デューン 砂の惑星2
フランク・ハーバート
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(テキスト中に現れる記号について)
《》:ルビ
(例)遥《はる》か未来に
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)単身|赴《ふ》任《にん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
[#この最後に用語集があるが、わからなくなったとき最後までいって、また戻るという読み方は]
[#紙の本だから楽にできるのであって、ビューアーでは大変にやりにくいと言うか面倒である。]
[#よって、この際、用語集だけ独立させて、メモ帳かなにかで開けるような簡単なものにした。]
[#メモ帳にはルビの機能がないので(xx)でごまかしているが無いよりはましかと思われる。]
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登場人物
ポウル・アトレイデ…………………アトレイデ公爵家の世継ぎ
レト・アトレイデ……………………公爵。ポウルの父
レイディ・ジェシカ…………………公爵の妾妃。ポウルの母
スフィル・ハワト……………………公爵家のメンタート
ガーニィ・ハレック…………………公爵家の副官
ダンカン・アイダホ…………………公爵家の副官
ユエ・ウェリントン…………………公爵家の医師
シャダウト・メイプズ………………フレーメン。公爵家の家政婦
カインズ博士…………………………惑星生態学者
リンガー・ビュウト…………………水積み出し業者
エスマール・チュエク………………密輸業者
ウラディミール・ハルコンネン……男爵
パイター・ド・ブリース……………男爵家のメンタート
キネト…………………………………男爵の部下
チゴ……………………………………男爵の部下
アマン・フドゥー……………………男爵の親衛隊長
イアキン・ネフド……………………男爵の親衛隊伍長
ファイド・ラウサ……………………男爵の甥
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「なにものにもまして心嬉しきときは、たぶん、自分の父が男であると知るときであろう――人間としての血肉のついた男であると」
――イルーラン姫による“ムアドディブの片言隻語集”から
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公爵は話かけた。
「ポウル、いやなことだが、わしはやらなければいけないようだ」
かれは携帯用|毒物知覚装置《ポイズン・スヌーパー》のそばに立っていた。それは朝食をとるときのために会議場へ運びこまれてきたものだった。その探知触手はぐったりとテーブルの上にたれており、ポウルは死んだばかりのめずらしい昆虫を連想した。
公爵の視線は窓の外にむけられていた。離着陸場と、朝の空へまいあがっている砂ぼこりにだ。
ポウルの前に置かれているフィルムビュウワーには、フレーメンの信仰習慣についての短いフィルム・クリップがはいっていた。それはハワトの部下である専門家が編集したものであり、ポウルはその中で自分にむけられている関心に心を乱されていた。
“マーディ!”
“リザン・アル・ガイブ!”
目を閉じると、かれは群集の叫びを思い出すことができた。“あれが、かれらの望んでいることなのだ”と、かれは考えた。そしてかれは、あの年老いた|教  母《リヴァレント・マザー》がいっていたことを思い浮かべた――クイサッツ・ハデラッハだ。その記憶はかれの感情に恐ろしいほどの目的を加え、この奇妙な世界に自分でも理解できないほどのなつかしい感じという色どりをつけた。
「いやなことだ」
と、公爵はいった。
「どういう意味ですか、父上?」
レトはふりむいて、息子を見おろした。
「ハルコンネンはわしに、そなたの母を疑わせようと小細工を弄《ろう》している。そんなことに乗ぜられるぐらいなら、わし自身にたいする信頼を失ったほうがましだと思っていることを、やつらは知らんのだ」
「わけがわかりませんが、父上」
レトはふたたび窓の外を見た。白い太陽[#欧米ではふつう、太陽は「黄色い」と認識されているので、ここは違う太陽というイメージになる]はもう午前中の四分の一あたりの高さまで上がっていた。|遮蔽する壁《シールド・ウォール》へといくつも伸びている乾いた渓谷にたちこめ舞いあがる砂ぼこりを、乳色の光が浮きあがらせている。
ゆっくりと、怒りをはらんだ低い声で、公爵はポウルに謎の手紙のことを説明した。
「ぼくを信用できないとおっしゃるようなものですね」
「かれらには成功したものと考えさせなければならんのだ。かれらはわしを、まったくの馬鹿だと考えなければいかん。それは本物に見えなければいかん。そなたの母でさえ、ごまかしとは思わないようにだ」
「でも、父上! なぜなのです?」
「そなたの母の反応が、芝居であってはいけないからだ。ああ、彼女は最高の演技をやってのけられるだろう……しかし、これにはあまりにも多くのことがかかりすぎている。わしは反逆者をいぶり出してやりたいのだ。それにはわしが完全にあざむかれているように見えなければいかん。そなたの母は、より大きな苦しみを受けないようにするため、この苦しみに耐えなければならんのだ」
「なぜぼくに話されるんです、父上? ぼくはこのことをもらしてしまうかもしれませんよ」
「このことについて、かれらはそなたに注意をむけないだろうからだ。そなたは秘密を守るのだ。そうしなければいけないのだぞ」かれは窓ぎわへ歩き、ふりむくことなく話をつづけた。「こうしておけば、わしに何かがおこっても、そなたが母に真実を告げられる……わしが彼女を疑ったことなど絶対になかったことを、ほんのかたときでさえもだ。このことを彼女に知っておいてほしいものだが」
ポウルは父の口調に、死の想いがこめられていることに気づき、急いでいった。
「何もおこるはずはありませんよ、父上。そんな……」
「静かに、坊や」
ポウルは父のうしろ姿を見つめ、その頭の線、ゆっくりとした動きに、疲労の色を認めた。
「疲れておられるだけですよ、父上」
公爵はうなずいた。
「わしは疲れている……心が疲れているんだ。|大 公 家《グレイト・ハウス》のメランコリックな衰えというやつが、ついにわしにもやってきた。ということかもしれん。そして、われわれはかつて、あれほど強かったのだがな」
ポウルはすぐに怒りをおぼえていった。
「アトレイデ家は衰えておりません!」
「そうかな?」
公爵はふりむいて息子と顔をあわせた。きびしい目の下に黒い円ができており、その口は自嘲するようにゆがんだ。
「わしはそなたの母と結婚し、公爵夫人としてあげるべきだった。しかし……わしが結婚していない状態は、どこかの公家《ハウス》に希望を持たせると思ってな。結婚させられる娘を通じて、わしと盟約を結べるはずだからだ」かれは肩をすくめた。「それで、わしは……」
「そのことは母上が話してくださいました」
「指導者にとって、威勢のよさ以上に忠誠心を得られるものはないのだ。そこでわしは、威勢のよさをよそおったわけだ」
ポウルは抗議した。
「父上はよく統率し、よく統治し、みんなは心から父上に従い、父上を愛しています」
「わしの広報宣伝部隊は最上のものだからな」公爵はそういうと、ふたたび盆地のほうに視線をむけた。「帝国がこれまで考えもおよばなかったほどの大きな可能性が、われわれにとっては、このアラキスにあるのだ。それでも、わしはよく、逃げ去り隠れたほうがましだったかなと思うことがある。ときどきわしは望むよ、人々のあいだに混じって名もなきものとなり、目立つことはせず……」
「父上!」
「ああ、わしは疲れている。そなたは知っていたかな、われわれが香料《スパイス》の残滓《ざんし》を使い、すでにわれわれ自身の工場でフィルムベースを生産させていることを?」
「それは?」
「フィルムベースを不足あっせてはいかんのだ。そうしなければ、村や町をわれわれの情報でいっぱいにすることができないからな。民衆は、わしがどれほどいい政治をしているかを知らなければいけない。われわれが知らさなければ、かれらにはわからないのだからな」
「父上はすこし、休みをお取りにならなければ」
また公爵は息子のほうにむきなおった。
「いっておくのを忘れるところだったが、アラキスにはもうひとつの利点がある。ここでは、あらゆるものに香料《スパイス》がはいっている。それを呼吸し、ほとんどのものの中で、食べもするのだ。わしの知ったのはそれが、|暗殺者ハンドブック《*》にあるふつうの毒のいくつかにたいして、ある程度の自然は免疫性をあたえてくれるということだ。そして、すべての食糧生産に加えられる水の一滴一滴の監視を……イースト菌、水耕農園、合成ビタミン、あらゆるものでだ……もっとも厳重にしなければいけないこと。われわれは人口の大部分を毒物で殺してしまうことなどできないからな……われわれは、この方法では襲われ得ないことになる。アラキスはわれわれを道徳的に、論理的にしてくれるわけだ」
ポウルは口をひらきかけたが、公爵はそれをさえぎっていった。
「わしには、こういうことがいえる相手がいなければいけないんだよ、坊や」
かれは、草花でもさえもいまはなくなってしまった乾いた風景をふりかえって溜息をついた――デューギャザラーに踏みにじられ、早朝の太陽にしおれてしまったのだ。
公爵は言葉をつづけた。
「カラダンでは、空軍と海軍の力で統治した……ここでは|砂漠の力《デザート・パワー》を見つけ出さなければならん。それがそなたの継ぐべきものだぞ、ポウル。わしに何かおこったら、そなたはどうなる? そなたは逃亡した公家《ハウス》とはならず、ゲリラ公家《ハウス》となるのだ……逃げまわり、追われるのだぞ」
ポウルは言葉をさがしたが、いうべき言葉を見つけだせなかった。父がこれほど気落ちした状態にいるのを見たのは初めてのことだった。
「アラキスを手に入れるためには……自尊心をも失わなければならぬ決心に直面するだろう」かれは窓の外を指さした。離着陸場の端に立っている竿から、アトレイデ家の緑と黒の旗がぐったりとたれていた。「あの誇りある旗が、多くの恐ろしいことを意味するようになるかもしれないのだ」
ポウルは唾をのみこみ、咽喉《のど》が乾いていることに気づいた。父の言葉は無気力な宿命論的な考えをもたらし、少年の胸をむなしい想いで満たした。
公爵はポケットから疲労克服剤を出して、水もなしに飲みこんだ。
「力と恐怖。それが政治における道具だ。わしはゲリラ戦闘に重きをおいた新しい訓練をそなたに始めあっせるよう命令しなければならんな。そこにあるフィルム・クリップ……かれらがそなたをマーディ……リザン・アル・ガイブと呼んでいること……最後の頼るものとして、そなたはそれを利用しなければいけなくなるかもしれぬぞ」
ポウルは父を見つめ、錠剤がきいてきたのか両肩がまっすぐのびてきたのに気づいた。しかし、恐怖と疑惑の言葉を忘れることはできなかった。
公爵はつぶやいた。
「どうしてあの生態学者は遅れているんだろうな? わしはスフィルに。かれをここへ早くよこせといっておいたのだが」
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[#ここから10字下げ]
父、|大 王 皇 帝《パディッシャ・エンペラー》は、ある日わたしの手を取り、わたしは母が教えてくれたとおり、父に心配事があるのだと感じた。父はわたしを連れて肖像の廊下を歩き、公爵《デューク》レト・アトレイデの肖像画の前にとまった。わたしはふたりのあいだにある強い類似点に気づいた――父と、肖像画の男と――どちらも、ほっそりとしたエレガントな顔つき、そして冷ややかな目に現れている鋭い表情。父はいった。「娘の姫よ、この男が女性を選ぶときがきたら、そなたがもっと年を取っていればいいと思うことだろうな」そのときわたしの父は七十一歳であり、肖像画の男よりも年上とは見えなかった。わたしはそのとき十四歳にすぎなかったが、そのときすぐ、父がひそかに公爵を息子であればと望んでいることを推察し、かれらをおたがいに敵とした政治的必然性を憎んだことを記憶している。
――イルーラン姫による“父君の家にあって”から
[#ここで字下げ終わり]
かれが裏切れと命じられていた人々に初めて会ったとき、カインズ博士は体がふるえてくるのをおぼえた。かれは自分が科学者であることに誇りを持っていた。科学者にとって、伝説とは文化的な根源をさしている興味のある手がかりにすぎないのだ。しかし、その少年は大昔の予言にあまりにもぴったりとあてはまっていた。かれは“探求する目”を持ち、“落ち着いた率直さ”の雰囲気をたたえていたのだ。
もちろんその予言は、母なる女神が彼女とともに救世主《メサイア》を連れてくるものか、それともその場においてその人[#「その人」に傍点]を生み出すのかについては、はっきりしないままに残されていた。それでも、予言と人間のあいだにこれほど奇妙な一致があったのだ。
かれらは午前のなかばに、アラキーン離着陸場管理ビルの外で顔を合わせた。標識のついていない鳥型飛行機《オーニソプター》が知覚にうずくまっているような格好でとまり、眠たげな昆虫のように軽い音を立てて待機していた。剣を抜いたアトレイデの警備兵がひとりそのそばに立っており、そのまわりはシールドでかすかに空気がゆがんで見えていた。
カインズはそのシールド・パターンに笑いをおぼえた。
“アラキスでは驚くことになるぞ!”
惑星学者は片手を上げ、かれについてきたフレーメンの護衛をあとにさがらせた。かれは建物の入口にむかって大股に進んでいった――プラスチックを吹きつけた岩にあいている暗い穴だ。この一枚岩の建物は露出しすぎている。洞窟より適しているとはいえないな、とかれは考えた。
入口の中に動いているものがかれの注意を引いた。かれは立ちどまり、寛衣《ローブ》と左肩にある|スティルスーツ《*》のセットを調節した。
入口のドアが大きくひらき、アトレイデの警備兵が急いで出てきた。その全員が重武装している――低速弾麻痺銃《スロー・ペレット・スタンナー》、剣、それにシールドだ。そのうしろから、鷹のような顔、肌も髪も黒い背の高い男が出てきた。かれは胸にアトレイデ家の紋章がついた|ジャッバ・クローク《*》を着ていたが、その衣装にまだなれていないように見えた。その片方は、スティルスーツの足にからみつき、そのため自由に大股で歩くことを妨げていた。
その男のそばを歩いてくる少年の髪は同じように黒かったが、顔は丸かった。カインズはその少年が十五歳になることを知っていたが、それにしては小さく見えた。だがその少年は、命令をくだす感覚、落ち着いた確信をそなえているようで、ほかのものには見えないが、まわりにあるすべてを見ており知っているかのようだった。かれは父と同じスタイルの外套《クローク》をまとっていたが、これまでずっとそんな衣装を身につけていたかと思わせるほどの楽な着かたをしていた。
<マーディは、ほかのものが見られないことにも気づくであろう>と、あの予言は述べているのだ。
カインズは首をふり、自分の心にいい聞かせた。
“かれらは、ただの人間なのだぞ”と。
そのふたりともに、同じような砂漠用の服を着た男がやってきた。カインズは、それがガーニィ・ハレックだとわかった。カインズはハレックにたいする怒りをおさえようと、深く息を吸った。そいつはかれに、公爵と世継ぎの前でどのようにふるまうべきかを講釈したのだ。
“公爵には、殿、もしくは閣下と呼びかけていただこう。|尊いおかた《ノーブル・ボーン》も正しいが、それはふつう、ずっと公的な場合に使われているんだ。ご子息には、若殿もしくは若さまとよびかけられるのがいいだろう。公爵は非常に寛大なかただが、なれなれしい態度はお嫌いだからな”
そしてカインズは、かれらが近づいてくるのを見つめながら考えた。
“かれらはすぐに、アラキスの主人《マスター》はだれかを知ることになるんだ。夜どおしあのメンタートにおれを訊問しろと命じたりしてみろ? かれらが|香 料 採 集《スパイス・マイニング》の調査をするのを、おれに案内させるつもりか?”
ハワトが質問したことの重大さは、カインズの胸から去っていなかった。かれらは帝国の基地を求めている。そして、それらの基地のことをアイダホから知ったことは明らかだ。
“スティルガーに、アイダホの首を公爵のもとへ送らせてやろう”と、カインズは自分の心に告げた。
公爵の一行はいまや数歩しか離れておらず、砂漠用長靴《デザート・ブーツ》をはいたかれらの足が砂を踏む音がひびいていた。
カインズは頭を下げた。
「公爵閣下」
鳥型飛行機《オーニソプター》の近くにただひとり立っているかれの前に近づくと、レトは見つめた。背が高く、やせており、ローブ、スティルスーツ、半長靴《ロウ・ブーツ》と、砂漠用の服装をしている。頭巾《フード》をうしろへ落とし、ベールは片方にたれ、長い砂にまみれた髪とまばらな髭を見せている。濃い眉毛の下の両眼は、底知れぬほど深い青の中の青だ。黒いしみの残りが眼窩を染めている。
「きみが生態学者だな」
公爵の言葉にカインズは答えた。
「ここでは昔の呼び方を選んでおります、閣下……惑星学者、と」
「好きなように」と、公爵はいい、ポウルのほうを見た。「坊や、これが|移 動 審 判 官《ジャッジ・オブ・チェンジ》、争いの裁決者、この領土におけるわれわれの権力施行に形式が守られているかどうかを見るため、この地に置かれている人だ」
ポウルはたずねた。
「あなたはフレーメンなのか?」
カインズは微笑した。
「わたしはシーチと村の両方で受け入れられています、若殿。しかしわたしは、皇帝陛下に仕える|帝 国 惑 星 学 者《インペリアル・プラネトロジスト》です」
ポウルはうなずき、この男の持っている力の雰囲気に打たれた。管理ビルの上から、ハレックはカインズを指さしてポウルに教えたのだ。「あそこに、フレーメンの護衛と立っている男……いま、オーニソプターのほうへ歩いている男だ」
ポウルは双眼鏡でちょっとカインズを調べ、そのまっすぐに閉じたかた苦しそうな口と、高い額に気づいた。ハレックはポウルの耳もとでいった。「変なやつだよ。はっきりした口をきく……むだのない、きびきびした……剃刀のような」
そのふたりのうしろから公爵はいったのだ。「科学者タイプだよ」
いま、その男から数フィートのところに立ったポウルは、カインズにある力、まるで王族の生まれ、命令するために生まれてきたというような個性の衝撃をおぼえた。
公爵はいった。
「われわれのスティルスーツとこの外套《クローク》のことでは、きみに感謝しなければいけないようだな」
カインズは答えた。
「ぴったり合えばいいですが、閣下。それらはフレーメンの作ったもので、そこにいるあなたの部下ハレックの教えてくれた寸法に、できるだけ合わせました」
「きみが、こういう服を着ないかぎり砂漠に連れてはいけんといったのを聞いて、感心したよ……われわれは大量の水を携行できる。そう長いあいだ出かけているつもりはないし、空中の護衛もある……いま頭上に見えている護衛機だ。これで無理に下ろされるようなことはないだろう」
カインズはかれを見つめ、水ぶとりの体を眺め、冷ややかにいった。
「あなたはアラキスでおこりそうなことをいわれなかった。あなたのいわれるのは、可能性にすぎませんぞ」
ハレックは緊張した。
「公爵には閣下もしくは殿と申しあげることだ!」
レトはハレックに、やめろという身ぶりをしていった。
「われわれの道は新しいんだ、ガーニィ。例外を作らなければいかんよ」
「お望みどおりに、殿」
レトはいった。
「われわれはきみに借りがある、カインズ博士。これらのスーツと、われわれの安全を考えてくれたことはおぼえておくぞ」
衝動的にポウルはO・Cバイブル[#オレンジ・カトリック・バイブルであるが、もともと「オレンジ」は「プロテスタント」を現わすものなので、これは「プロテスタント・カトリック・バイブル」という、作者がキリスト教を皮肉ったものになっている]を思い出して、それを引用した言葉を口にした。
「贈り物はあたえるものの|祝 福《ブレッシング》とか」
その言葉は、静かな空気の中で、大きすぎるほどにひびいた。カインズが管理ビルのかげに残してきたフレーメンの護衛たちは、うずくまっていた姿勢かた飛びおき、はっきりと興奮を見せてつぶやいた。そのひとりは大声でさけんだ。
「リザン・アル・ガイブ!」
カインズはふりむき、短く、手をたたきつけるようにふって、護衛を去らせた。飛び出してきたかれらは、仲間どうしでつぶやきあいながら、建物のかげへまわっていった。
レトはいった。
「おもしろいことだな」
カインズは公爵とポウルにきびしい視線をむけていった。
「ここにいる砂漠原住民のほとんどは、迷信的です。かれらに注意をはらわれないように。かれらは別に危害を加えるつもりはないのです」
だが、かれは伝説の言葉を思い出していた。
“かれらはなんじに聖なる言葉をもって挨拶し、なんじの贈り物は|祝 福《ブレッシング》となるであろう”
レトのカインズにたいする評価は――なかばハワトの短い口頭による(慎重な、疑惑に満ちた)報告にもとづくものだったが――とつぜんかたまった。この男はフレーメンだったのだ。カインズはフレーメンの護衛といっしょにやってきた。それはたんに、フレーメンたちが得た市街地にはいる新しい自由をテストしていることだけを意味しているのかもしれない――だが、、儀礼的な護衛のようにも思える。そして挙止動作から見ると、カインズは自由になれた誇り高い男であり、その言葉づかいと態度が用心深いのは、かれ自身の疑惑からそう思えるだけかもしれない。ポウルの質問は直接的であり的を射たものだった。
カインズは原住民になってしまっていたのだ。
「もう出発すべきではないでしょうか、殿?」
ハレックの言葉に公爵はうなずいた。
「わしが自分のソプターを操縦する。カインズはわしとならんで坐り、案内してもらおう。きみとポウルは、うしろの席に坐るんだ」
カインズはいった。
「ちょっとお待ちください。よろしければ、閣下。あなたのスーツが安全かどうか調べさせていただかなければ」
公爵が口をひらく前に、カインズはおっかぶせていった。
「わたしは自分の命を心配しているのです。あなたの命もですが、閣下・あなたがたにもしものことがあった場合、だれの咽喉が切られることになるか、よくわかっておりますから」
公爵は眉をよせて考えた。
“微妙なときだぞ! もしわしが拒絶すれば、こいつを怒らせることになるかもしれん。そしてこいつは、わしにとって測ることのできない価値があるかもしれんのだ。しかし……この男をほとんど何も知らんのに、わしのシールドの中に入れ、体にふれさせることは?”
その想いがかれの心を走り、決心をせまった。
「われわれはきみの手中にあるわけだな」公爵はそういって前に進み、ローブをひらいた。ハレックはあわてて進み出ようとしたが、立ちどまり、油断なく待機した。公爵は話しかけた。「それほど親切にしてくれるのなら、これになれているきみに、スーツの説明をしhてもらうとありがたいな」
「承知しました」と、カインズはいい、ローブの下にある肩のシールへ手をのばし、スーツを調べながら話しはじめた。「スーツは基本的にマイクロ・サンドイッチ……高性能のフィルターと熱交換システムです」かれは肩のシールを調節した。「肌にふれる布地は多孔性で、汗はそれを通り、体を冷やす……通常の蒸発プロセスに近いものです。それにつづく二つの層は……」カインズは胸のまわりをきつくした。「……熱交換フィラメントと塩分の沈殿剤をふくんでいます。塩は回収されるわけです」
公爵は合図を受けて両腕を上げながらいった。
「実におもしろいものだな」
カインズはいった。
「深く息をして」
公爵はそれに従った。
カインズは両脇のシールを調べ、その一方を調節した。
「体の運動、特に呼吸、それに滲透圧がポンプの力を供給します」かれは胸まわりをわずかにゆるめた。「回収された水はキャッチ・ポケットへまわり、顎にあるクリップのチューブでそれを吸うのです」
公爵は顎をまわしてチューブの端を見た。
「能率的で便利だ。よくできている」
カインズはひざまずき、両足のシールを調べた。
「小便と排泄物は股のパッドで処理されます」かれはそういって立ち上がり、頸あてをさわり、そこにあるセクション・フラップを上げた。「砂漠では、このフィルターを顔につけ、このチューブを鼻の穴に入れ、このプラグでしっかりととめます。呼吸は、口のフィルターから吸いこみ、鼻のチューブから出すのです。よく整備されたフレーメン・スーツでは、一日に|ごくわずかな《シンプルフル》水分しか失いません……たとえ|大エルグ《*》の中にあってもです」
「一日に|指抜き一杯《シンプルフル》ね」
と、公爵はいった。
カインズはスーツの額にあるパッドを指でおした。
「これはすこしこすれるかもしれません。痛いようなら、どうかそういってください。細いパッチですこしきつくしますから」
「ありがとう」
公爵はそういい、カインズがうしろに下がるとスーツの中で両肩を動かし、ずっと具合が良くなっているのを知った――きつくなっているが邪魔にはならないのだ。
カインズはポウルのほうにむいた。
「さて、あなたのを見ましょうか、坊や」
“いい男だが、われわれに正しく呼びかけることを知らなければいかんな”
と、公爵は考えた。
ポウルはおとなしく立って、カインズにスーツを調べさせた。表面がつるつるとし、うねるこの服を着けたとき、変な感じがしたものだった。これまでスティルスーツを着たことは一度もないとわかっていたのに、ガーニィのなれない指導のもとで粘着タブを調節したとき、すべてが自然に本能的に動いたのだ。呼吸による最高のポンプ活動をおこさせようと胸をふくらませたとき、かれは自分が何を、なぜしているのかわかっていた。頸と額のタブをきつくしたときも、それは摩擦による水ぶくれをおこさせないためだとわかっていた。
カインズは背をのばし、とまどったような表情を浮かべてうしろにさがりながらたずねた。
「あなたは、これまでにスティルスーツを着たことがあるんですか?」
「これが初めてだよ」
「ではだれかが調節してくれたのですね?」
「いいや」
「あなたの砂漠用長靴《デザートブーツ》は足首のところでスリップ・ファッションにしめてある。だれがそうしろといったんです?」
「それが……正しい方法だと思ったから」
「まったくそのとおりですがね」
カインズは頬をこすり、伝説を考えた。
“かれは、その中にて生まれたるがごとく、なんじらの方法を知るであろう”
「時間がむだだぞ」
と、公爵はいい、待機しているソプターのほうに手をふり、先に立って歩きだし、警備兵の敬礼にうなずいてみせた。かれは乗りこむと、安全ベルトをしめ、操縦装置と計器を点検した。ほかの連中が乗りこんでくると、飛行機はきしむような音をたてた。
カインズはベルトを締めると、機内の坐り心地をよくするための詰め物に注意をむけた――やわらかく豪華な灰緑色の布地、輝いている計器、ドアがしめられ換気ファンがまわりはじめると、肺にはいってきた濾過され洗われた空気の感じ。
優雅なもんだな、とかれは思った。
「全員、席につきました、殿」
と、ハレックがいった。
レトは両翼にパワーをあたえ、それが一度、二度と上下に動くのを感じた。かれらは地上十メートルに上がっており、両翼はしっかりとはばたき、アフタージェットは噴出し、機体を急上昇させていた。
カインズはいった。
「|遮蔽する壁《シールド・ウォール》をこえて南東に。わたしがあなたの|サンドマスター《*》に機材を集中しろと伝えたところです」
「わかった」
公爵は随伴機のほうへバンクした。もう一機のほうは護衛の位置について南東にむかった。
「このスティルスーツのデザインと仕上げは、実に洗練されたものだな」」
カインズは公爵に答えた。
「いつかシーチの工場をお見せできるかもしれません」
「それはおもしろいだろうな。わしはこういうスーツが、守備隊駐屯都市《ガリソン・シティ》のいくつかでも作られていると聞いているが」
「品質の劣ったものを。命を大切にする砂丘労働者《デューン・メン》であればだれでも、フレーメン・スーツを使います」
「それなら水分の損失を一日にごくわずかな量でおさえられるのだな?」
「正しく装着し、額のキャップをしめ、すべてのシールを閉じておけば、水分の主要な損失は、両手の掌からのものです。こまかい仕事に両手を使わない場合、スーツの手袋をつけられますが、砂漠にいるほとんどのフレーメンは、クレオソート・ブッシュの葉から出る汁で両手をこすります。それが発汗をとめるのです」
公爵は左のほう、|遮蔽する壁《シールド・ウォール》の荒れはてた景色を見おろした――痛めつけられた岩の割れ目、ひび割れた断層の黒い線が走る黄褐色の地面。それはまるでだれかが宇宙からこの土地にぶつかったところが残されているようだった。
かれらは南にあいている渓谷からひろがっている、灰色の砂で輪郭がはっきりしている浅い盆地を横断した。砂の指がその盆地の中へ走りこんでいる――暗い色の岩にたいしてくっきりと浮かびあがっている乾いた三角州だ。
カインズはゆったりと坐り、さきほどスティルスーツの下に感じた水ぶくれの肉体を考えていた。かれらは寛衣《ローブ》の上にシールド・ベルトをしめ、腰に|低 速 弾 麻 痺 銃《スロー・ペレット・スタンナー》をつけ、頸のまわりに貨幣ぐらいの大きさの緊急信号用送信機をつけていた。公爵もその息子も手首の鞘に入れたナイフを帯びており、その鞘は長いあいだ使ってきたことを示していた。この連中にカインズは、優しさと武装した力の奇妙な結びつきを感じた。かれらにはハルコンネンとまったく似ていない姿勢があったのだ。
「ここの政府が交替したことをきみが皇帝に報告するとき、われわれが規則を守ったことをいってくれるね?」
と、カインズをちらりと眺め、飛んできた方向をふりかえって見た。
「ハルコンネン家が離れ、あなたがたが来られた、と」
カインズの言葉に、レトはたずねた。
「そして、すべては正しくとな?」
カインズの顎に筋肉がぴくりと動き、一瞬、緊張を現した。
「惑星学者ならびに|移 動 審 判 官《ジャッジ・オブ・チェンジ》として、わたしは帝国に直接つかえる身です……閣下」
公爵はふきげんそうな微笑を浮かべた。
「だがわれわれはどちらも現実を知っているのだぞ」
「申しあげておきますが、皇帝陛下はわたしの仕事を支持されているのです」
「そうかね? それできみの仕事とは?」
短い沈黙の中でポウルは考えた。
“父上はこのカインズに押しつけすぎている”
ポウルはハレックをちらりと見たが、吟遊詩人の戦士は荒れはてた風景を見つめていた。
カインズはかたい口調でいった。
「もちろん。あなたのおっしゃるのは、惑星学者としてのわたしの義務ですな」
「もちろんだとも」
「それは、もっとも乾燥した土地での生物学と植物学……それに地質学的研究もすこし……地質のボーリングとテストです。ひとつの惑星全体が持つ可能性となると、つきることがありませんからね」
「きみは香料《スパイス》の調査もやっているのか?」
カインズは顔をまわし、ポウルはその男の頬にきつい線が浮かんでいるのを知った。
「変なご質問ですな、閣下」
「よくおぼえておくことだ、カインズ。ここはいま、わしの領土だということを。わしの方法は、ハルコンネンのそれとはちがう。きみが見つけたものをわしに知らせるかぎり、香料《スパイス》を調べても気にしないよ」かれは惑星学者を見た。「ハルコンネンは香料《スパイス》の調査を邪魔したのではないかな?」
カインズはそれに答えないまま、見つめかえした。
公爵はいった。
「はっきり話していいぞ、きみの命を心配することなしにだ」
「まったく皇帝の宮廷は遠く離れていますからな」
カインズはつぶやきながら考えた。
“この水ぶくれの侵入者は何を考えているんだ? こいつは、おれが協力してやるほどの馬鹿と思っているのかな?”
公爵はコースに気をつけながら、笑いだした。
「不機嫌な声だな、博士。われわれは、おとなしい人殺しどもといっしょにここへ舞いこんできた、え? それなのにわれわれはきみに、ハルコンネンとはちがうんだということをすぐに認めろという、そうなんだな?」
「あなたがシーチや村をいっぱいにした宣伝を読みましたよ。すばらしい公爵を愛せよ! あなたの宣伝部隊は……」
「近づきました!」
ハレックが叫んだ。かれは注意を窓から離し、前にかがみこんだ。
ポウルはハレックの腕に手をかけた。
公爵はふりむいた。
「ガーニィ! この男は長いあいだハルコンネンの下で働いていた」
ハレックは坐りなおした。
カインズはいった。
「あなたのところのハワトは巧妙ですが、かれの目的ははっきりわかりましたよ」
公爵はたずねた。
「では、それらの基地をひらいてくれるか?」
カインズは、きっぱり答えた。
「皇帝陛下の財産ですぞ」
「使われていないが」
「使うことがあるかもしれません」
「陛下も同じ意見かな?」
カインズはきびしい視線を公爵にむけた。
「統治者が香料《スパイス》を追いつづけるのをやめれば、アラキスは楽園《エデン》になるかもしれないのです!」
かれはわしの質問に答えていない、と公爵は考えていた。
「どうやればひとつの惑星が金《かね》もなしに楽園《エデン》になり得るというのだ?」
カインズは反問した。
「必要とする協力が得られないとき、金が何になりましょう?」
来たな! そう思いながら公爵はいった。
「それはまた別のときに話しあおう。いまは、どうやら|遮蔽する壁《シールド・ウォール》の端に近づいているようだ。コースは同じでいいのかな?」
「同じコースです」
と、カインズはつぶやいた。
ポウルは窓の外を見た。眼下の荒れはてた地面は、とつぜん雑然とした皺から荒涼とした岩の平原と、ナイフで切ったような岩棚に変わっていった。岩棚のかなたには三日月《みかづき》のような砂丘が地平線までつづき、遠くのあちらこちらにほかのところより暗い色の、何か砂でないことを示す濃いしみ[#「しみ」に傍点]があった。岩の露頭かもしれない。だが熱にゆれる空気の中では、はっきり見分けられなかった。
「あそこには何か植物があるのかい?」
ポウルの質問にカインズは答えた。
「いくらかは……この緯度にある生物はほとんどがわれわれの|小 さ な 水 盗 み《マイナー・ウォータースティーラー》と称するものを持っています……おたがいの水分を求め、わずかな夜露をむさぼり取るようになっているわけですな。砂漠もところによっては生命に満ちています。しかしその全部が、このきびしさの中でどうやって生きていくかを学んでいるんです。もしあなたが砂漠をさまようことになったら、そういった生命のまねをしなければ死にますね」
「おたがいの水を盗むという意味なのかい?」
と、ポウルはたずねた。その考えにかれはひどい怒りをおぼえ、声がそれを現していた。
「そういうこともおこり得るでしょうが、わたしのいった意味は正確にそのとおりというわけじゃあないんです。わたしの[#違和感がいっぱいだが、「わたしの」で間違っていない。原本通り]気候は、水にたいする特別な態度を要求します。つねにあなたは水を意識していることです。水分をふくんでいるものなら、どんなものでもむだにしないように」
公爵は考えた。
“……わしの気候だ!”
