デューン 砂の惑星3
フランク・ハーバート
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(テキスト中に現れる記号について)
《》:ルビ
(例)遥《はる》か未来に
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)単身|赴《ふ》任《にん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
[#この最後に用語集があるが、わからなくなったとき最後までいって、また戻るという読み方は]
[#紙の本だから楽にできるのであって、ビューアーでは大変にやりにくいと言うか面倒である。]
[#よって、この際、用語集だけ独立させて、メモ帳かなにかで開けるような簡単なものにした。]
[#メモ帳にはルビの機能がないので(xx)でごまかしているが無いよりはましかと思われる。]
[#それから、第1巻と第2巻もそうですが、全部手入力でやってるので挿絵は入っていません。]
[#いまのところ1巻と2巻を落とされた方は180人くらいのようです。(UPして20日で)]
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[#改ページ]
登場人物
ポウル・アトレイデ…………………アトレイデ公爵家の世継ぎ
レイディ・ジェシカ…………………ポウルの母
スフィル・ハワト……………………公爵家のメンタート
ガーニィ・ハレック…………………公爵家の副官
ダンカン・アイダホ…………………公爵家の副官
リエト・カインズ……………………惑星生態学者
エスマール・チュエク………………密輸業者
スタバン・チュエク…………………エスマールの息子
ウラディミール・ハルコンネン……男爵
ファイド・ラウサ……………………男爵の甥。ナー・バロン
ラッバン………………………………同。ランキヴェイルの伯爵
イアキン・ネフド大尉………………男爵の親衛隊長
チャニ…………………………………フレーメン。リエトの娘
スティルガー…………………………フレーメンの族長
ラマロ…………………………………フレーメンの教母
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砂漠の鼠
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[#ここから10字下げ]
|大 王 皇 帝《パディッシャ・エンペラー》たるわたしの父君《ちちぎみ》が公爵《デューク》レトの死とその情景を聞かれたとき、父君はこれまでわたしどもが見たこともなかったほどの怒りを現せられた。父君はわたしの母君を責め、ベネ・ゲセリットを玉座につけよと父君に迫る契約に対して憤りを向けられた。父君は協会《ギルド》とあの邪悪な老男爵を責められた。父君は目にふれるかぎり、すべての者を責められ、それはわたし自身をも例外とするものではなかった。その理由は、わたしがほかのすべての者と同じく魔女《ウイッチ》であるからだと言われた。
そしてわたしが父君をお慰めしようとするままに、それは自己保存のための昔からある法則に従ってなされたものであり、その法則には大昔の統治者たちでさえみな従ったものであると申しあげたところ、
父君はわたしをあざ笑われ、わたしが父君を弱虫とでも考えているのかと言われた。そのときわたしにわかったことは、父君がこの感情の激動に襲われた理由は、亡くなった公爵に対する同情からではなく、すべての王侯貴族にもたらされる死というものの意味によるものだということだった。そのことをふりかえってみるとき、わたしは父君にもある程度の予知能力があったのではないかと思う。つまり、父君の血統とムアドディブの血統が共通の祖先を持っていることは明らかであるからだ。
――イルーラン姫による“父の家にあって”から
[#ここで字下げ終わり]
ポウルはつぶやいた。
「いまは、ハルコンネンがハルコンネンを殺すべきとき……」と。
かれは夜のとばりが落ちるすこし前に目をさまし、密閉された暗いスティルテントの中でおき上がっていた。かれはそういったとき、テントの反対側の壁にむかって眠っていた母親がかすかに身じろぎした音を耳にした。
ポウルは床《ゆか》にあった接近探知装置を眺め、闇の中に燐光管が光っているそのダイアルを調べてみた。
母親の声がした。
「もうすぐ夜ね。テントの日除けを上げたら?」
ポウルは気がついた。彼女の息づかいはだいぶ前から変わっており、かれがはっきり目をさましたとわかるまで闇の中に黙って横になっていたことを。
「日除けを上げてもだめです。嵐がありましたからね。テントは砂におおわれています。しばらくしたら掘り出しますよ」
「ダンカンが来る気配はまだなの?」
「ええ」
ポウルは親指にはめてある公爵の紋章指輪をぼんやりとさわり、父を殺す手伝いをしたこの惑星の持つ貴重な物質そのものにたいする激しい怒りに体をふるわせた。
「わたし、嵐が吹きはじめるのを聞いたわ」
と、ジェシカはいった。
何の答えも求めていない空虚なその言葉は、かれをすこし落ち着かせる役に立った。かれの心は、スティルテントの透明な端から見た吹きはじめたときの嵐に焦点を結んだ――冷たい砂の小雨が盆地を横切り、ついでそれが小川となり、空にうね[#「うね」に傍点]を作っているように尾を引きはじめた。岩の尖塔を見上げていると、それが吹きつける嵐の力に形を変え、チェダー色の低いくさび[#「くさび」に傍点]になっていった。ふたりがいる盆地の中に砂が流れこみ、空をどんよりとしたカレー色に染め、やがてテントがおおわれるにつれて視界のすべてをさえぎってしまったのだ。
テントの背は圧力を受けて一度きしるような音を立てた――ついで、静寂を破るものは、地表から空気を吸い入れている砂漠用換気装置のかすかな騒音だけとなった。
ジェシカはいった。
「レシーバーをもう一度ためしてみたら」
「やってみてもむだですよ」
かれは頸にクリップでつけられているスティルスーツの|導 水 管《ウォーターチューブ*》を見つけて、その温かい水を口に吸いこみ、いまから本当にアラキーンでの生活がはじまるのだと考えた――自分自身の呼吸と体内から回収された水分で生きていくということだ。それは気の抜けたような、なんの味もない水だったが、咽喉《のど》の乾きはいやしてくれた。
ジェシカはポウルが水を飲んでいる音を聞き、自分のスティルスーツが身体にぬるぬるとくっついているのを感じたものの、彼女は咽喉が乾いていると認めることを拒絶した。それを認めればアラキスにおける恐ろしいまでの必要性について完全に目覚めることが求められるようになるだろうからだ。つまりここでは、テントの|キャッチポケット《*》に数滴の水を集め、空中に逃げてゆく吐息を惜しがるというように、ごく微細な水分の痕跡をも守らなければいけないのだ。
また眠りにもどってゆくほうが、どれほど楽なことだろう。
しかし、今日の昼間に見た夢を思い出した彼女はぶるっとふるえた。彼女はその夢の中で、流れる砂の下に両手を動かしており、そこにはひとつの名前が書かれていたのだ。<公爵レト・アトレイデ>と。その名前は砂にかすみ、彼女はそれを現わそうと両手を動かしたが、最後の文字を明らかにする前に最初の文字は砂に埋まってしまうのだった。
砂はとまってくれなかった。
彼女の夢は泣きさけびはじめた。しだいしだいに大きくなっていった。そのわけがわからぬ泣き声――彼女の心にある一部は、それが、小さな子供のころの、赤ん坊といっていいころの彼女自身の声だとわかっていた。記憶にもさだかでないひとりの女が去って行くところだ。
“わたしの知らない母……わたしを生み、そうしろと命令されたことだというので、わたしをあの学校にわたしたベネ・ゲセリット。彼女はハルコンネンの血を引く子供をかたづけてしまうことを喜んだのかしら?”
彼女が考えているとポウルはいった。
「かれらを叩くべき場所は香料《スパイス》の中にあります」
“こんなときによく攻撃のことなど考えられるものね?”
彼女はいった。
「惑星全体が香料《スパイス》でいっぱいなのよ。どうしてそこでかれらを攻撃できるというの?」
彼女はポウルが身じろぎし、かれらの袋《パック》がテントの床《ゆか》を引きずられている音を聞いた。
「カラダンでは海軍力と空軍力でした。ここではそれが、|砂漠の力《デザート・パワー》です。フレーメンがその鍵です」
かれの声はテントの入口に近いあたりから聞こえてきた。彼女の受けてきたベネ・ゲセリットの訓練は、かれの口調に、彼女にたいする解決のついていない苦しさを感じた。
“これまでの一生、かれはずっとハルコンネン家を憎む訓練を受けてきたんだわ……そしていま、かれは自分がハルコンネンであることを知った……わたしが悪いのだと。かれはわたしのことをわかってないのね! わたしは公爵《デューク》の愛したただひとりの女だったのよ。わたしは、ベネ・ゲセリットの命令にいどむほどにかれの命と値打ちを受け入れたのよ”
ポウルの下にあったテントの発光板が明るくなり、ドームにおおわれた内部が緑色の光に照らされた。ポウルはテントの出入口にある括約筋式シールのそばにうずくまり、砂漠へ出てゆくためにスティルスーツの頭巾を調節し、額にはめ、マウス・フィルターをくわえ、ノーズ・プラグを調節した。かれの暗い両眼だけが見えていた。その細長くみえている顔の一部が彼女のほうにむけられ、そしてそむけられた。
「テントを開くから、用意をして」
と、かれはいい、その声はフィルターのためにこもってひびいた。
ジェシカはフィルターを口へ引きよせ、頭巾を調節しはじめながら、ポウルがテントのシールをあけるのを見つめた。
入口が開きはじめると音がひびき、かれが静電圧縮装置で動きをとめるよりも早く、砂が大きな音をたててテントの中に流れこんできた。その装置が砂の粒を再整列させるにつれて、砂の壁の中に穴ができていった。かれはテントの外に出てゆき、彼女は耳で息子が地表に進んでゆくのを追った。
“外に出たら、何を見つけることになるのかしら? ハルコンネンの部隊とサルダウカー、わたしたちに考えられる危険はその両者。でも、わたしたちの知らない危険があるとしたら、何かしら?”
彼女は圧縮装置や袋にはいっていたほかの奇妙な道具のことを考えた。それらの道具ひとつひとつがとつぜん、彼女の心の中で、謎の危険を示すものとして大きく意味を持ちはじめた。
そのとき彼女は、フィルターの上に露出している両頬に、地表から吹きおろしてきた熱い風があたるのを感じた。
「袋を渡して」
と、低く、警戒しているポウルの声が聞こえた。
彼女はそれに従って動き、テントの床《ゆか》を横切って袋を運ぶとき水を入れてあるリタージョンが音を立てるのを聞いた。彼女は上をのぞき、星空を背景にしているポウルの姿を見た。
「さあ」
かれはそういって手をのばし、袋を地表へ引っぱり上げた。
いま彼女に見えるのは円形の星空だけだった。星々はまるで彼女に狙いをつけている多くの武器の先端が光っているようだった。その夜空を流星の雨が横切った。その流れ星は彼女にとって、警告のように、虎の縞模様のように、燐光を発して血を凍らせる墓石のように思われた。そして彼女は、ふたりの首にかけられている懸賞金のことを戦慄とともに思い浮かべた。
ポウルは呼びかけた。
「急いで。テントをかたづけたいから」
地表から流れ落ちてきた砂が彼女の左手をかすめた。彼女は自分の心にたずねてみた。
“手がどれぐらい砂をつかめるのかしら?”
ポウルはたずねた。
「手伝いましょうか?」
「いいえ」
彼女は乾いた咽喉《のど》に唾を飲みこみ、穴の中へ出ると、静電圧縮された砂が両手にふれてこすれるのを感じた。ポウルは手をのばして彼女の両腕をつかんだ。彼女は星の光に照らされているなだらかな砂漠の表面に出ると、かれのそばに立ってあたりを見まわした。
かれらのいた盆地はほとんど砂で埋められており、まわりにあった岩の先端がすこし見えているだけだった。彼女は、その訓練された五感で遠くの暗黒に中をのぞき調べた。
小さな動物が立てている音。
鳥。
動かされた砂が落ちる音と、その中でかすかに生き物の音。
ポウルはテントをたたみ、穴の上に出した。
星明りは、影のそれぞれに夜の恐ろしさを忍びこませる程度に砂漠を照らしていた。彼女はそころどころにまっ黒くひろがっている影を見た。
“闇は盲目な記憶……おまえは動物の群が吠える音に耳をすませる。おまえのもっとも原始的な細胞が記憶しているものは、あまりにも遠い昔におまえの先祖が追った群の鳴き声だけだから。耳は見、鼻は見る……”
そんなことを考えていた彼女のそばにポウルは立って話しかけた。
「ダンカンはぼくにいいました。もし捕らえられたら、隠していられる時間は……いままでぐらいだろうと。ぼくらは急いでここから離れなくてはいけないのです」
かれは袋を肩にかつぎ、浅い盆地の端へ歩き、そこから大きくひろがる砂漠を見おろす尾根へ登っていった。
ジェシカは自動的にそのあとにつづきながら、自分がいまはまったく息子の意思のままに生きていることを知った。
“いまはわたしの悲しみが、海の砂よりも重いから……この世界はわたしをまったく抜け殻にしてしまったわ。残っているのは明日のために生きるという目的だけ。わたしが生きるのは、若い公爵とこれから生まれてくる娘のため……”
彼女はポウルのそばへと登りながら、両足が砂に取られるのを感じた。
かれは岩のつづいている場所を北へと視線をむけてゆき、遠くに見えている絶壁を調べた。
その遠い岩のプロフィルは、星空に輪郭を浮き上がらせている昔の、海を走る戦艦のように見えた。目には見えぬ波を長く引いて突進し、ブーメラン型アンテナを立て、煙突をうしろに倒し、艦尾はパイ型につき出ている。
その影絵《シルエット》の上空でオレンジ色の閃光が爆発し、そこから下へ鮮やかに紫色の線がのびていった。
また別の紫色の線!
ついでまた上空へ突進したオレンジ色の閃光!
それは大昔にあったと聞いている海戦と砲火のようであり、その光景をふたりは見つめつづけていた。
「|火 の 柱《ファイア・ピラー》だ」
と、ポウルはつぶやいた。
赤い目の輪《リング》といったものが遠くの岩の上に上がった。紫色の線がいくつも空に走った。
「ジェットの信号弾とラス・ガンね」
と、ジェシカはいった。
砂ぼこりの中に赤く見えるアラキスの最初の月が、かれらの左側にひろがっている地平線の上にのぼり、そこに嵐が尾を引いているありさまをかれらは見た――砂漠の上を動いてゆくリボンだ。
ポウルはいった。
「あれはぼくらをさがしているハルコンネンのソプターにちがいありませんね。砂漠を切りきざもうとしているようなやりかた……目にはいるものがあれば何だろうと確実にたたきつぶしておこうとしているようです……虫の巣をふみつぶすみたいに」
「アトレイデ家の巣を、ね」
「ぼくらの隠れるところを見つけなければ……南へむかって岩場にはいることです。もし、隠れるところのない砂漠の中で見つかったら……」かれはふりむき、肩にせおっている袋の具合をなおした。「やつらは、動くものなら何だろうと殺していますからね」
かれが岩棚にそって一歩ふみ出したとき、低いところを滑空してくる飛行機の音を聞き、オーニソプターの黒い影を頭上に見た。
[#改ページ]
[#ここから10字下げ]
父上がかつてわたしに言われたことは、真実を尊敬することこそ、すべての道徳の根底に迫ること。「無から何かが生じることはあり得ない」と、父上は言われた。こし“真実”がどれほど不安定なものであり得るかを理解しているなら、これは深遠な考えと言うべきである。
――イルーラン姫による“ムアドディブとの対話”から
[#ここで字下げ終わり]
スフィル・ハワトは話しかけた。
「おれはつねに、物事を真実のままに見られるという自信と誇りを持ちつづけてきた……それこそ。メンタートであることの呪いといえよう。はいってくるデータの分析を、いつまでたってもやめられないのだ」
夜明け前の薄暗がりの中で話している老人の顔は、長い歳月の苦労を重ねてきた強靭な肌をしており、落ち着いていた。そのサフォに染まった唇は一文字に結ばれ、そこから皺が放射線に上へとひろがっていた。
ハワトとむきあって砂の上に黙ってうずくまっている寛衣《ローブ》の男は、その言葉にすこしも動かされていないようだった。
かれら二人は、広く浅い盆地を見下ろしてつき出ている岩の下にしゃがみこんでいた。その盆地を越えたかなた、粉砕されたような輪郭の崖に夜明けがひろがっており、すべてのものをピンクの色に染めていた。そのオーバーハングの下は寒かった。夜からの、骨にしみこんでくるような、乾いた冷たさが残っているのだ。夜明けがくるほんのすこし前に暖かい風が吹いたが、いまはもう冷たくなっていた。ハワトの背後にいるかれの部隊で生き残った少数の男たちのだれかが、歯を鳴らしていた。
ハワトの前にしゃがみこんでいる男は、夜明け前にわずかに明るくなったとき、盆地を横断してやってきたフレーメンだった。砂の上をすべるように進み、砂丘にとけこみ、その動きかたを見分けることはできなかった。
そのフレーメンは二人のあいだの砂地に指をのばし、何かの絵を描いた。それは矢がつき刺さっている鉢のような形をしていた。
「ハルコンネンの偵察隊がおおぜいいる」
と、そいつはいい、指を上げると、ハワトとかれの部下が下りてきた崖のほうをさした。
ハワトはうなずいた。
“おおぜいの偵察隊。そのとおり”
だがそれでもまだかれには、そのフレーメンが何を求めているのかわからず、それが気になった。メンタートとしての訓練は、人間に動機を見抜く能力をあたえるはずだったのだ。
その夜はハワトの一生で最悪のものだった。以前の首都であるカルタゴを守るための緩衝器的前進基地として使われている守備隊駐屯地チンポにいたとき、攻撃を受けているという報告がはいりはじめたのだ。最初かれはそれを“小規模の侵入だ。ハルコンネンがこちらの手を見ようとしているのだ”と、考えた。
ところが陸続として報告ははいった――間をおかぬほどにだ。
二個軍団がカルタゴに着陸した。
五個軍団――五十旅団!――が、アラキーンにある公爵の主要基地を攻撃した。
アルストンには一軍団。
|粉砕された岩《スプリンタード・ロック》には二個戦闘部隊。
ついで報告はもっとくわしくなってきた――攻撃軍のあいだに皇帝直属のサルダウカー軍がいる――たぶん二個軍団はいるようだ、ということだった。そして、侵入者どもが、どこへどれほどの兵力をむければいいか正確に知っているということが明らかになった。正確に! すごいほどの情報収集がおこなわれていたということだ。
衝撃を受けたハワトの怒りはたかまり、そのうちにメンタートとしての能力がなめらかに働かないまでになった。攻撃の大きさがかれの心を、物理的な打撃と同じほどに叩きつけたのだ。
いま、砂漠の中にある小さな岩の下に隠れているかれは、自分の心にうなずき、冷たい影を防ごうとするかのように破れほころびた服を体に引きつけた。
“攻撃の大きさだ”
敵が協会《ギルド》から臨時に輸送船を借りて偵察行動的襲撃をおこなうことがあると、かれはいつも考えていた。こういった形の公家《ハウス》対|公家《ハウス》の戦争にあっては、それがまったく当然といっていいほどの行動だ。アトレイデ家のため、香料を運ぶための輸送船が規則的にアラキスに着陸し離陸する。ハワトは、偽の香料輸送船による不意打ちにそなえて用心していた。全面的攻撃にも十旅団以上はやってこないものと考えていた。
ところが最後に数えたところでは、二千隻以上の船がアラキスに着陸していた――輸送船だけではなく、巡洋艦、偵察船、攻撃艦、兵員輸送船《トルーブ・キャリヤー*》と、箱をぶちまけたようにだ。
百旅団以上もの兵力――十軍団だ!
アラキスにおける香料《スパイス》収入の全部を五十年も集めて、やっとそれほどの作戦に必要な費用を作り出せるかどうかだ。
それで、やっとだろう。
“われわれを攻撃するために男爵がどれほどの金《かね》を喜んで出す気になるか、おれは低く見すぎていた。おれは公爵の信頼を裏切ってしまったのだ。
それから、反逆者という問題もある。
“あの女をしめ殺すのをこの目で見とどけるまでは生き抜いてみせるぞ! おれにその機会があったとき、あのベネ・ゲセリットの魔女を殺しておくべきだったんだ”
そう考えつづけるかれの心に、反逆者がだれなのかについての疑問はなかった――レイディ・ジェシカだ。彼女こそ、手に入れたすべての事実にぴったりと符合するのだ。
フレーメンの男は話しかけた。
「あんたがたの男、ガーニィ・ハレックと、その部隊の一部は、おれたちの友人のところで安全に隠れているよ。密輸業者のところでね」
「よかった」
“ではガーニィもこの地獄の惑星から出られるわけだ。おれたち全部が死んでしまったわけじゃあない……”
ハワトは、かたまっている部下のほうをふりかえってみた。夜になるときは、最強の部下がちょうど三百人いたのだ。そのうち、ちょうど二十人が生き残っており、その半分までが傷ついている。眠っているもの、立っているもの、岩壁によりかかっているもの、岩山の下の砂地に横たわっているもの。かれらが負傷者を運ぶために地上車として使ってきた最後のソプターも、ついに夜明けの直前にこわれてしまった。かれらはそれをラス・ガンで切りきざみ、その破片を隠したあと、盆地の端にあるこの隠れ場所へ、やっとの思いで下りてきたのだった。
ここがどのあたりなのか、ハワトには漠然としかわかっていなかった――アラキーンから南東へ二百キロメートルほど離れたところだ。|遮蔽する壁《シールド・ウォール》に存在する居住地村落のあいだを往来するのに使われている主要な通路は、かれらの南にあたるどこかにあるはずだった。
ハワトの前にいるフレーメンは、頭巾とスティルスーツのキャップをうしろに落として、砂まみれの顔と髭を現わした。その髪は、高く、薄くなりかけた額からまっすぐうしろに櫛を入れてあった。香料《スパイス》のふくまれた食事をいつもとっているまっ青の目は、何を考えているのかさっぱりわからなかった。ノーズ・プラグから輪《ループ》をまいてつづいているキャッチチューブがあたるために、髪がそこでちぢれ、口の端の髭が染まっていた。
その男はプラグをはずし、その具合を直した。かれは鼻のそばに残っている傷をなでた。
そのフレーメンはいった。
「もしあんたたちが今夜、この盆地を横切るつもりなら、シールドは絶対に使ってはいけないよ。 壁《ウォール》 には割れ目がある……」かれはふりむいて南のほうを指さした。「……あのあたりで、そこはエルグの砂漠へとつづいている。シールドは引きつける……」かれはためらった。「……砂虫をな。かれらがこのあたりへ出てくることはあまりないが、シールドを使えば、そのたびに引きよせるんだ」
“この男は砂虫のことをいった。だが、何かもっとほかのことをいおうとしていたはずだ。何をなんだ? そしてこいつは、いったいわれわれに何を求めているんだろう?”
ハワトは溜息をついた。
かれはこれまで、こんなにひどい疲労をおぼえた経験はなかった。それはエネルギー回復錠剤もいやすことのできない筋肉の疲労だった。
サルダウカーの畜生どもめ!
自分を責める苦悩とともに、かれは殺人狂兵士の群と、それが意味している皇帝の策謀を考えてみることになった。かれ自身がメンタートとして資料を分析してみた結果によると、たぶん正義がそこだけは存在すると考えられるランドスラードの最高会議にたいして、こんどの陰謀を告発する証拠を呈出できる可能性はほとんどなさそうだった。
「あんたは密輸業者のところへいこうと思っているのかね?」
と、フレーメンはたずねた。
「できるだろうか?」
「道は遠いよ」
アイダホが前に告げたことがあった。“フレーメンは、ノーといいたがらない連中なんだ”と。
ハワトはいった。
「きみはまだぼくに答えていないな、きみたちがおれの負傷した部下を助けてくれるかどうかを」
「かれらは負傷している」
“たずねるたびに同じ馬鹿げた返事だ!”
ハワトは鋭い声を出した。
「かれらが負傷していることはわかっているんだ。そんなことを……」
そのフレーメンは警告した。
「落ち着くんだ、友よ。あんたの負傷者はどういっているんだね? その中には、あんたがたが水を必要としているとわかっている者はいるのかな?」
「われわれが話していたのは、水のことじゃあない。われわれが……」
「あんたがいやがるのはわかる。かれらはあんたの友だちだ、同じ種族の者だからな。あんたがたには水があるのか?」
「充分ではない」
そのフレーメンはハワトの服の、皮膚が露出しているところを指さした。
「あんたがたはシーチのあいだで、スーツもなく立往生しているんだ。水の問題について、はっきり心を決めなければいけないよ」
「きみたちの仲間をやとうことはできないのか?」
フレーメンは肩をすくめ、ハワトの背後にいる連中のほうをちらりと見た。
「あんたがたは水を持っていない……あんたがたの負傷者のうち何人ほどを割《さ》けるんだね?」
ハワトはその男を見つめたまま黙りこんだ。かれはメンタートとして、このフレーメンとの意思の疎通がうまくいっていないことに気づいていた。言葉とその発音とが、ここではふつうの場合のように、つながりあっていなかったのだ。
かれはいった。
「おれはスフィル・ハワト。公爵にかわって話せる地位の者だ。助力が得られるなら約束する。おれの求める助力はこれだけ。反逆者を殺すときまででいいから、おれの部下を生かしておきたいんだ。復讐の手が及ばぬものと考えているその女をな」
「あんたは、われわれがその復讐に味方することを求めているのか?」
「復讐はおれ自身でやる。おれが求めるのは、負傷した部下にたいする責任から解放されたいということなんだ」
フレーメンは嘲笑するように答えた。
「どうしてあんたが、部下の負傷者にたいして責任があるんだ? かれらはかれらの責任において生きているんだ。水が問題なんだぞ、スフィル・ハワト。その決定をあんたにかわって、おれにやらせたいのか?」
その男は、寛衣《ローブ》の下に隠してある武器に手を置いた。
ハワトは緊張し、考えをめぐらした。
“ここでも裏切られるというのか?”
フレーメンは重ねてたずねた。
「何を恐れているんだ?」
“この連中、それにわけのわからぬ率直さ!”
ハワトは用心しながらいった。
「おれの首には賞金がかかっているんだ」
フレーメンはその手を武器から離した。
「ほ、ほう……あんたはおれたちのところにビザンチン的な腐敗があると思っているのか。そうだとすれば、おれたちをわかっていないんだ。ハルコンネンのやつらは、おれたちのあいだのいちばん小さな子供を買えるだけの水も持っていないんだぞ」
“だがやつらは二千隻以上の戦闘用船舶を協会《ギルド》に出させるだけの資金を持っていたんだ”
と、ハワトは考えた。そしてその資金の厖大さにかれはまだ身ぶるいしてくる思いだった。
「われわれはどちらもハルコンネンと戦っている。われわれは、その問題と戦闘をどのようにおこなうかという方法を、ともに考えるべきじゃあないのか?」
ハワトの言葉にフレーメンは答えた。
「おれたちはいっしょにやっているさ。おれは、あんたがたがハルコンネンと戦うところを見た。あんたがたは勇敢だ。おれのそばにあんたの部下がいていっしょに戦ってくれるといいなと思ったことが何度もあったよ」
「どこでおれの部下がきみを応援できるかいってくれ」
フレーメンは反問した。
「だれにそんなことがわかる? ハルコンネン部隊はどこにもいるんだ。しかし、あんたはまだ、水についてどうするか、負傷者にまかせるのかどうか決心していないぞ」
ハワトは自分の心に話しかけた。
“慎重にやらなければ……ここにはどうも理解できないことがある”
かれはいった。
「きみたちのやりかたを示してくれないか、アラキーン流の方法を?」
「異邦人の考えをってわけか」
フレーメンはそういい、その声には嘲笑するようなところがあった。かれは北西に見える崖のほうを指さして言葉をつづけた。
「おれたちは、あんたがたが昨夜、あの砂漠を越えてくるところを見ていた」かれは腕を下げた。「あんたは部隊を砂丘のすべる表面に留めていた。まずいね。あんたがたはスティルスーツも水もない。長くはもたないぜ」
ハワトは答えた。
「アラキスでのやりかたに慣れるのは、そう楽じゃないんでね」
「本当だ。しかしおれたちは、これまでハルコンネンを殺してきたんだ」
ハワトはいった。
「きみたちの仲間が負傷したとき、きみはどうするんだ?」
フレーメンはたずね返した。
「人間というものは、どういうときに助けられるだけの値打ちがあるか知っているのじゃないのか? あんたのところの負傷者は、水がないことを知っているはずだ」かれは首をかしげ、ハワトをななめに見上げた。「いまは明らかに、水についての態度をはっきり決めるべきときだ。負傷している者も負傷していない者も、同族の未来を考えなければいけないんだ」
“同族の未来……アトレイデ家を中心とする種族。それには意味がある”
ハワトは自分が避けようとしてきた疑問を口にした。
「きみはおれの公爵か、そのご子息について何か聞いているか?」
考えていることが読み取れないまっ青な目が、ハワトを見つめた。
「何かとは?」
ハワトは鋭い声を出した。
「あのかたがたの運命《フェイト》だ!」
フレーメンは答えた。
「運命とはだれにたいしても同じものさ。あんたの公爵は最後《フェイト》を迎えたと聞いている。かれの息子、リザン・アル・ガイブについては、リエトの手にあることだ。リエトは何ともいっていないよ」
“たずねなくても、そんな答えならわかっているんだ”
ハワトはそう思いながら、部下のほうをふりむいた。かれらはもう全員が目をさましていた。かれらは話しを聞いてしまった。みんなが砂漠のかなたを見つめており、表情に事態を理解しHていることが現れていた。かれらはカラダンにもどることはできないし、アラキスにおいても敗れたのだ。
ハワトはフレーメンの男に視線をもどした。
「ダンカン・アイダホのことは何か聞いていないか?」
「シールドが切られたとき、かれはあの邸内にいた。おれが聞いたのは、それだけだ」
“あの女はシールドを切り、ハルコンネン兵を入れたのだ……背中をドアにむけて坐っていたのはおれだった。あの女は、自分自身の息子をも裏切ることになることを、どうしてやれたんだ? だが……ベネ・ゲセリットの魔女が考えることなど、だれにもわかるはずはない……人間の考えることとはいえないんだからな”
ハワトは乾いた咽喉に唾を飲みこもうとした。
「ご子息についてきみが消息を聞けるのは、いつのことになる?」
フレーメンは肩をすくめた。
「アラキーンの出来事を知ることができる機会は少ない。だれにもわからないよ」
「それを知る方法があるのじゃないのか?」
「かもしれんな」フレーメンは鼻のそばに残っている傷跡をこすった。「話してくれ、スフィル・ハワト。ハルコンネン軍が使った大きな武器について、あんたは何か知っているか?」
“砲兵隊か……シールドを使うこの時代に、たつらが大砲を使うことなど、だれが想像できたろう?”
ハワトは苦々しく思いおこして口を開いた。
「きみがいっているのは、やつらがおれの味方を洞穴に閉じこめるのに使った砲のことだな。おれは……ああいった爆発力のある兵器について、理論的なことなら知っている」
「出入口が一方にしかない洞穴に退却した人間は、死ぬほかなくなるわけだ」
「なぜきみはそういう兵器のことを知りたがるんだ?」
「リエトが望んでいるからさ」
“こいつはそのことをおれたちから知りたがっているのか?”
ハワトはいぶかしく思いながらたずねた。
「きみは大砲についての情報を求めて、ここへ来たのか?」
「リエトが自分で、そういう兵器を見たがったからだ」
ハワトは嘲笑するようにいった。
「では、きみらでひとつ手に入れるだけのことだな」
フレーメンは答えた。
「ああ、おれたちは、ひとつ手に入れたよ。リエトにかわってスティルガーが調べられるところ、リエト自身も望むなら見られるところに、おれたちはそれを隠した。だが、リエトが調べたがるとは思えないな。大していい武器じゃあないからだ。アラキスで使うには粗末なものさ」
ハワトはたずねた。
「きみらは……大砲を手に入れたって?」
「相当な戦いだったよ……おれたちが失ったのは二人だけ、やつらには百人以上から水を出させてやった」
“砲のすべてにサルダウカーがついていた……この砂漠に住む気ちがいは、サルダウカーの部隊と戦って二人を失っただけだと何でもないことのようにいうのか!”
そのフレーメンは言葉をつづけた。
「ハルコンネン兵といっしょに戦っていたあの連中がいなければ、おれたちはその二人を失いもしなかったはずだ……優秀な戦士がいたからな」
ハワトの部下のひとりがびっこを引きながら近づき、うずくまっているフレーメンを見おろした。
「おまえが話しているのはサルダウカーのことなのか?」
ハワトはいった。
「サルダウカーのことだ」
「サルダウカーだと!」と、フレーメンはいい、その声には喜びが現れた。「ほ、ほう。やつらの正体はそれだったのか! まったくいい夜だったな。サルダウカーね。どこの軍団か知っているのか?」
「そいつは……わからない」
フレーメンは考えこんだような声をだした。
「サルダウカーか……それでも、やつらはハルコンネン軍の制服を着ていたぞ。おかしいじゃないか?」
ハワトは答えた。
「皇帝は|大 公 家《グレイト・ハウス》のひとつと戦っていることを知られたくないってわけだ」
「しかしあんたは、やつらがサルダウカーだとわかるというのか」
ハワトは苦々しげにいった。
「おれをだれだと思っているんだ?」
その男は当然のことというように答えた。
「あんたはスフィル・ハワトさ……まあいずれにしても、おれたちだってそのうちわかるところだった。リエトのところで訊問するために、やつらの捕虜三人を送ったからな:
ハワトの副官は、ゆっくりとたずね、その一語一語に信じられないという響きがこもっていた。
「きみらは……サルダウカーを、捕虜にしたって?」
フレーメンは答えた。
「三人だけだ……勇敢に戦ったからな」
“このフレーメンたちと手をつなぐだけの時間さえあればよかったのだ”と、ハワトは考えた。それはかれの心に苦い悲しみをもたらした。“かれらを訓練し、武装することさえできていたら。|偉大なる母《グレイト・マザー》よ、われわれはすごい戦闘部隊を持つことができていたはずなんだ!”
フレーメンはいった。
「あんたが手間取っているのは、リザン・アル・ガイブのことを心配しているせいなのかもしれないな……もしかれが本当にリザン・アル・ガイブなら、危害が加えられることはない。まだ証明あsれていないことを考えてみても仕方がないぜ」
「おれは……リザン・アル・ガイブの部下だ。おれに関心があるのはかれの安全だ。おれはそのことにわが身を捧げているんだ」
「あんたはかれの水に誓っているのか?」
ハワトは、まだフレーメンを見つめている副官を眺め、それから視線をうずくまっている男にもどして答えた。
「そうだ、かれの水に」
「あんたはアラキーンにもどりたい、かれの水が存在するところに?」
「そうだ……かれの水があるところに」
「なぜ最初から、水の問題だといわなかったんだ?」
フレーメンは立ち上がり、ノーズ・プラグをしっかりと合わせた。
ハワトは副官にむかって、ほかの者のところへもどれと首をふった。疲れたように肩をすくめて、副官は命令に従った。ハワトは、部下のあいだで低い話し声がおこったのを聞いた。
フレーメンはいった。
「水への道はつねにあるものだ」
ハワトの背後で、ひとりが苦しそうな声を洩らした。ハワトの副官は呼びかけた。
「スフィル! アーキイがいま死にました」
フレーメンは拳を耳にあて、ハワトを見つめた。
「水のきずな[#「きずな」に傍点]! そのしるし[#「しるし」に傍点]だ! その水を受けるための場所が近くにある。あれの仲間を呼ぼうか?」
副官はハワトのそばにもどって話しかけた。
「スフィル、部下のうち二人がアラキーンに妻を残してきています。かれらは……つまり、こんなときにどんな気持か、おわかりでしょう」
フレーメンはまだ拳に耳をあてたままだった。
「水のきずな[#「きずな」に傍点]だろう、スフィル・ハワト?」
と、その男は重ねてたずねた。
ハワトの心は乱れた。かれはやっと、このフレーメンの言葉がどういうことを意味しているのかを覚ったのだが、岩のオーバ−ハングの下にいる疲れ切った男たちがその意味を理解したときに示すだろう反応を恐れたのだ。
ハワトは答えた。
「水のきずな[#「きずな」に傍点]だ」
「おれたち二つの種族を結合させよう」
と、フレーメンはいい、拳を下ろした。
それが合図であったのか、かれらの上の岩から四人の男がすべり落ちてきた。その四人はオーバーハングの下に走り、死者をひろげた寛衣《ローブ》でくるむと、かつぎ上げ、崖にそって右のほうへ走りはじめた、かれらの走る足もとで砂ぼこりが舞った。
やっと、ハワトの疲れ切った部下たちは事態に気づいた。死者を袋のようにかついだ一団は、崖の角《かど》をまわって姿を消した。
部下のひとりは叫んだ。
「あいつらアーキイをどこへ運ぶんだ? かれは……」
ハワトは答えた。
「かれらは……埋めにいったんだ」
「フレーメンは死者を埋葬したりしないんだ! おれたちをごまかさないでくれ、スフィル。やつらがどうするか、おれたちは知っている。アーキイは……」
フレーメンはいい出した。
「リザン・アル・ガイブに身を捧げて死んだ者には、かならず楽園がもたらされるものだ。あんたがいったとおり、リザン・アル・ガイブに仕えるものなら、なぜ悲しみの声を上げる? こうして死んでいった仲間の思い出は、人の記憶がつづくかぎり生きつづけるものだぞ」
しかしハワトの部下たちは、怒りの表情を浮かべて前進した。そのうちのひとりはラス・ガンに手をかけ、それを抜きかけた。
「動くな!」
と、ハワトはどなった。かれは全身の筋肉を襲うひどい疲労感と戦いながらいった。
「この連中はわれわれの死者に敬意を払っている。習慣はちがうが、意味するところは同じなんだ」
ラス・ガンに手をかけた男は叫んだ。
「やつらはアーキイから水をしぼり取ろうとしているんだぞ」
そのフレーメンはたずねた。
「あんたの部下は儀式に立ち会いたいのか?」
“この男は問題に気づいてもいないのだ”
と、ハワトは考えた。フレーメンの純真さはまったく驚くばかりのものだった。かれは答えた。
「みんなは好きだった戦友のことを心配しているんだ」
フレーメンはいった。
「おれたちは自分らの死者にたいするのと同じ敬意をもってあんたがたの戦友にたいするんだ……これこそ水のきずな[#「きずな」に傍点]だ。おれたちは儀式を知っている。人の肉はその人自身のもの、水は同族に属するものだ」
ラス・ガンに手をかけた男がもう一歩進むのに気づいたハワトは、急いで話した。
「これできみは、われわれの負傷者を助けてくれるのか?」
フレーメンは答えた。
「きずな[#「きずな」に傍点]にたいしてとやかくいったりはしないね……種族の者が同族の者にたいしてすることを、おれたちはあんたがたのためにやるのさ。まず、おれたちはあんたがたのうち役に立つもの全員を集めて、必要なことに備えなければいけないな」
ラス・ガンの男はためらった。
ハワトの副官はたずねた。
「アーキイの……水で、助けを買おうというのですか?」
ハワトは答えた。
「買うのではない、われわれはこの連中に加わったんだ」
部下のひとりはつぶやいた。
「習慣は異なっている、か」
ハワトはほっとしはじめた。
「するとかれらが、アラキーンにもどるのを手伝ってくれるのですね?」
フレーメンは、にやりと笑った。
「おれたちはハルコンネンを殺すんだ……それに、サルダウカーをな」
かれはうしろに下がり、両手を耳にあてて上をむき、耳を澄ませた。やがてかれは両手を下ろしていった。
「飛行機が一台やってくる。岩の下に隠れて、動かないでくれ」
ハワトの合図で、男たちはそれに従った。
フレーメンはハワトの腕をつかみ、かれをみんなのほうへ押していった。
「おれたち、戦うときには戦うよ」
そういうと、その男は寛衣《ローブ》の下に手を伸ばし、小さな籠《かご》から生き物を取り出した。
それは小さな蝙蝠《こうもり》だった。蝙蝠は首をまわし、ハワトはそいつの目もまっ青だと知った。
フレーメンの男はその蝙蝠をなで、優しくささやきかけ、落ち着かせた。かれはその動物の頭にかがみこみ、一滴のよだれを、上にむけている蝙蝠の口に舌から落としこんだ。蝙蝠は両の翼をひろげたが、フレーメンのひろげた手に乗ったままだった。その男は小さなチューブを出して、それを蝙蝠の頭に近づけ、そのチューブにむかって何かしゃべった。それからかれはその蝙蝠を高くほうり上げた。
蝙蝠は崖のそばをかすめて飛び、見えなくなってしまった。
フレーメンは籠《かご》をたたみ、それを寛衣《ローブ》の下につっこんだ。ふたたびかれは顔を上げて、耳を澄ませた。
「やつらは高地を調べているな。いったいだれをさがしているつもりなんだ?」
ハワトはいった。
「われわれがこの方向に退却してきたことは知られているんだ」
「追い求めているものがたったひとつだとは考えないことだね。盆地の反対側に気をつけていろよ。何か現れてくるから」
時間は過ぎていった。
ハワトの部下の何人かは、身じろぎし、ささやきあった。
フレーメンは低い声でたしなめた。
「黙っていてくれ、おびえた動物のように」
ハワトは反対側の崖の近くに動いているものがあるのを知った――茶色の上に茶色のものが動いているのだ。
フレーメンはいった。
「おれの小さな友だちが通信を運んでいるんだ。あいつはりっぱな使者だ……昼でも夜でもだ。あいつを失うとおれは悲しいね」
盆地のかなたに動いていたものは消えてしまった。四キロから五キロメートルにわたってひろがっている砂地全体にわたって残っているのは、昼間の熱がたかまっていくのを示す陽炎《かげろう》だけだった。
フレーメンはいった。
「これからがもっとも静かにするべきときだぞ」
一列になってとぼとぼと歩く人影が、反対側の崖にある裂け目から現われ、まっすぐ盆地を横切りはじめた。ハワトには、それらがフレーメンのように思えたが、奇妙なほど間の抜けた一隊だった。かれが数えたところ、砂丘を越えてとぼとぼ進んでくるのは六人だった。
鳥型飛行機《オーニソプター》の翼が“パタパタ”と立てている音が、ハワトの部隊の背後右の上空でひびいた。その飛行機は、かれらの上の崖を飛び越えた――ハルコンネン軍のマークを急いで描いたアトレイデのソプターだ。そのソプターは、盆地を横切っている男たちにむかって急降下していった。
その一隊は砂丘の頂にとまって、手をふった。
ソプターはかれらの上で小さな円を一度描き、フレーメンの前に砂ぼこりを立てて着陸した。五人の男がそのソプターから飛び出し、ハワトは砂ぼこりをはねつけてきらめいていることで、かれらがシールドを使っていることと、その動きで獰猛なサルダウカーであるとわかった。
「なんと! あの馬鹿どもはシールドを使っているぞ」
ハワトのそばでフレーメンは声をおし殺してそういい、盆地の南の遠くひろがっている壁のほうをちらりと見た。
ハワトはささやいた。
「やつらはサルダウカーだぞ」
「結構」
待っているフレーメンの一団にむかって、サルダウカーは半円を描いて包囲しようとするように近づいていった。かれらがかまえている剣に太陽がきらめいた。フレーメンたちは何の心配もしていないのか、かたまって立っていた。
とつぜん、それら二つの集団のまわりにひろがっていた砂の中からフレーメンが飛び出した。かれらは鳥型飛行機《オーニソプター》にむかい、ついでその中にはいった。二つの集団がぶつかった砂丘の頂では、砂ぼこりが激しい動きをほとんど見えなくしてしまった。
やがて砂ぼこりはおさまり、そのあとにはフレーメンだけが立っていた。
ハワトのそばにいるフレーメンは口を開いた。
「やつらはソプターの中に三人しか残していかなかった。運がよかったよ。飛行機を奪うにしても壊してしまっちゃ元も子もないからな」
ハワトの背後で、かれの部下のひとりがささやいた。
「あいつらはサルダウカーだったんだぞ!」
フレーメンはたずねた。
「よく見たかい、おれの仲間がうまく戦ったところを?」
ハワトは深く息を吸った。かれのまわりには焼きつく砂ぼこりの匂いがし、その熱と、どれほど乾燥しているかが感じられた。その乾きかたに似つかわしい声で、かれは答えた。
「ああ。かれらは、まったく見事に戦ったよ」
奪ったソプターは大きく両翼をはばたかせて飛び上がると、翼をたたんで南の空へ急上昇していった。
“このフレーメンたちは、ソプターの操縦もできるということだな”
ハワトが考えていると、遠くの砂丘で、ひとりのフレーメンが緑色の四角い布を一度、二度とふった。
ハワトのそばのフレーメンはどなった。
「もっと来るぞ! 用意してろよ。これ以上もう不愉快な目には会わずに、ここから出ていくつもりだったが……」
“不愉快な目か!”
そう思ったハワトは、とつぜんフレーメンの姿がひとりも見えなくなってしまった砂の海にむかって、西の空高くから二機のソプターが急降下してくるのを見た。戦闘場面に残されているのは青い斑点が八つだけ――ハルコンネン軍の制服を着たサルダウカーの屍体だ。
もう一機のソプターがハワトの頭上の崖を越えて滑空してきた。かれはそれを見て、大きく息をついた。大型のトループ・キャリヤーだ。そいつは、巣にもどる巨大な鳥のように、重荷を支えた翼をゆっくりと動かしながら飛んでいった。
遠くでは、急降下したソプターの一機からラス・ガンの紫色をした光線が走った。それは砂をつんざき、砂ぼこりの尾をくっきりと立てていった。
「臆病者が!」
ハワトのそばでフレーメンが荒々しい声を出した。
トループ・キャリヤーは青い制服の屍体がちらばっているところに近づいた。その両翼をいっぱいにひろげ、急速にとまるため空気をあおる動作を始めた。
ハワトの注意は南のほうで太陽光線にキラリと光ったものにむけられた。胴体に両翼をぴたりとたたんだまま、小石のように噴射急降下してゆく一機のソプターだ、暗い銀色の空を背景にして、そのジェットは金色の焔を引いていた。そいつは、あたりでラス・ガンが使われているためシールドしていないトループ・キャリヤーをめがけて、矢のようにつっこんでいった。その急降下してきたソプターは、キャリヤーへまっすぐにつっこんだのだ。
火焔と咆哮が盆地をゆるがした。まわりの崖のいたるところから岩石がころがりおちた。輸送機とその仲間のソプターがいた砂地から噴泉のように赤とオレンジ色の火が空へ上がった――そこにあったあらゆるものが火焔に包まれてしまった。
ハワトは考えた。
“あれはソプターを奪って飛び去ったフレーメンだった。かれはあの輸送機をやっつけるため、何もかも承知の上で自分を犠牲にしたんだ。|偉大なる母《グレイト・マザー》よ! フレーメンとはいったい何者なんだ?”
ハワトのそばでフレーメンはいった。
「まずは当を得た交換だな……あのキャリヤーには少なくとも三百人は乗っていたはずだ。さてと、おれたちはやつらの水を調べ、それから別の飛行機を手に入れる計画を立てなければいかんな」
かれは岩陰の隠れ場から歩いて出はじめた。
青い制服の連中が雨のように崖の上からかれの前に、サスペンサーを使っているためか、ゆっくりと落ちてきた。その一瞬、ハワトは見た。かれらはサルダウカーであり、戦いに熱狂した恐ろしい顔をし、シールドは使っておらず、それぞれが片手にナイフを片手に麻痺銃《スタンナー》を握っていた。
ハワトといままでいっしょにいたフレーメンの咽喉に投げナイフがつき刺さり、かれはうしろによろめき、顔を下にねじって倒れた。ハワト自身はナイフを引き抜こうとするより早く、麻痺銃《スタンナー》の弾丸にあたって闇黒に包まれていった。
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[#ここから10字下げ]
ムアドディブは本当に未来を見ることができた。しかし読者はその能力の限界を理解しなければいけない。視界のことを考えてみよう。両眼があっても、光がなければ見ることはできない。谷間の底にいるときは、谷間のかなたを見ることはできない。それと同じように、ムアドディブも常に謎の地平のかなたを眺められるというわけにはいかなかった。かれはわたしたちに、予知能力によるたったひとつの目立たない決定、ひとつの言葉の代わりに別の言葉を使うというようなことによっても、未来の全体像を変え得るものだと告げている。かれはこう言っている……時の視界は広いが、そこを通り抜けるとき、時は狭いドアとなる……そして常にかれは、明らかで安全なコースを選ぼうとする誘惑と戦い、警告していた……そのような通路は常に沈滞に落ち入りやすいものだ……と。
――イルーラン姫による“目覚めるアラキス”から
[#ここで字下げ終わり]
かれらの頭上にひろがる夜空から鳥型飛行機《オーニソプター》が降下してくると、ポウルは母の腕をつかんで鋭い声を出した。
「動かないで!」
そのときかれは、月光の中に先頭の飛行機が、着陸のためのブレーキに両翼で空気をとめている形と、無謀なほどの操縦ぶりを見た。
「アイダホですよ」
と、かれは吐息を洩らすようにいった。
その飛行機とその随伴機は、巣にもどってきた鳥の群のように、盆地に着陸した。砂ぼこりがおさまるよりも早く、アイダホがソプターから出て、かれらのほうに走ってきた、フレーメンの寛衣《ローブ》を着た男二人がそのあとにつづいていた。ポウルはそのひとりに見おぼえがあった。背の高い、赤茶けた髭のカインズだ。
「こちらだ!」
カインズは叫び、そして左へそれた。
カインズの背後で、ほかのフレーメンたちが鳥型飛行機《オーニソプター》にカバーを投げかけていた。機体は低い砂丘がつづいているように変わっていった。
アイダホはポウルの前にすべりこむようにしてとまり、敬礼した。
「殿《との》、近くにフレーメンの一時的な隠れ家があり、そこでわれわれは……」
「あのむこうはどうなっているんだ?」
ポウルは遠い崖の上に見えるにぎやかなありさまを指さした――ジェットの火焔、ラス・ガンの紫色の光線が砂漠を切り裂いている。
アイダホの丸い、静かな顔に、珍しく笑いが浮かんだ。
「殿《との》……わたしはやつらに、ちょっとした驚きを……」
目もくらむ白熱の光が砂漠をおおった――太陽のように明るく、かれらの影を岩棚の地面にきざみつけた。ひと飛びにアイダホは片手でポウルの腕を、もう一方でジェシカの肩をつかむなり、二人を岩棚から盆地につき落とした。かれらが砂地の上に倒れたとき、すさまじい爆発音があたりにとどろいた。その衝撃波が、かれらのいままでいた岩棚をたたきつけて岩石を飛ばした。
ジェシカはいった。
「うちの核兵器じゃないでしょうね! わたし……」
ポウルは口を開いた。
「きみはあそこにシールドを仕掛けておいたんだな」
「大型のを最大出力にしておきました。ラス・ガンのビームがそれにふれて……」
アイダホはそう答えて、肩をすくめた。
ジェシカはいった。
「|素 粒 子 融 合《サブアトミック・ヒュージョン》……それは危険な武器だわ」
「武器ではありません、マイ・レイディ。防御です。あいつらは、こんどラス・ガンを使うとき、じっくり考えることでしょう」
鳥型飛行機《オーニソプター》からやってきたフレーメンが、かれらの上で立ちどまり、そのうちのひとりは低い声で話しかけた。
「われわれは隠れるべきですぞ、友人諸君」
ポウルは立ち上がり、アイダホはジェシカに手を貸した。
「あの爆発は相当な注意を引くことになるでしょうからね、殿」
アイダホはそういった。
“殿……”
ポウルにむけられたその言葉は、ひどく奇妙にひびいた。殿《との》とは、つねにかれの父親を示す言葉だったのだ。
かれは予知能力がちょっと目覚めるのを感じ、人間の住む世界を混沌にむかって動かしてゆく野獣的な民族意識に自分がおかされているところを見た。その光景にかれは身ぶるいをおぼえ、アイダホについておとなしく盆地の端から岩がつき出しているところへとむかった。フレーメンたちはそこで、かれらの圧縮装置を使って砂の中にはいる通路をあけていた。
「袋をお持ちしましょうか、殿?」
アイダホの声にポウルは答えた。
「重くないよ、ダンカン」
「ボディ・シールドをお持ちでないようですが、わたしのをお使いになりますか?」アイダホはそういって、遠くの崖を見た。「やつらも、もうラス・ガンを使いそうにありませんから」
「いや、ダンカン。きみの右手だけで、ぼくのシールドは充分だ」
ジェシカはその言葉にどれほどの効果があったか、アイダホがどれほどポウルに引きつけられたかを見て、考えた。
“わたしの坊やは、部下を握る点で、すばらしい能力を持っているんだわ”
フレーメンが岩の栓をはずすと、そこには砂漠にあるかれらの地下居住地区への通路が口をあけた。その入口にはカムフラージュがほどこしてあったのだ。
「こちらへ」
フレーメンのひとりはそういい、先頭に立って岩の階段を闇の中へ下りていった。
かれらの背後では、蓋が月の光をさえぎった。前方に緑色の明かりがおぼろげにつき、階段と岩の壁、左への曲がり角《かど》を浮き上がらせた。まわりには寛衣《ローブ》のフレーメンがいっぱいおり、ひしめきあって下りていった。かれらは角《かど》を曲がり、また下へと傾斜している通路に出た。そこは荒削りの洞窟部屋へとつづいていた。
カインズがかれらの前に立っており、ジャッバ頭巾《フード》をうしろにぬいでいた。かれの着ているスティルスーツの頸が、緑色の明かりに輝いていた。その長い髪の毛と髭は乱れ、白い部分のない青い目は、太い眉毛の下で暗く見えていた。
顔を合わした瞬間、カインズは自分の心に疑問を投げかけた。
“なぜおれはこの連中を助けようとしているのだ? これはおれがいままでにやったうちで、もっとも危険なことだぞ。おれはかれらと心中することになるかもしれないんだ”
ついでかれはまっすぐにポウルを見つめた。この少年はいまや大人のような態度を身につけ、悲しさを隠し、それらしく見えなければいけない地位――公爵であること以外のすべてを押さえていた。そしてカインズはその瞬間に知った。公爵領はまだ存在していること、それはすべてこの青年が存在しているからであり、これは軽々しく扱える問題ではないということをだ。
ジェシカは部屋の中をもう一度見まわし、ベネ・ゲセリットの方法《ウェイ》ですべてを心に刻みつけた――研究所、古い様式で作られたかどばったところの多い公共の場所。
ポウルはいった。
「ここはぼくの父上が前進基地にと求めていた環境生態学試験場のひとつだな」
“こいつの父が求めていただと!”カインズはそう思い、またも疑問をおぼえた。“この逃亡者どもを助けるなど、おれは馬鹿ではなかろうか? なぜおれはこんなことをしているんだ? いまはかれらを捕らえ、それでハルコンネンの信用を得るのが実に容易なときなんだぞ”
ポウルは母親の例にならい、部屋の中を統一的に観察した。一方にある作業台、何の飾りもない壁。作業台には道具がならんでいる――計器が輝いており、ガラスの管がつき出ている|グリデックス・プレイン《*》が動いている。あたりにはオゾンの匂いが漂っていた。
数人のフレーメンは部屋の中の隠れた隅へまわってゆき、そこから新しい音がひびきはじめた――機械が咳きこみ、回転するベルトやそれで動かされるものの音がひびいたのだ。
ポウルは部屋の端を眺め、小さな動物を入れた籠が壁につみ重ねてあるのを見た。
カインズは話しかけた。
「きみはここを正しく見抜いた。こんな場所をきみならどう使いたいね、ポウル・アトレイデ?」
ポウルは答えた。
「この惑星を人間が住むのに適したところとするために」
“おれがかれらを助けるのは、たぶんそのためなんだ”
と、カインズは考えた。
機械はとつぜんその音を低め、沈黙してしまった。その虚空の中に籠の中で小さく鳴く動物の声がひびいてきた。機械の音はとつぜん、面くらったかのようにとまったのだ。
ポウルは視線を籠にもどし、その動物が褐色の翼をした蝙蝠だと知った。自動給餌装置が壁から籠へとのびていた。
ひとりのフレーメンが室内の隠れた場所から出てきて、カインズに話しかけた。
「リエト、移動用発電装置が動かない。接近探知装置でここを見つけられなくすることができなくなった」
カインズはたずねた。
「直せるか?」
「すぐにはだめだ。部品が……」
と、その男は肩をすくめた。
「わかった、では、機械なしでやるんだ。空気用の手押しポンプを地上へ」
「すぐやります」
そいつは走り去った。
カインズはポウルのほうにむき直った。
「きみはいい答えをしたな」
ジェシカはその声が落ち着いていることに注意を引かれた。それは王侯[#「王侯」に傍点]の声であり、命令するのに慣れている声だった。そして彼女は、かれがリエトと呼ばれたことを聞き逃さなかった。リエトはフレーメンとしてのもうひとつの自分、おとなしい惑星学者の持っている別の顔なのだ。
彼女は話しかけた。
「助けていただいたこと、わたしたち本当にありがたく思っています、カインズ博士」
「あ、ああ。これからですな」カインズはそういい、部下のひとりにうなずいた。「おれの部屋へ香料《スパイス》コーヒーを、シャミール」
「はい、ただいま、リエト」
カインズは一方の壁にアーチを作って聞いている入口を指さした。
「よろしければ、どうぞ……」
ジェシカは威厳のあるうなずきかたをして、それを承諾した。彼女は、ポウルがアイダホに手で合図して、そこに歩哨を立てろと命じたのを見た。
その通路は二歩進むと、そのむこうに四角いオフィスがあり、金色の|照 明 球《グロー・グローブ》で照らされていた。そこへはいるときジェシカはドアに手をふれ、それが|プラスティール《*》でできていることを知って驚きに打たれた。
ポウルはその部屋に三歩はいってから、袋を床《ゆか》に下ろした。かれは背後でドアがしまるのを聞き、そこを見まわした。一辺が八メートルほど、壁はカレー色をした自然のままの岩、右側には金属製のファイリング・キャビネットがある。部屋のまん中には低いデスクがあり、その表面は黄色の気泡がいっぱい浮かんでいる乳色のガラス板になっていた。そのデスクのまわりには、サスペンサー椅子が四脚おかれていた。
カインズはポウルのそばをまわり、ジェシカのために椅子をささえた。彼女は腰を下ろしながら、息子が部屋の中を調べていることに気づいた。
ポウルはもう一度まばたきするほどのあいだ立ったままでいた。室内における空気の流れにごくわずかな乱れがあるのは、かれらの右側のファイリング・キャビネットのうしろに秘密の出口があることを示している、とかれは知った。
カインズはいった。
「坐らないかね、ポウル・アトレイデ?」
“実に気をつけてぼくの称号《タイトル》を口にしないようにしているな”
ポウルはそう考えたが、すすめられたとおり椅子に腰を下ろし、カインズが坐るまで黙っていた。
「きみはアラキスも楽園になり得ると感じた……ところが、知ってのとおり、帝国がここによこすものは訓練を積んだ殺し屋ばかり、香料《スパイス》を手に入れようとするものばかりなんだ!」
カインズがそういうと、ポウルは公爵の紋章指輪をはめた親指を上げてみせた。
「あなたはこの指輪が見えるか?」
「もちろん」
「何を意味するか知っているか?」
ジェシカは、さっと顔をまわして息子を見つめた。
カインズは答えた。
「きみの父上はアラキーンの廃墟で亡くなられた。きみは法的には公爵だ」
ポウルはいった。
「ぼくは帝国の戦士だ……法的には、殺し屋だよ」
カインズの顔は赤黒くなった。
「皇帝のサルダウカーが、きみの父上の屍体を踏んで立っていてもかね?」
「サルダウカーと、ぼくの権威が合法的にもたらされていることとは別問題だ」
「アラキスには、だれが権威の衣を着るのかを決めるについて、アラキスなりの道がある」
ジェシカはかれのほうに視線をもどして考えた。
“この男には、だれにも自由にできない鋼鉄の強さがある……そしてわたしたちは鋼鉄を必要としているのよ。ポウルは危険なことをしているんだわ”
ポウルはいった。
「アラキスにサルダウカーが現われたことは、われわれの愛する皇帝がどれほどぼくの父上を恐れていたかを示すものだ。さてぼくは|大 王 皇 帝《パディッシャ・エンペラー》にも恐れるべきものがあるということを教えよう。その証拠は……」
カインズは口をはさんだ。
「坊や……世の中には多くの……」
「ぼくに話しかけるときは、閣下、もしくは殿《との》という言葉を使われることだ」
“気をつけて……”
と、ジェシカは考えた。
カインズはポウルを見つめた。そしてジェシカは惑星学者の顔に讃歎の色が浮かぶのと、そこにすこし嬉しそうなところがあるのを知った。
「閣下」
と、カインズはいった。
ポウルは言葉をつづけた。
「ぼくは皇帝にとっての悩みの種だ。ぼくは、アラキスを略奪品として切り分けあおうとする者全部にとっての悩みの種だ。生きているかぎり、ぼくは悩みの種となりつづけ、やつらの咽喉《のど》にしがみついて窒息死させるのだ!」
カインズはいった。
「言葉だけではね」
ポウルはかれを見つめた。しばらくしてからかれは話しだした。
「ここにはリザン・アル・ガイブの伝説がある。遠い世界からの声、フレーメンを楽園へ導いてくれる人。あなたがたは……」
「迷信だよ!」
ポウルはうなずいた。
「そうかもしれない……だが、そうでないかもしれない。迷信というものには、ときとして奇妙な根があり、奇妙な枝があるものだ」
「きみには計画がある。それだけは、はっきりしているが……閣下」
「あなたがたフレーメンはぼくに、サルダウカーがここへハルコンネンの制服を着てやってきたたしかな証拠を用意してくれることができるだろうか?」
「できそうですな」
ポウルはつづけて話した。
「皇帝はまたここの統治者としてハルコンネン家のだれかを任命するだろう…… 獣《けだもの》 のラッバンにしたりするかもしれない。そうさせておくことだ。かれがその罪から逃れられないところまで巻きこまれるのを待って、ランドスラードに詳細な報告書を呈出し、皇帝にその正当性と対決させるのだ。かれにあの場で答えさせよう……」
ジェシカは口をはさんだ。
「ポウル!」
カインズは反問した。
「ランドスラード大議会がきみの提訴を受け入れるものとしよう……だがその結果はただひとつ。帝国と大公家のあいだの大戦争ではないのか」
「大混乱《ケイオス》ですわ」
と、ジェシカはいった。
ポウルは答えた。
「それでもぼくは皇帝と対決し、大混乱《ケイオス》にかわるものをかれにあたえてやるのだ」
ジェシカは乾いた声でたずねた。
「脅迫するの?」
「母上がいわれたとおり、政治におけるかけひきのひとつです」
ポウルはそういい、ジェシカはかれの声に苦しそうなところがあるのを知った。ポウルはつづけていった。
「皇帝には息子がなく、娘だけです」
ジェシカはたずねた。
「あなたの狙いは皇帝の位にあるというの?」
ポウルは答えた。
「皇帝は帝国を全面戦争で粉砕させてしまうような危険はおかしませんよ。多くの惑星が吹き飛び、あらゆるところに無秩序が横行する……かれはそんな危険はおかさないでしょう」
カインズはいった。
「きみが考えておることは無謀な賭けだ」
ポウルはたずねた。
「ランドスラードの大公家すべてがもっとも恐れているのは何だ? かれらがもっとも恐れているのは、いま現在アラキスでおこっていることだ……サルダウカーがかれらを、ひとつまたひとつと粉砕していくことだ。そのためにこそランドスラードが存在している。それが大協約を意義あらしめているもとだ。手を結び合ってのみ、かれらは帝国の武力と共存していけるのだ」
「しかし、かれらは……」
ポウルは話した。
「アラキスは、かれらをひとつに結集させる叫び声となるだろう。かれらひとりひとりが、ぼくの父上の運命におちいる危険を知るんだ……群から切り離されて、殺されるのだということを」
カインズはジェシカにたずねた。
「かれの計画は成功するでしょうか?」
ジェシカは答えた。
「わたしはメンタートではありません」
「でもあなたはベネ・ゲセリットです」
彼女はカインズの心を探るように見つめてからいった。
「かれの計画にはいい点も悪い点もありますわ……この段階ではどんな計画もそうでしょうが。計画というものは、その概念と同じく、実行に依存するところが多いですからね」
ポウルは引用した。
「法律は究極的な科学である……と、皇帝の部屋の入口に書かれているそうだ。ぼくはかれに法律を教えてやるんだ」
カインズはいった。
「しかし、どうもわたしはこの計画を考え出した人間を信用する気になれないな。アラキスにはそれ自身の計画があり、われわれは……」
「玉座からなら、ぼくは手をふるだけでアラキスを楽園にできるはずだ。これが、あなたの援助にたいしてぼくの提供できるお返しだ」
カインズは緊張した。
「わたしの誠実さは売り物ではないのですぞ、閣下[#「閣下」に傍点]」
ポウルはデスクごしに、こちらを冷たく凝視している青の中の青の両眼と視線を合わせ、その髭を生やした顔を、人を命令するのに慣れた顔をつくづくと眺めた。きびしい微笑がポウルの唇に浮かび、かれはいった。
「よくいわれた。謝罪する」
カインズはポウルの見つめている目と視線を合わせ、しばらくしてから答えた。
「これまでハルコンネン家の者で、あやまちを認めたものはいなかった。きみはやつらとはちがうらしいな、アトレイデ家の者は」
ポウルはいった。
「やつらの教育がまちがっていたせいかもしれないさ。あなたは売り物ではないといったが、ぼくはあなたが受け取ってくれるお返しを持っているものと信じる。あなたの誠実さにたいして、ぼくは自分の誠実さをあなたに捧げよう……完全にだ」
ジェシカの心の中で想いが走った。
“わたしの坊やにはアトレイデ家の者の真実味があるわ。かれにはあのすばらしい、無邪気なほどの名誉心がある……そしてそれは、本当に、なんという強い力かしら”
彼女はポウルの言葉がカインズに衝撃をあたえたのを見た。
カインズは口を開いた。
「これは馬鹿げている。きみはまだ子供だし……」
ポウルはいった。
「ぼくは公爵だ……ぼくはアトレイデ家の人間だ。アトレイデ家の者がそんな誓いを破ったことは、おまだかつてないことだ」
カインズは息を呑んだ。
ポウルは重ねていった。
「ぼくが完全にというとき……なんの隠し立てもなしにだ。ぼくはあなたに命をあたえよう」
「閣下!」
カインズはそういって、言葉をとぎらせたが、いまは十五歳の少年に話しかけようとしているのではなく、高位のものに話しかけているのだと、ジェシカにはわかった。いま、カインズは心からその言葉を口にしたのだ。彼女は思った。
“この瞬間からかれはポウルに命を捧げるようになるのだ……アトレイデ家の者はこういうことを、どうしてこんなに速く、こんなに容易に成しとげられるのだろう?”
