東の国から
――新しい日本における幻想と研究
ラフカディオ・ハーン/平井呈一訳
目 次
夏の日の夢
九州の学生とともに
博多で
永遠の女性
生と死の断片
石仏
柔術
赤い婚礼
願望成就
横浜で
勇子
八雲と近代文明 平井呈一
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出雲時代のなつかしいおもいでに
西田千太郎へ
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夏の日の夢
その宿屋は、わたくしには極楽のように思われた。そして、そこの女中たちは、まるで天女《てんにょ》かなんぞのように思われた。というのは、ちょうどその時わたくしは、近代的設備ならなんでもそろっている、ゆっくりと手足ののばせるようなヨーロッパ風のホテルはないものかと思って、この国のある開港場へそれをさがしに行って、じつはそこからほうほうのていで逃げ出してきたところだったからである。そんなわけで、そこの宿屋のゆかたにくつろぎ、ひんやりとした当りのやわらかな畳の上にあぐらをかいて、すずしい声をした女中たちにかしずかれ、きれいなものに身のまわりをとりまかれながら、ゆっくりと足腰をのばしたときには、まず、十九世紀のあらゆる心労からほっと救われたような思いがした。
朝の膳には、竹の子とハスの煮つけが出た。それから、極楽のおみやげに、うちわを一本くれた。そのうちわには、波打ちぎわに、大きな波がひとつどんと白く砕《くだ》け散っている上に、あさぎ色の空へむらむらぱっと舞いあがっている、チドリの絵がかいてある。この絵ひとつを見るだけでも、ここまでわざわざ出かけてきた旅の苦労を、きれいさっぱり忘れるだけの値打があった。みなぎる光り、人を威圧する壮大な生動、汐風の凱歌《がいか》、――この三つのものが、渾然と一幅の画中にとけあっている絵だ。それを見たとき、わたくしは思わず、あっと快哉を叫びたくなったくらいであった。
二階ざしきの縁がわの、杉丸太の柱のあいだから、海ぞいの、くすんだ色をした美しい町の家並が、ひと目に見わたされる。碇《いかり》をおろしたまま、うつらうつら眠っているような幾そうかの黄いろい帆かけ舟、見上げるばかりの深緑の断崖が両がわから迫りよったあいだにひらけている入江の口、そのむこうに、はるかかなたの水平線まで、いちめんにぎらぎら光り輝いている夏の海。その水と空と相つらなるあたりに、さながら古い思い出を見るように模糊《もこ》として打ち霞《かす》んでいる|※[#「雲+愛」、unicode9749]※[#「雲+逮」、unicode9746]《あいたい》とした山のすがた。そうしてしかも、くすんだ色のその町並と、黄いろい幾そうかの帆かけ舟と、深緑の断崖とをのぞいたあとは、なにもかも、天地はただひといろの紺碧《こんぺき》に塗りこめられているのである。
そのとき、恍惚としたわたくしの瞑想のなかへ、ふと風に鳴る風鈴の音《ね》のようなすずしい声が、しとやかな挨拶のことばを奏《かな》でだした。わたくしは、その声の主《ぬし》が、この玉楼の女将《おかみ》だなとすぐに心づいた。おかみは、茶代の礼を言いにあがってきたのである。わたくしは、さっそくおかみのまえに手をついてあいさつをした。おかみというのは、まだごく年の若い、それこそ惚れ惚れするような愛嬌したたる婦人で、ちょっと、国貞《くにさだ》えがくところの青娥《せいが》の小婦、胡蝶《こちょう》の美人といったおもむきがある。そのおかみをひと目見て、わたくしは、なんということなしにふと死というものを考えた。すべて美しいものは、どうかすると悲しみの予感となることがあるものだ。
おかみは、わたくしがこれからどこへ行くのか、しだいによっては、お俥《くるま》をお呼びいたしましょうかといってたずねた。そこで、わたくしは答えた。
「これからわたしは熊本へ行くのだがね。行くまえに、ひとつお宅の屋号を、念のためにうかがっておきたいな。いつまでも忘れずにおぼえておきたいから……」
すると、おかみは言った。「まあ、ほんに手前どもでは、お客さんのお部屋もおそまつで、女中《こども》もまことに行きとどきまっせんでなあ。屋号は『うらしまや』と申します……。そんなら、ちょっと、お俥を申しつけてまいりましょう」
琴でもかなでるようなおかみの声が、そのまま部屋から立ち去って行ってしまうと、わたくしは、にわかに妖《あや》しいクモの絲かなんぞにからだじゅうを十重二十重《とえはたえ》に巻きつかれでもしたように、身のまわりに何かねっとりとした恍惚感が、じんわりと落ちてきたような心もちがした。というのは、ほかでもない、その宿屋の屋号が、人をまぼろしの世界へと誘いつれてゆく、ある歌ものがたりに出てくる名前とそっくりおなじだったからである。
その歌ものがたりというのは、だれでもいちどそれを聞けば、おそらく生涯忘れることができない物語である。毎年、わたくしは夏になると海べへ行くが、海べへ行くと、わけても海が青畳をしいたように凪《な》いだおだやかな日には、きまってその物語が、わたくしの心に憑《つ》いてはなれない。くにぐに、地方によって、そのものがたりは形がいろいろに違っているが、いずれもむかしから、この国のおびただしい芸術品の霊感となってこんにちに及んでいる点においては、かわりがない。なかんづくもっとも印象ふかい、かつ最も年代の古い説話は、紀元五世紀から九世紀までのあいだに纂集された「万葉集」という歌集の中にのっている。「万葉集」にあるその古歌から、碩学《せきがく》アストンは、そのものがたりを散文に翻訳しているし、おなじく大学者のチェンバレンは、それを散文・韻文の両様に翻訳している。しかし、英語の読者諸君にいちばん愛誦される形とおもわれるのは、おなじくチェンバレンが児童のために書いた、「日本おとぎばなし集」のなかにある翻訳だろう。あの翻訳が、なぜ英語の読者によろこばれるかといえば、あの本のなかには、日本の画家たちがそれぞれ腕をふるって描いた、美しい色刷りのさし絵がはいっているからである。わたくしはいま、その小さな本を前において、もういちどその伝説をわたくしのことばに直して、諸君にお話ししてみることにしよう。
今から千四百十六年まえのことである。浦島太郎というひとりの漁師の男《お》の子が、小舟にのって、住の江の岸べから船出《ふなで》をした。そのころも、夏の日といえば、むかしも今も、かわりはない。鏡のような海の上には、いくひらかの軽やかな白い浮き雲が空にかかっているばかり。あとはただ、見ていると瞳までじんわりと溶けてきそうな、〈のんどりとした〉浅黄いろが、水と空とを領しているばかりである。そのあさぎ色の空に融《と》けこんでいる、遠い島山の模糊《もこ》たるすがた、それもやはり、今とすこしもかわりはない。吹く風は、いかにもものうげである。
やがてのことに、浦島は、自分もうつらうつら眠けをもよおしてきた。そこで釣り糸をたれたまま、小舟を波のまにまにただようにまかせておいた。小舟といっても、およそそれは奇妙な小舟で、塗り舟でもなし、舵ひとつない、――おそらく、西洋の諸君などの見たこともない小舟だ。そういう小舟が、それから千四百年もたったこんにち、日本海沿岸のむかしながらの日本の漁村の浜べには、いまだに見うけられるのである。
だいぶ長いこと待ったあげく、浦島は、ようやくのことでなにか糸にかかったものがあったので、釣り糸をたぐりあげてみた。上げてみると、なんとそれは、いっぴきのカメであった。
ところで、カメというやつは、竜宮のおつかい姫で、貴いものとされている。その齢《よわい》は千年とも、万年ともいわれている。であるから、カメを殺生するのは、たいへん縁起のわるいことだとされている。そこで浦島は、とらえたカメをそっと糸からはずしてやり、神に祈念をこめて、それを海中へはなしてやった。
ところが、どうしたものか、それきり、えものらしいものがさっぱりかからない。その日はまたひどく暑い日で、海も、風も、なにもかもがじーんと鳴りをしずめたようで、波ひとつそよりともしない。そのうちに、なんともたとえようのない眠けが、浦島をおそってきた。――浦島は、とうとう、波にただよう小舟のなかで、そのまま正体もなく眠りこんでしまったのである。
すると、やがてわだつみの夢のなかから、ひとりのみめうるわしい乙女が――ちょうどチェンバレン教授の「浦島」のさし絵に見るような、とき色と水あさぎの衣裳を身にまとい、千四百年まえの王女の風俗をそのままに、丈《たけ》なす黒髪を肩のあたりから足のさきまでたらした美しい乙女が、すっくと立ちあらわれた。
乙女は、やがて水の上をすべるがごとくにわたって、風のように軽やかにやってきたと思うと、小舟のなかに眠りこけている浦島の枕上《まくらがみ》に立ち、しなやかな手でそっと浦島のことをゆりおこして、さて言うのであった。
「お驚きになってはいけません。わが父、竜宮王が、あなたのしんせつなお心ばえを愛《め》でて、わたくしをここまでつかわしました。きょう、あなたがカメをいっぴき、おはなしになったからです。さあ、それでは常夏《とこなつ》の島の父の宮居へごいっしょにまいりましょう。おのぞみとあれば、わたくし、あなたの花嫁にもなります。そうして、父の宮居でふたりして、いついつまでもしあわせに暮しましょう」
浦島は、乙女のすがたをしげしげと打ちまもれば打ちまもるほど、ふしぎの思いはいやまさるばかりであった。なぜというのに、その乙女が、およそこの世のどんな人間にもまして、みめかたちがうるわしかったからで、浦島はその乙女に想いをかけずにはいられなくなってきた。やがてのことに、乙女はひとすじの櫂《かい》を手にとり、浦島もおなじくべつの櫂を手に握って、ふたりはともに沖あいはるか、小舟を漕ぎでて行ったのである。――ちょうど諸君が、こんにちでも、西洋のくにぐにの浜べで漁船が夕焼けのなかへと船出してゆくとき、漁師の夫婦がいっしょに櫓櫂《ろかい》をあやつりながら、はるか沖あいへ船をこぎだしてゆくのを見るのとおなじように。
さて、ふたりは、青い青い、しずかな海の上を、風のように、矢のように、しだいに南へ南へと漕ぎ去って行った。やがてふたりは、常世《とこよ》に夏の尽きることのない島へたどりつき、そして竜宮王の宮居へ行ったのである。
(ここのところで、わたくしがいま種本につかっている小さな本は、読んで行くうちに色刷りになっている地《じ》の部分が、しだいにうすい〈ぼかし〉になって、びょうびょうまんまんたる青海波《せいがいは》が、ぺージいちめんにあふれみちてくる意匠になっている。そのいちめんの青海波のはるかかなた、まぼろしのような模糊たる水際に、常夏の島の夏霞《なつがすみ》たなびく岸の長沙《ちょうさ》と、緑したたる常盤《ときわ》の森の上にそびえたつ屋根とが、見えている。それが竜宮殿の屋根だ。ちょうど、今を去る千四百十六年前、雄略大皇の皇居の屋根とそっくりの屋根である。)
さて、竜宮殿へ行くと、ふたりは、衣冠式服を着すました、めずらかな召使たち――海の鱗《うろくず》どもの出迎えをうけた。召使どもはみな浦島に、竜王の婿《むこ》がねとして、ていちょうな挨拶をのべた。そんなわけで、竜王のむすめは、晴れて浦島の花嫁になった。ふたりの華燭の典は、まことに目をそばだてるような、華美絢爛《かびけんらん》をつくしたものであった。竜宮殿では、上下こぞって、大いに祝賀の歓をつくしたのである。
それからというもの、浦島にとっては、来る日も、来る日も、まいにちが新しい驚異の日であり、かつ新しいよろこびの日であった。わだつみの神の下僕《しもべ》たちの手によって、帰墟《ききょ》の底からもってこられる七珍万宝と、常世《とこよ》に夏のほろびぬ夢の国のくさぐさの歓楽と。――こうして、三年の月日が、わけもなくそこに過ぎた。
が、こうした万事けっこうずくめの暮しにもかかわらず、浦島は、国もとにさびしく待ちくらしている両親のことを思うと、いつも胸が重くなるのをおぼえた。そこで浦島は、とうとう花嫁にむかって、どうかほんのしばらくのあいだ、自分を国もとへかえしてはくれまいか、じつは、両親にひとこと言いおいてきたいことがある、用事がすめば、すぐとまたお前のところへきっと帰ってくるからといって、こんこんと頼み入った。
そのことばを聞くと、花嫁は泣きだした。ややしばらく、さめざめと泣いていたが、やがて彼女は浦島にいうのであった。
「それほどまでにいらっしゃりたいとあれば、いらっしゃることは、もちろん、けっこうです。けっこうですけれど、ただわたくし、あなたが行っておしまいになるのが、なんだか気がかりに思われてなりません。もうこれぎり、二どとお目にかかれなくなるのではないかと、そんな気がいたします。わたくし、そのかわりに、あなたに小さな手筐《てばこ》をひとつ持って行っていただきます。この手筐は、あなたがわたくしの申し上げるとおりになされば、きっともういちど、あなたをわたくしのそばへ戻してくれる手筐です。
あなた、これはけっしておあけになってはなりません。どんなことがあっても、なにをおいてもこれはけっしておあけになってはいけません。これをおあけになると、あなたはここへはもう帰っておいでになれなくなります。そうすれば、二どともうわたくしにも、お逢いになることができなくなります」
そういって彼女は、絹の打ち紐でむすんだ小さな蒔絵《まきえ》の手筐を、浦島にわたした。(この小筐は、こんにちなお、神奈川の海岸のさる寺院で見ることができる。そこの寺の僧は、手筐のほかに、浦島太郎の釣り糸だの、浦島が竜宮からもってきたふしぎな玉なども、いくつか蔵している。)
浦島は、彼女をなぐさめ、手筐はこんりんざいあけない、むすんである絹のひもをゆるめることさえ、けっしてしないからといって、固く約束をした。やがて浦島は、常世《とこよ》の夏の光りのなかから、いつ醒めるともおもわれぬ見果てぬ夢のような海の上へと出て行った。常夏の国の島かげは、しだいに遠く後方《しりえ》へと、夢のように淡くなって消え去って行く。やがて北の方の白い水平線の光りのなかに、青い島かげをつくっている日本の国の山々が、ふたたび目のまえにあらわれてきた。
ようやくのことで、浦島は、うまれ故郷の入江のなかへふたたび辷《すべ》り入って、そこの岸べに降り立った。ところが、しばらくあたりを眺めまわしているうちに、ひとつの大きな当惑の思いが――狐にでもつままれたような怪しい疑念が、浦島をおそってきた。
なぜというのに、自分がいましがた降り立ったところは、たしかに以前とおなじ場所であるのに、まるでそれが前とはおよそ似ても似つかぬ場所になっていたからである。先祖このかたの自分の家なども、いったいどこへ行ってしまったものやら、影もかたちも見えない。村はあるけれども、それも家のさまかたちが、みな見なれぬものに変ってしまっている。森や木立なども、ついぞ見かけたこともないのが見えるし、田畑なぞもようすがすっかりかわり、それのみか、村の人の顔までがまるで見ず知らずのものばかりになってしまっている。目じるしにおぼえていたものが、ほとんどあらかたなくなっていたのである。
村の鎮守の社《やしろ》なども、いつのまにやら新規の場所に建てかえられたらしいし、そこに茂っていた杜《もり》なども、境内の地尻の斜面《なぞえ》になったところから、どこかへ姿を消してしまっている。以前とかわらぬものといえば、わずかに村のなかを流れている小川のせせらぎの音と、遠い山なみのすがただけであった。そのほかのものは、なにもかにも、まるでなじみのない、新しいものになっていたのである。
浦島は、なんとかして親たちの住んでいる家を尋ねあてたいと思って、あちらこちらほうぼう捜し歩いてみたが、それらしいものはどこにも見あたらない。かえって、土地の漁師たちがうろんな顔をして、自分のことをじろじろ見ている。しかも、そのじろじろ見ている漁師たちの顔が、どれひとりとして、見おぼえのある顔がないのである。
そうしているところへ、ひとりのたいそう年とった爺さんが、杖にすがってとぼとぼ向こうからやってきた。浦島はその爺さんに、浦島という一族のものが住んでいる家へは、どう行ったらいいかといって、道をたずねてみた。ところが、相手の爺さんはひどくびっくりしたような顔をして、浦島の尋ねた問いを、老いの口になんども言い繰りかえしていたが、やがて大きな声でいうことに、
「浦島太郎のう! おまえさま、あの話を知りなさらぬところを見ると、いったい、どこのお人じゃな。浦島太郎のう! さあ、その浦島が海に出ておぼれ死んでから、さようさ、もうはやざっと四百年のうえにもなりますかいのう。その浦島のかたみにということで、墓所には石碑が立てられましたじゃ。浦島家の代々の墓は、みなそこの墓地にごわすが――いや、むかしの墓地はの、あれははや、近年はとんと使うておりませんわい。はははは、浦島太郎の家はどこじゃなどと尋ねなさるおまえさまは、ちとどうかしていなさるぞい」
そういって、その爺さんは、尋ねたものの愚かさを高笑いにわらいながら、また杖をひきひき、そのままとぼとぼと行ってしまった。
そこで浦島は、近年はもう使われなくなったという、むかしの墓地の方へ行ってみた。行ってみると、なるほど、自分の墓がちゃんとそこにある。両親の墓も、親戚の墓も、そこにある。それから、自分の知っている人たちの墓も、みんなそこにある。けれども、みんなそれは、年ふりた古い古い墓石で、どれもこれもすっかり苔《こけ》むしてしまって、石のおもてに彫ってある文字なども、さだかに読めぬくらいになっている。
そのとき、浦島は、自分がなにかふしぎな思い違いの犠牲になっていることに気づいた。そして、もういちどまた、海岸の方へ引きかえして行ってみた。――例の竜王の娘からもらった手筐を後生だいじにかかえながら。それにしても、この思い違いは、いったい、どうしたということなのだろう? そして、この手筐の中には、いったいぜんたい、なにがはいっているのだろう? ひよっとしたら、あるいはこの思い違いのそもそもの種になるものが、このなかにはいっているのではなかろうか? 疑心は、ついに信頼を裏切った。かれは無分別にも、自分の愛人に誓った約束を破ったのである。――つまり、絹の打ち紐をほどいて、かの手筐をひらいたのである!
すると、たちまち、手筐の中からは、一団の夏の雲に似た白い冷たいけむりが、パッと空へ立ちのぼった。と見るまに、そのけむりは、静かな海の上をかすめて、南の方へとたなびき流れた。手筐の中には、なにもほかにはいっていなかったのである。
浦島はそのとき、はっとして、ああ、自分は自分の幸福を、とうとう自分の手で打ちこわしてしまったと気づいた。二どともう自分は、自分の愛人であるあの竜王のむすめのもとへは帰ることができない。かれはそのことをさとると、絶望のあまり、声をあげて、その場にはげしく泣き入ったのである。
ところが、それはほんのつかのまであった。つぎの瞬間、かれはあっと思うまに、自分の身が見る見るうちに変ってしまったのを見たのである。氷のような寒けが、からだじゅうの血の中を走りぬけたと思うと、またたくうちに歯という歯ががっくりと抜け落ち、顔には千すじの皺《しわ》がより、髪は雪のように白くなった。手足はしなびおとろえ、全身の力が、まるで汐《しお》がひいて行くように、からだからさーっと抜けてしまったのである。かれは生きたけしきもなく、砂の上に、へたへたとくず折れた。四百年の冬の重みに押しひしがれたのである。
ところで、日本の歴代の天皇の年鑑である「日本書紀」には、次のように記載してある。
「雄略天皇二十二年、丹後国余社郡水ノ江の浦島子、漁舟にのりて蓬莱山《ほうらいさん》に赴く」と。その後、三十一代の天皇および女帝の御宇のあいだには、――つまり、五世紀から九世紀までのあいだには、浦島の記事は、ひとつもない。それからのちの「日本書紀」には、「淳和天皇の御宇、天長二年、浦島子帰る。再びまた行く。その行方を知らず」と報ぜられている。
乙姫のような宿屋のおかみが、また顔を出して、お支度ができましたと言いにきた。そして、かよわい手に鞄を持とうとするから、わたくしは、その鞄は重いからといって辞退した。すると、乙姫はわらって、その鞄をわたくしには持たせないで、すぐに「うろくず」の男衆を呼んだ。男衆は、背中に漢字をつけていた。わたくしがおかみに挨拶をすると、おかみは、女中《こども》がまことに行きとどきまっせんけっど、どうかこれにお懲《こ》りなく、こんな家でもお忘れなくといって、「それからあの、俥屋《おとも》には七十五銭やっていただきます」といった。
やがて、わたくしは俥上の人となった。それから五、六分たつかたたぬうちに、この小さな灰色の町は、早くも曲り角のかげになってしまった。浜べを見おろす白い道にそうて、わたくしはガラガラ俥《ぐるま》に揺られて行く。道の右手は白茶けた色の切りたった崖、左手はひろびろとした空と海である。
何マイルも何マイルも、わたくしはその際涯《さいがい》もない輝きを眺めながら、海ぞいの道をガラガラ走って行った。目に入るものすべてが青い色に――大きな貝がらの底にきらきらする、あのまばゆいような青い色にひたっている。ぎらぎら光っている紺碧の海は、電気鎔接のような火花をはなちながら、おなじく紺碧の空と融けあっている。そして、巨大な青い怪物のような肥後の山々は、光りかがやく光炎のなかに、まるで紫水晶のかたまりのように、稜々とそそり立っている。なんという澄みとおったこの青さ! 天地のいっさいを呑みつくして余さぬこの紺碧の色を破るものは、わずかに遠い沖あいの怪物めいた島山のうえに巻きおこる雲の峯の、ぎらぎら光った白い色だけである。その雲の峯は、ひろびろとした海面に、雪のような白い光りを波にきざんでいる。沖あい遥《はる》か、虫の這うように静かにうごいてゆく幾そうかの船は、どれも船尾《みお》に長い糸を引いているように見える。打ち霞む夏霞のなかにくっきりとした線の見えるものといったら、この船の〈みお〉の糸だけだ。それにしても、なんというあの雲の峯の神々《こうごう》しさだろう! ひょっとするとあの雲は、涅槃《ねはん》の浄境へゆく途中で、ちょっとひと休み、息を入れている白い雲の精ではあるまいか? それとも、千年もまえに浦島の手筐の中からぬけだした、あの白いけむりか?
蚊か蚋《ぶと》のようなわたくしの小さな魂は、ふとそのとき、海と天日とのあいだにたなびく紺碧の夢のなかへさまよい出て行って、千四百年まえの三伏の夏の霊気の中をくぐつて、やがてかの住の江の岸べへと、ぶーんと舞いもどって行く、わたくしのからだの下には、おぼろげながらも、たぷりたぷりと揺れる小舟の動揺のようなものが感ぜられる。時は雄略帝の御宇である。竜宮の乙姫が、鈴のようなすずしい声でいうのである。
「さあ、父の宮居へまいりましょう。あちらはいつもまっ青です」
「どうしていつもまっ青なのですか?」とわたくしが尋ねる。
「それはこの手筐の中へ、わたくしが空の雲をみんな入れてしまったからです」と乙姫はいう。
「しかし、わたしは家に帰らなければならない」わたくしは、きっぱりと答えてやる。すると、乙姫がいう。
「それでは、俥屋に七十五銭払ってやっていただきます」
はっと思って、目がさめると、身は明治二十六年の夏の土用さなかにいる。時代が明治だという証拠には、陸寄りの道の片がわに、電信柱が目のとどくかぎり、遠く一列になってつづいている。俥はあいかわらず、おなじ空と、山と、海とを行くてに見ながら、海岸をどこまでもひた走りに走りつづけて行く。けれども、さっきの白い雲の峯は、いつのまにどこへ消えてしまったのか、もはや影もかたちも見えない。それと、さきほどまで往来のすぐきわまで迫っていた断崖も、いまはもうない。そのかわりに、青田と麦畑とが、はるか向こうの山の裾まで、ずっと伸びつづいている。わたくしは、道ばたの電線にしばらく目をとめながら、揺られて行った。電線といっても、わたくしの目をひいたのは、電柱の先に出ている針金で、その針金のさきに小鳥の群れがとまっていて、こちらがガラガラ走ってゆくのも知らぬ顔に、みんな道路の方へ頭をむけてならんでいる。小鳥たちは、いかにも静かにそこにじっととまりながら、まるでまわり灯籠《どうろう》の影絵でも見るように、わたくしたちのことを見下ろしている。しかもそれが、何マイルというあいだ、何百何千という数が、列をなしてとまっているのである。ずいぶん克明に気をつけて見て行ったのだが、往来の方へ尾をむけているのは、一羽も見あたらなかった。
なぜ、あんなふうにしてとまっているのか、あるいは、なにを見ながら、なにをああして待っているのか、わたくしにはまるで見当がつかなかった。ときどき、おどかしてみてやろうと思って、帽子をふって、大きな声でどなってやると、なかには二、三羽ばたばたと羽ばたきをして、鳴きながら飛び立つものもあるが、それとてパッと飛び立ったとおもうと、すぐにまたとまっていたもとの針金のさきへ戻ってしまう。大部分のやつが、わたくしのことなぞ本気になって相手にするのは、御免こうむるといったふうだった。
そのうちに、俥のガラガラいう輪の音が、なにやらドーン、ドーンとひびく大きな音に打ち消されるようなあんばいになってきた。やがて、ある村を走りぬけたときに、ふとわたくしは、とあるあけひろげた小屋のなかで、すっ裸の男たちが大きな太鼓をドンドコたたいているのを目にとめた。
「俥《くるま》や!」とわたくしは大声でいった。「あれは――あれはなんだね?」
俥やは足もとめずに大きな声でどなりかえした。「いま、どこでも、あれをやっとりますたい。ながいことおしめりがなかもんですけん、雨乞《あまご》いをするちゅうて、ああやって太鼓ば叩いとっとですばい」
わたくしたちは、ほかの村もいくつか通ったが、いたるところの村で、大小とりどりの太鼓の音を聞いた。そして、灼《や》けつくような青田を越えた何マイルもさきの、俥の上からは見えないような小村からも、べつの太鼓の音が木魂《こだま》のようにこたえていた。
わたくしはまた浦島のことを考えだした。あの伝説が、一民族の想像力の上に大きな影響をあたえたことを物語っている、この国の絵画・詩歌・俚諺《りげん》などについて、わたくしは考えてみた。いつぞやわたくしは、ある宴会の席上で、出雲の芸者が浦島の役《やく》に扮して、小さな蒔絵の手筐をもって踊ったのを見たことがある。あのとき、あの大詰の悲劇の瞬間に、手筐のなかからぱっと出たのは、京都の香《こう》のけむりであった。わたくしは美しいあの舞踊の故事をおもい、そのことからまた、すでに消えほろびてしまった何代かの昔の白拍子《しらびょうし》たちのことを思い、さらにまたそのことから、思いは塵《ちり》の世のことにめぐり、そのまた塵という考えから、思いはふたたびめぐって、わたくしが七十五銭の俥賃を払ってやることになっている俥やの、わらじの底から立ちのぼる現実の塵のことにおちて行った。その現実の塵の、果たしてどの程度までが、むかしの人間の塵なのであろう?
物質不変の法則のなかにあっては、塵のうごきよりも、心情のうごきの方が大きな結果を生むのであろうか? そう考えたら、なんだかわたくしは妙な気がした。すると、たちまち、わたくしのなかにある父祖伝来の道義感が、目をむいておどろいた。わたくしは自分に言いきかせた。――とにかく、千年という長い月日を生きつづけてきた伝説だ。しかも、その伝説が、むかしからそれぞれの世につれて、ますます新しい魅力を加えてきた説話であってみれば、なにかしらそのなかに真理を含んでいればこそ、長く生命を保ってこられたわけなのではないか、と。しかし、それならば、いったいその真理というのは何なのか? この疑問にたいして、わたくしはその時、ややしばらく答えを見いだすことができなかった。
暑さは、ますますきびしくなってきた。わたくしは俥の上から、大きな声でどなった。
「俥や! のどがもう焼けつきそうだ。どこかに水はないかね?」
俥やは、やはり走りながら答えた。
「長浜村までまいりますと、――もうすぐそこでござりますが、あすこに太《ふと》か掘りぬき井戸がござります。そらもう、きれいな、よか水でござりますばい」
わたくしは、かさねてどなった。
「俥や!――あすこに小鳥がいるね。あの小鳥は、どうしてみんなこっちを向いているのかね?」
俥やはますます車輪に駆けながら、答えた。
「鳥ちゅうやつは、あらみんな、風の吹く方さん向いて、とまるもんですたい」
わたくしは、自分の愚をまずわらった。ついでに、自分の健忘性をわらった。――なんでもまだごく子どもの時分に、どこであったか、これとおなじことを聞いたことがある。それをわたくしは思い出した。あるいは浦島のあの不思議も、あれもやはり健忘性から起ったことなのかもしれない。
わたくしはふたたび浦島のことを考えた。――竜宮の乙姫が、やがて戻ってくる浦島を迎えるために、御殿のなかをうつくしく飾りつけて待っている。けれども、浦島はかえってこない。そこへ、陸での出来事を知らせに、白い雲がつれなく戻ってくる。主人おもいの盛装した〈うろくず〉どもは、なんとかして乙姫を慰めようとして、いろいろつとめる……。こんなことは原話にはないことだが、しかしどうもあの話には、浦島ひとりだけに同情が寄せられているといったようなところがある。そこで、自分勝手にこんなことを考えてみる。――
いったい、浦島に同情するというが、これは果たして当をえた話だろうか? いうまでもなく、浦島という男は、神のまどわしにかかったのである。しかし、人間、誰しも神のまどわしにかからぬものはない。だいいち、この人生そのものからして、元来が迷いの世界ではないか。しかも浦島は、神のまどわしにかかっている最中に、神の神慮というものを疑って、かの手筐をあけたのである。そのあげくに、たいした苦労もせずに、安楽に往生をしたのである。それを土地の人たちは、浦島明神にまつりあげて、かれのために祠《ほこら》まで建ててくれたのである。いったい、なにがためにそんなに同情を寄せることがあるのか?
おなじことでも、これが西洋だと、だいぶ違った扱いをうける。西洋のばあいだと、西洋の神のおしえにそむいた人間は、そのあと、高い、ひろい、そして量り知れない深い悲しみを思い知らされるために、べんべんといつまでも生きながらえていなければならない。つごうのいい時に、安楽往生するなどということは、われわれ西洋人には許されていないことである。ましてや、死んだあとで、のちの世の人から神にまつられるなんてことは、とうてい思いもよらないことだ。現身《うつしみ》の神々とあれほど長いあいだいっしょに暮しておきながら、しかもそのあとで、あんな馬鹿げたことをしでかした浦島に、なにが同情なんぞもてるものではない。
おそらく、この謎に答えうるものは、同情されているというその事実にあるのだろう。このばあいの同情とは、要するに、自分にたいする同情にちがいない。してみると、浦島の伝説は、畢竟《ひっきょう》あれは、百万人の人間の心の伝説なのだ。ちょうど空が紺碧にかがやき、軟かな風がそよそよ吹くころの季節になると、あの伝説のなかに含まれている想念が、まるでなにか身におぼえのある古傷かなんぞのように、人間の心のなかにぽっと浮かんでくるのだ。しかも、その想念は、季節とか季感というものに、いまいうように密接なつながりをもっているものなので、ひいてはそれが人間の一生、あるいは、われわれの先祖の人たちの一生のうちに実在していた何物かに、しぜんと深いつながりをもつようになったものなのだろう。では、その実在していた物というのは、いったい何なのか? 竜宮の乙姫なるものは、あれはいったい、何だったのか? 常夏の島というのは、どこにあったのか? それから、あの手筐の中にはいっていたあのけむり、あれはいったい、何なのか?
わたくしは、この疑問のどれにも答えることができない。ただ、こういうことだけは承知している。――その想念はけっして新しいものではないということを。
そういうわたくしに、ある場所と、あるふしぎな時の記憶がある。そこでは、太陽も、月も、今よりもっと形が大きく、もっと光りが明るかった。それがこの世のことだったのか、それとも前の世のことだったのか、そのへんのことはわれながらさっぱりわからないが、とにかく、その時の空が、もっともっとすばらしく青くて、もっともっと地上に近くて、――ちょうど、赤道の猛暑に向かって海を走ってゆく汽船のマストが、空とほとんどすれすれに見えたことを憶えている。海は生きていた。そして、いつでもわたくしに話しかけてくれた。吹く風になでられると、わたくしはただもう嬉しくなって、大声をあげたものだ。むかし、遠い遠い日のこと、山の奥の峯と峯のあいだの峡谷に、浄《きよ》らかな日をおくっていたころ、一、二度これとおなじ風が吹いたっけなと、そんな夢みたいなことをふっとわたくしは考えてみたけれど、それはただ、ほんのおぼろな記憶にしかすぎない。
そこではまた、雲のたたずまいが、じつにすばらしかった。だいいち、その色が、なんとも名づけようのない色をしている。わたくしをいつも遠い、ひたぶるなあこがれに誘ってくれたものは、その雲の色だった。いまでもよく憶えているが、そのころは、いちにちの長さすらが、いまよりもずっと長くて、まいにちまいにちが、わたくしにとって新しい驚異であり、よろこびだったものだ。しかも、その「小さな王国」と「時間」とは、わたくしのことを楽しく仕合わせにしてやろうと、そのことばかりを考えていてくれた人たちによって、和《なご》やかに支配されていたのである。それなのに、わたくしはどうかすると、その楽しく仕合わせにしてもらうのがいやさに、神さまのようなその人のことを、よく手こずらせたものであった。むりにも自分からつまらながったことを、わたくしはいまでも憶えている。日が暮れて、月がまだ空へのぼらないまえ、月しろの静けさがあたりにしっとりと降りると、やさしいその人は、わたくしを頭の先から足の先まで嬉しさでぞくぞく疼《うず》かせるような、いろんな話をして聞かせてくれたものだ。
あれからこっち、わたくしはあのころの半分も美しい話をすら聞いたことがない。わたくしの嬉しがりようがはなはだしくなると、やさしいその人はきまって、なにかこの世のものとは思われないような、ふしぎな歌をうたってくれたものだ。わたくしはその歌をききながら、いつとはなしに、うとうと眠りにおちてしまうのだった。
そのうちに、やがてとうとう別れる日がやってきた。やさしいその人は、泣いて、わたくしに一枚のお守り札をくれた。
お前ね、このお守り札はけっして失《な》くしてはいけないよ。このお守りを身につけていさえすれば、お前はいつまでたっても年をとらないで、若いまんまでいられるし、また、いつなんどきでも帰ってこられる力を授《さず》けていただけるからね。……そういって、その人は、こんこんとわたくしにいいきかせてくれた。けれども、わたくしは、それぎりとうとう帰らなかった。
歳月は過ぎた。ある日、わたくしは、ふとそのお守り札を、いつのまにやらどこかへ失くしてしまっていることに気がついた。それ以来、わたくしは、われながらおかしいくらい、きゅうにめっきり年をとってしまったのである。
長浜村は、往還にちかい、みどり濃い崖のすそにある村だった。村といっても、民家は、茅《かや》ぶき屋根の小屋みたいな家が十軒ほどあるきりで、それが松の木のかげの、岩がかりになった水溜め場のまわりに、おたがいに軒をつきあわせている。崖の中腹からまっすぐに噴きでている清水がおちて、水溜め場にはしじゅう冷たい水があふれている。崖から清水がふきでるぐあいは、ちょうど人が想像にえがく詩人の胸裡《きょうり》から、詩がひとすじにほとばしり出る趣きに似ている。水溜め場のところに、何台かの人力車と、憩《やす》んでいる人が幾人かいるところをみると、なるほどそこはかっこうな休み場所にちがいない。こんもり茂った木のかげには、縁台も出してある。わたくしはのどの渇きをしめしたあとで、そこの縁台に腰をおろして、一服すいながら、水溜めのそばで着物を洗濯している女たちや、ひとやすみ息を入れている旅の衆などを眺めていた。そのあいだに、わたくしの乗ってきた俥やはすっ裸になって、手桶で何ばいも冷水をあびていた。
そこへ、赤んぼをおぶった若い男が、わたくしに茶を汲んで出してくれた。わたくしが背中の赤んぼをあやしてやると、赤んぼは、「あー、ばー」と片言《かたこと》をいった。
この「あー、ばー」という言葉は、日本の赤んぼが生まれてはじめてきく言葉である。この言葉は純粋に東洋のことばであって、ローマ字で書くとAbaである。誰からも教わらずにはじめて口にする言葉として、Abaはおもしろい。これは、日本の子どものつかう言葉で「さよなら」にあたる言葉だが、どう考えてみても、この娑婆《しゃば》へ生まれてきたての赤んぼがつかいそうには思えない言葉だ。誰にむかって、何にむかって、この小さな魂は「さよなら」をいうのだろう? あるいは、この世へ生まれてきてからも、いまだにまざまざと記憶にのこっている、前世の友だちにでも向かっていうのだろうか? なんぴともまだ、それがどこにあるとも、そのありかさえ知っているものはない冥途《めいど》の旅の仲間にでもいうのだろうか?
相手は赤んぼだから、おじさん、じつはこうなんだよなどと、はっきりしたことは言やしない。とすれば、まず信心こころのある見方から、こんな推論でも下しておくのがいちばん無難かもしれない。――生まれて初めて口をきくその神秘不可思議な瞬間に、赤んぼが何を考えているか、この問いに答えられるようになる時分には、当の赤んぼは、もうとうの昔に、そんなことはきれいさっぱり忘れてしまっているだろう、と。
ふとその時、わたくしの頭に妙な記憶がうかんだ。おそらく、赤んぼをおぶったその若い男を見たのと、崖からとくとく涌《わ》きでている清水の音を聞いたのとで、ふっと思い出したのだろうと思うが、それは次のような一条のものがたりである。――
むかしむかし、ある山の中に、貧しい木こりの夫婦が住んでいた。夫婦は、もうだいぶ年をとっていたが、子どもがひとりもなかった。おじいさんは、まいにち、ひとりで森へ木を伐《き》りに行き、おばあさんは家で機《はた》を織っていた。
ある日のこと、おじいさんは、なにかの木をさがしに、ふだんは行ったこともない森のおくの方へ行ってみると、いままで見たこともない、小さな清水のわいている泉のほとりへひょっくりと出た。見ると、その清水はふしぎなくらいきれいに澄んだ水で、しかも冷たかった。暑い日だったし、それにだいぶ働いたあとだったので、おじいさんはたいそうのどが渇いていた。
そこで、大きな山笠をぬぐと、おじいさんはそこへ膝をついて、その清水を、ごくりごくり、ごくりごくりと、長いことかかって飲んだ。すると、飲んだ清水のおかげで、なんだかふしぎなあんばいに気分がせいせいしてきた。そのとき、おじいさんは、なんの気なしに、水のおもてにうつった自分の顔を見て、あっとおどろいた。なるほど、水のおもてにうつっている顔は、たしかに自分の顔にちがいない。けれども、いつも自分の家の古い鏡のなかで見なれている自分の顔とは、まるで似てもつかない顔なのだ。水のなかの顔は、ごく若い男の顔なのである。
おじいさんは、おもわずわれとわが目を疑った。そして、ひょいと両手を自分の頭にのせてみた。ところが、今の今までつるつるに禿《は》げていた自分の頭に、これはまたなんと、まっ黒ぐろな髪が、ふさふさと生えているのである。顔をなでてみると、顔の肌も若い者のようにすべすべして、皺《しわ》などはどこへ行ったか、とんとみな消えてなくなっている。と同時にからだのうちにも、なにかこう、新しい力がむくむく張りきっているような心持がする。おじいさんは、自分の手足を見てみて、二度びっくりした。寄る年なみで、とうから痩《や》せしなびていた手足がすんなりと形よく伸びて、若々しい筋肉がしこしこ張りきっているのである。おじいさんは、知らないまに、若返りの神泉を飲んだのであった。
そこで、木こりのおじいさんはうれしさのあまり、おもわず雀躍《こおどり》をして、大きな声をはりあげた。それから、生れてからおぼえたことのないほどの速さで、わが家へ飛んで帰った。家へはいると、木こりのおばあさんはびっくりした。びっくりしたのも、むりはない。おばあさんの方では、見ず知らずの人が、いきなり家のなかへ飛びこんできたと思ったのである。
そこでおじいさんは、ふしぎの次第をいちぶしじゅう、おばあさんに話してきかせた。けれども、おばあさんは、すぐには真《ま》にうけなかった。しかし、だいぶたってから、やっとおばあさんにも、げんに自分の目のまえにいるのが、げんざいの自分の亭主だということがわかった。それからおじいさんは、その清水というのは、こうこういうところにあるからといっておしえて、おばあさんに、おまえも連れていってやるから、いっしょに来なさいといってすすめた。
すると、おばあさんはいうのに、
「はい、そりゃもうおまえさまは、ひとりでそんげに男っぷりもようならしゃって、若くなったべ、こんげな婆さは、この末ともに可愛がってはくれなかんべ。おらも、さっそくこれから行《い》んで、飲んで来《こ》ざなんめえ。そんでも、まさかにふたりして家さあけて行《い》ぐこともなんねえから、おら、ちょっくら行《い》んでくるうち、おまえさま、うちで待っていなさろ」
そういって、おばあさんはひとりであたふたと森へ出かけて行った。
さて、きてみると、なるほど清水がある。そこでおばあさんは、そこへ膝をついて飲みはじめた。まあ、なんという冷たくて甘い水だろう! おばあさんは、ごくり、ごくりと、したたかに飲んで、ひと息ついてはまた飲んだ。
ところで、おじいさんの方は、いま帰ってくるか、いま帰ってくるかと思って、おばあさんの帰りを首を長くして待っていた。さぞ、柳腰《やなぎごし》のきれいな娘になって帰ってくることだろう、早くそれが見たいものだと、おじいさんは、てぐすね引いて待っていたのである。ところがおばあさんは、いっかな帰ってこない。おじいさんはすこし心配になってきた。そこで家をしめて、おばあさんを迎えに出かけた。
やがて、おじいさんは清水のところまできてみたが、あたりにはおばあさんの影もかたちも見えない。しかたがないので、帰ろうとしかけると、ふと、清水のそばの草のしげみのなかで、赤んぼの泣き声がする。おじいさんは、草のなかをさがしてみた。すると、そこにおばあさんの着物と、ひとりの赤んぼとを見つけだした。しかも、赤んぼも赤んぼ、生まれてまだやっと半年たったぐらいの、ちいさな赤んぼだった。
おばあさんは、霊薬《れいやく》の清水をあんまりたくさん飲みすぎたので、娘の年ごろをとおりこして、口もきけないような赤んぼになってしまったのである。
おじいさんは、その赤んぼを腕に抱きあげた。赤んぼは、かなしそうな、きょとんとした顔をして、おじいさんのことをじっと見ている。おじいさんは、赤んぼをよちよちあやしながら、いまさらのように妙にさみしい思いにふけりながら、わが家へ抱いて連れかえったのである。
浦島のことをいろいろと考えたあとだったせいか、この話の寓意は、まえに聞いたときよりも、なにかしっくりしないものがあるように、わたくしには思われた。人生の泉を飲みすぎてしまったのでは、人間は若返りはしない。
まる裸になって、さも涼しそうなかっこうをして、わたくしの俥やは戻ってくると、じつはこの暑さでは、約束の十里の道はとても行かれない。で、残りの道のりを乗りつぎでやってもらう相棒を見つけてきたから、まことにすまないが、ここまで走ってきた分として、五十五銭やっていただきたい、と申しでた。
じっさい、その日は暑さがきびしかった。あとで聞いたところによると、なんでも百度の上を越したそうである。遠くの方では、あいかわらず雨乞いの太鼓が、うだるような暑さの鼓動みたいに、ドーン、ドーンとしきりに鳴りとどろいている。わたくしは、竜宮の乙姫のことを考えて、
「うらしまやの乙姫さまは、七十五銭というはなしだったよ。約束の道のりはまだ来ていないけれど、よろしい、七十五銭、上げよう。――神さまは、こわいからね」
そういって、わたくしは、こんどは疲れていない俥やのうしろに乗りこむと、太鼓の鳴っている方角さして、灼《や》けつくような炎天のなかを飛ぶがごとくに走って行ったのである。
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九州の学生とともに
日本の官立専門学校もしくは高等中学校の学生は、年齢からいうと、最下級で平均十八歳、最上級になると、平均二十五歳にまでおよんでいるから、これを少年と呼ぶには、ちょっとむりである。この課程年限は、おそらく長すぎるようである。これでいくと、成績抜群の生徒でも、二十三歳にならないと、大学進学はまず望めないということになる。のみならず大学へ進学するということになると、英語とドイッ語か、もしくは英語とフランス語か、いずれかこの二ヵ国の外国語の実用的知識と、それに漢文の素養、これをしっかりと身につけておかなければならない(*)。そんなわけで、大学志望の学生は、自国のすぐれた古典文学に関するあらゆる知識のほかに、まだそのうえ、二ヵ国語の語学をぜひとも習得しなければならないということになる。こうした生徒の負担、これがいかに生徒にとって重荷であるかということは、そのうちの漢文一課目の勉強だけでも、まずヨーロッパ語なら六ヵ国の国語を習得するに匹敵する労力がいるという事実を知らないと、ちょっと理解することができまい。
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(*)この文章は、一八九四年の初頭に書かれたものである。その後、文部大臣故井上氏の英断によって、フランス語とドイツ語の学習は、必修でなく、随意選択の科外課目となり、高等学校年限もよほど短縮された。このうえは、できることなら、なんとかして英語の学習も随意科目にしてもらいたいものである。現在の実情では、英語は強制的で、これでは多くの学生は、なんの得るところもない。
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わたくしが熊本の学生からうけた印象、これはさきにわたくしが出雲《いずも》の生徒たちとはじめて近づきになった時の印象にくらべると、だいぶそこに大きなひらきがあった。これはなにも、熊本の学生たちが、日本の少年らしいあの嬉々として人なつっこい年ごろをすでに過ぎて、そろそろまじめな、口かずのすくない、一人前のおとなに成人していたという事実のせいばかりではない。ひとつには、かれらがいわゆる「九州かたぎ」なるものを、まるで正札《しょうふだ》でもつけたように、じつにはっきりと表示していたというせいが多分にあるのである。
いったい、九州という土地は、こんにちでも、いまだに昔ながらに、日本の国のうちでもいちばん保守的な地方になっている。わけても、そこの重要都市である熊本は、保守的精神の中心地になっている観がある。もっとも、この地方の保守主義というのは、保守主義とはいっても、すこぶる合理的な、かつまた実践的な保守主義である。早いはなしが、この九州という土地は、これまで、たとえば鉄道の敷設《ふせつ》とか、農業の改善、あるいはまた、ある種の工業に科学を応用することなどにかけては、けっして時風におくれるというようなことのなかった土地である。それでいながら、この地方は、いまだに帝国諸州のうちでも、西洋の風俗習慣をまねることを、最もいさぎよしとしない地方なのだ。いまでも、この地方には、むかしながらの侍《さむらい》かたぎがそのまま生きのこっている。しかも、この侍かたぎ――いわゆる九州魂なるものこそは、ここ数世紀にわたって、あの地方の日常生活における、あのきびしい質朴簡素の風を強要してきたものなのである。衣服の奢侈《しゃし》、その他いろいろの奢侈贅沢に関する禁令が、ここではつねに厳重におこなわれてきているし、また、そうした禁令が、こんにち、時世につれてすでに廃止されてしまったのちになっても、いちど布《し》かれた法令の影響は、いまだにこの地方の人たちの質素な服装や、かざりのない、簡明率直な態度行状などに、いぜんとして跡をとどめている。よその地方では、もうほとんど忘れ去られてしまったような品行上の因習までも、熊本人は、いまだに固くこれを守っているといわれているし、また、言語・動作の上の、あの一種|磊落《らいらく》な虚心|坦懐《たんかい》さ――これは、外国人などが見ては、ちょっとすぐには見わけがつきにくいが、教養ある日本人なら、一見してすぐと感じとれるもので、これなどもやはり、熊本人の特色のひとつだといわれている。いや、そればかりではない、加藤清正の大きな居城――いまはそこに膨大《ぼうだい》な師団兵がはいっているが――その城下にある熊本市は、日本帝国の国民的情操である忠君愛国の精神にかけては、帝国の首府たる東京などよりも、はるかに堅固なものがあるとさえいわれている。そしてまた、熊本としては、いまあげたような点を、自分たちの国の誇りともしているし、この地方特有の因習・伝統を、よその土地にない、自分たちの国だけのお国自慢にしている。
正直のところ、この地方は、ほかにこれといって自慢にするようなものは、なにひとつない土地である。だだっぴろい、まとまりのない、退屈な、見ばえのしない都市、これが熊本だ。ここには、古風で風雅な町ひとつあるわけでもなければ、大きな寺院ひとつないし、めずらしい庭園ひとつあるわけではない。過ぐる明治十年の西南の役に、町のいっさいは祝融《しゅくゆう》氏〔火事〕の見舞うところとなって、その余儘もまだおさまらないうちに、いそいで仮り普請の小屋を建てならべた焼け野原。――そんな印象を、この町はひとにあたえる。これといって、かくべつ杖をひくような名所もないし(すくなくとも、市内には一ヵ所もない)、見物するようなところもなし、娯楽場などもいっこうにない。そのおかげで、ここの高等学校は、じつをいうと、学園としてはたいへん所をえたところだと、世間からは思われているのである。つまり、寮生たちにとって、ここならどこにひとつ誘惑物もないわけだし、邪魔になるものもないわけだからである。ところが、それとはまたべつの理由で、遠い東京くんだりから、わざわざこの熊本まで子弟を遊学によこす金持の親たちもあるのである。それはつまり、若いものに、いうところの「九州魂」というやつをしみこませること、いわゆる「九州かたぎ」というやつを身につけさせることが、大いに望ましいことだと、世間の人が考えているからであって、じじつ、熊本の学生といえば、この「お国かたぎ」のおかげで、全国でも特殊な学生とうたわれているのである。
わたくしは、いうところの「九州かたぎ」なるものを、うまく定義づけるほど、まだよくそれについて、じゅうぶんな知識をもちあわせていないけれども、いずれにしても、この「九州かたぎ」というやつが、むかしの九州武士の言動によく似たものだということだけは明らかである。その点、だから、東京や京都あたりからくる学生は、だいぶようすのちがった環境に折りあって行かなければならないことも事実である。というのが、だいたい、熊本の青年たちは、――鹿児島の青年もそうだが、学校では体操の時間とか、その他とくべつのばあいに、ぜひとも制服を着用しなければならない時はべつとして、それ以外のときには、いまでもあいかわらず、むかしの武士が着たような、――こんにちでいうならば、あの剣舞の詩吟に着て出るような、袖腕《そでわん》にいたる敞衣短袴《へいいたんこ》、あれを着て、足にはわらじをはいている。着物といっても、生地はごく安物のそまつなものだし、色あいなども、いたって地味なものだ。足袋《たび》などは、寒中か、さもなければ長道中の行軍でもするようなとき、足の肉にわらじの緒《お》が喰いこまないように、下ばきにはく時以外には、めったに穿かない。かくべつ、粗暴にわたるというわけではないけれども、立ち居ふるまい・行作《ぎょうさ》は、どうしても柔和というわけにはいかない。総じて若いものは、平素から、外剛の気風をやしなっているふうが見うけられる。そんなふうだから、なにか事のあった、非常のばあいに際しても、うわべは顔のすじひとつ動かさずに、泰然自若としている。ところが、この自制力の下には、猛烈な自力の意識がかくされているのであって、めったにはないことだけれど、どうかすると、その自力意識が、なにかのひょうしに一種の威嚇《いかく》のかたちになって、そとに爆発するようなことがないではない。まあ、早くいえば、東洋流の意味でいう豪傑肌《ごうけつはだ》、そんな気味あいのところが、かれらには多分にある。
わたくしの知っている男で、これはそうとうの物持ちの家にうまれた男だが、いったい自分というものが、どこまで肉体的苦痛にしのびたえることができるか、それを自分で試してみるくらい痛快なことはない、といっている男さえあるくらいだ。とにかく、大多数の若いものは、自分たちの高潔なたてまえをすてるくらいなら、むしろ遅疑《ちぎ》なく、わがいのちをいさぎよく捨ててしまおうという連中である。そんなわけだから、かりにも、国家存亡の時だという流言でも聞こうものなら、おそらく全校四百の健児は、たちどころに一団の鉄血のつわものと化するにちがいない。それでいながら、そういうかれらの外貌は、ふだんはちょつと了解に苦しむくらい、どこを風が吹くといったような、洒々落々たる無神経な顔をしているのである。
このついぞニコリとも笑ったことのない、泰然自若、どこ吹く風といったかれらの平静さの下には、いったいどんな感情、どんな情操、どんな理想がかくされているのだろうと思って、わたくしはずいぶん長いこと、ふしぎに思っていたのであるが、けっきょくそれは、とうとうわからずじまいであった。おなじ学校に奉職している日本人の教師たち――これは、じつは、政府の官吏なのだが、おなじ日本人の血をわけた同胞の、そうした教師連にしても、かくべつこれといって、生徒のだれかれと、とくに親密にしているというようなふうは見うけられない。出雲にいた時分に見たような、ああした師弟のあいだの、こまやかな愛情あふれた親密な間柄などは、ここでは、薬にしたくも見られないのである。教えるものと教えられるものとのつながり、それはただ、全校のクラスの生徒が散集するときに吹き鳴らす、ラッパの音によってはじまり、それによって終る――そんなふうにしか思われなかった。もっとも、この点については、自分が多少思いちがいをしていたことが、のちになってからわかったけれども、それでも、教師と生徒のあいだのつながりは、だいたいにおいて、自然の流露というよりも、どちらかというと、形式的なものであった。それは、わたくしが、あの八百万《やおよろず》の神々の国である出雲を去ったのちも、長く長く心のおもいでとして、自分の胸のなかに消えずにのこっていた、あのいかにも古風な人情とは、およそ似てもつかないものであった。
ところが、最近になって、わたくしは、この一見うわべに見えるものよりも、さらに深く心をひかれるような内面的なもの――つまり、情操的な個性のひらめきをそれとなく暗示する底のものを、おりにふれて見るようになってきた。それは、生徒との時どきの対談のなかからも得られたが、それよりもとくに目だったのは、生徒の作文の中からえたものが多かったことである。英作文に出した題が、時によって、思いもかけない思想と感情の花を咲かせることがあったのである。
総じて年の若い生徒たちが、だれかれの差別なく、みないちように、心にもない羞恥《しゅうち》をよそおうというようなことは全然なかったということ――いや、どんなばあいにも、けっしてはにかむということがなかったということは、これはじつにうれしいかぎりであった。かれらは、みな、自分で感じたことや、自分で思ったことを、すこしも恥かしがらずに、ありのままに書いてくれた。家庭のことも書けば、父母に対する敬愛のことも書く。ちいさい時分のたのしかった経験のことも書けば、友情についても書くし、そうかと思うと、学校の休暇中におこった奇談なども書いてきたりした。しかもそれが、どれもみな、かくべつ美文調をひねって、舞文曲筆《ぶぶんきょくひつ》するというのではなくて、へたながら、いかにも真率に書いてあるので、ときどきわたくしは、思わず美しいなと思うことがよくあった。そういう驚きが、なんどか度《たび》かさなったあげくに、わたくしは、いままでに見たなかの秀逸の作品を、なぜはじめから写しをとっておかなかったかと、後悔したくらいであった。
毎週一回、わたくしは提出された作文のなかから、いちばん優秀な作を選び出して、それを教場で朗読してやり、まちがっているところはその場で直してやり、あと残ったものは、家へ持ってかえって、添削《てんさく》をした。もっとも、秀逸の作は、生徒のまえで大きな声で読み上げるとはいっても、かならずしもいつもそれについて、生徒ぜんたいのためにいちいち細評を下すとはかぎっていなかった。というのは、以下にあげる例文を見てもわかるとおり、扱っている題材が、やたらに文章の上の批評や添削を加えることができないほど、神聖なものだったからである。
あるとき、わたくしは英作文の題に、「人が最も永く記憶にとどめるものは何か?」という題を出したことがあった。ひとりの学生は、それについて、こういう答えを書いた。――われわれは、なんといっても、ほかのいろんな雑多の経験を記憶するよりも、われわれがいちばん幸福だった時のことを、永く記憶するものだ。なぜかというと、不愉快だったことや苦しかったことは、できるだけ早く忘れてしまおうとするのが、人間の常情だから、というのである。
そのときは、まだほかにもいろいろと機智に富んだ答案がでて、あるもののごときは、この問題について、なかなか鋭い心理的考察をこころみたものなどもあったりしたけれども、わたくしはしかし、多くの答案のなかで、もっとも悲痛なできごとが、いちばん長く人の記憶にとどまると考えた、ある生徒の単純な解答に、いちばん好感がもたれた。この生徒は、次のように書いている。以下は、原文のままで、一字一句も直してない。直す必要をわたくしはみとめなかった。――
「人が最も永く記憶にとどめるものは、何か? 人が最も永く記憶にとどめるものは、その人が、最も苦しい境遇にあって、見、かつ聞いたことだろうと、ぼくは思う。
ぼくが四つのときに、ぼくのなつかしい、なつかしい母が亡くなった。それは冬の日であった。風は、木立にも、家の屋根のめぐりにも、はげしく吹きめぐっていた。木の枝には、もういちまいの葉ものこっていなかった。ウズラが遠いところで、さびしい声をして鳴いていた。ぼくは、そのとき自分がしたことを思いだす。ぼくは、床の上にふせっていたぼくの母に、――それが、母の息をひきとるちょっと前のことだった。――あまいミカンをあげた。母はニッコリとわらって、そのミカンを手にとり、それをおいしいといって食べた。それが母のわらったさいごだった。……母が息をひきとってからこんにちまでに、もう十六年以上の月日がたっている。でも、ぼくには、それがほんの束《つか》の間のような気がする。ことしも、また冬が来た。母の亡くなったときに吹いた風が、いまもまた、あの時とおなじように、吹きしきっている。ウズラもおなじ声をたてて鳴いている。なにもかもが、そっくりおなじだ。けれども、ぼくの母は、もうあの世へ行ってしまった。そうして、もう二どとふたたび帰ってこない」
次にあげるのも、やはり、おなじ題に答えて書かれたものである。
「じぶんの生涯で、もっとも大きな悲しみは、父の死であった。じぶんは七歳だった。その日、じぶんは、いちんちじゅう、父の容態がわるかったことと、じぶんのオモチャがきれいに片づけられて、なんでもひどくおとなしくしていたことを、おぼえている。
その朝、じぶんは父にあわなかった。その日いちにちが、とてもじぶんには長いように思われた。とうとうしまいに、じぶんは、父の部屋へそっと忍んで行って、父の顔に口をさしよせて、小さな声で『お父さん、お父さん』と呼んでみた。――父の顔は、ひじょうに冷たかった。父はものをいわなかった、そこへ叔父がやってきて、じぶんのことを、部屋からつれだして行った。けれども、叔父は、じぶんになにもいってくれなかった。じぶんは、父が死ぬのではないかと、なんだか心配になってきた。ちょうど、じぶんの妹が死んだとき、妹の顔が冷たかった。それとおなじように、父の顔が冷たかったからである。
夕方になったら、近所の人や、よその人たちが大ぜいやってきて、じぶんにいろいろ愛想をしてくれたので、じぶんは、いっとき楽しい思いをした。けれども、その人たちは、その夜のうちに、父をどこかへ持って行ってしまった。それぎり、じぶんは、父のすがたというものを見ないのである」
以上の文章から見て、あるいは諸君は、日本の高等学校の英作文の特色は、単純な文体にあると想像されるかもしれない。ところが、じっさいは、それとは逆なのである。一般の傾向としては、小さなことばよりも大きなことばを好むふうがあって、平明な短文よりも、複雑な長文を好むふうがある。これには、ある理由があるのであって、それを説明するとなると、チェンバレン教授の言語学に関する論文が必要になってくる。が、それを引用するまでもなく、こうした傾向それ自体は、――げんに使用している、愚劣きわまる教科書は、それをしきりと賞揚しているが――次にあげるような事実から、いくぶんなりとも、うなずくことができるだろう。つまり、英語の表現のうちで、いちばん簡単な言いあらわし方が、日本人にとっては、いちばんそれがわかりにくい形だということだ。なぜ、それがわかりにくいかというと、けっきょく、そういう簡単な表現形式は、たいていのばあい、慣用語《イデイオム》――熟語だからである。学生からみれば、こういう熟語は、まったくもって謎みたいに見えるのであって、ということはとりもなおさず、そうした熟語の根柢《こんてい》にある根本観念が、かれらの根本観念とまったく相容れないものであるからなのだ。かれらの根本観念を解明するためには、まず第一に、日本人の心理について、多少なりとも心得をもっておく必要がある。つまり、かれらは、簡単な熟語を避けて、いちばん抵抗のすくない方向にむかっているのである。
わたくしは、いろいろにくふうをしてみて、何とかしてそれと反対の傾向を養ってやろうと思って、いろいろやってみた。あるときは、全文を単文で、しかも、なるべく単綴の単語ばかりつかって、ごくありふれた、だれでも知っているような物語を、生徒のために書いてみせたり、またあるときは、題目の性質からいって、どうしても簡単に書かなければならないような課題をあえてみたりした。もちろん、わたくしのそうした試みが、ひじょうに成功したとは言いきれないけれども、たとえば、そういった意味で選んでみた「はじめて学校へあがった日」という課題などでは、だいぶたくさんの作品が出て、それがまた、いずれも作者の感情と性格が天真に流露している点で、わたくしに別趣の興味をわかせた。いくぶん手を入れて、誤りは正し、そのなかの二、三をここにあげてみることにするが、その天真の流露感は、なかなかどうして、捨てがたい趣きがある。ことにそれが、幼い子どもの回想ではないことを思うと、またひとしおである。次にかがけるものなどは、中でも最も秀逸なもののひとつであるように、わたくしには思われる。
「私は八歳になるまで、学校へあがれなかった。あそび仲間は、みんなもう学校へあがっているので、私はよく父に学校へあげてくれといって、せがんだものだ。しかし、父は、私のからだがあまり丈夫でないからといって、なかなかうんと言ってくれなかった。そんなわけで、私はしじゅう家にいて、弟とあそんでいた。
はじめての日には、兄が学校へいっしょにつれて行ってくれた。兄は、先生になにか言うと、そのまま私をおいて行ってしまった。先生は、私のことを教室へつれて行って、そこの腰かけに坐っていよというと、これもまた、どこかへ行ってしまわれた。私はなんだか心ぼそくなって、そのまま黙って、そこに坐っていた。もういっしょにあそぶ弟もいない。いるのは、顔も知らない、大ぜいの子どもたちばかりである。そのうちに、鐘が二ど鳴った。すると、先生が教室へはいってこられて、みんなに、石盤をお出しなさいといわれた。それから先生は、黒板に字を一字書かれて、これをおうつしなさい、といわれた。その日は、先生は、日本のことばをふたつ教えて下すって、それから、よい子のおはなしをして下さった。
家へかえると、私は、すぐと母のところへとんで行って、母のそばにかしこまり、きょう、先生がおしえて下さったことを話した。ああ、そのときの私のうれしさは、どんなにまあ大きかったことだろう! その時の感じは、とても口には語れないし、ましてや、筆などにはとても書くことができない。ただ、私はそのとき、先生というものは、お父さんよりも誰よりも学問のある人。――世界じゅうでいちばんこわい人、それでいて、いちばんやさしい人だと思ったことよりほかに言えない」
次にかかげるものも、先生というものを、ひじょうに楽しい、なごやかな光りで見ている。――
「はじめての日には、兄と姉とが、ぼくのことを学校へつれて行ってくれた。ぼくは、学校へ行っても、いつも自分の家でしているように、兄や姉のそばに坐っていられるものだとばかり思っていた。ところが、先生が、兄や姉のいる教室からずっと離れたところにある教室へ行くように、ぼくに命じた。ぼくは、どうしても兄や姉のそばにいっしょにいるのだと言って、きかなかった。先生が、そんなことはできないのだといわれたとき、ぼくは泣いて、ドタバタやって騒ぎたてた。そうしたら、先生がたが、兄に、教室を出てぼくのところへいっしょに行ってやれといって、許して下さった。やがて、ぼくは、自分の組のなかに遊びともだちができて、それからはもう、兄がそばにいなくても、こわくないようになった」
次のものも亦、なかなか美しく、真に迫っている。
「ひとりの先生(校長先生だったと思う)が、じぶんのことを呼んで、おまえは、ぜひとも大学者にならんければいかんぞ、といわれた。それから、だれかを呼んで、生徒の四、五十人もいる教室へ、じぶんをつれて行かせた。じぶんは、こんなに大ぜいの友だちがいるのかと思って、なんだかこわいようでもあり、また、うれしいような気もした。みんな、じぶんのことを、きまり悪そうにちろちろ見ていたが、じぶんもはにかんで、みんなのことをちろちろ見た。はじめは、みんなに口をきくのが、なんとなくこわかった。子どもなんてものは、そんなふうに罪のないものだ。でも、まもなく、どうかしたひょうしに、仲よくいっしょに遊びだした。そして、みんなも、じぶんが遊ぶようになったことを、いっしょになってよろこんでくれるふうだった」