カインズはいった。
「もう二度、南へおむけください、閣下。西から風が吹いてきますから」
公爵はうなずいた。かれも黄褐色のほこりが大波のように動いているのを見つけていた。かれはソプターをバンクさせてまわり、護衛機の翼がかれについて旋回するとき、ほこりに散乱された光でにぶいオレンジ色に輝くのを見た。
「これで嵐の端を避けられるはずです」
カインズの言葉にポウルはたずねた。
「中に飛びこむと、あの砂は危険なんだろうね。本当に、最強の金属でも切ってしまうのかい?」
「この高度では、砂でなく、ほこりです。危険は視界の欠如、乱流、空気取入口《インテイク》がつまることです」
「ぼくらは今日、実際に香料《スパイス》を取っているところを見られるか?」
「見られるでしょう」
と、カインズは答えた。
ポウルは坐りなおした。かれは母のいう“心に刻む”ための質問をし高度の注意をはらってきた。もう、カインズの口調、顔と身ぶりのこまかいところもわかっていた。この男のローブに見られる左袖の不自然な重《かさ》なりは、腕の鞘にナイフが入れられているということだ。胴は奇妙にふくらんでいた。砂漠の男たちはベルトのついた飾帯《サッシュ》をしており、その中に小さな必需品を入れると聞いていた。たぶんそのふくらみはそういった飾帯《サッシュ》のせいだろう――シールド・ベルトを隠しているのでないことは明らかだ。野ウサギに似た彫りもののしてある銅の襟どめが、カインズのローブの頸をあわせていた。同じものでももうすこし小さいのが、背中へ落としてあるフードの隅につけてある。
ハレックはポウルのとなりの席で体をねじり、うしろの物入れに手をのばしてバリセットを取り出した。カインズはハレックが楽器を調弦する音にふりむいたが、また視線をコースにもどした。
「何をお聞きになりたいですか、若殿?」
と、ハレックはたずねた。
「なんでもおまえのいいのを、ガーニィ」
ハレックは耳を音響版に近づけ、コードをつまびくと低い声で歌った。
「父さんたちはご馳走を食べた
焼けついてくる砂漠の中で
つむじ風がやってくるところなのに
神さま、お守りください
恐ろしい土地からわたしたちを
お助けを……ああ、ああ、お助けを
ひからび、咽喉のかわく土地から」
カインズは公爵をちらりと見てたずねた。
「護衛にしてはめずらしい人間と旅行されるのですな、閣下。みなさんが、こんなに才能の豊かなかたばかりですか?」
公爵は笑った。
「ガーニィ? ガーニィもそのひとりだな。かれといっしょにいるのが好きなのは、目がいいからなんでね。かれの目は、ほとんど何ひとつ見逃さないんだ」
惑星学者はまごついた表情になった。
すぐさまハレックは歌をつづけた。
「わたしはまるで
砂漠のフクロウみたいなものだから!
ああ!
砂漠のフクロウみたいなものだから!」
公爵は手をのばし、計器版からマイクロフォンを取ると、スイッチをおしていった。
「護衛《エスコート》ガンマのリーダーへ、九時の方向、セクターBに飛行物体。何かわかるか?」
「ただの鳥ですよ」カインズはそういって、つけ加えた。「いい目をしていられるのですな」
計器版のスピーカーが鳴った。
『護衛《エスコート》ガンマ。その物体を最大倍率で調べました。大きな鳥です』
ポウルは示された方向を眺め、遠くに黒い一点を見つけた。規則的に運動をくりかえしている点を見ながら、かれは父がどれほど神経をはりつめているかに気づいた。五感のすべてをいっぱいに緊張させているのだ。
「こんなに遠く砂漠の中へ出てきても、あれほど大きい鳥がいることは知らなかったよ」
公爵の言葉にカインズは答えた。
「あれは鷲らしいですよ。この土地に適応している生物は多いのです」
鳥型飛行機《オーニソプター》は岩が露出した平原の上を飛んだ。ポウルは二千メートルの高度から下を眺め、自分の乗っている飛行機と護衛機の影がゆがんでいるのを見た。下界は平たく見えているが、影がゆがんでいるのは、そうでないことを示しているのだ。
「だれかこれまでに、砂漠から歩いて出てきた者はいるのか?」
公爵がそうたずねると、ハレックの音楽はとまった。かれはその答えを聞こうと前にかがみこんだ。
カインズは答えた。
「大砂漠の奥からはありません。第二地帯《セカンド・ゾーン》から出てきた者は何人かあります。かれらは、 虫《ウォーム》 がめったにやってこない岩石地帯を横切ることで生きていられたのです」
カインズの声にこめられた響きがポウルの注意をひいた。かれは自分の五感が、訓練されたとおりに張りつめてくるのを感じた。
「ああ、 虫《ウォーム》 ね。わしもいつか見なければいけないな」
公爵はそういい、カインズは答えた。
「今日、見られるかもしれませんよ。香料《スパイス》のあるところ、どこにも 虫《ウォーム》 がいますから」
ハレックがたずねた。
「つねにかい?」
「つねにです」
公爵はたずねた。
「 虫《ウォーム》 と香料《スパイス》のあいだに関係があるのか?」
顔をまわしたカインズが唇をすぼめながら話すのを、ポウルは見た。
「かれらは香料《スパイス》の砂地を守るのです。それぞれの 虫《ウォーム》 は……領地《テリトリィ》を持っている。香料のほうは……知る物はなしです。われわれは 虫《ウォーム》 を調べた結果、そのふたつのあいだに複雑な化学的交換があることを考えるようになりました。ダクトの中に塩酸の痕跡が見つけられます。ほかのどこよりも複雑な酸が。その問題についてのわたしの論文をさしあげましょう」
公爵はたずねた。
「そしてシールドも防御にならないんだね?」
カインズは嘲笑するような声をあげた。
「シールド! 虫《ウォーム》 のいる地帯でシールドを作動させるのは、自分の運命をふさいでしまうことです。どの 虫《ウォーム》 も|境 界 線《テリトリィライン》を無視し、遠く四方からシールドを攻撃にやってきます。シールドを使っていて、そういう攻撃に生きのこった者はまだいません」
「では、どうやって 虫《ウォーム》 をつかまえたんだね?」
「環状部分《リング・セグメント》のひとつひとつに、別々の高圧電気的ショックを与えることが、ひとつの|砂  虫《サンドウォーム》をまるまる殺す方法としては、わかっているただひとつのものです。爆薬でおどかし粉砕することはできますが、環状部分はそれぞれ別々に命を持っています。核兵器をのぞいて、おおきな 虫《ウォーム》 を完全に殺してしまえるほど強力な爆薬はありません。かれらは信じられないほど強いのです」
ポウルはたずねた。
「なぜ、かれらを一掃してしまう努力をこれまでにはらわなかったんだい?」
「費用がかかりすぎるからです。あまりにも多くの地域をカバーしなければいけませんからね」
ポウルは自分の席で背をのばした。かれの真実を知る感覚、口調にある蔭を聞きわける能力は、カインズが嘘をついており、真実をなかばまでしか伝えていないことを告げていた。かれは考えた。
“もし、香料《スパイス》と 虫《ウォーム》 のあいだに関係があるのなら、 虫《ウォーム》 を殺すことは香料《スパイス》をなくしてしまうことになるんだ”
公爵はいった。
「もうすぐ、だれも砂漠から歩いて出てこなくてもよくなるさ。こういう小さな送信機を頸につけて旅をすれば、救助隊がすぐに出動できる。われわれの労働者は全員が、遠からずこれをつけることになるんだ。われわれは特別救難隊を作りつつあるよ」
カインズはいった。
「実にごりっぱなことですな」
「きみの口調は、賛成していないように聞こえるぞ」
「賛成? もちろんわたしは賛成ですが、それもあまり役に立たないと思われるのです。|砂  虫《サンドウォーム》からの静電気が多くの信号を消してしまいます。送信機はショートします。これまでにも、ここではこころみてきましたから。アラキスは、機械にもたいへんなところです。そして、 虫《ウォーム》 が人間を襲うとなると、時間はほとんどありません。十五分から二十分もないことが多いのです」
公爵はたずねた。
「きみはどういう忠告をするね?」
「わたしに忠告を求められるのですか?」
「ああ、惑星学者だからな」
「あなたはわたしの忠告に従われますか?」
「それが納得《なっとく》できるものであれば」
「よろしい、閣下。決して、ひとりでは旅行しないことです」
公爵は操縦装置から注意をそらした。
「それで全部か?」
「それで全部です。決して、ひとりでは旅行しないこと」
ハレックがたずねた。
「もし嵐でひとりになってしまい。砂漠に下ろされてしまったら? やれることは何かあるのかい?」
カインズは答えた。
「何か、というのは範囲は広いですな」
ポウルはたずねた。
「あなたならどうする?」
カインズはきびしい視線を少年にむけ、また注意を公爵にもどした。
「わたしならスティルスーツが本来持っている機能を失わないように気をつけます。|虫 地 帯《ウォーム・ゾーン》の外とか岩の地域なら、機内にとどまっています。砂漠の中に下りた場合は、できるだけ急いで飛行機から離れます。千メートルぐらい離れたらいいでしょう。それから寛衣《ローブ》をかぶって隠れています。 虫《ウォーム》 は飛行機をのみこんでしまうかもしれませんが、わたしは助かるかもしれません」
「それから?」
と、ハレックがたずねると、カインズは肩をすくめた。
「 虫《ウォーム》 が去るのを待つのです」
ポウルはたずねた。
「それだけ?」
「 虫《ウォーム》 が去ってしまえば、歩きだしてもいいでしょう。静かに歩かなくてはいけません。太鼓砂《ドラム・サンド*》や|干満ほこり盆地《タイダル・ダスト・ベイズン*》を避けてね……いちばん近くにある岩石地帯へむかうのです。そういう地帯がたくさんあります。成功するかもしれません」
ハレックはたずねた。
「太鼓砂《ドラム・サンド》?」
「砂の密度におけるひとつの状態です。ほんのすこし踏んだだけで、太鼓のような音が鳴りはじめます。 虫《ウォーム》 はつねにそこへやってくるのです」
公爵はたずねた。
「それから|干満ほこり盆地《タイダル・ダスト・ベイズン》というのは?」
「砂漠の中にあるいくつかの低地は、何世紀にもわたる砂ぼこりで埋められています。そのいくつかは非常に大きくて、潮流や干満があるのです。そのすべてが、不注意に足をふみ入れた者をのみこんでしまいます」
ハレックは背をのばし、バリセットの爪弾《つまび》きにもどった。やがて、かれは歌った。
「砂漠の猛獣はそこで狩りをする
無知のものが通るのを待っている
ああ、砂漠の女神をさそわないで
さがし求めているものが
たったひとつの墓碑銘でないのなら
危ないことは……」
かれは歌をやめて、前にかがみこんだ。
「前方に砂の雲です、殿」
「わしも見たよ、ガーニィ」
カインズはいった。
「あれが、われわれのさがしているものです」
ポウルは座席で背をのばし、三十キロほど前方の砂漠の表面に、黄色い雲が低くうずまいているのを見た。
カインズはいった。
「あなたがたの|工 場《ファクトリィ》クロウラーのひとつです。あれが地表にいるのは、香料《スパイス》の上にいることを意味します。雲は香料《スパイス》を遠心分離で除いたあと排出している砂です。ほかにあんな雲はありません」
公爵はいった。
「その上に飛行機がいるぞ」
「二……三……四……|スポッター《*》が四機。かれらは|虫じるし《ウォームサイン》を監視しているのです」
公爵はたずねた。
「虫じるし《ウォームサイン》?」
「クロウラーにむかってくる砂の波です。かれらは地表に地震探知機もすえつけています。 虫《ウォーム》 はときどき、波が見えないほど深いところを動きますから」カインズは、空を見まわした。「近くにキャリオールがいるはずですが、見えませんね」
ハレックはたずねた。
「 虫《ウォーム》 はつねにくるのか?」
「つねに」
ポウルは前にかがみ、カインズの肩にさわった。
「それぞれの 虫《ウォーム》 が縄ばりにしている地域の広さはどれぐらいなんだ?」
カインズは眉をよせた。少年は大人のような質問ばかりしているのだ。
「それは 虫《ウォーム》 の大きさによります」
公爵はたずねた。
「そのちがいは?」
「大きいものは三から四百平方キロメートルを自分のものとしていましょう。小さなものは……」
公爵がジェット・ブレーキを蹴りこんだので、かれは話すのをやめた。尾部ジェットがささやくようにとまり、機体はゆれた。ずんぐりした翼が長くのびて、空気をたたいた。公爵は機体をバンクさせ、フル・ソプターにし、両翼をゆっくりはばたかせながら、左手で|工 場《ファクトリィ》クロウラーの東のほうを指さした。
「あれは|虫じるし《ウォームサイン》か?」
カインズは公爵のほうへよりかかり、遠くのほうをのぞいた。
ポウルとハレックは重なるようにして同じ方角を眺め、ポウルはこちらの操縦がとつぜん変わったので前方に飛んでいった随伴機が旋回しながらもどってくるのに気づいた。|工 場《ファクトリィ》クロウラーは、まだかれらの前方三キロほどにあった。
公爵が指さしたところ、地平線にむかって影の波をひろげながら三日月型の砂丘がつづいており、そのあいだを遠くまでまっすぐの線を引きながら長くのびた山が動いてきた――砂の隆起が動いているのだ。それはポウルに、大きな魚が水面のすぐ下を泳いでいるときに水をさわがせる有様を連想させた。
「 虫《ウォーム》 。大きなやつです」
と、カインズはいい、背をのばすと計器版からマイクロフォンを取り、新しい周波数をパンチした。頭上にはってある|格子入り地図《グリッド・チャート》をちらりと見て、かれはマイクロフォンに話しかけた。
「クロウラー・デルタ・アジャックス・九へ。|虫じるし・警告《ウォームサイン・ウォーニング》。クロウラー・デルタ・アジャックス・九へ。|虫じるし・警告《ウォームサイン・ウォーニング》。答えよ、どうぞ」
かれは待った。
計器版のスピーカーが静電雑音を鳴らし、ついで声が聞こえた。
『デルタ・アジャックス・九を呼んでいるのはだれだ? どうぞ』
ハレックはいった。
「かれらはずいぶん落ち着いていますよ」
カインズはマイクロフォンに話した。
「非登録飛行便……きみらの北東に約三キロ。|虫じるし《ウォームサイン》はきみたちの場所にぶつかるコース。ほぼ二十五分後と思われる」
別の声がスピーカーからひびいた。
『こちら、スポッター・コントロール・発見を確認した。|接触の計算《コンタクト・フィックス》を待機《スタンバイ》』ちょっとあいだをおいて、また、『接触は二十六分マイナス。すばらしい勘だ。その非登録飛行便に乗っているのはだれだ? どうぞ』
ハレックはベルトをはずすなり、カインズと公爵のあいだへ突進した、
「これはふつうの作業周波数か、カインズ?」
「ええ。なぜ?」
「だれが聞いている?」
「この地域で働いている連中だけ。邪魔しないでくれ」
またスピーカーが鳴った。
『こちらデルタ・アジャックス・九。だれにいまのボーナスをつけるんだ? どうぞ』
ハレックは公爵を見た。
カインズはいった。
「だれであれ最初に|虫 の 警 告《ウォーム・ウォーニング》をした者は、ボーナスがもらえます。かれらはそれを知りたがっているので……」
ハレックはいった。
「だれがあの 虫《ウォーム》 を見つけたか伝えてやってくれ」
公爵はうなずいた。
カインズはためらい、それからマイクロフォンを持ち上げた。
「発見者は公爵《デューク》レト・アトレイデ。公爵《デューク》レト・アトレイデ。どうぞ」
スピーカーからの声は単調で、ひどい静電にゆがんでいた。
『了解。ありがとう』
ハレックは命令した。
「かれらにいってくれ、そのボーナスをみんなで分けろと。それが公爵の希望だと伝えるんだ」
カインズは深く息を吸っていった。
「公爵の希望は、諸君のあいだでそのボーナスを分けること。わかったか? どうぞ」
スピーカーは答えた。
『了解。ありがとう』
公爵はいった。
「話しておくのを忘れたが、ガーニィは広報活動のほうでも非常に才能があるんだよ」
カインズはとまどったようにハレックを見た。
「これで人々は公爵がかれらの安全に気をくばっていられることを知るわけだ。噂はひろがるだろう。この地区の作業周波数だったから、ハルコンネンのスパイは聞いていないはずだ」ハレックは護衛機のほうを見た。「それにこちらは相当の兵力だ。いい賭けだったというわけさ」
公爵は機体をバンクさせ、|工 場《ファクトリィ》クロウラーから砂煙が噴出しているほうへむけた。
「これからどうなるんだね?」
カインズは答えた。
「どこか近くにキャリオール機がいます。それがやってきて、クロウラーを持ち上げるのです」
ハレックはたずねた。
「もしキャリオールがこわれたら?」
「機械をすこし失うわけですな……クロウラーの近くにやってください、閣下。興味を持たれると思いますよ」
乗機がクロウラーの上空の乱気流にはいると、公爵は顔をしかめ、忙しく操縦装置を操作した。
ポウルは下を眺め、金属とプラスチックの怪物《モンスター》がまだ砂を吹き出しているのを見た。まわりに腕をのばし多くの広い軌道がついているそれは、巨大な茶色と青の昆虫みたいだった。さかさにしたおおきな漏斗《じょうご》のようなくちばしが、その前方の濃い色の砂につっこんでいるのをかれは見た。
カインズはいった。
「あの色からすると香料《スパイス》の豊富なところです。かれらは最後の瞬間まで働きつづけます」
公爵は両翼にもっとパワーをくわせ、急角度に降下しながらクロウラーのまわりを低く旋回しはじめた。
ポウルはクロウラーのパイプ・ヴェントから黄色い雲が噴出しているのを見つめ、 虫《ウォーム》の跡が近づいてくる砂漠のほうを眺めた。
ハレックはたずねた。
「キャリオールからの呼びかけが聞こえてこないのは?」
カインズは答えた。
「かれらはたいていちがう周波数を使っていますからね」
公爵はたずねた。
「クロウラー一台ごとにキャリオールを二機ずつ待機させておくべきではないのか? 機材の費用を別にしても、あの機械には二十六人もの男たちがいるはずだろう」
カインズはいった。
「それほど機材……」
スピーカーがとつぜん腹立たしげな声をひびかせはじめ、かれは黙り込んだ。
『だれか 翼《ウィング》 を見たか? かれは答えないぞ』
雑音がスピーカーからもれ、声を消し、沈黙のあとで、最初の声が聞こえた』
『順番に報告してくれ! どうぞ』
『こちらスポッター・ワン。|見えない《ネガティブ》。どうぞ』
『こちらスポッター・ツー。|ネガティブ。どうぞ』
『こちらスポッター・スリー。|ネガティブ。どうぞ』
沈黙。
公爵は下を見た。乗機の影がちょうどクロウラーを横切るところだった。
「スポッターは四機だけ、そうか?」
カインズは答えた。
「そうです」
公爵はいった。
「こちらは五機だ。われわれのほうが大きい。それぞれ三人を余分につめこめる、スポッターのほうは、それぞれ二人ずつを乗せられるはずだ」
ポウルは頭の中で計算していった。
「三人、残りますよ」
公爵は大声をあげた。
「なぜクロウラー一台にキャリオールを二機つけないんだ?」
カインズは答えた。
「それほど機材が多くないからです」
「われわれのとぼしい機材を守らなければいけない、なおいっそうの理由になるぞ!」
ハレックはたずねた。
「いったいあのキャリオールはどこへ行ったんだろう?」
カインズはいった。
「どこか見えないところに下りてなければいけない羽目になったのでしょう」
公爵はマイクロフォンをつかみ、スイッチの上に親指をおいてためらった。
「どうしてかれらはキャリオールを見失うようなことを?」
カインズはいった。
「かれらが|虫じるし《ウォームサイン》を見つけようと地表だけに注意をむけていたせいでしょう」
公爵はスイッチをおし、マイクロフォンにむかって話した。
「こちらは諸君の公爵だ。われわれは着陸し、デルタ・アジャックス・九の作業員を乗せる。全スポッターに命令、こちらにならえ。スポッターは東側に下りろ。われわれは西側だ。終わり」
かれは手をのばし、かれの指揮周波数をパンチし、護衛編隊への命令をつたえ、マイクロフォンをカインズにもどした。
カインズが作業用周波数にもどすと、スピーカーから声がとどろいた。
『……香料《スパイス》がほとんどいっぱいだ! ほとんど|満 載《フル・ロード》したんだ! 虫《ウォーム》 の野郎が来たからって逃げ出せるもんか! どうぞ』
「香料《スパイス》がなんだ!」と、公爵はどなり、マイクロフォンを奪い取るといった。「香料はまたいつでも集められる。こちらに乗せられる人数は、かぎりがある。三人は乗せられない。藁《わら》を引くなりなんなり、好きなようにして決めろ。だが、諸君は乗るんだ、命令だぞ!」
かれはマイクロフォンをカインズの手にたたきつけ、カインズが指を痛めて手をふると、「すまん」と、つぶやいた。
「あと時間は?」
ポウルの質問にカインズは答えた。
「九分」
公爵はいった。
「この機は、ほかのよりもパワーがある。両翼を四分の三にしてジェットで飛び出せば、もうひとりつめこめるだろう」
カインズはいった。
「砂はやわらかいですよ」
ハレックはいった。
「ジェット離陸のときに四人多いとなると、両翼が折れるかもしれません、殿」
「この機ならそんなことはないさ」
と、公爵はいい、ソプターがクロウラーのそばにすべってゆくと操縦装置をとめた。両翼は上にあがり、|工 場《ファクトリィ》から二十メートル以内のところにソプターはすべりながらとまった。
クロウラーはもう沈黙しており、その吹出口《ヴェント》から砂は噴出していなかった。かすかに機械のうなる音がひびいてくるだけで、公爵がドアをあけると、もっとはっきりと聞こえてきた。
すぐにかれらの鼻は、濃く鋭いシナモンの匂いにおそわれた。
大きくはばたく音をたてながらスポッター機は、クロウラーの反対側の砂にすべり下りてきた。公爵の護衛機も舞い降り、並んでとまった。
ポウルは|工 場《ファクトリィ》を眺め、ソプターの全部がどれほど小さく見えるかに気づいた――カブトムシのそばにいるブヨだ。
「ガーニィ、きみとポウルはうしろの座席をほうり出せ」公爵はそういい、手動で両翼を四分の三にちぢめ、角度を決め、ジェット噴射装置を点検した。「いったいなぜ、みんなは出てこないんだ?」
「かれらはキャリオールが姿を見せるのを待ちこがれているんです。まだ数分ありますから」
カインズはそういい、東のほうを見た。
みんなが同じ方向に顔をまわしたが、 虫《ウォーム》のしるしはなかった。しかし、あたりに重く、心配な表情がはりつめていた。
公爵はマイクロフォンを取り、指揮周波数をパンチしていった。
「きみたちのうち二機はシールド発生機をほうり出せ。番号順だ。そうすれば、もうひとりずつ乗せられる。あの怪物に連中を残してゆくわけにはいかん」かれは作業用周波数にもどしてどなった。「よし、デルタ・アジャックス・九の諸君! 出ろ! さあ! これは諸君の公爵からの命令だぞ! 急げ、さもないとレーザー銃でクロウラーをばらばらにしてしまうぞ!」
|工 場《ファクトリィ》の前部に近いハッチがぱっと開いた。つづいてうしろのが、つぎに上部のが。男たちがころげるようにでてきて、砂の上をすべり、足をもつらせながら下りてきた。つぎをあてた作業服の大男が最後に出てきた。かれは無限軌道の上に飛びおり、それから砂の上に下りてきた。
公爵はマイクロフォンを計器版にかけ、翼のステップにおどりでて叫んだ。
「スポッターへそれぞれ二人ずつ」
つぎをあてた男は作業員を二人ずつ分けて、反対側に待っている飛行機のほうへおしやった。
公爵は叫んだ。
「ここへ四人! 四人はうしろにいる飛行機へ!」かれは、すぐうしろにいる護衛ソプターを指さした。警備兵はシールド発生機をほうり出しているところだった。「もう四人は、そのむこうの飛行機へ! ほかのへそれぞれ三人ずつだ! 走れ!」
大男は仲間の人数を勘定しおわり、三人の仲間をつれて砂の上を重い足どりで近づいてきた。
カインズはいった。
「 虫《ウォーム》 の音は聞こえるが、見えないな」
ほかのみんなにも聞こえてきた――遠くからずるずるとこするような音が、しだいに大きくなってくる。
公爵はつぶやいた。
「なんというだらしのないやりかたなんだ」
かれらのまわりで飛行機はつぎつぎと離陸しはじめた。それは公爵に故郷の惑星にあるジャングルのことを思い出させた。空き地にとつぜん出たとき、野牛の骸骨から腐肉を食べる鳥が飛びたつところだ。
香料労働者《スパイス・ワーカー》たちはとぼとぼとソプターのそばにつき、公爵のうしろにはいってきはじめた、ハレックはかれらに手を貸し、うしろにひきずりこんだ。かれは鋭い声をあげた。
「はいるんだ、おまえたち! 急げ!」
ポウルは汗をかいている男たちのすみへおしつけられ、恐怖の汗の匂いをかぎ、そのうちの二人がスティルスーツの頸をいいかげんに調節していることを知った。かれは将来のために、その情報を記憶の中にファイルした。父はスティルスーツの規則を強く命令しなければいけなくなるだろう。気をつけていないと男たちはだらしなくなりがちなものだ。
最後の男はあえぎながらうしろにはいっていった。
「 虫《ウォーム》 ! もう来ているぞ! 離陸してくれ!」
公爵は席について、眉をよせながらいった。
「もとの接触計算からすれば、まだ三分はあるはずだ。そうだな、カインズ?」
かれはドアをしめて点検した。
「そのとおりです、閣下」
カインズはそう答えながら考えた。
“冷静なやつだな、この公爵は”
ハレックは呼びかけた。
「こちら全員よろしい、殿」
公爵はうなずき、最後の護衛機が離陸するのを見つめた。かれはイグニションを調節し、両翼と計器をもう一度ちらりと見てから、ジェットを始動させた。
離陸は公爵とカインズを座席の中に深くおしつけ、うしろにいるみんなをおさえつけた。カインズは公爵が操縦装置をゆっくりと正確に動かすのを見つめた。ソプターはもう空中に上がっており、公爵は計器を調べ、左から右へと両翼を眺めた。
ハレックはいった。
「非常に重いはずですが、殿」
「耐久力は充分あるさ。わしが危険を犯したとは考えているまい、ガーニィ?」
ハレックは微笑して答えた。
「ぜんぜんそんなことは、殿」
公爵はゆっくりと長いカーブを描いて機体をバンクさせ、クロウラーを横切って上昇させた。
窓ぎわのすみにおしつけられたポウルは、砂の上に沈黙している機械を見おろした。|虫じるし《ウォームサイン》は、クロウラーから四百メートルほどのところで切れていた。そしていま、|工 場《ファクトリィ》のまわりの砂が渦巻きはじめていた。
カインズは説明した。
「 虫《ウォーム》 はいま、クロウラーの下にいます。あなたがたは、見た人間が少ない光景を見ようとしているのです」
斑点のようなほこりが、クロウラーのまわりの砂に影を作った。大きな機械は右のほうへ傾きかけた。クロウラーの右に、巨大な砂の渦ができはじめた。その動きかたはしだいに速くなった。周囲数百メートルの空気を砂とほこりが満たした。
そしてかれらは見た。
砂に大きな穴があいた。その中に見えた白いスポークに陽光がきらめいた、穴の直径は少なくともクロウラーの長さの二倍はあるとポウルは考えた。かれは機械が砂煙をあげながらその穴の中へすべり落ちてゆくのを見つめていた。穴はまたもとどおりにしまった。
「畜生、なんて怪物なんだ!」
ポウルのそばにいた男がつぶやき、もうひとりはうなるような声をあげた。
「おれたちがつらい目をした香料《スパイス》をみな取っちまいやがったぞ!」
公爵はいった。
「いまにかたきを取ってやる、それをわしは約束するぞ」
父の声がひどく単調にひびいたことで、ポウルは父の深い怒りを感じた。かれは自分も同じ怒りをおぼえていることに気づいた。これは犯罪的なまでのむだなのだ!
それにつづいた沈黙の中で、カインズの声が聞こえた。かれはつぶやいた。
「メイカーとその水に祝福を。かれの来たり、そして去りゆくことに祝福を。その通路が世界を清めんことを。かれが人々のために世界を保たせられんことを」
公爵はたずねた。
「きみのいっているのは、何のことだ?」
だが、カインズは黙っていた。
ポウルはまわりにこみあっている男たちを見た。かれらは恐ろしそうにカインズのうしろ姿を見つめていた。そのひとりはささやいた。
「リエト……」
カインズは眉をよせてふりむいた。その男はおずおずと体をちぢめた。
救出された男のひとりが咳きこみはじめた――乾いた、きしるような咳だ。やがてそいつはあえぎながらいった。
「いまいましいこの地獄め!」
クロウラーから最後に出てきた背の高い男が口をひらいた。
「静かにしてろよ、コス。おめえ、咳をひどくするだけだぞ」かれは男たちのあいだで体をよじらせ、みんなのあいだから公爵の後頭部をのぞけるようになった。「あなたが公爵《デューク》レトですね。われわれの命を救っていただいたことにお礼を申します。あなたが来てくださらなければ、もうおしまいでした。
ハレックはつぶやいた。
「おい、静かにしろ。操縦の邪魔になる」
ポウルはハレックをちらりと見た。かれも、父の顎の端が緊張しているのを見たのだ。公爵が怒っているとき、人は足音をひそめて歩くのだ。
レトはソプターの旋回からぬけ出そうとしかけたが、砂の上に動いている新しいしるしを眺めて、旋回をつづけた。 虫《ウォーム》 はもう深いところに消えていたが、クロウラーがあったところの近くに、砂のへこみから離れて北へ動いている二つの人影が見られたのだ。かれらは、その歩いてゆく足どりを示す砂ぼこりをほとんど上げることなく、砂の表面をすべっているように見えた。
公爵は大声をあげた。
「あそこにいるのは何者だ?」
大きなデューン・マンは答えた。
「乗せてくれってやってきた二人です、殿さま」
「なぜあの連中のことをいわなかったのだ?」
「かれらは承知の上でやったことですので、殿さま」
と、デューン・マンは答え、カインズはいった。
「閣下、この連中は、 虫《ウォーム》 のいる砂漠に孤立した男たちに打つ手はないと知っております」
公爵は鋭い声をだした。
「かれらに基地から飛行機を出そう!」
カインズはいった。
「お望みのままに、閣下。しかし、飛行機がここに来たとき、救うべき者はひとりもいないことになりそうです」
「とにかく飛行機はよこそう」
ポウルはいった。
「かれらは 虫《ウォーム》 が姿を現したすぐそばにいた。どうして助かったんだ?」
カインズは答えた。
「落ちこんだ穴のまわりでは、距離を見誤りやすいものです」
ハレックはいった。
「燃料の浪費になりますが、殿」
「わかった、ガーニィ」
公爵は機をまわし、|遮蔽する壁《シールド・ウォール》のほうにむけた。護衛機は旋回していた位置から降下し、上方と両側の位置についた。
ポウルはデューン・マンとカインズのいったことを考えていた。かれは、なかばの真実、あからさまな嘘を感じたのだ。砂の上にいた男たちが表面をすべっていたのは確実だ。深みから 虫《ウォーム》 をさそい出さないように、はっきりと計算した動きかただ。
“フレーメンだ! 砂の上であれほど確信のある動きかたができるものは、ほかにないはずだ。当然のことのように心配もせずにいられるものがほかにいるか? 危険がないことを知っているからだ。かれらはここでどうやって生きてゆくかを知っている! かれらは 虫《ウォーム》 をどうやれば出しぬけるか知っているんだ!”
ポウルはそう考えて、たずねた。
「あのクロウラーでフレーメンが何をしていたんだ?」
カインズはふりむいた。
背の高いデューン・マンは大きく目をあけてポウルを見た――青の中の青だ。
「この坊やはだれだ?」
と、かれはたずねた。
ハレックはその男とポウルのあいだへはいっていった。
「こちらはポウル・アトレイデ。公爵のお世継ぎだ」
その男はたずねた。
「おれたちのクロウラーにフレーメンがいたって、どうして?」
ポウルはいった。
「聞いていた格好にそっくりだからさ」
カインズは怒ったように口をはさんだ。
「見ただけでフレーメンとはいえないものですぞ!」かれは砂丘労働者を見た。「おい、おまえ。あの連中はだれなんだ?」
砂丘労働者は答えた。
「だれかの友だちでさあ。村からやってきた友だちで、香料《スパイス》のとれるところを見たがりましてね」
カインズは顔を前にもどした。
「フレーメンか!」
だがかれは、伝説の言葉をおぼえていた。
“リザン・アル・ガイブは、すべてのごまかしを見ぬくであろう”
砂丘労働者はいった。
「かれらはもう死んでいるかもしれません、若い殿さま。あの連中に不親切なことをいわないようにしなければね」
だがポウルはかれらの声にいつわりを聞き、ハレックを本能的に護衛の位置へつかせた脅威を感じた。
ポウルはあっさりといった。
「死ぬには恐ろしい場所だね」
ふりむかないままカインズはいった。
「神が生き物に死ぬべき特定のところを定めたまうとき、神はその生き物がその場所へ進みたがるようにさせたまうものです」
レトはきびしい視線をカインズにむけた。
そしてカインズはその視線を見かえしながら、ここで観察した事実で自分が心を乱されていることに気づいた。
“この公爵は、香料のことより人間のほうを心配している。かれはこの連中を助けるために、自分自身と息子の命を危険にさらした。かれは香料《スパイス》クロウラーの損失をあっさりとあきらめた。おとこたちの命にたいする危険が、かれを怒らせた。こういう指導者は熱狂的なほどの忠誠心でむくわれるだろう。かれを敗北させるのは困難なことだぞ”
自分の意思とこれまでのあらゆる判断に反して、カインズは自分がこの公爵を好きになっていることを認めた。
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偉大さとはつかのまの経験だ。それが首尾一貫することはない。その一部は、伝説を作り出す人間の想像力によっている。偉大さを経験する人物は、自分がその中にいる伝説にたいする感覚を持たなければならぬ。かれは自分に投影されたものを反射しなければいけない。そしてかれは、強い嘲笑的な感覚を持たなければいけない。これこそ、自分自身のみせかけを信じることから自分を解放するものだ。嘲笑こそ、自分の中を動きまわることを許してくれるものだ。その資質がなければ、つかのまの偉大さといえども、ひとりの人間を破壊してしまうだろう。
――イルーラン姫による“ムアドディブの片言隻語集”から
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アラキーンの大邸宅にある食堂では、サスペンサー・ランプが夕闇の中で輝いていた。その黄色い光は、血ぬられた角《つの》のついた黒い雄牛の首と、先代公爵のい黒ずんだ油絵の肖像画を照らしてた。
それらのお守りの下には、大きなテーブルをおおう輝くほど白い布に整然とならべられたアトレイデ家の銀器がにぶく反射していた――小さな群島のようにガラス器のそばでサービスを待ち、それぞれが大きな木の椅子の前にきっちりと置かれている。まん中にあるクラシックなシャンデリアはまだ明かりがつけられておらず、その鎖はよじれながら毒物知覚装置《ポイズン・スヌーパー》が隠されている影のところへのびていた。
入口に立って食堂の様子を調べながら、公爵はポイズン・スヌーパーと、それがかれの社会で持つ意味を考えた。
“すべてのパターンを……おまえはわしらの言葉で調べられる……死を仕掛けてくる方法を正確に微妙に述べてくれるのだな。だれかが今夜|チョーマ−キイ《*》をためすか……飲み物の中に毒を? それとも|チョーマス《*》……食べ物の中の毒か?”
