怪談
ラフカディオ・ハーン/斎藤正二訳
目 次
刊行者の序文
紹介文
原著者の序
耳なし芳一のはなし
おしどり
お貞《てい》のはなし
乳母《うば》ざくら
かけひき
鏡と鐘
食人鬼
むじな
ろくろ首
葬られた秘密
雪おんな
青柳《あおやぎ》ものがたり
十六ざくら
安芸之助の夢
力《りき》ばか
日まわり
蓬莱《ほうらい》
虫の研究
蝶
蚊
蟻
解説
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刊行者の序文
ラフカディオ・ハーンは、俳句がそうであるくらいに、日本人を代表していると言ってよい。両者ともに、日本における一つの芸術形式《アート・フォーム》であり、一つの名物的存在《インスティテューション》である。俳句は日本国民に固有のものであるが、いっぽう、ハーンは、いまや日本の市民となって日本女性と結婚し、「小泉八雲」という日本名を名乗っているのである。西欧文明の物質主義からのがれ出ようとするハーンの脱出行為は、ついに一八九〇年、みずからの身を日本へと運んだ。美と静けさとにたいするかれの探究が、もろもろの生活習俗をたのしみもろもろの伝統的価値を維持せんとするかれの探究が、かれをこの地にとどまらしめ、一個の鞏固不抜《きょうこふばつ》の日本贔屓《ジャパノファイル》として残生を送るよう仕向けたのである。ハーンは、日本の諸事物を西欧文明社会へ通訳して知らせる、偉大なる仲介者となった。その鋭敏なる知力が、その詩的想像力が、そのすばらしく明晰な文体が、ハーンをして、日本の諸事物の精髄へと、深く参入することを得しめたのである。
本書『怪談』において、ハーンは、古き昔の不可思議な説話《テールズ》をものがたってみせている。――それらは、実在してはいないけれど、しかし人間に取り憑《つ》いて離れぬ心霊的実在感をもつ一つの世界についての、微妙にして透明かつ霊感的なるスケッチである。
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紹介文
ラフカディオ・ハーンの、日本に関する繊細鋭敏なる研究が、もう一冊、ここに新たに出版されたが、これの出版の月は、まことに皮肉にも、時あたかも、世界じゅうのひとびとが日本戦艦の奇襲攻撃のその後のニュースを緊張した期待でもって待ち受けている月と、ぴたり一致することとなった。ロシアと日本との間に起こったこのたびの戦争の成り行きがどうなるにせよ、この戦争の意義は、西洋式の武器で装備し、みずからに西洋式の精神活動力を付与した東洋の一国家が、西欧の最大強国の一つを相手どって、積極的に雌雄《しゆう》を決せんとしつつある事実にこそ求められる。いかなる賢者といえども、世界文明のうえに生起したこのような一大衝突の帰趨《きすう》いかんを予測することはできない。われわれにできる最上《さいじょう》の手だては、できるかぎり理性を研《と》ぎ澄ませながら、交戦中《こうせんちゅう》の両国の国民性を比較判断することである。そして、そのさい、われわれが希望を抱くにせよ恐怖を抱くにせよ、その論拠をば、げんに進行中の戦争に包含される紛糾複雑化した諸問題に関する純粋に政治学的ないし純粋に統計学的研究のうえに置くことをせずに、かえって、二つの民族に関する心理学的研究のうえに置くよう心掛けるべきである。ロシア国民のほうは、何人かの文学的代弁者《リテラリー・スポークスマン》を有していて、かれらが、一世代以上にもわたって、ヨーロッパの聴衆を魅了し尽くしてきたのであった。ところが一方、日本国民のほうは、トゥルゲーネフとかトルストイとかのような国家的に承認を受けている、さらには世界的に承認を受けている、大文豪というものを所有したことがなかった。日本国民は、ひとりの通訳者を必要としているのである。
つぎのことは、じゅうぶん疑っていいのではないかと思う。いかなる東洋の民族にせよ、これまでに、ラフカディオ・ハーンが日本に関する翻訳作品をわれわれ西欧人の言語表現のなかへ持ち込んでみせたほどの、完全な洞察と完全な共感とを具有したひとりの翻訳者に恵まれたためしはなかったのではないか、と。ハーンの長期にわたる日本滞留、かれの精神の柔軟性、かれの詩的想像力、かれのすばらしく澄明《ちょうめい》な文体、これらは、最大限に微妙な文学的業績を樹立するのに相応《ふさわ》しい準備をととのえていた。かれは、たくさんの不思議なことを見た。そして、かれは、いかにも不思議な或る話し方でもって、それらをものがたってくれた。しかし、ここには、現代の日本人の実際生活についてはほとんど一側面だに触れられていないし、また、げんに進行中のロシアとの交戦のうちに包含さるべき日本の社会的、政治的、軍事的な諸問題に関しても、ほとんど一要素だに触れられてはいない。それらのことは、かれが既にアメリカの読者たちを魅了し去った一、二冊の書物のなかにおいても、明白には述べられてはいないのである。
ハーン自身は、この『怪談』を性格づけて、「不思議な事象に関する物語《ストーリーズ》および研究《スタディズ》」であるとしている。この書物によって示唆される数多くの観念もたぶん書き留められることになるではあろうが、それら観念の大部分のものは、不思議を極める叙上《じょじょう》の諸事実と結びついて始まりかつ終わるはずである。目 次に示されたいくつかの名辞を読むだけでも、はるか遠方のどこやらで鳴らされる仏教の鐘《かね》の音《ね》に聴き入るみたいな思いがする。かれの書いた説話《テールズ》のうちのいくつかは、大昔のことをものがたったものである。ところが、それら説話は、まさしくたった今、日本海軍の装甲巡洋艦の甲板上に押し合いへし合いして群らがっているあの矮《ちい》さな男どもにやどる霊魂《ソウルズ》や意識《マインズ》をば、あかあかと照らしだして見せているごとくである。しかし、書かれた物語のうちの多くは、女たちおよび子供たちを扱っている。――これらはまことに愛らしい人物的要素《マティーリアルズ》であって、これらを素材にして、世界じゅうで最も秀れた|お伽噺《フェアリー・テールズ》が織りあげられたのである。これら人物的要素、すなわち、日本の処女たちおよび妻たち、釣り上がった眼と漆黒の髪とをもった日本の少女たちおよび少年たち――かれらは、まったく不思議な存在である。かれらは、われわれに似ているようだけれど、すこしも似てはいない。日本の空、日本の岡、日本の花、すべてがわれわれのものとは大違《おおちが》いである。しかるに、ハーン氏は、一つの魔術を使って、現代作家のうちではほとんどただひとり、われわれ西欧人にとっては非現実としか思われぬ一つの世界についての、微妙でもあり透明でもあり心霊的でもある小品文《スケッチ》において、まさしく名人芸を発揮してみせる。そして、その一つの魔術のおかげで、霊的な現実というものもたしかに存在するという|感じ《センス》が、われわれに付きまとって離れなくなるのである。
ポール・エルマー・モーアが一九〇三年二月号の「アトランティック・マンスリー」誌に寄稿した、透徹力ある美しい一編のエッセイのなかで、ハーン氏の魔術の秘密はいかなるところに存するか、ということが論じられている。それによると、ハーン氏の魔術の秘密は、「三つの道の合流」がその芸術のうちに見いだされる事実にこそ存するのであるという。「まず、インドの宗教的天分――殊にも仏教がそうであるが――があり、つぎに、それによって接木《つぎき》された日本の審美的感覚があり、これら二つのものに向かって、ハーン氏は、西欧科学のもつ|説明する精神《ジ・インタープリティング・スピリット》を持ち込んだのである。そして、これら三つの伝統が、ハーン氏の精神のなかにある特別なる共感によってどろどろに溶解され、ついに一個の豊饒でもあり新鮮でもある混合体《コンパウンド》を成したのである。――この一個の混合体《コンパウンド》たるや、あまりにも希有《けう》のものであったから、それ以前には絶えて知られることのなかったひとつの心理的感動作用を文学の領域に導入し得たのであった」という。モーア氏のこのエッセイは、ハーン氏のわが意を得たりとの感謝の辞をもって大いに酬《むく》いられる結果を産んだが、もしもその感謝の辞をこの場所に印刷化することが可能であったならば、それこそ、ここに刊行せられる古き日本の新しき物語に対する最も示唆に富んだ紹介文《イントロダクション》の役割を果たし得たはずだった。ともあれ、ここに刊行せられる古き日本の新しき物語の叙述内容《サブスタンス》は、まさにモーア氏が指摘したごとく、「インドの苦行的な夢想と、日本の霊妙繊細な美と、ヨーロッパの非情|無仮借《むかしゃく》な科学とが、いっしょくたに混ざり合わさって出来た不可思議なものである」
一九〇四年三月
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原著者の序
以下に掲げる「怪談」、すなわち霊妙不可思議なる説話は、大部分、日本の古い典籍から採ったものである。――たとえば『夜窓鬼談《やそうきだん》』『仏教百科全書』『古今著聞集《ここんちょもんじゅう》』『玉すだれ』『百物語《ひゃくものがたり》』のたぐいである。これら物語のうちには、中国起源のものも幾つかあるようである。例をもって示せば、殊に「安芸之助の夢」などは、確実に中国に源泉を仰ぐものである。しかし、日本の物語作者は、いかなる場合にも、自分が借りてきたもとの話の色彩をあらため、形姿をつくり変え、いかにも無理のないようにととのえあげている。……「雪おんな」という、ひとつの奇談は、武蔵の国、西多摩|郡《ごおり》の調布《ちょうふ》村のある農民が、生まれ在所に伝承された伝説として、わたくしにかたって聞かせた説話である。この説話が日本の書物にすでに書かれてあるかどうか、わたくしは知らない。しかし、この説話が記録してみせている異常な信仰は、かならずや、日本の多くの地方において、またさまざまの興味深い形式をとって、ずっと存在しつづけていたことであろう。……「力《りき》ばか」の小事件は、わたくし自身の個人的な実際経験である。そして、わたくしは、これを聞かせてくれた日本の話者が口にした苗字《みょうじ》呼び名を変更したのみで、そのほかは、見聞したままのことをほぼ正確に書きとめておいた。
一九〇四年一月二十日、日本、東京
L・H・
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耳なし芳一のはなし
今から七百年以上も昔のこと、下の関海峡の壇《だん》の浦《うら》において、平家《へいけ》すなわち平《たいら》一門と、源氏《げんじ》すなわち源《みなもと》一門とのあいだの、長年にわたる闘争に決着をつけるべき、最終の合戦がたたかわされた。この壇の浦で、平家は、一門の女子供《おんなこども》にいたるまで、かれらの擁立する幼帝――すなわち、こんにち安徳天皇として記憶されている幼帝もろともに、まったく滅び絶えてしまったのである。そして、壇の浦へんの海や海岸は、七百年ものあいだ、平家の怨霊《おんりょう》にずっとつきまとわれてきたのであった。……ほかのところで、わたくしは、その壇の浦で見つけられる、平家蟹《へいけがに》という名の奇妙な蟹について述べておいたが、この蟹の甲羅《こうら》には人間の顔かたちがついており、それこそは平家の武士たちの霊魂にほかならぬ、というふうに言われている。しかし、このへん一帯の海べでは、いまでも、いろいろ不思議なことが見たり聞いたりされるのである。闇の夜には、幾千とも知れぬ亡霊の火が、水ぎわをふらふらさまよったり、波の上をふわふわ飛びまわったりする。――それは青白い光で、漁師たちは「鬼火」、つまり、妖魔の火と呼んでいる。そして、風の吹きすさぶときには、いつもきまって、その海のほうから、あたかも合戦の鬨《とき》の声のような、すさまじい叫び声が聞こえてくるのである。
以前には、平家の人たちは、現在よりはもっとずっと、霊のやすらぎが得られずにいるという状態にあった。かれらは、夜なかに通りかかる船のまわりにあらわれて、船を沈めにかかったりしたものである。また、水泳する者たちを、しょっちゅう待ちかまえていて、海底に引っぱりこもうとしたりしたものである。阿弥陀《あみだ》寺という寺が、赤間《あかま》ガ関《せき》に建立されたのは、そのような亡者たちの霊を慰める目的からであった。合同墓地もまた、寺域にすぐ接して、海べり近くに設営された。墓地のなかには、入水《にゅうすい》したもうた天皇ならびに宮廷顕臣たちの名前を刻みつけた墓碑が幾基か建てられた。そして、仏教|法会《ほうえ》が、これらのひとびとの霊を慰めるために、年忌《ねんき》ごとに、この場所でいとなまれた。寺が建てられ、また墓地が設けられてからあと、平家の人たちは、以前ほどには祟《たた》りをしなくなった。しかし、それでもなお、ときとして奇怪《きっかい》なことをするのをやめなかった。――これは、つまり、かれらが完全な安息を得ていなかった証拠になる。
なん百年かまえに、赤間ガ関に、芳一《ほういち》というひとりの盲人が住んでいた。この盲人は、琵琶を吟唱したり弾奏したりするのがうまいというので、世間に知られていた。かれは、子供の時分から、琵琶を弾唱するわざを仕込まれたのだったが、まだほんの少年のころに、はやくもお師匠さんたちをしのいでしまっていた。本職の琵琶法師としては、おもに源平の物語をかたるということで有名になった。そして、かれが壇の浦のいくさの段をうたうさいには、「鬼神すら涙せきあえざりき」というほどだったといわれている。
はじめて世にでたころには、芳一はたいへん貧乏であった。だが、自分を引き立ててくれるよい知己《ちき》にめぐり合った。阿弥陀寺の和尚というのが、詩歌管絃《しいかかんげん》を愛好していたところから、しばしば芳一を寺にまねいては、琵琶を弾唱させていたのである。のちになって、和尚は、なにしろこの少年のすばらしい妙技にひどく感心してしまったものだから、どうじゃ、寺へきて住むようにいたさんか、と言いだした。そして、芳一は、この申し出をありがたく受けた。芳一には、寺のひと間が与えられることになった。そして、飲み食いと宿とを給せられたことに対する返礼といっては、ほかにこれといって用事のない晩などに、琵琶の弾きがたりをして和尚を喜ばせてやりさえすればよいのだった。
ある夏の夜、和尚は、死人の出た檀家《だんか》へ法事をするために呼ばれて行った。そして、和尚は、芳一ひとりを寺に残したまま、小僧をつれてその家へ出かけて行ったのだった。暑い晩であった。そして、盲人は、すこし涼もうと思って、寝間のまえの縁側にでた。その縁側は、阿弥陀寺の裏手の小庭を見おろすような位置にあった。この縁側で、芳一は、和尚の帰りを待ち、琵琶のおさらいをしながら寂しさをまぎらそうと努《つと》めていた。夜半を過ぎたが、和尚は帰ってこなかった。しかし、あたりの空気はまだむしむしして暑く、とても室内にはいって手足をのばしたりできないので、芳一は、そのまま部屋のそとにいた。やっとのこと、裏門のほうから、人の足音がこちらに近づいてくるのを聞きとめた。だれかが庭をよこぎって縁側に進みより、かれのまんまえに立ちどまった。――だが、それは和尚ではなかった。おもおもしい低音の声が、盲人の名をよんだ。――だしぬけでもあり、ぶしつけでもあり、ちょうど侍《さむらい》が下郎《げろう》をきびしく呼びつけるような調子である。――
「芳一!」
芳一は、ぎょっとしたあまり、しばらくのあいだ、返事をすることさえできなかった。すると、その声は、ふたたび、荒々しく、命令をくだすような調子で呼びかけた。――
「芳一!」
「はい!」盲人は、おどしつけるようなその声に、もうすっかりおろおろしながら答えた。――
「わたしは、めくらでございます! ――どなたさまがお呼びになっておられるのか、わたしにはわからないのです!」
「なにもこわがることはないぞ」と、見知らぬ男は、いくぶん声をやわらげて言った。「わしは、この寺の近くに逗留しておる者じゃが、そのほうにご用向きを伝えるようにとて遣《つか》わされてまいったのじゃ。わしがいまお仕え申しておるご主君は、とりわけてやんごとなきおかたであらせられるが、このたび、高貴の身分の従臣どもあまたをひきいられて、この赤間ガ関にご滞在あそばされていられるところでござる。ご主君は、壇の浦の合戦の場所をごらんになりたいとのお望みで、本日、その地をご見物あそばされた。ご主君は、そのほうが合戦の物語を吟唱するわざに長じているむねを耳にせられ、たったいま、そのほうの琵琶弾唱をお聞きになりたいとご所望あそばされておるのじゃ。そこで、そのほうは、琵琶をもって、さっそくに、わしについて、その高貴なかたがたのお待ちあらるる館《やかた》まで参上するがよかろうぞ」
その当時、侍の命令とあれば、かるがるしく背《そむ》くわけにはいかなかった。芳一は、草履をはき、琵琶をかかえて、見も知らぬその侍といっしょに出かけた。侍は、いかにも上手に手を引いて案内してくれたが、しかし、芳一は大急ぎで歩かねばならなかった。引いていってくれるその手は、鉄《くろがね》であった。そのこともそうだったが、侍が大股に踏み歩くごとにひびかせるかちりかちりという金属音は、この人が甲冑《かっちゅう》でもって完全武装していることの証拠になった。――おそらく、宿直《とのい》の御殿警備の武士かなにかであるのだろう。芳一の最初のおどろきは消え去り、こんどは、わが身に幸運がやってきたのではないかと夢想しはじめた。――というのは、この家来が「とりわけてやんごとなきおかた」とさっき明言した言葉を思いうかべながら、芳一は、琵琶の吟唱を聞きたいと所望なさっている殿さまは一流の大名以下のかたではあり得ないと、そう考えたからである。やがて、侍は立ちどまった。それで、芳一は、こりゃあ、大きなご門のあるところへ来たのだな、と悟《さと》った。――だが、はてなと、不審にも思った。というのは、阿弥陀寺の山門以外には、町のこのあたりに大きな門のあることなど、ついぞ思い当たらなかったからである。「開門《かいもん》!」と、侍が呼ばわった。――すると、閂《かんぬき》をはずす音がした。そして、両人は通りぬけて行った。両人は、庭の空き地をよこぎって行き、ふたたび、なにやら入り口のあるまえで立ちどまった。そこで、家来は、大音声《だいおんじょう》で叫んだ。「やあやあ、だれか内なる者はおらんか! 芳一をば召し連れてまいりましたぞ」すると、ぱたぱたと急ぎ足の音や、するすると襖《ふすま》のあく音や、がらがらと雨戸をくる音や、女たちの話しあう声などが、耳に聞こえてきた。その女たちの言葉づかいから、芳一には、それが、どこか高貴なお屋敷のお女中衆であることがわかった。それにしても、自分がどんなところに連れてこられたものか、とんと見当もつかなかった。だが、そんなことをあれこれ推測する暇さえも、ほとんどありはしなかった。芳一は、人の手に助けられて幾段かの石段をのぼると、そのいちばん上の段のところで、草履をぬげと言われ、それから、女の人の手に引かれて、磨きあげられた板張りのはてしもなく続いたところを渡り、おぼえきれないほどたくさんの柱の角を曲がり、びっくりするほど広い畳敷きの間《ま》をとおって、――どこか大広間のまんなかへと案内された。ははん、この大広間にはおおぜいの高貴なおかたたちがお集まりになっておられるんだな、と芳一は思った。絹と絹とがすれあう音は、まるで森の木の葉のざわめきのようだった。かれは、また、おおぜいの人たちのさざめく声を聞いた。――いずれも、低い声で話しあっていた。そして、その言葉は、御殿でつかわれる言葉であった。
芳一は、楽《らく》にするがよいぞ、と言われた。そして、気がついてみると、自分のために、やわらかい座布団がいちまい出されてあるのだった。そのうえにすわって、楽器の調子をしらべていると、ひとりの女――このひとは奥女中の取り締まりをしている老女であろうと、そう芳一には臆測されたが――の声が、かれに話しかけて、こう言った。――
「そのほう、ただいまより、それなる琵琶にあわせ、平家の物語をかたり聞かせよ、とのご所望にてござりまするぞ」
さて、平家の物語を全曲かたりうたうのには、幾晩も要するはずだった。そこで、芳一は、思いきって尋ねてみた。――
「物語の全曲となりますと、そうたやすくはかたりきれるものではございませんので、おうかがいしますが、お上《かみ》におかせられましては、どのあたりを、いまかたって聞かせよとのご所望でいらっしゃるのでしょうか?」
その女の声が答えた。――
「壇の浦の合戦の物語をお吟じなさい。――と申しますは、あの段の哀れさが、全曲をつうじていちばん深《ふこ》うございますゆえ」
そこで、芳一は声を張りあげ、辛《から》き海の上のいくさものがたりをうたった。――必死に櫂《かい》をあやつる音。兵船のつきすすむ音。ひゅう、しゅう、と鳴る矢の音。つわものの雄叫《おたけ》びの声や、足を踏みならす音。兜《かぶと》にうち当たる刃《やいば》のひびき。撃たれてざんぶと海に落ちこむ音。これらの物音のいちいちを、自分の琵琶弾奏によって、驚くばかりいきいきと音響化して聞かせるのであった。すると、琵琶の演奏の合間合間に、左のほうでも右のほうでも、賞讃をささやく小声が聞こえてきた。「これはまた、なんというすばらしき琵琶師なのじゃ!」――「わたしどもの住む都あたりにても、このような弾きがたりは聞いたためしがございませぬ!」――「国じゅうのいずこをたずねましても、芳一のごとき歌い手は、ほかにはございませぬ!」これらの声を聞くと、芳一は、新たに勇気が湧いてきて、前よりもいっそう巧みに弾《だん》じ、かつ歌いかたった。それで、驚嘆のあまりの沈黙が、かれのめぐりに、いよいよ深まるばかりであった。しかし、最後に、美人たちやか弱き者たちの運命に――女たちや子供たちの哀れな最期《さいご》に――さらに、ご幼帝を腕に抱《いだ》きまいらせた二位の尼の入水のくだりに――芳一の弾きがたりがさしかかったとき、そのときには、聞く者は、すべて一様に、おののき震えるような、長い長い苦悶の叫び声をあげた。そして、そのあと、かれらがあまりにも声高《こわだか》に、またあまりにも狂おしく泣き叫ぶものだから、盲人は、自分がひき起こした悲嘆の激烈さに、われながら驚愕してしまったくらいであった。長いあいだ、すすり泣きや鳴咽《おえつ》の声がつづいた。しかし、しだいに、その悲嘆の声も、消えるがごとくおさまった。そして、それにつづく深い静けさのなかに、芳一は、ふたたび、さきほどの老女らしく思われる女の声を聞いた。
その女は、こう言った。――
「そなたが琵琶の演奏のひじょうな名手であり、また、吟唱にかけても無双の達人である、ということは、かねがね、しかと聞き及んではおりましたけれど、そなたが今宵しめしたほどの腕前をもった人が世にあろうとは、よもや思ってもみませんでしたぞ。わが君さまにおかれましても、たいそうご満足で、相応の礼物《れいもつ》をお下《さ》げ渡しくださるおつもりとの、おん仰《おお》せにござりまするぞ。ただし、わが君さまにおかせられては、これから六日のあいだ、毎晩一度ずつ、御前にて琵琶をひくように、とのご所望にござりまする。――そして、そのあと、わが君さまは、たぶん、ご帰還の旅におつきになりましょう。それゆえ、そなたは、明晩も、同じ時刻に、ここへまかりいでるよういたされたい。今晩案内した家来が、そなたを迎えに遣《つか》わされましょう。……それから、もう一つ、そなたに伝えおくよう申しつけられたことがござりまする。それは、わが君さまが赤間ガ関にご滞在ちゅうに、そなたがこちらへ伺候いたしたことを、なんぴとにも他言《たごん》してはならぬ、ということです。わが君さまにおかせられては、このたびはお忍びのご旅行ゆえ、かようなことは口に出してはならぬ、とのご上意でござりまする。……これにて、そなたは、寺へ戻り行くも苦しゅうないぞ」
芳一は、じゅうぶんに謝意を述べたのち、ひとりの女に手を引かれて、館の入り口までやってきた。すると、そこには、さっきかれを案内してくれたのと同じ家来が待ち受けていて、家まで連れて行ってくれた。家来は、芳一をみちびいて、寺の裏手の縁側まで送りとどけた。そして、そこまで来ると、さらばじゃと、別れを告げた。
芳一が戻ったのは、かれこれ夜明けに近かった。しかし、かれが寺をあけたことは、だれにも気づかれなかった。――和尚は、たいへん遅くなってから帰ってきたので、芳一が寝ているものだとばかり思っていたからである。昼のあいだ、芳一は、いくらかやすむことができた。そして、自分の不思議な出来事については、ひとことも洩らさなかった。あくる晩も、真夜中になると、あの侍がふたたび迎えにきて、芳一を高貴なかたがたの集まりに連れて行った。そして、その席で、かれは、もういちど琵琶をかたって聞かせ、前夜の演奏でかちえたのと同じ成功を博した。ところが、この二度目の伺候ちゅうに、芳一が寺を留守にしていることが、たまたま露見してしまったのである。そして、朝になって戻ってくると、芳一は和尚の面前に呼びつけられた。和尚は、やさしく叱るような口調で、こう言った。――
「わしらは、のう芳一、おまえの身を、たいそう案じとったのじゃよ。目の見えない者が、しかもひとりっきりで、あんなに夜遅く出かけるなど、剣呑《けんのん》なことじゃ。なぜ、わしらに、ひとこと断わって出て行かんのじゃ? そう言ってくれたら、下男に供《とも》をさせることだってできたじゃろうに。ところで、いったい、いままでどこへ行っていたのじゃ?」
芳一は、言いのがれをするように、こう答えた。――
「和尚さま、おゆるしください! ちょっと私用がございまして、どうしても片付けなくてはならなかったのです。それに、ほかのときでは都合がつきかねたものですから」
和尚は、芳一が口をつぐんで本当のことを言わずにいるのに対して、心を痛めるよりは、むしろ驚いたのだった。和尚は、こりゃあおかしいぞと感じ、なにか良からぬことがあるのじゃあるまいかと疑った。和尚は、この盲目の少年が、なにかの妖術をかけられたのではないか、なにかの悪霊にたぶらかされたのではないかと、それを懸念した。和尚は、それ以上は深く問いたださなかった。だが、ひそかに、寺の下男たちにむかって、芳一の行動を監視しつづけるようにいたせ、そして、万が一、暗くなってからまたもや寺を出て行くようなことがあった場合には、その跡をつけるようにいたせ、と言いつけておいた。
ちょうどその翌晩、芳一は、寺を出て行くところを見つけられてしまった。そして、下男たちは、すぐに提灯《ちょうちん》をともし、芳一の跡をつけて行った。ところが、その晩は雨が降っていて、ひじょうに暗かった。それで、寺の者たちが表の通りに出ないうちに、芳一の姿はもう見えなくなっていた。あきらかに、かれは足早に急いで行ったのである。――だがこれは、かれが盲者であることを思い合わせると、いかにも摩訶《まか》不思議であった。というのは、道はひどくぬかっていたからである。寺の者たちは、大急ぎで街なかをとおっていき、芳一がふだん行きつけている家を、かたっぱしから尋ね歩いてみた。しかし、だれひとり、芳一の行った先を知っている者はなかった。とうとう、下男たちが浜辺づたいに寺のほうへ引き返しているとき、阿弥陀寺の墓地のなかで、はげしくかきならす琵琶の音がするのを聞きつけて、みんな、ぎょっとしてしまった。いくつかの鬼火――闇の夜にいつもそのあたりを飛びまわっているような鬼火――が見えるほかは、墓地の方角はただもう真っ暗であった。だが、男たちは、すぐさま、墓地のほうへ急いで行った。そして、提灯のあかりをたよりに、芳一の姿を見つけだした。――芳一は、降りしきる雨のなかを、安徳天皇の墓碑のまえのところに、ひとり端座して、琵琶をかき鳴らしながら、壇の浦の合戦のくだりを声高らかに歌いかたっているのであった。そして、その芳一の背後にもまわりにも、それからまた墓碑という墓碑の上方いたるところに、亡者の火が、さながら蝋燭をともしたごとくに燃えていた。あとにもさきにも、これほどたくさんの鬼火が、このうつしみの世の人間の目に見えたためしはなかった。……
「芳一さん! ――芳一さん!」下男たちは叫んだ。――「あんたは、たぶらかされていらっしゃるだ! ……芳一さんてば!」
しかし、盲人には、その声は聞こえぬらしかった。力をこめて、かれは、びゅーんびゅーん、きゅーんきゅーん、じゃんじゃじゃんと、琵琶をかき鳴らした。――そして、ますます狂おしく、壇の浦の合戦の歌がたりを吟ずるばかりであった。下男たちは、芳一のからだを、むんずとつかまえた。――そして、芳一の耳もとで、どなりたてた。――
「芳一さん! ――芳一さん! ――さあ、おれらといっしょに、すぐお戻りなしぇえ!」
すると、芳一は、叱りつけるように、男たちに言った。――
「もったいなくも、この高貴なかたがたのおん前で、そのような邪魔だていたすとは、容赦ならんぞ」
これを聞くと、下男たちは、無気味《ぶきみ》には思ったけれども、笑いださずにはいられなかった。芳一が妖術にかかってしまっていることは、まぎれもなく確かであったので、こんどは、みんなで、芳一をひっつかまえて引き起こし、力ずくで無理無理せき立て、寺へ連れ帰った。――寺では、和尚の指図があって、すぐさま濡れた着物をぬがされ、べつの衣服に着がえをさせられ、それから、食べ物や飲み物を与えられた。やがて、和尚は、芳一のこの驚き入るばかりの振る舞いについて、じゅうぶんな説明をするようにせまった。
芳一は、長い時間、話すことを躊躇《ちゅうちょ》していた。しかし、とうとう、自分のやった行為が、善良な和尚さんをしんじつ驚かせ、かつ怒らせたことに気づきはじめ、これまでの自分の隠し立てをやめる決心をした。そして、はじめて例の侍が訪ねて来たときから起こった事がらの一部始終を、残らず話して聞かせた。
和尚は言った。――
「芳一、おお、かわいそうにのう。おまえは、いま、たいそう危険な目に会《お》うているのじゃ! こんなことになろう以前に、いっさいをわしに打ち明けてくれなかったのは、なんとしても不運なことじゃった! おまえがあまりに音楽に長じておるばかりに、じっさい、このような不思議な災難にひっぱり込まれてしもうたのじゃ。しかし、いまとなっては、おまえももう悟《さと》ったと思うが、おまえは、金輪際、人の家へなどまいったのではなくて、墓所内にある平家の墓のなかで、幾夜かを過ごしておったのじゃ。――そして、今晩、この寺の衆が、雨の降るなかにおまえのすわっておるところを見つけたのは、安徳天皇のご墓碑の前だったのじゃ。おまえがそうだと思い込んどったことは、あれは、すべて幻覚なのじゃよ。――亡者が呼びにまいったことだけは、まあ除外するにしてもじゃ。ひとたび亡者どもの申すことに従《したご》うたばかりに、おまえは、亡者どもの掌中に身を置くこととなったのじゃ。すでにこういうことが起こったあとじゃで、このうえ、ふたたびあの亡者どもの言うなりになりでもしたら、おまえは八つ裂きの目に会《お》うてしもうぞよ。しかし、いずれにしても、やつらは、早晩、おまえを取り殺すところだったのじゃ。……ところで、わしは、今晩も、おまえといっしょに寺におってやるわけにはまいらぬのじゃ。わしは、もうひとつべつの法事に呼ばれているのじゃ。だが、わしが出かけるまえに、おまえの五体《ごたい》にお経の文句を書きつけて、五体の安全を守ってやらねばならんじゃろう」
日が落ちるまえに、和尚と小僧とは、芳一をまる裸にした。それから、筆をとって、芳一の胸や背中、頭や顔や頸、両手や両足――さらには、足の裏にまでも、ようするに五体くまなく――「般若心経」という経典の文句を書きつけた。さて、それが書きおわったとき、和尚は、芳一にむかって、こう言い聞かせた――
「今晩、わしが出かけて行ったらのう、おまえは、すぐに縁側にすわって、待つようにするのじゃ。そうすると、呼びにくるじゃろう。だが、どんなことがあろうとも、返事をしたりしてはならんぞよ、また身動きしたりしてはならんぞよ。口をきかずに、じっと静座しておるのじゃよ。――さも冥想にふけってでもいるかのようにのう。もし身動きをしたり、すこしでも音をたてたりしようものなら、おまえは、八つ裂きにされてしもうぞ。こわがってはいけないぞ。また、助けを呼ぼうなどと考えてもいけないぞ。――なぜならば、助けようにも、助けられないのじゃから。ただ、おまえが、わしの言うとおりにちゃんとやっとれば、危難は退散するじゃろうし、もうそれ以上は、何も恐ろしいことはなくなるはずじゃでのう」
日が暮れてから、和尚と小僧とは外出していった。芳一は、言いつけられたとおりに、縁側に座をしめた。琵琶をかたわらの板張りのうえにおき、入禅の姿勢をとったまま、じっと静座していた。――そして、一心に気を凝《こ》らして、咳ばらいひとつ立てぬようにし、息づかいの音も聞こえぬようにしていた。幾時間も、そのようにしていた。
やがて、往来のほうから、足音が近づいてくるのを耳にした。その足音は、門をすぎ、庭をよこぎり、縁側に近づき、ぴたっと止《と》まった。――芳一のいる、そのすぐ前で。
「芳一!」例のおもおもしい低音の声が呼んだ。しかし、盲人は、息をころし、身動きひとつせずにすわっていた。
「芳一!」その声は、二度目には、ぞっとするように気味悪く呼ばわる。ついで、三度目に呼ばわる。――たけだけしい口調で。――
「芳一!」
芳一は、石のように、じっと静かにしたままでいた。――すると、その声が、ぶつぶつ言った。――
「返事がないぞ! ――こりゃあ、怪《け》しからん! ……奴《やつ》め、どこへ失せおったか、見てくれようわい」
縁側にあがる重たい足音がした。その足は、ゆっくりゆっくり近づいてきて――芳一のそばで止《と》まった。それから、ややしばらくのあいだ――そのあいだ、芳一は、心臓が鼓動するたんびに、身うちじゅうがたがた震えるのを感じたが――死のような沈黙があった。
とうとう、あらあらしい声が、芳一のすぐ耳もとで、つぶやいた。――
「ここに、琵琶はあるわい。したが、琵琶法師の姿は見えるかと申せば――ただ、耳が二つ見えるきりじゃ! ……道理で、返事をいたさぬはずじゃわ。返事をしようにも、口がないわい。――耳のほかには、あれのもので残っているものは何もないわい。……しからば、わが君さまには、この耳を持ち帰って進ぜようわい。――能《あと》うかぎりは、おん仰せのとおり勤め申しあげたという、何よりの証拠になろうわい」
その刹那、芳一は、自分の耳が鉄の指にひっつかまれ、ひきちぎられるのを感じた! その痛さはひじょうなものだったけれども、芳一は、声ひとつ立てなかった。重い足音は、縁側づたいに遠ざかり、――庭へおり、――往来のほうへ出ていき、――そして、やんだ。盲人は、頭の両側から、どろどろした生温《なまあたたか》いものがたらたら流れ落ちるのを感じたが、しかし、あえて手をあげようともしなかった。……
日ののぼるまえ、和尚は帰ってきた。かれは、すぐさま、裏手の縁側のほうへ急いで行ったが、そのとき、なにやらねばねばしたものを踏みつけて、足をすべらせた。そして、恐怖の叫び声をあげた。――というのは、提灯のあかりで見たところ、そのねばねばしたものが血であることを、かれは知ったからである。ところが、よく気を付けてみると、芳一は、そこに入禅の姿勢をとったまま、じっとすわっているではないか。――傷口からは、なおも血がだらだら流れているではないか。
「かわいそうに、芳一!」と、愕然とした和尚は叫んだ。「これはまあ、なんとしたことじゃ? ……おまえは、怪我を負わされたのじゃな?」
和尚の声を聞くと、盲人は、これでもう安心だと思った。にわかに、すすり泣きをはじめた。そして、涙ながらに、夜のうちに起こった出来事を話して聞かせた。
「かわいそうにのう。かわいそうに、芳一!」と、和尚は、感動的に叫んだ。――「こりゃあ、すべて、わしの手落ちじゃ! ――わしのひどい手落ちじゃった! ……おまえの五体には、くまなく、お経の文句を書きつけたのじゃったが――ただ、耳だけを書き落としてしまったのじゃ! そこの部分は、小僧に任《まか》せたんじゃった。そして、あれがちゃんと書いたかどうか、そいつを確めなかったのは、いかにも、いかにも、わしが悪かった。……だが、事態がこうなったからには、もうどうにも仕方がない。――このうえは、ただ一刻も早く、その傷をなおすことじゃ。……元気をだすんじゃよ、芳一! ――危難はもう退散したのじゃ。おまえは、もはや二度と、あんな亡者どもに煩わされることはないのじゃよ」
良医の手当を受けて、芳一の傷は、ほどなくなおった。かれの身にふりかかった不思議な出来事についての噂は、あちこちに広まり、芳一はたちまち有名になった。多くの貴人たちが、芳一の琵琶がたりを聞くために、赤間ガ関までやってきた。そして、莫大な金がおくられた。――そのおかげで、かれは富裕の身となった。……しかし、この出来事があったときから、かれはもっぱら「耳なし芳一」という異名《いみょう》で知られるようになった。
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おしどり
陸奥《むつ》の国の片田舎《かたいなか》、田村の郷《ごう》に、村允《そんじょう》という名の、ひとりの鷹匠《たかじょう》が住んでいた。ある日のこと、猟に出かけて行ったが、なんの獲物も見つからなかった。ところが、その帰りみち、赤沼とよばれる地点まで来て、ちょうどそこの川を渡ろうとしたときに、ひとつがいのおしどりが打ち連れて泳いでいるのを、目にとめた。おしどりを殺すのは、いいことではない。だが、村允は、たまたまひどく腹《はら》がへっていたしするものだから、そのつがいのおしどりめがけて矢をはなった。その矢は、雄のほうを射とおした。雌は、向こう岸の、藺草《いぐさ》がおい茂っているなかへ逃げこんで、見えなくなった。村允は、死んだ鳥をさげて家へ持ち帰り、そいつを料理した。
その夜、村允は、荒涼として悲しい夢をみた。なにやら、美しい女がひとり、部屋へはいってきて、それが自分の枕がみに立ち、さめざめと泣きはじめたようすである。その女があまり痛々しく泣くものだから、村允は、その声を聞いているまも、心臓が引き裂かれそうになるのをおぼえた。そして、女は、泣きわめきながら、かれに向かって言った。「どうして――ああ! どうして、あなたは、あのひとを殺したりなさったのです? ――あのひとが、罪に値するようなどんな悪事をしたというのです? ……赤沼で、あたくしたちふたりは、打ち連れ合って、あんなにも仕合わせに暮らしておりましたのに。――それなのに、あなたは、あのひとを殺しておしまいになりました。……いったい、あのひとが、どんな危害をあなたに加えたのでしょうか? あなたは、ご自分がどんなことをなさったのか、ごぞんじなのですか? ――ああ! あなたは、ご自分が、どんなにむごい、どんなに非道のことをなさったのか、ごぞんじなのですか? ……あなたは、このあたくしをまでも殺しておしまいになったのです。――なぜって、夫がいなくなっては、あたくし、とても生きたいなんて思いませんもの。……ただ、これだけのことを申しあげたいばかりに、あたくし、ここへまいったのです」……こう言ってから、女は、ふたたび、さめざめと泣いた。――あまり痛々しく泣くものだから、聞いている村允には、その泣き声が、骨の髄にまでもつきとおるように思われた。――やがて、女は、涙にむせびながら、こんな歌をよんだ。
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日暮《ひく》るれば
さそひしものを――
あかぬまの
真菰《まこも》がくれの
ひとり寝《ね》ぞ憂《う》き!