カインズはあとをつづけた。
「あなたが心からそういわれているのはわかります。しかしハルコンネン……」
ポウルの背後でドアがたたきつけられたように開いた。ふりむいたかれは戦闘で通路が渦巻いているのを見た――叫び声、鋼鉄のぶつかりあう音、凍りついたようにい[#「ゆがむ」だろうと思うが、原本に従う……「いがむ」は名古屋、讃岐、伊予、鳥取あたりの方言だそうな。翻訳者の矢野徹氏は愛媛県出身なので、ご本人は方言であることに気づいていないのかもしれない]がむ顔。
母親とともにポウルはドアのそばへ走った。そこの通路はアイダホがふさいでおり、シールドにぼやけてはいるが、それをとおしてかれの血走った目が見えており、そのむこうに多くの手が動き、鋼鉄の刃がシールドにたいしてむだなままにたたきつけられていた。麻痺銃《スタンナー》がオレンジ色の火をふき、シールドにはねかえされた。アイダホの剣はその中でひらめき、刃から赤い血がしたたり落ちた。
カインズはポウルのそばに飛びつき、かれらは全身の重みでドアを押しつけた。ポウルが最後に見たのは、ハルコンネン軍の制服を着た群にむかって立ちはだかっているアイダホだった――かれがぴくりと動き、よろめきそうになってふみこたえ、黒山羊のような髪の中に死の赤い花が咲いたことだった。
ついでドアはしまり、カインズが閂をはめる音がカチリとひびいた。
カインズは口を開いた。
「どうやらわたしは、どちら側なのか、決められたようですな」
「ここの機械がとまる前に探知した者がいるんだ」
ポウルはそういいながら母親をドアから引き離し、彼女の目に絶望が現れているのを知った。
カインズはいった。
「わたしは、コーヒーが来なかったときに、面倒がおこっていることを察しているべきでした」
ポウルはたずねた。
「ここには非常出口がある。そこから出ようか?」
カインズは深く息を吸ってから答えた。
「このドアは、ラス・ガン以外のものなら、少なくとも二十分はもちこたえられます」
「こちら側がシールドを使っているのを恐れて、やつらはラス・ガンを使いはしないね」
ジェシカはささやいた。
「ハルコンネンの制服を着たサルダウカー兵たちだったわ」
いまやドアは規則的になぐりつけられ、その音がひびいていた。
カインズは右側の壁にならんでいるキャビネットのほうに手をふった。
「こちらへ」
かれは最初のキャビネットへ行き、ひとつの引出しをあけ、その中にあるハンドルを動かした。キャビネットの置かれている壁全体が大きく開き、トンネルの黒い口を現わした。
「このドアもプラスティールです」
カインズの言葉にジェシカは答えた。
「ほんとうによく用意を整えていられますのね」
「われわれはハルコンネンの下で八十年間生きてきましたからね」
カインズはそういい、ふたりを闇の中に案内し、ドアを閉じた。
とつぜん訪れた暗黒の中で、ジェシカは前方の床《ゆか》に矢じるしが輝いているのを見た。
カインズの声が背後からひびいた。
「われわれはここで分かれましょう。ここの壁はほかのところよりも丈夫です。すくなくとも一時間はもちこたえましょう。床にあるその矢じるしにそって行くのです。そのしるしは、あなたがたが通られると消えます。矢じるしは迷路を通って別の出口へつづいており、そこにソプターが隠してあります。今夜、砂漠に嵐がやってきます。あなたがたにある唯一の希望は、その嵐のほうへ飛び、嵐とともに移動することです。わたしの部下も、ソプターを盗むときにはこの方法を使ってきたのです。嵐の中で、できるだけ高いところにいれば、生き残ることができるでしょう」
ポウルはたずねた。
「あなたはどうするのです?」
「わたしは別の道から逃げてみます。もしわたしが捕らえられたら……そう、わたしはいまだに帝国の惑星学者です。わたしはあなたがたの捕虜だったといえますよ」
“卑怯者のように逃げる……しかしこうするほか、ぼくが父上の敵に復讐するために生きていくことはできないんだ……”
ポウルはそう考えながらドアのほうにむいた。
ジェシカはかれが動いたのを聞きつけていった。
「ダンカンは死んだわ、ポウル。あの傷を見たでしょう。かれのためにしてあげられることは、もう何もないのよ」
「いつかぼくは、やつらにこの仕返しはしてやるぞ……」
カインズはいった。
「いま急いで逃げられないかぎりは、それもだめですぞ」
ポウルはその男の手が肩にかけられたのを知った。かれはたずねた。
「ぼくらはどこで会うんだ、カインズ?」
「あなたをさがしにフレーメンを出します。嵐の通る道はわかっていますからね。さあ急いで。|大いなる母《グレイト・マザー》があなたがたにスピードと幸運をおあたえになりますように」
かれが闇の中を去ってゆく音が聞こえた。
ジェシカはポウルの手を探り、そっと引っぱった。
「わたしたち、離ればなれにならないようにしなくちゃ」
「ええ」
かれは母のあとから最初の矢じるしを越え、それが足にふれると消えてしまうのを見た。つぎの矢じるしが前方に光った。
ふたりはそれを越え、それがひとりでに消え、別の矢じるしがまた前方に現われるのを見た。
かれらはいつか走り出していた。
“計画の中の計画の中の計画の中の計画……わたしたち、いまはだれかの計画に巻きこまれてしまっているのかしら?”
と、ジェシカは考えた。
矢じるしはふたりに何度となく方向を変えさせ、かすかな輝きにぼんやりとうかがわれるだけの出入口の前をいくつか通りすぎた。通路はしばらくのあいだ下り坂になり、それから登りとなり、それからはずっと登りがつづいた。かれらはついに階段に達し、角《かど》をまわり、すぐに輝いている壁のところへ出た。その壁のまん中には黒いハンドルが見えていた。
ポウルはそのハンドルを押した。
壁はふたりのむこうへと大きく開いた。明るく輝いた前方には、岩を掘削した洞窟があり、その中央に一台の鳥型飛行機《オーニソプター》がうずくまっていた。そのむこうに見えている平たい灰色の壁にはドアのしるしがぼんやりと光っていた。
「カインズはどこへ行ったのかしら?」
と、ジェシカはたずねた。
「かれは優秀なゲリラの指導者ならだれでもやるだろうことをやったんです……ぼくらを分けて、もしかれが捕らえられても、ぼくらがどこにいるのかいえないようにしたわけですよ」
ポウルは彼女をその部屋の中に引っぱりこみ、ついでふたりの足もとが床《ゆか》からひどくほこりを蹴立てていることに気づいた。
「ここには長いあいだ、だれも来た者がいないようですね」
「フレーメンがわたしたちをさがし出せること、かれは確信していたわね」
「ぼくも信じますよ」
ポウルは彼女の手を離し、鳥型飛行機《オーニソプター》の左側のドアへ行ってそれを開き、かついできた袋を後部に置いた。
「この飛行機には接近探知遮蔽装置がつけてあります……計器版にはドアと照明のリモート・コントロールがついています。ハルコンネンの下で八十年を生きてきたことが、かれらにすべてを完全にしておくことを教えたんですね」
ジェシカは機体の反対側によりかかって、息をついた。
「ハルコンネンはこのあたり一帯に部隊を出してくるでしょうね。かれらも馬鹿じゃないんですもの」彼女はそういい、方向感覚を取りもどし、右のほうを指さした。「わたしたちが見た嵐は、あちらだったわ」
ポウルはうなずき、とつぜん動きたくなくなってきた気持と戦った。かれにはその原因がわかっていたが、どうしようもなかった。今夜どこかで、かれは決断する能力を何とも知れぬ深いところに落としてきていた。かれらふたりを取り巻いている時間領域はわかっているものの、いま、この場は謎の場所として存在しているのだ。それはまるで、視界がとぎれてしまう遠い谷間に下りていったところから、自分自身を見ているかのようだった。その谷間から出てくる数えきれない通路のろれかは、ポウルを視界のきくところへもどしてくれるのだろうが、多くはそうはしてくれないのだろう。
ジェシカは言葉をかけた。
「ここに長くいればいるほど、かれらは準備を整えるのよ」
「乗りこんで、ストラップをしめてください」
かれはそう答えて母親とともに鳥型飛行機《オーニソプター》に乗ったが、いまだにここは予知能力によっても視界のさえぎられている盲目[#「盲目」に傍点]の場所なのだという想いと格闘をつづけていた。そしてかれはとつぜん気がつき、ショックをおぼえた。かれはますます、前もって知った記憶に依存するようになっていたので、この特別な緊急事態にたいして弱気になっているのだ。
“視界だけに頼るなら、ほかの感覚は弱まる”
それがベネ・ゲセリットの格言だった。かれはうまそれを思いおこし、二度とその罠には落ちないぞ……この事態から生きのびられたら……と、自分の心に誓った。
ポウルは自分の安全ベルトをしめ、母も用意ができたのを見てから、機体を点検した。両翼はいっぱいにひろがり、金属の薄い中間の羽根も伸びていた。かれは引き込み桿にふれ、ガーニィ・ハレックが教えてくれたジェット噴射離陸に備えて両翼が短くなるのを見つめた。スターター・スイッチは軽く動いた。計器版のダイアルが明るくなり、ジェット噴射管は温かくなった。タービンは低くうなりはじめた。
「用意はいい?」
と、かれはたずねた。
「ええ」
かれは照明用のリモート・コントロールにふれた。
暗黒がふたりを包んだ。
つづいてドアのリモート・コントロールへと動かした手は、輝いているダイアルに影を作った。きしる音が前方から聞こえた。砂が流れこんできたが、それもすぐにおさまった。ほこりっぽい風がポウルの頬に吹いてきた。かれはとつぜん気圧が変わったことを感じながら機体のドアをしめた。
ドアの壁があったところに現われた四角い闇の中に、砂ぼこりにかすんではいるが大きく星空が見えた。星明かりが前方の岩棚を見せ、そこに砂がさざ波を立てていることを示していた。
ポウルは計器版に輝いている連動スイッチを押した。両翼はすぱっとうしろに動き、ソプターをその巣から飛び立たせた。両翼が急上昇姿勢にロックされると、噴射管は勢いよくジェットを噴出した。
ジェシカは両手を軽く副操縦装置に乗せ、息子の確実な操作を感じていた。彼女はおびえていたが、高揚した気分にもなっていた。
“いまは、ポウルの受けた訓練だけが頼みの綱……その若さと敏速さが”
ポウルは噴射管にもっとパワーをくわせた。ソプターは傾斜してふたりを座席に押さえつけ、前方の星空に黒い壁が浮かび上がってきた。かれは両翼をもうすこしひろげ、パワーをもっとふやした。翼がもう一度はばたくと、かれらは星明りで冷たく銀色に照らされている岩を飛びこえた。砂ぼこりに赤く輝いている第二の月が、かれらの右側にひろがっている地平線の上に出ており、風がリボンのように尾を引いているありさまをくっきりと見せていた。
ポウルの両手は操縦装置に踊った。両翼は甲虫の羽根のように短くすぼめられた。機体が急上昇しはじめるとGの力がふたりの体を押さえつけた。
「うしろにジェット噴射の焔!」
と、ジェシカはいった。
「ぼくも見ました」
かれは動力|槓杆《こうかん》[#これは梃子《てこ》。梃子に使う棒のこと……まあ普通にレバーでいいんじゃないかと思うんだけど]を前に押しつけた。
ふたりのソプターはおびえた動物のように飛び上がり、南西に見えている嵐と、大きなカーブを作っている砂漠にむかって突進した。近くの地表を見下ろしたポウルは、影を引いている岩の列がどこで終わっているかを知った。砂丘の下深くにある居住地区だ。月光に照らされて爪《つめ》のようにのびている影のかなたに、砂丘がひとつ、またひとつとつづいている。
そして地平線の上には、星空を背景にして立ちはだかっている壁のように、大きな嵐がひろがり登っていた。
何かがソプターをゆすぶった。
ジェシカは息をのんだ。
「砲弾の爆発よ! かれらは何かの種類の発射兵器を使っているわ」
彼女はポウルの顔にとつぜん動物的な笑いが浮かぶのを見た。
「やつらはラス・ガンを使うのを避けているようですね」
「でも、わたしたちシールドを使っていないのよ!」
「やつらはそれを知っていますか?」
またもソプターは振動した。
ポウルは体をねじってうしろを見た。
「こちらに追いついてこれるほど速いのは、一機だけのようですね」
かれは注意をコースにもどし、前方に高くせまってくる嵐の壁を見つめた。それはまるで、手のふれられる固体のように立ちはだかっていた。
「ミサイル発射装置、ロケット、古代兵器のすべて……それもフレーメンにあたえられるものになるんだ」
と、ポウルはつぶやいた。
「嵐よ……方向を変えたほうがいいんじゃなくて?」
「うしろから来る飛行機は?」
「追いついてくるわ」
「いまだ!」
ポウルは両翼をちぢめるなり、だまされてしまいそうなほど見たところゆっくりと煮えたぎっている嵐の壁にむかって左に急旋回し、両頬がGの力で引っぱられるのを感じた。
かれらがすべりこんでゆく砂ぼこりの雲は、ゆっくりとゆれながらしだいに濃くなってゆき、ついに砂漠と月を見えなくしてしまった。飛行機は、緑色に光っている計器盤を除くと、横に長くのびた暗黒がうなり声を上げているだけのものになった。
ジェシカの胸に、これまでそういった砂嵐について聞かされてきた警告のすべてが浮かんできた――金属をバターのように切ってしまい、肉をきざんで骨だけにしてしまい、その骨も食べてしまうことなどだ。彼女は砂ぼこりの毛布をかぶった風がたたきつけてくるのを感じた。それは機体をねじり、ポウルは操縦装置を懸命になって操作した。彼女はかれがパワーを変えるのを見、機体がはね上がるのを見た。かれらのまわりで金属がきしり、ふるえた。
「砂よ!」
ジェシカは叫び、計器盤の明かりにかれがちがうよと頭をふるのを見た。
「この高さでは、そんなに砂はありませんよ」
だが彼女は飛行機が大渦の中にいよいよ深く沈んでいくのを感じた。
ポウルは両翼を滑空の長さいっぱいにのばし、それが衝撃にきしる音を立てるのを聞いた。かれは視線を計器に集中し、本能に従って滑空し、高度を保とうと戦った。
かれらが飛行している音は消えていった。
ソプターは左側へひっくりかえされそうになった。ポウルは飛行姿勢表示器の中に輝いている球をとめておこうと神経を集中し、機体を水平飛行にもどそうと努力した。
ジェシカは、すべての動きは外部だけにあり、かれらそのものは静かにとまっているような、気味の悪い感じをおぼえた。ぼんやりと褐色のものが窓にぶつかって流れ、低い音がとどろいているのが、外部に存在している大きな力を思い出させた。
“時速、七から八百キロメートルにもなる風”と、彼女は考えた。アドレナリンが鋭く噛みついてきた。“恐れてはいけないのよ”彼女は自分の心にそういいきかせ、ベネ・ゲセリットの祈りの文句を口にした。“恐怖は心を殺すもの”と。
ゆっくりと、彼女の長い歳月をかけた訓練が勝利をおさめた。
落ち着きがもどってきた。
ポウルはつぶやいた。
「ぼくらは虎の尾をつかんでいるんだ……ぼくらは降下できない、着陸できない……そしてぼくは、これから抜け出て上空に行けそうもない。これとともに飛びつづけるほかないんだ」
落ち着きが彼女から抜けていった。ジェシカは歯が鳴り出すのを感じ、噛み合せた。ついでポウルの声が、低く、落ち着いて、祈りの言葉を口にしているのが聞こえてきた。
「恐怖は心を殺すもの。恐怖はすべてに忘却をもたらす小さな死。ぼくは自分の恐怖を見つめよう。それがぼくの上を、ぼくの中を通りすぎていくがままにまかせよう。そしてそれが通りすぎてしまったとき、ぼくはふりかえって恐怖の通っていった道を見てみよう。恐怖が去ってしまったところ、そこには何もない。ぼくが残っているだけなのだ」
[#改ページ]
[#ここから10字下げ]
きみは何を軽蔑するか?
それによってきみの正体はわかるのだ。
――イルーラン姫による“ムアドディブの手引き”から
[#ここで字下げ終わり]
親衛隊長イアキン・ネフドは報告した。
「やつらは死にました、男爵《バロン》……あの女と少年はどちらもたしかに死んでおります」
男爵ウラディミール・ハルコンネンは、かれの個室の睡眠用サスペンサーの中で体をおこした。その個室のかなたに、何重もの殻でできた卵のようにかれを取り巻いて、かれがアラキスに着陸させた宇宙巡洋艦がひろがっていた。だが、ここ、かれの個室では、軍艦の冷たい金属は掛け布で隠され、繊維の詰め物がされ、珍しい美術品で飾られていた。
親衛隊長はかさねていった。
「確実なことです。やつらは死にました」
男爵はその大きな体をサスペンサーの中で動かし、部屋の端にあるくぼみの中で蛋白光を放っている跳ねる少年の彫像に視線をむけた。眠気がうすらいでいった。かれは脂肪がだぶだぶしている頸筋の下にある詰め物をしたサスペンサーをまっすぐのばし、寝室にたったひとつある照明球《グロー・グローブ》のむこうの入口を見つめた。そこに|ペンタシールド《*》にさえぎられてネフド大尉が立っていた。
そいつはまたくりかえした。
「やつらは確実に死にました、男爵《バロン》」
男爵はネフドの目にセムータでどんよりしている跡があるのを知った。この男が報告を受けたときは薬にどっぷりつかって放心状態であり、ここへ急いでやってくる前に解毒剤でそれから抜け出さなければいけなかったことは、はっきりしている。
「自分はくわしく報告を受けました」
と、ネフドはいった。
“すこし冷汗をかかせてやれ……政治に使う道具はつねに、鋭く、張りつめた状態に保っておかなければいけないものだ。権力と恐怖……鋭さと張りつめた状態”
男爵はそう考え、低い声でたずねた。
「おまえは、やつらの屍体を見たのか?」
ネフドはためらいを見せた。
「どうなんだ?」
「殿《との》……やつらは砂嵐の中へ飛びこんでゆくのを見られました……八百キロメートルを越える風です。あのような嵐の中で生きのびられるものはありません。何ひとつもです! 味方の一機はやつらを追跡している最中に破壊してしまいました」
男爵はネフドを見つめ、顎のたくましい筋肉が神経質にぴくりと動いたのを知った。ネフドが唾を飲みこむときの顎の動きかただ。
男爵はかさねてたずねた。
「おまえは屍体を見たのか?」
「殿……」
男爵は咆哮した。
「いったいおまえは何のために、鎧を騒々しく鳴らしてやってきたんだ? わしに確実でもないことを確実だと話しにか? そんな馬鹿げたことにたいしてわしがおまえを褒めたり、またおまえを昇進させたりするとでも思っているのか?」
ネフドの顔は骨のように青くなった。
“この臆病者の顔を見ろ……わしは、こんな役にも立たん馬鹿どもにかこまれているんだ。こいつの前に砂をばらまいて、穀物だぞといったら、ついばみはじめるだろうな”
男爵はたずねた。
「アイダホとかいう男がやつらのいるところを教えてくれたわけだな?」
「はい、殿!」
“どうだ、このあわてぶりは”
そう思いながら男爵はたずねた。
「やつらはフレーメンのもとへ逃げようとしていたわけか、え?」
「はい、殿」
「ほかにつけ加えることは何かあるのか……この報告に?」
「帝国の惑星学者カインズが、それに一枚噛んでおります、殿。アイダホはこのカインズとふしぎな状況で合流しました……疑惑をもってしかるべき状況とさえいえると思います」
「それで?」
「やつらは……ええと、いっしょになって砂漠のある場所へ逃げました。そこがあの少年とその母親に隠れていたところだったことは明らかです。やつらを追いかける騒ぎの最中に、味方の部隊のいくつかがラス・ガン・シールド爆発にぶつかりました。
「こちらの損害は何人だ?」
「自分は……ああ、まだはっきりした人数をつかんでおりませんので、殿」
“こいつは嘘をついているな。だいぶひどかったにちがいない”
「帝国に飼われているそのカインズだが……両方に味方|面《づら》をしていたわけだな?」
「そのことには自分の名誉をかけられます、殿」
“こいつの名誉だと!”
男爵はいった。
「その男を殺せ!」
「殿! カインズは帝国の惑星学者であり、皇帝陛下直属の……」
「では、事故に見せかけるのだな!」
「殿、このフレーメンの巣を襲ったとき、われわれの部隊にサルダウカーもおりました。かれらがいま、カインズを保護下においております」
「かれらのところから連れ出せ。わしがかれに質問したがっているとでもいうんだ」
「もしかれらが反対しましたら?」
「おまえがうまく処理しさえすれば、反対なぞするものか」
ネフドは唾を飲みこんだ。
「はい、殿」
男爵はとどろくような声でいった。
「そいつは死ななければならん。そいつは、わしの敵を助けようとしたのだからな」
ネフドは体重をかけていた足を踏みかえた。
「どうした?」
「殿、サルダウカーは……二人の男を監禁しておりますが、殿も関心を持たれるやつだと存じます。かれらは公爵の|暗 殺 名 人《マスター・オブ・アサシン》をつかまえました」
「ハワト? スフィル・ハワトか?」
「自分はこの目で捕虜を見ました、殿。そのハワトです」
「そんなことができるとは思ってもいなかったぞ!」
「かれは麻痺銃《スタンナー》で倒されたと聞いています、殿。シールドを使えない砂漠の中だったのです。事実、どこも怪我はしていません。もしこちらがかれに手を出せたら、ずいぶん面白い遊びができることでしょう」
男爵はうなり声をあげた。
「おまえがいっている相手はメンタートだぞ。メンタートをむだに死なしてしまう馬鹿はおらん。やつは何か話したか? やつが敗れたことについて、どういった? やつはどこまで知っていたのか……話すわけはないな」
「殿、かれが話したことはただひとつ。かれらを裏切った者がレイディ・ジェシカであると信じていることだけです」
「ほ、ほう……」
男爵はまた横になって考え、ついでたずねた。
「確信があるのか? やつの怒りがレイディ・ジェシカにむけられていることは?」
「かれは自分のいる前でそういったのです、殿」
「では、あの女が生きていると、やつには信じさせておくことだ」
「しかし、殿……」
「黙っていろ。わしはハワトを親切に待遇してやりたい。本当の反逆者である死んだドクター・ユエのことは、何ひとつかれに教えるなよ。ドクター・ユエは公爵を守ろうとして死んだということにしておくんだ。ある意味では、これも真実といえるのだからな。そのかわりにかれの疑惑をレイディ・ジェシカにむけるのだ」
「殿、自分にはどうも……」
「メンタートに指示し動かせる方法はだな、ネフド、かれ自身が得た情報によるんだ。まちがった情報……まちがった結果だな」
「はい、殿、でも……」
「ハワトは腹をすかしているか? 咽喉が乾いてはいないか?」
「殿、ハワトはまだサルダウカーの手にあるのですが!」
「ああ、そうだったな。だがサルダウカーもわしと同じく、ハワトから情報を手に入れたくてたまらないはずだ。わしはわれわれの味方についてひとつ気づいたことがあるんだ、ネフド。かれらはそうまわりくどくない……政治的にはな。意識的にそうしているんだろう。皇帝がそう望んでいるというわけだ。ああ、わしはそうだと信じるよ。おまえはサルダウカーの指揮官に思い出させるんだ、いやがる相手から情報を手に入れるにかけてはわしが有名なことを」
ネフドはなさけなさそうな顔になった。
「はい、殿」
「サルダウカーの指揮官に伝えるんだぞ。わしがハワトとそのカインズを同時に訊問して、おたがいにいがみあわせてみたがっているとな。かれもそれぐらいはわかるだろう」
「はい、殿」
「そしてわれわれの手にかれらをつかんだら……」
男爵はうなずいてみせた。
「殿、サルダウカーは、殿が、その……訊問をされるあいだオブザーバーを置きたがると思いますが」
「求めもせぬオブザーバーなど、放り出してしまう緊急事態を作り出すのはやさしいことだぞ、ネフド」
「わかりました、殿。そのときがカインズの事故に会うときです」
「そのときカインズとハワトの両方が事故に会うんだ、ネフド。だが本当の事故に会うのはカインズだけだ。わしに必要なのはハワトなんだ。ああ、そのとおりだとも」
ネフドはまばたき、唾を飲みこんだ。かれは質問しかけるところだったが、沈黙を守った。
男爵は言葉をつづけた。
「ハワトは食べ物と飲み物をあたえられる。親切と同情をもって扱われるんだ。飲ませる水には死んだパイター・ド・プリースが作り出した|残 留 毒《レジデュアル・ポイズン*》を入れることにしろ。それからのちはハワトの食事に解毒剤を忘れないように、おまえが気をつけているんだぞ……わしが別の命令を出さないかぎりはな」
ネフドは首をふりながら答えた。
「はい、解毒剤を。でも……」
「頭を働かせろ、ネフド。あの公爵は毒カプセルの義歯でわしを殺すところだった。かれがわしの前で吐き出したガスは、かけがえがないほど大切なメンタートのパイターを、わしから奪ってしまった。わしにはそのかわりが必要なんだ」
「ハワトを?」
「ハワトだ」
「しかし……」
「おまえは、ハワトが心の底からアトレイデ家に忠誠をつくしている男だといおうとしているんだろう。そのとおりだ、しかしアトレイデ家は死に絶えてしまった。われわれはかれを説得するんだ。公爵の死はかれの責任ではないということを、信じこませなければいかん。すべてはベネ・ゲセリットの魔女がやったことなのだ。かれの仕えた主人は劣っていた。理性が感情でくもらされていた男だった。メンタートは感情を混じえることなく計算する能力を尊敬するものなんだぞ、ネフド。われわれはあの恐るべきスフィル・ハワトを説得するんだ」
「はい、かれを説得します、殿」
「ハワトは不幸なことに能力の不足した主人に仕えた。メンタートの権利は崇高なところまで高く論理をきわめることだが、そこまでメンタートを用い得られなかった主人にだ。そのことにある程度の真理が存在するとハワトは見るな。あの公爵はかれのかかえているメンタートにたいして、求められている情報をあたえられるだけの優秀なスパイを用意できなかったんだ」男爵はネフドを見つめた。「われわれも絶対にわれわれ自身をあざむかないことだぞ、ネフド。真実とは強力な武器なのだ。われわれはどうしてアトレイデ家を圧倒できたか、わかっている。ハワトもそれはわかっている。われわれはそれを富の力でおこなったのだ」
「富の力で。はい、殿」
「われわれはハワトを説得するのだ。われわれはかれをサルダウカーから隠すのだ。そして切り札は握っていられる……あの毒物にたいする解毒剤をあたえないことをな。あの残留毒を除去する方法はないのだ。だが、ネフド、ハワトには絶対に気づかれないことが必要なんだぞ。解毒剤が毒物知覚装置《ポイズン・スヌーパー》によって明らかになることはない。ハワトは好きなだけ料理を調べることができ、毒物の痕跡を探知することはないのだ」
ネフドの両眼は大きく開き、了解したことを示していた。
「ある物質が存在しないこと、それは存在することと同じほど致命的なものとなり得る。空気が存在しないこと、え? 水の存在しないこと? われわれが中毒しているものなら何であろうと、それが存在しなくなればな」男爵はうなずいてみせた。「わしのいうことがわかったろうな、ネフド?」
ネフドは唾を飲みこんだ。
「はい、殿」
「では仕事にかかれ。サルダウカーの指揮官に会い、ことを運ぶんだ」
「ただちにおこないます、殿」
ネフドは一礼し、ふりむくと急いで去っていった。
男爵は思いを走らせた。
“ハワトがわしのそばに! サルダウカーもかれをわしにくれるはずだ。やつらが何かを疑うとしても、それはわしがあのメンタートを殺したがっているというだけのことだ。その疑惑を、わしは認めてやるのだ! これまでの歴史にあってもっとも恐るべきメンタートのひとり、殺すための訓練を積んだメンタート……それをやつらは、こわしてしまっていいつまらぬ人形か何かのように、わしに投げてよこすのだ。わしはやつらに、そういう人形にどんな使い道があるのか教えてやるのだ”
男爵はサスペンサー・ベッドのそばの掛け布の下へ手をのばし、年上のほうの甥、ラッバンを呼ぶボタンをおした。かれは笑いを浮かべながら背をのばした。
“そして、アトレイデ家の全員が死んでいるのだ!”
あの馬鹿げた親衛隊長も、もちろん正しかったのだ。アラキスで砂がたたきつけてくる嵐が通る道筋で生き残ることのできるものなど、何ひとつあり得ないことは当然なのだ。鳥型飛行機《オーニソプター》も……それに乗っている連中も。あの女とあの息子は死んだのだ。適当な場所への賄賂、圧倒的な兵力をひとつの惑星に運ぶために要した考えられないほどの費用……皇帝の耳だけにとどくように仕立てたすべてのいい加減な報告、すべての慎重な計画がついにここで大きな結実のときを迎えたのだ。
“権力と恐怖……恐怖と権力!”
男爵はかれの前方にひろがっている道を見ることができた。いつか、ハルコンネン家の者が皇帝になるのだ。かれ自身ではないし、かれの腰が生み出す者でもない。しかし、ハルコンネン家の者だ。もちろん、かれが呼んだこのラッバンではない。だがラッバンの弟、若いファイド・ラウサは。この青年には男爵が気に入っている鋭さがある……獰猛さが。
“かわいい坊やだ。もう一年か二年……そう、あいつが十七歳になるころには、わしもはっきりとわかるだろう。ハルコンネン家が玉座を手に入れるために必要な道具を、あいつが持っているかどうか”
「殿、男爵閣下」
男爵の寝室についているドアフィールドの外に立った男は、背が低くて顔と胴体が大きく、ハルコンネン家の父方の血統を示して両眼が細く、両肩がふくれ上がっていた。かれの脂肪にはいまのところまだある程度の堅さがあったが、いつかは余分な体重を運ぶのに携帯用サスペンサーの厄介になることはその目にはっきりと現れていた。
“腕力専門のほうで脳はからっぽなやつだ。もちろんわしの甥はメンタートどころではない……パイター・ド・プリースとはちがうんだ。だが、現在必要としている仕事にはうってつけといえるかもしれないぞ。もしわしがこいつに思うとおり自由にやれといえば、こいつは通っていく道にあるあらゆるものを粉砕してゆくことだろう。ああ、こいつはこのアラキスでどれほど憎まれるようになることか!”
「やあ、ラッバン」
と男爵はいってドアフィールドを解除したが、わざと自分のボディ・シールドは最高の強度を保たせたままにしておいた。そのきらめきがベッドのそばの照明球よりもはっきりと見えているようにだ。
「お呼びになりましたか」
ラッバンはそうたずねながら部屋の中にはいり、ボディ・シールドで空気が乱されているありさまをちらりと眺め、つづいてサスペンサー椅子をさがしたが、ひとつも見あたらなかった。
「もっとよく見えるところまで来てくれないか」
男爵の言葉にラッバンは、このいまいましい老人が客を立たせておくために意識してすべての椅子をかたづけさせたのだと考えながらベッドのそばへと近づいた。
「アトレイデ家の者は死んだ……最後のひとりまでな。わしがおまえをこのアラキスに呼びよせた理由はそれだよ。この惑星はふたたびおまえのものとなったのだ」
ラッバンは目をぱちくりさせた。
「パイター・ド・ブリースを昇進させられるのだとばかり思っていましたが……」
「パイターも死んだのだ」
「パイターが?」
「パイターだ」
男爵はドアフィールドをふたたび作動させ、いかなるエネルギーも侵入できないようにした。
ラッバンはたずねた。
「ついに伯父上はあいつに飽きられたというわけですか?」
かれの声は、エネルギーが吸収されてしまう室内で単調に生気のない響きとなった。
「わしはおまえにいま一度だけ話しておくぞ。おまえはわしがパイターを抹殺してしまったと、ほのめかした。人がつまらぬものを捨て去るようにな」男爵はうなるような声を出し、太い指を鳴らした。「こんなふうにあっさりとだな、え? わしはそうまで愚かではないんだぞ、甥よ。もし二度とおまえが、言葉なり行動で、わしがそれほど愚かだというようなことをほのめかしたら、悪意から出たことだと考えるからな」
ラッバンの細い目に恐怖が現れた。かれは、ある程度までではあったが、この老男爵が血縁の者にたいしてもどれほど恐ろしい人間になり得るのかを知っていた。大変なまでの儲けとか怒りがともなっていないかぎり。死というところまで行くことはほとんどない。だが、一族の中での罰は苦痛に満ちたものとなり得るのだ。
「お許しください、殿、男爵閣下」
ラッバンはそういい、自分自身の怒りを隠すと同時に卑屈なところを見せようと視線を落とした。
「わしを馬鹿にしないことだぞ、ラッバン」
ラッバンは視線を落としたまま、唾を飲みこんだ。
男爵は言葉をつづけた。
「はっきりいっておく……人間を考えもなく抹殺してしまわないことだ。そういうことは、国家がしかるべき手つづきを経たからといって殺人を犯すようないやしむべきことだ。そういうことをやるときにはもっともな目的がなければいかん……そして、その目的をはっきりとつかんでおくことだぞ!」
怒りにラッバンは思わず口を開いた。
「でも伯父上は、反逆者のユエを抹殺されましたよ! 昨夜ここへ到着したとき、あいつの屍体が運び出されるところを見ました」
ラッバンは伯父を見つめ、とつぜん自分がいった言葉におびえた。
だが男爵は微笑した。
「わしは危険な武器となると、ひどく慎重になる男だ。ドクター・ユエは反逆者だった。あいつはわしに公爵をあたえてくれた」男爵の声に力がこもってきた。「わしはスク学校の医師を買収したのだ! 帝国内部の学校だぞ! わかるか? これは、そのままほうっておいていいような武器ではない。わしは考えなくあいつを抹殺したわけではないんだ」
「皇帝は伯父上がスクの医師を買収したことを知っておられるんですか?」
“これは辛辣な質問だ。わしはこの甥を見そこなっていたのかな?”
男爵はそう考えてから答えた。
「まだ皇帝はそのことを知らないさ……しhかしサルダウカーがきっと報告するだろう。だがそうなる前にわし自身の報告をCHOAM公社のチャンネルを通じて皇帝に届けるんだ。わしは、幸運にも、|条件づけ《コンディショニング》の処置を受けたふりをしていた医師を発見したと説明するさ。偽者の医師というわけだ、わかるな? スク学校の条件づけを裏切る行動などおこし得ないことはだれもが知っているから、この説明は受け入れられるにきまっている」
「あ、ああ、わかりました」
と、ラッバンはつぶやいた。
“まったくのところ、おまえにわかってくれればいいが。この秘密が保たれることが、どれほど重要なことなのか、わかってほしいもんだ”男爵はそう考え、とつぜん自分の心に疑問を投げかけた。“なぜわしはこんなことをしているんだ? なぜわしはこの馬鹿な甥に大きな口をたたいてみせる必要があるんだ……使い捨てなければいけない甥に?”
男爵は自分自身にたいして怒りをおぼえ、裏切られたような想いを味わった。
ラッバンはいった。
「秘密は守らなければいけないということですね。わかりました」
男爵は溜息をついた。
「今回、アラキスのことで、わしがおまえにあたえる命令はちがったものだ。おまえが前にここを支配したとき、わしは強く手綱を引きしめておいた。今回、あたえておく注文はひとつだけにしておこう」
「それは?」
「収入だ」
「収入?」
「考えてみたことがあるか、ラッバン。アトレイデ家をたたきつぶすためにこれほどの兵力を運ぶについて、われわれがどれほどの費用を使ったか? 兵力の輸送にたいして協会《ギルド》がどれほどの金額を要求するものか、ほんのすこしでもわかるか?」
「高価なものだといわれるのですね?」
「高価だとも!」
男爵は太い腕をラッバンにむかってつき出した。
「アラキスがわれわれによこせる最後の一セントまでを、六十年にわたって絞りつづければ、やっとその費用がもどってくるのだぞ!」
ラッバンは口を開き、何もいわずにまた口を閉ざした。
男爵は嘲笑するような声を出した。
「高価か……わしがこの費用について昔から計画していなければ、あのいまいましい協会《ギルド》の宇宙における独占権はわれわれを破滅させていただろう。おぼえておけよ、ラッバン。われわれがその全費用を捻出したことを。サルダウカーの輸送さえも、われわれが支払ったということをな」
そしてこれまで何度となく考えたことだったが、協会《ギルド》をだしぬけるような日がいつか来るだろうかという疑問を男爵は自分の胸に投げかけた。かれらのやり口は抜け目がない――客に文句をいわせない範囲で絞り上げてゆき、そのうちにがっしりとその手につかんで徹底的に支払いをつづけさせるところまで追いこむのだ。
軍事的行動にはつねに過大なまでの要求がつきつけられてきた。“危険料率”だと、口のうまい協会《ギルド》の代理人は説明していた。そして協会銀行《ギルド・バンク》の機構にこちらが番犬として働かせるための代理人をひとり送りこむたびに、やつらはこちらのシステムに二人の代理人をよこすのだ。
“我慢できぬことだ!”
ラッバンは話しかけた。
「では、収入を」
男爵は腕を下ろして拳を握りしめた・
「絞り上げなければいけないんだぞ」
「それで、絞り上げるかぎり、わたしは望みどおりに何でもやっていいのですね?」
「何でもだ」
ラッバンはいった。
「伯父上が運びこまれた大砲ですが、あれを……」
「あれはいま壊させているところだ」
「でも……」
「おまえにあんな玩具は必要ないさ。こんどの場合、新機軸だったが、もう役には立たぬしろものとなった。われわれは金属を必要としている。シールド相手には何の役にも立たんものだよ、ラッバン。予期されていなかっただけのことだ。このひどい惑星で公爵の部下が退却するとなると崖の洞窟の中だということは予期できたからな。こちらの大砲はやつらを中に封じこめただけだ」
「フレーメンどもはシールドを使いませんしね」
「望みならラス・ガンをすこし置いておけばいい」
「はい、殿。それでわたしは、思いどおりにやっていいのですな?」
「絞り上げるかぎりはだぞ」
ラッバンは満足そうに微笑した。
「完全にわかりました、殿」
男爵はうなり声を上げた。
「おまえが完全にわかることなど何ひとつあるものか……よくそのことをおぼえておくんだ。おまえにわかっているのは、どんなふうにわしの命令を遂行するかだ。この惑星には少なくとも五百万の人間がいることを、おまえは考えてみたことがあるのか?」
「殿はお忘れなのいですか、わたしが以前ここの摂政総督であったことを? お許しいただければ、そのお見積もりは少なすぎるかと思います。やつらのような形で低地や盆地のあいだに散在している人口を数えるのはむずかしいものです。そしてフレーメンのことを考え合わせると……」
「フレーメンなど、考慮をはらう価値はないぞ!」
「ですが、殿。サルダウカーの意見はちがっていますぞ」
男爵はためらい、甥をにらみつけた。
「おまえ、何か知っているのだな?」
「わたしが昨夜到着しましたとき、殿はもうお休みでした。わたしは……ああ、勝手でしたが、以前わたしの副官だった連中の何人かと連絡を取りました。かれらはサルダウカーのガイド役をしておりました連中です。かれらの報告によりますと、ここから南東にあたるどこかでフレーメンの一団がサルダウカーの部隊を奇襲し全滅させています」
「サルダウカーの部隊を全滅させただと?」
「はい、殿」
「そんなことができるものか!」
ラッバンは肩をすくめた。
男爵は微笑した。
「フレーメンがサルダウカーを敗北させたか……」
「わたしが受けた報告を申し上げただけです。わたしの聞いたところによるとそのフレーメン部隊はすでに、公爵|麾下《きか》のあの恐るべきスフィル・ハワトを捕らえていたそうです。
「ほ、ほう……」
男爵は微笑みながらうなずいた。
「わたしはその報告を信じます。フレーメンがどれほどの問題なのか、伯父上にはおわかりにならないのです」
「あるいはな……だが、おまえの副官たちが見たのはフレーメンではなかったのだ。やつらは、ハワトに訓練されフレーメンに扮装したアトレイデ軍の兵士だったにちがいない。それだけが考えられる解答だ」
またもラッバンは肩をすくめた。
「ともかくサルダウカーはやつらがフレーメンだったと考えています。サルダウカーはすでにフレーメン全員を一掃するための組織的虐殺を発令しています」
「結構なことだ!」
「しかし……」
「そのことにサルダウカーは専念させられるだろう。そしてこちらは間もなくハワトを手に入れられるのだ。わしにはわかっているのだ! わしにはそれが感じられるのだ! ああ、なんという日だ! サルダウカーが何の役にも立たぬ少数の砂漠民を追って出かけているあいだに、われわれは本当に必要なものを手に入れるのだぞ!」
ラッバンは眉をよせ、ためらった。
「殿……わたしは以前から感じていました。われわれがフレーメンを低く評価しすぎていることを。人口においても、それから……」
「やつらを無視するのだ! やつらは虫けらも同様のものだ。われわれに関係があるのは人口の多い町、都市、それに村落だ。実に多くの人間がいるな、え?」
「実に多くの人間がおります、殿」
「わしにはその連中が心配なんら、ラッバン」
「心配とは?」
「ああ……その九十パーセントまでは何の関係もない。だがどんなときにも、少数の……小公家とかそのほかの、野望を持った連中が危険なことをこころみるかもしれないものだ。その連中のひとりが、ここでおこった事件についての不愉快な話をしようとアラキスを離れたりしたら、わしの機嫌はもっとも悪くなるぞ。どれほどわしが機嫌を悪くするか、おまえにはわかるかな?」
ラッバンは息を呑んだ。
「おまえはかならず、各小公家から人質を取るための措置をすぐに取ること……アラキス以外にいる者は、これが正等な公家対公家の戦争であると知らなければいけない。サルダウカーはこれについて何のかかわりも持っていないのだ。わかるな? 公爵はこういった場合における通例の助命と追放を提供されたが、かれはそれを承諾する前に不幸な事故に会って死亡した。それが筋書だぞ。それから、ここにサルダウカーが来ていたというような噂にたいしては、笑い飛ばしてしまわなければいかんのだ」
ラッバンは答えた。
「陛下のお望みどおりに」
「陛下のお望みどおりにだ」
「密輸業者のほうはどのように?」
「だれも密輸業者のことなど信じてはいないのだ、ラッバン。やつらは見逃されてはいるが、信じられてはいない。とにかく、おまえはそのほうへすこし賄賂をばらまき……おまえに考えつく適当な手段を取ることだな」
「はい、殿」
「それからは、アラキスに必要なものは二つだぞ、ラッバン。収入となさけ無用の拳だ。ここでは慈悲など何ひとつ見せてはいかん。土人どもの正体を考えろ……主人をうらやましく思い、反乱の機会だけを待っている奴隷だぞ。わずかな痕跡ほども哀れみや慈悲を見せては絶対にいかんのだ」
ラッバンはたずねた。
「全惑星の住民をみな殺しになどできるものでしょうか?」
「みな殺しだと?」急いでまわした男爵の顔に驚きの表情が浮かんでいた。「だれが、みな殺しのことなど話した?」
「つまり、わたしは、伯父上が新しい民族をでも移住させられるおつもりかと思いましたので……」
「わしは絞り上げろ[#「絞り上げろ」に傍点]といったのだ、甥よ。みな殺しではない。人口をむだに減らすな、ただかれらを完全な服従に追いこむだけだ。おまえは食肉獣とならなければいかんのだぞ、わかるな」かれは微笑した。えくぼの浮かぶ太った顔が幼児の表情になった。「食肉獣はとまるところを知らん。慈悲を見せるな。途中でやめるなよ。慈悲とは怪物だぞ。それは飢えにうなる胃と乾きに泣く咽喉に敗れるものだ。おまえはつねに、飢え、乾いていなければいかんのだ……わしのようにな」
と、男爵はサスペンサーの下のふくれ上がった体をなでまわした。
「わかりました、殿」
ラッバンは視線を左右に動かした。
「では何もかもはっきりしたんだな、甥よ?」
「ただひとつを除いては。伯父上、惑星学者のカインズです」
「ああ、そうだ、カインズな」
「かれは皇帝直属の男です、殿。かれは自分の好むがままに行き来できます。それにあkれはフレーメンと非常に親しく……そのひとりと結婚しているのです」
「明日の日没までに、カインズは死んでおる」
「それは危険なことではないでしょうか、伯父上。皇帝の部下を殺すことは?」
「わしがここまでこれほど早くやってきたことを、おまえはどう考えているのだ?」と、男爵は反問した。かれの声は低く、いいようのない形容詞に満ちていた。「それにおまえは、カインズがアラキスから去ることを恐れる必要など最初からなかったのだ。おまえはあいつが香料《スパイス》に中毒していることを忘れているのだな」
「もちろん知っておりますとも!」
「それがわかっている者は、香料《スパイス》を手に入れられなくなる危険などおかさんね。カインズが知っていることはまちがいないことだ」
ラッバンは答えた。
「忘れておりました」
かれらは黙っておたがいを見つめ合った。
やがてまた男爵は口を開いた。
「ついでにいっておくが、おまえはわし自身の貯蔵品を作ることになるという点を考えておくことだ。わしは個人的に相当な量を貯めておいたのだが、公爵の部下がおこなった自殺攻撃で、わしが売り物として貯えておいたもののほとんどをやられてしまったのだ」
ラッバンはうなずいた。
「はい、殿」
男爵は晴ればれとした表情になった。
「では、明日の朝、おまえはここに残っている組織を再編成して、みんなに申しわたすのだ……われらが至高なる|大 王 皇 帝《パディッシャ・エンペラー》の命により、余がこの惑星を所有し、すべての紛争の終結を命じる……とな」
「了解いたしました、殿」
「こんどは、わしもおまえがやれると信じる。明日、もっとくわしく相談することにしよう。さて、もう出ていって、わしを眠らせてくれ」
男爵はドアフィールドの作用をとめ、甥が視界から去るのを見つめた。
“頭はからっぽ、腕力ばかりの脳たりんだ。あいつが仕事をやり終わったとき、ここの連中は血まみれの雑巾同様になっているだろう。それからわしがファイド・ラウサを送りこみ、かれらの重荷を取り去れば、かれらは救世主に歓呼をおくるだろう。敬愛するファイド・ラウサ。猛獣から救ってくれた慈悲深いファイド・ラウサ。そのあとにつづき、その人のために死すべきファイド・ラウサ。あの子供もそのときまでには、ことをおこすことなく圧迫するのはどうすればいいかおぼえているだろう。あいつがわれわれの必要とする者であることはまちがいない。あいつは学ぶはずだ。そして、あのなんという愛らしい体つき。まったくかわいい少年だ”
[#改ページ]
[#ここから10字下げ]
十五歳のころ、かれはすでに沈黙を学んでいた。
――イルーラン姫による“ムアドディブの幼年時代”から
[#ここで字下げ終わり]
ソプターの操縦に必死になって取り組みながら、ポウルが自分が錯綜した暴風の勢力を分類し、メンタート以上になっている意識でごく微細な点まで計算していることを、しだいに気づきはじめた。かれは、砂嵐の前線を、大波を、複雑な乱流を、ときどきぶつかる渦流を感じた。
操縦席は計器盤の緑の明かりに照らされた怒りの箱だった。外に流れる褐色の砂ぼこりには何の形もなさそうに見えていたが、かれの深い意識はそのカーテンをとおして見られるようになりはじめていた。
“ぼくは適当な渦流を見つけなければいけないんだ”
と、かれは考えた。
もう長いあいだかれは嵐の勢力が衰えかけているのを感じていたが、まだ機体はゆられていた。かれはつぎの乱流を待った。
渦流はとつぜん大波のようにおこり、機体を端から端までゆるがした。ポウルはすべての恐怖を押さえつけてソプターを左へ旋回させた。
ジェシカは姿勢球を見つめ、どう動いているかを知った。
「ポウル!」
と、彼女は悲鳴を上げた。
渦流はかれらを引っくりかえし、ねじ曲げ、ゆすぶった。ソプターを間歇泉《かんけつせん》で吹き飛ばされる木片のように上昇させ、かれらを吹き上げた――渦巻く砂ぼこりの中心で|第二の月《セカンドムーン*》に照らされて舞う翼のある点だ。
ポウルは視線を下げ、かれらを吹き上げた熱風が砂ぼこりでくっきりとした柱になっているのを眺め、おさまりかけている嵐が砂漠を走る枯れた川のように退いていくのを見た――かれらが上昇気流に乗ってゆくにつれ、月光の中で灰色に見えている嵐は眼下にしだいしだいに小さくなっていった。
「あれから抜け出られたのね」
と、ジェシカはささやいた。
ポウルは夜空を見わたしながら、リズミカルに翼をはばたかせ、砂嵐から離れてソプターを飛ばしていった。
「とうとうやつらをまけましたね」
と、かれは口を開いた。
ジェシカは心臓が激しく打っているのを感じた。彼女は無理に自分を落ちつけ、小さくなってゆく嵐を眺めた。彼女の時間感覚は激しい大自然の力にほとんど四時間ものあいだもまれてきたことを告げていたが、心の一部はその時間を一生のように計算していた。彼女は生まれ変わったような感じをおぼえた。
“まるで祈りの言葉みたいだったわ……わたしたちはぶつかり、抵抗しなかった。嵐はわたしたちのあいだを、まわりを通りすぎていった。嵐は去っていき、わたしたちは生き残った”
ポウルは話しかけた。
「翼の動く音がどうも気に入りません……すこし被害を受けたようですよ」
かれは操縦装置にかけた両手に、傷ついた翼がきしむのを感じた。ふたりは嵐を抜け出たが、まだかれの予知能力による視界をぜんぶ見られるようにはなっていなかった。しかしふたりは脱出することができ、ポウルは神のお告げが始まるまぎわのように体がふるえてくるのを感じた。
かれはふるえた。
その感覚は磁力に引きつけられるような驚くべきもので、かれはこのふるえてくる意識がどこから生じてきたのかという疑問にとらわれた。その一部はアラキスでの食べ物が香料《スパイス》で満たされているからだと、かれは感じた。だがかれは、言葉がそれ自体の力を持っているかのように祈りのせいかもしれないとも考えた。
“われ、恐るるまじ……”
原因と結果、かれは悪意に満ちた力にとりかこまれながらも生きており、そしてかれは自分が、祈りの魔術がなければあり得なかったであろう自己認識の瀬戸際に立っているのを感じた。
オレンジ・カトリック・バイブルにあった言葉がかれの記憶の中からひびきわたった。
“われらのまわりいたるところに存在する別世界を見るも聞くもかなわじとは、われらいかなる感覚において欠くるところありや?”