かれは首をふった。
長いテーブルにおかれた皿のそばには、それぞれ水の大瓶が立てられている。アラキーンの貧乏な家庭なら一年以上も使えるだけの水だ、と公爵は考えた。
かれが立っている入口の両側には、美しい黄色と緑のタイルで作られた大きな洗面台がいくつも置かれていた。そのひとつひとつにタオル掛けがついている。はいってきた客は儀式として両手を洗面器に入れ、カップに何杯かの水を床に落とし、両手をふいたタオルを床の水たまりに投げるのが習慣になっている、と家政婦は説明していた。夕食のあと、乞食が外に集まってきて、タオルをしぼって出る水をもらうのだ。
“実に典型的なハルコンネンの領土だな。精神的なあらゆる堕落がかんがえられる”
公爵はそう考え、怒りに胃のあたりがかたくなるのを感じて深く息を吸った。かれはつぶやいた。
「そんな習慣はもうやめさせるのだ!」
かれは給仕の女が、かれの正面にある台所の出入口にいるのを見た――家政婦が推薦した年取り、ふしくれだった女たちのひとりだ。公爵は手を上げて合図した。その女は影になったところから出てきて、テーブルをまわり、小走りに近づいてきた。そしてかれは。皮革のような顔の肌と、青の中の青の両眼に気づいた。
「殿さま、何かご用で?」
女は顔を伏せ、目をあわせないようにしていた。
かれは指さした。
「あの洗面台とタオルをかたづけてしまえ」
女は口をぽかんとあけて顔を上げた。
「でも……尊いおかた……」
かれは大声をあげた。
「習慣はわかっておる! 洗面台を玄関に持っていけ。われわれが食事をしているあいだと終わるまで、やってくる乞食みんなにそれぞれカップ一杯の水をやれ。わかったか?」
女のかたい顔にゆがんだような感情があらわれた。困惑、怒り……
とつぜんレトは、この女が金を儲けようと考えていたにちがいないと気づいた。土足にふまれたタオルをしぼって出る水を、玄関にやってくる哀れな連中に売って数枚の貨幣を手に入れるのだ。たぶんそれも習慣だったのだろう。
かれは表情を暗くし、うなるようにいった。
「警備兵を立てて、わしの命令が文字どおり守られるかどうか見させるぞ」
かれはふりむき、|大 広 間《グレイト・ホール》への通路を大股に歩いていった。歯の抜けた老婆のつぶやきのように、記憶が心の中をころがっていった。ひろびろとした水面と波――砂のかわりに草が存在していた日々――その明るい夏の想い出が、嵐に飛ぶ木の葉のようにかれをたたきつけた。
すべては去ってしまったことだ。
“わしは歳をとってきた。わしは教訓の冷たい手を感じた。何に? 老婆の貪欲さにか”
|大 広 間《グレイト・ホール》では、暖炉の前に立っている人々のまん中にレイディ・ジェシカがいた。焔が音を立てて燃えさかり、オレンジ色の明かりを宝石にレースに贅沢な布地にちらちらと投げかけていた。カルタゴからやってきたスティルスーツの製造業者、電子機器輸入業者、極冠工場の近くに夏の別荘を持っている|水積み出し業者《ウォーター・シッパー》、協会銀行《ギルド・バンク》の代表者(こいつは痩せており、超然としている)、香料《スパイス》採集機材用の交換部品販売業者、ほっそりしてきびしい表情の女は、惑星外からやってくる客の護衛《エスコート》サービスを商売にしているが、それはいろんな密輸、スパイ、脅迫活動の隠れ蓑《みの》だ。
広間にいる女たちの多くはひとつのタイプに属しているようだった――飾り立て、なんともいいようのない敏感さが奇妙に入りまじっているものだった。
女主人《ホステス》としての地位がなくても、ジェシカはそのグループに君臨したことだろう、と公爵はかんがえた。彼女は宝石類をつけず、暖かい感じの色を選んでいた――暖炉の火のような色調の長いドレスと、金髪に巻いた茶褐色のバンドだ。
彼女はそれを微妙に徴発しようとしてそうしたのだ、かれがちかごろ冷淡な態度をとっているのをとがめているのだと、かれは気づいた。かれはこの色を着ているのがいちばん好きなのだと、彼女はよく知っていた――この色のように彼女が元気だと、かれは思うのだ。
その近くには一団よりちょっと離れて、きらびやかな礼装用制服を着たダンカン・アイダホが立っていた。何を考えているのかわからない冷静な顔、カールした黒い髪はきれいに櫛を入れている。かれはフレーメンのところから呼びもどされたのであり、ハワトから受けた命令は――“彼女を護衛する口実のもとに、レイディ・ジェシカを絶えず監視するのだ”だった。
公爵は部屋の中を見まわした。
一隅にはアラキーンの若い金持ちのグループがポウルをとりまいてご機嫌をとっており、その中にはアトレイデ家の警備部隊《ハウス・トループ》の士官三人がよそよそしい顔で立っていた。公爵は特に、若い女性たちに注意をはらった。公爵の嗣子であるポウルが、どんな女性を選ぶかだ。しかしポウルは、落ち着いた貴族らしく、みんなを平等にあつかっていた。
“あの子はうまく公爵の称号を継ぐことだろう”と、公爵は思い、とつぜん、これもまた死の予感だと戦慄をおぼえた。
ポウルは父が入口にいるのを見て、視線をそらした。かれはおおぜいの客を、飲み物を持っている宝石をはめた手(それに、小さなリモート・コントロールのスヌーパーでこっそりと調べていること)を、見まわした。しゃべっているみんなの顔を見ていると、ポウルはとつぜん反感をおぼえた。心の痛みなど知ったことのない安っぽい仮面ばかりだ――話している声も胸にあいている大きな空白の中に消えてしまう連中だ。
“ぼくは機嫌が悪いな”と、かれは考え、そのことについてガーニィならどういうだろうなと思ってみた。
かれはなぜそんな気分になっているのかわかっていた。かれはこんな催《もよお》しに出席したくなかったが、父にきっぱりといわれたのだ。
「そなたには、維持しなければいけない地位というものがある。もう、これをやるだけの年齢だ。そなたはもうほとんど大人なのだぞ」
ポウルは父が入口から姿を現わし、部屋を調べ、それからレイディ・ジェシカを取り巻いているグループに近づくのを見た。
レトがジェシカに近づいたとき、水積み出し業者はだずねていた。
「公爵が|気 象 管 理《ウェザー・コントロール》をおこなわれるというのは本当でしょうか?」
その男の背後から公爵は話しかけた。
「そこまではまだ考えていないよ」
そいつはふりむき、黒く日焼けした人のよさそうな丸顔を見せて口をひらいた。
「ああ、公爵、お待ちしていました」
レトはちらりとジェシカを見た。
「しなければいけないことがあったのでな」かれは水積み出し業者のほうに視線をもどし、洗面台について命令したことを説明したあと、つけ加えた。「わしにかんするかぎり、古い習慣は今日で終わるのだ」
その男はたずねた。
「それはご命令ですか、閣下?」
「きみ自身の……ええと……良心にまかせるかな」
公爵はそういい、ふりむくと、カインズが近づいてくるのに気づいた。
女性のひとりはいった。
「とってもおやさしいことですわ……水をおあたえになる……」
だれかが彼女を黙らせた。
公爵はカインズを眺め、惑星学者が帝国文官の肩章と襟には涙滴型をした小さな金の階級章のついている古いスタイルの焦茶色の制服を着ていることに気づいた。
水積み出し業者は怒った声でたずねた。
「公爵はわれわれの習慣を批判されるのですか?」
「その習慣は変えられたのだ」
とレトはいった。かれはカインズにうなずいてみせ、ジェシカが眉をよせたのを見て、考えた。“顔をしかめるとは彼女らしくないが、それでもわれわれのあいだに摩擦があるという噂を増してくれるだろう”
水積み出し業者はいった。
「公爵のお許しが得られるよう、もっと習慣についておたずねいたしたいものですが」
レトはその男の声がとつぜんねっとりとした口調になったのを感じ、そのグループが黙りこんで耳を澄まし、部屋じゅうの人々がかれらのほうに顔をまわしはじめたのを知った。
ジェシカはたずねた。
「もうそろそろ食事をはじめる時間ではございません?」
「だがお客に質問がおありだそうでね」
と、レトは答え、大きな目とぶあつい唇、丸顔の水積み出し業者を見て、ハワトの見せたメモを思い出した。
“……そしてこの水積み出し業者は注意するべき男です……リンガー・ビュウト。その名前をご記憶ください。ハルコンネン家はかれを使いましたが、かれを完全にコントロールすることはできませんでした”
「水についての習慣は実におもしろいものです」と、ビュウトはいい、その顔には微笑が浮かんでいた。「このお邸についている植物室をどうされるおつもりか、わたしには興味があります。これからも人々に見せびらかされるおつもりですか……閣下?」
レトは怒りをおさえて、その男を見つめた。多くの考えが心の中を走った。公爵の居城の中で挑戦してくるのは勇気のいることだ。それも特に、忠誠契約書にビュウトが署名したいまは。その行動はまた、自分の持っている力を知っておなければできないことでもある。ここでは水がたしかに権力となるのだ。たとえば水の施設に爆薬をしかけ、合図があればすぐに破壊することは、アラキスを破壊するのと同じだ。それこそ、このビュウトがハルコンネン家の上にふりかぶっていた棍棒なのだろう。
「公爵とわたしには、あの植物室について、ほかの考えがありますのよ」と、ジェシカはいい、レトに微笑をむけた。「わたしたち、もちろんあれを置いておきますわ。でもそれはアラキスの人々のために保管しておくだけですのよ。いつか、ああいう植物が戸外のどこにでも育つほどアラキスの気象を変えられますように、というのがわたしたちの夢ですから」
“いいぞ! 水積み出し業者にはそのことを考えさせておこう”
公爵はそう考え、口をひらいた。
「きみが水と|気 象 管 制《ウェザー・コントロール》に関心をもっているのははっきりしている。わしはきみに、株を分散しておくことをすすめるね。いつかアラキスでは水が貴重な財産ではなくなるだろうからな」
そしてかれは考えた。
“ハワトは、このビュウトの組織にはいりこむための努力をもっとふやさなければならぬ。それからすぐに、非常事態用の給水施設を作りはじめるべきだ。だれにもわしの頭上に棍棒をふりかざさせはせぬぞ”
ビュウトはまだ微笑を浮かべたまま。うなずいた。
「ごりっぱな夢です、閣下」
かれは一歩あとに下がった。
レトの注意はカインズの表情に引かれた。惑星学者はジェシカを見つめていた。かれは人が変わったように見えた……恋をしている男のように……あるいは、宗教的な暗示にかかっているようにだ。
カインズの心はついに、予言の言葉に圧倒されてしまったのだ。
“そしてかれらはおまえたちのもっとも高貴なる夢を分かち持つであろう”
かれは直接ジェシカに話しかけた。
「あなたは|道 の 短 縮《ショートニング・オブ・ザ・ウェイ》をお持ちになられたのでしょうか?」
水積み出し業者はいった。
「ああ、カインズ博士。あなたはフレーメンの連中と歩きまわってこられたのでしたな。おやさしいことです」
カインズはなんともいえぬ視線をビュウトにむけて答えた。
「水を大量に持つ者は命にかかわるほどの思慮のなさをもたらすことがある、と砂漠ではいわれていますよ」
「砂漠の連中には奇妙ないいつたえが多いものですな」
と、ビュウトはいったが、その声には不安が現れていた。
ジェシカはレトのそばにより、自分自身を落ち着かせる時間を得ようと、かれの腕に手をすべりこませた。カインズは「……|道 の 短 縮《ショートニング・オブ・ザ・ウェイ》」といった。古い言葉では、それを「クイサッツ・ハデラッハ」と翻訳する。この惑星学者の妙な質問はほかの連中に気づかれなかった。そしていまカインズは、だれかの配偶者である女性にかがみこみ、甘ったるいささやきを聞いている。“クイサッツ・ハデラッハ……|保 護 伝 道 団《ミッショナリア・プロテクティヴァ》はここにもあの伝説を植えつけたのかしら?”その考えはジェシカがひそかにポウルにかけている希望をあおりたてた。“あの子はクイサッツ・ハデラッハかもしれないわ。そうかもしれないんだわ”と。
協会銀行《ギルド・バンク》の代表者は水積み出し業者との会話に加わり、ビュウトの声はまたおこりはじめた会話の中で大きくひびいた。
「多くの人がアラキスを変えようとしてきましたな」
公爵はその言葉がどれほど強くカインズの胸をつき刺したかを知った。惑星学者はさっと背をのばすと、お世辞をふりまいている女性から離れたのだ。
「食事の用意、ととのいましてございます、殿さま」
公爵はジェシカに問いかけるような視線をむけた。
「ここでの習慣はホストとホステスが客のあとからテーブルに着くことになっていますわ」そう彼女はいって微笑した。「わたしたち、それも変えましょうか、殿《との》?」
かれは冷ややかに答えた。
「それはいい習慣だな。当分、そのままにしておこう」
“わしが彼女の裏切りに感づいているという妄想は保っていなければいかん”かれは通りすぎてゆく客たちを見た。“おまえたちのうちに、わしがだましていると信じているものはいるのか?”
ジェシカはかれの冷ややかさを感じ、この一週間何度も考えてみたことだが、ふしぎに思った。“かれ、ひとりでいらいらしているわ。わたしがこんなに早くこの|夕 食 会《ディナー・パーティ》をお膳立てしたからなの? でもかれはこれがどれほど重要なことなのか知っているはずよ。わたしたちの士官と部下を社交的にここの民間人と結びつけることが。わたしたちはかれらのすべてにとって、父親と母親がわりになるんですもの。こういった社交以上に、その事実を強く印象づけるものはないはずだわ”
客たちが列を作って通りすぎてゆくのを眺めながら、レトはこのことを知らされたときにハワトがどういったかを思い出した。
「殿《との》! それはいけません!」
陰気な笑いが公爵の口に浮かんだ。なんという場面だったろう。夕食会に出席するのだという公爵の決意が堅いことを知ると、ハワトは首をふっていった。
「このことで、わたしはいやな感じがするのです、殿。アラキスでは、物事があまり[おそらくここは「あまりにも」だったのではないかと思われるが、原本に従う]急速に動いております。ハルコンネン家とは似ておりません。あまりにも違っているのです」
ポウルはかれより頭半分ほど背の高い妙齢の婦人を案内して父のそばを通りすぎた。かれは不機嫌そうな視線をちらりと父にむけ、若い女性のいったことにうなずいてみせた。
ジェシカはいった。
「彼女の父親はスティルスーツの製造業。その男のスーツを着て深い砂漠に出るのは、愚か者だけと聞きましたわ」
公爵はたずねた。
「ポウルの前にいる顔に傷のある男はだれだ? どうもおぼえがないが」
彼女はささやいた。
「リストに新しく加えられた人。ガーニィが招待しましたの。密輸業者」
「ガーニィが?」
「わたしの頼みで。ハワトが調べましたけど、ハワトはちょっと機嫌が悪かったと思いますわ。名前はチュエク、エスマール・チュエク。同業者の中では権力者。ここにいるみんながかれを知っています。かれは公家《ハウス》の多くで食事をしていますわ」
「なぜここへ?」
「だれもがその質問をするでしょうね。チュエクは現れるだけで、疑惑をまき散らします。かれはまた、あなたが汚職について出された命令をバック・アップするための警告ともなりますわ……密輸業者側からも圧力をかけることで。それはハワトが気に入ったらしい点でした」
「わし自身は気に入るかどうか、なんともわからんぞ」かれは通っていったカップルにうなずき、数人の客が残っているだけだと知った。「なぜおまえは何人かフレーメンを招待しなかったのだ?」
「カインズがいますわ」
「ああ、カインズがいるな。おまえはほかにも、わしを驚かすようなことを用意しているのか?」
かれはジェシカを連れて列のあとについた。
「ほかはみな、つきなみなものですわ」
そういいながら彼女は考えた。
“あなた、この密輸業者が高速宇宙船を動かしていることに気づかないの? この男が賄賂で動かされることに? わたしたちは脱出できる方法を持たなければいけないわ。ここでのすべてがまずくいっても、アラキスから出られるドアを”
食堂にはいると彼女は腕をほどき、レトが席を引いてくれるのにまかせた。かれは、テーブルの端にある自分の席にむかって大股に歩いていった。給仕がかれの椅子を引いた。人々はきぬずれと椅子を引きずる音を立てて席についたが、公爵は立ったままでいた。かれが手で合図すると、テーブルのまわりにいる給仕の制服を着た兵士たちは、うしろに下がって気をつけの姿勢をとった。
居心地の悪い沈黙が部屋の中にみなぎった。
ジェシカはテーブルの端を見て、レトが口の端をかすかにふるわせているのを知り、頬が怒りにどす黒くなっているのを見た。彼女は自分の胸にたずねた。
“何がかれを怒らせたのかしら? 密輸業者をわたしが招待したことではないわ”
レトは口をひらいた。
「洗面台の習慣をわしが変えたことについて質問がすこしあった。多くのことがこれから変わる。これがわしの諸君にたいする告げかただ」
困惑した沈黙がテーブルをおおった。
“みんあはかれが酔っぱらっているんだと思うわ”
と、ジェシカは考えた。
レトは水の大瓶を高く持ち上げ、サスペンサー・ライトの光がそれにあたって反射した。かれはいった。
「では帝国の騎士として、乾杯をおこなう」
全員が大瓶をつかみ、すべての視線が公爵に集中した。とつぜん静まりかえった中で、配膳ホールから漂ってくるかすかな風にサスペンサー・ライトのひとつがふるえるようにゆれた。公爵の鷹のような容貌に影がおどった。
かれは叫んだ。
「ここにわしはおり、ここにわしはとどまる!」
みんなの口に近づいた大瓶がとまどったようにとまった――公爵が腕を上げたままだったからだ。
「われわれの胸にあまりにも親しい格言に乾杯……仕事は進歩を作る! 幸福はいたるところに行きわたる!」
かれは水を飲んだ。
全員がそれにならった。問いかけるような視線がみんなのあいだでかわされた。
「ガーニィ!」
と、公爵は呼んだ。
レトの側にある部屋の端の|くぼみ《アルコーブ》からハレックの声がひびいた。
「ここにおります、殿」
「何か曲を、ガーニィ」
バリセットの短調和弦《マイナー・コード》がくぼみから流れ出た。召使いたちは公爵の合図で料理の皿をテーブルに置きはじめた――セペダ・ソースかけ砂漠ウサギのロースト、アプロマージュ・シリアン、酒入りチュッカ、メランジ・コーヒー(香料《スパイス》からの濃いシナモンの匂いがテーブルに漂った)、本物のガチョウの蒸焼きが泡立つカラダン・ワインとともに出された。
公爵はまだ立ったままでいた。
待っている客たちの注意は、目の前に置かれた料理と立っている公爵の両方にわかれた。レトはいった。
「古い時代にあっては、ホストがその芸をもって客をもてなすのが義務であった」かれの拳は白くなっていた。水の大瓶をあまりにも強くにぎりしめているからだ。「わしは歌えぬが、ガーニィの歌う言葉をさしあげよう。それをもう一度の乾杯《トースト》と思われるがよい――われわれをこの地によこすために死んでいった多くの者への乾杯《トースト》と」
不愉快そうなざわめきがテーブルのいたるところでおこった。
ジェシカは視線を下げ、近くに坐っている人々を見た――丸顔の水積み出し業者とその女、青ざめきびしい顔をしている協会銀行《ギルド・バンク》の代表者(かれはレトを見つめている口をとがらしたカカシのように見えた)、ぶこつで傷だらけの顔をしたチュエク、かれは青の中の青の目を下に落としていた。
公爵は抑揚をつけていった。
「思い出すのだ、友よ……遠く去っていった兵士を思い出すのだ。苦痛と財貨の重みに運命をともにしたもの、かれらの魂はわれわれの銀の襟章を帯びている。思い出すのだ、友よ……遠く去っていった兵士たちを。いかなるときも、悪だくみのふりすらしなかったかれらを。かれらとともに幸福のいざないは去ってゆく。思い出すのだ、友よ……遠く去っていった兵士たちを。われらの時が大笑いに終わるとき、われわれは幸福へのいざないを渡すのだ」
公爵は最後の節で声を低く落としてゆき、水の大瓶からゆっくりと飲むと、テーブルにたたきつけるように置いた。水がそのふちからテーブル・クロスの上にこぼれた。
ほかの者はとまどったように黙って水を飲んだ。
またも公爵は大瓶を持ち上げ、こんどはその残った半分を床に捨てた。テーブルにいるみんなが同じことをしなければいけないのだ、と思いながらだ。
ジェシカが最初にその例にならった。
凍りついた一瞬のあと、みんなは大瓶をからにしはじめた。
ジェシカは、父の近くに坐っているポウルが、そのまわりの反応をどのように受けとめているかを見た。彼女自身も客たちの反応が現わしていることに興奮していた――特に女性たちのあいだでの反応だ。これは清潔な、飲料水であり、ぬれたタオルに捨ててしまうようなものではないのだ。それをあっさり捨ててしまうことへの躊躇が、ふるえる手に、遅い反応に、神経質な笑いに、はっきりと現れ……そしてその必要への激しい服従がおこった、ひとりの女性はその大瓶を落とし、連れの男性がそれをひろい上げるあいだ、あらぬほうを見ていた。
だが、彼女の注意をもっとも強く引いたのはカインズだった、惑星学者はためらい、それから大瓶の中身を上衣の下の容器にあけた。かれはジェシカが見つめているのに気づくと、微笑みかけ、無言で乾杯するように、からになった大瓶を彼女に上げてみせた。かれは公爵の行動にまったく困惑をおぼえていないようだった。
ハレックの音楽はまだ部屋の中に漂っていたが、それは短調からぬけ出て、いまは気分を持ち上げようとするかのように軽快に歌っていた。
「夕食を始めることにしよう」
公爵はそういって、椅子に坐りこんだ。
ジェシカは考えた。
“かれ、腹を立てて、不安定になっているわ。あの|工 場《ファクトリィ》クロウラーを失ったことは、その価値以上に、かれを傷つけたんだわ。かれはまるで自暴自棄になっているみたい”彼女は自分がとつぜん心を乱されたことを隠そうとしてフォークを取り上げた。“それもそのはずだわ。かれも自暴自棄になるはずよ”
夕食会は最初ゆっくりと、ついでにぎやかさを増していった。スティルスーツの製造業者はジェシカに、料理人と酒がすばらしいことをほめた。
「どちらもカラダンから来ましたのよ」
「すばらしい!」かれは、チュッカを味わっていった。「すばらしいといえるだけですよ! メランジの匂いもなし。なんでもかんでも香料《スパイス》がはいっているんで、あきあきしてしまいますからね」
協会銀行《ギルド・バンク》の代表者はテーブルごしにカインズを見た。
「カインズ博士、また|工 場《ファクトリィ》クロウラーが|砂 虫《サンドウォーム》にやられたそうですな」
公爵は口をはさんだ。
「噂がつたわるのは早いものだね」
「では本当なのですか?」
銀行家は注意をレトにうつして、そうたずねた。
公爵は鋭くいった。
「もちろん本当だ! ろくでもないキャリオールが姿を消した。あれほど大きなものが姿を消してしまうことはありえないはずだが!」
「 虫《ウォーム》 がやってきたとき、あのクロウラーを回収するものは何ひとつなかったのです」
と、カインズはいった。
公爵はくりかえした。
「考えられないことだった!」
銀行家はたずねた。
「だれもそのキャリオールが離れてゆくのを見ていないのでしょうか?」
カインズが答えた。
「スポッターは当然、砂漠に目をそそいでいます。もっとも関心があるのは|虫じるし《ウォームサイン》ですからね。キャリオールの定員はふつう四人……パイロットが二人に、助手が二人です。もしそのひとりが……あるいは二人までもが公爵の敵に給料を……」
銀行家はいった。
「あ、ああ、わかりました。それであなたは、|移 動 審 判 官《ジャッジ・オブ・チェンジ》として、それに抗議されるのですか?」
「わたしは自分の立場を慎重に考慮しなければいけませんからな。この席で論じたりはしませんよ」
カインズはそう答えて、考えた。
“この青っちろい骸骨野郎が! これはおれが無視しろと命じられている種類の違反事項だと知っているくせに”
銀行家は微笑し、注意を料理にもどした。
ジェシカは、ベネ・ゲセリットの学生時代に受けた講義を思い出していた。課目は諜報活動と対諜報活動だった。ぽっちゃりして、幸福そうな|教  母《リヴァレント・マザー》が講師で、その陽気な声は話す主題《テーマ》と奇妙なコントラストになっていた。
『いかなる諜報あるいは対情報学校についても注意するべきことは、その卒業生すべてに共通する基本的な反応パターンです。どこにも閉鎖的な規律があり、それは学生の上に、その刻印を、そのパターンをおしつけます。そのパターンは、分析と予測によって感じられるものです。
さて、行動をおこすためのパターンは、すべての情報活動工作員のあいだで同様のものとなりがちです。つまり、学校や目的が異なっていても、動機というものが、ある類似したタイプのものとなります。あなたがたが最初に学ぶのは、どのようにしてその要素を分析のために分離するかです……まず、訊問者の心の中にある|定  位《オリエンテーション》というものを見せてしまう訊問のパターンをとおして。ついで、そうした分析下にある者の言語と思考の定位を詳細に観察することをとして。もちろん、口調と話のパターン両方を通じてですが、あなたがたは相手の|原 形 言 語《ルート・ランゲージ》を容易に決定できることを知るでしょう』
いま、息子、公爵、客たちといっしょにテーブルについて協会銀行《ギルド・バンク》代表者の声を聞いていると、ジェシカはぞっとする想いとともに気づいた。この男はハルコンネン家のスパイだったのだ。かれの言語パターンはジェディ・プライムのものだ――うまく隠してはいるが、彼女の訓練をつんだ感覚にはまるで自分からはっきりそういっているようだった。
“これは、協会《ギルド》自体がアトレイデ家に敵対する立場を取っているという意味かしら?”と、彼女は自分の心にたずねた。その考えにショックを受け、新しい料理を持ってこさせることで感情を隠しながらも、そのあいだじゅう銀行家が目的を暴露してしまわないかと耳をすませていた。“かれは話題を変えるはずだわ。表面的にはなんでもなくて、その実、敵意のあることに。それがかれのパターンだもの”彼女は自分の胸にそう告げた。
銀行家はワインをひと口すすり、右側にいた女性になにかいわれると微笑をかえした。かれはしばらくのあいだ、アラキーン土着の植物には棘《とげ》がないことを公爵へ説明している男の言葉に耳をすませているようだった。
「わたしはアラキスの鳥が飛ぶところを見るのが好きでして」と、銀行家はジェシカにむけて話しだした。「ここにいる鳥はみな、もちろん、腐肉を食べるもので、多くは吸血鳥となり、水がなくても生存できるようになっています」
テーブルの端にいた公爵とポウルのあいだに坐っていたスティルスーツ製造業者の娘は、かわいい顔をしかめていった。
「おう、スー・スーおじさまっていやなことをいわれるのね」[#「おう」はいくらなんでもありえないと思うが、「まあ」の方がふさわしいと思うが、原本に従う。従いたくはないが従う]
銀行家は微笑した。
「わたしが|水 小 売 業 者組合《ウォーター・ペトラーズ・ユニオン》の財政顧問なので、みんなはわたしをスー・スーと呼ぶのですよ」ジェシカが何もいわずに見つづけていると、かれはつけ加えた。「水売りの呼び声はこうですからね……スー・スー・スーク!」
かれはその呼び声を実にうまくまねたので、テーブルについている多くの者が笑った。
ジェシカはかれの大げさな声を聞きながら気がついたのは、その若い女性が合図を受けて口をひらいたことだった――打ち合わせどおりというわけだ。彼女は銀行家が水売りのまねをするきっかけを作ったのだ。彼女はリンガー・ビュウトをちらりと見た。水業界の大立て者は顔をしかめ、食事に集中していた。ジェシカは銀行家がいったことをこう解釈した。「わたしもまた、アラキスにおける究極的な力の源泉をコントロールしているのだ……水を」と。
ポウルはその男の声に嘘があるのを感じ、母がベネ・ゲセリットのやりかたで会話を追っているのを見た。衝動的にかれは、裏をかいて手の内をさらけ出させてやろうと決心し、銀行家に話しかけた。
「あなたは、そういう鳥がみな共食いをするというの?」
銀行家は答えた。
「それは奇妙なご質問ですな、若さま。わたしはただ、鳥が血を吸うといっただけです。それは同じ種類のものの血でなければいけないことはありません、そうでしょう?」
「別に奇妙な質問ではないさ」と、ポウルはいい、ジェシカはその声に彼女が教えこんだ微妙な挑戦の気味があるのを知った。「教育のある人ならだれでも、若い生物にとって最悪の競争相手は同類の中から現れ得るものだって知っているよ」ポウルはわざと、相手の皿にある料理にフォークをつき刺して取った。「かれらは同じ皿から食べるものだ。基本的に必要とするものは同じだからね」
銀行家は緊張し、公爵を見て眉をよせた。
「わしの息子を子供のように考える誤ちを犯さないことだよ」
と、公爵はいって微笑した。
ジェシカはまわりに目を走らせ、ビュウトが顔を明るくしたこと、カインズと密輸業者チュエクの両方がにこにこしていることに気づいた。
カインズは話しだした。
「それは生態学の規則ですが、若殿はそのことをよく理解されているようですな。生命に必要な要素をめぐっての争いは、ひとつのシステムにおけるフリー・エネルギーを求める争いです。血液は能率のいいエネルギー源ですからな」
銀行家はフォークを置き、腹を立てた声でいった。
「フレーメンのならず者どもは、かれらの死人の血を飲むといわれていますよ」
カインズは首をふり、講義をするような口調で答えた。
「血ではありませんよ。しかし、人体にある水分のすべてをです。究極的には、その人間の仲間……その一族に属するものとしてですな。それは人が|大 平 原《グレイト・フラット》の近くに住むとき、必要となることです。そこではすべての水分が貴重なものであり、人体なその重さの七十パーセントほどが水分で成り立っていますからね。死者がもはやその水分を必要としないことは、はっきりしています」
銀行家は両手をテーブルの皿の両側についた。そしてジェシカはかれが立ち上がり、怒って出てゆくつもりなのかと思った。
カインズはジェシカを見た。
「お許しください、マイ・レイディ。かような席で醜い話題を持ち出しましたことを。しかし、あなたがたが嘘を教えられているとき、それを正すことは必要と存じましたゆえ」
銀行家は荒々しい声を出した。
「あなたはあまり長いあいだフレーメンとつきあってこられたんで、感受性をなにもかもなくしてしまわれたんだ」
カインズはかれを穏やかに眺め、青白い、ふるえている顔を見つめた。
「あなたはわたしに挑戦されているのですかな?」
銀行家は凍りついたようになった。かれは息をのみ、かたい口調で答えた。
「とんでもない。わたしは、ホストやホステスに無礼なことをするつもりなどありませんよ」
ジェシカはその男の声に恐怖をおぼえているのを知った。その男はカインズにふるえあがらせられたのだ!
カインズはいった。
「われわれのホストとホステスは、侮辱を受けたかどうかはご自分ではっきり決められると思いますな。名誉を守ることを知っていられる勇敢なかたがたですよ。ここに……いま……アラキスにおられるという事実が、その勇敢さを示しているものだと、われわれはみな承知していますからね」
ジェシカはレトがこのやりとりを楽しんでいるのをしった。ほかの人々のほとんどは、そうではなかった。テーブルのまわりに坐っている人々は、両手をテーブルの下に隠し、逃げ出す姿勢になっていた。はっきりした例外は二人、ビュウトは銀行家のうろたえているさまを見て公然と微笑しており、密輸業者のチュエクはカインズが合図するのを待っているようだった。ジェシカは、ポウルがカインズを讃歎するように見ていることに気づいた。
「いかがですな?」
と、カインズはいった。
銀行家はつぶやいた。
「悪意はありませんでした。そうお取りになられたのなら、どうかわたしの謝罪をお受けください」
「いいですとも、お受けしますよ」
カインズはそういって、ジェシカに微笑みかけ、何事もなかったように食事をつづけた。
ジェシカは、密輸業者もほっとしたことを知った。彼女が気づいたことはこうだった――この男は、いつでもカインズを助けるために飛びついてゆくつもりだった。カインズとチュエクのあいだには何かの種類の協定が存在しているのだ。
レトはフォークをもてあそびながら、カインズを眺めて考えていた。この生態学者の行儀作法は、アトレイデ家のほうに好意がむけられたという態度の変化を示していた。砂漠への旅では、ずっと冷ややかな態度だったはずだ。
ジェシカはつぎの料理と飲み物へうつるようにと合図した。召使いたちは|野 兎 の 舌《ラング・ドラペン・ド・ガレンヌ》を運んできた――そばに赤いワインとマッシュルーム・イーストのソースをのせている。
ゆっくりと会話はもとにもどっていったが、ジェシカはその中にいらいらした、むなしい感じが漂っているのを感じ、銀行家がむっつりと黙って食べている格好をみた。“カインズはためらうことなく、かれを殺したかもしれないわ”と、彼女は思い、カインズの態度には殺人を無造作におこなうところがあるのをさとった。かれはあっさりと人を殺す男であり、それはフレーメンの性質なのだろうと彼女は想像した。
ジェシカは左側のスティルスーツ製造業者のほうにむいた。
「わたし、アラキスでの水の重要さには驚いてばかりですわ」
かれはうなずいた。
「非常に重要ですよ……この料理はなんですか? 実においしいですね」
「特別なソースにつけた野ウサギの舌ですのよ。大昔からある料理ですわ」
「料理法を知りたいものですが」
「おわたしできるようにしておきましょう」
カインズはジェシカを見ていった。
「アラキスに新しくやってくる者はしばしば、水の重要さを低く見がちなものです。あなたがたは|最小限の法則《ロウ・オブ・ザ・ミニマム》を相手にしているわけですよ」
彼女はかれの声にテストしているようなとこがあるのを感じた。
「成長はその必要とするものによって制限される、それがここでは最小限の量であり、もちろん条件が悪ければ、その成長率はおさえられるというわけですわね」
カインズは答えた。
「|大 公 家《グレイト・ハウス》のかたが、惑星学上の問題を知っておられることはめずらしいものです。アラキスにある生命にとって、水の条件は最低です。そして気をつけなければいけないのは、極端なまでに気をつけてあつかわないかぎり、成長自体が悪い条件を生み出し得るということなのです」
ジェシカはカインズの言葉に隠された意味があるはずだが、それを掴めないでいるのを感じた。
「成長……あなたのおっしゃるのは、もっといい条件のもとで人間の生命を維持できるように、アラキスも規律正しい水の循環系を持ち得るということですの?」
水業界の大立て者は大きな声をあげた。
「不可能です!」
ジェシカはビュウトに視線をむけた。
「不可能?」
「アラキスでは不可能ですよ。この夢想家に耳を貸されないことです。すべての研究所はそれに反対の証拠を出していますからね」
カインズはビュウトを見た。そしてジェシカは、テーブルでかわされていたほかの会話がとまり、人々がこの新しいやりとりに注意しているのを知った。
カインズはいった。
「研究所の証拠というものは、われわれを非常に単純な事実にまで盲目にさせやすいものです。その事実とは……植物と動物がその正常な生存をつづけている戸外に存在し、そこに始まっている問題をわれわれは相手にしているのだということです」
ビュウトは鼻息荒くいった。
「正常だと! アラキスに正常なところなどあるものか!」
カインズは答えた。
「とんでもないこと……自給自足という点で、ある程度の調和をここに成立させ得るでしょう。理解しなければいけないのは、惑星とそれに加えられている圧力の限界っだけです」
「そんなことは永久にできないさ」
と、ビュウトはいった。
公爵はとつぜん、カインズの態度がどこで変わったかに気づいた――アラキスの将来を信じて植物室を持ちつづけるとジェシカがいったときからなのだ。
レトはたずねた。
「自給自足のシステムを作りあげるためには何が必要になるんだね、カインズ博士?」
「もしアラキスにある緑の植物の三パーセントに、食料としての炭素化合物を形成させられるようにすれば、われわれはサイクル・システムを開始させたことになります」
「水が唯一の問題なのか?」
と、公爵はたずねた。かれはカインズが夢中になっているのを感じ、自分もそれに興奮をおぼえているのを知った。
「何よりも水が問題です……この惑星は、ふつうの付随物がない酸素を大量にもっています……広い範囲の植物と、火山といった現象から出てくる大量の二酸化炭素です。ここの地表では広大な地域にわたって異常なほどの化学的交換がおこなわれているのです」
「きみは試験的計画を持っているのか?」
「われわれは長いあいだかかってタンスレイ効果の……小さなものですが、実験をおこなっており、それからわたしの科学はいま、役に立つ事実を引き出そうとしています」
ビュウトは口をはさんだ。
「水が充分にない。とにかく水が充分にないのですよ」
「ビュウト先生は水のほうでは専門家ですからな」
と、カインズはいって微笑し、食事にもどった。
公爵は右手を激しくふりおろして、大声をあげた。
「答えてもらいたい! 水は充分にあるのか、カインズ博士?」
カインズは自分の皿を見つめた。
ジェシカは、かれの顔に動く感情を注視した。“かれはうまく自分を隠している”と彼女は考えた。だが彼女はもうかれの性格をつかんでおり、カインズが自分の発言を後悔していることをさとった。
公爵は重ねてたずねた。
「水は充分にあるのか?」
カインズは答えた。
「たぶん……あるかもしれません」
“かれは、はっきりわかっていないように、ごまかしているわ!”
