フランス軍の味方をするものも、しないものも、いずれも現金をほしがる点では変わりない。それで盗んだ品物は、ひどく安い値段で売るのだ。陸軍の需要は一定している。そして、糧秣の入手困難なこと、輸送に危険がともなうことなどを考慮して、法外な価格で取引きする。糧秣行政の観点から見たアルジェリアは、まあざっとこんなものだな。とにかく国じゅうがぬかるみみたいなところだよ。そのぬかるみに道をつけるはずの政府機関にしたところで、できたばかりで混沌としている。われわれ官僚は、もう十年もたってみないとはっきりした見通しをつけることができない。そこへゆくと、かえって民間人のほうが目が利くのだ。それで、あんたに、一財産こしらえにでかけちゃどうかといっているんだよ。わたしはあんたをそこへ派遣したい。ちょうどナポレオンが、密輸入業者の保護をやることもできるような王国に、貧しい元帥を派遣して元首にすえたようにね。フィッシェルさん、わたしは実は一文なしになってしまったのでね、一年以内にどうしても十万フランの金がいる……」
「その十万フランを砂漠のアラブ人から取りあげても、さしつかえはありますまい」とアルザス生まれの老人は平然といった。「帝政時代にゃよくあったことだったから……」
「この店の買い手は、けさくることになっている。十万フランを即金で払うそうだが、アフリカに行くのにそれくらいあればたりるだろうね」
老人は同意のしるしにうなずいてみせた。
「むこうへ行ってからの資金についちゃあんたは心配しなくてよろしい。それで、この店の代金の残額は、わたしにもらいたいんだ。それだけの金が入用なのでね」
「何もかも、わしの命だって、あなたのもので」と老人がいった。
「いや、心配することはないんだ」この叔父は案外に目が鋭いな、と男爵はじっさい以上に相手の眼識をおそれていった。「農産物税をたねにひともうけするといっても、あんたの正直に傷がつくことはないよ。役人次第だからね。しかもその役人はわたしが派遣したのだ。わたしにたてつくような連中じゃない。ただしフィッシェルじいさん、これは命がけの秘密だよ。あんただからこそ、ざっくばらんに話したのだ」
「ともかく行ってみましょう、で、期間はどのくらいで?」
「まあ二年だね。二年後には十万フラン持って、ヴォージュの村に帰り、あとは呑気に余生を送ればいい」
「おっしゃるとおりにしましょう。わしの名誉はとりもなおさずあなたの名誉ですから」小柄の老人は平然たる面持ちでそういった。
「わたしはそういうきっぱりとした人物が大好きだ。だが、あちらへ発《た》つ前に、あんたの姪孫がうれしそうな顔をするところを見てもらいたい。結婚して、伯爵夫人になる」
アルジェリアで農産物税の|ぴんはね《ヽヽヽヽ》をやったり、掠奪物資の買いつけをやったりして、利益をあげるといっても、金がじっさいにはいるのはさきの話だし、フィッシェルの店を購入するために退職官吏が出す金では、仕度だけでも五千フランはかかり、それを含めてオルタンスの六万フランになる持参金をまかなうことは、とてもできなかった。おまけにマルネフ夫人がすでにつかったり、あるいはこれからつかおうとしている金の額は四万フランある。それにしても男爵は、けさがた持ってきた三万フランの金をどこで手にいれたのだろうか。その次第はこうである。数日前のこと、ユロはふたところの生命保険会社に出かけて行って、むこう三年の期間で、それぞれ十五万フランの生命保険をかけたのであった。保険料を支払い、保険証を手にいれると、ユロはヌチンゲン男爵につぎのようなことを相談した。ヌチンゲン男爵は、上院議員で、上院の会議の終わったあとの帰りに、ユロはいっしょに晩餐をするため、ヌチンゲン男爵と同じ馬車にのりこんだ、その馬車のなかでのことであった。
「男爵、じつは七万フランの金が要るのですが、ご用だて願えませんか。名義人をたててくだされば、その名義人にわたしの俸給の担保定額をむこう三年間委託することにしましょう。定額は年に二万五千フランですから、三年で七万五千フランになります。『死ぬかもしれませんのに』とおっしゃるでしょうが……」
ヌチンゲン男爵はそのとおりというしるしにうなずいた。
「ここに十五万フランの保険証があります。受け取り金額のうち八万フランをあなたの名義に書きかえましょう」と言いながら、ユロ男爵はポケットから書類を取り出した。
「万一、免職になったらどうなさる?」と百万長者の男爵は笑いながらいった。
百万長者どころか、一文なしの男爵は考えこんでしまった。
「いや、ご懸念にはおよびません。わたしのような人間でも、ときには役にたつことがあるということがわかっていただきたいので、申しあげただけです。すると、あなたはだいぶ困っておられるのですな。フランス銀行には、あなたの裏書のある手形がまわっているそうじゃありませんか」
「娘が結婚するのですが」とユロ男爵がいった。「長らく官界にあるものはだれでもそうですが、わたしには財産がないのです。現代は忘恩の時代ですからね。ナポレオンとちがって、議院にいならぶ五百人のブルジョワは、国家のためにつくした人びとを厚く遇するなんてことはしないのでしてね」
「でも、あなたはジョゼファを囲っていたではありませんか。それで何もかも説明がつきますよ」と上院議員がいった。「ここだけの話ですが、デルーヴィル公爵が、あなたの財布についていた|ひる《ヽヽ》をとってくれましたな。まったく親切なことで」そういってから
われもまたかの不幸を知る身。君が不幸に胸動かさるる。〔ラシーヌ『ベレニス』三幕四場のもじりと思われる〕
とつけ加え、これでもフランス語の詩句を朗唱しているつもりでいた〔ヌチンゲン男爵は、ひどいアルザスなまりを使っているが翻訳ではそれが表現できない〕
「これは友人として忠告するのですが、そろそろ店|閉《じま》いしたらどうです。さもないと人に蹴落とされますよ……」
このいかがわしい取引きはヴォーヴィネというけちな高利貸の手をへて行なわれた。この男は、|ふか《ヽヽ》のあとから下僕|面《づら》してついてゆく雑魚《ざこ》のようなもので、大銀行のまわりでうようよしているいんちき業者のひとりである。かけ出しの高利貸のヴォーヴィネはかねてから金融界の大立物ヌチンゲン男爵の庇護《ひご》を受けたいと思っていたところだったから、ユロ男爵に、期限九十日、額面三万フランの為替手形を、四回書き替えて、流通はさせないという条件で裏書きすることを約束した。
フィッシェルのあとを継いで店を買った男は、四万フラン出すことになっていたが、しかしそれにはパリ周辺にある県での馬糧納入権を与える約束であった。
これまでは廉直そのもので、かつてはナポレオンのもっとも有能な行政官であった人物が、情欲のとりこになったばかりに、こんなとんでもない迷路にひきこまれてしまった。汚職は、高利貸に金を払うため、高利貸に金を借りるのは、愛欲の情をみたし、また娘も結婚させるためであった。いろいろ知恵をはたらかして浪費するのも、マルネフ夫人に大物らしく見せたいからだったし、この市井のダナエ〔ギリシャ神話によれば、ダナエは塔にとじこめられていたが、ジュピターは金の雨となって塔にしのびより、彼女に一子を生ませた〕の上に、ジュピター神よろしくなりたいためだった。男爵は、おそるべき窮地にとびこんだわけだが、普通の人間ならまともなやり方で金をもうけるためにも、男爵ほどの行動力や、知性や、大胆さを発揮することはない。役所の仕事はきちんと片づける。室内装飾屋を催促する。職人を監督する。男爵はヴァノー通りの新居のごくささいなことにまでだめを押した。マルネフ夫人のためにかかりっきりでいながら、しかも議会には出かけて行く。八面六臂《はちめんろっぴ》の大活躍であったが、男爵の女狂いに気のつくものはだれもいなかった。
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三五 物語の序幕の終わり
アドリーヌは、叔父のフィッシェルが破産をまぬかれたうえ、夫婦財産契約にはちゃんと持参金の金高が書きこまれているのを見てびっくりしてしまった。そしてオルタンスの縁談が立派な条件でまとまったことをよろこぶ一方では、一抹《いちまつ》の不安を感じないではなかった。結婚式の日どりは、男爵のはからいで、マルネフ夫人の引越しの日と同じになるようになっていた。そしてその結婚式の前日、エクトルは、内閣告示とでもいった調子で、妻につぎのように語り、妻の不安を吹き消してしまった。
「アドリーヌ、いよいよ娘も結婚する。これで、この問題については、わたしたちの苦労もやっと終わったわけだ。わたしたちもそろそろ隠居していいころになった。あと三年も勤めれば、退職に必要なだけの年限を働いたことになるからだ。だからもう無駄な出費はしないようにしようじゃないか。このアパルトマンは、家賃が年額六千フランだ。召使いが四人もいて食費が年に三万フランかかる。じつは、わたしは、オルタンスの嫁入りのためと、叔父さんの手形を払うために三年分の俸給を担保にいれてしまった。だからもしわたしに借金を払わせたいと思うなら……」
「まあ、よいことをなさったのね」といって男爵夫人は夫の言葉をさえぎり、夫の手に接吻した。
アドリーヌの心配は、この告白ですっかり消えてしまった。
「おまえに少し我慢してもらわなければならないことがあるのだよ」男爵は手をひっこめると夫人の額に接吻しながらいった。「プリュメ通りのある家の二階になかなか小ぎれいなアパルトマンがあるそうだ。なかの仕上げもなかなか立派で、家賃はわずか千五百フランだ。そこでなら、おまえには小間使いがひとりいればたくさんだろう。わたしも下男ひとりいれば充分だ」
「よろしいですわ」
「ていさいが悪くない程度にきりつめてやりくりすれば、わたしの小づかいは別にして年に六千フラン以上はかかるまい。わたしの小づかいは、自分で何とかするから……」
けなげな妻は、すっかり喜んで夫の首にとびついた。
「わたしうれしいわ。わたしがあなたをどれほど愛しているか、もういちど見せてあげられるなんて!」と彼女はさけんだ。「それにしてもあなたはやりかたがお上手ねえ」
「週にいちど、娘や息子たちを呼んで食事をすることにしよう。わたしは、知ってのとおり、めったに家では夕食をしない……おまえは週に二度はヴィクトランのところに、それからさらに二度、オルタンスのところに食事に行ってもおかしくはあるまい。クルヴェルとは、いずれすっかり仲なおりの手|筈《はず》をととのえる予定にしているから、週にいちどは、あの男のところで食事をすることになる。これで合計五回の招待と、こちらでみんなを呼ぶ一回ぶんをあわせるとだいたい一週間がうまる。親戚以外からも招待がくるしね」
「あなたのためにうんと倹約するわ」とアドリーヌがいった。
「おまえはほんとにすばらしい女だよ」
「やさしいエクトル、わたしは最後の息をひきとるときまで、あなたを祝福するわ。だって、かわいいオルタンスをちゃんと結婚させてくだすったのですもの」
美しいユロ夫人の家が落ちぶれていったのは、有り体《てい》にいえば、ユロ夫人が次第に夫から捨てられていったのは、このようにしてであった。そして、この夫人を見捨てるということこそ、ユロがマルネフ夫人におごそかに誓ったことだったのだ。
でっぷりこえたクルヴェルじいさんは、むろん夫婦財産契約の署名の席に招かれたが、じいさんはこの物語の冒頭の情景などとうに忘れたような顔つきで、ユロ男爵にたいしては含むところなどさらさらないように見えた。セレスタン・クルヴェルは、相変わらず愛嬌をふりまいたが、難をいえば香水商あがりの匂いがぷんぷんすることだった。しかしそれでも国民軍の大隊長になってからはだいぶ貫禄がでるようになった。婚礼の日には、自分も踊るんだ、などといった。
「お美しい奥さん」とクルヴェルは、ユロ男爵夫人にむかっていんぎんにいった。「わたしどものようなたちの人間は過ぎたことは何でも忘れちまうんでしてね。おたくからわたしを追払わないでください。それからわたしの家にもお子さんがたといっしょに時どきいらしてください。わたしの胸のうちにあることなんぞ、奥さんにはもうけっして申しませんから安心してください。わたしはそのことだけはもうきっぱりと決心しました。奥さんにもう会えないとなれば、それこそわたしにとってつらいことで……」
「クルヴェルさん、貞淑な女にとっては、せんだってあなたがおっしゃったことなぞは、耳にしなかったも同然のようなつまらないことなのです。そして、クルヴェルさんがいまおっしゃった約束をちゃんと守ってくださるなら、親戚同士の仲|違《たが》いなんていやなことがなくなるんですから、わたしもうれしく思いますわ……」
「やあ、むくれ屋さん」とユロ男爵は、クルヴェルを無理やりに庭に連れ出しながらいった。「君は、わたしの家にきてまでも、わたしと話をしないようにさけているんだね。われわれのようなおいぼれ道楽ものが、たかがひとりの女のためにいがみ合うことはないじゃないか。けちなまねはやめにしようぜ」
「ユロさん、手前はあなたのように好男子じゃないものですから、誘惑にかけては実力にとぼしく、あなたのようにやすやすとなくしたものの埋めあわせができんのでしてね……」
「皮肉はやめたまえよ」
「負けたものは勝ったものに皮肉ぐらいいったっていいでしょう」
こんな調子ではじまった会話は、完全な和解によって終わった。とはいえ、クルヴェルは仕返しの権利があることをどこまでも主張してゆずらなかった。
マルネフ夫人はユロ嬢の結婚式に列席したいといってきかなかった。未来の情婦の姿をわが家の客間で眺めるために、参事院議員は自分の局の役人を次長クラスまでも招かなければならなくなった。そこで大舞踏会が必要になってきた。世帯持ちのじょうずな男爵夫人は、舞踏会のほうが晩餐会よりも安あがりであると胸算用した。それで、お客をたくさん呼ぶことを承知し、オルタンスの結婚式は大評判になった。
公爵ヴィッサンブール元帥とヌチンゲン男爵が花嫁側の、ラスティニャック、ポピノの両伯爵が花婿側の立会人になった。それから、スタインボック伯爵が有名になって以来、ポーランド亡命者のなかの著名人物たちが伯爵と交際したがっていたので、芸術家は、それらの人びとをも招待しなければならないと考えた。ユロ男爵が所属している参事院、政府諸機関、フォルツハイム伯爵に敬意を表するためにぜひにと出席の希望をよせてきた軍隊、これらはそれぞれ最高幹部たちが代表して列席することになっていた。やむをえないものだけでも、招待者の数は二百をこえた。こういう集まりに、綺羅を飾ってたちあらわれることが、マルネフ夫人にとって、どんなに得意なことか、だれしも容易に理解してくれるだろう。
一カ月ほど前に、男爵夫人は娘の新家庭を準備するための費用にあてるために自分のダイヤモンドを売った。もっともダイヤモンドのなかでもっとも高価なものは、嫁入り仕度用としてとりのけておいた。このダイヤモンド売却で、一万五千フランが手にはいったが、そのうち五千フランはオルタンスの嫁入り仕度をするのにつかった。若夫婦用の家具、それも、現代風に贅をこらしたものとなれば、とても残った一万フランでたりるものではない。しかし、ユロの若夫婦、クルヴェルじいさん、フォルツハイム伯爵などが、それぞれ立派な祝いの品を贈ってくれた。叔父の老フォルツハイム伯などは、オルタンスに銀の食器類を買ってやるために前から金を用意しておいてくれたほどだった。こんなにいろいろと援助のあったおかげで、気むずかしいパリの女だって若夫婦の新居には満足したろうと思われるような立派なアパルトマンが用意された。それは廃兵院の広場にほど近い、サン・ドミニック通りの建物で、彼らふたりの清純で、率直で、まじめな愛情にいかにも似つかわしいアパルトマンであった。
いよいよ晴れの日がやってきた。オルタンスやヴェンツェスラスにとってと同様、それは父親のユロ男爵にとっても記念すべき日だった。マルネフ夫人は、自分が罪を犯す日でもあり、恋人たちが結婚する日でもある日の翌日を選んで、派手に転居祝いをやろうと前からきめていたからである。
長い一生のあいだでいちども結婚舞踏会に出たことがないというような人がいるだろうか。だれでも思い出を振り返って見れば、着かざってにこやかな顔をした人びとのさまざまな顔を思い浮かべ、心なしか微笑したい気持ちにさそわれるにちがいない。環境の影響というものを証明する社会現象があるとすれば、これはまさしくその一例ではあるまいか。じっさい、晴れ着を着た人がそこにいると、それは他の人びとの気分にも影響を与えずにはおかない。その結果、ふだんから礼服を着なれている人びとまでも、結婚式などのような晴れの席にはめったに出る機会のない人びとと同じような態度を取りはじめ、あらたまった気持ちになってしまう。それからまた、人生の諸事にたいしてもうすっかり無関心になってしまったために、普段着の黒い服を着たまま、式に出ているあの重々しい顔つきの人びと、つまり老人たちを思い出していただきたい。若い人びとがこれからはじめようとしている人生の悲しい経験を、すべて顔の表情に浮かべている老夫婦たち。シャンパンのなかの炭酸ガスのようにふつふつと湧きおこってくる歓楽のどよめき、ねたましそうなめつきの若い娘たち、衣裳の具合ばかり気にしている女たち、窮屈そうな身なりが盛装の人びとときわだった対照をなしている貧しい親戚のもの、夜食のことしか考えない食いしん坊の連中、トランプの時間がくるのを待ちかねている勝負好きの面めん。なにもかもがそこにある。富めるものも貧しいものも、うらやむものもあれば、うらやまれるものもいる。悟った人間もいれば、幻影を捨てきれないでいる人間もいる。そしてすべての人びとが、花かごのなかの植物のように、花嫁という名花のまわりに群をなして集《つど》っているのだ。婚礼の夜の舞踏会、それは人生の縮図である。
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三六 新郎新婦
舞踏会もいまがたけなわというころ、クルヴェルは、男爵の腕をつっつくと、何気ない顔つきで、その耳もとにささやいた。「おどろくにたる美人だね、君のほうをじっと見ているあのばら色の服の女は!」
「どのひとだい?」
「君がしきりに引きたててやっている、ほら例の次長の細君さ。マルネフ夫人さね」
「どうして知っているんだ?」
「ねえ君、あの女の家におれを連れてってくれれば、君の罪を許してもいいよ。それから君をエロイーズのところにこさせてやるよ。あの美人はいったいだれだろうって、みんないっているよ。あの女の亭主が次長に任命されたわけを、役所のものにはだれも気づかれないっていう保証はあるのかい?……とにかく悪運の強い男だ。あれだけの美人となら、役所の地位ぐらい引きかえにしてもいいね……宮仕《みやづか》えより、あの女に仕えたほうが楽しいからね……どうだい『シンナよ、われらは友なり』〔コルネイユ『シンナ』五幕三場〕といこうじゃないか」
「よかろう、今まで以上にね」と男爵は香水商にいった。「良友たることを約束してもいい。一カ月後には、あのかわいい天使といっしょに飯がくえるように取りはからってあげよう……というのも俺はちかごろ天使たちとつきあっているんでね。君もそろそろおれのまねをして、悪魔たちとは縁を切ったほうがいいぜ……」
ヴァノー通りの二階の、小ぎれいなアパルトマンに引っ越したベットは、十時ごろ、舞踏会を後にした。年利千二百フランになる二口の年金証書の顔が早く見たかったからである。二つのうちの一方の虚有権はスタインボック伯爵夫人のもの、他方はユロ若夫人のものだ。こういうわけで、クルヴェル氏が友人のユロにマルネフ夫人についてあんなことを言い、だれも知らない秘密を知っていたのも不思議はない。なぜならば、例の秘密を知っているのは、旅行中のマルネフ氏と、ベットと、男爵とヴァレリーだけだからである。
次長の細君が着るにしてはいささか贅沢すぎる衣裳を、男爵がマルネフ夫人に買ってやったことは軽率のそしりをまぬかれない。ほかの女たちはヴァレリーの衣裳にも、またその美貌にも嫉妬した。女たちは、扇のかげでひそひそささやきかわした。それというのも、マルネフ夫妻の貧乏は、局のなかでも噂になっていたからだ。男爵が夫人に惚れこんだのは、ちょうどマルネフが同僚たちに借金を申し込もうとしていた矢先だったのである。それにエクトルは、ヴァレリーの美しさが讃嘆の的《まと》になっているのを見てうれしさを隠し切ることができなかった。女というものは、自分の知らない世界にとびこんで、みんなから仔細に見られるのをひどくおそれるものだが、ヴァレリーは、端然として気品にあふれ、羨望の的となりならがらそうした検査にたえていたのである。
妻と娘と婿を馬車で送り出してから、男爵は人に気づかれないようにして舞踏会の席を抜け出した。主人役は息子夫婦に押しつけてしまった。男爵はマルネフ夫人の馬車に乗りこみ、夫人の家に送っていった。けれども夫人はろくに口もきかず、何かもの思いにふけっているようで、ほとんど憂鬱に近い面持ちだった。
「わたしの幸福はあなたを悲しくするものなのですね」と男爵はいいながら、馬車の奥で夫人を抱きよせた。
「だってあなた、あわれな女がはじめて罪を犯すのですもの、考えないではいられないじゃありませんか。たとえ、夫が不実をはたらいた以上、妻は自由だとしてでもですわ。わたしには真心もないし、信仰も宗教もないとお思いですの。あなたはこんばん、遠慮もなくうれしそうな顔をして、わたしを人目に立たせてしまいましたわ。ほんとにみっともないこと。高校生だってあんなにいい気になったりはしませんわ。おかげで、奥さま方からじろじろ見られたり、皮肉をいわれたり、さんざんでした。評判を気にしない女がありまして? あなたのおかげで、わたしももうおしまいですわ。ああ、わたしはもうあなたのものですわ。やれやれ、しかも、今となっては、あなたに忠実な女になる以外には、このあやまちのつぐないをする道はないんですのよ。ひどい方!」と夫人は笑いながらいって、接吻されるがままになった。「あなたは自分でちゃんと承知したうえであんな態度をお取りになったのね。部長の奥さんのコケさんたら、わたしの隣にきて坐って、何をいうかと思ったら、わたしのレースをつくづく眺めながら『これは英国製ですの? ずいぶんお高かったでしょう』なんておっしゃるの。『存じませんわ。このレースは母ゆずりですのよ。こんな贅沢品はわたしみたいな貧乏人にはとても買えませんわ』ってわたし答えてやったわ」
ごらんのごとく、マルネフ夫人は、帝政時代の老いたる色男を徹底的に悩殺してしまったから、男爵は、マルネフ夫人に生まれてはじめてあやまちをおかさせるのだと思いこみ、夫人は男爵を恋するあまり義務をすっかり忘れて彼に身をまかせるのだと信じこんでしまった。マルネフ夫人にいわせると、結婚の三日後には、彼女の不らちな夫は、おぞましい目的のために、彼女を見捨ててしまった。以後、夫人は、まことにつつましく娘のままに今日まで暮してきた、しかし結婚はたいへんおそろしいもののように思われるから、かえってそのほうが幸せだった、というのである。今、なんとなく彼女が悲しい気持ちでいるのも実はそのせいだ。
「恋が、結婚と同じようにおそろしいものだったら?……」そういいながらマルネフ夫人は泣いて見せるのであった。
ヴァレリーのような立場におかれれば、女はだれでもこういう思わせぶりの嘘をつくものなのだが、その嘘を聞いているうちに、ユロ男爵は極楽浄土のれんげの花をかい間見るような気分になってきた。こういう次第で、ヴァレリーがしきりにユロ男爵にたいして擬態のかぎりをつくしていたころ、一方では、恋にもえる芸術家とオルタンスとは、男爵夫人が最後の祝福を与えて、おわかれの接吻をしてくれるのを、待ちきれない思いで今か今かと待っていたのである。
朝の七時ころ、男爵は、主人役という苦役から息子夫婦を解放してやるために舞踏会場にとって帰した。男爵は天にものぼるほどのうれしい気持ちであった。それも道理、かのヴァレリーは、男爵にとって清純無垢の乙女であるとともに老朽の悪魔でもあった。会場では、踊り好きのものたちが、コチヨンと称する、男女が組になって踊るダンスをいつ果てるともなくつづけていた。こういう連中は、おおむね花婿花嫁の家とは縁もゆかりもないものが多いのだが、いつもきまって最後には会場を占領してしまう。ブーイヨットのゲームに夢中になっているトランプ好きの連中は、テーブルをかこんでいまや必死になっていた。クルヴェルじいさんは、六千フランももうけていた。
配達夫が持ってきた新聞のパリ版にはこんな記事が出ていた。
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スタインボック伯爵と、オルタンス・ユロ嬢との結婚式は、今朝、サン・トーマ・ダカン教会においてとり行なわれた。オルタンス・ユロ嬢は、参事院議員、陸軍省経理局長、男爵ユロ・デルヴィー氏の令嬢で、有名なフォルツハイム伯爵の姪にあたる。婚儀は盛会をきわめ、列席者中には美術界の著名人、レオン・ド・ロラ、ジョゼフ・ブリドー、スティドマン、ビクシウなどの諸氏も顔を見せ、また陸軍省、参事院などの最高幹部や両院の議員も多数参列した。さらにバス氏、ラジンスキー氏などポーランド亡命者中の有名人士も列席した。
伯爵ヴェンツェスラス・ド・スタインボック氏は、スウェーデン王、カルル十二世|麾下《きか》の名将スタインボック甥孫にあたる。伯爵はポーランド反乱軍に加わり、フランスに亡命中のところ、その芸術的才能を正当に認められて名声を得、フランスに帰化した。
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このようにして結婚式が新聞にまで報ぜられ、男爵の財政状態はおそるべき逼迫《ひっぱく》を告げていたにもかかわらず、世間の手前ぼろを出すようなことはなくてすんだ。そして、オルタンスの結婚式は、息子のヴィクトランとクルヴェル嬢の結婚のときと変わらないくらい盛大なものだった。娘の結婚は、男爵の財政状態についてのよからぬ噂を打ち消すのに役立ち、娘の持参金調達ということで男爵の借金の説明になった。
ここで、いわばこの物語の序章ともいうべき部分が終わる。これまでの話と、後につづく事件との関係は、論理学でいう前提と命題の関係にひとしい。古典劇にたとえるなら、これまでのところは序幕にあたる。
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三七 背徳についての道徳的考察
パリでは、女が美貌を売りものにしようと決心して、それでその女が幸運をつかめるわけではない。容姿にすぐれ、才知も抜群でありながら、ひどくおちぶれて、快楽にはじまった生涯を末はたいそうぶざまに送る女を、よく見かける。そのわけはこうだ。おもて向きは貞淑なブルジョワの奥さまらしくよそおいながら、うまい汁だけを吸うつもりで恥ずかしい売春の商売を志しても、それだけではたりない。悪事は、そう簡単には成功しない。
この点、悪事は天才と似ている、つまりこの二つは、運と才能とをうまく結び合わせるためにどちらも幸運な事情の助けが必要である。大革命から波乱重畳の局面をとり去ると、ナポレオン皇帝というものは、もはや存在しない。せいぜいファベール〔ルイ十四世時代の元帥〕の再版程度で終わったことであろう。ひいきにしてくれる男はなく、世間の評判にもならず、おおぜいの男にごっそり財産を使わせて不名誉の勲章をちょうだいすることもないような、そういう女の美貌は、天井裏の物置きのなかのコレジョの名画であり、屋根裏部屋で息を引きとる天才のようなものだ。だからいやしくもパリのライス〔古代ギリシャ、コリントスの美しい娼婦〕といえるほどの女なら、何よりもまず、ねうちどおりに金をつぎこんで熱狂してくれる金持ちの男を見つけなければならない。とりわけ自分の看板になることではあり、どこまでも優美であろうと心がけなければならない。男たちの自尊心を満足させるだけの上品なもの腰をもち、金持ち連中の無感覚をぴくりとさせるような、あのソフィー・アルヌー〔十八世紀末の才知に富んだオペラ座の女優歌手〕流の才気をもたなくてはならない。最後に、あくまでもひとりの男に貞節であるように見せ、道楽ものたちの渇望の的にならなければいけない。ひとりにだけ貞節をつくすということになれば、だれしもその幸運にあずかりたいと望むことだろう。
こうした条件のことを、この種の女は運《ヽ》と呼んでいるが、いくらパリが大金持ちや閑人や、遊びがすぎて無感覚になった男や、気まぐれものでいっぱいの都会だとはいっても、そういう条件を実現することはなかなか困難である。この点、神の摂理は、たしかに俸給生活者の家庭や小市民階級をしっかり守ってくれている。というのも、これらの階層の人たちにとってそういう障害は、生活環境のせいで少なくとも二倍になっているからである。
とはいえ、パリには、まだマルネフ夫人式の女がかなりたくさんいるから、ヴァレリーは当然この『人間喜劇』の風俗史のなかにひとつのタイプとして登場してもよい人物である。こういう女たちのあるものは、真の情熱にも屈服するが、また同時に必要に迫られて犠牲者にもなる。たとえば左派のもっとも著名な雄弁家に数えられる銀行家のケレルと、あれほど長いあいだ関係のあったコルヴィ夫人のような女性がそれであり、またあるものは虚栄心にかられて同じ道をたどる。ルーストーと駆け落ちはしたけれどもまずまず貞淑でとおしたラ・ボードレー夫人のような女性がそれである。後者の女性たちは、着飾りたい欲望に引きずられ、前者の女たちは、どうにも少なすぎる給料だけでは一家の生計を立ててゆけないために道をあやまる。そもそも国家が出しおしみをすることが、あるいはこういったほうがよければ、議会がけちけちすることが、多くの不幸をつくり、多くの堕落を生みだすのである。最近、労働者階級の運命が大いに世の同情を買い、製造業界の食い物にされているようにいわれている。だが国家のほうは、貪欲このうえない業者にくらべて、なお百倍も苛酷であり、俸給についてはめちゃくちゃな節約ぶりを示している。たっぷり働きたまえ。業者は諸君の働きに準じて賃金を支払う。ところが国家の仕事に黙々と精を出している多くの労働者たちに、国家はいったい何をしてくれるというのか?
