骨董
ラフカディオ・ハーン/平井呈一訳
目 次
古い物語
幽霊滝の伝説
茶わんのなか
常識
生霊
死霊
おかめのはなし
蝿のはなし
雉子のはなし
忠五郎のはなし
ある女の日記
平家蟹
螢
露のひとしずく
餓鬼
いつもあること
夢想
病のもと
真夜中に
草ひばり
夢を食うもの
八雲と怪談
[#改ページ]
[#ここから1字下げ]
骨董
――さまざまの蜘蛛の巣のかかった日本の奇事珍談
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
[#ここから1字下げ]
サー・エドウィン・アーノルドへ
懇切なことばの感謝の記念に
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
古い物語
ここに掲げる九篇の物語は、不思議な信仰の説明として、「新著聞集」「百物語」「宇治拾遺物語」その他、日本の古い書物から選んだもの。ほんの骨董である。
幽霊滝の伝説
伯耆《ほうき》の国、黒坂村の近くに、幽霊滝という滝がある。なぜその滝が幽霊滝といわれているのか、そのわけは知らない。滝壺のほとりに、氏神をまつった小さな祠《ほこら》があって、土地の人はこれを滝大明神と呼んでいる。祠の前には、木造の小さな賽銭《さいせん》箱がそなえてある。この賽銭箱について一条の物語があるのである。
今から三十五年まえのことである。ある凍《い》てつくような冬の晩のこと、黒坂村のなにがしという麻とり場に雇われている女房や娘たちが、一日のしごとをすませたのち、麻とり部屋の大きないろりを囲んで、よもやまの怪談ばなしに興じあっていた。さまざまな怪談ばなしが、およそ十あまりも出た頃である。一座のものは、だれもかれも、みななんとなく、ぞくぞくとちり毛立つような気味悪さを感じていたが、そのときひとりの娘が、そのぞくぞくするような恐怖の快感をいっそう深めるつもりで、「ねえ、今夜これから、たったひとりで、幽霊滝へ行ってみたら、どう」といいだした。この思いつきを聞いて、一座のものは、思わずわっと声を上げると、つづいて、うわずったような声で、どっと笑いはやした。「わたしは、きょう取った麻を、みんなその人に上げる」と一座のうちのひとりが、さもさもなぶるようにいった。すると、「わたしも上げる」とそばから、もうひとりがいいだす。「わたしも」と三人目のがいいだす。「みんな、賛成」と四人目のが、こんどは引き受け顔にいう。
そのとき、一座のなかから、安本お勝という大工の女房が立ちあがった。お勝は二歳になるひと粒だねを、暖かそうにはんてんでくるんで、背中に寝かしつけていた。お勝がいった。「ちょいと。あたし、ほんとに皆さんがきょう取った麻をみんな下さるなら、これから幽霊滝へ行ってきますけどねえ」お勝のこの申し出は、一座の驚きと侮《あなど》りの声とを買った。けれども、お勝がいくどもくり返してそれをいうので、とうとうしまいに、みんなは本気にそれを取り上げた。麻とりの女衆たちは、めいめい口ぐちに、お勝がほんとに幽霊滝へ行くなら、きょうもらった駄賃は、そっくりお勝にやる、といった。「だけどさ、お勝さんがほんとに幽霊滝へ行ったかどうか、こっちにはどうしてわかるのさ」と、たれやらがきんきんした声で尋ねた。「そうさねえ。そんなら、こうしようじゃないか。あすこにあるお賽銭箱を、お勝さんに持ってきてもらおうじゃないか。それが何よりの証拠にならあね」と答えたのは、ここの麻取りの女衆からも、ふだん「おばあさん」と呼ばれている老婆であった。お勝は、「ようござんすとも。持ってきますわ」と叫んだ。そして寝ている子を背中におぶったまま、お勝は飛び出すようにして、表へ駆けて出て行った。
その晩は、霜の深い晩であったが、空はよく晴れていた。お勝は、人っ子ひとりいない往来をすたすた歩いて行った。身を切るような寒さに、どこの家でも表の大戸を堅くおろしている。やがて村を出はずれて、お勝はぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃと街道を駆けて行った。道の両側には、一面に氷の張りつめた田圃《たんぼ》が、森然とひそまりかえっている。星あかりがかすかに身を照らすばかりである。ひろびろとしたその田圃のなかの道を、ものの小半時も歩いて行くと、道はやがて崖下へ降りる細い小道へと折れる。細い小道は、行くにしたがって、しだいに険しい石高な道となり、暗さはいよいよ暗くなる。が、お勝は案内知った道である。そこを行くと、まもなく行くてに、どーっと滝の落ちる音が聞こえてくる。またしばらく行くと、道は広い谷へ降りる。そこまで行くと、いままで遠音であった滝の音が、たちまち耳を揺るがすような轟然たる響きになる。ふと見れば、目のまえの一団の闇のなかに、夜目にもかすかにそれと知れる長い滝の水あかりが、白じろとかかっている。氏神の祠もかすかに見える。賽銭箱もうすうすと見える。お勝はにわかに駆けよって、ずいと手を伸ばした。……
「おい、お勝さん」と、そのとき、とつぜん、とどろき落ちる滝の音のなかから、警告の声が呼んだ。お勝は、思わず恐ろしさに、ぞっとなってその場に立ちすくんだ。
「おい、お勝さん」殷々《いんいん》たる声は、ふたたびひびきわたった。こんどは、前よりもいっそ嚇《おど》すような、怒気を含んだ声である。
しかし、お勝はもともと気丈な女であった。すぐさま気を取りなおすと、いきなりそこにあった賽銭箱をひっつかむがいなや、いっさんに駆けだした。嚇したものは、それぎり姿も見せなければ、声もかけなかった。お勝はようやくのことで街道に出て、そこではじめて足を止めて、ほっと息を入れた。それからまた、おちついた足どりで、ぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃと道を急いだ。やがて黒坂村に着くと、お勝は麻とり場の戸口をはげしくたたいた。
お勝が息をはずませながら、片手に賽銭箱をかかえてはいってきたとき、一座の女房や娘たちは、どんなに声を上げて驚いたことであったろう。一同はしばらくは息を凝らして、お勝のはなしを聞いた。そして、幽霊滝のなかから、何者かが二どまで自分の名を呼んだというはなしをお勝がして聞かせたときには、みんな心から同情の声を寄せた。……まあ、なんという人だろう。ほんとにお勝さんは気丈だよ。こりゃあ、たしかに、取った麻を丸取りにされるだけの値打のある人だ。……とそのとき、かの年かさの老婆がいった。
「お勝さん。おまえ、坊やがさぞ寒かったろうにさ。……さあさあ、早く、この火のそばへつれてきておやりな」
「ええ、もうお腹《なか》のすいた時分でしょう」と母親はいった。「すぐにお乳をやりますわ」……「おお、おお、かわいそうに、まあ」と老婆は、お勝がおぶった子どものはんてんの紐を解くのを手伝ってやりながら、「おや、おまえさん、どうしたんだい。背中が、こら、ぐっしょりだよ」そういうかいわぬうちに、老婆は、たちまちしわがれた声で、きゃっと叫んだ。
「あれっ、血が……」
解いたはんてんの中から、床の上へずり落ちたのは、ひとくくりの血だらけになった赤んぼの着物だった。その着物からは、二本の小さな手と足が、にょっきりと突き出ているばかりであった。
子どもの首は、いつのまにか、もぎとられていたのである。
[#改ページ]
茶わんのなか
諸君はこれまでに、どこかの古い塔の、どんづまりは何もないただクモの巣だらけの、どっち向いてもまっ暗がりななかの急な階段を、登ってみようとしたことがあるだろうか。でなければ、どこか断崖を切り開いた海ぞいの道をたどり歩いて行って、もうひと足曲ると、そこはもう絶壁になっている、そういったところへひょっこり出られたことがあるだろうか。そういうときの経験の感情的価値というものは、これを文学的見地からみると、そのとき呼びおこされた感覚の強烈さと、その感覚の記憶の鮮明さとによって、その価値が決定されるものだ。
ところで、日本のある古い物語の本のなかに、めずらしいことにそれとまったく同じような感情的経験を覚えさせる、小説の切れはしが残っている。……これはおそらく、それを書いた作者がものぐさであったか、それとも版元と喧嘩でもしたか、あるいは、何かのひょうしに机の前から呼ばれて、そのままそこへ再びもどらずにしまったか、さもなくば、文章の中途で、不慮の死のために筆を中絶したかしたものであろうが、いずれにしても、その物語がなぜ未完のままになっているのか、その理由はだれにもわかっていない。わたくしは、ここに、その代表的な例をひとつ選んでみた。
*
元和三年一月四日、といえば、今からざっと二百二十年ばかり前のことである。中川佐渡守という大名が、供まわりの者をつれて、年頭の回礼に出た途すがら、江戸は本郷|白山《はくさん》あたりの、とある茶店に立ち寄った。一同が茶店で休んでいるうちに、佐渡の家来で、名を関内《せきない》と呼ぶ若党が、たいそうのどが乾いたので、大きな茶のみ茶わんに手ずから茶を一ぱい汲んだ。さて、茶わんを手にとりあげて、ふと関内がなにげなく茶わんのなかを見ると、透きとおった黄いろい茶のなかに、自分の顔でない顔がうつっている。驚いて、関内はあたりを見まわした。が、自分のそばにはだれもいない。茶わんのなかにあらわれた顔は、髪かたちから見ると、どうやら若い侍のようである。ふしぎなことにその顔がいかにもありありとしていて、しかもなかなかの美男である。顔だちが女のようにやさしい。どうも生きている面輪《おもわ》のようである。その証拠には、両眼やくちびるがうごいている。怪しいものがあらわれたのに、関内は眉に唾でもつけたい心持で、その茶を捨てると、茶わんのなかをしさいに改めてみた。
茶わんは、べつだん手のこんだ絵柄《えがら》や模様などのついていない、ごくの安茶わんである。関内は、有り合うべつの茶わんをとって、もういちど茶を汲みかえた。すると、その茶のなかにも、やはりさいぜんの顔があらわれているのである。そこで関内は、こんどは茶を新規に淹《い》れかえてもらって、そしてその茶を茶わんについでみた。すると、見おぼえのない不思議な顔は、やはりその茶のなかにも現れている。しかも、こんどは何やら愚弄するような笑《え》みを浮かべているのである。関内は、それでもじっと怺《こら》えて驚かずにいた。「何奴《なにやつ》かは知らぬが、もうその手には乗らぬぞ」関内は、そうつぶやくように口のうちでいうと、その茶を、顔ぐるみぐっと飲み干して、それから出かけた。途々《みちみち》、なんだか幽霊を一人|嚥《の》み下してしまったような気がしないでもなかった。
おなじ日の宵の口のことである。関内が中川の屋敷の詰所に詰めていると、ふいにそこへ、見も知らぬひとりの客が、音も立てずにすっとへやのなかへはいってきたのに、関内はぎょっとした、客はりっぱな身なりをした若い侍である。それが関内の前にぴたりと坐ると、軽く辞儀をしてから、こういうのである。
「身どもは式部平内《しきぶへいない》と申すものでござるが、今日初《こんにちはつ》にお目にかかり申した。お手前、それがしをば、お見知りならぬようでござるな」
いう声はごく低いが、それでいてよく通る声である。関内はふいとその顔を見て、あっと驚いた。目の前にいるのは、自分がきょう、茶わんのなかに見て嚥《の》み下した、あの薄気味のわるい、美しい顔をした幽霊なのである。かの幽霊がにやにや笑っていたように、今この客も、やはりにやにや笑っている。が、その笑っている唇の上にある両眼が、まじろぎもせずにじっと自分を見すえているのは、明らかにこれは挑戦であり、同時にまた侮辱でもあった。
「いや、拙者、とんとお見知り申さぬが」関内は、内心怒気を含んで、しかし声だけはつとめて冷やかに、そういってやり返した。「それにしても、お手前、当屋敷へはどうして忍び入られたか、その仔細《しさい》を承りたい」
〔いったい、封建時代には、大名の屋敷まわりは、昼夜ともに備えが厳重であったから、警備方によほどの許しがたい怠慢でもないかぎり、案内もなく屋敷うちへ忍び入るなどということは、とてもできることではなかったのである〕
「ほほう、それがしにお見おぼえがないといわれるか」客はいかにも皮肉な調子で、そういうと、すこし詰め寄りながら、「いや、それがしをお見おぼえないとな。したがお手前、今朝《こんちょう》身どもに、非道の危害を加えられたではござらぬか」
関内はたまち佩《は》いていた小刀に手をかけると、客の吭笛《のどぶえ》目がけて、烈しく突いてかかった。しかし、刃先には何の手応《てごた》えもなかった。とたんに、闖入者《ちんにゅうしゃ》は音も立てずに、さっと壁ぎわに飛びのいたと思うと、その壁をすっと抜け出て行ってしまった。壁には、客の出て行った跡らしいものは、何も残っていなかった。幽霊は、ちょうど蝋燭《ろうそく》の灯が行燈《あんどん》の紙をすかすように、壁を抜けて出て行ったのである。
関内がこのできごとを報告したとき、朋輩の衆はその話を聞いて、驚き、かつ、怪訝《けげん》な思いをした。事のあった時刻には、屋敷では、だれも人の出入りした姿は見受けなかったし、また、中川の家来のうちには、「式部平内」という名前を知っているものは、ひとりもなかったからである。
明くる晩、関内はちょうど非番に当たっていたので、両親といっしょに家にいた。すると、夜もかなりふけたころ、だれやら客がきて、ちょっとお目にかかって申し上げたいことがあるといっていると、取り次がれた。関内が大刀をとって、玄関へ出て行ってみると、なるほど、侍とおぼしい帯刀の男が三人、式台の前に立っている。三人の男は、関内にていねいに辞儀をすると、そのなかのひとりがいった。
「われわれは、松岡文吾、土橋久蔵、岡村平六と申す、式部平内殿の家来の者でござる。昨夜主人がまかりでた節、貴殿は小刀をもって、主人に討ってかかられた。主人は深傷《ふかで》を負われたゆえ、余儀なくその傷養生に、今より湯治に行かれる。しかし、来月十六日には御帰館になられる。そのおりには、きっとこの恨みをお晴らし申すぞ」
関内はいうを待たせず、いきなり大刀を抜いて飛びかかりざま、客を目がけて左右に斬りなぐった。が、三人の男は、隣家の土塀のきわへさっと飛びのくと見るまに、影のごとく土塀を乗りこえて、そのまま……
*
ここで、この話は切れている。これから先の話は、何人《なんぴと》かの頭のなかにあったのだろうが、それはついに百年このかた、塵《ちり》に帰してしまっている。
わたくしは、あるいはこうもあろうかという話の結末を、自分でいろいろに想像することはできるけれども、どうもしかし、西洋の読者に満足をあたえるようなのはひとつもなさそうである。わたくしはむしろ、関内が幽霊を嚥んだそのあと、どういう次第になったかは、おおかたの読者の想像にまかせておいた方がよいように考える。
[#改ページ]
常識
むかし、京都に近い愛宕山《あたごやま》に、明け暮れ黙想と読経に余念のない、ひとりの有徳《うとく》の僧があった。その住んでいる小さな寺は、人里から遠く離れていて、そんな寂しいところでは、たれか世話でも見てくれるものがなければ、日々の暮らしもなにかと不自由がちであった。が、さいわい、信心ぶかい山家《やまが》の人たちが、月々、かならず米や野菜をもってきては、この坊さんの暮しを見てやっていた。
そういう善男善女のなかに、この山へもときおり獲物をさがしにくる、ひとりの猟師があった。ある日のこと、この猟師がお寺へ一袋の施米をとどけに行くと、和尚がこんなことをいった。
「ときにな、わしはそなたに、きょうはぜひ話して聞かせたいことがあるのじゃ。このまえ、そなたに会うてからこっち、じつはけったいなことがあってな。それがの、どうしてまたそないなことが、愚僧のようなものの目の前におこるのやら、とんとわしにも解《げ》せぬのじゃが、けどな、そなたも知っての通り、わしはこの年ごろ、読経と三昧だけは毎日かならず怠らずやってきた。こんど授かったことも、常日ごろの勤めの功徳《くどく》かとも思われるが、まさかにそんなはずもあるまい。なんにせよ、毎夜当山へな、普賢《ふげん》菩薩が白象に召されてお越しになられるのじゃて。……まあ、そなたも、こよいは寺へ泊ってみなさるがいい。かならず、ありがたいお姿を拝むことができようぞよ」
「ほう、そんなあらかたなお姿が拝めるとは、いやもう、こんなしあわせはござりませぬわい」と猟師は答えた。「よろこんで御厄介になって、ひとつ和尚さんといっしょに、拝ませてもらいましょうかい」
そういって、猟師はその日は寺へ厄介になった。けれども、猟師は、和尚が勤行《ごんぎょう》をあげているひまに、ふと今夜これから現われようという奇蹟のことを考えて、そんなことが果たしてありうるだろうかと、不審に思いはじめた。すると、考えれば考えるほど、不審の念はいよいよ濃くなってくる。おりよく、納所《なんどころ》の小坊主がちょうど、寺にいたので、猟師はすきを見て、その小坊主に尋ねてみた。
「方丈さまのお話では、なんやこの寺へ、毎夜普賢菩薩さまがお出ましになるそうなが、そなたもお姿を拝んだことがあるかいな」
「ああ、それやったら、もう六ぺんも拝んだわい。普賢菩薩さまに、わてはこないして、拝みを上げとるわい」
そういう小坊主の口ぶりには、たしかに嘘はなさそうであった。しかし、小坊主のことばは、かえって猟師の疑念を、前よりもいっそう募らせるばかりであった。……待てよ。それにしても、この小坊主め、いったい何を見たのじゃろう。まあ、ええわ、それもほどなく今にわかるわい。こう思い直して、猟師は、さて約束の御出現の刻限を遅しと待っていたのである。
真夜中すこし前に、和尚は、さあ、いよいよ普賢菩薩がお出ましになる用意の刻限がきたぞ、といって知らせた。小さな寺の雨戸は、すっかり明けはなたれた。やがて和尚は、東の方に顔を向けて、入口のしきいぎわに平伏する。その左手に、納所の小坊主が同じくひざまずく。そこで猟師も、和尚のうしろに、うやうやしくかしこまった。
ちょうど九月二十日の晩のことで、雲の低く垂れた、暗い、ひどく風立った晩であった。三人は長いこと、普賢菩薩のお出ましになるのを待っていた。やがてそうこうするうちに、東の方の空にあたって、星のような白い光りものが現われた。と思うと、その光りものが、すばやくこちらへ近づいてきた。白い光りがだんだん大きくなってくるにつれて、あたりの山の斜面がこうこうと照らし出された。まもなくその光りが、何かの形をあらわしてきたと見るまに、たちまちそれが、六本の牙《きば》をもつ雪のように白い大象に召した、こうごうしいお姿になった。と思ううちに、光り輝くお姿をのせた象は、早くも寺の門前へお下がりになって、ちょうど月光の山のように、あやしく、ものすごく、そびえるように高だかとお立ちになった。
和尚と小坊主とは、その場にひれ伏して、一心不乱に経文を読みあげている。そのとき猟師は、やにわにふたりのうしろに立ち上がると、そばにおいてあった弓を手にとるより早く、満月のごとく引きしぼって、こうこうと光り輝く普賢菩薩の御尊体目がけて、長い矢をひょうと射た。矢は、菩薩の胸もと深く、矢羽のきわまでグサリとつきささった。
たちまち、落雷のような大音響とともに、かのこうこうたる光りはぱっと消えた。とたんに、菩薩のすがたも、かき消すごとくに消え失せた。あとにはただ、門前にさつさつと吹きすさぶ夜風の闇があるばかりである。
「これ、こなたはまあ、なんたら情けないやっちゃ」和尚は、侮恨と絶望との涙のうちからさけんだ。「ここな罰当りの極道めが。なんたらことをしたのじゃ。なんたらことをしてくれたのじゃ」
けれども、猟師は、和尚のその咎めのことばを聞いても、べつだん後悔のいろも、怒りのいろも見せなかった。猟師はややあってから、ことば静かにいった。
「方丈さまよ。まあ、お気を静めて、わしがいうことをば、ひと通り聞いておくんなはれ。方丈さまは長年の御修行とお経の功徳とで、普賢菩薩さまが拝めるとお考えになりました。けど、そんなら、普賢菩薩様は、この納所やわしがもののような目には見えぬはずじゃ。方丈さまおひとりだけが、ごらんになるはずではござりませぬかい。わしはもとより文盲な猟師、身すぎといえば、殺生が商売じゃ。話に聞けば、仏というもんは、三千世界のどこにもござらっしゃるものかと申すげな。ただそれが、凡夫の愚かさ、至らぬために、拝むことがかなわぬものと聞いております。方丈さま、方丈さまは、そりゃもう身の潔白なお上人さまでござらっせる。その身の潔白な方丈さまが、仏を拝める悟りをお開きになるは、こりゃ仔細はござりますめえ。けどな、わしがような、あごのために生きものをぶち殺しているようなもんに、なんで仏を拝む力なんぞが授かりましょうわい。いまのいま、わしもこの納所も、ふたりとも、方丈さまがごらんになった通りのものを拝みました。わしの申すものは、そこですわい。方丈さま、こりゃてんと、そなさんがごらんになったのは、ありゃ普賢菩薩じゃのうて、ことによったらなんぞ化物のしわざでござりますぞ。うかつにしておいたら、命までも取りかねませぬぞ。まあ、夜の明けるまで、お願いやで、しばらくのあいだこらえていておくんなはれ。わしが申すことの間違わぬ証拠を、お目にかけてこまそさかいに」
日の出とともに、猟師と和尚とが、かのまぼろしの立った場所をよく調べてみると、そこにうっすらと血の跡のついているのを発見した。そこで、その血の跡をつけて行くと、そこから数百歩離れた、一つのほら穴にたどりついた。そのほら穴のなかに、ふたりは、猟師の矢に射抜かれた、大きなタヌキの死骸のあるのを見つけた。
学識深く、信仰にあつい僧侶も、タヌキには容易にだまされたのである。ところが、無学で、かつ無信仰な猟師は、生まれながらにして強靱な常識をもっていた。この常識の力で、猟師は危うい迷いを看破し、かたがた、その迷いを退散させることができたのである。
[#改ページ]
生霊
今はむかし、江戸|霊岸島《れいがんじま》に、喜兵衛という裕福な瀬戸物屋があった。喜兵衛は、長年のあいだ、六兵衛という番頭をつかっていた。この番頭六兵衛のはたらきで、商売は繁昌した。そのうちに、だいぶ商法も手広くなってきたので、だれかひとり手を助《す》けるものがなくては、六兵衛ひとりではなかなか切りまわしがつききれなくなってきた。そこで六兵衛は、主人に、だれか経験のある手代をひとり雇い入れてもらいたいと願いでた。さいわいに許しが出たので、六兵衛は、ちょうど自分の甥《おい》にあたるもので、まえに大阪でやはり瀬戸物商を見習ったことのある、ことし二十二歳になる男を使うことにした。
この甥は、手代にはたいへん役に立つ男で、商売にかけては、多年経験に富んだ叔父の六兵衛よりも、かえって目はしがきくくらいであった。その才覚はいよいよ店を繁昌させたので、主人の喜兵衛もたいそう喜んだ。ところが、雇われてから七カ月ばかりたつと、この若い男は、からだのあんばいが悪くなってきて、どうやら一命さえおぼつかないような容態になってきた。江戸中の名医にはいくたりとなく診《み》せたけれども、どうも病の性《しょう》がはっきりしない。来る医者は、いずれも薬を盛ることもせずに、みな申し合わせたように、この病はなにか人に知られぬ愁歎からおこったものとしか思われない、という診立《みたて》であった。
六兵衛は、これはひょっとしたら恋わずらいかもしれないと考えた。そこで甥にあたってみた。
「じつは、わしもこの中《じゅう》からいろいろに考えていたのだが、なにぶんおまえもまだ若い年ごろだし、だれかこう、人知れず思っている女でもあって、それで身をはかなんで、わずらいついたのではなかろうかと、こう思ってな。なに、おまえ、それならそれで、何も隠すことはありはしない。胸のきなきなは、このわしにすっぱりと打ち明けたがよい。おまえもふた親は遠国にいることだし、おまえがためには、このわしは親も同然。心配ごとや悲しいことがあったら、わしは親がわりに、するべきことは何なりとおまえに計らってやるつもりでいる。金で片のつくことなら、遠慮することはない、いくらでもいうたがよい。及ばずながら、おまえの合力《ごうりき》ぐらいは、このわしにもできるつもりだ。御主人喜兵衛さまにしたところで、おまえがもとどおり元気なからだになることなら、喜んで何でもして下さることは、このわしがきっと請け合う」
病人の若者は、この深切な申し出をきいて、どうやら当惑らしいようすであった。そして、ややしばらくの間、じっと黙っていたが、とうとうしまいに、こういって答えた。
「いろいろと御深切なおことば、今生《こんじょう》ではけっして忘れませぬ。しかし、わたくしには、べつに内々心に思うている女もござりませんし、女子《おなご》などほしいとも思ってはおりません。じつは、わたくしの病は、とてもお医者さまの手ではなおりかねます。金ずくでは、とうてい助かりっこござりませぬ。何をおかくし申しましょう、わたくしはこちらのお店に御厄介になっているために、苦しみにさいなまれているのでござります。とんともう、生きている空もないようなありさまで。……そのために、どこへまいりましても、もう夜となく昼となく――お店におりましても、奥におりましても、ひとりでおりますときにも、しじゅう女の影につきまとわれます。そのために、こうして責め悩まされているのでござります。もうとうから、ひと晩とても、おちおち眠ったことはございません。目をつぶりますと、その女の人の幽霊が、わたくしのこののど首をこうつかみまして、締めつけようといたします。そのために、一睡もできませんような始末で……」
「おまえ、なぜまた、早くそれをわしにいわなんだのだ」と六兵衛は尋ねた。
「へえ、それが、あなた、申し上げたところで、しょせんむだだと思いまして」と甥は答えた。「その幽霊と申しますのは、死んだ人が化けて出るのではござりませぬ。げんに、ぴんぴん生きておいでの方で、あなたもよう御存知のお方。そのお方のお憎しみゆえからでございます」
「いったい、だれだえ、そりゃあ」六兵衛は、びっくりして尋ねた。
若者は、ささやくような小声で答えた。
「それがその、じつは、こちらさまのおかみさん――喜兵衛さまの御内儀さまなのでござります。おかみさんはこのわたくしを、とうから無きものになさりたくっていらっしゃいます」
六兵衛は、甥のこの申し条を聞いて、はたと当惑した。甥のいうことに、まさか嘘偽りはあるまい。それは信ずるとして、なぜそんな生霊が取りつくのか、そのいわれが六兵衛には、まるで見当がつかなかった。いったい、生霊というものは、よくかなわぬ恋とか、烈しい憎しみとかから、当の本人が知らぬまに、人に取りつくことがある。しかし、このばあい、色事沙汰とはどうあっても考えられない。喜兵衛の女房はもう五十をだいぶ出ている。とすると、この若い手代は、だれか人から憎しみを受けるような――生霊に取りつかれるほどの憎しみを受けるようなことをしたのであろうか。しかし、甥はふだんから身の行ないも、これといって人から指をさされるような|かど《ヽヽ》もないし、どちらかといえば、ちと固苦しいくらい折り目の正しい方で、なにごとによらず勤めだいじと、精勤一方に励んでいる男である。
解くべからざるこの難問題は、六兵衛をはなはだしく困らせたが、とにかく、よくよく考えに考え抜いたすえ、六兵衛は事のよしわけを主人喜兵衛に打ち明けて、その上で裁きをつけてもらうことにした。
喜兵衛はきもをつぶした。といって、四十年という長いこの年月のあいだ、番頭六兵衛のいうことに疑いをはさむようなことは、ただのいちどもあったためしがない。そこで喜兵衛は、すぐと女房を呼んで、その場で病人のいったことを申し聞かせると同時に、慎重に問いただしてみた。すると女房は、はじめのうちは顔色をかえて泣き沈んでいたが、やがて、しばらくもじもじしていたあとで、正直にすらすらと答えた。
「手代の申す生霊のことは、どうやらほんとうかと思われます。と申しますのは、じつはわたくし、自分ではつとめてことばやようすには出すまい、出すまいとしてまいりましたが、どうあってもあの男が、もういやでいやでなりませんのです。それはもう、御存知の通り、あれは商売にかけてはたいそうな腕ききで、することはなにごとによらず、まことによく気がついて、そつがございません。それゆえ、あなたもあれにはお店のことをすっかりお任せで、丁稚《でっち》や女中までも取り仕切らせておいでです。ところが、このお店の跡目を継ぐべきうちのせがれは、根があの通りのお人よし、人の口に乗りやすいのは、目に見えております。それで、とうから考えますのに、あの目から鼻へ抜けるような利発な手代めが、もしやひょっとして、うちのせがれを騙《だま》しこみ、身代を横取りにしはせぬかと……いえ、もう、あの手代めにかかりましたら、まさかのときは、何のぞうさもなく、わが身のぼろは何ひとつ出さずに、この店をつぶし、せがれを茶々無茶にしてしまうにきまっております。そう思いこんだら、わたしゃあの男が恐《こわ》たらしゅうて、憎たらしゅうてならなくなりました。いっそのこと死んでくれればよい、わが手に命を断てるものならと、いくど思うたか知れやいたしません。……それほどまでに、人に憎しみをかけるのは、悪いこととは知りながら、ついつい憎《にく》しい一念が押さえきれず、夜も昼も、あの手代めを呪いつづけておりました。六兵衛に話したとやらいう怪しいものの見えたのも、きっとそのために相違ございません」
