デューン 砂の惑星1
フランク・ハーバート
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(テキスト中に現れる記号について)
《》:ルビ
(例)遥《はる》か未来に
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)単身|赴《ふ》任《にん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
[#この最後に用語集があるが、わからなくなったとき最後までいって、また戻るという読み方は]
[#紙の本だから楽にできるのであって、ビューアーでは大変にやりにくいと言うか面倒である。]
[#よって、この際、用語集だけ独立させて、メモ帳かなにかで開けるような簡単なものにした。]
[#メモ帳にはルビの機能がないので(xx)でごまかしているが無いよりはましかと思われる。]
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登場人物
ポウル・アトレイデ…………………アトレイデ公爵家の世継ぎ
レト・アトレイデ……………………公爵。ポウルの父
レイディ・ジェシカ…………………公爵の妾妃。ポウルの母
スフィル・ハワト……………………公爵家のメンタート
ガーニィ・ハレック…………………公爵家の副官
ダンカン・アイダホ…………………公爵家の副官
ユエ・ウェリントン…………………公爵家の医師
シャダウト・メイプズ………………フレーメン。公爵家の家政婦
スティルガー…………………………フレーメンの族長
ウラディミール・ハルコンネン……男爵
パイター………………………………男爵家のメンタート
ファイド・ラウサ……………………男爵の甥
ガイウス・ヘレン・モヒアム………ベネ・ゲセリット学校の教母
皇帝のトルースセイヤー
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[#ここから10字下げ]
物事の始まりは、バランスが正しいものかどうかについて、もっとも慎重に気をくばるべきときである。それは|ベネ・ゲセリット《*》出身の者であればだれだろうと知っていること。|ムアドディブ《*》の生涯を研究するにあたっても、まず気をくばるべきはその時代をつかむことだ。出生は大王皇帝シャッダム四世の五十七年。ついでもっとも注意をくばるべきは、ムアドディブの属するところをつかむこと。それは|惑星アラキス《*》。かれが|カラダン《*》に生まれ、最初の十五年をその地にくらした事実に欺かれぬこと。アラキス……砂丘《デューン》として知られるその惑星こそ、永遠にかれの属するところなのだ。
――イルーラン姫による“ムアドディブの手引き”から
[#ここで字下げ終わり]
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かれらが惑星アラキスへ出発する前の週、最終的な忙しさのすべてが、耐えられないほど気ちがいじみたものになってきたとき、ひとりの年老いた女が、ポウル少年の母を訪ねてきた。
カラダン城の夜は暖かく、二十六代にわたりアトレイデ家の本邸として役立ってきた古い石のかたまりは、天候が変わる前に感じられる冷えた汗のような感じを漂わせていた。
その老婆は横の入口からポウルの部屋へと続く廊下に入れられ、ベッドに横たわっている少年をちょっとのぞいてみることを許された。
床の近くに浮いている薄暗い|サスペンサー・ランプ《*》の明かりで、目をさましていた少年は、入口にいる大きな女の形を見ることができた。母の一歩前に立っている老婆は魔女の影だった――髪はもつれた蜘蛛の巣、頭巾《ずきん》をかぶっている黒い姿、目は宝石のように輝いている。
「あの子は年のわりに小さくはないのかね、ジェシカ?」
と、老婆はたずねた。その声は調子を合わせていない|バリセット《*》のようにぜいぜいと鼻にかかっていた。
ポウルの母はあまいコントラルトの声で答えた。
「アトレイデ家のものは発育をはじめるのが遅いことで有名ですわ、|教 母さま《リヴァレンド・マザー*》」
老婆はぜいぜいと答えた。
「そう聞いたよ、そう聞いたよ。それでも、かれはもう十五歳だったね」
「はい、教母さま」
「かれは目をさまして聞いているよ。ずるい小さな悪党というところだね」老婆は笑い声をあげた。「でも、王族にはずるさも必要。それにもしかれが本当に|クイサッツ・ハデラッハ《*》なら……そう……」
かげになっているベッドの中で、ポウルは目を糸のように細くあけていた。老婆の鋭く明るい二つの目は、かれを見つめ、より大きく、より輝きを増してゆくように思えた。
老婆は言った。
「よくお眠り、このずるい小さな悪党……明日になると、わたしの|ゴム・ジャバール《*》にぶつかるため、あんたは力のすべてを必要とするんだからね」
老婆は、かれの母を押して部屋から出てしまい、ドアはかたい音を立ててしまった。
ポウルは目をさましたままで考えた。
“ゴム・ジャバールってなんだろう?”
この変動のときにおこるすべての驚きの中でも、いまの老婆がかれの見たうちでいちばん不思議なものだった。
“教母さま”
それに老婆はかれの母親ジェシカをただの女中のように呼んでいた。ベネ・ゲセリットの女性、公爵の|妾 妃《コンキュバイン》、そして公爵の世継ぎの母親である彼女をだ。
“ゴム・ジャバールとは、ほくらが行く前に知っておかなければいけないアラキスの何かだろうか?”
かれは、老婆がいった不思議な言葉を口にしてみた。
「ゴム・ジャバール……クイサッツ・ハデラッハ」
学ばなければいけないことが実に多かった。アラキスはカラダンとはまったく異なったところに違いない。ポウルの心は新しい知識で渦巻いていた。
“アラキス……砂丘……砂漠の惑星”
父に仕える暗殺の名人スフィル・ハワトは説明してくれた。かれらの不倶《ふぐ》戴天《たいてん》の敵であるハルコンネン家はアラキスに八十年のあいだいて、老人病のための香料《スパイス》|メランジ《*》を採掘する契約を|CHOAM公社《*》とむすび、その惑星を準領土として保有してきた。いまそこはアトレイデ家の完全な領土となり、ハルコンネン家は移封され、そこから去ろうとしている――公爵レトの明らかな勝利だ。ただし、とハワトはいった。そう見えるが、これには大変な危険がふくまれている、公爵レトがランドスラードの|大 公 家《グレイト・ハウス*》のあいだで人気が高いからだ、と。
「人気のある男は、権力を持っている連中に嫉妬心をおこさせるものだ」
と、ハワトはいっていた。
“アラキス……砂丘……砂漠の惑星”
ポウルは眠りに落ち、|アラキーン《*》の|洞窟の照明球《グロー・グローブ*》のうすい明かりの中で、かれのまわりを動いている無言の人々の夢を見た。そこは荘厳で、大伽藍《だいがらん》のようであり
、かれはかすかな音に耳をすませた――ポト・ポト・ポトと落ちる水のしずくだ。夢の中にいるあいだでさえ、ポウルは目がさめてもそのことをおぼえているだろうとわかっていた。かれはいつだって、予言となる夢をおぼえているのだ。
夢は薄れていった。
ポウルは目をさまし、ベッドの暖かさを感じながら、考えつづけた。カラダン城のこの世界。遊ぶこともなく、同じ年齢の仲間もなかった。たぶん、別れを悲しむこともないのだろう。かれの教師ドクター・ユエは、惑星アラキスでは|ファウフレルヒェス《*》階級組織がそれほど厳格に守られていないというようなことをいっていた。その惑星は砂漠に住む連中を、かれらに命令する|ケイド《*》や|バシャール《*》といった階級の者もいないまま、保護し隠している。|フレーメン《*》と呼ばれる砂の精のような人々は、帝国の人口調査にかかったことがないのだ。
“アラキス……砂丘……砂漠の惑星”
ポウルは自分が緊張していることを感じ、母親が教えてくれた精神と肉体の運動をすこしやってみることにした。
三度急速につづけた呼吸が反応をよびおこした。かれは浮遊しているような覚醒状態にはいっていった……意識の焦点をあわせる……大動脈の膨張……意識の非焦点メカニズムを避けること……選択によって意識を持つ……疲れている部分に血液を多くし急速に流す……人は食料・安全・自由を本能だけで得るものではない……動物的意識は、その犠牲となるものが死ぬかもしれないという考え、あるいはそういった瞬間を越えて、より以上に伸びるものではない……そういった動物は破壊するだけで生産はしない……動物的な喜びは感覚レベルの近くにとまり、知覚力レベルを避ける……人間はその宇宙をとおして見るための|背景的格子《ガックグラウンド・グリッド》を必要とする……選択によって焦点をあわされた意識が、おまえの格子を形成する……肉体としての本来の姿は、細胞が求めるもっとも深い意識に従って神経への血行をもたらす……すべてのもの・細胞・存在は永遠のものではない……その内部における永遠の流れを求めて戦う……
なんども、なんども、ポウルの浮遊する意識の中で、そのレッスンがくりかえされた。
夜明けの黄色い光がポウルの寝ている部屋の窓枠にあたると、かれはそれを、閉じている瞼をとおして感じ、城の中でまたひびきはじめた新しい一日の忙しそうな物音を聞きながら目をあけ、寝室の天井に走る梁《はり》の、見慣れた模様を見つめた。
廊下のドアが開いて母がのぞきこんだ。暗いブロンズ色の髪はその上を黒いリボンで結んであり、その玉子型《たまごがた》の顔は無表情で緑色の目はきびしい色をたたえて見つめていた。
「あなた、目がさめていたの。ぐっすり眠って?」
「ええ」
かれは背の高い母親を眺め、押入れの棚から着るものを選んでいる彼女の両肩が緊張しているのを知った。ほかのものであればそのことを見すごしていたかもしれないが、彼女はかれをベネ・ゲセリット流に訓練していた――詳細に観察することをだ。彼女は、準礼装用の上衣を持ってふりむいた。それは、胸のポケットの上にアトレイデ家の赤い鷹のとさか[#「とさか」に傍点]がついているものだった。
「いそいで着るのよ。教母さまがお待ちだから」
ポウルはたずねた。
「前の彼女のことを夢に見ましたよ。だれなんです?」
「彼女はベネ・ゲセリット学校でわたしの先生だったの。いまは皇帝の真実審判師《トルース・セイヤー*》よ。それから、ポウル……」彼女はちょっとためらった。「あなた、彼女にあなたの夢のことを話さなければいけませんよ」
「そうします。彼女のおかげで、ぼくらはアラキスを手に入れたわけですか?」
「わたしたち、アラキスを手に入れてはいないのよ」ジェシカはズボンのほkじょりをはらい。それを上衣といっしょに、ベッドのそばにある衣装掛けにかけた。「教母さまを待たせないで」
ポウルはおきあがって、両膝をだいた。
「ゴム・ジャバールってなんです?]
またも。彼女にあたえられた訓練で、ほとんど目にとまらないほどのためらいがわかった。母が心配そうに隠そうとしたそれを、かれは恐怖だと感じた。
ジェシカは窓のそばへ歩き、カーテンを大きくあけ、シュビ山のほうへつづく川ぞいの果樹園を見つめた。
「教えてもらうことになるわ……すぐに、ゴム・ジャバールを」
かれは母の声に恐怖を聞きつけ、なぜだろうと思った」
ジェシカはふりかえらずにいった。
「教母さまはわたしの|居 間《モーニング・ルーム》でお待ちよ。おねがい、急いで」
教母ガイウス・ヘレン・モヒアムは錦織りの椅子に座って、近づいてくる母と息子を見つめていた。両側にあいている窓からは、アトレイデ家の所有している緑の農園地帯と曲がっている川の南の岸が見おろせたが、教母はその景色を無視していた。今朝の彼女は自分の年齢を感じ、だいぶ短気になっていた。彼女はそれを、宇宙旅行と、あの憎むべき|宇宙協会《スペーシング・ギルド》とのつきあいと、その隠しだてするやりかたのせいだと腹を立てていた。だがここに存在する使命は、洞察力を持ったベネ・ゲセリットの個人的注目を必要としている。大王皇帝《パディッシャ・エンペラー》の真実審判師《トルース・セイヤー》であっても、義務が呼ぶところの責任を回避することはできないのだ。
教母は思った。
“あのいまいましいジェシカ! 命令されたとおり、女の子を生んでいてさえくれればよかったのに!”
ジェシカは椅子から三歩のところでとまり、軽く片足を折り、左手をスカートのはしに曲げた。ポウルはかすかに頭を下げた――かれの踊りの教師が教えてくれたとおり、“相手の地位に疑いがあるとき”に用いる方法だ。
ポウルが挨拶に見せた微妙な差を教母は見うしないはしなかった。彼女はいった。
「この子は用心深いんだね、ジェシカ」
ジェシカの手はポウルの肩に行き、そこでこわばったようになった。心臓の鼓動がひとうちするあいだに、その掌から恐怖が流れ出た。ついで彼女は心を落ち着かせた。
「そう教えられたようですわ、教母さま」
“なにをこわがっているんだろう?”
と、ポウルはふしぎに思った。
老婆はひとにらみですべてを知ろうというようにポウルを眺めた――ジェシカに似た玉子型の顔、だが骨格は、がっしりしている……髪。公爵の黒い髪だが、眉毛は口に出せない母かたの祖父のもの。そして細い、尊大な鼻。まっすぐ見つめている緑色の目は亡くなった父かたの祖父、老公爵のそれに似ている。
教母の心に想いが走った。
“そう、威勢よくしていることを好んだ人がいた……死ぬときでさえも”
彼女は話しかけた。
「教えるということと、根本的な要素とはべつのもの。そのうちわかるはず」年老いた目がきびしい視線をジェシカにむけた。「わたしたちだけにしておくれ。わたしはおまえに、平穏の瞑想を練習することを命令しますよ」
ジェシカはその手をポウルの肩からはなした。
「教母さま、わたし……」
「ジェシカ。こうしなければいけないことは知っているはずだよ」
ジェシカはぐきりとした。
「はい……もちろんですわ」
ポウルは教母のほうに視線をもどした。この老婆にたいする母の歴然とした畏敬と丁重さは、用心すべきだということを示していた。だがかれは、母から放射してくる恐怖を感じて、怒りと心配をおぼえた。
「ポール……」ジェシカは深く息をついていった。「……あなたがこれから受けるテスト……それはわたしにとって大切なことなの」
「テスト?」
と、かれは母を見あげた。
「あなたが公爵の息子だってことを忘れないで」
ジェシカはそういうと、くるっとふりむき、スカートのこすれる音をたてながら大股に部屋を出ていった。ドアはその背後で重々しくしまった。
ポウルは怒りをおさえながら老婆のほうにむいた。
「レイディ・ジェシカを、まるで侍女のように追っぱらえるのか?」
しわくちゃの年老いた口のかどに笑いが浮かんだ。
「あのレイディ・ジェシカは、学校で十四年のあいだわたしの侍女だったのだよ、坊や」彼はうなずいた。「それもいい女中だったね。さあ、ここへおいで!」
その命令はかれを鞭のように打った。ポウルは、考えもしないうちに、その命令にしたがっていることを知った。声《ヴォイス*》を使っているんだな、とかれは思った。かれは老婆の身ぶりでとまり、彼女の膝のそばに立った。
「これをごらん」
老婆はガウンの下から、一辺が一五センチほどの緑色をした金属の立方体をとりだした、彼女はそれをまわし、ポール[#ポウルが正しいが原本のまま]は一方が開いていることを知った――黒くて、妙に恐ろしい感じだ。開いている闇黒の中に、光ははいっていない。
「右手を箱の中にお入れ」
と、彼女は命令した。
恐怖がポウルの全身を走った。かれがあとじさりしかけると、老婆はいった。
「それがあんたの母さんに従う道なのかい?」
かれは、ぬけめなく光る目を見あげた。
その言葉に強制されるのを感じながらも、それにそむくことができないまま、ゆっくりとポウルは手を箱の中に入れた。かれはまず闇黒につつまれた手が冷たくなった感じ、ついで指にあたるなめらかな金属、つき刺されて手がしびれたような感触をおぼえた。
肉食獣のような表情が老婆の顔に浮かんだ。彼女は右手を箱からはなし、その手をポウルの頸にあてた。かれはその手に金属が光るのに気づいて、そちらへ顔をまわそうとしかけた。
「動かないで!」
と、彼女は鋭い声をあげた。
“あの声《ヴォイス》を、また使っているな!”
かれは注意を老婆の顔にもどした。
「わたしはあんたの頸にゴム・ジャバールをあてている……ゴム・ジャバールとは恐ろしい危害を加えるもの。先端に毒物のしずくがついた針。それそれ! 動きなさるな。さもないと毒をうけることになりますぞ」
ポウルはかわいた咽喉《のど》につばをのみこもうとした。かれは、しわだらけの年老いた顔から注意をそらすことができなかった。輝いている目、どす黒い歯ぐきにならぶ銀色の歯は、老婆が口をうごかすにつれて光った。
「公爵の息子ともなれば毒物のことは知っていなければいけないはず。|マスキイ《*》、あんたの飲み物にまぜる毒。|オーマス《*》、あんたの食べ物に入れる毒。急速にきくもの、遅れてきくもの、そしてそのまん中のもの。ここにあるのはあんたに使う新しいもの、ゴム・ジャバール。これは動物のみを殺すのだよ」
誇りがポウルの恐怖にうちかった。
「公爵の息子が動物だというのか?」
「まああんたは人間かもしれぬということにしておこう……静かに! 急に離れようとしないことと警告しておくよ。わたしは年寄りだが、あんたに逃げられる前にこの針をつきさすことはできるんだからね」
かれはささやいた。
「おまえはだれなんだ? どうしてぼくの母上をだまし、おまえとふたりだけに残しておくようなことをしたんだ? おまえはハルコンネンのまわしものなのか?」
「ハルコンネン? とんでもないこと! さあ、静かにおし」
かわいた指が頸にふれ、かれは思わず飛びはなれようとする衝動をおさえつけた。
「よろしい。あんたは最初のテストに合格だよ。さあ、残りはどうするかだ……もし、その箱から手を引きぬけばあんたは死ぬことになる。これだけが規則だよ。あんたの手を箱の中に入れておけば、生きていられる。出すと死ぬんだよ」
ポウルは深く息をついて、体のふるえをとめた。
「ぼくが大声をあげれば召使いたちが何秒かのうちにおまえに飛びかかり、おまえは死ぬことになるんだぞ」
「あんたの母さんはドアを見張っているからね、召使いははいってこられないよ。信用しなさい。母さんはこのテストに耐えて生き残ったんだよ。こんどはあんたの番ってわけさ。名誉と思うことだね。われわれがこれを男の子におこなうことは、めったにないんだから」
好奇心はポウルの恐怖を対処できるだけのレベルまで引きさげた。かれは老婆の声に真実を聞いた。それは否定できないことだった。もし母がそこで見張っているというなら……これがほんとうにテストなら……それに、これがなんであれ、かれは自分がとりこになっており、頸筋にあてられている手で動けなくなっていることがわかっていた。ゴム・ジャバールだ、かれは、母がベネ・ゲセリットの儀式のことを教えてくれたうちの“恐怖にたいする祈り”からの反応を思いだした。
“恐れてはいけない。恐怖は心を殺すもの。恐怖は全面的な忘却をもたらす小さな死。ぼくは自分の恐怖を直視しよう。それがぼくの上にも中にも通過してゆくことを許してやろう。そして通りすぎてしまったあと、ぼくは内なる目をまわして、そいつの通った跡を見るんだ。恐怖が去ってしまえば、そこにはなにもない。ぼくだけが残っていることになるんだ”
かれは落着きがもどってくるのを感じた。
「やってくれ、お婆さん」
彼女は鋭い声をだした。
「お婆さんですと! あんたは勇気がある、それは否定できないことだね。さて、やろうかね」彼女はかがみこみ、ささやくようなところまで声を低くした。「あんたは、箱に入れている手に痛みをおぼえる。苦痛だよ。しかしだね! その手を引きぬけば、わたしはゴム・ジャバールをあんたの頸にふれる……その死は、首切り役人の斧が落ちてくるほど早いよ。手をぬくとゴム・ジャバールがあんたを殺す。わかったね?」
「箱の中には何があるんだ?」
「苦痛だよ」
かれは手がひりひりしはじめるのを感じ、唇をかたくむすんだ。どうしてこれがテストになるんだろう? と、かれはふしぎに思った。ひりひりする手は、かゆくなってきた。
老婆はいった。
「あんたは、罠から逃れるために足を噛み切ってしまう動物がいることを知っているかね? それは動物らしいごまかしかただよ。人間なれば、その罠の中にとどまり、苦痛に耐え、罠にかけたものを殺すことで死を避け、仲間への脅威をなくそうとするだろうね」
かゆみは。かすかな熱に変わってきた。
「なぜおまえはこんなことをするんだ?」
と、かれはたずねた。
「あんたが人間かどうかをきめるためさ。だまっておいで」
ポウルは右手の焼けるような感覚が増してくると、もう一方の手をかたくにぎりしめた。その感じはゆっくりとたかまっていった。熱く、熱く……なおも熱く。かれは左手の爪が掌にくいこむのを感じた。かれは焼けつくようになった手の指を曲げようとしたが、動かすことはできなかった」
「熱いよ」
と、かれはささやいた。
「おだまり!」
痛みがかれの腕をずきずきと上がってきた。汗が顔にふき出てきた。すべての筋肉が、その下を焼きつけてくる穴から出せとさけびたてていたが……しかし……ゴム・ジャバールだ。顔をまわすことなく、かれは目だけ動かして頸のそばにある恐ろしい針を見ようとした。かれは自分があえぐような呼吸をしていることに気づいて、ゆっくり息をつこうとしたが、だめだった。
苦痛!
かれの世界の中では、拷問にあっている手を除いたすべてのものが空白になっており、老婆の顔は数インチ離れたところでかれを見つめていた。
唇はひどく乾き、あけるのがむずかしくなった。
“焼ける! 焼ける!”
かれは手に激痛が走り、皮膚がめくれかえり、肉がちぢれて落ちてゆき、黒焦げになった骨だけが残るのを感じた。
苦痛はとまった!