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〔日暮れ時がやって来ると、あたしは、さあいっしょに帰りましょうと、あのひとを誘ったものだった――! それが、いまでは、赤沼の藺草の蔭に、ひとりぼっちで眠らなければならぬとは。――おお! なんという、ことばにもならないほどの不幸であるよ!〕
そして、この歌をとなえ終わると、女は叫んだ。「ああ、あなたはごぞんじでいらっしゃらない。――ご自分がどんなことをなさったのか、おわかりにはなれないのです! けれども、あした、赤沼へおいでになれば、あなたはごらんになるでしょう。――きっと、ごらんになるでしょう……」そう言って、女はたいへんあわれっぽく泣きながら、立ち去って行った。
朝になって目をさましたとき、この夢があまりにもありありと心に残っていたものだから、村允は、大いに悩んでしまった。かれは、女がいった言葉を思いだした。――「けれども、あした、赤沼へおいでになれば、あなたはごらんになるでしょう。――きっと、ごらんになるでしょう」といった言葉を。それで、かれは、その夢が、ただの夢以上のものであるかどうか、それをたしかめるために、これからすぐ赤沼へ行ってみようと思い立った。
かくして、村允は赤沼へ出かけて行った。そして、そこの川堤に着いたとき、雌のおしどりが、ただ一羽きりで泳いでいるのを、目にとめた。それと同時に、おしどりのほうでも、村允の来ていることにちゃんと気づいた。だが、おしどりは、逃げようなどという気配はすこしも示さず、かえって、まっすぐにかれのほうへと泳ぎ寄ってくるのだった。しかも、その間《かん》、妙に目をすえて、じっと村允を見つめたままでいるのである。やがて、とつぜん、おしどりは、くちばしで自分のからだを突き裂いたかとおもうと、鷹匠の見ているまえで、みずから死に果《は》てた。……村允は剃髪して、僧となった。
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お貞《てい》のはなし
ずっとむかしのこと、越後の国、新潟の町に、長尾長生《ながおちょうせい》という人が住んでいた。
長尾は医者の息子で、ゆくゆくは父の生業をつぐよう教育を受けた。まだ年歯《としは》のいかぬころ、かれは、父の友人の娘で、お貞という名の女の子と許婚《いいなずけ》にされた。そして、両家のあいだでは、長尾のほうの修業が終わりしだい婚礼をあげることにしよう、という相談がまとまっていた。ところが、お貞のからだの弱いことがわかってきた。そして、十五歳で、不治の肺患にかかった。これはもうとても助からぬと自身でさとったとき、お貞は、ながの別れを告げるために、長尾を呼んでもらった。
長尾が枕もとにすわると、お貞はこんなことを言った。――
「長尾さま、あたくしたちは子供の時分から、おたがいに約束をかわした仲でございましたね。そして、今年の暮には、お祝言《しゅうげん》をあげるはずになっておりましたね。けれども、あたくしは、いま、もう死にかかっております。――あたくしたちにとって何がいちばんよいか、それは、神さまがごぞんじでいらっしゃいます。かりに、あたくしがこのさきもう何年か生きながらえたといたしましても、それは、他人《ひと》さまのご心配や悲しみのもとになるばかりでございましょう。こんなに弱いからだでは、とてもいい奥さんになれるわけはございません。ですから、あなたさまのために、あたくし、なんとか生きていたいなどと願うことさえ、そりゃあたいへん身勝手な願いなのではないかと思うのです。あたくし、自分はもう死んでいくものと、すっかり観念しております。それで、あなたもお悲しみになったりはしないと、約束してくださいましね。……それに、あたくし、申しあげておきたいんですが、あたくしたちふたりは、もういちど会えるような気がいたしますの」……
「ほんとうだ。わたしたちは、きっとまた会えるんだとも」と、長尾は熱意をこめて答えた。「そして、あの浄土には、もはや別離の苦しみなどありはしないんだからね」
「いいえ、そうじゃないの!」と、彼女はおだやかに答えた。「あたくし、浄土のことを申したのではございません。あたくし、ふたりは、きっとこの世で、もういちど会える宿運《さだめ》になっていると信じていますの。――たとい、あたくし、明日《あす》が日にも土の下に埋められるにしても、ですわ」
長尾は、いかにも解《げ》せぬというふうに、お貞の顔をじっと見つめた。そして、長尾の解《げ》しかねている様子を見て、彼女がにっこりほほえんでいることに気づいた。お貞は、やさしい、夢みるような声で、言葉をつづけた。
「そうですわ。あたくしの申しておりますのは、この世なのです。――あなたがげんにこうして生きていらっしゃる、この世なのでございますわ、長尾さま。……ほんとうに、あなたさまがそれを望んでくださるのだったら、ですわ。ただ、そうなるためには、あたくし、もういちど女の子に生まれ、それからいちにんまえの女にならなければなりませんの。ですから、あなたには、それまで待っていただかねばなりませんの。十五年――十六年。ずいぶん長い年月でございますわ……。でも、いとしい方《かた》、あなたはまだやっと十九でございますものね」……
なんとかしてお貞の臨終を慰めてやりたいという気持から、長尾は、愛情をこめて答えた。――
「いいなずけのおまえを待つということは、そりゃあねえ、わたしの義務でもあり、また喜びでもあるんだよ。わたしたちは、おたがいに、七《なな》たび生まれ替わって連れ添う誓いをかわしているんだものね」
「でも、あなた、お疑いになりまして?」と、お貞は、長尾の顔をじっと見すえながら尋ねた。
「そりゃあ、おまえ」と、かれは答えた。「おまえがまるで別人のからだになり、まるで別人の名前になってしまっているのを、はたして、このわたしが識別できるかどうか、気がかりだよ。――なにかのしるしか証拠をわたしに教えといてくれないことにはね」
「そんなこと、あたくしにはできませんわ」と彼女は言った。「ただ神さまと仏さまだけが、あたくしたちふたりがどんなふうにしてどこで会うことになるか、それをごぞんじなのです。でも、あなたさえ、わたくしをお迎えになるのをいやだとお思いになるのでないとしましたなら、あたくし、きっと――ほんとにきっときっと、あなたのおそばへ帰ってまいれると思いますの。……あたくしのこの言葉を、よく覚えていてくださいましね」……
お貞は、それっきり、話すのをやめた。そして、その目は閉じられた。彼女は死んだのである。
長尾は、しんじつ、お貞に愛着していた。それだけに、かれの悲しみは深かった。長尾は、お貞の俗名《ぞくみょう》を書きつけた位牌《いはい》をつくらせた。そして、その位牌を仏壇のなかに納めて、毎日そのまえに供え物をあげた。かれは、お貞が息をひきとる直前に自分に話した不思議なことについて、いろいろと考えをめぐらした。そして、どうにかしてお貞の霊を喜ばせてやりたいとの願いから、もしおまえさまがべつのからだになって帰ってくることのできたあかつきには、かならずおまえさまと夫婦《めおと》になります、という荘重な誓約を書いた。そして、この書き付けにした誓約に判をおして封じ、仏壇のなかにあるお貞の位牌のそばにおいた。
しかしながら、長尾は、なにしろひとり息子だったので、いやでも結婚する必要があった。まもなく、かれは、家族の者たちの所望《しょもう》にやむをえず屈伏し、父のえらんだ嫁を迎えねばならないことになった。結婚してからのちも、かれは、お貞の位牌のまえに供え物をあげつづけた。そして、愛憐の情をこめてお貞のことを思いださぬ折りとてなかった。けれども、お貞の面影は、しだいに、長尾の記憶のなかでうすらいでいった。――思いだしにくいひとつの夢のように。そして、歳月は過ぎ去った。
その歳月のあいだに、数多くの不幸が、長尾の身にふりかかってきた。かれは両親に死に別れた。――それから、妻に死に別れ、たったひとりの子どもにも死に別れた。そこで、かれは、この世の中で、ひとりぼっちの身の上になってしまった。かれは、さびしい家を捨てた。そして、悲しみを忘れんがために、長い旅にでた。
その旅の途中のある日のこと、長尾は、伊香保にたどり着いた。――ここは、温泉とその周辺の美しい風景とのために、今もなお有名な山村である。長尾が泊まった村の宿で、ひとりの若い女が給仕にでた。そして、その女の顔を一目見るなりかれは、これまでについぞ経験したことのないほどに、はげしく心臓が躍動するのを感じた。じつにじつに不思議なほど、その若い女がお貞にそっくりだったので、かれは、こりゃあ夢をみているんじゃあるまいかと、それを確かめるために、自分の身をつねってみたくらいであった。その女が部屋を出たりはいったりしたとき、――つまり、火や食べ物を運んだり、客間をととのえたりして部屋を出入していたのであるが、――彼女の物腰や動作のひとつひとつが、長尾の心に、かれが若いころに誓いをたてた少女にかんする優雅な記憶を呼びさました。長尾は、その女に話しかけた。すると、彼女は、ものしずかな澄んだ声で、返事をしたが、その声の美しさは、ありし日の悲しみを思いださせて、かれの心を悲しみに沈ませた。
そこで、長尾は、たいへん不思議に思い、女にむかってこう尋ねた。
「ねえさん。あんたは、ずっとむかしにわたしが知っていた人に、あんまりよく似ているものだから、あんたが最初この部屋にはいってきたとき、わたしはびっくりしてしまった。それで、失礼だがおききしたい。あんた、おくにはどこだね、名はなんというんだね?」
即座に、――そして、あの亡《な》くなった人の、あの忘れられもせぬ声で、――彼女はこう答えた。
「あたくしの名は、お貞と申します。そして、あなたは、あたくしの許婚《いいなずけ》の、越後の長尾長生さまでございますわね。十七年まえに、あたくしは新潟で死にました。そのとき、あなたは、もしあたくしが女のからだでこの世にもどってこられたならば、あたくしと結婚してくださると、そのことを書きものにして誓約なさいましたね。――そして、あなたは、その書きつけにした誓約に判をおして封じ、あたくしの名の書いてある位牌のそばにおいてくださいましたね。それだから、あたくし、こうして帰ってまいりましたの」……
彼女はこの最後の言葉を発したとき、意識を失ってしまった。
長尾は、この女と結婚した。そして、その結婚は幸福であった。けれども、その後、お貞は、伊香保において長尾の質問に答えたとき、どんなことを話して聞かせたものだったか、まるで思い出せなかった。それにまた、自分の前世についても、何ひとつ覚えていなかった。前世の記憶――あのめぐりあいの刹那に不思議にもあかあかと燃えあがった前世の記憶――は、ふたたび朦朧《もうろう》となってしまい、そののちもその状態がつづいた。
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乳母《うば》ざくら
三百年のむかし、伊予の国、温泉郡《おんせんごおり》の朝美《あさみ》村というところに、徳兵衛という善良な人が住んでいた。この徳兵衛は、そのあたりで随一の長者で、村では村長《むらおさ》をつとめていた。たいがいのことにはしあわせよい身であったが、ただし、四十歳になっても、まだ父親になる喜びを知らなかった。それで、徳兵衛とかれの妻とは、子供のないことを思い悩んで、朝美村の、西方寺という名高い寺のご本尊《ほんぞん》さまである不動明王に、たびたび願《がん》をかけた。
ついに、ふたりの願がかなえられた。徳兵衛の妻は、ひとりの女の子を生んだ。その子はたいへんきりょうよしで、露《つゆ》という名がつけられた。母親の乳が足《た》りなかったので、お袖という乳母《うば》が、その赤ん坊のために雇われた。
お露は成長して、たいそう美しい娘になった。ところが、十五の歳に病気にかかった。そして医者たちも、この娘はとても助からないだろうと思った。乳母のお袖は、ほんとうの母親のようにお露をかわいがっていたが、このときに、西方寺へまいって、お露のために、一心不乱になって不動さまに祈願した。二十一日のあいだ、毎日、お寺まいりして祈願したのである。そして、その満願の日に、お露は急に全快した。
それで、徳兵衛の家では、たいへんな喜びようだった。そして、このめでたい出来事を祝って、親戚友人をのこらず招き、宴をひらいた。ところが、その祝宴の晩、乳母のお袖がとつぜん病気になった。そして、その翌朝、呼ばれてお袖の容態を診察した医者は、臨終がせまっていることを宣告した。
やがて、家じゅうの者たちが、悲嘆にくれながら、お袖に別れを告げるために、寝床のまわりに集まった。ところが、お袖はみんなにこう言った。――
「わたくし、みなさまがたのごぞんじでいらっしゃらないことを申しあげねばならぬ時がまいりました。じつは、わたくしの祈願が、聞きとどけられたのでございます。わたくし、お露さまのお身代わりに死なせてくださいますよう、お不動さまにお願い申しあげたのでございます。そして、ありがたいことに、特別のおなさけが、このわたくしに授けられたのでございます。こういう次第でございますから、みなさま、なにとぞわたくしの死ぬのをお嘆きくださいませんよう。……けれども、わたくし、ひとつだけお願いがございます。じつは、わたくし、祈願がかなえられましたせつには、そのお礼と記念とのしるしに、桜の木をいっぽん、西方寺の境内に奉納いたしますと、そのように、お不動さまにお誓い申しあげたのでございます。それが今となりましては、わたくし、もう自分でその木を植えることはできません。それゆえ、どうかわたくしに代わって、この誓いを果たしてくださいますよう、お頼みいたします。……それでは、みなさま、これで、おさらばでございます。お袖はお露さまのお身代わりとなって、よろこんで死んでいったと、どうか、お憶えおきくださいまし」
お袖の葬式がすんでから、桜の若木が――もうこれ以上りっぱな木はないというほどの若木が――いっぽん、お露の両親の手で、西方寺の境内に植えられた。その若木は生長して、枝葉をいっぱいに茂らせた。そして、翌年の二月十六日――ちょうどお袖の命日の日であるが――みごとに花をひらかせた。そのようにして、二百五十四年のあいだ、その木は、花をひらきつづけた。――いつも二月十六日の日に。――そして、その花は薄紅《ピンク》と白《ホワイト》の色をしていて、ちょうど乳でしめった女の乳首のようであった。それで、ひとびとは、その木を「乳母ざくら」とよんだ。
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かけひき
屋敷の庭で手討ちをとりおこなうように、との沙汰がくだっていた。そこで、罪人《ざいにん》が庭に引きだされた。そして、飛び石の一列がまん中をよこぎっている、広い砂地にひざまずかされた。このような庭づくりは、いまでも、日本|風《ふう》庭園において見ることができるはずである。罪人の両腕は、うしろ手にくくりあげられていた。家来たちは、手桶に入れた水と、小石をいっぱいにつめた米俵とを運んできた。そして、その米俵を、ひざまずいている罪人のまわりに、ぎっしり積みあげた。――罪人が身動きできないように、楔《くさび》どめにするためである。主人がやってきて、支度のぐあいを検分した。支度が申し分ないとわかって、主人は何も言わなかった。
とつぜん、死罪を言い渡された男が、主人にむかって叫びだした。――
「殿さま、わっちがそのためにお手討ちの罰を受けることになりやした過《あやま》ちてえのは、なにもそうと知ってわざと犯したものじゃあござんせん。こんな過ちをひきおこしちまったてえのは、ひとえに、わっちのひでえ愚鈍さがもとになっていることでござんす。前世の宿業《すくごう》によって、なにしろ愚か者に生まれついてきたもんで、わっちは、しょっちゅう間違《まちげ》えをしでかさずにはすまなかったってわけでした。だけんど、愚かだからっちゅう理由で、人ひとりを殺すなんざあ、無法ですぜ。――そんな無法な仕打ちにゃあ、報いがありますぜ。どうあっても、殿さまがわっちをぶった斬《ぎ》るっておっしゃるんなら、どうあっても、わっちは殿さまに仕返《しけえ》しをしてみせます。――あんたが人に恨みをいだかせるようなことをなさるから、仕返《しけえ》しを受けるんですぜ。つまり、悪は、悪によって報いられるんでさあ」……
どんな人間でも、はげしい恨みをいだいているさいちゅうに殺されるような場合には、その人の死霊《ゴースト》は、自分を殺した相手にむかって仕返しをすることが可能である。このことを、侍《さむらい》も知っていた。かれは、たいへんおだやかに、――ほとんど宥《なだ》めすかすような語調で答えた。――
「そちが死んだあとで――いくらでも好きなだけわれわれをおびやかすがよいぞ。だが、そちが本気でそんなことを言っているとは、ちょっと信じがたい。そちがひどい恨みをいだいているというのなら、それについての何かの証拠を――首を刎《は》ねられたあとで、われわれに見せてはくれまいか?」
「きっと、お目にかけやしょう」と罪人は答えた。
「よろしい」侍は、長い刀を引きぬきながら言った。――「さあ、そちの首を刎ねるぞ。そちの面前に、そこにそれ、飛び石がひとつある。首を刎ねられてから、どうじゃ、その飛び石に噛みついてみてはくれまいか。そちのその怒れる魂魄《ゴースト》の助けによって、そちがそいつをやってみせたら、われわれのなかにも怖気《おじけ》をふるう者があるかもしれんぞ。……どうじゃ、そちは、その石に噛みついてみせるか?」
「噛みつきますともさ!」罪人は、怒りに怒って叫んだ。――「噛みつきますともさ!――噛みつきます」――
一閃《いっせん》、刀が光った。ひゅっと、太刀風《たちかぜ》が鳴った。がりっという音、どさっという音がした。縛られたからだが、米俵のうえにうつぶした。――二すじの長い血しぶきが、切られた首から、どくどくほとばしりでた。――そして、首は砂のうえにころげ落ちた。重苦しそうに、その首は、飛び石のほうへころがっていった。それから、ふいに飛びあがって、石の上端を歯の間におさえて噛みつき、一瞬のあいだ死物狂いに食いついていた。そして、力弱って、ぽたりと落ちた。
だれひとり、話し声を立てる者はなかった。そのかわり、家来たちは、ぞっと身ぶるいしながら、主人のほうを凝視していた。主人は、まるで気にもとめていないようすであった。主人は、ただ、いちばん近くにいる従者のほうへ向かって、刀をさしだしただけであった。すると、その従者は、木の柄杓《ひしゃく》で、鍔元《つばもと》から切っ先まで刀身に水をそそぎ、やわらかい懐紙で、幾度も念入りに刃をぬぐった。……こうして、この事件の儀式的部分は終了したのであった。
それから数ヵ月のあいだ、家来たちや召使いたちは、幽霊が出てきはせぬかと、たえずおびえながら暮らしていた。かれらのうちのひとりとして、罪人が約束したその仕返しの到来することを、ゆめ疑う者はなかった。そして、かれらは、絶えざる恐怖にかられているために、ありもしないたくさんのものを、あれこれと見たり聞いたりするのだった。かれらは、竹のあいだをわたる風の音を聞いて、おそれおののくようになった。――庭の影の動きを見てさえ、おそれおののくようになった。とうとう、みんなで相談をした結果、その執念ぶかい怨霊《おんりょう》のために、施餓鬼供養《せがきくよう》を修《しゅ》してもらうよう、ご主人さまに嘆願してみよう、ということに決まった。
「まったく無用のことじゃ」ひとりのおもだった家来が一同の願いをまとめて申し出たとき、侍は、そう言った。……「死にかけている者の仕返しをしたいと望んでいるその欲念こそが、恐怖のもとになる、ということは、わしも承知しておる。だが、この場合には、恐れる必要は何もないのじゃ」
家来は、嘆願するように主人を見た。しかし、驚愕に値するその自信の拠って立つ理由を問いただすのは、さすがにためらわれた。
「いや。その理由は、きわめて単純じゃよ」侍は、家来が言葉に発することができずにいる疑問を推察して、自分のほうから言った。「ただ、あの者の死に臨んでの最後の意趣だけが、いかにも危険|千万《せんばん》だったのじゃ。そして、わしが、じゃあ証拠を見せろと言って挑《いど》んだとき、じつは、あの者の心を、復讐の欲念からよそへ逸《そ》らせてしまったのじゃ。あの者は、飛び石に噛みつこうという不動の一念を抱いたまま、死んだのじゃ。そして、その一念は、みごとに果たすことができたのじゃ。だが、それ以外には何もない。そのほかのことは、あの者はすっかり忘れてしまったに相違ない。……それだから、このことについて、そちたち一同は、もうこれ以上、なにも心配するにはおよばないぞよ」
――そして、じっさい、その死んだ罪人は、それっきり、なんの祟《たた》りも見せずじまいだった。まったく、何事も起こらなかった。
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鏡と鐘
八百年ほどのむかし、遠江《とおとうみ》の国の無間山《むげんやま》の寺僧たちは、自分たちの寺にもひとつ大きな鐘がほしいものだな、と思った。そして、その鐘の地金《じがね》にする唐金《からかね》の古い鏡を寄進してくれるよう、檀家《だんか》の婦人たちに助力を要請した。
〔こんにちでも、日本のある寺の境内には、それと同じ目的で寄進された唐金《からかね》の古い鏡が、山のように積みあげてあるのを、よく見かける。わたくしがこれまでに見たこの種の集積《コレクション》のなかで、最大のものは、九州の博多にある浄土宗の寺の境内に置かれてあったそれである。その鏡は、身のたけ三丈三尺の唐金《からかね》の阿弥陀《あみだ》像をつくるために、奉納されたものだったのである〕
そのころ、無間山に住む、ある百姓の女房で、年若いひとりの女がいた。この女も、鐘の地金に使うよう、自分の鏡を寺へ寄進したのであった。しかし、そののちになって、その鏡がたいへん惜しくなってきた。彼女は、母親がその鏡について話して聞かせてくれたことなどを、いろいろと思いだしたのである。彼女は、その鏡が、もともと、母親の持ち物であったばかりでなく、母の母や、母の祖母の持ち物であったことを思いだした。また、彼女は、その鏡がうつしだしたかずかずの幸福な笑顔をも思いだした。もちろん、もしも彼女が、その鏡を奉納するかわりに、なにがしかの金を僧にさしだしたならば、この祖先伝来の家宝を返してくれるように頼めたはずである。しかし、彼女には、それだけの金がなかった。彼女は、寺へ行くたびに、自分の鏡が、その境内の、ちょうど柵のうしろのところに、みんないっしょくたになって山のように積み重ねられてある幾百という鏡のなかにまじっているのを、いつも目にした。自分の鏡の裏面には松竹梅が浮き彫りになっているので、彼女は、すぐにそれと見分け得たのである。――この松と竹と梅という三つのめでたいしるしは、母がはじめてその鏡を見せてくれたとき、彼女の幼い目を大いに歓喜せしめたものであった。彼女は、なにかのおりにその鏡を盗んで、どこかへ隠しておきたいものだと、しきりに願った。――そうすれば、ゆくゆく家の宝とすることができるはずだった。しかし、その機会は、なかなかやってこなかった。そして、彼女は、たいへんみじめな気持になっていった。――あたしは、愚かにも、自分のいのちの一部を捨ててしまったんじゃなかったかしらと、そんなふうに感じたのである。鏡は女の魂、という、古い諺について、彼女はじっと考えた。――(その諺は、多くの唐金《からかね》の鏡の裏に、魂という漢字でもって、神秘的に書きあらわされている)――すると、彼女には、この諺が、これまで自分が想像していたよりも、もっと宿命的な意味において、まさしく真実であるように思われ、恐ろしくなってきた。しかし、彼女には、自分の苦悶を、思いきってだれかに打ち明けるなど、到底《とうてい》できないのであった。
さて、無間山の鐘のために寄進された鏡が、すべて、鋳物場へ送られたとき、鋳物師たちは、その鏡のなかに、どうやってみても溶けない鏡が一面だけあるのを発見した。なんべんでも繰り返して、そいつを溶かそうと努力したのだけれど、その鏡は、鋳物師たちの骨折りに逆《さから》うのだった。あきらかに、この鏡を寺へ奉納した女が、それを悔いているのにちがいなかった。つまり、その女は、本心から献進したのではなかったから、そのために、彼女の執念がその鏡にとりついてしまっており、溶鉱炉のなかへ投げこんでみても、鏡は固く冷たいままになっているのである。
もちろん、みんなが、このことを耳にした。そして、みんなは、そのどうやっても溶けない鏡がだれの鏡であるかということを、ほどなく知ってしまった。そして、自分の心の奥に秘めておいた咎《とが》が、このようにしてすっぱ抜かれて公然の事実となってしまうと、かわいそうに、この女は、われながら深く恥じ入り、また、ひどく憤怒をおぼえた。そして、この屈辱にたえきれなかったために、つぎのような書き置きの手紙をのこして、投身自殺を遂げた。――
「あたくしが死にましたなら、あの鏡を溶かして鐘に鋳直すことには、なんの造作もかからぬでしょう。しかし、あたくしの怨霊の力でもって、その鐘を撞《つ》き割った人に対して、莫大な金銭がさずかるように、きっとそうしてみせます」
――読者諸君に知っておいてもらいたいが、憤怒を抱いて死ぬ人とか、憤怒のうちに自殺する人とかの、いまはのきわの願望や誓いごとには、超自然の力がやどっていると、一般にそう信じられているのである。さて、その死んだ女の鏡が溶かされ、鐘が首尾よく鋳造されたのち、世間の人たちは、あの書き置きの手紙の文句を思いだした。みんなは、その書き置きをした女の怨霊《おんりょう》が、鐘を撞《つ》き割った者に大金をさずける、ということを、まじめに信じた。そして、その鐘が寺の境内に釣るされるが早いか、かれらは、それを撞《つ》かんものと、大群をなして押しかけた。かれらは、ありったけの力を振り絞って、撞木《しゅもく》を撞《つ》いた。しかし、鐘は、よほど良質の鐘にできていた。そして、みんながいくら撞《つ》き割ってやろうと乱暴をしても、鐘のほうでは、びくともしないのだった。そうではあっても、みんなのほうだって、そうたやすくは引きさがりはしなかった。くる日もくる日も、時をえらばず、ひっきりなしに、はげしく鐘を鳴らしつづけた。――寺僧たちの苦情など、まるっきり、気にもとめなかった。そうなると、鐘の音が、ひとつの厄難《やくなん》に変わってきた。寺僧たちは、ついに我慢しきれなくなった。そして、寺僧たちは、その鐘を山上から沼のなかへところがし落として、厄介払いをした。その沼は深くて、鐘をひと呑みに呑んでしまった。――そして、これが、この鐘の最後であった。あとには、鐘の伝説だけが残った。そして、その伝説のなかで、この鐘は「無間鐘《むげんかね》」と呼ばれている。
さて、日本には、「なぞらえる」という動詞でもって、はっきりとではないにせよ、とにかく、それに近い意味が暗示されている、一種の精神作用のもつ呪術的効力を信ずる、古い奇妙な信仰がある。この「なぞらえる」という言葉そのものは、英語には、ちょっと適当な訳語をあてることができない。というのは、この言葉が、信仰に基づくいろいろな宗教行事に関連して用いられる一方で、さまざまな種類の擬似的呪法《ミメティック・マジック》にも連関して用いられるからである。「なぞらえる」という言葉の通常一般の意味は、辞書によると「まねる」(to imitate)、「たとえる」(to compare)「にせる」(to liken)などである。しかし、少数者における秘教的な意味は、『ある呪術的ないし奇蹟的な結果を惹き起こさせるように、一つの物体もしくは行為をば、想像のなかで、他の物体もしくは行為に代用せしめる』、という意味である。
たとえば、こういうことである。――諸君には、一宇《いちう》の仏教寺院を建立するだけの経済的余裕はない。しかし、諸君は、仏陀の像のまえに小石をひとつ供えることならば、容易にできるはずである。そして、そのときの敬虔な気持は、かりにもし自分が一宇の寺院を建立しうるほどの金持だったならば、さっそくにもそれを建ててみせるんだがなあ、という敬虔な気持と、じつはまったく同じなのである。そのような気持で小石をお供えするときに得られる功徳《くどく》は、一宇の寺院を建立するときに得られる功徳と、まったく同等であるか、もしくは、同等に近いものとなるのである。……また、諸君は、六千七百七十一巻の仏教の経文を読破することはできない。しかし、諸君は、それら経文をおさめた回転書庫をつくって、それを轆轤《ろくろ》のように手で押してまわすことはできるはずである。そして、もしも、自分はなにがなんでも六千七百七十一巻のお経を読破したいものだというほどの熱烈な念願をこめて、この回転書庫を手で押すならば、それらを読破したときに得られるのと同じ功徳が、ちゃんと得られるのである。……このくらい述べれば、「なぞらえる」という言葉のもつ宗教上の意味は、たぶん、十分に説明できたのではないかと思う。
その呪術的な意味のほうは、いろいろたくさんの例をあげなくては、完全に説明しつくすことはできない。しかし、さしあたっての目的のためには、つぎにあげる例で、いちおう間にあうのではないかと思う。かりに、諸君が、シスター・ヘレンが小さな蝋人形をつくったのと同じ理屈にのっとって、小さな藁人形をつくり、――そして、五寸釘よりは長い釘でもって、丑《うし》の刻《こく》に、寺の森のなかの木のどれかにこいつを釘づけにするとすれば、――そして、こっちの想像作用のなかでひそかにその小さな藁人形に擬定《ぎてい》されている相手方の人物が、その後むざんな苦悶のうちに死ぬとすれば、――それが「なぞらえる」という言葉の一つの意味を、実例をあげて説明したことになる。……あるいはまた、ひとりの泥棒が、夜間、諸君の家にはいって、諸君が大事にしている貴重品を盗み去ったと仮定しよう。その場合に、諸君が、庭で泥棒の足跡を見つけ、そして、すぐさま、その足跡のひとつひとつに、でっかい艾《もぐさ》をすえて火を点ずるならば、泥棒の足の裏は、じりじりと焼けついてきて、どこへ行ってもちっとも落ち着きが得られなくなり、ついには、自分からすすんで引っ返してきて、諸君の慈悲|寛恕《かんじょ》を乞うであろう。これもまた、「なぞらえる」という用語で表現された、擬似的呪法の一種である。そして、第三の種類のものは、「無間鐘」に関するさまざまな伝説によって、例証されることになる。
鐘が沼のなかへころがし落とされたのちは、もちろん、それを撞《つ》き割るほど鳴らす機会は、もはやなくなった。しかし、このような機会が失われてしまったことを残念がる人たちは、想像のうえで、その鐘に代わる物体を、やたらとひっぱたいてぶっ壊したものだった。――こんなふうにして、あれほどの騒動をまき起こした鏡の所持者の霊魂を、なんとか慰めてやりたいと思ったのである。このような人たちのひとりに、梅《うめ》ヶ枝《え》とよばれる女があった。――この女は、平家の武士、梶原景季《かじわらかげすえ》と深い関係があったために、日本の伝説のなかでは、たいへん有名である。この両人がいっしょに旅をしているうち、ある日、梶原は、金をつかいはたして、大いに困窮した。そのとき、梅ヶ枝は、無間の鐘の伝承を思いだして、唐金《からかね》の盥《たらい》を手にとり、心のなかでこれを鐘に思いなぞらえ、その盥が割れるまでたたきつづけた。――そして、鉢をたたきつづけると同時に、金子《きんす》三百両欲しいよう、と大声で叫んだ。すると、両人のいる宿に泊まり合わせた客のひとりが、金盥《かなだらい》をたたきながら大声をだしているわけを尋ねた。そして、金に困っている話を聞くと、ほんとうに、金子《きんす》三百両を梅ヶ枝に贈ったのだった。のちに、梅ヶ枝の唐金の盥《たらい》をうたった歌ができた。その歌は、こんにちにいたるまで、芸者たちによってうたわれつづけている。――
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梅《うめ》ヶ枝《え》の手水鉢《ちょうずばち》たたいて
お金が出るならば、
みなさん身請《みう》けを
そうれ頼みます。
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〔もしも、梅ヶ枝の手洗い鉢をたたく行為によって、あたしが正常の境遇に戻りうるだけの貴重な金銭をつくりだすことができるというのなら、ほんとうにそうならば、あたしは、同じ境遇にある女たちみんなが自由になれるよう、その交渉をやってみるつもりですよ〕
このことがあってから、「無間鐘」の評判が大きくなり、おおぜいの人たちが、梅ヶ枝の例に倣《なら》おうとした。そうすることによって、彼女の幸運にあやかりたいと願望したのである。こういう人たちのなかに、無間山にほど近く、大井川の川沿いに住む、ひとりの放蕩者の百姓がいた。この男は、放埓《ほうらつ》な生活にすっかり家産をつかいはたしてしまったので、おのれひとりの料簡《りょうけん》で、自分の家の庭土を材料にして「無間鐘」の土偶《どぐう》をつくった。そして、その粘土製の鐘をひっぱたいて、割った。――その間じゅう、大金が欲しいよう、と叫びながら。
すると、男のすぐ目のまえの地面から、長い乱れ髪を、おどろに垂らし、蓋をした壼を手に持った、白装束の女の姿が、ぬっと立ち現われた。そして、その女はこう言った。「なんじの熱心なる祈祷は、当然、報いを受けるに値するものゆえ、われは、ここに現《げん》じて報いを授けんとするものなり。されば、これなる壼を受くるがよいぞ」そう言いながら、白装束の女は、その壼を、男の手に渡した。そして、姿を消した。
幸運な男は、妻にこの吉報を知らせようと、自分の家のなかへ駆けこんで行った。男は、妻のまえに、その蓋のある壼をおいて、すわった。――その壼は重かった。――そして、夫婦ふたりがかりで、その壼をあけた。そして、夫婦が見たのは、壼のなかいっぱいに、ふちのところにまであふれている……
おっと、いけない! その壼のなかに何がいっぱいにあふれていたか、本当のことは、わたくしに申しかねるのである。
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食人鬼《じきにんき》
むかし、禅宗の僧の夢窓国師《むそうこくし》、美濃の国を単身で行脚《あんぎゃ》していたとき、だれひとり道を教えてくれる者もない深山《みやま》の奥で、道にまよった。長時間、国師は、たよるすべもなく、あちらこちらとさまよい歩いた。そして、こよいはもはや一夜の宿りを求めることはできまいとあきらめかけていたとき、おりから入り日の最後の光に照らしだされたひとつの山の頂きに、ちいさな隠者小屋《いんじゃごや》のひとつがあるのを見つけた。これは「庵室《あんじつ》」といって、俗世をのがれた僧侶のために建てられた建物である。その小屋は、だいぶ荒れはてているように見受けられた。だが、国師は、一所懸命になって、そこへ至る道を急いで行った。行ってみると、そこには、ひとりの老僧が住んでいるとわかったので、どうか一宿《いっしゅく》のお恵みをちょうだいしとうございます、といって頼んだ。この老僧は、国師の頼みを、つっけんどんに断わった。だが、老僧は、ここの隣りの谷にひとつの村がある、そこへ行けば宿と飲食《おんじき》とが得られるじゃろう、と言って、そこへの行きみちを、夢窓に教えてくれた。
夢窓がその村へたどり着いてみると、それは、農家のかず十二軒にも満たない、ちいさな村里であった。そして、かれは、村長《むらおさ》の家に手厚く迎え入れられた。ちょうど夢窓が着いたとき、そこの家のいちばん大きな座敷では、四十人ないし五十人の村びとたちが寄り合いをしているところであった。しかし、かれは、離れの小さい部屋へ通されて、そこでただちに食事や寝床を与えられた。なにしろ、くたくたに疲れていたので、かれは、宵のくちから横になってやすんだ。ところが、真夜中すこし前に、隣りの部屋で声高《こわだか》に泣き声を立てているものがあり、それが耳に感じられたので、眠りからさめた。やがて、襖《ふすま》がするすると静かにあけられた。そして、ひとりの若い男が、ともされた行燈《あんどん》をさげて、部屋へはいってきた。かれは、夢窓にうやうやしくお辞儀をして、こう言った。――
「ご出家さま、こんなことを申しあげるのはたいへん心が痛みますが、申しあげなければなりません。おれが、今では、この家の責任ある戸主でごぜえます。昨日まで、おれは、ただの長男でごぜえました。けど、あなたさまがこちらへお越しになられやしたとき、えらくお疲れのごようすでしたので、すこしでもご迷惑になるようなことがあっては相済まぬと、そう思ったのでごぜえます。そんで、父親がつい二、三|刻《とき》前に死んだことも、申しあげずにおいたんでした。ごらんになったでしょうが、隣りの部屋におります連中は、この村の住民たちでごぜえます。あの連中は、みんな、死者に最後の敬意を払うため、ここへ集まってくれたんです。そして、みんなは、今から、一里ほど隔たったよその村へ出かけて行くところです。――そのわけは、この村のならわしとしまして、死人が出ましたあとの、その晩ひと晩じゅうは、だれひとり村に残っていてはなんねえことになっておるからでごぜえます。おれらは、それぞれ適当な供え物をあげ、祈祷をささげます。――それから、おれらは、死骸だけを残して出て行きます。そんなふうにして死骸が残された家では、いつでも、奇態《きてえ》なことが起こります。それで、あなたさまも、おれらといっしょにお出かけくださるほうが、おためによかろうかと考《かんげ》えます。よその村で、おれらが、よい宿を見つけてさしあげられます。もっとも、あなたさまはご出家でいらっしゃるから、たぶん、鬼神や悪霊なんぞを恐れたりしなさらんのでしょうね。それで、もしあなたさまがひとりだけ死骸といっしょにお残りになるのを恐ろしいともなんともお思いにならねえんでしたら、こんな粗末な家ではありやすが、どうぞ、ご自由にお使いくだすって結構でごぜえます。しかしながら、どうしても申しあげておかねばなりませんが、ご出家でもなければ、今夜、すすんでここに残ろうなどと思う者は、ひとりもごぜえません」
夢窓は、こう答えた。――
「ご親切なお志《こころざし》とお手厚いおもてなしとにたいしては、拙僧、深く感謝申しあげます。しかし、拙僧がまいりましたときに、ご尊父さまのご逝去のことをばお聞かせいただけなかったのは、まことに残念です。――と申しますのは、拙僧、いかにもすこしばかり疲れてはおりましたが、出家としての自分の義務をつとめるのが困難だというほどまでに、ひどく疲れていたわけではなかった、ということは確実ですからな。さきにお話ししてくださっていたら、お出かけ前に読経をしてさしあげることもできたはずでした。だが、それもかなわなかったとあれば、みなさんが出かけられたあとで、読経をして進ぜましょう。そして、明朝までご遺体のそばに侍《はべ》って進ぜましょう。ひとりでここにとどまることは危険である、とおっしゃった、さっきのあなたのお話ですけれど、その意味が、拙僧にはとんとわかりません。しかし、拙僧は、幽霊や鬼神を恐れません。それゆえ、どうか、拙僧のためにご心配なさったりはあそばしますな」
若いあるじは、この自信ある断言を聞いて、顔に喜びのようすを浮かべた。そして、しかじかの適当な言葉で感謝の意をあらわした。ついで、家族のほかの者たちや、隣りの部屋に集まっていた村の衆たちも、この坊さんの親切な約束を伝え聞かされて、お礼を述べに出てきた。――そのあとで、この家のあるじが言った。――
「それでは、ご出家さま。あなたさまおひとりをあとに残して出かけてしまうのは、たいへん心残りでごぜえますが、おれらはお別れせにゃあなりません。この村の掟《おきて》によりまして、真夜中すぎには、おれらのうちのだれもここに居残っちゃあいけねえんです。お願《ねげ》えですから、ご出家さま、おれらがあなたさまのそばにいてさしあげられねえそのあいだ、くれぐれもお身にお気をつけくだせえまし。それから、おれらの留守ちゅう、何か変わったことを聞いたり見たりなされるようなことがごぜえましたら、明朝、おれらがここへ戻ってまいりましたせつに、どうか、そのことをお聞かせくだせえまし」
それから、坊さんをのぞいて、あとの全部の者が家を出て行った。坊さんは、遺体の置いてある部屋へ行った。おきまりの供え物が死骸の前に置かれてあり、そして、ちいさな仏式照明――燈明《とうみょう》――が燃えていた。坊さんは経を読んで、葬いの儀式を執《と》りおこなった。――それをすませたあと、瞑想にはいった。そうやって瞑想|三昧《ざんまい》にふけりながら、静かな数時間をじっとしていた。無人になっている村には、物音ひとつ立たなかった。ところが、夜の静けさがもっとも深くなったころ、朦朧《もうろう》とした、どでかい、なにやら「|かたち《シェイプ》」のようなものが、音もなく、部屋のなかへすうっとはいってきた。それと同時に、夢窓は、自分が、身動きする力も、ものを言う力も失ってしまっていることに気づいた。夢窓は、その「|かたち《シェイプ》」のようなものが、両手で持ちあげるようにして死骸を持ちあげ、猫が鼠を食らうよりもすばやく、それをむさぼり食らうのを見た。――まず頭からはじめて、何もかも食らうのを見た。髪の毛も、骨も、それから経帷子《きょうかたびら》さえも食らってしまうのである。さらに、この怪しい「|もの《シング》」は、こんなにして死体を食べつくしてしまうと、こんどは供え物のほうへ向き直り、それをも食らいつくした。それから、はいってきた時と同じように、音もなく、いずこへともなく立ち去った。
翌朝、村の人たちが帰ってきたとき、かれらは、村長《むらおさ》の住まいの入り口で、坊さんが自分たちを待ちうけているのを見た。一同の者は、かわるがわる、坊さんに挨拶した。そして、家のなかへはいって部屋を見回したとき、遺体や供え物のなくなっていることに驚愕の表情を示した者は、ひとりとしてなかった。それどころか、家のあるじは、夢窓にむかって言った。――