貞操の道を踏みはずすことは、夫をもつ女にとって弁解の余地のない罪である。だが、そのような境涯にもいろんな段階があって、さきほどちょっとその情事にふれたコルヴィ夫人やラ・ボードレー夫人のように、堕落するどころか、自分のあやまちを隠して、見かけだけ貞淑な女だというのもある。またなかには、あやまちを重ねたうえ、それをたねに大もうけを当てこんで恥の上塗りをする女もいる。マルネフ夫人は、だから、いうなれば最初からどのような堕落でも受けいれ、手段の善悪は問うところでなく、楽しみながら金もうけをすることにきめているあの野心満々の、亭主もちの娼婦の典型である。だが、マルネフ夫人の場合がそうであるように、こういう女をそそのかし、手をかしているのは、たいてい彼女たちの亭主なのだ。
こうしたペチコートをはいたマキァヴェリは、もっとも危険な女であり、パリの性悪《しょうわる》女のなかでも、いちばん悪い。ジョゼファとか、ションツ、マラガ、ジェニー・カディーヌといったような、ほんものの娼婦ならば、自分の身分を正直におもてに出しているから、淫売宿の赤い燈火や賭博場のケンケ燈と同じように、それがはっきりした警告になる。男はそこで、あそこに行けば破滅しておしまいだな、とさとる。ところが、生活上のごくありふれた不如意をちらつかせるだけで、見かけはいかにも無分別な行ないをいましめているような亭主もちの女の、いやに甘ったるい貞女ぶり、さも身持ちの堅そうな様子、偽善的な態度などは、男をいつとはなしに破滅へ引きこんでしまう。おまけに、どうしてそんな羽目になったのか当の本人にもさっぱりわからないので、これを口実にあきらめることになるから、この破滅は、なおのこと奇異の感を深める。財産を食いつぶすのは、そういう女のけちくさい小づかい帳であって、気まぐれな遊びごとなどではない。一家の父親たる男が、名声をうることもなくて没落し、何か鼻の高い思いをしたという大きな慰めも知らずに、惨めな生活を送るのである。
ながながと述べてきたが、これがぴったり当てはまるような家庭がたくさんあるだろう。マルネフ夫人のような女は、社会のあらゆる階層に、宮廷社会にさえ、いくらも見かける。ヴァレリーは、生身の人間をごく些細な部分までもおろそかにせずにかたどった、悲しい実物だからだ。不幸なことだが、いくらこんなふうにマルネフ夫人の肖像を描いてみせても、甘い微笑をたたえ、夢みるような姿態や、あどけない顔で、本心は金をさらいこむ金庫みたいな天使たちに恋こがれる習癖を、どんな男からも取り去るわけにはいかないだろう。
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三八 クルヴェル氏の意見の効果
オルタンスの結婚から三年がすぎた一八四一年のこと、ユロ・デルヴィー男爵は、行ないも改まり、ルイ十五世の侍医頭の言葉をかりれば、女道楽とふっつり縁を切ったと思われていた。ところが、マルネフ夫人は、むかし彼がジョゼファにつぎこんだよりも二倍も多くの金を使わせていた。だがヴァレリーは、身なりこそいつも立派だったが、次長級の妻らしい質素なふうをよそおっていた。贅沢も部屋着とか家のなかでの服装だけにかぎっていた。そうやって、いとしいエクトルのために、パリ女の虚栄心を犠牲にしていたのである。けれども、芝居見物にゆくときは、きまってきれいな帽子をかぶり、最新流行のおしゃれをしてあらわれた。男爵に馬車で送られて行って、あらかじめ予約しておいた桟敷におさまるのだった。
中庭と庭園にはさまれた近代風の建物の三階全部を占めているヴァノー通りのアパルトマンには、いかにも貞淑さがただよっているみたいだった。贅沢といえば、壁に張ってあるペルシャ更紗《さらさ》や、たいへん使いやすそうなしゃれた家具類ぐらいのものであった。ただ寝室だけは、例外で、ジェニー・カディーヌやションツ風の女が見せびらかすような装飾品がむやみと並べてあった。レースの窓掛け、カシミヤの織物、めずらしい品物が所せましとばかりおいてある飾り窓、などである。
ユロは、ジョゼファのような女の黄金と真珠で飾り立てた泥沼よりも、絢爛さが劣る家のなかに、愛するヴァレリーをおきたくはなかった。アパルトマンのおもなふたつの部屋は、客間と食堂であるが、最初、客間のほうは真紅のダマスクス織で飾られ、食堂のほうは彫刻をほどこしたかしわ材の家具がそなえつけてあった。ところが男爵は、何もかも調和のとれるようにしたくなって、半年もたつと、たいそう高価な家具類を揃えて、一時的な贅沢に、丈夫で長持ちのする贅沢をつけ加えた。たとえばひとそろいの銀器だが、その勘定書は二万四千フラン以上であった。
マルネフ夫人の家は、二年ほどのあいだに、たいへん快適な家という評判になった。そこは愉快な遊び場だった。ヴァレリー自身も、愛想がいい機知のある女としてたちまち人びとの注意をひいた。彼女の境遇の変化をもっともらしくするために、彼女の私生父《ヽヽヽ》であるモンコルネ元帥の介立遺贈によってばく大な遺産が譲られたという噂がひろまった。ヴァレリーは、将来のためを考えて、社会的な偽善に、宗教的な偽善をかさねることにした。日曜日にはかならず教会の礼拝式に出かけて、信心深い女という栄誉を得た。義捐《ぎえん》金を集めたり、慈善事業の手伝をしたり、供物のパンを喜捨したり、近所の人たちにちょっとした善行を施したりした。もっとも、費用はすべてエクトル持ちだったが、そんなわけで、彼女に関しては、万事が都合よく運んだ。だから、多くの人たちが、参事院議員の年齢を根拠に、男爵との関係の潔白さを断言さえして、こう考えてくれるのだった。男爵は、マルネフ夫人の気のきいた親切や、魅力ある立居振舞や、その話しぶりをプラトニックに好いているのだ、ちょうど今は亡きルイ十八世が、表現の巧みな手紙を好まれたのとおよそ似たような好みである、と。
男爵は夜の十二時ごろみんなといっしょに引きあげて、十五分ほどするとまたもどってくる。この用心深い秘密にはつぎのようなわけがある。
ヴァレリーの家の門番は、オリヴィエ夫婦であった。門番を探していたこの邸の持ち主の友人であった男爵の口利きで、彼らはドワイエネ通りの薄暗い、あまり金にならない門番部屋から、ヴァノー通りのもうけの多い立派な門番部屋へ移ってきたのだ。ところで、オリヴィエ夫人は、もとシャルル十世の王家の衣裳下係をつとめたことがあり、正統王朝の没落とともにこの地位から落ちてしまったが、三人の子供があった。長男はすでに公証人の下級書記になっており、オリヴィエ夫婦の寵愛の的だった。このベンヤミン〔旧約聖書、ヤコブの最愛の末子〕が、六年間の兵役にとられかかって、その輝かしい前途を断ち切られようとしたとき、マルネフ夫人が兵役からまぬがれさせてやった。例によって、理由は身体上の欠陥である。徴兵検査官たちは陸軍省の有力筋から耳うちされると、ちゃんとしかるべき欠陥を見つけ出してくれるのである。かつてシャルル十世の猟犬係だったオリヴィエとその妻は、だからユロ男爵やマルネフ夫人のためならば、キリストをもういちど十字架にかけることだってやりかねなかった。
モンテス・デ・モンテジャノス氏というブラジル人と以前に関係のあったことを知らない世間が、いったい何を言い得るであろう。何もない。それに世間の人びとは、楽しく遊ばせてくれるサロンの女主人にたいしては非常に寛容なものだ。最後に、マルネフ夫人には、人を喜ばせるあらゆる魅力のほかに、隠れた勢力家というたいへん人気のある利点があった。そんなわけで、元帥ヴィッサンブール公爵の秘書で、いつかは参事院議員委員になることを夢みているクロード・ヴィニョンも、このサロンの常連だった。好人物で賭けごと好きの代議士も何人かがやってきた。マルネフ夫人の社交界は、慎重にゆっくりとつくられた。このサロンの出入りは、意見や行ないが一致していておたがいに援助し合うことや、この家の女主人のかずかぎりない美徳を宣伝することに熱心な人たちだけに許されていた。つぎの公理をよく覚えておいてもらいたい。なれ合いは、パリでは、ほんとうの神聖同盟であるということ。利害関係は、最後にはかならず仲間割れにおわるけれど、悪人は、かならず意気投合するものなのである。
ヴァノー通りに落ちついて三カ月目から、マルネフ夫人はクルヴェル氏に出入りを許し、クルヴェル氏はたちまち彼の区の区長になり、レジォン・ドヌール四等勲章の拝受者になった。クルヴェルは長いあいだ迷った。あの名高い国民軍士官の制服に別れなければならなくなるからだった。この制服を着ると、いつも、自分がナポレオン皇帝のような雄々しい軍人になったような気分になり、チュイルリー宮殿のあたりを大いに気どって歩く彼だったのである。だが、マルネフ夫人からすすめられて、野心のほうが虚栄心よりも強くなった。区長殿は、以前から自分とエロイーズ・ブリズトゥー嬢との関係を、自分の政治的態度とはまったく両立しないものと考えていた。区長の椅子というブルジョワの王座につく以前から、彼の情事は深いなぞにつつまれていた。だが、クルヴェルは、お察しのとおり、ジョゼファを横どりされたうらみを、機会さえあれば何どでも、はらしたいので、年利六千フランの国債証書の名義をマルネフ氏の財産分割配偶者であるヴァレリー・フォルタンにしたことで、男爵にたいする復讐権を買ったのだった。ヴァレリーは、おそらく囲われた女に特有の才能を母親からゆずりうけたのであろう、ひと目みただけで、この異常な讃美者の性格を見ぬいてしまった。「わしはまだ一回も上流の女を手にいれたことがない」。クルヴェルがリスベットに語り、リスベットから愛するヴァレリーに伝えられたこの言葉は、取引きのさいに大いに利用され、おかげでヴァレリーは五分利で年額六千フランの年金を得ることになった。それ以来彼女は、もとセザール・ビロトーのセールスマンだった男の目に、けっして威光を落とさないように注意した。
クルヴェルは、金めあての結婚をした男で、妻はラ・ブリーのある製粉業者の娘、しかも一人娘で、親からの遺産を継げば、その四分の三はクルヴェルのふところにはいることになっていた。小売商人というものは、たいていは、商売よりも、むしろ自分の店といなかの妻の家との縁組によって金持ちになる。パリ近郊の農場主や製粉業者、乳牛の飼育者や農民などの大部分は、自分の娘をパリの商家の帳場という名誉ある地位につかせたいと夢みる。そして、身分が高くて気づまりな公証人とか弁護士よりも、ずっと自分たちの気持ちにふさわしい、小売商人や宝石商人や両替商のうちに、婿を思い描くのである。彼らはそういうブルジョワ階級の頂点にいる人たちからあとになって軽蔑されることをおそれる。
クルヴェル夫人は、かなり醜く、ひじょうに下品なうえにばかな女で、ちょうどいい時機に死んだのだが、夫にたいして、子供の父親であるという以外に何ひとつ喜びを与えずじまいだった。ところで、商売をはじめた当初は、さすが女好きの彼も、職業柄なにかと束縛が多く、貧苦のため我慢もせねばならないので、もっぱらタンタロス〔永久の飢渇に苦しんだギリシャ神話中の人物〕の役を演じていた。その言葉にしたがえば、パリのいちばん上流の婦人たちとさえつながりのある彼なのだが、いつも彼女たちの優雅な姿や流行の着こなし方や、家柄といわれるものからかもしだされる、名づけようのない気品にほれぼれとしながら、商人らしくぺこぺこして、相手を送り出すのであった。
こういうサロンの妖精たちのひとりと肩をならべられる地位までのぼりつくことは、青年時代から胸のなかにおさえつけられていた欲望だった。マルネフ夫人の好意を得ることは、だからクルヴェルにとってはただ単に長年の夢が生き生きと動き出したことを意味するだけではなく、すでに見たように、それはまた自尊心や虚栄心やうぬぼれの問題でもあった。彼の野心はこの成功によってさらに増大した。彼は並みはずれた快楽をまず頭で味わった。だが頭がしびれると胸がその影響を受け、幸福感は十倍にもなる。マルネフ夫人はそのうえいろいろと手を変えてクルヴェルにいい寄った。これは思いがけぬことだった、というのは、ジョゼファにしろエロイーズにしろ、彼を愛したことはなかったからである。が、マルネフ夫人は、この男は永久のドル箱だとにらみ、これはうまくだましておく必要があると考えたのだった。
うそやだましでかためた金銭ずくの恋は、真実よりも魅力がある。ほんものの恋であれば、おたがいに傷つけあうようなつまらないいさかいがついてまわる。だが反対に、冗談半分の喧嘩は、だまされる側の人間の自尊心をくすぐる愛撫である。そんなわけで、たまにしか会えないから、クルヴェルの欲望ははげしい恋の状態を保っていた。会ったときはきまってヴァレリーの貞淑ぶったつれなさにぶつかった。彼女は、さも良心がとがめるようなふりをしたり、死んだ父親は、正直な人たちのいる天国で、彼女のことをどんなふうに思っているだろうかなどと話すのである。クルヴェルは、そうした一種のよそよそしさをこわしてかからねばならなかった。口がうまくて抜け目のないヴァレリーのほうは、よそよそしくしながら、相手にうち負かされそうに思いこませ、このブルジョワの気違いじみた情熱に屈服しそうに見せた。だがふたたび、彼女はそれを恥じたかのように、イギリス女以上でも以下でもない、いつも淑女の誇りと貞淑な態度をとりもどしてしまい、彼女のクルヴェルをその威厳の重みで押しつぶしてしまうのだが、それもクルヴェルは、最初からヴァレリーは貞淑な女だと思いこんでいたからだ。最後に、ヴァレリーは、やさしい情愛をあらわにみせる独特な才能をそなえており、そのため男爵もそうだが、クルヴェルにとっても同様に彼女はなくてはならぬ存在となった。
おおぜいの人の前では、彼女はつつましい、夢みるようなあどけなさや、非の打ちどころのないしとやかな態度、愛らしさと優しさとフランス人ばなれのしたもの腰のためにひときわ目立つ才気などを、いちどに発揮して人びとをうっとりさせた。だが、ふたりきりのさし向いになると、くろうと女もそこのけの、おもしろくて愉快で、いくらでもちがった思いつきをもち出す女に変わってしまうのだった。こういう対照的な変わりようは、クルヴェル式の人間をひどくうれしがらせる。そのお芝居の作者は、おれひとりだと得意になり、これはおれだけのために演じられているのだと思いこむ。そして、このなんとも心地《ここち》よい偽善ぶりににやにやしながら、女の芸にほれぼれとするのだった。
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三九 美男ユロ男爵の破滅
ヴァレリーは、ユロ男爵をみごととりこにしてしまった。この種の女の悪魔的な才知を描くのに格好の材料になるような、巧妙な殺し文句をつかっては、男爵をどうしようもなく老いこませていった。いくら人並みすぐれた体躯でも、敵に攻囲されて長いあいだもちこたえた要塞と同じく、いつかは実情がはっきりしてしまうときがくる。帝政時代の洒落男も、いずれ近いうちに変わりはててしまうことを見越したヴァレリーは、その時期を早めなくてはと考えた。
「どうしてそんな窮屈なまねをなさるの、お年寄りの兵隊さん」ふたりが二重姦通の秘密結婚をしてから半年たったころ、彼女はこんなふうにいった。「さてはなにか目的があるのね。あたしにないしょで浮気するつもりなんでしょう。あたしには、あなたがそんなお化粧をしないほうがよっぽどいい男に思えてよ。そんなよけいなおめかしなんか、あたしのために犠牲にしていただきたいわ。長靴の先にちょっぴりワニスをつけたり、ゴムのバンドをしたり、窮屈なチョッキでからだを締めつけたり、頭にかつらをしたり、そんなものをあたしが好くとでも思っていらっしゃるの。それにあなたがおじいさんになればなるだけ、ほかの女にあたしのユロをとられる心配がなくなるんですものね」
参事院議員は、マルネフ夫人と余生を終えるつもりだが、そんなふうにいわれるとその愛情と同じようにその神聖な友情を信じる気になり、このひそかな忠告にしたがって頬ひげと髪を染めることをやめてしまった。ヴァレリーからこのいじらしい言葉を聞かされたあと、ある朝のこと、美男で堂々たる体格のエクトルはまっ白な髪をしてあらわれた。マルネフ夫人は、髪のはえぎわがいつも白くなっているのをすでに何度となく見て知っていたことを、愛するエクトルにこともなげに証明してみせた。
「白い髪は、あなたのお顔にすごくにあうわ」と、彼を見ながら、「このほうが、やさしいお顔に見えてよ。そのほうがどんなにいいかしれないわ。魅力的だわ」
こうした方向に追いこまれた男爵は、ついに皮のチョッキもコルセットも脱ぎすてた。窮屈な革帯類もいっさいとりはずしてしまった。腹はたれさがり、肥満したからだがあらわになった。樫《かし》の木が、ずんどうな塔に変わった。動作の鈍さは、ルイ十二世の役を演じておどろくばかりのふけ方をしただけに、なおいっそうおそろしいものだった〔ルイ十二世は、五十三歳で妻を失い、数カ月後に若くて元気なマリー・ダングルテールと結婚して、翌年の一月に亡くなった〕。眉毛だけは相変わらず黒く、どこか美男のユロをしのばせたが、それはちょうど封建時代の古城の壁面にかすかに残る彫刻の一片から、栄華を誇ったありし日の城の姿が知られるのに似ていた。このふつりあいな眉毛のために、まだ鋭く若々しい視線は、セピア色の顔のなかで異様に見えたが、長いあいだルーベンス風の肉色につやつや光っていた顔がいまや土色に変わって、傷あとや深いしわのあいだに自然の理にさからう情欲のあえぎが見られるだけに、なおさらその異様さが目立った。ユロはもはや美しい人間の廃墟にすぎなかった。そこには生命力がまだ残っていて、あのローマ帝国のほとんど不滅とも見える記念碑にふき出る苔さながらに、耳に、鼻に、指に、茂みとなって萌え出すのであった。
復讐心の強い国民軍大隊長は、ユロを負かして評判になることを考えているのに、どうやってヴァレリーは、そんなクルヴェルとユロとをいっしょに並べて手もとにひきとめておけたのだろうか。この疑問はドラマの進行につれてしぜんに解けるであろうから、ここですぐに答えを出すのはやめにするが、ただリスベットとヴァレリーが二人で、あるおどろくべき策を講じ、その強力なはたらきがこのような結果を生む助けになったことは指摘しておいてもいいだろう。マルネフは、一つの恒星系をしたがえた太陽のように、自分の妻が王者の位置に立って君臨し、とりまきの環境のせいでいちだんと美しくなったのを見てからというもの、衆目の見るところでは、どうも妻にたいするむかしの恋情の火がふたたび燃え立つのを感じているらしかった。そのために気が狂ったようになっていた。こういう嫉妬は、マルネフ氏を興ざめなものにしたが、反面その嫉妬のおかげでヴァレリーのふりまく愛きょうにいちだんと価値がでるのだった。といっても、マルネフは自分の上官のユロにたいしては、変わりはてて、ほとんど滑稽なくらいのお人好しになっていたけれど、一種の信頼を示していた。ただクルヴェルという男にだけは、腹が立つのだった。
マルネフは、ローマの詩人たちが描いたが、現代人の羞恥心からすれば、もってのほかである大都会特有の放蕩のおかげでからだをこわし、まるで蝋細工の解剖標本みたいに醜くなっていた。だが、ところかまわずうろつきまわる病気の男は、りっぱならしゃ地の服を着て、洒落たズボンに添え木のような足をいれて、ゆらゆらさせてゆくのだった。ひからびた胸は、白いシャツのにおいがし、そして人間が腐ってゆくたまらない悪臭を麝香《じゃこう》で消していた。ヴァレリーが、財産や勲章や地位にふさわしい身なりをマルネフにさせていたために、貴族みたいな服装で、まさに息を引きとろうとしているこの悪党の醜悪さには、クルヴェルはぞっとしていた。白目ばかりのような次長の視線を、容易には受けとめることができなかった。マルネフは、クルヴェル区長の悪夢だった。リスベットと妻が自分に奇妙な力を授けてくれたことに気づくと、このたちの悪いならず者はそれをおもしろがって、何か道具でもつかうようにそれをつかった。そしてサロンでのカルタ遊びが、心身ともに消耗しきったこの男の最後の切り札だったので、クルヴェルからさんざん金をまきあげた。クルヴェルのほうでは、自分はこの尊敬すべき官吏をだましている(!)のだから、何事によらず相手のいうとおりにならざるをえないと思っていた。
クルヴェルがこの醜怪な、けがらわしいミイラの前に出るとまるで子供同然であることを目撃し、そのミイラの腐敗ぶりは区長にはまったくわからないことであったが、ことにヴァレリーがそんなクルヴェルをすっかり軽蔑し、まるで道化役者を笑うようにこの男を笑いものにするのをながめると、男爵が、もうだれにも女をとられる心配はないと思いこんだのも当然だろうが、クルヴェルをよく晩餐に招いた。
両わきに見張り人として二人の熱愛者をおき、さらに嫉妬深い亭主に守られているヴァレリーは、自分がいつもきわ立っている常連の集まりで、一座の視線をひきつけ、みんなの欲望をかりたてずにはおかなかった。そんなわけで、表面は貞淑らしくつくろいながら、三年ほどのあいだに、浮かれ女たちが追い求めている成功のうちでもっとも困難な条件を実現することができた。浮かれる女たちは、そうした成功を、スキャンダルとか、持ち前の大胆さとか、人前での生活のはなやかさに助けられて、ごくまれにかちえるのにすぎない。シャノールが見たら、指輪にはめこんで、なんともいえず美しくして見せるだろうと思われる見事にカットされたダイヤモンドのように、つい最近までドワイエネ通りの鉱脈に埋もれていたヴァレリーの美しさは、いまでは真価以上のねうちをあらわし、男を何人も不幸にしていた……クロード・ヴィニョンもひそかにヴァレリーを愛していた。
こういう過去までさかのぼった説明は、三年のへだたりをおいて人びとを見なおすときにかなり必要なもので、これはいわばヴァレリーの決算報告書である。さて、以下にあげるのは、こんどは、ヴァレリーの協力者であるリスベットの決算報告書である。
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四〇 パリの七つの害悪の一つ