と、ジェシカは考えた。
心の奥深くにある真実を見分ける感覚でポウルは隠されている動機を感じ、興奮をおさえておくのに自分の受けてきた訓練のすべてを使わなければいけなかった。
“水は充分にあるんだ! しかし、カインズはそれを知られたくないと望んでいる!”
ビュウトはいった。
「われらの惑星学者はおもしろい夢をたくさんお持ちだ。かれはフレーメンとともに……予言と救世主《メサイア》を夢見ておられるんだな」
笑い声がテーブルのあちらこちらでおこった。ジェシカは、だれが笑ったかに気をつけた――密輸業者、スティルスーツ製造業者の娘、ダンカン・アイダホ、謎の護衛サービスをやっている女性。
ジェシカは考えた。
“今夜、ここには緊張が変なふうに動いているわ。わたしにはわからないことが、あまりにも多すぎる。わたしは、新しい情報源をもっとふやさなければいけないわ”
公爵は視線をカインズからビュウト、ジェシカへと移した。かれは何か大切なものが過ぎていったかのように、妙にがっかりした気分になってつぶやいた。
「たぶんか……」
カインズは急いで話した。
「このことは別の機会にお話しすべきじゃないかと思いますが、閣下。実に多くの……」
惑星学者は口をつぐんだ。制服姿のアトレイデ軍兵士が使用人出入口から現れ、警備兵の前を通り、急いで公爵のそばへやってきた。その男はかがみこみ、レトの耳もとにささやきかけた。
ジェシカはハワト部隊の記章に気づき、不安をおさえつけた。彼女はスティルスーツ製造業者の連れてきた女性に話しかけた――小さく、人形のような顔、黒い髪、目には蒙古人褶襞《もうこじんしゅうへき》[#おせっかいかもしれませんが、これは両目の内側にある襞《ひだ》のことです。上まぶたの(顔の)中寄りの部分が襞となって目頭の部分にかぶさっているもので、蒙古襞《もうこひだ》とも言われます。その名が示すように中国人、日本人、韓国人に多く見られますが(ないひともいる)、白人、黒人にはほとんど見られません]があるようだ。
「あなた、ほとんど料理に手をつけていられないのね。何かほかのものを持ってこさせましょうか?」
その女性はスティルスーツ製造業者を見てから答えた。
いきなり公爵はその兵士の横に立ち上がると、鋭い命令口調で話した。
「諸君は坐っていられよ。わしが自分自身で見なければいけないことがおこったので、失礼させていただく……ポウル、よければ、わしにかわってホストを勤めてくれ」
ポウルは、なぜ父が出てゆくのかたずねたかったが、貴族らしいふるまいを示さなければいけないとわかっていた。かれは立ち上がり、父の席へ行き、そこに腰をおろした。
公爵はハレックが坐っていたくぼみのほうを見ていった。
「ガーニィ、ポウルの席に坐ってくれぬか。ここでは奇数にしてはいかんのだ。食事が終われば、きみにポウルを野戦司令部へ連れてきてもらうかもしれん。命令を待つのだ」
ハレックはくぼみから礼装の姿で現れた。そのずんぐりとした醜い顔は、きらびやかな美しいものばかりの中で場違いなものに見えた。かれはバリセットを壁に立てかけ、それまでポウルが占めていた席に行って坐った。
公爵はいった。
「心配することはない……だが、警備兵が安全だというまでだれひとりここを去らないように。諸君がここに残っておられるかぎり、保安の点は大丈夫。われわれはいまおこっているちょっとした問題をすぐにかたづけるからな」
ポウルは父の言葉の中で暗号となっている文句をつかんだ――警備、安全、保安、すぐに。問題は保安上のことで、武力攻撃ではない。かれは母も同じようにその通信を了解したとわかった。ふたりはどちらもほっとした。
公爵は短くうなずき、ふりむくと、兵士をつれて使用人出入口から出ていった。
ポウルは口をひらいた。
「どうか食事をつづけてください。カインズ博士は水の問題を論じられていましたね」
カインズは頼んだ。
「別の機会にお話ししたいものですが」
「結構ですとも」
と、ポウルは答え、ジェシカは息子の威厳と、大人のように落ち着いた態度に誇りをおぼえた。
銀行家は水の大瓶を持ち上げて、ビュウトのほうにふってみせた。
「みなさん、見事な弁舌にかけては、リンガー・ビュウト先生にまさるかたはおられますまい。大公家《グレイト・ハウス》の評判に花をそえるものといってもいいでしょうな。さあ、ビュウト先生、乾杯をしていただけませんか。大人のように扱われなければいけない少年のためにも、知恵をお分けになればいかがです」
ジェシカはテーブルの下で、右手を握りしめた、彼女は手による合図がハレックからアイダホに行き、壁にそって並んでいた兵士が最高の警備体制にうつるのを見た。
ビュウトは敵意に満ちた視線を銀行家に投げかけた。
ポウルはハレックを眺め、いつでも自分を守れる姿勢を取り、銀行家が水の大瓶を下ろすまで待ってから話しかけた。
「カラダンにいたとき、ぼくは溺《おぼ》れた漁師の屍体を見たことがあります。その男は……」
スティルスーツ製造業の娘が口をはさんだ。
「溺《おぼ》れたって?」
ポウルはちょっとためらってから答えた。
「そう、死ぬまで水の中にはいっていること。溺れる、というのです」
彼女はつぶやいた。
「なんておもしろい死にかたなんでしょう」
ポウルはかすかな微笑を浮かべ、視線を銀行家のほうにもどした。
「この男について興味のあったのは、両肩についていた傷でした……別の漁師がはいていた鋲打ち靴でつけられたものです。この漁師は船に乗っていた何人かのひとりでした……船というのは水上を走る乗物です……その船が沈没しました……水の下に沈んだのです。屍体を引き上げるのを助けたほかの漁師も、その男の傷と同じものを何度か見たことがあるといいました。つまり、溺れかけた漁師が、海面へ……空気のあるところまで出ようとして、そのかわいそうな男の両肩に立ったのですね」
銀行家はたずねた。
「なぜそのことが、おもしろい話題となるのですかな?」
「つまり、そのときに父がいったことからです……自分が助かるために両肩に上がる|溺れかかった《ドローニング》男のことは理解できる……そんなことが|客 間《ドローイング》でおこる場合を除いてな、と」ポウルは、銀行家が要点をつかみかけるまで待ってから言葉をつづけた。「それにつけたすなれば、そういうことが夕食のテーブルでおこる場合をのぞいてですね」
とつぜん部屋の中に沈黙がはりつめた。
“いまのは軽率だったわ。この銀行家は、わたしの息子に出ていけというだけの身分を持っているかもしれないもの”
ジェシカはそう考え、アイダホがすぐに行動にうつれる姿勢を取っているのを見た。兵士たちも緊張した。ガーニィ・ハレックは、前にいる男を見つめていた。
「ホウ、ホウ、ホウゥゥゥ!」
と、密輸業者のチュエクは顔をのけぞらせ、まったく隠すことなく笑いだした。
不安気な微笑がテーブルのまわりに現れた。
ビュウトは、にやにや笑っていた。
銀行家は椅子をうしろにおし、ポウルをにらみつけていた。
カインズはいった。
「アトレイデ家にちょっかいを出す者は、自分の責任においてやることですな」
銀行家は反問した。
「客を侮辱するのがアトレイデ家の習慣なのか?」
ジェシカは“わたしたち、このハルコンネンのまわし者の手を知らなければいけないわ。この男はここへ、ポウルをためしに来たのかしら? かれは助けを用意しているのだろうか?”と考え、ポウルが答える前に前へかがみこんで口をひらいた。
「わたしの息子がただの衣装《ガーメント》をお見せすると、あなたにぴったりだとおっしゃいますのね。なったくびっくりしましたわ」
彼女は手を足にすべらせた。ふくらはぎの鞘に入れてあるクリスナイフへだ。
銀行家はその視線をジェシカにうつした。視線はポウルから離れ、彼女は息子がいつでも行動にうつれるように椅子をうしろに引くのを見た。かれは暗号の言葉、衣装《ガーメント》、“暴力にそなえよ”に気がついたのだ。
カインズはジェシカに考えこんだような表情をむけ、ついでチュエクにそっと手で合図した。
密輸業者は飛び上がるようにして立つと、大瓶を持ち上げていった。
「若いポウル・アトレイデに乾杯! 見たところはまだ少年のようだが、その行動は大人であるかたのために」
“なぜかれらは邪魔をするのかしら?”と、ジェシカは自分の心にたずねた。
銀行家はいまカインズを見つめており、ジェシカは恐怖がこのスパイの顔にもどってきているのを知った。
テーブルに坐っている人々はみな、乾杯に応じはじめた。
“カインズが導くところに、人々はついてゆくのね。かれはポウルに味方すると告げたわけだわ。かれにある力の秘密は何かしら? かれが|移 動 審 判 官《ジャッジ・オブ・チェンジ》だからという理由ではありえない。それは一時的なものだもの。かれが文官だからというわけじゃないのは、はっきりしているし”
彼女は手をクリスナイフの握りから離し、大瓶をカインズにむかってかかげた。相手はそれにこたえた。
ポウルと銀行家だけが、何も手に持たないままだった。“スー・スー! なんという馬鹿げた渾名《あだな》だろう”と、ジェシカは思った。銀行家の視線はカインズに釘づけになっており、ポウルは自分の料理を見つめていた。
“ぼくは正しい態度を取っていた。なぜかれらは邪魔をするんだ?”
ポウルはそう考え、客たちの顔をこっそりと見まわした。
「われわれの社会では、あまり急いで腹を立てないことです。自殺するようなことになりかねませんからね」かれはとなりにいたスティルスーツ製造業者の娘の顔を見た。「そう思われませんか、お嬢さん?」
「ええ、本当に。そう思いますわ、わたし。暴力が多すぎるってこと、ぞっとします。それに腹を立てなくても死んでいく人が多いってこと、わけがわかりませんわね」
ハレックはいった。
「たしかにそうですね」
ジェシカはその娘のふるまいが完璧に近いのを見て知った。
“あの頭のからっぽな小娘は、頭のからっぽな小娘ではないわ”
そのとき彼女は危険のパターンに気づき、ハレックもそれを感づいているのだとわかった。かれらはポウルをセックスで誘惑しようと計画していたのだ。ジェシカはほっとした。かれはたぶん最初からそのことに気づいていたことだろう――かれの受けた訓練は、これほどはっきりしたたくらみを見逃したりしないはずだ。
カインズは銀行家にむかっていった。
「つぎの謝罪は用意できましたかな?」
銀行家は青ざめた笑顔をジェシカにむけた。
「マイ・レイディ、どうやらわたしはお邸のワインをすごしすぎたようです。強い飲み物をお出しになられますな。どうも、私はなれておりませぬので」
ジェシカはその口調に隠れている敵意を感じたが、やさしい声で答えた。
「知らぬ者どうしが会うとき、習慣や訓練のちがいには大きな寛容を示すべきですわ」
「ありがとうございます、マイ・レイディ」
スティルスーツ製造業者の黒い髪をした連れは、ジェシカのほうに体を傾けていった。
「公爵はここにいるかぎり安全だといわれましたわね。これ以上、争いはおこらないという意味であればいいんですけれど」
“彼女は会話をこんなふうに進めろと命じられたのね”
ジェシカはそう思いながらいった。
「たいしたことではないと思います。でも、近頃は公爵が自分で目をとおさなければいけないことが多すぎますの。アトレイデとハルコンネンのあいだに不和がつづいているかぎり、気をつけすぎるということはありえませんからね。公爵はカンリイを誓いましたの。もちろんかれは、ハルコンネンのスパイをひとりもアラキス上で生き残らせておかないでしょう」彼女は協会銀行《ギルド・バンク》のスパイをちらりと見た。「当然、協約はこのことでかれを支持しますわ」彼女は視線をカインズに移した。「そうじゃございません、カインズ博士?」
カインズは答えた。
「まことにそのとおりですよ」
スティルスーツ製造業者はやさしく連れを引っぱった。彼女はかれを見ていった。
「何か食べようかしら。さっきの鳥をすこしほしいわ」
ジェシカは召使いに合図してから、銀行家のほうにむいた。
「それで、さきほど鳥と、その習慣について話しておられましたわね。アラキスにはおもしろいことが、たくさんありますのね。教えていただけません、どこで香料《スパイス》が見つけられるのか? 採集者《ハンター》は砂漠の中に奥深くはいってゆきますの?」
「いえいえ、マイ・レイディ。砂漠の奥地については、わかっていることが実に少ないのです。そして、南部地帯のことはほとんど何ひとつなのです」
カインズが口をひらいた。
「南の果てに、香料の大産地が見つかるという話しがあります。しかしわたしはそれを、歌のためだけに作られた想像上の発明だと考えています。勇敢な香料採集者《スパイス・ハンター》の中にはよく、中央地帯のそばまでもはいってゆく者がありますが、それは極端なまでに危険なことです……旅の道筋はわかっておらず、嵐がよくおこります。|遮蔽する壁《シールド・ウォール》の基地から離れて作業するのは、離れるにしたがって損害が劇的なまで増加します。これまでの経験で、あまり南へ進むと利益が少なくなるとわかりました。もし気象衛星があれば、たぶん……」
ビュウトは顔を上げ、食べ物をほおばったまま話しだした。
「フレーメンが旅をする場合、どこへ行こうと、たとえ南緯の地域へ行こうと、湿地《ソークス》や|吸い井戸《シップ・ウェル》を見つけ出すといわれていますよ」
「湿地《ソークス》に|吸い井戸《シップ・ウェル》?」
ジェシカが聞きかえすと、カインズは急いでいった。
「ただの噂です、マイ・レイディ。そういうものが他の惑星にはあるそうですが、アラキスにはありません。|濡れ場《ソークス》とは水が表面にまでにじみ出ているいるのか、あるいは表面近くまで来ていて、ある種のしるしに従って掘ると見つかるところです。|吸い井戸《シップ・ウェル》とは湿地《ソークス》の一種で、ストローで水を吸い上げられるところ……そのようにいわれています」
“かれの言葉にはいつわりがあるわ”
と、ジェシカは考えた。
“なぜかれは嘘をつくんだ?”
と、ポウルはいぶかしく思った。
「まったくおもしろいことですわね」
と、ジェシカはいうと同時に考えた。
“いわれています……ここではなんという奇妙な決まり文句をいうのかしら。かれらは、迷信にたよりすぎているってことに気づいているのかしら!
ポウルはいった。
「ここには、上品さは町からくる。知恵は砂漠から来る、といういいつたえがあると聞いていますよ」
カインズはいった。
「アラキスには多くのいいつたえがあります」
ジェシカがつぎの質問をしようとしたとき、紙片を持った召使いがそばにかがみこんだ、彼女はそれを聞き、公爵の自筆であり、暗号の部分があるのを見てから、目をとおし、ついで口をひらいた。
「みなさんのお喜びになることだと思います。公爵から、安心なさるようにとの伝言です。かれが呼ばれた事件は、かたがつきました。行方不明になっていたキャリオールが発見されたのです。乗組み員の中にいるハルコンネンのスパイがほかのものを脅迫し、それを密輸業者の基地へ飛ばしました。そこで売ろうと思っていたのです。その男も機械も、わが軍に渡されました」
彼女はチュエクにうなずいてみせた。
密輸業者はうなずきかえした。
ジェシカは紙片をたたみ、袖の中につっこんだ。
銀行家は話しはじめた。
「戦争が始まることにならなくてほっとしましたね。民衆はみな、アトレイデ家が平和と繁栄をもたらしてくれることを心から期待していますよ」
ビュウトはいった。
「特に繁栄をですな」
ジェシカはたずねた。
「ではデザートにしましょうか? 料理人にカラダンのお菓子を作らせましたのよ。ドルサ・ソースにつけたポンギ・ライスです」
スティルスーツ製造業者はいった。
「すばらしいもののようですね。その料理法を教えていただけるでしょうか?」
「どの料理でもお教えしますわ」
ジェシカはそういい、あとでハワトに話すためにその男を心に刻みこんだ。この男は臆病だから、買収できるはずだと。
会話がまわりで、もとにもどりはじめた。
「まったく美しい布地ですわね……」
「宝石に似合うような調度品ってわけですな……」
「われわれはもう四分の一は生産を増加するように努めるべきですよ……」
ジェシカは料理の皿を見つめて、レトの手紙にあった暗号を考えた。
“ハルコンネンはラス・ガンを運びこもうとし、われわれはかれらを捕らえた。これは、かれらがほかのものの輸送に成功したことを意味するかもしれぬ。シールドにはそう重きをおいていないということだろう。適当な警戒手段を取れ”
ジェシカはラス・ガンのことに心を集中した。あの白熱の光線は、シールドされていないあらゆる物質を切り裂いてしまう。問題はシールドからのフィードバックがラス・ガンとシールドの両方を爆発させてしまうことに、ハルコンネンはなんの考慮もはらっていないらしいことだ。なぜだ? ラス・ガン・シールド爆発は危険な変数であり、核兵器よりずっと強力なもにおにもなりうるし、射手とシールドされている標的だけを殺すこともできるのだ。
そこにある未知なものが、彼女を不安で満たした。
ポウルはいっていた。
「キャリオールはかならず発見できると信じていましたよ。父は問題を解決するために動き出せば、かならず解決するのです。そのことは、ハルコンネンもそろそろ知りかけているでしょう」
“かれは自慢しているわ。そんなことはするべきじゃないのに。今夜、ラス・ガンを警戒して地下深くで眠る者に、自慢する権利はないのよ”
と、ジェシカは考えた。
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「逃れる道はない……われわれは祖先の犯した暴力にたいして、その償いをするのだ」
――イルーラン姫による“ムアドディブの片言隻語集”から
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ジェシカは大広間に騒ぎがおこっているのを知り、ベッドのそばの明かりをつけた。そこの時計は地方時間に合わせていなかったので、二十一分を引き、いまは午前二時ごろらしいと知った。
騒ぐ声は大きかったが、何をどなっているのかわからなかった。
“ハルコンネンの攻撃かしら?”
彼女はベッドからすべり出ると、家族がどこにいるか見ようとスクリーン監視装置を調べてみた。スクリーンは、かれらが急いで寝室に変えた深い地下室で眠っているポウルの姿を映し出した。騒ぎの音は明らかに、かれの部屋へは届いていないのだ。公爵の部屋にはだれもおらず、かれのベッドは乱れていなかった。かれはまだ野戦司令部にいるのだろうか?
邸の正面を映し出すスクリーンはまだできていなかった。
ジェシカは部屋のまん中に立って耳をすませた。
だれかが支離滅裂な声でどなっていた。だれかがドクター・ユエを呼んでいる声もした。ジェシカは寛衣《ローブ》を見つけて両肩にはおり、スリッパをつっかけ、足にクリスナイフをつけた。
また、ユエを呼んでいる声が聞こえた。
ジェシカはローブのベルトをしめ、廊下に出た。そのとき彼女は、“レトが傷ついたのなら、どうすればいい?”という想いに打たれた。
走ってゆく足の下に、廊下は永遠にどこまでもつづいているようだった。彼女はつきあたりのアーチを通って曲がり、食堂を走りぬけて大広間へ行き、すべての壁にあるサスペンサーが最高の明るさで輝き、そこがまぶしいほどに照らし出されていることを知った。
右側の玄関入口近くに、二人の警備兵が両方からダンカン・アイダホを支えている姿が見えた。かれは頭を前にがくりと落とし、その場にとつぜん沈黙がみなぎった。
警備兵《ハウス・ガード》のひとりは責めるような口調でアイダホにいった。
「何をしたかわかっているのですか? レイディ・ジェシカをおこしてしまったのですよ」
かれらの背後で大きな掛け布[#おそらくタペストリーのこと]がゆれており、玄関のドアがあけっぱなしになっていることを示していた。公爵の姿もユエの姿も見えなかった。左側にはメイプズが立って、アイダホを冷ややかに見つめていた。彼女はへりに蛇の模様がついている長い茶色のローブを着ていた。その両足には靴紐をほどいた砂漠用長靴をはいていた。
「おれはレイディ・ジェシカをおごしてしまっらか」と、アイダホはつぶやき、顔を天井にむけると大声で叫んだ。「おれの剣がはじめれ血を吸っらのは|グラッマン《*》なんらぞ!」
“なんということ! かれ、酔っぱらっているわ!”
と、ジェシカは驚いた。
アイダホの、黒い丸顔はゆがんだ。黒い山羊の毛皮のように巻き毛になっている髪は、ほこりにまみれていた。チュニックは破れ、夕食会のときに着ていた礼装のシャツが見えていた。
ジェシカはかれのそばへ歩いた。
警備兵のひとりはアイダホをおさえている手を離すことなく、彼女にうなずいてみせた。
「かれをどうしていいかわかりませんでした、マイ・レイディ。かれは玄関の外で騒ぎまらり、中へはいるのをいやがるんです。民間人がやってきて、かれを見ないかと心配でした。そんなことになると、まずいです。われわれの評判が悪くなりますからね」
ジェシカはたずねた。
「かれはどこへ行っていたの?」
「かれは夕食会のあと、若いご婦人を家へ送ってまいりました、マイ・レイディ。ハワトの命令です」
「護衛《エスコート》を必要とする娘さんのひとりです。おわかりと思いますが、マイ・レイディ」かれはメイプズをちらりと見て。声を低めた・「ご婦人を特別に調査するとなると、つねにアイダホの役目になりますので」
“そのとおりだわ。でも、なぜかれは酔っぱらっているの?”
彼女は眉をよせて、メイプズのほうにむいた。
「メイプズ、興奮剤を持ってきて。カフェインがいいわね。香料《スパイス》コーヒーがすこし残っていると思うわ」
メイプズは肩をすくめ、調理場にむかった。彼女の靴紐をほどいた長靴が石の床にぱたぱたと音を立てていった。
アイダホは不安定な頭をまわしてジェシカのほうをのぞきこむように見た。
「公爵のために三百人いろうも殺りたんだぞ。おまえら知りらいのは、なぜおれがここにいるのからろ? こんなろころで住めねからら。こんなろころで住めるもろか。なんてところら、え?」
玄関横の出入口から音がひびき、ジェシカはそちらにむいた。ユエが左手にぶらさげた医療用品一式をふりながら近づいてきた。かれはきちんと服を着ており、顔は青ざめ、疲れきっているようだった。その額には、ダイヤモンドの刺青がくっきりと浮かび上がっていた。
アイダホは叫んだ。
「やあ。お医者さんよ。おまえなんら、ドック? 骨つぎに薬か?」かれはぼんやりとジェシカに顔をむけた。「おれ、なんれ馬鹿みらいなことしてるか、そうらろ?」
ジェシカは眉をよせ、黙ったまま考えていた。
“なぜアイダホは酔っぱらっているのかしら? 薬を飲まされたのかしら?”
「香料《スパイス》ビールの飲みすぎれね」
アイダホはしっかりしようとしながら、そういった。
メイプズは、湯気をたてているカップを両手で持ってもどってきた。ユエのうしろに心もとななさそうに立ちどまった彼女に、ジェシカは首をふってみせた。
ユエは用品一式を床に置くと、ジェシカに合図した。
「香料《スパイス》ビールか、え?」
「これまれ飲んらこともないひどいもんらっら」アイダホはそういい、まっすぐ立とうとした。「おれの剣がはじめれ血を吸っらのはグラッマンなんらぞ! 殺したのはハルコ……ハルコン……ハルコン……公爵のらめにやつらを殺しらんら」
ユエはふりむき、メイプズが持っているカップを見た。
「それは何だね?」
ジェシカが答えた。
「カフェイン」
ユエはそのカップを取り、それをアイダホの前にのばした。
「これを飲むんだ、坊や」
「もうなんにも飲みらかないよ」
「飲めといってるんだ!」
アイダホはユエにむかって首をふり。警備兵を引きずって一歩よろよろと進み出た。
「帝国の世界にはもうあきあきなんら、ドック。おれらりは一度でいいから、おれのやりかたれやるんら」
「きもがこれを飲んでからだ。ただのカフェインだぞ」
「この土地にはまっらくうんざりら! いまいまりい太陽め、まびしすぎら。何もかも変な色ら。あらゆるものがまちがっれる……」
「もう夜なんだぞ」ゆえはさとすようにいった。「いい子になってこれを飲め・気分を良くしてやるんだ」
「これ以上良くなりたかないんら!」
「かれとまともに話はできないわね」
ジェシカはそういい、ショック療法が必要だわ、と考えた。
ユエは話しかけた。
「ここにいていただく理由もございませんが、マイ・レイディ……わたくしがこの男の面倒を見ますから」
ジェシカは首をふり、前に進むと、アイダホの頬を鋭くたたきつけた。
かれは警備兵といっしょにうしろへ下がり、彼女をにらみつけた。
「これが公爵の邸でのふるまいかたなの?」彼女はユエの手からカップを取り、その中身をすこしこぼしながらアイダホにつき出した。
「さあ、これをお飲みなさい! 命令ですよ!」
アイダホはまっすぐ背をのばすと、彼女をにらみつけ、はっきりした発音で、気をつけてゆっくり口をきいた。
「ハルコンネンのスパイなどから、命令を受けるものか」
ユエはびくりと体をこわばらせ、ジェシカのほうをふりむいた。
彼女の顔は青ざめたが、うなずいていた。これですべてがはっきりわかったのだ――この数日のあいだ彼女のまわりで見られた身ぶりや言葉づかいのとぎれとぎれの意味が、いまやつながりを持ったのだ。っ彼女はおさえておけないほどの激しい怒りに襲われた。脈搏と呼吸を静かにしておくには、ベネ・ゲセリットで受けた訓練のほとんどを必要とした。
“女の人を調査するにはいつもアイダホに頼んでいたっていってたわ!”