「ご出家さま。あなたさまは、さぞかし、夜のあいだにいやなものをごらんになったでしょう。じつは、おれら一同の者は、あなたさまのことをお案じ申しあげておりやした。だけど、こうして今、あなたさまがご無事で、怪我ひとつなさっておいでにならねえのを拝見して、たいへんうれしく思います。できることなら、おれらも、喜んでごいっしょに残りたかったんです。ですが、昨晩申しあげたように、この村の掟によって、死人が出ると、おれらは、家をあけて、死骸だけをあとに残さにゃあなんねえことになっているんです。これまで、この掟を破ったときには、きまって、何か大きな災厄がおこるんでごぜえます。掟に従《したげ》えますと、きまって、死骸や供え物が留守ちゅうになくなります。たぶん、あなたさまは、その次第《しでえ》をばお見届けになられたことでごぜえましょう」
そこで、夢窓は、朦朧とした、恐ろしい、その「|かたち《シェイプ》」のようなものについて、話して聞かせた。それが、死人の部屋へすうっとはいってきて、遺体や供え物をむさぼり食らったことについて。夢窓がはなすこの話を聞いても、だれひとり、驚く者はないらしかった。それから、家のあるじが言った。――
「ご出家さま、ただいまおっしゃったお話は、この一件について、むかしから言い伝えられていることと、そっくり一致しております」
夢窓は、そこで尋ねてみた。――
「あの山の上におられる坊さんは、ときには、村の死人のための葬いの儀式をとりおこなってはくださらんのですか?」
「どんな坊さんですか?」と、若いあるじが問い返した。
「昨晩、拙僧に、この村へ来る道を教えてくれた坊さんです」と、夢窓は答えた。「拙僧は、向こうの山の上にある、その坊さんの庵室《あんじつ》をたずねたのです。すると、その坊さんは、宿をことわりなすったかわりに、こちらへ来る道を教えてくれたのです」
聞いている人たちは、たまげたように、たがいに顔を見合わせた。そして、しばらくおし黙っていたあとで、家のあるじが言った。――
「ご出家さま。あの山の上には、坊さんなどおられはしませんし、庵室などありゃあしません。数代このかた、この村の近辺にいなすった在住の僧など、ひとりもありゃあしねえです」
夢窓は、このやりとりの論題については、それ以上もう何も言わなかった。なぜというに、自分を親切にもてなしてくれた人たちは、明らかに、こっちが何かお化けにでもだまされていると想像しているらしかったから。しかし、その人たちに別れの挨拶をして、つぎにこれから自分の行く旅の道についての必要な知識をすっかり聞き得たあとで、夢窓は、ひとつ、あの山の上の草庵をもういちどさがしてみよう、そうして自分が本当にだまされたのかどうかをたしかめてみよう、と決心した。かれは、なんの苦もなく、庵室を見つけた。すると、こんどは、その年老いた庵室のぬしは、中へおはいりなさいとすすめた。夢窓がそのとおりにすると、隠者は、夢窓の前に、うやうやしく低頭して、こう叫んだ。――「ああ! 恥じ入ります! ――まことに恥じ入るばかりでござる! ――なんともはや、恥じ入るばかりでござる!」
「拙僧に宿をおことわりなされたからといって、べつに恥じ入られたりなさるには及びません」と、夢窓は言った。「あなたが向こうの村へ行く道をお教えくださったので、その村でたいへん親切にもてなされました。それで、道をお教えいただいたご厚意にたいし、お礼を申しあげたく思います」
「わしは、どなたにも、宿をしてさしあげることのできぬ身でござる」と、その隠者は答えた。――
「それに、わしが恥じ入っているのは、宿をおことわりしたことのためではござらぬ。ただただ、貴僧がこのわしの本当の姿をお見届けなされたにちがいないゆえ、こうして恥じ入り申すでござる。――わけを申せば、昨夜、貴僧の眼前で、死骸や供え物を食らいつくしたのは、このわしでござった。……おわかりいただきたい、ご出家どの、わしは食人鬼《じきにんき》でござる。――人間の肉を食らうものでござる。なにとぞ、お慈悲をいただきたい。そして、この身がこうした境遇に成り果てるまでにいたった、秘密の罪業《ざいごう》を懺悔させてくだされい。
はるかのむかし、わしは、このさびしい地方の僧でござった。何里四方の間《かん》、わしのほかに、僧はひとりもおりませなんだ。それで、その当時、亡くなった山家《やまが》の衆の遺体といえば、かならずここに運ばれてきたものじゃった。――ときには、たいへんな遠方からも運ばれてきたものじゃった。――すべて、このわしの引導を受けてもらうためじゃった。しかるに、わしは、ただ商売仕事としてのみお勤めをくりかえし、儀式をおこなっているにすぎなかったのじゃ。――わしは、自分の聖なる天職が得させてくれる食物や着物のことばかり、常住、心に思うておりましたのじゃ。それで、この私利私欲の邪念のために、わしは、死ぬとすぐに、食人鬼の身に生まれ変わってしまったのでござる。その時以来、この地方で死んだ人たちの死骸を食らって、生きていかねばならぬ羽目《はめ》におちいり申したのじゃ。死骸という死骸を、ひとつ残らず、貴僧が昨夜ごらんになられたようにして、がつがつ食らいつくさねばならないのじゃ。……さて、ご出家どの。どうかお願いじゃ、このわしのために施餓鬼《せがき》の供養を修《しゅ》してくだされい。この恐ろしい境遇から、すみやかにのがれることのできるよう、お願いでござる、貴僧のご祈祷の力によって、このわしをお助けくだされい」
この嘆願のことばを言い終わるやいなや、隠者は、姿をかき消した。それと同時に、庵室もまた、姿を消した。そして、夢窓国師は、茂りに茂った草生《くさふ》のなか、たれやらの僧の墓とおぼしき、五輪石《ごりんいし》とよばれる形をした、苔《こけ》むした古い墓のかたわらで、ただひとり跪坐《きざ》している自分に気づいたのである。
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むじな
東京の、赤坂の通りに、紀《き》ノ国坂《くにざか》とよばれる坂道がある。――これは、紀伊の国の坂という意味である。なぜこの坂が紀伊の国の坂と呼ばれているのか、わたくしは、そのわけを知らない。この坂の片側には、深くて、たいへん広い、古くからのお濠《ほり》があり、それに沿って高い緑の堤がそそり立ち、その上がなにがしの庭園になっている。――そして、坂道の他の側《がわ》には、御所の、長くて、見上げるように高い塀が、ずうっとつづいている。まだ街燈や人力車のなかった時代には、このあたり一帯は、暮色がただようころになると、たいへんさびしいところであった。それで、帰りの遅くなった歩行者たちは、日が沈んでからのち、ひとりぼっちで、この紀ノ国坂をのぼったりするよりは、むしろ、わざわざ何町《なんちょう》もまわり道するのを常とした。
すべて、そのあたりをいつもうろついている、むじなのためであった。
そのむじなを見た最後の人は、京橋へんに住む、さる老年の商人であった。この人は、もう三十年ほども前に物故した。その人の語った話というのは、こうである。――
ある晩のこと、だいぶ遅くなった時刻に、その商人は、急ぎ足になって紀ノ国坂をのぼっていた。そのときに、かれは、ひとりの女がお濠ばたにかがんでいるのを、目にとめた。女は、たったひとりっきり、おまけにしくしく泣いているのである。こりゃあ身投げでもするつもりなのじゃあるまいか、と心配して、商人は足をとどめ、自分の力に及ぶ範囲のどんな助力でも慰めでも与えてやろうとした。その女は、ほっそりとして、上品なすがたかたちをしており、身なりもきれいであった。また、髪なども、良家の若い娘よろしくきちんと結《ゆ》われてあった。――「お女中《じょちゅう》」と、商人は、女に近寄って声をかけた。――「お女中。そんなにお泣きなさいますな! ……どんなお困りのことがあるのか、手前どもに話してごらんなさい。そのうえで、もしあんたをお助けする何かの道があるならば、喜んでお力になってさしあげましょう」(商人は、本心から、自分の言ったとおりのことをするつもりでいた。なぜならば、この人は、根がたいへん親切であったから)。しかし女は、泣きつづけていた。――その長い袖の片方でもって、商人には見えないように、自分の顔を隠して。「お女中」と、商人は、できるかぎりやさしい声をだして、ふたたび言った。――「どうか、どうか、手前どもの申すことをお聞きください! ……ここは、夜分に、若いご婦人がいなさるような場所じゃござんせん!――後生《ごしょう》だから、あんた、お泣きなさるな! ――どうしたら、少しでも、お力添えになり得るものか、それだけを言っておくんなさい!」 女は、おもむろに立ち上がった。しかし、商人のほうには背中を向けていた。そして、あいかわらず、袖のかげで、しくしく泣きじゃくりつづけていた。商人は、自分の手をかるく女の肩の上に置いて、かきくどくように言った。――「お女中! ――お女中! ――お女中! ……手前どもの言葉をお聞きなさい。ほんのちょっとの間でいいから! ……お女中! ――お女中!」……すると、そのお女中なるものは、くるっと、こっちへ向き直った。そして、その袖をはらい落とした。そして、片方の手で、自分の顔をぺろりと撫でた。――見ると、目も、鼻も、口もない。――きゃあっ、と悲鳴をあげて、商人は逃げだした。
一目散《いちもくさん》に紀ノ国坂を駆けのぼった。目の前は、すべて真暗で、何もない空虚であった。うしろを振り返ってみる勇気もなくて、ただひた走りに走りつづけた。すると、ようやく、ひとつの提灯《ちょうちん》が目にはいったが、なにしろはるか遠方にあるので、螢の光ぐらいにしか見えなかった。それで、かれは、そっちのほうへ進んで行った。その灯は、道ばたに屋台店をおろしていた、あるき売りの蕎麦屋《そばや》の提灯《ちょうちん》にすぎない、ということがわかってきた。しかし、あんな恐ろしい経験をしたあとでは、どんな明かりでも、どんな人間の仲間でも、ありがたかった。商人は、蕎麦売りの足もとに身を投げだし、そして叫んだ。「ああ! ――ああ!! ――ああっ!!!」……
「これ! これ!」と、蕎麦屋は、ぞんざいにどなった。「こりぁまあ! いったい、どうしたんだね? だれかに、ばっさりやられでもしたかね?」
「ちがう――だれにやられたんでもない」商人は、はあはあ息を切らしながら、そう言った。――「ただ……ああ! ――ああ!!」……
「――ただ、おどかされただけかね?」蕎麦売りは、いささかも同情するようすもなく、問いただした。「追いはぎにかね?」
「追いはぎじゃない。――追いはぎなんかじゃない」おびえ切っている男は、喘ぎながら言った。「見たんだ。……女を見たんだ――お濠ばたでな。――ところが、その女がおれに見せたんだ。……ああ! ――その女が何を見せたか、そいつは、とても言えない!」……
「へえ! その女がおまえさんに見せたってものは、それ、こんなもんじゃなかったかね?」と、大声でいいながら、蕎麦屋は自分の顔をぺろりと撫でた。そのとたんに、蕎麦売りの顔は、卵のようになった。……そして、それと同時に、明かりがぱっと消えた。
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ろくろ首
五百年近いむかし、九州の菊池侯に仕《つか》える家臣に、磯貝平太左衛門武連《いそがいへいだざえもんたけつら》という侍《さむらい》があった。この磯貝は、数代つづいた勇武のほまれ高い祖先から、武芸百般にたいする生まれながらの素質と、衆にぬきんでた剛力《ごうりき》とを、遺伝的に稟《う》けついでいた。まだ少年のうちに、かれは、剣術のわざにおいても、弓術においても、槍の術においても、師匠たちの腕前をはるかにしのいでしまい、そして、大胆かつ練達の武人のもつあらゆる力倆を発揮しおおせていた。そののち、永享《えいきょう》の乱のおりに、たいへんきわだった武功をあらわしたために、高い栄誉を授けられることとなった。しかし、菊池家が崩壊に逢着するにおよんで、磯貝は、主君を失った。そのとき、かれは、ほかの大名に仕えようと思えば、容易にできたはずであった。しかし、かれは、おのれ一身のためだけに出世栄達を求めるなど、けっして願おうとしなかったのである。そして、かれの心は、なおも、先君にたいする忠誠を保ちつづけていたので、むしろ俗世を捨てることのほうを選びとった。そこで、かれは髪を切りおとし、行脚僧《あんぎゃそう》となった。――そして、法名を回龍《かいりょう》と称した。
しかし、回龍は、坊《ぼん》さんの「|ころも《ヽヽヽ》」の下でも、常住《じょうじゅう》、侍の魂をあかあかと燃やしつづけていた。過ぎし年々《としどし》に危難危害を鼻であしらったと同じように、そのように、今はまた厄難厄害をあざわらうのであった。そして、いかなる天候であれ季節であれ、そんなことには頓着なく、ほかの僧侶ならばあえて行こうとしない僻地へも足を踏み入れて、仏法を説くための旅をつづけるのであった。それというのも、その時代は暴力と無秩序の時代であったからである。そして、街道では、たといその身が僧侶であろうと、およそ、一人旅《ひとりたび》をする人間にとって、安全でいられるという保証は何もなかった。
最初に長い廻国《かいこく》の旅に出た途中、回龍は、たまたま甲斐の国を訪れたことがあった。ある夕方、この国の山間を旅しているうちに、どちらの村からも数里をへだてた、はなはだ寂しい所で、急に暗くなってしまった。それで、回龍は、すっかり観念して、星の下で一夜をあかすことにした。そして、道ばたの適当な草地を見つけて、そこへ身を横たえ、さてこれから眠りにつこうとしていた。回龍は、つねに、不自由を喜び迎えたものだった。そして、むきだしの裸岩《らがん》といえども、他にそれ以上のものが見つからぬときには、かれにとっては、よい寝床となった。そして、松の木の根っこは、このうえもない枕となった。回龍の肉体は鉄であった。そして、かれは、かつて、露や雨や霜や雪のために心を悩ましたことがなかった。
回龍が横になるかならぬうちに、ひとりの男が、一ちょうの斧と一束《ひとたば》の大きな薪とをかついで、道ぞいにやって来た。この木こりは、回龍が横になっているのを見て、足をとめた。そして、しばらく、黙って打ち眺めていたあと、ひどく驚き入った口調で、こう言った。――
「まあよう、おめえさま。こんげ場所によう、ひとりで寝る勇気をおもちのおめえさまは、いってえぜんてえ、どんなお方《かた》さんであらっしゃるずら? ……このあたりには毛むくじゃらの変化《へんげ》が出るだよ。――えら、たんと出るだよ。おめえさまは、魔物《まもの》はおっかなかあねえだかよ?」
「ご親切さま」と、回龍は快活に答えた。「わしは、ただの行脚僧じゃ。――世間の衆の呼び方でいえば『|雲水の旅客《ヽヽヽヽヽ》』じゃ。されば、わしは、魔物をなんぞ、いっこうに恐れはいたさぬ。――おぬしの言っておるのが、化け狐であれ、化け狸であれ、そのほか、それに類するいかなる化けものであれ、いっこうに恐れぬ。寂しい場所はどうかと申せば、わしは、かえって、そういう所を好むのじゃ。そういう場所は、黙想をするのにもってこいなのじゃ。わしは、野天で寝ることには、慣れっこになっておる。わしは、永年の修行を積んでまいって、おのが生命については、いっさい、心を煩《わずら》わさぬようになっておるのじゃ」
「ご出家さまよ。おめえさまは、しんじつ、肝っ玉のふてえお方《かた》であらっしゃるにちげえねえだよ」と、その田舎人《いなかびと》は答えた。「こんげ場所に寝ちまおうなんてよう! この場所は、悪いうわさのあるとこ――えら悪いうわさのあるとこだ。だがよ、諺《ことわざ》にいうように『君子危きに近寄らず』〔卓越した人物は、不必要に身を危険にさらしたりはしないものだ〕てえことがあるだ。そんで、お坊さまよ、おらあ、おめえさまに言っときてえだが、こんげ場所で寝るちゅうこたあ、えら危険であるだ。そんだからよ、おらの家はほんのあばら屋であるだが、どうぞおめえさま、おらといっしょにすぐに来てもれえてえだよ。食べものといっては、これといって差しあげるようなものは何もねえだがよう。だが、すくなくとも屋根だけは葺《ふ》いてあるだから、おめえさま、その屋根の下にいろば、安心して寝ることはできるだよ」
木こりは、熱心に言うのだった。そして、回龍は、この男の親切な語調が気に入ったので、このつつましい申し出を受けいれた。木こりは、先頭に立ち、本道からそれて山林の間をとおり抜け、さらにいっぽんの狭い小径《こみち》を案内してのぼって行った。それは、でこぼこの、危険な小径であった。――あるときには、断崖絶壁のへりをとおったり、――あるときは、足がかりにするのに、滑りやすい木の根の網状になったものだけしかなかったり、――あるときは、ぎざぎざに尖った岩のかたまりの上や間をうねりくねったり、とにかく、そんな危険な小径であった。しかし、とうとう、回龍は、ひとつの山の頂きにある、木を切って開墾した場所へ出た。そこへ出ると、満月が頭上に照り輝いていた。そして、かれは、自分の前に、一軒のささやかな草ぶき屋根の小家があって、そこから賑《にぎ》やかに灯影《ほかげ》がもれているのを、目にした。木こりは、その家の裏にある物置き小屋へ、回龍を案内した。そこへは、どこか近くの流れから、竹の筧《かけい》で水が引かれてあった。そして、ふたりは足を洗った。物置き小屋の向こうには野菜畑があり、さらに杉の小森と竹藪とがあった。そして、木立ちの向こうに、一条の小滝がちらちら微光を放っているのが見えた。この小滝は、どこかずっと高い所から落ちてきているのである。それは、月の光のなかで、長い白衣さながらに、ゆらゆら揺らいで見えた。
回龍は、自分を案内してくれた男とともにその家にはいっていったとき、四人の人たち――男女たち――が、いちばんの広間にある「炉」に燃やされている少しばかりの火で手をあたためているところを、目にした。かれらは、僧に向かって低頭し、おそろしく鄭重《ていちょう》な態度で挨拶をした。回龍は、こんなに貧しく、こんなに人里離れたところに住んでいる人たちが、上品な挨拶の仕方をわきまえていることを、不思議に思った。「これはりっぱな人たちだ」と、かれは、心のうちでそう思った。「だれかよく礼法に精通している人物から学んだものに相違ない」。それから、主人――ほかの者たちが「|あるじ《ヽヽヽ》」と呼んでいる家長である――のほうを向いて、回龍は言った。――
「貴殿の親切なお言葉や、ご一家の方《かた》からかたじけのうしたきわめて鄭重なご歓迎ぶりから、拙僧、推察申しあげまするに、貴殿は必ずしももとからの木こりであられたわけではありますまい。おそらく、貴殿は、以前には上層階級に属する方だったのではござらぬか?」
微笑しながら、木こりは答えた。――
「ご出家どの。ご推察に誤りはございませぬ。今でこそ、貴僧がごらんのとおりの暮らしをいたしおりますが、これでも小生は、かつては相当の貴顕|縉紳《しんしん》の者のひとりでございました。小生の一代記は、破滅の生涯――自業自得で破滅におちいった生涯の一代記でありまする。小生は、もとは、さる大名に仕えておりまして、お役の序列もまずは相当のものでございました。だが、小生は、度が過ぎるほどに酒色にふけりました。そして情熱のおもむくがままに、不埒《ふらち》にも悪行《あくぎょう》を犯してしまいました。自分の勝手気ままから家の破滅を招き、たくさんの人間を死亡させる原因をつくってしまったのでございます。その報いは、すぐにやってまいりました。そして、小生は、永年、この土地に|落ち人《おちうど》となってとどまっているのでございます。今では、自分が犯した悪事にたいする何らかの償《つぐな》いをはたし、祖先の家名を再興することがかなうようにと、それをたびたび祈っておりまする。だが、それをやりおおせる道はついに見いだし得ぬのではないかと、小生、じつは危惧いたしおります。さはさりながら、小生は、心からなる懺悔をすることによって、また、不幸なひとびとを力のおよぶかぎりお助けすることによって、おのが罪障ゆえに負う業《ごう》に打ち勝ちたいと、しかく努力いたしおる次第でございます」
回龍は、この善なる決心の告白を聞いて、うれしく思った。そして、|あるじ《ヽヽヽ》に向かって言った。
「ご主人。拙僧は、若い時分に愚行を犯しがちであった人物が、後年になって、こんどは正しい生き方をすることのほうにきわめて熱心になる、という事例を、ときたま見聞しておるでござる。経文のなかにも説かれておりまするが、悪行《あくぎょう》にもっとも強い人間は、りっぱな決心しだいでは、こんどは善行《ぜんぎょう》にもっとも強い人間となり得るものでござる。貴殿が善なる心をお持ちでおられることは、拙僧、ゆめ疑い申さぬ。されば、いかにかして、貴殿の身に良運がおとずれ来たるよう、念願申しあぐるものでござる。こよいは、拙僧、貴殿のために読経をして進ぜましょう。しかして、貴殿が、過去の罪障ゆえに負う業《ごう》に、みごと打ち勝つ力を得られますよう、祈祷をして進ぜましょう」
こういった確言をしてから、回龍は、|あるじ《ヽヽヽ》に向かって就寝の挨拶をした。そして、主人は、すこぶる小さな、脇の部屋へ、かれを案内した。そこには、寝床が用意されてあった。やがて、坊さん以外の者は、すべて眠りについた。坊さんは、行燈《あんどん》の明かりのそばで、読経をはじめた。おそくまで、かれは読経しつづけ、祈祷しつづけた。それから、かれは、その小さな寝間の窓をあけて、床につく前にもういっぺん景色を眺めようとした。夜は美しかった。空には雲もなく、風もなかった。そして、強い月光は、樹木の葉簇《はむら》のくっきりとした黒い影を地に落とし、庭の露のうえにもきらきら輝いていた。こおろぎや鈴虫の鳴き声は、騒がしい音楽となって聞こえた。そして、近くの小滝のとどろきは、夜のふけるとともに深まっていった。回龍は、その水の音に耳を傾けているうちに、のどの渇きをおぼえた。そして、家の裏に竹の筧《かけい》があることを思い出し、眠っている家人を妨げずに、そこへ行って水をひと口飲んでこようと、そう思った。静かにそっと、自分の寝間と広間とを仕切ってある襖をあけた。すると、行燈のあかりで、横たわっている五つの胴体が、目にはいった。――どれも、首がないのだ!
一瞬のあいだ、回龍は、困惑して立ちつくした。――こりゃあ、犯罪がおこなわれたんじゃないか、と想像して。しかし、つぎの瞬間には、そこに血が流れていないことに気づいた。さらに、頭のないその頸部が刃物で切られたようには見えないことに気づいた。それから、かれは、心のうちで考えた。――「これは、化けものがつくりだした幻であるか、それとも、このわたし自身がろくろ首の|栖み家《すみか》におびきこまれたことなのだ。……『捜神記《そうじんき》』という書物に、もし頭のないろくろ首の胴体を見つけたならば、その胴体をほかの場所へ移してしまうがよい、そうすれば、頭は二度とふたたび頸部にくっつくことができなくなるであろう、と記述されてある。そして、さらにその書物には、頭が戻ってきて、自分の胴体が動されてあることに気がつくと、その首は、自分で床《ゆか》に三度|体当《たいあ》たりをして、――毬《まり》みたいにぼうんぼうんと跳ねかえりながら、――そして、ひじょうな恐怖に襲われているみたいに、荒い息使いをするであろう、そして、やがて死ぬであろう、とも記述されてある。ところで、もし万が一、こいつらがろくろ首であるとしたならば、自分にたいして禍《わざわい》をなす魂胆《こんたん》なのだ。――それならば、この書物の教えどおりにしても差し支えはなかろう」……
回龍は、|あるじ《ヽヽヽ》の足をひっつかみ、その胴体を窓まで引っぱっていった。そして、そいつを家の外へ押し出した。それから、かれは、裏口へ行ってみたが、そこの戸には閂《かんぬき》がおろしてあるとわかった。そして、かれは、こりゃあ首どもは、あけっぱなしになっている屋根の煙出しからぬけ出していったんだな、と推量した。しずかに戸の閂をはずして、かれは庭へ出た。そして、できるだけ用心しながら、庭の向こうにある木立ちのほうへ進んで行った。木立ちのなかで話し声がするのを、聞きとめた。そして、かれは、その話し声のする方向へ向かって行った。――影から影へとつたって忍び歩きながら行き、ついに恰好《かっこう》の隠れ場所へ着いた。やがて、一本の樹の幹の背後からのぞいて、かれは、首が、――五つ全部の首が、――そこらを飛び回り、そして飛び回りながらしゃべっている光景をとらえ見た。それらの首は、地面の上や樹木の間で見つけた長細《ながっぽそ》い虫や昆虫を、むしゃむしゃ食べているのである。やがて、|あるじ《ヽヽヽ》の首が、食べるのをやめて、こう言った。――
「ああ、今夜やって来たあの旅の坊主め! ――なんとまあ、全身よく肥え太っているじゃねえか! あいつを食らいおおせたら、おれたちの腹は、さぞふくれることだろうなあ。……さっき、あんなことを言っちまったりして、おらあ、ばかをみたよ。――おかげで、おれの魂のために、読経をさせる仕儀になった、というだけのことさ! あいつが経をよんでいるうちは、近よるこたあむずかしいやな。あいつが祈祷をしているかぎり、触わることもできゃあしねえやな。だが、今はもう朝に近いから、たぶん、あいつも眠ったろう。……おまえたちのうち、だれか、家へ行って、あいつが何をしているか、見届けて来てくれねえか」
ほかの首――若い女の首――が、すぐに立ち上がり、蝙蝠《こうもり》のように軽やかに、家のほうへと飛んで行った。二、三分ののち、それが帰って来て、ひどく驚愕した調子で、しゃがれ声をふりしぼって叫んだ。――
「あの旅の坊主めは、家の中にはおりませぬぞ。――やつめ、失せましたぞな! だけど、それがいちばんの変事なのではありません。やつめ、|あるじ《ヽヽヽ》どのの胴体を持って行ってしまいましたぞな。そして、どこへそれを置いたものか、わたしにはわかりません」
この知らせに接するや、|あるじ《ヽヽヽ》の首は――月光のなかではっきり見えたのである――おそろしい形相《ぎょうそう》になった。その眼は、奇怪に見ひらかれた。その髪は、逆毛《さかげ》だった。その歯は、ききっと軋った。それから、一つの叫びが、唇からほとばしり出た。そして――憤怒《ふんぬ》の涙を流しながら――こう言って、どなった。――
「おれの胴体が動かされてしまった以上、もとどおりくっつくことはできない! そうなれば、おれは死ななけりゃならない! ……すべてみな、あの坊主めの仕業だ! 死ぬ前に、おれは、あの坊主にくらいついてやるぞ! ――やつを引き裂いてくれる! ――やつを貪《むさぼ》り食らってやるわ! ……ややっ、やつめがいる――あの木のうしろだ! ――あの木のうしろに隠れているぞ! やつを見ろ! ――あのでぶの卑怯者めが!」……
同時に、あるじの首は、他の四つの首を従えて、回龍めがけて飛びかかってきた。しかし、力の強い僧は、一本の若木を引きぬいて、すでに戦闘準備をととのえていた。そして、その木でもって、かかってくる首どもをなぐりつけ、――そして、すさまじい力で打ちまくり、手もとに寄せつけなかった。四つの首は逃げ去った。しかし、|あるじ《ヽヽヽ》の首だけは、なんどもつづけざまに乱打されたのだけれども、なおも死に物狂いになって僧に飛びついていき、最後に衣の左の袖に食いついた。しかしながら、回龍のほうでも、すばやく髷《まげ》をひっつかみ、その首をさんざんになぐりつけた。その首は、食らいついたまま、どうしても袖から離れなかった。だが、長い呻き声をあげ、それからは、じたばたするのをやめた。首は死んだのであった。しかし、その歯は、なおも袖に食いついていた。そして、回龍のありったけの力をもってしても、ついに、その顎《あご》をこじあけることができなかった。
袖に首をぶらさげたまま、かれは、家に引き返していった。そして、その家において、ほかの四つのろくろ首が、それぞれに打撲傷を受け、まただらだらと血を流している頭部をば、もとどおり胴体にくっつけて、身を寄せ合いながらうずくまっている光景を、とらえ見たのであった。しかし、裏の戸口に回龍の姿があらわれたのに気づくと、みんなは「坊主だ! 坊主だ!」と叫び、――そして、反対がわの戸口から、森のほうへと逃走して行った。
東のほうの空が白んできていて、夜が明けるところであった。回龍は、化け物が力をふるうのも夜闇の時間だけに限られる、ということを知っていた。かれは、自分の袖にくっついて離れない首を見た。――その顔は、血と泡と泥とで、すっかり汚れていた。そして、かれは、心のうちで「なんという|みやげ《ヽヽヽ》だろう! ――化け物の首とは!」と考え、声高《こわだか》にうち笑った。そのあと、かれは、わずかばかりの所持品をまとめ、そして、行脚をつづけるために、ゆっくりと山をくだった。
そのままずっと旅をつづけて、やがて信濃の諏訪へ来た。そして、諏訪の本通《ほんどお》りを、衣の肘に首をぶらさげたまま、まじめくさって闊歩《かっぽ》していた。それで、女たちは気絶し、子供たちは悲鳴をあげて逃げ出した。そして、ものすごく人だかりがし、また、ものすごい騒ぎになってきたので、ついに、|とり手《ヽヽヽ》(当時の警官は、そう呼ばれていたのであるが)がこの坊さんを捕らえて、牢へ連れて行った。というのは、その首は殺された男の首であり、その男が殺される瞬間に殺害者の袖に噛みついたものである、と考えられたからだった。回龍はといえば、尋問されたときにも、ただにやにや笑っているばかりで、ひとことも言わなかった。それで、一夜を牢屋ですごしてから、かれは、土地の奉行《ぶぎょう》の前にひき出された。それから、僧侶の身でありながら、なにゆえに人間の首を自分の袖にくっつけたりしておるのか、また、なにゆえあって衆人の面前で厚顔にも自分の罪悪の見せびらかしをあえていたすのか、その仔細《しさい》をば申し立ててみよ、と命ぜられた。
回龍は、これらの尋問にたいして、ながながと高笑いするだけであった。それから、かれは言った。――
「お役人がた。拙僧がこの首を袖にくっつけ申したのではござらぬ。首のほうから勝手にそこへくっついてきたのでござる。――まったく、拙僧の意志に反してでござる。しかして、拙僧は、なんの罪も犯してはおらぬのでござる。と申すわけは、これは人間の首ではなく、化け物の首であるからでござる。――それに、よしんば、拙僧がこの化け物を死なせたといたしましても、拙僧はいかなる刃傷沙汰《にんじょうざた》も起こしたのではなく、じつは、わが身の安全を図るのに必要な用心をしたまでのことでござる」……そう言って、かれは、冒険談の一部始終を語りはじめた。――そして、五つの首との格闘を述べたとき、もういちど、からからっと、腹の底からの大笑いをした。
しかし、奉行所の役人たちは笑わなかった。かれらは、この者は常習化した極悪犯人《ごくあくはんにん》で、この者の話は奉行所の見識《けんしき》を凌辱《りょうじょく》するものである、と判断した。それで、もうこれ以上は尋問することをやめ、即刻死罪を申し付くという決定をした。――一同のなかで、ただひとり、ひじょうに年をとった役人だけが例外だった。この年老いた役人は、裁判がすすむあいだ、ひとことも言わなかった。だが、同役の者たちの意見を聞き終わってからあと、立ち上がって、こう言った。――
「まず、問題の首を念入りに検分したらいかがでござるな。と申すは、拙者考うるに、この検分がまだすんでおらぬゆえでござる。かりにもこの僧が真実を申し立てておるならば、問題の首そのものが、何よりの証拠物件となるはずでござる。……その首をここへ持ってまいれ!」
そこで、回龍の肩からぬがせた|ころも《ヽヽヽ》になおも噛みついたままでいるその首が、奉行たちの前に置かれた。老役は、その首をぐるぐる回して、注意深くそれを調べた。そして、首筋のところに、いくつかの奇妙な赤い字体のあるのを発見した。かれは、これら赤い字体のあることに、同役たちの注意をうながした。そして、また、首のへりのどこにも兇器で切られたらしき痕跡のないことをよく観察なされよと、命令するように言った。それどころか、その首の切断面は、あたかも落ち葉が葉柄《ようへい》から自然に離れた跡みたいに、すべすべして滑らかであった。……やがて、その老役は言った。――
「この坊さんがわれわれに申し立てたことは真実以外の何物でもないと、そう拙者は確信いたす。これはろくろ首でござる。『南方異物志』という書物に、本当のろくろ首の首筋には、かならずある種の赤い字体が見られる、と記述されてある。ほれ、この首にはその字体がある。それが描かれたものでないということは、おのおの方《がた》、ご自分の目で検《たしか》めて承知なされたはずでござる。そのうえ、甲斐の国の山中には、このような化け物が、はるかの昔より棲息いたしおるとは、ひろく知られるところでござる。……だが、それにしても、ご出家どの」と、老役は、回龍のほうに向き直りながら、大声で言った。――「貴僧は、なんと豪勇なお坊さまであられることかのう? たしかに、貴僧は、お坊さまにはめずらしい勇気を示されたのでござる。貴僧は、お坊さまの風《ふう》というよりは、武士の風《ふう》をお具《そな》えでございますな。さだめし、貴僧は、以前は|さむらい《ヽヽヽヽ》階級に属しておられたのでござろうな?」
「いかにも貴殿のご推察どおりでござる」と回龍は答えた。「拙僧、仏門に入ります以前は、久しく弓矢取る身分でござった。して、その時分には、人間も鬼神もけっして恐れなかったものでござる。拙僧、当時、名は九州の磯貝平太左衛門|武連《たけつら》と申しました。みなさまがたのなかには、あるいは、その名をご記憶の方《かた》もあろうかと存じまする」
その名前が名のられると、感嘆のささやきが、法廷いっぱいに湧きおこった。というのは、その名を記憶している人がたくさん居合《いあわ》せたからであった。そして、回龍は、これまでの裁き手が、たちまち変じて友人となり、自分を取り囲んでくれているのを知った。――かれらは、兄弟のような親切をつくしてしきりに感嘆を表わそうとする、友人となっていたのであった。かれらは、うやうやしく付き添って、回龍を大名の屋敷までつれて行った。大名は、かれを歓迎し、ご馳走をし、気前のいい贈り物をしてから、出発を許可した。回龍が諏訪を出立《しゅったつ》したとき、かれは、このさだめなき仮りの世で、およそどの僧にも許されていないほどの幸福にひたったのであった。首はといえば、かれは、やはりそれを携えて行った。――ふざけるみたいに、拙僧はこれを|みやげ《ヽヽヽ》にいたすつもりでござる、と言い張りながら。
さて、その首はその後どうなったか、その話だけが、まだ語られずに残っている。
諏訪を出立してから一日か二日して、回龍は、ひとりの盗賊に出くわした。その盗賊は、あるさびしいところで、回龍を呼び止め、衣類を身ぐるみぬいでいけと命じた。回龍は、ただちに自分の|ころも《ヽヽヽ》をぬいで、盗賊に差しだした。盗賊は、そのときはじめて、袖にぶらさがっているものに気がついた。この追いはぎは、大胆不敵なやつだったが、さすがにぎょっとした。ころもを取り落とし、飛びのいた。それから、かれは叫んだ。――「やい、てめえ! ――てめえは、まあ、なんちゅう坊主だ? いやはや。てめえは、おいらより一枚うわての悪党だあな! なるほど、おいらも、これまでに人を殺したことはある。だが、おいらは、袖に人の首をくっつけて歩き回ったこたあねえやな。……なあよ、お坊さまよう、おいらたちゃあ、どうやら、同じ商売《しょうべえ》仲間らしいぜ。そんで、おいらは、てめえにゃあ感心せずにはいられねえやな! ……ところで、その首は、おいらの役に立ちそうだぜ。おいらは、そいつを使って、人をおどかせるってわけよう。てめえ、そいつを売っちゃあくれねえか? てめえの|ころも《ヽヽヽ》と交換に、おいらのこの着物をてめえにやるべえじゃねえかよ。そんで、その首のほうの代金として、五両出すべえ」
回龍は答えた。――
「そなたが是非にと言うなら、首も法衣も進ぜよう。だが、ことわっておかねばならぬが、これは人間の首ではないのじゃぞ。これは化け物の首なのじゃぞ。それだから、そなたがこれを買って、その結果、のちのち困ったことが起こっても、拙僧にだまされたなどと思ってはいけないぞ、そのことをよくおぼえておいてもらいたい」
「なんちゅうおもしれえ坊主なんだ、てめえは!」と、追いはぎが叫んだ。「てめえは、人を殺しといて、それを茶化《ちゃか》していやがるんだからな! ……だが、おいらは、まったく本気なんだ。さあ、おいらの着物はここにあるぜ。それから、金はここへおくぜ。――じゃあ、その首をこっちへよこしねえ……冗談《じょうだん》なんかいいやがって、なんの役にも立ちゃあしなかったんべえ?」
「それを持って行くがよい」と回龍は言った。「拙僧は冗談など言ってはおらぬ。ただ一つの冗談は――といっても、もしも冗談に値するものがあるとすればの話じゃが――そなたが大金を出して化け物の首を買うなんて、いかにも馬鹿げていておかしい、というぐらいのものじゃ」そう言って、回龍は、声高らかに笑いながら、すたすた立ち去って行った。
このようにして、盗賊は、首と|ころも《ヽヽヽ》とを手に入れた。そして、しばらくのあいだ、化け物坊主になりすまして、街道で悪事をはたらいた。しかし、諏訪の近くにやって来て、そこで、この首についての本当の来歴譚を聞いた。そして、そのときから、ろくろ首の亡霊が自分に祟《たた》りはしないかと、おっかなくなってきた。そこで、盗賊は、この首を、もとの出どころへ運びかえして、その胴体といっしょに埋葬してやろう、と決心した。かれは、甲斐の山中の、あのさびしい小家へ行く道を、ようやく見つけた。しかし、そこには、だれもいなかった。そして、胴体を発見することもできなかった。それゆえ、かれは、首だけを、小家のうしろの木立ちのなかに埋めた。そして、墓には、ひとつの墓石を建てさせた。そして、このろくろ首の亡霊のために、施餓鬼の供養を修してもらった。そして、その墓石――ろくろ首の塚として知られているが――は、こんにちもなお見られる。(すくなくとも、日本の物語作者は、そう明言している)
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葬られた秘密
ずっと昔のこと、丹波の国に、稲村屋源助《いなむらやげんすけ》という富裕な商人が住んでいた。この人に、お園とよばれる娘があった。お園はたいへん賢く、また器量よしであったので、源助は、この娘をば、田舎の師匠にもやれる程度の教育をほどこすだけでいちにんまえに仕立てあげるなど、いかにもふびんではないかと、そう思った。それで、信用のおける付き添い人をいくたりかつけて、娘を京都へやり、みやこの婦人衆が習得するはずの上品な行儀作法を仕込ませた。こうして、ひととおりの教育を受けたのち、お園は、父方の知り合いのひとり――長良屋という商人のもとにかたづけられた。――そして、かれこれ四年ばかり、夫としあわせに暮らした。夫婦のあいだには、ひとりの子ども――男の子ができた。しかし、お園は、結婚してから四年目に、病気にかかって死んだ。
お園の葬式がすんだ晩、小さい息子が、かかさまが帰ってきやはった、二階のお部屋にいやはるで、と言った。かかさまは坊やを見てにっこりしたが、しかし、ものを言おうとしない。それで、坊やは、こわくなって逃げだしたのであった。そこで、家の者がなんにんか、存命ちゅうお園の部屋として使われていた、その二階の部屋へ行ってみた。すると、その部屋の仏壇の前にともされた小さな燈明の光によって、その死んだ母親の姿が見えたので、みんなは、びっくりしてしまった。お園は、自分の装身具や衣類がまだはいっている箪笥《たんす》、すなわち、抽斗《ひきだし》になっている箱の前に立っているように見えた。頭から肩のあたりにかけては、じつにありありと見えているのだが、腰から下のほうは、形がだんだんに薄くなっていって、ついには見えなくなっていた。――それは、鏡か何かに写った彼女の不完全な映像のようであり、しかも、水面に浮かんだ影のように透きとおっていた。
そこで、ひとびとは、おっかなくなってしまい、部屋を出た。階下へ行って、みんなで相談をした。すると、お園の姑《しゅうとめ》がこう言った。「女いうものは、自分の身につけるこまごましたものが好きなもんや。それに、お園は、自分の持ち物にえらい愛着をもっておったさかいな。おおかた、あの子も、それを見にもどって来たんやないか思う。亡くなった人は、よう、そないことをするもんや。――そないこまごました品物を、ちゃんと、檀那寺《だんなでら》へ納めずにおかんうちはな。うちでも、お園の着物や帯を、お寺さんに納めたら、あれの霊魂もきっと休まるのとちがうか」
できるだけ早くそうしよう、ということに、相談がまとまった。それで、その翌朝、抽斗《ひきだし》は空っぽにされ、お園の装身具や衣類は、ひとつ残らず、寺へ運ばれた。ところが、お園は、翌日の晩も戻ってきて、これまでのように、箪笥にじっと見入っていた。さらに、お園は、そのつぎの晩も、またそのつぎの晩も戻ってきた。毎晩、戻ってきた。――そして、この家は、恐怖の家となってしまった。
そこで、お園の母は檀那寺《だんなでら》へ行った。そして、住職に、起こった事がらの全部を話して聞かせ、|霊魂管理者としての意見《ゴーストリー・カウンセル》をもとめた。その寺は、禅宗の寺であった。住職は、大元和尚《だいげんおしょう》として知られた、学識高き老僧であった。和尚はこう言った。「その箪笥《たんす》のなかか、さもなくば、その近くに、なにか仏の気にかかるものがあるに相違ござらぬ」――「けど、抽斗は、すっかり空《から》にしてしもてありますわ」と、老婦人は答えた。――「箪笥のなかには、なもあらへんのですわ」――「よろしい」と、大元和尚は言った。「今晩、拙僧がお宅にあがり、その部屋で見張り番をいたし、いかがすればよきものかを見とどけるでござろう。拙僧が見張りをしておるあいだ、拙僧のほうから呼ばるまでは、どなたもその部屋にはいらぬよう、そのことを、あなたからお言いつけおきいただきたい」