いとこのベットは、マルネフ家で、ちょうど夫人のお相手役と兼ねて女中頭の役を引き受けている親戚の女、といった地位を占めていた。だが彼女は、そういうどっちつかずのあいまいな地位を受けいれなければならないほどの不幸な女たちが、たいていの場合、悲しい思いをする二重の屈辱というものを、知らなかった。リスベットとヴァレリーは、ひじょうに熱烈な友情、女同士のあいだにはとうていありそうもない友情でかたく結ばれていて、それは見るからに感動的な眺めだった。それだけにこの種の友情は、何かにつけ早合点をするくせのあるパリっ子たちから、たちまち中傷されることになる。ロレーヌ女のそっけない、男性的な性質と、ヴァレリーの、異国生まれの女らしい、かわいい性格との対照が、そういう中傷をほんとうかと思わせるのだった。そのうえ、マルネフ夫人が自分では気がつかずに、ばかばかしい陰口を裏書きするようなことをしたのだった。ある結婚問題でリスベットに彼女が友人として世話をやいたのである。いずれおわかりになるように、その結婚によってリスベットの復讐は完成されるはずだった。
ベットに大革命が起こっていた。ベットに盛装させたいと思ったヴァレリーは、この機会を最大限に利用した。この風がわりな娘《ヽ》は、いまはおとなしくコルセットをつけ、すらりとした腰つきになり、とかしつけた髪に油をつけ、仕立屋が届けた服をそのまま着用し、極上の編上げ靴とグレーの絹靴下をはいている。もっとも、すべてそれは出入り商人によってヴァレリーの勘定書に記入され、支払いはしかるべき人にまわされる。こうして若がえったベットを見ると、相変わらず黄色いカシミヤの肩掛けをしてはいたが、三年ぶりで会った人ならすっかり見違えるであろう。熟練者の手でカットされ、ぴったり合う指輪の爪にはめこまれたもう一つのこの黒ダイヤ、かずあるなかでもいちばん珍しいこのダイヤは、何人かの野心のある官吏から十分に真価を認められていた。
ベットにはじめて会うものは、その野生的な詩趣を見て、思わず戦慄をおぼえるのだった。それは、器用なヴァレリーが、この「血まみれの尼僧」〔ドイツの伝説中の破戒尼僧。愛人に殺されたあと幽霊となって古城をさまよったという〕に化粧でみがきをかけたり、黒髪とつり合って目がまっ黒に輝いているオリーブ色がかったつやのない顔を、濃い髪の毛を左右に分けて巧みにふちどったり、棒のようにぎごちない腰をなんとか引き立たせたりしながら、浮き出しにして見せた野生的な詩趣であった。まるで額縁から抜け出したクラナッハやヴァン・アイクやビザンティン派の聖母像のように、ベットは、古代エジプトの彫刻家が飾り台にすえたイシス神やその他の神々のいとこにあたるようなこれらの聖母像の神秘的な容貌のかたさと正しさを、いつも保ちつづけていた。花崗岩《かこうがん》、玄武岩、斑岩《はんがん》が歩いているのだった。
老後の心配がないので、ベットは上機嫌だった。晩餐に出かける先々へ、にぎやかな空気をはこんでいった。それに小さなアパルトマンの家賃は男爵が払ってくれ、そなえつけの道具類はご存知のように、友人であるヴァレリーの居間と寝室のお古《ふる》である。
「出はじめは、まるで飢えた|やぎ《ヽヽ》だったけれど、死ぬときは獅子になっているわ」と彼女はいうのだった。
ただ彼女は、時間をむだにしないためだといって、相変わらずリヴェ氏のために金モール細工のいちばんむずかしい仕事を引き受けていた。しかしやがておわかりになるように、その生活は多忙をきわめていた。それなのに、ぜったいに稼ぎの口は手ばなさないという気持ちが、いなかから出てきた人たちの頭にはあるから、この点、ユダヤ人に似ている。
毎朝ベットは、夜が明けると料理女といっしょに自分で中央市場へ出かけて行く。ベットの計画では、ユロ男爵を破産させる小づかい支出簿は、愛するヴァレリーを富ますことになるはずだし、事実またヴァレリーを金持ちにした。
一八三八年以来、扇動的な作家たちの手によって下層階級のあいだに反社会的な主義主張がひろまったが、そのために手痛い打撃を受けなかったような一家の主婦があるだろうか。今日ではどこの家庭でも召使いたちからうける損害が、金銭上のあらゆる損害のうちでいちばん手痛い。モンティヨン美徳賞に値しそうなごくまれな例外は別として、男も女も料理人というのは家庭内の泥棒であり、給料とりのずうずうしい泥棒である。しかも政府が喜んで盗品の隠匿《いんとく》を引き受け、「籠の手」〔ぴんはね〕という古い笑い話によって、料理女のあいだではほとんど当然のことになっている盗みぐせを助長している。むかしなら彼女たちは宝くじの賭け金として四十スーをごまかそうとしたものだが、こんにちでは預金をふやすために五十フランをぴんはねする。それなのにフランスで暇つぶしに博愛事業をやっている石頭の清教徒たちは、民衆を道徳的に向上させたような気でいるのだ。
主人の食卓と市場のあいだに、召使いたちは秘密の入市税をもうけてしまった。そしてあらゆる物品から入市税をとりたてる腕前にかけては、パリ市といえども彼らほど巧みではない。食料品に五割の重税をかけるだけでなく、そのうえ出入りの商人にたくさんの礼金を要求する。一流の商人でさえこの隠然たる勢力の前ではふるえあがる。馬車の製造業者でも宝石商でも服屋でも、その他どんな商人でも、みんなお邸の召使いには、だまって金をにぎらせる。監視しようとする者には、傲慢《ごうまん》な言動にでたり、わざとへまをやって金銭的な大穴をあけ、しっぺがえしをする。むかしは主人の側で奉公人の身もと調査をやったものだが、こんにちでは奉公人が主人の身もとを調べる。この悪習はまったく絶頂に達していて、裁判所も弾圧を加えはじめているが、いっこうに効き目がない。給料とりの召使いたちに労働者手帳を強制的に所持させるという法律にでもよらないかぎりなくなるまい。そうすれば悪習も魔法のように消えるだろう。そういう法律ができて、召使いはかならず労働者手帳を提出することになり、主人は解雇の理由をその手帳に記入することになれば、社会道徳を乱すこの悪習にきっと強力なブレーキがかかることになるだろう。
当面の高等政策にだけ没頭している政治家は、パリの下層階級の堕落がどこまで進んでいるかは知らない。堕落のはげしさは、上流階級にたいする下層民の煮えくりかえるような嫉妬のはげしさにも匹敵する。盗みによって金をためこんだ四十歳か五十歳の料理女と結婚する二十歳の職工のおそるべき数について、統計は何も語っていない。この種の結婚の流行を、犯罪、民族の退化、家庭の悪化という三重の観点から考えるとき、だれでも慄然《りつぜん》とする、召使いたちのごまかしによって生じる純粋に金銭上だけの悪については、これは政治的観点から見て重大である。ごまかしのために生活費がじっさいの二倍も高くなれば、多くの家庭からなくてもすむ贅沢品が締《し》めだされる。贅沢品! ……といってもこれは生活を優雅にするし、国家間の貿易の半分を占めている。書籍や草花は、多くの人たちにとってパンと同じくらい必要なのである。
パリの家庭内のこうしたおそるべき災厄《さいやく》をよく知っているリスベットは、おたがいに姉妹のようでいようと誓い合ったあのものすごい場面で、相手の助けになると約束したてまえ、ヴァレリーの世帯のきりもりは自分がやろうと思っていた。それでヴォージュの山奥から、母方の親戚をひとり呼びよせたが、これはむかし、ナンシーの司教の邸で料理女をしていた誠実いっぽうの、信心深い老嬢だった。だが、パリははじめての経験であるし、ことに、はたからよからぬ入れ知恵をされて、迷わされやすい正直な心が悪に染まる例はいくらもあることなので、心配したリスベットは中央市場までマチュリーヌについて行き、買い物の仕方になれるようにした。商人になめられないように品物のほんとうの値段に通じること、たとえば魚などでもそうだが、高くないときをみはからって時季はずれのものを食べること、食品の値動きにたえず気をくばっていて、あがりそうなものは安いうちに買っておくこと、こういうじょうずな世帯持ちの心がけは、パリでは家庭経済にいちばん必要なことだ。マチュリーヌは十分な給料をもらっていたし、心づけもどっさりもらうので、いいものが安く買えると、自分でもうれしくなるほどお邸のためを思うようになった。だからこのごろはリスベットに負けないほど買い物じょうずになり、彼女も、これならもうだいじょうぶ、安心してまかせられると思い、自分で市場へ出向くのは、ヴァレリーが大勢だれかを招く日だけにかぎることにした。余談になるが、こういう日はわりあいよくあった。そのわけはこうである。
男爵もはじめはこのうえなく厳格な礼儀を守っていたが、わずかなうちにマルネフ夫人にたいする恋情がはげしく、熱烈になり、できるだけそのそばを離れたくないと思うようになった。はじめは週に四度、夫人のもとで晩餐をともにしたが、やがていっしょに食事をすることをすばらしいと感じるようになった。娘が結婚してから半年後には、食費という名目で月々二千フランを手渡した。マルネフ夫人は、愛する男爵が、もてなしたいと思う人たちを招待した。しかし、晩餐はいつも六人分の用意がしてあって、三人までは男爵が不意に連れてきてもいいようになっていた。リスベットは、持ちまえの倹約ぶりを発揮し、そのための食卓を合計千フランで見事にととのえ、月々千フランはヴァレリーに渡すというおどろくべき難題を実行してみせた。
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四一 ベットの期待
ヴァレリーの衣裳代がクルヴェルと男爵からたっぷり出るので、ふたりはこのほうの費用からもやはり月々千フラン札一枚を残していた。だから、いかにも純潔でいかにもあどけないこの女は、当時およそ十五万フランの貯金があった。年金と月々の利得を資本として積み立て、これをクルヴェルの儲けさせてくれる利益でふとらせたものだった。クルヴェルは、「かわいらしい公爵夫人」の資本を、自分がやっている有利な金融事業に気前よく参加させてくれたのである。クルヴェルは、株式市場の用語や投機の仕方をヴァレリーに教えこんだが、さすがにパリ女だけあって彼女はすぐに先生よりも有能になった。リスベットも、例の千二百フランの年金にはぜんぜん手をつけないし、部屋代や衣服代を払ってもらうので、自分の財布からは一スーも出さないから、やはり五、六千フランの小資本があったが、これもクルヴェルの親切なはからいで利殖にまわしていた。
それにしても男爵の愛とクルヴェルの愛は、ヴァレリーにとってつらい重荷だった。このドラマの物語がふたたびはじまる日のことである。蜜蜂は鐘が鳴ると巣に集まってくるが、日常生活でその鐘のかわりになるような出来事に急に腹立たしくなると、ヴァレリーはリスベットの部屋にあがっていって、ながながと泣きごとをならべはじめた。女たちが日々の生活のちょっとしたみじめさを眠らせるためにする、あの舌の先でもてあそんでふかすタバコのような、けっこうな泣きごとである。
「ねえ、リスベットさん、きょうは朝から二時間、クルヴェルのお相手をしなきゃならないのよ。まったくやりきれないわ。ああ、あなたにかわってもらえたら、どんなにいいかしら」
「あいにくと、それはできないし」と、リスベットはほほえみながら、「わたしは一生、娘のままでおわるわ」
「あんな老いぼれ二人の言いなりになってるなんて! ときどき自分で自分が恥ずかしくなるの。ああ、死んだ母がこんなわたしを見たら!」
「わたしはクルヴェルじゃないことよ」
「ねえ、おねがいベットさん、わたしのことを軽蔑しないでね?……」
「なにいってるの! きれいだったら、わたしだっていくらでもそうするわ、……浮気するわよ!」と、リスベットはさけんだ、「あなたにはちゃんとした理由があるわよ」
「でもあなたなら、自分の気持ちをだいじにしたと思うわ」マルネフ夫人はそういって溜息をついた。
「なにをくだらないことを! マルネフは、お墓に埋めるのを忘れた死人なんだし、男爵がまあ、旦那さまで、クルヴェルは、あなたの崇拝者というところよ。女として世間並みに、ちゃんと形にはまってると思うわ」
「ちがうの、あたしが苦しいのは、そんなことじゃないのよ。あなた、あたしのことを聞く気はないのね……」
「聞いてあげるわよ!……」ロレーヌの百姓女は声を張りあげた、「だって、察するに、わたしの復讐と関係があるんじゃない。どうしろっていうの。……何でも骨を折るわ」
「痩せるほどヴェンツェスラスを愛しているの、でもどうしても会うことができない!」ヴァレリーはぐっと両腕をのばしながらそういった。「ユロが夕食に招いても、あの人、断わってくるのよ。こんなに思われているのがわからないのかしら、ひどいわ! あの人の奥さまって、いったい何よ。ただきれいな肉のかたまりっていうだけよ。そりゃ美しいわ、でも、あたしのほうが一枚|上手《うわて》だと思うわ!」
「まあ落ちつきなさい、そのうちに来ますよ」リスベットはじりじりする子供をなだめる乳母のような口調で、「わたしも会いたいの……」
「でも、いつのこと?」
「たぶん今週中にね」
「接吻させて」
ごらんのように、この二人の女は一心同体であった。ヴァレリーの行為は、どんな軽はずみな行為でさえ、うれしそうにすることでも、すねてみせることでも、すべて二人でよくよく考えた末にそうきまるのであった。
リスベットは、こういう娼婦の生活に妙に心を動かされ、どんなことでもヴァレリーの相談にのり、冷酷な論理で一歩一歩復讐の段どりを進めていった。そもそも彼女はヴァレリーに惚れこんでいた。娘とも思い、友だちとも思い、恋人とも思っていた。ヴァレリーには熱帯地方生まれの女らしい柔順さがあり、淫蕩《いんとう》な女らしい柔弱さがあった。毎朝、彼女とかわすおしゃべりにしても、ヴェンツェスラスと話すよりずっと楽しかった。二人で示し合わせたいたずらや、男たちのばかさ加減をいっしょになって笑ったり、おたがいの財産の利子がしだいにふくれあがってゆくのを、いっしょになって計算することができた。それにまたリスベットは、こうして復讐をくわだて、またヴァレリーと新しい友だちになってみると、ヴェンツェスラスを無分別に恋していたときとはぜんぜんちがった、豊かな活動力がわいてくるのを感じるのだった。
憎しみを満足させる喜びは、心にとってもっとも強烈な喜びである。われわれのうちに横たわる感情の動脈のなかで、愛は、いわば黄金であり、憎しみは、鉄である。最後に、ヴァレリーは、輝くばかりの美しさをリスベットの前に示していた。だれでも自分にないものにひかれるように、リスベットはその美しさにほれぼれしたが、それはいつも冷淡で無関心だったヴェンツェスラスの美しさにくらべて、ずっと親しみやすい美しさであった。
やがて三年になろうというころ、リスベットは自分の生活の知恵をあげて掘っている地下壕が、だいぶ進捗しだしたのを知った。リスベットが考えをねり、マルネフ夫人が行動する。マルネフ夫人は斧、リスベットはそれをあやつる手であった。ユロの一家をせっせと切りくずしてゆく手である。ユロの家庭は、彼女にとって日一日と憎らしいものになっていた。一度愛すると日に日にその愛が深まるように、憎しみも次第につのるからである。愛情や憎悪は、ひとりでにはげしくなっていく感情だが、いずれかといえば憎悪のほうが生命が長い。愛情は、力がかぎられているから限界がある、愛情は、その威力を生命や浪費から受けている。ところが憎悪は、死や吝嗇《りんしょく》に似ており、いわば存在や事物を超越した抽象的な活力だ。リスベットは、自分の性格にふさわしい生活にはいってからというものは、持ち前の能力を遺憾なく発揮した。イエズス会式に、隠然たる勢力をふるっていた。そんなわけですっかり人間が生きかえったようになった。顔は輝いていた。リスベットは、ユロ元帥夫人になることを夢見ていた。
二人の女友だちが率直に、思っていることを、どんな些細なことまで遠慮なしにしゃべり合ったさきほどの場面は、リスベットが上等の晩餐の材料を買出しに行って、中央市場からもどってきた、ちょうどそのときに起こった。コケ氏の椅子をねらっているマルネフは、貞淑なコケ夫人といっしょにコケ部長を呼んでおいたが、ヴァレリーの思惑では、その晩のうちにユロの手で部長の辞職を談判させるつもりだった。リスベットは、男爵夫人のところへいつものように夕食に出かけるために、身仕度をしていた。
「お茶の時刻までには帰ってきてね、ベットさん?」
「なるべくね……」
「どうして、なるべくなの。アドリーヌが眠りながら流す涙をのんであげるために、いっしょに寝ることにしたとでもいうの?」
「そんなことになればね!」と、リスベットは笑いながら、「そのときは、いやとはいわないわ。あの人、しあわせすぎたから罰《ばち》があたったのよ、わたしうれしくてしかたがない、子供のじぶんを思い出すもの。だれでも順番があるわ。あの人がこんどは泥にまみれ、あたしがフォルツハイム伯爵夫人になる番よ!……」
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四二 本妻、苦境に追いこまれる
リスベットはプリュメ通りに向った。しばらくまえから、まるで芝居にでも行くつもりで、いろんな感動を十二分に味わうために、男爵夫人のところへ行くようになっていた。
ユロ男爵が夫人のためにえらんだアパルトマンは、どっしりした広い控えの間と、客間《サロン》と、化粧室づきの寝室からなっていた。食堂はすぐ横につづいていた。それと四階に召使い部屋が二つと台所があって、さすがにいまでも参事院議員で陸軍省の局長たる人の住居にふさわしかった。邸、中庭、階段といずれも豪壮なものである。客間や居間や、食堂にそなえつけた家具類は、全盛時代の名ごりの品物で間に合わせなければならなかったので、男爵夫人はユニヴェルシテ通りの邸宅でつかっていた残骸のなかから、いちばん上等なものを選りだしてきた。それに、あわれな夫人は、こうしたわが身のしあわせの無言の証人を愛していたのだ。ものこそいわないがこれらの品物は、慰めにも似た言葉を力強く語ってくれるのだ。ほかの人ならほとんど目にはいらないが、彼女には絨毯にばらの花模様が浮かんで見えるように、いろいろな思い出につながる品々のなかに、彼女は花々を見る思いであった。
いやに広い控えの間には、椅子が十二脚、寒暖計と大きな暖炉、赤い縁のついた白キャラコの長いカーテンがあって、官庁のぞっとするような応接室を思い出させ、ここへはいると胸がつまる。夫人が独りでわびしい生活を送っているのが察しられる。悩みは、喜びと同じで、おのずからひとつの雰囲気を作りだすものだ。家の内部をひと目見ただけで、その家を支配するものが愛情なのか絶望なのかがわかる。アドリーヌはいつたずねても、だだっぴろい寝室にこもっていた。帝政時代式の装飾のほどこしてある斑《ふ》入りのマホガニー材をつかったジャコブ・デマルテール〔有名な高級家具師〕製の立派な家具類がおいてはあったが、その装飾は、ルイ十六世式の銅|象嵌《ぞうがん》よりもはるかにつめたく見せる方法を発見した例の青銅象嵌だった。そして、婦人用の仕事台のスフィンクス像を前に、ローマ風の肘掛け椅子にすわった夫人を見ると、だれでも戦慄をおぼえる。むかしの色つやを失ってしまい、わざとらしい快活な様子をつくり、いつまでもふだん着の青ビロードの服をだいじに着ているように、態度だけは帝政時代風な尊大さをくずさないでいた。誇り高い魂が肉体を支えて、その美しさを保たせていた。男爵夫人はこのアパルトマンに追いやられることになった最初の年の終わりごろに、身の不幸を何もかもすっかりさとっていた。
「わたしをこんなところへ島流しにしてしまったけれど、わたしのエクトルは、ただのいなか女にはもったいないほど立派な暮しをさせてくれた」と、彼女は心のなかでいった、「これはあの人のお望みなのだ。おこころどおりになれますように。わたしはユロ男爵夫人で、元帥の義理の妹。これまでほんの少しのあやまちも犯したことはないし、二人の子供たちも身をかためたし、このうえは貞節な妻として一点のしみもないヴェールをかぶって、消えうせた幸福の喪布に包まれて、死を待つことができる」
一八一〇年に、ロベール・ルフェーブルの描いた近衛隊の支払い命令官の制服を着ているユロの肖像画が、仕事台の上方にでかでかと飾ってあった。アドリーヌは来客を告げられると、いつもその仕事台の上で愛読書の『キリストのまねび』を握りしめる。非の打ちどころのないこのマグダラのマリア〔聖書。キリストに罪の許しを乞うた不幸な女性〕も、曠野《こうや》のなかで聖霊の声に耳をかたむけるのだった。
「マリエットさん」と、リスベットはドアをあけにきた料理女に声をかけた、「アドリーヌさんのご機嫌はどう?」
「ええまあ、見たところお元気ですけれどもね。ここだけの話ですが、あんなふうに思いつめていらしったら、おからだがとてももちませんわ」マリエットはリスベットの耳もとで、そういった、「ほんとに、もっといい暮しをなさるように、すすめていただかなくちゃ。きのうなんかでも、こうおっしゃるんですよ、朝は二スー分の牛乳と一スーの小さなパンだけでいい。夕食はにしんか、子牛の冷肉を少し、肉は一週に一リーヴルでいいからって。もちろん、奥さまだけで、ここで召しあがるときですけれど……。ご自分の食費は毎日十スーであげてゆきたいっておっしゃるんです。そんなのめちゃですわ。もし元帥さまにこんなばかばかしい計画を申しあげてごらんなさい、ご兄弟の仲が悪くなって、男爵さまにおゆずりになるはずの遺産もやらんことにしたなんておっしゃるかもしれませんから。でもおやさしくて利口なあなたさまなら、万事うまくおさめることができるでしょう……」
「じゃ、なぜわたしの従兄《いとこ》にそういわないの」
「だって、あなた、もうかれこれ二十日か二十五日ぐらいお帰りがないんですよ。ちょうどあなたさまがお見えにならなかったあいだ、ずっとお帰りがないので。それに奥さまは、旦那さまにけっしてお金の話をしてはいけない、さもないと暇を出すからっておっしゃるんです。でもそのためのご心痛といったら……ああ! おかわいそうに奥さまはどんなにお苦しみなさったことか。旦那さまがこんなに長いあいだ奥さまをお忘れになっているのは、はじめてですわ……呼び鈴が鳴るたびに、窓のところへ飛んでいらっしゃって、……でも五日前からは、もうあの肘掛け椅子をお離れになりません。ご本を読んでいらっしゃいます。お嬢さまのお宅へいらっしゃるときには、いつもこうおっしゃっていかれるんです。『マリエットや、旦那さまがお帰りになったら、わたしは屋敷のなかにいると申しあげるのだよ、そしてすぐ門番をよこしてちょうだい。お使い賃はたくさんあげますからね』って」