「それほどまでに、わが身を苦しめるとは、おまえもよくよくのうつけ者だな」と喜兵衛はいった。「あの男が、きょうが日まで、かりにも人に悪く思われるようなことはしたためしはなし、それをおまえはむごたらしう、あの男を責めさいなめていたのだ。……こうしたら、どうだ。あれを脇町《わきちょう》へ出して、のれんを分けてやり、叔父とふたりで店を出させてやったら。それなら、よもやおまえも今までのように、あれに辛くあたることもなかろう」
「そりゃもう、顔を見たり、声を聞いたりいたさなければ――ただ、この家からどこぞへやっていただきさえすれば、憎しい思いも押さえられるかと存じます」と女房は答えた。
「ひとつ、そうして見なさい」喜兵衛はいった。「そんなおまえ、今までのように憎しみつづけていたのでは、あの男は一命をなくしてしまうにきまっている。そうなれば、おまえとて、恩こそあれ、仇も恨みもない人を殺す大罪人だ。ともあれ、あの男は、これまでのところ、まずどこから見ても、この上ない手代であったよ」
それから、喜兵衛は、さっそくわき土地へ出店を出してやる準備をして、やがて六兵衛をつけて、かの手代の後見をさせた。それからのちは、もはや生霊は、かの若者を悩まさなくなった。若者は、まもなく、もともとどおり丈夫なからだになったのである。
[#改ページ]
死霊
越前の国の代官、野本弥治右衛門というものが世を去ったとき、弥治右衛門の使っていた下役どもが相計って、なくなった主人一家のものを謀計《はかりごと》にかけようと企てた。代官の借財のうち、なにがしかを償還するという口実のもとに、主人の家にある目ぼしい家財什器をことごとく差し押さえた上、旧主弥治右衛門が無法にもおのれの資産の価格以上の債務を契約したように見せかけた、贋《にせ》証文を偽造したのである。下役どもは、この贋証文を公儀にさし出したから、上《かみ》ではただちに命を発して、野本の妻子に越前の国より追放を申しつけた。当時、代官の家族は、たとえ主人のなくなったのちでも、主人の生前に非行のあったことがあばかれた際には、その罪の幾分かを負わされたものである。
ところが、野本の未亡人の手もとへ、上《かみ》から追放の令状が差しまわされてきたとき、まえから野本の家に雇われていた下女の上に、奇怪なことが起った。というのは、その下女が、まるで何か取りつきものでもしたように、にわかに|ひきつけ《ヽヽヽヽ》をおこして、烈しく身を震いだしたのである。しばらくして、ひきつけがようやく納まったと思うと、下女は、いきなりすっくと立ち上がって、そこに居あわせたお上の役人たちと、もとの主人の下役どもに向かって、どなりだした。
「さあ、いずれも方。わしの申すことをようく聞かっしゃい。いま、お身たちに物をいうて聞かすのは、女ではない。わしだ。弥治右衛門じゃ。冥途から立ちかえった弥治右衛門じゃ。わしは悲憤骨髄に徹して、いまここへもどってまいった。この悲憤はな、わしが存生《そんじょう》のおり、あさはかにも頼みにしておった奴ばらのために飲まされたのじゃ。……きさまら、ここな恩知らずの人畜めら。いかに日ごろの恩義を忘れたればとて、かくまで主人の財宝を滅《めっ》し、かくまで旧主の名をば辱しめらりょうか。……さあ、これからわしはここで、わしの目の見ておる前で、役所と家との勘定の尻を取り調べてやるのじゃ。だれぞ目附《めつけ》へ人をやって、帳簿を持ってこられい。その帳尻を照らしあわせて見せる」
下女がこういうことばを口走ったのだから、居あわす面々はみな驚いた。しかも、その下女の声と態度とは、死んだ野本弥治右衛門その人の声と態度なのである。脛《すね》に疵《きず》もつ野本の下役どもは、顔色さながら土のごとくになった。公儀の名代《みょうだい》は、下女のいう願いを聞きとどけてやるようにと命じた。代官所の帳簿は、即刻、一冊のこらず下女のまえに並べられた。まもなく、目附所の帳簿ももってこられた。下女は、一厘一毛の間違いもなく、すっかり勘定をして、さて〆高を記し、あやまりのあるところは、いちいち訂正した。筆をとって書きしたためている下女の手蹟は、まぎれもなく、野本弥治右衛門その人の手蹟であった。
この勘定の再吟味は、けっきょく、野本方に借財の毫釐《ごうりん》もないことを証拠だてた。のみならず、当時野本が死歿した際に、代官所の金蔵になにがしかの剰余金のあったことまで、それによって明らかになった。ここにおいて、かの下役どもの謀悪は、もはや動かすべからざるものとなったのである。
さて、勘定がすっかりすむと、下女は、ふたたび野本弥治右衛門の音声《おんじょう》でいった。
「さあ、これですっかり相済んだ。これから先のことは、わしの手には合わぬ。これでわしは、また元のところへおさらばじゃ」
そういって、下女は、その場にごろりと身を横たえたと思うと、たちまち、ぐうぐう寝入ってしまった。二日二晩のあいだ、下女は死んだようになって眠りつづけた。(取りついていた魂が離れおちると、取りつかれていた人は、ひじょうに大きな疲れと深い眠りとに襲われるものなのである)。
さて、ふたたび目がさめたときには、下女の声と態度とは、すでにもとの若い女の声と態度とにかえっていた。下女は、目のさめたときにも、またそれからのちにも、野本弥治右衛門の亡霊がのりうつっていた間のできごとは、何ひとつ思い出すことができなかった。
このできごとは、時をおかさず、ただちに公儀に上申された。その結果、公儀では追放の沙汰を取り消して、そのうえ代官の遺族に手厚い褒美を賜わった。その後、野本弥治右衛門には死後の贈与が行なわれ、その家は長く上《かみ》の恩顧をうけて、大いに富み栄えた。一方、かの下役どもは、それぞれ相応の処罰を受けた。
[#改ページ]
おかめのはなし
土佐の国、名越《なごし》の長者、権右衛門の娘おかめは、夫、八右衛門をたいそう愛していた。おかめは二十二、八右衛門は二十五である。あんまりおかめが亭主を可愛がるものだから、土地の人たちは、おかめという女は、きっと焼餅のふかい女なのだろうと思っていたくらいであった。しかし、当の八右衛門は、これまで女房に焼餅を焼かせるような種など蒔いたことのない男である。夫婦のあいだには、今までただの一ども、おたがいにいやなことばなど交わされたことはなかった。
おかめは、あいにく、からだの丈夫なたちでなかった。連れ添ってから、二年とたたぬうちに、おかめは、そのころ土佐の国にはやっていたはやり病にかかって、そのあげく、とうとう土地の名医も匙《さじ》を投げるような容態になった。このはやり病に冒されたものは、物を食べることも、飲むこともできなくなる。病人は、ただこんこんと眠りつづけ、からだがしじゅう大儀で、そして妙な夢にばかり魘《うな》されるのである。日夜、手厚い看護を受けながらも、おかめは、日ましにやせ衰えて行くばかりであった。そして、しまいには、自分もこんどというこんどは、しょせん助かるまいと思うようになった。
そこで、おかめは夫を呼んでいった。
「わたくし、こんな情けない病気にかかってしまって、……この間から、あなたがどれほど手厚くして下さったか、その御深切は口では申されないくらいです。こんなによくして下さる方は、どこを探したってありはしません。でもわたくし、それだけに、あなたにお別れするのが、いかにも辛うございます。……あなた、考えてもみて下さいまし。わたくしはまだ二十五にもなりません。そのうえ、連れ添うあなたは、世の中で一ばんよい旦那さまです。それなのに、わたくしは死んで行かねばなりませぬ。……いいえ、だめ。そんな気休めをおっしゃっても、だめでございます。お医者さまにも見放されたわたくしですもの。……わたくし、せめてもう、ふた月か三月生きていとうございました。ところが、けさほど鏡を見ましたら、いよいよ、きょう――そうです、きょうでございます。きょう、わたくしは死ぬということがわかりました。そこで、あなたに、折入ってお願いがあるのですけど、……あなた、わたくしを、あの世へらくらく行かしてやりたいとおぼし召しでしたら……」
「うん。……かまわぬから、その先をいうてみい」八右衛門はいった。「おれの力の及ぶことなら、喜んでしてやるから」
「はい。それが、あなたのちっともお喜びにならないことですの」とおかめは答えた。「まだお年の若いあなたに、こんなことをお願い申すのは、ほんとに御無理なことだと存じます。でも、そのお願いは、わたくしの胸のなかで炎《ほむら》のように燃えております。わたくし、死ぬまえに、どうしてもこれだけは申し上げておかなければ気が休まりません。……ねえあなた、わたくしが死にますと、お家では遅かれ早かれ、あなたにまたお嫁をとらせることになるでしょうね。後生ですから、お約束をなさって下さいましな。もう二どとお嫁をもらわないと。……あなた、そのお約束がおできになりまして」
「なんだ、それしきのことか」八右衛門はいった。「おまえの願いごとというのは、そんなことなのか。そんなことなら、何のぞうさもないことだ。よし、約束した。おれは、おまえの代りは、だれももらいはしない」
「ああ、うれしい」おかめは、そういって、思わず床《とこ》の上に半身を起した。「まあ、わたくし、それをうかがって、どんなにうれしいか……」
そのまま、がっくりとなったと思うと、それなりおかめは、事《こと》切れていた。
さて、おかめが亡くなってから、八右衛門のからだに、どことなく弱りが見えだしてきたようであった。はじめのうちは、八右衛門のようすの変ったのは、無理もない愁歎のせいだろうぐらいに思われていた。村の人たちも、「なにしろ、あの男ときたら、女房には首ったけだったからのう」などといっていたが、それが日のたつにつれて、顔の色がますます青ざめてきて、からだもどことなく甲斐《かい》ないところがあるようになり、しまいには、どうかすると生きた人間というより、なにか幽霊でも見るように、骨と皮ばかりに痩せ衰えてきたのである。そうなると、村の人たちも、あの若い者が、ああきゅうにがっくり弱りだしたというのは、どうもありゃ、愁歎のせいばかりではあるまいと、そろそろ不審に思いだしてきた。医者にいわせると、八右衛門の病気は、あれはただの病気ではない、いまのところ、容態の上からはまだなんとも測りかねるが、どうもよほど並々ならぬ心労からきている病症のように見受けられるという。そんなわけで、八右衛門の両親もいろいろ心配をして、病人に聞きただしてみるけれども、けっきょく、これといって何の得るところもない。当人のいうには、お父っさんやおっ母さんが知っておいでのことよりほかに、べつに悲しいことなどはないというのである。それでは、嫁でももらってみたらどうだと勧めれば、いや、死んだ仏に、いったんこうと約束したことは、たとえどんなことがあろうと、それだけはどうも破るわけにはいかないといって、堅く拒むのである。
それからのちも、八右衛門のからだは、日いちにちと、目に見えて衰えて行くばかりであった。家の人たちも、この分で行けば、もう大して長いことはあるまいと諦めていた。そういうある日のことである。かねてから、せがれは何か胸に秘めていることがあるに違いないと睨んでいた、八右衛門の母親が、せがれに向かって、どうか病のほんとうの原因《もと》をわたしに明かしておくれといって、涙を流して、かきくどくようにして頼んだ。さすがの八右衛門も、母親のこの切なる歎願には、とうとう拒むことができなくなって、いった。
「おっ母さん、こんなことは、おっ母さんにも、どなたにも、まことに言いにくいことです。わたしが包まず何もかも申し上げてみたところで、とても本当になさりますまい。じつは、おかめの奴が、いまだにあの世で成仏できないでいるのです。いくら供養をしてやっても、いっこうに浮かばれませんでな。おおかた、わたしが十万億土へ行ってやりでもしないことには、とても成仏はおぼつかないかも知れません。あいつは、毎晩ここへ帰ってきては、わたしのそばに寝ていますよ。葬式の日から、ずーっと毎晩帰ってきているのです。わたしも、時にはどうかすると、おかめの奴はほんとうに死んだのかしらと、妙な心持になることもありました。なにしろ、顔だって、ようすだって、ありありと生きていたときの通りなんですからね。……ただ、話をするときに、ちょっとばかり声が小さいようです。おかめはわたしに、自分がここへくることは、どうか誰にもいわないでくれといいましてね。おおかた、わたしに死んでもらいたいのでしょうよ。わたしも、こうやってひとりになってみると、じっさい生きてなんぞいたかありません。しかし、身体髪膚《しんたいはっぷ》これを父母に受くで、親には孝行を尽さなければなりません。こうして、わたしがおっ母さんに、ありのまんまお話しするのも、こうでもしたら、ちっとは孝行の足《た》しになるかと思って、それでお話をするんです。……ええ、おかめは毎晩やってきますよ。わたしが、うとうとっとすると、きっとやってきます。そして、明け方までいて、お寺の鐘がようよう聞こえだすと、そのまままたどこかへ出て行ってしまうのです」
八右衛門の母親は、これを聞いて大いに驚いた。そして、さっそく檀那寺へ駆けつけて、せがれがいったいちぶしじゅうを住職に話して、なんとかしてこの不思議を助けてもらいたいといって頼んだ。年ももうだいぶ高齢で、苦労を積んだ住職は、そのはなしを聞いて、さらに驚くけしきもなく、やがて母親にいって聞かせた。
「こういうことは、なにもこれが初めてではない。御子息は、わしの手で助けて上げることができるかと思う。しかし、なにぶん今はあぶない瀬戸ぎわじゃ。先日、愚憎の見たところでは、御子息の顔には死相があらわれておった。これで、いまいちどおかめ殿がもどってきさっしゃれば、もうそれぎりじゃ。御子息は二どと日の目は見られませぬぞ。ともあれ、手の及ぶかぎりのことは、さっそくせにゃならん。ただし、御子息にはこのことはかたがた黙っていなされよ。それからな、御面倒じゃが、御当家の御縁者の衆を大急ぎで呼びあつめて、寺へすぐこられるように伝えて下され。御子息のために、おかめ殿の墓を明けねばならぬから」
そこで、親戚一同は寺に集まった。住職は、一同からおかめの墓を明ける許しを得たうえで、一同を墓場へ案内した。やがて住職のさしずで、おかめの墓の墓石が上げられ、墓が開かれて、棺が持ち上げられた。その棺のふたが開かれたとき、一同はあっといって驚いた。おかめの死骸は、病気の前とおなじように美しい顔をして、にこやかな笑《え》みを頬にたたえながら、棺のなかに安坐していたのである。死の痕跡は、おかめの死骸のどこにも見られなかった。ところが、そのおかめの死骸を住職が棺のなかから取り出すように命じたとき、一同の驚きは一変して、こんどは恐怖となったのである。なぜというのに、あんなに長いあいだ土中の安坐の形をとったままでいたのに、おかめの死骸は、手を触れてみると、まるで血がかよっているようにあたたかく、生きているようにしなやかだったからである。
さて、死骸は本堂に運ばれた。やがて、住職は筆をとって、おかめの死骸の額と手足に、なにやら貴い功力《くりき》のある梵字を書きつけた。それから、死骸をふたたびもとの土中に埋《い》けるために、亡きおかめの霊に施餓鬼をとりおこなった。
おかめは、それぎりもう二どと夫のそばへはあらわれなかった。八右衛門はしだいに元どおりの丈夫なからだになって、元気を回復した。けれども、その後八右衛門が、おかめとの間に取りかわした例の約束を、果たしていつまで守り通したか、そのところは日本の作者も書いていない。
[#改ページ]
蝿のはなし
今から二百年ばかり前のことである。京都に餅屋久兵衛という商人が住んでいた。店は島原道からすこし南に入った、寺町通りにあった。久兵衛は、たまという名前の女中をひとり使っていた。たまは若狭《わかさ》生まれの女だった。
たまは、日ごろ久兵衛夫婦からなにかと深切に遇されていたし、たまの方でもまた、主人夫婦には心からなついていたようであった。たまは、ほかの年頃の娘たちのように、ふだん、きれいな着物を身につけようなどという念はさらさらない女で、晴着は幾かさねももらっているくせに、宿下がりのときには、いつもきまって、ふだん立ち働いているときの着物を着たままで出て行くといったふうの女であった。たまが久兵衛の家に奉公してから、五年ほどたった頃のことである。ある日、久兵衛はたまに、おまえはどうして、ふだん身なりを小ざっぱりするように気をつけないのか、と尋ねてみた。
たまは、久兵衛のこの小言がましい問いに顔を染めながら、いんぎんに答えた。
「わたくし、両親《ふたおや》がなくなりましたときには、まだほんの小さな子供でござりました。ところが、あいにく、ほかにきょうだいがなかったものですから、親の法事をするのは、このわたくしの務めになってしもうたのでござります。その時分はまだ、親の法事をいたすほどのお金は溜りませんでしたが、ゆくゆく、そのくらいのお金がいただけるような身分になりましたら、そのときはさっそく親のお位牌をこしらえて、それを常楽寺というお寺へお納めして、御法事していただこうと、こないにきめていたのでござります。で、どうぞして、それを果たしたい思いまして、こちらはんへ御厄介になりましてから、一生懸命、お金や着るもんを約《つづ》めてまいりました。わが身のなりふりにもかまわん女子《おなご》やと、旦那はんのお目にさわったくらいでござりますから、あんまり吝嗇《けち》にいたし過ぎておりましたかも知れまへん。でも、おかげさんと、ただいま申し上げましたような目当のお金が、もう銀百目ほどたまりましてござります。これからは、身なりもちっとはきれいにいたしまして、旦那はんの前へも出るようにいたします。そんなわけで、今まで気《きい》つかずに、失礼ばかりいたしておりまして、何とも申し訳ござりまへん。どうぞ御勘弁なすって下さいまし」
久兵衛は、たまのこのまごころある話にすっかり感心して、そういうわけなら、これからはどんな着物を着ていようと、おまえの好きにしなさいと、ことばやさしく、かたがた言い含めてやった上、その親孝行な志を褒めてやった。
こういう対談があってからまもなく、たまは両親の位牌を常楽寺という寺に納めて、それ相当の法事を営んでもらうことができた。たくわえた金のうち、七十匁をそれに費したのである。そして、残りの三十匁を、たまは、お上さんに預かっておいてくれと頼んだ。
ところが、その翌年の冬のとっつきに、たまはにわかに急な病にかかった。そして、幾日と床にふせりもせずに、元禄十五年の正月十一日に、たまはあえなくなった。久兵衛夫婦は、たまの死をたいそう歎いた。
さて、たまが死んで、十日ばかりたった後のことである。ある日、久兵衛の家へ一匹の大きな蝿が舞いこんできて、それが久兵衛の頭の上をうるさく舞いまわりはじめた。いったい、蝿というやつは、大寒の時分になんぞ出てくるものではない。それにだいいち、そんな大きな蝿は、よほど陽気でも暖かにならなければ出てくるものではないから、久兵衛は驚いた。それでも、あんまりしつこく頭の上を舞いまわって、うるさくてしかたなかったので、信心家の久兵衛は、その蝿をそっと痛めぬようにつまんで、おもてへ放してやった。すると、蝿はすぐとまたもどってきた。そこで、またつかまえて逃してやった。蝿は三たびはいってきた。久兵衛の女房も、それを見て、不思議なことに思った。そして、「ひょっとしたら、たまかも知れしまへんね」といった。(死んだ人間は、ことにそれが餓鬼道におちると、どうかしたばあい、虫の姿になって、この世へもどってくることがあるものである)。久兵衛は笑って、「ほんなら、この蝿に、印つけておいたら、わかるやろ」といって、その蝿をつかまえて、羽のはしをすこしばかり鋏で切ってから、こんどは家からだいぶ離れたところまで持って行って、逃がしてやった。
翌日になると、その蝿がまたもどってきた。けれども、蝿がそうして幾度ももどってくることに、何か心霊的な意味があるのかどうかということは、まだ久兵衛の腑《ふ》には落ちなかった。そこで、もう一どつかまえて、こんどは蝿の羽とからだに紅《べに》を塗りつけて、そしてそれを、きのうよりもさらに遠く離れたところまで持って行って逃がしてやった。ところが、それから二日目に、蝿はからだじゅうまっ赤になったままで、またもどってきた。久兵衛も、こんどこそはもう疑わなかった。
「なるほど、この蝿は、たまにちがいないわ。たまのやつ、なんぞ欲しいもんがあるんやな。なにが欲しいのやろな」
久兵衛がいうと、女房が答えた。
「わてな、たまのたくわえを、まだ三十匁預かっとりますねん。おおかた、あの子は、自分の供養に、あのお金を、お寺へ納めてもらいたいいうのでは、あれしまへんやろか。たまは、ふだんから後生《ごしょう》のことばっかり気にしてましたさかいになあ」
女房がそういっているうちに、かの蝿は、止まっていた障子からぽとりと下へ落ちた。久兵衛がひろってみると、その蝿は死んでいた。
そこで、夫婦は、さっそく寺へ行って、たまのお金を住職に納めることにした。夫婦はそのとき、蝿の死骸を小さな箱に入れて、それをいっしょに持って行ってやった。
寺の住職、自空上人は、蝿のはなしを聞いて、久兵衛夫婦に、よいことをなされたといった。それから上人は、たまの霊のために施餓鬼を修して、かの蝿の死骸に妙典八巻を誦《ず》した。そして、蝿の死骸を入れた箱は、寺の境内に埋められて、その上にしかるべき銘を書いた卒塔婆がいっぽん建てられた。
[#改ページ]
雉子のはなし
今はむかし、尾州、遠山の里に、うら若い百姓夫婦が住んでいた。家は、山また山の、さびしいところにあった。
ある晩のこと、女房が夢を見た。夢のなかに、四、五年前になくなった舅《しゅうと》が出てきて、「あす、わしの身に危ういことが起るから、できることなら、助けてくれ」といった。朝になって、女房はこのはなしを夫に話した。夫婦は、その夢のことをたがいに語り合ったが、死んだおやじが、いったい何をしてもらいたがっているのか、ふたりしていろいろ考えてみたけれども、けっきょく、夢のことばの意味は何のことやらわからずにしまった。
朝飯をすませると、夫は野良へ出かけて行き、女房は家で機《はた》を織っていた。しばらくすると、表の方になにやらがやがや人のわめく声がするので、女房が驚いて門口へ出てみると、土地の地頭《じとう》が狩の衆を供につれて、こちらへやってくるのであった。それを立って眺めていると、一羽の雉子《きじ》が女房のわきを掠めるようにして、家のなかへさっと舞いこんだ。女房は、ふとそのとき、昨夜の夢のことを思い出した。「おおかた、この雉子が、お父《とっ》さんかもしれない」と、女房は胸のうちに、そう考えた。「よし。きっと助けて上げなければ」と思って、女房は、急いで雉子のあとから家のなかへはいった。雉子は、美しい雄だった。女房は、わけなくその雉子をつかまえると、それを空《から》の米|櫃《びつ》の中へ入れて、上から蓋《ふた》をしておいた。
まもなく、そこへ、地頭の供の衆が幾人かはいってきて、女房に、今ここらで雉子を一羽見かけなかったかと尋ねた。女房が何食わぬ顔をして、いいえ、見かけませんでしたがと答えると、ひとりの猟師が、いや、たしかにこの家へ舞いこんだところを見たという。そこで一行は、あちらの隅、こちらの蔭と、ほうぼう家捜しをはじめたが、だれひとり米|櫃《びつ》のなかをのぞくことに気づいたものはなかった。あちこち捜してみても、けっきょく、目当のものが見つからないので、一同は、それではどこかの穴からでも逃げたのだろうと諦めて、やがてぞろぞろ引き揚げて行った。
夫が家に帰ってきたとき、女房は夫に見せようと思って米櫃のなかにかくしておいた、雉子のはなしを聞かせた。「わたしがつかまえても、ちっとも手向かいをしないんですよ。そして、おとなしく、米櫃のなかへはいっているんです。きっとあれは、お父《とっ》さんに違いないと思います」と女房はいった。夫は米櫃のそばへ行って、ふたをそっと上げて、中から鳥をつかみ出した。鳥はさも慣れているように、夫の手にじっと止まって、夫の顔をさも見慣れているように、じっと見上げている。その片方の目がつぶれていた。夫はいった。「おやじは、片目がつぶれていた。あれは、右の目だった。この鳥も、右の目がつぶれている。こりゃあ、たしかにおやじだ。ごらん、おやじがいつもしていたような目つきで、こっちを見ている。かわいそうに、おやじはきっと、『おれはいま鳥でいるが、猟師の手に捕られるくらいなら、おれのせがれに食われた方がましだ』と考えたにちがいないぜ。……それで、おまえのゆうべの夢のわけが、やっとわかった」そういって、夫は女房の方を向いて、にやりと気味のわるい笑いをもらしたと思うと、いきなりその雉子の首をぐいとひねり上げた。
この乱暴な仕打ちを見て、女房はあっといって叫んだ。
「まあ、あなたは、ひどいことをする人。まるで鬼です。鬼みたいな了簡の人でなけりゃ、とてもそんなまねはできるもんじゃない。……こんな人の女房になっているくらいなら、いっそわたしは死んだ方がましだ」
そう言い放ったと思うと、女房は、草履はく間も遅しとばかり、いきなり表へ飛び出して行った。飛び出すひょうしに、夫はその袖をとらえたが、女房はそれをも振り切って、いっさんに駆けだした。そして、駆けながら、おいおい泣いて行った。はだしで、どこまでも走りつづけて行って、そのまま地頭の屋敷へ駆けこむと、女房は、涙をぽろぽろこぼしながら、地頭にいちぶしじゅうを語った。狩の前の晩に見た夢のことから、雉子を助けるためにかくまってやったこと、それを、夫が自分のしたことを笑って、その雉子を殺してしまったことまでを、こまごまと訴えたのである。
地頭は、女房にやさしいことばをかけて、家の者どもに、この女をいたわってやれといいつけた。そして、手下の者に、この女の亭主を召捕ってこいと命じた。
翌日、夫は吟味を受けた。そして、かの雉子を殺した顛末を、逐一白状させられたそのあとで、申し渡しを受けた。地頭は言い渡した。
「きさまのようなふるまいをなすやつは、極悪非道の大罪人だ。かような人非人がおっては、土地の名にもかかわる。当地領の住人は、いずれも平素から、親孝行の心掛を重んじている。そのなかに、きさまごときやつを生けておくことは相成らぬ」
そこで、年若い百姓は、その村を追われることになり、もし二どとふたたび、村へ帰ってくるようなことがあったら、そのときは死罪に処せられるということになった。一方、女房には、なにがしかの土地をあたえてやり、その後よい亭主を持たせてやった。
[#改ページ]
忠五郎のはなし
今は昔、江戸小石川に、鈴木という旗本があった。鈴木の屋敷は、江戸川の川べり、中の橋の近くにあった。この鈴木の用人に、忠五郎という足軽がいたが、この男は顔だちのきれいな若者で、あいそもよく、小才もきく方で、朋輩の受けもよかった。
四、五年、鈴木の屋敷に奉公をしていたが、身持ちもよい方で、まず落度といわれるような科《とが》は、今までにひとつもなかった。それが近頃、この忠五郎が、毎夜屋敷をいずれへか忍び出て、夜の白むすこし前まで屋敷を明けるということを、おなじ朋輩の足軽が見つけ出したのである。はじめのうちは、不思議なこの忠五郎の所行について、誰も面と向かって当人に言い出すものもなかった。というのは、屋敷を明けるために、かくべつ日々の勤めにさしつかえるというようなこともなかったし、それにその原因には、どうやら情事らしく思われる節もあったからである。ところが、日をふるうちに、忠五郎の顔いろがどことなくすぐれず、からだにも衰えが見えだしてきた。朋輩たちは、これはどうやらただごとではないと考えて、すこし立ち入ってみようということになった。そこで、ある晩のこと、忠五郎が例によって屋敷を忍び出ようとするところを、年かさの同役が、わきへ呼びこんでいった。
「忠五郎どの、おぬし、近頃毎夜のようにお屋敷を明けて、朝まで帰らぬが、そのことはわれわれの仲間うちには、とうに知れておるのだ。それに見たところ、近頃は顔いろもよろしくない。悪友などに交わり、身をそこなわねばよいがと、われわれも蔭ながら案じておるのだが、なんとかこれは、お手前において申し開きの筋がないと、われわれとしてもしょせんこのことをお役頭まで訴え出ねば相成らん。なれど、そこはまたそれ、われわれはおぬしとは同役の誼《よし》みでもあるし、かつまた、朋友の間柄だ。おぬしがお屋敷のおきてにそむいて、夜中外出する儀については、われわれ朋友の誼みといたして、一応そのわけを承っておくのがしかるべきだと思うが、いかがなものだの」