日が沈んでから、大元和尚は、その家へ行った。すると、その部屋は、和尚のために、用意をととのえてあった。和尚は、お経《きょう》を読みながら、そこにひとりきりでいた。|子の刻《ねのこく》すぎまでは、何もあらわれなかった。やがて、お園の姿が、とつぜん、箪笥の前にあらわれた。その顔はもの思いに沈んでいるようすで、両眼をじっと箪笥のうえに注ぎつづけていた。
和尚は、かかる場合に誦《ず》するよう定められている経文《きょうもん》をとなえ、さて、それから、お園の戒名を呼んで、その姿に話しかけ、こう言った。――「拙僧は、そなたの力になって進ぜようとて、ここへやってまいった。たぶん、あの箪笥のなかには、そなたが気がかりにするのも無理からぬ何かがあるのでござろう。拙僧が、ひとつ、そなたのために探して進ぜようか?」
その影は、頭をすこし動かして、同意したようであった。それで、和尚は立ちあがり、いちばん上の抽斗《ひきだし》をあけた。それは空《から》であった。つづいて二番目、三番目、四番目と、和尚は、つぎつぎに抽斗をあけてみた。――和尚は、そのうしろ側や底を、気をつけて探した。――さらに、箱の内側までも、念入りに調べてみた。和尚には、なにも見つからなかった。けれども、お園の姿は、前と同じように、なおももの思いに沈んだみたいに、じっと凝視をつづけている。「いったい、どうしてもらいたいのかな?」と和尚は考えた。ふいに、こりゃあ、抽斗の内側を中張《なかば》りしてある紙の下に何かが隠されてあるのかもしれないぞ、という考えが浮かんだ。和尚は、いちばん上の抽斗の中張りの紙を取りのけてみた。――何もない! 二番目、三番目の抽斗の中張りの紙も取りのけてみた。――やはり、何もない。ところが、いちばん下の抽斗の中張りの紙の下に、ついに見つけだした。――一通の手紙であった。「そなたが心を悩ましておったは、これでござるか?」と和尚は尋ねた。女の影は、和尚のほうを向いた。――そのよわよわしい凝視は、その手紙に釘づけにされている。「拙僧が、こいつを焼いて進ぜようか?」と和尚は尋ねた。お園は、和尚のまえに頭をさげた。「さっそく、今朝《こんちょう》、寺にて焼いて進ぜよう」と、和尚は約束した。――「拙僧のほかは、だれにも読ませたりはいたさぬ」その姿は、にっこりほほ笑んで、消え去った。
和尚が梯子段をおりたときには、夜は明けかけていた。階下では、家の者たちが、心配そうに待っていた。「お案じなさることはない」と、和尚は、みんなに言った。「嫁御《よめご》どのは、もはや二度とあらわれはせんじゃろう」そして、お園は、ついに姿をあらわすことはなかった。
その手紙は焼かれた。それは、お園が京都で修業していた時分にもらった恋文であった。しかし、どんなことがそのなかに書いてあったか、ということについては、和尚ひとりだけが知っていた。そして、その秘密は、和尚が死ぬとともに、葬られたのであった。
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雪おんな
武蔵の国のある村に、茂作と巳之吉《みのきち》という、ふたりの木こりが住んでいた。この話のあったころ、茂作はもう老人であった。そして、巳之吉は、その年季奉公人で、十八歳の若者だった。ふたりは、毎日、村から二、三里ほど離れた森へ、つれだって出かけて行った。その森へ行く途中に、いやでも渡らなければならぬ大きな川がある。そして、そこには渡し舟がある。その渡しのあるところには、これまで、いくたびも橋がかけられたのであった。しかし、橋は、そのつど、大水のために押し流されてしまった。川の水嵩《みずかさ》が増してくると、普通の橋なんかでは、とうてい、その急な流れを持ちこたえることができないのである。
茂作と巳之吉は、あるたいへん寒い夕方、家路についていた。このときに、ひどい吹雪が、ふたりに襲いかかってきた。ふたりは、渡し場にたどり着いた。すると、わかったことだが、渡し守は、舟を川の向こう岸におきざりにしたまま帰って行ってしまったのである。とうてい泳げるような日ではなかった。それで、ふたりの木こりは、渡し守の小屋のなかに避難した。――そして、どんなものであれ、ともかく難を避ける場所の見つかったことはさいわいだ、と思った。ところが小屋のなかには火鉢ひとつなく、また火をたくような場所もなかった。茣蓙《ござ》が二つ敷いてあるきりの小屋で、入り口もひとつしかなく、窓などもまったくないのだった。茂作と巳之吉とは、戸をしっかり締めると、蓑《みの》をかぶり、ごろりと横になって休んだ。はじめのうちは、さほどきびしい寒さとも感じなかった。そして、吹雪もじきにやむだろうと思っていた。
老人はまもなく眠りにおちた。しかし、少年の巳之吉は、長いこと目をさましていて、おそろしい風の音や、戸に吹きあたる雪のたえまない音に、耳をかたむけていた。川は、ごうごうと鳴っていた。そして、小屋は、さながら海上の小舟のように揺れうごき、ぎいぎい軋《きし》んだ。それは恐ろしい吹雪であった。そして、空気は刻一刻と冷えてきた。そして、巳之吉は、蓑のしたで、ぶるぶる震えていた。しかし、とうとう、そんな寒さにもかかわらず、かれもまた眠りにおちてしまった。
顔のうえに、雪がさかんに降りかかるので、巳之吉は目をさました。小屋の戸は、むりにこじあけられてあった。そして、雪の光線(日本語で「雪明かり」という)をとおして、かれは、ひとりの女が、――すっかり白装束に身をかためた女が、小屋のなかにいるのを見た。女は、茂作のうえに身をかがめて、息を吹きかけていた。――そして、その女の息は、きらきら輝く白色の煙みたいであった。ほとんどそれと同時に、女は、巳之吉のほうをふり向き、かれのうえに身をおっかぶせてきた。巳之吉は、叫び声をあげようとしたが、すこしも声が出ないことに気づいた。白い女は、巳之吉のうえに、だんだんに低くかがみこんできて、とうとう、あとすこしで、その顔が巳之吉に触れそうになるまでになった。見ると、その女は、たいへんに美しい。――その目が、こっちをぞっとさせるほどに恐ろしかったけれども。しばらくのあいだ、女は、巳之吉を見つめつづけていた。――それから、女は、にっこりと笑った。そして、こうささやいた。――「あたしは、おまえさんを、もうひとりの人と同じような目にあわせてやろうと思っていたんだよ。だが、どうもすこし、おまえさんがかわいそうになってきてね。――だって、おまえさんは、まだとても若いんだものね。……おまえさんは美少年だね、巳之吉。それで、あたしは、きょうのところ、おまえさんを殺《あや》めるようなことはしないでおくよ。だが、もしも、おまえさんが、今夜見たことを、だれかに――たといおまえの母親にだってもだよ――口外したとすればだよ、あたしには、それが、ちゃんとわかるんだからね。そして、そのときには、あたしゃ、おまえさんを生かしちゃおかないからね。……あたしの言ったことを、よく覚えておおき!」
これらの言葉をいうと、女は、くるりと背を向け、そして、戸口から出ていった。そのときに、巳之吉は、自分が身動きできるようになっていることに気づいた。そして、かれは飛び起きた。外を見まわした。しかし、女はもうどこにも見えなかった。そして、雪が、たけり狂ったみたいに、小屋のなかに吹き入ってくるばかりであった。巳之吉は、戸をしめた。そして、その戸に、幾本もの棒切れをしっかりとあてがって、あかないようにした。巳之吉は、こりゃあ、もしかしたら、風に吹きあてられて戸があいたんじゃあなかったのか、と疑ってみた。――自分は、ただ夢をみていただけで、戸口に雪明かりがちらつくのを、白い女の姿と思い違いしたんじゃああるまいか、とも思った。しかし、たしかにそうだとは確信し得なかった。巳之吉は、茂作に声をかけた。そして、老人が返事をしないので、ぎょっとした。かれは、暗がりに手をさしのばし、茂作の顔にさわってみた。そして、それがまさしく氷であるのを知った! 茂作は硬くなって、死んでいた。……
夜明けまでには、吹雪はやんでいた。そして、日が出てから少しのち、渡し守が自分の持ち場へもどってきたとき、この男は、こごえ死んだ茂作の死骸のそばに、巳之吉が知覚を失って倒れているのを発見した。巳之吉は手早く介抱され、そして、まもなく正気にかえった。しかし、そのおそろしい一夜の寒さが尾をひいて、ながいあいだ、病床についたままであった。ひとつには、かれが、茂作爺さんの死によって、すっかり心をおびえさせていた、というせいもあったのである。けれども、白い装いをしたあの女の幻については、ついにひとことも言わなかった。ふたたび健康が回復するとすぐに、かれは、もとの家業にもどった。――毎朝ひとりで森へ行き、日暮れになると、薪の束を背負って家に帰った。その薪は、かれの母親が手伝って、これを売りさばいた。
翌年の冬のある夕方、巳之吉が家路に向かっているとき、かれは、たまたま同じ道を先に立って歩いて行く、ひとりの娘に追いついた。その娘は、背の高い、ほっそりした少女で、たいへんに器量よしであった。そして、巳之吉が挨拶すると、まるで鳴禽《めいきん》の声みたいに耳にこころよくひびく声で答えた。それから、かれは、娘とならんで歩いた。そして、ふたりは話をしはじめた。娘は、あたしの名はお雪といいます、と話した。ついせんだって、父も母もなくなってしまったのです。あたしは、これから江戸へ行くところです。江戸には、たまたまなんにんかの貧しい親類の者がおりますゆえ、この者たちが、あたしのために、女中奉公の口ぐらいは見つけてくれるかもしれません、と話した。巳之吉は、たちまち、この見も知らぬ娘に、ひどく心をひかれるのをおぼえた。そして、この娘を見れば見るほど、ますます美しく見えてくるのであった。巳之吉は、おまえさんにはもう約束のできてる人があるのかね、と言って、娘に尋ねた。そして、娘は、笑いながら、そんなものはありませんわ、と答えた。それから、こんどは、娘のほうが、巳之吉にむかって、あなたはもうおかみさんをお持ちですか、でないとすれば、婚約ちゅうの人がおありですか、と尋ねた。そして、巳之吉は、こう話した。おれには、養わなくてはならぬ寡婦の母親がひとりあるきりだけれど、「お嫁さん」の問題など、まだ考えたこともないんだ。だって、おれは若いんだものね。……こんな打ち明け話をしたあと、ふたりは、ながいあいだ、だまりこくって歩いた。しかし、諺にもいうとおり、「気があれば目も口ほどに物を言い」(意志がそこにあるときには、目は口と同じくらい多くを語る)である。ふたりが村に着くまでには、おたがい同士、すっかり気に入ってしまっていた。そして、そのとき、巳之吉は、お雪にむかって、おれの家でしばらく休んで行ったらどうかね、と言った。お雪は、すこし恥ずかしそうにためらったのち、巳之吉について行った。そして、巳之吉の母親は、お雪のきたのを喜び迎え、彼女のためにあたたかい食べ物を支度してくれたりした。お雪がたいへんりっぱな立ち居ふるまいをしてみせたので、巳之吉の母親は、たちまち、惚れこんでしまった。そして、あんたさん、江戸への旅はもうすこし延ばしなすったらどうだね、と言って、彼女を説きつけた。そして、事がらの自然の結果として、お雪は、ぜんぜん、江戸へは行かないことになった。彼女は、「お嫁さん」として、この家にとどまったのである。
お雪は、やはり、たいへんよい嫁《よめ》だった。巳之吉の母親が死ぬようになったとき、――それから五年ばかりのちのことであるが、――母親の臨終の言葉は、倅《せがれ》の嫁を思う慈愛と賞讃との言葉であった。そして、お雪は、巳之吉の子を、男女あわせて十人生んだ。――どの子もみんなきれいな子で、また、皮膚の色がたいへん白かった。
村の人たちは、お雪を、生まれつきからして自分らとは違う、不思議な人だと思った。農家の女たちは、たいてい、早く老《ふ》けてしまうものである。ところが、お雪は、十人の子の母親となったあとでさえも、はじめて村へ来た日とそっくり同じく、若く見え、また、みずみずしく見えた。
ある晩、子供たちが寝てしまってからあと、お雪は行燈《あんどん》の光で針仕事をしていた。すると、巳之吉は、つくづくとお雪を打ち眺めながら、こう言った。――
「おまえさんが、そうやって、明かりを顔に受けながら針仕事をしているのを見ると、おれは、自分が十八歳の若者だったころに出会った不思議な出来事を思いだしてならないよ。おれは、そのとき、ちょうど今のおまえさんのように、きれいで、色の白い人を見たんだよ。――いや、じっさい、その女は、おまえさんにそっくりだったんだ」……
自分の仕事から目をはなさずに、お雪は答えた。――
「そのひとのことを話してくださいな。……あなた、どこでそのひとにお会いになったの?」
そこで、巳之吉は、渡し守の小屋で過ごした恐ろしい一夜のことを、お雪に話して聞かせた。――そして、にっこりしてささやきながら、自分のうえに身をおっかぶせてきた白い女のことを。――そして、茂作老人がものも言わずに死んだことを。そして、かれはこう言った。――
「夢にもうつつにも、おまえさんと同じくらいに美しい女を見たのは、その時こっきりだった。もちろん、その女は、人間じゃなかったんだ。そして、おれは、その女がこわかった。――ものすごく、こわかった。――だが、その女は、じつにじつに色が白かった! ……じっさい、おれが見たのは夢だったのか、それとも、雪おんなだったのか、おれには、いまだにはっきりわからんのだよ」……
お雪は、いきなり、縫い物をほっぽりだした。そして、立ちあがり、すわっている巳之吉のうえに身をかがめた。そして、かれの顔にまともに見入りながら、こう叫んだ。――
「それこそは、あたし――あたし――あたしだったのさ! この雪《ゆき》が、その女だったのさ! あたしは、あのとき、もしも、あんたが、その晩のことを、ひとことでも口外するようなことがあったら、あんたを生かしちゃおかないって、そう言っただろう! ……そこに眠っている子供たちがいなかったら、あたしは、即座にあんたを殺してやるんだがね! そして、今となっては、あんた、子供たちの面倒をよくよく見てやるがいいよ。なぜって、かりにも、子供たちが、あんたにたいしてとやかく不平を言う正当な理由でももっているんだとしたら、あたしも、あんたにたいして、それ相応な扱いをしてみせるからね!」……
こう叫んでいるうちにも、お雪の声は、風の叫びのように細くなっていった。――やがて、お雪の姿は溶解しはじめ、きらきら輝く白色の霧となって、屋根の梁《はり》のほうへとのぼって行った。そして、おののきふるえながら、煙出しの穴を抜けて消えていった。……それっきり、お雪の姿は、ふたたび見られることはなかった。
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青柳《あおやぎ》ものがたり
文明年間〔一四六九〜八六〕に、能登の国の守護大名、畠山義統《はたけやまよしむね》の家臣に、友忠《ともただ》という若い侍《さむらい》があった。友忠は越前生まれの人であった。しかし、幼少のとき、小姓《こしょう》として能登の大名の屋敷へ引きとられていき、君侯の監督のもとに、武芸を職とするよう修業をさずけられた。長ずるにおよんで、かれは、文武両道にわたる達人ぶりを発揮したので、ひきつづいて君侯の寵《ちょう》を受けた。生まれつき、心やさしき性質に恵まれ、人好きのする応待《おうたい》の才に恵まれ、そのうえ、端麗な容姿にも恵まれていたので、かれは、朋輩の侍《さむらい》たちから、たいへん敬愛されていた。
二十歳《はたち》ばかりのころ、友忠は、ある内密の使命をおびて、畠山義統の縁戚《えんせき》にあたる京都の大《だい》大名、細川政元《ほそかわまさもと》のもとへ遣《つか》わされた。越前をとおって旅するようにとの命《めい》であったから、この若者は、願いでて、その旅の道すがら、寡婦《やもめ》の母をおとずれてよろしい、という許可をもらった。
かれが出立したのは、一年じゅうで最も寒い時候であった。この地方一帯は、雪におおわれていた。そして、かれは屈強の馬に乗って行ったのだけれど、その馬さえもがのろのろと行きなずむほかなかった。かれのたどった道は山岳地帯を貫通しているのだが、この地帯には、村里も少なく、かつ村里と村里とのあいだは遠く隔っていた。旅の二日目には、幾時間もうんざりするほど馬に乗りつづけたあと、しかも、夜おそくかからぬと目ざす宿泊地に着くことができないとわかり、友忠はひどく狼狽した。かれが気を揉《も》んだのも無理はなかった。――というのは、猛烈な吹雪が、恐ろしく冷たい風を伴って襲いかかってきたからであり、また、馬のほうも疲れ果てた様子をありありと見せていたからである。しかし、この苦しい最中《さいちゅう》に、友忠は、思いがけなくも、柳の木がなん本か生えている近くの丘の頂きに、一軒の小屋の茅《かや》ぶき屋根を見つけた。さんざん難儀しながら、かれは、疲れた馬をはげまし、その小屋までたどり着いた。そして、風がはいらぬように固くとざしてある雨戸を、どんどんと激しくたたいた。ひとりの老女が雨戸をあけてくれた。そして、この容姿端麗な見知らぬ旅人を見ると、同情をこめて叫んだ。――「まあ、ほんに気の毒なあ! ――お若いかたが、こんな天気にひとり旅をなはって! ……どうぞまあ、若さま、さあ、中へおはいりくださりませ」
友忠は、馬からおりた。そして、裏の納屋《なや》へ馬をつれて行ってからあと、その小屋のなかへはいった。見ると、そこには、ひとりの老人とひとりの若い娘とが、竹のきれっぱしを焚《た》いて暖《だん》をとっていた。ふたりは、うやうやしく、友忠が火のそばに来るようにと招《しょう》じた。老人たちは、やがて、旅人のために酒をあたため、食事の支度にとりかかった。そして、旅のことを、おそるおそる問いかけたりした。そのあいだに、若い娘は襖《ふすま》のかげに姿を消した。友忠は、娘がすばらしく奇麗なのに気づいて、驚嘆してしまった。――娘の身なりは極端にみすぼらしく、また、その長い髪の毛は結《ゆ》いもせずに乱れ放題でいたのだけれど。かれは、こんなにも美しい少女が、どうして、かかる惨《みじ》めで、ものさびしいところに住んでいるのかと、不思議に思った。
老人は、かれにむかって言った。――
「お武家さま、隣りの村は遠うございます。それに、雪もひどく降っておりまする。風は身を刺すように冷たく、道もひじょうに悪うございます。それゆえ、今夜は、はや、これからさきへ行きなさるちゅうことは、たぶん、危険でござりまする。このあばら屋はあなたさまにおいでいただくような所ではございませんけど、また、わたしどもは御意《ぎょい》にかなうようなものは何も差し上げられませんけど、だども、今夜はこの惨《みじ》めったい屋根の下にでもお泊まりなはったほうが、おそらく安全でございましょう。……お馬は、わたしどもが大切にお世話いたしまするで」
友忠は、このへりくだった申し出を受けいれた。――内心では、さらにもっと若い娘を見る機会がこのようにして与えられたのを、うれしく思っていたのである。やがて、粗末ながらもどっさり盛られた食事が、かれの前にならべられた。そして、少女は、襖のかげから出てきて、酒のお酌《しゃく》をした。彼女は、こんどは、粗服ではあるが、小ざっぱりした手織りの着物に着かえていた。そして、その長い、結わえずにいた髪の毛は、こんどは、きれいに櫛《くし》を入れ、よくなでつけてあった。彼女が酒を注《つ》ごうとして身をこちらにかがめたとき、友忠は、この娘がこれまでに見たどの女性よりも比較を絶して美しいことを知り、すっかり驚嘆してしまった。また、彼女の一挙一動に、かれを驚かす優雅さがあった。ところが、老人たちは、娘のために言い訳をしはじめた。
「お武家さま、わたしどもの娘の青柳《あおやぎ》は、この山中で、しかも、ほとんど投げ育ちのようにして育てられました。ほんで、上品な行儀作法は何ひとつわきまえておりませぬ。なにぶんにも、この娘の愚かさやもの知らずなところは、ひらにご容赦いただきとう存じます」と言って。友忠は、それをさえぎるように、いやいや、かように器量よしの娘ごからお給仕を受けるなど、まことに身のしあわせに存じまする、と言った。かれは、娘から眼を逸《そ》らすことができなかった。――もちろん、感に堪えながらつくづくと見入る自分のまなざしに、その娘が顔を赤らめるのを看て取りはしたのだけれども。――そして、かれは、自分の前にある酒や肴《さかな》に手をつけずにいた。すると、母親は言った。「お武家さま、どうぞ、すこしぐらいは飲んだり食べたりなはっていただきとうございます。――いずれ、わたしどもの百姓料理はまずいものばかりで、とてもお口には合わないでしょうけれど。――なにしろ、外は身を切るような冷たい風が吹いておりますで、さぞかし、おからだもお冷えになっておられましょうゆえに」そこで、老人たちの気に入るよう、友忠は、つとめて飲んだり食ったりした。しかし、さいぜんから顔を赤らめている少女の愛らしい魅力は、いよいよ募るばかりである。友忠は、娘と言葉をかわした。すると、娘の言葉も、その容貌と同じように美しい、ということがわかった。なるほど、この娘は山家育《やまがそだ》ちであるかもしれない。――しかし、そうだとすれば、娘の両親は、以前には高位の人であったに相違ない。なぜならば、彼女は身分ある人の娘のように話をし、かつ振る舞ったからである。とつぜん、友忠は、一首の和歌に託して、娘に話しかけた。――それは、たしかに、一つの問いかけでもあったが――自分の心のなかの喜びに駆られたものでもあった。――
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尋ねつる、
花かとてこそ、
日を暮らせ、
明けぬになどか
あかねさすらん
[#ここで字下げ終わり]
〔訪問の道すがら、自分は、いっぽんの花と思われるものを見つけた。それゆえにこそ、自分は、ここで日を過ごしているのである。……いまはまだ夜明けにもなっていない時刻なのに、なぜに、あかつきの赤い色、すなわち茜色《あかねいろ》の光がさすのか。――そのわけは、自分には、とうてい、わかりそうにない〕
一刻のためらいもなく、娘は、つぎのような歌でもって答えた。――
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出づる日の
ほのめく色を
わが袖に
包まばあすも
君やとまらん
[#ここで字下げ終わり]
〔もしも、あたしが、このわが袖でもって、しののめごろの太陽のほのかな美しい色をおおい隠したならば――そうしたならば、たぶん、わが君はあしたもここにとどまることでしょう〕
そこで、友忠は、この娘が自分の讃嘆を受けてくれたことを知った。そして、この返歌の文句が伝えてくれた愛の証拠《しるし》を喜ぶとともに、それに劣らぬ度合いで、彼女が自分の感情を歌で言い表わす技量にも驚いた。かれは、自分の眼前にいるこの田舎娘よりももっと美しく怜悧《れいり》な少女に、この世界で出会うなどとうてい望めることではない、ましてわがものとするなどいっそう望めることではないと、いまや、そのことをはっきり知った。そして、かれの心のうちの声は、「神がなんじの行く手に授けたもうたこの幸運をものにせよ!」と、執拗《しつよう》に叫びかけているように思われた。ようするに、友忠は魅せられてしまったのである。――どのくらいに魅せられたかといえば、なんらの前置きもなしに、いきなり老人夫婦にむかい、どうかご息女《そくじょ》をそれがしの嫁にくだされたい、と乞うたくらいに、それくらいに魅せられたのであった。――それと同時に、かれは、自分の名前と家柄と、能登の守護の家臣のなかでの自分の地位とを、かれらに告げたのであった。
かれらは、感謝に満ちた驚きの嘆声をいくたびも発して、友忠の前に平身低頭した。しかし、しばらく躊躇《ちゅうちょ》したような様子をしたあとで、父親が答えた。――「お武家さま、あなたさまはお身分の高いお方でいらっしゃいます。そして、まだまだもっと高い地位へとおのぼりになられるようにお見受けします。あなたさまがわたしどもにお申し出くださったご厚情は、あまりにも勿体《もったい》のうございます。――まことにまことに、わたしどもがそのことに対してかたじけのう思いまする心の深さは、口にはつくされませぬし、また、どれほどと量《りょう》ではかり得るものでもございませぬ。だども、わたしどものこの娘は賤しい生まれの、愚かな田舎娘でございまして、なんの躾《しつけ》も教育も受けておりませんゆえ、高貴なお侍《さむらい》さまの奥方にさせていただきますのには、不相応でございます。このようなことを申しあげるのさえ、じつに、もってのほかでございます。……だども、あなたさまが、これなる娘に特別にお目をかけられ、かたじけなくも、その田舎育ちの行儀作法を大目にごらんくだされ、そのひどい無躾《ぶしつけ》をもお見逃《みのが》しくださるということでありますならば、このうえは、わたくしども、娘をいやしきお側仕《そばづか》えとなさいますよう、喜んであなたさまに差し上げます。それゆえ、娘のことに関しましては、どうぞ、あなたさまのお望みどおりにお取り計らいくださいまし」
朝になるまでに、吹雪はやんでいた。そして、雲ひとつない東のかたから、夜は明けはなたれていった。よしんば、青柳の袖が、あかつきの赤い色を、愛する人の眼から隠したとしても、かれは、もはやとどまってはいられなかった。しかし、そうかといって、かれは、このまま娘と別れるなど、とても諦めきれることではなかった。そして、旅だちの準備がすべてととのい終わったとき、かれは、こう言って、両親に話しかけた。――
「すでにこれまでお世話になったうえに、さらに重ねてお願い申しあぐるは、はなはだ恩知らずのようではござるが、娘ごをそれがしの妻にくださるよう、もういちどお願い申さねばなりませぬ。いまとなって、それがし、娘ごとこのままお別れいたすことはむつかしいのです。それに、娘ごも、それがしと同道|召《め》されることはご不承《ふしょう》ではないゆえ、もしご両親のお許しさえいただけるならば、ただちにこのままお連れしてまいりたく存じます。娘ごをそれがしにたまわったうえからは、おふたりをおのが両親と心得まして、いつまでも大切に仕える所存でござる。……それはともかくとして、あなたがたより頂戴したご親切なるもてなしに対するお礼までに、些少《さしょう》ながら、これをお納めいただきたい」
そう言いながら、かれは、謙遜な主人の前に、ひと包みの金両《きんりょう》を置いた。しかし、老人は、いくども平伏したあとで、その贈りものを静かに押しもどし、そして言った。――
「おやさしきお武家さま。金子《きんす》は、わたしどもには、なんの使いみちもございません。そして、あなたさまは、長い寒い旅をおつづけになるあいだ、たぶん、それがご入用でございましょう。ここでは、わたしども、なんの買いものもいたさぬのです。かりに、なにか買いたいと思いましても、わたしども、自分らのためにそんなにたくさんのお金をつかうことなどようできゃせんのです。……娘につきましては、ご自由にしていただく贈り物として、すでにあなたさまに差し上げてあるものでございます。――あの子は、あなたさまのご所有に帰しておりまする。それゆえ、あの子をお連れなはるのに、いまさら、わたしどもの許可などをお求めになる必要はございませぬ。もうすでに、娘は、あなたさまのお供《とも》をしたい、そして、お邪魔にならないあいだはあなたさまの婢女《はしため》としてかしずいていたいと、そう、わたしどもに申しました。あなたさまが娘を引き取ってくださるということを知りまして、わたしども、ただただ幸福に思うばかりでございます。ほんで、どうかどうか、わたしどものためには、お心を悩ましたりなさらぬようお願いいたします。こんな所では、わたしども、娘に相応な身支度をととのえてやることも能《かな》いませぬ。――まいて、結納《ゆいのう》の品々など、なおさらのことです。そのうえ、わたしども、年をとってありますことゆえ、いずれ遠からぬうちに娘と別れねばなりませぬ。それゆえ、あなたさまが、ただいま、娘を快《こころよ》く連れて行ってくださるということは、このうえない仕合わせでございまする」
友忠は、どうかこの贈り物だけは受領せられたいと、老人夫婦を説きつけてみたが、むだであった。この人々は、お金などすこしも欲しがっていないのだった。しかし、友忠は、老人夫婦が、娘の運命を自分の腕に託すことを、しんじつ望んでいる、と見て取った。そこで、この娘をいっしょに連れていく決心が固まった。かれは、娘を自分の馬に乗せ、心からの感謝の言葉をいろいろ述べてから、老人夫婦にしばらくの別れを告げた。
「お武家さま」と、父親は答えた。「お礼を申さねばならぬのは、わたしどもでございまして、あなたさまではございませぬ。あなたさまが、わたしどもの娘にやさしくしてくださることは、わたしども、確信いたしておりまする。それで、わたしども、娘にかんして、心配するようなことは、何ひとつございませぬ」……
〔ここで、日本の原作においては、物語の自然な運び具合に妙な中断がある。そのことから、話が変につじつまの合わないものになっている。友忠の母親についても、青柳の両親についても、能登の大名についても、これ以上、なにも語られていないのである。明らかに、原作者は、ここのところで仕事に倦《あ》いてしまい、きわめてぞんざいに、ひとを驚かせるような結末へと、話を急がせたと見るべきである。わたくしには、原作者の筆の欠落を補ったり、その構成の欠陥を修正したりすることはできない。しかし、わたくしは、すこしばかり、説明になるような詳細事項を、敢えてさしはさんでみなければならない。そうでもしなければ、話のあとの部分がまとまらないからである。……友忠は、軽率にも青柳を京都に連れて行き、そして、そのために面倒なことが起こったらしくうかがえる。ところが、その後、この夫婦がどこで暮らしていたものか、それについては、知らされていないのである〕
……さて、侍《さむらい》たるものは、その仕える君侯の承諾が得られなくては、結婚はできないことになっていた。そして、友忠は、自分に課せられた使者の役目を果たし終えないうちは、結婚の許可を得るなど、期待しようもなかった。このような事情のもとでは、青柳の美貌は人の目に立って危険なことになりはしないか、また、彼女を自分の手から奪い取るためのなにかの手段が講ぜられはしないかと、友忠がそれを擬懼《ぎく》したのも、無理はなかった。それゆえ、京都においては、かれは、世間の好奇の目から、なるべく彼女を隠しておくようにつとめた。しかし、細川侯の家臣が、ある日、青柳の姿を見つけてしまい、彼女と友忠との関係を嗅ぎつけ、そして、このことを大名に注進したのである。そこで、さっそく、大名――年若の殿様で、美人が大好きだったのだ――は、その若い女を屋敷に召し連れてくるようにせよ、と命じた。そして、青柳は、なんの造作もなく、すぐさま屋敷へ連れ去られてしまったのである。
友忠は、言いようなく嘆き悲しんだ。しかし、かれは、自分が無力であることを知っていた。かれは、遠国《おんごく》の大名に仕える、眇《びょう》たる身分の一使者にすぎない。そして、ただ今のところは、自分の主君よりもはるかに有力な大名の思いどおりに扱われる身の上でしかなかったから、その人の望むところとあれば、いかんとも異論をとなえることもできなかった。そのうえ、友忠は、自分が愚かな行為をした、ということを承知していた。――武士階級の掟《おきて》が禁じている内縁の関係を結んで、みずからの不幸を招いてしまった、ということを承知していた。いまや、かれには、一つの望みしかなかった。――一つの絶望的な望みしかなかった。それは、青柳が屋敷をぬけだして、自分といっしょに逃亡することができるかどうか、また、彼女がすすんでそうしてくれるかどうか、という望みであった。長時間の熟考のあとで、友忠は、青柳に手紙を送ってみようと決心した。この企ては、もちろん、危険であるだろう。彼女に送った書きつけは、どんなものでも、大名の手に落ちてしまいそうであった。そして、お屋敷の中にいる人間に恋文を送ることは、許されがたい犯罪であった。けれども、友忠は、その冒険を敢えてやってみようと決心した。そして、漢詩の形式にして、なんとかして青柳に伝えたいと思っていることを、一通の手紙に仕立てあげた。その詩は、わずかに二十八字で書かれていた。しかし、その二十八字に託して、かれは、おのが熱情の深さをことごとく表白し、青柳を失った苦痛のすべてを諷意《ふうい》することができた。――
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公子王孫逐後塵
緑珠垂涙滴羅巾
侯門一入深如海
従是蕭郎是路人
公子王孫|後塵《こうじん》を逐う。
緑珠《りょくじゅ》涙を垂れて羅巾《らきん》をひたす。
侯門《こうもん》一たび入り深きこと海のごとし。
これより蕭郎《しょうろう》これ路人《ろじん》。
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〔相接《あいせっ》してぴったりと、ぴったりと、若き君侯は、いま、宝玉のように美しい少女を追い詰めていく。――
美しい人の涙は、あとからあとからしたたり、彼女の着物をびっしょり濡らしてしまった。
しかし、やんごとなき君侯がひとたび彼女に恋したとなると、――その熱愛の深さたるや、さながら海のごとき深さである。
そうなれば、捨てられたままにされるのは、このおれだけだ。――ひとり、さまようままにされるのは、このおれだけだ〕
この詩が送られた翌日の夕方、友忠は、細川侯の御前《ごぜん》に伺候せよというむねの、呼び出しを受けた。青年は、すぐ、こりゃあ、おれのあの内緒事が露見したのではないか、と思った。そして、もし、おれのあの手紙が大名の目にとまったとしたならば、極刑を免れる望みはもうない、と思った。「こうなったうえは、死を賜わるであろう」と、友忠はそう考えた。――「しかし、青柳が自分のところに返されない以上、おれは、生きることなどもうどうでもよい。それに、死の宣告が言い渡されるとしても、なに、せめて細川侯を刺すぐらいのことはできるだろう」友忠は、両刀をするりと帯にはさんで、屋敷へと急いだ。
謁見の間《ま》にまかりでたとき、友忠は、細川侯が、儀式の衣冠をつけた高位の侍たちにとりまかれて、上段の座に着座しているのを見た。一同は、彫像みたいに押し黙っていた。そして、友忠が敬礼をしようとして進みでるあいだ、あたりはしーんと静まり返っていて、それが、かれには、嵐の前の静けさのように、いかにも気味悪く重苦しく思われた。ところが、細川侯は、とつぜん、上座からおりてきて、そして、若者の手をとると、あの詩の文句を繰り返し誦しはじめたのである。――「公子王孫後塵を遂う」……そして、友忠が顔をあげてみると、侯の眼にやさしい涙が光って見えた。
やがて、細川侯は言った。――
「そのほうたちが、互に、それほどまでに思い合うておるゆえに、予《よ》は、わが一族の能登の守になり代わり、そのほうたちの婚姻を承認いたすことに取り決めたぞ。して、そのほうたちの婚礼の式は、いまからすぐ、予の面前でとりおこなうことにいたす。客人はそろっておる。――贈り物も用意してあるぞ」
侯の合図があって、ずっと奥のほうの部屋を仕切ってある襖《ふすま》が、さっと押しひらかれた。そして、友忠は、家中《かちゅう》顕臣のお歴々が、式に参列するために集まっているのを見た。そして、そのなかに、花嫁の衣裳を装《よそお》って、自分を待ちもうけている青柳を見た。……かくのごとくして、青柳は友忠に返された。――そして、婚礼の式は、にぎやかであり、かつ、きらびやかであった。――そして、高価な贈り物が、細川侯や家中のひとびとから、この若い夫婦におくられた。
その結婚ののち、五年のあいだ、友忠と青柳とは、いっしょに幸福に暮らした。ところが、ある朝、青柳は、なにか家事向きの用件について、夫と話しているうちに、不意に苦痛の叫び声を発し、それから、真っ青な顔いろになり、そのまま動かなくなった。しばらくして、彼女は、弱りきった声で言った。「こんなに、無作法にも叫び声をあげましたことを、お許しくださいまし。――でも、あんまりだしぬけに、痛みがやってきたんですもの! ……あなた、あたくしたちが夫婦になりましたのは、なにか前世における何かの因縁によるものに相違ありませんわ。そして、そのしあわせな因縁により、あたくしたちは、来世においても一度ならずふたたびいっしょになれると、あたくし、そう思っておりますの。けれども、あたくしたちのこの現世に関しては、その因縁も、たったいま、終わってしまったのですわ。――あたくしたちは、引き離されようとしています。どうか、あたくしのために、お念仏を唱《とな》えてくださいまし。――だって、あたくしは、死にかかっているのですから」
「おい! なにを、おかしな、気違いじみたことを考えているのだ!」と、驚いた夫は叫んだ。――「おまえは、ほんのすこし、からだの具合が悪いだけなんだよ。いいかね、おまえ!……しばらく横になって、休んだらいい。そうすれば、病気の加減もよくなるだろうから」
「いえ、違います!」青柳は答えるのであった。――「あたくしは、死にかかっているんです! ――気のせいなんかじゃないんです。――あたくしには、よくわかってるんです! ……そして、いまとなっては、あなた、本当のことをお隠ししても、もはやむだでございましょう。――あたくしは、人間ではないのです。樹木の霊が、あたくしの霊なのです。――木の心が、あたくしの心なのです。――あの柳の生気が、あたくしの生命《いのち》なのでございます。そして、ちょうどいま、残酷にもこの瞬間に、だれかがあたくしの木を伐り倒しているところなのです。――そのゆえにこそ、あたくしは死なねばならないのです! ……泣くことさえも、いまでは、あたくしの力には及ばなくなってしまった! ――早く、早く、あたくしのために、お念仏を繰り返しお唱《とな》えしてくださいまし。……早く! ……ああ!」……
もういっぺん苦痛の叫び声をあげるとともに、彼女は、美しい頭《こうべ》をわきへ向け、そして、袖のうしろに顔をかくそうとした。しかし、それとほとんど同時に、彼女のからだ全体が、じつにじつに奇妙な具合に崩れ畳まれていき、だんだんに、下へ下へと沈んでいって――果ては、床と同じくらいに低くなっていくように見えた。友忠は、すがるように飛びついて、彼女を支えようとした。――しかし、支えるものは何もなかった! 畳の上には、美しい人のもぬけの着物と、髪につけていた飾りとが、落ちているばかりであった。からだは、影も形もなくなっていた。……
友忠は、頭を剃り、仏に誓いをたてて、行脚《あんぎゃ》僧となった。かれは、国じゅうのあらゆる地方を遍歴してまわり、そして、おとずれたあらゆる霊地において、青柳の霊のために祈祷をささげた。この巡礼の途次、越前の国に到達したので、かれは、愛する人の両親の住家をさがした。しかし、両親が住んでいたその家のあった山あいの、さびしい場所に着いたとき、かれは、あの小屋がすでになくなっていることに気づいた。その小屋が立っていた場所だという目じるしになるものさえ、何もありはしなかった。ただ、三本の柳の切り株があるばかりであった。――そのうちの二つは老木で、一つは若木であった。――これらは、かれがやってくるよりずっと以前に、伐り倒されていたのであった。
これらの柳の木の切り株のそばに、かれは、さまざまの経文《きょうもん》をきざんだ墓碑を建てた。そして、そこで、青柳の霊と彼女の両親の霊とのために、いくどもいくども、供養《くよう》をいとなんだ。
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十六ざくら
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うそのよな、――
十六ざくら
咲きにけり!
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伊予《いよ》の国の一地方、和気郡《わけごおり》に、「十六ざくら」、すなわち、「十六日に咲くさくら」と呼ばれる、たいへん年数の経《た》った、有名な桜の木がある。その名の由来は、この桜が、毎年、正月(太陰暦)の十六日の日に――しかも、その日にだけ、花をひらくからである。このように、この木が花をさかせる時期は、大寒の候《こう》なのである。――桜の木の本来の習性からいえば、春の季節を待ってから、はじめて花をひらくべきものであるのだが。ところが、この「十六ざくら」は、この木みずからのものではない生命の力によって――すくなくとも、もともとは自分のものではなかった生命の力によって、花をひらくのである。この木のなかには、ひとりの人間の魂魄《こんぱく》が宿っているのである。
そのひとりの人間というのは、伊予の侍《さむらい》であった。そして、この木は、その侍の屋敷の庭内《ていない》に植わっていた。この木は、通常の時期――すなわち、三月の終りもしくは四月のはじめごろに、花をひらくのが常であった。侍は、子供の時分には、よくこの木の下で遊んだものであった。かれの両親や祖父母や祖先の人たちは、百年あまりも昔から、としどしにめぐりくる春ごとに、この木を褒めたたえた歌を書きつけた、美しい彩色の短冊をば、花の咲きみちた小枝に吊るしたものであった。この侍自身も、もうたいへん年をとってしまっていた。――すべての子供たちには先立たれてしまっており、この世で愛するものといえば、この桜の木よりほかには何も残されていなかった。それなのに、これはまた、なんとしたことか! ある年の夏、この木がしおれはじめ、枯れてしまったのだ!