以上、三つの作文は、いずれも、手習い師匠の苛酷な懲罰《ちょうばつ》を禁じた、現行の教育制度が布《し》かれたのち、はじめて学校教育をうけた若い青年たちが書いたものである。これに反して、ひと時代まえの、いわゆる手習い師匠の連中は、ずいぶんきびしかったもののようである。ここに、その一例として、まったく違う経験をもった、年うえの学生の作品が三篇ある。――
(一)
「明治以前には、今日あるような公立の学校というものは、日本にはなかった。そのかわりに、どこの地方にも、侍の子弟たちから成り立つ、一種の学生塾とでもいうようなものが存在していた。男子で、サムライの子弟でないものは、こういう塾校へはあがることができなかったのである。塾校は、それぞれ、その地方の藩公の支配下にあるものであって、藩公は、塾生のたばねをする塾長なるものを、みずから任命するのである。侍の主要な学問は、漢文と漢文学の勉強であった。こんにち、政府の要職にある政治家の大多数は、みんないちどは、この士族の塾校の生徒だった人たちである。
ふつうの町人や、百姓たちは、自分たちの子女を、寺小屋という、いちばん下級の学校へかよわせなければならなかった。寺小屋には、たいてい、先生がひとりいて、それがなにもかにも、ぜんぶひとりで教えるのである。学課は、読み、書き、そろばん、それに修身、といった程度であった。ふつうの手紙、それに、ごくやさしい文章ぐらいを学ぶことができた。わたしは、侍の子ではなかったから、八つの歳に、この寺小屋へやらされた。さいしょのうち、わたしは行くのをいやがったので、毎朝、祖父が、こん棒で打っては、わたしを行かせたものであった。寺小屋のおきては、ひじょうにきびしいものであった。おきてを守らない子どもがあると、その子どもは、罰をうけるために、押さえられて、竹の棒で打たれたものである。それから一年たつと、公立学校がほうぼうに開設されたので、わたしは、公立学校へ入学した」
(二)
「大きな門。ものものしい建物。腰かけが幾列にもずらりと並んでいる、だだっぴろい、陰気な部屋。――こんなものを、自分はおぼえている。先生がたは、たいへん厳格そうなようすをしておられた。どの顔を見ても、自分は虫が好かなかった。教場の腰かけに腰をかけたまま、自分はいまいましくてしかたなかった。先生がたが、みんな不親切な人のように見えたのである。自分を知っている生徒はひとりもいないし、向こうからものを言いかけてくれるものもいない。そのうちに、ひとりの先生が、黒板のそばに立って、名前を呼びはじめた。先生は、手にむちを持っていた。やがて、先生が、自分の名前を呼んだ。自分は返事ができないで、いきなりわっとその場に泣き出してしまった。そんなわけで、自分は、家へ送りかえされた。これが自分の学校へ上がった最初の日である」
(三)
「ぼくは七つのとしに、生まれた村の学校へ入学することになった。父が、筆を幾本かと、半紙を幾帖か下さった。ぼくは、それをもらったことがひどくうれしくて、これからは、きっといっしょうけんめいに勉強します、といって、約束をした。
ところが、はじめて学校へ行った日は、これはまた、なんという不愉快な日だったろう! 学校へ行ってみると、知っている生徒は、ひとりもいないので、ぼくはひとり、友だちのない仲間はずれだった。やがて、教場へはいった。〈むち〉を手にもった先生が、とても大きな声で、ぼくの名前を呼んだ。ぼくは、先生の大きな声を聞いて、たいへんびっくりしてしまって、なんだかこわくなって、泣きださずにいられなくなってきた。すると、生徒たちは、みんな大きな声をたてて、ぼくのことを笑った。でも、先生は笑った生徒たちのことを叱って、そのうちのひとりを、むちで打った。それから、先生は、ぼくに向かって、『わしの声を、なにもこわがることはない。君の名は、なんというのだね?』といった。ぼくは、鼻をつまらせながら、自分の名前をいった。そのとき、学校というところは、ほんとにいやなところだな、泣くことも、笑うことも、できないところなんだな、と思った。ぼくは、ただもう、一刻も早く、家へかえりたいと思った。とても自分の力では家へは帰れない、そうあきらめながらも、そのくせ、とても授業のすむまで待っていられそうになかった。やっとのことで、家へ帰ったとき、ぼくは、きょう学校で感じたことを、父に語って、『ぼく、学校なんて、ちっとも行きたくないや』といった」
つぎにあげる回想が、明治時代のものだということは、わざわざことわるまでもあるまい。これには、作文として、西洋でいう、いわゆる「特色」というようなものが、よくあらわれている。齢《よわい》、六歳にして、独立独行のことを言っているところが、おもしろい。それから、弟が初めて学校へあがる日に、自分の白足袋をぬいで、弟をめかしてやる、小さな姉のことを思い出しているところも、おもしろい。――
「わたしは六歳でした。母が、朝早く、わたしのことを起しました。姉が、わたしにはかせるのだといって、自分の白足袋をくれたので、わたしは、たいへんうれしく思いました。父が、女中に、わたしのことを学校へつれて行くようにいいつけましたが、わたしは、人につれて行ってもらうのはいやだといって、ことわりました。ひとりで行かれると、自分で思いたかったからです。
そこで、わたしは、ひとりで行きました。学校は、家から遠くないので、行ってみると、じきに校門のまえへ出ました。自分の知った子どもで、はいって行くものがひとりもないので、わたしは、しばらく、校門のところに立っていました。大ぜいの男の子や女の子が、みんな、女中や、うちの人につれられて、校庭へはいって行きます。見ると、もう夢中で、遊戯をしてあそんでいるものもあるので、わたしは、うらやましくなりました。すると、遊戯をしていたなかのひとりが、わたしのことを見て、笑いながら、飛んできました。わたしは、そのとき、とてもうれしく思いました。それから、その子と手をつないで、いっしょに、あちこち歩きました。
やがて、ひとりの先生が、みんなを教室に呼び入れて、お話をしてくれましたが、そのお話は、わたしには、ちんぷんかんぷんでした。お話がすむと、その日は始業の日だというので、それぎりで、学校は「お帰り」になりました。わたしは、その友だちといっしょに家へ帰りました。父も、母も、くだものやおかしを用意して、わたしの帰りを待っていてくれました。友だちとわたしとは、いっしょにそれを食べました」
べつの生徒が、また、書いている。――
「僕がはじめて学校へ上がったのは、六歳の時だった。祖父が、僕のために、本と石盤《せきばん》をもって行ってくれたことと、先生と友だちが、僕に、とてもとても親切に、よくしてくれたことと、それだけを、今でもおぼえている。そんなわけで、僕は、学校というところは、この世の天国だと思った。そして、家へ帰りたくなかった」
次にあげるような、ありのままの後悔を書いた短文なども、やはり、書き記しておく価値のあるものだと思う。
「はじめて学校へ行ったのは、八つの時だった。私はいたずらっ子だった。いまでもおぼえているが、学校の帰りみちで、私は、自分より年下の友だちと喧嘩をした。友だちの投げた石が、私にあたったのである。私は、道に落ちていた木の枝きれをひろうと、それで、力いっぱい、相手の顔をなぐりつけてやった。そして、道のまんなかに、わあわあ泣いている友だちをそこにおっぽり出したまま、私は逃げてしまった。私は、心のうちで、わるいことをしたと思った。家へ帰りついてからも、まだ、泣いている友だちの声がきこえるような気がした。このあそび友だちは今ではもう、この世にいない。私の心のうちをわかってくれる人があるだろうか?」
これらの若い青年たちが、このように、まったく、みえも飾りもなく、ありのまんまの感情で、自分の子どもの時分のことを思い出すことができる力は、これはやっぱり、なんといっても、本質的に東洋独特のものだと、わたくしには思われる。西洋では、人生の秋が近づきもしないうちから、自分の幼年の時代のことなどを、まざまざと思い出すものなどは、めったにない。ところが、日本では、外国とちがって、子どもの時代というものが、どこの国よりも、じつに楽しいのである。であるから、おそらく、大人になってから少年時代をなつかしく回顧する時期も、外国よりは早くくるのだろう。つぎに抄出するのは、学校の休暇中の自分の経験を書いた生徒の手記であるが、これなどは、少年の日の懐かしさが、いかにもしみじみと、あわれふかく写しだされている。
「春の休暇に、ぼくは両親を見舞いに帰省した。そろそろ学校へかえるというまぎわ、ちょうど休暇のおわるちょっと前に、郷里の町の中学生たちが、熊本へ行軍に行くということを聞いたので、ぼくも、それといっしょに行くことにきめた。
「中学の連中は、みんな小銃をもって、隊伍をととのえて、行進して行った。ぼくは、銃がないから、隊のいちばん後尾にくっついて行った。ぼくらは軍歌をうたいながら、それに歩調をあわせて、終日、行進した。
「夕方、添田に到着した。添田学校の職員、生徒たち、それに村のおともだちなどが、みんなして、ぼくらを歓迎してくれた。ぼくらは、そこで幾隊かにわかれ、それぞれ、べつの宿屋に分宿した。ぼくは、最後尾の部隊といっしょに、ある宿屋へはいり、その晩は、そこに泊った。
「その晩、ぼくは、長いこと寝つかれなかった。ちょうど五年まえに、ぼくは、やはり今夜の中学生とおなじ中学校の生徒として、これとおなじ行軍をして、おなじこの宿屋へ泊ったことがあるのである。ぼくは、その時のくたびれたことや、愉快だったことを思い出し、当時の少年の心もちを追懐して、それを今の自分の気もちにくらべてみた。そして、いっしょに泊っている連中のように、自分ももういちど、みんなのような年ごろになりたいなあと、そんな愚かな願いを起こさずにはいられなかった。中学生たちは、長い行進に疲れて、みんなぐっすりと寝こんでいた。ぼくはむっくりと起きあがって、みんなの顔を、つくづくとのぞきこんでみた。若わかしい眠りのなかに、かれらの顔は、なんと美しく見えたことだったろう!」
以上の選抄は、いずれもみな、あるとくべつな感情の注釈のために選んだものだから、これによって、日本の学生の英作文一般に通じた特性というようなものを、そこから見出すというわけにはいかない。もっとまじめな題目を課してみたら、そこから、いろいろの観念や情操がひきだせて、あるいはかわった思想や、また、文章の書き方にしても、もっと斬新《ざんしん》な例が、いくらもあったのだろうと思うが、それには、多くの紙面を費さなければならない。が、以下、わたくしが自分の教員手帳の手びかえの中から書き抜く「抜き書き」は、もちろん、大して珍重すべきものではないかもしれないが、多少の示唆が見出されはしないかと思う。
一八九三年(明治二十六年)の夏期考査のおりに、わたくしは、卒業組の作文の題に、「文学における不滅なるものは何か?」という題を出してみた。この問題については、それまでに生徒たちと、まだいちども討議したことがなかったし、それに、西洋思想に関する学生の知識という点から見ても、たしかにこれは新しい問題だったから、わたくしは、ひそかに、生徒たちの独創的な答案がえられるものと期待していたのであった。果せるかな、その答案のほとんどぜんぶが、おもしろいものであった。例として、ここには二十の解答を選び出して、お目にかけることにする。たいていは、ここに掲げる文句のあとに、長文の議論がついているものが多かったが、中には、本文の中に具体的に言いあらわされているものも、二、三あった。――
一、「真理と不滅とは、おなじものである。この二つのものは、漢語のいわゆる『円満』をつくるものである」
二、「人間の生活と行為のうちで、宇宙の法則にしたがうものは、すべてみな、そうである」
三、「愛国者の生涯、および、世界に至純な格言をあたえた聖人の教え」
四、「孝行と、それを教えた人の教義。秦《しん》の時代に、孔子の書は焚《や》かれたが、その効はなかった。孔子の書は、今日では、文明世界のあらゆる国のことばに翻訳されている」
五、「人倫と科学の真理」
六、「善悪は、ともに不滅なものであると、中国の或る聖人が言った。われわれは、善なるものだけを読むべきである」
七、「われわれの祖先の、偉大なる思想と観念」
八、「十億世紀のあいだ、真理は、いぜんとして、真理である」
九、「あらゆる倫理学の学派が、ひとしく認める正邪の観念」
十、「宇宙の現象を正しく説明する書物」
十一、「良識のみが不滅である。したがって、良識にもとづいた人倫の書物は、不滅である」
十二、「崇高な行為にたいする理念。これは、時劫のために変ることがない」
十三、「できうるかぎり最大多数の人々――すなわち、人類に、できうるかぎり大きな幸福をもたらす、最もよい道徳的な手段を書いた書物」
十四、「中国の五大古典である五経」
十五、「中国の聖賢の書と仏典」
十六、「人間のおこないの、清廉至直の道を教えたものは、すべてみな、そうである」十七、「七たび生まれかわって、朝敵と戦わんと誓った、楠木正成のはなし」
十八、「道徳的情操、これがなければ、世界はただ一大|穢土《えど》、あらゆる書物は、反古《ほご》にひとしい」
十九、「老子道徳経」
二十、十九と同じ。ただし、次のような注がついている。――「不滅の書を読むものの魂は、永遠に宇宙のうちを天翔《あまが》けるであろう」
どうかすると、ある東洋独特の情操の問題が、ときおり、討論のなかへかつぎだされることがあった。討論というのは、わたくしがクラスの生徒に口演したものを元にして、その話について、生徒たちの感想を書かせるとか、あるいは、口頭で批評を試みさせるとかするのである。その討論の結果については、あとでまた披露することにするが、ちょうどその討論をやったころには、すでにわたくしは、上級の生徒に、そうとう数多くの話をしておいたのである。ギリシャ神話のはなしなどを、いろいろ聞かせてやったのであるが、そのなかでは、エディポスとスフィンクスの話が、あのなかには教訓をふくんでいるので、とくに生徒の興味をひいたようであった。オルフェースの話もしてやったが、この方は、ほかの西洋音楽のさまざまな伝説とおなじように、いっこうにおもしろくなかったようである。
それからまた、近代の名作の物語も、いろいろ話して聞かせてみた。そのなかでは「ラッパシニの娘」という、ふしぎな物語が、だいぶ生徒たちの好みにあったようであった。この作の作者であるホーソンの霊は、自作に対する日本の学生たちの解釈を聞いて、すくなからず、地下によろこびを感じたことだろうと思う。「モノスとダイモノス」もお気に召したが、それよりも、ポーの傑《すぐ》れた短篇である「沈黙」が、風変りだという点で感心されたのには、ちょっと驚いた。これに反して、「フランケンスタイン」は、あまり感銘をあたえなかった。あの話をまじめにうけとったものはひとりもなかった。
いったい、西洋人があの話を聞いて、ある特異な恐怖をいだくのは、あれはつまり、人間の生命の根源、とくに神の禁断のおそろしさ、あるいはまた、人間が自然の秘密から、そこに蔽《おお》いかぶせてある面皮をはぎとろうとたくらんだり、あるいは、自分ではそう意識しないにしても、嫉妬ぶかい造化の神のことを揶揄嘲弄《やゆちょうろう》したりすると、そのおかげで、人間はとんでもない天罰をこうむるものだという、すべてヘブライ思想の影響をうけて発達した感情に、あの物語が大きな衝撃《ショック》をあたえるからなのだ。
ところが、そういう怖ろしい信仰の影のさしていない東洋人は、神と人間とのあいだにある隔たりというものを、いっこうに感じない。そのかわり、かれらは、人生というものを、なにごとも因果応報――いっさいを罰とむくいのはたらきに結びつける一定の法則によって、あらゆるものが複雑多様に支配されているものだと思いこんでいるから、ああいう物語の怖ろしさというものを、しみじみ心に感じないのである。生徒の書いた批評を見てみると、たいていのものが、あの物語を、ただ一篇の滑稽談か、あるいは、おどけ半分の譬《たと》えばなしだと思っていることが、わかった。以上のようなことがあってから、ある朝のこと、わたくしは生徒から、「西洋のはなしで、なにか、ごくかたい、道徳的なはなし」をしてくれという申出をうけて、これにはすくなからず面喰らわされた。
なにしろ、とっさのことだったし、ちと敢えて虎穴《こけつ》に入るのおそれあることは、万々承知していたけれど、よろしい、それではひとつ、アーサー王の伝説を話してみて、その効果をためしてみよう、きっとだれか、元気に論駁《ろんばく》してくるにちがいないと思って、わたくしはそうきめた。アーサー物語なら、道徳的な点では、「ごく固い」なんという沙汰ではない。その点、わたくしは、どういう結果が聞かれるかと思って、じつは、ないない好奇心をうこかしたのであった。
そこで、わたくしは、サー・タマス・マロリーの「アーサーの死」の、第十六章にある、サー・ボルスの物語を、生徒に話して聞かせた。――サー・ボルスが、弟ライオネルが捕えられて、いばらの棘《とげ》で打たれているところへ出会った次第、――辱かしめを受けようとした、ひとりの乙女の身の上のこと、――やがて、サー・ボルスが、弟を打ちすてて、乙女を救いに行くくだり、のちに、弟ライオネルが、ついに相果てたと聞かされるところ――などを、わたくしは話して聞かせた。が、その話のなかで、わたくしは、この美しい古譚のうちにあらわれている、昔の騎士道の理想については、なにひとつ生徒に説明をしてやらなかった。ともあれ、説明もなし、注釈もなしで、ただ物語の事実だけの上に立って、生徒たちが、各自に、東洋固有の考え方で、それに批評を加えるのを、わたくしは聞きたかったのである。
その批評を、生徒たちは、次のようにした。――
岩井という生徒がいった。「キリスト教は、すべての人間は同胞だといっていますが、もし、その通りだとすると、マロリーの書いた騎士の行動は、キリスト教の主旨に反していると思います。この世の中に、社会というものが存在していなければ、こういう行為も是《ぜ》とされるかもしれません。しかし、家族というものから成り立っている社会が存在する以上、家族愛こそ、社会の力でなければなりません。ところが、かの騎士の行動は、家族愛に反した行為です。かれが奉じている主義は、あらゆる社会に反しているばかりでなく、宗教にも反しているし、あらゆる国の道徳にも反しています」
織戸という生徒がいった。「この物語は、たしかに不道徳です。そこに述べられていることは、わたくしらの愛とか義とかいう考え方とは、およそ反対なものです。いや、天理にさえ反していると、わたくしらには思われます。義とは、ただ一片の義務ではありません。それは、心の底からほとばしり出たものであって、そうでなければ、義とはいえません。義とは、人間が持って生まれた、これはもう、天性の感情のはずです。それは、日本人なら、どんな人間の天性の中にもあります」
安東という生徒がいった。「じつに、いやな話です。博愛なんていうけれども、こんなものは、ただ兄弟愛を押しひろげたものにすぎません。血をわけた肉親の弟を見殺しにしておいて、見ず知らずの女を助けてやるなんて、性根のひんまがった人間です。おそらく、この男は、一時の感情にかられたのでしょう」
「いや、それはちがうね」と、わたくしは言った。「かれの行動には、利己主義などはみじんもないのだよ。そのおこないは、一個の英雄的行為と解釈すべきだと、わたしがさっきいったのを、君は忘れているね」
すると、安河内という生徒がいった。「私は、この物語は、宗教的に解釈しなければいけないと思います。どうも私らには、この話は妙に思われるんです。もっとも、それは私らが西洋の理念をよくわきまえないからでしょうけど。もちろん、見ず知らずの女を助けるために、肉親の弟をすてるなどということは、私らの知っている正義というものに反していることです。それにしても、あの騎士が、ほんとうにまごころをもっている男だったら、自分は、なにかの約束か、あるいは、なにかの義務のために、やむをえず、ああいう行動に出るのだと思ったに相違ありません。しかし、たとえそうであったとしても、ああいう行動に出ることは、いかにも心苦しい、恥ずべきことだと、自分で思ったにちがいありません。かれとしたら、自分は、良心の教えることに反したことをしている。――終始、そういう思いを胸にいだいて、事をやったはずです」
わたくしは、それに答えて、いった。「なるほど、君のいうのは、もっともだ。しかしね、こういうことも知っておかなければいけない。つまり、サー・ボルスが従った感情だね、あれは、こんにちでもなお、西欧の社会で、侠気《おとこぎ》のある、高尚な人たちのおこないを支配している感情なのだよ。ふつうにいう意味では、信心ごころのある人間といえないような人間のおこないでも、やっぱり、ああいう感情に支配されているのだよ」
すると、岩井がいった。「でも、私らには、ひじょうにそれはよくない感情だと思われますがね。もうちっと、べつのかたちの社会の、ちがうお話がうかがいたいです」
それからわたくしは、アルケスティスの、あの不朽の物語を話してやろうと、思いついた。あの神劇にあらわされているヘラクレスの性格は、きっと生徒たちに、とくべつの興味をあたえるだろうと、わたくしはその時考えたのである。ところが、生徒の批評を聞いてみて、自分の間違っていたことがわかった。だれひとりとして、ペラクレスのことを取り上げていうものもないのである。
正直のところを白状すると、最初にわたくしは、まずもってわれわれ西洋人の義勇行為の理想とか、決断力とか、死を鵞毛《がもう》より軽しとする所存とか、そういうものは、すべて日本の青年の心には、容易においそれと感銘をあたえないものだということを、よくよく頭に刻みこんでおいてかかればよかったのだ。これは、なにも、心ある日本人が、こうした人間の資質を例外視しているというわけなのでは、けっしてないのである。日本人は、英雄的行為というものを、ごくあたりまえのこと――男子と生まれた以上は、きってもきれないもの、つまり、自分の本分だとこころえているのである。日本人にいわせると、女子は物に怖《お》じても、ベつにそれは身の恥にはならないけれども、男子にとっては、それは絶対の禁物になっているのである。
それからまた、腕力の理想化という点からいっても、ヘラクレスは、あまり大して東洋人の興味をひかない。というのは、東洋の神話の中には、力を人格化したものがたくさんあるからである。だいいち、ほんとうの日本人だったら、ただ馬鹿力があるなんてことなぞは、あたまから問題にしやしない。そんなものよりも、その力の手練、飛鳥《あすか》のごとき早業《はやわざ》、すばしこさ、そういうものの方を、よけいに重んずるのである。たとえば、日本の子どもで、おれは弁慶になりたいと、本気になって思うものはひとりもいないが、逆に、弁慶を負かして家来にしたがえた、あのやさすがたの義経の方は、日本の武士の理想的典型として、あらゆる少年のあこがれの的になっているのである。
亀川という生徒がいった。
「アルケスティスの物語というよりも、アドミタスの話ですが、あれはじつに、卑怯と、不義と、不道徳の物語です。アドミタスのおこないは、じつに怪《け》しからんです。細君のアルケスティスの方は、これは、まことに心のけだかい貞女で、あんな破廉恥な男の細君には、すぎたるものです。アドミタスが、あんなろくでなしでなかったら、かれの父だって、自分の息子のために、みずからすすんで死んだろうと、わたしは思います。あの父親は、アドミタスの臆病なのに、今までいやな思いを見ていなければ、おそらく、自分の息子のために喜んで死んだろうと思います。それから、だいいち、アドミタスの家来どもの、あの不忠なことは、あれは、いったい、なんというざまです! 自分たちの王様が危いと聞いたら、その時すぐに御殿へかけつけて、王様のお身がわりに、どうぞ殉死をさせていただきたいと、なぜ、畏《かしこ》まって願わなかったのです? たとえ、主君が、いかに臆病もので、没義道《もぎどう》な人だったって、それが家来たるもののつとめではないですか? かれらは家来です、主君の恩によって生きている人間ですよ。それを、どうでしょう、あの不忠な〈しだら〉(ていたらく)は? ああいう恥知らずな人間どもの住んでいる国は、さっそく滅びてしまうにきまっています。もちろん、あの物語が言っているとおり、『生きることは美《うま》しき』ことです。人生を愛さないものが、どこにいましょう? 死ぬことをいやがらないものがどこにいましょう? しかし、豪傑や、忠義に厚い人間なら、よんどころない義理にさしせまったばあいには、自分の一命なぞ、屁《へ》とも思やしません」
すると、水口という生徒がいった。この生徒は、すこし遅刻してきたので、話のはじめの方は、聞いていなかった。「ですけど、おそらく、アドミタスは、孝行の志にひかれたのでしょう。かりに、わたしがアドミタスだったとして、自分の家来のなかに、ひとりもいさぎよく殉死をするものがいないということがわかったら、わたしは、自分の妻に、こういいます。『わが妻よ。おれは、父上を、おひとりあとに残して行くわけにはいかない。父上には、ほかに血をわけた子供は、ひとりもおありにならんし、それに孫といっても、まだ稚いから、父上のお役には立たんからな。そこで、妻よ、おまえ、おれのことを真に思うておるのだったら、どうか、おれの身がわりに、死んでくれい』」
「貴公はね、この話がよくわかっておらんのだよ」と、安河内がいった。「アドミタスに、なにが孝心なんかあるものか。自分の身がわりに、げんざい、父親に死んでくれと願った男なんだぜ」
「えっ!」と、さきに辯護《べんご》した生徒は、おどろいて、叫んだ。「そりゃ先生、よくない話です!」
「アドミタスは――」と、川淵という生徒が述べた。「――徹頭徹尾、よくないです。死ぬことを恐れたのですから、憎むべき臆病ものですし、自分の家来たちに、自分のために死ねといったのですから、これは暴君ですし、それからまた、年とった父親に、自分の身がわりになって死んでくれといったのですから、これは親不孝者です。また、自分の妻に――小さい子どものある、かよわい婦人に、男のくせにして、自分がこわくてできないことを、してくれといって頼んだんだから、妻にたいしても、不実な夫です。まず、このアドミタスより劣等な男が、果して世の中にいるでしょうか?」
すると、岩井がいった。「しかし、アルケスティスは、どこまでも見上げた婦人ですね。彼女は、わが子も、なにもかも、捨ててしまったんだから、まるでお釈迦さまみたいな女だな。しかも、まだ年がごく若いんですからね。じつに、まこころのある、健気《けなげ》な婦人です! 彼女の顔の美しさは、春咲く花のように散ってしまうかもしれないけど、そのおこないの美しさは、百万年たっても、人の記憶にのこるでしょう。彼女の魂魄《こんぱく》は、永久《とこしなえ》に宇宙にとどまって、滅びませんね。いまでは、彼女は形骸だもありませんけれども、しかし、げんざい、われわれにいろいろ教えて下さっている親切な先生がたよりも、かえってもっと親切に、われわれに物を教えてくれるのは、こうした形骸をもたないもの、つまり、清い、勇ましい、賢いおこないをした人たちの魂だと思いますね」
すると、隈本という生徒がいった。この生徒は、ふだんから、少々判断がきびしすぎる傾きがある。「アドミタスの妻は、あれはただ、従順だったというにすぎません。彼女にだって、ぜんぜん非難の余地がないというわけじゃありません。そのしょうこには、自分が死ぬまえに、夫の愚昧《ぐまい》をきびしく責めてやるのが、彼女の最高の義務だったのです。それを、彼女は、しませんでした。――すくなくとも、先生からうかがった話のなかでは、しませんでした」
財津という生徒がいった。「どうもわたしには、西洋人が、この物語を美しいはなしだと思うというのが、腑《ふ》におちにくいのですがね。この話のなかには、わたしらの腹を立たせるようなことが、ずいぶんたくさんあります。こういう話を聞いていると、わたしら、自分の親というものを、考えずにはいられなくなってきます。明治の御維新があって、あのあと、一時ずいぶん苦しい時代がありました。おそらく、わたしらの親たちにしても、時にはひもじいときもあったことと思うのですが、そんなときだって、わたしら、いつもたらふく物を喰っていました。どうかすると、明日の金さえないような時もあったでしょう。それでも、わたしらにはちゃんと教育をさずけてくれました。そのわたしらの教育にかけた費用、わたくしらを育ててくれた苦労、わたしらにあたえてくれた慈愛、物ごころもつかない子どもの時分に、わたしらがいろいろ親にかけた心配苦労、それを思うと、じっさいわたしらは、どんなに親に孝養をつくしても、つくし足りないと思います。そういうわけですから、アドミタスのような話は、わたしら、どうも好きになれません」
休み時間のラッパが鳴った。わたくしは一服すいに、運動場へ出て行った。
まもなく、銃剣をつけた、四、五人の生徒が、わたくしのそばへ寄ってきた。つぎの時間は、兵式訓練の時間だったのだ。ひとりの生徒がいった。「先生、また英作文の題を出して下さい。あんまりやさしすぎるのは願い下げですよ」
わたくしは、生徒たちに諮《はか》ってみた。「どうだね、『最も難解なものは何か』というのは、お気に召さないかね?」
「なあんだ、そんなの――」と、川淵がいった。「すぐ答えられますよ。最も難解なものは、――英語の前置詞の使用法」
「それは、日本の学生が英語を勉強するばあいは、そうだろうが」と、わたくしは答えた。
「しかし、わたしの言うのは、そういう特殊な面倒な問題の意味ではないよ。つまり、君たちが、あらゆる人間に理解がむずかしいと思うものについて、私見をのべるという意味さ」
「そうすると、宇宙ですか?」と、安河内が念をおすように聞いた。「そりゃまた、問題がすこし大きすぎるな」
すると、織戸がいった。「わたしが、まだやっと六つの時でした。天気の日というと、きっといつも海岸を歩いたんですが、世界が宏大だということが、子どもごころに、じつにふしぎに思われましたね。ぼくの家は、すぐと海っぺりにあったんです。その後、わたしは、宇宙の問題というやつは、ついには、煙みたいに消えてしまうものだということを教えられました」
「おれは考えるんだけど――」と、宮川がいった。「最大の難問題は、人間がなぜこの世に生きているかということだと思うな。子どもが生まれるね、生まれおちた時から、子どもは、なにをする? 食べたり、飲んだり、喜んだり、悲しんだり、夜は寝る、朝になれば目をさます。教育をうけて、大きくなってさ、結婚をして、子どもを生んで、年をとる。年をとれば、髪がごま塩になって、それが白くなって、だんだん老衰して、しまいには、死んじゃうんだ。
「ねえ、一生のうちに、人間は、いったい、なにをするのかね? 人間が、じっさいにしていることといったら、食って、飲んで、寝て、起きることで、そりゃ市民として、どんな職業についていたって、ただ、こいつをつづけて行くためばっかりに、みんな、あくせく働いているんだろう。しかし、人間がこの世へ生まれてきたのは、なんの目的があってなのかい? 食うためかい? 飲むためかい? 寝るためかい? 毎日毎日、きっちりきちょうめんに、おんなじことばっかりしていて、よくまあ、飽きないもんさ。ふしぎだよ。
「褒《ほ》められりゃ、よろこび、罰をくえば、ふさぎこむ。金ができれば、おれはしあわせだと思うし、貧乏になれば、とんだふしあわせだと思う。なぜ、そんな境遇なんてもので、喜んだり、悲しんだりするのかねえ? 幸・不幸なんて、ほんの一時のものでしょう。なぜ、いっしょうけんめいに勉強なんかするんですかねえ? 大学者になったところで、死んだら、なにが残りますか? 骨ばっかりじゃないですか」
宮川は、クラスのうちでも、いちばん愉快な、才気|煥発《かんぱつ》な生徒であったが、その陽気な性格のかれが、こういう言葉を吐いたという、その取りあわせが、わたくしにはほとんど驚異におもわれた。が、こうした、閃《ひらめ》くように浮かんでくる暗い思想は、ことに、明治以後の若い東洋人の心には、ときどきあらわれる。それは、夏の雲の影のように、消えやすいものであって、西洋の青年のばあいのような、深い意味はもっていない。それに、日本人は、ふだんから、思想や、感情で生きているのではなくて、義務によって生きている。それにしても、そういう思想にしじゅうつきまとわれることは、あまり奨励すべきことではない。
「そうだな、君たちに、もっといい題といったら、この大空だな。つまり、きょうみたいな、こんな日に、この大空を眺めているときに起ってくる感じだね。見たまえ、このすばらしい空を!」
空は、雲のきれひとつなく、世界のはてまで、青々と晴れわたっていた。地平線にも霞《かすみ》が立っていない。ふだんの日には見えない、遠山の峯々までが、なにか透きとおるような、輝かしい光りのなかに、もっくりと聳《そび》え立っている。
すると神代という生徒が、その壮大な穹窿《きゅうりゅう》を見上げながら、荘重な調子で、古い漢語を口に発した。
「かくのごとき高遠なる思想ありや。かくのごとき洪大なる心ありや」
「きょうは、どんな夏の日にもないくらい、美しい日だね」と、わたくしはいった。「ただ、そろそろもう木の葉が落ちかけて、蝉《せみ》がいなくなったな」
「先生は、蝉がお好きですか?」と森が聞いた。
「蝉の声を聞いでいると、わたしは、ひじょうに愉しい」と、わたくしは答えた。「西洋には、蝉がいないよ」
「人生を蝉の一生にたとえて、『うつせみの世』なんていいますね」と、織戸がいった。「人間の喜びや若いときは、蝉の歌みたいに短いのですね。人間もやはり、蝉のように、束《つか》の間にきては、束の間にまた行ってしまうんですね」
「このごろは、もう蝉はいません」と、安河内がいった。「先生は、おそらく、残念にお思いでしょう」
「おれなんかちっとも残念とは思わんな」と、野口という生徒がいった。「だって、蝉のやつは、勉強の邪魔をするんだもの。蝉の鳴きごえは、おれは大きらいだな。夏、あの声をきくと、疲れている時なんか、ますますぐったりしちゃって、眠くなってしまうよ。なにか読んだり、物を書いたり、考えたりしようとしても、あの声をきくと、なにをする元気もなくなってしまいますよ。あんな虫、みんな死んじまえばいいと、そんな時は思うな」
「とんぼは好きだろう」と、わたくしは、かまをかけてみた。「あれは、そこらをちらちら飛びまわったって、音は立てないからね」
「とんぼは、日本人は、だれでも好きです」と、神代がいった。「ご承知のとおり、日本は、秋津洲《あきつくに》といわれています。あれは、つまり、とんぼの国という意味ですから」
わたくしたちは、とんぼのいろいろの種類について、語りあった。生徒たちは、わたくしのまだ見たこともない、なにか死人と妙な縁があるという精霊《しょうりょう》とんぼの話をしたり、そうかと思うと、ひじょうに大きな種類の「やんま」の話をしてくれたりした。なんとかいう古い歌に、むかしの若い武士の長い髻《もとどり》が、とんぼの形に結ってあるところから、侍のことを「やんま」といってある、などという話も出た。
ラッパが鳴りわたった。将校教諭の声が、われ鐘のようにどなった。――
「集まれ――!」
若い生徒たちは、それでもまだぐずぐずして、わたくしに尋ねた。
「先生、題は何になさるんですか?――やっぱり、『最も難解なものは何か』というんですか?」
「いや、それはよそう」わたくしは言った。「『空』がいい」
その日、いちんち、わたくしは、さっきの生徒がいった漢語の美しい言いまわしが頭にこびりついて、なにか陶酔したように、それが胸のなかを充たしてくれていた。
「かくのごとき高遠なる思想ありや。かくのごとき洪大なる心ありや」
ここに、教師と学生との間柄が、けっしてお座なりなものではないという、ひとつの例証がある。これなどは、むかしの藩校時代の師弟愛の尊いなごりが、いまもなお残っている証拠だ。この学校の漢文の老先生で、みんなからひとしく尊敬されている人がある。この人の、若い生徒たちにおよぼしている感化というものは、これはじつに大きなものがある。この人がひとこといえば、どんな怒りの爆発でもしずめることができるし、この人がにっこり笑えば、どんなのんき坊の大器晩成先生でも、うかうかしてはいられなくなる。それはつまり、この老先生が、ひと時代まえの、武士生活における剛毅《ごうき》、誠実、高潔の精神――いわゆる昔の日本魂の理想を、青年層にたいして、みずから身をもって体現しているからなのである。
秋月というこの老先生の名前は、郷党仲間のあいだでも、そうとうひろく知れわたっている。この人の小影を入れた、人物月旦のような小さな書物なども、げんに刊行されている。秋月氏は、もと、会津藩の高禄の士であった。若くして信任厚く、権勢の地位にのぼった。藩兵の長となり、諸藩のあいだを商議談判に馳駆《ちく》し、また藩政にもあずかる一方、領内の知行となるなど、封建時代の武士のやることは、ひととおりみなやってのけ、そして、平生、軍務政務のひまには、おおむね、人に物を教えていたものらしい。こうした経歴をもった教師は、こんにちでは、まことにすくない。また、こういう人に教えを乞う弟子も、こんにちでは、その数がいたってすくない。ところが秋月氏は、そのような異数の人物でありながら、こんにち、その人をまのあたりに見て、これがむかし自分の配下のたぎり立った剣士たちに愛されもし、畏《おそ》れられもした人物とは、およそまず信じられまい。若いころ、峻厳をもって鳴らした戦場の古強者《ふるつわもの》が、年老いて温和怡然《おんわいぜん》となったものほど、人の心をふかくひきつけるものはなかろう。
この秋月氏は、武家制度がのるかそるかの最後のいくさをしたおりに、藩公の命にしたがって、おそろしい戦争に出陣した人である。この戦争には、会津藩では、婦女子から小さな子どもにいたるまでが参加したのである。しかし、剛勇と剣とだけでは、さすがに新しい戦法には勝てなかった。会津勢はついに敗《やぶ》れた。そして、賊軍方の指揮者であった秋月氏は、国事犯として、長いあいだ囹圄《れいご》の身となったのである。
ところが、勝った官軍の勝利者がわでは、秋月氏の人物をひそかに高く買っていた。そんなわけで、さきにこの人が敵方にまわして戦争をいどんだところの明治新政府では、礼を厚うして、秋月氏をば新しい青年層の指導役に登庸《とうよう》したのである、当時、この国の新しい青年層は、少壮気鋭の教師連から、いちように西洋の科学と語学とを学んだものであったが、そのなかにあって、秋月氏は、あいもかわらず、中国の聖賢たちの万世不滅の明倫を若いものに教えさずけた。大義と名分と――およそ人間をつくる大倫ともいうべきものを教えさずけたのである。
この人の教えをうけた弟子のうちで、すでに鬼籍《きせき》に入ったものも、幾人かはあるけれども、秋月氏はしかし、老後の孤独を感ずるようなことはすこしもなかった。自分の息のかかった教え子が、みな肉親の子とおなじように、師になつき、尊信していたからである。そんなぐあいで、秋月氏はしだいに齢を加え、高齢となり、だんだん神さまのような風貌を呈してきた。
いったい、日本の神さまというものは、絵だの彫刻だのでみるというと、仏さまとはまるっきり似ているところがない。神は仏よりも、年代はずっと古いものであるが、この仏よりもずっと古い神たちは、仏さまみたいにうつむいた目つきだの、寂然《じゃくねん》と無念無想にふけっている姿だのは、どれもしていない。神というものは、自然をこのうえもなく愛するものであるから、自然のうちで最も清白な幽寂のなかへもはいっていくし、樹木の精ともなるし、あるいは、海や川に入って、波の音、せせらぎの音ともなるし、また、時には風にのって、天翔《あまが》けるようなこともある。大昔は、神はこの地上で、人間とおなじようにして住んでいたものなのである。そうして、この国の人たちは、いずれもみな、そういう神の子孫なのである。であるから、この国の神は、神霊としても、人間にだいぶ似たところがあって、さまざまの性質をもっている。つまり、神というものは、生きている人間の感情でもあれば、意識でもあるのだ。伝説のなかや、もしくは伝説からうまれた美術品などにあらわされているこの国の神は、たいてい、人に親しみをもたれるような姿をしたのが多い。もっとも、ここで美術というのは、こんにちのような懐疑主義の時代に、なんら神をうやまう気持ももたずにつくられた、あの安っぽい美術のことを言っているのではない。遠いむかしの、神に関する貴重な文献を図解している、古美術をさすのである。もちろん、そういう神のあらわしかたは、物によって、ずいぶんまちまちだ。けれども、かりに諸君が、そんなら、ごくふつうに見られる伝統的な神のすがたというのは、どんなかっこうをしているかと訊くとしたら、わたくしは、こうそれに答えたい。それは、「長い、白いヒゲをたらして、白装束に白の束帯をしめ、ひじょうに柔和な顔をした、しじゅうにこにこ笑っている、高齢の老人だ」と。
秋月老先生は、ふだんしめておられる帯がわずかに黒ちりめんであるだけで、先日わたくしの家へたずねて見えたときなども、まるでその風采は、神道の神のすがたにとんと生きうつしに拝見された。
そのまえに、学校で顔をあわせたときに、老先生はわたくしにいっておられたのである。
「うけたまわれば、お宅では、おめでたがおありだったそうでごわすな。ついつい伺わなんだが、これは、わしが年をとっておるとか、お宅が遠方じゃとか、そういうわけではけっしてござらん。じつは、ここのところ、しばらく不快でおったものじゃから。いやしかし、いずれ近日中に伺いまする」
そういうわけで、ある日、天気のいい日に、老先生は、くさぐさの祝いの品を御持参で、わざわざたずねて見えたのであった。御持参の祝いの品というのは、品そのものはそれぞれ粗品《そしな》ではあったけれども、いずれも殿様のまえへ出しても恥しくないような、昔かたぎの、折り目正しい品々であった。そのひとつは、枝や梢に、雪とまがうばかりに花の咲きみちた、小さな盆梅の鉢。それから、清酒をいれた、青竹のめずらしい酒筒。それと、美しい漢詩を書いた二巻の巻き物であった。ことに漢詩は、まれに見る書家と詩人をかねた人の作として、それだけでも貴いものであるのに、しかもそれが当人の自筆というのであるから、贈られたわたくしにとっては、いちだんとまた貴いわけだった。
その日、老先生がわたくしに話された話は、ひとつひとつ、わたくしにじゅうぶんわかったとは言えない。ただ、わたくしの勤めを心から督励《とくれい》してくれた、情のこもった言葉――分別に富んだ、辛辣《しんらつ》な忠言――と、この人の若い時分の耳めずらしい話と、それだけは今でも心にのこっている。それにしても、万事がなにか一場のたのしい夢みたいであった。老先生がただ目のまえにそうしておられるということが、そのことがすでにもう、ひとつの喜びであり、頂戴した盆梅のかおりは、なんだか高天《あたあま》が原《はら》からでも吹きかよってくるいぶきのような気がした。やがて老先生は、神さまがこの世にあらわれてまた消えてゆくように、にこにこしながら、帰って行かれた。――いっさいのものを祓《はら》い浄《きよ》めて。
老先生からちょうだいした盆梅は、すでに花はもうない。ふたたびそれが花咲くまでには、また、ひと冬を越さなければならない。けれども、客のいない、がらんとした客間には、いまでも、なにかふくいくとした、香ばしいものがのこっているような気がする。おそらく、それは、ただただ、あの神々《こうごう》しい老人の思い出のせいなのであろう。あるいはそれとも、あの日、老先生がはいってこられたあとから、なにか太古の世の御霊《みたま》さまでも――過去の世の女神かなにかでも、姿を見せずに、わたくしの家の閾《しきい》をまたいではいってきて、老先生がわたくしに好意をもって下すったというのを縁に、そのまましばらく、この家に神《かん》とどまりましておわすのでもあろうか。
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博多で
人力車《くるま》で旅をすると、ただけしきを眺めるか、でなければ、うつらうつら物でも考えるよりほかに、することがない。なにしろ、ガタクリ揺られながら行くんだから、物を読むには読みづらいし、それに、ガラガラ鳴る車の音と、向かい風がはげしく吹きつけるから、たとえ道はばが、つれと車をならべて行かれるくらいのところでも、おたがいに話もろくすっぽできない。日本の風景の特色も、さてひととおりもう目に慣れてしまったとなると、それもしばらく長い時をおけば話はまたべつだが、ちょっとした小旅行などでは、そうそう強烈な印象をうけるほどのめずらしいものに目をひかれることも、ややともすればなおざりになりがちなものだ。
道といえば、まずたいがい、どこまで行ってもおなじような稲田、おなじような野菜畑、おなじような小さな茅《かや》ぶきの小家、さては果てしもなくつづく緑の青い丘のあいだ、そんなところを、どこまでもどこまでも、うねうね、うねうねと通ってゆく。なるほど、時にはどうかすると、あっと目のさめるような友禅もようの極彩色《ごくさいしょく》が、いちめんにひろがっているようなところへ出ることも、あることはある。たとえば、菜種《なたね》の花ざかりで、あたりいちめん、火のついたように燃え立っている畑だの、れんげの花で紫にうまっている窪地だのを通ってゆく時などがそれだが、しかし、こういうのは、ほんの短い季節の、うつろいゆくあでやかさだ。たいていは、見わたすかぎり、ひろびろとした緑の色の単調さにあきあきして、車上の風に頬をなぶられながら、うつらううら物おもいにでもふけるか、それとも、こっくりこっくり居眠りでもしているうちに、ときどき、ガタンと車の烈しく揺れあがる音に、ハッと目をさます……まずこれが普通である。
この秋、わたくしが博多へ行ったときも、やはり、こんなぐあいに、けしきを眺めたり、うつらうつら考えごとをしたり、そうかと思うと、居眠りをしたり、これを替りばんこにやりながら行ったのである。空にキラキラ飛んでいるトンボの群れ、道の両がわに、それこそ目のとどくかぎり、どこまでも果てしなく伸びている、網の目のような田甫《たんぼ》のあぜ道、遠い地平線のぎらぎらした白い光りのなかに、いつも見なれた山の輪郭が、しだいに色をかえてゆくさま、さては、まばゆいような青空に、しずかにういている白い浮き雲の形がかわってゆくのなどを、わたくしはぼんやり車上から眺めながら、自分はいったい、なんどおんなじこの九州の景色を眺めなきゃならんのだろう、べつに目をそばだてるようなものは、どこにもないじゃないかと、思わず、われとわが身に問い、かつ嘆いたことであった。
すると、そのとき、ふと、こんな考えが、音もなくそっとわたくしの心にしのびこんできた。――いや、いま自分をとりまいているこの平凡な緑の世界、この「生命」の不断の宣揚のうちにこそ、すばらしい現象があるのだ、と。
じっさい、青々たる緑草は、いつ、どこにあっても、目にもみえない種子から、ぐんぐん芽ばえて伸びてくる。やわらかい土のなかからも、固い岩からも、この人類より数の知れないほど古い、物言わぬ、この声なき種族は、いたるところに成育して、その形も、幾十万だか知れないほどおびただしい。この種族の現実界における生い立ちについては、われわれも多くのことを知っている。名称もつけてきたし、分類もしてきた。なぜ、こんな形の葉をもっているのか。どういうわけで、こういう性質の実をむすぶのか、なぜこんな花の色をしているのか、そういうこともわれわれは知っている。なぜ知っているかといえば、つまりそれは、われわれ人間が、この地上の森羅万象に、それぞれ形態というものがあたえられる不変の法則というもののゆくたてについて、多少なりとも学ぶところがあったからである。
しかし、それじゃ、なぜ植物なんてものが存在するのか、というだんになると、これはだれも知っているものはない。世界じゅうを緑色に塗りこめてしまう、あのふしぎな魔性は、あれはいったい、何ものなのだろう? 繁殖しないものから、ああして永久に繁殖しつづけてゆくあの不思議さは、あれはいったい、何なのだろう? あるいは、生命なんぞないものと思われている物それ自体が、ひょっとすると、なにかもっと寂莫《じやくまく》たる、さらに隠微な生命なのでもあろうか?
もっとも、世界の表面には、そんなものよりも、もっとふしぎな、もっと敏捷な生物がうごいている。そいつは空気中にも、水の中にも住んでいる。こういう微生物は、自分でひとりでに地上から游離《ゆうり》するという、まるで化けものみたいな力をもっているのだが、しかし、とどのつまりは、結局ふたたびまた地上に呼びもどされて、まえに自分がそれを喰って命をつないでいた物に、こんどは自分が喰われるというまわり合わせになるのである。こういう微生物だって、感じもするし、知りもするし、這いもすれば、泳ぎもするし、走ることも、飛ぶことも、物を考えることもするのだ。その形態にいたっては、無尽無数である。あの緑いろののんきな緩慢《かんまん》な生命は、あれはただ、存在することを求めるにすぎないけれども、この生命の方は、存在を絶たれることに対しては飽くまでも争闘するのである。われわれは、そういう微生物の運動の方式も、ちゃんと知っているし、そのものの生長の法則も知っている。そういう微生物の体内のいちばん奥のこみいった個所も、すでに闡明《せんめい》されているし、感覚をつかさどる局所なども測定されていて、それにちゃんと名称までつけてある。けれども、その存在意義については、誰も知っているものがない。いったい、どういう根元から、こういうものが生まれでてきたのか? もっと簡単にいえば、いったい、それは何物なのか? なぜ、そんなものが苦悩なんてものを知らなければならないのか? なぜ、苦悩によって進化して行くのか?
ところで、この苦悩の生命こそは、われわれ自身の生命なのである。相対的にいうと、そいつは、見たり知ったりする。絶対的にいえば、ちょうどそれは、それが食って命をつないでいる、例ののんき緩慢な、冷たい、みどり色の生命とおなじように、目は見えず、手さぐりで這いまわっているやつだ。ところで、この生命だって、やはり、なにかもっと高度な生物の食いものになっているのではなかろうか? もっともっと、度はずれて活動的な、もっともっと複雑な、なにか目に見えない生命を肥やしているのではなかろうか? 幽怪玄妙《ゆうかいげんみょう》なる寰内《かんない》にさらに幽怪玄妙なるものが内在し、その生命のうちに、さらに無限の生命が内在しているのではなかろうか? 幾多の宇宙が、さらに幾多の宇宙と相交錯しているのではなかろうか?
われわれが生きている時代のあいだでは、すくなくとも、人間の知識の領域はもうこれ以上変改しがたいまでに、固定されてしまっている。いまのような問題の解決は、そうした人間知識の限界をこえたずっと向こう側へ出て、はじめて存在するのである。それにしても、その可能の限界を設定するものは、いったいなんなのだろう? それは、人間の天性そのもの以外にはなかろう。ところで、この人間の天性というやつは、われわれの後からやって来るもののばあいにも、やはり、いぜんとして、現在とおなじように限定されていなければならないものだろうか? われわれの子々孫々は、今よりもいっそう高度の感覚や、いっそう洪大な能力や、いっそう繊細な知覚を、今後ますます発達させるようなことはないのだろうか? 科学は、その点をいったい何と教えているか?
われわれは作られたのではない、みずから作ったのだということ。このことは、すでに、クリフォードの深遠なる言説のなかにも提出されていることだ。これは、じつに、いっさいの科学の教示のなかでも、最も意味深遠な説である。しからば、なんのために人間はみずからを作ったのかというと、それは、苦悩と死から脱却するために作ったのである。人間の形骸というやつは、これは、苦痛をしいられ、しいられしてできあがったものなのだ。そうしてみると、この世に苦痛というものがあるかぎり、人間の自己改造の不断の労苦は、どこどこまでも続くにちがいない。むかしは、人生に欠くべからざるものといえば、それは物質的なものであった。こんにちでは、それに精神的なものが加わっている。そして、おそらく、将来においては、宇宙の謎を解明しようとする努力こそ、非情な、しかも強力な、圧倒的人生必須のものになるのではないか、という気がしてならない。
現代における最も偉大な思想家――この人は、宇宙の謎の解けない所以《ゆえん》を、われわれに語った人だが――は、同時にまた、この謎を解こうとする念願は、今後、年とともに、かならず長くつづき、人類の成長とともに、ますます発展するに相違ないと言っている。(スペンサー著「第一原理―諦観」)
人生に必要欠くべからざるものを認めるということは、たんにそれを認めるということだけでも、たしかに、そのなかには、ひとつの希望の芽をふくんでいる。物を知ろうとする願望、これこそは、将来の苦悩のおそらく最も高い形として、あるいは、こんにちの不可能を可能たらしめる力を――つまり、こんにち、目に見えない力を見えるようにさせる能力を、人間の心のうちに、しぜんと発達させはしないか? こんにちのわれわれとて、かくありたいと願いつつ、こんにちのようなわれわれになったのである。今後、われわれの事業を継承する人たちとて、われわれがこんにち、ぜひなりたいと願っているものに、かれら自身、みずから、なってみてもよさそうなものではないか?
わたくしは、いま、博多にきている。ここは帯織業者の町だ。なかなか大きな町で、町のなかには、目のさめるような色彩のふんだんにある、夢の国のような狭い路地が、いたるところに通っている。歩いているうちに、わたくしは、念仏小路という町で、ふと足をとめた。じつは、そこの、とある門のなかから、通りがかりのわたくしの方をむいて、なんだかにこにこ微笑している、とてつもなく大きな、青銅の仏の首があったからである。門というのは、浄土宗の寺の門であった。そうして、その仏の首が、じつに美しいのである。
ところが、あるのはただ首だけなのだ。その首を高くささえている柱は、境内の石だたみの上に立っているのだが、その高い柱が、ちょうど夢でもみているような相好《そうごう》をした仏の大きな顔の、あごのへんのところまで、あたりにうずたかく積まれた数千の金属製の鏡で、見えなくなっている。寺の門のわきに、立て札が立っていて、その立て札に、その説明がしるしてある。それによると、そこにうずたかく積まれてある鏡は、そこに安置してある蓮華《れんざ》の台座をもこめて、高さ三十五フィートにもおよぼうというこの大仏に、おおぜいの婦人から寄進されたものなのだそうだ。そうして、ゆくゆくは、それらの寄進をうけた青銅の鏡で、大仏さまの全身をすっかりこしらえようということになっているのだそうである。いまある首だけを鋳《い》るのに、すでにもう、幾百という鏡がつぶされたとかで、ぜんぶ竣工するには、おそらく、何万という鏡がいることだろう。仏教は衰退しつつあるなんてことがよくいわれるが、こんなりっぱな陳列品を目のまえに見せられては、仏教衰退説など、だれが請《う》けあえるものか。
ところで、わたくしはこの陳列品を目のまえにおいて、どうも心からうれしいという気持になれない。なるほど、さぞりっぱな仏像ができることだろうという期待で、芸術感はそれでじゅうぶん満足できるけれども、それよりも、そういう計画によって、当然そこに、目のあたりおこるぼう大もない破壊作用のことを思うと、せっかくの満足感も、かえって傷つけられることが大きいからだ。なぜかというと、日本の金属製の鏡というやつは、(こんにちでは、西洋出来の、言語道断なガラス製の安鏡のために追放されてしまっているが)あれは、もともと、りっぱな美術品と呼んで、けっして恥しくない品である。日本の古鏡のもっているあの優美なかたち、あれをいちどでも見たことのないものは、おそらく、月を鏡にたとえた、あの東洋独特の比喩のもっている雅趣を味解することは、まずおぼつかないだろう。
そういう古鏡は、片面だけが磨かれている。鏡の裏には、木だの、花だの、鳥、けもの、虫、風景、むかしの伝説、縁起のいい宝もの、神仏の像などを、浮き彫りにして、装飾してある。こういう装飾は、ごくありふれた普通の品にも、ほどこしてある。が、その装飾にもいろいろと種類があって、そのなかでもごくめずらしいのは、西洋人が「魔鏡《マジック・ミラー》」と呼んでいるやつだ。これは、その鏡に光線を反射させて、それを幕か壁のうえに映すと、まるいその光りの反射のなかに、鏡の裏にある模様がありありとうつってでるというので、そういう名があるのである(*)。
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(*)「王立学会紀要」第二十七巻所載のエアトン及びペリー教授の「日本の魔鏡について」と題する記事、ならびに「哲学雑誌」第二十二巻所載の同じく両教授の同じ題をあつかった記事を見よ。
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さて、いまここに、うずたかく積んである青銅の寄進物のなかに、そうした魔鏡があるかないか、それはわたくしにはいえないが、とにかく、そのなかには、美しい細工のものがたくさんあることは、疑うべくもない。どれひとつをとってみても、じつにめずらしい。こうした精巧な細工ものが、こんなふうに打ち捨てられたままになって、しかもこれが、いずれはみな跡方もなく消えてなくなってしまう運命にあることを、こうまざまざと目のまえに見せつけられては、うたた悲愁の感なきをえない。今後まず十年とはたたないうちに、日本における銀鏡・青銅鏡の製作は、おそらく、永久にあとを絶ってしまうことだろう。その時になって、日本の古鏡をたずね求めるものは、このような鏡の因縁ばなしを聞いたら、さぞかし、地団太をふむことだろうと思う。
いや、これら貴重な家庭の供出物が、こうしてみな、雨に打たれ、日に曝《さら》され、往来の埃《ほこり》にまみれているさまを見て、うたた悲愁の思いをなすのは、ひとりそれのみにとどまらない。これらの鏡の多くには、かつては花嫁の微笑もうつったにちがいない。赤んぼの微笑や、母親の微笑もうつったにちがいない。いや、おだやかな家庭生活のかげは、おそらくここにある鏡のほとんど全部に映ったにちがいないのである。
いや、そんなことよりも、そうした思い出のなつかしさよりも、もっと神聖な意味が、日本の鏡にはつきまとっているのだ。むかしのことわざに、「鏡は女のたましい」といってあるが、このことわざの意味は、ふつう想像されるような、ただの比喩的な意味ばかりではないのである。それはなぜかというと、むかしから日本の伝説の中には、鏡が、持ち主の一喜一憂をことごとく感得して、それによって、あるいは曇り、あるいは光りして、持ち主のその時その時の心もちに、ふしぎな同情をあらわす、といったような話が、じつに数多くつたえられているからである。そんなわけから、日本では、むかしは――或る人にいわせると、こんにちでもそうだといっているが――鏡は、人間の生き死にに或る力をあたえると信じられていた、いろんなまじないや巫術などにも用いられたものなのであった。そして、持ち主が死ぬと、鏡もいっしょに葬られたものなのである。
だから、いま、ここにこうして、赤く銹《さ》び朽ちている、おびただしい古鏡の山を見ると、なんだかこう、人間の「たましい」の――とはいわないまでも、とにかく霊的なものの残骸を偲《しの》ぶような気がして、誰しも妙な心もちがおこってくる。ありし日に、これらの鏡のおもてに映った顔や動作、それがこんにちでは、まるで憑きものが落ちでもしたように、まるっきりそこに思いがのこっていないとは、どう考えても信じにくいことだ。なんだか、いまでも、むかしそこに影をさしたものが、鏡のどこかにかくれひそんでいるような気がしてならない。ためしに、ここにある鏡のそばへそーっと近寄って行って、その中の二、三枚を、おっかなびっくり、いきなりさっとひっくり返してみなら、とたんに、ちらりと「過去」のかげをとらえることができそうな……どうもそんな気がしてならない。
じつをいうと、わたくしがこの陳列品を見で、とくに感慨を深くしたのには、そこにわけがあるのである。日本の古鏡を見ると、きまってわたくしは思いだす話があるのだ。その話というのは、「松山鏡」(*)という日本の昔話である。
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(*)この物語の日本語の原典と英訳を知りたい方は、B・H・チェンバレン教授の「日本ローマ字読本」を見られよ。なお、F・H・ジェームス夫人が児童のために書かれた美しい翻訳は、東京で出版された、有名な「日本お伽ばなし集」の中に収められている。
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この昔ばなしは、ごく簡潔な文章で、しかも、できるだけ少ない言葉で語られているが、おそらくこの話などは、読者の体験と理解力しだいで、どこまでもその意味が深くなるといわれている、ゲーテの傑作短篇にも匹敵することができそうに思われる。
この話の訳者ジェームス夫人は、物語のもつ心理的可能性を、ひとつの方向にひた押しに押しつめて行っているようだが、夫人のこの小著を読んで、なんの感動もうけないような人間は、よろしく人類の社会から追放されてしまった方がいい。諸君がもし、この物語のなかにふくまれている日本的観念を、多少でも会得しようと思われたなら、まずそれには、この小著に附せられている美麗な極彩刷《ごくさいず》りの絵――これは当代の狩野派の大家のかいた挿画だ――の根本的な意味を感じ取る力を持たれないといけない。(日本の家庭生活になじみのない外国人諸君には、この童話叢書のために描かれた挿画の美しさは、じゅうぶんにおわかりになるまい。が、京都や大阪あたりの染物師は、この挿画を法外に珍重して、この絵のうつしをしきりと高価な反物に染めだしている。)もっとも、この物語の翻訳には、いろいろ異本がある。読者は、左にかかげる筋書から、よろしく御自分で思い思いに、自由な現代訳を試みていただいて差支えない。
むかし、越後《えちご》の国の松山というところに、名は忘れたが、若い侍の夫婦が住んでいた。夫婦のあいだには、小さな娘がひとりあった。あるとき、夫が江戸へのぼった。――おそらく、参観交代の越後の殿さまの供をして、上府したのであろう。さて、帰国のみぎり、夫は江戸から、くさぐさのみやげものを持って帰ってきた。小さなむすめには、おいしい菓子と人形を(挿画には、そう描いてある)、それから女房のみやげには、銀がけの〈からかね〉の鏡を一面。ところが、年のいかない女房には、みやげのその鏡が、まことにふしぎなものに思われた。というのは、鏡というものが松山に持ってこられたのは、あとにも先にも、それが初めてだったのである。
女房は、鏡というものが、どういう役をするものやら、とんと知らなかった。そこで、なにも知らない女房は、なんだかこの鏡の中には美しい笑顔が見えますけれど、あれはいったいどなたのお顔なのですかと、頑是《がんぜ》ない三つ子のように、そういって夫にたずねた。すると、夫は大いに笑いながら、「はてさ。あれはそなたの顔じゃ。さてさて、阿呆なやつよの」と答えた。女房はそれぎり恥じて、あとはなにも聞かずに、いそいで鏡をしまってしまった。が、しまったあとでも、鏡はふしぎなものだという思いは、なかなかもって去らなかった。
それから幾年も幾年も、女房はその鏡をしまったままにしておいた。なぜしまったままにしておいたか、それはもとの話にも説いてない。おそらくそれは、どこの国でもおなじことで、愛情はどんなささいな贈りものをもだいじにして、めったにそれを人に見せたがらないという、単純な理由からだったのだろう。
ところが、女房は、自分がいよいよこの世に暇《いとま》を告げる死病の床についたときに、かの鏡をじぶんの娘にあたえて、いった。
「わたしが死んだあとは、おまえ、朝に夕に、この鏡をのぞいてごらん。わたしは、この鏡のなかに、ちゃーんといるすけの。だすけ、なにも嘆くことはねえだ」
そういって、母は死んだのである。それからというものは、むすめは、朝に夕に、鏡をのぞいてみた。鏡のなかにうつる顔を、むすめは自分の顔とは露《つゆ》知らずに、自分がよく似ている、死んだ母親の顔だとばかり思っていたのである。そこで、むすめは、鏡のなかの人にむかって、さながら生ける人に物をいうような心もちで、話しかけた。ここのところは、日本の原作ではもっと優雅に、日ごとに「母にあう心地して」といってある。そうして、娘は、その鏡を、なにものにも増して、だいじにしていたのである。
そうこうするうちに、このことが、とうとう父親の目にとまるところとなった。父親はふしぎに思うて、むすめにそのわけを尋ねてみた。そこで娘は、いちぶしじゅうを父親に打ちあけて物語ったのである。日本の原作者は、このむすびのところを、こういっている。
「されば娘の心ねをいとあわれにおもいて、男はなみだにかきくれける」
以上が、いうところの昔話である……しかしながら、この罪のない思い違いは、むすめの父親がその時考えたように、じっさいに「いとあわれ」なことだったろうか? あるいは、かの父親の感懐も、あれはひょっとすると、かずかずの思い出を秘めているこれらの古鏡の運命を愛惜するわたくしの嘆きとおなじように、あれもやはり、ひとりよがりのものではなかったか?
娘のあの天真そのままともいうべき無邪気さを、わたくしは父親の感懐などよりも、はるかに永遠の真理に近いものだと思わざるをえない。なぜかというと、宇宙の法則からいえば、現在は過去の投影であり、未来は現在の反映であるはずだからだ。われわれは、ことごとくみな、ひとつのものである。悉皆《ことごとくみな》一のものである。それはちょうど、光りというものが、それを構成する振動は、幾億万という口にはいえないほど微塵無劫のものでありながら、光りそのものは、つねに一つであるのとおなじことだ。われわれは、ことごとくみな、ひとつのものである。しかし、無数なのだ。それは、われわれのひとりひとりが、めいめいひとりひとりに、無数の霊魂の総和であるからだ。むかしばなしの中の、かの娘は、自分の若い眼《まな》ざしと唇との美しいおもかげを見ながら、きっとそこに母なる人のたましいを見つけて、思わずなつかしい言葉をかけたのにちがいない!