まるでスイッチが切られたように、苦痛はなくなった。ポウルは右腕がふるえているのを感じ、全身が汗ばんでいるのを感じた。
老婆はつぶやいた。
「もう結構……|クル・ワハッド《*》! 女の子でそれだけがんばったものは、これまでひとりもいないよ。わたしはきっと、あんたが失敗するのを望んでいたにちがいないね」彼女はゴム・ジャバールをかれの頸からはなしながら、うしろによりかかった。「手を箱からお出し、若者《ヤング・ヒューマン》よ。そして見てごらん」
かれは痛いほどのふるえと戦い、自分の手がそれ自身の意思でとどまっていりように思われる光のとどかない空間を見つめた。苦痛の記憶が、あらゆる動きをさまたげた。理屈は、箱から黒焦げになった切株のような手の残骸を出すことになると告げていた。
「出しなさい!」
と彼女は鋭くいった。
かれはぴくりと手を箱から引きぬき、それを見つめておどろいた。なんのあとも残っていない。肉におぼえた苦痛のしるしは、まったくないのだ。かれは手をあげ、ひっくりかえし、指をまげてみた。
「神経の誘導による痛みだよ。強い人間を傷つけることなどできないのさ。この箱の秘密について、いりいりいうものはいるがね」
彼女はそれをガウンの下に入れた。
「でもあの痛さは……」
彼女は鼻をふんと鳴らした。
「痛みかね……人間は、体のどこにでもある神経でも無視できるものなんだよ」
ポウルは左手が痛いのを感じ、にぎりしめていた拳をひらき、掌に爪のあとが四つ赤くついているのを見た。かれは手を腰に落として老婆を見た。
「おまえはこれをぼくの母上にもしたって?」
彼女は反問した。
「砂をふるいにかけたことがあるかね?」
まるで関係がなさそうなことを質問されて、かれの心はショックを受け、より高い意識にのぼった。“砂をふるいにかける……”かれはうなずいた。
「われわれベネ・ゲセリットは人々《ピープル》をふるいにかけて人間《ヒューマン》を見つけるのさ」
かれは苦痛の記憶をおさえつけながら、右手をあげた。
「それでそのすべてが……あの苦痛だと?」
「わたしはあんたが痛みをおぼえているところを観察した。苦痛はテストの軸にすぎないんだよ。あんたの母さんはあんたに、われわれの観察方法を話したね。わたしはあんたを見ていると、そのことがわかったんだよ。われわれのテストは危機と観察なのさ」
かれはその声に、老婆が責めていりわけではないということを知り、そしていった。
「そのとおりだ!」
彼女はポウルを見つめた。“かれは真実を感じとっている! かれはそうなのだろうか? ほんとうにかれはそうなのだろうか?”彼女は興奮をおさえつけて、自分にいいきかせた。“希望は観察をくもらせることがあるもの”
彼女はいった。
「あんたは、人が本当だと信じていっているときには、それがわかるんだね」
「わかるよ」
くりかえされたテストではっきりした能力の和声《ハーモニックス》が、かれの声にひびいていた。彼女はそれを聞いていった。
「あんたはたぶんクイサッツ・ハデラッハなんだろう。おすわり、ちいさな兄弟、わたしの足もとに」
「立っているほうがいい」
「あんたの母さんは、わたしの足もとにすわったものだよ」
「ぼくは母上じゃあないんだ」
「あんたはわたしをちょっと憎んでいるんだね、え?」彼女はドアのほうを見て、呼んだ。
「ジェシカ!」
ドアがいきおいよく開き、ジェシカはその場につっ立って、きびしい目つきで部屋の中を見つめた。ポウルに視線がとまると、その目からきびしさが消えてゆき、彼女はかすかな微笑を浮かべた。
老婆はたずねた。
「ジェシカ、おまえはわたしを憎むことをやめたことがおありかね?」
「あなたを愛しているのと憎んでいるのとの両方です。憎しみは……わたしがいつまでも忘れてはいけない苦痛から。愛は……それは……」
「基本的な事実だけでいいよ」と、老婆はいったが、彼女の声はやさしかった。「もうはいってきてもいいが、黙っていておくれ。そのドアをしめて、だれにも邪魔されないように気をつけるんだよ」
ジェシカは部屋の中にはいり、ドアをしめると、それに背中をくっつけて立った。
“わたしの息子は生きているわ、それに……人間《ヒューマン》なんだわ。わたし、そうだとわかっていたけれど……でも……かれは生きている。これで、わたしも生きていけるわ”
背中にあたっているドアは堅く、そして現実のものとして感じられた。部屋の中にあるすべてのものが、すぐ近くにあり、彼女の五感におしつけられてくるようだった。
“わたしの息子は生きている”
ポウルは母を眺めた。“彼女は真実を告げたんだ”かれは出ていってひとりになり、いまの経験をじっくり考えてみたかったが、許しがでるまで離れられないとわかっていた。老婆はかれを思いのままにできる力を持ってしまったのだ。“かれらは真実を話すんだ”かれの母親もこのテストをやったんだ。これにはきっと恐ろしいほどの目的があるにちがいない……あの苦痛と恐怖はひどいものだったからな。それはすべての勝ち目をなくしてしまうほどのものだった。かれらだけの必要があってやっていることだ。ポウルは自分が恐ろしい目的に影響をおよぼされていることを感じた。だがかれはまだ、その恐ろしい目的とは何なのか知らなかった。
老婆は話しだした。
「坊や、あんたもいつかは、あのようにドアの外に立たなくてはいけないことになるかもしれないよ。やるのはやるだけの用意が必要だからね」
ポウルは苦痛をおぼえた手を見おろし、ついで教母を見あげた。彼女の声には、これまでに知っているほかのどんな声ともちがったところがあった。言葉の輪郭があざやかに浮きあがっていた。その言葉には角《かど》があった。どんなことをたずねてみようと、教母があたえてくれるだろう解答は、かれを現身《うつしみ》の世界から何かもっと偉大なものに持ち上げてくれるだろうという感じがした。
かれはたずねた。
「なぜおまえは人間《ヒューマン》にテストをするんだ?」
「あんたを自由にするため」
「自由?」
「かつて人はその思考を機械にゆずりわたした。そのことでみんなが自由な状態になれると思いこんでね。しかしその結果は、機械を持った他の男たちに奴隷とされることを許しただけだった」
ポウルは引用した。
「なんじら人の心に似せたる機械を作りだすことなかれ」
「|ブトレリアン・ジハド《*》と|オレンジ・カトリック・バイブル《*》そのままの言葉だね……しかしO・C・バイブルがいっておくべきことはこうなんだよ……なんじら人間《ヒューマン》の心のにせ物をつくる機械を作りだすことなかれ……あんたは勉強のときに|メンタート《*》のことを学んだかね?」
「スフィル・ハワトといっしょに学んだよ」
「大反乱は支えをなくしてしまい、人間の心は発展するほかなくなった、多くの学校が人間の能力を訓練しはじめた」
「ベネ・ゲセリット学校?」
老婆はうなずいた。
「そういった昔の学校で行きのこっているもので主要なのは二つ。ベネ・ゲセリットと宇宙協会《スペーシング・ギルド》だね。協会はほとんど純粋な数学に重きをおいているものと、わたしたちは考えている。ベネ・ゲセリットはべつの機能をはたしている」
「政策に」
「クル・ワハッド!」
と、老婆はいい、ジェシカにきびしい視線をむけた。
「わたしはかれに教えてはおりません、教母さま」
教母はその注意をポウルにもどした。
「あんたは実にすくない手がかりからわかったんだね……そのとおり、政策さ。もともとのベネ・ゲセリット学校は、人間関係の中に連続性という糸が必要だと見た人々によってはじめられたのだよ。かれらは人間《ヒューマン》の血統を動物の血統と分離することなくして、そういった連続性はあり得ないと考えたんだね……繁殖の目的のためにさ」
ポウルにとって老婆の言葉はとつぜん、特別な鋭さを失ってしまった。かれは母のおうかれの正しさに対する本能[#「正しさに対する本能」に傍点]への侮辱を感じた。それは教母がかれに嘘をついているということではなかった。彼女は明らかに自分のいっていることを信じているのだ。それはかれの恐ろしい目的に結びついた何か、何かずっと深いところにあるものだった。
かれはいった。
「でも母上はぼくに、あの学校を出た多くのベネ・ゲセリットはかれらの先祖を知らないといったよ」
「遺伝の点から見た系図はつねにわたしたちの記録にあるよ……あんたの母さんは、ベネ・ゲセリットの子孫か、あるいはそれになり得る血統のどちらかだったってことを知ってるさ」
「ではなぜ母上は、両親がだれなのか知らないんだ?」
「あるものは知っており……多くは知らない。たとえば、遺伝上ある大きくきわだった特徴を作りだしたいがために彼女を近親者と結婚させたいと思うようなことがおこったかもしれないからだよ。わたしたちには多くの理由があるからね」
またもポウルは、正しさにたいする侮辱をおぼえた。
「きみらはひどく自信があるんだな」
教母はかれを見つめて考えた。この子に声にわたしを批判しているところがあったように思うが、と。彼女はいった、
「わたしたちは重荷をおっているんだよ」
ポウルは自分がテストのショックからずいぶん回復してきているのを感じた。かれは老婆の正体をつきとめようとするように見つめていった。
「おまえはいったな、ぼくがたぶん……クイサッツ・ハデラッハかもしれないと。それはなんのことだ、人間のゴム・ジャバールか?」
ジェシカは口をはさんだ。
「ポウル……あなたそんな口のききかたをしては……」
老婆は首をふった。
「わたしにまかせておくんだよ。ジェシカ……さて、坊や、あんたは真実審判師《トルース・セイヤー》の薬を知っているかね?」
「嘘いつわりを見ぬく能力をふやすために飲む薬だ。母上が教えてくれたよ」
「あんたはこれまでに真実審判催眠状態《トルース・トランス》を見たことがあるかね?」
かれは首をふった。
「いいや」
「その薬は危険なものだが、洞察をあたえてくれる。真実審判師《トルース・セイヤー》がその薬品で能力を増されるとき、彼女[#「彼女」に傍点]はその記憶の中で多くの場所を見ることができる……肉体の記憶の中でだよ。わたしたちは実に多くの通り道を過去に見る……でもそれは女の通る道だけなんだよ」老婆の声に悲しそうなところがあらわれた、「そしてどの真実審判師にも見ることのできない場所がある。わたしたちはそのことにぞっとし、恐怖をおぼえているんだよ。こういういいつたえがある。ひとりの男性がいつかあらわれ、その薬の力を借りて、かれの内なる目を見つける、とね。その男性はわたしたちの見られないところを見るんだよ……女性と男性の両方の過去をね」
「それがおまえのいうクイサッツ・ハデラッハなのか?」
「そう。同時に多くの場所にいられる人、クイサッツ・ハデラッハ。多くの男があの薬品をためしてみた……実に多くのものがね。でも、だれひとりとして成功したものはいなかった」
「その連中はためし、失敗した。その全部が?」
彼女は首をふった。
「いいえ、ちがうよ。かれらはためし、そして死んだのさ」
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その不倶戴天の敵、ハルコンネン家を知ることなくしてムアドディブを知ろうと試みることは、虚偽を知らずして光明を見んとすることに同じ。でき得ることにあらず。
――イルーラン姫による“ムアドディブの手引き”から
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浮き彫りにした地球儀《ワールド・グローブ》はなかば影になっており、たくさんの指輪が輝くふとった指におされて回転している。その球体は窓のない部屋の一方の壁にある自在スタンドにのっており、ほかの壁は色とりどりの巻き物、フィルムブック、テープ、リールでいっぱいだ。動かせるサスペンサーの場につるされた金色のボールからの光で部屋は明るい。
石のように硬くした|エラッカ《*》材で表面が緑と桃色になった楕円形のデスクが、その部屋の中央にある。変わり形サスペンサー椅子がそのまわりにならび、その二つには人がすわっている。ひとりは黒い髪の青年で、年齢は十六ぐらい、丸顔で、ふきげんそうな目つきだ。もうひとりはほっそりした小男で、女のような顔をしている。
青年とその男はどちらも、地球儀と、影になかばかくれてそれをまわしている人物のほうを見つめた。
地球儀のそばで笑い声があがった。その笑いの中からバスの声がひびいた。
「そのとおりさ、パイター……あらゆる歴史の中で最大のおとし穴だな。そしてあの公爵はそれにむかって突進しているんだ。それをこのわし、男爵《バロン》ウラディミール・ハルコンネンがおこなうとは、実にみごとなものだな、え?」
「たしかにさようで、男爵」
と、男はいった。その声はあまく、音楽的なひびきのあるテナーだった。
ふとい手は地球儀にふれ、その回転をとめた。それで部屋にいるみんなの視線は動きをとめた表面に焦点をむすび、それが富を求めるものや帝国の惑星総督たちのために作られたものであることを知った。それには帝国の手工品であることをしめすスタンプがおされていた。経度と緯度が髪の毛のようにほそいプラチナ線でうめこまれている。極冠には最上の星雲《クラウド》ミルク色をしたダイヤモンドがはめこんである。
ふとい手はうごき、表面の細部をたどり、バスの声がひびいた。
「おまえたちを招いたのは、これを見るためだ……よく観察するんだな、パイター。それにおまえもだ、ファイド・ラウサ、わしの愛しいものよ。北緯六十度から南緯七十度まで……このすばらしい起伏を。この色を見ろ。これはおまえたちに、あまいキャラメルを思いださせないかね? そしてどこにも、湖や川や海の青いところがないことに気づくだろう。それからこのかわいらしい二つの極冠……まったく小さいものだ。ここを見まちがうものはいないだろう。アラキスだ! まったく珍しいところさ。驚くべき勝利をとげるには最高の舞台だ」
微笑がパイターの唇に浮かんだ。
「そして考えてみるとですね、男爵。大王皇帝《パディッシャ・エンペラー》は、あの公爵に|香料の惑星《スパイス・プラネット》をあたえたものと信じておられる。なんと辛辣《しんらつ》なことですな」
男爵はよくひびく声でいった。
「それは無意味ないいかただ……おまえのいうことは、若いファイド・ラウサを混乱させる。わしの甥を面くらわせる必要はないさ」
むっつりとした顔の青年は椅子の中でみじろぎし、着ていた黒い|袖なし肉襦袢《レオタード》のしわをのばした。かれは、背後のドアが用心ぶかくノックされる音に、背をのばした。
パイターは椅子からおりるとドアのところへ歩き、メッセージ・シリンダーを受けとるだけの広さにあけた。かれはドアをしめ、シリンダーをあけて目を走らせた。笑い声がかれの口からもれた。また笑い声が。
「それで?」
と、男爵は答えをうながした。
「あの馬鹿が返事をよこしましたよ、男爵!」
男爵は反問した。
「アトレイデ家のものが意思表示の機会をことわったことがあったかな? それで、かれはなんといっておるんだ?」
「かれはまったく無礼ですよ。男爵。あなたへの宛名が“ハルコンネン”……殿下《シール》も|親愛なる従兄《シェール・クザン》も、称号はなにもなしです」
「いい名前だからさ」と、男爵はうなるような声をあげ、その声はいらだたしさをそのまま現していた。「親愛なるレトはなんといっているんだ?」
「こうです……会見についての貴下の申し出を拒絶する。余はしばしば貴下の裏切りに会っており、そのことは家臣のすべてが知っている」
「それから?」
と、男爵はうながした。
「こういっています……|カンリイ《*》の技術はいまだに帝国内に賛美者を持つ……アラキスの公爵《デューク》レト、とサインしています」パイターは笑いだした。「アラキスのか! なんとまあ! こいつはまるで豊かになりすぎたみたいだな!」
「黙って、パイター」
と、男爵がいうと、笑い声はスイッチで切られたようにとまった。男爵はたずねた。
「カンリイとな? 復讐《ヴェンデッタ》だと、え? それにかれは伝統も豊かに、よき時代の古い言葉を使っておる。かれの意味するところがわしによくわかるようにな」
パイターはいった。
「あなたは平和な意思表示をされた。形式は守られていますな」
「メンタートにしては、おまえはしゃべりすぎるぞ、パイター」
男爵はそういって考えた。
“わしはこいつをそろそろかたづけてしまわなければいけないな。こいつが役に立つ期間はもう終わっているんだ”
男爵は部屋のむこうにいるかれのメンタート暗殺者を見つめ、ほとんどの人が最初に気づく特徴を考えた。目だ。ひっこんだ細い目、青の中の青、まったく白い部分のない目だ。
パイターの顔にうすら笑いが走った。それはまるで穴のような目があいている仮面の笑いに似ていた。
「しかし、男爵《バロン》! これ以上に美しい復讐はこれまで絶えてありませんでしたよ。もっとも見事な裏切りの計画を見られたのですからな……レトにカラダンを砂丘《デューン》と交換させる……そして皇帝の命令によるため変更は許されない。あなたはまったく悪戯好きなかたですな!」
冷たい口調で男爵はいった。
「口がまわりすぎるぞ、パイター」
「しかしわたしは嬉しいのですよ、男爵。あなたがいつであろうと……嫉妬をおぼえられるときはね」
「パイター!」
「ほ、ほう、男爵! この見事な計画をあなた自身で考えだせなかったことが残念ではありませんかな?」
「いつの日か、わしはおまえを吊るしてやるぞ、パイター」
「まずそういうことになりますかな、男爵! やれやれ《アンファン》! しかし、親切な行為があだになることなどありますかね、え?」
「おまえはこのところ|ヴェライト《*》か|セムータ《*》を口にしているのか、パイター?」
「恐怖なき真実は男爵を驚かせる、ですか」と、パイターはいった。かれの顔は眉をよせた仮面の戯画《カリカチュア》のようになった。「あ、はあ! ですが、男爵、わたしはメンタートですからな、あなたがいつ処刑者をよこされることになるのかわかっているのですよ。あなたはわたしが役に立つかぎりは、その手をひかえておられる。すぐに行動をおこされることはむだだし、わたしはまだだいぶ役に立つ。わたしはあなたがあの愛らしい砂丘《デューン》の惑星で学ばれたことが何なのか知っている……むだにするな。真実ですな、男爵《バロン》?」
男爵はパイターをにらみつづけた。
ファイド・ラウサは椅子の中でもじもじと動いた。
“このいいあってばかりいる馬鹿者どもが! 伯父はこのメンタートと話をすると議論しないでいられないんだ。こいつらはぼくが、こんな議論を聞いているほか能がないと思っているのか?”
男爵はいった。
「ファイド……わしがおまえをここに呼んだとき、よく聞いていて、学べといったな。おまえは学んでいるか?」
「はい、伯父上」
その声は慎重にへりくだっていた。
「ときどきわしはパイターのことをふしぎに思うよ。わしは必要から苦痛を生み出すことがある。だがかれは……誓っていえるが、かれはそれに喜びを感じるんだな。わし自身は、気の毒な公爵《デューク》レトに哀れみを感じることができる。ドクター・ユエはもうすぐかれにたいして行動をおこし、それがアトレイデ家の全員に終わりをもたらすことになるだろう。だがレトはかならず、だれの手があのいいなりになるドクターを指揮しているのか知るだろう……そして、それを知るのは恐ろしいことになるはずだ」
パイターはたずねた。
「ではなぜあなたはあのドクターに、公爵《デューク》の胸を|キンジャル《*》で静かに能率よく刺せと命令されなかったたんです? あなたは哀れみをおぼえるといわれるのに……」
「公爵《デューク》はわしがかれの運命を制するときを知らなければいかんのだ。それに、ほかの大公家もそのことを知らなければいけない。それを知ることで、かれらはためらうだろうからな。わしの行動できる余地がもっとできるというわけだ。それが必要なことははっきりしているが、わしはそれを好んでやるわけではないんだ」
パイターは嘲笑するような声で口をはさんだ。
「行動できる余地ですと……すでにあなたは皇帝に目をつけられているのですぞ、男爵《バロン》。あなたは大胆に行動しすぎておられる。いつか皇帝は|サルダウカー《*》の一軍団か二軍団をここ|ジェディ・プライム《*》によこされ、それで男爵《バロン》ウラディミール・ハルコンネンの終わりとなるのですぞ」
「おまえはそれを見たい。そうなんだな、パイター? おまえはサルダウカーの軍団がわしの町々を略奪し、この城を荒らすのを見て楽しむんだ。おまえはほんとにそれを楽しむだろうな」
パイターはささやいた。
「男爵《バロン》ともあろうおかたが、それをたずねなければいけませぬか?」
「おまえはその軍団のバシャールであるべきだったよ。おまえは流血と苦痛に興味を持ちすぎているからな。わしはアラキスの戦利品について、約束を急ぎすぎたのかもしれないな」
パイターは妙に気どった足どりで五歩進んで部屋のまん中にもどり、ファイド・ラウサのすぐうしろに立ちどまった。部屋の中に緊迫した空気が流れ、青年は心配そうに眉をよせてパイターを見あげた。
パイターはいった。
「わたしを子供あつかいされないことですぞ、男爵《バロン》。あなたはわたしにレイディ・ジェシカを約束された。あなたは彼女をわたしにくれると約束された」
「なんのためだ。パイター? 苦痛を与えるためなのか?」
パイターは男爵をにらみつけ、沈黙はながびいた。
ファイド・ラウサはかれのサスペンサー椅子を片方に動かした。
「伯父上、ぼくはいなくてはいけませんか? あなたのいわれたのはあなたが……」
「わしの愛するファイド・ラウサはいらだちはじめたな」と、男爵はいい、地球儀のそばのかげの中にはいった。「辛抱するんだ、ファイド」それからかれは視線をメンタートにもどした。
「公爵《デューク》の小倅《こせがれ》はどうなる、ポウルは。パイターくんよ?」
パイターはつぶやいた。
「罠はかれをあなたのところにもたらしますよ、男爵《バロン》」
「それはわしの質問ではない……おぼえているだろう、あのベネ・ゲセリットが公爵《デューク》のために娘を生むだろうとおまえが予言したことを。おまえはまちがっていたのか。え、メンタート?」
「わたしがまちがいをおかすことはそう多くありませんぞ、男爵」と、パイターはいったが、その声に初めて恐怖がしのびこんだ。「そう、わたしがまちがいをおかすことはそう多くないんだ。あなた自身も知っておられるはず、そういったベネ・ゲセリットが生むのは、ほとんど娘であるということを。皇帝のお妃《きさき》たちでさえ、女性だけを生んでおられる」
ファイド・ラウサは口をはさんだ。
「伯父上、あなたはぼくにとって何か重要なことがあるだろうといわれ……」
「わしの甥のいうことを聞いたか? こいつはわしの男爵領を統治したいと心から望んでいながら、自分自身を律することはできないでいるんだ」男爵は地球儀のそばで身じろぎした。影の中の影だ。「ではいおうか、ファイド・ラウサ・ハルコンネン、わしがおまえをここに呼んだのは、すこし知恵というものを教えたいと望んでのことだ。おまえはわしたちの、このよきメンタートを観察していたか? おまえはこの議論から何かを学んだはずだが」
「でも伯父上……」
「もっとも能率のいいメンタート、パイター。おまえはそう思わぬか、ファイド?」
「はい、しかし……」
「ああ! まったく、しかし[#「しかし」に傍点]だ! しかしかれはあまりにも多くの香料《スパイス》を使いすぎる。まるでキャンディーのように食べている。かれの目を見てみろ! かれはアラキーンの労働者キャンプからやってきたのかもしれないぞ。能率のいいパイター。だが、かれはそれでも感情的であり、情熱におし流されがちなんだ。能率的だよ。パイター。だがかれはそれでもまちがいをおかし得るのだ」
パイターは低いむっつりとした声でいった。
「あなたがわたしをここへ呼ばれたのは、わたしの能率を批判し皮肉をいわれるためだったのですか、男爵?」
「おまえの能率を批判する? おまえはわしをもっとよく知っているはずだぞ、パイター。わしは、甥に、メンタートの限界をわからせたいと望んだだけだよ」
「あなたはすでにわたしのかわりになるものを訓練しておられるというわけですな?」
と、パイターは反問した。
「おまえのかわりだと? なぜだ、パイター、どこでおまえほどの狡猾さと悪意をそなえたべつのメンタートを見つけられるというのだ?」
「わたしを見つけられたのと同じ場所ですよ、男爵」
男爵はおもしろそうに答えた。
「そうするべきだったかもしれないな。おまえはちかごろ、だいぶ不安定な状態に見える。それにおまえが食べるあの香料《スパイス》!」
「わたしの楽しみが高価にすぎるといわれるのか、男爵? あなたはそれに反対されるのですか?」
「親愛なるパイターよ、おまえの楽しみこそ、おまえをわしに結びつけているものだ。どうしてわしがそれに反対できるというのだ? わしが甥に望んでいるのはただ、おまえについてそのことを観察しておくことだけだよ」
パイターはいった。
「では、わたしは見せ物にされているというわけですな。踊りでもやってみせましょうか? 高名なファイド・ラウサのために、わたしの持つべつの能力をお目にかけるとしましょうか?」
「そのとおり、おまえはいま見せ物になっているんだ。さて、黙っていてもらおうか」男爵はそういってファイド・ラウサに視線をうつし、甥の唇に目をとめた。ハルコンネン家の遺伝的特徴であるぶあつく、そしてすねたような表情のその唇は、いまおもしろそうにすこしねじれていた。
「この男はメンタートだ、ファイド。ある種の義務をおこなうために訓練され条件づけられてきたものだ。しかし、それが人間の肉体の中におさめられているという事実は、決して見すごしてはいけないことだ。深刻な欠点というわけだな。わしはときどき思うよ、思考機械を持った古代の連中のほうが正しい考えをしていたのではないかとね」
パイターは怒りの声をあげた。
「かれらなどわたしにくらべれば人形のようなもの。あなた自身、男爵、そんな機械などよりずっとましなのですぞ」
「そうかもしれん……ああ、そうだな……」男爵はふかく息をすいこみ、はきだした。「ところで、パイター、わしの甥に概略のところを説明してやってくれんか、アトレイデ家にたいするわれわれの戦いについて目立ったところを。わしらのメンタートとしての機能を、よければはたしてもらいたいな」
「男爵《バロン》、わたしはあなたに警告しておきましたぞ。これほど若いものを、この情報をあたえるほど信頼してはいけないと。わたしの観察によると……」
「わしがその判断はおこなうよ……命令するぞ、メンタート。おまえがたくさん持っている機能のひとつをみせてみろ」
「では、しかたがありませんな」パイターはそういい、背をのばして妙に威厳のある態度になった――まるでそれはべつの仮面のようだったが、こんどはかれの全身をおおうものになっていた。
「標準時間で数日のうちに、公爵《デューク》レトの全家族は、アラキスにむかう宇宙協会《スペーシング・ギルド》の旅客船に乗船します。協会《ギルド*》はかれらを、われらの都市カルタゴではなくアラキーンの町におろす。公爵《デューク》のメンタート、スフィル・ハワトは、アラキーンのほうが防衛しやすいところだと正しく結論をくだすものと思われます」
男爵は口をはさんだ。
「よく聞いているんだぞ、ファイド。計画の中の計画の中の計画に注意するんだ」
ファイド・ラウサはうなずき、考えていた。
“このほうがいい。この老怪物はついに秘密をぼくにうちあけてくれるんだ。かれは本当にぼくをあと継ぎにするつもりにちがいない”
パイターは言葉をつづけた。
「ほとんど関係しないと思われる可能性がいくらかあります……わたしはアトレイデ家がアラキスに行くだろうと述べました。しかしながらわれわれは、公爵《デューク》がこの恒星系意外のどこか安全な場所へうつるための契約を協会《ギルド》とむすんでいる可能性を無視してはいけない。こうした状況において、その家にもつ原子力兵器や|防御シールド《*》とともに帝国の外へ逃れて、見捨てられた公家《ハウス*》となったものもこれまでにあるからです」
男爵はいった。
「あの公爵《デューク》はそんなことをするには気位が高すぎるさ」
「そういう可能性もあるということです……しかしながら、われわれにたいする究極的な効果は同じこととなりましょう」
男爵はうなり声をあげた。
「いや、そんなことにはならんぞ! わしはあいつを殺し、あいつの血統を根絶やしにしなければいかんのだ」
パイターはいった。
「その確率は高いですな……ひとつの公家《ハウス》が流浪の身分になるときは、それを示すなんらかの準備があるものです。公爵《デューク》はそういうことをなにひとつやっていないようですな」
男爵は溜息をついた。
「そうか……つづけろ、パイター」
「アラキーンにおいて、公爵《デューク》とその家族は、これまで伯爵《カウント》とレイディ・フェンリングの住まいだった邸宅を使うことになります」
男爵は笑いをもらした。
「密輸業者への大使だな」
ファイド・ラウサはたずねた。
「なんの大使ですって?」
パイターはいった。
「あなたの伯父上は冗談をいっておられるんです……かれは伯爵《カウント》フェンリングを密輸業者への大使と呼ばれる。つまり皇帝がアラキスにおける密輸作戦に興味をもっておられることを示しているわけですな」
ファイド・ラウサは面くらったような視線を伯父にむけた。
「なぜです?」
男爵は鋭い声をだした。
「頭を働かしたらどうだ、ファイド……協会《ギルド》が帝国の管轄する面以外のところで能率よく行動しているかぎり、ほかにどんな方法があるというんだ? それ以外にどうやればスパイや暗殺者が動きまわれるんだ?」
ファイド・ラウサの口は「おう……」と、無言の声を形づくった。
パイターはいった。
「われわれはその邸宅に牽制作戦を用意してあります……アトレイデ家の嗣子の生命を奪う試みが行われるでしょう……成功するかもしれぬ試みです」
男爵はうなるような声をだした。
「パイター、おまえがいったのは……」
「わたしがいったのは、事故というものはおこり得るということです……そして、その試みは確実な根拠のあるものと見えなければいけないのです」
「ああmだがあの少年はまったくかわいい、わかわかしい肉体を持っているというのに……もちろん、あいつが潜在的にもっているものは、父親よりもずっと危険なものだ……あの魔女的な母親が訓練しているのだからな。呪われた女め! ああ、つづけてくれ、パイター」
「ハワトは、われわれがスパイをもぐりこませていることを見ぬくでしょう。はっきりと疑われるのはドクター・ユエ、そのとおりかれはわれわれのスパイなのですからな。しかしハワトは調査をすませており、われわれのドクターがスク学校の卒業生であり、帝国式条件反射《インペリアル・コンディショニング》を受けていることを知っている……皇帝につかえても安全なはずというわけです。帝国式条件反射は、実に重く見られている。こういった最高の|条件づけ《コンディショニング》は、当人を殺さなければ除去できないものと考えられている。しかしながら、かつてある人がいったとおり、正しいレバーをあたえられるなら、人は惑星をも動かせるものです。われわれは、あのドクターを動かすレバーを見つけました」
「どうやって?」
と、ファイド・ラウサはたずねた。かれはこれを実におもしろい話題だと思った。だれだって帝国式条件反射《インペリアル・コンディショニング》をくつがえすことができないことは知っているはずだ!