並み大抵《たいてい》ではなしに、老人は、この木のために悲しんだ。そこで、親切な隣人たちが美しい桜の若木をいっぽん見つけてきて、それを老人のうちの庭に植えてやった。――このようにすれば、老人の心は慰まるのではないか、と思ったからである。老人は、その隣人たちにお礼を述べて、いかにも嬉しそうな様子をしてみせた。しかし、ほんとうは、かれの心は悲痛でいっぱいだったのである。なぜというのに、老人は、なにしろその老木を酷愛《こくあい》していたので、それの代わりにどんなものをもらったとしても、その老木を失った悲しみを慰めることなどできはしなかったからである。
とうとう、老人の心に、すばらしい考えが浮かんできた。老人は、枯れているその木がひょっとしたら助かり得るかもしれない、ひとつの方法を、ついに思いついたのである。(その日が、正月の十六日だったのである)老人は、ひとりで庭へ出て、その枯れた木のまえにひざまずいた。そして、その木にむかって、こう話しかけた。「そちにお願いいたすぞ。どうか、もういちど、花を咲かしてくれい。――わしは、そちの身代わりになって死ぬる所存でおるゆえにのう」(このわけは、人間は、神仏の加護を得るならば、自分の生命をば、自分以外の人間に、自分以外の動物に、さらには自分以外の樹木すらに、まちがいなく譲り渡すことが可能である、というふうに信じられているからである。――そして、かくのごとく、自分の生命を譲り渡すことが、「身代わりに立つ」という言葉でもって言いあらわされているのである)このあと、老人は、その木の下に白い布をひろげ、幾枚もの敷物をしいた。そして、その敷物の上に正座し、侍の方式にしたがって、「はらきり」をおこなった。それで、老人の魂魄は木のなかにのりうつり、即刻、その木に花を咲かせた。
そして、年ごとに、この桜の木は、雪の季節である正月十六日の日に、いまなお、花を咲かせるのである。
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安芸之助の夢
大和の国の十市《とおち》と呼ばれる地方に、むかし、宮田安芸之助という郷士《ごうし》が住んでいた。……〔ここで、わたくしはお話ししておかなければならないが、日本の封建時代には、イギリスのヨーマン階級に相当する、農兵――自由保有不動産所有者《フリー・ホールダー》――という一つの階級があった。そして、それを郷士と呼んでいたのである〕
安芸之助の屋敷の庭には、年数の経《た》った、大きな杉の木があって、暑苦しい日などには、かれは、よくその木の下で休んだものであった。ある暑い日の昼さがりのこと、安芸之助は、おなじ郷士仲間の朋輩ふたりと、この木の下にすわって、閑談しながら酒をくみかわしていたが、その最中《さいちゅう》に、急にひどく眠気《ねむけ》がさしてきた。――どうにもたまらなく眠いので、かれは、えらいご無礼しますが、おふたりのご面前でうたた寝させてもらいますわ、と言って頼んだ。それから、その木の根もとにごろりと横になり、つぎのような夢をみた。――
なんでも、自分の屋敷の庭先に横になっていたとき、そこへどこやらのえらい大名の行列のようなお練《ね》りの列が、すぐ近くの岡道をおりてやってくるので、そいつを見ようと、起きあがったように思われる。見るというと、それが、すばらしくりっぱな行列だ、ということがわかった。――これまでに自分が見た行列のどれよりも、はるかに堂々としたものであった。そして、その行列が、自分の住まいのほうへと近づいてくるのである。行列の先頭には、豪華に着飾った数多くの若党のいるのが、こちらから観察されたが、かれらは、日光にきらきら映える青絹を垂れた、大きな漆塗りの御所車《ごしょぐるま》を引いているのであった。その行列は、安芸之助の屋敷から至近距離のところまでやってくると、そこでぴたりと止まった。そして、ひとりの豪華な服装をした人物――見るからに、高い身分とおぼしき人物――が、行列のなかから進みでて、安芸之助に近づき、ふかぶかと最敬礼のお辞儀をした。そして、それから、こう言った。――
「おそれながら、御前《ごぜん》へまかりいでましたるは、常世《とこよ》の国王《こくおう》の家来でござりまする。わが主君の国王さまにおかせられましては、御名代《ごみょうだい》として、このわたしよりあなたさまへのご挨拶を言上《ごんじょう》つかまつり、何事もあなたさまの御意《ぎょい》にかなうようにいたせ、との、おん仰《おお》せにてござります。国王さまにおかせられましては、また、あなたさまに対しまして、御殿へお出ましいただきたきむね伝言せよ、とのおん仰《おお》せを賜わりました。されば、なにとぞ、あなたさまをお迎えにつかわされましたるこの御車《みくるま》に、すぐさまご駕乗《がじょう》あそばされたく存じまする」
これらの言葉を聞くと、安芸之助は、それに応対《おうたい》するなにか適当な返事をしたいと思った。しかし、あまりにも驚愕し、かつ当惑したため、ついに言葉が出なかった。――そして、それと同時に、なんだか、自分の意志が、わが身から溶け去るように思われ、そのために、かれは、ただただ、その家来の言うなりに行動するよりほか仕方なかった。安芸之助は車に乗りこんだ。家来も、かれの隣りに座を占めて、合図のしぐさをした。引き手たちは、絹の綱をぐっと引っぱり、その大きな乗物の向きを南のほうへむけ変えた。――そして、旅が始まったのである。ほんの少時間するうち、安芸之助がおどろいたことには、車は、これまで自分が見たこともない中国式の大きな二層づくりの門(楼門《ろうもん》)の前にとまった。ここで、家来は車からおり、こう言った。「ご到着を知らせに行ってまいります」――そして、姿を消してしまった。しばらく待ったあと、安芸之助は、紫色の絹の服を着用し、高貴な位階を示す形をしている丈《たけ》の高い冠をかぶった、見るからに気高い様子の人物がふたり、門から出てくるのを見た。ふたりは、うやうやしく敬礼をしてから、安芸之助が車からおりる手助けをした。そして、先に立って大きな楼門をくぐりぬけ、広い庭をよこぎり、その正面が東西幾マイルにもわたると思われる宮殿の、入り口へと案内した。安芸之助は、それから、びっくりするほど広大で華麗な接待の間へ通された。案内の者たちは、かれを上座にみちびき、自分たちはかしこまって離れたところに席をしめた。すると、礼装に身をこらした侍女たちが、茶菓を運んできた。安芸之助がそのもてなしの茶菓をすませたとき、紫色の服をつけたふたりの侍者が、かれの前にうやうやしく平身の礼をしてから、つぎのように言った。――宮廷の礼法にしたがって、かわるがわる、口を開いたのである。――
「さて、あなたさまをここへお招き申しあげた理由につきまして……一言申し述べますることは、われらの光栄ある義務と存じまする。……わが主君なる国王さまにおかせられましては、あなたさまに、お婿君《むこぎみ》になっていただきたきものと、それをお望みでいらせられます。……そして、こんにち、これより、ご結婚あそばすようにとの、ご上意にてございまする。……国王のご息女の内親王殿下とでございまする。……われら、ただちに、あなたさまを、謁見の間へご案内申しあげまする。……陛下におかれましては、ただいま、あちらで、ご接見あそばすべくお待ちになっていられます。……がしかし、まず、あなたさまにはお着せいたさねばなりますまい。……礼法に適《かな》うご式服をば」
このように言って、侍者は、ふたりいっしょに立ちあがり、金蒔絵《きんまきえ》の大きな唐櫃《からびつ》が据えてある床《とこ》の間《ま》のほうへすすんで行った。かれらは、その唐櫃をあけて、そのなかから、りっぱな生地織地《きじおりじ》でつくられた、さまざまな衣や帯や、冠《かんむり》、すなわち、王侯の頭飾りなどをとりだした。これらのものを着せることにより、かれらは、いかにも王侯の花婿にふさわしいように、安芸之助を装《よそ》いあげたのである。それからかれは、謁見の間に案内された。見るというと、そこには、常世《とこよ》の国王《こくおう》が、威風堂々たる黒色の丈高《たけたか》き冠をいただき、黄色い絹の服をつけて、台座《だいざ》に着席していた。台座のまえには、左右に、多数の顕臣たちが、まるで寺院の彫像のように身動きもせず、きら星のごとく並んで着席していた。そして、安芸之助は、かれらのいる中央に進み出て、国王にむかい、慣例であるところの三拝の礼をした。国王は、鄭重《ていちょう》な言葉で挨拶を返され、それから、こう言った。――
「そなたをこれなる宮殿へお招きしたわけは、すでにお聞き及びのとおりである。宮廷は、そなたを一人娘なる内親王の婿にすることに取り決めた。――そして、ただいまより、婚儀の式をとりおこなうことにする」
国王が話し終わるや、喜びに満ちた楽の音が聞こえてきた。そして、美しい官女たちが長い列をなして、帳《とばり》のかげから進みでて、花嫁の待っている部屋へと、安芸之助を案内した。
その部屋は、たいへんに広かった。しかし、婚賀の式典を拝観しようと集まってきた多数の賓客を、その部屋のなかに入れることは、ほとんどできなかった。安芸之助が王姫と向かいあって、自分のために用意された座布団にすわると、一同は、かれのほうにお辞儀をした。花嫁は、さながら天女のごとくに見えた。その衣裳は、夏の空のごとくに美しかった。そして、婚儀は、大いなる歓喜のうちにとりおこなわれたのである。
式がすむと、ふたりは、宮殿内のほかのところにかれらのために設けられてあった、ひとつづきの部屋にみちびかれていった。そして、そこで、たくさんの高貴な人たちの祝辞や、数えきれぬほどの結婚祝いの贈り物を受けた。
数日ののち、安芸之助は、ふたたび玉座の間《ま》に呼ばれた。こんどは、前よりもいっそう鄭重に迎え入れられた。国王は、かれにむかって、こう言った。――
「わが領土の西南のかたに、莱州《らいしゅう》とよばれる一つの島がある。このたび、そなたを、その島の領守《りょうしゅ》に任じた。やがて、わかるであろうが、その島の住民は忠良にして恭順ではあるのだが、ただ、島の掟は、いまだこの常世の掟と適切に一致してはおらず、また、島民の慣習も、いまだ適切に規整されてはおらぬのである。そこで、そなたには、ひとつ責任をもって、島民の社会状態を、できるだけ改善いたすよう、その任務をはたしてもらいたいのだ。ねがわくは、そなた、徳行と知恵とをもって、島の者たちを統治してもらいたい。莱州への旅行に必要な用意は、万端、すでにととのえられてある」
そこで、安芸之助と花嫁とは、常世の宮殿を出発し、海べまで、貴人たちや官人《かんにん》たちなど、おおぜいの付添い人に見送られて行った。ふたりは、勅命によって仕立てられた豪華な御座船《ござぶね》に乗りこんだ。そして、順風に帆を上げて、海路つつがなく莱州に着いた。すると、島の良民たちは、ふたりを歓迎するために、浜べに群らがり集まっていた。
安芸之助は、ただちに、新しい仕事にとりかかった。そして、その仕事は困難なものではなかった。島の領守になって最初の三年間は、主として、法律の立法と施行とに従事した。しかし、自分を補佐してくれる賢明な相談相手《カウンセラー》がいたので、いちどもこの仕事をいやだと思ったことはなかった。それがすっかり済んでしまうと、昔からの慣習で定められている儀礼や式典に参列するほかには、こちらから進んで実際にやらねばならぬ仕事は、何もなくなってしまっていた。この国は、気候がたいへん健康的であり、また土壌がたいへん肥沃であったので、病気とか貧困とかいうものを知らない。そして、島民はたいへん善良であったので、かつて法が破られたというようなこともなかった。そして、安芸之助は、さらに二十年間にわたり莱州にとどまって島を統治した。――全部で二十三年間も滞在したことになる。その間《かん》、およそ悲しみの影などといったものは、なにひとつ、かれの生活をよぎったことがなかった。
しかし、安芸之助が島の領守となってから二十四年目に、ひとつの大きな不幸が身に襲いかかってきた。というのは、かれの妻は、七人の子供――五人の男子と二人の女子とである――を生んでいたのであるが、病気にかかって死んだのである。彼女は、ひじょうに盛大な葬儀をもって、|※[#「番+おおざと」、unicode9131]菱江《はんりょうこう》県の美しい丘のいただきに埋葬され、その墓のうえには、ひときわりっぱな記念碑が建てられた。けれども、安芸之助は、いたく妻の死を悲しんで、もはやこの世に生きながらえたいとは思わなくなった。
さて、定めの服喪《ふくも》期間があけたとき、常世の宮殿から、国王の使者が莱州《らいしゅう》へと遣《つか》わされた。この使者は、安芸之助に弔悼《ちょうとう》の辞をつたえてから、かれにむかって、こう言った――
「われらの主君なる常世の国王から、あなたさまへ伝えよとの仰せのお言葉がございます。すなわち、『ただいまより、そなたをば、そなた自身の生国および人民のもとに送還申し上げる。七人のお子供たちについては、もとより王の孫息子および孫娘であられるゆえ、当方において、しかるべく養育いたすであろう。よって、お子供たちに関して、そなたの心をわずらわすことはない』と、このようなお言葉でございます」
この命令を受けて、安芸之助は、言われるがままに従順に、出発の用意をした。いっさいの事務も片づき、相談相手となってくれた人や、信頼をかけていた役人たちとの送別の式もすませると、安芸之助は、きわめて鄭重に、港まで見送られて行った。その港で、かれは、自分を迎えにきた船に乗りこんだ。そして、船は、青い空の下の、青い海原を走りだしていった。そして、莱州の島影がしだいに青くなり、やがて灰色となり、とうとう永久に消えてしまった。……そして、安芸之助は、とつぜん、目をさました。――わが屋敷の庭のうちの、杉の木の下で! ……
ほんのちょっとのあいだ、安芸之助は、ぼうっと気が遠くなり、目がくらんだ。しかし、気がついてみると、ふたりの朋輩は、相変わらず自分のそばにすわっていた。――楽しそうに酒を飲んだり、おしゃべりをしたりしているのであった。かれは、めんくらったような様子で、ふたりのほうをまじまじと見つめていた。そして、大声で叫んだ。――
「ほんにまあ、不思議やなあ!」
「安芸之助さんは、夢でも見とったのとちがうか」と、ひとりが笑いながら言った。「不思議やいうとったが、安芸之助さん、何を見ていやはったんや?」
そこで、安芸之助は、自分の夢――常世の国の領土、莱州島に滞留していた、二十三年間の夢の話をした。――すると、朋輩たちは、びっくりしてしまった。なぜかといえば、安芸之助は、じっさいには、ほんの数分ぐらいしか眠りはしなかったからである。
ひとりの郷士が言った。――
「ほんに、あんたは、不思議な夢をみたもんやなあ。ところが、わしらも、あんたがうたた寝をしやはってるうちに、不思議なものを見たんやで。一匹のちいさな黄色い蝶が、ほんの短い時間やったが、あんたの顔のうえを、ひらひら舞っとったんや。わしらは、それをじっと見とった。やがて、その蝶は、あんたのそばの地面の、木のすぐ近くに舞いおりたんや。すると、蝶が舞いおりるかおりないかのうちに、えらい大きな蟻が一匹、穴から出てきよった。そいで、その蝶をつかまえると、穴のなかへぐいぐい引っぱりこんでいきよった。ちょうどあんたが目をさますまえやったが、わしら、ちゃんと見たんや、その同じ蝶が、またもや穴からあらわれてきて、さっきのように、あんたの顔のうえをひらひらと舞っておったのを。その蝶は、それから、ふいに消えてなくなってしもたわ。どこへ行ってしもたのやら、わしら、まるでわからん」
「たぶん、そら、安芸之助さんの霊魂なんやないか」と、もうひとりの郷士が言った。――「なんやら、わしは、あの蝶が、安芸之助さんの口のなかへ飛びこむところを見たような気がするわ。……けど、その蝶が、かりに安芸之助さんの霊魂やったとしたとしても、その事実からは、見やはった夢のわけはよう解《と》きゃへんものな」
「蟻やったら、夢のわけがよう解けるかもしれへんで」と、最初に話したほうの郷士が言った。「蟻は、奇妙な生き物やさかいな。――ことによると、妖魔かもしれへん。……とにかく、あの杉の木の下には、大きな蟻の巣があるんや」
「どうや、見てんか!」と、安芸之助は叫んだ。朋輩たちの言葉にひどく心を動かされたのである。安芸之助は、鍬《くわ》をとりに行った。
杉の木のまわりの地面や、根かたの深い地面は、たまげるほどおびただしい蟻の大群によって、それもまったく驚くばかりのやりかたで、縦横無尽に掘りぬかれていることが、はっきりわかった。そればかりでなく、蟻どもは、その掘りぬいた穴のなかに家を建てていた。そして、藁屑《わらくず》だの、粘土だの、植物の茎だのでつくられた、ごく小さなその建物は、小さな模型の町に、いやによく似ていた。ほかの建物よりもずっと大きな建物が一つあったが、そのどまんなかに、黄色がかった羽と、長くて黒い頭とをもった、一匹のたいへん大きな蟻がいて、そのからだのまわりに、びっくりするくらいたくさんの小蟻の群れがうじゃうじゃしていた。
「なんや。あすこに、夢でみた国王がいるわ!」と、安芸之助が叫んだ。「それに、常世の宮殿もあるわ! ……こら、ほんまに箆棒《べらぼう》なことや! ……莱州は、どこか、その西南のほうにあるはずや。――あの大きな根っこの左やろか。……そうや。――ここが、そうなんやわ! ……なんとまあ、不思議なことやないか! ほんなら、|※[#「番+おおざと」、unicode9131]菱江《はんりょうこう》の丘も、王女の墓も、きっと見つかるにちがいないわ」……
安芸之助は、こわれた蟻の巣のなかを、あちこちしきりと探しまわった。そして、とうとう、一つの小さな塚を見つけ出した。その塚のいただきには、仏教の石塔に似た形をした、水に浸蝕されてまるくなった小石が一つ据えられていた。その小石の下に――粘土にふかく嵌めこまれて――一匹の雌蟻の死骸があるのを、安芸之助は見つけた。
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力《りき》ばか
その男の名は力《りき》といったが、これは「ちから」という意味をあらわしている。しかし、世間のひとびとは、かれのことを、うすのろの力《りき》、愚かな力《りき》――「力《りき》ばか」――と呼んだ。そのわけは、かれが、いつまでたっても子供の状態でいるように、生まれついていたからである。これと同じ理由によって、世間のひとびとは、かれにたいして親切であった。――力《りき》が、マッチをすって蚊帳に火をつけ、家を一軒燃やしてしまい、しかも、その火炎を見て手をたたいて喜んでいたときでさえも、そうであった。十六歳になったときには、力《りき》は、背の高い、岩乗な若者になっていた。しかし、知能にかけては、かれは、いつまでも二歳ぐらいの頑是《がんぜ》ない年齢のままであった。それだから、あいかわらず、ごくごく幼い子供たちと遊びつづけていた。四歳から七歳までの、すこし大きな近隣の子供たちは、力《りき》が、自分たちのうたう歌やあそぶ遊戯を覚えられないという理由で、遊び仲間に入れたがらなかった。力のお気に入りの遊び道具は、箒《ほうき》の柄《え》であった。そいつを、かれは、いつも竹馬《たけうま》のかわりにしていた。そして、幾時間もぶっつづけに、かれは、その箒の柄にまたがり、みんなをびっくりさせるほど大きな声をたてて笑いながら、わたくしの家のまえの坂道を、上がったり下がったりしていたものだった。しかし、とうとうしまいに、その声の騒々しさのために、かれの存在がうるさくなってきた。そこで、わたくしは、力《りき》にむかって、どこかよその遊び場を見つけなさい、と言わねばならなかった。力は、すなおにお辞儀をして、それから立ち去っていった。――悲しそうに、箒の柄をうしろに引きずりながら。ふだんはおとなしかったし、火遊びをする機会さえ与えなければ、完全に無害であったから、かれは、まずまず、だれからも苦情を持ち込まれるようなことがなかった。力がわれわれ町内の人たちの生活にかかわりをもつ度合いは、犬や鶏のそれとたいして差異がなかった。それで、かれが最後に姿を消したときにも、わたくしは、べつだん寂しいとは思わなかった。それから何ヵ月も何ヵ月もたったのち、なにかのことから、ふと、わたくしは、力《りき》のことを思いだしたのである。
「力はどうしているかね?」そのとき、わたくしは、この近隣界隈へ薪を売りにくる薪屋の老人に、こう尋ねた。わたくしは、力が、しばしば、この老人の薪を運ぶ手伝いをしていたのを、思い出したのである。
「力《りき》ばかですか?」と老人は答えた。「ああ、力は死んだですよ。――不憫《ふびん》な子よなあ! ……はい。あの子が死んだのは、一年ばかり前のことでした。まったく、急なことでした。医者さまは、なにか脳の病だとか、そう申しておられました。ところで、その不憫な力について、ある不思議な話がございましてな。
力《りき》が死にましたとき、あれのおふくろが、力の左の手のひらに、『力ばか』とな、その名前を書いたんですな。――『力』は漢字で、『ばか』は仮名で、そう書いてやったんですな。そして、おふくろは、あの子のために、なんどもなんどもご祈祷を繰り返しました。――こんど、あの子が生まれ変わってくるときには、どうか、もっとしあわせな身分に生まれますように、というご祈祷をしたんですな。
ところが、およそ三ヵ月ほど前のことですが、麹町のなにがしさまと呼ばれるりっぱなお屋敷で、左の手のひらに字の書いてある男のお子さんが生まれたんですな。しかも、その字が、じつに明瞭に読めたんですよ。――『力ばか』とな!
そこで、そのお屋敷の人たちは、この男の子の誕生は、きっと、どこかの人の祈祷に対するご利益の結果、もたらされたことにちがいないと、そう気づいたんですな。で、お屋敷では、ほうぼうを尋ねさせたんですな。とうとう、ひとりの八百屋が、『力ばか』という名のうすのろの子が牛込区に住んでおったが、去年の秋に死んだ、という話を、お屋敷につたえました。すると、お屋敷では、二人の下男をやって、力のおふくろを探させたんですな。
その下男たちは、力のおふくろを見つけて、事のしだいを話しました。すると、おふくろはたいそう喜んだですな。――なにしろ、そのなにがしさまのお屋敷というのが、たいへんな金持で、また、たいへん名の知れた家柄でございますからね。ところが、下男たちの申しますには、坊ちゃまの手に『ばか』という字が書いてあるので、なにがしさまのご一家はひどくお腹立ちでいらっしゃる、とまあ、こういう話なんですね。『で、力さんのお墓はどこかね?』と、下男たちは尋ねました。『あの子は、善導寺さんの墓地に埋めてあります』と、おふくろが言いました。すると、『どうか、お墓の土をすこしいただかしておくれ』と、下男たちが頼んだんですな。
そこで、おふくろは、いっしょに善導寺へ出かけて行き、力の墓を見せたんですな。そして、下男たちは、そのお墓の土をすこし掬《すく》いとりますと、それを風呂敷に包んで、持ち帰ったんですな。……力のおふくろには、いくらかの金をやりましてな。――十円ほどとか」……
「しかし、その土を何にするのかね?」わたくしは、そう質問した。
「ごもっともですな」と老人は答えた。「おわかりでしょうが、そんな名前が手に書いてあるまんまで、そのお子さんを育てるわけにはまいりませんからな。そして、そんなふうに、子どものからだにあらわれ出た字を消すのには、ほかに手だてがないのでございますよ。その手だてとは、その生まれた子の前世の肉体が埋葬されてある墓から取ってきた土で、その子の肌をこすらなければならない、というのでございますよ」
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日まわり
家の裏手の木深い丘のうえで、ロバートとぼくとは、|妖精の輪《フェアリー・リング》をさがしつづけている。ロバートは八歳で、顔立ちのととのった、そして、たいへん利発な子だ。――ぼくは、やっと七歳になったばかり。――そして、ぼくは、ロバートを尊敬しぬいている。燃えるように輝き、晴れわたった、八月のある日のことである。あたりの熱い空気のなかには、松脂《まつやに》の鋭く強いにおいが、いっぱいにこもっている。
ぼくらは、妖精の輪なんか、てんで見つけだしはしない。しかし、ぼくらは、おいしげる夏草のなかで、おびただしい数の松毬《まつかさ》を見つける。……ぼくは、ロバートに、つぎのようなウェールズの昔話をする。むかし、ある男が、妖精の輪だとは知らずに、その輪のなかで眠りこんでしまったんだって。そして、その男は、七年ものあいだ、姿が見えずにいたんだって。そして、かれの友だちが、かれにかけられた魔法から救いだしてやったあとでも、その男は、ものを食べることも、口をきくことも、とうとうできなくなってしまっていたんだって。
「あいつらはね、針の先しか食べないんだぜ。ねえきみ」とロバートが言う。
「だれのことだい?」とぼくが尋ねる。
「妖魔のやつらさ」とロバートが答える。
この新事実の啓示は、驚きと恐怖とで、ぼくを押し黙らせてしまう。……しかし、ロバートが、とつぜん、大きな声で叫ぶ。――
「やあ、ハープ弾きがきたぞ! ――あいつは、家のほうへくるぞ!」
そして、ぼくらは、ハープ弾きを聞こうとして、岡を駆けおりていく。……ところが、これは、なんというハープ弾きだろう! 絵本にあるような、あの年老いて神々《こうごう》しい吟遊楽人とは、まるで似もつかない男だ。日に焼けて浅黒い肌をした、岩乗《がんじょう》そのものの体つきをした、ばさばさの髪の毛をした、ひとりの放浪者なのだ。しかめっつらの黒い眉の下に、ふてぶてしい、黒い目を光らしている。音楽師というよりは、煉瓦職人みたいな男だ。――そして、着ている服といったら、なんと、コール天じゃないか!
「あいつ、ウェールズ語で歌うつもりなのかなあ?」とロバートが小声でつぶやく。
ぼくは、ものを言う気にもなれないくらい、ひどい失望状態でいる。ハープ弾きは自分のハープを――あの大きな楽器を――わが家の玄関の石段の上に立てかける。その汚れた指の先で、全部の絃を、ぼろんぼろん、かき鳴らす。怒ったような唸り声をさせて、喉の奥で咳払いをする。そして、こう歌いだす。――
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信じておくれ。いとしき思いもて、きょうの日、われの見つむる
いましの若き美しき魅力のすべてが、よしんば……
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その節まわし、その気取りの態度、その声。なにからなにまで、言うに言われぬ嫌悪感でもって、ぼくの心をいっぱいにする。――おそろしく野卑な感じで迫ってくるので、ぼくは、ぞっとさせられる。ぼくは、大きな声で叫んでみたくなる。「おまえみたいなやつには、その歌をうたう権利なんかありゃしない!」と。なぜというのに、ぼくは、その同じ歌を、ぼくの小さな世界でいちばん親愛な、そして、いちばん美しい人の唇から歌われたのを聞いたことがあるからだ。――その歌を、この下品な荒くれ男が、ずうずうしくもうたうなんて、ぼくは、まるで馬鹿にされたような気がして、苦しくなるのだ。――まるで横柄《おうへい》に振る舞われたような気がして、腹が立つのだ。しかし、それは、ちょっとの間だけだった。……その「きょうの日」という音節《シラブル》がうたいだされたとたんに、男の低音で薄気味《うすきみ》悪い声が、急に、名状しがたい優《やさ》しさのこもった震え声に変わっていく。――やがて、こんどはびっくりするほど打って変わり、あたかも大きなオルガンの低音《バス》の音色に似た、朗々と鳴りひびく、豊かな調子になって、芳醇《ほうじゅん》な感じに聞こえてくる。――聞いているうちに、これまで感じたものとはまるで似てもつかないある感覚が、ぼくを、喉のあたりで、ひっとらえる。……この男は、いったい、どんな魔法を習得したんだろう? どんな秘法を編みだしたんだろう――このしかめっつらの放浪者は? ……ああ! 世界じゅうに、こんなふうに歌をうたえる人間が、他にあるだろうか? ……そう思っているうちに、その歌い手の姿が、ゆらゆら揺らぎはじめ、ぼんやり霞んで見えてくる。――そして、家が、芝生が、目に映る事物のかたちすべてが、ぼくの目の前で、ぶるぶると震えだし、ぐるぐる回っているように見えてくる。けれども、本能的に、ぼくは、この男がこわいのだ。――ぼくは、ほとんど、この男を憎悪している。そして、ぼくは、こんなやつの歌の力で、これほどまでに自分が感動させられたかとおもうと、腹立たしさと屈辱とで、おのずと顔の赤くなってくるのを、はっきり感ずる。……
「あいつ、きみを泣かしちゃったんだね」ロバートが、ぼくの様子に気づいて、いたわるように言う。ぼくは、ますます、心がめちゃくちゃに乱れてしまう。――そのとき、ハープ弾きは、ありがとうも言わずに、ぐいと六ペンスの銅貨一枚を受けとり、前よりいくらか金持ちになると、大股で立ち去って行く。……「しかし、ぼくは、あいつはジプシーにちがいないと思うね。ジプシーのやつらは、悪いやつらなんだぜ。――そして、やつらは、専門の魔法使いなんだぜ。……じゃあ、ぼくら、また森へ行こうぜ」
ぼくらは、ふたたび、松林へ向かって登って行く。そして、松林の木洩《こもれ》れ日によって、あちこち、日光の斑紋《はんもん》のできた草の上にしゃがみこむ。そして、町と海とを見おろす。しかし、ふたりは、もうさっきのようには遊ばない。あの魔法使いの呪文が、ぼくらふたりの上に強くかかっているからだ。……「ひょっとすると、あいつ、妖魔なのかもしれないね」と、とうとう、ぼくが言いだす。「それとも、仙人かねえ?」「ちがうよ」とロバートが言う。――「あいつは、ただのジプシーだよ。しかし、ジプシーだってことと、悪いやつだってこととは、ほぼ同じなんだ。ジプシーのやつらは、ねえきみ、子供をさらうんだものね」……
「もしあいつがここへ登ってきたら、ぼくたち、どうしようか?」ぼくは、このあたりの人気《ひとけ》ない寂しさが急にこわくなってきて、息を喘《あえ》がせながら言う。
「ううん。あいつは、こんなとこへは来るもんか」とロバートは答える。――「明るい昼間のうちは、ねえきみ、来たりなんかするもんか」
……
……
〔つい、きのうのことである。わたくしは、高田村の近くで、日本のひとびとが、われわれが呼んでいる名前とほぼそっくりの名で呼んでいる、「日まわり」の花をひとつ見つけた。――そして、たちまち、四十年の時空を越えて、あのさすらいのハープ弾きの声がよみがえり、わたくしは感動にうちふるえた。――
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さながらに、日まわりの、日ののぼるときに、日のかたに向くる面輪《おもわ》を、
さま同じく、日の沈むときに、日のかたに向くる、そのごとくにも。
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わたくしは、もういちど、遥かなるウェールズの丘にこぼれさす、日光の斑紋の幻影《まぼろし》を見た。そして、ちょっとの間、ロバートが、あの少女のような顔をしたまま、あの金色の巻き毛を垂らしたまま、わたくしのそばに立っているのを見た。わたくしたちふたりは、|妖精の輪《フェアリー・リング》をさがしていた。……しかし、現実のロバートのうちに存在していたすべてのものは、もう久しい以前に、大海《おおわだ》の前に、海の為《な》す変形のわざをこうむって、高貴にして未知なる何者かになってしまっているに相違ないのだ。……人たる者、その友のためにおのれの命を捨つるとせば、これより大いなる愛をなし得たるはなし。……
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蓬莱《ほうらい》
深い深い青い色の幻影が、高みのところで消えている。――海と空とが、光を発する霞をとおして、たがいに混ざり合わさっている。日は春、時は朝。
あるのは、ただ、空と海とばかりである。――ただ一色《ひといろ》の紺青《こんじょう》が法外にひろがっているだけである。……その前方部分では、さざ波が、いましも、銀の光を捕らえているところである。そして、水沫《みなわ》は、糸のようにどこまでもつづく線をなしながら、いましも、いっせいに渦を巻いているところである。しかし、そのすこし先の部分では、何ひとつ動いているものは目に写ってこない。また、色彩をのぞいては、何ひとつ、目に写ってこない。そこの水のもっている朧《おぼ》ろで温かい青色は、ひろがりひろがりしていって、そのはては、空の青色と融《と》け合わさっている。水平線など、そこには、ありはしないのである。ただ、遠い距離というものが高みに飛翔していって、宇宙の空間のなかへと伸びている。――底も知られぬ巨大な凹所《おうしょ》が、諸君の眼前に、穿《うが》たれてある。そして、巨大な弓状部《アーチング》が、諸君の頭上に聳え立っている。――その色彩は、高処《こうしょ》へ行けば行くほど、深まりつつある。しかし、中空の青い部方の遙か彼方には、宮殿の塔のかすかな、かすかなまぼろしが懸《か》かっているのである。その宮殿の塔には、新月さながらに角《つの》の形をした、また反《そ》りかえってもいる高い屋根が葺《ふ》かれてある。――それは、思い出のように柔らかい陽光に照らされた、見知らぬ、古き栄華の幻影に、なにやら似ている。
……とまあ、以上に、わたくしが描写を試みてきたのは、一幅の掛物《かけもの》を見ての描写だったのである。――すなわち、これは、素絹《すぎぬ》に描いた日本画で、わが家の|床の間《とこのま》にかかっているのである。――そして、その画題を「蜃気楼《しんきろう》」という。「蜃気楼」とは「空中楼閣《ミラージ》」の意である。しかし、この幻影《ミラージ》の形状は、まぎれようもなく明白である。そこには、至福なる蓬莱《ほうらい》の、どんより光を投げる正門がある。そこには、龍宮城の、月光にかがやく屋根がある。――それら建築物の様式は(これは、現代の日本の画家が描いたものであるけれども)、二千百年も前の中国建築の様式である。
その二千百年前の中国の書物のなかには、蓬莱について、つぎのような事がらがいろいろ記されてある。――
蓬莱には、死もなければ、また苦しみもない。そして、そこには冬もない。この国に咲く花はけっして凋《しぼ》むことがなく、実《みの》った果物《くだもの》もけっして落ちることがない。もし、ある人間にして、ひとたびなりとも、これら果物をくらうならば、かれは、二度とふたたび、渇《かわ》きや飢えをおぼえることはない。また、蓬莱には、「相鄰子《そうりんし》」「六合葵《りくごうあおい》」「万根湯《ばんこんとう》」などといった、万病をすべて癒やす霊草が生えている。――さらに、死者を蘇生させる、「養神子《ようしんし》」という、方術に用いる霊草も生えている。この霊草は、一滴でもこれを飲むならば永遠の青春が授けられるある霊水でもって、水栽培《みずさいばい》されているのである。蓬莱の住民たちは、たいへんたいへんちいちゃな椀《わん》で、米の飯を食べている。しかし、米の飯は、そのちいちゃな椀のなかで、けっして減《へ》ることがないのである。――食べる人が、いかに鱈腹《たらふく》食べようとも。――食べる人が、もうこれ以上は食べたくないと思うようになるまでは。そして、蓬莱の住民たちは、たいへんたいへんちいちゃな杯《さかずき》で酒を飲む。しかし、ひとびとは、その杯ひとつをもけっしてからっぽにすることがないのである。――飲む人が、いかにしたたかに飲もうとも。――飲む人に、陶然たる眠気《ねむけ》が襲いかかるようになるまでは。
秦《しん》帝国の時代の伝説には、こういったことのほかに、まだまだいろいろなことが説かれている。しかし、それら伝説の記述者たちが、現実に蓬莱を見たとは、いや、幻影のなかにさえ蓬莱を見たとは、とても信じられない。なぜというのに、それをくらった者がとこしえに満腹感をたもちつづける仙果なんてものは、本当は、あるはずがないからである。――また、死者を蘇生させる霊草なんてものも、ありはしない。――霊水の湧く泉なんてものも、ありはしない。――米飯のなくならぬ椀なんてものも、ありはしない。――酒のなくならぬ杯なんてものも、ありはしないのである。悲しみや死が、蓬莱の国に入りこまないというのは、真実ではない。――また、冬がないというのも、真実ではない。蓬莱の国の冬は、寒いのである。――そして、その寒風が、骨を刺すのである。そして、降り積もる雪が、龍宮の屋根屋根を、あきれるばかり飾るのである。
それにもかかわらず、蓬莱には、一面、不思議な事がらも数多くある。そして、それらすべてのうちでいちばん不思議な事がらについて、中国の作者は、だれひとり言及していないのである。わたくしは、蓬莱の国の大気のことを言っているつもりである。蓬莱の国の大気は、かの国に特有なものである。そして、これあるがために、蓬莱の国の日光は、他のいずれの国の日光よりも「|白っぽい《ホワイター》」のである。――それは、けっして目にまばゆいというところのない、乳液のような光である。――それは、驚くほど鮮明で、しかも、ひじょうに柔らかい。この大気は、われわれ人類の世紀のものではない。これは、途方もなく遠い大昔のものである。――どれほど大昔のものであるか、ということを考えてみようとするとき、恐ろしさを感ずるくらい、それくらい遠い大昔のものなのである。――そして、それは、窒素と酸素との化合物などではありはしない。それは、金輪際《こんりんざい》、空気でできているのではない。そうではなくして、霊魂でできているのである。――それは、幾千万億の幾千万億倍という、無限に近いほどの世代を生きた心霊が、混ざり合わさって一つの大きな透明体となった物象である。――その無限に近いほどの世代を生きた心霊たるや、こんにちのわれわれとは似てもつかぬ思考法でものを考えたひとびとの心霊であったのである。この大気を吸い込みさえすれば、いかなる人間であろうと、自分の血液のなかへ、それら霊魂が内側に秘めている動悸《どうき》を移し入れることができる。そして、それら霊魂は、その人間の体内の感覚に変化をもたらすのである。――「時間」および「空間」の観念を、まったく新しく作り変えてしまう。――その結果、その人間は、ただもう、それら霊魂がいつも見ていたとおりにものを見ることができるし、それらの霊魂がいつも感じていたとおりにものを感ずることができるし、それら霊魂がいつも考えていたとおりにものを考えるようになる。しかも、これら感覚の変化は、あたかも眠りのごとく、静かに起こるのである。そして、そのような感覚の変化をとおして認識された、蓬莱なる国とは、これを描写すれば、つぎのようなことになるであろう。――
――蓬莱の国では、なにしろ、邪悪の何たるかが知られていないのだから、ひとびとの心は、けっして老いるということがない。そして、心のうちがつねに若々しいから、蓬莱の国のひとびとは、誕生の時から死の時に到るまで、いつも微笑をたたえている。――ただし、死の時ばかりは、神がかれらに悲しみを与えるのであり、そのおりには、悲しみが去ってしまうまで、かれらの顔にヴェールが蔽《おお》われるのであるから、この時ばかりは唯一例外とせねばならない。蓬莱の国の住民は、だれでもみな、まるでもう一世帯の家族みたいに、たがいに愛し合い、信頼し合っている。――そして、蓬莱の国の女たちのおしゃべりは、小鳥の歌にそっくりである。なぜならば、蓬莱の女たちの心が、さながら小鳥の魂のように、ものごとに屈託ないからである。――そして、遊び戯れる少女たちの袖がひるがえるさまは、あたかも、広らかな、柔らかい羽がひらひら舞うがごとくである。蓬莱の国では、悲しみのほかには、何ひとつ、ひとに隠しだてをするということがない。なぜならば、ここには、ひとに恥じるなどという理由がないからである。――そして、戸に鍵をかけるということがない。なぜならば、ここには、およそ盗みなどということがないからである。――そして、夜といえども、昼間と同じように、戸という戸には閂《かんぬき》のおろされることがない。なぜならば、ここには、ひとを恐れるなどという理由がないからである。そして、ひとびとは、なにしろ、妖精の身であるから――なるほど、不死の身ではないけれども――そこで、蓬莱の国にあるいっさいの事物は、龍宮城ひとつを別にすれば、すべて、きわめて小さく、奇妙きてれつで、風変わりなものばかりである。――そして、これら妖精=神仙たちは、じっさいに、たいへんたいへんちいちゃな椀で米飯を食べ、たいへんたいへんちいちゃな杯で酒を飲むのである。……
――こういう外観じょうの特質の多くは、かの霊妙な大気を吸い込んでいることに起因しているであろう。――しかし、すべてがそれに起因しているのではない。というのは、死者によってもたらされた呪文《じゅもん》のような不思議な力とは、ただただ、理想がもっている蠱惑《こわく》的な力にほかならず、太古の時代への希望がもっている魅惑的な力にほかならないからである。――そして、このような希望のうちのあるものが、蓬莱の国の多くのひとびとの心のうちに、――無私なる生涯の純朴な美しさのうちに、――「女性」のやさしさのうちに、それの願望達成を見いだしたのである。……
――西方からくる邪悪なる風が、蓬莱の国の上を吹きまくっている。そして、霊力ある大気は、かなしいかな、この国においても、しだいに減少しつつある! いまは、わずかに、つぎはぎの布のようになって、また帯のようになって、消え残っているだけである。――たとえば、日本画の画家が描く山水図のなかにたなびく、あの雲の、長くて、光りかがやく帯のように。小さな妖精みたいな水蒸気がつくる一衣帯の雲の下に、諸君は、いまもなお、蓬莱を見いだすことができる。――しかし、そのほかのどこにも見いだすことはできない。……蓬莱が、又《また》の名を蜃気楼とよばれていることを、想起しよう。蜃気楼とは、幻影《ミラージ》を意味する。――手に触れることのできない、まぼろしを意味する。そして、そのまぼろしは、いま、まさに消えかかろうとしつつある。――それは、絵画と、詩歌と、夢想とのなかでなくては、もはや、二度とふたたびあらわれないのである。……
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虫の研究
蝶
一
わたくしは、日本の文学のなかで、「廬山《ろさん》」という名で知られている、あの中国の学者のしあわせを、なんとかして自分も得たいものだなあと、そう願望している! というのは、この学者は、天なる姉妹である、ふたりの霊的処女に愛されたからである。ふたりの天女は、十日目ごとにこの学者をおとずれ、蝶に関する話をして聞かせたのである。さて、中国の説話には、蝶に関するもの――怪談奇話のたぐい――が、じつに多い。そして、わたくしは、それらを知りたいと思う。しかし、わたくしは、中国語を読むことができない。いや、日本語でさえも、ろくに読むことができない。そして、げんにわたくしが四苦八苦しながら少しばかり翻訳しつづけている日本の詩歌のなかには、中国の胡蝶《こちょう》のはなしをそれとなく踏まえた作品が、じつにたくさん出てくる。そのために、わたくしは、タンタロスの苦悩に似た苦しみを味わわされているのである。……そして、もちろん、かの天女らは、わたくしのような懐疑的な人間のところへなど、わざわざおたずねくださるはずもない。
わたくしは、こういうことを知りたいのである。たとえば、むかし、中国に、その身を花と見紛《みまが》われて、群れなす胡蝶に追いかけられた少女がいたが――まあ、それくらいに、その少女はにおい香ばしく、美しかったのであるが――その中国の少女の物語に関して、その全部を知りたい。わたくしは、また、胡蝶に自分の愛人をえらばせたという、あの玄宗《げんそう》皇帝、すなわち明皇《ミンホワン》の蝶についても、何かもっとくわしいことを知りたい。……玄宗皇帝は、いつも、壮麗なる宮中庭園で酒宴をもよおしていた。そして、そこには、ずばぬけた美女たちがおおぜい侍《じ》していた。そして、その美女の群れのなかへ、籠に入れた蝶をはなつと、蝶は、美女のなかでも最高に美しい女性のところへ飛んで行く。そうすると、皇帝は、その最高に美しい女性に寵《ちょう》を賜わるのである。ところが玄宗皇帝は、楊貴妃(中国音ではヤン・クェイ・フェイという)を見初《みそ》めてからあとというもの、寵姫《ちょうき》を選ぶのに蝶を煩わす手間を廃してしまった。――これは、不幸なことであった。なぜというのに、楊貴妃は、皇帝をば、のっぴきならぬ厄難におとしいれることになったからである。……さらにまた、わたくしは、日本で荘周《そうしゅう》という名のもとに親しまれている、あの中国の学者、すなわち、夢のなかでみずからが蝶と化し、その夢のなかで蝶のもつあらゆる感覚を経験した、あの学者の経験について、もっとくわしいことを知りたい。荘周の魂は、蝶の形姿をとることにより、現実的にそこらここらをさまよい歩いたのであった。そして、荘周が目をさましたときには、蝶という生命体《エグジステンス》の記憶や感情が、心のなかにあまりにも鮮明に残って活動しているものだから、そのために、人間のような起居動作ができなかったということである。……最後に、わたくしは、各種の蝶をもって、あれは皇帝たれそれの霊である、あれは側近たれそれの霊である、というふうに公認を与えていた、中国のある時代の官撰認可書のことを知りたいものだと思う。
蝶に関する日本の文学は、いくばくかの詩歌だけを例外とすれば、あとはたいてい、中国起源のものであるようにうかがえる。そして、日本の美術、日本の歌謡、日本の生活習俗のうちに、こんなにも楽しげに表現されている題材である蝶に対する、古来の民族的な美的感情も、いっとう最初は中国から教授を受け、それによって発展の緒《ちょ》につくこととなったのであろう。中国に先蹤《せんしょう》のあったことは、日本の詩人たち画家たちが、しばしば、その「芸名《げいみょう》」、すなわち、職業上の呼称として、「蝶夢《ちょうむ》」(バタフライの夢)、「一蝶《いっちょう》」(たった一匹だけいるバタフライ)などなどの名を選んでいる理由を、たぶん、説明しうるであろう。そして、こんにちにおいてさえ、「蝶花《ちょうはな》」(バタフライの花)「蝶吉《ちょうきち》」(バタフライのしあわせ)、「蝶之助」(バタフライの救援)などといった「芸名《げいみょう》」が、舞妓《まいこ》たちのあいだでは、好んで用いられているのである。芸術家とか芸人とかの名前が蝶と関わりをもっているほかに、なおまた、実名としての個人的呼称(「呼び名」)にも、つぎのように用いられているのが通常である。――すなわち、胡蝶《こちょう》とか蝶とかいうのであるが、その意味は「バタフライ」である。このような名前は、原則として、女性だけが名乗ることになっている。――もっとも、いくつかの珍しい例外もないわけではない。……それから、ここに言及しておいてよろしかろうと思うのは、陸奥《むつ》の国では、一家のうちのいちばん末娘を「テコナ」と呼ぶ、奇妙な、古い習俗が、いまだに残存している、ということである。――この風変わりでおもしろいことばは、ほかの地方においては廃語になってしまっているけれども、陸奥の地方方言では、蝶を意味するのである。このことばは、また、日本の古典時代には、美人をも意味していた。……
蝶をめぐる奇妙な日本的信仰のうちのあるものが、同じく、その起源を中国に発しているというのは、いかにもあり得ることである。しかし、このような諸信仰は、ひょっとすると、中国そのものよりも、もっとずっと古いものだったかもしれない。そのなかでいちばん興味を惹くのは、「げんに生きている」人間の霊魂が蝶の姿に化して、ひらひらさまよい歩くことがあるという信仰だろう、とわたくしは考える。この信仰から、いくつかの美しい空想が展開することになる。――たとえば、もしも蝶が客間にはいってきて竹暖簾《たけのれん》のかげにとまったりすることがあれば、待ち人が会いにこちらへ向かってやって来ている兆《しるし》だ、とする考えのごときが、それである。蝶はだれか人間の魂だとはいっても、それだからといって、蝶が恐れられているという理由はすこしもないのである。さりながら、そのような蝶ではあっても、度はずれに数多く群れて出現するときには、人の恐怖を招くにいたる場面も、ままある。そして、日本の史書は、そういう一事件の起こったことを記載している。平将門《たいらのまさかど》が例の有名な叛乱をひそかに企図しつつあったおり、京都においては、まことにおびただしい蝶の群れがあらわれたので、ひとびとは恐怖におちいった。――この異様なものの出現をもって、やがて来たるべき凶事を知らせる前兆だと考えたからである。……おそらく、このときの蝶は、戦場に死に果つるべき運命を負わされた幾千の人々の、戦争のまさに起こらんとするに先だって何か不思議な死の予感に衝きうごかされた幾千の人々の、心霊をあらわしているにちがいない、と推臆《すいおく》されたものだったろう。
しかるに、日本人の信仰のなかには、蝶は生きている人間の霊魂だとする考えかたとならんで、それはまた死んだ人間の亡霊だとする考えかたも存在している。じじつ、人間の魂は、最終的に人間の肉体から抜け出した事実を告げ知らせるために、みずから蝶の形姿をとるのがならわしになっていると、そう信じられているのだ。そして、この理由から、家のなかへ舞いこんできた蝶は、やさしく取り扱われねばならない、とされているのである。
この信仰にそれとなく触れた、また、この信仰に関連する奇妙な空想にそれとなく触れた、たくさんの暗示が、通俗演劇のなかには見いだされる。たとえば、『飛出胡蝶簪《とんででるこちょうのかんざし》』という外題《げだい》の、みんなによく知られた芝居がある。胡蝶とは、無実の罪をこうむり、残忍な仕打ちを受けたゆえに、自害して果てた美人である。彼女の仇《あだ》を討ってやろうというつもりの男が、極悪非道の張本人をさがし回って長い年月を経《ふ》るが、ついに空しく終わるほかなかった。ところが、最後のところへきて、死んだ女の簪《かんざし》が一匹の蝶に変わり、その蝶が、悪党の隠れ家の上をひらひら飛んでみせ、みごとに仇討の手引きをする、という筋になっている。
――もちろん、婚礼の式に出てくる、あの大きな紙の蝶(「男蝶《おちょう》」と「女蝶《めちょう》」とがある)は、ことさらに霊魂上の意味をもつものとして考えられているのではない。あの紙の蝶は、象徴として、愛するふたりが一つに結び合わさる喜びを表現しているにすぎない。それはまた、新婚の夫婦が、ちょうど、ひとつがいの胡蝶がどこやらの心地よき庭園じゅうを軽ろやかに舞うように――あるいは舞いあがり、あるいは舞いおり、しかもおたがい同士けっして遠く離ればなれにならずに舞うように――そのように、仲睦《なかむつま》じく一生を過ごしてもらいたい、との希望を表現しているにすぎない。
二
蝶を詠んだ発句《ほっく》の|季寄せ《スモール・セレクション》は、この季題《サブジェクト》の美学的側面に対して日本人が抱いている関心を、実例でもって説明するに役立つであろう。そのうちのいくつかのものは、一幅の絵というにすぎない。――十七音のシラブルによって描かれた小さな淡彩スケッチである。また、他のいくつかのものは、いかにも軽妙な思いつきという程度を越えることがなく、さもなければ、風雅な暗示という程度を越えることがない。――しかし、読者は、そこにいろいろの変化形態《ヴァライエティ》を見いだすであろう。十のうち八九まで、読者は、これらの詩句そのものに対しては、それほど愛好の気持をおぼえることはないであろう。エピグラム風《ふう》な日本の短詩を味わう鑑賞力《テイスト》は、ゆっくり気永に獲得しなければならない一つの鑑賞力《テイスト》である。そして、この種の作品の可能性が公正に評価できるようになるのは、忍耐強い研究を重ねたあと、ゆっくり段階をたどってのみあり得ることである。せっかちな批評をくだす論者は、たかがあんな十七音のシラブルの詩のために、くそまじめな要求をするなど「ばかげていはしないか」と、そんなふうに断言した。しかし、そうだとしたら、クラショーがカナの婚礼における奇蹟を歌った、あの有名な一行《いちぎょう》は、どういうことになるか? ――
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Nympha pudica Deum vidit,et erubuit.