いわれて、忠五郎はひどく当惑したような、かつまた、驚いたようすであった。しばらくのあいだ、むっつりと黙りこんでいたが、やがてつかつかの庭先の方へ出て行くので、同役もそのあとからついて行った。さて、人に立ち聞きされるおそれのない物陰までくると、忠五郎はそこに足をとめて、さていいだした。
「いや、なにもかも包まず申し上げましょう。しかし、これはどうか堅く御内聞に願いたいので。拙者の申すことを御他言なさると、とんだ災難が降りかかりますのでな。
わたくしがこの恋のために、はじめて夜分出だしましたのは、さよう、ちょうど今から五月《いつつき》前、春も初めのことでござりました。ある夜、親元へ見舞いにまいり、お屋敷へ戻るみちすがら、表御門からほど隔たらぬあの河岸《かし》通りに、ひとりの女が立っております。身なりを見まするに、どうやら身分のあるお家の女子《おなご》衆のようす。かかる夜更けに、さような身なりをいたした婦人が、ひとりで河岸っ縁《ぷち》に立っておるのは、ちとへんだわいと思いましたが、なにもこちらからさし出てわけを尋ねることもないと存じて、ことばはかけず、そのままわきを行き過ぎようといたすと、その婦人がつかつかと前へ出てまいりましてな、わたくしの袖を、こう引きまする。見ると、たいそう年の若い別嬪《べっぴん》で、『あの、まことに申し兼ねまするが、あすこの橋のたもとまで御同道願えませぬか。ちとお話し申したいことがござります』と、こう申すので。その声が、まことにこの、ふんわりとして、やさしくて、よい心持。物をいうとき、にっこりと笑うその笑顔《えがお》が、これがまた何ともこたえられぬようで。……で、まあ、橋の方へぶらぶら並んで歩いてまいりますと、女が申すには、じつはあなたのお姿を、お屋敷のお出入のたびにちょいちょいお見かけいたして、お見そめ申したのだと、こう申すので。『わたくし、あなたのようなお方を、夫にして連れ添いたい。こんなものでも、おいやでなければ、末しじゅう楽しう暮せます』と申します。さすがの手前も返答に窮しましたが、それにしても、いい女だなあと、つくづく思いました。橋のたもとまでまいると、女がまた袖を引きまするから、あすこの土手を降りまして、川っ縁へ出ました。『ごいっしょにいらっしゃいましな』と女はささやくように申して、手前を水の方へひっぱります。ご存知のごとく、あすこは深い淵になっております。手前はきゅうに女が恐くなりましたから、引き返そうといたすと、女はにっこり笑って、手前の手首をこう握って、『わたくしとごいっしょなら、なんの恐いこともございませぬ』と申します。どういうものか、この女の手にさわられますと、とんとはや三つ子も同然、たわいもなく、へたへたとなってしまいます。ちょうど夢の中で駆けようとしても、手足がいうことをきかない、てもなくあのあんばいで。とうとう女が淵へひと足踏み入れて、手前をいっしょにひっぱりこみました。しばらくは、目も耳も塞がったような心持になって、やがてはっと気がついてみますると、なんだか大きな御殿のような煌々《こうこう》としたところを、女といっしょに歩いております。べつだん水に濡れたところもなく、冷え冷えしたところもない。あたりも乾いておるし、ほかほかと暖かくて、なかなかきれい。どこへどうして自分がまいったのやら、かいもくわからない。女はわたくしの手をとって、先へ立ってまいります。だいぶ数あるへやを幾つとなく通りましたが、どのへやも明きべやではあるが、まことに美々しい、りっぱやかなへやばかり。そのうちに、千畳敷もあろうかと思われる、大広間へ通されました。ずっと突き当たりの大きな床の間のまえに、燭台が並んでおって、酒宴でもあるかいたして、座ぶとんがずらりと置いてありまするが、客らしい姿は見えない。女は、わたくしのことを、そこの上座へ案内をして、その身もそこへ坐ると、『さあ、これがわたくしの家でございます。ここでごいっしょに暮らしたら、楽しいとおぼし召しになりませんか』と尋ねながら、にっこり笑いましたが、このにっこりは、まず世の中に、これほど美しいものはなかろうと思われるくらい。手前ももう、何が何やら夢中で、『いかにも』と答えましたが、ふとそのとき、浦島の故事を思い出して、これはことによったら、天女とでも申すものではないかしらんと思いましてな。しかし、面と向かって、それを聞いてみるのも、何となく憚かられる。そうこういたすうちに、女中衆があまたあらわれて、ふたりの前に出たのは、いやもう、かずかずの美酒|珍肴《ちんこう》。そのとき、女が申しました。『もし、あなた。おいやでなければ、今晩これから、夫婦固めのお盃をいたしましょう。これが御祝言の御馳走でございます』というので、たがいに七生《しちしょう》の間変らじと、堅い誓言《せいごん》をいたして、さて酒《ささ》ごとがすんだのちは、かねて用意の閨《ねや》へお引けということになりました。
女に揺り起されて、目がさめてみますと、まだ夜も白《しら》じら明け。そのとき、女が申すに、『もし、あなた。あなたはもうわたくしの夫です。でも、じつは、今はわたくしの口からそれといえぬ、また、あなたもそれをお尋ねになってはならない仔細があって、ふたりの縁組は、当分内証にしておかなければなりませぬ。ここへ夜の明けるまでお引き留めしておくと、わたくしどもふたりの命にかかわります。後生ですから、あなたを御主人のお屋敷までお返し申しても、悪くおぼし召さないで下さいまし。今夜またお出で下さることは、それはかまいません。これから毎晩、ゆうべお初《はつ》にお目にかかったあの刻限に、あの橋のたもとできっと待っていらして下さいまし。長くはお待たせいたしませんから。ただ、わたくしどもふたりの仲は、どちらへも内証だということ、これだけはかたがたお忘れにならないように。もし、それを人にお話になるようなことがあると、それぎりもう、一生お別れしなければならないようなことになります』と申します。
そのときも、手前は、浦島の宿縁のことを思い出しながら、なにごとも女のいうままにすると、誓言をいたしました。それからまた、かずかずの美々しい、人気《ひとけ》のないへやをいくつとなく通って、玄関へ出ました。玄関先で、女がわたくしの手をじっと握りますと、そのとたんに、あたりがきゅうに真の闇になったと思うと、気がついたときには、手前は中の橋のたもとの河岸っ縁に、ひとりぼんやり立っておりました。お屋敷へもどりましたときには、まだ寺々の鐘も鳴らぬ刻限でござりました。
その晩、女の申した刻限に橋のたもとへまいりますと、女は待っておりました。前夜のごとく、かの淵の底へわたくしを連れてまいり、前夜むつまじい一夜を過したかの不思議なへやへ通しました。それからと申すものは、毎夜おなじように、その女と会っては別れておるような次第で、こよいも女はかならず待っております。彼女《かれ》を落胆させるほどなら、それがし一命を落《おと》してもと、深く思いこんでおりますことゆえ、これからまたまいりまするが、くどいようなれど、ただいま申し上げましたことは、なにぶんとも御内聞に願いまするぞ」
年かさの足軽は、この話を聞いて、驚き、かつ、心配した。どうも忠五郎の申立ては、偽りではなさそうである。けれども、その申し条には、なんとなく気味の悪いところがある。おそらく、忠五郎の経験は、すべて一個の迷いであろう。人間を禍《わざわい》に落し入れようとする、なにか魔性の力がかきおこす心の迷いであろう。それにしても、もし真実|誑《たぶ》らかされているのだとしたら、この若者は、へたに意見などするよりも、むしろ、ふびんに思ってやらなければなるまい。無理に手を出すと、かえって害《あだ》になろう。そう思って同役は、そのとき、なんどりといってやった。
「いや、おぬしが息災でおるうちは、今いわれたことは、かならず他言はいたさぬ。――では、まあ、その婦人とやらに、会ってきなさるがいい。しかし、油断は召さるなよ。どうもわしには、おぬしが何か魔性のものにでも誑《たぶ》らかされておるような気がされて、案ぜられてならぬのだが」
忠五郎は、老人のこの忠告にはただ微笑を返したのみで、そのままいそいそと出かけて行った。が、それから数刻たつと、忠五郎は、いつになく、悄然としてもどってきた。「どうじゃな、会われたかの」と老人が尋ねると、忠五郎は、「いや、おりませなんだ」と答えた。「いつもの場所に、女がおらなんだのは、こよいが初めてでござります。もはや二どと会ってはくれまいかと思われます。やはり、他言したのが手前の誤りでござりました。誓言を破ったのは、まことに愚か千万なことでござりました」同役の老人は、しきりと慰めてみたが、なんの効もなかった。やがて忠五郎は、ごろりとそこへ横になると、それなり物をいわなくなった。そのうちに、瘧《ぎゃく》でも起したように、からだじゅうをがたがた震いだしてきた。
寺々の明けの鐘が鳴りだしたとき、忠五郎はにわかに起き上がろうとしたが、そのまままた正体もなく、ぐったりとくず折れてしまった。どうもその容態がへんであった。まさに死病であった。そこで、漢方医が呼びにやられた。
「はてね、このお方には、血がないわい」医者は、忠五郎のからだをしさいに見たあとで、驚いていった。「このお方の血の管にあるのは、水ばかりじゃ。これはさて、一命取り止めることはまず難しいてな。いやはや、なんとも因果なお人じゃ」
忠五郎の一命を助けるために、及ぶかぎりの手が尽された。しかし、その効もむなしかった。日の沈み落ちるのといっしょに、忠五郎はあえなく落命した。そのとき、かの年かさの同役が、いちぶしじゅうを医者に語って聞かせた。
「いや、わしもおおかた、そんなことだろうと思うておりましたわい」と医者はいった。「それでは、どんな薬石でも助けることはかなわぬてな。その女に命を取られなすったは、この仏が初手ではないことでの」
「いったい、どこの――何者でござります、その女は」同役は尋ねた。「もしや射干《やかん》のたぐいでも……」
「なあに、昔からよくこの川に出るやつでな。そやつが若い男の血が好きでな」
「大蛇《おろち》とか――それとも、竜女とやら申すような……」
「いや、いや。昼間、あの橋の下にでも出ておるところを見られたら、まことにはや、ざまの悪い生き物でのう」
「どんな生き物で……」
「蟇《がま》じゃ。大きな、ざまの悪い蟇じゃて」
[#改ページ]
ある女の日記
さきごろ、わたくしの手もとに、やや珍しい草稿がとどけられた。草稿は、細長い十七枚のやわらかな日本紙を絹糸でとじたもので、その表紙には、日本のかな文字が書いてある。一種の日録であって、ある婦人が自分の結婚生活の記録を、手ずから書きとめておいたものである。これを書いた筆者は、もはやこの世にはいない。この日記は、その婦人が所持していた針箱のなかから発見されたのである。
この草稿を貸してくれたわたくしの友人は、わたくしに許すに、君が公表してもよいと思うとおりに、これを翻訳してもさしつかえない旨をもってした。わたくしはよろこんで、与えられたこのよいおりを機縁に、日本の一平民の、平凡なる一婦人の思想感情、喜怒哀楽を、その筆者がいやしくも異邦人の目に、自分のつつましやかな、哀れな日記を読まれようなどとは夢さら思わずに、思いきって率直に書きのこしたものを、そのまま英語に書きあらためることにした。
しかしながら、わたくしは、この筆者のやさしい心霊を尊重して、かりに筆者がこの世にあって、わたくしのつたない文章を読むことがあったとしても、できるだけ迷惑にわたることのないように、草稿を用いることにした。日記のある部分は、その記事の神聖なるがゆえに、わたくしはこれを省略した。また、西欧の読者にとって、たとえばそれに註釈を加えたところで、ほとんどこれを了解することはできなかろうと思われるこの国特有の習俗、あるいは地方的迷信に関する瑣末な記事で、やむをえず省略したものも幾カ所かある。なお、名前はもちろんのこと変えておいた。それ以上の点では、わたくしはできるかぎり原文を忠実にたどることにし、直訳ではその意味が通じかねると思われる場合のほかは、一言一句たりとも、みだりに改竄《かいざん》したところはない。
この日記のなかに書かれている、あるいは暗示されている事実のほかに、わたくしは、この筆者の経歴についてほとんど知るところがない。筆者は下層階級の一婦人であり、筆者自身の語るところについて見るに、三十歳近くまで結婚せずにいた人のようである。令妹は、それより数年さきに、ある人のもとに嫁いでいる。一般の世習とやや懸隔しているこの事実については、一言の説明も日記に記されていない。日記といっしょに発見された小影によれば、筆者は容貌のあまり美しい人ではなかったということがわる。しかし、その顔には、いかにも内気な、やさしい、人好きのするようすがあらわれている。夫君は、どこか大きな事務所に勤めていた小使で、おもに夜勤であって、月給は十円であった。家計を助けるために、筆者は内職にたばこの紙巻をしていた。
日記を読むと、筆者は、小学校へは何年か上がっていたに相違ないことがわかる。仮名《かな》はなかなか美しく書けているが、漢字の数を多く知らないから、日記は一見して、小学校の生徒が書いたものに酷似している。しかし、文字には誤りがなく、しかもなかなか練達である。ことばは東京ことば(市民の通用語)で、くせのあることばが多いが、品の悪いところはすこしもない。
人は、あるいは、この筆者が、その日を食べて過すさえ難いような生活のなかから、なにゆえにこのような、誰に読んでもらう当もないような日記を、孜々《しし》として書きつづったものなのかと、もっともな疑念をいだくものもあろう。そういう質問者に対して、わたくしは、日本の教えにはむかしから、心の悲しいときには歌を詠むのが第一の薬だといってあることを教えたい。そしてまた、どんな下層階級においても、詩歌は、今日なお、非喜哀楽のおりにふれて、かれらの間に作られている、ということを教えたい。この日記の後半は、心さびしい病間に記されたものである。わたくしは、おそらく筆者が寂しさのあまり、心も千々に乱れがちなおりふし、おもに心気を鎮めるために、これを書いたものであろうと想像する。死ぬすこし前には、筆者は、もうすっかり諦めきっていた。日記の終りの方には、いまはもう望みもない衰えきった肉体に対して、筆者の精魂が最後の苦闘をした跡が、まざまざと見えている。
草稿の表紙には、「むかしばなし」という表題がついていた。「むかし」とは、過ぎ去った何百年もの前の事実、もしくは、一個人の過ぎ去った生涯を意味する。ここでは、もちろん、後者の意味である。
むかしばなし
明治二十八年九月二十五日の晩、おむこうのかたが見えて、おたずねになった。
「お宅のお姉《あねえ》さんのことなんだが、あのかた、おかたづけになっても、いいんでしょうね」
そのとき、こういう返事であった。
「かたづけたいのはやまやまでも、なにぶんまだ、嫁にだすしたくができていないもんですからね」
おむこうの方はおっしゃった。
「ところが、先方じゃあ、したくなんざいらないといってるんですよ。ねがえることなら、ひとつ、このはなしの人のところへ、おかたづけになったらどうかとおもってね。ずいぶん堅人《かたじん》だというひょうばんの人ですよ。年は三十八です。わたしはまた、お姉さんは二十六ぐらいだとおもっていたもんだから、先方へは、そういっておいたんですがね……」
「いいえ、あなた。とってもう九でございますよ」
「ああ。それだったら、もういちど、先方へはなしてやらなければ。とにかくね、さきの人に、もういっぺん会ってみた上で、また御相談に上がりますよ」
そういって、おむこうのかたは、帰って行かれた。
あくる晩、おむこうのかたが、またお見えになって――こんどは、岡田さんのおくさん(うちの知人なり)とごいっしょに見えて、おっしゃった。
「先方は、申分ないっていうんですよ。ですから、こちらさえ、そのお気なら、この縁談はまとまりますがねえ」
父が答えた。
「双方とも七赤金だから、これは合性だ。べつに、わたしもいなやはないとおもいますがね」
お仲人さんがたずねられた。
「それでは、いかがでございましょう、明日、お見合いということになすっては」
父は答えた。
「なにしろ、こればかりは、まったく縁ものですからね……よろしゅうござんす。それではひとつ、明晩、岡田さんのお宅で、お目にかかるということにしていただきましょう」
こんなぐあいで、双方、約束がまとまった。
おむこうのかたは、あしたの晩、ご自分で、岡田さんの家へわたしをつれて行こうとおっしゃったけれども、わたしは、とにかく、いちど踏み出したからには、もう後へひけないことですから、母といっしょにまいりたいと存じます、といっておいた。
母といっしょに先方へ行くと、「こちらへ」といって、おむかいをうけた。そのとき、先方のおかたとわたしとは、はじめておたがいにごあいさつをかわしたが、でも、なんだか大そう気まりがわるくて、わたしは先方のおかたのお顔を、よく拝見することができなかった。
やがて、岡田さんが並木さん(夫の姓)におっしゃった。「あなたの方は、おうちで御相談なさるかたもべつにおありではないんだし、善はいそげということもあることだしするから、いいお考えになったら、さっそくおきめになった方がいいとおもうが……」
そのとき、こういうごへんじだった。
「わたくしの方は、もう申し分ございませんが、先様《さきさま》がいかがお考えやらわかりませんもので」
「ごらんのとおりのふつつか者でございますが、もらってくださるおぼしめしでしたら……」とわたしは申し上げた。
お仲人がおっしゃった。
「では、そういうことでしたら、お式はいつがおよろしいでしょうか」
並木さんがお答えになった。
「あしたは、わたくし、うちにおりますが、なんでしたら、かえって、十月ついたちの方がよろしいでしょう」
すると、岡田さんが、すぐとたたみかけて、おっしゃった。
「並木さんは、夜勤でお留守だと、おうちがご心配だから、いっそのこと、あしたの方がよかないかな。――どうでしょう」
わたしは、はじめ、あんまりそれでは早急《さっきゅう》すぎるとおもったが、考えてみると、あしたは大安日であった。
それで、わたしは、いさいを承知して、家にかえった。
父に話すと、あまりいい顔をなさらなかった。父は、あんまりそれでは話が急すぎる、せめて三日や四日の猶予がなくては、とおっしゃった。それに、方角もよくないし、ほかに気に入らないことがある、といっておられた。
わたしはいった。
「でも、もうお約束してきちゃったことですもの。いまさら、日取りを変更《へんがえ》してくれとはいえませんわ。あちらだって、おるすへ泥棒でもはいったら、それこそお気のどくですもの。方角がわるいっていったって、それでわたしにもしものことがあったって、わたし、ちっとも不足にはおもいませんわ。だって、連れ添う夫のうちで死ぬんですもの」と、そういってから、またいいそえた。「あしたは、とても忙しくて、後藤へ行くひまなんかありませんから、わたし、これからちょいと行ってきます」
後藤へ行ったが、さて、当人に会ってみると、自分がわざわざいいにきたことを口にだすのが、なんだか恐くなってしまった。わたしは、ただ、こういってほのめかした。
「わたし、あした、よそへ行くことになったのよ」
後藤は、すぐにたずねた。
「お嫁さんにでしょう」
わたしは、もじもじしながら答えた。
「ええ」
「どんな人ですい」と後藤はたずねた。
わたしは答えた。
「わたし、自分ではっきり考えがきまるほど、ゆっくり相手の方が見られるくらいなら、なにもお母さんなんかに、いっしょについて行ってもらやしなかったことよ」
「そんなこといって、姉さん、そんなら、あんた、いったい何しに見合いに行ったんですい」と後藤はいったが、そういってから、こんどは前よりもきげんのいいちょうしで、「しかし、まあ、そいつは何よりおめでたいや」といった。
「とにかくね、それがあしたなのよ」とわたしはいった。
そして、わたしは家へ帰ってきた。
さて、約束の日(九月二十八日)になると、どう手をまわしていいかわからないほど、たくさんすることがあった。それに、ここ四、五日、雨がつづいたので、道が大へんわるく、そのために、いっそう困った。でも、いいあんばいに、当日は雨が降らずにすんだ。いろいろ、こまこましたものを買わなければならなかったが、そうそう母に頼むわけにもいかない。頼みたいのはやまやまだったが、なにぶん、母はよる年波で、この節では、足がめっきり弱くなっている。そんなわけで、わたしは早朝から起きて、ひとりで出かけ、及ぶだけのことは自分でしたけれど、それでも、まだ仕度がすっかりそろわないうちに、もう午後の二時になってしまった。
それから、髪をあげに、髪結《かみゆい》さんのところへ行く。お風呂へも行かなければならず、そんなこんなで、だいぶひまがとれた。着物を着かえにかえってくると、並木さんの方から、まだ誰もお使いの方が見えていない。わたしはすこし心配になってきた。ちょうど、お夕飯をすませたところへ、お使いの方が見えた。もうみんなにお暇乞いをのべているひまもない。やがて、わたしは、もう一生ここへは帰ってこないつもりで、家を出た。そして、岡田さんのうちまで、母といっしょに歩いて行った。
わたしは、そこで母とも別れなければならなかった。そして、岡田さんのおくさんが、わたしの介添役になって、わたしはおくさんとつれ立って、舟町の並木さんのうちへ行った。
三々九度のお盃もぶじにすみ、おひらきの時刻も案外早くきたので、お客はみんな帰って行った。
あとにはふたりさしむかいとなり、胸うちさわぎ、その恥かしさ、筆紙につくしがたし。(原注――原文のまま)
じっさい、この心もちは、はじめて両親の家を去って、花嫁となり、なじみのうすい家の娘となった覚えのある人でなければ、わからないだろう。
あとで食事のとき、わたしは、大へん気まりがわるかった。
二、三日たつと、夫の先妻(この人は亡くなった)のお父さんだという方が見えて、こんなことをおっしゃった。
「並木さんは、ほんとに気だてのいい人ですよ。堅いことも堅いし、じつに実直な人だ。そのかわり、あれでなかなか細かいことにやかましく小言をいうほうだから、しじゅうよく気をつけて、まあ、あの人の気にいるようにして、お上げなさい」
わたしは、最初から夫のようすに気をつけていたが、なるほど、なかなかやかましい人だということがわかった。それで、なにごとによらず、夫の気にさからわないようにしようと、こころをきめた。
十月五日は、里がえりの日で、わたしたちは、はじめてふたりして、いっしょにそろって出かけた。途中、後藤へ寄った。後藤の家を出ると、きゅうに空もようがわるくなってきて、雨がふりだしてきた。それで、傘をかりて、それを相合傘にさして行ったが、こんなふうにしていっしょに歩いているところを、以前の家の近所の人に見られやしないかとおもって、気が気でなかったが、さいわいなんのこともなく、両親の家へついて、あいさつをはたした。家へ上がっている間に、いいあんばいに、雨はやんだ。
同日九日。はじめて夫と芝居へ行く。赤坂演伎座へ行き、山口一座の芝居を見物した。
十一月八日。浅草寺《せんそうじ》へ参詣。それからお酉《とり》さまへまわる。
――年の暮に、夫と自分の春着を新調した。このとき、はじめて、こういう仕事のたのしいことをおぼえ、大へんうれしくおもった。
二十五日に、大久保の天神さまに詣り、境内のお庭をあるく。
二十九年一月十一日。岡田をたずねる。
十二日。ふたりで後藤をたずねて、楽しく遊んだ。
二月九日。三崎座へふたりで「いもせやま」を見物に行った。芝居へ行くとちゅう、おもいがけなく後藤にあい、いっしょに行く。あいにく、帰りに雨が降り出し、道がひどくぬかった。
同月二十二日。天野で、ふたりの写真をうつす。
三月二十五日。春木座へ行き「螢塚」を見物。
――この月、みんなして(両親、親戚、友だちなどと)お花見に行く話があったが、お流れとなる。
四月十日。午前九時、ふたりして遊山に出かけた。最初に、九段のしょうこん社へおまいりをし、それから上野公園まで歩き、そこから浅草へまわって、かんのんさまに詣で、門跡さまへもおまいりをした。それから、奥山にまわるつもりのところ、まずお中食というので、とある料理屋へ上がった。食事をしていると、おもての方で、なにやら大げんかでもあるような騒ぎの声がきこえた。それは、見世物小屋から火事がでた騒ぎであった。見ているうちに、火の手が早くまわり、奥山の見世物小屋はあらかた焼けつくした。まもなく、料理が出てから、公園をあちこちらと見物してあるいた。(このあとへ、筆者自作の小唄が書いてある)
[#ここから1字下げ]
今戸の渡しにて
相見たことなき人に
ふしぎに三めぐり稲荷
かくも夫婦になるのみか
はじめの思いに引きかえて
いつしか心もすみだ川
つがいはなれぬ都どり
人も羨めばわが身もまた
咲きみだれたる土手の花よりも
花にもましたその人と
白鬚やしろになるまでも
添いとげたしと祈り念じ
[#ここで字下げ終わり]
……それから、家の方へ吾妻《あづま》ばしを渡って、蒸汽で、曾我兄弟のお寺のお開帳に行き、わたしたちふたりと、兄弟姉妹が、いつも仲よくたのしく暮せるようにと祈願した。その晩家へかえったのが、七時すぎ。
――同月二十五日。録物《ろくもの》の寄席《よせ》へ行く。
五月二日。つつじ見物に、ふたりして大久保へ行った。
同月六日。しょうこん社へ、花火を見に行く。
――これまでわたしたちのあいだには、なんの風波もなくすぎてきた。もうふたりで出かけたり、見物に行っても、べつに気まりわるいこともなくなった。なんだかこのごろでは、おたがいに気に入るように、気に入るようにと、そればっかり考えているようだ。ふたりは、もうどんなことがあっても、きっと離れることはないと、わたしは信じている。……どうぞ、ふたりの仲が、いつもこんなにたのしいように祈る。
六月十八日。きょうは、須賀神社のお祭礼なので、父の家に招ばれる。髪結が間にあうようにきてくれないので、大へん困ったけれど、でも、妹のおとりさんといっしょに、父の家へ行く。やがて、お幸さん(かたづいている妹)もやってきて、みんなしてにぎやかであった。夜にはいって、後藤氏(お幸の夫)が見え、いちばんしまいに、わたしの待ちこがれていた夫が見えた。そして、大へんうれしかったことが、ひとつあった。夫は、わたしといっしょに出かけるとき、わたしがいっしょにこしらえた新しい着物を着て行きましょうといっても、夫は、そのたんび、古いのでたくさんだといって、これまでいうことを聞いてくれなかった。でも、きょうは、父の招待だから、着て行かなくてはわるいとおもって、夫は新しい方のを着てきてくれた。こうして、おりよく、みんな顔がそろったので、一座はますますおもしろくなった。そして、しまいに、いよいよお暇するときには、みなみな、夏のみじか夜をかこつばかりであった。
つぎのは、その晩、みんなして詠んだ歌。
[#ここから1字下げ]
二夫婦そろうて祝う氏神の
祭りもきようはにぎわいにけり 並木(夫)
氏神の祭りめでたし二夫婦 同
いくとせもにぎやかなりし氏神の
祭りにそろうきようの嬉しさ 妻
祭りとて一家あつまる楽しみは
げに氏神の恵みなりけり 妻
二夫婦揃うてきようの親しみも
神の恵みぞめでたかりけり 妻
氏神の恵みも深き夫婦づれ 妻
祭りとて対《つい》に仕立てし伊予|絣《がすり》
きよう楽しみに着ると思えば 妻
思いきやはからずそろう二夫婦
何にたとえんきようの吉日 後藤
祭りとてはじめて揃う二夫婦
のちのかえりぞ今は悲しき お幸
ふるさとの祭りにそろう二夫婦
語らう間さえ夏のみじか夜 お幸
[#ここで字下げ終わり]
七月五日。播磨太夫がかかった金沢亭に行き、「三十三間堂」をきく。
八月一日。夫の先妻の一周忌につき、浅草寺へお詣りをする。参詣ののち、吾妻ばしの袂《たもと》の鰻屋で、お中食をとる。鰻屋にいるうち、ちょうど正午ごろに、地震があった。河べりなので、家が大へん揺れて、ずいぶん恐《こわ》い思いをした。
――まえに、花どきに来たとき、大火事を見たことをおもいだして、わたしは、この地震が心配になった。こんどは、雷でも落ちやしないかと思った。
二時ごろ鰻屋を出て、それから浅草公園へ行く。そこから鉄道馬車で神田へ行き、神田の涼しいところで、しばらく休んだ。帰途、父をたずね、家にかえったのが、九時過ぎ。
同月十五日。八幡さまのお祭り。後藤と妹と、それから後藤の妹とが、わたしの家へきてくれる。わたしは、みんなでそろって、お宮へおまいりしたいとおもっていたのだが、この朝、夫がすこしお酒を飲みすごしたので、しかたなく、夫をおいて出かける。お詣りしてから、後藤のうちへ行って、しばらくしてから帰った。
九月。お彼岸のお中日に、ひとりでお寺まいりに行く。