ジェシカが話しかけた。
「どこもかしこも岩だらけよ」
ポウルは動揺するソプターに心を集中し、首をふって頭をはっきりさせようとした。かれは母が指さしたほうを眺め、右前方の砂地の上に黒く盛り上がっている岩の形を見た。かれは両の足首のまわりに風が吹き、操縦席にほこりが渦巻くのを感じた。嵐にやられた傷は翼だけではなく、どこかに穴があいているのだ。
ジェシカはいった。
「砂の上に下りたほうが良さそうよ。翼はフル・ブレーキをかけられそうにないから」
かれは前方に見えている場所にむかってうなずいてみせた。砂嵐にたたきつけられた尾根が月光に照らされて砂丘の上につき出ているところだ。
「あの岩場の近くに下ろします。安全ベルトをしめて」
彼女はその言葉に従いながら考えた。
“えあたしたちには水とスティルスーツがある。もし食べ物を見つけられたら、この砂漠の上で長いあいだ生きつづけられるはずだわ。フレーメンはここで生きているのよ。かれらにできることなら、わたしたちにもできるわ”
ポウルはいった。
「とまったらすぐ、あの岩へ走って。袋はぼくが持ちます」
「走る……」彼女は口ごもり、うなずいた。「砂虫《ウォーム》ね」
「ぼくらの友、砂虫です。かれらがこのソプターを食べてしまうでしょう。ぼくらが着陸したところにはなんの跡も残らなくなるんです」
“まったくはっきりしているのね、この子の考えかたは”
かれらのソプターはしだいに低く、低く、滑空していった。
たいへんな速度で動いている感覚がやってきた――ゆれる砂丘の影、散在する島のように持ち上がっている岩、ソプターは砂丘の頂にふれて軽くゆれ、砂の谷間を飛びこえ、つぎの砂丘にふれた。
“かれ、砂でスピードを殺しているんだわ”
ジェシカはそう考え、かれの腕前に感心した。
ポウルは警告した。
「しっかりつかまって」
かれは両翼のブレーキをかけた。最初はおだやかに、ついでしだいに強くだ。両翼が空気をつかみ、その縦横比が急速に落ちてゆくのをかれは感じた。
とつぜん、警告としてはかすかに振動しただけで、砂嵐に弱められていた左の翼が上方にねじ曲がったかと思うとソプターの胴体にたたきつけられてきた。機体は砂丘の頂を横切ってすべり、左へねじれた。それからむこう側をころげ落ちてゆき、つぎの砂丘につくった砂のなだれの中に機首を埋めた。機体は折れた翼を下にしてとまり、右翼は星空のほうにのびていた。
ポウルは安全ベルトをはずすなり、母の体を横切って体を上にのばし、ドアを押しあけた。砂はふたりのまわりに流れこみ、焼けた火打石のような乾いた匂いをみなぎらせた。かれは後部座席の袋をつかみ、母がベルトをはずしたのを見た。彼女は右側の外に出て、ソプターの金属の胴体に立った。ポウルは袋のストラップを握って引きずりながらそのあとにつづいた。
「走って!」
と、かれは命令した。
かれは砂丘の上を指さした。そのむこうには、砂をたたきつけて吹きまくる風に下のほうをえぐられた岩の塔が見えていた。
ジェシカはソプターから飛び下り、ころげ、すべりながら、砂丘を上へ走りはじめた。彼女の背後には、ポウルが息をあえがせながらつづいているのが聞こえていた。かれらは、岩場のほうへ曲がりながらのびている砂の尾根に出た。
ポウルは命令した。
「この尾根をたどって。そのほうが早いから」
かれらは足を砂にとられながら岩場にむかってよろめき進んだ。
新しい音がかれらの耳にひびいてきた。低くささやくように、シューッと、こすれるような音だ。
「砂虫……」
と、ポウルはいった。
それは大きくなってきた。
ポウルは息を呑んだ。
「急いで!」
最初の丸い岩が、砂の海から傾斜してつづいている浜辺のように、前方十メートルほどに見えたとき、かれらの背後で金属がくだけ粉砕される音がひびいた。
ポウルは袋のストラップを右手に持ち変えた。かれが走ると袋は体にぶつかった。かれは母の腕をもう一方の手でつかんだ。ふたりは風にえぐられてねじ曲がっている斜面から小石の散らばっている斜面へと走り抜け、つき出ている岩の上へころげ出た。呼吸は乾き、咽喉《のど》をかすれさせた。
「もう走れないわ」
と、ジェシカはあえいだ。
ポウルは立ちどまり、彼女は岩のかげに押しこみ、ふりむいて砂漠を見おろした。ふたりがいる岩の島と平行して動く小山[#「動く小山」に傍点]が走っていた――月の光に照らされた波紋、砂の波が見え、波頭《なみがしら》は一キロメートルほど離れてポウルの目とほとんど同じ高さだった。その航跡にあった砂丘は平たくなってしまい、そこに一条のカーブが描かれていた――ふたりが壊れた鳥型飛行機《オーニソプター》を放棄したあたりの砂漠を短い円が横切っているのだ。
砂虫が通りすぎたあとに、飛行機の形跡はなにひとつ残っていなかった。
砂が盛り上がってできる小山は砂漠の中へ出てゆき、何かをさがし求めているようにその航跡を横切ってもどってきた。
ポウルはささやいた。
「あれは協会《ギルド》の宇宙船より大きいですね……砂漠の奥地では大きくなると聞いていましたが、砂虫があれほど大きくなるとは、考えてもいませんでした」
「わたしもよ」
と、ジェシカはささやきかえした。
ふたたびその怪物は岩場から離れ、地平線のほうへカーブした航跡を残して去っていった。ふたりはそいつの動いてゆく音が、まわりで低くさわぐ砂の響きの中に消えてしまうまで耳を澄ませていた。
ポウルは深く息を吸いこみ、月の光に霜が下りているように見える絶壁を見上げて、|キタブ・アル・イバール《*》にあった言葉を引用した。
「夜に旅をし、日中は暗い蔭に休むこと」かれは母を見た。「朝までまだ数時間あります。歩けますか?」
「ええ、ちょっと待って」
ポウルは丸い岩の上に出て、袋をせおってストラップを調節した。かれはパラコンパスを両手に持ってしばらく立っていた。
「よければ行きますよ」
彼女は岩を押して離れ、力がもどっているのを感じた。
「どちらの方角へ?」
かれは指さした。
「尾根がつづいているほうへ」
「砂漠の奥深くへなのね」
「フレーメンの砂漠へ……」
と、ポウルはささやき、口ごもった。カラダンにいたときに経験した未来を予知する夢があまりにもくっきりしていたことを思い出して戦慄をおぼえたのだ。かれは以前にこの砂漠を見ていた。しかし、そのときに見た景色の組立てとは微妙に異なっている。意識の底に消えていた視覚上の光景が、記憶に吸収されてしまい、いまここで現実の光景に投影されるとき完全に再現することができないのだ。かれがじっと立ちすくんでいると、視界に見えているものは動き、異なった角度から近づいてくるようだった。
“あの光景の中にはアイダホがぼくらといっしょにいた。だが、いま、アイダホは死んでいる”
ジェシカは、かれがためらっているのを誤解してたずねた。
「行く道が見えるの?」
「いいえ……でも、とにかく行きましょう」
かれは背中の袋をもっとしっかりかつぎなおし、岩が砂でえぐられている通路を登っていった。その通路は月光に照らされた岩盤につづき、そこからは腰掛けのような岩棚が南のほうへ登っていた。
ポウルは最初の岩棚にむかい、その上へよじ登った。ジェシカはそのあとにつづいた。
彼女はすぐに進路が、その場で決断しなければいけない困難なものとなってきたことに気づいた――岩のあいだの砂だまりでは足を取られ、風にえぐられた隆起は両手を切り、障害物は選択をせまった。乗りこえるか、それともまわるべきか、と。そこの地勢はそれ自身のリズムを押しつけてきた。かれらは必要なときだけ話し、そのときにはやっとの思いで声を出した。
「ここは気をつけて……この岩棚は砂ですべりやすいから」
「このオーバーハングに頭をぶつけないように用心して」
「この尾根から下にいるようにして。月がうしろだから、むこう側にだれかいたら見つけられるわよ」
ポウルは岩が湾のようにカーブしているところでとまり、袋をせまい岩棚に押しつけてよりかかった。
ジェシカも休めることが嬉しくて、かれのそばにほっとよりかかった。ポウルがスティルスーツのチューブを引っぱるのを聞いた彼女は、自分自身の回収した水をすすった。その味には塩気があり、彼女はカラダンの水を思い出した――空にカーブを描いていた高い噴水、あれほど豊かな量の水分……そのそばに立ったとき、そのこと自体には気づかず、その形、その水の輝き、その音だけに気づいたものだった。
彼女は思った。
“とまることこそ、休むこと……本当の休息”
慈悲とは、ほんのすこしでもとまる能力、という想いが彼女の胸によぎった。とまることがないところに慈悲はないのだ。
ポウルは岩棚を押して離れ、ふりむき、傾斜している岩壁を乗りこえた。ジェシカは溜息をついてあとにつづいた。
ふたりは切り立った岩壁をめぐる広い岩棚の上へすべり下りた。またもかれらは、この荒れはてた土地を横切る不規則なリズムの動きにもどった。
ジェシカはこの夜、かれらの両手両足の下が多くの異なるサイズの小さなもので満たされているのを感じた――丸石、砂利、岩の細片、砂のかたまり、砂そのもの、細かい砂、ほこり、ふんわりと舞う粉と。
その粉が鼻の濾過器をつまらせ、吹き飛ばしてとおさなければいけなかった。丸石や砂利がかたい表面にころがり、油断していると倒されるし、岩の破片は体を切った。
そして、いたるところにある砂だまりは、かれらの両足を引きずらせた。
ポウルはとつぜん岩棚の上で立ちどまり、ぶつかってきた母親を抱きとめた。
かれは左のほうを指さしており、その腕にそって眺めると、かれらは崖の頂上に立っており、二百メートルほど下には静かな大洋のように砂漠がひろがっていた。そこには月の光に銀色に輝く波がつづいていた――鋭い影が曲線へとのび、その曲線が遠くにぼんやりと灰色にかすんでいる別の絶壁へと立ち上がっている。
「隠れるところのない砂漠ね」
「この広い場所を横断するんです」
と、ポウルは答え、その声は顔にかぶせてあるフィルター・トラップのためにこもってひびいた。
ジェシカは左へ右へと視線を走らせた――下には砂のほか何もない。
ポウルはどこまでもつづく砂丘のかなたをまっすぐ見つめ、月が動いてゆくのにつれて影が移動するありさまを眺めた。
「むこうまで三キロか四キロメートルほどですね」
ジェシカはいった。
「砂虫が……」
「かならずいます」
彼女は疲労と、感覚を鈍らせている筋肉の痛みを考えた。
「休んで食事をしない?」
ポウルは袋を下ろし、坐りこむとそれにもたれかかった。ジェシカはかれの肩に手をついて体を支えながら、そばの岩に腰を下ろした。彼女が坐りこむと、ポウルは体をまわし、袋の中をさがしている音が聞こえた。
「これを」
と、かれはいった。
彼女の掌にエネルギー・カプセル二個を押しつけたかれの両手は乾いていた。
ジェシカはそれを、スティルスーツのチューブからすすったごく少量の水で呑みこんだ。
ポウルは話しかけた。
「水はぜんぶ飲んでしまうことです……格言。きみの水を貯蔵する最上の場所はきみの体内である。それはきみのエネルギーをたかめつづける。きみはより強くなる。きみのスティルスーツを信じよ」
彼女はそれに従い、キャッチ・ポケットの水を飲みほし、エネルギーがもどってくるのを感じた。彼女はそれから、疲れてはいるがいまここがどれほど平和そのものであるかを考え、前に吟遊詩人で戦士のガーニィ・ハレックが口にした言葉を思い出した。
“犠牲者と争いに満ちた家の中よりも、ひと噛みの乾肉と静けさをわれは選ばん”
ジェシカはその言葉をポウルにむかってくりかえした。
「ガーニィですね」
彼女はポウルが、死者のことを口にしたような声に気づき、気の毒にガーニィも死んでしまったのだろう、と考えた。アトレイデ家の者はみな、死んだか、捕虜の身となったか、かれら自身のようにこの乾ききった砂漠をさまよっているかなのだ。
ポウルはいった。
「ガーニィはいつも、ぴったりとくる引用をしましたね。ぼくはかれが口にした言葉を、いまでもはっきりおぼえています……そしてわたしは川を乾上がらせ、土地をよこしまなる者の手に売りわたそう。そしてわたしは土地を荒れ果てさせ、その中にいるすべての者を見知らぬ者の手に……」
ジェシカは目を閉じ、息子の声にひびく悲しさに涙をおぼえた。
しばらくしてからポウルはたずねた。
「気分はいかがです?」
彼女はその質問が妊娠しているための健康状態にむけられたものだとわかった。
「あなたの妹はまだ何ヵ月もしなければ生まれないわ。わたし、まだ……肉体的には以前と同じような感じです」
そう答えながら彼女は考えた。
“自分の息子にむかって、わたしずいぶん堅苦しい口のききかたをしているわ!”
ついで、そのような不思議さにたいする答えをさがし求めるのがベネ・ゲセリットとしては当然のことなので、彼女はそれをさがし、なぜ自分が堅苦しい口をきくのかの原因を見つけた。
“わたしが自分の息子をこわがっているせいだわ。わたしはかれの変わったことが恐ろしいのよ。わたしたちの未来にかれが何を見るのか、かれがわたしに話してくれることが何なのか、それをわたしは恐れているんだわ”
ポウルは頭巾を両眼のところまで下ろし、夜闇の中で鳴いている虫の声に耳を澄ませた。息をつめていると両肺が苦しくなり、鼻がむずがゆくなってきた。かれは鼻をこすり、フィルターをはずし、シナモンの匂いが強く漂っていることに気づいた。
かれはつぶやいた。
「近くにメランジ香料《スパイス》がありますね」
そよ風がポウルの頬をなぶり、頭巾付き外套《バーヌース》のひだをゆるがせた。だがその風に嵐の危険はなかった。かれはすでにそのちがいが感じられたのだ。
「もうすぐ夜明けですね」
ジェシカはうなずいた。
ポウルは言葉をつづけた。
「その砂漠を安全に横断できる方法があります……フレーメンのやっていることです」
「砂虫は?」
「フレムキットにあるサンパーをここの岩場に立てておけば、それでしばらくの間は砂虫を引きよせておけます」
彼女は、はるかかなたに見えている絶壁とのあいだにひろがっている月の光に照らされた砂漠を眺めた。
「四キロメートルを進んでいけるあいだも?」
「たぶん。そして、もしぼくらが自然な[#「自然な」に傍点]音だけを立ててあそこを横切るなら、砂虫を引きよせないような音をです……」
ポウルは広い砂漠を見つめ、自分が予知能力で知ったことの記憶を探り、かれらの生存用品一式の袋にはいっていたフレムキット・マニュアルの中の、サンパーとメイカー・フックについての不思議な説明を考えてみた。かれは砂虫を考えるとき感じるすべてがいいようのないほどの恐怖だったことを奇妙に思った。かれは自分がもうすこしでわかりかけるところだと感じていた。砂虫とは尊敬されるべきもので、恐れるべきものではない……もし……もし……
かれは首をふった。
ジェシカはいった。
「リズムのない音でなければいけないわね」
「え? ああ、そうです。もしぼくらが足取りを乱せば……砂そのもののせいでもそうなることが多いでしょうが。砂虫も小さな音をみな聞き分けることはできませんからね。でも、歩き出す前にたっぷり休息を取っておかなければ」
かれはむこう側につづく岩の壁を眺め、そこにさしている月の影が垂直になっていることから時間がどれほど経過しているかを知った。
「一時間以内に夜が明けますよ」
彼女はたずねた。
「どこでわたしたち、昼間をすごすの?」
ポウルは左のほうへむいて指さした。
「あそこで崖は北のほうへカーブしてもどっています。風のえぐりかたから、あそこは風上に面していることがわかるでしょう。あそこにはクレバスが、それも深いものがあるはずです」
「もうそろそろ出かけたほうがいいんじゃなくて?」
彼女の言葉にかれは手を貸して母を立ち上がらせた。
「ここを下りていけるほど休みましたか? ぼくはキャンプする前に、できるだけ砂漠に近づいておきたいんです」
「ええ、大丈夫」
彼女は先に行ってとうなずいてみせた。
かれはためらい、袋をかつぎ上げると、しっかりストラップをしめ、崖のほうへむいた。
ジェシカは考えた。
“サスペンサーさえあれば、ここを飛び下りるのはまったく簡単なことなんだけど、でもひょっとしたら、サスペンサーも砂漠では避けなければいけないものかも……シールドと同じように砂虫をさそいよせるのかもしれないわ”
かれらは岩棚が下へ何段にもなってつづいているところへやってきた。そのむこうには割れ目があり、そのまわりの岩棚が月の光に照らされて玄関へとつづいていた。
ポウルは先に立って、気をつけながらも急いで下りていった。月の光がいつまでもつづいてくれるはずはないと、はっきりしているからだ。かれらはとり深く深く影の世界へとはいりこんでいった。かれらのまわりで、岩壁は星空へとそそり立っているようになった。岩の割れ目は十メートルほどの幅までせまくなり、そこからうっすらと灰色に砂の斜面がはじまり、暗黒の中へと傾斜していった。
ジェシカはささやきかけた。
「ここを下りていけるの?」
「そう思いますよ」
かれはそこの表面を片足でためしてみた。
「すべり下りられます。ぼくが先へ行くから、母上はぼくのとまる音が聞こえるまで待っていてください」
「用心してね」
かれは斜面に足をふみ出し、そしてすべり、そのやわらかい表面をほとんど水平になった堅い砂のところまですべり下りた。そこは岩壁にかこまれた中の深いところだった。
背後から砂がすべってくる音がした。かれは闇の中で斜面を見上げようとし、流れ落ちてきた砂にあやうくなぎ倒されそうになった。やがてその音は消え去り、静けさがやってきた。
「母上?」
かれは袋を落とし、斜面を急いで登り、狂人のように砂を掘り、あえぎながら叫んだ。
「母上! 母上、どこなんです?」
また砂が滝のように襲いかかり、かれを腰まで埋めた。かれはやっとの思いで体を抜き出した。“母上は砂のなだれに足を取られた……砂の中に埋まっているんだ。ぼくは気持ちを落ち着け、慎重にことを運ばなければいけない。母上がすぐに窒息してしまうことはないんだ。母上は|ビンドゥー・サスペンション《*》にはいって、酸素の消費量がすくなくてすむようにされるはずだ。そしてぼくが掘り出すこともわかっていられるんだ”
彼女に教えられたベネ・ゲセリットの方法で、ポウルは荒々しく打っている心臓の鼓動を静め、心を空白な状態にして過去に短い時間におこったことをそこに描けるようにした。かれの記憶の中にあった砂の流れのあらゆる部分的な変わりかたやねじれかたが再現され、全部を思い出すのに必要とした現実の時間の短さにくらべると驚くほどくっきりと壮大に動いていった。
やがてポウルは注意深く調べながらスロープをななめに動いてゆき、そのうち|割れ目《クレバス》の岩壁で岩が出張っているところを見つけた。かれはつぎの地すべりをおこさないように気をつけながら掘りはじめた。繊維の一片がかれの両手にひっかかった。かれはそれをたどり、腕を見つけた。ゆっくりとその腕をたどったかれは、ジェシカの顔を現わした。
「聞こえますか?」
と、ポウルはささやいた。
返事はなかった。
かれは急いで堀りつづけ、両肩を砂の中から出した。かれの両手の下でジェシカはぐったりしていたが、心臓の鼓動はゆっくりと打っていた。
“ビンドゥー・サスペンションだ”
かれは自分の心にそう告げながら砂を彼女の腰までかき分け、その両腕をかれの肩にかけてスロープの下へと引っぱった。最初はゆっくりと、ついで上のほうの砂がゆるみはじめるのを感じ、できるかぎり急いで引っぱった。かれはバランスを失うまいと気をつけながらも、力をふりしぼってあえぎながら引きずりつづけた。かれが割れ目の底の堅い砂のところへ出て彼女を肩へかつぎ上げ、よろよろ走り出すと同時に、岩壁にかこまれた砂の斜面全体が大きな音を立てこだましながらくずれ落ちてきた。
かれは割れ目の端でとまった。そこからは三十メートルほど下に砂丘がつづいている砂漠が見えていた。かれはそっと母を砂の上に下ろし、硬直した状態から彼女をもどす言葉を口にした。
彼女はゆっくりと目を覚まし、しだいに深い呼吸をはじめた。
「あなたが見つけてくれると思っていたわ」
と、彼女はささやいた。
かれは割れ目の上をふりかえった。
「見つけなかったほうが親切だったかもしれませんよ」
「ポウル!」
「ぼくは袋をなくしたんです。百トンもの砂の下に埋まりました……少なくともね」
「何もかも?」
「予備の水、スティルテント……大切なものは何もかも」かれはポケットにふれた。「パラコンパスはまだあります」かれは腰の帯を探った。「ナイフと双眼鏡も。ぼくらは死に場所をゆっくりさがしてみられるってわけですよ」
ちょうどそのとき、割れ目の端のかなた、左のほうのどこかで太陽が地平線上に現われた。広い砂漠の砂に色彩がきらめいた。岩場のあいだの隠れた場所から鳥たちが歌のコーラスをはじめた。
しかし、ジェシカがポウルの顔に見たものは絶望だけだった。彼女は声に叱責の口調をこめて話しかけた。
「いったいあなたは何を教えられてきたつもりなの?」
かれは反問した。
「わからないんですか? ここで生きのびるために必要なすべてのものが、砂に埋まってしまったのですよ」
「あなたはわたしを見つけてくれたわ」
ジェシカはそういった。その声は優しく、説得するようになっていた。
ポウルはうずくまって背をむけた。
しばらくすると、かれは割れ目にできた新しいスロープを見上げ、砂がゆるんでいるところを調べた。
「もしあの斜面をすこしだけかためて、穴の入口を作ることができれば、袋のところまで縦穴《たてあな》を掘れるかもしれませんね。水を使えばやれるでしょうが、それほどの水はないし……」かれは口ごもり、ついで「泡だ」と、いった。
ジェシカは、かれの心が高度に働いているのを邪魔しないように、じっとしていた。
ポウルは外にひろがっている砂丘のほうを眺め、両眼とともに鼻も使ってさがし求める方向を見つけ、下のほうに見える黒ずんだ部分に注意を集中した。
かれはつぶやいた。
「香料《スパイス》……そのエッセンスは、高度のアルカリ性だ。そしてぼくはパラコンパスを持っている。その電池は酸性のものだ」
ジェシカは岩にもたれ、背を伸ばして坐った。
ポウルは彼女に目もくれず、飛び上がるようにして立ち、割れ目の端から砂漠の面へとつづいている風にかためられた砂の斜面を下りていった。
彼女はかれの歩きかたを見つめた。足取りを乱している、歩き……とまり、一歩二歩……すべり……とまり……
そこには、略奪しまわっている砂虫に、砂漠のものではない何物かがここで動いていることを知らせるようなリズムはまったくなかった。
ポウルは香料《スパイス》のかたまっているところへ達し、そのひと山を寛衣《ローブ》の折り目にすくい取って、割れ目へもどった。かれはその香料《スパイス》をジェシカの前の砂に落とすと、うずくまり、ナイフの先端を使ってパラコンパスを分解しはじめた。コンパスの表面がはずれた。かれは胴に巻いていたサッシュを取り、コンパスの部品をその上にならべ、パワー・パックを持ち上げた。つぎにダイアル・メカニズムがはずされ、あとにはその器械の外殻である空《から》の皿状の容器が残った。
「水が必要ね」
と、ジェシカはいった。
ポウルは頸のところにあるキャッチチューブをつかみ、口いっぱいに吸うと、それを皿状の容器に吐き出した。
ジェシカは思った。
“もしこれが失敗したら、あの水は無駄に使われたことになる……でも、そうなれば、いずれにしても、どうだっていいことになるんだわ”
ポウルはナイフで電池を切り開き、その結晶体を水の中にそそぎ入れた。それはわずかに泡立ち、すぐに澄んだ。
ジェシカの目は上のほうで動いたものに気づいた。顔を上げると、割れ目のふちにそって一列にとまっている鷹が見えた。かれらはそこにとまり、むき出しにされた水を見つめおろしていた。
“|大いなる母《グレイト・マザー》よ! これほどの距離でも、水を感じることができるのね!”
ポウルはパラコンパスの蓋をもとにもどし、リセット・ボタンはあとに残しておいた。それが液体の出る小さな穴となるのだ。組み立て直した器械を片手に、もう一方の手にひと握りの香料《スパイス》をつかんでポウルは割れ目を登り、スロープの状態を調べた。かれのまとっている寛衣《ローブ》はとめるサッシュがないままに、ゆっくりと波打った。かれは砂を蹴立てて小川を作り、砂ぼこりを散らしながら、苦労してスロープを中ほどまで上がっていった。
やがてかれは立ちどまり、ひとつまみの香料《スパイス》をパラコンパスの中に押しこみ、ケースをゆすぶった。
リセット・ボタンがあった跡の穴から、緑色の泡が噴出した。ポウルはそれを斜面にむけて一列の低いあぜ[#「あぜ」に傍点]ができるように吹きつけ、その下側の砂を蹴飛ばし、現われた砂の面に泡を吹きつけて動かないようにした。
ジェシカはかれの下へやってきて呼びかけた。
「手伝いましょうか?」
「上がってきて掘って。三メートルほどのところ。そのへんにあるはずです」
そうかれが答えているあいだに、容器から噴出していた泡はとまった。
ポウルはいった。
「急いで。この泡がどれぐらい長いあいだ砂を支えていてくれるか、わからないから」
ジェシカはよろめきながらポウルのそばに上がってきた。かれはまた香料《スパイス》をひとつまみ穴の中へおしこみ、パラコンパスのケースをふった、またも泡がそこから噴出しはじめた。
ポウルは泡の障壁を吹きつけ、ジェシカは両手で掘り、砂をスロープの下へと投げた。
彼女はあえぎながらたずねた。
「どれぐらい深く?」
「三メートルほど。それに位置もほんの推測だから、穴をひろげなければいけないかもしれませんよ」かれは一歩横へ動き、ゆるい砂にすべった。「むこう側へななめに掘って。まっすぐ下へ掘らずに」
ジェシカはそれに従った。
しだいに穴は下へと伸び、盆地の床《ゆか》と同じぐらいのレベルにまで達したが、まだ袋の形跡はなかった。
ポウルは自分の心にたずねた。
“ぼくは計算をまちがえたのだろうか? もともと恐慌をおこしてしまい、この失敗の原因を作ったのはぼくなんだ。そのことでぼくの能力はだめになってしまったのだろうか?”
かれはパラコンパスを見た。酸をとかした水は二オンスほどが残っているだけだった。
ジェシカは穴の中で背中をのばし、泡のついている手で頬をこすった。彼女はポウルと視線を合わせた。
「上のほうを。そっとね」
ポウルはそういうと、容器にまた香料《スパイス》をひとつまみ加え、ジェシカが穴の上部を垂直に掘りはじめると、その両手のまわりに泡を吹きつけた。二度目に手を動かしたとき、彼女の両手は何か堅いものにあたった。ゆっくりと彼女は、プラスチックのバックルがついたストラップを掘り出した。
「もうそれ以上動かないで……泡がなくなったから」
と、ポウルはごく低い声でささやきかけた」
ジェシカはストラップを片手につかみ、かれを見上げた。
ポウルは空《から》になったパラコンパスを盆地の床《ゆか》に投げおろしてから話しかけた。
「片手をこちらへのばして、気をつけて聞いてください。ぼくは母上を下のほうへ引っぱります。そのストラップを離さないで。頂上からそんなに砂はくずれ落ちてこないはずです。このスロープは、いちおう安定しているはずですからね。ぼくが気をつけるのは、母上の顔を砂の上に出しておくことだけです。穴がうまったら母上を掘り出し、袋を引っぱり出せます。
彼女は答えた。
「わかったわ」
「いいですか?」
「いいわよ」
ジェシカはストラップを握っている指に力をこめた。
一度引っぱってポウルは彼女を穴からなかば出し、その顔を上むきに支えたと同時に、泡の障壁はくずれ、砂がくずれ落ちてきた。それがおさまったとき、ジェシカは腰まで砂に埋まり、左腕と肩はまだ砂の中で、彼女の顎はポウルの寛衣《ローブ》のひだで保護されていた。彼女の肩は、引っぱられているので痛かった。彼女は口を開いた。
「まだストラップをつかんでいるわよ」
ゆっくりとポウルは手を砂の中に入れ、彼女がつかんでいるストラップのところへ伸ばした。「いっしょに、ゆっくりと。切らないようにね」
かれらが袋を引き上げにかかると、また砂が流れ落ちてきた。ストラップが表面に出てくるとポウルは仕事をとめて、母親を砂の中から出した。それからふたりは袋を坂の下へと力を合わせて引っぱった。
数分後、かれらは袋をあいだにして割れ目の床《ゆか》に立っていた。
ポウルは母親を眺めた。泡が彼女の顔を、彼女の寛衣《ローブ》を汚していた。泡が乾いたところに砂がこびりついていた。彼女はまるで、濡れた緑色のボールをぶつけられる標的だったかのようだった。
「ひどい格好ですよ」
かれの言葉にジェシカは答えた。
「あなただってそうきれいとはいえないわね」
ふたりは笑い出し、やがて黙りこんだ。
「あんなことはおこるべきじゃあなかった。ぼくが不注意だったんです」
ポウルはそういい、彼女は肩をすくめ、こびりついた砂が寛衣《ローブ》から落ちるのを感じた。
「ぼくはテントを立てます。その寛衣《ローブ》をぬいで、はらっておいたら」
かれは袋を持ち上げて離れた。
ジェシカは、とつぜん返事ができないほどの疲れをおぼえてうなずいた。
「岩にアンカー・ホールの跡があります。だれかが以前にここでテントを張ったんですね」
“不思議なことじゃないわ”
と、彼女は寛衣《ローブ》をはらいながらそう考えた。ここは格好の場所なのだ――岩壁の奥深く、そして四キロメートル離れた別の崖とむかい合っている――砂虫を避けるには砂漠から充分な高さであり、横断するためには下りるのは楽な近さだ。
彼女はふりむき、ポウルがテントを立て、その肋骨天井《リブ・ドーム》の半球が割れ目の岩壁と混ざり合って見えるのを眺めていた。ポウルは双眼鏡を取り上げながら彼女のそばを通りすぎた。かれは急いで内部圧を調整し、|オイル・レンズ《*》の焦点を、砂漠のむこうにそそり立ち、朝日を浴びて金色がかった褐色に輝きはじめた崖に合わせた。
ジェシカはかれがこの天啓のような光景を眺め、その目が砂の川や渓谷を調べているのを見つめた。
「あそこには、何か生えているものがありますよ」
と、かれはいった。
ジェシカはテントのそばの袋の中に予備の双眼鏡があるのを見つけ、ポウルのそばへ行った。
「あそこです」
かれは片手で双眼鏡を支えながら、片手で指さした。
彼女はポウルが示したところを見た。
「サグァロだけど……痩せているわね」
「近くに人がいるのかもしれませんよ」
「植物実験農場の跡《あと》かもしれないわ」
「ここは南の砂漠へずいぶんはいったところなんですよ」
かれはそういって双眼鏡を下げ、フィルター・バッフルの下をなで、唇がどれほど乾き、ひび割れているかを知り、口の中がほこりっぽく、咽喉《のど》が乾いているのを感じた。
「ぼくにはここが、フレーメンの住んでいる場所だという気がするんです」
彼女はたずねた。
「フレーメンが親切にしてくれるってこと、たしかなの?」
「カインズはかれらの援助を約束しましたからね」
“でも、この砂漠の人々には自暴自棄なところがあるわ……わたし自身も今日、そんな気になったもの。明日のない人々は、わたしたちの水を奪うために殺すかもしれないわ”
彼女は目を閉じた。するとこの荒れ果てた土地を背景にして、呪文でもとなえたかのようにカラダンの光景が心の中に浮かび上がった。カラダンでの休暇旅行――ポウルが生まれる前に彼女と公爵《デューク》レトで行ったときのこと。かれらは南部ジャングルの上を飛んだ。雑草がたくましく叫び声を上げているような緑、そして三角州地帯の稲作水田の上を。かれらは緑の景色の中に蟻が行列しているのを見た――おおぜいの人がサスペンサーで浮かせた荷物を竿でかついで運んでいるところだ。そして海岸には白い花弁のように三角帆の小船が散らばっていた。
そのすべてが過ぎ去ってしまったことなのだ。
ジェシカは砂漠の静けさと、忍びよってくる昼間の熱さに、目を開いた。落ち着かない熱の悪魔が砂漠の空気をふるわせにかかっているのだ。遠くにつらなっている岩壁は、安物のガラスをとおして見たもののようだった。
割れ目の開いている端のところから砂が流れ落ちて、しばらくのあいだカーテンをひろげたようになった。朝のそよ風にゆるんだのか、崖の上から飛び立ちはじめた鷹のためにゆるんだのか、砂は音を立てて落ちた。砂の落ちるのがとまったあとも、まだ音がひびいていた。その音は大きくなった。一度聞けば、永久に忘れることのできない音だ。
「砂虫だ……」
と、ポウルはささやいた。
そいつは右のほうから何の遠慮もなく、無視できない王者の貫禄でやってきた。ふたりの見わたせるかぎりの中にある砂丘をつきぬけて小山がうねりながら近づいてきた。その小山は先端が盛り上がり、水の中で船首が波をかきわけるように砂を両側へ蹴立てていた。ついでそいつは左のほうへそれて、見えなくなってしまった。
その音は低くなり、やがて消えた。
ポウルはささやいた。
「あれよりちいさな宇宙輸送船もありますよ」
彼女は砂漠のほうを見つめつづけながらうなずいた。砂虫が通りすぎたあとには仰天するほどの峡谷ができていた。それはかれらの前を心が苦しくなるほどどこまでも遠く伸びており、盛り上がる小山が水平にくずれていく下へ来いよと招きよせているようだった。
「休息したら、わたしたちあなたのレッスンをつづけるべきね」
かれはとつぜんおぼえた怒りを抑えて反問した。
「母上、ぼくらにはできないと思われるのですか、もし……」
「今日、あなたは恐慌にとらわれたわ。心とビンドゥー神経組織のことをあなたはたぶんわたしよりもよく知っているわ。でも、あなたが自分の肉体の|プラーナ《*》筋肉組織について学ぶべきことはまだたくさんあるのよ。肉体というものはときどき、それ自体で行動をおこすことがあるわ、ポウル。そしてわたしはそのことをあなたに教えられるの。あなたは、肉体にあるすべての筋肉を、すべてのものをコントロールすることを学ばなければいけないのよ。あなたは両手から復習してみる必要があるわね。指の筋肉、掌の腱、指先の感覚といったところから始めましょう」彼女はふりむいた。「さあ、もうテントの中にはいりましょう」
かれは左手の指を曲げたり伸ばしたりしながら、母親が括約筋式バルブの中へもぐりこんでゆくのを見つめ、彼女の決心を変えさせることはできない……同意しなければいけないのだと知った。
“何をされていたのか知らないが、ぼくはいやとはいえないようになっていたんだ”
と、かれは思った。
両手から復習をする!
かれは自分の手を眺めた。砂虫というような生物にくらべてみると、それは実に頼りなげなものに見えた。
[#改ページ]
[#ここから10字下げ]
われわれはカラダンからやって来た――われわれのような生命形態にとっての楽園といえる世界からだ。肉体的な楽園あるいは心にとっての楽園をカラダンに建設すべき必要性は存在しなかった――われわれのまわりにあるすべての現実を見ることができたからだ。そしてわれわれが支払った価格は、人々がこの人生において楽園を作り上げるためにいつも支払ってきた価格だったのだ――われわれは柔らかくなり、われわれは鋭さを失った。
――イルーラン姫による“ムアドディブとの対話”から
[#ここで字下げ終わり]
「では、あんたがあの偉大なガーニィ・ハレックか」
と、その男はいった。
ハレックは丸い洞窟のオフィスに立って、金属製デスクの向こうに坐っている密輸業者を見つめていた。その男はフレーメンの寛衣《ローブ》を着ており、その目はなかば青く染まりかけていた。そいうことはそいつの食べるものに、この惑星以外の食料があるということだった。
その事務室《オフィス》は宇宙巡洋艦のマスター・コントロール・センターをそっくりまねたものだった――三十度の弧を描いた壁にそって通信装置と監視スクリーン、それにつづいて装填発射の遠隔操作盤があり、カーブしている壁の一部がつき出てデスクになっていた。
「おれはスタバン・チュエク、エスマール・チュエクの息子だ」
と、密輸業者はいった。
「では、われわれが受けた援助にたいして礼をいわなければいけない相手は、きみだな」
と、ハレックはいった。
「ほ、ほう、感謝の気持ちってわけか。座れよ」
宇宙船型のパケット・シートがスクリーンのそばの壁から出てきた。ハレックは疲れを感じながら溜息をついて腰を下ろした。密輸業者のそばの暗い表面に自分の姿がうつっており、かれは瘤《こぶ》のある顔に浮かぶ疲労の色を見て顔をしかめた。すると顎にそって走るインクヴァインの傷がうごめいた。
ハレックはそこに映っている自分の姿から目をそらして、チュエクを見つめた。かれはやっとこの密輸業者が父親と似ていることに気づいた――太く、垂れそうなほどの眉毛、がっしりとした両頬と鼻。
「きみの部下の話では、きみの父上は亡くなられた、ハルコンネンに殺されたそうだな」
ハレックの言葉にチュエクは答えた。
「ハルコンネンにか、それとも、あんたがたのあいだにいた裏切者によってな」
怒りがハレックに疲労をすこし忘れさせた。かれは背をのばしていった。
「きみは裏切者がだれか知っているのか?」
「はっきりはしていないね」
「スフィル・ハワトはレイディ・ジェシカを疑っていた」
「ほ、ほう。ベネ・ゲセリットの魔女か……たぶんな。だがハワトはいま、ハルコンネンに捕らえられているんだぞ」
ハレックは深く息を吸った。
「おれもそれは聞いた……ということは、これから先、だいぶ殺す相手がいるってことだな」
チュエクはいった。
「おれたちに注意を引きつけるようなことは何ひとつしないんだ」
ハレックは緊張した。
「しかし……」
「おれたちの救けたあんたとあんたの部下が、おれたちのあいだに隠れるのは歓迎する……あんたは感謝を口にしていたな。よろしい、その借りを働いて返すことだ。おれたちはいつだって、優秀な連中を必要としているからな。だが、もしもあんたがほんの少しでも公然とハルコンネンを攻撃するそぶりを見せたら、その場で殺してしまうぜ」
「しかし、やつらはきみの父上を殺したんだぞ!」
「たぶんな。そして、もしそうだったとしたら、おれはあんたに、考えることもなく行動する連中にたいしておれの父がいった言葉を教えよう……石は重く、砂も重い。だが愚か者の怒りはその両方を合わせたよりも重い……とな」
ハレックは軽蔑するようにいった。
「では、何もやらないつもりなのか?」
「そんなことはいっていない。おれは協会《ギルド》との契約を守るというだけだ。協会《ギルド》はおれたちが慎重な動きかたをすることを求めている。敵を破滅させるには、ほかの方法もあるんだからな」
「あ、ああ」
「ああ、本当だぜ。もしあんたがあの魔女を見つけ出すつもりでいるなら、それもいいさ。しかし忠告しておくが、たぶん手遅れだろうな……それにあの女があんたの求めている相手かどうかもわからないと思うがね」
「ハワトがまちがいをおかすことは、めったにないんだ」
「かれはハルコンネンの手に落ちるようなことをしたはずだぞ」
「きみは、かれが裏切者だと思っているのか?」
チュエクは肩をすくめた。
「どうでもいいことだろうが、おれたちはあの魔女が死んだものと考えている。少なくともハルコンネンはそうだと信じているぜ」
「きみはハルコンネンのことをずいぶんよく知っているようだな」
「ヒントと暗示……噂と勘さ」
ハレックはいった。
「われわれは七十四人いる……もし本当にわれわれをきみとともに働かせるつもりなら、きみは公爵《デューク》が死亡したことを信じているわけだな」
「かれの屍体が見つけられたからね」
「それにあの少年も……ご子息のポウル殿《どの》もか?」
ハレックは咽喉がつかえるのをおぼえ、それを押さえようと努めた。
「おれたちが得た最後の情報によると、かれは母親とともに砂漠の砂嵐の中へ姿を消した。かれらの骨も見つけられないことになりそうだね」
「するとあの魔女は死んだ……みんな、死んでしまった、と」
チュエクはうなずいた。
「そして、 獣《けだもの》 ラッバンがふたたびここデューンにおける権力の座に着くんだと、連中はいっているんだ」
「ランキヴェイルの伯爵《カウント》ラッバンが?」
「そうだ」
かれの全身をおそった激しい怒りをおさえるのにハレックはしばらくのあいだを必要とした。かれは息をあえがせながらいった。
「おれ自身、ラッバンには貸しがある。おれの家族の命さえもだ……それにこれもな……」
かれは顎にそって走っている傷跡をなでた。
「かたをつけるためだからといって、あわてて何もかもだいなしにするようなことは気をつけなければな」
チュエクはそういい、ハレックの顎の筋肉がぴくりと動き、深くくぼんだ目がとつぜん弱気になったことに気づいて、眉をよせた。
「わかっている……わかっているよ」
と、ハレックは深く息を吸った。
「あんたとあんたの部下はおれたちといっしょに働き、その稼ぎでアラキスから出てゆく切符を買えるんだ、場所はいくらでもあるし……」
「部下がおれに縛りつけられているきずながあるなら何であろうとおれはそれを解放してやる。かれらが自由に選べることだ。ラッバンがここにいるのなら……おれは留まる」
ハレックは密輸業者を見つめた。
「きみはおれの言葉を疑うのか?」
「いいや……」
「きみはおれをハルコンネンから助けてくれた。おれが公爵《デューク》レトに忠誠を捧げていたのも、それ以上の理由があったからではない。おれはアラキスにとどまる……きみのところに……あるいは、フレーメンのところにな」
チュエクは答えた。
「ひとつの考えというものは、口に出そうと出すまいと、現実のものであり、それには力がある……あんたは、フレーメンのあいだにある生と死の境界線を、あまりにも鋭《するど》すぎ、急激すぎると思うかもしれんぞ」
ハレックは疲労が体の中からふくれ上がってくるのを感じて、しばらく目を閉じていた。それからかれはつぶやいた。
「砂漠と罠に満ちた土地を通りぬけてわれわれを導いてくださった神は、いまどこにおられるのだ?」
チュエクはいった。
「ゆっくりと進んでゆけば、復讐の日はやってくるものさ……スピードはシャイタンの道具だ。あんたの悲しみを冷やすことだな……あれたちのところには気をそらせるものがあるぜ。胸をいやすものが三つ……水、緑の草、そして女の美しさだ」
ハレックは目を開いた。
「おれは、ラッバン・ハルコンネンの血が足もとに流れてくれるほうを選びたい気分だね」かれはチュエクを見つめた。「きみはその日がやってくると思うのか?」
「あんたがそんなふうに明日を満足するかなど、おれの知ったことじゃあないんだ、ガーニィ・ハレック。おれはただ、あんたが今日を満足する助けになれるだけだ」
「ではおれはその助けを受け入れ、きみが教えてくれる復讐の日までとどまろう。きみの父上とそのほかすべての……」
「よく聞くんだ、|戦争好きな男《ファイティング・マン》よ」
チュエクはそういってデスクの上へ体を乗り出し、両肩と耳を同じ高さにし、目を光らせた。密輸業者の顔はとつぜん、戸外に長年のあいださらされてきた石のようになった。チュエクは言葉をつづけた。
「おれの親父《おやじ》の水……それはおれ自身で、おれ自身の剣で買いもどすんだ」
ハレックはチュエクを見つめかえした。その瞬間、密輸業者の顔はかれに公爵《デューク》レトを思い出させた。人々の指導者、その地位とコースにあって、勇気があり、毅然《きぜん》としている男。かれは公爵とそっくりだった……アラキスに来る以前の。
ハレックはたずねた。
「きみはおれの剣をそばに置きたいのか、置きたくないのか?」
チュエクは体をうしろに引き、緊張をゆるめ、黙ってハレックを見つめた。
ハレックは重ねてたずねた。
「きみはおれを|戦争好きな男《ファイティング・マン》と思うのか?」
「あんたは公爵の副官の中で逃げられたただひとりの男だ。あんたの敵は圧倒的なほど多かったが、あんたはうまく逃げおおせた……おれたちがアラキスを敗かすように、あんたは敵を負かしたんだ」
「え?」
「ここでのおれたちは、やっとの思いで生きているんだよ、ガーニィ・ハレック……アラキスはおれたちの敵なんだ」
「一度に敵はひとつでいい、そういうことなのか?」
「そのとおりだ」
「フレーメンの考えかたもそうなのか?」
「たぶんな」
「おれがフレーメンとくらすとなると、生活はちょっとばかりきつすぎることになるかもしれんと、きみはいったな。それはかれらが明けっぴろげの砂漠で生きているからなのか?」
[フレーメンがどこに住んでいるのか、だれが知っている? おれたちにとって、中央高原は無人地帯なんだ。だがおれがもっと話したいのは……」
ハレックはいった。
「ときたまのことだが、協会《ギルド》がきまった経路によって香料輸送船を砂漠の中へ送りこむときがあるそうだ。それで、どこに注意していればいいか知っていれば、あちらこちらに緑の場所が見られるんだという噂だよ」
チュエクは冷笑した。
「噂か! いったいおれとフレーメンのどちらを選びたいんだ? おれたちには機密を守る手段がある。岩をくりぬいて作ったおれたち自身のシーチ、おれたち自身の隠された盆地。おれたちは文明社会の人間としての生活をしている。フレーメンは、おれたちが香料採集者《スパイス・ハンター》として使っている浮浪者の小さな集団にしかすぎないんだ」
「しかし、かれらはハルコンネンの連中を殺せるんだぞ」
「それであんたは、その結果を知りたくないか? いまもかれらは野獣のように狩られ殺されているんだ……ラス・ガンでな。それもかれらがシールドを持っていないからだよ。かれらは絶滅されかけているんだ。なぜ? その理由は、かれらがハルコンネンの連中を殺したからだ」
ハレックはたずねた。
「かれらが殺したのはハルコンネンの連中だったのか?」
「どういうつもりなんだ?」
「きみは聞いていないのか。ハルコンネンのところにサルダウカーがいたのかもしれないということを?」
「それも噂さ」
「だが、計画的虐殺とはな……そいつはハルコンネンらしくないじゃないか。計画的虐殺はむだなことだ」
チュエクはいった。
「おれは自分の目で見たことを信じる男なんだ。どちらか決めろよ。|戦争好きな男《ファイティング・マン》よ。おれか、それともフレーメンか。おれはあんたに約束する、安全な隠れ家と、おれたち両方ともが望んでいる相手に血を流させる機会とをな。フレーメンがあんたに提供できるのは、狩られるものの生活だけだぞ」
ハレックはチュエクの言葉に知恵と同情を感じながらも、説明できる何の理由もないが、心を乱し、ためらった。
チュエクはいった。
「あんた自身の能力を信じろよ。あんたの部隊が戦闘を生きぬけてこられたのは、だれの決断によるんだ? あんたのだ。決めろ」
ハレックはいった。
「公爵《デューク》とご子息が亡くなられたのは確実なことなんだな?」
「ハルコンネンはそうだと信じている。そういう問題がからんでくると、おれはハルコンネンを信じる気持ちになるんだ……やつらを信用するのはそんなことだけだがね」
そういったチュエクの口もとに陰気な笑いが浮かんだ。
「では、まちがいないんだな」ハレックは伝統的な身ぶりとなっているとおり、右手を前に伸ばし、掌を上にし、親指を曲げた。「おれの剣をきみにわたそう」
「承知した」
「部下はおれが説得したほうがいいか?」
「かれら自身に決めさせるつもりか?」
「かれらはここまでおれについてきたが、ほとんどはカラダン生まれなんだ。アラキスはかれらが思っていたようなところじゃあなかったはずだ。ここで、かれらは命を除いて、あらゆるものを失ってしまった。おれはいま、かれら自身で決めてくれたほうが気分が楽だね」
チュエクはいった。
「いまはあんたがためらうときじゃないぜ。かれらはこんな遠いところまであんたについて来たんだ」
「きみにはかれらが必要だ、そうだな?」
「おれたちはいつだろうと経験のある兵士を使える……いまは、これまでにもましてだ」
「きみはおれの剣を受け取った。おれにかれらを説得させたいのかどうなんだ?」
「かれらはあんたについてくると思うよ、ガーニィ・ハレック」
「そう願いたいもんだな」
「そのとおりさ」
「では、この件ではおれが思うとおりに決めていいというわけだな?」
「あんたしだいだ」
ハレックは両手をついてパケット・シートから体をおし出し、それだけの行動にも残っていた力の多くを必要としたことを感じた。
「さてと、かれらの寝る場所と食事のことを考えてやらなければ」
チュエクはいった。
「補給係と相談してくれ。名前はドリスクだ。あんたがあらゆる好意を受けるのがおれの望みだといってくれ。あとであんたのところに行くよ。おれはその前に香料《スパイス》の積出しをやらなくちゃあいけないんでね」
ハレックはいった。
「金《かね》はどこでも動いているってわけだな」
チュエクは答えた。
「どこでもな……おれたちの商売にとって、動乱の時ってのはめったにない機会なんだよ」
ハレックはうなずき、かすかに空気の洩れる音を聞き、空気の動きを感じたとき、そばで気閘[#読みは「きこう」意味は「エアロック」のことです]が大きく開いた。かれはふりむき、その中をくぐりぬけて事務室《オフィス》の外に出た。
かれは集会場にいた。かれと部下がチュエクの副官に案内されて通されたところだ、そこは自然のままの岩を削って作っただいぶ細い場所で、その表面がなめらかなことは、仕事にカッタレイ・バーナーが使われたことを示していた。天井はずいぶん高いところまで伸びて、自然に岩を支えるカーブを作り、内部で空気の対流がおこなわれるようになっていた。兵器の棚とロッカーが壁にならんでいた。
ハレックは部下の姿を見て誇りをおぼえた。まだ立っていられるものは立っているのだ――疲労と敗北に打ちのめされている様子はない。密輸業者の看護係がかれらのあいだを動きまわって負傷者の手当てをしている。前方左のほうに担架が集めてあり、どの負傷者にもひとりずつ戦友がついている。
アトレイデの訓練――“われわれ自身のことはわれわれで!”――かれらの芯が岩ででもできているように、そのモットーがしみついているのだ。
ハレックの副官のひとりが、かれの九絃バリセットをケースから出して近づいてきた。そいつは正しく敬礼して話しかけた。
「サー、もうマタイに望みはないと、ここの看護係がいっております。ここには骨および臓器の銀行がありません……外用薬ばかりであります。マタイはもう長くもたないだろうとみんなはいっており、かれはあなたにお願いがあるそうです」
「どういうことだ?」
副官はバリセットをつき出した。
「マタイは別れをなぐさめてもらうために歌を求めているのです、サー、かれがいうには、あなたはそれをご存知だそうです……かれがこれまで何度もお願いしたそうで」副官は唾をのみこんだ。「ぼくの彼女[#「ぼくの彼女」に傍点]、という歌であります、サー。もし、あなたが……」
「知っているとも」
ハレックはバリセットを受け取ると、指板にとめてあったマルチピックを取った。かれは軽く和音を鳴らし、だれかがすでに調絃をすませていることを知った。目が熱くなってくるのをおぼえたが、かれは前へ歩き出しながらその想いを心の中から追い出し、メロディーをかき鳴らし、なんでもないような微笑を無理に浮かべた。
かれの部下の数人と密輸業者の看護係が担架のひとつにかがみこんでいた。ハレックが近づいてゆくと男たちのひとりは、昔からよく知っている歌のカウンター・ビートに乗って低く歌いはじめた。
“ぼくの彼女が窓に立っている
四角いガラスにうつるその姿
両腕を上げ……そして曲げ……
下にむけて組むその手
夕陽に赤く、金色に染まり……
ぼくのところへ来ておくれ……
ぼくのところへ来ておくれ
いとしい彼女の暖かいその手を
ぼくに……
ぼくに、暖かいその手を”
歌っていた男は口を閉じ、包帯を巻いた腕を伸ばし、担架の上に横たわっている男の瞼を閉じさせた。
ハレックはバリセットの和音を最後に低く鳴らした、
“これでおれたちは七十三人……”
と、想いが胸をよぎった。
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皇室における家庭生活とは、多くの人々にとって理解しにくいものだが、わたしはその要約した展望を与えられるように努めてみよう、
父君《ちちぎみ》には本当の友人がひとりしかなかったものと、わたしは考えている。それは伯爵ハシミール・フェンリング、遺伝学的に去勢された肉体を持つ者であり、同時に帝国における最も恐ろしい戦士のひとりでもある。きびきびしてはいるが、醜い小男の伯爵は、ある日わたしの父君のもとへ新しい|奴 隷 妾 妃《スレイブ・コンキュバイン》をひとりつれてきた。そしてわたしは母君に、その成行きがどうなるのかをスパイしにやらされた。わたしたちみんなが、わが身の安全をはかるために父君をスパイしていたのだ。
彼女は、ベネ・ゲセリットから父君に許された奴隷妾妃のひとりなのだが――協会《ギルド》との了解事項で、もちろん皇位継承者を生むことはできない。しかし、陰謀は絶えず存在したし、そのいずれもが同じく重苦しい気分のものだった。母君と妹たち、それにわたしは、死をもたらす微妙な手段を避ける名人となった。こんなことを言うのは恐ろしいことのように聞こえるかもしれないが、そうした試みのすべてに父君は無関係であられたと、わたしが心から確信を持って言うことはできない。皇族の家庭はふつうの家庭とはちがうものなのだ。
さて、その新しい奴隷妾妃は、父君のような赤毛で、ほっそりと優雅だった。彼女はダンサーの筋肉をしており、その訓練によって|神 経 的 誘 惑《ニューロ・エンタイスメント》をひきおこしたことは明らかであった。父君はその前に衣類をぬいでポーズをとった彼女を、長いあいだ眺めていられた。やがて父君は言われた。「この女は美しすぎる。贈り物として使うため取っておこう」と。こう我慢されたことがどれほどの驚きを皇室内に作りだしたことかは、外部の人には想像もできないことだろう。結局のところ、巧妙さと自制心、そういったものが、われわれにとっては最も恐ろしい脅威だったのだ。
――イルーラン姫による“父君《ちちぎみ》の家にあって”から
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午後も遅く、ポウルはスティルテントの外に立っていた。かれがキャンプすることにした|割れ目《クレバス》は、深い影の中に沈んでいた。
かれは遠い崖のほうへつづいている砂漠を見つめながら、テントの中で眠っている母をおこしたものかどうかと考えていた。
かれらが避難した場所のかなたに何十何百となく砂丘のひだ[#「ひだ」に傍点]がひろがっていた。沈んでゆく太陽に砂丘が引いている影はねっとりと黒く、まるで夜そのものの断片のようだった。
そしてその単調さ。
かれの心はその風景のどこかに何か高いものがないかと探り求めた、熱に混濁した空気と地平線から逃れて高くつき出しているようなものは何ひとつなかった――そよ風の通る道を掃く箒《ほうき》も、穏やかにゆさぶるものもない……染めぬいたような銀青色の空の下には、砂丘のつらなりと遠い崖があるだけだった。
かれは思い悩んでいた。
“あそこまで横断してみて、放棄された実験農場のひとつがなかったらどうなるんだ? そして、フレーメンもおらず、われわれが見た植物が偶然の産物にすぎなかったとしたら?”
テントの中ではジェシカが目をさまし、寝返りを打ち、透明な端の部分からポウルをのぞいて見た。かれは背中を彼女のほうにむけて立っており、両足をひらいて立っている格好はどこかかれの父親を思い出させた。彼女は胸の中に悲しみが渦巻いてくるのを感じ、顔をそむけた。
しばらくすると彼女はスティルスーツを調節し、テントのキャッチ・ポケットの水で咽喉をうるおしてから砂の上へ出てゆき、眠りにこわばった筋肉を伸ばした。
ポウルはふりむくことなく話しかけた。
「ここの静けさ、気にいりましたよ」
“心というものは、それ自身で環境に合わせようとするのね”彼女はそう考え、ついでベネ・ゲセリットの格言を思い出した。“心とは緊張のもとにあってどちらの方向へも行けるもの……肯定的なほうへも、否定的なほうへも。オン、あるいはオフにも。それをスペクトルとして考えること。その最極端は否定的末端にあって無意識、肯定的末端にあっては超感覚的意識と。緊張下にあって心がもたれかかる形は、訓練によって強く影響される”
ポウルはいった。
「ここで暮らすのもいいかもしれませんね」
ジェシカはかれの目をとおして砂漠を眺めようと努力し、この惑星に存在するすべてのきびしい条件をごく当然のことと考えようとし、ポウルがかいま見たかもしれない未来はどんなものだろうかとふしぎに思った。
“人はここでもひとりでいられる……だれかが背後にせまる恐怖がなく、狩人の恐怖がなければ……”
彼女はポウルの前へと歩き、双眼鏡を持ち上げ、オイル・レンズを調節して、はるかかなたにつづいている崖を調べてみた。みえるわ、涸れた小峡谷にサグァロ(高いサボテン)と、ほかにも棘《とげ》の多い植物……そして丈の低い雑草がひろがり、影のところは黄緑色をしている。
「キャンプをたたみますよ」
と、ポウルはいった。
ジェシカはうなずき、砂漠を見わたせる割れ目の端へ歩いて、双眼鏡を左へまわした。そこには|塩の皿状窪地《ソールト・パン》が白く輝いており、端のほうは汚らしく茶色と混じっている――このあたりの白い平地は、白が死であったことを示している。だがパンは別のことをも伝えている――水[#「水」に傍点]だ。いつの時代か、その白く輝いているところに水がなみなみとたたえられていたのだ。彼女は双眼鏡を下ろし、頭巾付外套《バーヌース》の具合をなおし、しばらくのあいだポウルが動いている音に耳を澄ましていた。
太陽はもっと低く沈んだ。影は塩の窪地を横切って伸びた。日没の地平線上に、荒々しい色彩の縞がひろがった。砂の上へ忍びよってくる闇黒の中へ色彩が流れこんでいた。石炭のような色の影がひろがり、夜の闇がどっと倒れこんできたように砂漠を覆い隠してしまった。
星!
彼女は星空を見上げながら、ポウルがそばに近づいてきたのを感じた。砂漠の夜は星空へ浮かび上がってゆくような感じとともに焦点を上へ移動させた。昼間の重苦しさは退いていった。彼女の顔を、ほんのしばらくのあいだそよ風がかすめていった。
ポウルは話しかけた。
「|第一の月《ファースト・ムーン*》がもうすぐ昇るでしょう。包みの用意はできました。サンパーも立てましたよ」
ジェシカの心の中でひとつの想いが流れた。
“わたしたち、この地獄のような所で永久に消えてしまうことになるのかもしれないわ……そして、だれひとり知らないことに”
夜風が運んできた砂が彼女の顔にあたってこすれながら小川のように流れ、シナモンの匂いを漂わせてきた。闇の中で雨のように吹きつけてくる香りだ。
「匂うでしょう」
「フィルターをとおしても匂ってるわ。ひと財産ね。でも、それで水が買えるかしら?」彼女は盆地のかなたを指さした。「あそこには人工の明かりが見えないわ」
「フレーメンはあそこの岩のうしろにあるシーチに隠れているのかもしれませんよ」
銀の円盤がふたりの右手にあたる地平線の上に出てきた。第一の月だ。それははっきりと姿を現わし、その表面に手の形がくっきりと見えていた。ジェシカはその光に照らされた白銀色の砂を見つめた。
「|割れ目《クレバス》のいちばん深い部分にサンパーを立てました。その蝋燭に火をつけさえすれば、ぼくらに三十分の余裕をあたえてくれますよ」
「三十分?」
「呼びはじめるまでに……砂虫《ウォーム》を」
「まあ……わたし、もう行けるわ」
かれはジェシカのそばから離れ、割れ目をもどってゆく足音が聞こえた。
“夜はトンネル……明日へと開いた穴……もしわたしたちに明日とおうものが持てるとしたら”彼女は首をふった。“なぜわたしはこれほど陰気にならなければいけないの? わたしはもっとましに訓練されているはずだわ!”
ポウルはもどり、袋を持ち上げ、先に立って最初の砂丘のひろがりまで下りてゆくと、そこにとまって、背後から近づいてくる母親の足音に耳を澄ませた。その低い足音は、冷たい雨がひと粒ずつ落ちてくるようであり、砂漠自身が暗号で安全な手段を伝えてきているようだった。
「リズムのない歩きかたをしなくちゃあ」
ポウルはそういって、砂地を歩く男たちの記憶を思い出した……予知能力で知った記憶と実際の記憶の両方をだ。
「ぼくがどんなふうにやるか見ていて。フレーメンが砂の上を歩くときの方法です」
かれは砂丘の風上の斜面へ歩きはじめ、そのカーブにそって、足を引きずりながら進んでいった。
ジェシカはかれが十歩進むのを見つめ、それを真似ながらあとにつづいた。彼女はその歩きかたに意味があることを知った。砂が自然の状態で動くときのように……風で動くような……音を立てなければいけないのだ。しかし筋肉はこの不自然な、断続的パターンに抗議した。歩き……引きずり……引きずり……歩き……歩き……待ち……引きずり……歩き……
かれらのまわりで時は伸びていった。はるか前方の岩肌はいっこうに近くならなかった。背後の岩壁はいまだに高くそそり立っていた。
ランプ! ランプ! ランプ! ランプ!
