ラフカディオ・ハーン/平井呈一訳
目 次
停車場で
日本文化の真髄
門《かど》つけ
旅日記から
あみだ寺の比丘尼《びくに》
戦後
ハル
趨勢一瞥
因果応報の力
ある保守主義者
神々の終焉
前世の観念
コレラ流行期に
祖先崇拝の思想
きみ子
付録 三つの俗謡
「俊徳丸」のうた
小栗判官《おぐりはんがん》の歌
八百屋の娘、お七の歌
八雲と近代文明
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詩人、学者、そして愛国者なる
わが友人 雨森信成に
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この一巻を構成している諸篇は、日本の外面生活よりも、むしろ、内面生活を扱っている。そういうわけで、これらの諸篇は、「心」という表題のもとに集められたわけである。「心」という字は、情緒的な意味では、信念という意味ももっている。つまり、精神、胆力、情操、愛情、それから、われわれが英語で「事物の真髄」というような、内奥の意味ももっている。
一八九五年九月十五日 神戸にて
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停車場で
明治二十六年六月七日
きのう、福岡からの電報で、同地でつかまった重罪犯人が、きょう、取り調べのために正午着の汽車で熊本へ送られてくるという知らせがあった。犯人を護送するために、熊本の警官が一名、福岡へ派遣された。
今を去る四年前のことである。熊本は相撲《すもう》町の某家に、ある夜ひとりの賊が押し入り、家人をおどして縛り上げたうえ、金目な家財をしこたま奪い取って逃走した。賊は、警察が巧みに張った非常線にまんまとひっかかり、二十四時間以内に――まだ贓品《ぞうひん》をばらすひまもないうちに捕えられた。ところが、警察へひかれてゆく途中賊はやにわに手繩を引きちぎると、捕吏《ほり》の所持していた刀を奪いとって、相手を刺し、そのまま逃亡してしまったのである。事件はそれなりけりになって、賊のゆくえは、つい先週まで杳《よう》として知れずにいたのである。
ところが、熊本の探偵で、たまたま福岡の監獄署を訪れたものがあり、それがふと、同署の懲役人のなかに、四年のあいだ脳裏に写真のごとくはっきりと焼きつけられていた顔を、偶然にも見つけ出した。探偵は、看守に「あの男は、なんという男だね?」と尋ねてみた。その答えは、こうであった。――「あれは窃盗犯で、本署の帳面には、草部という名でのっております」探偵は、その懲役人のまえにつかつかと進みよって言った。
「おい、草部というのは、きさまの本名じゃないな。野村貞一、きさまは殺人犯で、熊本へ御用だ」
兇徒は、いっさいを白状した。
それほどの重罪人が停車場へ着くというので、わたくしも大ぜいの人たちといっしょに見物に行った。おそらく、見物人の憤面|怒罵《どば》の声を目に見、耳に聞くものと予想して、わたくしは行ったのである。ひょっとしたら、ひと騒動持ち上がるかもしれないとさえ思っていた。殺された巡査は、日ごろから人望のある男だったし、それに身うちのものだって、きょうは、きっと、見物のなかにきているにちがいない。それに熊本の人間といえば、平素からけっして性質のおとなしい方ではない。さだめしきょうは、警官が大ぜい警備に出ていることだろうと、わたくしは、そんなふうに考えながら行ったのである。ところが、この予想は、もののみごとにはずれた。
列車は、いつもの通りのあわただしさと騒音のうちに――下駄ばきの乗客が、カラコロ急がしげに駆ける足音、新聞やラムネを売る小僧どもがわれがちに張り上げる呼び声のうちに――停車した。見物人は、柵のそとで五分ほど待たされた。やがて、ひとりの警部の手によって、改札口から突き出されるようにして、罪人が出てきた。いかにも兇悪な人相をした、がらの大きな男である。首をうなだれ、両手をうしろ手にくくりあげられていた。罪人も、それから附き添いの警部も、ふたりとも改札口の前のところで、ちょっと立ちどまった。見物人はよく見ようとして、どっと前へ押し出した。が、物をいうものは、ひとりもない。そのとき、警部が大きな声でどなった。
「杉原さん! 杉原おきびさん! ここにきておられますか?」
すると、さっきから背中に子どもを負ぶって、わたくしのそばに立っていた、小がらでやせぎすな女のひとが、「はい!」と答えて、人ごみのなかを押しわけて前へすすみ出た。この女の人が、殺された巡査の未亡人だったのである。背中の子どもは殺された人の息子であった。警部が手を振ってみせたので、見物人はあとへ下がって、懲役人と附き添いの警部のまわりに場所をあけた。そのあいた場所に、子供を背負った女のひとは、殺人犯人と向いあって、立った。あたりは死のごとく、闃《げき》として静まりかえっている。
やがて警部が、その女のひとに向かってではなく、背中に負ぶさっている子どもに向かって、しみじみと言い聞かせるように語りだした。低い声だったけれども、ことばははっきりしていたので、わたくしは、一言一句洩らさず聞くことができた。
「坊ちゃん、これがね、四年前に、あなたのお父さんを殺した男ですぞ。あなたは、あの時はまだ、生まれておいでなさんなかった。お母さんのお腹んなかにいなすったんだったね。今ね、坊ちゃん、あんたを可愛がって下さるお父さんがいなさらないのは、この男のしわざなのですぞ。よくごらんなさい、この男を。(と、ここで警部は、罪人のあごに手をかけ、おい、顔を上げろ、ときびしく命じた。)ようくごらんなさい、坊ちゃん。恐がることは、ちっともありませんぞ。おいやだろうが、こりゃあ、あなたの務めなんだからね。ようく見てやるんですぞ」
子どもは、つぶらな目をぱっちりとひらいて、母親の肩ごしに、こわごわ相手を見つめた。が、すぐとベソをかきだした。涙がぽろぽろとこぼれた。しかし、泣きながらも、子どもは、なおも相手のすくみ入る顔を、まともにじっと睨《にら》んだ。睨んで、睨みつめた。
見物人は、みな、息の根が止まったようであった。
そのとき、ふと、わたくしは、罪人の顔が歪《ゆが》むのを見た。と見るうちに、罪人は、手錠をはめられた身も忘れて、いきなりそこへ、へたへたとくず折れたとおもうと、顔を泥にうずめるようにすりつけたまま、のどのつまったような声で叫びだしたのである。その声は、いかにも見物人の胸を震わせるような、悔悛《かいしゅん》の情きわまった声であった。
「堪忍してくんなせえ。堪忍してくんなせえ。坊ちゃん、あっしゃァ、なにも怨みつらみがあってやったんじゃねんでござんす。ただもう、逃げてえばっかりに、ついこわくなって、無我夢中でやった仕事なんで。……あっしゃァ悪い野郎でござんす。獄道《ごくどう》人でござんす。あっしゃァ坊ちゃんに申訳のねえ、大それたことをしちめえました。ですが、こうやって今、うぬの犯した罪のかどで、これから死にに行くところでござんす。あっしゃァ死にてえんです。よろこんで死にます。だから、坊ちゃん、……どうか可哀そうな野郎だとおぼしめしなすって、あっしのこたァ、堪弁してやっておくんなせえまし。お願えでござんす。……」
子どもは、そういわれても、やはり黙って泣いていた。警部は、震えている罪人を引き起した。それまで唖のように声を呑んでいた見物の群れは、そのときふたりを通すために、左右に道を分けた。と、いきなり群集ぜんたいが、きゅうにしくしくすすり泣きをはじめだしたのである。わたくしは、色の黒いその附き添いの警部が、わたくしの側を通りすぎたとき、かつて自分が見たことのないものを、いや、だれも見たことのないものを――おそらく、この先、二どと見ようと思っても見られないものを――日本の警官の涙をそこに見たのであった。
群集は散って、わたくしひとりだけが、いま目撃した光景のふしぎな教訓を心に案じながら、あとに取りのこされた。そこには、人間の犯した罪科の当然の結果を、一場の愁嘆場で目のあたりにほうふつと見せてやり、それによって罪科の何たるかを思い知らせてやろうという、じつに勘どこをはずさぬ、しかも慈悲に富んだ、正しい裁きがあった。またそこには、死の直前に、ただひとすじに許しを願うという捨て身の悔悟があった。しかもその上、そこには大衆が――おそらく、ひとたびこれが怒ったら、この国でもっとも手のつけられない危険な存在となるかわりには、万事に物分かりがよく、どんなことにもすぐホロリとして、ああ、すまなかった、ああ、小ッ恥かしいの一念で、何ごともさらりと水に流してしまい、しかも、浮世のままならなさと人間の本性の弱さとは、骨の髄《ずい》まで経験で知りぬいているから、肚《はら》のなかには一片の憤りもなく、ただ罪にたいする大きな歎きだけを持っている――そういう大衆がいたのである。
が、それにしても、この一挿話が、まったく東洋的な事実であるだけに、それだけにまた最も意義の深いものをもっている点は、罪人が自分も人の親であるという観念、どんな日本人でも、その精神のうちの大部分を占めている、わが子にたいするこの潜在的な愛情、これに訴えて、罪人の悔悛を促したという点にある。
日本の盗賊のなかでも最も名の高い石川五右衛門が、ある夜、人の家に押し入って、家人を殺して物を盗もうとしたとき、自分に手をさしのべた赤児の笑顔に思わず気をとられ、その赤児とつい遊びたわむれているうちに、賊の目的を果たす機会を失ったという逸話がある。
この逸話は、容易に信じられる。毎年、日本の警官の報告書のなかには、常習の犯罪者が、子どもに対して慈悲の心を示した例が、かならず幾つか報告されている。もう幾月かまえのことだが、この地方の新聞に、一家皆殺しをした兇悪な強盗殺人事件がのっていたことがある。それは、熟睡中の七人の家族が、文字どおり、こまぎりにされたという事件であったが、その時も警察当局は、たったひとりの小さな子どもだけが、なんの危害もうけずに、血の海のなかでひとりで泣いていたのを発見して、加害者がその子に傷を負わせぬように、よほど気をつかったにちがいないという、まぎれもない証拠を見いだしていた。
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日本文化の真髄
一艦をうしなうことなく、一戦にやぶるることなく、日本は、中国の勢力を打ちくじいて、あらたに朝鮮をおこし、領土をひろげて、ここに東洋の全政局面を一変させた。政策の上から見て、これは瞠目《どうもく》すべきこととおもわれるが、さらに心理的に見ると、なおいっそう瞠目すべきことである。なぜというのに、こんどの戦勝は、日本民族がいままで海外の諸国から、とうてい信じられえなかった能力――ひじょうに高度の能力を、しかも大がかりに発揮したことを物語っているからである。おおかたの心理学者は、わずか三十年かそこらのあいだのいわゆる「西洋文明の採用」が、日本人の頭脳に、従来欠けていた機能力を、なにひとつ加え得たというようなことはあるはずがない、ということを承知している。そんなもので、日本民族の心性や徳性が、とうてい急激に変革されるはずはない、ということを承知している。このような変革は、とても一代で成るものではない。移植された文明が侵蝕するその歩みというものは、いっそう緩慢《かんまん》遅々たるものなのであるから、それが恒久的な心理上の効果を招来するまでには、幾百年という星霜を閲《けみ》さなければならない。
こういう点を照らしあわせてみると、日本という国は、世界諸国のうちでも、もっとも異数の国であるように見える。日本の「欧化」のあらゆる足跡をふりかえってみて、なによりもまず驚かれることは、この国民の頭脳が、よくこれだけの激動に耐えることができたということである。このような事実は、人類の歴史の上でも比類まれなことであるが、その真意ははたして何なのであろう? それはたんに既成の思想機関の一部を再編成したということにほかならない。それすらが、幾万という果敢な若い精神にとっては、致命的なものであったにちがいない。西洋文明の採用は、けっして一部の思慮なき人びとが想像したような、そんなたやすいわざではなかったのである。とにかく、こんにちでも語りぐさになっているほどの、そうとうの代価を払ってなされたこの国民精神の再調整が、従来この国民がつねに特異な技能を発揮してきた、ある特殊な方面にだけは、いちじるしい効果をあげている、ということは明白である。そういうしだいで、西洋の工業方面の発明の採用は、日本人の手練の方面には大いにはたらいたのである。――つまり、この国民が、年来、その固有の、しかもごく古風な手法によって多年熟達してきた職能方面においては、優秀な成績をあげてきた。そこには、なんら根本的な改革があったわけではない。――ただ、在来の技倆《ぎりょう》を、あたらしい、より大がかりなものに振りかえたというにすぎない。これとおなじことは、科学的な職能についてもいえる。たとえば、医学、外科手術(世界中に、日本ほどすぐれた外科医のいるところはない)、化学、顕微鏡学、――こういった方面の科学には、日本人の天性はうまれつき適応していて、この方面では、すでに世界に聞こえるほどの仕事をしている。戦争と国策、この方面にも、日本は驚くべき力量を示してきた。ことに、軍事力と政治力において、日本人は自国の歴史を通じて、このところ特異なその性格を発揮した。ところが、その反対に、国民的天性に適応しない方面では、なにひとつ目だった仕事がなされていない。たとえば、西洋音楽、西洋美術、西洋文学などの研究方面では、いたずらに時間のみを費して、しかもなんら得るところがなかったように見うけられる(*)。
* ある限定された意味では、なるほど、西欧の芸術は、日本の文学や演劇に多少の影響をあたえた。けれども、その影響の特質は、筆者のいう民族的な相違点をはっきりと証拠だてているのである。西洋の演劇は、いろいろ翻案されて、日本の舞台にかけられたし、また泰西の小説もずいぶんいろいろと日本の読者向きに改作された。しかし、原作の逐語的な詳訳は、ほとんどひとつも試みられていない。それは、原作の事件や、思想や、感情が、一般の読者や観客に耳遠いからである。だから、たゞ原作の筋だけを通して、原作にある情趣や事件は、全篇にわたって、ことごとく変えられてしまっている。たとえば「新マグダレン」が、村の男と結婚する日本の娘になっていたり、ユーゴー原作の「レ・ミゼラブル」が、日本の内乱の物語になって、アンジョルラが日本の書生にかえられている、といった類である。もっとも、二、三の例外はある。「ウェルテルの悲しみ」の逐語訳などは、その著しい例であろう。
西洋の芸術は、われわれ西欧人の感情生活にこそ異常な感銘をあたえるけれども、日本人の心情には、いっこうに感興をおこさせないのである。けだし、人間一個人の感情というものは、世の識者も知るごとく、教育によってこれを改変することはできないものなのである。東洋の一民族の感性が、わずか三十年たらずの西洋思想との接触によって改変されるなどということは、想像するだに愚の至りであろう。知的生活にくらべて、それよりもさらに古く、かつ、深くしみこんでいる人間の感情生活が、ただ環境《ミリュー》のちょっとした変化などによって急激に変化しないことは、あたかもみがかれた鏡のおもてが、それにうつる物の映像によってかわらないのとおなじようなものである。日本が、奇蹟的なとでも言いたいくらいに、みごとに成しとげることができたものは、なにもこれは、自己改造などによって成しとげたものではないのであって、その意味で、日本がこんにち、三十年まえよりも、われわれ西欧人に感情的に接近したなどと想像するものがあったら、それは、科学的な事実というものは一切の議論を許さぬものだということを、知らないものの言うことである。
およそ共感というものは、理解によって限定されるものである。われわれは、われわれの理解できる限度で、他人に共感をもつことができるのである。世間には、自分は日本人に共感をもっているとか、あるいは、中国人に共感をもっているとか、自分でそう思いこんでいる人があるかもしれないが、共感というものは、子どもも大人も差別のない、ごく普遍的な感情生活の、きわめて単純な面よりそとにはみだしては、けっしてそれは本当の共感とはいえないものなのだ。ひとくちに東洋人の感情といっても、その複雑なものは、やはりかれらが祖先以来の個人的経験の結びあいから成り立っているものなのだから、われわれ西洋人の生活に、ほんとうにぴったりと呼応するものなぞ、あるわけがない。したがって、われわれがそれをじゅうぶんに知るということはできないわけだ。それとおなじわけで、日本人にしたところで、西欧人に対して、たとえ心にはそれを願っていても、深い共感をあたえることができない道理である。
しかし、西欧人にとって、日本人の生活は、知・情・意のいずれの面にしろ(この三つのものは、たがいに混織されているものだが)、その真相は、とても見わけがつかないにしても、日本人の生活の規模が、われわれ西欧人の生活とくらべて、はなはだ小さいという確信をもつことは、これは避けることができない。日本人の生活は風雅である。なんにでも、そこにめずらしい興味と価値を見いだすという、ふしぎな力を日本人はもっている。
それがなかったら、日本人の生活はまったく規模の小さなものになってしまって、おそらく西洋人の生活などは、日本人自身の生活と対照したら、ほとんど人間離れのしたものに見えるだろう。なぜなら、われわれは、われわれの目に見えて、測定のできるあらわれで、物を判断しなければならないからだ。そこから判断してみると、東西両洋の感情と知性の世界のあいだには、なんという大きな対立があることだろう! これは、日本の首府の、あの吹けば飛ぶような木造の街衢《がいく》と、ロンドンやパリの町々の、あの堅牢な建物との相違どころの沙汰ではない。西と東の両者が、ともにかれらの夢や、抱負や、感懐を托したものをくらべてみるとき、人はかならず、あのゴシック風な大伽藍を白木づくりの神社にくらべ、ヴェルディの歌劇やワグナーの三部楽劇を、「芸者」の手踊りにくらべ、ヨーロッパの叙事詩を、日本の和歌俳諧にくらべるけれども、そこにある感情の容量《ヴォリューム》、想像力、技術的な綜合力などという点での、両者のちがいは、じつに雲泥万里だ! なるほど、西欧の音楽は、本質的に近代芸術ではある。しかし、われわれの遠い過去をふりかえってみると、ものを創造する力には、それほど目立った逕庭《けいてい》がない。あの大理石の円形劇場や、遠い国から引いてきた高架水道を築いたローマの全盛時代にも、彫刻においては、その技神に入り、文学においては最高のところまで行ったあのギリシャの黄金時代にも、きわだった変りはないのである。
ところで、このことからして、日本の国力の急激な振興ぶりにおける、もうひとつの驚異すべき事実の問題に、議論がすすめられる。いったい、日本の国が、自国の生産と戦争とのふたつの方面に示した、あのぼう大な新興勢力の、物的な、もしくは外部的な証拠というものは、どこにあらわれているだろう? どこにもあらわれていない。われわれが、日本人の心情と知性の生活に欠けていると思っているものは、日本の産業や商業の方面にも、やはりおなじく欠けているのである。つまり、大きさが欠けているのだ。その国土は、依然として旧態のままだし、その表面は、あれだけの明治の変革があったにもかかわらず、ほとんどその面貌をあらためていない。おもちゃのような鉄道や電信柱、鉄橋やトンネルなど、いずれも古い世からの菁菁《せいせい》たる山野のなかに埋れかくれて、見えもしない。また開港場や、開港場にある小さな外人居留地を除けば、どこの大都市にも、西洋思想の感化を語るような外観をもったものは、ほとんどなにひとつ見あたらない。諸君は、日本の内地を旅行してみて、行程二百マイルにおよんでも、なおかつ、新文明の大々的な表象に出会うことはむずかしいだろう。宏壮な倉庫にその抱負と野心とを見せているような大商業、幾万坪という屋根また屋根の下に、おびただしい機械をすえつけているような大工業、――そんなものは、日本のどこの土地へ行ったって見あたりはしない。いまだに、日本の都市は、さびしい掘っ立て小屋の立っていた、荒涼寂寞たるむかしを今に、あいかわらずどこもひっそりと静かで、なるほど見ようによっては、岐阜ぢょうちんの絵もようみたいに、万事きれいごとかはしらないが、なにもかにも、吹けば飛ぶような|ちゃち《ヽヽヽ》なことには、依然としてかわりがないのである。どこへ行っても、大きな物のうごきもなければ、ごうごうたる物のひびきもない。おもい車馬の往来もなければ、輪々|轆《ろく》々のひびきもないし、|くし《ヽヽ》の歯をひくような交通のめまぐるしさもない。一国の首府たる東京のようなところにしてからが、諸君がもし望もうとおもえば、青草離々たる田園の平和と静けさとがえられるのである。こんにち、西欧の市場をいまや脅威の嵐のなかにおとしこみ、極東の地図を一変して改めつつあるこの新興国の、目に見え耳にきこえる表象が、このように貧弱で、みすぼらしいということは、人をして、まったく奇異なおもい――いや、あえて言おうなら、ある不気味な感じをさえいだかせる。そして、この感じは、どこか日本の神社へでも参詣したとき、あの幾町かのあいだ、ひっそりとして鳥語もきこえないような、さびしい山道を攀《よ》じのぼったあげくに、ようやくのことで、千年も年|古《ふ》りた老樹のかげに頽《くず》れ朽ちている、天狗でも出そうな、がらんとした、小さな木造の拝殿を見つけたときの、あのあっけらかんとした、空寂な感じによく似ている。日本の強さは、ちょうど、この国が古来からつたえている信仰の力のように、すべて物の形にそれをあらわすことを必要としないのである。おもうに、国力の強さと信仰のつよさ、このふたつの強さは、あらゆる大国民の真の力が存するところ、――つまり、民族精神のなかに、かならず存するものなのだ。
目をつぶって、しずかに考えていると、ある大きな都市の記憶が、わたくしの頭のなかによみがえってくる。――それは、天空ちかくまで巍《ぎ》然として高く築きあげられ、海のごとくとうとうと鳴りとどろいている都会である。潮騒《しおざい》のようなそのひびきが、まずわたくしの記憶によみがえってくると、こんどは、たちまち、あるまぼろしがありありと形になってあらわれてくる。おびただしい家がある。それが遠くつらなる山なみのように蜿蜒《えんえん》とつらなりつづいている。そのなかに、山の襞《ひだ》のようなところがある。それが街衢《がいく》だ。石と煉瓦の絶壁と絶壁、そのあわいを、わたくしは、何里となく歩きまわる。そのあいだ、土と名のつくものは、ひとかけも足に踏まない。踏むものはただ、岩石の板ばかりだ。そして、耳に聞くものは、いんいんたる遠雷のごとき町の騒音ばかりである。わたくしはもう疲れきっている。しかも、この方図もなくだだっぴろい石だたみの道路の下には、ものすごい洞窟の世界がはてしもなくひろがっているのである。その洞窟の世界には、水や、蒸気や、火力をうまく送るために考案された、いろいろの組織が、上から下の方へと幾段にも層をなしている。地上にある道路の両がわには、幾十層ともしれない、窓をぬいた、屏風のような建物が立ちならんでいる。日の目をさえぎられた建物の断崖の列だ。仰いでみると、色のさめた浅黄布のような空が、くもでに張りわたされた無数の電線に、たてよこ十文字に、むちゃくちゃに切りこまざかれている。右手の一郭にある建物のなかには、九千人の人間が住んでいる。その向いがわにある建物を借りている人は、年に百万ドルの家賃を払っている。そのさきの空地にそそり立っている大建築は、いずれも工費七百万ドルを下らないという。そういう建物が何十町もつづいている。すべて鋼鉄と、セメントと、真鍮《しんちゅう》と、石とでできていて、それへ金に糸目をつけぬ豪華な手すりをつけた階段が、十階二十階の上まで、累々層々とつづいているのである。けれども、それを踏むものは、ひとりもない。みんな水や蒸気や電気の力で、昇ったり降りたりしているからである。足であるいたのでは、目がくらんでしまうし、だいいち、距離がたいへんだ。わたくしの友人で、こういう建物の十四階にへやを借りて、五千ドルの家賃を払っているのがあるが、この男はそこへ住んでから、まだいちども階段を踏んだことがないといっている。わたくしだって、今こうしてここを歩いているのは、物好きで歩いているのであって、急ぎの用でもあれば、とても歩いてなんぞいやしない。場所は広いし、時間は貴重だし、そんな悠長くさい、手間のかかることなんぞしていられやしない。ひとつの区からべつの区へ、自宅から勤め先へと、みんな汽車でかよっている。家が高すぎて、呼んでも声がとどかないから、人に物を言いつけるにも、返事をするにも、みんな機械でする。電気の力ひとつで、遠くの扉もひらくし、指いっぽんさわれば、百のへやにあかりもつくし、煖房も通る仕掛けになっている。
しかも、このぼう大もないものが、じつに無情で、陰気で、むっつりと押し黙っているのである。これは、堅牢と耐久という実利主義の目的のために応用された、数学的な力のぼう大さである。幾千町となく、連綿とつづいているこれらの大殿堂や、倉庫、事務所、店舗、その他、なんとも名のつけられないような、さまざまの建築物、これらは、美しいなどというものとは、およそ縁の遠いものだ。むしろ、醜怪《しゅうかい》なものである。こういう建築物をつくりだしたぼう大もない生活、同情などというものはひとかけらもない生活、そして、こういう建築物のもつ、ものすごいがさつな力、もののあわれなどというものは薬にしたくもない非情の威力、そういうもののあらわれを感じて、人はだれしも、なにか心を押さえつけられるような圧迫感をうけるにちがいない。この圧迫感、これこそは、新しい産業時代を建築にあらわしたものなのだ。耳を聾《ろう》するばかりのごうごうたる車輪のひびきと、嵐のごとき人馬の足音とは、ここでは四六時中、片時も止むことがない。人に物をたずねるにしても、相手の耳のそばで大きな声をして、がんがんどならなければならない。こういう高層建築の町のなかでは、見るにつけ、知るにつけ、動くにつけ、すべて経験をつむ必要がある。慣れないものなどは、ただもうあわてふためいて、まるで自分が嵐か旋風のなかにでも巻きこまれてしまったような心持がする。しかも、すべてこれが儼《げん》とした秩序なのである。
怪物みたいなこの町は、石の橋や鉄の橋によって、あるいは河川をのりこえたり、あるいは運河をまたいだりしている。目のとどくかぎり、参差《しんさ》林立する帆ばしらや、くもでに張りわたされた帆綱が、煉瓦や石づくりの家々の、切り立った岸壁をさえぎりかくしている。乱離として入りみだれ群《むら》だつ、それらの帆ばしらや帆綱にくらべれば、森の木立とて、これほどには密生してはいまいし、さしかう木の枝とて、これほどには茂りあってはいまい。しかも、すべてこれが儼たる秩序なのである。
大づかみにいってみると、われわれ西欧人は永存のために家を建てる。それにひきかえて、日本人はほんの一時しのぎのために家を建てる、ということになる。早いはなしが、日本の国では、ごく普通につかっている日用品などでも、まず長持ちをさせようという考えで作られているものは、めったにない。たとえば、旅の泊りに着くたびに、切れては履きかえるあのわらじというもの。小幅のきれをいくまいか縫い合せては着、それをまたほどいては洗濯しているあの着物。宿屋で客の入れかわるたんびに、新しいのをつけて出すあの箸《はし》というもの。その他、お手軽なあの障子というやつ。あれは一枚で窓にもなれば、壁にもなるという、しごく重宝なものだが、そのかわり、年に二どは張りかえなければならない。それから、毎年、秋になると表がえをする畳。まだ、このほかに、数えあげれば枚挙にいとまのないほどの、日常生活のこまこました物が、どれをとってみても、すべてこの国の国民が、諸事、なにごとによらず、長持ちのしないものでけっこう満足していることを語っていないものは、なにひとつとしてないといっていい。
日本の普通の住宅については、こんな話がある。朝、わたくしが家を出がけに、じき先の四つ角をとおると、そこの空地で、何人かの大工が竹の柱を立てている。それから、ものの五時間ほどもたって帰ってきてみると、朝見て行った場所に、もう二階だての家組《やぐみ》がちゃんとできあがっている。翌日の昼まえには、もう荒壁が土と|わら《ヽヽ》とであらかた塗り上がる。日の暮れまでには、屋根にすっかり瓦がのる。あくる日の朝になると、畳が敷かれ、壁の上塗《うわぬ》りが仕上がる。こうして、五日もたてば、この家は、普請《ふしん》ができあがるのである。もちろん、こんなのは安普請の家で、りっぱな家なら、着手してから竣工するまでに、もっと日数がかかるわけだが、しかし、日本の大都市の大部分を占めているのが、たいてい、いま言ったような雑普請の家なのである。こういう家は、普請がざつなだけに、もちろん、お値段もしたがってお安い。
中国の家屋のあの屋根の勾配は、あれは遊牧時代の天幕のなごりをつたえたものだという説がある。どこでこのような説に出くわしたものやら、いまそれを思い出すことはちょっとできないけれども、この説を読んだ本のことを不実にも忘れてしまった今でも、その意見だけは、いつもわたくしの胸のなかに去来して、はじめてわたくしが出雲へきて、あの古い神社の破風の切妻と、屋根の棟のうえに千木《ちぎ》の出ている、あの特殊な構造を見たときにも、わたくしは、忘れた本の著者の論旨を力づよく思い出した。もっとも、その書物に説いてある建築様式の起原の方が、それよりもずっと時代がのちのものではあったけれど、それにしても、日本の国では、そうした原始建築の伝統以外にも、この民族の遠《とお》つ祖《おや》が遊牧民族であったことを物語っている事実が、じつにたくさんある。いつどこへ行ってみても、われわれ西欧人が堅牢と呼んでいるようなものは、日本にはぜんぜん欠けている。どうも、長持ちしないという特徴が、この国の国民の表面生活のいっさいのものに、刻印を打たれているように思われる。ただ、そのなかで、百姓のつかっている昔のままの服装と農具だけが、わずかにこの例をまぬがれているくらいのものだ。歴史に記録されている比較的短い時間だけをみても、この国には六十以上の首都があったのに、それがこんにちでは、その大部分がぜんぜんその跡をとどめていない。こういう事実は、まあしばらく置くとしても、だいたいにおいて日本の都市は、ひとつの世代のあいだに、かならず再建されている、と大づかみに言ってもさしつかえない。ただそのなかで、いくつかの神社とか仏閣、二、三の城郭だけは例外で、通則としては、日本の都市は人間一代のあいだに、形はおろか、実質まで一変してしまうのである。それには、地震だの、火事だの、まだそのほかにも幾多の原因がかぞえあげられるけれども、とにかく、その主なる理由は、家屋が永存的につくられていないということに帰着する。ふつうの平民で、先祖伝来の住居をもっているものは、ひとりもない。であるから、一般人にとって、もっとも愛着の深い場所は、自分が生まれた土地ではなくて、やがては自分が埋められる墳墓の地なのだ。死者のねむる安息の地と、古い神社の境内、このふたつを除けば、日本に恒久的なものは、まずひとつもないといってもよかろう。
いや、それよりもなによりも、この国では、国土そのものがじつに有為転変の地なのである。河川はたえず水流をかえ、海岸は海岸線をかえ、平野は陸高をかえ、火山は時に隆起したり、崩壊したりする。谿谷《けいこく》はときに熔岸の流れに埋められ、地すべりのために水を堰《せ》かれるし、湖がとつぜんにできるかと思うと、その反対に、いままであった湖水が、きゅうに影もかたちもなくなってしまったりする。じつをいうと、世界に比類なきあの霊峯「富士」、幾世紀ものあいだ、日本の画家に神来の霊感をあたえてきた、あの富士の霊峯でさえ、わたくしがこの国へきてから、いくらか形が変ったということである。おなじその短い期間のあいだにも、ぜんぜん、その山容をあらためてしまった山がいくつかある。ただわずかに、国土のだいたいの輪郭と、その山川のおよそのすがたと、うつりかわる四季のもようとだけが変らずにいる、というにすぎない。風光のうるわしさにしてからが、多くはただ現《うつつ》に現ずるまぼろしのごときもの――うつろう色の美しさと、立つかと思えばたちまちにして消え去る、霧や霞《かすみ》のうるわしさにすぎない。こうした自然の風光に、朝な夕な親しく接しているものでなければ、この群島の古い歴史の上におこったさまざまの有為転変、または、将来起るであろう幾多の変遷の予感、それすらもつゆ知らぬげに、あいたいとして打ち霞んでいるふるさとの山のこころは、たれ知るものもないであろう。
千代に八千代に、かわらぬものは、ひとり神ばかりだ。神はかたちもすがたももたぬゆえか、かしこに高い峯の上なる社《やしろ》のほとりに、神《かん》しずまりたまい、老曾《おいそ》の森の木がくれは昼なお暗く、神|寂《さ》びた森厳の気はあたりを払っている。さすがに神のおわします社は、人の住居のように忘れ去られてしまうようなことはない。それでも、ある短い期間のあいだには、かならず造営を新たにされる。なかにも、最も神聖なる伊勢神宮は、神代からのしきたりによって、二十年ごとにその社殿をこぼたれる定めがあり、古い神材は割《さ》かれて、幾万の小さなお守りにつくられ、これは参詣者たちにわかたれるのである。
万物流転、諸行無常の大教義を説くところの仏教は、アリアン族のインドから中国をへて、この国に伝来した。日本における最初の仏閣を建てた人たちは、異民族の建築家たちであったが、これはよい建築物を建てた。こんにち、鎌倉にある中国風の建造物を見るがいい。鎌倉の周辺にあった大都市は、こんにち、その跡だにもとどめていないのに、それらの寺院だけは、幾百年をへた現在でも、なお昔のままにのこっている。けれども、仏教そのものの人間におよぼす精神的感化は、いずれの国もそうだが、人間をして恒久的なものを愛《お》しむ心を、けっして起させなかった。宇宙はひとつの迷夢であり、人生は涯《はて》なき旅の一里塚だ、されば人間にたいする執着、金殿玉楼にたいする執着――つまり、物にたいする執着は、すべて悲しみの種子となるものだ、人間はいっさいの欲念を滅却すべきだ、涅槃《ねはん》の願いをさえ滅却すべきだ、それによって、はじめて永遠の平和に到達することができるのだ、というこの宗教の教義は、たしかに日本民族が古来からもっている感情と合致するものである。この国の国民は、なにもかくべつこの外来の信仰の深い哲理に、身をもっていそしんだわけでもなかったのに、万物流転、諸行無常を説いたこの教義は、長い年月のあいだに、この国の国民性に深い影響をおよぼしたのである。仏教の教義は、日本人に悟りと慰めとをあたえ、なにごとにも屈せずに辛抱するという、新しい力をあたえたのである。そして、この国民の特質であるところの忍従の精神を、なおいっそう強靱なものにしたのである。そしてまた、日本の芸術は、仏教の影響をこうむったおかげで、あるものを創造したとはいわないまでも、それによって大いに発達したのである。けれども、そこにも諸行無常の教義は跡をとどめている。仏教は、天地自然、森羅万象はすなわちこれ夢なり、まぼろしなり、迷いなりと教えたと同時に、その夢の消えてゆく姿をとらえて、これを最も高い真理に具現して解明することをも教えた。それを日本人はよく学んだ。春は花咲くさくらのいろに、夏は生まれたかと思うとたちまちにして死んでゆく蝉のいのちに、秋はうつろう紅葉《もみじ》のいろに、冬は降りつむ白雪の、この世のものとも思われぬ美しさに、――あるいは、見る目まぎらわしい寄せては返す浪のすがたに、空飛ぶ雲のゆきかいに、かれらは、無窮の意味の語られた古い譬《たと》えばなしを、目《ま》のあたりに見たのである。地震、火事、洪水、疫病――そうした人間の災禍すらが、かれらに生者必滅のことわりを不断におしえたのである。
時劫のうちに存在するものは、すべてかならず滅しなければならない。森も、山も、かくのごとく存在している。有情の万物は、すべて時劫のうちに生まれる。
日月も、帝釈天も、あまたの弟子たちとともに、すべてみな例外なく死滅する。一物として、不老不死のものはない。
物は、はじめは固まっているけれども、最後にはばらばらになってしまう。そのばらばらになったものが、ふたたびまた結合して、べつのものになるのである。天地間の万物には、けっして、一定不変の本体などはないのである。
すべて寄りあつまってできているものは、かならず年をとる。諸行無常は、すべて合成されたものの上にある。一粒の胡麻《ごま》にいたるまで、およそ合成物に不老不死のものはない。万物は変りゆくものである。万物は、本来、解体する性質をもっているものなのだ。
すべて合成物は、例外なく、必滅にして安住なく、卑しむべきものである。定離《じょうり》にして、無常のものである。消えやすきこと蜃気楼のごとく、まぼろしのごとく、泡沫のごときものである。……陶工のつくれる陶器の、ついにはこわれ砕けるごとく、人間の生涯もまた、かくのごとくにして終るのである。
物質そのものの信仰は、曰《いわ》く述べがたく、表わしがたいものだ。物質は物にもあらず、物外にもあらず。この理《ことわり》は、童幼・痴者でも知っていることである。
さて、今まで述べてきた、日本の国民生活におけるこの非永存性と規模の小ささ、これについて、なにかそれに附随する補償的な価値があるかないか、それを探究するのもあながち無益のわざではあるまい。
日本の国民生活の最も著しい特徴ともいうべきものは、極度の流動性である。日本の国民は、そのひとつひとつの分子が絶えず循環作用を営んでいる、ひとつの媒体のようなものである。運動そのものからしてが、すでに特異なものである。一点から一点にうごく移動は微弱であるが、西欧人種の移動にくらべると、ずっと幅が大きいし、また変化にも富んでいる。しかも、たいへん自然だ。西洋文明にはちょっとありえないほど、それは自然だ。ヨーロッパ人と日本人との移動の比較は、ちょうど、高速度の振動と低速度の振動との比較であらわすことができそうである。ただし、このばあい、高速度の方には、人為的な力が加わっていることを示すが、低速度の方には、そんなものは加わっていない。そして、こういう種類の違いは、外見が語る以上の意味をもっているものである。たとえば、アメリカ人は、自分たちは大旅行家だと考えている。ある意味では、これはあたっている。ところが、べつの意味からいうと、これはたしかに間違った考えかただ。アメリカの一般人は、旅行家としたら、とても日本人とは比べものにならない。もちろん、いろいろの国民の移動を比較研究するには、ただ少数の有産階級ばかりでなく、大衆、すなわち労働者を主として考えなければならない。ところで、自分の国のなかだと、日本人は、いわゆる文明人のなかの最大の旅行家だ。日本人が最大の旅行家だという証拠には、これほど山又山の重畳からできている国に住んでいながら、日本人は旅の支障というものを、すこしも認めていない。日本人で、いちばんよけいに旅をするのは、旅をするのに汽車や汽船を必要としない連中である。
ところで、われわれヨーロッパ人からいうと、ヨーロッパにおける一般労務者は、日本のふつうの労務者とは比べものにならないほど、不自由な思いをしている。なぜかというと、西欧人は、とかくいろいろの力が集団的に固く統結されている、西欧社会の複雑をきわめた機関のために拘束されているからである。自分の依存しなければならない社会機構、または生産機構が、特殊なその要望に添うように人間を造りなおし、各自に生得の力を棄てさせて、それとは別箇の、ある特殊な人為的な力を発達させるようにしむけるから、そこにどうしても不自由なものが生まれてくる。ただ、たまかに物を節《つ》めて倹約にしていくだけでは、とても経済的な独立などはえられないような、そうした生活標準で暮らさなければならないところに、西欧人の並々ならぬ窮屈さがあるのである。で、そういう経済的独立をえようとすれば、いきおいそこに、同じような桎梏《しっこく》からのがれようと、おたがいに足掻《あが》き苦しんでいる幾万という競争者よりも、いちばい優れた、異数の性格と異数の才腕とをもっていなければならないことになる。つまり、手っとり早くいえば、けっきょく、ヨーロッパ文明の特異性が、機械や大資本の力をかりずに生きて行こうという、人間本来の力を骨抜きにしてしまったがために、そこに不自由とか束縛とかいうものが生まれてきたわけである。こんな不自然な生きかたをいつまでもつづけて行けば、遅かれ早かれ、勝手なときに勝手に身を動かすような力は、しぜんと失われてくるにきまっている。西洋の人間は、だから、いざ身を動かす段になると、そのまえに、あれやこれやといろいろのことを考慮しなければならない。ところが、日本人はそこへいくと、身を動かすのに、なにひとつ考えわずらうことがない。居るところがいやになれば、手軽にさっとそこを立ちのいて、行きたいところへなんの苦もなく行ってしまえる。手足まといになるようなものは、なにひとつない。貧乏も、そこへいくと事の障《さわ》りにはならず、むしろ励みになる。荷物と名のつくほどのものもないし、よしんばあったところで、ものの四、五分で片のつく程度のものだ。みちのりなどは、問うところではない。おぎゃあとうまれついて、日に十里やそこらは、苦もなく歩きとばせる健脚をもっている。だいいち、西洋人だったら、とてもそんなものでは命をつないでいけないような食いもので、けっこう栄養がとれていく不思議な胃袋をもっているし、からだときたら、まことに頑健で、不養生な厚着や、ぜいたくな便利品や、やれ煖炉だ、ストーヴだ、足には皮の靴をはくなどという、そんな習慣にはまだ毒されていないから、暑さ寒さにもめげないし、雨露風雪にもはなはだ強い。
ついでながら、ここでちょっと、われわれヨーロッパ人の履物の特徴について、二、三申しておきたい。われわれの履きものの特徴については、普通に考えられている以上の意義があるように、わたくしには考えられる。というのは、だいいち、あの履物そのものが、大いに個人の自由を束縛しているものだ。値段の高いこともそうであるが、それよりも、あの形がすでにはなはだしい束縛を意味している。あれはヨーロッパ人の足を、生まれながらの形から不規則に歪め、そのために、せっかく発達した仕事もできないようにしてしまっている。その生理上の影響は、足だけにとどまらない。運動機関を直接間接に阻害しているものが、からだぜんたいの構造にまで影響をおよぼすことは、これは当然の話だろう。はたしてその弊害は、からだだけにとどまるであろうか? おそらく、われわれが文明と名のつくもののなかにある、もっとも馬鹿げた、噴飯にたえない因習に、依然として屈従しているのは、ひとつには、長年靴屋の横暴に屈服してきたせいかもしれない。ひょっとしたら、ヨーロッパの政治・風教・宗教制度には、多少なりとも、皮の靴をはいているという習慣に関係のある欠陥があるかもしれない。肉体の束縛にたいする屈従は、ひいては、かならず精神の束縛にたいする屈従を助長するにちがいないから。
そこへいくと、日本の庶民――おなじ仕事にかけては、西洋の職人よりも賃銀のずっと安い日本の熟練工たちは、なによりもまず仕合わせなことには、かれらは靴屋や服屋の世話に一生かからないですむ。かれらの足は、見る人の目にも、すこぶるかっこうがいいし、からだは丈夫ときているし、心はほんの気随気ままだ。千里の旅をしようと思い立てば、ものの五分もかからないうちに、すっかり旅の支度ができてしまう。旅装といったところで、なにもかもいっさいがっさいで、七十五セントとはかからない。手まわりの品は、手拭いっぽんで包んでしまうことができる。十ドルもあれば、それこそ、一年は働かずに旅をつづけることができるし、また、それほどの金がなくても、自分の持った腕で、けっこう旅から旅を渡って歩くことができる。順礼をしたって、渡り歩けるというものだ。こんなことをいうと、あるいは諸君は、そんなことは野蛮人ならだれだってできる、というかもしれない。それはそうだが、しかし、そんなことをいえば、文明人にはこのまねは逆立ちしたってできなかろう。しかも、日本人はどうかといえば、すくなくとも過去一千年来のりっぱな開化人なのである。ここに、日本の職人が、こんにち西洋の製造業者を脅威におとしこんでいる力があるのである。
このように、自分の身を自由気ままに動かせるというと、われわれはすぐとそれを、ヨーロッパの乞食や浮浪人の生活に当てはめて考えるくせがある。だから、そのほんとうの意味を正しく考えることをしないで、こんにちに到っている。つまり、このことを、とかく不潔とか悪臭とかいったような、不愉快なことを連想して考えてきている。ところが、チェンバレン教授もいっているように、「日本の群集は、世界じゅうでいちばんいい匂いがする」のである。旅から旅をわたりあるく日本の浮浪者は、ふところに五厘か一銭の湯銭がありさえすれば、かならず毎日湯にはいる。湯銭がないときには、水でからだを洗う。小さな風呂敷包みのなかには、櫛と、妻楊枝と、剃刀と、房楊枝が入れてある。けっして自分をむさくるしくしておかない。行く先へ着けば、粗末ながらも襟垢《えりあか》のつかない、こざっぱりした着物に着かえて、身だしなみのいい、ちんとした客になりすますのである(*)。
*「日本の群集はゼラニュームの花のような匂いがする」といったエドウィン・アーノルド卿の評語を、批評家は一笑に附したけれども、この形容は当っている。「麝香《じゃこう》」という香料は、ごく控え目につかうとムスク・ゼラニュームの匂いとまちがえられやすい。女の人のまじった日本人の集りでは、たいてい、この「麝香」のほんのりとした匂いがする。それは、着ている衣服が、ごく少量の麝香を入れた箪笥の中にしまってあるせいである。このほのかな芳香のほかに、日本の群集には、なんの臭気もない。
大した家具調度もなく、といって、身のまわりの品も、さしたるものがあるわけではなく、せいぜい、こざっぱりした着物が、それもほんの二、三枚、それでけっこう暮らしてゆけるということは、これはなんといっても、日本民族が生存競争のうえに持っている、強味以上のものを示している。そればかりではない。このことは、ヨーロッパ文明のなかにひそむ、ある弱点の本質をも、それとなく語っている。われわれヨーロッパ人の日用必需品のなかに、いかに無駄なものが多いかということをわれわれに反省させるのも、この日本人の生活の簡素さだ。われわれは、肉とパンとバターがなければ、一日も暮らすことができない。ガラス窓と煖炉、帽子、ワイシャツ、毛の肌着、深靴に短靴、やれトランクだ、鞄だ、箱だ、寝室に蒲団、敷布に毛布。みんなこれは、日本人ならなくてもすむ品である。いや、なくて、かえってらくに暮らしている品物だ。早いはなしが、ちょっと考えてみても、ワイシャツというやつ、この金食いの品が、西洋の服装では、なくてはならない、だいじな品物になっている。そのだいじなリネンのシャツ、「紳士の徽章《きしょう》」とまでいわれるこの衣料にしてからが、すでに無用な衣料ではないか。べつにそれを着たところで、暖いわけでもなければ、気持がいいわけでもけっしてありはしない。これはヨーロッパの服装の上で、ひと昔まえに贅沢階級の区別になっていた、ひとつの遺風を語るものであるが、それが今日では、意味のない無用の長物になってしまっていることは、あたかも袖の外側に縫いつけてあるボタンと同様である。
日本は、ほんとうに大事業を成し遂げた。しかし、その成し遂げた大事業にたいして、なにひとつそこに、大きな痕跡らしいものが認められない。このことは、日本文明のもつきわめて特殊な、ある働きを証拠立てているものである。もっとも、こういう働き方も、永久につづけるわけには行くまいが、とにかく、今日のところまでは、こうして驚くべき成功をおさめてきたのである。日本は、われわれが言うような大きな意味の資本がなくて、生産している。根本的に機械工業にもならず、そうかといって、手工業に徹底することもなくして、日本は今日まで産業国としてやってきたのである。あの莫大もない米の収穫は、幾百万というごく微々たる農場から上がってくるのだし、生糸は幾百万の小さな貧しい家から、茶は無数の小さな畠から、産出されるのである。たとえば、京都あたりへ行って、世界でも有数の陶匠、その人の作品は、日本の国内よりも、かえってロンドンやパリで名高い、そういう名工に、なにか注文をしに行ってみると、その工房は、アメリカあたりの農夫なら、とてもそんなところには住めそうもないような、ほんの木造の小さな小屋だ。高さ五インチほどの作品に、大枚二百ドルもとるような七宝焼の大家でも、たいていは、六|間《ま》ぐらいの小さな二階家の裏手で、あの目を驚かすような、稀代の名品を制作しているのである。また、日本で極上飛切りの品とされている絹の帯地は、建築費五百ドルかかるかかからないほどの、ごく粗末な家で織られているのである。もちろん、仕事は手織りだ。ほかに機械織りの工場――生産能力のはるかに高い外国工場を圧倒するほどの、精巧な品を織っている工場もあることはあるけれども、それとて少数の異例を除けば、とてもとても、外国の工場の足もとにも追いつきはしない。長っぽそい、吹けば飛ぶような、低い一階建てか二階建ての小屋で、その費用も、まずヨーロッパでいうなら、木造の厩《うまや》の一棟も建てるぐらいの見当である。そんなちいっぽけな小屋が、世界じゅうに売れわたる絹織物を作り出すのである。どうかすると、庭口の枝折《しお》り戸にかけてある、漢字の表札でも読めないと、そこらを聞きたずねでもするか、ぶんぶん鳴る機械の音でも目あてにして、やっとそれで工場か、それとも古い屋敷か、それとも旧式な寺小屋かの区別がつくくらいなものである。煉瓦工場や醸造場の大きいのもあることはあるけれども、その数はいたって少ない。それも、外人居留地のすぐそばなんかにあると、あたりの景色とおよそ釣合わないほど、お粗末しごくなものだ。
いったい、ヨーロッパのあの怪物じみた大建築だの、喧噪きわまりない機械だのというものは、あれは、産業資本の大規模な統合によって生まれでたものである。ところが、そういう資本の統合というものは、極東には存在していないのである。というよりも、じつは、そんなぐあいに統合されるほどの資本そのものが、始めからないのである。かりに、幾代かのうちに、そういう共同資本ができたとしても、建築の構造が、そういう共同事業に適応するとはちょっと考えられない。煉瓦づくりの二階家でさえ、主導的な商業の中心地でも、よい成績が挙げられなかったという実例がある。それに、地震がこの国をして、永久に建物を簡単なものにすることを余儀なくさせているらしい。つまり、この国の国土そのものが、西洋建築の強制に反抗し、しばしば鉄道線路をでこぼこに揺すったり、くにゃくにゃに曲げたりして、新しい交通制度に反対している状態なのである。
こんなふうに、いまもって統合もされず、組織化もされずにいるのは、ひとり産業界ばかりではない。政府当局までが、それとおなじ状態を露呈している。磐石《ばんじゃく》のごとく揺がずにいるのは、ひとり皇室だけである。不断の変遷は、朝令暮改の国内政策と軌を一にしている。大臣も、知事も、局長も、視学も、あらゆる高位の文官武官が、じつに不定期に、しかも驚くべき短期間に異動され、それより下っぱの小官吏どもは、そのときどきの余波をくらって、これまた、四方八方へ散り散りばらばらにばらまかれてしまうのである。わたくしが日本へきて、在住第一年を過した県では、五年間に四人の新しい知事が赴任してきた。熊本にいたときには、あれはまだ日清戦争のはじまるまえのことであったが、あの軍事的に重要な都市の師団長が、三ども更迭《こうてつ》されたほどである。官立の高等学校は、三年間に三人の校長をいただいた。とりわけ、教育界における更迭の頻繁迅速なことは、著しいものがあった。わたくしの在職中にも、文部大臣は五人もかわり、教育制度の改正されること、五たび以上におよんだ。全国二万六千の公立小学校は、その管理上、それぞれ県会の支配下にあるので、他の勢力の影響はないけれども、そのかわりに県議の改選があるから、やはり絶えず更迭異動されることはまぬがれない。校長や教員は、しじゅう甲地から乙地へと、転々として移動をつづけている。三十になるやならずで、全国各府県にほとんどあまねく奉職したという人さえあるくらいである。こんな状態のもとにあって、一国の教育施設が、とにかく大きな成績をおさめたということは、じつに奇蹟というほかはあるまい。
われわれは真の進歩、大きな発展というものには、ある程度の安定が必要だと考える習慣がついている。ところが、日本は、かならずしも安定がなくても、大きな発展の可能なことを、反駁《はんばく》の余地なく、りっぱに立証した。この解明は、民族的性格のなかに――われわれヨーロッパ人のそれとは、いろいろの点で、まったく対蹠的な立場に立っている日本の民族的性格のなかにある。総じてみな、一様に融通性に富み、しかも物にすぐに感動しやすいこの国民は、大いなる目的を目ざして、挙国一致で邁進してきたのである。沙漠の砂、大海の水が、風によって形をなすように、四千万の同胞は一団となって、その統率者の意向によって形成されるにまかせたのである。この、国内の維新に順応するという精神は、この国民の精神生活の旧態――世にもめずらしい無私と完全なる信義との行なわれていた、むかしの国状に属している。日本の国民性のうちに、利己的な個人主義が比較的少ないことは、この国の救いであり、それがまた、国民をして優勢国に対して自国の独立をよく保つことを得せしめたのである。このことに対して、日本は、自国の道徳力を創造し保存した、二つの大きな宗教に感謝してよかろう。そのひとつは、自分の一家のこと、もしくは自分のことを考えるまえに、まず天皇と国家のことを思うことを国民に教えこんだ、かの神道である。それともう一つは、悲しみに打ち克ち、苦しみを忍び、執着するものを滅却し、憎悪するものの暴虐を、永遠の法則として甘受するように国民を鍛《きた》えあげた、かの仏教である。
こんにちになってみると、だいぶ硬化しつつある傾向が見える。――かつては中国の呪いであり弱点であったものと、まったくおなじ官僚主義の統合へと走るような推移が見える危険がある。新教育の道義的効果は、物質的方面の効果に比べうべきほどのものは、まだないけれども、純粋の自我という意味で認められる「個人性」が欠如しているという非難は、次の世紀の日本人には、まず加えられることはあるまい。学生の作文にまで、知力を攻撃の武器として取って持つ新しい思想の反映と、以前はなかった侵略的な自我主義の、新しい情操の反映とが見えてきている。その学生のひとりは、すでに色あせようとしている仏教思想のなごりを胸中にとどめて、こんなことを書いている。「それ、無常は人生本来のすがたにこそ。昨日は富者なりし者の、今日は貧者となるの例は、吾人のしばしば見るところなり。これ、進化の法則に従ひて、人類相競の結果なり。吾人は、この競争に身を曝《さら》さるるものなり。されば、戦ふことを好まずとも、吾儕《われら》はすべからく戦はずんばあるべからず。いかなる武器をもって戦ふべきや? 他なし、教育に鍛へられたる知識の宝刀をもって武器となすなり」
いったい、自我の練成には、ふたつの形式がある。そのひとつは、高邁な気質を異常に発達させるもの、他のひとつは、語らざるをもって善しとする、不言実行ともいうべきものである。ところで、新しい日本が、今日考究しだしているところのものは、前者ではない。正直いうと、わたくしなどは、人間の心情というものは、一民族の歴史の上においても、知性よりはるかに価値あるものであり、おそらくそれは、遅かれ早かれ、人生のスフィンクスの無情な謎に解答をあたえるためにも、比較にならぬほど有力なことを顕わすにちがいない、と信じているひとりである。今でもわたくしは、昔の日本人が、智恵の美よりも徳性の美を優れたものと考えることによって、人生の難問題を解くうえに、われわれ西洋人よりもはるかに解決点の近くまで行っていたものと信じている。終りに臨んで、わたくしはフェルディナン・ブルュンチェールの教育論の一節を引用して、あえて結論に代えたい。
「われわれの教育方針というものは、ここに挙げるラムネーの次のような名言の意味を、よく人の心に浸透させ、深く感銘させようという努力がなかったら、おそらくすべては徒労におわってしまうだろう。『人間社会は相互の受授ということに根柢をおいている。つまり、人が人のために、あるいは、各人が他のすべての人たちのために、献身することを根柢としている。献身こそは、あらゆる真の社会の根本の要素である。』ところが、これは、われわれが過ぐる約一世紀のあいだ、ほとんど教えられずに過してきたことなのだ、そこで、われわれが、今日もし改めて教育を受けるということになれば、それは、このことを再び学ぶためにするのである。このことをわきまえなければ、社会もなく、教育もない。教育の目的が社会のための人間を作ることにあるのだとすれば、まさにそうである。個人主義は、今日では社会秩序の敵であると同時に、教育の敵でもある。これは、もとからそうであったのではないが、そうなってきたのである。永久にそれで行くのではないが、今のところは、そうなのである。そこで、この個人主義を絶滅させようとはつとめないにしても(それをすると、一方の極端から他の極端へ陥入ることになる)、われわれは家族に対し、社会に対し、国家に対して、何をしようと欲するにも、個人主義に反抗してこそ、その仕事は達成されるのだ、ということを認めなければならない」
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門《かど》つけ
三味線をかかえて、七、八つの小さな男の子をつれた女が、わたくしの家へ唄を歌いにやってきた。女は百姓のような身なりをして、首に浅黄色の手拭をまきつけていた。女はぶきりょうだった。うまれつき、きりょうがわるいうえに、むごたらしい疱瘡《ほうそう》にかかったために、なおさら、ふた目と見られぬ顔になっていた。子どもは、刷りものにした流行唄の束を持っていた。
そのうちに、近所の人たちが、わたくしの家の前庭にあつまってきた。近所の人たちといっても、たいていは、若い子持ちのおかみさんや、背中に赤ん坊をおぶった子守などであったが、なかには、やはりおなじように、子どもをつれた爺さんや婆さん――きんじょの隠居連もまじっていた。隣り町の町角にある立て場から、辻待ちの俥屋《くるまや》などもやってきた。そんなわけで、やがてわたくしの家の門のなかは、もう人のはいる余地がなくなってしまった。
女は玄関の石段のところに腰をおろして、しばらく、三味線の糸の調子を合わせていたが、やがて合の手のような曲を一曲弾きだした。すると、たちまち一種の魅惑が、聴きてのうえに落ちてきた。聴きては、みな、ヘーエといったような顔をして、微笑をもらしながら驚きの目をみはって、たがいの顔を見あわせた。
それは、女の引きつったような醜いくちびるから、まるで思いもかけない奇蹟のような声が――若々しい、深味のある、人の心に沁《し》みとおるような甘さをもった、なんともいえぬ震いつきたくなるような声が、突如として泉のごとく、せせらぎのごとく、噴き湧いてきたからである。「ありゃあ女ですかい? それとも木の精かね?」と見物のひとりが、いかにも不審そうに言ったが、もちろん、ただの女であることはいうまでもない。ただの女だが、ただし、腕のすばらしくいい芸人だったのである。女の三味線の弾きぶり、これはまさに、どんな芸達者な芸者でも、あっといって驚いたにちがいない。また、その声は――いままでどんな芸者ののどからも、これほどの声、これほどの歌は、まず聞かれたことがなかったろうというほどの声である。しかも女は、それこそただの百姓でも歌えるような調子でうたっているのである。おそらく、その声の調子は、野山にすむ蝉《せみ》か、藪《やぶ》うぐいすからでも習いおぼえたものであろう。それでいて、西洋の音譜にむかしから書かれたことのない半音程や、その半音程のまた半音程を、自由自在、らくらくと歌いこなしているのである。
女がそうやって歌っているうちに、聴いているものは、みな物もいわずに、洟《はな》をすすりはじめた。歌の文句は、わたくしにははっきり聞き分けられなかったが、それでも、じっとそうして聴いていると、女の声につれて、日本の生活のうら悲しさ、うっとりするような甘さ、抑えに抑えられた苦しさが、惻々《そくそく》としてわたくしの心にかよってくるような気がした。それは、目に見えないものを切ないほど追い求める気持、とでもいったらよかろうか。まるでなにか目には見えない物柔らかなものが、自分の身のまわりにひたひたと押し寄せてきて、おののき慄えているかのようであった。そして、とうに忘れ去ってしまった時と場所との感覚が、あやしい物の怪《け》のような感じと打ちまじって、そこはかとなく、心に蘇《よみがえ》ってくるのだった。その感じは、ただの生きている記憶のなかの時と場所との感じとは、ぜんぜん別種のものであった。
そのとき、ふとわたくしは、その歌うたいの女が、目くらであることを見たのである。
さて、歌をうたいおわったとき、わたくしたちは、遠慮する女をむりに家のなかへ招じ入れて、女の身の上ばなしを聞いてみた。むかしは、この女の家も、そうとうな暮らしをしていたところから、女は娘のころに三味線を習いおぼえたのであった。つれている男の子は、自分のせがれであった。女の亭主は中風をわずらっていた。女の両眼は疱瘡のために失明したのである。しかし、からだだけはどうやら丈夫だったので、女はかなりの遠道を歩くことができた。子どもがくたびれれば、女は自分で負ぶってやることもある。――おかげで歌をうたいさえすれば、見ず知らずのかたがたが涙をこぼして、お鳥目や食べものを投げて下さいますので、床に寝ついたきりの夫とこの子どもは、どうにかこうにかわたくしひとりの身すぎで養ってまいれます。……これが女の身の上ばなしであった。わたくしどもでは、女にいくらかの鳥目をやったうえ、食事を出してやった。やがて、女は男の子に手を引かれながら、立ち去って行った。
わたくしは、この女から、最近あった心中事件を諷《うた》った小唄の本を、一部買い求めた。「なげきぶし・玉米・竹次郎。大阪市南区日本橋四丁目十四番地 竹中よね作」としてある小冊子である。一見して、木版からおこした冊子で、中に小さな挿絵が二枚はいっている。ひとつは、うら若い男女がふたりで歎き悲しんでいる図。もうひとつの方は、一種の止《と》め絵に類した絵で、それには、ひと張りの机、消えかかったランプ、ひろげた手紙、香華のたいてある香炉、それから、仏式の方で死人に供える神聖な植物である|しきみ《ヽヽヽ》をさした花立、などがあらわしてある。縦書きに、すらすらと書かれてある妙な草書体の原文は、しいて翻訳してみれば、こんなものでもあろうか。
「音に名高き大阪は、西本町の一丁目。――心中ばなしの哀れさよ。
「年は十九の玉米を、職人|風情《ふぜい》の竹次郎が、見染めて惚れた縁の糸。
「二世も三世もかわらじと、誓い合ったるその仲は、――遊女に惚れた身のなげき。
「たがいの腕に彫りあった、竜と竹との二つ文字。――浮世の苦労よそにして。
「籠の鳥をば身受けする、五十五円の身のしろ金、才覚できぬ竹次郎が、その心根の切なさよ。
「とてもこの世じゃ妻なし鳥よ、主《ぬし》と呼ばれぬ二人がえにし、いっそ苦界をおさらばに、ともに死なんと誓いける。
「われなきあとは朋輩衆、香華のひとつも上げてたも、回向《えこう》たのむと二人が、露と消えゆくあわれさよ。
「死んでゆく身の竹次郎が、かたのごとくに手に取りし、水盃が世のなごり。
「あわれなるかな二人が、たがいに思い思われつ、心中する身の胸のうち、ああ、捨てし命ぞ、捨てし命ぞあわれなる。
要するに、この物語のなかには、かくべつたいした変哲なところもなければ、歌詞にも、とくべつに取り立てて言うようなものもない。その歌いぶりが聴くものの感歎を博したのは、まさにかの女の美音にあったのである。それにしても、それを歌ったものがすでに立ち去ってしまったのちになっても、その声は、依然として長く耳朶《じだ》に残っているような気がする。――あの不思議な魅力をもった声調の秘密を、なんとかして自分で解き明かそうとせずにはいられないほど、それほど自分の胸のなかに、妙に甘美な感じとうら悲しい感じをのこしながら。
そこで、わたくしは、次に述べるようなことを考えてみた。――
なべての歌、なべての調べ、なべての音楽、これはいずれも、ただ感情のごく原始的な自然発声が、なんらかの進化をしたものを意味するにすぎないものだ。つまり、歌とは、また音楽とは、人間の悲哀、歓喜、あるいは恋情の、なにものにも教えられない自然のつぶやきであって、しかもその場合、そのつぶやくことばが自然の調べにかなっているもの、――これが歌であり、音楽である。国語というものがいろいろに相違しているように、この音の結合から成る語法にも、それぞれにまた相違というものがある。そのために、われわれ西欧人を深く感動させる音調が、日本人にとっては、いっこうに無意味なばあいもあるし、逆にまた、われわれ西欧人をすこしも感動させない調べが、ちょうど色彩で青と黄いろがちがうように、われわれと異った精神生活をもっている民族の感情には、ひじょうに力強く訴えるばあいもあるわけだ。……それはそれでいいとして、それならば、自分などにはとうてい解りっこのないこの東洋の小曲が、――庶民階級の一盲女がうたったこのありふれた俗謡が、もともと異邦人であるこのわたくしの胸に、これほどの深い感情を呼びおこしたというのは、これはいったいどういうわけなのか? きっとこれは、あの歌いての声のなかに、一民族の経験の総量よりもさらにもっと何か大きなもの――たとえば、人間生活のごとく広大な、善悪の知覚のように千古不易な何物かに訴える力があったからなのだと、わたくしは確信する。
もう二十五年もまえのことになるが、ある年の夏の宵、わたくしはロンドンのある公園で、ひとりの少女が、ちょうどそこを通りかかった通行人に、「こんばんは」といっているのを聞いたことがある。言ったことばは Good night――ただこの二語だけであった。もちろん、わたくしはその少女がなにものだか知る由もなかったし、顔も見はしなかった。声も、その後二どと聞いたことはない。ところが、その後百の季節が移り去ったのちになっても、いまだにその少女の「こんばんは」を思い出すと、わたくしは、なにか心の浮きたつような、同時に、なにか胸を緊《し》めつけられるような、このふたつの気もちがふしぎに交錯した、あるあやしい心もちを唆《そそ》られるのである。――この快感と哀感とは、これは疑いもなく、わたくしのものではない。げんに、ここにいまこうして生きているわたくしのものではない。おそらく、わたくしがこの世に生を享《う》けるまえの、つまり、前世からのものであるにちがいない。
おもうに、ただのいちど聞いただけにすぎない人間の声が、このような魅力を人に起こさせるということは、これはこの世のものではけっしてありえない。それは、無量百千万の忘れられた世のものである。なるほど、この世には、まったく同じ性質をもったふたつの声というものは、古往今来、存在したためしはない。ただ、しかし、やむにやまれぬ愛情がほとばしり出て、それが凝《かたま》って玉となったことば、そういうことばのうちには、全人類の百千億の声に共通したあるやさしい音色が、かならず含まれている。人間がうけつたえうけついできた伝承の記憶は、生まれたばかりの赤児にさえ、愛撫の声調を了解させる。それとおなじように、われわれの同情、悲歎、憐憫《れんびん》の声音についての知覚も、やはりそうした伝承であるにちがいない。そういうわけで、極東のこの一都会で聞いた一盲女の俗謡が、一西欧人のこころに、ある個人的なものを超えた深い感情を――忘れられた悲哀の、そこはかとない無言の哀感を、――記憶を消失した時代のおぼろげな愛情の衝動を、もういちどよみがえらせたのであろう。死者はけっして亡びることがない。死者は、疲れおとろえた心臓と、いそがわしい脳髄の無明の部屋のなかとに、こんこんと熟睡《うまい》しつつ、まれにかれらの過去を呼びおこす、なにものかの声が木魂《こだま》するたびに、目をひらきさますのである。
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旅日記から
一八九五年四月十五日 大阪―京都間の車内で
乗り物のなかなどで、眠気がさしてきた時、まさかに、そこへながながと横になるというわけにもいかない。そういうときに、日本の婦人は、まず長い左の袂《たもと》を顔にあてておいてから、居眠りをする。いまこの二等車のなかにも、三人の婦人がひと側に並んで、こくりこくりと居眠りをしている。みんな申し合わせたように、ひだりの袂で顔をかくし、列車の動揺に揺られながら、こくり、こくりやっているところは、まるで流れのゆるい小川に咲いている蓮の花のようだ。(このばあい、左の袂をつかうのは偶然なのか、それとも本能がさせるわざなのか。おそらく、本能によるのだろう。つまり、汽車がガタンと揺れたときに、右の手をあけておけば、吊り革か座席につかまるのに、都合がいいから。)ちょっと見ると、この姿態はなかなか美しい。しかも、愛嬌がある。ことに、たしなみのある日本の婦人が、なにをするにも、つねにあでやかに、しとやかにと心がけて、上品なしぐさをする例として、とりわけこの姿態は美しく見える。それにこの姿は、愁いの時のすがたでもあり、時にはまた、恋しいときの願いの姿でもあるので、なにかそこにいじらしいものがある。いずれにしろ、すべてこれは、うれしいときにも、ただ顔にそれをあらわすほかは人に見せまいと、多年仕こまれてきた婦人としてのつとめの観念から出たものである。
このことで、自分の経験を思い出すことがある。
わたくしの家で、長年使っていた下男があったが、この男のことを、わたくしは平素から、しごく快活な、後生楽な男とばかり思っていた。物を言いかけると、この男は、いつでもえへらえへら笑っている。仕事をしていれば、しじゅう楽しそうだし、浮世の苦労など、爪の垢《あか》ほどもないような顔をしている。ところが、ある日のこと、この男が自分ひとりでいると思っているところを、わたくしはそっと覗いて見て、まるでこの男が気のゆるんだ顔をしているのに驚いたことがある。いままでこちらが知っていた顔とは、まるで打って変った顔つきなのだ。心の痛みと腹立ちのこわい皺《しわ》があらわれて、年が二十も老《ふ》けて見えた。わたくしは、エヘンと咳払いをして、自分のいることを知らせてやった。すると、たちまちその顔が和らいで、まるで若返りの奇蹟にあったように、ぱっと明るくなったのである。これなどは、じつに、ふだんから自分というものを殺しつけている自制心の奇蹟である。
四月十六日 京都にて
宿屋のわたくしの小べやの雨戸が繰りあけられると、そのとたんに、朝日がぱっと障子にさして、金いろに染められた紙の地のうえに、小さな桃の木の、濃《こ》まやかにくっきりとした影を描きだした。どんな画匠といえども、――たとえ、日本の画描きでも、この影絵にまさるものを描けるものはあるまい。黄いろく光った地に、濃い紺色でさらさらと描かれたこの妙画は、ここから見えない庭の立ち樹の、槎牙《さが》たる枝の遠近にしたがって、その濃淡の調子まで申分なくあらわしている。わたくしはいまそれを眺めながら、日本の美術は、家の採光に紙を用いたことが、そうとう大きな影響をおよぼしているのではないか、というようなことを考えている。
夜など、障子を閉めきったままの日本の家は、ちょうど紙を張った大きなあんどんのように見える。――でなければ、絵を外がわへ映すかわりに、内がわから動く影をうつす仕掛けになっている、幻灯のようだ。昼間だと、障子にうつる影は外からばかりであるが、それが日のまだ出たてのころ、ちょうどけさのように、光線が真横から、しゃれてつくった庭などにさすときには、そこに映しだされる影は、なんとも言えない雅致があるものである。
古いギリシャの古譚に、そもそも絵画のおこりは、壁にうつった恋人の影を、べつに教えられることもなく、なんの気もなしに人が写して描いたのが始まりだ、ということがいってあるが、これはけっして根のないはなしではあるまい。すべて芸術意識というものは、あらゆる超自然の意識とおなじように、どうも影の研究に、そもそもの端緒をひらいたというのが本当らしいようである。しかし、障子にうつる影となると、これはまたいかにも非凡だ。原始的どころではない、他の比類を絶して発達した――というより、ほかにちょっと説明のつけようのない、日本人独特の画法の妙技を、おのずからそこに暗示している。もちろん、このばあい、磨りガラスよりもずっと物の影のよく映る日本紙の紙質というものも、考慮に入れなければならないし、同時にまた、日本の影そのものの特質ということをも、考えなければならないことは言うまでもない。影そのものの特質とは、たとえば西洋の植物などは、自然の許す範囲内で樹態を美しく見せるために、何百年も丹精こめて育てられた日本の庭木のような雅趣ある影絵は、とても映し出せない、それをいうのである。
わたくしは、このへやの障子の紙が、ちょうど写真の乾板とおなじように、横からさしこむ朝日に映しだされた最初のあのくっきりした印画と、いつもおなじ感度をもっていてもらいたいものだと思う。いま見ると、形がすこし崩れだしてきた。いかにも惜しい。美しい影絵は、そろそろ延びだしてきた。
四月十六日 京都にて
日本固有の美しいもののなかでも、最も美しいものは、どこか小高い場所にある、神社とか休み場所などへ行くまでの途中の道、――つまり、べつにどこのどこそこと名のある場所へ行くのではなく、行ったところでべつに大した物もない場所へ登る、そういう途中の道とか、石段など、――これがまことに美しい。
もちろん、そうした場所の特別な景趣のおもしろ味というものは、いつでもあるというわけのものではない。それは、人間の手で作ったものが、光線だの、物のかたちだの、色彩《あいろ》だの、そういう美しい「自然」の気分と、うまく合致した時の感じなのであって、雨の日などには、どこへ行ったかまるで消えてしまうといったような、ごく折にふれてのおもしろ味である。そんな気まぐれなものであるけれども、気まぐれなものだけに、いっそうまた、おもしろ味も増すというわけであろう。
こういう登り路は、たいていの場合、まず最初に石だたみの緩《ゆる》い坂道があって、見上げるような大木のならんだ、道のりにすれば、七、八丁もある並木道ではじまる。そのあいだを、石で彫った怪獣が、一丁にひとつというぐあいに、規則正しい間隔をおいて沿道を警護している。そこをしばらく行くと、やがて切り立った大きな石段のまえへ出る。うっそうと生い茂った木立のあいだにあるその石段を登りつめると、さらにこんもりした老樹に囲まれた、昼なお暗い平らな台地へ出る。そしてその先にもいくつかの石段があって、それを登って行くと、さらに上の暗い台地へ出る。こうして登り登って、登りつめると、ようやくのことで、古色蒼然たる鳥居の向こうに、目ざす御本尊があらわれるのである。がらんとした、白木造りの小さな祠《ほこら》、――これが「お宮」だ。長い長い参道の神寂びた感じ、そのあとで、物音ひとつ聞こえぬ、このしんかんとしたほの暗い高みへきて、こうして受けるこの空虚の感じは、まさにこの世ならぬ、幽邃《ゆうすい》そのものの感じである。
これは神道のばあいであるが、おなじく仏家のもので、同様の経験を求めたいものには、数知れぬ仏寺仏閣が、これを待っている。たとえば、その一例として、京都市にある東大谷の寺領を訪れることなどを挙げてもいい。大きな並木道がひとすじ、寺院の境内にずっと通じていて、その境内から、幅五十フィートもある、広い、苔《こけ》蒸した、りっぱな手すりのついた石段が、土塀をめぐらした高い台地へとみちびいている。その光景は、まるでデカメロン時代のイタリアの遊園地へでも、これから行くような気持を人に起こさせる。ところが、上の台地へ登って行ってみると、そこには門がひとつ開いているだけで、そこをはいると、中は墓地だ。ここを造った仏家の庭師は、おそらく、いっさいの栄華も、権力も、美貌も、けっきょく最後はこの寂滅にいたるものだということを、見るものに語ろうとしたのでもあろうか。
四月十九―二十日 京都にて
内国勧業博覧会を見物するのに、あらまし三日間を費してしまったが、出品物の大たいの特徴や重要性を鑑別するのに、三日という日数では、まったく駆けだしの見物であった。出品物は、主として工芸品であるが、それでもいろいろ種目の変った制作品が、いずれもすばらしい芸術の応用を加味してあるので、見て行くと、なかなか楽しいものだった。もっとも、外国の商人だとか、自分などよりもっと炯眼《けいがん》な観察眼をもった人たちは、またそれとはまったく別種の意義を、そこに見つけていた。――つまり、それは、東洋人が今日までに西欧の商工業にあたえた、最も恐るべき脅威の問題である。ロンドン・タイムズの一通信員はこう書いている。――「……英国と比較すると、すべてペニーに対してファージング(四分の一ペニー)の割合である。……英国の工業に対する日本の侵略の歴史は、朝鮮・シナに対する侵略の歴史よりも古いものだ。それは平和の征服であり、また、着々功を奏しているところの無痛|瀉血《しゃけつ》法である。……今回の京都博覧会は、日本の生産企業が、さらに一そうの大きな進歩を遂げたことの証左である。……労働者の賃銀が一週三シリング、その他の生活費も、すべてこの割合でいっている国なら、どこの国だって――ほかのことは同等だとして――すべての費用が、日本の四倍にあたる競争国をほろぼすことは、必定である」云々。なるほど、たしかに、産業における日本独特の柔術《ヽヽ》は、予想外の結果を約束している。
そういえば、こんどの博覧会の入場料なども、これまた、ひとつの重要な問題である。わずか五銭なのだ。だが、こんな零細な額でも、そうとうの巨額な収入になるらしい。それほど、入場者の数が多いのである。大ぜいの百姓たちが、毎日、この都会へ押しかけてくる。――それが、たいがい、歩いてやってくるのだ、巡礼でもするように。もっとも、何万というおびただしい数のこの連中が、こんどこうしてわざわざ京へのぼってくるのは、じつは、真宗の大本山の落慶式があるためで、正直のところ、巡礼なのである。
美術部は、一八九〇年の東京の美術展覧会に比べると、だいぶわたくしには劣っているように思われた。すぐれた作品もあるにはあるが、それはごく寥々《りょうりょう》たるものである。おそらくこれは、この国の国民が、目下金のもうかる方面にすべての精力と技術とを傾注している証拠であろう。げんに、美術が工業と手をつなぎあっている、もっと広汎な部門――たとえば、陶磁器とか、七宝、刺繍などの方面では、かつて類を見ない精巧貴重な作品が展陳されているところをみれば、そのことはうなずけよう。じっさい、そこに出品されていたいくつかの作品は、「もしシナが西洋の工業法を採用したら、きっと世界市場で日本の製品を駆逐するでしょうね」と、なかなか思慮の深いことを洩らしたわたくしの友人の感想に、一つの示唆的な解答をあたえるほど、高い価値をもったものであった。
わたくしは答えてやった。「それはね、廉価品は、あるいはそういうこともあるかもしれないね。しかし、なにも日本が品物の安いことのみに頼るなんて、そんな理由はどこにもないじゃないか。わたしなんかの考えでは、日本という国は、むしろ、技術と趣味のすぐれている点、これを足がかりにした方が無難だと思うね。一国の国民の技術的な天禀というものは、安い労力にたよった競争なんか足もとにも寄りつけない、特殊な値打をもっているものだからね。西洋諸国のなかでは、フランスがそのいい例さ。フランスの富は、隣りの国よりも、安い品をつくる能力で保《も》っているんじゃないよ。フランスの製品は、世界でも一ばん高価だよ。あの国で売り出しているものは、ぜいたく品と美術品だ。そういう品のなかで、フランスのが一ばん良い品だからこそ、あらゆる文明国に売れ渡っているのだよ。日本が極東のフランスになって、どこに悪いことがあるかね?」
美術部のなかでも最も貧弱なのは、油絵――西洋流の油絵の部である。日本人が日本独特の画法を用いて、油彩によるみごとな画を描けないという法はないはずである。けれども、目下のところ、西洋の画法にならおうというかれらの意図は、わずかに写実的な処理を要する習作においてのみ、ようやく凡作の域に達しているにすぎない。油彩による理想的な制作は、まだまだ西洋画の法則にのっとったうえでは、前途ほど遠しというところである。おそらく、将来は、この方面にも、西洋の様式を民族的|天禀《てんりん》の特殊な要求に適応させながら、美術の殿堂に入る新しい門を、日本人みずからの手で発見することができるだろうが、まだしかし今のところでは、そういう傾向の兆候さえ見えていない。
おそろしく大きな鏡のまえに立って、丸裸の自分のすがたをのぞいている、ひとりの裸婦を描いた絵が、公衆の顰蹙《ひんしゅく》を買った。全国の新聞紙は、いっせいにその画の撤回を要求し、西洋の芸術観念にたいして好もしくない意見を吐いていた。そのくせ、その絵は、日本の画家の作なのだ。取るに足らぬ駄作であったが、思い切ったもので、三千ドルという値段がついていた。
わたくしは、その画が、観衆――大多数は農民である――にどんな感じをあたえるか、それを見てやろうと思って、しばらくその画のまえに立ってみていた。観衆は、びっくりしたように目を白黒させて、その画を眺めては、大いに文句があるというように、せせら笑ったり、なにか嘲罵のことばを吐いたりしては、そのままさっさと別の掛け物――売価は十円からせいぜい三十五円ぐらいだが、もっと見ごたえのある絵の方へ、どんどん行ってしまった。画中の人物が、西洋風の髪かたちに描いてあるものだから、観衆の評言は、おもに西洋人の物の好みについて云々されていた。だれもそれを日本人の描いた画だとは思っていないようすであった。これが日本の女を描いた絵だったら、きっと観衆は、そんな画を会場へかけておくことすらも承知しなかったにちがいないと思う。
ところで、画そのものに対する公衆の侮蔑は、いかにも至当であった。その作品には、なんら理想的なものがなかった。それはただ、ひとりの裸婦が、人の見ているところでは、けっしてしたがるはずのないことをしている、姿態を描いたものにすぎない。そして、ただたんに、裸体の女を描いただけの画なら、たとえそれがどんなにじょうずに描かれていようと、芸術が元来理想精神をあらわすものであるとすれば、これは断じて芸術ではない。この絵の写実的なところ、これがそもそも非難の因《もと》なのである。理想的な裸体は、これはあくまで神聖なものであるし、超人的なものに対する人間のあらゆる夢のなかで、最もこうごうしいものであるはずである。ところが、ただ裸かにした人間では、すこしも神聖なところはない。理想的な裸体なら、一糸といえども、身にまとう必要はない。つまり、理想的な裸体の魅力は、うすもので蔽《おお》うたり、ところどころちらちら見せたりするような、そんな半端なことなどは許さない、美しい線にあるからである。生きた現実の人間のからだは、そのような神韻|縹渺《ひょうびょう》たる幾何学的な形成はもっていない。借問す、画家はその描かんとする裸体より、一切の実感と個人的な痕跡を除去することなくして、たんに裸体のための裸体を描くことを正しとするものであろうか。
仏教の格言に、個に即せずして物を観入するもの、これを賢というと、いしくも道破してある。この仏教主義者の物の見方こそ、真の日本芸術を偉大なものにするものである。
こんな考えが浮かんだ。――
神聖なる裸体、絶対美の抽象である裸体は、これを観るものに、やや悲愁をまじえた、驚愕と歓喜の感動をあたえるものである。こういう感銘をあたえる芸術作品は、めったにないものだ。つまり、完璧に近いものが、きわめて少ないからである。しかし、大理石の彫像や、宝石細工のなかには、そういうものがあるし、また、先年「芸術愛好会」が出版した版画のような、それらの作品を模写した精巧なしごともある。ああいうものは、長く見ていれば見ているほど、驚歎の心持がますます深くなってくる。一本の線、あるいは、そういう線の一部分でも、その美しさはあらゆる記憶を超絶していないものはない。したがって、このような芸術の秘|鑰《やく》は、むかしから超自然なものと考えられていた。しんじつまた、そういう芸術のあたえる美の観念は、人間以上のものである。――つまり、現実の人生の外にあるものという意味で、それは超人間なものであり、また、人間に知覚できる感覚の及ぶ範囲内で、それは超自然なものなのである。
それがあたえる感動とは、いったい、どんなものであろうか。
それは初恋の精神的感動にふしぎにも似たものであり、また、たしかにそれに縁のあるものである。プラトンは、美の感動を、霊魂が神来の想念の世界をば卒然として半ば思いおこすことだと説いている。「現世において来世にあるものの姿、あるいは、それに類するものを見るものは、雷撃のごとき衝撃をうけ、それによって打ちすえられるのである」と。また、ショーペンハウエルは、初恋の感動を人類の魂の意志力だと説いている。現代においては、スペンサーの実証心理学が、人間の感情のなかで最も強烈なものは、その最初にあらわれる時に、いっさいの個人的経験に絶対に先立つものだと断定している。このように、古今の思想は、哲学にしても、科学にしても、人間美から個人が最初に受ける深い感動が、けっして個人的なものではないことを認めている点で、いずれも一致している。
すぐれた芸術のあたえる感動についても、これとおなじ事実が適用されても、いっこうにさしつかえないではないか? このような芸術に表現された人間の理想は、かならず、それを見るものの感情生活のなかに祭りこまれている、全人類のあらゆる「過去」の経験、――つまり、百千万の数えきれぬ祖先から、受け継ぎ承《う》けつたえられた何物かに訴えるものである。
まったくもって数えきれぬものだ!