こんなふうに考えてくると、今この古寺の境内にあるめずらしい展観物にも、そこにひとつの新しい意味が加わってくる。――つまり、このおびただしい古鏡が、ある崇高な期待の象徴となってくるわけだ。われわれ人間は、しんじつ、各自めいめいが、それぞれ宇宙のなにものかを映す明鏡なわけだ。いや、われわれ人間は、その宇宙に投影するわれわれ自身の影像までも映しだす鏡なのだ。そうして、おそらく、われわれ人類の運命は、いずれいつかは、かの偉大なる鋳物師《いものし》「死」の手によって、ある巨大な、美しい、非情な一塊のかたまりに一丸となって、灼《や》き鎔《と》かされることになっているのであろう。そこから、どのような彪大な作品がつくりあげられるか、それは、われわれのあとから来るものでなければ、知るよしもない。いや、げんにこんにち、西洋に生まれたわれわれには、とても知るよしもないことだ。しかし、遠いむかしの東洋人は、信じていたのである。ほかでもない、げんに今、われわれの目のまえにあるもの、これが、その東洋人の信念のすがただ。いっさいの形骸は、ついには消滅しなければならない。消滅して、それは「神」とひとつになる。神の微笑《みしょう》こそは、永遠に変ることのない安息だ。そうして、神の明識こそは、無尽|無窮《むきゅう》の洞見《どうけん》なのである。
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永遠の女性
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人間になぞらうものを空に探すと、
空いっぱいに人間の寓話がある。
ぼくはナアシサスの目をもって、つくずくと
自然に見入るのである。
いたるところ、己《し》が影に見とれながら。
――ワットソン
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日本に住んでいる外国の知識人なら、おそかれ早かれ、かならずだれでも気がつくことがある。それは何かというと、日本人という人種は、われわれ西洋人の美学や、西洋人一般の感性について、多くを知れば知るほど、かえってそのために、われわれ西洋人に好意をもつことが少なくなるふしが見えるということだ。かりに、欧米人が、こころみに、西洋の美術・文学・哲学などについて、日本人に語ってみるとする。ところが、おそらく、それによって、日本人の共鳴をうることは、まず望み薄だろう。むろん、説く人の語ることは、みな膝に手をおいて、神妙に傾聴する。が、いくら、こちらが熱弁をふるって話してみたところで、けっきょく、こちらの希望や期待とは、およそ似てもつかない、ただひたすらに呆れ返った、驚き入ったといったような、わずか二、三の評言を、それも、ようやくのことで引き出す、という程度におわってしまうだろう。
ところで、こういう失望がたびたびかさなってみれば、いきおい、その講師としても、西洋の聴講者が、それとおなじ態度をふるまう時とおなじ格で、東洋の聴講者のことも、それと同格に判断することになるのは、これはやむをえまい。われわれ西洋人が、これこそは芸術・哲学の最高の作品だ、最高の所説だと思いこんでいるものに対して、いかにもしらじらしい、風馬牛な態度を見せられれば、われわれの経験からおしてみて、まず精神的不能者の証拠だと、相手を気短かに速断してしまうことになる。こういうことから、日本人なんて、ありゃ子どもの国民だなどと呼ばわる、一部外人の観察家がとびだしてきたり、かと思うと、この国に長年暮してきた大多数の外国人までが、この国独特の宗教や、文学や、比類を絶した美術などの、歴然とした証拠を度外視して、日本人というのは本来が物質的な国民だ、などと断じたりするようなことが起ってくるのである。
わたくしに言わせれば、こんな断定は、両方とも、その愚劣な点では、例のゴールドスミスが「文学クラブ」のことでジョンスンにいったことば――「われわれのあいだには、もはや新しいものなんて、なにひとつないさ。おたがいに、相手の心は、とうに踏破してしまったからね」といった、あのことばと、まず五十歩百歩だという気がする。おそらく、教養ある日本人だったら、あのときジョンスンが答えた、あの有名な応酬《おうしゅう》のことば、「――君、ぼくは断言するがね、君はまだ、ぼくの心は踏破しておらんぜ!」これを、そのまま、答えのことばにかえることだろう。
要するに、こうした大ざっぱな、なで斬り式の批評がとび出してくるというのは、けっきょく、日本人の思想や感情が、あるばあい、われわれ西洋人のそれとは、まったく正反対な、むしろ、あらゆるばあいに奇妙なくらいに喰い違っている、特有の祖先伝来の風俗・習慣・道義・信仰から発しているのだという事実の認識が、徹底を欠いているから起るのである。わたくしは、そういう気がしてならない。現代の科学教育も、こういう心理的な問題にぶつかってみると、いたずらにただ、人種の相違ということをいやが上にもあおって、ますますその開きを大きくする能しかもっていないもののように思われる。日本人に、西洋の風俗の卑屈な模倣を誘発させるものは、ひとり教育のみである。一知半解の、中途半端な教育のみである。この民族のほんとうの知力、あるいは、ほんとうの精神力――つまり、日本人の最高の知性は、西洋の感化というものを頑強に拒否しているのである。このことは、わたくしのようなものが贅言《ぜいげん》をついやすよりも、もっともっと有能人たちに、この現象は、ことに日本人で洋行した人、あちらで教育をうけた人に、著しく認められると、げんにわたくしにそういって明言している。
じっさい、この国の新しい教育の成果は、ラインがあさはかにも小児的国民だと銘を打ったこの民族の、あの穏健な保守精神の偉大な力を示すほかに、さらにそれよりももっと大きな役をはたしてきている。われわれとても、日本人が、ある種の西洋思想に対して、ああいう態度をとるその原因は、こんにち、まだ完全にはつかめていないけれども、それにしても、とにかく、そのことをもって、日本人は低能だなどと、頭からこれを非難するよりも、むしろ、この際、そういう西洋流の物の考え方に対する、われわれ自身の評価を再考してみるように、よろしく自分を激励してみた方がよかろう。
ところで、問題の原因であるが、これはもう無慮無数にあって、わずかにそのなかの幾つかが、おぼろげながらも、ははあこれだなと、多少|当《あ》てがつくというにすぎない。が、ただ、ここに、すくなくともひとつ、ひじょうに重要なのがある。しかも、ひじょうに重要でありながら、その研究は、居ながらにして安全にできる。なぜ居ながらにして安全に研究ができるかというと、それは、極東で数年間暮した人なら、だれしもかならず、いやがおうでも認めずにはいられない問題だからである。
「先生、イギリスの小説には、なぜ恋愛だの、結婚のことが、あんなにたくさん出てくるのですか。そのわけを話して下さい。――どうも、わたしたちには、それが、ひじょうに、ふしぎに思われるのですがね」
この問いは、わたくしの受け持っている、文科のあるクラス――生徒は、十九歳から二十三歳までの青年――で、かれらが、ジェヴォンの論理学や、ジェームスの心理学なら、じゅうぶん理解ができるくせに、模範的な小説のある章が理解できないというのは、どういうわけか、そのわけをわたくしが説明してやろうとした時に、質問されたのである。この問いは、そんな教場やなんぞで、一朝一夕に、おいそれと答えてやれるような、なまやさしい質問ではない。
正直のところ、わたくしが日本にきて、すでに数ヵ年この国で暮しているのでなかったら、この質問に、なにひとつ満足な答えは答えてやれなかったにちがいない。ありていにいって、わたくしはその時、できるだけわかりやすいように、同時に、なるべく簡単に要領をえさせるように心がけたのだったが、それでも、それだけのことを説明してやるのに、ゆうに二時聞以上を費してしまった。
イギリスの社会を描いた小説で、日本の学生にほんとにわかるものは、まずひとつもないといっていい。その理由は簡単である。つまり、イギリスの社会というものについて、日本の学生は、正確な概念をつかむことができないからである。これは、とくにイギリスの社会と限らなくても、一般的な意味からいって、西洋の生活というものが、すでにかれらにとっては、ひとつの神秘なのである。孝道というものが、道徳の絆《きずな》になっていない社会組織、子が自分の家庭をつくるために、親の手もとから去って行くという社会組織、自分を生んでくれた人よりも、妻や子を愛するのが、人聞本然の道であり、また、それが当然の権利だとこころえているような社会組織、あるいは、結婚というものが、親の意向を無視して、当人同志のなれあいによって結ばれるような社会組織、姑が嫁の従順なかしずきをうける権利をもっていない社会組織、――こういう社会組織は、日本の学生たちにとっては、まず、空飛ぶ鳥か、野にすむけものにも劣る生活状態、せいぜいよくいって、一種の道義こんとんたる社会状態としか見えないのである。
したがって、西洋の通俗小説のなかに反映している、すべてこうした生活状態は、かれらのまえには、腹の煮えくりかえる謎となってあらわれるわけだ。つまり、われわれ西欧人の恋愛観や、結婚についてのやっさもっさは、こうした謎の一部を提供しているわけである。いったい、日本の青年たちにとって、元来、結婚というものは、しごく簡単明瞭な、自然の義務みたいなものに考えられている。それはなぜかというと、その義務の当然の履行は、親たちがてきとうな時機に、必要なとりきめを、いっさいやってくれるのだから。だから、結婚に際して、外国人があんなにすったもんだ大さわぎをしなければならないというのが、日本の学生にとっては、まったく何が何だかわからないのである。いわんや、有名な作家が、こんなことがらについて、ごていねいに小説を書いたり、詩をつくったり、そのまた小説や詩が、広くやんやと持てはやされているなどとは、いよいよもって底なしに訳のわからないことなのであって、――さてこそ、「ひじょうに、ひじょうに不思議」に思われるということになるのである。
わたくしのこの若い質問者は、いちおう礼儀として、「不思議」といったのだけれど、じつは、かれの本心の考えからいえば、むしろ、「みだらな」ということばを使った方が、いっそうぴったりとあてはまったにちがいない。もっとも、われわれの国の代表的な小説が、日本人の心にみだらに、ひじょうにみだらに映るなどといったら、おそらく、イギリスの読者諸君の誤解をまねくだろう。日本人だって、なにもそう石部金吉みたいに、こんこちに堅いわけではない。われわれの国の社会小説が、日本人にみだらと思われるのは、あながち、テーマが恋愛をとりあつかっているせいではないのだ。日本にだって、恋愛をとりあつかった文学はたくさんある。そういう意味とはぜんぜんちがうのであって、つまり、われわれの国の小説が、日本人にみだらと思われるのは、かの聖書の中の「このゆえに、人はその父母をはなれ、その妻にめあいて……」ということばが、日本人にとっては、およそ書かれた文字のなかで、最も不道徳な文字に見えるのと、おなじ理由によるのである。
ことばをかえていうと、この日本人の批評には、ある社会学的な解説が必要なのである。われわれの国の小説が、なぜ、日本人の考えにはみだらなのかという、このわけをじゅうぶんに説明するには、われわれ西洋人の生活とは、一事が万事、なにからなにまで違っている日本の家族制度、その風習、その倫理観、これをことごとく述べなければならない。これを述べるとなると、ごく大ざっぱに述べても、ゆうに一巻の書物を要することになるだろう。とても完全な説明なんぞは、思いもよることではないから、ここにはただ、ほんの二、三、こうもあろうかという事実を述べる程度で、お茶を濁しておくよりほかない。
そこで、まずごく概観から述べることにするが、いったい、西洋の文学には、小説以外にも、日本の道徳観念とは、水と油の反《そ》りのあわないものが、ずいぶんたくさんある。けれども、その反りのあわないというのは、あながちそれは、その作品が恋情そのものを扱っているからというのではなくて、むしろ、純潔な若い娘に関係をもった恋情、したがって、その恋情は、家族の連中にもつながりをもっているという、そういう恋愛をとりあつかっているところに、水と油の原因があるのである。ところで、通例からいうと、日本の高級文学のなかに、情熱的な恋愛が一篇のテーマとして取りあつかわれているようなばあいには、その恋愛のむすばれが、ひいては家族にもつながりをむすぶといったような、そうした種類の恋愛ではないのである。それは、まったく別種のおもむきをもった恋愛であって――東洋人は、いっこうにそれについて深く咎《とが》めだてをしないが、つまりいってみれば、ただ単純に肉体的な魅力によってのみかきたてられる惑溺《わくでき》――これを東洋人は「まよい」といっているが――そういう盲目的な恋愛なのである。しかも、女主人公《ヒロイン》は、良家の生娘《きむすめ》ではない。たいていのばあい、遊女か、さもなければ芸妓である。そうかといって、この種の東洋文学の主題のあつかい方は、西洋の官能派の文学――たとえば、フランス文学みたいな流儀かというと、それともちがう。ぜんぜん異なった文学上の立場に立って考察をしているし、むしろ、そういうものとは別趣の情緒を描いているのである。
いったい、一国の国民文学というものは、これは必然的に反映的なものである。国民文学が描いていないものは、当然、その国の国民生活にないもの、もしくは、その国の国民生活の表面にあらわれていないものと考えてよい。こう考えてくると、日本の文学が、西洋の大小説家・大詩人の大きな主題である恋愛というものに対して、遠慮をしているように、日本の社会もまた、そういう西洋流の恋愛に対しては、遠慮をしているということになる。日本の小説|稗史《はいし》のなかにも、ときには、典型的な女性がヒロインとして描かれているばあいも、ないではないけれども、そういうばあいは、しかし、どこまでもそのヒロインは完全な母として、あるいは、親孝行のためにはいっさいを犠牲にして顧みない孝行娘として、さもなければ、夫の供をして出陣し夫《せ》の君のそばにあって奮戦苦闘、身をもって夫君の一命を救う、というような、いわゆる貞女|烈婦《れっぷ》として描き出されているのであって、恋のためにみずから死んだり、そのために相手を死なせたりするような、そんな嫋々《じょうじょう》たる涙っぽい女性として描かれているのはないのである。西洋によくあるような、男性のあこがれの的《まと》となる危険な美人、ああいう日本の女性は、日本文学のなかには、どこを捜しても出てこないし、また、現実生活の上でも、日本の家庭婦人は、ああいう役割ではけっして出てこない。男女両性が双方おたがいにごったにまじりあった社会、あるいは、女性美というものが、最も高度に洗練された美として存在しているような社会は、東洋にはぜったいにないのである。
げんに、日本の国ですら、とくべつの意味でいう社会というものは、これは男性専用のものに限られている。ましてや、東京あたりで見られる、ある特殊な方面だけにかぎられた、あのヨーロッパの流行風俗の輸入、ああいうものが、ついには国民生活を西洋流の社会観にならって改造する、ひとつの社会的変化の端緒を語るものだなどとは、とてもおいそれとは信じられないのである。つまり、そうした社会改造は、ひいては家庭の解体、社会組織全体の崩壊、道徳体系の全面的な破壊、早くいえば、国民生活の破滅をまねくものなのだから。
ところで、「女性」ということばを、もっとも純正高尚な意味に解して、そういう女性がめったにおもてに姿をあらわさない社会、女性というものが「見せびらかし」の立場におかれるようなことのぜったいにない社会、女性に言い寄るなどということは、てんでしようと思ってもできないような社会、かりにも人の妻、他家の娘などにむかって、じかにお世辞や挨拶をのべるなどということは、以《もっ》てのほかの無礼千万な振舞になっている社会――かりに、そういう社会があったと想像してみて、そういう社会の人たちが、西洋の評判小説からうける感銘というものを考えてみると、諸君は早くも、ある驚くべき結論に行きあたられるだろう。その結論は、しかし、だいたいにおいて的《まと》ははずれていないとしても、そういう社会の自制的精神と、その自制的精神の裏づけとなっている倫理観、これを多少なりとも知っていないと、ある点、正鵠《せいこく》を失するのはやむをえまい。
たとえば、お上品な日本人は(これは概則としていうのだが)、他人にむかって、けっして自分の妻のことは口に出していわない。それからまた、自分の子どものことも、肚《はら》のなかでは自慢とくとくでいても、まずめったに人前でしゃべるというようなことはない。ましてや自分の家族のもののこと、家庭生活のこと、その他自分のわたくしごとについて口外するなどということは、ほとんどないことである。たまさかどうかして、家の者のことを語るばあいがあるとすれば、そういうばあい、話に出てくるのは、たいていまず、自分の親どものことにかぎられている。親のこととなると、これはもう、まるで宗教的愛情に近いような敬虔さをもって語る。その語りくちは、西洋人のだれもがもっているような態度とはまるで雲泥《うんでい》で、かりにも肚のなかで、自分の親のいいところを他人の親のそれにくらべるというような、そんな口ぶりは、けぶりにも見せない。
自分の女房のことにかけては、たとえ、婚礼の席へ客に招いたほどの友だちに向かってさえ、ぷつりとも言わない。おそらく、日本人は、どんな貧乏人の、目に一丁字もないようなものでも、よしんばみすみす明日の米に困ろうとも、人の合力をえ、あわれみを買うために、自分の女房のことをだしに使うなどということは、夢にも考えないだろう。これは安心して断言できることと思う。――いや、女房のことはもちろん、わが子のことさえ、おそらく、口には出すまい。そのくせ、両親のためとか、祖父母のために人に助力をたのむことは、すこしもちゅうちょしないのである。西洋人が、人間の感情のうちで最も強いものとしている妻子への愛情を、東洋人は、これをひとつの我執と断定しているのだ。おれたちは、そんなものよりもっと高い情念に支配されているのだぞと、東洋人は憚《はばか》らず公言している。そのもっと高い情念というのは何かといえば、それは義理だ。だいいちに、天皇に対する義理、つぎに父母に対する義理。妻、子に対する情愛などは、せいぜいこれは、我執煩悩の部類にぞくするものだから、いくらこれを醇化《じゅんか》浄化してみたところで、日本の良識人が、それを最高の精神と考えることを平《ひら》に御免こうむるのは、無理からぬことである。
いったい、日本の国の貧乏階級の生活には、秘密というものがなにひとつなく、ごくもうあけっぱなしであるが、これが上流階級になると、その家庭生活は、西洋のどこの国――スペインをも含めて――よりも、人の目にさらされる機会がすくない。それは、外国人などの、ほとんど見ることも、知ることも許されない生活である。こんにちまでに、日本の婦人について書かれた、外国のエッセーはたくさんある。けれども、ああいうのは、みんなでたらめである。それが証拠には、われわれが日本人の知人の家へよばれて行って、そこの家の家族の人たちに会える時もあれば、会えない時もある。それはその時のぐあいによることであって、かりにもし会えたとしても、おそらくそれは、ほんのちょっとの間《ま》だろう。そういうばあいには、たいてい、そこの家の細君に会えるのである。
まず、玄関で女中に刺を通ずると、女中がそれを受けとって、奥へひっこむ。しばらくして、女中がふたたび出てきて、こんどは客を座敷へ案内する。その座敷が客間で、これは日本の住宅のなかでは、いちばん大きくて、いちばんりっぱな部屋である。客間には座ぶとんが出ていて、客はその上にすわる。座ぶとんのわきには、たばこ盆が出ている。やがて、女中がお茶とお菓子をはこんでくる。それからしばらくして、主人がみずから出てきて、さてお定まりの挨拶があったのち、はじめてはなしがはじまるのである。ときによると、食事に引きとめられることなどもある。客がありがたくそれを受けると、そこではじめて、主人の友人としての客の給仕に、夫人が暫時《ざんじ》諸君の側に侍《はべ》るという光栄に浴するのである。そういうばあい、夫人に正式に紹介されるばあいもあり、されないばあいもある。しかし、着物の着つけや髪のかたちを見れば、一見して、相手の婦人がなにものかということはすぐにわかるから、客は相手の婦人に対して、最も深甚《しんじん》な尊敬の念をもって、挨拶をしなければならない。おそらく、夫人は(ことにサムライの家庭を訪問したばあいは、とくにそうだが)いかにもしとやかな、まじめな婦人として、客の目に映るだろう。やたらにニコニコ笑顔をふりまいたり、ひょこひょこ頭を下げたりするような、そういう女とはわけがちがう。口かずこそすくないが、しかしその応待ぶりといい、しばらくのあいだ飯の給仕をする、その間のとりなしといい、一見して、その人となりがわかるような、自然の品位がそなわっている。そうこうしているうちに、ふたたびまた、するすると座から姿を消したとおもうと、それきり、諸君がいよいよ暇をつげる時まで、夫人は座にあらわれない。そのかわり、帰りぎわに玄関へふたたび出てきて、さよならをいうのである。
こんなふうにして、その後引きつづいて幾たびか訪問をかさねるうちに、そのつど、はじめての時と少しもかわりのない、うるわしい夫人の姿を、ほんのしばらくのあいだ、垣間《かいま》見ることができるのである。いや、そればかりではない、まれには、年老いた大主人夫妻に会う機会にめぐまれることもあるだろう。さらに運のいい客だと、しまいには子どもたちまでが出てきて、さもおとなしやかな、かわいらしい挨拶をするのに、うまく出会うこともあるだろう。が、そこの家のいちばん奥にある内生活が、客の前にさらけ出されるようなことは、こんりんざい、ないのである。諸君の目にふれて、おおよそ、こうもあろうかと、内生活の推測のつくものは、いずれもみな上品で、折り目の正しい、しとやかなものばかりだが、しかし、かんじんのそこの家の家族の人たちの相互の関係は、ついにわからずじまいだろう。家のいちばん奥の奥の院を仕切っている、美しい唐紙《からかみ》のむこうは、いっさいが物の音ひとつ立てない、寂として静まりかえった神秘境になっているのである。
なぜそうなっていなくてはいけないのかといって見たところで、日本人にしたら、べつにそこにりくつもなにもありはしない。とにかく、こうした家族生活は、神聖にして犯すべからざる清浄なものなのだ。わが家は神殿であり、その神殿に垂らしてある垂れぎぬをまくりかかげでもしたら、それこそ不敬の謗《そし》りをまぬがれまい。このように家庭と家族同志のつながりが神聖だという考え方、これは、西洋の家庭および家族関係に対する最も高い考え方にくらべて、けっしてまさるとも劣るものではないと、わたくしは考えている。
ところが、かりに、そこの家の家族のなかに、年ごろの娘がいたとすると、そういうばあいには、かえって訪問客は、そこの家の細君を見かける機会がすくなくなる。細君よりも、もっと内気な、そして細君とおなじように口かずのすくない、しとやかな若い娘さんたちが出てきて、客を歓待するのである。娘さんたちは、言いつけられるままに、客のもてなしに、琴・三味線をひいて聞かせたり、あるいは、自分のこしらえた編みものや、刺繍や、絵などを見せたり、そうかと思うと、家重代の家宝や、骨董品などをもちだしてきて、客に見せたりする。が、そういうばあいにも、この国固有のお国柄ともいうべき美風に属する、すなおな愛らしさと礼儀正しさとは、良家の子女らしい内気なしとやかさと相待って、いつもついて離れずにいる。したがって、客もまた、そういう席では、みだりに不作法なふるまいをしてはならないことになっている。よほど年でもとって、その年の功ゆえに、なにをしゃべってもいいという特権をもっているような老人ででもないかぎり、客はぶしつけに相手の娘さんの容色を褒めたり、軽薄な世辞追従に類するようなことを口にしたりすることは禁ぜられている。西洋で女性崇拝《ギャラントリー》と考えられているもの、ああいうものは、東洋では、とんでもない無礼にあたることなのである。客たるものは、どんなばあいにも、若い娘さんのすがたかたち、品のよさ、身だしなみなどを褒めそやしてはならないし、ましてや、そこの家の細君に、そういうお世辞をふりまくにいたっては、それこそ言語道断、以《もっ》ての外《ほか》のことなのである。
こういうと、あるいは諸君は、よこ槍を入れるかもしれない。世辞にもよりけり、あるばあいには、ある種の世辞は、どうもやむをえないだろうと。なるほど、それはその通りにちがいない。そういうばあいには、あらかじめ前口上に、なるべく不作法にわたらぬことばで、ひととおり、褒《ほ》めことばをいうことの弁解をのべるのが礼儀であって、それを申しのべると、先方は、われわれの国の方でいう、Pray do not mention it.(「どう仕《つかまつ》りまして」)などという挨拶よりも、もっと味のあることばで、それを受けてくれる。要するに、世辞をのべることの無礼を詫びるのである。
ここで、われわれは、日本人の礼儀作法という大きな問題にふれるわけだが、そういうわたくし自身が、それについては、まだまったくの五里霧中であることを白状しなければならない。で、ここではただ、西洋の社会小説の多くが、いかに東洋人の心に、品位の点で欠けるところがあるものとして映るか、そのことを言わんがために、あえて以上述べてきたまでのことなのである。
いやしくも、妻子に対する情愛を口外したり、または家庭生活に密接な関係のあることを話題に提供したりすることは、ほどのよい教養にはぐくまれた日本人の思想とは、全面的に相容れがたいことなのだ。したがって、われわれ西洋人のように、家庭の関係をおおっぴらにひろげちらしたり、むしろ、これ見よがしにひけらかしたりするようなことは、教養ある日本人にとっては、まあ、あたまから下司《げす》野蛮とはいわないまでも、すくなくとも〈妻《さい》ノロ〉に見える。そして、おそらくこの心情は、こんにちまで外国人に、日本の女性の地位について誤まった考えを抱かせてきた日本人の生活というものを、すくなからず解明するものだということがわかるだろう。
いったい、日本の国では、夫が妻と肩をならべて街を歩くなどという習慣はないのである。ましてや、夫が妻に腕をかしたり、階段の昇り降りに、妻に手をかしてやるなどということは、まったくないことである。が、こんなことは、なにも夫の情愛が欠けている証拠にはならない。それはただ、われわれ西洋人のそれとはぜんぜん異った、社会的情操からうまれ出たものにすぎないのだ。つまりそれは、夫婦関係を人前でおおびらに見せびらかすようなことは、あまり褒《ほ》めたことではないという考え、それを基《もと》にした作法に従ったまでのことである。
なぜ、褒めたことではないのか? といえば、それは東洋人の判断によると、そうした振舞は、単にそれは個人的なものであって、したがって、自己本位な感情を言わず語らずのうちにさらけ出したものだ、というふうに見えるからなのである。それはそのはずで、東洋人にとって、生活の鉄則は、曰《いわ》く、義理である。だから、情愛も、当然、いついかなるばあいにも、義理に従っていかなければならない。ある種の個人的な愛情を、人前でおおびらに見せびらかすのは、道義心の薄弱なことを人前でおおびらに告白するにもひとしいことだ。それなら、女房をかわいがるのは道義心の薄弱かというに、これは大きにちがう。妻を愛するのは、これは男の義理だ。義理ではあるが、ただし、自分の親より女房の方をよけいにかわいがったり、あるいは、人前で、親よりも女房の方によけいに目をかけたりするようなのは、これは道義心が薄弱だと、こう言うのである。いや、親よりもよけいどころか、親に対するのとひとし並みに女房に目をかけてさえ、それは道義の上からいって、懦弱《だじゃく》の証拠だというのである。いってみれば、親の目の黒いあいだの家庭における妻の地位というものは、ざっとまず、養女のようなものなのであって、その点、ずいぶん情愛のこまやかな亭主のばあいでも、家庭のなかの折り目を、自分からおろそかにするというようなことは、片時たりとも許されないのである。
ここで、わたくしは、そうした日本人の思想・習俗とは、とうてい相容れない、西洋文学のひとつの様態にふれなければならない。そこで、諸君にひとつ、西洋の詩歌・小説のなかに、接吻・愛撫・抱擁などという題目が、いかに大きな位置を占めているかということを思いおこしてみていただきたい。と同時に、日本の文学のなかには、そういうものが絶対に存在していないということをも、併せて考えてみていただきたいのだ。なるほど、日本の母親たちも、世界万国の母親とおなじように、ときには自分の赤んぼを甜《な》めずったり、抱きしめたりはする。けれども、母親だけにかぎられた、そういう事実を除けば、日本には、愛情のしるしとしての接吻や抱擁は、ぜんぜんないのである。母親のばあいにしても、自分の子どもが、赤んぼの時代をすぎてしまえば、もう甜めたり、かかえたりはいっさいしない。幼い時ならともかく、そういうしぐさは、たいへんはしたないものとされているのである。若い娘同志にしても、おたがいに接吻をかわすなどということはけっしてしないし、また親たちにしても、子どもが立ち歩きできるようになれば、くちづけをしたり、抱きかかえたりはしない。しかも、こうしたしつけは、上は上《うえ》つ方《かた》から、下は百姓にいたるまで、社会のあらゆる階級に行きわたっているのである。また日本の国史にあらわれている、いかなる時代の文学を見ても、愛情がこんにちよりも強く表示されたような記録は、どこにも見当らない。西洋の読書人にしたら、接吻・抱擁はいわずものこと、愛人の手を握るぐらいのことさえ一ヵ所も書いてない文学作品は、想像するさえ困難だろう。握手でさえ、気持の表わし方としては、接吻とおなじく、日本人にとってはまったく未知の所作なのである。こういう題目に関しては、地方の連中のむじゃきな俚謡《りよう》も、ままならぬ情人同志の身の上をうたった昔の俗謡も、宮廷歌人のみやびな詩歌とおなじように、まったく口を緘《かん》してしまっている。たとえば、むかしからこの国にひろく流布している、俊徳丸の語りものを、例にとってみようか。
この語りものは、西日本地方では、人の口によくのぼる、いろいろの格言やことわざの種にもなっている語りものである。一篇の筋はたがいに思い思われた、いいなずけの男女が、非業《ひごう》な不運のために久しく別れ別れになり、相手のゆくえをたずねながら諸国を流浪するうち、ついに神のめぐみによって、ゆくりなくも清水寺《きよみずでら》でめぐりあう、というのが骨子だが、かりにこれをもし、アリアン族の詩人が書いたとしたら、おそらく、ふたりがわれを忘れて走りより、たがいにひしと抱きあって、接吻の雨をあびせかけ、愛のことばを叫びあう、出会いの場を書くにちがいない。ところが、日本の語りものは、そのところをどんなふうに描いているかというに、かんたんにいってみると、ふたりの男女はただ坐りあって、「そっと肩をぞ、なであいける」と描いているだけである。
ところが、こんなにひかえめな、つつましやかな愛撫のかたちすらが、感情の発露としては、日本の国ではきわめて稀有なことなのである。たとえば、諸君が、何年ぶりかでひさびさに顔をあわせる日本人の父と子、夫と妻、母と娘などの、そうした邂逅《かいこう》の場に、なんどか行きあったとしても、おそらく、そのつど諸君は、そうした人びとのあいだに、愛撫にちかいしぐさがかわされるのを見るようなことは、まずあるまい。そういう時のかれらは、行儀よくきちんと正坐して、おたがいにていねいな辞儀をかわしあい、にこやかな笑みをたたえながら、わずかに喜びの声をちょっとあげるだけである。双方駆けよって、たがいにひしと抱きつきあったり、つねにもない愛のことばを口走るようなことは、けっしてない。されば、my dear(わがいとしきものよ)、my darling(わが愛するものよ)、my sweet(わたしのかわいい人よ)、my love(わが愛よ)、my life(わがいのちよ)などという愛称は、日本のことばのなかにはないし、そのほか、われわれの国の方で使うような、感情をむきだしにあらわした成句に相当することばなども、日本語にはないのである。日本人の愛情は、ことばとなって口にはあらわれないのである。声の調子にさえ、ほとんどあらわれることはない。それはおもに、上品な礼儀と、やさしい心情をこめたしぐさのうちにあらわされるのである。もうひとつ附け加えていうと、愛情とはぜんぜん逆の感情のばあいにも、その感情は、おなじように完全に封鎖されているのだ。そのことについても、ここでいっておきたいのだが、この著《いちじる》しい事実を説明するには、またべつに一文を草しなければならないから、いまは割愛しておくことにする。
いったい、東洋人の生活、あるいは思想というもの、これを公平欠くるところなく研究しようというほどの人ならば、その人は、同時にまた、東洋人の物の見方のうえに立って、そうして西洋人の生活・思想というものをも、併せて研究すべきが本来である。そして、こうした比較研究の結果は、いろいろの点で、研究者としても、すくなからず反省させられる点が多いのを発見するだろう。研究者は、自分の性格と識量に応じて、しぜん、いくぶんかずつ、自分がひたすらに没頭している、東洋というものの感化をうけてくる。そうなってくると、西洋の生活状態というものが、しだいに新しい、いままで夢にも考えなかったような意味をもちだしてきて、従来見なれてきた古い様相が、だんだん影がうすくなりだしてくる。いままでは、それがあたりまえのこと、ほんとうのことだと思っていたことが、大部分、正常でない、いつわりのものだったということに気がついてくる。いったい、西洋人の道徳上の理想というものが、あれが果たしてしんじつ最高のものなのかどうか、それについて疑念が起ってくる。しまいには、いままで西洋の慣例によって、西洋文明の上におかれてきた評価というものを、どうやら軽蔑したくなるように、――いや、おそらく、それ以上の気持をもつようになってくる。
もっとも、こうした疑念が、果たしてぎりぎりのものであるかどうか、これはまた問題がおのずから別ではあるが、それにしても、すくなくともその疑念は、従来の信念を永久に変貌させてしまうに足りるほど、じゅうぶん合理的な、かつ有力な疑念となるだろう。なかんずく、西洋の女性崇拝――女性は及びがたいもの、理解しがたいもの、神聖なもの、la femme que tu ne connaitras pas(会得を超えた女性―ボードレールの句)という理想――いわゆる「永遠の女性」という理想の、道徳的価値の信念などは、根底から揺いでくるにちがいない。なぜか、というと、この古い、昔ながらの東洋には、「永遠の女性」なんてものは、いっこうに存在していない。そして、そんなものなしでも、けっこう生きることに慣れてくれば、いきおい、そんなものは、あながちなにも、健全な知性にとってぜったい必要欠くべからざるものではないという結論も、しぜんと出てくるだろうし、ひいてはまた、そんなものが地球の他の半面に、永遠に存在する必要が果たしてあるものなのかと、敢えて借問したくもなってくる道理であろう。
極東には、「永遠の女性」が存在しないといったのは、これは、真理の一端をのべたものにすぎない。今後、あるいは遠い将来においても、この観念が日本に移入されるということは、ちょっと想像しても考えられないことである。かりに、われわれのもっているこの観念を、せめてこの国の国語にだけでも、なんとかして翻訳してみようとしても、それさえできない。だいいち、日本のことばには、名詞に性《ジェンダー》がないし、形容詞には比較級がないし、動詞には人称《パースン》がない。チェンバレン教授がいっているように、日本語に擬人法がないのは、「中性名詞《ニューター・ナウン》に他動詞を用いないのとともに、この国の国語の牢として抜きがたい特徴」である。教授は、さらにそれに附言して、「じじつ、大部分の隠喩《メタファ》や譬喩《アレゴリー》を極東人に説明することは、まず、とうてい不可能である」といい、自説の解説に、ワーズワースの詩から、おもしろい引用をしているが、ワーズワースはおろか、もっとわかりやすい詩人ですら、日本人に難解な点はおなじである。わたくしもかつてテニスンの有名な歌謡から、つぎのようなかんたんな句を、上級の生徒たちに説明してやるのに、大骨を折ったおぼえがある。
She is more beautiful than day.
「彼女は天日よりもさらにうるわしい」
生徒たちは、「天日」を形容するのに、「うるわしい」という形容詞をもちいることはわかるのだし、また、おなじその形容詞が、べつに「乙女」ということばの形容にもちいられることもよくわかるのだが、さて、その天日のうるわしさと、若い女性のうるわしさとのあいだに、多少なりとも近似点があるという考えが、かりにも人間の心のなかに宿りうるという、そのことが、かれらにはなんとしても考えられないのである。であるから、詩人の着想を、かれらにうまくつたえてやるのに、どうしても、このことを心理的に分析して、――ということは、つまり、ふたつの相異った印象から喚《よ》びおこされた、ふたつの快感の様態のあいだに、神経上の近似があるのだ、ということを説明してやらなければならなかった。
このように、国語そのものの性質が、おのずから語っているように、由来、日本人には、むかしから、民族的な特性に深く根を下ろしている、特殊な性向があるのであって、極東には、西洋人のそれに相応するような、民族全般を支配している理想のごときものはないという説明も、もし説明をつける必要があるとすれば、当然それは、この特殊な性向というものを手がかりにして、説明して行かなければなるまい。この性向たるや、こんにち現存する社会機構などとは比較にならぬほど、その淵源は古いものだし、同時にまた、この国の家族観念よりも、祖先崇拝よりも、あるいはまた、従来東洋人の生活の幾多の特殊事実の説明、というよりもむしろ、反映になっている、かの儒教よりも、はるかに古い根拠になっているものである。
もっとも、およそ信念と実践とは、性格の上に反応するものだし、逆にまた、性格は信念と実践の上に反応するものなのであるから、このばあい、儒教のなかに、その根拠と説明を求めることも、あながち不合理なことではなかろう。むしろ、それよりもかえって不合理なのは、とかくそそっかしい批評家連中が、女性の生まれながらの権利に反対した宗教上の影響に、いままで、なんぞというと、神道と仏教とを槍玉に上げてきたことである。
ところが、これは逆な話なのであって、むかしからある神道の信仰は、すくなくとも女性に対しては、ちょうどヘブライの古い信仰とおなじように、すこぶる穏健なものだったのである。だいいち、数からいっても、神道の女神は、男神とほとんど同数だし、そのすがたにしても、ギリシャ神話の綺想におとらぬ美しいすがたで、崇拝者の心像のまえに立ちあらわれている。そのなかのあるもの、たとえば、衣通《そとおり》ノ娘女《いらつめ》のごときは、うつくしい五体からさしでる光りが、衣服を通してかがやきでたといわれているし、また、いっさいの生命と光りの根源である永遠の「日の神」は、天照大神《あまてらすおおみかみ》という美しい女神におわしたのである。太古の神々につかえまつるものは、みな処女だし、祭祀の行事にかたどられるものも、処女である。この国に幾千となくある神社には、男子の御霊《みたま》が「ますらお」として、また父として祀《まつ》られているが、それとおなじように、女子の御霊は、妻および母として祀られている。また、神道より時代はのちの外来宗教である仏教にしても、中世のキリスト教が、心霊界において、ヨーロッパの女性にあたえた地位よりも低い地位に、日本の女性を追いおとしたというような非難は、どう考えても、受けるべきはずがない。仏陀もキリストとおなじく、やはり、処女から生まれたのだ。
その他、日本の美術や、民間の意匠などにあらわされている愛すべき諸仏も、地蔵をのぞけば、あとは、たいていみな女性《にょしょう》であるし、かのローマン・カソリックの高僧伝にのせられているのとおなじように、仏教においても、女性の聖者は、いずれも栄誉ある地位をあたえられているのである。そういう仏教にしても、ちょうど、初期キリスト教がやったように、女性の美に誘惑されることを誡《いまし》める説法に、大いに力こぶを入れていることは同断だし、また、祖師の教化《きょうげ》のなかには、パウロの教えとおなじように、男子に社会的・精神的な優位をあたえていることも、事実である。
しかしながら、この問題を、われわれがじかに仏典にこれを探って糺《ただ》すばあい、仏陀が貴賎尊卑、あらゆる階級の女性にむかって示した、あのおびただしい平等愛の実例を見のがしてはならないと同時に、なお、それよりのちの経典にのせてある女性に対して、最も高い実入の機縁をいなむ教義を、きびしく誡めている、あの有名な伝説をも見すごしてはならないのである。
「妙法蓮華経」の|第十一品《(モトノママ)》に、あるひとりの年若い女が、一刹那のあいだに、最高の知識に到達し、一瞬時のあいだに、千の禅定の功徳《くどく》をえて、諸法の真髄を証見したということを、釈迦のまえで告げた。すると、その年若い女人が、釈迦のまえにあらわれて、立った。
ところが、智積菩薩が疑って、いった。
「自分は、釈迦牟尼仏《しゃかむにぶつ》が道を求めるのに、難行苦行をなされていた時のことを見てきている。そして、無量劫のあいだ、無尽無量の善行をかさねられたことを知っている。この世界のうちに、芥子粒《けしつぶ》ほどの地といえども、釈迦如来が、生きとし生けるもののために、その身命を捨てられなかったところはないのである。こういう辛苦艱難《しんくかんなん》を積まれたのちに、はじめて菩提の道にたどりつかれたのだ。それを、この年若い女人が、一瞬時のあいだに、最高の知識に到達したなどと、だれが信じえられようか?」
すると、尊者舎利弗も、おなじように疑っていった。
「おお、女人よ。なるほど、女人にして、六徳をそなえているものも、あるいはあるかもしれない。けれども、女人が仏道に達したという例は、まだない。なぜかというと、女人は、もともと、菩薩の諸度に達することができないものなのだから」
ところが、その年若い女人は、そのとき自分の証人として、釈迦牟尼仏を呼びまいらせた。すると、たちまちのうちに、その年若い女人は、集まりつどうていた群衆のまえで、いままでの女人の相が消えうせ、菩薩となってあらわれ、三十二相の光りをはなって、十万世界をあまねく照らし、世界は六|反《へん》に震動したのである。そこで、舎利弗は、黙然として、口をつくんでしまった(*)。
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(*)ケルン訳「東方聖書」巻二十一、第十一章のこのすばらしい経文のみごとな全文を見よ。
訳者注――「法華経」第十一品とあるのは、あきらかに著者の誤りであろう。「竜女釈疑」の説話は「妙法蓮華経提婆達多品第十二」に載せてある。ケルンの英訳は、いま訳者の手もとにないので、やむをえず漢訳の経典から、訓読のそれにあたる部分を、参考までに左に抄出しておく。
[#ここで字下げ終わり]
「文珠師利《もんじゅしり》の言《い》はく、娑竭羅竜王《しゃかつらりゅうおう》の女《むすめ》有り。年《とし》始めて八歳なり。智慧|利根《りこん》にして、善《よ》く衆生《しゅじゃう》の諸根《しょこん》の行業《ぎやうごふ》を知り、陀羅尼《だらに》を得《え》、諸仏の所説《しょせつ》の甚深《じんじん》の秘蔵|悉《ことごと》く能《よ》く受持《じゅぢ》し、深く禅定《ぜんぢょう》に入りて、諸法を了達《れうだつ》し、刹那《せつな》の頃《あひだ》に於いて、菩提心《ぼだいしん》を発《おこ》して不退転《ふたいてん》を得たり。弁才無礙《べんざいむげ》にして、衆生を慈念《じねん》すること、猶赤子《なほしゃくし》の如く、功徳具足《くどくぐそく》して、心に念《おも》ひ口に演《の》ぶること、微妙《みめ》広大なり。慈悲|仁譲《にんじゃう》、志意和雅《しいわげ》にして、能《よ》く菩提《ぼだい》に至れり。智積菩薩《ちしゃくぼさつ》の言《い》はく、我《われ》釈迦如来を見たてまつるに、無量劫《むりやうごふ》に於いて、難行苦行《なんぎゃうくぎゃう》し、功《く》を積み徳を累《かさ》ねて、菩薩の道《だう》を求むること、未《いま》だ会《かつ》て止息《しそく》したまはず。三千大千世界《さんぜんだいせんせかい》を観《み》るに、乃至芥子《ないしけし》の如き許《ばか》りも、是《これ》菩薩にして、身命《しんみゃう》を捨《す》てたまふ処《ところ》に非《あら》ざること有ること無し。衆生の為の故《ゆゑ》なり。然《しか》して後に、乃《すなは》ち菩提《ぼだい》の道《だう》を成《じやう》ずることを得たまへり。此の女《むすめ》の須臾《しゅゆ》の頃《あひだ》に於いて、便《すなは》ち正覚《しやうがく》を成《じゃう》ずることを信ぜず。言論未《ごんろんいま》だ訖《をは》らざる時に、竜王《りゅうおう》の女《むすめ》、忽《たちま》ちに前に現《げん》じて、頭面《づめん》に礼敬《らいけう》し、卻《しりぞ》きて一面《いちめん》に住《ぢゅう》して、偈《げ》を以って讃《ほ》めて曰《まう》さく、深く罪福《ざいふく》の相《さう》を達して、遍《あまね》く十方《じゅっぽう》を照らしたまふ、微妙《みめう》の浄法身《じやうほうっしん》、相《さう》を具せること三十二、八十種好《はちじっしゅごう》を以って、用《もち》ひて法身《ほっしん》を荘厳《しやうごん》せり、天人の戴仰《たいがう》する所、竜神《りゅうじん》も咸《ことごと》く恭敬《くぎょう》す、一切衆生《いっさいしゅじゃう》の類《たぐひ》、宗奉《しゅうぶ》せざる者|無《な》し、又聞きて菩提を成《じやう》ずること、唯《ただ》仏のみ当《まさ》に証知したまふべし、我《われ》大乗の教《をしへ》を闡《ひら》きて、苦の衆生を度脱《どだつ》せん。
爾《そ》の時に舎利弗《しゃりほつ》、竜女《りゅうにょ》に語りて言《い》はく、汝《なんぢ》久しからずして、無上道《むじょうどう》を得たりと謂《おも》へり。是《こ》の事信じ難《がた》し。所以《ゆゑ》は何《いか》ん。女身《じょしん》は垢穢《くえ》にして、是法器《これほうき》に非《あら》ず。云何《いかん》ぞ能《よ》く、無上菩提《むじょうぼだい》を得ん。仏道は縣曠《げんくわう》なり。無量劫《むりょうごふ》を経て、勤苦《ごんく》して、行《ぎょう》を積み、具《つぶ》さに諸度《しょど》を修《しゅ》して、然《しか》して後に乃《すなは》ち成《じやう》ず。又|女人《にょにん》の身には、猶五障《なおごしやう》有り。一には梵天王《ぼんてんわう》と作《な》ることを得ず。二には帝釈《たいしゃく》、三には魔王《まおう》、四には転輪聖王《てんりんじょうわう》、五には仏身《ぶっしん》なり。云何《いかん》ぞ女身速《にょしんすみや》かに成仏《じゃうぶつ》することを得ん。爾《そ》の時に竜女《りゅうにょ》、一つの宝珠《ほうじゅ》あり。価値《あたひ》三千大千世界なり。以って仏に上《たてまつ》る。仏即ち之《これ》を受けたまふ。竜女、智積菩薩《ちしゃくぼさつ》、尊者舎利弗《そんじゃしゃりほつ》に、謂《い》って言《い》はく、我|宝珠《ほうじゅ》を献《たてまつ》る。世尊《せそん》の納受《なふじゅ》、是《こ》の事|疾《と》しや不《いな》や。答へて言はく、甚《はなは》だ疾《と》し。女《むすめ》の言はく、汝《なんぢ》が神力《じんりき》を以って、我が成仏を観《み》よ。復《また》、此《これ》よりも速《すみや》かならん。当時の衆会《しゅゑ》、皆|竜女《りゅうにょ》の、忽然《こつねん》の間《あひだ》に変じて男子《なんし》と成りて、菩薩の行《ぎやう》を具《ぐ》して、即《すなは》ち南方|無垢《むく》世界に往《ゆ》き、宝蓮華《ほうれんげ》に坐して、等正覚《とうしょうがく》を成《じゃう》じ、三十二相、八十|種好《しゅごう》ありて、普《あまね》く十方の一切衆生《いっさいしゅじゃう》の為に妙法《めうほう》を演説するを見る。爾《そ》の時に娑婆《しゃば》世界の菩薩、声聞《しゃうもん》、天竜|八部《はちぶ》、人《にん》と非人《ひにん》と、皆|遥《はる》かに彼《か》の竜女《りゅうにょ》の成仏して、普《あまね》く時の会《ゑ》の、人天《にんでん》の為《ため》に法を説くを見て、心|大《おほ》いに歓喜して、悉《ことごと》く遥《はる》かに敬礼《きやうらい》す。無量《むりゃう》の衆生《しゅじゃう》、法を聞きて解悟《げご》し、不退転を得《え》、無量の衆生、道《どう》の記《き》を受くることを得たり。無垢《むく》世界|六反《ろくへん》震動す。娑婆世界の三千の衆生《しゅじゃう》、不退《ふたい》の地に住《ぢゅう》し、三千の衆生、菩提心を発《おこ》して受記《じゅき》を得たり。智積菩薩《ちしゃくぼさつ》、及び舎利弗《しゃりほつ》、一切の衆会《しゅゑ》、黙然《もくねん》として信受《しんじゅ》す。
ところで、西洋と東洋とのあいだをつなぐ知的共感、これに最も大きな邪魔しているものの真の性根《しょうね》を感得するには、むかしから東洋には存在していない、この「水遠の女性」という理想が、西洋の生活に、いったい、どれほど大きな効能をもっているか、これをひとつ、十二分に勘考《かんこう》してみなければならない。そこで、われわれは、その理想が、われわれの西洋文明――快楽・教化・悦楽に、さては彫刻・絵画・装飾・建築・文学・演劇・音楽に、あるいはまた、工業の発達に、どういう影響をおよぼしてきたか、ということを思い起こしてみなければならない。そうして、それが、われわれの風俗・習慣の上に、あるいは、ことばのかおりの上に、品行と人倫の上に、人間の努力の上に、哲学と宗教の上に、その他、あらゆる公私の生活の面に――つまり、約《つづ》めていえば、民族的特質の上におよぼした影響を、とくと考えてみなければならない。それと同時に、この理想が形づくられたについては、そこに種々雑多な影響がいろいろと混淆《こんこう》して形成されたのだということも、忘れてはならない。それからまた、チュートン族や、ケルト族、スカンディナヴィア人、上古、中世、ギリシャ人などの人間美の崇拝、キリスト教の聖母崇拝、騎士道の女人憧憬、さては古来の理想主義を、新しい官能主義に漬けて色|揚《あ》げをしたルネサンスの精神――これらのものの出生は、ともかくとして、これを養いきたった養分は、アリアン語と同程度に古い、しかも、極東の一孤島にはまったく見ず知らずの民族感情から得てきたのだということ、これもぜひ忘れてはならないことである。
このように、われわれ西欧人の理想を形づくるために、いろいろと結びあい、組み合わされた種々雑多な影響感化のなかで、いまもって残っているものとしては、なんといっても、古典的要素が優勢を占めていることが目につく。ギリシャ流の人間美についての考え方は、こんにちでもなお、尾をひいて生きのこっているが、ふしぎなことに、その人間美の概念が、近世にいたって、古代世界にもルネサンス期にもなかった、ヘブライ的な精神美の概念を生みだしたのは事実だ。それからまた、新しい進化論哲学が、「現在」が「過去」に甚大無量な負いめをおうているという事実を認識させ、そこから、「未来」に対する人間の義務について、まったく新しい悟入《ごにゅう》をおこさせ、人間の品性というものに対する考え方を、ひじょうに重要視させるようになってきた結果、いきおい、女性の理想というものにも、できるだけ高い精神を吹きこむようなことになって、その点でも、進化論の影響は、従来のなにものよりも、大きなものがあったということも事実である。しかしながら、将来、たとえば人間の知性がまだまだもっと領域をひろげ、さらにさらに発達して、そのために、いまよりももっと高い精神が導入されるとしても、この「永遠の女性」という理想は、けっきょく、その本来の性質からいって、根本的にはどこまで行っても、芸術的なもの、官能的なものにとどまることは、かわりがないにちがいない。
おなじ「自然」を見るにしても、われわれ西洋人は、東洋人が見るようなぐあいに「自然」を見ていない。東洋芸術が、「自然」は、こう見るものだと教えているようには、われわれは見ていない。われわれは、東洋人ほど、「自然」をリアリスティックには見ていないし、また、そう「自然」をくわしく知ってもいない。それはなぜかというと、その道の専門家の目はべつとして、だいたいにおいて、われわれは「自然」を擬人化して眺めるからである。なるほど、こんにち、ある一面からみると、西洋人の美的感覚は、東洋人のそれにくらべたばあい、ちょっと比較にならないくらいにまで、繊巧細緻《せんこうさいち》に暦き練られてきてはいる。しかし、それは情的な方面のことである。つまり、西洋人は、従来、わずかに西洋古来の女性美崇拝を通して、やっと自然美のいくぶんかを学んできたのである。おそらく、われわれ西洋人の、美的感受性の資源ともいうべきものは、そもそもの太初からして、人聞美の認識にあったのだろう。われわれの均衡《プロポーション》という観念なども、やはりその源流は、おなじくそこから発したもなのだろうし、調和《レギュラリティ》というものに対する、あの度《ど》はずれた偏重、また、平行線とか、曲線とか、その他、幾何学的な均斉《シンメトリー》をもったものに対する嗜好なども、やはり、そこから出ているのだろう。こんなぐあいにして、美感発達の長い道中をへてくるうちに、女性美の理想というものが、ついに、われわれの審美上の抽象観念となったのである。じつは、われわれは、この抽象観念のまぼろしを通して、わずかに、現世のあえかなるものを見ているのである。ちょうどそれは、空が虹色を呈している熱帯の空気を通して、物象を見ているのに似ている。
ところで、ひとりそれのみにはとどまらない。ひとたび、芸術とか思想とかいうものによって、女性になぞらえられたのは、それが一時的にも、ある象徴となったことによって、今までにない、新しい意義がそこに加えられ、形もまたかわってきたのである。
こうして滔々《とうとう》幾世紀かを閲《けみ》するうちに、西洋人の空想は、ますます、「自然」を女性化することになった。そういうわけだから、われわれを喜ばすものは、すべて、空想がとらえて女性化したものばかりである。――大空の無限のやさしみ、――水のうごき、――朝焼けのバラ色の空、――白日の洪大な愛撫、――暗夜と天の星――悠久なる山の起伏など、みな、それならぬはない。あるいは花、あるいは実った果物の色つや、すべてにおいの芳《かんば》しいもの、さえざえと美しいもの、みやびなもの、さてはたのしい季節季節のものの声、小川のさざめき、木の葉のささやき、木かげの小鳥のさえずり、――すべて目に見、耳にきこえ、心にふれるもので、愛らしく、ゆかしく、うつくしく、しとやかな、人に好もしい感情をわきたたせるものは、いずれもみな、われわれに女性に対するそこはかとない夢を抱かせるものである。われわれの空想が、「自然」に男性味を賦《ふ》するときは、「自然」が凄味と力をあらわしたときにかぎる。それさえ、なんのことはない、その荒あらしい、力づよい対照によって、かえって、「永遠の女性」の魅惑に拍車をかけるようなものだ。いや、それどころか、ときには、おどろおどろしいものでさえ、それに恐怖の美というやつが加わると、――いやいや、「破壊」でさえも、それが破壊者に品位があってなされたものなら、われわれにはそれが女性的なものになるのである。ひとり目にうつり、耳にきこえる物の美しさばかりではない、すべて神秘的なもの、崇高なもの、神聖なもの、そういうものが、ことごとくみな、恋情をそそる、あるふしぎに錯綜した情感の神経網を通じて、われわれの心象に訴えてくるのである。大宇宙の最も神秘微妙な力、それすらが、われわれに女性のことを語ってくれる。そこへもってきて、新しい科学は科学で、われわれが女性のまえに出たときに、あの全身の血管のなかにわきたつ顫律《せんりつ》やら、初恋というあの世にもふしぎな衝動やら、女性の魅力というあの永遠の謎やらに、それぞれ、新しい名称をつけてくれた。
このようにして、むかしはただ、単純な人間本来の情熱だったものから、われわれは無尽無量の感化の変化をへたのち、ようやくひとつの普遍な感情、――万有女性観にまで発展してきたものなのである。
ところで、われわれ西洋人の、審美観の発達における、この感情的な感化の結果というものが、果たして益があったかどうか、これをひとつ尋ねてみようではないか。
なるほどそこには、芸術の勝利だなんぞといって、西洋人が自慢にしているような、そうした目に見える効果はいろいろとあるだろう。しかしまた一方、その裏面には、ある目に見えない結果が――それが将来明るみにさらけ出されたら、それこそ、われわれ西洋人の自尊心にすくなからぬ衝撃をあたえるようなものが、なにかそこにひそんでいはしまいか? ひょっとすると、われねれの美的能力というやつは、われわれがいままで、「自然」のもっている多くの驚異すべき現象に、堅く目をつぶってきたのでなければ、そんなものが依然としてこんにちまで残っているわけがない、あるひとつの情操の力によって、なにか一方的に、変則的に発達させられてきたものなのではあるまいか? そして、こういうことは、西洋人の美的感受性の発達の途上で、あるひとつの、とくべつな感情だけが、極度に優位を占めたことから、必然的に生じてきた結果なのであるまいか?
そんなふうに考えてくると、けっきょく、結論としては、ほかならぬその優位を占めてきた感情が、果たしてそれが至高のものであったかどうか、あるいは、東洋人ならとうに知っているはずの、もっと高いものがほかにあったのではないかと、敢えて借問《しゃくもん》してみたくなってくるのだが、さてどんなものであろう?