と、規則正しく鼓動する音がうしろの崖からひびいてきた。
ポウルはささやいた。
「サンパーです」
その響きはつづき、かれらは進んでゆくときそのリズムにとらわれないようにするのがむずかしくなった。
ランプ……ランプ……ランプ……ランプ……
かれらは、虚しいサンパーの音がひびいてくる月の光に照らされた鉢《ボウル》の中を進んでいった、砂が流れ落ちてくる砂丘のあいだを下りては登り、歩き……引きずり……待ち……両足の下でころがる大粒の砂。引きずり……待ち……待ち……歩き……
そして、そのあいだじゅうずっと、かれらの耳は特別なシューッという音を求めてそば立てられていた。
その音は最初、あまり低かったので、かれら自身が足を引きずって進む音に消されていた。だがいまは……しだいしだいに……西のほうから大きくなってきた。
そのシューッという音は、かれらの背景にひろがる夜を横切って迫ってくるのだ。かれらは歩きながら顔をまわし、突進してくる砂虫の小山を見た。
ポウルはささやきかけた。
「歩きつづけて、ふりむかずに」
かれらが離れてきた暗い岩から、激しい怒りにきしりながら爆発した音がひびいてきた。それは、たたきつけてくるなだれ[#「なだれ」に傍点]のような騒音だった。
「歩きつづけて」
と、ポウルはくりかえした。
かれは、何のしるしもないが中間地点に達したことを知った。ふたつの岩壁――前方のと背後のと――が、同程度に遠く見えるところだ。
そしていまだにかれらの背後では、岩をたたきつけ狂ったように引き裂いている音が夜の静けさを乱していた。
かれらは前へ前へと進みつづけた……筋肉はどこまでもひろがっていきそうな機械的な痛みの段階に達していたが、ポウルは前方で手招きをしているような絶壁が以前よりも高く見えていることに気づいていた。
ジェシカは意思だけが自分を歩きつづけさせているのだと意識しながら、そのことだけを考えて進んでいった。口の中が乾きに痛くなっていたが、背後からひびいてくる音が、立ちどまってスティルスーツのキャッチ・ポケットの水をひと口飲もうという思いを追い払った。
ランプ……ランプ……
遠い崖からまた新しく怒りの音がとどろき、サンパーの音を消してしまった。
沈黙!
「もっと急いで」
と、ポウルはささやいた。
彼女はうなずいた。かれにその身ぶりは見えないとわかっていたが、彼女自身に命令するため、その動作を必要としたのだ。不自然な動きかたで、すでにその限界まで達している筋肉に、より以上の力を出させるために……
かれらの前方にある安全な岩肌は星空へと登っており、ポウルはその根元に平たい砂の面がひろがっているのを見た。かれはその上へ足を踏み出し、疲労のあまりにころびそうになり、無意識のうちにもう一歩をのばして体をささえた。
とどろく太鼓のような音が、かれらのまわりの砂をふるわせた。
ポウルは横へ二歩、よろめき動いた。
ブーン! ブーン!
「ドラム・サンドよ!」
と、ジェシカは声を殺していった。
ポウルはバランスを取りもどした。まわりの砂地を急いで見わたすと、岩の絶壁まではほぼ二百メートルと思えた。
背後から砂を切る音が聞こえて来た――風のような、水のないところでの激しい潮流のような。
ジェシカは悲鳴を上げた。
「走って! ポウル、走るのよ!」
かれらは走った。
足の下で太鼓そっくりの音がとどろいた。ついでかれらはそこから出て、玉砂利の上に出た。しばらくのあいだ、そうやって走ることは、リズムをなくした慣れない歩きかたに痛みをおぼえていた筋肉にとって、苦しみからの解放となった。それは理解のおよぶ動作であり、リズムが存在していた。だが、砂と砂利がかれらの足を引きとめようとした。そして砂虫の近づいてくる響きは嵐のような音となって、かれらのまわりをおおってきた。
ジェシカはころんで両膝をついた。彼女に考えられるのは、疲労と音と恐怖だけだった。
ポウルは彼女を引っぱりおこした。
かれらは手をつないで走った。
ふたりの前方に、細い棒が砂からつき出ていた。かれらはそのそばを通り、つぎのを見た。
ジェシカの心は、通りすぎるまでそれらの棒を心に刻みつけることができなかった。
別のがあった――岩の割れ目から風に削られた棒がつき出ていた。
また別のが。
岩だ!
彼女はそれを、まつわりついてこない表面のショックを両足をとおして感じ、しっかりした足がかりに元気をおぼえた。
深い割れ目が前方の崖の中へ垂直の影をのばしていた。かれらはそれにむかって走り、せまい穴の中へ体をよせて入っていった。
背後では砂虫の進んでくる音がとまった。
ジェシカとポウルはふりむき、砂漠のほうをのぞいてみた。
岩の浜辺から五十メートルほど離れて砂丘が始まるところに、シルバー・グレイの曲線を描いて砂漠が大きな口をあけ、そのまわりに砂とほこりの小川が滝のように流れ落ちていた。それは丸い闇黒の穴で、そのふちは月光に輝いていた。
その口は、ポウルとジェシカが体をよせあっているせまい割れ目にむかって近づいてきた。シナモンの匂いがかれらの鼻へ強烈に吹きつけてきた。月光が水晶のような歯にあたってきらめいた。
前へ後ろへとその巨大な口はゆれ動いた。
ポウルは息づかいを低くした。
ジェシカはしゃがみこんだまま見つめていた。
大きな恐怖、彼女の心いっぱいにひろがってきた種族としての記憶的な恐ろしさをおさえつけるためにはベネ・ゲセリットの訓練を懸命になって集中しなければいけなかった。
ポウルは意気揚々としたような感じをおぼえた。つい最近のことだったが、かれは|時の障壁《タイム・バリアー》を越えて未知の領域へはいってきたのだ。かれは前方の暗黒を感じることができたが、かれの内なる目には何ひとつ浮かんでこなかった。まるで何歩か進んだことで、未来が見えなくなってしまう井戸か、谷間にでもはいってしまったかのようだった。風景はまったく変化してしまったのだ。
恐怖をおぼえるかわりに、時間的暗黒の感覚は、かれの他の感覚に鋭い加速をもたらした。かれは自分が、砂から立ち上がってこちらをさがし求めているもののすべてを心に刻みこんでいることに気づいた。そいつの口は直径が八十メートルほど……クリスナイフの形にカーブした水晶のような歯が、ふちにそって輝いていた……ふいごのようなシナモンの吐息、かすかなアルデヒド……酸……
砂虫がかれらの頭上の岩壁をこすると、月の光が遮断された、小石と砂が雨のように、せまい隠れ場所へ流れ落ちてきた。
ポウルは母親をもっと奥のほうへ押しこんだ。
シナモン!
その匂いがかれに襲いかかってきた。
“いったい砂虫と香料《スパイス》とは、何の関係があるんだろう?”
と、かれは自分にたずね、リエト・カインズが何か砂虫と香料《スパイス》のあいだに関係があるようなことについて、それとなく匂わしてしたことを思い出した。
バルルルーン!
それはかれらの右手にあたるどこか遠いところで、雨をともなわない雷がとどろいたようだった。
またも、バルルルーン!
砂虫は砂の上へと退き、しばらくそこに横たわり、水晶のような歯を月光にきらめかせた。
ランプ! ランプ! ランプ! ランプ!
“別のサンパーだ!”
と、ポウルは考えた。
それも右のほうでひびいた。
砂虫にふるえが走った。そいつは砂の中へもっと遠ざかった。鐘《ベル》の口を半分にしたように盛り上がっている上側のカーブだけが残った。砂丘の上を退いてゆくトンネルのカーブだ。
砂のこすれる音がひびいていた。
その生き物はもっと沈み、後退し、むきを変えた。それは砂丘のあいだをカーブしながら遠のいてゆく砂の小山となった。
ポウルは割れ目から出てゆき、新しいサンパーの呼ぶほうへ砂の波が荒涼とした砂丘を横切って退いてゆくありさまを見つめた。
ジェシカは耳を澄ませながら、そのあとにつづいた。
ランプ……ランプ……ランプ……ランプ……ランプ……
やがてその音はとまった。
ポウルはスティルスーツの中のチューブを見つけ、回収した水をすすった。
ジェシカはかれの動作に注目していたが、彼女の心は疲労と恐怖の余波でぼんやりとしていた。
「あれは、ほんとに行ってしまったの?」
と、彼女はささやいた。
「だれかが呼んだのです……フレーメンが」
彼女は自分が回復しかけているのを感じた。
「あれ、まったく大きかったわ!」
「ぼくらのソプターを食べてしまったやつほどは大きくなかったですよ」
「あれがフレーメンだったことはたしかなの?」
「かれらはサンパーを使いましたからね」
「なぜかれらはわたしたちを助けてくれようとするのかしら?」
「われわれを助けようとしたのではないかもしれません。ただ砂虫を呼んだだけでしょう」
「なぜなの?」
かれの意識の端に解答がとどまっていたが、出てこようとはしなかった。かれの心の中には袋の中にあった鉤《かぎ》のあるひっかけ棒と何か関係があるものの絵があった――メイカー・フックだ。
「かれらはなぜ砂虫を呼んだりするのかしら?」
とジェシカはたずねた。
かすかな恐怖が心に忍びこみ、かれは無理にも母親から顔をそらせて崖を見上げた。
「明るくなる前に登る道を見つけなければ」かれは指さした。「ぼくらが通ってきたあの棒だけど……ああいうのがもっとありますよ」
彼女は、ポウルの伸ばした手の方向に視線をやり、何本かの棒を見つけた――風に削れた標識だ――そして、かれらのずっと上にある|割れ目《クレバス》の中へ曲がりくねりながら伸びているせまい岩棚の影を見分けた。
「崖の上まで道にしるしをつけてありますね」
と、ポウルはいい、袋をかつぎ上げると岩棚の端へ歩き、そこから上へと登りはじめた。
ジェシカはちょっとひと呼吸待って元気を取りもどそうとし、ついでかれのあとを追った。
かれらはガイド・ポールにそって登ってゆき、やがて岩棚はしだいに細くなり、暗い割れ目のせまい入口へと出た。
ポウルは首をつき出して暗い場所の中をのぞきこんだ。細い岩棚にかけた足がかりが危なっかしいのを感じながらも、かれはゆっくりと進んでいった。そのクレバスの中に見えるのは暗黒だけだった。それは上のほうへひろがり、頂上では星空に開いていた。かれの耳はさがし求めたが、予期できる音しか聞き出せなかった――かすかに砂の落ちる音、昆虫の鳴き声、小さな生き物が走る気配だ。
かれはクレバスの中の暗黒を片足で探った。きしる表面の下は丸い岩だ。ゆっくりとかれは角《かど》をまわり、母親について来なさいと合図した。ポウルは寛衣《ローブ》の端をつかみ、彼女がまわるのを助けた。
かれらはふたつの岩の端ではさまれた星空を見まわした。ポウルのそばを動いてくる母親の姿は、ぼんやりと灰色に見えていた。
「明かりをつけてみられたらいいんですが」
かれがそうささやくと、彼女は答えた。
「わたしたちには目のほかにも感覚があるわ」
ポウルは片足を前にすべらせ、体重を移し変え、また片足で探り、何かにぶつかった。かれは足を上げ、階段を見つけ、その上に乗った。かれはうしろに手を伸ばし、母親の腕にふれ、ついてくるようにと寛衣《ローブ》を引っぱった。
もう一段。
かれはささやいた。
「頂上までつづいているようですね」
ジェシカは考えた。
“浅くて、平均した階段。まちがいなく人間が刻んだものだわ”
彼女は影が動いているようなポウルのあとにつづき、階段を探っていった。岩の壁はせまくなり、しまいには両肩がこすれそうにまでなってきた。階段は切り立ったせまい谷へとつづいた。長さは二十メートルほど、谷底は水平になっており、そこから月の光に照らされた浅い盆地がひろがっている。
ポウルはその盆地のふちへ足をふみ出してつぶやいた。
「なんという美しいところだろう」
ジェシカはかれの一歩うしろの位置から、ただ黙って同意しながら見つめていられるだけだった。
疲労、レカスとノーズ・プラグを使っていることによるいらだたしさ、そしてスティルスーツに体を閉じこめられていること、それに加えて、恐怖があり、休息を取りたいという痛いほどの欲求、そういう条件にもかかわらず、この盆地の美しさは彼女の全感覚を満たし、讃歎するほかなくさせたのだ。
「まるで妖精の国ですね」
と、ポウルはささやきかけ、ジェシカはうなずいた。
彼女のすぐ前から砂漠に成育する植物がひろがりのびていた――灌木、サボテン、小さな草のかたまり――すべてが月の光を浴びてふるえていた。|環 状 壁《リング・ウォール》は彼女の左のほうで暗く、右のほうでは月光に凍りついていた。
「ここはフレーメンの場所にちがいありませんね」
と、ポウルはいい、ジェシカはうなずいた。
「これだけ多くの植物が生存していくためには、人々が住んでいなくてはいけないはずね」
彼女はスティルスーツのキャッチ・ポケットへつづいているチューブのキャップをはずして、水を吸った。なまあたたかくて、かすかに酸っぱい水分が咽喉を流れ落ちていった。彼女はそれでどれほど元気を取りもどせたかに気づいた。チューブのキャップは、はめなおそうとすると、こまかい砂にこすれてきしんだ。
何かが動いた気配にポウルは気づいた――右のほうで、かれらの下へカーブしながらのびている盆地の地面だ。かれは煙のような灌木と雑草のあいだを見つめおろし、月光に押しこまれだ板のように見える砂の表面を、小さなものがウロチョロ、飛んだり跳ねたりしているのに気づいた。
「鼠《ねずみ》だ!」
と、かれは押し殺した声でささやいた。
ポップ・ハップ・ハップ! かれらは影の中へ飛びこみ、姿を消した。
何物かが音もなくふたりの目の前を通りすぎ、鼠の群の中へ落ちていった。ついでかぼそい金切り声、翼のはばたく音、そして気味の悪い灰色の鳥が小さな黒い影をその爪につかんで盆地を横切り飛び上がっていった。
“わたしたちには、こういう注意が必要なんだわ”
と、ジェシカは考えた。
ポウルは盆地を端から端へと見つめつづけた。かれは息を吸いこみ、やわらかく、どこかつき刺すように甘いサルビアの匂いが夜の空気に立ちこめているのを感じた。肉食性の鳥か――かれはそれを、砂漠では当然のことと思った。あまりのもとつぜん、盆地に静寂がみなぎったので、青白いミルクのように月の光が|歩哨さぼてん[#ここは原本でもひらがな]《センティネル・サグァロ》から棘《とげ》のあるペイントブッシュへと流れていくのが聞こえるようだった。ここにはかれの宇宙にある他のどのような音楽よりもそのハーモニーにおいて根本的な、低い光のハミングがあった。
ポウルは話しかけた。
「テントを立てる場所を見つけたほうがいいですね。明日になってからにしましょう。フレーメンを見つけるのは……」
「ここへ侵入してくる者のほとんどは、フレーメンを見つけて後悔することになるんだ!」
重々しい男性的な声がポウルの言葉をさえぎり、その瞬間、かれを凍りつかせた。その声は、ふたりの右上方からひびいてきたのだった。
ポウルが谷間へ下がろうとすると、その声はいった。
「走らないでもらおうか、侵入者よ。走れば、おまえたちの肉体の水を浪費するだけのことになるんだ」
“かれらは、わたしたちの体にある水を取ろうとしているんだわ!”
と、ジェシカは考えた。彼女の筋肉はすべての疲労を克服し、体の外にその徴候を現わすことなく最高の待機状態にはいった。彼女は声がひびいてくる場所をつきとめて考えた。
“あの静かな忍びよりかた! 音を聞きさえしなかったわ”
そして彼女は、その声が小さな音、砂漠でひびく自然な音だけしか出さなかったことに気づいた。
かれらの左手にあたる盆地のふちから、別の声が呼びかけた。
「早いところやろうぜ、スティル。そいつらの水を取って、先を急ごう。夜明けまであまりねえんだからな」
ポウルは母親ほど緊急事態にたいする反応がよくなかったので、自分が凍りつき逃げようとしたこと、一時的なパニックにとらわれて能力をくもらせてしまったことに腹立たしさをおぼえた。かれは母親に教えられたとおりにしようと努力した。のんびりするんだ。ついで見かけ上はのんびりした状態にはいり、ついでどの方向へも筋肉を急に動かせられる待機状態にとはいった。
それでもまだかれは心の中に鋭い恐怖を感じており、その原因がわかっていた。これは盲目の時間、かれが前に見た未来のないとき……そしてかれらふたりは、シールドで守られていない二個の肉体の中に入れて運んでいる水だけに関心を持っている荒っぽいフレーメンにはさまれているのだ。
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だから、フレーメンがこのように宗教的なあてはめかたをしたことは、われわれがいま“宇宙の柱”として認めているものの根源であり、その|クイザラ・タフウイド《*》はわれわれのあいだにあって徴候、証拠、予言を持っているもののすべてなのだ。かれらはアラキーンの神秘的な融合をもたらし、その深遠な美しさは、古い形式の上に作られてはいるが、新しい目覚めという刻印が打たれている心を乱す音楽で代表されている。“老人の賛歌”を聞き、そして深く心を動かされなかったものがいるだろうか?
わしは砂漠に足を進めた
その姿は蜃気楼となり
主のようにゆらめいた
栄光を求め、危険を追い
アル・クラブの地平線を
わしは貪欲《どんよく》に放浪した
そしてわしは
時という山並《やまなみ》を見つめた
わしを追い求め
呑みこもうとする山並を
目にうつる雀の
ひどく速い近づきかた
突進してくる狼よりずぶとく
かれらはわしの
青春という木にとまった
わしの枝々に群れた雀の声
そしてわしは
かれらの| 嘴《くちばし》 と爪《つめ》につかまれた!
――イルーラン姫による“目覚めるアラキス”から
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その男は砂丘の頂上を越えてはっていった。かれは正午の太陽に焼かれる小さな虫だった。かれの着ているものはぼろぼろに裂けたジャッバ・コートだけだった。そのぼろをとおして皮膚はそのまま、熱にむきだしになっていた。頭巾は外套から引きちぎれてしまっていたが、かれは布を切ったものでターバン様のものを作っていた。そこから砂まみれの髪の毛がすこしつき出ており、まばらな髭と濃い眉毛に張り合っていた。青の中の青の両眼の下に、黒いしみ[#「しみ」に傍点]に跡が両頬までひろがっている。口髭から顎鬚へと横にもつれてへこんでいるのは、鼻からキャッチ・ポケットへとシュティルスーツのチューブがつづいていた跡であることを示していた。
その男は砂丘の頂をなかば横切ったところで、すべる表面に両腕を下へ伸ばしたままとまった。かれの背中、かれの両腕両足に、血がこびりついていた。傷口にイエロー・グレイの砂がこびりついていた。
ゆっくりとかれは両手を腹の下へ動かし、砂をおしてふらふらと立ち上がった。そしてこのほとんど無作為な動きにも、かつての非常にきびきびとした動作の痕跡が残っていた。
「おれはリエト・カインズだ」
と、かれはだれもいない地平線にむかって挨拶した。そしてかれの声は、かつてもっていた権力のいたたましい戯画となっていた。かれはささやいた。
「おれは皇帝陛下の惑星学者だ……アラキスにおける惑星生態学者だ。おれはこの地の支配人なんだ」
かれはよろめき、風上の表面がかたくなっている砂へ横向きに倒れていった。かれの両手は弱々しく砂を握った。
“おれはこの地の支配人なんだ”
と、かれは考えた。
ついでかれは自分がなかば精神錯乱状態になっていることに気づき、砂を掘って比較的冷たいところを見つけ、そこに隠れるべきだと思った。だがかれはまだ、あの腐ったような、すこし甘いエステルの匂いを感じていた。どこか近くの地下にプレスパイスのポケットがあるということだ。かれはその事実に存在している危険を、ほかのどのフレーメンよりもはっきり知っていた。もし|プレ‐スパイス・マッス《*》が匂うとなると、砂の下深くにたまったガスが爆発をおこす圧力に近くなっていることを意味している。ここから離れなければいけないということだ。
かれの両手は砂丘の肌を弱々しくかきまわすような動きかたをした。
ひとつの想いがかれの心にひろがった――明るく、くっきりと。
“ひとつの惑星が持つ真実の富とは、その風景にある。その、文明における基礎的根源にわれわれがどのように参加するかということ……農業だ”
そしてかれは、ひとつの道にずっと以前から固定していると、その道からはずれられなくなってしまうとは、心とはまったく奇妙なものだと考えた。ハルコンネンの兵士どもはかれをここに、水もスティルスーツもあたえることなく残していった。砂漠に殺されなくても砂虫がかたづけてくれるだろうと考えてだ。やつらはかれを生きたままここに捨て、かれの惑星の持つ非人間的な手でじわじわと殺されてゆくままにまかせるのを面白がっているのだ。
“ハルコンネンの連中は、これまでつねに、フレーメンを殺すのは困難なことだと思い知らされてきたはずだ……おれたちはあっさり死にはしない。おれは本当ならもう死んでいるころだ……おれはもうすぐ死ぬだろう……だがおれは、生態学者であることをやめるわけにはいかないんだ”
と、かれは考えた。
「生態学《エコロジー》の持つ最高の機能は、影響を理解することだ」
その声にかれはショックをおぼえた。その声がだれのものかわかり、その人が死者であることを知っていたからだ。それは、この地でかれの前に惑星学者の任についていた父親の声だった――すっと前に死んだ父、プラスター盆地の陥没で殺された父のものだった。
「だいぶ困ったことになったもんだな、息子よ。おまえは心得ておくべきだったのだ、あの公爵の子供を助けようとすればどんな結果になるかということを」
その声にカインズは思った。
“おれはおかしくなりかけている……”
その声は右のほうから聞こえてくるようだった。カインズは砂を顔でかきわけるようにしてそちらにむいた――だがそこには、カーブしながらひろがっている砂丘が、照りつけるまぶしい太陽に|熱の悪魔《ヒート・デビル》の踊りをつづけているほか何ひとつなかった。
「ひとつのシステム内に存在する生命が多いほど、生命の活動範囲は多くなるものだ」
と、かれの父親はいった。そしてその声はいまや、かれの左から、かれの背後からひびいていた。
カインズは自分の心にたずねた。
“なぜ父さんは動きまわっているんだ? おれと顔を合わせたくないのか?”
「生命は、生命を支える環境の収容力を改善するものだ……生命は、必要とする栄養物をより速やかに手に入れられるようにするものだ。それは、微生物から微生物へのすばらしい科学的相互作用をとおして、システムの中により多くのエネルギーを結びつけるのだ」
と、かれの父親はいった。
“なぜかれは同じ話題ばかりしゃべりつづけるんだ。おれが十歳になる以前から知っていることなのに”
この地でのもっとも乱暴な生き物であり、死肉をくらう|砂漠の鷹《デザート・ホーク》が、かれの頭上で輪を描いて飛びはじめた。カインズは手のそばを影が動くのを見て、やっと頭をまわして上を眺めた。鷹の群はシルバー・ブルーの空にぼんやりとうごめいている――かれの頭上に遠く浮かんでいる煤《すす》だった。
かれの父親はいった。
「われわれはジェネラリストだ。惑星全体にまたがる問題はそうあっさりと割り切れる問題ではない。惑星学とは|切っては継ぐ科学《カット・アンド・フィット・サイエンス》なんだ」
カインズはいぶかしく思った。
“何を父さんはおれにいおうとしているんだ? おれが見ることに失敗した何かの結末があるとでもいうのか?”
頬をぐったりと熱い砂にあてたかれは、プレスパイス・ガスの下で岩が焼けている匂いを感じた。心の中に残っているわずかな論理のすみで、ひとつの考えが形づくられた。
“おれの上に舞っているのは死肉を食う鳥の群れだ。おれのフレーメンがだれか、それを見て、調べに来てくれるかもしれないぞ”
かれの父親はいった。
「仕事をする惑星学者にとって、もっとも重要な道具は人間だ……おまえは人々のあいだに生態学を理解する能力を植えこまなければいけない。わたしがなぜ生態学記録法のこのまったく新しい方法を作り出したかの理由はそれだ」
“かれは、おれが子供だったころに話したことをくりかえしている”
かれは涼しさを感じはじめたが、心の中にある論理のかけらは告げていた。
“太陽は頭上だ。おまえにはスティルスーツがなく、おまえは熱い。太陽はおまえの体を焼きつくし、水分を奪い去ってしまうんだ”
かれの指は弱々しく砂をひっかいた。
かれの父親はいった。
「空気中に存在する水蒸気は、生きている肉体からのあまりに急速な蒸発を妨げる助けとなる」
“なぜかれは決まりきったことを話しつづけるのだろう?”
カインズは空気中にある水蒸気のことを考えようと努めた――この砂丘をおおっている草……かれの下のどこかにある露出した水、砂漠を横切って水が流れる長い|クァナット《*》、そしてそこに並ぶ樹々……かれはこれまで一度も、本のさし画以外に、空にたいして露出している水など見たことがなかった。露出した水……灌漑用の水……植物が成長する季節に一ヘクタールの土地を灌漑するのは五千立方メートルの水が必要だということを、かれはおぼえていた。
かれの父親はいった。
「アラキスにおけるわれわれの最初のゴールは、草の茂る土地だ。われわれはそれを突然変異した雑草で始めよう。草地に水分を閉じこめたとき、われわれは山地の森林を作り始め、ついで露出した水面をいくつか作り……最初は小さなものだ……それから、強い風が吹くところに|風 水 弁《ウィンド・トラップ》による水蒸気凝縮器をならべて、風が奪ってきた水分を取りかえすようにするんだ。われわれは本物の熱風……湿気の多い風……を作り出さなければいけないのだが、風水弁を必要としなくなるなどということは永久にないんだ」
カインズは思った。
“いつだっておれに講義だ……なぜ黙らない? おれの死にかかっていることがわからないのか?”
かれの父親はいった。
「おまえも死ぬんだ……たったいまおまえの下深くで形成されている気泡から逃げることができなければな。そこでそうなっていることを、おまえは知っている。おまえはプレスパイス・ガスの匂いが感じられるはずだ。おまえはリトル・メイカーが、かれらの水分をすこしマッスの中へと失いかけていることを知っている」
かれの下にあるその水という考えは、心を狂おしくさせることだった。かれは想像した――ごわごわしたなかば植物、なかば動物であるリトル・メイカーによって多孔性の岩石層に閉じこめられ――そして細い亀裂によって注がれてゆく澄み切った、純粋な液体の冷たい流れ。ひんやりする水が……
プレ‐スパイス・マッス!
かれは、あの腐ったような甘い匂いを感じながら、大きく息を吸いこんだ。あたりの匂いはそれまでよりずっと強くなっていた。
カインズは両手をついて上半身をおこし、鳥がさけぶ声と、あわてて翼をはばたいた音を聞いた。
“ここは香料砂漠《スパイス・デザート》なんだ……ま昼にだって、ほど近いところにフレーメンがいるはずだ。きっとかれらは鳥の群を見て、調べにくるだろう”
かれの父親はいった。
「風景を横切って動くことは、動物が生きていくために必要なことだ。遊牧民は同じ必要性を追ってゆく。移動の線は、水、食料ミネラルにたいする肉体的欲求に合わせられる。われわれはいまや、この移動をコントロールし、われわれの目的に参加させるようにしなければいけないのだ」
カインズはつぶやいた。
「黙ってろよ、父さん」
かれの父親はいった。
「われわれはアラキスにおいて、ひとつのことをしなくてはいけない。これまでかつて一度も、ひとつの惑星全体にたいして試みられたことがなかったことをな。われわれは人間を、建設的な|生態学的勢力《エコロジカル・フォース》として使わなければいけないのだ……適合した陸上生物をさしこむんだ。ここにひとつの植物を、あそこにひとつの動物を、あの場所にひとりの人間をと……水のサイクルを変えるために、新しい種類の風景を作り上げるためにだ」
カインズはしわがれ声を出した。
「黙れったら!」
かれの父親はいった。
「砂虫《ウォーム》と香料《スパイス》のあいだの関係について、最初の手がかりをあたえてくれたのは移動の線だった」
カインズは急に希望をおぼえながら考えた。
“砂虫が……この気泡が爆発すれば、メイカーがかならずやってくる。だがおれはフックを持っていない。フックもなしにどうやって大きなメイカーに乗れるんだ?”
かれは欲求不満が、残っているわずかな力を消耗しているのを感じることができた。それほど近くに水がある――ほんの百メートルかそこら、かれの下に。砂虫もかならずやってくる。だが、そいつを地表でつかまえて乗りこなす方法がないのだ。
カインズは前へ倒れ、自分が動いたことで砂地にできた浅いくぼみの中へもどった。左の頬にあたる砂が熱く感じられたが、その感覚は遠くぼんやりとしたものだった。
かれの父親はいった。
「アラキーンの環境はそれ自体が、この地にある生命形態の進化パターンに組みこまれているんだ……理想に近いといえる窒素・酸素・二酸化炭素のバランスが、植物のカバーする広大な地域もないままにここで維持されているということを、香料から視点を上げて不思議に思う人間がこんなにも長いあいだ、ほとんどいなかったのは、まったく奇妙なことではないか。惑星のエネルギー活動範囲はそこにあり、目に見え、理解できる……無情なプロセスだが、それでもプロセスだ。その中にギャップがあるって? では何かがそのギャップを埋めているさ。科学は実に多くのもので成り立っており、説明されてみるとそれらは当然のことなんだ。わしはリトル・メイカーがそこにいるのを知っていた。砂の中に深く、わしがそれをこの目で見るずっと前からな」
カインズはささやいた。
「頼むからおれに講義するのはやめてくれ、父さん」
かれが伸ばしている手のそばの砂に、一羽の鷹が舞い降りてきた。カインズは、そいつが翼をたたみ、頭をかしげてかれを見つめるのを見た。かれは力をふるいおこして、そいつにしわがれ声をあびせた。鳥は二歩はねて横に動いたが、それでもかれを見つめつづけた。
かれの父親はいった。
「いまより前、人々とその仕事は、かれらの住むいくつかの惑星の表面における疾病でありつづけた……自然は、疾病にたいする補償をするか、かれらを除去あるいは包みこんでしまい、自然の持つそれなりの方法でシステムの中にかれらを組みこんでしまおうとしたんだ」
鷹はその頭を下げ、両の翼をひろげ、またそれをたたんだ。そいつは注意をかれの伸ばした手に移した。
カインズはもう自分に、しわがれ声を出す力も残っていないことを知った。
かれの父親はいった。
「おたがいのあいだで盗み奪いあうという歴史的なシステムは、ここアラキスで終わりを告げるのだ……おまえは、あとからやってくる連中のことを顧慮することなく、必要とするものをいつまでも盗みつづけるわけにはいかない。ひとつの惑星のぶつりてき資質は、その経済的政治的記録に書きこまれている。われわれの前にはその記録があり、われわれの取るべきコースは明らかなのだ」
“父さんはいつだって講義をはじめたら最後、とめられなかった……講義、講義、講義……いつだって講義なんだ”
鷹はカインズの伸ばした手のほうへ一歩はねて近づき、その頭をまず一方へ、ついでその反対側へとまわして、露出している肉体を調べた。
かれの父親はいった。
「アラキスは収穫物がひとつしかない惑星だ……たったひとつの収穫物。それは、あらゆる時代の支配階級が生きてきたと同じように生きている支配階級を養っているんだ。そして、かれらの下には、奴隷に近い半人間の大衆がいて、残り屑で生存している。われわれの注意を集めているのは、その大衆と残り屑だ。これらのものは、これまで考えられていたよりもはるかに価値あるものなんだよ」
カインズはささやいた。
「おれはあんたを無視しているんだぜ、父さん。行っちまえったら」
そしてかれは考えた。
“きっとおれのフレーメンがだれか近くにいるはずだ。かれらはどんなことがあろうと、おれの頭上を舞っている鳥の群を見つけるだろう。かれらはたとえ、水分を手に入れられるかどうか見るだけでも調べにやってくるはずだ”
かれの父親はいった。
「アラキスの大衆は、われわれがこの地を水で満たすために働いていることを知るようになるだろう……かれらのほとんどは、もちろん、われわれがこれをどんなふうにやろうとしているかについて、なかば神秘的な理解しか持たないことだろう。多くは、禁止的な質量比の問題を理解することもなく、われわれが水をどこか水の豊富な他の惑星からでも持ってくるのだとさえ考えるだろう。かれらがわれわれを信じているかぎり、どのようにでもかれらが好むとおりに考えさせておくことだな」
“もうすこししたら、おれは立ち上がって、父さんを何と思っているかいってやるんだ……おれを助けるべきとき、そこに立っておれに講義をつづけるとはな”
鳥はもう一歩、カインズの伸ばしている手に近づいた。そのうしろの砂に、もう二羽の鷹が舞い降りた。
かれの父親はいった。
「われわれ大衆のあいだにおける宗教と法律は、ひとつで、そして同じものでなくてはいけない。違反行為は罪であり、宗教的制裁を必要とすることにしなければいけない。これは、より大きな服従とより大きな勇敢さをもたらすという二重の利点を持つのだ。われわれは、個人個人の勇敢さよりも、むしろ
全ての民衆の勇敢さに頼らなければいけないんだぞ」
“いまこそもっとも必要としているときだというのに、おれの民衆はどこなんだ?”
カインズはそう考えた。かれは全身の力をふるいおこし、いちばん近い鷹のほうへ指一本の幅だけ手を動かした。そいつはうしろへ跳ねて仲間といっしょになり、三羽は飛び立ちそうな姿勢になった。
かれの父親はいった。
「われわれの行事予定表は、自然現象の成長をやりとげさせるだろう。ひとつの惑星にある生命とは、大きく、しっかりとからみあった組織なんだ。植物と動物の変化は、われわれが操作する生《なま》の物理的勢力によってまず決められるだろう。だがそれらがそれ自体で生きてゆくようになるにつれ、われわれの変化は当然、支配し影響する力となる……そしてわれわれは、それらを処理しなければいけないことにもなるんだ。しかし、よくおぼえておくんだぞ。全体の構造をわれわれの自己充足システムに入れてしまうために、われわれが支配する必要があるのは、地表におけるエネルギーの三パーセントにすぎないことをな……たった三パーセントだ」
“なぜあんたはおれを助けてくれないんだ? いつも同じだな。おれがあんたをもっとも必要とするときは、いつだってがっかりさせられるんだ”
かれは顔をまわそうとした、父親の声がひびいてくる方向を見つめようと、老人をにらみつけようとした。だが筋肉はかれの命令に答えようとしなかった。
カインズは、鷹が動くのを見た。そいつはかれの手のほうへ近づいた。用心深く一歩ずつ、そのあいだ仲間はあざけるように何の関心も見せずに待っていた。鷹はかれの手からほんのひと跳ねのところにとまった。
カインズの心は大きな透明感で満たされた。かれはとつぜん、父親が見たことのないアラキスの潜在能力を見た。異なる道筋にそった多くの可能性がおしよせてきた。
かれの父親はいった。
「おまえの民衆にとっては、英雄の手に陥るより以上に恐ろしい悲劇はないんだぞ」
“おれの心を読んでいるんだな! よろしい……読むなら読むでいいさ……知らせはすでにおれのシーチ村落の多くに送られたんだ……それをとめられるものは何ひとつない。もし公爵の息子が生きているなら、おれが命令したとおり、かれらは息子を見つけて保護するだろう。かれらはあの女、かれの母親を捨てるかもしれないが、あの息子は救うことだろう”
鷹はひと跳ねして、かれの手でたたきつけられる距離にはいった。そいつは顔を傾け、さきほどから動かなくなった体を調べた。とつぜん、そいつは背を伸ばし、顔を上にむけると、ひと声さけぶなり空中へ舞い上がり、うしろに仲間をひきいて頭上をななめに飛び去っていった。
カインズは思った。
“かれらがやって来たんだ! おれのフレーメンがおれを見つけてくれたんだ!”
そのときかれは、砂がふるえる音を耳にした。
フレーメンならだれだろうとその音を知っているし、それをすぐ砂虫や砂漠に住む他の生命の立てる音とは区別できるのだ。かれの下のどこかでプレスパイス・マッスがリトル・メイカーから充分な水と有機物質を集め、急激な成長をする臨界状態に達していたのだ。二酸化炭素の巨大な気泡が砂の中深いところに形成され、その中心に砂の渦巻きをともなったすごく大きな“爆発《ブロー》”をおこして上へふくれ上がってきたのだ。それは砂の中深くで形成されたものを、地表に横たわるものが何であれ、それと交換するのだ。
鷹の群は頭上で不満の叫びをあげながら旋回した。かれらは何がおこりつつあるのか知っているのだ。砂漠に住む生物であれば何であれ知っていることだ。
カインズは考えた。
“そしておれは砂漠の生物だ……おれが見えるか、父さん? おれは砂漠の生物なんだ”
かれは気泡に持ち上げられるのを感じ、砂の渦巻きに呑みこまれ、すずしい闇の中へ引きずりこまれるのを感じた。ほんのしばらくのあいだ、すずしさの感覚と湿気は幸せな救いだった。ついで、かれの惑星がかれを殺した瞬間、カインズは思った――かれの父親と他の科学者のすべてが誤っていたこと、この宇宙におけるもっとも永続性のある原理は偶然と錯誤であったということを。
鷹の群でさえも、それらの事実を認めることができたのだ。
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予言と予知――答えることのできない質問だというのに、どうしてそれらをテストにかけることができよう? 考えてもみることだ――実際の予言となった“波型”(ムアドディブがかれの|予 測 映 像《ヴィジョン・イメージ》をさす言葉)とはどれほどのものなのか、予言と合致するような未来を作り出した予言者とはどれほどのものなのか? 予言という行為に固有のハーモニックスとはどういうものなのだろう? 予言者とは未来を見るものなのか、それともダイアモンド細工師がナイフの一撃で宝石を割るように、言葉とか決心とかで割り得る裂け目、欠点、あるいは弱い線といったものを見つけるものなのだろうか?
――イルーラン姫による“ムアドディブについての私的な回想”から
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「そいつらの水を取ろう」
と、男は夜の中から叫んだのだ。そしてポウルは恐怖をおさえつけ、母親をちらりと見た。かれの訓練を積んだ目は、彼女が戦闘にそなえ、筋肉がいつでも行動にうつれる態勢になっているのを見た。
「おめえたちをすぐに殺してしまわなければいけねえとは残念なことだぜ」
と、ふたりの上からその声はいった。
ジェシカは考えた。
“あれは最初に呼びかけた男だわ。かれらはすくなくとも二人いる……わたしたちの右にひとり、左にひとり”
「シグノーロ フロボサ スカレス ヒン マンゲ ラ ブチャガーヴァス ドイ メ カマーヴァス ナ ベスラス レーレ パル フローバス!」
それはかれらの右にいた男が盆地を横切って呼びかけた声だった。
ポウルにとってその言葉はまったく意味のわからないたわごとだったが、ベネ・ゲセリットの訓練からジェシカはその言葉が何かわかった。それはチャコブサ、昔の狩猟用言語のひとつであり、上のほうからその男は、このふたりこそかれらがさがしているよそ者[#「よそ者」に傍点]かもしれないぞ、といったのだ。
その声につづいたとつぜんの沈黙の中で、第二の月のまん丸い顔――かすかに象牙色がかったブルーだ――が、盆地のかなたの岩の上に、明るく、のぞきこむように昇った。
岩をこする音がひびいた――上から、両側から……月の光を浴びて黒く動くもの。多くの人影が岩肌に流れた。
“大部隊だ!”
と、ポウルはとつぜん胸の痛みをおぼえながらそう考えた。
まだらの頭巾付外套《バーヌース》を着た背の高い男が、ジェシカの前に進み出た。かれのマウス・バッフルは、はっきり口をきくために横へはずされており、月光をななめに受けて濃い髭を見せていたが、顔と両眼は垂れている頭巾で隠されていた。
「ここにいるものは何だ……霊魔《ジン》(回教神話。天使の下に位し、人間または動物の姿になって人間にたいし超自然的な魔力をふるうという)か、それとも人間か?」
と、そいつはたずねた。
ジェシカはその声にからかいがこもっているのを知って、かすかに希望を持った。それは命令する者の声であり、闇の中からひびいてきたことで最初にショックをおぼえさせられた声だった。
「どうも人間らしいな」
ジェシカはそいつの寛衣《ローブ》のひだにナイフが隠されていることを、見るというよりも感じとった。彼女は自分とポウルがどちらもシールドを持っていないことに鋭い口惜しさをおぼえた。
その男はたずねた。
「おまえたちは口がきけるのだろうな?」
ジェシカは動作と声に、彼女が持っている王族の尊大さのすべてを現わそうとした。急いで答えなければいけないところだったが、この男の教養と弱点を充分に理解したといえるほど言葉を聞いていなかったのだ」
「夜の中から犯罪者のように現われたのは何者です?」
と、彼女は反問した。
頭巾をかぶった頭はぐきりと動いて、緊張の模様を見せ、ついでゆっくりと気持をくつろがせはじめたことがはっきりとわかった。その男はすばらしい制御心を持っているのだ。
ポウルはふたりが格好の目標にならないように母親から離れ、同時にふたりが自由に行動できる場所をあけようとした。
頭巾の男はポウルが動いたほうへとまわり、月光に顔をすこしのぞかせた。ジェシカが見たのは、とがった鼻、輝いている目――暗い、実に暗い目、白いところがまったくない――太い眉毛とはね上がっている口髭だった。
その男はいった。
「どうもそうらしい小僧だな。もしおまえがハルコンネンのところから逃げてきたものなら、われわれのあいだで歓迎されることになるかもしれんぞ。どうだ、坊や?」
いくつかの可能性がポウルの心を走った。策略か? 事実か? すぐに心を決めることが必要だった。かれはたずねかえした。
「なぜきみたちは避難民を歓迎するんだ?」
背の高い男はいった。
「大人のように考え、そして話す子供だな……では、おまえの質問に答えるとしようか、若い|ワリ《*》よ。おれは、ハルコンネン家に|ファイ《*》を、水のみつぎ物を支払ったりしない男だ。おれが避難民を歓迎するかもしれん理由はそれだよ」
ポウルは考えた。
“かれは、われわれがだれか知っている。かれの声には、それを隠しているところがうかがわれる”
背の高い男はいった。
「おれはスティルガー、フレーメンだ。それで話しやすくなるんじゃないかな、坊や」
“同じ声だ……”
ポウルはそう思い、この男が戦略会議にやってきたときのことを思い出した。ハルコンネンに殺された友人の屍体とともにやってきたんだ。
ポウルはいった。
「ぼくはきみを知っているよ、スティルガー。きみが友だちの水を求めてやってきたとき、ぼくは父上といっしょに会議に出ていた。きみは父上の部下、ダンカン・アイダホを連れていった……友人の交換だった」
「そしてアイダホはわれわれを捨てて、公爵のもとに帰ったんだぞ」
と、スティルガーはいった。
ジェシカはその声に嫌悪の想いがこもっているのを知って、いつでも攻撃できる用意をした。
かれらの上につらなる岩から声がひびいた。
「おれたち、時間をむだにはできねえんだぜ、スティル」
スティルガーはどなった。
「これは公爵の息子だ。リエトがわれわれにさがせといったやつなんだぞ」
「だが……子供だぜ、スティル」
スティルガーはいった。
「あの公爵は男だったし、この少年はサンパーを使った……シャイ・フルドの道筋を横切ってきたとは勇敢なものじゃないか」
ジェシカは、かれの考えに自分が入れられていないことを知った。かれはもう宣告をすませたつもりなのだろうか?
「おれたち、テストをやっている時間はねえんだぜ」
かれらの上から声は抗議した。
スティルガーは答えた。
[しかし、かれはリザン・アル・ガイブかもしれないんだぞ」
“かれは前兆《オーメン》を求めているんだわ!”
と、ジェシカは考えた。
かれらの上から声はいった。
「でも、その女は」
ジェシカは用意を整えなおした。その声には死の響きがこめられていたのだ。
スティルガーはいった。
「ああ、その女。それに彼女の水だ」
岩から声はひびいた。
「あんたは法律を知っているはずだ。砂漠で生きてゆけねえ人間ってのは……」
スティルガーはいった。
「静かにしてろ。時代は変わるんだ」
「これもリエトの命令ってのか?」
と、岩からの声がひびいた。
スティルガーはいった。
「おまえは|シエラーゴ《*》の声を聞いたはずだぞ、ジャミス。なぜ、おれにさからおうとするんだ?」
そしてジェシカは考えた。“シエラーゴ!”その言葉が理解への広い道筋を開いた。それは|イルム《*》と|フィキュウ《*》のい言語であり、シエラーゴとは“蝙蝠《こうもり》”、小さな空を飛ぶ哺乳動物のことだ。シエラーゴの声。かれらは、ポウルと彼女をさがせという|ディストランス・メッセージ《*》を受け取ったのだ。
「おれはただ、あんたの義務を思い出させているだけだぜ、友人スティルガー」
かれらの上から声はそういい、スティルガーは答えた。
「おれの義務は種族の力だ……それだけがおれの義務だ。だれにそれを思い出させてもらう必要もないさ。この子供《ボーイ》で|大人の男《マン》に、おれは興味を持った。かれは筋肉も充分についている。かれは水をたっぷりと使って生きてきた。かれは父なる太陽から離れて生きてきた。かれは|イバドの目《*》を持っていない。それでもかれは、パンの弱虫のような口のききかたもしないし行動もしない。かれの父親もそうだった。どうしてなんだ?」
岩からの声はいった。
「おれたち夜じゅうここで話し合っているわけにはいかねえんだぜ。もし、偵察隊が……」
「二度とはいわないぞ、ジャミス。静かにするんだ」
かれらの上にいる男は沈黙を保ったが、ジェシカはそいつが動く音を聞きつけた。せまい谷を飛び越え、左のほうから盆地の床《ゆか》へと下りてこようとしている。
スティルガーはいった。
「シエラーゴの声は、おまえたちふたりを救うことによって、われわれに価値あるものがもたらされるという意味のことをいっていた……おれはこの強いボーイ・マンにはその可能性があると思う。だがおまえのほうはどうなんだ、女よ?」
かれはジェシカをにらみつけた。
“わたしはもう、この男の声とパターンを心に刻みつけた。わたしはかれを一言で支配できるはずだが、かれは強い男だわ……弱められてはおらず、完全な行動の自由を持っていて、わたしたちにはずいぶんと価値のあるもの。そのうちわかるわ”
ジェシカはそう考えてから口を開いた。
「わたしはこの少年の母です。いわば、あなたが褒めているこの子の力は、わたしが訓練した産物なのですよ」
スティルガーは反問した。
「女の力は限りないものとなり得るさ……|教   母《リヴァレンド・マザー》にあってはそのとおりだ。おまえは教母なのか?」
それにたいして、ジェシカは質問にふくまれていた言外の意味を考えないことにし、正直に答えた。
「いいえ」
「おまえは砂漠における方法を訓練されているのか?」
「いいえ、でも多くの人は、わたしの訓練を値打ちのあるものと考えていますよ」
「値打ちについては、われわれ自身が判断をくだすことにしているよ」
「男はだれでも自分で判断する権利を持っていますからね」
スティルガーはいった。
「おまえにものの道理がわかるのはいいことだ……われわれは、おまえをテストするためにここで遊んでいるわけにはいかないのだからな、女よ。わかるだろうな? おれたちは、おまえの持つ弱さをわれわれに伝染させたくないのだ。おれはおまえの息子、ボーイ・マンを連れてゆく、そしてかれはおれの種族の中で、おれの保護と安全を手に入れる。だがおまえのほうはだな、女よ……これには個人的な考えは何ひとつないと、わかってくれるな? これは全体の利益のための規則、|イスティスラー《*》だ。それで充分ではないかな?」
ポウルは半歩前に進んだ。
「おまえはいったい何をいっているんだ?」
スティルガーはちらりとポウルのほうに視線を走らせたが、注意力はジェシカに保っていた。
「子供のころからここで生きてゆくための充分な訓練を積んでいないかぎり、おまえは全種族の上に破滅をもたらすことがあり得るのだ。それが法律であり、われわれは役に立たぬ者をともなうことなどできない……」
ジェシカの行動は、ぐったりと地面にくずれかかるという偽装攻撃の手から始められた。それは弱い外部の人間がやって当然のことであり、そのため相手の反応も遅くなった。よくわかっていることが未知の面を見せるとき、それを正しく解釈するにはしばしの時間を必要とするものだ。
彼女は、スティルガーが右肩を落として寛衣《ローブ》のいひだから武器を取り出し、彼女の新しい位置へむけようとするのを見た。ふりむき、両腕を走らせ、もつれ合ったようなふたつの寛衣《ローブ》の渦巻。そして彼女は岩肌につき、その前に男をただひとり押さえていた。
母親が行動をおこすと同時に、ポウルは二歩うしろへ下がった。彼女が攻撃を始めると、かれは闇の中へと飛んだ。髭を生やした男がひとり、かれの前方で体をおこし、なかばしゃがんだ格好で片手に武器をかまえ、突進してきた。ポウルはまっすぐ手を伸ばしてそいつの胸骨の下を突き、横へ一歩よけるなり、そいつの頸のつけねを叩きつけ、倒れていく男の武器を取った。
すぐにポウルは影の中にはいり、武器を腰のサッシュにさしこんで、岩のあいだをよじ登っていった。かれはその武器が見慣れない形をしていたにもかかわらず何なのかわかった――|発 射 体 兵 器《プロジェクテイル・ウィーポン》だ。そのことが、この場所について多くのことを説明しており、ここでシールドが使われていないことを示す別の手がかりともなった。
“かれらは母上とあのスティルガーというやつに注意を奪われるだろう、母上はあの男を扱える。ぼくは安全で有利な地点へ行き、そこからかれらをおどかし、母上に逃れる時間をあたえなければいけないんだ”
盆地から鋭くスプリングのはねる音がいっせいにおこった。|投 射 物《プロジェクテイル》がかれのまわりの岩にあたってはねかえっていった。そのうちの一個が、かれの寛衣《ローブ》をかすめた。かれは岩のあいだにあた角《かど》をまわり、せまい垂直の割れ目にはいったことに気づき、すこしずつ上へ進みはじめた――背中を一方におしつけ、両足を反対側に――ゆっくりと、できるかぎり音を立てずに。
スティルガーの咆哮する声がこだましてきた。
「下がれ、虫けら頭の虱《しらみ》どもが! おまえたちが近づくと、この女はおれの頸を折るんだぞ!」
盆地から声がひびいた。
「子供が逃げたぞ、スティル。おれたちはどう……」
「もちろん逃げたとも、砂同然の脳味噌の……あ、あう! あわてるな、女!」
ジェシカは話しかけた。
「わたしの息子を追うのをやめろといいなさい」
「かれらはもうやめたよ、女。かれは、おまえがやらせようとしたとおり逃げ出した。なんということだ! なぜおまえはいわなかったんだ、おまえが|不思議な女《ウイアーディング*》で、戦士であることを?」
ジェシカは話した。
「あなたの部下に下がれといいなさい。わたしから見えるように盆地へ出ろといいなさい……それから、信じたほうがいいわね。あなたがたが何人いるのかわたしが知っているっていうことを」
そして彼女は考えた。
“いまは微妙な場合だ。でもわたしが考えたとおりこの男が鋭い頭脳を持っていれば、わたしたちにチャンスはあるわ”
ポウルはすこしずつ登ってゆき、せまい岩棚を見つけ、そこでひと休みし、盆地を見おろすことができた。スティルガーの声が聞こえてきた。
「それでもしおれがことわったら? どうしておまえは……あ、あう! 放してくれ、女! もうおまえに害を加えるつもりはないんだ。驚いたな! われわれの中でもっとも強いおれにこんなことができるのなら、おまえは体の持っている水の十倍もの値打ちがあるんだ」
“さあ、こんどは理性のテストね……”
ジェシカはそう考え、話しかけた。
「あなたはリザン・アル・ガイブのことを聞いたわね」
「おまえたちは伝説に出てくる連中なのかもしれない。だがおれは、テストをすまさなければ信じないね。いまのところおれが知っていることといえば、おまえたちがここへあの愚かな公爵とともにやって来た……あ、あっ! 女! おれを殺しても別にかまわないんだぞ! かれは尊敬すべき男であり勇敢だ。しかし、ハルコンネンにつかまるような目に会うとは愚かなことではないか!」
沈黙。
しばらくしてからジェシカはいった。
「かれにはほかにどうしようもなかったのよ。でも、いまそれをいいいあってみてもむだだわ。さあ、そこの灌木《ブッシュ》のかげにいる男にいいなさい、武器をわたしにむけようとするのはやめなさいとね。さもないとあなたから宇宙をなくしてしまい、つぎはその男ということにするわよ」
スティルガーはどなった。
「おい、そこの! 女がいったとおりにしろ!」
「でも、スティル……」
「彼女のいうとおりにするんだ、この虫けら面《づら》の、のろまな、砂同然の脳味噌をしたトカゲの糞《くそ》め! そのとおりにしろ。さもないとおれもこの女に手を貸して、おまえをばらばらにしてしまうぞ。おまえはこの女の値打ちがわからないのか?」
灌木《ブッシュ》にいた男はなかば隠れていた姿勢から立ち上がり、武器を下ろした。
「かれは命令に従ったぞ」
スティルガーの言葉にジェシカは答えた。
「では、あなたがわたしをどうしたいかと思っているかを、はっきりとみんなに説明しなさい。若いあわて者に馬鹿なまちがいを犯してほしくありませんからね」
「われわれが村や町にもぐりこむとき、おれたちは正体を隠し、パンやグラーベンの連中に溶けこんでしまわなければいけない……そして、われわれは武器を携行しない。クリスナイフは神聖なものだからな。だがおまえ、女、おまえは戦闘における不思議な能力を持っている、われわれはそういうものについて聞いたことがあるだけだし、多くの者は疑っていたんだが、自分自身の目で見たことを疑うことはできない。おまえは武装したフレーメンを征服した。これは、調べてみてもわかるはずのない武器だな」
スティルガーの言葉が徹底するにつれて、盆地に物音がひびきはじめた。
「それでもし、わたしがあなたがたに教えることを承知したら……不思議な方法を?」
「おまえの息子と同じように、おまえをおれが承認することだ」
「あなたの約束が本物だということを、どうしたら信じられるの?」
スティルガーの声は論理的な落ち着いた口調をすこし失い、ちょっといらいらしたところを加えた。
「ここではな、女、われわれは契約をとりかわすために書類を持ちまわったりしないんだ。われわれは夕方約束して夜明けにはそれを破るというようなことをしないんだ。男がひとつのことを口にすれば、それが契約なんだ。みんなの指導者としておれがいえば、みんなが約束したと同じことだ。われわれにその不思議な方法を教えれば、おまえはわれわれのところにいたいだけいて安全を確保できる。おまえの水はわれわれの水と混じり合うのだ」
ジェシカはたずねた。
「あなたはフレーメン全員を代表して話せるのですか?」
「いずれは、そうなるときが来るかもしれんな。だがおれの兄弟、リエトだけが全フレーメンを代表して話をするんだ。ここでのおれは、秘密を約束するだけだ。おれの部下はおまえたちのことを、ほかのどのシーチにも話しはしない。ハルコンネン家の連中は武装して砂丘《デューン》にもどり、おまえの公爵は死んだ。おまえたちふたりは、母なる嵐の中で死んだという噂だ。狩人は死んだ野獣をさがしはしないものだ」
“それなら安全そうね……でも、この連中にはちゃんとした通信手段があり、通信を送ることだってできるんだわ”
ジェシカはそう考え、話しかけた。
「わたしたちに賞金が賭けられているはずね」
スティルガーは沈黙を守り、彼女にはかれの頭の中で多くの考えが走りまわっているのを目のあたりに見られるようであり、彼女の両手の下でかれの筋肉が動くのを感じた。
やがてかれは答えた。
「もう一度いおう、おれは言葉による一族の約束をおこなった。おれの部下ももう、われわれにたいするおまえの価値を知っている。ハルコンネンがわれわれに何をあたえられるというのだ? おれたちの自由か? ふん! いや、おまえは|タクワ《*》だ。つまり、ハルコンネン家の資産となっている香料《スパイス》すべてよりもずっと多くのものをもたらしてくれる人間というわけだ」
「では、あなたがたにわたしの戦闘方法を教えましょう」
と、ジェシカはそういい、自分が無意識のままに言葉に儀式的な重さをこめていることに気づいた。
「じゃあ、放してくれるな?」
「そういうことね」
ジェシカはつかまえていた男を放し、横に動いて、盆地にいる一団からはっきりと見られるようになった。
“これは|テスト・マシャド《*》ね。しかしポウルもそのことを知らなければいけない。たとえかれがそれを知るためにわたしが死ぬことになっても”
待っている沈黙の中でポウルは、母親が立っているところをもっとよく見られるように、すこしずつ前進した。動いていったかれは、岩にあいている垂直な割れ目の上のほうで激しい息づかいがするのを聞きつけ、とつぜん凍りついたようになり、星空を背景にして輪郭を作っているかすかな人影に気づいた。
スティルガーの声が盆地から聞こえてきた。
「おい、上にいるおまえ! 少年をさがすのをやめろ。あいつはそのうち下りてくるからな」
ポウルの頭上にひろがる闇の中から、若い男か娘の声がひびいた。
「でもスティル、そう遠くにいるはずはない……」
「あいつにかまうなといったんだぞ、チャニ! このトカゲの餓鬼《がき》が!」
ポウルの頭上から呪いのささやきと低い声が聞こえてきた。
「わたしをトカゲの餓鬼って呼んだわね!」
だがその人影は視界から消えた。
ポウルは注意を盆地にもどし、母親のそばにスティルガーが灰色の影のように動いているのを見分けた。
「みんな、来い」と、スティルガーは呼びかけてから、ジェシカのほうにむいた。「さてと、こんどは、取引のおまえのほうの半分を、本当にやってくれるのかどうかたずねたいね? おまえは書類を使ったあてにならない契約で生きている人間だからな……」
ジェシカは答えた。
「わたしたちベネ・ゲセリットの者は、あなたがた同様、誓いを破ったりしませんよ」
長い沈黙がつづいたあと、多くのささやき声が洩れた。
「ベネ・ゲセリットの魔女《ウィッチ》!」
「ポウルは奪った武器をサッシュから抜いて、スティルガーの暗い人影にむけた。だがそいつと仲間の者はじっと動かないまま、ジェシカを見つめていた。
だれかがいった。
「伝説だ……」
スティルガーはいった。
「シャダウト・メイプズがおまえについて報告したそうだ。しかし、これほど大切なことはテストをしなければな。もしおまえが伝説のベネ・ゲセリットで、息子がわれわれを楽園に導いてくれるとなれば……」
かれは首をすくめた。
ジェシカは溜息をついて、考えた。
“それではわれわれの|保 護 伝 道 団《ミッショナリア・プロテクティヴァ》は、この地獄みたいな星じゅうに宗教的な安全弁をいろいろと植えつけまでしていたのね。ああ、とにかく……助かるわ。それにそのためのものなんですもの”
彼女は話しかけた。
「あなたがたにその伝説をもたらした女予言者は、それを|カラマ《*》と|イジャズ《*》、奇蹟と真似のできない予言とえお結び合わせてあたえたはず……そのことをわたしは知っています。そのしるしが必要ですか?」
かれの鼻は月光の中でふくらんだように見えた。
「われわれは儀式に手間どっているひまなどないんだ」
と、かれはささやいた。
ジェシカは、緊急事態の脱出ルートを用意しているときにカインズが見せてくれた地図のことを思い出した。その地図には<タブルのシーチ>という場所があり、そのそばには<スティルガー>という書きこみがあったのだ。
「わたしたちがタブルのシーチに着いたときにでもね」
と、彼女はいった。
天啓にかれはぶるっとふるえ、ジェシカは答えた。
“わたしたちの使うトリックをかれに知られていたら! |保 護 伝 道 団《ミッショナリア・プロテクティヴァ》のそのベネ・ゲセリットはきっと優秀だったにちがいないわ。これらのフレーメンは見事なまでに、わたしたちを信じる態勢にある”
スティルガーは落ち着けないように身じろぎをした。
「もうわれわれは行かなければ」
彼女はうなずき、かれらが彼女の許しを得てここを離れるのだということを、かれにわからせた。
かれはポウルがうずくまっている岩棚をほとんどまっすぐ見上げた。
「そこにいる坊や、もう下りて来ていいぞ」
かれは視線をジェシカにもどし、謝罪するような口調で話しかけた。
「おまえの息子は、登るときに信じられないほどうるさく音を立てた。われわれ全員を危険な目に会わせないためには学ぶべきことがたくさんある。だが、かれはまだ若いからな」
ジェシカは答えた。
「まちがいなくわたしたち、おたがいに教えることがたくさんありますね。ところで、そこにいるあなたのお仲間を見てあげたほうがよさそうね。わたしのうるさい息子は、その人を武装解除するとき、ちょっと荒っぽかったようですから」
スティルガーは、頭巾をはためかせてふりむいた。
「どこだ?」
彼女は指さした。
「そこの灌木《ブッシュ》のむこう」
スティルガーは部下の二人に手を伸ばした。
「調べろ」かれは仲間を見まわし、たしかめた。「ジャミスがいないぞ」かれはジェシカのほうにむきなおった。「おまえの子供さえも、不思議な方法を知っているんだな」
ジェシカはいった。
「それに気がついているでしょうが、あなたが命令してもわたしの息子は、あそこから身じろぎもしませんよ」
スティルガーがさがしにやった二人の男は、ひとりの男をつれてもどってきた。そいつは二人のあいだに支えられ、あえぎ、足をもつらせていた。スティルガーはかれらをちらりと見てから、視線をジェシカにもどした。
「息子はおまえの命令にだけ従うってわけか、え? いいぞ、規律ってことを知っているわけだな」
ジェシカは呼びかけた。
「ポウル、もう下りてきてもかまいませんよ」
ポウルは立ち上がり、隠れていた割れ目から月光の中へ出て、フレーメンの武器をサッシュにもどした。かれがむきを変えると、別の人影が岩のあいだから立ち上がってかれにむき合った。
月の光と灰色の石からの反射で、ポウルはフレーメンの寛衣《ローブ》を着た小さな姿を見た。頭巾からは影になった顔がかれをのぞいており、|発 射 体 兵 器《プロジェクテイル・ウィーポン》の銃口が寛衣《ローブ》のひだからかれをねらっていた。
「わたしはチャニ、リエトの娘よ」
その声は歌っているようであり、なかば笑いに満たされているようでもあった。
「わたしの仲間をあんたに傷つけさせるつもりはなかったのに」
ポウルは唾を呑みこんだ。かれの前にある人影は月光のたどる道のほうへむき、小妖精のような顔、黒い穴のような両眼が見えた。その顔をよく知っていること、もっとも初期に見た未来の夢の中で数え切れないほど会った相手の容貌に、ポウルはショックをおぼえ、凍りついたのだ。かれは前に怒って虚勢を張り、この夢の中の顔を説明したときのことを思い出した。教母ガイウス・ヘレン・モヒアムに、「ぼくは彼女に会う」と告げたときのことを。
そしてここにその顔があるのだが、かれが夢で見たような会いかたではなかったのだ。
彼女は話しかけた。
「あんたは、腹を立てているシャイ・フルドみたいに騒々しかったわ。それに、いちばんむずかしいところを昇っていったわね。ついてくるのよ。やさしく下りられるところを教えてあげるから」
かれは割れ目からはい出し、ひどい地形の中を横切り舞ってゆく彼女の寛衣《ローブ》につづいた。彼女はガゼルのように動き、岩の上に踊った。ポウルは顔に熱く血がのぼってくるのを感じ、暗闇に感謝した。
“あの娘だ!”