一世紀に三世代の割として、血族結婚がなかったとすれば、今日のフランス人は、その一人一人が、いずれも紀元一千年代の二百万人の血を血管のなかにもっていると、あるフランスの数学者は計算している。これを西暦の紀元元年から通算すると、今日の一人の人間の先祖は一八、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇という総数になる。しかも、二十世紀なんてものは、人類生存の年限からいったら、ほんの須臾《しゅゆ》のあいだだ。
そこで美の感情であるが、これもまた、人間のあらゆる感情とおなじことで、無量無尽の過去における、無量無尽の経験を受け継ぎ受けつたえた産物にほかならない。いかなる美的感情にも、そこには、人間の脳髄の摩訶不思議な土のなかに埋もれた、百千万億の数えきれない妖怪玄妙な記憶のさざなみが動いている。ところで、人間はたれでも、めいめいが自分のうちに、かつて目に美しく映じた物の形、色、趣きなどの、いまは消えてしまった知覚が、無量無尽に寄りあつまって成り立っている美の理想というものを、それぞれに持っている。この美的理想というものは、その本質においては潜在的な、ひそかにじっと静止しているものであって、想像のような内的なもののまえでは、好き勝手にこれを喚びさますことはできないけれども、漠然とそれに似かよった、生きている外界の感じを知覚すると、たちまち電気のようにぱっと火がつくのである。そのとき、例のあやしい悲しいようなうれしいような身ぶるいを、ぶるぶるっと感じるのである。そして、この身ぶるいこそは、生命の流れと時の流れとが、一時にどっと逆流するために、それに伴って起る現象なのであって、そこに百千万年、百千万億年を閲《けみ》した感動が、一瞬の感激となって総括されるわけだ。
ところで、民族精神から美の民族的理想を引きはなして、その揺曳《ようえい》する輪郭を、宝石や石に定着させるという奇蹟を行なうことのできたのは、ギリシャ人だけであった。ギリシャ人というのは、あれは単一文明から生まれた芸術家たちである。かれらは裸体を神聖なものとした。しかも、かれらは自分たちがそう感じたばかりでなく、自分たちが感じたとおりの神聖さを、われわれにもそのまま今でも感じさせる。ギリシャ人がそういう作品を作ることができたのは、エマースンも言っているように、おそらく、かれらがあらゆる点で、申分のない感覚を持っていたからであろう。べつにギリシャ人が、自分たちの彫刻みたいに美しかったというわけではあるまい。あんなに美しい男や女というものは、あるわけがない。ただ、こういうことだけは断言できる。――つまり、ギリシャ人はいまは消え滅びてしまったあえかなる美の、幾百千万とも数えきれない記憶から成り立っているかれらの理想を、目や、まぶたや、首や、頬や、口や、あごや、胴や、手足のなかに見分けて、そして、それをはっきりと定着づけたのである。
であるから、ギリシャ彫刻は、絶対の個性というものは存在しないということ、言いかえれば、肉体が細胞から成り立っているように、精神もやはり合成されたものであるという証拠を、おのずから提供しているわけである。
四月二十一日 京都にて
全国における宗教的建築の最高の典型が、このほど落成した。これで、この寺院の都は、古来一千有余年のあいだにあった古寺巨刹をしのぐ、二つの大きな建物を加えたことになる。その一つは、政府の造営にかかるものであり、他の一つは、一般庶民が寄進したものである。
政府が造営したのは大極殿。――これは、この聖都をはじめて開かれたもうた、人皇五十一代桓武天皇の大祭を記念するために建てられたものである。大極殿は、この天皇の御遺霊にささげまつられたもので、建物は神道の社殿であるが、あらゆる神道の社殿のうちでも、最も壮麗をきわめたものだ。もっとも、建築の様式は神社建築ではなくして、桓武天皇時代のむかしの御所をそのまま摸したものである。在来の神社様式を脱したこの大建築が、国民の感情におよぼす影響、また、それを思い立った畏敬の念の深い詩情は、日本がいまなお祖先の霊によって支配されていることを知っているものでなくては、じゅうぶんに理解することはできない。大極殿の建築は、ただこれを美しいなどと言い去ってしまえる程度のものではない。日本の都会のうちで、最も古い歴史をもつこの京都でさえ、この建物は、人の目を驚かす。弓張り形に反りをうった屋根の線、往時の夢ものがたりをその線のうちに、この建物は、まざまざと蒼穹《そうきゅう》にむかって物語っている。ことに、並はずれて奇抜な点は、二階づくりの五つの塔のある門である。いってみれば、宛然《えんぜん》、これは中国の奇想そのものである。色彩や構造の点でも、その様式におとらず、奇抜な点が人の目をひく。――とりわけ、色とりどりな屋根瓦に、緑いろの古代瓦を巧みに用いたところはおもしろい。かならずやこれなら、桓武天皇の御英霊も、建築の妖術によって、過去がこのように楽しく再現されていることを、御喜色うるわしく見そなわされたことであろう。
けれども、一方、一般国民が京都市へ献納したものは、これよりもさらにまた壮大なものである。宏壮にして豪華な東本願寺(真宗)がそれだ。この建物は、その造営に八百万ドルの莫大な費用と、十七年の星霜を費したということで、西洋の読者諸君にもそのおおよそはうかがい知れるだろう。たんに大きいという点だけでも、他の日本の安普請の建造物をはるかに凌駕《りょうが》しているが、日本の寺院建築に通暁しているものがこれを見れば、高さ百二十八フィート、奥行百九十二フィート、長さ二百有余フィートの大伽藍を建てることが、いかに至難なわざであるかということが、一見してわかるだろう。その特殊な様式、ことに、長い、大きな裾を引いたような屋根の線のために、この本願寺は、実際よりもはるかに大きく――山のごとくに見える。もっとも、この建物は、どこの国へ持って行っても、めずらしい建築物と見なされるにちがいない。資材としては、長さ四十二フィート、径四フィートという巨材が使ってあるし、周囲九フィートもある円柱が何本もある。内部の装飾の特質については、正面、大|須弥壇《しゅみだん》のうしろの襖《ふすま》の蓮の花を描くだけに、一万ドルを要したというだけでも、その一斑を想像することができよう。しかも、こうした驚くべき大造営が、ほとんどすべて、額に汗して働いている農民の手によって、零細な銅貨で寄附された金ででき上がったのである。それでも、げんに仏教は衰滅しつつあると考える連中があるとは!
十余万の農民が、この大落慶式を見物にやってきた。広い寺院の庭に、幾町歩というほど敷きつめた莚《むしろ》のうえに、かれらは幾万という群れをなして坐っていた。わたくしは、きょう、午後の三時に、こうして待っている連中を見た。庭は生動する海そのものであった。しかも、雲霞《うんか》のごときこの群集は、儀式のはじまる午後の七時まで、飲まず食わずで、あつい日の直射するところで待っていなければならないのである。庭の片隅の方に、白衣に白帽をかぶった二十人ばかりの若い婦人の一隊がいるのを、わたくしは見た。あれはどういう人たちなのかと聞いてみると、そばにいた人が答えてくれた。――「なんせ、この大ぜいの人間が、何時間も待っておらんならんさかい、なかには病人かてでけますがな。それで、看護婦が病人の手当をするために、ああして詰めておりまんのやがな。担架もありますしな、運搬人夫もおれば、お医者はんも大ぜいはんいやはりますで」
この辛抱と信心、これには、わたくしも舌を巻いた。が、こうした善男善女が、この豪壮な寺院を、このようにだいじにおもうのは、しごく当然なことである。それは、実際において、かれら自身が造り上げたものなのだから。――直接にも、間接にも。というのは、この建物を建てるために働いた仕事の、どんなささいな部分も、すべてそれは仏の慈悲のためになされたものなのであって、とりわけ大きな棟木などは、遠い国々の山の中腹からこの京都まで、信者の妻や娘の髪の毛でつくった綱で曳いてきたものなのである。その綱の一つが、いまこの寺に保存されているが、なんと、長さ三百六十余フィート、直径約三インチもある。
国民の信仰心の、この二つの大きな記念物から、わたくしは、次のような教訓をえた。つまり、国家の繁栄が増大するのに比例して、その国の宗教的感情の倫理的勢力と価値とは、未来に向かって、いよいよ増進するという暗示を、わたくしはそこから得たのである。一時的な国民の窮乏は、仏教の一時的衰頽の事実上の説明になる。しかし、今日の日本は、一つの大きな富の時代がはじまりかけてきている。仏教におけるある種の外面的な形式は、これは廃滅するにちがいない。また、神道におけるある種の迷信も、これも自滅するにちがいない。しかし、生きている核心の真理と、それを認める精神とは、これはいよいよ広まり、強力になり、国民の心に、いままでよりも一そう深い根ざしをもち、今後、日本の国民が足を踏み入れようとする、さらに大きな、さらに至難な生活の試煉に対して、有力な備えをあたえるであろう。
四月二十三日 神戸にて
きょうは、兵庫の海岸に近い庭園で開催されている、魚介その他の水産物の展覧会を見物してきた。場所の名まえは「和楽園」という。「平和の楽しみの庭」という意味である。むかしふうの見晴らしの庭みたいにできたところで、いかにもその名にふさわしいところだ。庭園のはしからは広い湾が見え、小舟にのった漁師や、日に輝きながら沖をすべってゆく白帆の影や、そのはるかかなたには、屏風のように水平線をかぎりながら、紫いろにうす霞む山々の秀《ほ》が、美しく空にぬきんでているのが見える。
澄明な海の水をたたえた、おもしろい形をした池がいくつもあって、そこに色とりどりの美しい魚がおよいでいた。わたくしは水族館へもはいってみた。そこには、風変りな魚類が、ガラスの向こうにおよいでいた。――紙鳶《たこ》のような形をしたの、刀のようなかっこうをしたの、裏返しになったようなの、袖のような鰭《ひれ》をひらひら動かしながら、舞妓のようにおよいでいる、揚げ羽色のきれいなおもしろい魚などがいた。
小舟、網、釣針、浮子《うき》、夜間魚をとるために用いるいさり火など、いろいろの様式を模型にしたものも、わたくしは見た。さまざまの種類の魚撈《ぎょろう》の絵図や、捕鯨の模型や絵図も見た。ひとつの絵は、ものすごい絵だった。――巨きな網にかかった一頭の鯨の断末魔の苦しみ、血の泡の逆巻くなかで躍り上がっている幾そうかの小舟、ひとりの裸の男が山のような鯨の背にのり、――その姿だけが、ぐっと空にぬきん出ている――そして、大きな魚扠《もり》をさっと打ちこんだひょうしに、血しぶきが噴水のように噴き上がっている図である。……わたくしのそばにいた日本人の夫婦ものが、子どもにしきりとその絵を説明してやっていた。母親がいっていた。――
「鯨もな、もうこれで死ぬというときには、なむあみだぶついうて、仏はんにおすがりするのやで」
それからわたくしは、またべつの方へ行ってみた。そこには、人によくなれた鹿だの、檻にかわれた|ひぐま《ヽヽヽ》だの、金網の鳥小屋に入れた孔雀だの、手長猿などがいた。人々は鹿に餌をやったり、ひぐまに菓子をやったり、猿をいじめからかったりしていた。わたくしが鳥小屋のそばの茶店の縁に休んでいると、さっき鯨捕りの絵を見ていた人たちも、おなじくそこの縁へやってきた。そのうちに、子どもがこんなことをいっているのが聞こえた。――
「なあ、父やん、えらいお爺やんの漁師がお舟にのっとるね。あのお爺やん、なんで浦島みたいに竜宮へ行かんの?」
すると、父親が答えた。「浦島はな、ほら、亀をつかまえたやろ。ところが、つかまえたその亀はな、ありゃほんの亀ではのうて、竜宮の乙姫はんだったのや。そやさかい、浦島はんは、自分が親切にしてやった御褒美をもろうたわけや。あのお爺やんの漁師は、亀なんかつかまえへんがな。捕まえたところで、あんなお爺やん、お婿はんになれへんでな。そやさかい、竜宮へは行かんのやがな」
やがて子どもは、花を見たり、噴水を眺めたり、白帆のうごいている日に輝いた海だの、その海の向こうに紫いろに打ち霞む山などを眺めていたが、なにを思ったか、大きな声で、「父やん、父やんは、世界じゅうに、ここよりもっときれいなところあると思う?」
父親がにこにこ笑って、それになにか答えようとして、まだことばをいわないうちに、子どもはいきなり「やあ!」といって躍り上がり、手を打って喜んだ。孔雀が、ふいにその時、みごとな尾をひろげたのである。みんな、鳥小屋の方へ駆けあつまった。そんなわけで、わたくしは、とうとうその子の可憐な問に対する解答を聞かずにしまった。
しかし、あとになって、わたくしはこんなふうに答えてやってもよかったと思った。
「坊や、ここも景色はなかなか美しいがね、しかし、世界には、もっとうつくしいところがたくさんあるんだよ。ここよりも、もっと美しいお庭がいくらもあるよ。
でもね、一ばん美しいお庭は、この世にはないんだよ。それはね、阿弥陀さまのお庭といって、西方浄土、極楽にあるお庭さ。そのお庭へはね、この世で生きているうちに、悪いことをしなかったものはだれでも、死んでからそこへ行って住めるお庭なんだよ。
そのお庭には、極楽鳥といって、神さまの孔雀がいてね、それがお天道さまみたいに尾をひろげて、七階五力の歌をうたっているんだよ。
それからまた、七宝の池というお池があってね、そのお池のなかには、えも言われないきれいな蓮の花が咲いていて、そのお花からは、しじゅう虹の光りがさして、新しく生まれかわった仏さまのお精霊《しょうりょう》が昇っていらっしゃるのさ。
その池のお水は、蓮の花のあいだを流れながら、花のなかにお宿りになっているお精霊たちに、つきせぬ思い出、つきせぬまぼろし、つきせぬ四つの思いについて、お話をしてくれるんだよ。
極楽では、仏さまと人間の区別はないのさ。阿弥陀さまのお光りのまえでは、仏さまだって、お辞儀をなさって、みんなして、『おお、なんじ、無量寿光の仏よ』という文句で始まる、お褒めの歌をお歌いになるんだよ。
ところが、そうやっていらっしゃると、天上の河の声は、幾千人の人たちがお和讃を歌っているような声で、ひっきりなしに歌っておいでなさるのさ。――『いまだこれ高しとせず。さらに高きものあり、これ実にあらず。これ安穏にあらず』といってね」
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あみだ寺の比丘尼《びくに》
おとよの夫は、おとよの|またいとこ《ヽヽヽヽヽ》で、たがいに思い思われた仲で婿にきた男である。その夫が、領主に呼ばれて京へのぼったとき、おとよは、ことさらさきざきのことなど案じもしなかった。おとよは、ただ心ぼそいと思った。が、両親もそばにいることだったし、それに、このことは自分ではおくびにも出さなかったが、おとよには、生みの親よりもはるかに愛着のふかい、ちいさなせがれがあったのである。のみならず、おとよは、ふだん自分のする用がたくさんあるからだだった。いろいろ家の切りもりにも当らなければならなかったし、絹や木綿の機《はた》を織る仕事も、いっぱいある身だった。
おとよは、日にいちどずつ、いつもきまった時刻に、留守の夫のために、夫がふだん寝起きしていたなじみのふかい部屋へ、きれいな塗りもの膳に手落ちなくととのえた、蔭膳《かげぜん》をすえた。蔭膳というのは、先祖代々の霊や神棚にそなえる、お供え膳のまねごとのようなものである。このかげ膳は、いつもかならず、座敷の東がわに供えられた。そして膳のまえには、型のように、夫の敷きなれた座ぶとんが敷かれた。膳を東向きにするのは、夫が東の方へ旅立ったからである。おとよは、膳のものを下げるまえに、いつも忘れずに、ちいさな汁椀のふたをとって、そのふたの内がわに湯気がたまっているかどうかをあらためてみた。供えた汁椀のふたの内がわに湯気がたまっていれば、旅に出ている人は無事息災だというのである。湯気がたまっていないと、その人は死んでいるのである。つまりそれは、その人のたましいが食べものを求めに帰ってきたというしるしなのである。おとよは、来る日も来る日も、椀のふたに、湯気のしずくが大きな玉になってたまっているのを見た。
子どもは、おとよが常住のよろこびであった。まだやっと三つであったが、この子は、よく神さまでなければほんとの答えは御存知ないようなことばかり、好んで聞きたがった。子どもが遊びたいといえば、おとよはいつもしかけた仕事の手をおいて、いっしょに相手になって遊んでやった。子どもが眠くなると、おとよは、きまっておもしろい話をして聞かせたり、余人にはとてもわからないようなことを尋ねる子どもの問いに、いちいちこくめいに答えてやったりした。夕方になると、仏壇や神だなに、ちいさなお灯明があがる。すると、おとよは、片言まじりに、子どもに父親の無事を祈ることを教えてやるのである。そんなことをしているうちに、やがて、子どもが床に寝つく。すると、おとよは枕もとへ仕事をもってきて、がんぜない子どもの寝顔を、いつまでも、いつまでも、見まもって飽きないのである。どうかすると、眠っている子どもが、夢のなかでにっこり笑ったりすることがある。それを見ると、おとよは、これはきっと観音さまが夢のなかで、坊やといっしょに遊んでいらっしゃるのだとこころえて、「世上一切の祈願の音声《おんじょう》を常住に観じ給う」あの処女菩薩にむかって、さっそく口のなかでお経の文句をとなえるのだった。
春になって、毎日、打ち晴れた天気がつづくようになると、おとよは、よく子どもを負ぶっては、ダケヤマ(嵩山)へ登った。こういう遊山を、子どもは大へんよろこんだ。あれは何、これは何と、母親からおもしろい物を見せてもらえるほかに、いろいろのおもしろい物語を聞かしてもらうことができたからである。爪先あがりの細い径《こみち》が、藪や森のなかをぬけて、だらだらとのぼって行く。ときには、草の生えた斜面をとおったり、そうかと思うと、おもしろい形をした岩の根かたを回ってゆくこともある。そうして、そこにはさまざまの物語を|しべ《ヽヽ》の奥にひそめた花だの、木精《こだま》を宿した大きな木だのがあった。山鳩がクルー、クルーと鳴いているかとおもうと、土鳩がオワォ、オワォと悲しそうな声で鳴いていたり、蝉が、ミンミン、ジージー、カナカナ鳴いていたりした。
このへんの人は、だれでもみな、だいじな人の留守を待ちわびるものは、行かれさえすれば、このダケヤマという山へお詣りに登るのである。ダケヤマは、この松江の町のどこからでも見ることができる。山のてっぺんへ登ると、いくつかの国が一望のうちに眺められる。いちばん頂上のところには、人がたをした、高さも大たい人間の背の高さほどある、大きな石が一つ、空に向かって、まっ直ぐにそびえ立っていて、石のまえとうしろには、小さな小石がうずたかく積んである。そのかたわらには、遠い神代のある姫宮の御霊《みたま》をまつった、ささやかな社が建っている。この姫宮は、恋しい人のるすを歎き悲しんで、この山の上からいつもその人の帰るのを眺め暮らして、とうとう恋い焦《こが》れたはてに石に化したのである。そこで、ところの人たちが、ここに一宇《いちう》の社を建てて、いまでも国や家をるすにしている人の身の上を案じ慕うものは、ここにきて、思う人の一日も早く帰らんことを祈り念ずるのである。そして、参詣したものは、めいめい、そこに積んである小石をひとつとって、家に持って帰る。そうして、愛する人が無事に帰ってきたときには、さきに持って帰った小石のほかに、お礼と記念のために、さらにべつの小石をいくつかそれに添えて、この山上の小石の山の上にお返しすることになっているのである。
こうした参詣の日に、おとよと子どもが家に帰りつくのは、いつもたいてい、夕闇がしずかにあたりに立ちこめるころであった。道のりもかなりあったし、それに往きもかえりも、町をかこむ渺々とした水田を小舟で渡らなければならなかったので、ずいぶんお練りの道中であった。そんなわけで、どうかすると帰りみちには、星かげや螢火がふたりを照らすこともあったし、ときには月さえのぼることがあったりした。そんなとき、おとよはいつもしずかな声で、お月さまを歌った出雲の国のわらべ歌を、子どもにうたって聞かせるのだった。
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ののさん(あるいは、お月さん)いくつ
十三 ここのつ
それはまだ 若いよ
わかいも 道理
赤いいろの 帯と
白いいろの 帯と
腰にしゃんと 結んで
馬にやる いやいや
牛にやる いやいや
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すると、あたりがとっぷりと水いろの夜に暮れきるまで、幾里も幾里もはてしなくつづく、いちめんの水田から、しずかに泡立つような蛙の合唱がわきおこってくる。まるでそれは、大地の底からわきおこるような一大合唱であった。おとよは、蛙のことばを、いつも子どもに言ってきかせるのだった。――「ほらね、メカユイ、メカユイ。――目がかゆいよ、ねむくなったよって、蛙が鳴いてるだろ」
そうして、こうしているうちは、なにもかもがほんとに楽しい時であった。
やがて、そうこうしているうちに、わずか三日のあいだに、永遠の神秘に属する生と死とをつかさどる神の摂理が、つづけざまに二どまでも、おとよの心を打ちのめしたのである。まず最初に、おとよは、自分があんなにいくどとなく無事を祈ったやさしい夫が、とうとう不帰の客となった――この世の借りものである一切の形骸から、もとの塵《ちり》にかえってしまったことを知らされたのである。それからまもない二どめの時には、おとよは、自分の子どもが、漢方医の手でも醒ますことのできない、深い眠りについたことを知らされたのである。おとよがこれらの出来事をさとったのは、一閃、キラリとひらめく稲妻のひかりのなかで、物の形をパッとさとったのとおなじであった。そして、この二つの稲妻の閃きと閃きのあいだも、それからそのさきも、ともにいっさいは神の慈悲なる絶対無明の闇であった。
やがて、その闇もいつとなしに去ってしまうと、ようやくのことで起き上がったおとよは、こんどは、「おもいで」という百年の仇敵に行きあった。この仇敵以外のもののまえでは、おとよは、あいかわらず以前とおなじように、いつもにこやかな、愛くるしい顔をしていられたのである。けれども、この「おもいで」という客と差し向かいになると、おとよは、つくづく自分の無力を感じた。おとよは、よく畳の上に小さなおもちゃを並べてみたり、小さな着物をひろげてみたりして、じっとそれを打ち眺めては、小声でなにか話しかけたり、物も言わずにひとりでにたにた笑ったりした。けれども、その微笑は、いつもかならずその果ては、激しいむせび泣きにおわるのが常だった。そうして、畳にあたまをすりつけては、たわいもない問いを神仏にかけるのが癖のようになった。
ある日のこと、おとよは、あるあやしい慰めのあることに思いついた。それは、人がよく「とりっぱなし」といっている、死んだもののたましいを呼びもどすことであった。ほんの一分でもいいから、坊やを呼びもどすことはできないだろうか? それは、坊やのたましいを苦しめることになるかもしれないが、なに、だいじな母親のためなら、ほんのわずかのあいだの苦しみぐらいは、喜んで辛抱してくれないことはあるまい。それぐらいのことは、あたりまえのことだ!
〔死者を呼びもどすためには、まず死霊を呼びだす呪文をこころえている僧侶か、行者のところへ行かなくてはならない。そして、その人のところへ、死んだ人の位牌を持って行くのである。
そうすると、そこで斎戒《さいかい》の式がおこなわれ、位牌のまえに灯明をあげて香を焚き、祈祷《きとう》を捧げるか、経文をよむかして、花や米を供物にあげる。ただし、このときの米は生米でないといけない。
さて、用意万端ととのうと、祭主は、左手にひとはりの弓の形をしたものを持ち、右手で|くじ《ヽヽ》を切りながら、死んだものの名を呼ぶのである。そのうちに「来たぞよ! 来たぞよ! 来たぞよ!」と大きな声でどなりだす。そしてどなっているうちに、だんだん行者の声が変ってきて、しまいに、とうとう死んだものの声とおなじ声になる。つまり、たましいがその人にのりうつったのである。
そのときに、死んだものは、早口に尋ねられるいろいろの問いに、いちいち答えるわけだが、そのあいだも、「急いでたもれ、急いでたもれ、この世へ帰るは辛いぞや。とても長居はでき申さぬ!」というようなことを叫びつづける。やがて、問答がおわると、たましいが離れる。行者は気が遠くなって、ばたりとそこへうつ伏してしまう。
ともあれ、死んだものをこの世へ呼びもどすのは、あまりいいことではない。なぜかというに、この世へ呼びもどされると、その死人の身分が落ちるのである。冥土へかえると、その死人は、前にいたところよりも低いところへ、場所がえをしなければならないのである。
今日では、こうした儀式は法律で禁じられている。むかしは、こうしたことが、一時の気休めになったものなのである。しかし、この禁制は良い掟《おきて》だし、はなはだ当をえた掟だ。――多くの人のなかには、人間の心のなかにある神性を侮蔑しようとするものもあるから。〕
そういうわけで、おとよは、ある晩のこと、ついふらふらと家を抜け出ると、町はずれにある寂しい小さなお寺へ出かけて行き、死んだ子どもの位牌のまえに額《ぬか》ずいて、口寄せの呪文を聞いたのである。やがて、行者のくちびるから、聞きおぼえのある声がでてきた。その声は、おとよがなにものにもまして愛着している声であったが、なにぶんにも風の泣く声のような、かすかな、ほそい声であった。
そのほそい声が、やがて、おとよに呼びかけるのである。
「かかさまや、聞くなら早う、早う聞いてくだされや。冥途《よみじ》は暗し、道は遠し。ぐずぐずしてはおられませぬ」
そこで、おとよはおろおろ震えながら尋ねた。
「わたしはねえ、どうしてこう自分の子のために、悲しい思いをしなければならないのでしょう? 神や仏は、いっそお見通しではないのでしょうか?」
すると、答えがあった。――
「かかさまや、坊のことを、そのように歎いてくだされなや。坊が死んだのは、かかさまが死なないためじゃ。ことしは年まわりが悪うて、病いのはやる悲しい年じゃ。かかさまが死ぬ罪障になっていることがわかったゆえ、坊が願をかけて、かかさまの身がわりに死んだのじゃ。
かかさまや、坊のことを、そのように泣いてくだされなや。死んだものを歎くのは、仏にとって無慈悲なこと。あの世へ行くには、涙の川を渡りゃにゃならぬ。かかさまがたが泣きやると、涙の川の水嵩《みかさ》が増し、亡者はそこを渡れずに、あっちい行っちゃ、うーろうろ、こっちい行っちゃ、うーろうろ、うろうろ迷わにゃなりませぬ。
されば、かかさま、お願いじゃ。迷わず歎かずいてたもれ、願わくば、ただおりおりに、回向の水を手向けて給《た》も――」
その時以来、おとよが泣いているすがたは、ふっつりと見られなくなった。従前どおり、おとよはかいがいしく、黙々として、おとなしく、娘として孝養をつくしだしたのである。
こうして、春は去り秋は来たり、いくどかの季節が去っては来たりして、やがておとよの父親は、娘にもういちど婿を迎えてやろうと思い立った。そして、母親にいった。
「うちの娘にも、あれでもういちどせがれでもできたら、あれにとっても大きな喜び、わしらにとっても大喜びだがのう」
ところが、物のわかった母親は、それに答えていった。――
「あの娘《こ》は、けっこうあれでしあわせでいますよ。再縁するなんて、とてもあの娘には思いもよりません。この節じゃ、すっかりもう、苦労も罪もなんにも知らない、ほんのねんねえになってしまいましたもの」
おとよが、真の心の痛みを覚えぬようになったことは、事実だった。ところが、だいぶ前からおとよは、どんな品にかぎらず、きわめて小さなものに、ふしぎな嗜好《しこう》を見せはじめていた。最初はまず、自分のふだん寝起きする蒲団が、どうもこれでは大きすぎると言いだしたのである。おそらくこれは、添い寝する子を亡くしたあとの、空虚な感じからいうのであったろうが、そのうちに、だんだん日がたつにつれて、ほかの品でも、何によらず大きすぎるように思われてきだしたのである。げんに、住んでいる家からしてがそれで、長年住みなれた座敷やら、見なれた床の間やら、床の間にある大きな花瓶やら、――しまいには、日常つかう膳椀のような什器《じゅうき》までが、大きすぎるように思われてきた。飯をたべるにも、おとよは子どもの用いるような、ごくちいぽけな椀から、お雛さまのような箸で食べたがった。
こうしたことにも、おとよは、家では親たちから慈愛ふかく、なにごとも気まかせにされていた。そうして、ほかのことにはかくべつ変った選《え》り好みはなかったのである、そんなわけで、年とった親たちは、暇さえあれば、しじゅう娘のことで、折につけては談合した。とうとうしまいに、父親がこんなことを言いだした。
「うちのおとよも、あの分じゃ、いまさら見ず知らずの赤の他人といっしょに暮らすのも辛かろう。といって、わたしたちももう寄る年なみだ。おっつけ、あれを跡にのこしてゆくことは知れている。まあ、あれひとりで身すぎとでもいうことになれば、まず尼さんにでもするよりほかに、道はあるまいぞ。どうだな、ひとつあれのために、小さな堂でも建ててやることにしては」
そのあくる日、母親は、おとよに尋ねてみた。――
「おまえね、尼さんになるのは、おいやかい? 尼さんになって、小さな須弥壇《しゅみだん》だの、小さな御本尊さまをおそなえしてさ、ごくもうちんまりとしたお堂で、おまえ、暮らす気はないかい? お父っあんやおっ母さんも、しじゅうそばにいてあげるんだよ。おまえがもしその気がおありなら、お坊さんにお願いして、おまえにお経をおしえていただくようにするけどねえ」
おとよは、それを希望した。そして、ごく小さな尼の法衣《ころも》を一枚こしらえてくれ、といって頼んだ。けれども、母親はいった。――
「そりゃおまえ、ほかの物なら、なんでも小さくしてこしらえて上げられるけれど、法衣だけはだめだよ。尼さんというものはね、大きな法衣を着なければいけないものなんだよ。お釈迦さまが、そうおきめになったんだからね」
そういわれて、おとよはようやくのことで、よその尼さんたちとおなじ法衣を着ることを承知したのである。
やがて、両親はおとよのために、むかしあみだ寺という大きな寺のあった境内に、一宇の小さな庵寺を建立《こんりゅう》した。そして、この庵寺も、おなじようにあみだ寺と呼び、名のごとく、あみだ如来を本尊に安置し、ほかの諸仏も勧進した。堂には、ごく小さな須弥壇に、おもちゃのような仏具をそなえた。ちいさな経机に、小さな経本、小さな衝立《ついたて》、ちいさな鐘、小さな掛け物などが、そこに並べられた。そして、おとよは、両親のみまかったのちも、この庵寺でながく暮らした。ところの人たちは、おとよのことを、あみだ寺の比丘尼と呼んだ。
寺の門をちょっと出たところに、一体の地蔵尊があった。この地蔵尊はとくべつな地蔵尊で、病気の子どもの友だちだった。お地蔵さまのまえには、ほとんど時きらずに、小さな餅が供えてある。これは、どこかの病気の子どもが願をかけているしるしであって、供える餅の数で、その子の年齢がわかるのである。餅のかずは、たいてい、二つか、三つで、たまに、どうかすると、七つから十ぐらい上げてあることもある。あみだ寺の比丘尼は、この地蔵さまの世話もして、線香を上げたり、寺の庭から花を切ってきて供えたりした。庵寺のうらには、小さな花畑があったのである。
おとよは、まいにち、朝の托鉢《たくはつ》をすませてしまうと、小さな機台のまえに坐るのがならわしであった。けれども、おとよの織る手織りの布は、とても満足な用には立たないような、織り幅の狭いものであった。それでも、おとよが織った手織り地は、彼女の身の上を知っている幾軒かの商店主が、きまって買いとって行った。そういう商店主たちは、おとよに、ごくちいさな茶わんだの、小さな花瓶だの、庭におく枝ぶりの変った盆栽などを贈りものにした。
このおとよが、一ばん大きな楽しみにしていたことは、子どもたちと仲よしになることだった。それには、おとよはいつも事欠かなかった。いったい、日本の子どもの生活というものは、たいていはお寺の境内で過ごされるもので、このあみだ寺の境内でも、ずいぶん多くのたのしい幼少年時代が過ごされたものである。おなじ町内の母親たちは、みんなこの寺の境内で、自分たちの子どもを遊ばせることを好んだ。そのかわり、比丘尼さんのことをけっして馬鹿にしてはいけないよと、子どもたちにくれぐれもよく注意してやった。母親たちは、よく言い言いした。「どうかするとね、妙なまねをなさるようなことがあるかもしれないけれど、それはまえにいちど、あの比丘尼さんは、ご自分にかわいい坊ちゃんがおありになったのを、お亡くしになったもんだから、その辛さが、お母さんとして胸いっぱいにおありになるんだからね。だから、おまえたちも、比丘尼さんには、ようくおとなしくして、失礼のないようにしなくちゃいけないよ」
子どもたちは、みなおとなしかったけれども、相手を敬《うやま》うという意味では、あんまり礼を欠かない方だとはいえなかった。固苦しい行儀を守るよりも、子どもたちは、万事よろしきようにやることをこころえていた。それでもかんしんに、おとよのことを「比丘尼さん、比丘尼さん」と呼んでは、ていねいにお辞儀だけはするのだが、それはその時こっきりで、そうでないときは、自分たちとおなじ仲間並みにあつかった。そして、いっしょに仲間に入れては、いろんな遊びをするのだったが、おとよの方では、子どもたちに小さな茶わんでお茶を出したり、豆粒ぐらいな餅を山とこしらえてやったり、そうかと思うと、子どもたちの人形の着物に、木綿や絹の布地を、わざわざ織ってやったりした。そんなわけで、おとよは子どもたちにとって、肉親の姉のようになった。
ところで、そうやって毎日のように、おとよといっしょに遊んでいた子どもたちも、いつのまにか、おとよと昔のように遊ぶには、もうすっかり成人した大人になってしまい、あみだ寺の境内を去って、それぞれ世の中の辛い仕事にたずさわるようになり、やがて父となり母となって、こんどは自分たちの子どもを代りに遊びによこすようになった。そして、そういう子どもたちも、親たちがしたとおなじように、みんな比丘尼さんのことを好くようになった。こんなふうにして、あみだ寺の比丘尼は、このお寺が建てられた時分のことをおぼえている人たちの、子どもや、孫や、曾孫《ひいまご》たちといっしょに遊ぶまで、長生きをしたのである。
近所の人たちも、おとよが不自由な思いをしないようにと、なにかにつけてよく目をかけてくれた。そんなわけで、おとよのところには、いつでもおとよが自分ひとりで事足りる以上の、余分な喜捨があった。したがって、おとよはそれらの子どもたちに、なんとか思うままの親切をつくしてやることができたし、犬・猫のような動物などにも、ありあまるほどの餌をやることができた。小鳥たちは、お堂のなかに巣をつくって、おとよの手から餌をついばんだ。おとよは、そういう小鳥たちに、仏さまの頭などに止まってはいけませんよ、といって教えた。
おとよの葬式がすんでから、幾日かたったのちのことである。ある日、わたくしの家へ大ぜいの子どもたちが、打ちそろって訪ねてきた。九つばかりの女の子が、みんなに代って、つぎのように述べた。
「おじさん、わたいたち、お亡くなりになった比丘尼さんのことで、お願いがあってきたんやで。比丘尼さんのお墓に、大へん大きなお石塔がたったの。とてもりっぱなお墓やわ。でも、わたいたちも、みんなして、ごく小さな小さなお墓をひとつ立ててあげたいと思うんです。比丘尼さんがまだ生きてござった時分に、お墓ならごく小さなお墓が好きやて、よくいうてござったでね。で、石屋さんに聞いたら、お金さえ出せばこしらえたる、いいのをこしらえたる、いうんです。そげすて、おじさん、おじさんもいくらか出してごすなさいな」
「ああ、出しますとも」とわたくしは言った。「でも、あんたがた、これから、遊ぶところがなくなってしまったでしょう」
すると、女の子は、にこにこ笑いながら、答えた。
「いいえ、わたいたち、やっぱりあみだ寺の御境内で遊ぶわ。比丘尼さんは、あすこに埋められてござるでね。きっと、わたくしたちの遊んでいるのを聞いて、喜んでごしなさるわ」
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戦後
一八九五年五月五日 兵庫にて
けさの兵庫の町は、澄みわたった、言い知れぬ麗《うら》らかな陽光のうちにひたっている。霞たなびく春のひかりは、それを透かして見える遠くの景に、蜃気楼のようなおもむきをあたえている。ものの形は、なにもかにもくっきりと鮮かなのに、なにかそこに、生地《きじ》の色にはない、ほのかな色あいがうっすらとにじんでいて、まるで一幅の蓬莱島《ほうらいじま》の絵かなんぞのように見える。町のうしろにある小高い山が、正藍色というより、なんとなく、この世のものならぬ藍の精とでも言いたげな濃青《こあお》の空に、ぬっくりと立っている。空には、雲のきれひとつない。
瓦葺《かわらぶ》きの屋根が、なだらかな斜面の上に、藍ねずみ色に打ちつづいている。その上に、奇妙な形をしたものが、あちこちにひらひらはためいている。それは、べつに自分にとっては目新しいものでもなんでもないけれども、しかし、いつ見ても愉快な気持のいいものだ。あそこにも、ここにも、というふうに、ほうぼうにそれが浮かんでいる。――それは、高い竹竿の先にくくられた、けばけばしい色をした紙の魚だ。それが、まるで生きているように、ゆらり、くらりと動いている。大きいのになると、五尺から二間ぐらいのものまである。その大きいやつの尻尾へ、小附《こづ》けに結わえつけられている、一尺そこそこの小さいやつもあって、これもあちこちにひらひら泳いでいる。なかには、四、五ひきの魚を、いちばん大きいのを上にして、あとは大きさに応じて、それぞれの高さに、順々に泳がしてあるのもある。なにしろ、色もかたちもすこぶる巧みにできているから、初めて見る外国人などは、さだめしびっくりしてしまうだろう。竿に吊ってある紐は、魚の頭のなかにしっかりくくりつけてあって、あいた口から吹き入る風が、魚の胴体を、ほんものの魚みたいにふくらませるうえに、風のぐあいで上がったり下がったり、くるり、くるりと向きかえるかと思うと、からだをひねったり、まるで生きている魚のように、しじゅう揺れうごく仕掛けになっている。それにつれて、尾もひれも、いっしょにひらひら動くところ、細工は寸分の隙もなくできている。わたくしの今いる家の隣りに、そいつのりっぱな見本がふたつまである。ひとつは、橙《だいだい》いろの腹に、背が紺いろをしているやつ、いまひとつは、全身が銀色をしているやつで、二つともぎょろりとした凄い目をしている。この二ひきの魚が、大空に向かってさわさわ泳ぐ音は、ちょうど麦畑を薫風が吹きわたる音によく似ている。そこからすこし先の家には、お隣りのよりまたでかいのがいっぴきいるが、そいつの背中には、まっかな男の子がひとりしがみついている。この赤い子どもは、金時といって、ごく小さな赤ん坊のじぶんから、熊と角力《すもう》をとったり、化け鳥を捕る網をしかけたりしていたという、日本中の子どものなかで、いちばん力持ちの子どもだ。
ご存知のように、この紙の鯉は、五月に、男の子の生まれた祝いをする「節句」の期間中だけあげられるもので、この鯉が、家の屋根の上に高くあがっていれば、それは、そこの家に男の子が生まれたというしるしになるのである。つまり、この紙の鯉は、ほんものの鯉が、たぎち流れる谷川の瀬をぐんぐん川上へのぼっていくように、さまざまの艱難辛苦《かんなんしんく》を押し切って、わが子がめでたく出世をするようにという、親たちの希望を象《かたど》ったものなのである。もっとも、おなじ日本のうちでも、西南地方の方へ行くと、この紙の鯉はめったに見られない。そのかわりに幟《のぼり》といって、細長い木綿のきれの旌《はた》を、船の帆みたいに桁《けた》と乳《ち》で、やはり竹竿に竪《たて》につけたものがある。この幟には、鯉の滝登りだとか、鬼をふんまえた鐘鬼だとか、そのほか松の木だの亀など、いろいろ縁起のいい絵が極彩色で描いてある。
けれども、建国二千五百五十五年のこの輝かしい陽春にあたっての、ことしのこの鯉のぼりは、ただたんに世間の親たちの希望を象徴するものというよりも、大きな戦勝によって再生した、日本国民の信念を象徴するものとして見た方が、いっそうよかろう。日本帝国の軍事的復活、――新日本の真の誕生は、じつにこんどの中国征服をもってはじまったのである。戦争はおわった。未来には、まだいくぶんの暗雲が低迷しているけれども、約束されているものはずいぶん大きなものがあるようである。もちろん、この上さらに雄志をのばして、国家永生の偉業をなしとげるためには、そこにいくたの暗澹《あんたん》たる障碍《しょうがい》が横たわっていようけれども、しかし、日本はそれに対して、なんらの怖れも疑いもいだいていない。
おそらく、日本の将来の危機は、じつにこの途方もない、大きな自負心にあるともいえるだろう。この自信は、なにもこんどの戦勝によってはじめて生みだされた、新しい感懐ではない。連戦連勝の凱歌が、ひたすらに拍車をかけてきた国民全般の感情なのである。宣戦布告の当初からして、日本は究極の勝利については、いささかの疑念もいだいていなかった。国民全体に浸透した深い熱誠はあったけれども、そうした国民的感情の興奮は、けっして外部にはその兆候をあらわさなかった。あるものは、ただちに戦勝の実記を書きはじめた。こうした戦記類は、写真石版や木版の挿絵を入れた週刊、あるいは月刊のかたちで購読者に頒布されたが、こういうものは、外国の観戦記者が戦争の終局についてまだ何の予測もこころみないよほどまえから、ひろく全国に売れわたっていたのである。国民は、はじめからおわりまで、自国の実力と敵国の無力を信じきっていた。玩具製造業者たちは、えたりかしこしとばかり、さっそく逃げるシナ兵だの、日本の騎兵に斬りたおされているところだの、捕虜になって辮髪《べんぱつ》で珠数つなぎになっているところだの、名高い日本の将軍のまえで、命ばかりはお助けと、平身低頭しているシナ兵だのの、きわもののおもちゃを大量に売り出した。甲冑をつけたむかしの武者人形はふっつりとすがたを消し、それにかわって、木や、泥や、紙や、絹でこしらえた、日本の騎兵・歩兵・砲兵の人形、要塞や砲台の模型、軍艦の模型などがあらわれだした。熊本師団の旅順口攻撃の光景をゼンマイ仕掛けにした、器用なおもちゃができるかとおもうと、シナの鋼鉄艦と松島艦との海戦をくりかえす、精巧なおもちゃが売り出されたりした。一方、それといっしょに、コルクの玉をポンポンはじき飛ばす小さな空気鉄砲、何万というおもちゃのサーベル、おなじくおもちゃのラッパなどが、やたらに売り出された。子どもがそのラッパをひっきりなしにプープー吹き鳴らしているのを聞いて、わたくしはゆくりなくも、ある年のニューオーリンズの除夜の晩に吹き鳴らした、ブリキのラッパの耳うるさい音をおもいだした。戦勝の報がはいるたびに、新しい色刷りの絵双紙が刷られて、それがどっと売り出される。おそまつな、いかにも安っぽい絵で、たいていは画工の想像をそのまま絵組みにしたものであるが、お祭り好きな大衆を元気づけるには、持ってこいの絵であった。そうかとおもうと、駒のひとつひとつが、日シ両国の将校兵士にかたどってある、おもしろい趣向の将棋のおもちゃなども売り出されたりした。
そのうちに、戦争のもようをあまねく世に知らせる芝居が、圧倒的にはやりだしてきた。まず戦地の挿話と名のつくものは、ひとつのこらず、蒸しかえし繰りかえし、舞台に上演されたといっても過言ではない。俳優連も、場面や背景の研究に戦線を見舞い、細工ものの吹雪などをつかって、満州軍の艱難辛苦を舞台の上に写実的に演出しようとつとめた。戦争の武勇美談は、ひとたびその報が入るやいなや、ただちに芝居にしくまれた。ラッパ手白神源次郎の最期(*)、城壁を乗りこえて戦友のために城門をひらいた原田重吉の剛勇、三百の敵の歩兵に応戦した十四騎の武勇、武器をもたない軍夫らがシナの大隊を襲った奇襲、――そのほか、まだ幾多のそうした戦蹟が、幾百の劇場で上演されたのである。忠君愛国の文句を書きつらねた幾百幾千という提灯《ちょうちん》行列は、帝国陸軍の成功を祝し、汽車で戦地へおもむく出征兵士の目をよろこばした。軍隊列車の絶えず通過する神戸では、こういうちょうちん行列は、幾週間も毎夜のようにつづき、各町内の町民はめいめいに拠金して、国旗をかかげたり、凱旋門をこしらえたりした。
* 成歓の戦に、白神源次郎という日本の一ラッパ手が「進め」の進軍ラッパを吹けとの命をうけた。かれがひとふし吹き鳴らしたとき、弾丸がかれの肺腑《はいふ》を貫いて、その場にかれをたおした。戦友は、かれの傷が致命傷なのを見て、そのラッパを取りあげようとした。すると、白神は、取りあげられたラッパを、相手の手からもぎとって、それを口にあて、力のかぎり、もういちど進軍ラッパを吹いて、それからばったり倒れて、死んだ。自分はここに、いま日本中の軍人・学生たちにうたわれている、かれを主題にした軍歌の簡訳を、あえて試みた。〔ハーンはここに『白神源次郎――日本軍歌、「ラッパのひびき」にならって』と題して、原作の軍歌を、四行九節のバラッドに巧みに翻訳している。往時、イギリス・スコットランド対戦中に生まれた尚武の歌に擬したこの名訳の妙味を、読者が鑑賞されるよすがにもと思って、ここに原作とハーンの訳詩とを、あわせかかげておく〕
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ラッパのひびき
渡るにやすき安城の 名はいたづらのものなるか
湧き立ちかへるくれないの 血潮の外に道もなく
先鋒たりし我軍の 苦戦のほどぞ知られける
この時一人のラッパ手は 取り佩《は》く太刀の束の間も
進め、進めと吹きしきる 進軍ラッパのすさまじさ
その音忽ち打ち絶えて 再びかすかに聞えけり
打ち絶えたりしは何故《なにゆえ》ぞ かすかになりしは何故ぞ
打ち絶えたりしその時は 弾丸のんどを貫けり
かすかになりしその時は 熱血気管に溢れたり
弾丸のんどを貫けど 熱血気管に溢るれど
ラッパ放さず握りつめ 左手に杖つく村田銃
玉とその身は砕くとも 霊魂天地かけめぐり
なほ敵軍をや破るらん あな勇ましのラッパ手よ
雲山万里をかけへだつ 四千余万の同胞も
君がラッパのひびきにぞ 進むは今と勇むなる
Shirakami Genjiro
(After the Japanese military-ballad, Rappa-no-hibiki)
Easy in other time than this
Were Anjo's stream to cross;
But now, beneath the storm of shot,
Its waters seethe and toss.
In other time to pass the stream
Were sport for boys at play;
But every man through blood must wade
Who fords Anjo to-day.
The bugle sound; ―through flood and flame
Charges the line of steel; ―
Above the crash of battle rings
The bugle's stern appeal.
Why has that bugle ceased to call?
Why does it call once more?
Why sounds the stirring signal now
More faintly than before?
What time the bugle ceased to sound,
The breast was smitten through: ―
What time the blast rang faintly, blood
Gushed from the lips that blew.
Death-striken, still the bugler stands!
He leans upon his gun, ―
Once more to sound the bugle-call
Before his life be done.
What though the shattered body fail?
The spirit rushes free
Through Heaven and Earth to sound anew
That call to Victory!
Far, far beyond our shores the spot
Now honoured by his fall; ―
But forty million brethren
Have heard the bugle-call.
Comrade! ― beyond the peaks and seas
Your bugle sounds to-day
In forty million loyal hearts
A thousand miles away!