男爵は首をふった。
「つぎの機会にな……つづけてくれ、パイター」
「ユエのかわりに、われわれはハワトの毎日にもっとも興味ある疑惑をひきいれるのです。この厚顔きわまる疑惑は、ハワトが彼女に注意をむけるという結果になるのです」
「彼女とは?」
と、ファイド・ラウサはたずねた。
「レイディ・ジェシカその人さ」
と、男爵はいった。
「とほうもないことですかな? ハワトの心はこの考えにとりつかれてしまい、メンタートとしてのかれの能力をそこなってしまう。かれは彼女を殺そうとまでするでしょう」パイターは眉をよせた。「かれがそんなことをやりとげられるとは思えませんがね」
男爵はたずねた。
「おまえはかれに、そうさせたくないってわけか、え?」
「わたしの考えを散らさないでください……ハワトの心がレイディ・ジェシカにとらわれているとき、われわれはなおも、守備隊の駐屯する町のいくつかで暴動をおこさせるといったことで、かれの考えをそらせる。これらの事件は鎮圧され、公爵はあの惑星を確実に支配できはじめたとかならず信じる。そして機が熟したとき、われわれはユエに合図を送り、われわれの主力部隊を送りこむ……ええと……」
男爵はうながした。
「さあ、かれにぜんぶ話してやれ」
「われわれは、ハルコンネンの制服に扮装したサルダウカーの二軍団で補強されて侵攻するのです」
「サルダウカー!」
ファイド・ラウサは息をのんだ。かれの心は、恐ろしい帝国軍隊、情けを知らぬ殺戮者たち、大王皇帝《パディッシャ・エンペラー》の狂信的兵士たちの姿に焦点をむすんだ。
男爵はいった。
「これでわしがどれほどおまえを信頼しているかわかるだろう、ファイド……このことはほんのすこしだろうと他の|大 公 家《グレイト・ハウス》に知られてはいけないのだぞ。さもなければ、ランドスラードが皇室に反抗して団結し、大混乱がおこるかもしれんからな」
パイターはいった。
「大切な点はこうです……ハルコンネン家は帝国の汚い仕事をすることに慣れているから、こちらはまったく優位に立っている。はっきりいって、それは危険な優位さだが、もしそれを慎重に用いるなら、帝国にあるどの公家《ハウス》よりも偉大な富をハルコンネン家にもたらすことになるのです」
「おまえにはどれほどの富が関係しているのか想像もつかんだろうな、ファイド……どれほど想像力をたくましくしてみてもだ。まずわれわれは、まちがいなくCHOAM公社の支配権をにぎることになる」
ファイド・ラウサはうなずいた。富とはもの[#「もの」に傍点]だ。CHOAM公社は富への鍵であり、どの公家《ハウス》も公社の資産のおこぼれをかすめとっている。その支配権の目をぬすめるものであればどんなものであれだ。そういったCHOAMの管理者――それは帝国における政治的権力をにぎる現実の証拠であり、ランドスラード内での投票勢力の変化にともなってうつり、それ自体が皇帝とその支配者たちにたいしてバランスを保った形となっているのだ。
パイターは言葉をつづけた。
「公爵《デューク》レトは、砂漠の端におる少数のフレーメンのならずもののところへ逃げようとこころみるかもしれません。あるいはかれの家族をその安全と想像するところへ送ろうとするかもしれません。しかしその通路は陛下の工作員のひとりによってブロックされています……その惑星生態学者によって。おぼえていられますかな。かれを……カインズです」
「ファイドはかれをおぼえているよ。さきへ進んでくれ」
パイターはいった。
「よだれが落ちますかね、男爵《バロン》」
男爵はどなった。
「先へ進めというんだ、命令だぞ!」
パイターは肩をすくめた。
「ことが計画どおり進行すると、ハルコンネン家は標準時間で1年以内に、惑星アラキスに準領土を所有することになります。あなたの伯父上はあの領土の分配を受けられ、伯父上個人の工作員がアラキスを統治するのです」
ファイド・ラウサはいった。
「利益はそれ以上さ」
「そのとおり」
と、男爵はいい、そして考えた。
“これでこそ正当なんだ。われわれこそアラキスを飼いならしたものだからな……砂漠のまわりに隠れている少数の混血したフレーメンを除けば……しれに、土人の労働力とほとんど同じほどあの惑星にかたくしがみついている飼い慣らされた密輸業者を除いてだが”
パイターはいった。
「そして|大 公 家《グレート・ハウス》はみな、男爵がアトレイデ家を亡ぼしたことを知ります。かれらは知ることになるのです」
男爵はうなずいた。
「かれらは知ることになる」
パイターはいった。
「なににもまして嬉しいのは、公爵《デューク》もそれを知る結果になることですな。かれはいまも知っていますよ。かれはすでにその罠が感じられるはずです」
「公爵《デューク》が知っているのは本当だ」と、男爵はいい、その声には悲しさがこもっていた。「かれは知るほかない……哀れなものだな」
男爵は惑星アラキスの地球儀から離れた。かげから出てくると、かれの姿は|次 元《ディメンション》をそなえたものになった――下品で、ひどく太っている。そして黒い寛衣《ローブ》の下にかすかにのぞくふくらみはかれの脂肪のすべてが体に装備されたポータブル・サスペンサーでなかば以上ささえられていることを示している。実のところその体重は二百標準キロもあるだろうが、かれの両足はそのうちの五十キロも運んでいないのだ。
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聖ナイフのエイリアはかく言われた。「教母は高級娼婦の誘惑における技術と清らかな女神のおかすべからざる威厳をむすびつけ、その若さの力が耐えられるかぎり長いあいだそれらの特質を緊張して保たなければならぬ。なぜならば若さと美しさが去ったとき、かつては緊張によって占有されていたその中間の場所こそ、狡猾さと機略の源泉となっていることを発見するであろうからだ」
――イルーラン姫による
“ムアドディブ、家庭における論評”から
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「よろしい、ジェシカ、おまえは自分になんといわなければいけないんだね?」
と、教母はたずねた。
それは、ポウルが試練に会った日のカラダン城、日没に近いころだった。ジェシカの|居 間《モーニング・ルーム》にいるのはその女たちふたりだけで、ポウルはそのとなりにある防音の瞑想室で待っていた。
ジェシカは南の窓に面して立っていた。農園と川が夕暮れになって色彩を変えてゆく有様を、彼女は見ていたが、それでも目にははいらなかった。彼女は教母の質問を聞いていたが、それでも耳にははいらなかった。
かつてもうひとつの試練があった――ずいぶん長い歳月の昔だ。赤銅色《ブロンズ》の髪、思春期の嵐の肉体をさいなまれているやせっぽちの少女が、|ワラッハ第九惑星《*》にあるベネ・ゲセリット学校の上級学生監《プロクター・スーペリア*》、|教 母《リヴァレント・マザー》ガイウス・ヘレン・モヒアムの書斎にはいっていったのだ。ジェシカは右手を見おろし、指をまげ、あの苦痛と恐怖を思いだした。
「かわいそうなポウル」
と、彼女はささやいた。
「わたしはおまえに質問しているんだよ、ジェシカ!」
老婆の声は鋭く詰問した。
「なにを? ああ……」ジェシカはその注意力を過去から切りはなし、西の窓ふたつのあいだにある石の壁を背にして座っている教母のほうにむいた。「なにをわたしにおいわせになりたいんですの?」
「なにをおまえにおいわせになりたいんですの? なにをおまえにおいわせになりたいんですの?」
年老いた声は無慈悲な口調でものまねをくりかえした。
「ええ、わたしは息子を生みましたわ!」
ジェシカはかっとなっていった。そして彼女は、意識してこの怒りにあおりたてられたことを知った。
「おまえはアトレイデ家のために、娘だけを生むようにといわれたはずだよ」
ジェシカは哀願するように答えた。
「かれが心から望んだことでしたから」
「そしておまえは、クイサッツ・ハデラッハを生めるかもしれないという誇りをおぼえたんだね!」
ジェシカは顎をあげた。
「その可能性は感じましたわ」
老婆は鋭くいった。
「おまえは息子がほしいという公爵《デューク》の望みだけを考えたんだ。そしてかれの望みは計算にはいっていなかったんだよ。アトレイデの娘をハルコンネンの世継ぎと結婚させ、裂け目をふさぐことができたはずなんだ。おまえは事態を絶望的なまでに複雑にしてしまった。わたしたちはいま、両方の血統を失ってしまうかもしれないんだよ」
「あなたが絶対にたしかだとはいえませんわ」
と、ジェシカはいった。彼女は年老いた目の凝視をはねかえした。
やがて老婆はつぶやいた。
「すんだことはすんだことさ」
「わたし、自分の決めたことは絶対に後悔しないと誓いました」
教母は嘲笑するようにいった。
「なんとまあけだかいことだね……後悔はしないか。わたしたちはそのうち見ることになるね。おまえが首に賞金をかけられた逃亡者になり、あらゆる人の手が、おまえの命と、おまえの息子の命を求めてのばされるのを」
ジェシカの顔色は青ざめた。
「ほかにえらぶ方法はないのでしょうか?」
「ほかの方法だって? ベネ・ゲセリットがそんなことをたずねなければいけないのかい?」
「わたしがおたずねするのは、あなたのより優れた能力で未来に何を見られるかということだけなのです」
「わたしが未来に見るのは、過去に見たもの。おまえはわれわれにおこることのパターンをよく知っておろうが。ジェシカ。民族はそれ自身の死すべき運命とその遺伝にある沈滞を恐れるものだ。それは血の流れにある……計画もなく遺伝的な素質をまぜあわせようとする衝動だ。帝国、CHOAM公社、すべての|大 公 家《グレート・ハウス》、それらはみなこの流れの道筋に漂う残り屑にすぎないんだよ」
ジェシカはつぶやいた。
「CHOAM……あそこはもう、アラキスの略奪品をどのように再分配するか決めていると思いますわ」
老婆はいった。
「CHOAMなんて、この時代の風見《かざみ》にすぎないんだよ。皇帝とその友だちがいま、CHOAM管理者投票権の五九・六五パーセントをにぎっている。たしかにそこには利権の匂いがするし、皇帝のにぎる投票勢力がその利権をいっそうふやすだろうということを、ほかの連中も感じている。これが歴史のパターンなんだよ、ジェシカ」
「それこそわたしが現在必要としていることですわ……歴史を調べなおすことが」
「おふざけでないよ! われわれのまわりにどんな勢力が存在しているか、おまえはわたしと同じように知っているはず。|三 点《スリー・ポイント》文明が存在しているのさ……皇室はランドスラードの|大 公 家 連 合《フェデレイテッド・グレイト・ハウス》とバランスを保っており、その間に協会《ギルド》がいて、恒星間輸送を独占している。政治において、この三脚はあらゆる構造の中でもっとも不安定なものなんだよ。ほとんどの科学に背をむけている封建的な貿易文化という複雑なものがなくても、まったく悪いものさ」
ジェシカは苦しそうにいった。
「流れの道にある破片……ここにあるこのチップ、これは公爵《デューク》レト、そしてこれはかれの息子、そしてこれは……」
「おだまり、ジェシカ。おまえは充分よく知ってはいってきたんだ、どれほど微妙なところを歩くことになるかを知って」
ジェシカは引用した。
「……わたしはベネ・ゲセリット、わたしが存在するは奉仕するためのみ……」
「真実さ……そしてわれわれみんながいま望めるのは、これが爆発して全般的な大惨事になることを防ぐこと、われわれのできるかぎり主要な血統を救うこと」
ジェシカは目を閉じ、涙が瞼の下からあふれ出てくるのを感じた。彼女は体の中からふるえてくるのを押えようとした。体の外のふるえ、不規則な呼吸、みだれがちな脈搏、掌ににじむ汗もだ。やがて彼女はいった。
「わたし、自分がおかした失敗のつぐないはします」
「そして、おまえの息子もいっしょにつぐなうことになるんだよ」
「わたしかれを、できるだけうまく遮蔽《シールド》します」
「シールドするって!」老婆は鋭い声をあげた。「そこにある弱点をおまえはよく知っているじゃないか! おまえの息子をあまりシールドすれば、ジェシカ、かれはどんな運命でも切りひらいていけるほど強くは成長しないんだよ」
ジェシカは顔をそむけ、暗闇がしのびよってくる窓の外を眺めた。
「ほんとにそれほど恐ろしいところですの、このアラキスって惑星は?」
「ひどいところだが、そうまでひどくもない。|保 護 伝 道 団《ミッショナリア・プロテクティヴァ》があそこにいて、すこしやわらげたからね」教母も立ちあがり、ガウンの裾をのばした。「あの子をここへお呼び。わたしはもう帰らなくてはいけないからね」
「どうしても?」
老婆の声はやさしくなった。
「ジェシカ、娘よ。わたしはおまえのかわりになって、おまえの苦しみをかぶってあげたい。しかしわたしたちはみな、自分の道を進まなければいけないんでね」
「わかっていますわ」
「おまえはわたしにとって、わたし自身の娘のだれとも同じほどかわいい。でも、それで義務をごまかすことはできないんだよ」
「わかります……必要なことですもの」
「おまえが何をしたか、ジェシカ、そしてなぜおまえがそれをしたか……わたしたちはふたりとも知っている。でも親切からいわなければいけないのだが、おまえの子供がベネ・ゲセリット・トータリティになるだろうという可能性はすくないね。あまり多くのことを望まないようにしなければいけないよ」
ジェシカは首をふり、目もとにたまった涙をふり飛ばした。それは腹をたてた仕草だった。彼女はやっとの思いでいった。
「あなたはわたしにまた小さな娘のような思いをさせていられますのね……最初のレッスンをくりかえして……人間が動物に負けてたまるものですか」彼女はすすり泣き、低い声でいった。
「わたし、ずっと、ほんとに淋しかったんです」
「それもテストのひとつになるべきだね……人間というものは、ほとんどつねに孤独なものなんだから。さあ、坊やをお呼び。あの子は長い、こわい一日をおくった。でもかれは考え思いだす時間を持ったはず。さてわたしは、かれの夢についてほかの質問をしてみなければいけないからね」
ジェシカはうなずき、瞑想室のドアへ行き、それを開いた。
「ポウル、はいってきて」
ポウルは頑固そうにゆっくりと姿をあらわした。かれは母をまるで他人のように見つめた。その視線が教母にうつるとかれの目に用心ぶかい表情がうかんだが、こんどは彼女にうなずいてみせた。同等のものにあたえる会釈だ。かれは母が背後でドアをしめる音を聞いた。
老婆は話しかけた。
「若者よ、この夢の話にもどりましょうかな」
かれはたずねた。
「おまえは何を求めているんだ?」
「あんたは毎晩、夢を見るのかね?」
「記憶しておく価値のいある夢ばかりじゃあない。ぼくはすべての夢を記憶しておけるが、記憶しておくだけの価値のある夢もあり、そうでないものもあるんだ」
「そのちがいがどうしてわかるんだね?」
「ただわかるだけだよ」
老婆はジェシカをちらりと見て、またポウルに視線をもどした。
「ゆうべあんたはどんな夢を見た? それはおぼえておくだけの値打ちがあるものだったかい?」
「ああ」ポウルは目を閉じた。「ぼくは洞窟の夢を見た……それに、水……そして、そこに女の子がいた……ひどくやせて、大きな目をした娘だった。彼女の目はぜんぶが青、白いところがないんだ。ぼくは彼女と話をし、おまえのことを話したよ。カラダンで|教 母《リヴァレント・マザー》に会ったことを」
ポウルは目をあけた。
「それで、あんたがわたしに会ったとその変わった娘に話したことだけど、それは今日おこったことなのかい?」
ポウルはそのことを考えてから答えた。
「そうだ、ぼくはその娘に、おまえがやってきて、ぼくに変わっているという刻印《スタンプ》をおしたことを話すんだ」
「変わっているというスタンプね」と、老婆は小さな声でいい、またもジェシカに視線を走らせ、注意をポウルにもどした。「正直に話しておくれ、ポウル、あんたは夢で見たとおりのことがあとで正確におこるといった夢をよく見るのかい?」
「ああ。それにぼくはその娘のことを前にも夢で見たよ」
「ほう? あんたは彼女を知っているのかね?」
「知ることになるんだ」
「彼女のことをわたしに話しておくれ」
またもポウルは目をつぶった。
「ぼくらはどこか秘密の岩の中にあるせまい場所にいる。ほとんど夜だが、暑くて、岩にあいている穴の外に砂のひろがりが見える。ぼくらは……何かを待っている……ぼくがどこかへ行ってだれかに会うことをだ。そして彼女はこわがっているが、それをぼくに隠そうとしており、ぼくは興奮している。そして彼女はいうんだ……教えて、あなたの故郷の世界、|ウスル《*》、そこにある水のことを……」
ポウルは目をあけた。
「変じゃないか? ぼくの故郷はカラダンだ。ウスルなんて惑星は見たことも聞いたこともないよ」
ジェシカはうながした。
「その夢にはもっと先があるの?」
「ええ、でもたぶん彼女はぼくのことをウスルと呼んでいたのかもしれませんね。いま気がつきましたが」かれはふたたび目をつぶった。「彼女はぼくに頼む、水のことを話してくれって。ししてぼくは彼女の手をとる。そしてぼくは彼女に、詩を読んであげるという。そしてぼくは詩を読むが、言葉のいくつかを説明しなければいけない……海岸とか波打ち際とか海草とかカモメといった言葉を」
教母はたずねた。
「どんな詩なんだね?」
ポウルは目をあけた。
「ガーニィ・ハレックが悲しいときに抑揚をつけて読む詩のひとつにすぎないんだ」
ポウルの背後で、ジェシカは朗唱しはじめた。
「思いだすは浜辺のたき火
そこにたちのぼる塩気のある煙
そして松の暗い木陰……
かたく、清らかで……動かず……
カモメは水際《みぎわ》の砂におりる
緑の上にひろがる白……
松のあいだを風が吹いてゆく
木陰をゆるがせようとするのか
カモメは羽根をひろげ
飛びあがり
空を鳴き声でいっぱいにする
そしてわたしは聞く
われらの浜辺を
波打ち際を吹いてゆく風の音を
わたしは見る
われらのたき火が
海草を焦がしていることを」
ポウルはいった。
「あれがそうだよ」
老婆はポウルを見つめた。
「若者よ、ベネ・ゲセリットの学生監《プロクター》としてわたしはクイサッツ・ハデラッハを求めている。本当にわれわれのひとりになれる男性をね。あんたの母さんはあんたにその可能性があると見ているが、それは母親の目で見ていること。わたしにもその可能性は見えるが、それだけのことだね」
彼女は沈黙し、ポウルは老婆がかれに話させたがっているのだと知った。かれは老婆が口をひらくのを待った。
やがて彼女は言った。
「ではあんたの好きなように……あんたの中には深さがある、それはわたしも認めよう」
かれはたずねた。
「もう行っていいのか?」
「あなたは聞きたくないの、教母さまがクイサッツ・ハデラッハについて話されることを?」
と、ジェシカはいった。
「この人は、それを試みたものが死んだことを話してくれました」
ポウルがそう答えると、教母はいった。
「だがわたしは、なぜかれらが失敗したのかというヒントをすこし教えることで、あんたを助けてあげられるのだよ」
ポウルは考えた。
“この女はヒントだという。なにもはっきり知っているわけではないんだ”
かれは口をひらいた。
「ではヒントをいってくれ」
「そしてわたしを馬鹿にするのかね?」彼女は年老いた顔をしわだらけにして、意地悪そうな微笑をうかべた。「よろしい……それは、負けるが勝ち」
かれは驚きをおぼえた。こいつは、意味の中にある緊張といった初歩的なことを話している。母がこれまで何ひとつ教えてくれなかったとでも思っているのだろうか?
「それがヒントなのか?」
と、かれはたずねた。
「わたしたちは、そういったことの意味について言葉をもてあそび、あいまいなことをいうため、ここにいるのではないんだよ……柳は風に従い、栄え、そしていつの日にか多くの柳になる……風にたいする壁。これが柳の目的だよ」
ポウルは老婆を見つめた。彼女は目的[#「目的」に傍点]といい、かれはその言葉にたたきつけられ、恐ろしい目的にまたふれられたような感じがした。かれは老婆にたいしてとつぜん怒りをおぼえた。この馬鹿な老いぼれた魔女は、きまり文句を口にしているだけだ。
かれはいった。
「おまえはぼくがクイサッツ・ハデラッハとかになるかもしれないと考えている……おまえはぼくのことを話しているが、父上を助けるためにぼくらがどんなことをやれるかということは、まったく話さなかった。ぼくはおまえが母上に話していることを聞いた。おまえの話しかたはまるでぼくの父上が死んでいるようだ。だが、そうじゃないんだぞ!」
老婆はうなるような声で答えた。
「かれのためにやれることがひとつでもあれば、われわれはやっているよ……あんたを救うことだってできるかもしれないな。疑わしいが、可能性はあるからね。だが、あんたの父さんには、なにひとつないんだよ。あんたがそれを事実として受けとることを学べば、あんたは本当のベネ・ゲセリットのレッスンを学んだことになるのさ」
ポウルはその言葉でどれほど母親がふるえたかを知った。かれは老婆をにらみつけた。父親のことでどうしてそんな口がきけるんだ? なでそれほど確信があるんだ? かれの心は怒りに煮えくりかえった。
教母はジェシカを眺めた。
「おまえはあの方法《ウェイ*》でかれを教育してきたんだね……そのしるしを見たよ。わたしもおまえのい立場なら同じことをしただろう、規則などくそくらえとね」
ジェシカはうなずいた。
「さてと、わたしはおまえに警告しておくよ、訓練の規則的な順序を無視することをね。かれ自身の安全は声《ヴォイス》を必要としている。かれはすでにそのことでいい出発のしかたをしてはいる。でもわれわれはどちらも、かれがどれほど多くのものを必要とするかを知っている……それも絶望的なまでにね」彼女はポウルのすぐそばに歩みより、かれを見おろした。「さようなら、若者よ、わたしはあんたがそれをやりとげることを望んでいる。だが、もしあんたにできなければ……そうだね、あとにつづくものを祈るだけさ」
もう一度彼女はジェシカを眺めた。ふたりのあいだに了解のまばたきがかわされた。それから老婆は寛衣《ローブ》をひるがえし、一度もあとをふりかえることもなく、部屋から出ていった。その部屋とその中にいるもののことは、すでに彼女の思考から切りはなされてしまったのだ。
だがジェシカは教母が離れてゆくときの顔をちらりと見た。しわだらけの頬に涙が流れていたのだ。その涙は、この日ふたりのあいだにかわされたほかのいかなる言葉や身振りよりもずっと心を悩ませるものだった。
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あなたはムアドディブがカラダンで同年齢の遊び友だちを持っていなかったことを読まれた。危険があまりにも大きかったのだ。しかしムアドディブにはすばらしい仲間であり教師である者がいた。ガーニィ・ハレック、吟遊詩人にして戦士。あなたがたはこの本の中でガーニィの歌のいくつかを歌うことになるだろう。そしてまた老スフィル・ハワト、大王皇帝《パディッシャ・エンペラー》の心臓にさえ恐怖をたたきこめるメンタートで暗殺の名人。そしてダンカン・アイダホ、|ギナツ《*》の名剣士。ドクター・ウェリントン・ユエ、その名は反逆に黒いが知識において優れたる者。レイディ・ジェシカ、息子をベネ・ゲセリットの道にみちびきたる人。そして、無論のこと、公爵《デューク》レト。父としての資質がこの長きにわたって看過されきたった人。
――イルーラン姫による“ムアドディブの幼年時代”から
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スフィル・ハワトはカラダン城の訓練室にすべりこむと、静かにドアをしめた。かれはその場にしばらく立ち、老齢と疲労とこわばりをおぼえていた。かれの左足で、先代公爵に仕えたときに切られた傷が痛んだ。
“これで三代になるからな”
と、かれは思った。
天窓からさしこむ正午の日ざしで明るい大きな部屋を見まわしたかれは、少年が背をドアにむけて坐り、L字形のテーブルにひろげた書類や地図を熱心に調べている姿を見た。
“いったい何度、この少年に背をドアにむけて坐るなといわなければいけないんだ?”