彼女は、運命そのものを匂わせる少女だった。かれは波にさらわれ、その動きに合わせて自分の精神のすべてが持ち上げられるのを感じた。
やがてかれらは、盆地の地面にいるフレーメンのあいだに立っていた。
ジェシカはポウルにかすかな微笑をむけたが、口はそのままスティルガーに話しかけた。
「おたがいに教えあうのはいいことです。わたしはあなたとあなたの部下のかたがたが、わたしたちの暴力にたいして怒りをおぼえないでくださるといいと望みます。それは……必要なことだと思えたからでした。あなたがたも……まちがいを犯されるところでした」
「人にまちがいを犯させなくすることは、楽園への贈り物だ」スティルガーはそういい、左手で唇をさわり、もう一方の手でポウルの腰から武器を取り上げると、それを仲間のひとりに投げた。
「おまえも自分の|マウラ・ピストル《*》を持てるようになるからな、坊や。それを自分の手でかせぎ取ったときにだ」
ポウルは口を開きかけたが、“最初こそ微妙なときなのだ”という母親の教えを思い出して、ためらった。
「わたしの息子は、必要な武器なら持っていますよ」
と、ジェシカはいった。彼女はスティルガーを見つめ、ポウルがどのようにしてそのピストルを手に入れたかを思い出させた。
スティルガーは、ポウルが負かした男に視線をむけた――ジャミスだ。そいつは一方によって立ち、頭を下げて苦しそうに呼吸していた。
「おまえはむずかしい女だな」スティルガーはそういい、左手を仲間のひとりに伸ばして指を鳴らした。「クシュティ バッカ テー」
“またチャコブサだわ”
と、ジェシカは思った。
その仲間は二枚の薄布をスティルガーの手におしつけた。スティルガーはそれを指のあいだにとおし、一枚をジェシカの頭巾の下の頸に巻きつけ、もう一枚を同じようにポウルの頸に巻きつけた。
かれは話しかけた。
「これでおまえたちは、|バッカ《*》のカーチフをつけた……われわれが離ればなれになっても、おまえたちはスティルガーのシーチに属するものと認められるのだ。武器については、別の機会に話しあうことにしよう」
かれは部下のあいだにはいってゆき、かれらを点検し、ポウルのフレムキット・パックを部下のひとりに渡してかつがせた。
“バッカ”
ジェシカはそれを考え、宗教的な言葉であることを思い出した。バッカ――泣く者。彼女はカーチフの象徴しているものが、どれほどこの一族を団結させているのかを感じた。
“なぜ、泣くことがかれらを団結させるのだろう?”
と、彼女は自分の心にたずねた。
スティルガーは、ポウルを驚かせた若い娘のところにやってきていった。
「チャニ、このチャイルド・マンをおまえの班に入れろ。面倒をおこさせないようにするんだぞ」
チャニはポウルの腕にふれた。
「ついておいで、チャイルド・マン」
ポウルは怒りを押さえて答えた。
「ぼくの名前はポウルだ。もしきみが……」
スティルガーが口をはさんだ。
「おまえにはそのうち名前をつけてやるさ、|ミフナ《*》のときに、|アクル《*》のテストでな」
“理性のテスト……”
と、ジェシカは翻訳した。ポウルの優越性がとつぜん必要になった想いは、他のすべての考慮を無視させた。彼女は叫んだ。
「わたしの息子はゴム・ジャバールのテストを受けたのですよ!」
それにつづいた静寂さに、彼女の言葉はかれらの心臓を貫いたことを知った。
スティルガーは口を開いた。
「われわれがおたがいに知らないことは、ずいぶんありそうだ……しかしわれわれは、そうのんびりしていられない。砂漠の中でま昼の太陽に見つけられるわけにはいかんからな」
かれは、ポウルがなぐり倒した男のところへ近づいてたずねた。
「ジャミス、歩けるか?」
うなるような声が答えた。
「やつに不意をつかれた。あれは、まぐれだったんだ。おれは歩けるよ」
スティルガーはいった。
「まぐれではないぞ……チャニとともにおまえの責任とするぞ、この少年の安全を守るのを、ジャミス。このふたりは、おれの承認をあたえられたのだ」
ジェシカは、その男、ジャミスを見つめた。その声は岩の上からスティルガーといい合っていた男のものだった。それは死の匂いがこめられていた声だった。そしてスティルガーはこの男にもう一度強調しておくべきだと考えたのだ。
スティルガーは部隊を調べるように見まわし、二人の男に出ろと合図した。
「ラルスとファルーク、おまえたちはわれわれの道を隠せ。あとが残っていないように気をつけるんだぞ。いつもより注意するんだ……訓練されていない者が二人いるんだからな」
かれはふりむき、片手を上げ、盆地のかなたを指さした。
「傘形散開隊形……進め。夜が明けるまでにおれたちは|尾根の洞窟《ケイブ・オブ・リッジズ》に着いていなければいけないんだぞ」
ジェシカはスティルガーと並んで歩きながら、人数を調べた。フレーメンが四十人――彼女とポウルで四十二人になる。そして彼女は考えた。
“かれらは軍隊として旅をしている……あの少女、チャニでさえも”
ポウルはその隊列の中でチャニのうしろについた。かれは少女の手に押さえられているということでの暗い想いをふりはらった。かれの心に母親が叫んだことが思い出されてきた。「わたしの息子はゴム・ジャバールのテストを受けたのですよ!」かれは自分の手が、思い出した苦痛にひりひりするのを感じた。
チャニはささやいた。
「歩くところに気をつけるのよ……灌木《ブッシュ》をこすらないように。そうしないと、わたしたちの通った跡を残すから」
ポウルは唾を呑みこみ、うなずいた。
ジェシカは部隊の立てる音に耳を澄まし、自分とポウルの足音を聞き、フレーメンたちの動きかたに驚嘆した。四十人もの人数が盆地を横切っているのに、その場所にあって当然の音しかしない――幽霊のようなフェラッカ船(三本マスト三角帆の小帆船、アフリカ北岸で用いられた)、影のあいだを舞ってゆくかれらの寛衣《ローブ》、かれらの目的地はタブルのシーチ――スティルガーのシーチだ。
彼女はその言葉を心の中で何度も考えてみた。シーチだ。それはチャコブサ語であり、大昔の狩猟用言語から数え切れない世紀のあいだ変化していないものだ。シーチ、危険なときの集合場所。その言葉と言語の持つ深い意味は、さきほど出会った緊張のあとで、やっと彼女の心に浮かびはじめたのだ。
スティルガーは話しかけた。
「われわれの進みかたは速い……シャイ・フルドの恵みによって、|尾根の洞窟《ケイブ・オブ・リッジズ》へは夜明けの前に着けるだろう」
ジェシカは体力を温存しておこうとして、うなずき、意思の力でやっと持ちこたえている恐ろしいまでの疲労を感じた……そして彼女はそのことを、意気揚々とした気持で認めた。彼女の心は、この部隊の価値に集中し、フレーメン文化について何がここで明らかにされたのかを見抜いていた。
彼女は考えた。
“かれら全員が、全文化が、軍隊的秩序で訓練されているんだわ。追い出された公爵《デューク》にとって、何という貴重なものがここにあったことか!”
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フレーメンは古代の人が称した“シュパヌングスボーゲン”という点で優れている――その言葉は、ひとつのものに対する欲望と、手を伸ばしてそのものをつかもうとする行為のあいだに自ら間隔を置こうとする傾向である。
――イルーラン姫による“ムアドディブの知恵”から
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かれらは夜が明けかけるころ|尾根の洞窟《ケイブ・オブ・リッジズ》に近づき、盆地の壁にある実にせまい裂け目を通ることになり、横になって動かなければいけないことになった。ジェシカはスティルガーが淡い夜明けの光の中で見張りを出発させるのを見、しばらくのあいだかれらが崖をよじ登ってゆくのを見ていた。
ポウルは歩きながら顔を上げ、この惑星の|つづれ織り《タピストリィ》が切られている断面を見た。せまい裂け目がグレイ・ブルーの空にむかって口をあけているところだ。
チャニはかれの寛衣《ローブ》を引っぱって急がせた。
「速く。もう明るくなっているのよ」
ポウルはささやいた。
「上へ登ってゆく連中だが、どこへ行くんだ?」
「最初の昼間見張りよ。さあ急いで!」
ポウルは考えた。
“警備兵を外に残しておくのか……賢明だ。しかしMぼくらがいくつもの集団にわかれてここへ接近するほうがずっと賢明だったはずだ。全兵力を失ってしまう可能性が少なくなるんだからな”
かれはその考えの途中でとまり、これはゲリラとしての考えかただと気づき、アトレイデ家がゲリラ公家《ハウス》となるかもしれないと父親が心配していたことを思い出した。
「もっと急いで」
と、チャニは急いだ。
ポウルは背後から寛衣《ローブ》のすれる音がひびいてくるのを聞きながら足取りをはやめた。そしてかれは、ユエにもらった小さなO・C・バイブルにあった|シラット《*》の文句を思い出した。
“わたしの右に楽園、わたしの左に地獄、そしてうしろに死の天使”
かれはその文句を心の中で何度もくりかえした。
みんなは通路が広くなった角《かど》をまわった。スティルガーは端のほうに立ってみんなを、直角に開いている低い穴の中へはいれと手をふっていた。
かれは低い声でせきたてた。
「急げ! ここで偵察隊につかまったら、おれたちは檻の中の兎みたいなものだぞ」
ポウルは穴の中へ体をかがめてはいり、チャニのあとにつづいて、どこか前方からの淡い灰色の光で照らされている洞窟の中へと進んでいった。
「もう立ってもいいわよ」
と、彼女はいった。
かれは背をのばし、その場所を調べた。深くて広く、手が届くか届かないかぐらいにカーブしている丸天井だ。
部隊は影のあいだをひろがっていった。ポウルは母親が一方に立ち、かれらの中の女性を調べているのを見た。そしてかれは、いくら着ているものが同じでも母親がフレーメンとは同じように見えないことを知った。彼女の動きかたは、まったく権威と優雅さそのものだったのだ。
チャニは話しかけた。
「休む場所を見つけて、邪魔にならないようにするのよ、チャイルド・マン……さあ、食べ物を」
彼女は木の葉でつつんだ食料をふたつ、かれの手に押しつけた。それは香料《スパイス》の匂いをいっぱいに漂わせていた。
スティルガーがジェシカのうしろから現われて、左のほうにいたグループに命令を下した。
「ドアシールをかためて、湿気保全に気をつけるんだ」
かれは別のフレーメンのほうにむいた。
「レミル、|照 明 球《グロー・グローブ》を取ってくれ」
かれはジェシカの腕をつかんだ。
「おまえに教えたいことがあるんだ、|不 思 議 な 女《ウェアーディング・ウーマン》よ」
スティルガーは彼女をつれて、光源のほうへと角《かど》をまわった。
ジェシカは自分が広い穴を見ていることに気づいた。洞窟への別の出入口、崖の岩壁に高くあいている穴――そこから幅十から十二キロメートルほどの別の盆地が見えている。その盆地は高い岩の壁でさえぎられている。そのまわりに植物の繁みがまばらに散らばっている。
彼女が夜明け前の灰色にひろがる盆地を眺めていると、はるかかなたの絶壁の上に太陽がのぼり、ビスケット・カラーをした岩と砂の風景を照らし出した。そして彼女は、アラキスの太陽が地平線の上へ飛びあがるように早くのぼることに気づいた。
“わたしたちが押さえておきたがるからかしら……夜は昼よりも安全だからって”
そのとき彼女は、永久に雨を見られるはずのないこの場所で、虹を見たいという欲望に襲われた。ジェシカは考えた。
“そんなことを望んではいけないわ。それは弱いからよ。わたしはもう、弱い女であってはいけないんだわ”
スティルガーは彼女の腕をつかみ、盆地のほうを指さした。
「あそこだ! あそこにりっぱなドルーズ人(原意はシリア・レバノン山脈ドルーズ地方に住む戦闘的な狂信者)が見えるだろう」
ジェシカは、かれが指さしたところを眺め、動くものがあるのに気づいた。盆地の地面にいた人々が昼の光に散らばり、反対側につづく崖の影にはいってゆくところだ。その遠さにもかかわらず、空気が澄み切っているためか、かれらの動きははっきりしていた。
彼女は寛衣《ローブ》の下から双眼鏡を出し、遠くに見える人々にオイル・レンズの焦点を合わせた。いろんな色をした蝶が飛んでいるようにカーチフがゆれていた。
スティルガーはいった。
「あそこがおれたちの町だ……われわれはあそこに今夜着く」かれは口髭を引っぱりながら盆地を見つめた。「あの連中は外に出て遅くなりすぎるまで働いていた。ということは、近くに偵察隊が来ていないってことを意味する。おれは連中にあとで信号を送り、それでむこうはわれわれを迎える用意をするだろう」
「あなたの部下は規律をよく守るのですね」
と、ジェシカはいった。彼女は双眼鏡を下ろし、スティルガーがまだかれらを眺めているのを知った。
「かれらは種族を保護し存続させる行為に服従するんだよ……われわれのあいだで指導者を選ぶときには、それをいちばん問題にする。指導者はもっとも強い人間であり、水と安全をもたらす人間なのだ」
かれは視線を彼女の顔にむけた。
ジェシカはかれを見返し、その白いところがまったくない両眼、染めたような眼窩《がんか》、ほこりに白くなった口髭と顎鬚、鼻孔からスティルスーツの中へとカーブしながら下りているキャッチチューブの線、と眺めていった。
「スティルガー、あなたをテストしたことで、わたしはあなたの指導者としての権威を傷つけましたか?」
彼女の言葉にかれは答えた。
「おまえはおれに挑戦しなかった」
「指導者が部隊全員の尊敬を保ちつづけるのは大切なことですよ」
スティルガーはいった。
「砂虱《すなしらみ》のあつかいに困るおれじゃあないんだぞ。おまえがおれを負かしたとき、おまえはわれわれ全員を負かしたんだ。そしていま、かれらはおまえから学びたがっている……不思議な方法を……そして何人かは興味を持って見ているよ、おまえがおれに挑戦するつもりなのかどうかとな」
彼女はその言葉の意味を考えた。
「正式な戦いであなたを負かせられるかどうかということですか?」
かれはうなずいた。
「そんなことはしないほうがいい、とおれは忠告しておこう。なぜなら、かれらはおまえに服従しないだろうからだ。おまえは砂漠の生まれではないからだ。みんなはそのことを、夜の旅で知っているからな」
「実際的な人々なのね」
かれは盆地をちらりと見た。
「そのとおりさ……われわれは何が必要なものかを心得ているからな。しかし、これほど家に近くなると、深く考えをめぐらす者はそう多くない。われわれが出ていたのは、ずっと以前からそういう取決めになっているんだが、われわれの香料割当て分を自由貿易業者に引き渡すためだったんだ。いまいましい協会《ギルド》へ送るためのな……やつらの顔よ、永遠に黒く呪われてあれだ」
かれに背をむけようとしていたジェシカはその途中でとまり、ふりむいてかれの顔を見上げた。
「協会《ギルド》とは? あなたがたの香料《スパイス》と協会《ギルド》と何の関係があるのです?」
スティルガーは答えた。
「これはリエトの命令だったんだ……われわれにはその理由がわかっているが、いやな感じのもんだね。われわれは、協会《ギルド》にたいする賄賂として途方もない額の支払いを香料《スパイス》ですることにより、われわれがアラキスの地表で何をやっているかだれにもスパイできないように、人工衛星とかその他のものを空に飛ばさせないでいるんだ」
彼女は、これこそアラキーンの空に人工衛星がまわっていない理由だとポウルがいったことを思い出して、言葉を口に出す前によく考えてみた。
「それで、あなたがたがアラキスの表面でやっており、絶対に見られてはいけないことというのは何ですか?」
「われわれはアラキスを変えているんだ……ゆっくりとだが、確実に……人間の生活に適したところにしているわけだ。われわれの時代にはそうならないだろう。われわれの子供も、子供の子供も、かれらの子供の孫の時代にもね……だが、その日はいつかやってくるんだ」かれはベールをかけているような目で、盆地を見わたした。「露出している水面、そして背の高い緑の植物、そして人々はスティルスーツをつけることなく自由に歩きまわれるのだ」
“それが、あのリエト・カインズの夢だったのね”
と、彼女は考え、それから話しかけた。
「賄賂は危険なものです。それはしだいしだいに大きくなってゆく性質があるものですからね」
「そのとおり大きくなっている……だが、ゆっくりした方法こそ安全な方法だからな」
ジェシカはむきを変え、盆地のほうを眺めて、スティルガーがかれの想像の中で見ているようにそこを眺めようと努めた。彼女に見えるのはただ、遠くの岩についている灰色がかった芥子《からし》色のしみ[#「しみ」に傍点]と、崖の上空にとつぜん靄《もや》のような動きがおこったことだけだった。
「あ、あー」
と、スティルガーはいった。
彼女が考えたのは偵察隊の乗物にちがいないということだったが、つぎにそれは蜃気楼《しんきろう》だとわかった――砂漠の砂の上に別の風景が浮かんでおり、遠くには緑の植物がゆらめき、まん中の距離には長い砂虫が地表を旅行しており、その背中にはフレーメンの寛衣《ローブ》らしいものがはためいているのだ。
蜃気楼は消えた。
スティルガーはいった。
「乗ってゆくほうが楽なんだが、われわれはメイカーをこの盆地に入れるわけにはいかない。だから今夜もまた歩かなければいけないというわけだよ」
“メイカー、それが砂虫につけたかれらの名前なんだわ”
彼女はスティルガーのいった言葉の重要さを考えた。砂虫をこの盆地に入れるわけにはいかんといったことだ。彼女はあの蜃気楼の中で見たものをおぼえていた――巨大な砂虫の背に乗っているフレーメンだ。それが意味することについて彼女がおぼえたショックを顔に現わさないようにするためには、相当な努力を必要とした。
「もうみんなのところへもどらなければいかんな……さもないとみんなは、おれがおまえといちゃついていたと疑うかもしれないぞ。何人かはすでに嫉妬しているんだ、昨夜われわれがチュオノ盆地でもみあったとき、おれの手がおまえの美しい体をさわったといってな」
ジェシカは鋭い声を出した。
「そんな話はもうたくさん!」
「怒らないことだよ」スティルガーはそういい、そしてかれの声は穏やかだった。「われわれのあいだでは、女性が意思に反して従わせられることはないんだよ……それに、おまえについては……」かれは肩をすくめた。「……その慣習さえも必要としないんじゃあないかな」
「その心にはっきり刻んでおくことね、わたしが公爵の女性《レイディ》であることを」
彼女はそういったが、その声はずっと優しくなっていた。
「おまえの望むとおりにするとも……さてと、スティルスーツの規律からのんびり解放してもらうために、この穴をふさぐべきときだな。おれの部下は今日、ゆっくり休息を取る必要があるんだ。明日になればかれらの家族がのんびりさせてくれないだろうからな」
かれらのあいだに沈黙が落ちた。
ジェシカは陽光の中を見つめた。彼女がスティルガーの言葉に聞いたものはまちがえようのないものだった――かれの承認以上のものを提供しようという無言の申し出だ。かれが妻を求めているということだったのだろうか? 彼女はかれと並んであそこにはいることができるのだ、と考えた。それは種族の指導権をめぐっての軋轢《あつれき》を終わらせるためのひとつの方法だ――女性が適当に男性と手をつなぐというのは。
でも、そうなるとポウルは? 親子関係についてのどんな規則がここでは優勢なのか、だれにもわかるはずはない。そして、この数週間前からおなかに入れて歩いているまだ生まれてもいない娘はそうなるのだ? 殺された公爵の娘はどういうことになるのだろう? そして彼女はいまはっきりと、もうひとりの子供が体の中で育ちつつあることの意味を見つめ、その妊娠を許した自分自身の動機を考えてみた。
彼女にはそれがどういうことなのかわかった――彼女は、死というものに直面したすべての生き物が共通して持つ深い本能に屈したのだ――子供を通じて不死を求めるという本能だ。種の繁殖本能に圧倒されたのだ。
ジェシカはスティルガーの視線をむけ、かれが彼女を見つめ、待っていることを知った。彼女は自分の胸にたずねた。
“このような男と結婚した女がここで生む娘……そんな娘の運命はどういうことになるのかしら? かれは、ベネ・ゲセリットの女が従わなければいけない必要なことを制限しようとするだろうか?”
スティルガーは咳ばらいし、彼女の心の中にある疑問のいくつかを了解していることを明らかにした。
「指導者にとって何が重要なことかというと、それは何がかれを指導者としているかなんだ。それはかれがひきいる大衆の欲求だ。もしおまえがおれにおまえの力を教えるなら、いつかはわれわれのあいだで、だれかが他の者に挑戦しなければいけなくなる日が来るだろう。それよりおれは何か選択の余地があるものがいいと思うんだ」
彼女はたずねた。
「選択するものがいくつかあるというのですか?」
「|セイヤディナ《*》……われわれの|教   母《リヴァレンド・マザー》は年老いているからね」
“かれらの教母!”
彼女がその意味を深く考えてみるひまもなくかれは言葉をつづけた。
「おれは別におまえの配偶者にならなければいけないというんではない。これは別におれだけのことではないんだ。おまえは美しくて、だれもが手に入れたがる女だからな。だがもしおまえがおれの女のひとりになれば、そのことで若い男たちの何人かは、おれがあまりにも肉体の喜びに興味を持ちすぎ、一族の必要とすることに充分な関心をよせていないと信じることになるかもしれん。いまでさえも、かれらはおれたちに耳を澄まし、監視しているのだからな」
“心を決めるにあたってよく考え、そのあとに結果としておこることを考える男だわ”
「おれの部下の若い男の中には、粗暴な年齢に達しているものがある……その連中はこの時期を通じてなだめなければいけないんだ。おれは、かれらがおれに挑戦してくるような大きな理由をそのへんに残しておくわけにはいかん。なぜなら、かれらのだれかを不具者にしたり殺したりしなければいけないことになるからだ。もしこれが名誉を保ったまま避けられるなら、そんなことは指導者として取るべき行動ではない。指導者としてやるべきことのひとつは、民衆が暴徒の群になるのをとめることだ。指導者は個人それぞれのレベルを保とうとする。しっかりした個人が少なすぎれば、民衆は暴徒にもどってしまう」
かれの言葉、その意識の深さ、彼女にむかって話しかけながらもひそかに
聞き耳を立てている連中にたいして話しているという事実、それらが彼女にかれの真価を考え直させた。
“かれには精神的な高さがある……このような心の中のバランスを、どこで学んだのかしら?”
スティルガーはいった。
「われわれのあいだで指導者を選ぶための形式を決めている法律は、ただの法律でしかない……そして、正義はつねに民衆が必要とするものともしていないんだ。われわれがいま本当に必要としているものは、植物を生やし茂らせ、われわれの力をもっと広い土地にひろげるための時間なんだ」
“かれの先祖はどういう人なんだろう? こういう育ちはいつからかしら?”
彼女は不思議に思いながらいった。
「スティルガー、わたしはあなたを低く見すぎていました」
「おれもそんなことだろうと察していたよ」
「わたしたちどちらも、明らかにおたがいを低く評価していたってことね」
かれはいった。
「そんなことはもう終わりにしたいもんだな……おれはあんたと友情を結びたい……それに信頼もだ。おれは簡単にセックスを求めることなく、胸の中でおたがいを尊敬するようにしたいんだ」
「わかったわ」
「おれを信用するか?」
「あなたが心からそういっていることをね」
「われわれのあいだで、セイヤディナは、かれらが正式な指導者でないとき、名誉のある特別な地位を持つんだ。かれらは教える。かれらは、ここにある神の力を守るんだ」
かれは自分の胸にふれた。
“さて、わたしはこの|教   母《リヴァレンド・マザー》の謎を探らなければ……”
ジェシカはそう考えてから口を開いた。
「あなたは教母さまのことをいいましたね……わたしは、伝説と予言についての言葉を聞いていますよ」
「ひとりのベネ・ゲセリットとその子供が、われわれの未来にたいする鍵を握っているといわれているんだ」
「あなたは、わたしがその女だと信じているの?」
彼女はスティルガーの顔を見つめて考えた。
“葦《あし》は若いうちに死にやすい。初めこそ、大きな危険が存在するときなのだ”
「われわれにはわからない」
と、かれは答えた。
彼女はうなずき、考えた。
“かれは名誉を重んじる男……かれはわたしがそのしるし[#「しるし」に傍点]を見せることを望んでいるが、そのしるし[#「しるし」に傍点]が何かわたしに教えて運命を傾けるようなことはしない、というのね”
ジェシカは顔をまわし、盆地にひろがる黄金色の影、紫色の影、かれらのいる洞窟の入口近くの空気にごみの細片がふるえているありさまを見下ろした。彼女の心はとつぜん猫のような用心深さに満たされた。
彼女は|保 護 伝 道 団《ミッショナリア・プロテクティヴァ》の合い言葉を知っており、緊急事態に必要とすることへ伝説のテクニックと恐怖と希望をどのように適用するかを知っていたが、彼女はここでの激しい変化を感じた……まるでだれかがこれらフレーメンのあいだにはいっていて、|保 護 伝 道 団《ミッショナリア・プロテクティヴァ》が印象づけたものを利用したかのようだった。
スティルガーは咳ばらいした。
彼女はかれがいらだっていることを感じ、時間がどんどん経過しており、男たちがこの穴を封鎖しようと待ちかねていることに気づいた。いまは彼女の側で大胆になるべきときであり、彼女は自分が何を必要としているかを知った――多少の|ダー・アル‐ハイクマン《*》、すこし翻訳してみることで自分にあたえられるものは……
「|アダブ《*》」
と、彼女はささやいた。
彼女の心は、まるでそれが体の中をころげまわったかのように感じた。彼女は心臓の鼓動がはやまるのをおぼえながらその|感 動《センセーション》に気づいた。あらゆるベネ・ゲセリットの訓練の中でも、そのような認識の合図をひきおこすものは何ひとつない。アダブのせいだとしか考えられない。どうしても出てこようという記憶が、それ自身の力で現われて来たのだ。彼女は抵抗するのをあきらめ、口から自然に言葉が流れ出るままにまかせた。
「|イブン・クィルタイバ《*》……砂ぼこりの終わるところどこまでも遠く」
彼女は、スティルガーが両眼を大きくひろげるのを見ながら、片方の腕を寛衣《ローブ》から出して大きく伸ばした。彼女は背後で多くの寛衣《ローブ》がざわざわと音を立てるのを耳にした。ジェシカは詠唱した。
「わたしは見る……規範の書を持つひとりのフレーメンを……かれはアル‐ラットに祈る、かれが挑戦し、そして征服した太陽に。かれは審判の|サダス《*》にむかって唱《とな》える。これはかく、かれの唱えるところ……
われらが敵は
嵐の道に立ちはだかりて
なぎ倒された緑の葉のごとし。
なんじは、われらが主の
なしたもうたことを見ざりしか?
主はかれらのあいだに悪疫をひろめ
それがわれらにたいして
かれらの陰謀をはかりし所以《ゆえん》。
かれらは狩人に散らされた鳥と同じ。
かれらが陰謀は
すべての口が吐き出す
毒の錠剤に同じもの……
慄《ふる》えが彼女の全身を走りぬけた。彼女は腕を落とした。
洞窟の奥の影になったところからおおぜいのささやく声が彼女にむかってもどってきた。
「かれらの仕事はくつがえされました」
「神の火は、なんじの胸にともる」
彼女はそういい、そして考えた。
“これで、正しい通路にはいったのだわ”
人々は答えた。
「神の火はともされました」
彼女はうなずいた。
「なんじらの敵はやがて倒れん」
かれらは答えた。
「|バイラ・カイファ《*》」
とつぜんみなぎった沈黙の中で、スティルガーは彼女に頭を下げて話しかけた。
「もしシャイ・フルドが許すなら、あんたはそのうち教母の身ともなり得よう」
“身ともなり得よう……変わったいいかた。でも、ほかのことはみな、伝説のきまり文句にぴったりと合ったわ”
そう考えたジェシカは、自分がやったことにたいして、おのれを冷笑する心苦しさを感じた。
“わたしたちの|保 護 伝 道 団《ミッショナリア・プロテクティヴァ》が失敗することは、めったにないのね。この荒野の中にも、わたしたちのために場所が用意されていたわ。サラトの祈りが、わたしたちの隠れ家を作り出してくれたのね。さて、こんどは……神の友、|オーリヤ《*》の役を演じなければ……無頼《ぶらい》の徒のような人々にたいするセイヤディナ……この人々はあまりにも、わたしたちベネ・ゲセリットの予言を深く信じこんでいるので、この人たちの尼僧の長を|教   母《リヴァレンド・マザー》とさえ称しているのだ……”
ポウルは深い洞窟の影になっているところで、チャニの横に立っていた。かれの口にはまだ、彼女がくれた食べ物の味が残っていた――鳥の肉と穀物を|香 料 蜜《スパイス・ハニー》でかため、それを木の葉に包んだものだった。その味をためしてみたとき、かれはいままでにこれほど濃縮された香料《スパイス》のエッセンスを口にしたことがないと気づいて、しばらくのあいだ恐怖をおぼえたものだった。かれにはこのエッセンスが、自分に何をもたらすことになるかわかっていたのだ――自分の心を予知意識におしこむ<香料《スパイス》による変化>だ。
「バイラ・カイファ」
と、チャニはささやいた。
ポウルは彼女を眺め、フレーメンがかれの母親の言葉を受け入れたらしいとわかる畏敬の想いを見た。
ただ、ジャミスと呼ばれる男だけが儀式めいた出来事に関係を持たないでいようとしているようで、両腕を胸の上に組み、離れたところに立っていた。
チャニはつぶやいた。
「ドゥイ ヤクハ マンゲ……ドゥイ プンラ ヒン マンゲ。わたしは目をふたつ持っている。わたしは足を二本持っている」
そして彼女は驚きの表情を浮かべてポウルを見つめた。
ポウルは深く息を吸い、体の中にまきおこった嵐を静めようと努めた。母親の言葉が香料《スパイス》エッセンスの働きに水門をあけたのだ。そしてかれは、燃えさかる焔が投げる影のように、心の中で彼女の声がゆれ動くのを感じていた。声がひびいているあいだじゅう、かれは母親の声に冷笑の色があるのを感じていた――かれは母親をそれほどよく知っているのだ!――だが、あの少量の食べ物で始まったこのことをとめられるものは何ひとつなかった。
“恐ろしいほどの目的!”
かれはそれを感じた。かれがそこから逃れることのできない民族意識だ。そこには鋭くとぎすまされた鮮明さ、流れこんでくるデータ、冷たいほど正確なかれの意識が存在していた。かれは床《ゆか》に腰を落とし、背中を岩にもたらせて坐り、その気持にまかせることにした。
意識はその時間を超越した層に流れこみ、そこでかれは時間を眺め、利用できる道筋を、未来の曲がりくねった道を感じることができた……それだけではなく、過去の道もだ。|片目で見た《ワン・アイド》過去の展望、片目で見た現在の展望、片目で見た未来の展望……そのすべてが結びついて|三つの目による展望《トリノキュラー・ビジョン》となり、かれに<|空間・となる・時間《タイム・ビカム・スペース》>を見せたのだった。(ワン・アイドには、不公平な、不正な、かならずしも正確とはいえない、というような意がふくまれている)
そこには自分自身で行きすぎを犯してしまう危険があると感じたかれは、経験したことがぼんやりと偏向してゆくこと、時間が流れてゆくこと、<ISであるもの>が<永劫のWAS>へ連続して固まってゆくことを感じて、現在の意識にしがみついていなければいけなかった。
その現在にしがみついていようとする努力の中で、かれは初めて、つねに変わることなく流れつづける巨大な時の動きを感じた。その流れはいたるところで、移り変わる潮流、波、岸へ打ちよせる波、岩だらけの崖へ打ちつけては返す波のように錯綜していた。それはかれに自分の予知能力を新しく理解させることとなり、盲目の時間の元と、その中にあるまちがいの原因を見、さしせまった恐怖の感覚をおぼえた。
予知とは、それが明らかにするもののいくつかの限界――正確でもあり、意味のあるまちがいでもあるものの源――それらを見せる|照  明《イルミネーション》であると、かれは気づいた。ハイゼンベルグの不確定性原理のようなものが介在しているわけだ。かれが見たものを現わすために使われたエネルギーそのものが、かれの見たものを変えているのだ。
そしてかれが見たものはこの洞窟の中における時間のつづき具合であり、ここで焦点を結んだ煮えたぎるようないくつかの可能性であり、この中でのごく小さな行動――まばたいてみせる目、不注意な言葉、あるべきはずでないところにある砂の粒、といったものが知っている世界へかけられた巨大なレバーを動かしているということなのだ。かれが見たものは、実に多くの変数に支配される結果を持つ暴力、つまりかれのごく小さな行動がパターンそのものに大きな変化をもたらすということだった。
この考えにかれは凍りついたように動かないでいたくなった。しかしそれもまた、それ自体の結果を生むことになる行動なのだ。
この洞窟から数えきれないほどの数の影響をもたらす道が出ており、それらの道筋の多くのものにかれが見たのは、ナイフに裂かれた大きな傷口から血が流れ出しているかれ自身の屍体だった。
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公爵レトの死を知り、アラキスをハルコンネン家にふたたび与えられた年、わたしの父君《ちちぎみ》、|大 王 皇 帝《パディッシャ・エンペラー》は七十二歳、しかしまだ三十五歳ほどに思える若々しさであられた。父君が人々の前に姿を現わされるときは、サルダウカーの軍服と、頂に黄金の|皇 帝 獅 子《インペリアル・ライオン》がついたバーセグの黒ヘルメット、それ以外のものを着用されることはめったになかった。その軍服は父君の権力がどこに由来するかを、はっきりと知らせるものだったのだ。
しかし父君が常にそれほどけばけばしい存在であられたわけではない。そのおつもりになられるとき、父君は
魅力と誠意をあたりにふりまくことのできる方であられた。しかしわたしが疑問に思うのはmそのような父君の治政の終わりごろにおける父君のすべてが表面に見られるとおりのものであったのかどうかということである。いまになってわたしが考えるのは、父君が目に見えない檻の柵を越えて脱出しようと絶えず戦っておられた方であったということなのだ。
あなたがたが記憶しておかなければいけないのは、父君が皇帝であられたこと、漠として消えうせる歴史の昔にまでさかのぼって存在しつづけた王朝の首長であられたことだ。それにもかかわらず、われわれは父君に皇位を継承するべき男児の出生を拒絶した。これは、過去より現在にいたるあいだに存在した統治者が蒙《こうむ》った最も恐るべき敗北ではないだろうか? わたしの母君は上級のシスターには服従されたが、レイディ・ジェシカは服従されなかった。おふたりのうちいずれが強くあられたのであろう? 歴史はすでにその解答を出している。
――イルーラン姫による“父君の家にあって”から
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洞窟の闇黒の中で目をさましたジェシカは、まわりでフレーメンがざわざわ動いているのを感じ、スティルスーツの饐《す》えたような匂いが漂ってくるのを知った。
彼女の中にある時間感覚は、もうすぐ外では夜になるころだろうと告げていたが、洞窟は闇の状態をつづけていた。みんなの体にある水分をこの場所に閉じこめておくためのプラスチックの蓋で砂漠から遮断されているのだ。
ジェシカは自分が、ひどい疲労のまま完全に気をゆるめて眠ってしまったことに気づいた。そしてその事実は、彼女自身が意識していなくても、スティルガーの部隊のあっては個人の安全が保証されていることを示していた。彼女は自分の寛衣《ローブ》で作ったハンモックの中で体を動かし、両足を岩盤の床《ゆか》にのばし、砂漠用ブーツの中へとすべりこませた。
“わたし、おぼえこまなくてはいけないわ。ブーツをスリップ・ファッションにはくこと、スティルスーツのポンプ作用を助けるためね……おぼえることが、ほんとにたくさんあるわ”
彼女の口には、寝る前に食べたものの味が残っていた――鳥の肉と穀物を|香 料 蜜《スパイス・ハニー》でかためて木の葉に包んだもの――そして、それを食べたのが朝だったことから、ここでの時間の使いかたはひっくりかえっているのだという事実を思い出した。夜が活動すべき昼であり、昼は休息の時間なのだ。
“夜はすべてを隠す。夜はもっとも安全なるとき”
彼女は、岩壁をくりぬいた小部屋のハンモック掛けから寛衣《ローブ》をはずし、暗闇《くらやみ》の中でその布地をまさぐり、やがてその上部を見つけてその中へと体を入れた。
どうすれば通信文をベネ・ゲセリットへとどけられるだろう? と、彼女は考えた。アラキーンの避難所に逃れたふたりのことを学校に知らせておかなければいけないのだ。
洞窟のもっと奥深いところで|照 明 球《グロー・グローブ》がともった。そこに動いている人々の姿が見え、かれらのあいだにいるポウルはすでに服を着ており、頭巾をうしろに落としてアトレイデ家の者の鷹のような横顔を見せていた。
寝る前にかれが見せたそぶりは、まったく奇妙だった。と彼女は思い出した。心そこにあらずといった様子。かれはまるで、死から生きかえったところだが、そのことにはまだはっきり気づいていない人のようで、目をなかばつむり、心の中を見つめているかのように虚ろだった。そのことで彼女はポウルが香料《スパイス》のたっぷりはいっている食べ物について警告したのを思い出した。中毒[#「中毒」に傍点]ということだ。
“副作用があるのだろうか? ポウルはかれ自身の予知能力に何か関係があるようなことをいっていた。でもかれは、自分の見たものについては奇妙なほど黙っている……”
スティルガーが右のほうの暗やみからやってきて、|照 明 球《グロー・グローブ》の下にいるグループのところへ歩いていった。かれが髭にさわる手つき、猫が獲物に近づいてゆくときのような用心深い表情を浮かべていることに、彼女は注意した。
ポウルのまわりに集まっている人々の中にはっきりと見られる緊張――ぎこちない体の動き、儀式的な位置、そうしたことにすべての感覚をめざめさせられたジェシカは、全身にとつぜん恐怖が走るのをおぼえた。
スティルガーは低い声でいった。
「かれらはおれが承認したのだぞ!」
ジェシカは、スティルガーの前にいる男に気づいた――ジャミスだ! 彼女はジャミスが怒っていることに気づいた――その両肩をそびやかしているありさまにだ。
“ジャミス……ポウルが倒した男だわ!”
と、彼女は思った。
「あんたは規則を知っているはずだぞ、スティルガー」
と、ジャミスはいった。
「おれ以上によく知っている者がいるというのか?」
スティルガーはそう反問した。その声に彼女は、なだめるような口調、事態を穏やかにまとめようとしている努力を感じた。
ジャミスはうなり声を上げた。
「おれは戦いてえんだよ」
ジェシカは洞窟を横切って走り、スティルガーの腕をつかんでたずねた。
「これは|アムタールのおきて《*》なんだ……ジャミスは、伝説の中でのあんたの役割をテストする権利を主張しているんだ」
ジャミスはいい出した。
「あの女は|戦 士《チャンピオン》によって守らなければいけねえんだ。もしあの女の戦士が勝てば、それで真実が証明される。だが、伝説にはこういわれているんだぞ……」かれは、おおぜいの人々を見まわした。「……その女性は、フレーメンから出される戦士を必要としねえ……それが意味するのは、その女性は自分を守ってくれる戦士をつれてきているということだけだ」
“この男はポウルと戦いたいといっているんだわ!”
そう考えたジェシカはスティルガーの腕を放して、半歩前へ出た。
「わたしはつねに、わたし自身の戦士ですよ。その意味はまったくはっきりしていると思います……」
ジャミスは鋭い声を出した。
「おめえのやりかたなどおれたちに話すんじゃねえ! おれがいままでに見ただけの証拠でもう充分だ。朝のうちにスティルガーが、どういえばいいかおめえに話しているかもわからねえんだからな。あいつがおめえの心に甘《あめ》えことをつめこんでよ。おめえがそれをぺらぺらみんなに話してるかもしれねえんだ。おれたちをごまかしてえばかりにな」
ジェシカの心は騒いだ。
“わたしはこの男を相手にできる……でもそれでは、かれらの伝説にたいする解釈を混乱させることになるかもしれない”
そしてまたも彼女は|保 護 伝 道 団《ミッショナリア・プロテクティヴァ》の仕事がこの惑星でどのようにねじ曲げられているかということに驚きをおぼえた。
スティルガーはジェシカを眺め、低い声だが、集まっているみんなの端のほうまで聞こえるように話しかけた。
「ジャミスには恨みがあるんだ、セイヤディナ。あんたの息子がやつを負かしたので、それで……」
ジャミスはどなった。
「あれは偶然の出来事だったんだ! チュオノ盆地には魔物の呪いがかかってたってことよ。そいつをおれが、いまから証明してやらあ!」
スティルガーはあとをつづけた。
「……それにおれ自身もあいつを負かしているんだ。あいつはおれに仕返しをするためにも、こういう|タハッディの挑戦《*》をおこなう機会をねらっていたってわけさ。りっぱな指導者になろうとしても、ジャミスには荒っぽいところがありすぎる……|ガーフラ《*》すぎる、信用できない男だ。かれは規則を口にしながらも、心は|サルファ《*》、背徳に捧げるやつさ。絶対にいい指導者とはなれないね。おれがかれをこれほど長いあいだ手もとに置いておいたのは、戦闘のときにずいぶん役に立つからなんだが、こんなに勝手な怒りかたをするようになってはわれわれの社会にとっても危険な存在だといわなければならんな」
ジャミスはうなり声を上げた。
「スティルガーーー!」
ジェシカにはスティルガーのやろうとしていることがわかった。ジャミスを逆上させ、ポウルへの挑戦をそらせようとしているのだ。
スティルガーはジャミスのほうに顔をむけ、ふたたびジェシカはその低い声になだめる口調があるのを感じた。
「ジャミス、かれはまだ子供だぞ。かれは……」
「あいつを大人だといったのはあんただぜ……あいつの母親は、あいつがゴム・ジャバールに通ったといったはずだ。筋肉は充分に発達しているし、水は飲みすぎているほどだ。やつらのパックを運んだ連中はいってるぜ、その中に水のリタージョンがあるってよ。リタージョンだぜ! それなのにおれたちは、キャッチ・ポケットに露が光ったとたんに、そいつを吸わなきゃいけねえときているんだぞ」
スティルガーはジェシカのほうをちらりと見た。
「それは本当のことなのか? あんたのパックには水がはいっているのか?」
「ええ」
「リタージョンに入れたのがか?」
「リタージョンが二本」
「それほどの富でどうするつもりだったのだ?」
“富?”
と、彼女は考え、かれの声に冷ややかさを感じて首をふった。
「わたしが生まれたところでは、水は空から落ち、地面にあふれて広い川となるのよ……あまり大きくてむこう岸の見えない海もあるわ。わたしは、あなたがたの水にかんする規律で訓練されてはこなかったのよ。これまで水のことをそんなふうに考えなければいけないことなど、一度もありませんでしたからね」
かれらのまわりにいる人々から溜息やあえぎ声があがった。
「水が空から落ちるんだって……地面を流れるってさ」
「あんたは知っていたか、われわれのあいだに事故からキャッチ・ポケットを落とし、そのために今夜タブルへ到着するまでに咽喉《のど》の乾きに苦しむ者が何人かいることを?」
ジェシカは首をふった。
「どうしてわたしが知っているはずがあります? もしその人たちが必要としているなら、わたしたちのパックにある水をあたえてくださいな」
「その富であんたがやろうと思っていたのは、そういうことなのか?」
彼女は答えた。
「わたしはそれで命を救うつもりでした」
「では、われわれはあんたのありがたい恵みを受けることにしよう、セイヤディナ」
ジャミスはうなり声をあげた。
「おれたちを水でごまかすことなどできねえんだぞ……それにあんたも、おれをあんた相手に腹を立たせたりしようと思わねえことだぜ、スティルガー。おれが自分のいってることを証明するよりさきに、あんたに挑戦すればいいと思って細工してるのはわかってるんだ」
スティルガーはジャミスを見た。
「おまえはどうしても子供を相手に戦うと心を決めたのか、ジャミス?」
かれの声は低く、敵意をふくんでいた。
「その女は|戦 士《チャンピオン》に守られなければいけないんだ」
「たとえ彼女がおれの承認を得ていてもなんだな?」
ジャミスは答えた。
「おれはアムタールのおきてに訴えているんだ……それはおれの権利だぜ」
スティルガーはうなずいた。
「では、もしその少年に切り刻まれなかったら、そのあとでおまえはおれのナイフを相手にすることになるんだぞ。それにこんどはおれも、前にやったような生易《なまやさ》しいことはしないぞ」
ジェシカは口をはさんだ。
「こんなことをしてはいけません。ポウルはまだほんの……」
スティルガーはいった。
「あんたは絶対に干渉してはいけないよ、セイヤディナ……おれを相手にできたんだから、われわれの中にいるだれとでも相手になれると考えているのかもしれないが、われわれ全員が団結したものに勝つことはできないんだ。こうしなければならん、それがアムタールのおきてなんだ」
ジェシカは黙りこみ、照明球の緑の光に照らされたかれを見つめ、その表情に現われた悪魔のような堅苦しさを知った。彼女は視線をジャミスにうつし、かれの眉のあたりに浮かんでいる陰気そうな感じに気づいて考えた。
“わたしはあの顔をこれまでに見ておくべきだった。かれは陰気な男。黙って心の中で圧力をたかめてゆくタイプ。わたしはそれなりに用意をしておくべきだったんだわ”
彼女は口を開いた。
「もしそなたがわたしの息子を傷つけたら、そなたはわたしを相手にしなければいけなくなるのですよ。いまからわたしは挑戦しておきます。わたしはあなたをばらばらに……」
ポウルは前に進み出て彼女の袖にふれた。
「母上……ぼくがジャミスにどうしてこんなことになったかを説明したら、たぶん……」
「説明だと!」
ジャミスは嘲笑するように声を上げた。
ポウルは黙りこみ、その男を見つめた。かれはそいつに恐怖を感じなかった。ジャミスは不器用な動きをする男だったし、砂の上で夜間に初めて会ったときのかれは実にあっさりと倒すことができた。しかしポウルはいまだにこの洞窟の中で見た煮えくりかえるような時間のつづき具合いが感じられ、いまだに自分がナイフで殺されているところを予知したことをおぼえていた。あの光景の中では、かれに残されている逃げ道はあまりにも少なかったのだ……
スティルガーは呼びかけた。
「セイヤディナ、あんたはうしろに下がってくれなければいかん……」
ジャミスは叫んだ。
「その女をセイヤディナと呼ぶのはやめるんだ! それはまだ証明されていねえんだからな。そりゃその女は祈りの文句を知っていたさ! それがどうしたってえんだ? おれたちのあいだでは、どの餓鬼だってそれぐらい知ってることだぜ」
ジェシカは考えた。
“この男はもう充分に話した……もうわたしはこの男の鍵《キー》を握っている。わたしは、ひとこと口に出しただけで、こいつを動かなくできる”彼女はためらった。“でも、かれら全員をとめることはできないわ”
「では、わたしに答えてみることね」
ジェシカは、声の調子を苦しそうにすこし上げ、哀れっぽく終わりをせきこむようにして話しかけた。
ジャミスは彼女を見つめた。かれの顔には恐怖がはっきりと現れていた。
ジェシカは同じ口調でつづけた。
「わたしはおまえに苦悶を教えよう……おまえは戦うとき、そのことをよくおぼえておくことだね。おまえは、それにくらべるとゴム・ジャバールも楽しい思い出になるような苦しみを味わうのよ。おまえはもだえるわ、全身を……」
ジャミスはあえぎ、右の拳をかためて耳のそばに上げた。
「この女はおれに、呪文をかけようとしてやがるんだ! おれはこの女の沈黙を求めるぞ!」
「ではそうさせよう」
スティルガーはそういい、ジェシカに警告するような視線をむけた。
「セイヤディナ、もしあんたがまた口をききはじめたら、われわれはそれを魔女の業《わざ》と考え、あんたにあたえた承認を取り消すことにするぞ」
かれは、うしろへ下がっているようにと彼女にうなずいてみせた。
ジェシカは何人かの手が彼女を引っぱり、うしろへ下がるのを助けてくれるのを感じ、かれらが不親切ではないことを感じた。彼女が見ていると、ポウルは群衆から離され、妖精のような顔つきのチャニがかれの耳にささやきかけながら、ジャミスのほうにうなずいてみせていた。
群衆の中にリングが作られた。多くの照明球が運ばれ、そのすべてがひとかたまりになって黄色く輝いた。
ジャミスはそのリングにはいり、寛衣《ローブ》をぬぐと、それを群衆の中にいるだれかに投げた。かれはすべすべした灰色のスティルスーツを着こんで立っていた。そのスーツは、つぎはぎだらけで、縫い上げや縫いひだがしてあった。かれはちょっと口を肩につけ、キャッチ・ポケットのチューブから水を飲んだ。しばらくするとかれは背を伸ばし、スーツをぬぎ取り、それを注意深く、群衆のひとりに渡した。かれは腰布をつけ、両足に何か堅そうな繊維を巻き、右手にクリスナイフを握って待ちかまえた。
ジェシカはその女の子、チャニがポウルの世話をするのを見、かれの掌にクリスナイフの柄をおしつけるのを見、かれがそれを持ち上げて重さとバランスをためすのを見た。
それを見ているとジェシカは、ポウルがプラーナとビンドゥー、筋肉と神経の訓練を受けていることを思い出した。死の方法を教える学校で戦闘の技をかれは教えられたのであり、かれの教師は生きているときから伝説上の人々であったダンカン・アイダホやガーニィ・ハレックたちだったのだ。少年とはいえかれはベネ・ゲセリットの巧妙な方法を知っており、しなやかで自信に満ちているように思えた。
“でもあの子はまだ十五歳……それにかれはシールドをつけていない。これをやめさせなければ。どうにかして……きっと方法があるはずだわ……”
彼女は顔を上げ、スティルガーがこちらを見つめていることに気づいた。
かれは話しかけた。
「やめさせることはできない……あんたは口をきいてはいかんよ」
彼女は口を手でおさえて考えた。
“わたしはジャミスの心に恐怖を植えつけた。それですこしは行動を遅くさせるはずだわ……たぶん。祈りさえすれば……本当に祈ることができれば……”
ポウルはスティルスーツの下にはいていた戦闘用パンツだけの姿になって、ただひとりリングにはいった。かれは右手にクリスナイフをかまえ、両足には何もつけず砂がこぼれている岩盤に立っていた。アイダホは何度もくりかえしてかれに警告したものだった。
“地面の状態がわからないときは、素足が最上ですぞ”と。
そして、チャニが教えてくれた言葉がまだ意識の表面に残っていた。
“ジャミスはかわしたあとナイフをかまえて右へまわるわ。それがわたしたちみんなの知っているあいつの癖よ。それにあいつは目をねらうわよ、目をつぶったらそのときに切ろうとするの。それからあいつは、どちらの手でも戦えるわ。ナイフを持ち変えることに気をつけて”
しかしポウルの全身がもっとも強く感じていたのは、あの訓練室において毎日毎日、何時間も何時間もたたきこまれた訓練と本能的に反応するメカニズムだった。
ガーニィ・ハレックの言葉が心の中に浮かんできた。
“うまいナイフ使いというものは、ナイフの切っ先と|椀   鍔《シェアリング・ガード》を同時に考えるもんだ。切っ先も切ることができ、刃も突き刺すことができる。椀鍔もまた相手の刃をあざむくことができるんだ”
ポウルはクリスナイフをちらりと見た。それには椀鍔などなく、握りの上にほっそりした丸いリングがついており、そのふちが手を守るためにすこし出っぱっているだけだった。そのうえ、かれはそのナイフがどれほどの力を加えられたときに折れるのか、それとも絶対に折れないものかどうかも知らなかったのだ。
ジャミスはポウルに向き合ったリングの端にそって、右のほうへと移動しはじめた。
ポウルはしゃがみ、そのときになって自分がシールドをつけていないことに気づいたものの、まわりに存在するシールドの力の場で戦う癖がついていた。防御のときには最大のスピードで反応するが、攻撃のほうは敵のシールドに侵入するために必要な遅さにタイミングを合わせるのだ。心を持たないシールドが攻撃スピードをにぶらせることにあまり期待をかけないことと、かれの教師に絶えず警告されてはいたものの、シールドを使っている意識が体にしみついていることをかれは知っていた。
ジャミスは、儀式的な挑戦の文句を口にした。
「なんじのナイフよ、くだけ割れるがいいぞ!」
ポウルの心の中をひとつの想いがかすめた。
“すると、このナイフは折れるんだな……”
かれは自分の心に警告した。ジャミスもシールドをつけていないが、この男はそんなものを使う訓練など受けていないから、シールドを使用して戦うものの癖となっている抑制心はないのだ、と。
ポウルはリングのむこう側にいるジャミスを見つめた。そいつの体は、乾燥した骸骨に太い鞭《むち》がまきついているようだった。そして手に持っているナイフは、照明球の光にミルクのような黄色に輝いていた。
恐怖がポウルの全身を走りぬけた。かれは、人々にとりかこまれたこのリングの中で鈍い黄色の明かりに照らされて、とつぜんただひとり裸で立っていることを身にしみて感じた。予知はかれの知識に数えきれないほどの経験をあたえ、未来におけるもっとも強い流れや心を決めるべき多くのことのヒントをよこし、それによってかれは導かれてきた。しかし、これは<本物の現在>なのだ。ごく小さな失敗も死につながるという機会が無限の数ほど並んでいるのだ。
ここではどんなことが未来をひっくり返してしまうかわからないのだ、とかれは気づいた。見ている群衆の中のだれかが咳をする、それに気をとられるとか、照明球の明るさが変化して、新しくできた影にだまされるとか。
“ぼくはこわがっているんだな”
と、ポウルは自分の心に話しかけた。
そしてかれは用心深くジャミスの反対側をまわりながら、ベネ・ゲセリットの恐怖にたいする祈りの文句を心の中で何度もくりかえした。
“恐怖は心を殺すもの……”
それはかれに浴びせかけられる冷たいシャワーだった。かれは筋肉がひとりでに緊張をほぐし、どのような行動にも移れるように待機するのを感じた。
「おれのナイフをおめえの血にどっぷりつけてやるぜ」
と、ジャミスはどなった。そして最後の言葉とともにかれは飛びついてきた。
ジェシカはその動きに気づき、声をあげそうになるのをおさえた。
相手がふりおろしてきたナイフは空を切り、ポウルはジャミスのうしろに立って、すきだらけのむき出しになった背中を前にしていた。
“いまよ、ポウル! いまよ!”
ジェシカは心の中で叫び声をあげた。
ポウルは美しく流れるように、ゆっくりとしたタイミングで動いた。そしてその遅さがジャミスに、体をよじり、うしろに下がって右へまわるひまをあたえた。
ポウルは体を引いて低くかがみこみ、相手に話しかけた。
「まず、ぼくの血がどこにあるか見つけなければいけないぜ」
ジェシカは息子の見せたシールド戦闘のタイミングに気づき、それが諸刃《もろは》の剣のようなものであることを考えた。ポウルの反応は若さそのものであり、ここにいる連中がこれまでに見たこともない高度の技術で訓練されている。しかし、攻撃のほうも訓練されたままなので、シールドの障壁の中へ侵入するために必要な条件を備えている。シールドは急速すぎる攻撃をはねかえし、ゆっくりと偽装攻撃をかけたときにだけ侵入を許すのだ。シールド内にはいるには、相手のすきをねらって罠にはめこむトリックが必要だ。
彼女は自分の心にたずねた。
“ポウルにはそのことがわかっているだろうか? わかっていなければ!”