十月二十一日。おたかさん、静岡から上京。わたしは、翌日芝居へ案内したいとおもったが、おたかさんは、どうしても明朝早く、東京を立たなければならないという。翌晩、夫とわたしは、柳盛座へ行って、「松岡美談貞忠鑑」を見物した。
十月二十二日。父から頼まれものの着物を仕立てはじめたが、なんだかからだのぐあいがわるくて、はかどらず。この着物は、元日(明治三十年)に、やっと仕立てあげることができた。
――うちでは、今度、いよいよ子どもが生まれるので、ふたりとも大喜び。わたしは、さだめし両親が、初孫ができて、どんなにか鼻たかだかとよろこぶことだろうとおもう。
五月十日。母といっしょに塩釜さまへお詣りをし、それから、泉岳寺《せんがくじ》へもまいる。四十七士のお墓や、いろいろの宝物を拝観した。かえりは、品川から汽車にのって、新宿まで行き、塩町三丁目で母と別れて、家にかえったのが、六時ごろ。
六月八日、午後四時、男子出生。母子ともに、この上もなくすこやかに見えた。子どもは夫によく似ていて、大きな黒目がちな目をしていた。でも、大へん小さな子であった。八月に生まれるはずのところを、六月に生まれたのだから。――同日、午後七時、薬をのませるときになって、ランプのあかりで見ると、大きな目をあいて、あたりを見まわしていた。その晩、子どもは、母のふところで眠った。八月児《やつきご》だから、よほど暖かくしてやらないといけないといわれたので、夜も昼も、ふところに入れておくことにした。
翌日、六月九日午後六時半に、子どもは、とつぜん死んだ。……
――「うれしき間《ま》はわずかにて、また悲しみと変ずる。生まれるものは、かならず死す」というのは、ほんとうにこの世のよい戒めだ。
わずか一日、母と呼ばれ、ただ死ぬのを見るために、子どもを生んだのだった。生まれて、一日やそこらで死ぬのだったら、いっそ生まれなかった方がよかったのにとおもう。
おもえば、この十二月から六月へかけて、わたしはずいぶん病いがちだった。それがお産をして、いくらか楽になって喜んだのに、また、ほうぼうからお祝い物もたくさんにいただいたのに、それなのに、子どもは死んでしまった。……ほんとに悲しくてならない。
六月十日、大久保の泉福寺というお寺で、お葬いをすませ、小さなお墓をたてた。
そのときの歌――
[#ここから1字下げ]
思いきや身にさえかえぬ撫子に
別れし袖の露のたもとを
さみだれやしめりがちなる袖のたもとを
[#ここで字下げ終わり]
その後、しばらくしてから、人のはなしに、お塔婆をさかさに立てておくと、二どとこんな不幸は起らない、ということを聞いた。そんなことをするのは、なんだか可哀そうに思われて、いろいろ迷ったが、とうとう、八月九日に、わたしはお塔婆をさかさに立てた。……
九月八日。赤坂の芝居へ、ふたりして行く。
十月十八日。本郷の春木座へひとりで行って、大久保彦左衛門の芝居を見る。芝居のなかで、うっかりして、下足の札をなくしてしまったので、わたしは見物がみんな出るまで、待たされた。やっとのことで、草履が見つかって、家にかえることができたけれど、大へんまっ暗な晩で、途中がずいぶん寂しかった。
明治三十一年。正月の節句に、堀の伯母と、友人内海さんの奥さまと、三人して話をしている最中に、きゅうに胸が痛みだしたので、おどろいて、箪笥の上の水天宮さまのお守りを下ろそうとしたとたんに、気が遠くなって、倒れてしまった。しんせつな介抱で、まもなく、わたしは正気にかえったが、それからのち、長いこと、からだのあんばいがわるかった。
*
四月十日は、東京|奠都《てんと》三十年祭でお休みなので、みんな父の家へ集まることになった。わたしは、重之助(たぶん親戚のもの)といっしょに、ひと足先へ行って、夫を待っていた。夫は、その日、朝のうち、ちょっと事務所へ行かなければならなかった。八時半ごろ夫は父の家へきて、みんなといっしょになった。やがて、わたしたち三人だけ、いっしょに家を出かけて、市中の景気を見に行った。麹町から永田町に行き、桜田門を抜けて、日比谷見附に出て、それから、銀座通りから眼鏡橋《めがねばし》を渡って、上野へ出た。上野でいろいろ見物してから、また引き返して、眼鏡橋へ出た。そのとき、わたしは、だいぶもうくたびれていたので、もう帰りましょうといったら、夫もやはりくたびれていたので、賛成したけれど、重之助が「こんなまたとないときに、大名行列を見ないじゃつまらないから、銀座へ行こう」といってきかない。そこで、わたしたちは重之助と別れて、小さな天ぷら屋へはいって、天ぷらを食べた。すると運のいいことに、その天ぷら屋にいて、大名行列をみることができた。その晩、ようやく家にかえったのが、六時半だった。
四月の半ばごろから、妹のおとりのことで、いろいろ心配多し。(その事は書かれていない)
*
明治三十一年八月十九日。二番目の子ども、やすやすと誕生。女の子で、初《はつ》と名をつけた。
お七夜には、お産のときに世話になった人たちを招んだ。
――母は、それから二日ばかりいてくれたが、妹のお幸が、胸の痛みにひどく悩んでいるので、やむをえず、帰られることになった。さいわい、夫がおりよく休みをもらっていたので、できるだけの面倒を見て下さる。――洗濯だのなにかのことまで。でも、わたしは、自分のそばに女手がないので、ときどき、ずいぶん困ることがあった。
夫の休みが切れてからは、母がおりおり夫の留守にきて下さった。二十一日のあいだ、こんなぐあいにしてたったけれども、母子とも、丈夫であった。
――生まれて百日たつまで、ときどき、子どもの呼吸が苦しそうになるので、しじゅう心配であった。でも、それもだんだんになくなって、日まし、丈夫になって行くようだった。
それでも、たったひとつ、ふしあわせなことがあった。――それは片輪のことで、初は、生まれ落ちたときから、片方の手のおや指が二本あった。長いこと、わたしたちは、病院へ手術をうけに行く気になれないでいたが、そのうちに、つい近所の女の方《かた》が、新宿に大へんじょうずな外科のお医者さまがあると、おしえて下さったので、とうとうそこへ行くことにきめた。手術をするあいだ、子どもは、夫が膝に抱いていた。わたしは、とても手術に立ち合うことなどできなかったから、どうなることかと、胸いっぱいの心配と恐いのとで、次ぎの部屋に待っていた。けれども、手術がすんでから、子どもは、なにごともなかったような、けろりとした顔をしていた。しばらくたってから、いつものように、お乳を飲んだ。そんなわけで、案じたよりもいいぐあいにすんだ。
家へかえってからも、まえのように、つづけて乳も呑んだし、べつだん、小さなからだに別条はないように見受けた。でも、なにしろまだがんぜないことだから、あんな手術なんぞ受けて、なにか病気の種にでもなりはしないかと、心配であった。用心のため、三週間ばかり、毎日病院へかよった。しかし、べつに、どこも悪いようすはなかった。
三十二年三月三日。初節句に、父と後藤と二軒から内裏雛《だいりびな》、その他、いろいろのお祝いの品、たんす、鏡台、針箱などをいただいた。うちでも、娘のために、おたかつき、おぜん、その他、小道具を少しばかり買ってやった。その日は、後藤と重之助とが見えて、なかなか賑かだった。
四月三日。穴八まん(早稲田にあり)へお詣りして、子どもの無事そくさいをお願いした。
四月二十九日。初《はつ》のぐあいがわるいようなので、お医者に診てもらうことにした。
朝のうちにきてくれるといっておきながら、お医者がきてくれないので、いちにち待っていたが駄目だった。翌日も待っていたが、やっぱりきてくれない。夕方になると、初《はつ》の容態がだんだんわるくなってきて、胸のへんがひどく苦しそうなので、わたしは、あしたの朝早くにお医者へつれて行こうと決心した。その晩、ひと晩じゅう、子供の容態が心配でならなかったが、でも、朝になったら、いくらかよくなったような様子だった。で、おんぶをして、わたしはひとりで赤坂のお医者へ出かけて行った。御診察を願いますと頼むと、まだ診察の時間でないから、待っているようにといわれた。
待っているうちに、子どもがいつもよりいっそうひどく泣き入って、お乳にも吸いつかず、ただそこらを歩いてみたり、休んでみたりして、すかすよりほかに方返《ほうがえ》しがつかないので、大へん困った。やっとのことで、先生がお見えになって、診て下すったが、そのとき、子どもの泣く声がだんだん細くなって行き、唇の色が見る見るかわってきたので、わたしは黙っていられず、「どんなようすでございましょうか」といって伺うと、先生は「晩まで持たんな」とおっしゃった。「でも、なんとかお薬を頂けないでございましょうか」といってきくと、「さあ、飲めればいいが」とおっしゃった。
わたしはすぐに帰って、夫や父の家へそういってやりたいと思ったけれど、あんまりびっくりしてしまったので、きゅうに力がぬけたようになってしまった。さいわいと、深切などこかの奥さまが、傘だのなにか持って、車へのる面倒を見て下さったので、わたしは人力車で家へかえることができた。それから、人をたのんで、夫と父のところへ、そういいにやった。三田の奥さまが手伝いに来て下さったので、わたしは奥さまの手をかりて、子供を助けるために、できるだけのことをした。……それでも、夫はなかなか帰って来なかった。しかし、わたしたちの心配も面倒も、みんな水の泡となってしまった。
こんな風にして、三十二年五月二日、わたしの子どもは、十万億土のかえらぬ旅に立ったのであった。
子どもをじょうずなお医者にかけることを怠って、そのために死なしてしまった父と母――その父と母とは、こうしてまだ生きている。それを考えると、ほんとに悲しくてならない。わたしたちは、ときおり、そのことをいって、返らぬことを責め悔んでいる。
でも、子どもの死んだその翌日、お医者さまはわたしたちに、「あの病気は、はじめからどんなに手を尽くしたところで、とても一週間とは持ちはしない。せめて、十か十一になっていたら、あるいは手術をして、助かったかも知れんが、ああちいさくては、手術は思いもよらん」とおっしゃった。それから、子どもは腎臓炎で死んだのだと、おしえて下さった。
こんなわけで、わたしたちの持っていた希望も、いままでいろいろ心配して世話したことも、九カ月のあいだ、日ましに大きくなるのを見て喜んでいたことも、みんな水の泡になってしまった。
けれども、わたしたちふたりは、きっとこの子は、前の世から縁が薄かったのにちがいなかったのだと諦めて、それをせめて悲しみの慰めにした。
退屈なときの淋しさに、わたしは、自分の心のうちをいってみたさに、義太夫本の宮城野|信夫《しのぶ》のものがたりをまねて、歌をつくってみた。
[#ここから1字下げ]
これこのうちえ縁づきしは
思いかえせば五《いつ》とせまえ
こんどもうけしはおなごの子
かわいいものとて育つるかと
わが身のなりは打ち忘れ
育てしことも情ない
こうした事とは露知らず
この初《はつ》は無事に育つるか
首尾よう成人したならば
やがて婿をとり
たのしましようどうしてと
物見遊山をたしなんで
わが子大事と
夫のことも初《はつ》のことも
恋しなつかし思うのを
たのしみくらした甲斐もなく
親子になりしは嬉しいが
さきだつことを見る母の
心を推《すい》してたもいのと
――手をとりかわす夫婦が歎き
なげきを立ち聞くも
貰い泣きして表口
障子もぬるるばかりなり
[#ここで字下げ終わり]
初《はつ》の亡くなったときには、お葬式の規則があらたまって、大久保で火葬にすることを許された。
そこで、わたしは並木にたのんで、もしめんどうな規則さえなかったら、並木家の先祖代々のお寺へ、お骨《こつ》をおさめてもらうようにした。そんなわけで、お葬式は門浄寺でとりおこなった。このお寺は、本願寺真宗の浅草派で、お骨《こつ》はそこへおさめた。
――妹のお幸は、初《はつ》のなくなったとき、風邪をこじらせて床についていたが、でも、知らせが行ってから、まもなく来てくれた。それから二、三日してから、もうほとんど治ったから、心配してくれるなと、それをいいに、わざわざまた訪ねてきてくれた。
――わたしの方はというと、もうどこへ行くのもいやになってしまって、丸ひと月も家を出なかった。しかし、そういつまでも、家にひきこもっていることも義理を欠くので、とうとう出かけた。そして、父の家と妹の家とへ、お礼かたがたたずねて行った。
*
しばらく、からだのぐあいが思わしくないので、母にきてもらって、世話をしてもらおうと思っていたところ、お幸がまた病みつき出したので、そちらへは、よし(初めてここへ出て来る妹)と母とが、しじゅう附ききりになり、わたしの方は、そんなわけで、父の家の方からは手助けしてもらうことができなくなった。ただ、近所の女の人が、暇を見ては、心づくしで、なにかと世話をしにきてくれるばかりで、誰も手助けをしてくれるものもない。ようやくのことで、わたしは、堀氏にたのんで、手伝いの婆やをひとりやとってもらった。この婆やのしんせつな介抱のおかげで、わたしの病気もだんだんよくなりだして、八月の初めごろには、だいぶ丈夫になった。……
九月の四日に、妹のお幸は、肺病で亡くなった。
――前々《まえまえ》から、もしものことがあったら、妹のよしが、お幸のあとに直るという約束がしてあった。後藤氏も、まったくのひとり暮らしになってみると、なにかと不自由がちだったので、同月十一日に婚礼の式を挙げ、型どおりの祝いごとをした。
同じ月の晦日《みそか》に岡田氏が急逝された。
そんなことが重なって、わたしの家でも、いろいろ費《つい》えが多かったから、ずいぶん大困りだった。
――お幸が死んでから、よしがあんまり早くもらわれて行ったことを聞かされたとき、わたしはあまりいい心持がしなかった。でも、わたしはその心持をかくして、従前どおり、後藤と口をきいていた。
十一月に、後藤は、単身、札幌へ出かけて行った。
明治三十三年二月二日に、後藤氏は東京へかえってきて、同月十四日に、よしをつれて、ふたたび北海道へ立って行った。
*
二月二十日午前六時、三番目の子ども(男児)出生。母子ともにすこやか。
――女の子のつもりでいたところ、生まれたのが男の子であった。それで、夫は勤めからもどってきて、男の子だったのを見ると、びっくりして、大そうよろこんだ。
――でも、まだよくお乳に吸いつくことができないので、哺乳器で育てることにした。
生まれて七日目に、生《う》ぶ毛《げ》をすこしばかり剃ってやった。その晩は、お七夜《しちや》の祝いをしたが、こんどは、ほんのわたしたちだけの内輪ばかりでした。
――夫は、すこし前から風邪を引いていたが、その翌朝は、ひどく咳が出て、出勤できず、いちにち、家にいた。
その朝早く、子どもは、いつものとおりミルクを飲んだが、午前十時頃になって、胸がひどく痛むようすで、そのうちに、なんだか妙にうめきだしたので、お医者さまを迎えにやった。おりわるく、迎えにやったお医者は、遠方へ往診に出かけて、晩まで帰らないとのことに、それではすぐにほかのお医者を呼んだ方がいいと考えて、迎えにやった。そのお医者は、夕方きてくれるといった。けれども、子どもの病気は、その日の午後の二時ごろに、きゅうに悪くなって、二月二十七日、三時すこし前に、わずかこの世に八日いたばかりで、とうとう、あえなくなった。
――こんどもまた、こんな不幸なことにあって、それがために、夫に愛想をつかされることはないまでも、こんなに代るがわる子どもに死に別れるのは、きっとこれは、なにか前の世に犯した罪の罰にちがいないと、わたしは、ひとりでそうも考えてみた。そう思ってみれば、袖のかわくまもなく、涙の雨はふりやまず、しょせん、わがためには、この世の空は晴れることもないように思われた。
それというのも、わたしのために、こんなにくり返しくり返し、幾度となく、不幸な目にあうので、ひょっとして、夫の心が悪い方にかわりはしまいかと、そんなことまでが心配になる。自分の胸のくよくよに引き添うて、夫の心のうちもさぞやと、それのみが気にかかる。
それでも夫は、ただ「天命致し方これなく」とばかり、いいくりかえしていた。
――子どもは、どこか近所のお寺へ葬ってやった方が、おまいりに行くのにつごうがよかろうと思ったので、大久保の泉福寺でお葬式をすませ、お骨《こつ》はそこへおおさめした。
楽しみもさめてはかなし春の夢
(日附なし)
……いろいろくよくよと心配したせいでもあるかして、子どもが死んでから、二七日《ふたなぬか》のあいだに、わたしは、顔と手足がすこしむくんできた。
――でも、それはさしたることもなく、むくみはじきに退《ひ》いた。いまではもう三七日《みなぬか》も過ぎた。……
ここで、哀れな母の日記は終っている。子どもの歿後、二十一日間に関する末節の数行は、おそらく、三月十三、四日頃に書かれたものであろう。筆者は、同月二十八日に歿した。
わたくしは、この簡単な閲歴が、日本の生活事情に通暁していない人々に、はたしてじゅうぶんの理解を得ることができるや否やを疑う。しかし、ここに叙べられた生活の実情は、これを想像するに難しくない。この夫婦は、二間《ふたま》の――六畳ひと間、三畳ひと間の、小さな家に起居していた。夫は一カ月、ようやく十円の金をかせぐ。妻は、裁縫、洗濯、炊事(これは、もちろん、家の外でする)をする。寒中でも、火にあたることはない。わたくしは、ざっと胸算用をするのに、この夫婦は、家賃は除いて、一日平均二十七、八銭で暮らしていたに相違いないと考える。ときおりの娯楽といっても、それはまことに安上がりなものである。八銭も出せば、芝居の見物にも、義太夫を聞きにも行かれるのだ。それに、そういう見物に行くのは、すべて徒歩で行くのである。それでもなお、こうした娯楽は、この夫婦にとっては贅沢の沙汰なのだ。必要な着物を買うとか、結婚、出産、死亡のときに、親戚に贈答をしなければならないといったような場合の出費は、すべて思い切った節約によって、はじめて拈出《ねんしゅつ》されるのである。じつをいえば、東京に住む数千の貧民は、これよりもまだ低い――月十円よりもまだ少い収入で暮らしているのである。しかも、かれらは、いつも身ぎれいに、こざっぱりと、そして楽しく暮らしている。こういう境遇で、子女を生み、これを育てて行くことは、強健な婦人にしてはじめて容易にできるわざであろう。生活はこれよりも苦しいが、そのかわりに身体の強健な、田舎の農民の境遇にくらべれば、こうした境遇の方が、はるかに危険としなければならない。されば、多数のうち、羸《るい》弱なるものが多く倒れて死ぬことは、想像するに難くない。
この日記を読まれる人は、おそらく、これほど慎しみ深く、柔順な婦人が、あれほど匆卒《そうそつ》に、相手の気質については毫も知らない赤の他人の妻になることを熱望したことに、奇異の感をいだかれることであろう。じっさい、日本における大多数の結婚は、ここに書かれてある通りの、非空想的な方法で、仲人の手によってととのえられるのである。もっとも、この婦人の場合は、ほとんど例外といってもいいくらい、気の毒な立場であった。その理由は、哀れにも簡単である。善良なる女子は、みな、人の家に嫁するにきまっている。それを、しかるべき年齢を過ぎても、なお嫁せずにいるのは、その当人の恥辱でもあり、また、人からも指をさされる。この日記の筆者は、疑いもなく、この擯斥《ひんせき》を身に受けるのがいやさに、自分の自然の運命を果たす最初の機会を捉えたのに違いない。彼女は、年すでに二十九であった。おそらく、こんな機会は二どとまわって来なかったかも知れないのである。
わたくしが、この哀れにもゆかしい、奮闘と失敗の懺悔録をおもしろいと思うのは、そこに稀有なる告白があるためではなくして、ただこのなかには、ちょうどあの青い空や日光のように、日本の生活ならどこへ行っても見られる、そのありふれた何物かが、そこに現わされているからなのである。柔順と、おのれの務めをりっぱに果たすことによって、愛情をえようとする、健気なこの婦人の覚悟、どんな些細な深切にも、かならずもつ感謝の念、小児のような信仰心、この上もない無私無欲の念、この世の苦難は、すべて前世に犯したあやまちの酬いであると考えるその仏教的諦念、また、心の傷つき破れたときにも歌を作ろうとするその心の励み――すべてこれらは心打たれる、いや、心打たれる以上のことどもである。しかし、これは異例なことではない。ここにあらわれているあらゆる特徴は、ひとつの典型――庶民社会の婦人の徳性を代表した典型にほかならない。あるいは、この婦人のごとく下層社会に生れて、その喜びや辛さを、これほど無技巧に、哀れふかく綴ることのできる人は、日本の婦人のなかにも、多くはいないかも知れない。しかし、遠く父祖の代の、炳《へい》たる信念の時代から、この婦人と同じように、人生は義務なりとの観念をうけつぎ、また、同じような無私無欲の愛情を注ぐ力をうけついできている婦人は、日本には幾千万人もいるのである。
[#改ページ]
平家蟹
その国の信仰、思想、風習、芸術などが、自分の国のそれとなんらいっこうに共通した点がないために、その国に住んでいる人達が、われわれにとって非常におかしく見える国がほうぼうにある。けれども、そういう国では、その国の国土の性質、あるいはそこに棲息している動植物にまで、それに類したふしぎな特色をもったものがあるのである。おそらく、そういう国では、そうした相関的な異国的自然の珍しさが、多少なりとも異国情緒の外見的な特異性を助長しているのだろうと思われる。思想や感情の民族的相違などというものも、けっきょくは、やはり草木虫魚と同じように、どこまでもこれは進化論の上から解明すべきものであろうし、また、ある民族の精神的進化という点については、環境が想像力に及ぼす影響ということも、一つの要素として、当然数えなければなるまい。
わたくしがこんなことと考えたのは、ちょうどそのとき、わたくしの家に長州から蟹の箱が届いたからであった。この蟹は、わたくしどもが、平素、いかにも日本的なものと考え慣れている、あの奇妙な形を、そっくりそのまま具えているやつである。この蟹の甲羅には、日本の細工師が、いかにもありのすさびに作ったとでもいったような、浮き彫りのお面まがいに、へんに恐ろしい人間の顔――ゆがみ曲った人間の顔が、でこぼこに刻みつけられている。
この蟹は――今、ここには、そのうちの二種類だけがあるが、どちらもよく干して、磨きこんである。これは、赤間が関(外人には、下の関という名で通っている)へ行くと、いつも店先に出して売っている。壇の浦という海岸の付近一帯でとれる蟹であるが、この壇の浦というところは、いまから七百年ほど前、かの平家が、その敵源氏とここの海上で戦って全滅したところである。日本歴史を読まれた方は、二位尼という局《つぼね》が、おそろしいその悲劇の最中に歌を詠んで、御幼帝安徳天皇をわが腕にいだきまいらせて、海中へ身を投じたという話をおぼえておられるだろう。
ところで、この海岸でとれる、この奇怪な蟹は、「平家蟹」と呼ばれている。なぜ、そんな名がついたかというのに、この土地の伝説に、この海に溺れて死んだ平家の士卒の亡霊が、こんな形になってあらわれたと言い伝えられているのである。死物狂いのかれらの憤恚《ふんい》苦悶の形相が、この蟹の甲羅に、今もってあらわれているといわれているのである。しかし、この伝説のもつ、ロマンティックなおもしろ味を味わうためには、諸君は、壇の浦合戦の古い錦絵――物すごい鉄の仮面をかぶり、おそろしい大きな目をした鎧武者をかいた、昔の色刷りの錦絵に通じておかなくてはいけない。
ここにある二種類の蟹のうち、小さい方は、ただ「平家蟹」という名で通っているが、これは、いずれも普通のサムライ、平家の士卒の亡霊が生き返ったものだと考えられている。それから、大きい方の蟹は、又の名を「大将蟹」とか「竜頭《たつがしら》」などと呼ばれている。この「大将蟹」だの「竜頭」の方は、西洋の紋章などにはちょっと類のない怪物や、きらきら光る角《つの》や、金の竜などを兜につけていた、平家の大将株の亡霊が生き返ったものだと考えられているのである。
ここに揚げた二枚の平家蟹の絵は、わたくしが友人に描いてもらったものである。わたくしはこの絵がどちらも正確なことを保証する。だが、どうも描いてもらった竜頭の絵にも、ほんものの蟹の甲羅にある形にも、兜らしいものがいっこうに見えないが、……と、わたくしはその友人に話した。
「どうだね、君には見えるかね」とわたくしは尋ねてみた。
「ええ。見えますとも。――まず、こんなぐあいですかね」と、その友人は答えながら、次のような略図を描いて見せた。
「なるほど。これなら、兜らしいところがわかる」と、わたくしはいった。「しかし、君の描いた略図は、実物のとおりじゃないね。――顔なんか、まるでお月さまの顔みたいに、気が抜けている。見たまえ、この本ものの蟹の甲羅の、なにかこう、夢にでもうなされているような、このつらがまえを……」
[#改ページ]
螢
一
日本の螢について、すこし話してみたい。といっても、昆虫学の上から話すのではない。もし、諸君が、この題目の学問的な方面に興味をもたれるのだったら、目下東京帝国大学で講義をしておられる、日本人の生物学の教授に聞かれるとよろしい。教授は筆名をS・Watase(SはShozaburoのS)といい、多年アメリカで学生生活をしておられたことがあり、また、あちらで教授もしておられたこともある方で、多くの講義――動物の燐光、動物の電気、昆虫および魚類の発光器官、その他、生物学上のいろいろ珍しい題目についての講義は、すでにあちらで出版されている。教授は、螢の形態、あるいは螢の生理、または螢の光度測定、その発光物質の化学的、光学的分析、エーテル振動における専門用語で、その光りの意義について知られていることなら、どんなことでも諸君に語ることのできる人である。日本の螢のある種類のものが、その温度と環境によって、平常の場合に出す光りの脈搏は、一分間に平均二十六で、この虫が捕えられて怯《おび》えると、その率がにわかに上昇して、一分間に六十三になる。そういうことを、教授はいちいち実験によって、諸君に示すことができる。また、もっとそれよりも小さな種類のものになると、その光りは、手で捕えたときには脈搏がずっと増して、一分間に二百以上になるということも、教授は諸君に証明するだろう。教授の述べるところによると、この光りは、あのいやな毛虫だの蝶などの「警戒色」とおなじように、この虫にとっては、ある意味で保護的価値をもっているものかも知れない。その証拠には、螢という虫は食べてみると、非常に苦い。であるから、鳥類は、螢は食べられないものだと思っているらしい、と述べておられる。(教授の説によると、蛙は、味のうまいまずいには、いっこう頓着しないやつだそうで、こいつだけは、蝋燭のあかりが瀬戸物の壷をすかして明るく見えるように、螢の光りが腹の皮を透いて見えるほどになるまで、あの冷たい腹のなかへたらふく螢を詰めこむそうである)しかし、保護的価値があるかないか、それはしばらくおくとして、あの小さなダイナモは、あれでいろいろな方法に、たとえば光線電信などにも用いられているようである。ほかの昆虫が、音響とか触角とかで話をしあうのと同じように、螢は、その感情を光りの脈搏で表現する。つまり、螢の会話は光りのことばなのだ。……とまあ、これは、教授の講義がただの無味乾燥な学術的祖述とは趣を異にしているということを、諸君にお目にかける、わたくしの老婆心に過ぎないが、じつは、わたくしのこの非科学的な随筆も、中でいちばん読みごたえのある部分は、ことに日本の螢狩りや、日本における螢の販売に関する部分は、昨年、同教授が東京で日本の聴衆に語られた、興味深い講演に負うところが多いのである。
二
こんにち書かれている螢という日本の文学、これは表意文字の上から見ると、虫という字の上に、火という字がふたつ並べてできている。しかしながら、このことばの本当の起源は、だいぶ疑問になっていて、従来いろいろの語源研究が提出されている。ある学者は、大昔は「ほたる」という呼称は、「火の初子《はつご》」という意味のものだったと考えている。そうかと思うと、「ほたる」というのは、はじめは「星」ということばと「垂れる」ということばとが、ふたつ合わさってできたものだと信じている学者もある。しかし残念ながら、どうもそのうちの詩的な由来の方が妥当を欠いていると考えられている。が、「ほたる」ということばの元の意味が、何であったにせよ、今日なお、この虫に与えられている、ある種の民間呼称には、多くのロマンティックなものがあることは疑う余地がない。