もっとも、わたくしは今、ただこの疑問をここに持ちだしてみたというだけの話であって、べつだん、それに満足のいくような解答をあたえたいという望みは持っていない。それにしても、わたくしは、自分がこうしてこの東洋に年久しく住んでいればいるほど、なにかこの東洋の国には、われわれ西洋人のまったく知らない、非凡な芸術的才能と、芸術的認識力とが発達しているという確信が、年とともに、ますます深くなってくるのを覚えるのである。それはちょうど、肉眼では見えないが、分光器にかけてみると、はっきりとその存在が証明される、あの想像もつかない色みたいなぐあいで、そういう可能性は、日本のある一面の芸術によって、おのずから語られていると、わたくしは思っている。
あまり細目にわたることは、むずかしいことでもあるし、また危険なことでもあるから、ここではほんの概括的な観察を二、三述べて、お茶を濁すことにするが、わたくしの考えるところによると、いったい、日本の国のすぐれた芸術は、「自然」の無限につきせぬ種々雑多なすがたのなかから、われわれ西洋人には、なんらそれが性的特質を呈示しないもの、擬人法的にそれを眺めることのできないもの、男性でもなければ、女性でもないもの、つまり中性か、でなければ、何性とも名のつけようのないもの――そういうものが、とくに日本人には深く愛好され、理解されているということを、はっきりと宣言しているように思われる。いや、じっさい、日本人は、われわれ西洋人が幾千年ものあいだ、「自然」のなかに見のこしてきたものを、じつによく見ている。われわれは、こんにち、われわれが今までまったく目をつぶって見ずにきたものに、かえって生命の諸相と形態美のあることを、日本人から学びつつあるありさまである。
もともと、西洋人が従来いだいてきた偏見は、そういうものとはまったく反対のものを、ひとりがてんの手前勘で断定してきたのだから、そういうものをはじめて見せられれば、最初は妙に現実ばなれのした、奇怪じみた印象をうける。けれども、けっきょくしまいには、日本の芸術はけっしてただ夢みたいな空想から生みだされたものではない、みんなあれはむかしから実在し、げんに今もちゃんと実在しているものの、嘘いつわりのない物のすがたなのだ、ということがわかって、いまさらのごとく驚いているしまつなのである。われわれはそこから、日本人の鳥・虫・草・木に関する研究を見たわけだが、それをしさいに見るだけでも、じつにそれが、芸術における高等教育以上のものだということを認めたわけだ。
たとえば、ここに昆虫を描いた西洋の傑作画と、それとおなじ画題を描いた日本の絵とを比べて見るとする。例のミシューレの著書「虫」に、ジャコメリがかいたさし絵の図譜と、目本の安たばこ入れの革にかいてあるおなじ虫の図か、さもなければ、安ぎせるの雁首か吸口の細工に彫ってある、同じ虫の図柄とをくらべて見るとする。あのヨーロッパ版画の、絵ぜんたいに行きわたっている五分の隙もない細密精巧さが、いたずらに味もそっけもないクソ写実をやっているのに反して、日本の細工師の方は、ほんのひと筆かふた筆、さっと絵筆をふるっただけで、その動物の形態の特徴から運動の特徴までも、ひとつあまさず、まるで神業《かみわざ》のような腕でとらえて、それを描きだしているのである。
こういう東洋の画学の彩筆からおどりだす物のすがたは、たとえば、風にゆられる巣の上にいるクモ、ひなたを飛びかうトンボ、葦間にかけこむつがいのカニ、清流におどる銀鱗、舞いくるうハチのうなり、空ゆくカリの羽がき、斧《おの》ふりたてるカマキリ、杉の木をはいのぼるセミ、――すべてごくなんでもないものばかりであるが、しかも、そのひとつひとつが、どれをとってみても、いやしくも偏見の雲に曇らされていない人の目には、まさにひとつのりっぱな教えであり、啓示であり、およそ、ふし穴でない目をもった人なら、その目をひらかしてやるに足る、ひとつのそれは開眼でもあるのである。これらの芸術は、みな、生きている。きびきびと生きている。それにちょうど対応するような西洋の絵を、そのそばにおいてみると、西洋の絵はまるで死んだものに見えてしまう。
さらに花を描いた絵をとりあげてみようか。たとえば、イギリスやドイツの花の絵なぞは、あれはみな、何ヵ月というひまをかけてでき上がった労作であって、価も数百ポンドにのぼるものばかりであるが、そういう絵でも、高い意味での自然研究としては、筆数ほんの二十ぺんかそこらで、さらさらと書きなぐった、値段にしたら五銭かそこらの日本の花の絵の、足もとにもおよびつきはしない。西洋の絵は、せいぜい、色の量感を出そうとしてそれに失敗し、ただ骨折った努力のあとだけを示した作品にすぎない。ところが、日本の絵はというと、これはモデルの助けなんかかりないで、ただ花のかたちの完全な記憶を、そのままじかに、紙の上にさっと投げ出した絵で、しかもそれでいて、それがただ個々の花の思い出におわらずに、気分・強弱・抑揚の三調子そろった、完全に堂に入った形態表現の通則を、一点の非の打ちどころもなく、あらわしているのである。
西洋の美術批評家のなかで、日本の美術のこうした特質を、じゅうぶんに理解しているのは、どうやらフランス人だけらしい。また、西洋の画家のなかで、自分のもっている手法で、東洋人に近づくことができるのは、ひとリパリ人だけだ。フランスの画家は、よくどうかすると、筆を紙からはなさずに、うねりくねったひと筆描きで、まるで物でも言い出しそうな、十人十態の、それぞれ特徴をもった男女の姿態を、じょうずに描きこなす腕をもっている。もっとも、こうした高い技能の伸びは、おもに漫画ふうなスケッチだけにかぎられていて、それもある特殊な型の、男か女の人物にかぎられている。
ところで、わたくしのいおうとする日本の画家の技倆が、およそどんなものであるかを知ろうと思ったら、諸君は、今いうフランス人の、ある種の絵を特色づけている、この早描きの技術を――個性というものを除いた、ほとんどあらゆる画題に適用した絵を想像されればいい。つまり、目に認められたほとんどすべての類型、日本の自然のあらゆる様相、国土的風景のあらゆる形態、行雲、流水、煙霞《えんか》、森や野のあらゆる生態、四季の気分から空模様、朝と夕の色ぐあいにいたるまで、そうしたものいっさいに適用された、ひと筆描きを想像されればいい。
もっとも、こういう魔術みたいな技術の深い気韵《きいん》というものは、西洋の審美上の経験のなかには、ほとんど絶無といってもいいのだから、見なれない目がはじめてちょっと見たぐらいでは、なかなかおいそれと看破できるものではない。しかし、鑑識眼の高い、偏見にとらわれない人なら、徐々にそれが心に会得されてきて、ついには、美に関する従来の既成観念を、ことごとく、それによって根柢から改めるようなことにもなるだろう。もちろん、その意義をぜんぶ会得するには、そうとうの長い日子を要するだろうが、その造型的技能は、わりあい短時日のうちに感得されようから、そうなった暁には、アメリカの絵入り雑誌や、ヨーロッパの絵入り刊行物などは、とうてい見るにたえなくなってくるに相違ない。
ところで、そんなことよりも、なおいちだんと深い意味をもった、東西心理の相違が、それとはまたべつの事実によって呈示されているのである。もっとも、こんどの事実は、ことばのうえでは、その説明ができるけれども、これを西洋美学の尺度とか、あるいはなんらかの西洋流の情感で解釈をつけることは、ちょっとできない。
一例をあげてみると、ついこのあいだのことだが、わたくしは、自分の家のじき近所のお寺の庭で、老人がふたりして、なにかの苗木を植えているところを目撃した。わずかたったいっぽんの苗木を植えるのに、そのために小一時間もひまをつぶすようなことは、日本人にはよくあることだ。このふたりの老人も、まず、苗木を地べたへおろして見ていた。それから、ちょっと離れて立って見て、枝ぶりをためつすがめつ丹念に見さだめて、ああでもない、こうでもないと、さんざ、おたがいに相談しあっていた。そのあげくに、苗木は、また掘りおこされて、ほんのすこし位置をかえて、植えなおされる。小さなその苗木が、その庭のつくりに、ぴったりとツボにはまるまで、なんでもこれが七、八へんもくりかえされた。ちょうど、詩人が自作の詩に、最も風韵《ふういん》ある、できるだけ力強い表現をあたえるために、しきりと字句をかえたり消したりして、推敲《すいこう》をかさねるのとおなじように、そのふたりの老人は、苗木の位置をかえてみたり、移してみたり、いったん移しかえたのを、またひっこぬいて植え直してみたり、そんなことをして、苗木を相手にひそかに想を練っていたのである。
日本の大きな家には、どこの家へ行っても、そこの家のおもだった部屋の壁には、いくつかの|入り込み《アルコーブ》、つまり、床の間というものがついている(*)。こういう床の間には、そこの家の家宝ともいうべき美術品が、いろいろと置きならべてある床《とこ》には、ひとつひとつ、かならず懸け物がかけてある。それから、床の間のやや高くあげた床板(たいていは、磨き板になっている)の上には、花瓶と、なにか美術品が、ひとつふたつ置いてある。床の花瓶に生けてある花は、すべて、コンダー氏が、例の美しい本のなかにくわしく書いているとおりの古式にのっとって、生けてある。床の懸け物と、そこに飾ってある美術品とは、これは時とばあいと、季節のうつりかわりによって、ある一定の時をさだめて、ときおり陳列がえをされる。
わたくしは、ある家の床の間で、さまざまの機会に、さまざまの変った美術品を見た。たとえば、シナ製の象牙彫りの像だとか、青銅の香炉――これには、雲にのった一対の竜が彫ってあった。――あるいは、路傍に腰をおろして、まるい頭を拭っている木彫りの行脚僧《あんぎゃそう》、かと思うと、名工の漆器、京焼の美しい陶器、そうかと思うと、わざわざそれに合わせて作らせた、重たい香木の台にのっている、大きな石があったりした。そんな石ころなどに、西洋の諸君が、はたして美しさを見出すかどうか、わたくしは知らないが、とにかく、その石は、べつに彫り刻んであるわけでもなく、磨きたててあるわけでもなし、そうかといって、石そのものに、なんの本質的な値打があるというような代物《しろもの》でもないのである。ただの川床からひろってきた、水にすりへらされて円くなった、寝ぼけ色の〈ごろた石〉にすぎないのである。しかも、そんなごろた石が、さて価はどうかというと、その石と陳列がえをされる京焼の花瓶を、諸君が値段おしまず手に入れる高い値段よりも、まだもっと高価なのである。
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(*)床の間、あるいは床は、今から約四百五十年前、中国へ留学した僧|栄西《えいさい》によって、はじめて日本の建築のなかへ採り入れられたものだと言われている。おそらく、この床の間というものは、元来は、宗教上の什具《じゅうぐ》を安置しておくために工夫され、またそのために使用されてきたものなのだろうが、こんにちでは、客間の床に、神仏や仏画などをおくのは、教養ある人たちのあいだでは、はなはだしい悪趣味だと考えられている。けれども、ある意味では、床の間はいぜんとしてやはり神聖な場所であって、その上へ上がりこんだり、そこへ坐りこんだり、けがれたものや、趣味としていかがわしいものなどを、そこへのせたりしてはならないことになっている。また、床の間というものについて小むずかしい作法も定められてある。客などが大ぜいあるとき、そのなかで、いちばん身分の高い上客が床の間にいちばん近いところにすわらされ、あとの客は、身分にしたがって、床の間寄りに、あるいは床の間に遠く、じゅんじゅんに居流れるのが、作法になっているのである。
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わたくしがいま住んでいる、熊本の小さな家の庭には、とりどりの形と大きさをした、岩くれや大石が、およそ十五ほどある。こういう庭石とて、石そのものは、何の値打もない、ただの石ころだし、それこそ建築材料にもならない代物である。そういう役にも立たない石くれに、ここの庭の持ち主は、七百五十円なにがしという大金をかけている。七百五十円といったら、ちょっと小ぎれいなここの家の普請にかけた金なんかより、はるかに大金だ。それもわざわざ白河くんだりの川床から運んできた。その入費や雑費などで、石の値段が高くついたのだろうなどと思ったら、とんだ間違いである。そうではないのであって、けっきょく、これらの庭石が、そうとうに美しいと考えられてるのと、美しい石は、その土地土地で大きな需要があるのとで、七百五十円もするのである。むろん、わたくしの家の庭石などは、最上等の品ではない。最上等の品だったら、もっと莫大な値になるだろう。こんな〈でかばちもない〉、それも土から掘り出したまんまの、磨いてもいない自然石が、高価な銅版画なんぞより、はるかに高い美術的価値をもっており、こんな〈ごろた石〉を美しいものだと思っており、こういうものを、いつまで経っても変わらぬ喜びと考えているその気持がわからないうちは、まだまだ諸君は、日本人の「自然」の見方を理解する〈とば口〉にも到らないと思わなければならない。「だって、そんな、ざらにそこらへんにころがっているごろた石の、どこがいったい美しいのかね?」おそらく諸君は、そういって尋ねられるだろう。美しい点はたくさんあるのだ。が、ここには、その美しい点をひとつだけあげておこう。曰く――不揃《ふぞろ》い。
わたくしの住んでいる小さな日本の家には、襖《ふすま》というものがある。襖というのは、部屋と部屋のあいだをするするとすべる、透きとおらない紙で貼った、仕切りの目かくしであるが、この襖には、わたくしがいつ見ても見飽かない図柄がかいてある。この図柄は、それぞれ部屋によってちがっているが、私がここに話してみたいのは、自分の書斎と次の間とをしきっている、襖の絵についてである。地紙の色は、品のいいたまご色で、それにあっさりとした金箔が――仏教の方で象徴《シンボル》になっている宝珠の玉が、ふたつずつ、紙のおもてに散らしてある。ところが、そのふたつずつの宝珠の玉が、おたがいに、きまった正確な間隔に散らしてないのである。図柄そのものからしてが、妙に形が揃っていないし、きちんとおなじ正確な並べ方になっているもの、あるいは、おなじ釣りあいに置かれているものは、ふたつと見あたらない。片方の宝珠の玉は透きとおって、片方のは透きとおっていないかと思うと、ふたつとも透きとおっているのがあり、逆に、ふたつとも透きとおっていないのもある。そうかと思うと、透きとおっている方が形が大きいかと思うと、透きとおらない方が大きいのもあり、なかには、ふたつとも同じ大きさのがあったり、おたがいに重なり合っていたり、あるいは、飛びはなれていたりしている。透きとおっていないのが、左手にあるのもあれば、反対に右手にあるのもあり、かと思うと、透きとおったのが、上にあるのもあり、逆に下になっているのもある。どこかしらに、同じものが重複しているのはないか、まくばり方とか、並べぐあい、あるいは取りあわせ、大きさ、釣りあい、そういうものに、なにか一定の均斉に似たものがないかと思って、紙のおもてをいくら目をくばって捜してみても、けっきょくむだで、家の中じゅうの、いろいろ違った装飾の図柄を、ことめいさいに、いちいち捜して当ってみても、いやしくも均斉らしいものは、ひとつとして見あたらないのである。均斉とか、千篇一律とかいうものを、ことさら避けたその頭のよさ、これには舌をまいてしまう。その精巧さは、まさに天才の域に達している。
ところで、すべてこうしたものが、日本の装飾美術の特徴なのであって、こうしたものの感化をうけて、幾年かそこに暮してみたあとで、壁とか、敷物とか、カーテン、天井、そのほか、およそ装飾をほどこされたものの表面にある、西洋流の均斉のとれた、四角きちょうめんな模様を目にすると、そういうものが、ひじょうに野暮《やぼ》で、がさつなものに見えて、どうにもあさましくなってくる。これはたしかに、われわれ西洋人が長いあいだ、「自然」というものを人間に擬して見ることにばかり慣れてきたせいであって、そのために、いまでもあいかわらず、われわれは西洋の装飾美術の機械的な醜陋《しゅうろう》さに我慢していられるわけでもある。と同時にまた、しじゅう、母の背におわれながら、万緑|菁々《しょうしょう》たる天地の驚異をふんだんに眺めて歩いている、日本の子どもの目にさえはっきりとわかる、「自然」の美しさというものを、われわれ西洋人が、いまなおいぜんとして、それに心づかずにいるというのも、やはりそのせいなのにちがいない。
仏典にいわく、「無の法たることを識《し》るもの、これ、すなわち、智者なり」と。
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生と死の断片
七月二十五日。今週、わたくしの家には、いつもにない、三つの風変りなおとずれがあった。
まず、その第一は、井戸替《いどが》えやがやってきたことであった。すべて井戸というものは、毎年一回ずつ、中の水を底まですっかりかい出して、きれいに掃除をしなければならないものである。そうしないと、水神さまという井戸神さまが、お怒りになるのである。わたくしも、こんどのこの機会に、日本の井戸のことと、井戸の守り神さまのことについて、多少あれこれと学んだことがあった。日本の井戸の守護神には、名まえがふたつあって、またの名を水波之売命《みずはのめのみこと》と申すのである。
水神さまは、どこの家の井戸でも、ふだん、水をいつもきれいに冷たくして、井戸を守っていて下さる。そのかわりに、家主の方では、井戸神さまの浄《きよ》めの掟《おきて》をよく守らなければならない。井戸神さまの浄めの掟は、まことに厳格なもので、これを破るものは、病におかされ、ついには死にいたるほどである。この神さまは、めったにはないことだけれど、ときとすると、蛇体に身を化《け》してあらわれたもうことがある。そういう水神さまのために建ててあげた祠《ほこら》のようなものを、わたくしは寡聞にしてまだ見たことがない。けれども、信心のあつい家ではどこでも、毎月かならずいちどずつ、神道の神主がやってきて、井戸神さまになにやら古風な祈祷をささげ、そのあとで、井戸のはしのところに、なにかのおしるしである、紙でこしらえた小さなのぼりを立てることになっている。そして、これとおなじことは、井戸替えをしたあとでも、やはりおなじようにとりおこなわれる。井戸替えのばあいは、その式がすんでから、はじめて新しい水の最初の釣瓶《つるべ》が、男の手によって汲み上げられる。なぜ男が汲み上げるかというと、もし、女の人が最初の水を汲みあげると、そのあとの井戸水は、かならず濁ってしまうからなのである。
水神さまには、ご自分の役目をおはたしになるのに、その助《すけ》をつとめる小さなおつかいひめがいる。日本人がフナと呼んでいる小さな魚が、それだ。井戸水のなかにいる虫を退治させるために、たいていどこの家の井戸にも、一びきか二ひきのフナが飼ってある。井戸がえをするときには、この小さなサカナに、細心の注意がはらわれる。わたくしは、こんど井戸替えやにこられて、はじめて自分の家の井戸のなかに、二ひきのフナがいることを知った。二ひきのフナは、かいだされた井戸水がふたたびもとどおりいっぱいになるまで、冷たい水を汲んだ桶のなかに、しばらく放たれていたが、やがてまた、もとのかくれ家へと投げこまれた。
わたくしの家の井戸水は、じつに清洌な、いい水で、しかも氷のように冷たい水だ。でも、このところ、わたくしはその水を飲むたんびに、この年月、いつもまっ暗やみのなかで輪をかいて泳ぎまわりながら、釣瓶が上からパシャンと落ちてくるそのたびに、ハッと身を驚かしていた、二ひきの小さな生命のことを、ついつい考えずにはいられなくなっている。
第二のめずらしいおとずれは、刺し子装束に身をかためた土地の火消し人足が、手押しの竜吐《りゅうど》ポンプをひいてやってきたことであった。むかしからのならわしで、この連中は、毎年いちど、土用のさなかに、自分たちの持ち場をまわって、家々のほてりかえった屋根に水をかけ、そうして金のある家主連から、一軒ずつ、なにがしかのわずかな〈ほまち〉を貰いあつめて歩くのである。ひでりどきに、長いことおしめりがないと、人家の屋根が、おてんとさまの熱で燃えだすことがある――こういう迷信があるのだ。で、火消したちは、わたくしの家の屋根や植木や、庭などへ筒先をむけて、大いに涼しい気分をつくってくれた。そのお礼ごころに、わたくしは、その連中に酒を買ってやった。
第三のおとずれは、この町のはずれの、ちょうど、わたくしの家のまん前にその堂がある、お地蔵さまのお祭りを、なんとかそれ相応にとりおこなおうというので、その合力をたのみに、子若連の総代がやってきたことであった。わたくしはよろこんで、その奉加|金《きん》に寄進をした。というのは、この温顔慈相の仏がわたくしは好きであったし、お地蔵さまのお祭りなら、きっとおもしろいにちがいないとわかっていたからであった。
そのあくる朝早く、わたくしは、そのお地蔵さまの堂が、はやくもくさぐさの花や奉納の提灯などで飾りつけられてあるのを見た。お地蔵さまの首には、新しいよだれかけがかけられ、仏式のおそなえ膳がそのまえに供えてあった。それからしばらくたつと、こんどは大工連が、お堂の境内に、子どもたちの踊るおどり屋台をこしらえだした。やがて、日の暮れるまえになると、おもちゃ屋が、そこの境内に、小さな露店街の小屋をずらりとたてならべた。あたりがとっぷり暗くなってから、わたくしは子どもたちの踊りを見に、さかんな提灯の火《ほ》あかりのなかへ出て行ってみた。ふと見ると、わたくしの家の門のまえのところに、長さ三フィートほどもある、みごとなトンボがいっぴきとまっている。このトンボは、わたくしが子若連にあたえてやったわずかな合力にたいする、子どもたちのお礼のしるしの飾りものなのであった。わたくしは、その飾りものが、写実的にじつによくできているのに、しばらく目をみはってしまったが、そばへ寄ってよくよく見てみると、なんのこと、トンボの胴体は、色紙でくるんだ松の枝、四放の羽は四つの十能、ぐりぐり光った頭は、小さな土瓶《どびん》であることがわかった、しかも全体が、あやしい影のさすようにおかれた、ろうそくの光りで照らされているのである。このあやしい影が、これもやはり、工夫のうちのひとつになっているのであった。これなぞは、まったく、美術的な材料をなにひと品使わずにこらえた、美術的感覚のすばらしい実例である。しかもそれが、わずか八歳の貧しい家の子どもが、ひとりで骨折ってこしらえたものだというのだから、じつに驚いてしまう。
七月三十日。わたくしの家の南隣りの家――低い、陰気なつくりの家だが――は、染物屋である。いったい、日本の染物屋のあるところというと、かならずその家のまえのところには、天日《てんぴ》に干すための何本かの竹竿が立っていて、その竹竿と竹竿とのあいだに、絹だの木綿だのの長い布――縹《はなだ》色、むらさき、とき色、水あさぎ、銀鼠《ぎんねず》などの、色とりどりな広幅のきれが、長く張りわたしてあるから、ははあ、ここは染物屋だなと、すぐにわかる。
ちょうど、きのうのことだ。わたくしは近所の人に誘われるままに、この隣りの紺屋へ訪ねて行ってみたのである。こじんまりした住居のおもて口のところから、案内されてはいって行ったのであるが、ややあって自分が、そこの家の奥の緑側のところから、まるで古い京都の御所にでもありそうな庭を眺めているのに気がついて、われながら、なんだか意外な心もちがした。そこには雅致のある山水の縮図があった。きれいな水をたたえた池のなかには、めずらしい房のような尾をもった金魚が、たくさん群れをなして泳いでいた。
しばらく、庭の眺めをたのしんでいると、やがて染物屋の主人が、わたくしのことを仏間にしつらえてある小部屋へと招じてくれた。その小部屋のなかにある品は、場所がらだけに、なにもかもがごく小ぶりにできでいたけれど、品は小ぶりでも、いままでどこの寺へ行っても、わたくしはこれほど美術的にできている品を、見たおぼえがないくらいであった。これで千五百円ほどかかりましたと、主人はいっていたが、どうしてそんな金額で足りたものか、わたくしは納得がいかなかった。手のこんだ彫りのしてある須弥壇《しゅみだん》が三つもある。しかもそれが、金色さんらんたる金漆《きんうるし》で塗った三重の須弥壇なのである。かわいらしい仏像が幾体かある。かずかずの精巧な細工の仏器がある。黒檀の経机、それに木魚がひとつに、美しい鈴《りん》がふたつ。――つまり、一軒の寺にある仏具一式、それを小さくしたものが、全部ここにそろっていると思えばいい。主人は若いころ、なんでもさる寺で修業をしたことがあるのだそうで、経文も知っていたし、浄土宗でもちいる経本はことごとく持っていた。ふつうのお経ならば、たいていのお勤めはできますと、主人はいっていた。そんなわけで、ここの家では、まいにち、一定の時間に、家族のぜんぶが、勤行のためにこの仏間へあつまって、主人が家のもののために、お経をあげることになっているのである。もっとも、特別のばあいには、近所のお寺から坊さんがきて、お経をあげるのだろうが。
染物屋の主人は、強盗に関する耳めずらしい話を、わたくしに聞かせてくれた。いったい、染物屋という商売は、ひとつには、とくい先から高価な反物を預かるのと、もうひとつには、この商売はそうとう儲けの大きな商売だとおもわれているところから、とりわけ、泥棒にかかられやすい商亮なのである。
ある晩のこと、ここの家へ泥棒がはいった。ちょうど、主人は他行中で、この土地にいなかった時で、家にいたのは、年とったおふくろさんと、おかみさんと、女中の三人きりであった。賊《ぞく》は三入組で、これがいずれも覆面をして、長いだんびらをひっさげて、雨戸をこじあけて押しこんできたのである。賊のひとりが女中にむかって、おい、ここの家には、ほかにまだ男の職人はおるか、といって尋ねた。そこで女中は、賊をおどして追っぱらってやろうという魂胆で、若い衆さんたちはみんなまだ夜なべをしております。といって答えた。しかし、賊どもは、女中のこの証言には、びくともしなかった。ひとりは入口のところに張り番に立ち、あとのふたりが、そのまま、ずかずか寝間へ踏んごんで行ったのである。女たちは驚いて、起きあがった。
おかみさんが「あんたがた、なんのために私たちば殺す気ですとな?」といってきくと、賊のなかのかしららしいのが答えた。
「おれたちゃあ、なにも殺しとうはなか。欲しいとは金だぞ。金を出さんと、これだぞ」
そういって、賊は抜き身のだんびらを畳ヘグサリと突きさした。そこで老母がいった。
「あんたがた、ご深切がおありなら、この嫁をおどかさんでくだはり。すんなら、うちにあるだけの金はさしあげますけん。ばってんが、うんとはありまっせんばい。伜が京都へ行《い》て、留守だもんだけん。それば承知してくだはりまっせ」
そういって、老母は、金だんすの引出しと、じぶんの財布とを、賊にわたした。金は、ちょうど二十八円と八十四銭あった。賊のかしらが、それを勘定して、それからことばしずかにいった。
「なにも、おどんたちゃあ、おまえさんがたばおどかしとうはなかとばい、聞けば、ここの家ァ、とても信心ぶかか家だっちゅうけん、まさか嘘はいうまい。金はこれぎりか?」
「はい、それぎりでござります」と老母は答えた。「わたしはな、おまえさんのおっしゃるとおり、仏の教えをとても信仰しとりますもんだけん、今夜こうやって、おまえさんがたが、わたしの家へ物とりにござったのも、みんなこらあ、わたしが前の世に、おまえさんのもんば竊盗《ぬすと》したことがあるけんだと思うとります。今夜のこたあ、前世におかした罪のむくいでっしょうばい。それでな、おまえさんがたば騙《だま》すはおろか、わしゃこうして今夜、前世におまえさんに犯した罪のつぐのいのでけたことば、ありがたかことと思うとりますたい」
というと、賊はカラカラと打ち笑って、
「なるほど、おまえは、よか婆さんたい。おれたちも、さらさら疑《うた》がうまい。なあにな、ここの家が貧乏なら、おれたちでも、お前が家《え》の物なんて、取りゃあせんとばい。それでな、着物《きもん》ば二枚ばっかりと、こやつをお貰い申したかたい」といって、賊は、そこにあった上物の絹の羽織に手をのばした。すると、老母は答えた。
「はいなあ。うちの伜の着物《きもん》なら、みんなさし下げてもよかばってん、その品は、どうか持って行って下はりますな。伜のもんじゃなかけん、人さんから染めに預かり申したもんだけん。うちのもんなら上げられもしょうが、人さんのもんな、上げられまっせん」
「なるほど、そらあもっともだ」と賊も承引した。「そういうことなら、こやつはお貰い申すまい」
やがて、二、三枚の衣類をもらってから、賊どもは、ひどくていねいな引き揚げのあいさつをのべ、あとは見送りに出なさるな、と女たちに釘をさした。例の年配の女中は、そのときまだ、さっきのまま、入口のそばにいた。賊のかしらは、そのそばを通りしなに、「やい、ぬしゃあ、嘘いうたな。――それ、これば喰え!」と、いきなり女中に一拳くらわしたと思うと、その場に昏倒させてしまった。
賊は、いまもって、ひとりもつかまらない。
八月二十九日。仏教のある宗派の茶毘《だび》の式によって死体が焼かれるとき、俗に「ほとけさん」と呼ばれている小さな骨《こつ》が、屍灰の中からさがしだされる(*)。このお骨《こつ》は、だいたい咽喉《のど》のところにある小さな骨だと一般には考えられている。それがじっさいにどんな骨であるものやら、これまでそんな死人の形見の品をくわしく調べてみる機会もなかったから、わたくしもよくは知らない。
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(*)大阪の天王寺では、このお骨が穴ぐらのなかへ投げこまれ、その時お骨の落ちてゆく音によって、やはり後生のしるしがわかるといわれている。こうして集まった、世にもめずらしい蒐集物は、百年目ごとに、ぜんぶのお骨が粉にひかれ、それをこねあげたもので、大きな仏の像を一体こしらえることになっている。
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茶毘《だび》のあとで見つけ出される、この小さなお骨のかたちによって、死んだ者の来世のもようが、あらかじめわかるというのである。たとえば、かりに死者の霊が来世へ行って、しあわせな身分になれる運命になっているとすると、そのお骨は、小さな仏のかたちになっているのである。その反対に、もし来世に生まれかわっても、ふしあわせな運命にさだまっているものだとすると、そのお骨は、かたちが不様《ぶざま》であるか、さもなくば、まるで影も形もないか、そのどちらかだというのである。
わたくしのうちの隣りのたばこ屋のせがれが、まだ小さな子だったけれど、おとといの晩、とうとう亡《な》くなって、きょう、そのなきがらが焼かれた。焼かれたあとに出てきた小さなお骨を見ると、なんとそれが、三体の仏のかたちになっていたという。あとにのこった親たちも、さだめしそれを見て、いくらか気が休まったことだろう。
九月十三日。出雲の松江から手紙がきて、あの時分よくきせるの羅宇《らう》がつまると、すげかえてもらった爺さんが、とうとう亡くなったと知らせてよこした。(日本のパイプ――きせるというやつは、ふつう、三つの部分からできている。小さな豆粒がやっとひとつはいるくらいの大きさの金物《かなもの》のガン首《くび》と、おなじく金物の吸い口と、それに、ときどき一定の時をおいて新しいのとすげかえられる細い竹の軸と、この三つのものからできている。これを諸君は御承知になっておかないといけない。)松江の爺さんの羅宇は、いつも塗りがたいへんきれいに上がっていたものだ。あるものは、ヤマアラシの針のもようみたいに、あるものはまた、蛇の皮の模様のように。
そのころ、この爺さんは、松江の町もずっとはずれの、へんなごみごみした、小さな町に住んでいた。その町には、白子地蔵という有名な地蔵さまがあって、わたくしもいちどその地蔵尊を見に行ったので、それでその町のことは知っている。土地の人たちは、この地蔵さまの顔を、まるで舞子の顔のように、まっ白けに塗りたてるのである。どういうわけで、そういうことをするのか、いまだにわたくしにはそのわけがわからない。
爺さんには、「おます」というひとり娘があった。このおますに一条の物語があるのである。おますは,長年、人のかみさんになって、なに不自由なくしあわせに暮していたが、じつはこの女は唖だったのである。もうだいぶ古いことになるけれども、ひととせ、この町の怒りたけった町民どもが、市民の、ある米相場師の住居と倉庫をぶちこわし、掠奪をやったことがある。そのとき、その相場師の持ち金が、そのなかには小判などもだいぶたくさんまじっていたが、それが往来なかへぶちまかれた。暴民ども――いずれも無教育なかわりには、正直一徹な百姓たちだった――はそんな金銭などには、いっこう目もくれなかった。盗みかすみは、かれらの望むところではなく、ただかれらはぶちこわしがしたかったのである。
ちょうどその晩、おますの父親は、往来の泥んこの中から一枚の小判をひろって、それをじぶんの家へ持って帰った。ところが、後日になって、それが近所のものから密告され、そのために、おますの父親は逮捕をくらったのである。おますの父親を呼びだした判事は、当時まだ十五歳の内気な小娘だったおますを糺問《きゅうもん》して、事実の証拠をあげようとかかった。おますは、そのとき、とっさに感じたのである。――これは自分がもしこのまま答弁をつづけていけば、しまいには、どうしたって父親のために、心にもない、不利な証言をあたえるようなことになってしまうにちがいない。いま自分の前にいる人は、こちらの知っているかぎりのことなら、否が応でも、それこそ猫の首でもひねるように、なんの手間ひまもかけずに、強引にでも自分に認めさせてしまわずにおかない、腕っこきの糺問者だ。
そう思うと、おますは、それなりぷつりとも物をいわなくなってしまった。と見るまに、おますの口から、ガッと血がふきでた。おますは、あっさりと自分で自分の舌を噛み切って、われから永久に物言えぬ身に自分をしてしまったのである。父親は釈放された。そのとき、おますのこのおこないに感心したある商人が、おますを見込んで女房にむかえ、そして、彼女の年老いた父親の余生を見てやったのである。
十月十日。子どもが自分の前生のことを思いだして、その話をする日が、その子が子どもでいるうちに、たった一日ある、といわれている。
子どもが、ちょうど満二歳になったという日に、母親が、家のなかでいちばんおちついた静かなところへその子をつれて行って、米を簸《ひ》る箕《み》のなかへ坐らせるのである。子どもは、箕のなかでちんと坐っている。そのとき、母親が、子どもの名まえを呼んで、こういうのである。
「オマエノ前生ハ、ナンデアッタカネ、イウテゴラン」
そうすると、その子は、かならずひとことで答えるのである。これには、なにか真言秘密なわけがあるらしく、そのばあい、子どもは、ひとことより長いことばで答えることはけっしてない。時によると、その答えが、なにやら謎みたいな時もある。そういうときには、その意味を解くのに、坊さんか易者を呼んで見てもらわなければならない。
たとえば、きのうのことだが、わたくしの家のきんじょの鍛冶屋の小せがれが、このふしぎな問いにたいして、たったひとこと「ウメ」と答えた。ところがさて、ただ「ウメ」といっただけでは、それがウメの花のこととも、ウメの実のこととも、あるいは、ウメという女の名前とも、意味がいくいろにもとれる。その子が前世に女だったということを思いだした意味であるのか、あるいは、自分が前世にウメの木だったということを思いだした意味なのか? 近所のあるひとは、「いくらなんでも、人間の魂がウメの木なんぞに宿りゃしない」といっていた。
けさになって、この謎をきかれた易者は、このお子さんは、おそらく前生は学者か、歌よみか、政治家だったのだろう、それが証拠には、ウメの木は学者や政治家や文人の守り神である、天神さまの御紋だから……と申し立てていた。
十一月十七日。日本人の生活のなかには、外国人に理解のできないことがたくさんにある。そういうことをいろいろと書いて行ったら、びっくりするような書物ができるだろう。かりにもし、そういう書物があったとしたら、そのなかには、ぜひとも、人間の怒りから生ずる恐ろしい結果――これはめったには起らないことだが、――の研究も入れておかなければなるまい。
いったい、日本人は、この国一般のならわしとしては、めったに怒りを外にあらわさない国民である。平民階級のあいだなんぞでも、なにかむきになって人を威《おど》しつけるようなばあい、その威嚇《いかく》は、おめえの心もちをおれは忘れねえからこそ、こうして怒るんだぜ。……すると怒られる方でも、そのお心もちはほんとにありがてえと思ってます。――といったような、ちょっと双方|見得《みえ》をきったようなことばを、おたがいに笑顔まじりにかわしあう、という形をとることが多い。(もっとも、これを、われわれ西洋人がいう意味の反語と考えてもらっては、こまる。つまり、これは婉曲法――不体裁なことをありのままに言わない婉曲法にすぎないのだ。)
そのかわり、この笑顔まじりに見得を切ったことばは、時によると、死を意味することがある。そして、その返報は、思いもよらないときに見舞ってくる。仕返しをしてやろうと肚《はら》をきめた本人は、もともと、日に五十マイルは平気でのし歩き、持ちものといえば、手拭いっぽんになにもかも包めてしまえるという身軽な身上《しんじょう》、辛抱我慢は骨の髄《ずい》までという手あいなんだから、時間なんてものは、国うちのことなら、てんでそんなものは問題にも妨げにもなりはしない。兇器には、出刀庖丁なんぞをえものに選ぶこともあるけれども、まずたいていは、刀――日本刀をつかうのが多い。この日本刀というやつは、ひとたびこれが日本人の手にかかったとなったら、じつにもって怖るべき武器になるというやつで、まず、怒り狂った兇漢が、ひとりで十人や二十人の人間をバッサリやるのに、それこそもの一分とはかからないだろう。
ところで、人を殺《あや》めた下手人《げしゅにん》で、逐電してやろう、姿をくらましてやろうなんて考えるものは、めったにない。むかしからのしきたりで、人を殺せば、自分も当然命をたつことになっているのである。そういうわけだから、その場をずらかって、警官の手に落ちるなんてことは、当人の恥になることなのだ。そこで、人を殺そうと思い立ったものは、事に先だって、あらかじめ手筈《てはず》をいろいろときめておく。書置を書いたり、自分のとむらいの用意までも、しまつをつけておく。なかには――これは昨年あった、はなはだしい例だが、自分の墓石まで彫っておくものさえあるくらいだ。こうしておいて、復讐者は、自分の仇《かたき》と目するものを思うぞんぶんに討ち晴らしたうえで、自決するのである。
熊本からほど遠からぬ村上村という村に、ついさきごろ、こうした、われわれ西洋人のなんとも理解に苦しむ悲劇のひとつがもちあがった。おもなる役者は、成松一郎という若い店主。嫁にきてまだ一年とたたない、その妻「おのと」、二十歳。おのとの母方の叔父、杉本嘉作。これは、うまれつき兇暴な男で、いちど入獄したことがある。――以上の人物で、この悲劇は四幕にわかれている。
第一幕
場面。銭湯の中。――杉本嘉作が湯ぶねにつかっている。そこへ成松一郎が裸ではいってくる。もうもうと立ちこめる湯気に、自分の親戚のものがはいっているとは知らずに、湯ぶねにはいったとたんに、大きな声でどなる。
「ああ! こらあまあ、あつか湯たい! ほんに地獄の釜ゆでたい!」
(「地獄」という言葉は、元来、仏教のことばであるが、この言葉はまた、下世話にいう監獄の意味ともなる。いま、このばあい、いかにもそれはあいにくな暗合であった)
【嘉作】(ひどく怒って)やい、この鼻たれ! わりゃあ、柄《がら》にもなか喧嘩ば売る気か? なにが気に入らんとか?
【一郎】(ギックリおどろく。が、すぐ気をとりなおし、嘉作の語気に喰ってかかりながら)なに、なんちゅうか? おれがなにば言おうと、われにいちいち言われるせきゃあなかぞ。湯があついていうたっちゃ、われえまっと熱うしてくれたあ頼みゃせんとぞ。
【嘉作】(物騒《ぶっそう》なけはいになって)おらアな、自分の科《とが》でいちどならず、二どまで牢屋にいったばってん、それえなんの仔細があるか? そういうわれこそ、馬鹿かごんぼうにちがいなか!
(たがいに目と目で、相手に飛びかかる隙をねらいつつ、とうてい日本人の口にしないような毒口をたたきあいながらも、双方、なお、ちゅうちょしている。一方は年寄り、一方はわかものだが、喧嘩の相手としては、ふたりとも互角《ごかく》である)
【嘉作】(一郎がしだいにいきり立ってくるにつれて、こちらは、かえって、だんだ落ちついてくる)この小僧! 鼻たれのくせしよって、このおれと喧嘩する気か! へん、われがよな餓鬼《がき》たれが、嬶《かか》なんて、持ちくさって、どうなるか? われが嬶はな、おれが血すじのもんざい。――ええか、おれが血すじのもんざい! ……地獄から出てきた男の血ば引いたもんざい! 嬶ば、おらがとけえ戻してくされッ!
【一郎】(腕ずくでは、嘉作の方が一枚うわてだと知り、いまはもう破れかぶれになり)嬶ば戻せって? うぬっ、嬶ば戻せてちぬかしたな? よーし、戻してやるぞ、ええ、すぐ戻してやるぞ!
これだけで、いっさいの事情はじゅうぶんにわかる。やがて、一郎はわが家へ急ぎもどって、妻を愛撫し、自分の愛を彼女に保証し、一伍一什《いちぶしじゅう》のいきさつを彼女に打ちあける。そして、彼女を嘉作の家へはやらずに、彼女の兄の家へやる。それから二日たったのち、日が暮れてからまもなく、おのとは、夫に門口まで呼び出され、ふたりはそのまま宵闇のなかへ姿を消す。
第二幕
夜の場。――嘉作の家の戸がしまってる。雨戸のすきまから、あかりがそとへ洩れている。ひとりの女のかげが近づく。戸をドン、ドンとたたく音。雨戸があく。
【嘉作の女房】(おのとをみとめて)ああ、ああ、おまえ、よくまあ来てくれたな。さあ、はいんなはり。茶でも呑うでいきなはり。
【おのと】(ごくやさしい言いなしで)ありがとうござります。ときに、嘉作さんは、どちらでござりますか?
【嘉作の女房】そうな、今夜はな、よそ村に行きなはったが、もうじき戻ンなはるけんな。まあ、はいって、待ちなはり。
【おのと】(さらにやさしい言いなしで)大きにありがとうござりますが、またのちにまいりますけん。兄さんに先イいうて来《こ》んとなりまっせんけんな。(おのとは辞儀をして、闇の中へすっときえると、ふたたび影となり、やがてもうひとつの影といっしょになる。ふたつの影は、そのまま、じっとうごかずにいる)
第三幕
場面――松並木のある、夜の川土手の景。遠見《とおみ》に、嘉作の家の黒い影。松の木の根もとに、おのとと一郎がいる。一郎は提灯をもっている。ふたりとも、白い手拭で鉢巻をし、尻はしょりに襷《たすき》がけで、手足のさばきのいいようないでたち。両人とも、めいめいに長い刀をたずさえている。
刻限《こくげん》は、ちょうど、日本人が「折しも川音高まさり」と、うまい言いあらわし方をしている時刻である。あたりは、おりおり松のこずえをさっと吹きおろす風の音のほかに、なんの物音もきこえない。秋はもう末つかたのことだから、蛙の声も、はや、きこえない。ふたつの影はものをも言わず、ただ川音のみが、しだいに高まさってくるばかりである。
そのとき、ふいに遠くの方でじゃぶじゃぶと水の音がする。誰か浅い川をわたってくる音である。やがて下駄の音が――チドリ足の、あっちへよろよろ、こっちへよろよろした酔いどれの足音が、しだいにこちらヘ近づいてくる。酔いどれが大きな声をあげる。嘉作の声である。それが、こんな唄をうたう。
好いたお方にしいられて
ヤ トントン
――恋と酒の歌だ。
たちまち、ふたつの影は、唄の主《ぬし》の方ヘパッと駆けだす。ふたりともわらじをはいているから、身がるだし、足音がしない。嘉作は、まだうたいつづけている。ふと、酔った足もとの石ころが、グラリとうごく。嘉作はくるぶしをねじって、「えーい、こん畜生ッ」とどなりたてる。この時早く、かの時おそく、いきなり嘉作の鼻のさきへ、にゅーッと提灯《ちょうちん》がつきだされる。ものの三十秒ばかりのあいだ、提灯は、じっとさしつけられたままでいる。誰も無言。ただ、黄いろい提灯の灯《ほ》かげだけが、三人の顔――というよりも、むしろ、妙に無表情な三つの仮面を照らしだしている。嘉作は、相手のその顔を見て、とっさに銭湯でのできごとをおもいだし、つぎに、ふたりが手にもっている刀に目をつけ、ぎょっと一時に酔いがさめてしまう。が、かれは恐れない。やがて、嘲《あざけ》るような高笑いをする。
「へっへっ! 一郎夫婦だな! わりゃあ、まだおれがこつば、三つ子同然に思うとっとか。そぎゃんもんば手に持ちくさって、ど、どうするつもりか? 刀の使い方ちゅうもんば、見せちゃろうかない!」
一郎は、そのとき、パッと提灯を捨てるがいなや、いきなり両手に刀をふりかぶりざま、一刀のもとにズーンと斬り下げる。嘉作の右腕が、ひと太刀で、肩の根つけからぶらぶらになる。相手がよろよろっとよろめくところを、すかさず、女の太刀が、左の肩先ヘグサッとはいる。嘉作はひと声、「人殺し――!」と叫んだと思うと、それなりバッタリそこに倒れる。それぎり、あとはもう声が出ない。そのあと、およそ十分ばかりのあいだ、二刀の刃は、嘉作をめった斬りに斬りさいなむ。そのあいだ、とぼりつづけている提灯のあかりは、凄惨なあたりのけしきをしずかに照らしている。
そこへ、夜遊びの帰りの男がふたり近寄ってきて、けはいを聞き、ようすをうかがい見ると、いきなりはいていた下駄をおっぽりだし、物をもいわずに、いちもくさんに闇のなかへ逃げ去る。一郎とおのとは、やがて提灯のそばへ腰をおろして、ひと息入れる。しごとが大仕事だったのである。
そうしているところへ、ことし十四になる嘉作のせがれが、父親をさがしにバタバタ走ってくる。いましがた、唄をうたう声を聞きつけ、そのあとで叫び声を耳にしたのだが、まさか凶事があったとは、まだつゆ知るよしもない。一郎とおのととは、嘉作のせがれがこっちへ近づいてくるままにしている。やがて、せがれがそばまでやってきたとき、おのとは、やにわに彼をひっとらまえると、下に組み伏せ、その上に馬のりになって、相手の細い腕を両膝でおさえつけ、刀を逆手《さかて》に握る。一郎は、そのとき、まだ息をしずめもあえず、
「やめっ! 子どもはやめっ! 子どもに罪はなかぞ!」と叫ぶ。
おのとは、嘉作のせがれを放してやる。嘉作のせがれは茫然としたまま、動くこともならずにいる。おのとは、嘉作のせがれのよこ面を平手でしたたかに殴りつけて、「行けッ!」とどなる。嘉作のせがれ、走り去る。――声を立てようにも、声が出ない。
一郎とおのとは、やがて、斬りさいなんだ死骸をそこへおいたまま、嘉作の家まで歩いて行って、そこで大きな声で呼ぶ。けれども、返事はない。――家のなかには、いまはただ死を待つばかりの女子どもたちが息の音《ね》をころして、ひとかたまりになってうずくまっている、悲痛な沈黙があるばかりである。みんな、こわがることはなかぞと言って、家のそとからたしなめられる。やがて、一郎が大きな声でいう。――
「葬《とむ》らいの支度ばしなはり! 嘉作はな、おどんたちの手にかかって、相果てたたい!」
「おれも助太刀ばしたばい!」とおのとも、ともども金切り声をはなつ。
やがて、足音はしずかに遠ざかってゆく。
第四幕
場面。一郎内の場。三人の人間が客間にすわっている。一郎と、一郎の女房と、老婆である。老婆は泣いている。
【一郎】ところでな、かかさん、ほかに子のなかお前ば、ひとりでこの世にのこして行くなあ、ほんに了簡《りょうけん》ちがいなこったい。おらア、ただもう手ば合わせて、許してもらわにゃならん。そのかわりにな、この後は常しじゅう、叔父貴がお前の面倒ば見てくれるけん、お前はすぐとこれから、叔父貴の家へいってくだはりまっせ。おどんたちふたりゃあ、これからここで死ぬけんな。なーに、なにが見苦しい死にざまなんてするもんか。りっぱな、見上げた死にざましてやるけんな。お前は見ておっちゃならんけん、さあ、行きなはり。
老婆は悲嘆にくれながら、やがて、しおしおと出てゆく。老婆が出て行ったあと、雨戸にしっかりとしんばり棒がかわれる。用意がすっかりととのう。
おのとは、咽喉《のど》ぶえへ刃のきっ先をグッと突き刺す。が、死にきれないで、ジタバタもがく。そのとき、一郎は、女房に、この世のなごりのやさしいことばをひとことかけるといっしょに、ひと打ちでバッサリ女房の首を打ちおとし、女房の苦悶にとどめをさす。
それから?――
それから一郎は、すずり箱をとりだし、すずりに水をついで、さて墨をすり、よい筆をえらんで、やがて紙をあらため、それに五首の和歌をしたためる。それのいちばん最後にしたためた和歌は、次のようなものである。
冥途より郵電報があるならば
早く安着申しおくらん
それから、かれは、もののみごとに、自分の咽喉ぶえをがっぱとかき切る。
ところで、当局がこの事件の事実調査をすすめているうちに、一郎夫婦は、生前どこへ行っても、行くさきざきで人に好かれ、ふたりとも子どもの時分から、どちらも愛嬌ものでとおっていたということが、明らかにされたのである。
いったい、日本人の起原、これについての学問上の問題は、こんにちのところ、まだ解決の域には達していない。その一部はマライ人に起原を発しているという説を主張する人もある。わたくしは、この説を主張する人たちには、どうやらそれに賛意を表するだけの心理的根拠があるのだと思っている。嫋々《じょうじょう》たる日本女性のあの柔順なやさしさ――あのやさしさは、西洋の婦人なぞの考えもおよばぬものだが――あのやさしさのかげには、じっさいに親しくそれを目に見ないと、まるで想像だもつかないような、じつに剛情酷薄な一面がある。なるほど、日本の女性は、人を恕《ゆる》すという点にかけては、たとえ千度たりとも恕すだけの度量をもっているし、また、自分を犠牲に供するという点にかけても、それこそ、人の胸を打つような、いうにいわれぬとりなしで、千度でも自分を犠牲に供してかえりみないだけの度量をもっている。
ところが、いったんそれが、自分の胸のおくの急所をグッと刺されたとなったら、火が赦《ゆる》しても彼女は赦さない。ふだんはいかにも脆《もろ》そうにみえる人に、とうてい信じられないような剛胆なところが――真底《しんぞこ》からこうと思いつめた復讐心の、そら恐ろしい深謀遠慮、慎重をきわめた、たゆまぬ意地が、俄然あらわれてくるのである。そうなると、よしんば日本男子の、あの驚くべき自制心と我慢つよさでそれを押さえつけようとしても、とても危なかしくてそばへも寄りつけないほどの、なにか頑とした鉄石心みたいなものが、とぐろを巻いてしまう。そいつにうっかり手でもさわろうものなら、それこそ容赦もクソもないことになるのである。もっとも、遺恨といものは、偶然になんでもないことから起ることは、めったにない。その動機は、厳密に批判される。相手がついした過ちでやったことなら、大目に見られるけれども、故意にした悪意というやつ、これはぜったいに許されない。
よく日本の金持の家などへ客に行くと、そこの家の家重代の家宝の品をいろいろ出して見せられることがある。そういう品のなかには、たいてい、どこの家へ行っても、かならず、茶の湯の道具がなにかしら出てくる。おそらく、こぎれいな小さな箱が、諸君のまえに置かれるだろう。それをあけてみると、なかには、ちいさな房のついた絹のひもで、しっかりとむすんである、美しい絹のふくろがひとつ、はいっている。ふくろの裂れ地は、たいそうしなやかな、凝《こ》ったもので、それに手のこんだ模様なんぞが織り出してある。いったい、こんなけっこうな包みのなかには、どんなめずらしい物がしまってあるのだろうと思って、その袋をあけてみると、なかには、そと袋とはまた地質のちがった、たいへん美しい、べつの袋が、もうひとつはいっている。それをあけてみると、これはまたなんと! そのなかには、三つめの袋がはいっている。その三つめの袋のなかには四つめの、四つめのなかには五つめの、五つめのなかには六つめの、そしてその六つめのなかにはいっている七つめの袋のなかに、やっとのことで、諸君がまだ目にふれたこともないような、ごくおそまつな、けれども焼きのしっかりした陶器のいれものがはいっているのである。しかも、その陶器のいれものは、世の珍品であると同時に、たいそう高価な品なのである。おそらく、一千年以上もたった古い物であろう。
ちょうど、これとおなじぐあいに、過去幾世紀かのあいだの最も高い社会文化が、従来日本人の国民性というものを、礼節、優美、忍耐、温和、正義感などという、おおくの貴重な、しなやかな上《うわ》包みで、すっぽりと蔽《おお》い包んできたのである。けれども、その、いくえにもなった、美しい上包みの下には、いまだにそこに、鉄のように固い原始時代の粘土が――おそらく、モンゴリア人種のあの精悍《せいかん》な気質と、うわべはごく従順にみえながら、一朝|事《こと》あれば物騒このうえもないマライ人の血とでこねあげられた粘土が、いぜんとして残っているのである。
十二月二十八日。わたくしの家の裏庭をかこんでいる高い垣根のむこうには、かやぶき屋根のごく小さな家が何軒かたっていて、そこには、ごく貧しい階級の人たちが住んでいる。その小さな家の一軒から、ついこのごろ、しっきりなしに人のうめく声がきこえる。なにかこう、痛みとか苦しみとかに呻吟《しんぎん》している人の、深いうめき声だ。わたくしがその声を、夜となく昼となく耳にするようになってから、すでにもう一週間以上になるが、最近になって、そのうめき声が、ひところよりもますます長くあとを引くようになり、声も前よりか大きな声になってきた。まるで、引く息吐く息が、そのままそれが苦悶だといったようなあんばいである。「あしこの家では、だれかだいぶ重い病いをわずらっておりますようでございますよ」と、わたくしの家の通弁|爺《じい》やの万右衛門は、えらく同情のおももちでいう。
そのうめき声は、とうから、わたくしの神経にさわりだしているところだったから、わたくしはむしろ不人情に、「そのだれかが死ねば、案じている人たちにとっちゃ、かえってその方が為めなんだろうと思うがねえ」と答えてやった。
すると、万右衛門は、わたくしのいった不吉なことばの縁起でもはらうような手つきで、いきなり両手を三ど手早くふり、なにか仏教の方でとなえる短い祈念のことばを、口のうちでぶつぶつつぶやくと、目顔でわたくしのことを咎《とが》めるようなふうをして、そのまま、ついと立って行ってしまった。さすがに、そのあと、わたくしも気がとがめたので、先方の家へ女中を使いにやって、病人は医者にかけているか、なにか手を借りたいことがあったら、えんりょなく言ってもらいたいといって、その旨を聞かせにやった。まもなく女中はもどってきて、お医者さまは日をたがえずに、きちんきちんと病人を診《み》にきて下さっています、べつにこれといって、ほかに手の施しようもないのだそうでと、先方の返事を復命した。
わたくしは、しかし、万右衛門があんなクモの巣をはらうような手まねはしたものの、このせつでは、辛抱づよいかれの神経も、御多分にもれず、だいぶ隣りのうめき声には悩まされていることがわかっていた。というのは、かれ、このごろになって、なるべく隣りの声から遠いところにいたいという料簡《りょうけん》から、往来にちかい、玄関わきの小部屋で寝起きがしたいと、自分の口からそんなことをいいだしてさえいたのである。わたくしはどうかというと、これはもう、まるで物を書くことも読むこともできないありさまだった。というのが、わたくしの書斎というのが、家のなかでいちばん奥まったところにあるものだから、まるで病人がひとつ部屋のなかにでもいるように、うめき声が手にとるごとくに聞こえるのである。それに、病人のそういう苦悶の声には、かならずそこに、当人の苦しみの深度がそれによってはっきりとわかる、なにかぞっとするような、いやなひびきがあるものだ。わたくしは自問自答をつづけるのであった。――あんなうめき声を出して、他人に迷惑をかけている人間に、いったいこっちは、いつまで我慢をしていればいいのか、と。
ところが、けさのことだ。だいぶ日も闌《た》けたころになって、隣りの家の病人の部屋で、病人のうめき声も打ち消されんばかりに、うちわ太鼓がドンツク鳴りだし、おおぜいして南無妙法蓮華経のお題目をいっしょにとなえる声がきこえだしたのである。それを聞いて、わたくしは、思わずほっと胸をなでおろす思いがした。見ると、病人の家には、坊さんだの、親類の人たちが、あつまってきている。「だれか死ぬんでございますよ」と、万右衛門は、そういって、自分もいっしょになって、妙法蓮華経をたたえるお題目を口にとなえていた。
お題目の声と太鼓の音は、幾時間かつづいていた。それが止んだとおもうと、またしてもうめき声がきこえる。もう、つく息引く息が、そのままうめき声だ。夕方近くなるにつれて、うめき声はだんだん様子がわるくなり、聞くさえぞっとするような声にかわってきた。そのうちに、うめき声がぱったりとやんだ。しばらくのあいだ、死の沈黙がつづいていたと思うと、やがて、堰《せき》を切ったような烈しい泣き声が聞こえだした。泣く声は女の声である。それにまじって、死人の名を呼びかける声がきこえる。「ああ、とうとう亡くなりましたな!」と万右衛門はいった。
そこで、わたくしの家では相談をした。万右衛門は、まえから隣りの家が、気の毒なほど、貧乏な家だということを知っている。わたくしは、自分でも気がとがめるので、わずかの金ですむ葬式の費用ぐらいは出してやろうじゃないかと提案した。万右衛門は、わたくしがそれを本心からの慈善の気持でそうしたくていうのだと思って、まことにそれはけっこうなお志《こころざし》で……といって、しきりに褒《ほ》めあげた。そこで、わたくしの家では、先方へ女中をやって、ねんごろに悔《くや》みをのべさせ、できたら、仏の御経歴をひととおり聞かしていただきたいといって、頼みこませた。きっとそこには、なにか悲劇があるにちがいないと、わたくしは睨《にら》んだからである。日本の悲劇といえば、たいがいのものにわたくしは関心をもっていたから。
十二月二十九日。わたくしの推察したとおり、裏の家の死んだ仏のはなしは、やっぱり聞いてみるだけの値打があった。家族は、ぜんぶで四人いる。――おやじにおふくろ。これは、ふたりとも、だいぶもう年をとっていて、からだもかなり弱っている。それと、息子がふたりいる。こんど死んだのは、その長男の方で、行年三十四歳である。この長男は、前後七年間というもの、わずらいついていたのである。弟の方は俥屋《くるまや》であった。これがひとりで一家をささえていたのである。俥屋といっても、自前《じまへ》の俥をもっているわけではない。一日五銭の損料を出して、貸し俥を引っぱっているのである。弟は、からだも頑健だし、走ることも早かったが、それでいて、いちんちの取り高はいくらにもならない。ことにちかごろは、同業の競争者が多くなって、それだけに、俥屋も儲けのうすい商売になっていた。だから、ふた親と病身の兄を養っていくのに、身ひとつでは、まったく精いっぱいだったのである。不屈の自制心がなければ、とてもここまでやってこられたものではなかったろう。弟は、こんにちまで、一杯の酒をのむという楽しみさえ、自分で味わったことはなかった。いまだに女房もむかえず、ひたすら両親と兄にたいする義理のためにのみ、生きてきたのである。
死んだ兄のこれは話だが、かれは二十歳のころ、ある魚屋に奉公していた時分に、ある宿屋に奉公していた、ちょっとした縹緻《きりょう》の女中といい仲になった。女の方でも、男の情愛にむくいた。ふたりは、おたがいに深く言いかわしたのである。ところが、さていよいよいっしょになるという段になって、ここに厄介なことが持ち上がってきた。というのは、女はもともと、うまれだち、顔だちが男の目をひくきれいな方だったから、かねがね、多少資産などもあるというある男から、ぞっこん想いつかれていた。ちょうど折も折、その男が、世聞一般のしきたりどおりに、彼女をもらいうけにきたのである。女の方では、その男のことを毛ぎらいした。けれども、男の持ちだした条件というのが、女の親たちを、なんとかよろしくその方へなびかしてしまったのである。そこで、ともに添いとげられないのに思案あまった恋人同志は、おさだまりの心中をはかることに覚悟をきめた。
ある夜、ふたりは某所でおちあい、あらためてたがいに酌みかわす盃に起誓を新たにしたのち、この世にいとまを告げたのであった。男は、そのとき、女をひと突きで刺し殺し、返す刀で自分ののどぶえをかき切った。ところが、男がまだ縡《こと》切れぬうちに、部屋のなかへ人がどやどやとおどりこんできて、刀をもぎとり、すぐと警察へ人をやって、衛戌《えいじゅ》病院から軍医を呼んできた。そこで、心中未遂者は、さっそく病院へはこばれ、手あつい看護をうけたおかげで、命だけはどうやらとりとめ、それから幾月かの恢復期をへたのち、殺人の取調べを受けることになったのである。
そのとき、どんな判決が下されたか、それについては、わたくしはじゅうぶんに聞くことができなかった、その時分は、日本の司法官も、人情にからんだ犯罪をあつかう際には、ずいぶん思いきった独断の判決を下したもので、そういうばあいの裁判官の情状酌量などということも、まだまだ今日ほど、西洋の判例ででっちあげた法令の〈わく〉で縛られているようなことはなかったものである。おそらく、この事件のばあいなども、心中で生きのこったということそのこと自体が、それだけですでにもう手きびしい罰だと、裁判官は考えたことだったろうと思う。
ところが、こういうばあい、とかく世論というやつは、法律よりもかえって無慈悲なのが常だ。所定の入監期間をすごしたのち、この不幸な男は、釈放されて家へかえってきたが、帰ってきてからも、警察の監視はしじゅう目をはなされずにいた。娑婆の人間は、かれのことを忌《い》み避けた。つまり、生きのこったのは、かれのまちがいだったのである。自分の味方になってくれるものといえば、わずかに自分の両親と弟よりほかになかったわけだ。そんなこんなのうちに、まもなく、かれは、なんとも言いようのない、五体の苦しみの犠牲になりはじめてきたのである。そんなになっても、かれは、なおかつ、生に執着していた。
咽喉《のど》にのこった古傷は、事件の当時、事情の許すかぎり、じょうずに手あてをされたのであったが、その古傷が、やはり怖ろしい痛みを引きだすもとになったのであった。打ち見たところ、すっかりきれいに肉の上がった患部のあとへ、なにやら緩慢な癌腫《がんしゅ》のような腫瘍がひろがりだしてきて、それが、あの時ずぶりと刀の刃がつらぬいた気管の上と下の方まで、ずっと腫れひろがってきだしたのである。焼き鏝《ごて》の苦しみにもひとしい外科医の刀も、いたずらにただ苦痛を一寸のばしにのばすにすぎなかった。時きらずに、いちにちはいちにちと、しだいに苦しみの増さってくるこの七年間というものを、かれは一寸のばし、五分のばしに、生きながらえてきたわけなのであった。
死者を裏切った罪――つまり、ともにあの世へ旅だとうと、たがいにとりかわした約束を破ったものの罪については、むかしから不吉な信憑《しんぴょう》がある。この男のばあいも、世間の人たちは、ありゃあ殺された女の手が、ああやってしじゅう疵口《きずぐち》をひらきにくるのさ、外科医が昼間のうちにちゃんと療治をしてくれた手あてが、夜になりゃ、またもとどおりにぶりかえしちまうのさ、などといって、噂をしあっていたが、なるほど、噂のとおり、夜になると、きまって痛みがましてきたし、わけても、心中をはかったちょうどその刻限になると、痛みがいちばんひどくなってくるのであった。
そのあいだ、家の人たちは、なんとかして、約《つ》められるだけのものは約《つ》め、自分たちはないものとして、まったく塗炭《とたん》の思いをしながら、薬代や、治療代、さては、自分たちのついぞ口にしたこともないような滋養物の代などを払うのに、およそありとあらゆる手だてをつくしてきたのであった。一家の恥さらしであり、貧乏神であり、荷厄介である人間のいのちを、かれらは、できるかぎりの方法を講じて、ここまで生きのびさしてやってきたのである。それがしかも、ようやくのことで、死がその重荷をとりのぞいてくれた今のきわになって、家じゅうのものが、こぞって、ああして、おいおい泣いている。
おそらく、人間というものは、誰しも、よしんばそれが難渋|苦患《くげん》の種になったにしたところで、自分からすすんで、そのもののためにわが身を犠牲にしてきたものは、なんといっても、可愛さが一倍なのであろう。じっさい、そういえば、人聞は、自分にいちばん多く苦しみをあたえるものを、いちばんよけいに愛するのではないかと、そんな疑義を出してみても、どうやらさしつかえなさそうに思われる。
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石仏
官立高等学校のうしろにある丘のてっぺん――小さなだんだん畑がずっとなぞえになってつづいている、その上のところに、むかしからある村の墓地がひと郭《くるわ》ある。この墓地は、げんざいでは、すでにもう使用されていない。黒髪村の村民たちは、いまでは、そこよりももっと奥の方にある地所の方へ、死人を埋葬しているのである。そんなわけで、この古い方の墓地は、げんに、そろそろ周囲にある畑地から地境を侵蝕されはじめているもようである。
ある日、授業時聞が、ふた組のクラスで一時間ほどひまがあいたので、わたくしは、この丘のてっぺんへ登ってみることを思いたった。わたくしが登っていくと、まっ黒けな、人にはけして害をしない小さな蛇が、にょろにょろ道のさきを切ったり、枯れっ葉とおなじ色をした無数のイナゴどもが、わたくしの影におどろいて、ざわざわと飛び出したりした。畑のなかのほそい小みちは、まだ墓地の入口のこわれ朽ちた石段のところまで行かないうちに、早くもおどろな野草のかげに見えなくなっていた。かんじんの墓地のなかにも、道らしい道はどこにもない。ただ、雑草と墓石とがあるばかりである。しかし、丘のてっぺんからの見晴らしは、なかなかいい。ひろびろとした万緑の肥後平野が一望のうちに眺められ、そのむこうに、青い、ゆったりとした山脈が、半円形をなして、遠い地平線の光りのなかに映え、そのまたむこうには、阿蘇火山が永遠の噴煙を吐いている。
脚下には、さながら鳥瞰図《ちょうかんず》でも見るように、近代都市の縮図のような学校が見えている。すぺて一八八七年式の、窓のたくさんついた、長蛇のような建物だ。どこを見ても、十九世紀の実用一点張りの建築を代表している建物である。これをこのまま、ケントや、オークランドや、ニュー・ハンプシャあたりにもって行っても、すこしも時代のずれを感じるようなことはあるまい。ところが、その学校の上の台地にあるだんだん畑と、そのだんだん畑で働いている百姓たちのすがたは、これはどう見ても、紀元五世紀のしろものだといってよかろう。わたくしが寄りかかっている墓に刻んである文字、これは古い梵語《ぼんご》を音訳にした文字だが、そのすぐそばのところには、蓮華の花のうえに坐している仏像も一体立っている。
この仏像は、加藤清正時代から、ここにずっとこうして坐っているのであって、じっと瞑想にふけっているようなそのまなざしは、はるか脚下の学校と、その学校のそうぞうしい生活とを、半眼にひらいたまぶたのあいだから、しずかに見下ろしながら、身に創痍《そうい》をうけながらも、なにひとつ、それに文句のいえない人のような、莞爾《かんじ》とした微笑をたたえている。もっとも、この微笑は、もともと、これを彫った彫り師がきざみつけた表情ではない。長い年月の風霜の、苔《こけ》と垢《あか》とに形をゆがめられてできた表情である。よく見ると、この仏像は、いまはもう、両手も欠けてしまっている。わたくしは、なんだか気の毒になってきて、仏像の額にある、小さなしるしのイボのまわりの苔を、爪でかいてとってあげたらと思って、手でそれをかいてみた。古い「法華経」の文句をおもいだしながら。――
「爾《そ》の時に仏、眉間白毫相《みけんびゃくごうそう》の光を放《はな》ちて、東方|万《まん》八千の世界を照したもうに、|周※[#「彳+扁」、unicode5FA7]《しゅうへん》せざること靡《な》し。下《しも》、阿鼻地獄《あびじごく》に至り、上《かみ》、|阿迦尼※[#「口+託のつくり」、unicode5412]天《あかにたてん》に至る。此《こ》の世界に於いて、尽《ことごと》く彼《か》の土《ど》の六趣《りくしゅ》の衆生を見《み》、又、彼《か》の土《ど》の現在の諸仏《しょぶつ》を見……」
日はしりえに高く、眼前にある風景は、さながら日本の古い絵本にあるとおりである。いったい、日本の古い錦絵は、物に影がないということが原則になっている。いま、このびょうぼうたる肥後平野も、万物ことごとく影なく、一望、したたるばかりの緑の色をひろげながら、遠く地平線まで相つらなり、はるかその地平のはてには、青い山脈が強烈な光りのなかに、ぽっかりと浮き上がったように見えている。けれども、この見わたすかぎりひろびろとした平野は、けっして、ただいちようの緑いろに塗りこめられているわけではない。あらゆる濃淡・粗密の緑の色調が、あるいはそのかたち帯のごとく、あるいはそのかたち色紙《しきし》のごとく、あたかもいっぽんの絵筆で、いくどか色をなすりでもしたように、色と色とが、たがいに相《あい》交錯しあっているのである。その点でも、ここから見る眺めは、日本の古い絵本のなかに書いてある風景に、ほうふつとしている。
日本のそういう絵本を、はじめてひもといて見たまえ。諸君はきっと、「へーえ、日本人というのは「自然」を見たり、感じたりするのに、まあなんという奇妙な、めずらしい見方や感じ方をするのだろう!」と、思わずそう考えさせられるような、ことさらに意外な印象と驚愕《きょうがく》の感をうけるにちがいない。そうして、それから受けた驚異の感が、だんだん昂《こう》じて、諸君はきっと、「してみると、日本人の感覚というやつは、西洋人の感覚とは、まるで違っているのかなあ?」と、そこに疑念をもちだすにちがいない。そうなのだ、そういうことは、いかにもありうることなのだ。まあしかし、もうすこし絵本を、さらによく見て見たまえ。そうすると、やがてそこに第三の考えが浮かんでくる。この第三の考えは、まえのふたつの考えを、動かぬものに確認する、最後の断案である。この断案が下ると、諸君は、日本の絵画が、それと同じ風景をかいた西洋のどんな絵よりも、ずっと「自然」に忠実であること、――つまり、西洋画があたえることのできない自然感を、日本画は生みだしている、ということを悟るのである。
そこには、じっさい、諸君が当然発見すべき、いろいろの新しい問題がふくまれている。しかし、それを発見するまえに、もうひとつ、諸君が疑問におもうことがある。それは何かというと、こういうことだ。――「なるほど、この絵は、ぜんたいが、ふしぎなくらい生き生きとして、あざやかだ。この言うに言われない色あい、これは『自然』そのもののもっている色あいだ。しかし、それにしても、なぜ描いてあるものが、こんなに不気味に見えるのだろう?」
それは、つまり、主として画中に影がないためなのである。その絵を見て、ああ、この絵には影がないなと、すぐにわれわれにそれを感じさせないのは、色そのものの価値をはっきりと見分けて、そうして、それを縦横に駆使している驚くべき技巧によるのである。ともあれ、画面にあらわれているぜんたいの景色は、光線が一方から射してきているように描いてあるのではなくて、鳳景ぜんたいが光線にひたされているようなぐあいに描かれている。自然の風景が、こういう眺めを呈する瞬間は、じっさいにありうることなのだが、西洋の画家は、めったにこういうことを研究しているものがない。
ところで、むかしの日本人は、月がうつしだす影をこよなく愛して、それを絵に描いた、ということを、諸君は忘れてならない。なぜ日本人が月かげを愛したかというと、月のかげというものは幽玄古怪《ゆうげんこかい》なものであって、色の彩目《あやめ》には、なんら交渉をもっていないものだからである。それに反して、白日のもとに万物のすがたを暗くし、その美観をそこねる物の陰影というものを、日本人は好まなかった。かりに、白日の風景にもし影を点ずるのだったら、そのばあいには、ごく淡彩が――ちょうど、入梅雲に空がかげる、あの薄墨《うすずみ》いろの半かげりのような、ほんのこころもち濃い目にした色がさされるだけであった。そうしてしかも、日本人にとっては、外的世界がそのように明るいのとひとしく、内的世界――心の世界も、やはりそのように明るいものだったのである。心理的にも、日本人は、影のない人生を見ていたのであった。
そこへ西洋人が、この国の仏教的平和を破って、どっと流れこんできた。西洋人どもは、日本人の絵画を見ると、にわかにその買い上げをはじめだして、しまいには、残存の名画を保存するために国法が発令されるにいたるまで、買い漁《あさ》りをやめなかった。そんなふうにして、もはや買い漁る品もなくなり、そのうえ、新画の出現によって、いままで買い漁った古画の市価が下落しそうな機先《きさき》が見えてきたとき、西洋人どもは言ったものなのである。「どうだね、君たち、もういいかげんに、そんな描き方や物の見方は、やめたらどうだね。ありゃあ君、芸術じゃないぜ。まあいいから、物の影を見ること、こいつを実地について、よく勉強するんだな。伝授料を出したまえ、教えてあげるから」
こうして、日本人は、わざわざ伝授料を出して、「自然」の陰影、人生の陰影、思想の陰影の見方を学んだのである。そこで西洋人は、影にもいろいろある、神聖なる太陽の本分は影をつくることにあること勿論だが、あれはしかし、どちらかというと、影は影でも安価な影だ、もっと高価な影ということになると、これは西洋文明が一手に製造しているのさ、といって、しきりと陰翳《いんえい》を礼讃して、君たちもぜひこれを採用したまえといってすすめた。
日本人は、そのとき、機械の影や、煙突の影や、電柱の影を見て、一驚した。鉱山や工場の影、あるいは、そこに働いている人たちの心のなかの影、そういうものを見ておどろいた。二十階もある高層家屋の影、その下で物乞いをしている飢餓の影、貧困者をいやが上にもふやすばかりが能《のう》のおびただしい慈善の影、悪徳を増すばかりの社会改善の影、インチキと偽善と燕尾服の影、あるいは、火あぶりの刑にあわせるために人間をつくったといわれる異教の神の影。こういう影を、それからそれへと見せられた日本人は、そこまできて、ようやく本心に立ちもどって、それ以上影絵を学ぶことをきっぱりと拒絶したのであった。全世界にとって、まことにしあわせだったことには、日本は、この時いらい、ふたたび、比類なき自国本来の芸術に立ちもどったのであった。日本が、日本自身の美の信念に、ふたたび立ちもどったということは、日本自身にとっても、まことにしあわせなことであった。しかし、いったん習いおぼえた影は、いまでもやはり、多少は身にこびりついている。これをすっかり剥《は》ぎおとしてしまうことは、おそらく、日本人にも、もはやできない業《わざ》だろう。かつては宇宙の万象が、あれほど日本人に美しく見えたように、今後もう二どと日本人の目に映ずるようなことは、まずあるまい。
墓地のちょうどま向こうの、いけ垣をめぐらした、猫のひたいほどの小さな畑の中では、ひとりの百姓が牛をつかいながら、神代時代の鋤《すき》をもって、黒い土をたがやしている。そのそばには、百姓のかみさんが、これも日本の建国いぜんからある、ごく古風な鍬《くわ》をもって、農作の手つだいをしている。このふたりの人間と、いっぴきの牛とは、まるで労働は人生の代価なりという考えに、むりむたいに追い立てられているとでもいったような、ふしぎな熱心さで、営々としてはたらいている。
こういう人物を、わたくしは、これまでこの国のべつの世紀の錦絵のなかで、たびたび見てきている。また、それよりももっと古い時代の懸物《かけもの》のなかでも、見たことがある。さらにさらに古い時代の屏風絵のなかでも、見たことがある。これとそっくりおなじ人物だ! 数えたてられないほどの他の風俗は、ことごとくみな滅び去ってしまったのに、百姓のかぶっている菅笠《すげがさ》と、着ている簑《みの》と、はいているわらじ、これだけはあいもかわらず、こんにちでもそのまま滅びずに残っている。着ているそのいでたちにくらべて、それとは較べものにならぬほど古くからあるものは、ほかでもない、当人の百姓である。
その百姓が、げんに今たがやしている大地、これはじつに幾千万たびとなく、その腹中に、百姓というものを呑《の》みこんできた大地なのだが、しかもその大地は、ひとたび呑んでは、そのたびに、さらに新しい力をもった生命を、呑んだ百姓に吹きこんでは、またもとへ吐き出してくれるのである。百姓の方でもまた、この更生の反復に心足れりとして、けっしてそれ以上のものを求めるようなことはない。
「山はそのすがたを変え、川はその流れをあらため、星もまたそのありどころを空にかえても、世に百姓の変りやはすれ」で、百姓だけはけっして変ることがない。しかも、万代不易のその百姓が、じつは、変易を生みだす総元締《そうもとじめ》なのである。百姓の労苦の総和から、軍艦がうまれる、鉄道がうまれる、石造の大厦高楼《たいかこうろう》が生まれる。それ大学だ、やれ新知識だ、電信だ、連発銃だ、さては科学の機関、商業の機関、戦争の機関、こういうものに金を出すのは、みんな百姓の手なのである。百姓こそは、あらゆるものの寄進者だ。それで、その返礼に、なにが百姓にあたえられたかといえば、永久に働くという権利、――これだ。これあらばこそ、百姓は滔々《とうとう》として幾万年、新しい人間の生命を植えつけるために、風雪を耕しつづけてきたのである。こうして、この世界の仕事がすっかり片がつくまで、――つまり、人類終焉の日まで、百姓は、営々孜々として働きつづけてゆくのである。
それにしても、人類終焉の日とは、いったい、どんなものなのだろう? 凶であるか、吉であるか? あるいはそれとも、われわれ人類には、とうてい解くことのできない、ひとつの神秘として、それはのこることだろうか?
西洋の賢人は、それについて、こう答えるだろう。
「人類の進化は、完成と幸福とに行きつく、ひとつの進歩である。この進化が目標とするものは、曰く『平等』だ。悪は、ひとつずつ、しだいに消えてほろびて行って、ついには善なるもののみが、あとに栄えるだろう。その時になって、はじめて知識は最大限の展開をもち、心は最も驚異すべき開花をとげ、精神のあらゆる悶《もだ》えと苦しみはなくなり、人間の過失と愚行は、まったくその跡を絶つにいたるだろう。不老不死ということだけを除きさえすれば、あらゆる点で人間は神とおなじものになって、そうして、だれもが何世紀ものあいだ長寿をたもち、人生のあらゆる法悦は、詩人の夢よりもさらに美しい地上楽園において、万人に共通なものとなるだろう。そこには、支配するものもなければ、支配されるものもない。政府もなければ、法律も存在しない。いっさいの秩序は、ただ愛によって決定されるだろう」
けれども、それからのちは、いったい、どういうことになるのだろう?
「それからのち? おお、それからのちは、『力』の不滅の法則、およびその他の宇宙間の法則によって、かならず、壊滅の時がくるにちがいない。いっさいの結合したものは、これはどうしたって、しょせんは解体のやむなきにいたるほかはない。このことは、科学が証明している」
かりに、そうなるとすると、なしとげられたいっさいのものは、かならず失われ、また、造られたいっさいのものは、かならず、跡方もなく破壊されてしまうということになる。いつかは征服されるはずになっているものが、逆に征服したり、そうかと思うと、せっかくいままで人間の福祉のために粒々辛苦《りゅうりゅうしんく》をなめてきたものが、逆にこんどは、まるで意味ないことのために、またそろ苦労をかさねなければならないようなことも生じてきたりする。なんのことはない、ちょうど「未知」のなかから、「過去」の測り知れない苦痛が生まれたように、こんどは「未来」の測り知れない苦痛が、「未知」のなかへと溶けこんで、消えてしまうことになる。そうなってみると、われわれの進化の価値というものは、いったい、何なのか? 人生の意義――闇から闇へとたどる、ほんの束《つか》の間のあいだの、妖しい一閃《いっせん》の光りにもひとしい人生の意義とは、いったい、何なのか? 進化とは、絶対の神秘から出て、宇宙の寂滅へとたどる、その道程にすぎないものなのだろうか? あの菅笠をかぶった百姓、これをこの世の見納めに、自分のたがやす土のなかへ、舎利となって還って行ってしまうとしたら、いままで何百万年かつづけてきた一切の労力は、いったい、何の役に立つのだろうか?
「いや」と西洋人は答える。「そういう意味の宇宙の寂滅というものは、断じてない。死というものは、あれはただ、変貌を意味するにすぎない。そのあとには、またべつの宇宙生活が出現するだろう。われわれに壊滅を保証するものは、同時にまた、更生をも保証する。溶けて星雲となった宇宙は、それがまたもういちど凝固して、べつの世界群を形成するのだ。そうなったとき、おそらく、おまえのいうあの農夫は、あの我慢づよい牛をひっぱって、ふたたびあらわれ、紫磨金《しまごん》の日輪の光りあまねき、どこかの土地をまたたがやすだろうさ」
なるほど、それはそれでよいが、それならば、その復活のあとは、いったい、どういうことになるのか?