またもジャミスはインクのように暗い目を光らせて攻撃し、その体は照明球の下で黄色く流れた。
そしてまたもポウルはそれをかわしたが、攻撃にもどるのはあまりにも遅かった。
そしてまた。
そしてまた。
そのたびにポウルの反撃は、一瞬遅れて相手を襲った。
やがてジェシカは、ジャミスに見抜かれてほしくないひとつのことに気づいた。ポウルの防御反応は目にもとまらないほど速いが、それはどの場合も、まるでシールドがジャミスの攻撃をそらせる助けになっているかのように、正確そのものの角度で動いているということだった。
「あんたの息子は、あの哀れな馬鹿を相手に遊んでいるのか?」
スティルガーはそうたずねた。そして彼女が答えようとする前に、黙っていてくれと手をふった。
「すまん。あんたは黙っていなければいけないのだった」
岩の床《ゆか》に立つふたりはぐるぐるとまわった。ジャミスはナイフを握る手をいっぱいに前に出し、わずかに先端を上げていた。ポウルは姿勢を低くし、ナイフを低くかまえていた。
ふたたびジャミスは突進したが、今回はポウルがかわしていった右のほうへ体をまわした。
うしろに体をそらせてかわすかわりに、ポウルは相手のナイフを握っている手を、自分のナイフの切っ先で受けた。ついでかれは、チャニの警告をありがたく思いながら左へ体をひねって逃れた。
ジャミスはリングの隅へ下がり、ナイフを握っている手をこすった。しばらくのあいだ傷ついたところから血がしたたり落ち、ついでとまった。かれの両眼――ふたつのブルー・ブラックの穴――は大きく開き、照明球のにぶい光の中で新しい警戒心をたたえてポウルを見つめた。
「ああ、あれは痛いぞ」
と、スティルガーはつぶやいた。
ポウルは体を低くしてかまえ、最初の血を流させたときにやるべきことを教えられてきたとおりに呼びかけた。
「降参するか?」
「なにをぬかしやがる!」
と、ジャミスはどなった。
スティルガーは大声を上げた。
「待て! その少年はわれわれの規則を知らんようだ」ついでかれはポウルにむかって話しかけた。「タハッディの挑戦に降伏するなどということはあり得ない。死がそのテストなのだ」
ジェシカはポウルが大きく息を呑むのを見た。そして彼女は考えた。
“かれは人を殺したことなどこれまでにない……こんな血なまぐさいナイフの戦いなどで。かれにやれるかしら?”
ポウルはジャミスの動きに押されて、ゆっくりと右へとまわった。この洞窟にはいってから予知した時間の要素が煮えくりかえるような変数についての知識が、いまごろ思い出されてきてかれを苦しめはじめた。かれが得た新しい理解は、この戦闘においては敏速に圧縮した決断を下すべきときが多すぎるので、将来に通るべきチャンネルがそれ自身でくっきりと姿を見せることはない、と告げていた。
変数の上に変数がつみ重なっていた――この洞窟がかれの進路におけるぼんやりとした連鎖的集合として存在している理由はそれだった。それは洪水の中で巨大な岩石が、そのまわりの流れに渦巻を作り出しているようなものだった。
スティルガーはつぶやいた。
「終わらせろ、坊や……そいつを笑いものにするんじゃない」
ポウルは自分のナイフのスピードを確信して、リングの中を前進した。
ジャミスはいまや後退しながら、全身で理解しはじめていた――相手がタハッディ・リングにおけるなまやさしい他国者《よそもの》とか、フレーメンのクリスナイフにあっさりと餌食とされるものではないということを。
ジェシカはその男の顔に死にもの狂いになった影を見た。
“いまこそ、かれがもっとも危険な相手となるときだわ……いまかれは自暴自棄になっているから、どんなことでもやれる。かれは相手が、同じ部落の子供とはちがい、戦闘用の機械として生まれ、幼時からそのための訓練を重ねてきた人間だと気づく。いまこそわたしがこの男に植えこんだ恐怖が、花咲くのよ”
そして彼女は、ジャミスにたいして哀れみをおぼえていることに気づいた――その感覚は、自分の息子に危険がさし迫っていることを考えるとおさまっていった。
“ジャミスはどんなことでもやれる……まったく予測のつかないことを”
ジェシカは自分の心にそう話しかけた。ついで彼女の胸に、ポウルはこの未来をかいま見たのだろうか、かれはこの経験を二度目のこととして生きてうるのだろうか、という疑問が浮かんできた。
だが彼女はポウルの動きかた、その顔と両肩に流れる汗の粒、筋肉の動きにはっきりとわかる慎重さに気づいた。そして彼女は初めて、理解することはできないながら、ポウルの持っている能力に不確実な要素があることを感じた。
ポウルは攻撃せずにぐるぐるまわっていたが、いまや優勢に立っていた、かれは相手に恐怖が現われているのを見た。ダンカン・アイダホの声が思い出され、ポウルの意識の中を流れた。
“あなたの敵が恐怖を見せるそのときこそ、あなたがその恐怖を支配し、それを相手にぶつける瞬間をつかむべき機会ときです。[#変ないいまわしですが、おそらく「とき」が不要なのかあるいは「機会」のルビに「とき」を振るつもりだったのでしょう。原本のままとします]それを本物の恐怖にすることですな。おびえた男というものは自分自身と戦い、その結果として、そいつは自暴自棄な攻撃をおこないます。そういうときがもっとも危険ですが、恐怖におびえた男というものはふつう、命にかかわるような失敗をおかしやすいもんでしてね。あなたがここで練習しているのは、そういう失敗を見抜き、それを利用するようになるためなのですぞ”
洞窟の中にいる群衆はつぶやきはじめた。
ジェシカは考えた。
“かれらはポウルがジャミスをからかっているものと考えている……かれらは、ポウルを不必要なまでに残酷だと考えているんだわ”
しかし彼女は同時に、この決闘を見ている群衆の心の下に流れている興奮と喜びを感じ取った。そして彼女には、ジャミスの心の中でたかまってきた圧力を見抜くことができた。それが心の中におさめておけないほどの圧力に達した瞬間を、彼女ははっきりと知った。それがわかったのはジャミス自身も……あるいはポウルにも同じことだった。
ジャミスは高く飛び上がり、偽装攻撃《フェイント》をかけ、右手をふり下ろしたが、その手には何も握られていなかった。クリスナイフは左手に持ち変えられていたのだ。
ジェシカは息を呑んだ。
だがポウルはチャニの警告を受けていた。
“ジャミスは両方の手で戦うのよ”と。
そして、訓練を重ねたかれの心の奥では、それを当然のこととして受け入れていたし、ガーニィ・ハレックには折にふれて何度となくいわれていたのだ。
“心はナイフに集中しておくんだぞ、それを握っている手のほうではなしにな……ナイフは手よりもはるかに危険なものだし、ナイフはどちらの手に握られるかわからないんだ”
それにポウルはジャミスのおかした失敗を見抜いていた。足さばきが悪かったため、ポウルを混乱させてナイフの持ち変えを隠す目的でおこなった跳躍から立ち直るのに、心臓の一鼓動ぶんほど長くかかったのだ。
低いところで黄色い光を放っている照明球と、見つめている群衆の青インクのような目を別にすると、すべては訓練室の床《ゆか》でおこなう練習と同じことだった。そして相手の体自体がぶつかってくるとき、シールド戦闘の癖は別に妨げとならなかった。ポウルはナイフをきらめくほどの速さで動かし、横にさけながら、ジャミスの胸が落ちてくるところにむかって上へつき上げ――それから離れて、相手が倒れてゆくのを見つめた。
ジャミスは顔を下にして、ぐったりとぼろ[#「ぼろ」に傍点]のように倒れ、一度あえぎ、顔をポウルのほうにむけ、それから岩の床《ゆか》に静かに横たわった。かれの両眼は黒いガラスのビーズのようににらんでいた。
アイダホはかつてポウルにいったものだった。
“切っ先で殺すのに技巧はない……だが、むこうから傷口があいてくるというときに、あなたの手をとめるのではありませんぞ”
群衆は前へ殺到してリングを満たし、ポウルを押し出した。かれらは狂おしいほどにごったがえした騒ぎの中に、ジャミスを隠した。やがてかれらの一団は、一枚の寛衣《ローブ》にくるんだ荷物をかついで洞窟の奥へと急いだ。
岩盤の床に倒れていた屍体は、なくなった。
ジェシカは人波をおしわけて息子のほうへ進んでいった。彼女は自分が、寛衣《ローブ》を着た悪臭のする背中の海、ふしぎなほど黙りこんだ群衆の中を泳いでいるように感じた。
“いまこそ恐ろしいとき……かれはひとりの男を、心も筋肉もまったく圧倒した状態で殺してしまった。かれがそんな勝利を楽しむようになっては、絶対にいけないんだわ”
彼女は群衆の最後のひとかたまりをおし分けて通り、髭を生やしたふたりのフレーメンがポウルにスティルスーツを着せる手伝いをしているせまい場所に出た。
ジェシカは息子を見つめた。ポウルの目は輝いていた。かれは、体のためというより、やっとの想いでというように激しく呼吸していた。
男たちのひとりはつぶやいた。
「ジャミスを相手にして、傷ひとつないんだからな」
チャニはみんなの一方に立ち、ポウルを見つめていた。ジェシカはその娘が興奮していることを、その妖精のような顔に讃歎の色が浮かんでいるのを見た。
“いま、それも急いでやらなければ……”
と、ジェシカは思った。
彼女は、声と身ぶりにこの上ない軽蔑をこめて話しかけた。
「これはこれはお見事なこと……人殺しになるのは、どんな気分がするものなの?」
ポウルはなぐりつけられたかのように体をこわばらせた。かれは母親の冷やかに見つめている目と視線を合わせ、その顔は血がのぼってきて黒く染まった。無意識にかれはジャミスが倒れた洞窟の床《ゆか》のほうをちらりと見た。
ジャミスの屍体が運ばれた洞窟の奥から、スティルガーはもどってきて、人波をおし分けながらジェシカに近づいた。かれは、心を押さえた苦々しい口調でポウルに話しかけた。
「おまえがおれに挑戦し、おれの命のあかしをためしてみたくなるときが来たら、ジャミスを相手にしたようなやり方でおれを相手に遊べるとは思わないことだぞ」
ジェシカは、彼女自身の言葉とスティルガーのいったことが、どのようにポウルの胸にくいこみ、どれほど無慈悲な影響をおよぼしているかを、ひしひしと感じた。この連中が犯したまちがい――それはいま目的を果たしたのだ。彼女はポウルと同じようにまわりにいる人々の顔を眺め、かれが見たのと同じものを見た。讃歎、そのとおり、そして恐怖……そして、何人かは……憎しみを。彼女はスティルガーに視線を移し、かれがおこったことを運命論的にとらえていることを知り、戦いをどのように考えていたのかを知った。
ポウルは母親を見た。
「母上にはおわかりですね、どういうことだったのか」
彼女はその声を聞いて、正気がもどっていることと、かれが激しい後悔にさいなまれていることを知った。ジェシカは群衆を見まわしていった。
「ポウルはナイフで人間を殺したことなど、これまで一度もなかったのです」
スティルガーは、信じられないといった表情を顔に浮かべて彼女を見つめた。
ポウルは母親の前に出て、寛衣《ローブ》をなおし、洞窟の床に黒くジャミスの血が流れているところに視線をむけて口を開いた。
「ぼくはかれを相手に、遊んでいたりしなかった……ぼくはかれを、殺したくなかったんだ」
ジェシカは、スティルガーがゆっくりとだが信じはじめたのを知り、太く血管が浮いている手で髭を引っぱるそぶりに、かれがほっとしていることを感じた。ついで彼女は、群衆のあいだに了解のつぶやきがひろがるのを聞いた。
スティルガーはいった。
「おまえがあいつに降伏しろといったのは、そのせいなんだな……わかった。われわれのやりかたはちがうが、おまえはその中にも意味があることを知るようになるだろう。おれは、われわれの中に蠍《さそり》をもぐりこませてしまったかと思ったぞ」かれは、ちょっとためらってから、あとをつづけた。「それからおれは、もうおまえを子供あつかいしないよ」
群衆の中から声があがった。
「名前が要《い》るぜ、スティル」
スティルガーはうなずき、髭を引っぱった。
「おれはおまえの中にある力を見た……柱の下に存在している力のようなのをな」かれは黙りこみ、また口を開いた。「われわれのあいだでは、おまえをウスルと呼ぶことにしよう。ウスル、柱の基礎とな。これはおまえの秘密の名前、おまえの部隊における名前だ。われわれタブルのシーチにいる者はその名前で呼べるが、ほかのシーチの者にはわからないようにしておくことだぞ……ウスル」
群衆の中をつぶやく声が動いていった。
「いい名前だぜ、あれは……強そうでよ……おれたちに幸運をもたらす名前だ」
そしてジェシカはみんなに受け入れられたことを感じ、彼女自身も|戦 士《チャンピオン》とともに仲間とされたことを知った。彼女は本当のセイヤディナとなったのだ。
スティルガーはたずねた。
「さてと、おれたちがおおっぴらにおまえを呼ぶときの名前としては、どんなのを選びたいね?」
ポウルは母親をちらりと眺め、また視線をスティルガーにもどした。この瞬間の断片や細片はかれが予知した記憶の中にあったものの、かれはそれらが、現在というせまいドアから自分を押し出そうとしている圧力、物理的な力に変わっていることを感じたのだ。
「きみたちのあいだでは、小さな鼠のことを何といっている? 飛びあがる鼠のことを?」
と、ポウルは、チュオノ盆地で飛んだり跳ねたりしていた生き物のことを思い出してたずねた。かれは片手でその形を描いた。
笑い声が群衆の中でひびいた。
「われわれはそれをムアドディブと呼んでいるよ」
と、スティルガーは答えた。
ジェシカはあえぎ声をもらした。
それはポウルが彼女に告げた名前であり、フレーメンがふたりを受け入れ、かれをそう呼ぶだろうといった名前だった。彼女はとつぜん、彼女の息子、かれにたいする恐怖をおぼえた。
ポウルは息を呑んだ。かれはその場面を数えきれないほど何度も、過去に心の中で演じていた……しかし……そこには変化があった。かれは自分が、多くのことを経験し、大変な量の知識を所有したあと、目もくらむような山頂にやっと立ったものの、まわりはどこもかしこも深淵だというような状態だと考えた。
そしてまたかれは狂信的な多くの軍団がアトレイデ家の緑と黒の軍旗に従い、かれらの予言者ムアドディブの名前のもとに宇宙を略奪し焼きはらっている光景を思い出した。
“そんなことを決しておこさせてはいけないのだ”
と、かれは自分の心にいい聞かせた。
スティルガーはたずねた。
「それがおまえの望む名前なのか、ムアドディブというのが?」
「ぼくはアトレイデ家のものだ」と、ポウルはささやき、ついで大きな声でいった。「ぼくの父上にあたえられた名前を完全に捨ててしまうのは正しいことではない。きみたちのあいだでポウル・ムアドディブと呼ばれることは許されるだろうか?」
スティルガーはいった。
「おまえはポウル・ムアドディブだ」
ポウルは考えた。
“これはぼくの予知になかったことだ。ぼくは別のことをしたんだ”
そして、自分が深淵にとりかこまれているという感じはまだ残っていた。
またも群衆の中に、顔を見合せてはつぶやきあう反応がおこった。
「力をそなえた知恵ってやつだぜ……これ以上のものを願えるもんか……まちがいなく伝説どおり……リザン・アル・ガイブ……リザン・アル・ガイブ……」
スティルガーは話しかけた。
「おまえの新しい名前についてひとついっておこう……それを選んでくれて、おれたちはうれしいってことだ。ムアドディブは砂漠での生きかたがうまいんだよ。ムアドディブは自分自身の水を作り出す。ムアドディブは太陽から隠れ、すずしい夜のあいだに旅をする。ムアドディブは繁殖力が旺盛《おうせい》で、いたるところでふえてゆく。ムアドディブをわれわれは少年の教師[#「少年の教師」に傍点]と呼んでいる。これらはみな、おまえがこれからさき生きてゆく上にとって強力な基盤となることだ、ポウル・ムアドディブ。われわれのあいだでのウスルよ。おれたちはおまえを歓迎する」
スティルガーはポウルの額に片手の掌をおしつけ、その手を引くとポウルを抱きしめて「ウスル」とささやいた。
スティルガーがかれから離れると、部隊の別の男がポウルを抱いて、かれの新しい部隊での名前をいった。ポウルはつぎつぎと全員に抱きしめられ、それぞれに異なる声を聞いていった。「ウスル……ウスル……ウスル」すでにかれは、何人かの名前をおぼえていた。そしてチャニは、かれを抱いて名前を呼びながら頬をかれの頬におしつけた。
やがてポウルがふたたびスティルガーの前に立つと、かれは表情をかたくし、命令する口調で話しかけた。
「さてと、もうおまえは|イチワン・ベドウィン《*》のもの、われわれの兄弟だ……ポウル・ムアドディブ、そのスティルスーツをちゃんとしろ」
かれはチャニに視線をむけていった。
「チャニ! ポウル・ムアドディブのノーズ・プラグは、これまでおれが見たこともないほど合っていないものだぞ! おれはおまえに、こいつの面倒を見ろと命令したはずだ!」
彼女は答えた。
「予備を持っていなかったの、スティル。もちろん、ジャミスのがあるから……」
「そんなことは聞きたくないぞ!」
「では、わたしのを使わせるわ。わたしは間に合わせに……」
スティルガーはいった。
「そんなことはせんでいい……だれかがスペアを持っているはずだからな。スペアはどこだ? おれたちは団結した部隊か、それともならず者の集まりか?」
群衆の中からいくつもの手がのびて、かたい繊維質のもの[#「もの」に傍点]をさし出した。スティルガーはそのうちの四個を選んで、チャニにわたした。
「これをウスルとセイヤディナにつけてやるんだ」
群衆のうしろのほうから声がひびいた。
「水はどうするんだね、スティル? ふたりの袋にはいっていたリタージョンは?」
「おまえが必要としていることはわかっているよ、ファロク」
と、スティルガーは答えて、ジェシカのほうを見た。彼女はうなずいた。
スティルガーは呼びかけた。
「必要としている者は申し出ろ……|水  係《ウォーター・マスター》……ウォーター・マスターはどこだ? ああ、シムーム、必要としている水の量をはかれ。必要量だけだぞ。この水はセイヤディナの寡婦《やもめ》財産(亡夫の遺産のうち寡婦の受ける部分)だからな。シーチにもどれば野外レートから輸送料をさし引いて払いもどすことだ」
ジェシカはたずねた。
「野外レートで払いもどすって、どういうことなのです?」
「一に対して十だよ」
「でも……」
「そのうちあんたもわかるようになるだろうが、これは賢明な規則なんだ」
寛衣《ローブ》のこすれる音がひびき群衆のうしろで水をもらいに行く男たちの動きがわかった。
スティルガーは片手をあげ、沈黙がみなぎった。かれは話しだした。
「ジャミスのことだが……おれは正式な儀式をとりおこなうことを命令する。ジャミスはわれわれの仲間であり、イチワン・ベドウィンの兄弟だったのだ。タハッディの挑戦によってわれわれのよき未来を証明したものに、それ相応の尊敬をはらうことなく立ち去ることは許されないことだ。儀式をささげよう……太陽が沈み、暗闇がかれをおおったときに」
ポウルはその言葉を聞きながら、自分がまたも深淵……盲目の時間の中へ飛びこんでいることを[#原本のまま。「を」になっています]気づいた。かれの心の中には未来の占めている部分などなかった……ただ……ただ……かれはいまだに、アトレイデ家の緑と黒の軍旗がひるがえっているのを感じることができた……どこか前方に……いまだに、ジハドの血ぬられた剣と狂信的な軍団が見えていた。
かれは自分の心にいい聞かせた。
“それはならぬ……そんなことをさせるわけにはいかん……”
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神は、信仰深き人々をきたえるために、アラキスをつくりたもうた。
――イルーラン姫による“ムアドディブの知恵”から
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静まりかえった洞窟の中にジェシカは聞いた、人々が動くにつれて岩の上で砂がこすれる音を、スティルガーが前にいっていた見張りの合図だという遠くからの鳥の声を。
プラスチックでできた密閉用のおおきな蓋が、洞窟の出入口から取りのぞかれた。彼女は前につづく岩肌と、そのかなたにひろがっている盆地に、夕闇の影が動いてゆくのを見ることができた。彼女は昼の光が去ってゆくのを感じ、影と同じく乾いた熱の中にも、それを感じた。
彼女は自分の訓練をつんだ意識が、これらフレーメンの持っているに相違ないもの――空気中に存在する水蒸気のごくわずかな変化でも感じられる能力――を、すぐ身につけることになるだろうと考えた。
洞窟があけられたとき、どれほどみんなが急いでスティルスーツをしめたことか!
洞窟の奥深いところで、だれかが詠唱しはじめた。
「イマ トラーヴァ オコロ!
アイ コレンジャ オコロ!」
ジェシカは心の中で翻訳した。
“これらは灰! そしてこれらは根!”
ジャミスの葬儀が始められたのだ。
彼女は外に顔をむけ、アラキーンの日没を、空を幾重《いくえ》にも傾斜しながら染めている色の層を眺めた。夜はその影を、遠い岩や砂丘に落としはじめていた。
だが、熱は去ろうとはしなかった。
熱は彼女の心を水にむけさせ、ここにいる全員があらかじめ決められた時間に咽喉がかわくように訓練されているらしいということを考えさせた。
渇《かわ》き。
彼女は思い出すことができた。カラダンでの月光に照らされた波が岩に白い衣をなげかけていた景色を……そして風がじっとりと湿気をおびていたことを。そしていま、彼女の寛衣《ローブ》をなぶるそよ風は、両頬と前額部の露出している皮膚を切りつけてくるようだ。新しいノーズ・プラグにはいらいらさせられ、彼女は自分が、顔を横切ってスーツの中へはいり呼気の水分を回収するようになっているチューブを、あまり意識しすぎていることに気づいた。
スーツ自体が発汗治療箱《スエット・ボックス》なのだ。
スティルガーはいっていた。
“あんたのスーツはずっと気持のいいものになるぜ、あんたの体内にある水分の量を少なくすることに慣れさせればね”と。
彼女はかれのいうとおりだと思ったが、そう考えてみたところで現在が気持よくなるわけではなかった。ここでは無意識のうちに水が何よりも優先するということが、彼女の心を重くおしつけた。彼女はその考えを訂正した。
“ちがうわ……水分が優先するのよ……”
そしてそれは、もっと微妙で、深い意味のあることだった。
近づいてくる足音を聞いて彼女がふりむくと、ポウルが洞窟の奥から出てきたところで、そのうしろに妖精のような顔をしたチャニがついていた。
ジェシカは考えた。
“別の問題があるわ……ポウルはかれらの女性たちに気をつけなければ。これら砂漠に生きる女のひとりが、公爵の妻になどなれぬこと。|妾 妃《コンキュバイン》ならばまだしも、妻にはなれないことよ”
ついで彼女は自分に疑問をむけ、どんなに自分が環境の影響を受けているかに気づいた。
“わたしはかれの計画に感染しているのかしら? わたし自身が妾妃であったことも考えずに、王族が結婚するときの条件を考えられるとは。でも……わたしは妾妃以上のものだった”
「母上……」
ポウルは彼女の前でとまった。その肘のところにチャニが立った。
「母上、みんなが奥でやっていることをご存知ですか?」
ジェシカは頭巾からのぞいているかれの黒い目を見た。
「知っているつもりよ」
「チャニが見せてくれました……ぼくがそれを見て……水の目方をはかる許可をあたえなければいけないとかで」
ジェシカはチャニを眺めた。
「みんなはジャミスの水を回収しているんです」と、チャニはいった。その細い声は、ノーズ・プラグを通って鼻にかかった声になっていた。「それが規則なんです。肉はその個人に属するもの、だがその水は種族に属するもの……戦闘の場合を除いて」
ポウルはいった。
「かれらは、その水をぼくのものだというのです」
ジェシカは、なぜその言葉で自分がとつぜんびくりとし、警戒心をおぼえたのだろうと、いぶかしく思った。
チャニは話した。
「戦いでの水は勝利者に属するの……つまり、スティルスーツを着ずに、肌をさらして戦わなければいけないからよ。勝利者は、戦っているあいだに失った自分の水を取りもどさなければいけないもの」
「ぼくはかれの水などほしくない」
と、ポウルはつぶやいた。かれは、いっせいに飛び散ってゆく多くのイメージのひとつに自分がなっていて、内なる目が混乱させられているような感じをおぼえた。かれは自分がこれからどんなことをするのかはっきりしなかったが、ひとつだけはっきりしていた。ジャミスの肉体から蒸留した水などほしくないということだった。
「それは……水よ」
と、チャニはいった。
ジェシカは彼女がそういった口ぶりに心を打たれた。「水よ」その単純な言葉に、多くの意味がこめられていた。ベネ・ゲセリットにある格言のひとつが、ジェシカの心に浮かんできた。
“生存とは、異境の水の中で泳ぐ能力である”
そしてジェシカは思った。
“ポウルとわたし、わたしたちはこの異境の水にある流れとパターンを知らなければいけない……もし生きのびるつもりなら”
「その水をいただいておくことね」
と、ジェシカはいった。
彼女は自分の声にふくまれている口調に気がついた。疑問の点がある仕事での援助にたいして提供された多額の金《かね》を受け取るべきだ、なぜならアトレイデ家のためには金こそ力を維持するものだからといったときだ。
アラキスでは、水が金なのだ。彼女にはそのことがはっきりとわかった。
ポウルは黙っていたが、彼女に命じられたとおりに自分がやることになるとわかっていた――彼女が命じたからではなく、彼女の口調がかれにその価値をもういちど考えなおさせたからだ。その水を拒絶することは、受け入れられているフレーメンの慣習を破ることになるのだ。
やがてポウルは、ユエにもらったオレンジ・カトリック・バイブルの四六七カリマにある言葉を思い出して、それを口にした。
「水よりすべての生命は始まるもの」
ジェシカはかれを見つめ、自分の心にたずねた。
“どこでかれはその文句を学んだのかしら? かれはまだ神秘的教義を学んでいないはずなのに……”
チャニはつづけていった。
「|ジウディシャール《*》・|マンテーン《*》は、かく語られた……それは|シャー・ナーマ《*》に書かれていること、水は創り出されたすべてのもののうち最初のもの、と」
説明できるような理由はなにひとつなく(そして、そのことが感覚自体よりも彼女の心を苦しめたのだが)、ジェシカはとつぜん身ぶるいした。彼女は困惑を隠そうとして顔をそむけ、ちょうどそのとき日没を見ることとなった。太陽が地平線の下へ沈むとき、血のような色が空を染めた。
「時間よ!」
スティルガーの声が洞窟の中でひびきわたった。
「ジャミスの武器はその終わりを迎えた。ジャミスは地の神に、シャイ・フルドに召されたのだ。日ごとに衰えてゆき、その最後には曲がった枯枝のようになるふたつの月の相を定められている神に」スティルガーの声は低くなった。「こうしてジャミスは去っていったのだ」
沈黙が洞窟の中に毛布のように落ちた。
ジェシカは暗い奥のほうでスティルガーの灰色の影が幽霊のように動くのを見た。彼女は盆地をふりかえり、涼しさを感じた。
「ジャミスの友だちは前に出よ」
と、スティルガーはいった。
数人の男がジェシカのうしろで動き、出入口にカーテンを落とした。洞窟のずっと奥のほうに、照明球がひとつだけ天井にともされた。その黄色い光は、そこへはいってゆく人々の姿を照らし出した。ジェシカの耳に、寛衣《ローブ》のすれる音が聞こえてきた。
チャニはまるでその光に引っぱられたかのように、一歩前に足を進めた。
ジェシカはポウルの耳もとに顔をよせ、アトレイデ家の暗号で話しかけた。
「かれらのあとにつづき、かれらのやるようにおやりなさい。これはジャミスの霊をなぐさめるための単純な儀式でしょうから」
“それ以上のものとなるはずだ”
と、ポウルは考えた。そしてかれは、自分が動いている何かをつかみ、それを動くことなくわたそうとしているかのような、意識がねじられるような感じをおぼえた。
チャニはジェシカのそばへすべるようにもどり、彼女の手を取った。
「来てくださいな、セイヤディナ。わたしたち、離れてすわらなければいけないの」
ポウルはふたりがかれをただひとり残して、影の中へ去ってゆくのを見つめた。かれは捨てられたような想いがした。
カーテンを下ろした男たちが、かれのそばにやってきた。
「来いよ、ウスル」
かれは導かれるままに前へ進み、スティルガーのまわりに作られている人々の輪の中に入れられた。スティルガーは照明球の下に立っており、そのそばの岩の床《ゆか》には寛衣《ローブ》の下にまとめられた丸みや四角いところのある包みがおかれていた。
群衆はスティルガーの合図でひざまずき、その動きにかれらの寛衣《ローブ》はさやさやと音をたてた。ポウルはかれらとともにひざまずきながらスティルガーを見つめ、頭上の照明球にかれの両眼が濃く光り、頸にまいた緑色の布が反射するありさまを見た。ポウルは視線をスティルガーの足もとにある寛衣《ローブ》におおわれたかたまりにうつし、バリセットの指板《ハンドル》が布の中からつき出ていることを知った。
スティルガーは歌うようにいった。
「第一の月がのぼるとき、魂は肉体の水より離れる……と、いわれている。今夜、われらが第一の月ののぼるを見るとき、そこに召されるものはだれか?」
群衆はそれに答えた。
「ジャミス……」
スティルガーは片足の踵でぐるっとまわり、とりまいているみんなの顔に視線をうつしていった。
「|岩 の 穴《ホール・イン・ザ・ロック》において鷹のごとくはばたいて飛行機がわれらに襲いかかったとき、おれを安全な場所に引っぱってくれたのはジャミスだった」
かれはそばの包みにかがみこみ、寛衣《ローブ》を取った。
「ジャミスの友としておれはこの寛衣《ローブ》を取る……指導者の権利だ」
かれはその寛衣《ローブ》を一方の肩にかけて立ち上がった。
それで、おおいを取られた荷物の内容が見えるようになった――うすく灰色に輝いているスティルスーツ、でこぼこになったリタージョン、カーチフ、そのまん中に小さな本がのせられている。刃をなくし握りだけになったクリスナイフ、おさめるものもない鞘、たたまれた袋、ぱらこんぱす、ディストランス、サンパー、拳ほどの大きさをした金属製フック多数、小さな石らしいものをいろいろ並べてたたんである布、たばねた羽根のひとたば……そして、たたんだ袋のそばに見えているバリセット。
“すると、ジャミスはバリセットを演奏したのか……”
と、ポウルは思った。その楽器はかれに、ガーニィ・ハレックのことや、失われてしまったすべてのものを思い出させた。ポウルは過去における未来の記憶から、ハレックとの再会を生み出してくれる可能性のラインがいくつかあることを知っていたが、本当に再会できる機会はすくなく、そして影におおわれていた。そのことにかれは当惑をおぼえた。その不確実さという要素にかれは驚きを感じた。
“それは、ぼくのやる何かが……ぼくがやるかもしれないことが、ガーニィを永遠になきものとしてしまうか……それとも、かれを生きかえらせるかもしれないということか……それとも……”
ポウルは唾をのみこみ、首をふった。
ふたたびスティルガーは遺品の山にかがみこんだ。
「ジャミスの女と見張りのために」
そういってかれは、小さな石と本を自分の寛衣《ローブ》のひだに入れた。
「指導者の権利」
と、群衆は声をあわせた。
「ジャミスのコーヒー・セット用のマーカーを」スティルガーはそういって、緑色をした金属のひらたい円盤を取り上げた。「これはわれわれがシーチにもどったあと、適当な儀式においてウスルにあたえられるものとする」
「指導者の権利」
と、群衆は声をあわせた。
最後にかれはクリスナイフの握りを取って立ち上がった。
「|埋葬の平原《ヒューネラル・プレイン》へ」
と、かれはとなえ、
「埋葬の平原へ」
と、群衆はこたえた。
円の反対側にポウルとむかいあっていたジェシカは、この儀式の起源が古いところにあることに気づいてうなずいた。
“無知と知識、野蛮さと文化が出会うところ……これは、われわれが死者をいたむ尊厳さから発している”彼女はポウルのほうを見て考えた。“かれにはそれがわかるだろうか? どうしていいか、わかるだろうか?”
スティルガーはいった。
「われわれはジャミスの友だ……われわれは死者をおくるにあたって、ガーバーグの群のように嘆き悲しみはしない」
ポウルの左にいた白髪交じりの髭の男が立ち上がった。
「わしはジャミスの友だちだった」かれはそういい、遺品のところに行き、ディストランスを取り上げた。「|二羽の鳥《ツー・バーズ》での籠城《ろうじょう》でわしらの水がなくなりかけたとき、ジャミスは自分のをわけてくれた」
その男は円の中の自分がいた場所にもどった。
ポウルは思いまよった。
“ぼくは、ジャミスの友だちだったというべきなのだろうか? かれらはぼくが、あの遺品の山から何かを取ればいいと期待しているのだろうか?”かれは人々が自分のほうにむけられ、また顔をそらせるのを見た。“かれらはそのことを期待しているんだ”
ポウルの反対側にいた男がまたひとり立ち上がり、荷物のところへ行ってパラコンパスを取った。
「おれはジャミスの友だちだった……パトロール隊に崖の入江でつかまり、おれが傷ついたとき、ジャミスがかれらを追いはらい、そのおかげで負傷者は救い出されたんだ」
かれはもとの場所にもどった。
またも人々の顔はポウルのほうにむけられ、かれはみんなの表情に期待が浮かんでいるのを知って視線を落とした。だれかの肘がかれをつつき、ささやきかけた。
「おまえはおれたちに、破滅をもたらすつもりなのか?」
ポウルの心は乱れた。
“どうしてぼくが、かれの友だちだったなどといえるんだ?”
ポウルの反対側からもうひとりが立ち上がり、頭巾をかぶった顔が明かりに照らされたとき、それはかれの母だとわかった。彼女は荷物の山からカーチフを取って話しはじめた。
「わたしはジャミスの友だちだった……かれの内なる聖なる魂が真理の求めるところを知ったとき、魂はへりくだり、わたしの息子に命をゆずってくださった」
彼女は自分の席にもどった。
そしてポウルは、戦いのあとで顔を合わせたとき、母親の声にあった軽蔑のひびきを思い出した。
“人殺しになるのは、どんな気分がするものなの?”
またもかれは、自分のほうにむけられたおおぜいの顔を見、そこに怒りと恐怖が現われているのを感じた。母親が前に“死者に対する崇拝”についてのフィルム・ブックを教えてくれたときの文章が、ポウルの心を走った。かれは、自分がしなければいけないことは何か知っていた。
ゆっくりと、ポウルは立ち上がった。
円を作っている人々は溜息をもらした。
ポウルは円の中心に進んでゆくにつれて、自分[#「自分」に傍点]というものがしだいに小さくなってゆくのを感じた。まるで自分自身の一部をなくし、それをここで見つけようとしているかのような気持だった。かれは遺品の上にかがみこんで、バリセットを取り上げた。絃が、かさねてある何かにあたって、低く鳴った。
ポウルはささやいた。
「ぼくはジャミスの友だちだった……」
かれは両眼が涙で熱くなってくるのを感じ、声をもっと大きくした。
「ジャミスはぼくに教えてくれた……人が、殺すとき……人はそのむくいを受けることを、ぼくはジャミスを、もっとよく知りたかった」
あたりが見えなくなったまま、かれはよろよろと輪の中へもどり、岩の床にひざまずいた。
だれかの声がささやいた。
「かれは涙を流しているぞ!」
その声は輪をまわってつたえられていった。
「ウスルが死者に水分をあたえている……」
かれは人々の指が自分の濡れた両頬にふれるのを感じ、畏敬にうたれたささやき声を聞いた。
みんなのささやく声を聞いたジェシカは、経験したことの深さを感じ、涙を流すということに実に大きな心理的抑制があるのだとわかった。彼女はさきほどの言葉に心を集中した。“かれは死者に水分をあたえている”涙――それは闇の世界への贈り物だった。それは疑いもなく神聖なものなのだ。
この惑星の上で、水の持つ究極的な価値をこれほどまで強烈にジェシカの胸にたたきこんだものはほかになかった。水売りでもなく、現地人の乾ききった皮膚でもなく、スティルスーツでも、水についての厳重な規則でもなかった。ここにあるのは他のいかなるものよりもはるかに貴重な物質だった――それは生命そのものであり、象徴と儀式によってあらゆるものとからまっていたのだ。
水だ。
だれかがささやいた。
「おれはかれの頬をさわった……おれは、贈り物を感じたぞ」
最初のうち、顔にふれてくる人々の指に、ポウルは恐怖に似た気持をおぼえた。かれはバリセットの冷たい指板《しばん》をにぎりしめ、絃が掌にくいこんでくるのを感じた。ついでかれは、探り求めてくる手のかなたにあるみんなの顔を見た――かれらは目を大きくひらき、驚きを浮かべていた。
やがて、かれらは手を引いた。死者をとむらう儀式はつづけられた。だがいまは、ポウルのまわりに、かすかながら距離があけられていた。群衆は、尊敬されるべき孤立ということでかれを讃えようと離れたのだ。
儀式は低い声の詠唱で終わった。
「満月がそなたを呼ぶ……
シャイ・フルドをそなたは見るであろう
暗い空、夜を赤く染め
血ぬられた死にそなたはみまかった。
われらは月に祈る
月は丸い……
われらとともに、幸運は
いつの日か豊かにもたらされるだろう
われらが求めるものは見つけられるのだ
かたい土の地面におおわれた土地に」
ふくらんだ袋がスティルガーの足もとに残った。かれはひざまずき、両の掌をそれにあてた。
だれかがそのそばへ近づき、すぐうしろにひざまずいた。ポウルは、頭巾で蔭になっている中に見えているのがチャニの顔だとわかった。
チャニは口をひらいた。
「ジャミスはわが種族の水を、三十三リットルと七と三十二分の三ドラクム持っていました……そのことをいまセイヤディナの前で感謝します。エッケリ・アカイリ、これは水、ポウル・ムアドディブの名前でそそがれるべきもの! キヴィ ア・カヴィ、それより多きことはなく、ナカラス! ナケラス! はかられかぞえられるべきもの! ユケイア・アン! われらが友……ジャミスの鼓動により、ジャン・ジャン・ジャン……」
とつぜん洞窟の中にみなぎった深い沈黙の中で、チャニはふりむき、ポウルを見つめた。やがて彼女はいった。
「われらが焔たるところ、なんじは石炭たるべし。われが露《つゆ》たるところ、なんじは水たるべし」
「バイラ・カイファ」
と、群衆は唱和した。
チャニは言葉をつづけた。
「ポウル・ムアドディブにこの分量は行く……願わくばかれがそれをわれらがために守り、不注意のために失わざるよう保ちつづけることを。願わくばかれが生きるかぎり、それを種族のために使わんことを」
「バイラ・カイファ」
と、群衆は唱和した。
“ぼくはその水を受け取らなければいけないんだ”
と、ポウルは考えた。ゆっくりとかれは立ち上がり、チャニのそばへと進んでいった。スティルガーはうしろに下がって場所をあけ、かれの手からおだやかにバリセットを取った。
「ひざまずいて」
と、チャニはいった。
ポウルは膝をついた。
彼女はかれの両手を水袋にみちびき、そのぶよぶよしている表面におさえつけた。
「われらはこの水をそなたにあずける。ジャミスはこの中より去った。平和のうちにこれを受けよ」
そういい終わると彼女はポウルの手を引いて立ち上がった。
スティルガーはバリセットをもどし、片手の掌に金属製リングの小山をのせてポウルのほうにのばした。ポウルはそれを眺め、サイズがいろいろ異なっていることと、照明球の光がどんな具合に反射しているかを知った。
チャニはいちばん大きなリングを取って、指にかけた。
「三十リットル」
と、彼女はいった。ひとつ、またひとつ、彼女はほかのリングを取ってゆき、それらをポウルに見せながら勘定した。
「二リットル、一リットル、それぞれ一ドラクムの|ウォーターカウンター《*》が七個、三十二分の三ドラクムのウォーターカウンターが一個。合わせて……三十三リットルと七と三十二分の三ドラクム」
彼女はそれらを指にかけて、ポウルが見えるように上へかかげた。
スティルガーはたずねた。
「おまえはそれを受けるか?」
ポウルは唾をのみこみ、うなずいた。
「はい」
チャニが話しかけた。
「あとで、どんなふうにカーチフで結べばいいか教えてあげるわ。静かにしていなければいけないときに音を立てて、あなたのいるところを知られてしまわないようにね」
彼女は手をのばした。
「ぼくのかわりに……それを持っていてくれないか?」
と、ポウルはたずねた。
チャニは驚愕したような視線をスティルガーにむけた。
かれは微笑していった。
「ポウル・ムアドディブ、おれたちのウスルはまだわれわれのやりかたを知らんのだよ、チャニ。かれにそれを持ち運ぶ方法を教えてやるまでは、約束することなくウォーターリングを持っていてやることだな」
彼女はうなずき、着ていた寛衣《ローブ》の下から布《きれ》のリボンを出し、それをリングの上と下にあむようにとおし、ためらってから、それを寛衣《ローブ》の下の帯の中へつっこんだ。
“何かまちがったことをしたらしいな”
と、ポウルは思った。かれはまわりにただようおもしろそうな気分、どこかからかいはしゃいでいるようなところがあるのを感じ、予知能力で知った記憶とかれの心は結びついた。
“ウォーターカウンターを女性にさし出すこと――求愛の儀式”
「ウォーターマスター」
と、スティルガーは呼びかけた。
群衆は寛衣《ローブ》のこすれる音をひびかせて立ち上がった。ふたりの男が進み出て、水の袋を持ち上げた。スティルガーは|照 明 球《グロー・グローブ》を下ろし、それで洞窟の奥を照らしながら進みはじめた。
ポウルはチャニのすぐあとにつづき、電池で輝く明かりが岩の壁を照らし、影がおどる有様をながめ、黙りこくったまま進んでゆく群衆の精神状態が、期待にたかまっているのを感じた。
ジェシカはおおぜいの手に何度も引っぱられて群衆のうしろにはいり、おしあう体にとりまかれて、一瞬の恐怖をおさえつけた。彼女はさきほどおこなわれた儀式の断片がわかり、言葉の中にあったチャコブサとボタニ・ジブをとぎれとぎれに理解し、これらの見たところ単純な行事がいつ爆発してしまうかわからない野生の暴力を秘めていることを知った。
“ジャン・ジャン・ジャン……行け・行け・行け”
それはまるで、すべての禁制をなくした子供の遊戯が大人の手ににぎられているもののようだった。
スティルガーは、黄色い岩壁のところでとまった。そして、つき出た岩を押すと、壁が音もなくかれから離れてゆき、不規則な割れ目をみせて開いていった。かれは先頭に立って、暗い蜂の巣状の格子《こうし》をとおって進み、ポウルがそこにはいると、ひんやりとする空気が流れてきた。
ポウルは問いかけるようにチャニを見つめ、彼女の腕を引っぱった。
「空気が湿っているみたいだ……」
「しーっ」
と、彼女はささやいた。
しかし、かれらのうしろにいた男が話しかけた。
「今夜は、トラップに水分がたっぷりあるからさ。ジャミスが満足してるってことじゃないのか……」
ジェシカは秘密のドアを通りぬけ、それが背後でしまる音を聞いた。彼女は、フレーメンの一行が蜂の巣状の格子を通るときどれほど足の運びを遅くするかに気づき、その前を通るとき空気がじっとりと湿っているのを感じた。
「|風 水 弁《ウィンド・トラップ》だわ! かれらは地表のどこかにウィンド・トラップを隠しており、より温度が低いこの部分へ空気を送りこんで、その水分を凝縮させているのね!」
かれらはまた、格子《こうし》細工《ざいく》が頭上にある別のドアを通りぬけ、そのドアはかれらのうしろでしめられた。かれらの背後から吹いてくる空気には、ジェシカとポウルにもはっきりと感じられる胸をおどらされるほどの水分がこもっていた。
群衆の先頭にいるスティルガーが両手に持っている|照 明 球《グロー・グローブ》は、ポウルの前につづいている人々の頭より低いところに下がっていた。そのうちにかれは、左のほうへカーブしながら下りている階段が現われたことを知った。階段をうねうねと蛇行しながら下がってゆく人々の動きと、頭巾をかぶった頭の波に、照明球の光が反射していた。
ジェシカはまわりの群衆にみなぎってきた緊張を感じ、沈黙していることが圧力となり、緊迫感をともなって彼女の神経をはりつめさせた。
階段は終わり、群衆はまたも別の低いドアを通りぬけた。照明球の光は、天井がカーブしながら高くのびている大きな空間にすいこまれた。ポウルはチャニの手が自分の腕にかかっているのを感じ、冷たい空気の中でかすかに水がしたたり落ちている水の音を聞き、そして、水が存在する伽藍《がらん》の中のフレーメンに完全な静寂さが訪れた。
“ぼくはこの場所を、夢の中で見た……”
と、かれは考えた。
その思いは、満足させられるものでもあり、欲求不満をおぼえさせられるものでもあった。この進路をまっすぐ進んでいったどこかで、狂信者の群がかれの名前のもとに宇宙をかけめぐり、その通る道を流血でいろどっているのだ。緑と黒の軍旗は恐怖のシンボルとなるのだ。兇暴な軍団は雄叫《おたけ》び「ムアドディブ!」と、どなりながら戦闘に突入してゆくのだ。
かれは思った。
「こんなことになってはいけないんだ……そんなことをおこさせるわけにはいかない」
しかしかれは、自分の心の中に大きく浮かんでくる民族意識、自分自身のおそろしい目的を感じることができたし、小さなものではそのジャガーノート(インド神話、クリシュナ神像をのせた山車、それにひき殺されると極楽へ行けると信じられた)をそらせられないとわかっていた。それは重さと惰性をあつめていた。もしかれがこの瞬間に死んだとしたら、それはかれの母親とかれのまだ生まれていない妹を通じてつづけられるのだ。ここにいま集まっているこの群衆のすべて――かれ自身とかれの母親をふくめて――が死んだところで、それをとめることはできないのだ。
ポウルはまわりに視線をうつしてゆき、群衆が一列にひろがってゆくのを見た。もとからある岩をけずって作った低い障壁にむかって、みんなはかれを押していった。その障壁のかなた、スティルガーのかかげている照明球の光の中に、ポウルはしずまりかえった暗い水面を見た。それは影の中へとひろがっていた――深く、そして黒く――遠くのほうにある壁はかすかに見えるだけで、百メートルも離れているものと思われた。
ジェシカは、乾燥してつっぱったようになっていた両頬と額の皮膚が、湿気のためにゆるんでくるのを感じた。水のプールは深かった。彼女はその深さを感じることができ、その中に両手をつけてみたいという欲望をおさえつけた。
水音が左のほうでひびいた。そちらを見おろすと、フレーメンたちが影のようにならんでおり、スティルガーのそばにポウルが立ち、ウォーターマスターがかついできたものの中身をフローメーターをとおしてプールの中にそそぎこんでいた。メーターはプールのふちの上に、丸い灰色の目のように見えていた。水がその中を流れてゆくにつれて、光っている針が動き、それが三十三リットルと七ドラクムそれに三十二分の三ドラクムのところでとまるのがわかった。
“すばらしく正確な水のはかりかた”
と、ジェシカは思った。そして彼女は、メーターのおかれている岩のくぼみに、水が流れおわったあと、水分の痕跡も残っていないことに気づいた。水はそこの岩盤にくっつくことなく流れ去っていた。彼女はその簡単な事実に、フレーメンの技術工学にたいする大きな手がかりを見つけた。かれらは完全主義者なのだ。
ジェシカは障壁にそってスティルガーのそばへ歩いていった。なにげなさそうにではあるが、丁重《ていちょう》に道があけられた。彼女はポウルの目に考えこんでいるような表情があるのを知ったものの、この巨大なプールの持つ謎に心の大半をうばわれた。
スティルガーは彼女を見て話しかけた。
「われわれのあいだに水を必要とするものがいたが、その連中もここへ来て、この水にふれようとはしなかった。あんたは、そのことがわかるかね?」
「わたし、信じますよ」
と、彼女は答えた。
かれはプールを眺めた。
「ここにわれわれは三千八百万デカリットル以上の水を有している……リトル・メイカーから遮断し、隠され、温存しているんだ」
「宝物蔵というわけね」
スティルガーは照明球をかかげて、彼女の目をのぞきこんだ。
「宝物より偉大なものだよ。われわれはこういう隠し場所を何千も持っている。その場所をみな知っているものは、われわれの中でもほんの少数だ」
かれは頭を一方にかしげた。照明球がその顔と髭に黄色い影をつくる光をなげかけた。
「あれが聞こえるかね?」
かれらは耳をすませた。
|風 水 弁《ウィンド・トラップ》から凝縮されてしたたり落ちる水が、部屋の中をその霊気でみたしていた。ジェシカは、全群衆がうっとりと聞きほれている有様を見た。ただポウルだけが、それから超然と離れているようだった。
ポウルにとって、その音はまるで現在という時間が刻々とすぎ去ってゆくのを示しているようだった。かれは心の中を時が流れてゆき、その瞬間瞬間は二度ととりもどせないものであることを感じることができた。決断をくだす必要があるのを感じはしたものの、動くこともできないほどの無力感をおぼえていた。
「どれほどわれわれが必要とするかの量は、すでに計算されている。その量を手に入れたとき、われわれはアラキスの地表を変えるのだ」
それに答えるおし殺したようなつぶやきが群衆からひびいた。
「バイラ・カイファ」
あとをつづけるスティルガーの声は、しだいに力強くなっていった。
「われわれは、砂丘を植物のおいしげる下に閉じこめよう……われわれは、樹々と下生《したば》えのある土に水を結ぼう」
群衆は声を合わせた。
「バイラ・カイファ」
「年ごとに極北の氷は退いてゆく」
と、スティルガーはいい、
「バイラ・カイファ」
と、かれらは答えた。
「われわれはアラキスを故郷と呼べる世界とするのだ……極地に溶解用レンズをおき、温帯には多くの湖を作り、そしてメイカーと、その香料《スパイス》のためには深い砂漠だけを」
「バイラ・カイファ」
「そして、何人《なんぴと》といえども永久に水の不足に悩むことはなくなるのだ。井戸から、池から、湖水から、運河から、水をくみ取るのはその人の思うがままとなろう。水はクァナットを流れくだり、われわれの植物を灌漑することになるのだ。それはだれもが取れるように存在することとなろう。その水をくもくまないも、その人の自由となるのだ」
「バイラ・カイファ」
ジェシカはそれらの言葉に宗教的儀式を感じ、自分自身も本能的に畏敬の反応をおこしていることに気づいた。
“かれらは未来と手を結んでいる……かれらには登るべき山があるんだわ。これは科学者のいだく夢……そしてここにいる単純な人々、これらの貧しい人々は、その夢に胸をふくらませている……”
彼女の想いは皇帝の惑星学者、リエト・カインズ、土人になってしまった男にむけられた――そしてジェシカは、かれにたいする驚きをおぼえた。これは男の魂をゆすぶりつかむ夢であり、彼女はその中にこの生態学者の手がはいっているのを感じることができた。これは男たちがそのために喜んで死ぬような夢だった。
それは彼女が息子も必要としていると感じていたもうひとつの大切な要素だった。めざす目標を持った人々――そういった人々は、白熱した感情や狂信にたやすく感染されやすい。かれらは、ポウルの地位を奪いかえすために、剣のように使うことができるかもしれないのだ。
スティルガーは言葉をつづけた。
「われわれはもうここを離れ、そして第一の月がのぼるのを待とう。ジャミスがとどこおりなく旅路についたとき、われわれは家へ帰ろう」
去りたくない気持をつぶやきながらも、群衆はかれのあとにつき、水との障壁にそってもどり階段を上がっていった。
そしてポウルは、チャニのうしろを歩きながら、重要な時機にすぎ去られてしまったことを感じた。自分が根本的に必要な決断を逃してしまい、いまは自分自身の謎の中にとじこめられてしまったことを。
かれは自分が以前にこの場所を見たことを、遠く離れているカラダンで切れぎれに見た予知の夢の中でこれを経験したことをおぼえていたものの、かれが見ていなかった場所のこまかい部分はいまおぎなわれたのだった。かれは自分にあたえられている能力の限界について、新しい驚きの気持をおぼえた。それはまるで自分が、時という波を越えて走っており、あるときはその谷間に、あるときはその頂にあり――そして、まわりのいたるところに別の波がいくつも上がっては落ち、その表面にあるものを見せてはまた隠しているようだった。
そのすべてをとおして、かれの行く手には激しいジハドが、その暴力と殺戮が、ぼんやりと見えていた。それはちょうど、うちよせる波の上につき出ている岬のようだった。
群衆は最後のドアを通りぬけて、もとの洞窟本体にもどった。ドアは密封された。明かりは消され、洞窟の出入口からは覆いが取りのぞかれ、砂漠の上をおおってきた夜闇と星々を見せた。星々はくっきりと輝き、近くに見えた。彼女はまわりで群衆が動きまわっているのを感じ、どこかうしろのほうでバリセットの調子が合わせわれる音を聞き、ポウルの声がハミングしはじめたのを知った。その声にこめられている陰気なもの悲しさが彼女には気に入らなかった。
チャニの声が洞窟の闇の中から彼女の想いをさえぎった。
「話して、あなたが生まれた世界の水のことを。ポウル・ムアドディブ」
「またこんどね、チャニ。約束するよ」
“なんという悲しそうな口調……”
チャニはいった。
「それ、いいバリセットね」
ポウルは答えた。
「ほんとにいいものだよ……ぼくが使うとジャミスはいやがると思うかい?」
“かれは死者のことを|現在の時制《プレゼント・テンス》で話しているわ……”
と、ジェシカは考え、そのことに心配をおぼえた。
男の声が聞こえた。
「あいつは音楽が大好きだったんだ、ジャミスはな」
チャニは哀願するようにいった。
「では、あなたがたの歌を何かうたってみて」
ジェシカは考えた。
“あの女の子の声には、女としての魅力が驚くほどあるわ。この種族の女に気をつけるようにってポウルにいわなければ……それも急いで”
ポウルはいった。
「これはぼくの友だちが作った歌なんだ……もう死んでいると思うが、ガーニィという名前でね。かれはこれを、夕べの歌と称していたよ」
群衆は静かになり、バリセットを高く低くかきならしながらポウルがあまいボーイ・テナーでうたいはじめた声に耳をすませた。
「残り火を見ているように
この清らかな時間……
金色の光にかがやく太陽は
夕闇がそっと訪れると
消えてゆく
追いつめられたジャコウジカが
思い出の仲間とは
なんという狂った感じ」
ジェシカは、その歌に現わされた音楽は胸で感じた――異教徒的なその響きは、とつぜん自分というものを強く意識させ、彼女自身の肉体とその要求するところを感じさせた。彼女は、じっと静かに聴き入った。
「夜のしじまに真珠の香炉が匂う
死者へのミサか……
夜はぼくらのためのもの!
そのとき
きみの目は光をたたえ
なんという喜びがかけぬけることか
どれほどまでに花を散りばめた恋が
ぼくらの胸を引きつけ……
どれほどまでに花を散りばめた愛が
ぼくらの望みを満たしてくれることか」
そしてジェシカは、最後の音とともにあたりの空気を満たした余韻のような静けさを聞いた。
“なぜわたしの息子は、あの女の子にラブ・ソングを歌うのかしら?”
と、彼女は自分の心にたずね、鋭い恐怖をおぼえた。彼女は生命そのものがまわりに流れるのを感じたが、それを自由にあやつることはできなかった。
“なぜかれは、あの歌を選んだのかしら? 本能はときに、正しいことがあるもの。なぜかれはこんなことをしたのかしら?”
闇の中に黙って坐るポウルの意識を占めているのは、たったひとつ、凍りつくような考えだった。
“母上はぼくの敵だ。彼女はそのことを知らないが、そうなのだ。彼女はジハドをもたらそうとしている。彼女はぼくを生み、ぼくを訓練してくれた。彼女はぼくの敵なのだ”
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進歩という概念は、われわれを未来の恐怖から遮断するための保護メカニズムとしての作用をする。。
――イルーラン姫による“ムアドディブの片言隻語集”から
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その十七回目の誕生日に、ファイド・ラウサ・ハルコンネンは、|一族の競技会《ファミリー・ゲーム》で、かれにとって百人目の奴隷闘士を殺した。皇室からのオブザーバーとして伯爵《カウント》フェンリングとその夫人は、この催しのためにハルコンネン家の故郷世界《ホーム・ワールド》であるジェディ・プライムに来訪し、その日の午後、三角形をした闘技場の上にある貴賓席にハルコンネンに近い血筋の人々と坐ったのだ。
|ナー《*》・男爵《バロン》の誕生日を祝い、ハルコンネン家の全員と臣下のものにファイド・ラウサが世継ぎであることを知らしめるために、その日、ジェディ・プライムは休日とされた。
老男爵は正午から正午まで労働を休みとするよう命令し、|一家の町《ファミリー・シティ》ハルコに場ちがいな陽気さを作り出そうとする努力がつづけられた。すべての建物に旗がひるがえり、宮廷道路《コート・ウェイ》にそった壁には新しくペンキがふきつけられた。
しかし大通りからそれると、塵芥がつもっており、ざらざらになった褐色の壁面が街路の暗いぬかるみに反射し、人々が人目をさけるようにしてこそこそと急ぎ足で歩いていることなどに、伯爵《カウント》フェンリングとその夫人は気づいた。
青い壁にかこまれた男爵の城内には、恐ろしいまでの完全さがあったものの、伯爵とその夫人には、それだけの代価が支払われているとわかった――警備兵がいたるところにおり、いやによく光っているかれらの武器は、それらがつねに使われていることを、心得のある人間には告げていたのだ。
城内にあってさえ、ひとつの区域からひとつの区域へとつづくふつうの通路に、検問所がいくつもあった。召使いたちは、かれらが兵士としての訓練をつんでいることを現わしていた……かれらの歩きかたに、かれらの両肩の張り具合いに、そしてかれらがどんなときも監視をおこたっていないその目つきに。
「だいぶ困っているようだな……男爵はやっと、公爵《デューク》レトを殺してしまったことにたいして本当にどれだけの代償を払うことになるか、わかりはじめたわけさ」
と、伯爵は夫人に、かれらの秘密の言葉でささやきかけ、夫人は答えた。
「いつかあなたに、不死鳥の伝説をくわしく話さなければいけませんわね」
かれらは、一族の競技会に行くのを待って、城内のレセプション・ホールにいた。それほど大きなホールではなかった――ほぼ、長さ四十メートルに、幅はその半分ほど――しかし、まわりにある飾り柱は鋭い錐《きり》状をしており、天井もすこしアーチになっていて、ずっと広い場所とおもえるようになっていた。
「あ、あ、やっと男爵が来たぞ」
と、伯爵はいった。
男爵は、サスペンサーで浮揚されている体の重みを進めてゆく必要から生じた、あの奇妙なよたよたとすべるような歩きかたで、長いホールをやってきた。かれの顎は上下にぶよぶよと踊っていた。オレンジ色の寛衣《ローブ》の下で、サスペンサーがゆれ動いていた。その両手には指輪がいくつも輝き、寛衣《ローブ》に織りこんである|オパファイア《*》が光った。
男爵の肘のすぐうしろを、ファイド・ラウサが歩いていた。かれの黒い髪は、きっちりした小さな輪でいくつにもとめられ、それは陰気な目つきとくらべると、おかしいほど陽気に見えた。かれは体にぴったりと合ったチュニックに、同じくぴったりしたベル・ボトムのズボンという服装で、その小さな足にはやわらかい底のスリッパをはいていた。
レイディ・フェンリングは、この青年の格好とチュニックの下にうかがわれるひきしまった筋肉を見て、考えた。
“太りたくはないと思っている青年だわ、この子は”
男爵はかれらの前でとまると、これは自分の所有物といった態度でファイド・ラウサの腕をつかんで話しかけた。
「これがわしの甥、ナー・男爵《バロン》、ファイド・ラウサ・ハルコンネン」
それからかれは赤ん坊のような顔をファイド・ラウサにむけていった。
「こちらはわしが話していた伯爵《カウント》ならびにレイディ・フェンリング」
ファイド・ラウサは、こういう場合に求められている礼儀どおりに頭を下げた。かれはレイディ・フェンリングを見つめた。金色の髪で、ほっそりとしており、流れるような淡褐色のガウンにつつまれた完全な姿態――装飾は何ひとつない単純なすばらしさ。灰色がかった緑の両眼が、かれを見返した。彼女にはベネ・ゲセリットに見られるあの清らかな落ち着きがあり、そのことでこの青年はなんとなく心が乱れるのをおぼえた。
「ふーむ[#伯爵の発言内の先頭以外の「む」は原本ではすべて小さな文字になっているが再現できない]・むむむむむ・ふーむ・むむむむ」伯爵はそういいながら、ファイド・ラウサを見つめた。「これは、ふーむ・むむむむ・すっきりした青年ですな、ああ……ふーむ・むむむむ……おまえ?」伯爵は男爵に視線をむけた。「親愛なる男爵よ、あなたはこのすっきりした青年にわれわれのことを話したといわれましたな。いったいどういうことを話されたのです?」
「われらが皇帝もあなたには大きな敬意をはらっておられるってことをですよ、伯爵《カウント》フェンリング」
と、男爵は答え、そして考えた。
“こいつに気をつけるんだぞ、ファイド! 兎のそぶりを見せる殺し屋なんだ……これがもっとも危険な種類なんだぞ”
「もちろんそうでしょうな!」
と、伯爵はいって、夫人に微笑をむけた。
ファイド・ラウサは、この男の身ぶりと口のききかたから、まるで侮辱されているように感じた。もうすこしはっきりしたことを口にすれば警告しなければいけなくなる寸前のところでやめているのだ。かれは注意力を伯爵に集中した。小さな男だし、弱そうな顔つきだ。顔はイタチのようで、大きすぎるほどの黒い目がついていた。こめかみのあたりは白くなっている。そしてかれの動き――かれは一方へ片手を動かすか、顔をむける、それからそれと反対のほうにむかって話す。その動きを追うのはむずかしいことだった。
「うーむ・むむむむ・ああ・ぁ・ふーむ・むむ、あなたはまったく、むーむ・むむ、実に珍しいほどすっきりした世継ぎを見つけられたものだな」と、伯爵は男爵の肩にむかって話しかけた。「ぼくは……ああ、あなたにお祝いを申しあげよう、ふーむ・むむ、あなたのすばらしい、ああ、あ、世継ぎに。ふーむ・むむ、年上の者としてな」
「これはまことにご親切なことだ」
と、男爵はいって頭を下げたが、ファイド・ラウサじゃ伯父の目がその礼儀正しさと合っていないことに気づいた。
伯爵はいった。
「あなたが、むーむ・むむ、皮肉ないいかたをするときは、ああ、あ、あなたが、ふーむ・むむむむ、深いことを考えておられるということだな」
ファイド・ラウサの心の中に想いが走った。
“こいつはまたやっている……侮辱しているような口のききかただが、決闘を申し出て胸をすっきりさせたいが、それほどのところはなし……”
その男の、うーむ・むむ。あーぁぁ・ふーむ・むむむむ……を聞いていると、ファイド・ラウサは頭をどろどろの粥《かゆ》につっこまれているような気分がした。かれは注意をレイディ・フェンリングにもどした。
彼女は口を開いた。
「わたしたち、ああ、このお若いかたのお邪魔をしているんじゃありません? このかたは今日、闘技場に出られることになっているとうかがいましたわ」
“帝国に女は多いが、この人は美人だ!”