「かわいそうなアドリーヌさん! 胸をかきむしられるようだわ。あたし毎日のように、従兄にアドリーヌさんのことを話しているわ。どうしようもないのよ。『もっともだよ、ベット、わたしは卑劣な男だ。妻は天使だが、わたしは極道《ごくどう》者だ。あしたは帰るよ……』ってこうなの。そのくせ、マルネフ夫人のところから動こうともしない。あの女に身代をつぶされながら、やっぱり惚れきっている。女のそばでないと生きられない。わたしはね、できるだけのことはしているのよ! わたしがあそこにいなかったら、マチュリーヌをつかっていなかったら、男爵はいまの倍ものお金をつかったわ。そしてもうおおかた残っていないんだから、とうに自殺していたかもしれない。そうなのよ、マリエットさん、わかるわね、男爵が死ねばアドリーヌさんも死ぬわ、きっとそうよ。でも少なくとも、わたしなりにあそこで、つじつまを合わせて、従兄にお金をあまりつかわせないようにがんばっているのよ……」
「まあ! かわいそうな奥さまがおっしゃるのは、いつもそのことなんですよ。あなたにご恩を受けていることは、よくご存知です。長いあいだあなたのことを誤解していたって、おっしゃっていました……」
「まあ、そう! ほかに何かいわなかった?」
「いいえ、べつに。お喜びになるでしょうから、旦那さまのことをお話しになってくださいませ。毎日旦那さまのお顔を見られて、あなたがうらやましいっておっしゃっていますわ」
「おひとりなの?」
「あいにく、元帥さまがおみえになってますけど。いえ、毎日、いらっしゃってるんです。それで奥さまはいつも、旦那さまは朝、うちにいらっしゃいました、夜はたいへんおそくお帰りになりますって、そうおっしゃるんです」
「すると、きょうはごちそうがあるわけなの?」と、ベットはたずねた。
マリエットは返事をためらった。ロレーヌ女の視線に彼女がたえかねていると、客間のドアがあいて、ユロ元帥がいそぎ足で出てきたが、よほどあわてていたらしく、ベットの顔も見ないで会釈し、何か紙切れを落としたまま出ていった。ベットはそれを拾いあげて、階段のほうへ追いかけていった。つんぼを呼んでもむだだったからだ。だが元帥には追いつけなかったかのように、引きかえしてくると、つぎのような鉛筆の走り書きをこっそりと読んだ。
[#ここから1字下げ]
親愛なる兄上さま、主人からは三カ月分の生活費をもらっていましたが、娘のオルタンスがたいへん困っていましたので、そっくり貸してしまいました。それだけあればどうにか切り抜けられるということです。それでわたしが四、五百フラン拝借できませんでしょうか。エクトルにまたお金をねだることはしたくありません。あの人に叱られるのはとてもつらいことですので。
[#ここで字下げ終わり]
「ああ、あの女がこれほどまでに高慢の鼻を折ったからには、ずいぶんゆきづまっているのだろう」と、リスベットは考えた。
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四三 悲嘆にくれた家族
リスベットはなかにはいって、泣いているアドリーヌの不意をおそい、その首にとびついた。
「アドリーヌさん、わたしぜんぶ知っているわ! ほら、元帥はうっかりこんな紙を落としていったのよ、ひどくあわてていたわ、猟犬みたいにかけて行ったもの……。あのひどいエクトルは、あれからお金をわたさないのね……」
「ちゃんともらっているんだけど、オルタンスにいることがあったので、それで……」
「わたしたちにごちそうもできなかったのね」と、ベットは従姉のことばをさえぎった。「やっとわかったわ、マリエットに夕飯のことをきいたら困った顔をしてたわ。あなたまるで子供ね、アドリーヌさん! さあ、わたしの貯金をつかってくださいな」
「ありがとう、ベットさん」ちょっと涙をふいてアドリーヌは答えた。「いま少し困ってるけれども、これはほんの一時のことよ。先ざきのことは考えてあるわ。これからは、家賃もいれて、年に二千四百フランにするつもりよ。それくらいはどうにかなるわ。これだけはとくに守ってね、ベットさん、エクトルにはひとこともいわないでね。お元気かしら?」
「ええ、まるでヌフ橋みたいにじょうぶよ! |ひわ《ヽヽ》みたいにはしゃいで、ヴァレリーという魔女のことだけで頭がいっぱい」
ユロ夫人は、窓いちめんにうつっている銀色に光った大きな松の木を見つめていた。それでリスベットは、従姉の目にどんな表情が浮かんでいるのか、少しも読みとることができなかった。
「みんなそろってここでいっしょにお夕食をいただく日だってこと、いってくだすったの?」
「いったわ。でもさっぱりよ。マルネフ夫人がりっぱな晩餐会をひらいているの。コケさんの辞職の話を片づける気でいるんですもの。何よりのだいじなねらいですものね! ときにね、アドリーヌさん、聞いてもらいたいの。わたしって、勝手な振舞いにとても腹が立つ性分だってこと、あなたが知っているから、いうのだけれど。あなたの旦那さまは、きっとあなたを一文なしにしてしまうわ。わたしね、こう思ったの、あの女のそばについていれば、わたし何かにつけてあなた方のためになるだろうって。ところが、あれはどこまでも性根《しょうね》が腐っている女よ。いまに旦那さまは、何もかもとられて、あなた方みんなの恥になるような境遇に突き落とされるわ」
アドリーヌは、短刀で心臓をぐさりとやられたように、ぴくっとした。
「いいえ、アドリーヌさん、きっとそうなるわ。わたしはどうしてもあなたの目をさますようにしなければならない。ですからね、将来のことを考えましょうよ! 元帥はお年寄りだけど、まだまだ長生きなさると思うし、じゅうぶんな俸給をもらっていらっしゃる。亡《な》くなっても、奥さんがいれば、六千フランの年金がさがるわ。それだけあれば、わたし、あなた方みんなを養ってあげるわ。あのおじいさんは、あなたのいうとおりになる人なんだから、わたしと結婚するようにすすめてみてくださいよ。なにも元帥夫人におさまろうっていうんじゃないの。そんな陰口は、マルネフ夫人の胸のうちと同じことで、わたしは気にかけないけれど。だって、みなさんが食べられるようになるんですもの。現《げん》にオルタンスは食べられないじゃないの、あなたがご自分の分をあげているくらいだから」
元帥があらわれた。大いそぎで歩いてきたとみえて、老軍人は絹のハンカチで額をふいている。
「マリエットに二千フランわたしておいたよ」と、義妹の耳もとでいった。
アドリーヌは、髪の生えぎわまで赤くなった。涙が二つ、そのひときわ長いまつ毛をぬらした。彼女はだまって老人の手をにぎりしめた。老人の顔には、しあわせな恋人のように幸福感があらわれていた。
「わしはな、アドリーヌ、あの金で何かあんたに贈り物をしようと思っていたのだよ」と、彼はつづけた。「返さなくてもよいから、いちばん気にいったものを買いなさい」
彼はリスベットが差し出した手をとって、接吻した。それほどうれしくて、気もそぞろだった。
「有望ね」アドリーヌはリスベットに、できるだけの笑顔を見せた。
ちょうどそのとき、ユロの若夫婦が到着した。
「弟もいっしょに飯を食うのだろうな?」元帥は、ぶっきらぼうにきいた。
アドリーヌは鉛筆をとって、四角い紙きれにこんな文句を書いた。
『もう来ると思います。夕食はうちですると、けさいっていました。でも、帰らないとすれば、陸軍大臣に引きとめられているのでしょう、仕事が山積しているのだそうです』
そしてその紙きれを差し出した。彼女は元帥のためにこうした会話法を考え出したのだった。それで、あらかじめ四角い紙きれと鉛筆が仕事台の上にそなえつけてあった。
「アルジェリアのことで多忙なことは、わしも知っているよ」と、元帥は答えた。
そのときオルタンスとヴェンツェスラスがはいってきた。男爵夫人は、周囲がみんな身内なものばかりなのを見て、元帥に目くばせをしたが、その意味はリスベットにわかっただけであった。
妻からは熱愛され、世間からはちやほやされる幸福のために、彫刻家は非常に美しくなっていた。
顔はまるいといってもいいくらいにこえ、優雅なからだつきは、血筋からくる生粋《きっすい》の貴族の美点を際《きわ》立たせていた。早すぎる名声、社会的な地位、あいさつや時候の話でもするかのように、世間の人が芸術家に浴びせる、あてにならない讃辞、そうしたもののために、彼は、自分の価値を確信するようになっていたが、才能がなくなれば、そんなものは単なるうぬぼれに化してしまうものだった。レジォン・ドヌール勲章をもっていることも、自分で大物だと思っている彼の目からすれば、ますますその自信をつけさせるものであった。
結婚してから三年、オルタンスは夫にたいして、飼い主にたいする犬みたいになっていた。夫の一挙一動に問いかけるようなまなざしを向け、まるで守銭奴が自分の財宝に見入るように、かた時も夫から目を離さなかった。そのひたむきな献身ぶりは、いじらしくも感動的だった。そういう彼女の姿には、母親の影響と助言が認められた。その美しさはいまも変わりはなかったけれども、人知れぬ哀愁のほのかな影をおびて、詩的ではあったが、以前とはちがったものがあった。
オルタンスがはいってくるのを見て、リスベットは思った、長いあいだ押えて来た不平が、つつしみのもろい外皮を破って出るころだ、と。リスベットは、蜜月のはじめのころから、この若夫婦は収入が少なすぎて、とてもはげしい熱情など満たせるものではないと、にらんでいたのだった。
オルタンスは母親に接吻しながら、口から耳へ、心から心へ、何かささやき合ったが、その秘密は二人の頭の振りかたで、リスベットにはすっかりわかってしまった。
「アドリーヌも、わたしみたいに食うために働くようになる」とベットは考えた。「どんなことをするのか、わたしにいつも知らせてくれるといいのだが……あのきれいな手もとうとう、わたしの手みたいに、強《し》いられた仕事がどんなものかを知るんだわ」
六時に、家族一同は食堂に移った。エクトルの食器も並べてあった。
「これはこのままで!」と、男爵夫人はマリエットにいった、「旦那さまはときどきおそくお帰りになるから」
「いや、もうお帰りになりますよ」とユロの息子が母親にいった。「議会でお別れするとき、そういう約束だったから」
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四四 晩餐会
巣の中心にひかえた蜘蛛《くも》のように、リスベットは、みんなの顔いろを観察していた。オルタンスやヴィクトランは、生まれたときから知っているから、彼らの顔はベットにとって、いわば鏡のようなもので、その鏡を見れば若い兄妹の心のうちが読みとれるのだった。ところでヴィクトランがときどき母親を盗み見するので、ベットはアドリーヌに何か不幸がおそいかかろうとしているのだな、だがヴィクトランは知らせるのをためらっているのだなとさとった。評判の少壮弁護士は内心悲しんでいるのだ。母親を見まもるその苦しい表情には、深い敬意があふれている。
オルタンスはといえば、あきらかに自分の悲しみで胸がふさがっていた。リスベットは、二週間前から、オルタンスがいろいろな不安を味わっていることを知っていた。それは正直な人たちや、これまでめぐまれた生活を送ってきたので、現在の悩みを隠そうとする若い女が、金に困ってはじめて知る不安であった。だからベットは、顔を見るなり、娘は母親から一文の金ももらっていないことを見抜いた。するとあのしとやかなアドリーヌも、金を借りたいものが窮余の一策で思いつくまことしやかなうそをつくまでになったわけだ。
老元帥が耳が遠いことから、座が白けがちだと思われているのに、オルタンスの兄のヴィクトランも浮かぬ顔をしているし、男爵夫人は憂《うれ》いに沈んでいるので、晩餐がいかにも陰気くさくなった。三人の人間が、リスベットとセレスティーヌとヴェンツェスラスが、座をにぎわしていた。オルタンスの愛は、彫刻家の心に、ポーランド人らしい熱気を、あの茶目っけなガスコーニュ人の鋭敏な才気を、あの北国のフランス人〔ポーランド人のこと〕に特有な愛すべき騒ぎ好きな性質を、育てあげてきたのだった。彼の気分や顔つきは、自信があることを十分に語っていた。さらにまた、あわれなオルタンスが母親の言いつけを忠実に守って、世帯の苦労をいっさい耳に入れてないことを語っていた。
「あなた、ずいぶんしあわせのはずよ」リスベットは食卓から立ちぎわに、オルタンスにいった、「お母さまがお金を出して、あなたの急場を助けてくだすったんですもの」
「お母さまが?」と、オルタンスはびっくりして答えた、「おお、お気の毒なお母さまにどうしてお金が。わたしこそ、できたら工面してあげたいくらいなのに! あなたはご存知ないんですわ、リスベットさん、だってわたし、お母さまがこっそり内職をしてらっしゃるんじゃないかと、そんなおそろしい気さえしているのよ」
一同はそのとき、食堂のランプをアドリーヌの寝室に運ぶマリエットのあとについて、灯《あか》りのないまっくらな広間を抜けるところだった。このとき、ヴィクトランがリスベットとオルタンスの腕を軽くたたいた。二人ともその合図の意味がわかったので、寝室へゆくヴェンツェスラス、セレスティーヌ、元帥、男爵夫人をそのままやりすごして、窓の切りこみのところに集まった。
「どうしたの、ヴィクトランさん?」とリスベットがいった、「きっと、お父さまが何かしくじったんでしょう」
「そうなんだ、困っちゃった。ヴォーヴィネとかいう高利貸が、おやじの振り出した六万フランの手形をにぎっていて、おやじを訴えるっていってるんだ。おやじにこの嘆かわしい話を議会でしようと思ったんだが、わかってくれようとしない。ぼくを避けようとまでするんだ。まえもって、これはお母さんに知らせておくべきかな?」
「だめよ、いけないわ」と、リスベットはいった、「それでなくたって苦労がありすぎるわ、死んでしまいますよ。いたわってあげなくちゃ。どんなことになってるか、あなた方は知らないのよ。きょうだって、あなた方の伯父さんがいらっしゃらなかったら、夕食どころの騒ぎじゃなかったでしょうよ」
「まあ、どうしましょう、お兄さま。わたしたちとんでもない兄妹《きょうだい》だわ」と、オルタンスは兄にいった、「それくらいのこと、ちゃんと察してあげるのがほんとうなのに、リスベットさんから教えてもらうなんて。わたし、いまのお夕飯が胸につかえてしまう!」
オルタンスは終わりまでいわなかった、ハンカチで口を押えて、泣きじゃくりを押し殺した。彼女は泣いていた。
「とにかくそのヴォーヴィネという男に、あすぼくのところへ来てくれるようにいっておいたがね」ヴィクトランはことばをつづけた、「しかし、ぼくの担保ぐらいで承知するかな? 承知しないと思うんだ。あの連中は、高利の割引きでしぼりとるのが目的だから、どうしても現金を欲しがる」
「わたしの年金を売ろうじゃないの」とリスベットはオルタンスにいった。
「売っていくらになるというんです? 千五百フランか千六百フランでしょう。とにかく六万フラン必要なんだ」とヴィクトランが答えた。
「でも、ありがたいわ、リスベットさん」オルタンスはそうさけびながら、純な心の感激をこめて、リスベットを抱きしめた。
「まあいいから、リスベットさん、それくらいの財産はとっておいてください」ヴィクトランはロレーヌ女の手をにぎったあとでいった、「あすその男がもってきたものを調べてやります。妻さえ承知してくれたら、訴えるのをやめさせるか、遅らせる手段はある。おやじの名誉が傷つけられるのをだまって見てるなんて!……ぞっとするよ。陸軍大臣が聞いたらなんというだろう。おやじの俸給は、三年もまえから抵当にはいっていて、十二月にならないと解除にならない。だから担保にするわけにいかないんだ。ヴォーヴィネってやつは、手形を十二回も書き替えている。だから、おやじが利子に払った金額がどれほどかがわかる! この穴を埋めないといけない」
「マルネフ夫人が別れてくれれば……」オルタンスがにがにがしげにいった。
「とんでもない。それこそやめてくれだ!」とヴィクトランがいった、「おやじはまたほかに女をこしらえるだろう。それでなくたって、これまでさんざん金をつかっている」
なんという変わり方か、この子供たちはつい最近まであれほど父を尊敬していたのに、そして母の態度から、父にたいする絶対の崇拝をあれほど長いあいだもちつづけてきたのに! 彼らはすでに父を裁いてしまったのだ。
「わたしがいなければ」と、リスベットがことばをついで、「あなた方のお父さんは今よりもっと破産してたわよ」
「もうあちらへゆきましょうよ」と、オルタンスがいった、「お母さまはよく気がつくから、どうかしたんじゃないかってお思いになるわ。リスベットさんのおっしゃるとおり、お母さまにはなにもいわずにおきましょうよ……さ、楽しそうな顔をしましょうよ!」
「ヴィクトラン、お父さんがああ女好きじゃ、あなた方もこれからどんな目にあわされるかわからないわよ」とリスベットはいった、「ひとつわたしを元帥の奥さんにして、確実な収入をはかることを考えてみることね。今夜、みなさんでその話をもちださなきゃならないでしょうから、わたしはわざと早く帰りますわ」
ヴィクトランは母の部屋へはいっていった。
「ところで、オルタンスさん」と、リスベットは小声でいった、「あなた、どうするつもり?」
「あす、夕飯にいらしてくださいな、いっしょにお話しましょうよ」とオルタンスは答えた、「どうきめたらいいか、わからないの。あなたはいろいろ世間の苦労を知っていらっしゃるから、相談相手になってくださいね」
一家全員が集まって元帥に結婚をすすめているあいだに、そしてリスベットがヴァノー通りに帰っていくあいだに、マルネフ夫人の家でも一つの事件がもちあがっていた。よくあることで、つまりマルネフ夫人のような女に悪の精力をふるいたたせ、ありとあらゆる邪悪な手段をつくさせずにはおかせない事件である。パリというところは、あまりにも生活が忙しいから、邪悪な人間が本能だけをたよりに悪事をはたらくというわけにはゆかない。彼らはただ、外からの攻撃にたいして、悪徳の手段をかりてわが身を守るばかりである。この不変の事実を、ともかく銘記しておこう。
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四五 収入のある幽霊
マルネフ夫人の客間《サロン》は、常連でいっぱいだった。夫人の望みで、みんなはトランプのホイスト遊びをはじめていたところだったが、そこへ退役軍人で、男爵からひっぱられて給仕になった男が、来客を知らせてきた。
「モンテス・デ・モンテジャノス男爵さま」
ヴァレリーは心臓がどきっとしたが、すぐこうさけびながら戸口のほうへ勢いよくとび出していった。
「従兄《いとこ》だわ!」
そして、そのブラジル人の前までくると、相手にそっと耳うちをした。
「あたしの親類ってことにするのよ、でないとあたしたちの仲もおじゃんよ!――まあどうしたの、アンリ」と、こんどは大きな声で、そのブラジル人を暖炉のほうへ案内しながら、「難船したって噂だったけれど、そうじゃなかったのね。あたし、三年もあなたのために泣いていたわ……」
「ようこそ」と、マルネフ氏は、いかにもブラジルの大富豪らしいようすをした相手に手を差し出した。
アンリ・モンテス・デ・モンテジャノス男爵は、熱帯地方の気候のせいでオセロ役者を思わせる体格と血色をしていたが、ちょっと見た印象では、どこか暗い影がただよい、すご味があった。それというのも、たいへん優しくて愛情深い性格のために、か弱い女からつい利用されてしまう強い男の宿命を、背負っているからだ。顔にあらわれた人をくったような様子、かたちのよい腰つきから察しられる筋骨のたくましさ、彼の力はすべて男にたいしてだけ発揮されるのだが、これが女にとっては心をくすぐることになり、それに酔いしれてうっとりするのであった。それにくらべると、情婦に腕を貸して歩いている連中などはどれもこれもまったくおかしいほど空《から》いばりをしているように見えた。
純金のボタンのついた紺の上着と黒のズボンを見事に着こなし、申し分のないエナメルの上等の編み上げ靴に型どおりの手袋をはめた男爵のいでたちには、十万フランくらいと思われる大きなダイヤをのぞいて、ブラジル人くさいところはなかった。ダイヤは、豪勢な青絹のネクタイの上に、まるで星のように輝き、そのネクタイは、この世のものかと疑うほど薄手の上等なワイシャツをわざと見せるために、少し襟をはだけたまっ白のチョッキの額縁におさまっていた。半獣神《サチュロス》のように額《ひたい》が飛び出しているところは、思いつめたら一徹な証拠だが、その額の上には原生林のように真黒な髪が密生し、その下に澄んだ両の目がきらきら光っている。もしかしたら男爵の母は、彼を身ごもっているときに、豹か何かにおびえたことがあるのではないかと思わせる鹿子《かのこ》色の目をしていた。
ブラジルのポルトガル人種の見事なこの標本は、いかにもパリの生活になれているらしいポーズで暖炉棚に背中をもたせて身を構えた。そして、帽子を片手に、肘《ひじ》は暖炉棚のビロードの上にのせたまま、マルネフ夫人のほうにかがみこんで低い声で話しかけた。客間の連中などまるで眼中になく、心のなかでは、胸くその悪い俗物《ブルジョワ》どもが、なんでここにうようよ集まっているのだろうかと考えているふうだった。
ブラジル人のこうした登場ぶりとこのポーズと態度は、クルヴェルとユロ男爵の心に、好奇心と不安のいりまじった、二つのまったく相《あい》似た感動をひきおこした。二人とも同じ表情をし、同じ予感をいだいた。だから情欲の権化《ごんげ》のようなこの二人が見せたそぶりは、それがまったく同時だったので、ひどく滑稽なものに見え、そこに何らかの秘密を発見できた明敏な人たちは、思わず微笑した。
パリの区長とはいえ、いつまでたっても町の旦那で、商人根性のぬけきれないクルヴェルは、不覚にも共演者の男爵よりも長く、その表情をつづけていた。そのため男爵まで、クルヴェルがうっかり明かした秘密をつかむことができた。これは恋に狂う老人の心にさらに一筋射込まれた矢のようなものであった。彼はヴァレリーに釈明させてやろうと決心した。
「今夜こそ」と、クルヴェルもやはり自分のカードをそろえながら、心のなかで、「なんとかけりをつけなくちゃ……」
「ハートがあったんですか!……〔相手の気持をハートにひっかけて、皮肉ったことば〕」と、マルネフはさけんだ、「そいつを捨てたんですね」
「いや、これは失礼!」と、クルヴェルはその礼をもういちど拾おうとした。「あそこにいる男爵はじゃまだな」と、胸のうちではつづける、「ヴァレリーがおれのほうの男爵といっしょに住むのはいい。こいつはおれの復讐になる。それに男爵を追い出す手ぐらい、おれも心得ている。だが、あの従兄ってやつは!……ありゃよけいな男爵だ。まるめられてたまるものか。どんなぐあいに縁続きなのか、聞いてみようじゃないか!」