(つつましき|若き女《ニンファ》は、神を見て、顔赤《かおあか》らめぬ)
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わずか十四音のシラブルである。――しかも、不朽の作品である。ところが、十七音の日本語のシラブルでもって、これとまったく同じくらい驚嘆すべき事がらが――いや、じっさいには、もっとずっと驚嘆すべき事がらが――それも一度や二度ではなく、おそらく何千たびとなく、つくりだされているのである。……もっとも、つぎにあげる発句《ほっく》には、驚嘆すべき事がらなど何もありはしない。というのは、これらの作品は、文学上の理由というよりも、ほかの理由によって選択されたものだからである。
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ぬぎかくる
羽織《はおり》すがたの
胡蝶かな!
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〔ちょうど、ぬがれている最中《さいちゅう》の一枚の羽織のようなもの。――それこそは、一匹の蝶々さんの姿なのです!〕
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鳥刺《とりさ》しの
竿の邪魔する、
胡蝶かな!
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〔ああ、蝶々さんは、捕鳥者《バード・キャッチャー》が手に持つ棒竿のゆくさきゆくさきに立ちふさがってばかりいるんですよ!〕
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釣り鐘に
とまりてねむる
胡蝶かな!
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〔お寺の鐘にとまりながら、蝶々さんが眠っています――〕
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寝《ね》るうちも
遊ぶ夢をや――
草の蝶!
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〔ねむっているあいだでさえも、みている夢は遊びのことにかかわるのですか。――ああ、草の上にいる蝶々さん!〕
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起きよ起きよ
わが友にせん、
寝《ね》る胡蝶!
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〔起きなさい! 起きなさい! ――わたしは、あんたを、自分の仲間にしたいんですよ。ねむっている蝶々さんよ〕
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籠《かご》の鳥
蝶をうらやむ
目つきかな!
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〔ああ、籠に入れられている小鳥の眼のなかには、なんて悲しい表情があらわれているんでしょう! ――ひらひら飛んでる蝶々さんを羨望しているんですね!〕
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蝶とんで――
風なき日とも
見えざりき!
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〔よしんば、きょう、風が強く吹いている日のように見えはしなくても、ほら、蝶々さんがあんなにひらひら舞っているじゃありませんか――!〕
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落花枝《らっくわえだ》に
かへると見れば――
胡蝶かな!
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〔わたしは、地に落下した桜の花びらが、ふたたび、もとの枝にもどっていくのをみたんです。そのときです――これはまあ、なんとしたこと! 枝にもどっていく花びらと見たのは、ただたんに、一匹の蝶々さんだったじゃありませんか!〕
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散る花に――
軽さあらそふ
胡蝶かな!
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〔なんと、蝶々さんは、どっちが軽いかということについて勝ち負けを決めるために、落ちてくる桜の花びらと競争しているじゃありませんか!〕
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てふてふや!
をんなの足の
後《あと》や先《さき》!
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〔女のひとが歩いている細道にいる蝶々さんをごらんなさい。――ほら、いまは女のひとのうしろをひらひら舞っている。ほら、いまはその前のところをひらひら舞っている!〕
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てふてふや!
花ぬすびとを
蹤《つ》けて行き!
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〔おやまあ! 蝶々さんたら! ――花どろぼうをした不届者《ふとどきもの》のあとを、あれ、あのように、ちゃんと追いかけて飛んでるじゃありませんか!〕
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秋の蝶
友無ければや……
人につく。
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〔あわれな秋の蝶々さん! ――ひとりの友だち(自分と同じ種属の友だち)だになく、ひとりぼっちで取り残されているときに、あんたは、人間(もしくは、ひとりの人物)のあとをついて回るんだね!〕
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追はれても、
急がぬふりの
蝶々かな!
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〔ああ、蝶々さん! あんたは、追われて逃げるときでさえ、ちっとも急いでいるような様子を見せないんですね〕
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蝶はみな
十七八の
姿かな!
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〔蝶々さんはどうかというのに、かれらは、どれもこれも、十七歳ないし十八歳の若々しい姿かたちをしておりますな〕
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蝶とぶや――
此の世の恨《うら》み
なきやうに!
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〔なんとまあ、蝶々さんの遊びたわむれている様子といったら。――もう、まるで、この世界には憎悪(もしくは、嫉《ねた》み)などというものが存在しないかのようではありませんか!〕
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蝶とぶや、
此の世に望み
ないやうに!
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〔ああ、蝶々さん! ――その遊びたわむれる様子には、さもさも、この現在世界にはこれ以上もう欲しいものは何もない、といった風情がうかがえます〕
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波の花に
とまりかねたる、
胡蝶かな!
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〔海波《かいは》がつくる花(水泡《みなわ》の花)のうえにとまって翅をやすめるなど、ちょっとむずかしいことだと、そう気づいているんですね。――ああ、気の毒に、蝶々さん!〕
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むつまじや!――
生まれかはらば
野辺の蝶。
[#ここで字下げ終わり]
〔もしも、わたしたち、生まれかわって(来世において)荒野の蝶々さんになれたなら、そのときこそは、きっと、ふたりはいっしょで、どんなにしあわせになれることでしょう!〕
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撫子《なでしこ》に
てふてふ白し――
たれの魂《こん》?
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〔ナデシコの花の上に、一匹の蝶々さんがいます。……これは、いったい、だれの霊魂なのかしら?〕
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一日《いちにち》の
妻と見えけり――
蝶ふたつ。
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〔いちにちだけの妻が、ついに、姿をあらわしました。――これで、蝶々さんたちはひとつがいになったのです!〕
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来ては舞ふ
二人静《ふたりしずか》の
胡蝶かな!
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〔近づきながら、ふたりは、はげしく舞っています。……しかし、ついに、ふたりが一つに結ばれたとき、おたがいに動きをとめて静かになりました。二匹の蝶々さんのことです!〕
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蝶を追ふ
心もちたし
いつまでも!
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〔わたしはねがうのです。蝶々を追いかけているときの、あの心(欲しいと思う、あのひたむきなもの)を、いつもいつも持っていたいものだなあ、と!〕
蝶を詠んだ詩作品のこれら見本のほかに、わたくしの手もとには、同じ題材のもとに書かれた日本の散文文学の珍奇なる一例があるので、それをお見せしようと思う。その原典は「虫諌《むしいさめ》」(意味は「昆虫への忠告」ということである)という稀覯《きこう》古書のなかに見いだされるのであるが、それのほんの自由訳をわたくしが試みたまでである。そして、この作品は、一匹の蝶にむかって談義をするという形式を藉《か》りている。しかし、現実には、人間にむかってなされた教訓的諷喩である。――人間の社会的浮沈についての道徳的意義を暗示しているのである。――
「さて、春の日ざしのもと、風はそよそよと吹いている。花はうすくれないに咲いている。草は柔らかく、人の心は楽しい。蝶々らは、いたるところ、喜びに満ちて舞いおどっている。そこで、多くの人たちが、いまや、蝶々について、漢詩や和歌俳諧をつくるのである。
そして、この季節こそは、おお胡蝶よ、おまえさんの輝やかしい繁栄の季節である。おまえさんは、いま、ほんとに美しくて、世界じゅうにおまえさんに匹敵するほど美しいものはないくらいである。それゆえに、ほかの虫たちは、こぞって、おまえを褒めそやしたり、嫉《ねた》みそねんだりする。――おまえを羨まない虫は、一匹だってありはしないのだ。なにも虫ばかりがおまえさんを羨望|嫉視《しっし》するのではない、人間もまた、おまえさんを褒めかつ羨んでいるのである。中国の荘周という人は、夢に、おまえさんの姿をかりた。――日本の佐国《さこく》という人は、死んでからのち、おまえさんの姿をかり、そして、幽霊となってあらわれた。なにも、おまえさんが起こさせる羨望の念は、虫や人間だけに限られているのではない。霊魂のないものまでが、おまえさんの姿に変形してみせるのだ。――生えている大麦をごらん、あれも蝶々になるのである。
そして、そのゆえに、おまえさんは、高慢ちきになってしまって、こんなことを考えている。『この世界のどこをさがしたって、あたしよりすぐれたものなんて、何ひとつありゃあしないんだ!』と。ああ! おまえさんが心のなかで何を考えているかということは、こっちには、先刻《せんこく》お見通しなのである。おまえさんは、おのれ自身の風采《ふうさい》に、あまりにも満足しすぎているのだ。それだからこそ、おまえさんは、どんな風が吹こうが委細かまわず、あんなにも軽々《かるがる》と身を風に任《まか》せているのである。――それだからこそ、おまえさんは、ちっともじっとしていることがないのである。――そして、いつも、いつだって、こんなことを考えている。『この世界じゅうに、あたしほどしあわせなものは、ひとりだってありゃしない』と。
しかし、いま、おまえさん自身の個人的な生い立ちについて、すこしは考えてみるがいい。このことは、思い出してみるだけの価値がある。というのは、おまえさんの生い立ちには、野卑下賎の一側面があるからだ。なにが野卑下賎の一側面かって? よろしい。おまえさんは、生まれてからあと、ずいぶん長いあいだ、自分の姿について、満悦できるような理由を持ってはいなかった。あの時分、おまえさんは、ただの菜虫《なむし》だった。体じゅう毛だらけの幼虫だったのだ。それに、おまえさんは、貧乏も貧乏、裸の身にまとう一枚の着物にさえ事欠《ことか》くありさまだった。おまえさんの風体といったら、ふた目と見られたざまではなかった。あの時分は、だれだって、おまえさんを見れば憎悪せずにはいられなかったものだ。じっさい、おまえさんが、われとわが身を顧みて恥ずかしく思ったのも、無理はなかった。あまり恥ずかしいものだから、おまえさんは、古い小枝や屑を拾い集めて、そのなかへ身を隠した。おまえさんは、一つの隠れ家をこしらえて、そいつを木の枝へぶら下げたりしたものだ。――すると、こんどは、みんながそれを見て、『やあ、雨外套《あまがいとう》の虫だ!』(日本語では「蓑虫《みのむし》」という)と囃《はや》し立てたものだ。それに、おまえさんの生涯のうちのあの時期、おまえさんが犯した罪悪といったら、そりゃあ大変なものだったのだ。美しい桜の木がようやく茂らせた柔らかな若葉の葉間《はがい》へ侵入し、おまえさんとおまえさんの仲間たちとは、わんさと寄り集まったのである。そして、そこには、法外な醜悪の状態が生起したのである。それで、葉桜の美しさを賞《め》でようとして遠方からはるばるやってきた人間たちは、せっかく期待を抱いていたその眼に、おまえさんたちの寄り集まる光景を見せつけられ、すっかり感情を害してしまった。そんなことよりももっと憎むべき罪を、おまえさんは犯しているのである。おまえさんだって知っていたはずだ。貧しい貧しい男女たちが、その畑に「大根《だいこん》」を栽培していたことを。――その「大根《だいこん》」を手塩にかけて育てるために、暑い日照りのもとで骨折って働きに働き、とうとう、みんなの心は痛苦でいっぱいになってしまっていたのだった。それを、おまえさんは、自分の仲間のものに勧めて、大挙して押しかけさせ、その「大根」の葉っぱにたからせ、ほかにも、その貧乏な人たちが作っていた野菜の葉っぱにたからせたのである。なにしろ、おまえさんたちは食い意地が張っているので、たちまち、それらの葉っぱを食い荒らし、さんざんに食いかじって醜悪な形に変えてしまった。――貧しい人たちの労苦などには、いささかの顧慮も払うことなしに。……そうなのだ。おまえさんは、そういうやつだった。そして、おまえさんの所業とは、そういうことだったのだ。
それなのに、おまえさんは、美しい姿となった今日《きょう》このごろ、昔の朋輩である虫けらどもを軽侮している。そして、たまたまそれら虫けらどもに出くわすようなことがあった場合に、いつもきまって、自分はそんな虫なんかとは知り合いじゃないというふりをする〔原文どおりにいえば『知らぬ顔の半兵衛をきめこむ』ということになる〕いまでは、おまえさんは、お金持ちの人間か、身分の高い人間かでなければ、友人づきあいしてみようとも思わない。……。ああ! おまえさんは、昔のことを忘れたのだ。そうじゃあないのか?
多くの人間どもが、おまえさんの過去を忘れてしまい、現在のおまえさんの優雅な形姿や純白の翅《はね》だけを見て魅力にとらわれ、おまえさんを漢詩だの和歌だのに詠んでいる、というのは本当のことだ。以前のおまえさんの姿に対してだったら、ひと目見るだにとうてい我慢できなかったはずの、やんごとなき生まれのお嬢さままでが、いまでは、大喜びしておまえさんに凝視の眼を向け、どうかあたしのこの簪《かんざし》にとまってくれますようにと願ったりし、さらに、上品な扇なんぞを手にかざして、おまえさんがそこへひょいととまってくれるのを待ちのぞんだりしている。そういえば、それに関連して思い出されることだが、ここに、おまえさんに関する古代中国の話がひとつある。もっとも、あまりおもしろい話ではない。
玄宗皇帝《げんそうこうてい》の治世、宮中には、幾百また幾千という美しい官女がいた。――なにしろ、あんまりたくさんいるものだから、これら官女のなかでだれがいちばんの器量よしであるか、それを決めることは、なかなかむずかしかった。そこで、これら美女たちすべてが一堂に集められることになった。そして、おまえさんがそのなかへ連れてゆかれ、美女たちのあいだを自由に舞ってよいことになった。そしておまえさんがその人の簪《かんざし》にとまった当《とう》の女性が、皇帝の御寝所《ごしんじょ》へ召《め》される、という決定がなされた。その時分は、皇后はひとりしかあってはならないことになっていた。――これはよい法律であった。しかし、玄宗皇帝は、おまえさんゆえに、国家に対する重大な災禍を招いてしまったのだ。というのは、もともと、おまえさんの心は軽佻《けいちょう》であり浮薄《ふはく》であるからだ。たくさんいた美女たちのなかにだって、心の清い女性も幾人かは必ずいたにちがいないのに、おまえさんときたら、ただ奇麗なものにしか目をとめない習慣ができてしまっているものだから、このときも、外見のいちばん美しい人物のところへ行ってとまったのだった。それがために、多くの官女たちは、こぞって、女としての正しい道を忘失して、ただただ、男性の目に自分を美しく見せる手だてばかりおぼえるようになってしまった。その結果、玄宗皇帝は、まことに哀れな、痛ましい最期を遂げたのである。――すべては、おまえさんの軽佻かつ浮薄な心が、原因を作っているのだ。じっさい、おまえさんの偽らぬ本性《ほんしょう》というものは、それ以外の事がらからも、容易に見破ることができる。世の中には、たとえば――常緑の樫とか、松とか、そういった樹木がある。――それら樹木の葉っぱは、凋《しぼ》むこともなく枯れることもなく、つねに緑をたたえている。――これら樹木こそは、道心堅固なる木であり、操高き木である。ところが、おまえさんは、ああいった連中はどうも野暮で、四角ばっているんでね、と言って、その顔を見るのもいやがり、かつて一度たりとも尋ねたことがない。桜の木とか、海棠《かいどう》とか、芍薬《しゃくやく》とか、黄の薔薇とか、そういった花木のところへばかり、おまえさんは行くのだ。それらの樹木が見てくれのいい花を咲かせているものだから、おまえさんは、それらを好むのだ。そして、おまえさんは、ただもう、相手をうれしがらせようとしているだけなのだ。こういう行為は、当方をして言わしむれば、まことに不穏当である。それらの樹木は、なるほど、美しい花をつけはする。しかし、腹の足しになるような実は、何ひとつ結びはしない。そして、ただ、贅沢《ぜいたく》や見栄《みえ》の好きなやつばかりに、お愛想をしてみせているのである。それらの樹木どもが、おまえさんのひらひらする翅《はね》や、繊細な姿を喜ぶというのは、たしかに理由のあることだ。――その理由あるによって、そいつらは、おまえさんに対して親切にしてみせるのである。
いま、この春の季節に、おまえさんは、お金持ちの庭園じゅうを浮かれ浮かれて舞いおどったり、桜が満開になっている美しい路地から路地へさまよったりしながら、こんなひとりごとを言っている。『世の中に、あたしほどに楽しみを持っているものなんて、あたしほどにすぐれた友だちをもっているものなんて、ひとりもありゃあしないんだ。そして、だれがなんと言おうが、あたしは、あの芍薬《しゃくやく》がいちばん好きだ。――そして、あの黄金《こがね》いろの薔薇はわたしの最愛のものだ、あれがこうして欲しいと指図することにはいちいち言うなりになってやるつもりだ。というのは、それこそがあたしの沽券《こけん》であるし、あたしの楽しみでもあるから』と。……おまえさんは、そのように言う。しかし、豊満かつ優雅なる花の季節というものは、じつに短いのである。花々はじきにしおれて、散ってしまうであろうから。やがて、夏の暑い時期になれば、青い葉っぱばかりになるであろう。そして、そのうちに、秋風が吹くであろう。そのときには、それら葉っぱも、雨のように、|ぱらり《ヽヽヽ》、|ぱらり《ヽヽヽ》、と落下するであろう。おまえさんの運命は、そのとき、あの諺《ことわざ》に『たのむ木のもとに雨ふる』〔避難場所として当てにしていた木をつらぬいて、雨がぼとぼと落ちてくる〕といわれているとおりの、非運なる人間の運命と同じになってしまうだろう。おまえさんは、自分の昔の友だち、根っ切り虫とか地虫とかを捜しだし、どうか昔なつかしいあの穴の中へ帰らしてくれと言って、その友らにむかって物乞いするであろう。――ところが、いまでは、おまえさんは、からだに翅をはやしているから、その翅に邪魔されて、昔の穴へはいることができないのだ。そして、おまえさんは、天地の間《かん》のいずこへも、自分のからだを隠すことができない。この時節には、沢べの水草も、もうすっかり枯れつくしてしまっているはずである。そして、おまえさんは、もはや、自分の舌を濡らす一滴の露をさえ吸うことができないであろう。――そうなっては、おまえさんは、倒れ伏して、死ぬのを待つよりほかには、もうどうすることもできはしないだろう。すべては、おまえさんの軽佻かつ浮薄な心が原因だったのだ。――それにしても、ああ! なんという哀れな身のはてか! ……」
三
蝶に関する日本の物語は、すでにわたくしが述べたごとく、その大部分のものが中国起源であるようにうかがえる。しかし、ここに、おそらくは土着《インディジナス》のものと思われる説話が、一つある。そして、この説話は、極東には「ロマンティック・ラヴ」など存在しないと信じている人々のために、ぜひとも語っておくだけの価値があるような気がする。
東京の近郊にある宗参寺《そうざんじ》という寺の墓地裏に、ぽつんと離れた一軒の小屋が、もう久しい以前から建っていて、そこに高浜という名の老人が住んでいた。高浜は、温順な暮らしかたをしていたので、近隣の人たちから好かれていた。しかし、近隣のだれもかれも、あの爺さんはちょっと気がおかしいんではないか、というふうに想像していた。沙門《しゃもん》たるべく誓願を立てたというのでない以上、男子は、結婚をして一つの家庭を営むのが当たりまえだ、と考えられている。ところが、高浜は、宗教生活に帰属しているという人でもないのに、だれに勧められても、けっして結婚しようとしなかった。そればかりでなく、高浜がだれか女性と恋愛関係にあったというような話さえ、これまで、だれも聞いたものはなかった。五十年よりも以上のあいだ、高浜は、まったく孤身《ひとりみ》で暮らしていたのである。
ある年の夏、高浜は病気になった。そして、もはや余命いくばくもないことを、みずから悟《さと》った。そこで、かれは、人をやって、いまは未亡人になっている義理の妹と、その一人息子《ひとりむすこ》とを呼びに行かせた。――義妹の一人息子というのは二十歳ばかりになる若者で、高浜は、この若者をひじょうにかわいがっていた。この母子ふたりは、すぐに駆けつけてきた。そして、老人の最後の時間に平安を与えようとして、及びうるかぎりの手を尽くした。
ある蒸し暑い午後のことである。未亡人とその息子とが、高浜の枕もとで看護《みとり》をしているとき、老人はすやすやと眠りに落ちた。それと同じ瞬間、一匹の大きな白い蝶が、部屋のなかへひらひら舞いこんできて、病人の枕にとまった。甥《おい》が、団扇《うちわ》で、それを追いはらったが、蝶は、すぐに枕にもどってきた。もういっぺん追いはらうと、またもどってきたが、それも三度目でやんだ。そこで、甥は、その蝶を庭へと追いだし、そして、自分も庭へおり、あいていた門をくぐって、隣りのお寺の墓地へはいって行った。しかし、蝶は、さもさも、遠くへ追いはらわれるのがいやだというように、甥が歩いていく前方を、いつまでもひらひら舞いつづけている。そして、そのおこないがあまりにも不可思議なので、甥は、自分の前方をひらひら舞っているのがはたして蝶なのか、それとも「魔」なのか、どちらが本当なのかということを疑懼《ぎく》しはじめた。かれは、また、蝶を追い追いして、墓地の奥のほうまでついて行き、さいごに、その蝶がある一つの墓石にむかって飛んで行くのを見た。――それは、ひとりの女人《にょにん》の墓石である。その場所へ来ると、不思議なことに、蝶の姿はどこかへ見えなくなってしまった。かれは、あたりを捜してみたのだが、むだであった。そこで、かれは、その石塔をよく調べてみた。墓石には、あまり親しんだことのない苗字《みょうじ》とともに、「アキ子」という名が刻んである。そして、アキ子が十八歳で死んだということも、碑銘に述べられてある。見たところ、この墓石は、およそ五十年以前から建っているらしい。表面には、そろそろ苔がはえかかっている。しかし、この墓石は、手入れがたいへんよく行き届いていた。墓前には、新しい供花《くげ》がそなえられてあった。そして、|水溜め《ウオーター・タンク》には、つい最近になって汲みかえたばかりの水が、いっぱいに張られてあった。
やがて、病室にもどってきたとき、青年は、伯父さんがいま息を引きとったところだと聞いて、びっくりした。死は、眠りつづけていた人のうえに、なんの痛苦もなしに到来したのであった。そして、その死顔《しにがお》は、やさしく微笑《ほほえ》んでいた。
青年は、母にむかって、いましがた自分が墓地で見てきたことを話した。
「まあ!」と、未亡人は叫んだ。「それじゃあ、それはアキ子だったんだわ!」
「でも、アキ子って、だれなんです、母さん?」と、甥は尋ねた。
未亡人が答えた。――
「この伯父さまはね、お若い時分に、ご近所の娘さんで、アキ子さんというかわいらしい女のひとと許婚《いいなずけ》だったんですよ。ところが、アキ子さんは、日取りまで決まっていた結婚式の、ほんの数日前になって、肺病で亡《な》くなってしまった。それで、晴れてご主人となるはずであった伯父さまは、たいへんお悲しみになられたんですよ。アキ子さんの埋葬がすんだあと、伯父さまは、自分はもう一生結婚はしないという誓いを立てなさった。そうして、自分がいつもアキ子さんのお墓のそばにいられるようにと、墓地のそばへ、この小さな家を建てなさった。すべて、こういった出来事は、五十年以上も昔に起こったことなんですよ。そして、その五十年ものあいだ、毎日――冬だろうと夏だろうと、変わることなく――伯父さまは、かかさず墓地へいらっした。そして、あのお墓へお詣《まい》りをなさっては、墓石をきれいにお掃除し、墓前にお供えものをそなえていらっしたんですよ。しかし、伯父さまは、このことについて他人に何か言われるのをいやがっておいでだった。そして、ご自分でも、そのことはけっして口にされなかった。……そうしてみると、とうとう、アキ子さんがお迎えにきたんだねえ。あの白い蝶々さんこそは、アキ子さんの霊魂だったんだねえ」
四
わたくしは、日本の古い舞楽《ぶがく》に、宮廷で上演されるのが恒例となっていた、「バタフライの舞踊」(「胡蝶舞《こちょうのまい》」)とよばれるもののあったことを、あやうく書き忘れるところであった。この「胡蝶の舞」においては、蝶の衣裳をつけた舞人《ぶにん》たちが舞う。この舞が、こんにちにおいても、何かのおりに上演されているものかどうか、それについては、わたくしは知らない。なんでも、習得するのがたいへんむずかしいとかいう話である。この舞の正式な上演には、六人の舞人が必要である。そして、舞人は、特殊なかっこうをして舞わなければならない。――|足踏み《ステップ》、姿勢《ポーズ》、|身ぶり《ジェスチャー》など、いちいち伝統的な法則に従うのである。――そして、羯鼓《かっこ》、太鼓、横笛《おうてき》、笙《しょう》、それから、西洋の牧神《パン》などの与《あずか》り知らぬ形をした篳篥《ひちりき》、これらの楽器のかなでる音に合わせて、ごくゆるやかに、めぐりめぐりながら舞うのである。
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蚊
自己防衛のための一見地から、わたくしは、ハワード博士の著書『蚊』を読んでいるところであった。わたくしは、いま、蚊に攻め立てられているのである。わが家の近隣には数種類の蚊がいる。しかし、そのなかのたった一種だけが、ひどい厄介者なのである。――ちっぽけな、針みたいなやつで、全身に銀色の斑点と銀色の縞目とがある。こいつにちくりと刺されると、ちょうど電気で火傷《やけど》したみたいな鋭い痛みが走るのだ。そして、この蚊がきーんと立てる羽音そのもののなかに、やがて襲いかかってくるその痛みがどんな性質のものであるかということを、前もって予告する、ある鋭い性質が感じられる。――あたかも、それは、ある特殊な物のにおいが、ある特殊な味覚を連想させるのによく似ている。わたくしは、この蚊が、ハワード博士のいわゆる「ステゴミュイア・ファスキアタ」もしくは「クレックス・ファスキアトゥス」なる蚊に、たいへん似ていることに気づいた。そして、その習性なども、ステゴミュイアと同じなのである。たとえば、この蚊は、夜間よりも日中《にっちゅう》にやってくる。それも、午後のあいだが、いちばんうるさくやってくる。そして、わたくしは、この蚊が、寺の墓地からやってくることを発見した。――それは、たいへん古い墓地である。――わたくしの家の庭裏にある墓地なのである。
ハワード博士の著書には、近隣にいる蚊を駆除するには、蚊の発生する溜まり水のなかへ、少量のガソリンもしくは燈油を撒きさえすればよい、と指示されてある。石油は、一週間に一度、「水の表面十五フィート平方ごとに、一オンス。それより狭い表面であるならば、それに応じた割合の分量」を使用せよ、と指示されてある。……だが、|わが家の《ヽヽヽヽ》近隣の状態を、お考えいただきたいのだ!
わたくしは、さきほど、自分を悩ます蚊どもが寺の墓地からやってくると言った。その古い墓地にある墓石群の前には、ひとつなしにと言ってよいほど、水を入れる容器、すなわち「水溜め」と呼ばれるものがついている。多くの場合、この「水溜め」は、石塔を支えている幅広《はばひろ》の台石に彫りこんだ、楕円形のくぼみにすぎない。しかし、すこし金をかけた墓石になると、そういった台石の貯水容器はついていなくて、そのかわり、これら墓石の前に、どすんと一枚石を切りだしてつくった、家の紋所《もんどころ》とか象徴的な彫刻とかでもって装飾をほどこした、ひとつの大きな水槽が、べつに独立して据《す》えられてある。最下層の身分に属する人たちの墓石の前には、はじめから、そういった「水溜め」など彫られてもいなくて、水が、茶碗とか、どんぶり鉢とかに入れられて、お供えしてある。――というのは、死人には、どうしても、水が欠かせないものだからである。また、死人には、花もお供えしてやらなければならないからである。そして、いちいちの墓の前には、竹筒か何かの花立てが一対《いっつい》ずつ備えつけてある。そして、これら花の容器は、もちろん、そのなかに水を入れてある。墓地には、また、お墓へ水をあげるための井戸がある。死者の縁者や友人が墓参に来たようなときには、いつでも、新鮮な水が、墓の貯水容器や、貯水容器がわりの茶碗に供えられる。しかし、なにしろ、このような古い墓地には数千もの「水溜め」があり、また、数万もの花立てがあるものだから、これら全部の水を毎日新しく取りかえるなど、とうてい、できることではない。しぜん、水は、よどんで腐り、発生する蚊の数も多くなるわけである。すこし深目な水溜めになると、めったに、水は乾かない。――なにしろ、東京の降雨量といったら、一年十二ヵ月のうちの九ヵ月間というもの、墓地の水溜めにつねに多少の水を溜まらせておくにじゅうぶんなくらいに、どっさり降るからである。
さて、わたくしを苦しめる当《とう》の強敵の生まれでるところは、まさしく、これら貯水容器および花立ての中なのである。蚊どもは、死者のための水の中から、幾百万となく生まれてくるのである。――そして、仏教の教義にしたがうと、これら蚊どものうちには、その前世における悪業によって「食血餓鬼《じきけつがき》」に落ちるべき運命を負わされた、当《とう》の死者自身の|生まれかわり《リーインカーネイションズ》であるものもいるかもしれない。……なんにしても、あの「クレックス・ファスキアトゥス」の悪意などは、どうやら、だれか邪悪なる人間の魂が圧縮されて、きーんという泣き声を立てるあの微小片のような肉体に化したのではないか、との臆測を、正当づけうるみたいな気がされる。……
ところで、燈油の問題に立ち戻って考えることにしよう。いかなる土地にいる蚊であろうと、そこにあるいっさいの溜まり水の表面をば燈油の薄皮《フィルム》でもって蔽ってしまえば、そいつらを一網打尽に撲滅しおおせることができるのである。幼虫ならば、そいつが呼吸をしに上がってきたときに、ころっと死んでしまう。そして、雌の成虫ならば、そいつが卵を産みつけに水に接近したときに、これまた、ころっと死んでしまう。わたくしは、ハワード博士の著書で読んだのだが、人口五万のアメリカの一都市において、その全市の蚊を撲滅しおおせるために要する費用は、なんと、三百ドルを越えることはないのだそうである!
わたくしは、ここで、大いに疑問に思うのである。それは、かりに、もしも東京市役所が――この東京市役所は、学術的でありかつ進歩的なことに対しては、まことに積極的な姿勢を示すのである――にわかに条例を発して、市内の墓地にあるいっさいの水の表面を、一定期間内に、燈油の薄皮《フィルム》でもって蔽ってしまわねばならぬ、と命令したとしたら、どういうことになるか、と! いかなる生きもの――それが、目に見えないような生きものであってさえも――の生命をも殺すことを禁止している宗教が、どうしてそのような命令に服従することなどできようか? 孝行の美風が、そのような命令に賛同するなどのことを、夢想だにするであろうか? そして、さらに、労力と時間とを要するその費《つい》えを考えてみるがよい。なにしろ、東京じゅうの霊園地域にある幾百万の「水溜め」と、幾千万の竹筒の花立てとに、きまって七日目ごとに、燈油をそそぐのである! ……とうてい不可能である! この都会を蚊どもから救うためには、昔からある霊園地域をばことごとく取り壊してしまわなければならないであろう。――それをすることは、とりもなおさず、寺院の壊滅を意味することになるであろう。そして、そのことは、寺院にある多くの美しい庭園の死滅を意味する。その庭には、蓮池《はすいけ》があり、梵字を刻んだ石碑があり、反《そ》り橋があり、こうごうしい植え込みがあり、玄妙不可思議なる微笑《みしょう》をたたえた仏像がある! そうだとすれば、「クレックス・ファスキアトゥス」の撲滅は、祖先崇拝という詩的美風の破壊を意味することになるであろう。――たしかに、これは、あまりにも高価な代償である!
そのことのみにとどまらない。わたくしは、いよいよ自分があの世へ行く時になったときには、どこか古風な仏教墓園に埋めてもらいたいと思っているのだ。――そうすれば、わたくしの地下なるともがらには、おそらく、明治の世相流行や激動や崩壊などのことはいささかも意に介さない、大昔の人たちがなってくれることであろう。それには、わたくしの家の庭裏にある古い墓地などが、ふさわしい場所ではないかと思ったりしている。そこにあるものは、なにからなにまで、まことにすばらしい、びっくりするような珍奇の美を具えていて、なんとも美しい。そこにある一木一石が、げんに生きながらえているどんな人間の頭脳のなかにも、もはやけっして存在することのない、ある古い古い過去の世の理想によって形成されているのである。ものの影さえ、現在という時間には属しておらず、空に輝く太陽にも属していないのだ。そうではなくして、忘却の世界に属しているのである。その忘却の世界は、蒸気をも、電気をも、磁力をも――そして、燈油というものをも、はじめからまったく知りはしないのである! それからまた、あの大きな梵鐘がぼおーんと鳴るあの響きのなかには、古風で趣の深い音色がある。それは、わたくしの身うちにある十九世紀的なあらゆるものとは、まことに不思議なくらい遠く距たった諸感情を呼びさましてくれるので、それで、その諸感情が弱々しく盲目的に揺れうごくときには、わたくしは恐ろしい気持にさえなってしまうのである。――身にしみて恐ろしい気持になるのである。わたくしは、あの大波のような鐘声を耳にするとき、きまって、自分の魂の底知れぬ深い部分において、何かがむくむくと頭をもたげ、また何かがひらひらとはためくのを、はっきり自覚するのである。――それは、さながら、幾百千万の死者および誕生児の住む暗黒界を越え、遠い光明に到達せんとして、はげしくもがき苦しんでいるときの記憶にも似た、ひとつの意識現象《センセーション》である。わたくしは、このさき、いつまでも、あの梵鐘の音の聞こえる範囲内のところにいたいものだと思う。……そして、自分もまた「食血餓鬼《じきけつがき》」の境涯に落とされる運命をもった人間だということもあり得るではないか、と考えるとき、わたくしは、こいねがわくはどこかそこらの竹筒の花立ての中か「水溜め」の中かに再誕生する機会に恵まれたいものだと、そんなことを思う。そうすれば、わたくしは、そこからそっと出て行き、あのかすかなる、しかし刺すように鋭い歌をうたいながら、自分の知っている懐かしいだれかれをちくんと噛むこともできるだろうからである。
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蟻
一
けさの空は、ひと晩じゅう吹き荒れた嵐がおさまったあとでもあり、ひたすらに青く、また眩《まば》ゆいばかりに青い。空気――かんばしい空気だ! ――には、烈風によってへし折られ、あたりに乱れ散った、数知れぬ松の枝から発散される、甘たるい樹脂のにおいが充満している。近くの竹藪のなかでは、妙法蓮華経《みょうほうれんげきょう》の讃歌をとなえあげる小鳥の、笛のような呼び声が聞こえる。そして、大地は、南風に吹かれているがゆえに、まことに静寂《せいじゃく》そのものである。いまや、夏が来たのだ。長らくぐずつきにぐずついていた夏が、ついに、ほんとうにやって来たのだ。日本画の顔料《がんりょう》で描いたみたいな、珍しい蝶々が、そちらこちらに舞っている。蝉がじいじい鳴いている。似我蜂《じがばち》がぶんぶん唸《うな》り声をあげている。蚋《ぶよ》が陽光のなかで踊っている。そして、蟻が、崩されたおのが住みかを修繕するのに大童《おおわらわ》である。……わたくしは、ふと、日本の詩の一つを思い浮かべる。
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行衛《ゆくえ》なき……
蟻のすみかや!