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しかし、戦争の讃美は、このほかにも全国にある種々の工業によって、もっと永続的な方法で大々的に発揚された。あいつぐ戦勝や献身的な武勇行為は、封筒や便箋などの新しい図案はいうにおよばず、陶器、メダル、高価な織物などにも記念にしるされた。絹の羽織裏、女のちりめん頭巾、帯の刺繍、長襦袢、子どもの晴着の模様にまでも描かれた。キャラコや手拭地のような安物の型染めものは、いうまでもない。いろいろの種類の漆器、木彫りの箱などの蓋や側面、煙草入、カフスボタン、女のあたまに挿すピンやかんざしの意匠、さし櫛にまで戦争の図案が描かれた。小型の箱入りで売られている妻楊枝のたば、その楊枝の一本一本にまで、顕微鏡で見るような小さな文字で、戦争にちなんだ和歌が、一首ずつ彫りつけられた。このようにして、講和のときまで――すくなくとも、講和談判にやってきた、シナの全権公使を暗殺しようと企てた壮士の暴挙があったころまでは、なにごとも国民の望むがまま、期待のままに事が運んだのである。
ところが、講和条件が発表されるやいなや、日本を威嚇《いかく》するために、フランス、ドイツの援助をえて、ロシアが干渉の手をのばしてきた。この三国の提携に対しては、なんら反対の手をうつすべがなかったのである。そこで、日本は得意の柔術の手を用いて、予想外の譲歩によって期待の裏をかいたのである。自国の兵力に関しては、日本はすでによほどまえから、不安と杞憂の念を棄てていた。おそらく、内に蓄積された力は、従来認められて来たものよりも、はるかに大きなものがあったし、それに、二万六千の学校をもっている国内の教育制度は、それだけでもぼう大な教練機関であった。本土のうちでなら、日本は、いかなる強国とも太刀打ちができるはずである。ただ、海軍力がまだすこし微弱であるが、このことは、日本自身がじゅうぶんに承知している。日本の海軍は、軽巡洋艦から成る優秀な艦隊で、その操縦には、これまた優秀な人物があたっている。司令長官は、二度の海戦で一艦をも失うことなく、シナの艦隊を撃滅したくらいである。けれども、ヨーロッパの三大強国の連合海軍を向こうにまわすとなると、ざんねんながら、まだそれだけのじゅうぶんな噸《トン》数がない。それに、陸軍の精鋭は、いま海のむこうに出征中である。つまり、列国が干渉するには持って来いの機会が、巧妙に選ばれたわけで、ひょっとすると、あるいは干渉以上の意図があったかもしれない。げんに、ロシアの戦闘艦は戦闘準備についていたし、むろん、勝つにしても、そうとうの犠牲を払ったことだろうが、それにしても、その戦闘艦だけでも、日本の艦隊を圧倒するのは容易だったろう。ところが、このロシアの行動は、イギリスが日本に同情して宣した不気味な宣言のために、ふいに出鼻をくじかれたのである。イギリスは三国が結束して集合できる装甲艦を、ただの一戦で屠《ほう》りうるだけの艦隊を、わずか数週間のうちに、アジアの海に回航することができるのであった。この時、もしもロシアの巡洋艦から、ただの一発でも発砲したとしたら、おそらく、全世界を戦争の渦中へ捲きこんでしまったかもしれなかったのである。
しかし、日本の海軍部内には、そのとき、即時三国を敵として一戦をまじえようという、強硬な要望もあったのである。そうなったとしたら、えらい戦争がはじまったことだろう。もちろん、日本の司令長官は、降伏などということは夢にも考えないし、日本の軍艦で、おめおめと艦旗を降ろすようなものは一隻もないはずだから。ところで、陸軍の方でも、おなじようにそのとき、戦争をしたがっていたのである。そんなわけで、国民のはやり立つ轡《くつわ》をおさえるためには、政府としても、そうとう断乎たる処置をとることが必要であった。そのために、言論の自由は抑圧され、新聞紙はきびしく緘黙《かんもく》させられた。やがて、さきに要求された戦争賠償金は、ある程度増額するから、その代償として遼東半島はシナに還附するということで、講和は成立したのである。政府としては、じつに、万遺漏なき智恵をしぼって対処したのであった。せっかくの日本の国力伸張のこの時期に、むざむざ金をかけてロシアと戦ったところで、その結果は、国内の工業も、商業も、財政も、すべてちゃちゃむちゃにしてしまうことは分かりきっていることだったからである。しかし、国民の自尊心は、そのために深く傷つけられ、いまでも、国を挙げて為政者を怨む念は骨髄《こつずい》に徹している。
五月十五日 兵庫にて
シナから帰還した松島艦が「和楽園」のまえに碇泊している。この軍艦は、大きな勲功をあらわした軍艦だが、それにしては大きな軍艦ではない。けれども、さすがに波ひとつない青畳のような海面に、にゅっと浮かんでいるこの鉄《くろがね》の城は、澄みわたった日の下で見ると、たしかに犯しがたい偉容をそなえている。この軍艦を縦覧させるという許しが出たので、市民はみな大喜びで、まるでお祭りにでも出かけるように晴着を着かざっている。わたくしもその連中と同行することになった。港内にある船という船は、一艘のこらず、みなその見物人を乗せるために出払ったかと思われるくらい、それほどわれわれ一行が着いたときには、装甲艦のまわりに見物が蟻のように集まり群がっていた。とてもそんな人数がいっぺんに軍艦へ乗りこむなどということは、できるものではない。そこで何百人かずつが、交代に乗りこんでは降りることになって、そのあいだ、われわれはしばらく待っていなければならなかった。もっとも、冷たい海風に吹かれながら待っているのは、いい気持だったし、見物人が嬉々として喜んでいるようすを眺めているのもなかなかおもしろかった。順番がまわってくると、どっと押し寄せるその騒ぎ! 押し合いへしあい、かじりついたり、しがみついたり! おかげで女の人がふたり、海の中へ落っこちて、水兵に引っぱり上げられたが、落っこちたその女の言い草がいい。――松島艦の水兵さんたちは、日本人の命の親だとえばって言えるんやさかい、なあに、海へおっこちても恨みはさらにおまへん。……もっとも、じつのところ、船頭連が大ぜい見張っていたから、溺れようたって溺れやしなかったが。
しかし、見物人が松島艦の乗組員のおかげをこうむった点は、そのふたりの若い女のひとが世話になったよりも、もっともっと大きなものがあった。幾千という見物人のだれしもが、できればしたいと思っている金品の贈与は、軍の規則できびしく禁じられているので、かれらは当然のお礼の志を、愛情でむくいようとした。士官も、水兵も、みな疲れているにちがいないなかを、見物が寄ってたかって、いろいろなことを質問するのに、みんないやな顔ひとつしないで、うれしいくらい、あいそよく辛抱してくれていた。艦内の施設はのこらず見せてくれて、いちいちくわしく説明をしてくれた。大きな三十センチ砲の装填装置から回転装置、速射砲、水雷とその発射管、探照灯の構造、等々々。わたくしは外国人で、特別の許可の必要があるにもかかわらず、艦長室にある両陛下の御真影を拝することまで許され、黄海沖の大海戦の壮烈な物語などを聞かされた。一方、この港町の頭の禿げた爺さんや女子どもたちは、きょうを晴れとばかりに、松島艦をわがものにしていた。士官も、士官候補生も、水兵も、みな骨惜しみをしないで、精いっぱいにもてなしてくれた。見物の爺さんになにか話しているのがあるかと思うと、子どもにサーベルの|つか《ヽヽ》をいじらせているのもあり、両手をさしあげて「帝国万歳」の唱え方を教えているのもある。くたびれた母親たちにはむしろが敷かれて、みんな甲板の物かげに、思い思いに休むことができた。
この甲板も、ほんの二、三カ月まえには、勇士たちの血で染められたものなのである。ところどころ、いまだにあっちこっちに黒い汚染《しみ》がのこっていて、いくら磨き石でこすっても落ちないでいる。見物はみなこの血潮のあとを、畏敬の念をもって打ち眺めていた。この旗艦は、敵の巨弾を二回も受け、弱い部分などは、小弾の乱射にあった穴が無数にあいている。艦は交戦の矢おもてに立って、乗組員の約半数を失ったのである。噸《トン》数はわずか四千二百八十噸にすぎないのに、これに直面してきた敵の鋼鉄艦二隻は、おのおの七千四百噸であった。もっとも、破砕された鋼鉄板は、すでにもう張りかえられていたから、そとから見たのでは、どこにも深い弾痕などは見えない。しかし、われわれを案内してくれた人は、甲板や、砲塔をささえている鋼鉄檣や、煙突などにある無数の修理のあとや、砲座にあたる厚さ一フィートもある鋼鉄板に、放射状の亀裂を入らせた物すごい弾丸のあとなどを、自慢顔にさし示してくれた。それから、さらに下の方へ降りて、艦を貫通した三十センチ半の弾丸の抜けた跡も見せてくれた。案内者は、わたくしたちに話していた。「こいつにやられた時には、震動でもってからに、人間がこのくらいの高さ(と甲板から二フィートほどのところへ手をやって)まではね上がりましたね。と思ったら、とたんに、あたりがまっ暗になって、一寸先も見えなくなっちまってね。そうこうするうちに、右舷前方の砲が一門、木ッ葉みじんにやられて、そこにいた乗組員が、全部やられたことがわかったです。即死四十名、負傷者多数、そこにいたもので、逃げおおせたものはひとりもなかったです。それに、搬出してあった火薬が爆発したもんだから、甲板は火の海です。一方じゃ戦闘をしながら、その火も消し止めなきゃならんというわけで、顔や手の皮を吹っ飛ばされた負傷者までが、痛みも忘れて働きましてね、瀕死の重傷者までが、水を運ぶ手つだいをするという騒ぎです。しかし、そういうなかで、われわれは味方の砲から、さらに一発喰わせて、敵の鎮遠を沈黙させてやりましたよ。なんでも、シナの方には、ヨーロッパ人の砲術員が加勢をしていたんですね。西洋の砲術長でも相手にしなかったら、それこそ、あんまりお茶の子さいさいすぎましたよ」
これはたしかに案内者の本音だ。この麗《うらら》らかな春の日に、かりにもし松島艦の乗組員にとって、なによりもうれしいことがあったとすれば、それは、ただちに全員戦闘の準備について、おりから沖合はるか碇泊していたロシアの大装甲巡洋艦に対して、襲撃命令がくだることよりほかになかったであろう。
六月九日 神戸にて
昨年のことだ。わたくしは、下の関から神戸まで旅行をしたあいだに、ずいぶんたくさんの連隊が出征の途にのぼるのを見た。まだ暑い夏がおわらない時分だったから、兵隊たちはみな白い軍服を着ていた。それらの兵隊は、わたくしが以前教えていた学生とすこぶる似ているように見えた。(じじつ、何千という兵隊は、学校を出たばかりのものだった。)そんなわけで、わたくしは、こんな若いものを戦場へおくるのは残酷だと感ぜざるをえなかった。まだ子ども気の抜けないその顔は、いかにも無邪気で、快活で、人生の大きな悲哀などはいっこうに知らないようすであった。同行の英国人で、陣中生活の経験のあるものが、わたくしにそのとき言うのに、「なにも心配することはないよ。けっこう、あれでりっぱにやって行くものだよ」「そりゃわかってるがさ。でも、暑さ寒さや、満洲の冬のことを、ぼくは考えているんだよ。シナ人の鉄砲なんかより、よっぽどその方がこわいからな(*)」
* 戦争でじっさいに死んだ日本人の総数は、牙山の役から澎湖島《ほうことう》に至るまでで、わずかに七三九人である。けれども、戦争以外の原因で死亡した者は、台湾占領中の昨六月八日までに、三、一四八人にのぼる。うち、一、六〇二人はコレラで死んでいる。とにかく、これが神戸クロニクル紙に発表された公報の数字である。
ラッパのひびき。――日が暮れてから、点呼をしたり、就寝の時刻を報じたりするラッパのひびきは、日本のある師団の所在地に何年か住んでいたわたくしの、夏の夕べの楽しみのひとつだったものだが、それが戦争中は、あの最後の節を長くひっぱる哀しい音色が、わたくしにはまたべつの意味の感動をあたえるようになった。べつにあの節まわしが、特殊な節まわしだとはおもわないが、あれを吹くものがなにか特別な感情をこめて吹くのだろうと、わたくしはいつもそう思っていた。師団中のラッパがいっせいに星あかりの空に向かって吹奏されるとき、こもごもに入りまじるあの音色には、なにか忘れがたい哀れ深いものがある。あれを聞くたびに、わたくしは人間ならぬまぼろしのラッパ手が、うら若く、力|猛《たけ》き若人たちを、久遠のやすらいの影ふかき寂寞に、誘いまねくすがたを空想するのであった。
わたくしは、きょう、どこやらの連隊が凱旋するのを見に行った。神戸駅から「楠公《なんこう》さん」(楠正成の英霊を祀った大きな神社)まで、かれらの通る沿道の町には、緑のアーチがほうぼうに立っていた。市民は凱旋した兵士たちに、最初の食事を饗するために、六千円を寄附した。すでにこれまでにも、多くの大隊がこれとおなじような厚い歓迎を受けたのである。神社の境内には、それらの大隊が食事をした、さしかけの小屋があって、旗だの花の綵《ふさ》などで飾りたててある。兵士たちには、さまざまの贈り物があった。――菓子、巻煙草、武勇を讃えた和歌を染めぬいた手拭など。鳥居の前には、りっぱな凱旋アーチが立てられて、アーチの前後両面には、歓迎の文句が金文字で記され、アーチのてっぺんには、地球儀の上に羽根をひろげた鷹がとまっていた(*)。
* 一八九四年九月十七日の大海戦の際、巡洋艦高千穂のマストに一羽の鷹が止まって、おとなしく捕えられて、飼われた。乗組員に可愛がられたこの瑞鳥は、のちに天皇陛下に献上された。鷹狩は、日本では、武家のあいだに盛んに行なわれた遊戯であって、鷹はみごとに馴らされていたものである。こんにちでは、むかしに増して、鷹は日本では勝利の象徴となりそうなあんばいである。
最初、わたくしは、うちの爺やの万右衛門といっしょに、神社のじきそばの駅前に待っていた。列車が到着すると、番兵が見物人にプラットフォームを立ち去れと命じた。停車場のそとの街路では、巡査が群集を食い止めて、車馬の通行も止めてしまっている。しばらくすると、凱旋部隊は、煉瓦のアーチ口から縦隊をつくって、歩武どうどうと行進してきた。歩きながらすこし跛《びっこ》をひきかげんの半白の将校が、巻煙草をふかしながら、先頭に立っている。群集はわたくしたちのまわりに密集していたが、みな万歳も唱えず、話し声さえたてないでいる。しんと水を打ったような、その静けさを破るものは、ただ、通過する兵隊の歩調正しい靴の音だけである。見ているわたくしには、これがみな、さきに出征の時に見たのとおなじ兵士たちだとは、どうしても思えなかった。どれもこれも日に焼けたこわい顔をして、髯をぼうぼうと生やしたのが大ぜいいる。紺いろの冬着の軍服は、すり切れたり破れたり、靴などは、もう形もないまでに穿きへらされている。しかし、威勢のいい大股の足なみは、いかにも鍛錬された兵士の歩調だった。かれらは、もはやただの若者ではなくて、世界中のどんな軍隊をも相手どることのできる荒武者であった。修羅場《しゅらば》で斬りまくりもやれば、殴りこみもやってきたし、また、筆にはつくせぬかずかずの苦労も積んできたのである。そのくせ、顔にもかたちにも、べつに喜びの色もなければ、得意の色もない。そうかといって、目ざとい目に、歓迎の旗や飾りつけや、さては地球を翼の下にしている軍《いくさ》の鳥の鷹をいただいた凱旋アーチを見上げるというのでもない。――おそらく、それらの目は、人を厳粛にするような光景を、あまりにもしばしば見すぎてきたのであろう。(なかに、たったひとり、にやにや笑いながら通って行ったのがあった。それを見て、わたくしはふと、少年のころ、アフリカから兵隊が帰ってきたのを見たとき、一人のヅアース兵の顔に見た、人を刺すような嘲侮の微笑を思い出した。)見物人のなかには、これほどまでにかれらが面《おも》変りしてしまったわけを感じて、見るからに胸のつぶれる思いをしているものが多かった。とにかく、いまここに帰ってきた兵士たちは、以前よりも優れた兵になっていた。すぐれた兵になって帰ってきたかれらは、いま故国の土を踏んで、ここにこうして歓迎をうけ、慰安をうけ、こころざしをうけ、銃後の国民の温い愛をうけて、そうして、これからまたもとの古巣の兵営へ帰って行って、そこでゆっくり休もうとしているのである。
わたくしは万右衛門にいった。「今夜は、みんなあの連中は、大阪か名古屋へ着くんだね。さぞかし、みんなラッパの音を聞いて、帰らぬ戦友を偲ぶことだろうね」
すると爺やは、ひたすら真剣な顔をして答えた。「西洋のかたは、死んだものは帰らないとおぼし召すでしょうが、わたくしどもは、そうは思いません。日本人はだれでも、死ねばまた帰ってまいります。帰る道をみんな知っております。シナからだろうが、朝鮮からだろうが、海の底からだろうが、戦死したものは、みんな帰ってまいりました。――へえ、みんな、もうわたくしどもといっしょにおりましてな、日が暮れますと、故郷へ呼びもどすラッパの音を聞きに集まってまいりますよ。いまにまた天子さまの軍隊が、露助とひと戦《いく》さやる召集が下るときには、みんなそれ、あのラッパの音を聞くのでございます」
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ハル
ハルは、おもに家庭にあって人となった。世界のうちでもまれに見る柔順型の女性をつくりだす、この国の旧式な教育のなかで、ハルは育ったのである。この家庭における日常教育は、日本の国でなくてはとうてい養われない、すなおな心と、行儀作法のとりつくろわぬ優美さと、従順と、忠実を愛する心とをやしなった。このようにして作り上げられた徳性は、あまりにやさしすぎ、あまりに美しすぎたから、古い日本の社会以外には、どこの国の社会へもっていっても通用しないものであった。言いかえれば、このような徳性は、新しい社会の、むかしよりはるかに激烈な生活に処するには、――げんに、新しい社会のなかでも、いまもってこの徳性は残存してはいるけれども――けっして賢明な用意ではなかったといえる。いったい、この国のごく躾《しつ》けのいい上品な娘は、りくつの上からいって、連れ添う夫の意のままになるということを条件として、その条件にかなうように躾けられてきたものである。ねたみ、なげき、いかり、――この三つのものは、どんなに余儀ない事情のばあいでも、けっして色にあらわしてはならないと、固く教えこまれていた。つまり、女子たるものは、夫の不行跡を攻めさせるには、誠心誠意、女のやさしさをもってこれを克服せよ、こう嘱望されていたわけである。手短かにいえば、ほとんど超人にちかいことを――すくなくとも外見においては、完全なる無私の理想を実現することを要求されていたわけである。そうしてこれは、相手が同等の身分で、心づかいがこまやかで、女房の心もちをよく察し、けっして傷つけるようなことをしない夫のばあいは、じゅうぶんにそれが果されたのである。
ハルは、自分の夫よりも、よい家柄の家に生まれた。連れ添う夫に、自分の本性がよくわからなかったくらいであるから、ハルは、夫にとっては少々過ぎものだったのである。ふたりは、まだごく年のいかないころにいっしょになった。はじめのうちは貧乏だったが、ハルの夫は、商法にかけては才覚のある男だったので、暮らしはしだいにらくになって行った。けれども、ハルはときどき、暮らしの不如意だった時分の方が、夫はずっと自分を愛してくれたと思うことがよくあった。女というものは、こういうことには、めったに勘のはずれないものである。
家が裕福になってからも、ハルは、夫の着るものだけは、ぜんぶ自分の手で縫うことにしていた。夫は、ハルの針道のたしかなことをいつも褒《ほ》めてくれた。ハルは、夫においと呼ばれると、呼ばれぬ先から立ってゆくというふうで、万事によく気がつき、夫の着物の脱ぎ着せの世話から、小ぎれいな家のなかの掃除にまで、なにくれとなく、夫の気もちのいいようにした。朝、夫が商用で家を出かければ、にこにこと愛想よくおくりだすし、帰ってくれば、いそいそと迎えに出る。友だちがくれば、痒《かゆ》いところへ手がとどくようにもてなすし、家のきりもりなども、よくこれほどまでに頭がまわると思われるほど、経済に切りまわした。金のかかるねだりごとなどは、めったに言いだしたことがない。また、じっさい、ねだりごとなど言いだす|せき《ヽヽ》はほとんどなかったのである。夫はふだんけっして物惜しみをしなかったし、女房にいつもきれいな着物を着せておくのが好きで、よく自分の羽で身をかざる美しい銀蛾かなんぞのように、女房を着飾らしては、芝居や物見遊山につれて行くのが好きであった。春ならばさくらの名所、夏ならば螢の名所、秋はもみじと、その時々の行楽の場所へ、ハルは、よく夫の供をしてつれて行かれたものであった。あるときは、夫婦づれで、舞子の浜に一日の清遊をこころみたこともある。あすこは、浜辺にならぶ松の木が、さながら舞妓の舞うがごとくに見えるところだ。ある時はまた、清水《きよみず》の古い古い滝殿で、半日を遊びくらしたこともある。あすこは、目に入るものすべてが、五百年まえの夢のあとだ。亭々《ていてい》たる老樹のうっそうたるかげ、洞穴からほとばしりでる清冽な水の潺湲《せんかん》たる声、吹く風は見えざる笛をかなでつつ、千古の調べをかよわせ、――ちょうど沈みゆく落日のうえに、金色の余光が藍色に溶けまじるようなぐあいに、平和と悲愁とが入りまじって、惻《そく》々として人の胸に迫るひびきのあるところだ。
こうした行楽のほかには、ハルはめったに外に出たことがなかった。ハルの親きょうだいも、夫の親戚たちも、みな遠い他国に住んでいたから、ハルは、どこに訪ねて行くところといってもなかったのである。そういうハルは、ふだんから家にいるのが好きで、家にいさえすれば、床の間や、仏壇に花を生けたり、供えたり、座敷の飾りつけをしたり、池の金魚に餌をやったりしていた。池の金魚はよく人になれていて、ハルの出てくるかげを見ると、かならず水のおもてにあたまを上げてくるのだった。
ハルは、子どもがひとりもなかったから、生れついてまだいちども新しい喜びも悲しみも味わったことがなかった。だから、髪をまげに結って、赤いてがらをかけても、まだほんの年若い娘のように見えた。そんなわけで、気性もどこか子どものように単純であったが、そのくせ、ハルがこまかしいことをしてのける事務的な手腕には、夫もつねづね感服して、ときどき大きな仕事でもあると、夫はハルに相談して、智恵をかりることもしばしばだった。おそらく、そういうときには、切れる頭脳よりも、かえって行きとどいた心情の方が、夫によい判断を与えたのであろう。こうして五年のあいだ、ハルは夫といっしょに楽しく暮らした。その五年のあいだ、ハルの夫は、自分よりもすぐれた天性をもった妻に対して、日本の若い商人として、これ以上は望めないと思われるほどの思いやりのある尽しかたをしたのである。
ところが、そういう夫の態度が、きゅうに冷たくなってきたのである。それはじつに突飛なことであった。あまり突飛すぎることだったので、ハルは、これは子のない女房がとかく心配しがちなわけとは、どうもわけがちがうと思った。ありのままの原因を嗅ぎ出そうとしたが、それができなかったので、ハルは、自分の尽し方に足りないところがあったのだと思いこもうとして、罪もない自分の良心に糺《ただ》してみたが、なんの手がかりもえられなかった。そこで、なんとかして夫の気に入られようとして、あの手この手と極力努めてみた。けれども、夫は依然としてうごかされなかった。べつに、夫は邪険なことばをつかうというのではない。それでいながら、もっそりと黙っているそのかげには、なにかかんしゃくをたたきつけたいのをむりにこらえている、といったふうなところが見える。――どうもハルにはそんな気がするのだった。いったい、日本の良家では、夫たるものが妻に向かって、口に邪険をいうなどということはまずないことだ。そういうことは、下品な、はしたないことと考えられているのである。気性のおだやかな、教育のある人なら、女房に小言をいうばあいにも、ごく穏かなことばで言う。日本の作法からすると、普通の礼儀からいっても、男らしい男はみなこういう態度をとる。また、これがいちばん無難な態度でもあるのである。というのは、嗜《たしな》みもあり、悟りも早い婦人なら、粗暴なあしらいには、とうてい長く服してはいないし、また、すこし向こうぱしの強い女なら、亭主が一時の腹立ちまぎれで、かっとなって言ったことばのために、淵川へ身をさえ投げかねない。女房にそんな自害でもされようものなら、亭主としては一生の名折れである。ところが、口で小言をたたきつけるよりも、もっと底意地のわるい、しかももっと安全な、ごく遠まわしないじめ方がある。それは何かというと、たとえば、女房には鼻汁《はな》もひっかけず、どこの他人さまかというようなよそよそしい顔をして、それで焼き餅の角をはやさしてやる、という手である。ところで、日本の妻は、むかしから嫉妬の色はけっして顔に出すなと、固く躾けられてきている。しかし、この嫉妬という感情は、どんな躾けよりも古いものだ。おそらくこの感情は、愛とともに成長し、また愛の存するかぎり、消滅することのないものだろう。日本の妻女だって、あのなんの熱情もないような仮面の下には、西欧の妻女とおなじ感情をもっている。――ちょうど、華美をつくした社会のたのしい集まりのひまにも、どうぞ一刻も早く時間がたって、この心痛む悩みからひとりほっと解放されたいと、手を合わせて祈っている西欧の妻女とおなじあの感情を。
ハルには、嫉妬の原因があったのである。けれども、ハルは子どものようなこころをもっていたから、すぐにはその原因の見当がつかなかった。召使たちも、ハルにはよく懐いていたので、みなおくさまのことを気の毒に思って、わざとそのことは黙っていた。夫は、いぜんは家にいるときはもちろんのこと、外へ出かけたときでも、夜はいつもハルといっしょに過ごすのが常であった。それがこのごろは、来る夜も来る夜も、ひとりでどこかへ出かけてゆくのである。初めての時は、なにか商売の用があるのだと言いこしらえて出かけて行ったが、その後は、いつもハルに一言のことわりも言いのこして行かず、何時ごろ帰るつもりだとも言いおいて行かない。最近では、無言のうちに、ハルを虐待するようにさえなってきた。夫は心がわりがしたのである。――「まるでなんだか魔でもおさしになったようでございます」と召使たちはいっていた。じつは、夫は仕掛けられた罠《わな》に、まんまとはめられていたのであった。ある芸者のいったひとことが、夫の意志を鈍らせ、その芸者の一|顰《ぴん》一笑が、夫の目を盲目にさせたのである。相手の芸者というのは、ハルにくらべて、けっしてきりょうのたちまさった女ではなかった。そのかわり、自分で糸を仕掛けた淫欲の網をはって、気の弱い男をその網にひっかけて籠絡《ろうらく》し、十重二十重にじわじわと網の目をしめつけたあげくには、ざまあ見ろと後足で砂をひっかけて身を滅ぼさせるという、そういう手練手管にかけては、じつに巧妙老獪な女であった。ハルは、そんなことはつゆ知る由もなかった。そして、夫の妙なそぶりが毎夜の例になるまでは、べつにおかしいとも思わずにいた。おかしいと気がついた時にも、ハルはただ、このごろ夫の金のゆくえがどうも腑《ふ》に落ちないことに気づいただけであった。夫は毎夜、自分がどこへ行くのか、行く先をハルに教えたことはなかった。ハルはハルで、それを自分の方から聞けば、焼き餅を焼いているのだと思われやしないかとおもって、聞くのを差し控えていた。ハルは胸のきなきなを口に出していうかわりに、物のわかった夫なら、なにもかにもひと目で察してくれそうな、そうしたまごころこめたやさしさで、夫を遇したのである。けれども、夫は商売以外のことでは、存外、血のめぐりのわるい男だった。そして、あいかわらず毎晩のように家をあけた。良心が麻痺してくるにつれて、帰りの時間はますます遅くなった。ハルは娘の時分から、人の妻たるものは、夜、夫が帰ってくるまではかならず起きて待っているものだと堅く教えこまれていたから、教えこまれたとおりにしているうちに、だんだん神経過敏症になり、それが昂じて、とうとう睡眠不足から微熱が出るようにさえなった。それでもハルは、定めの時刻には下女どもを先に寝かしてやり、自分はあとにひとり起きて、もの思いに打ち沈みながら、ひとり待つ身の淋しさに悩んだ。たったいちど、夫は夜分たいへん遅くなって戻ったとき、ハルにいったことがある。「おまえ、こんなに遅くまで、おれのために起きていてくれては気の毒だ。これからはもう、今夜のように起きて待ってなどいないでくれ」ハルはそのとき、ほんとに夫が自分の身を思って、心配してくれたものと思って、明るくにっこり笑って、「いいえ、あたくし、ちっとも眠くございませんのよ。疲れもいたしませんわ。どうぞお気にかけないで下さいまし」といった。言われた夫は、それなりハルのことを気にかけないようになった。むしろ、ハルがそう言ったのをいい間《ま》の振りに、それからまもなく、こんどはひと晩家をあけて帰らなかった。つぎの晩も、おなじだった。そして、三日目に家をあけたのちは、夫は、翌朝食事にさえ帰ってこなかった。ここに到って、ハルははじめて妻として、なんとか言わなければならない時がきたことを知った。
その朝も、ハルは夫の身の上を案じ、わが身のことを案じながら、午前中をずっと待ちくらしていた。女の心に深い痛手を負わせる夫の不行跡というものを、ハルは、ようやくその時になって悟ったのである。主人思いの下女が、ハルにある事を告げたので、ハルは、およその見当はつけることができた。ハルはだいぶ体の調子がよくなかったのだが、自分ではそれに気がつかずにいた。自分はただ、自分が受けたこの掻きむしられるような、えぐられるような、胸の重くなるような苦しみのためにむしゃくしゃしているのだ、――それも、自分の我儘からむしゃくしゃしているのだ、とばかり思っていたのである。そして、もうここまで来ては、自分の務めとしてどうしても言わなければならない、その自分の口から初めて言いだす非難のことばを、さてどう言ったら、一ばん相手に身勝手にとられないように言えるだろうかと、そんなことをとつおいつ、坐りこんで思案しているうちに、正午になった。そのとき、俥《くるま》の輪の音がして、下女が「旦那さまのお帰り!」と呼ぶ声に、ハルの胸は物に打たれたようにハッととび上がったとたんに、くらくらっと目がまわり、目のまえにあるなにもかもがもうろうとしたなかに、あたりがぐらりぐらり回り動いているような心もちがした。
ハルは、やっとの思いで、上がり口まで夫を迎えに出て行った。やせぎすなハルのからだは、熱と、苦しさと、その苦しさを見られはすまいかという恐れとで、わなわな震えていた。夫は驚いた。驚いたのも無理はない。ハルがいつものにこやかな笑顔で自分を迎えるかわりに、いきなり震える片手で、柔かものの自分の着物の胸元に取りすがるなり、この人に人間らしい性根がひとかけでもあるかと、それを捜すような目つきをして、じーっと顔を見すえたからである。ハルは、そのとき物を言おうとしたが、わずかに、「あなた?」と、ただひとこと言いえただけであった。そして、それを言うか言わぬかに、夫の襟もとを力なく掴《つか》んだハルの手はゆるみ、目は異様な笑みをたたえたまま閉じられ、夫が手をさしのべて支える暇もなく、ハルはばたりとそこへ倒れてしまった。夫はハルを抱き起そうとした。が、ハルの一縷《いちる》のいのちは、すでに縡《こと》切れていた。ハルは死んだのであった。
すわ一大事と、驚愕はいうまでもなく、涙のうちに今は返らぬ名を呼びたて、八方へ手をわけて、医者へ走らした。が、ハルは白い顔をして、しずかに、美しく横たわっていた。その顔からは、いまはあらゆる苦しみも怒りも消え去って、ちょうど嫁いだ日のように、にこやかな微笑がほおえんでいた。
公立の病院から、ふたりの医師がやってきた。いずれも日本の軍医であった。ふたりの医師は、露骨に率直な質問をした。その質問は、夫なる人の性根を、まっこうから骨の髄まで截《た》ち割った。それから、研ぎすました刃のように冷たい、厳然たる事実を告げると、そのまま、縡《こと》切れた妻とともに夫をそこにのこして、帰って行った。
世間では、ハルの夫が、なぜ頭を剃って仏門に入らないのだろうと、不思議がったが、しかし、かれの良心がはっきりと目がさめたことは、蔽うべくもない明らかな事実だった。かれは昼のうちは、京都の絹織物や大阪の型染め木綿をうずたかく積んだなかに、坐りこんでいる。商売熱心だし、よけいな口かずもあまりきかない。番頭どもは、みな、かれのことをいい主人だと思っている。口あらい小言などは、けっして言わない。どうかすると、夜もずいぶんおそくまで働いていることなどもある。最近になって、かれは、すまいも前とはべつのところへ移した。ハルが暮らしていた、あの小ぎれいな家には、もう知らない人があとに住みついていた。家主であるかれは、その後もとの家へは、ついぞ足踏みしたことがない。おそらく、もとの家へ行けば、いまでも痩せがたちの妻が、そこに花を生けていたり、あやめか杜若《かきつ》というような艶なすがたで、池の金魚をさしのぞいている影を見るかも知れぬと思うからなのだろう。しかし、たとえどんなところに休んでいても、人の寝しずまる丑満《うしみつ》ごろになると、かれは自分の枕べちかくに、いつもそれとおなじ物言わぬ人のすがたを見ないわけにはいかなかった。――かつてはそれを着て、ひたすら妻を裏切りに出かけて行った自分の晴着を、縫ったり、のしたりしながら、心をこめて美しく仕立て上げようとしている亡き妻の姿を。かと思うとまた、昼間店が立てこんで、目のまわるほど忙しい最中などに、ふと大きな店のなかの喧噪の声がぱたりと止んで、帳場で向かっている帳面の文字が、見る見るもやもやと薄らぎ消えてゆくと見るまに、訴えるようなほそい声が――神々もこれだけは打ち消すことのできないほそい声が――寂しい曠野のようなかれの胸の奥へ、問うがごとくにささやくのであった。それもたったひとこと、――「あなた?」と。
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趨勢一瞥
開港場にある外人居留地といえば、いかにもそれは、極東らしい周囲の風物に、きわだった対照をなしているものである。ひとは、町筋ばかりいやに井然《せいぜん》とした、その不体裁のなかに、なにか世界の東側にはない土地を連想させるようなものを発見するだろう。まるでそれは、西洋の切れっぱしが――たとえば、リヴァプールとか、マルセーユとか、ニューヨークとか、さもなければ一万も一万五千マイルも離れた、どこか熱帯の街の一部分が、魔術にでもかかって海を飛びこえ、はるばるここまで持ってこられた、といった感じである。そこには、吹けば飛ぶような日本の低い商家にくらべたら、それこそ、雲突くような商館のビルディングがある。そいつが、どうだ、おまえたちにこれだけの財力があるかと言って、脅かしているように見える。住宅が、これがまたじつに種々雑多で、インデアン風の平屋建てのやつから、小さな塔や張出し窓のついた、英・仏式の田舎の別荘風のものまである。そして、たいていそれに、きれいに刈り込んだ植込みの平凡な庭がぐるりについているのである。白い道路は、テーブルのように堅くて平らだ。道路の両側には、仕切りの立ち木が植えてある。イギリスやアメリカにありきたりのものは、ほとんどなんでもここへ移植されてきている。教会の尖塔もあれば、工場の煙突も見える。電信柱もあれば、街灯もある。鉄扉のついた舶来煉瓦の倉庫があるかとおもえば、板ガラスの飾窓《ウインド》のある商店もあるし、歩道もあれば、鉄の鋳物の欄干《てすり》もある。新聞は、朝刊に夕刊、週刊もある。クラブに図書館、玉ころがし場。玉突き場あり、酒場あり。学校に船員の礼拝堂。電灯会社に電話局、病院、法廷、監獄、警察。外人|辯護《べんご》士がいれば、外人の医者もいる。おなじく、外人の食料品屋、菓子屋にパン屋に牛乳屋、婦人服屋に男物の仕立屋、外人教師、音楽教師。役場の事務と集会につかう公会堂。――こいつは、時に素人演芸や講演会、音楽会にも使用される。ごくたまには、世界を股にかけた旅まわりの劇団が、しばらくここに逗留して、本国でするのとおなじように、男の客を笑わせ、女の客を泣かせることもある。クリケット場に、競馬場に、公園。――公園といっても、イギリスのいわゆるスクエア――広場だ。ヨット会がある、運動競技会がある、水泳場がある。耳に聞こえる絃歌の音には、ピアノの練習の、あのいつ果てるやらわからないガンガンコロンコロンに、ぶちこわしみたいなジンタの音。ときには、息の切れた手風琴の音も聞こえる。聞こえないものは、手まわしのオルガンの音だけだ。住んでいるものはというと、イギリス人にフランス人、ドイツ人、アメリカ人、デンマーク人、スエーデン人、スイス人、ロシア人、それにイタリア人とレバント人が、申しわけにばらりとばらまかれている。おっと、シナ人をもう少しで忘れるところだった。シナ人はうじゃといる。シナ人だけで、一区域占有しているくらいだ。しかし、なんといっても、優勢なのは、イギリス人とアメリカ人で――ことに、イギリス人はおおぜいいる。こういう有力人種のあらゆる欠点と、ややましな長所があるとすればそれもだが、これを調べるなら、わざわざ海を渡って研究するよりも、ここで研究した方がよっぽど便利なくらいだ。なぜかというと、こういう小さな寄り合い世帯のなかだと、かえっておたがいに、人の振りがよくわかるからだ。まことに、ここは極東という茫漠たる未知の沙漠のなかにある、西洋生活のオアシスだ。なるほど、ここでは、書くにたえない醜いうわさも、あるいは耳にするかもしれない。しかしまた一方では、清廉高潔、寛仁大度の美談も聞かれるだろう。――たとえば、自分は依怙地《いこじ》ものと見せながら、その真底《しんそこ》にある美しい心は、つとめて月並な仮面をかぶって、世間に悟られぬようにしている、そういう人がした、思い切った善行美談などだ。
しかし、たがいに生れた国を異にする外人同志も、それぞれその住む区域は、ちょっと歩いて行かれる程度の距離を越えてはいない。だいいち、そんな区域などは、いずれそのうちに消えてしまうことだろう。その理由は、あとで述べることにして、いったい居留地というところは、早熟に発展したところだ。アメリカの西部諸州にある「新開町《マッシュルーム・シティ》」みたいに、でき上がったとおもったら、もう発展の頂点に達してしまったという、そんな観がある。
居留地の周囲と、そこから少し離れた先のところには、本国人の町、つまり、日本人の住んでいる町が、ちょっとどこまでその先が広がっているか、見当がつかないくらいに延びひろがっている。ふつうの居留民にとっては、この本国人の町は、秘密の世界になっている。たいていの外人連中は、十年住みついていても、そこが、とにかくいっぺんは行ってみる価値があるところだなどとは、考えてもいない。そういう外人連中は、一介の商人なのであって、土俗の研究家でもなんでもないのであるから、もとより興味のあろうはずはないし、日本の町がどんなに変っているかなどということは、考える暇もないのである。そういう連中にとって、居留地の境界線を越えることは、じつに太平洋を越えるのと同じようなものだが、その太平洋にしても、人種と人種の違いにくらべたら、まだまだ狭いくらいのものだ。まあ、日本の町の狭っこい、どこまで行ったら尽きるのやらわからないような迷路へ、いちど、ひとりではいってごらんなさい。犬には吠えられるし、子どもたちからは、まるでこっちが、この国はじまって以来、初めて見る外国人ででもあるように、じろじろ見られるし、そして、おそらく、あとから追っかけてきて、「異人」「唐人」「毛唐人」などと呼び立てられるだろう。――「毛唐人」というのは、「毛深い外国人」という意味のことばで、べつに褒《ほ》めことばで言ってるのではないのである。
長いあいだ、居留地の外人商人たちは、万事に身勝手な振舞をしてきた。西洋の商人なら、とても承諾など思いもよらないような商売のやりくちを、日本の商会に強要してきたのである。――まるでそれは、日本人というやつは、ひとりのこらず、油断も隙もならない狡《こす》っからいやつだと思いこんでいる外国人の肚を、あけすけに曝《さら》け出したようなやり口だった。当時は、どこの外国人も日本人から品物を受けとると、それを久しく手もとに置いて調べに調べ、「徹底的」に調べぬいたあげくでなければ、物を買わなかったものである。あるいは、どんな輸入品の注文でも、「手附金」を払わなければ応じなかったのである。日本の売り手・買い手は、いろいろこれに文句をつけたけれども、しょせんは暖廉《のれん》と喧嘩で、とどのつまりはいやいやながら、やはり長いものには巻かれてしまうのであった。そのかわり、いまに見ろ、いつかは勝ってやるぞと、観念の臍《ほぞ》をきめながら、日本人は時節のくるのを待っていたのである。かれらは、外人町の急速な発展と、そこに根を下ろして成功した莫大な資本とを見て、自分の身を助けるまえに、まず、外人から学ばなければならないことを悟った。敬服はしないが、驚歎したのである。そこで、内心ひそかに、外国人のことを毛嫌いしながらも、外国人と商取引きもし、外国人のために働きもした。むかしは、日本では商人の位は、平百姓《ひらびゃくしょう》の下にあったものである。ところが、これらの外人侵入者は、気位の高きこと王侯のごとく、傲慢なること征服者のごときものがあった。雇い主としてのかれらは、ふだんはすこぶる苛酷で、どうかすると残忍にさえなることがある。そのくせ、金をもうける段になると、驚くほど抜け目がなく、王者のごとき生活をして、高い給金を払っている。そこで、こういう外人どもの支配下から国を救うためには、すべからく日本の若い者が、ぜひとも学ばなければならないことを学ぶために、かれら外人に使役されて、難儀をすることが望ましかった。かならずや、いつの日かは、日本も自国の商船をもち、海外銀行代理店と外国の信用とを得て、これら不遜な外人を放逐する日がくるにちがいない。まあ、それまでは、当分のあいだ、自分たちの教師として、外国人を許しておかなければならないと、そうかれらは考えたのである。
そこで、輸出も輸入も、すべて貿易はまったく外人の手に委ねられ、その貿易額は、無一物の白紙から、一躍、数億の巨額にのぼり、日本はうまく喰いものにされたわけであった。しかし、日本は、目下のところ勉強中で、そのために、当分のあいだ束脩《そくしゅう》を払っているのだということを、自分で承知していた。その隠忍は、侮辱ということを忘れたのかと思い誤《あや》まれるくらい、手も、足も、あたまも、じっとすくませていた、長い、長い、隠忍であった。天運はめぐりめぐって、ついに日本の機会は到来した。利を漁って、ますます殺到する外国人が、日本に最初の便宜をあたえたのである。われもわれもと先を争って、日本と貿易しようとする各国の競争が、旧弊なやり口を打破したのである。そして、新しい商館は喜んで注文を取るし、「手附金」も思いきって要らぬと言い出したので、巨額の前金は、もはや強奪されなくてすむようになった。それと同時に、外国人と日本人との関係も改善されてきた。それは、日本人の方で、相手からひどい目にあわされれば、すぐに徒党を組むという危険性を発揮しだしたことと、ピストルなどではもはやおどかされなくなり、辱しめられれば引っ込んではいず、たいていの荒くれものの相手でも、五、六分で片附けてしまうことを覚えてきたからであった。もっとも、よほど前から、人間の屑みたいな開港場《はま》の与太者どもは、すこし気に入らないことがあると、すぐに手向かいをする癖があったが。
居留地ができてから、ものの二十年とたたないうちに、一時は、日本の全土が自分たちのものになるのも、ただ時間の問題ぐらいに想像していた外国人たちも、だいぶ日本人というものを、今まで見くびりすぎていたことに気がつきだしてきた。そのあいだに、日本人は、驚くほどよく勉強していたのである。ほとんど中国人とおなじくらいに、よく学んでいたのである。外人の経営していた小さな店屋などは、だんだん追いやられてしまったし、いろいろあった商館なども、日本人との競争のために、やむなく店仕舞をしなければならない羽目に立ちいたったものなどもある。大きな外国会社でさえ、いままでのような濡《ぬ》れ手に粟《あわ》の金もうけ時代はとうに過ぎ去って、そろそろ商売のつらい時期に入りかけてきていたのである。外人の日用品なぞにしても、はじめのうちは、かならず外人の手で供給されていたもので、だから、問屋がうしろ楯になって、小売屋の店がみな大きく伸《の》していたわけなのだが、それが目に見えて、そういう居留地の外人小売店に秋風が吹きだしてきたのである。ある店などは、姿を消してしまったのもある。そうでないものも、みすみす目に見えて減ってきた。
こんにちでは、外国商館の番頭や手代も、居留地のホテルにいたのでは、とても暮らして行かれない。日本人のコックなら、わずかな給金で雇えるし、さもなければ、日本の仕出し屋から三度三度の食事をとれば、一品五銭か七銭で事がすむ。そんなわけで、そういう番頭・手代連中も、ちかごろでは、日本人の持っている「半洋風」の家に住んでいる。そういう家の床に敷いてある絨緞《じゅうたん》も、畳も、みな日本製のものだし、家具も、日本人の指物師がおさめた品である。そのほか、衣服、シャツ、靴、ステッキ、雨傘など、いずれも日本製品で、このごろは、手洗い所の石鹸にまで、日本文字が捺《お》してある。煙草好きなら、マニラの葉巻を、これも日本人の煙草屋から、外人の店の同じ品の値段より、一箱で半ドルも安く買っている。本がほしければ、これも外人の店よりずっと安い値段で、日本人から買える。――しかも、精選した多量の仕入品のなかから、選りどりで買えるのである。写真が撮りたければ、日本人の写真館へ行く。――外人の写真屋は、おそらく、日本では暮らしが立っていかないだろう。骨董がほしければ、これも日本人の店へ行く。――外人の店だと、どうしても、一割方は高く売りつけるのが定法である。
一方また、家族持ちのものだと、日々の買いものは、肉屋でも、魚屋でも、牛乳屋でも、果物屋でも、八百屋でも、なんでもかんでも、日本人の店で間にあわせる。英米のハムだのベーコン、罐詰類などは、当分まだ外人の店から買いつづけるかも知れないが、これとても、近頃では日本人の店で、おなじ品質の品を割安で売っていることがわかってきた。いいビールを飲むなら、これもたぶん、日本の醸造会社から売り出しているだろう。ふつうのブドー酒や酒なら、外人の輸入商で売っている値段より、安い値段で手にはいる。正直、日本人の店で買えない品といえば、商館の手代|風情《ふぜい》には、とても手の出ないもの――金持ち連中だけが買うような高価な品だけだ。最後に、たとえば、家人が病気になったようなばあい、これも日本人の医者に診てもらえば、まえに外人の医者に診てもらった時に払った額よりも、一割方は安い謝礼で事がすむ。外人の医者は、だから近頃では、医術以外になにか内職でもないと、暮らしがだいぶ苦しくなってきている。外人の医者が、たとえ一回の往診料を一ドルに値下げをしても、日本のすこしお高くとまった医者は二ドル取って、けっこうそれで競争に勝つことができる。というのは、日本の医師は、外人の薬剤師が破産してしまうような代価で、自分の手で調剤もやってのけるからだ。もちろん、どこの国でも、医者は掃いて捨てるほどいるものだが、日本の公立病院、もしくは陸軍病院の院長になるほどの腕のある、ドイツ語をしゃべる日本人の医師は、その技術においては、容易に他の追随を許さないものをもっている。ふつうの外人医師は、ちょっとかなうまい。日本の医者は、薬局へもって行く処方箋というものを、いっさいくれない。薬局は医者の自宅にあるか、院長なら、その病院の一室にそなえてあるのである。
これらの事実は、数多くの例のなかから、手当りしだいに挙げたのであるが、とにかく、以上のような事実によって、アメリカ人のいわゆる「ストア」――商店というものは、外人経営のものは、早晩、日本の居留地からは影を消してしまうだろう、ということがわかる。もっとも、なかには、日本人のなかの一部の小商人どもがやった、あのなくもがなの、愚にもつかない詐欺行為――たとえば、舶来のレッテルのついた舶来の罎《びん》に、怪しげな酒を詰めて売ろうとしたり、輸入品を偽造したり、あるいは、商標を模造したり、そんな詐欺行為のおかげで、かえって命を延ばした外人の店も何軒かあったりしたが、しかし、日本商人全体としての常識は、そういう不徳義行為には、強硬に反対しているから、まもなくそうした悪弊はひとりでに是正されてゆくだろう。いったい、日本の商人が、外国商人よりも、物を掛け値なしに安く売ることができるのは、けっきょく外国人より安価に生活ができるのみならず、競争しながら、けっこうそれで金がもうかってゆくからなのである。
このことは居留地内でも、やっと最近になって認められだしたのであるが、しかし、まだまだ迷妄はなかなか解けない。輸出入をあつかう大商館は、なんといっても地盤が堅いから、ちょっとやそっとのことでは倒れるようなことはない。だから、そういう大商館は、まだ当分のあいだは、西洋との貿易の大勢を牛耳《ぎゅうじ》ることができよう。それに、日本の商社は、外資の圧迫に拮抗できるだけの資本はないし、だいいち、資本があってもそれを運用する商法をこころえていない。なるほど、外人の小売業者は、これはなくなるだろう。しかし、そんなことは、なんでもありはしない。そのかわりに大商館は、依然として元のままに居すわり、ますますその数はふえ、資本はいよいよ増大するだろうと、こうかれらは見通しをつけているのである。
こういう外面的な変化がつづけられているあいだにも、民族間の実際感情――東洋と西洋とが、おたがいに毛ぎらいしあっている感情は、しだいに増大して行った。開港場で発行している、九つか十の英字新聞の大多数が、毎日、侮《あなど》り軽んずるような嘲弄的な言辞をもって、そういう嫌悪の一面を書き立てた。すると、有力な日本の新聞の方でも、売りことばに買いことばで、すかさずこれに応酬する。そういうわけで、だいぶ険悪な反応をひきおこしたものであった。こういう「反日的」な外字新聞紙が、じっさいに、居留民の絶対多数の感情を代表しているのではないにしても、――わたくしは代表していると信じているが――すくなくとも、外資の力と、居留地の優勢な勢力とを言論にあらわしていることは、まぎれもない事実だ。これに対して、「日本びいき」の英字新聞は、いずれも敏腕な連中が編集にあたって、ずいぶん、その道の腕をふるっているのだけれども、それでも、同業者の言説によってあおられた強い鬱憤《うっぷん》は、なかなか鎮圧することができなかった。そうなると、英字新聞にかかげられた日本人の野蛮不道徳の非難記事は、逆にこんどは、日本の日刊新聞がさっそくそれを取り上げて、開港場の外人の醜聞暴露の記事で、竹箆《しっぺ》がえしをくわせる。そんなことで、何千万という日本人に、ぱっとそれが知れわたってしまう。といったようなわけで、この人種間の問題は、強硬な日本の排外団の手によって、政治問題にまで持ちこまれ、居留地は悪徳の温床なりとして、公然と攻撃の矢を蒙った。国民の憤激また侮りがたく、ついに内閣が断乎たる処置に出たので、ようやくのことで大事に至らずして事がおさまったほどであった。それにもかかわらず、外人記者によって、油は、せっかく消し止められた火のうえにまた注がれた。かれらは、日清戦争の当初には、公然、シナ側に味方をした連中であった。かれらのこの方針は、戦時中、ずっと持ち続けられた。そういう外字新聞には、日本敗北の虚報がやたらに載せられ、どこから推しても、わかりきった勝利までが、不当なケチをつけられ、さて戦争の勝敗がきまったのちは、「日本は甘やかしすぎたので、手のつけられない国になった」などといって、うそぶいている始末だった。その後まもなく、ロシアの干渉が拍手をもって迎えられ、イギリスの同情は、イギリス人の血をうけた連中から、こっぴどく非難された。こういうばあいに、こういう言説を弄《ろう》すれば、その結果は、かならず、こういうことを絶対に許しておかぬ国民に、許すべからざる侮辱をあたえることになるのは当然のことである。そういう言説は、憎悪のことばであったと同時に、じつは恐怖のことばでもあったのである。つまり、外国人はすべて日本の司法権の下におかれるという、新しい条約の調印によってひきおこされた驚愕と、その新条約の背後には、さらに新しい意味の国民的勢力をもった、やむにやまれぬ排外運動が起りはしないかという恐怖とが、知らず知らずのうちに、ああいう言説になったのであった。もっとも、新しい排外運動云々のことは、これはあながち根拠のないことでもなかった。そういう運動の徴候は、じっさい、外国人さえ見れば嘲弄揶揄《ちょうろうやゆ》する、一般国民の傾向にも認められたし、また稀にある、見せしめにやる暴行行為などにも、明らかに見えていた。ところへ、政府はふたたび布告を出して、こうした国民的|憤懣《ふんまん》の示威的行動を戒《いまし》める必要をみとめたので、そういう運動も、いわば開店休業のような形でじきに止んでしまった。しかし、この運動がやまった原因のひとつは、海軍国としての、当時のイギリスの友好的態度が、国民一般に認識されてきたことと、世界の平和に一朝事あった場合の、日本に及ぼすイギリスの政策の価値が、ようやくみとめられてきたからであることは、疑いの余地がない。イギリスは、同時にまた、極東在住の英国人の猛烈な反対があったにもかかわらず、条約改正を可能ならしめた筆頭の国である。日本の指導者たちは、その恩恵を感じている。もしこれがなかったら、居留民と日本人とのあいだのいがみあいは、たしかに懸念されたような悪い結果を招いたにちがいない。
もちろん、はじめのうちは、この相互の反感は、人種的なものであったから、したがって自然であった。ところが、後日になって発展した、むちゃくちゃに猛烈な偏見と悪意とは、これは日を追うて増してきた相互の利害の衝突と、切っても切れないものであった。こうした情勢を、ほんとうに理解できた外国人なら、とても雙方《そうほう》和解の望みなど、まじめに持てるはずはなかったにちがいない。民族的感情、感情的な差別、言語、風習、信仰の壁、これは何世紀たっても、超えがたいままにのこって行くようである。直観的に、おたがいに相手の気質を見抜くことができるような、例外的な人物相互の牽引から生ずる、温い友愛の例もあることはあるけれども、だいたいにおいて、外国人が日本人を理解しないことは、日本人が外国人を理解しないのとおなじである。そのうえ、外国人にとって、誤解よりもさらに悪いことは、自分が闖入《ちんにゅう》者の立場にあるという単純な事実である。普通のばあい、外人は、日本人とおなじ扱いを受けることは、とても望めない。これは、なにも外国人が余分な金が自由になるというためではなく、人種が違うためなのである。外国人に売る値段と、日本人に売る値段がちがうのは、これは、御定法だ。ただ、外人相手にかぎった店なら別だが、早いはなしが、劇場へ行っても、見世物小屋へはいっても、あるいは、その他の娯楽場、宿屋のようなところへ行っても、外人だと、国籍税というものを取られる。それから、職人、人夫、番頭など、いずれも外人相手となると、内地並みの賃銀ではけっして仕事をしない。給金以外に、なにか見かけた山でもあれば、話はまた別だが。たとえば日本のホテル業者は――とくに欧米の旅客のための施設になっているところは別だが――外人の勘定書は、普通の値段では書かない。この規則を守るために、大きな旅館組合が――全国幾百という宿屋業者をたばね、地方の商人や木賃宿のようなものにまで、命令を達することができるような、大規模な組合組織が作られている。外国人は、よけいな手数をかけるから、日本人より宿賃ははずんでいただくということが、どうどうと旅館に掲げてあるのだ。外人がよけいな手数をかけるというのは、こりゃなるほど事実であるが、しかし、こういうことにも、その下心には、人種的感情が明らかにわだかまっているのである。だいいち、大きな中心都市などにある旅館は、いずれも日本人の風習にのっとって作られてあるが、外国人の習慣などは、まるで考慮に入れられていないために、外人のために、往々にして損をすることがある。――というのは、ぜいたくな日本人の泊り客は、外人がひいきにする宿屋を好まぬふうがあるのと、それに、日本人なら、五人か八人のお連れさんの入れ組みで、けっこう金がさのあがるへやを、西洋人の客は、ひとりで独占したがるふうがあるからである。これに関係したことで、もうひとつ、まだ一般の西洋人にわかっていないことがある。それは、旧時代の日本では、旅館のサーヴィスに対する心づけが、客本位になっている点だ。いったい、日本の宿屋では、どこでも食費をほとんど実費以上にとるところはない。(いまでも、地方の宿屋はそうだ。)であるから、宿屋の儲けは、まったく、客の心づけにたよっているわけなのである。宿屋に茶代をおくということは、つまりここから出ているわけで、金のない客からは少額、金のある客からは、サーヴィスしだいで、多額のものがもらえる。おなじように、客席に出る女中なども、自分のする仕事の値打以上に、客のふところに相応したものを胸算用している。たとえば、職人なども、いい顧客《とくい》の仕事をするようなときには、自分の方から値段をさすことはしたがらない。ただ、商人だけは掛け引きをして、お顧客からうまい汁を吸おうと心がける。――それが、むかしから、この国の商人という階級の、たちの悪い特権だったのである。勘定を相手の意志にまかせるというこの習慣が、西洋人相手の取引に、かんばしい結果がえられなかったことは、容易に想像される。西洋人は、物の売り買いを、すべて事務として考えている。そして西洋では、事務が、純抽象的な道義心で行われることはまずない。あっても、せいぜいまあ、比較してみた上で、幾分かあるという程度の道義心で行なわれるにすぎない。金ばなれのいい人ほど、買いたい品物の値段を、自分の心もちしだいにまかされることをきらう。それはそのはずで、材料がいくらぐらいするものやら、手間がどのくらいかかったものやら、確かなところはわからないのだから、しぜん、余分に払いすぎるな、と思うほどのものを、どうしたって払わなければならないような気になるからである。そのかわり、渋いやつは、こいつ勿怪《もっけ》の幸いとばかり、とことんまで、思いきった値ぎり方をする。そんなわけで、日本人は、外国人との取引には、どうしても特定の値段を定めなければいけない。もっとも、取引といっても、そこはおたがいに人種的反感があるから、どうしたって多少そこに喧嘩腰のところがある。ところで、外国人は、腕のいいあらゆる種類の手間に、そうとう高い賃銀を払わせられているばかりでなく、高い地代の契約に署名もしているし、高い家賃をしかたなくしぼられてもいるのだ。それに、家事の方面でも、雇人を雇えば、追いまわし同然のものでも、給金は高い。そのくせ、言いつかる仕事が好ましくないというので、たいていは長く居つかない。学校出の日本人で、外人雇いに入ることを望むものの熱心さも、一般に誤解されている。そういう連中のほんとうの目的は、多くのばあい、ただ単に日本の商社とか商店、ホテルなどと同種の仕事を見習おうというにある。普通の日本人は、高い給金を払う外人のために、一日八時間働くよりも、安い給金をもらって、日本人の家で十五時間働く方を好んでいる。大学出の人間が、下僕として働いているのを、わたくしは見たことがあるが、そういうのは、特殊なことを学ぶために働いているのである。
じっさい、どんな鈍感な外国人でも、自分の国を絶対に独立自尊の国家にしようと、挙国一致で努力している四千万の国民が、自国の輸出入の貿易を外人の手にまかせて、それで安閑としていようなどとは、信じちゃいなかったろう。ことに、開港場の空気を見ては、なおさらのことである。外人の居留地が、日本国内にありながら、領事裁判の支配下にあるということからしてが、すでに国民の自負心に対して、しじゅう憤懣のたね――というよりも、国民の無力さを暴露したものであった。このことは、すでに印刷物にも、排外団員の演説にも、議会の演説にも、そのとおり声明されている。しかしながら、日本の貿易は、ことごとく日本人の手に握りたいという国民の要望も、居留民に対する、そのときどきの挑戦的態度の表明も、けっきょくは、一時の懸念をかき立てるだけにおわった。やがて、海外の取引相手を排斥しようとする企ては、ひいてはそれが、みずからを傷つけることにほかならない。――そういう説が、自信ありげに主張された。一方、居留地の商人たちは、自分たちが、日本の法律の支配下におかれたことには一驚を喫しながらも、法を侵害しさえしなければ、大きな外資に対して、いくら日本が攻撃しようが、それは成功しないと考えていた。そういうかれらは、こんどの戦争中に、日本郵船会社が世界最大の船会社のひとつになったことも、日本がシナとインドとに直接に貿易をはじめたことも、また、日本の銀行代理店が、海外諸国の大きな工業中心地に設けられたことも、日本の商人たちがその子弟を欧米に洋行させて、健全な商業教育を受けさせていたことも、いっこう意に介さずにいたのである。また、日本人の辯護士が、しだいに多くの外人依頼者を獲得しつつあったからといって、あるいはまた、日本人の造船技師、建築技師、その他の技師たちが、政府の招聘《しょうへい》した外人技師の後釜にすわりつつあったからといって、欧米との輸出入貿易を押さえている外国の代理店が、締め出しを喰うなどということは、けぶりにも考えていなかったのである。商業という機関は、日本人の手においたって、役に立ちゃしない。商売に対する先天的才腕というものは、ほかの職能では、けっして卜《ぼく》されないものだ。日本に投資された外資は、これに対抗しようとして作られた、どんな合資合名にも、そうまんまと脅かされるようなことは、まずありえない。そりゃ、ある商店は、ごく小規模な輸入貿易に乗りだすことができるかも知れない。しかし、輸出貿易ともなれば、これは西半球の商業状態に精通していなければならないし、日本人などには、とても逆立ちしたってできない連絡と信用とが要《い》る。――こういって、かれらは、空うそぶいていたのである。ところが、どうであろう。それほど空うそぶいていた輸出入貿易の自信は、一八九五年の七月に、ころりと破られてしまった。それは、イギリスのある商館が、日本のある商会を相手どって、注文品の引取り方を拒絶したというかどで、日本の法廷に告訴し、その裁判に勝訴となって、約三千ドルをせしめたところが、俄然、いままで思いももうけなかった強力な組合が出現して、それとの対抗で、脅威をうけるようなことになったのである。日本の商会は、そのとき、判決に対して控訴はしなかった。そして、もし御要求なら、全額をすぐに支払うだけの用意があると表明した。が、その商会が加盟している組合側は、勝った原告に、判決どおり示談で手を打った方が有利だろう、と勧告した。当のイギリス商館は、じつはそのとき、根こそぎ破産してしまうほどの不買同盟《ボイコット》――全国のあらゆる商工業の中心地にひろがる、大々的な不買同盟に脅かされていることに、はじめて気がついたのであった。けっきょく、その時の示談は、外国商館の大損失となり、居留地はふるえ上がってしまった。日本がそういう挙に出たのは不徳義だ、と非難を鳴らす声もだいぶあったが、しかし、これは法律もいかんともすることのできない行動であった。なぜかといえば、不買同盟は法律では満足に解決できない問題だからである。そしてこのことは、ひいては日本人が、外国商館を強引に――公正な手段でなければ、卑劣な手段に訴えても、自分らの指図どおりに承服させることができるという、有力な証拠をあたえたようなものであった。すでにして、強大な組合が大商工業者たちの手によって組織され、組合の行動は電信一本で統一され、反対者を粉砕し、法廷の判決すら眼中におかなかった。まえにも日本人は、たびたび不買同盟を企てたことがあるが、いつも成功したことがないので、合同団結などはとても望めないものと思われていたのである。ところがこんどの新局面は、失敗によって学ぶことの多かったことと、組合の組織をさらに改善すれば、たとえ外国貿易を自分たちの手のうちにことごとく収められなくても、手加減ひとつで、けっこう運営していかれるという、当然の期待がもてることを示したのであった。こうなれば、この次にくる大きな段階は、いよいよ国民の待望である、「日本人のための日本」を実現することであろう。その暁には、この国は、外人の居留地にひろく開放されるだろう。そのかわりに、外国の資本は、かならず、日本人組合の庇護を受けなければなるまい。
以上、簡単に日本の現状について述べてきたのであるが、これだけでも、日本における大いに意義ある社会現象の発展を証するに、じゅうぶん足りるであろう。もちろん、新条約のもとに、当然予期せられる門戸の開放、工業の急速な進歩、欧米との貿易額の年々の大増加は、おそらく今後も、外人居留者の多少の増加をもたらすだろう。そして、この一時的な結果から、当然起るべき今後の大勢を、思い誤まるものも多いかも知れない。しかし、経験に富んだ、年をとった商人たちは、いまでも、開港場の今後の発展は、日本商業の競争的成長を意味するもので、外人商人はこのために、ついには駆逐《くちく》されてしまうにちがいない、と公言している。共存社会としての外人居留地は、やがて消滅してしまって、そのあとには、ただ、文明国の主要な港々にあるような、ごく少数の大会社の代理店だけが残ることになるだろう。そして、廃棄された居留地の町と、高台にある金のかかった洋館とは、そのまま、日本人がそこへ住みつくことになるだろう。今後はもう、巨額な外国資本の投資は、内地ではなされることはないだろう。キリスト教の伝道事業でさえ、やがては日本人の宣教師の手にまかせられるにちがいない。ちょうど、仏教が、日本人の僧侶の手に、その教義の教化をすっかりまかせきれるまでは、日本に根を張らなかったのとおなじように、キリスト教もやはり、日本人の感情生活や社会生活にしっくり調和するように改造されるまでは、ひとつの安定した形をとらないであろう。たとえ、そのように改造されたところで、まず、少数の小さな宗派の形においてしか、日本では存続する見込みがないだろう。
この社会的現象は、たとえ話で説明するのが、いちばんいい。人間の社会は、いろいろの点で、生物学的に、一個の有機体と比較することができる。その組織のなかへ、むりに異物を押しこんで、それが組織中に同化されないと、そこにある種の刺激と、局部的な分解作用を起して、ついには、ひとりでに排出してしまうか、人工的に取り除いてしまうかしなければならなくなってくる。日本はいま、この邪魔ものの異分子を、体外へ排出してしまうことによって、国自体がいよいよ強力になりつつあるところなのである。そして、この自然の過程は、全国の居留地をふたたび自国のものに取りもどして、この帝国のうちに、外国人の支配下にあるものはひとつも残しておくまいという、堅い決意のうちに表徴されている。外人|雇傭《こよう》者の解雇、外人宣教師の権柄ずくに対して、日本の信徒たちが提起した抗議、外国商人に対する断乎たる不買同盟など、すべてみな、このあらわれである。しかも、こうした国民運動の背後には、人種的反感以上のものがひそんでいるのだ。そこにはまた、外国から援助を受けることは、とりも直さず、それは国民の無力さを証拠だてるものだという信念、自国の輸出入の貿易事業が、外国人に牛耳られているあいだは、日本帝国は、世界の商業界に生き恥をさらしているのだという、確固たる信念があるのである。すでに日本の大商社のうちには、外国の仲介業者の手を、早くも脱しているものがいくつかあるし、インド及びシナとの大規模な貿易は、日本の汽船会社の手によって、着々と進められている。近く南米諸国との交易も、原綿輸入のために、日本郵船会社の手によって開かれることになっている。しかし、そのあいだ、外人居留地は、絶えず刺激の源泉として、もとのままに残っている。ここにおいて、倦《う》まざる国民の努力による商業上の征服のみが、国家を満足させ、シナとの戦争以上に、日本の世界における真の位置を証するであろう。その征服は、かならず成し遂げられるにちがいないと、わたくしは考えている。
日本の将来はどうなるであろうか? 遠い将来まで、現在の趨勢《すうせい》がつづくだろう、というような推定の上に立ったのでは、だれでも確定的な予言を敢えてすることはできまい。恐ろしい戦争が、ふたたびまた起るかも知れないというような予測や、あるいは、国内の秩序がみだれて、憲法は空に帰し、ふたたび武人の専政時代がきて、洋服を着た将軍職が復活するかもしれん、などという臆測は抜きにして、よかれあしかれ、大きな変化はたしかに起るだろう。そういう変化は、当然のこととしても、この国民が、急激な、反動につづく反動の時期を通るうちに、新しく発見した知識を、最も有効に消化して行くだろうという、もっともな推定を根拠にすれば、ある限定された範囲内での予想は、あえてつければつかないこともあるまい。
体位の点からいっても、日本は、次の世紀の末にいたらぬうちに、現在の状態よりも、はるかにすぐれたものになるだろうと、わたくしは考えている。そう信ずるには、ここに三つの理由がある。第一は、帝国有為の青年の組織立った軍事教練と体操教練とが、かならず数代のうちには、ドイツの軍事教練がおさめたような著しい結果――身長、平均胸囲、筋骨の発達などの増進――をもたらすということ。第二は、都会に住む日本人が、ひところよりも滋養に富んだ食物――つまり、肉食をとるようになってきたということ。したがって、むかしよりも滋養分の多い食物が、当然発育をうながす生理的効果をうむにちがいないということ。一例をあげてみると、西洋料理のできる料理店が、それも、値段の安い日本料理とおなじ値段で食わせる店が、雨後の竹の子みたいに、到るところにできてきた。第三には、教育と兵役義務との当然の結果として、一般に婚期の遅れることが、よりよい子孫を産むことになるにちがいないこと。こんにちでは、早婚は、もはや通例というより、異例になってきているから、しぜん虚弱児童は、数において減少していくだろう。げんざい、日本人が大ぜい集まっているところなどを見てみると、その体格に、著しい違いがあるのを見うけるが、このことは、とりもなおさず、この国民は、厳格な社会的訓練の下におけば、その体位は大いに発達することが可能であることを立証しているように思われる。
道徳的な改善は、これはちょっと期待が薄い。むしろ、反対に憂うべき点が多くある。日本の昔の道徳的理想というものは、すくなくとも、西欧人の理想とおなじくらいに崇高なものであった。温情にみちた家長制度の平穏な時代には、男子はじじつ理想どおりに生きていられたのである。不実、不正直、その他|人外《にんがい》な罪悪が、こんにちにくらべて稀であったことは、政府の統計が示すとおりで、犯罪率は、この数年間に累進的に増加しつつある。もちろん、これにはいろいろ原因もあることだが、生活難が年々激烈になってきたというのが、その一因であろう。むかしの貞操の標準が、西欧の社会よりも発達の低い社会のそれであったことは、こんにち、世論にあらわれているとおりであるが、しかし、当時の道徳的諸条件が、西欧のそれにくらべて低かったという主張が、ほんとうであるかどうかは、わたくしには信じられない。ある一点では、たしかに、われわれよりも高かったのである。というのは、日本の妻女の貞節、これだけは、いつの時代でも、一般に疑うべからざるものであったからである。それに引きかえて、男子の道徳は、婦人のそれに比較してだいぶ非難の点が多かったとは言いながら、これはしかし、イギリスの史家レッキーの言を引くまでもなく、西欧諸国においても、果たしてこれにまさる状態にあったかどうかは疑問であろう。この国では、むかしは早婚が、若いものを放蕩への誘惑から守るために奨励された。おおくの場合、その目的が達せられたことは想像される。また、金持の特権であった蓄妾には、その半面、弊害もあったけれども、一面また、妻女に矢つぎ早やに子どもを生ませる、生理的な過労から救うという効果もあった。だいたい、この国の社会情勢が、西洋の宗教が最もよいものと考えているものとは、だいぶ開きがあったのであるから、日本の蓄妾問題というやつは、キリスト教の僧侶には、とても公平な判断はつきっこない。ただ、ここに争いがたいひとつの事実は、蓄妾制度は売笑行為に掣肘《せいちゅう》を加えたということである。したがって、城下町――大名の居住地――の大きなところでは、遊廓の存在が許されなかったところさえある。こういうすべてのことを、公平に考えて行くと、旧日本は、家長制度のようなものが布《し》かれていたにもかかわらず、性道徳の点でさえ、西洋諸国に比べると、非難の点が少なかったということができるだろう。国民は、法律が要求するよりも、ずっと善良であった。それが、こんにちでは、男女関係が新しい法典で規定されることになって、――じっさい、新しい法典が必要になったのである――それによって招来される変化は、まことに願わしいことなのだが、しかし、そうなったからといって、そうおいそれとすぐには、良い結果はえられまい。けだし、法律を制定したところで、にわかな改革というものは行なわれるものではないからである。法律は、じかに情操を生みだすことはできない。ほんとうの社会的進歩というものは、長年の教化と訓練とによって発達した道義的感情が変ることから、はじめて成立するものなのである。それまでは、当分のあいだ、人口の増加難と、いよいよ激烈になってゆく生存競争とが、一面には知性の発達を促進させながらも、他面には性情を頑《かたく》なにし、利己的な主張を助長させていくことになるにちがいない。