美しい女にかぎって、こうした好運に見舞われるものだが、その晩のヴァレリーも、運よく、じつに魅惑的な装いをしていた。まっ白な胸が透かしレースにかたく締めつけられて輝いていた。パリ女らしい美しい肩の、繻子《しゅす》のつやを曇らせたような肌色は、茶褐色のレースの色調のためにいちだんと引き立っている。パリ女は(いったいどんな手をつかうのか、だれも知らないが!)肌を美しくたもち、すらりとした姿態でいられる術を心得ている。黒いビロードの衣服《ローブ》はいまにもすべり落ちそうに見え、髪は、花の房をあしらったレースで飾られている。むっちりしながら愛くるしい腕が、レースを裏打ちした木靴型の袖口からのぞいている。まるできれいな皿に媚《こ》びるようにならべられ、ナイフの刃をむずむずさせる美しいくだものといったところだ。
「ヴァレリー」と、ブラジル人は、若い人妻の耳にささやきかけた、「おれは約束どおり帰ってきた。伯父が死んだので、フランスをたったときのおれにくらべると、倍も金がある。パリで暮してパリで死にたいのだ、おまえのそばで、おまえのために」
「もっと小さな声で、アンリ、お願い!」
「なあに、こんなやつらはぜんぶ窓の外へほうり出したっていいさ。今夜はおまえと話がしたいんだ。なにしろ二日がかりで探したんだからな。いちばんあとまで残るよ、いいかね」
ヴァレリーは、彼女のいわゆる従兄に、笑いかけていった。
「あなたはね、あたしの母の姉の子でいなけりゃいけないのよ。その人がポルトガルのジュノー戦争のあいだに、あなたのお父さんと結婚したことにしておくの」
「このおれが、ブラジル征服者の曾孫《ひいまご》にあたるモンテス・デ・モンテジャノスが、嘘をつくのか」
「もっと小さな声でよ。もう二度と会えなくなるじゃないの……」
「どうして?」
「マルネフよ、死にぎわになるとだれでも最後の欲望を追いかける、あれと同じよ、とてもしつこいの」
「あの従僕が?……」ブラジル人はマルネフのこともよく知っていた、「いまに礼をしてやるぞ……」
「乱暴ね」
「おい、この贅沢はどうしたわけだ?……」と、ブラジル人はそのときになってはじめて、客間の豪華な装飾に気がついた。
ヴァレリーは笑いだした。
「いやな聞き方ね、アンリ」
いましがた彼女は、嫉妬に燃える視線を二方から受けたところだった。その二つの視線は、苦渋にみちた二人の老人をどうしても見ずにはいられないほど、彼女の心にくいいった。ユロ男爵とコケ氏を相手に勝負をしているクルヴェルは、マルネフと組んでいた。クルヴェルも男爵もおたがいに上《うわ》の空で、へまばかりやっていたから、勝負は引き分けだった。恋いこがれた二人の老人は、ヴァレリーがせっかくこの三年間巧みに隠すようにさせておいた情欲を、一瞬のうちにさらけ出してしまった。だが、彼女にしたところで、初恋の相手、はじめて自分の胸をどきどきさせた男にこうしてふたたびめぐり会えたしあわせが目にかがやき出るのを、消すすべは知らなかった。初恋の男になった果報者の権利は、その女が生きているかぎり、いつまでもつづくものだ。
ひとりは金力をかさに横柄に出てくるし、他のひとりは所有権、残るひとりは若さと体力と財産と優先権にものをいわせる、こういう三方からの断乎とした情欲に攻められながらも、マルネフ夫人は心ものびのびと、落ちつきはらっていた。それはマントヴァ要塞の攻囲戦にあたってボナパルト将軍が、要塞の包囲を長びかせたい腹から、敵味方の両軍に見せねばならなかった態度に似ていた。
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四六 色男は何歳で嫉妬深くなるか
嫉妬が、ユロの顔に荒れ狂い、その形相《ぎょうそう》は、ロシア軍の方形陣めがけて騎兵の突撃を敢行する故モンコルネ元帥を思わせるほど、すさまじかった。猛将ミュラが恐怖の情というものを知らなかったように、美男の生まれのおかげで参事院議員は、嫉妬を覚えたことがなかった。いつも自分が勝つものときめこんでいた。ジョゼファでしくじったのが生まれてはじめてのことだが、あの敗北は、軍資金の欠乏のせいにしていた。あんな小男に負けたのではない、金の力に敗れたのだと内心いいきかせていた。小男というのは、デルーヴィル公爵のことだ。
だがいまや、気違いじみた嫉妬心が滝のようにおし流す媚薬《びやく》と妄執の波が、あっという間にユロの胸いっぱいに流れこんだ。ミラボーばりの身ぶりで、ホイストのテーブルから暖炉のほうへ向きなおると、手にしたカードはもう投げてしまい、ブラジル人とヴァレリーを挑戦的な目つきでにらみつけたので、サロンの常連は、今にもなぐりあいのはじまりそうな気配を察し、好奇心の入りまじった恐怖を覚えた。にせの従兄は、中国製の大きな花瓶でもしらべるような目つきで参事院議員をながめている。この状態は、おそろしい騒ぎになって破裂する以外には、このままつづきようがなかった。
マルネフは、クルヴェルがマルネフをこわがるのと同じくらい、ユロ男爵をおそれていた。次長のままで死にたくないと思っていたからだ。徒刑囚がいつか自由の日のあることを信じているように、瀕死《ひんし》の人間もさいごまで生命を信じるものだ。この男はどんな犠牲を払ってでも部長になりたいと思っていた。当然、クルヴェルと参事院議員の無言劇にぎょっとし、立ちあがると何かひとこと妻の耳に告げた。すると、一同があっ気にとられたことに、ヴァレリーはブラジル人と亭主をつれて、自分の寝室にひっこんでしまった。
「マルネフ夫人は、これまであの従兄のことを何かいったことがありますか」と、クルヴェルはユロ男爵にたずねた。
「いや、一度も」男爵は席を立ちながらそう答えた、「今夜はこれぐらいにしておこう。二ルイの負けだ、さ、これだ」
テーブルの上に金貨を二枚ほうり出すと、長椅子のところへ歩いていってどさりと腰をおろした。みんなはその様子を見て、これはもう帰れという警告だなと判断した。コケ夫妻は、ひとこと二言話し合ってから、サロンを出ていった。で、クロード・ヴィニョンも止むなく、コケ夫妻にならった。この三人が退席すると、それに引きずられて血のめぐりの悪い人たちも、邪魔にされていることに気づいて帰った。あとに残ったのは男爵とクルヴェルだけだが、おたがいにひとことも口はきかなかった。ユロ男爵は、ついにはクルヴェルの姿さえ目にはいらなくなり、そっと爪《つま》先立ちで寝室のドアに聞き耳を立てにいった。が、とたんにぱっとうしろへ飛びのいた。マルネフ氏がドアをあけ、涼しい顔で出てきたが、二人しかいないのにはびっくりしたようだった。
「お茶もお飲みにならずに!」
「ヴァレリーはどこにいる?」と、男爵は憤然として言い立てた。
「家内ですか、いえ、リスベットさんの部屋へいっていますが、間もなくおりてくるでしょう」
「なんでまたわたしたちをほうっておいて、あんなばかな|めやぎ《ヽヽヽ》のところへいっているのだ」
「いやそれが、リスベットさんは閣下の奥さまのところから帰ってきたばかりなんですが、まあ消化不良とでもいいますか、マチュリーヌがヴァレリーのところへお茶をもらいにきまして、あれがベットさんの様子を見にいったというわけで」
「じゃ従兄は?……」
「帰りました」
「それはたしかだね?」
「わたしが馬車にのせたんですからね」マルネフはいやな笑いを浮かべた。
馬車のきしる音がヴァノー通りにひびいた。男爵はマルネフなどを問題にしていないから、客間を出てリスベットの部屋へあがっていった。嫉妬に燃える心が思いつくある考えが、脳裏をかすめたのだ。マルネフの根性の卑しさを知りぬいている彼は、夫婦なれあいで卑劣なたくらみをしたなと考えた。
「紳士や淑女はいったいどうなったんです」と、マルネフは、相手がクルヴェルひとりなのを見てそうたずねた。
「太陽がおやすみとあれば、にわとりどももおやすみだ。マルネフ夫人が姿をかくしたので、崇拝者も引きあげたというわけでさ。どうです、ひとつピケでもやりませんか」と、帰りたくないクルヴェルは一勝負もちかけた。
彼もやはり、ブラジル人がこの邸内にいるとにらんでいる。マルネフ氏は挑戦を受けた。区長も男爵におとらず利口なわけで、亭主の相手をしていればいつまでもこの邸にのこっていられるし、マルネフは公開賭博が禁止されてから、社交の席でおこなわれる少額の、けちくさい賭博で満足していた。
ユロ男爵は大いそぎでいとこのベットの部屋へあがっていった。だが、見るとドアには鍵がかかっているので、型どおりにノックをしなければならず、そのため敏捷で狡猾な女たちが、消化不良をお茶のがぶのみでしずめる場面をこしらえあげるだけの時間があった。リスベットはたいへんな苦しみようで、ヴァレリーの心配ぶりときたらこれ以上の激しさはないくらいだった。だからヴァレリーは、男爵がすごいけんまくではいってきたのにも、ろくに目もくれなかった。病気は、いさかいの嵐をさけるために、しばしば女が立てめぐらす衝立《ついたて》のひとつだ。ユロはひそかに部屋じゅうに目をくばったが、ベットの寝室にはブラジル人を隠すのに格好な場所などはどこにも見あたらなかった。
「おい、ベット、おまえの消化不良は、わたしの妻の晩餐にとって、名誉なことだ」と言いながら、男爵は、いたって健康なのにお茶をのんで胃|痙攣《けいれん》の苦しそうなあえぎをまねしようと骨折っている老嬢を、じろじろながめた。
「ごらんなさい、ベットさんがあたしの家に住んでいたのがどんなによかったか。あたしがいなけりゃ死んでしまうところだわ……」と、マルネフ夫人がいった。
「調子は上々なくせに、とでも思ってらっしゃるようね」と、リスベットはひきとって、男爵に声をかけた、「だったら、みっともないじゃありませんか、そんな……」
「なぜ? じゃあんたたちは、わたしがここへあがってきたわけを知ってるだろう?」
そういって、男爵は、化粧部屋の扉を横目でちらりと見たが、その鍵は抜きとってあった。
「何をわけのわからないことをいってらっしゃるの……」マルネフ夫人は、自分の愛情と誠実がわかってもらえないのかといったような、悲痛な表情をつくってみせた。
「だってあなたのためなんですよ。そうよ、わたしがこんな目にあうのだって、あなたが悪いからですよ」と、リスベットは声に力をいれていった。
その声にはっと気づいた男爵は、ひどくおどろいて、老嬢の顔をまじまじとながめた。
「わたしがどんなにあなたを愛しているかご存知でしょう」とリスベットはつづけた、「ここにいるのが何よりの証拠ですわ。あなたのためを思い、わたしたちのだいじなヴァレリーさんのためを思って、あるだけの力をふりしぼっているのです。これだけの家をほかで同じようにやろうと思ったら、ここの十倍もかかります。わたしがいなかったら、あなたは月々二千フランではだめで、三千フランか四千フランは出さなくちゃならないでしょう」
「そんなこと、わかってるよ」と、男爵はいらいらして答え、「あんたはわたしたちをいろいろと助けてくれてるよ」とつけたしながら、マルネフ夫人のそばへもどると、その首に手をまわして、「そうじゃないか、わたしのかわいいべっぴんさん。……」
「ほんとに、あなたどうかしていらっしゃるわ……」とヴァレリーはいった。
「いいわ、じゃわたしがつくしていることを疑ってはいらっしゃらないわけね」と、リスベットはまたことばをついだ、「でもわたしはアドリーヌさんも愛しています。あの人が泣いているところを見て来ました。もう一月もあなたの顔を見ないんですものね。いけないわ、そんなこと許されないわ。あなたはわたしのかわいそうなアドリーヌを一文無しでほっておいて知らん顔している。きょうだって、あなたのお兄さまのおかげで夕食ができたのだと知って、オルタンスさんはもう少しで気絶するところでした。あなたの家にはパンすらなかったんです。アドリーヌさんは、けなげに自分ひとりでやってゆく覚悟をきめたんですよ。わたしにこう言いました、『これからはわたしも、あなたのようにするわ』って。それを聞いてわたし、夕ご飯のあと、胸が締めつけられたようで、一八一一年のアドリーヌさん、三十年たった一八四一年のアドリーヌさんの身の上を考えさせられちゃって! 胃のはたらきがとまってしまったの……。痛みをこらえようとしたんだけれど、ここについたときには、もう死ぬかと思ったわ……」
「どうだね、ヴァレリー」と男爵がいった、「わたしがどれほどおまえのことを思っているかわかったろう!……家族のものにこんな罪なことまでしてるくらいなんだ……」
「ああ、わたし、娘のままでいてよかったんだわ!」リスベットは荒々しい喜びを顔に浮べてさけんだ、「あなたは親切で、りっぱな方だし、アドリーヌさんは天使みたいな人です。それが、無我夢中で身を捧げた報いが、この始末なんですもの」
「老いたる天使ね!」マルネフ夫人はやんわりとそういって、まるで予審判事が被告を審問するように、じっとこちらを見ているわがエクトルに、なかばやさしく、なかば冷やかすような視線を投げた。
「かわいそうな女だ。もう九カ月以上も金をわたしてない。が、ヴァレリー、あなたにはちゃんと工面している。それもどんな犠牲を払ってもだ。おまえがこれほど男から愛されることは二度とあるまい。その返報に、わたしになんという悲しい思いをさせるのだ」
「悲しい思いですって? それじゃ幸福をなんて呼ぶおつもり?」
「さっきの従兄だとかいう男と、おまえがどういう関係だったのか、わたしにはまだ合点がいかない。これまでいちども従兄の話などしたことがないじゃないか」と男爵は、ヴァレリーの投げたことばに耳もかさずにつづけた、「とにかく、あの男がはいってきたときは、心臓をナイフで一突きされたようなものだ。いくらわたしがめくらになっているからといって、そうそうめくらじゃない。おまえの目の色も、あの男の目の色も、ちゃんと読んでしまった。要するに、あの山猿のまぶたのあいだから火花が飛び出して、おまえに降りかかった。そのおまえの目つきがまた……。ああ、おまえはこのわたしを、いちどもあんな目で見たことがない、いちどだって! だがな、ヴァレリー、その秘密はいずれ露見する……おまえは、わたしに嫉妬の気持ちを味わわせたただ一人の女だ。だからわたしがこんなことをいったからといって、おどろくにもあたるまい……ところでもう一つの秘密のほうは、雲が切れてきたが、けがらわしいとしか思えない、つまりその……」
「さあさあ、どうぞ!」
「つまり、クルヴェルが、あの図体ばかりのばか者が、おまえに惚れていることだ。それをおまえは、あの男からちやほやいわれていい気になっている。だからあのばかは、ついみんなの前で自分の愛情をさらけ出してしまった……」
「さあ、つぎは三つ目! ほかにまだ気がついたことはなくって?」
「たぶんあるだろうな」
「クルヴェルさんがあたしのことを愛してくださる、それはあの人の男としての権利ですわ。あたしがあの人の愛情に悪い顔を見せないとしたら、それは浮気のすることか、でなければ、あなたから欲しいものもあまり買ってもらえない女がすることでしょう……だったら、欠点を承知であたしをかわいがってくださるか、手を切ってください。自由な身にしてくだされば、あなたにしろ、クルヴェルさんにしろ、ここへはもういらっしゃらないでくださいな。従兄を呼んで、ご想像どおりの楽しい生活をつづけていきますわ。では、ユロ男爵さま、さようなら」
そういって彼女は立ちあがったが、参事院議員は腕をつかんで、すわらせた。この老人にとっては、もうヴァレリーのかわりを見つけることはできなかった。彼女は生活の必需品よりももっと欠かすことのできない必要品になっていたのだ。それで彼は、ほんのわずかなことでも、ヴァレリーの不実を示す証拠をつかむくらいなら、むしろ事情のはっきりしない、不確かな状態のままでいるほうがよいと思った。
「ねえ、ヴァレリー、おまえにはわしの苦しんでいるのがわからないのか。ひとこと、わたしは潔白ですといってくれればいいんだ……あなたのいうとおりですといってくれないか……」
「ではね、階下《した》で待っててくださらない? だって、ベットさんがこんな状態じゃ、もっといろんな手あてをしなきゃならないわ、あなた、そんなところを見るのはおいやでしょう」
ユロはぐずぐず引きさがった。
「助平じじい!」と、ベットが大声でいった、「子供たちはどうしたともきかないのね……アドリーヌさんをどうするおつもり? ひとまずあした、あたしの貯金を持っていきますよ」
「妻には、せめて小麦パンくらいあてがっておくものだわ」と、マルネフ夫人は薄笑いをした。
ジョゼファにおとらず手厳しく自分をやりこめるリスベットの調子に腹を立てるでもなく、男爵はまるで厄介な問題をまぬがれて大喜びをしている男のように階下へおりていった。
錠がおろされるとすぐ、待ちかまえていたブラジル人が化粧部屋から出てきた。目にいっぱい涙をためて、気の毒なくらいのありさまだった。モンテスはもちろん、残らず聞いていたのである。
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四七 高級な芝居第一場
「わたしが嫌いになったでしょう、アンリ! わかってるわ」そういってマルネフ夫人は、ハンカチに顔をうずめると、さめざめと泣き出した。
それは真実の恋のさけびだった。女の絶望のさけびはひじょうに説得力があって、ことに女が若く、美しく、エヴァの衣装のように服《ローブ》のうえのほうから抜け出しそうなくらい肩を露わにしているときは、あらゆる恋人の胸深くにひそむ許しのことばを、わけなく引きずり出してしまう。
「だけど、おれを愛しているんなら、どうしておれのために何もかも捨ててしまわないんだ」と、ブラジル男はたずねた。
アメリカのこの自然児は、大自然のなかに生まれた人間がすべてそうであるように根が几帳面なので、ヴァレリーの腰に手をまわすと、さっそくまた話をさっき途中でやめたところからやりはじめた。
「どうしてっていうの?……」と、彼女は頭をもたげてアンリを見つめたが、恋情をこめた目で、男を圧倒してしまった、「だって、かわいい子猫ちゃん、あたしは人妻ですもの。それにここはパリのまんなかで、アメリカ大陸の大平原《パンパ》や、大草原《サヴァンナ》や、荒野とはちがうんですもの。あたしのやさしいアンリ、あたしの初恋でたった一人のいとしいアンリ、よく聞いてちょうだい。その夫というのは、ただの陸軍省の次長というだけなんだけど、部長になってレジォン・ドヌール四等勲章をもらうことを楽しみにしてるの。夫が野心をもつのをやめさせることができて? だから、あの人は、あたしたち二人のことには、ひとことも口出ししなかったでしょう?(もうじき四年になるわ、覚えていらっしゃる? 悪い方ね!……)同じ理由で、マルネフはいま、あたしにユロさんを押しつけているのよ。ひどくいやだけど、あのお役人を追い払うわけにいかないの。まるで海豹《あざらし》のように息を切らすし、鼻毛は長いし、年は六十三だし、若く見せようとしてここ三年のあいだに十も老けてしまったわ。とてもたまらない人だから、マルネフが部長になって、レジォン・ドヌール勲章をもらったら、そのつぎの日から……」
「どのくらいよけいにもらえるんだい、おまえの亭主は」
「三千フランよ」
「その金は死ぬまでおれが出してやろう」と、モンテス男爵はことばをつづけ、「おれたちはすぐパリをたって……」
「どこへ行くのよ」と、ヴァレリーは男に自信のある女が、相手をもてあそぶときのしぐさで口をかわいらしくとがらして、「あたしたちがしあわせに暮せるところは、パリしかないわ。あなたの愛だけが命なの、だから砂漠で二人きりになって、あなたの愛がうすれでもしたら、生きていられないわ。聞いてね、アンリ、あなたはこの広い世界で、あたしから愛されたたった一人の男よ。その虎のような頭に、そう書いとくといいわ」
女はいつも、男を羊のようにおとなしい人間にしておきながら、おれはライオンだ、鉄のような性格だと思わせておく。
「さあ、こんどは、よく聞いてちょうだい! マルネフはあと五年ともたない。骨の随まで腐ってるのよ。一年十二カ月のうち、七カ月は、丸薬や煎じ薬を飲んで、のらくらしてるわ。要するに、医者の話では、しょっちゅう首を鎌にあててるようなものですって。健康な人ならたいしたこともない病気でも、あの人には命とりですって。血が腐っていて、命の根もとが冒《おか》されているのよ。五年前からあたし、ただのいちども接吻を許したことないわ。だってあの男は、ペストですもの! いずれ、それも遠いことじゃないけれど、あたし未亡人になるわ。そうしたら、すでに六万フラン年収のある男から申し込まれているんだけど、はっきりいっておくわ。あなたがユロみたいに貧乏になっても、マルネフみたいに癩病《らいびょう》やみになっても、またあたしをぶったり蹴ったりしても、あたしが夫にしたいのはあなたよ。あたしが愛するのは、あなた一人だけよ。あたしはあなたの姓を名乗りたい。愛の証拠だって、お好きなだけみせてあげてよ……」
「じゃ、今夜……」
「でもね、リオっ子さん、あたしのためにブラジルの原始林から出てきてくれたすてきな豹《ジャガー》さん」と、彼女は彼の片手をとって、それを接吻したり愛撫したりしながら、「妻にしようと思う女には、少しは敬意を表するものよ……あたし、あなたの奥さんになるんでしょう、アンリ?……」
「そうだったな」ブラジル人は、熱情をこめてまくしたてるおしゃべりに、降参してしまった。そして彼はひざまずいた。
「じゃ、いいこと、アンリ」と、ヴァレリーは男の両手をとって、じっと目の奥をのぞきこみながら、「ここであたしに誓うのよ、リスベットさんのいる前で、あたしの無二の親友、あたしの姉さんのいる前で、一年の喪《も》があけたらきっとあたしを妻にするって?」
「誓うよ」
「それだけじゃだめよ! 亡くなったあなたのお母さまのお骨と永遠の救いにかけて誓うのよ。聖母マリアさまとあなたのカトリック教徒としての希望にかけて、誓ってちょうだい!」
ヴァレリーは、自分が社会のもっともけがらわしい泥沼の底に落ちこんだところで、相手はこの誓いを守るにちがいないことを知っていた。ブラジル人は、ヴァレリーの白い胸に触れんばかりに鼻先をもってゆきながら、魅せられたような目つきで、おごそかな誓いを立てた。彼は酔っていた。百二十日の長い航海をすませて、恋しい女に再会するとき、どんな男でも酔うように!