彼女はつきさすような視線をユエにむけた。医者は目を落とした。
「あなたはこのことを知っていたの?」
「わたくしは……噂を聞いておりました、マイ・レイディ。しかし、あなたに重荷を加えたくないと思いまして……」
彼女は鋭くいった。
「ハワト! すぐにスフィル・ハワトをわたしのところによこしなさい!」
「しかし、マイ・レイディ……」
「すぐにですよ!」
彼女は考えた。
“ハワトに違いないわ……こんな疑いをすぐに忘れ去ってしまうことなく持ちつづける人間など、かれのほかにはいないはず”
アイダホは首をふって、もぐもぐとつぶやいた。
「なにもかも、いやになっちまっらよ」
ジェシカは手に持っているカップを見おろすと、とつぜんその中身をアイダホの顔にあびせかけてから命令した。
「この男を東棟の客室のどれかに監禁しなさい。寝て頭を冷やさせるのよ:
二人の警備兵はうかぬ顔で彼女を見つめ。ひとりは勇気を出していった。
「どこかほかの場所へ運ぶべきではないでしょうか、マイ・レイディ。われわれは……」
ジェシカは怒りに満ちた声で鋭くいった。
「かれはここにいるべきなのよ! やるべき仕事がここにあるんですよ。女性を監視するのが得意なはずですからね」
警備兵は唾をのみこんだ。
彼女はたずねた。
「公爵がどこにいるか知っているの?」
「司令部におられます、マイ・レイディ」
「ハワトもいっしょなの?」
「ハワトは町の中であります、マイ・レイディ」
「ハワトをすぐにわたしのところへ連れてきなさい。到着すれば居間で会います」
「でも、マイ・レイディ」
「必要なら、公爵を呼びましょう。必要でないことを望みますがね。こんなことで、かれの邪魔をしたくないの」
「はい、マイ・レイディ」
ジェシカはからになったカップをメイプズの両手におしつけ、問いかけるように見つめている青の中の青の目と視線を合わせた。
「あなたはもうベッドにもどっていいわ、メイプズ」
「本当にもうご用はございませんでしょうか?」
ジェシカは悲しげな微笑を浮かべた。
「本当よ」
ユエはいった。
「明日までお待ちになればいかがでしょう。睡眠薬をさしあげますから……」
「あなたは自分の部屋にもどり、わたしに干渉しないこと」彼女は命令口調をたわらげようと、かれの腕を軽くたたいた。「この方法しかありませんからね」
とつぜん彼女は顔を高く上げ、ふりむくと彼女のつづき部屋のほうへ歩きだした。冷たい壁……廊下……見おぼえのあるドア……彼女はそのドアをあけると中にはいり、うしろ手でたたきつけるようにしめた。ジェシカはつっ立ったまま、シールドで空白になっている居間の窓を見つめた。
“ハワト! ハルコンネンに買収されているのはかれかしら? そのうち見破ってやるわ”
ジェシカは、刺繍をした布をかけた|シュラグ《*》皮ばりの、ゆったりした古典的な型の肘掛け椅子のところへ歩き、それをドアのほうにむけた。彼女はとつぜん、足の鞘に入れてあるクリスナイフのことを痛いほど意識した、その鞘をはずして腕に結びつけ、ちょっとためしてみた彼女は、もう一度部屋の中を見まわし、どんな状況になってもいいように、あらゆるものをはっきりと心に刻みこんだ。隅の近くにある長椅子、壁にそってならんでいる四角い椅子、二つの低いテーブル、寝室へのドアのそばに置かれたスタンドの弦楽器。
サスペンサー・ランプは、薄いバラ色の光を明るく輝かせていた。彼女はそれをすこし暗くし、肘掛け椅子に腰をおろすと、かけてある布をたたき、椅子が堂々としたもので都合がよかったと考えた。
“さあ、かれに来させよう。どんなことになるか見てみるんだわ”
彼女はベネ・ゲセリットのやりかたで、忍耐心をたかめ、力をたくわえるようにしながら待つことにした。
考えていたより早く、ドアをたたく音が聞こえ、彼女に呼ばれたハワトがはいってきた。
彼女は椅子から立ち上がることなくかれを凝視し、その動きにある薬剤に引き出されたパチパチ火花が散っているようなエネルギーと、その下にある疲労を見た。ハワトの目やにのたまった老人の目は光っていた。かれの皮革のような肌は部屋の明かりで薄い黄色に見え、ナイフを使う腕の袖に、大きく濡れたしみ[#「しみ」に傍点]があった。
彼女はそこに血の匂いを嗅いだ。
ジェシカは四角い椅子のひとつに手をふっていった。
「それを持ってきて、わたしの前にお坐りなさい」
ハワトは頭を下げて、それに従った。あの馬鹿な飲んだくれのアイダホめ! かれはそう思い、ジェシカの顔を見つめ、この事態をどう収拾しようかと考えた。
ジェシカは話しかけた。
「もっと早く、わたしたちのあいだにあるわだかまりをなくしてしまうべきでしたね」
「何がご心配なのです、マイ・レイディ?」
かれは腰を下ろし、両手を膝にのせた」
彼女は鋭くいった。
「ごまかすのはやめなさい! なぜあなたを呼んだのかユエが伝えなかったとしても、この邸にいるあなたのスパイが伝えたはずです。すくなくとも、おたがいに正直にするべきではないの?」
「お言葉のままに、マイ・レイディ」
「まず、質問に答えなさい。あなたはいま、ハルコンネンのスパイになっているの?」
ハワトは怒りに顔を黒くして、椅子からなかば体をおこしながら反問した。
「わたしをそこまで侮辱されるのか?」
「坐りなさい。あなたもわたしを同じように侮辱したのですよ」
ゆっくりと、かれはまた腰をおろした。
そしてジェシカは、前からよく知っているしるしをかれの顔に見て、思わず深い吐息をもらした。“ハワトではなかったのね”
「あなたがわたしの公爵に忠誠を保っていることはわかりました。だから、わたしにたいする無礼は、許すことを考えておきましょう」
「何か許していただくことがあるのでしょうか?」
ジェシカは眉をよせて、どうするべきかを考えた。
“わたしは切り札を使うべきだろうか? 数週間前からわたしのおなかの中に公爵の娘がいることを、かれに話すべきだろうか? いや……レトにもまだいってないんだもの。かれの生活をこんがらかすだけ。わたしたちが生き残る問題に集中しなければいけないときに、かれの心をそらせるだけだわ。このことを切り札に使うのは、もっと先にあるはず……”
彼女はいった。
「真実審判師《トルースセイヤー》ならそれを解決できるでしょう。でもここには、最高評議員会に資格をあたえられた真実審判師《トルースセイヤー》がいないわね」
「おっしゃるとおりです」
「わたしたちのあいだに反逆者がいるの? わたしはずいぶん注意して味方の者を調べてみました。いったいだれかしら? ガーニィじゃないし、ダンカンでもないわ。ふたりの副官は、戦略的に見ると、それほど重要な位置にいるわけじゃなし。あなたではないわね、スフィル。ポウルではありえないわ。わたしではないのはわかっているし。では、ドクター・ユエかしら? かれを呼んで、テストしてみるべきかしら?」
「そんなことはしてみてもむだとご存知のはず。かれは高等大学《ハイ・カレッジ》で条件づけをされています。それははっきりしているのです」
「かれの妻がベネ・ゲセリットで、ハルコンネンに殺されたことは、いわなくてもいいのよ」
「それが彼女におこったことです」
「かれがハルコンネンの名前を口にするとき、憎しみが燃えることを知っているでしょうね?」
「わたしにそれほどの耳がないことはご存知のはずですぞ」
「いったいどうしてわたしを疑うようになったの?」
彼女の質問にハワトは顔をしかめた。
「家臣の者を困った立場におかれますな。わたしの忠誠心は、まず公爵に捧げられております」
「その忠誠心があるからこそ、わたしは許す用意ができているのですよ」
「ではふたたびおたずねしなければなりません。許していただくことが何かあるのでしょうか、と」
「手づまりってわけね」
かれは肩をすくめた。
「ではしばらく別のことを話しあってみましょう。ダンカン・アイダホ……尊敬すべき戦士で、護衛と監視における能力は高く評価されているわね。今夜かれは、香料《スパイス》ビールというものを飲みすぎました。ほかの者もこの事件にはあっけにとられているという報告を受けています。本当ですか?」
「あなたの受けられた報告によればそのとおりでございますな、マイ・レイディ」
「そのとおりよ。あなたは、かれが泥酔したことをひとつの徴候とは考えないの、スフィル?」
「マイ・レイディは謎をおっしゃいますな」
彼女は鋭い声をだした。
「メンタートとしての能力を使えばどうなの! ダンカンやほかの者の問題は何? わたしは四つの単語でいえるわ……|かれらには故郷がない《ゼイ・ハブ・ノー・ホーム》、よ」
かれは指を床につきさすような仕草をした。
「アラキス、ここがかれらの故郷です」
「アラキスは未知のところよ! カラダンがかれらの故郷だったのに、そこから追い立てられたわけね。かれらには故郷がなく、かれらは公爵《デューク》が失敗するかもしれないことを恐れているのです」
かれは体をこわばらせた。
「そのような話を部下のだれかがすれば、そのひきおこす……」
「やめなさい、スフィル。医者が病気を正しく診断することは、敗北主義であり反逆的行為だというの? わたしの目的は、病気を治療することだけですよ」
「公爵は、そのような問題についてのすべてを、わたしにまかせられています」
「しかしあなたも、この病気の進みぶりについて当然わたしが関心を持つことはわかるでしょう。そして、そういうことについて、わたしがある程度の能力を持っていることも認めるはずね」
“かれに強烈なショックをあたえなければおけないかしら? かれをゆすぶってやらなければ……慣習といったことから切り離されるための何かをかれは必要としているのだわ”
「あなたの関心については、多くの解釈が成り立ちましょう」
と、ハワトはいって、肩をすくめてみせた。
「では、もうわたしを有罪だときめつけているのね?」
「もちろんそんなことはしておりません、マイ・レイディ。しかしわたしは、いかなる危険も見逃すわけにはまいりません。現在のような状況ですから」
「この邸で、わたしの息子にたいする危険を、あなたはこの場所で見すごしたのですよ。だれがその危険を見逃したのです?」
かれの顔は黒ずんだ。
「わたしは公爵に辞任を申し出ました」
「あなたは辞任をわたしに……あるいはポウルに申し出ましたか?」
いまやかれは怒りをはっきりと現していた。呼吸の速くなったことに、その鼻孔のふくらみに、けわしい目つきにだ。かれのこめかみは、ぴくぴくと脈打っていた。
「わたしは公爵に仕える男ですぞ」
と、かれは短くいった。
「反逆者などいないのよ。ポウルを襲った危険は別の問題ね。ラス・ガンと関係があることじゃないかしら。かれらは、時限装置をつけたラス・ガンで、邸のシールドをこっそり狙っているのかもしれないわ。たぶんかれらは……」
「そして、爆発のあとでだれが、核爆発でなかったというのです? いやマイ・レイディ。かれらはそれほど非合法な危険をおかしたりしません。放射能はとどまります。その証拠は消しがたいものです。かれらも、あらゆる形式に注意をはらっています。反逆者がいるにきまっているのです」
彼女は嘲笑するようにいった。
「あなたは公爵の部下なのでしょう。かれを救けるための苦労をして、それでかれを殺すつもり?」
かれは深く息を吸ってからいった。
「もしあなたが無実なら、わたしはもっとも卑屈な謝罪をいたします」
「あなた自身を考えてみることね、スフィル……人間が最高に生きられるのは、それぞれが自分の属する立ち場を持ち、仕事の中で自分がどこに属しているかを知っているときよ。その場所を破滅させ、その人間を殺すこと。公爵を愛しているすべての人々のうちで、あなたとわたしが、相手の立場を破滅させるのにもっとも理想的な位置にいるわけよ。夜、公爵の耳に、わたしはあなたを疑わせるようなことをささやけないかしら? そんなささやきにもっとも有効なときはいつかしら、スフィル? もっとはっきりいわなければいけないの?」
かれはうなるような声を出した。
「わたしを脅迫されるのですか?」
「もちろんちがいますとも。わたしがいっているのはただ、だれかがわたしたちの生活における根本的なところを通じて攻撃をしかけているということです。賢明で、悪魔のような方法ね。わたしは、そんな棘《とげ》がはいってくるような裂け目をわたしたちのあいだに作らぬことで、こんな攻撃を役立たないようにしようと提案しているのよ」
「わたしが根拠のない疑惑を公爵のお耳にささやいたと責めておられるのですか?」
「そう、根拠のないことだわ」
「それにたいして、あなたがささやかれることで対抗するといわれるのですか?」
「あなたの生活は、そういったささやきから成り立っているのでしょう。わたしのではありませんよ、スフィル」
「では、わたしの能力に疑問をお持ちなのですな?」
彼女は溜息をついた。
「スフィル、このことであなた自身が感情的にどう動かされているかを考えてほしいの。自然[#「自然」に傍点]な人間は、論理を持たない動物だわ。あなたがすべてのことに論理を持ちこむのは不自然[#「不自然」に傍点]だけど、それが役に立つから、どうしようもなくつづけているわけね。あなたは論理が肉体となったもの……メンタートだわ。それでも、ごく現実的な考えかたをすると、あなたの問題解決法は、あなた自身の外へ投影される概念であり、あらゆる方向から調べられつつきまわされるものなのよ」
「こんどは、わたしの職業を教えてくださるおつもりなのか?」
と、かれはたずね、その声に軽蔑の口調がこめられているのを隠そうとしなかった。
「あなた自身の外にあるものなら何だろうと、あなたはそれを見ることができ、論理をそれにあてはめることができるわ。でも、わたしたちが個人的な問題にぶつかるとき、もっとも深い個人的なものを、論理に照らしてみるために引き出してみることはもっともむずかしい。それが人間の性質というものだわ。わたしたちはまごつきまわり、あらゆるものを責めやすいものだけど、本当に心の奥に根を下ろしているものはあとに残されるものなのよ」
かれは荒々しい声をあげた。
「メンタートとしてのわたしの能力にたいする信念を堕落させようと、あなたは意識して行動しておられる。味方のいだれかがこんなふうにわれわれの兵器庫にあるほかの武器を破壊しようとこころみているところを発見したとすれば、わたしはその男を公然と非難し殺すことをためらうべきではないと思いますね」
「最良のメンタートは、その計算能力にある誤りの要素をはっきり認めるものでしょう」
「わたしはいつだってそうですよ!」
「では、わたしたちふたりが見つけたこれらの徴候を考えてみることね。男たちのあいだの泥酔、口論……アラキスについてひどい噂話をしあっていること。かれらは無視しているわ。もっとも単純な……」
「怠惰なだけです。つまらぬことを謎めかしてみせることで、わたしの注意をそらせたりしないでください」
彼女はハワトを見つめ、公爵の部下たちが兵舎の中にかたまって悲哀を分けあっているところを考えた。電圧がたかまり絶縁物が焼け焦げる匂いが感じられるほどにだ。
“かれらは、前協会時代《プリ・ギルド》の伝説いなる男たちのようになっている。失われた星の捜索船|アンポリロス《*》の乗組み員のように……銃火にはあきあきしており……永久に追い求め、永久に用意し、永久に用意ができていない人々だ”
「なぜあなたはこれまで一度も、公爵のために働くとき、わたしの能力を充分に使わなかったのです? あなたの地位に競争相手が現れるのを恐れたのですか?」
かれは年老いた目を光らせて彼女をにらみつけた。
「わたしも知っていますよ、どれぐらいの訓練があなたがたベネ・ゲセリットの……」
「さあ、つづけていったらどう。ベネ・ゲセリットの魔女どもと」
「わたしは、あなたが受けられた訓練がどんなものか、すこし知っています。ポウルの中に現れているものを見ていますからな。あの学校が世間にいっていることなどに、わたしはごまかされませんよ。あなたがた卒業生が奉仕するためだけに存在しているなどということには」
“ショックはひどかったのね・それでもかれはもう用意ができているはずだわ”
彼女はそう考えてからいった。
「あなたは評議会で、わたしの言葉をもっともらしく聞いているわ。そのくせ、わたしの忠告を聞くことはほとんどないのね。なぜなの?」
「わたしは、あなたがたベネ・ゲセリットの動機を信用していないのです。あなたは人間を見抜けるものと考えていられるのでしょう。男性をどんなふうにでも動かせると考えておられるでしょう……」
「なんというあなたは哀れな愚か者なの、スフィル!」
かれは顔をゆがめ。椅子をうしろにおして立ち上がった。
「わたしたちの学校につて、あなたがどんな噂を聞いているにせよ、真実はそれよりはるかに大きなものですよ。もしわたしが公爵を殺すつもりだったら……あなたであろうと、ほかのだれだろうと、手の届くところにいるものなら、わたしをとめることはできなかったのですよ」
そういって彼女は考えた。
“なぜわたしは、誇りにまかせてこんな言葉を口に出してしまったのかしら? これはわたしが訓練された方法ではないわ。かれにショックをあたえるのは、こんな方法ではいけないのよ”
ハワトは胴衣の下に手をすべりこませた。そこにかれは毒矢を飛ばす小さな銃を隠しているのだ。
“彼女はシールドを着けていない。これはただの自慢なのか? いま彼女を殺すこともできるが……しかし、もしわしのほうがまちがっていたら……”
ジェシカはかれの手が動くのを見ながらいった。
「わたしたちのあいだで暴力は永久に必要がないことを祈りたいわね」
かれはうなずいた。
「それだけの値打ちがある祈りですな」
「さて、わたしたちのあいだに病気がはやっていることだけど……もう一度あなたにたずねなければいけないわ。わたしたちふたりを反目させるために、ハルコンネンはこの猜疑心を植えこんだと考えるのが、より合理的ではないのかってことを」
「どうもまた手づまりにもどったようですな」
彼女は溜息をついて考えた。“かれはいまにも飛びついてきそうだわ”
「公爵とわたしは、みんなにとっての父親と母親のかわりとなるものよ。その地位は……」
「かれはあなたと結婚しておられないのですぞ」
彼女は“いい反撃ぶりね”と考えながら、やっと心を落ち着けた。
「しかし、かれはほかのだれとも結婚しないわ。わたしが生きているかぎりはね。そしてわたしたちは、いったとおり、両親のかわりなのよ。われわれの問題で、この自然にできている秩序を破壊し、動揺させ、分裂させ、混乱させることは……標的自体が、ハルコンネンにとってもっとも容易なものになってしまうことではないのかしら?」
かれはジェシカがどこへ導いていこうとしているかを感じ、うつむいて眉をよせた。
「公爵なの? 魅力的な標的だわ。しかし、たぶんポウルを別にして、かれ以上に警備されている人はいないはずね。わたし? きっと魅力があるでしょうが、かれらもベネ・ゲセリットを標的にするのはむずかしいと知っていることでしょう。そして、ほかにもっといい標的があるのよ。その人の義務から、どうしようもなく、恐ろしいほどの盲点となってしまうのね。その人にとっては、疑惑を持つことが呼吸のように自然なもの。その一生を暗示と謎で作りあげてきたもの」彼女は右手をかれにつきさすように伸ばした。「おまえよ!」
ハワトは椅子から飛び離れようとした。
「まだおまえに出ていっていいとはいっていませんよ、スフィル!」
老メンタートは倒れるように椅子に坐りなおした。あまりにも早く、自分の筋肉がいうことをきいてくれなかったかのようにだ。
彼女は陽気さのまったく欠けた微笑を浮かべた。
「これでわたしたちが受けた本当の訓練がどんなものか、すこしは知ったわけね」
ハワトは乾いてきた咽喉に唾をのみこもうと努力した。彼女の命令は王者のごとく、断固としており――それに抵抗することは完全にできないほどの口調と態度で話されたのだ。かれの肉体は、そのことを考える前に彼女に服従していた。その反応をさまたげられるものは何ひとつなかった――論理であろうと、激しい怒りであろうと……何ひとつなしだ。彼女がやったようなことをするのは、命令される人間についてのくわしい知識と、かれが可能だとは考えてみなかったほどの深い|制 御《コントロール》能力があるということだ。
「さきほどわたしは、おたがいに理解しあうべきだといいましたね。それはあなたがわたしを理解するべきだという意味だったのよ。わたしのほうは、もうあなたがわかっていますからね。それからいまいっておくけれど、わたしを相手にしてあなたが安全でいられるのを保証してくれるものは、あなたの公爵にたいする忠誠心だけなのよ」
かれはジェシカを見つめ、下で唇をしめらせた。
「わたしが操り人形を求めていたのなら、公爵はわたしと結婚していたことでしょう。それもかれは、自分の意思からおこなったことと信じていたはずですよ」
ハワトは頭を下げ、まばらなまつ毛をとおすようにして上を見た。もっともねばり強い制御心だけが警備兵を呼ぶのをがまんさせていた。|制 御《コントロール》……そしてこの女性がいまや認めようとしないだろう疑惑。かれの皮膚は、彼女がどんなふうにかれを支配したかを思い出して、虫がはっているような感じになった。あのためらった一瞬に、彼女は武器をぬいてかれを殺すことさえできたのだ!
“人間はだれにもこんな盲点があるのか? われわれのだれもが、抵抗するまもなく行動にうつされてしまうのだろうか?”その考えにかれは衝撃をおぼえた。“そんな力を持っている人間を、だれがとめられるだろう?”
彼女はまた話しかけた。
「あなたはベネ・ゲセリットの手袋につつまれている拳をのぞいて見たわけよ。それを見て、なお生きていられる人は少ないわ。そして、わたしがやったことはわれわれにとって比較的簡単なことなのよ。まだわたしの兵器庫をぜんぶ見たわけじゃないわ。そのことを考えてみることね」
「ではなぜ公爵の敵を破滅させに出ていかれないのです?」
「何をわたしに破滅させたいの? わたしたちの公爵を弱虫にさせ、かれをいつまでもわたしに頼らせたいというの?」
「しかし、それほどの力があれば……」
「力は両刃の剣よ、スフィル。あなたは考えているわね……敵の致命的な部分につき刺す武器に人間を作り上げることは、彼女にとってまったく容易なことだろうって……そのとおりよ、スフィル。あなたの致命的な部分にでもね。でも、それでわたしは何を達成したことになるの? 相当数のわたしたちベネ・ゲセリットがこんなことをすれば、すべてのベネ・ゲセリットが疑われることになるでしょう。わたしたち、そんなことはいやなのよ。われわれ自身を滅ぼしてしまいたくないの」彼女はうなずいてみせた。「わたしたち本当に、奉仕するためにのみ存在しているのよ」
「お答えはできません。わたしが答えられないことは、おわかりでしょう」
「ここでおこったことを、あなたはだれにも何ひとつ話さないのですよ。あなたのことはわかっていますからね、スフィル」
「マイ・レイディ……」
またも老人は、乾いてきた咽喉に唾をのみこもうとした。
“彼女はたいへんな力を持っている、それは本当だ。しかしそのことで、ハルコンネンにとってはよりいっそう恐ろしい武器となるのではないだろうか?”
彼女はいった。
「公爵は、敵によるのと同じぐらいに早く味方によっても滅ぼすことができるのですよ。あなたはこの疑惑を底まで見ぬき、それを除いてくれるだろうと、わたしは信じています」
「もしそれが根拠のないことと証明されれば」
彼女は嘲笑するようにいった。
「もし、ね」
「もしです」
「あなたはしぶといのね」
「用心深いのです。そして、誤りの要素があることも知っております」
「ではもうひとつ質問してみましょう。あなたが別の人間の前に立っていて、あなたは縛られ、無力であり、別の人間はナイフをあなたの咽喉にあてている……ところがその人はあなたを殺さず、縛《いまし》めをほどき、そのナイフをあなたにあたえ、好きなように使わせる……こんな場合、あなたにとってはどういう意味になるかってことです」
彼女は椅子から立ち上がり、かれに背をむけた。
「もう出ていってよろしいわよ、スフィル」
年老いたメンタートは立ち、ためらいながら、胴衣の下に隠している死の武器に手をすべりこませた。かれは闘牛場と公爵の父親(ほかの失敗がどうであれ、勇敢な人物だった)と、ずいぶん以前のコリダでの一日を思い出していた。兇暴な黒い野獣が頭を下げ、動けなくなり、混乱していた。先代の公爵は背をそいつの角《つの》にむけ、ケープを意気揚々と片腕にかけ、観客席からは歓声が雨のようにふり注いでいた。
“わしがあの雄牛で、彼女は闘牛士だ”と、ハワトは考えた。かれは武器から手を離し、掌に光っている汗をちらりと見おろした。
そしてかれは、たとえ最後にどのような事実が証明されようとも、自分が永久にこの瞬間を忘れないだろうし、レイディ・ジェシカにたいする最高の尊敬の想いを失うことはないだろうと思った。
静かにかれはむきを変え、部屋から出ていった。
ジェシカは窓にうつっている姿から視線を下ろし、ふりむき、しまったドアを見つめた。
「これですこしはまともな行動を取ることになるでしょうね」
と、彼女はささやいた。
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おまえは夢と組み打つか?
おまえは影と争うか?
おまえは眠っているような状態で動くか?
時間はすぎ去ってしまった。
おまえの生活は奪われた。
おまえはつまらぬことにひまどり、
おまえの犯した馬鹿な行為の犠牲となった。
――<|埋葬の平原《ヒューネラル・プレイン》におけるジャミスのための挽歌>
イルーラン姫による“ムアドディブの歌”から
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レトは邸の玄関広間に立って、サスペンサー・ランプの明かりで手紙を調べていた。夜明けまでにはまだ数時間あり、かれは疲労をおぼえた。公爵が司令部からもどってきたとき、フレーメンの使者が外にいる警備兵のところへその手紙を持ってきたのだ。
その手紙はこうだった。<昼は煙の柱、夜は火の柱>
署名はなかった。
どういう意味だろう、と、かれはいぶかしく思った。
その使者はかれが質問してみるひまもおかず、返事を待ちもせずに去ってしまった。闇の中に煙のように消えていったのだ。
レトは、それをあとでハワトに見せようと考えながら、手紙を胴衣のポケットにおしこんだ。かれは額にたれていた髪の毛をかき上げ、溜息をつくような呼吸をした。耐疲労剤の効力も弱りはじめていた。夕食会から長い二日がたっているし、それより以前からかれは眠っていないのだ。
軍事的問題がいろいろとある上に加えて、ハワトとの心を乱される話し合いがあった。かれがジェシカと会ったときの報告を聞かされたのだ。
“ジェシカをおこすべきだろうか? もうこれ以上彼女に隠し立てしてをして事を運ぶべきではない。それとも、そうするべきなのか? なんという愚か者だ、あのダンカン・アイダホめ!”
かれは首をふって考えつづけた。
“いや、ダンカンのせいではない。最初からジェシカを正式な妻にしなかったわしがまちがっていたのだ。いまのうちにやっておかなくてはいけない。これ以上の危険が迫ってくる前に”
そう決心したことで気分がすこし良くなったかれは、玄関から大広間を通って、家族用の棟へつづく廊下を急いだ。
その廊下が調理場のほうへ分かれている曲がり角で、かれは立ちどまった。そちらの通路のどこからか、奇妙な弱々しい泣き声が聞こえてきたのだ。レトは左手をシールド・ベルトのスイッチにおき、右手に両刃短剣《キンジャル》を握った。短剣は安心感をもたらした。その奇妙な音にかれはぞっとするような思いをおぼえたのだ。
公爵は不十分な照明を呪いながら、そっと召使い用通路へ歩きはじめた。いちばん小さなサスペンサー・ランプがここでは八メートルおきで、それも最低の光度にしてあった。暗い石の壁はその光をのみこんでいるようだ。
前方の暗い床《ゆか》の上に、にぶい色のしみ[#「しみ」に傍点]がひろがっているように思えた。
レトはためらい、シールドを働かせかけたが、やっと思いとどまった。動きと、聴覚が制限されるからだ……そして、拿捕《だほ》したものの、ラス・ガンが持ち込まれた事件で、かれは疑惑につつまれていたのだ。
黙ったままその灰色のかたまりにむかって動いたかれは、それが顔を下にして石の床《ゆか》に倒れている男の姿だとわかった。レトは足でその男をひっくりかえし、ナイフをかまえ、薄明かりの中にかがみこんで、そいつの顔を見た。そいつは密輸業者のチュエクで、胸に濡れたしみ[#「しみ」に傍点]ができていた。死んだ目は黒くうつろに宙を見つめていた。レトはそのしみ[#「しみ」に傍点]にふれてみた――温かい。
“どうしてこの男がここで死んでいるのだ? だれが殺したのだ?”
ここのほうが泣き声は大きく聞こえていた。その音は、この邸の主シールド発生装置がすえつけてある中央の部屋へ通じる、横の通路からひびいてきていた。
手をベルト・スイッチにおき、両刃短剣《キンジャル》をかまえた公爵はその屍体をまわり、通路を進み、シールド発生機室にむかう角《かど》からのぞいて見た。
もうひとつのかたまりが数歩はなれた床《ゆか》に倒れており、かれはすぐにこれが泣き声の源だとわかった、その人影は苦しげに、あえぎ、もぐもぐ何かつぶやきながら、ゆっくりとかれのほうにはってきた。
レトはとつぜん襲ってきた恐怖をおさえ、通路を走り、はってきた人影のそばにかがみこんだ。それはフレーメンの家政婦メイプズで、髪は顔にたれ、衣服は乱れていた。にぶく光る黒いしみ[#「しみ」に傍点]が、彼女の背中から横腹へとひろがっていた。かれが肩にふれると、彼女は両肘を立てて顔を上げて、のぞくようにかれを見た。その目は暗いかげがさし、うつろだった。
「殿さま」彼女はあえいだ。「殺した……警備兵……呼べと……チュエク……逃げて……マイ・レイディ……あなたは……ここへ……だめ……」
彼女は前にのめり、顔を石の床に落とした。
レトはこめかみの脈搏をさぐってみた。とまっていた。かれはそのしみ[#「しみ」に傍点]を見た。彼女は背中を刺されていた。だれが? かれの心は乱れた。この女がいったのは、だれかが警備兵を殺したということなのか? そしてチュエクは……ジェシカが呼びつけたのか? なぜだ?
かれは立ち上がりかけた。第六感がかれに警告を発した。かれは手をシールド・スイッチへと走らせた――手遅れだった。かれの腕がたたきつけられ、力がぬけてゆくようなショックをおぼえた。痛みを感じ、目をやると袖から矢がつき出ているのが見え、そこから麻痺感が胸を上がっていった。顔を上げて通路を眺めるには、苦しいほどの努力を必要とした。
ユエが発生機室の開いたドアのところに立っていた。その顔は、ドアの上にある明るいサスペンサーの明かりを黄色く反射していた。その背後の部屋は静かだった――発生機の音がしていない。
“ユエが! あいつがこの邸の発生機を破壊したんだ! われわれは、あけっぴろげになっている!”
ユエは毒矢銃をポケットにしまいながら、かれにむかって歩きはじめた。
レトはまだ口がきけるのに気づき、あえぎながらいった。
「ユエ! どうして?」
そのとき麻痺が両足に達し、かれは背中を石の壁につけたまま、床へすべり落ちていった。
ユエは悲しげな表情でかがみこみ、レトの額にふれた。公爵は、さわられたことを感じたが、それは遠くのことのようで……ぼんやりとしていた。
「矢の毒は選択性のものだ。あなたは口をきけるが、そうされないほうがいいですぞ」
ユエはそういって廊下を見まわし、もう一度レトの上にかがみこんで毒矢《ダート》を引き抜き、それを横に投げた。毒矢が石にあたった音は、公爵の耳に遠くかすかにひびいた。
“ユエではありえないはずだ。この男は条件づけをされているんだ”
そう考えながらレトはささやいた。
「どうして?」
「申しわけない、親愛なる公爵。しかし世の中には、これ以上の要求をもたらすことがあるのでね」かれは額にあるダイヤモンド形の刺青にふれた。「わたし自身ひどく変だと思う……燃えているような良心に打ち克《か》つことは……だがわたしは、ひとりの男を殺したいのだ。そう、本当にそれを望んでいる、そのためには、ほかのすべてを放擲するのだ」
かれは公爵を見おろした。
「いや、あなたではありませんぞ、親愛なる公爵。男爵《バロン》ハルコンネン。わたしは男爵を殺したいのだ」
「男《バロ》……ハル……」
「どうか静かに、お気の毒な公爵。もうあまり時間はない。ナーカルで折られたあとわたしがあなたの口にいれた義歯だが……あの義歯をとりかえなければいけない。すぐにあなたの意識をなくして、歯を取りかえる」かれは掌をひらき、その中にあったものを見つめた。「まったく同じ形に作ったもので、その芯は神経とそっくりになっている。ふつうの探知機では調べられてもわからない。しかし、力を入れて噛みしめると、くだける。それから、いきおいよく息を吹き出すと、まわりの空気を毒ガスで満たすことになる……もっとも恐ろしい毒ガスでね」
レトはユエを見上げ、その目にある狂気と、眉毛と顎にたまっている汗を見た。
ユエは言葉をつづけた。
「いずれにしても、あなたはもう死んだも同じなんだ、気の毒な公爵。だがあなたは、死ぬ前に男爵のそばに近づくことになる。あなたは薬剤で麻酔されており、攻撃することなど絶対に不可能だと、かれは信じるだろう。そのとおりあなたは薬を飲まされ、縛られている。だが、攻撃は奇妙な形をとりうるんだ。あなたは歯のことをおぼえておくんだ。歯だよ。公爵レト・アトレイデ。歯のことをおぼえておくんだ」
かがみこんでいる年老いた医師はしだいに近づき、しまいにその顔と、たれている口髭が、レトのせまい視界をいっぱいにふさいだ。
「歯を」
と、ユエはつぶやいた。
「なぜだ?」
と、レトはささやいた。
ユエは公爵のそばに片膝をついた。
「わたしは男爵と|シャイタン《*》の取り引きをした。そしてわたしは、どうしてもあいつにその約束を守らせなければいけないんだ。あいつに会えば、それはわかる。男爵を見れば、わかるんだ。だが、土産《みやげ》がないと、絶対にわたしはあいつの前に出られないだろう。あなたがわたしの土産だよ、気の毒な公爵。そして、あいつに会ったとき、わたしはわかるんだ。わたしのかわいそうなワンナは多くのことを教えてくれたが、そのうちのひとつは、緊張が大きなときに真実をはっきりと知ることだ。わたしはつねにそうできるわけではないが、男爵に会えば……わかるんだ」
レトはユエの手の中にある歯を見おろそうと努力した。かれはすべてを悪夢の中でおこっていることのように感じた――こんなことはありえない、と。
ユエの赤っぽい唇が自嘲するようにめくれあがった。
「わたしは男爵のすぐそばに近づくことはできない。そうできれば、わたしは自分でやっているところなんだ。だがわたしは、安全な場所に引き離しておかれるだろう。だがあなたは……ああ、あなたはわたしの大切な武器となるんだ! あいつはあなたをすぐそばに近づけさせたがるはずだ……あなたを笑い、威張ってみせるためにね」
レトは、ユエの左頬のあたりの筋肉に自分がほとんど催眠術をかけられたようになっていることに気づいた。口をきくたびに動いているその筋肉にだ。ユエはもっと近くかがみこんだ。
「そして親愛なる公爵、わたしの大切な公爵、あなたはこの歯のことを記憶しておかなければいけない」かれはそれを親指と人さし指でつまみあげた。「これだけが、あなたに残されているすべてなんだよ」
レトの口は音を出さないまま動き、つづいてささやいた。
「ことわる」
「ああ、いけないよ! あなたはことわってはいけないんだ。なぜなら、この小さな仕事のお返しに、わたしはちょっとしたことをしてあげるんだから。あなたの息子と奥さんを助けてあげる。ほかのだれにもできないことだ。ふたりを、ハルコンネンの手がとどかないところへ逃がしてあげられるんだよ」
レトはささやいた。
「どうやって……ふたりを……助けられる?」
「かれらを死んでいるように見せかけ、ハルコンネンを嫌っている連中のあいだに隠すんだ。ハルコンネンの名前を聞いただけでナイフを抜き、ハルコンネンを憎むあまりにハルコンネンに関係のあるやつが坐ったとなるとその椅子を焼いてしまい、ハルコンネンのやつらが歩いた地面には塩をまく連中のあいだにね」かれはレトの顎にふれた。「顎の中に感覚がのこっているか?」
公爵は答えられなくなっているのを感じた。かれは遠くから引っぱられているような感じをおぼえ、ユエの手が公爵の紋章がついている指輪を抜き取ったのを見た。
ユエはいった。
「ポウルのために……あなたはもうすぐ意識をうしなう。さようなら、気の毒な公爵。つぎに会ったとき、われわれは話しあうひまもないはずだ」
遠く離れていくような感じが、冷たくレトの顎から両頬へとひろがっていった。薄暗い廊下が小さい点になってゆき、そのまん中にユエの赤い唇があった。
ユエはささやいた。
「歯のことを憶えておくんだ! 歯だぞ!」
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不満足の科学というものがあってしかるべきだ。心霊的筋肉《サイキック・マスル》を発達させるために、人は苦しい時期と圧迫を必要とする。
――イルーラン姫による“ムアドディブの片言隻語集”から
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闇の中で目をさましたジェシカは、あたりの静けさの中になにかの予感をおぼえた。彼女はなぜ自分の心と体がこんなにだるいのか、理由が理解できなかった。ぞくっとするほどの恐怖が、全神経に走った。おきあがって明かりをつけようと思ったが、何かがその決心をにぶらせた。口の中がどこか……変だったのだ。
ズシン・ズシン・ズシン・ズシン!
どこからとも知れず、闇の中でにぶい音がしていた。どこかでだ。
待っている時間は長く、分秒をきざんでいった。
彼女は自分の体がどうなっているのかわかりはじめた。手首と足首が縛られており、口に猿ぐつわがはめられているのだ。横むきになっており、両手はうしろで縛られていた。彼女は縛り目をためしてみて、それが|クリムスケル《*》布地《ファイバー》であり、引っぱるときつくしまるだけだとわかった。
やっと彼女は思い出した。
寝室の闇の中で何かが動き、何か濡れた鋭い匂いのものが顔にたたきつけられ、口をおおい、いくつもの手につかまえられたのだった。彼女はあえぎ――ひと息吸っただけで――その濡れたものを麻酔薬だと知った。意識が遠のいてゆき、彼女は恐怖の闇の中に沈んでいったのだ。
“とうとうやってきたんだわ。ベネ・ゲセリットを服従させるのも。まったく容易ってわけね。必要なものは反逆だけ。ハワトが正しかったわけだわ”
彼女は縛り目を引っぱらないようにと気をつけた。
“ここはわたしの寝室じゃないわ。どこかほかの場所へ連れてこられたのね”
ゆっくり、彼女は心を落ち着かそうと努力した。
彼女は自分の汗くささに恐ろしい薬品の匂いが混じっていることに気づきはじめた。
“ポウルはどこなの? 坊やを……かれらは坊やをどんな目に会わしたの?”
落ち着かなければ。彼女は昔から知っている方法を使って努力した。
だが恐怖はあまりにも近くに存在しつづけていた。
“レト? あなた、どこなの、レト?”
彼女は闇の濃さが減っていくのを感じた。それは影から始まった。次元が分離し、新しい意識が鋭く入ってきた。白、ドアの下に現れた一本の線。
“わたしは床《ゆか》の上にいる”
何人かの人が歩いている。彼女はそれを床をとおして感じた。
ジェシカは恐怖の記憶を忘れようとし、心の中の落ち着きをとりもどそうと努力した。
“わたしは落ち着き、感受性を鋭敏にし、いつでも行動にうつれる態勢にいなければいけない。機会はたった一度しかつかめないかもしれないんだから”
ぶざまなほどに激しくなっていた彼女の鼓動も、時間がたつにつれて平常になってきた。彼女は、一時間ほど意識を失っていたんだわ、と考え、目を閉じて、近づいてくる足音に精神を集中した。
“四人だわ”
彼女はそれぞれの足音にあるちがいを勘定した。
まだ意識を失っているふりをしていなければ、彼女はそう考え、いつでも行動をおこせるかどうかをためしながら、ぐったりと体を冷たい床にのばし、ドアが開くのを聞き、瞼をとおして明かりが増したのを感じた。
足音が近づいた。だれかが彼女のすぐそばに立った。
低音《バス》の声がとどろいた。
「おまえは目がさめている。眠っているふりをするな」
彼女は目をあけた。
男爵《バロン》ウラディミール・ハルコンネンが彼女の上に立ちはだかっていた。彼女はここが、ポウルの寝ていた地下室だと気づいた。一方にあるかれの寝台にはだれもいなかった。警備兵の持ちこんだサスペンサー・ランプが、開いているドアのそばにあった。そのむこうの廊下で明るく輝いている光がまぶしかった。
彼女は男爵を見あげた。かれは黄色の袖なし外套を着ており、それは携帯用サスペンサーを隠してふくれあがっていた。蜘蛛のそれのような黒い両眼の下には、頬が無邪気にふくらんでいた。
かれは大きな声でいった。
「あの薬剤は時間を合わせてあった。おまえが意識をとりもどす正確な時間はわかっていたんだよ」
“どうしてそんなことができたのかしら? そのために知っていなければいけないことは、わたしの正確な体重、わたしの新陳代謝、わたしの……ユエ!”