知性の上では、日本人は、将来、かならずや大きな進歩があるだろうが、しかし、進歩するといったところで、日本はこの三十年のあいだに生まれ変ったように変ったと考えている人たちが、われわれをなるほどと納得させるほど、それほど急速には進歩しまい。科学教育がいくら民間に普及しようが、それがただちに、実際の知力を西欧の水準まで引き上げるというわけにはいかない。一般人の能力は、まだまだ数代のあいだは、現在のごとく、低いままでいるにちがいない。なるほどそこには、これはと思うような、顕著な異例も多々あることだろうし、げんに新知識の優れた人たちが、そろそろ抬頭してきつつあることはある。けれども、日本国民の真の将来は、少数者の異例の能力よりも、むしろ、広く一般多数者の能力にたよらなければならない。ことに、日本の将来は、こんにち、到るところで熱心に開拓されつつある、数学の力によるものが多いだろう。現在のところ、数学が弱味になっている。毎年、多くの学生が、数学の試験が通らぬために、その上の重要な高等学府の門に入ることを阻まれているという現状である。もっとも、陸海軍の士官学校では、この弱点も、おいおい矯正されるだろうという見通しを示すに足りるような結果が、着々得られつつあるようである。科学研究の分野で、最も至難なものとされているこの数学にしても、その分野に、ようやく頭角をあらわすことができてきた人たちの子孫の代になれば、おそらく、だんだんむずかしくなくなってくるだろう。
ところで、他の方面では、一時的なある種の後退がくることが、予期されなければならないだろう。ちょうど日本が、自力の限度以上のものを意図したその線まで、――あるいは、その線以下まで落ちることは、疑いない。こうした後退は、ごく自然なものだし、同時にまた必然的なものであって、これはいずれそのうちにまた、捲土重来《けんどちょうらい》すべき雪辱の準備以外の意味はないものである。その徴候は、すでにこんにち、ある官庁の仕事のうえに見えている。ことに、文部省の仕事にそれが著しい。いったい、東洋の学生に、西洋の学生の平均能力以上の学科を課そうとしたり、英語を自分の国の国語、乃至《ないし》は第二国語にしようとしたり、あるいは、こういう訓練によって、父祖伝来の感じ方、考え方を、もっとよいものに改良しようとしたり……というような物の考え方は、じつに無謀な考え方であった。日本は、どこまでも、自国の精神を発展させて行かなければ駄目だ。異国の精神などを、借りものにしてはいけない。わたくしの親友で、一生を言語学にささげている男がいるが、その男が、かつてわたくしに、日本の学生の行儀のくずれたことについて、こんなことを言ったことがある。
「いやね、英語そのものが、堕落の影響をあたえたんだよ」と。このことばには、意味深長なものがある。日本の国民全体に英語を学ばせるなどは、ほとんど乱暴にちかいことであった。(いったい、英語という国語は、「権利」については、いろいろ説教を説くくせに、「義務」については、いっこうに説くことをしない国民の国語である。)それを国民全体に学ばせようという政策は、あまりに突飛だったし、だいいち、大がかりすぎた。たいへんな時間と費用がかかったうえに、それがいつとはなしに、道徳的感情を掘りくずして行くのに役立ったのである。将来は、日本も、ちょうど英国がドイツ語を学ぶように、英語を学んでゆくことになるだろうが、しかし、この英語の習得は、いろいろの方面で、むだ骨におわったけれども、ある方面では、徒労におわらなかった点もある。英語の影響は、日本語の変革に効果があったのである。そのために、国語の語彙が豊富になり、また、国語に伸縮性が加わり、さらに、近代科学の発見から生じた、思想の新しい形式を表現することができるようになった。この影響は、長くつづくにちがいない。将来は、フランス語やドイツ語とおなじように、英語はそうとう多く、日本語のなかに吸収されるだろう。この吸収は、すでに有識階級のことばづかいの変化に、著しくあらわれている。それは、ちょうど開港場の日常会話のなかに、外国の商業語が妙なふうに変形されて混っているのとおなじである。のみならず、日本語の文法的な構成も、だいぶ影響をこうむっている。先日、旅順陥落の際に、東京の町の腕白小僧どもが、「旅順が占領された!」と受働態《パッシヴ・ヴォイス》でどなっていたのを、ある牧師が聞いて、ああ、これも「神意」の然らしむるところだといっていたのには、にわかに賛成はできないにしても、とにかく、この話なども、日本語ということばが、本来、この国民の天性とおなじように、じつに同化しやすいことばであって、情勢が新しくなればなるで、どこまでもその要求にあわせて行ける力があることばだという証拠にはなると、わたくしは考えている。
おそらく日本は、二十世紀になれば、こんにちの外人教師というものを、よけいに懐しく思い出すだろう。しかし、思い出すにしても、この国が、明治以前のむかしに、中国に対して感じていたような、ああいう古来の風習どおりに恩師を尊敬する念は、まず感ずることはあるまい。これはなぜかというと、中国の知識は、日本はこれを自発的に求めたのであるが、西洋の学問は、強制的に押しつけられたものだからである。キリスト教にしても、いずれ日本は日本流の宗派をもつだろうが、それにしても、むかし日本の青年を教導した中国の高僧を、こんにちでも長く記憶しているようには、アメリカやイギリスの宣教師のことを、長く記憶はしないだろう。また、われわれが日本滞在の形見の品を、七重の絹にていねいに包み、美しい白木の箱に納めて、長く保存しておくようなことは、まずしないだろう。なぜかというのに、われわれは、新しい美の教訓は日本に教えなかったのだし、日本人の感情に訴えるような物は、なにひとつ与えることをしなかったからである。
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因果応報の力
好いたお方と朝日の顔は
眺めようとてかなやせぬ
――日本のことわざ
近代科学の保証するところによると、初恋の熱情というものは、その当人にとっては、「それに関するすべての経験に先立つもの」(注 ハーバート・スペンサー著「心理学原理」のうち感情篇の一節)であるという。つまり、これをべつのことばでいうと、すべての感情のなかで、これこそは自分独自の感情だと思われるものも、じつは、それがけっして自分ひとりだけの個人的なものではない、というのである。むかしの哲学も、これとまったくおなじ事実を発見しているが、それにしても、人間の恋の神秘を説明する理論は、なかなか興味ふかいものだ。もっとも、科学は、今日までのところ、この問題については、わずかにある暗示をあたえる程度のところに、儼《げん》としておのずからひとつの限界をかぎっている。これは、はなはだ遺憾なことである。というのは、哲学者は、いつの時代にも、この問題に適切な解明をあたえることができないでいたからである。――やれ、恋人の最初の一|瞥《べつ》は、恋するものの魂に、神聖なる真理のある潜在的・先天的な記憶を呼びさますとか、あるいは、恋のまぼろしとは、なにかしきりと形になって現われたがっているくせに、まだこの世に生まれない魂がつくるものだ、などといっているが、この程度のことでは、どうもはっきりしない。ただ、科学も、哲学も、きわめて重要な一点では、両者とも一致している。つまり、それは、恋するもの自身は、けっして自分の勝手に選択するのではない、恋人というものは、あるひとつの感応体である、という点だ。科学は、この点、さらに百尺竿頭《ひゃくしゃくかんとう》一歩を進めている。――初恋の責任は、とうの昔に死んでしまった先祖にあるのであって、生きている当人の知ったことではない、といっているのである。そういえば、初恋というものには、なにかしらそこに、幻妖な思い出のようなものがあるように思われる。もっとも、仏教なんかとは違って、さすがに科学は、人間は特殊な事情のもとにあると、前生を思い出すことができるなんぞと、そんなことをおおびらに言ってはいない。ところが、生理学に根柢《こんてい》をおいている心理学は、個人の感覚のなかに、そんな記憶の遺伝なんかあるわけがない、といって主張しているが、しかし、それよりもっと漠然としてはいるが、もっと強力な記憶――無量無尽の祖先の記憶の総量――幾兆億京かわからない経験の総量、これは遺伝するものだということを認めている。こんなふうにして、心理学は、われわれのいちばん不可解な謎のような感応、――たがいにぱっと衝突しあう出来ごころ、――不思議な本能、つまり、ちょっと見たところでは、とてもりくつなんぞでは割りきれないような、なんとなくあれは好きだとか、これは虫が好かないとかいう、あの気持、――なんということはないが、胸がわくわくして嬉しい気持、あるいは、悲しい気持、等々々を解明することができるが、しかし、これらのものは、ただたんに個人の経験というものだけでは、今のところ、けっして説明のつかないものである。けれども、そういう心理学にしても、まだ初恋については、今のところ、われわれに多くを語るだけの余裕をもっていない。――初恋こそは、目に見えない過去の世界とのつながりの点において、人間のあるゆる感情のなかでも、最も幻妖にして、神秘不可思議なものなのであるが。
われわれ西洋人のあいだだと、この初恋という謎は、こんなふうにして現われてくる。まず、尋常に身体強健に成育した青年には、女性に対して、自分の肉体的優越感から生ずる、原始人的な侮蔑を感ずるという、一種の隔世遺伝めいた時期が来る。ところが、この女性との交際にすこしも興味がなくなった時期に、とつぜん、かれは狂熱的な恋愛病にかかるのである。いままで見たこともないひとりの乙女が、ゆくりなくも、かれの一生の行路をよこぎる。なにも、この乙女が、べつにほかの女の子と違ったところがあるわけでもなし、普通の人が見たって、さしてびっくりして目を見はるほどの代物でもないのに、とたんに、大波がどっと押し寄せたように、いきなり血が心臓へと逆流して、五官という五官が痺《しび》れたようになってしまう。それからというものは、物狂おしい恋ごころに一応の鳧《けり》がつくまで、男のいのちは、すべて、いやもう、なにもかにも、新しく発見されたその乙女のものになってしまう。が、そのくせ、御当人は、相手の乙女については、いっこうなんにも知っていない。知っているのは、ただ、太陽の光でさえ、この乙女に触れると、いっそう美しくなるということだけだ。この蠱惑《こわく》から、かれを引きはなすことは、いかなる人間の知識でも、とうていできない。が、しかし、いったいぜんたい、この蠱惑力なるものは、だれのものなのだろう? げんに、そこに生きている御本尊の偶像に、なにか力があるのであろうか? 心理学者は、われわれにこう言っている。その蠱惑は、じつは、偶像崇拝者自身の心のなかに潜在する、祖先の力である、と。つまり、死んだ祖先が、まじないを施すのだというのである。恋するものの心におこる激動は、つまり、先祖の激動だというのである。ひとりの乙女の手にさわったために、男の体じゅうを走りまわった電気のような身ぶるいも、やはりそれは、その男の先祖の身ぶるいだ、と心理学者はいうのである。
しかし、それならば、なぜ、死んだ先祖は、ほかの女の子はおいて、その乙女だけを求めるのであろう? これが、この謎の最も解きがたい点である。ドイツの大厭世家、ショーペンハウエルが提出した解決は、あれは、将来、科学的な心理学とは調和しないことになるだろう。進化論的に考えると、死んだ先祖の選り好みは、これは先見とか予知とかいうよりも、むしろ、記憶に基づいた選択というべきであろう。どうも、この謎は、薄気味がわるい。
ちょうど、二重三重に組み合わせた写真かなんぞのように、過去の世に、祖先を愛した女のおもかげが、その乙女によみがえっているという理由で、その乙女を求めるのだという、ロマンティックな可能性も、なるほど、あるといえばあるかも知れない。しかし、同時にまた、先祖が片思いにおわったいろいろの女の魅力が、どことなく相手にあらわれているから、その女を求める、ということもありうるだろう。
かりに、この、いっそう薄気味のわるい、後の説を採るとすると、恋の情熱というものは、たとえ、七たび地下に埋められても、けっして死にもしなければ、休止もしないものだということを、信じなければならない。片思い人が死ぬのは、それはただ、死ぬと見せかけるだけで、そのじつは、自分の願いをかなえるために、幾代もの人の心のなかに、生々流転して、生きているということになる。おそらく、かれらは、幾世紀でも、自分の愛した形骸の再現を待っているのだろう。――永久に青春の夢のなかに、そこはかとない記憶の綾《あや》を織りこみながら。だからこそ、添いとげられぬ片思いの、それを苦にして死んだ人の死霊が、だれともわからぬ女の人に取り憑《つ》くなどということが、ありうるわけなのだ。
ところが、極東では、まるでこの考えが違っている。自分がこれからここに書こうとする話は、仏陀の釈き方に関係のある話である。
これは、ごく最近に起った事件であるが、ある坊さんが、ひじょうに特殊な事情のもとに、世をみまかった。この坊さんは、大阪に近いある村の、古い浄土宗の寺の僧侶であった。(この寺は、汽車で京都へ行くとき、関西線の車窓から見ることができる。)
この僧侶は年もわかく、ごくまじめな人で、しかも、ひじょうな美男であった。坊さんにしておくのは惜しいと、女の連中がかげでいったくらい、まるでむかしの仏師がつくった、阿弥陀如来の尊像を生き写しにしたような美男であった。
村の檀家の男の連中は、みな、この僧侶のことを、清廉潔白な、学識の高い坊さんだと思っていたが、じじつ、その通りであった。ところが、女の連中は、この僧侶の道徳堅固な点と、高い学識ばかりを考えてはいなかったのである。あいにく、この僧侶は、自分の意志とはかかわりなく、ただ一個の男性としては、女性を引きつける不幸な魅力をもっていたのである。自分の村の女たちばかりではない。よその村の女たちからも、かれは法体《ほったい》を崇《あが》められるとはまた別の意味で、讃仰《さんぎょう》された。こういう女たちの讃仰は、この僧侶の修行をさまたげたし、無言の瞑想をもかきみだした。女たちは、なんとかかんとかもっともらしい口実をこしらえては、ちょっとでもかれの顔を見るか、口をきくかしたさに、時きらずに寺へやってくる。僧侶として、当然それに答える義務のあることを、わざと尋ねにやってきたり、あるいは、一ヵ寺の住職の身として、無下《むげ》にことわりかねるような寄進の品を、わざわざ持ってきたりするのである。なかにはどうかすると法問はおろか、かれを赤面させるような問いをしかけるものさえあったりした。住職は、根が気性のおとなしい人であったから、町方の蓮葉娘が、在郷《ざいご》の娘どもにはとても言えそうもないようなことを、――さっさと帰りなされといって、追っ払わざるをえないようなことを言いかけてきても、どうも四角ばったことばを口に出して、威厳を保つようなことが、性分としてできなかった。そんなわけで、内気娘の胸のきなきなや、あばずれ女の世辞追従から、尻込みすればするほど、持ちかけてくる据え膳はますます殖える一方で、やがてはそれが、とうとうこの僧侶の一身の苦患《くげん》の種になってきたのである。
僧侶は、久しいあとに両親をうしない、いまは浮世になんの係累もない身の上であった。そういう境涯だったから、かれはただひたすらに、おのれが法《のり》の道とその修行とに志し、いかがわしい雑念や出家の禁制に、思いをわずらわされることを好まなかった。ただ、絶世の美男――生き仏のような美貌が、かれにとっては身の仇だったのである。巨万の富が、僧侶の身として、口の端にもかけられぬような条件つきで、自分に提供されたこともあった。かれの足もとに身を投げ出して、どうぞお情けをいただかしてとかきくどく若い女たちは、みな袖ない扱いで、かれにはねつけられた。恋文は、日ごと、矢のように送られてくる。けれども、それらの恋文は、いちども返事をあたえられたことがなかった。そういう恋文のなかには、「逢うことの千曳《ちびき》の岩を枕にぞ」とか、「面輪《おもわ》によする仇浪の」とか、「流れても末はひとつの思い川」とか、いやに古風な掛けことばの多い文句で書かれたものもあれば、また、そんな乙な筆の綾はなくて、ただぶしつけに、こまごまと、初恋の思い切なる真情を臆面もなく訴えたものもあった。
こうした恋文にも、若い僧侶は、ずいぶん長いあいだ、心を動かされずにいたようであった。すくなくとも、はたから見たところでは、かれがそれに生き写しだといわれている、仏の尊像のように要心堅固に見えた。けれども、じっさいは、かれとても木仏金仏ではなかった。ひとりの弱い人間にすぎなかった。若い僧侶の立場は、じつに試練の苦行だったのである。
ある晩のことであった。ひとりの小僧が寺へやってきて、住職のかれに一通の手紙を手渡すと、小声で、手紙のぬしの名をかれの耳にささやいた。問い返すひまもなく、その小僧は、逃げるようにして、闇のなかへ駆け去って行ってしまった。寺の納所坊主が、のちに証言したところによると、住職はそのとき、その手紙を一読したのち、しずかに封筒におさめると、自分の坐っている座ぶとんのわきの畳の上へ、それを置いたそうである。それから、ややしばらくのあいだ、住職は、黙想に耽《ふけ》っているかのように、じっとそのままそこに坐っていたが、やがて硯箱《すずりばこ》をとりだすと、自分の導師にあたる、さる僧正にあてて、一通の手紙を書きしたためた。そして、それを机の上においた。それから柱時計を見て、汽車の時間表をしらべた。時間は、まだすこし間があった。暗い晩で、そとは風立っていた。住職は、しばらく須弥壇《しゅみだん》のまえに平伏して、祈念をこめていたが、やがて、闇を衝いてそそくさ寺を出ると、ちょうど列車の通過する時刻に、線路みちへ行き着いた。行き着くと、すぐ、神戸行の急行列車がごうごうと地響きを立てて進行してくる影を見てとり、住職は、いきなり鉄路のまんなかにぴたりと跪坐《きざ》した。一瞬ののち、レールを鮮血に染めた住職の死骸は、提灯の火あかりで見ただけでも、ありし日のかれの美貌を讃美したものたちを、その場にあっと絶叫させるに充分だったのである。
導師にあてた手紙は発見された。それにはただ、自分はいまは魂抜けて、藻抜《もぬ》けの殻となった、このうえ、女犯の罪を犯さぬために、自分は自決する覚悟をした、とだけ書いてあった。
いま一通の手紙は、かれが寺を出るとき残して行ったままに、畳の上に置いてあった。――手紙は、女のことばで書いてあり、一言一句、すべてつつましやかな愛のことばで、全文がつづられていた。あらゆる恋文とおなじように、(恋文というものは、けっして郵便では出されない)日附もなく、名前もなく、頭字もなく、封筒には住所も書いてなかった。手紙の文句を、われわれの不粋な英語に訳してみると、不完全ながら、ざっと次のようなものになる。
このようなこと申上げまいらせるのは、まことにまことに出すぎたこととは知りながら、ひとことあなたさまに申し上げずにはいられぬままに、この手紙をば書きおくる次第、なにとぞお許し下さりませ。いやしい賤《しづ》のこの身の、なにより申し上げてよいやらわかりませねど、とにもかくにも申上げねばならぬのは過ぐる彼岸の会式のみぎり、はじめてあなたさまのお姿をお見染め申してより、この身はついつい物おもう身となりそめました。それからというものは、もうもうかたとき片時《へんじ》も忘れることのかなわぬ身となりはて、日ごとにつもる恋の淵、おもい思いて身を沈め、寝ては夢、さめてはうつつ、さめておんすがたの見えぬおりふしは、夜ごとのわが思いの丈のしんじつならぬことをおもい出でては、ただもう泪に泣きくれているばかりでございます。数ならぬ身とは申せ、われもこの世に女と生れたかいには、なにとぞして御身分高きおん方にも嫌われまい、そでないふりはされともないと口にもいわれぬ大それた願い、ただただ不届きの身のほど、かえすがえすもお許し下さりませ、しょせんは及ばぬ恋、高根の花のあなたさまとは知りながらも、このようにわれから心を痛み悩ますとは、なんという愚かなはしたないしわざでございましょう。なれどもこの恋ごころおさえしずめることは到底かなわぬことと思いあきらめ、胸のおくより思わずしぼりいずるふつつかな言《こと》の葉《は》を、まわらぬ筆にしたためてお手もとへお送りするしだいでございます。なにとぞ不びんなものと思召し下さいませ。おねがいでございます、どうぞつれない御返事は下さいますな。これもただただこの身の不つつかな胸のうちよりあふれ出たものと不びんなものに思召され、ひとりやる瀬なき身の切なるあまり、厚かましくもこの文をさし上げまいらせる心のほど、なにとぞ御慈悲をもつて御推さつのうえ御判だん下さいませ。どうぞ色よき御返じを一日千秋の思いでおん待ち申しあげます。かしく。
ご存じのものより
おんなつかしき
恋しき方さま まいる
わたくしは、仏教学者である日本の友人を尋ねて、この事件の宗教的意見について、二、三のことを尋ねてみた。自殺は、人間の弱さをさらけだしたものであるとしても、かの僧侶の自殺は、ひとつの英雄的行為だと、わたくしには思われたからである。
わたくしの友人は、しかし、そうは思わなかった。友人は、かえって非難の口吻をさえ洩らしたのである。友人のいうところを聞くと、仏陀は、自分の犯した罪をのがれるための方便としての自殺を、ただ考えるというだけでも、その人間を聖者とともに生きる資格のないものとして、精神的に勘当したものだ、というのである。自殺したかの僧のごときは、釈尊が愚者と呼ばれたもののひとりだ。自分の五体をあえて毀損し、それによって、自分の心のなかにある罪の原因をもみ消したと考えられるような人間こそは、愚者でなくして、なんであろう、というのである。
そこで、わたくしは抗議を申し入れた。「しかし、この僧の生涯は、潔白でしたがね。かりにですね、この僧が、自分では意識しなかったかもしれんが、他人に罪を犯させないために、みずから死を求めたのだとしたら、どういうことになるでしょう」
友人は、皮肉な笑いをもらしながら、次のような話をした。――
「むかし、ひとりの婦人がありましてな。家柄もよいし、またたいそう顔だちの美しい婦人でして、この婦人が尼になろうと思ったのですな。で、ある寺へ行って、これこれしかじかと、望みのほどを打ち明けると、その寺の住職が、こういうのです。『そなたは、まだまだ年が若い。いままで、どこぞに御殿奉公でもなされておったかの。いや、俗の目には、なかなかもって、お別嬪でおいでなさる。そなたは、その顔ゆえに、いずれはまた、浮き世の戯れにかえりとうなる迷いが、かならず起りますぞ。それに、そなたの望みは、こりゃほんの一時の愁歎からおこったものじゃ。まずまず、望みをかなえて進ぜることはできませぬな。いや、できませぬてな。』ところが、その婦人はなおも懲りずまに、心をこめて、くどくどとかき口説くものだから、住職も手を焼いてしまって、こりゃしばらく打遣《うっちゃ》っておいた方がよかろうと思って、そのまま座を立ってしまわれたのですな。で、女は、ひとりしょんぼり、そこに取りのこされた。見ると、そばに大きな火鉢がある。まっ赤な炭がかんかんおこっている。と、女は、そこにあった火箸を、まっ赤になるまで焼くと、なにを思ったか、いきなり、その焼け火箸で、自分の顔をぐっと突いたと思うと、大火傷に焼けただらせて、美しい顔をふた目と見られぬ顔にしてしまいました。肉の焼け焦げる臭いにおいがするので、住職、へんだと思って、飛んでまいると、このしまつであるから、あっとびっくり、溜息をついたが、もう追っつかない。ところが、女は自若としたもので、声さえ震わさずに、もういちど歎願しました。『さきほどは、生れついたきりょうゆえに、お弟子には取らぬとおっしゃいましたが、これなら、お弟子にお取りくださいましょうか。』そこで、その女は入道を許されて、尼になったというわけなんですが……さて、この婦人とですな、あなたがいま褒めてやりたいとおっしゃるその坊さんと、どっちがはたして賢かったでしょうかなあ?」
「しかし」とわたくしは尋ねた。「そのばあい、婦人の顔を傷つけて、ふた目と見られないものにするのが、その住職のとるべき道だったでしょうかね?」
「そりゃ道じゃなかったでしょう。それに、女のしたことも、それが誘惑を防ぐ手としてやったのだったら、こりゃ一顧の価値もありません。自己毀損、これは、いかなる種類のものでも、仏法では堅く禁じてあります。いまの話の女は、この禁を犯した。禁は犯したけれども、この女のは、道に直入《じきにゅう》するために顔を焼いたのであって、罪を払いのける自分の意志の弱さを惧れて焼いたのではないのだから、おなじ過ちでも、これは罪のかるい過ちだったのですな。ところが、一方、自殺した坊主の方は、これは非常な大罪を犯したのです。ぜんたい、この坊主は、自分を迷わせにきた女たちを改心させて、仏の道に導くべきだったのですよ。それをこの坊主は、気が弱くてできなかった。それならそれで、僧侶の身として、どうしても女犯の罪を避けることができないと感じたのなら、いっそのこと、潔《いさぎよ》く還俗してですな、俗界の人間として、戒律を持してゆくことに努めた方がよかったですよ」
「してみると、仏の教えによると、この僧などは、なんの善果をも得なかったというわけですか?」とわたくしは重ねて尋ねた。
「どうも善果を得たとは、ちょっと思えませんな。仏法を知らん人間だけですよ、そういう人間のやり方を褒めるのは」
「すると、仏法を知っている人だと、この僧のような行ないの結果、――因果応報ですか、それはいったい、どういうことになりましょう?」
友人は、しばらく、口をつぐんで黙っていたが、やがて、考え深そうにいった。――
「どうも、自殺のいちぶしじゅうの巨密《こみつ》なことがわからんから、なんだけれども、おそらく、それが初めてではないでしょうなあ、きっと」
「と前世にでも、やはり自害をして、罪をのがれようとしたことがあるというのですか?」
「そうですね。前世といっても、前の前の、そのまた前の世にでもね」
「そうなると、あの男の来世は、どういうことになるのでしょう?」
「それは、仏さまでなければ、確かなことはお答えはできませんな」
「でも、仏の教えには、どう書いてありますか?」
「そりゃあなた、その坊主の心のなかが見通しにわかるなんて、そんなことは、われわれにはできやしませんよ」
「かりに、女犯の罪を犯すのをのがれたさに、死を求めたのだとしますと?」
「そのばあいにはですな、その僧侶が、自分で自分を制御することを悟るまでは、幾千万回でも、おなじ誘惑にあって、それにともなうあらゆる悲しみ、あらゆる苦しみを、繰りかえすでしょうな。いくら死んでみたところで、自己征服、――克己ですな、これの至極の必要からは、のがれられませんからな」
友人のもとを辞してからも、かれの言ったことばは、わたくしの心に憑《の》りうつったように、こびりついて離れなかった。いまでも、そのことばは、依然として、こびりついている。友人のことばは、わたくしが、この文章のはじめに挙げた諸説に、いろいろ新しい考察を加えさせた。恋愛の神秘について、この友人が説をなした玄妙なる解釈は、われわれの西洋流の解釈に比して、一顧の価値なしとは、どうしてもわたくしには考えられない。わたくしは、いまでも思い迷っている。――人間を死に導くような恋愛は、土中に埋められた前世の人の情熱が、この世に迷いでた、飢え焦《こが》れる一念というだけではなくして、なにかそこに、もっと深い意味があるのではなかろうか。ひょっとすると、それは、長く忘れ去られていた前世の罪の、避けようとしても避けることのできない、因果応報を意味するものではないのだろうか、と。
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ある保守主義者
あまさかる日の入る国にきてはあれど
やまと錦の色はかはらじ
かれは、内地のある都会に生まれた。そこは、三十万石の大名の城下で、かつて外国人などのきたことのない土地だった。高禄の士分だった父の屋敷は、領主の居城をめぐらす外濠《そとぼり》のうちにあった。屋敷はずいぶん広く、その広い屋敷のうしろとまわりには、風致のある庭があり、庭の片すみには、いくさ神をまつった小さなほこらがあった。いまから四十年ほど前には、こういう屋敷がたくさんあったものである。いまは数少なくなった、こうした昔のなごりの屋敷は、芸術家の目から見ると、あたかも天人の宮居のように見え、その庭園は、仏家のいう極楽の苑《その》のように見える。
むかしは、侍《さむらい》の子息といえば、じつに厳格なしつけを受けたものであった。わたくしが、これからここに書こうとする人物も、そういう侍の子息のひとりであるが、かれなども、年若いころには、若者にありがちな空想にふける時間の暇など、まったくなかったものである。父母の撫育《ぶいく》をうける期間なども、かわいそうなくらい、短いものであった。はじめて、はかまをはかされる、はかま着の式――これは当時の大礼であるが、それさえもまだしないうちから、柔弱な感化は、できるだけ遠ざけるようにしつけられたのである。子供ごころに、あれがしたい、これがしたいというような、いたいけ盛りのやむにやまれぬ衝動は、むりにも抑えこらえるように教えこまれたものである。家のなかで、母の側にいられるあいだは、思うさま母に甘えかかってもいられるけれども、その母につれられて、おもてをいっしょに歩いているところでも見つけられたら最後、「おのし、まだ乳をのんでいるのか」といって、小さな遊び朋輩から、たちまちからかわれてしまう。しかも、母の膝下《しっか》にいられる時間といっても、けっしてそれは長いものではなかった。すべて惰弱な遊戯娯楽は、訓育上、厳禁されている。病みわずらいの時はべつとして、ふだんは、暖衣飽食は断じて許されない。ひとりまえに口がきけだすころから、早くも、忠順恭敬を生存の指針とこころえ、克己をおのれが振舞の第一義とさだめ、艱苦と死とは、一身にとって鵞《が》毛よりもなお軽いものと考えるように、しこまれるのである。
家庭にあって、一家のものがひと間のうちに歓語談笑しているおりは別として、青年期のあいだは、片時も手をゆるめることなく冷酷な厳しさを養いしいる、このスパルタ的訓練には、まだまだ、それよりもなおいっそう残忍な一面があった。男の子は、血を見る訓練を受けるのである。死刑の執行があると、その検分に引き出されて行くのであるが、その場にのぞんで、顔色一つ動かしてはならぬとされてある。そして、家にもどると、梅干の汁をまぜて血の色に染めた赤飯をたらふく食わされて、胸の奥にわだかまっている恐怖の念を、むりやり吹き飛ばしてしまうようにしむけられるのである。そうかと思うと、さらにそれよりもむずかしいことが、まだごく年のいかない子供に要求されることがある。――たとえば、真夜中にたったひとりで刑場へ行って、きもだめしに生首を持って帰ってくる。これはつまり、侍のあいだでは、死者を怖れることは生きている人間を怖れるのと同じく、ひじょうな恥辱と考えられていたからである。いやしくも、侍の子たるものは、なにものをも怖れぬという、しかとした証拠を見せなければならないのだ。しかも、そういう証拠を見せるばあいに、侍の子が強要される態度は、徹頭徹尾、冷静そのものでなければならない。附け焼刃のから威張りのごときは、ごくささいな臆病な振舞と同様に、きびしく処断されたものであった。
男の子が、しだいに年長じると、娯楽は主として、武士たるものが年少のころから、いざ戦場というときのために、不断の備えを怠らずにいる体力の訓練、――たとえば、弓術、馬術、柔術、剣術などに、求めなければならなくなってくる。そのころになると、いくたりかの遊び朋輩が選定される。遊び朋輩といっても、これは年齢からいえば、当人よりいくつか年上の、身分柄からいえば、父の家来の子弟たちであって、いずれも武芸の稽古を補導できるだけの腕前をもったものが選ばれるのである。こういう遊び朋輩は、水練とか、舟のこぎ方などまで、主人の御曹子に教えさずけ、未熟な筋力を鍛え上げてやらなければならない義務がある。弱年者の一日の大部分は、こうした体練と、それから、中国の経書の勉強とに分けられている。一日三どの食事は、量こそ多いけれども、けっして美食ではない。衣服なども、なにか折り目だった儀式の時はいざ知らず、平素はきわめて薄着で、かつ、粗服である。そのくせ、暖をとる目的の火気は、ぜったいに使用を禁じられている。冬の朝など、稽古のおりに、手先が凍えて筆の持てないことがある。そういうときには、氷のような冷水の中に手をつっこんで、それで血行をよくしろといわれる。きびしい寒さに、足がしびれて、感じがなくなってしまうようなときには、はだしで雪のなかを駆けまわって、それで足をぬくめろといわれるのである。さらに、武家特有の礼儀作法にいたっては、とくにいっそう厳格であった。腰にたばさんでいる脇差は、だてやもてあそびの品ではない。そういうことは、子供のうちから堅く教えこまれている。その脇差の使い方とか、あるいはまた、武士のおきてがこうと命ずるおりには、どうしたら遅疑《ちぎ》するところなく、わが一命を即座に断つことができるかとか、そういうことを、平素おりにふれて、いちいち実証をもって見せられるのである(*)。
*「こは、しんじつ、そちが父の首級《しるし》なるか」と、あるとき、ある大名が、七歳になる侍の子に尋ねた。その子は、とっさに、その場の事情を胸に悟った。いま、自分の目の前にすえてある、血のしたたったこの首は、自分の父の首ではない。殿は、だまされておられるのだ。が、自分としては、この上なお重ねて、だましおおせなければならない。そう思って、その子は、亡き父がまのあたりそこに在《いま》すがごとく、うやうやしく、子としての愁歎を、顔にも、しぐさにも、まざまざとあらわしながら、その首級に一礼すると見るや、やにわに、かっぱと腹をかき切った。この見るもむざんな、孝心のあらわれを見て、さすがの大名の疑いも、たちどころに氷解した。そのおかげで、道ならぬ科《とが》を犯したその子の父は、首尾よく、城下を逐電することができたのである。この子どもの美談は、いまなお、日本の芝居や浄るりに仕組まれて、長くうたわれている。
さらにまた、宗教の問題に関しても、侍の子の教育には、おのずからそこに特殊なものがあったものである。まずだいいちに、古代の神々と、祖先の霊とをあがめることを教えこまれる。つぎに、中国の経書を習わせられる。それから、仏教の哲理の教義について、なにがしかのことを教えられる。が、それといっしょに、仏教の方でいう極楽浄土を願い、地獄を怖れるあの教えは、あれはただ無知なる凡夫匹婦《ぼんぶひっぷ》に教えるたとえばなしにすぎないもので、いやしくも人の上に立つほどのものは、すべからく私心を滅し、正義のために正義を愛し、人間の道としてのおのれの本分を悟って、行ないを正して行かなければならない、ということを教えこまれるのである。
さて、年ようやく熟して、おいおい少年期から青年期に移るころになると、いままでのように、身の行状を一から十まできびしく監督されることは、しだいに少なくなってくる。そのころになると、もはや自分の判断で行動するぐらいの自由は許されてくる。もっともこれは、自分の犯したあやまちは断じて許されぬもの、重い科《とが》はぜったいに許されぬもの、また、人から理非明白な譴責を受けることは、死ぬことよりも怖れなければならぬ、――こういう条理をじゅうぶんに心得た上でのことである。そのかわり、一面からいえば、普通の青年が警戒すべきような道徳上の危険は、青年武士にははなはだ少なかった。というのは、遊女・娼妓の類は、当時地方の城下町では、どこでもたいがい法度《はっと》になっていたものだし、また、草双紙や芝居などに出てくるような、淫靡《いんび》な市井の俗事にも、若い侍たちはなにひとつ通じていなかった。惰弱な人情やみだらな恋情にうったえる小説稗史の類は、男子の読むべからざるものとして擯斥《ひんせき》するように教えこまれていたし、芝居見物も武家階級には禁じられていたのである(*)。
* 武家階級でも、ある地方の藩では、女子なら、おおびらに芝居へ行くことができた。男子は、それができなかった。もし行けば、それは武士の作法を犯すことになっていた。そのかわり、武士の家庭では、ときおり、屋敷うちで内輪の者だけが見る、特別の興行が催されることがあった。そういうときには、旅廻りの役者などが雇われるのである。筆者は、いまでも、自分は芝居なんぞは、いちども行ったことがないからといって、どんな観劇の招待もかならず断ることにしている、うれしい老士族が、幾人かいるのを知っている。そういう老人組は、いまでも、自分たちの武士教育のおきてを堅く守っている。
こういうわけであるから、古い日本の素朴な地方生活の中にあっては、若い人たちは、じつに異例な純心純情の人間に生い立つことができたのである。
筆者が、ここに描こうとする若い青年武士も、やはり、このようにして生い立った。――怖れるものは何一つなく、しかも礼節に厚く、克己心に富み、快楽を軽侮し、信愛と忠節と大義名分のためなら、いついかなるばあいにも、立ちどころに一命を捨てることを辞さない男に成人したのである。しかし、そういうかれは、その体格と心がまえの点では、すでにひとかどの武士ではあったけれども、年齢からいえば、ほとんどまだ一介の少年にすぎなかった。ちょうど、その頃のことであった。この国が、はじめての黒船来航にあって、国を挙げて驚天動地したのは。
海外に渡航するものは死刑に処すべし、という布令を出した将軍家光の施政は、二百年の長いあいだ、日本の国民を海外の事情に関して、まったくの無知蒙昧の状態においた。海のかなたに、隆隆と力をそなえつつあった強大な列国については、なに一つとして知られているものがなかった。長崎には蘭人の居留地が長らく存在していたけれども、それすらが、日本のほんとうの地位――十六世紀風の東洋の封建制度が、三百年の先進国たる西欧の世界に脅かされているという、自国の状態については、なに一つ啓蒙するものがなかったのである。その西欧の世界の驚歎すべき実情は、いくら話して聞かせたところで、当時の日本人の耳には、すべて子供だましの作りばなしにしか聞こえなかったろうし、おそらく、蓬莱宮の昔ばなしと同列にしか考えられなかったにちがいない。いわゆる「黒船」と呼ばれたアメリカ艦隊の来航があって、幕府はここにはじめて、自国の防備の手薄なことと外患の切迫とに、驚きの目をさましたのであった。
やがて、第二次の黒船来航の報がつたわったときの国民の興奮は、まもなく、幕府には外国と戦戈《せんか》をまじえるだけの武力がないと、将軍みずからが洩らしたという暴露によって、驚愕と狼狽のおそろしい淵に立たされたのであった。これは、北条時宗の時の蒙古襲来よりも、さらに大きな国難を意味するものにほかならなかった。蒙古襲来のときには、天裕を神冥に念じ、時の天子も親しく伊勢大廟に詣でて、祖先の遺霊に国土の安泰を請うたのであった。さいわいにして、その祈念は聴きとどけられ、天地|晦朦《かいもう》、霹靂《へきれき》一|閃《せん》、吹きおこる神風によって、忽必烈《くびらい》の艦隊はことごとく海底の藻屑となってしまったのであった。それほどであるから、こんどの時も、もちろん、天佑神助を請う祈祷がささげられないはずはなかった。じじつ、無慮幾十万の家庭、幾千の神社では、さかんな祈祷があげられた。ところが、このたびは、神々の感応もなく、神風も吹きおこらなかった。この話の主人公である少年武士も、父の邸内にある八幡の小さなほこらの前に、一心こめて祈祷をささげたけれども、神々もついに神力《じんりき》を失いたもうたのか、それとも黒船の異人どもは、われらの神々よりもさらに強い神々に擁護されているのかと、かれは不審の念を起したものであった。
ほどなく、夷狄《いてき》は撃退されぬことになったということが、明らかになった。夷狄は、西からも、東からも、何百人となくこの国へ入りこんできた。そして、かれらを保護する、ありとあらゆる手段が講ぜられた。やがて、かれらは、日本の国土に、かれら自身の珍妙な市街を建設した。幕府は、全国の藩校・私塾に、洋学を学ぶべきこと、英語の習得は、一般国民教育の重要課程たるべきこと、また国民教育そのものも、西洋流に改革せらるべき旨を発令した。幕府はまた、日本の将来は、外国語と西欧科学の研究練磨によるところが多いことを宣言した。そうなると、つまりこれらの研究が実を挙げて、よい結果をもたらすまでの間は、日本は事実上、外国人の支配下におかれる、ということになるわけである。もちろん、じっさいは、このとおりに宣言されたわけではなかったけれども、しかし、いずれにしろ、その政策の意味するところは明白であった。こうした実情がわからなかったために、はじめにまず猛烈な物議がまきおこった。国民は大いに意気沮喪し、武士たちは歯をくいしばり、腕を扼《やく》して悲憤慷慨した。が、やがてそれもやや下火になると、こんどは強い好奇心がわきおこってきた。それは、ただ優位な武力を見せたというだけで、ほしい物は何でも片っぱしから手に入れて行った、無礼きわまる異邦人の、魁偉《かいい》な容貌と性格とに対する好奇心であった。国民のだれもがいだいたこの好奇心は、夷狄の風俗・習慣や居留地の異様な街路のさまを絵に描いた、安い色ずり版画のおびただしい板行と弘布とによって、どうやら一時は満たされたようなぐあいであった。これらのけばけばしい、俗悪な木版画は、外国人の目には、一種の諷刺画としか見えなかったが、しかし、それを描いた画工の目的は、けっして諷刺画を描こうと目ざしたものではなかったのである。画工は、じっさいに、自分の目に映ったとおりの外人を描こうとしたのであるが、その画工の目に映った外人というのは、猩々《しょうじょう》のような赤い髪の毛をはやした、天狗のように鼻の高い、妙な形と色あいの服を着た、牢屋か土蔵のような建物のなかに住んでいる、青い目玉をした化物だったのである。国内だけで、何千何万と売れたこれらの版画は、ずいぶん津々浦々にまで、奇怪な、薄気味わるい思いを植えつけたものにちがいない。しかし、いままで見なれなかったものを、何とかして絵に描きあらわそうとした試みとしては、これはけっして悪意をもったものではなかった。われわれ西欧人が、当時の日本人の目に、どんなふうに映ったか、――いかに醜悪に、いかに奇怪に、いかに滑稽に見えたか、それを知ろうと思ったら、ぜひとも、これらの古い版画を研究してみるのがいい。
かの城下の若者たちも、その後まもなく、西洋人を見る機会を得たのである。かれらが見た西洋人というのは、藩侯がかれらのために召しかかえた、お雇い教師であった。その外人は、英国人であった。この外人教師は、ひとりの藩兵に護衛されてやってきた。そして、藩侯からは、かれを名士として遇せよ、という諚が下った。この外人教師は、例の木版画の異人みたいに、あれほど醜悪なものでもなかった。なるほど、髪の毛は赤かったし、目の色もちがっていたけれども、顔はそういやな顔ではなかった。来るとすぐに、この外人教師は周囲のものの倦《う》まざる観察の的《まと》となり、しかも、しばらく時たったのちになっても、依然としてそうだった。かれの一挙一動が、どのくらい衆人の環視にあったか、それは明治以前のこの国の、西洋人に関するふしぎな迷信を知らない人には、ちょっと想像もつくまい。どういうのかというと、西洋人というものは、なんでも恐ろしく智恵のある、雲突くような大きな生きものだ、ということはわかっているものの、一般には、自分たちと同じ普通の人間とは、考えられていなかったのである。人間よりも、どちらかというと、けだものに近いものだと考えられていたのである。からだは毛深いし、妙なかっこうはしているし、歯も人間の歯とは違っていて、内臓などもぜんぜん、特別できになっているし、やつらの道徳観念などは、まず化物の道徳観念だぐらいに考えられていたものなのである。侍は、さすがにそれほどでもなかったけれども、当時の一般人が外人を見て怖れたのは、あれはじつは形を見てこわがったのではなくて、一種の迷信からきた恐怖だったのである。日本人は、元来、百姓でも、けっして臆病ではない。当時の日本の庶民が、外国人に対していだいた感情を知るためには、まず日本と中国の両国に、昔から共通に信じられていた古い信仰を、多少でも知っておく必要がある。それは、ある超自然の力を天から賦与されていて、いつなんどきでも人間の形になることのできる動物、または、神人というようなものの存在、でなければ、よく昔の絵双紙などに出てくる、荒唐無稽な動物、――よく怪談の挿絵に描かれたり、北斎の漫画に描かれたりしているような、足が長くて、手が長く、そして長い髯のはえている怪物(足長手長)、そういう奇怪な物に対する信仰である。じっさい、新しくきた外人の容貌は、中国のヘロドトスによって語られた架空談に、確証をあたえるもののように考えられていたし、その外人の着ている衣服は、かれらの人間離れのしたからだの部分を隠すために、考察されたもののように思われていたのである。そういうわけで、新来の英国人の教師も、当人はさいわい、そういう事実は知らずにいたけれども、やはり一種の珍獣でも見るような態度で、ひそかに周囲から観察されていたのである。もっとも、そういうかれも、生徒たちからは、もっぱらていちょうに遇されていた。生徒たちは、「師の影を踏まず」と教えてある、中国の経書の教えに従って、かれらの師を遇したのである。侍の生徒たちにとっては、いやしくも、相手が物を教えてくれる人であれば、それが五体そなわった人間であろうがあるまいが、そんなことは、さして問題ではなかった。義経は天狗から剣術を習ったのである。人間でないものが、学者であり、詩人であったためしさえある(*)。
* むかし、菅原道真(こんにち、天神として祭られている人)の師であった、大詩人|都良香《みやこのよしか》が、ある時、京都の御所の羅生門を通りながら、ちょうどその時、心に浮かんだ詩の一句を、声高らかに誦した。――「気|霽《は》レテ、風、新柳ノ髪ヲ梳ル」――すると、すぐに門のなかから、太い、揶揄するような声が、それに唱和した。――「氷融ケテ、波、旧苔ノ鬚ヲ洗フ」――都良香は、あたりを見まわしたけれども、だれも見えない。それから家に帰って、弟子たちにそのことを語って、二つの詩句を反誦して聞かせた。そのとき、弟子のひとりであった菅原道真は、第二句を褒めて、こう言った。――「なるほど、第一句は、いかにも詩人のことばであります。しかし、第二句は、これは鬼神のことばです」
しかし、とにかく、いんぎんな礼節の仮面は片時もこれをぬぐことをせずに、かの外人教師の習癖は、かれら若者たちによって、綿密に観察されていたのである。しかも、そうした観察を、かれら同志、おたがいに比較しあって、最後にでき上がった判断というのは、はなはだもってかんばしくないものであった。もっとも、教師自身は、両刀ぶっこんだ自分の生徒たちから、どんな批評が自分に下されているか、そんなことは夢にも想像していなかった。教室で、英作文の監督をしている最中に、次のような会話がかわされていると知ったら、先生だって、あまりのんびりした心持ではいられなかったにちがいない。
「おい、あの肉の色を見い。いやにぶよぶよしちょるのう。あんな首はひと打ちで、ぞうさなく、落ちるがな」
あるとき、その教師は、生徒たちから、先生、相撲をとりましょうといわれて、相撲の取り方を教えられたことがある。教師は、それをただの冗談遊びだろうと思っていた。ところが、じつは、それは教師の膂《りょ》力を量るためにした企てだったのである。もちろん、教師はその時、力士として高く買われなかったことは、いうまでもない。
ひとりの生徒がいった。「なるほど、腕はたしかに強い。しかし、腕をつかいながら、いっしょに体《たい》をつかうことを知らんぞ。腰はばかに弱い。あんなもの、おっぽり出すの、わけないぞ」
すると、他のひとりがいった。「外国人と戦うのは、おれはらくだと思うがな」
三人目のが答えた。「そりゃ真剣勝負なら、ぞうさなかろう。しかし、やつらは、鉄砲や大砲の使い方は、おれたちよりじょうずだて」
最初の生徒がいった。「おれたちだって、じょうずになれるさ。西洋の兵法を習ってしまえば、洋兵何ぞ恐るるに足らんやじゃ」
他のひとりがいった。「毛唐は、おれたちのように、頑健じゃないのう。やつら、すぐに疲れよる。それに寒がり坊じゃ。われわれの先生も、冬は、へやにかんかん火をおこしておく。あんな中に五分もいたら、こっちゃ頭痛がしてかなわんぞ」
しかし、こういうことはいろいろあったけれども、若者たちは、教師に対しては、じつによく親切につくしたから、いきおい、教師の方でも、生徒たちのことは愛した。
まもなく、なんの予告もなく、大地震のような大事変がやってきた。藩制が郡県制にかわる。武士階級は廃止になる。社会組織ぜんたいにわたる、一大改革がやってきたのである。例の青年武士なども、一身の忠勤を藩公から天皇に移すことには、かくべつさしたる異議も感じなかったし、それに一家の資産も、この一大打撃のために、かくべつの損傷も受けなかったが、それにしても、これらのできごとは、やはりかれの心を深い悲歎に沈めた。維新は、かれに、国家の危機の大いなることを告げ、また、古くからある高邁な理想と、いままで鍾愛してきたもののいっさいは、ついに跡を断つにいたるであろう、ということを知らしめた。しかし、いまさらそれを悔んでみたところで、どうなるものでもないことも、かれはよく知っていた。国民は、ただ、各自めいめいの自己改革によってのみ、自分たちの独立を救えるという希望が持てる。国を愛するものの明らかな義務は、このことの必要を認め、男子として、将来の舞台に大きな活躍を演ずるために、今から適当に力を養っておくことにある。
かれは、藩校で、英語を大いに学んで、どうやら英人と会話をまじえることができるという自信を得た。やがて長い髻《たぶさ》を切り、両刀を捨てて、さらに有利な条件のもとに、英語の勉学を受けるべく、横浜へ出て行った。横浜では、はじめはなにもかもが、目にも耳にも慣れないものづくめで、なんとなく反撥を感ずるような気がした。開港場の日本人は、外国人との接触で、だいぶ変ってしまっていた。だれもかれも、野卑で、荒っぽくて、かれの郷里などでは、町人でも使わないようなことばづかいや振舞を、平気でやっている。外人はというと、これはまた、それよりもいっそう不愉快な印象を受けた。ちょうどその当時は、新しい居留民が、被征服者に対する征服者の態度をとっていた時期で、開港場の生活は、こんにちよりもずっと品《ひん》が落ちていた。煉瓦づくりや、漆喰《しっくい》で塗りかためた木造の建物は、例の異人の風俗を彩色版にした木版画のいやな思い出を、かれに思いおこさせた。そういうかれは、西洋人に関する自分の少年時代の空想を、ちょっとやそっとではなかなか払いのけることができなかった。あの時分から見れば、知識も多少は広くなっていたし、見聞も積んでいたし、そういう知識と見聞を土台にしたかれの理性は、外人がどんなものであるかということは、じゅうぶんにわかっているつもりであったのに、感情の上からは、かれらも自分たちと同じ人間だという観念が、どうも胸にしっくりとこないのであった。いったい、人種的感情というやつは、知性の発達よりも、はるかに古いものであるだけに、この人種的感情に伴う迷妄というやつは、なかなか牢固として抜きがたいものがある。そこへもってきて、かれには武士魂があった。これがときどき、醜悪なことを見たり、聞いたりすると、むくむくむくれ上がってくる。悪いやつは矯《た》め直してやり、卑怯なやつは懲らしてやるという、先祖伝来のたぎり立った血が流れているから、なにかというと、ことごとに胸くその悪くなるようなことにぶつかる。しかし、こういう感情は、知識の妨害物だと思って、なるべくかれは、こうした反感を自分で克服するようにつとめた。真に国を愛する者のつとめは、自国に仇《あだ》なすものの本性を、虚心坦懐《きょしんたんかい》な心持できわめることにあると思ったからである。そのおかげで、かれはようやくのことで、自分の周囲の新しい生活を、偏見なしに、――欠点とともに美点を、短所とともに長所を観察するように、自分を訓練した。そこから、かれは友愛を見いだした。理想に対する熱意を見いだした。――その理想は、自分のもっている理想とは違っていたが、ちょうど先祖伝来の信仰と同じように、理想もまた、いくたの戒律を強要するものであるから、その点でも尊重すべきものだ、ということを知ったのである。
このような認識から、やがてかれは、この国にきて教育と伝道のしごとに没頭している、ある外人の老宣教師を信愛するようになった。この老宣教師は、武家出の年若いかれを見て、非凡な資質をそこに見いだし、ぜひ何とかして、かれを改宗させたいものだと思って、この青年の信頼を博するためには、みずから犬馬の労を取ることをも惜しまなかった。老宣教師は、なにかとかれを援助して、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語などを、すこしずつ教えるほか、蔵書の数もそうとう多方面にわたっている自分の書庫を、ことごとくかれのために開放して、自由に閲覧を許してくれた。歴史、哲学、紀行、小説などの書物を蔵している、こうした外人の書庫へ、自由に出入りができるということは、当時の日本の書生にすれば、そうたやすく得られる特権ではなかった。かれは、心から感謝した。そんなわけで、この書庫の持主は、その後まもなくこの秘蔵弟子に、「新約聖書」の一部を読ませることに、なんの苦もなく成功した。青年は、このいわゆる「邪宗」の教義のなかに、孔子の所説とよく似た教訓を見つけて、いまさらのように驚いた。そして、老宣教師に言った。「この教えは、ぼくらには、珍しいものではありませんね。しかし、たしかに、これはよい教えです。ぼくも、これからこの本を勉強して、よく考えてみることにしましょう」
聖書の研究と思索とは、はじめに考えていたよりも、はるかに青年を深入りさせた。キリスト教は偉大な宗教だ、ということに気がついてから、さらにべつの体系のこともわかってくると、こんどは、そのキリスト教を信奉する諸民族の文明に関する、いろいろの想像がおこってきた。当時、多くの自省に富む日本人には、――いや、おそらく、国政を指導する尖鋭な人たちにしても、そうだったろうと思うが、かれらには、日本の国はしょせん外国人の統治下に移ろうとする運命を荷《にな》っているものと思われていたのである。したがって、そこには、せめてもの希望があった。そして、一|縷《る》の希望でも、そここに残っているかぎり、日本国民たるの義務は明白であった。しかし、日本に対して圧力を加えてくる外敵の力には、いまのところ、とうてい抵抗すべくもない。敵の力の強大さをいろいろと研究しながら、この若い東洋人は、その力が、どこからどういうふうにして得られたものであるかを考え、恐怖に近い驚歎をもって、みずから怪しむほかはなかった。老宣教師が断言したように、それは高度の信仰に、なにか玄妙な関係があるのであろうか。国家の繁栄は、天道を遵守《じゅんしゅ》し、聖賢の教えにしたがう国民の恒心に正比例する、と説く中国の古代哲学は、なるほど、老宣教師の所説を裏書きしている。そうなると、かりにもし西洋文明のすぐれた力が、ほんとうにかれらの倫理の優秀さを示すものであるならば、すべからく、かれらの高度の宗教を採用し、国民全体の改宗に力を格《いた》すのが、いやしくも国を愛するものの当然採るべき義務ではなかろうか。もちろん、当時の青年は、いずれもみな、中国の学問に教育されたのであるから、西洋の社会発達史に通暁していないのはあたりまえのことで、最高の物質的進歩は、キリスト教の理想とはしょせん相容れがたい、そしてまた、あらゆる偉大な道徳律とも相反する酷薄無情な生存競争のうちに、主として発達したものだ、などということは、かれらには思いもよらないことであった。西欧諸国においてさえ、こんにちなお、百万の愚民は、軍事力とキリスト教とのあいだに、なにか神聖な関係があるものと想像している。そして、教会の壇上から、政治的侵略は神のみ心によるものだと主張したり、強力な爆薬の発明を神託だなどとうそぶいたりするような説教がおこなわれているのである。いまでもなお、われわれ西洋人のなかには、キリスト教を信ずる民族は、他の宗教を信ずる民族を略奪し、これを絶滅させる天職をになっているものだという迷信がのこっている。どうかすると、まれには、われらは雷神トールと、学問の神オディンを信じているという確信を発表する人などもあるが、そういう連中の説によると、昔とちがうところは、オディンは今の世では数学者となり、トールの持つムジョルナという槌《つち》は、こんにちでは、蒸気で運転されているにすぎないのだそうである。もっとも、こういう連中は、宣教師たちからは、あいつらは無神論者だ、恥を知らずに浮世を渡る人間どもだと、頭からきめつけられているが。
それはそれとして、やがてかの青年武士は、親戚の反対があったのもおしきって、いよいよ自分はキリスト教徒になろうと決心したのである。これは、おもいきった振舞であった。しかし、幼い時分からのかれの訓育は、かれに意志の強固を植えつけていたから、両親がいかほどなげき悲しんでも、いったんこうときめた覚悟のほどを動かすことはできなかった。先祖代々の宗旨を廃棄することは、ただたんに、それを廃棄する当人の一時の苦痛を意味するというだけにはとどまらない。それは家督の廃嫡、旧友の蔑《さげす》み、位階の喪失、窮乏のあらゆる因果を意味するものである。しかし、かの青年の武士教育なるものは、おのれに打ち勝つということを堅く教えていた。かれは、愛国者として、また真理の探求者として、これこそは自分の本分だと信ずるものを見つけたのであった。そして、恐るることなく、悔いるところなく、自分のこうと信じた任務をまっしぐらに追究して行ったのであった。
いったい、近代科学から借りてきた借り物の知識をたよりに、自分の信仰をぶち壊しておいて、そしてそのあとへ、西洋の信仰をはめこもうと望むものは、ともすると、古い信仰を打破するのに用いた論旨は、新しい信仰に対しても同じ破壊力をもっているものだということを、夢にも考えないものだ。普通の宣教師などというものは、だいいち、そういう御当人そのものが、昔より程度の高い近代思想のレベルにまで達していないのだから、もともと、自分より力量のある東洋人に、すこしばかり近代の学問を教えたからといって、それを教えた結果が、はたしてどういう結果になるか、そんなことは、かれらにはとても予想のつきようはずがない。だから、自分の弟子が聡明であればあるほど、それだけその弟子が信者になっている期間が短いことを発見して、いまさらのようにびっくりしたり、あわてたりするのである。科学というものをいままで知らなかったために、従来の仏教の宇宙観で満足していた優秀な頭脳の信念を打破することは、これはさしてむずかしいことではない。けれども、おなじその頭脳のなかへ、東洋の宗教的観念のかわりに、西洋のそれを――つまり、儒教や仏教の倫理のかわりに、長老教会《プレスビテリアン》や浸礼教会《パプチスト》の教義を入れ替えることは、これはできないことである。ちかごろの福音伝道師たちは、こうした心理上の難関が道に横たわっていることに、ぜんぜん気がつかずにいる。そのむかし、ゼスイット派や托鉢派《フライヤー》は、一所けんめいになって、他の宗教を打破しようとした。しかも、打破しようとした方も、打破されようとした方も、いずれも迷信的であったことには変りがなかったが、その時にしても、これと同じような障害はあったのである。であるから、あれほどの深い熱意と、火のごとき奮起とによって、あの驚くべき業績をあげたかのスペインの僧侶なども、自分の夢想を実現するためには、おそらくスペイン兵の剣が必要だと、つくづく思ったにちがいない。ところが、こんにちでは、十六世紀にくらべると、改宗のしごとをするのに、諸種の事情が当時よりもいっそう不利にできている。新しい教育は、宗教からまったく引き離されて、科学に立脚して改造され、われわれの宗教は、わずかに社会が道徳上必要なものとして認める程度のものになりつつあるし、したがって、僧侶の職分も、しだいに道徳の警官というようなものに変りつつある。こうなると、教会の尖塔がおびただしく立っていることは、あれはなにも、信仰がそれだけふえたというしるしではなくて、ただ、伝統に対する尊敬が増したという証拠になりそうである。西洋の伝統が、そのまま、東洋の伝統になるなどということは、これはありうるはずもないことだし、そうかといって、外国の宣教師が日本へやってきて、道徳警官の役を演じるというりくつもなかろう。それどころか、われわれの教会のなかでも、最も自由主義的な、広い教養をもったものは、ちかごろでは伝道の無用ということを認めだしてきつつある。もっとも、真理を悟得《ごとく》するのに、必ずしも古い独断主義を捨てるには及ばない。完|璧《ぺき》な教育は、これを実証している。だから、教育の最も高いドイツ国民は、日本の内地に宣教師はひとりも送っていない。宣教師がどのくらい伝道につとめたかという、その成績を知らせるために、毎年、新しい改宗者の数を本国へ報告する仕組みになっているが、そんな報告よりも、むしろかえって意義の深かったものは、日本政府が、日本古来の宗教を改革せよ、日本の僧侶の教育をもっと高いものにせよと勧告した布告であった。ただし、この布令の発布されるずっと前から、金のある宗派では、すでに西洋流の仏教学校を建てていた。真宗のごときは、同門中に、パリやオックスフォードで教育をうけた学者たち――その名は、世界の梵語学者の間に知れわたっている――を持っていることを、誇りとしていたくらいだ。これからの日本は、たしかに、古い中世時代の宗教よりも、さらに高い形式の宗教が、ぜひとも必要であるには違いないが、しかもそれは、古来の形式から自然発展したものでなくてはならない。外部からではなく、内部から発展したものでなくてはならない。仏教が、西洋の科学という鎧《よろい》を着たら、それこそ鬼に金棒で、これこそは日本民族の将来の要望に、まさしくかなうものになろう。
さて、横浜におけるかの若い改宗者は、宣教師の伝道上における著しい失敗の一例となった。かれは、さまざまの犠牲を払って、ようやくのことで、キリスト教徒になりはなったものの、――いや、キリスト教徒になったというよりも、一個の異国の宗派の一会員になったといった方がいいのだが、――その後、幾年もたたぬうちに、せっかくそれほどの高い代価を払って購《あがな》った信仰を、公然と弊履《へいり》を捨てるごとくに捨ててしまったのである。そういうかれは、自分の宗教上の教師である宣教師たちよりも、はるかに多く、当時の大哲人たちの著書を深く研究もしたし、理解もした。そうなると、宣教師たちは、もはや、かれの提出する質疑に応ずることはおろか、はじめかれに、こういうものも少しは読んでおけ、といってすすめた書物も、すべてあれは信仰には有害な書物だなどといって、せいぜい、苦しいお茶を濁すよりほかに手のない始末であった。しかし、いくら有害な書物だといってがんばってみたところで、その中に誤まりがあるという、その誤りを、ここが誤まりだといって教え示すことができないのだから、かれらの警告は、なんの役にも立たなかった。最初は、この若者も、隙だらけなへりくつをこねられて、独断的な教義につい引きずりこまれたのであったが、その後、さらに大きな、さらに深い理念によって、そんな独断的な教義は、とうに乗り越えてしまった道へ自力で出たのである。かれは公然と、かれらの教義は、真の理義、あるいは真の事実に基づいたものではない、自分は、あなたがた宣教師が、平素、キリスト教の敵と呼んでいる人たちの意見に承服せざるをえないと、公開の席上でどうどうと表明して、そして翻然と教会を去ってしまったのである。やれ堕落だ、やれ背教だと、その当座、悪評のけんけんごうごうたるものがあったのも、いたしかたがなかった。
しかし、背教、堕落は、まだまだもっと遠いところにあったのである。かれは、かれと同じような経験をした多くの人たちとはちがって、自分の宗教の問題を、ほんの一時返上したに過ぎなかったのであって、自分がこれまで学んだものは、これから学ぶもののほんの序の口、いろはに過ぎないことを、じゅうぶん承知していたのである。かれは、宗教の相対的な価値――宗教が保護し、禁制する価値については、まだことごとく信を失なっていたわけではなかった。一つの真理――文明と宗教とのあいだの相対関係についての真理、これを曲解したことが、はじめにかれを誤らせて、改宗の道にとびこませたのであった。むかし、かれの習った中国の哲学は、僧侶のない社会はけっして発達しないという、近代社会学もこれを認めている法則を、かれに教えていたし、また、仏教は、たとえ譬《たと》えばなしの虚談のようなものでも、――凡夫凡婦に聞かせる寓話だとか、物の説き方だとか、象徴だとか、そういうつくりばなしでも、人間の善行の発達に資する方便として、りっぱにその価値と存在理由をもっていることを、かれに教えていた。こういう見解からすると、キリスト教も、かれには大いに関心のもてる宗教であった。かれを導いてくれた宣教師は、キリスト教は卓越した道徳観念をもっているということをよくいったけれども、しかし開港場の生活には、それが少しも実現されていなかったから、かれは眉に唾《つば》をつけて、その時は信じなかったけれども、しかしなんとかして、自分もいつか将来には、西洋における宗教の、道徳に対する影響を、まのあたりに見てみたいものだと思った。つまり、いつかはヨーロッパ諸国を歴訪して、かれらの進歩発展の原因と、かれらが強大国である理由とを、つぶさに研究してみたいと望んだのである。
そこでかれは、そう思い立つがいなや、さっそくその実行にとりかかりだした。宗教上では、かれを一個の懐疑主義者にしたかれの知的活動は、政治の上では、かれを一個の自由思想家にしたのである。そのために、かれは当時の政策に反対意見を発表して、時の政府の怒りを買い、おなじく新思想の刺激のもとに、同じような不穏な言動をした連中といっしょに、ついに国外へ退去するのやむなきにいたった。こうしてこの時から、かれは世界中を、つぎからつぎへと放浪してまわる宿命をさずけられたのである。最初に、かれはまず、朝鮮にわたって行った。それから中国へ渡って、そこで学校の教員をして生計を立てた。そして、とどのつまり、最後にようやくかの地から、マルセーユ行の汽船に乗りこんだのであった。金など、一銭もそのとき持っていなかったが、ヨーロッパでどうして暮らしを立てようかなどということは、自分でも考えてもみなかった。年も若かったし、上背はあったし、からだは鍛えてあるし、諸事むだづかいはせず、しかも、貧乏には慣れている。なあに、大丈夫さと、自信満々たるかれであった。それにはまた、あちらへ行ったら、なんとか道を開いてもらえそうな、かの地の人に宛てた紹介状も、幾通か持っていたのである。それにしても、故国の土をふたたび踏むまでには、長い長い年月を過ごさなければならなかった。
その長い年月のあいだに、かれは、当時の日本人がひとりとしてまだ見たこともなかった西洋文明を、まのあたりに見たのである。かれは、欧米二大陸を股にかけ、多くの都会にも住み、そこでさまざまの職業――あるときは頭脳のしごとに、あるときは手先のしごとに働きながら、いたるところを流浪して歩いたのである。そんなわけだから、自分の周囲にあるものは、高いものなら素天辺《すてっぺん》、低いものならどん底、いいことにせよ、悪いことにせよ、これ以上のものはないというものを、かれはつぶさに研究することができた。しかもかれは、極東人の目をもって見たのであるから、その判断のしかたも、欧米人のそれとはぜんぜん違っていた。西洋が東洋を見るのも、東洋が西洋を見るのも、けっきょく、つづまるところは同じであるけれども、ただ異なるところは、一方が尊重するものは、とかく、他の一方ではあまり尊重されないという点である。そしてそれは双方ともに、ある点では正しいし、ある点では誤まっているのである。東西相互の完全な理解などというものは、かつてもなかったし、今後とても、おそらくあるはずはないだろう。
ところで、西洋というところは、かれには、かねがね予想していたものよりも、はるかに大きなものに見えた。――まるでそれは巨人の世界であった。その大きな西洋人だって、大都会のまんなかに、語るに友もなく、ひとりぼっちでおっぽり出されたら、それは心細いにちがいない。それと同じ心細さが、この東洋人の一孤客にも、きっと見舞ったに相違ない。幾百万の、急がわしげに往き来する市民が、てんで自分のことなど目にも入れてくれない茫漠たる不安。――人の声もそのために呑まれてしまうような、絶え間もない輪《りん》々|轆《ろく》々たる車馬のひびき。血のかよっていない、化け物のような大きな建物の恐ろしさ。人間の心だの手足だのは、まるで一文の値打もない安っぽい機械かなんぞのように、酷使のかぎり酷使する富の偉大な力。――そういうものから受ける、雲でもつかむような漠々とした不安の念。……おそらくかれは、かの画匠ドーレがロンドンを見たのと同じように、それらの大都会を見たのであったろう。――うす暗い拱門の重なりつづいた、陰気な荘重さ。目のかぎり、見通すこともできないくらい、つぎからつぎへと出でてはまた入る花崗岩の洞窟。その底には、労働の海がほうはいと大波を巻き上げている、石造建築の山また山。そうかと思うとまた、幾世紀も長い時を閲《けみ》して、徐々に積み重ねられた、秩序ある力のすごさを目のあたりに展開している、記念の大広場、等々々を見たのであろう。けれども、日の出も、日の入りも、高い空も、吹く風も、すべてさえぎってしまっている、無限に続くこの切り立った石の壁と壁との間には、なにひとつかれに美を訴えるものはなかった。われわれ西欧人が、大都会に心ひかれるものは、すべてかれの心をはね返すか、押しつぶすかしたのである。あの光まばゆいパリですら、じきにかれを退屈させた。でも、パリは、かれがはじめて長く滞留した最初の都会であった。フランスの芸術は、ヨーロッパ民族のうちで、最も天才的な国民の審美思想を反映したものとして、大いにかれを驚かした。驚かしたけれども、それはすこしもかれを楽しませてはくれなかった。なかにも、かれが驚いたのは、裸体の習作であったが、それさえかれは、むかし自分の授けられた禁慾主義の教育が、君に対する不忠不義に次いで、最も唾棄すべきものとして教えてくれた人間の弱点を、ただ人前に、おおびらにさらけ出したものとしか受けとれなかった。それと同じ意味で、かれには、フランスの近代文学も、やはり驚異の種であった。近代小説家のとほうもない作品は、かれにはほとんど理解できなかった。描写の妙味などは、ぜんぜん盲目も同様で、かいもくわからなかった。いや、かりにヨーロッパ人がわかるように、かれが文学を解したとしたところで、おそらく、せっかくの才能をこんな作品に用いるのは、けっきょく、こういうものを生ませる社会が腐敗している証拠だという確信を、いっそう堅くしたに終ったことだろうと思う。そういうかれは、豪奢なパリの実生活のうちに、当時の文学・美術によって、自分が暗示を与えられた信念の実証を、しだいに見いだしていった。パリにある、数多くの娯楽場、劇場、オペラなどを、かれはおりおりのぞいて歩いた。そして、かれ一流の禁欲主義者と武士の目でそれを見て、なぜ、欧土における価値ある生活の観念は、東洋における放蕩惰弱の観念と、すこしも違わぬのだろうと、ふしぎに思ったことであった。上流社会の舞踏会へ行っては、極東の淑徳感などのとうてい堪えうべからざる、肉体を露出した貴婦人の礼装を見て、これは日本の婦人ならまさに慙死《ざんし》すべきはずのものを、それとなくほのめかすように、巧妙にくふうされたものだと思った。そして、このことから、ふとかれは、かつて日本人が夏の炎天下に、自然で、素朴な、しかもすこぶる健康的な半裸体で労働している姿を、西洋人が見て非難したことがあったのを思い出して、妙な心持がした。かれはまた、ほうぼうの数ある大寺院や教会へも行って見たし、そのすぐ近くにある悪の殿堂や、いかがわしい春画などを密売して繁昌している店なども見物した。それからまた、当時のえらい説教師の説教も聴いてみた。その反対に、坊主ぎらいの人たちが、信仰や愛など、くそ食らえと、罵りちらす暴言も耳にした。金持の社会も見たし、貧民窟も見た。両者の裏面にひそむ魔窟も見物してみた。けれども、日本にあるような宗教の「禁制力」は、西洋では、どこへ行っても見ることができなかった。そういえば、西洋の世界には、そもそも、信仰というものがなかった。あるものはただ、虚偽と、仮面と、快楽を追い求めてやまない利己主義の世界、宗教の支配は受けないかわりに、警察の支配を受けているという世界ばかりであった。要するに、人間としてそんなところへ生まれるのは、いっこうにありがたくないような世界だったのである。