「さあ、これでもう安心よ。マルネフ夫人といっても、未来のモンテジャノス男爵夫人なんだから、ちゃんと敬意を表してちょうだい。むだづかいはいっさいいけません、あたしのためですもの、禁止よ。とっつきの部屋に、小さい長椅子があるから、それに横になっていらっしゃい。そこを離れていいときになったら、そう言いにゆくわ。……あすの朝はいっしょにお食事をしましょうよ。そしてお昼ごろ訪問にきたかのようにして、一時ごろここから出たらいいわ。だいじょうぶよ、門番夫婦はあたしの両親みたいなもので、あたしの言いなりだから。……じゃ、ちょっと階下《した》へおりてお茶の用意をしてくるわ」
彼女はリスベットにちょっと合図をした。リスベットは踊り場までついてきた。そこでヴァレリーは老嬢の耳にささやいた。
「あの黒ん坊、帰ってくるのが少し早すぎたわ! だってオルタンスをやっつけて、あなたのかたきうちしなくちゃ、あたし死んでしまうわ!……」
「だいじょうぶよ、かわいい、ちっちゃな悪魔さん」と、老嬢は相手の額に接吻して、「恋と恨みが手に手をとってゆけば、けっして敗けることはないわ。オルタンスは、あしたわたしがゆくのを待っているの、お金に困ってるのよ。千フラン貸すといえば、ヴェンツェスラスは千度もあなたに接吻するわよ」
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四八 桟敷にふさわしい場面
ヴァレリーから離れたユロは、門番部屋までおりていって、ふいにオリヴィエの女房のところにあらわれた。
「オリヴィエのおかみさん?……」
いやに横柄な聞き方と、それを説明するような男爵の身ぶりを見て、オリヴィエの女房は門番部屋から飛び出し、連れて行かれるままに中庭の片隅までついていった。
「わかっているだろうが、将来あんたの息子さんが法律事務所を買いとるときに便宜をはかってやれるものがいるとすれば、それはこのわたしだ。現に公証人の三等書記なのも、法律の勉強がおわったのも、みんなわたしのおかげだよ」
「さようでございますとも、男爵さま。ですから男爵さま、どんなにありがたく思っているかもしれません。それはもう男爵さまのおしあわせを祈らぬ日とてはございませんので」
「口先だけでべらべらいわないで、おかみさん、それよりその証拠を……」
「どうしたらよろしいので」
「今夜、堂々とした身なりの男がきたが、あの男を知っているかね」
オリヴィエの女房は、モンテスがきたとき、その顔にはっきり見覚えがあった。どうして忘れられよう。ドワイエネ通りにいたころモンテスは、朝方、いくらか早すぎる時刻にヴァレリーの家を出るときいつもそっと五フラン金貨をにぎらせてくれたのである。男爵にしても、亭主のオリヴィエにきいたら、事情をすべてきき出せたかもしれない。しかし、オリヴィエは眠っていた。下層階級では、女房のほうが亭主よりもえらいだけではなく、たいていの場合、亭主をしりに敷いている。ずっと前から、オリヴィエの女房は、恩人の二人のあいだに何かいざこざが生じた場合、そのどちらにつくか腹をきめていた。この両勢力では、マルネフ夫人のほうが有力だとにらんでいたのである。
「その人を知っているかとおっしゃるのですか?……いいえ、いっこうに存じません。ついぞお見かけしたこともありませんですよ……」
「なんだって! マルネフ夫人の従兄は、あれがドワイエネ通りに住んでいたころ、ぜんぜん会いにこなかったのか?」
「ああ、お従兄《いとこ》さまで!……」と、オリヴィエの女房はさけんだ、「お見えになったのでしょうが、気がつきませんで。このつぎからはよく気をつけることにいたします……」
「なに、いまおりてくるよ」と、ユロはいそいで相手のことばをさえぎった。
「でも、もうお帰りになりましたが」オリヴィエの女房はすべてわかったので、言い返した、「お馬車がもうございません……」
「帰るところを見たのかね?」
「はっきりと見ました。『大使館へ!』って、お供におっしゃっていました」
その口調に、この断言に、つい男爵も満足の吐息をもらし、オリヴィエのおかみさんの手をとってにぎりしめた。
「いや、ありがとう、おかみさん。しかしそれだけじゃないんだ。……クルヴェルさんだが?」
「クルヴェルさまでございますか。とおっしゃいますと? なんのことやらわかりませんが」
「よく聞くんだ。あの男はマルネフ夫人に惚れている……」
「とんでもない、男爵さま、とんでもない」そう言いながら彼女は両手を組み合わせた。
「惚れているんだ!」男爵はいやに命令的な調子でくり返した、「あいつらがどうやっているか、さっぱりわからんが、そこをわたしは知りたい。ひとつさぐってくれんか。二人の間柄を何かと突きとめてくれたら、息子を公証人にしてやる」
「男爵さま、そんなに気をもまれるものではございません。奥さまはあなたさまを愛してらっしゃいます。それはもう奥さまの小間使いがよく存じていることで、わたしどもはこんなふうに、おうわさしているんでございますよ、あなたさまのようなおしあわせなお方はこの世に二人といませんって。なぜといって、あなたさまは奥さまのおねうちを何でもご存知で……ああ、このうえのないお美しさ。……毎日十時に起きられて、それからお食事。そう。そして今度は、お化粧に一時間ばかり。そうこうするうちに、二時になります。それから、だれはばかることなくチュイルリーのほうへ散歩にお出になり、あなたさまがお見えになる時間に間に合うよう、いつも四時にはお帰りです。……いいえ、それはもう時計みたいにきちんとしたもので。奥さまはどんなことでも小間使いには隠し立てをなさいませんし、そのレーヌさんは、わたしにはもうなんでも話してくれます。それに、レーヌさんがだまっていられないのは、わたしの息子のためでして、何かとあれに親切にしているようですから。……もうよくおわかりでしょう、もし奥さまとクルヴェルさまと、何かあれば、わたしどもが知らないはずはございません」
男爵は、人魚のように男をだますが、また人魚のように美しくて妖艶なおそろしい娼婦に、おれだけが愛されているのだとかたく信じて、晴ればれとした顔つきで、マルネフ夫人の部屋へあがっていった。
クルヴェルとマルネフは、二度目のピケをはじめていた。勝負に気のないほうがだれでも負けるように、クルヴェルは負けつづけだった。区長がなぜ上《うわ》の空なのか承知のマルネフは、遠慮なくその機会を利用した。つぎのめくり札を見ておき、それに応じて札を捨てていく。ついで、相手の手のうちを承知でまちがいのない勝負をする。数取り札一枚が二十スーの計算だったから、男爵がもどってきたときには、区長からすでに三十フランをまきあげていた。
「おや、君たちだけか」参事院議員は、だれもいないのにびっくりしていった、「みんなはどこへいったんだ?」
「あなたのうるわしいご機嫌のせいでみんな退散ですわい」と、クルヴェルが答えた。
「いや、家内の従兄がきたからでしょう」とマルネフがそれを打ち消した、「ヴァレリーとアンリが三年ぶりで会ったので、さだめし話し合いたいことがあることだろうと、みなさんが察して、気をきかせて引きあげたんでしょう……わたしがいたら、おひきとめしたんですがね。もっとも、万一、ひきとめたところで、うまくいかなかったでしょうが。いつも十時半ごろにお茶をいれて出す役目のリスベットさんが、加減を悪くして、万事狂ったんですから……」
「じゃ、リスベットさんは、ほんとに加減が悪いんですか」と、クルヴェルは憤然となってききだした。
「そういうことでして」と、マルネフは、もはや女なんかどうでもよくなった男の、非道徳な無頓着さで言い返した。
区長は置時計を見ておいた。そこで、それから見積ると、男爵は四十分ばかりリスベットのところですごしたと思われる。ユロのうれしそうな様子は、エクトルとリスベットとヴァレリーの三人が、何かたくらんだことを厳重に告げていた。
「いま見てきたのだが、ひどい苦しみようだよ、かわいそうに」と、男爵がいった。
「すると、他人が苦しむとうれしくなるとみえますな、あんたは」と、クルヴェルは辛辣《しんらつ》な調子でつづけた、「なにしろ、喜色満面のようすで、ここへもどって来られた。リスベットさんの命があぶないということですかな? あなたのお嬢さんは、彼女の遺産をつぐことになっているそうじゃないですか。いまのあなたの顔は、さっきとは見違えるようだ。出ていかれたときはオセロさながらの形相だったが、ただいまはサン・プルー〔ルソーの『新エロイーズ』の青年主人公〕のような顔つきでもどって来られた。……ひとつマルネフ夫人のお顔を拝見したいものですな……」
「その言葉はどういう意味で?」マルネフ氏は自分のカードをかき集めながらたずねて、それをぽんと前に置いた。
四十七歳で老いぼれてしまったこの男の、どんよりした目が、急に熱気をおび、しまりのない、うすら寒い頬のあたりに、青ざめた影がさした。唇の黒ずんだ、歯欠けの口がかすかにひらき、唇には、白墨のように白い泡が、チーズ状に噴き出した。糸一本に命のつながっている、不能な男の激怒は、区長をふるえあがらせた。決闘にでもなったら、クルヴェル氏は何もかも失うだろうが、この男には一つとして損するものはないのだ。
「わたしはただマルネフ夫人の顔を見たいといったまでで、あなたが今のようにたいへん苦々しい顔をなさると、いよいよもってわたしのその気持ちはもっともだということになりますな。いや、ほんとに、おそろしく醜い顔ですよ。マルネフ君……」
「言葉がすぎやしませんか」
「四十五分で三十フランをもうけるような人は、どうしたって美しい男とは見えませんな、わたしには」
「やれやれ、十七年前のわたしを見ていたらね……」と、次長は答えた。
「美男だった?」と、クルヴェルもやり返した。
「それがもとで破滅したんでね。いっそあなたのようだったら、上院議員でも区長でもなったところだが」
「ごもっともで」と、クルヴェルはにやにやしながら、「つまり戦いをやりすぎたわけですな。で、商業の神〔メルクリウス〕からさずかる二つの金属のうち、あなたは悪いほうをつかまされた、水銀剤のほうをね」
そういって、クルヴェルは吹き出した。マルネフは自分の名誉にかかわることをいわれると腹を立てるが、こうした卑俗な冗談にはいつでもわかりがよかった。それはいわばクルヴェルとマルネフの会話をなめらかにする小銭のようなものだった。
「なるほどエヴァはわたしには高いものにつく。それはほんとうだが、太く、短くというのがわたしのモットーでね」
「わたしには長く、おもしろく、のほうがいいですな」と、クルヴェルは応酬した。
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四九 高級な女芝居第二場
マルネフ夫人がはいってきた、見るとクルヴェルを相手に夫はトランプをしており、あとは男爵だけで、客間にはこの三人の姿しかなかった。夫人は区長の顔をひと目見ただけで、彼を動揺させたいろんな考えがすっかりのみこめた。夫人の心は即座にきまった。
「マルネフ。あたしの猫さん」と、彼女は夫の肩によりすがり、なでつけても禿《は》げあがった頭をかくしきれない、いやな色のごましおの髪へ、きれいな指を差しいれながら、「あなた、もうおそいのよ、お休みにならなくちゃ。あしたは下剤をかける日じゃないの、お医者さんがそういってたのよ。七時にはレーヌが、薬草入りのスープを持ってゆきますしね。……生きていたいのなら、そのトランプもうおやめなさいな……」
「五点勝負といきましょうか」と、マルネフがクルヴェルに申しいれた。
「いいでしょう。……わたしのはすでに二点あるから」と、クルヴェルは答えた。
「どのくらいかかりますの?」とヴァレリーがきいた。
「十分ぐらいだ」と、マルネフ。
「もう十一時ですのよ。それに、ほんとですわ、クルヴェルさん、これじゃまるで夫を殺そうとなさってるみたいですわ。まあとにかく、いそいでちょうだい」
どちらの意味にもとれるこのいいかたに、クルヴェルもユロもマルネフ自身も、微笑を浮かべた。ヴァレリーはエクトルのそばへ歩いていって、話しかけた。
「ねえ、外に出て」と、エクトルの耳もとでヴァレリーはいった、「ヴァノー通りで散歩してらしてよ。クルヴェルの帰るのを見とどけたら、もどって来るといいわ」
「それだったらここを出て、化粧部屋の扉から、おまえの部屋へはいっていたいな。レーヌにそういって、あけてくれないか」
「レーヌは階上《うえ》でリスベットさんを介抱してるわ」
「じゃあ、またリスベットのところへあがってゆくか」
どれもヴァレリーにとっては危険だった、クルヴェルに釈明せねばならぬことは目に見えているから、ユロを自分の部屋へはいれたくない、全部つつぬけになるだろう……。それに、ブラジル人がリスベットのところで待っていた。
「どうしてこうなんでしょう、男って」と、ヴァレリーはユロにいった、「いちど思いたったら、家を焼きはらってでもはいろうとなさるのね。リスベットさんはあなたを部屋にいれられるような状態じゃありませんのよ。……通りへ出ると、風邪でもひくっていうの?……さ、外へいらっして。……でないと、今夜、おあいしないことよ!……」
「諸君、これで失敬する」と、男爵は大声でいった。
老人の誇りを傷つけられたユロは、通りで恋人の時刻がくるまで待って、自分も若者のようにやれるということをぜひとも見せてやりたいと思い、外へ出た。
マルネフは妻に休む前のあいさつをのべ、いかにも見せつけるようなやさしさで、手をとった。ヴァレリーは意味ありげに夫の手を握りかえした。それはこういう意味だった。
「だから、クルヴェルを追っ払ってよ」
「じゃ、お休み、クルヴェルさん」と、そこでマルネフはいった、「ヴァレリーとはあまり長くならないように願いますよ。いやあ、わたしは嫉妬深いたちでしてな……それでおそくまで起きていたんだが、やはり頭から離れませんな、……ま、いずれ帰られたかどうか見にきますよ」
「なに、ちょっと商売上のことで相談する必要があるもんで、長くはなりませんよ」
「小さい声で! あたしにどんなご用?」と、ヴァレリーは言葉の調子を前後で変えながら、横柄さと軽蔑のまじったようすで、クルヴェルを見つめた。
横柄な視線を身に受けたクルヴェルは、いままでヴァレリーにはひとかたならず目をかけてやり、それを盾にとってやろうと思っていたのだが、またいつものへりくだった、柔順な態度にもどった。
「あのブラジル人だが……」
そう言いかけたクルヴェルは、軽蔑的な目でじっと見つめているヴァレリーの視線におびえて、言葉につまった。
「それから?」と、彼女はいった。
「あの従兄《いとこ》だが……」
「従兄じゃないわ。あれは世間やマルネフさまにとって従兄ということなの。あたしのいい人ってとこかしら。それならあなたも文句はないでしょう。一人の男に復讐するために金で女を買うような商人は、あたしの考えでは、恋で女を買う商人よりも劣った人間だわ。あなたはあたしに惚れたわけじゃない、あたしがユロさんの情婦だと知って、敵を殺すためにピストルを買うようにあたしを手にいれたまでのこと。あたしは空腹だったから、しかたなしにうんといったのよ!」
「その契約をあんたは履行しておらん」と、クルヴェルはまたもとの商人にもどって抗弁した。
「ああ! あなたはジョゼファを横どりされた腹いせに、ユロ男爵の女をとりあげて、あの人にどうだって思い知らせてやりたいのね……あなたの心の卑しさが、まる見えだわ。女に愛しているといったり、公爵夫人あつかいをしたり、そのくせその女に恥をかかせたいのね! でもいいのよ、あなた、無理ないわ。その女は、ジョゼファさんにはかなわいないんですものね。あのお嬢さんは恥ずかしいことをして平気でいられるわ、それなのにあたしときたら、町の広場へつれ出されて鞭《むち》で打たれてもしようのない偽善者ですもの。ああ! ジョゼファさんは自分の腕と財産で身を守っている。だけど、あたしの、たった一つの砦《とりで》といえば、かたい女だということ。いまも町じゃ立派な堅気の奥さんで通っている。それをあなたがここでさわぎ立ててごらんなさい、あたしはどうなると思って? 財産があるんだったら、まだいいわよ、だけどいまはいるのは、せいぜい年に一万五千フラン、とてもじゃなくて?」
「それっぽちじゃない」とクルヴェル、「二カ月前からオルレアン鉄道の株で、あなたの預金は倍にしてある」
「ところが、パリで相手にされるには、年に最低五万フランはいるの。だから、どうせあたしが地位をなくしちゃうのなら、何もあなたはお金を出してくれる必要はないわ。どうするつもりだと思う? マルネフを部長にさせるのよ。俸給は六千フランになるわ、二十七年つとめたのだから、二年後には千五百フランの恩給があたしにもらえるわけよ、あのひとが死ねばね。それをあなたったら、こんなにあたしからやさしくされて、しあわせでいっぱいなくせに、待つことができない!……そんなことで愛してるっていえて!」と、彼女はさけんだ。
「いや、はじめは計算ずくだったが、そのあとはあんたの|わんわん《ヽヽヽヽ》になっちまったよ。胸に足をのせられるわ、踏みつぶされるわ、おどかされるわで、さんざんだが、愛しているんだ、こんなに女に惚れたことはないくらいだ。ヴァレリー、わたしはあなたを、セレスティーヌを愛すると同じくらい愛しているのだ。あなたのためなら、どんなことだってやれる……。どうかね、週に二度とはいわずに、ドーファン通りへきてもらえるかね?」
「あら、それだけのこと? 若返ったのね、あなた……」
「ひとつわたしの手でユロを馘《くび》にさせてくれんかね、あの男に恥をかかせて、追っ払わせてもらえんかね」と、クルヴェルは相手の無礼には応じないで、「あのブラジル人の男も今後はもう寄せつけないようにして、わたしだけのものになってほしい、後悔はさせやしないから。で、まず最初に八千フランの年金証書をあげることにしよう、それも終身ものだ。五年間心変わりのないところを見せてくれたときには、名義のほうもそっくりあなたのものに……」
「どこまでいっても取引きだ! ブルジョワはいつになっても、きれいに物をやるってことを知らないのね! 年金証書に一生恋の肩がわりをさせようっていうのね?……ああ! 小売商に、ポマード屋! なんにでもべたべた正札をはるわ! エクトルが話してたけど、デルーヴィル公爵は三万フランの年金証書をボンボン入れの紙筒にいれて、ジョゼファのところへ持っていったっていうじゃない! あたしはジョゼファの六倍もねうちがあるわ! ああいやだ、惚れられるなんて!」彼女は巻き毛に指をからませながら、鏡をのぞきにいった、「アンリはあたしを愛している、目でちょっと合図をすれば、あなたを蝿《はえ》みたいにひねりつぶしちゃうわ。ユロもあたしを愛している。奥さんをどん底生活におとしいれてね。さあ、うちへ帰っていいお父さんになりなさいよ。なんです、年がいもないバカ遊びのために、財産とは別に、三十万フランもへそくりをつくっているなんて。そのうえまだ、そいつをふやすことしか考えてないんだわ……」
「おまえのためだよ、ヴァレリー、半分はおまえにやるつもりだ」膝をつきながら彼はそういった。
「おやおや、まだそこにいたのか」と、寝間着姿の醜いマルネフが声をあげた、「何をやってるんです」
「あたしにあやまってるところなの、失礼なことをいったのよ。あたしが思うようにならないものだから、あたしをお金で買いにかかって……」
クルヴェルは穴があったらはいりたかった、舞台でやるように、迫《せ》り上《あ》げの口から奈落へ消えてしまいたかった。
「とにかくお立ちなさい、クルヴェルさん」と、マルネフはにやにやしながら、「こっけいですよ。わたしが心配することもないことは、ヴァレリーの様子でわかります」
「もうあちらへいらっしゃいよ。安心して休んでちょうだい」とマルネフ夫人はいった。
「まったく機転のきく女だ!」クルヴェルはつくづく思った、「ほれぼれするわい。わしを助けてくれるしな!」
マルネフが寝室へもどると、区長はすぐヴァレリーの手をとり、その上に涙を落としながら接吻した。
「みんなおまえにやる」と彼はいった。
「それでこそ愛するというものよ」と彼女は彼の耳へささやきかけた。「いいわ、愛には愛を、とゆくわ。ユロがね、下の通りにいるの。かわいそうにあのじいさん、もう一度ここにくるつもりで、あたしが寝室の窓ぎわにろうそくを立てるのを待ってるわ。ヴァレリーから愛されているのはあなた一人だってこと、あの人にいってもかまわない。どうせ信じようとしないでしょうから、ドーファン通りへ連れていくのよ、うんと証拠を見せて、ぐうの音《ね》も出ないようにしてやるのよ。かまわないわ、あたしの命令よ。あの海豹《あざらし》には、あたしうんざりする、やり切れないったらないわ。あの男を一晩じゅうドーファン通りにしっかりと引きとめて、とろ火でじわじわ苛《いじ》めてやるといいわ。ジョゼファを横どりされたかたきを討つのよ。たぶんユロは死んでしまうかもしれない。だけど、あたしたちはあの人の奥さんや子供たちをおそろしい破滅から救い出すことになるんだわ。ユロ夫人は生活のために働いてるのよ。……」
「ほう、かわいそうにな、あの奥さん。いや、そいつはひどい」とクルヴェルはさけんだ、性来の善良な感情がよみがえったのだった。
「ねえ、セレスタン、あたしを愛してくださるのなら」と、彼女はクルヴェルの耳に唇を触れるようにしながら、ごく低い声でいった、「ユロをひきとめておいてちょうだい、でないと、あたしあぶないの。マルネフが感づいているようだし、エクトルは正門の鍵を持っていて、ここへもどってくるつもりなのよ」
クルヴェルはマルネフ夫人を両腕に抱きしめた、そして有頂天になって出ていった。ヴァレリーは愛情をこめて踊り場のところまで送ってきた。それからまた、磁石に吸いよせられたように、二階までおりてきた。そしてけっきょく階段の上り口まできてしまった。
「ヴァレリー、もういいからもどってくれ、門番に見られるとまずいだろ……。だいじょうぶだ、わたしの命も財産も、みんなおまえのものだ……。さ、お帰り、わたしの公爵夫人」
「オリヴィエのおかみさん」ヴァレリーは扉がしまるのを見とどけると、そっと声をかけた。
「まあ、奥さま、わざわざこんなところへ?」オリヴィエのおかみはあっ気にとられていた。
「大きいほうの門に上下ともかんぬきをかけてちょうだい。今夜はもうあけるんじゃないのよ」
「よろしゅうございますとも、奥さま」
かんぬきをかけおわると、オリヴィエのかみさんは、政府の高官ともあろう男が自分を賄賂《わいろ》でつりにかかったことを話した。
「じゃ、天使みたいに手落ちなくやってくれたのね。けど、その話はあしたゆっくりしましょうよ」
ヴァレリーは矢のような速さで四階まで駆けあがると、リスベットのドアを三度ノックし、それから自分の部屋へもどって、レーヌにいろいろと用を言いつけた。なぜなら、どんな女でもブラジルから出てきたばかりのモンテスのような男にとりいる好機《チャンス》をのがしはしないものだからだ。
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五〇 クルヴェルの復讐
「いやっ、ばかめ。上流の女でなくちゃああいう情愛の示し方はできんもんだ!」と、クルヴェルはひとりごとをいっていた、「あの暗い階段を自分の目で照らしながら、下までおりてきてくれたんだ。おれから離れられなかったんだな。ジョゼファなんか一度だって!……ジョゼファか、あのへなちょこあまめ」と、往年の注文とりは、思わず声を出した。「おれはいまなんといったかな? へなちょこあま……。こりゃいかん。そのうちチュイルリーあたりで、うっかり口に出そうだぞ……いかんな、ヴァレリーがおれを教育してくれんことには、なんにもなれやせん。……これほど大貴族に見られたくてしようのないこのおれが……ああ、なんて女だ! あの目でつめたく見つめられると、腹痛の発作みたいにふるえがくる。……あのあでやかさ! あの才気! ジョゼファからはついぞあんな感動を受けたためしがない。ほかにもまだまだ人の知らない美点がある! やあ、いたぞ、先生が」
バビローヌ通りの暗闇のなかに、少し腰のまがった、背の高いユロが、建築中の家の板囲いに沿って人目を忍ぶように歩いているのが見えた。クルヴェルはまっすぐに近づいていった。
「おはよう、男爵。なに、もう真夜中をすぎてますからな。いったいこんなところで何をなさってるんです?……けっこうなぬか雨のなかをご散歩ですか。われわれの年じゃ、からだに毒ですよ。分別くさいことをいうようだが、おたがいおとなしく家へもどりましょう。というのは、ここだけの話だが、いつになっても窓に明りは差しますまい。……」
この最後の文句を聞いて、男爵はいまさらのように六十三という自分の年を思い、それから外套がしめっていることに気づいた。
「いったいだれがしゃべったんです……?」
「ヴァレリーですよ、もちろん! |われわれ《ヽヽヽヽ》のヴァレリーですよ。といってもこれからはもっぱら|わたし《ヽヽヽ》のヴァレリーになりたいそうですがね。これであんたとは五分五分というところですな、男爵。お望みとあれば、決勝戦をやりますよ。腹をお立てになっちゃいけません。雪辱《せつじょく》の権利がわたしにあることは、先刻ご承知のはず。あなたはわたしからジョゼファを横どりするのに三カ月かかったが、わたしはヴァレリーをとるのに、ええと……。いや、その話はよしましょう。とにかく、あの女は完全にわたしのものにしますよ。しかしまあ、これからも仲よくやろうじゃありませんか」