「おまえが猿ぐつわをはめられているのは残念だな。おもしろい話ができるところだったんだが」
“こんなことができたのはユエだけ……でも、どうやって?”
男爵は背後のドアをふりかえった。
「はいってこい、パイター」
部屋の中にはいってきて男爵のそばに立った男と、彼女はこれまで一度も顔を合わせたことがなかった。しかしその顔は知っていた――その男、パイター・ド・ブリース、メンタート・暗殺者。彼女はその男を見つめた――鷹のような容貌、青インクのような目はアラキス原住民のように思わせる。だがその微妙な動きと足どりは、そうでないことを示していた。そしてその肉体は水分を充分に取っているひきしまりかただ。かれは背が高く、ほっそりしていて、どこかめめしいようなところがあった。
男爵はいった。
「まったく残念だよ。話ができないのはな。|親愛なる《マイ・ディア》レイディ・ジェシカ……しかしながら、わしはおまえの能力をよく知っているよ:かれはメンタートをちらりと見た。「本当だな、パイター?」
「おおせのとおりです、男爵」
と、そいつはいった。
その声はかん高かった。それは彼女の背筋にぞっとする冷たさをもたらした。これまでそれほど冷ややかな声を聞いたことは一度もなかったのだ。ベネ・ゲセリットの訓練を受けた者にとって、その声は悲鳴を上げていた。
人殺し[#「人殺し」に傍点]! と。
「パイターを驚かせることがあるんだ。かれはここへ褒美をもらいにきたと思っている……おまえをだ、レイディ・ジェシカ。だがわしはひとつ教えておきたい。かれが本当におまえをほしがっているわけではないということをな」
「わたしをからかっておられるのですかな、男爵《バロン》」
パイターはそうたずねて、微笑した。
その笑顔を見たジェシカは、男爵がなぜ飛び上がってこのパイターから自分を守ろうとしないのか、ふしぎに思った。ついで彼女は自分の考えを修正した。男爵はその微笑を読むことができなかったのだ。かれはそんな訓練を受けていないのだから。
「多くの点で、パイターは実にナイーブなんだ。おまえがどれほど恐ろしい人間なのかということを、かれは認めないんだよ、レイディ・ジェシカ。かれに見せてやりたいが、それは馬鹿げた危険をおかすことになるからな」男爵はそういいながら笑いかけ、パイターの顔はかたい仮面になっていた。「パイターの本当に求めているものが何か、わしはわかっている。パイターは権力を求めているんだ」
「わたしは彼女をもらえると、あなたは約束されたはずですぞ」
と、パイターはいった。そのかん高い声は、それまでの冷静さをすこし失っていた。
ジェシカはその男の声に手がかりとなる口調を聞き、心の中でふるえをおぼえた。
“いったいどうやって男爵は、メンタートをこれほどの野獣に作り変えられたのかしら?”
男爵はいった。
「どちらかを選ぶことだな、パイター?」
「どちらかとは?」
男爵は太い指を鳴らした。
「この女と帝国からの追放か、もしくはアラキスにあるアトレイデ公爵領を、わしの名前でおまえの好きなように統治することだ」
ジェシカは、男爵の蜘蛛のような目がパイターをじろじろ見ながら話しかけるありさまを見つめていた。
「おまえは、名前を別にすれば、ここで公爵そのものになれるんだぞ」
“では、わたしのレトは死んだの?”
と、ジェシカは自分の心にたずねた。どこか心の中のどこかで、沈黙の泣き声がひびきはじめた。
男爵はメンタートに注意力を集中していた。
「考えてみるんだな、パイター。おまえが彼女を求めた理由は、こいつが公爵の女であり、かれの持つ権力の象徴だったからだ……美人で、役に立ち、その役割を果たせられるようによく訓練されているからな。だが、ひとつの公爵領全部だぞ、パイター! それは象徴以上のもの、現実だ。それがあれば、女などいくらでも手に入れられる……それ以上のものをな」
「パイターを相手に冗談はいわれないでしょうな?」
男爵は、サスペンサーにあたえられた踊るような軽やかさでふりむいた。
「冗談だと? このわしが? おぼえているんだろうな……わしが子供のことはあきらめていることを。あの反逆者があいつの訓練について話したことは、おまえも聞いたはずだ。やつらは同じだ、この母親と息子はな……死をもたらす連中だ」男爵は微笑した。「わしはもういかなければならん。こんなときのために用意しておいた警備兵をここへよこそう。そいつは、まったくのつんぼだ。そいつの受けている命令は、おまえを追放するための船に乗せることだ。もしこの女がおまえを操るようであれば、女を眠らせてしまえと命令してある。おまえがアラキスを離れてしまうまで、女の猿ぐつわをはずさせはしない。ただし、おまえがここを離れないほうを選ぶなら……そいつには別の命令があたえてある」
パイターはいった。
「出ていかれることはありません。わたしはもう選択をすませましたから」
男爵は笑った。
「ほ、ほう! それほど決心するのが早いとなると、意味するところはひとつだな」
「わたしは公爵領をいただきます」
パイターはそう答え、ジェシカは考えた。
“男爵の[#ここは「が」の打ち間違いかと思われるかもしれないが原本は「の」になっている]嘘をついていることがパイターにはわからないのだろうか? でも……かれにわかるはずはないのかもしれない? 気が狂いかけているメンタートだもの”
男爵はジェシカを見おろした。
「わしがパイターをこれほどよく知っているのは、すばらしいことではないかな? わしは衛兵隊長と賭けをしたんだ、パイターはこちらのほうを選択するだろうということでね。さてと、わしはもう失礼しよう。このほうがずっといい。ずっといいんだ。わかるだろう、レイディ・ジェシカ? わしはおまえにたいしてなんの憎しみも持っていないよ。必要からしていることなんだ。そう、このほうがずっといいんだ。それにわしは、おまえを殺してしまえと命令したわけじゃあない。おまえがどうなろうと、わしはどうでもいいんだ」
パイターはたずねた。
「では、わたしの好きなように?」
「ここへよこす警備兵はおまえの命令にしたがう。何をしようと、わしはおまえの自由にまかせよう」男爵はパイターを見つめた。「そう、ここでわしの手は血で汚されないことになった。おまえが決心したいおかげでな。そう、わしは何も知らない。おまえは何をしなければいけないにしろ、わしが去ってしまうまで待つんだ。そう、ああ……よろしい」
“かれは真実審判師《トルースセイヤー》に訊問されることを恐れているんだわ……だれに? ああ、もちろん|教  母《リヴァレント・マザー》ガイウス・ヘレン! 彼女の審問を受けなければいけないことを知っていたとなると、まちがいなく皇帝もこんどの事件に関係しているってことになるわ。ああ、わたしの気の毒なレト”
そう考えているジェシカを最後にちらりと見た男爵はふりむき、出ていった。彼女はその姿を目で追いながら考えつづけた。
“教母さまが警告されたとおり……強力すぎる敵だわ”
ハルコンネン兵がふたりはいってきた。もうひとり、顔に傷跡のある男がそのあとにつづき、ラス・ガンを抜いて入口に立った。
ジェシカは傷だらけの顔を見つめた。
“耳の聞こえない男はこれね。あの男爵は、わたしがだれにたいしても 声《ヴォイス》 を使えるって知っているんだわ”
傷のある顔はパイターを見た。
「外の担架にあの少年を乗せてあります。ご命令を」
パイターはジェシカに話しかけた。
「おまえの息子に危険をせまらせておくことで、おれはおまえを縛りつけておこうと思っていた。だがそれではうまくいかんとわかりはじめた。おれは感情で理性をくもらされていたわけだな。メンタートとしてはまずいことだったよ」かれは、つんぼの男がかれの唇を読めるようにむきを変えて、最初にはいってきた二人の兵士を見た。「反逆者があの少年について提案したとおり、ふたりとも砂漠へ連れ出せ。あいつの計画はいいもんだ。砂虫《ウォーム》がすべての痕跡をなくしてしまうだろうからな。屍体を絶対に見つけられてはならんのだ」
傷のある顔はたずねた。
「あなた自身でおやりになりたくはないのですか?」
この男は読唇術ができるんだわ、とジェシカは考えた。
パイターは答えた。
「おれは男爵の例にならうんだ。ふたりを、反逆者のいったところへ連れてゆけ」
ジェシカはパイターの声に、メンタートがほかの人間を服従させるときの鋭い調子を聞き取った。
“かれも真実審判師《トルースセイヤー》を恐れているのね”
パイターは肩をすくめ、ふりむき、ドアを通って出ていった。そこでちょっとためらったので、ジェシカはかれがふりむいて最後にひと目見ようとするのかと思ったが、かれはふりむくことなく出ていった。
「おれだって、今夜の仕事のあとであの真実審判師《トルースセイヤー》と顔を合わせるのは、おもしろくねえな」
傷だらけの顔がそういうと、兵士のひとりはジェシカの頭のところへゆき、かがみこみながら答えた。
「おまえがあの老いぼれ魔女の前へ引き出されることなんかありそうもねえよ……こんなところにつっ立ってしゃべっていてもよ、おれたちの仕事が終わるわけはねえんだ。この女の足を持てよ……」
傷だらけの顔はたずねた。
「なぜこいつらをここで殺してしまわねえんだ?」
最初の男が答えた。
「ここをよごしちまうからよ。しめ殺したいなら別だがな。おれは、きれいに、まっ正直な仕事をやりてえな。あの反逆者がいったとおり、こいつらを砂漠にほうり出してよ、ちょいと切り刻んどいてさあ、あとは砂虫《ウォーム》にまかせるんだ。あとを掃除するような手間ひまをかけねえですむってわけさ」
傷だらけの顔は答えた。
「ああ……どうやら、おめえのいうとおりらしいな」
ジェシカはかれらの言葉に耳を澄ませ、見つめ、心に刻みこんだ。だが猿ぐつわのために 声《ヴォイス》 を使うことはできず、つんぼの男という問題もあるのだ。
傷だらけの顔はラス・ガンをホルスターにしまって彼女の両足をつかんだ。かれらは彼女を穀物を入れた袋ででも
あるかのように持ち上げ、ドアを通って運び、もうひとり縛られている人間がのせられサスペンサーで浮いている担架の上に落とした。かれらが彼女を担架に縛りつけようと動かしたとき、ジェシカは横たわっている男の顔を見た――ポウルだった! かれは縛られてはいるが、猿ぐつわははめられていなかった。かれの顔は十センチと離れておらず、目を閉じ、呼吸はおだやかだった。
“薬がきいているのかしら”
兵士たちが担架を上げると、ポウルの目はごく細く開いた――黒いすきまが彼女を見つめていた。
“ 声《ヴォイス》 を使ってはだめよ! つんぼの警備兵がいるんだから!”
と、彼女は祈った。
ポウルの目は閉じた。
かれは意識を鋭くし気持ちを落ち着かせるための呼吸をつづけながら、かれらの言葉に耳を済ませていたのだ。つんぼの男が問題だったが、ポウルは絶望しないようにと努めた。母に教えてもらった心を落ち着かせるベネ・ゲセリットの方法で、かれはいつでも機会が生じたとき、それを使えるようにと待機しつづけていたのだ。
ポウルはもう一度、わずかに目をあけて母を調べてみた。傷つけられている様子はない。だが、猿ぐつわをかまされている。
だれが彼女を捕えるようなことをしたのだろうと、ポウルはいぶかしく思った。かれ自身が捕まえられたのはまったくあっさりしている――ユエが調合した薬を飲んで寝たあと、目がさめてみるとこの担架に縛りつけられていたのだ。たぶん彼女も同じような運命に会ったのだろう。論理からすると反逆者はユエということになるが、かれは最後の決定を未定のままにしておいた。スクの医師が反逆者となるなど、どうも理解できないことだからだ。
担架はわずかに傾き、ハルコンネンの兵士たちは入口を通って星空の夜へと出ていった。サスペンサー・ブイが入口にこすれ、ついでかれらは砂地の上に出て足音を立てた。ソプターの翼が頭上をおおい、星空を隠した。担架は地面におろされた。
ポウルの目は、かすかな明かりに調節された。つんぼの兵士がソプターのドアを開き、計器版で緑色に淡く照らされている内部をのぞきこむ姿が見えた。
「これがおれたちの使うことになっているソプターか?」
と、その兵士はたずね、仲間の唇を見ようとふりむいた。
「砂漠の仕事に用意したと、あの反逆者がいっていたやつさ」
ひとりがそう答えると、傷だらけの顔はうなずいた。
「しかしこれは、連絡用に使う小さなものだぜ、あいつらのほかには、おれたちのうち二人しか乗りこめねえんだぞ」
「二人で充分さ」と、担架をかついでいた男はそういいながら近づき、自分の唇を読めるようにした。「ここからはおれたちでやれるぜ、キネト」
傷だらけの顔はいった。
「男爵はおれにいったんだ、あの二人がどうなったか最後まではっきり見ておけってな」
「何をそう心配してるんだ、おまえ?」
と、担架をかついできた男のうしろから別の兵隊がたずねると、つんぼの兵士はこたえた。
「この女はベネ・ゲセリットの魔女だぞ。やつらは力を持ってるんだ」
担架をかついだ兵士は、拳を耳にあてる仕草をしてみせた。
「ああ……これかい? おまえのいった意味はわかったぜ」
そいつのうしろにいた兵士は、ぶつぶつといった。
「この女はすぐに砂虫《ウォーム》の餌になっちまうんだ。ベネ・ゲセリットの魔女だって、大きな砂虫より強くはねえだろうよ。え、チゴ?」
かれは担架をかついだ兵士に顎をしゃくった。
「ああ」担架かつぎはいい、担架にもどってジェシカの肩をつかんだ。「こいよ、キネト。どうなるか見とどけたけりゃ、おまえが来ればいいんだぜ」
傷だらけの顔はこたえた。
「おれを招待してくれて礼をいうぜ、チゴ」
ジェシカはかつぎ上げられるのを感じ、黒い翼がまわり――星空を見た。彼女はソプターの後部座席におしこめられ、クリムスケル布地《ファイバー》の結び目を調べられ、座席にしめつけられた。ポウルも彼女のそばにつき入れられ、しっかりとストラップをとめられた。彼女は、ポウルがふつうのロープで縛られていることに気づいた。
傷だらけの顔、かれらがキネトと呼んでいるつんぼの男は、前部の席にはいった。チゴと呼ばれる担架かつぎの兵士は、まわってきて、もうひとつの前方座席についた。
キネトはドアをしめ、操縦装置の上にかがみこんだ。ソプターは翼をたたんだままの姿勢で急上昇し、|遮蔽する壁《シールド・ウォール》のほうへと機首をむけた。チゴは仲間の肩をたたいて話しかけた。
「うしろをむいて、ふたりを見張っていたらどうだい?」
キネトはチゴの唇を見つめた。
「どこへ行けばいいのか、知っているんだろうな?」
「おれも同じ反逆者に聞いたんだぜ」
キネトは座席をまわした。ジェシカは、そいつが握っているラス・ガンに星明りがあたってきらめくのを見た。目がなれてくると、ソプターの内部は光る壁になっているのか星明りを集めて輝いているようだったが、それでも護送兵の傷だらけの顔は薄暗いままだった。ジェシカは座席ベルトをためしてみて、それがゆるくなっているのを知った。左腕にあたるストラップがざらざらするのを感じ、それがほとんど切れかけており、不意に引っぱれば切れてしまうだろうと考えた。
“だれかがこのソプターに来て、わたしたちのためにやっておいてくれたのかしら? だれかしら?”
彼女はいぶかしく思いながら、ゆっくりと縛られている両足をよじってポウルから離した。
「まったくこれほどのべっぴんを使わずにすてちまうってのはもったいねえ話じゃねえか。おめえこれまで、高貴な生まれって女をためしてみたことはあるのか?」
傷だらけの顔はそういって、パイロットのほうに顔をまわした。
パイロットは答えた。
「ベネ・ゲセリットはみながみな高貴の生まれってわけじゃねえんだぜ」
「だが、やつらはみんなそう見えるぞ」
“あいつはわたしをはっきり見られるんだわ”
ジェシカはそう思い、縛られた両足を座席に上げて丸くなり、傷だらけの顔を見つめた。
「まったく美人だぜ、この女は」キネトはそういい、唇をなめながらチゴを見た。「もったいねえ話だ」
パイロットはたずねた。
「おまえが考えてることをおれがどう思ってるかって考えてるんだろ?」
「だれにもわからねえだろ? そのあとは……」護送兵は首をすくめた。「おれはただ、これまで一度も高貴な生まれのやつとは寝たことがねえってことなんだ。こんなチャンスは二度とねえかもしれねえんだぜ」
「母上に手でもふれてみろ……」
とポウルはどなり、傷だらけの顔をにらみつけた。
パイロットは笑った。
「おい! 餓鬼が吠えたぜ。噛みつく元気もねえやつだと思ってたが」
そしてジェシカは思った。
“ポウルの声はちょっとかん高すぎる。でも、きくかもしれないわ”
かれらは沈黙し、飛びつづけた。
ジェシカは護送兵たちを眺め、男爵のいったことを思い出し、考えてみた。
“このかわいそうな馬鹿者たち。仕事が終わったと報告したとたんに殺されるんだわ。男爵は証人を消したがっているんだから”
ソプターは|遮蔽する壁《シールド・ウォール》の南端をバンクしながら越え、ジェシカは下に月光に照らされた砂のひろがりを見た。
パイロットは口をひらいた。
「ここまでくればいいだろう。あの反逆者は|遮蔽する壁《シールド・ウォール》の近くならどこでもいいっていってたからな」
かれはソプターを砂丘にむけて長い急降下をおこない、砂漠の地表近くで乱暴に引きおこした。
ジェシカは、ポウルが気持ちを落ち着かせるための規則的な呼吸をしはじめているのを知った。かれは目を閉じ、また開いた。ジェシカはかれを助けることができないまま、じっと見つめていた。
“かれはまだ 声《ヴォイス》 をマスターしていない。もし失敗したら……”
ソプターは砂地にふれて軽くゆれ、ジェシカは北につづいている|遮蔽する壁《シールド・ウォール》をふりかえり、一機のソプターの影がそこに消えるのを見た。
“だれかがわたしたちをつけていた! だれかしら? 男爵がこの二人を監視させているんだわ。その連中を監視している連中もいるはずね”
チゴはローターをとめた。静寂があたりにみなぎった。
ジェシカは顔をまわした。傷だらけの顔のむこう、窓の外に、登ってくる月の光が淡く輝いており、砂漠からつき出ている凍りついたような岩の端が見えていた。山脈の岩肌は、風にたたきつけられて筋が走っていた。
ポウルは咳ばらいした。
パイロットはいった。
「やるか、キネト?」
「どうするかだ、チゴ」
チゴはふりむいた。
「まあ、見てみろよ」
かれはジェシカのスカートに手をのばした。
「彼女の猿ぐつわをはずせ」
と、ポウルは命令した。
ジェシカは、その言葉が空中に朗々とひびきわたったように感じた。すばらしい口調、実に鋭い命令だ。わずかに音程を低くしたほうが良かったろうが、これでもしっかりとこの男の心にくいこんだはずだ。
チゴはジェシカの口に巻きつけてあった布に手をのばし、猿ぐつわの上の結び目をゆるめた。
「やめろ!」
と、キネトは命令した。
「つまらねえことをいうなよ。両手は縛ってあるんだぞ」
かれは結び目をほどき、縛ってあった布は落ちた。ジェシカを見つめたかれの目は光った。
キネトはパイロットの腕に手をふれた。
「なあ、チゴ、別に……」
ジェシカは首をふり、猿ぐつわを吐き出した。彼女は低く、親しげな声で話しかけた。
「あなたがた、わたしを取りあって争うことはないのよ」
同時に彼女は、キネトにあてつけるように体をわざとくねらせてみせた。
彼女はふたりの緊張がたかまる様子を見つめ、すぐに知った。ふたりとも、自分を手に入れるためには戦うほかないと思っている。ふたりの意見が合っていないことは、そのことを示している。心の中で、ふたりはもう彼女を求めて争っているのだ。
キネトがまちがいなく唇を読めるようにと、計器盤からの明かりが光る中で彼女は顔を高く上げて話しかけた。
「あなたがた仲たがいしてはいけないわ」かれらは距離をあけ、おたがいをおもしろくなさそうにちらりと見た。「戦って取りあうほどの値打ちがある女などいるかしら?」
その言葉を口にし、そこにいることによって、彼女は自分を絶対に戦って手に入れるべき価値のある女であるようにした。
ポウルは唇をかたく閉じ、沈黙を保っていようと努力した。かれにもさきほど 声《ヴォイス》 を使って成功する機会が一度あった。いまは――すべてがかれの母にかかっているのだ。かれよりもはるかに大きな経験を持っている母にだ。
傷だらけの顔はいった。
「ああ、喧嘩するこたあねえな……」
かれの手はパイロットの頸にひらめいた。その打撃を迎えて金属が光り、その腕をとめると同時にそのままキネトの胸に叩きつけられた。
傷だらけの顔はうめき声をあげ、ドアのほうへよろめき倒れていった。
「おれがそんな手にのるほどのまぬけだと思っていたのか?」
チゴはそういい、手を引きもどして、ナイフを見せた。それは月光を反射してきらめいた。
「こんどは餓鬼だ」
そういってかれはポウルのほうにかがみこんだ。
「その必要はないわ」
と、ジェシカはつぶやいた。
チゴはためらった。
ジェシカは笑いを浮かべながらたずねた。
「わたしを抱くにしても協力的なほうがいいんじゃなくて? この子にチャンスをあたえて。この砂漠ではチャンスもほとんどないでしょうけれど。それをあたえてくれたら……あなたも充分な報酬を受けることになるのよ」
チゴは左、右と視線を走らせ、注意をジェシカにもどした。
「砂漠の中で人間はどんなことになるか、おれは聞いたことがあるんだ。この子にはナイフのほうが親切ってものかもしれねえぜ」
「こんなにお願いしてもだめなの?」
ジェシカが哀願するとチゴはつぶやいた。
「おめえ、おれをだまそうとしているんだ」
「わたしは自分の子供が死ぬところを見たくないのよ。それがだますことになるの?」
チゴはうしろに動き、肘でドアの閂をはずした。かれはポウルをつかみ、座席ごしに引きずり、ドアの外へなかばおし出してナイフをふりかざした。
「おめえ、どうするよ、おれがロープを切ってやったら?」
ジェシカはいった。
「かれはすぐにここから離れて、あの岩のほうへ行くわ」
チゴはたずねた。
「そのとおりするのか、坊や?」
ポウルの声は適当な程度に不機嫌そうだった。
「ああ」
ナイフは下に動き、両足を縛っていたロープを切った。ポウルは砂の上へつき飛ばそうとする手が背中にかかるのを感じ、|入口の枠《ドア・フレイム》にしがみつくようなふりをし、ふりむくなり右足を蹴上げた。
かれの爪先は長年の訓練のおかげで、その訓練のすべてがこの一瞬に集中したといえるほどの正確さで命中した。全身の筋肉のほとんどがその動作に協力した。爪先はチゴの胸骨のすぐ下の腹部のやわらかい部分を蹴りつけ、すさまじい勢いで上方へ動き、肝臓を越えて横隔膜を通り、そいつの心臓の右心室をつぶしたのだ。
異様な悲鳴をひと声あげたその男は、座席を越えてうしろに飛んだ。ポウルは両手が使えないまま、砂の上に落ちてゆき、着陸した瞬間その勢いを利用してころがり一動作で立ち上がった。かれは機内に飛びこみ、ナイフを見つけ、それを口にくわえ、ジェシカはそれで自分の縛《いまし》めを切った。彼女はそのナイフを取り、かれの両手を自由にした。
「わたしはあの男をあやつれたわ。だから、わたしの縛《いまし》めをほどくほかなかったのよ。愚かな危険をおかしたものね」
「ほくはすきを見つけたから、それを利用しただけです」
彼女はポウルの声にいらだたしさがあるのを感じていった。
「天井にユエの家紋が走り書きしてあるわ」
かれは顔を上げ、まがりくねった模様を見た。
「ここから出て、この機体を調べてみましょう。パイロットの座席の下に包みがあるわ。乗せられたとき、それにふれたの」
「爆弾?」
「とも思えないけれど。どこか変だわ、この飛行機は」
ポウルは砂の上に飛ばし、ジェシカはそのあとにつづいた。彼女はふりむき、座席の下にある変な包みに手をのばし、顔のすぐそばにあるチゴの両足を見ながらその包みを引っぱり出した。そしてその包みが濡れているのを感じ、すぐにそれはパイロットの血だとわかった。
“水分の浪費だわ”と、彼女は考え、これはアラキス流の考えかただわと思った。
ポウルはあたりを見まわし、海から上がってくる海岸のように砂漠から立ち上がっている岩の急坂と、そのむこうにある風にえぐられた絶壁を見た。母親がソプターから包みを持ち上げたときかれはふりむき、ジェシカの視線が砂丘を越えて|遮蔽する壁《シールド・ウォール》のほうにむけられていることに気づいた。かれは何が母の注意を引いたのかと眺め。別のソプターがかれらのほうへ降下してくるのを見つけ、二人の屍体をこのソプターから片づけたあとで逃げる時間はないと知った。
ジェシカは叫んだ。
「走って、ポウル! ハルコンネンよ!」
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アラキスはナイフにたいする態度を教えている――不完全なものを切り落とし、そしていう。「さあ、これで完全だ。ここで終わりだから」と。
――イルーラン姫による“ムアドディブの片言隻語集”から
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ハルコンネン軍の制服を着た男が廊下の端にすべるようにしてとまり。メイプズの屍体、横たわっている公爵の姿をちらりと見ると、その場に立っているユエを見つめた。右手にラス・ガンを握っているその男には、人を人とも思わない残虐さとたくましさがあり、ユエに戦慄をおぼえさせた。
“サルダウカーだ……バシャールらしい。皇帝直属のひとりで、ここの事態を監視するためによこされたやつだろう。どんな制服をつけていようと、かれらの正体を隠すことはできないんだ”
「おまえがユエか」
と、その男はいった。そいつは不審そうに医師の髪をおさえているスク学校の輪《リング》を眺め、ダイヤモンド形の刺青をちらりと見てから、ユエと視線を合わせた。
「わたしがユエです」
「安心していいぞ、ユエ。おまえがこの邸のシールドを消すとすぐに、おれたちははいってきた。もうここはすべてをおさえてある。これが公爵《デューク》か?」
「これが公爵《デューク》です」
「死んでいるのか?」
「意識をなくしているだけでう。縛ったほうがいいですよ」
「そいつもおまえがやったのか?」
かれはメイプズの屍体が横たわっているほうを見た。
「かわいそうだが……」
と、ユエはつぶやいた。
「かわいそうだと!」サルダウカーは嘲笑し、前に進んでレトを見おろした。「これがあの偉大な|赤い公爵《レッド・デューク》か」
“この男の正体は、これではっきりしたぞ。アトレイデを|赤い公爵《レッド・デューク》と呼ぶのは皇帝だけだからな”
サルダウカーは手をのばし、レトの制服から赤い鷹の紋章を切り取った。
「ちょっとした記念品ってとこだ。公爵の紋章指輪はどこにある?」
「体につけておないようです」
サルダウカーは鋭い声を出した。
「そんなことは見ればわかる!」
ユエはぐきりとし、唾をのみこんだ。
“連中がわしを訊問し、真実審判師《トルースセイヤー》を呼べば、指輪のことも、わしが用意したソプターのこともわかってしまう……すべては失敗してしまうんだ”
「ときどき公爵はあの指輪を持たせた使者を出します。命令が直接かれから出されたものだというしるしに」
ユエがそういうと、サルダウカーはつぶやいた。
「よほど信頼されている使者なんだな」
ユエは勇気を出していってみた。
「かれを縛らないのですか?」
「どれぐらい気絶しているんだ?」
「二時間かそこらです。あの女と息子の場合ほど、薬の量は正確じゃなかったので」
サルダウカーは公爵を蹴飛ばした。
「こいつは目がさめたところで別に恐ろしい相手ではない。女と子供はいつ目がさめるんだ?」
「十分ほどすれば」
「そんなに早くか?」
「男爵は部下のあとからすぐ到着すると聞きましたので」
「そのとおりだ。おまえは外で待っていろ、ユエ」かれはけわしい視線をむけた。「行け!」
ユエはレトをちらりと見た。
「この……」
「こいつはオーブンに入れるローストみたいに縛りあげて男爵に引き渡すさ」もう一度、サルダウカーはユエの額にあるダイヤモンド形の刺青を見た。「おまえのことはみな知っている。出ても安全だ。おれたちはこれ以上むだ話をしている時間はないんだ、反逆者め。ほかの連中もやってくるからな」
“反逆者か”ユエは視線を下げ、サルダウカーのそばを通って歩きながら、歴史はこれから自分のことをそう呼ぶ、これはその先触《さきぶ》れなんだ、と考えた。“反逆者ユエ、と”[#「”」の位置が違うと思われるかもしれないが、これで原本通りである]
玄関へむかうあいだにもっと多くの屍体がころがっているのを見ながら、かれはそのうちのひとりがポウルかジェシカではないかという恐怖をおぼえた。そのすべてが、邸の警備兵か、ハルコンネン軍の制服を着ているものだった。
かれが玄関から焔ぬ輝く夜の中に出てゆくと、ハルコンネン兵士は緊張し、かれを見つめた。道にそってならんでいる棕櫚《しゅろ》が、邸を照らすために火がつけられていたのだ。木々の点火するために使われた可燃剤からの黒い煙がオレンジ色の焔の中から上方に立ちのぼっていた。
「あれが反逆者だぞ」
と、だれかがいい、別の兵士はいった。
「男爵《バロン》もすぐおまえに会いたがるだろうぜ」
“わしはあのソプターのところへ行かなければ。ポウルが見つけられるところに公爵の紋章指輪を置かなければいけないんだ”ユエはそう考えながら、ぞっとした。“アイダホがわしを疑ったり、あるいは辛抱しきれなくなったりしたら……もしかれが待たず、わしがいったとおりのところへ行かなかったら……ジェシカとポウルは殺戮から逃れることができないだろう。そうなるとわしは、自分のやった行為にたいして、もっとも小さな安心感をも得られなくなってしまうんだ”
ハルコンネンの警備兵はかれの腕を離していった。
「そこで邪魔にならないようにして待ってろ」
とつぜんユエは、ほかの連中と分かちあうものが何ひとつなく、ほんのすこしの思いやりもあたえられないまま、自分がよそ者としてこの惨劇の場所にほうり出されていることを知った。
“アイダホは絶対に失敗してはいけないんだ!”
別の警備兵がかれにぶつかってどなった。
「どいてろ、きさま!」
“わしによって利益を得たときでさえ、やつらはわしを軽蔑するんだ”
横へつき飛ばされたユエはそう思いながらも背をのばし、威厳を多少でも取りもどそうとした。
「男爵《バロン》を待ってろ!」
と、警備の士官が吠えるようにいった。
ユエはうなずき、のんびりした態度に見えるように努力しながら邸の前を歩き、角《かど》をまわり、燃えている棕櫚《しゅろ》が見えないかげへとはいった。一歩ごとに不安を深めながらユエは急いで植物室の下にある裏庭へと急いだ――そこにポウルとかれの母を運ぶために連中が用意したソプターがいるのだ。
裏の入口はドアが開いており、そこに警備兵がひとり立っていた。そいつの注意は、明るく照らされているホールとそこを走り、部屋から部屋へとさがしまわっている男たちにむけられていた。
かれらのなんと自信ありげなことか!
ユエは影にへばりついて、ゆっくりとソプターをまわり、警備兵と反対側のドアをそっとあけた。かれは前部座席の下に隠しておいた|フレムキット《*》に手をのばし、フラップを上げて公爵紋章指輪を中にすべりこませた。かれはそこにはいっている皺《しわ》のよった|香 料 紙《スパイスペーパー》、かれ自身の書いた手紙にふれ、その紙の中に指輪をおしこんだ。かれは手を引っこめ、袋の口をふたたびしめた。
そっとユエはソプターのドアをしめ、邸の角《かど》をゆっくりともどってゆき、焔を上げている木々のほうへまわった。
“これでいい”
と、かれは考えた。
ふたたびかれは、燃えさかる棕櫚《しゅろ》の明かりの中へ出た。かれはまとっていた外套を体に引きつけ、焔を見つめた。
“もうすぐわかるんだ。すぐにわしは男爵に会うことにあり、すべてはわかるんだ。そして男爵……あいつは小さな歯に出くわすことになる”
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公爵レト・アトレイデが亡くなったとき、カラダンにあるかれの父祖からの宮殿の上空に流れ星が走ったという伝説がある。
――イルーラン姫による
“ムアドディブの幼年時代への序説”から
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男爵ウラディミール・ハルコンネンは、司令部に使っている着陸した輸送船の舷窓のそばに立っていた。窓の外には、焔に照らされているアラキーンの夜が見えていた。かれの注意は、秘密兵器がその仕事をしている遠い|遮蔽する壁《シールド・ウォール》に集中していた。
爆破砲兵隊だ。
公爵|麾下《きか》の兵士が最後の砦《とりで》として後退していった多くの洞窟を、大砲がすこしずつ破壊しているのだ。ゆっくりと観測した砲火のオレンジ色の輝き、その短い照明に見える岩石と砂の飛び散るありさま――公爵の部下たちは、穴の中に追いつめられた動物のように、洞窟の中に封じこまれて餓死するはめになってしまうのだ。
男爵は遠くの爆発を感じることができた――船体の金属を通じてひびいてくる太鼓のような音。ボン……ボン。それからボッカーン!