フランスに比べると、それよりも、いっそう鈍重で、しかも、侮りがたい、どうどうたる大国であるイギリスは、おのずからまた別種の問題を、かれに考えさせた。かれは、永久に伸びゆく英国の富と、その富のかげに、永久に積りふえて行く恐ろしい汚醜の堆積とを研究した。大きな港という港が、幾多の国々の財宝を、腹いっぱいに食らい飲んでいるのを見た。それらの財宝は、おおむね掠奪品なのである。英国人は、いまでもかれらの先祖と同じように、海賊の国民であることを、かれはその時知って、もしこの国民がただのひと月でも、よその国から食糧を供給させることができなくなったとしたら、数千万の国民の運命は、いったい、どうなるだろうと考えた。かれはまた、世界でも最大の都市であるロンドンの夜を、目をそむけたい醜悪なものにする、売笑と飲酒の悪習を見た。そして、見て見ぬふりをするこの国伝統の偽善ぶりと、現状にひたすら感謝を述べている宗教と、必要もない国にやたらと宣教師を派遣するその無知さかげんと、病弊と悪徳とを撒《ま》きひろげるだけに終るおびただしい慈善事業とには、まったく唖然としてしまった。多くの国々を行脚して歩いた、この国の偉い人(*)が、英国人の一割は、常習の犯罪者であるか、さもなくば貧民である、と述べているのも見た。
*「われわれは、知的事業においては、蛮民の状態をはるかにしのぐ進歩をとげたけれども、道徳においては、それと同等の進歩をしていない。……国民の大多数は、野蛮人の道徳の上に出ず、多くのばあい、かえってそれ以下にある。道徳の低下は、近代文明の一つの大きな汚点である。……われわれの社会的・道徳的文明は、いまなお、未開の状態にある。……われわれは、世界で最も富める国である。
しかも、わが国の人口の約二十分の一は、貧民であり、三十分の一は、すでに犯罪者として知られたものである。すでに挙げられたこれらの犯罪者に、まだ探偵の手をのがれている犯罪人を加え、それに生活の全部を、もしくは生活の幾分を、個人の慈善に仰いでいる貧民(ドクター・ホークスリーの調査によると、ロンドンのみでも、年々、七百万ポンドの金が、この目的に消費される)を加えると、わが国人口の一割以上は、実際の貧民と犯罪者であると、断言してよかろう」――アルフレッド・ラッセル・ウォーレス
しかも、これが百万の教会と無数の法律がしかれているという国で、このありさまなのである。なるほど、そう思ってみると、英国文明は、以前かれが、これこそは進歩発展の源泉だと信ずるように教えられたキリスト教の力――それも見せかけだけで、じっさいはありもしない力――を示している点では、ほかの国よりもたしかに劣っている。その点で、英国の都市は、かれにまたべつのことを語っていた。仏教国の都市では、さすがにこうした光景は、見ようと思っても見られない。見られないどころではない。この国の文明とは、正直者と狡猾《こうかつ》な人間、力のないものと力のあるもの、この二つのものの、果てしない、醜陋《しゅうろう》きわまる争闘を意味しているのだ。暴力と好智とが結托して、弱者をこの世の地獄に突き落しているのが、この国だ。こんな状態は、日本には、夢にもありはしない。しかし、こうした状態の物質的な所産、あるいは知的な所産、これはただただ驚くべきものだと白状せざるを得ない。もっとも、かれはそこに、人間の想像もできないような悪も見たけれども、同時にまた貧富両者のなかに、多くの善を見たことも事実である。この大きな謎、無数の矛盾撞着は、かれの力では、何とも解釈のつかないものであった。
かれはしかし、自分が遍歴したほかの国の国民よりも、英国人が好きであった。英国紳士の気風のなかには、どことなく、日本のサムライかたぎに似たものがある。そんな感銘をかれは受けたのである。英国紳士の、あのいやに四角四面の冷やかさのかげには、いつも変らぬ親切――かれは、それを一再ならず経験した――と、友情の大きな力、また、やたらに無駄には人にかけないが、じつに深い情のこもった情誼《じょうぎ》、それから、世界の半ばを自分のものに領有したあの胆の太さ。――そういうものが隠されていることを、うかがい知ることができたのであった。もっとも、その後、かれが、現代において人類のなした業績を、さらに大きくあらわしている世界を見るために、イギリスからアメリカへ渡って行ったところには、もう、たんなる国と国との相違などということは、すでにかれには興味のないものになってしまっていた。つまりそれは、ぼう大な西洋文明というものを、全体として眺められるようになったからで、国の相違などという事実は、もはや影が薄くなってきたためであった。かれは、ただもう、行くさきざきの到るところで、――帝政国、王政国、共和国のいずれを問わず、およそ国と名のつくところには、かならず同じような血も涙もない無情な貧窮が、同じような驚くべき結果を伴なって、そこに展開されているありさまを見、また、どこの国へ行っても、およそ東洋の思想などとは、まったく正反対な思想が基盤となっている現象を見せつけられたのであった。それを見たかれは、こんな文明なんか、わざわざこっちが声を合わせて唱和するような気持なぞ、一つも起させやしない、こんななかに住んでいたって、愛着なんか起りっこない、永久におさらばをしたって、うしろ髪を引かれるようなものは、何ひとつありはしない、と思わざるをえなかった。自分の魂と相去ること、まず、べつの太陽系の中にある、べつの遊星に住んでいる生物界にもひとしいものだ、と思った。とはいえ、かれはそういう文明が、どれほどの人間の労力を費したか、ということもわかっていたし、また、どれほどそれが強い脅威になっているか、ということも感じていた。その知性の力が、どれほど広汎な範囲にひろがっているか、ということも察していた。しかもかれは、そういう文明を憎んだ。――恐ろしい、すべて計算ずくめの機械主義を心から憎んだ。功利的ながっちりさを憎んだ。その常識を、飽くことを知らぬ貧婪《どんらん》を、盲目的な残忍性を、底なしの偽善を、欲望の不潔を、その富の傍若無人さを憎んだ。道義の上からいえば、この文明は、言語道断だし、常識の上からいえば、残忍暴虐である。現代文明は、量り知れない堕落の深淵をかれにのぞかせたのである。そこには、かれが青年時代にいだいた理想に匹敵するような理想は、何ひとつなかった。けっきょく、現代文明とは、一つの大きな豺狼《さいろう》的争闘であった。が、そのなかにも、じじつ、善と認めざるをえないものが少なからずある。それがかれには、奇蹟よりもまだ不思議な気がしてならなかった。要するに、西洋の真の偉大さは、ただただ、知的な点にある。それはちょうど、純粋知性の冷たくそそり立った、嶮しい山岳のようなもので、その山頂の永久に溶けない雪渓の下では、感情的理想などは凍え死んでしまうのである。そこへゆくと、日本の仁と義の文明は、幸福の理念においても、道徳的な観念においても、大いなる信念においても、よろこび勇み立つ勇気においても、朴直で私心のない点においても、また、まじめで足ることを知っている点においても、たしかに西洋文明よりも、比較にならぬほど卓越している。西洋の優越は、倫理的なものではなかった。かれらの文明のすぐれている点は、数知れぬ苦難をへて発達したあげく、弱肉強食の道具に用いられてきた、知性の力に存するのである。
しかし、そういう点はあったけれども、西洋科学の原理だけは、かれもその争うべかざる力のあることを知っていた。科学は文明の威力をいよいよ拡大して、やがては世界苦がこの世に氾濫する時がくるだろう。その力は抗しうべきものでもないし、避けうべきものでもなく、また、測りうべきものでもない。そのことを、かれは知っていたのである。――日本は、この新しい活動の形式を学び、この新しい思想の形式を自分のものに占有しなければ、国は滅亡するよりほかにない。二つのうち、いずれかを採るより道はない。こう考えているうちに、疑問中の大疑問が、かれに起ってきた。それは、古来の聖賢が、かならず直面しなければならなかった問題であった。――「宇宙は道徳的なものなりや」という疑問である。この問題に、最も深遠な解答をあたえているのは、仏教であった。
しかし、道徳的だ、非道徳的だといったところで、それは、人間のごく卑小な感情をもって、宇宙の運行を推し測ったものであって、そこには依然として、人間の論理などでは道破することのできない、一つの確信が残っていた。人間は、未知の終点に向かい、死力を賭して、自分たちの最高の道徳的理想を追求して行くものだ、という確信である。この確信は、たとえ、日月星辰《にちげつせいしん》が、その運行線上から抗議を申し込んできても、動かすことのできない事実である。とにかく、日本は、将来どんなことをしても、外国の科学を習得し、敵国の物質文明を多分に採り入れる必要がある。けれども、いかに必要があっても、日本は、古来から持っている正邪の観念、または大義名分の理想を、ことごとく打ち捨ててしまうわけには行かない。こんなことを考えているうちに、やがてかれは、ごく徐々にではあるが、一つの決意が、心のなかに形をなしてでき上がってきたのである。――この決意こそは、後年、かれをして一国の指導者、一世の師たらしめたものであった。どういう決意かというのに、それは全力をあげて、自国の古代生活の粋を保存することに専心し、いやしくも国家の自衛に必要のないもの、もしくは国民の自己発展に裨益《ひえき》しないようなものを、外国から輸入することには大胆に反対しようという決意である。これなら、失敗したところで、恥にはならない。それどころか、それによってすこしでも価値あるものを、幾分かでも破滅の渦中から救うことができれば、望外のよろこびである。西洋の生活の、あのもったいない浪費は、かれら西洋人の快楽を好む性向と、苦悶を求める癖《へき》よりも、かえってかれに、より多くの感銘をあたえた。自分の国が貧乏国であることに、かれはむしろ強味を見いだした。私心を滅したその勤倹ぶりこそは、西洋と張り合う唯一の勝味だ。かれは、外国の文明を見たおかげで、それを見なければよくわからない、自分の国の文明の価値と美点とが、はっきりわかったのであった。こうしてかれは、故国に帰参のかなう日のくるのを、一日千秋の思いで待ちこがれていたのである。
雲ひとつない四月の朝まだき、まだ明けもやらぬ東雲《しののめ》の、物のかげさえおぼろに透いて見えるほの暗いなかに、かれはふたたび故国の山々を仰ぎ見た。――インクを流したような、暗たんたる海の環《わ》のなかから、紫をおびた薄墨色にそびえ立ち、空のかなたを高くくっきりと劃《かぎ》っている故山を、かれは眺めたのである。長い長い流浪の旅から、いま、かれを乗せて故国へいそぐ汽船のうしろには、刻一刻、バラ色の炎となって、しずかに染めなされて行く水平線があった。甲板の上には、すでにもう幾人かの外人たちが、太平洋の荒波の上から、富士の麗容をはじめて見ようとして、しびれを切らしながら待っていた。暁に見る富士の初すがたこそは、なんといっても、この世はおろか、あの世までも忘られぬ眺めの一つである。外人たちは、しばらくそうして、えんえんと連なる山なみに眺め入っていた。ほの暗い大空に、鋸《のこぎり》の歯のような頂をもたげている山々のむこうには、よく見ると、まだ小さな星かげがかすかに光っているのが見える。――しかし、富士はまだ見えない。外人たちは、船員に尋ねてみた。すると、船員は、笑いながら答えた。「ああ、あなたがたは、目のつけどころが、低すぎるんですよ。もっと上を見てごらんなさい。もっと高いところを」そこで、外人たちは、空のまんなかまで目を上げてみた。すると、曙のときめく色のなかに、あやしい幻の蓮《はちす》の葩《はな》がひらきでもしたような、うす桃色に色どられた大きな山頂が、はっきりと見えた。その壮観に打たれて、だれもかれも、しばらくのあいだは唖のように息をのんでいた。と見るうちに、万古の雪は、刻々に金色に変りだし、やがて真白になったと思ったときには、朝日はすでに水平線の弓の上にさし出て、瞬《またた》くうちに暗い山なみの上、いや、その上の星の上までも高くのぼったかと見るまに、さしかがやく旭光は、早くも頂上いっぱいに光りを投げかけていた。が、広い裾野は、まだよく見えない。そのうちに、夜はすっかり明けはなれて、ほのぼのとした浅黄いろの光りは、大空をひたし、物のあやめは深い眠りから目をさました。――やがて、船客たちの目のまえに、明るい横浜の港がひらけてきたころには、ふもとを雲にかくした霊峯は、無窮の青空高く、さながら雪の精もかくやとばかりに、四方の山々を圧して高だかとそびえ立っていたのである。
「ああ、あなたがたは、目のつけどころが低い。もっと上を見よ。もっと高いところを」――このことばは、妙にかの流浪者の耳朶《じだ》に残ることばだった。このことばの余韻は、いつまでもかれの耳の底に鳴りひびいて、なにか胸のなかにふくれ上がってくるような、抑えようとしても抑えきれない深い感情に、節とも何とも得体のつかぬ伴奏をかなでた。すると、たちまちいっさいが朦朧《もうろう》としてきた。目には、空に秀ずる富岳《ふがく》も見えず、その下の方に、青から緑にうす霞んでゆく山々も、湾内に群がる船舶のかげも、そのほか、近代日本を形づくるいっさいの物という物が、なにもかにも見えなくなってしまった。ただ、古い日本だけが、かれの眼底にありありと見えていた。におやかな春のかおりをのせて、陸から吹いてくるそよ風が面を吹きなで、血潮にふれると、長く閉されていた古い思い出のへやから、ふっと、かれが昔忘れ捨てようとしたいろいろの物のすがたが、ひょいひょいと飛び出してきた。もう亡くなってしまった人たちの顔が、ゆくりなくも、まぶたに浮かび上がり、長い年月を草葉のかげに送った人たちの声が、ふっと耳に聞こえてきた。かれはもういちど、父の屋敷にいたころの少年にかえり、そこの明るいへやからへやをうろうろ歩きまわり、畳の上に青い葉のかげが、ちらちら動いている日なたで遊び戯れ、山水を形どった庭先の、夢のように静かな木下闇《このしたやみ》の安らかさに、しみじみと眺め入る自分を見た。ちょこちょこ歩きのかれの手をひいてくれる母の、あの柔らかな手ざわりを感じながら、かれは邸内にあった小さなほこらの前にも行き、先祖の位牌の前にも立った。そして、ふといま新しい意味を見つけ出した、かの船員の言ったことばを、がんぜない子供の祈りごとでもまねるようにして、かれはおとなの唇で、もういちどつぶやいたのである。
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神々の終焉
「あなた、ジョスのことは、明るくっておいででしょうな?」
「ジョス?」
「さようで。つまり、仏像。日本の仏像でございますよ。――これをジョスと申しております」
「そうね、いくらか知ってるかな」とわたくしは答えた。「しかし、そう通《つう》というほどじゃないね」
「なるほど。では、ひとつ、わたくしの集めましたものを、お目にかけますかな。わたくしもな、これで二十年というもの、ジョスを集めてまいりました。中には、ちっとはお目にかけられる物もございます。もっとも、こりゃ売り物ではないので。売り先は、大英博物館だけということにしてございます」
骨董屋のあとについて、わたくしは、がらくたの古道具がごたごた並べてある、店のなかを通りぬけて、石だたみの裏庭をわたり、普通のものより度はずれて大きな土蔵のなかへはいって行った。土蔵というものは、どこのも、みんな中が暗いものだが、ここのも御多分に洩れずで、まっ暗ななかに掛けてある勾配のゆるい梯子段が、どうやらやっと目に見分けられるくらいであった。骨董屋の主人は、その梯子段の下のところに立ちどまって、
「じきにお目がなれてまいります。……なにしろ、この土蔵は、ジョスを入れるために、わざわざ建てましたんですが、今じゃ、これでもちっと小さいくらいでござんすよ。品物は、二階にみんな納めてございます。……さあ、どうぞお上がんなすって。……足もとにお気をつけなすって下さいましよ。梯子がやわなもんで。……」
上がってみると、そこは、たそがれのようなうす暗がりで、天井がばかに高い。見まわしてみて、はじめて自分がどっち向いても仏像と向かい合っていることがわかった。
大きな土蔵のうす暗がりのなかで見ると、目に入るものみな、すごいなんぞは愚かのこと、まるで見た目は化けものの世界だった。羅漢《らかん》だ、菩薩だ、諸仏だと、いや、それよりもまだもっと古い仏たちが、うす暗いなかにぎっしりと詰まっている。それも、寺院にあるように、本尊、脇立というふうに、位順《くらいじゅん》によって整然と並んでいるのではなくて、まるでおもちゃ箱でもひっくり返したようなぐあいに、仏さま御一同、唖然としてあいた口がふさがらないといったかっこうで、ごたごたに並べてあるのだ。さすがにそこへひと足踏み入れたとたんに、首、首、首、無数の首、欠け損じた背光、威嚇《いかく》か祈念のいずれかにさし上げられた手、手、手、そういうものが、乱離雑然としているなかから、――しかも、厚い塗り壁にあけてある蜘蛛の巣だらけな空気ぬきの穴から、わずかに洩れさす光線に、片面だけを照らしだされた埃まぶれの金箔が、ほのかににおい立っている闇のなかで、――さすがのわたくしも、最初は何が何やら、一物をも見分けることができなかった。そのうちに、すこしずつ目がなれてきて、おぼろげなものがだんだんはっきりしてくるにつれて、あれはなんの像、これは何の仏だという見分けがついてきた。いや、あるわ、あるわ。観音さまだって、一種《ひといろ》じゃない。いろいろの形をしたのがある。さまざまな名のついた地蔵さまがある。釈迦がある、薬師がある、阿弥陀がある、そのまた弟子の仏がある。どれもこれも、みんな古いものだ。作も日本のものではない。できた国、できた時代がみな違っている。朝鮮のもあれば、中国のもあり、インドのもある。いずれも仏教渡来の初期全盛時代に、海をわたって招来された宝物である。あるものは、極楽の蓮華の花の上に坐しているし、あるものは、豹、虎、獅子、その他雷光や死をかたどった神獣怪鳥にのっている。そうかと思うと、頭が三つあって、手が何本もあり、それが群象にさしあげられた黄金の玉座に坐して、このうす暗がりのなかをしずしずとうごいてくるかに見える、ものすごくも荘厳な像もある。火焔につつまれて行坐する不動の像もあれば、神々しい孔雀の背にのった摩耶夫人の像もあったが、これらの仏像のなかに、大名の甲冑《かっちゅう》姿だの、中国の聖賢の像がまじっているのは、これはまたなんともはや、地獄の沙汰も時代錯誤、木に竹をついだようなまことにへんなものであった。なかにはまた、屋根にのぼって雷獣をむんずと鷲づかみにつかんだ、憤怒の形相ものすごい、見上げるような大きな像もあった。これぞ暴風《あらし》の権化の四天王、もしくは、破《や》れ寺の山門の守護神たる仁王の像であった。それからまた、容姿艶麗な女体の像もあった。蓮華の花のなかに組まれた、その手や足のしなやかさ。妙法の数をかぞえておわす、五本の指のなよやかさ。おそらく、これなどは、遠い遠い忘られた昔に、インドの舞妓《まいひめ》の美しいすがたから思いついた、当時の理想のおもかげなのであろう。さらにずっと上の方の、むきだしな煉瓦の壁につってある棚のうえには、小型の仏像がたくさんのせてあった。黒猫の目みたいに、闇のなかでもぴかぴか目の光っている鬼の像。からだの半分は鳥のすがた、半分は人間の姿で、羽根がはえていて、鷲のようなくちばしをもっている像。――日本人の奇想が生みだした烏天狗《からすてんぐ》の像などが、そこにあった。
「いかがでございますな」と骨董屋の主人は、わたくしがびっくり仰天しているようすを見て、いかにも満足そうな笑みを洩らしながら言った。
「こりゃあ大した蒐集だ」とわたくしは答えた。
骨董屋の主人は、わたくしの肩に手をかけ、耳へ口をよせて、誇らしげに言った。「これであなた、五万ドルはかかりました」
しかしながら、いかに東洋では美術家の工賃が安いといっても、むかしの信仰がそれに払った代価が、とても五万やそこらの、そんな額でないことは、これらの仏像がみずから語っている。これらの仏像を安置したお堂の階《きざはし》を、それこそ幾百万の亡くなった信者たちが、信仰一念の尊い足で、どんなにかすり減らしたことであったろう。また、その祭壇のまえには、どんなに多くの母親たちが、小さな赤ん坊の着物を掛け掛けしたことであったろう。そういう母親たちから、仏さまに御祈念をあげることばを教わった子どもたちが、どれほど、幾代ものあいだにあったことだろう。また、これらの仏像のまえに、どんなに多くの悲しみと希望とが打ち明けられたことであったろう。――仏像たちは、それらのことも親しく語っていた。幾世紀にもわたる崇拝のなごりは、これら仏像たちの、三界流浪のあとを追い慕ってか、ほのかにもゆかしい香煙のかおりを、この埃だらけな土蔵の二階に、あやしくもほのぼのと漂わしている。
「あれはなんと申しますかな?」と主人の声が問うた。「なんでもあれが、このなかで、一ばんできのよいものだそうですが……」
そういって、主人は、金色の三重の蓮華のうえに端坐している仏像を指さした。――これはアヴァロキテスヴァーラ――「……一心に名《みな》を称せば、即時に其の音声《おんじょう》を観じ」たもうたという、女菩薩である……若《もし》、是《こ》の……名《みな》を持《たも》つこと有らん者は、設《たと》ひ黒風《こくふう》……怨賊《おんぞく》……の難ありといえども、悉く即ち解脱することを得ん。若《もし》、是《こ》の……名《みな》を持《たも》つこと有らん者は、設《たと》ひ大火に入るとも、火も焼くこと能はず。或は羅刹《らせつ》、毒竜諸鬼等に遇《あ》はんに、若《もし》、是《こ》の……名《みな》を称せば、時に悉く敢へて害せじ。或は須弥《しゅみ》の峯《みね》に在りて、人に推《お》し堕《おと》されんに、若《もし》、是《こ》の……名《みな》を称せば、日の如くにして虚空に住せん。……――その四肢の美妙さ、その微笑のやさしさ、これこそは、インドの楽園の夢である。
「これは観音だね」わたくしは答えた。「しかも、じつに美しいな」
「今にそうとうこれで、高い金を出して、買い取りたいというものが出てまいりましょうな」
主人は狡《ずる》そうな目つきをしていった。「あたくしも、これはだいぶ金を出しました。もっとも、だいたいあたくしは、ここにある品は、みんな安く買い入れておりますんです。こういう物は、めったに買い手もございませんし、それに、みんなこれ、闇で売りに出る品ですからな。そこがまた、こっちのつけ目なんでしてな。……あすこの隅っこにある、あの仏像、――あのまっ黒けな……あれは何でござんしょうな?」
「延命地蔵だね」とわたくしは答えた。「あれはね、長命をさずける地蔵さまだよ。だいぶ古い物のようだね」
「へえ。それがね、あなた」と主人は、わたくしの肩にまた手をかけて、「あれを売った男は、あたくしに売ったために、監獄へぶちこまれましてな」
そういって、主人は、あははと笑いこけた。――自分の取引の抜け目がなかったことを思い出したのか、それとも、国禁を犯して仏像を売ったその男の、運のわるい|どじ《ヽヽ》さ加減を笑ったのか、それはわたくしにはわからなかった。
主人はかさねていった。「その後、ずっとあとになってから、あれを買いもどしたいと申しましてな、あたくしが買った値段に、だいぶ|のり《ヽヽ》をつけた金を持ってまいったんですが、あたくしは断りました。こっちは、仏像のことはずぶのしろうとでござんすが、この品がどのくらいの値打があるかてえことは、心得ております。まあ、あんなのは、日本じゅう捜したって、ちょいとござんせんよ。大英博物館なら、二つ返事で買いとりましょうな」
「大英博物館へはいつ納めるんです?」わたくしは聞いてみた。
「さあ。……じつは、そのまえに、いちど展示会を開きたいと思いましてな」と主人は答えた。「ロンドンで仏像の展示会をやりますと、ぼろい金になりますんでね。なにしろ、あちらの連中は、あなた、生まれてこのかた、こういうものは見たことがござんせんからな。なに、うまくやろうと思えば、教会の連中に話を持ちこめば、後援ぐらいはしてくれます。伝道の広告にもなることですからな。『日本渡来の異教の偶像』とかなんとか、そこは、うまくな。……その、いまごらんになっている、その赤ん坊の像はいかがでございます?」
片手は空をさし、片手は大地をさして立っている丸裸の赤児の像を、わたくしはそのとき眺めていたのである。……朝日が東の空にさしのぼるように、かれは母の胎内から、光明にかがやきながら生まれでた。……かれはまっすぐに立って、悠々と七歩あるいた。地上にしるされたその足の跡は、ちょうど七つの星のように、いつまでも光りを放っていた。そして、かれは、音吐朗々《おんとろうろう》たる声をはなって言った。「仏陀はいまここに生まれたぞ。おれには生きかわるということがない。おれは、天上天下、すべてのものを済度しに、このたびを限りに生まれてきたのである」
「これは世にいう誕生釈迦だよ。青銅のようだね」
「青銅でございます」主人は指の節で、くだんの像をコンコンたたいて鳴らしながら、答えた。
「この地金だけでも、買った値段より高うごわす」
わたくしは、頭がほとんど天井すれすれに立っている四天王を見上げて、「マハヴァガ」に書いてある、かれらの出現のはなしを思い出した。……美しい夜であった、四人の大王は、あたりいちめん、光明に満ちている聖なる森へ入って行った。そして、ていねいに仏陀を礼拝したのち、それぞれ、東・西・南・北にわかれて、四つの大きな松明《たいまつ》のように立った。……
「こんな大きな像を、いったいどうやって二階へ上げたんだね?」わたくしは尋ねてみた。
「そりゃもう、あなた、引っ張り上げましたんで。床へ大きな穴をあけましてな。……それより、ほんとうに困ったのは、汽車でここまで持ってくることでしたな。なにしろ、仏さまにとっちゃ、生まれて初めての汽車旅行でござんしたからな。……そりゃそうと、それをごらんになって下さい。こりゃあ展示会にでも出したら、まず大評判になりましょうよ」
見ると、高さ三尺ばかりの小さな木像が、二体ある。
「これが君、どうして評判になるんだね?」わたくしは素知らぬ顔をして尋ねてみた。
「旦那、これが何だかおわかりになりませんか? こりゃ、あなた、例のキリシタン迫害時代にできたもので、日本の悪魔が十字架を踏みつけているところでございますよ」
その木像というのは、ただの小さな寺院の守護神にすぎなかった。ただそれが、X型の台の上に足をのせている。
「だれかこれを、悪魔が十字架を踏みつけているところだと言った人があるのかね?」わたくしは思い切って、突っこんで聞いてみた。
「でも、ほかにこれ、何をしているところと見えますかな?」主人はなにやら言い抜けるように答えた。「これ、このとおり、十字架を踏んづけておりますがな」
「けど、そいつは悪魔じゃないんだよ」わたくしは主張した。「それからね、この十字架みたいなものね、これも、ただこれは体の平衡をたもつために、その上へ足をのせてるというだけのものだよ」
それを聞くと、主人はきゅうに黙って、見るからにがっかりしたような顔になったので、わたくしもすこし気の毒になった。なるほど、「十字架を踏んづけている悪魔」――これなら、日本から偶像が渡来したことを知らせる広告ポスターの客寄せ文句としては、公衆の目を引くこと請合いだろう。
「それよりも、この方がずっといい物だよ」とわたくしは、そこにある一体の群像を指さして言った。それは、仏説による摩耶夫人の腋の下から、赤児の仏陀が生まれかかっている像であった……彼女の腋の下から、なんの苦しみもなく菩薩は生まれた。それは四月八日のことであった。……
「これもやはり青銅で……」と主人は、その像をコンコンたたきながら言った。「青銅の仏像は、だんだん少なくなってまいりました。もとは買い上げるそばから、みんな古金にしてさばいちまったものでしたがな。今考えると、惜しいことをいたしましたよ。すこし取っておけばよかった。じっさい、お目にかけとうござんしたよ、あの時分ほうぼうのお寺から集まってきた青銅を。――釣鐘がある、花立がある、仏像がある。いやもう、手にとりほうだい。その時分でしたな、鎌倉の大仏を買いとろうとしたのは」
「古金としてかね?」
「そうなんで。あの時は、金の目方をすっかり量りましてな。仲間のものといっしょに、組をこしらえました。最初の差し値が、三万ドルでしたな。その値で、けっこう大儲けができる見込みだったんで。なにしろ、あのでかいものに、金や銀がうんとはいっておりますんですからな。坊主たちは売りたくって、咽《のど》から手が出ていたんでしたが、檀家がとうとう承知いたしませんでした」
「あの大仏は、世界の七不思議の一つだよ」わたくしは言った。「あれを君たちは、ほんとに潰すつもりだったのかね?」
「そりゃもう、あなた、言うにゃ及ぶで。ほかに処置のしようがござんせんものな。……ときに、あすこにある、あれはまた、聖母マリアそっくりでございましょ?」
骨董屋の主人は、そう言って、赤ん坊を胸に抱きしめている、金箔の像を指さした。
「そうだね。しかし、あれは鬼子母神という、子どもを可愛がる女の神さまだよ」
「みなさん、仏像の話をよくなさいますけれども」と主人は、じっと考えるような顔つきをしながら、言った。「――ローマ旧教のお寺へまいりますと、よくこれとおなじようなのが、たくさんございますな。どうも宗教なんてものは、世界じゅう、どこの国へまいってもおんなじように、あたくしなんぞには思われますな」
「そりゃそのとおりだよ」
「お釈迦さまの話も、キリストの話も、よく似ているじゃございませんか」
「そう、ある程度まではね」
「ただ、お釈迦さまは磔刑《はりつけ》になりませんでしたな」
わたくしは、それには返事をしなかったかわりに、次のような経文の文句を考えていたのである。――「三千大千世界のうちに、我れ百千万億の衆生のために、たとえ芥子《けし》の種子ほどの地なりといえども、我が身命を捨てざりし地は有るなし」わたくしはふとその時、それが自分にとって絶対に誤まりなき真理であるように思われた。大乗仏教の仏陀は、ゴータマではない。また、如来でもない。仏陀こそは、人間の心のなかにある仏性である。われわれは、ことごとくみな、死んではまた生き返る無限無窮の蛆虫《うじむし》である。その蛆虫には、どれにもそのなかに仏陀を宿している。百千万億、すべての衆生はみなおなじである。
阿僧祗劫《あそうぎごう》において、幻影のうちに迷夢を追ってはいるけれども、しかし、どんな人間でも、すでに生まれ落ちた時から、のちに仏陀になりうる仏性をそれぞれ先天的にもっているのである。五欲驕慢の心が滅する時に、仏陀の微笑《みしょう》は、ふたたび世を微妙《みみょう》にするであろう。尊い犠牲を払うたびごとに、人間は正覚の時に近づいて行くのである。経《へ》たる所の劫数《こっしゅ》、無量無尽の人間の数をおもえば、現世においても、愛憐のため、もしくは勤身営務《ごんしんようむ》、正念正覚のために身命の捨てられなかった土地が、三千大千世界のうちに一箇所でも残っていないことを、だれが疑うことができようか。
そのとき、わたくしは、ふたたび骨董屋の主人の手が、わたくしの肩の上にあるのを感じた。
「とにかく何ですな」と主人は明るい調子で言うのであった。「大英博物館へ納まれば、ここにあるものは、みんな値打が出ましょうな?」
「だろうね。また、そうあるべきだね」
その時、わたくしは、これらの仏像が、あの大英博物館という、死せる神々の広大もない墓ぐらのどこかしらに押しこめられて、灰色の暗い濃霧の下に、エジプトやバビロンの忘られた神々といっしょに住みながら、ロンドンの喧噪を耳に聞いて、心細くも身をふるわしているさまを想像してみた。――そんなことをしてみて、いったい、何のためになるのだろう? 第二のアルマ・タデマ(画家)に、消え亡びた文明の美を描かせるためなのであろうか。それともまた、英語の仏教辞典の挿画の一助にでもするためなのか。あるいは、未来の挂冠詩人を刺激して、かのテニスンが「油を塗りて捲き毛せし、アッシリア国の猛《たけ》き牛」の名句にも劣らぬ、鏤金《るきん》の佳調を物させるためでもあるのか。もちろん、そこに保存されることは、むだにはなるまい。因習を排し、我執を好まぬ当代の思想家たちは、おそらく、それらの仏像のために、新しい讃仰を教えるであろう。人間の信仰がつくりだした影像なら、いかなるものでも、それは永遠に貴い真理の殻として残る。その殻そのものだけでも、おそらく貴い霊的な力をもつことができよう。これらの仏たちの微妙《みみょう》な慈光をたたえた温顔は、おそらく、因習に堕した信仰に倦み飽きている西欧人に、ひょっとすると霊魂の和らぎをあたえることができるかもしれない。――「有智無智、罪を滅し善を生ず。若《もし》は信、若《もし》は謗、共に仏道を成ぜん」――こんにちこそ、西欧では、このような教えを説いてくれる新しい導師の一日も早く来たらんことを、いまや遅しと待望しつつある時なのだから。
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前世の観念
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「汝達兄弟よ、もし一|比丘《びく》ありて、過去世における――一生、二生、三生、四生、五生、十生、二十生、五十生、百生、千生、あるいは幾千万億生の過去における、おのれが種々なる仮りの姿を、あらゆる形において細大洩らさず想い起さんとせば、すべからく心を静寂の境に置くべし、すべからく事物を洞見すべし、すべからく独坐三昧の境に入るべし。――」(アカンケーヤ経)
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仏教が、いまなお現実の中に生き生きと脈打っているふん囲気のなかで、幾年かを過ごしたことのある思慮ある西洋人にむかって、君は東洋人の物の考え方のなかで、とくに、われわれ西洋人の考え方とちがっている根本的観念は、何だと思うと聞けば、その人はかならず、それは「前世の観念だ」と答えるにちがいない。極東人のあらゆる心のなかに沁みこんでいるものは、なによりも、この観念が多くを占めているのである。この観念は、空気のように普遍的であり、あらゆる感情に色をつけ、直接にも、間接にも、ほとんどあらゆる行為に影響している。この観念を形にあらわしたものは、美術的な装飾の細部にさえ、つねにあらわれているし、この観念を托したことばのひびきは、昼となく夜となく、ほとんど時きらずに、求めずしてわれわれの耳に聞こえてくる。人がなんの気なしに言うことば――家庭で、ふだんよく言うことば、ことわざ、もしくは宗教上、または世俗上の感歎のことば、悲しみや、希望や、よろこびや、絶望の表白など、みなこの観念を言いあらわしている。憎悪怨恨の表現も、愛情のことばも、ひとしくこの観念が形容している。この観念があるために、「因果」とか因縁とかいうことばが、ひとつの解釈として、または慰めとして、あるいは小言のことばとして、しぜんに人の口にのぼるのである。急な坂道などで、百姓が筋骨をつっぱって、重い車を引きなやむようなとき、「これもはあ、因果だから、仕方がねえだ」とやせ我慢につぶやく。奉公人などが喧嘩でもすると、おたがいに、「なんの因果で、手めえのような野郎とひとつ釜の飯を食うのか」などという。|ごうたれ《ヽヽヽヽ》者や、悪党なども、きさまは因果なやつだと言ってきめつけられるし、賢者や仁徳ある人の世にふしあわせなのも、おなじように、この仏教のことばで説明される。法を破った罪人なども、自分の罪状を白状するのに、「うぬがしたことが悪いたア、百も承知でやったこと、しょせん因果にゃ勝てませぬ」なんてことをいう。たがいに思い思われた仲を裂かれた相思の男女も、この世で添いとげられないのは、これも前世に犯した罪のむくいだと信じて、死を求める。無実の罪に泣くものも、めぐる因果の小車《おぐるま》で、どうで償わなければならない前世の科《とが》を、この世で償わなければならないのだと観念して、腹の煮えるのをじっと我慢する。……そういうわけで、おなじように、ごくつまらぬことで後世《ごせ》に心を托すようなことも、みなそれは、前世のたましいの信条を含んでいる。母親が遊んでいる子どもを叱るときなども、いたずらをすると、来世によその親御の子に生まれかわるときの障《さわ》りになりますよ、といって聞かせる。巡礼や乞食が施物をもらうときには、旦那さまやお上さん、どうぞや、来世はお仕合わせにお生まれなさるように、といって祈る。そろそろ目もかすみ、耳も遠くなりかけてきたような年とった隠居は、おいらも近ぢかに、もういちどまた生まれかわって、若え丈夫なからだになるのよと、さもさもうれしそうに人に語る。こんなぐあいに、仏教の方で、「必然」という観念を意味する、「約束ごと」ということば、あるいは、「前の世」とか、「あきらめ」などということばは、われわれの英語に、「|正しい《ライト》」だの「|間違っている《ロング》」だのということばがしじゅう出てくるように、日本人の日常の談話のなかに、しばしば出てくるのである。
こういう心理的ふん囲気のなかに、長年住んでいると、しまいには、いつとはなしにそれが自分の思想のなかに沁みこんで、そこにいろいろ変ったことが起ってくるものである。前世という観念がそのなかに潜んでいる世上のあらゆる考え、――いかに同情して研究してみても、はじめのうちは、どうもしっくりしなかったこの信念が、しまいには、一時の物めずらしさ、不思議さを失って、うわべだけでも、すっかり板についた感じをもったものになってくる。そして、この因果思想によって、いろいろのものごとが、理詰めで考えて行くのとおなじに、じゅうぶんそれで解釈がついてゆく。それどころか、ある解釈のごときは、十九世紀の科学思想で測ってみても、たしかにりくつにかなっているものさえある。もっとも、この因果思想を公平に判断するためには、まず、西洋の霊魂|輪廻《りんね》説のあらゆる観念を、心からふるい捨ててしまう必要がある。なぜかというと、西洋の霊魂に関する概念――たとえば、ピタゴラス派にしろ、プラトン派にしろ――それと、仏教の概念とのあいだには、似ているところがぜんぜんないからである。しかも、日本人の信念が、はなはだ理にかなっているのは、じつに、この似ていない点にあるのである。霊魂に関する西洋の旧思想と、東洋の思想との大きな相違は、つまり、仏教には、われわれが伝統的に考えているような霊魂というもの――ひとりでぼーっと煙のように出てくる、あのふわりふわりした人間のたましい、つまり幽霊というものがないことである。東洋の「我《エゴー》」というやつは、これは個ではないのだ。また、神霊派の霊魂のような、数のきまった複合体でもないのだ。仏教でいう「我《エゴー》」とは、じつに、想像もできないような複雑怪奇な統計と合成による数、――前世に生きていた百千万億の人たちについて、仏教がはじめて考えだした思想を凝成した、無量百千万億載阿僧祗という数なのである。
仏教の解釈力とその所説が、近代科学のいろいろな事実とふしぎに一致している点は、とりわけ、ハーバート・スペンサーを領袖とする心理学の領域によくあらわれている。いったい、われわれ人間の心理生活の大部分は、西洋神学ではちょっと説明のつかない、さまざまの感性から成り立っているものである。まだろくに口もきけないような赤ん坊に、ある顔を見せるとわっと泣きだし、ある顔を見せるとにこにこ笑う。そういうことを起させる感情なども、そのひとつである。はじめて顔を合わせる人に、会ったその場で、すぐに感じる「好き嫌い」の気持なども、やはりそれである。いわゆる「第一印象」と呼ぶ、この反撥と牽引とは、智恵ざかりの子どもほど、驚くばかりの率直さで、ずばりと言ってのけるものだ。「人さまのことは、顔やかたちできめてはいけませんよ」などと、子どもは教えられても、そんなことではてんで納まりはしない。こういう感情を、神学の方でいう本能や直観の意味をそのまま使って、やれ、本能的だことの、直観的だことのといってみたところで、なんの説明にもならない。まるで荒唐無稽な天地|開闢《かいびゃく》説みたいに、ただ疑義を人生の神秘のなかへ切りこむだけのことだ。人間の個々の衝動、もしくは感動は、その人が悪魔にとりつかれたために、それを受けるのだという以外に、なにかそこに個人的なものを超えたものが多分にあるという考え方は、こんにちでも旧弊な正統論者には、唾棄《だき》すべき異端として考えられている。しかし、人間の深い感情の大部分が、超個人的なものだということは、こんにちではすでに確定的なものになっている。つまり、われわれが恋情と呼ぶもの、あるいは悲壮と呼ぶものは、みなそうだ。恋情の個人性というものは、こんにちでは科学の力で完全に否定されてしまっているし、ひと目惚れなどというものは、ひと目見て憎らしくなるのとおなじで、両方とも超個人的なものとされている。おなじように、春陽ひとたびめぐり来れば、どこともなくさまよい歩きたくなる、あの取りとめのない衝動や、秋がくれば、ひとりでになんとなく物悲しくなるあの感傷も、やはりそれだ。おそらくこの感情は、人類が季節に従って移住していた時代の、でなければ、人間がこの世にまだあらわれぬ前代からの、遺物なのであろう。それからまた、一生の大部分を、平野や草原のあいだに過ごしたものが、生まれてはじめて、白雪をいただく連峯を見て感ずるあの感動も、また、大陸の奥地に住むものが、生まれてはじめて大洋を見て、永遠にとどろく霹靂《へきれき》のような波のひびきを耳にしたときのあの感動も、あれも、やはり超個人的なものだ。雄大な風景を見るときにおこる、あのかならず畏怖の念をともなう喜びや、熱帯の日没の壮麗さがひきおこす、あのことばには言いえぬ、憂愁な感じのまじった、思わずあっと讚歎する無言の感銘――あれなども、個人的な経験ということでは、とても解釈をつけることができない感情である。精神分析は、なるほど、こういう感動は、おそろしく複雑なもので、個人のいろいろな経験と織りまざっているものだ、ということを明らかにしたけれども、とにかく、どんなばあいにも、感情のごく深い波は、けっして個人的なものではない。かならず、それは、人間が生きてきた祖先の生の海から、ほうはいとして打ち寄せてくるものである。キケロ時代よりもまだもっと古い昔から、人間の心を迷わし、今日、われわれの時代になっては、さらにそれ以上に深く人間の心を迷わすある特殊な感情――たとえば、はじめて訪れる土地が、前にいちど見たことがあるような気がする、あの心持なども、やはりおなじ心理的|範疇《はんちゅう》に属するものであろう。見知らぬ異国の町々や景色などを見て、なにかそこにふしぎな親しみのある感じをうけ、そこから一種胸をすやされるような、怪しい衝動をさえおぼえ、さて一体それがどこからくるのか、それを説明しようとなると、いくら記憶をかきさがしてみても、手がかりがまるでないようなこともある。もっとも、これとおなじ感じは、時にはどうかすると、疑う余地なくはっきりと、かつて意識のなかにゆかりのあった記憶がふたたび蘇ってきたとか、もしくは、いろいろの記憶を綴じ合わせたとか、そういうものから生まれてくる場合も、じっさいにあることはある。が、個人的な経験でいくら解釈してみようとしても、ぜんぜんそんなものでは、解釈も説明も歯がたたず、五里霧中の神秘のままに、てんで手のつけられないようなものも、たくさんにある。
早いはなしが、われわれが日常に経験する、ごく普通の感情のなかにだって、そもそも感情だの認識だのというものは、これは個人の経験に属するものだ、だから、生まれたばかりの赤ん坊の心は白紙だ、などと言いだす妄論愚説では、とても解決のつかない謎がずいぶんとある。たとえば花のにおいだの、ある色の持ち味だの、あるいは、ある音楽の調子などによって刺激される快い感じ、そうかと思うと、危険な、あるいは毒のある生きものなどを見て、われ知らず起るあの嫌悪の情とか恐怖の念、さては夢のなかに出てくるあの言いしれぬ恐怖――こういうものはすべて、旧弊な霊魂説などでは説明のつかないものだ。このにおいや色における快感のような感情のあるものが、いかに民族の生活に深く根を下ろしているかということは、グラント・アレンが「心理的美学」という著書、および色彩感覚に関する興味ある論文のなかで力説しているが、もっともそれよりだいぶ前に、かれの師匠で、現代心理学の泰斗《たいと》であるハーバート・スペンサーが、経験論は、心理現象の多くの段階を説明するには、まったく不適合である、ということを明快に論証している。スペンサーは、こういうことを言っている。
「経験論は、よしできるとしても、こと感情に関しては、認識に関するばあいよりも、いっそう欠陥が多い。すべての欲望、すべての感情が、個人の経験から生まれるという説は、事実とはなはだしく相違する。わたくしは、どうして人が敢えてそういう説をとるか、怪しまざるをえない」
「本能」とか、「直観」とかいうようなことばは、古いままの意味ではほんとうの意味をなさない、今後はよろしく別の意味に用いられなくてはならない、ということをわれわれに教えたのも、スペンサーであった。近代心理学の用語だと、「本能」とは「組織化された記憶」を意味する。記憶そのものが、「初期の本能」なのである。――つまり、「本能」とは、生の連鎖において、次の時代の個人に遺伝される、印象の総量をいうのである。このように、科学は、遺伝継承された記憶を認めている。それは、前の世のことを、細かいことまでいちいち記憶しているというような、妖怪めいた意味ではなくして、遺伝される神経系統の構造の微細な変化に伴って、心理生活に加えられる微量な附加物を意味するのである。「人間の脳髄とは、生命の進化のうちに、というよりも、人間という有機体に達するまでの、幾つもの有機体の進化のうちに受けた、限りない無数の経験の組織化された記録である。これらの経験のうちで、もっとも普遍的で、しかも、しばしば繰りかえされるものの結果は、元《もと》も子《こ》も、ともに承け伝えられてきた。そして、徐々にそれは、高い知性にまで昇華されて、ついに赤児の脳髄のなかに潜在する。赤児は大きくなるにしたがって、それを活用するうちに、ますますそれは強力なものになり、さらに複雑なものになってゆく。――それへまた、微細な附加物がいろいろ附いて、それがさらに、その子孫へと伝えられてゆくのである」(スペンサー著「心理学原理」のうち「感情」篇)このようにして、われわれは前世という観念と、複合的な「我《エゴー》」という観念とに、生理学的に動かすべかざる根拠をえたわけである。そこで、人間のおのおのの頭脳のなかには、その祖先のすべての脳髄がうけた、絶対に想像することのできないほどの、無量無数の経験の伝え伝わった記憶が、封じこめられてあるということは、もはやこんにちでは、争う余地のないことなのである。もっとも、前世における自我というものの科学的確証は、これはまだ物質論的に証明されたわけではない。科学は、物質論の破壊者である。科学は、物質の不可解なことを証明した。科学は、感情の究極の単位を想定しながら、なおかつ、心の神秘の解くべからざることを告白している。それにしても、われわれよりも何百万年も昔の、単純な感情の単位から、人間のあらゆる感情と能力とが築き上げられてきているということは、もはや疑いの余地がない。この点で、科学は、仏教と軌を同じうして、「我《エゴー》」は合成されているものだということを認めているのである。そして、仏教とおなじように、科学は現代の心の謎を、過去の心の経験で説明しているのである。
人間の霊魂が、無限無数なものの複合体であるという観念は、西洋流の意味における宗教という観念を、ぜんぜん成り立たなくするものだと考える人も、多いにちがいない。なるほど、古い神学の概念からいまだに抜けきれないでいる人たちは、仏典にはっきりとそのことが書かれてあるにもかかわらず、仏教国においては、いわゆる凡夫凡婦の信仰が霊魂は一個の実体なりという観念に根をすえているものと想像しているにちがいない。ところが、日本人は、それとはまったく反対の、めずらしい証拠を呈示している。日本では、目に一丁字もない大衆、仏教哲学など覗いたこともないような貧しい土百姓でも、自分というものが、いろいろなものから集まり成った合成体であるということを、信じているのである。さらに驚くべきことは、原始信仰である神道のなかにも、これとおなじような教義があるのである。そして、中国人や朝鮮人の思想を特徴づけているものも、やはり、この信念の変形したものであるらしい。すべて極東におけるこれらの民族は、あるいは仏教流の解釈によるのか、もしくは神道流の解釈(一種奇怪な分裂繁殖説)によるのか、それとも、中国の九星学ででっち上げた不思議な解釈によるのか、いずれにしろ、霊魂というものはいろいろなものからでき上がっているものだと考えているようである。とにかく、日本では、この信念が一般に行きわたっていることを、わたくしは充分に見とどけてきている。いまさら、ことごとしく、ここに仏典などを引用する必要はなかろう。なぜかといえば、仏教哲学を云為《うんい》するまでもなく、普通一般人のだれもがもっている信念だけで、霊魂が複合体であるという観念と信仰の熱心さとが両立しあって、そのあいだにけっして違背するところがないという証拠を呈示しているからである。なるほど、日本の百姓が、自分の心を、仏教が考えるような、あるいは西洋の科学が実証するような、そんな複雑なものだと考えていないことは事実だ。けれども、日本の百姓は、自分というものを複合体だと考えている。自分の心のなかにおこる善玉悪玉の争いは、自分の「我」をつくり上げている、さまざまな魍魎《もうりょう》の意志がせめぎあうのだと解釈している。そして、自分のなかにある悪玉を、自分のなかにある善玉から引き離すことを、精神的な欣求《ごんぐ》としている。――涅槃《ねはん》すなわち、最高の幸福は、自分のなかにある最も善いものを、自分のあとに残してゆくことによって、その境地に達しうるのだと考えている。であるから、日本人の信仰というものは、科学的な思考と大して懸隔《けんかく》のない、心霊の変化という、われわれの故国の一般人がいだいている、因習的な心霊観とあまり大差のない、自然な見解に基づいているようだ。もちろん、こういう抽象的な題目についての、日本人の考え方は漠然としたもので、組織だったものではないけれども、その考え方の、大たいの性格と傾向とははっきりしている。そして、信仰の篤実なことと、その信仰が、かれらの徳行生活に及ぼす感化については、疑う余地がない。
この信仰は、いまでも、教育ある階級のあいだに残って生きているが、おなじ考え方も、教育のあるものの手にかかると、ちゃんとそれが定義づけられ、理論づけができている。一例として、ここに、二十三歳と二十六歳になる学生の書いた作文のなかから、抜萃してみよう。引用する例は、いくらでもあるが、わたくしのいう意味の例証には、次にかかげるものでじゅうぶんだろう。――
「世に、霊魂の不滅を説くより、愚の大いなるはない。霊魂は合成物である。その要素は、永久不滅なものであろうが、しかし、それはまったくおなじ方法で、二ど組み合わすことは絶対にできない。物は合成されれば、かならず、その性質と状態を変えるものである」
「人間の生命は合成物である。エネルギーの結合が霊魂をつくる。人間が死ぬと、その霊魂は、その結合のぐあいによって、変化するものもあれば、変化しないものもある。ある哲学者は、霊魂は不滅なものだと言っているし、ある哲学者は霊魂は滅びるものだと言っている。これは両方とも言っていることは正しい。霊魂はそれを構成している組み合わせの変化によって、滅・不滅があるのである。なるほど、霊魂を構成している要素であるエネルギーは不滅である。しかし霊魂の性質は、霊魂を構成するに要するエネルギーの結合の性質によって決定されるのである」
ところで、このふたつの作文にあらわれている考え方は、西欧の読者には、はじめて読まれると、まちがいなく無神論者のように見えるだろう。ところが、じつはこれが、最も真摯な、最も深い信仰と、すこしも違背しないのである。そういう誤まった印象をあたえるのは、英語のsoul(霊魂)ということばが、われわれが了解するものとは違った意味につかわれているからなのである。この文章を書いた学生の使った意味の「霊魂」とは、善悪ふたつの傾向をもったものが、無限に組み合わされているものを意味する。――つまり、霊魂とは、ひとつの合成物であって、合成されているという事実と、精神的進歩の永遠の法則とによって、滅んでゆく運命をもつもの、――これが霊魂なのである。
東洋の思想生活において、数千年のあいだ、広大な要素となっていたこの観念が、西洋では、こんにちに至るまでついに発達しなかったことは、西欧の神学によってじゅうぶんに説明される。けれども、西欧人の心に、前世の観念を絶対に受けつけさせないようにしたのは、神学の罪だというのは、これは正鵠《せいこく》を得た言いかたではない。霊魂というものは、それぞれ、新しく生まれた肉体に合うように、とくに無のなかからつくられたものである、と信ずるキリスト教の教義は、前世というものを、公然と信ずることを許さなかったけれども、一般の常識は、遺伝の現象において、この教義の矛盾していることを認めた。また、おなじように神学は、動物というものは、本能という一種不可解な機関《からくり》でうごかされている自動人形にすぎないと断定しているのに、人々は、動物にも理性があるということを、一般に認めていた。ひとむかしまえに唱えられたこの本能と直観の説は、こんにちではまったく暴論に見える。この古い本能説と直観論とは、解釈としては用をなさないものに思われながらも、教条としては、よけいな思索に締め出しを食わせ、異説を禁ずる役目を果たしたのであった。ワーズワースの「忠実《フィデリティー》」や、妙に買いかぶられた同じ詩人の「|不滅の告示《インティメーション・オブ・インモタリティ》」などは、十九世紀初頭においてさえ、この題目に関する西欧人の観念が、きわめて因循《いんじゅん》で、幼稚であったことを証してあまりある。犬が主人に対する恩愛の念は、なるほど、人間の評価を絶した大きなものがあるけれども、その理由については、ワーズワースは夢にも考えなかったのである。また、子どもの新鮮な感情は、これはたしかに、ワーズワースが不滅と名づけた観念よりも、さらに驚くべき何物かの告示であるにちがいないが、それを歌ったかれの有名な句が、ジョン・モーレー氏によって愚説《ナンセンス》として一蹴されてしまったのは、まことにむりからぬことであった。神学が衰えないうちは、心理的伝承、本能の本体、生命の合致などに関する合理的な観念は、とうてい、一般人への認識の道をひらくことはできなかったのである。
しかし、進化論の承認とともに、古い思想の形式はくつがえされ、新しい思想がすり切れた教条にとって代るべく、到るところに抬頭してきた。そして、こんにちでは、西欧においても、ふしぎと東洋哲学と並行した方向に、一般の知的運動がおこりつつある観を呈している。最近五十年間における科学の進歩の、空前の迅速と多岐多端とは、非科学者のあいだにも、おなじように空前の知性の活溌な発達を促すのに吝《やぶさ》かでなかった。最も高度にして最も複雑な有機体は、最も低級にして最も単純な有機体から発達したものであるということ、生命のたったひとつの原形が、あらゆる生物界の根元であるということ、動物と植物のあいだには、限界線を画することができないということ、生物と無生物との差は、ただ程度の差であって、種別の差ではないということ、物質も精神とおなじく、不可解なものであって、このふたつのものは、ふたつながら、よくわからない同一の実在が、ただ形をかえてあらわれたものにすぎないということ――すべてこういうことは、新しい哲学の方では、すでに常識となってしまっている。神学によって、物質的進化がひとたび認識されてしまえば、あとはもう、精神的進化の認識だって、無期限に延び延びにされてはいられないことは、予見するに難くはない。なぜかというのに、人間に過去を振りかえって見ることを禁じていた、古い教義で固められていた壁は、すでにもう壊されてしまったからである。そして、今日では、科学的心理学の研究者にとって、前世の観念は、すでに学説の領域を脱して、事実の領域に入り、宇宙の神秘を説く仏教の解釈は、他のなにものにも増して、大いに傾聴すべき説であることを証明している。いまは亡きハックスリー教授は、こういうことを書いている。「そそっかしい思想家なら、いざ知らず、元来が荒唐無稽だという理由で、それを排撃するものはひとりもなくなるだろう。進化論そのものと同じように、輪廻《りんね》説は、実在の世界に根拠をもっている。したがって、それは、類推による正論が、当然あたえうる支持を要求することになるだろう」
ハックスリー教授のいうこの支持は、まことに力強いものであった。なにもそれはわれわれに、幾億万年を通じて闇から光へ、死から再生へと飛び舞ってきた霊魂の影だに見せるわけではないけれども、この支持があれば、前世という基本的観念が、ほとんど仏陀自身が明言したとおなじ形で、はっきりと確立するわけだ。東洋の教義だと、心理的人格は、個人の肉体とおなじように、崩壊の運命をもつ集合体である。わたくしがここに「心理的人格」といったのは、心と心とを区別するもの――「我」と「汝」とを区別するもの、つまり、われわれが「自己」と呼ぶところのものを指すのである。仏教の方では、この「自己」は、ほんのつかの間のまぼろしが寄り集まったものとされている。それをつくるものが、「業《ごう》」である。この「業《ごう》」のうちから、再び人間に生まれかわってくるものは、すなわち無量無数の前世の行為と思念との総計なのであって、生まれかわったそのひとつひとつは、心霊上のある大きな加減法則によるひとつの整数として、あらゆる他のものに影響するのである。であるから、「業《ごう》」というものは、ちょうど磁気力のように、形から形へ、現象から現象へと伝達されて行って、組み合わせによって状態を決定するのである。この「業《ごう》」が集中し、創造する結果の究極の神秘については、仏教徒も、深奥にして測知すべからざるものとしている。けれども、その結果の凝集力は、ショーペンハウエルのいわゆる「生きんとする意志」に相当するもの、つまり、「渇愛《タンヘー》」――生の欲望によって生みだされるのだと、仏陀は説いている。ところで、われわれは、ハーバート・スペンサーの「生物学」のなかにこの思想とふしぎに似かよったものを認める。スペンサーは、生物の性向と変種とを、両極性――生理学上の単位の両極性説によって説明している。この両極性説と、仏教の渇愛《タンヘー》説とのあいだには、相違より相似の方が多くある。「業《ごう》」と遺伝、「渇愛」と両極性――これは、いずれも、その究極の性質に至っては、どう説明のしようもないものである。仏教も、科学も、この点では一致している。ただ、注意に値する事実は、両者ともに、異なった名称のもとに、同じ現象を認めているということだ。
このように、科学は、驚くべき複雑な方法によって、東洋の古い思想と、ふしぎに調和する結論に達したわけであるが、さて、それではその結論を、西洋の大衆の心に、はっきりと理解させることができるかというと、これは大いに疑わしい。なるほどそれは、仏教のじっさいの教義が、ただ形式を通して、大多数の信者に教えることができるように、科学の哲理も、ただ呈示によって、――うまれつき、頭脳の明晰な人間に訴えるに足るような事実の呈示によって、もしくはそういう事実を整理することによって、大衆に伝達することはできるだろう。科学の進歩の歴史は、この方法の有効なことを保証している。高度の科学上の論議は、非科学的な民衆の理解のとどかぬところにあるから、そんなものの結論などは、一般人に了解できやしないという推論には、けっして強い論拠はない。恒星の大きさと重量、遊星の距離と構造、引力の法則、熱、光、色の意義、音響の性質、その他無数の科学上の発見にしても、大衆は、これらの知識に到達したまでの詳しい道程については、まったく知らないけれども、そういう発見のあったことは、みな知っている。だいいち、この十九世紀に、いろいろ科学上の大進歩の動きがあったたびごとに、民衆の信念も、それにつれて大きな変革があったことは、いまさらここに説くまでもなく、明白な事実である。早いはなしが、教会などでも、いまだに、霊魂はひとつひとつ特別につくられるものだという妄説にしがみつきながらも、物質進化論の大綱は、すでに認めてきているし、近い将来には、もはや古い信仰の墨守だの、知性の退歩などということは、りくつからいっても、ちょっと想像することはできない。それよりも、むしろ、宗教観念の大きな変革が予想されるくらいのもので、しかも、それは徐々にではなく、おそらく急速に行なわれるだろうと予想される。もちろん、いずれ起るべき宗教変革の明確な性向は、いまから予言はできないけれども、それにしても、こんにちの知的傾向からいえば、それがただちに、神学上の思索に最後の限界をかぎるほどのことにはならないにしても、心霊進化説は当然認められるにちがいない。そして、その結果、「我《エゴー》」というものの全体の概念も、けっきょくはそれによって発展した前世の観念というものを通して、形が変ってくるだろう。
このような可能性は、まだまだもっと詳しく考察すればすることができる。ただしかし、科学というものを、物を改修するものとは考えずに、物を破壊するものだと考える人は、おそらく、それを可能性とは認めないだろう。もっとも、こういう思想家は、宗教的感情の方が、生半可な教義などよりも、はるかに深遠なものだということも、あらゆる神、あらゆる宗教形式が滅びても、宗教的感情だけは生きのこるということも、そしてまた、宗教的感情こそ、知性が拡大されるとともに広くなり、深くなり、大きな力となるということも、いっこうに忘れているのである。単なる教義としての宗教は、けっきょく滅びてしまう。これは、進化論の研究が到達したひとつの結論であるが、しかし、人間の感情としての宗教、つまり、人間をも、星辰をも、ひとしく形成する、未知の力に対する信仰としての宗教が、これもともに跡形もなく滅びてしまうとは、こんにちのところ、ちょっと考えられない。科学は、ただ、事象の誤まった解釈とのみ戦うのであって、宇宙の神秘をひたすら拡大し、万物はいかに微小なものでも、限りなき驚異であり不可解なものであることを立証するのが、科学である。今後、おそらく西洋の宗教観念に、過去にかつてなかったような全面的な修正を加え、西洋流の自己の概念を、東洋流の自己の概念に近いものに円熟させ、たんに人格とか個性とかいうようなものだけで、世に存在するものと思っている、ケチ臭いこんにちの哲学的観念を、一掃するものだという推定を許すものこそ、こういう信仰をひろくひろげ、宇宙の感情を大きくひろげてゆく、科学の闡明《せんめい》な傾向なのであろう。すでに科学が教えるような遺伝の事実を、一般人が了解するようになってきたということは、いくぶんなりとも、こうした変革が行なわれてゆくという道を指し示すものである。心霊の進化というこの大問題のうえに、将来、論議がおこるばあいには、一般知識人は、科学に手引きをされて、最も抵抗の少ない道をすすむことになるだろう。その道というのは、疑いもなく、遺伝研究の道であるにちがいない。遺伝という現象は、現象そのものはしごく難解だが、一般人の経験には親しいものであるから、おそらくこの研究は、昔からある数知れない古い謎に、多少の解答をあたえるにちがいない。このようにして、西欧における将来の宗教形式は、綜合哲学の全部の力で支持され、ただ仏教と異なるところは、概念が非常に精確だという点だけで、やはり仏陀とおなじように、霊魂を合成体として認め、そして仏教における業《ごう》の教義に似た、新しい精神的法則を説いてゆくだろうと想像することができる。
しかしまた、こういう考え方は、ただちに首肯《しゅこう》できないと、次のような反対説を唱える人もあるだろう。つまり、こういう信仰の変革があるとすると、観念が感情を突然に征服して、その形を変えさせてしまわなければなるまい。ハーバート・スペンサーも言っている。「世界は、観念によっては支配されない。感情によって支配される。観念は、ただ、感情の案内役として、役を果たすにすぎない」してみれば、論者が想像するような変化は、こんにち、西欧にある宗教的情操の一般知識と、宗教主情説の力とに思いをいたせば、とうていありうべきこととは思われない、と。
なるほど、前世の観念と、霊魂が合成体であるという観念とが、西洋の宗教心にじっさいに悖《もと》るものなら、これは満足な解答があたえられるはずがなかろう。しかし、はたしてそれは、相悖《あいもと》るものであろうか? いや、前世の観念は、けっして相悖るものではない。西欧の精神は、すでにそれを取り入れる準備ができている。自己というものが合成体であり、それが、いずれは滅び消える運命をもっているという考え方は、すくなくとも、旧い考え方を捨てきれないものにとっては、物質は滅するものだという観念に比べて、大してまさった考えではないと思われるかも知れない。しかし、公平な立場に立って、よくよく反省してみると、なにも、「我《エゴー》」が消滅してしまうことを恐れる感情的な理由は、どこにもないことがわかるだろう。じっさいにおいては、こんなことは無意識ではあるけれども、キリスト教徒にしても、仏教徒にしても、常住不断に祈祷をささげるのは、なんのためかといえば、つまりは、この「我」の消滅ということがあるためであろう。誰だって、自分の性分のなかにある悪いところは、切って捨てたいと願う。愚かで邪《よこしま》な傾向があれば、これは除いてしまいたい。人に不親切なことを言ったり、したりするような量見は、棄ててしまいたい。多少でも、自分のなかにある、高尚なものにからみついているりっぱな望みを、卑しいものに引き下げるような下劣な性情は、なんとかして取って棄ててしまいたい。それを願うのは、これは人情だ。ところが、われわれがこうして一心不乱に棄てようと願ったり、取り除こうと願ったり、なくしてしまおうと願ったりするところのものは、貴い理想を実現する助けになる後天的に持った大きな能力ではなくて、じつは、心霊的に受け継いできているものの一部分、つまり、自己そのものの一部分なのである。したがって、自己の消滅ということは、それは恐ろしがるべき死ではなくして、われわれがぜひとも努力を注ぐべき目的のなかのひとつなのである。どんな新しい哲学でも、自己のなかにある最良の要素が、いっそう大きな親和を求め、いよいよ大きな結合に入って、ついに最高の啓示に接し、そして人間は無限の幻影を通して、――あらゆる自我を滅却し、絶対の実在を見るに至るという、このような願いを、禁ずることはできまい。
いったい、われわれは、いわゆる原素というもの、その原素そのものでさえ、進化しつつあるということは知っているくせに、どんなものでも、完全に死滅してしまうという証拠は、なにも持っていない。われわれが、現在ここに存在しているということは、かつて存在していたということ、そして、将来もまた存在するであろうということの保証である。われわれは、無量無数の進化と、無量無数の宇宙を経て、ここに生きのこっているのである。われわれは、宇宙を通じて、万物が、みなことごとく、ひとつの法則に支配されていることを知っている。どのような原子が遊星の核心を形成するにも、どのようなものが太陽の恩恵を受けるにも、どのようなものが花崗岩や玄武岩に封じこまれるにも、どのようなものが動植物に入って繁殖するにも、すべては、けっして偶然が決定するのではないのである。理性が、類推法によって推定しうる範囲内では、あらゆる究極の単位をもった大宇宙の歴史は、心理的にも、物理的にも、仏教の因果説におけるとおなじように、確実に、しかも精密に決定せらるべきものなのである。
科学の影響だけが、西洋の宗教的信念の変革におよぼす唯一の要素ではない。東洋哲学も、かならずこれにあずかるだろう。サンスクリット、中国語、パーリー語の研究、さては、東洋諸国における言語学者の倦まざる努力は、目下急激ないきおいで、東洋思想の大業のほとんどあらゆるものを、欧米に紹介しつつある。仏教は、西洋諸国に多大の興味をもって、あまねく研究をすすめられているし、これらの研究の結果は、最高文化の精神的所産となって、年とともに、ますます顕著な成果を示しつつある。哲学界では、まだ大して目に立つほどの影響は見られないけれども、文学の方面には、相当の影響が見られる。「我《エゴー》」の問題の再検討が、西欧人の心に、いたるところで浸透しつつある証拠は、現代の思想的文章はいうにおよばず、詩にも小説にも見受けられる。それらの詩や小説は、ひとむかし前には見られなかった時代思潮を変革し、古い趣味を破壊し、高度の感情を発展させつつある。それよりもなおいっそう大きな霊感によって制作されつつある創作的芸術になると、前世の観念を認めるとともに、そこにまったく新奇な、精妙な感情と、いままで想像だもしなかった哀感《ペーソス》と、驚くほど深い情緒の力とが、文学のなかに地歩を占めつつあることを語っている。小説のなかでさえ、われわれは、今までは西半球だけに住んでいて、片輪な思想しか考えていなかったことを知り、そのうえ、現在というこの緯度線のうえに、過去と未来とをひとつに結びつけ、それによってわれわれの情緒の世界ははじめて完全な球体となるという、新しい信念を持つことが必要だということを学ばされている。自己は複合体であるというはっきりした信念、これは、一見、逆説的な言い方に思われるけれども、この信念こそ、多は一であり、生は渾一《こんいつ》であり、有限なるものはなく、あるものはただ、無限のみという、もうひとつ上の、大乗的な信念に到達する絶対必須の段階なのである。自己は唯一無二の単一体だと思っているような、盲目的な驕慢心がたたきくだかれて、自我の念、我執の念が、まったく解体しきってしまうまでは、大宇宙とおなじき無辺無窮なる「自我」というものを知る境地までは、なかなか行きつけるものではない。
「自我」が単一なものだと考えるのは、うぬぼれの絵そらごとだという、この知性の上の悟りがひらける前に、われわれは遠い過去にも生きていたのだという、単純な感情の上の悟りが、かならずやそうとう長い期間のあいだ、発展するにちがいない。しかし、とにかく、神秘はどこまでも神秘としてそのままのこるとしても、自己が合成質だということは、最後には認められるにちがいない。科学は、仮説的な生理学上の単位を仮定もするが、同様に、心理学上の単位をも仮定する。仮定はするが、その仮定された単位は、どちらも、数学的計算のぎりぎりの力をもってしても、その数は計算することができない、もうまったくの魑魅《ちみ》幽怪の世界へはいってしまうようである。化学者は、研究の目的のためには、微粒の原子を、想像のうちに描かなければならないが、その想像に描いた原子が象徴する事実は、あるいは、ただ力の中心にすぎないかもしれない。いや、それは、仏教の概念におけるように、無であり、渦動であり、空《くう》であるかもしれない。「形は空《くう》なり。空は形なり。形なるものは空にして、空なるもの、すなわち、形なり。知覚と概念、名声と知識――すべてこれ、空なり」科学でも、仏教でも、究極するところ、宇宙は、おなじようにひとつの大きな幻影に雲消霧散《うんしょうむさん》してしまい、ただ、不可知不可測の力の、仮りのすがたに化してしまう。けれども、仏教は、「どこから」及び「どこへ」の疑問に、仏教独特の解答をあたえている。そして、進化の大きな周期のくるごとに、前の世の誕生の記憶がふたたび蘇ってくると同時に、来世が目のまえに冥府《よみ》のとばりをかかげて現前し、九天の高きまでも見はるかすことができるほど、無窮に心のひろがりのびる時がくることを予言している。科学は、この点については、口を緘《かん》している。もっとも、この科学の沈黙は、例のノスティック教の奈落の娘、幽鬼の母、シゲーの沈黙である。
われわれが、「科学」のじゅうぶんな承服をえて、そのうえで、心のままに信じうることは、未来において、驚くべき啓示がわれら人類を待っているということだ。近代に至って、新しい感覚と新しい力とが発達した。新しい感覚とは、音楽の感覚であり、新しい力とは、どこまで伸びてゆくかわからぬ数学者の力量である。われわれの子孫の代には、現在よりも、もっともっと高度の、想像もおよばぬほどの能力が、発達してゆくと予想しても、不合理ではない。また、疑いもなく、遺伝されたある精神能力は、老年においてのみ発達するということも、明らかになった。しかも、人類の平均年齢は、着々と上昇しつつある。長寿がいよいよ加わって行って、今よりももっと大いなる脳髄が未来にあらわれれば、前の世のことを記憶する能力にまさるともおとらぬ、もっと不思議な力が、突如として生まれ出るようなことが、ないとも限らない。仏教の夢は、あまりにも、深遠無窮のものに触れているために、これを凌《しの》ぎ越えることは、まことに至難なわざであるが、しかし、その夢が、とうていこの世に実現されないとは、誰が断言できようか?