ハワトは咳ばらいした。
ポウルはかがみこんだ姿勢のまま勉強をつづけていた。
雲の影が天窓を通っていった。もう一度、ハワトは咳ばらいをした。
ポウルはふりむきもせず、背をのばして口をひらいた。
「わかっているよ。ぼくは背中をドアにむけて坐っている」
ハワトは笑いをおさえて、部屋を大股に横切っていった。
ポウルはテーブルの角に立ちどまった白髪《しらが》まじりの老人を見あげた。ハワトの両眼は、黒く深い皺がよった顔にあいた油断のなさをたたえる二つのプールだった。
「ぼくはおまえが廊下をやってくる足音を聞いた。そしてドアをあける音を聞いたんだ」
「わたしがたてる音はまねられるんです」
「ぼくにはそのちがいがわかるさ」
“そうなのかもしれん……たしかに、魔女的母親《ウィッチ・マザー》がかれに深い訓練をあたえているんだからな。彼女の誇りにしている学校は、そのことをどう思っているんだろうな? それであの老学生監《プロクター》をよこしたのかもしれん……われわれの親愛なるレイディ・ジェシカを、出すぎたことをするなと鞭うちにか”
ハワトは椅子をポウルのそばから引っぱり、ドアのほうにむいて坐った。かれはそれを皮肉そうにやり、うしろにもたれて部屋の中を見まわした。あたりはどうも変な場所のように思われた。道具類のほとんどがすでにアラキスへ行ってしまったいま、知らないような場所になっていたのだ。訓練用テーブルが残っており、剣術用の鏡はその水晶プリズムが静止し、そのそばの標的人形はつぎはぎだらけで詰め物をされており、まるで戦闘に傷つき打ちのめされた昔の歩兵みたいだった。
“あそこに立っているのが、おれなんだ”
と、ハワトは思った。
「スフィル、なにを考えているんだい?」
ハワトは少年を見た。
「わたしたちはみな、もうすぐここから出てゆき、ここを二度と見ることはないかもしれないのだとね」
「それで悲しくなったのかい?」
「悲しい? 馬鹿なことを! 友だちと別れるのが悲しいこと。場所は場所にしかすぎませんぞ」かれはテーブルにあった地図をちらりと見た。「そしてアラキスもまた別の場所にすぎないでしょうが」
「父上がおまえを、ぼくのテストによこしたのか?」
ハワトは顔をしかめた――この子はまったく物事がよくわかる。かれはうなずいた。
「あなたは父上がご自分でこられたらよかったのにと思っておられる。だがあなたは父上がどれほど忙しいかわからなければいけないな。父上がこられるのはもっと先のことになるでしょう」
「ぼくはアラキスにおこる嵐のことを調べていたんだ」
「嵐ね」
「だいぶひどいものらしいな」
「ひどいというのは、用心すぎる言葉ですな。その嵐は六千から七千キロメートルのあいだ平地を横切って、あらゆる勢力を利用して大きくなってゆく……|コリオリス《*》の力、他の嵐、一オンスのエネルギーであろうとその中にあるものならなんでもです。それは時速七百キロメートルにも達して吹き、通ってくるあいだにのせてきたあらゆるものといっしょに……砂、ほこり、なんでもです。それは肉を食いちらして骨にし、骨を裂いてこまかな断片にしてしまうんです」
「なぜそこでは気象制御をやっていないんだい?」
「アラキスには特別な問題がありましてな、費用は高くかかるし、その維持管理とかそういったものもある。協会《ギルド》は人工衛星による制御に恐ろしいほど高い値段を要求するし、父上の公家《ハウス》は大財閥のひとつではない。坊や、あなたはそのことを知っていられるはずですぞ」
「おまえはフレーメンを見たことがあるのかい?」
坊やの心は今日、大いそがしだな、とハワトは思い、そして答えた。
「見たとはいえないようですな……かれらは|グラーベン《*》や|シンク《*》に住んでいる連中とほとんど見分けられない。かれらはみな、例の大きく流れるような寛衣《ローブ》を着ている。そして連中は閉じこめられた空間の中だと、実にひどい匂いがするんですな。それはかれらの着ている服から匂う……かれらはそれを|スティル・スーツ《*》と呼んでおり、着ている肉体自身の水を再利用しているのですよ」
ポウルは唾をのみこみ、渇きの夢を思いだして、とつぜん自分の口の中にある水分に気がついた。かれらの肉体にある水分を再循環させなければいけないほど水を求めている人々のことを考えると、かれは荒廃した感情におそわれたのだ。
「そこでは水は貴重なんだね」
ハワトはうなずき、考えた。
“たぶんこれでいいんだ、かれの心におれは、あの惑星を敵として考えることの重要さを植えこんでいる。その用心をせずにあそこへはいってゆくのは狂気そのものだからな”
ポウルは天窓を見あげ、雨がふりだしていたことに気づいた。かれは灰色のメタガラスに水滴がひろがってゆくのを見た。
「水だ」
と、かれはいった。
「あなたは水におおきな関心をよせることを学びますぞ……公爵《デューク》の子息だからあなたが水に不自由することは決してないが、まわりのいたるところで渇《かわ》きのもたらす重圧を見ることになるのです」
ポウルは舌で唇をしめらせ、一週間前にあの教母とすごした一日のことを考えた。あの女も水がないことによる渇《かわ》き死にというようなことをいっていた。このように――
「あんたは|埋 葬 の 平 原《ヒューネラル・プレインズ》のことを学ぶようになるだろう……空白の砂漠、香料《スパイス》と砂虫《サンド・ウォーム*》のほかは何ひとつ生きていない見捨てられた土地のことを。太陽のまぶしさを減らすためにあんたは目を染める。避難所とは、風があたらず、だれにも見つけられないように隠れる穴を意味することになる。あんたはソプターも地上車《グラウンドカー》も乗馬もなく、あんた自身の二本の足で歩いてゆくことになる」
そしてポウルは老婆の言葉よりも、その口調のほうに動かされた――歌をうたうように、そしてためらうような。
彼女はこうもいった。
「あんたがアラキスで生きるとき……|カーラ《*》……そこは何もない空白の土地なのだ。月があんたの友となり、太陽は敵となる」
ポウルはそのとき母親がドアを守っていた場所から離れてそばにやってきたことを感じた。彼女は教母を見てたずねた。
「望みはないといわれるのですか、教母さま?」
「父親にはないね」老婆はそういうと手をふってジェシカを黙らせ、ポウルを見つめたのだ。「これを心に刻みつけておくんだよ、坊や。世界は四つのもので支えられている……」彼女は節《ふし》くれだった四つの指を上げた。「……賢者の知識、偉人の正義、正しきものの祈り、そして勇者の勇気によってね。だが、このすべても無きものと同じ……」彼女は指を曲げて拳にかためた。「……統治の技術を知る為政者がないかぎりはな。それをあんたの大切な科学とするんだよ!」
教母とすごしたあの日から一週間がすぎた。老婆の言葉はいまになってはっきり意味を持ちかけたばかりのところだった。いま、訓練室でスフィル・ハワトと坐っていると、ポウルは恐怖の鋭い痛みを感じた。かれはメンタートがふしぎそうに眉をよせるのを見た。
ハワトはたずねた。
「こんどはどんな馬鹿げた空想をしていたのです?」
「おまえは教母に会ったことがあるのかい?」
ハワトの目は興味をおぼえたように光った。
「帝国から来たあの真実審判師《トルース・セイヤー》の魔女ですかな? 会いましたよ」
「あの女は……」
ポウルはためらい、あのやりとりについて話すことができないのを知った。禁止の枷《かせ》は深いものだった。
「それで? 彼女は何をしたんです?」
ポウルは深く二度呼吸した。
「あることをいったよ」かれは目を閉じ、言葉を思いだそうとし、口を開いたときかれの声は無意識のうちにあの老婆の口調をいくらかまねたものになっていた。「ポウル・アトレイデ、王たるものの子孫、公爵《デューク》の嗣子、あんたは統治することを学ばなければならぬ。それはあんたの先祖がだれひとりとして学ばなかったこと」ポウルは目をあけてあとをつづけた。「それでぼくは腹がたち、父上はひとつの惑星ぜんぶを統治しているんだぞっていったんだ。するとあの女はいったよ……かれはそれを失いかけているって。それでぼくは、父上はもっと富のある惑星を手に入れるんだといったよ。するとあいつは……かれはそれも失うことになる、といった。それでぼくは、父上のところへ走っていって警告してあげたいと思ったが、父上はもうすでに警告を受けているといった……おまえから、母上から、多くの人々から」
ハワトはつぶやいた。
「そのとおりですな」
ポウルは反問した。
「ではなぜぼくらはそこへ行くんだ?」
「皇帝が命令されたから。そして、あの魔女スパイがなんといおうと希望が存在するから。そのほか、この年老いた知恵の泉から何が出てきましたな?」
ポウルはテーブルの下でかたくにぎりしめている右手を見おろした。ゆっくりとかれは筋肉を楽にするようにと意思を集中した。かれは考えた――あの女は何かの枷《かせ》をぼくにかけた。どうやってなんだ?
「あの女は、統治するとはどういうことなのかぼくに話せといった。そしてぼくは、命令することだといった。するとあの女はいった。ぼくには習わないでも知っているところがすこしあるって」
あの女は的を射ているな、とハワトは思い、ポウルにつづけてくれとうなずいてみせた。
「あの女はいった、統治者たるものは強制ではなく、納得させることを学ばなければいけない、と。最上の男たちをひきよせるためには最高のコーヒー沸かしを用意しなければいけないともね」
ハワトはたずねた。
「彼女は、父上がダンカンやガーニィのような男をどうしてひきよせたと思っているんです?」
ポウルは肩をすくめた。
「それからあの女はいった、いい統治者というものは、かれの世界の言葉を学ばなければいけない、どの世界でもちがっているものだ、と。それでぼくはあの女がいったことは、アラキスにいる連中が|ガラッハ《*》を話していないという意味だと思ったが、あの女はそれだけではないというんだ。岩石とか育ってゆくものの言葉、耳だけでは聞けない言葉のことだというんだ。それでぼくはいったよ。それはドクター・ユエのいう生命の秘密だと[#「生命の秘密だと」に傍点]」
ハワトは笑い声をあげた。
「彼女、それをどう受けとりましたな?」
「あの女、腹をたてたと思うよ。あの女は、生命の秘密とは解決する問題ではなく、経験するべき現実だといった。そこでぼくは、メンタートの第一法則を引用してやった……プロセスは、とめることによって理解することなどできない。理解はプロセスの流れにともなって動き、それに合体し、ともに流れなければいけない……それであの女は満足したようだったよ」
ハワトは考えていた。
“かれは回復しかけているようだ。しかし、あの年老いた魔女には驚かされたことだろう”
ポウルはたずねた。
「スフィル、アラキスはあの女がいったほどひどいところなのかい?」
「あれほどひどいところはありませんぞ」ハワトはそういい、無理に微笑してみせた。「たとえばフレーメンのことを考えてみるんですな、砂漠に住む背教者たち。初歩の推定分析によってわたしは帝国が考えていりよりはるかに多く、あそこにはその連中がいると思いますよ。人々があそこに住んでいるのですぞ、坊や、非常に多くの人々が……」ハワトは筋ばった指を目のそばにあてた。「……かれらは血なまぐさい情熱をもってハルコンネン家を憎悪している。あなたはこのことを、ひとことなりと口にしてはいけませんぞ。わたしはただ、父上の助力者としてあなたに告げているのです」
「父上はぼくに|サルサ・セカンダス《*》のことを話してくれた。知ってるかい、スフィル、そこがアラキスに似ていることを……多分それほどひどくはないんだろうが、それでもよく似ているんだ」
「現在のサルサ・セカンダスが実際にどうなのかわれわれは知らない。ただ、ずいぶん前にどうだったかということですな……ほとんどは。しかし、知られていることは……あなたのいったとおりですよ」
「フレーメンはぼくらを助けてくれるだろうか?」
ハワトは立ちあがった。
「その可能性はありますな……わたしは今日、アラキスへ出発します。さて、あなたを好いている老人のために、自分に気をつけていてくださるかな? ここへ来るときはいい子にして、ドアに面して坐ること。城内に危険があるとわたしが考えているからではなく、これからあなたにつけてほしい習慣だからですぞ」
ポウルも立ちあがって、テーブルをまわった。
「おまえは今日出発するのか?」
「そう今日、そしてあなたは明日出発されることになる。こんどわれわれが会うのは、新しい世界の土でということになりますな」かれはポウルの右腕の二頭筋のあたりをにぎった。「ナイフをにぎる腕を自由に使えるようにしておくこと、よろしいな? そしてあなたのシールドをフル・チャージにしておくこと」
かれは腕をはなし、ポウルの肩をたたくと、ふりむき、急いでドアにむかった、
「スフィル!」
と、ポウルは呼んだ。
ハワトはふりむき、ひらいた入口に立った。
ポウルはいった。
「どのドアにも背をむけて坐るなよ」
微笑がしわのよった老人の顔にひろがった。
「そんなことはしませんぞ、坊や。信用してくださることだ」
そしてかれは出てゆき、静かにドアをしめた、
ポウルはハワトがいたところに腰をおろし、書類を整理した。ここはもう一日か[#「ここはもう一日か」に傍点]、とかれは考えた。ぼくらは出てゆくんだ[#「ぼくらは出てゆくんだ」に傍点]。出発するのだという思いはとつぜん、これまでよりずっと現実的なことになった。かれはあの老婆がいったもうひとつのことを思いだした。世界とは多くのものの合計であること――民衆、土地、そこにできるもの、月、潮の干満、太陽――自然と呼ばれる未知の合計、現在[#「現在」に傍点]という感覚はなにひとつない漠然とした合計。そしてかれは考えた、現在とはいったいなんなのだ[#「現在とはいったいなんなのだ」に傍点]?
ポウルの正面にあるドアがとつぜん開き、醜いこぶのある男が武器をいっぱいかかえて飛びこんできた。
「やあ、ガーニィ・ハレック……おまえが新しい武術師範か?」
ハレックは片足でドアを蹴ってしめた。
「きみはおれが遊戯をやりにきたほうがよかったんだな」
と、かれはいい、部屋の中を見まわし、ハワトの部下がすでに調べ、公爵の世継ぎが安全でいられることをたしかめた形跡に気づいた。目立たない暗号のサインがほうぼうについていたのだ。
ポウルは醜いこぶのある男が動きはじめ、いっぱいの武器とともに訓練テーブルのほうへむきを変えるのを見つめ、九絃のバリセットがガーニィの背中にかけられており、指盤の上にマルティピックが絃にとおしてあるのを知った。
ハレックは武器を練習用テーブルに落としてならべた――|細身の剣《レイピア》、|刺し針《ポドキン》、|両刃短剣《キンジャル》、|小弾丸麻痺銃《ペレット・スタンナー*》、シールド・ベルトだ。ふりむいて微笑をむけたかれの顎で、|インクヴァイン《*》の傷がおどった。
「さてと、きみはおれにおはようともいわないんだな、この若僧……それにきみは老ハワトにどんな皮肉をいったんだ? あいつは敵《かたき》の葬式に飛んでゆく男みたいな勢いで、おれのそばを走っていったぞ」
ポウルは笑った。父親の部下全員のうちで、かれはガーニィ・ハレックがいちばん好きであり、この男の気分と大胆不敵なふるまいやユーモアを知っており、傭われた剣士というよりは友人と考えていたのだ。
ハレックは肩からバリセットをおろして、調絃をはじめた。
「口をききたくないなら、きかないでもいいさ」
ポウルは立ちあがり、部屋を横切って進みながら話しかけた。
「なんだいガーニィ、戦うべきときだというのに音楽かい?」
「ほう、それが近ごろの、年長者にたいする生意気な挨拶ってわけか」
ハレックはそういいながら和音《コード》を鳴らしてみて、うなずいた。
ポウルはたずねた。
「ダンカン・アイダホはどこなんだ? かれがぼくに武器の使いかたを教えるはずじゃあなかったのかい?」
「ダンカンはアラキスへの第二波を指揮しに行ったよ……きみに残されているのは、戦いもせず音楽でのろくさしている哀れなガーニィだけさ」かれは別の和音《コード》を鳴らし、それに耳を澄まして微笑した。「そして会議ではこうきまったんだ、きみは実に下手糞な戦士だから、おれたち、きみに音楽稼業を教えこむほうがいいってな。そのほうが一生をむだにしてしまわなくていいからさ」
「じゃあぼくのために短いのを歌ってくれたほうがいいんじゃないか……どうすれば歌うたいにならなくてすむか知りたいからな」
「あ、はあ!」
ガーニィは笑い、絃の上にマルチピック[#こんどは「マルチ」ですか…統一するべきだけど原本通り]を走らせて“ガラシアの娘たち”を歌いはじめた。
「おう……ガラシアの娘たちよ
それを真珠のためにするというのか
アラキーンにあれば水のためなのに!
だがもしきみの求めるものが
貴婦人なら
燃えつきてゆく焔のような貴婦人なら
ためしてみるのはカラダンの娘!」
ポウルはいった。
「へたくそな腕前にしては悪くないな……しかし、おまえがそんな変な文句を城の中で歌っているのを母上に聞かれたら、おまえの両耳はちょん切られて城壁の外に飾りとしてつるされるからな」
ガーニィは左耳をひっぱった。
「それにしては哀れな装飾だな。この耳はおれの知っている若僧が変な歌をバリセットで練習しているのを鍵穴から盗み聞きしすぎたんで、傷だらけになっているというのに」
「じゃああまえはベッドが砂だらけになっているのを知ると、どんな気持ちになるか忘れたんだな」ポウルはそういうと、テーブルからシールドを取り、急いでそれを腰のまわりにとめた。
「じゃあ、戦おう!」
ハレックの両眼はひどく驚いて大きく開いた。
「えっ! ではあれをやったのは、きみのその悪い手だったのか! ようし今日はしっかり守ることだぞ、お若いの……しっかりとだぞ」かれは|細身の剣《レイピア》をひっつかむと、それで空気を切った。
「今日のおれは復讐に怒る鬼となるからな!」
ポウルは練習用の|細身の剣《レイピア》を取り、両手で曲げ、片足を前にだしてかまえた。かれはドクター・ユエをおもしろおかしくまねておごそかな態度でからかった。
「なんたる馬鹿を父上はぼくの訓練によこされたものかな。この間抜けなガーニィ・ハレックめ、戦士たるもの武装しシールドすべきだという最初のレッスンを忘れておるわ」ポウルは腰のエネルギー・ボタンをおし、額から尻のほうへと下がってゆく防御フィールドの皮膚をちりちりさせる感触をおぼえ、外部の音がシールドを通ってきた特徴のある単調さでひびくのを知った。「シールド戦闘においては、防御に速く行動し、攻撃に遅くする。攻撃の主たる目的は、敵をあざむき、まちがった行動をとらせ、命をうばう攻撃にさらさせることにあるのだ。シールドは急速な打撃をはねかえし、遅い|両刃短剣《キンジャル》の侵入を許す!」
ポウルは|細身の剣《レイピア》をはねあげ、急速な偽装攻撃《フェイント》をかけ、シールドの無心の防御陣にはいりこむためのゆっくりした突きにタイミングをあわせようと、その剣をかえした。
ハレックはその動きを見つめ、最後の瞬間に体をまわして刃のついていない剣を胸からそらせた。
「スピードはすばらしい。だがきみは、短剣をにぎった手が下から反撃してくるのにたいしては、すきだらけだぞ」
ポウルは残念そうにうしろにさがった。
「そんな無用心さにたいしては、きみの尻をひっぱたくべきだな」ハレックはそういうと、抜き身の|両刃短剣《キンジャル》をテーブルから取ってかまえた。「これが敵の手にあれば、きみの血を流せるんだぞ! きみは頭のいい生徒だ、ちょっと珍しいぐらいだ。しかし警告しておくぞ、たとえ遊びのあいだであろうとだ、その手に死をにぎっている者をきみの|守り《ガード》の中に入れてはいかん」
ポウルはいった。
「ぼくは今日、剣術をやる気分じゃないらしいよ」
ハレックの声はシールドを通ってきてさえも怒りをひびかせていた。
「気分だと? 気分になんの関係があるんだ? きみは必要が生じたときに戦う……気分に関係なしだぞ! 気分とは犬猫相手か、恋をするときか、バリセットを鳴らすときのためのものだ。戦いのためのものではないんだぞ」
「悪かった、ガーニィ」
「まだはっきりわかっているものか!」
ハレックは自分のシールドを作動させると、|両刃短剣《キンジャル》を左手ににぎってかがみこみ、|細身の剣《レイピア》を右手に高くかかげた。
「さあ、本気になって守るんだぞ!」
かれは横に高く飛ぶと、ついで前進し、すさまじい攻撃をかけてきた。
ポウルはそれをかわして、うしろにさがった。かれはシールドの端がづれ、おたがいに反撥するパチパチという音を聞き、その接触で肌に電気がピリピリするのを感じた。
“ガーニィはどうしたというんだ? これは練習なんてものじゃないぞ!”
と、かれは自分の心にたずねた。
ポウルは左手を動かし、手首の鞘から|刺し針《ポドキン》を掌に落とした。
「もうひとつ剣がほしくなったか、え?」
と、ハレックはにくにくしげにいった。
“これは裏切りか? ガーニィにかぎってそんなことは!”
と、ポウルはいぶかしく思った。
部屋じゅうでふたりは戦った――突き、そらし、偽装攻撃《フェイント》と反偽装攻撃《カウンター・フェイント》。かれらのシールド内の空気は、障壁《バリアー》の端での遅い交換ではたりなくなって濁ってきた。シールドがふれあうたびに、オゾンの匂いが強くなっていった。
ポウルはさがりつづけたが、練習用テーブルのほうへさがってゆくようにした。
“かれをテーブルのそばにこさせれば、ひっかけてやれるぞ、もう一歩だ、ガーニィ”
ハレックはその一歩を進んだ。
ポウルは下へ攻撃をかわし、横へまわり、ハレックの|細身の剣《レイピア》の柄《つか》がテーブルの端にぶつかるのを見た。ポウルは|細身の剣《レイピア》を高くつくと同時に、ハレックの頸筋に|刺し針《ポドキン》を近づけた。かれは針の先端を頚動脈から一インチのところでとめた。
ポウルはささやいた
「これがおまえの求めていたことか?」
ガーニィはあえぎながらいった。
「下を見てみろ、坊や」
ポウルはそれに従い、ハレックの|両刃短剣《キンジャル》がテーブルの端の下から出て、その先端はほとんどポウルの睾丸についているのを見た。
ハレックはいった。
「おたがいに死ぬところだったな……だがきみが、どうしようもないとなると、すこしはましに戦えるんだってことは認めてやろう。気分が出てきたらしいな」
かれは狼のような笑いをうかべ、インクヴァインの傷が顎にそって動いた。
「おまえがかかってきた勢いだが、ほんとに血を流させるつもりだったのか?」
ハレックは|両刃短剣《キンジャル》をおさめて、背をのばした。
「もしきみが能力のだし得るかぎりをやっていなければな。おれはちょっとした怪我をさせていたろうな、おぼえておけるだけの傷をだよ。おれは最愛の弟子を、ぶつかる最初のハルコンネンのやつらに殺させたくはないんだ」
ポウルはシールドの作動をとめ、テーブルによりかかって息をついた。
「そうされても仕方はなかったよ、ガーニィ。でもおまえがぼくを傷つけていたら、父上は腹をたてたはずだよ。ぼくの失敗でおまえが罰せられるのはいやだな」
「それはおれの失敗でもあるわけさ。それにきみは、訓練で傷をひとつふたつ受けたところで心配することはないんだ。ほとんどなくてありがたく思うんだな。父上のことだが……公爵《デューク》がおれを罰するのは、おれがきみを一流の戦士にできなかったときだぜ。そして、きみがとつぜん感じだしたこの気分ってやつのいけないことを説明しておかなければ、おれはそれで失敗することになっていただろうな」
ポウルは背をのばし、|刺し針《ポドキン》を手首の鞘にもどした。
ハレックはいった。
「おれたちがここでやっていることは、遊びじゃないんだからな」
ポウルはうなずいた、かれは、ハレックの態度としては似つかわしくないほどの生真面目《きまじめ》さに、驚きの感情をおぼえた。かれは相手の顎についているビート色をしたインクヴァインの傷を眺め、ジェディ・プライムにあるハルコンネンの奴隷収容所でその傷が獣《けだもの》ラッバンによってどんな具合につけられたのかの物語を思いだした。そしてポウルは、自分がほんの一瞬でもハレックを疑ったことに対して、とつぜん恥ずかしい思いにかられた。それからポウルは、ハレックの傷は苦痛をともなって作られたのだということに気づいた――たぶん、教母によって加えられたほどのひどい苦痛だったろう。かれはその思いをふりはらった。それはかれらの世界を冷たくきびしいものに変えたのだ。
ポウルはいった。
「ほんとに今日は、遊びたかったんだと思うよ。ちかごろはひどく真面目《まじめ》なことばかりだからな」
ハレックは感情を隠そうとして横をむいた。目が熱くなってきた。心の中に苦痛があった――時が切りつめてしまったが、失われた昨日のかわりに残るすべて、火ぶくれのようなものだ。
“こんなに早く、この子供が大人にならなければいけないとは。どんなに早くかれはあの書式を心の中で読まなければいけなくなるだろう。あの無慈悲な用心のための契約を。必要な部分に必要な事実を入れろ、と……いちばん近い肉親の名前をお書き入れください……”
ハレックは視線をもどさずにいった。
「おれもそのことはわかったよ、坊や、おれだっていっしょに遊びたいのは山々だった。しかし、もう遊んではいられないんだ。明日、おれたちはアラキスへ行く。アラキスは現実だ。ハルコンネン家も現実のものだ」
ポウルは垂直に立てた|細身の剣《レイピア》の刃を額にふれた。
ハレックはふりむき、敬礼を見ると、うなずいてそれにこたえた。かれは練習用人形のほうに手をふった。
「さあ、こんどはきみのタイミングを練習しよう。あいつが危険になったところをつかめるかどうかだ。動作のすべてを見られるここから、おれは操作する。そして注意しておくが、今日のおれは新しい反撃をやってみるぞ。本物の敵からは警告は受けないんだぜ」
ポウルは筋肉を楽にしようと爪先だって背伸びをした。かれは自分の生活が急速な変化に満たされてきたことをとつぜん感じて、きびしい思いをおぼえた。かれは人形のところへ行き、|細身の剣《レイピア》の先端で人形の胸にあるスイッチを入れ、|防御の場《ディフェンス・フィールド》が剣をおしやるのを感じた。
「かまえ《アン・ガルド》!」
ハレックはさけび、人形は攻撃をかけた。
ポウルは自分のシールドを作動させ、突きをかわし、反撃した。
ハレックは装置を操作しながら見つめた。かれの心は二つの部分にわかれているようだった。ひとつは戦闘訓練に必要なだけそそがれ、もうひとつは羽音もうるさく飛びまわる蠅のようにさまよっていた。
“おれはよく手入れされた果樹のようなものだ。訓練をつんだ感情と能力がいっぱいおれの体になっている……そのすべては、ほかのだれかにつまれるためのものなんだ”
なぜか、かれは妹のことを思いだした。彼女の妖精のような顔はあまりにもはっきりと、かれの心に刻まれていた。だが彼女は死んでしまった――ハルコンネンの軍隊用に作られた|快楽の宿《プレジャー・ハウス》でだ。彼女はサンショクスミレが好きだった……それとも、ヒナギクだったかな? かれは思いだせなかった。思いだせなかったことが苦しかった。
ポウルは人形のゆっくりした突きをさけて、左手をアントレティセ[#「アントレティセ」に傍点]の形にあげた。
ハレックはポウルのおどるような手の動きを注視しながら考えた。
“頭のいいやつだな、こいつは! 自分なりの練習をし研究をしている。あれはダンカンの型じゃないし、おれが教えたものでもないぞ”
その思いはハレックの悲しみを増しただけだった。おれは気分ってやつに伝染されてしまったな。そしてかれはポウルのことを考えはじめた。この子は夜寝ているときにうずくような恐怖の想いに耳を傾けたことがあるのだろうか、と。
「もし願いが魚なら、網をなげるだけさ」
と、かれはつぶやいた。
それはかれの母がいったことであり、明日の闇黒を感じたときかれがいつも口にしてきたことだった。そしてかれは、海も魚も知らない惑星へ持ってゆくにはなんとも変ないいまわしだろうと思った。
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ユエ(yu e)ウェリントン(wel ing-tun)、標準年一○○八二――一○一九一。スク学校、医学博士(一○一一二)。妻、ワンナ・マーカス、|B・G《*》(一○○九二――一○一八六?)。主として公爵レト・アトレイデの反逆者として知られる。(参照・補遺Z・帝国式条件反射《インペリアル・コンディショニング》、および|反 逆《ザ・ベトレイヤル》
――イルーラン姫による“ムアドディブの辞典”から
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ドクター・ユエが訓練室にはいってくる物音を聞き、その足取りのぎこちなさに気がついたが、ポウルはマッサージの手をはなれたときの姿勢のまま練習用テーブルの上で顔を下にして体をのばしていた。ガーニィ・ハレックと体を動かしたあと、体はけだるく気持ちよかった。
「気持ちよさそうなご様子ですな」
と、ユエはかん高い声で静かにそう話しかけた。
ポウルは顔をあげ、かれのやせた姿が数歩はなれたところに立っているのを見た。ひと目で、しわのよった黒い服と、紫色の唇とたれた口髭がついている四角い顔、額にある帝国式条件反射《インペリアル・コンディショニング》のダイヤモンドの刺青、左肩のところでスク学校の銀の輪でとめてある長い黒髪を見てとったのだ。
ユエはいった。
「今日はふつうの授業をやっている時間がないと聞かれると、喜ばれるでしょうな……まもなくお父上がこられまする」
ポウルは体をおこした。
「しかしながらわたくしは、あなたがアラキスへの旅をされるあいだの数教科とフィルムブック・ビュウワーを用意しておきましたぞ」
「ほう」
ポウルは衣類をつけはじめた。かれは父がやってくるということに興奮をおぼえた。アラキスを領土とせよという皇帝の命令以来、父といっしょにおくった時間がほとんどなかったからだ。
ユエはL字型テーブルにむかって歩きながら考えていた。
“過去数ヵ月のあいだにこの少年は実によく成長したものだな。なんというむだなこと! なんという悲しいむだだ……しかし、わしはためらってはならぬ。わしのやることは、わしのワンナがもはやハルコンネンの獣《けだもの》どもに傷つけられないようにするためなのだ”
ポウルは、上着のボタンをはめながら、テーブルについているかれの前に坐った。
「ゆく途中で、ぼくは何を勉強するんだい?」
「ああ……アラキスにある陸棲生命形態を。あの惑星はある種の生物には両手をひろげているらしいのですな。どのようにかは明らかではありませぬが。到着しだいわたしは惑星生態学者をかならず見つけだし……ドクター・カインズという男ですが……その調査に協力を申し入れるつもりなのです」
そしてユエは考えた。
“いったいわしは何をいっているのだ? わしは自分を相手にしてまで偽善者ぶるつもりか”
ポウルはたずねた。
「フレーメンについて何かあるのかい?」
「フレーメン?」
ユエは指先でテーブルをたたき、その神経質な動作をポウルに見つめられていることに気づいて、その手をひっこめた。
ポウルは重ねてたずねた。
「たぶんおまえはアラキーンにいる全住民について何か知っているだろうと思うが」
「ええ、もちろん。大きくわけて二つの民衆がおりまする……フレーメン、それがひとつのグループで、もうひとつはグラーベン、シンク、それに|パン《*》に生きる人々ですな。かれらのあいだで結婚もあると聞いておりまする。パンとシンクの村に住む女たちはフレーメンの良人たちを望み、かれらの男はフレーメンの妻を望むのです。かれらにはいいつたえがありまする……上品さは町から来る、知恵は砂漠から来る、と」
「おまえはかれらの写真を持っているか?」
「おわたしできるものを調べておきましょう。もっとも興味のある部分は、もちろん、かれらの目……まったくの青で、白いところがないのですぞ」
「突然変異《ミューテーション》なのかい?」
「いや、それは血液中にメランジがいっぱいになることと関係しておりまする」
「そんな砂漠のふちに住むとなると、フレーメンというのは勇敢な連中にちがいないな」
ユエは答えた。
「聞くところによれば、かれらはナイフに詩を捧げるとのこと。かれらの女も男同様に猛々しく、フレーメンの子供といえども、獰猛で危険だそうでありまする。あなたがかれらとまじわることは許されぬことでありましょうな」
ポウルはユエを見つめ、フレーメンについてすこし聞いたことの中に、大きく注意をひかれる強力は言葉を見つけた。“その連中を味方にすることができれば!”