日本の国に広く分布している螢は二種類ある。一般に「源氏螢」「平家螢」といわれているのが、それである。伝説によると、この二種類の螢は、それぞれむかしの源氏と平家の武士の亡霊で、いまでこそ螢に姿をかえているが、あの十二世紀のおそろしい氏族争闘をいまだに忘れずにいて、毎年一回、旧暦の四月二十日(新暦だと六月十日)の晩になると、宇治川で大合戦をするといわれている。であるから、その晩には、その大合戦に参加できるように、籠に入れた螢はぜんぶ放してやらなければならないことになっている。
この源氏螢というのは、日本の螢のうちで、琉球諸島をのぞくと、本州では一ばん粒の大きな種類であって、九州から奥州に至る、日本のほとんど各地にいる。平家螢の方は、これはもう少し北へ寄って、ことに蝦夷《えぞ》にはざらにいるが、中部や南部の諸国にもいる。源氏螢よりは、からだが小さくて、光りもあれよりは弱い。東京、大阪、京都、その他の大都市で、虫売りがふつう売っているのは、大きい方の種類である。日本の観察者は、この両方の螢の光りを、ともに茶色だといっている。――日本のいい緑茶を湯にしたした色は、澄明な緑黄色だから。しかし、りっぱな源氏螢のはなつ光りは、ひじょうに光輝のあるもので、よほど目のいい人でなければ、緑色だという見わけはおそらくつくまい。ちょっと見ると、その閃きは、ちょうど木を燃やした焔《ほのお》のように、黄いろく見える。次に挙げる発句は、その強い光りのありさまをけっして褒めすぎたものではない。
篝火も螢もひかる源氏かな
源氏螢といい、平家螢という名前は、こんにちでは一般に用いられているけれども、両方とも、ほかの呼び名でも呼ばれている。地方によって呼び名が違っていて、源氏の方は、大螢、牛螢、熊螢、宇治螢などと呼ばれている。そのほか、虚無僧螢だとか、山吹螢だとか、絵のように美しい名もあるが、これは一般の西洋人には、その名のおもしろみはわかるまい。平家螢の方は、姫螢、ねんね螢、幽霊螢などと呼ばれている。以上は、ほんのただかいつまんで、思い浮かぶままを挙げてみたに過ぎないが、こういう螢の特殊な俗称は、日本全国、ほとんど、いたるところに行きわたっている。
三
日本には、螢の名所――夏、人がただ螢を眺める楽しみのために行く場所がたくさんある。螢の名所で、むかしからいちばん有名なのは、近江の湖水にちかい、石山という小さな谷間であった。そこはいまでも螢谷《ほたるだに》と呼ばれている。元禄(一六八八〜一七〇三年)以前には、むし暑いころ、この谷に群れあつまる螢の群は、日本における自然の奇観のひとつに数えられていたものである。いまでもこの螢谷の螢は、形が大きいので有名であるが、むかしの作者が記録しているような珍しいほどの大群は、近年ここではもはや見られなくなってしまった。こんにち最も有名な螢の名所は、山城の宇治の近くである。宇治は、かの有名な茶どころの中心にある小さな町で、宇治川という川に臨み、そこの名産の茶の名に劣らず、螢でもまた名を知られている。毎年、夏になると、京都や大阪から宇治へ臨時列車が出て、螢見物の都人士を幾千人となく運ぶ。もっとも、いまいう螢合戦の壮観が見られるのは、この町から数マイル離れた川上《かわかみ》で、全山緑におおわれた小高い丘陵のあいだを、蜿蜒《えんえん》として流れている宇治川の両岸から、幾千幾万の螢が一時にどっと舞い出して、水の上でたがいに組んずほぐれつ戦うのである。あるいは群れかたまって、忽然、光りの雲のごとく、あるときはまた、一団の火花のごとくなるかと思えば、たちまちにして火雲は散じ、団々たる火花はくずれ落ちて水に砕け、落ちた螢は、なおも光りつつ流れ去ると見るまに、たちまちにしてまた新手の軍勢がもとの場所に集まる。見物は、夜もすがら舟を水に浮べて、この奇観を眺めるのである。螢合戦がすんだあとは、宇治川の流れは、漂い流れる螢の、なおきらきらと光り輝く骸《むくろ》におおわれて、さながら銀河を見るような観を呈するという。有名な閨秀詩人、加賀の千代の句に、
川ばかり闇はながれて螢かな
とあるのは、おそらくこういう光景をまのあたりに見たときの吟であろう。
四
日本には、夏のあいだの幾月かを、螢を捕って、これを売って生計を立てているものがずいぶんたくさんいる。この商売は、そうとう広い範囲にわたっているから、一種特別な生業として考えて、呼称を与えても実際いいくらいである。この商売のおもなる中心地は、近江の琵琶湖畔の石山付近一帯の地で、あのへんの家では、日本の各地方――ことに、京阪の大都会へ大量の螢を供給する。その地方のおもな家では、毎年最盛期には、一軒でいずれも六十人から七十人の螢捕りを雇う。この商売は、そうとうの熟練を要する。慣れない者は、一晩に百匹捕るのは容易ではないと思うかもしれないが、熟練したものは、ゆうに三千匹を捕えるといわれている。捕獲の方法は、まことに簡単なものであるが、見ていると、なかなかおもしろいものである。
日が暮れると、螢捕りは長い竹の竿を肩にかつぎ、茶の蚊帳布でできた長い袋を、帯のように腰に巻きつけて出かける。そして、螢のよく来るような藪――たいてい、川か湖のほとりの柳の木の生えている土手などだが――そこへ行き着いて、しばらく立ち止まって、木を見ている。そして、そこらの木立が、いいかげんちらちら光り出すと、さっそくかの網を用意して、いちばんよく光っている木へ近寄って行って、例の長い竿で枝を打つ。打ち払われた螢は、これは螢よりももっとすばしこい虫も同じようにすることだが、すぐには飛ぼうとしないで、ちょうど甲虫《かぶとむし》がするように、いくじなくばたばたと地べたへ落ちる。その落ちたところで、恐《こわ》い目と苦しい目にあったときには常よりもよけいにぴかぴか光る、その光りのために、螢のありかがいっそう目に立つ。四、五秒も地べたにそうして置けば、またすぐに飛び立ってしまうが、そこは螢捕りだ。目にもはいらぬ早わざで、両手をいっしょにつかいながら、落ちた螢を拾っては自分の口へ投げこみ、拾っては口へ投げこむ。一匹一匹、袋なんぞへ入れているひまが惜しいのである。やがて、もうそれ以上ははいりきらなくなったというとき、はじめて口のなかの螢を、傷ひとつつけずに、網のなかへと吐き出すのである。
こうして螢捕りは、朝の二時ごろ――むかしの日本ならお化けの出る時刻――までかせぐ。その時刻になると、螢は樹木を去って、露のしとどな地べたを求める。地べたへ下りると、螢は、人の目に悟られぬように、尻を地のなかへもぐらすそうである。ところが、螢捕りの方では、こんどは戦法を変える。竹箒をもって、芝の生えているところを軽く、手早く掃くのである。箒がさわるか、それに驚くかすると、螢はかならずそのちょうちんをひょいと出す。そこをすばやくつまみとられて、袋のなかへ入れられてしまうのである。夜の白むすこし前に、螢捕りは町へかえって行く。
螢屋では、この捕った螢を、その光りの強い弱いによって、できるだけ早く選り分ける。螢は光りの強いやつほど値が高いのである。それから、紗を張った箱か籠のなかへそれを入れて、それといっしょに濡れた草をすこし入れる。等級に従って、ひとつの籠へ百匹から二百匹入れるのである。この籠へ顧客《とくい》先の名、つまり、旅館とか、料理屋のあるじ、あるいは問屋、または螢売、それから、特別の宴会用に多数の螢を註文する個人の客などの名をそれぞれ書いた小さな木の札をつける。これらの箱は、通運会社へ頼んでは不安心だというので、敏速な配達人の手で、それぞれ送り先へ届けられるのである。
夏の夜など、宴会があると、客に見せるために、非常にたくさんの螢の註文がある。いったい、日本の家の大きな客間は、ふつう庭が見晴らしになっているから、暑い時分に、宴会だの催し物をするようなときには、お客がぴかぴか光るのを見て楽しむようにというので、日が暮れてから、庭へ螢を放つことがしきたりになっている。料理屋のあるじなども、螢を大量に買いこむ。大阪で名高い道頓堀には、蚊帳を張った広い庭に、幾百万匹という螢を入れている家があって、ここの家では、なじみの客がその囲いのなかへはいって、一定の数だけ螢を捕って、家へ持って帰ってもよいことになっている。
生きている螢の卸し値は、季節と品質にもよるが、だいたい、百匹について三銭から十三銭のあいだを上下している。小売商人は箱に入れて売っている。東京では、螢入れの箱一個が、三銭から数ドルするのまである。一ばん安い籠で、螢が三匹か四匹しかはいっていないのは、やっと二インチ四方を出ないぐらいの大きさだが、高価な籠になると、竹細工のすばらしい品で、美しい飾りのついた、鳥籠ぐらいの大きさのがある。形のおもしろい、風変りな籠――家の形をしたのや、帆かけ舟や、お寺のちょうちんの形をしたのなどは、三十銭から一円ぐらいで買える。
螢は、死んだのでも、生きたのと同じように金になる。いったい、螢という虫はごく弱い虫で、籠などへ入れておくと、わずかの間しか生きていない。螢屋で死ぬ数は大したもので、ある有名な螢屋では、毎年、季節になると、五升を下らぬ螢の始末をするそうだが、死んだ螢は大阪の製薬会社へ売られて行くのである。むかしは、螢は練薬だの丸薬の製造や、または漢方薬の調剤に、今日よりもよけいにつかったものであった。近年は、螢から奇妙なエキス剤を採る。そういったエキス剤のひとつに、螢の膏《あぶら》というのがあるが、これは竹を曲げてこしらえた物を締《し》めるのに、指物師がいまでもよく使っている。
この螢の薬については、だれか古文学を学んだ人に書いてもらったら、きっとおもしろい一章ができるだろう。螢のくすりでおもしろいのは、やはりなんといっても中国がいちばんで、これは、医療よりもどちらかというと、妖怪学の分野に属するものである。中国では、むかし、盗難除け、毒消し、魔除けに特効があるといわれていた薬を、螢の練薬からつくった。また、刀で斬られてもけっして疵《きず》をうけないと信じられていた丸薬に、「監将丸」だの「武威丸」というものがあるが、これらはみな、螢から取ったある物質でつくったものであった。
五
螢捕りは、職業としては比較的近世のものだが、螢狩りは、娯楽としては非常に古くからある風習である。むかしは、螢狩りは殿上人の慰みで、貴人たちはよく螢狩りの会を催したものである。この忙しい明治の代では、螢狩りは、どちらかというとおとなの慰みよりも、むしろ子どもの慰みになっている。けれども、おとなも暇があれば、この遊戯に加わることもある。毎年夏になると、日本じゅうどこへ行っても、子どもはかならず螢狩りをする。こういう遠出には、たいてい月のない晩を選ぶ。女の子はうちわをもち、男の子は長い竹の棒をもって行く。その棒の先には、取りたての笹の葉の束《たば》がつけてある。このうちわや笹っ葉で打たれると、この虫は飛んでいるのを邪魔されると、羽を立てるのがのろい虫だから、ぞうさもなく捕えられてしまう。子どもたちは螢狩りをしながら、この光る虫が好きだと思われている歌をうたう。その歌は、地方によって異なっていて、その数は驚くほどたくさんある。けれども、ここへ引用してもいいようなおもしろいものは、あまりたんとない。ふたつばかり例を挙げれば、それでたくさんだろう。
[#ここから1字下げ]
(長州の国)
ほうたる、来い、来い
灯《ひ》ィ、ともせ
日本一の
嬢さんが
提灯ともして
来いといな
(下の関の方言)
ほうちん 来い
ほうちん 来い
関の町の坊《ぼ》んさんが
提灯ともして
来い
来い
[#ここで字下げ終わり]
いうまでもなく、螢をうまく捕えるには、螢の習性をいくらかでも知っていなければ駄目だ。その点については、日本の子どもたちは、おそらく諸君の大多数よりも、はるかに多くのことを知っているだろう。そういう諸君には、次に掲げる記事などは、きっと不思議な興味をそそるだろうと思う。
いったい、螢という虫は、よく水の近くを飛びかう虫で、水の上を好んでまいまわりたがるやつだが、ところが、ある種類のものになると、おなじ水でも汚水や溜り水はきらって、きれいな流れ川や湖のほとりだけにいるのがある。源氏螢は、沼とか、濠とか、きたない堀割などを避ける。反対に平家螢の方は、どんな水でも文句をいわないようである。総じて螢は、木立のかげの草の生えた土手が好きであるが、樹木のうちでも、ある木はきらって、ある木は好むというふうなところがある。たとえば、松の木は避ける。野茨の茂みへも下りない。そのかわり、柳の木、ことにしだれ柳には大群をなして集まる。よく夏の夜など、しだれ柳に、螢がいっぱいかぶさるようにとまって光っていて、まるでその枝じゅうに「火の芽が吹いている」ように見えることなどがある。月のいい晩には、螢はなるべく物陰にとまっているが、それが追われると、自分のほのかな光りが、もっと見つかりにくくなるように、ついと月かげのなかへ飛んで出る。ランプの光り、あるいは強い人工の光りには逃げるが、小さな光りだと奇妙に寄ってくる。たとえば、小さな炭火の光りだとか、暗がりでつけたたばこの火だとかには、誘われてよってくる。だが、いちばんいい誘導法は、なんといっても、曇りのない硝子の壜かコップのなかへ、勢いのいい螢をたった一匹入れて、それを光らしたあかりである。
子どもはたいていの場合、仲間を組んででなければ、螢狩りをしない。これには明白な理由がある。むかしは螢について、ある気味のわるい信仰があったために、螢を追いにひとりで出かけるのは、向こう見ずなこととされていたのである。今日でもこの信仰は、ある地方へ行くと、いまだに行なわれている。われわれの目に螢火と見えるものが、ひょっとすると、それが行人を欺くためにともしている、質《たち》の悪い幽霊の火か、それとも化け物の火か、あるいは狐火である場合も、ないとはかぎらない。だいいち、本物の螢火だって、いつも気を許せるものとはかぎらない。それは、螢の一族が柳の木を好くということからみても、薄気味の悪いことは想像がつくだろう。ほかの木にだって、性《しょう》のいい悪いはべつとして、かならずその木には、その木の魂というものがあり、木の精や化け物が住んでいるが、とりわけ柳という木は死人の木で、人間の幽霊がとくに好く木である。だいいち、螢だって、ひょっとしたら幽霊であるかもしれない。いや、知れないどころではない、昔から生きた人間の魂は、ときによると、螢の姿になって出るという信仰さえあるくらいだ。次の話は、出雲で聞いた話である。
ある寒い冬の晩のことであった。松江の若い士族が、どこかの婚礼によばれた帰りみちに、自分の家の前の小川に螢が一匹飛んでいるのを見て、びっくりした。雪の降るこの季節に、螢が飛ぶのはどうしたことだろうと、怪訝《けげん》に思いながら、しばらく立ち止まって見ていたが、そのうちに、その光りがふいに自分の方へすうっと飛んできた。士族は杖でそれを打った。すると、螢はついと逸《そ》れて、そのまま、隣屋敷の庭へ逃げこんで行ってしまった。
翌朝、士族は、前の晩の不思議なできごとを、隣の人や友だちに話そうと思って、まず隣の家へ出かけて行った。ところが、まだその話の口を切らないうちに、その家の姉娘が、この若者がきているとは知らずに、ひょっこり客座敷へはいってきて、びっくりして叫んだ。「まあ、びっくりいたしましたこと。あなたのおいでになっていることを、誰も申さないのですもの。それに、わたくし、只今このおへやへはいるときに、ひょっと、あなたのことを考えておりましたの。じつは、昨夜、妙な夢を見たのでございます。なんですか、自分がこうふわふわ飛んでいるような夢で、お宅の前の小川の上を、わたくし、飛んでおりますの。水の上を飛んでいるのが大へん気持ちがよくて、わたくし、しきりと飛んでおりますと、そこへあなたが、土手の上をぶらぶらおいでになりましてね。それが見えましたから、わたくし、急いであなたのところへ飛んでまいって、これこれで、わたくし飛行《ひぎょう》の術を覚えましたと申し上げようとしますと、いきなり、あなたがわたくしのことをお打ちになりました。わたくし、もうそのときは、恐《こわ》くて、恐くて。いま考えても、まだなんだか恐いような気がいたします。……」
客は、これを聞いてから、もし自分の暗合を話せば、自分の許嫁《いいなずけ》になっているこの娘をきっと驚かすに違いないから、もうしばらく自分が見たことは話さずに置いた方がよかろうと思った。
六
むかしから、螢は日本の詩歌に賞美されていたもので、初期の古文のなかにも、ちょいちょいその記事が見えている。たとえば、十世紀の末から十一世紀の初めに書かれた、あの有名な小説、源氏物語五十四帖のうちの一章は、「螢」という題がついている、作者は、そのなかに、ある貴族が螢をたくさん捕えて、それを一時に放つという奇計を用い、闇に乗じて、ある貴婦人の顔をのぞき見ることができたというはなしを書いている。だいたい、螢に関する文学趣味は、元来、中国の詩の研究によって呼び起された、とまではいえないまでも、それによって刺戟を受けたものであろう。こんにちでも、日本の子どもは、だれでも、あの有名な中国の学者が、その赤貧時代に、螢をいっぱい入れた紙の袋のあかりで勉学した、という故事を歌った唱歌を知っている。しかし、詩人の詩魔《インスピレーション》が何からくるか、その本源は何であるにせよ、日本の詩人は古来一千有余年、螢の詩歌をさかんにつくってきている。螢を題にした作品は、日本の詩歌のあらゆる形式に見だされる。けれども、なんといってもそのなかでいちばん多いのは、詩のうちでもいちばん形式の短い、十七字の発句である。螢を詠みこんだ近代の恋歌も無数にあるが、その大多数は、都々逸という通俗的な二十六字の歌謡で、これはたいてい、鳴かぬ螢が身を焦がすといった類の、古くからある詩想の変形に過ぎないようである。
読者は、おそらく、次に挙げる螢の句の抜抄に、興趣を覚えられるだろう。そのうちのある句は、数百年むかしの作である。
[#ここから1字下げ]
螢とり
迷ひ子の泣く泣くつかむ螢かな 流水
暗きより暗き人よぶ螢かな 風笛
言ふことのきこえてや高く飛ほたる 暁台
追はれては月にかくるる螢かな 蓼太
奪ひ合うて踏みつぶしたる螢かな 巳百
螢のひかり
螢火やまだ暮れやらぬ橋のうら 柳居
水草の暮るると見えて飛ほたる 探志
奥の間へはなして見たる螢かな 可麿
夜の更くるほど大きなる螢かな 紋村
草刈りの袖よりいづる螢かな ト枝
こゝかしこ螢に青し夜の草 鳳朗
提灯のきえてたふとき螢かな 正秀
窓くらき障子をのぼる螢かな 不交
燃えやすき又消えやすき螢かな 千子
ひとつ来て庭の露けき螢かな 其孔
手のひらを這ふ足みゆる螢かな 万乎
恐ろしの手に透きとほる螢かな 吐月
さびしさや一尺きえて行ほたる 北枝
行先のさはるものなき螢かな 月巣
はゝき木にありとは見えて螢かな 貢雨
袖へ来て夜半螢のさびしかな 山幸
柳葉の闇咲返すほたる哉 好秋
水底の影をこわがる螢かな 呉久妻
過ぎたるは目に物凄し飛螢 雪武
螢火や草におさまる夜明がた 恕風
恋の句
群れよ螢もの言う顔の見ゆる程 花讃女
音もせで思にもゆる螢こそ
啼く虫よりも哀れなりけれ(風月集) 源重之
夕されば螢よりけにもゆれども
光見ねば人のつれなき(古今集) 紀友則
雑の部
すいと行く水際涼し飛ぶ螢 牧童
水へ来て低うなりたる螢かな 車籬
葛の葉の裏うつ雨や飛ぶ螢 普成
雨の夜は下ばかり行螢かな |含※[#「口+占」、unicode546b]《がんちょう》
ゆらゆらと小雨降る夜の螢かな 楚流
夜が明けて虫になりたる螢かな 応澄
昼見れば首筋赤き螢かな 芭蕉
螢買うて芝四五枚に風情かな 蝶羅
螢うりの句
二つ三つ放して見せぬ螢売 呉笹
三つ四つはあかりに残せ螢売 古声
おのが身は闇にかえるや螢売 千工
[#ここで字下げ終わり]
七
けれども、螢の本当のロマンスというものは、日本の民間伝承の不思議な分野や、日本の詩歌の古雅|掬《きく》すべき苑《その》に見いだされるものではなく、深大なる科学の領域に見いだされるべきものである。わたくしは科学について盲目漢である。盲目なるがゆえに、天使も踏みこむことを恐れるなかへ、われから飛び込むことを恐れぬ者である。わたくしにしても、もし渡瀬教授が螢について知っておられるほどのことを知っているとしたら、まさかに、相関的経験の境界を踏み越える心など起こしはしまい。もとこれ、野人なるがゆえに、あえて説をなすのごとき無謀もできるのである。
およそ、肉体上および精神上の進化に関する、あの途法もないさまざまの仮説、あれは、もはやわたくしには仮説とは思えない。わたくしはそれに疑念を挿むことなどは夢想だもしないであろう。生きていないものから「生」が生まれ出てくるということ、つまり、無機物から有機物が発展してくるということを、わたくしはすでに怪しまなくなっている。いったい、有機的進化――それに対して、わたくしの想像はまだ慣れていないが――のひとつの驚くべき事実は、およそ生命の物質には、系統的《ヽヽヽ》構造の不可解複雑な物に、それ自体がおのずからでき上がって行くという潜在的能力、あるいは傾向をもっているということである。生命の物質が光りや電気を放出する力は、たとえばそれが色をつくり出す力にくらべて、かくべつ前者の方が不思議だというようなことは、事実上ないわけである。つまり、夜光虫とか、発光|百足虫《むかで》とか、螢とかが光りを放射することは、植物が青い花だの紫いろの花だのをつくることよりも不思議だ、というようなわけはないはずである。けれども、この光りが作られる機械作用の特殊な奇蹟という点になると、この現象に関する生物学的説明は、わたくしにはまだ依然として、従来と同じように驚異の謎を解いてくれない。あるいは、この虫の体内に、「発電装置」という専門的名称の下に包含される一切の物の、顕微鏡的微小な運転模型が納められていることを発見するのは、実際に存在しているものを発見するほど、驚歎すべきことではないだろう。げんにここに、その無限小な電動機をもって、「蝋燭の焔に費される力の消費の四百分の一」で、純粋な冷たい光りをつくることのできる螢がいるではないか。……ところで、われわれの最も偉大な生理学者・科学者といえども、今日なお、その作用を理解しえないような、また、われわれの最善の電気学者といえども、今日なお、それを模倣する可能性を考ええないような、それほど精密にして有効な発光機械が、なぜこの小さな動物の尻に発生したものなのだろうか。|かげろう《ヽヽヽヽ》の視覚器官だとか、電気うなぎの電気器官だとか、あるいは螢の発光器官だとか、そうしたじつに人間を唖然たらしめるほど複雑怪奇な、しかも美しいものを構成するように、なぜ生きている組織が、そのような構造に結晶したり、自然とでき上がるのであろう。……この不思議を思えば、神が働くなどということは、想像するさえ笑止なことである。かげろうの目だの、螢の尻だのという怪奇きわまるものは、そこらにいる神様が何年考えたって、くふうのつくものではありはしない。
生物学は、こう答えるだろう。「このような構造は、機能が構造に及ぼす効果が積り積ってできたものだとは思えないにしても、つごうのいい変形が、しだいに選択に選択を重ねたあげく、こんなものをつくり出したのかも知れないということは、考えられる」と。ハーバート・スペンサーの学説を信奉するものは、誰ひとりとして、これより遠くへふらふら迷い出すことは罷り成らぬと申し渡されているのである。しかし、わたくしは、物質《ヽヽ》は、ある盲目的な間違いのない方法で記憶《ヽヽ》するという意見と、また、生きている物質の各単位には、あらゆる原子のなかに、幾億万の消えた宇宙の破壊することのできない無窮な経験が含まれているという単純な理由から、そこには無窮の潜在的可能性が眠っているという意見と、このふたつの意見は、どうしてもわたくしの脳裡から除き去ることができないのである。
[#改ページ]
露のひとしずく
――つゆのいのち(仏教のことわざ)
書斎の窓の竹|格子《ごうし》に、ひとしずくの露の玉が震えながらかかっている。
その小さな面には、朝のすがたが映っている。それは、空と、野と、遠い木立のすがたである。さかさの影がそのなかに見える。小さな家があって、そこの入口に子どもが遊んでいる。それがさかさになって、ちょうど顕微鏡をのぞくように見えている。
目に見えない世界、それ以上のものが、そのひとしずくの露のなかに映っている。そのなかには、人間の目に見えない世界、無限の神秘の世界が、同じように映っているのだ。そして、このひとしずくの露の玉の、内にも、外にも、そこには絶えず休むことのない運動がある。原子と原子力との、永久に量り知ることのできない運動がある。また、空気と日光とに触れて、はじめてそこに五彩の色をはなつ、かすかな戦慄もそこにある。
仏教は、このようなひとしずくの露のうちに、魂という、この世のほかの世界の象徴を見いだしている。人間とは、まさに、目に見えない究極の元素が、仮りのこの世に玉と凝《こ》ったものでなくて、はた何であろう。まぼろしの空を映し、大地を映し、生命を映して、永遠にあやしい戦慄を蔵しながら、身をとりまく霊の力のさやめきに、何とかして答えようとするもの。人間とは、まさに、このようなものでなくして、何であろうか。
その小さな光りの玉も、やがてはそのあやしい色と、さかしまの絵ともろともに、消え失せてしまうことだろう。それと同じように、やがては、諸君も、わたくしも、いつかは溶け滅び、消え失せてしまわなければならない。
消え行く露と、消え行く人と、そのあいだになんの差別があろう。ただ、ことばのちがいだけである。……それにしても、このひとしずくの露は、末はいったい、どうなり行くのか。
太陽の力で微分子が分かれ、そして上昇し、そして散る。その散ったものが、雲と土とへ、川と海とへ行く。そして、やがてまた新しく落ちて散るために、ただそのためにのみ、陸と、川と、海とから、ふたたび引き上げられる。化しては、乳色の霧となり、凝《こ》りては白き霜となり、あられとなり、雪となる。そして、ふたたびまた、大宇宙の姿と色とを映しながら、まだ生まれでぬ心臓の、真紅の鼓動にあわせて脈搏を打つのである。こうなった露のひとしずくが、ふたたびまた、新しい、ひとしずくずつの露となり、雨となり、樹液となり、血となり、汗となり、さては涙となるためには、そこにまた、無量無尽の同じたぐいの微分子と、ふたたび結合しなければならない。
そも幾そたびであろう。われわれの太陽が、まだ燃えそめぬ幾十億代のそのむかし、おそらく、それらの微分子は、他のしずくのなかで、過ぎこし世の、どこかの宇宙にあった世界の、空と土の色とを映しながら、うごめき、揺らいでいたのであろう。そして、それはまた、うつし世の、こんにちここにあるこの宇宙が、虚空から消え去ってしまったのちになっても、その微分子は、それをつくった不思議なその力によって、おそらく、ふたたびまた露と結んで、朝な朝な、のちの世の惑星の朝の美しさを映すことであろう。
われわれが「自己」と名づけている合成物も、またそれと同じだ。日月星辰のつくられた前の世にも、われわれの原子は存在していたのである。震揺し、躍動し、物のすがたを映していたのである。うつし世の、この世の夜々の星々が、ことごとくその光りを燃えつくすとも、その原子は、かならずやまた、まるい「心」の玉をつくることにあずかるだろう。そうして、ふたたびまたそれは、思想のなかに、感情のなかに、記憶のなかに、進みゆく世になおかつ生きつぎ生きついで行く人々の、喜びと悲しみとのなかに、おののき震えることであろう。
われわれの「個性」は、末はどうなり行くのか。われわれの特性は、いったい、どうなり行くのか。いいかえれば、われわれの観念、感情、おもいで、――われわれの特異の希望、恐怖、愛憎、それらは、けっきょく、どうなり行くのであろうか。そうだ、億万の露のしずくのひとしずくひとしずくにも、その原子の震揺と反射とには、無限小の差異がなければなるまい。「生」と「死」の「大海」から引き上げられた、霊ある濛気《もうき》の、無量無尽の粒子のひとつひとつにも、それと同じような、無限小の特質がある。われわれの個性も、かの永遠の秩序のなかにおいては、ひとしずくの露の戦慄に生ずる微分子の特殊な運動と、その意味はひとしいのである。おそらく、どんなしずくも、その戦慄と映像のまったく同じなものは、ひとつもあるまい。それにしても、露はあいかわらず、どこまで行っても、結んでは落ち、落ちては結び、そのおもてには、いつもかならず揺れうごく絵があることだろう。……迷いのうちの迷いことは、死を無とする考えだ。
世の中に、無というものはない。なぜというのに、無に帰する、いかなる「自我」もないからである。過去の世に、よし何物であったとしても、我々は儼として存在していたのである。また、今の世に、よし何物であるとしても、げんにこうして、儼として存在しているではないか。未来の世に、よし何物であろうとも、われわれは、儼として何物かにならなければならないはずだ。人格。個性。――そんなものは、夢に夢見る幻影にすぎない。あるものは、ただ、無窮の生命だけである。あると見えるものは、ただ、その生命の顫動《せんどう》だけである。太陽も、月も、星も、大地も、空も、海も、心も、人間も、空間も、時間も、――一切のものは、影だ。影は、あらわれては消えるもの。ただ、影を造るものだけが、永遠に|造る《ヽヽ》のである。