「いや、それはね、その時はまた、べつの進化がおこり、ぺつの平等があらわれて、やがてまた、べつの壊滅がくるのさ。これが科学の教えるところなのだ。万代不易の法則というのが、これなのさ」
しかし、そんなことをいうけれども、いったい、その復活した生活というものは、はたして、それは新しいものなのであろうか? むしろそれは、ひじょうに古いものなのではないのだろうか? なぜというのに、なるほど現在あるものは、これはたしかに永久に存在するものにちがいない。とすれば、同じりくつで、将来あらんとするものも、この永久に存在してゆくものと同じものでなければなるまい。終りというものがありえないとひとしく、始めというものもありえないはずである。
そうなってくると、「時間」というものさえが、ひとつの幻覚であり、幾千億の太陽の下に、新しいものはひとつもないということになってくる。死は死にあらず。休息にあらず、苦の終焉にあらず。死は最も怖ろしい虚妄なり、ということになろう。そうしてしかも、このはてしない苦の渦《うず》からのがれる術は、なんぴとも知らないとしたら、われわれはあのわらじをはいた百姓にくらぺて、なんの賢愚の差があるのか? じつは、あの百姓は、こういうことをすべて弁《わきま》えているのである。百姓たちは、まだがんぜない子どもの時分に、寺小屋で手習いをおそわった僧侶たちから、おまえたちは幾十幾百億度となく、生々流転するものなのだということや、この天地は顕現消滅するものだということや、万物は和合を基とするということなどを、ちゃんと教えこまれてきているのである。西洋人が数理の上から理詰めに発見したことなぞ、東洋人は釈迦が生まれるまえから、とうのむかしに知っているのである。
どうしてそれを知ったか? おそらくそれは、かれらに、宇宙の幾多の壊滅に生きのこってきたという記憶があったためであろう。しかしそれはいいとして、そうなると、西洋人の宇宙に対する予見というやつも、ずいぶん古臭いものではないか。西洋人の予見なんてものは、あれはただ方式だけが新しいのであって、煎《せん》じつめれば、あんなものは、束洋に古来からある太極説の肯定に、いくらか役に立ったというにすぎないものだ。しかも、永遠の「謎」のこぐらかりを、いっそうよけいにこぐらからせるだけのものだ。
これに対して、西洋は答えるのである。
「いや、それはちがう。そんなことはない。おれは、世界が顕現したり、消滅したりするところの、あの永遠の作用のもつリズムを、明らかにしたのだ。いっさいの有情の生物を発達させ、思考というものを進展させる、あの『苦悩の法則』というやつを、おれは見抜いたのだ。悲しみというものを、なんとかして少なくする方法、そいつをおれは発見して、世の中へ公表したのだ。努力|尽瘁《じんすい》の必要なこと、人生の最高の義務、これもおれは教えてやった。人生の義務を知るということは、こりゃあ、なんといっても、人間にいちばん大きな価値のある知識だからな」
おそらく、それはそうだろう。しかし、西洋人がこんにちまで公表してきたような、必要だの義務だのという知識は、あれはそもそも西洋人などがまだ生まれもしない、ずっとずっと前から、すでにあった知識である。おそらく、あの百姓なら、いまから五万年もまえに、すでにこの地球に住んでいて、そんなことは百も承知していたろう。いや、それどころか、神々ですら忘れてしまったような、遠い遠い大昔に、とうにどこかへ消えてなくなってしまった、こんにちとはぜんぜんべつな地球に住んでいた時分から、知っていたにちがいない。かりに、それがもし西洋人の知性のぎりぎり決着のものだとしたら、あの菅笠をかぶった百姓は、仏陀によって、「生きかわり死にかわりして墓地を賑やかす」無知なるものの中に加えられているとはいうじょう、その知恵においては、西洋人と同等であるはずだ。
「あんな百姓なんか、なにが知るものか」と科学は答えていう。「あんな輩《やから》は、せいぜい、信じているだけのことだ。いや、信じていると、自分でそう思っているだけのことだ。あいつに物を教えたという坊主が、どれほど名僧知識だろうが、この証明だけはつきゃしないさ。そいつを証明したのは、おれさまだけだ。おれは絶対の証明をあたえたのだ。破滅を証拠だてたというんで、おれにケチをつけるやつもあるけれども、おれのやったことは、ほんとうをいうと、人倫刷新の証明なのだ。おれは、人間の知識が、どうしてもそこから先へは行かれないという、その究極の限界を定めたのだが、そのかわりに、また一方では人間の最高の疑念――この疑念こそは、人間の希望の実体なんだから、おなじ疑念といっても、これは有益な疑念なのだが――、その最高の疑念の確固たる基盤をも、おれはいつでも通用するように、ちゃんと設定しておいたのだ。
おれはまた、人間の思考と行為、こいつはどんなささいなものでも、永遠に記録にのこるということ、つまり、無窮にむかって消えてゆく目に見えない震動によって、自分で登録しながら、永還に記録をのこしてゆくのだということを見せてやった。そして、永遠の真理の上に、ひとつの新しい道念の基盤になるものを、がっちりと据えてやったのだ。もっとも、そのために、むかしからあった信条は、みんなどれも腑《ふ》ぬけの殻《から》にしてしまったが……」
そうなのだ! その腑ぬけの殻にしたというのは、それは西洋の信条を腑ぬけの殻にしたのであって、それよりももっと古い、東洋の信条を殻にしたわけではないのだ。東洋の信条なんか、西洋人は、てんでまだ量ってみたことさえもありはしない。例の百姓の信条については、いまもいったように、すでに西洋人がいろいろとりっぱな証拠をあげてくれたというんだから、いまさら当人のお百姓さんが、べつに自分で立証ができなくたって、いっこうかまわないわけだが、じつをいうと、あのお百姓は、西洋人の諸君などが、どう背のびをしたって、とても及びもつかないような、まるでべつの信条をちゃんと持っているのである。
なるほど、あのお百姓も、やはり、人間の行為と思考とは、その人の死んだのちまでも残るものだということを教えられた。ところが、それから先のことも、お百姓はおそわっているのである。つまり、人間各個の思考と行為とは、個人という存在の埒《らち》をこえて、まだこの世に生まれてこない、べつの人間の一生を形づくるものだということをも、教えられているのである。
このことからまた、人たるものは、だから、自分の胸のうちだけで、人知れず考えているような内証の願望は、とくに抑制しなければいけない、ということも教えられている。そういう秘密の願望は、いろいろと潜在的な力をもっているというのである。しかも、こういうことを、あのお百姓は、ちょうど自分が身につける、あの藁《わら》を編んでこしらえた、雨のときに着る簑《みの》のような、質朴なことばと、編み目の単純な思想とで、教えこまれたのである。そうしたお百姓が、いま言ったようなことを、自分で、証《あかし》が立てられないからといって、それが何であろう? そういうことは、西洋人である諸君が、かれにかわって、また世の中の人にかわって、すでに証明したではないか。なるほど、日本のお百姓は、ただ、未来に関するひとつの説だけを持っているにすぎない。それを、西洋人である諸君は、けっしてそれが夢から出たことではないという、どこからも駁論《ばくろん》の余地のない証拠を、そこへ提供したのだ。
しかも、そうしたこんにちまでの西洋人の研究が、日本の農民の、そうした単純な心のなかに蓄積された信念の、わずかにその一部分を、確証したにすぎないものであってみれば、なお今後における西洋人の研究が、従来まだ諸君が調査の労をいっこうにとっていない、またべつの面の日本人の信念にも、そこに歴然たる真理があるということを立証するに至るだろうと想定してみても、あながちそれは、なにもいちがいに妄人の妄語としてしりぞけられることでもあるまい。
「たとえば、地震は大きなナマズがおこすのだといったような信念かね?」
まあ、そう馬鹿にしたもうな。そんなことをいえば、われわれ西洋人の物の考え方だって、ほんの二、三代まえまでは、やはりそれと五十歩百歩の、ごく未開なものだったのだ。わたくしの言おうとするのは、そんなものではない。わたくしの言うのは、人間の行為と思考とは、これは人生の附帯物であるばかりでなく、じっに人生の創造者であるという、むかしからある古い教えのことだ。このことは経文にもいってある。「われわれが、こんにちここに在るのは、すべてわれわれが考えてきたことの結果である。すなわち、われわれの現在は、われわれの思想に基盤をもち、われわれの思想から作り上げられているのである」と。
さて、ここでわたくしに、妙な話の記憶がうかんでくる。
現世の不運は、前世におかした道楽の罰で、現世に犯したあやまちは、来世に生まれるときのさまたげになるという信念、この一般民衆のだれもがもっている共通の信念は、ふしぎとまた、種種さまざまの迷信によって、いっそう気合いをかけられているようなところがある。そういう迷信は、おそらく、仏教なんぞよりもずっと古くからあるもので、しかも、仏教のあのりっぱな倫理説には、すこしも齟齬牴触《そごていしょく》しない迷信なのだが、そのなかでも、ことにおもしろいのは、われわれがごく内々にしろ、心の奥に人を呪うという考えをもてば、それだけで相手のいのちに怪しい崇《たた》りを及ぼすという迷信である。
わたくしの友人が、げんに今住んでいる家というのが、これがかねがね憑《つ》きもののしている家であった。めずらしいくらい明るい家だし、小ざっぱりもしているし、わりあい新しい家でもあるので、まさかに、この家に憑きものがしているなどとは、思いもよらないことだった。家のすみずみ、端ばしにも、どこにひとつ陰気なところはない。ぐるりは、ひろびろとした、明るい庭になっている。九州式の平庭で、幽霊のかくれるような大きな木などは、いっぽんも生えていない。そんな家でいながら、しかも幽霊が出るのだ。それも、昼日なかに出るのである。
はなしのはじめに、まずもって諸君はこの東洋には、幽霊にふたつの種類――死霊と生霊とがあることを知っておく必要がある。死霊というのは、これは死んだ人間の幽霊であって、たいていの国がそうであるように、日本でもこの死霊というのは、昔から夜だけにかぎって出るもので、いまでもその習慣にしたがっている。ところが、生霊というのは、これはげんに生きている人間の幽霊であって、この方は、いつどんな時刻にもあらわれる。しかも、生霊の方は、人を殺す力をもっているので、死霊よりもよけいにこわがられている。
ところで、いまわたくしが話した家には、この生霊が憑いていたのである。
もと、この家を建てた人というのは、さる官吏で、資産もあり、人にも敬《うや》まわれていた人であった。この人は、もともと自分の老後のすまいにこの家を設計したのであって、普請がすっかりできあがったときには、建具調度にも美をつくし、軒には風にちりからと鳴る風鐸《ふうたく》を下げたりした。白木の高価な板戸には、さる腕よりの画家が、今をさかりと咲きほこるサクラの木にウメの枝、金色の眼をしたタカがマツの木のてっぺんにとまっている図、モミジのかげに餌をひろっている痩《や》せがたな鹿の子の図、雪中の群鴨、空に舞いたつ白鷺のむれ、咲きそろったアヤメの花、水中の月をつかもうとする手長ザル、その他四季とりどりの風物や緑起のいい絵を、いろいろと丹精こめて描いたのである。
家主は、まことにしあわせな人だった。けれども、このしあわせな人にも、たったひとつの嘆きがあった。それは、自分に跡とりの子がないことであった。そこでこの人は、女房によく言いふくめ、女房の同意をもえたうえで、むかしからよくあるしきたりにならって、自分の実子をもうけるために、素姓もよくわからない、他国の女を家に入れたのである。女は、いなか出の若い女で、多額の約束金がこの女に契約された。まもなく、男の子が生まれたので、女はかえされた。そして、生まれた子には、生みの親のあとを慕わせないようにというので、乳母がやとわれた。このことは、すべて前もって双方に話がついていたことで、むかしからのしきたりで、ちゃんとそれは認められていたことであった。ところが、子どもの母親がいよいよかえされるという時になって、はじめの約束はなにひとつ履行されなかったのである。
ところで、それからしばらくたつと、その金持の主人は、病いの床についた。そして、容体は日いちにちと悪くなるばかりであった。そこで、家の人たちは、ここの家には生霊がついていると言いだした。いくたりもの名医が、およぶかぎりの手当をしたけれども、病人はだんだん衰弱する一方で、しまいには、医者もとうてい望みはないと匙《さじ》を投げだした。そこで細君は、氏神さまへ供え物をあげて、神々に祈念をした。ところが、神さまのお告げになるには、「この病人は、人に難儀をかけておるぞ。難儀をかけたものの許しをえて、みずから罪障《ざいしょう》消滅をして、その厄《やく》を払わんければ、しょせん一命は助からぬぞよ。その方の家には、生霊がついているのじゃ」というのである。
それを聞いて、病人は思いあたるふしがあった。そこで良心に責められて、さっそく女中をやって、女を家へつれもどすことにした。ところが、女はいなかった。女は、帝国四千万の同胞のなかにまぎれこんで、どこへ行ったものやら、かいもく行き方知れずになっていたのである。そんなわけで、病人の容体はますますもって悪くなる。女の行方は、いくら捜してもわからない。そんなこんなのうちに、幾週間かがたった。
すると、ある日のこと、門ぐちへひとりの百姓がやってきて、自分はあの女の行った先を知っている、あなたの方で旅費を出してくれれば、これから行って尋ねだしてきてあげるが……という。しかし、病人はそのとき、それを聞いて言った。「いや、それはだめだ。あの女が、いくらおれのことを心で許そうと思っても、それは出来ないことなんだから、だめだ。もう間《ま》にあわん」そういって、その人は縡《こと》切れた。
その後、そこの家の、後家さんと、一家のものと、例の男の子は、新築のその家をすてて出た。そうしてそのあとへは、知らない人がはいったのである。
ふしぎなことには、世間の人たちは、その子どもの母親のことを、わるく言うのであった。――あの旦那に憑《の》りうつるとは、どうもひどい女だといって、女を責めるのである。
はじめのうち、わたくしは、じつに妙なこともあればあるものだと思った。これは、なにもわたくしがこの事件の理非曲直《りひきょくちょく》について、自分にはっきりした判断があって、そう思ったのではない。こちらは、もともと、くわしい顛末を聞くも知るもできない立場なのだから、判断など下せようはずがない。にもかかわらず、わたくしは世間の人たちの下馬評をひどくおかしなものに思ったのである。
なぜ、おかしく思ったかといえば、その理由はかんたんだ。生霊というものは、人に憑《の》りうつる当人は、べつに故意にそれをやっているわけのものではないからである。生霊は、けっして妖術ではない。当人が知らないうちに、ふらふら出て行くものなのだ。(物を憑《の》うつらせると信じられている巫術のようなものも、あることはあるけれども、生霊は、そういうものとはちがう。)ここまでいえば、諸君は、わたくしがその若い女に対する世間の非難を、ひどくおかしいものに思ったわけが、おわかりだろう。
しかし、この問題の解答は、おそらく諸君には見当もつかないだろうと思う。それは、西洋諸国にはまったく知られていない概念をふくむ、宗教上の問題だからである。自分のからだから生霊が出たその若い女は、世間の人から巫女《ウィッチ》として非難されるようなことは、けっしてない。世間の人は、あの女が、自分で知りつつ生霊を出したなんてことは、〈けぶり〉にも言やしない。むしろ、あの女の嘆《かこ》つのはもっともだと思って、同情を寄せさえしているのである。ただ、怨《うら》みがすこし度をすぎたことを――つまり、腹のなかにある怨みをじゅうぶんに抑えつけていられなかったということ、それを世間の人たちは責めたのである。なぜかというと、自分で口にも出さず、ひとり呑みこみで人に内証で怨みをもてば、かならずその怨みは怪しい崇《たた》りをするものだということは、あの女だって、百も承知のはずだからである。
良心の苛責から出た、ひとつの烈しい形としてならともかくも、それ以外にも、生霊というものはあるものだなどと、そんなことをわたくしは、しいてだれに承認してもらおうとも思ってはいない。ただしかし、この信念も、人間のおこないを慎しませるという効力の点では、たしかに価値あるものだと思う。のみならず、この信念は、ひじょうに暗示的だ。腹ぐろい慾心だとか、人に打ちあけない怨みだとか、そしらぬ顔をした憎しみの念だとか、そういうものが、それを温め育てている人間の意志のそとで、なんらかの力を発しないとは、だれも請《う》け合えはしないだろう。仏陀のいった、つぎのようなことばには、西洋の倫理が認める以上の深い意義がありはしないだろうか。――
「憎しみは、どんなばあいにも、憎しみによってやむことはない。憎しみは、愛によってやむのである。これが古くからあるおきてではないか?」
仏陀の時代にも、このおきては、ずっと古くからあったのである。それが西洋だと、こういうふうに言われてきている。
「人もし爾《なんじ》に悪をなすとき、爾怒らざれば、その悪は消滅す」と。
しかし、はたして、それは消滅するだろうか? ただ怒らずにいるだけで、それで充分だと、はたしてわれわれは確信しているかしら? 悪いことをしたと感じたことによって心に起った動揺が、べつに被害者がなんの行動もしないということぐらいで、はたして、取り消されうるものだろうか? 力は消滅するものだろうか? われわれの知っている力というものは、ただ形を変えることはできる。それとおなじで、われわれの知らない力だって、やっぱりそうだろう。生命とか、感覚とか、意志とか、――すべて「我」という無限の神秘をつくりあげているものは、みんなわれわれの知覚しない力である。
科学は答える。「科学の任務は、人間の経験を体系づけることにあるのであって、幽霊について学説を立てることなんぞじゃありゃしない。時代の見識は、日本においてさえ、科学のとるこうした態度を支持している。あすこにあるあの校舎の下で、いったい、いま、なにが教えられているかね? おれのいう意見かね? それとも、わらじばきの百姓の意見かね?」
そういわれて、わたくしは石仏といっしょに、学校の校舎を見下ろしてみる。じっと見下ろしているうちに、にこやかな石仏の微笑が――たぶん、光線のぐあいが変ったせいだろうと思うが――なんだかさっきとは違った顔つきになって、妙に皮肉な笑《え》みをうかべてきたように見える。じつは石仏さまは、とても防ぐことなどできっこない強敵の城砦《じょうさい》を、じっと見下ろしているのである。三十三人の教師が四百名の青年を教えている教育のなかには、信仰の教えなどはなにひとつなく、あるものはただ、事実の教えばかりである。――つまり、人間の経験を体系づけた明確な結果だけを教えているのである。
わたくしは絶対に確信するが、げんに、その三十三人の教師(漢文の教師である、ことし七十歳の老人をのぞいて)の誰ひとりに、わたくしがかりに仏陀のことについて質問してみたところで、それに解答をあたえてくれる人は、まずないだろうと思う。つまり、そういう連中は、みんな新時代の人間であって、仏陀の問題なぞは、みの笠を着た百姓どもが考えるのにちょうどふさわしい問題で、いやしくも、明治二十六年の現代の学者ともあろうものは、よろしく人聞経験の体系化の結果に思いをひそむべきだと考えている連中なのである。しかし、人間経験の体系化というけれども、それだけでは、けっして「どこから」とか、「どこへ」とか、もしくは難問中の難問である「なぜ」とか、こういう問題については、なにひとつわれわれを啓発しはしない。
「生存の大法は一因より発し、この大法を破壊するのも亦《また》一因であると、仏陀は説かれた。大釈迦牟尼世尊は、じつに、このような真理をも説かれたのである」
そこで、わたくしは自分に問うてみる。――この日本の国の科学の教えは、ついには、仏陀の教えの記憶を、国民から忘れさせてしまうことができるであろうか、と。
すると、科学はまた答える。「ひとつの信仰が、生きてゆく権利があるかないか、それをためす試金石は、その信仰がおれの言うことを容認した上で、おれの言うことを利用してゆく力の中に求められなければならない。科学というものは、証明のできないものは肯定しないし、同時にまた、合理的に反証できないものは否定しないのだ。やれ神だの仏だのと、うるさい議論をするけれども、科学は、いちおうそれも人間精神に必要なものとして認めているし、あわれなやつらだとも思っている。君たちのその神仏論が、おれの事実と並行線にすすんでいるあいだは、そりゃ君たちだって、みの笠つけたあの百姓たちといっしょになって、大いに議論をつづけてもかまわんさ。しかし、そいつももう、長いことはあるまいぜ」
そこで、わたくしは、石仏のあの微笑の深い皮肉に妙想を求めながら、ひとつ、その並行線上の議論というやつをやってみよう。
近代知識の全面的な傾向、いわゆる科学教育全体の傾向は、古代インドの婆羅門《バラモン》がすでに考えたように、神や仏というような超自然の力は、人間の祈念をうけつけないものだという、究極の確信にむかいつつある。われわれ西洋人のなかにも、西洋の信仰だって、われわれが精神的に一人前になって、ちょうど母親の愛情が、ついにはわが子を手離さなければならなくなるように、自分のしまつが神や仏の手をかりずにできるようになった時には、けっきょく、ああいうものは、永久にどこかへ消えてなくなってしまうものだと、そう思っているものも少なからずある。人間が神仏の助けをかりずに、自分のしまつができるような遠い未来には、信仰は、その役目をもうすっかりはたしてしまい、われわれの永遠の精神の掟《おきて》に対する認識を、じゅうぶんに発達させ、いまよりもいっそう深い人間の同情心というものを、じゅうぶんに円熟させ、宗教的な寓話だの童話だのという、いまよりもさらに手に入った、嘘も方便という得意の手をつかって、いつなんどきでも、さあといえば、深刻な生存の真理を、われわれが解くことができるような用意をそなえておいた上で、――つまり、人間相互の愛のほかに、神の愛なんてものは、この世にあるものではない、全知全能の神だの、救世主だの、守護神だの、そんなものはどこにもありはしない、けっきょく、われわれは、われわれ自身以外に、たよれるような逃げ場は何ももっていないのだということを、よく言いふくめた上で、信仰というものは、いつか消滅してしまうものなのだろう。
それにしても、よしんば、誰も見たものもないような、そういう遠い日がきたとしてみても、すでにわれわれはそのまえに、何千年ものむかしに、仏陀がいみじくも告げたもうたことばのまえに、とうに瞠目平伏《どうもくへいふく》していることだろう。
「なんじ、なんじの灯火たれ。なんじ、なんじのかくれ家たれ。他のかくれ家に行くことなかれ。仏は、ただ、教えるものにすぎない。真理にすがること、灯火にたよるがごとくせよ。かくれ家として真理にすがれ。なんじ以外に、いずこにもかくれ家を求むるなかれ」
震駭《しんがい》すべきことばではないか? それにしても、天の助けとか、天の愛とかいう、美しい長夜の夢から、心むなしく醒めるという、そうした遠い前途の予想は、人間にとってけっして暗い予想ではあるまい。世の中には、もっと暗い予想がある。それも、東洋の思想によって、すでに暗示されている。科学は、あのリヒテルの夢――死んだ子どもたちが、父なるイエスをさがし尋ねるけれども、ついに会うことができないという、あの夢を現実に実現したよりも、もっともっと恐ろしい発見を、われわれのために用意しておいてあるかもしれない。かの唯物論者の否定のなかにさえ、或る慰藉《いしゃ》の信仰があった。――自己断絶、永久忘却の自信があった。
けれども、こんにち生きている思索家には、そのような信仰さえない。おそらく、われわれに残されていることといったら、将来、このちっぽけな娑婆世界で遭遇するあらゆる難題を、われわれがひとつのこらず征服しつくしたあとになっても、まだまだその先に、のりこえるべき障碍物《しょうがいぶつ》がたくさん控えているということ、その障碍物たるや、いかなる体系をもった世界よりも洪大で、百千万億の体系をもった、人智の想像なんかてんで許さないような大宇宙よりも、もっと重量のあるものであるということ、われわれ人間の仕事なんか、今がまだやっと序の口にすぎないということ、口になんぞ言うこともできない、考えることもできないような、「時」というものの助けを借りなければ、とてもそんな仕事には、助けの「た」の字も望めないということ、――そういうことを、学び知ることであろう。そうして、おそらくその時には、われわれがその中から、どうあがいても逃れることのできない、あの生と死の無限のうずまき、あれはじつは、われわれ自身が作りだしたものであり、われわれ自身が望んで求めたものであるということや、また、この世をつなぎとめる力は、すべて「過去」の罪業であり、永遠の悲哀とは、いつ飽くこともない慾望の永遠の飢餓にすぎないものであるということや、燃えつくした太陽は、すでに消滅した生命の不尽不滅の情火のみが、ふたたびそれを燃やす口火になるということなども、しぜん、わかっていなければならないはずである。
[#改ページ]
柔術
[#ここから1字下げ]
人ノ生ルルヤ柔弱ナリ。ソノ死スルヤ堅強ナリ。草木ノ生ズルヤ柔脆ナリ。ソノ死スルヤ枯稿《ここう》ス。故ニ堅強ハ死ノ徒、柔弱ハ生ノ徒ナリ。是ヲ以テ兵強キトキハ即チ勝タズ。木強キトキハ即チ折ル。「老子道徳経」
[#ここで字下げ終わり]
官立高等学校の校庭に、ほかの校舎とひときわ建てかたのちがった建物が、ひと棟《むね》ある。この建物は、紙のかわりに、ガラスをはめた障子が入れてあることだけを除けば、あとは、純日本風な建物だといってさしつかえない。間口もひろく、奥行もふかい、一階建ての建物で、なかは、だだっぴろい、百畳敷きの部屋がひと間あるきりである。この建物には、名まえがついている。日本の名まえで、「瑞邦館《ずいほうかん》」――「浄らかな国の大広間」という意味だ。その名まえを漢字であらわしたものが、皇族の一親王の手によって、玄関のうえの小さな額に書かれてある。
中へはいってみると、部屋のなかには、家具調度の類は、なにひとつない。ただ、壁間にもう一枚、べつの額がかかっており、ほかに絵が二枚かけてあるきりである。その一枚の方の絵には、かの維新の内乱のおり、主君のために、みずから進んで死を選んだ、十七名の少年から成る、有名な「白虎隊《びゃっこたい》」の図が描いてあり、もう一枚の方は、これは油絵で、本校の漢文教授、秋月氏の肖像が描いてある。秋月氏は、老来、いよいよ、人の敬愛をあつめておられるが、この仁も、年若いころには、そのころは武士や身分ある人士をつくることが、こんにちよりも、もっと多く要求された時代であったが、秋月氏は、その当時から、すでにひとかどの武士だった人である。なお、壁間の額には、勝伯の書で、漢字が幾字か書かれてある。「深い知識は最上の財産である」という意味の文字である。
ところで、このだだっぴろい、飾りけのない部屋で教えられる学問は、いったい、何であるかというと、それは、柔術《じゅうじゅつ》と申すものである。しからば、柔術とは、いったい何であるか?
ここで、ちょっと、おことわりをしておかなければならない。わたくしはこれまで、柔術というものを、じっさいに自分でやってみたことはないのである。これをおぼえるには、ごく子どもの時分からはじめなければならない。そして、まずこれならばというところまで技《わざ》を身につけるには、よほど長いあいだ修業をつまないといけない。その道の玄人《くろうと》ともいわれるようになるには、ずばぬけて筋のいいものでも、まず七年はぶっつづけに稽古を励まなければ駄目である。柔術のくわしい話となると、もちろん、わたくしなどにはとうていできっこない話だけれども、まあ、その原理のあらましといったようなところだけでも、おこがましいが、少々かいつまんで述べてみることにしよう。
いったい、柔術というものは、これはむかしのサムライがえものを持たずに、相手と戦った術なのである。柔術について何も知らない門外漢が見たら、ちょっとレスリングみたいに見える。かりに諸君が、「瑞邦館」で稽古がはじまっているときに、たまたまそこへはいって行ったとする。諸君はそこに、一団の生徒がぐるっとまわりを取り巻いた、そのまん中のところで、十人か二十人ぐらいの、からだのしなやかな若い生徒たちが、素足素手で、おたがいに組んずほぐれつしながら、畳の上で相手を投げたおしている光景を見られるだろう。そのとき、きっと諸君が奇妙におもわれることは、室内が死んだように声ひとつしないことだろう。ひとことも物を喋っているものがない。もちろん、やんやと囃《はや》したてたり、興にのったり、そんなそぶりをするものは、ぜったいにいない。にやにや笑っているものさえいない。絶対の平静自若、――これが柔術道場の鉄則で、厳格に規則できめられていることである。それにしても、部屋ぜんたいのこの平静さ、そして、これだけの人数のものが、みな息を呑んで、しーんと静まりかえっているこの光景。これは、とにかく、諸君に偉観《いかん》だという印象をあたえることは請合である。
西洋のレスリングをやる本職の闘士が見たら、まだほかにもいろいろ目につくことがあるだろうと思う。たとえば、この若い連中が、自分の力を出すのに、ひじょうに慎重であるということ、それから、掴《つか》んだり、おさえたり、投げたりするそのわざが、いっぷう変った、きわどい技《わざ》であることなどに気がつくにちがいない。その慎重さは、ひじょうな修練をつんだ上での慎重さなのだが、全体からみると、ずいぶん危険の多い演武のようにも思われて、おそらく、西洋のレスリング士がこれを見たら、なんとかもっと、西洋流の「科学的」なルールを採り入れたら、どうなんだと、ちょっとおせっかいを入れたくなるにちがいない。
もっとも、稽古でなく、真剣の勝負となると、このわざは、西洋のレスリング士がただちょっと見て、ははあと当《あて》推量をする以上に、じっさいはずいぶんと危険の多い技なのである。道場にひかえている師範格の人などは、ちょっと見ると、いかにも痩躯《そうく》軽身にみえるけれども、どうしてどうして、普通のレスリング士なんぞだったら、まず二分間で片輪にされてしまうだろう。柔術は、けっして見せるためのわざではないし、見物人にわざを見せるための修練でもない。それは、もっとも厳密な意味における自衛術であり、戦術なのだ。その道の達人ともいわれる人になると、相手が術を知らないやつだったら、それこそ、あっというまに、相手の戦闘力を完全にうばってしまうだけの腕前をもっている。かくべつ、これという力もつかわずに、なにかおそろしい早業で、いきなり相手の肩を脱臼させ、関節をはずし、腱《すじ》を切り、骨なんか折っぺしょってしまう。こういう人になると、これはもう、ただのスポーツマンとか、力持ちなんていう段ではない。一個の解剖学者でもあるのである。また、そういう達人になると、電撃的早業をもって、相手をひとおもいにパッと殺してしまう急所もこころえている。もっとも、この命とりの秘術は、それをみだりに用いることがほとんどできないような条件がそなわっているばあいでなければ、けっして人に伝授はしないという、固い誓約が誓わされてある。完全な自制心をもっている人で、ふだんから身持ちのうえでも、とかくの非難のない人だけに授けられる、というのが、むかしからの儼《がん》としたしきたりになっているのである。
それはまあいいとして、わたくしが、とくに諸君の注意をうながしたいのは、柔術の達人になると、自分の力というものにけっしてたよらないという事実だ。そういう達人になると、最大の危機にのぞんでも、自分の力というものは、ほとんどつかわないのである。それじゃ何をつかうかというと、相手の力をつかうのである。敵の力こそ、敵を打ち倒す唯一の手段なのだ。つまり、柔術が諸君に教えるものは、勝利をうるには、かならず相手の力にのみたよれ、ということなのだ。そして、相手の力が大きければ大きいだけ、相手には不利になり、こっちには有利になるのである。
それについて、今でもわたくしは憶えているけれども、あるとき、柔術の大師範のひとり(嘉納治五郎《かのうじごろう》。嘉納氏は、数年まえ、「アジア協会紀要」誌上に、柔術の歴史について、ひじょうにおもしろい記事を寄稿されたことがある)から聞かされた話で、おおいに驚いたことがある。それは、わたくしが柔術のことはなんにも知らずに、ただ自分ひとりの考えだけで、クラスの中ではあれが一番かなと思っていた、ある力のつよい生徒がいたが、ところが、その大師範にいわせると、その生徒には、どうもやってみると、ひじょうに〈わざ〉が教えにくいというのである。なぜでしょうかといって聞いてみたら、こういう答えであった。「あの男は、自分の腕力にたよりおって、それを使いよるのでなあ」と。「柔術」という名称そのものが、すでに、「身を捨てて勝つ」という意味なのである。
以上の説明では、どうもまだ、言いつくせたとはいえないようだ。およそ、まあ、こんなものだと述べた程度にすぎまい。拳闘の方でcounter――「受けとめる」ということばがあるが、その意味は、どなたもご存知のはずだが、しかし、このことばをそのまま柔術の手にあてはめることは、ちょっとむりである。というのは、拳闘家が相手を受けとめるばあいは、自分の全力をもって、敵の打撃に立ちむかうのであるが、柔術家のばあいは、それとまったく逆の手に出るのだから。
もっとも、拳闘の「受けとめ」と、柔術の「捨て身」の術のあいだには、こういう似かよった点はある。――つまり、どちらのばあいにしろ、この手を喰うものは、とめてとまらぬ騎虎《きこ》のいきおいで、「やっ!」と打ちこんで行った自分の手で、ひどい目にあうというところが、似ているといえば似ている。してみると、ごくおおざっぱな言い方を敢えてすれば、柔術のばあいは、ひねりの手だろうと、ねじりの手だろうと、押しの手だろうと、引きの手だろうと、そのどれにも、一種の「受けとめ」の手があるのだといっても差支えなかろう。ただし、その道の達人になると、そういう相手の打ちこみには、ぜんぜん、手向かいをしない。いや、相手のするがままに身をまかせているのである。しかし、ただのんべんと身をまかせているのではない。身をまかせながら、どえらいことをやらかすのである。手練の早業で、相手に意地のわるい〈すかし〉を喰らわせ、それで相手の肩の骨をひっぱずしたり、腕をくじかしたり、ひどいときには、首の骨や背骨まで折っぺしょってしまうのである。
以上、ごくおおざっぱな説明ではあるが、これだけでも、諸君はすでに、柔術というものの真の驚異は、その道の名人師範の最高の腕前にあるのではなくて、じつは、その〈わざ〉全体にあらわれている、東洋独自の観念にあるということに気づかれたことだろうと思う。力に手向かうに力をもってせず、そのかわりに、敵の攻撃する力をみちびき、利用して、そうして敵自身の力をかりて、敵をたおし、敵自身のいきおいをかりて、敵を征服する、――いったい、こんな奇妙な教えを編みだしたものが、いままで西洋人のうちに、ひとりでもあっただろうか? 断じて、ひとりもありはしない。どうも西洋人の心は、なにかこう、直線にばかりはたらくようにみえる。そこへいくと、東洋人の心は、なにかこう、みごとな曲線と円をかいてはたらくようだ。それにしても、暴力の裏をかく手段として、これはまた、なんというりっぱな知性の象徴であろう! じつに、柔術とは、防衛の学どころの段ではない。それはひとつの哲学であり、経済学であり、倫理学でさえある。(そうだ、言い忘れたが、柔術の稽古の大部分は、まったくひたむきな精神鍛錬なのである。)いや、そういうことよりも何よりも、柔術こそは、この東洋において、こんにち以上の侵略を夢みている、かの列強国にもまだしかとは気づかれていない、日本の民族的天稟を、おのずからあらわしたものなのである。
今から二十五年まえには――いや、つい近頃になってもだが、――西洋人は、日本は西洋のものなら、服装はもとより、風俗習慣にいたるまで、いまにきっと自国に採用するようになるだろう、迅速|敏捷《びんしょう》な西洋の交通・運輸の法から、建築の原則、工業から応用科学、形而上学から教理にいたるまで、きっといまに、なにもかも挙げて、西洋のものを採用するようになるだろうと、いかにももっともらしい予言をしたものであった。ある人のごときは、日本は、早晩、国をあげて、外国の植民地に開放されるだろう、そうなった暁には、西洋の資本は、種々さまざまの資源の開発に資するために、異常な特権があたえられることになろう。そうなれば、やがては、宗教だって、そのうちに勅令が発せられて、国民ぜんたいが、きゅうにキリスト教に改宗するような時だって来《こ》ないとは限らないと、ほんとうにそう信じたものであった。
けれども、このような妄信は、けっきょく、民族の特異性を――つまり、その民族の深い能力や、見識や、むかしから持っている独立自尊の精神なぞを、残念ながら、まるで知らなかったことに起因する。そのあいだ、日本が、ひたすら柔術の稽古ばかりしていたということを、西洋人は爪の垢《あか》ほども想像しなかったのである。じっさい、その当時、まだ西洋では、柔術の「じゅう」の字を聞いたものもなかった時代であった。
ところが、万事が、じつはこの柔術だったのである。なるほど、日本は、フランスとドイツの両国の、最上の経験の上に立った軍制を採用したおかげで、一朝事ある際には、精鋭二十五万の将兵と強力な砲兵とを、ただちに召集することができるような国になった。また、範をイギリスとフランスの善訓にとって、世界に冠たる優秀な巡洋艦隊を擁する、強大な海軍をもおこした。また、フランス人の指導のもとに、造船所をつくって、自国の物産を、チョーセン、シナ、マニラ、メキシコ、インド、南洋方面などに輸出するために、そこで汽船を建造したり、あるいは、外国から買入れたりもした。また、軍事上、ならびに商業上の目的のために、二千マイルになんなんとする鉄道をも敷設した。アメリカとイギリスの援助をかりて、最も料金の安い、しかも最も有力な、現在あるような郵便電信事業をもおこした。また、日本の海岸は、東西両半球のなかで、いちばん照明が行きとどいているといわれるほどの、優秀な企画をもって、かずかずの灯台を建て、合衆国のそれにも劣らないほどの信号施設をもそなえた。アメリカから、電話と電灯の最良の方式をも輸入した。また、ドイツ、フランス、アメリカの各国で得られた最良の成績を、徹底的に研究した上で、公立学校制度をも設定した。が、この学制は、けっして外国の制度を鵜呑《うの》みにしたものではなく、自国の諸制度に完全に調和するように、手加減を加えたものである。また、フランスに範をとって、警察制度をも定めた。が、これも自国の特殊な社会的必要条件に、完全に合致するような形をとったのである。また、はじめのうちは、鉱山、工場、砲兵工廠《ほうへいこうしょう》、鉄道などのために、外国から機械類を輸入し、多数の外人技師を雇い入れたけれども、こんにちでは、すでにあらゆる指導者を解雇しつつある現状である。
こんなふうに、日本がすでにやりおおせたこと、または現在やりつつあることを、いちいち列挙していったら、それこそ何巻という大部な書物を書かなければなるまい。要するに、日本は、西洋の工業、応用科学、あるいは経済面、財政面、法制面の経験が代表するものの粋《すい》を選んで、これを自国に採用したといえば、それで足りる。しかも日本は、どんなばあいにも、西洋における最高の成績のみを利用し、そうしていったん手に入れたものを、自国の必要にうまく適合するように、いろいろに形を変えたり、あんばいしたりしたのである。
ところで、日本は、そのばあい、ただ人のものをまねるという理由だけのために、物を採り入れたということはぜったいにない。その反対に、日本は、これは自国の力を増強するに足るものだというものだけを見分けて、それを採用したのである。こんにちでは、すでに日本は、外国の専門技術上の指導はもうほとんど受けなくてもいいというところまで、自国を引き上げたし、抜け目のない法規によって、あらゆる自国の資源を、自分の手のなかにしっかりと収めている。西洋の衣服や、西洋の暮し方や、西洋の建築、西洋の宗教などは、いまもって日本は採用していない。それは、こういうものを採り入れることは、ことに異国の宗教を採用するなどということは、自国の力を増強するどころか、かえって減少させるもとだからである。近代的な鉄道、航路、電信、電話、郵便局、通運会社、大砲、連発銃、大学、専門学校、そういうものをことごとく持ちながら、日本は、あいかわらずこんにちでも、一千年前とおなじように、東洋風であることにすこしも変りがない。自分の国は、昔ながらのままにしておきながら、日本は、じつに敵の力によって、あたうかぎりの限度まで、自国を裨益《ひえき》したのである。かつて聞いたこともないような、あの驚嘆すべき頭のいい自衛法で、――あのおどろくべき国技、柔術によって、日本は、こんにちまで自国を守りつづけてきたのだ。いや、現在も守りつづけつつあるのである。
いまわたくしの目のまえに、三十年あまり前の写真帳がおいてある。このなかには、日本が、外国の服装と外国の諸制度との実験にとりかかりだした、当初のころにとった写真がいっぱいのせてある。どれを見ても、みなサムライかダイミョウの写真ばかりだ。その多くは、この国独特のお国風のうえに、外国の感化がおよぼした、ごく初期の影響を反映しているものとして、歴史的価値をもっている。
武家階級の人たちが、こうした新しい感化の一番槍にあがったというのは、これはもっともなはなしである。それで、この連中は、洋服と和服の奇々怪々な折衷《せっちゅう》をいろいろとやってみたものらしい。この写真帳のなかにも、家中《かちゅう》のものにとりまかれた藩公の写真が、十四、五枚もあるが、それがみな申しあわせたように、それぞれ各藩考案の、それぞれ違った、独特の服を着ている。外国の生地《きじ》で、スタイルも外国流にしたてたフロックコートや、チョッキや、ズボンを、ひととおりみな着たり、はいたりしているくせに、上着の下には、いぜんとして、絹の長い帯をしめている。この帯は、ほかでもない、大小の刀をさすための帯である。(サムライは、けっして刀を〈だて〉にさしている道楽者(traineurs de sabre)ではない。かれらの怖るべき、しかし精巧に仕立てられた刀は、西洋のように腰へつるすようには、できていない。西洋流に腰へつるして歩くには、よほど長めにできている。)着ている服の生地は、黒のラシャである。ところが、サムライは、自分の家の定紋というものをどうしても捨てきれないとみえて、いろいろ工夫のありったけをしぼって、それを自分の新しい衣裳に、なんとか似合うようにつけようというので、いろいろにやってみている。なかには、上着の裾に白絹をかぶせて、それへ左右の裾に三つずつ、つごう六つの紋を、染め紋にしてだしたり、縫い紋にしてつけたりしているものもある。
ところで、こういう連中が、どれもこれも、ひとりのこらずといってもいいくらいに、みなぴかぴか光る鎖のついた、ヨーロッパ製の懐中時計をぶら下げている。そのうちのひとりなどは、おそらく、ごく近ごろ手に入れたホヤホヤと見えて、いかにもものめずらしそうに、文字盤を眺めこんでいる。はきものは、みんな西洋の靴――ゴムの深靴をはいている。ところが、ヨーロッパ風の、あの見るも胸糞のわるい帽子というやつ、あれだけは、連中、どうもまだ、自分のあたまにしっくりしなかったらしい。もっとも、これはその後になって、あいにく、猫も杓子《しゃくし》も、いちようにみなかぶるようになったが、当時は、みんなまだ後生だいじに、陣笠をかぶってござる。赤地に金で蒔絵をした、木製の、じょうぶなかぶりものである。この陣笠と、前にいった絹の帯、このふたつだけが、連中のきてれつきわまる制服のなかで、なんとかまあ、自分で得心のいくものになっている。ズボンも上着もだぶだぶだし、靴なんかも、そろそろもう、ちっとずつ足が痛くなってきているあんばいだ。さてこそ、この新装束を着た面々、どれを見ても、みな申しあわせたように、なんともいえぬ窮屈そうな、〈でれりぼう〉とした、うすみっともない風体をしているわけで、これじゃあ、悠々迫らずなんていう武士の衿度は、とうのむかしにお蔵《くら》だし、だいいち、面々自身が、いやはや、面目しだいもござらぬこの為体《ていたらく》と、みずからもって恐惶煩首《きょうこうとんしゅ》しているありさまである。べつにおかしいというほど、グロテスクな不釣合ではないにしも、とにかく、見だてが悪いし、痛々しいかっこうだ。それにつけても、いったい、この当時、外国人のなかに、日本人は永久に自国の美しい服装の趣味を捨てぬだろうと信じていたものが、はたした何人あったろう?
ほかの写真には、まだまだ、もっと珍妙な外国の影響の結果を示しているものがある。ここに一枚、こういうのがある。これもサムライだが、このサムライは、洋服を着るのはまっぴら御免だが、まあしかし、当節のはやりものともなればやむをえぬによって、拙者はひとつ洋生地で、羽織・袴《はかま》を奮発いたそうと存ずるというんで、いちばん地の厚ぼったい、したがって、お値設もお高い、イギリス製のラシャ――重くて、しなやかにいかないから、日本の着物には、いちばん不向きな生地だ――で、りゅうと仕立てたやつを、一着に及んでいる。どんなに熱くしたアイロンでも、これだけは熨《の》すことができないという、その皺《しわ》のぐあいを、よくお目とめて御覧《ごろう》じあれ。
こういう写真から、目を転じて、そんな時代の流行熱には目もくれずに、昔ながらのお国風な武家の装束を、さいごまで頑固に守っている、二、三の旧弊家《きゅうへいか》の写真を見ると、なにかホッとした感じで、たしかにこれは目の保養になる。ここには、騎馬武者のはいた長袴《ながばかま》がある。みごとな縫いとりをした陣羽織がある。裃《かみしも》がある。鎖帷子《くさりかたびら》がある。具足・兜、すっかりそろった鎧《よろい》がある。そうかと思うと、またここには、いろいろの変った形をした冠《かんむり》がある。そのむかし、諸侯や、高禄の武士などが、折り目だった儀式のおりにかぶった、世にもふしぎな、ものものしいかぶりもので、なにか紗《しゃ》のような、うすい黒い布でできている、めずらしいクモの巣みたいな構造のものだ。こうした品には、どれにもみんな、威があり、美しさがあり、戦陣のきびしい品位がそなわっている。
ところが、そういうさまざまのものも、この写真帳の、いちばんしまいに出てくる写真を見ると、なにもかにも、すっかり顔色をなくしてしまう。――それは、眼光ハヤブサのごとく炯々《けいけい》たる美青年、松平|豊前守《ぶぜんのかみ》が、封建時代の武具甲胃を、華やかに身につけた雄姿である。右手《めて》には、房のついた、一軍の総帥たる采配をにぎり、左手《ゆんで》は、佩《はく》いたる大刀の、みごとな柄《つか》をば按じている。いただく兜は、天工をあざむくばかりに光りまばゆく、胸から肩にかけて着した南蛮鉄は、西欧諸国の博物館でも、その名、音にきこえた鎧師《よろいし》が、丹精こめて打ち上げた逸品である。着ている陣羽織の打ち紐は、すべて金糸を撚《よ》ったもので、金波に金竜の縫いとりをした、目もさめるばかりの厚絹の下着が、下垂《したたれ》をつけた腰のあたりから爪先へと、火の衣のように、さっと流れている。しかも、これが夢にはあらず、実在していたものなのだ! げんに、わたくしはいま、太陽の光線が焼きつけた、中古の実在人物の一人の記録を、目のまえに、つくづくと眺めているのである! この人物が、鋼鉄と絹と黄金とを身につけて、全身きらきらと燃え輝いているところは、まるで、こがね色の玉虫のようだ。――いや、玉虫ではない、カブト虫だ。玉のような色こそキラキラと目にまばゆいけれども、全身が角と嘴《はし》と威嚇《いかく》だらけだから。
松平豊前守が着たような、封建時代の服装の、いかにも王侯らしいこの絢爛華美《けんらんかび》から、過渡時代の、あの言語道断な服装への推移をおもうと、じつに、なんというはなはだしい堕落であろう! これを見ると、たしかに、この国固有の衣服と、衣服に対する国民的嗜好とは、永久に滅び去ってしまう運命にあると思われたのも、むりもないことだったかもしれない。宮中でも、一時は、パリの流行衣裳を採用されたほどであったから、この分でいくと、いまにきっと国民全部が服装をかえだしてくるぞと、多数の外国人は、てっきりそうひとりぎめをしてしまったものなのである。じじつ、その当時、日本の主なる都市では、一時的な洋装熱が高まりだして、それがまた、ヨーロッパの絵入新聞などに報道されたりなどして、そのために、しばらくのあいだだったが、絵のようにうるわしいこの日本が、とうとう、スコッチ服だの、シルクハットだの、燕尾服だのの国に化けてしまったという印象を生みだしたことがあった。
ところが、こんにち見るというと、この国の首府においてさえも、千人の通行人のうちに、洋服を着ているものは、ひとり見あたるか、見あたらないかという現状である。しかもこれは、軍服を着た兵隊、制服を着た学生・巡査をのぞいての話であることは、言うまでもない。ひところまえの、あの流行熱は、じつは国民がちょいとしたお試しを示したにすぎないものだったのである。そのお試しの結果が、西洋人の御期待どおりには添わなかったというわけだ。日本も、いまでは、自国の陸軍や海軍、または警官などには、様式のいろいろある西洋流の制服を(*1)、それぞれじょうずになおしかえて、それを採用しているけれども、それはただ、そういう服装がそうした職域に、いちばん適しているからという以外に、べつに他意はないのである。外国の平服なども、日本の官吏社会では、とうから採用しているが、これは近代式のデスクや椅子をそなえた、西洋流の構造をもった建物のなかでの勤務時間だけにかぎって着用しているのである(*2)。自宅へかえれば、陸海軍の大将だって、裁判官だって、警部だって、みんな和服に着かえるのである。
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(*1)このことに関して、日本が、ただひとつ、大きな誤りをしたとおもわれるのは、歩兵に皮靴を採用したことである。はきごこちのいいワラジの自由さに慣れ、西洋人のいわゆるタコだのマメだのというものを知らない、若い者の形のいい足は、靴という不自然な履きもののおかげで、気の毒なくらい痛めつけられている。もっとも、長途の行軍などになると、ワラジをはくことを許されるから、履きものの履きかえはできるが、ワラジならば、子どもでも、日に三十マイルは、ほとんど疲れというものをみせずに、らくに歩くことができるのである。
(*2)教育の高いある日本人が、じじつ、わたくしの友人に、こういうことを語っていた。「ほんとのことをいうと、ぼくらは洋服はきらいですね。いってみれば、ぼくらは、ある動物が特定の季節になると、特定の色になるように、――つまり、保護色のために、一時、洋服を着ているにすぎないのですよ」
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それから、さいごに、小学校を除いた、学校という学校の教師、ならびに学生、これも制服を着用することになっている。これは、学校教育の一部に、軍事教練がとりいれられているためである。この制服着用の強制は、一時はずいぶん厳重だったものであるが、最近は、だいぶゆるやかになり、たいていの学校では、教練の時間とか、なにか儀式の時間とかだけに、制服を着るという規則になっている。九州では、師範学校だけはべつとして、ほかの学校はどこでも、教練のない日なら、生徒は和服にワラぞうりをはき、それに大きなムギワラ帽子をかぶってさしつかえないことになっている。もっとも、放課後、家にかえれば、教師も生徒も、みなキモノに白ちりめんの帯をしめている。
といったようなわけで、要するに、こんにちでは、日本人はりっぱにもとの和服にかえっている。そして、ふたたびまた和服をすてるようなことは、断じてあるまいと思われる。和服は、日本の家庭生活に、申し分なくぴったり合った、唯一の服装であるばかりでなく、おそらく、世界じゅうで、いちばん気品の高い、いちばん着ごこちのよい、そして、いちばん保健的な服装だろう。そういえば、日本の風俗も、明治になって、ある点では、むかしよりも、だいぶ変ったことは変ったけれども、それはしかし、おもに士分階級の廃止によるのである。変ったとはいっても、様式が変ったのはほんのわずかで、色あいが大幅に変ったのである。それでも、国民のすぐれた嗜好は、いまでも式服に織られる絹や木線織の美しい色あいや、色や、がらなどにあらわれている。もっとも、色あいは、ひとむかしまえよりも薄目になり、色はくすんできたが。――和服ぜんたい、といっても種類はいろいろあるけれども、総じてそれが封建時代にくらべると、ずっと色の調子が地味になってきている。子どもや、若い娘たちのはでな衣裳ですらが、そうだ。むかしの、目のさめるようなすばらしい衣裳は、ふつうの大衆生活からは、いまはすっかりすがたを消してしまっている。こんにち、それを見ることのできるのは、わずかに芝居のなかか、さもなければ、「過去」をそのままに保存している日本の時代劇の、あの夢のような美しい幻想をうつし描いた、かずかずのふしぎな絵本よりほかにない。
じっさいのはなし、かりにもし、和服を廃するというようなことになったとすると、いきおいこれは、国民生活の習俗というもののほとんどすべてを、必要上、どうしても変えなくてはならないという、たいへんな費《つい》えなことになってくるにちがいない。洋服というやつは、どこからいったって、日本の屋内生活には不向きである。この国独特のきちんとした正坐は、洋服なんか着たら、とても痛くて、だいいち、坐るなんてことはとてもおぼつかない。洋服を着るのだったら、どうしたってこれは、西洋流の家庭生活の習俗を採用する必要が生じてくる。くつろぐには椅子、食事にはテーブル、煖房《だんぼう》にはストーブか煖炉(和服というものが、元来、暖い衣服だからこそ、こんにち、こんな西洋風な煖房装置なんぞなくても、すんでいるのである)、床には絨緞、窓にはガラス、――要するに、日本人が、いままで、そんなものはなくてもすんでいた多数の贅物を、家庭のなかへごたくさ持ちこまなければならないということになる。
いったい、ヨーロッパ流の意味でいう家具《ファーニチュア》というものは、日本には、ひと品もない。ベッドもなければ、テーブルもないし、椅子もない。ふつうあるものといえば、小さな書棚、というよりも本箱だが、これがひとつと、唐紙《からかみ》でかくされたどこかすみっこのところに、タンスが一|棹《さお》。たいていまあ、このくらいなものであるが、こんなものはしかし、西洋の家具なんてものとは、まるっきり似てもつかないしろものだ。だいたい諸君が、日本の部屋へはいってみて目につくものといったら、タバコをのむための唐銅《からかね》か瀬戸ものの小さな火鉢、季節によっては敷ゴザかふとん、床の間に掛軸か花生け、まずこんなものにすぎない。過去数千年のあいだというもの、日本人の生活は、床の上でいとなまれて、今日に至ったのである。毛ぶとんのように当りが柔らかで、しかも塵《ちり》っぱひとつない清潔な床、これがそのまま寝床でもあれば、食卓でもあり、ときには、机にもなるのである。もっとも、机はべつに高さ一フィートぐらいの、小ぢんまりした、小ぎれいなのがあることはあるが。で、こうした生活様式が、きわめてむだのない、経済的な生活様式であることを考えてみれば、いまさら日本人が、ことに人口過多と生活難とが日ましに増加しつつある今日、こうした生活様式をいちがいに捨ててしまうなどということは、万々ありえないことである。それにまた、高度の文化精神をもっている国民――西洋人侵入以前の日本人のような――が、単なる模倣精神から、祖先の遺風をすてたというような前例のないということも、銘記しておかなければならない。日本を、ただいたずらに模倣的な国民と考えるものは、とりもなおさず、日本人を野蛮人とこころえるものである。じじつ、日本人は、けっして模倣的な国民ではない。ただ、同化とか、受入れとか、そういう点にかけては、天才の域に達しているのである。
今後、耐火建築資材に関する、西洋の経験をつぶさに研究することによって、その結果、あるいは日本の都市の建築に、多少の変化をきたすことはありうるだろう。すでに東京のあるところには、煉瓦づくりの家が並んでいる街もある。ところが、そうした煉瓦づくりの家屋にも、むかしどおりに畳がしいてあって、なかに住んでいる人たちは、あいかわらず、先祖伝来の家庭生活の習慣をそのままにつづけているのである。そんなわけであるから、将来、この国に煉瓦建てや、石造の建物ができたとしても、おそらく、それは、ただ単に西洋の建築を丸写しにしたようなものではなくて、きっと、そんじょそこらにざらにないような、異風な興味のもてる、新しくて、しかも、純東洋風な特色を発揮するにちがいない。
日本人ときたら、なんでも西洋の物でありさえすれば、なにか盲目的な讃美にうつつを抜かす国民だと、今でもそう思いこんでいる人たちは、内地はまあともかくとして、ほうぼうの開港場へでも行ったら、骨董品はべつとして、きっと、純粋の日本人のものなどはごく寥々《りょうりょう》たるもので、日本風の建築、日本風の衣服、風俗・習慣、古来の宗教、あるいは神社・仏閣などは、見たくも見られないと思っているかもしれない。ところが、事実はまるでその正反対なのだ。外国風の建物は、あることはあるけれども、だいたいにおいて、そういう建物は、外人居留地に、外人がつかうために建てられているのである。ただ、防火施設の必要な郵便局、税関、および少数の醸造工場と製糸工場だけは、例外である。しかし、どこの開港場でも、日本建築はりっぱに典型を示しているばかりでなく、内地のどこの都会のよりも、むしろ毅然としているくらいである。ふつうの日本の家屋よりも、棟は高く、間口はひろく、奥行もふかくとってあるが、それでいて、よその土地よりも、かえって、東洋風な匂いが濃い。神戸、長崎、大阪、横浜などでは、本質的に純一な日本的なものが(道義的な特徴だけは除いて)、まるで外国の影響に抗弁するかのごとくに、強く発揮されている。こころみに、どこか高い屋根の上か、露台の上にでものぼって、神戸の町を見おろしたことのある人は、わたくしの言おうとする意味の、――つまり、十九世紀における日本の港の卓越した点、その奇妙さ、その魅力、……波のようなうねりと白い条《すじ》をもったネズミ色の屋根瓦の海と、破風だの、桟敷《さじき》だの、そのほかひとくちにはいえないような、建築上の凝った意匠や、突飛な設計から成った杉材の世界、――そういうものの最も適切な例を見たことだろう。
日本固有の神仏の祭事なども、聖都京都をのぞいたら、開港場以外に、それを見るに便宜な土地はちょっとなかろうし、また神道と仏教の象徴であり、目じるしである神社、仏閣、鳥居などというようなものも、日光、奈良、西京の古都をのぞいたら、内地の都会で、開港場と肩をならべうるところは、どこにもないだろう。いや、開港場というものの特質を深く研究して行けば行くほど、日本民族の真骨頂は、かの柔術の法則を無視してまで、西洋の感化に、自分からすすんで屈服するなどということはぜったいにないということを、いっそう深く感ずるのである。
日本は、キリスト教の採用をすみやかに世界に宣言するだろうという予想、これは、ひところまえの、ほかのいろいろの予想にくらべると、そう大して無法なものではなかった。けれども、それもしかし、今日になって考えてみると、かえってそれは、いっそう無分別な予想だったように思われる。だいいち、そんな大きな希望をもつ根拠になるような先例は、過去にひとつもなかったのである。早いはなしが、英国の支配下においてさえ、インドにおける旧教宣伝の、あの絶大な努力は、むなしく水泡に帰してしまっている。中国では、幾世紀もの伝道を閲《けみ》したのちに、キリスト教という名を聞いただけで、ふるふる厭がられているようなしまつだ。これは、あながち理由がないことではないのであって、むかしから、西教の名によって、幾回となく中国に対する侵略がおこなわれてきているからである。近東方面にしても、われわれの東洋民族改宗工作は、いっこうに進捗していない。トルコ人、アラビア人、ムーア人など、回回《フイフイ》教(イスラム教)徒を改宗させるなどという望みは、鵜《う》の毛ほどもないし、かつてのユダヤ人改宗協会なども、顧りみて、ただ一笑に附するにおわるだけのものにすぎない。もっとも、東洋人種は問題のそとにおくとしても、われわれは、なにひとつ、誇るに足るような改宗事業はしてきていやしない。いやしくも、近代史の範囲内で、かりにも国民生活を維持していける望みがあるほどの民族に、キリスト教国が、その教義をむりやりにでも採用させえたことは、いまだかつてないのである。どうにか支配しえたものとして通用するものといえば、わずかに二、三の蛮族か、あるいは、こんにちではすでに滅亡しつつある、マオリ族のあいだにおける伝道の、あの有名無実な成功(*)ぐらいのものだ。宣教師というやつも、政略上には、あれでそうとう大きな役にたつものさといった、ナポレオンのあの皮肉まじりな警句でも承服しないことには、どうもわれわれなどは、外国伝道協会の全事業は、ドブへ棄てるような無能無効な努力と、暇と、金の、ばかばかしい大浪費にすぎないという結論を避けるのがむずかしそうである。
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(*)有名無実といったのは、伝道の真の目的というものは、とうてい達成されるものではないという、単純な事実から言ったのである。この問題は、次に引用するハーバート・スペンサーの文章に、力強く要約されている。――「いずこにおいても、じっさい、ある特定の教義をともなう神学上の偏見は、多くの社会問題を論ずるのに偏狭におちいることは免れない。ひとつの信条を絶対に真なりと考え、したがって他のさまざまな信条は、自分の信条とはちがうから、絶対に虚偽だと考えている人、こういう人は、いやしくもひとつの信条の価値というものが相対的なものだという推定をもつことができない。宗教というものは、いずれもその通性からいうと、その宗教が打ち建てられている社会のひとつの要素であると考えることを、まったく外道《げどう》な考え方、矛盾した考え方だと思っている。自分の独断的な神学体系は、どこの土地、いずれの時代にも適合するものだと考えている。これを野蛮人のなかへ移植しても野蛮人は野蛮人なりにそれを理解して帰依するし、自分が経験したとおなじような結果を、彼等の上に及ぼすものだと信じて疑わない。こういう偏見にとらえられているから、すべて民族というものは自分より程度の高い政治形態は受けいれることができないように、宗教も自分より程度の高いものは受けいれることができない。そういう宗教をむりやりに押しつければ、政治のばあいとおなじようにそれを布《し》いたものとはまったく異なった、名あって実なきものにやがては堕してしまうという実証を、閑却《かんきゃく》してしまうのである。べつのことばでいえば、こういう人の特殊な神学上の偏見は、社会的真理の重要な部門にたいして、自分を盲目にしてしまうのである」
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十九世紀も最後の十年となったこんにちでは、いくらなんでも、今あげたような理由は、すでに明々白々なはずであろう。宗教というものは、ただ超自然なもの――神霊についての単なる独断説だけにはとどまらずして、一民族のあらゆる倫理的経験と、いろいろのばあいに、その民族の明賢なる国法の基盤となった建国の歴史、また、その国の社会的発展の記録とその成果、これを綜合したものこそ、一国の宗教なのである。されば、宗教とは、本質的に、ひとつの民族生活の一要素をなすものなのであって、したがって、これを異民族の倫理的・社会的経験によって――つまり、異国の宗教をもって置きかえるということは、常道としては、とうてい、できうべからざることなのである。だいいち、健全なる社会状態にある国民が、その国の道徳生活と切っても切れない深いつながりをもっている信仰を、みずからすすんで破棄するなどということは、あるべきわけがない。なるほど、ある国民は、その教義の形をかえてつくりかえるということはありうるだろうし、あるいはまた、ほかの信仰をよろこんで迎い入れるということもあるだろう。しかしながら、むかしからある自国の古い信仰を、みずからすすんで廃棄してしまうというようなことは、まさかにあるまい。たとえ、その古い信仰が、すでに倫理のうえにも、社会のうえにも、なんら役だたなくなってしまったところで、そういうことはあるまい。
たとえば、中国が仏教を採用したとき、中国は自分の国の古代の聖賢の経書をも、また原始的な祖先崇拝をも、廃棄してしまったわけではない。日本の国が仏教をとりいれた時だって、日本は「神道」を捨てはしなかった。これとおなじ例は、古代ヨーロッパの宗教史のなかにも挙げることができる。ただ、最も寛大な宗教だけが、その宗教を生みだした民族以外の民族に、自発的に受けいれられるのであって、そのばあいも、すでに持っている既成宗教の上に、ただそれを加えるというだけのはなしであって、それが既成宗教の代替物になるというのではないのである。古代仏教が、その布教に大いに成功したゆえんは、そこにある。仏教は吸収する力はあったが、奪いとってそれに代わる力ではなかった。他宗の信仰を、洪大なその体系のなかに合体して、それに新しい解釈をあたえたのが、仏教である。ところが、回回《フイフイ》教とキリスト教――いわゆる西教は、終始、その根本からして頑迷狭量な宗旨であって、こんにちまで、なにものをも合体せずに、ただ汲々としてすべてに取って代ろうとしてきた。キリスト教をもちこむためには、ことに東洋の一国にもちこむためには、その国固有の信仰を破壊するばかりでなく、同時に、その国在来の社会組織まで破壊するようなことが、必然的にそこにおこってくる。