「クルヴェル、ふざけちゃいかん」と、男爵は激怒で声をつまらせて、「こりゃ生きるか死ぬかの問題だぞ」
「おやおや、これはまたたいそうな!……男爵、もうお忘れですかな、オルタンスさんの婚礼の日になんとおっしゃいました、『われわれのような古つわものが、たかが女ひとりのことでいがみ合っていいものかね? そりゃけちくさい、小人のやることだ。……』そこできめたのでしたな、われわれは摂政時代式にやろう、青銅着式、ポンパドゥール式、十八世紀式にやろうじゃないかって。リシュリュー元帥式、ロカイユ式の最《さい》たるものでいこうってね。まだある、いってしまいますがね、『危険な関係』式!……」
クルヴェルは聞きかじりの文学的な言葉をながながと重ねていくこともできたろう。男爵は、耳が聞えなくなりかけたつんぼのように聞きいっていた。だがガス燈の光で、敵の顔色が蒼白くなっているのに気づいた勝者は、急に口をつぐんだ。オリヴィエのかみさんの申立てを聞き、ヴァレリーからやさしく見つめられたばかりの男爵にとって、クルヴェルの言葉はまさに青天《せいてん》の霹靂《へきれき》であった。
「けしからん! パリには、ほかにいくらでも女がいるじゃないか!……」男爵はやっとそうさけんだ。
「それは、わたしがジョゼファを横どりされたときにいったことですよ」と、クルヴェルは応酬した。
「いや、クルヴェル、そんなはずはない。……証拠を見せてもらおう。……君はわしのように、鍵をもってるかね?」
そういって男爵は、ヴァレリーの家の前まできて、鍵穴に鍵をさしこんだ。だが扉はびくともしなかった。ゆさぶってみたがむだだった。
「夜中にそうぞうしい音を立てるもんじゃありませんよ」とクルヴェルは落ちつきはらっていった。「それよりもね、男爵、わたしはもっといい鍵をもってますよ」
「証拠だ! 証拠を見せるんだ!」と、男爵は気も狂いかねないほどの激しい苦悩にいら立ってくりかえした。
「ついていらっしゃい、お目にかけますよ」と、クルヴェルは答えた。
そして、ヴァレリーのさしずどおり、彼はイルラン・ベルタン通りから河岸のほうへ男爵を引っぱっていった。不運な参事院議員は、破産宣告の日をあすにひかえた卸業者のような足どりで、あとからついていった。彼はヴァレリーの心の奥底に隠された堕落の原因について、あれこれと臆測をかさねてみたが、けっきょく、自分が何かのだましにひっかかったとしか思えなかった。ロワイヤル橋をわたりながら、彼は自分の生活がいかにも空虚で、ひどく行きづまっており、借金でがんじがらめになっていることをさとって、ふとこのとき脳裏をかすめた、クルヴェルを川へ突き落とし、自分もそのあとから飛びこもうという不心得な思いに屈服しそうになった。
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五一 クルヴェル氏の妾宅《しょうたく》
当時まだ拡張されていなかったドーファン通りにつくと、クルヴェルは、とある家の中門の前で足をとめた。門をはいると、白と黒の石畳を敷きつめた長い舗道が、柱廊の形でつづき、それがつきるとパリにざらにあるような、小さな中庭から採光のしてある階段と門番部屋があった。中庭は隣家と共有のものだが、配分が不公平なために奇妙な感じをあたえた。クルヴェルの妾宅《しょうたく》――というのは持ち主が彼だからだが――この妾宅に付属してガラスばりの屋根の建物があったが、これは隣家の土地に増築されたものである。しかも高く建てることが禁じられたために、その建物は門番部屋と階段の出っぱりのかげにすっかり隠れて、門のほうからは見えなくなっていた。
この一角は、通りに面した二軒の商店のいっぽうが長いあいだ、倉庫と店裏部屋と台所につかっていたものだった。クルヴェルは一階のその三部屋を表の賃貸用の建物から切り離し、グランドの手でそれを経済的な妾宅につくりかえさせた。ここへはいるには二つの方法があった。まず表の家具店を通ってはいる方法だが、家具屋が秘密をもらした場合容赦なく立ちのきをくわせられるように、クルヴェルはこの店を安い値段で月ぎめで貸していた。もうひとつは、廊下の壁にほとんど目につかないくらい巧みに取りつけた隠し扉からはいる方法だった。
この小さなアパルトマンは、食堂、客間、寝室という間どりで、隣家とクルヴェルの持ち家の両方の上空から採光がしてあり、だからちょっとやそっとでは見つからなかった。表通りの古道具屋のほかには、ここの借家人たちはこの小さな楽園の存在を知らなかった。
門番の女房は、クルヴェルに金をにぎらされてぐるになっている、腕のいい料理女だった。だから区長の旦那は、だれからもスパイをされるおそれもなく、夜どんな時刻にでもこの経済的な隠れ家に出入りができた。昼間だと、ちょうどパリの女が買い物にゆくときのような身なりで、鍵をもった女が、なんの危険もなしにクルヴェルの住居にやって来られた。女は古道具をながめたり、品物を値切ったり、店の奥にはいったりする。たまたまだれかと会うことがあってもいっこう不審がられもせずに、店から出られるのだった。
クルヴェルが居間の燭台にあかりをつけたとき、男爵はそこにくりひろげられた知性味のある、しゃれた贅沢にどぎもをぬかれた。香料屋あがりのクルヴェルがグランドにいっさいを任せたので、この老建築家は、六万フランもかかりはしたがポンパドゥール式の創造に抜群の腕を発揮したのだった。
「公爵夫人がはいってきたらびっくりするように仕上げてくれ……」クルヴェルはグランドにそういったのである。
クルヴェルは愛するエヴァを、彼の貴婦人を、彼のヴァレリーを、彼の公爵夫人を囲うために、パリ最美のエデンを望んだのだった。
「ベッドは二つある」と、クルヴェルはユロに長椅子を指さしてみせた。たんすの引出しをあけるように、長椅子からベッドが引き出せる仕組みだった。「これが一つ、もう一つは寝室のほうだ。だから夜は二人でここにとまれる」
「これが証拠だというのか!」と、男爵はいった。
クルヴェルは手燭をとり、友だちを寝室へつれていった。ユロがなかへはいってみると、二人用の長椅子の上にヴァレリーのはでな部屋着が投げ出してある。これはクルヴェルの妾宅でつかう以前、彼女がヴァノー通りで誇らしげに着ていたものだ。区長は「ボヌール・デュ・ジュール」と呼ばれる寄せ木細工のきれいな小だんすの秘密の仕掛けを操作して、なかを探し、一通の手紙をつかみ出すと、それを男爵に差し出した。
「さあ、読んでみたまえ」
参事院議員は、鉛筆で走り書きした短い手紙を読んだ。
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よくも待ちぼうけをくわせたわね、古ねずみ! あたしのような女が香料屋あがりの男なんか待つと思ってるの。夕食が言いつけてあるわけではなし、たばこもなし。いずれこの埋合わせはしていただくわ。
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「まぎれもなくあの女の筆蹟でしょうが」
「なんてことだ!」ユロはぐったりとなって腰をおろした、「みんなあれが使っていたものばかりだ。帽子も、スリッパもある。さあ、早く言うんだ、いったいいつから……?」
クルヴェルは、わかっているという合図をし、寄せ木細工の小さな書き物机から、一束の勘定書をつかみ出した。
「見たまえ、君! 建築請負師などに支払ったのが一八三八年十二月、その二月前の十月に、この魅力あふれる妾宅を贈り物にしたんだよ」
参事院議員は、ぐったりとうなだれた。
「いつのまにやれるものかねえ? おれはあれの日課を知っているんだが、何時はなに、何時はなにと」
「それにチュイルリーの散歩だってそうだし……」クルヴェルはもみ手をしながら、満悦のていだ。
「それがどうかしたかね?……」ユロはぼんやりした顔で、ききかえした。
「あんたのいわゆる愛人って人はチュイルリーへお出ましになる。一時から四時まであそこを散歩することになってますな。だが、まっかな嘘だ。そのあいだここにきてるんですよ。モリエールに芝居〔『気で病む男』〕があるでしょう。いいですか、男爵、あんたの標題には何ひとつ気のせいだけってものがないんですよ」
もはや何ひとつ疑う余地のなくなったユロは、無気味にだまりこんでしまった。破局に立たされると、意志の強い、聡明な人間はだれでも哲学的になるものだ。男爵は、気持ちの上で、ちょうど闇夜に森のなかで道を探し求めている男のようなものだった。陰うつな沈黙、意気|消沈《しょうちん》した顔に起こった変化、こうしたすべてがクルヴェルを不安にした。相棒が死ぬのを望んでいるのではなかったからだ。
「さきほどいったとおり、あんた、勝負は互角なんだから、ひとつ決勝戦をやりましょうや。決勝戦は望みませんかな、ええ? 知恵くらべですよ」
「どうしてまた」と、わが身に話しかけてユロはひとりごとをいった、「美人というと、十中の七まで心が腐っているんだろう?」
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五二 盛大な同業者団体の二人の同業者
男爵の頭はあまり混乱していたので、この問題の解答を見つけることができなかった。美は、人間のもつさまざまな力のうちでもいちばん大きな力だ。そばから押えるもののない独裁的な力は、人間を悪習へ、狂気へとみちびく。勝手気ままとは、つまり力の乱行|沙汰《ざた》だ。女の場合、この勝手気ままは、気まぐれということだ。
「何もこぼすことはないさ、仲間《あんた》。お宅には絶世の美人がいるんだし、おまけにかたい女ときている」
「こういう運命にあってあたりまえだ」と、ユロは自分の心にいった、「さんざんほったらかしたあげく、まだ苦しめている、それも天使みたいな女だというのに! ああ、かわいそうなアドリーヌ、おまえのうらみはりっぱに晴れたよ。ひとりきりで、だまって苦しんで、頭のさがるような女だ。わしから愛されてしかるべき女だ。できれば当然わしは……なにしろいまでもほれぼれするほどだし、肌も白いし、最近はまた娘のころにもどったし……。それにしてもあのヴァレリーのようにいやしい、恥知らずな、悪党の女が二人とこの世にあるだろうか」
「あいつは魔性だ」とクルヴェルがいった、「シャトレーの広場で鞭打ちの刑にしなくちゃいかんあばずれだ。しかしね、親愛なカニャック君〔十八世紀の陸軍将官。好男子ですぐれた教養と才気があった〕、われわれが青い胴着姿でいようと、リシュリュー元帥やトリュモー、ポンパドゥール、デュ・バリーであろうと、道楽者であろうと、その他どんなきっすいの十八世紀人であろうと、いまじゃ、町奉行なんかいないんだよ」
「どうやったら好かれるんだろう……」ユロはクルヴェルの言葉には耳をかさずに考えこんでいた。
「おたがいにこの年だ、女から好かれようなんて愚の骨頂さ。まあがまんしてもらうのが関の山だね。マルネフ夫人はあれで、ジョゼファなんかより百倍もしたたか者なんだから……」
「おまけに貪欲だ! わしに十九万二千フランも払わせている」と、ユロは声をはりあげた。
「それにいくサンチームで?」たったそれだけかと、大金持ちらしい傲慢《ごうまん》さで、クルヴェルがきいた。
「どう見たってきみはあの女にほれていないからね」と、男爵はわびしげにいった。
「わしはいやというほど出してるさ」とクルヴェルは言い返した、「なにしろあの女は、三十万以上も、わしからはいるんだからな!……」
「どこにあるんだろう。みんなどこへ消えてしまうんだろう」男爵は両手で頭をかかえながらそういった。
「そのへんのちんぴらどもは割り勘《かん》で安あがりの娼婦《おんな》を囲っているが、わしたちもあの式でぐるになったら、こう高いものにはつかなかったろう……」
「それも一案だ」男爵は即座に応えた、「だが、やっぱりだまされるだろう、というのは、でぶのじいさん、あのブラジル人をどう考えるね?……」
「そこなんだよ、古うさぎ! そのとおりなんだ、わしたちはいっぱい食わされているんだ、何だよ……ちょうど株主みたいなもんだ……ああいう女はそろいもそろって、合資会社だ」
「じゃあやっぱり窓の灯りのことをしゃべったのは、あの女か?……」
「お人よしにできてるよ、あんたは」クルヴェルはぐっとそり身になって答えた、「わしたちはちょろまかされているんだ。ヴァレリーって女は、あれは……。あの女はあんたをここへ引きとめておけっていった……。そのわけが読めたよ……。あのブラジル男をくわえこんで、いまごろは……。ああ、わしはあの女はあきらめる。あんたに両手をとらせておいて、けっこう足でほかの男とふざけようって女だ! ちょっ、恥知らずな女だ、淫婦《いんぷ》だよ!」
「淫売以下だ」と男爵はいった、「ジョゼファやジェニー・カディーヌがわれわれをだましたのは、これは当然の権利だ。色を売るのは仕事なんだから、あの連中は!」
「しかしあの女ときたら、聖女づらで、貞淑ぶっていやがる! さあ、ユロ君、奥さんのところへ帰りたまえ。仕事がうまくいってないらしいじゃないか。ちっぽけな高利貸に何枚か証文をいれてるって話も、ぼつぼつ耳にする。ヴォーヴィネとかいう、娼婦専門の金貸しだそうだが、わしも淑女づらした女にはもうこりたよ。だいいちわれわれの年じゃ、ああいうすれからしの女なんか用がないだろう、正直なところ、だまされないほうがおかしいんだから。男爵、あんたは髪も白いし、入れ歯もある。わしもシレノス〔古代フリージアの道化神〕みたいな格好をしてる。これからは金でも貯《た》めるよ。金というやつはけっしてだまさない。国債は利子の支払い決算が半年目ごとだが、少なくともそのつど何がしかの利子がはいるわけだ。ところが、あの女ときたら、逆にそのぶんまで吐き出させる……。まあ、親愛なる同僚、ギュベッタ、腐れ縁の相棒、あんたとならわしも我慢できそうだがね、神経病理《ヽヽヽヽ》……じゃない、哲学的な、三角関係をだ。だがブラジル人がお相手じゃね。どうやら、故国からあやしげな植民地の産物をもちこんでる手合らしい……」
「女というのは、わからん生きものだ」
「なに、わかるさ」と、クルヴェルはいった。「こっちは老いぼれだが、あのブラジル人は若くて美男というだけだ……」
「まあ、そういうことだな」とユロはいった。「正直な話、こちらは老いこむばかりだ。しかしね、きみ、ああいう美人をながめる楽しみが、どうして思い切れるかね。着物を脱いだり、髪の毛を巻いたり、パピョット〔カール用のペーパー〕をつかう手の指のあいだから、あだっぽく笑って、こっちをじいっと見つめたり、なまめかしいそぶりをしてみせたり、嘘をならべたり、こっちが仕事で疲れきっているのを見れば、ちっともかわいがってもらえない、などといったりする、すると何もかも忘れて、こちらもいい気持ちになってね」
「まったく、そうなんだな。人生ただひとつの快楽だよ……」と、クルヴェルは声をあげた。「ああ! かわいらしい顔でにっこり笑いかけてこういうんだ、『あなたったら、ほんとにあなたってなんてかわいい人なんでしょう! あたしはきっと普通の女とはちがってるんだわ。あんな、山羊ひげをはやした青二才や、人前でぶかぶかたばこをふかすおっちょこちょいに熱をあげるなんて、気が知れない。下男みたいに無作法だしさ! だって若いのを鼻にかけて変にいばるじゃないの!……それに、いま来たとおもうと、もうさよなら、そしてさっさと行ってしまう……。あたし、コケットに見えるでしょうけど、あんな小僧っ子よりか五十すぎの人にひかれるのよ。だって移り気がないわ。実があるし、かわりも簡単には見つからないことがわかってるから大事にしてくれるし……。だから、あなたが好きなのよ、罪なお人……』ってね。この心底を打ち明けたようないいかたが、またいかにもかわいらしくて、やさしくって、いかにも……、ああ、だめだ、役所の予告みたいで、さっぱりあてにならん……」
「嘘が真実《まこと》にまさることは、よくある」ユロは、ヴァレリーのしぐさをまねるクルヴェルの身ぶりから、まざまざと楽しかったときの場景を思いおこしていった、「だから、やむなく嘘をひねりだすわけだ。舞台衣装のうえに、金ぴかの飾りを縫いつけたりすることにもなる……」
「で、結局、飾りを縫いつけるってことか、嘘つき女たちは!」と、クルヴェルは荒々しい口調でいった。
「ヴァレリーは仙女だよ」と、男爵はさけんだ、「老人のあんたを若者に変えてしまうんだからね……」
「うん、そうだ。まるでつかみどころのないうなぎみたいなもんだ。もっとも、あんないいうなぎは、どこをさがしたっていないがね……砂糖みたいに白くてあまくて!……アルナル〔当時評判の喜劇女優〕みたいにひょうきんで、おまけに思いつきがうまいときてる! ああ、たまらん!」
「そうなんだ、じつに気がきく!」と、男爵も思わずさけんだ。妻のことなどはもう念頭にないのだった。
二人の相棒は、ヴァレリーの比類のない美点を一つ一つ思い浮かべながら、またとない親友のように仲良く床についた。あの声のひびき、甘えるような姿態、なまめかしいそぶり、いたずらっぽいしぐさ、こぼれるような機知、あの激情のほとばしり、なぜなら、ヴァレリーは恋の芸術家だから、日によって同じ歌を前のときよりももっとうまく歌うテノール歌手のように、時としておどろくほどの激情をわきあがらせるのだ。こうして二人は、地獄の劫火《ごうか》に照らされた、魅惑的な、悪魔的な思い出に揺られながら、眠りに落ちていった。
翌日の九時ごろ、ユロは役所へ出かけるといった。クルヴェルはいなかに用があった。二人はいっしょに外へ出たが、クルヴェルは男爵に手を差し出すと、こういった。
「みんな水に流そう、過ぎたことじゃないか。おたがいマルネフ夫人のことは、もう考えていないんだから」
「そうだよ、きれいさっぱりおわったことだ」ユロは思ってもぞっとするといった面持ちで、答えた。
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五三 二人のまぎれもない気違い
十時半に、クルヴェルはマルネフ夫人の住居の階段を大急ぎで上がっていった。駆けこんでみるとけがらわしい女は、しかも拝みたいほどの妖婦は、ひどくなまめかしい部屋着で、アンリ・モンテス・デ・モンテジャノス男爵とリスベットの三人で、上等の朝食をたべているところだった。クルヴェルはブラジル人の姿を見てぎくりとしたが、一、二分でいいから耳をかしてほしいとマルネフ夫人に頼んだ。ヴァレリーは、クルヴェルといっしょに客間へ移った。
「ねえ、ヴァレリー、わたしの天使」と、恋こがれているクルヴェルはいった、「マルネフ君はもう先が長くないんだ。あんたがわたしだけ大事にしてくれるつもりなら、旦那が死んでからいっしょになろうじゃないか。ひとつ考えてくれ。ユロのほうは、ちゃんと追っぱらったよ……。だからここで、あのブラジルの男がいったいパリの区長ほどのねうちがあるものかくらべてみるんだな。いまは区長だが、あんたのためなら、どんな高位高官にだってなってみせようと思ってる男だ。いまでも年収八万四、五千フランある男だよ」
「考えてみるわ。二時にドーファン通りへいくから、そのときに話しましょう。でも、軽はずみなことはしないでよ。それからきのう約束した名義変更のこと忘れないでね」
彼女は食堂へもどった。クルヴェルは、ヴァレリーをひとり占めする方法を見つけたことで得意になりながら、彼女のあとからついていった。だが、このときユロ男爵の姿が目にとまった。ほんの短い協議のあいだに、男爵も同じもくろみを果そうとしてはいってきていたのだった。参事院議員はやはりクルヴェルのように、ちょっと話したいことがあるといった。マルネフ夫人は客間へもどるために立ちあがりながら、ブラジル人ににっこり笑ってみせた。『まるで気違いね。二人ともあなたのいるのが目にはいらないのかしら』とでもいっているみたいだった。
「ヴァレリー、わたしの子供」と、参事院議員はいった。「あの従兄だが、あれはアメリカのいとこのことで……」
「ああ、もうたくさん!」と彼女はさけんで、男爵のことばをさえぎった。「マルネフはこれまでも、これから先も、あたしの夫じゃない。もうあたしの夫でいるわけにいかない。あたしがただひとり初めて愛した人が、ひょっくり帰ってきたの、待ってたわけじゃないのに……。あたしが悪いのじゃないわ。とにかくアンリをその目でよくみてごらんなさいよ、そしてご自分の姿を見てごらんになることね。そのうえで、女というものが、まして恋人のある女が、迷ったりするものかどうか考えてみるといいわ。よくって、あなた、何もあたしはおめかけさんじゃないのよ。今日かぎりで、もうあたしはスザンナ〔不当にも姦通罪に問われて死刑に処せられた旧約聖書中の美貌で貞淑なユダヤ女性〕みたいに、二人の老人の板ばさみになって暮すなんてことをやめにしたいの。どうしてもあたしのことが思い切れないのなら、あなたにもクルヴェルさんにも、あたしのお友だちになっていただくわ。でも、いままでのようなことはすべておしまい。だってあたしも二十六ですもの、将来は聖女さまでいたいのよ、すてきな立派な女になりたいのよ……あなたの奥さまみたいにね」
「本気でそんなことをいってるのか。ああ、これがわたしへのもてなし方とは! こっちはいつだってローマ法王のように、両手にいっぱい贖宥《しょくゆう》〔カトリック教会が、罪の全部または一部を赦すことでほどこす恩寵〕をもってきてやっているというのに……いいかい、あんたの旦那はぜったい部長にはさせないぞ。レジォン・ドヌール勲章もだめだ……」
「そんなこと、いまにわかることよ!」マルネフ夫人は意味ありげにユロをにらみつけた。
「おたがいに腹を立てるのはよそう」ユロは必死の思いで言葉をとりつくろいながら、「今夜くるから、そのうえでなっとくのいくように話し合おう」
「リスベットのところでなら、いいわ。……」
「よし、リスベットのところでな」と恋に狂う老人はいった。
ユロとクルヴェルはいっしょに階段をおりたが、通りへ出るまでおたがいにひとことも口をきかなかった。しかし歩道へ出ると、どちらからともなく顔を見合わせ、悲しげに笑いだした。
「気違いじじいがそろったもんだ!……」と、クルヴェルがいった。
「二人とも追いかえしてやったわ」とマルネフ夫人は食卓にもどりながら、リスベットにいった。「あたしはぜったいに愛したことがないの、いまも愛していないし、これからもぜったいに愛さないわ、あたしの豹のほかはね」と、アンリ・モンテスににっこり笑いかけながら言いそえた。「だって、リスベットさん、あなた知らなかったかしら?……アンリはね、あたしがお金に困って、いろんな恥ずかしいことをしたのを許してくれたのよ」
「おれがいけなかったんだ」と、ブラジル人はいった。「おまえに十万フラン送ってやるべきだった……」
「いいのよ、そんなこと」と、ヴァレリーはさけんだ。「あたしが生きるために働けばよかったの、けど、あたしの手、そういうことに向いていないのよ……リスベットさんにきくとわかるわ」
ブラジル人はパリいちばんのしあわせ者になって立ち去った。
真昼に近いころ、ヴァレリーとリスベットははなやかに飾られた寝室で話しこんでいた。この危険なパリ女は、あらかた終わっている化粧に、女なら自分でしないと気のすまない最後の仕上げをしているところだった。かんぬきをかけ、戸口のカーテンをひいて、ヴァレリーは昨日の夕方と夜の出来事、それにけさの出来事を一つ残らずことこまかに物語った。
「うまくやったでしょう、あたしの宝石《ルビー》さん?」と、話し終わってから彼女はリスベットにいった。「どちらになろうかな、クルヴェル夫人かモンテス夫人か。あなたどう思う?」
「クルヴェルはあと十年以上は生きられないわよ、あのとおりの道楽者だから」と、リスベットは答えた、「だけど、モンテスは若い。クルヴェルは年額三万フランぐらいの金利を遺《のこ》してくれるわ。モンテスさんは、待ってさえいれば、ベンヤミン〔旧約聖書で、ヤコブの最愛の末息子〕の役で、ずいぶんといいご身分になれるわ。そうすれば、あなたは三十三ぐらいで、いまの美しさを失わずにモンテスさんと結婚できるし、毎年はいる六万フランの年金で、社交界でも大役がつとめられるってわけよ、ことに元帥夫人としてのわたしのうしろだてがあれば……」
「そうね、でもモンテスはブラジル人よ、何をしたって成功しないわ」と、ヴァレリーは注意した。
「いまは鉄道の世の中よ。けっこう外国人が、フランスで大した地位についているわ」
「でもそれは、マルネフが死んでから考えればいいわ。あの人ももう長いことはないから」
「あの不治の病気は、道楽をしすぎたむくいみたいなものね……。さあ、オルタンスのところへいってこよう」
「そうね、じゃいってらっしゃい」と、ヴァレリーは答えて、「それからヴェンツェスラスをつれてきてね! 三年かかって、まだ指一本ふれられないなんて。あたしたち二人の恥じゃないの! ヴェンツェスラスとアンリ、この二人だけよ、あたしが熱をあげてるのは、一人は恋、一人は気まぐれ」