「それで虫《ウォーム》は?」
「なんですと?」
「ぼくは|砂 虫《サンド・ウォーム》[#宮崎監督のナウシカに出てくる王蟲は、この砂虫からの影響が大きい。砂虫がなければ、王蟲はなかったといわれている]のことをもっと知りたいんだ」
「ああ、そうでございましょうな。わたくしはその小さな標本についてのフィルムブックを持っております、長さ百十メートル、直径二十二メートルしかないものにすぎませぬが。それは北部地方で取られたものです。長さ四百メートル以上の|砂 虫《サンド・ウォーム》が、信頼できる目撃者によって記録されておりまするし、それより大きなものが存在していると信じられる理由もあるのですぞ」
ポウルはテーブルにひろげてある北部アラキーン地方の円錐投影法地図を見おろした。
「砂漠地帯と南極地方は人間が住めないところのしるしがついている、それは|砂 虫《サンド・ウォーム》のせいなのかい?」
「それと嵐のせいですな」
「でも、どんなところだって住むようにできるものだぜ」
「もしそこが経済的に採算のとれるところだとすればです。しかしアラキスにはたいへんな危険が多いですからな」ユエはそういうと、たれている口髭をなでた。「お父上はもうすぐここへ来られましょう。出てゆく前に、あなたへの贈り物がございます。荷造りのときに気づきましてな」
かれはふたりのあいだのテーブルに品物を置いた――黒くて、長方形、ポウルの親指の先ほどだ。
ポウルはそれを見た。ユエは少年がそれに手をのばそうとしないのを見て、この子はなんと用心深いんだろう、と考えた。
「これは宇宙旅行者のために作られた非常に古いオレンジ・カトリック・バイブル。フィルムブックではなく、うすい紙に実際に印刷されておりまする。これ専用の拡大鏡と静電圧装置がついておりましてな」かれはそれを持ちあげて、実演してみせた。「この本はその静電圧で閉じられております、その力がスプリングでとめられた表紙をおさえておるのですな。この端をおさえまして……このようにな、そうすれば、あなたのお選びなされたページが反撥しあって本はひらきまする」
「ひどく小さいんだね」
「しかしこれは千八百ページもあるのですぞ。端をおさえる……このように、すると……静電気が読むにあわせて一ページ前へおくります。決してページそのものを指でさわらぬこと。この繊維組織はあまりにももろいものですからな」かれは本を閉じて、それをポウルにわたした。
「ためしてみられるがよい」
ユエはポウルがページをめくる操作を練習しているのを見つめながら考えた。
“わしは自分の良心をなだめようとしている。わしはかれを裏切る前に信仰を捨てる。こうしてわしは自分自身に、わしの行けぬところにかれは行き、永遠に生きられるといえるのだ”
ポウルはいった。
「これはフィルムブックよりも前に作られたものにちがいないな」
「ずいぶん古いものです。それはわれわれの秘密といたしませぬか? ご両親さまは、あまりにも若い物には貴重すぎると考えられるやも知れませぬでな」
そしてユエは考えた。
“かれの母はきっとわしの動機をふしぎに思うだろうな”
「そう……」ポウルは本を閉じ、それを持ちあげた。「そんなに貴重なものなら……」
「老人の気まぐれとお考えなされ……それはわたしがずいぶん幼いころにあたえられたものでしたな」そうユエはいい、そして考えた。わしはかれの欲望とあわせて心をつかまなければいかんのだ、と。「その四六七カリマをあけられると、こういっておりまする……水よりすべてのもの始まれリ……と。表紙の端にその場所を示したわずかな刻みがついておりまする」
ポウルは表紙をさぐり、二つの刻みにふれた。一方のほうが浅い。その浅い刻みをおすと、かれの掌の上で本はひらき、拡大鏡がその場所にすべっていった。
「そこを読んでいただきましょう」
ポウルは唇をなめて読みはじめた。
「聾者《ろうじゃ》は聞くことかなわずとの事実を考えよ。ついで、われらすべてが聾者《ろうじゃ》にあらずやと。われらがまわりの異なる世界を見ることあたわず聞くことかなわざるについて、われらに欠くる感覚は何かと? われらがまわりにありて、われらの……」
「やめろ!」
ユエは大声をあげた。
ポウルは読むのをやめて、かれを見つめた。
ユエは目を閉じて冷静さを取り戻そうと戦った。
“いったいなぜこのつむじ曲がりは、わしのワンナのいちばん好きな文章ののっているところなどあけたんだ?”
かれは目をひらき、ポウルが見つめているのを知った。
「すみませぬ……そこは……わたくしの……亡くなった妻がもっとも好んだところでしたゆえ。わたくしが読んでいただこうと思ったところは、そこではありませぬ。それは……苦しい思い出のございましたところ」
ポウルはいった。
「刻みは二つあったんだ」
そうだ、とユエは思った。
“ワンナは自分の好きな節にしるしをつけていたんだ。かれの指先はわしより敏感で、彼女のしるしを見つけた。それは偶然のことにすぎなかったんだ”
ユエはいった。
「あなたはその本を興味あるものと思われることでありましょう……それは良き倫理哲学と同様に多くの歴史的事実をふくんでおりまする」
ポウルは掌にのっているその小さな本を見おろした――実に小さなものだ。だが、それには秘密がある……それを読んでいたあいだに何かがおこった。かれは自分の恐ろしい目的をつつく何かを感じたのだ。
ユエは言葉をつづけた。
「お父上はもう、いつ来られるか知れませぬ。その本をしまい、おひまなときにお読みくだされ」
ポウルはユエに教えられたとおり、本の端にふれた。本はひとりでに閉じた。かれはそれを上着《チュニック》の中にすべりこませた。ユエが大声をあげたとき、ポウルはこの男が本をかえせといいだすのかという恐れをおぼえたのだった。
ポウルは礼儀正しくいった。
「贈り物をありがとう。ドクター・ユエ……これはぼくらの秘密としよう。もしぼくからあまえに送れるもの、あるいは、できることがあれば、どうか遠慮せずにいってほしい」
ユエは答えた。
「わたしは……何も必要といたしておりませんぬ」
そしてかれは考えた。
“なぜわしはここにつっ立って、自分自身を苦しめているのだ? そしてこの哀れな子供まで苦しめている……まだかれはそのことを知りはしないが。ああ! なんといういまいましいハルコンネンの獣《けだもの》どもめ! なぜやつらは、このいまわしい仕事にわしを選んだのだ?”
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いかにしてわれわれはムアドディブの父の研究にすすむべきか? 優れた温かさと驚くべき冷たさをそなえた人こそ、公爵《デューク》レト・アトレイデ。しかし、この公爵へは多くの事実が道をひらいている。かれのベネ・ゲセリットたる夫人にたいする変わらぬ愛。かれの息子にたいして持った夢。多くの人々がかれに示した献身。われらはかれをこのように見る――運命の罠にかかった男。息子の栄光のかげに光うすれた孤独の人物と。しかし、人は問わねばならぬ――父の延長にすぎぬ息子とは何か?
――イルーラン姫による
“ムアドディブ、家庭における論評”から
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ポウルは父が訓練室にはいり、護衛兵が外に立つのを見た。そのひとりがドアをしめた。いつものように、ポウルは父の中に、だれかが存在しているような霊気を感じた。
公爵は背が高く、オリーブ色の肌をしていた。かれのやせた顔はきびしい表情をたたえており、暖かなところはその深い灰色の目だけだった。胸に鷹のとさかの赤い紋章をつけた黒い作業用制服を着ている。使い古された銀色のシールド・ベルトが細い腰にまかれている。
公爵は話しかけた。
「勉強がたいへんか、坊や」
かれはL字型テーブルのそばへ歩き、その上にのっている書類を眺め、視線を部屋じゅうにまわし、またポウルにもどした。かれは疲れているのを感じ、その疲労を見せられない苦しさをおぼえた。
“わしはアラキスへ行くあいだじゅう、できるかぎり休息を取るようにしなければ。アラキスでは休んでなどおられないのだからな”
ポウルは答えた。
「そうたいへんでもありません。何もかも、あまり……」
かれは肩をすくめてみせた。
「ああ。さて、明日わしらは出発する。この騒ぎを何もかも忘れて、新しい家に落着くといい気分になるだろうな」
ポウルはうなずき、とつぜん、“あんたの父さんには、なにひとつないんだよ……”と教母のいったことを思い出して胸がつまったようになった。
「父上、みんながいっているほどアラキスは危険なところなのでしょうか?」
公爵はくつろいだ態度でいようと気をつけながら、テーブルの角に腰をおろして微笑した。会話の全パターンが心の中に浮かんできた――戦闘の前にかれが部下の迷いを散らそうとして話すような。そのパターンは、ただひとつの想いにつきあたり、口にだす前に凍りついてしまった。
これはわしの息子なのだ。
「危険なことになるだろう」
「ハワトは、フレーメンにたいする計画があるといっていました」
ポウルはそういいながら、いぶかしく思った。
“なぜぼくはあの老婆がいったことを父上に話さないんだ? どうやってあいつはぼくの舌を封じたんだ?”
公爵は息子の気がめいっていることに気づいていった。
「いつものように、ハワトは大きな可能性を求めているんだ。だが、あそこにはそれ以上のものがある。わしの考えるのは|協 同 公 正 重 商 高 度 推 進《コンバイン・オネット・オーバー・アドバンサー・マーカンタイル》……CHOAM公社なんだ。わしにアラキスをくださったことで、陛下はわれわれにCHOAMの一管理者権をくださらなければいけないことになった……これはちょっとした儲けだよ」
「CHOAMは香料《スパイス》を支配しているんですね」
「そして、香料《スパイス》のあるアラキスは、CHOAMにはいるわれわれの大通りなんだよ……メランジより、もっと大きなものがCHOAMにはあるからな」
「教母は父上に警告しましたか?」
と、ポウルは口をすべらせた。かれは拳をにぎりしめ、掌が汗ですべるのを感じた。その質問をするには努力[#「努力」に傍点]を必要としたのだ。
公爵は答えた。
「ハワトの話によると、あの女はアラキスのことでそなたをおびやかしたそうだな……女の恐怖で心を乱してはいかんぞ。どの女も、愛する者を危険な目にあわせたがらないものだ。その警告の背後にあるのはそなたの母だよ。それは彼女のわれわれにたいする愛のしるしと見るんだな」
「母上はフレーメンのことを知っておられるのですか?」
「ああ、そしてそれ以上のことをな」
「どんなことを?」
公爵は考えた。
“真実はかれの想像しているものより悪いだろう。だが、危険な事実であろうと、それを相手にするだけの訓練ができていれば価値のあるものとなり得るものだ。そしてわしの息子に何ひとつ隠しておけないところがひとつある……危険な事実を相手にする場所だ。だが、これはかれにきっと影響をおよぼすにちがいない。まだ若いのだからな”
公爵は口をひらいた。
「CHOAMの手から逃れられる産物はすくない……木材、ロバ、馬、牛、肥料、鮫、鯨の皮……もっとも平凡で、もっとも異国的なものだ……カラダンにできるわれわれの哀れな|プンディ米《*》さえもだ。協会《ギルド》はなんであろうと輸送する。|エカツ《*》の芸術生命体、|リチェス《*》と|イックス《*》の機械とね。だがそのすべては、メランジの前に色あせるものだ。ひとつかみの香料《スパイス》で|テューピル《*》に家が買えるんだよ。それは作り出すことができず、どうしてもアラキスで採集しなければいけないんだ。それは珍しいものであり、老人病における真実の財産なのだよ」
「そしていま、ぼくらがそれを支配するんでしょう」
「ある点まではね。だが重要なことは、CHOAMの利益に依存しているすべての公家《ハウス》を考慮するということだ。そして、考えてみるんだね、その利益のたいへんな部分がたったひとつの産物に依存していることを……香料《スパイス》にだ。この香料《スパイス》の産出をすくなくするようなことがあれば、どうなるかを考えてみるんだ」
「メランジをたくさん貯えているものはだれだろうと大儲けできるでしょう。ほかのものはのたれ死にってわけです」
公爵は息子を眺めて暗然とした満足をおぼえ、じつに徹底的な本当の教育がされていたからこそ、このような観察ができたのだなと考えた。かれはうなずいていった。
「二十年ものあいだ、ハルコンネン家はそれを備蓄しているんだよ」
「かれらはアトレイデ家の名前をつまらぬものにしようと望んでいる……ランドスラードの各|公家《ハウス》はわしにある程度、指揮者としての地位があると考える……かれらの非公式なスポークスマンだな。かれらの収入が深刻なほど減った責任はわしにあるとしたら、かれらはどんな反応を示すだろうな。なんといっても、自分自身の利益が最初にくるもんだ。|大 協 約《グレート・コンベンション》がなんだ! おまえのおかげで貧乏にされてたまるか! わしがどんな目にあっていようとmかれらはおかまいなしに、ほかの道を求めるよ」
きびしい笑いに公爵の口はゆがんだ。
「たとえぼくらが核兵器で攻撃されてもですか?」
「それほど凶暴なことはないな。|協 約《コンベンション》に正面きって挑戦することはないだろう、だが、それ以外のことなら、ほとんどなんであろうと……攻撃から、土地に毒薬をばらまくことまでな」
「ではなぜ、ぼくらはその中に踏みこんでいくんですか?」
「ポウル!」公爵は息子を見て眉をよせた。「どこに罠があるかを知ること……それが、そこから逃れる最初の手段だよ。これは個人どうしの戦いみたいなものなんだ、息子よ。ただ、規模が大きいだけだ……陽動作戦《フェイント》の中のフェイントの中のフェイントの……まず終わりがないほどだな。仕事はそれを解明することにある。ハルコンネン家がメランジを備蓄していることを知って、われわれは別の質問をする。ほかのどこが備蓄しているか? それが敵のリストとなるわけだ」
「どこが?」
「われわれの知っている公家《ハウス》のあるものは非友好的であり、あるものは友好的だと思っている。しかし、いまのところかれらを考慮している必要はない、もうひとつもっと重要なことがあるからだ。われわれの敬愛する|大 王 皇 帝《パディッシャ・エンペラー》だよ」
ポウルは唾をのみこもうとし、とつぜん咽喉が乾いていることに気づいた。
「ランドスラードを集めて、そのことを明らかに……」
「われわれの敵に、どの手がナイフを握っているかを気づかせるのか? ああ、ポウル……いまのところナイフはわかっているんだ。それがつぎにどこに変わるか、だれにわかる? もしわれわれがこれをランドスラードの前に呈出すれば、たいへんな混乱を作りだすことになるだけだ。皇帝はそれを否定されるだろう。だれがかれに反対できよう。われわれが手に入れられるのは、混乱の危険をおかすあいだにすこし時間をかせげるだけだ。そして、つぎはどこから攻撃がやってくることになると思う?」
「すべての公家が香料を備蓄しはじめるでしょう」
「われわれの敵はひと足さきに出発している……それを追い抜くには距離がひらきすぎているんだ」
ポウルはいった。
「皇帝……それはサルダウカーということになりますね」
「まちがいなく、ハルコンネンの制服で偽装してくるな……それでも、狂信的な兵士であることは同じだよ」
「フレーメンはサルダウカーに対抗してぼくらを助けてくれないでしょうか?」
「ハワトはそなたにサルサ・セカンダスのことを話したかね?」
「皇帝の牢獄惑星? いいえ」
「牢獄惑星がひとつ以上あったとしたら、ポウル? サルダウカーの帝国軍団については、たずねられたことのない質問がある。かれらはどこから来るのかだよ」
「その牢獄惑星からでは?」
「かれらはどこからか来ているんだ」
「でも、皇帝が要求される支援徴募兵員の来るところは……」
「それがわれわれの信じこまされていることだね。かれらは若くてすばらしく訓練された皇帝の徴募兵員にすぎないというように。そなたは皇帝の訓練本部についてときどき噂されることを聞くだりおうが、われわれの文明におけるバランスは同じにとどまっている。ランドスラード|大 公 家《グレイト・ハウス》の兵力が一方にあり、他方にはサルダウカーとその支援徴募兵員だ。そしてかれらの支援徴募兵員だよ、ポウル。サルダウカーはサルダウカーのままとどまっているんだ」
「でもサルサ・セカンダスについてのあらゆる報告は、S・Sが地獄の世界だといっていますよ!」
「まちがいなしだな。だが、がんばりがきき、丈夫で、獰猛な男たちを作りあげようとしたら、その連中にどんな環境条件を課したらいいと思うね?」
「でもどうやってそんな男たちに忠誠心をうえつけられるのです?」
「それには、はっきりしている方法がある。ある種の知識についてかれらの優れている点、神秘的な魅力のある秘密の盟約、苦労を分かちあおうという精神、そういったものに訴えるんだ。それはなし得るんだよ。多くの世界では何度となくくりかえされてきたことなんだ」
ポウルは父の顔から注意をそらさずにうなずいた。かれは何か以外な新事実を告げられるような予感がした。
公爵はいった。
「アラキスを考えてみよう……町や駐屯部隊のいる村の外に出れば、そこはなにもかもサルサ・セカンダスと同じようなひどいところなんだぞ」
ポウルは目を大きくひらいた。
「フレーメン!」
「われわれがあそこに持っているのは、サルダウカーと同じほど強力で獰猛な軍団といっていい潜在力なんだ。かれらを秘密のうちに利用するのは忍耐が必要だろうし、かれらに適当な装備をあたえるには富が必要だ。しかし、あそこにはフレーメンがいる……そして香料による富も存在しているんだ。これでそなたも、罠があるのは知りながら、どうしてもわれわれがアラキスに乗りこんでゆくのかわかるだろう?」
「ハルコンネン家はフレーメンのことを知らないのですか?」
「ハルコンネンはフレーメンを嘲笑し、スポーツとしてかれらを狩り、かれらの数を調べようとしたことさえ一度もない。われわれは、惑星土着の住民にたいするハルコンネンの政策を知っている……かれらを生かしておくために使う費用は、可能なかぎりすくなくせよ、なんだ」
公爵が姿勢をかえると胸についている金属の糸で縫いとり[#刺繍と言わないのは何故!]した鷹の紋章が光った。
ポウルはいった。
「ぼくらはいま、フレーメンと交渉を持とうとしているんですね?」
「わしはダンカン・アイダホを首席とした使節団を送った……誇り高く情けを知らぬ男だよ。ダンカンは。だが、真実を好むやつだ。フレーメンはかれを尊敬すると思う。もしわれわれが幸運であれば、かれらはダンカンによってわれわれを判断するだろう。良心の男・ダンカンによってな」
「良心の男・ダンカン、そして勇気の男・ガーニィ」
「うまく名前をつけたな」
“ガーニィは、あの教母のいった世界を支える者のひとりだ……勇者の勇気によってね……”
「ガーニィが話したところによると、そなたは今日、武術の時間にうまくやったそうだな」
「ぼくにはそういいませんでしたよ」
公爵は大きな声で笑った。
「ガーニィは褒めることがすくない男らしいよ。あいつはそなたが、よく見分けられるといっていた。剣の刃と先端のちがいをだ」
「ガーニィは、先端で殺すのに技巧はない、刃でやるべきだといっているんです」
「ガーニィはロマンチックなんだ」と、公爵はうなるような声をだした。殺すという話題が息子の口からでてきたことで、かれはとつぜん苦しみをおぼえた、「そなたが人を殺すことなどなければいいと思っていたが……その必要がおこったときには、どちらであろうと使うんだぞ……先端であろうと刃であろうと」
かれは、雨がたたきつけてる天窓を見あげた。
父の視線を追ったポウルは、雨がふっている空のことを考えた――どんなことがあろうと、アラキスでは絶対に見られないことだ――そして、空を考えたことで、かれの心はそのかなたにある宇宙にうつった。
「それで協会《ギルド》の船というのは、本当に大きいのですか?」
公爵はかれを見た。
「惑星をはなれるのはそなたにとって、これが初めてだったな……ああ、大きいとも。われわれは大宇宙船《ハイライナー*》に乗ることになる、長い旅だからな。ハイライナーは本当に大きい。その船倉はわれわれの持っているすべての巡洋艦と輸送艦をほんの片隅に入れてしまう……われわれはその船の積み荷目録の小さな一部にすぎなくなってしまうのだ」
「そしてぼくらはうちの巡洋艦から離れられないんでしょう?」
「それが協会の安全を保障する条件のひとつさ。われわれのすぐそばにハルコンネンの船がいるかもしれんが、なんの恐れもないってわけだな。ハルコンネンの連中も協会の輸送特権をおかしてはろくなことにならんとよく知っているからだよ」
「ぼくはスクリーンをのぞいて、協会員《ギルドマン》を見つけてみますよ」
「だめだね。かれらのスパイでさえ協会員を見たことは一度もない。協会はその独占権と同様、そのプライバシーをおかされることに神経質なんだ。われわれが輸送される条件を危うくすることは何ひとつするなよ、ポウル」
「かれらが隠れているのは、かれらが突然変異のために、もはや……人間の形をしていないからだとお考えですか?」
公爵は肩をすくめた。
「だれにもわからんことだな。われわれにはとけそうもない謎さ。われわれにはもっと切迫した問題がある……そのひとつは、そなただよ」
「ぼく?」
「そなたの母は、わしから告げてほしいといったよ。息子よ、そなたはメンタートとなる能力を持っているかもしれんのだ」
ポウルは口をきけなくなり、しばらく父を見つめていたあとでいった。
「メンタート? ぼくが? でもぼく……」
「ハワトも同意している。息子よ、それは本当なのだ」
「でもぼくは思っていました、メンタートの訓練は幼児からはじめなければならず、その本人には告げられない、それはもしかすると初期の……」
かれは口ごもった。過去の環境のすべてが瞬間の考えの中で焦点をむすんできたからだ。
「わかりました」
と、ポウルはいった。
「可能性のあるメンタートがやれるだけのことを学ばなければいけない時代が来たんだ。もはや作りあげるときではない。メンタートは、訓練をつづけるか断念するかという選択をしなければいけない。あるものはつづけられるし、あるものにはできない。可能性のあるメンタートだけが、自分自身についてそのことをはっきりいえるんだ」
ポウルは顎のあたりをなでた。ハワトと母による特殊な訓練のすべて――記憶術、意識の結ばせかた、筋肉のコントロールと感覚のとぎすませかた、言語と音声の抑揚《ニュアンス》についての勉強――そのすべてがかれの心の中でカチッと音をたてたように新しく理解された。
かれの父はいった。
「息子よ、そなたはいつか公爵《デューク》となるのだ。メンタートの公爵《デューク》とはまったく恐るべき存在となるだろうな。いまそのことを決心できるか……それとも、もっと時間が必要かな?」
かれの答えにためらいはなかった。
「訓練をつづけます」
「まったく恐るべきものだ……」
と、公爵はつぶやき、ポウルは父の顔に誇らしい笑いが浮かんでいるのを見た。その笑顔にポウルはショックをおぼえた。公爵のやせた顔が骸骨のように思えたのだ。かれは目を閉じ、心の中にあの恐ろしい目的がふたたび目ざめてくるのを感じた。
“メンタートになることが恐ろしい目的かもしれない”
と、かれは思った。
だが、その考えに集中してみると、かれの新しい意識はそれを否定していた。
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レイディ・ジェシカとアラキスによって、|保 護 伝 道 団《ミッショナリア・プロテクティヴァ》による移植伝説の種をまくというベネ・ゲセリットの方法は、その結実期をむかえた。B・G卒業生を保護するため既知の世界に預言者パターンの種をまく知恵は遠い昔から認められていたことだが、人物と準備のより理想的な結合による最高の条件はこれまでになかったものである。アラキスにおける預言者伝説はその名称をきめるといった程度にまで達していた。(教母、|カントとレスポンドゥ《*》、そして|シャリ・ア《*》、|パノプリア・プロフェティカス《*》のほとんどもふくむ)そしていまでは、レイディ・ジェシカの潜在的能力が大きく過小評価されていたことは一般的に認められていることである。