ところで、歴史は、このような大がかりな破壊は、暴力によってのみ成就することができる、それも、高度に入りくんだ社会のばあいは、最も野蛮な獣力によってのみ達成される、と教えている。この暴力こそは、キリスト教が、過去において、布教宣伝にもちいたおもなる手段なのであって、いまでもわれわれの伝道の背後には、この暴力がかくれている。ただ、われわれは、むかしのような露骨な剣《つるぎ》の刃《は》のかわりに、ちかごろでは、金と威嚇をもってそれにかわらしめた。いや、かわらしめたように装っている。どうかすると、キリスト教徒の天職であることを楯《たて》に、通商上の理由をかどにして、威嚇をやったりする。一例をあげると、われわれキリスト教徒は、戦争によって強要した条約の文句をたてに、中国に宣教師を入れることをむりに押しつけた。そして、宣教師を砲艦で援護して乗りこんで行って、自分で好きこのんで殺されたような人命に、莫大な賠償金を支払えといって強要した。中国は、その賠償金を一定の年限ごとに支払わされて、いまや年とともに、西洋人のいわゆるキリスト教と称するものの真価を、いよいよ深く学びつつある。
ところで、最近になって、「真理は、ある人にとっては、その光りがたまたまある事実の上にさすまでは、悟られないものである」というエマースンの名言が、中国における宣教師の侵害の無法なことに対する、二、三のいつわりない抗議によって証明された。この抗議も、おそらく、宣教師事件が、あのまま、ひいては商業上の利益にも反動をひきおこしそうだということに目がつけられなかったら、まずは握りつぶしの憂き目にあったに相違ない。
ところが、以上のような考察にもかかわらず、じつは、ある一時期において、日本は、名目だけでも、改宗しそうだと信ずるに足る、そうとうの事由があったのである。おそらく、諸君は、かつての日本政府が、十六、七世紀のあの赫々《かくかく》たるジェスイット教徒の布教を、政策の上から、やむをえず根絶させる必要に迫られ、当時キリシタンということばが、憎悪と嘲侮の合いことばになったことがあったのを、よもやお忘れにはなるまい(*)。
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(*)この布教事業は、一五四九年八月十五日に九州鹿児島に上陸した聖フランシス・ザヴイエルによって始められた。バテレンという言葉、これはポルトガル語、もしくはスペイン語のパードレが転訛《てんか》して、二世紀前のむかしに日本語となった言葉であるが、いまでもこの言葉は、日本のある地方の民間にそのままのこっていて、それが「悪意をもった魔法つかい」と同意語になっていることは、一奇である。それからまた、自分は外からは見られないで、家の外を行く行人は見ることができるという竹簾の一種を、キリシタンと呼んでいるなども、記すに足るおもしろいことだ。グリフィスは、十六世紀のジェスイット布教の大成功は、ある点、ローマ旧教の外形と仏教の外形には相似たところがあるのによるのだといって説いている。この辛辣な断定は、こんにちではアーネスト・サトー氏の研究によって確認された。(「日本亜細亜協会紀要」第二巻第二章参照)サトー氏は、山口の領主が外国伝道師にあたえた「伝法の説教を許す」という免許状の写しを発表した。――当時、新宗教は、はじめのうちは仏教の高級なものだと思われていたのである。けれども、日本からの耶蘇《ヤソ》会の書簡や、さらにひろく普及しているシャルルヴォアの編纂書などを読んだ人は、当時の伝道の成功がこれで完全に説明しつくされてはいないことがわかるだろう。とにかくそれは、ひじょうに顕著な心理的現象をわれわれに語る問題である。この現象は、おそらく、宗教史上に二度とくりかえされることのないもので、ヘッケルが「伝染的」なものとして分類した心緒活動の、あのめずらしい形によく似ている。(ヘッケルの「中世の流行病」参照)むかしのジェスイット教徒は、近代の伝道協会などよりも、ずっとよく日本人の深い惑情的性格を理解していた。つまり、かれらは驚くべき慧敏さをもって、民族生活のあらゆる源泉を研究し、それを操縦する方法を知っていたのである。そのかれらが失敗した国で、現代の福音宣伝者たちが成功しようなどと望むのは無用だ。耶蘇会伝道のいちばん盛んだった時ですら、わずか六十万人の改宗者をもっていたと称するにすぎないのである。
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しかしながら、あの時からみれば、世界は一変してしまった。キリスト教も変った。あれ以来、三十有余のキリスト教の各分派が、日本改宗の名誉をかちうるために、たがいに満を持して相競った。正統派、傍系派、ともに、それぞれ多少ずつ異なる説を代表する、それら多数の教義のなかから、日本は、たしかに、自分の口に適《あ》った形のキリスト教を、選《よ》りどり見どり、お好みしだいに選べたはずである。しかも、国情からいっても、以前にくらべれば、西教の輸入には、はるかに有利な状態にあったのである。祉会の全組織は、すでにその中核まで乱離として紊《みだ》れ、仏教は国教としての保護をはなれて、嵐の下にあわや消えなんとし、神道の維持も、おぼつかなげに見えていた時である。|※[#「山+居」]然《きょぜん》たる大武士階級は廃棄せられて、統治の組織は一変し、地方は戦争によって震駭され、幾百年ものあいだ、九重の帳《とばり》のなかにたれこめておわした帝《みかど》は、このときはじめてあらわれたもうて、臣民をば恐懼《きょうく》させたのである。騒然たる新思想の潮《うしお》は、あらゆる習俗を一掃せよ、すべての信仰を破壊せよと威嚇し、ここにふたたびキリスト教の伝道は、国法によって解除されたのであった。
事はそれのみにとどまらない。政府は、社会再建の一大努力の時にあたって、キリスト教の問題を、実地に即して考慮した。――ちょうど、外国の教育制度や、陸・海軍制度を研究したのとおなじ、あの抜目のない、平静な態度で、西教問題を考察したのである。諸外国の犯罪・悪徳の防止におけるキリスト教の影響力、これを調査するために、委員会が設けられた。その結果は、十七世紀に、ケムペルが日本人の倫理について下した公平な意見を、いよいよ確固たるものにしたのである。ケムペル曰く、「日本人は、その固有の神々神にたいして、大きな尊敬と崇拝をあらわし、いろいろな方法で、その神々を礼拝している。かれらは、正しい行ないを践《ふ》むことにかけて、また、その生活の純潔なことにおいて、はるかにキリスト教徒を凌駕《りょうが》している、と断言してもよかろうと思う」と。
要するに、日本人は、賢明にも、外国の宗教は東洋の社会状態にはふさわしくないばかりでなく、西洋においても、倫理上の感化力としては、仏教の東洋におけるよりも、その効力がすくないものと断じたのであった。宜《むべ》なるかな、人はその父母を離れても、妻たるものを愛すべし、などという教えを採用したのでは、相互扶助の義務という主旨の上にたった家長制度の社会には、例の大柔術主義で行くと、いたずらに失うところ多くして、得るところが少ないにちがいない(*)。
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(*)最近フランスのある批評家が、日本には、慈善事業や慈善的な施設が比較的すくない、これは日本の国民が、人道に欠けているところがある証拠だといって述べた! ところが、じつをいうと、旧い日本では、相互扶助のたてまえからいって、慈善などという施設は必要と認めないのである。もうひとつ正直なことをいうと、西洋で慈善事業の施設がおびただしく多いのは、あれは西洋人自身の文明が、仁愛の精神などよりも、かえって非人道的精神に富んでいることを雄弁に証拠だてているというのが真相なのである。
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日本の国をキリスト教国にしようという望みは、勅令によって、みごとに裏をかかれてしまった。社会の再組織がおこなわれるにつれて、たとえ、どんな手段をとっても、キリスト教を日本の国教にしようという機会は、ますます少なくなってきたわけである。おそらく、外国の宣教師たちは、例によって、自分の職分以外のことにまで、なんだかんだとおせっかいを焼くだろうが、それでもまだ、当分のあいだは、大目に見られているにちがいない。しかし、かれらは、道徳的にいいことなどは、なにひとつ、成就しはしまい。かえって、そんなことをしているあいだに、自分が利用してやろうと思った相手に、逆に利用されるのが落ちだろう。一八九四年には、新教が約八百人、ローマン・カソリックが九十二人、グリーク・カソリックが三人、これだけの外国宣教師が、日本にいた。これだけの外国宣教師が、日本でつかう総費用は、年に百万ドルを下るまい。――おそらく、それ以上だろう。この莫大な費用をつかったあげくが、新教の方は、諸派合算して、約五万の信者をえたといっており、カソリックの方も、だいたい、同数の信者をえたといっている。してみると、まだあとに、三千九百九十万の不信者がのこっているわけだ。
いったい、宣教師の報告というやつは、あまりそばからとやかく批判を加えないのがしきたりになっているが、これは、まことに有害なしきたりである。そういうしきたりを度外視して、わたくしは、あけすけな自分の意見をいわしてもらうが、じつは、以上の数字なぞも、あんなものはまるで信用のおけた数字ではありはしない。ただ、ローマン・カソリックの布教に関して、かれらが競争者よりもはるかにすくない資金で、競争者と同等の成績をあげたといっているのは、注目に価《あた》いする。相手方でも、その伝道ぶりの手固さは認めている。つまり、かれらは児童の教化からはじめたのである。なるほど、これは合理的だ。ところが、それはそれとしても、どうも宣教師連の報告は、眉唾《まゆつば》ものだという感じが去らない。というのは、日本の最下層階級のもののあいだには、金銭の補助でもうけるとか、職でもあたえてもらうとかいうことに釣られて、そのために、おい来たと、さっそく宗旨がえをするものが、ずいぶんたくさんあるのである。貧乏人の子どもなんかには、外国語が教えてもらえるというので、信者のふりをするものさえあるというくらいだ。また、一時信者になったと公言しておいて、その後、公然とまたもとの神道に復帰したなどという青年の話は、われわれはしじゅう聞いている。洪水、凶作、地震などに際して、宣教師が外国からきた救恤品《きゅうじゅつひん》を配布してやると、その直後は多数の改宗者の報告がくるという事実も、われわれは見ている。
こういうことを見たり、聞いたり、知ったりすると、義理にも、改宗者の誠意が疑わしくなってくるばかりでなく、だいいち、布教の方法の道義性というものに、疑念をはさみたくなってくる。なるほど、年に百万ドルずつ、百年もつかえば、ずいぶん大きな結果もえられるだろうが、その結果がどんな〈たち〉のものかは、想像するにかたくない。どうせ感服できないものにきまっている。この国古来の宗教は、教化の点でも、自衛資金の点でも、現在は微力なんだから、そこをつけこんで、ますます侵蝕したい誘惑をあおられることだろう。さいわい、ちかごろになって、帝国政府は教化上仏教を援助しようという機先がみえてきているようだが、どうやらこれは画餅におわらぬようである。一方、キリスト教国は、遠からぬ将来において、かれらの富裕な伝道協会を、どうやら大きな相互扶助機関に、逐次あらためてゆくという結論に達しそうな可能性、すくなくとも、そうしたけはいが、かすかながらも認められるようである。
日本は、明治改元の直後に、かならず、外国の工業企業に内地を開放するだろう、と考えられた。この考えは、日本がキリスト教にさっそく改宗するだろうと夢想した考えと同様に、まったく誤まっていたということが証拠だてられた。この国は、じっさいの上で、外国人の移住にたいしては、鎖国状態のままであったし、げんにいまでも、そうである。政府自身は、ベつだん保守政策を固執しようというけはいは見えなかったし、むしろ、日本を大々的な外資導入の新市場にしようとして、条約改正を遂行するのに、いろいろの画策をしてきたのであった。それにもかかわらず、事態は、けっきょく、一国の進路は政治経綸によってのみ左右されるべきものではなくして、そんなものよりも、もっとあやまちやすからざるもの――つまり、民族本能によって、方向をさだめるべきであることを立証したのである。
近世の大哲学者スペンサーは、一八六七年に書いた著書のなかで、つぎのような批判を下している。
「その様式の極限まで発達しつくし、すでに均衡が動揺しだした状態にまで達した社会に、ともするとあらわれやすい崩壊のかたち、そのよい例証は、日本によって供給された。国民が自身それを組み立てあげてきた、完成された組織は、新しい外部からの勢力にふれずにすんでいたあいだは、ほとんど一定不変の状態をたもっていたのである。ところが、それが、ヨーロッパ文明の衝撃――その一部は武力的侵略による、ある一部は通商上の刺激による、また、ある一部は思想の影響による、そうした衝撃をうけるがいなや、その組織は、支離滅裂になって、崩壊しはじめた。今日では、その崩壊が、政治上の分裂にまで、進んできている。おそらく、このつぎには、政治の再組織がおこるだろう。が、それはどうでもいいとして、とにかく、こうして外部から加えられた力によってひきおこされた変化は、分裂崩壊への変化――合成作用から分裂作用への変化である」(スペンサー著「第一原理」、第二版、一七八頁参照)
スペンサーのいう政治の再組織は、その後、踵《きびす》をついで急速におこった。のみならず、その編成の道程において、藪《やぶ》から棒になにかの邪魔がはいらないかぎり、まずどこから見ても、願ってもない、むしろそれ以上の再組織のようであった。条約改正ぐらいのことが、政治建て直しの邪魔になるなんて、そんな馬鹿なことがあるものかとさえ思われたくらいであった。当時、日本の政治家の一部のものは、外人の内地雑居に障碍《しょうがい》となるものを取りのぞくために、熱心に運動したのであるが、その反対に、他の一部の政治家は、外人の内地雑居などは、まだ安定もしない社会組織のなかでわざわざ攪乱的分子を新しく導入するようなもので、そんなことをすれば、かならずまた新たな分裂崩壊をまねくにきまっていると感じた。前者の論旨とするところは、現存の条約を支持しながら、適当にそれをあんばいよく改正して行けば、日本の歳入は大いに増加すること請合《うけあい》だし、それに外人の移民の数といったって、おそらく知れたものだろう、というのであった。ところが、保守的な考えをもっているものは、外国人に国を開放することの真の危険は、国内にどっと流れこんでくる数の多寡《たか》の問題ではないと考えた。この論旨に、いわゆる民族本能は賛成したのである。ただ、なにか漠然としたなかに危険を悟ったのであるが、その悟りかたは、まさに真理に触れていたのである。
その真理の一面は、西洋側にあるのであって、これはアメリカ人が熟知しているはずだ。西洋人は、どんなばあいでも、正々堂々と取りくんでかかったのでは、生存競争のうえで、東洋人にはとうてい対抗できないということを、まえから知っていた。このことは、すでにオーストラリアと合衆国の両国での、東洋人移民禁止法の通過によって、じゅうぶんに本音を吐いている。そのくせ、中国と日本の移民に加えた侮辱にたいしては、西洋人は、じつにお話にもならぬ、馬鹿馬鹿しい「道義的な理窟」をいろいろ述べ立てている。ところが、ほんとうの理由は、つぎの数語につきるのである。――「東洋人は、西洋人よりも、生活程度が低い」
ところで、真理の他の半面を、日本側では、つぎのように申し立てた。「西洋人は、ある都合のいい条件の下では、東洋人を圧倒することができる」(*)
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(*)ここに東洋人といったのは、もちろん、日本人のことである。西洋人が中国人を圧倒できるなどということは、数の上の不均衡はさることながら、わたくしは、どんなばあいにも信じない。日本人にしても、中国人と競争する力のないことは知っている。無条件の国土開放に反対する最上の論拠のひとつは、中国人の移住の危険性ということにあるのである。
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都合のいい条件のひとつというのは、温和な気候であろう。もうひとつは、これはもっと重要な条件で、つまり、西洋人は競争する上のじゅうぶんな権利をそなえているうえに、攻勢に出る力を持っているということだ。西洋人が、そうした攻勢力を行使するかどうかということは、これはすでに常識の問題ではない。真の間題は、西洋人が果たしてそれを行使できるかどうか、という点にある。もし行使できると確答ができるとすれば、では、将来の攻略方針はどんな性質のものか。工業方面か、財政方面か、政治方面か。あるいはこの三つを打って一丸としたものか――そんな評議は、するだけ、もはや、時間の空費だろう。けっきょく、相手を粉砕し、資本の大合同によって、競争を麻痺させ、資源を独占し、土着の国民の能力以上に生活水準を高めることによって、原住民を押しのけ、自分がそれに取ってかわらぬまでも、完全にそれを統御する方法手段を見出すにいたるだろうということを知れば、それだけでもう、じゅうぶんだ。
世界の各地いたるところで、幾多の弱小民族が、アングロ・サクソンの権勢のもとに、すでに消え滅びてしまったものがあるし、げんに消え滅びつつあるものもあるのである。日本のように貧乏国のばあいは、ただ単に、外資を導入するというそのことだけでも、国家の危機を招来しないと、誰が保証できよう? もちろん、日本は、西洋のいかなる強国にも、それに征服されやしないかなどと、恐れる必要はすこしもない。どんな外敵がやってきても、日本は、自分の本国の上で、自衛ができる。それに西洋諸国は、おたがいが嫉視《しっし》しあって、国土を侵略する目的の攻撃は、やろうと思ってもやらせないから、おかげで、連合軍に侵入される危険に直面することもあるまい。それよりも、日本が恐れているのは、まだ機の熟さぬうちに、あまり早急に、外人の内地雑居に国を開放すると、ハワイとおなじ運命におちいりはしないか、ということだ。――自分の国土は、外国人の所有にうつり、政治は外国人の勢力で統制され、国の独立なんぞということは、ほんの名目だけのものになり、古来の一帝国は、ついに一種のコスモポリタン的な工業共和国に形をかえるようになりはしないかという心配、これはもっともな懸念だった。
こうした議論は、日清戦争のおこるまえまで、反対派によって猛烈に論議されたのであった。その間《かん》、政府は困難な協議に鞅掌《おうしょう》してきたのである。外国反対派の反動を前にして、国土を開放するのは、ひじょうに危険なことだと思われたし、そうかといって、国土を開放しないで、条約を改正するのは、とうてい不可能に思われた。西洋の列強国の、日本に対する執拗な圧迫は、外交か武力かのどちらかによって、相手方の敵意ある結合を、ひと思いに打ち破りでもしないかぎり、いつまでたっても継続されることは、目に見えて明らかなことだった。青木の機敏が案じだした、イギリスとの新条約は、じつは痛し痒《かゆ》しであったのだ。この条約によって、この条約によって、国土は開放されることにはなったけれども、そのかわり、英国人は、日本の土地を自分の所有にするわけにはいかないことになった。日本の国法に準拠して、借り主が死ねば、その権利は消滅してしまうという契約で、その租借期間だけ、土地を保有することができるということになったのである。沿海貿易は許されないし、在来の開港場のあるものにも、それは許されない。貿易品は、すべて重税を課せられる。外人居留地は日本へ返還する。英国の移民は、日本の司法権のもとに移される。じじつ、この条約では、英国はなにもかにも失って、日本は一切を手中に帰したのである。この条約が公表された時、英国の商人たちは呆然自失して、われわれは母国に裏切られた、――法の上では手も足もがんじがらめに縛られ、そのうえで、東洋の奴隷に売られたのだといって公言した。なかには、おれたちは条約が効力を発生しないうちに、だんぜん、日本を去るといって、覚悟のほどを述べたものさえあったくらいだ。その点、たしかに日本は、自国の外交手腕を祝していい。なるほど、国土は開放されることになっている。しかし、外資が投資を求めてくれば、これを防止するし、そればかりでなく、げんに国内にある外国資本をさえ駆逐するという条項が、ちゃんと設けられているのである。かりにもし、これとおなじ条項が、他の列強国からもえられるということになれば、日本は、まえに不利な締結をした旧条約によって失ったものを、ことごとく取り返しても、まだ余りあるということになるだろう。かの青木案は、まさに外交における、柔術の奥の手を示すものであった。
もっとも、この条約にしても、あるいは、他の新条約にしても、それが実施されないうちに、またなにか持ちあがるかもしれないが、それは誰もよく予言することはできまい。もちろんこれほど大きな国難に直面しながら、これほどの勇気と天才を発揮した民族は、史上にその例を見ないということは事実であるが、それにしても、日本が果たして柔術の特技によって、究極の目的をかちうるかどうかは、まだ今のところは不明である。まだそれほど年をとっていない人の記憶にもあるように、日本が自国の軍事力を、ヨーロッパの一国以上の国と拮抗《きっこう》できるまでに伸長させたのは、ごく近年のことである。また、工業方面でも、日本は、東洋の市場において、めきめきと、急速に、ヨーロッパ諸国の競争相手になってきつつある。教育方面では、西洋のいかなる国よりも学費の安い、しかも、効果のけっして低くない学校制度を設けて、すでに日進月歩の最前線に立っている。しかも、日本は、不正な旧条約によって、毎年したたかなものを外国に掠《かす》めとられながら、洪水や地震のために、莫大な損失をかさねながら、また、国内の政争に四苦八苦しながら、国民の精神から生き血を吸いとろうとする外国の改宗勧誘者の努力を物ともせず、自国の国民のなみなみならぬ貧困のなかで、これをやりとげたのである。
かりにもし、日本が輝かしいその目的を果さなかったとしてみても、日本の不運が、国民精神の欠乏によるものでないことだけは、たしかであろう。国民精神は、まず近世にその比を見ぬくらいに、多分に持ちあわしている。――「愛国心」などという、ありきたりのことばなんか、それを言いあらわすには、まるであたまから無力なくらいだ。日本人には、個性というものがないとか、日本人の個性には、ある限界があるとか、心理学者がいかに説をたてようとも、いやしくも一個の国家としては、日本は西欧の国家なんぞよりも、はるかに強大な個性をもっていることは、問題の余地がない。その点、われわれはむしろ、西洋文明というものは、国民的感情を破壊してしまうまで、従来、あまりにも個人の資質というものを養いすぎてきたのではあるまいかと、じっさい、首をかしげたくなるくらいだ。
義務という問題に関しては、国民全部が総動員して、まったく、ただひとすじの心をもっている。このことについて尋ねてみれば、小学生だって答えるだろう。「ぼくたち、日本人のひとりひとりが、天皇陛下につくす義務は、ぼくらの国を強くして、お金持にして、国がひとり立ちできるように、よく防ぎ、よく守ることに、みんなが励むことです」
国が危いことは、みんな誰でも知っているのだ。そうして、その国の危《あやう》きに当るために、みな心身を鍛えているのである。各小学校では、どこでも生徒に軍事教練の予備課目をさずけている。どこの町にも、そこの町の学校兵士がいるのである。正式な教練のまだできない、小さな子どもは子どもで、昔からある忠君愛国の唱歌や、新しくできた軍歌の合唱を、まいにちおそわっている。新しい愛国歌が、一定の時をおいて作曲されると、政府がこれを認可して、各学校や軍隊に採用する。げんに、わたくしが教えている学校で、そういう愛国歌を、全校四百名の学生がいっせいに歌うのを聞くのは、まことに壮観なものだ。そういうばあいには、若い生徒はみな制服で、軍隊式に整列させられる。指揮官の士官が、「足ぶみ」の号令をかけると、ぜんぶの足がいっせいに、太鼓のとどろくような音をたてて、校庭を踏み鳴らすのである。そのとき、音頭とりが、歌詞の一節をまず歌う。すると、生徒たちは、びっくりするような元気な声で、そのあとについて、歌詞を繰りかえす。そして、歌詞の各行のいちばん終りの音節を、かならず妙に高く歌う。だから、聞いていると、まるで小銃が一斉射撃するような声にきこえる。じつに東洋人らしい歌いかたで、しかも、はなはだ印象的な歌いぶりだ。じっと聞いていると、そこに古い日本の弥猛心《やたけごころ》が、一語一語に脈打ってきこえてくるようである。けれども、それよりもっと印象的なのは、おなじような歌を兵隊がうたう時だ。げんに、この文章を書いている今も(この文章は、一八九三年に書いたもの)、熊本の古城からは、八千のつわものどもの夕べの歌が、ながく尾をひく、甘美な、やるせないような百のラッパの音にまじって、遠雷のひびきのように、きこえている。
政府は、この国古来の忠君愛国の精神を燃やしつづける努力を、けっしてゆるめない。最近、この貴い目的のために、新しい祝祭日が設定された。いままでの古い祭日も、年ごとに、いよいよ盛んに慶祝されている。天皇の誕生日である天長節には、帝国の官公立学校・諸官庁では、かならず陛下の御真影を拝して、国歌、および天長節祝歌をうたい、おごそかな拝賀式(*)をとりおこなう。
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(*)陛下の御真影を拝する式は、宮中で行なわれる拝謁の式を、そのままそっくり写したものである。一拝して、三歩すすんで礼をなし、さらに三歩すすんで、最敬礼をする。陛下の御前をさがるときには、賜謁者は、そのままあとずさりをしながら、前とおなじく、ふたたび三ど礼をする。
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どうかすると、学生のなかには、外国の宣教師にそそのかされて、自分たちはキリスト教徒だという特別な立場から、この忠義と謝恩の簡単な礼を拒むものがあるが、そういうのは、しぜんと仲間から爪はじきをされて、しまいには、学校にいるのが居にくくなるようなぐあいになるのさえあるくらいだ。すると、宣教師は、「天皇の偶像を礼拝することを拒んだがために」日本ではキリスト教が迫害されるのだといって、本国の機関紙に、なにがしの記事を投稿するのである。(これには、りっぱな確証がある)こんな出来事は、もちろん、ごくたまにしかないことだけれど、外国の福音伝道師が、かれらの伝道の真の目的を、自分からわざわざ破っている、その常套手段がどんなものだかを示す役には立つだろう。
最近、日本のキリスト教信者の連中が、ちょっと、常にない国民感情を吐露した出来事があったが、これなどは、おそらく、その原因の一部は、外国宣教師どもが、日本人の国民精神や、国家的宗教、道徳律などにとどまらず、日本古来の服装風俗などまでも、かれらの癖で、狂信的に非難攻撃したことによったのだろうと思われる。信者のうちのある者のごときは、外国伝道師の面前で、あなたがたのような方は、どうかこの際、みんな罷《や》めていただきたい、われわれは、精神において、その根本からして日本人らしい、そうして本質的に国民的な、新しい、特殊なキリスト教を生みだしたいのだ、という願望を公然と発表した。そうかと思うと、またあるものは、さらに竿頭《かんとう》一歩をすすめて、げんざい、日本の法律に適《かな》うために、あるいは、日本の法律の網の目をくぐるために、その他の財産を、ぜんぶ、日本人の名義になっているミッション・スクール、教会、おまえたちがしじゅう公言している動機の潔白を証するために、名義ばかりではなく、事実においても、われわれ日本人のキリスト教信者の手に引き渡せ、といって要求した。そして、いろいろのばあいで、ミッション・スクールを、どうしても日本人の手に引きわたす必要のあることが、すでにほうぼうで認められてきている。
日本人が、挙国一致して、政府の教学上の努力と目的に賛意を表した、そのすばらしい熱誠さについては、わたくしは旧著のなかに語っておいた(「日本瞥見記」参照)。それに劣らぬ熱誠と献身とが、国防計画の援助にも示されている。陛下おんみずから、軍艦の購入費に、御内帑金《ごないどきん》の大部分をさかれて範を垂れたもうたので、おなじ目的のために、全官公吏は、その俸給の一割を献金せよとの勅令が公布されたときにも、国民は、ぷつりとも蔭で不平がましいことを言わなかった。陸海軍士官、諸学校に教職を奉ずるもの、諸官庁の吏員は、ひとりのこらず、毎月、こうして海防献金を納めている(*)。大臣、貴族、国会議員も、最下給の郵便局員とおなじく、免除はされない。勅令によるこの献金は、六年間継続されることになっているが、このほか、国内の富裕な地主、商人、銀行家などによって、自発的に醵金《きょきん》されたものは、莫大な金額にのぼっている。けだし、祖国を救うためには、外には夷狄《いてき》の圧迫が日とともにいよいよ急を告げて、一刻の遷延も許さず、一日も早く、国を増強しなければならぬ時が迫っているからである。日本の努力は、ほとんど信じられぬくらいである。その成功も、どうやら絵そらごとではなさそうである。しかしながら、形勢は、日本のためにすこぶる不利である。あるいは日本は蹉跌《さてつ》するかもしれぬ。日本は蹉跌するであろうか? その予見は、はなはだしく困難である。けれども、たとえ、将来に不幸が見舞っても、それはこの国民の気慨が弱くなった結果ではあるまい。おそらくそれは政治上の誤謬、あるいは、あまりに向う見ずな自信のまねいた結果として起ると見る方がよさそうである。
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(*)郵便集配人と、平巡査は免除された。平巡査の月給は、わずかに六円である。郵便集配人は、それよりもさらに薄給である。
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もうひとつ、まだ聞きたいことが残っている。それは、すべてこの専念、同化、反動のまっただなかにあって、日本に古くからある道徳は、いったいどんな運命のもとにあるか、ということである。最近、わたくしがある大学生とかわした次の談話などは、ある意味で、それを暗示する解答になりはしないかと思う。記憶にたよって書くのだから、いちいち、その時のことばどおりではないけれども、新しい世代の思想を代表するものとして――古い精神の消滅した証拠として、興味がある。
「先生、先生がはじめて日本へいらっした時、日本人についての御意見は、いかがなものでございました? どうぞ御腹蔵《ごふくぞう》のないところを伺わせていただきたいのですが……」
「いまの若い日本人かね?」
「いいえ」
「それでは、いまでも昔ながらの習慣にしたがって、昔ながらの礼式を守っている、――そら、以前の君たちの漢文の先生のような、ああいう、古いサムライかたぎを代表している、愉快な老人のことかね?」
「そうです。A――さんは、あの方は理想的なサムライです。まあ、ああいう方のことですがね、わたしの申すのは」
「ああいう老人は、わたしは、じつに善良と高貴の権化のように思ったな。まるで、日本の神さまみたいに見えた」
「いまでも、そうお考えになっておいでですか?」
「考えているね。いまの新しい時代の日本の人を見ると、なおさら、ああいう昔の人が、よけいになつかしくなってくる」
「わたしらも、ああいう方がなつかしいですね。でも、先生なぞ、外国の方として、ああいう老人の欠点と申しますか、そういうものも御覧になっていらっしゃるはずでしょう」
「欠点というと、どういう……?」
「西洋流の実際的な知識に欠けているといったような欠点ですね」
「しかしね、人間を判断するのに、その人の属している文明と、ぜんぜん違う組織をもった、べつの文明の標準で、その人を判断してはいけませんよ。わたしなぞ、こういう気がするがね。つまり、あるひとりの人が、その国の文明を完全に代表していればいるほど、われわれはその人のことを、市民として、また紳士として、ますます尊重しなければならんと思うね。むかしの日本人は、道徳的にひじように高かった当時の基準から判断して、ほとんど完璧な人間のように、わたしには見えるね」
「どういう点ですか?」
「親切、礼節、侠気《きょうき》、克己、献身的精神、孝行、信義、それから足ることを知るという点などでね」
「でも、そういう徳は、それだけで、西洋流の生存競争に、実地の成功をおさめられるでしょうか?」
「それは、しかとはいえないけれども、そういう徳のうちのどれかは、助けになるだろうね」
「西洋流の生活に実地に成功するのに、じっさいに必要な徳こそは、むかしの日本人に欠けている徳じゃないのでしょうか?」
「そう思うね」
「日本の古い社会は、なるほど、先生のお褒《ほ》めになるような、没我とか、礼節とか、仁慈とかいう徳は養いましたけれども、そのかわりに、個性というものを犠牲にしました。ところが、西洋の社会は、無制限の競争で――思想力と行動力の競争のなかで、もっぱら個性を磨いてきたのですからね」
「そのとおりだと思うね」
「ところが日本が国際間に自国の地位を保ってゆくには、どうしても、西洋の工業や商業工業のやり方を、身につけて行かなければなりません。日本の将来は、一にかかって、工業の発達にあると思うのですが、それはですね、われわれが祖先の遺風を墨守《ぼくしゅ》していたのでは、とうてい、発達の見込みなんかありませんでしょう」
「なぜかね?」
「西洋と競争することができないとなれば、これはもう破滅ですからね。ところで、西洋と競争するには、よろしく西洋のやりかたに従わなければなりません。これは旧弊な道徳にまったく反することです」
「そういうことになるだろうね」
「それはもう、疑うことはできないと思います。他人の仕事にさわるような利益は、求めちゃならん、というような考えに縛られておったら、大規模な仕事は、てんで、できやしません。ところが、一方、競争に制限のない国だと、単に親切ごころのために競争をちゅうちょするような人間は、これは失敗するにきまっています。生存競争の鉄則は、力が強くて活動するものが勝って、弱者、愚者、無関心なものは敗北するのです。ところが、日本の古い道徳は、こういう競争を罪悪視していましたからね」
「そのとおりだね」
「そうなりますと、先生、いかに古い道徳がよいものであっても、これに従っていたのでは、われわれは、工業上の大進歩もできませんし、国の独立を維持することもできません。われわれは、よろしく自分たちの過去を捨てなければなりません。道徳にかわるに、法律をもってしなければなりません」
「しかし、それはよい代替物じゃないよ」
「ですけど、こんにち、英国のあの物質的な偉大な力を考えてみますと、西洋では従来、それがよい代替物になってきております。日本においても、われわれは情操の上で道義的になるかわりに、理性の上で道義的になることを学ばなければなりません。法律というものの道義的理念を知ること、それがつまり、とりもなおさず道義心というものを知ることになるのです」
「そりゃ君たちゃ、宇宙の法則を研究する人たちは、それでよかろうさ。しかし、一般大衆はどうなるね?」
「大衆は、むかしながらの古い信仰を守って行こうとするでしょう。依然として、大衆は神や仏への信仰を求めつづつけて行くでしょう。おそらく、生活難はますます深刻になって行くでしょうね。むかしのかれらは幸福でしたよ」
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以上の小論は、二年前に書いたものであった。その後におこった、政治上の事件や新条約の調印は、昨年、わたくしをして、これが訂正の筆をとらしむるのやむなきに至った。ところが、今、たまたま校正中に、中国と戦端がひらかれたので、そのために、さらにここに数言を費さなければならないことになった。
一八九三年には誰も予知できなかったことが、二年おいた一八九五年には、全世界が驚愕と讃嘆をもって認めざるをえないことになったのである。≪日本は柔術において勝ったのだ。≫日本の自治権は、事実上、恢復され、文明国諸国のあいだに伍《ご》しての日本の地位は、どうやらこれで確保されたようである。ようやくこれで、日本は、永久に西洋の保護から脱したのである。固有の芸術とか、本来の美質とか、そういうものでは、従来、とうてい手に入れることのできなかったものを、新しい科学的な攻撃力と破壊力とで、日本はようやく手に入れたのである。
こんどの戦争をするために、日本は、ずいぶん長いあいだかかって、ひそかに準備をしていたとか、やれ、開戦の口実が薄弱だとか、いろいろ軽率な下馬評が加えられてきたけれども、わたくしとしては、日本の戦備の目的は、前段にのベた条々にほかならなかったと信じている。苦節二十五年、そのあいだ、日本が着々として軍備をすすめてきたのは、自国の独立を恢復することにあったのである。その間における外国の圧力、それに対する国民の引きつづく反撥の脈搏――その脈搏は、次から次へと、しだいに高くなって行った――は、いきおい、国民が伸張しつつある国力を自覚してきたことと、条約に対する憤慨が日ごとに増してきでいることを、政府に悟らしめた。一八九三ー九四年の反動は、国会において、そうとう緊迫した形をとったので、議会は即時解散のやむなきに立ち至った。けれども、再三再四の議会解散も、いたずらにただ、問題の解決を遷延《せんえん》するだけにおわったのである。
この低迷する暗雲がようやくに散じたのは、ひとつは新条約の成立と、もうひとつは中国出兵以来のことであった。考え来れば、爾来日本に対して、西洋諸国が徒を組んで、工業ならびに政治上に無慈悲な圧迫を加えたことが、今次の戦争を捲きおこさせたということは、なによりも自明ではないか。――いわば、抵抗力のもっとも薄い方面に、力が爆発したというわけである。さいわいにも、この力の爆発は功を奏することができた。いまや、日本は、世界に対して、自立の力のあることをみずから証明したのである。日本としては、この上さらに圧迫や瞞着《まんちゃく》をしいられさえしなければ、西洋との工業上の取引を断とうなどという望みはさらさら持っていないのである。そのかわり、帝国陸軍が再生したために、西洋諸国が、直接にしろ間接にしろ、日本に圧力を加えるという時代はもうはっきりと過ぎ去ってしまったことは、たしかである。ただ、今後また、ものの当然の順序として、さらになお外国に対する反撃思想が予期されないとはかぎらないかもしれないが、しかし、その反動は、かならずしも暴力的なものでも、没義道《もぎどう》なものでもなく、かえって国民的個性を十二分に主張するという形をとってくるだろう。あるいは、長いあいだの専制政治に慣らされてきた国民がやった立憲政治の試みの結果が、あまりかんばしいものでなかったことなどに鑑みると、今後、多少政体が変ってくるということは、考えられないことではない。けれども、日本はおそらく南米共和国のようなものになるだろうといったサー・ハリー・パークスの予言が、もののみごとにはずれたことを考えると、このふしぎな謎的人種の将来を卜《ぼく》することは、一朝一夕にはできないことをおしえられる。
戦争はまだ終結していないことは事実である。けれども、中国に革命の最大好期をあたえると見越しても、けっきょく、日本が終極の勝利をうることは、疑いない。次に来るべきものは何か? ――いまや世界は、すくなからぬ不安をもって、このことを憂慮しつつある。おそらく、世界中で最ものんきな、最も旧弊因循《きゅうへいいんじゅん》な国民である中国は、日本と西洋とに圧迫されて、ついに自衛上、やむをえず、西洋の戦術を本腰を入れて学ぶことになるにちがいない。それを学んだ挙句には、おそらく、中国の軍事上の一大覚醒が招来されるだろう。そうなると、新しい日本とおなじ事情で、当然中国の兵力は南方と西方とに向けられるということは、これは誰が考えてもわかりきった話だろう。それを押しつめて行った結果が果してどんなことになるか、それは、ドクター・ピーアスンの近著「国民性」を見られるといい。
柔術のわざは、あれは中国で発明された技《わざ》であるということを、諸君はよく銘記しておいていただきたい。西洋は、今後、まだまだ、中国を相手にいろいろな事をして行かなければならないのだ。その中国は、日本のむかしからの師匠である。古来、征服の嵐が絶えまなくあとから吹き起っても、しかも、まるでそれが芦《あし》の葉の上を吹きわたる風のように、幾千万の住民の頭上を一過して、すこしも跡をとどめないできた中国。この中国を、西洋は相手にして行かなければならないのだ。じっさい、あるいは中国も、日本のように、外部から圧迫をうけて、いきおいやむなく、柔術によって国の保全を護るようなことになるかもしれない。それにしても、あの物凄い柔術でやられたら、その果は、全世界に最も由々しい結果を蒔《ま》くことになるだろう。ひょっとすると、西洋が今日まで、幾多の弱小国の処理に際して犯してきた、その植民政策のために、蚕食、強奪、鏖殺《おうさつ》などに対する復讐心は、中国にこそ貯わえられであるのかもしれない。
すでにして、ある思想家たち――忘れられてはならない英・仏の思想家たちだが、――は、二大植民国の経験を要約すると、世界はけっして西洋民族によっては完全に制覇《せいは》はされない、むしろ、将来は東洋に属すると予言している。また、永らく東洋に滞在して、われわれ西洋人とはその思想においてまったく類を異にする、かの不思議な民族の腹の底をのぞくことを学んだ人たち、――東洋民族の生活の潮流の深度と力とを知り、底知れないかれらの同化力を識り、南北両極間のほとんどいかなる環境にも自分を適合させてゆく力を認めることを学んだ多くの人たちも、やはり、そうした確信をもっている。こうした観察者の判断によると、世界人口の三分の一以上を擁しているこの東洋民族を撲滅しないかぎり、いまや西洋文明の将来は保証しがたいというのである。
おそらく、最近ドクター・ピーアスンがはっきりと断言したように、西洋人の膨脹侵略の長い歴史も、いまはもう、そろそろ終りに近づきつつあるのである。
おそらくわれわれの西洋文明が、この地球を帯のように巻いたその結果はというと、詮ずるところ、われわれの破壊技術と、各国間の工業上の競争術とを、それもわれわれのためというよりも、むしろ、それを用いてわれわれに敵対しようとする民族にむりやりに学ばせた、ということにすぎないだろう。しかも、これをするのに、われわれは、世界の大部分を属国にしなければならなかったのだ。――それほど、膨大な力を要したのである。おそらく、われわれは、それより少くは、どう案の立てようもなかったのだろう。なぜかというと、われわれが作りあげたこの恐ろしい社会の機関《からくり》、これが例の昔ばなしにある鬼のように、それに授けてやる仕事がなくなると、たちまち、われわれを啖《くら》いつくそうと、脅かすのだから。
じっさい、われわれの西洋文明というものは、じつに大した創造物だ。――だんだん深みへ落ちこんでゆく苦悩の深淵から、いよいよ高い生長がうまれてくるのだから。見る人の多くは、驚嘆するよりも、かえって怖しいと見るだろう。この西洋文明が、ある社会的な地震によって、きゅうに崩壊することがあるかもしれないとは、その文明の頂点に坐している人たちの、長いあいだの悪夢だったのである。東洋の賢人はつとに教えている。――道徳の基礎が薄弱な文明は、社会的機構としては長持ちがしないと。
なるほど、西洋文明が営々辛苦して生みだしたものは、この地球上に、人間の生存劇がじゅうぶんに演じ尽されるまでは、消滅しないだろう。これだけは確かだ。西洋文明は過去を復活させた。――死者のことばに生命を与えた。――『自然』から無数の貴重な秘密をもぎとった。――天体を分析し、時間と空間を征服した。――目に見えないものを、むりにも見えるものにし、『無限』の秘帳をのぞいたほかの、あらゆるヴェールをひんめくった。――何万という学問の体系をたてて、近代人の脳髄を、中世人の頭蓋骨にははいりきれないまでに膨脹させた。――個性というものの最も高尚な形を発達させたが、それと同時に、一方ではまた、最も厭《いと》うべき形をも発達させた。――人間の知っているうちで最も繊細な同情と、最も崇高な感情を発達させたが、そのかわりまた、ほかの時代にはなかった利己主義と苦悩をも同時に発達させた。知性の上では、西洋文明は、星の高さよりもまだ高いところまで生長したのである。いずれにしても、この西洋文明が将来におよぼす影響は、かつてのギリシャ文明がその後の時代におよぼしたそれとは、比較にならぬほど洪大なものにちがいないということだけは、信ずるよりほかになかろう。
ところが、この西洋文明というやつは、ある有機体はその組織が複雑になればなるほど、致命的な傷害を受けやすくなるという法則を、年とともにいよいよ発揮してきつつある。力が増してくるにしたがって、その内部は、ますます深い、鋭敏な、微細に分裂した神経が発達して、どんな衝撃にも、どんな傷にも――つまり、どんな外部の力の変化にも、感じやすくなるのである。だから、すでにもう、世界の果に起った旱魃《かんばつ》でも、飢饉《ききん》でも、どんな小さな資財供給地の損傷でも、一鉱山の廃絶でも、商業上の静動脈になっている運輸網の、ほんのちょっとした一時の休止でも、工業上の神経網にちょっとした圧迫が加えられても、たちまちそれが、膨大な機構のあらゆる部分に痛みの衝撃をつたえるほどの大混乱をひきおこすのである。しかも、もともとその機構は、外部の力に対抗して、それに応じてその内部に変化をおこす驚くべき力をもっていたのであるが、それがこんにちでは、そういうものとはまるで違ったものに内部が変化してしまって、そのために危険なものになってしまったようである。
なるほど、西洋文明は、個人をますます発達させていることは、これは確かな事実である。けれども、発達させているといっても、それは、ちょうど植物をガラスの箱のなかで、人工的な温度だの、色光灯だの、化学的肥料などをもちいて発育させるように、発達させているのではなかろうか? あまり長くつづけさせておくことはこまる状態――たとえば、少数のもののためには無制限な贅沢を、そして多数のものには、鋼鉄と蒸汽の残酷無慈悲な奴隷的境遇をしいるといったような、そうした困った状態に、特にそれだけに適するように、幾百万という人間を速成的に養成しているのではなかろうか。
この疑問に対しては、従来、つぎのような答えがあたえられてあった。――社会の改変、これが、危機にそなえる手段と、あらゆる損失をつぐなう方法とを供給してくれるだろうと。なるほど、そういう社会的な改革が、すくなくとも一時は、奇蹟をはたらくということは、これは願ってもないことだ。しかしながら、われわれの将来という究極の問題を考えてみると、どんな社会的変革を考えてみたところで、そういうものが幸福な解決をもたらすとは、どうも考えられない。――たとえば、徹頭徹尾、完全申し分ない共産主義が打ち建てられたと想像してみても、どうもそれが幸福な解決をあたえてくれるとは考えられない。なぜかというと、高度の民族の運命は、将来において、『自然』をいかに経済的に使うかという点に、その民族の真価がかかっていると思われるからである。「そんなことをいって、われわれは優等人種じゃないか」――この問いに対しては、われわれは「然《しか》り」と声を大きくして答えることができる。できるが、しかし、この肯定は、「われわれは生存の適者なりや」という、それよりももっと重要な問いに対する、満足な答えにはなるまい。
いったい、適者生存ということは、どこにあるのであろう? それは、いつ、どこの、いかなる環境にも、自分を合わせて行けるという力にあるのだ。――まえもって予知できないことにぶつかっても、すぐとそれに対して、臨機応変の処置がとれる力にあるのだ。――つまり、すべて自分に対抗してくる自然力をがっちり受けとめて、その力を完全にこっちのものにしてしまう天賦の力腕にあるのだ。けっしてそれは、人間がこしらえた人為的な環境、つまり、われわれが製造した変則な力に自分を適応させてゆく力にあるのではない。じつにそれは、単純な生活力なのだ。
ところで、この単純な生活力という点では、われわれ自称優良人種は、東洋人種に劣ること、じつにはなはだしい。肉体力とか、知的資源とかいう点では西洋人は東洋人よりもすぐれているけれども、そういう西洋人は、いわゆるその人種的優越とはまるで不釣合な冗費《じょうひ》をかけて、やっとそれを維持しているわけなのだ。ところが、東洋人はどうかというと、かれらは米の飯を食って、そうしてしかも、われわれの科学の成果を学び、それを完全に自分のものにするという腕をもっていることを証しているし、また、おなじその簡単な食物で、西洋の最も複雑な発明品を製作して、それを利用することを、ちゃんと学んでいるのである。それなのに、西洋人とくると、二十人の東洋人の生活を維持するだけの費用をかけないと、一人前に生きてゆくことさえできないのである。つまり、われわれの優越性のなかに、われわれの致命的な弱味がひそんでいるわけだ。われわれ西洋人の肉体的機関は、当然、将来ある確実な時期に、民族競争と人口過剰の重圧が見舞ってきた時には、これを運転するのに、ひじょうに高いものにつく燃料をつかわなければならない。
人類出現以前、いや、おそらく出現以後にも、この地球上には、こんにちではすっかり絶滅してしまっているが、ずいぶんと巨大な怪獣がいろいろと生棲していたのである。そういう巨獣どもは、いずれも自然の外敵に攻撃されて滅びたのではないのである。その多くは、どうやら地球の恩恵物が、いきおいだんだんと少なくなってきだした時期に、自分たちの体格が、とんでもなく物がかかるという、それが唯一の原因で、とうとう死に絶えてしまったものらしい。それとおなじことでひょっとすると、いまに西洋人種も、生きてゆくのに金がかかりすぎるというために、あるいは死に絶えるようなことにならないともかぎらない。これがどんづまりの素天辺《すてっぺん》という仕事をしあげたのちに、地球の表面からぱっと消えてなくなって、そのあとには、もっと生き残るのに適した人間どもが、とってかわるようなことになるかもしれない。
だいたい、われわれは、こんにちまで、われわれが贅沢なくらしをするために、弱小人種をどしどし殺してきたのである。ほとんど意識的な努力もせずに、まるで猫の首でもしめるように、そうした人種の幸福に欠くべからざるものを、なんでもかんでもこっちのものにひとり占めをし、吸いとるだけ吸いとって、みんな殺してしまったのである。
それとちょうどおなじように、しまいには、こんどはこっちが、われわれより生活程度が低くて生きて行かれる人種に、――つまり、われわれより耐乏心が強く、自制心に富み、繁殖力の旺盛な、しかも生活を支えてゆくのに『自然』の恩沢《おんたく》を浪費することの少ない人種に、こっちの生活必需品をそっくり捲きあげられて、けっきょく、お陀仏《だぶつ》ということにならないともかぎらない。そういう人種は、必定、西洋の知恵をうけついで、西洋の有用な発明品を採用し、そして西洋の工業のよいところをつづけて行くだろう。――またおそらく、西洋の科学や芸術で、後世にのこす価値のあるものも、永久に伝えてゆくだろう。そのくせ、かれらは、われわれが消えてなくなってしまったことを、かくベつ惜しみも悔みもしないにちがいない。ちょうど、われわれが恐竜や魚竜の滅亡を、すこしも惜しいと思わないのとおなじように。
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赤い婚礼
ひと目ぼれ。――これは、日本では、西洋ほどざらにあることではない。ひとつには、東洋の社会組織が特殊なのと、もうひとつには、恋の不幸というものが、親がとりきめてくれる早婚のために、よほど防止されている点があるからである。そのくせ、一方には、恋愛自殺はずいぶんちょくちょくある。もっとも、そういう恋愛自殺は、ほとんどいつもそうだといっていいくらい、かならず、ふたりいっしょに死ぬという特殊なかたちをもっている。のみならず、そういう恋愛自殺は、まず多くの例に徴してみても、たいていは道ならぬ関係をむすんだものの、なれの果てだと思わなければならない。
けれども、なかには、正道な、ずいぶん思いきった例外もないではない。そういう異例なのは、通例、いなかの地方などによくおこる。恋愛ざたにしても、そういう悲劇におわるようなのは、筒井筒《つついづつ》、振りわけ髪の幼ななじみのなれそめから、きゅうにわりない仲に進展したといったようなのが多く、たいがいその恋愛過程をたどってゆくと、男も女も、おたがいに子どもの時代にさかのぼるというようなのが多い。
ただ、そういうばあいにも、西洋の情死と日本の情死とのあいだには、そこにはなはだ奇妙な相違がある。日本の情死というのは、これはなにも、あながちに苦しまぎれの、盲滅法《めくらめっぽう》な、あわてふためいた、一時の逆上から起るものではないのである。当事者同志は、きわめて冷静だし、物の順序もちゃんと踏んでいるし、とにかく神聖なものだ。心中とは、死をもって起請《きしょう》とする結婚を意味するものなのである。一ついの男女が、たがいに神前で起請をかわしあい、この世に書きのこす書置きをしたためて、それからのちに死ぬのである。いかなる起請・誓文にしろ、これ以上神聖なものはあるまい。
そういうしだいであるから、たとえば、かりに思いもよらぬことから、ふいに外部から邪魔がはいったり、あるいは医師の手当などで、ふたりのうちの一方が、思いがけなく、死の手からむりやりにもぎもどされる、というようなことが起ったばあいには、あとに生きのこった片われは、自分の立てた恋と名聞《みょうもん》との厳粛な誓約があるために、そのことから、なんとかしてできるだけ早い機会に、自分の一命を絶たなければならないという義理に責め立てられる。もちろん、ふたりがそろって一命を助かったばあいには、べつに文句はない。ところが、いったん女といっしょに死のうと誓いをつがえたあげくに、あいつは相手の女をひとりで冥途《めいど》へ旅立たせた男だということが世間に知れわたりでもすれば、それこそなにか重い罪でも犯して、いっそのこと、一生ろう屋へでもぶちこまれたほうが、まだしもなのである。
女のほうは、かりに万一誓紙にたがうようなことがあっても、このほうはいくぶんか罪が軽い。が、男のばあいは、よしんばほかから邪魔がはいって、自分が心中に死にそこね、こうと思いつめた目算ががらりはずれたからといって、それなりおめおめと生きながらえでもしようものなら、あいつは大うそつきだ、人殺しだ、人畜にもおとるひきょうなやつだ、人間のつらよごしだと、それこそ一生、死ぬまで、人非人あつかいを受けるのである。げんに、そういう実例を、わたくしもひとつ知っている。が、いまここでは、それよりもむしろ、東国地方のある村におこった、ごく素朴な恋ものがたりの一くさりを話してみたいとおもう。
その村は、ある川のほとりにのぞんでいた。河はばのひろい、けれども水の浅い川で、ごろた石がころがっているそこの川床は、まいとし雨季になると、そのときだけ、まんまんたる水におおいかくされる。村の南と北とは、遠く地平までひらけており、川は、そのあいだにひろがっているひろびろした稲田のなかを、つらぬき流れていた。西のかたには、青い山脈が垣のようにそびえ立ち、東のかたは、樹木のうっそうと茂った低い丘陵のつらなりが、行く手をさえぎっていた。この丘陵と村とのあいだを隔てているものは、わずかに、半道ほどの稲田ばかりである。村にほど近い丘のいただきには、十一面観音をまつった一宇の堂があり、その堂の地尻のところには、村の共同墓地が、ひとくるわになってかたまっている。物資の集散地として、この村は、さまで捨てた村でもなかった。どこのいなかにもある、田の字がたのわらぶき屋根の百姓家が、それでも五、六百戸ほどあるほかに、二階づくりの繁華な店屋、りっぱな瓦ぶきのはたご屋などの並んだ本通りがいっぽんある。そのほかには、日の神をまつった、絵にかいたような鎮守の社と、桑畑のなかに、お蚕《かいこ》の神さまをまつった小さなほこらとがあるばかりである。
明治七年のことである。この村の内田という染物屋に、太郎という男の子が生まれた。ちょうど陰暦の八月七日のことで、太郎の誕生日は、偶然にも悪日にあたっていたので、それでなくとも旧弊人の親たちは、ひどくそれを気に病んで、しょげかえっていた。
それを気の毒におもった近所の人たちは、なあにおまえさん、この節じゃ、天子さまの御勅令で、暦は改正になったんだ、新暦だと七日は吉日にあたるよ、それ見なさい、万事めでたく行ったわけじゃないかね、といって、いろいろと言いなぐさめてくれた。
このいさめのことばは、親たちの心配をいくぶんか軽くしてくれた。が、それでも両親は、お宮まいりの日に、子どもを氏神へおまいりにつれて行った時には、わざわざ大ぢょうちんを神前に奉納して、どうかいっさいの悪事災難をこの子からおはらいくださるようにと、心をこめて祈願したのであった。神主は、なにやら古風な式ごとをくりかえし、赤んぼの小さな頭の上で、しきりと御幣《ごへい》をふり、子どもの首へかけるように、小さなお守り札を一枚こしらえてくれた。氏神まいりをすませてから、親たちは、丘の上にある観音堂へもまわって、そこでも、くさぐさの供えものをあげて、どうか初児《はつご》を無事息災にご守護くださるようにと、諸仏諸菩薩に、ねんごろに祈願をこめたのであった。
太郎が六つになったとき、両親は、村からほど遠からぬところに建てられた、新しい小学校へ、太郎をあげることにした。太郎のおじいさんが、筆や、紙や、本や、石盤を、太郎に買ってくれて、ある朝早く、太郎の手をひいて学校へつれて行ってくれた。太郎は、とてもうれしかった。石盤や、その他いろいろの物が、新しいおもちゃみたいに太郎を喜ばしたのと、かねがねみんなから、学校というところはおもしろいところ、お遊びの時間がたんとあると言い聞かされていたからである。そのうえ、学校から帰ってきたら、お菓子をたくさんあげるからという、母の約束もあったのである。
おじいさんとふたりして、ガラス窓のたくさんある、大きな二階づくりの学校へ行ってみると小使《こづかい》が、なんだかガランとした大きな部屋へ、ふたりを案内してくれた。すると、そこの机のまえのところになにやら気むずかしそうな顔をした人が、ひとり控えていた。太郎のおじいさんは、その気むずかしそうな顔をした人に、ていねいにお辞儀をしてから、その人のことを先生とよび、どうかこの坊主を、よろしくひとつご教導のほどをねがいますといって、うやうやしく頼んだ。
先生は腰をあげて、礼をかえすと、いんぎんな調子で、なにやらおじいさんに言っていた。それから、太郎の頭をなでて、いろいろとやさしいことばをかけてくれた。が、太郎は、先生になにか言われたとたんに、きゅうになんだかこわいような気がしてきた。やがて、おじいさんが、先生にむかっていとまのあいさつをのべると、太郎は、いよいよおじけがついてきて、いっそ家へ逃げて帰ってしまいたくなってきたが、先生はしかし、そんなことにはいっこうかまわずに、太郎のことを、大きな、天じょうの高い、まっ白なへやへつれて行った。そのへやには、腰かけに、ずらりと腰をかけて、男の子や女の子たちがいっぱいいた。先生は、その腰かけのひとつへ太郎をつれて行って、ここへおかけ、と言われた。男の子や女の子たちはみんないっせいに首をふりむけて、太郎のことを見、そして隣り同志、なにかこそこそささやきあって、笑っている。太郎は、みんなが自分のことを見て笑っているのだと思うと、なんだかひどく心細くなってきた。
そのとき、ガラン、ガランと、大きな鐘が鳴った。すると、さっきからへやの正面の、高い壇の上の席にひかえていた先生が、びっくりするような声を出して、みな黙りなさいと命じた。太郎はふるえあがってしまった。やがて、みんながしずかになったところで、先生はしゃべりだされた。太郎は、先生の話され方がとてもこわいと思った。先生は、学校はおもしろいところだとは言われなかった。学校は遊ぶところではない。いっしょうけんめいに勉強をするところだと、先生は、にべもなく、生徒たちに言いきかせた。学問はつらいものだ、つらくて、むずかしいものではあるが、そこを、みんなはよく勉強をしなければならん、とも言われた。それから、生徒の守らなくてはならない規則、言うことを聞かなかったり、ぼんやりしていたりすると、罰をくわせる。そういうお話もされた。
生徒たちが、みんなおっかなくなって声をのんで、しーんとしずまりかえっていると、先生は、こんどは調子をすっかりかえられて、やさしいおとうさんのような口調で、おまえたちのことは、先生は、自分の子どもみたいにして、かわいがってあげる、それから、この学校は、日本の子供たちが、男の子は大きくなって賢い人になり、女の子はすなおな、よい女の人になるようにというので、天皇陛下の御命令によって、建てられたものである。であるから、みんなは、天皇陛下を、深くうやまいたてまつって、陛下のためには、よろこんで一命をささげるのだぞ、と話された。
先生はまた、おまえたちは、おとうさんおかあさんのことも敬《うや》まわなければいかんよ、おまえたちのおとうさんやおかあさんは、おまえたちを学校へあげてくださるのに、どんなにご自分たちの家業を、いっしょうけんめいはげんでいなさるかしれんのだ、それを時間中に怠けたりするような子は、恩知らずなわるい子だ、とも言われた。
やがて、先生は、生徒の名まえを、ひとりひとり呼ばれて、いま話されたことについて、いろいろ尋ねられた。
太郎は、さっきから先生の話をところどころしか聞いていなかった。太郎の小さな心は、さきほどこの教室へはじめてはいってきたときに、男女の生徒たちが、自分のことを笑ったということで、ほとんどいっぱいになっていたのである。自分のどこを笑われたのか、それはよくわからないが、でも、わからないなりに、ひどくそれが切なかったので、なにひとつ考える余裕がなかったのである。そんなわけで、先生から、自分の名をさされたとき、太郎は、まるで用意というものができていなかった。
「内田太郎、おまえはなにがいちばん好きかね?」
太郎は、はっと起立して、正直に答えた。「お菓子」
生徒たちは、またもやかれの方を見て、どっと笑い立てた。すると、先生は、しかるような調子で、かさねて尋ねられた。
「内田太郎、おまえは、おとうさんおかあさんよりも、お菓子のほうが好きなのか? 内田太郎、おまえは、天皇陛下よりも、お菓子のほうがいいのか?」
太郎は、そのとき、これはなにかとんでもない間違いをしでかしたな、と気づいた。とたんに、顔がカーッと熱くなってきた。生徒たちは、みんな大きな声で笑いたてた。太郎は、とうとう泣きだしてしまった。すると、その泣き出したことが、よけいみんなの笑いを買った。生徒がなかなか笑いやまないものだから、先生は、やがてみんなのことをもういちどたしなめて、静粛にさせ、それからおなじ問いを、次の生徒にかけて行かれた。太郎は、そでを目にあてたまま、しくしく泣きあげていた。
鐘が鳴った。先生は、生徒たちに、つぎの時間は、ほかの先生から、はじめてのお習字の授業がある、それまでみんな外へ出て、しばらく遊んでよろしい、と言われた。そう言われて、先生は、教室を出て行かれた。生徒たちは、みんな、いっせいに、運動場へ遊びに走り出て行った。けれども、太郎のことをかえりみるものは、だれひとりとしていない。こうまたみんなから無視されてみると、太郎は、さっき自分が衆目の的《まと》になった時よりも、いっそうまた心外な気がした。先生以外のものは、だれ一人自分に口をきいてくれるものもない。いやその先生ですら、いまはかれの存在なぞとうに忘れてしまっておられるようだ。太郎は、小さな腰かけに腰をおろすと、泣きに泣き入った。泣き声を立てると、またみんながもどってきて笑われるといけないと思って、声をしのんで泣いたのである。
と、そのとき、ふいにだれかの手が、かれの肩にそっとかけられたかと思うと、だれか知らないやさしい声が、太郎にささやきかけた。太郎がひょいっとふりかえってみると、そこに、生まれてまだ見たことのないような、やさしい、情のこもった目がふたつ、じーっと自分のことを見入っている。――太郎よりも年が一つぐらい上の、女の子の目である。
「どうしたの?」女の子がやさしく尋ねた。
太郎は、それに答える前に、しばらくすすり泣きながら、さも頼りなげに鼻を鳴らしたいたが「おれ、つまんねえ……家に帰りてえ。……」
「どうしてよ?」女の子は、太郎の首っ玉へ片腕をまわしながら、そういって尋ねた。
「みんな、おれのこと、きらうんだ。口もきいてくんねえし、遊んでもくんねえし……」
「あら、そりゃちがうわよ」女の子は言った。「だれもあんたのこと、きらってなんかいやしないわよ。みんなが、あんたの顔を知らないのよ。あたいも、去年、学校へあがりたてのときは、あんたとやっぱりおんなじだったわ。だめよ、あんた、そんなそんなだだこねちゃ」
「だって、だって……ほかのやつ、みんな外で遊んでるのに、おらばっかり、ここにいるんだもの」太郎は不服を言いたてた。
「だめ、だめ。そんなわからないことを言っちゃ。ねえ、あたいと行って遊ぼう。ね、あたい、お相手したげるから。……さあ、おいでよ」
太郎は、それをきくと、たちまち大きな声をあげて、わあっと泣きだした。自分で自分がいじらしくなり、それと感謝の思いと、新しく見つけ得た同情にたいするよろこびと、そんなものが、太郎の小さな胸のなかでいっぱいにはちきれたあまり、いきおい声をあげて泣き出さざるをえなかったのである。泣いている自分を、そばからすかしなだめられるのが、太郎はひどくうれしかった。
が、女の子は、ただ、あはははといって笑ったと思うと、そのまま、すばやく太郎の手をひっばって、教室から外へとびだして行った。小さな母性愛が、その場を察して、機敏にうごいたのである。
「いいのよ。あんた、泣きたけりゃ、いくらでも泣いてなさい。だけど、遊ぶときには、遊ばなくっちゃだめよ」
そうして、おお、ふたりは、なんとまあ、たのしく遊んだことであったろう!