“シールドを使うこの時代に、だれが砲兵隊を復活させることなど考えたろう?”その考えは、かれの心の中で笑い声のようにひびいた。“しかし、公爵の部下どもがあそこの洞窟群に逃げるだろうということは予測できたんだ。そして皇帝は、わしたちおたがいの兵力の損耗《そんもう》をきたさなかったわしの賢明さを喜ぶはずだ”
かれは、太った体を引力から守っている小さなサスペンサーのひとつを調節した。微笑にかれの口はゆがみ、だぶついている顎の線を引っぱった。
“公爵の部下ほどの勇敢な兵士たちがむだ死にしてしまうとは、気の毒に”
かれはそう思ったが、すぐにそれまでより大きな笑いを浮かべ、自分自身を笑った。気の毒がるどころか、もっと残虐にやるべきなのだ! 失敗は死を意味することになる。全宇宙は、正しい決定をおこなえる男のために存在しているのだ。頼りない兎は白日の前にさらし、かれらの穴へ走らせなければいけない。そのほかどうやれば、かれらを支配し繁殖させることができるだろう? かれは自分の部下を、兎を追い出している蜂と見たて、そして考えてみた。
“自分のために働かせる蜂が充分いるなら、万事はうまくゆくのだ”
背後のドアが開き、男爵はふりむく前に。夜の闇に暗い舷窓にうつっている姿を眺めた。
パイター・ド・ブリースが部屋の中へはいってきた。それにつづいたのはアマン・クドゥー、男爵の親衛隊長だ。ドアのすぐ外で男たちが動いていた。男爵の前では羊のような表情を保っている護衛兵たちだ。
男爵はふりむいた。
パイターは指を前髪にふれて嘲笑するような敬礼をした。
「いいお知らせですぞ、殿。サルダウカーが公爵《デューク》を連れてまいりました」
「もちろんのことだろうが」
と、男爵は低い声で答えながら、パイターの男らしくない顔に浮かんでいる陰気な悪人のような表情を見つめた。その細くあいている両眼は|もっとも青い青の中の青《ブルーエスト・ブルー・イン・ブルー》だった。
“そのうちわしはこいつを殺してしまわなくてはならぬ。役に立つ時期も終わりかけたし、わし自身に危険をもたらす状態になりかけている。だが、まず、アラキスの民衆にこいつを憎悪させなければならん。そのあと……民衆はわしの愛するファイド・ラウサを歓迎するのだ”
男爵は視線を親衛隊長にうつした――アマン・クドゥー、ひきしまった頬の筋肉、長靴の先のような顎――その悪習が知られているからこそ信じられる男だ。
「まず、わしに公爵をくれたあの反逆者はどこにいるんだ? 反逆者に褒美をあたえなければならんからな」
パイターは片足でくるりとまわり、外の警備兵に合図した。
黒い姿が動き、ユエがはいってきた。かれの動きはぎこちなく緊張していた。その赤い唇の横に口髭がたれている。生き生きしているのは、年老いた両眼だけだ。ユエは部屋の中に三歩はいると、パイターの合図に従ってとまり、男爵のほうを見つめた。
「ああ、ドクター・ユエ」
「男爵閣下」
「おまえが公爵をくれたんだそうだな」
「わたしたちの取り引き条件でございますから、殿」
男爵はパイターを見た。
パイターはうなずいた。
男爵はユエに視線をもどし、吐き出すようにいった。
「取り引き条件だと? それでわしは……その見返りに何をすることになっていたんだ?」
「よくご存知のはずでございます、ハルコンネン男爵閣下」
ユエは、心の中で大きく時を刻んでいる沈黙の音を聞きながら考えてみた。男爵の態度には、どこか裏切りを示しているようなところがあった。ワンナは本当に死んでしまったのだ――かれらの手が届かぬところへ行ってしまったんだ。さもなければ、かれらは哀れな医師にたいしてまだ支配力を持っているはずだ。男爵の態度はもう支配力を持ちえないことを示していた。それはもう終わりを告げてしまったのだ。
「そうかな?」
と、男爵はたずねた。
「殿はわたしのワンナを苦しみから解放し、かえしてくださると約束されましたが」
男爵はうなずいた。
「ああ、そうだったな。やっと思いだしたぞ。そのとおり、わしは約束した。それでわれわれは|帝 国 式 条件反射《インペリアル・コンディショニング》を役立たなくしたのだった。ベネ・ゲセリットの魔女《ウィッチ》だったおまえの女が、パイターの拷問機械の中でころげまわるのを、おまえは見ていられなかったからだったな。よろしい、男爵《バロン》ウラディミール・ハルコンネンはつねに約束したことを守る。わしはおまえに、あの女を苦しみから解放し、おまえが妻といっしょになるのを許そうといった。では、そうなるんだな」
かれはパイターに片手をふった。
パイターの青い目は、にぶく光った。かれはとつぜん猫のような敏捷さで動いた。その手のナイフが爪のようにユエの背中へきらめいた。
老医師は男爵から視線をそらすことなく、凍りついたようになった。
「妻のところへ行くがよい!」
ユエはゆれながらも立っていた。かれの唇は気をつけて正確に動き、奇妙なほどはっきりした口調で声が出てきた。
「きさまは……おれを……負かした……と……思っている。きさまは……おれが……知らなかったと……思っている……のか……おれが……愛する……ワンナのために……何をしたのかを……」
かれは倒れた。体を曲げることなく、とめるものもなく。それはまるで木が倒れるようだった。
「妻のところへ行くがよい」
と、男爵はくりかえした。だがその言葉は弱々しく木霊《こだま》のようにひびいた。
ユエはかれを不吉な想いでいっぱいにしたのだ。かれは注意を急いでうつし、パイターが短剣を布でふいているのを見つめ、その青い目にうれしそうな満足が浮かんでいるのを知った。
“かれは最初から死ぬつもりでいたんだな。知っておいてよかったぞ”
男爵はそう考えながらたずねた。
「こいつが公爵を手に入れてくれたといったな?」
パイターは答えた。
「そのとおりでございます、殿」
「では、ここへ連れてこい!」
パイターが目くばせをすると、親衛隊長はそれに従ってすぐその場を離れた。
男爵はユエを見おろした。この男の倒れていったありさまは、生身《なまみ》の人間ではなくて枯木のようだった。
「わしは反逆者を信用することなどできないんだ。わし自身で作り出した反逆者でもな」
かれはそういって、暗い舷窓を見た。外に存在している闇黒の世界はもう自分のものだと、男爵にはわかっていた。|遮蔽する壁《シールド・ウォール》の洞窟群にたいする砲撃はもう終わっていた。穴はもう密閉されてしまったのだ。とつぜん、男爵の心は、その完全な虚無のような闇黒以上に美しいものを何ひとつ考えられなくなってしまった。黒地をまっ白く塗りつぶしたもの以外は。陶器の白さ以外は。
だが、そこにはまだ疑惑の想いが残っていた。
この愚かな医者がいったことには、どんな意味があったのだ? もちろん、こいつは最後にどんなことがおこるのかわかっていたかもしれない。だが、かれが負けたことについていったこと――“きさまは、おれを負かしたと思っている……”
どういう意味でそういったんだ?
公爵レト・アトレイデがはいってきた。その両手は鎖で縛られ、鷹のような顔は土にまみれている。だれかにその記章をはぎとられて破れている。シールド・ベルトを着けていた腰のまわりは、力まかせにひきちぎったためにぼろぼろになっている。公爵の目は、ぼんやりと狂人のような表情を浮かべている。
「ほうう……」
と、男爵はいい、ためらいをおぼえて深く息を吸いこんだ。かれは大きな声を出しすぎたと思った。長いあいだ待ちこがれていたことだが、この瞬間になってみると、香気ともいうべきものがすこし失われているようだった。
パイターは口をひらいた。
「公爵どのは薬を飲まされていると見えますな。ユエがこいつをつかまえる方法はこれひとつだったというわけです」パイターは公爵のほうにむいた。「きみは薬を飲まされているんじゃないのか、|親愛なる公爵《マイディア・デューク》?」
その声ははるか遠くからひびいていた。レトは感じることができた、鎖を、筋肉の痛みを、ひび割れた唇を、燃えるような頬を、口の中が砂まみれになっているような咽喉《のど》の乾きを。だが音は、やわらかな毛布におおわれたようににぶかった。そして目には、その毛布をとおしてぼんやりと何かの形が見えているだけだった。
男爵はたずねた。
「女と息子はどうなっているんだ、パイター? まだ、何の知らせもないのか?」
パイターの舌は唇をなめた。
男爵は鋭い声を出した。
「おまえは何か聞いているはずだ! どういうことだ?」
パイターは親衛隊長を見てから、男爵に視線をもどした。
「あの仕事をやらせるために出した者どもですが、殿……かれらが……ああ……見つかりました」
「それで、すべてはいまくいったと報告したのか?」
「かれらは死にました、殿」
「もちろん、そうなることはわかっておる! わしの知りたいことは……」
「発見されたとき、かれらは死んでいたのです、殿」
男爵の顔は怒りに青ざめた。
「それで女と息子は?」
「何の形跡も残しておりませんが、殿、しかし砂虫《ウォーム》がおりました。現場が捜索されているあいだにやってきました。たぶん、われわれが望んでいたとおりの……事故で。たぶん……」
「可能性などあてにしてはおらんのだ、パイター。消えたソプターはどうだ? メンタートとして何か考えはないのか?」
「明らかに公爵の部下がひとり、それで脱出したと考えられます、殿。こちらのパイロットを殺し、逃亡したのです」
「公爵の部下のうち、だれだ?」
「鮮やかな、物音ひとつ立てぬ殺しかたでしたから、殿。たぶんハワト、あるいはハレックと申す男。アイダホかとも考えられます。それとも高級副官のどれか」
「可能性ばかりか」
男爵はそうつぶやき、薬を飲まされてゆらゆらとゆれている公爵をちらりと見た。
「状況はもうこちらのものですぞ、殿」
「いや、そうではない! あの馬鹿な惑星学者はどこにいるんだ? カインズとかいう男はどこなんだ?」
「どこへ行けば見つけられるかの知らせがあり、いま呼びにやっております、殿」
男爵はつぶやいた。
「あいつは皇帝に仕えている身だ。それなのにわしに力を貸す態度がどうも気にくわん」
かれらの会話は毛布をとおしてひびいているように漠然としていたが、いくつかはレトの心に焼きつく言葉もあった。“女と息子……形跡も残っていない”ポウルとジェシカは脱出したのだ。そして、ハワト、ハレック、アイダホの運命もわからないままだ。まだ希望があるということだ。
「公爵紋章指輪はどこだ? かれの指にはないぞ」
男爵の言葉に親衛隊長は答えた。
「こいつを連れてきたサルダウカーは、見つけた最初のときからなかったといっておりますが、殿」
男爵はいった。
「おまえは医者を早く殺しすぎたぞ。それがまちがいだったのだ。おまえはわしに注意するべきだったぞ、パイター。われわれの仕事にとって何が最善かを考えるべきとき、おまえはあまりにも軽率に行動した」かれは眉をよせた。「可能性か!」
“ポウルとジェシカは脱出したのだ!”
その想いがレトの心の中で正弦曲線のようにゆれていた。そして、記憶の中に何かそれとは別のものがあった。取引きだ。もうすこしで思い出せる。
歯だ!
かれはその一部をやっと思い出した。
“毒ガスの錠剤が義歯の中に入れてあるのだ”
だれかが、かれにその歯のことをおぼえておけといった。その歯は口の中にある。かれは舌でそれにふれてみた。やらなければいけないことは、噛みつぶすことだ。
“まだだ!”
そのだれかはかれに、男爵のすぐそばに近づけるまで待てといった。だれがそういったんだ? かれには思い出せなかった。
男爵はたずねた。
「いつまでかれはこんな状態でいるんだ?」
「たぶんもう一時間ほどです、殿」
「たぶんか」男爵はそうつぶやき、ふたたび夜の闇黒が見える舷窓のほうへむいた。「わしは腹がへったぞ」
“あれが男爵《バロン》だな、あそこにぼんやりと灰色にかすんでいる形が”
と、レトは考えた。その形は前後に踊り、部屋が動くのにあわせてゆれていた。部屋はふくれあがり、また収縮している。明るくなったり暗くなったりしていた。
それは闇黒の中に消えてゆき、かすんでいった。
公爵にとって時間は何重にもなって流れているようだった。かれはその中を漂っていた。
“わしは待たなければいけない”
テーブルがひとつあった。レトはそのテーブルがはっきりとわかった。そのむこう側におは大きな太った男がおり、その前に食事の残りが見えている。レトは自分が、その太った男の前に置かれた椅子に坐っているのを知り、ずきずきする体を椅子にくくりつけているストラップと鎖にふれた。かれは時間が経過あひたことを知ったが、どれぐらいの長さだったのかは思い出せなかった。
「気がつきはじめたようですぞ、男爵」
“なめらかな声、こいつはパイターだ”
「そうらしいな、パイター」
“うなるような低音《バス》、男爵《バロン》だ”
レトはまわりがはっきりわかりはじめるのを感じた。椅子はその堅さを増し、縛《いまし》めはその鋭さを加えてきた。
そしてレトは男爵をやっと、はっきり見た。その両手が衝動的にふれる――皿の端に、スプーンの柄に。指さきが顎のひだにさわる。
レトは動く手を見つめ、それに興奮をおぼえた。
男爵は話しかけた。
「わしの言葉が聞こえるだろう。公爵《デューク》レト。聞こえることはわかっているんだ。きみから聞かしてほしいな。きみの情婦と、その女に生ませた息子が、どこにいるかを」
公爵はまったく表情を変えなかったが、その言葉で大きな落着きがおしよせてきた。
“では本当なんだ。やつらがポウルとジェシカを手に入れていないというのは”
「わかってもらわなければいかんが、われわれは子供の遊びをやっているわけではないんだぞ」
男爵はレトにかがみこんで、顔を見つめた。これを二人だけのあいだで、ひそかに扱えなかったことに男爵は胸の痛みをおぼえた。ほかの連中に王侯貴族がこれほど悲惨な目に会っているところを見せるとは――これは悪い先例を残すことになるだろう。
レトは力がもどってくるのを感じた。そしていまや、義歯についての記憶はかれの心の中で、平原に立つ尖塔のように、くっきりと浮き上がった。歯の中に神経の形をしたカプセル――毒ガス――かれは、だれがその死の武器を口の中に入れたのか思い出した。
ユエだ。
麻酔薬のためにぼんやりしていたが、この部屋の中でぐったりとした屍体が目の前を引きずっていかれるのを見た記憶が、レトの心の中に立ちこめた湯気のように残っていたのだ。あれはユエだったのだと、かれは知った。
男爵はたずねた。
「あの音が聞こえるか、公爵《デューク》レト?」
レトは蛙が鳴いているような声に気づきはじめた。不明瞭だが、だれかが苦痛のあまり叫んでいる声だ。
「フレーメンに化けたきみの部下をひとりつかまえたんだ。いくら化けていてもすぐに見破ったさ。目はごまかせないからな。そいつは、スパイするためにフレーメンの中へもぐりこませられていたといっている。わしもこの惑星でしばらく暮らしたんだ、|大事な従兄《シェール・カズン》よ。砂漠に住むあんな汚らしい屑どもをスパイするものなどいないね。話してくれないか、きみはかれらの助けを金《かね》で買ったのか? きみは女と息子をかれらのところへ送ったのか?」
レトは恐怖に胸がしめつけられるのをおぼえた。
“もしユエがふたりを砂漠の民のもとへ送ったのだとしたら……捜索はふたりが見つけられるまで終わらないぞ”
「さあ、さあ。そう時間はないし、苦痛をあたえるのはやさしいことだ。頼むからそんなことはさせないでくれ。|親愛なる公爵《マイ・ディア・デューク》」男爵はそういい、レトのうしろに立っているパイターを見上げた。「パイターはここにかれの道具をみな持ってきておりはしないが、きっと何か考え出せるはずだからな」
「ときには即興のものが最上でございますからな、男爵」
“この、なめらかな、こびるような声!”
レトはそれを耳もとで聞いた。
男爵はまたたずねた。
「きみには緊急事態における計画があった。きみの女と息子をどこへ送ったのだ?」かれはレトの手を見た。「きみの指輪がなくなっている。息子が持っているのか?」
男爵は顔を上げ、レトの目を見つめた。
「きみは答えない……わしがやりたくないことを、どうしてもやらせる気なのか? パイターは単純で直接的な方法を使うんだぞ。それが最上のものであるときも多いことは認めるが、きみがそんな目に会わせられるのはいいことではないね」
パイターは口をはさんだ。
「まず背中に熱い獣脂か、それとも瞼の上にね。ほかの部分でもいいでしょう。次に獣脂がどこに落ちてくるかわからないときに、これは特に効果があるものです。いい方法だし、皮膚が焼けただれてできる水ぶくれの模様にはある種の美しさがありますからな、男爵?」
「すばらしいものだな」
男爵はそういったが、その声には不機嫌なひびきがあった。
“あのいやな指!”
レトは太った手を、赤ん坊のそれのようにふくれあがった手に輝いている宝石を、その手が衝動的に動くのを見つめていた。
背後のドアをとおしてひびいてきた苦痛の悲鳴が、公爵の神経にくいこんだ。
“こいつらはだれをつかまえたんだ? アイダホか?”
男爵はいった。
「信じてほしいな、|大事な従兄《シェール・カズン》よ。きみをあんな目には会わせたくないんだ」
パイターは口をはさんだ。
「神経を動員して痛みをおさえることを考えても、そうはいかないさ。芸術品といっていい拷問方法だからな」
男爵はうなるようにいった。
「おまえはすばらしい芸術家だよ。だがもう、沈黙という美徳を持つことだな」
レトはとつぜん、前にガーニィ・ハレックが男爵の写真を見ていったことを思い出した。
“そしてわたしは砂の海に立ち、 獣《けだもの》 が海から体をおこすのを……そして、その頭の上に神を冒涜する名前があったのを見ました”
パイターはまた口をはさんだ。
「時間のむだですぞ、男爵」
「そうかもしれんな」
男爵はうなずいた。
「なあ、|親愛なる《マイ・ディア》レト。きみは最後には、かれらのいるところを話すことになるんだ。どうしようもないほどの苦痛というものはあるんだからな」
レトは考えた。
“かれの言葉はほとんど正しいな。この歯がなければ……そして、わしが本当にかれらのいるところを知らんという事実がなければだ”
男爵は肉の一片を取って口に入れ、ゆっくりと噛んでのみこんだ。別の方法をためさなければいけないな、とかれは考えた。
「人のいうことは聞かぬこのすばらしい男を見るんだ。よく見ろ、パイター」
男爵はそういって考えた。
“そのとおり、こいつは自分を金で買うことのできない男だと信じている。捕らわれの身になっているいま、分秒がすぎてゆくあいだにも命がこきざみに売られているのと同じこの男が。いまこいつをつかまえてゆさぶると、体の中はガラガラ音がするだろう。空《から》になってしまったろう! 売り切れか! こうなってしまったいまは、どんな死にかたをしたところで何の変わりがあるだろう?”
背景でひびいていたしわがれ声がとまった。
男爵は、親衛隊長アマン・クドゥーが入口に現れて首をふるのを見た。捕虜が、必要な情報をあたえなかったということだ。これも失敗か。この愚かな公爵に手間をかけるのをやめるべきときだ。このつまらぬ馬鹿者は、どれほどの地獄がそばまで来ているかわからないのだ……髪一筋ほどものそばに来ているということが。
その思いに男爵は落ち着き、貴族のひとりを拷問にかけることをためらっていた考えをなくした。かれはとつぜん自分が鮮やかにメスをふるって解剖をつづける外科医であるように思った――馬鹿者どもから仮面を切り取り、その下にある地獄を現わしてやるのだ。
“どいつもこいつも、屑なんだ!”
レトはテーブルのむこうを見つめ、なぜ自分が待っているのだろうといぶかしく思った。あの歯ですべてはすぐに終わってしまう。それでも――この人生にはあまりにもいいものだった。かれは長く尾を引いた凧《たこ》がカラダンの青い空に登ってゆき、それを見てポウルが喜んで笑い声をあげたことを思い出した。そしてかれは、このアラキスでの日の出を思い出した――ほこりの靄《もや》でかすんで見える|遮蔽する壁《シールド・ウォール》の色を。
「残念だな:
と、男爵はつぶやいた。かれはテーブルをおし、サスペンサーのおかげで軽く立ち上がったが、公爵の顔に変化が現れたのを見てためらった。公爵が深く息を吸い、口を噛みしめたときに顎の筋肉が緊張し動くのを見た。
“まったくこいつはわしを恐れているんだな!”
と、男爵は考えた。
男爵がいなくなるのではないかという恐怖にショックをおぼえたレトは、ひと思いにカプセルになった歯を噛み、それが割れるのを感じた。かれは口を開き、舌を刺す蒸気をおぼえながらそれを吐き出した。男爵の姿はせばまってくるトンネルの中で小さくなってきた。レトは耳のそばであえぎ声があがるのを聞いた――あのもの柔らかな声、パイターだ。
“あいつにもきいたんだ!”
「パイター! どうしたんだ?」
とどろくような声は遠くでひびいていた。
レトは多くの記憶が心の中に走ってゆくのを感じた――歯が抜けた老婆のつぶやきだ。部屋、テーブル、男爵、おびえた一組の目――青の中の青、人々の目――かれのまわりにあるすべてが釣合いをなくして縮んできた。
靴の爪先のような顎をした男、玩具のような男が倒れかかっていた。その玩具のような男は、左へゆがんでつぶれたような鼻をしていた。調子の狂ったメトロノームが上に動きかけたとき、永久にとまってしまったみたいだ。レトは陶器がくだける音を聞いた――ずっと遠いところだ――それが耳の中でとどろくようにひびく。かれの心は果てのない貯蔵瓶のように、すべてのものを捕らえていた。これまでに存在したすべてのもの。あらゆる叫び声、あらゆるささやき、あらゆる……沈黙。
ひとつの思いがかれの中にとどまった。レトはそれが、黒い光線の上にある形のさだかでない明かりの中にあるのを見た。“肉体が作られる日と、その日が作る肉体と”その思いは永久に説明できないも
のとわかっている充足感でかれを打った。
沈黙。
男爵は、テーブルのうしろにあるかれ専用の脱出口のドアに背をもたれて立った。かれは死者でいっぱいになった部屋にむかって、そのドアをたたきつけるようにしめた。かれは走りまわる警備兵に気づき、自分の心にたずねた。
“わしはあれを吸っただろうか? あの正体が何であったにしろ、わしにも効果をおよぼしたろうか?”
聴覚がもどってきた……そして、理性が。だれかが命令を叫んでいる声が聞こえた……ガス・マスク……ドアを閉めておけ……換気装置をまわせ。
“ほかのやつらはすぐに倒れてしまった。わしはまだ立っている。まだ呼吸をしている。いやもおうもない死! あやういところだった!”
かれはやっと分析して考えられるようになった。かれのシールドが低出力ではあったが作動していたので、まわりの空気との分子交換が遅くなっていたのだ。それにかれはテーブルから離れようとしていた……そしてパイターが驚き、、あえぎ声をあげたので、親衛隊長はそちらへ飛び、運命をともにすることになってしまった。
幸運と死にかけた男のあえぎ声がもたらした警告――それがかれを救ってくれたのだ。
男爵はパイターにたいして感謝の気持ちなど感じなかった。あの馬鹿は自分から死ぬ羽目になってしまったのだ。それにあの愚かな親衛隊長め! あいつはだれであろうと男爵の前へつれてくるときには、その前に調べるといっていた! では、公爵になぜあんなことが可能だったのだ? 何の前ぶれもなかった。テーブル上のポイズン・スヌーパーさえも、手遅れになってから役立ったのだ。なぜだ?
“いまとなっては仕方がない。つぎの親衛隊長はこれらの質問にたいする答えを見つけることから始めるんだ”
かれは通路のかなたで動きが活発になったことに気づいた――死の部屋へつづくドアへまわる角《かど》のあたりでだ。男爵はドアをおして離れ、まわりにいる従者どもを見つめた。かれらはその場に無言でつっ立ち、男爵の反応を待っていた。
“男爵は怒り出すのだろうか?”と。
そして男爵は、あの恐ろしい部屋から逃れてきてから、まだほんの数秒しかたっていないことに気づいた。
警備兵の何人かは武器をドアにむけていた。何人かは右の角《かど》をまわった騒音の聞こえてくるほうへのびているだれもいない通路にむかって、敵意をむき出しにしていた。
ひとりの男がその角《かど》をまわり大股で歩いてきた。首にガス・マスクをつり、その視線は通路にそって頭上にならんでいるポイズン・スヌーパーに注意ぶかくむけられていた。黄色い髪、のっぺりした顔に、緑色の目をしている。ぶあつい唇の口もとからは、きりっとした感じが放射していた。かれは、陸地を歩いている連中のあいだにまちがって置かれた水棲動物のように思えた。
男爵は近づいてくる男を見つめて、その名前を思い出した。ネフド。イアキン・ネフドだ、親衛隊伍長。ネフドは、意識の最深部でひびく薬剤と音楽のコンビネーションであるセムータに中毒している。役に立つ情報だ。
そいつは男爵の前で立ちどまり、敬礼した。
「通路は大丈夫であります、殿。わたしは外に立って見ておりましたので、毒ガスにちがいないと考えました。お部屋の換気装置が通路の空気を吸い取りつづけました」かれは男爵の頭上にあるスヌーパーを見上げた。「毒ガスはまったく残っておりません。もうお部屋は大丈夫であります。ご命令は?」
男爵はその男の声に気がついた――命令をさけんでいた男の声だ。優秀なやつだな、この伍長は、とかれは思った。
「あそこにいたものはみな死んだのか?」
と、男爵はたずねた。
「はい、殿」
“人事異動をおこなうべきときだな”
そう考えた男爵はいった。
「まずおまえにお祝いをさせてもらおう、ネフド。おまえはわしの新しい親衛隊長だ、前任者の運命から学んだ教訓を肝《きも》に銘じておくことを望むぞ」
男爵はこの新しく昇進した親衛隊長が、どんなことになったのか気づきはじめるところを見つめていた。ネフドはこれもみなセムータのおかげだと考え、そしてうなずいた。
「わたしは殿の安全を守ることに全力をつくさせていただきます」
「ああ、ところで仕事のことだが、わしは公爵が、口の中に何か入れていたと思うのだ。おまえはそれが何か、どのように使われたか、だれがそこに入れるのを手伝ったのかを見つけるんだ。充分に用心するのだぞ……」
背後の通路におこった騒ぎで考えを乱されたかれは言葉を中断した――輸送船の低い階から通じているエレベーターのドアのところにいる警備兵たちが、いまちょうど出て来た背の高い大佐《コロネル》バシャールをおしかえそうとしているのだ。
男爵はその大佐《コロネル》バシャールの顔に見おぼえがなかった。細い顔に、皮革をすっぱりと切ったような唇、インクのように濃い二つの目。
「手をはなせ、このろくでなしどもめ!」
その男は咆哮し、警備兵たちを横へつき飛ばした。
“ああ、サルダウカーのひとりだな”
と、男爵は考えた。
大佐《コロネル》バシャールは、懸念に目を細くしている男爵のところへ大股に歩いてきた。サルダウカーの士官はみな、かれに不安をおぼえさせるのだ。かれらはどれもこれも公爵の……亡くなった公爵の親類みたいに思える。そしてかれらの男爵にたいする態度!
大佐《コロネル》バシャールは両手を腰にあて、男爵の半歩前に立ちどまった、その背後に警備兵たちはどうしたものかわからないように群がっていた。
男爵は、サルダウカーの動作に軽蔑の気配があり、敬礼をしないことに気づいて、不安が増してきた。このあたりでハルコンネン軍に力を貸しているこの連中は一軍団――十旅団だけだ。しかし男爵はそのことを軽く見てはいなかった。かれらの一軍団はあっさりとハルコンネン軍を相手にして圧倒できるのだ。
そのサルダウカーはうなるような声をあげた。
「部下に話すことだ。おれをあんたに会わせないようにしてもだめだってことをな、男爵。アトレイデ公爵の運命をおれがあんたと相談する前に、おれの部下はあいつをあんたのところに連れてきた。それをおれたちは、いまから相談するんだ」
“部下の前で面目を失することなどできるものか”
と、男爵は考えながら答えた。
「それで?」
自分の声が冷静に落ち着いていることに、男爵は誇りをおぼえた。
大佐《コロネル》バシャールはいった。
「皇帝陛下はおれに、皇帝従兄《ロイヤル・カズン》が苦悶することなくきれいに死ぬことを見とどけよと命令されたのだ」
男爵は嘘をついた。
「わしにあたえられた皇帝陛下のご命令も同じだ。きみはわしがそれに服従しなかったとでも思うのか?」
「おれは自分の目で見たことを皇帝陛下に報告するんだ」
「公爵はすでに亡くなった」
と、男爵は鋭くいい、そいつに出ていけと手をふった。
大佐《コロネル》バシャールは男爵を見つめて立ったまま。動こうとしなかった。まばたきや筋肉をぴくりと動かすことによっても、かれは会見が終わったことを認めようとはしなかったのだ。
「どのようにだ?」
と、かれはうなり声をあげた。
“なんということだ! 無礼にもほどがある”
男爵はそう思いながら答えた。
「どうしても知りたいというなら、かれがみずからやったことだ、毒を吸いこんでな」
大佐《コロネル》バシャールはいった。
「おれはその屍体をいま見たい」
“くそっ! この鋭い目をしたサルダウカーに、何ひとつ状態が変わっていないまま、あの部屋を見られてしまうことになるんだ!”
サルダウカーはうなり声をあげた。
「さあ、この目で見させてもらおう」
防ぎようはない、と男爵は気づいた。このサルダウカーに全部見られてしまうのだ。こいつは公爵がハルコンネン家の男たちを殺したことを……男爵自身もあやういところで逃げたにちがいないことを知ってしまうだろう。テーブルには夕食の残り、その前には公爵が死んでおり、そのまわりに屍体がいくつもころがっているという証拠がある。
それを見られないですませる方法はないのだ。
「邪魔はさせないぞ」
と、大佐《コロネル》バシャールはどなった。
男爵はサルダウカーの黒曜石のような目を見つめていった。
「邪魔したりはしない。皇帝陛下に隠すことは何ひとつないからな」かれはネフドにうなずいてみせた。「大佐《コロネル》バシャールにすぐ、すべてを見せるのだ。おまえが立っていたドアから案内しろ、ネフド」
「こちらへ、どうぞ」
と、ネフドはいった。
ゆっくりと威張って、サルダウカーは男爵のそなを通り、警備兵のあいだを歩いていった。
男爵は考えた。
“畜生……これで皇帝はわしが失敗したことを知るだろう。Kぁれはそれを、弱さのしるしと考えるかもしれんのだ”
そして、皇帝とサルダウカーがどちらも同じように弱さを軽蔑することを考えると、腹立たしくてたまらないことだった。男爵は下唇を噛みながら、少なくとも皇帝は、アトレイデ軍がジェディ・プライムを襲撃し、そこにあるハルコンネン家の香料《スパイス》貯蔵所を破壊したことは耳にしていないはずだと考えて心をなぐさめた。
“あのいまいましい公爵め!”
男爵は去ってゆくうしろ姿を見つめた――傲慢なサルダウカーと、がっしりして能率的なネフドを。
“調整をおこなわなければならん。このおもしろくもない惑星に、もう一度ラッバンを置こう。なんの制限も加えずにだ。ファイド・ラウサを受け入れられるほどにアラキスを適当な状態とするためには、わし自身のハルコンネン家の血を流さなければいかんのだ。あのパイターの馬鹿者が! あいつは。使い切るより早く、死んでしまいおった”
男爵は溜息をついた。
“新しいメンタートをよこすように|トライラックス《*》へすぐ使いを出さなければいかん。やつらはもうわしのために新しいのを用意しているはずだ”
かれのそばにいた警備兵のひとりが咳をした。
男爵はその男のほうにむいた。
「わしは腹がへった」
「はい、殿」
「それからおまえたちがあの部屋をかたづけ、調べることを調べるあいだ、わしは何か気をまぎらわせることがほしい」
警備兵は目を伏せた。
「殿はどのようなお楽しみをお求めでしょうか?」
「わしは寝室にいる。|ガモント《*》で買ったあの若い男をよこせ。かわいい目をしたやつだ。充分に薬をあたえておくんだぞ。わしはレスリングをやる気持ちはないからな」
「はい、殿」
男爵はふりむき、サスペンサーで浮揚した踊るような足どりで自室のほうへ動きはじめた。
“そう、あのかわいい目をしたやつを。若いポウル・アトレイデとそっくりの顔をしたやつだ”
と、かれは考えた。
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[#ここから10字下げ]
おお、カラダンの海よ
おお、公爵レトの人民よ……
レトの城砦は落ちたり
永久に落つ……
――イルーラン姫による“ムアドディブの歌”から
[#ここで字下げ終わり]
ポウルは、すべての過去が、今夜までのあらゆる経験が、砂時計の中で渦巻く砂になってしまったように感じた。かれは繊維とプラスチック製の|幕 舎《ハットメント》――|スティルテント《*》――の中で、母のそばに膝を抱いて坐っていた。かれらがいま着ているフレーメンの衣裳も、そのテントも、ソプターに入れてあった袋から出したものだった。
そのフレムキットをだれが入れておいたのか、捕虜にしたかれらを乗せるソプターの進路を命令した人間がだれなのか、ポウルの心の中にもう疑問の余地はなかった。
ユエだ。
反逆者の医者がかれらを、まっすぐダンカン・アイダホのもとへ行けるように送ったのだ。
アイダホがかれらを隠したこの場所を染めている月影のさした岩場のほうを、ポウルはスティルテントの透明な端から見つめた。
“ぼくが公爵となったいま、子供のように隠れているとは”
と、ポウルは考え、そのことに怒りをおぼえたが、かれらの処置が賢明だったことは否定できなかった。
今夜、かれの意識に何かがおこっていた――かれはまわりのあらゆる状況と出来事を、鋭いほど鮮明に見分けられた、データが流れこんでくること、あらゆる新しい項目が冷たいほどの正確さで知識に加えられること、意識の中に計算が集中することを、かれはとめられないように感じた。それはメンタートの能力以上のものだった。
ポウルはどうしようもない怒りをおぼえたあのときのことを思い出した。どこかのソプターが夜空から二人をめがけて、両翼に空気を切る悲鳴をあげさせながら巨大な鷹のように砂漠へ急降下してきたときのことを。ポウルの心にあったものが実際におこったのだ。そのソプターは通過し、走ってゆく人影を追って砂丘を旋回した――かれの母とかれ自身をめがけてだ。
かれの母はラス・ガンを握ったハルコンネン軍外国人傭兵の姿を見ることを予期しながらふりむいた。ところがダンカン・アイダホがソプターのドアから体をのり出して叫んだのだ。
「急いで! 南に|虫じるし《ウォームサイン》が見えます!」
ポウルのほうはふりむいた瞬間に、そのソプターをだれが操縦してきたのかわかっていた。その飛ばせかた、急速な着陸にある細部のつみ重ね――母でさえ気づかなかったほど小さな手がかり――それがポウルに、だれが操縦しているかをはっきりと教えたのだ。
スティルテントの中で、ジェシカは身じろぎをして話しかけた。
「説明がつきそうなことはただひとつね。ハルコンネン家はユエの妻をおさえていた。かれはハルコンネンを憎んでいたのよ! それに思いちがいはないわ。あなたもかれの書いたものは読んだわね。でもなぜかれは、あの殺戮からわたしたちを救ったのかしら?」
“母上はいまごろになって気がついている。それもこれほど哀れなほどにだ”
と、ポウルは思った。そう思ったことはショックだった。かれはそれらの事実を、袋の中にあった公爵紋章指輪にそえられていた書置きを読んでいるあいだに、ついでのこととして知ってしまったのだ。
ユエは書き残していた。
<わたしを許そうなどとお思いにならないでください。わたしはあなたがたの許しを乞いはしません。わたしはすでに重すぎるほどの荷をせおっているのです。わたしがおこなったことは、悪意も、他人の理解を求める希望もなくおこなわれたことです。それはわたし自身の|タハッディ・アルバーハン《*》、わたしの究極的テストです。わたしが真実を述べていることの証拠として、アトレイデ家の公爵紋章指輪をお渡しします。これを読まれるころ、公爵レトは死んでいられるでしょう。かれはひとりで死にはしなかったのだとわたしが断言することになぐさめをお受け取りください。わたしたちがだれにもまして憎んでいる者が、かれとともに死んだのです>
それには宛名も署名もなかったが、その走り書きに見あやまりはなかった――ユエの筆蹟だった。
その手紙を思い出しながらポウルは、そのときの絶望感をもう一度経験した――かれが新しく得た心の鋭敏さの外でおこっているように思える鋭く奇妙なものとしてだ。かれは父が亡くなったことを読み、その言葉が真実であることを疑わなかったが、それをかれの心の中に入ってきて使われるデータのひとつとしてしか感じなかったのだ。
“ぼくは父上を愛していた”と、ポウルは考え、それが真実であるとわかっていた。“ほくは父上の死を悲しむべきなんだ。ぼくは何かを感じるべきなんだ”
だがかれは“ここにひとつの重要な事実がある”ということ以外、何も感じなかった。
それはほかにあるすべての事実のひとつだったのだ。
そしてかれの心はずっと、感覚からの印象を加え、外挿し、計算をつづけていた。
ハレックの言葉が思い出されてきた。
“気分とは犬猫相手か、恋をするときのためのものだ。きみは必要が生じたときに戦う、きみの気分には関係なしだ!”