――イルーラン姫による
“アラキーンの危機、その分析”から
(私家版。B・G・ファイル・ナンバー・AR・81088587)
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レイディ・ジェシカのまわりいたるところに――アラキーンの大広間の四隅につみあげられ、広い場所には山となり――荷造りされた家財道具があった。木箱、トランク、紙箱、ケース――なかば荷をほどきかけたものもある。協会《ギルド》の往復船からきた荷物運搬係がつぎの荷物を玄関においている音も聞こえていた。
ジェシカは広間のまん中に立っていた。彼女はゆっくりとむきを変え、影になっている彫刻、すきま、深くひっこんでいる窓を見あげ、見まわしていった。その部屋のひどい時代錯誤さかげんは、ベネ・ゲセリット学校のシスターズ・ホールを思いださせた。しかし、学校でのそれは暖かみを感じさせるものであり、ここでは淋しい石にしかすぎないものだった。
どこかの建築家がずいぶん昔の歴史を調べて、こんな控え壁とか黒っぽい壁紙を使ったってわけね、と彼女は考えた。頭上に大きな桁がひろがる二階建ての高さのアーチになった天井を見ていると、彼女はそれらの材料がたいへんな費用をかけてこのアラキスへ運ばれてきたのだということをひしひしと感じた。この恒星系にある惑星はどこにも、こんな桁が作れるほどの木を産出しないのだ――ただし、その桁がイミテーションの木でなければのことだが。
彼女は、そうではないと考えた。
ここは、昔の帝国時代に政府が持っていた大邸宅だ。そのころ、費用はそれほど重要なことではなかった。それはハルコンネン家とかれらの新しいメガロポリスができる以前のことだったのだ。メガロポリス・カルタゴ――荒地のかなた北東へ二百キロメートルにわたってひろがる安っぽい見かけだおしのところだ。レトがかれの政府をおく場所をここに選んだのは賢明だった。アラキーンという名前も響きがいいし、伝統がある。それに小さな都市だから、消毒するにも防衛するにもずっと楽だ。
またも玄関で木箱がおろされる音がひびき、ジェシカは溜息をついた。
彼女の右がわにあった箱に、先代公爵の肖像画が立てかけてあった。梱包用の麻糸が飾りのようにたれている。麻糸の断片はまだジェシカの左手にもくっついていた。その絵のそばには、黒い雄牛の首が磨いた板の上にのっていた。その首は、まるめた紙の海に浮かぶ黒い鳥のようだった。その額は床に横たわり、雄牛の光る鼻は、このよく反響する部屋に挑戦して吠えようとしているように、天井へむいていた。
ジェシカはなぜ最初にこの二つの梱包をほどく気持ちにさせられたのだろうと、いぶかしく思った――雄牛の首とその絵だ。そうしたことに何か意味があることはわかっていた。公爵の買取人《バイヤー》が彼女をあの学校からつれだした日からこれまでに、これほど恐ろしく自分に自信が持てない気分になったことは初めてだった。
首と肖像画。
その二つが彼女の困惑をたかめた。彼女はぶるっとふるえ、頭上高くにある細長い窓を見あげた。ここでは午後もまだ早く、このあたりの緯度では空が黒く冷たく見える――から団のあの暖かい青さにくらべると、ずっと暗いのだ。望郷の痛みが彼女の全身に走った。
カラダンは、あんなにも遠いところなんだわ。
「そこにいたのか!」
それは、公爵レトの声だった。
ふりむいた彼女は、アーチになった通路からかれが大股でダイニング・ホールにはいってくる姿を見た。タカ[#もちろんこれは「鷹」ですね。でも原本に従う]のトサカの赤い紋章が胸についているかれの黒い作業用制服は、よごれ、しわだらけになっていた。
「おまえはこの恐ろしい場所のどこかで迷子になったかもしれないと思っていたよ」
「寒い家ですのね」
と、彼女はいった。彼女は公爵の高い背の丈《たけ》を眺め、その黒い肌を見て、オリーブの木立ちと青い水面に照りつける金色の太陽を連想した。灰色の目は木の煙を思わせるが、顔は食肉動物のそれで、ほっそりし、鋭い線がいっぱい走っていた。
かれにたいするとつぜんの恐怖に、彼女は胸がしめつけられたようになった。皇帝の命令に従うという決定以来、かれはこれほどまでに粗暴で精力的な人間になったのだ。
「町はどこもかしこも冷たさを感じさせますわ」
彼女の言葉にかれはうなずいた。
「汚らしい、ほこりだらけの小さな守備隊駐屯都市だからな。だが、われわれはそれを変えるんだ」かれは広間を見まわした。「こういうのは国の行事に使う公共用の部屋なんだ。わしはいま、南棟にある家族用のアパートをすこし見てきたところだが、そちらはずっとましだよ」
公爵は近づき、彼女の威厳を讃えるように、そっと腕にふれた。
そしてまたも、かれはジェシカの秘められた祖先のことを考えた――反逆した公家《ハウス》というところだろうか? 悪運にたたられたどこかの王家だろうか? 彼女は、皇帝自身の血筋よりもずっと王者のように見えるのだ。
かれの視線に押されたのか、彼女はなかばむきを変え、その横顔を見せた。かれは、彼女の美しさをまとめあげているものが、たったひとつの決まりきったものでないのだと気づいた。みがきぬかれた赤銅のような色の髪の下の、玉子型の顔、彼女の両目は大きく、カラダンで見る朝の空のような緑色で澄んでいる。鼻は小さく、口は大きくて優しそうだ。体つきは良く、太っていない。背が高くて、その曲線はほっそりしている。
あの学校にいた平修道女が彼女のことを痩せっぽちと呼んでいると買取り人が報告したことを、かれは思いだした。しかしその描写は単純すぎる。彼女はアトレイデ家の血に、王者の美しさをもたらしたのだ。かれは、ポウルが彼女の顔つきに似ていて嬉しかった。
「ポウルはどこにいるんだね?」と、かれはたずねた。
「邸のどこかでユエと勉強していますわ」
「たぶん南棟だろうな。ユエの声を聞いたように思ったが、のぞいてみるひまがなかったんだ」かれはためらい、彼女をちらりと見ていった。「わしがここへ来たのはただ、カラダン城の鍵を食堂にかけるためだけでね」
彼女は息をのみ、かれに手をのばそうとする衝動をおさえた。鍵をかける――その行為には最後だといったところがある。だが、ここは、楽しみを求める場所でもなく、時でもないのだ。
「はいってくるときに、わたし、邸の上にわたしたちの旗が立っているのを見ましたわ」
と、彼女はいった。
かれは父の肖像画を見た。
「それをどこにかけるつもりなんだね?」
「ここのどこかに」
「だめだ」
その言葉は単調で最終的なものであり、自分の思いどおりにさせるには策略《トリック》を使うほかなく、いいあってみてもだめだということを彼女に告げていた。それでも、かれをだましたりすることはできないのだと自分自身に思いださせるだけの役にしかたたなくても、彼女はためしてみなければいけなかった。
「殿《との》、あなたがただ……」
「その答えは、だめだのままだよ。たいていのことでわしは恥かしげもなくおまえのいいなりになるが、これはだめだ。わしがいま出てきた食堂、そこに……」
「殿《との》! おねがい」
「その選択は、おまえの消化の良さとわしの祖先の尊厳さのどちらを取るかだな。それは食堂にかけるんだ」
彼女は溜息をついた。
「はい、殿《との》」
「可能なかぎりおまえは自分の部屋で食事する習慣をつづければいい。公式の場合だけ、おまえのつくべき席に坐ればいい」
「ありがとうございます、殿《との》」
「それから、わしにそう冷たく、かた苦しくしないでくれ! わしがおまえと結婚しなかったことをありがたく思うんだ。そうなると、食事のたびにわしとテーブルにならぶのがおまえの義務となっていただろうからな」
彼女は顔の表情を変えないままうなずいた。
「ハワトはすでに食堂のテーブルに|ポイズン・スヌーパー《*》をとりつけた。おまえの部屋にも携帯用のがおいてある」
「あなたは予期してらっしゃいますの……争いを」
「ジェシカ、わしはおまえが楽になることも考えているんだよ。わしは召使いをやとった。かれらは現地人だが、ハワトがのこらず調べたよ……かれらはみなフレーメンなんだ。わしらの家臣がみな仕事から解放されるまで、その連中がやってくれる」
「この土地のものが本当に安全ですの?」
「ハルコンネン家を憎んでいるものならだれでもな。おまえはヘッド・ハウスキーパーをそのまま残しておきたくなるかもしれないよ、|シャダウト《*》・メイプズをね」
「シャダウト……フレーメンの尊称《タイトル》でしょう?」
「わしの聞いたところでは|井戸くみ人足《ウェル・ディッパー》という意味だそうだが、ここではその意味にだいぶ重要な色合いがあるらしい。おまえには、その女が召使いのようなタイプに見えんかもしれないが、ダンカンの報告書にもとづいてハワトはその女を高く買っているようだ。その女が仕えだがっていることをふたりは確信している……特に、おまえに仕えたがっていることをな」
「わたしに?」
「フレーメンは、おまえがベネ・ゲセリットだということを聞いたらしい。ここにはベネ・ゲセリットについての伝説があるんだよ」
“|保 護 伝 道 団《ミッショナリア・プロテクティヴァ》だわ。あれから逃れられる場所はないのね”
ジェシカはそう思い、たずねた。
「それはダンカンたちが成功したということですの? フレーメンはわたしたちの味方になりますの?」
「はっきりとしたことは何もない。かれらはしばらくのあいだ、われわれを観察しようと思っている、とダンカンは信じている。しかしかれらは、休戦期間はわれわれの周辺部落を襲撃しないと約束したよ。そのことは、見かけよりもずっと重要な儲けなんだ。ハワトのおうところによると、フレーメンはハルコンネン側に深くつきささった棘《とげ》であり、かれらにどれぐらいの損害をあたえられたかは、厳重に守られている秘密だそうだ。ハルコンネン軍の弱さを皇帝に知られるのはまずいだろうからな」
ジェシカは、シャダウト・メイプズの話題にもどった。
「フレーメンのハウスキーパー、その女の人は青だけの目をしているんでしょうね」
「この連中の外見にだまされないことだ。かれらには底知れぬ強さと健康な生命力がある。かれらこそ、われわれの必要としているすべてだとわしは思っているよ」
「それは危険な賭けですわ」
「そんなことには二度とならないようにするさ」
彼女はやっと微笑を浮かべた。
「わたしたち、もう引きかえせませんものね。それははっきりしていることですわ」彼女は気持を急いで落ち着かせる方法をおこなった――深呼吸を二回、儀式的な考えだ。「部屋を決めるとき、あなたのために特に考えておくべきことがありまして?」
「おまえがどんなふうにやるのか、いつかわしに教えてくれなければいけないよ。心配ごとをおしやって、現実的な仕事に切りかえるやりかたさ。きっとベネ・ゲセリット的なものなんだろうな」
「女としての方法ですわ」
かれは笑った。
「そうか。部屋の割当てだが、わしが寝室のとなりに大きなオフィスをかならず持てるようにしてくれ。ここではカラダンよりもずっと事務的な仕事が多いだろうからな。もちろん警備兵の部屋も。それでいいはずだ。邸の安全ということは心配しなくていい。ハワトの部下がすっかりやっているはずだ」
「わたしもそう思いますわ」
かれは時計を見た。
「それから、時計を全部、アラキーンの地方時間に合わせてあるかどうか見てくれるといいな。それをやる技術者はひとり決めておいたが、もうすぐやってくるはずだ」かれはジェシカの額にたれていた髪の毛をうしろにかきあげた。「わしはもう離着陸場にもどらねばいかん。二回目の往復船《シャトル》がもう、わしの参謀要員をのせて下りてくるころだからな」
「ハワトが出迎えるわけにはいきませんの、殿《との》? あなたはひどくお疲れのようですもの」
「スフィルのやつは、わしよりも忙しいぐらいなんだよ。わかっているだろうが、この惑星はハルコンネンの謀略で汚染されている。わしには、訓練をつんだ香料採集人《スパイス・ハンター》の何人かが出てゆくのをやめさせなければいかんという仕事もあるんだ。かれらには、領地の移動にともなう自由選択権がある……そして皇帝とランドスラードが移動審判官《ジャッジ・オブ・チャンジ》としておいたこの惑星学者は、買収できない男だ。かれはその選択を許している。熟練した採集人千八百人が香料往復船《スパイス・シャトル》で出ていこうとしており、協会《ギルド》の貨物船が待機しているんだ」
「殿《との》……」
彼女は口ごもり、ためらった。
「なんだね?」
“かれがこの惑星をしっかりと治めようと努力していることに反対することなど、説得できないわ。そして、わたしの技術をかれを相手に使うこともできないのよ”
彼女はたずねた。
「夕食は何時ごろになさいますの?」
“それは彼女がいおうとしていたこととはちがう。ああ、わしのジェシカ、そんなことはどこかほかのところ、この恐ろしい場所とはちがうところでのことだ……わしたちふたりだけは、隠しだてなとなしにしてほしいな”
「わしは離着陸場の士官食堂で食べるよ。帰りはだいぶ遅くなるからね。それから……ああ、わしは警備車をポウルによこす。あの子を、戦略会議に出席させたいんだ」
かれはもっと何かをいおうとするかのように咳ばらいをしたが、不意にふりむいて大股に歩きだしmつぎつぎと木箱がおろされているのが聞こえてくる玄関にむかって進んでいった。
一度だけかれが尊大な口調で命令している声が聞こえてきた。急いでいるとき召使いにかれが話しかけるときは、いつもそうなのだ。
「レイディ・ジェシカは大広間だ。すぐ彼女のところに行くがよい」
外のドアが音をたててしまった。
ジェシカはふりむき、レトの父親の肖像画とむかいあった。それは先代公爵の中年時代に有名な画家アルベが描いたものだった。左腕に赤紫色のケープをかけた闘牛士の衣装をまとっている。その顔は現在のレトよりも年上ではなくて、若々しく、同じ鷹のような顔つき、同じ灰色の目をしていた。彼女は体の両わきで拳をにぎりしめて、その絵を見つめた。
「ばか、ばか、ばか!」
と、彼女はささやいた。
「ご命令をお聞かせください、|貴いおかた《ノーブル・ボーン》」
それは、細くぎこちない女の声だった。
ジェシカはふりむき、農奴の着る形もない袋のような茶色のドレスをまとった白髪《しらが》の女を見つめた。その女は、その日の朝m離着陸場からの道でかれらを迎えた群集のだれとも同じように、しわだらけで、しなびているように見えた。この惑星で見た現地人はみな、干しプラムみたいで栄養が不足しているように見えるわ、とジェシカは思った。それでも、この連中は強くて生命力にあふれているとレトはいっていた。そしてかれらの目だ、もちろん――白いところがまったくない、もっとも深い、もっとも濃い青色の――何かを秘めた、神秘的な目だ。ジェシカはその目を見つめないでいようと努めた。
その女は頸がかたまってしまったようなぎこちないお辞儀をしていった。
「わたしはシャダウト・メイプズと呼ばれております。尊い[#さっきは貴い、こんどは尊い。原本通り]おかた、ご命令を」
ジェシカはいった。
「わたしを|お方さま《マイ・レイディ》[#「お方さま」…いかにも妙な訳と思うが後では使われなくなるのでどうでも良い]とでも呼んでくださればいいわ。わたし尊いおかたなんかじゃないのよ。わたしは公爵《デューク》レトに縛りつけられた妾妃だから」
またも変わったお辞儀をして、女は上目《うわめ》づかいにジェシカを見ながら低い声でたずねた。
「では奥さまが?」
「いないわ。それに、これまでもいなかったのよ。わたしは公爵のただひとりの……お相手で、かれの世継ぎとなる息子の母親なの」
そう話しながらもジェシカは、自分の言葉の背景にある誇りを、心の中で笑った。
“聖オーガスティンはなんといわれた? 心は肉体を指揮し、それは従う。心はそれ自身に命令をし、抵抗にあう……そう、わたしはちかごろ、ずっと多くの抵抗にあってるわ。自分から静かに退却できるはずなのに”
邸の外を走る道路から変な叫び声がひびいてきた。それはくりかえしていた。
「スー・スー・スーク! スー・スー・スーク!」それから、「イクート・エイ! イクート・エイ!」そしてまた、「スー・スー・スーク!」
ジェシカはたずねた。
「あれは何なの? 今朝わたしたちの車が通りを走ったときも、何度か聞いたわ」
「ただの水売りでございますよ、マイ・レイディ。でもあばたさまがあんなものに興味をお持ちになる必要はございません、ここの水ためには五万リットルははいりますし、それがいつもいっぱいにしてございます」彼女は自分の服を見おろした。「なんたって、マイ・レイディ、ここではスティル・スーツを着ないでもよございますからね!」彼女はくっくっと笑った。「それなのに、わたくしは死にもしませんのですから!」
ジェシカはためらい、自分を正しく導いてくれるためのデータを知るため、このフレーメンの女に質問してみたかった。しかし、混乱している城内の秩序を回復することのほうが、もっと必要だった。それでも彼女は、水がここでの富の主要な象徴なのだとおうことに気持が落ち着かなくなっていた。
「わたしの良人はあなたの呼び名のことを話してくれたわ、シャダウトってこと……わたしその言葉がわかったわ。それは非常に古い言葉なのね」
「それでは、あなたさまは昔の言葉をご存知だとおっしゃるのですか?」
と、メイプズはたずね、奇妙に興奮したような態度で返事を待った。
「言葉はベネ・ゲセリットで最初におぼえることなのよ……わたしは|ボタニ・ジブ《*》と|チャコブサ《*》すべての狩猟用の言葉を知っているわ」
メイプズはうなずいた。
「伝説のつたえているとおりでございます」
そしてジェシカは思った。“なぜわたしは、こんなごまかしをするの?”だが、ベネ・ゲセリットの方法は、曲がりくねっており、感心しないではいられないものだった。
「わたしは|暗いもの《ダーク・シング》と|大いなる母《グレイト・マザー》の道を知っているわ」そういったジェシカは、メイプズの動作と表情にずっと明らかなしるしを見た。それはこの女の心の中をかいま見たと同じことだった。彼女はチャコブサ語で話した。「ミセセス プレジア……アンドラル トレ ペラ! トラーダ シク バスカクリ ミセセス ペラクリ……」
メイプズは一歩うしろにさがり、逃げようとするような姿勢になった。
ジェシカは言葉をつづけた。
「わたしは多くのことがわかるわ……あなたは子供を何人も生み、愛する人を失い、恐怖の中に隠れ、暴力をふるったこと、そしてもっと暴力をふるうようになること。わたし、多くのことがわかるのよ」
メイプズは低い声でいった。
「悪気で申しあげたのではございません。マイ・レイディ」
「あなたは伝説のことをいい、答えを求めているわね……見つけわれるかもしれない答えに用心しなさい。あなたが体に武器を隠し、暴力をふるう用意をしてきたことはわかっているのよ」
「マイ・レイディ、わたくしは……」
「わたしに命の血を流させる可能性も、ほんのすこしはなくもないけれど、そんなことをするとあなたは、想像もできないほど恐ろしい惨禍をひきおこすことになるのよ。死よりも恐ろしいことがあるのね……ひとつの民族全体にとってもよ」
「マイ・レイディ!」メイプズは哀れな声をあげた。彼女はいまにも両膝をついてしまいそうになっていた。「その武器は、あなたさまがその人[#「その人」に傍点]であると証明されたなら、あなたさまに贈り物とするべく持ってまいりましたもの」
「そして、わたくがそうでないとわかれば、わたしの死をもたらす手段としてね」
ジェシカはそういい、見たところくつろいだ格好で待ちかまえた。それこそ、ベネ・ゲセリットの訓練を受けた者が、戦いのとき実に恐るべきものとなるゆえんなのだ。
“さあ、これでどちらに決まることになるか、わかるのだわ”
と、彼女は思った。
ゆっくりとメイプズはドレスの襟筋に手をのばし、黒い鞘をとりだした。指をあてるうねが深くついている黒い柄《つか》が、それからつき出ている。彼女は片手に鞘をにぎり、もういっぽうの手に柄をにぎって、乳白色の刃をひきぬくと、それをかかげた。刃はそれ自体の光で輝いているように見えた。それはキンジャルのように諸刃《もろは》で、刃わたりは二十センチほどだった。
メイプズはたずねた。
「これをご存知ですか、マイ・レイディ?」
考えられることはただひとつ、それは昔話で有名なアラキスの|クリスナイフ《*》にちがいない、とジェシカは思った。その刃《やいば》は一度もこの惑星から持ち出されたことがなく、噂とひどいゴシップによってしか知られていないものだ。
「それはクリスナイフね」
と、彼女はいった。
「そんなに軽くいわないでください。あなたさまは、その意味をご存知ですか?」
ジェシカは考えた。
“この質問には角がある。この質問をすることにこそ、このフレーメンがわたしに仕えることを望んだ理由があるのだわ。わたしの答えは、暴力を早めることになるのだろうか……それとも? この女はわたしに答えを求めている。ナイフの意味を。彼女はチャコブサ語で|井戸くみ人足《シャダウト》と呼ばれている。ナイフ、それはチャコブサ語で|死を作る者《デス・メイカー》。この女は手におえなくなってきた。わたしはすぐ答えなければいけない。遅れることは、まちがった答えと同じだけ危険だわ”
ジェシカはいった。
「それは|作る者《メイカー*》……」
「エイイィィィィ!」
と、メイプズは泣き声をあげた。それは嘆きと喜びのいりまじった声だった。彼女はあまりにも激しくふるえたので、ナイフはそれから反射する光を部屋じゅうにきらめかせた。
ジェシカは口ごもったまま、待った。彼女は、そのナイフが|死を作る者《デス・メイカー》だといい、それから古代の言葉をつけ加えるつもりだったのだが、いまはあらゆる感覚が彼女に警告を発していた。ほんのなんでもない筋肉の動きにさえ意味をくみとれる深い注意力の訓練によってだ。
鍵となる言葉は……メイカーだった。
|作る者《メイカー》? 創造者《メイカー》。
それでもまだ、メイプズはそのナイフを使おうとするかのようにかまえていた。
ジェシカはいった。
「|大いなる母《グレイト・マザー》の謎を知っているわたしが、|作る者《メイカー》を知らないとでも思っていたの?」
メイプズはナイフをおろした。
「マイ・レイディ、あまりにも長いあいだ予言を信じて生きてきたものにとって。それが本当のこととなった瞬間は驚くほかないものでございます」
ジェシカはその予言のことを考えた――シャリ・アとパノプリア・プロフェティカスのすべて、保護伝道団のベネ・ゲセリットが遠い昔にここに落としたもの――遠くの昔に死に絶えたものであることは疑いないが、彼女の目的は達成された。ベネ・ゲセリットのだれかが必要とする日にそなえて、ここの人々に植えこんでおかれた保護のための伝説だ。
そのとおり、その日がやってきたのだ。
メイプズはナイフを鞘におさめていった。
「これは仕上げのすんでいない刃でございます、マイ・レイディ。おそばにおしまいくださいませ。一週間以上も肌から離しておきますと、これは分解しはじめます。これは、|シャイ・フルド《*》の歯、あなたさまの生きておられるかぎり、あなたさまのものでございます」
ジェシカは右手をのばして、賭けの危険をおかしてみた。
「メイプズ、あなたはその刃を血ぬらないまま、鞘におさめましたね」
あえぎ声をもらすなり、メイプズは鞘におさめたナイフをジェシカの手に落とし、茶色の胴衣を引きさくようにあけて、悲痛な声をあげた。
「わたしの命の水をお取りくださいませ!」
ジェシカはその刃を鞘から引きぬいた。なんと輝いていることだろう! 彼女はその先端をメイプズのほうにむけ、死の恐怖よりもおおきな恐れがその女の全身を襲っていることを知った。
“先端に毒でも?”