[#改ページ]
餓鬼
[#ここから1字下げ]
「那先比丘《ナーガセーナ》、この世に夜叉といえるものありや」
「あるなり、大王よ」
「夜叉はその身を離脱するや」
「然《しか》なり、大王よ」
「されど、比丘よ。もし然《しか》ならば、夜叉の遺骸を見たるものなきは、何の故なりや」
「大王よ、夜叉の遺骸はあるなり。悪しき夜叉の遺骸は、蠕虫《ぜんちゅう》、甲虫、蟻、蛇、蠍《さそり》、百足……の形となりて見ゆるなり」
――那先比丘経〔いわゆる「ミランダ王の問い」で、大王とはミランダ王〕
[#ここで字下げ終わり]
一
人生には、今までただおぼろげにわかっていた真理とか、あるいはまた、今までいろいろの推理によって、漠然ながら触れていた信仰とかが、ある瞬間、忽然として、一つのそれが感情上の信念となって明確な性質を帯びてくる、といったような時がよくあるものだ。そういう経験が、さきごろ駿河の海岸にいたときに、わたくしの上に起った。あすこの浜べを縁どるように生えている松の木の下に休んでいると、おりから、日は穏やかに煕々《くく》と輝いて、命も生きのびるような暖かさ。吹きなぶる風と、照りそう日の光りの、そのうっとりとしたなかに、めずらしくも、わたくしの古い信仰が蘇ってきたのである。それは、万物は一なり、という信仰である。
わたくしは、そのとき、そよ吹く風も、走る波も、影のひらめきも、陽の揺らぎも、青空も、海も、さては陸地の万緑の静けさも、――すべてみなこれ、われと一つものであると感じたのである。わたくしはそのとき、この世に初めなく、終りもまたなしということを、ついぞない、まったく新しい、ふしぎな考え方で確信した自分を発見した。もっとも、わたくしが感じたそのときの考えは、べつだん新しいものでもなんでもない。ただ、この経験が新奇であった点は、その考えが、一種とくべつの強さをもって、わたくしに現われてきたことであった。その強い考えは、わたくしをして、ひらめき飛ぶ蜻蛉も、灰色の細いからだの浜コオロギも、頭の上で泣いている蝉も、松の木の根もとで遊びたわむれている赤い蟹も、すべてみな、自分の兄弟姉妹だと感ぜしめたのである。
わたくしは、それまで自分でもわからずにいた自分の魂というふしぎなものを、そのときはじめて悟りえたような心持がした。自分の魂は、きっと過去の世に生きていた、さまざまの形をしたものの中に生きていたに相違ないということ、また、このさき幾百万年の将来にも、来《こ》ん夏には、きっと自分の魂は、未来の生存物の目によって、この太陽を見るにちがいないということを、わたくしはそのとき悟ったような気がした。そこで、わたくしは、ひとつ灰色の細いからだをした浜コオロギの悠長な考えや、矢のように閃きながら飛ぶ蜻蛉の思いや、日に温まりながらミンミン鳴く蝉の心持や、松の根のあいだから鋏をふり上げるいたずらものの蟹の心になってみようと思ったのである。
しかし、考えているうちに、いや、こんなことを考えていると、来世の自分の魂の細胞が生まれ返るのに、ひょっとするとこれが障《さわ》りになりはしないかなと、わたくしは怪しみだした。東洋では、何千年の昔から、われわれがこの世で考えたり行なったりすることは、ある原子の性向の必然的な形成、つまり、帰一性によって、われわれの来世の身分と心の状態とを決定するものだと教えられてきている。そしてこの説には、なるほどと思われる節がある。もっとも、この説は、いかほど考えてみたところで、それを確証することも反証することもできないような説ではあるが、それでいながら、なんとなく、ほかの仏説と同じように、なにかそこに、宏大無辺な宇宙の真理を暗示しているように思われるところがある。しかし、その文字に現われた所説には、――つまり、思考というものに重点をおいている点には、いささか疑問がある。なるほど、われわれの心と肉体とは、無限の過去の総和によってつくられたものである。しかし、刹那の瞬間が、どうして永劫の力に逆らって、われわれをつくり直すことができるだろう。仏教には、なるほど、その次第が答えてある。そのみごとな解答には、反駁する余地はないけれども、どうもわたくしには不審でならない。
とにかく、仏説によると、行《ぎょう》と思《し》とは、物を創造することになっている。目に見えざるものは、すべて行と思によってつくられる。星の宇宙にしろ、およそ形あって名あるもの、一切のものの存在は、行と思によって、つくられている。われわれの行と思とは、刹那のものではなくして、永劫のものである。それは世界をつくり、本来の幸福と苦悩をつくるべき力を意味する。このことをよく覚えておけば、われわれは神の境地にも昇ることができる。ただし、これを無視すれば、われわれは人間に生まれ変る権限を喪失して、たとえ地獄へ落ちるほどの罪を犯していなくても、けだものや虫けらに――つまり、餓鬼の姿に生まれ変らなければならないと、仏教は説くのである。
したがって、来世に虫けらになるか、餓鬼になるか、その責任は、じつはわれわれ自身にあるのである。仏教では、虫けらと餓鬼との区別は、案外はっきりしていない。亡霊と虫けら、というより、魂と虫けらとの神秘的な関係は、東洋ではたいへん古くからある信仰で、こんにちでも、それが無数の形になって残っている。そのなかには、ちょっと口にはいえないほど、ものすごいものもあるし、また、怪奇に美しいものもある。Quiller-Couch 氏の「白蛾」などは、日本の読者なら、小説として何の感銘も受けまい。なぜかというと、夜の蛾、もしくは、夜の蝶は、亡くなった妻の魂として、日本の詩歌や伝説の中にはたくさん出てくるからである。夜鳴くコオロギのあの細いかなしい声は、むかし人間だったものの歎きの声であり、蝉の頭についているあの赤い妙な印は、あれは戒名の梵字だし、また、蜻蛉やキリギリスは、死んだ人が乗る馬だと言い伝えられている。こういう虫けらは、いずれも、愛に近い憐れみの情をもって、いたわりを受けるべきものだが、なかにはまた、害をする危険な虫もいる。そういうのは、また別の因果応報――たとえば、化け物や魔物を産む業《ごう》の結果があらわれたもので、そういう虫には、ものすごい名のついたのがある。たとえば、「うすばかげろう」は「蟻地獄」、また、カエルや魚を生きたまま捕って食うというので、河童《かっぱ》の恐ろしい伝説をそのまま小さくしたようだといって、「ガムシ」の大きなやつを「河童虫」、などというたぐいである。それから、ハエ。これは、とりわけ、餓鬼と同一視されて考えられている。ハエの出る季節になると、よく人が「きょうのハエは、まるで餓鬼のようだね」といって、うるさがるのを聞く。
二
餓鬼に関する日本の古い仏典――正しくいえば、中国の仏典だが――には、梵字の餓鬼の名が、それぞれ、じつにおびただしくつけられている。なかには、中国の名前しかないものもある。もともと、インドの信仰は、中国、チョウセンをへて日本へ渡来したのだから、渡ってくるその途中で、いろいろ特殊な名前がついたものらしい。しかし、だいたいにおいて、日本の餓鬼の分類は、インドのそれとよく似ている。
仏法では、餓鬼の位というものは、あらゆる存在の一ばん下積みになっている地獄道から、わずかに一段だけ上になっている。地獄道の上が餓鬼道、餓鬼道の上が畜生道、その上が修羅道、一ばん上が人間道と、こうなっている。
ところで、地獄に落ちた人間は、その業《ごう》が尽きると、地獄から解放されるのであるが、それから一足飛びに、また人間に生まれ変るというのはごくまれで、たいていは、その間にある何何道というやつを、ぜんぶ、根気よく順ぐりにへのぼってこなければならない。餓鬼の大多数のものは、いちど地獄に落ちたものである。
しかし、おなじ餓鬼でも、地獄に落ちたことのないのもある。ある種の罪、ある程度の罪は、人間がこの世で死ぬと、ただちにそれが餓鬼に生まれ変る原因となる。一ばん大きな罪だけが、その人間をただちに地獄へ落す。第二の程度のものは、餓鬼道へ落される。第三の程度のものは、畜生道に落ちて、これはけだものに生まれ変るのである。
日本の仏教では、三十六種のおもな餓鬼の種類を認めている。「正法念処経」に、こう説かれてある。――ざっと数えると、餓鬼には三十六の種類があるが、しかし、あらゆる異なった種類を分けるとなると、その数は数えきれないほどになってしまう。この三十六の種類を、二つに大別する。その一つは、餓鬼世界住《ヽヽヽヽヽ》にはいるもの。これは、つまり、餓鬼道に住む餓鬼だから、人間の目には見えない餓鬼である。もう一つの方は、人中住《ヽヽヽ》といって、これは、この世に住んでいる餓鬼だから、どうかすると、人間の目にも見えることのある餓鬼である。
まだ、このほかに、罪ほろぼしをする苛責の性質によってする分類がある。餓鬼というものは、すべてみな、飢渇に苦しめられるものだが、その苦しみに三つの段階がある。無財餓鬼《ヽヽヽヽ》というのは、その第一段のやつで、これはどんな栄養物をもとることができないので、のべつまくなしにひもじい思いをしなければならないやつ。それから、小財餓鬼《ヽヽヽヽ》というのは、第二段の苦しみを受けるやつで、これは、時々なら、きたない物ぐらいは食べることができるやつ。第三段の有財餓鬼《ヽヽヽヽ》というのは、それよりもまたさらにらくな餓鬼で、これは人間の捨てた食べ物の残りや、神仏や先祖の位牌にあげたお供物などを食べることができる。おもしろいのは、このあとの二種類の餓鬼で、この二つは、人間のことにもいろいろ干渉する餓鬼だと考えられている。
近代科学が、ある種の病気とその原因につての正確な知識をひろめるまでは、仏教信者は、そういう病気の徴候を説明するのに、この餓鬼の臆説に従っていたのである。たとえば、ある種の間歇性の熱病――オコリのような病気は、餓鬼が栄養と体温を得ようとして、人間の体内へもぐりこむために起るのだ、といわれていた。患者が最初に悪寒がして、ガタガタ震えるのは、あれは餓鬼が寒くて冷えているせいなのであって、そのうちに、餓鬼がだんだん暖まってくるから、それで悪寒が去って、こんどは焼けるように熱くなってくる。しまいに、すっかり暖まると、餓鬼のやつ、のうのうして逃げて出て行く。それで熱が下がる。ところが、また別の日に、はじめ襲ってきた時刻に相当する時間に、二度目のオコリが起る。それで、ああ、また餓鬼がもどってきたな、ということがわかるというのである。こんなぐあいで行けば、ほかの伝染病も、同じように餓鬼のしわざになすりつけて、じゅうぶん説明がつくわけである。
「正法念処経」には、三十六種の餓鬼の大部分を、腐爛、疾病、死と結びつけてある。その他のものは、はっきりと虫けら類と一つにしてある。ある特種の餓鬼と特種の虫とは、名前は一つではないけれども、その餓鬼の説明が、その虫けらの生態を思わせるし、一般の迷信を知っていると、いっそうそれが強く考えられる。食《じき》血餓鬼、食唾餓鬼、食糞餓鬼、食毒餓鬼、食風餓鬼、食香煙餓鬼、食火餓鬼(飛んで火に入る夏の虫の類か)、疾行《しっこう》餓鬼(死骸を食って、疾病をまんえんさせる餓鬼)、熾燃《しねん》餓鬼(鬼火となってあらわれる餓鬼)、|※[#「金+辰」、unicode92e0]口《しんこう》餓鬼(針穴のような口をもった餓鬼)、|※[#「金+護のつくり」、unicode944a]《かく》身餓鬼(からだが坩堝《るつぼ》で、その中にからだの肉の汁が、火焔で煮えたぎっている鉄瓶のように、グラグラ沸いている餓鬼)などという餓鬼の説明は、どうもあまりはっきりしていないが、次にあげるような抄録に示されているものは、おそらく、一目りょうぜんだろう。
食鬘《じきまん》餓鬼――この餓鬼は、ある仏像の飾りになっている、鬘《かつら》の毛ばかり食べて生きている。……寺から貴重な物を盗んだ人の来世の境遇は、こうなるのである。
不浄巷陌《ふじょうこうひゃく》餓鬼――この餓鬼は、往来に落ちている不潔なものや、きたない物ばかり食べる。……僧侶、尼、その他、物を施してやるべき巡礼などに、腐った物や不衛生な物をくれてやると、こういう身状になる。
塚間住食熱灰《ちょうけんじゅうじきねつ》土餓鬼――これは、火葬をした薪の屑や、墓石のかけらを食べる餓鬼。……欲のために、寺の物をかすめ取ったものの魂が、これになる。
樹中餓鬼――この魂は、樹木の幹のうちに生じて、樹木の組織が成長するにつれて、苛責をうける。……この境涯は、材木を売るために、せっかく日陰をつくっていてくれた樹木を切り倒した罰である。ことに、墓地や寺の境内の木を切り倒した人は、この樹中餓鬼に落ちやすい(*)。
[#ここから1字下げ]
*木の精に関する次の話などは、その代表的なものである。――
近江の国、愛知川《えちがわ》村に住む薩摩七左衛門という侍の屋敷の庭に、たいそう年古りた榎《えのき》の木があった(一般に、榎の木はお化けの木と考えられている)。むかしから、ここの家の先祖は、みだりにこの木の枝を払ったり、葉をとったりしないように心していた。ところが、七左衛門という男はつむじ曲がりな男で、ある日、その木を切ることにしたいといいだした。するとその夜、七左衛門の母の夢枕に、恐ろしい化物があらわれて、榎の木を切ると、一家の者はひとりのこらず死に絶えるぞと告げた。このお告げを七左衛門に話すと、七左衛門は一笑に付したのみで、人をやってその木を切らせた。すると、榎の木が切り倒されるがいなや、七左衛門はにわかに気がふれだした。幾日かのあいだ、乱心して暴れ、ときおり「あの木が! あの木が!」と口走る。榎の木が枝を手のように伸ばして、おれを引き裂きにくるというのである。こんな状態のうちに、七左衛門は落命した。するとそれからまもなく、こんどは女房が発狂して、榎の木が殺しにくるといって、恐怖のうちにわめきながら、これも落命した。それからつぎつぎと、一家のものはことごとく、下男下女にいたるまで、みんな発狂して死んでしまった。それからというものは、屋敷は長いこと無住になり、だれひとり、そこの庭へ足を入れるものもなかった。そのうちに、まだこんなことが起らない前に、薩摩家の娘で尼になったものがあって、それが山城のさる寺に、慈訓という名で生きのこっているということが思い出されて、呼び迎えられた。そして村の人たちの懇望で、慈訓はもとの屋敷に死ぬまで住み、明け暮れ、かの榎の木の精のために読経|回向《えこう》をかかさなかった。慈訓がその家に住むようになってから、木の精の祟りはやんだ。この話は慈訓の口からじかに聞いたという、僧俊行というものの実話談である。
[#ここで字下げ終わり]
蛾、ハエ、カブト虫、毛虫、ウジ、その他、ざまの悪い虫は、みな、こんなぐあいに説いてあるようである。しかしまた、餓鬼のなかには、虫けらと一つに見られないものもある。たとえば、食《じき》法餓鬼なんていうのがあるが、これなどは、どこかしらのお寺で説教を聴いていなければ、生きていられないという餓鬼である。説教を聴いているうちだけは、責苦がらくになるが、そうでないときには、じつにいうにいわれない責苦を受ける。こういう境涯には、金銭のためにのみ仏法を説いた坊主や尼が、死ぬと落ちるらしい。それからまた、どうかすると、美しい人間の姿になって現われる餓鬼がある。これは、欲色《よくしき》餓鬼といって、淫欲の餓鬼であるが、これなどは西洋でいうと、まず、中世のインキュバス〔睡眠中の人間を襲う妖魔〕、サッキュバス〔睡眠中の婦女を襲い交合する妖魔〕などという、あの男女の妖魔に相当するものだろう。この欲色餓鬼というのは、自分で自由自在に男女の性を変えることができ、また、自分のからだを大きくも小さくもすることができる。針の目より小さな孔でも、自由に通ることのできるやつだから、この餓鬼を家のなかから追い出すには、あらたかな護符とか、魔除けの呪文でも使うよりほかにない。若い男をたぶらかすには、美人の姿になる。よく芸者や酌婦となって酒席にあらわれるのは、この餓鬼である。また、女をたぶらかすには、きれいな美少年に姿をかえる。この欲色餓鬼の境涯は、前世の淫欲の結果であるが、その境涯についてまわる超自然の力は、これは、悪業といえどもまったくそれを牽制することができないような、善い応報の結果なのである。
もっとも、この欲色餓鬼でも虫になれる。そのことは、はっきり説かれてある。ふつうなら人間の姿になるのだが、この餓鬼は、けだものにでも何にでもなれる上に、自由自在にほうぼうへ飛んで行くこともできるし、からだをごく小さくして、人間の目に見えないようにすることでもできるといわれている。すべての虫が、かならずしもみな餓鬼とは限らないが、しかし、たいていの餓鬼は、自分の目的次第で虫の姿になれるのである。
三
こういう信仰は、こんにちのわれわれから見ると、ずいぶん奇怪極まるものに思えるけれども、しかし、むかしの東洋人の想像が、虫けらを幽霊・悪鬼に結びつけて考えたということは、けっして不自然なことではない。いったい、われわれの目に見えるこの世界で、虫けらほど、神秘的なふしぎな生きものはあるまい。ある種の虫の一生は、じっさい、そのまま神話の夢を実現している。原始時代の人間の心にしてみたら、昆虫の変態というものは、よほど不思議なものに思われたのに違いない。枯れた葉っぱだの、花だの、草の茎などとまったく同じな、奇妙なやつがいて、しかもそれが、最も目ざとい人間の目に、歩きだしたり、飛びだしたりして始めてその存在がわかるというのだから、こんな奇妙な生きものは、まず妖怪変化とより考えられまいではないか。今日の昆虫学者にとってさえ、昆虫類は、依然として、動物中の最も不可解なものとされている。昆虫学者はいう。――昆虫は、生存競争の上では、あらゆる有機体のなかで、いちばん成功するものだ。その構造の精妙にして複雑なことは、顕微鏡時代以前に驚異とされていた、どんなものよりも優れている。また、その感覚の精密鋭敏なことは、われわれ人間の方が、よっぽど盲目でつんぼだといってもいいくらい、人間の感覚に比較してはるかに優れている、と。それでいながら、昆虫の世界は、依然として絶望のなぞの世界なのである。あの複眼の神秘、それとつながる視神経の秘密を、われわれに説明できるものが、いったいどこにいるか。あのふしぎな目は、物質の究極の構造を見抜くのであろうか。あの視力は、レントゲン線のように、不透明体を透射するのだろうか。(そうでもなければ、あの尾長バチが、木目の内部にかくれている餌食の幼虫にとどくように、あの固い木を貫いて、産卵管をつきさすねらいの、あの正確さは、どう説明をつけるか)。また、昆虫の胸、また、ひざ、足にあるあのふしぎな耳、――人間の聴覚の範囲外の音響を聞くことのできるあの耳、あれはいったい、どう説明をつけるか。あの仙女のような妙音をかなでるまでに発達した鳴音器官の構造。流れる水の上を歩くあのふしぎな足。ホタルのともしびに火をともす科学。――われわれの電気化学などでは、とうていまねもできない、あの冷たい、美しい光りをつくりだす科学。その証明は、いったい、どうつけるのであろう。また、あの新しく発見された、比類もないほど微妙な器官、――最も聡明な人たちでも、その性質を決定することができないために、まだ名前さえつけてない器官、――そういう器官によって、昆虫は、ある人の説のように、人間の感覚にわからない磁気が目に見えたり、光りのにおいがわかったり、音の味がわかったりするのであろうか。……昆虫について、われわれの知りえていることは、ごくわずかしかないけれども、そのわずかばかりの知識だけでも、われわれは一種の恐怖に近い驚異の感に打たれる。手であるくちびる、目である角、錐《きり》である舌、いちどに四通りに動く、複雑な、まるで化け物みたいな口、生きた鋏と、鋸と、掘り抜きポンプと、柄の曲った錐、人間のこしらえた最も精巧な時計のぜんまいはがねなどではとてもまねもできないほど繊巧な、まるで魔物のような武器。――こういうものを見て、むかしの迷信は、何を想像したろうか。じっさい、顔のない化け物の夢を見てうなされることも、白昼夢を見て有頂天になることも、昆虫学にあらわれた驚くべき事実に比べれば、まるで気の抜けた、そらぞらしいことにしか思えない。それにしても、昆虫の美しさそのものには、なんとなく妖怪めいた、あっと胆をつぶすようなものがある。……
四
餓鬼が果たして存在するものであるかどうか、それはしばらくおくとして、死人が虫けらになるという東洋の信仰には、すくなくともそこに真理の影がある。われわれ人間の死骸が、幾百万代のあいだくり返しくり返し、無数の奇怪な形をした生命を形成するのに力を貸さなければならないということは、これはもはや疑うべくもないことである。しかし、わたくしが、海べの松の木の下で空想した問題、――つまり、現世の行《ぎょう》と思《し》とが、われわれの死体の来世における分化と再成とに、いくぶんでも交渉をもつものかどうか、すなわち人間の行為そのものが、人間の原子のつくり直される形態を、あらかじめ決定できるものかどうかという問題、――この問題については、今のところ何の解答もできない。わたくしは疑念をいだいている。――しかし、わからない。だれもわかる人はないのである。
しかしながら、かりに宇宙の秩序が、仏教の信ずる通りだと想像してみるとして、また、自分がこの現世で、なにか愚かなことをしたために、来世は虫けらの生活を送らなければならないことに運命が定まっている、と想像してみるとして、わたくしは、その予言に少しも驚き怖れるところはないと、はっきり断言することができる。世の中には、平気では考えられないような、いやな虫けらどももいるけれども、しかし、ちゃんと独立した、高等な器官をもった、見苦しくない虫けらの状態は、そうたいして悪いものでもあるまい。わたくしなどは、なにかこう楽しい好奇心をもって、カブト虫や、カゲロウや、蜻蛉《とんぼ》のあのふしぎな複眼で、世界を眺める機会をもちたいものだと、むしろ楽しみにして待っているくらいなものである。カゲロウになると、わたくしは三種の異なった目をもって、今のわたくしには全然想像もつかないような色を見る力を持つことができるだろう。人間のする時間の計り方から見れば、わたくしの一生は、あるいは短いかもしれない。夏の一日は、おそらく、わたくしの一生の大部分だろう。しかし、カゲロウの意識から見たら、五、六分の時間は、いうに一季節にも見えるだろう。だいいち、羽をもったわたくしの生活の一日は、時には災難もあろうが、それを除けば、とにかく金色の大気のなかを踊り狂う、疲れを知らぬ喜びの一日であろう。それに、羽をもったわたくしには、ほんとうの口も胃袋もないから、ひもじいことも、のどの乾くこともなかろう。じつに、わたくしは、風を食らって生きている仙人になるのだ。……わたくしはまた、それよりももう少し俗な蜻蛉の境涯にはいっても、ちっとも心配はない。そのときには、わたくしは肉食の餓えを覚えて、大いに餌を漁りまわらなければなるまい。しかし、蜻蛉だって、はげしく餌を漁りまわった喜びのあとで、ひとりで瞑想にふけるぐらいのことはできよう。のみならず、そのときのわたくしの羽は、まあどんなであろう。目はどんなであろう。……わたくしはまた、|あめんぼう《ヽヽヽヽヽ》になることだって、楽しく想像することができる。|あめんぼう《ヽヽヽヽヽ》になったら、水の上を走ったり、滑ったりすることができる。もっとも、子供につかまえられて、長いりっぱな足をもぎとられるようなことがあるかもしれないが。……だが、わたくしはそんなものになるよりも、どうかして、蝉の一生が味わってみたくてならないのだ。風に揺れる木の上で、日を浴びながら、露ばかり吸って、夜の明けるから日の暮れるまで歌っている、あの怠けものの蝉。もちろん、そこには、ひどい災難にあうという危険もあるだろう。タカやカラスやスズメから受ける危険、肉食虫に襲われる危険、いたずらっ子のもち竿に見舞われる危険などがあるだろう。しかし、そんなことをいえば、どんな生ある境涯にだって、危険はついてまわるものだ。そうした危いことはいくらあっても、わたくしは、アナクレオン〔ギリシアの抒情詩人〕の詠んだ蝉の頌、「おお、なんじ、土に生まれたるものよ。歌を愛するものよ。世の苦しみを受けざるものよ。肉ありて血なきものよ。げに、なんじこそ、神に等しきものならめ」という讃美のことばは、けっしてあれは事実を誇大していったことばではないと思う。……じっさい、わたくしは、自分がもう一度人間に生まれ変ることのみを、この上もない恩沢とばかりは考えられない。もしも、かく考える思《し》と、かく書く行《ぎょう》とが、わたくしの来世における再生の因縁をつくるものであったら、やがて来世に定められているわたくしの次の生涯は、せめて蝉か蜻蛉の生涯に生まれ変りたいものである。――杉の木によじ登って、日を浴びながら、小さなシンバルを打ち鳴らす、あの蝉に。――また、清らかな静寂《しじま》をなす蓮池のほとりを、紫水晶と黄金との音なき閃きをもって飛びかう、あの蜻蛉に。
[#改ページ]
いつもあること
わたくしの家に、おりおりたずねて見える禅家の老僧で、生花、その他、古くからある日本の技芸は、ひととおり何でも心得ている、名人肌のおもしろい坊さんがある。昔流儀のいろんな信仰には、頭から反対の説をとなえて、縁起だの、夢判断だのという、そんな迷信はいっさい受けつけず、人に向かっては、ただ、衆生はひたすら仏法を信ずべしと説いている人だが、それでいて、檀家の受けはなかなかいい。禅家の僧で、これほど懐疑的な人も、まず珍らしい。もっとも、懐疑といっても、この友人のは絶対なものではない。その証拠には、先日会ったとき、ちょうど死人のはなしが出たが、そのとき、なんだか薄気味わるい話を聞かされた。
老僧はいった。「わしは、幽霊だの、お化けだのというものは信ぜん。よく檀家の人がこられて、いや幽霊を見たの、いや不思議な夢を見たのといわれるが、いろいろ詳しく尋ねてみると、たいがい、ははあ、なるほど、それでだなと、りくつがつくのじゃ。
ただしかし、わしも一生にたった一ど、ちょっとこれは説明のつかん、妙なことに会うたことがある。その頃、わしは九州で、まだ年のいかん新発意《しんぼち》でな、若いおりにはだれもがやらんならん、托鉢をやっておった。ある晩のこと、山地を行脚しておるうちに、ある小さな村へ着いたのじゃ。そこに、一軒の禅寺があったから、例によって一夜の宿を請うたのよ。ところが、住職は、何里とか離れた村に葬式があって、それへ出かけたとかいうことで、年とった尼さんがひとり、るす番をしておった。その尼さんがいうのに、住職のるす中は、寺へお泊めはでけん、七日のあいだ、住職はおもどりにならんと、こういうのじゃ。あちらでは、檀家に不幸があると、坊主がそれへ行って、七日のあいだ毎日経をあげて、仏事を行なうことになっておる。そこで、わしはいうた。なにも食う物はいらん、ただ寝るところだけあれば、けっこうじゃ。なにしろ、この通りくたびれておるのだからと、拝むようにいうて頼むと、尼さんも、とうとうわしを見て気の毒がってな、やがて本堂の須弥壇のわきへ、ふとんを敷いてくれおった。そこへごろりと横になると、もうすぐ高いびきじゃ。すると、かれこれ真夜中ごろ、――寒い晩でな、ふと目がさめると、わしの寝ておるじきそばで、だれか木魚をたたいて、しきりと念仏をあげておる声がする。目はあいたが、本堂はまっ暗じゃ。鼻をつままれてもわからん。はてな、こんなまっ暗なところで、木魚をたたいたり、経をあげたりしておるのは、いったい、だれか知らん。わしもそのとき、ふしぎに思うての。しかし、その音が、はじめは近くのように思えたが、何じゃかすかに遠く聞こえよるので、これは耳の聞き違えだろう。ははあ、住職が戻ってこられて、寺のどこかでお勤めを上げておるのかもしれんと、そうわしは思うて、そのまままた横になると、木魚の音にも、経をあげる声にも頓着せずに、朝までぐっすり寝てしもうたのよ。それから、朝になって、顔を洗い、衣服をととのえてから、ゆうべの尼さんを探しに行くと、尼さんがおった。わしは、昨夜の礼をのべてから、おもいきって尋ねてみた。『昨晩、方丈はおかえりになりましたな』すると、尼さん、ひどく仏頂面な挨拶でな、『いいえ、もどられません。昨晩申し上げたとおり、七日の間はもどられませんがな』という。『これは失礼を申しました。じつは、昨晩、どなたか念仏を唱えて、木魚をたたいておられたので、方丈がお帰りになられたかと思いました』というと、尼さん、大きな声で、『ああ、あれは、方丈さんではござんせん。檀家の方です』という。なんの意味やら、いうことがわからんから、わしは『どなたです』と尋ねると、尼さん、答えていうのに、『ああ、あれですか。あれは、仏がこられたのです。檀家の人が死なれると、いつもそういうことがあります。仏さんが木魚をたたいえて、念仏を上げにくるのです』……尼さんは、長年それには慣れておるとみえて、平気な顔で、そういいおったよ」