ところが、学校がひけて、おじいさんが迎えにきてくれたとき、太郎は、またしても泣きだした。こんどは、せっかく遊んでくれた自分の遊び相手と、別れなければならなかったからである。
おじいさんは、笑いながら言った。
「なんだ、おまえ、〈およし坊〉じゃないかよ! 宮原のおよしだろうがな。いいさ、いいさ、およしもいっしょにきて、家へよって行きな。どうせはあ、帰りみちのこんだで」
ふたりの遊びともだちは、太郎のうちで、約束のお菓子をいっしょに食べあった。およしは、そのとき、からかうように先生の威厳をまねながら、太郎に言った。「内田太郎、おまえは、このあたいよりも、お菓子のほうが好きかね?」
およしの父親は、じき近くに、いくらかの田地ももっており、そのうえ、村で店屋も出している人だった。母親というのは、サムライの出で、御一新のとき、武家の瓦解《がかい》した当時、この宮原家へ養女にもらわれてきた人で、その後、いくたりか子どもを生んだけれども、げんざい、達者で生きのこっているのは、末っ子のおよしだけであった。およしは、まだ赤んぼの時分に、この生みの母を失ったのである。
宮原は、もう中年をすぎていたけれども、あとに後添いをもらった。後妻は、伊藤おたまという、自分の家に出入りの小作人の若い娘であった。おたまは色こそあらぶきの銅貨みたいにあか黒かったけれど、目鼻だちの十人並すぐれた、きりょうよしの百姓むすめだった。上背《うわぜい》もあり、からだもがっしりとしていたし、元気な女である。そのかわり、読み書きがまるでできない。目に一丁字もないおたまのような女を、宮原がどういうわけで、選《よ》りに選って後妻になぞ迎えたか、世間の人はあいた口がふさがらなかった。が、このおどろきは、まもなく、こんどはおかしみに変わった。というのは、おたまは、宮原の家にはいると、ほとんど同時に、絶対の主権を握り、ひとりでさい配をふりまわしている、ということが知れわたったからである。
ところが、おたまという女が、日ましによくわかってくるにつれて、近所の人たちは、宮原のいくじのなさを笑うのをやめた。おたまは、亭主の商売を、亭主以上によくこころえて、万事に目はしをきかせ、亭主のするべきいっさいの切りまわしをじようずに取りしきって行ったから、たちまち、二年とたたないうちに、宮原の身入りは、おたまのおかげで倍ほどになった。宮原は、あきらかに、亭主を肥やしてくれる女房|冥加《みょうが》にありついたわけだったのである。そればかりか、おたまはまた、生《な》さぬ仲の母親としても、自分に初児の男の子が生まれたのちも、腹ちがいのおよしには、つとめて自分のほうからやさしくやさしくと出るようにしていた。そんなわけで、およしはよく目をかけられ、学校へも正式にあげられたのであった。
およしや太郎が、まだ小学校にかよっていた時分のことである。久しいまえから待ちに待たれていた、あるめずらしい事態が、この村にもちあがった。それは、髪の毛の赤い、ひげむじゃの、背の高い、見たこともないような西洋の異人たちが、日本人の人夫どもを大ぜいつれて、この川の流域にはいりこんできて、鉄道の敷設工事をはじめだしたのである。鉄道線路は、ちょうど村のうしろの田んぼと、桑畑のむこうの、小高い丘のすそにそうて敷設され、観音堂へあがる旧道と線路とがちょうど交叉する角のところに、小さな停車場が建てられた。やがて、停車場のプラットホームには、この村の名まえを漢字で書いた、白い駅名板が立てられ、まもなく、鉄道線路とならんで、電信柱が一列にずらりと立てられた。
それから、しばらくして、ようやくのことで汽車が開通し、汽笛をヒューッと鳴らして、汽車はそこへ止まり、そしてまた出て行った。――遠いむかしから、この村の墓地にあるあみださまの尊像を、そのれんげの花のかたちをした台座から、ゆすぶり落とさんばかりにして……。
村の子どもたちは、見たこともない、この奇妙な、灰をまきちらしてある、水平な二本の鉄の棒がぴかぴか光りながら、遠く南北のほうへと雲煙のなかに没し去っているのをみて、ふしぎな思いをした。そうして、いよいよ汽車が通ってみると、さながら嵐を吹く雨竜のごとく、ごうごう、はつはつとうなり声をたて、けむりをもうもうと吐き、大地を震動させながら一しゃ千里のいきおいで走り過ぎて行くのを見て、子どもたちはみなおそろしくなってしまった。しかし、そのおそろしさのあとには、好奇心がわいてきた。そして、この好奇心は、学校の先生のひとりが、機関車というものはどんなふうにつくられているものであるか、黒板にそれを図にかいて説明をしてくれたことから、いっそう強められた。先生はそのとき、それといっしょに汽車よりももっとふしぎな、電信のはたらきをも教えてくださった。そして、新しい東京と、聖地京都とのあいだが、鉄道と電線でつながれることになれば、両都のあいだは、ものの二日とかからないで往復ができること、東京・京都間の通信は、わずか数時間でとどくようになることなどを話してくださった。
太郎とおよしとは、大の仲よしになった。ふたりは、おたがいにいっしょに勉強しあったり、いっしょに遊びあったり、双方の家へ行ったりきたりした。ところが、およしが十一になったとき、彼女は、うちで継母の手だすけをするために、学校を下げさせられた。そんなわけで、それからのちというものは、太郎は、ごくたまにしかおよしに会わなかった。
やがて太郎は、十四のとしに小学校をおえ、その後は、父親の商売の見習いをはじめた。ところが、そこへ不幸がやってきた。太郎の母親が、太郎にひとりの弟を生んだのち、世を去ったのである。つづいて同じその年に、はじめて太郎を小学校へつれて行ってくれた、あのやさしい祖父も、そのあとを追ってなくなった。そんなことがあってから、太郎は、なんだか世の中が、以前よりも暗くなったような気がした。
その後、十七の年になるまで、かくべつ太郎の身の上には、それ以上変わったこともおこらなかった。ときたま、かれは、およしと語りあうために、宮原の家をたずねて行った。およしも、もうちかごろでは、背もすらりとのびて、いちにんまえの美しい女になっていた。けれども、そんなになっても、太郎にとっては、およしは、いまでもあいかわらず、むかし楽しく遊びくらした時分の、陽気な遊び友だちにすぎなかったのである。
あるのどかな春の日のことであった。太郎は、なにがなし、やるせない寂しい思いがしきりと胸におぼえられるまま、ああ、こんな時におよしに会ったら、さぞ楽しいだろうなあと、そんな思いが、ふとわけもなく胸にうかんできた。おそらく、太郎の感じるさびしいという通念と、はじめて学校へ上がった日の、あのとくべつな経験とのあいだには、なにか切っても切れない関係が、記憶のなかに存在していたのだろう。とにかく、かれの胸のなかにひそんでいる何ものかが――たぶん、死んだ母親の愛がさずけてくれたものか、でなければ、遠い祖先のもっていた何ものかなのだろうが、そのとき、妙にやさしい情愛を慕い求め、そうして、そういうやさしい情愛なら、きっとおよしから求めえられるだろうと、そんなふうに思ったのだった。
そこで太郎は、およしの家の小さな店へ出かけて行った。店の近くまで行ってみると、およしの笑いさざめく声がきこえてきた。その声が、ふしぎと胸をあやすように聞きなされた。見るとおよしは店で、ひとりの年とった百姓の客相手をしているところだったが、相手の客のほうも、いかにも上きげんらしく、なにやら高声に、べちゃくちゃしゃべっている。太郎はしばらく待っていなければならなかったが、腹のなかでは、早くおよしの話を独占できないのがもどかしかった。でも太郎は、自分がいまおよしのそば近くにきているというだけでもいくらか気が晴れる思いがした。
太郎は、およしの顔をつくづく見やったが、そうして見やっているうちに、ふとそのとき、おや、自分はなぜ今まで、およしがこんなに美しい女だとは思わなかったのかしらと、ふしぎな気がしてきた。そうだ、およしはほんとに美しい。――村じゅうの、どこの娘よりも美しい。太郎は、なおもおよしの顔をじっと見つめたまま、ただ驚き入るばかりであった。しかも、見れば見るほど、およしの美しさはいやまさるようであった。なんともふしぎで、太郎には、まったくえたいがわからなかった。一方、およしのほうはおよしのほうで、その時はじめて、自分が太郎からしつこくじろじろ見られているのに気づいて、きゅうに恥ずかしくなったものか、小さな耳の附け根までぽーっと赤くした。
太郎はそれを見て、ああ美しいな、世界じゅうのたれよりも、この人は美しい人だ、かわいい人だ、立ちまさった人だと、はっきりとその時そう感じた。そして、そのことをおよしにひとこと言ってやりたいと思った。思ったと同時に、太郎は店先にいる百姓おやじが、まるでそこらにざらにいる凡くら女とでも話すように、およしとべちゃくちゃ大話をしているのが、われにもなくむしょうに腹が立ってきた。じつは、その数瞬のうちに、宇宙は太郎のために、まったく一変してしまっていたのである。それを太郎は、自分では気づかずにいた。気づいていたことは、およしがしばらく会わぬうちに、いつのまにか天女のようになったということだけであった。
やがて機《しお》がきたので、太郎は待つ間もおそしと、愚かな自分の胸のうちをおよしに打ちあけた。およしも彼女の意中を太郎に打ちあけた。ふたりははからずも、ひごろ自分たちの思っていたことが、それほどまでにひとつ思いだったのを、おたがいにふしぎに思った。ところで、これがそもそも大難のもとになったのである。
太郎が、いつぞや見た、およしに話しかけていた百姓のじいさんというのは、あれはあのとき、ただのふりの客として、およしの店へきた男ではなかったのである。じいさんは、かねがね、自分の本業のほかに、なこうどを商売にしている男で、じつはあのときも、岡崎弥一郎という金持の米買いの手先につかわれてきたものなのであった。岡崎は、とうからおよしを見そめて、ひそかに彼女におもいをかけ、なこうど屋のじいさんに金をつかませて、およしの身状と家庭の事情とを、まえからそれとなく調べさせていたのである。
いったい岡崎弥一郎という男は、この村の百姓たちや在郷の人たちから、虫けらのように忌《い》みきらわれている男であった。年配はもう中年をすぎていて、大入道みたいにでっぷり太った、容ぼうもみにくい、肌合いのあらっぽい、横柄《おうへい》きわまる男である。世間からは、強欲《ごうよく》非道な因業《いんごう》おやじだといわれている。ひととせ、凶作のおりに、米相場でおもわくをして、それがまんまと当たったことは、人の知るところで、土地の百姓たちは、そういうかれのやりくちを没義道《もぎどう》だといって、断じて許していない。
そういうかれは、もともと、この県根生いのものではなく、身寄り一軒あるわけではない。十八年まえに、女房と子どもひとりをつれて、西国のほうからこの村へ流れこんできた男である。その女房は、二年まえになくなり、ひごろ虐待されていたという評判のひとり息子は、とつぜん家出をしたまま、いまにゆくえが知れない。そのほか、まだいろいろかれには、おもしろくない風評が立っている。西国にいた時分、獗起《けっき》した暴徒どもに家倉を荒らしちらされて、命からがらで逃げだしたなどというのも、そういうよくないうわさのひとつであった。また、先妻との祝言の晩に、むりやり地蔵さまに大盤ぶるまいをさせられた、などとも言われている。
いまでも、この国のある地方へ行くと、ふだんその界わいで鼻っつまみの百姓が、嫁とりをするとき、花むこに地蔵ぶるまいというものをさせるしきたりの残っているところがある。屈強な若い衆たちが、村の街道とか近くの墓地から、石ぼとけの地蔵さまを借りてきて、それをそこの家へかつぎこむのである。そのあとから、やじ馬が大ぜいついてゆく。若い衆たちは、その石の地蔵さまを、そこの家の奥座敷のまんなかヘドデンとすえて、さあ、たったいま、この地蔵さまに酒さかなをたんまり供えろ、といって強談《ごうだん》するのである。もちろんそれは、おれたちに大盤ぶるまいをしろという謎《なぞ》なのであって、へたにそれをことわりでもしようものなら、それこそとんでもない自にあってしまう。この招かれざる客たちには、だからひとりのこらず、同勢ぜんぶに、もうこれ以上は飲むことも食うこともならないというまで、たらふく、ごちそうをふるまってやらなければならない。こうした大盤ぶるまいを、むりやりにしいられることは、とりもなおさずそれが、公然の懲戒《ちょうかい》なのであって、孫子の代まで家の名折れになることなのである。
岡崎は、年に似げなく、若い、きりょうのいい女房を引きあてようという、贅沢千万な望みをもっていた。が、かれほどの富をもってしても、思いのほか、この望みは、おいそれとはなかなか遂《と》げられなかった。これまでにも、何軒かの家が、あたまからできない相談の条件をもちだして、岡崎の縁談ぱなしをことわってきている。この村の村長などは、もっとぶしつけに、おれンとこの娘は、おまえなんぞにやるくらいなら、鬼に喰わしたほうがましだとまで、つけつけ言っているくらいであった。
そんなわけで、岡崎も、たびたびの破談にあったのちのこととて、嫁さがしはいっそもうよその土地でしようとあきらめかけていた矢先へ、たまたま、およしが目にとまったというわけであった。およしは、すこぶる岡崎の意にかなった。岡崎はさきが貧乏だと見てとって、いくらか金でもつかませれば、およしはわけなくわが手に入れられると考えたのである。そこで、なこうどをつてに、宮原家とひと談合ひらこうとかかったのであった。
およしの継母は、前にもいったようにもともと百姓の出で、目に一丁字もない女であったが、どうして、なかなか一すじ縄でいく女ではなかった。彼女は、なさぬ仲のおよしのことなどはすこしも愛していなかったが、そこは根が抜け目のない女のことだから、いわれもなく、およしにつらくあたるというようなことは、けっしてしない。おまけに当のおよしは、おたまにとって、目の上のたんこぶどころか、働くこともまことに実体《じってい》に働くし、気だてもすなおで、やさしいし、大きに家のためにもなっているのである。
ところが、そういうおよしの取りえを見抜いた、母親のひややかな炯眼《けいがん》は、同時にまた、結婚市場におけるおよしの値打というものについても、とうからちゃんと胸にそろばんをおいていたのである。さすがの岡崎も、わる賢いことにかけては、まさか持って生まれた自分の凄腕《すごうで》よりも、いちまい上手《うわて》の女を向こうへまわそうとは、夢にも思わなかったにちがいない。おたまのほうでは、岡崎の人となりはあらましこころえていた。岡崎の資産の程度もわかっていた。岡崎が、村のうちそとの何軒もの家から、女房を手に入れようとして、その目算がはずれたということも知っていた。ひょっとしたら、およしのきりょうよしが、やぼに打ちこんだ男の恋情をつのらせたのではあるまいかと、おたまは推量した。年寄りのおやじがほれた一念なら、たいていの場合、引く手に乗りやすいということも、おたまはこころえていた。およしは、そう大して水ぎわ立ったいい女というほどではないにしても、そのじつ、まあちょいと渋皮《しぶかわ》のむけた、蓮葉《はすっぱ》というじゃないけれども、ぼっとりものの、ずいぶんあれで色っぽいところもある娘だ。まずこのくらいの玉をほかに求めるとしたら、岡崎もそうとう足を棒にして捜し歩かなければなるまい。
おたまにしてみれば、岡崎がもし、これほどの女房を手に入れる冥加金を、万一にも出し惜しむようなら、なに、まだほかに、ふたつ返事ですぐにも言いなりに飛びついてくるような、心あたりの若い男が、二、三人はあったのである。およしは岡崎にやるのはいいとしても、それには、おいそれという条件ではとてもやることはできない。まず初手に、先方からなんとか言ってきたときに、そいつを一つぽんと蹴《け》っておいてやれば、その後の相手の出かたひとつで、先方の意気込みもわかろうというものだ。しんじつ、もし先方が、およしにぞっこんまいっているのだとすれば、かもうことはない、相手は岡崎だ、この村うちで、ほかのものならまず二の足を踏むほどの支度金を、ひとつたんまりと吹っかけてやることにしよう。それには、なによりもまず、かんじんの岡崎の、これが本音だという執心のほどを見とどけておく必要がある。それと、当分のあいだ、このことは、当人のおよしには伏せておくことが肝要だ。なこうどのよしあしの評判は、役どこがら、本人の口の竪さにあることからすれば、なこうどがひと足さきに、内証のことをもらすような心配は、万々ないにきまっている。……
宮原家としての方針は、およしの父親と継母との話しあいで、ひととおりのとりきめがまとまった。年老いた宮原は、これまでどんなばあいにも、女房の差し金に反対するようなことは、ほとんどなかったのだけれど、それでもおたまは、亭主を手のうちにまるめこむのに、石橋をたたいて渡る格で、まずはじめに、こんどのような縁談は、いろいろの点から見て、当然これは本人の身のためになる縁組だ、ということから説いてかかった。そして、この話がうまくかなえられた時の、金銭上の利益についてのつもりばなしを、おたまは亭主とふたりして、ああこうと談じあったのである。なるほど、そういえば、この話には、ちとぞっとしない、千番に一番、乗るかそるかといったかたちのところもないではない。けれども、それはしかし、あらかじめある取りきめを岡崎にうんと承知をさせておけば、それでまかりまちがった時の備えはつく。
そういって、おたまは、この話にひと芝居打つ亭主の役どこを教えた。双方話がすすんでいるうちは、太郎にも、せいぜい足しげくたずねてきてもらうようにしむける。このふたりが、たがいに好いて好かれている仲なぞは、あれはほんのクモの糸みたいなはかない仲なんだから、まさかの時になったら、あんなのは箒《ほうき》で払ってしまえば、それで事はすむ。まあ、当分のあいだは、あの男も、利用するだけ利用しておいたほうがいい。岡崎にしたって、ああいう年の若い、有望な恋敵《こいがたき》があると聞けば、いきおい、こっちの思うつぼにはまることを、あせるようなことにもなろう。……
太郎の父親が、自分のせがれのために、およしをもらいたいと、はじめて先方へ話をもって行ったとき、宮原のほうでは、その話を承知したとも、しないとも妙に返事を濁していたのは、じつは、こういう訳合があったからであった。そのときも、なにぶんおよしは、太郎さんよりも年がひとつ上だし、こういう縁組は、世間のしきたりに合わないことなのでね、というような故障が、先方からちょっと出たけれども、なるほど、これはもっとも千万な話である。しかし、考えてみると、この故障は、故障としては薄弱な故障であった。もっとも、みすみすいらざる故障だとわかりきっていたればこそ、よりによって、そんなダメを出したのでもあろうが。
一方、岡崎の最初の申し入れは、これは、申し入れてきた先方の誠意が、どうやら眉唾《まゆつば》ものだといわんばかりの態度で、軽く受けながされた。宮原家では、てんからなこうどの申し分が腑《ふ》におちないの一点ばりで押し通した。いや、それはかようしかじかなのだと、なこうどがはっきりとうけ合っても、強情に言を左右にして、いっかな取りあおうとしない。そこで、とうとうしまいに、岡崎はしびれを切らして、自分の考えていた籠絡《ろうらく》の手を、いよいよ切りだしてやろうという策略に出た。すると、宮原のおやじは、この件は、いちおう家内の手にまかせていただいて、家内の腹のきまったところで、御返事申し上げることにしましょうと言った。
おたまは腹をきめて、へん、いいかげんばかにおしでないよと、うわべは相手をなじるような、あきれかえったというふうをよそおって、その場で、先方の申し出をはねつけた。そして、うす気味のわるい話を言いだした。――むかし、なんでも、ある男が、お金のかからない安あがりな、しかもきりょうよしのおかみさんがほしいものだと思ったんですとさ。ようやくのことで、日にお米をふた粒しかたべないという美人が見つかって、その女をお嫁にもらったところが、なるほど、日にお米をふた粒しか口にしないんで、その男は、ほくほくしていたんですとさ。ところが、ある晩のこと、旅先から帰ってきて、引き窓からそおっとのぞいてみると、どうでしょう、そのおかみさんが、いや食べるわ食べるわ、御飯とおさかなを山もりにしたやつを、もりもり、もりもりほおばって、しまいに、そこにあったごちそうを、頭のてっぺんの髪の毛の下の穴のなかへ、みんなぎゅうぎゅう押しこんじまったというじゃありませんか。そこではじめて、もらったそのおかみさんが、山姥《やまんば》だったということがわかったんですとさ。……
おたまは、自分が話を蹴《け》ったそのなりゆきを、ひと月待っていた。――いったん、これがほしいとおもいこんだ物の値打ちは、それを手に入れる困難が増せば増すほど、増すものだということを、おたまは承知していたから、自信満々で待っていたのである。案のじょう、なこうどは、とうとう顔を出しにきた。岡崎は、こんどは前のときのように、むやみやたらに腰を低くせずに、話を単刀直入に切り出してきた。そして、最初の申し出の金額を増額してきたうえに、さらに思いきった誘いの水の約定まで加えてきた。
そこで、おたまは、もう相手はこっちのものだ、ということがわかった。おたまの作戦は、かくべつ、なにも込み入ったものではない。ただ、人間の本性のみにくい面を、深い勘で知っている、その知恵のうえに打ちたてられた作戦なのである。おたまは、こりゃもう成功疑いなしと感じた。どだい、約束なんてものは、これは愚かなやつらをつる道具。証文なんざ、正直者を事におとし入れる罠《わな》だ。――岡崎は、およしを手に入れるまえに、自分の財産のうちから、すくなからぬものをなげうたなければならなかったのである。
太郎の父親は、自分のせがれとおよしとの縁組を心から願って、なんとかして話を本筋にのせたいものだと、とうからいろいろ手をつくしていた。父親は、宮原からはっきりした返事がもらえなかったのには、いささか毒気をぬかれたかたちであった。根が朴直《ぼくちょく》な、さっぱりした人だったし、思いやりのある気ばくの人だけに、人を見抜く目もあり、つねづね虫の好かないおたまが、あの時いつに似げない、いんぎんぶった態度を見せたのに、父親は、こりゃひょっとすると、この話は望みがないかもしれぬわいと、虫が知らせたのであった。で、父親は、自分のこの推量を、せがれの太郎にも打ちあけたほうがいいと思って、いちぶしじゅうを打ちあけたところが、太郎はそれがたたって、気病みから熱を引きだしてしまった。
ところが、一方おたまにしてみれば、なにもそう計りごとの序幕早々から、太郎を失望におとしこむつもりは毛頭ないのである。そこで、おたまは、太郎の病中は親切らしいことづけを言ってよこしたり、およしにも手紙を出させたりなぞしたので、病人の希望も、またそれで息を吹きかえしてくるという、思いどおりのききめが見えてきた。太郎が床《とこ》上げをしてから、久しぶりに出向いていくと、宮原では、下へもおかぬもてなしぶりで、およしにも店先で話すことを許してくれた。けれども、いつぞや太郎の父親がたずねて行ったことについては、そのとき、ひとことも話が出なかった。
好いた同志のふたりは、これまでも、ときどき折をぬすんでは、氏神さまの境内などで、逢う瀬をかさねていた。そんなとき、およしは、どうかすると、継母の生んだ赤んぼをおぶってくることなぞもある。氏神の境内には、いつも子守り娘や、子どもたちや、若い子持ちの女なんぞが大ぜい来て遊んでいる。ふたりは、そういう中にまぎれて、人の口の端にかかる心配もなく、ひとことふたこと、ことばをかわしあうことができるのだった。
こんなふうにして、ひと月ばかりのあいだは、ふたりの希望に、なんの邪魔のはいることもなく、ぶじに過ぎたのであったが、そのうちに、ある日、おたまは太郎の父親のところへ、とうていできない相談の金談を、からかい面《づら》に持ちこんできた。おたまは、いよいよかぶっている仮面《めん》の片はしを、そろそろ持ち上げだしたのである。というのは、ちょうど一方、岡崎のほうは、おたまの張った網のなかで、いまやしゃにむに身をもがいて苦しんでいる最中だったのが、もう最後の音《ね》をあげるのも間もないことがわかっていたのである。
およしは、その時になっても、依然としてそんないきさつのあることをつゆ知らずにいたけれども、それでもなんとなく、太郎のところへは、とても自分をやってはくれまいという不安をもっていた。およしは、日ましに痩せやつれ、顔のいろもだんだん冴えなくなってきた。
ある朝のことである。太郎は末の弟をつれて、ひょっとしたらおよしと語りあう折もやあらばと思って、神社の境内へ行ってみた。ふたりは出会った。太郎は心にかかっていることを、およしに打ちあけた。じつは、つい二、三日まえのことだが、太郎は、子どもの時分に死んだ母親が、自分の首にかけてくれた小さな木の守り札が、守り袋のなかで割れていたのを発見したのである。
「なにもそれは、縁起のわるいことじゃないことよ」とおよしは言った。
「神さまがあなたを守っていてくださるしるしよ、それは。このあいだうち、ほら、村で病気がはやったとき、あなたもあの時かかって、ぶじに治ったでしょう。あれは、お守りがあなたのことを守っていてくだすったのよ。だから、割れたんだわ。きょうでも、神主《かんぬし》さんにそういって、新しいのをいただいていらっしゃいな」
なんだか、ふたりともひどく気が冴えなかったし、そうかといって、ぺつにだれに罪なことをしたという覚えもなかったが、そんなことから、しぜん話は因果応報のはなしに落ちて行った。
太郎がいった。「おれたちは、なんでも前の世には、きっとおたがいに憎みあった同志だったんだぜ。おれがおまえに然《そ》で無《な》いことをしたか、それとも、おまえがおれにしたかさ。これは。その報《むく》いなんだぜ、寺の坊主はそう言ってるよ」
すると、およしは、子どもの時分の冗談気を出して、「あら、それじゃ前の世には、あたしが男で、あなたは女だったんだわ。あたしは、あなたのことが好きで好きでたまらなかったのに、あなたのほうじゃ、根っからあたしに実《じつ》がなかったんだわ。あたし、ちゃあんと今でもおぼえてる」
「そんなおまえ、菩薩じゃあるまいし……」太郎は、胸のふさぎを笑いにまぎらしながら、「前の世のことなんぞ、おぼえていられやしないさ。人間が前世のことをおもいだすのは、菩薩の十如の実相の第一を観じて、はじめてできるんだそうだよ」
「あたしが菩薩じゃないって、どうしておわかりなの?」
「だって、おまえは女だもの。女は菩薩にゃなれないさ」
「だって、観世音菩薩は女じゃありませんか?」
「そりゃまあそうだが……だけどね、菩薩というものは、お経のほかには、なんにも愛することができないものなんだぜ」
「でも、おしゃかさまには、奥さまやお子さまがおありになったんじゃないこと? ご自分の奥さまやお子さんを、お釈迦さまはおかわいがりになったんですか?」
「そりゃおかわいがりになったさ。だけど、お釈迦さまはあのとおり、妻子をお捨てになったのさ」
「そりゃいけないわ。いくらお釈迦さまだって、そりゃいけなくってよ。そんな話、みんなうそだと、あたし思うわ。あなた、あたしをもらったら、あたしのこと捨てる?」
ふたりは、たわいもない理屈を言いあっては、ときどき声をたてて笑ったりした。いっしょにいるのが、それほどまでにうれしかったのである。すると、およしが、きゅうにまじめな声になって言いだした。――
「ねえ、聞いてよ。ゆうべねえ、あたし、夢を見たの。なんだかねえ、見たこともないような川と海があるのよ。その川がねえ、どうどう、どうどう海へ流れこんでいるの。そのすぐ、川っぷちのところに、あたしが立っているのね。そのうちに、なんだかあたし、こわくなってきたの。なぜだかわからないんだけど、とてもこわくなってきてね。それからあたし、よく見てみると、その川に水がまるっきりなくなっちゃってるんじゃないの。海にも水がないのよ。水がないかわりに、仏さまのお骨《こつ》がいっぱいにあるの。そのいっぱいあるお骨がさ、ちょうど川の水みたいに、みんなごよごよ、ごよごようごいているのよ。
そのうちに、いつのまにかまた、あたしが家にいるのね。家にいて、いつぞやほら、あなたから着物にしろっていただいた絹地の反物ね、あれが仕立ができあがっていて、それをあたしが着るのよ。そしたら、びっくりしちゃったの。だってねえ、はじめはいろんな色模様のあった着物が、いつのまにか白むくになっているんじゃないの。それをさ、あたしもばかよ、死んだ人が着るように、れいれいと左り前に着ているの。そうしてねえ、そのすがたで、ほうぼう親せきまわりをして、これから冥土《めいど》へまいりますからって、いちいちあいさつにまわって歩いたの。みんな、どうしてだ、どうしてだって聞いてくれるんだけど、自分にもどうしてなんだか、返事ができなかったわ」
「そりゃいい夢だぜ」と太郎は相づちを打った。「死人の夢は、とても縁起がいいんだよ。こりゃあ、たぶん、おれたちがじきに夫婦になれるという前ぶれかもしれないぞ」
このときは、およしは、それには返事をしなかった。ニコリと顔もほころばさなかった。
太郎も、しばらくそのまま黙っていたが、やがてあとから言いそえた。「なあ、およし。おまえ、もし自分でいい夢じゃないと思うなら、庭の南天の木のところへ行って、今の夢のはなしを、みんな内証で話しちまうんだよ。そうすりゃ、正夢《まさゆめ》にならないから」
おなじその日の晩のことであった。太郎の父親は、宮原およしが岡崎弥一郎の妻になることにきまったという知らせをうけたのである。
おたまは、じっさい、目から鼻へぬけるような女だった。いままでにも、これといって大きな見そこないをしたというようなことは、ついぞない。おたまのような女は、いわば卑劣な人間の弱味につけこんで、うまくそれを利用しながら、世の中をらくらく押しわたって行くように、うまれつきできている人間のひとりであった。なにごとにも辛抱づよくて、わる賢く勘が早くて、先が見え、しかも爪に火をとぼすようなしまつ屋である点、――こういう点にかけての、先祖代々からつたわっている、百姓根性のありあまる経験が、無学文盲な彼女の頭脳のなかに、ひとつの完全な機械となって圧縮されていた。この機械は、それを生みだした環境のなかだと、なめらかに運転して、その機械にうまくぴったりと合った材料――つまり、百姓という特殊な人間材料は手落ちなく処理していけた。しかし、それと反対に、自分が生まれついた、先祖代々の百姓の経験のなかに、あいにくそれの説明となるべきものがなにひとつないために、さすがのおたまにもよく納得のいかない、ぜんぜんべつの性質をもった人間があった。
ぜんたい、おたまという女は、サムライと平民とは、生まれながらにして、その気質《かたぎ》がはっきりと違っているものだと考える昔からある考え方を、強情に信じない女だった。武士階級と農民階級、このふたつの階級のあいだには、国がきめた士・農・工・商のおきて、それとこれまでの世の中のしきたりとがつくりだした差別以外には、べつになんらそこに違った点はない、しかも、そういう国がきめたおきても、世の中のしきたりも、けっしてそれはけっこうなおきてでも、しきたりでもありはしなかったと、おたまは考えていた。あんなおきてやしきたりがあったからかえって今のようにみんな弱虫になったり、阿呆になったりしたのさ。――そう考えて、おたまは、内心ひそかに士族というものを軽ベつしていた。
士族なんて、がせいな仕事はできず、商法もかいもく知らず、そのために、金持から乞食の境涯へと転落して行った連中があるのを、彼女はこれまでいくらも見てきていた。新しい政府《おかみ》から、士族がもらった公債証書、あれだって、むかしはそれこそ下々《げげ》の下民《げみん》だった町人階級の、狡《こす》っからい山師たちの熊鷹爪にひっかけられて、みんな士族の手から、町人の手へと流れていってしまったではないか。いくじのないことと能のないこと、おたまはこれをあたまから軽ベつしていた。
早いはなしが、むかしはお通りのそのつどにわざわざ履物をぬがせて、町人百姓どもに地べたへ土下座をさせたご家老様が、背に腹はかえられぬで、いい年をして、今では逆にその町人百姓に合力を頼んであるいている。それにくらべたら、天秤《てんびん》肩にかついだ棒手《ぼて》ふり八百屋のほうが、人間として、どのくらい気がきいているかわかりゃしないと、彼女は考えていた。
そんなわけだから、おたまにすれば、およしが士族出の生みの母をもっていたからとて、それがおよしにとって、なんの多足《たそく》になるとも、考えていはしなかった。それどころか、およしが生まれだち、かぼそい性《たち》なのは、彼女が武家出のおふくろをもったせいだとこころえて、むしろ、よくよく不仕合わせな血すじを引いたものだと思っているくらいであった。そういうおよしの気性のなかに、おたまは、せいぜい百姓の分際で読みとれる程度のことだけは、読みとっていた。なかんずく、この子は、めったやたらにひどい目にあわしてみたところで、なんの得《とく》もえられないということを見抜いていたし、それに、そうした内気な性質は、彼女もまんざら嫌いな性質でもなかった。
ところが、そういうおよしの内部には、じつは、おたまごとき目には、しかと見さだめがたい、まったくべつの性質が内在していたのである。――ふだんは、深く抑えかくしているから、うわべから見たのでは、ちょっと見えないけれども、それだけに、根ざしも深く、道義上の悪に敏感で、しかも人に負けまいとする自尊心、それと、どんな肉体の苦痛にも打ち勝てるだけの意志力、そういうものを、およしは内に深く蔵していたのである。これがわからないために、おまえは岡崎さんの奥さまになるんだよと、実を明かしてやったとき、おたまはてっきりおよしが反抗的な態度に出るものとばかり、予期していたのであった。おたまのめがねちがいだったのである。
はじめ、およしは死人のようにまっ青になった。が、すぐとそのあとで、顔をあかく染め、にっこりとわらって、ていねいに頭を下げた。そして、親につかえるあらたまったことばづかいで、なにごともご両親のお心におまかせいたしますと申しのべたので、宮原夫婦はほっと胸をなで下ろしたものの、内心、ひそかにおどろいた。打ち見たところ、およしの態度には、内々不服があるようすも見えない。そこで、おたまは喜びのあまり、さっそく打ちとけて、いちぶしじゅうをおよしに打ちあけ、橋わたしの話のあいだに起ったおかしかったことや、こんどのことについては、岡崎もだいぶ自腹を痛めたということなどを、いろいろ話して聞かせた。それからさらに、本人の承諾もなしに、年上の人のところへ嫁にやられる若い娘に言って聞かせるような、くだくだしい慰めのことばをのべたうえで、おたまは、相手の岡崎のあやなし方について、正直、金や宝ではとても買うことのできないような助言を、およしにさずけたのである。
そのあいだ、太郎の名は、いちども話のなかへ出なかった。およしは、継母の助言にたいしてはつつましやかに、いくども頭を低く下げながら、すなおに礼をのベた。なるほど、それはたしかにりっぱな助言であった。どんな土百姓の娘でも、ちっと頭のはたらくものだったら、おたまのような師匠にじゅうぶん仕込まれれば、岡崎のような男とも生がい苦楽をともにして行くことができたにちがいない。
ところが、およしは、ずぶの百姓娘としては、じつは半人前だったのである。自分に仕掛けられであった宿世《すくせ》の縁を宣告されたあとで、はじめははっと青くなり、すぐそのあとで顔を赤く染めたのは、あれはおたまが当推量をつけたような性格から発するものとは、およそ雲泥《うんでい》万里の、まるで似てもつかないふたつの感情から発したものだったのである。そのふたつの感情は、ふたつながら、おたまのあらゆる打算的な経験にあらわれたものよりも、もっと複雑な、もっと敏捷な思考のひらめきのあらわれだったのである。はじめに青くなったのは、あれは、ああ、怖ろしいと、ぞっと身ぶるいを感じた恐怖の衝撃であった。この身ぶるいするような恐怖には、継母が、義理人情の点ではまったくの不感性であるということ、どんな抗議もこれにはぜんぜん歯の立つ望みがないということ、けっきょく、こんどの縁談は、身分不相応な巨利をつかもうという、ただそれだけの動機から、あんな老醜目をおおうような老爺のところへ、自分を売りこむ人身売買だ、しかもその売買契約は、残忍非道、破倫きわまるものという、はっきりした認識がともなっていた。
それと間髪をいれず、とっさに彼女の良心に、最悪のばあいに直面したときには勇気と強さがぜひとも必要だ、それと、酢《す》でもこんにゃくでもという、この老獪《ろうかい》したたかな奸智《かんち》を向こうへまわすには、こっちもおさおさ気がゆるせないぞ、――という慎重な考えが、ひらめくがごとく浮かんだのである。およしが、あの時にっこりわらったのは、じつに、これだったのである。にっこり笑いながらも、およしの若い意志は、そのとき、はがねと化した。はがねもはがね、そのはがねは、くろがねをまっぷたつ、刃もこぼさずにぶった斬るはがねである。自分は何をしたらいいのか、それをおよしは、はっきりとその場で自覚したのであった。――サムライの血が、彼女にそれを教えたのである。そして、時機と運とをしばらく待とうと、それだけを心にかたく期した。こうなるうえは、もう、勝利はうけあってこっちのものだと、およしはそのときそう感じ、からからと大声あげて笑ってやりたいのを、いっしょけんめいになって我慢したくらいであった。その時のおよしの眼中のかがやきに、おたまはまんまと欺《あざむ》かれたのである。おたまは、それをおよしが満足の思いをあらわしたものと見てとって、むりもない、やっぱりお金持に縁づけば、いろいろためになることがあると、今になってそれがわかって、それで満足なのだろうと想像したのであった。
ちょうど、それが九月の十五日のことで、祝言は十月の六日にあげることになっていた。ところが、それから三日たった日の、明けがたのことであった。おたまが起きてみると、前夜のうちに、およしの姿が影もかたちも見えなくなっているのを発見した。一方、内田太郎のほうは、すでに前の日の昼すぎから、父親に姿を見せなくなっていた。ところが、それから数時間のちにふたりからの手紙がとどいた。
京都発の一番列車がはいってきた。小さな停車場の構内には、雑沓と騒音がみちあふれた。――カラコロと鳴る下駄の音、ガヤガヤいう人の話し声、菓子や弁当を売る村の子どもたちの、とぎれとぎれな売り声。――「菓子よろしー!」「すしよろしー!」「弁当よろしー!」
五分停車である。やがて、下駄の音も、列車の扉のパタン、パタンという音も、かん高い子どもたちの売り声も止んで、汽笛一声、列車はゴトンとひと揺れ揺れて、発車した。りんりん、ごうごう、煙を吐きながら、列車が北のほうへとしだいに消え去っていってしまうと、停車場の構内は、人気《ひとけ》もなく、がらんとなった。改札口に見張りをしていた巡査も、やがて歩廊に出て、風ひとつないしずかな稲田をながめながら、砂をしいた歩廊をあちこちと歩きはじめた。
もう秋だった。――大明の節である。日のひかりがにわかに白さを増し、ものの影はくっきりと濃くなっていた。あらゆるものの輪郭が、まるで欠けたガラスの切りくちのように、はっきりと見える。夏のあいだの暑さに、久しいこと、からからにかわききって、みずみずした色をうしなってしまっていたこけ草も、いつのまにかまた、物かげになった空地の、あらわな黒い土の上に、つやつやとしたやわらかい緑のいろを、あるいは縞《しま》に、あるいは絣《かすり》に、生き生きとよみがえらせている。赤松の林のなかからは、ツクツクボーシのかん高い声ががふるえるように聞こえ、そこらの小みぞや小川のうえには、トンボがすーいすーい、と飛んでいる。エメラルド色や、バラ色や、はがねいろのひらめきが、音もたてずに、チラリ、チラリと山形に光るそのようすは、まるで雷鳴のない小さな稲妻のようだ。
とりわけ、その朝は、空気がいつになくすばらしく澄み渡っていたせいもあったのだろう、ふとその時、巡査が北のほうを見やると、鉄道線路のはるか上《かみ》の方に、なにかチラリと目にうつったものがあった。巡査は思わずはっとして、ひと足まえに出ると、額に小手をかざして、駅の時計を見やった。いったい、日本の巡査の黒い目というものは、まるで空を飛ぶはやぶさの目みたいなもので、自分の視野のなかにちょっとでもなにか変わったことがあれば、それが豆つぶみたいな小さなものでも、けっして見はぐるということがないのがふつうである。
いつぞや、わたくしが遠い隠岐《おき》の国へ行ったときに、わたくしの泊った宿屋のまえの通りに、面をかぶった踊りがあったのを、わたくしは人に見られずに見ようと思って、二階の障子に小さな穴をあけて、そこからのぞいてみていたことがある。そこへひとりの巡査が、下の通りをポクシャク足音高くやってきた。ちょうど真夏のことだったから、巡査は白服で、帽子に白の日おいをしていた。巡査は、踊りの連中と群集のなかを分けて歩いてくるのだが、べつに群集や踊りの連中を見るようすもないし、首を左右に曲げることもしない。ところが、なにを思ったか、いきなりその巡査がぴたりと足をとめると、わたくしののぞいていた障子の穴へ、ぴたりと目をすえた。つまり、その巡査は、障子の穴に片目を見つけて、そのかっこうから見て、それが異人の目だと、とっさに判断したのである。やがて、巡査は宿屋へはいってきて、わたくしの旅券について尋問をした。が、それはすでに検査のすんでいたものだった。
いま、村の停車場で巡査がみとめて、のちに報告したものは、停車場を北に去る半マイルあまりのところで、ふたりの人間が、あきらかに、村のずっと北西によった一軒の百姓小屋から出てきて、それが稲田をつっきって鉄道線路のところまできた、ということであった。そのうちのひとりは女で、それも着物と帯の色あいからみて、ごく若い女だと巡査は判定した。そのとき、もうあと数分で、東京発の急行列車が着駅する時間で、こちらへ煙の進んでくるのが、駅のプラットホームから見えた。例のふたりの人間は、汽車のくる線路みちをつたって、とっとと走りだしたが、ちょうど曲りかどを曲ったところで、姿が見えなくなった。
このふたりの人物は、太郎とおよしであった。ふたりがす早く駆けだしたのは、巡査の目をのがれるため、ひとつには、できるだけ停車場から離れたところで、東京行の急行に出会うためであった。が、曲りかどのところを曲がると、もう煙がこちらへやってくるのが見えたので、ふたりは走るのをやめて、歩いて行った。列車のすがたが見えだすと、機関手を驚かさないようにふたりは線路から離れて、手に手をとって待っていた。つぎの瞬間、低い轟音が耳にひびいてきた。ふたりは、さあ今だぞと思った。そして、ふたたび線路にとってかえし、くるりと向き直ると、たがいに両腕をからみあい、頬と頬とをぴったり押しつけて、しずかに、すばやく、内側の線路の上に身を横たえた。もうそのときは、線路は、すでに驀進《ばくしん》してくる列車の震動で、金床《かなとこ》のようにガンガン鳴りうなっていた。
男はにっこりほおえんだ。女は、男の首にまいた腕をぐっとしめながら、男の耳もとにささやいた。「二世も三世も、わたしはあなたのおかみさんよ。あなたはわたしのだんなさまよ。ねえ、太郎さん」
太郎は、なにをいういとまもなかった。その瞬間に、空気制動機《エヤブレーキ》のない迅速な列車は、百ヤードあまり手前で、必死になって停車しようとしたのだけれど、そのかいもなく、ついに車輪はふたりの上を通過した。――大きな刈り鋏《ばさみ》で切ったように、まっぷたつに切断して。
村の人たちは、心中をしたこのふたりの男女をいっしょに埋めた墓石――比翼塚のうえに、花をいっぱいさした竹筒を立て、線香をたいて、いまでもあいかわらず、参詣をくりかえしている。こういうことは、しかし、けっして正道なことではないのである。なぜかというと、仏教のほうでは、情死というものは禁制になっているし、しかも、ここの墓地は、仏教の寺のものなのだから。けれども、これには信仰が――深く尊崇するに足りる、ひとつの信仰があるのだ。
心中者などに、なぜ祈念なぞするのか、どんなふうに祈念をするのかと、西洋の諸君はさぞかし不審に思われることだろう。いや、だれもかれもが、ひとり残らずかれらに祈願をかけるというわけではない。ただ、恋をするものだけが、――とりわけ、ふしあわせな恋をするものだけが、願をかけるのである。ほかのものは、ただ香華《こうげ》を上げて、なむあみだぶつと唱えるにすぎない。それに反して、恋するものたちは、そこへ行って、霊験ある同情と助力とを祈願するのである。かくいうわたくしも、そのわけをわざわざ尋ねてみたことがあるが、その答はあっさりしたものであった。「死んだあのふたりは、えらい苦労をしたからです」というのであった。
おもうに、こうした祈念をさそいだす観念というものは、これは、仏教などよりもずっと古くからある観念であると同時に、また、それよりもずっと後年の新しい観念のようにも思われる。いってみれば、苦悩というものを永遠に信仰する宗教的観念なのであろう。
[#改ページ]
願望成就
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なんじ、肉体をはなれて、自由なる大空に入るとき、不老不死の神となるベし。死もまた、なんじを占有することなかるべし。――ギリシャ古歌
[#ここで字下げ終わり]
衢《ちまた》には、白い軍服と、ラッパの音と、引かれてゆく砲車のひびきとが、みちあふれていた。日本軍が朝鮮を制定したのは、歴史のうえで今回が三どめである。中国に対する宣戦の詔勅《しょうちょく》は、すでに赤紙に刷られて、当地の新聞紙によって配布され、帝国の陸軍は、ことごとく動員された。第一予備兵もすでに召集されて、いま軍隊は、この熊本に殺到しつつある。兵営と、旅館と、寺院とだけでは、この通過する大軍を宿泊させることはとうていできないので、幾千という兵たちは、みなそれぞれ、市中の民家に割りあてられた。特別列車が全力をあげて、下ノ関に待機している輸送船まで、日夜、兵を北送しているが、それでもなかなか収容する余地がないという状況である。
ところが、ぼう大なこの動きのわりには、市中はおどろくばかり静かである。兵隊たちは、授業時間中の日本の学生たちのように、静粛で、おとなしく、ひとりとして、肩をそびやかして威張りちらすようなものもなければ、心なしに飲んだくれて、騒ぎちらすようなものもない。仏僧たちは、それぞれ寺院の境内で、分隊分隊ごとに説教をしているし、練兵場では、わざわざ京都から下向してきた、真宗派の法主《ほっす》によって、すでに一大|法会《ほうえ》もいとなまれた。何千という兵たちは、いずれもみな、この法主によって、弥陀の擁護のもとにおかれたのである。法主が、めいめい壮丁《そうてい》たちの頭の上に、裸の剃刀をいちいちのせてゆく。これがすなわち、みずから発心して、世欲煩悩を捨てたというしるしであって、つまり、それが兵士たちの授戒の式になるのである。
また、仏教よりも、さらに古くからこの国にある信仰であるところの神道の神社では、神官と市民の手によって、遠いむかしから、この帝国のために戦歿したものの英霊、ならびに軍神にたいして、各所いたるところで、さかんな祈念がささげられている。この町の藤崎神社などでも、出征兵士には勝ち守りのお札を出している。が、とりわけ、なかでももっとも荘厳な儀式は、遠く津々浦々までその名のきこえた、日蓮宗の名刹《めいさつ》、本妙寺のそれであった。
ここは、かつての朝鮮の征服者、キリシタンの敵、仏教の擁護者であった加藤清正の遺骸を、三百年のあいだ祀《まつ》ってある寺で、ふだんから、参詣者のとなえる南無妙法蓮華経のお題目の声が、さながら大浪の音のようにひびいているところだ。この寺のかたちを象《かたど》った小さな厨子《ずし》のなかに、神とまつられた清正公大神祇の小さな御真影をおさめためずらしいお護札《まもり》を売っているのも、この本妙寺だ。
ここの大きな本堂と、それから長い参道にならんでいる末寺の小さな堂とで、さきごろ、とくべつな法会がいとなまれて、清正の霊にたいして、神明の加護を祈る大祈願があげられたのである。三世紀のあいだ、本堂に安置されてあった、清正公|佩用《はいよう》の鎧《よろい》・兜・太刀の類は、いまはどこへやられたか、影もかたちも見えなくなっている。また、ある人の説によると、それらの宝物は、皇軍の志気を鼓舞するために、すでに朝鮮の地へ送られたのだそうな。また、ある人の説によるとこの寺の境内では、ちかごろ夜な夜な、深夜に戞々《かつかつ》たる軍馬の蹄の音がきこえ、日の御子の国の皇軍をして、ふたたび勝利をえさせるようにと、眠れる奥津城《おくつき》の幽明のなかから雲つくような清正の亡霊がむっくとたちあがり、陰火びょうどうと行きつもどりつするそうである。
ちょうど、そのむかし、アテネの兵士たちが、マラトンで、猛将テシウスがいまもなお目《ま》のあたりに在《いま》すと信じたのとおなじように、この地方の田舎から応召してきた、その心、果敢《かかん》にして朴直な壮丁のなかには、おそらくはこの話を、かならずやまことと信じたものが多数あったにそういないと思われる。ましてや、よその地方から新たに召集されてきた、大部分の新兵たちにとっては、だいいち、この熊本という町そのものからしてが、清正という偉大な勇将の語りぐさによって神霊化されている、一種ことざまな町に見えたことだろうし、また、かつて朝鮮の地で攻めとった城の造りになぞらえて、清正が築城したという熊本城は、そういう連中にとっては、おそらく、世界の驚異とも見えたことだろう。こうした国を挙げての軍備のさなかにありながら、市民はいぜんとして、ふしぎなくらい、ひっそりと鳴りをしずめていた。そとからちょっと覗いたぐらいでは、西も東もわからない外国人なぞには、この市民の一般的感情なぞ、とうてい見わけのつくはずがない(*)。
一般公衆が静粛であること、これは日本人の特色なのであって、個人としても、日本人はそうであるように、国民的感情が深く奮《ふる》いたてばたつほど、外見はいよいよ強い自制力を示してくる国民なのである。時あたかもこの時にあたって、天皇は、在鮮の将士たちに御下賜《ごかし》の品を送られ、あまつさえ、慈父のごとき優渥《ゆうあく》なる詔書を賜わった。そこで当市の市民たちも、陛下の垂れたもうた範にならって、便船のあるたびごとに、酒、食糧、果物、菓子、タバコ、その他の他|恤兵《じゅつへい》品を、船で戦地へどしどし送っている。値のはる慰問品の買えないものは、わらじなどを送っている。また、国民は挙げて戦時公債に献金をしつつある。当市熊本は、けっして裕福な都市ではないけれども、それでも、貧しきものも富めるものも、ともに一丸《いちがん》となって、熊本市民の忠誠のこころを証するために、なんとかして市に協力しようと尽力している。商人の小切手が、職人の一円札や、労働者の銀貨、俥屋の銅貨とともに、国をあげての国民自発の、贅沢はしませんという自制緊縮の一大親和のうちに、人知れずまじっているというありさまだ。少年たちまでが、国に献金をしている。少国民のこのいじらしい、零細な醵金《きょきん》は、いやしくも愛国心の総動員ということになれば、たとえ、それがどのような形のものであろうとも、当然、そこに隘路《あいろ》があってはならないというたてまえから、いっさい、謝絶されなかったのである。
ところが、まだそのほかに、予備兵出征家族援護の特別献金が、各町内であつめられている。予備兵は、その多くが、たいていは妻帯者であって、しかも、おおむね貧しい職にたずさわっており、突然の国のお召しにあって、妻子が路頭に迷っているものが多い。特別援護献金は、こういう出征家族の生計を、国民が自力で自発的に援助してやろうと、おたがいに固く誓約しあったことを意味するのである。銃後に、こうした滅私《めっし》の同胞愛をひかえている出征兵士が、兵として、たんにあたえられた本分以上のつとめを、十二分に果たすだろうということは疑う余地があるまい。
果然、かれらは果たしたのである。
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(*)この文章は、一八九四年の秋のあいだに、熊本で書いたものである。当時、国民の熱意は集中的にもりあがり、水を打ったように粛然と鳴りをひそめていたが、そうしたうわベの平静さのかげには、古い封建時代のあらゆる激しさがくすぶっていた。政府は、幾方という義勇挺身隊の志願を、やむなく謝絶したくらいであった。これらの挺身隊は、おもに剣客が多かったが、こうした義勇軍をもし召集したとしたら、一週間内に十万人の応募者はきっとあったろうと思う。
ところが、戦争精神は、意外というよりも、むしろ悲痛な手段によって、またべつの方面からあらわれてきた。応召出征の機を阻止されたというので、自殺をはかるものが多数出てきたのである。ここには、地方新聞から、ひとつふたつ、めずらしい記事を、手あたりしだいに抜き書きしてみよう。
在|京城《けいじょう》の一憲兵は、日本へかえる大鳥公使の護衛を命ぜられたために、自分が戦線へ出ることのできないのを無念に思って、ついに自刃した。また、石山という一士官は、病気におかされたために、いよいよ朝鮮へ出発するというその当日に連隊へ参加できなかったというので、病床にやおら身をおこし、陛下の御真影を拝したのちに、みずから剣を抜いて自決した。また、大阪の池田という一兵卒は、なにか軍紀に違反したというかどで、自分は戦線へ行くことを許されぬと聞いて、これは銃をとって自殺した。また、「混成旅団」の可児大尉は、自分のひきいる隊が忠州附近の一要塞を攻撃中に病気でたおれ、意識不明で病院にはこばれたが、その後一週間たって快復すると、自分が倒れた場所へ行き(十一月二十八日)、遺書をのこして、自刃した。その遺書は、「ジャパン・デイリー・メイル」が左のごとく翻訳している。――「小生は病いのために、やむなくここにとどまり、部下をして部隊長なくして要塞を攻撃せしむるのやむなきにいたり候。かくのごとき恥辱は、小生の終生|拭《ぬぐ》うあたわざるものに御座候。よって名誉雪辱のために、小生はこのとおり相果て申候。ここに私衷《しちゅう》を述べんとして、この遺書を書きのこす次第に御座侯」
在東京の某中尉は、自分が出征後、母のないひとり娘の世話をするものが誰もいないところから、自分の娘を殺して、そしてその事の発覚されぬうちに、自分の隊に参加した。その後、かれは戦場で、わが子と冥途へ旅の道づれをしようと思って、死を求めて、それを得た。これなどは、封建時代の凄愴な精神の或るものを想いおこさせる。サムライは、勝ち目のない合戦に出陣するときには、どうかすると、まえもって妻子をわが手にかけて殺すことがある。これは、武士が戦場で思いだしてはならない三つのことを忘れる便宜のために、するのである。三つのこととは、家郷、妻子、わが身命、この三つである。こうした残忍壮烈な所行をしたのちに、サムライは、いよいよ死物狂いになる覚悟がつくのである。つまり、遠慮容赦なく、活殺自在《かっさつじざい》の腕がふるえるのである。
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万右衛門が、わたくしに会いたいという兵隊が玄関へきているといって、取りついだ。
「万右衛門、まさかうちへ兵隊を割りあてにきたのではないでしょうね。うちは狭すぎるよ! どういう御用件なのか、うかがってみてくだされ」
「うかがってみたのでございます」と万右衛門は答えるのである。「そういたしましたら、先さまは旦那さまを御存知だと、こうおっしゃいますので」
玄関へ出て行ってみると、なるほど、軍服を着たりっぱな若者がいる。わたくしが出て行くと、若者はにっこり笑って、帽子をぬいだ。わたくしにはだれだか見当がつかなかった。そのくせ、相手の笑い顔は、たしかに見おぼえがあるのである。いったい、どこで会った人だろう?
「先生、お忘れでありますか?」
しばらく怪訝《けげん》の思いで、わたくしが相手の顔を見つめていると、若者はいんぎんに笑って、自分の名を名のった。「小須賀浅吉であります」
両手をさしだした時のわたくしの心臓は、客を前にして、どんなに躍《おど》ったことであったろう!