五月《さつき》雨。
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〔いまや、気の毒にも、この小動物には、行くべき場所がどこにもないのだ! ……ああ、かわいそうに、この五月に降りつづく雨のなかで、蟻どもの住みかとなる場所とて、どこにもありはしないのだ!〕
しかし、わたくしの家の庭にいるでっかい黒蟻どもは、どうも、いささかの同情も必要としてはいないようだ。これら黒蟻は、暴風雨《あらし》がやってきて、大きな立ち木が根こぎに倒され、家屋が|木っ端微塵《こっぱみじん》に吹き飛ばされ、道路が水に洗われて存在しなくなったりしているあいだ、なにやら想像もつかぬようなやりかたで、その暴風雨を凌《しの》いだのである。そのくせ、かれらは、颱風の到来に先だって、自分たちの地下都市の門を封鎖しただけであり、そのほかには、これといって目立った警戒体制を布いたというのでもなかった。そして、けさはもう、みんな、勝ち誇ったようにちょこまか立ち働いているが、このありさまを見ては、わたくしも、ひとつ蟻に関する随筆を書いてみようか、という気持を起こさずにはいられなくなる。
わたくしは、この論考の序説部分に、古い日本文学から取りだしたある種の作品――ある感性的な作品とか、ある形而上学的な作品とか――を据えたいと思っていた。ところが、日本の友人が、この主題に関して、わたくしのために見つけてくれた作品は、すべて――たいした価値のないわずかばかりの詩を除くと――中国のものばかりであった。この中国の材料は、主として、怪異物語から成り立っているものであった。そして、そのなかの一つだけが、ここに引用する価値があるように思われる。――ほかにはよい作品が望めないので。
*
中国の台州《たいしゅう》というところに、ひとりの信心深い男がいた。この男は、毎日、それももう永年にわたって、ある女性神《ゴッデス》にむかい熱心に礼拝をささげていた。ある朝、例によって祈祷しているさいちゅうに、黄いろい服を着たひとりの美人が、部屋のなかへはいってきて、この男の前に立った。男は、大いに驚愕《きょうがく》して、なんの御用があるのですか、どうして予告もなしにはいってこられたのですか、といって尋ねた。すると、その女は、こう答えた。「わたしはただの女ではないぞよ。わたしは、おまえが、永年にわたって、信仰篤く礼拝をささげていてくれる当《とう》の女性神であるぞよ。そして、わたしは、おまえの祈祷が徒《あだ》にならなかったことを証《あか》してやろうとて、ただいま、ここへ、こうして現われたのだぞよ。……おまえは、蟻の言葉を存じておるか?」そこで、礼拝者が返答した。「わっしは、ほんの下賎の生まれの、もの知らずの男でごぜえます。――学者でなんかありゃあしませんのでごぜえます。それで、人間の言葉でさえ、身分の高いお方のお話しなさることとなると、わっしは、もうてんでわからねえんでごぜえます」これら返答のことばを聞くと、女性神はにっこりとほほえみたまい、そして、ふところから香箱のような形をした、小さな箱をとりだされた。女性神は、その箱をひらいて、そのなかへちょっと指をひたし、なにやら軟膏のようなものをつけると、それを男の両方の耳に塗布したもうた。「さあ」と、女性神は言われた。「蟻をさがすがよいぞ。そして、蟻を見つけたならば、そのそばにしゃがんで、注意深く蟻の話すことを聞くがよいぞ。おまえは、きっと、蟻の話を理解することができるぞよ。おまえは、きっと、なにか自分の利益になるようなことを聞くであろうぞよ。……ただ、よく覚えておいてほしいが、おまえは、けっして、蟻をおどかしたり、かきみだしたりしてはならぬぞよ」そういったかと思うと、女性神は、すぐに消え去って行った。
男は、さっそく、蟻を捜しに、外へ出かけて行った。すると、まだ戸口の敷居《しきい》をまたぐかまたがぬかのうちに、家の柱を支えている基礎の石のひとつに、二匹の蟻がいるのを、かれは見つけた。かれは、その二匹の蟻のうえにおおいかぶさるようにして、しゃがみこみ、そして、じっと耳を傾けてみた。すると、驚いたことに、蟻の話すのが、耳にちゃんと聞こえた。しかも、その言っている意味まで、ちゃんと理解することができたのである。「どうだい、もっと暖かいところへ行こうじゃないか」と、二匹の蟻のうちの一匹が提案した。「どういうわけで、もっと暖かいところへ行くんだい?」と、もう一匹が尋ねた。――「この場所がどうかしたっていうのかね?」「ここは、下があんまり湿《し》けていて、冷たいやな」と、最初に口をきいたほうの蟻が言った。「ここには、どえらい宝物が埋めてあるんだぜ。だから、いくらお天道さまが照ったって、このまわりの地面じゅうを暖めることはできないのさ」そう言って、二匹の蟻は、いっしょにどこかへ行ってしまった。そして、その話を聞いた男は、駆けだして、鍬《くわ》をとりに行った。
柱のまわりを掘っていくうちに、男は、まもなく、金貨のいっぱい詰まった大きな壺を、それもたくさん見つけだした。この宝物を見つけたおかげで、男は、大金持になった。
その後も、男は、なんどか、蟻の会話を聞こうと試みてはみた。しかし、それっきり、二度とふたたび蟻の話すのを聞くことはできなかった。女性神の軟膏は、この男の耳を、たった一日だけしか、蟻の神秘な言葉にむかって開いてくれることがなかったのである。
*
さて、わたくしも、この中国の信心家と同じように、はなはだ無学な人間であり、したがって、もともと、蟻の会話など聞き得るはずのない人間である、ということを、ここに告白しなければならない。しかし、「|近代科学の仙女《フェアリー・オブ・サイエンス》」は、ときおり、その手にしたもう|魔法の杖《ワンド》で、わたくしの目や耳にさわってくれる。すると、そのときには、ほんのしばらくのあいだではあるけれど、わたくしは、聞き得ざる事象をちゃんと聞くことができ、知覚し得ざる事象をちゃんと知覚することができるのである。
二
いったい、非キリスト教国であるひとびとのほうが、われわれキリスト教国の文明よりも、倫理的に見てはるかにすぐれた文明を産みだしている、ということを論じたりしようものなら、あれこれの社会において、たちまち|鼻撮み者《はなつまみもの》扱いにされてしまうのだけれど、ちょうどそれと同じ理由から、わたくしがこれから蟻について語ろうとしていることも、ある種の人たちには、あまり喜ばれないのではないかと思う。しかし、世の中には、わたくしなどがそうなろうと望むことさえもできなかったくらい、比較を絶して賢明な人たちもいるのである。そのような比較を絶して賢明な人たちは、キリスト教が天恵を受けているという問題とは全く切り離して、昆虫について考え、また文明について考えている。そして、わたくしは、新刊の「ケムブリッジ博物学報」のなかに、自分を励ましてくれるものを見いだす。同学報には、デヴィッド・シャープ教授によって書かれた、蟻に関する、つぎのような見解が掲載されているのである。――
「観察の結果、これら昆虫の生活のなかにあらわれる、もっとも顕著な現象が明らかにされた。じっさい、われわれは、つぎのような帰結を出すことを、どうにも避けられなくなってしまった。すなわち、蟻は、多くの点において、われわれ人類が知っているよりも、いっそう完全な度合いで、社会における共存生活の方法を会得している、ということ。さらに、蟻は、社会生活を大いに促進助長せしめる数種の産業および技術に習熟している点において、われわれ人類よりも、はるかに先をあゆんでいる、ということ」
わたくしは、いやしくも博識の人物であるならば、この練達の一専門家によって提出された平明な報告書に論難を加える者はまずあるまい、と推測する。現代の科学者は、蟻や蜜蜂を取り扱うにあたって、いたずらに感傷主義的になったりする傾向をもってはいないはずである。しかも、かれは、社会進化に関して、この昆虫のほうが「|人間をとびこして《ビヨンド・マン》」はるかに進歩しているらしいことを認めるのに、たぶん躊躇しないであろう。ハーバート・スペンサー氏といえば、だれひとり、この人にロマンティックな傾向があるなどと言って非難する人はないが、このスペンサー氏が、シャープ教授よりもかなり先へ進んだ見解を示しているのである。スペンサー氏によれば、蟻は、経済的に見ても、はたまた倫理的《ヽヽヽ》に見ても、その真の意味において、人類よりずっと進歩している。――なぜならば、蟻の生活は、徹頭徹尾、利他主義な目的にささげられているから、という。じっさいに、シャープ教授は、つぎに掲げるごとき周到な観察をおこなっておきながら、不必要にも、その蟻に対する賛辞に多少の手加減を加えているのである。――
「蟻の能力は、人間の能力のようなものではない。蟻の能力は、個体の繁栄《ウェルフェア》よりも、むしろ、種族の繁栄のためにささげられているのである。個体は、いうならば、その共同体《コンミュニティ》の利益のために犠牲にされるか、もしくは、特殊化されるかしている」
――この文章からはっきり汲みとれる含意は、こうである。――いかなる社会状態であっても、そこにおいて、個人の改善が公共の繁栄のために犠牲を強いられているような場合には、まだまだ、多くの要望事項が未達成のままに残されている、ということである。――このことは、こんにちの人間の立場からすれば、おそらく、正しい意見であろう。というのは、人間はまだ不完全にしか進歩していないからである。また、人間の社会は、もっともっと個体化することによって、多くの利益を得るだろうからである。しかし、社会的な昆虫である蟻に関しては、この文章に含まれている批評は、じつは疑問だらけである。「個人の改善とは」と、ハーバート・スペンサーは言っている。「個人をば、社会的協同状態にいっそうよく適応せしめることによって、もたらされる。そして、これは、社会の繁栄を助長することになるのであるから、ひいては、その民族の維持保存を助長することになる」と。換言すると、個人の価値は、社会との関係において|のみ《ヽヽ》存在し得る、ということになる。もし、これが許容されれば、個人を社会の犠牲に供するのが善であるか悪であるか、という問題は、社会の一員である個人がさらにいっそう個体化することをとおして、その社会が何を獲得し何を損失するか、という問題によって、決定されなければならない。……ところが、やがてわれわれが見るであろうように、われわれの注意をもっとも惹くに足る蟻社会の諸条件とは、じつに、その倫理的条件である。そして、この倫理的条件は、人間のがわからの批評など、はるかに越えている。なぜかといえば、蟻は、スペンサー氏が「そこでは、利己主義と利他主義とがあまりにも融合一致しているために、一方が没して他方となり、他方が没して一方となっている、一つの状態にある」と叙述している、あの道徳的進化の理想を、りっぱに現実化し畢《おお》せているからである。すなわち、この状態にあっては、あり得べき唯一の喜びとは、非利己的な行為をする喜びにほかならぬのである。さらに、もういちど、スペンサー氏の叙述を引用すると、蟻社会の活動とは、「個人の幸福をば、どこからどこまで、共同体の安寧福祉よりも後《あと》にする活動であるから、したがって、個人の生活は、ただただ、それが、社会生活に対する当然な注意を可能なかぎり払うのに必要である、という範囲でだけ、顧慮されるにすぎないようにうかがえる。……個人はその活動力を維持していくのに必要なだけの、食物および休養を摂取しているにすぎないようにうかがえる」のである。
三
わたくしは、読者諸君が、つぎのような事がらを知ってくださることを、希望する。すなわち、蟻は、園芸や農業を営むのである。蟻は、茸《きのこ》の栽培にも習熟している。蟻は、五百八十四種(現在わかっているところによると)の、いろいろと異なった動物を飼育している。蟻は、堅い岩石に、トンネルをうがつ。蟻は、幼虫どもを生命の危険にさらすような大気の変動にあうと、よくそれに対処する方法をこころえている。蟻は、昆虫としては、その寿命の長いことも、他に比類を見ない。――その高度に進化をとげた種類の蟻になると、相当の年数を生きるのである。
しかし、こういった事がらは、わたくしがとくに述べたいことではない。わたくしが語りたいのは、蟻の荘厳なまでの礼儀正しさについてであり、その恐ろしいまでの品行方正ぶりについてである。人間の行為に関してもっとも肝をつぶさせるような高い理想といえども、これを蟻のもっている諸倫理に比べるならば、――その進歩の程度を時間で計算してみるとき、――その遅れをとっていること、まさに数百万年をくだらない! ……ここで、わたくしが「蟻」と言う場合、それは、蟻のなかでもいちばん高等な種類をさしているのである。――もちろん、アリ科の動物全体をさしているのではない。蟻には約二千種の種類があることも、これまでに明らかにされている。そして、これら多数の蟻は、その社会組織に関して、それぞれ、進化の度合いに幅広い差異を示している。生物学的に見て最重要であるところの、さらにまた、倫理学上の命題との微妙な関わりにおいてそれに劣らず重要であるところの、ある種の社会現象は、もっとも高度に進化をとげた蟻社会の存在形態を対象としてのみ、はじめて、これを研究することが有利になるのである。
蟻が長寿をとげる事実に関する比較実験からひきだされる蓋然《がいぜん》的価値については、近年、いろいろに論じられているが、それらすべてに徴《ちょう》するならば、蟻に個性があるということを、敢《あ》えて否定する者はなかろうと思う。この小動物が、どこからどこまで全く新しい種類の困難に出会っても必ずこれを克服していく知恵をもっている事実、また、これまでにいちども経験したことのない環境条件によく順応していく知恵をもっている事実、これこそは、かれらに独立した思考力が相当程度にあることを立証している。それはともかくとして、少なくとも、以下のように言い得ることだけは確かである。すなわち、蟻は、純然たる利己的方面に行使されるはたらきをもった個性などといったものは持っていない。――ここで、わたくしは、「利己的《セルフィッシュ》」ということばを、ごく普通の意味で用いているつもりである。およそ、食い意地の張った蟻とか、好色な蟻とか、さらには、七つの大罪のうちのどれか一つでも犯すことのできる蟻とか、カトリックの教義でいう小罪のどれか一つでも犯すことのできる蟻とか、そういったものは、想像することさえできないのである。もちろん、ロマンティックな蟻とか、イデオロギーをふりかざす蟻とか、詩人の蟻とか、さらにはまた、形而上学的思弁にふける傾きのある蟻とか、そういったものも、想像することさえできない。いかなる人間の精神といえども、蟻の精神がもっている絶対的な即実際性《マター・ロヴ・ファクト》という特性に到達するなど、とうてい、不可能である。――いかなる人間存在といえども、げんにこんにちあるがごとき状態では、蟻の精神的習性がもっているほどの、完全無欠に実際的な精神的習性を培養するなど、とうてい、不可能である。しかも、この最高限度に実際的な精神たるや、道徳的過失ひとつ犯そうにも犯し得ないという性質をもっている。蟻が宗教観念をもたないということを立証するのは、おそらく、困難であるだろう。しかし、そのような宗教観念が、蟻にとってはなんの役にも立っていないことだけは、確実である。道徳的弱点におちいろうにもおちいれないものは、はじめから、「霊的指導《スピリテュアル・ガイダンス》」など必要としていないからである。
われわれは、蟻社会の性格を想像し、また、蟻道徳の本質を想像するが、それも、たかだか漠然と想像できるというにすぎない。しかも、こういう想像をするのだって、われわれは、人間社会および人間道徳の、いまだに達成不可能なままにあるなんらかの状態を、想像力によって描きだそうと努力せねばならないのである。それならば、いっそ、われわれは、こんな一つの世界を想像してみたらどうであろうか。すなわち、働きづめに間断なく働くひとびとが、それももう猛り狂ったように働きに働くひとびとが充満しており、――しかも、それら働くひとびとはすべて女性であるようにうかがえる、そんな一つの世界を。この世界では、これら女性たちは、はたからどんなに説得しようとかかっても欺そうとかかっても、だれひとりとして、自分の体力を維持するのに必要な限度以上の食物など、ひとかけらたりとも余分に摂取するようなことはしないのである。また、だれひとりとして、自分の神経系統を健全に活動させるのに必要な限度以上の睡眠など、一秒たりとも余分に摂取するようなことはしないのである。そして、これら女性たちは、だれでもみな、ちょっとでも不必要な怠慢を犯すと結果的に機能になんらかの変調状態が起こってくるという、そういうある特別な構成組織をもっているのである。
これら婦人労働者によって日々おこなわれている仕事には、道路の敷設、橋梁の架設、製材、多くの種類の建築工事、園芸および農業、百種類もの家畜の飼育、諸種にわたる化学製品の製造、数えきれないほどの食糧の貯蔵と保存、種族の子どもらに対する保護監督、などなどが含まれている。これらの労働は、すべて、国家社会《コモンウェルス》のためになされるのである。――その市民は、だれひとりとして、「私有財産《プロパーティー》」などというものを考えることができないのであって、そこには「公共物《レス・プブリカ》」という観念しかないのである。――そして、この国家社会の唯一の目的は、その子弟――ほとんど全部が女の子である――の養育と訓練とにある。幼年期は長い。幼児は、長いあいだ、体の自由がきかないばかりでなく、まことに不恰好《ぶかっこう》なさまをしており、かてて加えて、ちょっとした気温の変動に対しても注意深く保護してもらわなければならないくらい、ひじょうに虚弱である。さいわいなことに、その保母たちは、保健の法則をよくこころえている。保母たちは、換気、消毒、排液法、湿度、細菌の危険――この細菌は、われわれ人間ならば顕微鏡を使ってやっと見つけだすところであるけれど、おそらく、それと同じくらいの可視能力が保母の近々と寄せる視力には与えられているのであろう――などなど、およそ自分の心得べきことは、なにからなにまで心得ているのである。じっさいに、衛生に関するすべての事がらがじつによく理解されていて、そのために、どんな保母でも、自分の周囲の衛生状態に関しては、かつていちどたりとも過失を犯したことがないのである。
このような永続的な労働に従事しているにもかかわらず、どの労働者も、だらしない風体《ふうてい》でいるようなことはけっしてない。だれもかれも、日に何回となく化粧をするので、じつにきちんと行き届いた身じまいをしている。とはいっても、どの労働者も、なにしろ、生まれながらにして、最高に美しい櫛とブラシとを手首関節のところにくっつけて持っているのだから、化粧室で時間をむだに費やすようなことはないのである。このように自分自身のからだを身奇麗《みぎれい》にしているほかに、かれら労働者は、自分の子供たちのために、その家と庭とを欠点ひとつないくらいにすっかり整頓しておかなければならない。地震だとか、火山の爆発だとか、浸水だとか、絶望的な戦争だとか、こういうものが発生しないかぎりは、塵払い、掃き掃除、洗浄作業、消毒といった所定《きまり》の日課が中断されることは、絶対にないのである。
四
さて、ここに、いっそう驚くべき諸事実がある。――
この間断なき労役《ろうえき》の世界は、ヴェスタに身をささげた処女たちの世界よりも、もっと驚くべき世界なのである。たしかに、時としては、男性たちもそのなかに見いだされることもあるにはある。しかし、それら男性は、特別な季節にだけ姿を現わすのであり、しかも、かれらは、労働者には、あるいは労働の現場には、いっさい関わりを持たないのである。男性は、だれひとりとして、労働者にことばをかけようなどとはしない。――おそらく、ともに危急存亡の時を分かち合う非常事態におちいったのでもなければ、そういうことはしないのである。また、労働者のほうでも、男性に話しかけようなどと考えるものはない。――というのは、この奇妙な世界では、男性は、戦うこともできなければ、また働くこともできない、という劣等者的存在であるからで、ただ、必要悪的な存在として黙認されているにすぎないからである。ただし、一つの特殊な階級に属する女性――種族にとっての「|選ばれた母《ザ・マザーズ・エレクト》」である――が、ある特別の季節に限って、それもごく短い期間ちゅうだけ、とくに身を落としたもうて、これら男性の配偶者になってくださるのである。しかし、この「選ばれた母」は、労働をしない。そのかわり、この「選ばれた母」は、夫を『迎えなければならない』のである。およそ、労働者は、異性と交際をつづけるなどということは、夢想だにしないのである。――なぜかといえば、そのような交際はいたずらに時間の浪費を意味することになるからであるし、それに、労働者は、必然的に、あらゆる男性に対して名状しがたい侮蔑の念を抱いているからであるが、そればかりでなく、労働者は、はじめから、結婚不能者だからである。事実問題として、労働者のなかには、単性生殖《バージノジェニシス》を営んで、父なし子を生むものもある。けれども、一般法則としては、労働者は、ただただ、自身がもっている道徳的本能によって、真に女性たりえているのである。彼女は、あらゆる優しさと、あらゆる忍耐と、われわれが「|母親に固有《マターナル》」と呼ぶところのあらゆる予見能力《フォアーサイト》とをそなえている。しかし、その性《セックス》は、あたかも仏教伝説に出てくる「龍女《ドラゴン・メードン》」がそうであるように、はじめから消滅してしまっているのである。
食用動物に対する、すなわち国家の敵に対する、防衛をするために、労働者は、武器をもって装備されている。なおそのうえに、労働者は、強大な軍事力によって保護されている。その戦士たちは、労働者よりもはるかに大きな体格をしている(すくなくとも、いくつかの共同体ではそうである)ので、ちょっと見たところでは、それらが同じ種族のものとは信じられないくらいである。戦士たちのなかには、かれらが護衛の任にあたってやっている当《とう》の労働者の、百倍もの大きさのあるやつもいるのだが、それも、必ずしも珍しいというのではない。ところが、これら戦士たちは、ことごとく、女丈夫《アマゾンズ》なのである。――いや、もっと正確にいえば、半女性《セミ・フィーメイル》なのである。彼女らは、頑強不屈な労働をすることができる。しかし、なにしろ、体格が戦闘むきにできており、また、おもに重いものを引っぱるようにできているので、彼女らの使いみちといえば、器用な手仕事よりも、力わざの仕事のほうに向けられるよう、ちゃんと制限を受けているのである。
〔なぜ、雄《おす》ではなしに、雌《めす》のほうが、進化論的に分化を遂げて、ついに兵隊や労働者になったのか、という問いは、一見《いっけん》単純のように見えはするが、ほんとうはそれほど単純な問題ではないのかもしれぬ。わたくしには、この問題に解答を与えるなど、とうていできることではない。しかし、あるいは、自然の経済がこのことを決定したのではあるまいか、とも思う。多くの生命形態を見ると、雌《めす》のほうが、雄よりも、その体格および活力の点で、ずっと立ちまさっている。――おそらく、この場合、完全な雌によって根源的に所有されている生命力のいっそう大きな蓄積が、専門の戦士階級の発達のために、より迅速に、かつより有効に利用されることとなったのであろう。豊饒な生産力をもつ雌が、かりにもしも子を産んだならば当然費やすことになったであろう、活力の全量は、ここでは、攻撃力の発達という方向へと、あるいは労働能力の発達という方向へと、転換させられているようにうかがえるのである〕
正真正銘の雌――つまり「|選ばれた母《ザ・マザーズ・エレクト》」のことであるが――は、実際問題として、その数がきわめて少ない。そして、これら正真正銘の雌は、まるで女王みたいな待遇を受けている。これら雌は、もうちょっとの絶え間もなしに、それもたいへんな恭《うやうや》しさをこめて、侍《かしず》かれているものだから、かりに何かの願望をもったとしても、めったにおもてに現わすことができないくらいである。これら雌は、生存についてのあらゆる労《いたず》きから解放されている。――たった一つ、子孫を産むという義務を除けば。これら雌は、夜となく昼となく、可能なかぎりのあらゆる世話をうけている。これら雌だけが、過剰なくらいに食物をあてがわれ、それも、美味濃厚なやつをあてがわれている。――子孫のために、これら雌は、飲みかつ食らわねばならないし、また、すっかり王者然としてくつろがねばならない。しかも、その生理学的特殊化が、このような放縦《ほうしょう》を|好きなだけ《アド・リビドウム》許容しているのである。これら雌は、めったに外出することがない。強力な武装護衛隊が随行しないかぎり、けっして外出しないのである。なぜならば、不必要な疲労や危険を招くことは、許されないからである。たぶん、これら雌は、外出したいという欲望もたいしてもたないのであろう。なにしろ、その周辺を取り巻いて、種族の全活動が目まぐるしくおこなわれているのだから。そして、種族の知性と労苦と、倹約とは、ことごとく、これら「選ばれた母」およびその子供たちの福利安寧《ウェル・ビーイング》のためにささげられているのだから。
ところが、これら「選ばれた母」の夫――これは、例の必要悪的存在《ザ・ネセサリー・イーヴルス》である――である雄《おす》は、種族全体の最低にして最小限の地位しか与えられていない。これら雄は、すでに前にも述べたとおり、ある特別な季節にだけ姿をあらわし、また、その一生もたいへん短いのである。かれらのうちのあるものは、王女との結婚生活を送るよう運命づけられてはいるけれど、しかし、自分の家柄について自慢することさえもできない。なぜかといえば、これら雄は、王族の家柄に生まれたものではなくして、処女から生まれたもの――単性生殖で生まれた子供――であるのだから。そして、とくにその理由に立っていえば、かれらは、ある神秘的な隔世遺伝《アタウィズム》の偶然的所産にすぎぬ、劣等な存在であるのだから。しかし、この国家社会は、いかなる種類の雄であろうと、ほんの少数者存在しか許容してはいないのである。――かろうじて、「選ばれた母」のために、夫としてのお役に立てば十分である、とされているだけである。しかも、この少数者は、自分の任務を果たしてしまうとほとんど同時に、死んでしまうのである。自然法則の意義は、この異常な世界にあっては、努力なき生活は罪悪なり、というラスキンの教えに、ぴたり一致する。もともと、雄は、労働者もしくは戦闘者としては役立たずなのであるから、その生存はほんの|束の間《つかのま》の重要性しかもち得はしないのである。じっさいには、かれらといえども、供犠《くぎ》にささげられるのではない。――たとえば、テスカトリポカの祭儀に選ばれて、その心臓を裂かれるまでのわずか二十日間の蜜月旅行《ハネムーン》を許された、あのアステカの犠牲《いけにえ》の男のようなことはない。しかし、これら雄たちは、その幸福の絶頂にあるときも、ちっとも不幸は減ぜられてはいないのである。まあ、想像してもみるがよい。おれたちはたったひと晩だけ王女の花婿になるよう運命づけられているのだ。――婚儀がすめば、おれたちにはもう生きる道徳的権利はないのだ。――結婚は、おれたちにとって、確実な死を意味するのだ。――おれたちは、おれたちよりも数代もあとに生き延びるであろう若き未亡人に、自分のために嘆き悲しんでもらいたいと、そう希望することさえできないのだ……! と、こういう事実を百《ひゃく》も承知していながら、養育の手をさしのべられている若者たちを、想像してもみるがよい。
五
しかし、以上に述べたすべてのことは、ほんとうの「昆虫世界のロマンス」を説くための、一つの序説でしかないのである。
――この驚くべき文明に関わりのある、それこそ最大の驚異的発見は何かといえば、それは、性の抑制という発見である。蟻生活のある種の進歩した形態の場合には、その大多数の個体において、性というものが全面的に消滅している。――もっと高等な蟻社会になると、全部が全部といってよいくらいに、性生活は、その種族の存続にぜひとも必要な範囲内にかぎり、存在しているものらしい。しかし、この生物学上の事実そのものは、この事実が提供してくれている倫理的暗示性に比べるならば、それほど驚くべきことではない。――というのは、この性的機能の実践上の抑制ないし調節は、自発的なもののようにうかがわれるからである! 自発的といったが、すくなくともこの種族に関するかぎり、そう言い得るのである。この不思議な動物は、かれらの若年層の性を発達させる方法を、もしくはその発達を停止させる方法を、――それも、ある特別な栄養摂取のやりかたで行なう方法を、――ついに知るにいたった、ということが、こんにちでは、信じられている。かれらは、もろもろの本能のうちで最も強力であり、また最も抑制しにくいものである、というふうに一般に想像されている性本能をば、完全に統御することに成功したのである。そして、絶滅に対する予防手段として許されている必要範囲内で、かくのごとく厳重に性生活を抑制することは、この種族が成し遂げた多くの生命経済学のうちの、ほんの一例(もちろん、最も驚嘆すべき一例ではあるが)でしかないのである。自己本位の快楽――「この自己本位《エゴイスティック》」という言葉は、一般的な意味で用いているのだが――に対する能力なども、生理学的変形をこうむる手段をとおして、同じように、ちゃんと抑制されている。自然に起こる食欲に対しては寛大であるのだが、それも、この寛大さが直接ないし間接に種族の利益になるという限度内でのみ、あり得ることなのである。――食物や睡眠などの必須不可欠なる要求でさえも、健全な生命活動を維持するのにぎりぎり必要な範囲内でのみ、やっと満足せしめられるのである。個体は、ただただ、社会自治体の利益のためにのみ存在することができ、行動することができ、思考することができる。そして、この社会自治体は、みずからが「愛情《ラヴ》」とか「飢餓《ハンガー》」とかいうものに支配されっぱなしになっている状態を、宇宙の法則の許す範囲内で、断乎として拒否するのである。
われわれ人間の大多数は、ある種の宗教的信条がなくては――来世において受ける善報に対する希望とか、来世においてこうむる劫罰《ごうばつ》に対する恐怖とかがなくては――いかなる文明も存在することができない、とする信仰を植えつけられて、これまでずっと育てられてきた。われわれ人間は、もしもこの世に道徳観念を根底とした法律が欠如していたならば、また、このような法律を強制的に執行する有効な警察機関が欠如していたならば、たれもかれもが、おのがじしの個人的利益のみを求めたがるのが普通で、その結果、他人の不利益をきたすことになるはずであると、そう考えるように、これまでずっと教えられてきた。たしかに、そんなことになった日《ひ》には、強者は弱者を滅ぼし、憐憫とか同情とかいったものは消え去り、ついには、全社会の機構がこなごなに砕け散ってしまうであろう。……これらの教えは、人間の本性というものがいかに現実的に不完全であるか、ということを、あけすけに告白してみせている。しかし、何千年か前、この真理を最初に公表したひとびとは、およそ利己心《セルフィシュネス》などというものが|本然的に《ヽヽヽヽ》存在し得ないような社会の一形態もあるのだ、というふうには、絶対に考えなかった。ここに、未着手の仕事として残されているのは、人間が非宗教的なる「本性《ネイチャー》」に立ち戻って、能動的に善行をおこなうという喜びが義務観念などというものを不必要にしてしまうような社会が、――本能的な道徳心があらゆる種類の倫理綱領を御破算《ごはさん》にしてしまうような社会が、――なにしろ、構成員たれしもが生まれつき絶対に利己心を持っていないように、また、生まれつき精力的に善をなすようにできているために、道徳教育なんてものは、その最年少の構成員にとってさえ、貴重な時間の空費以外のなにものをも意味しなくなっている社会が、――そういう社会がちゃんと存在し得るのだ、という事実を、実験ずみの明証性でもって、われわれ人間の面前に提示する仕事だけである。
右に述べたような事実は、進化論者にたいして、われわれ人間の道徳的観念論の価値などほんの一時的なものでしかない、ということを、必然的に暗示する。さらに、徳行なんぞよりももっとすぐれた何かが、親切なんぞよりももっとすぐれた何かが、克己心よりももっとすぐれた何かが、――ここで徳行とか親切とか克己心とか呼んでいるのは、現在の人間が用いている意味においてであるけれども、――ある環境条件のもとでは、ついにそれらに取って代わることになるであろう、ということを、必然的に暗示する。進化論者は、道徳観念のない一つの世界のほうが、ひょっとしたら、そのような観念によって行動を掣肘《せいちゅう》されている世界よりも、ずっと道徳的にすぐれている世界なのではなかろうか、という問いに、いやでも直面せざるを得ないことに気づかされる。進化論者は、人間社会にげんに存在する宗教的戒律だの、道徳的法則だの、倫理的規範だのといったものが、ひょっとしたら、われわれがまだ社会進化のきわめて原始的な一段階にいることを証明せずにはおかないのではあるまいかと、そのように自分にむかって問うてみなければならないくらいである。そして、これらの問いかけは、当然、他の問いかけを発するように仕向けていく。人類は、この地球という惑星の上に棲息しつつ、いつの日にか、いっさいの理想を超絶した一つの倫理的条件に到達することができるのであろうか。――一つの倫理的条件といったが、それは、われわれがこんにち悪と呼んでいるあらゆるものが萎縮退化してついに存在しなくなってしまい、そのかわりに、われわれが善と呼んでいるあらゆるものが変質してついに本能となってしまった、といった条件をさしている。――それは、倫理的な概念や綱領が、高等な蟻社会においては既にこんにちそうであるように、まったく役立たずになってしまっているような、一つの利他主義的状態をさしている。
近代思想の巨人たちは、この問題に多少の注意を払っている。そして、かれらのうちの最も偉大なる人物は、この問題に答えている。――部分的に、そうなるだろうという肯定の答えでもって。ハーバード・スペンサーは、人類たるもの、いずれ、蟻の文明に倫理的に匹敵しうる、ある文明の段階に到達するであろう、という自己の信念を述べている。――
「もしも、下等動物のうちに、その本性が構成的に大きな変化をきたし、そのために、利他的活動が利己的活動と一つになってしまっている、という諸事例を得たとすれば、われわれは、それと相似する検証結果が、それと相似する条件のもとに、人類のあいだにも生起するであろう、という、どうにも抗《あらが》いがたい一つの伴立関係《インプリケーション》の存在を、認めざるを得ない。社会的昆虫は、この点について申し分なく適切な諸実例を提供してくれている。――じっさいに、それら実例は、個体の生活というものが、他の個体の生活に役立つためには、なんとまあ驚愕するくらいにまで精力を奪われてしまうものなのか、ということを、われわれに教示してくれている。……蟻や蜂が、われわれがそのことばに与えている語義どおりの、義務の観念をもっているとは、ちょっと想像もできないし、また、通常の意味における自己犠牲をのべつ幕なしに経験しているとは、これまた、想像することもできない。……〔これらの事実は〕ほかの場合であったら利己的目的の追求に発揮されたと同程度に精力的に、あるいは同程度という以上にもっと精力的に、利他的目的の追求に立ち向かう一つの本性を発現するというのは、はじめから、それが有機的組織の可能性の範囲内にあるためだ、ということを説明してくれている。――また、この場合、利他的目的は、その一面においては利己的でもある目的の追求として、それが追求されるのだ、ということを説明してくれている。有機的組織の要求を満足させるためには、当然、他者の福利安寧《ウェルフェア》に資するような、そのような行動が実践され|なければならない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。……
……
このようにあらゆる未来をつうじて、自己愛《セルフ・リガード》が他者尊重に絶えず従属させられる条件が、そのままずっと継続するということは、まだまだ、究極の真理からは遠い。究極の真理は、それとは反対に、やがて、他者に対する尊重がついに大いなる喜びの源泉となって、それが、手近な利己的満足から生ずる喜びよりも遥かに広大なものとなるような場合に、もたらされることになろう。……そのとき、ついには、利己主義と利他主義とがまことに一致融合の妙を発揮し、一方が他方に没入するといった状態の現出を見ることとなるであろう」
六
もちろん、上に掲げたような予言は、われわれ人間の本性が、あの昆虫社会の諸階層がそれぞれに特殊な発達をとげているのとまさに匹敵しうる、構造的専門化によって現出されるであろうような、そんな生理的変化を、いつかは必ずこうむることになろう、という意味を含んでいるのではない。われわれは、いくらなんでも、活動的な大多数のものが、ごく少数の非活動的な「選ばれた母」たちのために苦労する、半女性の労働者および女子戦士《アマゾーンス》とから成り立っているであろうような、そんな人類の未来像を想像するなど、許されているはずがない。スペンサー氏は、その「未来の人口」と題する一章においてさえ、道徳的にいっそう高等な種族を産出するために不可避である生理的変化については、細かい叙述を試みようともしていない。――もっとも、スペンサー氏は、完全に発達した神経系統と、人間の出産率の顕著なる減少とに関する一般論的叙述のなかでは、かかる道徳的進化こそがやがて大きな生理的変化を意味することになるだろう、という暗示をおこなっているけれど。かりにもし、自他相互の利益をはかる喜びがただちに人生の喜びのすべてを実現しているような、そんな未来の人類を信ずることが、合法的であるとするならば、いっぽう、昆虫生物学の事実がすでにりっぱに進化可能の範囲内にあることを立証してくれているような、他の種の生理的変容および道徳的変容を想像することも、同じく、合法的ではないだろうか? ……わたくしには、その問題はよくわからない。わたくしは、ハーバート・スペンサーを、この世にこれまで出現した最も偉大な哲学者として、熱烈に崇敬している。そして、わたくしは、読者が、ああこれが「綜合哲学《シンセティック・フィロソフィ》」によって鼓吹されている教説なのかと信じ込んでしまうようなやりかたで、そのじつ、かえって、スペンサー氏の教えとはまるきり正反対のことを書いたりしたならば、はなはだもって申し訳ないと思っている。つぎに掲げる諸考察も、わたくしだけが責任を負うべきものである。そして、もしそこに誤りがあるとすれば、どうか、その罪は、わたくし自身の頭上にふりかかってほしいと思う。
わたくしは、スペンサー氏によって予言されている道徳的変容とは、生理的変容の助けをかりてのみ、しかも恐ろしいほどの犠牲が払われてのみ、ようやく、そこに達成されるものである、というふうに推臆している。昆虫社会が表明しているあの倫理的状態は、幾百万年ものあいだ、最大に兇暴な欲望に抗《あらが》って絶望的に続行されたその努力によってのみ、ようやく、そこに到達できたのである。われわれ人類も、同じくらい残酷なこの欲望とぶつかって、ついにそれを克服しなければならない、ということになるかもしれない。スペンサー氏は、考えられるかぎりの最大の人間受難の時代が必ずやってくるだろう、そして、そのときには、考えられるかぎりの最大の人口膨張の時代が並在的に付随するだろう、と教示している。その長期の圧迫から生ずるさまざまの結果のなかには、人類の叡智および同情心がいちじるしい増大を遂げる、という結果も見られるのではないか、とわたくしは思う。そして、この人類の叡智の増大は、人間の多産を犠牲に供してこそ、はじめてそこに達成されるものだと思う。ところが、この生殖力の減退なるものも、人類社会の最高無比の状態を確実に手中にするためには、まだ十分ではないのだ、と聞いている。そんなものは、たかだか、人間苦難の最大原因であるところの、人口膨張という事態を救済するだけにとどまる、とも聞いている。完全なる社会均等の状態は、人類がそれに近づくことはできても、それに完全に到達することはできないであろう。――
社会的昆虫がすでにその問題を解決し畢《おお》せているように、性生活の抑制という手段をとおして、経済的問題の解決をはかろうとする、そのためのなんらかの手段が発見されないかぎり、そんなことはだめだろう。
かりに、そのような手段が発見されたと仮定した場合、また、人類が、その若年層の大多数に対して、性の発達を停止させる手段に踏み切った――そのようにして、性生活に費やされる諸力をば、もっと高級な活動力の発展のほうへと転移することができるように図《はか》るのである――と仮定した場合、その結果は、蟻のそれと同じように、ついには、同質多形《ポリモーフィズム》の状態になるのではあるまいか? そして、このように計画されたとおりのことが生起した場合、「|未来の種族《ザ・カミング・レイス》」としては、男性でもなければ女性でもない大多数のものが、――それは、男性の進化によるというよりは、むしろ女性の進化を経てそうなるのであるが、――じっさいに、その最高の地位を占めるのではないだろうか?