後記
以上の文章を読まれた方に、ちょっと御注意申し上げておく必要があるが、筆者は、文中、「霊魂《ソール》」、「自己」、「我《エゴー》」、「輪廻《トランスミグレーション》」、「遺伝《ヘレディティー》」などということばを、勝手に使ったけれども、これらの英語は、仏教哲学には、まったく意味の通じないことばである。英語の「霊魂《ソール》」という意味のことばは、仏教にはない。「自己《セルフ》」はまぼろし、あるいは、まぼろしの網《もう》である。霊魂が、ひとつの肉体から他の肉体へとかよう「輪廻《トランスミグレーション》」は、典拠の明らかな仏典のなかで、はっきりと否定されている。そういうわけであるから、因果説と、遺伝の科学的事実とのあいだに存在する似通った点は、あれでは完全なものとは言えない。因果、すなわち、業《ごう》とは、同一の合成体が生きのこっていることを意味するのではなくて、その性向《テンデンシー》が生きのこっていることを意味するのである。この個体の性向《テンデンシー》が、また新しく結合して、そこにひとつの新しい合成体を形づくるのである。こうして、新しく形づくられた個体は、かならずしも、人間の形をとるとは限らない。因果は、親から子へは伝わらないのである。生命の肉体的形態は業によるものと思われるけれども、これはしかし、遺伝の系統に縛られているのではないのである。たとえば、乞食の業をもったものが、国王の肉体に生まれかわることもあるかも知れないし、逆に、国王の業をもったものが、乞食の肉体に宿るかも知れない。けれども、生まれかわったものの状態は、いずれも、業の力で決定されるのである。
こう言うと、また疑問が起るだろう。――「それでは、変らないで続いてゆく、人間各人のなかにある、精神的な要素というものは、何であるか? いわば、業の殻のなかにある、精神的な種子、正道に精進する力は、何であるか? 霊魂も、肉体も、この世だけの、ほんの束の間だけの結合で、業が(これも現世だけのもの)人格の唯一の源泉であるとすると、いったい、仏教の教えの価値もしくは意義は、何なのか? 業に苦しめられるものは、何なのか? まぼろしの中にあるものは、何なのか? 進歩するもの、進歩して、涅槃《ねはん》に到達するもの――これは、何なのか? それが、自己ではないのか?」ところが、自己といっても、それは、英語でいう意味の自己ではないのである。われわれが自己と呼ぶものの実在は、仏教では、否定されている。業を結んだり解いたりするもの、正道に精進するもの、涅槃に到達するものは、われわれの西欧語でいう意味の我《エゴー》ではないのである。それでは、何であるか? つまり、それは、各人のなかにある仏性なのである。日本語ではこれを「無我の大我」と言っている。これ以外に、真の自己というものはないのである。こういう自己が、まぼろしに包まれている状態を、如来蔵という。仏陀がまだ胎内にあった時のように、仏性がまだ生まれない状態である。人間には、誰にも無窮が潜在している。これが実在なのである。一方の自己は仮りであり、嘘であり、蜃気楼である。寂滅するという教えは、このまぼろしの、仮りの自己が滅するのである。肉体のみに宿るこの生命に属する情操、感情、思想も、この複雑なまぼろしの自己を作るまぼろしにすぎない。そして、この仮りの自己の完全な解体によって、ちょうどヴェールを裂き捨てたように、無窮の観力が生まれてくるのである。そこには、霊魂はない。無窮の全霊が、生物の唯一の無窮の要素なのであって、その他のものは、ことごとく、夢である。
涅槃には、なにが残るのか? 仏教のある宗派の説によると、それは、無窮のなかの潜在的な同一体《アイデンティティ》だということになっている。だから、仏となったものは、涅槃に達したのちには、ふたたびこの世へ帰ってくることができるというのである。また、別の宗派の説によると、それはわれわれのいう意味の「個人《パーソナル》」ではない。潜在性以上の同一体だという。日本の友人が言うのに――「ここに一塊の金をとって、これを一個と普通呼びますが、これはしかし、われわれの目に、一個という印象をあたえるという意味なのであって、じっさいは、この金を構成しているのは原子群であって、しかも、ひとつひとつのその原子は、みな、べつべつに離れていて、独立しています。仏の境地に達したもののばあいも、やはり、それとおなじように、無数の霊的原子が、そういうぐあいに結合されているのです。無数の原子がひとつになって、ある状態をなしているのです。そのくせ、ひとつひとつの原子は、やはり、独立の存在をもっています」
もっとも、日本では、原始宗教が、一般人の仏教信仰にも、だいぶ影響しているから、日本人のばあいには、仏教的な自我観というより、日本人の自我観といっても間違いでない。ただ、そのばあいは、神道の思想を併せ考える必要がある。神道では、霊魂の概念は、きわめて明瞭である。しかし、神道の霊魂も複合体である。業《ごう》によって生まれたものと同じように、単なる感情や、知覚や意志の網《もう》ではなくて、ひとつの人格――個体を作るために、幾つもの霊魂が結合したものである。死者の霊は、ひとつであらわれることもあれば、多数であらわれることもある。霊は、その単位を分離させることもできるもので、その分離したひとつひとつの単位は単位で、それはまた、おのおの独立した行動をとることができるのである。けれども、この分離は、一時的にあらわれるもので、複合体を構成するかずかずの霊は、死後でも、しぜんに結びつくし、自発的に分離したのちでも、また結合する。日本の国民の大部分は、仏教徒であると同時に、神道信者でもあるのだが、しかし、自己《セルフ》に関しては、原始宗教たる神道の方が、たしかに有力であって、神仏の信仰が混淆しているなかでも、それをはっきりと見分けることができる。おそらく、これは、業《ごう》――因果説のむずかしさを、一般人の想像に、自然にわかりやすく説明するのに、役立ったからなのだろう。どの程度までと聞かれると、ちょっと答えかねるが、とにかく、仏教でも、神道でも、自己《セルフ》は親から子へ伝えられる要素ではないのである。つまり、生理学的な血統による遺伝ではないのである。
これらの事実からみると、前掲の文章の題目について、いかに東洋人と西洋人の観念に、大きなひらきがあるかということがわかるだろう。また、これらの事実は、極東における、神と仏という、ふたつの信仰の、ふしぎな組み合わせと、それと、十九世紀の科学思想とのあいだに暗合があるという考え方も、自己《セルフ》という観念に関することばの、哲学的な正確な使い方がないと、ちょっと了解できないということを、おのずから物語っている。じっさい、仏教哲学に属する仏教用語の適確な意味を、そのまま伝えることができるようなヨーロッパ語は、ひとつもないのである。
ハックスリー教授が「感覚と感覚伝達機関」という論文のなかで、簡単に述べている次のような論旨から、あまり離れてしまうと、不当のそしりをうけるかも知れない。「詮じつめてゆくと、感覚とは、感覚中枢の物質の運動の様式に対して、意識ということばでいうものの等価物であるらしい。しかし、さらに質問を進めて、物質と運動とは何ぞやという問いを出してみると、その答えは、ひとつしかない。われわれが知っている運動とは、われわれの視覚、聴覚、筋肉感覚に関連した、ある変化に対する名称であり、また、われわれの知っている物質とは、物理的現象の仮説的実質で、この仮説とは、心の実質の仮説とおなじように、純粋な形而上学的思索である」けれども、形而上学的思索は、究極の真理が人間の知識の極限外にある、という科学的認識があったからといって、けっして止むものではない。むしろ、そのために、かえって継続するものだろう。おそらく、全然止んでしまうようなことはあるまい。形而上学的思索がなかったら、宗教的信念の修正も、とうてい起りえないし、修正がなければ、科学的思念と調和するような宗教的進歩も起りえないわけである。であるから、形而上学的思索は、当然あるべきものというより、必須欠くべからざるものに、わたくしには思われる。
われわれは、心の実質というものを、肯定するにしても、否定するにしても、あるいは、思想というものが、ちょうど風が竪琴の絃にふれて音楽を生ずるように、脳細胞にある未知の要素が作用して生まれるものだと想像するにしても、あるいはまた、運動とは、脳細胞に固有な、しかも特殊な、ある特別な振動の様式であると考えるにしても、神秘は、依然として無限に神秘であり、仏教は、依然として人類のあこがれに深い合致をもち、道徳的進歩と調和する貴重な道徳上の有効な仮説である。われわれは、物質的宇宙と呼ばれるものの実在を、信ずる信じないにかかわらず、説明することのできない遺伝の法則――特殊化しない生殖細胞のなかに、種族および個人の性向が伝えられる事実――の倫理的意義は、因果説の存在を肯定する。意識を形づくるものが何であろうと、意識というものが、過去および未来に関連していることは、疑う余地のないことである。涅槃の教えが、公平な思索家の、厚い尊敬を失うことはありえない。科学は、既知の物質は心とおなじく、進化の産物だということを、はっきり認めている。物質が、いわゆる「要素」――「いまだ分化せざる原始的形態の物質」から発展したという実証を、科学は発見した。この実証は、仏教の放射《エマネーション》と|まぼろし《イリュージョン》の教義に含まれている、ある真理の驚異的な暗示であって、――あらゆる形態の進化は無形から、物質的現象の進化は非物質的現象から起ったものであり、――そして、万物はその究極においては「欲情も悪意も倦怠もない状態――個性の刺激がもはや存在せず、ために『虚空』と名づけられている状態」に帰ってゆくことを、暗示しているのである。
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コレラ流行期に
こんどの戦争で、シナの一ばん大きな味方がある。こいつは、耳がかなつんぼで、目が見えず、それこそ、条約・和平も何のその、いっさいがっさい、馬耳東風で通してきたやつで、今だにまだ、わたしゃ何にも知らぬわいの一点張りで押し通している。こいつが、日本軍の帰還兵のあとを追っかけて、こともあろうに、戦勝国へずかずか乗りこんできて、この暑いさなかに、三万人の人間を殺したのである。この人殺しは、今もって続いている。焼場のけむりは、いまだに絶えない。どうかすると、そのけむりといやなにおいが、風の吹きまわしで、この町のうしろにある小高い丘から、わたくしの家の庭まで降りてくることがある。そのにおいが、プーンと鼻にくると、いやでもわたくしは、そうそう、おとなの焼き賃が八十銭だったっけなと、思い出さなくてもいいことまでおもい出す。
わたくしの家の二階からは、この町の通りが、ずっと下《しも》の方の港のあたりまで、ひと目に見渡される。通りの両がわには、小さな商人家《あきんどや》がずらりと軒を並べているのだが、ついこの間から、わたくしはこの町すじの方々の家から、コレラ患者が病院へ運ばれて行くのを、ちょいちょい目にする。けさも、わたくしはそれを見た。けさのは、向こう側の瀬戸物屋の主人だった。瀬戸物屋の主人は、家人が涙を流して、おいおい言って泣くのもかまわず、むりむたいに連れて行かれた。衛生法によると、コレラ患者を自宅で療養させることは禁じられているのであるが、それでも町民は、たとえ罰金や体刑をくらっても、何とかして患者を隠蔽《いんぺい》しようと苦労する。なぜそんなことをするかというと、避病院は患者で満員のうえに、あすこは病人の扱いが乱暴で、しかも入院すると、患者は身うちのものからぜんぜん隔離されてしまうからである。ところが、警官諸君は、なかなかどうして、そんな手はめったに食わない。すぐに無届けの患者をさがしだして、担架と人夫をつれてやってくる。見ていると、ずいぶん残酷なようだが、しかし、衛生法なんてものは、これはよろしく残酷なものでなければいけない。瀬戸物屋のおかみさんは、泣き泣き、担架のあとを追って行ったが、けっきょく、警官がなだめて、とうとうしまいに、主人のいなくなった寂しい店へ追いかえされてきた。店は、いま、大戸がおろしてあるが、おそらく、今のあるじの手で、二どとこの店をあけられることはあるまい。
こういう悲劇は、はじまるのも早いが、終るのもまた早いものだ。遺族のものは、お上《かみ》の許しが下りるがいなや、匆々《そうそう》に、思い出ふかい世帯をたたんで、さっさとどこかへ姿を消して行ってしまう。そして、町の生活は、まるでなんの変ったこともなかったように、昼も夜も、あいかわらずの顔をして、営々といとなまれてゆくのである。竿竹売りだの、笊《ざる》やみそこし、桶やだの、箱やだの、そうした物売りは、空家のまえをいつものごとく通り、いつものごとく売り声を呼んでゆく。托鉢坊主や千手観音、巡礼に本堂建立、そんなものが、お経をよみながら、いつものように通る。めくらの按摩《あんま》が、あわれっぽい笛を吹いて通る。夜廻りが、どぶ板にちゃりん、ちゃりんと、金棒を鳴らしてゆく。よかよか飴屋の男の子が、あいもかわらず、女の子みたいな哀れなすずしい声をして、太鼓をたたきながら恋の歌をうたってゆく。
「あなたとわたしは一緒……ずいぶん長くわたしはいたのだけれど、それでも、ほんの今来たばかりで、すぐに帰るような思いがした。
「あなたとわたしは一緒……わたしはやっぱりお茶のことを考える。他人には、宇治の古茶とも新茶とも思われるかも知れないけれど、わたしには玉露だ。――あの山吹の花の美しい黄いろい色をした玉露だ。
「あなたとわたしは一緒……わたしは電信技手、あなたは便りを待つ人。わたしが胸の思いを送ると、あなたはそれを受けとる。今じゃ電信柱が倒れようと、電線が切れようと、何の案じもあるものか。
子どもたちも、ふだんの通りの遊びごとをしている。鬼ごっこをして、きゃっきゃっと笑ったり、歌をうたって踊ったり、蜻蛉《とんぼ》をつかまえて長い糸を結びつけたり、あるいは軍歌を歌ったり――。
ちゃんちゃん坊主の首をはね
どうかして、中の一人が姿を消すと、あとに残ったもの同志で、仲よく遊びをつづけている。なかなか悧巧なものだ。
子どもを焼く費用は、たった四十銭である。二、三日まえに、やはり、近所の子どもが一人焼かれた。その子が、いつもそこへ転がしては遊んでいた小さな石が、いまでもそのままになって、日向にころがっている。……子どもが石を愛するというのは、まことにおもしろいことだ。貧乏人の子どもにかぎらず、どこの子どもでも、ある年ごろになると、たいていのものが石をおもちゃにする。ほかにどんな玩具があっても、日本の子どもは、よく石で遊ぶ。石というものは、子どもごころに、じつに不思議なものなのだ。これはさもあるべきで、専門の数学者の頭脳をもってしても、そこらにざらにあるつまらぬ石ころには、無限の謎と驚異があるのだから、子どもが不思議がるのは無理もない。そんな石ころに、ちいぽけな腕白小僧は、ただの見かけよりも、なにかそこに深いものがあることをちゃんと見抜いているのだ。この眼識たるや、なかなか目が高い。ばかなおとなが、なんだ、そんな下らないものと、いい加減な嘘を言いさえしなければ、おそらく子どもは飽くこともなく、その石のなかに絶えず新しいもの、驚歎すべきものを発見して行くにちがいない。石について子どもがもつ疑問に、一から十まで答えることができるのは、まず大学者のほかにないだろう。
民間信仰によると、おとなりの愛児は、いまごろは賽《さい》の河原で、一生けんめいに石を積んでいる頃だろう。――きっと、冥途《よみじ》では物に影のないことを不審に思いながら。この賽の河原の伝説の中に含まれている、偽りない詩情は、その根本観念がまったく自然であるという点、つまり、日本の子どもたちが、だれでもみな石を弄ぶという、この石遊びの遊戯を、冥途《よみじ》の世界でもつづけているという点にあるようである。
竹のてんびん棒の両端に、大きな箱をぶら下げたやつを肩にかついで、よくこのへんを回ってくる羅宇屋《らうや》があった。片方の箱のなかには、大小さまざま、色とりどりの羅宇竹と、それを金物の雁首と吸口にはめる道具とが入れてあり、片方の箱には、赤ん坊が――この羅宇屋の子どもが入れてあった。赤ん坊は、箱のふちから道を通る人を覗きながら、にこにこ笑っている時もあったし、そうかと思うと、箱のなかにぬくぬくとくるまって、すやすや眠っている時もあった。いろんな人が、この子に、よく玩具をやったりするそうであった。そういう玩具のなかに、位牌によく似た妙なものがあって、わたくしが箱の中を覗くたんびに、それがかならず子どものそばに置いてあった。
ところが、ついこのあいだ、この羅宇屋がいつものてんびん棒と、それにぶら下げた箱とをやめてしまったのを、わたくしは見た。羅宇屋は、小さな手車を押してやってきた。その手車は、自分の商売道具と赤ん坊とがちょうど入れられるくらいの大きさで、そのためにわざわざこしらえたものと見えて、中が二つに仕切られてできていた。おそらく、子どもが大きくなって、目方がふえてきたので、以前のような旧式なてんびん棒でかつぐやり方では、不便になってきたのだろう。車の上には、小さな白い旗が立ててあって、その旗に、「きせる、らう替え」と書いて、そのわきに「お助けをねがいます」と短い文句が走り書きに書いてある。赤ん坊はいかにも丈夫そうで、にこにこ機嫌がいい。見ると、こんどもそのなかに、前にわたくしの注意をひいた、例の位牌のような玩具が、やはり入れてある。しかもそれが、手車になってからは、赤ん坊の寝床と向いあわせに、一段高い箱の上に、しっかりと立ててあるのである。車がこっちへやってくるのを見ているうちに、ふとわたくしは、ははあ、なるほど、あの札は、あれはやっぱりほんとの位牌なんだな、という確信が胸に浮かんできた。おりから、日ざしがちょうど真上からさしていたので、こんどは戒名もはっきりと読みとれた。わたくしは好奇心をうごかした。そこで、さっそく下男の万右衛門に言いつけて、羅宇屋を呼びとめさせ、羅宇のすげかえが何本もあるからと言わせた。――すげ替えのあることは事実だったのである。まもなく、羅宇屋の手車は、わたくしの家の門の前に止まったので、わたくしは見に出て行った。
赤ん坊は、異人の顔を見ても、こわがらなかった。かわいらしい男の子である。まわらぬ舌に片言などをいって、にこにこしながら、わたくしの方へ手を差しだしたりしたが、これはてっきり行く先ざきで、いつも人から可愛がられつけている証拠であろう。わたくしは、しばらく赤ん坊をからかっているうちに、例の位牌をよく見てみた。それは真宗の位牌で、女の戒名が書いてあった。万右衛門があとで漢字を翻訳してくれたのによると、――「極楽の御殿で敬まわれて高い位に昇された女。明治二十八年三月三十一日」という意味のものであった。そこへ女中が新しい羅宇にすげ替える煙管を持ってきたので、わたくしは、仕事に取りかかる職人の顔をしばらく見ていた。中年をやや過ぎた男の顔、むかしはこれでもにこやかに笑った時もあったのであろうが、それが今はもうすっかり干からびてしまい、水を浚《さら》った古池のようになった口のはたには、老いさらばえた、哀れをさそうような、深い皺が刻まれている。こういう皺は、日本人の顔にはよく見うける皺で、なにもかも諦めきったという、いかにも落ちついた静かさの、なんとも言えぬ表情をあたえる。やがて、万右衛門が物を尋ねだした。この万右衛門に物を尋ねられて答えないのは、よほど、腹の黒い人間でなくてはできないことである。罪のないこの爺やの、懐しみのある禿げ頭のうしろから、どうかすると、わたくしは後光《ごこう》がさしているのを見ることさえあるくらいだ。
羅宇屋は、万右衛門の問いに答えて、自分の身の上ばなしを語りだした。それによると、この子の誕生二ヵ月目に、羅宇屋のおかみさんは亡くなったのである。おかみさんは病いのあげく、いまわのきわに、こういうことを言った。「あたしが死んだら、丸三年のあいだは、お願いだから、どうぞこの子を、あたしの魂といっしょに、離れずに置いといておくんなさいね。あたしのお位牌のそばから、この子を放さないでおくんなさいよ。あたし、そうすれば、この子は自分で手塩にかけて、お乳を呑ませてやります。――おまえさんも知っての通り、子どもは三年の間は、お乳をつけておいてやるものですからね。これがあたしのいまわのきわの願いです。ねえ、きっと忘れないでおくんなさいよ」ところが、母親に死なれてみると、父親は、いままでのように思うさま我精《がせい》に働くこともならず、そのうえ夜昼ぶっ通しで、赤ん坊の面倒を見なければならず、そうかといって、乳母をかかえるほどの身代《しんだい》ではない。そこで、かれは羅宇屋をはじめたのである。これだと、子どもを片時も側から離さずに、どうにかこうにか、身すぎになって行ける。でも、牛乳はまだ買えなかったので、わずかに重湯と水飴とで、一年あまり、子どもを育てたのだそうであった。
わたくしはそれを聞いて、子どもは大へん丈夫そうだし、それに牛乳がなくたって同じことだよというと、万右衛門が、ちょっと文句があるといったような、確信のある口調で言った。
「旦那さま、それはあなた、死んだ阿母《おふくろ》どんが乳を飲ませているからでございますよ。ですもの、この子は、乳不足なんかいたしますものか」
すると、子どもはやさしく笑った。まるで、死んだ親の冥途《めいど》からの愛撫がわかりでもするように。
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祖先崇拝の思想
[#ここから1字下げ]
「世尊《せそん》、阿難比丘《あなんびく》 娑羅林《しゃらりん》の外此《そとこ》の大会《だいえ》を去《さ》ること十二|由旬《ゆじゅん》に在《あ》り、六|万《まん》四|千億《せんおく》の魔《ま》に繞乱《にょうらん》せらる」(大般涅槃経)
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祖先崇拝は、いまでも目に立たぬいろいろな形で、ヨーロッパの最高文化国のなかの、ある国などにつたえのこっているが、この事実はあまり広く知られていない。そのために、こんにち、アリアン人種でもないのに、そういう原始的な崇拝をじっさいにおこなっている人種は、かならずやその宗教思想も、原始的な段階にとどまっているにちがいないと、そんな考えを抱いている向きすらある。日本を批評するものも、ともすると、これとおなじような軽卒な判断を口にしてきている。そういう批評家は、日本の科学的進歩の事実や、進歩的なその教育制度の成果を考え、その日本が、一方において、いまだに祖先崇拝をつづけてやっていることを考えると、このふたつの事実を、どうしてもひとつに結びつけて考えることができないと、自白している。かれらは、こういうことを言っている。――神道の信仰と、近代科学の知識とが、なんで両立なぞするものか。科学の専門家として世に名をあらわしているような人たちが、いまだに家にまつってある神棚や祠《ほこら》を拝んだり、鎮守の社の前に額《ぬか》ずいたりするなんて、そんなことがあるわけがない。もしあれば、それは信仰はすでに滅びて、形式だけがまだ残っているということを語っているにすぎないのではないか。いずれ、今よりもっと教育がすすめば、神道などは、儀式としてさえ存続することはおぼつかなくなるのではあるまいか、と。
こういう問いを発する人たちは、西洋においても、いかなる信仰にしろ、それの存続という点になると、つねにこれと同じような疑問が発せられ、次の世紀まではたして存続するかどうかが疑われているということを、忘れているようだ。じじつ、神道の教えは、その最小限度においても、われわれの正教キリスト教の教義にくらべて、けっして近代科学と矛盾するものではないのである。ごく公平な立場から検討してみて、わたくしなどは、神道の方がキリスト教よりも、むしろいろいろの点で、近代科学と矛盾する点が少ないと、あえて言いたいくらいである。神道の教義は、われわれ西欧人の正義観とも摩擦する点がすくないし、それに仏教の因果説とおなじように、遺伝という科学的な事実とも、驚くほど似かよっている点がある。この似かよっている点は、世界のいかなる大宗教のなかにもある真理の要素に、まさるとも劣らない深いものを神道がもっている証拠である。できるだけ簡単にいうと、神道のなかにある真理の特殊な要素というのは、生きているものの世界は、死せるものの世界によって、直接に支配をうけている、という信念である。
人間のあらゆる衝動、あるいは行為は、神のなすわざであり、すべて死んだものは神となる、というのが、神道の基礎観念である。ところで、この「神《カミ》」ということばは、英語に翻訳すると、deity, divinity, godなどということばになるけれども、じっさいは、英語のもっている意味とはぜんぜん違っている。如上の英語が、ギリシャやローマの古代の信仰をいうばあいに用いられるほどの意味さえも、もっていない。神道でいう「神」とは、above「上位に在る者」、superior「優れたる者」、upper「上に在る者」、eminent「崇高なる者」などを意味し、宗教上の意味では、死後において、超自然力を得た人間の霊を意味するのである。死者は、「上位にある力」であり、「上に在る者」であり、――すなわち、それが「神」なのである。この概念は、近代心霊学の幽霊《ゴースト》という概念に非常によく似ている。ただ、神道の観念は、ほんとうの意味においては、民主的ではない。神は幽霊《ゴースト》ではあるが、しかし、その格式と力においては大いに異なった幽霊である。それは、日本の古代社会の階級制度のように、霊界の階級制度に属している幽霊なのである。ある点では、神は生きている人間よりも本質的にすぐれたものではあるけれども、そのくせ、生きている人間は、その神を喜ばしたり、機嫌をそこねたりすることもできるし、あるいは、満足させたり、怒らせたりすることもできるし、時には、神の霊界における身分をかえることさえできるのである。であるから、日本人にとっては死後の祭祀は、真剣なことであって、けっして遊戯ではないのである。早いはなしが、本年なども、(注 この文は一八九五年九月に書かれたもの)著名な政治家や軍人が、五人も六人も、歿後直ちに位階を敍進されている。先日も、わたくしは官報紙上で「陛下は、最近台湾で薨去《こうきょ》した男爵山根少将に、勲二等旭日章を追賜された」という記事を読んだ。こういう恩沢は、ただ、勇壮な愛国者の記憶を尊重しようという形式だとばかり考えてはいけない。また、遺族を表彰するためのものとばかり考えてはいけない。これも、もとは神道から出たことなのであって、世界の文明国に伍する日本独特の宗教的特質である、現《うつ》し世と神の世との関係の親近感を例証するものなのである。日本人の考えでは、死んだものも、生きているものとおなじように、この世に実存しているのである。死者は、国民の日常生活のなかへもはいってきて、いささかの悲しみ、いささかの喜びをも、生きているものたちとともにわかちあうのである。家族の食事の際にも、死者はそこへ出てくるし、家庭のしあわせをも守るし、子孫の繁栄を助けもするし、また喜びもする。また、神道の祭典や、祭りの行列、武術の試合、あるいはまた、死者のためにとくに奉納したいろいろの興行物などにも出てくる。そして、死者は、ささげられた供物や、天皇の下賜された尊号などを、ひじょうによろこぶものだと、一般に考えられているのである。
この小論のばあいでは、神は死者の霊であると、ただ単純にそう考えて頂くだけでじゅうぶんである。この国の国土をつくり出したと信じられている最初の神と、この死者の神との区別などは、ここでは問わなくてもいい。ところで、神ということばの概説はこのくらいにしておいて、もういちど、あらゆる死者は現《うつ》し世に住し、現《うつ》し世を支配し、人間の思想行為に感化をあたえるばかりでなく、自然界の状態にも影響を及ぼすという、神道の考え方に筆をもどそう。本居《もとおり》翁はこう書いている。
「神は、季節の移りかわり、風、雨、国家、および個人の運、不運をつかさどる(*)」約言すれば、神とは、あらゆる現象の背後にある、目に見えない力なのである。
〔* 訳者注「すべて此世に有りとある事は、春秋《はるあき》のゆきかはり、雨ふり風ふくたぐゐ、又国のうへ人のうへに、吉凶《よしあし》きよろづの事、みな悉《ことごと》に神のしわざと知べし」――本居宣長「直毘霊」〕
この古代心霊学の最も興味ある附加説は、人間の衝動や行為を、死者の影響によるものだと説明している点である。いかなる近代の思想家といえども、この仮説を不合理なものだと、断定することはできない。なぜかというと、この説は、心理学進化の科学的学理からいって是認しなければならないからである。心理学進化の学理からいうと、生きているものの脳髄は、いずれも無量無数の死者の生命から構成されていることを示している。けっきょく、人間の性格は、すでに死滅した無数の善悪の経験が、やや不完全ながらも平均化された総計だということになる。この心霊の遺伝ということを否定しないかぎり、われわれは、われわれの衝動や、感情、または感情によって発展した高度の能力などが、文字どおり、死者によって形をあたえられたものであり、死者によって譲られたものであるということを否定することはできない。同時に、われわれの精神的活動の一般の方向が、われわれに譲られた特殊な性向の力によって決定されてきた、ということも否定することができない。こういう意味で、死者はいかにもわれわれの神であり、われわれのすべての行為は、まことにそれらの神々の感化をうけていると言える。物にたとえていうと、人間の心は幽霊のすみかである。神道がみとめる八百万《やおよろず》の神々よりも、もっと数の多い幽霊のすみかである。そうなると、じつに、脳髄の実質の一ゲレンに住む幽霊の数は、縫い針の先に立つことのできる精霊の数について、かの中世の煩瑣《はんさ》学者が考えた荒唐無稽な空想を、目のあたりに見る以上のものになろう。学問的には、われわれの生きている微小な細胞のなかには、一民族の全生活が――幾百万年の過去の感情が、おそらくだれも知らない、幾百万の滅びた遊星の世界の感情の総額が、たくわえられていることを、われわれは知るのである。
だが、縫い針の先にあつまる力という点では、悪魔だって、けっして精霊に劣らないだろう。そこで、神道の如上の説では、悪人と悪行というものをどう解釈しているか? 本居翁は、これに対して答えている。「世の中で、なんでも間違ったことが行なわれるときは、それは禍津神《まがつかみ》というわるい神々の所為によるのである。このわるい神々の力は非常に大きいものであるから、日の神や天地創造の神も、ときによると、かれらを抑えられない時がある。まして人間の力では、かれらの影響に抵抗することは、とてもできない。悪人が奢《おご》り栄え、善人が不仕合わせにおちていることなども、普通の正義観からいえば大いに相反することのように見えるけれども、この解釈で、それも説明がつく」と(*)。こういうぐあいに、すべての悪は、わるい神々の感化であり、したがって、悪人は、すべてわるい神になるのである。このきわめて単純な信仰には、なんらの自己撞着もないし、べつにややこしいことも、わかりにくいところもない。もっとも、悪行の罪を犯したものが、みながみなまで、|まがつ《ヽヽヽ》神になるというわけではない。このことは、あとでまたわかるとして、とにかく、すべての人間は、善悪いずれかの神となる。すなわち、感化するものとなるのである。そして、すべての悪行は悪い感化の結果なのである。
〔* 訳者注「禍津日神《まがつびのかみ》の所為《しわざ》こそ。いともかなしきわざなりけれ。万の厄《まが》はみな此神の所為《しわざ》也。すべて此世に有りとある事は。春秋《はるあき》のゆきかはり。雨ふり風ふくたぐひ。又国のうへ人のうへに。吉凶《よきあし》きよろづの事。みな悉《ことごと》に神のしわざと知べし。さて神には善《よき》もあり悪《あし》きも有て。所行《しわざ》もそれにしたがへば。大かたよのつねのことわりをもて定《さだ》めていふべきにあらす。きはめてはかりがたき物ぞ。……(中略)……下なる諸人《もろびと》のうへにも。善悪《よきあし》き験《しるし》を見せて。善人《よきひと》はながく福《さか》え。悪人《あしきひと》は速《すみや》けく禍《まが》るべき理《ことわり》なるを。さはあらでよき人も凶《あし》くあしき人も吉《よき》たぐひ。昔も今もおほかるはいかに。もし実《まこと》に天のしわざならましかば。かかるひが亊あらましやは」――本居宣長「直毘霊」〕
ところで、この教えは、遺伝におけるある事実と一致する。われわれの最善の能力は、たしかにわれわれの先祖の最も善い人たちから譲られた形見であり、われわれの悪い素質は、こんにちわれわれが悪と呼んでいる性質が、かつて優勢を占めていた人たちから遺伝されたものである。文明によって、われわれの心のうちに発達した倫理的知識は、われわれが死者の最も善い経験から譲りうけた高等な力を、いよいよ強化するように、そしてわれわれが受けついだ劣等な性向の力は、つとめて消すようにと要求する。われわれは、われわれのよい神のまえには跪拝《きはい》し、それの言うことをきき、反対に、まがつ神に対しては、なんとかしてこれに背を向けるように努める義務を負わされている。この善悪ふた柱の神があるという知識は、これは人間の理性とともに、古くからある知識である。あらゆる人間に、善悪の神が宿っているという説は、形式こそちがうが、たいていの大宗教には附きものになっている。西洋の中世期の信仰も、われわれの国語に永久に足跡をのこすほどに、この観念を発達させた。けれども、われわれを護る天使があり、誘惑する悪魔がいるという信念は、神の信仰とおなじように、むかしはごく単純な信仰だったものが、だんだん発達したものだということを物語っている。そして、中世のこの信仰の説にも、おなじく真理がある。右の耳によいことをささやく白い翼の天使や、左の耳にわるいことをつぶやく黒い悪魔は、さすがに十九世紀の人間のそばにはうろついていないけれども、そのかわりに、天使も悪魔も、人間の脳髄のなかにはいまだに住んでいる。人間は天使と悪魔のささやく声を知っているし、いまでも中世の先祖たちがしばしば感じたように、天使と悪魔に急《せ》き立てられるのを感じるのである。
ところで、近代の倫理観が神道に反対する点は、神道では、よい神もわるい神も、ふたつながら、おなじように尊ばれているという点である。「帝が天神地紙を尊祟するとおなじように、人民は幸福をうるためによい神々に祈り、わるい神々の不機嫌をのぞくために祭りをいとなむ。……よい神々とおなじく、わるい神々がいます以上は、やはり神の好きそうな供えものをあげ、琴を鳴らし笛を吹いて、歌をうたい舞いを舞い、そのほか神の機嫌をとりむすぶようなことを行なって、わるい神々の神意をもなだめる必要がある(*)」(アーネスト・サトー訳、本居翁のことば)
〔* 訳者注「……又天皇の、朝廷《みかど》のため天ノ下のために、もろもろの天神国神《あまつかみくにつかみ》をも祭坐《まつりま》すがごとく、下なる人どもも事にふれては、福《さち》を求《もと》むと、善神《よきかみ》にこひねぎ、禍《まが》をのがれむと、悪神《あしきかみ》をも和《なご》め祭り、……(中略)……善神《よきかみ》もありあしき神も有りて、所行《しわざ》も然《しか》ある物なれば、……堪《たへ》たるかぎり美好《うまき》物さはにたてまつり、あるは琴ひき笛ふき、うたひまひなど、おもしろきわざをしてまつる。これみな神代《かみよ》の古事《ふること》にて、神のよろこび給ふわざ也。……」――本居宣長「直毘霊」〕
もっとも、近ごろの日本には、わるい神々もなだめなければいけないというこの明白な宣言があるにもかかわらず、わるい神々に供物をそなえたり敬称を奉ったりするようなことは事実上ほとんどないようである。ところが、この国へ渡米した初期のキリシタン宣教師たちが、なぜ、そういう信仰は悪魔崇拝だといったのか、――もっとも、神道では、西洋のいう意味の悪魔というものは、けっして形をあらわさないが、――その理由は、今にしてみれば明らかであろう。神道の弱点と思われる点は、悪魔とはけっして戦ってはならん、と言っている教えにある。この教えが、天主教とは、本質的に相容れないのである。けれども、キリスト教の悪霊と、神道の悪魔とのあいだには、大きなひらきがある。神道でいうわるい神は、たんに死者の霊にすぎないのだし、しかもなだめることができるのだから、これは徹頭徹尾悪とは信じられていない。絶対な、まじりけのない悪の概念というものは、極東にはないのである。絶対の悪というものは、人間性にはまったく関係のないものであって、したがって、人間の霊にはありえないものなのである。わるい神は悪魔ではない。それはただ、人間の欲情に感化をあたえる幽霊なのである。この意味だけでいうと、わるい神とは欲情の神である。そこで神道は、あらゆる宗教のうちで最も自然な宗教であり、したがって、ある点では最も合理的な宗教である。神道では、欲情はそれだけでは必ずしも悪とは考えていない。ただ、これに惑溺《わくでき》する原因、事情、程度によって悪となる、と考えている。もともと幽霊なのであるから、神はまったく人間的なものであり、いろいろな割合で、人間のよい性質とわるい性質とを自身に持っている。そのうち、大多数はよい性質であるから、神全体の感化の総計は、悪よりも善の方に近い。この見解の合理性をよく味わうためには、そうとう高い人間観を要する。日本の古い社会が是《ぜ》なりとしていたような、高い人間観を要する。厭世主義者は、純粋の神道家にはまずなれない。神道の教義は楽天的なものであるから、人間性に寛大な信頼を抱いているものなら、神道の教えのなかにある悪は、みななだめることのできる悪だということを知っても、べつに咎めることはないだろう。
さて、神道が、倫理的にまことに合理的な性質をもっているという、そのことがおのずからあらわれている点は、このわるい霊魂をなだめる必要があるということを認めている点にある。古代の経験も、近代の知識も、人間のある性向を――つまり、これを病的に育てたり、野ばなしにしておくと、人間を放縦や、犯罪や、その他数えきれぬ社会悪へ追いこむ、そうした人間の性向を、根絶やしにしようとしたり、あるいは麻痺させてしまおうとしたりするのは、大きな誤りだとわれわれに警告している点で、両者は符合している。動物的な欲情や、猿や虎のような衝動は、これは人間社会ができる以前からあったもので、これが人間社会を毒するほとんどあらゆる犯罪に、拍車をかける。しかし、これを絶滅させることはできることではないし、確実に餓死させることもできることではない。これを絶滅させようと企てると、これと離れがたく入り混っている、もっとも高い感情的な能力のあるものまでを破壊することに努めるような結果になる。原始的な衝動は、人生に美とやさしさとをあたえる知性と感情の力を犠牲にしないと、とても絶滅することができないものだ。その、人生に美しさとやさしさとをあたえる知性と感情の力というものも、じつは、欲情というごく古い土壌に、深く根を張っているものなのだ。人間のなかにある最も高いものも、すべてその種子は、最も低いもののなかにあるのである。禁欲主義は、人間の生まれながらの感情と戦うことによって、多くの残酷な人間を生みだしてきている。それとおなじように、神学上のおきても、人間の弱さに逆らうように不合理に当てはめてゆくと、ついにはかえって社会の紊乱《びんらん》を助長するに終る。快楽の禁制が、かえって淫蕩に油を注ぐようなものだ。そこで、神道のわるい神たちにも、ある融和の必要なことは、道徳の歴史が明白に教えているとおりである。人間のばあいは、いまでもまだ、欲情の力の方が理性の力よりも強い。それは、欲情の方が、理性よりも、比較にならぬほど古くからあるものだからである。なぜかというと、欲情というものは、むかしは自己保存になくてはならないものであったし、欲情こそは、人間の自覚の第一段階であり、その自覚から、より高尚な情操が徐々に発達してきたものだからである。人間は、欲情に支配されてはならないけれども、しかしまた、欲情のはなはだ古くからある権限をぜんぜん否定してしまうものも、禍《わざわい》なるかなである。
死者に関する、こういう原始的な、しかし不合理でない信仰――それはすでにおわかりのことと思うが――から、西洋文明には知られていない道義的情操が発達したのである。これらの信仰は、最も進歩した倫理的概念と一致する点があるし、とりわけ、進化というものを知ったために起った義務感の、今後どこまで拡がるかわからない拡大と調和する点があるので、大いに考究する価値がある。わたくしは、西洋人の生活のなかに、このような情操が欠けているのを喜ぶ理由は、どこにもないと考える。それどころか、むしろ人間の道からいって、この種の情操をやしなう必要があることを、いまに痛感する時がくるだろうと考えているくらいである。われわれの前途に横たわる驚異のひとつは、むかしわれわれが、そんなもののなかには真理なんぞあるものかと多寡をくくって、捨てて顧みなかった信仰や思想、――古い因習から、ものごとを排撃ばかりするような人たちには、いまだにそんなものは野蛮な信仰だ、邪教だ、かびの生えた中世の信仰だと、ひと口に片づけられてしまわれそうな信仰や思想に、もういちど立ち帰ってみることであろう。科学の研究は、年とともに、野蛮人や、未開人や、偶像崇拝者や、修道僧などが、それぞれ思い思いの道から、十九世紀の思想家たちに劣らず、永遠の真理の岸へたどりつきかけていたという、新しい証拠を提供している。げんに、われわれは、むかしの占星術師や、錬金術師の説も、部分的には誤まっていたが、全体としては、誤まっていなかったということを学びつつある。そればかりか、われわれは、どんな目に見えない世界の夢も、仮説も、ひとつとして、真理のある萌芽を含まないものはなかったと、科学がかならず立証すると推定する理由をさえ持っているのである。
神道のもっている道徳的情操のうち、最も高いものは、過去に対する忠実な感謝の念である。この情操に相当するものは、西洋の感情生活のなかにはない。われわれは、われわれの過去を知る点では、日本人がかれらの過去を知っているよりも、はるかにまさっている。われわれは、過去のあらゆるできごとや状態を、記録し考察してある無数の書物をもっている。けれども、過去を愛し過去に感謝する念をもっているとは、どこから見ても言われない。なるほど、過去の功罪に対する批判的な認識や、ごくまれには、過去の美しいものからそそられる随喜《ずいき》の涙や、また、過去の誤謬に対する痛烈な攻撃などは、われわれの過去に対する思想と感情の総計をあらわしている。過去を批判する西洋の学者の態度は、必然的に冷静である。芸術の態度は、しばしば寛大以上のこともあるけれども、宗教の態度は、たいていのばあい、苛烈をきわめている。われわれはどんな研究的立場に立ったとしても、われわれの注意は、主として死者のなした業績に向けられる。それを見ると胸がわくわくするような絵画建築や、その時代と切っても切れぬ関係をもつ思想や行為の業績、そういうものにのみ多く傾倒して、同胞としての過去人のことは、――われわれの同胞として、長く地下に埋められている無量無数の人間のことは、すこしも考えない。考えるにしても、それはただ、滅亡した民族に対する好奇心といったようなもので考えるにすぎない。なるほど、われわれも歴史上に大きな足跡をのこした個人の伝記に興味は見いだしている。偉大な軍人、政治家、発見者、改革者などの追憶に、心を動かされる。しかし、それはただ、そういう人物がなしとげた仕事の偉大さが、われわれの野心や、欲望や、自負心に訴えるからのことで、百のうちまず九十九までは、愛他主義から出たものではない。そういうわれわれは、一ばん多くの恩恵をうけている、名もない死者に対しては、一顧もあたえない。感謝も感じなければ、愛情も感じない。祖先の愛が、どんな形の社会においても、ほんとうの、力づよい、骨身に沁む、人生の模型のような宗教的感情になりうると信じることなどは、われわれにはとうていむずかしい。ところが、日本では、それがたしかにあるのである。この観念だけでも、われわれの思想、感情、行為の様態とは、まったく無縁である。その理由の一部は、もちろん、われわれが自分たちの祖先とのあいだに、積極的な精神のつながりを持っているという信念をもっていないということだ。かりに、われわれにぜんぜん宗教心がなかったら、幽霊など信じはしまい。そのかわり、もしまた深い宗教心をもっていれば、死んだ人は、神の審判によってわれわれからよそへ移されたもの――われわれがこの世に生きているうちだけ、われわれから引き離されたもの、と考えるにきまっている。いまでも、天主教を奉じている農民のあいだには、死者は一年にいちど、万霊節の夜に、地上に帰ることを許されているという信仰が残っているけれども、この信仰だって、死者というものは、記憶以上に強力な絆《きずな》で、生きている者とつながれているものだとは、考えていない。かれらの民間伝説集を読んでもわかるとおり、かれらは死者のことを、愛情よりもむしろ恐怖をもって考えている。
そこへいくと、日本では、死者に対する感情は、ぜんぜん違っている。日本人の死者に対する感情は、どこまでも感謝と尊敬の愛情である。おそらくそれは、日本人の感情のなかでも、一ばん深く強いものであるらしく、国民生活を指導し、国民性を形成しているのも、この感情であるらしい。愛国心もそれに属していれば、親をだいじにする孝道もそれに属し、家族愛もそれに根ざしているし、忠義の念もそれに基づいている。戦場で戦友に道をひらいてやるために、「帝国万歳」を唱えていのちを投げだす兵士。不甲斐ないというよりも、いっそ残忍非道なと言いたいくらいな親のために、文句ひとついわずにこの世の幸福を犠牲にするせがれや娘。貧に迫られた親分に、何年もまえにつがえた口約束を果たすために、親兄弟も友だちも自分の持ち金も、なにもかもさらりと投げ出してしまう子分。夫が人に迷惑をかけた損失のために、自分は白無垢の装束を着て、南無阿弥陀仏を口にとなえながら、懐剣逆手にのどをかっ切る人妻。――みなこれ、先祖の意志に従って、目に見えない霊魂の嘉《よみ》する声を聞いてすることなのである。新時代の懐疑的な学生のあいだにすら、多くの破壊された信念のなかに、この感情だけはのこっていて、いまでもその古い感情が、「祖先を辱しむるごときことをするなかれ」とか、「祖先を尊ぶは、われらの務めなり」とかいう文句で出てくる。わたくしが先年英語教師として雇われていたころ、その時分は、まだこういうことばの裏にあるほんとうの意味がわからなかったから、よく作文のなかで、それを訂正しようと試みたことがある。たとえば、「祖先に敬意をはらう」というよりも、「祖先の記憶に敬意をはらう」とした方が正しいと教えたりした。ある日のこと、いまでも憶えているが、わたくしは、死んだ祖先のことを、げんに生きている親たちのように言ってはいけない理由を説こうとしたことがある。おそらく、生徒たちは、わたくしがかれらの信念に立ち入ろうとしたことを、へんに思ったことだったろう。なぜかというのに、日本人は、けっして「ただの記憶になった」祖先などというものを、考えてはいない。かれらの死者は、げんに生きているのだから。
かりに、われわれの死者がわれわれの身辺におり、われわれのすることをなんでも見ており、われわれの考えることをなんでも知っており、われわれの口に言うことばをなんでも聞いており、われわれに同情をよせてくれ、あるいは、われわれを怒ったり、助けてくれたり、われわれから助けをうけるのを喜んだり、われわれを愛してくれたり、われわれに愛を求めたりするという絶対の確信が、われわれの心に突然起るようなことがあったとしたら、おそらく、われわれの人生観や義務の観念は、きっと大きな変化を生ずるにちがいない。そうなった暁には、われわれは過去に対する責任というものを、非常に厳粛に認識しなければならないだろう。ところが、極東人のばあいは、死者が自分の身のまわりにしじゅういるという考えは、数千年にもわたる長い間の信念なのであって、かれらは毎日、死者に物を言いかけているし、なんとかして死者にしあわせを与えようとつとめている。本職の兇状持ちででもないかぎり、かれらはけっして死者に対するつとめを忘れない。平田篤胤は言っている。「死者に対する義務をつねに忘れぬものは、神に対して、また生きている親に対して、けっして不敬不孝にわたるようなことはない。このような人は友にも忠実に、妻や子にも親切で柔和であろう。なぜというのに、この献心の愛の骨子こそ、しんじつ、祖先に対する孝養だからである」と(平田篤胤「玉襷」十之巻)。日本人の性格のなかにある、特異な感情の隠れた原因は、じつにこの情操のなかに求めなければならない。死に直面しての、あの天晴れな勇気、最も苦しい試練の犠牲が果される時の、あの従容とした態度など、みなあれは、われわれの情操の世界とはおよそ縁の遠いものであるが、それよりももっと縁の遠いものは、いたいけな日本の少年が、初めて産土《うぶすな》の神社に詣でるとき、その小さい胸が感きわまって、目にいきなり涙がはらはらとあふれこぼれることである。少年は、その瞬間に、われわれ西洋人がけっして感情の上で感じないことを――現世が過去に負う広大な恩義と、死者に対する愛のつとめとを、はっきり自覚するのである。
現在われわれがいるこの地位を借りものとして考え、その地位をいかにして引き受けてゆくか、ということに多少でも思いを致すなら、西洋と東洋との道徳的情操の著しい相違は、はっきりしてくるだろう。
人生の事実が、はじめて意識にひらめき入るとき、その神秘不思議な人生の事実ほど厳粛なものはない。われわれは未知の闇から、いきなり日の光りのなかへ飛び出して、あたりを見まわし、喜んだり悩んだりする。そして、自分たちの生きて存在している振動を他の存在につたえ、そしてふたたびまた、闇のなかへ帰ってゆく。ちょうど、波がこのとおりだ。どぶんと上がって、光りをとらえ、その運動をほかの波に伝えて、また海のなかへ沈んで帰ってゆく。植物もそのとおりで、土から芽を出し、日光と空気に向かって葉をひらき、花を咲かせ、種子をむすんで、ふたたびもとの土にかえる。ただ、波は知識をもっていないし、植物は知覚をもっていない。人間のいのちも、土から出て土にかえる、抛物《ほうぶつ》線を描いた運動にほかならないように見える。ただ、人間のいのちは、短いその変化のひまに、宇宙を知覚する。この現象の厳粛さは、それについて、だれも知っているものはないという点にある。人間は誰も、この最も平凡にして、しかも最も不可解な事実――人生そのものについて、説明することができない。そのくせ、誰でも、いやしくも物を考えることのできるほどの人間は、自己というものと切っても切れないつながりを持っている関係において、早くから人生について思いを致さざるをえないできている。
自分というものは神秘のなかから生まれでる。そして、空や陸を見る。男や、女や、またかれらのする事業を見る。そして、自分がもとの神秘へいつかは帰っていかなければならないことを、自分でも知っている。しかし、このことにどんな意味があるのか。それは最も偉大な哲学者でも――ハーバート・スペンサー氏でも語ることができない。われわれはみな、われわれ自身に謎であり、また、おたがい同志に謎なのだ。空間も、運動も、時間も、みな謎である。物質も謎である。生まれる前だの、死後だのということについては、生まれたばかりの赤ん坊も、死んで行った人間も、われわれになんの消息ももたらさない。赤ん坊は唖だし、髑髏《どくろ》はただ歯をむき出して笑っているばかりだ。自然は、なんの慰藉もわれわれに与えてくれない。自然の無形のなかから有形が生れ、生まれた有形は、またもとの無形にかえって行く。ただ、それだけのことだ。植物は土となり、その土がまた植物となる。植物が土にかわるとき、その生命であった蠢動《しゅんどう》は、いったい何に化するのだろう? それは、ちょうど窓ガラスに結ぶ霜に、あやしい葉の形をつくり出す力のように、目には見えずに、存在だけをつづけているのだろうか?