ポウルは考えた。
“たぶんこれなんだ。ぼくはもっとあとで父上のことを悲しもう……そのときが来たらだ”
しかしかれは、自分という存在にある冷たいほどの正確さにゆるみを感じはしなかった。かれは、新しく得た意識がまだ始まったばかりであり、それが成長していることを感じていた。|教  母《リヴァレント・マザー》ガイウス・ヘレン・モヒアムを相手にしたとき初めて経験した恐ろしいほどの目的感が、かれの全身にひろがっていた。かれの右手――苦痛を記憶している手――がひりひりとうずいた。
“これが、クイサッツ・ハデラッハと称されているものだろうか?”
と、かれは考えた。
ジェシカは話しをつづけた。
「しばらくのあいだ、わたしはハワトがまた失敗したのかもと思ったわ。ユエはスクの医師でなかったのかとも」
「かれはぼくらが考えていたとおりの者であり……それ以上の者でもあったわけです」ポウルはそういいながら考えた。“なぜ母上はこんなことを判断するのに、これほど時間がかかるのだろう?”そしてかれは言葉をつづけた。「アイダホがカインズのところへ着かなければ、ぼくらは……」
「かれだけがわたしたちの頼みの綱ではないのよ」
「そんなことをぼくは、いおうとしていたのじゃありませんよ」
彼女はポウルの声に鋼鉄の響きと命令感をおぼえ、スティルテントの灰色の闇の中に坐っているかれのほうを見つめた。ポウルは、テントの透明な端をとおして見えている月光に凍りつぃたような岩を背景にしてシルエットになっていた。
「お父さまの部下の中には、ほかにも逃げ出せた者がいるわ。その人々をどうしても集めなおし……」
「われわれ自身を頼りにするのです。いまもっとも注意をはらうべきことは、アトレイデ家の核兵器ですよ。ハルコンネンの手がとどく以前に、手に入れなければいけないのです」
「あれほどの隠しかたなら、かれらに見つけられるとは思えないわ」
「希望をあてにして、ほうっておくことはできませんよ」
彼女は考えた。
“この惑星とその香料《スパイス》を吹き飛ばしてしまえるのだぞと核兵器で脅迫する……それが、かれの考えていることね。でもかれが望めるすべては、だれともWからない逃亡者の中へ姿を消すことだけだわ”
母の言葉がポウルの心に一連の考えを思い浮かべさせた――今夜失ったすべての人々にたいする公爵の関心だ。“人々こそ|大 公 家《グレイト・ハウス》の持つ本当の力なのだ”と、ポウルは考え、ハワトの言葉を思い出した。“人々と別れるのは悲しいこと、場所は場所にしかすぎませんぞ”
ジェシカはいった。
「かれらはサルダウカーを使っていたわ。わたしたち、サルダウカーが引き揚げるまで待たなくてはいけないわね」
「かれらはぼくらを砂漠とサルダウカーではさみ撃ちにしたと思っている。アトレイデ家の者はひとりも生き残らせるまいとしているんです……みな殺しですよ。味方のだれかが脱出できたかもしれないなどということを頼りにしないことですよ」
「かれらだっていつまでもこんなことをつづけていたら、皇帝がこんどの事件に手を貸しているという秘密をもらしてしまうことになるわ。そんなことはできないはずだわ」
「できませんか?」
「わたしたちの味方にも脱出できた者が相当いるはずよ」
「そうでしょうか?」
ジェシカは、事態をはっきりとつかんでいる息子の声を聞き、そこにある胸をつき刺すような力に恐れをおぼえて、顔をそむけた。ポウルの心が自分のずっと前方に飛び、ある点では自分より多くを見ていることを、ジェシカは感じた。彼女はこのような知恵を引き出す助けをこれまでしてきたのだったが、いまになってみると、自分がそれを恐れていることに気づいた。彼女の考えはむきを変え、公爵のもとにあったいまは亡き隠れ場を恋しく思い出し、そして涙に目を熱くした。
“こうなるほかなかったのだわ……愛の時と悲しみの時……”彼女は手を腹の上に置き、意識はそこにいる胎児に集中した。“わたしは生めと命令されたアトレイデ家の娘をみごもっているわ。でも教母さまはまちがっていたのよ。娘もわたしのレトを救えはしなかったでしょうからね。この子供は死のさ中に未来を迎える命でしかないわ。わたしが妊娠したのは本能からで、服従からではなかったのよ”
ポウルは話しかけた。
「通信網レシーバーをもう一度ためしてみて」
“どんなに気分が滅入っていても、心は働きつづけるのね”
ジェシカはそう思いながら、アイダホが残していった小さなレシーバーのスイッチを入れた。その表面に緑の光がつき、スピーカーはかん高い雑音を鳴らしはじめた。彼女は音量を下げ、同じ周波数帯をさがした。アトレイデ軍の戦闘用言語《バトル・ランゲージ》で話している声が、テントの中にひびいた。『……後退し、尾根に集結せよ。フェドアの報告によればカルタゴに生存者なし、協会銀行《ギルド・バンク》は略奪されている』
ジェシカは考えた。
“カルタゴ! あそこはハルコンネンの基地なのに”
声はまたひびいた。
『やつらはサルダウカーだぞ。アトレイデの制服を着たサルダウカーに気をつけろ。やつらは……』
轟音がスピーカーを埋め、ついでに沈黙がみなぎった。
「別の周波数帯《バンド》をためしてみて」
と、ポウルはいい、ジェシカはうなずいた。
「あなた、どういう意味なのか気がついて?」
「考えていたとおりだった。かれらは協会《ギルド》にわれわれを非難させようとしている。協会銀行《ギルド・バンク》を破壊したということでね。協会《ギルド》が敵にまわると、われわれはアラキスに釘づけです。別の周波数帯《バンド》をためしてみて」
彼女はポウルの“考えていたとおりだった”という言葉の重みを感じた。かれには何がおこったのだろう? ゆっくりとジェシカはレシーバーにもどった。彼女がダイアルをまわすにつれて、とぎれとぎれに聞こえるアトレイデ軍の戦闘用言語《バトル・ランゲージ》が戦いの模様を知らせた。
『……退却……』『……集結をこころみよ……』『……の洞窟から脱出不能……』
そして、別の周波数帯から流れ出るハルコンネン兵士の声には、まちがいなく勝ち誇った調子がうかがわれた。鋭い命令、戦闘報告。ジェシカがそれを聞いて内容を分析するほどの量はなかったが、その口調ははっきりしていた。
ハルコンネンの勝利だ。
ポウルはそばにあった袋をゆさぶり、二個の|リタージョン《*》の中で水が音を立てるのを聞いた。かれは深く息をつき、テントの端の透明な部分から、星空を背景にしている岩の断崖を見上げた。かれの左手はテントの入口にある括約筋式《スフィンクター》シールにふれた。
「もうすぐ夜明けです。昼のあいだはアイダホを待っていられますが、もうひと晩はだめです。砂漠では夜のあいだに旅をし、日中は日陰で休まなければいけません」
記憶にあった知識がジェシカの心に浮かんできた。
“スティルスーツがなければ、砂漠の日陰で坐っている人間も、もとの体重を維持するためには一日五リットルの水を必要とする”
彼女は体にふれているスティルスーツのなめらかな柔らかい肌ざわりを感じ、かれらの生命がどれほどこれらの衣裳に依存しているかを考えた。
「もしここを離れたら、アイダホはわたしたちを見つけられなくなるわ」
「どんな男にも口を割らせる方法があるものです。もしアイダホが夜明けまでに帰ってこられなければ、かれが捕らえられた可能性を考えなければいけません。どれぐらいのあいだかれが耐えられると母上は考えられるのです?」
その質問は答えを必要とせず、彼女は黙ったまま坐っていた。
ポウルは袋のシールを引っぱり上げ、拡大鏡と発光板のついている小さなマイクロマニュアルを取り出した。緑とオレンジ色の発光文字がページから飛びついてきた。
<リタージョン、スティルテント、エネルギー・キャップ、|レカス《*》、|サンドスノーク《*》、双眼鏡、|スティルスーツ・リプキット《*》[#今は「リペアキット」が一般的な呼び方かと]、|バラダイ・ピストル《*》、|低地地図《*》、|フィルト・プラグ《*》、|パラコンパス《*》、|メイカーフック《*》、|サンパー《*》、フレムキット、|火 の 柱《ファイア・ピラー*》……>
砂漠で生存するためには、実に多くのものが必要なのだ。
やがてかれは手引書《マニュアル》をそばに置いた。
「いったいどこへ行けると思うの?」
「父上は|砂漠の力《デザートパワー》ということをいっておられました。それなくしてはハルコンネン家もこの惑星を支配することはできません。かれらはこれまで一度もこの惑星を支配したことがなく、これからもできないでしょう。たとえ一万軍団のサルダウカーがいてもです」
「ポウル、なぜそんなことが……」
「すべての証拠をぼくらは握っています。ここ、テントの中に……テント自体、この袋とその中身、これらのスティルスーツ、ほくらは協会《ギルド》が気象衛星にたいしてとても手のでないような代価を求めていることを知っています。そのほかにも……」
「気象衛星にどんな関係があるの? かれらは別に……」
彼女は言葉を中断した。
ポウルは自分の心にできたすばらしい鋭敏さが、母の反応を読み、細部にわたって計算しているのを感じた。
「やっとわかりましたね。人工衛星は下の平野を監視します。砂漠奥地にある多くのものが監視の目にさらされないですんでいるということです」
「あなたは協会《ギルド》自体がこの惑星を支配しているというの?」
彼女はあまりにも遅い。
「いいえ! フレーメンですよ! かれらはプライバシーを得るため、協会《ギルド》に代金を払っているんです。|砂漠の力《デザート・パワー》を持つ者にはだれもが自由に得られる貨幣……香料《スパイス》で支払っています。これは副次的な推測による答えなどではなく、筋道を立てて計算した結果によるものです。信用していいですよ」
「ポウル。あなたはまだメンタートでもないのよ。はっきりわかるはずがないわ。そんなことを……」
「ぼくはメンタートになどなりませんよ。ぼくはもっと別のもの……怪物でしょう」
「ポウル! どうしてそんなことをいうの……」
「ほうっておいてください!」
かれは母から顔をそらして、夜の中に視線をむけた。“なぜぼくは悲しむことができないんだ?”と、かれはいぶかしく思った。かれは自分の全存在が、父の死を悲しむことによって解放されることを望んでいるのだと感じたが、それはかれにとって永久に禁じられていることのようだった。
ジェシカは息子のこれほど苦しみに満ちた声を、いままで聞いたことがなかった。彼女はポウルに手をのばし、抱きしめ、なぐさめ、助けたかった――だが彼女がしてやれることは何ひとつないのだと感じた。かれは自分自身で問題を解決するほかないのだ。
テントの床《ゆか》にかれらのあいだにおかれていたフレムキットのマニュアルが彼女の視線を引きつけた。それを取り上げた彼女は見開きをあけ、そこに書いてある文字を読んだ。
<友たる砂漠、生命に満ちた場所への手引き。ここに生命の|アヤット《*》と|バーハン《*》がある。信仰と|アル・ラット《*》は決してきみを焼きつくしたりしないだろう>
彼女は<|偉大なる秘密《グレイト・シークレット》を勉強したことを思い出した。
“アザール書みたいだわ。信仰をあやつる者がアラキスにいたのかしら?”
ポウルは袋からパラコンパスを出し、それをまたもとにもどしていった。
「フレーメンが作り出したこれらすべての特殊な機械を考えてみるんです。くらべもののないほど洗練されたものですよ。それを認めることです。これほどのものを作り出す文化は、だれにも想像できないほどの深さがあるはずです」
かれの声は激しさがまだ心配だったが、ジェシカはためらいながら本にもどり、アラキーンの空から見える星座の挿画<ムアドディブ――鼠>を眺め、その尻尾が北をさしていることに気づいた。
ポウルはテントの闇の中で発光板の明かりを受けて、かすかに見分けられる母親の動作を見つめた。
“いまこそ父上にいわれたことをやるべきときだ。母上が悲しみの時間を持てるいまこそ、あの言葉を伝えなければいけない。悲しみによって邪魔されないためには、いまをおいて時はないのだ”
そう考えたかれは、その正確な論理に驚きをおぼえた。
「母上」
と、かれは話しかけた。
「はい?」
彼女はかれの声が変化したことを知り、その声に心が冷たくなるのを感じた。これほどまでに強く自分を抑制している声を聞いたのは、これが初めてだったのだ。
「ぼくの父上は亡くなられました」
彼女は心の中で多くの事実をつなぎ合わせようとした――データを考えるときのベネ・ゲセリット式方法だ――その答えは出た。恐ろしいほどの喪失感。
ジェシカは口をきくことができず、うなずいた。
ポウルは言葉をつづけた。
「父上は前に、もしものことがあれば母上に伝えてほしいといわれました。信用されていないのではないかと母上に思われてはと心配されてのことです」
“そんな疑いなどむだなことだったわ”
と、彼女は考えた。
「あなたを疑ったことなど一度もなかったことを、父上は母上に知ってもらいたかったのです」ポウルは、ほかの者をあざむくための行為を説明してからいった。「父上はあなたに伝えてくれといわれました。つねにあなたを完全に信頼し、つねにあなたを愛し、大切に思っていたことを。自分自身を信じられないほうがましだとも、そして後悔していることはひとつだけだともいわれました……あなたを公爵夫人にしなかったことです」
彼女は両頬を流れ落ちる涙をぬぐって考えた。
“なんと愚かなほど肉体の水分をわたしは浪費していることだろう!”だが彼女はこの考えの正体が何かわかった――悲嘆から怒りへ移っていこうとする試みだ。“レト……わたしのレト。わたしたちが愛していた人々に、なんというひどいことを!”彼女は激しく体を動かして小さな手引書の発行板を消した。
彼女は全身をふるわせて泣いた。
ポウルは母親の泣き声を聞き、自分の中にある空虚さを感じた。
“ぼくに悲しみは存在しない。なぜだ? なぜなんだ?”
かれは悲しむことができないのを、恐ろしいほどの欠点のように感じた。
ジェシカはO・Cバイブルの文句を思い出していた。
“手に入れる時と失う時……保つべき時と捨て去るべき時。愛する時と憎む時。戦いの時と平和の時”
ポウルの心は冷たく正確に働いていた。かれは、この兇暴な惑星の上に、大通りがかれら二人の前方に長くのびている光景を見た。夢という安全弁さえもなく、かれは予知的意識の焦点を合わせ、もっとも考えられ得る未来という計算結果を見たのだが、そこには何かもっと別のもの、謎の片鱗があった――まるでかれの心が時間というものを越えた地層につっこみ、未来の気配を集めてきたような感じだった。
とつぜん、必要な鍵を発見したかのように、ポウルの心は意識の階段をもうひとつ登った。かれは自分がこの新しいレベルにしがみつき、頼りない手がかりをつかんで、あたりを見まわしているような気分にとらわれた。それはまるで、あらゆる方向へ大通りが放射し伸びている球体の中に、かれが存在しているようだった――が、それはそのような感覚に近いといえるものでしかなかった。
かれは以前に風に吹き飛ばされたガーゼのハンカチを見たことを思い出し、そしていまは未来をまるで、風に飛ばされたハンカチのように波打ちはかなく、どこかの地表をよじれながら動いてゆくもののように感じ取ったのだ。
かれは人々を見た。
かれは数えられない可能性の熱と冷たさを感じた。
かれは名前と場所を知り、無数の感情を経験し、数えられないほど存在する探検されていない割れ目についてのデータを調べた。調べ、試験し、味わってみる時間はあったが、形作る時間はなかった。
それはもっとも遠い過去からもっとも遠い未来までに存在する可能性のスペクトラムだった――もっとも考えられそうなことからもっとも考えられないことまでのだ。かれは自分自身の死さえも、無数の形で見た。かれは新しい惑星を、新しい文明を見た。
人々。
人々。
リストを作ることができないほど大勢の人々が渦巻いているのを見たが、かれの心はかれらを種類別に分けることができた。
協会員《ギルドメン》さえもだ。
そしてかれは考えた。
“協会《ギルド》……そこがわれわれにとってのひとつの道だろう。ぼくの異常さが大きな価値のあるふつうのこととして受け入れられ、つねに欠くべからざる香料《スパイス》の供給を確実なものとして”
しかし、突進する宇宙船を誘導する<可能性のある・未来をとおして・前方をさぐりつづける・心>を持って一生をすごしてゆくという考えに、かれは戦慄をおぼえた。だが、それもひとつの道だった。そして、協会員《ギルドメン》をふくむ可能性のある未来[#「可能性のある未来」に傍点]にぶつかったことで、かれは自分の変わっていることをさとった。
“ぼくには別の種類の洞察力がある。ぼくには別の種類の平原が見える。利用できる通路が”
その意識は自信と驚愕の両方を運んできた――この、別の種類の平原には、あまり多くの場所がくぼみ、あるいはかれの視界をさえぎっていたのだ。
おこったときと同じぐらい急速に、それらの感覚が離れてゆき、かれはこの全体験が心臓の一鼓動ほどのあいだにおこったことであると気づいた。
だが、かれ自身の個人的意識はひっくりかえされ、恐ろしいほどの方法で明るく照らし出された。かれはあたりを見まわした。
岩場にとりかこまれた隠れ場の中で、夜の闇はまだスティルテントをおおっていた。母親の泣き声もまだひびいていた。
かれ自身の悲しみが欠けていることは、まだ感じられていた……そこは、かれの心から切り離されたどこか空虚な部分であり、それ自体は変わることなく働きつづけている――どこかメンタートの方法のように、データを集め、評価し、計算し、解答を出している。
そしてかれはいまや自分が、これまでのほとんどの人間が知らなかったほど豊かなデータを持っていることを知った。それでもかれの中にある空虚さに耐えることは容易ではなかった。かれは何かを粉砕しなければいけないと感じた。まるで爆弾の時限装置がかれの体内で音を立てているようだった。かれが何を求めていようと、それはそれ自体の仕事をやろうとしているのだ。それはまわりにあるごく些細な変化を記録していた――湿度の微細なちがい、温度のわずかな低下、スティルテントの天井を横切ってゆく昆虫の動き、テントの透明になっている端から見られる星空に夜明けがおごそかに近づいていることなどを。
空虚さは耐えられないものだった。時限装置がどのようにして仕掛けられたのかわかっていても、ちがいはなかった。かれは自分自身の過去を眺め、その始まりを見ることができた――訓練、才能の増加、洗練された規律の巧妙な圧力、きわどい時機にオレンジ・カトリック・バイブルにふれさえしたこと……そして、最後に、香料《スパイス》の大量吸入。そしてかれは前方を眺めることができ――もっとも恐るべき方向を――そのすべてがさしているところを見たのだ。
“ぼくは怪物だ! かたわ者だ!”
かれはそう思い、つづいて口にした。
「ちがう……ちがう、ちがう! ちがうんだ!」
かれは自分が拳でテントの床《ゆか》を叩きつけていることを知った。(かれの中にある無情な部分はこれを、興味のある感情的データとして記録し、それを計算にまわしていた)
「ポウル!」
母がそばにいて、かれの両手をつかんでおり、その灰色にぼんやりとした顔がかれをのぞいていた。
「ポウル、どうしたの?」
「あなただ!」
「わたしはここよ、ポウル。大丈夫よ」
かれはかさねていった。
「いったいあなたは何をぼくにやってくれたんだ?」
とつぜんはっきりと、彼女はその質問にある根本のところをすこし感じ取った。
「わたしはあなたに生をあたえたわ」
それは、彼女自身の微妙な知識からと同じく本能からも出されたもので、かれの気持ちを落ち着かせるためにぴったりの正しい答えだった。かれは母の両手が自分をつかんでいることを感じ、母の顔のぼんやりと見える輪郭に焦点を合わせた。(彼女の顔にある種の痕跡がかれのめまぐるしく働く心によって新しく注目され、その手がかりがほかのデータに加えられ、最終的な合計となる解答が出された)
「ぼくを放して」
彼女はその声に鉄の響きを感じ、それに従った。
「どうしたのか話してくれないこと、ポウル?」
かれはたずねた。
「あなたがぼくを訓練していたとき、何をやっていたのかわかっていたのですか?」
その声にはもはや子供らしさがないわ、と彼女は考え、そして答えた。
「どんな親でも望むことをわたしは望んだわ……あなたが……すぐれた、ちがったものになるようにと」
「ちがった?」
彼女は息子の声に苦しさがこもっているのを感じた。
「ポウル、わたしは……」
「あなたは息子など求めていなかった! あなたはクイサッツ・ハデラッハを求めた! あなたは男性のベネ・ゲセリットを求めたんだ!」
彼女はその苦しげな口調におびえた。
「でもポウル……」
「あなたはこのことについて父上と相談されたことがあるのですか?」
彼女は悲しみを新たにしながら、ゆっくりと話した。
「あなたが何者であれ、ポウル、遺伝はお父さまと同じだけ、わたしからも受けているのよ」
「でも、あの訓練はちがう。あれは別のものだった……眠っているものを……目ざめさせたんだ」
「眠っているもの?」
「ここで」と、かれは頭に手をふれ、ついで胸にさわった。「ぼくの中にあったもの。それはどこまでもどこまでもどこまでも……」
「ポウル!」
彼女はかれの声に病的興奮《ヒステリア》が忍びこんできたのを感じたのだ。
「ぼくのおうことを聞いて。あなたは教母にぼくの夢を聞かせたがりましたね? いまは、あの女のように聞くんです。ぼくはたったいま目覚めていながら夢を見ました。なぜだかわかりますか?」
「落ち着かなければいけないわ、もし……」
かれは言葉をつづけた。
「香料《スパイス》です。それはここのあらゆるものの中にあります……空気に、土に、食べ物に。老人病にきく香料《スパイス》が。それは真実審判師《トルースセイヤー》の使う薬剤に似ています。それは毒物なのですよ!」
彼女は緊張した。
かれの声は低くなり、その言葉をくりかえした。
「毒物です……実に微妙で、潜行性があり……もとにもどせないものです。それを摂取することをやめないかぎり、殺すことさえしません。われわれは、アラキスの一部を持っていかないかぎり、アラキスを離れることはできないのです」
かれの声が持つ驚くほどの迫力は、口答えを許さないものだった。
「人間と香料《スパイス》。香料《スパイス》はだれであろうとこれほどの量を取った者を変えてしまいます。でも、あなたのおかげで、ぼくは意識に変化をもたらすことができました。ぼくは、まちがいが見えなくされてしまうような無意識な状態にもどりはしません。ぼくはそれが見える[#「見える」に傍点]のです」
「ポウル、あなたは……」
かれはくりかえした。
「ぼくはそれが見える[#「見える」に傍点]のです!」
彼女はその声に狂気が存在しているのを感じたが、どうしていいかわからなかった。
だがかれはまた口を開き、彼女は鉄のような抑制心がかれにもどっているのを知った。
「ぼくらはここに閉じこめられました」
わたしたし、ここに閉じこめられたんだわ、と彼女はうなずいた。そして彼女はその言葉の真実さを受け入れた。ベネ・ゲセリットの圧力も、いかなる策略も、かれらを完全にアラキスから離して自由にすることはできないのだ。あの香料《スパイス》は中毒性があるものだ。彼女の肉体は、心がそのことに気づくずっと前からその事実を知っていた。
“わたしたちは、この地獄の惑星でこれからの一生をおくるのね。ハルコンネンから逃れることさえできれば、わたしたちが住む場所はあるし、わたしの進むべき道はきまっている。ベネ・ゲセリット計画のために重要な血統を抱いているめん鳥というところだわ”
ポウルはいった。(いまやその声には怒りがこめられていた)
「目がさめておりながら見た夢を、ぼくは話さなければいけません。ぼくが話すことを信じていただくために、まずいっておきましょう。あなたがここアラキスで、女の子を、ぼくの妹を生むことを、ぼくは知っているのです」
ジェシカは両手をテントの床《ゆか》について、恐怖の想いをしずめようと、カーブしている繊維の壁に背中をおしつけた。彼女は妊娠していることがまだ外見に現れているはずはないと知っていた。彼女自身のベネ・ゲセリットの訓練だけが自分の肉体の示したかすかな徴候を読み取ることを可能にし、胎児がまだ数週間にしかならないことを知っていたのだ。
「奉仕するためにのみ」と、ジェシカはベネ・ゲセリットの標語にしがみつくようにして、ささやいた。「わたしたち、奉仕するためにのみ存在しているのよ」
ポウルはいった。
「ぼくらはフレーメンのあいだに家を見つけます。あなたがたの|保 護 伝 道 団《ミッショナリア・プロテクティヴァ》が、ぼくらに隠れ場を見つけてくれているところに」
ジェシカは自分の心に話しかけた。
“かれらはえあたしたちのために、砂漠の中に道を作っておいてくれたのね……でも、どうしてかれは|保 護 伝 道 団《ミッショナリア・プロテクティヴァ》のことを知っているのかしら?”
彼女は、ポウルが考えられないほど変わってきたことにたいする恐怖をおさえるのが、しだいにむずかしくなってきた。
かれは彼女の暗い影を眺め、新しくそなわった意識で、母がまるで明るい陽光に照らされているかのように、その恐怖とあらゆる反応を見抜いた。彼女にたいする同情がかれの心に忍びこんできた。
「ここでおこりうる物事につて、ぼくはまだお話しすることができません。ごくはそれらを見ましたが、自分自身に教えることさえまだできないんです。この未来にたいする感覚[#「未来にたいする感覚」に傍点]……ぼくはそれを自由に使えないようなのです。ただ、おこるだけです。近い未来……たとえば、一年先のこと……ぼくはそのいくつかを見られます……カラダンにあった|中央大通り《セントラル・アベニュウ》のように広い道を。いくつかの場所は見えません……影になっている場所……まるで丘の背後へまわってしまったように(そしてまたかれは、ハンカチが吹き飛ばされてゆく地面のことを考えた)……そして、木々が生えているところを……」
そういったものを見た記憶に心を満たされて、かれは沈黙に落ちこんだ。前もって物事を教えてくれた夢のどれも、これまでのいかなる人生経験も、ふくれ上がってゆく気球のように外へひろがってゆくこの意識感覚にたいする心がまえをあたえてくれなかった……その前では時間そのものが退いてゆくのだ……
ジェシカはテントの発光板調節装置を見つけて、それを作動させた。
緑色のかすかな光が影をなくし、彼女の恐怖を柔らげた。彼女はポウルの顔を、かれの目を見た――心の中を見とおす視線を。そして彼女は、そのような表情を以前にどこで見たのか思い出した。災害の記録にある写真――飢餓やひどい怪我を経験した子供たちの顔だ。両眼は深い穴のようで、口はまっすぐ引かれた線、両頬はこけている。
“これは、自分の死すべき運命を強制的に知らされた者の恐ろしい表情だわ”
かれは、本当に、もはや子供ではなかった。
息子の言葉にふくまれていた重要な意味が彼女の心を占めはじめ、ほかのすべての想いをおし出した。ポウルは未来を、脱出の方法を見ることができたのだ。
「ハルコンネン家から逃れる道があるのね」
かれは嘲笑するような声をあげた。
「ハルコンネン家! あんな性根の腐った人間《ヒューマン》どものことは考えないことです」
ポウルは、発光板の光に照らされている彼女の顔を見つめた。その顔は彼女が何者であるかを、はっきりと示していた。
彼女はいった。
「あの人々を人間《ヒューマン》と呼ぶべきではないわ……」
「どこにその線を引くべきか、そうはっきり自信を持たないことです。ぼくらは、ぼくら自身の過去を引きずって生きています。そして、母上、あなたが知らず、そして知るべきことがひとつあります……われわれは、ハルコンネン家の人間なのですよ」
彼女の心は恐怖におびえ、すべての意識を遮断することが必要であるかのように空白となった。しかしポウルの声は無情につづき、彼女を引きずっていった。
「こんど鏡を見つけたら、顔を調べてみることです……いまはぼくをよく見てください。心を盲目にしなければ、痕跡がわかるはずです。ぼくの両手を、ぼくの体つきを見て、それでも信じられなかったら、ぼくの言葉を信用してください。ぼくは未来を歩いてきました。ぼくは記録を見、場所を眺め、すべてのデータを持っているんです。ぼくらはハルコンネンなんだ」
「それは……遠い縁つづき。そういうことなのね? ハルコンネン家の何人かは……」
「あなたは男爵自身の娘なんです」かれはそういい、母が両手で口をおさえる姿を見つめた。
「あの男爵は若いころによく遊び、そして一度はだまされました。でもそれはベネ・ゲセリットの遺伝学的目的のためだったのです。あなたがた[#「あなたがた」に傍点]のひとりによってね」
かれのあなたがた[#「あなたがた」に傍点]といういいかたは、彼女を叩きつけた。だがそれは彼女の心を働かせ、そしてかれの言葉を否定することはできなかった。過去において意味のつかめなかった多くの点が、かさなりつながった。ベネ・ゲセリットが望んだ娘――それは昔からのアトレイデ家とハルコンネン家の不和を終わらせるためのものではなく、両家の血統の中で何かの遺伝学的要素を作るためだった。何を[#「何を」に傍点]? 彼女はその解答をさがし求めた。
彼女の心の中を読んだかのようにポウルはいった。
「かれらはやがてぼくを生み出すことになるだろうと思っていた。だが、かれらが予期していたのはぼくではなく、ぼくは早く生まれすぎた。そしてかれらは、そのことを知らないのです」
ジェシカは両手で口をおさえた。
“|大いなる母《グレイト・マザー》よ! かれはクイサッツ・ハデラッハなんだわ!”
彼女はポウルの前でむきだしに裸にされているように感じ、その前では何ひとつ隠せない目でかれが自分を見ていることを知った。そして、そのことが自分のおぼえている恐怖の原因だとわかった。
「あなたはぼくをクイサッツ・ハデラッハだと考えていますね。そんなことは忘れるんです。ぼくは考えられもしない何かなんですよ」
彼女は考えていた。
“学校のどれかに知らせなければ。|交 配 索 引《メイティング・インデックス*》はどんなことがおこったのかを示してくれるはずだわ”
「かれらがぼくのことを知るとしても、それは手遅れになってからですよ」
と、かれはいった。
彼女はポウルの話題をそらせようとし、両手を下ろしてたずねた。
「わたしたち、フレーメンのあいだに住む場所を見つけることになるのね?」
「フレーメンたちにはシャイ・フルド、永遠なる父に捧げた言葉があります。こうです……なんじの出会うものの真価を認識する心がまえを持て……と」
そしてかれは考えた。
“ああ、ぼくの母上が……フレーメンのあいだに。あなたの目は青く変わり、スティルスーツのフィルター・チューブがつながれる美しい鼻は皮膚硬結をおこし……そしてあなたはぼくの妹を生むのだ。聖ナイフのエイリアを”
ジェシカはいった。
「あなたがクイサッツ・ハデラッハでないなら、いったい……」
「あなたのはたぶんわからないでほう。実際にその目で見るまでは、信じられないのです」
そしてかれは考えた。
“ぼくは種子なんだ”
かれはとつぜん、自分が落下した地面がどれほど肥沃《ひよく》なところかに気づき、それを知ったことで、すさまじい目的がかれの全身をおおい、心の中にある虚《うつ》ろな場所を埋めてゆき、悲しみにかれは息のつまるような恐怖をおぼえた。
かれは前方に伸びている道が大きく二つに分かれていることを知っていた――そのひとつではあの邪悪な老男爵に出会って話しかけることになる。「やあ、お祖父さん」と。その道と、そこに何が存在しているかを考えることは、かれの心を暗くした。
こうひとつの道は、ところどころ暴力という頂が見えているほか、灰色のぼんやりとした長い場所におおわれていた。かれがそこに見たものは、戦士信仰と、世界にひろがる火と、|香 料 酒《スパイス・リキュール》に酔っぱらって騒ぐ軍団の上にひるがえるアトレイデ家の緑と黒の軍旗だった。ガーニィ・ハレックと父の部下が何人かおり――悲しいほどの少なさだ――全員が父の神聖な骸《むくろ》から取ったように鷹の紋章をつけていた。
かれはつぶやいた。
「ぼくにはその道を行くことなどできない……それこそ、あなたの学校の老婆が求めていたことだが」
「あなたのいうことがわからないわ、ポウル」
かれは沈黙をつづけ、種子として考え、恐ろしい目的を初めて経験したときの種としての意識で考えた。かれは自分がもはやベネ・ゲセリットを、皇帝を、ハルコンネン家さえも憎めなくなっているのを知った。かれらは全員が種族としてなさねばならにことにつかまっているのだ。散らばっている遺産を新しくし、かれらの血統を混ぜ合わせて新しい偉大な種《しゅ》のプールに注ぎこむのだ。そして種族は、これにたいする確実な方法をひとつだけ知っていた――大昔の方法、その通路にあるすべてのものをふみつぶしていったたしかな方法。|ジハド《*》だ。
“そんな道を選ぶことは絶対にできない”
と、かれは思った。
しかしかれはふたたび心の目で見たのだ。神聖な父の骸と、その中央に緑と黒の軍旗がひるがえる暴力を。
ジェシカはかれの沈黙が心配になって、咳ばらいをした。
「では……フレーメンはわたしたちに|隠 れ 家《サンクチュアリィ》をあたえてくれるのね?」
かれは顔を上げ、緑の明かりに照らされているテントの中に視線を動かし、生まれながらの貴族的な顔をした母を見た。
「ええ、それが道のひとつです」かれはうなずいた。「そう、かれらはぼくを呼ぶでしょう……ムアドディブ、道を示す者、と。そう……それがかれらのぼくを呼ぶ名前です」
そしてかれは目を閉じて考えた。
“さあ、父上、ぼくはあなたを想って悲しめます”と。
そしてかれは涙が両頬を流れるのを感じた。
[#改ページ]
底本     デューン 砂の惑星2
出版社    株式会社 早川書房
発行年月日  昭和四十八年二月二十八日 初版発行
入力者    ネギIRC