ファイド・ラウサはそう考えてから話しかけた。
「今日は、あなたのために殺しましょう、マイ・レイディ。お許しがあれば、闘技場においてあなたに捧げます」
彼女はかれの見つめる目に清らかな視線を返したが、答える声には鞭のような響きがあった。
「それはお許しできません」
「ファイド!」
と、男爵は呼びかけ、そして考えた。
“この餓鬼が! この油断ならぬ伯爵に決闘を申しこませたいつもりなのか?”
しかし伯爵はただ微笑しただけで、つぶやいた。
「ふーむ・むむむむ・うーむ・むむ」
男爵はいった。
「本当におまえは闘技場へ行く用意をしなければいけないぞ、ファイド……ゆっくり休息して、つまらんまちがいをおかさんようにしなければな」
ファイド・ラウサは恨みに顔をどす黒くして頭を下げた。
「なにごともおっしゃるとおりに、伯父上」
かれは伯爵《カウント》フェンリングにうなずいてみせた。「サー」夫人には「マイ・レイディ」そしてかれはふりむき、大股にホールから出てゆき、二重のドアの近くにむらがっていた一族のうちでも順位の低い連中には、目もくれようとしなかった。
男爵は溜息をついた。
「あいつはまだほんの子供なので……」
伯爵は答えた。
「うーむ・むむむむ、ああ、そのとおりですな、ふむむむ」
そしてレイディ・フェンリングは考えていた。
“あれが教母さまのいわれた青年ということかしら? わたしたちが保存しなければいけない血筋というのは、あれなの?”
男爵は話しかけた。
「われわれのほうは、闘技場へ行くまでに一時間以上ありますが……そのあいだにすこし話しませんか、伯爵《カウント》フェンリング」かれは大きな頭を右へかたむけた。「相談しあうべき事件もちかごろ相当ありましたからな」
そういって男爵は考えた。
“さてと、これで皇帝の使い走りが、どんなメッセージを携えてきているにしろ、どれほど納得のいくように説明できるかどうかを見られるわけだ。すぐ口に出してしまうような馬鹿げたことをすることなしに……”
伯爵は夫人に話しかけた。
「うむ・むむむ・ああ・ふふふ・ふむ・むむむ、おまえ、むむむむ、ぼくらをふたりだけに、ああ・ぁぁぁ、してくれるかね?」
「毎日、毎時間、いつかはきっと変わったことがおこるものね……むーむ・むむむ」
彼女はそういうと、むきを変える前に甘ったるい微笑を男爵にむけた。長いスカートに衣《きぬ》ずれの音をさせながら、彼女はホールの端にある二重ドアにむかって堂々と背をまっすぐのばして大股に歩いていった。
男爵は、彼女が近づいてゆくとそこにいた|小 公 家《ハウス・マイナー》の連中の会話がどんなふうにとまり、どんな目つきで見送るかに気がついた。
“ベネ・ゲセリット! あんな連中をひとり残らず殺してしまえば、この宇宙もずっとよくなるんだ!”
と、男爵は考え、そしていった。
「ここと左がわの二本の柱のあいだに|沈 黙 の 円 錐《コーン・オブ・サイレンス*》があります……そこなら、盗み聞きされる恐れなしに相談できますからな」
かれはよたよたとした足取りで音響を消す力の場へ案内してゆきながら、城内のいろいろな音がしだいに鈍く遠くなるのを感じた。
伯爵は男爵とならんで歩き、それからふたりとも壁のほうにむいて唇を読まれないようにした。
「われわれは、あなたがサルダウカーに命令してアラキスを離れさせたやりかたに満足しておりませんぞ」
と、伯爵はいった。
“まっすぐ要点にはいってきたぞ!”
男爵はそう考えながら答えた。
「あれ以上サルダウカーが長いあいだとどまっていることはできなかったのです。さもないと、皇帝陛下がどんなふうにわしを援助してくださったかを外部の連中に知られてしまうという危険をおかすことになりましたからな」
「しかし、あなたの甥御さんのラッバンは、どうもフレーメン問題の解決にむかって充分な実力行使をおこなっていないように見えますがね」
男爵はたずねた。
「皇帝陛下は何をお望みになっておられるのです? アラキスのフレーメンは、もうひと握りほどしか残っておりませんぞ。南部の砂漠は居住不可能なところであり、北部砂漠は定期的にわがほうのパトロール隊で掃討されているのですからな」
「だれがそんなことをいったのです、南部の砂漠が居住不可能だなどと?」
「皇帝陛下直属の惑星学者がそういったのですよ、わが親愛なる伯爵」
「カインズ博士は死にましたがね」
「ああ、そのとおり……不幸なことでしたな」
伯爵はいった。
「われわれは南部奥地の上を飛んだものから聞いたのです……そこには植物が生えている証拠がある、とね」
「では、宇宙からの監視について協会《ギルド》が同意したというわけですかな?」
「あなたはよくご存知のはずですぞ、男爵。陛下もアラキス上に合法的な監視を置けないことは」
男爵は答えた。
「ししてわしもそうはできない。だれが、そこを飛んだというのです?」
「ああ、密輸業者ですよ」
男爵はいった。
「だれかあなたに嘘をついたのですな、伯爵。密輸業者がラッバンの部下よりうまく南部の奥地を飛ぶことなど、できない相談です。嵐、砂の静電、そのほかいろいろと、知っておられるでしょう。航路標識は立てるが早いか倒されてしまうのですからな」
「静電にいろいろなタイプのものがあることは、いずれまた別の機会に論じることにしましょう」
男爵は、むっとして反問した。
「すると、あなたはわしの報告書に何かまちがいでもあったとおっしゃるのですかな?」
伯爵はいった。
「あなたがまちがいを想像されるときは、自分を弁護する余地があり得ないというわけですかな?」
“こいつはわざと、わしの怒りをかきたてようとしているんだ”
男爵はそう思い、二度深く息をすって気持をおちつけた。かれは自分の汗の匂いを感じることができ、寛衣《ローブ》の下につけているサスペンサーの装具がとつぜん、かゆくいらだたしいものとなってきた。
「皇帝陛下が、あの妾妃と息子の死について悲しがられたとしても仕方のないこと……かれらは砂漠へ逃れ、そして嵐が襲ってきたのです」
そういった男爵に伯爵はうなずいてみせた。
「ええ、都合のいい事故は実にたくさんあるものですよ」
「そのおっしゃりかたは、どうも気に入りませんぞ、伯爵」
「怒りと暴力は別ものに願いたいですな……あなたに警告しておきますがね、ここでもしぼくに運の悪い事故がおこれば、|大 公 家《グレイト・ハウス》全体が知ることになるのですぞ、あなたがたがアラキスでやられたことを。かれらはずいぶん前から、あなたのやりかたに疑問を持っていたのですからな」
男爵はいった。
「わしのやったことで近頃のことといえば、ひとつだけですよ。思い出せるのは……サルダウカーの数個軍団をアラキスに輸送したことです」
「あなたはそれで、いつまでも陛下の弱味を握っていられるつもりなのですかな?」
「そんなことをわしが思うものですか!」
伯爵は微笑を浮かべた。
「命令を受けることなく行動をおこしたと自白するサルダウカーの指揮官を見つけることもできるのですぞ……フレーメンのならず者どもと戦ってみたいばかりにという理由でね」
「そんな自白を信じる者は多くないでしょうな」
と、男爵はいったが、その脅迫に大きなショックを受けた。“本当にサルダウカーはそこまで訓練されているのか?”と、かれは驚きをおぼえたのだ。
伯爵はいった。
「陛下はあなたの帳簿類を検査したいという希望をお持ちですよ」
「いつでもどうぞ」
「あなたは……ああ……ご異存はないといわれるのですか?」
「もちろん。わしもCHOAM公社の理事、どれほど詳しく調べられてもかまわぬようにしてあるますからな」
男爵はそういって考えた。
“こいつにまちがった告発をさせ、そしてそのことをはっきりさせるんだ。これはいい考えだぞ……おれはそこに立ち、こういうんだ……見られるがいい、わしはこのとおり不当に中傷されているのだ……と。そのあとこいつに別の告発をおこさせる。それは本物だっていいんだ。大公家のみんなは、一度まちがいをおこした告発者がおこす二度目の攻撃など信じたりしないはずだ”
伯爵はつぶやいた。
「あなたの帳簿が、どれほど詳しく調べられても大丈夫であることはまちがいありませんな」
「なぜ皇帝陛下は、フレーメンを抹殺してしまうことに、それほど関心をよせておられるのです?」
男爵がそうたずねると伯爵は肩をすくめた。
「話題をお変えになりたい、そういうわけですかな? フレーメンの討伐を望んだのはサルダウカーであって、陛下ではありませんよ。かれらは殺人の実地訓練を必要としていた……そしてかれらは、中途半端な仕事というものをいやがるのですよ」
“こいつは、血に飢えた殺し屋どもに自分が支持されていることを思い出させることで、わしをおどかすつもりだろうか?”
男爵の心の中にそんな疑問が走ったあと、かれはいった。
「ある程度の量の殺人というものは、つねに事業における片腕といえるでしょう……だが、どこかで線を引かなければなりません。香料《スパイス》の仕事をするためには、すこし残しておかなければ」
伯爵は、短く、吠えるような笑いかたをした。
「あなたは、フレーメンを飼い慣らせるとでも思っておられるのか?」
「それに足るほどの人数がいたためしはないのですよ……しかし、あの殺戮によって、わしの支配する人口の残りが不安をおぼえだしたのです。そこでわしは、アラキーン問題にたいする別の解決を考えはじめることになったわけですよ、わが親愛なるフェンリング。その霊感にたいしては、皇帝陛下のおかげと白状しなければなりませぬかな」
「ほう・ぅ?」
「おわかりでしょう、伯爵。わしは皇帝陛下の牢獄惑星サルサ・セカンダスを持っています。それがわしに考えを植えつけてくれたのですよ」
伯爵は目を光らせてかれを見つめた。
「いったいどういう関係が、アラキスとサルサ・セカンダスのあいだにあるといわれるのです?」
男爵はフェンリングの目に警戒の色が現れたのを感じて答えた。
「まだ関係はありませんよ」
「まだとは?」
「あなたも認められるでしょう、アラキスに相当量の労働力を生みだす方法があることを……あそこを牢獄惑星として使うことです」
「あなたは囚人がふえることを、前もって見こしていられるのですか?」
男爵はうなずいた。
「不安な状態があったので、わしはだいぶきびしくしめつけなければいけなかったのですよ、フェンリング。いずれにしても、あなたはご存知のはずだ、われわれ共同の兵力をアラキスへ輸送するのにあのいまいましい協会《ギルド》へわしがどれほどの大金を支払ったか。その金《かね》はどこからか[#「どこからか」に傍点]捻出しなければいけませんからな」
「申しあげておくが、陛下の許可がおりないかぎり、アラキスを牢獄惑星として使ったりしないことですぞ、男爵」
「もちろん、そんなことはしませんよ」
と、男爵はいい、フェンリングの声がとつぜん冷ややかになったことに、とまどいをおぼえた。
伯爵は同じ調子でつづけた。
「もうひとつ……われわれが知ったところによると、レトのメンタート、スフィル・ハワトは死んでおらず、あなたに傭われているそうですな」
「あれほどの男を、むだに死なせてしまうことはできませんからね」
「するとあなたはサルダウカーの司令官に嘘をつかれたわけですな、ハワトは死んだといわれたそうだから」
「ただの単純な嘘ですよ、親愛なる伯爵。わしには、あの男と長くいいあっていられるだけの度胸などなかったからです」
「ハワトが本当の反逆者だったのですか?」
「いやいや、とんでもないことですぞ! 真犯人は偽医者だったのです」男爵は頸筋の汗をふいた。「おわかりいただけないと困るのだが、フェンリング、わしはメンタートを失ったところだった。そのことはご存知のはずですな。わしはこれまでメンタートなしでやってきたことはないので、実に気持の落ちつかぬものだったのですよ」
「いったいあなたはどうやってハワトの忠誠心を変えることができたのです?」
男爵は意識して微笑した。
「かれが仕えていた公爵は死んだのです……ハワトを恐れる理由は何ひとつないのですぞ、わが親愛なる伯爵。あのメンタートの肉体には潜在的な毒物が入れられており、われわれはかれの食事に解毒剤をまぜているのです。その解毒剤がなければ、毒物の引金はひかれ……かれは二、三日のうちに死ぬこととなるのです」
伯爵はいった。
「その解毒剤を中止していただきたいですな」
「しかし、かれは役に立つ男です!」
「かれは、現在生きている人間が知っているべきでないことを、あまりにもたくさん知っているのですぞ」
「皇帝陛下は何を暴露されても恐れられないといわれたはずですが」
「ぼくを相手にくだらんことをいわれぬことですぞ、男爵!」
「そういう命令が皇帝陛下の御璽《ぎょじ》をともなってもたらされたときは、わしもそれに従いましょう……だが、あなたの気まぐれとなれば従えませんな」
「あなたはこれを、ぼくの気まぐれと思われるのか?」
「そのほかの何と呼べるのです? 皇帝陛下もわしに借りがおありのはずなのですぞ、フェンリング。わしはあの厄介者の公爵をかたづけたのですからな」
「サルダウカーの数個軍団に助けられてね」
「いったい皇帝陛下は、ほかのどこで公家を見つけることができたといわれるのです? こんどの事件に陛下が一枚噛んでおられることを隠すための汚れた制服をお貸しできるところが?」
「陛下も同じ質問をされたがね、男爵。だがすこし誇張の仕方がちがっていたようでしたぞ」
男爵はフェンリングを見つめ、顎のあたりの筋肉がこわばっており、腹を立てないようにしようと努力していることを知ってから口を開いた。
「ほ、ほう……皇帝陛下が完全な秘密のもとにわしにたいする行動をおこせるなどと信じておられないことを、わしは望みますぞ」
「陛下はそういうことが必要にならないでくれることを望んでおられるのです」
「わしが皇帝陛下にたいする脅威となることなど、陛下が信じられるはずはないんだ!」
男爵は怒りと悲しみを鋭く声に現わし、そして考えた。
“その点ではこいつにわしを中傷させておくことだ! わしはどれほど中傷されてきたことかと胸をたたきつづけながらも、自分を玉座につけることができるのだからな”
口を開いた伯爵の声はそっけなく、どうでもいいことを話しているようだった。
「陛下はご自分の五感で知られることを信じていられますよ」
「皇帝陛下は、全ランドスラード大議会の前に、反逆者の故《ゆえ》をもってわしを告発するなどという危険をおかされるだろうかな?」
そう反問した男爵は、そうなることの希望に息をつめて待った。
「陛下は何ひとつ危険をおかされる必要などありませんでね」
男爵は表情を隠そうとしてサスペンサーに浮いている体をぐるりとまわした。
“これはわしが生きているあいだにおこり得ることだぞ! 皇帝か! こいつにわしを中傷させておくことだ! それから……賄賂と強制で、|大 公 家《グレイト・ハウス》の召集だ。かれらは小百姓が避難所へ走るように、わしの旗のもとに集まってくることだろう。ほかの何よりもかれらが恐れているのは、皇帝がサルダウカーを一時に一公家を相手として襲わせることなのだからな”
伯爵はいった。
「あなたを反逆罪で告発するなどということを永久にしないですむように。それこそ、陛下が心から望んでおられることですよ」
男爵は、自分の声に皮肉な響きをこめず、心を傷つけられた感じだけを現わすのは困難なことだと知ったが、なんとかやってのけた。
「わしはこれまでもっとも忠実な臣下であったつもりですぞ。いまいわれた言葉には、わしの表現能力では説明しかねるほど心を傷つけられたといわなければなりませんな」
「うーむ・むむむ、ああ、ふむ・むむ」
と、伯爵は答えただけだった。
男爵は背中を伯爵にむけたままうなずいていたが、やがてまた口を開いた。
「そろそろ闘技場へ行く時間です」
伯爵はいった。
「そのとおりですな」
かれらは|沈 黙 の 円 錐《コーン・オブ・サイレンス*》から出ると、ホールの端にかたまっている小公家の人々のところへ、肩をならべて歩いていった。
城内のどこかで鐘がゆっくりと響きはじめた――闘技場へ集まる時刻まであと二十分だと知らせているのだ。
「小公家の連中があなたを待っていますぞ、先導していただこうと」
伯爵は近づいてゆく人々のほうにうなずいてみせながら、そいういった。
“二重の意味か……二重の意味か”
と、男爵は考えた。
かれはホールの出口の両側を飾っている新しいお守りを見上げた――台につけた雄牛の首、それに先代公爵アトレイデ、死んだ公爵レトの父親の油絵だ。そのふたつが男爵を不吉な予感で満たした。威勢のいい父親と、かれを殺した雄牛の首――それらがカラダン城のホールと、そのあとアラキスでかけられたとき、いったいどんな想いを公爵レトの胸におこさせたのだろうと、男爵は自分の胸にたずねた。
ふたりのあとに追随者の行列がつづき、ホールから待合室――高いところに窓がならび、床は白と紫のタイルで模様が描いてあるせまい場所――にはいると、伯爵は話しかけた。
「人類には、ああ、たったひとつしか、うむむむむ、科学がありませんな」
男爵はたずねた。
「それで、その科学とはいったい何です?」
「それは、うーむむ・ああぁ、不平不満の、ああ・ぁ、科学です」
かれらのうしろに羊のような表情で、いつでも調子を合わせられるようにとつづいていた小公家の連中は、伯爵の言葉がいかにもおもしろかったかのように笑い声をあげた。だがその音に別の雑音がぶつかり混ざった。小姓たちが表のドアを大きく開くと、とつぜんモーターの爆音がとどろき、そよ風の中にかれらの三角旗をなびかせた地上車の列が見えたのだ。
男爵はとつぜん響きはじめた騒音に負けぬように声を大きくした。
「わしの甥が今日お目にかける演技に、あなたが不満をおぼえられないことを祈りますよ、伯爵《カウント》フェンリング」
「ぼくは、ああ・ぁぁ、ただ、うーむむむ、そう、ふむむむ、期待感でいっぱいですよ……つねに、あーぁぁぁ、|報 告 書《プロセス・ヴァーバル》では、うーむむ・あーぁぁぁ、原因となるところを、あーぁぁぁ、考慮しなければいけませんからな」
男爵はとつぜん驚愕に襲われ、出口から下りている階段をあやうくころげ落ちそうになった。
“プロセス・ヴァーバル! それは、帝国にたいする犯罪の報告だぞ!”
だが伯爵はそれを冗談に見せようとしてか笑い声を上げ、男爵の腕を軽くたたいた。
だが闘技場へ走るあいだじゅう男爵は、車の防弾クッションに深く腰を沈めて、横に坐っている伯爵にこっそり探るような視線をむけ、なぜこの皇帝の走り使い[#「走り使い」に傍点]が、よりにもよって小公家の連中の前であんな種類の冗談をいうことを必要だと考えたのだろうと思い迷った、フェンリングが、不必要だと感じられるようなことをするはずがないのは明らかなのだ。一語ですませられるときに二語を使ったり、あるいはひとつの文句にひとつの意味しかないようないいかたをすることもだ。
かれらは三角形をした闘技場の上にある金色の貴賓席に坐った――喇叭《らっぱ》が吹きならされ、かれらの上とまわりの階段式座席は群衆の喚声と三角旗の波で満たされた――そして、男爵に解答がもたらされた。
伯爵はかれの耳もとに体を傾けて話しかけた。
「親愛なる男爵……あなたはご存知なのでしょうな、あなたが世継ぎを決められたことにたいして、陛下はまだ公式の裁可をくだしておられないことを?」
男爵はとつぜん自分が、自身のショックで作りだされた個人用の|沈 黙 の 円 錐《コーン・オブ・サイレンス*》にはいっているような感じにとらわれた。かれはフェンリングを凝視し、その肩ごしに伯爵夫人が警備兵のあいだを縫うようにして金色の貴賓席へ近づいてくる姿にはほとんど目をとめなかった。
伯爵は言葉をつづけた。
「実を申せば今日ぼくがここへやってきた理由は、それなのですぞ……皇帝陛下はぼくに、あなたがりっぱな後継者を選ばれたかどうかを見てくるようにといわれたのです。仮面の下にある本当の人間をはっきり見せてくれるところといえば、闘技場にまさるものはありませんからな」
男爵はわめくように答えた。
「皇帝陛下はわしに、世継ぎを自由に選んでいいと約束されたのですぞ!」
「そうですかな……」
フェンリングはそういい、顔をまわして夫人を迎えた。彼女は男爵にほほ笑みかけて腰を下ろし、それから視線を下の砂をしきつめた床《ゆか》にむけた。ちょうどそこへ胴着とタイツ姿のファイド・ラウサが入場してくるところだった――右手には黒い手袋と長いナイフ、左手には白い手袋に短いナイフだ。
レイディ・フェンリングは話しかけた。
「毒には白、清らかなものには黒……変わった習慣ですのね、あなた?」
「うむ・むむむ」
と、伯爵はいった。
歓呼の声が家族の桟敷からあがり、ファイド・ラウサは立ちどまってそれを受け、上のほうにならんでいる顔を見まわしていった――従兄弟や従姉妹たち、腹ちがいの兄弟、妾妃たち、それに|アウト‐フレイン《*》の縁者たちだ。色とりどりの衣裳や旗がゆらめいているあいだに多すぎるほどの女性が口をとがらして黄色い声をあげていた。
そのときファイド・ラウサの心には、ぎっしりとつまっている観衆の顔はどれもみな、奴隷戦士のそれと同じく、かれの血を貪欲に求めているもののように思えた。もちろん、この戦いの結末についての疑いはない。ここにある危険は形式だけであって、その実質ではない。それでも――
ファイド・ラウサは二本のナイフを太陽のほうにかかげ、古い時代の儀礼にのっとり、闘技場の三つの隅にむかって敬礼をいおくった。白い手袋(白は毒のしるし)に握られた短いナイフが、まずその鞘に入れられた。つぎは黒い手袋をはめた手の長い剣が――清浄な剣のはずだが、いまは清浄ではない。今日という日をまったく一方的な勝利の日とするための秘密兵器――黒い剣に毒物だ。
ボディ・シールドの調節はほんの一瞬ですみ、かれは動きをとめて額の皮膚がひきしまることから正しく防御装置が作動していることを知った。
この瞬間にもそれなりのスリルを感じさせるものがあり、ファイド・ラウサは名優のような見事さでその時間をのばし、介添《かいぞえ》役や相手の注意をそらせる係の連中にうなずいてみせ、かれらの持っている道具を落ち着いた目つきで調べた――鋭い針が輝いている手枷《てかせ》や足枷、青い小旗のなびいている棘《とげ》や鉤《かぎ》をうえこんだ棒を。
ファイド・ラウサは音楽家たちに合図した。
ゆっくりとしたマーチが始まった。古式ゆたかに華やかな行列に合わせて音楽は朗々となり、ファイド・ラウサは一団をひきいて闘技場を横断し、伯父のボックスの下にむかい、そこで一礼した。儀式としての鍵が投げられ、かれはそれを受けとめた。
音楽はとまった。
とつぜん場内にみなぎった静寂さの中で、かれは二歩うしろに下がり、その鍵を高くかかげて叫んだ。
「わたしはこの真実なるものを……」
かれは伯父が考えているだろうことを察して、ちょっと言葉をとぎらせた。“このまだ子供の馬鹿は、やはりこれをレイディ・フェンリングに捧げて、騒ぎをおこしてしまうのだろうな!”
「……わが伯父にして保護者、男爵《バロン》、ウラディミール・ハルコンネンに捧げる!」
ファイド・ラウサは叫び終わった。
そしてかれは、伯父が溜息をつくのを見てほくそ笑んだ。
音楽は急速なマーチになり、ファイド・ラウサは部下の一団をひきいて闘技場をまわり、身分証明バンドを帯びている連中だけが通れる|ブルーデンス・ドア《*》にむかった。ファイド・ラウサは、自分がこれまで一度もブルーデンス・ドアを使用したことがなく、相手の注意をそらせる勢子《せこ》を必要としたこともほとんどないのを誇りにしていた。しかし、今日はそのどちらも使えるようになっていることがありがたかった――特別な計画というものは時によって特別な危険をはらんでいるものだからだ。
ふたたび、闘技場を静寂がおおった。
ファイド・ラウサはむきを変え、闘士が出てくる大きな赤いドアのほうにむいて立った。
特別な闘士だ。
スフィル・ハワトが考え出した計画は、賞賛に値するほど単純で有効なものだ、とファイド・ラウサは考えた。この奴隷に薬物はあたえはしない――それは危険なことだった。そのかわりに、鍵となる言葉をこの男の潜在意識にたたきこんでおき、それによって危険な瞬間にこの男の筋肉を動かさなくさせるのだ。
ファイド・ラウサは心の中でその命にかかわる言葉をくりかえし、声に出すことなく「屑野郎《スカム》!」と、唇を動かしてみた。観衆には、何かの手ちがいで薬物を飲まされていない奴隷が闘技場に入れられ、ナー・男爵《バロン》を殺すところのように見えることだろう。そして、慎重に準備された証拠のすべてが奴隷監督《スレイブマスター》にその罪を着せるのだ。
赤いドアが開きはじめることを告げる自動ドアの低い音が響きはじめた。
ファイド・ラウサは意識のすべてをそのドアに集中した。この最初の瞬間こそ重要なときなのだ。訓練を積んだ目には、飛び出してくるときの闘士の顔つきこそ、知るべきことの多くを告げてくれるのだ。
闘士のすべてはエラッカ剤で感覚をたかめられ、闘士に燃える足取りで、たちどころに相手を殺そうとして現われてくる――だが、かれらがナイフをどのようにかまえるかに注意するのだ、防御に際してどちらへ体をかわすか、観覧席にいる観衆を意識しているかどうかに。奴隷が首をかたむける格好が、反撃や偽装攻撃《フェイント》を見分けるもっとも肝要な手がかりとなるのだ。
赤いドアは勢いよく開いた。
そして、背の高い、筋肉のもりあがった男が飛び出してきた。頭は剃《そ》っており、落ちこんだ黒い目をしている。そいつの皮膚はエラッカ剤を飲んでいることを示す人参《にんじん》の色だった。しかし、ファイド・ラウサはその色が塗料によるものだと知っていた。
その奴隷は緑色の|袖なし肉襦袢《レオタード》とセミシールドの赤いベルトを着けていた――ベルトの矢は左をさしており、奴隷の左側がシールドされていることを示していた。そいつはナイフを剣のようにかまえ、訓練をかさねた戦士の足取りで、わずかに外のほうへ体を傾けていた。ゆっくりとかれは闘技場の中へ足を進め、シールドされている側をファイド・ラウサとブルー・ドアの前にかたまっている一団の連中のほうへむけた。
ファイド・ラウサを応援する刺鉤棒《とげばりぼう》を持った男のひとりが口を開いた。
「こいつの顔つきはどうも気に入りません……こいつが薬を飲まされていることはまちがいないのでございますか、殿?」
ファイド・ラウサは答えた。
「そのとおりの色をしているぞ」
もうひとりの助手もいった。
「ですが、あいつはまるで戦士のような歩きかたをしております」
ファイド・ラウサは砂地の上に二歩ほど前進して、この奴隷をじっくりと眺めた。
「あいつは腕をどうしているんでしょう?」
と、注意をそらせる係のひとりがたずねた。
ファイド・ラウサの視線は、相手の左前膊部につけられた血みどろの引っかき傷にむけられた。その視線は腕から手へと下りてゆき、その手が指さしているところにとまった。緑色の肉襦袢《レオタード》、その左側の腰に、血で染められた模様が描かれていた――くっきりと紋章化された鷹の輪郭だ。
鷹!
ファイド・ラウサはその男の暗い両眼に視線を上げてゆき、その両眼がかれを恐ろしいほどの鋭さでにらみつけていることを知った。
ファイド・ラウサの心にひとつの想いが浮かんだ。
“こいつは、われわれがアラキスでつかまえた公爵《デューク》レト麾下《きか》の戦士のひとりだぞ! これはただの単純な闘士じゃあないんだ!”
かれの全身に戦慄感が走り、ハワトはこの闘技場でおこることに別の計画を用意してあるのだろうかという疑問をおぼえた――陽動《フェイント》の中の陽動の中の陽動。そして、奴隷監督だけがその罪を着せられることになっているのだ!
ファイド・ラウサの助手長は、かれの耳もとに話しかけた。
「わたしはあいつの様子が気に入りません、殿。あいつをためしてみるためにナイフを握っている腕に刺鉤棒《バーブ》を一、二本くわしてやりましょう」
「刺鉤棒《バーブ》はおれがやる」
と、ファイド・ラウサはいった。かれは介添《かいぞえ》から二本の長い鉤《かぎ》がついた棒を受け取ると、それを持ち上げてバランスをためしてみた。これらの刺鉤棒《バーブ》もまた、麻酔薬が塗られているはずのものだった――しかし今回はそうなっておらず、助手長はそれを理由にして殺されることになるだろう。だがそれも計画の一部なのだ。
ハワトはこういっていた。
“あなたはこれで英雄になられるのだ……一対一の戦いで闘士を殺される、それも裏切行為があったにもかからわずですぞ。奴隷監督は処刑され、あなたの部下がそのあとを継ぐのです”
ファイド・ラウサは闘技場の中をもう五歩前進してゆき、そのあいだも演技を忘れることなく、奴隷を観察した。すでにかれは、上の観覧席にいる連中の中でこの闘技にくわしい者はどこか変だと気がついていることを知っていた。相手となる闘士は薬を飲まされた男にふさわしい肌色をしているが、そいつはしっかりと大地を踏みしめて立っており、ふるえてもいないのだ。闘技のファンはいまごろささやきあっていることだろう。“あの身のこなしを見てみろ。あいつは興奮していて当然なんだぜ……攻撃するにしても、退くにしてもだ。あいつは力を温存している。あいつがすきをうかがっている有様はどうだ。待っているとは変じゃないか”
ファイド・ラウサは自分もしだいに興奮してくるのを感じた。
“ハワトのやつが裏切ってもいい……おれにはこの奴隷を料理できるんだ。そして今回は、毒を塗ってあるのは長いナイフのほうで、短いほうじゃあない。ハワトでさえも、そのことは知らないんだ”
奴隷はどなった。
「おい、ハルコンネン! 死ぬ心がまえはできているのか?」
死の沈黙が闘技場にみなぎった。
“奴隷が挑戦するなどということはあり得ないのに!”
いまや、ファイド・ラウサは闘士の目をはっきりと見ることができた、そしてそこに、死をものともせぬ冷たい兇暴さが現われているのを知った。そいつの姿勢は、ゆとりを持っており、どのような行動にもうつれるように待機し、すべての筋肉が勝利をめざしていた。奴隷たちの秘密情報網は、この男にハワトの通信を伝えていた。“おまえはナー・男爵《バロン》を殺せる本当の機会をつかめたのだ”そこまでは、かれらがお膳立てをしたとおりの計画だったのだ。
かたいうすら笑いがファイド・ラウサの口に浮かんだ。かれは闘士が立っている姿勢に計画が成功することを感じて、刺鉤棒《バーブ》を持ち上げた。
「さあ! さあ!」
奴隷は挑戦し、すりよるように二歩前進した。
ファイド・ラウサは考えた。
“観覧席にいる全員が、もうまちがいなく気づいているはずだ”
この奴隷は、薬剤によって引き出された恐怖になかば不具者になっているべきなのだ。あらゆる動きは、かれの心の中にある知識――もう望みはないのだ、勝つことはできないのだ――ということを示しているべきだった。かれは、ナー・男爵《バロン》が白い手袋に握るナイフに塗るのに選んだ毒物の話を山のように聞かされているはずだ。ナー・男爵《バロン》は絶対に急速な死を他人にあたえたりしない。かれは珍しい毒物をためしてみることに喜びを感じ、身もだえして苦しむ犠牲者に現われる興味ある副作用を指摘しながら闘技場に立っていられる男なのだ、と。この奴隷には恐怖が見られた――だが、それほどひどい恐怖の表情ではなかった。
ファイド・ラウサは刺鉤棒《バーブ》を高くかかげ、まるで挨拶でもするかのようにうなずいてみせた。
闘士は跳躍した。
そいつの偽装攻撃と防御的反撃は、ファイド・ラウサがこれまでに見ただれよりも優秀なものだった。タイミングをはかったサイド・ブロウは、ほんのすこしのところでナー・男爵《バロン》の左足の腱を切り裂くところだった。
ファイド・ラウサは、奴隷の右腕前膊部に刺鉤《とげばり》のついた棒を残し、踊るような足取りで離れた。鉤《はり》は完全に肉にくいこんでおり、それは腱を引きちぎらないかぎり離れようのないものだった。
観客席からいっせいに溜息が洩れた。
その声はファイド・ラウサを意気揚々とした気分で満たした。
かれはいま、伯父がどんな気分でいるのかを知っていた。帝国宮廷からのオブザーバー、フェンリング夫妻とならんで見ている伯父がだ。この戦いに干渉があるなど考えられないことだ。この戦いぶりは証人たちの前で観察されなければいけないのだ。そして男爵が闘技場におけるこの出来事を解釈する形はひとつだけ――かれ自身にたいする脅威だ。
奴隷はうしろに下がり、ナイフを口にくわえると、腕に刺さっている刺鉤棒《バーブ》を三角旗で巻きつけた。
「きさまの針など感じないぞ!」
と、かれはどなった。またもかれは、ナイフをかまえ、左側を前にしてすり足で前進した。その体はうしろに曲げ、ハーフ・シールドによる最大の防御面積を得ようとしていた。
その行動もまた観衆の注目するところとなった、家族席から鋭い叫び声があがった。ファイド・ラウサの助手たちは、応援するべきかどうかとかれに声をかけた。
かれは手をふって助手たちをブルー・ドアのほうへ下がらせた。
“あいつがこれまで見たこともないようなショウを、おれは見せてやるんだ……みんながのんびり坐りこんで、スタイルの良さに感心したりするような生易《なまやさ》しい殺しじゃあないやつをな。これから見せるのは、あいつらが内蔵をえぐり出されるような気分になるものなんだぞ。おれが男爵になったときも、みんなは今日の日のことを思い出し、だれひとりとしておれを恐ろしく思わないでいられるやつはいなくなるんだ”
奴隷闘士が蟹《かに》のような格好で前進する前に、ファイド・ラウサはゆっくりと退いていった。かれは奴隷の呼吸する音を聞き、自分自身の汗と、空中に漂うかすかな血の匂いを嗅いだ。
休むことなくナー・男爵《バロン》はうしろへ下がりながら右へまわり、二本目の刺鉤棒《バーブ》を用意した。奴隷は横へと飛んだ。ファイド・ラウサはつまずいたような様子を見せ、観覧席からは悲鳴が上がった。
ふたたび、奴隷は跳躍した。
“畜生、なんという戦士なんだ!”
ファイド・ラウサは横へと飛びながら、そう考えた。若さの持つ機敏さだけがかれを救ったのであり、同時に二本目の刺鉤棒《バーブ》は奴隷の三角筋にくいこんでいた。
かん高い歓声が観客席から雨のようにふってきた。
“やつらはいま、おれに歓呼をおくっているんだ”
と、ファイド・ラウサは考えた。そうなるだろうとハワトがいったとおりに、歓声にむきだしの荒々しさがあるのを知った。かれらがこんなふうに家族の戦士へ歓呼の声をおくったことは、これまでにないことだった。そしてかれは、かすかに陰気な気持にかられながら、ハワトが告げたことを思い出した。
“尊敬に値すると考えた敵からは、えてして恐怖を感じやすいものですぞ”
急いでファイド・ラウサは、全員からはっきりと見られる闘技場の中心に後退した。かれは長い剣を抜き、体をかがめて、前進してくる奴隷を待ちかまえた。
相手は腕につき刺さった二本目の刺鉤棒《バーブ》をかたく巻きつけるのに一瞬をついやしただけで、かれのあとを追った。
“一族の連中におれがいまやる有様を見せてやるのだ……おれはやつらの敵なんだ。やつらにおれは、いま見るとおりのおれだと考えさせるんだ”
かれは短いほうの刃《やいば》も抜いた。
奴隷闘士は叫んだ。
「きさまなどおれは恐ろしくないんだぞ、ハルコンネンの豚め……きさまらがあたえる苦しみなど、死人も痛がるものか。きさまの助手どもに手をふれられるぐらいなら、その前に自分の刃で死んでやらあ。それも、きさまを道連れにしてだぞ!」
ファイド・ラウサはにやりと笑い、毒を塗った長い刃のほうをのばした。
「これを受けてみろ」
そう叫ぶなり、かれはもう一方の手に握った短い刃で偽装攻撃《フェイント》をかけた。
奴隷はナイフを持つ手を変え、刃をかわし偽装攻撃をかける両方ともに内側へまわりこんで、ナー・男爵《バロン》の短いナイフをたたき落とそうとした――伝統的に毒を塗ったほうとされている白手袋のほうの刃をだ。
奴隷闘士はあえいだ。
「きさまは死ぬんだ、ハルコンネン」
かれらはもみあいながら砂の上を横に動いていった。ファイド・ラウサのシールドが奴隷のハーフ・シールドとぶつかったところには、接触したことを示す青い光が輝いた。かれらのまわりの空気は、力場《フィールド》から発するオゾンの匂いに満たされた。
「きさまは、おのれの毒で死ぬんだ!」
奴隷は荒々しく叫び、白手袋の手を内側におしつけ、毒が塗られているはずのナイフをまわした。
“やつらにこれを見せてやるんだ!”
ファイド・ラウサはそう考えるなり、長い剣をふり下ろしたが、奴隷の腕につきささっていた刺鉤棒《バーブ》にあたって、なんの役にも立たぬ音を立てたのを感じただけだった。
ファイド・ラウサはそのとき、絶望に似た気持を味わった。かれは、刺鉤棒《バーブ》が奴隷闘士にたいして有利に働くことになるだろうなどとは考えてもいなかったのだ。そのうえ、こいつにはシールドまであたえていた。そして、この闘士の強さ! 短いナイフはなさけ容赦もなく内側へ曲げられてゆき、ファイド・ラウサは毒を塗られていない刃によっても人間は殺されるのだという事実を考えさせられた。
「屑野郎《スカム》!」
と、ファイド・ラウサは、あえぎながら叫んだ。
その鍵となる言葉に、奴隷闘士の筋肉は一瞬、動きをとめた。それだけでファイド・ラウサには充分だった。
かれは、長い刃がふるえるだけの空間をふたりのあいだにあけた。毒を塗られた剣尖はひらめき、奴隷の胸に赤い線を引いた。その毒物による苦悶が瞬間的におこりはじめた。その男は自分から離れてゆき、うしろへよろめいた。
ファイド・ラウサの胸に想いが走った。
“さあ、一族の者よ、見るがいい……みんなに考えさせるんだ、この奴隷が毒を塗ってあると信じたほうのナイフをまわして、おれに突き立てようとしていたことを。かれらに不審をいだかせるのだ。あれほどの戦闘能力と意思を持った戦士が、どうしてこの闘技場に現われたのかを。そして、おれの両手はどちらが毒を運ぶかわからないのだということを、みんながつねに忘れないでいるようにさせるんだ”
ファイド・ラウサは黙って立ち、奴隷の遅くなった動きを見つめていた。その男は、ためらい、気がついて動いていた。その顔にはっきりと書かれていることは、いまやどの観衆にも認められた。そこには死が描かれていたのだ。奴隷は、もはや終わりだということを知り、それがどうしてもたらされたのかということを知っていた。毒を塗った刃は、ちがうほうだったということだ。
「きさま!」
と、そいつはうめいた。
ファイド・ラウサはうしろに下がり、死がその場所を占めるのを待った。毒薬の中の麻痺成分はまだその効果を充分に発揮していなかったが、相手の動きが遅くなったことは、その効果が進行していることを示していた。
奴隷闘士は、まるで紐に引っぱられているかのようによろめきながら前進した――一度にやっと一歩を引きずりながらだ。その一歩一歩が、かれの生命に残された最後の一歩だった。かれはまだナイフをつかんでいたが、その切っさきはゆれていた。
「いつかは……おれたちの……だれかが……きさまを……殺して……やるぞ……」
と、かれはあえぎながらいった。
悲しそうにその顔がゆがみ、かれは口をふるわせた。かれは坐りこみ、ぐったりとなり、体をこわばらせ、顔を下にしてファイド・ラウサのほうへころがった。
静まりかえった闘技場の中をファイド・ラウサは前へ進み、爪先を闘士の下に入れてかれを仰向けにころがし、観衆にその顔をはっきりと見せた。そこには毒薬が筋肉をよじらせ、ふるわせている有様がくっきりと浮かんでいた。だが、ころがされた奴隷闘士の胸には、かれ自身の握っていたナイフがつき刺さっていた。
不満ではあったが、この奴隷が麻痺の進行を克服してそれだけのことをやってのけたという努力に、ファイド・ラウサは讃歎の気持をおさえられなかった。そして、その讃歎とともに、ここにこそ本当に恐るべきものがあるという自覚がやってきた。
“人間をスーパーヒューマンとさせるものこそ、恐ろしい……”
その思いにとりつかれているうちに、ファイド・ラウサはまわりの観覧席や桟敷《さじき》からとどろいてくる騒音に気がつきはじめた。かれらはまったく夢中になって歓声をあげていた。
ファイド・ラウサはふりむき、かれらを見上げた。
歓声の叫びを上げていないのは、じっと考えこんだように顎に手をあてて坐っている男爵――そして、伯爵とその夫人だけだった。そのふたりはかれを見つめており、その表情は微笑に隠されていた。
伯爵《カウント》フェンリングは夫人のほうにむいて話しかけた。
「あーぁぁ・むむ、なかなか腕の立つ、うーむ・むむむ、青年だな。え、むむ・むむ・あぁ。おまえ?」
「かれの、ああ、反射神経は実に鋭敏ですのね」
と、彼女は答えた。
男爵は彼女を眺め、ついで伯爵に視線をうつし、注意を闘技場にともどしながら考えていた。“わしの身内のものに、あれほどあやういところまで接近できるとは!”かれのおぼえていた恐怖に怒りがとって変わりはじめた。“今夜、奴隷監督《スレイブマスター》をゆっくり焼き殺すことにしよう……そして、もしこの伯爵と女が、これに手を貸していたら……”
男爵のボックスにおける会話は、ファイド・ラウサにとっては遠いところの動きでしかなく、その声はまわりのいたるところからやってくる足を踏み鳴らし叫んでいる声に消されていた。
「首を! 首を! 首を! 首を!」
男爵はファイド・ラウサがかれのほうに向くのを見て顔をしかめた。やっとの思いで怒りをおさえた男爵は、闘技場の中に倒れている奴隷の屍体のそばに立っている青年にむかって、ものうげに手をふった。
“その子に首をやれ。奴隷監督の陰謀をあばいたことでも、それだけの値打ちはあるんだ”
ファイド・ラウサは同意の合図を見て考えた。
“みんなはおれに名誉をあたえるつもりでいる。おれが何を考えているのか見ろよ!”
かれは、名誉を讃えるために鋸ナイフを持って近づいてくる助手たちに、下がれと手をふり、かれらがためらいを見せると、その合図をくりかえした。
“首だけでおれに名誉をあたえられるつもりでいるのか!”
かれはかがみこみ、闘士の両手を曲げて、つき出ているナイフの握りにまわし、ついでナイフを引き抜いて、それをぐったりとした両手に持たせたままにした。
それが一瞬のうちに終わると、かれは背をのばして助手たちを呼んで命令した。
「この両手に握っているナイフはそのままにして、この奴隷を埋葬しろ……この男は、その名誉に値する男なのだ」
金色の席で伯爵《カウント》フェンリングは男爵のほうにかがみこんで話しかけた。
「優雅なふるまい、あれこそ……真の勇者ですな。あなたの甥御さんは、勇気だけでなく気品をもお持ちだ」
男爵はつぶやいた。
「首を拒否するとは、観衆を侮辱したことになるのですぞ」
「とんでもございませんわ」
と、レイディ・フェンリングはいい、ふりむくと、まわりの観覧席を見上げた。
そのとき男爵は彼女の頸筋の線に気がついた――本当にかわいらしい筋肉の流れ――少年のそれに似ているのだ。
「かれらは、あなたの甥御さまのなさったことを喜んでいましてよ」
ファイド・ラウサの身ぶりの意味するところがもっとも遠い観客にも浸透し、助手たちが死んだ闘士をそのまま運んでいくところを人々は見つめていた。男爵はかれらの様子を見つめて、彼女が観衆の反応を正しく解釈していることに気づいた、観客たちは狂ったようになり、おたがいをたたきあい、わめき、足を踏み鳴らしていた。
男爵は疲れたような口調でいった。
「祝宴をひらくことを命じなければいかんようですな。この連中をこの状態のまま家へ帰すことはできませんよ。かれらのエネルギーを発散させなければね。わしもみんなと喜びをともにするところを見せてやらねば」
かれは警備兵にむかって合図した。かれらの上にいた従僕のひとりがボックスの上に、ハルコンネン家のオレンジ色の三角旗をふらせた――一度、二度、三度――祝宴の知らせだ。
ファイド・ラウサは刃を鞘におさめると、闘技場を横切って貴賓席の下に立ち、まだ衰えてない観衆の騒ぎの中で呼びかけた。
「祝宴ですか、伯父上?」
ふたりが話しはじめるのを見ると群衆の騒ぎはしだいにおさまっていった。
「おまえを讃えるためにな、ファイド!」
男爵はそう叫びかえした。そしてふたたびかれは、合図の三角旗をふらせた。
闘技場のまわりではブルー・バリアがはずされ、若い男たちが闘技場に飛びおり、ファイド・ラウサのほうへ先を争って走りはじめた。
伯爵はたずねた。
「あなたは|ペンタ・シールド《*》をはずせと命令されたのですか、男爵?」
男爵は答えた。
「あの少年に危害を加える者などひとりもおりませんよ。あいつは英雄なのですからな」
突進していった集団の先頭がファイド・ラウサのいところに達し、かれをみんなの肩の上へかつぎ上げると、闘技場をまわってパレードをはじめた。
「今夜のあいつは、ハルコのもっとも貧しい地域であろうと、武器もシールドもなしに歩けますな……かれらはただあいつと席を同じにできるというだけのことで、かれらの持っている最後の食べ物や飲み物でも出してくるでしょう」
そういうと男爵は椅子をおして立ち上がり、体重をサスペンサーで支えた。
「失礼をお許しねがいますぞ。すぐに目をとおさなければならぬことがありますのでね。警備兵があなたがたを城内へお送り申しあげます」
伯爵は立って会釈した。
「どうぞどうぞ、男爵。ぼくらは祝宴を楽しませていただきますよ。ぼくは、あー・ぁぁ・むむむむ、これまで一度もハルコンネンの祝宴を見たことがありませんでね」
男爵はうなずいた。
「そう……祝宴をね」
かれはふりむき、貴賓席から出口へ足をふみ出すとすぐ、警備兵にかこまれた。
警備隊長が伯爵《カウント》フェンリングに頭を下げた。
「ご命令をどうぞ、閣下?」
「ぼくらは、あーぁぁ、ひどい、うーむ・むむ、混雑が終わるのを、うーむ・むむ・待つことにするよ」
「はい閣下」
その男は頭を下げて、三歩あとへ退いた。
伯爵フェンリングは夫人のほうに向くと、またかれらだけのハミングのような暗号の言葉で話しかけた。
「もちろん、おまえも見たろうな?」
同じハミングの言葉で彼女は答えた。
「あの子は、奴隷闘士が薬を飲まされていないことを知っていましたわね。恐怖をおぼえた時がありましたけれど、驚いてはいませんでしたわ」
「計画されたものだったな……全部が演出だね」
「まちがいありませんわ」
「ハワトの匂いがするな」
彼女は答えた。
「ええ、本当に」
「ぼくは前に要求したのだよ、男爵にハワトを殺せと」
「それはまちがいでしたわ、あなた」
「いまそれがわかったよ」
「ハルコンネン家は、そう遠くないうちに新しい男爵を迎えることになりますわね」
「それがハワトの計画なればな」
「どう考えてみてもそうですわ」
「この若いほうが、ずっと御しやすい相手になるだろうな」
「わたしたちにとって……今夜以後は」
「あいつを誘惑するのは別にむずかしくないだろうね、ぼくのかわいい|繁殖用のお母さん《ブルード・マザー》や?」
「ええ、あなた。かれがどんな目つきでわたしを見たかご存知でしょう?」
「ああ、それでぼくもやっとわかったよ、なぜぼくらがあの血統を残さなければいけないのかを」
「そのとおりですわ。そして、わたしたちがかれの急所を握らなければいけないことも明らかですわね。わたし、かれのいちばん深い自我の中に必要なプラーナ・ビンドゥーの文句を植えこんで、かれを曲げることにしますわ」
「ぼくらはできるだけ早くここを離れるんだ……おまえが確実だと考えたらすぐにね」
彼女はぶるっとふるえた。
「いいわ。こんな恐ろしい場所で子供を作るなんてこといやだけど」
かれはいった。
「われわれがやることは人類のためなんだからね」
「あなたの役目は楽なものだわ」
「昔からある偏見のいくつかをぼくは克服したよ……おまえも知っているだろうが、それはずいぶん原始的なものなんだぜ」
「かわいそうなあなた」彼女はそういって、かれの頬を軽くたたいた。「あの血統を残すための確実な方法はこれしかないって、あなたもご存知のことね」
かれは乾いた口調で答えた。
「ぼくらが何をやるのかは、はっきりわかっているよ」
「わたしたち失敗できないわ」
かれは思い出させた。
「失敗という感情は、罪悪感がもとだよ」
「罪悪感なんかないわ。ファイド・ラウサの心理を暗示的に遮断して、かれの子供をわたしの子宮に作り……それで、わたしたち出発するだけよ」
「あの伯父だが……あれほど心がねじれた男を見たことがあるかい?」
「かれ、相当なすさまじさね。でも、あの甥だって同じぐらいの悪さにはなりそうだわ」
「あの伯父のおかげだな。ところでどう思う、あの子供がもっとほかの教育をされていたらどんなものになっていたか……たとえば、アトレイデ家の教えで導かれたというような場合さ」
「悲しいことね」
「アトレイデ家の息子とこちらのとの両方を助けることができていればね。ぼくが聞いていたところでは……あの若いポウルというのは、もっとも讃えるに足る少年、血統と訓練の見事な結合といえるものだったそうだ」かれは首をふった。「だが、貴族政治における不運をいたずらに嘆《なげ》いてみても仕方がないからね」
「ベネ・ゲセリットにこんな諺がありますわ」
かれは抗議するような声を出した。
「おまえたちは、あらゆるものに諺を作っているんだからな!」
「これはあなたも気に入ると思うわ。こうなの……屍体を見るまで、人を死んだと思わないこと。それでもまだまちがいを犯すことがあり得るもの」
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ムアドディブは“回想の時”においてわれわれに告げている。アラキーンにおいて必要とされるものと初めてぶつかったことこそ、かれの教育における本当の出発点であった、と。そこでかれは、気象を知るための|砂に竿を立てる《ボーリング・ザ・サンド》方法を学び、風が針のようにかれの皮膚をつつく言葉を学び、砂にちくちくした鼻をどのように鳴らし、体の貴重な水分をまわりにどうやって集め、それを守り保持するかの方法を学んだ。かれの両眼がイバドの青さを帯びるにつれて、かれはチャコブサの道を学んだのだ。
――イルーラン姫による
“人間・ムアドディブ”へのスティルガーの序文
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砂漠から二人の迷子をつれてシーチへもどるスティルガーの部隊は、うすれかかる第一の月の明かりのもと、盆地を離れて登っていった。寛衣《ローブ》をまとった人々は、<家《ホーム》>の匂いを嗅いで足をはやめた。
部隊の背後に見える夜明けの灰色の線は、かれらの地平線カレンダーの秋のまん中、キャップロックの月を示している刻み目でもっとも明るくなっていた。
風に乾ききった枯葉をシーチの子供たちが集めて崖のふもとにまき散らしてあったが。部隊の行進してゆく音は(ときおり、ポウルとかれの母親がしくじることを除くと)、夜に存在する自然の音と区別のつけようがなかった。
ポウルが汗にかたまった砂ぼこりを額からぬぐい取ると、腕を引っぱられるのを感じ、チャニのささやきかける声が聞こえた。
「わたしがいったようにするのよ。頭巾の折り返しを額にかぶるように下ろしなさいって。目だけを出しておくの。あなた、水分をむだ使いしているわ」
かれらのうしろからささやきかけた声が、ふたりに沈黙を命令した。
「砂漠が聞いているぞ!」
ずっと高いところにある岩から、小鳥のさえずる声がした。
部隊はとまり、ポウルはとつぜん緊張がみなぎるのを感じた。
岩場からかすかにたたくような音がした。砂の中で鼠がはねるより大きいとはいえない音だ。
ふたたび、小鳥がさえずった。
部隊のみんなが身じろぎをした。そしてまた、鼠が砂の上ではねたような音がした。
もう一度、小鳥が鳴き声を立てた。
部隊はまた登りはじめ、岩場のあいだの割れ目にはいっていった。フレーメンたちが息をひそめているような態度にポウルはより警戒心をたかめられ、そしてみんながこっそりとチャニに視線をむけることと、彼女が自分の殻に引きこもってしまったように見えることに気づいた。
いまは足の下が岩になっており、まわりではあわく灰色に見える寛衣《ローブ》がきれのすれる音を立てていた。そしてポウルは、みんなの規律がゆるんでいるのを感じたが、まだチャニやほかの連中の沈んだ気持は残っていた。かれは影のような形のあとにつづいた――階段を上がり、曲がり、もっと階段があり、トンネルにはいり、水分を密閉するドアを二つ通り、照明球に照らされたせまい通路にはいった。壁も天井も黄色い岩だ。
まわりのいたるところでフレーメンが頭巾をうしろに落とし、ノーズ・プラグをはずして深く息をしている姿が見られた。だれかは溜息をついた。ポウルはチャニをさがし、彼女がいなくなっていることを知った。かれは、寛衣《ローブ》を着た人々にとりかこまれ、体をおしつけられていた。だれかがぶつかってきていった。
「ごめんよ、ウスル。ひどい混雑だな! いつもこんなふうなんだぜ」
左のほうにいたファロクという名の痩せた髭面《ひげづら》の男がポウルのほうを見た。暗い眼窩と濃い青の目が、黄色い照明球のもとでは前よりも黒く見えた。
「頭巾をとりなよ、ウスル……家に帰ってきたんだぜ」
ファロクはそう話しかけ、ポウルに手を貸して頭巾の留め金をはずし、肘でおしてまわりにすきまをあけた。
ポウルはノーズ・プラグをはずし、マウス・バッフルを横におしのけた。その場所の匂いがむっとかれを襲ってきた――洗っていない肉体、回収された排泄物から抽出されたエステル、どこもかしこも人間の饐《す》えた悪臭。それ以上に漂っている香料《スパイス》と香料《スパイス》のいりまじったものの匂い。
ポウルはたずねた。
「なぜ待っているんだい、ファロク」
「教母さまを待っているんだと思うよ。通信《メッセージ》を聞いたろ……チャニは気の毒に」
“チャニは気の毒?”