無限の謎の地平線のうちに、世界とともに古い無数の小さな謎が、人間のくるのを待っていた。エディポスは、その無数の謎のなかのひとつのスフィンクスに出会ったのである。人類は、由来、幾千万とも知れぬスフィンクスどもに出会ったけれども、そのスフィンクスどもは、いずれも「時」の通る路ばたの、枯れさらばえた骨のなかに跼《くぐ》まって、あとからあとからと、しだいに深遠な、むずかしい謎をかけてきた。そのスフィンクスどもは、いまもってみな満足な答をえられずにいる。このさき、まだ未来の路には、幾億万のスフィンクスが列を組んで並んでいて、まだ生まれてこない人間を呑もうとして待ちかまえている。こんにちではわれわれも、われわれを導いてくれる多少の知識をもっているおかげで、しじゅう戦々兢々としていなくてもすむけれども、しかしその知識こそは、じつは、破滅の腮《あぎと》から勝ち取ってきたものなのである。
われわれの知識は、すべて譲りうけた知識である。死者は、かれら自身と、この世について学びえたものの記録とを――たとえば、生と死との掟、求めて得られるものと、求めても逃げられてしまうもの、自然がこうさせたいと思っているよりも苦しみを少なくして生きてゆく方法、正しいことと曲ったこと、悲しみと幸福、誤れる利己主義、賢い親切、余儀ない犠牲などを、われわれに残して行ってくれたのである。それからまた、陽気や、季節や、風土について、かれらが発見したこと、太陽や、月や、星のこと、宇宙の運行とその成り立ちとについて発見した知識も、残して行ってくれた。また、自分たちの犯したあやまちをも、われわれに残して行ってくれた。そのおかげで、われわれは、長いあいだ、それよりももっと大きな過ちに落ち入ることから救われてきたのである。死者は、また、かれらのあやまちと努力、勝利と失敗、苦しみと喜び、愛と憎しみの物語をわれわれに残して、誡《いま》しめともし、手本ともしてくれた。そして死者は、われわれの同感を期待した。それほどかれらは、われわれのために好意をもち、望みを嘱して骨折ってくれたし、そのようにして、この世も作ってくれたのである。国土を開発し、怪物を退治してくれたのもかれらなら、いろいろな動物を、われわれの役に立つようにならしたり、教えたりしてくれたのも、かれらだ。「クレルヴォの母は、墓のうちに目ざめ、土の底よりさけびぬ。われ、汝がために犬を木につなぎて、のこしおきたり。狩に行かんとおもはば、かの犬を従へて行きねかし」(「カレワラ」第三十六歌)また、おなじように、役に立つ木や草を培い育ててくれたのも、かれらなら、金属のある場所や、金属の効用を見いだしてくれたのも、かれらだ。近世に至っては、われわれのいわゆる文明なるものをも創造してくれた。――自分たちが、やむことをえず犯した過ちは、われわれがこれを匡《ただ》すにまかせて。このように、死者の労苦の総計は、まことに数えきれないものがある。かれらがわれわれに与えたものは、それに費した無限の苦労と思慮のほどを思いやっただけでも、たしかに神聖なものであり、貴重なものである。それにしても、果たして西洋人の誰が、神道信者のように、毎日、次のような感謝の祈りをささげようと思うものがあろう。――「わが大祖《おおおや》たち、わが一家の先祖たち、親族一同の先祖たちよ、――わが一家の始祖としてのあなたがたに、われわれの喜びと感謝とをささげ奉る」(平田篤胤「玉襷」)
そんなものは、ひとりもなかろう。なにもそれは、われわれが死人に耳なしと思っているからばかりではない。われわれは幾代ものあいだ、ごく狭い範囲内――家族という範囲以外には、同情ある精神的表白の力を働かすような訓練をしてこなかったからである。西洋の家族は、東洋の家族に比べると、じつに係累が乏しい。ことに、十九世紀に入ると、西洋の家族はほとんど崩壊してしまっている。こんにち、西洋で家族といえば、夫と妻、それにまだ丁年に達していない子供たち、まずこんな程度のものである。そこへいくと、東洋の家族は、まず両親があり、両親の血族がある。そのほかに、祖父母とその血縁者、曾祖父母とその血すじのもの、その背後には、すでに死んだ人たちがずらりと控えている。こういう大家族の観念が、同情ある表示を養ったのであって、しかも、そういう同情的表示につきものの感情が及ぼす範囲が、げんに生きている家族の正流から、ひいては傍流の人たちにまでもおよび、さらにそれが国家危急のばあいには、国民全体が一大家族になるというところまで進展して行くのである。これは、われわれ西欧人のいわゆる愛国心などというものよりも、はるかに深い感情である。しかも、宗教的感情となれば、この感情は、およそ過去と名のつくかぎりの過去全体に、無限なひろがりをもつのである。愛だの、忠義だの、感謝だのが混り合ったこの感情は、生きている血族に対する感情に比べれば、やや茫漠とした点はしかたがないとしても、偽りない真情である点においてはかわりがない。
西洋には、古代社会が滅びてからのちというものは、こういう感情はのこっていない。古代人を地獄に落し入れ、かれらのなしとげた事業を褒《ほ》めたたえることを禁じた信仰――物に対する感謝は、すべてヘブライの神にこれを捧ぐべしと、われわれを教えた教えは、考える習慣と、考えない習慣とをつくり上げた。この考える、考えないの習慣は、ふたつながら、ともに過去に対する感謝の念に反するものであった。やがて、神学の衰頽と、さらに大きな知識の勃興とともに、死者はそのなした事業をみずから択んでしたのではない、かれらは必然のなすがままに従ったのだ、われわれはただ死者から、必然の結果を必然にうけついだのだ、という教えが起ってきた。そこで、こんにちでも、今もってわれわれは、その必然そのものが、それに従った人たちに対して、当然、われわれの共感同情をしいることや、また、譲りのこされたその必然の結果は貴重なものであり、感動すべきものでもあるということを、けっして認めようとしない。こういう考え方は、われわれのために尽してくれている、現存の人たちの仕事に対してさえ、われわれには起らないのである。自分たちの買ったもの、自分たちの獲たものの代価は考えるけれども、それを作ったものの労力の代価というものを、われわれは少しも考えようとしない。それどころか、そんなものに良心の表示めいたものなど見せたら、それこそ笑いものにされてしまう。そのように、けっきょく、過去の仕事にも、現在の仕事にも、感銘的なその意義というものにまったく無感覚でいることが、われわれの文明が、いかに無益なものが多いかということをじゅうぶんに説明している。ほんの一時間の楽しみのために、数箇年の労役をあたらむざむざと消費してしまうような贅沢な沙汰――幾千人という心なしの金持が、思い思いに、用もない自分たちの欲望を満たすために、幾百という人間の生命の代価を、年々|蕩尽《とうじん》する不人情などがそれである。文明の食人鬼どもは、自分ではそうとは気がつかないけれども、その残酷なことは、野蛮人の食人種よりもよほど甚だしいし、かれらよりもっと大量の肉を食いたがる。深遠なる人道――洪大なる人間愛は、根本的に無益な奢侈《しゃし》の敵であり、官能の満足や利己主義の快楽に、なんの制限も設けないような社会には、それがどんな様式のものであろうとも、根本的に反対するものなのである。
ところが、極東では、それとは逆に、生活を簡素にするという道義上の義務が、ずいぶん古くから教えられてきている。それは祖先崇拝の念が、この洪大な人間愛を発達させ、育てあげたからである。われわれ西欧人には、この人間愛がない。けれども、かならずいつの日にかは、われわれを滅亡から救うために、この人間愛を求めざるをえなくなる時がきっとくるにちがいない。次にあげる徳川家康の二箇条のことばは、東洋人の情操を例証している。日本における最大の武将であり、かつ、最大の政治家であった家康が、事実上、この帝国の主《あるじ》であった時代に、ある日、手ずからはいている絹布の袴の汚れをもみおとしながら、侍臣のひとりに言った。
「これ、わしのすることを、なんと見るぞ。袴が大事と思うて、わしはしておるのではないぞ。これを作るに、どれほどの労苦を要したか、それを思うてじゃ。かよわい女子《おなご》が辛苦して織った、それが尊いのじゃ。物を使うて、その品を作るにかかった暇と骨折、それを思わなんだら、――いやさ、その思いやりがなくんば、われら、禽獣と異ならんではないか」――その後また、かれが最も富める時代に、かれの御台所《みだいどころ》が、あまりにしばしば、かれのために新服をしつらえるのを叱って言ったことばがあると聞いている。「わしは、四方《よも》の民のことを思い、わしのあとにつづく子孫のことを思うと、持ち物なども、よくよく倹約《しまつ》にするが身のつとめと思うぞ」この簡素の精神は、いまでも、日本の国から離れ去っていない。天皇、皇后でさえ、その皇居にあるときは、臣民とおなじく質素な生活をつづけており、皇室費の大部分は、災害の救済にあてられるのである。
西洋でも、やがては、日本の国で祖先崇拝が生みだしたような過去への義務の道徳的認識が、進化論の教えによって、ついには発達するようになるだろう。こんにちでも、新興哲学の第一原理に精通しているほどのものは、ごくありふれた手工品などを見ても、そこに多少でも進化の歴史を認めずにはいない。そういう人には、われわれが日常つかっている、手まわりの道具などにしても、それがただ、大工や陶工、鍛冶屋や刃物師の腕ででき上がった品とばかり見ずに、それをつくる方法、材料、かたちなど、すべてみな、数千年のあいだつづいた経験から生み出されたものとして、目に映るだろう。そういう人にとっては、どんな器具にしろ、その進化発達に要した莫大な時間と労苦とを考えて、そこに感謝の念を経験しないことは不可能だろう。このようにして、やがて来るべき時代には、だれもがみな、過去の世の物的遺産を、死んだ祖先と関連させて考えるにちがいない。
しかし、この広大な人間愛への発展のなかで、過去の世に負う物質上の恩義を認めることよりも、もっと有力な要素は、心霊上の恩義を認めることであろう。なぜというのに、われわれは、われわれの非物質的な世界――われわれの内部に生きている世界――美しい衝動や、感情や、思想の世界をも、やはり死者に負うているからである。いやしくも、人間的な善さを学問的に悟るものは、だれによらず、どんな下賤な生活のどんな平凡なことばのうちにも、神々しい美を見出だし、そしてある意味では、われわれの死者はしんじつ神であるということを感じるだろう。
ところで、われわれが、婦人の霊魂はそれ自身でひとつの完全な存在――ひとつの特別な肉体に合うように、特別に作られたものと考えているあいだは、母性愛の美とか、驚異とかいうものは、まだじゅうぶんに悟られていないのである。これをさらに深い知識で悟ってみると、幾万億という死んだ母からうけついだ愛情が、ひとつの生命のなかに宝蔵されてきたのだ、ということがわかるだろう。そして、そういうものであればこそ、赤ん坊が母親から言い聞かされることばの、あの無限のやさしみも、また、赤ん坊がじっと見つめる目とであう母親の目の、あの無限の情味も、なるほどと説明がつくだろう。こういうことを知らないできた人間こそ、哀れなものである。しんじつ、母性愛というものは、神々しいものだ。しかし、だれが母性愛を、それに適《ふさ》わしいことばで、遺憾なく語ることができよう。人間が見て、神々しいと名づけるものは、すべてこの母性愛に綜合されているのである。そして、その母性愛の最高の表現を吐露し、伝達するところの婦人は、いずれもただ人間の母であるだけにとどまらず、みな神の母なのである。
ここまで言ってくれば、初恋という性愛の幻想のふしぎさについて、もはや語る必要もなかろう。初恋もまた、死者の情熱と美とが復活して、心を惑わせ、いつわり、迷わせ、たらかしこむのである。じつにこれは、なんとも不思議なものだ。もっとも、初恋は、徹頭徹尾、善というわけではない。全部が真というわけではないからである。婦人の真の美しさは、そのあとに現われるのである。つまり、夢のような幻想がすっかり消えて、それまでの幻影のまぼろしの幕のかげに展開しつつあった、どんな幻影よりも美しい、ほんとうの姿があらわれる時に現われるのである。こうしてあらわれた婦人の神々しい魅力とは、いったい、何であろう? それはほかでもない、死して土に埋められた、幾百万の心臓のもっていた愛情であり、信義であり、無私無慾であり、直覚である。そういうものが、みんなもういちど蘇ってくるのだ。そして、彼女自身の心臓の新しい温かい鼓動のなかで、もういちど新しく脈縛を打ちだすのである。
それからまた、上流の社交生活によく現われる、ある驚くべき才腕も、また別の道から、死者によってつくり上げられている霊魂の構造のことを物語っている。世の中にふしぎなのは、あらゆる人に対して八方美人になれる男だの、自分を二十にも五十にも百にもの違った女に仕立てることのできる婦人のいることだ。こういう手合いは、万人の心を了解し、洞察し、人を評価するのにけっして誤たず、まるで自分の個性というものがないようでいて、そのかわり、無数の自己を持っているようで、会う人しだいで、相手にぴたりと調子をあわせ、どんな違った人にも接することができる人たちだ。こんな性格は、めったにないけれども、しかし、たいていの教養ある社交界には、こういう人物がひとりやふたりはかならずいるから、研究の機会がある。こういう人間は、本質的には複合的人物なのである。「我」を単一体と考えている人が見ても、こういうのは単一体でも、「非常に複雑な」と評しなければならないほど、明らかに複合である。それにもかかわらず、同一の人間に、四十も五十もの違った性格があらわれているというこの事実は、だれが見ても明らかな現象で(しかも、それがとくに、経験の甲羅をへない青年に、普通よくあらわれるのだから、いよいよ目に立つ)、その意義を率直に実認する人がないのを、わたくしは不思議に思わざるをえない。
これとおなじように、ある種の天才の「直観力」と名づけられてきたものも、やはりそれと同じで、わけても感情の描写に関する場合が、そうである。シェイクスピアのような天才は、昔からある霊魂説では、とうてい解釈がつくまい。テイヌはこれを「完全なる想像力」ということばで説明しようとしたが、このことばは真理をうがっている。しかし、「完全なる想像力」とは、いったい何を意味するのだろう? 霊魂の生活の無辺際な多数――数えきれない過去の世の人間が、ひとりの人間のなかによみがえったものだ、というよりほかに、なんとも説明のすべがない。……もっとも、この霊魂複合説のおもしろい点は、それが純粋知性の世界においてでない点で、つまり、愛とか、名誉とか、同情とか、義勇とか、そうした素朴な感情に訴える世界のなかのことだから、おもしろいのである。
批評家のなかには、あるいは、こういうものもあるかも知れない。「しかし、この説によると、義勇行為がしたいという衝動の根源は、同時に、犯罪の衝動の根源ともなるね。ふたつながら、死者のものだからな」まさに、その通りである。われわれは、善とともに、悪をも譲りうけている。もともと、複合体なのであるから、――げんに、いまでもこれは進化し、成長しつつあるが――ずいぶん不完全なものもわれわれは受けついでいる。しかし、この場合、衝動に一ばん適したものが生き返ることは、人類全体の平均した道徳的状態が、これを証明している。いま、「一ばん適した」ということばを使ったのは、倫理的な意味に用いたのである。いろいろな不幸や、悪徳や、犯罪が、われわれのいわゆるキリスト教文明のもとで、どこの国にも比類のないほど、ものすごく発達したけれども、しかしながら、多く生き、多く旅をし、多く物を考えた人には、人間の性は善であって、したがって、過去の人類からわれわれが受けついだ衝動の大部分も、善であるという、この事実は歴然としているにちがいない。また、社会状態が正常であれば、そこに住む人間も善良だということ、これも確かだ。過去の世を通じて善き神は、いつも悪の神が世界を制覇しようとするのを、邪魔しつづけてきた。この真理を承認すれば、われわれの正邪の観念は、将来、大いに拡大されるにちがいない。そうなると、義勇行為や、なにか崇高な目的のために果たされた純粋な善行が、従来考えられなかったほど、貴いものに考えられると同時に、ほんとうの罪悪というものが、今の人間や社会に対するよりも、むしろ、人間の経験の総量とか、過去の世の倫理的向上の全体の努力に対するものとして、見られるようになるにちがいない。そこで、ほんとうの善行というものが、一そう尊重されるようになり、真の犯罪は、一そう厳格に判定されることになろう。そうなって初めて、「倫理の法則などというものは不必要である。人間の行為の正しい規則は、つねに、その人間の愛情に尋ねて知るべし」という、初期神道の教えが、今日の人間よりも、もっと完全な人間に、承認されるようになることは、疑いないだろう。
読者は、あるいは、こう言われるかも知れない。「なるほど、進化論は、その遺伝説によって、生きているものは、ある意味で、じっさいに死んだものに掣肘《せいちゅう》されているということを示している。しかし、そのことはまた、死者は、われわれの中にあるのであって、外にあるのではないという証拠でもある。つまり、死者は、われわれの一部分だ。われわれ生きている人間以外に、死者が存在を持っているという証拠は、なにひとつない。だから、過去への感謝は、けっきょく、われわれへの感謝である。死者に対する愛情は、自己愛だ。そうなると、君の類推論は、けっきょく不合理なものにおわってしまう」と。
しかし、それはちがう。なるほど、祖先崇拝は、原始的な形においては、ただたんに真理の象徴であるかも知れない。あるいはそれは、範囲の広くなった知識が、当然われわれにしいる新しい道義上の義務、つまり、人類の倫理的経験を犠牲にした、過去の世に対する尊敬と服従の義務を示したもの、もしくは、その前兆にすぎないかも知れない。しかしまた、それ以上のものであるとも言えよう。遺伝の事実というけれども、あれはまだ、心理的事実を半分しか語っていない。たとえば、いっぽんの草木は十、二十、……百ぽんの草木を生じ、しかもそのあいだに、けっして自分の生命を失わない。また、一匹の動物は、たくさんの子を生むが、それでも、依然としてあらゆる肉体の能力と、わずかながら持っている思考力を減らさずに、生きつづけてゆく。子どもは生まれるが、親たちは、そのまま生きながらえてゆく。精神生活は、たしかに肉体生活とおなじに、遺伝する。けれども、細胞のなかで、最も特殊性の少ない生殖細胞は、けっして親の生命を奪わない。ただ、親の生命を繰りかえすだけである。こうして、不断に繁殖して行きながら、各細胞は、一種族のあらゆる経験を伝え移して行くのであるが、その種族の経験したものは、ことごとくあとに残してゆく。ここに、説こうとして説くべからざる驚異があるのだ。肉体と精神とをもった存在の自己繁殖――親の生命から、続々と放出される生命が、ひとつひとつ、それが完全な個体となり、繁殖体となるという、驚異的な事実があるのである。このばあい、親の生命が、そっくりそのまま、子に与えられるのなら、遺伝は、唯物論に左袒《さたん》するとも言えようが、そうではなくて、自己《セルフ》は、ちょうど印度伝説の神々のように、自分で繁殖しながら、しかも、充分な繁殖力を保留して、もとの形のままでいるのである。神道では、霊魂は分裂によって繁殖すると説いているが、心霊が放射するという事実は、いかなる学説よりも、限りなく驚歎すべきものである。
大宗教は、これまで、遺伝ということだけでは、自己《セルフ》の問題は説明しつくせない、ということを認めてきている。遺伝学だけでは、種として残ってゆく自己《セルフ》の運命が、説明できないとしている。だから、大宗教は、たいていみな、内的存在は外的存在に関係ないという説に一致している。科学が、実在の性質をじゅうぶんに決定できないのとおなじように、宗教も自分で提起した問題を決定できずにいる現状である。「枯れた植物の生活力を構成していた力は、どうなるのか」と聞いてみたところで、われわれは満足な答えがえられないのである。いわんや、「死んだ人間の心霊生活を構成していた感情は、どうなるのか」などという疑問は、それよりもいっそう難問である。なにしろ、いちばん素朴な感情だって、誰も説明できるものはないのだから、これは無理もない。われわれは、ただ、生きているうちの植物や人間の体内にあった活力は、しじゅう、外界の力に自分を調節して合わせていたということと、内部の力が外部の力の圧迫に、もはや応じられなくなったのちは、内部の力が貯蔵されていた体は、それを構成していた原素に分解される、ということを知っているだけである。その原素の究極の性質については、いろいろの原素を結合させる性向の究極の性質がわからないように、ぜんぜん、われわれにはわかっていない。けれども、生命の究極の要素は、それがつくっていた形体の解体してしまったのちも、やはり生きのこってゆくと信ずる方が、消滅してしまうと信ずるよりもよいと、われわれは考えている。自然発生説(この名称は間違っている。なぜというのに、「自然」ということばは、ある限定された意味においてのみ、生命の起原説に適用されるものであるから)は、進化論者の承認しなければならない学説であって、それはまた、物質そのものもやはり進化しつつあるという、科学の証明を知っている人なら、驚くに足りない学説である。ほんとうの自然発生説(罎《びん》の中へ浸けた物のなかに有機体が発生するというようなことではなく、遊星の表面に、原始的な生命が発生するといったような説をいう)は、大きな、いや、無限の心霊的な意味を持っている。自然発生説を信ずるとすると、生命とか、思想とか、感情とか、そういうもののあらゆる潜在は、星雲から宇宙へ、体系から体系へ、恒星から遊星、ないしは衛星へ、そして、ふたたびこんどは、逆に原子の混沌たる旋風のなかへと還ってゆく、ということを信じなければならない。つまりそれは、性向というものが、太陽の熱にも生きのこり、あらゆる宇宙的進化にも崩壊にも生きのこる、ということを意味する。要素は、ただ、進化の産物にすぎない。そうなると、ひとつの宇宙と他の宇宙との相違は、性向の創造ということになる。しかも、性向とは、想像を絶した、洪大複雑な遺伝のひとつの形なのである。そこには、偶然というものがない。そこにあるものは、法則だけである。新しい進化は、それぞれ、前代の進化の影響をうけている。ちょうどそれは、人間各個の生命が、先祖代々の生命の経験の影響をうけているのとおなじことで、その先祖時代の物質の古いかたちの性向でさえ、未来の新しい形の物質によって、受けついで行かれるのではなかろうか。そして、げんに今日生きている、われわれ人間の行為と思想とは、未来の世界の性格を形づくる資となりつつあるのではなかろうか? そうなると、錬金術師の夢も、もはや、痴人の夢だったと言い去ることができなくなってくる。それとおなじように、われわれは、もはや古代西洋の思想にあるように、すべての物的現象は、霊魂の性向によって決定されるのではないなどと、言えた義理ではなくなってくる。
死者が、われわれの内部、また外部に、住みつづける、つづけないはともかくとして、――これは、今日のような、まだまだ未開半解の状態では決定できない問題である。――宇宙の事実的証拠が、神道のある怪奇な信仰と一致している、ということは確かだ。つまり、万物は、すべて亡びたるものによって、――人間の幽霊か、あるいは三千世界の幽霊か、どちらかに決定されるという信仰がそれだ。われわれ自身の生命にしてからが、げんに、目に見えない過去の世の生命に支配されているように、われわれの地球の生命も、また地球の属する太陽系の生命も、無数の天体の霊に支配されているのである。亡びた幾つもの宇宙――亡びた幾つもの太陽も、遊星も、衛星も、形としては、すでに時久しく闇のなかに溶け去ってしまったけれども、力としては不滅不朽で、永遠に活動しているのである。
じっさい、神道の信者のように、われわれは、われわれの系図を太陽までたどりさかのぼることができる。しかし、われわれの起原は、その太陽にもないことを、われわれは知る。その起原は、時間において、百万の太陽の生命よりも、さらにさらに、無限に遠いのである。――起原があったということが、ほんとうに言うことができるとして。
進化論は、われわれが、物質も、人間の精神も、ただ刻々に変りつつある表象にすぎないと唱える未知の「究極」の点では、ともにひとつのものだ、ということを教えている。進化論は、また、われわれのひとりひとりが多数のものであること、しかし、そのような個にして多であるわれわれは、他の個、および宇宙と同一のものである、ということを教えている。そして、われわれはあらゆる過去の世の人間性を、われわれ自身のうちに蔵していることを知ると同時に、すべての同胞の生命の貴さ、美しさのなかにも、それが流れていることを知り、したがって、われわれは他人において、自身を最もよく愛しうること、また、他人において自身を最もよく役立てうること、物の形骸などというものは、ほんの霞《かすみ》かまぼろしにすぎないこと、死者も生者も、ともどもに、すべての人間の感情は、ほんとうは形のない、「無窮」に属しているのだということを、進化論はわれわれに教えているのである。
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きみ子
忘らるる身ならんと思ふ心こそ
忘れぬよりもおもひなりけれ
きみ子
この名まえは、芸者屋町の、ある一軒の家の門口のちょうちんに書いてある名まえである。
夜見ると、この町は、世界のうちでも、もっとも奇妙な町のひとつである。そこは、ちょうど、船の甲板の通路みたいに狭い。家の見つきは、黒光りのした木造で、――どこもみな、戸が――戸といっても、引きちがえの、磨りガラスのような紙をはった障子だが――ぴったりとしまっているところは、どうみても、船の一等船室をおもわせる。それらの建物は、じっさいはみな、二階・三階建てなのだが、しかし、ちょっと見たところでは、とくに月のある夜ででもないかぎりは、とてもそんな高い建物とは見えない。なぜかというと、つまりそれは、いちばん下の一階のへやだけに照明がついていて、そこは、ひさしのきわまで、あかあかとしているのに、そこから上は、なにもかも、まっ暗になっているからである。照明というのは、縦長な、紙ばりの障子のかげにある灯火と、おもてに吊してあるちょうちんのあかりで、ちょうちんの方は、門ごとに、ひとはりずつ吊して出してある。町を見わたすのは、町の両がわについている、これらの二列のちょうちんの火のあいだから眺めるのであって、ずっと遠くの方は、二列の灯がひとつになって、いっぽんの動かない、黄いろい光りの棒のようになっている。ちょうちんは、卵なりのもあるし、筒形をしたのもあるし、なかには、四角なのも、六角形をしたのもあって、そのどれにも美しい日本の文字が書かれている。町はごく静かだ。そのしずけさは、どこか大きな展示会場の、家具の陳列場でも閉鎖したあとのように、物音ひとつ聞こえず、しんかんとしている。どうしてかというと、これは家人の大部分が、よそへ――ほうぼうの宴会だの、酒席だのへ出て行っていて、留守だからである。かれらの生活は、夜の生活なのである。
この通りを南に向かって、左側の一ばんとっつきの家のちょうちんに書いてある文字は、「金の家うち、おかた」というのである。「金の家」という家に、「おかた」という妓が住んでいるという意味である。それから、それと向かい合いの、右側の家のちょうちんは、そこの家が「西村」という家で、そこに「みよつる」という妓がいるということを語っている。――「みよつる」という名まえは、「はなやかに暮らしている鶴」という意味だ。それから、左側の二軒目は「梶田家」という家で、そこには、花のつぼみという意味の「小花」という妓と、顔がお雛さまのようにきれいだという意味の「雛子」という妓がいる。「梶田家」のむかいの家は、「長江家」といって、そこには君香と君子という妓がいる。……そうして、この二列の名前入りの明るい灯は、半マイルも長ながとつづいているのである。
いま言った、「長江家」という家のちょうちんの文字は、君香・君子のふたりが、君香は姉分、君子は妹分だという意味をつたえているほかに、まだそれ以上に書いてある文字がある。それはなにかというと、君子に、「二代目」という肩書がついている。この「二代目」ということばは、ちょっと翻訳しにくい敬称であるが、つまり、いまの君子は、君子第二号だという意味である。君香は、君子の師匠で、かつ、主人である。この君香は、かつて、ふたりの芸妓を養成した。それがふたりとも、君子という名まえだった。というよりも、むしろ、主人の君香が、おなじ名まえをふたりにつけたのである。この、おなじ名まえを二ど用いるということは、第一の君子――つまり、一代目――が有名だったという証拠である。幸運にめぐまれなかった、もしくは、成功しなかった芸者の芸名は、けっして、後継者にはつけられないことになっている。
諸君が、もししかるべき相当の理由があって、この家へはいってみたいとすると、例の灯影の映っている、あんどんの障子のような入口の障子をするするとあけると、とたんに、障子にとりつけてある、客のきたことを知らせる鈴が、がらんがらんと鳴る。それで、もしこの家の小人数な一座の芸者たちが、その晩、お座敷の約束がついていないばあいには、諸君は君子に会うことができる。そして会えば、君子という妓がなかなか利口な、話のいける女だということを、諸君は発見するだろう。気が向いたときだと、ずいぶんおもしろい話を――ほんとうの血もあり肉もある話、人情の機微にふれた話を、この女はいろいろと聞かしてくれる。というのは、いったい、芸者屋町というところは、いろいろ聞きつたえ、言いつたえた伝説のたくさんあるところで、そのなかには、悲劇もあれば、喜劇もあるし、茶番もある。そして、どこの家でも、それを聞きつたえて、忘れずに憶えているのだが、君子はそれをことごとく知っているのである。ある話は、非常に恐ろしいはなし、ある話は、人のおとがいを解くようなはなし、また、ある話は人を考えさせるような話。――いろいろとあるが、そのうち、初代君子の話は、その、人を考えさせる話の方に属する。べつに、大して変った話でもないけれども、ともあれ、西洋人にも容易にわかる話のひとつである。
初代君子は、すでにもう、ここにはいない。かの女は、すでに記憶の人である。君香が、初代君子を妹分にしたころは、君香もまだごく若かった。
「ほんまに、あの妓は、かんしんな妓《こ》どした」とは、君香が初代君子を評したことばだ。芸者が芸者稼業で評判をとるためには、まずきりょうがいいか、ごく利口か、そのどちらかでないといけない。世に名妓とうたわれるものは、たいてい、その両者を兼ねそなえている。なにしろ、ごく年のいかない時分から、これなら才色兼備だという見込みをつけられて、それぞれ、仕込んでくれる人によって選抜されるのだから、これは無理もない話だ。それよりもっと品《しな》下がった、法界屋の唄子《うたこ》でさえ、年ごろになれば、いくらかは愛嬌が――「鬼も十八、蛇《じゃ》も二十」――こんな日本のことわざを生ませた、|悪魔の美《ボーテ・デュ・ディアブル》ぐらいは出てくるものである。ところが、君子のは、およそきりょうがいいなどという段ではなかった。日本美の理想にかなった美人で、まず千万人にひとりといいたいが、それさえどうかというほどの、典型的な美人であった。そのうえ、目から鼻へぬけようという、利口すぎるくらいの女で、しかも、芸事はなんでもござれ、優雅な和歌もつくれば、生け花・茶の湯は奥許し、刺繍もやれば、押し絵もできる。ひと口にいえば、高家の淑女であった。はじめてかの女が突き出しにでたときには、京都の花柳界は、大いに色めき沸きたったものである。この妓なら、どこから見ても、自分の思うがままの旦那を手に入れることもできるし、玉の輿《こし》が目のまえにぶら下がっていることも明らかだった。
ところが、出てみると、かの女は、自分の稼業のために、すでに一から十まで、洩れなく仕込まれつくしていることが明らかになった。かの女は、ほとんどどんなことにぶつかっても、自分の身のふり方を、どうつけたらいいかということを、ちゃんと教えこまれていた。というのは、かの女が自分でまだよくわからないことは、主人の君香が、なんでも心得ていたからである。美人の強味、人情の弱さ、約束の手管《てくだ》、風に柳とうけ流す術、男ごころの阿呆らしさと腹黒さ、等々々。おかげで、君子は、大したあやまちもせず、泣きの目もみずにすんだ。そうこうするうちに、君子は、だんだん君香の望むとおりの妓《おんな》になって行った。――すこしばかり、手どりな女になってきたのである。ちょうどそれは、灯火《あかり》が灯とり虫におけるとおなじようなもので、灯火というやつは、女でいって見れば手どり女、さもないと、灯とり虫が飛びこんで、かんじんの灯を消してしまうことになる。灯火の義務は、目に物をたのしく見せることにあるのであって、なにもそこに、一片の悪意があるわけではないのである。君子にも悪意はなかったし、だいいち、そこまで手どりでもなかった。苦労性なかの女のふた親は、かの女が、べつに堅気な家へおちつくという気もなければ、そうかといって、命をかけた色恋に、うき身をやつす気もないことを見てとった。それどころか、かの女は、起証に自分の名を血で書いたり、かわらぬ愛情のしるしに、左の小指を切れなどと、妓《おんな》に迫ったりするような若い遊治郎には、とくにすげなくした。そういう男どもには、痴《たわ》れごころを治してやるために、思うさま、からかってやった。家も屋敷もあてがってやる、そのかわりに、からだとこころは、おれのものにする、――そういう条件を切りだしてくる金持ち連中は、それよりももっとすげない扱いをうけた。また、なかには、姐さんの君香を金持ちにしてやるから、そのかわりに、君子を無条件で身請けしようと、大束に出る客もあったりした。君子は、その客のこころざしは、心からありがたいとして受けた。しかし、妓籍は退《ひ》かなかった。おなじ肱鉄砲をくわすにしても、かの女は、けっして相手の憎しみを買わないように、じょうずにあしらった。そして、たいがいそのつど、相手の絶望をなんとか治してやる術をこころえていたのである。もちろん、例外のばあいもあった。あるひとりの老人が、どうしても君子を自分のものにしなければ、とても生きてゆくかいがないとまで思いつめて、ある晩、君子を宴席によんで、むりじいに、いっしょに酒を飲ませた。ところが、ひごろ人の顔色を読むに慣れている姐さんの君香が、そのとき君子の盃へ、酒とまったく同じ色をした茶を、うまく入れかえてやったので、おかげで君子の貴重ないのちは、君香の直観的な勘で助かることができた。このばかな客の魂は、そのあと十分とたたぬうちに、ひとり寂しく冥途に旅立って行ったのである。もちろん、老人は大失望だったにちがいない。……その晩からのちというものは、姐さんの君香は、ちょうどのら猫が子猫の見張りを怠らないように、しじゅう、君子の身辺の監視を怠らなかったのである。
この小猫は、熱狂的な流行妓《はやりっこ》になった。――当時の名物のひとつになり、大評判の種となった。外国のある皇太子で、かの女の名まえをおぼえているものさえあった。その皇太子は、君子にダイアモンドを贈ったが、君子は、それを身につけもしなかった。そのほか、かの女のきげんがとれるほどの贅沢ざんまいのできる身分のものから、かの女は、おびただしい贈りものを受けた。一日でもいいから、かの女の恩典にあずかりたいというのが、当時の若い金持ち紳士の野心だったのである。それほどであるにもかかわらず、かの女は、どんな相手にも、あいつはおれに気がある、というような思いは、けぶりにもさせなかったし、また、末かけて契るようなこともさせなかった。そういうことを言い出す男には、かの女はいつも、わたしはこれでも、自分の身分というものはわきまえていますから、といって答えてやるのを常とした。そんなわけで、堅気の女たちでさえ、君子のことを、悪《あ》しざまに言うものはなかった。どこの家庭の不和ばなしのなかにも、君子の名は絶対に出たことがなかったのである。君子は、ほんとに、自分の身の分というものを立て通したわけだ。歳月はいよいよ君子を美しいものにした。ほかの芸者で、評判になったものもあったけれども、君子と肩を並べられるものは、ひとりもなかった。ある工場主のごときは、君子の写真をレッテルにつかう独占権を獲得し、それによってひと釜おこしたほどであった。
ところが、ある日のこと、さすがの君子もとうとう兜《かぶと》をぬいで、客になびいたという、驚くべき報道がぱっとひろまった。かの女は、じっさいに、姐さんの君香に別れを告げ、ある男と手に手をとって去って行ったのである。その男というのは、かの女が欲しいと思うほどの美服は、なんでも与えてやるだけの腕をもち、そのうえ、かの女を日かげの女にはしたくない、そして、かの女の芳ばしからぬ前身については、けっして世間の人たちにうしろ指をささせない、しかも、かの女のためには、十度死んでもさらに思い残すところはないと思っているほどの、君子恋しさのために、半分は死んでいるという人であった。君香のいうところによると、この痴《たわ》れ男は、君子ゆえに、自殺をはかったことがあり、君子はそれをふびんにおもって介抱し、もとの愚人に生け返してやったのだという。太閤秀吉は、天下に恐ろしいものがふたつある。――それは、ばかと闇夜だ、と言った。君香は、つねにばかものを恐れていたのであるが、姐さんの恐れていたそのばかものが、とうとう君子を拉《らつ》し去ってしまったのであった。そして、君香は、わが身くやしさとばかりもいえない涙をこぼしながら、君子はもう帰ってはきますまい、と言っていた。つまり、いまはふたりとも、たがいに七たび生まれかわってもという、深い相思の仲だったのである。
ところが、君香の言ったそのことばも、半分は当らなかった。この姐さんも、頭のいいことは図抜けていたけれども、君子のこころのなかにある、ある秘密な抽斗《ひきだし》だけは、見抜くことができなかったのである。もし、それを見抜くことができたら、君香は、あっと驚きの声をあげたにちがいない。
君子が、ほかの芸者とちがうところは、血統が高いことであった。芸名をつけられるまえの本名は、「あい」といった。「あい」というのは、漢字で書けば「愛」という意味である。また、おなじ音の漢字で書けば、「哀」という意味にもなる。「あい」の一生は、じつに、この、「哀」と「愛」の一生だったのである。
君子はちいさい時から、折り目正しく、きちょうめんに育てられた方であった。まだ年端《としは》もいかない子どもの時分から、かの女は、ある年とった侍の私塾へかよわせられた。その私塾では、女の子たちは、みな、高さ一尺あまりの小机のまえに、思い思いの座ぶとんをしいて坐らされる。その時分は、そういう私塾の師匠たちは、みな無給で、人に物を教えたものである。今日では、学校の教師というと、一般官吏よりもけっこういい給料をもらっているけれども、そのかわりに物の教えぶりは、かえってむかしのように克明でもなく、楽しいものでもなくなってしまった。君子が、その私塾へかよった時分には、往きかえりには、いつもかならずお供の女中がついて、本だの、硯箱だの、座ぶとんだの、小机だのを持って、ちゃんと送り迎えをされたものであった。
その後、かの女は、公立の小学校へかよった。ちょうどそれは、この国ではじめて近代的な教科書が発行された時分のことで、その教科書には、名誉だの、義務だの、義烈だの、そういうことを書いた、英・仏・独の物語がいっぱい載っていた。選択も、すこぶる当をえた選びかたで、なかには、とてもこの世界にはないような服装をした西洋人の、ごく罪のない挿し絵などが、たくさん入れてあった。このなつかしい、いじらしいような教科書も、こんにちではすでにもう手に入りがたい稀覯《きこう》書になってしまい、近頃は、だいぶ久しい前から、それよりもずっとおもしろ味の少ない、神経も行きとどいていない、こけおどかしな編集をしたものが、それに代っている。あい子は物覚えがよかった。その時分は、一年に一どの大試験の時というと、かならず知事とか、文部省のおえら方とか、そういう大官が学校へ見えて、まるで生徒たちが自分の子どもででもあるような口調で、一場の訓話をみんなに話して聞かせ、そして、優等の賞品を手ずから授与する時には、褒美をもらう生徒の頭を、一人々々撫でてくれたものであった。そういう大官も、すでに政治家として隠退してしまった今日では、もちろん、あい子のことなどは忘れてしまっているにちがいない。――近頃の小学校では、生徒の頭を撫でて、賞品をくれるような、そんな奇特《きとく》な人間はひとりもありはしない。
そこへ御維新がやってきた。位階の高かったものは、ことごとく位階を剥がれて、窮乏のどん底におちいるのやむなきにいたった。あい子も、学校をやめなければならなくなった。相次いで、さまざまの大悲劇があとからあとからと持ち上がって、とうとうしまいに、あい子は、生みの母と幼い妹と、三人きりになってしまった。母とあい子は、機《はた》織り以外に、べつに手になんの職ももっていない。しかし、機織りぐらいでは、とても生活の足しになろうはずもない。そこで、まず手はじめに、家屋敷から――そのつぎには、さしずめ、日々の暮らしに不必要なもの、――家重代の宝ものとか、装飾品とか、高価な式服とか、定紋入りの金蒔絵とか、そういうものがつぎからつぎへと、ひと品ずつ、価といったらほんの二束三文で、人のふしあわせで腹を肥やす――いわゆる「涙の金」で成り上がった、俄《にわ》か成金の手にわたっていった。同族の士分の家族は、いずこもおなじ秋の夕ぐれで、みなひどい苦境に沈湎《ちんめん》していたから、生きている人間からの助力といっては、ほとんどなにも得ることができなかったのである。あい子の教科書さえも売りつくしてしまって、もう売る物といっては、なにひと品もなくなったとき、助けは死人に求められたのであった。
というのは、死んだあい子の父が葬られた時、さる大名から拝領した太刀を、棺のなかに納めた。その太刀が、黄金づくりだったことを思い出したので、背に腹はかえられず、墓をあばいて、名工の作になるりっぱな柄《つか》を、安物の品ととりかえ、蝋《ろう》塗りの鞘《さや》のかざりも取りはずした。ただ、刀の中身だけは、名刀だったので、これは、武士たるものが死んでも肌身はなさぬ品とおもって、そのままにしておいた。士分の家の古式にのっとり、亡くなった父を土中に埋葬したとき、あい子は、当時、高禄の武士の棺として用いられた、土焼《どやき》の大きな赤甕のなかに、端然と正坐していた父の顔を見たが、いま墓を掘りおこしてみても、父の顔は、墓のなかに幾年月をへたのちも、いまもってその時のままに、ありありとしていた。そして、あい子が刀の中身をもとどおりに返してやると、それを見た父は、悽愴《せいそう》な顔をして、はじめてよしよしと安心して、うなずいたようであった。
そんなこんなのうちに、あい子の母は、とうとう病いを引きだして、もう機を織ることもできないようになった。死んだ父の墓から掘り出した黄金は、もうとうのむかしに使い果たしてしまっていた。あい子は、その時言った。――「お母はん、もうほかにどうしょむもないさかえ、わてを芸子に売っとおくれやす」母は、ただ泣くばかりで、それには返事をしなかった。あい子は、涙ひとすじこぼさなかった。そして、まもなく、ひとりで家を出て行った。
あい子は、その時、ふと思い出したことがあったのである。むかし、父が自家で人をよんで饗応をするとき、酒席をとりもつ芸者のなかに、自前《じまえ》の芸者で、君香というのがあった。あい子は、そのことを思い出して、家を出たその足で、すぐに君香の家へ行って、こう言った。「姐はん、わてを芸子に買うておくれやす。じつはな、お金がぎょうさん入ることがあるのどす」言われた君香は、あははは、と笑って、あい子をいたわりなだめ、食べるものなどをすすめながら、ひととおりあい子の話を聞いてみた。あい子は、涙ひとつこぼさずに、思いきってあからさまに、いちぶしじゅうの話をした。すると、君香は言った。「あんたはんな、わてかて、そんなにぎょうさんお金はあげられしめへんぜ。雀の涙ほどより持ってへんのどすさかえな。ただなあ、あんたはんのお母《か》やんに、日送りしたげるちゅうぐらいの約束やったら、わてにもでけると思います。……その方が、いっぺんにぎょうさんお金|貰《もら》うより、なんぼうええかしれへんやで。――聞けば、あんたはんのお母やんたらいう人は、もとは御大家の奥さまやったというさかえ、お金|使《つこ》うこともへたやろしな。……ほしたら、こうしいな、あんたはんが二十四になるまで、わての家に住みこんで、お金の返済がでけたときには、そりゃもう、いついつに帰っても文句ない、――こういう約定でな、いっぽん証文書いて、それへお母やんの実印もろておいでいな。ほしたら、わてが安条《あんじょう》にお金をはしけておいたげるさかえ。……それはな、お礼もなにもいらへんの。わてがほんの志であげるのやで、それをあんたはん、お母やんのところへ持って行てやりいな」
こうして、あい子は、芸者になったのである。君香は、あい子に「君子」を襲名させ、ひとりの母と妹とを養ってゆくという約束を守った。母は、あい子がまだ有名にならないうちに、亡くなった。幼い妹は学校へ上げられた。前に述べたことは、すべてこれからのちのことであった。
芸者風情の女に、焦れ死にをしようとまで思い詰めた例の青年は、じつは、そんなことをするには、惜しい身分の男だったのである。かれは、ひとり息子で、その両親は、富も爵位もある人で、息子のためなら、どんな犠牲を払うことも惜しまない、――芸者を嫁に入れても、けっして苦しくないと思っている人たちだった。そのうえ、両親は、せがれに同情をよせてくれた女だというので、君子のことを、あたまから疎外してもいなかったのである。
君子は、その青年のところへ行くまえに、妹のウメの婚礼の式に列席した。ウメは、ちょうど学校を卒業したばかりであった。ウメは、気だてのやさしい、きりょうのいい娘だった。ウメの婿は、君子が自分で探して、取り持ったのである。君子は、妹のつれあいを選ぶのに、男に関する自分の日ごろの知識を利用した。かの女は、醜男《ぶおとこ》で、実直で、ごく旧弊な商人を――自分でどんなに悪人になろうとしてもなれないような、そういう堅い男を、妹の婿に選んでやったのである。ウメは、姉の選定の頭のよさを疑わなかった。果たして、時がしあわせな良縁だったことを証明してくれた。
君子が、自分のためにかねて用意されてあった家へつれて行かれたのは、四月の交であった。その家というのは、すべて浮き世の厭わしさを忘れさせるようにできた家――高い塀をめぐらしたなかに、こんもりと茂った、静かな、影の深い植込みのある庭があって、そこへはいると、まるで仙女の宮殿へ迷いこんだような安楽な心持を起させる、そういった家だった。おそらく、その家へ行った君子は、日頃のかの女の善行のおかげで、自分は蓬莱の国へ生まれ変ったのだと思ったにちがいない。けれども、春が過ぎ、夏がきても、君子は、依然としてもとの君子であった。かの女は、口には言われぬわけがあって、婚礼の日どりを、なんとかかんとか言いこしらえては、三ども延ばしていたのである。
やがて、八月にはいると、君子は、今まで体《てい》よくその場をあやなし、あやなししてきたのを思い止まって、言いだしかねていたそのわけというのを、男に打ち明けた。そのことばは、しごくおだやかであったが、そこには、きっぱりとした、動かぬ決意がこもっていた。――「私《わて》なあ、いままで長いこと言い出しかねていましたのやけど、もうどないしても、言い出さんならん時がきましたのや。私《わて》という女子《おなご》は、生みの親の母はんと、血をわけた妹のために、いままで苦界へ身を沈めてきた女子《おなご》どすのえ。ほんなことは、もう今では、遠い昔のことになってしもたことどすけど、でもなあ、自分の胸にうけた火傷のきずは、いまに治っておりまへんのどす。そのきずを払《はろ》うてくれる神通力も、この世にはあれへんのどす。その私《わて》のような女子が、こんなりっぱなお家の御寮《ごりょ》んはんになって、あんたはんの子供《やや》を産んだり、その子供《やや》がお家のあとめを襲《つ》いだり、……ほんな資格、どないに考えても、私《わて》にはあれしまへん。……まあ、もうちいと言わしておくれやすえ。……私《わて》なあ、いけずなことにかけては、あんたはんなどより、ずっとずっと、うわ手どすのえ。私《わて》のような女子が、あんたはんの奥さんになって、あんたはんのお顔へ泥なぞ、私《わて》塗りたくありまへんのどす。私はただなあ、あんたはんのお相手、あそび友だち、ほんの一時のお客はん。――そうかて、なにも頂戴ものしたからちゅうて、ちやほやする、そんなんとは違いまっせ。そやけどなあ、こうしてあんたはんのお側に、いっしょにこうしておられん時がきたら――いいえ、かならずそういう時が今にきますのえ。その時になって、あんたはんは、はじめてお目がさめるのどすえ。そりゃなあ、ほうなっても、まさかに私《わて》のことを赤の他人のようには諦めきれへんどっしゃろけど、ほれでもな、今とはおおけに心もちが違うてまいりまっしゃろ。今のは、これは迷いどすえ。私なあ、これ、本心から言うとりますのやさかえ、よう憶えといておくれやすえ。そのうち、あんたはんは、どこぞ御良家から美しい御寮んはんをおもらいやして、その方があんたはんの子供《やや》はんのお母やんにならはりますのどすえ。私なあ、あんたはんにそんな子供《やや》はんがでけやはったら、ぜひ拝見に寄せてもらいまっせ。私はなあ、どないしてもそんな身分にはなれん女子《おなご》やし、それになあ、かりにも自分が子供《やや》を産んで、人の親になるちゅうような、そんな喜びは、私は知ってはならん女子どすのえ。いまの私《わて》は、ただあんたはんの迷いもの、――ほれこそ夢かまぼろしのように、あんたはんの一生に、ひょっと鳥かげみたように射《さ》した、いわば影みたいなもんどす。そりゃこの先、私も今よりはちいとはましな女子になるやら知れしまへんけど、あんたはんの奥さんだけには、死んでもならしまへん。ようおすか。このうえ二どと同じねだりごとお言やったら、私、そのときはお暇をいただきまっせ」
十月の月になって、君子は、これという想像すべき理由もないのに、きゅうにどこへともなく姿を消してしまった。――跡方もなく、まったく、どこにもいなくなってしまったのである。
君子が、いつ、どこへ、どうして行ってしまったか、それを知っているものは、ひとりもなかった。かの女が抜けでた家の近所でも、だれひとり、君子のかげを見たものはなかった。はじめのうちは、なに、じきに帰ってくるだろうぐらいに思われていた。高価な美しい所持品――衣類、装身具、くさぐさの貰いもの、それだけでも、ひと財産あるほどのものを、君子は、なにひと品、持ち出してはいなかった。なんのたよりも、しるしもないままに、幾週間かが、むなしく過ぎた。そのうちに、なにか凶事が、かの女の身の上に起ったのではないかと、心配になってきた。心あたりの川を浚《さら》ったり、井戸を探ってみたりした。手がかりのあるところへは電報や手紙で問い合わせもした。信頼のできる召使たちに、手分けをして行方をさがさせもした。居どころを知っている人には礼金を出すという、懸賞も出してみた。ことに、君香には、これは君子のことを真に愛していたから、礼金など出さなくても喜んで捜したろうが、これにもわざわざ謝礼を出して、報告を依頼した。そんなにもしても、不明はいぜんとして不明であった。もっとも、警察当局へ依頼しても、これは無駄だったろう。失跡した当人は、べつに悪事をはたらいたわけでもないし、法律の禁を犯したわけでもないのだから。ぼう大な国家の警察機関は、たんに一青年の恋愛事件ぐらいのことで、活動を開始すべきものではない。月は積って、幾年かになった。けれども、姐さんの君香も、京都にいる妹も、さてはかつての美妓君子の崇拝者数千人の中にも、その後、だれひとりとして、かの女をまたと見たものはなかったのである。
しかし、君子が予言したことは、その後まもなく、事実となってあらわれた。――時というものは、どんな涙をも乾かすものだし、どんな思慕をも鎮めてしまうものだ。いくら日本の国だって、同じ失望のために、二どまで死のうとするものはありはしない。君子の情人も、とうとう目がさめた。そして、やがてのことに美しい新妻が選ばれて、その人にひとりの男の子まで生れた。そうして、また幾年かがたった。君子がかつて住んだあの仙女の宮殿には、いまは幸福がたなびいていた。
ある朝のこと、この家へひとりの旅の尼が、施しものでももらうようなふうをして、やってきた。この家の男の子は、旅の尼の読経の声を聞きつけて、門口へ駆けでて行った。まもなく、施物の白米を持って、女中があとから出て行ってみると、物もらいの尼が坊ちゃんの頭をしきりと撫でながら、なにか小声で言い聞かせているのを見て、けげんに思った。そのとき、坊ちゃんが「僕がそれをやるんだ!」と下女に言った。すると尼は、大きな編笠の下から、「お願いでございます。どうぞこの坊ちゃまのお手から、おつかわし下さいまし」と乞うた。そこで、男の子は、尼のさしだす托鉢《たくはつ》のなかへ、米を入れてやった。尼は、いくども男の子に礼をいったのち、さて尋ねた。「坊ちゃま、あんた、もう一ど、いまわてがお父さまに申し上げて下されとお願いしたことを、そこでおっしゃって下さりまへんか」そう言われて、子どもは、まわらぬ舌で言った。――「お父さまに、この世で二どとお目にかかれぬ者が、お父さまのお子さまを拝見して、こんにうれしいことない言うてやはる」
尼はにっこりと笑って、もう一ど子どもの頭を撫でると、そのまま、風のように行ってしまった。女中が、前よりもいっそうけげんな顔をして、きょろきょろしているうちに、子どもは、さっさと奥へ駆けこんで行って、尼の言ったことばを、父親につたえた。
ところが、父親は、そのことばを聞くと、きゅうに目をうるませて、子どもをかきいだいて、思わず男泣きに泣いた。なぜかというのに、父親だけが、門前にきたものの誰であるかを知っていたからである。それと同時に、いままで秘し隠しに隠されていたすべての事情の献身的な意味をも、父親はそのとき卒然と悟ったのであった。
かれは、いろいろのことを考えた。しかし、その時考えたことは、だれにも語らなかった。
自分と、自分をむかし愛してくれた女との距離、それはもう、恒星と恒星とのあいだの距離ほどにも隔り去っていることを、かれは知っていたのである。
かれは、ここからどんな遠くへだたった都会の、名も知れない狭い町の、迷宮のように入りくんだ片隅の、貧乏人のなかの貧乏人だけが知っている、見る影もない、どんな小さな堂のなかで、かの女が無窮の光明のさしてくる黎明のまえの無明をじっと待ちこらえているか、それを尋ねてみたところで、しょせんは徒労なことを知っていたのである。そして、その無窮の光明が、かの女の上にさしめぐんでくる時こそは、大恩教主の慈顔が莞爾《かんじ》として、かの女にほおえみかける時であり、そして、そのときこそは、仏陀の玉音は、人間の恋人の唇から発する声よりも、もっと深い、もっと慈愛にみちた声で、こう言うであろうことも、かれは知っていたのである。――「おお、わが法《のり》の娘よ、おまえは、おまえの円満具足の道を行ないすましてきた。おまえは最高の真理を信じ、かつ会得してきた。――それゆえ、自分はここまで、おまえを迎えにきたのであるぞよ!」
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付録 三つの俗謡
一八九四年十月十七日、日本アジア協会で朗読されたもの。
一八九一年の春、わたくしは出雲松江在の、俚俗《りぞく》「山の者」といわれている特殊部落を訪れた。このときの採訪の始末は、のちにその一部を手紙の形式で「ジャパン・メイル」に送り、同年六月十三日の紙上に発表されたが、最近新聞紙上を賑わしている問題の手引として、ここにその手紙のある部分を抜いて引用してみるのも、あながち無益なことではないと愚考する。
「部落は、松江の南のはずれにある小さな谷あい、というより市のうしろを半月|形《なり》に囲んでいる小高い丘陵のなかの窪地にある。上流階級の日本人で、この村を訪れたものは今までにひとりもないし、平民のうちで最も貧乏なものですら、まるで疫病の中心地を忌み嫌うように、この村を嫌っている。なぜかというと、それはここの住民の名に、いまだに道徳的にも肉体的にも穢《けが》らわしいという観念がこびりついているからなのだ。そのために、市の中心部から歩いてわずか三十分ほどでいかれる場所なのに、松江の市民約三万六千人のうち、ここを訪れたものは、おそらくまだ五、六人しかないだろう。
松江とその周辺には、四つの異った特殊階級の人達がいる。「ハッチャ」、「小屋の者」、「山の者」、菅田の「穢多《えた》」がそれだ。
「ハッチャ」の部落は二カ所にある。これはむかし死刑執行人をしていた連中で、その筋の配下となって、いろいろの役柄を勤めていた。昔の法規によると、かれらは非人のなかでもいちばん低い階級のものであったが、役宅勤めをして身分の高い人達と接触したおかげで、知能はじゅうぶんに磨かれ、世間の評判によると、ほかの部落民よりもはるかに教養が高いといわれている。こんにちでは、もっぱら竹籠や竹行李の製造を業としている。平親王平将門の一族郎党の末裔のようにいわれているが、平将門というのは、兵力をもって天皇の位を纂奪《さんだつ》せんがために、史上未曾有の大叛逆を企て、有名な平貞盛に討たれた人物である。
「小屋の者」は屠殺を生業とし、その皮を売って商売にしている連中である。松江では、この部落に属する者は、下駄履物商の店以外には、どこの家にも出入りを許されていない。元来は無宿人で、松江のある大名が堀川の土手に「小屋」をたててやったので、それ以来松江に定住したのである。名前のおこりも、それから出ている。「穢多」については、その身分・職業など周知のことだから、ここに説明する必要はあるまい。
「山の者」は松江の南はずれの山に住んでいるから、そう呼ばれている。この連中は、ぼろ・紙くず業の独占権をもっていて、古罎からこわれた機械類に至るまで、廃品はなんでも買い受ける。かれらのなかには、ふところの裕福なものもいる。じっさい、ほかの特殊階級のものに比べると、この連中は総体に裕福だ。そのくせ、一般庶民のかれらに対する偏見は、こんにちでも、かれらに関する特定の法規がまだ廃棄されない以前とほとんど変りなく、ずいぶん強烈なものがある。この連中を一般の家で奉公人に雇うなんてことは、それこそ思いもつかない事情でもそこにないかぎり、とてもありえないことだ。むかしはこういう部落のなかの器量よしの娘が、よく女郎になったものだが、それとて自分たちの住んでいる市町村はもとより、隣りの市町村の女郎屋にも、住みこむことはできなかったから、いきおい、遠く離れた他国の遊廓へ売られて行ったものだ。こんにちでも、「山の者」は、俥ひきにさえなれないのである。自分の素性をかくしおおせる見込みのある、どこか遠い国の町ならいざ知らず、ふつうだったら、一般労務者としてはどんな職にも雇ってはもらえない。もしそれが露顕《ばれ》でもすれば、仲間の労務者に殺されるという物騒千万なことになる。まあ、どんな事情のもとでも、頬かぶりして「平民」で通そうなんてことは、「山の者」にとっては出来っこないことだ。何百年という間の孤立と僻《ひが》みが、かれらの社会のしきたりをすぐにそれと見分けがつくまでに固定させ、ある一つの鋳型にはめさせてしまい、使う言葉までが特殊の変った方言になってしまっているからだ。
わたくしはかねがね、こうした変則な境遇にある、特殊化された階級のことを、なにかしら見たいと願っていたのであるが、たまたま運よく、このほどひとりの日本紳士にめぐりあった。この人は、松江の上流階級の出の人であったが、しんせつな人で、自分でもまだいちども行ったことのないその部落へ、わたくしを案内してくれることをこころよく承諾してくれたのである。その部落へ行く途中で、いろいろ「山の者」に関する耳めずらしいことを、かれはわたくしに話して聞かせてくれた。武家時代には、ここの連中は「侍」から懇《ねんご》ろな扱いをうけた。かれらは、おりおり「侍」屋敷の庭先へ出入りすることを許され、あるいは招かれて唄をうたったり、踊りを踊ったりして、その演技に対して報酬をもらった。こうした貴族的な家庭の人たちをも楽しませたかれらの唄や踊りは、ほかの連中には知られていなかったもので、「大黒舞」と呼ばれていた。「大黒舞」を演ずるのは、じつは「山の者」が先祖から伝えられた特殊な芸能であって、それはかれらの美的・情緒的なものに対する高い理解をあらわすものだったのである。むかしは、かれらはりっぱな芝居小屋などへ立ち入ることは思いも及ばなかったから、自分たちだけの芝居小屋を自分たちだけでつくった。これは「ハッチャ」も同じだったそうである。この歌と踊りの起りがわかったらおもしろいのだが、と友人はいっていた。というのは、「大黒舞」の歌は、かれらに特有の方言で歌うのではなくて、純粋の日本語で歌うのだそうだから。そういう口伝《くでん》文学が、べつに改悪もされずに、もとの形のままでよく保存されえたとすると、「山の者」が読み書きを授けられなかったという事実を考え併せて、これは注目に価することにちがいない。かれらは、明治という時代が国民にあたえた、教育の均等という機運にもあずかれなかったのである。世上の偏見はまことに根深く、子弟を公共の学校へ入れてしあわせにするなどということは、およそ程遠いことだったのである。小規模の特殊学校はやろうと思えばできたろうが、しかしそれには、まず率先してかれらの教育にあたる教員を獲得することが、大きな難事だったろう(*)。
* この手紙が「ジャパン・メイル」に掲載されてから、寛容にして偏見をもたぬ松江市民の恩恵によって、「山の者」のために小学校が建てられた。この計画は県下のきびしい批判を免れなかったが、どうやら無事に成功したようである。
部落がある窪地というのは、洞光寺の墓地のすぐうしろであった。そこには部落占有の神社があった。わたくしは部落のようすを見て、ひどく意外な思いがした。きっと醜いものや穢ないものをたくさん見るだろうと予想して行ったのが、その反対に、こぎれいな集団住宅を見たからである。どこの家のまわりにも、きれいな小庭がついているし、部屋の壁には絵もかけてある。樹木もたくさんあって、村は灌木や植木で青々としており、まるで絵に描いたようであった。というのは、土地が平地でなく、高い低いがあるので、細い小路がさまざまの角度で登ったり降《くだ》ったりしているからであった。いちばん高い小路は、いちばん低い小路よりも五、六十フィートも高いところにある。浴場の大きなのがあったり洗濯屋の大きなのがあったりするのは、「山の者」が山向こうの隣り町の平民と同じように、清潔な身だしなみを好む証拠であった。
やがて一団の連中が、村へきた異人を見物に集まってきた。――連中にしたら、こんなことはめったにない出来事だったのである。そこで見た人たちの顔は、ふつうの平民の顔と変りはなかったが、ただ不縹緻《ふきりょう》なのは思いきって不縹緻だもんだから、それとの釣りあいで、顔だちのととのったのがいちだんと目につくように思われた。なかには、むかし見たジプシーの顔をおもいだすような人相の悪いのも、ひとりやふたりはあったけれども、幾人かの小娘の顔などは、ほんとに道具のそろったよい顔だちであった。部落では、平民同志が顔をあわせたときにするような、挨拶をかわすようなことはなかった。上流階級の日本人だったら、西インドの移民が土地の黒人にするように、さっそく帽子をとってお辞儀をするところだが、「山の者」は人にあうと、挨拶なんか抜きにしようという気持を態度で示す。それが通例になっているので、男の人はひとりもわれわれに挨拶をしなかったが、女の人は幾人かやさしい言葉をかけて会釈をした。ほかの女たちは――粗末なわらじを編んでいたほかの女たちは、われわれがなにか尋ねても、「ええ」とか「いいえ」とか答えるだけで、どうやらわれわれのことを胡乱《うろん》なものに思っているようなそぶりであった。友人は、ここの女たちが普通の日本の女とは違った身なりをしている点に、わたくしの注意をうながした。たとえば、ごく貧しい平民の間にだって、服装のきまりというものがある。その人の年齢に応じて、こういう色あいは着てもいいが、こういう色あいは着ない方がいいといったように、一定の色あいというものがある。ところが、ここの連中は、かなり年とった女でも、はでな赤い色のや、あるいは色まじりの帯をしめ、着物もずいぶんはでな柄あいのものを着ていた。
よく松江の町通りなどで、物を買ったり売ったりしているところを見かけるのは、こういう年配の女に限られている。部落の若い女は、みな家にひっこんでいて、町へは出ない。年配の女が町へいくときには、妙なかっこうをした大きな籠をたずさえていくから、その籠で「山の者」だということがすぐにわかる。小さな家の門口に、その籠がいくつもぶらさがっているのが目につく。女たちはそれを背負って、古新聞から古着類、空罎、ガラスの割れたの、ふる金など――「山の者」の買物は、なんでもかんでもこの中へ入れることになっている。
やがて、ひとりの女がわれわれを家のなかへ招き入れてくれた。売りたいと思っている古い絵双紙を見せようというのである。われわれは家のなかへはいって、平民の家で受けるような丁寧な扱いをうけた。絵双紙のなかには、広重の描いたものなども何枚かあって、買う値打のあるものだということがわかった。そのとき友人が、ひとつ大黒舞を見せては頂けまいかといって頼むと、承知いたしましたとさっそくに受けてくれたので、こちらは大満悦だった。で、歌い手の面々に、ほんの心ばかりの祝儀をやることを承知すると、いままで見かけなかった、顔だちのきれいな若い娘の一隊がそこへあらわれて、さっそく歌のしたくをはじめ、ひとりの老婆が踊りのしたくをはじめだした。若い娘たちも、老婆も、めいめい演技につかう妙な道具をもっている。娘のうち三人は、紙と竹でできた木槌みたいな形をしたものを持っている。これは大黒(*)の小槌をかたどったもので、娘たちはこれを左の手に持ち、右手には扇をひらひらかざして持つ。あとの三人の娘は、西洋のカスタネットに似た四竹――黒い堅木の板を二枚、紐でつなぎ合わせたものを持っている。この六人の娘が、家の前に一列に並んだ。それと向き合って座をしめた老婆は、両手に二本の細い棒をもっている。一本の棒には一部分に切り目がついていて、そこをもう一本の方の棒でこすると、ガラガラいう奇妙な音が出る。
* 大黒は、だれでも知っている福の神。恵比須は勤労の神である。こういう神々の由来を知りたいと思ったら、「アジア協会紀要第三巻」所載のカルロ・プイーニの「七福神考」と題する英訳の文章を見られるといい。なお、神道におけるそれらの神々の地位については、拙著「日本瞥見記上巻」を参照されたい。
歌い手は三人ずつ二組に分かれるのだと、友人がおしえてくれた。小槌と扇をもったのが大黒組で、これが民謡をうたい、四竹をもったのは恵比須組で、これは囃《はや》しを入れるのである。
老婆が細い棒をすりあわせると、たちまち大黒組の咽喉から、ほがらかな美声が歌になってとびだしてきた。その歌は、これまでわたくしが日本で聞いた歌とは、まるで趣きのちがったものであった。四竹をカチカチ鳴らす音が、えらく早口で語られる歌詞の切れ目切れ目に、ピタリ、ピタリとはいっていく。最初の組の三人娘が幾くだりかの歌をうたいおわると、こんどはあとの組の三人娘の声が加わるというふうに、調子は揃わないがなかなか楽しい気分を出し、囃しの掛け声はみんなでいっしょに唱える。やがて大黒組は、また次の歌をうたい、しばらくしてまた囃しの声をかける。そのうちに、老婆がときどき道化《どうけ》たことばを入れながら、奇妙きてれつな踊りを踊りだすと、見物のなかからドッと笑い声があがった。
しかし、歌そのものはけっしておどけた歌ではなくて、「八百屋お七」という外題《げだい》の、たいへん哀れな歌であった。八百屋お七は美しい娘だったが、彼女はまえにいちど火事に焼け出されて、そのとき避難した寺の所化《しょけ》とねんごろになり、おもう男とまたの逢う瀬をえようがために、自家に放火する。それが露顕して、お七は放火罪に問われ、当時のきびしい掟によって、生きながら火焙りの刑を言い渡される。処刑は果たされた。しかし、犠牲者の若さと美貌、それに罪の動機、これが大衆の心に同情を呼びおこして、のちにさまざまの俗謡や芝居に仕組まれた。こういう歌である。
演技者たちは、老婆を除いて、あとのものはみな、歌いながら地面から足をあげる者はひとりもなかった。ただ、歌の節に合わせて、体を揺り動かすだけであった。歌はかれこれ一時間以上もつづいたが、そのあいだ声はすこしも落ちなかった。歌っていることばは、ひとこともわたくしにはわからなかったが、しかし聞いていて倦きるどころか、曲が終ったときにはひどく惜しく思ったくらいであった。同時に、異人のこの聴き手は、楽しかったと同時に、いつの昔から起ったものやらわからない、古い古い偏見の犠牲となってきた若い娘の歌い手たちに対して、強い同情の念さえ湧いてきたのであった。――
以上は、「ジャパン・メイル」に送った手紙からの抜抄で、わたくしがそもそも「大黒舞」に興味をもった由来ばなしである。その後、松江の友人西田千太郎の心づくしで、わたくしは「山の者」が歌った三つの俗謡の写しを手に入れることができ、またその翻訳も、あとでわたくしのために物してくれた。で、その翻訳を元にして、おもしろい俗謡の例として、ここにあえてその散文訳を書いてみることにしたわけだが、できるだけ慎重に、そして注釈なども豊富に入れて、忠実なる逐次訳にしたら、学界の注意を多少はひくことにもなろうかとおもう。もっとも、こうした翻訳は、時間と根気のいる労力を要すると同時に、わたくしのような者の持ちあわしていない日本語の豊富な知識が、ぜひとも必要である。ただ、原作そのものが、学究的な厳密な翻訳をすべき値打のあるものだったら、おそらくわたくしは、こんなことを思い立ちはしなかったろう。でも、できるだけ自由に平易に扱っても、それによって原作のおもしろみがはなはだしく削減することはないと、わたくしは確信している。原作は、純文学の見地からいえば、べつに雄渾《ゆうこん》な想像力をあらわしているわけでもないし、詩的芸術と呼ばれるほどの真に価値あるものは、何ひとつそなえていないのだから、ごくつまらないものである。こういう韻文を読んでみると、じっさいのところ、日本の本領ともいうべき詩歌からは、だいぶほど遠いものといわざるをえない。日本の本領ともいうべき詩歌は、ほんのそのなかの二、三句をとりあげてみても、おのずから人の心に完全な一幅の絵をつくりあげ、あのほとほと身うちにしみわたるような繊巧《せんこう》ないみじさで、美しい記憶の情緒をそそりだす、それが本領であるが、これはそういう作風とはだいぶ隔たりがある。「大黒舞」はきわめて粗笨《そほん》なものである。しかも、その雑なものが長くもてはやされているのは、おもうに、イギリスの古い民謡に匹敵するような内容があるというよりも、むしろおもしろいその歌い方によるのではなかろうか。
こういう俗謡の骨子になっている昔の伝説綺語は、芝居に仕組まれたものまで入れると、ずいぶんいろんな形で今日も残っている。そうした伝説が与える芸術的暗示はいろいろあって、いちいちそれを今ここに述べる必要もないが、ただ一つ言っておきたいことは、こんにちでもその影響は依然として跡を絶っていないということだ。つい二、三カ月まえにも、わたくしは工場からできてきたばかりの美しい染めものを何反か見たが、そのなかに、小栗判官が鬼鹿毛という馬を碁盤の上に立たせている図柄を染めだしたものがあった。わたくしが出雲で手に入れた三つの俗謡は、出雲でできたものか、それともよその土地でできたものか、よくわからないけれども、「俊徳丸」のはなしも、「小栗判官」のはなしも、「八百屋お七」のはなしも、日本全国どこへ行ってもよく知られている話である。
散文訳にそえて、わたくしは三つの唄の原文もいっしょに協会へ提出しておく。原文の方には、大黒舞を歌うときの土地の風習や、演技の合間々々に入れるおどけた囃しことばに関する、おもしろい注釈もつけておいた。――あまり下卑たひょうきんなことばは、翻訳をさしひかえておいたが。
歌はどれも同じ音律で書かれている。見本として、「八百屋お七」の冒頭《でだし》の四行をここにあげておく。――
こゑによるねのあきのしか
つまよりみをばこがすなり
ごにんむすめのさんのうで
いろもかはらぬえどざくら
囃しことばは、きまった一節ごとの終りに入れるのではなくて、むしろ、歌の中途のある句切り目に入れるものらしい。それから、歌い手の人数もべつにどちらの組もきまった制限はない。大ぜいでもいいし、小人数でもいいことになっている。出雲流の囃し方――一方の組が「イヤァ!」とかけるその母音と、一方の組がかける「ソレィ!」ということばの音がうまくまじりあうようにする囃し方、これは日本の民俗音楽に興味をもっている人の注目すべき点だとおもう。いや、正直のところ、民俗音楽や俗謡の研究家にとっては、たいへんうれしい未開の分野が、日本には大いにあるとわたくしは確信している。めずらしい囃しのついたあの「豊年踊り」や、国々でちがうあの「盆踊り」の歌、――遠い国々の稲田や山の斜面からとぎれとぎれに聞こえてくる、あの愉快で風変りな歌の節は、われわれが日本音楽というといつも連想するものとは、まるで異質のものを――われわれ西欧人の耳にも文句なくうっとりするような魅力をもっている。あの節のなかには、野にさえずる鳥や蝉の鳴く歌とおなじような、「自然」と諧調をともにしたものがかよっているからだ。ああいう旋律を、ああいう特異な細かい音調のままに再現することは、これは容易なわざではないが、もしそれが再現できたら、その骨折りがいは充分にあるとわたくしは信ぜざるをえない。ああいう歌は、古い古い昔の、おそらくは原始的な音楽観念をそのままあらわしているばかりでなく、その民族のなにか本質的な特徴をあらわしているものなのだから、民俗音楽の比較研究でもすると、ああいう歌からその民族の感性について教えられるものが、たくさんあるにちがいない。
それにしても、むかしの農民の歌にふしぎな魅力をあたえている、こうした特異性は、出雲流の「大黒舞」のうたい方にはほとんど見受けられない。この事実は、おそらく、この舞がわりあい近世のものだということを語っているのだろう。
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「俊徳丸」のうた
あーら! わかい大黒と恵比須が上機嫌で登場。
やんれ、話をおきかせ申そうか、それともお祝の口上を申そうか。なになに、お話とな。されば何の話がいっちよかろうぞ。ここなお家で話をせいとの仰せなれば、ひとつ「俊徳丸」の物語をいたそうかい。
昔むかし、河内の国に、信吉《のぶよし》という大長者が住んでいました。そして総領むすこを俊徳丸と申しました。
総領むすこの俊徳丸は、年わずか三歳のおりに母に死にわかれ、五つのとしに継母をむかえました。
俊徳丸が七つになったとき、継母は乙若という男子を産み、ふたりの兄弟はいっしょに大きくなりました。
十六歳になったとき、俊徳丸は京にのぼって、天神の社《やしろ》へ供物をそなえに参詣しました。
俊徳丸はお社で、参詣にくる人千人、帰る人千人、社前にいる人千人、あわせて三千人の人びとが、そこに群集《ぐんじゅ》しているのを見ました。
群集《ぐんじゅ》のなかを、萩山という、これも長者の若い娘が、社へ駕籠《かご》でかかれてきました。俊徳丸も道中は、おなじく駕籠でのぼったゆえ、二挺の駕籠は並んで道をすすみました。
俊徳はその娘をばうち眺め、たちまち恋におちました。ふたりはたがいに顔を見かわして、恋文をとりかわしました。
ことの委細はつぶらかに、追従者の召使から、俊徳丸の継母に、いちぶしじゅうが告げられました。
そこで継母は思うのに、この若者が父親の屋敷にこのままいるならば、西と東の内倉も、北と南の米倉も、中にたったるこの家も、しょせんわが子のものではない。
そこで彼女は一計を案じ、夫にむかって言いました。「もうし旦那さま、きょうより以後七日の間、お屋敷のきりもりお家のつとめ、このわたくしにお暇を願えませぬか」
すると夫が答えるのに、「おおさ、よいとも。してその七日の間、そもじは一体何をするのじゃ?」すると彼女がいうたには、「はい。こなたへ輿《こし》入れするまえに、わたくしは清水の観音さまに願をかけました。その願ほどきに参詣がしとうござりまする」
するとあるじが申すには、「それはちかごろ殊勝なことじゃ。して、供には男か女か、いずれをつれて行きやるぞ?」彼女は答えて申すのに、「下男も下女もいりませぬ。ひとりでまいるつもりです」
そして彼女は、道中の心得など耳にも入れず、屋敷をたつなり急ぎ京へとのぼりました。
京は三条のほとりに着くと、彼女は鍛冶屋《かじや》町へゆく道すじをたずねました。そしてその町をたずねあてると、なるほどそこには鍛冶屋が三軒、のきを並べておりました。
彼女はそのまんなかの店にはいって挨拶すると、鍛冶屋にこういって尋ねました。「鍛冶屋さん、ちと細かい仕事をしてもらえますまいか?」鍛冶屋は答えて申すのに、「へえ、わてにできることなら、何でもしますで」
そこで彼女は申しました。「お願いですが、あたまのない釘を四十九本、こしらえて下さいな」すると鍛冶屋が答えるには、「わての家は代々の鍛冶職で、わてが七代目じゃが、あたまのない釘て聞いたこともない。そんな注文はおことわりじゃ。どこぞよそへ行て頼んだがよいわい」
「いえいえ、わたしはおまえの店へ初手《しょて》にきたのじゃほどに、よその店へゆく気はない。鍛冶屋さん、お願いだから、こしらえて下さいな」鍛冶屋が答えて申すには、「打ち明けたはなし、そんな釘をこしらえるなら、千両戴かなあきまへんな」
彼女は鍛冶屋に答えました。「おまえが頼みをきいてくれれば、千両はおろか二千両でもかまいませぬ。こしらえて下さい、鍛冶屋さん、このとおりお願いします」そうまでいわれると、鍛冶屋もこのうえむげに断るわけにもまいりません。
やがて鍛冶屋はあたりをとりかたづけ、鞴《ふいご》の神に手を合わせました。それから第一の鎚《つち》をとって金剛経を誦《づ》し、つぎに第二の鎚をとって観音経を誦し、さて第三の鎚をとって阿弥陀経を誦しました。と申すのは、注文の釘がなにか邪《よこしま》な目的に使われるのではないかと懸念されたからです。
鍛冶屋はとんだことを引き受けたと後悔しながらも、やがて注文の釘を打ち上げました。釘ができあがると、女はたいそう喜びました。そして左の手に釘をうけとり、右の手で鍛冶屋に鳥目をはらうと、さて別れを告げて、もと来た道へ帰っていきました。
女がいってしまうと、鍛冶屋は思案しました。――「なるほど、わてはこのとおり小判で千両もろうた。したが、人間の一生は、旅する人のほんの仮りの休みどころじゃそうな。してみればこの金で、人に憐れみと親切をほどこしてやらんと、冥利がわるい。寒がっている者には着るものをやり、腹のひもじいものには食べる物など恵んでやろう」
そして国ざかいや村はずれに高札を立てて、その趣意をふれたので、鍛冶屋は多くの人びとに情けをほどこすことができました。
さて長者の女房は、途すがらさる絵師のもとに立ち寄って、絵を一枚かいてくれといって頼みました。
絵師は彼女にたずねるのに、「梅の古木か老松でもかきましょうかな」
彼女は絵師に申すのに、「いえいえ、梅の古木も老松もいりませぬ。十六歳の男の子の絵姿をかいて頂きとうございます。身のたけは五尺、顔に|ほくろ《ヽヽヽ》が二つある子でございます」
「それならお安いご用じゃ」と絵師はいって、ほんの束の間に、さらさらとその絵をかいてくれました。その絵はいかにも俊徳丸によく似ていたので、彼女はよろこんで絵師のもとを立ち去りました。
その俊徳丸の絵をたずさえて、彼女は清水へと急ぎました。そして堂の裏手の柱の一本に、その絵姿を高だかと貼りました。
そして彼女は四十九本の釘のうち、四十七本でその絵姿を柱に打ちつけ、残る二本を絵姿の両のまなこに打ちつけました。
これでまんまと俊徳丸に、呪いをかけたと思いこみ、心のねじけた女房は屋敷へ立ち戻ると、なに食わぬ顔で「ただいま戻りました」といって、さもまことしやかな貞女のふりをよそおいました。
さても俊徳丸は、継母がこうしてわが身の禍を祈願してから三、四カ月たったのち、重い病いにとりつかれました。継母はひそかに北叟笑《ほくそえ》みました。
そして彼女は、夫|信吉《のぶよし》に、ことば巧みにもちかけました。「旦那さま、このたびの俊徳のいたずきは、どうやら悪性の病のように思われます。かような病人を長者の家におくわけにはまいりかねます」
聞いて信吉はびっくり仰天、おおいに悲しみ歎いたものの、よくよく考えてみれば、どうにもしかたがないことでしたから、俊徳をそば近く呼んで言いさとしました。
「せがれや、そなたのかかっている病気は、どうやら癩病のようじゃ。そのような業《ごう》病をもったものは、このまま当屋敷で暮らすわけにはまいらぬ。
「そこでの、そなたにいちばんよいことは、神仏の利益で本復しようもしれぬ。その望みをもって、諸国を巡礼して歩くことじゃ。
「わしは、ここの内倉も米倉も、乙若にはやらぬ。みんな俊徳、そなたにやるつもりじゃ。されば、かならずまたここへ戻ってこいよ」
あわれなるかな俊徳は、継母のねじけた心も露知らず、いじらしい姿で母をかきくどきました。「母上、わたくしはただいま父上から、この家を出て巡礼になり、諸国を流浪せよといわれました。
「でも、わたくしは只今では目かいが見えず、難儀をせねば道中することもかないませぬ。それゆえ、日にいちどの飯《まま》でけっこうゆえ、物置か納屋の隅になりと住まわして下されば、それで満足いたします。それもかなわぬとあれば、この屋敷のどこか近くにおいて下さいまし。
「ほんのしばらくの間、わたくしをここに置いては下さいませぬか? 母上、お願いでございます、わたくしをここにいさせて下さいまし」
しかし継母は答えるのに、「おまえが今わずらっているのは、悪い病のほんのかかり始めじゃ。それゆえ、ここへおくわけにはいかぬ。すぐさまこの家を出ていかねばなりませぬ」
やがて俊徳は、家の子らにひきたてられて、泣く泣く庭さきに追い出されました。
心のねじけた継母は、そのあとからついて出てどなりたてました。「お父上のおいいつけじゃ。俊徳丸、とっとと出て行きゃれ」
俊徳は答えるのに、「これこのとおり、わたくしには旅の衣もなければ、巡礼の着る白衣も、脚絆《きゃはん》も、布施をうける頭陀袋《ずだぶくろ》もありませぬ」
心のねじけた継母は、それを聞くと喜んで、さっそく入用な品々を俊徳にあたえました。
俊徳はその品々をうけとると、継母に礼をのべて、泣く泣く旅の支度をしました。
巡礼の装束を身につけて、胸には守り札をさげ、首には頭陀袋をかけました。
わらじの緒をばかたく締め、竹の杖をば手にとって、菅《すげ》の編笠を頭にかぶりました。
そして、「さようなればお父上、母上さまにもごきげんよう」といいながら、あわれ俊徳は旅の首途《かどで》にたちました。
悲歎にくれた信吉は、途中までいっしょに見送っていうのに、「これ俊徳、なんともはやいたしかたない。したがの、この守り札にしるしてある、あらたかな神仏のご加護によって、そなたの病が本復したら、すぐさま戻ってくるのだぞ」
やさしい父の別れのことばに、胸の曇りもやや打ち晴れた俊徳は、あたりの人に顔など見られぬようにと、菅笠ふかく押しかぶって、ひとりとぼとぼ出かけました。
しかし、しばらく行くうちに、俊徳は自分が足弱で遠くへ行けるものやら気づかわれ、かたがたわが家のかたに心がのこり、思わず知らず足をとめ、あとふりむいてはそのたびに、曇るは胸のうちばかりでした。
さて俊徳は、さすがに人の家にははいりかねて、ときには松の下かげ森のなかで、眠らなければならないこともしばしばでしたが、ときには運よく道ばたの、仏の像を安置した小さな堂に宿を見つけることもあったりしました。
あるとき、まだ夜もしらじらの暗い朝、いちばんがらすが鳴き渡るころ、亡き母が夢に俊徳の枕上に立ちました。
亡き母は俊徳に申すのに、「これ俊徳、そなたの病は、あの心のねじけた継母の呪噬《まじない》からおこったものゆえ、これより清水の観音さまに参詣して、病気平癒を願うがよい」
俊徳は不思議に思いながら起きると、それから京へと道をとり、清水の堂をさして行きました。
旅の途中のある日のこと、俊徳は萩山という長者の屋敷の門に立って、「ご報謝! ご報謝!」と声高らかに呼びました。
やがてその家の婢女《はしため》が声をききつけて、食べものをもって出てくると、大きな声で笑いながらいうことに、「おほほほ。まあ、こんなおかしな巡礼に、誰が笑わずに物を施す気になれようか」
俊徳はたずねるのに、「おまえはなぜ笑うのじゃ。わたしは河内の信吉《のぶよし》長者という、人にも知られた家の子じゃ。心のねじけた継母のしかけた呪噬《まじない》ゆえに、こんな姿になりはてたのじゃ」
するとその声をききつけて、この家の娘乙姫が出てきて、婢女《はしため》に「これ、なにをそのように笑うのじゃ?」とたずねました。
婢女が答えるのに、「はい、お嬢さま。河内からまいりました二十歳《はたち》ばかりのめくら男が、そこの門の柱にすがりつき、『ご報謝! ご報謝!』と大きな声で呼びまする。
「そこで精《しら》げたお米を盆に盛り、右の手の方へ盆を出してやりましたら、その男が左の手をさしだします。左の手の方へ出してやりますと、右の手を出しまする。それがおかしうて、つい笑いました」
乙姫にわけを語る婢女の言分をきくと、盲人は立腹していうのに、「これ、旅の者をあなどるまいぞ。わたしは河内の国の人に知られた長者の子じゃ。名は俊徳丸と申す者じゃ」
そのとき、この家の娘乙姫は、とっさに相手のことを思いだし、これも怒って婢女をたしなめていうのに、「これ、そのようにぶしつけに笑うものではありませぬ。きょう人を嘲れば、あすはおまえが笑われますぞ」
しかし乙姫は、あまりに驚きが大きかったものですから、われ知らず体がわなわな打ち震い、自分の部屋へひきとるなり、にわかに気が遠くなってしまいました。
そこで家のなかは上を下への大騒ぎになって、さっそく医者《くすし》が呼ばれました。しかし乙姫は、もはや薬餌もうけつけずに、しだいに弱っていくばかりでした。
そこで名のある医者が大ぜい呼ばれて、ともに立ち会いの上で乙姫を診立《みた》てた結果、病気の因《もと》は、なにか突然の悲歎によるものだという診断がくだされました。
そこで母親がいたずく娘にいうことに、「なにか人にいえない歎きがあるのだったら、包まずわたしに打ち明けておくれ。どんなことでもよい、おまえがこうしてほしいと思うことがあれば、かならずかなうようにわたしが計らってあげるから」
乙姫が答えるのに、「ほんにお恥しいことながら、わたしの願いを申します。
「さきごろここへまいった盲人のおひと、あれは河内の国のご名家で、信吉という長者のご子息でございます。
「いつぞや京は北野の天神まつりのみぎり、参詣の道すがら、そのお方にお目にかかり、たがいに二世を変らじと、起誓の文《ふみ》をかわしました。
「それゆえ、もしもこの上かなうなら、あのお方のゆくえの知れるまで、あとを尋ねて旅をさせて下さりませ」
母親はことばやさしく答えるのに、「なるほど、それはよろしかろう。駕籠で行くならそれもよし、馬で行くなら、よい馬をととのえてやりましょうぞ。
「供に誰なとつれていくなら、誰でも望みにまかせようし、それから鳥目も、そなたの望むだけとらせましょうぞ」
乙姫は答えるのに、「いいえ、馬も、駕籠も、供の者もいりませぬ。入用なのは巡礼の装束、――脚絆に上衣に頭陀袋だけでございます」
乙姫は、俊徳がしたと同じように、自分もひとりで出かけるのが勤めだと考えたのでした。
そこで彼女は両親に別れを告げ、目に涙をいっぱいうかべながら、「さらば」のことばもやっと口のうち、わが家をあとに立ちいでました。
山また山を踏みこえて、そのまた先の山をこえ、行くほどに、聞こえるものは鹿の鳴く音と谷川のせせらぎの音ばかりでした。
あるときは道に踏みまよい、またあるときは嶮阻《けんそ》なそば道や難所をたどっていく。こうして悲しい辛い思いをしながら、彼女は旅をつづけました。
やがてのことに、目路《まじ》もはるかに「傘松」という松の木と、「逢うた」という二つの岩が見えました。この岩を見たときに、彼女は恋しい思いと希望をもって俊徳のことを考えました。
道を急いでいくうちに、熊野へのぼる連中に出会ったので、彼女は尋ねてみました。「もうし、あなたがたはここへ来る途中で、年の頃は十五、六の、目の見えない人に会いませんでしたか?」
相手は答えるのに、「いや、まだ会わないが、もしどこかで会ったら、なんなりと望みのむねを言伝《ことづ》けてあげよう」
この返事をきいた乙姫は、たいへん落胆しました。しょせんこれでは、恋しい人をたずねだす苦心も水の泡かと思って、たいそう悲しくなりました。
悲しくなったあまり、もうあの方のことはこの世でたずねまい。いっそ来世で逢うために、これからすぐに狭原《さわら》の池にこの身を沈めてしまおうと覚悟をきめました。
そこで彼女は、できるだけ道を急いで、狭原の池へと向かいました。そして狭原の池に着くと、巡礼の杖を地に立て、巡礼の装束をかたえの松の木にかけ、頭陀袋を投げすてると、髪を島田に結いなおしました。
やがて袂に小石をいっぱい入れ、あわや水に飛びこもうとしたときに、ふいに彼女の目の前に、歳は八十あまりの、手に笏《しゃく》をもった白衣の老人があらわれました。
老人は彼女にいうのに、「これ乙姫、そんなにあせって死なずともよい。そなたのたずねる俊徳は清水《きよみず》さんにいる。あすこへ行って会うがよい」
この老人のことばは、まったく彼女にとっては願ってもない吉報でしたから、たちまち彼女はうれしくなりました。そして、これで自分はご守護神のおかげで助かった。今おことばをかけて下さったのは、あれぞまさしくお守護神さまであられたのだと悟りました。
そこで彼女は袂に入れた小石をすてると、いったん脱ぎすてた装束をふたたび身につけて、髪も結いなおし、さて清水のお堂をさして急ぎました。
ようやくのことでお堂に着きました。低い階《きざはし》を三段のぼって、回廊の下を見やると、うれしや恋しい俊徳が、菰《こも》をかぶってそこに眠っていましたから、乙姫は「もうし、もうし」と声をかけました。
呼びかけられて俊徳は、はっとばかりに目をさますと、何を思ったかいきなりかたえの錫杖を手にとるより、声あららかに叫ぶには、「わしが盲目をあなどって、ここらあたりの童《わっぱ》どもが、日ごと来おって嬲《なぶ》りおるわえ!」
乙姫は聞くより悲しさやる方なく、俊徳のそばに駆けよると、恋しい人に手をかけて、――
「のうのう、そのようなわやくな童どもの仲間ではござりませぬ。わらわことは萩山長者の息女乙姫、いつぞや都の北野天神のまつりのみぎり、固い契りをかわしたゆえ、こうしてここへ会いにきました」
いとしい人の声をきいて、俊徳はびっくり仰天、がっぱとはね起き叫んでいうのに、「おお、そなたはほんに乙姫なるか? 一別以来、ても久しいことじゃが、――それにしても稀有《けう》なこと。よもや嘘ではあるまいの?」
といって、たがいに撫でつさすりつ、ものも言わずに、たださめざめと泣くばかりでした。
俊徳は身も世もあらず、いちずに歎き悲しみましたが、やがて気をとりなおすと、乙姫にいいました。「継しい母に呪いをかけられ、これこのとおりの姿に変りはてた。
「それゆえ、この身はそなたの夫《つま》として契ることもかなわぬ。いまはこうしておれど、いずれ骨も身も頽《くず》れて死ぬるまで、このままでおらねばならぬ。
「されば、そなたはすぐにこれより家にかえり、しあわせに花やかに暮さるるがよかろう」
乙姫は悲歎にくれながら、「まあ、何としたことを! それを本心で言やるのか? しんじつ正気でいやるのか?