[#改ページ]
夢想
人間が死を恐れるのは、ちょうど、胎児が世の中へ生まれて出るとき、どんな愛の手が待っているか、それがわからずに泣いているようなものだと、昔からよくいわれている。この比較は、なるほど、科学的な考察をされたら、一|文《もん》の価値もあるまい。しかし、うまい思いつきの空想としては、なかなか美しい。こういう空想から、いっこうに宗教的な意味を受け取らない人たち、――つまり、人間個人の精神は、肉体とともに滅び、個性の永遠の存続は、ただ永劫の不幸を招くばかりだと信じている人たちにとっても、この空想は美しいものとして映るだろう。おもうに、この空想が美しいのは、とにかく、それがごく卑近な言い方で、絶対とは、母性愛の際限のないように、無辺際なものだということを、多くの人に悟らせたいという願いを暗示しているからなのだろう。この想像は、西洋流というより、むしろ、東洋流な想像であるが、そのくせ、われわれのもっている西洋流の信念の、たいがいのものに漠然とあらわれている情操と、よく一致している。むかしは、絶対を「火」と見るという、きびしい考え方をしていたものだが、その後、しだいに、そういうきびしい考えのなかへ、無限のやさしみをもった、明るい夢が注ぎこまれるようになってきた。つまり、母性としての女性の記憶によって、この世に創造された一切の物の形を変えたいという希望が注入されてきたのである。人類がいよいよ高度に進化すればするほど、神に対する観念は、いっそう女性化されてくる、という考え方である。それとはまた反対に、この考え方は、どんなに信仰の薄い人にも、人間のあらゆる体験のうちで、母性愛ほど貴いものはない、母性愛こそは神聖という名にふさわしいものだ、ということを考えさせる。じっさい、母性愛だけが、この哀れにも小さな惑星の表面で、こんにちまで、弱きものの心をはぐくみ、よく耐え忍ばせてきたのであろう。むかしから、人間の頭脳のなかに、いろいろ高尚な感情が花咲く力をえたのも、みな、この無上無私の母性愛というものがあったおかげであろう。――母性愛というもののおかげがあったればこそ、あの霊界に対するいろいろな高尚な期待も、生れてくることができたのだろう。
こんなふうな考え方をして行くと、われわれはしぜんそういった考え方に導かれて、それなら、母性愛とは、いったい、どこに起って、どこへ行こうとするものか、という神秘について、切実な自問を試みなければならなくなってくる。世の進化論者は、この母性愛についても、やはり、たんにそれは物質的な親和力――原子と原子とが、たがいに相牽引する引力の当然の結果だというふうに考えなければならないであろうか。かれら進化論者は、はたして、東洋の古代思想家たちといっしょになって、すべての原子の性向は、一つの永久不変の道徳律によって律されている、そのうちのあるものは、喜、怒、哀、楽の四つの大きな感情をはっきり示している、だから、おのずからそれは神聖犯すべかざるものだ……と、あえて主張できるであろうか。顧みて疑わしいものである。そうなると、われわれは、われわれに決定を与えてくれる智者を、いったいどこに求めたらよいのだろう。われわれの最高至上の感情が、神聖犯すべからざるものだと知ったところで、この人類そのものが、やがては死滅すべき運命をもっている以上、そんなことが何の役に立とう。母性愛がいくら人類のために最善をつくしたところで、せっかくのその最善が、むだになってしまうようなことがありはしないか。
ちょっと考えると、このしょせん避けることのできない人類の絶滅は、われわれが想像できるあらゆる悲劇のなかで、最も暗たんたる悲劇、絶大なる悲劇に見えるにちがいない。けっきょく、われわれの地球は、いつか死滅してしまうにちがいない。大空の紺碧の霊気も雲散霧消してしまうだろうし、海は涸れ、土壌もなくなり、残るものは、ただ、砂と石とのぼうばくたる荒野、すべては枯れさらぼうた屍の世界と化してしまうに違いない。それでも、そのあと、しばらくのあいだは、このミイラの世界は、太陽のまわりをめぐるであろうが、それはただ、げんに死に滅びた月が、この地球の夜々をめぐっているのと同じようなもので、片面は永劫に焼けこげるような火焔を吹き上げ、片面は氷のような暗黒のまま、旋転するのである。こうして、髑髏のように白く禿げながら、めぐりめぐっているうちに、髑髏のようにさらされ、ひびが入り、やがて崩れ、しだいしだいに、火を吹く親なる太陽の方へと、じりじり引き寄せられて行き、とうとうしまいに、旋風のような太陽の息吹《いぶき》の閃光のうちに、あっというまに消え失せてしまうのであろう。すると、あとに残った惑星たちも、みなそれぞれ同じように、その跡を追いだす。やがて、巨大な太陽自体も、だんだん衰えてきて、光りの色がものすごく変ってくるとともに、がらがらと動揺しだすと見るまに、まっ赤になって、死の方へ傾いて行く。そして、最後に、この巨大な、ひびの入った燃えがらは、またどこかの大きな太陽の燃えくさのなかに巻きこまれて、あたかも物の怪《け》の見る夢の夢より、まだはかない濛気《もうき》となって、立ち消えてしまうだろう。
そうなったら、われわれのこれまでの働き、――底知れぬ深淵のうちに消滅して、何のよすがとなるべき痕跡もなくなってしまった、われわれの仕事は、いったい何の役に立つのか。そうなってしまったとき、母性愛などに何の価値があろうぞ。犠牲、希望、記憶、聖なる歓喜、聖なる苦悩、微笑と、涙と、清らかな愛撫、失われた無数の神々に対する無量の祈りとともに、人間の愛情の滅びてしまった世界に、何の価値があろうぞ。
東洋の思想家たちは、こうした疑念と危惧とに心を悩まされることはない。こういう疑念と危惧が、われわれ西洋人を悩ますのは、主としてそれは、われわれの古くから誤まっていた物の考え方と、その古くから誤まっていた物の考え方のために、われわれが古来霊魂と呼びきたったものが、じつは本質《ヽヽ》ではなくして、形態《ヽヽ》に属するものだということを知るのが、盲目的に恐ろしいからなのである。……形態《ヽヽ》というものは、これは永遠の存続のうちに、現われてはまた消えるものである。しかし、本質《ヽヽ》だけは、これは真《ヽ》である。百万の宇宙は消滅するとも、真《ヽ》なるものは失われない。全き壊滅、永遠の死――こういう恐ろしいことばも、これが真《ヽ》に相通ずるのは、永久不滅の法則以外にはないのである。形態は滅びるといっても、それは、波が引いて砕けるのと同じことである。波が引くのは、また新たに寄せ返すためである。――万物は、一として、滅するものではないのである。
雲と散じ、霧と消えてしまうわれわれの廃滅の濛気のなかには、人生にあったあらゆる本質、善とか悪とかをつくる力の遺伝、その親和力、その性向、滔々として幾百万億世のあいだに、積りつもった一切の力、人類に力をあたえた精力、昔からあったものも、現在あるものも、一切の存在物は、ことごとく、それぞれに生き残るであろう。そうして、生き残ったそれらの物は、生命と思想とを得るために、無慮幾千回となく、くりかえし形成されて行くだろう。変形も行なわれようし、変質も行なわれよう。親和力の多寡、偏向の増減によって、変化も生ずるだろう。なぜというのに、われわれの死骸は、そのとき、無数の他の世界の人類の死骸といっしょに混合しているはずだから。しかし、本質そのものは、何ひとつ失われはしない。われわれは未来の宇宙をつくるために、かならず、新たな智恵がしずかに生まれ出てくるべき物質に、われわれの要素を譲りのこすであろう。ちょうど太初のわれわれが、消滅した無数の世界から、われわれの精神作用を伝え受けたように、未来の人類も、われわれからばかりでなく、今日存在している幾百万の惑星から、同じようにそれを伝え受けることだろう。
われわれの世界の消滅は、これを宇宙の壊滅から見たら、われわれの消滅した考えの、そのわずか一つの、ごく小さな例にも当るまい。なぜかというと、われわれと同じ運命に遭遇すべき人類の住んでいる天体の数は、空に見える星の光りよりもはるかに多いのだから。
しかし、その無数の太陽の火と、それに随行する、目に見えない、幾百万という生きている惑星とは、いずれにしても、またふたたび現われるに違いない。そうして、おのずから消滅し、おのずからまた生まれ出た、その不可思議な宇宙は、永遠の深淵を超絶して、ふたたび恒星として回転をつづけて行くだろう。そして、そのとき、死と永遠の争闘をなしたところの愛は、ふたたびまた永遠の争闘を新たにくり返すために、新たなる無限の苦痛のなかから身を起こすことであろう。
かくて、母親の微笑の光明は、われらの太陽よりも長く、とこしなえに生きて行くのである。母親の接吻のよろこびは、星のまたたきよりも長くつづくであろう。母親の子守唄の声は、長く、のちの世の子を守る歌まで残るであろう。母親のやさしい信仰は、他の世界の神々――現在の時以外の時の神々にささげる祈りを、いっそう深くするであろう。母がみ胸の、あのうまき乳は、永劫につきることはないであろう。母なる乳の、あの雪のように白い流れは、われらが夜々の天に懸れる銀河が、永遠に虚空のかなたに消え果つるとき、われらが人生よりも、さらに完き人の世の生命をはぐくむために、いつまでも、いつまでも、こんこんとしてわき流れることであろう。
[#改ページ]
病のもと
わたくしは大の猫好きである。わたくしが、洋の東西、いろいろの時、いろいろの風土で飼った、いろいろの猫のことを書いたら、それこそ大部の本が一冊編めそうに思われる。しかし、この本は、猫の本ではないから、わたくしはただ心理的な理由から、タマのことを書くことにする。タマは、さきほどから、わたくしの椅子のそばで眠りながら、一種特別な声をたてている。その声が、わたくしに一種特別な心持をさそう。その声は、猫が子猫に呼びかけるときだけにかぎって出す声で、にゃあと震えるようにやさしい、それこそ、紛《まぎ》れもない愛撫の声である。横になって、長ながと寝そべっているそのようすを見ると、なにか、今しがた捕えたものでもつかんでいるような姿勢をしている。前足を、なにかつかむようにぐっと伸ばして、真珠色をしたその爪がぴくぴくうごいている。
この猫のことを、わたくしの家でタマと呼んでいるのは、なにもこの猫が美しいからなのではない。いや、美しいけれども、じつはタマという名は、女猫《めねこ》ならどこでもつける名前なのである。タマがはじめてわたくしの家に、けっこうな贈りものとしてつれてこられたときには、まだごく小さい、三毛の子猫であった。三毛の女猫は、日本ではめずらしいものとされている。〔日本では、雄の三毛猫が珍しいものとされている。ここは、たぶん、著者の思い違いだろう〕ある地方へ行くと、三毛の女猫は縁起猫で、鼠をよく捕るうえに、魔除けになると信じられている。タマは、ことし二歳である。わたくしは、どうもタマの血には、外国の血がまじっているように思う。その証拠には、タマは、日本の普通の猫よりもはるかに優美で、体つきもすんなりと細く、尾が目だって長い。この尾の長いことが、日本人から見ると、たったひとつの欠点になっている。おそらく、タマの先祖は、家康時代に、オランダかスペインの船にのって、日本へわたってきたのであろう。しかし、先祖はどこからきたにもせよ、タマはその習性からいうと、すっかり日本の猫になっている。たとえば、タマは米の飯を食べている。
はじめて子をもったとき、タマは、じつに見上げた母親になった。あまり子どもの世話に、あらんかぎりの精力と頭をつかいすぎたので、しまいには子どもを育てるのとその苦労とから、かあいそうに、おかしいくらい痩せてしまった。子どもに、しじゅう、身ぎれいにしておく方法を教える。遊ぶことを教える。跳ぶことだの、相撲をとることだの、餌を漁ることだのを教える。はじめのうちは、ただ自分の長い尻尾にじゃれつかせてばかりいたが、その後、ほかのおもちゃをいろいろ探してきた。野ねずみや、家ねずみばかりではない、蛙をもってくる、トカゲをもってくる、蝙蝠《こうもり》をもってくる。ある日などは、小さな八ツ目うなぎをもってきたが、これはきっと近くの田圃で、いろいろ苦心をしたあげくに捕えてきたものにちがいない。わたくしは、日が暮れると、いつもかならず、タマが台所の屋根から餌を漁りに出かけられるように、書斎へあがる階段の上の小窓をあけておいてやった。すると、ある晩のこと、タマはその小窓から、大きな藁草履を子猫のおもちゃにもちこんできた。タマは、それを原ッぱで見つけたのである。その原ッぱから、一丈もある板塀をのりこえ、家の壁をつたって、台所の屋根へのぼり、それから小窓の格子をくぐって、階段まで持ちこんだものに相違ない。その藁草履をもって、タマと子猫とは、朝まで大さわぎをして遊んでいた。なにしろ泥まみれな草履だから、階段は泥だらけにされた。初産をして、はじめて母になった猫で、タマくらいしあわせな猫はなかった。
けれども、二度目のお産のときは、運がよくなかった。その頃から、だいぶ離れたよその町内の友だち猫のところへ、しじゅう行くようになっていたが、ある晩、そこへ行く途中で、だれか乱暴な人間から疵をうけた。タマはぼんやりして、弱ってかえってきた。そして、子猫は死んで生れた。わたくしは、親のタマも死ぬだろうと思った。ところが、だれにも想像できないほど、早くなおってしまった。しかし、その後しばらく、明らかに、子どもをなくしたことに思い悩んでいたようである。
いったい、動物の記憶というものは、相関的な経験になると、妙に薄弱で、もうろうとしているものだ。しかし、動物の本然的な記憶、つまり、数えきれない幾百万の生活のあいだに、積り積った経験の記憶は、じつに超人的に鮮明なもので、ほとんど誤ることがない。……たとえば、水に溺れた子猫の呼吸作用を回復させる、親猫のあの驚くべき手練を考えてみるがいい。また、毒蛇のような、はじめて見る危険な敵にあったときの、あの教えられたこともない腕前を考えてみるがいい。あるいはまた、小さな動物と、その小動物の習性に関する広汎な知識、または、草木に関するその薬学的知識、餌をあさるとき、もしくは、戦闘のときにとる、あの戦略的腕前を考えてみるがいい。その知識たるや、実に広汎である。しかも、それをほとんど完全におぼえているのである。けれども、それはどこまでも過去の生活知識であって、現在の生活の苦労となると、その記憶はじつに気の毒なくらい貧弱である。
タマは、自分の子どもの死んだことをはっきりとおぼえていない。子どもはあったはずだ、ということだけ知っている。であるから、自分の子どもが庭に埋められてから、だいぶたった後まで、ほうぼうさがしまわったり、呼んでまわったりしていた。友だちにもいろいろ愚痴をこぼしていた。わたくしにも、押入れだの戸棚だのを、子猫はもう家にいないのだよということを見せてやるために、何遍となく開けさせたりしたが、そのうちに、もうこれ以上探しても駄目だということが、やっと自分にも納得がついてきた。そのかわり、タマは、このごろは夢のなかで、自分の子どもと戯れている。それであんなやさしい声を出すのである。タマは、その夢のなかで、子どものために、いろんな小さなまぼろしを捕えてやるのだろう。ひょっとすると、遠い記憶のなかの、どこかの薄ぼけた小窓から、まぼろしの藁草履をさえもってくることがあるのかも知れない。……
[#改ページ]
真夜中に
まっ暗だ。寒い。そして静かだ。あまりまっ暗で静かだから、おれは、自分のからだがまだあるかどうかと思いながら、自分で触ってみる。それから、おれは手さぐりをして、おれがまだ地面の下に、あの光りと音の永久に届かぬところへ埋められているものではないことを、確かめる。……時計が三時を打つ。おれは、もう一度太陽を見るだろう。
少なくとも、もう一度だ。ひょっとしたら、数千度かも知れん。しかし、いつかは一度、けっして夜の明けることのない夜が、いかなる音も、けっして破ることのない静寂が、くるにちがいない。
これは確かなことだ。おれが存在しているという、この事実が確かであるように、確かなことだ。
それ以外のことは、なにも確かなことはない。理性は欺く。感情も欺く、いっさいの感覚も欺く。
しかし、その夜がくるという確かな知識には、なんの欺瞞もない。
物体の実在を疑え。霊魂の実在を疑え。人間の信念を疑え。神を疑え。――正と邪とを疑え。友情と愛、美の存在、恐怖の存在を疑え。――けれども、ただ一つ、そこには、つねに疑うことのできないものが残っている。そのただ一つとは――無窮の、見えざる、暗黒の実在が、これである。
一切のものに、この闇が来るのだ。――生物の眼にも、天の眼にも。――一切のものに、この運命が来るのだ。――虫けらにも、人間にも、蟻の塔にも、都会にも、どんな人種にも、どんな世界にも、太陽にも、銀河にも。避けることのできない崩壊と、消滅と、忘却とが来るのだ。
記憶なんかしまい、考えなんかしまいと、いくら人間がふんばってみたところで、しょせんは駄目だ。虚空を隠そうにも、古い信念が織った帳《とばり》は、永久に引き裂かれてしまった。――墳墓は、おれたちのまえに、露《む》き出しになっている。――そのはずだ、破壊に覆《おお》いはないからな。おれは、おれが存在していることを、はっきりと信じている。そのように、おれはまた、おれが死ぬことも、はっきりと信じなければならない。――それが恐ろしい。……だが――
(おれは、実際、おれが生きていると信じなければならないのだろうか。)
おれが、そんな自問自答をやっていると、そのとき、闇《ヽ》が、おれのぐるりへ壁のように立ち塞がって、こんなことを話しかけた。
「おれはただの影《ヽ》だ。やがて、そのうちには滅びるだろう。しかし、実在《ヽヽ》が生れる。実在《ヽヽ》は滅びまい。
おれはただの影《ヽ》だ。おれのうちには、光りがある。一億万の太陽の徴光がある。それに、おれのうちには、声がある。実在《ヽヽ》が生れれば、それといっしょに、光りも、声も、蘇生も、希望も、消えてなくなるだろう。
だが、おまえの頭のはるか上には、いずれこのさき、幾百万年たっても、やっぱり太陽はあるだろう。――そうして、暖かさや若さ、愛や喜び、……果もなく蒼い空と海、――夏咲く花のかおり、野べや木立の囀《さえず》りすだき――影のゆらめき、光りのひらめき、水の笑いや乙女の笑いがあるだろう。だが、おまえにあるのは、闇と沈黙、――それと冷たい盲目の匐《は》い歩きだ」
おれは答えた。
「そんな考えは、今のおれには恐ろしくてならん。だが、それは、おれが今眠りから飛び起きたばかりだからだ。おれの頭がはっきり醒めた後なら、恐くはない。なぜなら、この恐いのは、ほんの動物の恐怖という奴だからな。――幾百万年の本能生活のこのかた、このおれが譲り受けてきた、深い、そのくせ漠然とした恐怖だ。……もうそれがなくなって来たぞ。見ろ、おれはいま、死を夢のない眠りだと、――喜びだの苦しみだのという感覚のない眠りだと考えることができてきたぞ」
闇《ヽ》がささやいた。――
「なんだ、その感覚というのは」
だが、おれは答えることができなかった。すると、闇《ヽ》がずっしりと重くなって、おれのことを押さえつけていった。
「おまえは感覚を知らないのか。それでいて、どうしておまえのからだに――おまえのからだの分子に、おまえの霊魂の原子に、苦痛があるかないかが、わかるのだ。……原子――そいつは一体、どんなものだ」
おれは、また返答ができなかった。すると、闇はいよいよ重く、――ピラミッドの重さになった。――闇の囁きが、叱りつけるようにいう。――
「原子の斥力、原子の引力とは、一たいどんなものなんだ。そいつの物凄い抱着と飛躍。……それは一体、どんなものなんだ……燃えつくした生命の煩悩。――飽くことを知らぬ欲望の焔。――永遠の憎悪の氷。――涯《はてし》なき苛責の狂乱。……おまえは知らないのか。しかし、おまえは、いま未来には苦痛がないといったな。……」
おれは、そのとき、この嘲弄者にむかって、叫んだ。
「おれは目がさめた。――目がさめたぞ。――すっかり醒めたぞ。もう恐れることはなくなった。――そうだ、思い出したぞ。……今ここにいるおれの全部は、今までいたおれの全部だ。おれは、時《ヽ》の始まるその前からいたのだ。――そのおれは、永遠《ヽヽ》が循《めぐ》りを止める究極のそのまだ先まで、生きて行くのだ。おれが死ぬように見えたって、それはただ、幾百万の、幾百万億の変った形になるだけのことだ。形態としては、おれはただ、波《ヽ》にすぎない。本質としては、おれは海なのだ。岸べというもののない海《ヽ》なのだ。――疑惑と、苦しみと、恐怖とは、おれの深い深い海のおもてに、たちまち来ては、たちまち去って行く、ほの暗い影にすぎない。眠っては、時《ヽ》のまぼろしを見、醒めては、時《ヽ》なきおのれを知る。形もなく、名もない生命をもっているもの、初めと終りと同じきもの、墳墓と墳墓をつくるもの、屍と屍を啖《くら》うもの――一切は、おれと同じものだ……」
雀が一羽、屋根で囀った。ほかの一羽がそれに答えた。ものの形が、しだいに、柔らかな灰色の薄らあかりのなかで、はっきりしだしてきた。ほの暗い闇が、しずかに光ってきた。目のさめた町のつぶやきが、おれの耳にきこえてくる。それがだんだん大きくなり、だんだん多くなってくる。やがて、模糊たるものが、もも色になってきた。
そのとき、美しい、きよらかな太陽が――力強い生命と力強い腐敗をあたえるもの、おれの力と同じく、窮まりない無限の生命の荘厳な象徴である、あの太陽がのぼった。
[#改ページ]
草ひばり
一寸の虫にも五分の魂(日本のことわざ)
籠の高さは、二寸きっかり。幅は一寸五分。軸がついていて、それで回転する小さな木の戸は、指の先がやっとはいるくらいだ。それでも、こんな小さな籠で、歩いたり、跳ねたり、飛んだりするには、けっこう広いくらいなのだ。なにしろ、ごく小さいやつだから、そいつを見るには、茶色の紗《しゃ》のきれが張ってある籠の横腹から、よほど気をつけてのぞかないと、見えない。わたくしは、いつも、そいつの居所をさがしあてるまでには、明るいところで、なんども籠をぐるぐる回して見る。すると、やっこさん、紗張りの天井の隅っこの方に、いつもからだを逆さにして、抱きつくようにじっと止まっている。
まず、自分の身長よりもはるかに長く、しかも、日に透かさなければ目に見えないくらい、細い一対の触角をもった、普通の蚊ぐらいな大きさのこおろぎと思えばいい。日本の名は、クサヒバリ。縁日へ行くと、一匹十二銭ぐらいしている。つまり、自分と同じ目方の金《きん》の値段よりも、ずっと高いのだ。こんな蚊みたいなものが、一匹十二銭もするとは。……
昼間は、たいがい寝ているか、沈思黙考にふけっている。さもなければ、茄子《なすび》か胡瓜《きゅうり》のかけらにとっついている。この茄子と胡瓜は、毎朝入れてやらなければならない。……これで、この先生をしじゅう身ぎれいにして、餌をじゅうぶんにあてがって飼っておくのは、なかなかどうして、手がかかる。まあ、諸君もいちどごらんになったら、こんなおかしなくらい、ちいぽけな生きもののために骨など折るのは、馬鹿の骨頂だと思われるだろう。
ところが、ひとたび日が落ちると、この先生の、ごく小さな小さな塊が、ぱっと目をさますのである。すると、えも言われぬ、妙《たえ》にあやしき楽の音が、へやいっぱいに鳴りひびき出す。まず、きわめて小さな電鈴が、かすかにかすかに顫えて鳴る、銀のトレモロとでもいおうか。あたりがだんだん暗くなるにつれて、声はいよいようるわしく、あるときは、家じゅうがその仙楽に打ちふるうかと思われるほどに高くなり、またあるときは、かくとまで思い及ばぬ絲の音の、絶えなんとしてはまたつづく、縷々たる声に落ち沈む。が、声は高くとも、低くとも、耳をつらぬく妖しいその音色にはかわりがない。夜もすがら、この豆法師は、そんな歌をうたい奏でて、さて、寺々の明けの鐘がごんと鳴るとき、すなわち息《や》むのである。
ところが、このかあいらしい歌は、じつは恋の歌なのである。まだ見もやらず知りもせぬものを恋い慕う、そこはかとない恋の歌なのだ。もっともこの小さな虫が、この世の生涯で、いつ見かけてか知りそめの、……なんていうことは、ありようわけがない。過ぎにし世、幾代《いくよ》のむかしの先祖ですら、小夜ふけし野べの手枕《たまくら》、恋に朽ちなん歌の意味などを知っていたものはなかろう。どうせ、どこかそこらの虫屋の店の、素焼の泥がめのなかかなにかで孵《かえ》った卵から、ひょっこり飛び出したやつだ。それからこっち、世帯をもったのは籠の中ばかりという先生だ。それを、やっこさん、幾百万年のそのむかしから、歌いつぎ、奏でつぎしてきた曲のとおりに、しかも、その歌のひとふしひとふしの確かな意味さえ知っているかとばかり、すこしの間違いもなく歌っているのである。むろん、歌なぞ教わったことはない。してみると、これは有機的記憶の歌だ。遠い先祖のたましいが、夜ごと、片岡の露しとどなる草のかげから、張りのあるそのうわ声をひびかせたおりの、あの幾千万という仲間たちのおぼろげな記憶の歌なのだ。あのときは、その歌が恋となり、そして死となった。ところが、この先生、いまはその死ぬことはさっぱりと忘れて、恋のことだけをおぼえている。さてこそ、ついぞ来てくれもしない花嫁御寮を呼びつづけながら、こうして歌をうたっているわけだ。
してみると、この先生の恋は、いまは返らぬ昔を、無意識に恋い慕う恋なのだ。この虫は、過ぎし世の塵泥《ちりひじ》にむかって叫んでいるのだ。沈黙と神々にむかって、時の還り来らんことを呼んでいるのだ。……人間の世の恋人たちも、自分ではそれと知らずに、だいぶこれに似たことをしているようだ。人間の世の恋人たちは、その迷いを理想《ヽヽ》と呼んでいる。理想とは、詮じつめれば、それは種族の経験の単なる影、つまり、有機的記憶のまぼろしだ。げんに生きているこの世は、理想というものには、ほとんど交渉をもっていない。……この豆法師にも理想はある。すくなくとも、理想の痕跡がある。けれども、どんなばあいにも、この虫の小さな願いは、いくら口に叫んで哀訴してみたところで、聞きとどけられることはないのである。
これは、しかし、わたくしばかりの罪ではない。わたくしはかねがね、この虫に雌をあてがうと、鳴かなくなって、じきに落ちると注意されていた。しかし、毎夜々々、この酬いられない、美しい哀訴の声を聞いていると、なにか気がとがめてならず、しまいにはそれが昂じて、一種の苦痛となり、良心の苛責となってきた。そこで、わたくしは、雌を一匹買ってやることにした。ところが、時期がもう遅すぎたので、売っているクサヒバリは、雄も雌も一匹もなかった。虫売りはわらって、「もうお彼岸ごろに死んじゃったはずですよ」といった(そのときは、もう十月の二日だった)。その虫売りは、わたくしの書斎に上等の暖炉があって、いつもわたくしが、温度を華氏十五度以上にしていることを知らなかったのである。うちのクサヒバリは、十一月の末になっても、まだ鳴いている。わたくしは、それを大寒の時分まで生かしておきたいものだと思っている。もっとも、この虫と同じ代《だい》のものは、おそらくもう、みんな死んでしまったに違いない。金ずくにも何にも、もう雌は一匹もさがせまい。もっとも、自分で雌をさがせるように、虫を逃がしてやってもいいが、日中は、庭にいる蟻だの、百足だの、土蜘蛛だのという自然の敵の手から、運よく逃げおおせることができるにしても、夜はとうてい、ただのひと夜も明けがたまで生きてはいられまい。
昨夜――十一月二十九日――わたくしは机に向かっていると、いつにない妙な感じをおぼえた。なんとなく、へやのなかが空虚な感じがしたのである。そのうちに、ふとわたくしは、うちのクサヒバリがいつになく黙りこんでいるのに気づいた。ひっそりしているその籠のそばへ行ってみると、クサヒバリは、石のように白ちゃけて固く干からびた胡瓜のそばに、冷たくなって死んでいた。三、四日、たしかに物を食べずにいたのである。そのくせ、死ぬつい前の晩には、あんなに驚くほどの声を出して歌っていたのだ。わたくしは、だから、ほほう、先生、お腹《なか》がいいとみえるなと、そのとき愚かにも考えたのであった。うちの書生のアキというのが虫が好きで、いつもそれが餌をやっていたのだが、そのアキが一週間ほど暇をもらって国へかえったので、クサヒバリの世話をする役は、女中のハナにかわっていた。ハナは、あまり思いやりのある女ではなかった。虫のことを忘れたのではありません。茄子がなかったのです、とハナはいうが、茄子がなかったら、かわりに玉葱でも胡瓜でも、小さく切ってやればよかったのだ。ハナはそれを考えなかったのである。わたくしは、ハナを叱った。ハナはていねいに悔悟の意を述べたけれど、しかし、仙郷の音楽は、とうとうそれきり止んでしまった。ひっそりとしたその静寂が、わたくしを責める。暖炉があるのに、なんだかへやのなかがうそ寒い。