ポウルは自分の心にそう問いかけ、彼女はどこにいるのだろう、この混雑の中で母はどこへ行ってしまったのだろうと、あたりを見まわした。
ファロクは深く息を吸いこんでつぶやいた。
「家の匂いだ……」
ポウルは、かれがこの腐ったような空気をよろこんでいること、その口調にはなんの皮肉もこめられていないことを知った。そのとき、かれは母が咳ばらいし、混雑した群衆の中で話しかける声を耳にした。
「あなたのシーチには、ずいぶん多くの匂いがありますのね、スティルガー。香料《スパイス》を使って多くの仕事をしているのがわかりますよ……紙や……プラスチックを作り……それからあれは、化学爆発物ではなくて?」
別の男の声がした。
「あんた、それを匂いだけでわかったといわれるんですかい?」
そしてポウルは、彼女がかれのためを思ってそういっていること、かれの鼻を襲ってくるこの悪臭に早く慣れさせようとしていることに気づいた。
部隊の先頭のほうでざわめきがおこり、息をのんだような気配がフレーメンたちのあいだを吹きぬけてゆき、そしてポウルは列の端のほうでささやいた声を聞いた。
「では本当なのか……リエトが死んだというのは」
“リエト……チャニ、リエトの娘”
ポウルの心の中にあった断片がくっついた。リエトとは、あの惑星学者のフレーメンにおける名前だったのだ。
ポウルはファロクを見てたずねた。
「カインズともいわれていたリエトのことなのか?」
ファロクは答えた。
「リエトはただひとりだけだ」
ポウルはふりむき、前にいるフレーメンの寛衣《ローブ》を着た背中を凝視した。
“では、リエト・カインズが死んだのだ”
と、かれは考えた。
だれかがささやいた。
「ハルコンネンの策略だったんだぞ。やつらは事故に見えるように細工しやがった……砂漠に捨てられ……ソプターの墜落だと……」
ポウルは激しい怒りをおぼえた。かれと母親に友情を示してくれ、かれらをハルコンネンの追っ手から救ってくれた男。砂漠に迷うふたりを捜索するためにフレーメンの部隊を出してくれた男……かれもまたハルコンネンの犠牲者となったのだ。
ファロクはたずねた。
「ウスルはまだ復讐の怒りに燃えないのか?」
ポウルが答えようとする前に、低い命令がひびき、部隊はポウルをつれてもっと広い部屋へと前進していった。ひろびろとした場所にはいったかれの前に、スティルガーと、色あざやかなオレンジと緑の布をぐるぐる体に巻きつけた衣裳の奇妙な女が立っていた。
その女の両腕は両肩までむき出しになっており、スティルスーツを着こんでいないことがわかった。彼女の肌は、うすいオリーブ色だった。黒い髪が高い前額部からうしろへと流れ、頬骨は鋭くつき出ており、濃紺の両眼のあいだに鷲鼻がのびている。
彼女はポウルのほうを向いた。その両耳には、ウォーターカウンターをとおした金色の輪がぶら下がっていた。
「こいつが、あたしのジャミスを負かしたって?」
と、女は強い口調でいった。
スティルガーは口を開いた。
「黙っていろ、ハラア。ジャミスのやったことなんだからな……あいつは、|タハッディ・アル‐バーハン《*》を求めたんだ」
「こいつはまだ子供じゃないか!」と、女はいった。女は首を激しくふり、ウォーター・リングを鳴らした。「あたしの子供たちは、ほかの子供のために父《てて》なし子にされたというのかい? 偶然の出来事だったにちがいないよ!」
「ウスル、おまえは何歳になる?」
スティルガーの質問にポウルは答えた。
「標準年で十五歳」
スティルガーは部隊の全員を見まわした。
「おまえたちの中に、おれに挑戦したいものはいるか?」
沈黙。
スティルガーはその女を見た。
「おれがこいつの不思議な方法を習うまで、おれもこいつには挑戦しないぞ」
女はかれを見かえした。
「でも……」
スティルガーはたずねた。
「おまえは、初めて会った女がチャニといっしょに教母さまのところへ行くのを見たろうな? あの女の人はアウト‐フレインのセイヤディナで、この少年の母親だ。この親子はともに、不思議な戦闘方法の名人なんだ」
「リザン・アル・ガイブ……」
と、その女はささやいた。ポウルのほうに向けたその目には畏敬の想いが浮かんでいた。
ポウルは思った。
“また伝説だ”
「そうかもしれん……しかし、そのことはまだテストされていないんだ」スティルガーはそういい、視線をポウルのほうにむけた。「ウスル、ここにいるジャミスの女と二人の息子については、これからおまえが責任を持つんだ。それがわれわれのやりかただ……かれの|ヤリ《*》……かれの住むところだが、それはおまえのものだ。かれのコーヒー・セットはおまえのものだ……それからこの、かれの女もな」
ポウルはその女性を眺めながら考えた。
“なぜこの女は良人のために歎かないのだろう? なぜぼくに憎しみをむけないんだ?”
とつぜんかれは、そのフレーメンの女性が自分を見つめて待っていることに気づいた。
だれかがささやきかけた。
「やらなきゃいけない仕事があるんだ。彼女をどんなふうに受け入れるかをいえよ」
スティルガーはいった。
「おまえはハラアを、女として受け入れるか、それとも召使いとしてか?」
ハラアは両腕を上げ、ゆっくりと片方の踵でまわった。
「あたしはまだ若いんだよ、ウスル。ジェオフといっしょにいたときと同じぐらい若く見えるっていわれてるんだ……ジェオフがジャミスに負かされたときより前のころとね」
“この女を手に入れるためにジャミスはほかの男を殺しているんだ……”
ポウルはそう考え、口を開いた。
「いま彼女を召使いとして受け入れても、将来、それを変えることはできるのか?」
スティルガーは答えた。
「おまえの決心を変えるまでに一年間ある。そのあと、この女は自由になり、望むとおりの選択を許される……あるいは、おまえがいつであろうとこの女を自由にし。本人に選ばせることもできる。しかし、一年のあいだはどんなことがあれ、この女はおまえの責任だ……そしておまえは、ジャミスの子供たちにずっとある程度の責任を持つんだ」
ポウルはいった。
「ぼくは彼女を召使いとして受け入れるよ」
ハラアは片足を踏みつけ、怒りに両肩をふるわせた。
「でも、あたし、若いんだよ!」
スティルガーはポウルを見ていった。
「人の上に立つ男にとって、用心深いというのはいい癖だな」
ハラアは同じことをくりかえした。
「でも、あたし、若いんだよ!」
スティルガーは命令した。
「黙ってろ……物にはそれ相応ってことがあるんだぞ。ウスルに住むところを見せて、着るものと休む場所の世話をするんだ」
「おーぉぉぉ!」
と、女はいった。
ポウルは彼女について最初の推定をおこなえるだけのことを観察し終わっていた。そしてかれは部隊がいらだっているのを感じ、ここで多くのことが遅らされていることを知った。かれは母親とチャニがどこにいるのかをたずねてみてもいいものかどうかと迷ったが、スティルガーも落ち着かないでいることから、そんなことはまずいだろうと考えた。
かれはハラアを見つめ、彼女の畏敬の想いを深めるために、音程《ピッチ》を高くした声をふるわせて話しかけた。
「ぼくの部屋を見せてくれ、ハラア! きみの若さについては、また別のときに話しあうことにしよう」
彼女は二歩うしろに下がり、おびえたような目つきでスティルガーを見た。
「かれ、不思議な声をしているよ」
ポウルもいった。
「スティルガー……チャニのお父さんに、ぼくは大きな恩義を受けている。もし何かぼくに……」
「それは集会で決められることだ……おまえはそのとき話したらいい」
スティルガーはそういうと、もういいというようにうなずき、ふりむくと部隊の残りをつれて離れていった。
ハラアの腕を取ったポウルは、彼女の体がひどく冷たく、そしてふるえているのを感じた。
かれは口調をやわらげて話した。
「きみに悪くはしないよ、ハラア……ぼくらの部屋を見せてくれないか」
「あんた、一年たったらあたしを追い出したりしないだろうね? ほんとのところをいえば、あたし前ほど若くないってこと、わかってるんだ」
かれは女の腕を離した。
「生きているかぎり、きみはぼくといっしょに住んでいられるよ……さあ、ぼくらの住まいはどこなんだい?」
彼女は向きを変え、先に立って通路を進んでゆき、右に曲がって広い横のトンネルにはいった。そこは、天井に間隔をおいてつけられている黄色い照明球で照らされており、石の床はなめらかで、砂はまったく残っていないようにきれいに掃除されていた。
ポウルは彼女のそばへ近づき、ならんで歩きながら鷲を思わせる横顔を眺めた。
「きみはぼくを憎んでいないのかい、ハラア?」
「なぜ、あたしがあんたを憎まなければいけないんだね?」
彼女は、横の通路についている岩棚のような段から見つめているおおぜいの子供たちにうなずいてみせた。ポウルは、その子供たちの背後に、うすいカーテンでなかば隠されていたが、大人の姿があるのを、ちらりと見た。
「ぼくは……ジャミスを負かしたんだ」
「スティルガーに聞いたところでは、儀式がおこなわれ、あんたはジャミスの友だちになった……」彼女は横目でかれをちらりと見た。「スティルガーは、あんたが死者に水分を上げたといったわ。それ、本当かい?」
「ああ」
「それはあたしがやる……やれる以上のことだよ」
「きみはかれのことを悲しまないのか?」
「悲しむときがきたら、あたしは悲しむよ」
ふたりはアーチ型になった入口の前を通った。その中をのぞいたポウルは、まぶしいほど明るい大きな部屋の中で、台座にのせた機械を相手に働いている男や女の姿を見た。かれらには、異常なほど緊迫した感じがみなぎっていた。
ポウルはたずねた。
「あそこでみんなは何をしているんだい?」
彼女はアーチを通りすぎたところでふりむいた。
「みんな、逃げ出すまでに、プラスチック工場での割当てを大急ぎでかたづけようとしているのさ。あたしたち、植付けのための夜露収集器《デュー・コレクター*》がたくさん要るからね」
「逃げ出す?」
「あの人殺しどもが、あたしたちを狩り立てるをやめるか、あたしたちの土地から追っぱらわれるまでさ」
ポウルは時間が一瞬とまったのを感じてあやうくつまずきそうになりながら、予知の夢でまざまざと知った光景、その断片を思い出した――だがそれは、動いているモンタージュのようにずれたものだった。予知による記憶の断片は、かれが思い出したとおりではなかったのだ。
「サルダウカーがぼくらを狩り立てているんだね」
「あいつらが見つけられるのは、だれもいないシーチがせいぜい一つか二つさ……そのうえ、あいつらは砂の中で死ぬ羽目になるんだよ」
かれはたずねた。
「やつらはここを見つけるだろうか?」
「たぶんね」
「それなのにまだ……」かれは、ずっとうしろに去っていったアーチのほうへ首をふってみせた。「ここで……デュー・コレクターを……作っているのかい?」
「植付けは、しなければいけないからね」
「デュー・コレクターって、どんなものなんだ?」
かれに向けた女の視線は驚愕そのものだった。
「何も習わなかったのかい、あんたのいたところでは……どこから来たのか知らないけれど?」
「デュー・コレクターについては習わなかったよ」
「まあ!」
と、彼女はいい、その一語には長い会話がこめられているように思えた。
「さあ、どんなものなんだい?」
「あんたがエルグで見かけるどんな草むらも、どんな雑草もだよ、あたしらがほったらかしにしていったらどうなると思うね? どれもが、それぞれに小さな穴を掘って優しく植えられるのさ。その穴にはクロモプラスチックのつるつるした卵が入れられる。光にあたるとそれは白く変わる。高いところから見ると、夜明けに光っているのが見られるよ。白いものは反射するからね。でも|太陽の爺さま《オールド・ファーザー・サン》が沈むと、クロモプラスチックは闇の中で透きとおった状態にもどるんだよ。そして、たいへんな速さで冷たくなるのさ。その表面は、空気中にある水蒸気をかたまらせる。その水分がしたたり落ちて、あたしたちの植物を生かしつづけるんだよ。
「デュー・コレクターか……」
と、かれはつぶやき、そのような計画に存在する単純な美しさに感心した。
彼女は、ポウルにたずねられたもうひとつのことも忘れていないよというように言葉をつづけた。
「あたし、それにふさわしい時が来たらジャミスのために泣くよ……ジャミスはいい男だったけれど、すぐに腹を立てる人だった。よく面倒を見てくれたしね。子供たちにはすばらしい父親だったよ。あの人は、あたしが最初に生んだジェオフの息子と、あの人とのあいだにできた息子とを区別しなかった。ふたりとも、あの人の目には同じだった」彼女は問いかけるような目をポウルに向けた。「あんたもそんなふうにしてくれるかい、ウスル」
「ぼくらにそんな問題はおこらないさ」
「でも、もし……」
「ハラア!」
彼女はポウルの声にこもった激しい調子に、びくりとした。
かれらは、左側に現れたアーチのむこうに明るく照らされて見えているもうひとつの部屋の前を通った。
「ここでは何を作っているんだい?」
「機織《はたお》りの機械を修繕するところさ……でも、今夜までに分解してしまわなければいけないってね」彼女は左のほうへ分かれているトンネルに手をふった。「そこを通ってゆくと、食べ物を作るところと、スティルスーツの補修工場があるんだよ」彼女はポウルを見た。「あんたのスーツは新品みたいだね。でも、もし修理しなければいけないようなら、あたしスーツをなおすのはうまいんだ。忙しいときになると、あたしその工場で働くんだからね」
ふたりの通ってゆくトンネルの両側にいくつもあいている出入口にお見かける人々の数が多くなってきた。列を作ってすれちがってゆく男や女の運んでいる包みは、ごぼごぼとおおきな音を立てており、あたりには香料《スパイス》の匂いが強く漂っていた。
ハラアは話しかけた。
「あいつら、あたしたちの水を手に入れることはできないね。あたしたちの香料《スパイス》だってさ。それだけは安心していいよ」
ポウルはトンネルの壁にある出入口を眺め、一段高くなっているところにぶあついカーペットがしかれていることや、壁に明るい色の布がかけられ、クッションがおかれている部屋があるのを見た。ふたりが近づくと出入口にいた人々は黙りこみ、ポウルをきびしい視線で見つめた。
ハラアはいった。
「みんなは、あんたがジャミスを負かしたのを変だと思っているのさ……あたしらが新しいシーチに落ち着いたら、あんたどうやらそれを証明してみなければいけないことになりそうだよ」
「殺すことはいやなんだ」
「スティルガーもそういっていたよ」
と、彼女はいったが、その声は信じていないことを示していた。
かれらの前方でひびいていたかん高い歌声がしだいに大きくなってきた。ポウルがそれまでに見かけた出入口のどれよりも広いところが近づき、かれは歩く速度を落とした。その中は栗色のカーペットがしかれ、おおぜいの子供が足を組んで坐っていた。
つきあたりの壁にかけられた黒板にむかって、サリー姿の女が立っていた。彼女は片手にペンシル・ライトを持っていた。黒板には模様がいっぱい描かれていた――円、楔形《くさびがた》や曲線、蛇のような線に四角、平行線で分けられた弧。彼女はペンシル・ライトをすばやく動かしながら模様をひとつずつさしてゆき、子供たちはそれに合わせて歌っていた。
ハラアとともにシーチの奥へ進んでゆくポウルの耳に、その歌声はしだいに小さくなっていった。
子供たちは声を合わせていた。
「木、木、草、風、山、丘、火、稲妻、岩、岩場、ほこり、砂、熱、隠れ家、暑さ、いっぱい、冬、寒さ、から、侵食、夏、洞穴、日中、緊張、月、夜、キャップロック、|砂の干満《サンド・タイド》、斜面、植付け、結ぶもの……」
ポウルはたずねた。
「こんなときにも授業をするのかい?」
彼女の顔は暗くなり、悲しみにその声は鋭くなった。
「リエトに教えられたのは、いっときだろうとあれは休むなってことよ。リエトは死んじまったけど、忘れちゃいけないことだからね。それがチャコブサの道ってもんだもの」
彼女はトンネルを左へ横切り、岩棚の上へあがるとガーゼのようなオレンジ色のカーテンをあけて横に立った。
「あんたのヤリは用意できてるよ、ウスル」
ポウルは彼女の横に上がろうとして、ためらった。かれはとつぜん、この女とふたりだけになることに不安をおぼえたのだ。自分は、考えかたと価値のエコロジーを当然とすることによってのみ理解し得る生きかたに取りかこまれているのだという考えが、かれの心に浮かんだ。かれは、このフレーメンの世界が自分を、かれらの生きかたという罠にかけようとしてさがし求めていたのだと感じた。そしてかれは、その罠に何がしかけてあるのかわかっていた――荒々しいジハド、どんなことがあろうと避けなければいけないと感じている宗教戦争だ。
ハラアはいった。
「ここがあんたのヤリだよ……何をためらっているんだね?」
ポウルはうなずき、岩棚の上にならんで立った。かれはカーテンを上げ、その繊維に金属の手ざわりがするのを感じ、彼女のあとにつづいて短い入口の通路を通り、それから大きな部屋にはいった。一辺が六メートルほどの正方形で、床にはぶあつい青のカーペットがしかれ、青と緑の布が岩の壁を隠しており、黄色に色調をあわせられた照明球が、黄色のドレープをはられた天井に輝いていた。
かもし出されている効果は、大昔のテントのそれだった。
ハラアはかれの前に立ち、左手を腰におき、ポウルをじっと見つめた。
「子供たちは友だちのところよ……みんな、あとから顔を見せるからね」
ポウルは不安な気持をおさえ、急いで部屋の中を見まわした。右側のカーテンでなかば隠されているもっと大きな部屋には、まわりの壁にそってクッションが重ねられていた。かれはエアー・ダクトから出てくるそよ風を感じ、その空気吹出口がすぐ前にあるカーテンの模様でうまく隠されていることを知った。
ハラアはたずねた。
「あんたのスティルスーツをぬぐのを手伝ってほしいかい?」
「いや……ありがとう」
「食べ物を持ってこようか?」
「ああ」
彼女は手をのばした。
「むこうの部屋を出ると再生利用室があるよ。スティルスーツをぬいだら、すっきりできるようにね」
「ぼくらはこのシーチを離れなければいけないんだっていったね。荷造りか何かしなければいけないんじゃないのかい?」
「まにあうようにやれるよ……人殺しどもはまだこの地域まではいってきていないからね」
彼女はポウルを見つめて、ためらっていた。
かれはたずねた。
「どうしたんだい?」
「あんたはイバドの目をしていないね……変だけど、魅力がないってわけでもないよ」
「食べ物を持ってきてくれ。ぼくは腹がへっているんだ」
彼女は笑顔を向けた――わかっているよといった女の笑いであり、かれは気持が落ち着かなかった。
「あたしはあんたの召使いだからね」
そういうと彼女はくるっとまわり、ぶあついカーテンをめくって出ていった。カーテンがもとどおりになる前に、せまい通路がそのむこうに見えた。
自分が腹立たしくなる想いでポウルは右側にかかっている薄いカーテンをわけて大きな部屋にはいった。かれはその場に立って、不安な想いにとらわれた。チャニはどこにいるのだろう、父をなくしたばかりのチャニは……。
“ぼくらは同じような身の上なんだ”
と、かれは思った。
外の廊下から叫び声がひびき、長く尾を引いた。その声は、あいだをさえぎるカーテンでこもって聞こえた。その声はすこし遠くなって、またくりかえされた。そして、また。ポウルは、だれかが時刻を告げているのだと気づいた。かれは時計をどこにも見かけなかった事実を考えた。
シーチのいたるところに漂っている悪臭の中から、クレオソート・ブッシュの焦げる匂いがかすかにしてきた。ポウルは自分がすでに、たまらなかったほどの悪臭に慣れてきているのだと知った。
そしてかれはふたたび母親のことを心配した……未来の動くモンタージュは彼女にどんな形で影響するのだろうか……そして、生まれてくる妹に。うつり変わりやすい時間感覚がかれのまわりで踊っていた。かれは鋭く首をふり、フレーメンたちを呑みこんでいる文化のたいへんな深さと広さを物語っている多くの証拠に注意力を集中した。
その微妙な奇妙さにだ。
かれはいくつかの洞窟とこの部屋に存在しているものを見た。それは、彼がこれまでにぶつかったいかなるものよりも、はるかに大きな違いを暗示しているのだ。
この部屋にはポイズン・スヌーパーの気配がまったくなく、洞窟都市のどこにもそれが使われている形跡はなかった。それでも、シーチの悪臭の中に毒物の匂いが感じられるのだ――強いやつが、ふつうに使われている毒物の匂いが。
カーテンの動く音が聞こえ、ハラアが食べ物を持ってもどってきたのだと思ったかれは、ふりむいて彼女を見ようとした。どころが、カーテンがよじれた下に見えたのは二人の少年だった。九つと十くらいだろう。その二人がじっとかれを見つめていた。どちらも、キンジャル型のクリスナイフを帯び、片手をその握りにかけている。
ポウルはフレーメンについて話されていたことを思い出した――かれらの子供たちは大人と同じようなすさまじさで戦うのだということを。
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両の手は動く
唇は動く――
かれの言葉から考えがほとばしる
そしてかれの目はむさぼる!
かれは、自我というひとつの島なのだ
――イルーラン姫による“ムアドディブの手引き”からの抜粋《ばっすい》
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洞窟のはるか高いところにつけられた燐光管が、おおぜいの人々で集まっている広場に淡い光を投げかけ、この岩にかこまれた場所の巨大さをそれとなく知らせていた……ベネ・ゲセリット学校の集会ホールよりも大きいわ、とジェシカは思った。スティルガーとならんで立っている壇の下には、五千人以上の人が集まっているものと彼女は推定した。
そして、まだまだ人はやってくるのだ。
広場は人々のつぶやく声で満たされていた。
スティルガーは話しかけた。
「あんたの息子は眠っているところをおこされて、ここへ呼ばれたよ、セイヤディナ……あんたが決心するとき、かれにも相談したいかね?」
「かれに、わたしの決心を変えることができるといわれるのですか?」
「もちろんだとも。あんたが口をきくときの空気はあんた自身の肺から出てきているが、しかし……」
彼女はいった。
「決心は変わりませんよ」
そう答えたものの彼女は不安をおぼえ、危険なコースから逃げ出すための口実にポウルを使うべきかどうかと思い悩んだ。まだ生まれていない娘のことも、よく考えてみなければいけないのだ。母親の肉体に危険をおよぼすものは、娘の肉体にも危険をおよぼすのだ。
巻いたカーペットをかついだ男たちが、その重さにぶつぶついいながらやってきて、壇の上に荷物を落とし、ほこりが舞い上がった。
スティルガーは彼女の腕を取り、壇のうしろの端そのものが形作っている拡声ホーンの中へと案内した。かれは、ホーンの中にある石のベンチを指さした。
「教母さまはここに坐るが、来られるまではあんたが休んでいていいよ」
ジェシカは答えた。
「わたしは、立っているほうがいいわ」
彼女は、男たちがカーペットをひろげて壇をおおうのを見つめ、それから群衆のほうを眺めた。いまや岩の床には、少なくとも一万人もの人々がいた。
そして、まだ続々とやってくるのだ。
外の砂漠ではもうすでに赤い日没になっているはずだと彼女にはわかっていたが、ここ洞窟内のホールは永遠の黄昏《たそがれ》であり、彼女が命を賭けるところを見ようと思ってやってきた群衆でうずめつくされているのだ。
彼女の右側にいる群衆のあいだに道があけられ、両側を二人の小さな男の子に守られて近づいてくるポウルの姿が見えた。その子供たちには、その仕事の重要さを意識して威張っているようなところがあった。かれらはナイフに手をかけ、左右にならんでいる人の壁をにらみつけていた。
スティルガーは話しかけた。
「いまはウスルの子供となっているジャミスの子供たちだ……かれらは真剣に護衛の仕事をやっているってわけだよ」
かれはジェシカに笑顔をむけた。
彼女はスティルガーが自分の気持を軽くさせようとしているのを知って、それをありがたく思ったが、それでも自分を待ちかまえている危険から心をそらせることはできなかった。彼女は自分の心に話しかけた。
“こうするほかに選択の余地はないんだわ……このフレーメンたちのあいだに、わたしたちの地位を確保するためには、急いで行動しなければいけないんだから”
ポウルは子供たちをあとに残して壇の上に登った。かれは母親の前で立ちどまり、スティルガーを眺め、また視線をもどした。
「何事が始まるんです? ぼくは、会議にでも呼ばれたのかと思っていましたが」
スティルガーは黙ってというように片手を上げ、左のほうにうなずいてみせた。群衆の中にもうひとつ道ができていた。そこを、妖精のような顔を悲しみでいっぱいにしたチャニが近づいてきた。彼女はスティルスーツをぬいでおり、優雅な青いサリーを着て、細い両腕をあらわにしていた。左腕の肩に近いあたりに、緑色のカーチフが結ばれている。
“緑は服喪のしるしなんだな……”
と、ポウルは考えた。
それはジャミスの二人の息子が、かれを保護者である父親として受け入れたからぼくらは緑色のきれを身につけないのだと話すことによって、間接的に説明してくれたことだったのだ。
「あなたはリザン・アル・ガイブなの?」
と、かれらはたずねたのだ。ポウルはかれらの言葉にジハドがこめられているのを感じ、自分のほうから質問することでその質問をそらした――そして二人の年上のほうが十歳になるカレフで、ジェオフの息子だと知った。年下のほうは八つになるオルロップで、ジャミスの息子だった。
自分が原因だとはいえこの二人が前に立って、好奇心を持った連中をしりぞけ。かれに考えをまとめ予知による記憶を思いださせ、ジハドを防ぐ方法を計画する時間をあたえてくれるとは、奇妙なことだった。
いま、洞窟内の壇にいる母親のそばに立って群衆を眺めながら、狂信者の軍勢が荒々しく突進するのを防げるような計画が何かあるだろうかと、かれは思い悩んだ。
壇に近づいたチャニのうしろから、すこしあいだをおいて四人の女がもうひとりの女をつり台にのせて運んできた。
ジェシカは近づいてくるチャニを無視し、注意力のすべてをつり台にのっている女性に集中した――しわだらけでしなびた老婆で、黒いガウンを着こみ、頭巾をうしろに落とし、かたく結んだしらがの髪と細い頸を見せていた。
つり台を運んできた女たちはその荷物を、下から壇の上にそっと置き、チャニは老婆に手を貸して立たせた。
“では、これがかれらの|教 母 さ ま《リヴァレンド・マザー》ね”
と、ジェシカは考えた。
チャニにぐったりとよりかかってジェシカのほうによろめいてくる老婆は、棒ぎれをよせ集めたものに黒い衣裳をまとわせたような格好だった。
老婆はジェシカの前にとまると上目《うわめ》づかいに長いあいだ眺めてから、かすれる声でささやきかけた。
「そう、おまえなのかい」老婆は細い頸であぶなっかしくうなずいた。「シャダウト・メイプズがおまえに同情したのも無理はないね」
ジェシカは怒ったように急いでいった。
「わたしはだれからの同情も必要としませんよ」
「あとは見てもらうだけだね」と、老婆はかすれる声でいうと、驚くほどの速さでふりむき群衆のほうを見た。「みんなに話しておやり、スティルガー」
「話さなければいけませんか?」
と、かれはたずねた。
老婆は荒々しくいった。
「わたしたちは|ミスルの民《*》だよ……わたしたちスンニの先祖がニロティック・アル・オウロウバを逃れてからこのかた、わたしたちは逃げることと死ぬことを知っている。若い者が生きつづけるかぎり、わたしたちの民族は死なないのだからね」
スティルガーは深く息をすいこみ、二歩前に進み出た。
ジェシカは混雑した洞窟の中が静まりかえるのを感じた――いまや二万人ほどもが、ほとんど動くこともなく黙って立っているのだ。その雰囲気に彼女は自分がとつぜん小さなものになったように思い、危惧《きぐ》の想いに襲われた。
「実に長いあいだわれわれをかくまってくれたこのシーチを、われわれは今夜離れ、南の砂漠へ進まなければいけなくなった」
とスティルガーはいった。かれの声は、壇のうしろに作られている拡声ホーンによって大きく振動し、上をむいている無数の顔にむかってとどろいた。
群衆はまだ沈黙を守ったままだった。
スティルガーは話しつづけた。
「教母さまは、この|ハジュラ《*》まで生きつづけることはできないといわれている……われわれは以前にも教母さまなしにくらしたことがあるが、そういう困った状況で新しい基地《ホーム》をさがし求めるのはありがたいことではない」
その声を聞くと、群衆は身じろぎし、ささやき声と不安な表情が錯綜した。
「そこでこれはうまくゆくかどうかわからないが、われわれの新しいセイヤディナである|不思議な《ウェアーディング》ジェシカは、このときにあたって儀式を受けることを承知した。彼女は、われわれが教母さまの力を失わないですむため、合格するよう試験を受けるのだ」
“不思議なジェシカ……”
と、ジェシカは考えた。彼女は、ポウルがたずねかけたい気持ちを両眼にいっぱい浮かべて自分を見つめているのを知った。だがかれの口は、まわりにはりつめているあまりの異様さに閉じられていた。
“もしわたしがこのこころみで死ぬようなことになれば、かれはどうなるのだろう?”
と、ジェシカは自分の心に問いかけた。またも彼女は不安に心を満たされるのをおぼえた。
チャニは、年老いた教母を拡声ホーンの奥深くにある石のベンチに案内すると、スティルガーのそばにもどって立った。
スティルガーは話した。
「不思議なジェシカが失敗するようなことがあろうと、われわれがすべてを失うことになりはしない……その場合は、リエトの娘、チャニがセイヤディナとして神に仕える身となるのだ」
かれは一歩横に動いた。
拡声ホーンの中から老婆の声がひびいた。拡大されたささやき声、かすれ、人の胸にくいこむようだ。
「チャニはハジュラからもどりましたぞ……チャニは広い水を見たのです」
おし殺したようなささやき声が群衆の中から上がった。
「彼女は広い水を見たんだ……」
老婆はしわがれた声でいった。
「わたしはリエトの娘を神に捧げ、セイヤディナとする」
群衆は答えた。
「彼女は受け入れられた」
ポウルはこの儀式にはほとんど注意をはらわず、まだ母親についていわれたことを考えつづけていた。
“母上が失敗するようなことがあろうと……?”
かれはふりむき、みんなが教母と呼んでいる老婆を見つめた。乾からび、やつれた顔。その両眼は底知れぬほど深い青色であり、じっとして動かなかった。彼女はまるでそよ風にも吹き飛ばされそうに見えたが、それでもなお、コリオリスの嵐の通るところにいても平然と立っていられそうなところがあった。この老婆のまわりには、かれをゴム・ジャバールという苦痛でテストしたあの教母ガイウス・ヘレン・モヒアムを思い出させる同じ強力な霊気が漂っていたのだ。
老婆はいった。
「多数の者が話すような声のわたし、教母ラマロは、これはみんなに告げる……チャニがセイヤディナとなるのは、ふさわしいことだと」
群衆は応じた。
「ふさわしいことだ」
老婆はうなずき、ささやいた。
「わたしは彼女に銀色の空を、金色の砂漠とその輝く岩場をあたえる。やがては緑の野となるところを。わたしはこれをセイヤディナ・チャニにあたえる。そして彼女がわれわれ全員の召使いであることを忘れぬように、この種子での召使いとしての仕事をやらせよう。シャイ・フルドのごとくやるように」
教母は褐色をした枯枝のような手を上げ、それを落とした。
ジェシカは自分のまわりに潮流がおしよせ、もとにもどれないほどおし流されてゆくように儀式が緊迫してくるのを感じ、質問したくてたまらなそうなポウルの顔を一度ちらりと眺め、成行きにまかせようと気持を落ち着けた。
「ウォーターマスターは出て来ますように」
チャニはその女の子らしい声をわずかな自信のなさにちょっとふるわせただけで、そう呼びかけた。
いまやジェシカは自分が危険の焦点にいるのを感じ、それを群衆がじっと見つめていることから、かれらが静まりかえっていることから知った。
男の一隊が二人ずつならんでうしろのほうから、群衆の中にあいた蛇行する通路をやってきた。どの二人も小さな皮袋をたずさえており、その袋はほぼ人間の頭の倍ほどで、中で水のゆれる音がしていた。
二人の指揮者がかれらの運んできた袋を、壇の上にいるチャニの足もとに置いて、うしろに下がった。
ジェシカは袋を眺め、ついで男たちを見た。かれらは頭巾をうしろに落としており、頸のつけねで丸く巻いてとめた長い髪を見せていた。かれらのまっ黒な目が、微動もせず彼女を見つめかえした。
シナモンの濃い香りが袋から立ちのぼり、ジェシカのほうに漂ってきた。
“香料《スパイス》かしら?”
と、彼女は考えた。
「水はありますか?」
チャニがそう問いかけると、左側のウォーターマスターが一度うなずいた。その男の鼻筋には、紫色をした傷跡が線になってのこっている。かれは答えた。
「水はあります、セイヤディナ……しかし、われわれには飲めないものです」
チャニはたずねた。
「種子はありますか?」
その男は答えた。
「種子はあります」
チャニはひざまずき、両手を水でたゆたっている袋にあてた。
「祝福されたるものは水とその種子……」
その儀式にはよく知っているところがあり、ジェシカは教母ラマロのほうに視線をむけた。老婆の目は閉じられており、眠ってでもいるかのように背を丸くして坐っていた。
チャニは呼びかけた。
「セイヤディナ・ジェシカ」
ジェシカが顔をまわすと、少女は彼女を見つめていた。
「あなたは、祝福された水を味わったことがありますか?」
チャニはそうたずねた。そしてジェシカがこたえるより早く、彼女はあとをつづけた。
「あなたが、祝福された水を味わったなどということはあり得ません。あなたは外の世界から来た人であり、そんな特権をあたえられたことがないのですから」
溜息が群衆のあいだを流れてゆき、寛衣《ローブ》のゆれる音はジェシカの頸筋の髪をさか立てさせた。
「収穫は大きく、メイカーは殺されたのです」
そうチャニはいうと、水袋の上につけてある飲み口をはずしはじめた。
ジェシカは、危険な感じがまわりに煮えたぎりだしたのをおぼえた。彼女はポウルをちらりと眺め、かれがこの儀式の謎にひきこまれ、チャニだけを見つめていることを知った。
“かれはこの瞬間を時[#「時」に傍点]の中に見たのだろうか?”
チャニは飲み口をジェシカのほうに上げて話しかけた。
「ここにあるのは|生 命 の 水《ウォーター・オブ・ライフ》、水よりも偉大な水……魂を自由にする水、カン。もしあなたが教母さまならば、これはあなたに宇宙をひらくことでしょう。いまは、シャイ・フルドに判断をまかせることです」
ジェシカは自分が、まだ生まれていない子にたいする義務とポウルにたいする義務とのあいだにはさまれて引き裂かれそうになる想いを味わった。ポウルのためにはその飲み口を取って袋の中身を飲むべきだとわかっていたが、すすめられた飲み口のほうにかがみこんだとき、彼女の五感はそこに危険があることを告げていたのだ。
その袋の中にあるものは苦い匂いがしており、彼女が知っている多くの毒物にどこか似ていたが、似ていないようでもあった。
「あなたはいま、これを飲まなければいけません」
と、チャニは告げた。
“もう引き返すことはできないのよ”
ジェシカは自分にそういい聞かせた。だが、いまという瞬間を力づけてくれるはずなのに、彼女の受けたベネ・ゲセリットの訓練は何ひとつ心の中に浮かんでこなかった。
“何かしら? 酒? 麻薬?”
そう考えながら彼女は飲み口にかがみこみ、シナモンの芳香を嗅ぎながら、ダンカン・アイダホの泥酔していたことを思い出した。
“|香 料 の 酒《スパイス・リキュール》なの?”
そう自分の心にたずねながら彼女はサイフォン・チューブを口に入れ、ほんのすこしだけ吸ってみた。それは香料《スパイス》の味が、舌をわずかに刺すすっぱい味がした。
チャニは皮袋をおしつけた。その中身は勢いよく大量にジェシカの口の中に噴出し、彼女は思わずそれを飲みこんでしまいながら、落ち着きと品位を失うまいと努力した。
「小さな死を受け入れるのは、死そのものよりも悪いことです」
チャニはそういい、ジェシカを見つめて待った。
そしてジェシカは、飲み口をくわえたままチャニを見かえした。袋の中身が鼻の中で匂っていた。口の上側《うわがわ》に、両頬に、両眼にも――いまは刺すような甘さが。
“涼しさ……”
ふたたびチャニは、液体をジェシカの口の中に注ぎこんだ。
“えもいわれぬ味が”
ジェシカはチャニの顔を見つめ、その妖精のような容貌に、まだはっきりと現われてはいないがリエト・カインズの痕跡があるのを知った。
“かれらがわたしにあたえているのは麻薬だわ……”
と、ジェシカは自分にそういいきかせた。
しかしそれは、彼女の知っているどのような薬品とも似ておらず、ベネ・ゲセリットの訓練にふくまれている多くの薬品の味にもないものだった。
チャニの顔は、光にくまどられたようにくっきりとしていた。
“麻薬……”
息づまるような沈黙がジェシカのまわりにおしよせてきた。彼女の肉体のあらゆる部分は、何か大きなことがおこっているのだという事実を受け入れていた。彼女は自分が、どのような素粒子よりも小さなものであるが、動くことができ、まわりのことを感じられる、意識のある細片であるかのように思った。とつぜん天啓を受けたかのように――多くのカーテンが引きちぎられたかのように――彼女は自分が念動力でひろがってゆくのを意識しはじめているとわかった。彼女はつまらない細片でありながら、そうではないのだ。
まわりの洞窟はそのまま残っていた――人々は。彼女は、かれらがいることを意識していた。ポウル、チャニ、スティルガー、教母ラマロと。
“教母さま!”
学校では、教母のテストに生き残れないものが何人もいる、その薬にやられてしまうのだという噂があった。
ジェシカは教母ラマロを見つめ、このすべてが凍りついたような一瞬の時間の中でおこっていることに気づいた――彼女だけのために時間が伸びているのだ。
凍りついた時間。
この瞬間にたいする解答が、彼女の意識の中で爆発した――命を救ってくれるために、自分だけの時間が伸びているのだ。
彼女は自分自身の念動力による延長に心を集中し、その中を眺め、すぐに小さな芯、まっ黒な穴にぶつかり、あとじさり[#「後退り」あとずさり=27100件、あとじさり=611件(google)どちらも間違いではないし方言でもない]した。
“そこはわたしたちの見られないところ……どの教母さまもあんなにまでいいたがらなかったところ……クイサッツ・ハデラッハだけに見られるところなんだわ”
それがわかったことで自信がすこしもどってきた彼女は、ふたたびサイコキネシスによる自分の延長に心を集中して粒子そのものになり、体内に存在する危険をさがし求めた。
彼女はそれが、自分の飲みこんだ薬物の中にあると知った。
その粒子は彼女の体内でこまかく踊りまわり、その動きかたがあまり急速なので凍りついた時間さえもそれをとめることはできなかった。踊りまわる粒子。彼女はしだいに、おぼえのある構造に気づきはじめた。原子のつながりだ。炭素の原子があり、螺旋状にうねっている……グルコースの分子だ。ひとつの完全な鎖となった分子があり、それは蛋白質だとわかった……メチール・プロテインの分子構成だ。
“ああぁぁ!”
彼女はその毒物の性質を知ると、心の中で溜息をもらした。
彼女はサイコキネシスの力でその中にはいってゆき、酸素の粒子を動かし、別の炭素の粒子をつなぎ、酸素……水素のリンケージを再編成しなおした。
その変化はひろがっていった……触媒作用がひとたびはじまると、その変化はより急速にだ。
彼女をつかんでいた時間の遅れはゆるみ、動きが感じられた。水袋の飲み口が彼女に口につけられており、そっと水分のひと滴を取りもどした。
“あの袋の中にある毒を変えてしまうために、チャニがわたしの体から触媒を取っているのだわ……なぜかしら?”
だれかが彼女を助けて坐らせた。老教母ラマロがそばにつれてこられ、カーペットをしいた壇の上に坐った。乾いた手が彼女の頸にふれた。
そして、彼女の意識の中にもうひとつのサイコキネシスによる小さな自我が現われた! ジェシカはそれを追いはらおうとしたが、その小さなものは、しだいしだいに近づいてきた。
それは彼女の自我にふれた!
ふたりの人間が同時に存在することは、至福に似た気持ちのものだった。テレパシーではなく、おたがいの意識を共有しているのだ。
“年老いた教母さまとともに!”
しかしジェシカは、教母自身、年老いていると考えていないことを知った。ひとつのイメージが、共通の心眼の前に現われた――活発な精神と優しいユーモアのセンスをそなえた若い娘だ。
共通の意識の中で、その若い娘は話しかけた。
「そう……それがわたしさ」
ジェシカはその言葉を受け入れるだけで、それに答えることができなかった。
心の中にある像はいった。
「おまえはすぐに、すべてを知るようになるんだよ、ジェシカ」
“これは幻想なんだわ”
と、ジェシカが自分にいい聞かせると、心の中にある若い娘はなおも話しかけた。
「おまえにはよくわかっているはずだがね……さあ、急いで。わたしと争ったりしないで。時間はそう長くないんだから。わたしたちは……」長いあいだ言葉がとぎれた。「おまえが妊娠していることを、わたしたちに話しておくべきだったね!」
ジェシカは、共通の意識の中で話されている声を使えるようになった。
「なぜですの?」
「これは、おまえたちふたりともを変えるからさ! 聖なる母よ、わたしたちは何ということをしたのでしょう?」
ジェシカは共通の意識の中で、力強く動くものがあるのを感じ、内なる目でもうひとつの小さな存在を見た。その小さなものは、ここかしこと荒々しく突進し、まわっていた。それは純粋な恐怖を発散していた。
心の中にある老教母の存在はいった。
「おまえは強くならなければいけないよ……おまえの中にいるのが娘であることを感謝しなければね。男の胎児であれば殺していたはずなんだよ。さあ……気をつけ、そっと……おまえの娘の存在におさわり。娘としての存在になるんだと。恐怖を吸収し……なぐさめて……おまえの勇気と、おまえの力をお使い……やさしく……そっとね……」
その渦巻く小さな存在が近づき、ジェシカはやっとそれにさわった。
恐怖は彼女を圧倒するほどのものだった。
彼女は自分が知っているただひとつの方法でそれと戦った。
“わたしは恐れたりしない。恐怖は心を殺すもの……”
その祈りは、落ち着きに似たものをもたらした。もうひとつの存在は、彼女のほうにむかって静かに横たわった。
“言葉だけではだめよ”
と、ジェシカは自分の心に告げた。
彼女は根本的な感情に自分を満たし、愛となぐさめを放射し、暖かくそっと抱きしめた。
恐怖は退いていった。
ふたたび老教母の存在が現われ、共通の意識は三人のそれがからみあったものとなった――ふたつは活発で、あとのひとつは静かに横たわって吸収するだけのものだ。
意識の中で教母は話しかけた。
「時間がわたしに強制するのだよ……わたしは、おまえに上げるものをたくさん持っている。でも、おまえの娘が、正気を保ったままこのすべてを受けられるかどうか、わたしにはわからない。それでも、わたしはやらなければいけないんだよ。みんなが必要としていることこそ最高のものだからね」
「何をいったい……」
「黙ったまま受け取りなさい!」
無数の経験がジェシカの前にくりひろげられはじめた。それはまるでベネ・ゲセリット学校で潜在意識教育プロジェクターにかけられる講義のフィルムみたいだったが……それより速かった……目がくらむほど速かった。
しかし……はっきりしていた。
彼女にはそれらの経験がひとつひとつ、本当に自分の身におこったことのようにわかった。恋人がじとりいた――男らしく、髭を生やし、フレーメンの濃い目をしている。そしてジェシカは、かれの強さと優しさを、かれについてのすべてのことを一瞬のうちに、老教母の記憶をとおして知ってしまった。
いまはこのことが娘となる胎児にどんな影響をおよぼすかを考えているときではなく、ただ受け入れ、記録するだけだった。多くの経験がジェシカに注ぎこまれていった――誕生、生、死――重要な出来事と重要でないこと、一瞬のうちに見る時間の奔流。
“なぜ、崖の上から落ちてくる砂が記憶の中で凍りついたのかしら?”
と、彼女は自分の心に問いかけた。
やっとジェシカは何事がおこっているのかを知った。この老婆は死にかかっていたのであり、死にかけながら、水をコップの中に注ぎ入れるように彼女の経験をジェシカの意識の中に注ぎこんでいたのだ。ジェシカが見つめていると、その小さな自我は生まれる前の意識へとしりぞき薄らいでいった。意識の中の死にあたって老教母は、あえぐように最後の言葉をささやきながら、彼女の生命そのものをジェシカの記憶の中に残した。
「わたしは長いあいだおまえを待っていたのだよ……これがわたしの命さ」と。
そこには、すべてがこめられていた。
死の瞬間においてだ。
“わたしはいま、教母さまになったのだ”
と、ジェシカは気がついた。
そして彼女は自分が本当に、ベネ・ゲセリットが教母と称するとおりのものになったのだということを、ほかのすべての知識とともにさとった。毒物の混ざった薬が彼女を変えたのだ。
これは、ベネ・ゲセリット学校でやっていることと正確に同じものではないと彼女にはわかっていた。だれひとりとして彼女にその秘密を教えてくれた者はなかったが、彼女にはわかったのだ。
結果として現われてくるものは同じなのだ、と。
ジェシカは、娘の小さな自我がまだ自分の意識にふれているのを感じ、それを探ったが反応はなかった。
どういうことが自分におこったのかわかると、ジェシカの全身に恐ろしい孤独感がしのびこんできた、彼女は自分の生命をスピードの遅くなったパターンとして眺めたので、まわりにあるすべての生命はスピード・アップされ、踊るような相互作用ははっきりしてきた。
小さな自我という意識はわずかに薄らいでゆき、毒物の脅威から彼女の肉体がリラックスするにつれて、その強さはやわらいできたが、それでもまだ彼女はもうひとつの小さな自我を感じ、こんな目に会わせてしまったという罪悪感とともにそれにふれた。
“わたしはやってしまった。わたしのかわいそうな、まだ生まれてもいない、かわいい小さな娘よ……わたしはおまえをこの宇宙につれ出し、何の防御手段を講ずることもなく、おまえの意識をそのすべてのバラエティにさらしてしまったのね……”
愛のなぐさめの小さな小さな流れが、まるで彼女が注ぎこんだものの反射でもあるかのように、もうひとつの小さな自我からやってきた。
ジェシカがそれに答えられるようになる前に、彼女は強い記憶のアダブ的存在を感じた。する必要のあることが何かあった。彼女はそれをさがしたが、転換された薬が自分の五感にしみこみ、酔ったようになっているので見つけられないことを知った。
“わたしはあれを変えることができた……わたしは薬の作用を除き、無害にすることができた”そう考えたものの彼女は、それが誤りだったかもしれないと感じた。“わたしは結合の儀式の最中にいるんだわ”
ついで彼女は自分が何をしなければいけないのかを知った。
ジェシカは目をあけ、チャニがかかげている水袋を指さして話しかけた。
「それは祝福されました……ほかの水と混ぜ、すべてを変化させ、みんなが祝福をそれぞれ分かちあうのです」
“触媒にその仕事をさせるのだ……みんなにそれを飲ませ、おたがいの意識をしばらくのあいだでも高めさせるのだ。もう薬は安全なものになっている……いま、ひとりの教母がそれを変化させたのだから”
まだ強い記憶が思い出すことを求めていた。ほかにもしなければいけないことがあるのだと、彼女にはわかっていたが、薬はそのことに意識の焦点を結ばせることを困難にしていた。
“ああぁぁぁぁ……老教母さま……”
ジェシカはいった。
「わたしは教母ラマロさまと会いました……彼女は行ってしまわれたが、彼女は残っておられます。彼女の思い出がこの儀式の中で讃えられますように:
“いったいどこからわたしはこんな言葉を知ったのかしら?”
と、ジェシカは不思議に思い、ついで、それらが他の記憶からやってきたものだとわかった。彼女にあたえられ、いまでは彼女の一部となっている一生[#「一生」に傍点]なのだ。しかし、その贈り物のどこかが不完全であるように感じられた。
彼女に中にある他の記憶は話しかけた。
「かれらを浮かせ騒がせるがよい……かれらの生活の中には、ほとんど楽しみがないのだからね。そう、そしてわたしとおまえにはすこし時間が必要だよ。わたしが退き、おまえの記憶の中に沈みこんでしまうまでに、おたがいをよく知りあうためにね。すでにわたしはおまえにだいぶ結びつけられているように感じるよ。ああぁぁ、おまえの心はおもしろいことがずいぶん詰まっているんだね。わたしが考えもしていなかったようなことが、ずいぶん多いよ」
そして彼女の中につつみこまれた記憶がジェシカにその全貌《ぜんぼう》を見せ、他の教母の中の他の教母の中の他の教母へと果てがないように思えるほどつづく広い通路をひらいていった。
ジェシカは、あまりにも大きな一体となる海の中にさまよいこみ自分をうしなってしまうのではないかと恐ろしくなってあとじさりした。それでもまだその通路は残り、彼女が想像していたよりはるかに古い時代から存在してきたフレーメンの文化を明らかにした。
彼女が見たものの中に、|ポリトリン《*》にいるフレーメンたちの姿があった。温和な環境の惑星に育った温和な人々であり、帝国の侵略部隊が狩り立て|ベラ・テギュース《*》やサルサ・セカンダスに植民地を作らせるのに格好の獲物だった。
ああ、かれらが故郷と別れるときの悲痛な泣き声をジェシカは感じた。
その通路のはるか遠く離れたところから、絶叫する声がはっきりと聞こえてきた。
「やつらはわたしたちから|ハッジュ《*》を取り上げてしまったんだよ!」
ジェシカは、心の中にある通路のかなたにベラ・テギュースの奴隷収容所を見た。ロッサクと|ハルモンセップ《*》に送りこむために人間を選り出しているところを見た。まるで恐ろしい花の花弁がひらくように残虐な光景がくりひろげられた。そして彼女はセイヤディナからセイヤディナへと運ばれてきた過去のつらなりを見た――最初は|砂漠のはやし歌《サンド・チャンティ》に隠されている口に出す言葉によって、ついではロッサクで発見された毒薬を使ってかれら自身の教母が洗練したものから……そしていまは|生 命 の 水《ウォーター・オブ・ライフ》の発見によりアラキスで隠然とした力を得ることになったのだ。
心の中に存在する通路のはるか遠くで、別の声が絶叫した。
「絶対に許さないで! 絶対に許さないで!」
しかし、ジェシカの注意は<生命の水>のもとを見、明らかにされた意外な事実に集中された。死にかかっている砂虫、メイカーが吐き出す液体だということにだ。そして、新しく得た記憶の中で砂虫が死ぬところを見て、彼女は思わず息を呑んだ。
その生物は溺死したのだ。
「母上、大丈夫ですか?」
ポウルの声が彼女の心を乱し、ジェシカは内なる意識からもがきながら外へ出てかれの顔を見つめ、かれにたいする義務に気づきながらも、かれがいることに怒りをおぼえた。
“わたしは両手の力が抜けたままの人と同じ、最初に意識を持ったときから感覚がなく……そしてある日、感じる能力が無理にもおしつけられるんだわ……”
その想いが彼女の中に漂った。意識ははっきりしはじめていた。
“そしてわたしはいうのよ、「見て! わたしには両手があるのよ!」でも、わたしのまわりにいるすべての人がいうのね、「両手って何でしょう?」って”
ポウルはくりかえした。
「母上、大丈夫ですか?」
「ええ」
かれはチャニが両手でかかえている袋を指さした。
「ぼくがこれを飲んでも大丈夫ですか? みんなはぼくに飲ませたがっていますが」
彼女はその言葉の中にあるかくされた意味を知った。かれはもとの液体にあった毒物、変化しない状態の物質を感じ、そのことで彼女の体を心配しているのだ。そのことはジェシカに、ポウルの予知能力の限界を考えさせることになった。かれの質問は彼女に多くのことを教えたのだ。
「飲んでもかまいませんよ。変化しましたからね」
そして彼女はポウルのむこうに、スティルガーがじっと自分を見つめ、その濃紺の目が自分を調べていることに気づいた。
かれはいった。
「これでわれわれは、あなたが偽者ではあり得ないとわかりました」
彼女はその言葉にも隠された意味があることを感じたが、薬に酔ったような状態が五感を圧倒していた。それは実に暖かく、心のなごやかになる状態だった。これらのフレーメンたちが彼女をこれほどの同胞愛の中につつみこんでくれたのは、なんというありがたいことだっただろう。
ポウルはその薬が母親に影響をおよぼすところを前に見ていた。
かれは記憶を探った――固定している過去、おこり得るいくつかの未来を流転する線を。それはまるで時の流れをとめた中を探り、内なる目のレンズをまごつかせるようなものであり、流れの中から取り出した断片は理解することがむずかしいものだった。
この薬――かれはそれについての知識を整えることができ、それが自分の母親にどんな影響をおおぼしているかを理解することができたが、そのい知識には自然のリズムが欠けており、おたがいを鏡とするシステムがなかった。
かれがとつぜん気づいたのは、現在を占めている過去とは別に、未来に存在する過去を見ることこそ予知における本当のテストであるということだった。
物事はその見えるがままの状態であろうとはしていなかったのだ。
「飲むのよ」
と、チャニはいい、水袋の飲み口をかれの鼻の下でふった。
ポウルは背をのばしてチャニを見つめた。かれはあたりに謝肉祭のような興奮がみなぎっているのを感じた。かれは自分に変化をもたらした物質のもっとも純粋なエッセンスとともにこの香料《スパイス》を飲んだらどんなことになるのかわかっていた。かれは、純粋な時間、時間が空間となる想像力《ビジョン》の世界にもどってしまうことになるだろう。それをかれは、目まいをおぼえるような山頂に置いて、理解できるかどうかと挑戦してくるのだ。
チャニの背後からスティルガーはいった。
「それを飲むんだ、坊や。きみは儀式を遅らせている」
ポウルは群衆が上げている荒々しい声を聞いた。
「リザン・アル・ガイブ!」
かれらは叫んでいた。
「ムアドディブ!」と。
かれは母親を見おろした。彼女は坐った姿勢のまま安らかに眠っているようだった――その呼吸は規則正しく深かった。かれの孤独は過去である未来からひとつの文句が心の中に浮かんできた。
“彼女は生命の水の中で眠る”と。
チャニがかれの袖を引っぱった。
ポウルは群衆の叫び声を聞きながら、つき出た飲み口を口に入れた。チャニが水袋をおすと、その液体は咽喉《のど》の中に噴出してきた。そしてかれは、その香気に目まいをおぼえた。チャニは飲み口をはずし、洞窟の床からのばされている人々の手に水袋をわたした。ポウルの目は彼女の腕に焦点を結んだ。喪に服しているしるしの緑色のバンドに。
チャニは背をのばしながらかれがどこを見つめているかを知って口をひらいた。
「幸せなお水の儀式のあいだでさえ、わたしかれのことを悲しめるわ。これもかれにあたえられたことなのね」彼女は片手をかれの手にからませ、壇の上を引っぱっていった、「わたしたち、ひとつの点で同じだわ、ウスル。わたしたちどちらも父をハルコンネンに殺されたってこと」
ポウルは彼女についていった。かれは自分の頭部が肉体から切り離され、変なつづきぐあいでつなぎなおされたように感じた。両足は遠く離れているようであり、力がぬけていた。
ふたりは、せまい横の通路へはいっていった、そこの壁は、間隔をひろくあけた照明球で淡く照らされていた。ポウルはあの薬剤が変わった効果をもたらしはじめ、花を咲かせるように時間をひらきはじめているのを感じた。かれはつぎの影になったトンネルへ曲がりながら、チャニによりかかって体を支えている必要があるのに気づいた。そして彼女の寛衣《ローブ》の下に感じられる肉体の引きしまっているくせに柔らかいことが、かれの血潮を騒がせた、その感覚と、未来と過去を現在に折りこんでくる薬の作用が混じりあって、かれは三つの視覚の焦点に頼りなく立っているような気分になった。
かれはささやきかけた。
「ほくはきみを知っているよ、チャニ……ほくらは砂の上にある岩棚に坐っていて、そこでぼくはこわがっているきみをなぐさめていた。ぼくらは暗いシーチの中で愛しあったんだ。ぼくらは……」
かれは焦点が結ばなくなりかけているのに気づき、首をふろうとしてよろめいた。
チャニはかれを支え、ぶあついカーテンをあけて暖かい黄色の光が照らしている個人用アパートへ入れた――低いテーブル、クッション、オレンジ色の掛け布の下の寝台。
ポウルは、自分たちがとまったこと、チャニがつっ立ったまま自分を見ていること、そして彼女の目に静かながら恐怖の想いが現れていることを知った。
彼女はささやいた。
「わたしにいって……」
かれは答えた。
「きみは|シハヤ《*》……砂漠の春だ」
「種族があの水を分かちあうとき、わたしたちはいっしょになるわ……わたしたちみんなが。わたしたち……分かちあうの。わたし……ほかの人がわたしといっしょにいるのを感じられるのよ。でも、わたし、あなたと分かちあうのが恐ろしいの」
「なぜ?」
かれはチャニに焦点を合わせようとしたが、過去と未来が現在に混ざりあっているので彼女の顔をぼやけたものにしていた。かれは、数えきれないほどの道と姿勢と背景にあるチャニを見た。
「あなたの中には何か恐ろしいものがあるわ。わたしがあなたを、ほかの人たちのところから離したとき……わたし、ほかの人々が何を求めているのか感じることができたから、そうしたの。あなたは……人々に押しつけるわ。あなたは……わたしたちに物事を見させるわ!」
かれははっきり口をきこうと努力した。
「きみは何をみるんだい?」
彼女は自分の両手を見おろした。
「子供がひとり……わたしの両手に抱いているところを。わたしたちの子供よ。あなたとわたしの」彼女は口を手でおさえた。「どうして目鼻だちのすべてがあなたとそっくりだってわかるのかしら?」
“かれらはこの能力をすこし持っている。だが、それが恐ろしいものだから押さえつけているんだ”
と、かれの心はそう告げていた。そして、一瞬視界がはっきりしたとき、かれはチャニがひどくふるえているのを知った。
かれはたずねた。
「きみがいいたがっているのは、どういうことなんだい?」
「ウスル……」
と、彼女はささやいたが、まだふるえたままだった。
「きみは、未来へ帰ることはできないんだよ」
そういったかれの全身に、彼女への深い同情が襲ってきた。かれは彼女を抱きよせて頭をなでた。
「チャニ、チャニ、こわがらないで」
彼女は叫んだ。
「ウスル、わたしを助けて」
彼女の言葉とともに、かれは体内で薬がその作用を完成しおわったのを感じ、カーテンが破り去られたように未来に遠く横たわる灰色の渦を見た。
「あなた、とっても静かなのね」
と、チャニはいった。
かれはその意識の中にとどまったまま、奇妙な次元の中へひろがっている時間を眺めていた。そこは微妙にバランスがとれておりながらも渦巻いており、せまいながらも無数の世界や勢力を集めて網のようにひろがっており、かれの歩いていかなければいけない綱わたりのロープなのだが、その上ではよろめき、バランスを取るのがやっとのことなのだ。
行手に見えるのは、帝国、死をもたらす刃のようにかれにむかって突進してくるファイド・ラウサという名のハルコンネン、アラキスに大虐殺の波をひろげようと故郷の惑星から急いで離れるサルダウカーの軍団、共謀し計画を練っている協会《ギルド》、選択的繁殖計画をおこなっているベネ・ゲセリット、といった姿だった。かれらはポウルの地平線にそそり立つ入道雲のようにかたまっており、それを押し返しているのはフレーメンとかれらのムアドディブ、宇宙いっぱいにひろがる聖戦に出かけようとしている眠れるフレーメンの巨人だけだった。
ポウルは自分がその中心に、すべての構造が旋回する中心点にいて、幸福を得る手段であるチャニをそばにおいて平和の細いロープを渡っているところを感じた。かれはそのロープがずっと前方に伸びているのを、隠されたシーチでの比較的穏やかな時期を、暴力をふるう時期のあいだにある平和な時を見ることができた。
かれはいった。
「ほかに平和のための場所はないんだ」
チャニはつぶやいた。
「ウスル、あなた泣いているのね……ウスル、わたしの強い人、あなたは死者に水分をあたえているの? 死んだ人に?」
かれは答えた。
「まだ死んではいない人にだよ」
「では、かれらに生きるための時間をあたえてあげて」
かれは薬のもたらした霧をとおして、その言葉の正しいことを感じ、なさけ容赦のない力で彼女を抱きしめていった。
「シハヤ!」と。
彼女は片手の掌をかれの頬におしつけた。
「わたし、もう恐ろしくないわ、ウスル。わたしを見て。こんなふうにわたしを抱いてくれると、わたし、あなたの見るものが見えるの」
かれはたずねた。
「何が見える?」
「嵐のあいだにある静かな時に、わたしたちがおたがいに愛をあたえあっているところが見えるわ。それが、わたしたちのするはずだったことでしょう」
薬剤の効果がまたかれをとらえた。
“実に何度も、きみはぼくになぐさめと忘却をあたえてくれてきた……”
かれは時間がくっきりと浮き彫りになった姿とともに新しく高度の啓示を感じ、自分の未来が記憶となるのをおぼえた――肉体の愛という優しい愚かさ、自我を分けあい共通のものとすること、優しさと暴力と。
かれはつぶやいた。
「きみは強い人間だ、チャニ……ぼくといっしょにいてくれ」
「永久に」
と、彼女は答え、かれの頬に接吻した。
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底本     デューン 砂の惑星3
出版社    株式会社 早川書房
発行年月日  昭和四十八年四月三十日 初版発行
入力者    ネギIRC