「のう、のう。そなたのためなら、わが身は命もいらぬ。かほどに慕うておればこそ、このように身をばやつしてまいりました。
「かくなるうえは、もうもうおそばは離れませぬ。たとえこの先、どのようなことになろうとも」
俊徳は乙姫のことばをきいて喜びましたが、それだけにまた相手の不憫さに胸がいっぱいになり、ものもえいわず、ただ涙にかきくれるばかりでした。
すると姫が申すのに、「聞けばそなたの継母は、そなたに財宝があるゆえに、悪い呪いをかけたのゆえ、わらわもそのお方に呪いをかけて、そなたの仇《あだ》をとるのに何の恐れもありませぬ。わらわとて長者の娘でござりまする」
そういって、乙姫は一心こめて、み堂のなかのみ仏に祈願をしました。
「きょうより七日七夜のあいだ、わらわはこのみ堂におこもりをして、結願《けちがん》をいたします。観音さまにお慈悲とまごころがおありなら、なにとぞわれらを助けて給《た》も。
「見れば、この大きなみ堂に、茅《かや》の屋根はふさわしうないゆえ、大願成就のあかつきには、わらわが鳥の羽根で葺《ふ》きかえましょう。棟は千羽の鷹の金色の腿《もも》の羽で葺きましょう。
「また、この鳥居や石灯籠もさみしいゆえ、鳥居は黄金《こがね》、石灯籠はこがねを千基、しろがねを千基たてて、みあかしは毎夜わらわがともしましょう。
「また、これほどの広い境内には、立ち木がのうてはなりませぬゆえ、檜《ひのき》千本、杉千本、から松千本を植えましょう。
「したが、この結願のしるしに、もし俊徳さまが本復せなんだら、ふたりはあすこの蓮池へいっしょに身を沈めまする。
「そして、死んだらふたりは二匹の大蛇《だいじゃ》になって、きっと参詣人を苦しめ、巡礼たちをかならず道で妨げてやりまするぞ」
するとふしぎや、この誓願をたててからちょうど七日目の暁に、観音さまが乙姫の夢枕に立たれて、「善哉々々、なんじの誓願、かならずわれにおいて聞きとどけべし」とのお告げがありました。
乙姫ははっと目をさますと、夢のお告げを俊徳にかたり、ふたりはふしぎなこともあるものよと思いました。それから起きて川へ下り、そこで手水《ちょうず》をつかい、ともに観音さまを拝みました。
すると、こはそもふしぎ、盲《めし》いた俊徳の両眼がいちじにぱっとひらき、もとどおりはっきりした視力がもどって、病はいっさんに退散しました。ふたりは大きに喜んで、うれし涙にかきくれました。
それからいっしょに宿をもとめて、そこで巡礼の装束をともにぬぎ、かわりに新しい衣服に着かえて、駕籠をやとって家にもどることにしました。
父の屋敷に着くと、俊徳は大きな声で呼ばわりました。
「ご両親さま、ただいま戻りました。あらたかな護符のお札の呪字のおかげで、ごらんのとおり病は本復いたしました。両親《ふたおや》さまにはお変りもござりませぬか」
すると、それを聞きつけて、俊徳の父親が走りでてきて申すのに、「おお、わしはどれほどそなたの身を案じておったことか。
「かたときとても、そなたの上を思わぬひまはなかったぞ。しかし、こうしてそなたに会い、またいっしょにつれてきた嫁女の顔を見るとは、なんとまあ嬉しいことか」といって、ともどもに打ち喜びました。
ところが、それにひきかえ不思議なるかな、それと同じときに心のねじけた継母が、にわかに目が見えなくなり、手足の先が腐りだしてきて、たいそう苦しみだしました。
それを見て、花嫁と花婿とは、心のねじけた継母にいいました。「それごらん! こんどはそなたに業病がとりついた。
「さあ、長者の家に癩病はおけませぬ。さっそく出ていって下され。
「巡礼の装束も、脚絆も、菅笠も、杖も、さあこのとおりさし上げます。ここにみんな用意してあります」
心のねじけた継母も、ここに至ってつくづくと、悪心ついに報《むく》いて、どうでも死なでは助からぬことを悟りました。俊徳と乙姫とは大喜び。ふたりはどんなに嬉しかったことでしょう。
継母は、さきに俊徳がいったように、後生だから日に一食だけ、ここで恵んでくれと頼みましたが、乙姫は業苦になやむ女にむかい、「いえいえ、家のなかはもとより、納屋のすみにも置くことはなりませぬ。今の今、とっとと出て行って下され!」
あるじ信吉《のぶよし》も悪妻にいいました。「ここにいるとは、どういう料簡じゃ。手間ひま入らぬわ、とっとと出て失《う》せい!」
そういって、女を外に追いだしました。女は今はせん方なく、あたりのものに見られぬよう、なるべく顔をかくしながら、泣く泣く外へ出ていきました。
乙若が俄《にわ》かめくらの母の手をひいて、ふたりはそれから都にのぼり、清水寺をさして行きました。
清水寺へつくと、み堂の階《きざはし》を三段のぼり、ふたりはそこに額《ぬか》づくと、観音さまに祈念しました。「どうか今いちど呪いがかけられますよう、お力をおさずけ下さい」
すると観音さまは、ふたりの前に、たちまちお姿をあらわし給うてのたまうには、「なんじの祈願がよいことなれば叶えてもやるが、邪《よこしま》なことでは、この上はかまいつけぬぞ。
「なんじら両人、よんど死なねばならずば、そこに死ぬべし。死にたるのちは地獄に送り、鉄釜の底におとして釜茹《かまゆ》でとなさん」
これで俊徳のものがたりは幕。扇を一つポンとたたいて、それ万歳楽! あーら、めでたいな、めでたいな!
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小栗判官《おぐりはんがん》の歌
これより逐一に語りまするは、小栗判官のものがたり。
一 誕生
その名も高倉大納言兼家は、諸方に宝の蔵をもつほどの分限者でした。
火伏せの珍石、自在に水の湧きでる石、さては生ける獣の足からひきぬいた虎の爪、うにこうろの角、麝香《じゃこう》猫までもっていました。
およそ人間がこの世で持てるほどの物は、なんでも持っている兼家も、ただ世とりの子だけがなく、ほかに歎きの種は何ひとつない身分でした。
長年家に勤める池の庄司という忠僕が、あるときあるじの兼家に、こんなことを申しました。
「鞍馬のみ山に祭ってある多聞天《たもんてん》は、ご神威あらたかなところより、おちこちに評判が高うござりまするが、どうかわが君にも、ぜひいちどご参詣の上ご祈願のほどを、謹んでお願いいたします。さすれば、なにごともご所願のすじは、かならず叶うことでござりましょう」
兼家は庄司のことばに同意して、さっそく多聞天のみ堂へまいる旅じたくにかかりました。
道中大急ぎできたので、ほどなく社につき、そこで禊《みそぎ》をしてからだを清め、なにとぞ世つぎをえさせ給えと、一心不乱に祈願をしました。
三日三晩の間、食断《しょくだ》ちをして祈りましたが、どうも験《げん》がみえません。
そこで兼家は、神さまが無言でおいでになるのに業《ごう》を煮やし、いっそのこと堂のなかで腹切りをして、社殿を穢《けが》してやろうと覚悟をきめました。そして、自分が死んだら亡霊となって鞍馬の山に祟《たた》り、四里の山道をのぼってくる山伏どもの邪魔をして、恐《こわ》き目をみせてやろうと肚をきめました。
もう一刻《ひととき》遅かりせば、一命はなかったのでしょうが、おりよく、あわやというときに池の庄司が駆けつけてきて、切腹を思いとどまらせました。
「おお、殿!」と家来は叫びました。「死ぬお覚悟とは、いかにも早まったお覚悟でござります。
「それならまず初手に、やつがれに運試しをさせて頂きましょう。やつがれはこれから殿のために祈願をささげますから、首尾よくその験《げん》がえられるかどうか、ごらん下さい」
そういって、庄司はそれから二十一ぺん身を清めてから――七たびは熱湯、七たびは冷水、さらに七たびは竹のささらで身を洗い、さて神に祈願をささげました。――
「もしも神のご加護によって、わが主人にお世とりをお授け下さいますならば、お社の庭にしく唐銅《からかね》の板を、きっとご寄進することを誓言いたします。
「また、お社のそとに立て並べる唐銅の灯籠、ご社殿の柱をつつむ金箔銀箔も奉納いたします」
神前で三日三晩祈念をこめた、ちょうどその三日目の夜に、多聞天は、殊勝な庄司のまえにお姿を顕《げん》じて、のたまいました。――
「なんじが願いを切《せち》に叶えてつかわさんため、しかるべき世嗣《よつぎ》をおちこちに、唐天竺までもたずねたり。
「しかるに、人間の数は天の星くず、浜の真砂の数ほどあれど、悲しや、なんじが主人に授くるにふさわしき後目《あとめ》は、人間の種のなかに見あたらず。
「よって、ほかになすすべもなかりければ、遠く檀特山《だんとくせん》中、阿梨《あり》々々の峯にすむ四天王のひとりを父とする、八人の子のなかのひとり(魂?)を掠めきたりしなり。この子を、なんじが主人の後目《あとめ》に授くべし」
こういいおわると、神さまは奥殿におかくれになりました。そこで池の庄司は、はっと正夢から目をさますと、九《ここ》のたび神前に平伏礼拝してから、主人の屋敷へと急ぎました。
それからほどなく、高倉大納言の奥方は懐妊され、十月《とつき》というめでたい月がたったのち、男の子をやすやすと産みおとしました。
ふしぎなことに、生まれた赤子の額には、生まれながらに「米」という文字が、ありありとしるされていました。
それよりさらに不思議なことは、赤子の両眼に四体のみ仏が映っていることでした。
池の庄司と両親とは喜びました。そして生まれた子には、三つ目の日に、「阿梨々々山」という山の名にちなんで、有若《ありわか》という名がつけられました。
二 追放
有若はたいそう早く育って、十五歳になると、時のみかどから、小栗判官|兼氏《かねうじ》という名前と称号を賜わりました。
有若が一人前に成人すると、父親は嫁をとらせることにしました。
そこで父大納言は、大臣や高位の人の娘たちをいろいろと物色しましたが、いずれも帯に短かし襷《たすき》に長しで、息子の妻女になるほどのこれぞというものは、ひとりも見当りませんでした。
ところが、若い判官の方は、自分が多聞天から両親にさずかった子だということをすでに知っていたので、嫁のことは多聞天に願ってみることにきめました。そして池の庄司をつれて、多聞天をまつった鞍馬の神社に急ぎました。
ふたりは社前で手を清め、口をすすぎ、三晩のあいだ一睡もせずにお籠りをして、そのあいだずっと参籠《さんろう》の勤めをして、時をすごしました。
けれども、ほかに参籠の仲間はなし、若殿はひどく心寂しくなってきたので、竹の根でこしらえた笛をつれづれのままに吹きはじめました。
と、その美しい音色にさそわれたものか、神苑の池中にすむ大蛇《おろち》が、恐ろしいその姿を美しい官女の姿に変え、社殿の入口にやってきて、笛の音いろに耳をすまして聞き惚れました。
兼氏はそれを見て、これこそわが妻と望む女性《にょしょう》が目の前にいると思いました。そして、この女性こそ神さまが自分のために選んでくれた人だと思って、その美人を駕籠にのせて、わが家へ帰ってきました。
ところが、このことがあってからまもなく、ものすごい嵐が都に吹きおこり、つづいて大洪水がおこって、暴風と洪水は七日七晩打ちつづきました。
天皇はこの凶兆にいたく宸襟《しんきん》を悩ませられて、その原因を明らかにさせるために、陰陽師《おんようじ》たちを召しあつめました。
陰陽師たちは、天問に答えていうのに、この恐ろしい天候は、じつは配遇を失なったその報復を求めている男蛇の怒りによるものにほかならない。その配遇の女蛇こそは、ほかでもない、兼氏がつれて戻った美女だ、と奏上しました。
そこで天皇は、兼氏を常陸《ひたち》の国に追放すべし、また変化《へんげ》の女蛇は、ただちに鞍馬の池へつれ戻すべしと勅命を下されました。
かくて君命もだしがたく、兼氏は都を立ちのかなければならなくなって、忠義な家来の池の庄司ひとりをつれて、常陸の国へとくだりました。
三 かわし文《ぶみ》
兼氏が都をかまわれてからまもなくひとりの旅|商人《あきうど》が商売物を売るつもりで、常陸の国に追われた兼氏卿の屋敷をおとずれました。
商人は、判官から、おまえはいずれのものかときかれて、答えていうのに――
「わたくしは、京は室町に住む後藤左エ門と申すものにござります。
手前持ちまする品は、唐土へ仕出す品が千と八いろ、天竺へ仕出す品が千と八いろ、和国で売りさばく品が千と八いろござります。
されば、手前持ちまする品は、|〆《し》めて三千と二十四いろの変った品々にござります。
手前これまでに渡海いたしましたる国は、いずれとお尋ねならば、天竺へ三たび、唐土へ三たび、和国もご当地へは七たび目の旅にござります」
これを聞いて、小栗判官は、――おれは大名だが、まだこれといって定まる妻がない。しかるべき娘を見つけたいと思っているが、だれかこれぞという妻になるような若い娘を、そちは知らぬか、といってたずねました。
すると左エ門がいうのに、
「ここから東にあたる相模の国に、横山長者という分限者がおります。この長者には、八人のむすこがおります。
長者は、かねがね自分に娘のないことを歎いて、天道さまに娘をひとり授けたまえと、とうから祈っておりました。
すると娘がさずかりました。娘が生まれますと、両親は、これは天照大神さまのご神力によって授かった子ゆえ、親よりも高い身分にしてやらねばと考えまして、べつに一軒、娘の住む家を建ててやりました。
まことにその娘御は、日本中のどんな女にくらべても、ずんと立ちまさっております。あれをおいては、殿さまにお似合いのものはないと存じます」
この話は兼氏を大いに喜ばせました。そして、さっそく左エ門に橋渡しの役をつとめてくれるように頼みました。左エ門は、判官の望みをかなえるためには、自分の力のおよぶことは何でもすると約束しました。
そこで兼氏は硯と筆をもってこさせて、さらさらと恋文をしたため、それを法のとおりの結び方に結びました。
その文《ふみ》を、兼氏は、姫に渡してくれるように商人に托し、なお役目の礼として、金子百両をあたえました。
左エ門はいくたびも平身低頭して礼をのべ、その文をしじゅうたずさえている笈《おい》のなかにしまい、その笈を背に負うと、やがて若殿に別れを告げました。
さて、常陸から相模へは、ふつう旅程にして七日はかかるのに、左エ門は昼夜兼行で道中を急いだので、三日目の正午《ひる》には、早くも相模につきました。
左エ門は、横山長者がひとり娘の照手姫のために、相模の国相馬の里に建てた、俚俗|乾《いぬい》の御所といわれている屋敷へ行って、中へはいる許しを乞いました。
ところが、掟きびしい門番が、ここは横山長者のひとり娘、照手姫の屋敷で、男という男はいかなものでも、中へはいることはまかりならぬ。あまつさえ、夜は十人、昼は十人の門番が、用心おさおさ怠りなく、御所の警護に当っているといって、左エ門に早く立ち去れと命じました。
けれども商人は、自分は京の室町に住む後藤左エ門という者で、栴檀屋《せんだんや》といえばすこしは人にも知られた商人だ。唐土に三たび、天竺にも三たび渡って、今この「日出づる国」に帰って、七たび目の諸国道中をしている者だ、と答えました。
それからまた、こうもいいました。「ここの御所は別として、わしは日本国中の御所へはどこへなりと木戸御免ゆえ、おまえがたがここを通してくれれば、大きに恩に着ますぞ」
そういいながら、左エ門は絹や太物をたくさんとりだして、門番どもにくれてやりました。門番どもは欲に目がくらみ、左エ門は難なく中へはいることができました。
大きな外手門をはいると、橋をわたり、まもなく左エ門は大ぜいの女中衆のいる局《つぼね》の前へ出ました。
そして、大きな声で呼ばわりました。「さあさあお女中衆、みなさまがたのお入用の品々、何なりと持って参じました!
「まず上臈がたの召し道具、櫛笄《くしこうがい》に針、けぬき、立髪、銀簪《ぎんかん》、長崎名物|御髢《おんかもじ》、唐《から》の鏡もござります」
女中たちはそれらの品々を見たいと思って、喜んで商人を局《つぼね》のうちへ入れましたから、左エ門はここぞとばかり部屋じゅうを、たちまち女の化粧道具一式を売る小間物店のようにしてしまいました。
けれども、値段のかけひきや売り捌《さば》きをすかさずしている間も、左エ門は自分の握った機会《しお》をのがすようなことはしませんでした。やがて笈のなかから頼まれた恋文をとりだすと、女中たちにいいました。――
「この文は、しかと憶えていますが、わたしが常陸の国のさる町で拾ったものです。みなさんがお納め下さるなら、喜んでさしあげます。――筆跡が美しければ手本にお使いなさるとも、また下手な字ならばお笑いなさるとも、どちらなりと」
すると、女中頭が文《ふみ》を手にとって、封じの上書を読んでみました。
「月に星――雨に霰《あられ》が――氷かな」
月と星、雨と霰が氷をつくるという意味ですが、女中頭にはこのふしぎな言葉の謎がとけませんでした。
ほかの女中たちも同じように、やはり言葉の意味が見当もつかないので、ただ笑うよりほかにありませんでした。あんまり女中たちが高い声で笑うものですから、照手姫がそれを聞きつけて、局へ出てきました。りっぱな着付をして、ぬばたまの黒髪には被衣《かずき》をかぶっていました。
み簾《す》がするすると上がると、照手姫はたずねました。「みなのもの、何をそのように笑いやる? なんぞおもしろいことがあるなら、わたしにもお裾分けをしておくれ」
すると、女中たちが答えるのに、「ただいま、都からまいりましたこの商人が、さる町で拾うたという文が、だれにも読めませぬので、それで笑っておりました。これがその文でございますが、これこのとおり、上書の文字からして、とんと何じゃもんじゃでござりまする」
といって、その文を、ひらいた緋の扇の上にのせて、姫にさしだしますと、姫はそれを手に取るより、水茎のあとのうるわしさにしばらくの間見とれていましたが、やがて申すには、――
「これほどみごとな手跡は見たことがない。まるで弘法大師のご直筆か、それとも文殊菩薩の手の跡でも見るような。……
都に数ある公家衆のなかでも、一条、二条、三条家の公達《きんだち》は、世に名の高い書きてじゃが、これを書かれたのは、おそらくそのなかのおひとりであろう。
それとも、その推量がたがうなら、おおそれ、いま常陸の国で名の高い、小栗判官兼氏さまが書かれたものに相違あるまい。――この文、わたしがちゃっと読んで進ぜよう」
そういって、姫は文の封じ目をひらくと、まず初めに読んだ文句は、「富士の山」という文句でした。姫はこれを身分の高いという意味に解きました。そのあとは、次のような文句に出会いました。――
「清水小坂、あられに小笹、板屋に霰《あられ》、袂に氷、野中に清水、小池に真菰《まこも》、芋葉に露、尺長帯、鹿に紅葉、ふたまた川、細谷川に丸木橋、弦《つる》なし弓に羽抜け鳥」
姫には、この文字の意味がわかりました。――
「まいれば逢う。はなれない。ころびあう」
あとの意味は、こうでした。――
「この文《ふみ》は、人に知られぬよう、袂のうちにてひらくべし。秘事《ひめごと》は胸に秘すべし。なにごとも風になびく葦のごとく、われにまかすべし。きみがため、よろずまごころこめてつくすものなり。初めは生木を裂かるるとも、末はかならず添いとぐるべし。妻恋う秋の男鹿のごとくあらまほし。よしや長く離るるとも、ふたまた川の末は一つに落ちあうごとく、かならずめぐりあうべし。願わくはこの文《ふみ》のこころを判じて、よくそのむねを守るべし。色よき返しを待ちはべり候。君をおもえば飛びもゆきたき心地なるぞかし」
そして文の末を見ると、この文をしたためた人、小栗判官兼氏の姓名と、宛名には照手姫と、自分の名が書いてあります。
照手姫は、このときはたと当惑しました。というのは、まさかにこの文が自分に宛てられたものとは思いもよらなかったので、べつに何の考えもなく、女中たちに大きな声で読んでやってしまったからでした。
それというのも、頑固一徹な父の長者が、もしもこのことを知ったなら、きっと情容赦もない仕打で、さっそく自分を殺してしまうにちがいないと、姫は承知していたからです。
そんなわけで、姫は怒り狂った父親の手にかかって、娘を殺すにかっこうな、姥野《うばの》ガ原という寂しい原中の土にされてしまいそうな気がして、思案にあまりながら、文のはしを歯で噛みちぎり噛みちぎり、奥のひと間にさがりました。
一方、商人の方は、なんらかの返事を手に入れなければ、おめおめ常陸へは帰れないことを承知していましたから、窮余の一策にひとつ狡い手を打って、どうでも返事を手に入れてやろうと、さそくの肚をきめました。
そこで草鞋をぬぐのもそこそこに、姫のあとをば追いかけて、奥のひと間に駆け入るなり、大きな声でいいたてました。――
「これさ、姫君さま。およそ文字というものは、天竺にては文殊菩薩、わが朝にては弘法大師のつくられたものとやら。
その文字をもってしたためた文を引き裂くとは、こりゃ大師のみ手をひき裂くにもひとしいこと。
姫君さまにはご存知かしらぬが、総じて女子《おなご》というものは、男にくらべて穢《けが》れたもの。その穢れた女子にお生まれなさったにより、そのようなもったいない真似をなされますのか?
さあ、ご返事書くのがおいやなら、この左エ門が天地の神に祈りますぞや。女子に似あわぬ振舞を、天地の神にお告げして、神罰をば下さるるよう祈りまするぞ」
そういって左エ門は、笈のなかより珠数とりいだし、瞋恚《しんに》の形相ものすごく、珠数さらさらと押しもみました。
照手姫は恐さも恐し悲歎にくれ、そのご祈祷はやめて給《た》もと、商人にたのみ入り、返事はすぐに書くからと約束をしました。
そこで、さらさらと返書をしたため、商人に手わたすと、商人は首尾よくいったと北叟《ほくそ》笑み、笈を背に負い、いそぎ常陸の国へと出立しました。
四 兼氏、舅《しゅうと》の承引なくして花婿となること
さて仲人の左エ門は、道中ひたすら道を急いで、日ならず判官の屋敷につきますと、あるじ兼氏に返しの文をわたしました。兼氏はうれしさに打ち震える手で、文の上包みをひらきました。
返事の文句はごく短かいもので、――「沖中舟《おきなかぶね》」と、ただそれだけの文字でした。
兼氏は、それを次のような意味に解きました。「運不運はなにごとにもつきものゆえ、案ずることなく、人に見られぬようにおいで下さい」と。
そこで兼氏は池の庄司を呼び、にわかの旅だちに入用な品々を洩れなくととのえさせました。そして、後藤左エ門は案内役を承引しました。
兼氏は腹心の供をひきつれて、やがて相馬の里にいたり、姫の屋敷のそばまできますと、案内役の左エ門がいいました。
「あすこに見える、あの黒い門のある屋敷が、遠く名のきこえた横山長者のすまいでございます。屋敷の北の方に、もう一棟、あの赤い門のある屋敷が、あれが花うるわしい照手姫の屋形でございます。殿には万事お抜かり遊ばすな。さすれば首尾は上々にござります」こんなことばをのこすと、案内役の左エ門は、そのまま姿をかくしました。
判官は、腹心の家来池の庄司にともなわれて、赤門のそばまでやってきました。
ふたりが門のうちへはいろうとすると、門番が出てきて両手をひろげ、――天下にかくれもねえ横山長者のひとり娘、日輪さまのお申し子照手姫のお屋敷へ、ぬけぬけはいるは不敵な奴ばら、とどなりたてました。
「そういわるるは尤も至極」と池の庄司は答えました。「なれども、われらは都がたより落人《おちうど》探索にくだりし役目の者なれば、さようこころえられよ。聞けば当屋敷は、男子禁制とあるによって、なおさらとくと吟味の筋あり」
すると門番どもは肝をつぶして、ふたりを中へ通しました。奉行所の役人と思われたふたりは、ずかずかと庭のなかへはいっていきますと、局の女中達が大ぜい出てきて、ふたりを客として迎えました。
照手姫は、あの恋文を書いたお方がはるばるやってこられたと聞くと、飛びたつばかりに喜んで、いそいそと式服にあらため、襠裲《かいどり》をはおって、恋しい人の前にあらわれました。
兼氏も美しい姫にこんなにまで歓迎されたことを、心からうれしく思いました。そして、すぐさま婚礼の盃ごとが、双方喜びのうちに挙げられ、つづいてさかんな祝宴が催されました。
宴たけなわに、一座の喜びもひとかたならず、兼氏の従者《ずさ》たちは姫の腰元たちと踊ったり、いっしょに管絃をひいたりする騒ぎ。
そして小栗判官も、竹の根でつくった笛をとりだして、調べゆかしく吹きはじめました。
すると照手の父の横山長者は、娘の屋敷での陽気なこの騒ぎをききつけて、なにごとかといぶかりました。
ところが、判官が父親の自分の承引をもえずに、無断で娘の花婿になったというその次第を聞くや、長者は烈火のごとく憤って、よし、この報復はかならずしてやると、ひそかにもくろみをめぐらしました。
五 毒殺
その翌日、横山長者は兼氏卿のもとへ使いをやって、おたがいに婿舅のあいさつの酒宴を催したいから、屋敷へお越しくださるようにと招待をしました。
ところが照手姫は、なにやら昨夜の夢見がわるかったものですから、判官に父の屋敷へ出向くことを止めさせようとしました。
でも判官は、姫のとりこし苦労を軽く見て、供の者をつれて長者の屋敷へまかりでました。
横山長者は大機嫌で、山海の珍味をうずたかく盛った、かずかずの料理を用意させて、判官を手あつくもてなしました。
やがて酒宴もそろそろ下火になりかけたとき、横山長者は正客の兼氏卿にも、なにか座興の肴《さかな》を出してもらいたいと所望しました。
「肴とは何であろうかな?」と判官がたずねますと、長者が答えるのに、「じつは、そこもとのおみごとな馬のお手並を拝見いたしとうござる」
「しからば、乗りましょう」と兼氏は答えました。やがて鬼鹿毛《おにかげ》という馬がそこへひきだされました。
この馬は、たいへんなあらくれ馬で、馬というよりは鬼か竜かと思われるほどの手ごわい代物《しろもの》で、誰もすすんで側へ近よる者がないという馬でした。
ところが判官兼氏卿は、つないであった鎖をとくと、驚くほどらくらくとその馬にまたがりました。
名うての荒くれ駒のくせに、鬼鹿毛は乗りての望むがままのことを、何でもしないわけにはいきませんでした。長者をはじめ、並みいるものはみな舌をまくばかりで、言葉もでませんでした。
やがて長者は六曲屏風を座へもちだしてきて、それを立てまわし、この屏風の縁へ馬を乗り上げるところが拝見したいと、兼氏にたのみました。
小栗卿はその頼みをひきうけて、たちまち屏風のてっぺんへひらりと馬を乗り上げたとおもうと、さらにまっすぐに立っている障子の枠の上を、馬に歩ませました。
すると、こんどは碁盤がもちだされました。兼氏はまたもや馬にまたがったまま、その碁盤の目の上に馬の蹄をきちんと揃えさせました。
そして最後には、行灯《あんどん》の上に馬を乗りあげて、ちゃんと馬に中心をとらせました。
横山長者は、もうどうしてよいやら途方に暮れて、兼氏卿に平身低頭すると、やっとのことでいいました。「お手並のほど、じつにもって恐れ入りましてござります。たいへんおもしろく拝見いたしました」
小栗卿は庭前のさくらの木に鬼鹿毛をつなぐと、座にもどりました。
ところが、この家の三男で、三郎というものが、判官に毒酒を盛って殺してしまえと父親を説き伏せて、青むかでや青とかげの毒汁や、竹の節にたまった腐れ水をまぜた酒を、兼氏にすすめました。
判官と従者たちは、まさかに毒をしかけた酒とは思いもよらずに、なみなみとそれを飲み干しました。
あわれや、毒はかれらの腹中に入ると、その猛毒によって、五体の骨がばらばらに離れ砕けてしまいました。
さて面々の命は、草葉に消える朝露のように、見る見るうちに消え絶えてしまいました。
三郎と父親の長者は、その面々の死骸を姥野《うばの》ガ原に捨てさせました。
六 浮き沈み
残忍非道な横山は、娘の夫を殺したうえは、わが娘をも生けてはおけないと考えました。そこで腹心の朗等《ろうどう》、鬼王・鬼次という兄弟にいいつけて、姫を相模の海の沖合につれださせ、そこで沈めてしまうことにしました。
鬼王・鬼次の兄弟は、かねがね主人は石のような心の人ゆえ、何をいってもとりあげないことを承知していましたから、ただ言いつけに従がうよりほかにありませんでした。そこで両人は、不幸な姫のところへ行って、これこれしかじかと、自分たちが遣わされた目的を姫に打ち明けました。
照手姫は無情な父の料簡に仰天し、はじめは夢かと思い、夢ならば醒めてくれよと祈りました。
ややあって姫がいうには、「わたしは生まれてこれまでに、承知で罪を犯したことはいちどもない。……でも、わが身にどのようなことが起ろうと、それはかまわぬが、ただ気がかりなは、わが夫兼氏さまのお身の上。父の屋敷へまかりしあと、どうなされたか、それが言うにもまさる気がかりじゃ」
ふたりの兄弟は答えました。「ご主人さまはの、そもじがたおふたりが父御《ててご》さまのお許しもないに婚《めあ》われたと知って、いかいご立腹。そのあげくに、兄君三郎さまのたくらんだ一計をお用いあって、若殿さまをばご毒害――」
聞いて照手はいよいよ仰天。いかに父じゃとてあまりの非道。かくなる上は、もはや父でもなし子でもなし、天罰まさに下れよかしと、神に祈念をささげました。
でも照手姫は、わが身の非運を歎くいとまもありませんでした。というのは、鬼王・鬼次の兄弟が、たちどころに娘の衣裳をはぎ、あられもない裸身を手早く荒蓆《あらむしろ》で簀巻《すまき》にしてしまったからです。
むざんやその菰《こも》包みが、その夜のうちに屋敷からはこび出されたとき、姫と腰元たちはたがいによよと泣きながら、最後の別れをいいかわしました。
さて鬼王・鬼次の兄弟は、涙のたねのその荷をば、かねて用意の小舟につみこむと、沖合はるかに漕ぎ出ました。やがて自分たちだけになったときに、弟の鬼次が鬼王に、兄貴、姫君はおれたちの手できっと助けよう、その方がいいぜといいました。
鬼王もそれには何の否《いな》やもなく、弟のいうことに一も二もなく賛成しました。そして姫を助ける手だてをば、ふたりして考えはじめました。
おりからそのとき、一艘のからの小舟が汐に漂いながら、こちらの舟へ流れよってきました。
姫はすぐさま、その小舟へと移されました。兄弟は「こいつはほんに運がいいわえ」といって、姫に別れを告げると、主人のもとへ舟を漕ぎもどりました。
七 頼姫
さて哀れな照手姫をのせた小舟は、七日七晩波にゆられて漂いましたが、そのあいだに烈しい時化《しけ》がありました。そして、舟はとうとう直江の近くで漁をしていた漁師たちに見つけられました。
ところが漁師たちは、この美しい女はきっとあの長時化《ながじけ》をおこした魔のものにちがいないと考えました。もしもそのとき、直江に住んでいたひとりの男が庇《かば》ってくれなかったら、照手は漁師たちの櫂《かい》で打ち殺されてしまうところでした。
その男は村上太夫というもので、この男もちょうど後とりの子がなかったので、照手を自分の養女にすることにしました。
そこで家につれ帰って、頼姫と名をつけて、ねんごろに養っているうちに、村上の女房が頼姫のことをやっかんで、夫の留守にたびたびいびりいじめました。
けれども、そんなにしても頼姫がいっこうに自分の方から家を出ていこうとしないものですから、女房はますます腹にすえかねて、もともと心のねじけた腹の黒い女だったので、なんとかして頼姫をなきものにしてしまおうとたくらみだしました。
ちょうど折も折、港に人買い船が泊りました。頼姫がこの人肉商人にこっそり売られたことは、ことわるまでもないことでした。
八 下女奉公
こうした不幸な目にあってから、よくよく不運な頼姫は、七十五遍も主人から主人の手へと渡りあるきました。さいごに彼女を買いとったのは、美濃の国の大きな女郎屋のあるじ、万屋《よろず》長兵エという者でした。
照手姫は、この新規の主人の前にはじめてつれてこられたとき、しとやかなものごしで、自分は行儀作法をなんにも知らないふつつか者だが、なにぶんよろしく、といって主人にあいさつをしました。すると長兵エは、彼女の人となりや生国、家柄などを、つつまず話せといいました。
しかし照手姫は、ここでうかつに物をいうと、自分の夫が自分の父親に毒害されたことまで喋らされるかもしれないので、生国その他をあからさまに明かすのはまずいと考えました。
そこで、生国は常陸とだけ答えておくことにしました。自分の恋い慕う判官どのが住んでいた同国の者だということに、悲しい喜びを感じながら。
「わたくし、生国は常陸の国でござりますが、生まれが低いゆえ、苗字《めうじ》はござりませぬ。なにとぞよさそうな名をつけて下さりませ」
そこで照手姫は、常陸の小萩という名前をつけられました。そして、主人の稼業に精出してつとめろと申し渡されました。
しかし照手姫は、このいいつけに従がうことを辞退して、自分はどんな卑しい仕事でも、どんな辛い仕事でも、これをせよとあてがわれた仕事は、なんでも喜んで致しますが、「女郎」の勤めだけは致しかねますと、きっぱりことわりました。
「ええい、よいわ」と長兵エは気色を損じてどなりつけました。「そんなら、きさまの日々の仕事はな――
厩《うまや》につないだ飼馬にな、数でいうたら百匹いるわえ、その馬に飼葉《かいば》をやってな、それからうちの奉公人に、三度の飯の給仕をしろやい。
それからな、ここの家のかかえ、三十六人の女郎衆の髪を結え。よいか、それぞれ相手のいちばん引き立つ髪かたちに結うのだぞ。それから、麻の苧《お》で撚った糸を、七つの箱にいっぱいこしらえろ。
それからまだある。毎日七つの竃《かまど》に火を焚きつけ、ここから半道ある山の清水を汲んでこい」
照手は、たとえわが身でなくとも、どんな人にもせよ、この酷薄な主人が自分に負わせた仕事をことごとくやりおおせる人は、とてもありっこないことを知って、つくづくわが身の不幸に涙をこぼしました。
でも、いくら泣いたとて、どうにもならぬことに、照手は気づきました。そこで涙をふいて、なんとかしてやれるだけやってみようと性根をすえ、それから前垂をかけ、袂をうしろに結ぶと、かいがいしく馬に飼葉をつける仕事にとりかかりました。
神の慈悲、神冥《しんみょう》の佑助《ゆうじょ》とは、とても人間には理解のできないことですが、とにかく、彼女が最初の馬に飼葉をやると、天佑か神助か、ほかの馬も全部いちどに、それでじゅうぶんに養いがつくのでした。
それと同じような不思議なことが、飯どきに家の人たちに給仕をしているときにも、遊女たちの髪を結っているときにも、麻糸を撚《よ》るときにも、竃に火を焚きつけるときにも、同じように起りました。
それにしても、いちばんみじめなのは、照手姫が水桶を肩にかついで、遠い清水のわくところまで水を汲みにいく姿でした。
なみなみと汲んだ水桶の、水に映った自分の変りはてた姿を見たときには、じっさい彼女は、おいおい声をあげて泣きました。
でも、薄情な主人のことをおもいだすと、きゅうに彼女は身の毛がよだって、急いで宿へとせきたてられるようにとって返すのでした。
しかし、まもなく女郎屋の亭主も、自分のとこの新しいこの下女が、尋常の女でないことがわかってきたので、だいぶ親切ごころを見せて扱うようになってきました。
九 車引
ところで、兼氏の方はどうなったかをお話いたしましょう。
相模の国は藤沢寺の遊行《ゆぎょう》上人は、つねづね日本国中、津々浦々を行脚して、諸国に仏法を説いてまわっている名僧ですが、この上人がたまたま姥野《うばの》ガ原を通りかかりました。
ふと見ると、なにやら塚らしいもののほとりを、おびただしい鴉《からす》と鳶《とび》が群れ歩いているので、近寄って見ますと、欠け落ちた石塔のかけらの間に、見たところ両腕両足のない、何とも名状しがたいものが動いています。はて不思議やと、上人は小首をかしげました。
昔からの言いつたえに、この世で定められた定命がまだ尽きぬうちに命をたたれた者は、「餓鬼阿弥」の姿になって現われたり、生き返ったりするとしてあります。上人はそれを思いだしました。
してみると、いまこの目前にあるものは、そうした不幸な亡霊の一つにちがいない。――上人はそう考えて、そうとしたら、この稀有《けう》な姿をしたものを熊野の寺の温泉《いでゆ》につれていって、もとどおり五体そろった人間の姿に返してやりたいという願いが、やさしい上人の心のなかにおこってきました。
そこで上人は、この「餓鬼阿弥」のために車を一台つくって、この何とも名状しがたい姿をしたものをその車にのせ、亡骸《むくろ》の胸のところに、大きな字を書いた木の札をくくりつけました。
木札に書かれた文句は、次のようなものでした。――「この不運な者に憐れみをたれ、熊野の寺の温泉《いでゆ》までの道中、諸人の合力を乞うものなり。車につけたる綱をひいて、わずかなりとも車を進めたるものは、大いなる福徳をさずかるべし。たとえ一歩なりともこの車をひけば、その功徳は千人の僧に飲食《おんじき》を給し、二歩ひけばその功徳、一万の僧に飲食《おんじき》を給するにひとしかるべく、また三歩引けばその功徳、父母配遇はもとより、九族の霊を成仏せしむるにひとしからん」
こうして道中の旅人衆は、たちまちこの形のないものを不憫におもって、なかには何里も車をひくものもあり、またなかには、幾日もいっしょに車を引くものもでてきました。
そんなふうにして、だいぶ日数をかさねたのち、ある日、車にのせられた餓鬼阿弥は、万屋長兵エの「女郎屋」の前へやってきました。そして、常陸の小萩がそれを見て、木札の文句にひどく心を動かされました。
小萩は、たとえ一日でもいいから、あの車を引いてあげたいと思いました。そうした慈悲をほどこせば、きっと亡夫の上にも功徳がえられるだろうと、いちずに思いこんだのです。そこで小萩は、車をひくために三日だけ暇《ひま》をくれといって、主人の長兵エに歎願しました。
このことを頼むのに、小萩は父母の供養のためだといいこしらえました。本当のことを知ったら、主人がどんなに怒るか、それが心配だったので、小萩は思いきって亡夫のことを口に出せなかったのです。
長兵エは、おまえはいつぞやおれの言いつけに従わなかったことがあるから、いっときたりとも家を明けることはならぬといって、はじめのうちは頑なに不承知でした。
小萩はかさねて主人に言いました。「ごらんください、旦那さま。陽気が寒いと、庭鳥は巣のなかにはいりますし、小鳥は急いで森の奥へかくれます。人間もそれと同じで、不幸なおりには、みんな慈悲のかげに逃げこみます。
「あの餓鬼阿弥が、こちらさまの塀外でしばらく休みましたのも、きっと旦那さまとお神さまが、心もちのおやさしい方だということを知っているからでございます。
ここで三日の間、わたくしにお暇をいただかせて下さいましたら、きっとまさかのときには、わたくしは旦那さまとお神さまのために、命をさしあげるとお約束いたします」
さすが因業《いんごう》頑固な長兵エも、とうとうしまいに言い伏せられると、小萩の願いをききいれてやりました。すると長兵エの女房が、許された日数にさらに二日を、きげんよく増してくれました。そんなわけで、合わせて五日間自由の身になった小萩は、やれ嬉しやと喜び勇んで、すぐさま人の厭がる仕事にとりかかりだしました。
さて、多くの艱難辛苦《かんなんしんく》をなめながら、車は不破の関、むさ、番場、醒が井、大野、末永峠などを通って、やがて三日がかりで名高い大津の町につきました。
ここで小萩は、いよいよ車とも別れなければならないことを知りました。そこから美濃の国まで帰るには、二日かかるからです。
美濃から大津までの長い道中のあいだ、小萩の目や耳をわずかに楽しませたものは、道ばたにはえた美しい百合《ゆり》、雲雀《ひばり》や四十|雀《から》、木々にさえずる春鳥の声、さては早乙女の歌ぐらいなものでした。
でも、こうした目や耳にふれたものは、ほんの一時心を慰めただけでした。というのは、そういうものはおおむね彼女に、過ぎこしかたを夢のように思いださせると同時に、自分がいま落ちこんでいる、望みも希望もない境涯を思いださせて、彼女を苦しめたからです。
まる三日のはげしい力わざで、ひどく疲れたとはいえ、彼女は宿をとりませんでした。ゆうべは一晩中、もうあすになれば側を離れなければならない餓鬼阿弥のそばで過ごしたのでした。
小萩はひとりで考えました。「よく聞くことだけど、餓鬼阿弥というものはあの世のものなのね。してみると、この餓鬼阿弥も、死んだわたしの夫のことを何か知ってるかもしれないわね。
「ああ、ほんにこの餓鬼阿弥が耳がきこえたり、目が見えたりしたらばねえ! そうすれば、口でいうなり、文字で書くなりして、兼氏さまのことが聞けるのだけど……」
朝霧のかかった近くの山の端《は》が白みかけたとき、小萩は硯と筆をとりにどこかへ出ていきましたが、まもなくその品をもって、車のいる所へもどってきました。
やがて小萩は筆をとると、餓鬼阿弥の胸にさげた木札の下へ、次のような文句を書きそえました。――
「おん身もとのおん姿にかえらせ給い、お国もとに立ちかえることを得侯はば、美濃の国おばか町なる万屋長兵エの下女、小萩がもとを訪いたまえかし。
ここもと五日の間辛くも暇《いとま》をえて、うち三日をかけてこのところまで車を引きてまいり侯。ふたたび御見《ごけん》をえなば、喜びこれに過ぐることなかるべく侯」
かくて、車をあとに行きかねたものの、小萩はやがて餓鬼阿弥に別れを告げると、帰りの道をいそぎました。
十 蘇生
餓鬼阿弥は、ついに名高い熊野権現の温泉《いでゆ》までつれていかれました。そして、その境涯を不憫におもう慈悲ぶかい人達の助けで、日ましに湯治《とうじ》の験《げん》が見えてきました。
一週間たつと、霊泉のききめで、目、鼻、耳、口が元のように現われてきました。二週間たつと、手足がすっかり元の形になりました。
二十一日たつころには、あの名状しがたい格好をしていたものが完全に形を変えて、五体そろったほんものの、端正容美な、ありし日の小栗判官兼氏になりました。
ふしぎなこの変貌がすっかりととのい終ると、兼氏はあたりをくまなく見まわして、はて、いったい自分はどうしてこんな見も知らない所へつれてこられたのだろうと、大いに不審に思いました。
けれども、なにごとも熊野大権現のご加護によって、こうなることは定められていたことなので、生き返った兼氏は、やがて京の二条の両親の屋形へぶじに帰ることができました。両親の兼家夫妻は、たいそうな喜びかたで伜の兼氏を迎えました。
時のみかどは事のしだいを聞こし召されて、臣下の者が死後三年たって生き返るとは、世にも不思議なことだとおぼし召されました。
そして、追放された判官の罪を赦免し、なおそのうえに、お上《かみ》では兼氏を上常陸、相模、美濃の三カ国の管領に任じました。
十一 めぐりあい
ある日、小栗判官は屋形をあとに、新しく任命された国々へ巡察の旅に出かけました。美濃の国につくと、かれは常陸の小萩をたずねて、この中《じゅう》のだんだんの親切に礼をのべることにしました。
そこで万屋に宿をとると、楼中第一のよい部屋に通されました。座敷は幾双もの金屏風やら、唐の敷物、天竺の掛物、その他高価な珍しい品々で美々しく飾られていました。
兼氏卿が、常陸の小萩をここへ呼ぶようにといいつけますと、あれはごくはしたない下女で、あまり穢らわしいから御前へは出されぬという返事。しかし兼氏はそんな言葉は耳にも入れずに、穢らわしくてもかまわぬから、すぐにここへ来るようにと命じました。
そこで小萩は、心ならずもしょうことなしに客の前へ出されたのですが、最初|衝立《ついたて》ごしにちらりと見ると、その客というのが判官に生き写しなので、小萩はぎょっと驚きました。
小栗は、まず小萩に本名を明かしてくれと頼みましたが、小萩はそれを辞退して、「本名を明かすなどと、そんなお話は抜きにして、酒《ささ》のお相手を勤めるのでなければ、御免をいただきます」
そういって、座をたとうとする小萩を、判官は呼びとめて、「これ、しばらく待ちゃ。本名をたずねたには、ちと仔細《しさい》がある。じつは去んぬる年、そなたがねんごろにも大津まで、車にのせて引いてくれたあの餓鬼阿弥は、何をかくそう、このわたしじゃ」
そういいながら、兼氏は小萩が書きそえたかの木札を、それへさしだしました。
それを見るなり、小萩はびっくり。「まあまあ、そのようにご本復あそばしたところを拝見して、ほんにほんに嬉しうござんす。こうなる上はわたしの身の上、なにもかも喜んでお明かしいたしましょう。ついてはお願いがございます。殿様はあの世からお立ち帰りになりました。わたくしの夫は今はあの世におりまする。どうかあの世のお話をお聞かせ下さりませ。
「昔を語れば涙のたね。もとわたくしは相模の国、相馬の里なる横山長者の娘に生まれ、名を照手姫と申しました。
忘れもせぬ三年前、わたくしはさるご高家のお方と夫婦《めうと》になりました。その方のお名前は小栗判官兼氏卿、当時は常陸の国にご任官。しかるに夫兼氏卿は、わが父の手にかかりて毒殺横死。父はわが舎弟なる三男三郎に唆《そその》かされたのでござります。
この身は父のとがめを受け、相模の浦に沈められました。それが図らず今こうしてここに命永らえておりますのは、ひとえに父の家来、鬼王・鬼次と申す者のおかげでござります」
そのとき、判官がいいました。「これ、照手姫、よっく見やれ。今そなたの面前にいる、このわしがその兼氏じゃ。この兼氏は、あのとき従者《ずさ》とともども殺されたが、じつは命数いまだこの世に尽きなかったのじゃ。
さいわい、藤沢寺の聖《ひじり》に助けられて、車をあてがわれ、あまた親切なる人々の手にて、熊野の温泉《いでゆ》にひかれて行き、そこにて元のごとく丈夫になり、姿も元通りになったのじゃ。おかげをもって只今は、三カ国の管領職に任ぜられ、望むがままの物がえられるようになったぞ」
この話をきくと、照手はなにもかも一場の夢ではないかとばかり、ただ嬉し涙にかきくれました。やがていうのに、「ほんにあの時お目にかかってから、このわたくしもどれほどの憂き艱難をなめましたことか。
「七日七晩、小舟で海を浮き沈み、危ういところを直江の浦の、村上太夫という親切なお人に助けられました。
それからのちはこの身をば、七十五遍も売り買いされ、とどのつまりはこの土地につれてこられ、女郎になるのを断わったばかりに、ありとあらゆる辛苦のかずかず。このような浅ましい姿でお目にかかるのも、みんなそのためでござります」
残忍非道な長兵エの無道な振舞をきいて、兼氏は烈火のごとく憤り、ただちにかれを成敗したいと思いました。
けれども照手姫は、長兵エの助命を夫に願いました。というのは、彼女はいつぞや餓鬼阿弥の車をひくために、五日の暇をたまわれば、まさかのときには主人夫婦に命をさしだすと約束したので、それをこのとき果たしたわけです。
長兵エは心からそれを恩に感じて、その返礼に、判官には厩の馬百匹、照手には家の奉公人を三十六人、引き出物として贈りました。
そこで照手姫は身なりをあらためて、兼氏の君と美濃の国をあとに、ともに喜びにあふれながら、相模の国へと鹿島立《かしまだ》ちました。
十二 報復
ここは相模の国相馬の里、照手姫の生まれ故郷です。ふたりの心には、どんなに多くの美しい思いや悲しい思いを呼びおこすことでしょう!
そのうえ、ここはまた、小栗卿を毒害した横山長者父子のいるところでもあります。
長者の三男三郎は、戸塚の原という荒野にひかれて、そこで処刑を受けました。
しかし横山長者は、心のねじけた悪人ではありましたが、これは処刑を受けませんでした。いかに悪人なりとも、親は子にとって日月のごときものだからです。赦免ときいて、横山は心から前非を悔いました。
鬼王・鬼次の兄弟は、相模の浦の沖なかで照手姫を助けたかどによって、褒美の品をかずかずもらいました。
かくて善人は栄え、悪人は滅ぼされたのであります。
小栗さまと照手姫とは、ともにめでたく都にかえって、二条の屋形で暮らしました。ふたりの仲は、春咲く花のようにうるわしいものでした。めでたし めでたし
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八百屋の娘、お七の歌
秋になると、鹿は仲間の声の音《ね》に似た笛の音にひかれて、猟師の手のとどくところへ誘いこまれて殺されます。
それとよく似て、花のさかりの顔《かんばせ》に全都をわかせた、江戸で五人娘のそのひとりが、恋路の闇に目がくらみ、あたら命をすてました。
おろかなことをしでかしたあと、彼女は江戸町奉行の前にひきだされました。奉行は年わかい科人《とがにん》に尋ねました。「その方は八百屋の娘、お七ではないか。年若い身空で、いかがしてあのような恐ろしい放火の罪を犯すようなことになったのじゃ?」
お七は泣きながら、両手を拳《こぶし》に握りしめて、こう答えました。
「ほんに、あれが生まれてはじめて犯した罪。これから申し上げますことのほかに、深い仔細はさらさらございませぬ。
いつぞや江戸をあらかた焼きはらった大火事のありましたおり、わたくしどもでも焼け出されました。親子三人、ほかに寄るべもないままに、さるお寺へ身を寄せて、家の普請ができるまで、それなりそこに居つきました。
年のわかい者同志が、おたがいにひかれあう因縁は、ほんにわからないもの。――そのお寺に若いお小姓がいて、ふたりはいつしかわりない仲になりました。
そして内所で逢っては、たがいに見捨てぬと約束をいたし、小指を切ってその血をすすりあい、この恋末まで変らじと起請《きしょう》をとりかわして、固い誓いをいたしました。
やがて新枕も定まらぬうちに、新しい家ができあがって、いつでもはいれるようになりました。
でも、二世を契った吉三さまに、悲しい別れをした日から、思う方から文《ふみ》がきても、心の雲は晴れやらず。
夜ひとりで床に入るとは、いつも考えに考えあぐむうち、とうとうある夜の夢のなかで、恋しいひとに逢えるには、これよりほかに手だてはないと、家に火をつけるという大それた考えが浮かびました。
やがてある夜のこと、藁束のなかへ炭火のおきを幾つか入れ、家の裏手の物置のなかへそっとそれを入れました。
火事がおこって大騒ぎになり、わたしはお繩をいただいて、ここへ引かれてまいりました。――ああ、恐《こわ》やの、恐やの!
もうもう二度とこんな落度はけっして致しませぬ。お奉行さま、どんなことになりましょうとも、どうぞお助け下さいまし。どうぞわたしを不憫とおぼしめし下さいまし!」
いかにも正直な訴えながら、しかし彼女は幾つだったのでしょう? 十二、十三、十四、十四が過ぎれば十五歳。悲しや、彼女は十五歳でした。十五になれば、助命するわけにはいきません。
そこでお七は、掟どおりに処刑を申し渡されました。まず丈夫な荒繩で縛られて、七日の間日本橋のたもとで晒《さら》しものになりました。ああ、それは見るもむざんな光景でした。
お七の伯母やいとこたち、下男の可内《べくない》や角助までが、涙にぬれた袖をいくたびも絞ったほどでした。
しかし、罪は許すことはできません。お七は四本の柱にくくられて、薪に火がつけられると、火はどっと燃えあがりました。あわれやお七は火のなかに!
飛んで火に入る夏の虫
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八雲と近代文明
明治二十四年(一八九一年)十一月に、八雲は赴任以来一ヵ年ほど教鞭をとった松江中学校から、熊本第五高等中学校の教師に転任しました。この熊本転任のいきさつについては、いずれ伝記のなかでくわしく述べることにしますが、転任の動機ともいうべきものは、松江の冬のきびしい寒さが体にこたえたことと、もうすこしましな俸給を得たいということの二つであったようであります。そんなわけで、べつに八雲は熊本と指定して希望したわけではなく、どこかもっと暖いところをと希望したのが、偶然熊本にきまったわッでした。
人生というものは、まことにこうした偶然がいろいろの結果をもたらすもので、八雲も自分の意志で選んだわけではない熊本へ行って、そこで日本の武士道精神と対決することになるとは、夢にも考えていなかったにちがいありません。いわゆる九州男児という豪健な魂と気風にみなぎった若い精神、封建精神の濃厚な、きびしい家長制度のなかでの孝道の教え、そういうものに、親しく教鞭をとった生徒たちの言動を通じ、また周囲の生活を通じて、はじめて強く触れた八雲の驚異は、想像するに余りあります。その消息と収穫は、「九州の学生とともに」以下、「東の国から」のほとんど全篇にうかがわれるのでありますが、この熊本における収穫は、松江における神道と、それに付随する伝説と習俗の研究に劣らぬ大きなものを、八雲がここから摂取したことを物語っています。
長い封建社会と鎖国のあいだに、日本人の精神と生活を支えてきたもの。――八雲はこれに触れて、ひじょうに感動し、そしてこれを口を極めて讃美しています。そして、われわれはこんにち、この八雲の讃美を心しずかに読みかえし、八雲の讃美したものを心しずかに批判する、必須な時期と立場におかれていると思うのでありますが、それと同時に、八雲がなぜそれほどまでにそれを讃美したかということも、併せて考えてみなければならないと思うのであります。つまり、八雲が求めたもの、八雲が求めたその所以《ゆえん》を考えてみたいのであります。
ひとくちに申せば、その淵源は、八雲の西欧文明に対する嫌悪に帰するのではないかと思われます。すなわち、八雲の日本讃美は、一方に西欧の物質文明という対比をおいた上での讃美であるということであります。そして、この対比は、そのつぎの著作である本書「心」のなかに、著しく露呈されてきております。「心」のなかの重要な論文は、「日本文化の真髄」にしろ、「戦後」にしろ、「趨勢一瞥」にしろ、その他「前生の観念」「祖先崇拝の思想」など、いずれもなんらかの点で、東西文明の比較ということに筆が費されています。そして、例外なく、西欧文明の欠陥が執拗痛烈に貶《くさ》され、それと対比して古い日本の美点が賞揚されていることに気づきます。八雲はそれを西欧人への(ハーン自身をも含めての)警告として書いているのであります。八雲の読者は、申すまでもなく、みな欧米人であります。八雲自身は、日本人の読者を対象にして書いてはおりません。
ついでながら、このように「心」の諸篇のなかに、東西文明の比較が目に見えて多くなったのは、八雲が熊本から神戸に移ったことに、直接の原因があるようであります。教師をしていては述作の時間がないところから、またもとの新聞記者に舞いもどることにして、「神戸クロニクル」に入社した八雲は、神戸という開港場で嘱目《しょくもく》したものから、いままで気づかずにいたものを強く感じたようであります。
「……神戸はよいところだが、わたしには不愉快なところだ。これはわたしが日本の内地を知りすぎてきたためだろう。音を立てずにそっと歩き、物を言うにも静かな声で話をする日本の婦人のなかで暮したあとで、外人の婦人のしぐさを見たり、声を聞いたりすると、ひどく神経にさわる。(のみならず、この土地では、外国婦人はほとんどみな、いやにお高く止まった、――浅俗な英米風がはやっている。)敷物、よごれた靴、下らぬ流行、金をかけた暮し、気どり、虚栄、むだ話。こんなものより、やわらかな畳の上で、いつもしとやかな、礼儀正しい、うるわしい、清らかな、質素な日本人の生活の方が、どんなに住みごこちがいいかわからない。……」(エルウッド・ヘンドリック宛)
「……日本の内地にいたあとで、ここ(神戸)の外国生活を見るのは、はなはだ不愉快だ。ことに居留地とくると、ただもう恐ろしくなる。……湯津や日御崎や隠岐に住んで、日本風に暮している方が、開港場の最上の生活より、はるかにましだ。……じゅうたん、ピアノ、西洋窓、カーテン、真鍮のバンドの締め金、教会、どれもわたしの嫌いな物。それにワイシャツと洋服。……いわゆる文明なるものに自分がどれほど嫌厭《けんえん》を感じていたか、今まで気づかずにいたが、古い日本(昔からあった唯一の文明国)に長く住んでみて、文明の醜悪さがはじめてわかった。――これがわたしの目下の感懐だ。……」(チェンバレン宛)
ちなみに、八雲はこの神戸にいるとき、かねての願いどおり、小泉家に入夫して日本に帰化し、ラフカディオ・ハーン改め小泉八雲となりました。このときから、ハーンの著作は、完全に日本人としての自覚と責任の上に立つことになったわけであります。念のために、このことを申し添えておきます。明治二十九年(一八九六年)二月のことであります。
さて、八雲が西欧文明を貶《くさ》していることでありますが、おそらく、こんにちこの作品集を読まれる若い世代の諸君には、このことはたいへん奇異に思われるかもしれません。――科学、思想、芸術、すべてをふくめて近代文化の先達である西欧の文明を、なぜ八雲はああまで非難するのか? あるいは八雲は、日本を過度に讃美しようがために、自身を育ててくれた西欧の文明を必要以上にこきおろしているのではあるまいか? そういう疑問がおこるかもしれません。「東の国から」や「心」が出版された当時においても、欧米の知識人のあいだには、ハーンは日本を熱愛するあまり、批判の尺度が狂ってしまったという非難を吐いた人もあったくらいですから、そうした疑問を諸君がもたれるのはむりないかもしれませんが、それはまったく逆なのであって、八雲は西洋の文明にあいそがつきたので、自分の理想とする世界を求めたすえ、それを日本に見いだしたのであります。西洋の文明にあいそをつかしたからといって、西洋文明全体に対して八雲はあいそをつかしたわけではありません。八雲があいそをつかしたのは、西洋の物質文明と個人主義なのであります。これが優勢を誇っている世界では、とうてい生きていくのに耐えられなかったのです。
こと改めて申すまでもありませんが、八雲は一八五〇年に生まれた人であります。ちょうど十九世紀のなかばに生まれて、いわゆる世紀末の思想的洗礼をうけて、それから二十世紀にまたがった、典型的ないわゆる「過渡期」の人と申してさしつかえないと思います。ですから、八雲の作品を読み、八雲の感性に同感し、八雲の思想を理解しようとおもえば、八雲が十九世紀人であること、また過渡期の人であること、これは当然忘れてはならないことであります。したがって、その当時の西欧の社会的経済的状勢、思潮のありかたや傾向なども、もちろん、ひととおり頭に入れておかなければなりません。もっとも、今ここで十九世紀の思想史や世紀末の特質などを祖述するいとまはありませんが、とにかく、古いものの打破に狂奔した「シュトルム・ウント・ドランク」の時期を過ぎ、解放した自我の究極と人生の帰趨に悩んだ「世界苦《ウェルト・シュメルツ》」にあえいだあげく、あるものは「頽廃《デカダン》」に走り、あるものは「象牙の塔」にこもり、そして詩人も文学者も画家も、ひとしくみな平俗な物質文明を呪い、非情な機械文明を憎んだ時代であります。その意味では、当時の芸術家は、大なり小なり、みな痛烈な文明批評家であったわけであります。ハーンも時代の子で、やはりその一人であったことは申すまでもありません。
物質文明と個人主義の病弊を極度に嫌ったハーンは、ですから、なるべくその物質文明に汚されていない人間世界を求めて、マルティニーク島へも行き、さらに日本にきて、この国と国民の心情のなかに、ようやくのことで自分の理想的な世界を見いだしたわけなので、日本のうちでも、とくに隠岐のような孤島の人たちの素朴な生活と純粋な人情に深い愛着をひかれたのも、同じ理由からであろうと思われます。したがって、八雲の日本への讃美も、それを受けたわれわれがこれを読むとき、文明と原始に対する八雲の比重をとりはずすと、意味のない、歪んだ受け方になる惧《おそ》れがあります。過褒《かほう》は、じつはその比重の上でなされていることを忘れてはなりません。
十九世紀人の八雲は、このように文明を嫌いました。こんにち、われわれ二十世紀人も、われわれのおかれた二十世紀人の立場から、われわれの生みだした、あるいはわれわれを囲繞《いにょう》している現代文明というものの正体を、そしてその功罪を、しずかに闡明《せんめい》してみるべき時がきているように思われます。このことこそ、われわれ日本人の祖先伝来の根性と生き方に思いをいたす、大きな手がかりになる重要なことだと信じて疑いません。(訳者)