と、ジェシカはいぶかしく思った。彼女は先端を上げ、メイプズの左胸の上を刃で軽く引いた。濃い血がふくれあがったと思うと、たちまちとまった。
“実に急速な凝固。水分を保存しておくための突然変異かしら?”
そう考えてからジェシカは刃を鞘にしまっていった。
「ドレスのボタンをおはめなさい、メイプズ」
メイプズはふるえながら、その命令に従った。白い部分のない目はジェシカを見つめ、彼女はつぶやいた。
「あなたさまはわたくしたちに属するもの……あなたさまこそ、あのおかた」
玄関から、また荷物をおろす音がひびいてきた。急いでメイプズは鞘におさめたナイフをつかむちおmそれをジェシカの胴着の中に隠し、吠えるようにいった。
「ナイフを見るものは清めるか、殺さなければなりませぬ! そのことはご存知のはず、マイ・レイディ!」
いまそれがわかったわ、とジェシカは思った。
荷運びの連中は大広間にはいってくることなく去っていった。
メイプズは落着きをとりもどしていった。
「清められていないままクリスナイフを見たものは、生きてアラキスを離れられないことになりましょう。そのことを決してお忘れになりませぬように、マイ・レイディ。あなたさまが、クリスナイフをまかされたのですから」彼女は深く息を吸いこんだ。「これで物事はそのコースをたどらなければなりません。急がせるわけにはいかないのです」彼女は、まわりにつみあげてある箱や道具を眺めた。「それに、わたしたちがここにいるあいだ、する仕事がたくさんございますもの」
ジェシカはためらった。“物事はそのコースをたどらなければならぬ”それは保護伝道団のたくさんある呪文のうちの決まり文句だ――おまえたちを解放する|教 母《リヴァレント・マザー》がやってくるとき”
ジェシカは考えていた。
“でもわたしは教母じゃないわ……それに|大いなる母《グレイト・マザー》! かれらは、それをここに植えつけていたのね! ここは恐ろしい場所にちがいないわ!”
当然のことのようにメイプズはいった。
「初めに何をいたしましょう、マイ・レイディ?」
そのなにげない口調にあわせろと本能に警告されてジェシカは答えた。
「そこにある先代公爵の肖像画、それを食堂の一方にかけて。その雄牛の首は、肖像画と反対側の壁にかけなければいけないのよ」
メイプズは雄牛の首のそばへ行った。
「こんな首をつけていたのだとしたら、ずいぶん大きな動物でございましょたのでしょうね」彼女はそういって、かがみこんだ。「まずこれをきれいにしなければいけないと思いますが、マイ・レイディ?」
「いいえ」
「でも、角《つの》にほこりがこびりついていますわ」
「それはほこりじゃないのよ、メイプズ。それは公爵のお父さまの血なの。この獣《けだもの》が先代公爵を殺したあと数時間以内に、その角は透明な固定剤をふきつけられたってわけ」
メイプズは立ちあがった。
「まあ、そうでございましたか!」
「でも、ただの血だわ。昔の血よ。これをかけるのに手伝いを何人か呼んだらいいわ。kのひどいしろものは重いから」
メイプズはたずねた。
「わたしが血をこわがるとでもお考えなのですか? わたくしは砂漠の女、血はたくさん見てきております
」
「わたし……そのことはわかるわ」
「それに、わたくし自身の血もすこし。あなたさまがつけられたとるにたらぬ傷よりもずっとたくさん」
「あなたは、わたしにもっと深く切ってほしかったの?」
「いいえ! 体《からだ》の水は、空気中にむだなほど流してしまうほど多いものではございません。あなたさまは、正しくやってくださいました」
その言葉と身振りに注意していたジェシカは、“体の水”という文句に深い意味があることを知った。またも彼女は、アラキスにおける水の重要さについて圧迫感をおぼえさせられた。
メイプズはたずねた。
「食堂のどちらの壁にこのどちらをかけましょうか、マイ・レイディ?」
このメイプズというのは仕事むきにできているんだわ、とジェシカは思いながらいった。
「あなた自身の判断でやって、メイプズ。べつにちがいはないんだから」
「おっしゃるとおりに、マイ・レイディ」
メイプズはかがみこみ、首に巻きつけてある布をほどきながら、つぶやくようにいった。
「先代公爵を殺したんだってね、おまえ?」
ジェシカはたずねた。
「手伝いを呼びましょうか?」
「自分でやりますわ、マイ・レイディ」
“そう、彼女はやりそうだわ。このフレーメンの女には、それがあるわ。自分でやろうとする意思の力が”
ジェシカは胴着の下にクリスナイフの鞘が冷たくあたるのを感じ、ここに環をつくりだしたベネ・ゲセリットの計画の長い鎖を考えた。その計画のおかげで、彼女は死の危険を避けることができたのだ。“急がせるわけにはいかない”と、メイプズはいった、だが、この場所へまっしぐらに急いでくるテンポというものがあり、その予感がジェシカを満たしていた。そして保護伝道団のあらゆる準備も、この岩のかたまりのような城をハワトが念入りに調査したことも、その感じをぬぐい取ってはくれなかった。
ジェシカはいった。
「そのふたつをかけ終わったら、箱をあけはじめて。玄関にいる荷物係のひとりが、鍵をみな持っていて、荷物をどこに置いたらいいか知っているわ。鍵とリストをその人からもらってね。何か質問があれば、わたし南棟にいるから」
「お言葉のとおりに、マイ・レイディ」
と、メイプズは答えた。
ジェシカはその場から離れながら考えた。
“ハワトはこの邸を安全だと判断したらしいけど、ここには何か変なところがあるわ。わたしには、それが感じられる”
息子に急いで会わなければという想いに、ジェシカは全身をしめつけられるようになった。彼女は食堂と家族用居住区域への通路につづくアーチになった出入口へ進んでいった。しだいしだいにその歩きかたは速くなり、そのうち彼女は走っているのも同然になった。
彼女の背後では、雄牛の首から布をほどく手をとめたメイプズが、去ってゆくうしろ姿を眺めてつぶやいた。
「彼女はまちがいなくあのおかた……お気の毒に」
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「ユエ! ユエ! ユエ!」と、くりかえしはつづく。「百万の死といえども、ユエには足りぬ!」
――イルーラン姫による“ムアドディブの幼年時代”から
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ドアはあいており、ジェシカはそこを通って黄色い壁の部屋へはいった。左側には黒皮の低い長椅子がひとつ、それにからの本棚がふたつ、ふくらんだ胴にほこりがたまっている水の容器がひとつ、右側には、もうひとつのドア、からの本棚がもっとあり、カラダンから運んできたデスクがひとつに、椅子が三つ。彼女のまっすぐ前にはドクター・ユエが背をむけて立っており、かれの視線は外の世界にそそがれていた。
ジェシカはもう一歩、無言のまま部屋の中に足を進めた。
ユエの上着はしわだらけになっており、石灰の壁によりかかっていたように左の肘のあたりが白くよごれていた。うしろから見るとその姿は、肉のついていない棒のような体を大きすぎる黒い衣装がおおっているようで、|操り人形師《パペット・マスター》が命じるままにぎこちない動きをするのをまっている|戯 画《カリカチュア》だった。銀のスク学校の輪でとめた黒い長い髪の四角い頭だけが生きているようで――外で何かが動くのにあわせて、かすかに動いたのだ。
ふたたび彼女は部屋の中を見まわした。息子の姿は見あたらなかったが、右側のしまっているドアは、ポウルが気にいった小さな寝室へ通じているのだとわかっていた。
彼女は話しかけた。
「こんにちわ、ドクター・ユエ。ポウルはどこなの?」
かれは、窓の外の何かを相手にしているようにうなずき、ふりむきもせず、ぼんやりと答えた。
「あなたの息子は疲れているんでね、ジェシカ。わしはとなりの部屋で休ませたよ」
とつぜん、かれは体をこわばらせ、紫色をした口のまわりの髭をゆらせながらふりむいた。
「お許しを、マイ・レイディ! わたくしの考えは遠くに離れておりましたゆえ……わたくしは……なれなれしくするつもりなど毛頭ございませなんだ」
彼女は微笑して右手をあげた。その瞬間、彼女はユエが膝をつくのではないかという心配をおぼえた。
「ウェリントン、おねがい」
「あなたさまのお名前をそのようにお呼びしましたなど……わたくしめは……」
「わたしたち知りあってから六年にもなるのよ。もうずっと前から、かた苦しいことは抜きにするべきだったわ……プライベートなときは」
ユエはかすかな微笑を浮かべてみせながら考えた。
“うまくいったらしいな、これで彼女は、わしの態度に異常なことがあっても、とまどっているせいだと思うだろう。すでに解答を知っている場合、彼女はより深い意味を考えようとはしないはずだ”
かれはいった。
「申しわけございませぬ、わたくしはぼんやりといたしておりました。わたくしは……あなたさまをお気の毒に思いますときはいつも、失礼ではございまするが、あなたさまを……つまり、ジェシカと、心の中でお呼びしておりますようで」
「わたしを気の毒と? どういうことでなの?」
ユエは肩をすくめた。ずっと以前に、かれはジェシカが、かれのワンナほど完全な予知力に恵まれていないことを知っていた。それでもかれは、可能なかぎりいつでもジェシカには真実を隠さないようにしてきた。それがもっとも安全なのだ。
「ここをご覧になりましたでしょうな……ジェシカ」かれはその名前の前で口ごもり、一気にあとをつづけた。「カラダンにくらべますと、あまりにも荒れはてたところでございまする。それにここのものども! ここへまいりまするときに見ました町の女どもは、そのベールの下で嘆き悲しんでおりました。かれらが、わたくしどもを見まする目つきは」
彼女は両腕で胸をだき、|砂 虫《サンド・ウォーム》の歯から作った刃、クリスナイフがそこにあることを感じながら、その報告は正しいのだろうかと考えた。
「かれらにとって、わたしたちが初めてだったからにすぎないわ……変わった人々、変わった習慣、かれらはハルコンネンしか知らなかったのですもの」彼女はかれの見ていた窓の外を見た。
「あなたは何を見ていたの?」
かれは窓のほうへむきをかえた。
「人々をでございますよ」
ジェシカはかれのそばへ歩き、左のほうを見た。ユエが注意をむけていた邸の前だ。二十本のヤシの木がならんでおり、そのまわりの地面はきれいにはかれ、むきだしになっていた。そこと、衣装をまとった人々が通っている道路とを、金網の垣根が分けていた。彼女は、自分とその人々のあいだの空中が、かすかにきらめいているのを見てとった――家屋遮断装置《ハウス・シールド》だ――そして通ってゆく群集を見つめ、なぜユエがその連中にそれほど心を奪われていたのか考えようとした。
ひとつのパターンが浮かび、彼女は片手を頬にあてた。通りすぎてゆく人々がヤシの木にむける視線だ! 彼女が見たのは、羨望、いくらかの憎悪……希望の感じさえもだ。どの人間も、こわばったような表情でそれらの木を見つめるのだ。
ユエはたずねた。
「かれらが何を考えているのか、おわかりでございますかな?」
「あなたは人の心がわかるとおっしゃるの?」
「かれらの心……かれらはあの木を見て、考えておりまする。ここにわれら百人がいる……それがかれらの考えていることでございますぞ」
彼女はふりむき、眉をよせてかれを見た。
「なぜなの?」
「あれはナツメヤシでございまする……一本のナツメヤシは一日四十リットルの水を必要といたします。人間ひとりに八リットルしか必要といたしませぬ。するとナツメヤシ
一本は、五人の人間と等しいことになりまする。あそこには二十本のナツメヤシ……百人の人間がいるわけでございますな」
「でも何人かは、木を見て希望をおぼえているようにも見えるわ」
「かれらはナツメヤシが何本か倒れればいいがと望んでいるだけでございますよ。それも変な天気にならずにでございますな」
「わたしたちここを見るのに、批判的な見かたをしすぎるんじゃないかしら……ここには危険と同じだけ希望もあるわ。香料《スパイス》はわたしたちを豊かにしてくれるはずよ。収入がふえれば、この世界を望みどおりに変えられるはずよ」
そういいながら彼女は心の中で笑いを洩らした。“いったいわたしは、だれを信じこませようとしているつもりなの?”その笑いは心の抑制を破り、みじめにくだけていった。彼女はつづけていった。
「でも安全を買うことはできないわね」
ユエは表情を彼女に見られないようにしようと、体のむきを変えた。
“この連中を愛してしまうかわりに、憎むことさえできればいいのだが!”
ジェシカは多くの点で、かれのワンナに似ていた。だがその思いはそれ自体のきびしさをともなっており、かれの目的をむずかしくすることだった。ハルコンネンの残忍なやりかたは考えられないほどのものだ。ワンナは死んでいないかもしれない。念には念を入れなければいけないのだ。
ジェシカは話しかけた。
「わたしたちのことを心配しないで。問題はわたしたちのことで、あなたのことではないのよ」
“彼女は、わしが彼女のために心配していると思っているんだ!”かれはまばたきをして涙をこらえた。“そしてわしは、もちろん彼女のことを心配している、だがわしは、あの腹黒い男爵《バロン》が仕事をやりとげるまで我慢しなければいけない。そして、かれがいちばん弱点を見せたすきをねらって襲うのだ……かれがほくそえんでいるときに!”
かれは溜息をつき、彼女はたずねた。
「のぞいてみたら、ポウルをおこしてしまうかしら?」
「いえいえ。わたくしは睡眠薬をさしあげておきましたからな」
「かれはこの変化をうまく受け入れているかしら?」
「すこしお疲れになっておられますほかは……興奮されてはおりまするが、こんな状況のもとで十五歳のおかたがそうならぬなど、考えられぬことでございますからな」かれはドアのところへ歩いて、それをあけた。「こちらにおられまする」
ジェシカはそのあとにつづき、うす暗い部屋の中をのぞきこんだ。
ポウルはせまい寝床に横たわり、片手を薄い掛けぶとんの下に入れ、片手を頭の上にのばしていた。ベッドのそばにある窓の小割板のブラインドが、その顔と毛布にい影をなげかけている。
ジェシカは、自分にそっくりな息子の玉子型をした顔を見つめた。だが、髪の毛は公爵のそれだ――石炭のように黒くて、もつれている。長いまつげがライム色の目を隠している、ジェシカは恐怖がおさまってゆくのを感じながら微笑した。彼女はとつぜん、息子の容貌の中に存在する遺伝の痕跡という考えに打たれた――目と顔の輪郭は彼女の血統だが、子供らしさの中から成熟さが出てくるように、その輪郭から父親の鋭い線がのぞきかけているのだ。
彼女は少年の容貌を無作為な模様の中から出てきたすばらしい精髄だと思った――偶然な出来事の無限の列がこの一点で会っているのだと。その想いに彼女はベッドのそばにひざまずいて息子を両腕に抱きしめたくなったが、ユエがいることにさえぎられた。彼女はうしろにさがり、そっとドアをしめた。
ユエは窓のそばにもどっていた。ジェシカがかれ[#ここは「彼女」であるべきだが、「かれ」と言うからにはそれは「ユエ」を指すことになる。だがもちろんポウルはユエの息子では無い。何故「かれ」なのか深読みするところであろうか]の息子を見つめている姿を眺めていられなかったのだ。かれは自分の心にたずねた。
“どうしてワンナはわしに子供をあたえてくれなかったのだ? わしは医者として、それが不可能な肉体的な理由などなかったことを知っている。何かベネ・ゲセリットとしての理由があったのか? 彼女は、異なった目的のために働く命令でも受けていたのだろうか? いったいそれは何だったのだ? 彼女がわしを愛していたことはたしかだが”
初めてかれの心に浮かんだ考えは、もしかすると自分の心がつかみきれないほど複雑にいりこんだパターンの一部に自分がなっているかもしれないということだった。
ジェシカはかれのそばに立ちどまって話しかけた。
「子供ってほんとに無邪気に眠られるのね」
かれは機械的に答えた。
「大人もあれほど気をゆるめることができればよろしゅうございますが」
「ええ」
かれはつぶやいた。
「われわれは、それをどこでなくしたのでございましょう?」
彼女はその不自然な口調にひっかかって、かれをちらりと見たが、彼女の心はまだポウルのことでいっぱいで、かれがここで受ける訓練の新しいきびしさを考え、かれの生活が変わったことを考えていた――かつてふたりがかれのために計画した生活とは、あまりにもちがったものなのだ。
「ほんとうに、わたしたちは何かを失っているわね」
そういった彼女は、右のほうにある斜面を見た。風にねじまげられた灰緑色の潅木でこぶができている――ほこりだらけの葉と、乾いた爪《つめ》のような枝だ。その斜面の上の空は暗すぎてしみ[#「しみ」に傍点]のように見え、アラキーンの太陽の乳白色の光はあたりを銀色に照らしている――まるで彼女の胴着の中に隠してあるクリスナイフのような光だ。
「空がひどく暗いのね」
「その理由の一部は水蒸気がたりないことによるのでございますな」
彼女は鋭い声をあげた。
「水! ここではどこをむいても、水の欠乏にぶつかるのね!」
「それがアラキスのたいへんな謎でございますよ」
「なぜそんなに少ないのかしら? ここには火山岩があるわ。エネルギー源だって十以上もあげられるわ。極地の氷もあるわね。砂漠で井戸を掘ることはできないそうね……砂虫にやられなくても、完成する前に嵐と|サンド・タイド《*》で設備がこわされてしまうと聞いたわ。とにかく、水脈を発見できたことはないんですってね。でもウェリントン、謎は、本当の謎は、低地《シンク》や盆地で掘られてきた井戸よ。あなた、それについて読まれたの?」
「最初ポトポトしたたり、ついで何もなしになるそうでございます」
「でも、ウェリントン。それが謎よ。水は砂漠にあったわけだわ。ところが、それは乾上ってしまい、そのあとは二度と水は出てこなくなる。ところが、そのそばに別の穴を掘ると、同じ結果がおきるのね。初めはポトリポトリ、そしてとまってしまう。これまでだれもそのことを変だと思わなかったの?」
ユエは答えた。
「まことに変なことでございます。あなたさまは何か生物のせいと思っておられまするのか? それはボーリングのサンプルに出ておりませぬのかな?」
「何か出ているものがあるの? 変わった植物とか……動物とか? それがわかる人はいるの?」彼女は斜面のほうへむいた。「水がとまる。それは何かが栓をするから、そうわたしは考えるのよ」
「その理由はわかっているのかもしれませぬ。ハルコンネン家はアラキスについての多くの情報を封鎖しておりますのでな。そのことをおし隠す理由があるのかもしれませぬぞ」
彼女はたずねた。
「どんな理由かしら? それに大気中の水分があるわ。たしかに、とっても少ないけれど、あるにはあるわ。それがここでの主要な水源でしょう。|風 水 弁《ウィンドトラップ*》と沈殿器とでとらえたものが。それはどこからくるの?」
「極冠でございましょうか?」
「冷たい風にはほとんど水分がふくまれないものよ、ウェリントン。ハルコンネンのベールの背後には、くわしい調査を逃れているものがたくさんあるわ。そしてその全部が、香料《スパイス》と直接関係があるわけじゃないのよ」
「たしかにわたくしどもはハルコンネンのベールにだまされておりまする。たぶんわたくしどもは……」かれは、ジェシカがとつぜん自分をまじまじと見つめたことに気がついて口ごもった。
「どうかいたされましたかな?」
「あなたが、ハルコンネンの名を口にするとき……公爵の声だってそれほどの憎しみは現さないわ。あなたにかれらを憎む個人的な理由があるとは、わたし知らなかったの。ウェリントン」
“|大いなる母《グレイト・マザー》か! わしは彼女に疑いの心をおこさせた! わしはいま、ワンナが教えてくれた技巧のすべてを使わなければいかんぞ。解決の方法はひとつだけ……わしにできるかぎりのところまで、真実を話すことだ”
「わたくしの妻、ワンナをご存知だったはずもございませぬが……」かれはそういいかけ、とつぜん咽喉《のど》がつまったようになって話せなくなった。「やつらは……」
つぎの言葉は出てこなかった。かれは恐慌《パニック》をおぼえ、両眼をかたく閉じ、胸に鋭い痛みを感じていると、ジェシカの手が優しくかれの腕にふれた。
「ごめんなさい……わたし、古い傷口をあけるつもりはなかったの」
そういって彼女は考えた。
“あの獣《けだもの》だち! かれの妻はベネ・ゲセリットだった……そのしるしは、かれの表情にはっきりと出ているわ。そして、ハルコンネン家が彼女を殺したことも明らかよ。ここにも憎しみのあまりにアトレイデ家についた気の毒な犠牲者がいるんだわ”
かれはいった。
「申しわけございませぬ。わたくしには話せぬことでございました」
かれは心の中の悲しみにおし流されながら目をあけた。少なくとも、その悲しみは真実だった。
ジェシカはかれを見つめた。高い頬骨、濃いアーモンド色の金貨のような目、バターのような肌色、紫色をした唇のまわりに丸い枠のようにたれている口髭と細い顎。両頬と額の皺は、老齢に加えて悲しみがきざみこまれている。彼女はかれに深い同情をおぼえた。
「ウェリントン、あなたをこの危険なところにつれてきたこと、すまないと思っているわ」
「わたくしは自分から望んでまいりましたのでございますよ」
と、かれはいった。それもまた真実のことなのだ。
「でも、この惑星全体がハルコンネンの罠なのよ。あなた、それを知っておかなければ」
「公爵《デューク》レトをつかまえるのは、罠のひとつやふたつではかなわぬことでございますよ」
そして、それもまた真実だった。
「わたし、かれをもっと信じていいのかもしれないわね。かれはすばらしい戦術家なんですもの」
「われわれは|追い立て《アップルート》られました。それが、われわれの不安をおぼえている理由でございましょうな」
「そして、|根こそぎ《アップルート》にされた植物を殺すのはいともたやすいこと。特にそれを、敵意のある土地においたときはね」
「敵意のある土地だと、はっきりしておりましょうか?」
「公爵がどれほどおおぜいの人間をここの人口に加えようとしているかがわかると、水のための暴動がおこったわ……それがおさまったのは、わたしたちが新しい風水弁と凝縮装置を設置して必要分をカバーすることを、ここの人々が知ってはじめてなのよ」
「ここには人の命を支えるための水が、ぎりぎりの量しかございませぬからな。住民は、おおぜいの人間がやってきて、限られた量の水を飲むことになると、値段が上がり、貧しいものは死ぬことになると知っておりますのじゃな。しかし、公爵はそれを解決された。となると、暴動も殿《との》にたいする永久の敵意とはなりませぬぞ」
彼女はことばをつづけた。
「それに警備兵よ……どこにも警備兵がいるわ。それにシールド、どこを見ても、シールドがちらついているのが見えるわ。カラダンでは、こんな暮らしかたをしていなかったのに」
「この惑星にも機会をあたえてやることでございますよ」
しかしジェシカは、きびしい目つきで窓の外を見つめつづけた。
「わたしはここに死の匂いがしているとわかるの……ハワトはここに情報部員をおおぜい先発させたわ。外にいるあの警備兵たちもかれの部下よ。荷物係もかれの部下だわ。経理からは説明のついていない大金が引き出されているわ。その金額が意味していることはただひとつ。高い場所での賄賂よ」彼女は首をふった。「スフィル・ハワトが行くところ、死と偽《いつわ》りがつづくわけね」
「あんはたさまはかれを悪くいわれるのでございますかな」
「悪くいう? わたしはかれを讃えているのよ。死と偽りだけが、われわれにある唯一の望みですもの。ただわたし自身は、スフィルの方法にだまされはしないだけよ」
「あなたさまは……忙しくしておられるべきです。そのような気味の悪いことをお考えになる時間をお持ちになりませぬように……」
「忙しくって! わたしの時間のほとんどを取っているのは何だと思うの、ウェリントン? わたしは公爵の秘書なのよ……毎日、恐ろしいことが新しく出てくるのを知るのに忙しいのよ……わたしが知っているとはかれの思っていないことまでだわ」彼女は唇を噛み、低い声でいった。「ときどきわたし疑ってみることがあるわ、かれがわたしを選んだとき、ベネ・ゲセリットで受けた事務処理訓練にどれぐらい重きをおかれたのだろうって」
「どういう意味でございましょう?」
かれはその冷笑するような、彼女がこれまで見せたことのないいらだたしさに驚きをおぼえた。
「ウェリントン、愛情でしばりつけられた秘書のほうが、はるかに安全なものだとは思わない?」
「それはりっぱなお考えとはいえませぬな、ジェシカ」
その非難はあっさりとかれの口から出た。公爵が内縁の妻のことをどう考えているかに疑問はなかった。それを知るには彼女を視線で追うかれの表情を見るだけで充分なのだ。
彼女は溜息をついた。
「おっしゃるとおりね。りっぱな考えかたじゃないわ」
またも彼女は自分の胸をだきしめ、鞘におさめたクリスナイフを肌におしつけ、それが意味しているまだやりとげていない仕事のことを考えた。
「まもなく多くの血が流れることになるわね……ハルコンネン家はかれらが死ぬか、わたしの公爵が殺されるかするまで休まないでしょう。男爵は、レトが皇帝の従弟であることを忘れないのよ……どんなに距離が離れていてもだわ……とにかく、ハルコンネンの尊称はCHOAMの財源から出てきたのにすぎないんですものね。それにかれの心の中に深く刻みこまれている悪意は、|コリンの戦い《*》のあと、アトレイデ家がハルコンネン家を臆病だったからというので追放してしまったからだわ」
「昔からの争いでございますな」