こんにちですら、いかに多くの人間が、もっぱら非利己的《アンセルフィッシュ》な動機(それが宗教的動機であることは言うまでもない)から、独身生活を宣言しているか、ということを考えると、やがては、いっそう高い段階に進化した人類が、そのようにするならば必ずやある種の利益がもたらされるはずだとの特別な展望に立ちながら、自分たちの性生活の大部分を、人類公共の幸福のために欣然として犠牲に供するようになるであろうことも、一概に起こりそうに見えないとは言い切れない。ある種の利益といったけれど、人間の寿命が途方もなく延びるという利益――あくまでも、人類は、蟻がやっているあの自然な方法に従えば、必ず性生活を征服できる、と仮定しての話であるが――は、そのような利益のなかでも最大のものであろう。性を超越した高等人種は、一千年の長寿を遂げるという夢想を実現することができるかもしれない。
われわれは、自分たちのなさねばならぬ仕事を成し遂げるのに、われわれの人生があまりにも短かすぎることを、夙《つと》に承知している。しかも、科学的な新発見は絶えず加速度的に進められているのであり、科学的知識は間断なく増大して行くのであるから、われわれは、時の進むにつれて、どうして人生はこんなに短かいのかと、それを遺憾に思う理由を、いっそう強めていくようになるにちがいない。「科学」が、むかしの錬金術士たちの願望であった「|不老不死の霊薬《エリキサー》」を、いつかは発見するであろう、などという考えは、まったく見込みのないものである。宇宙の力は、やすやすとわれわれ人間にだまされるようなことは許しはしない。宇宙の力がわれわれに譲渡してくれる利益いちいちに対しては、じゅうぶんなる代価を支払わなければならない。こちらが何も支払わないならば、永遠の法則は、何も与えてはくれないからである。おそらく、長寿という代価は、蟻がそれに対して支払った代価の高さを証《あか》しているのではなかろうか。おそらく、この地球よりも古いどこかの惑星のうえでは、その代価がとっくの昔に支払われてしまっており、そして、子孫を産む力は、形態学的《モーフォロジカリー》に、ちょっと想像もつかないようなやりかたで、爾余《じよ》のものから分化して特殊な発達をとげた一つの階級にだけ、限定して与えられるようになっているのではなかろうか。……
七
しかし、昆虫生物学の諸事実は、一方で、人類進化の未来の進路に関して、こんなにも多くの示唆を与えてくれているのだけれども、他方、それはまた、倫理の宇宙法則に対する関係についても、最大の意義を有する何かしらを示唆してくれてはいないだろうか? 明らかに、最高の進化は、人間の道徳的経験があらゆる時代をつうじて非を鳴らしつづけてきた行為を平気でやってのける動物どもになんぞには、とうてい、それに与《あずか》る機会を得させてはくれないだろう。明らかに、最高の強さとは、無私の強さである。そして、無上の力は、かつて、残忍や色情と一致融合したためしがないのである。神は、あるいは、存在しないのかもしれない。しかし、生物のあらゆる形態を形成したり解体したりする力は、神などよりも、もっとずっと苛酷《かこく》であるように見える。もろもろの天体の運行に「芝居っけ」があるなんてことを、証拠だてようとしても、とうてい、その可能性はない。しかし、それにもかかわらず、宇宙の運動過程は、人間の利己心《エゴイズム》に根本的に対立する、人間の倫理体系すべての価値を、りっぱに肯定してくれているように見える。 (完)
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解説
一 まず「時代の子」であることを理解しよう
ラフカディオ・ハーン(ハーン自身は Hearn を「ヘルン」と発音し、みずからがつくらせた日本文字の印章にも「へるん」「ヘルン」「辺るん」「辺留武」と表記していた)すなわち小泉八雲は、一八九〇年(明治二十三年)四月四日、横浜港に着いた。それから松江・熊本・神戸・東京と移り住み、日本人女性を妻とし、自身また日本帰化の手続をとり、ほとんど全く日本人と変わることのない生活を送り、一九〇四年(明治三十七年)九月二十七日、東京郊外の西大久保で死んだ。この満十四年五ヵ月のあいだに、日本に関する英文の著作十二冊(うち三冊は没後刊行)をボストン、ニューヨーク、ロンドン、東京から出版した。
ラフカディオ・ハーンをもって「親日外人」のナンバー・ワンと見做すことには、誰しも異論はない。じじつ、極東の一小国日本のことが未だそれほどには西欧文明諸国に知られていなかった十九世紀終わりの時期に、ハーンが矢継早やに刊行する日本研究の諸著作の果たした役割といったら、はかり知れないほど重大でもあり実効あるものでもあった。西欧がわからすれば、「東西理解の橋渡し」の役割をハーンほどりっぱに演じ畢《おお》せた例は他に殆んど見られない。これは必ずしも過大評価ではない。一方、ハーンの日本観察記録は、当の日本人にさえ気付かれていなかった幾つかの美点長所を摘出してみせ(その代わり、楯の両面として当然あり得るはずの欠点短所に対する剔抉《てっけつ》を全く欠いたことが、現在の視点からすると、多くのネガティーヴな問題点を残し置く結果となってしまったけれど)、そのため、かえって日本人が自己戸籍《アイデンティティ》を確かめるのに一度は必ずハーンの著作を繙《ひもと》かねばならぬような事態をも生みだした。文化の特質それ自体が、もともと比較研究を他所《よそ》にしては掴み得られるはずもないのだから、日本人が外国人の評言に耳|藉《か》すことに誤りはない。しかし、ハーンはハーンで、日本人および日本文化に対してあまりにも甘い点数を付け過ぎた嫌いがあり、日本人は日本人で、はじめから甘い点数がもらえるということばかり|あて《ヽヽ》にし期待してハーンの著作に接する、一つの特殊な「授受関係」を成立させていた。少なくとも日本国内の問題としては、折角の「東西理解の橋渡し」役をじゅうぶんハーンに演じてもらわないうちに終わってしまった。結論的にいうと、日本がわよりするハーンの取り扱い方は、西欧に向かって大日本帝国の優秀性を宣伝するスポークスマンに見立てたというに過ぎず、また国内に向かって旧支配体制の永続を正当づけるためのイデオロギーを絶対神聖化するのに手を貸してくれる奇特な外国人の存在を歓迎したというに過ぎなかった。日本で「親日家」とか「親日外人」とか呼ばれている外国人は、おおむねこのような取り扱い方を受けてきたのである。
だが、こんにちとなっては、このような取り扱い方をすることはあまりにも不当である。ハーンは、一個の文学者として、一個の文明批評家として、いや、一個の|生ま身《なまみ》の人間存在として、すでにじゅうぶんに偉大である。どうしても、新しくかつ正しいハーン理解がなされなければならない。そして、そのためには、新しくかつ正しいハーン理解の条件が整《ととの》えられなければならない。
ハーン理解の条件に関しては、わたくしの知るかぎり、中野好夫の「小泉八雲―一つの試論」(「展望」一九四六年九月号、のちに要書房刊『文学試論集・二』所収)がいちばん正確適切な提説をおこなっている。中野は、ハーン小泉八雲がはじめて日本に来た明治二十三年という年に第一回帝国議会の召集があり、経済的にいえば、治外法権すらまだ撤去されない半植民地的環境のなかで着々と近代資本主義が移植されていた時期に当たっていたこと、だがその反面で、維新以来の進歩的動向が保守=国粋の逆攻勢のために行く手を阻まれつつあったことを、冷静に指摘してみせる。また八雲が死んだ明治三十七年という年が、日露戦争緒戦において日本陸海軍の奇襲攻撃が功を奏し、この知らせに、日本国じゅうはおろか世界じゅうが沸きに沸いているさなかであったことをも、明敏に指摘してみせる。「いってみれば彼の日本滞在期は、およそ日本が、世界のもっともよい子でいられた時代である。/以上新旧勢力の相剋時代、そして日本が世界の好い子であったという時期に、彼が住み、彼が書いたという事実は、私は新しい八雲理解の上にぜったい見逃してはならない条件であると思う」と提議する中野は、それを説明して、これまでハーンの日本礼賛に対して与えられてきた一般的=通説的評価に対する反省の必要性をも喚起しようとする。「という意味は、従来往々にして八雲の日本論は、あたかも一切の時間的、空間的諸条件から解放されて、なにか絶対自由な世界で、絶対普遍的な一つの真実を語っているかのように、日本人自身によって歪められて伝えられた。そしてそのために、日本人自身がまず大いに自身を誤り、ついでは八雲をはなはだしく傷けた。従って新しい八雲理解は、この前提条件の見直しから再出発されなければならない」と。まことに正しい提説である。
しかるに、敗戦の翌年に掲げられたこの中野好夫の正論も、それから三十年|経《た》ったきょうこのごろでは、大方《おおかた》のひとびとによって傾聴されることが少なくなった。さすがに、戦前のハーン研究家(正しくはハーン祖述者)がやったような皇室崇拝や忠君愛国や封建遺制の礼賛といった愚行は繰り返されはしない。しかし、一九六〇年代に入ってから日本列島を浸潤しはじめる「復古調ブーム」に乗っかって、さらには七〇年代に猖獗を極めるに至る「オカルト・ブーム」に浮かされて、復古(日本再発見)やオカルト(念力)の保証人としてハーン小泉八雲がひっぱりだされた、という事実がある。ハーンといえば、今やふたたび、日本美礼賛論の有力なよりどころとなり、お化けや霊魂や非合理を認めさせようとする議論にとっての有力な資料となった。結局のところ、またまた、日本人は自分のがわだけに好都合なようにハーンを利用=悪用していることになりそうである。こんなことが許されていいはずはない。
わたくしは、新しくかつ正しいハーン理解を得る基本条件には、中野好夫が正確に指示している「新旧勢力の相剋時代、そして日本が世界の好い子であったという時期に、彼が住み、彼が書いたという事実」を据えなければならぬのだと思う。謂うところの「新旧勢力の相剋時代」とは、明治初年の啓蒙思想と十年代の自由民権運動とそれらを取り囲む欧化主義思潮とに対抗して、明治二十年から頭を擡《もた》げる平民主義と国民主義と日本主義とが組みつほぐれつの奇妙な合流作用をおこないながら流れのはてに帝国憲法や教育勅語に河口港を見いださざるを得なくなり、結局は二つの戦争に挟まれつつ強力な日本ナショナリズムを形成するに至る、明治後半期の社会文化的=政治経済的動向をさす。まさしく、この相剋時代のプロセスにある後進国日本にやってきて、ハーンは住み、書いたのである。また、「日本が世界の好い子であった時期」とは、たとえば、アナトール・フランスの小説『白い石の上で』(一九〇五年)が「ロシア人がいま日本海や満州の咽喉元で勘定を払わされているのは、たんに彼らの東洋における欲張りな野獣的な政策だけではない、ヨーロッパ全体の植民地政策なのである。彼らがねらっているのは、ひとり彼らだけが犯す罪ではない、軍事的な商業的なキリスト教国全体の罪悪である。だからといって私は世界に正義が行なわれるなどというつもりはない。しかし物事は変わった曲り道をする。そして力がいまだに人類の行動の唯一の審判官であるけれども、力が時に思いがけない飛躍をすることがある。そこに何らかの法則が潜在していないことはかつてないのだが、力の働きから興味深い断絶がみちびかれる。日本人は鴨緑江を渡って満州でロシア人を精確なやり方で打ち破っている。彼らの海軍はヨーロッパの一国の艦隊を手際よく撃破している。やがてわれわれはわれわれを脅かす危険に気づくだろう。危険があるとするなら、誰がそれを作り出したのか。日本人の方からロシア人を探しにやってきたのではない。黄色人種の方から白人を尋ねて来たのではない。われわれは、この期におよんで、黄禍だ何だとさわぎたてるだろう。アジア人は白禍を思い知って以来年すでに久しいのである」(飯塚浩二訳文に拠る。『東洋への視角と西洋への視角』、第一部白禍と黄禍)と叙しているように、極東の小国がヨーロッパ強国の貪婪な植民地政策に力で反撃したことに、世界じゅうの良心的知識人が同情を示した事実をさす。まさしく、ヨーロッパ帝国主義に対する自己批判や反省の声が高まろうとしていた時期に、先進国ヨーロッパ(もしくは先進国アメリカ)の人間として日本にやってきて、ハーンは住み、書いたのである。
したがって、ハーンを正しく理解するためには、まず、かれが百パーセント「時代の子」であった、という見究めから出発しなければならない。また、ハーンそのひとが時代の制約を強く蒙《こうむ》っていたのと全く同断に、ハーンが描きだした日本(もちろん、日本人や日本の自然風景をも含めて)そのものも時代の制約を深く蒙《こうむ》っていた、という見究めから出発しなければならない。
二 ハーンが日本にやってくるまで
ハーンが、チェンバレンにあてた手紙のなかで「なんという道徳的崩壊がこの国を襲うているのでしょう。漁師が喧嘩をする、農夫が争う、政治家が互に殺し合う、学生が戦う、犯罪が増加する一方、というありさまです。日本は、もう一世代もしたら、世界最良の国ではなくなるでしょう」(一八九三年七月十六日)との「日本幻滅」の歎きを愬《うった》えたのは、熊本在住時代、かれが日本に来てから満三年経過してからのことである。松江在住時代のハーンは、日本のなにもかもが気に入って、同じくチェンバレン宛ての書簡に「この国で生存しているということは、いわば、殆んど耐え切れない外気の圧力から脱却して、稀薄な、そしてまたはなはだしく酸化しておるところの或る一つの中間的実在の圏内に入ったような心持ちであります」(一八九一年夏ごろ)と告げずにいられなかったほどだった。すなわち、ハーンが松江で呼吸した日本の空気は、まさに「外気の圧力から脱却し」た「或る一つの中間的実在の圏内に入ったような」、言い替えれば「現世ユートピア」と呼び得るに近い、きらびやかではないけれど心を休めるに足る別天地の空気であった。日本全体がこんな別天地だと思っていたのに、熊本へ来てみたらまるっきり違うので、ハーンは忽ち「幻滅」をおぼえたのである。
いったい、ハーンが日本へやって来た動機には、たんなる観察報告者《リポーター》以上の、さらにはたんなる世界旅行者《トラヴェラー》以上の、むしろ宿命的とも称すべき重たい目的意識が働いていた。
父親からアイルランド人の血を禀《う》け、母親からギリシャ人の血を授かったハーンは、英語《イングリッシュ》を使って人と成ったとはいっても、最初から一般のイギリス市民とは比較にならぬ複雑な精神生活を送らなければならぬよう運命づけられていた。これについて詳述する余白がないので、要点だけを記すと、アイルランド人は大英帝国のなかでの「被差別人種」であり「被抑圧集団」であったし、またギリシャ人も近代ヨーロッパ世界においては(紀元前には、あれほどまでに輝かしい文明をになったのに!)同じく「被差別民族」であった。この二つの基本的な(ただし、みずからには何ひとつ責任のない)不幸を背負ってハーンが生まれでた事実を見落としてはならない。アイルランド人(ケルト系の諸民族が多い)は想像力に富み、独得の民間宗教に立脚した宇宙観を持っている、などとよく言われる。なんのことはない、十二世紀から十七世紀までの間にイングランドに征服されて土地を奪われ、虫けら扱いの悲惨な小作人生活を強いられたために、民族信仰に縋《すが》り想像上のユートピアを夢想し欣求《ごんぐ》しなければならなかっただけの話である。アイルランド人が反抗運動を起こすのは当然で、イェーツやシングやグレゴリー夫人が始めたアイルランド国民劇場運動なども、その構想はたんなる「文芸復興」にとどまるものではない。一方、十八世紀以降のギリシャは、数百年来のトルコ支配から脱しようとして独立運動を成功させたり挫折させたりの繰り返しであった。ハーンは、アイルランド人のなかでは比較的恵まれたほうの家系(必ずしもエリートとはいえないが)の出である二等軍医正チャールズ・ブッシュ・ハーンを父として誕生したが、母がなにしろギリシャ人の「現地妻」である。イギリスのアショー・カレッジや、フランスのイヴトー聖職者養成学院で「片眼の外人」と呼ばれて冷たい扱いを受けたろうことも想像に難くない。ハーンが幼少年期を過ごしたヨーロッパ世界とは、そのような差別=偏見が幅をきかせている文化圏だった。
十九歳のハーンが、自由を求めて、海を渡っていった一八六九年ごろのアメリカは、ちょうど南北戦争が終わったばかりの時期に当たる。ハーンは最初のうち困窮に見舞われて苦労を嘗め味わわされるが、才能が認められて、一八七四年に日刊新聞「シンシナティ・インクワイラー」、ついで「シンシナティ・コマーシャル」の記者になることができ、生活も安定しかける。ところが、一八七七年、突如、胸奥に燃えはじめる「南方へのあこがれ」を抑えがたくなり、南部のニューオーリーンズへ行ってしまう。そこで再度貧困に見舞われるが、一八七八年に土地の小新聞「デーリー・アイテム」の記者となり、一八八一年には南部第一の大新聞「タイムス・デモクラット」の文芸部長に迎えられ、かたがた創作活動や翻訳に力を注ぐようになる。一八八七年六月までは、かくのごとくして、まずは幸運に恵まれたと評してよいアメリカ生活がつづくのである。時代や時代思潮との廻《めぐ》り合わせという幸運にも恵まれたことも否定できない。M・カーチによると、「一八七〇年あるいはその近くから十九世紀の終りにいたる期間の支配的な思想は、科学を応用した集団組織時代における個人主義の主張であった。科学は超自然主義をこえて前進し、そして進化思想は、当時流行していた功利主義的な思想と関心に影響を与えるとともに、それらによって影響をうけたのである。と同時に、知識の普及をめざす以前からおこなわれていた民主主義的な運動も続けられていた。またこの時代の集団組織的な性格は、知的生活の多くの分野と、および段階の専門化に新たな重点を置くという点とに表現された」(龍口直太郎・鶴見和子・鵜飼信成訳『アメリカ社会文化史・上巻』序文)との概観が得られる。これを念頭に入れると、シンシナティおよびニューオーリーンズ時代のハーンが、自己の持てる新聞記者《ジャーナリスト》の天稟《てんびん》を思いっ切り伸ばしやすかったであろうことは、容易に想像できる。じじつ、そのとおりであったろう。このままジャーナリストの生活を続行していても、ハーンは、いやでもいつかは一流の「文人」の仲間入りをする機会に恵まれるはずだった。翻訳家としてであれ、ルポ・ライターとしてであれ、説話《テールズ》の作者としてであれ、既にそのことは約束されていたも同然であった。
ところが、またしても、体内に血の騒ぐのをとどめがたくなった。せっかく自由が得られ、社会的地歩も安定してきたというのに、ぽんと、大新聞社文芸部長の職を抛《なげう》ってしまうのである。ハーンの伝記作者は、あるいはこれを「放浪癖」という個人的気質に帰し、あるいはこれをロマン主義的「原始生活への思慕」の思潮に帰するが、どちらも正しいであろう。もう一つ、アイルランド的「彼岸の探索」という根本衝動を付け加えれば、いっそう適切な説明が得られるであろう。ユートピアは到達可能の地点に存在する、との予感に、絶えず揺すぶられていたのである。
ともかくも、三十七歳になったわがハーンは、一八八七年七月、西インド諸島のマルティニーク島へ旅行し、いったんニューヨークに帰り、十月に再び同島へ行って長期滞在し、翌年五月にニューヨークに戻っている。そして、フィラデルフィアの眼科医グールド宅の一室に籠《こも》り、小説『チタ』『ユーマ』の出版準備をし、紀行文『フランス領西インドの二年間』の稿を進めた。「棕櫚のやうに真直ぐで、またたをやかで丈の高い此等有色の男女は、其品位のある態度とゆつたりした優美な挙動とで、大いに感銘を与へる。肩は振らずに歩く」「熱帯の森林が鼓吹する畏懼《いく》の念は、北の国の樹木鬱蒼たる無人地がこれまで惹起し得た神秘的恐怖心よりか、確かに偉大である。殆ど超自然的と思はれるほどの色彩の鮮かさがあり――葉状体が造つて居る大海の茫漠さがあり、時たま在る隙間が、その測るべからざる深味を示して、菫色がかつた暗黒を呈するがあり――その無窮のざわつきを構成する千万の不可思議な音がありして、――それ等が、殆ど人を恐怖させる一種の創造的な力があるのだ、と強ひても人に思はせる」(大谷正信訳『仏領印度の二年間』、熱帯への旅)とか、「今の植民地衰微の時期前には、有色人の娘は今のやうなものでは無かつた。全然無教育であつた時代にさへ、彼女には一種特別な魅力があつた、――どんな粗暴な性質を有つた者からも同情を贏《か》ち得る力のある、あの子供らしさの魅力があつた。此|初心《うぶ》なものへ惹きつけられぬ気持ちのせぬものは誰れも無かつた。幼児のやうに従順《すなほ》で、同様に容易《たやす》く物事を面白がりもし、同様に容易く心を痛めもする、――どう見ても外観では、其欠点に於てもさうであるがその長所に於ても飾りが無い、――自分を愛して呉れると――恐らくは其上に、母とか弟とかを世話してやると――いふ約束と引き換へに、誰にでも喜んで其青春と其美と其愛撫とを与へようとする――女であつた。些細な物事を非常に嬉しがる其驚くばかりの受納力、其可憐な虚栄と其可憐な馬鹿馬鹿しさ、笑ひから涙への――其情熱的な気候の突然の降雨と日射とに似た――気分の突然な転向、――此等が男の心に触れ、それを惹き附け、それに打ち勝ち、それを圧倒したのである」(同、有色人の娘)とかのハーンの筆致に触れるとき、わたくしたちは、あのゴーガンの『ノア・ノア』に描きだされたタヒチ島の熱帯的自然や女たちを想起せずにはいられなくなる。ゴーガンといえば、タヒチ島へ渡る一八九一年から数えて四年前、まさしく一八八七年にマルティニーク島に滞在したという記録がある。「一八八七年、印象派の画風も意に満たず、パリの生活も苦しく、海外渡航を思い、その資金を得るため、同業シャルル・ラヴァルとともにパナマに渡り運河開発の人夫となる。パナマでは、朝の五時半から午後六時までの土工生活、夜は毒蚊に苦しめられる。死者多し。帰途マルチニーク島に滞在、ラヴァル発病、高熱に自殺をはかる。無一文でパリに帰り、以前の同僚で絵をよくするシュフネッケルの許に同居、そのアトリエをつかう。この頃、陶器師シャプレの教えを受ける」(前川堅市訳『ゴーガン私記―アヴァン・アプレー』)とある記載に接すると、ひょっとしたら、ハーンとゴーガンとがマルティニーク島の椰子の下道で擦《す》れちがった偶然もあり得るのではないかとも思われる。擦れちがうことがなかったとしても、二人は、同じく「西欧文明への反感」を抱いていたという点では見事に一致する。キリスト教への憎しみを燃やし、異教=自然の世界に飛び込んでいった点でも完全に一致する。
そうして、一八九〇年、四十歳のハーンが、「ハーパース・マンスリー」誌の特派通信員となって日本に渡ろうと決心したときには、すでに十分に日本に関する予備知識が積まれてあり、なんであれ西欧近代文明に毒されぬ未知の社会に行ってみたい、キリスト教の欺瞞に毒されぬ自然の国土を踏んでみたい、という目的意識がちゃんと出来てしまっていたのであった。日本こそはその目的意識を適《かな》えてくれる国だ、との見通しを立てていた。
当て推量を言っているのではない。日本行がまだ本決まりにならない前、「ハーパース・マンスリー」誌の美術担当編集者パットンに、日本へ行ったらどんな記事が書けるか、その計画表を提出してみてくれ、と依頼されると、ハーンはすぐに返事(一八八九年十一月二十九日、パットンあて書簡)を出している。「いよいよ実地を踏んだうえでなければはっきりした計画もできませんが、この書物の一部分になると思うような題目を試みに書いてみます。――多くは、わたしの信ずるところでは、これまでの日本関係の通俗的な書物にはないものです」と前置きして示したプログラムは、つぎのごときものである。
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「第一印象、気候と風景、日本の自然の詩的分子/外国人にとっての都市生活/新文明/娯楽/芸者およびその職業/新教育制度――こどもの生活――こどもの遊戯など/家庭生活と一般の家庭の宗教/公けの祭祀法――寺院儀式と礼拝者の勤行/珍しき伝説と俗信/日本女性の生活/昔の民間歌謡と歌曲/芸術界における日本の昔の巨匠――いまだに残存するか、もしくは記憶にとどまって、げんに与えているその感化力。日本の自然と人生との反映者としてのその勢力/珍しき一般の言語――日常生活における奇異なる言語習俗/社会組織――政治上および軍事上の状態/移住地としての日本、外国分子の地位など」
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これだけを見ても、すでに後年の日本研究(日本解釈)の骨子が出来上がっている事実に驚かされる。しかし、もっと大切なのは、ハーンが最初から西欧近代文明やキリスト教の爪跡のない未知の世界を求めて日本に渡ろうと決意していたことのほうである。
三 ハーンの日本観(日本解釈)が持つ特殊性
ハーンは、西欧近代文明の及ばぬ国をさがして、キリスト教から隔離された国を求めて、日本にやってきたのであった。アイルランド民間信仰では、「西の方」をたずねて行けば必ずユートピアがあると教えている。ハーンは、なにがなんでも日本をさして船出しなければならぬ、と決意してやってきたに違いない。
そうであってみれば、ハーンの日本観なるものは、最初からずいぶんと強い主観性の傾きを用意していたと見るのが至当である。前掲中野好夫論文は「こうしたいわば宿命を背負って来た彼八雲から、われわれが公平な印象、判断を期待することのできないのは当然であろう。われわれに対する彼の危険は、この偏見から来る不思議に甘美な魅惑であり、同時に、彼の日本観の強味もまた、偏見のみが生みうるものであったことを忘れてはならない」と述べ、さらに「いかにも彼の日本観は終始一貫して日本理解と賞讃にみちている。しかも彼は、決して日本の政府や、その他官製私製の宣伝機関に踊らされてした御用宣伝屋ではなかった。むしろ帝国大学を通じてのこの日本愛好者に対する国家の仕打ちは、批判さるべきものこそあれ、正常に酬いたものはほとんどなかった。その点は彼の強味であった。彼の日本観に偏見はあれ、誤謬はあれ、とにかくそれはあくまで|彼自身のもの《ヽヽヽヽヽヽ》であった」とも述べている。これまた正しい提説である。
たしかに、ハーンの日本観(日本解釈)はハーン自身のものであるに相違ないし、みずからは御用宣伝屋を勤《つと》めたつもりなど金輪際なかったに相違ない。だが、その叙述をいちいち検討してみると、ああハーンさんも引っかかったな、本気でこんなことを真実と信じ込んでいた(いや、信じ込まされていた)のかと、こんにちのわたくしたちが申し訳なく感ぜざるを得ない個所にふんだんに遭遇する。これは、おそらく、ハーンの周囲にいた無邪気でもあり無知でもあった平均的日本庶民が疑いもなしに口にした事がらを、無知ではないが無邪気なハーンが「鵜呑み」にして文章化した結果だったろう。大多数なる日本庶民は、第二次世界大戦の終わるまで、日本に関する真実を知るなどのことは全く許されていなかったのだから、ハーンの周囲のひとびとも故意に嘘《うそ》を教えたのではなかった。ハーン自身も嘘を書いたことはなかった。結局、愛する日本庶民の「眼」をとおして見たからこそ、ハーンの描きだした愛する日本の像は全体的把握に欠けざるを得なかった。チェンバレンが『日本事物誌』第六版で「ハーンは部分部分はたいへんはっきり見てとることができたが、それを全体として理解する力はなかった。この事は彼の頭についても眼についても言える。片方の目が盲だったハーンは、もう一方の目も極度の近眼だった。それだから部屋にはいった際のハーンの癖は、その辺りのものを手探りでさがし、壁紙であろうが、本の背であろうが、骨董品であろうが、その他の飾りであろうが、近くから綿密に眺めた。そうした細部については正確なカタログを作製できた彼だが、しかし水平線であるとか天の星であるとかをきちんと見ることは彼にはついに出来なかった」(平川祐弘訳文に拠る。「新潮」一九七六年五月号所載「小泉八雲の心の眼」)と述べている評言は、才能の質から見て「ハーンはなんといっても部分を描くのが得意で、抽象化や一般化の論を立てるのには不向きの人であった」(平川祐弘、同上論文)というふうに、解釈を敷衍《ふえん》することも可能であろう。しかも一方、わたくしたちは、愛すべき大多数の民衆が虚偽を虚偽とも知らず本当のことと信じ込むように仕向けた明治二十年代以降の「日本イデオロギー」の悪辣極まる仕業《しわざ》と、そのイデオロギーの虚偽性を看破できず却《かえ》って翻弄されたハーンの痛ましき学習態度とから、眼を逸《そ》らすことができない。
ハーンが絶賛した日本の庶民は、事実においては、ろくに人間扱いさえ受けてはいなかったのである。殊に、農民はそうであった。大内力『日本資本主義の農業問題』は、明快な観察結果を提示してくれている。「日本の小農社会は日本の帝国主義の支柱であったといってよく、国内市場のきょくたんに狭隘な――それはまた小農制の結果であるが――日本においては、資本主義はかかる基盤なしにはおよそ成立し発展しえなかったといってよい。だからこそ、過小農を過小農として維持し温存しておくことが資本にとっての絶対的な要件となるのであり、明治以来のあらゆる農業政策がつねに小農維持を固執しなければならなかったゆえんもここにあるのである」「愛すべき守旧的農本主義者はその主観的意識においていかにヒュウマニティックであり、ときにはロマンティックであったにしても、やはり日本の資本の意図の代弁者であったことにはかわりはない」(第三章分析)と。結局、農民が貧乏でおとなしいのは、祖先祭祀を大切にしたり古来の民間習俗を遵守したりするのは、農民をそういう状態に釘付けにしたほうが自分たちにとって好都合であると考えた明治政府支配層の仕組んだ罠《わな》にすぎなかった。日本の農民大衆が自分からはこのことを見抜けなかったのと同じく、ハーンもついにこのことを看破できなかった。その懐抱するスペンサー哲学が、ハーンの現実認識をいっそう晦《くら》ませた。そこにハーンの悲劇がある。
同じ「お雇い外人」でも、チェンバレンは、もっとずっと理性的だった。チェンバレンは、小冊子「武士道――新宗教の発明」(一九一一年刊、のちに一九三九年刊『日本事物誌』改訂第六版に収録)のなかで、日本民衆の大多数が国民道徳もしくは伝統的宗教のごとく思い込まされている忠君愛国とか皇室崇拝とかが一八八八年(明治二十一年)に伊藤博文らによって invent された新宗教でしかない、という重大事実を、証拠を挙げて指摘している。理性を研《と》ぎ澄ませばそうとしか観察できないはずだが、ハーンのほうは、なにしろユートピアの住民が話すことだからと、忠君愛国も皇室崇拝もただただ不思議を極める宗教道徳とばかり感心してしまって鵜呑みにし、没後刊行の大作『日本――解釈のための一つの試み』のなかでこれを理論づけた。
ついでに、もうひとりの「お雇い外人」の日本観を知っておくことも、必ずしもむだでない。「日本人は、近代になしとげたすばらしい偉業にもかかわらず、その知的あるいは倫理的な幼稚さをまだ十分に脱していない、自分の意見や感情とは別の、科学としての歴史の観念は、まだほとんど持っていない。『皇紀二千五百年の歴史』に関して、『教育のある』日本人や有名な政治家たちでさえ、饒舌だがまったく無価値な意見を述べている。それはユダヤ人やキリスト教徒の世界で長い間支配的だった、初期ヘブライ史についての伝統的な考えと同じで、事実そのものとか同時代の記録とかに基礎をおいていない」(亀井俊介訳『ミカド―日本の内なる力―』、第四章「万世一系」)と指摘したのはウィリアム・エリオット・グリフィスである。グリフィスは、ラットガース・カレッジを卒業した翌一八七〇年(明治三年)に福井藩に招聘されて藩校明新館で教え、ついで七二年から明治新政府に雇われて南校(東京大学の前身)で理学・化学を講じた「お雇い外人」のひとりである。かれは、一八七四年(明治七年)に帰国して、ニューヨーク市の神学校に入り直してそこを卒業、アメリカ東部の各地で牧師をするかたわら、日本および東洋に関する多くの著作を残した。一八七四年といえば、ハーンのほうは、五年の窮乏生活のあと漸《ようや》くにして「シンシナティ・インクワイラー」紙に入社して、新聞記者としての第一歩を踏みだした年である。年齢を比較しても、グリフィスは一八四三年生まれであるから、ハーンよりは七歳年長で、滞日期間ちゅうに旧藩主とつぶさに付き合ったり明治天皇睦仁に数回拝謁したりしたことを後日まで誇りとしていたといわれるので、その点でもハーンの先輩格であった。かれは『ミカドの帝国』(一八七六)、『日本の宗教』(一八九五)などの著作を公刊するが、そこに展開される日本論は、あくまでも合理主義的特質に貫かれたものであった。殊に『発展途上にある日本国民』(一九〇七)および『ミカド―制度と人』(一九一五)にあっては、明らかにハーンを論敵として意識し、ハーンがはじめから日本および日本人を「奇異なるもの」strangeness と見ているのに対して、グリフィスは、そうじゃない、日本および日本人といえども「人間の本性」human nature においてはなんら西欧社会ないし近代人に異なるはずがないじゃないか、という理性的立場に立つ。そこで、ハーンにあってあれほどに不思議がられ、なおかつあれほどにスペンサー社会進化論に合致すると推断された「神道の祖先崇拝」に対しても、グリフィスのほうは、きわめて冷徹な理性的観察を示している。「シントーイズム(神道教)というのは類語反復であり、同時に混合語である。神道はもともと、秘法も、教義も、倫理的規則も持っていなかった。それは単に、礼儀、忠誠、支配者の前に出た時の服従者にふさわしい心の態度、すぐれたものの前にぬかずく隷従者の態度であった」(前掲訳書、第五章ミカド主義と神道)と。
このように見てくると、ハーンの日本観(日本解釈)は、最初からいちじるしく主観性に満ちたものであり、のみならず、明治中ごろから第二次世界大戦の敗北に至るまでの五十年間にわたって日本の人民大衆に植え付けられた官製のインスタント宗教を対象にして論じた作業でしかなかった、ということは、もはやあまりにも明らかである。
そうなると、ハーンの書き残した日本関係著作はいっさい無価値なのか、との疑問が当然うまれてくる。だが、けっして無価値ではない。まず第一に、ハーンの著作は、明治庶民がとことん信じ込まされた皇国イデオロギーの各個人生活への滲透の度合がどの程度のものであったかを知る手がかりを与えてくれる。第二に、その|いんちき《ヽヽヽヽ》な自称《じしょう》国民道徳や伝統宗教に取り込まれたか、もしくは紛《まぎ》れ込んだかした、真に「古き良き日本」を改めて洗い直すためのよすがを与えてくれる。第三に、これはハーンの著作にとって最大の|いさおし《ヽヽヽヽ》となるはずのものであるが、ヨーロッパ近代技術文明があわや完全に軛殺しかけた人間性をば、われわれの手で辛うじて回復させようとする時に当たって、きわめて根源的=創造的な力を示すであろう「神話的思考」への糸口を与えてくれている。主観的ではあるが自己人生を懸命に生きようとしたために、民衆べったりである以上に民衆の生活を愛したために、ハーンの著作は、未来に向かっての価値を包蔵する。
四 ハーン『怪談』をどう読むべきか
本書『怪談』の真価も、われわれのがわの今後における正しい評価の仕方や、正しい再生産のあり方によって、はじめて発掘され、やがていつの日にか確定されることになるのだと思う。
もちろん、文学作品というものは、これがひとり歩きを開始した瞬間からは、読者がどう享受しようと委細《いさい》自由にゆだねられてある。この『怪談』を、夏の夜の清涼剤がわりに読んでいけないという法はないし、日本再発見の根本史料に用いていけないという規律もない。それはそのとおりであるけれど、これだけ科学的思考が普遍化し、民衆生活が豊かさに満たされるようになった時代に、まさか、本気でお化けや幽霊があらわれるなどと信ずる人間はないに決まっている。本書は、副題に「不思議な事象に関する物語および研究」Stories and Studies of Strange Things というテーマを掲げているが、現代のわたくたちの眼からすれば、不思議な事がらなど何ひとつ書かれていない。物語の大半は、これらに合理的説明を附することができる。合理的説明のつかない物語には、それこそ、嘘っぱち言ってらあという冷笑を浴びせれば足るのである。
さきほど、現代技術文明のなかで剥奪されたわれわれの人間性を取り返すためには「神話的思考」を回復させることが必要だ、という意味の叙述をした。そして、ハーンの著作がそのための糸口になってくれる、という意味の指摘もおこなった。神話・呪術・儀礼などというと、わたくしたちは、ともすれば、技術や科学の発達の低段階にとどまるものと見誤りやすいし、これまで久しくそのような謬説を通用させてもきたが、ごく最近になってレヴィ=ストロースなどの画期的論者が出て、わたくしたちの考えかたを|がらっと《ヽヽヽヽ》変えさせた。レヴィ=ストロースは主張する。「神話や儀礼は、しばしば主張されたように、現実に背を向けた『架構機能』の作り出したものではなくて、それらの主要な価値は、かつてある種のタイプの発見にぴったり適合していた(そしておそらく現在もなお適合している)観察と思索の諸様式のなごりを現在まで保存していることである。ある種のタイプの発見とは、感性的表現による感覚界の思弁的な組織化と活用とをもとにしてなしえた自然についての発見である。このような具体の科学の成果は、本質的に、精密科学自然科学のもたらすべき成果とはことなるものに限られざるを得なかった。しかしながら具体の科学は、近代科学と同様に学問的である。その結果の真実性においても違いはない。精密科学自然科学より一万年も前に確立したその成果は、依然としていまのわれわれの文明の基層をなしているのである」(大橋保夫訳『野生の思考』第一章具体の科学)と。さらに、神話的思考が知的な器用仕事《プリコラージュ》の一形式であるのに対して、科学は、偶然と必然との区別の上に成立し、しかもそれが科学性として要求する性質たるや体験や出来事の外に無関係に存在するものである、というふうに、両者の相違をはっきりさせたうえで、こう主張する。「神話的思考は器用人《プリコルール》であって、出来事、いやむしろ出来事の残片を組み合わせて構造を作り上げるが、科学は、創始されたという事実だけで動き出し、自ら絶えまなく製造している構造、すなわち仮説と理論を使って、出来事という形で自らの手段や成果を作り出してゆく。だがまちがえないようにしよう。それらは人智の発展の二段階ないし二相ではない。なぜならば、この二つの手続きはどちらも有効だからである。<中略>他方また神話的思考も出来事や経験のとりことなりそれらを倦むことなく並べかえて意味を見出そうとしているだけではない。それは解放者でもある。無意味に対したとき科学はまずあきらめて妥協したのであるが、神話的思考は抗議の声をあげるからである」(同)と。これっぽっちの抄録では、神話的思考のなんたるかを明らかにすることは不可能だが、科学のほかにこの思考がないと人間らしい一つの状態を得られない、というレヴィ=ストロースの考えかたは、すでにわかってもらえたかと思う。近代技術文明が産みだした公害や環境汚染の問題も、そもそもの起こりは、科学者を含めて近代産業人のすべてが資本主義的利潤追求のみを事《こと》としたからである。自然の生態系を破壊してしまったら取り返しのつかぬ災害がもたらされることぐらいは、科学者は百も承知だったのだ。しかも、「科学はまずあきらめて妥協した」もし、このときに、科学者を含めて産業人・政治家・知識人すべてに「神話的思考」が健やかに息づいていたら、どうだったか。そのときには、必ずや「神話的思考は抗議の声をあげる」はずだった。
ハーンは、自身が神話学や宗教民族学の素養をもっていた所為《せい》もあり、それよりも何よりも、西欧近代文明に何が根本的に欠如しているかについての深い洞察力を有していたから、かれなりの「神話的思考」を十全《フル》に働かせて、作品を書いた。ハーンは、たんなる怪異趣味からお化けや精霊の話を書いたのではない。むしろ、人間が人間らしく生きるにはどうしたらよいか、という根本命題の探究から、それらを書いたのである。人間は、お化けや精霊よりも遙かに尊《たっと》むべき存在である。たとえば、本書所収の「青柳ものがたり」を見ていただきたい。
たくさんある樹霊譚(日本には「良弁杉由来」「三十三間堂棟木由来」など有名な伝承が多数あるが、フレーザー『金枝篇』が採集・分類した神話類型をはじめとして、このタイプに属する昔話の分布は全世界的な範囲に広がっている)のうちからわざわざこの「柳の精説話」を選んで作品化=再話化した動機に、人生体験的な、もしくは世界認識的な要因を見出し得るのだ。ハーンは、自分が身に着けた民族学的素養(それは、当時の学問的段階としては、分類化や図式化に終始するほかなかったものである)にだけ信を措いて、採集された説話の再生産をおこなったのではなかった。民族学者ならば、自分のほうに興味や魅力が湧かなくてもなんでも、未開種族のあいだにおこなわれている説話を片っぱしから蒐集して自分の国語に翻訳すれば、それで任務は果たされる。ところが、ハーンの場合は、自分の世界認識を深めるためとか、自分の人生叡知を広げるためとか、要するに作者主体(再話者としての主体)に強く関わる主題を選んで作品化=再話化しているのである。これこそ「神話的思考」の発現と見做し得る。
そして、そのように推断して差し支えない証拠が、ここにちゃんと存在する。以下に示すのは、ハーン夫人小泉節子の「思ひ出の記」(第一書房版「小泉八雲全集」別冊所収)の一部である。
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或時、いつものやうに瘤寺に散歩致しました。私も一緒に参りました。ヘルンが『おヽ、おヽ』と申しまして、びつくり驚きましたから、何かと思つて、私も驚きました。大きい杉の樹が三本、切り倒されて居るのを見つめて居るのです。『何故、この樹切りました』『今このお寺、少し貧乏です。金欲しいのであらうと思ひます』『あヽ、何故私に申しません。少し金やる、むつかしくないです。私樹を切るより如何に如何に喜ぶでした。この樹幾年、この山に生きるでしたらう、小さいあの芽から』と云つて大層な失望でした。『今あの坊さん、少し嫌ひとなりました。坊さん、金ない、気の毒です、しかしママさん、この樹もうもう可哀相なです』と、さも一大事のやうに、すごすごと寺の門を下りて宅に帰りました。書斎の椅子に腰かけて、がつかりして居るのです。『私あの有様見ました、心痛いです。今日もう面白くないです。もう切るないとあなた頼み下ちれ』と申してゐましたが、これからはお寺に余り参りませんでした。間もなく、老僧は他の寺に行かれ、代りの若い和尚さんになつてからどしどし樹を切りました。それから、私共が移りましてから、樹がなくなり、墓がのけられ、貸家などが建ちまして、全く面目が変りました。ヘルンの云ふ静かな世界はたうとうこはれてしまひました。あの三本の杉の樹の倒されたのが、その始まりでした。
淋しい田舎の、家の小さい、庭の広い、樹木の沢山ある屋敷に住みたいと兼々申してゐました。瘤寺がこんなになりましたから、私は方々捜させました。西大久保に売り屋敷がありました。全く日本風の家で、あたりに西洋風の家さへありませんでした。
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――なんと、ハーンの面目躍如たるものがあるではないか。愛していた杉の樹が切られてしまったのを見て、切る前になぜ自分に相談しなかったのだ、金ぐらいなんとか都合つけたのに、杉の樹が可哀相じゃないか、と慨嘆しているのである。「さも一大事のやうに、すごすごと寺の門を下りて」には、どうやら、節子夫人にはハーンの痛みが理解できていなかったことを想像させる語調もうかがえるが、つぎの「書斎の椅子に腰かけて、がつかりして居るのです」という描写になると、すでにハーンの鬼気を受け止めている。このときのハーンの全身全霊的な失意落胆は、もはや滑稽をとおり越して、|ぞくっ《ヽヽ》とするような感じがする。ハーンは、みずから世界の一部分として、世界の全体に面《おもて》を向けているのだ。
ハーン伝記作者によれば、地続きの瘤寺の杉木立が伐り倒されたことにより、ハーンは、西大久保に家を買って移る決心をしたのだという。つまり、自分の行動を選んだのである。しかし、わたくしは、同時に、瘤寺の老杉三樹《ろうさんさんじゅ》が経済的目的によって伐り倒された事件により、ハーンは「青柳ものがたり」の制作をも選んだのだと見る。まさに、レヴィ=ストロースの謂うごとく「無意味に対して」「神話的思考は抗議の声をあげ」ずにはいられなかったはずだから。
無意味に樹木を伐り倒す図は、こんにち、わたくしたちの周囲には殆んど恒常的に見受けられる。しかも、このごろでは、わたくしたちは|狃れっこ《ヽヽヽヽ》になって何の感情も湧かなくなってしまっている。不感症に近くなっている。じつに空恐《そらおそ》ろしいことである。そういうとき、ハーンのこの「青柳ものがたり」の末尾部分に触れるならば、そして作者がなんのためにどういう思いでこれを書いたかという真意にまで深く滲透し得るならば、ただちに、われわれの「生きかた」の問題に立ち戻り得るであろう。このような力を包蔵しているところ、まさしく、この作品が古典に列せられて遜色なき証《あか》しとなっている。古典は、つぎつぎに、新しく読み返されては新しく生まれ替わるものである。『怪談』は、つぎつぎに、新生命の局面《フェース》を顕現してくれるであろう。
わたくしたちは、おのがじし、新しい読みかたでもって『怪談』に迫っていけばよいのだと思う。そして、おおぜいのひとびとによる新しい読みかたが積み上げられていき、そのあと、あらためて構造的に全体的把握がおこなわれるようになったとき、真に正しい読みかたに到達することになる。そのとき、そこに把らえられた全体性こそ、まさに百パーセント|人間のもの《ヽヽヽヽヽ》に属する。
〔付記〕本訳書は、(1)原書にある序文の全部を訳出し、(2)物語ちゅうに引用されてある和歌・俳諧に関してその分かち書き表記を忠実に復元し、(3)それら和歌・俳諧に併載されたハーン自身による作品解釈《パラフレーズ》の訳出をおこなっている。従来の翻訳書がこれらを無視したのは、日本人読者には不必要だと判断したためであろうか。しかし、これら個所にこそハーン「日本解釈」の秘密が隠されてあるのではないかと考え、ばか正直に訳出した。