「やあ、よく来たね! さあ、おあがり、おあがり!」とわたくしは叫んだ。
「それにしでも、大そう大きくなって、りっぱにおなりだねえ! これでは、わからなかったのも不思議でないよ」
靴をぬぎ、帯剣をはずしながら、かれは小娘のように顔をあかくした。そういえば、青年は、クラスにいた時分にも、間違えをしても褒められても、いまとおなじように顔をあかくしたことを、わたくしは思い出した。そうしてみると、いまでもかれは、松江の学校で十六歳のはにかみやの少年だった時分とおなじように、あいかわらず、心はうぶのままでいることは、一見してあきらかだ。じつは、この青年は、わたくしに暇《いとま》乞いをするために、わざわざ隊の許可をえて、きてくれたものなのであった。隊は、明朝、朝鮮へ出発することになっているのである。
わたくしは、その晩、かれといっしょに飯をたべて、出雲や杵築のことなど、むかしの愉しかった四方山《よもやま》ばなしをした。最初、わたくしは、少し君も飲《や》らないかといって酒をすすめてみたが、かれは飲まなかった。軍隊にいるうちは、酒はぜったいに飲まないと、お母さんに約束したのだそうだが、そんなことは、こちらはいっこうに知らなかったのである。そこで、酒のかわりにコーヒーをすすめ、わたくしはいろいろに水を向けては、かれの身の上ばなしを聞きだすことにつとめた。卒業後、かれは郷里にかえって、裕福な農家である生家の手つだいをしていたのだそうだが、学校で習った農業学は、だいぶ役に立ったという。一年たって、かれは十九歳に達した村の青年たちにまじって、自身も檀那寺へ徴兵検査に呼び出され、体格検査と学課試験を受けた。ところが、検査官の軍医と徴兵司令官の少佐とが合議のうえで、かれは一番で合格して、つぎの年の入営のときに徴集されたのである。十三ヵ月の勤務ののち、かれは伍長に昇格した。かれは軍隊が好きだった。はじめは名古屋の連隊にいたのを、つぎに東京へまわされた。ところが、東京の連隊は、朝鮮へは出征しないということがわかったものだから、かれは熊本の連隊師団へ転属を申し出て、さいわいそれがうまく許可されたのであった。
「それで、自分はいま、ひじょうにうれしいであります」と、かれは兵隊らしい喜びに顔をかがやかしながら、いうのであった。「自分らは、明日、出発するであります!」そういって、自分の腹蔵《ふくぞう》のない喜びを思わず口に出したのが、なんとなく、きまりがわるいとでもいうようなようすをして、もういちど顔を赤く染めた。
わたくしはそのとき、カーライルのいった、人間のまごころを引きだすものは、快楽ではなく、艱苦《かんく》と死であるという、深遠な言葉を考えた。そして、同時にまた、――これは日本人にはいえないことだが、――この青年の眼中にあった喜色はわたくしがいままで見たもののなかでは、まず婚礼の日の朝の花婿の目のいろのほか、これに似たものはないと、わたくしは思ったのである。
「君は憶えているだろうね?」とわたくしは尋ねてみた。「いつぞや君は教室のなかで、自分は天皇陛下のおんために死にたいといったことがあったっけね?」
「はあ」と、かれは笑いながら答えた。「その千載一遇の機会が、いよいよ到来したわけであります。――これは自分ばかりではないであります。自分の級友たちにも、その機会がきたのであります」
「あの連中、みんないま、どこにいるの?」とわたくしは尋ねた。「君といっしょかね?」
「いや、連中は広島師団におりましたが、みんなもう、朝鮮に征《い》っておるであります。今岡と(おぼえておられるですか、先生、彼奴《きやつ》、ひじょうなのっぽな男でありました。)長崎と、石原――この三人。それから、自分らの教練の先生だった中尉殿――おぼえておられますか?」
「藤井中尉か、おぼえているよ。あの先生は、退職中尉だったね」
「ところが、予備だったのであります。あの方も、やはり、朝鮮へ征かれたであります。先生が出雲を去られてから、あれからまたひとり、坊ちゃんがお生まれになりました」
「わたしが松江にいた時分には、お嬢さんがふたり、坊ちゃんがひとりだった」
「はあ。それが今は、坊ちゃんがおふたりであります」
「それなら、あちらのお家でも、きっとお父さんのことをたいそう案じていらっしゃるにちがいないね」
「中尉殿はちっとも心配しておられませんでした」と青年は答えた。「戦争で死ぬのは、ひじょうな名誉であります。政府は、戦死者遺家族を保護してくれるであります。でありますから、自分らの士官殿たちは、ちっとも心配しておられません。ただ、男の子がなくて死ぬのは、こいつはやりきれんであります」
「それはまた、どうしてだね?」
「西洋には、そういうことはありませんですか?」
「まるであべこべだよ。われわれは、子どもがあって死ぬのは、やりきれんと思うが」
「それはしかし、どうしてでありますか?」
「善良な父親は、だれしも、わが子の将来というものに心を砕《くだ》いているからね。それが、いきなり父親をさらわれてしまったのでは、あとに残ったものが、いろいろ憂き目を見なければならんわけだろう」
「自分らの士官殿たちの家族には、そういうことはないであります。子どものことは、親戚が面倒みてくれるですし、政府《おかみ》からは扶助料が下がるのでありますから、父親たるものは、あとあとのことを心配するにはおよばんのであります。そのかわり、子どもがひとりもおらんで死ぬものは、これはじつに気の毒であります」
「気の毒って、その人の妻子が気の毒だというのだろう?」
「いやいや、死んでゆく当人、つまり、御亭主がかわいそうだと申すのであります」
「どうしてね? 息子があったって、死んで行くものにとって、そんなもの、なんの他足《たそく》にもならんじゃないか?」
「男の子は家の跡取りであります。家の名を存続させてゆくものであります。供養をするのは、そこの家のせがれでありますから」
「供養というと、死んだ人の供養かね?」
「はあ。もうおわかりになられたでありますか?」
「そういう事実は、それはわかったがね、しかし、そういう気持が、どうもよくわからないね。いまでも軍人は、そういう信念を持っているの?」
「もちろん、持っております。西洋には、こういう信念はありませんですか?」
「ちかごろではないね。大昔のギリシャ人やローマ人は、そういう信念をもっていたがね。むかしのギリシャ人やローマ人は、先祖の御霊《みたま》というものは家のなかに宿っておるものであって、供え物や供養をうけて、家の者を守っていてくれるものだと思っていた。どういうわけで、そんなふうに考えていたかということは、多少われわれにもわかるけれども、むかしの人が、どんな気持でそれを感じたかということになると、はっきりしたことは、われわれにもわからんね。つまり、自分の経験しないこと、あるいは、先祖から伝承しない感情は、われわれはわからんのだから。それと、おなじりくつで、死者に関する日本人の正直な気持というものが、わたしにはわからない」
「先生は、それでは、死は万事の終りだとお考えでありますか?」
「わたしが難解だというのは、そういうことを言ってみたところで、いっこう説明にはならんのだよ。ある感情は遺伝する――おそらく、思想のうちでも、ある思想は遺伝するだろうさ。ところが、君たち日本人の、死者についての感情・思想というもの、あるいはまた、死んだものに対する生きているものの義務といったもの、これは、西洋のそれとは、ぜんぜん、違っているのだよ。われわれ西洋人にとっては、死という概念は、完全な別離を意味している。生きているものから別れるばかりではない、この世からも別れてしまうことだ。仏教だって、死者がたどらなければならない、長い、暗黒の旅のことを説いているでしょう?」
「冥途《めいど》の旅でありますか。――そうであります。みんな旅をしなければならないのであります。しかし、自分らは、死というものを、完全な別離とは思っておらんのであります。死んだものは、いまでも自分らといっしょにおると考えております。そういう死んだ人たちに、自分らは、毎日話しかけております」
「それは知っている。ただ、わからないのは、そういう事実の背後にある観念なのだよ。早いはなしが、死んだ人は冥途へ行ってしまうんだろう? それをなにも、仏壇の先祖代々へお供物をあげたり、先祖がじっさいそこに在《いま》すみたいに、祈祷をしたりすることはないわけじゃないか? 一般の人たちは、こんなぐあいに、仏教のおしえと神道の信仰とを混同しているのじゃないかね?」
「あるいは、ずいぶん、混同しておるものも、おることでありましょう。しかし、神仏を混淆《こんこう》しておらない、純然たる仏教徒でも、死んだものへの供養と祈祷はそれぞれ、べつの場所で同時にささげられております。――檀那寺と、家々《うちうち》の仏壇とで……」
「しかしさ、たましいが冥途にもあれば、同時にまた、いろんな違った場所にもあるなんて、そんなことがどうして考えられるのかね? たましいというものは、たくさんに分裂するものだと信じてみたところで、この矛盾は、とても説明しつくせやしまい。だいいち、仏教の教えによると、死んだものはお裁きをうけて、それで行くところがきまるんだからね」
「自分らは、たましいというものは、ひとつであると同時にまた、多数なものだと考えております。たましいというものは、自分ら、一個の人間のものだと考えております。ある物体のものだとは考えておりません。ちょうど空気のうごきみたいに、いちどに方々に行きわたれる、そういうものだと考えておりますですね」
「あるいは、電気のようにね?」わたくしは、思いついたままをいってみた。
「そうであります」
死者が冥途へ行くということと、死者を家で祭るということ、このふたつの観念は、若い友人の考えによると、明らかに相矛盾しないもののように、見うけられる。そうして、おそらく、仏教哲理の研究者の何人《なんびと》にとっても、このふたつの信念は、たいした矛盾をふくむものとは見えないのにちがいない。法華経は、仏の境界は「無量無辺……虚空に|※[#「彳+扁」、unicode5FA7]満《へんまん》す」とおしえている。久しく涅槃《ねはん》に入っていた仏については、「如来の滅後に於いて、十方世界に周旋往返して……」と述べている。また、おなじ経文のなかには、かつて住せる諸《もろもろ》の菩薩摩詞薩《ぼさつまかさつ》の湧出発来《ゆうじゅつはつらい》してきた衆に説きたもうたのちに、釈尊は、つぎのように言《みこと》を作《な》している。
「我が分身《ぶんしん》の、無量の諸仏、恆沙等《ごうしゃとう》の如く、……法を久しく住せしめんが故に、此《ここ》に来至《らいし》したまえり」と。しかし、それはそれとして、どうもわたくしには、ふつう一般人の単純素朴な心のなかでは、神道の原始的な概念と、それよりもさらにはっきりとした、たましいの裁きという仏教の教義とのあいだに、ほんとうの調和がむすばれているとは、どこから押しても考えられないのである。
「君は、ほんとうに死というものを、生とおなじように、また光りとおなじように、考えられるの?」と、わたくしは尋ねてみた。
「はあ、考えられます」と、相手は莞爾《かんじ》として答えるのであった。「自分らは、死んでからも、家の人たちとはいっしょにいるものと考えております。両親にも会えるですし、友人にも会えるです。魂魄《こんぱく》この世にとどまるのでありますからねえ――ちょうど、今こうしておるように、光りを見ながらにであります」
(ふとその時、わたくしは、ゆくりなくも、いつぞやある学生が、なにがしという義人の将来を論じた作文を書いたとき、そのなかにあった、「彼の霊は久遠に宇宙を飛翔せん」ということばが、新しい意味をもって思いだされた。)
「そういうわけでありますから」と浅吉はつづけるのであった。「息子のある人は、元気な気持で死ねるわけであります」
「つまり、その人のたましいが迷わないように、食べる物や飲む物をその息子というのが、供養にあげるから、というわけかね?」
「いや、供物ばかりではありません。供養をするなどということよりも、もっともっとだいじな務めがあるのであります。それはでありますね、人間というものは、たれしも死ぬと、自分を慕ってくれるものが必要なのであります。ここまで申し上げたら、もうおわかりでありましょう」
「君のいうことはわかった」とわたくしは答えた。「君がそういうことを信じているという事実だけはわかったがね。そういう気持がどうもわからんねえ。わたしが死んでしまったあとになって、生きのこっている人間の愛情が、わたしをしあわせにしてくれるなんて、どう考えても、考えられないね。死んでしまったあとになって、どんな愛情にしろ、それが自分に感得できるなんて、そんなこと想像できないがねえ。君は、これから遠い戦地へ行く人だが、君は自分に息子のないことを、ふしあわせだと思っているの?」
「自分でありますか? いやあ、とんでもない! 自分が息子であります。――しかも、自分など、冷飯《ひやめし》の方であります。両親はまだ丈夫で、存命中で、兄が面倒見ております。自分が戦死すれば、自分を思ってくれるものは、大ぜいおります。男の兄弟もおりますし、女の姉妹もおりますし、赤んぼもおります。自分ら兵隊は別であります。自分らは、みな、ごく若いのでありますから」
「いったい、何年くらい、亡くなった者に供養をするのかね?」とわたくしは尋ねた。
「百年間であります」
「たった百年間なの?」
「はい。寺でも、祈祷や供養は、百年しかいたしません」
「そうすると、死んだものは、百年たてば、もう思いだされなくてもすむものなのかね? あるいは、消えてしまうものなのかね。たましいが死ぬことがあるのかね」
「いや、百年たちますと、家の中にいなくなるのであります。人によると、生まれかわるのだとも言いますし、神になるのだとも申します。神になりますと、神として敬まわれて、一定の日に床の間に供物をそなえるのであります」
(これは普通に行なわれている解釈だが、これとふしぎにも違った信仰の話を聞いたことがある。徳望のひじょうに高い家では、祖先の霊が、なにか物のかたちをかりて、数百年のあいだ、ときどき姿をあらわすという言い伝えがあるのである。むかしの千ガ寺まいりが(*)、さる遠国のごく辺鄙《へんぴ》な土地で、ふたつの霊魂を見たという話が、今でものこっている。その千ガ寺まいりが見たという霊魂は、形の小さなぼんやりした、「その色、古き唐銅《からかね》のごとく黒」いものだったそうな。口はきかない。ただ、なにか唸《うな》るような小さな声を出すそうで、物は食わないかわりに、毎日供えものの温かい湯気だけを吸っているという。子孫の語るところによると、年々、そのたましいはしだいに形が小さくなって、ますますぼんやりしてくるそうである)
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(*)千ガ寺まいりというのは、日蓮宗の有名なお寺を千カ所参詣してまわってあるく信者のことである。千ガ寺をひとまわりして歩くには、数年かかるそうである。
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「自分らが死んだもののあとを慕うのは、妙なことだとお考えになりますか?」と浅吉は尋ねた。
「いや。そんなことはない」とわたくしは答えた。「美しいことだと思うよ。ただね、わたしなど、西洋の異人のひとりとして考えると、どうもその習慣は、現代のものではなくて、だいぶ大昔の習慣みたいに思われるのだね。古代ギリシャ人の死者に対する考えというやつ、これはだいぶ現代の日本人の考えに似ていたにちがいないね。ぺリクレス時代のアテネの兵隊の考えなんてものは、おそらく、明治時代のいまの君などの考えと同じだったんだろうな。君は、まえに学校で、ギリシャ人が死者にいけにえを供えたり、豪傑や愛国者の英霊に敬意を払ったことなどを読んだことがあったっけねえ?」
「はあ。ギリシャ人の習慣のなかには、自分らのによく似たのがあります。自分らのなかでも、シナと戦って仆《たお》れるものは、やはり敬《うや》まわれます。みな、神として崇《あが》められます。陛下ですら、尊敬なされます」
「しかし」とわたくしはいった。「先祖の墳墓の地を遠く離れて、異境で戦死するということは、西洋人にすら、とても気の毒な気がするがねえ」
「いや、そんなことはありません。郷里の村や町には、戦死者を弔うために、記念碑が建てられます。それに、兵隊の死骸は戦地で焼かれて、日本へ送りかえされます。すくなくとも、それができる時には、そうされるのであります。大激戦のあったあとでは、ちょっとそれはむずかしいかも知れませんが……」
(ふとその時、ホーマーの記憶が胸に迫って、「屍《かばね》の山、ここだく絶えず焼かれけり」という古戦場の光景が、まざまざと、わたくしの目のまえにうかんできた)
「してみると、こんどの戦争で戦死した将卒の霊も、将来また国難がきたようなときには、いつでもかならず祈念されるのだろうね?」
「そうであります。かならず祈念されます。自分らは全国民に敬慕され、尊崇されるのであります」
浅吉は、自分がすでに戦死するときまっている人間のように、ごく自然な調子で、「自分ら」といった。そして、それなり、ややしばらく黙っていたが、やがて語をついだ。――
「自分は、昨年学校におりましたとき、行軍にまいりました。意宇《いう》の在に、英霊の祀《まつ》られてある神社がありますが、自分らは、その神社へ向かって行軍したのであります。あすこは、岡にかこまれた、幽邃《ゆうすい》な、景色のいいところでありまして、神社は、うっそうとした高い木の蔭になっております。昼なお暗く、冷え冷えとした、静かなところであります。自分らは神社の前に整列いたしました。もちろん、だれも物を言うものなどはありません。おりからラッパの音が、戦場への召集ラッパのように、神社の森にひびきわたりました。自分らは、みな、捧げ銃《つつ》をしたのであります。その時、自分は目に涙が出たのであります。――なぜ出たのか、自分にもわかりません。朋友を見ますと、みなやはり、自分と同感のもようでありました。先生は外国人でおられますから、自分らのこの気持は、おそらく、おわかりにならんでありましょう。この気持をひじょうによく言いあらわした和歌がありますですがね、日本人なら誰でもみな知っておる和歌であります。むかし、西行法師というえらい坊さんが詠んだ歌でありまして、この西行という人は、僧侶になるまえは武士でありました。本名は、佐藤義清というのであります。――
なにごとのおわしますかは しらねども
かたじけなさに なみだこぼるる」
こうした告白をわたくしが聞くのは、これが初めてではない。以前わたくしが教えた生徒の大部分は、こうした古い神社の縁起と幽邃な森厳さによって引き起こされる感懐を、みな遠慮なく語ったものであった。じじつ、浅吉のこの経験は、大海の一波がけっしてそれひとつで起こるものではないように、切り離した個人的な経験ではなかった。浅吉はただ、一民族の祖先伝来の感情を、――つまり、この国の神道の、どこといって掴みどこはないかわりには、根ざしの測り知れないほど深い情緒を、つい口に洩らしたにすぎないのである。
わたくしたちは、爽かな夏の宵闇がとっぷりと暮れおちるまで、語りつづけた。空の星と、兵隊屋敷の電灯のかげが、いっしょになって、キラキラ輝きだした。ラッパが鳴りわたり、やがて清正のいた古城からは、一万の兵士が歌う雷のような軍歌の声が、夜空へとどろきだした。――
西も東も
みな敵ぞ
南も北も
みな敵ぞ
寄せ来る敵は
不知火《しらぬい》の
筑紫の果の
薩摩潟《さつまがた》
「君もあの歌を習ったかね?」わたくしは尋ねてみた。
「はい、習いました」浅吉はいった。「兵隊は、みな、あの歌を知っておるであります」
熊本籠城の軍歌である。ふたりして耳をすまして聴いていると、殷々《いんいん》たるその大合唱のなかから、どうやら歌詞の幾分かを聴きとることができた。――
天地も崩るる
ばかりなり
天地は崩れ
山河は
裂くるためしの
あらばとて
動かぬものは
君が御代《みよ》
浅吉は、しばらくのあいだ、烈しい軍歌の調べにあわせて、両肩をゆすりながら聴き入っていたが、やがて、はっと目がさめたもののように、哄然《こうぜん》と笑っていった。――
「先生、もうおいとまいたします。きょうは、じつに愉快でありました。お礼の申しようもありません。ところで……」といって、胸から小さな包みをとりだして、「これをどうかお納めになって下さい。いつぞや先生、自分の写真をとおっしゃいましたから、きょうは記念に持って出ました」
そういって起ち上がると、剣をつけた。わたくしは玄関で、浅吉の手を竪く握りしめた。
「先生、朝鮮から何をお送りしましょうか?」と浅吉は訊いた。
「手紙をくれればいいよ」とわたくしはいった。――「こんど大勝利があったらね」
「筆がとれましたら、かならずおたよりします」と浅吉は答えた。
それから、銅像みたいに直立不動の姿勢をとって、軍隊式の敬礼をすると、浅吉は闇のなかへ大股で去って行った。
わたくしは、客の帰ったあとの寂しい客間へもどって、しばらく考えに沈んだ。どよもすような軍歌の声がまだ聞こえている。わたくしは汽車の音に耳をかたむけた。その汽車は、たくさんの若い心と、かけがえのない忠義と、りっぱな信念と、愛と、勇気とを満載して、シナの稲田の疫病と、渦まく死の旋風とを目ざして行く汽車であった。
地方新聞に発表された、長い戦死者名簿のなかに、「小須賀浅吉」の名を発見した日の宵のことである。万右衛門は、客間の床の間を霊祭のためにいろいろと飾りつけて、灯明をそなえた。花瓶には盛《も》り花がいっぱいに挿され、いくつかの小さな灯明ランプには灯がともされて、唐銅《からかね》の小さな線香立には線香が焚かれた。支度が万端ととのったところで、万右衛門は、わたくしのことを呼んだ。わたくしが床の間のまえへ行ってみると、そこの小さな台の上に、浅吉の写真がちゃんと立ててあり、写真のまえのところには、米、果物、菓子など、こまこましたお盛《も》り物がちんまりとならベてあった。万右衛門老人の心づくしの供え物である。
万右衛門は、おそるおそる畏《かしこ》まって、こんなことをいった。「きっと何でございますよ、旦那さまがなにかひとことおっしゃっておあげになると、浅吉さまのたましいが喜びますで。浅吉さまは、旦那さまの英語がおわかりにならっしゃるでな」
わたくしは浅吉に話しかけた。すると、浅吉の写真が、香華のけむりのなかから、にっこりとほおえんだようであった。自分のいったことは、死んだ浅吉と神々だけに通じることであった。
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横浜で
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わたしたちは、きょう、じつによい見ものに出あった。――すがすがしい夜明け、――美しい御来迎。――lじつは、菩薩が小さな流れをわたって行かれたところを見たのだ。――「雪山経」
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その地蔵堂は、小ていな店屋のつづいた通りの裏の、ちょうど行きどまりになった袋路地の奥にひっこんでいたから、捜しあてるのにずいぶん骨が折れた。その袋路地へはいる入口のところが、家と家との狭い庇《ひ》あわいになっており、そこのところに、風が吹くとハタハタはためく古着屋ののれんがかかっていて、それが目かくしをしていたのである。
炎暑のこととて、小さな堂の障子は取りはらわれていたから、本尊は、三方あけひろげの、外から見通しになっていた。黄いろっぽい畳の上に、型どおりの仏具一式――勤行の鐘、経づくえ、朱ぬりの木魚などがおいてあるのが見えた。須弥壇《しゅみだん》の上には、死んだ子どもの霊にあやかるように、首によだれかけをかけた、石の地蔵さまが立っており、地蔵さまのあたまの上には、細長い棚がわたしてあって、その上に、地蔵さまよりすこしちいさ目な、金箔をおいた極彩色のいくつかの仏の像――頭のてっぺんから足の先まで後光《ごこう》のさした、またべつの地蔵尊だとか、燦然と光りまばゆい阿弥陀如来《あみだにょらい》だとか、うつくしい、にこやかな顔をした観音だとか、亡者の裁判官である閻魔《えんま》大王のおそろしげな像だとか、そんなものがずらりとのせてある。
そのまた上の高いところには、おびただしい奉納の絵馬が、乱離雑然とかかっている。そのなかにまじって、アメリカの絵入新聞から切り抜いた絵を、額に入れてかけてあるのが、二面あった。一枚はフィラデルフィア市の博覧会の光景、もう一枚は、ジュリエットの役に扮した、アデレイド・ニールソン嬢の肖像だ。本尊のまえには、型のごとき花立のかわりに、ガラスの壺が両わきにおいてあり、それに「レイン・クロード(フランス産の李《すもも》)果汁。貯蔵請合。ボルドー市、ツーサン・コナール会社」としたレッテルが貼ってある。線香のいっぱい入れてある箱には、「香味芳醇――ピンヘッド紙巻タバコ」と銘が打ってあった。
おもうに、こういう品を奉納した善男善女たちは、もっと高価な物などは、一生かかっても奉納できる目あてのない人たちであって、こうした品がものめずらしいだけに、きれいに見えたのだろう。そういう不釣合はほうぼうにあったけれども、それでいて、正直、その小さなお堂は、いかにもちんまりと小ぎれいに、わたくしの目には見えた。
阿羅漢が竜を噴いている、物すごい姿の描いてある衝立《ついたて》が、奥の間を仕切っており、どこか見えないところで、しきりと鶯が鳴いていた。その声が、ひっそりとした堂の静けさに、一抹のゆかしさをそえていた。隔ての衝立のかげから、赤猫がいっぴき、われわれのようすをうかがいにのっそりと出てきたが、やがて奥へ口上をつたえでもするように、またのっそりと引っこんで行った。
まもなく、年とった尼さんが出てきて、いらっしゃいまし、どうぞお上がり下さいましと、われわれを招じた。きれいに剃った尼さんの頭は、お辞儀をするたびに、お月さまのようにてらてら光った。われわれは靴をぬぎ、尼さんのあとについて、衝立の奥の、庭に向いてあけひろげてある小さな部屋へ通されると、そこに、ひとりの年とった僧がふとんの上に坐って、たいへん低い机に向かって書きものをしていた。老僧が筆をおいて、われわれに挨拶をしたので、われわれも老僧の前に出してある座ぶとんの上に座を占めた。老僧の顔は、見るからに、いかにも心たのしげな温顔で、寄る年波がきざんだ皺《しわ》のひとすじひとすじが、こぞって心ばえのよさを語っていた。
尼さんがわれわれに茶と菓子をはこんできた。菓子には法輪の型が打ちだしてあった。さっきの赤猫が、わたくしのそばで香箱をつくっている。やがて、老僧が語りだした。太い、おちついた声である。その声には、ちょうど寺の鐘を打つときの、あの長くあとに尾をひく豊かな余韻に似た、唐銅《からかね》のようなひびきがあった。われわれは老僧の身の上ばなしが聞きたいと思って、しきりとその方へ話の水を向けてみた。老僧は、ことし八十八歳の高齢であるが、いまだに、目も、耳も、壮者のそれにひとしい。ただ、慢性のリョーマチのために、歩行が意のままにならない。かれは、こんにちまで、二十一年という日子を、全巻三百冊をもって完結する、日本宗教史の執筆に没頭してきたのであるが、そのうち、すでに二百三十冊までは完稿していた。残りの部分は、来年いっぱいで書き上げたいといっている。老僧の坐っているうしろの小さな本箱の上に、なるほど、きちんと綴じた草稿が、山のように堆《うずたか》くつんであるのが見える。
「けど、老僧のやっておられる著述の計画は、だいぶ方向を誤ったものですがね」とわたくしのつれて行った通訳の学生がいった。「とてもこの方の宗教史は、出版なんかされやしませんよ。なにしろ、荒唐無稽な話ばっかりがあつめてあるんですから。――奇蹟談だの、おとぎばなしみたいなものだの……」
(わたくしは、そういう話なら、ぜひ読みたいものだと思った。)
「お年のわりには、たいそうあなた、お丈夫のようにお見うけいたしますが……」とわたくしはいった。
「この調子でまいると、まだあと五、六年はもちましょうですかなあ」と老僧は答えた。「もっとも、自分としては、この宗教史を書き上げるまで生きておれば、あとはもう望みはないので。これを書き上げてしまえば、どうせ動くこともならん、甲斐ないものだによって、早う死んで、新規なからだに生まれかわりたいものだと、こう思うとりますようなわけでな。ま、こういう片輪な身になると申すのも、なにかこれは、前世に罪を犯したのにちがいないのでありましょう。しかし、だんだん彼岸に近づいてまいると思うと、うれしい心もちがいたします」
「彼岸というのは、生死の海の向こうの岸という意味です」と通訳者がいう。「御存知でしょうが、われわれがその海をのりこえる船、これが弘誓《ぐぜい》の船で、いちばん遠くにある岸が、つまり涅槃《ねはん》です」
わたくしは尋ねてみた。「わたくしどもが、からだが弱いとか、あるいは不幸であるとか、こういうことは、すべてみな、前世に犯したあやまちの報《むく》いなのでございましょうか?」
「げんざい、ここにこうしておるわたくしどもですな」老僧は答えるのであった。「これはみな、過去におきまするわたくしどもの因果でございまする。日本では、これを、万劫《まんごう》と因業《いんごう》のむくいだと申しておりますな。万劫と因業と申しますのは、これはふたいろの行作《ぎょうさ》でしてな」
「善と悪との?」とわたくしは尋ねた。
「いや、大と小との。……いったい、この世に完全無欠、一点の非の打ちどころもない行作なぞと申すものはございません。どんな行作にも、理非がございます。ちょうど、すぐれた名画にも、まずく行ったところと、じようずに行ったところとございますな。あれとおなじでございます。しかし、どんな行作にしましても、その行作のなかにある、よい点の帳尻が、悪い点の帳尻を、いくらかずつでも上越してまいるところに、精進進歩がございますのでな。つまり、よい絵の中のじようずなところが、まずく行ったところをのりこえている、あのあんばいと同じで。こうして精進をつづけてまいりますうちに、悪という悪が除かれてまいります」
「しかし、そういう行為の結果が、肉体に影響をおよぼすなどということがありますでしょうか?」とわたくしは尋ねた。「子どもは、親の通った道にしたがって、強くも弱くも、親の遺伝をうけますですね。しかし、たましいは親からは受けませんですね」
「因果応報の綾《あや》というやつは、これはなかなかどうして、ひとことやふたことでは、朝夕に説明できませんものでな。これを会得しまするには、ぜひとも大乗を御研究にならんとだめでございます。それといっしょに、小乗も御研究にならんといけません。この両方を御研究になりますると、この世の中が、人間の行為ゆえに存在しておるという理合《りあい》が、よくおわかりになりまする。ちょうど、字を習いまするときに、はじめのうちは、たいへんむずかしい。ところが、だんだん上達してまいるにつれて、つまり、くりかえしてやって行きますうちに、かくべつそう大して苦労もしないで書けてくる。習い、性《しょう》となる、というりくつでございますな。この習い性となったやつは、これはもう、あの世まで、ずっとそのまま持って行かれるのでございます」
「だれでも人間は、自分の前世のことを思いだす力をえられるものでございましょうか?」
「さ、そいつはめったにございませんですな」老僧はかぶりを振りながらいった。「そういう記憶を持ちますためには、その人は、まずもって、菩薩になりませんといけませんのでね」
「菩薩になることは、できないことでございましょうか?」
「こんにちの時世では、まず、だめでございますな。当節は堕落の時代――末世でございますからな。はじめに正法の世というものがございまして、その時代は、人間の寿命も長うございました。そのあとに、色相の世がまいりまして、この時代に、人間は最高の真理から離れたのでございます。ところで、ただいまは堕落の世でございまするから、当節では、いかほど善根を積みましても、仏にはなれません。つまり、世の中が穢《けが》れまして、人間の寿命が短かくなりましたからで。もっとも、信仰の深いお方が善根をつんで、日ごろお念仏をとなえておりますれば、極楽へはまいれます。極楽へまいりますれば、あちらで正法をおこなうこともできまする。あちらは、日も長うございますし、したがって寿命も長うございますでな」
「まえにわたくし、英訳の経文で、人間は善行をつんでゆくことによって、今のしあわせからそのまた上のしあわせへと、順々にしあわせな境涯に生まれかわるもので、そのたびに、だんだん完全な力をもつようになって、しだいに高いよろこびに身をとりまかれるようになってくる、ということを読みましたのですが、そういう境涯になると、富とか、力とか、美とか、美人とか、およそ仮りのこの世で人間が欲しいと思うものは、何でもえられるということも、そのなかに説いてございました。そういうことから考えますと、精進の道というものは、先へ行けば行くほど、不断にむずかしくなってゆくものに相違ございませんね。なぜかと申すに、経文に嘘がないとしますと、人間は煩悩からうまく解脱《げだつ》できると、それだけまた、煩悩に戻るという迷いも強くなるわけですから。そうなりますと、徳の酬《むく》いというものも、かえって、それが道の妨げになるような気がしますのですがねえ」
「いや、それはちがいます!」と老僧は答えた。「自律持戒によって、仮りの世のそうしたしあわせな境涯に達しましたものは、同時にまた、それといっしょに精神の力、または真の知恵というようなものをも身につけておりますですからな。そういうお方の自分に打ち克《か》ってまいる力、これは、自分に打ち克つたびに、力を増してまいります。それで、ついには、無色相の世界に生まれるのでございますが、そこまでまいりますと、もうそこには、低俗な迷いなどというものは、いっさいございませんです」
そういっている時、だれか下駄の音がきこえたので、赤猫が気づかわしげに身をおこして、玄関の方へのそのそ出て行った。そのあとから、例の尼さんもついて出て行った。参詣の人が二、三人待っていたのである。その人たちのなにか奇特な志を聞くために、老僧が、ちょっとここを失礼させていただきたいというので、われわれはさっそく客と座をかわった。
はいってきた客というのは、いずれも貧しそうな、気のおけない百姓たちで、われわれにもていねいに挨拶をした。そのうちのひとりは、子どもをなくした母親で、これは、亡くなった子の冥福のために、お経をあげてもらいにきたのであった。また、ひとりは、病気の亭主のために、仏の慈悲をいただきにきた人妻であった。あとのふたりは、どこかたいへん遠国へ行く人のために、御加護をたのみにきた父娘《おやこ》のものであった。老僧は、一同にそれぞれねんごろなことばをかけ、子どもをなくした母親には、お地蔵さまのお姿を刷ったお札をさずけてやり、亭主がわずらいついているおかみさんには、紙にひねったお洗米をあたえ、父娘のものには、なにやらお経の文句を書いてやった。
なるほどなあ、こういう数知れぬ罪のない御祈祷が、数知れぬ方々のお寺やお堂で、まいにち、数知れず上げられているのだなあと、ふと、そんな考えが、その時わたくしの胸に浮かんだ。素朴な愛情から生まれる心配ごとや胸の苦患、神や仏をのぞけば、この世のだれにも聴きとどけてもらえないような謙虚な嘆き、わたくしはそんなものをふっと考えた。そのうちに、わたくしの通訳の学生は、老僧の蔵書にひとわたり目をとおしはじめた。わたくしはわたくしで、考えうべからざることを、しきりと考えはじめていたのである。
いったい、生命というもの――新しく生みだされたものではない、したがって、太初《はじめ》というもののない、つまり、合成体としての生命というもの――われわれは、それの明るい幻影だけを知っているのだが――死と絶えず闘いながら、いつもそれに征服されつつ、しかもつねにまた生きかえってくる生命というもの、これはいったい何なのだろう? 宇宙の万物は、幾百万たびか消滅し、幾百万たびか再生した。物が消滅すると、そのたびに、物の生命も消滅するのだが、次の週期には、すぐとまた、その生命はあらわれてくる。大宇宙はひとつの星雲となり、その星雲がまた、ひとつの大宇宙となる。永遠に無数の恒星の世界は生成してゆく。そうして、永遠にそれは死滅してゆくのである。ところが、一大凝集が行われると、そのあとではかならず、炎々と燃えさかる球体はしだいに冷却して、そこに生命が実るのである。その実った生命が生育して、思想を実らすのである。
そうしてみると、われわれ人類のひとりひとりの中にある魂魄は、かならずや、百万の恒星の劫火のなかをくぐってきたものにちがいない。――このようにして、将来もまた、かならずや、無尽無数の宇宙の恐るべき壊滅のなかから、生命は回起してくるにちがいない。そうなると、人間の記憶というものも、なんらかの方法で、どこかに生きのこらないものであろうか? われわれの知識のおよばない方法とか形のなかに、――たとえば、過ぎ去った過去のうちに、来《きた》るべき未来を想起するというような、無限の洞察力とでもいったような形で、記憶が生きのこっていないともかぎらないではないか。おそらく、涅槃のあの深い眠りにも似た、はてしなき夜のなかに、かつてありしものの夢と、将来あるべきものの夢とが、永遠に夢の花を咲かせつつあるのであろう。
檀家の連中が礼をのベて、ささやかなお盛《も》りものをお地蔵さまに供え、われわれにも挨拶をして帰って行った。われわれがまたもとの小机のそばの座にもどると、老僧は語りだした。
「まあ、おそらく何でしょうな、この世の不幸とはどんなものか、それを知っておりますものは、われわれ僧籍にあるものでございましょうな。話に聞きますと、西洋のお国は、お金はぎょうさんあるかわりに、苦労もなかなか多いように聞いておりますが」
「はい」わたくしは答えた。「それに、わたくし考えますのに、日本よりも西洋の国々の方が、よほど不幸でございます。金のあるものは、いろいろ楽しいことも多うございますが、貧乏人はいろいろ苦労が多うございます。ですから、われわれ西洋人の生活は、日本などから見ますと、ずっと暮らしにくうございます。そのためでございますか、西洋人の思想は、世の中の不可解に悩ませられることが多うございますね」
老僧は、この話に興をうごかしたようであったが、べつになにも言わなかった。わたくしは通訳の助けをかりて、話をつづけた。――
「西洋の国の多くの人たちが、常住頭を悩ましている大きな問題が、三つございます。『どこから?』『どこへ?』『なぜ?』――つまり、『生命というものは、どこからきたものであるか?』『そうして、どこへ行くものであるか?』『なぜ生命は存在し、なぜ苦悩するのか?』という問題でございますね。西洋における最高の科学も、この三つは解くことのできない謎だと申しております。そのくせ、この三つの謎が解けないかぎりは、人間の精神には平和は来ないとも白状しております。こんにちまで、あらゆる宗教という宗教が、それぞれこの問題の解決を企ててまいりましたけれども、その解釈が、どの宗教もみなめいめいに違っております。じつは、わたくし、だいぶ前から、この問題に対する解答を、仏典のなかにさがしてまいったのですが、どうもわたくし、仏典のなかにあります解釈が、いちばんいいもののような気がいたしているのでございます。しかし、それでも、どうもまだ完全とはまいりませんで、腑《ふ》に落ちないところがございます。それで、じつは、わたくし、御老僧のお口から、三つが三つ、全部とは申しませんが、すくなくとも、第一と第三の疑問についての御解答を、うかがいたいと思っておりますのですが、――証明だとか、論議だとか、そういうことはうかがわなくてもよろしいので、ただ、この問題を道破した教義がうかがいたいのです。いったい、万物のはじまりというものは、宇宙の心霊にあったのでございましょうか?」
この質問に対して、わたくしは、正直いうと、明解な解答は期待していなかった。というのは、まえに、わたくしは「一切漏経」という経典のなかで、「思議《しぎ》すべからざるもの」とか、六愚説とか、「これ一物なり。いずこに至るべきや」というような議論めいたことを非難した文句を読んでいたから。ところが、老僧の答えは、あたかも偈頌のごとく、音吐朗々と語りだされた。
「およそ個として考えた万物は、進化再生の無尽無数の形をへまして、十界諸法の一念から生まれたものでございまする。この一念のうちに、万物は久遠の昔から存在してまいったのでござります。ところで、わたくしどもが物心と申しておりまするもの、この物と心とのあいだには、元来、本質の差別はございません。つまり、人間が物と名づけておりますものは、これはただ、人間の五官、知覚の総計したものなのでありまして、もともと人間の心に映ったまぼろしにすぎないのでございます。われわれは、物の本体というものについては、なんの知識をも持っておりません。人間は、おのれの心の実相以外のものは、なにも知らないのでありまして、この心の実相なるものは、外部からくる影響、あるいは外部から加えられる力によって現われるものでありまして、その外部からくる影響、あるいは力を、われわれは物質と名づけておるのでございます。しかしながら、物といい、心と申しましても、物・心はともにこれ、ひとつの無量無辺の実在の両面にすぎないものなのでございますな」
「西洋にも、それとおなじ説を教えるものがおります」とわたくしはいった。「どうも、近代の科学の一ばんどんづまりの探究は、わたくしどもが物と名づけているものには、絶対の存在がないと宣言しているようでございますね。ところで、ただいまあなたのおっしゃった無限の実在、これについて、なにかこの、わたくしどもが物・心という二つの名で区別しておりますこの二つの形のものが、どんなぐあいにして、最初に生まれてきたか、ということを、説いている仏の教えはございますのですか?」
「仏教の方では」と老僧は答えた。「ほかの宗教もそうでありまするが、万物が天地の創造によって生まれてきたということは、説いておりません。唯一不二の実在、これは十界十如の『心』でありまして、これを日本のことばで、『真如』と申しておりますが、この『真如』がつまり、久遠無窮《くおんむきゅう》の実法相なのでございますな。この無尽劫の「心』は、それ自体のなかに、正覚を見るのでございます。ちょうど人間が、まぼろしのなかで、目に映じたものを実在と考えますように、つまり、宇宙という実在がですな、自分の心だけに見たものを、これを外界にある実在物なりと見ちがえておる。この迷妄、迷いでございますな、これをわたくしどもの方では「無明』と申しております。『無明』とは、『光りのないこと』、つまり『悟りのない」という意味でございます」
「西洋のある学者は、その『無明』ということばをIgnorance(無智無識)と訳しております」
「そういうお話でございますな。しかし、わたくしどもの方で申します『無明』ということばのつたえます観念は、『無智』ということばのあらわしておる観念とは違いますでな。『無明』と申しますのは、さよう、どちらかと申すと、あやまって教えられた得度、あるいは迷い、そういった観念でございます」
「で、その迷いのおこった時のことは、どう教えられておりますでしょうか?」とわたくしは尋ねてみた。
「最初の迷いの時期、これを『無始《むし》』と申しまして、つまり、阿僧祗劫の過去におきまする『真如』からいたして、『我』と『非我』と申す第一の差別が生じまして、そこから、物と心のいっさいの個の存在がおこってまいります。同時に、そこから、情念や欲念がやはりおこってまいって、これが無量無尽の生生を流転いたして、そこに実在の因縁というものをつくるのでございますな。そういうわけであるからいたして、宇宙はすなわちこれ、無窮無辺の実在の発散したものということになりまする。けれども、われわれは、その実在から生まれたものとは申されない。われわれ各自の『自我』の根源というものは、これは十界諸法の一念――つまり、宇宙の心なのでありまする。であるからいたして、われわれのうちには、宇宙我というものが、最初の迷いの因果といっしょにすでにあるわけでありますな。そうして、『自我』の根源が、迷いの因果の中に包蔵されております状態、これをわれわれの方では『如来蔵』(*)もしくは『仏胎《ぶったい》』と申しておりまする。われわれがみな、汗水たらして励み努める、その究極の目的は何かと申すと、無窮無辺の『自我の根源』に還ることなのでありまして、その『自我の根源』と申すものが、これがつまり、仏の本体なのでございますな。
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(*)「如来蔵」は、梵語のTashagatagharba である。Tashagata というのが、日本語の「如来」であって、これは、仏に奉った最も高い称号である。「先人の来るが如くに来る」という意味である。
訳者注 金剛般若経に、「無所従来、亦無所去、故名如来」とある。如は真如、つまり真如より来生せるもの、すなわち、真理より顕現したものという意味で、仏のことをいうのである。
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「もうひとつ、仏教の教えで、ぜひうかがいたい疑義がありますのですが」とわたくしはいった。「西洋の科学は、こう申しております。――われわれの目に見える宇宙は、無限の過去のうちに、なんべんだか数えられないほど、あとからあとからと、あらわれたり消えたりしたもので、このさき、無窮の未来においても、それをくりかえさなければならないものだと申すのです。古いインドの哲学を英訳しましたものや、仏典などにも、やはりこれとおなじことが述べてございますね。しかし、同時にまた、いっさいのものに究極の滅土がきて、永遠の休熄状態にはいる時がくるとも教えてはございませんでしょうか?」
老僧は答えた。「小乗の方で申しますと、なるほど、宇宙は、過去において、無尽無量に顕現消滅をくりかえしてまいったと教えてございますし、またこれから来るべき、想像もできない無量無辺の劫数《こっしゅ》のあいだにも、ひつじょう、解消と再建をつづつけてまいるものだということも教えてございます。しかしながら、また一方においては、万物は、とどのつまりは、久遠の涅槃の状態に入るものだ、とも教えてございますですな」
不遜な考えだったが、ふとその時、やみがたい想像がわたくしの胸にうかんだ。科学の公式によると、絶対死は、摂氏の零下二百七十四度、華氏の零下四百六十一度で表わされることを思いだしたのである。が、わたくしはただ、次のようにいった。――
「西洋人の考えから申しますと、絶対死というものを幸福な状態だと考えることは、ちょっと無理でございますね。仏教の方で申します涅槃という観念には、無限の静止状態、つまり、宇宙ぜんたいの不動という観念をふくんでおりますのでしょうか?」
「いや」、老僧は答えた。「涅槃と申しますのは、絶対の自足、全知全覚の状態でありまする。なにもかにも活動が止まってしまった状態とは、わたくしども考えておりません。むしろ、いっさいの繋縛覇絆《きんばくきはん》から脱した大自在の状態と考えまする。人間の五官、思考というものは、これは肉体という条件とは切っても切れんものでありまするからして、肉体を離れた知覚というようなものは、想像できないのが本当でありまするが、しかし、涅槃と申せば、これはもう、無限の洞察力、無限の知恵、無限の平和の状態だと、わたくしどもは信じております」
赤猫が、老僧の膝のうえへひょいととび上がった。そして、からだをくるりと丸くすると、そのまま、さも気持よさそうな、ぐったりとした寝相になった。老僧は、それをそっと撫でてやっている。わたくしの連れがそれを見て、軽く笑いながら、
「ほう、ずいぶんよく肥えておりますね。おおかた、この猫も、前世になにか善根をつんだのでしょう」
「動物の境涯なども、やはり、前世の徳不徳によるものでございますか?」わたくしは尋ねてみた。
すると、老僧は、まじめな顔をして答えた。
「物の境涯は、すべてみな、前世の境涯に左右されておりまする。生は一なり。ただ、人間界に生まれるというのは、これはしあわせなのでありまして、人間に生まれたればこそ、われわれは多少なりとも教化《きょうげ》も受けまするし、徳をつむ機会にもめぐまれておりまするわけで。ところが、けだものの境涯と申しますのは、あれは心の闇の状態なのでありまして、人間から慈悲|憐愍《れんびん》をかけられる、あわれなやつらでございます。それが証拠には、けだもので、あれはほんに後生楽なやつだと思われるものは、いっぴきもござりません。でも、そういうけだもののなかにも、数えきれぬほど身分の相違がございますのでしてな」
しばらく沈黙がつづいた。――猫のゴロゴロのどを鳴らす音だけが、しずかに聞こえているばかりである。わたくしは、ちょうどこちらから見ると、隔《へだ》ての衝立《ついたて》の上のところに顔を出している、アデレイド・ニールソン嬢の肖像に目をやった。そして、ジュリエットのことをおもい、自分がかりに日本語でうまく話ができたとして、この老僧は、シェクスピアのあの恋とあわれの綺譚を聞いたら、果たして何というだろうと思った。すると、この思いつきに答えるように、「法句経」の第二百十五節の文句が、ふっとわたしの胸にうかんできた。「愛欲より憂を生じ、愛欲より畏を生ず。愛欲を離れたる人に憂なし、何の処にか畏《おそ》あらん」
わたくしは尋ねてみた。「仏教では、すべて男女の愛は禁ずべきものだと教えてございましょうか? 色情は修業の障《さわ》りになるものなのでございますか? 真宗以外の僧侶が妻帯を禁じられているということは、わたくし承知しておりますが、在家のものの独身と妻帯について、どういう教えがあるものやら、よくこころえないのですが……」
「妻帯は、道の障りともなりますし、また助けともなりまする」老僧はいうのであった。「それは、時と場合によることでしてな。すべて情況しだいでございまする。かりにもし、妻子の愛が、男に、あまり浮世の名利に執着させすぎるようなことになりますれば、そういう愛情は、道のさまたげになりますですな。それと反対に、妻子の愛が、男に、独身時代よりもいっそう純な、我欲のない生活をさせるようでありますれば、結婚も大きに修業の助けになりまする。しかし、だいたい、大智の人には、妻帯は危険が多うございますし、小智の人には、独身が危険が多いようでございますな。
もっとも、色情の迷いが、生得利根の人を、大智にみちびくというようなことも、時にはございます。|大目※[#「牛+建」、unicode728D]連《だいもくけんれん》――ふつう、目連といわれておりますが、この人は釈尊のお弟子でございました。この人、たいへん美男子だったものですから、ある娘がこれに恋着をいたしましてな。ところが、当の目連は、すでにその時は僧籍に入っておりましたから、娘の方では、目連をわが夫にもつことができない。そこで落胆しまして、人知れず嘆いておったのでございますな。しかし、とうとうしまいに、娘は勇をふるって、お釈迦さまのところへまいりまして、心のたけをこまごまとお釈迦さまに打ち明けたものです。そういたしますると、お釈迦さまは、娘が話をしておりますうちに、娘をば深い眠りにお落しになられました。すると、娘は、自分が目連のしあわせな女房になった夢を見たのでございますな。
さて、夢のなかで、たのしい月日が何年かたちますというと、こんどは、悲喜こもごもに相まじった月日がやってまいる。そのうちに、いきなり最愛の夫を、死の手にもぎとられてしもうたのですな。夫に死なれでは、もはやこのうえ生きてゆく術《すべ》もわからない、というほどの悲しみを、女は知りました。その愁嘆のうちに、はっと目がさめてみますると、お釈迦さまが、ニコニコ笑っておいでになる。お釈迦さまは、そのとき、こうおっしゃいました。『妹よ、お前がいま見たとおりであるぞ。さあ、どちらなりとお前の好きなようにしたがよい。目連の妻となるとも、あるいは、目連が直入した高い道を求めるとも』そこで、女は剃髪して比丘尼《びくに》になりまして、二どと生まれかわらんで、よい境涯に達したのでございます」
このはなしは、しかし、色情の迷いが人間を自己征服に導入させるという例証にはならないようである。なぜかというと、娘の入道は、わが身におそいかかった苦しい知覚から直接にきた結果であって、恋慕によって結縁されたものではないと、わたくしは、とっさにそんなふうに考えた。が、こんなふうにも考えなおされてきた。かりにもし、娘が見せられたあの夢も、相手が我執のつよい、凡下の人間であったら、けっして高い結縁はえられなかったにちがいない。そう考えてくると、現代のような生活秩序のなかにいる人間が、うっかりあんなふうに未来の予備知識などもたされでもしたら、かえってそこに、いうにいわれない不都合なことが起りはしないか。まあ、未来などというものは、まずまず目かくしの幕のかげで細工をされていた方が、われわれ凡夫にとっては、なにかにつけてありがたいことだ。その目かくしの幕をまくってみる力などは、そりゃそういう力が人間にとって、じっさいに益がある時が到来した時には、大いにそういう力を引き出すも、手に入れるもけっこうだが、そんな時が到来するまでは、しばらくまあ、そいつは御免こうむりたいものだな、などと、そんな夢みたいなことを、わたくしは考えてみたりした。そして尋ねてみた。――
「未来を見ぬく力、これは悟りをひらきますれば、得られるものでございましょうか?」
すると、老僧は答えた。――
「それは得られますでございます。六神通を得るところまで悟りがひらけてまいりますれば、未来は過去とおなじように見えてまいります。この力は、前世を思いだす力とともにひらけてまいります。もっとも、そういう正覚に達しますることは、こんにちの世の中では、とてもむずかしいことでございますな」
わたくしの連れが、もうおいとまをする時刻だという意味を、そっと目顔でわたくしに知らせた。だいぶ長居をしてしまった。――そういう点で、人を許すに寛大な日本の礼儀作法からいっても、少少長居がすぎたようである。わたくしは、自分の突飛な質問にこころよく答えてくれたことに対して、老僧にあつく礼をのべたあとへ、さらにことばをそえていった。――
「まだお聞きいたしたいことは山ほどございますのですが、きょうはだいぶ長いことお邪魔をしてしまいました。またあらためて伺わさせていただきます」
「ああ、どうぞ。いつでもいらしてください」老僧はいった。「お気の向いたときに、どうぞいらして下さい。おわかりにならないところは、なんでもけっこうですから、御遠慮なく、お尋ね下さい。道を悟り、迷いを晴らしまするには、熱心に御研究なさるのが第一でございますから。いや、どうぞちょくちょくお出かけください。――小乗について、いろいろ申し上げたいと存じますから。……それから、これをどうぞお納めください」
そういって老僧は、小さな紙に包んだものをふたつ、わたくしにくれた。ひとつの包みには、中に白い砂がはいっていた。これは、善人のたましいが、死んだのちにおまいりに行くという、善光寺のお砂であった。もうひとつの包みには、ごく小さな白い石がはいっていた。いわゆる舎利というもので、仏の遺骨であった。
この地蔵堂を、わたくしがふたたび訪れるまでに、五年という歳月が、あの開港場から遠くへだたった土地で、しずかに流れて行った。その五年のあいだには、わたくしの内外にもさまざまの変化がおこった。日本の国のあの美しい幻影、はじめてこの国の霊妙な空気のなかに足を踏み入れたものが身におぼえる、あのぞくぞくするような妖しい魅力は、わたくしの心に長く長くのこっていたとはいうものの、やがてそれもしまいには、どうやらまったく色あせつくしてしまった。そういうわたくしは、ひところのような、目をくらまされるような眩惑の心なくして、日本を観察することを習いおぼえたのである。それでいながら、わたくしは、むかしの感激時代の気もちが、大いに愛惜されてならなかった。
ところが、ある日、むかしのその感激の気持が、ほんのつかの間ながらも、わたくしの胸にもどってきた。わたくしは横浜へやってきて、もういちど山手《プラフ》から、卯月《うづき》の朝空にそびえ立つ神韻縹渺《しんいんひょうびょう》たる富士の麗容を、つくづく眺めわたした。あさぎいろにさえざえと輝きわたる、いちめんの春の陽光のなかに、自分がはじめて日本へきた日の思い出が、ゆくりなくもよみがえってきた。美しい謎にみちた、まだ踏みもみぬ塵外《じんがい》の仙境――他国にはない、 ことのほかなる日の光りと、おのずからなるつやつやとした空気をもった妖精の国に、はじめて驚喜した時のあの感激が、ふたたびよみがえってきたのである。
わたくしは、もういちど、光瑤たる平和の夢のなかに、とっぷりと身をひたしている自分に気づいた。目に入るいっさいのものが、あえかなるまぼろしとなって、ふたたびわたくしの目のまえにあらわれてきたのである。ありとも見えぬほのかに白い雲のきれ、それがここかしこにただ浮かんでいるだけの東の国の空、人のたましいがまさに涅槃に入らんとするきわのごとく、一点の翳《かげ》りも見えず曇りも見えぬこの東洋の空は、あらためて、もういちど仏陀の空を現じてきたのである。枯れ木の枝にも花が咲き、吹く風はかぐわしく、生きとし生けるもの、おのずからことごとく愛憐の情をおこしたと言いつたえられる、釈迦生誕の日の空のいろもかくやとばかり、朝の空はしだいにその色を深くしてゆくように見えた。あたりの空気は、そこはかとなき香気をふくんで、あたかも聖師まさにふたたび来らんとするを告ぐるかのごとく、道行く人の顔にも、おもいなしか、聖誕の前表をまえにして、いずれもみな、にこやかな笑みがたたえられているように見えた。
と思うまに、妖しいまぼろしは、見る見る散じつくして、ものみなは、ふたたびあるがままなる相貌を呈してきた。わたくしはその時考えた。自分がかつて見たいっさいの幻影、この世のまぼろし、浮生もまたじつにかくのごときものであって、万物また一片の蜉蝣《かげろう》にすぎないではないかと。そんなことを考えているうちに、ふと、いつぞやの「無明」ということばが、わたくしの記憶によみがえってきた。そこで、そうだ、あの地蔵堂の年老いた思索家をひとつ訪ねてみようと、とっさにわたくしは思いついたのであった。
あのへんも、だいぶ変わってしまって、あの時分の古い家々は、みんなもうなくなり、新しい家がびっくりするほどみっしりと軒をならべていた。でも、やっとのことで、例のふくろ路地をさがしあてると、記憶に残っていたとおりの小さな堂がそこにあった。見ると、堂のはいり口のところに、女の人が二、三人立っている。そして、そこに、わたくしの知らない若い坊さんがひとり、小さな赤んぼとたわむれていた。赤んぼは、小さな黒い手で、剃りたての坊さんの頭をしきりとたたいている。目の切長《きれなが》な、いかにも柔和そうな、はつめいな顔をした坊さんである。
その若い坊さんに、わたくしはたどたどしい日本語で、ことばをかけてみた。
「わたくし、五年まえに、こちらのお寺にあがりました。そのとき、年とった坊さんがおられましたが……」
若い坊さんは、抱いていた赤んぼを、その子の母親とおぼしい女の人の手にわたすと、答えてくれた。――
「はあ、あの老僧は亡くなられました。ただいまは、わたくしがあとへ直っております。まあ、どうぞおあがりください」
わたくしは中へあがった。例の小さな須弥壇は、もはや見る影もないものになっていた。あの無心な美しさは、いつのまにかどこかへなくなってしまっていた。お地蔵さまだけは、あいかわらずよだれかけをかけて、にこにこわらっておられるけれども、ほかの仏さまは、影もかたちも見えなくなっている。そこに奉納してあったあのおびただしい絵馬も、それから、アデレイド・ニールソン嬢の肖像も、いまは見えない。若い住職は、いぜん老僧が書きものをしていた部屋《へや》に、わたくしのことを寛《くつろ》がせようというので、たばこ盆など出してくれた。部屋の隅にあった蔵書をさがしてみたけれど、それもいまはもう見えない。なにもかもが、すっかり変わってしまったようであった。
わたくしは尋ねてみた。――
「老僧は、いつお亡くなりになりましたか?」
「つい昨年の冬のことで――」と住職が答えた。「ちょうど、大寒のことでございました。あのとおり、足の不自由な方だったものですから、だいぶ寒さがこたえたのでございますな、こちらにご位牌がございます」
そういって、住職は床の間のまえに行き、なんだか得体の知れないがらくたもの――おそらく、古い仏具のこわれか何かだろう――のごたごたのせてある棚の上の、ごく小さな仏壇の扉をあけた。仏壇の両脇には、ガラスの花瓶に、花がいっぱい挿してある。なるほど、見ると、仏壇のなかに、黒塗りに、金で文字を書いた、新しい位牌が見える。住職は位牌の前に灯明をあげ、線香をいっぽんたてると、いった。――
「ちょっと、失礼をさせていただきます。檀家のものがあちらでまっておりますので……」
わたくしは、ひとりそこでおきざりにされたまま、あらためて仏壇の位牌をながめ、小さな灯明のまじろがぬ灯と、しずかに立ちのぼるうす青い香華のけむりを見まもりながら、あの老僧の霊が、いまそこにいるのかと怪しむ思いだった。が、すぐと、つぎの瞬間には、老僧の霊はそこにいるのだという気がしてきで、胸のうちで、わたくしは老僧に話しかけた。よく見ると、仏壇の両わきにある花立には、いまもって、ボルドーのツーサン・コナール会社の名がついており、おなじく線香入れには、なじみの深い、例の香味豊醇な紙巻タバコの銘がついている。部屋のなかを見まわしてみると、日あたりのいい隅の方には、例の赤猫までがすやすやと眠りこんでいる。わたくしが立ち上がって、そばへ行き、背中をなでてやると、猫の方では、わたくしのことを憶えているわけもないから、眠たそうな目をそーっとあけただけであった。前のときよりも、毛の色つやもよくなっているし、しあわせでいるらしい。
玄関の近くで、さっきから、ぼそぼそとなにやら心細げに呟《つぶや》く声がきこえていたが、よく聞きとれない相手の返答を、住職が気の毒そうにくりかえしている。「十九歳の女ね? ふむ。それから、二十七歳の男だね?」
わたくしは起ちあがって、帰ろうとした。
「あいすみません」住職が書きものから顔をあげて、わたくしに言うと、貧しげな女の参詣者たちも、わたくしのことを見て、会釈をした。「もう、ちょっとでございますから」
「いや」とわたくしは答えた。「わたくし、お邪魔するつもり、ありません。わたくし、ただ、御老僧に、お目にかかりにきました。そして、お位牌にお目にかかりました。――これ、ほんのおしるしですが、御霊前へお供え下さい。これは、どうぞ、あなたに」
「しばらくお待ち下さいまし、いや、お名前をうかがいとうございますから」
「いや、いや、またいずれまいります」
わたくしはそういって、ことばを濁らして、「あの年とった尼さんも、やはりお亡くなりですか?」
「いえ、いえ。あれはいまでも堂の世話をしております。ただいま、ちょっと出かけておりますが、ほどなくもどりましょう。まあ、お待ちくださいましな。なにかお願いの筋がおありなのではございませんか?」
「御祈祷だけ、お願い申しましょう」わたくしは答えた。「わたしの名前、どうでもよろしいです。四十四歳の男、その男に御利益授かるよう、お祈りください」
住職は、なにやら紙に控えていた。わたくしが祈祷をしてくれと頼んだのは、わたくしの「本心」からの願いではなかった。わたくしとて、いちど失った幻影を返してくれなどという、そんなばかげた願文を、仏陀がお聞きとどけにならないぐらいのことは、こころえている。
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勇子
――ひとつの追憶
明治二十四年五月
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誰か世に烈婦を見いだしうベけんや。烈婦は価《あたい》高くして、津々浦々にいたるも、容易にあることなし。――ラテン訳聖書
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「天子様御心配」天の御子が宸襟《しんきん》を悩ませたもうておられるのである。
町には、いつにない、異様な静けさがあった。万民、ことごとく喪にあるごとき、粛然たる静けさである。物売りの商人《あきんど》さえが、つねよりも低い声で、町を呼びあるいている。ふだんは、早朝から深更にいたるまで、人のわさわさ混雑している劇場も、いまはどこもかしこも閉場している。あそび場というあそび場、見世物という見世物、――活け花の会までが、御停止《ごちょうじ》だ。料亭・割烹・宴会場、いずれも御同様に休業である。しんと鳴りをしずめた芸者屋町には、三味の音ひとつ聞こえなければ、大きな旅館などで、酒を飲んで、放歌乱舞するものもない。町で行きあう人の顔さえ、ふだんの笑顔はどこへやら影をひそめ、辻々の貼り紙には、宴会・娯楽は、当分のあいだ延期のこととしてある。
こんな火の消えたような寂しさは、おそらく、大天災か、国家の危機、――たとえば、大地震とか、一国の首府が破壊されたとか、あるいは宣戦の布告とか、そういった報道でもあったあとにくるものだろう。ところが、そういったことは、いっこうにないのである。ただ、陛下が御心配あそばされているという、公表があっただけのことにすぎない。それだけのことで国内にある幾千という都邑が、万戸、ことごとく、憂愁の雲にとざされて、上《かみ》御一人とともに、深く国を憂い、もって君臣とともに悲しみを同じうするの微衷《びちゅう》を披瀝しているのである。
この大いなる民草《たみくさ》の同情のすぐあとにつづいて、こんどは、邪を矯《た》め、害を償おうという、国民一般の自発的な要望が、涌然とわきあがってきた。この要望は、じつに、国民の衷情からひとすじにほとばしりでた、赤心いつわりなき無数の形となって、おのずからあらわれてきたのである。ほとんど、国内の各地、津々浦々にいたる民草から、慰問の書面・電報のたぐい、あるいは、ものめずらしい献上の品々などが、国賓の手もとに献ぜられた。富めるものも、貧しきものも、ともに、家重代の価値ある蔵品、貴重な家宝をとりだして、負傷された皇太子に献上したのである。それと同時に、じつにおびただしい書面が、露国皇帝に伝送すべく、用意された。しかも、これらは、すべて無名の個人が、任意、自発にしたことなのである。ある奇特な老商人のごときは、わたくしを訪ねて、嘱するに、露国皇太子襲撃に対する、全国民の深い遺憾の意をあらわした電文を――露国皇帝に伝送する電文を、フランス語で書くことをもってした。わたくしは能《あた》うるかぎりをつくして、かれのために嘱を果たしたが、念のために、自分はそうした高貴なお方へ出す電文なぞ書いた経験はない旨をことわると、先方は、「なに、そんなことはかまいません。こっちは、セント・ぺテルスブルグの日本の公使宛に出せばいいのですから。まちがいがあれば、公使館の方で、書式どおりに直してくれますよ」と答えていた。わたくしが、念のために、電報料金はいくらだか御存知でおいでかと尋ねてみたら、電報料は百円なにがしだと、客は正確な額を答えた。百円なにがしといえば、松江あたりの小さな商人にとっては、目のとびでるほどの大金である。
ところが、頑固一徹な、老齢のサムライたちは、それよりも、さらに穏かならぬ所行で、今回の事件に対するかれらの所懐を披瀝した。たとえば、今回、大津で露国皇太子の警固の任にあった一高官は、ひとふりの短刀にそえた一通の書面を、速達便でうけとった。その書面には、貴下はただちに割腹して、サムライなみに男子の面目を全うするとともに、遺憾の意を表せよと、厳命してあったそうである。
いったい、日本人は、この国古来の神道の神々とおなじように、いくつかの相異った精神をもっている。和御霊《にぎみたま》と荒御霊《あらみたま》とが、それだ。和御霊の方は、ただわれから贖罪を求めるにとどまるが、荒御霊の方は、人にあくまで贖罪をせよと要求してやまない。そうして、今や国民の日常生活を閉している暗澹たる空気のなかには、このたがいに相反したふたつの精神の、ふしぎな鍔《つば》ぜりあいが、ちょうど陰と陽とのふたつの電気のように、いたるところで感得されるのである。
遠く神奈川のさる物持ちの家に、ひとりの若い小間使がいた。名を勇子という。勇子とは、「雄雄《おお》しい」という意味をあらわした、むかしの武家風の名である。
四千万の同胞が、いまや、ふかい憂いにしずんでいる。しかし、勇子が憂国のこころざしは、それにおさおさ劣らない。なぜであるか、どんなふうにであるかといっても、それは西洋の人間には、じゅうぶんに理解されまい。勇子の生《な》ま身は、ある感情と刺激とに支配されているのである。その感情と刺激の性質は、せいぜい漠然とした形でしか、われわれ西洋人にはわからない。日本の良家の子女の心の一端なら、われわれ西洋人にも、多少はわかる。そこには恋がある。――その恋は、底ふかく、じっと沈潜した恋だ。そこには、汚れということを知らない純潔さがある。仏教の方の象徴でいうと、白蓮の花の浄《きよ》らかさだ。寒梅の花にふりつもる初雪のような凛《りん》としたすがすがしさもある。嫋々《じょうじょう》たる琴の音にも似た、おっとりとした、しとやかさのかげには、むかしのサムライの血がつたわりつたわって、死を鵞毛《がもう》のごとくに怖れぬ心も、かくれひそんでいる。そこにはまた、信仰もある。ひたむきで、生《き》一本で、――神と仏とを味方にもち、日本人の礼儀が許す願いの筋なら、いかなることを心願してもはばからない、誠心誠意の信仰である。まだそのうえに、そうした気慨や感情のもうひとつ上に、それを高く束ねている情操がひとつあるのだが、これは、西洋のことばでは、ちょっと言いあらわすことがむずかしい。――loyalty「忠義」なぞと訳してしまったのでは、ぜんぜん、その感じを殺《そ》いでしまう。それは、どちらかといえば、われわれの国の方でいう、神秘的な精神発揚に近い感情であって、つまり、「天子様」に対する、絶対の尊崇と献身の存念である。
ところで、この存念は、個人的感情を超えたものなのだ。けっきょく、それをたどって行くと、その末は、自分の身から離れて、遠く忘れられた過去のぬばたまの闇まで遡《さかのぼ》り、祖先の諸霊の不朽不死の道念と意志、そこへ行きつくのである。であるから、彼女の生ま身は、われわれ西洋人のそれとは、まったく異る過去――滔々《とうとう》幾千年、数えきれぬ世紀のあいだを、国民全体が、西洋人とはまるで違った生活方法で、一団となって生き、感じ、考えてきた、そういう過去が纏綿《てんめん》とつきまとっている、一個のたましいの住家にすぎないのだ。
「天子様御心配」このお触れを聞いたとき、とっさに、勇子の心に、響きの応ずるごとくにうかんだ考えは、自分もなにか献上したいという、燃えるような願いであった。――この願いは、矢も楯も待っていられないほど、抑えがたいものであったが、しかし、自分はいま、他家に奉公中の身である。自分のものといっては、一物も持っていないのだから、せめてお給金のうちから、ごくすこしずつでも貯金でもしないことには、とうていそれは、望んでも甲斐ないことであった。けれども、それでもなんとかして、という願いは、かたときも念頭を去らない。そのために、おちおち気の休まる暇もないほどであった。そこで、夜になると考えこむ。そして、自分の胸にいろいろ問うてみる。すると、亡くなった先祖の霊が、勇子に答えるのである。
「天子様の御心配を休め奉るには、わたしは、何をさしあげたら、よろしいでしょう?」「おまえの一身をささげろ」と声なき声が答える。
「でも、わたしにそれができますでしょうか?」と勇子はおどろき訴《いぶ》かりながら尋ねる。
「おまえには、存命中の親がない」と声が答える。「といって、献上をするような物を、おまえは持ってはいない。おまえが一家の犠牲になれ。君に一命をささげる。これこそ、至高の忠義だぞ。このうえのよろこびはないぞ」
「して、どこでそれを?」と勇子はたずねる。
「西京じゃ」と声なき声が答える。「昔の型どおり、閻魔《えんま》の庁でじゃ」
夜が明ける。勇子は、お日さまをおがむ。さて、早朝のしごとをすませてしまうと、勇子は、しばらくお暇を下げていただきたいと申し出た。それが許された。やがて、勇子は、とっておきの一張羅の晴着を着て、よそゆきの派手な帯をしめ、はきおろしの白足袋をはく。天子様に自分の一命をささげるのに、これならどこから見ても恥かしくないという身なりをととのえるためである。それから一時間ののちに、勇子は、すでに京都をさして旅にのぼっていた。汽車の窓から、勇子は、うつりゆく景色を眺めて行く。天気は上々吉である。はるか遠いかなたの方は、うっとりと眠くなるような春霞《はるがすみ》が、うす青くたなびいて、よもの眺めはいかにものんどりとしている。勇子は、遠い自分の先祖がそれを見たとおなじように、生まれた国の美しいけしきを眺めながら行った。西洋人の目には、古い日本の絵巻物にくりひろげられる、妖しい美しさによる以外には、見ることのできない、この国の美しさである。
勇子は、しみじみ、生きていることのよろこびを感じた。が、しかし、その生が、自分が生きながらえることができたばあい、さきゆき、どんなにそれが貴重なものになるだろうかということは、夢にも考えないのである。自分が死んだのちも、世界はあいかわらず、いままでのとおり美しいままでのこるだろうと考えてみても、べつに、どうといって悲しい気持もおこらない。仏教徒の厭離遁世《えんりとんせい》などという考えも、べつだん、勇子の心を圧してはいない。ただひとすじに、勇子は、昔からある神道の神々に、わが一身をゆだねているのである。その神々は、いまも車窓から見える、鎮守の森のうすぐらい奥、小高い山の上の古い社から、にこやかな微笑を勇子におくっている。それが、みんな、あとへあとへと飛んでゆく。そうして、おそらく、そうした神々のなかで、ただひと柱の神だけが、いま勇子のからだに宿っているのだ。それは、死をあえて怖れぬものに、墓ぐらを宮居よりも美しく見せる神だ。――俗に、死神と呼ばれている、人を死にたがらせる主《ぬし》である。
そういう勇子にとって、未来はすこしも暗黒ではない。彼女は、あいかわらず、山の尾の上に、浄らかなお日さまがさしいずるのを見るだろうし、夜は水のおもてに、月姫のほおえむすがたも見られようし、うつろう四季の幻妙なすがたも、いつまで草《ぐさ》の末までも見られるものと思っているのである。どれほど、数えたてられないほどの月日がめぐり流れようとも、八重の霞のかなたなる、杉の木の間《ま》の静寂《しじま》のなかの美しい世界に、彼女は住むことであろう。雪とまがう落花を吹く春のそよ風。潺湲《せんかん》たる山川のせせらぎの音。万緑|闃《げき》としてしずまりかえった寂光のなかに、離々《りり》としてきこえる鳥語の声。そういうなかに、彼女は霊妙な生をさとることであろう。そのかわり、自分が死んで、黄泉《よみ》の国の家の広座敷で彼女の来るのを待っている身内のものに逢えば、まっさきに、こういわれるだろう。――「おぬし、よくぞやったのう。――それでこそ、サムライの娘じゃ。さあ、上がれ! こよいは、そなたのために、神々もわれわれとごいっしょに御会食下さるぞ!」
勇子が京都に着いたのは、昼であった。彼女は、なによりもまず宿を見つけて、それから、腕のきいた女髪結の家をさがした。
「おそれいりますが、これをよく研《と》いでいただきたいのですけど……」そういって、勇子は、女髪結に一挺の小さな剃刀《かみそり》をわたした。(剃刀というものは、女の身だしなみには、なくてはならぬ道具である。)「研ぎ上がるまで、わたくし、ここで待っております」
そういって、勇子は、いま買ってきたばかりの新聞紙をひろげて、帝都の記事を読みはじめた。勇子が新聞を読んでいるあいだ、店のものたちは、親しそうにうっかり声もかけられないような、しとやかなうちにも、どことなく犯しがたい、凛《りん》としたところのある勇子のようすに気おされて、みな、ものめずらしそうに、彼女のことを遠巻きに眺めていた。勇子の顔は、がんぜない三つ子のそれのように無心であったが、新聞に出ている聖上御憂慮の記事を読んでゆくうちに、肚《はら》のなかでは、しきりと先祖の御霊《みたま》がちくちくうごいていた。「早くわたしにも時節がくればいい」これが、先祖の御霊に答える、彼女の存念であった。「でも、なにごとも、早まっては駄目。じっと待つこと、じっと待つこと」
やがて、注文どおり、手落ちなく研ぎ上げられた小さな剃刀をうけとると、勇子はわずかばかりの代をはらって、それから宿へ帰ってきた。
宿で、勇子は、二通の書面をしたためた。一通は、自分の家にあてた書き置き、一通は、帝都にある高官にあてた、りっぱな訴願状で、これには、自分は数ならぬ賎《しず》の身であるが、正《まさ》なき非行のつぐのいのために、みずからすすんで、うら若い一命をささげまつる。願わくは、わが微衷のほどを酌《く》まれて、どうか天子様には、御宸襟のおん悩みをしずませられ給えかしと、切々《せつせつ》の祈りが書きこめられた。
勇子が、ふたたび宿を立ちいでたのは、夜の引きあけの、ちょうど空もまだ今が暗いさなかという時刻であった。おもては、墓地のようにしんとしずまりかえっていた。町の灯かげもちらりほらりで、その光りもうすれていた。自分の下駄の音だけが、いやに高く耳につく。見ているものは、星のかげばかりであった。
まもなく、御所の奥ふかい門が、勇子の目のまえにあった。まっくらなその影のなかへ、勇子はそっとしのびいって、口のうちに祈祷をとなえながら、そこにぴたりと跪坐《きざ》した。それから、古式のとおりに、丈夫で、しなやかな絹の腰紐をほどくと、着物のうえからぎゅっとそれでからだを結わえて、ちょうど両膝の上のところで結び目をとめた。それは、かりにもサムライの娘ともあろうものが、自分には無意識な苦悶の刹那《せつな》に、たとえどんなことが起ろうとも、手足をとりみだした、見苦しい死にざまを見せてはならないためであった。支度がすむと、勇子は心を澄まし、手もと狂わず、ひと突きに、吭笛《のどぶえ》をかき切った。切り口からは、血がどくどくと脈を打って噴きでた。サムライの娘は、こういうことに、けっして手もとをあやまるようなことはない。動脈と静脈のありかを、ちゃんとこころえているからである。
日がのぼったころ、巡査が勇子を発見したときには、彼女は、もうすっかり冷たくなっていた。例の二通の遺書と、それに、五円なにがしかはいっていた(この金で、勇子は、自分を埋葬してもらうつもりでいたのである)貧しい小さな財布とが発見された。やがて、死体とこまこました遺品とは、人の手によって取りかたづけられた。
ことの顛末は、ただちに、電光のごとく、数百の都市につたえられた。
帝都の各大新聞は、この報道をうけとると、冷眼皮肉な、世の中の裏ばかり見たがる記者たちは、思い思いに、あらぬ想像を馳《は》せて、こうした犠牲的行為にありがちな動機――かくれた罪状とか、家庭の悩みとか、失恋とか、そういうものを探しだそうとして躍起《やっき》になった。けれども、そういうものは、なにひとつ発見されなかった。勇子のひとすじな生活のなかには、匿《かく》された秘密も、弱味も、汚名も、なにもなかったのである。ひらきかけた蓮の花の清らかさ、それさえ、勇子の操にくらべれば劣るものであった。そこで、冷酷皮肉な記者たちも、サムライの娘にふさわしい、りっぱなことだけを、記事に書くよりほかに手がなかった。
天の御子も、このことを聞こし召されて、民草が、いかに陛下のことを愛し奉っているかを知ろし召されて、おそれ多くも、以後、宸襟を悩ませられることをとどめられたもうたのであった。
時の大臣たちも、玉座のかげで、たがいに囁きあった。「将来、いろいろに物は変ってゆくだろうが、しかし、国民のこの赤心だけは変るまいな」
それにもかかわらず、政府は、例の高等政策というやつで、頬かぶりをして、いっさい知らぬ顔をしてすましたのである。
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八雲と近代文明 平井呈一
明治二十四年(一八九一年)十一月に、八雲は赴任以来一カ年ほど教鞭をとった松江中学校から、熊本第五高等中学校の教師に転任しました。この熊本転任のいきさつについては、いずれ伝記のなかでくわしく述べることにしますが、転任の動機ともいうべきものは、松江の冬のきびしい寒さが体にこたえたことと、もうすこしましな俸給を得たいということの二つであったようであります。そんなわけで、べつに八雲は熊本と指定して希望したわけではなく、どこかもっと暖いところをと希望したのが、偶然熊本にきまったわけでした。
人生というものは、まことにこうした偶然がいろいろの結果をもたらすもので、八雲も自分の意志で選んだわけではない熊本へ行って、そこで日本の武士道精神と対決することになるとは、夢にも考えていなかったにちがいありません。いわゆる九州男児という豪健な魂と気風にみなぎった若い精神、封建精神の濃厚な、きびしい家長制度のなかでの孝道の教え、そういうものに、親しく教鞭をとった生徒たちの言動を通じ、また周囲の生活を通じて、はじめて強く触れた八雲の驚異は、想像するに余りあります。その消息と収穫は、「九州の学生とともに」以下、「東の国から」のほとんど全篇にうかがわれるのでありますが、この熊本における収穫は、松江における神道と、それに付随する伝説と習俗の研究に劣らぬ大きなものを、八雲がここから摂取したことを物語っています。
長い封建社会と鎖国のあいだに、日本人の精神と生活を支えてきたもの。――八雲はこれに触れて、ひじょうに感動し、そしてこれを口を極めて讃美しています。そして、われわれはこんにち、この八雲の讃美を心しずかに読みかえし、八雲の讃美したものを心しずかに批判する、必須な時期と立場におかれていると思うのでありますが、それと同時に、八雲がなぜそれほどまでにそれを讃美したかということも、併せて考えてみなければならないと思うのであります。つまり、八雲が求めたもの、八雲が求めたその所以《ゆえん》を考えてみたいのであります。
ひとくちに申せば、その淵源は、八雲の西欧文明に対する嫌悪に帰するのではないかと思われます。すなわち、八雲の日本讃美は、一方に西欧の物質文明という対比をおいた上での讃美であるということであります。そして、この対比は、そのつぎの著作である本書「心」のなかに、著しく露呈されてきております。「心」のなかの重要な論文は、「日本文化の真髄」にしろ、「戦後」にしろ、「趨勢一瞥」にしろ、その他「前生の観念」「祖先崇拝の思想」など、いずれもなんらかの点で、東西文明の比較ということに筆が費されています。そして、例外なく、西欧文明の欠陥が執拗痛烈に貶《くさ》され、それと対比して古い日本の美点が賞揚されていることに気づきます。八雲はそれを西欧人への(ハーン自身をも含めての)警告として書いているのであります。八雲の読者は、申すまでもなく、みな欧米人であります。八雲自身は、日本人の読者を対象にして書いてはおりません。
ついでながら、このように「心」の諸篇のなかに、東西文明の比較が目に見えて多くなったのは、八雲が熊本から神戸に移ったことに、直接の原因があるようであります。教師をしていては述作の時間がないところから、またもとの新聞記者に舞いもどることにして、「神戸クロニクル」に入社した八雲は、神戸という開港場で嘱目《しょくもく》したものから、いままで気づかずにいたものを強く感じたようであります。
「……神戸はよいところだが、わたしには不愉快なところだ。これはわたしが日本の内地を知りすぎてきたためだろう。音を立てずにそっと歩き、物を言うにも静かな声で話をする日本の婦人のなかで暮したあとで、外人の婦人のしぐさを見たり、声を聞いたりすると、ひどく神経にさわる。(のみならず、この土地では、外国婦人はほとんどみな、いやにお高く止まった、――浅俗な英米風がはやっている。)敷物、よごれた靴、下らぬ流行、金をかけた暮し、気どり、虚栄、むだ話。こんなものより、やわらかな畳の上で、いつもしとやかな、礼儀正しい、うるわしい、清らかな、質素な日本人の生活の方が、どんなに住みごこちがいいかわからない。……」(エルウッド・ヘンドリック宛)
「……日本の内地にいたあとで、ここ(神戸)の外国生活を見るのは、はなはだ不愉快だ。ことに居留地とくると、ただもう恐ろしくなる。……湯津や日御崎や隠岐に住んで、日本風に暮している方が、開港場の最上の生活より、はるかにましだ。……じゅうたん、ピアノ、西洋窓、カーテン、真鍮のバンドの締め金、教会、どれもわたしの嫌いな物。それにワイシャツと洋服。……いわゆる文明なるものに自分がどれほど嫌厭《けんえん》を感じていたか、今まで気づかずにいたが、古い日本(昔からあった唯一の文明国)に長く住んでみて、文明の醜悪さがはじめてわかった。――これがわたしの目下の感懐だ。……」(チェンバレン宛)
ちなみに、八雲はこの神戸にいるとき、かねての願いどおり、小泉家に入夫して日本に帰化し、ラフカディオ・ハーン改め小泉八雲となりました。このときから、ハーンの著作は、完全に日本人としての自覚と責任の上に立つことになったわけであります。念のために、このことを申し添えておきます。明治二十九年(一八九六年)二月のことであります。
さて、八雲が西欧文明を貶《くさ》していることでありますが、おそらく、こんにちこの作品集を読まれる若い世代の諸君には、このことはたいへん奇異に思われるかもしれません。――科学、思想、芸術、すべてをふくめて近代文化の先達である西欧の文明を、なぜ八雲はああまで非難するのか? あるいは八雲は、日本を過度に讃美しようがために、自身を育ててくれた西欧の文明を必要以上にこきおろしているのではあるまいか? そういう疑問がおこるかもしれません。「東の国から」や「心」が出版された当時においても、欧米の知識人のあいだには、ハーンは日本を熱愛するあまり、批判の尺度が狂ってしまったという非難を吐いた人もあったくらいですから、そうした疑問を諸君がもたれるのはむりないかもしれませんが、それはまったく逆なのであって、八雲は西洋の文明にあいそがつきたので、自分の理想とする世界を求めたすえ、それを日本に見いだしたのであります。西洋の文明にあいそをつかしたからといって、西洋文明全体に対して八雲はあいそをつかしたわけではありません。八雲があいそをつかしたのは、西洋の物質文明と個人主義なのであります。これが優勢を誇っている世界では、とうてい生きていくのに耐えられなかったのです。
こと改めて申すまでもありませんが、八雲は一八五〇年に生まれた人であります。ちょうど十九世紀のなかばに生まれて、いわゆる世紀末の思想的洗礼をうけて、それから二十世紀にまたがった、典型的ないわゆる「過渡期」の人と申してさしつかえないと思います。ですから、八雲の作品を読み、八雲の感性に同感し、八雲の思想を理解しようとおもえば、八雲が十九世紀人であること、また過渡期の人であること、これは当然忘れてはならないことであります。したがって、その当時の西欧の社会的経済的状勢、思潮のありかたや傾向なども、もちろん、ひととおり頭に入れておかなければなりません。もっとも、今ここで十九世紀の思想史や世紀末の特質などを祖述するいとまはありませんが、とにかく、古いものの打破に狂奔した「シュトルム・ウント・ドランク」の時期を過ぎ、解放した自我の究極と人生の帰趨に悩んだ「世界苦《ウェルト・シュメルツ》」にあえいだあげく、あるものは「頽廃《デカダン》」に走り、あるものは「象牙の塔」にこもり、そして詩人も文学者も画家も、ひとしくみな平俗な物質文明を呪い、非情な機械文明を憎んだ時代であります。その意味では、当時の芸術家は、大なり小なり、みな痛烈な文明批評家であったわけであります。ハーンも時代の子で、やはりその一人であったことは申すまでもありません。
物質文明と個人主義の病弊を極度に嫌ったハーンは、ですから、なるべくその物質文明に汚されていない人間世界を求めて、マルティニーク島へも行き、さらに日本にきて、この国と国民の心情のなかに、ようやくのことで自分の理想的な世界を見いだしたわけなので、日本のうちでも、とくに隠岐のような孤島の人たちの素朴な生活と純粋な人情に深い愛着をひかれたのも、同じ理由からであろうと思われます。したがって、八雲の日本への讃美も、それを受けたわれわれがこれを読むとき、文明と原始に対する八雲の比重をとりはずすと、意味のない、歪んだ受け方になる惧《おそ》れがあります。過褒《かほう》は、じつはその比重の上でなされていることを忘れてはなりません。
十九世紀人の八雲は、このように文明を嫌いました。こんにち、われわれ二十世紀人も、われわれのおかれた二十世紀人の立場から、われわれの生みだした、あるいはわれわれを囲繞《いにょう》している現代文明というものの正体を、そしてその功罪を、しずかに闡明《せんめい》してみるべき時がきているように思われます。このことこそ、われわれ日本人の祖先伝来の根性と生き方に思いをいたす、大きな手がかりになる重要なことだと信じて疑いません。(訳者)