馬鹿な。……たかが、麦粒の半分ほどもない、小さな虫けらのために、善良な小女に気まずい思いをさせるなんて。……とは思うけれども、その、たかがちっぽけな生きものが、ふっと消えてなくなってしまったということが、まさかこんなにまでと思うほど、わたくしの心を痛めるのである。もちろん、これはただ、ある生きものの願望――こおろぎのでも、何のでもいい――について、しじゅう考えつづけてきた習慣が、知らぬうちに、一種の空想的興味を――関係が切れてからはじめてそれと気のつく、愛着の念をうんだのであろう。わたくしは、ひっそりとしたその晩の静けさのうちに、その虫の微妙な声の妙味を、とりわけ身にしみじみと感じたのである。あたかも、その虫の微小ないのちが、神にすがるようにわたくしの意見と利己的快楽にすがりついて、その小さな籠のなかにいる小さな魂と、わたくしのなかにある小さな魂とが、実在世界の大海のなかにあって、永遠に同一不二のものだということを語っているかのように。……あの虫の、いわば守護神であったわたくしの頭が、しきりと夢ばかり織りなすことに向けられていた間に、あの小さな生きものは、来る日も、来る夜も、食に飢え、水に渇していたのかと思うと、……しかし、それにしても、よく最後まで健気に歌っていてくれたものだ。しかも、その最後たるや、まことに見るもみじめな最後だったのに。先生、自分の足を食べてしまったのだ。……神よ、われらいっさいを、とくに、女中のハナを許したまえ。
だが、けっきょくのところ、飢えてみずから自分の足をくらうというのは、歌の天才に祟《たた》られているものが、たまたま蒙る最悪の凶事ではあるまい。世には、歌わんがために、自分で自分の心臓をくらう、人間のこおろぎもいるのである。
[#改ページ]
夢を食うもの
短夜や貘《ばく》の夢食ふひまもなし 古句
その動物の名は、「獏《ばく》」ともいい、また、「しろきなかつかみ」ともいう。とくべつの役柄は、夢を食うことである。獏は、物の本に、いろいろに書かれている。わたくしのもっているある古い書物には、雄の獏は、馬の胴に獅子の頭、象の鼻に牙、犀の額毛に牛の尻尾、それに虎の足をもっていると記してある。雌の獏は、雄とはだいぶ形がちがうそうだが、その違いははっきり書かれていない。
むかし、漢字の盛んだった時代には、日本の家ではよく獏の絵をかけておく習慣があった。獏の絵は、ほんものの獏とおなじように、効験の力があると思われていたのである。そういう習慣について、わたくしの持っている古い書物のなかに、こんなことが書いてある。
『松声録』に、黄帝が東の海岸へ狩に出かけたとき、あるとき、形けだものにして、人語を解する獏というものに会った。黄帝のいわれるのは、「天下泰平の時、われら何の故をもって、なお怪物を見るべきであるか。悪鬼を退治するために、獏が必要なら、獏の絵を、人の家の壁にかけておくがよかろう。そうしておけば、たとえ妖怪が現われても、なんの害をも加えることができないだろう」
そういって、ながながと悪鬼|羅刹《らせつ》の名簿を掲げて、それの現われる時の前兆が書いてある。
[#ここから1字下げ]
鶏がやわらかな卵を産むとき、その悪鬼の名は「タイフウ」
蛇がたがいに絡みあうとき、その悪鬼の名は「ジンズウ」
犬が耳をうしろへ向けて歩いているとき、その悪鬼の名は「タイヨウ」
狐が人間の声で話すとき、その悪鬼の名は「グワイシュウ」
人間のきものに血のあらわれるとき、その悪鬼の名は「ユウキ」
米櫃が人間の声で話すとき、その悪鬼の名は「カンジョウ」
夜の夢が悪夢であるとき、その悪鬼の名は「リンゲツ」
[#ここで字下げ終わり]
その古事には、更にこういう事が説かれてある。「いつでも、こういう魔がさしたときには、獏の名を呼ぶがよい。そうすれば、悪鬼は、たちまち、地下三尺の下へ沈んでしまう」
しかし、わたくしは、この悪鬼の問題については、語る資格がない。それは、中国の鬼神学という、まだ人の知らない恐ろしい世界のもので、日本の獏の問題とは、事実上、全然関係のないものである。日本の獏は、一般に、ただ夢を食うものとして知られているに過ぎない。また、この動物を日本人が崇拝している最も著しい例としては、王侯の用いる漆塗りの枕には、かならず漢字の「獏」という字が、金で書いてあることである。この枕に眠るものは、枕に書いてある文字の効力によって、悪夢に悩まされることがないと考えられていた。今日では、こういう枕は、もはや探そうと思っても探せないし、獏(また、白沢《はくたく》ともいう)の絵でさえ、よほど骨董ものになっている。しかし、昔からある、獏に願うことば、「獏くらえ、獏くらえ」ということばは、今でも人の話しあう話のなかに残っている。諸君が夜|魘《うな》されて目のさめたときとか、不吉な夢を見て目のさめたときとかに、すぐとこの文句を三度唱えると、獏がその夢を食って、凶を吉に、恐怖を喜びにかえてくれるのである。
*
最近、わたくしが獏を見たのは、土用のうちの、あるたいへん蒸暑い晩のことであった。なんだか妙に苦しくなって、わたくしは目がさめたばかりのところであった。時刻は丑の刻である。そこへ、獏が窓からはいってきて、たずねた。「なにか食べるものがありますか」
わたくしは喜んで答えた。
「ありますよ。……まあ獏さん、わたしの夢を聞いてください。
なんでも燈《あかり》のたくさんついた、大きな白い壁のへやでした。そこにわたしが立っているのですね。ところが、敷物のしいていないそこの牀《ゆか》の上に、わたしの影がうつっていない。それから、ひょいと見ると、すぐそこの寝台の上に、わたしの死骸がのっています。いつ、どうして死んだのか、わたしには覚えがありません。寝台のそばには、六、七人の女が腰をかけていますが、どれも知った顔の人はいません。それが、みんな、若いともつかず、年寄りともつかない。そして、そろって喪服を着ています。ははあ、お通夜に来た人たちだなと、わたしは思いました。だれも身動き一つするものも、口一つきくものもありません。あたりがしんとして、物音一つしないから、わたしはなんとなく、だいぶこれは夜が更けたな、と思いました。
すると、そのとたんに、わたしはそのへやの空気のなかに、なんともいうにいわれない――まあ、意志の上へのしかかるような重苦しさとでもいうか、とにかく、そういう目に見えない、なにか人を麻痺させるような力が、しずかにひろがってきているのに気がつきました。そのうちに、お通夜にきていた人たちが、おたがいに、そっと見張りあいだした。恐くなってきたんですね。すると、そのなかの一人が、つと立ち上がって、音も立てずにへやを出て行きました。それから、一人立ち、二人立ちして、みんな一人ずつ、影のようにふわふわへやを出て行ってしまった。けっきょく、わたしと、わたしの死骸だけが、へやに残りました。
燈《あかり》は、あいかわらず、かんかん輝いています。けれども、あたりを籠めている例の恐ろしい感じは、だんだん濃くなってきます。お通夜の人たちは、それに気がつくと、同時に出て行ったのでしたが、わたしはまだ逃げる暇はある、もう少しいても大丈夫だと思っていました。つまり、恐《こわ》いもの見たさ、あの好奇心がわたしを引き止めたのですね。わたしは、自分の死骸をよく見て調べてみたいと思いました。それで、それに近づいて行った。そして見ました。――ところが不思議。その死骸というのが、おっそろしく長く見える。――なんだかどうも、不自然に長いのですよ。……
そのうちに、片方の瞼が動いたように思われました。もっとも、動いたように見えたのは、ランプの焔がゆれたせいかも知れません。その目が、なんだか明きそうだったから、わたしはそっと用心しいしい、かがんで見ました。
『これがおれだな』わたしは、かがみながら考えました。『しかし、こりゃあ、だんだんへんになって行くぞ』……死骸の顔が、だんだん伸びて行くじゃありませんか。『これは、おれじゃあないぞ』わたしは、いっそう腰をかがめながら、もう一度考えてみました。『しかし、ほかの人間のわけはないな』そう考えると、きゅうに、いいようもなく恐くなってきました。死骸の目が明《あ》きゃしないかと思ってね。……
ところが明きました。――その目があいたのです。――明いたと思うと、いきなりそいつが、わたしに飛びかかってきました。――寝台の上から、わたしを目がけて飛びかかって、――唸る、噛みつく、ひっかきむしる。わたしのことをぎゅっと押さえて、どうしても離さない。こっちはもう恐くて、気違いみたいになって、遮二無二争いました。いやもう、その目の、その唸り声の、その手触りの気味のわるさ。あまりの気味のわるさに、こっちは気も顛倒《てんとう》して、からだもなにもはち切れそうになったとき、ふと気がついてみると、どうしたわけやら、自分の手に斧が一|挺《ちょう》あります。これ幸いと、わたしはその斧で、その唸るやつを、打って、打って、打ち割り、木ッ葉微塵にたたきつぶしました。――とうとう、そいつは、形もなにも見分けのつかない、恐ろしい、血だらけの塊になって、わたしの目のまえに延びてしまいました。――それが、このわたしの、見るも恐ろしい死骸だったのです。……
「獏くらえ、獏くらえ、獏くらえ。食べてください、獏さん。この夢を食べてください」
「いや、わたしは、めでたい夢は食べません」と獏は答えた。「そいつは、たいへん運のいい夢ですよ。そんな運のいい夢は、ほかにありませんよ。斧、――そうだ、妙法の斧をもって、自我の怪物を退治する。こりゃあ、あなた、上々吉の夢です。わたしは仏の教えを信じます」
そして、獏は窓から出て行った。わたくしは、そのあとを見送った。――獏は、月の照り渡った屋根の上を、ちょうど大きな猫のように、棟から棟へと、音も立てずにしずかにとびうつりながら、飛んで行った。(完)
[#改ページ]
八雲と怪談 平井呈一
「超自然の物語など、すぐれた文学のなかではすでに時代遅れのものだと考えるのは、大きな誤りだとわたくしは申したい」と、八雲は明治三十年ごろ、東京帝国大学で文学部の学生たちにのべた「小説における超自然的要素の価値」と題する講義の冒頭でいっています。この講義は、八雲の怪談を考察するうえに、一つの重要な鍵となるべき所説であって、まだあまり誰もそういう方面に着目するもののなかった時代に、大学の講義の題目にこれをとりあげたのは、さすがに八雲らしい企てで、しかも創意と卓見がうかがえる点、古今独歩の感が深いのであります。
八雲はこの講義のなかで、主として怪談の実作者としての立場から、文学・芸術におけるghostlyなものの重要性を強調し、その実例としてイギリス十九世紀の作家ブールワー・リットン卿の The House and the Brain を世界最上の怪奇小説として挙げ(余談ながら、このリットンの名作は、先年、わたくしは「幽霊屋敷」という題で翻訳したことがあります)、さらに夢と怪談の関係を分析し、すべての怪談は夢から出たものだと断定しています。この夢との関係は、あらゆるファンタジックな文学の鉄則のようなもので、エドガー・アラン・ポー然り、ポー以来の鬼才といわれるアメリカの怪奇作家H・P・ラヴクラフトもまた然りであります。八雲自身は申すまでもありません。
さて、八雲の怪談でありますが、日本では八雲といえば怪談、怪談といえば八雲を思い出すほど、怪談は八雲のお家芸と考えられているようなかっこうですが、八雲は日本に来てから怪談を書きだしたのではありません。アメリカで新聞記者をしていた若い時分から、八雲は怪談を病的なくらい愛好し、その当時から自分でもかずかずのすぐれた怪談を書いてもいますし、またゴーチエその他の作家の書いた数多くの怪談の翻訳もしています。最初にかの地で著わした Stray Leaves from Strange Literature(飛花落葉集)は、東西の古い奇書珍籍のなかから拾った怪奇談叢ですし、次に著わした One of Cleopatra's Nights はゴーチエの怪談の翻訳集ですし、その次に著わした Some Chinese Ghosts(中国怪談集)は、題名の示すとおり、中国の怪談集です。そのほか、その時代に新聞に書いた雑報記事にも、怪談めいた話や幽霊探訪記などがたくさんあります。紀行、エッセイ、友人に送った書簡、――じっさい、当時かれが書いたいっさいのものに、かれのいわゆる霊的《ゴーストリー》なものの影のさしていないものは一つもないといっても、けっして言い過ぎではないようです。
いったい、なぜそんなに八雲は怪談を愛好し、なぜそんなに霊的なものに興味をもったのでしょうか?
もちろんそれは、八雲の生まれながらの気質、素質、性向がそれを決定させたのに違いありません。それの手がかりとなる資料に、「夢魔の感触」というエッセイがあります(「明暗」所収)。これは八雲が幼いころ、灯火を消したまっ暗な部屋にひとりで寝かされたときの、お化けの幻想を書いたものですが、八雲の生まれながらのファンタジックな素質を知る好箇の資料で、また同じ「明暗」のなかにある「ゴシックの恐怖」というエッセイなども、やはり同様のものです。それらのものを見ると、なるほど八雲は生まれながらの怪談作家なのだなという消息がよくわかります。
人間をその性格から大別すると、リアリストとロマンティストの二つの型に分けることができますが、生まれながらにして幻想的な傾向の強い人は、その素質の必然的な成長から、いきおい、多くロマンティストになる宿命的条件をそなえているというのが通説になっています。たとえば、ゴーチエがそうですし、ポーがそうです。そして、ロマンティシズムとは、人生に奇を求める一つの冒険的な精神活動であるとすれば、ロマンティストが奇談を好み、異国的なものを求め、冒険を愛し、怪談を愛好するのは理の当然で、ゴーチエがすぐれた怪談を書き、若いロマンティスト八雲がそれに深く傾倒したのは、これまた自然の結果であるといえましょう。――「風変りなもの、奇妙なもの、珍奇なもの、異国的なもの、怪奇なものの愛好に身を没頭させるのが、自分の気性に合っている」と、そのころ友人にあたえた手紙のなかで、八雲はそう告白しています。
ところで、そうした八雲の青年時代の精神形成の上に、当然時代の思汐が大きな影響をあたえたことも、見のがすことができないでしょう。そこで、ごく簡単に当時をふりかえってみますと、ちょうど八雲が青年期を過ごした十九世紀の後半から二十世紀の初頭にかけては、ヨーロッパは近代科学の台頭につれ、「どこから、どこへ」の物質の究極を追求する哲学的探求心が高まり、人間の死後の生命、霊魂のゆくえというようなことに世人の関心があつまった時代で、しかし中世以来の暗い迷信を近代科学がまだ完全には払拭しきれずにいた過渡期のところへ、一方には、まるで中世を復帰させたようなダニエル・ホームだの、ユーサピア・パラディオなどのような霊媒者の怪人物があらわれたり、やれ降神術だ、透視術だ、千里眼だといって、世はあげて奇怪なスピリチュアリズムに撹乱され、メスメルの動物磁気論によって、催眠術が流行したりして、ほとんど世界中が心霊的な新しい驚異に狂奔した時代であります。オリバー・ロッジや、フレデリック・マイヤーズ博士や、ウィリアム・ジェームズなどという、当時西欧の学界・思想界の代表的な人たちが肝入りになって、心霊研究協会なるものがイギリスに創設されたのも、やはりこの時代(一八八二年)で、一方小説界では、八雲が激賞したリットン卿の「幽霊屋敷」をはじめとし、クリスマス・キャロルを書いたディケンズの慫慂《しょうよう》で、レ・ファニュやコリンズの怪奇スリラーが喜ばれ、ストーカーの「ドラキュラ」(一八八六年)が出て一世を震骸させ、アメリカはアメリカで、天才ポーの出現によって、新大陸にも同調の気勢をあげるといった時代です。若いハーンがこうした当時の風汐のなかで、同時代の人として多感な時期を過ごしたということも、看過してはならないことだと思います。
以上、八雲と怪談の因縁について、ごくかいつまんで述べたわけですが、さて日本へきてから書いた八雲の怪談は、どのようなものになったでしょうか? おそらく八雲は日本にきて、日本の風土や伝統、日本人の因習や信仰を日ましに深く知るにつれて、日本の風土と国民の信仰が、いかに怪談の貴重な温床であるかを知って、大きな喜びを発見したに違いありません。最初の紀行 Glimpses of Unfamiliar Japan(日本瞥見記)あたりには、あまりまだ現われていませんが、日に月に日本人の生活に深くなじむに従って、庶民からじかに聞いたナマの怪談が、紀行や随筆のなかにだんだん多く出てきます。日本の古い怪談集を読み漁って、日本に取材した怪異談を試作的に書きはじめたのは、それよりだいぶ後になります。「明暗」や「日本雑記」にあるものは、誰が見ても、まだまだそうした試作の域を出ないものが多いようで、古典のダイジェスト版といった程度の底の浅いものが散見されます。それが「骨董」「怪談」に至って、にわかに純化渾一された、密度の高い名作に昇華するのでありますが、その経緯をたどるまえに、ここでちょっと念のために申しておきたいのは、ひとくちに怪談といっても、怪談にもその主題、題材によって、いろいろの種類があることです。たとえば、幽霊のでてくる、いわゆる ghost story(怪談)もあれば、異常な怪異をあつかった、いわゆる strange story(奇談)もあるし、また恐怖そのものを主題にした horror story(恐怖小説)もありましょう。さらに内容の上から細かく分類すれば、まだまだもっといろいろの名称がつけられましょうが、普通それらを総括して Weird Tales(怪奇小説)とか、Supernatural Tales(超自然小説)と呼んでいるようです。怪奇小説はとかくエンタテイメントを主にして書かれるものが多く、そういうモーティヴの浅いものは、どうしても煽情的な恐怖を追うところがら、俗悪なグロテスクに落ちるものが多いのですが、八雲の晩年の作品は、そういう低いものから高く擢《ぬき》んでています。これは何から来ているかといえぱ、モーティヴの真面目さ――つまり、霊魂に対する八雲の信念、人間性に対する深い洞察から生まれたものだからだといえるでしょう。そして、それを培養したものに、思想的な影響としては、ハーバート・スペンサーの思想と、仏教、および日本の神道が、いろいろの意味で大きな力となっていることを見のがしてはならないと思います。
素材の上から見ますと、日本に取材した八雲の怪談には、一、二の例外を除いて、すべて粉本《ふんぽん》があります。その粉本も、「日本霊異記」や「今昔物語」のような古典を除くと、ことごとくみな江戸時代に刊行された、通俗な怪談本であります。まいど申すように、八雲の怪談は、それらの粉本の逐次訳でもなければ、勝手に歪曲した翻案でもありません。筋を原作にかり、近代小説として足りないものを八雲が補って書いた、醇乎たる創作として憚りないものであります。それについて、わたくしは二十年ほど前、はじめて岩波文庫に「骨董」と「怪談」を翻訳したとき、巻末の解説に、次のように記したことがあります。
[#ここから1字下げ]
ヘルン〔ハーン〕の『怪談』はこれらの日本の妖怪談の単なる逐次訳でもなければ、また訳述でもない。『怪談』の諸篇はじつは骨をかれに籍りたヘルン自身の真個の創作である。わたくしはこの事実を原作との比較の上に闡明《せんめい》しようと企てた。ヘルンがどのように原作を換骨奪胎したか。なにを骨に残し、なにを肉に加えたか。わたくしはこれを詳述し、併せてヘルンの作家的手腕を論じようとして「臥遊奇談」以下の諸書を図書館その他に求めたが、遺憾ながら本書の校了の日までにはそれを獲《え》ることができなかった。(中略)次に『怪談』の諸篇に最も著しく感ぜられるのは、その簡古なる文章である。これは啻《ただ》にヘルンの文章が年とともに古淡の域に達したのだと簡単に言い去ってしまうべき筋合のものではあるまい。年少ゴーチエの如き瑰美豊麗《かいびほうれい》の文章に心酔したヘルンの文章が、かくの如き簡潔蒼古の味わいを添えるに至ったについては、わたくしはヘルンの中の西欧の精神と東洋の精神との交渉について深く思いを致したい。旧著『日本雑事』などでもヘルンは夙《つと》に秋成の「雨月物語」の翻訳を試みていた。しかしあれは秋成の原作に較ぶれば文章としても到底原作に及ばず、また創作の域にも達していなかった。それにしても、あの試みが更に長じて『骨董』の「古い物語」となり、更に熟して『怪談』の諸篇の創作とまで凝り成ったと見るのはあながち不当な見方ではあるまい。『怪談』の中の或ものの如きは殆ど秋成のそれに比疇《ひちゅう》するかと思われるほどの凄涼なる鬼気を読むものに感ぜしめる。『怪談』が世の凡百の ghost storiesとその質と精神に於て全く類を異にしているのは偶然ではない。その質とはヘルンの作家的手腕である。その精神とはヘルンが怪異に対する異常な信念である。茲《ここ》に注意すべきは、ヘルンが「怪談」の粉本となしたものは、多くは、江戸の通俗的怪談本である。いづれもそれは『雨月』の如き高い文学的価値をもったものではない。ヘルンはそれらの巷説的説話に醇乎たる創作的生命を吹き込んだ。それと同時にヘルン自身の文学精神は日本――或いは広く東洋といってもいい――から貴重なる何物かを摂取したのである。『怪談』はこの東西精神の文学的交易の渾然たる結実である点に於て、日本に関するヘルンの他の著書のうちでも特殊な価値をもつものでなければならない。
[#ここで字下げ終わり]
八雲がなにを骨にのこし、なにを肉に加えたか? この八雲が肉に加えたものが、じつは肝心なのであって、その点、あるいは多少のご参考になるかとも思いますので、筑摩版の旧著の「あとがき」に記したものを、以下に掲げておきましょう。
[#ここで字下げ終わり]
もう一つ、八雲の怪談・奇談について注意すべきことは、八雲は、ただ怪異味のためだけに、怪談を書いているのではない、ということであります。たとえば、「明暗」の「和解」という作品を見てみると、あのなかには、妻に不実をした男の悔悟が美しく書かれています。それから、死んだ女房の無私にちかい純情が美しく書かれています。これは、原作の「今昔物語」にはほとんど書かれていないもので、八雲が肉として加えたものであります。そこには、男と女の、人間としての素朴な誠実の美しさと寂しさとが描かれています。この素朴な誠実の美しさと寂しさこそは、八雲が日本人のなかに見つけて、それを真珠のようにいとおしみ、讃美したものでありまして、「お貞のはなし」にも、「青柳ものがたり」にも、どの話にも、これが描かれています。日本人の性格と生活の底に流れている、この人間的な美しさと寂しさ、このヒューメンなものを捉えている点が、八雲の怪談文学の生命なのであって、凡百のゴースト・ストーリーのなかで類を絶している点も、ここにあるのであります。「屍に乗る人」(「明暗」所収)のように、異常な凄味をもった話でも、粉本にこの急所が欠けているものには満足ができないといって、不満をのべているところなどを見ると、八雲の怪奇談のモーティヴが、ただたんに妖怪味だけに終始したものでないという消息が、これによってもわかりましょう。要するに、八雲の怪談文学は、やはりこれもかれ独特の人間研究につながる日本研究の一部門であるところに、日本人の生ある限り、長い生命があるといえましょう。
[#ここで字下げ終わり]
八雲の怪談の特色に対するわたくしの考えのヒントは、だいたい以上で言い尽したかと思いますが、「飛花落葉集」や「中国怪談集」のお花畑をへて、「骨董」「怪談」の頂上にまで達した八雲の足どりを辿ってみると、そこからいろいろおもしろい文学上の問題が出てくることと思いますが、とにかく怪談というものは、物語の形式としてもむずかしいもので、イギリスの現代作家で怪談の実作者であるL・P・ハートリーという人が、「推理小説は、可能性の根源を究めることによって、われわれにスリルを与える。したがって、推理小説では、どんな不可能な、ありうべからざる事件が起っても、理論的にそれは説明できるし、また理論的に割り切れなければいけない。ところが、自然の法則から逸脱している怪奇小説に起る事件は、推理小説のようには説明ができない。いうなれば、推理小説が説明できないものを、怪奇小説は合理的に説明するのだ。つまり、推理小説ははじめから唯物的宇宙観に依存しているのに、怪奇小説のばあいは、逆に、唯物的宇宙観に反逆する立場に立っているわけだ。理性では把握できない世界を創造し、そのうえ、そういう世界の法則を考え出さなければならないのだから、怪奇作家の仕事は至難なわけだ」といっているのは、八雲の怪談の上にもそのまま言えるわけで、冒頭に引いた八雲の講義は、それをまた裏返して述べたことにもなりましょう。数年前に、ピーター・ペンゾルトという人が、「小説における超自然」という著書のなかで、英米の怪談作家の作品の構成を分析解剖していたのをおもしろいと思ったことがありますが、あんな方法で「耳なし芳一」でも分析解剖したら、案外おもしろい研究ができそうに思われます。
最後に、八雲夫人節子の「思い出の記」のなかから、怪談に関する部分を引用して、この解説を結ぶことにします。
[#ここから1字下げ]
「……怪談は大層好きでありまして、『怪談の書物は私の宝です』と云っていました。私は古本屋をそれからそれへと大分探しました。
淋しそうな夜、ランプの芯を下げて怪談を致しました。ヘルンは私に物を聞くにも、その時には誠に声を低くして息を殺して恐ろしそうにして、私の話を聞いて居るのです。その聞いている風が又|如何《いか》にも恐ろしくてならぬ様子ですから、自然と私の話にも力がこもるのです。その頃は私の家は化物屋敷のようでした。私は折々、恐ろしい夢を見てうなされ始めました。この事を話しますと、『それでは当分休みましょう』と云って休みました。気に入った話があると、その喜びは一方《ひとかた》ではございませんでした。
私が昔話をヘルンに致します時には、いつも始めるその話の筋を大体申します。面白いとなると、その筋を書いて置きます。それから委しく話せと申します。それから幾度となく話させます。私が本を見ながら話しますと、『本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければ、いけません』と申します故、自分のものにしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。
話が面白いとなると、いつも非常に真面目にあらたまるのでございます。顔の色が変りまして眼が鋭く恐ろしくなります。その様子の変り方が中々ひどいのです。たとえばあの『骨董』の初めにある幽霊滝のお勝さんの話の時なども、私はいつものように話して参りますうちに顔の色が青くなって眼をすえて居るのでございます。いつもこんなですけれども、私はこの時にふと恐ろしくなりました。私の話がすみますと、始めてほっと息をつきまして、大変面白いと申します。「あらっ、血が。』あれを何度も何度もくりかえさせました。どんな風をして云ったでしょう。その声はどんなでしょう。履物の音は何とあなたに響きますか。その夜はどんなでしたろう。私はこう思います。あなたはどうです。などと本に全くない事まで、色々相談致します。二人の様子を外から見ましたら、全く発狂者のようでしたろうと思われます。
『怪談』の初めにある第一の話は大層ヘルンの気に入った話でございます。中々苦心を致しまして、もとは短い話であったのをあんなに致しました。『門を開け』と武士が呼ぶところでも『門を開け』では強味がないと云うので、色々考えて『開門』と致しました。この『耳なし芳一』を書いています時のことでした。日が暮れてもランプをつけていません。私はふすまを開けないで次の間から、小さい声で、芳一、芳一と呼んで見ました。『はい、私は盲目です。あなたはどなたでございますか』と内から云って、それで黙っているのでございます。いつも、こんな調子で、何か書いている時には、その事ばかりに夢中になっていました。又この時分私は外出したおみやげに、盲法師の琵琶を弾じている博多人形を買って帰りまして、そっと知らぬ顔で、机の上に置きますと、ヘルンはそれを見ると直ぐ『やあ、芳一』と云って、待っている人にでも遇ったと云う風で大喜びでございました。それから書斎の竹藪で、夜、笹の葉ずれがサラサラと致しますと、『あれ、平家が亡びて行きます』とか、風の音を聞いて、『壇の浦の波の音です』と真面目に耳をすましていました。……」
[#ここで字下げ終わり]