「きょうはまた、とくべつきれいね」と、リスベットはヴァレリーに近づいて腰を抱きよせて、額に接吻しながらいった。「あたしうれしいのよ、あなたの喜ぶことがなんでも。あなたにお金がたまればうれしいし、お化粧がうまくできればできたでうれしいし……。あなたと姉妹になってから、わたし、初めて生きがいが出てきたのよ……」
「ああ、待って、あたしの虎さん」と、ヴァレリーは笑いながらいった。「肩掛けがまがっているわ。……あなたってまだ肩掛けひとつかけられないのね、もう三年も前に、教えてあげたのに。これでユロの元帥夫人になろうっていうんだから……」
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五四 正式の夫婦の別の面
黒らしゃの編み上げ靴に、ねずみ色の絹靴下をはき、はでな無地の絹服で身をかため、まんなかから二つに分けた髪を黄色い繻子《サテン》の裏をつけた黒ビロードのたいそうしゃれたトック帽の下からのぞかせながら、リスベットは廃兵院《アンヴァリッド》の並木道を抜けて、サン・ドミニック通りへと歩いていった。歩きながら彼女は、オルタンスはいま落胆しきっているから、ついに意志強固な心をなげだすだろうし、ヴェンツェスラスはサルマチア人〔古代のスラヴ人〕かたぎで根が意志薄弱だけれど、いまのようになすことかなわざるはなしという有頂天でいるときをねらって攻撃すれば、彼の愛もこちらのほうに動くだろう、だがはたしてうまくいくかどうか、などと考えていた。
オルタンスとヴェンツェスラスは、サン・ドミニック通りが廃兵院の正門広場にぶつかる角のある家の一階に住んでいた。このアパルトマンは、むかしは新婚生活にふさわしい造りだったが、いまは家具の秋とでも呼ぶべく、なかばみずみずしくなかば色あせた光景を呈していた。新婚夫婦というものは、えてして浪費的である。それと知らずに、またそのつもりもないのだが、まわりの品物をむだ使いする、ちょうど愛情を乱費するのと同じである。自分たちのことで心がいっぱいの彼らは、やがて一家の母親の心をなやますようになる将来のことなどは、気にもかけない。
リスベットがいってみると、いとこのオルタンスは坊やに着物をきせ終わって、庭へ放してやったところだった。
「あら、いらっしゃい、ベットさん」そういいながらオルタンスは自分で出てきて、ベットにドアをあけた。
料理女は市場へいって留守だった。子守をかねている小間使いの女は、洗濯をしていた。
「こんにちは、オルタンスさん」リスベットは接吻しながら答えると、今度は耳のそばでいった。「それで、ヴェンツェスラスさんはアトリエなの?」
「いいえ、スティドマンさんとシャノールさんをお相手に客間で話しこんでいるわ」
「わたしたちだけでいられるところはないかしら」と、リスベットはきいた。
「わたしの部屋へいらっしゃいな」
その部屋は、白地にばら色の花と緑色の葉模様のペルシャ更紗が張りつめてあるが、絨毯と同様、たえず日の光にさらされているので、色があせてしまっていた。ずっと前から、カーテンは洗濯がしてなかった。部屋へはいるとヴェンツェスラスの葉巻のにおいがした。芸術の大名になったうえに、もともとが貴族の生まれである彼は、愛されていて万事大目に見られている男、一般市民的な気苦労などをしない裕福な男、いかにもそういった男らしく、肘掛け椅子の腕木の上でも、一番きれいな道具類の上でも、ところかまわず葉巻の灰を捨てるのだった。
「さあ、お話っていうのをうかがわせてちょうだい」リスベットは、オルタンスが肘掛け椅子に身を沈めたまま黙りこんでいるのを見て、うながした。「いったい、どうしたの? 顔色がすこし青いみたいよ、あなた」
「かわいそうにヴェンツェスラスを酷評している記事が、また二つ出たのよ。読んだけれど、あの人には隠しているの、がっかりするにきまってるんですもの。モンコルネ元帥の大理石像がぜんぜん駄作のようにされているのよ。薄肉彫りのほうは、まあ大目に見てくれているけれど、ひどいわ、裏腹《うらはら》の気持ちで、ヴェンツェスラスの装飾彫刻家としての才能をうんとほめておこうというつもりなんですもの。でもそれは、厳しい芸術はてんでだめだという定評を、もっと有力にするためなのよ。そこで、スティドマンさんにありのままをいってくださいと、お願いしたのだけど、あの方の意見もほかの芸術家や批評家や世間の見方と同じだと白状なさって、わたし、もうすっかり絶望的な気持ちだわ。お食事前に、そこの庭でこんなふうにおっしゃったわ、『ヴェンツェスラスが来年も、何か傑作を発表しないようなら、もう大作からは手をひくべきですね、そして牧歌風の作品とか、小像ものとか、宝石や高級な金銀細工の装飾品だけを手がけることですね』って。この判決がいちばんつらかったわ。だってヴェンツェスラスはそんなことに同意するはずがないんですもの、才能に自信をもっているし、すばらしい着想がたくさんあるし……」
「着想じゃ、出入りの商人の支払いはできませんよ」と、リスベットは注意をうながした、「そのことはわたしもあの人に口が酸っぱくなるほどいったけど……。支払いはお金でするものよ。そのお金は、できあがった物からしかはいってこないわ。それも、ちゃんとブルジョワに気に入って、買ってもらえるのでなくちゃね。生活するってことになれば、彫刻家は自分の仕事台に群像や、立像をおくよりも、燭台とか、暖炉の灰受けとか、テーブルとかのひな型をおいておくほうがいいのよ。そういうものなら、だれでも必要なんだから。ところが群像の好きな人となると、お金も同じことになるけど、まるまる何カ月も待たないとだめですからね……」
「おっしゃるとおりだわ、親切なリスベットさん。あの人にそういってあげてちょうだい。わたしには勇気がないんですもの……。ただね、あの人がスティドマンさんにいってたことだけど、ここでまた装飾とか小さな彫刻にもどることになると、美術院入りのことや、大きな創作はあきらめないといけないし、それに、ヴェルサイユの宮殿やパリ市や陸軍省がわたしたちのためにとっておいてくれた仕事のほうの三十万フランがだめになるわ。あのおそろしい記事のためにそれだけ仕事がなくなるのよ。あれは競争者たちが、わたしたちが受けた注文をそっくり受けつごうと思って書かせたんです」
「あなたが夢に描いていたこととちがうじゃないの、かわいそうに!」と、ベットはオルタンスの額に接吻しながらいった。「あなたは、おおぜいの彫刻家の先頭に立って芸術を支配するような貴公子を望んでいたわ……でもね、それは詩みたいなものなのよ、ほんとは……そういう夢には、どうしたって五万フランの年収がいるわね。だけどあなたは、わたしが生きているかぎり二千四百フランしかはいらないわ。わたしが死んでやっと三千フランよ」
涙が数滴、オルタンスの目に浮かんだ。ベットは猫が乳をのむように、満足そうな目で、その涙をなめた。
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五五 大芸術家を生みだすもの
以下に述べるのは、二人の新婚時代の簡単な歴史だが、これは芸術家にとっておそらくむだにはならない話であろう。
精神労働は、知性のもっとも高度な領域における狩猟であり、人間のもっとも偉大なる努力のひとつである。芸術において、というのは人間の思惟《しい》による創造はすべてこの芸術という語によって理解する必要があるからこういうのだが、芸術において当然名誉を受けてよいものは、何よりも勇気である。それは平俗な人間が思ってもみない勇気であり、おそらくここで説明されるのが最初のことであろう。
おそるべき貧窮の圧迫に追い立てられ、ベットの手で左右が見えないように目隠し革をつけられたあの馬車馬の境遇に釘づけにされ、「窮乏」の権化《ごんげ》であり、下積みの運命の神である冷酷な老嬢に鞭打たれたヴェンツェスラスは、生来の詩人であり夢想家であったが、構想から制作へと、この芸術の両半球を分けへだてる深淵の深さを測ることなしに、これを飛び越え、いっぽうから他方へと進んでしまったのだった。
すばらしい作品を考え、夢想し、構想することは楽しい仕事である。それは魔法の葉巻を吸うことであり、気ままな戯《たわむ》れにあけくれる娼婦の生活を送ることだ。作品はそんなとき、幼年期のやさしい姿で、生成の狂おしい喜びのうちに、花の匂いのたちこめる豊かな色彩につつまれ、前もって味わったくだもののほとばしるような汁液をしたたらせながら現われ出る。このようなものが構想であり、その楽しみである。
頭に浮かんだプランを言葉で描き出すことのできるものは、それだけでも非凡な人間とみなされる。このような能力は、芸術家や作家であればだれでももっている。だが生み出すということ! 分娩すること! 子供を苦労して育てあげ、毎晩腹いっぱい乳を飲ませて寝かしつけ、毎朝汲めどもつきぬ母の心で抱きしめ、よごれたからだを洗ってやり、すぐに破ってしまうのにいちばんきれいな服を何度でも着せてやることこそ、そしてまたこの気違いじみた生命の躍動ぶりに尻ごみするのでもなく、その生命を彫刻ならばあらゆる人の思い出に、音楽ならばあらゆる人の胸に語りかけるような生きた傑作に仕上げるということこそ、これこそが制作であり、その苦労である。手はどんなときでも頭にしたがう準備ができていて、どんなときでも前へ出るようでないといけない。ところで、恋が持続的でないのと同様、頭はいつも自在に創作意欲をもてるわけのものではない。
この創作の習慣、母を母たらしめるこの疲れを知らぬ母性愛(ラファエロがじつによく理解しているこの自然の傑作!)、要するに、かちとることがじつにむずかしいこの頭脳的な母性、これがまたおどろくほど容易に消滅してしまうのだ。霊感、これは天才の「好機」の女神〔古代人が好機をとらえがたいものとして擬人化した女神で、片手に風になびく薄絹、片手に剃刀をもち、その髪の毛は前頭部にしかない〕である。彼女は走りぬける、だが剃刀《かみそり》の手を休めずにではない、彼女は空のうちにあって、からすのような疑い深さで飛び去ってゆく。詩人がその飾り帯をとらえてつかまえようにも、そんなものはつけていない。髪の毛は炎である。漁師も絶望しているあの美しい紅白の紅鶴《べにづる》のように、逃げ足がはやい。したがってこの労働は、力強いりっぱな体格の人たちでも、おそれしかも愛する根気のいる戦いなので、彼らもしばしば挫折する。現代のある偉大な詩人はこのおそるべき労苦についてこういっている、『わたしは絶望の思いで仕事にかかり、悲しみの思いで仕事から離れる』と。
無知な連中はこれをよくおぼえておくといい。クルティウスが深い亀裂のなかへ飛びこんだように〔古代ローマの中央大広場前に地震でできた亀裂がどうしても埋まらなかったとき、青年貴族クルティウスは、ローマ帝国の威信にかけて戦闘姿で馬もろとも亀裂に飛びこんだ。この犠牲によって亀裂の口が閉じたという〕、兵士が死にものぐるいで敵塁におどりこむように、もしも芸術家がみずからの仕事に身を投じないならば、そしてその火口のなかで、落盤にあって生き埋めになった坑夫のように働かなかったならば、さらにまた恋する王女をわがものとするために、つぎからつぎへと現われる魔法と戦ったあのおとぎの国の若者たちを手本としてかずかずの困難を一つ一つ征服するかわりに、それをただじっとながめているだけならば、作品は未完成のままにおわり、仕事場の奥で死にたえてしまうのだ。仕事場での制作は不可能となり、芸術家はみずからの才能の自殺に立ち会うことになるのだ。ラファエロと並ぶ天才であったロッシーニが、裕福な壮年期へとつながる、あの貧苦な青年時代において、その顕著な例を提供している。偉大な詩人と偉大な将軍に同じ栄冠があたえられ、同じような報酬と同じような勝利がもたらされるのは、このような理由からである。
生来の夢想家であるヴェンツェスラスは、リスベットの独裁的な指揮のもとに、制作や、訓練や、労働に非常に多くの精力を消耗したために、恋愛と幸福が反動をまきおこした。本性《ほんしょう》がふたたびあらわれた。怠けぐせとなげやりな性分、サルマチヤ人の柔弱さ、これらはいちど彼の魂の自己満足的なしわのあいだから、教練教師のむちでたたき出されたのだが、その性格がまたよみがえってきて、もとの場所を占領したのだ。
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五六 新婚生活の芸術へ与える影響
芸術家は最初の数カ月のあいだ、妻を愛した。オルタンスとヴェンツェスラスは正当な、幸福な、狂わんばかりの情熱のほれぼれするような児戯に耽溺《たんでき》した。オルタンスは当時だれよりも先に、ヴェンツェスラスからいっさいの仕事を免除し、こうして彫刻という自分の恋がたきに打ち勝ったことを得意にしていた。女の愛撫はしかし、美術の女神を消滅せしめ、仕事に賭《か》ける男の烈しい、荒々しい、不屈の意志をくじいてしまう。六カ月、七カ月とすぎ、彫刻家の指はのみをにぎることを忘れてしまった。
いよいよ仕事をする必要を覚えたとき、立像設立委員会の会長であるヴィッサンブール公爵が立像の下見をしたいといってきたとき、ヴェンツェスラスは『いまからとりかかるところです』と、怠け者のとっておきの言葉を口にした。そして、たばこばかりふかしている無為の芸術家のまことしやかな言葉や壮大なプランをならべて、いとしいオルタンスの心をゆすぶった。オルタンスは彼女の詩人にたいする愛をいっそうつのらせ、モンコルネ元帥の崇高な立像が目にちらつくのだった。モンコルネは大胆不敵の理想化、騎兵の典型、ミュラー将軍式の勇気となるに相違なかった。なあに! みんなこの像を見て、ナポレオン皇帝の全戦全勝ぶりに思いをはせるはずだ。しかもなんと見事な出来ばえさ! 鉛筆はご満悦のていで、言葉どおりに動くのだった。
立像については、そのかわりにうっとりするほどかわいい男の子が生まれた。
いよいよグロ=カイユーのアトリエへいって、粘土をこね、ひな型をつくるだんになると、いろいろじゃまがはいる。あるときは公爵の振子時計のことでヴェンツェスラスに立ち会ってくれと要請があり、その彫刻細工をやっているフロラン・エ・シャノールの工房へ出向かねばならない。またあるときは空がどんよりして陰気な日だった。きょうは雑用でかけまわらなくてはいけない、あすは親戚一同そろっての夕食がある。気分ののらないとき、からだの不調なときはいうまでもない、それに、愛する妻と子供みたいにふざけあってすごす日々もある。元帥ヴィッサンブール公爵は原型を手に入れるためにやむなく腹を立て、このままでは決定をとり消すことになるといわざるをえなかった。設立委員たちが石膏像を見られるようになったのは、さんざん小言をならべ、口ぎたなくなじったあげくのことだった。スタインボックは、仕事にでかけた日はいつも、目に見えて疲れた姿でもどってきて、石工同然の労働と自分の体の弱いことを嘆くのだった。
最初の一年は、家庭はかなりらくな暮しだった。夫に夢中で、満ちたりた愛の喜びにひたっているスタインボック伯爵夫人は、陸軍大臣を呪うほどだった。彼女は大臣に会いにいって、大作というものは大砲をつくるようなわけにはいかないこと、政府のほうがルイ十四世やフランソワ一世やレオ十世のように、天才のさしずどおりに動くべきであることをいった。自分の腕にフィディアス〔古代ギリシャ最大の彫刻家〕のような天才を抱えていると思いこんでいるあわれなオルタンスは、愛情を崇拝にまで高める母親らしい臆病さを、ヴェンツェスラスにたいしてもっていた。
「急がなくていいのよ」と、彼女は夫にいった、「わたしたちの将来はすべてこの銅像にあるんですもの、ゆっくり時間をかけて、傑作をつくってちょうだい」
彼女はいつもアトリエにやってきた。妻に目がないスタインボックは、立像をつくるかわりに、言葉でそれを描いてみせながら、七時間のうち五時間は妻といっしょにつぶしてしまうのだった。そんなわけで彼には代表作であるこの作品を仕上げるのに、十八カ月もかかった。
石膏が流しこまれ、原型が実際にできあがったとき、あわれなオルタンスは、あの彫刻家たちの体も、腕も、手もうちくだく疲労によって健康を害している夫の、並はずれた努力ぶりを目撃したあとだけに、その作品をすばらしいと思った。彼女の父親も彫刻にはうといし、男爵夫人も同様に知識がないから、口をそろえて傑作だとさけんだ。そこで彼らにひっぱられて陸軍大臣がやってきたが、みんなの感嘆ぶりにつりこまれた大臣は、適切な光線のなかに、緑色の布を背景にしてぽつんと体裁よくすえられた石膏像に満足した。だが悲しいかな! 一八四一年の展覧会で、満場一致の非難を浴び、台座の上へあっというまにまつりあげられた偶像のヴェンツェスラスにこころよくない人びとの口で、非難は罵倒と嘲笑の声に変わった。スティドマンは友人として、ヴェンツェスラスの目をさまそうとしたが、嫉妬だといって逆襲された。新聞の記事はオルタンスにとって羨望のさけびだった。スティドマンは立派な男で、いくつかの記事を味方につけた。そこで批評がいろいろたたかわされた。彫刻家は作品を石膏から大理石にする途中でずいぶんと修正するから、普通は大理石のほうが出品されるものだという指摘もおこなわれた。『石膏の原型から大理石の彫像にいたるまでのあいだに、傑作がゆがめられることもあれば、駄作からりっぱなものがつくられることもある。石膏像は原稿であり、大理石像は書物である』そんなふうにクロード・ヴィニョンはいってくれた。
二年半かかって、スタインボックは、立像と子供をつくった。子供は美の極致であり、立像は拙劣だった。
ヴィッサンブール公爵の振子時計とこの立像が、若夫婦の借金を払ってくれた。スタインボックはその当時、上流社会に出入りをしたり、観劇したり、イタリア座へ出かけることがくせになっていた。芸術を論じるのはじつにみごとだった。言葉をあやつり、批評家ぶった説明をならべて、上流社会の人の目にあくまでも大芸術家とうつるようにふるまった。パリにはおしゃべりをして一生をすごすような、そうして一種の社交場《サロン》の花形であることに甘んじているような、才人がいくにんもいる。スタインボックは、そういう魅力的な去勢された男たちのまねをしているうちに、仕事を日一日と嫌悪するようになった。作品に手をつけたいと思っても仕事の苦労がいちいち目にちらつき、すぐにうんざりして、意志がくじけてしまう。霊感という、知的生産の快活な女神は、こんな半病人の愛人を見ると、大急ぎで逃げてしまうのだった。
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五七 彫刻について
彫刻は舞台芸術に似て、あらゆる芸術のうちでもっとも困難であるが、またもっとも容易でもある。モデルを模写したまえ、それで作品はできあがるけれど、そこに男なり女なりを表現して魂を刻みつけて、一つの典型をつくりあげると、これはプロメテウス〔泥土で人間をつくり、天上の火を盗んでそれに生命(魂)を吹きこんだために、ゼウス神の怒りにふれた〕の罪になる。こうした成功を彫刻の歴史のなかから数え出すことができるのは、ちょうど人類全体のなかから詩人を数え出せるのと同じである。ミケランジェロ、ミシェル・コロン、ジャン・グージョン、フィディアス、プラクシテレス、ポリクレトス、ピュジェ、カノーヴァ、アルブレヒト・デューラーなどは、ミルトン、ウェルギリウス、ダンテ、シェイクスピア、タッソー、ホメーロス、モリエールなどの兄弟である。彫刻という仕事はじつに雄大なので、一個の彫像であっても、あたかもフィガロ、ラヴレイス、マノン・レスコーの人間像が、ボーマルシェ、リチャードスン、アベ・プレヴォーの名を不滅にするにたりるのと同様で、それだけでひとりの人間を不滅にするにじゅうぶんである。浅薄な人たち(芸術家にも一皮むけば同じようなのが多すぎるほどいるが)は、彫刻というのは裸体像によってのみ存在するもので、ギリシャとともに滅びた芸術だ、近代の衣服は彫刻を不可能にしているという。しかし第一に、古代人は「ポリヒムニヤ」〔詩の女神の大理石像〕や「ユーリア像」〔縁結びの女神ユノの像〕その他のように、完全に布でおおわれた崇高な彫像をつくりあげている。しかもわれわれは彼らの作品の十分の一も発見していない。つぎに、芸術の真の愛好者ならフィレンツェへいってミケランジェロの「考える人」を見るといい。それからマインツの大聖堂でアルブレヒト・デューラーの聖母像を見ることだ。彼は黒檀《こくたん》をつかい、三重に衣をまとった、まるで生きているような女性をつくりあげた。その髪もこれまで侍女がくしけずったどんな髪よりも豊かに波打ち、しなやかである。無知な人はここへ駆けつけることだ。そうすれば、ちょうど人間が衣服に自分の性格や生活習慣を刻みつけるのと同様に、天才というものは着物や、鎧《よろい》や、聖衣に思想をしみこませたり、そこに肉体を息づかせることができることをさとるだろう。
彫刻とは、絵画においてたった一度だけ、ラファエロという名で呼ばれた行為を、絶えず実現することである! このおそるべき問題の解決は、ねばり強い、終始一貫した仕事のなかにしか見いだせない、なぜなら、そのためには彫刻家があのつかまえようのない精神的な自然――だが具体化して有形なものに変えねばならぬあの精神的な自然と、魂と魂をぶつけ合って格闘することができるように、物質的な困難はすべて克服されねばならず、手はあくまできたえられ、いつでも仕事のできる状態におき、意のままに動けるようにしておかなければならないからだ。もし、ヴァイオリンにみずからの魂を物語らせたパガニーニが、三日間練習をせずにすごしたとしたら、彼の表現をつかえば、楽器の音域を台なしにしてしまったであろう。ということはつまり、ヴァイオリンの木部と弓と弦とそれから彼自身とのあいだに存在する結びつきをいっているのだ。この調和が破れたら、彼はとつじょ、平凡なヴァイオリニストと化したことであろう。
絶え間ない仕事は、生活の法則であると同様、芸術の法則である。なぜなら芸術とは、観念化された創造だからである。それゆえ偉大な芸術家や完全な詩人は、注文や買手がくるのを待ちはしない。彼らはきょうも、あすも、常に、産み出していく。そこから、労働の習慣が生まれ、困難にたいするあの不断の認識が生まれる。この認識によって彼らはいつもミューズの女神との、女神の創造力との親密な結びつきを保っていけるのだ。ヴォルテールが書斎で生活したように、カノーヴァはアトリエで生活していた。ホメーロスやフィディアスも同じような生活をしたにちがいない。
ヴェンツェスラス・スタインボックもリスベットの手で屋根裏部屋につながれていたときは、これら偉大な人たちの踏破した不毛の道、栄光のアルプスへと通じる道に立っていた。幸福がオルタンスの姿をかりて、この詩人を怠惰、つまり芸術家すべての正規の状態へ送り込んだのだった。芸術家の怠惰は、何かに心を奪われているものだからだ。それは後宮《ハレム》における高官たちの快楽である。彼らはさまざまな空想を愛撫し、知恵の泉にひたって酔いしれる。スタインボックのように、夢想に食いつくされた大芸術家たちが夢想家《ヽヽヽ》と名づけられたのは、もっともなことだ。こうした阿片飲用者は誰でも貧窮におちいっている。きびしい状況にさらされていたら、彼らも偉大な人間になったであろうが。もっともこういう半芸術家は魅力的だから人から好かれ、おだて上げられる。人物がどうの、野蛮人だの、社会のしきたりに叛逆するだのといって非難される真の芸術家よりも上等な人間に見えてくる。そのわけはこうだ。
偉大な人たちは自分の仕事に一心不乱である、いっさいの世事を捨てて仕事に打ちこむ彼らの姿は、ばか者の目に利己主義者の見本のようにうつる。それというのも彼らには伊達者《ダンディ》と同じような服を着てもらって、世の中の義理ともいうべき社会の風習の変化に従ってほしいと思っているからだ。彼らは、アトラス山のライオンどもをつかまえて、侯爵夫人のむく犬みたいに、櫛《くし》を入れ、香水をふりかけてやりたい気なのだろう。偉大な人たちは、自分と並ぶものがなく、いてもめったにめぐりあえないから、排他的な孤独の世界におちこむ。彼らは大多数の人にとって不可解な人間となってしまう。周知のごとく大多数の人は愚かな者や、ねたみ深い人間や、無知なやからや、浅薄な連中の集まりなのである。さてここまでくれば、これらの荘厳な例外にたいする女の役割というものがおわかりであろう。女は、リスベットが五年間つとめあげたようなものでなければならぬ。と同時にそれにくわえて、愛を、つつましい、思慮のある、いつでも応えてくれ、そしていつでもほほえんでくれるそんな愛をささげなければならぬ。
オルタンスは母としての苦労で目がさめたうえに、ひどい窮乏にせめられて、自分の度のすぎた愛が心ならずも犯したいくつものあやまちに気がついたが、それはすでにおそすぎた。しかし、母の娘にふさわしく、ヴェンツェスラスを苦しめていると考えるだけで、胸がはりさけるのだった。いとしい詩人に死ぬ思いをさせるにしては、あまりにも愛しすぎていた。そして、貧苦が、自分に、子供に、夫におそいかかる瞬間がくるのを、彼女はただ眺めていた。 (下巻へつづく)