と、ユエはつぶやいた。そしてかれは同時に、苦しいほどの憎悪を感じた。その古い争いがその巣にかれをからみつかせて、かれのワンナは殺されたか、それとも――もっと悪いのは――彼女の良人がかれらの命令を達成するまで、彼女がハルコンネンの拷問用に残されているのかもしれないということなのだ。古い争いがかれを罠にかけたのだし、この連中はその毒にまみれたものの一部なのだ。皮肉なことは、そのような死そのものがここアラキスで花ひらかなければいけなくなったことだ。宇宙におけるメランジの、生命をのばす薬、健康をあたえるものの生産地においてだ。
彼女はたずねた。
「何を考えているの?」
「わたしが考えているのは、現在の公開市場において、香料《スパイス》は十グラムについて六十二万|ソラリス《*》をもたらすことでございます。それは多くのものを買える富でございますよ」
「あなたでさえも欲にかられるの、ウェリントン?」
「欲ではございませぬな」
「では、何なの?」
かれは肩をすくめ、ちらりと彼女を見た。
「無益なことでございますよ……初めて香料《スパイス》をおためしになったときのことをおぼえておられまするかな?」
「シナモンのような味がしたわ」
「しかし二度と同じ味はいたしませぬな。それは生命に似ておりまする……お飲みになるたびにちがう顔を見せますな。香料《スパイス》は知っている匂いを思いうかばせる反応を作りだすのだというものもございます。肉体はそれ自身にいいものをおぼえ、その匂いを楽しいものと解釈いたさせます……わずかに陶酔もいたさせますな。そして、生命に似て、それは決して合成できないものでございまする」
「わたしたち逃げだして、帝国の力のおよばぬところへ行ってしまったほうが賢明だったのにと思うことがあるわ」
かれはジェシカがかれのいうことを聞いていなかったことに気づき、彼女の言葉に打たれて思い悩んだ。
“そうだ……なぜ彼女は公爵をそうさせてくれなかったのだ? 彼女なら、事実上、どんなことであろうとかれにさせられるはずなのに”
かれは急いでいった、ここに事実があり、話題を変えるべきときだからだ。
「あつかましすぎるとお思いになりましょうか……ジェシカ、もしわたくしが個人的な質問をおたしましたならば」
彼女は、説明のしようのない胸騒ぎをおぼえながら窓枠に体をおしつけた。
「もちろんいいわ。あなたは……わたしの友だちですもの」
「なぜあなたさまは、公爵があなたさまと結婚するようになさいませなんだ?」
彼女は顔を上げ、ふりむいて目にきびしい光をたたえた。
「かれをわたしと結婚させる? でも……」
「おうかがいするべきではありませなんだな」
彼女は肩をすくめた。
「いいえ……それには政治的な理由があるのよ……わたしの公爵が結婚していない状態にあるかぎり、大公家のどこかがまだ手を結んでくれる希望があるからだわ。それに……」彼女は溜息をついた。「……人を、自分の意思に従わせる、動かせるってことは、人間性を白眼視するような態度を持たせるものよ。それは、ふれるものすべてを堕落させるわ。もしわたしがかれに……そうさせていたら、それはかれがやったことにはならないわ」
「それはわたくしのワンナもいいそうなことでございますな」
と、かれはつぶやいた。そして、それもまた真実だった。かれは口に手をあて、痙攣するように息をのんだ。自分の秘密にしている役割りを、これほどまでうちあけてしまいそうになったことはこれまでになかったのだ。
ジェシカは口をひらき、その危険な瞬間をうちくだいた。
「それにね、ウェリントン、実のところ公爵はふたりの人間よ。そのうちのひとりは、わたしが非常に愛している人。魅力があり、機知に富み、思いやりがあり……優しくて……女が望み得るすべてのものだわ。でも、もうひとりの人は……冷淡で、命令的で、わがまま……冬風のようにきびしく残忍だわ。それはかれの父に作りあげられた人間ね」彼女の顔はゆがんだ。「わたしの公爵が生まれたときに、あの老人が死んでいてくれさえしたら!」
かれらのあいだにやってきた沈黙の中で、換気装置からのそよ風がブラインドにあたる音が聞こえていた。
やがて、彼女は深く息を吸っていった。
「レトのいったとおりだわ……このあたりの部屋は、邸のほかの部分にある部屋よりもすてきね」彼女はむきを変え、部屋じゅうに視線を走らせた。「ウェリントン、失礼しえtよければ、部屋割りをきめる前にこの棟をもう一度見ておきたいんだけど」
「もちろんでございますとも」
かれはうなずき、そして考えた。
“わしのしなければいけないこんなことを、どうにかしてしなくてもすむ方法がありさえすればいいのだが”
ジェシカは両腕を落とし、廊下のほうへ部屋を横切り、そこにちょっと立ちどまって、ためらいをおぼえ、それから部屋を出た。
“わたしたちが話していたあいだじゅう、かれは何かを隠していたわ、何かを知られないようにしていたわ。わたしに心配させないためでしょうね、もちろん。かれはいい人だもの”またも彼女はためらいをおぼえ、部屋にもどってユエと対決し、かれの隠していることを引っぱりだしてやりたい想いにかられた。“でもそれはかれに恥じをかかせることになるだけだわ。かれの心がそれほど容易に読めるということを教えておびえさせるだけだわ。わたしは友人をもっと信頼しなければいけないってことね”
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多くの人が、アラキスについて必要なことをムアドディブが学んだ速さについて注目している。もちろん、ベネ・ゲセリットはその速さの根拠を知っている。それ以外の人々に対してわれわれのいえることは、ムアドディブが急速に学んだことは、かれの最初に受けた訓練が、いかに学ぶかの方法であったためである。どれほど多くの人々が学べると信じていないこと、それより多くの人々が学ぶことは困難だと信じているのは、驚きをおぼえるほどだ。ムアドディブはすべての経験にそれ自体の教えがあることを知っていたのだ。
――イルーラン姫による“ムアドディブの人間性”から
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ポウルは、眠っているふりをしながらベッドに横たわっていた。ドクター・ユエのくれた睡眠薬を掌に隠し、それをのみこんだふりをするのは容易なことだった。ポウルは笑いをおし殺した。母でさえも自分が眠っていると信じこんでいた。かれは、飛びおきて邸の中を見てまわる許しを得たかったが、母がそれを許すはずはないとわかった。まだ物事はあまりにも落ちついていないのだ。そう、このままにしているほうがいいのだ。
“尋ねてみることなくこっそりと出ていけば、命令に従わなかったことにはならない。そしてぼくは、邸の中の安全な場所にいればいいのだ”
母とユエがとなりの部屋で話している声が聞こえていた。かれらの声ははっきりしなかった――何か香料《スパイス》のこと……ハルコンネン家のこと。会話の声は高く低くつづいていた。
ポウルの視線はベッドの彫刻をほどこした|頭 板《ヘッド・ボード》に行った――壁にくっついており、この部屋の機能を操作する装置が隠してある偽の頭板だ。その木には、跳ねあがっている魚が一匹と、その下に濃い茶色の波が彫刻されている。その魚の見えているほうの目をおせば、サスペンサー・ランプをつけられるのだ。波のひとつは、換気装置を制御する。もうひとつのは温度だ。
静かにポウルはベッドの上におきあがった。背の高い本棚が左の壁についている。それは横に動き、一方に引出しがついた押入れが現れる。廊下へ出るドアのハンドルは、鳥型飛行機《オーニソプター*》の操縦杆に似せてある。
まるでその部屋は、かれをそそのかせるように設計されているようだった。
その部屋とこの惑星。
かれはユエが見せてくれたフィルムブックのことを思いだした――<アラキス・皇帝の砂漠用植物試験場>。それは香料《スパイス》の発見される以前からあった古いフィルムブックだった。多くの名称がポウルの心を横切っていった。それぞれが、その本の記憶パルスによって刻みこまれた写真とともにだ……サグアロ、バロブッシュ、ナツメヤシ、|砂クマツヅラ《サンド・バーベナ》、|夜のサクラソウ《イーブニング・プリムローズ》、|樽サボテン《バレル・カクタス》、芳香潅木、スモーク・ツリー、クレオソート・ブッシュ……|子 猫 狐《キット・フォックス》[#おそらく「キャット・フォックス」でしょうが、原本に従う]、|砂漠の鷹《デザート・ホーク》、カンガルー鼠……
名前と写真、人類が地球にいた過去からの名前と写真――そしてその多くは現在、宇宙の中でここアラキス以外のどこにも見つけられないのだ。
あまりにも多くの新しいことを学ばなければおけない――香料《スパイス》について。
そして|砂 虫《サンド・ウォーム》のことを。
となりの部屋でドアがしまった。ポウルは母の足音が廊下を去ってゆくのを聞いた。ドクター・ユエは何か読むものを見つけて、となりの部屋に残っているのだ。
いまこそ探検に出かけるべきときだ。
ポウルはベッドからすべり出て、押入れを隠している本棚のところに行こうとした。だがかれは、背後から聞こえてきた音に立ちどまって、ふりむいた。ベッドの頭板が、かれの眠っていたところにたたみこまれていた。ポウルは凍りつき、動きをとめたことがかれの命を救った。
頭板の背後から長さ五センチもない小さな|獲物あさり《ハンター・シーカー》がすべり出てきたのだ。ポウルにはそれがすぐにわかった――王族の子供であればだれだろうと幼いころから教えられる。ありふれた暗殺用の兵器だ。それは近くにいるだれかの手と目によって誘導されて獲物をあさる金属の細片だ。それは動いている肉体にくいこみ、もっとも近くにある致命的器官まで神経をたどってもぐってゆくのだ。
シーカーは浮き上がり、ななめに部屋を横切り、またもとへもどってきた。
ポウルの心に、関係のある知識、|獲物あさり《ハンター・シーカー》の限界がきらめき走った。その圧縮されたサスペンサー・フィールドは、送信者の視界をゆがめる。目標から反射する光がこのうす暗い部屋の明かりだけでは、それを操作しているやつは動きに頼っているわけだ――なんであろうと動くものにだ。かれのシールドはベッドの下にある。|ラス・ガン《*》でならそれをたたき落とせるだろう。だがラス・ガンは高価だし、手入れがむずかしいことで有名なんだ――それにレイザー光線[#レイザーと言うよりは「レーザー」が一般的に普及していると思うが原本に従う]が生きているシールドにぶつかると、つねに爆発の危険がある。アトレイデ家のものは、個人用防御シールドと知恵に頼るのだ。
いまポウルは緊張病にかかったほど体を動かさないようにしながら、この脅威に対処するのに知恵のほか何ひとつ持っていないことを知っていた。
|獲物あさり《ハンター・シーカー》はもう半メートルほど浮かび上がった、そいつは窓のブラインドからもれてくる光にふるえ、前後にゆれ、部屋の中を見まわした。
“こいつをつかまえなければいけない。サスペンサー・フィールドで、こいつはすりぬけやすくなっているだろう。ぼくはこいつをしっかりとつかまなければいけないんだ”
そいつは半メートル落下し、左に動き、ベッドをまわってもとにもどった。かすかにうなっている音が聞こえてきた。
“これを動かしているやつはだれなんだ? だれか近くにいるやつにちがいない。大声をあげてユエを呼ぶことはできるが、ドアをあけたとたんにかれにぶつかるだろう”
ポウルの背後で廊下のドアがきしみ、ノックの音が聞こえた。ドアはひらいた。
|獲物あさり《ハンター・シーカー》はかれの顔をかすめて、その動きにむかって矢のように飛んだ。
ポウルは右手をさっとのばして、その恐ろしいものをつかんだ。それはかれの手の中でうなり、ねじれようとしたが、かれの筋肉は必死になってそれをつかみつづけていた。激しく体をねじって突進したかれは、そいつの鼻っさきを金属のドアにたたきつけた。そいつの先端にある目がくだけ、手の中でシーカーが死んだのをかれは感じた。
それでもかれはそれをつかんでいた――念には念を入れるためだ。
ポウルは頭を上げ、シャダウト・メイプズの見つめているまっ青な目と視線があった。彼女は口をひらいた。
「お父さまがおよびでございます。あなたをお守りしてゆく男たちは廊下におります」
ポウルはうなずき、かれの目と意識は、農奴の着る茶色の袋をまとったこの変な女に集中した。女は、かれの手ににぎられているものを見ていた。
「わたし、そういうものを聞いたことがございます。それはわたしをい殺したはずでございますね?」
かれは唾をのみこんでから、やっと答えることができた。
「ぼくが……これの目標だった」
「でも、わたしにむかってまいりました」
「おまえが動いていたからだ」
そういいながらかれはいぶかしく思った。いったい、こいつはだれなんだ?
「では、わたしの命を救っていただいたわけでございますね」
「われわれふたりの命をだよ」
「わたしにあたるままにさせておき、あなたはお逃げになることができたはずだと思いますわ」
「おまえはいったいだれだ?」
「シャダウト・メイプズ、家政婦でございます」
「ぼくがいるところをどうして知ったんだ?」
「お母さまがおしえてくださいました。ホールの下にあるふしぎな部屋へつづく階段のとこでお会いしました」女は右のほうを指さした。「お父さまの部下のかたたち、まだ待っていますが」
“ハワトの部下だろうな。これを操作しているやつを見つけなければいけない”
かれはいった。
「父上の部下のところへ行け……かれらにぼくが邸の中で|獲物あさり《ハンター・シーカー》を見つけたことを告げ、すぐに散開して、それを操作しているものを見つけろというんだ。邸とその地所をただちに封鎖しろといえ。かれらはどうやればいいかを知っているはずだ。操作しているやつは、われわれの中にいるよそ者にちがいないからな」
そしてかれは思った。“この女だということは?”だが、そうではない。この女がはいってきたとき、シーカーは操作されていたのだから。
メイプズはいった。
「ご命令に従う前に、わたしたちのあいだにある道を清めておかなくてはいけません。あなたはわたしの上に、わたしが支えられるかどうかわからないほどの|水 の 義 務《ウォーター・バーデン*》をおかれました。でも、わたしたちフレーメンは借りを返します……それが黒い借りであろうと、白い借りであろうとです。そして、あなたがたの中に裏切り者がいることを、わたしたちは知っています。それがだれだかをいうことはできませんが、それは確実なことだと信じています。たぶん、その|肉 切 り 器《フレッシュ・カッター》を導いているものがいるのでございましょう」
ポウルはその言葉を黙って考えた。“裏切り者”それに答えようとするより早く、老婆はふりむき、入口にむかって走っていった。
かれは女を呼びもどそうかと思ったが、その女にはそんなことをすると怒りそうなところがあった。女は知っていることをかれに告げ、いまはかれの命令どおりにしようとしているのだ。すぐに邸の中はハワトの部下でごったがえすだろう。
かれの心は、奇妙な会話中の他の部分へ行った。“ふしぎな部屋”そしてかれは、いまの女が指さした左のほうを見た。“わたしたちフレーメン”では、フレーメンの女だったのか。かれは女の顔のパターンを記憶の中にしまいこむあいだ待った――干しプラムのように皺だらけで濃い褐色の顔、白いところのまったくない青地に青の目。かれはそれにラベルをはった。シャダウト・メイプズと。
破壊したシーカーをまだつかんだまま、ポウルは自分の部屋にもどり、左手でベッドからシールド・ベルトを取り上げ、それを腰に巻きつけるとバックルをとめ、走り出し、廊下を左へとむかった。
あの女は母がどこか下にいるといっていた――階段……ふしぎな部屋、と。
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試練のときにレイディ・ジェシカをささえたものは何であったろうか? ベネ・ゲセリットにあるつぎの格言を慎重に考えてみるならば、それをたぶん知ることだろう。“いかなる道もその終わりに達すれば、どこにもつづいていない。それが山であるかどうかを知るためには、ほんのすこしその山に登ってみること。山の頂上から、その山を見ることはできない”
――イルーラン姫による
“ムアドディブ、家庭における論評”から
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南棟のつきあたりでジェシカは金属の螺旋階段を見つけた。それは上のほうにある楕円形のドアにつづいている。彼女は廊下をふりかえり、またそのドアを見上げた。
“楕円形? 邸の中にあるドアにしては、なんて変な形をしているんでしょう”
螺旋階段の下にある窓をとおして、アラキスの大きな太陽が夕暮れにむかって動いているのを彼女は見た。長い影が廊下にさしていた。彼女は視線を階段にもどした。ななめにさしてきている強い日差しで、むきだしになっている金属の階段に乾いた土がついているのが見えていた。
ジェシカは手すりに手をかけて登りはじめた。すべらせてゆく彼女の掌に、手すりは冷たく感じられた。ドアの前にとまった彼女は、それにハンドルがなく、それがあるべきところが、かすかにへこんでいるのを見た。
“|掌 錠《パーム・ロック》のはずはないわ、掌錠は、特定の人の手の形と掌の線が鍵になるものだけど……”
そう彼女は考えたが、それは掌錠に似ていた。そしてどんな掌錠であろうと、あける方法はいくつかある――学校で習ったとおりにだ。
ジェシカはふりむいて見られていないのをたしかめ、ドアのへこみに掌をおしあて、まわし、それから階段の下にメイプズが来たのを見た。
「大広間に来た男たちが申しますには、若殿《わかとの》ポール[#ここはメイプズだから、まだ慣れていないから「ポール」なのかと思われる]さまをお連れするようにとの公爵さまのご命令だそうでございます。かれらは公爵さまの紋章指輪を持っており、警備兵はそれを確認いたしました。
メイプズはそういい、ドアをちらりと眺め、またジェシカに視線をもどした。
“慎重ね、このメイプズは。いいしるしだわ”
ジェシカはそう考えながら答えた。
「廊下のこちらがわから五つめの部屋、小さな寝室にいるわ。もしおこすのにこまったら。となりの部屋にいるドクター・ユエを呼んでね。ポウルは覚醒剤が必要かもしれないから」
またもメイプズはつきさすような視線を楕円形のドアにむけた。そしてジェシカは、その表情に嫌悪の思いが浮かんでいるのを感じた。そのドアと、その中に何があるのか聞こうとする前に、メイプズはふりむき、廊下を急いでもどっていった。
“ハワトがこの場所を調べ終わったんだもの、恐ろしいものなどいるはずがないわ”
彼女はそう考え、ドアをおした。ドアは小さな部屋の中へひらき、そのつきあたりにもうひとつ楕円形のドアがあった。そのドアには輪《ホイール》のハンドルがついていた。
“エアロック!”ジェシカは下を見て、床に|扉支え《ドア・プロップ》が落ちているのに気づいた。支えにはハワトの個人的なしるしがついていた。“このドアはひらいたままにしておかれたんだわ。そして、外のドアが掌錠でしまることに気づかなかったので、だれかがたぶん偶然支えを落としたってわけね”
彼女は小部屋の中へはいった。
“なぜ家の中にエアロックがあるのかしら?”
と、彼女は自分の心にたずねてみた。そして彼女はとつぜん、異国の生き物が特別な気候の中に隔離されていることを考えた。
“特別な気候!”
ほかの惑星でもっとも乾燥しているところの植物でもこのアラキスに持ってくれば灌漑してやらなければいけないことを考えると、それも納得できることだ。
背後のドアがしまりはじめた。彼女はそれをおさえ、ハワトが残していった棒でしっかりととめて、ひらいたままにしておいた。また彼女は輪でしめてある内側のドアのほうにむき、ハンドルの上に刻まれているかすかな文字に気づいた。それはガラッハ語で書かれているとわかった。
<おお、人よ! ここに神の創造されたものの愛らしい一部がある。その前に立ち、なんじの最高の友の完璧さを愛することを学ぶのだ>
ジェシカは輪に重みをかけた。それは左にまわり、内側のドアはひらいた。そよ風が頬をなぶり、髪を乱した、彼女は空気が変わったこと、匂いがずっとよくなったことを感じた。彼女はドアを大きくあけ、室内を埋めている緑の植物に黄色い太陽光線があたっている有様を見た。
“黄色い太陽[#日本では太陽は、真っ赤とか赤いイメージと昼間のうちは白というイメージだが、欧米では太陽は黄色いと認識されている。なのでここでは黄色い太陽というのは地球の太陽を連想しなければいけない]? フィルター・ガラスを使っているのね!”
彼女は入口の枠をまたいで中にはいり、ドアはその背後でしまった。
「湿った惑星の温室だわ」
と、彼女は低い声をもらした。
鉢植えの植物や低く切られた樹々があたり一面に立っていた。ネムリグサ、花の咲いているマルメロ、|ソンダーギ《*》、緑色のつぼみがついている|プレニセンタ《*》、緑と白の縞が走っている|アカルソー《*》……バラ……
バラさえもある!
彼女はかがみこんで巨大な桃色の花の匂いを嗅ぎ、ついで背をのばして部屋の中をみまわした。リズミカルな音が感じられたのだ。
彼女は木の葉が重なっているジャングルをかきわけ、部屋のまん中のほうをのぞいてみた。笛のような形の口がついた小さな低い噴水があった。リズミカルな音は、金属の鉢に弧を描いて落ちている水が立てていた。
ジェシカは急速に感覚をはっきりさせるまじないをおこない、部屋のまわりを組織的に調べはじめた。広さは十メートル四方ぐらいらしい。廊下の端の上にあることと、構造がすこしちがっていることからすると、もとの建物が完成されただいぶたってからこの棟の屋上につけ加えられたものなのだろう。
彼女は南端のフィルター・ガラスがひろく下りてきているところの前に立って、みまわした。部屋の中の利用できるスペースのすべてが、多湿の気候で育つ珍しい植物で埋められていた。何かが緑の中で葉をこする音をたてた。彼女は緊張し、それからパイプとホースのついた簡単な時計仕掛けの|サーボク《*》に目をとめた。一本の腕が上がり、こまかい霧を吹きだした。その湿気が彼女の頬にしっとりとかかった。腕はひっこみ、それが水をまいた相手は羊歯《しだ》だとわかった。
この部屋のいたるところに水があった――水がもっとも貴重な生命のジュースであるこの惑星においてだ。これほどまであからさまに水が浪費されていることで、彼女は心の中の静けさにショックを受けた。
彼女はフィルターをとおして黄色く見えている太陽を眺めた。それは、|遮断する壁《シールド・ウォール*》と呼ばれている巨大な岩石の隆起の一部となっている崖のぎざぎざに見えている地平線の上に、低くおりていた。
“フィルター・ガラス……白い太陽を、やわらかな、以前から知っている光に変えているのね。だれがこんなところをつくれたのかしら? レト? これほどの贈り物でわたしをい驚かすのはかれらしいけど、そんな時間はなかったわ。それにかれは、もっと深刻な問題で忙しかったはずよ”
彼女は、アラキーンにある多くの家が、内部の水分を保存し、回収するためにエアロック式のドアや窓で密閉されているという報告を思いだした。そしてレトはいていた。そのような用心を無視し、ドアと窓を密閉するのは偏在しているほこりを防ぐためだけにすることが、この邸にとっては力と富を意識的に声明することになるのだ、と。
しかしこの部屋には、外のドアに水分密閉装置《ウォーター・シール》がないことよりずっと大きな意味のあるものがあった。彼女がざっと見たところ、この楽しみのための部屋はアラキスで千人の人間を生かしておけるだけの水を使っていた――ひょっとするとそれ以上だろう。
ジェシカは部屋の中を見つめながら、窓にそって歩いていった。そのうち噴水のそばにあおいてある金属テーブルの表面が見え、上からたれさがっている大きな葉になかば隠れて白いノート・パッドと鉛筆がおいてあった。彼女はそのテーブルのところへ行き、ハワトが記した今日のサインに気づき、ノートに書かれている文章を読んだ。
レイディ・ジェシカへ[#ここの文章だけ改行の場所を「。」ごとにしました]
この場所がわたしにあたえてくれたほどの喜びをあなたにもあたえてくれますように。
どうかこの部屋に、わたしたちが同じ教師から学んだ教訓を運ばせることを許してね。
望ましいことの接近は人をわがままへと誘うもの。その通路にこそ危険あり、と。
お幸せをいのりつつ
マーゴット・レイディ・フェンリング
レトがかつてここにいる皇帝の前代理者を伯爵《カウント》フェンリングといっていたことを思いだして、ジェシカはうなずいた。そして、そのノートの文章に隠されている意味は注意しなければいけないものだった。それを書いた人間もまたベネ・ゲセリットであることを、それとなくしらせているのだ。苦い思いがジェシカの胸をよぎった。“伯爵はこの人と結婚したんだわ”と。
その思いにとらわれながらも、彼女はかがみこんで隠されている意味を知ろうとした、何かあるにちがいない。その文章は、学校の指令に束縛されていないすべてのベネ・ゲセリットが必要とするとき他のベネ・ゲセリットに伝えるときの暗号文をふくんでいる。<その通路にこそ危険あり>だ。
ジェシカはそのノートの裏にふれ、暗号の点がついていないかとなでてみた。何もない。パッドの端に彼女のさぐる指先がふれた。何もない。彼女は緊迫感をおぼえながら、パッドをもとのところにもどした。
“パッドの位置だろうか?”
と、彼女は疑問をいだいた。
しかしハワトがこの部屋をくまなく調べたとき、このパッドを動かしたことは、まずまちがいないだろう。彼女はパッドの上の葉を眺めた。その葉か! 彼女はその裏面を、その端を、その茎にそって指先を動かしていった。そこだった! 彼女の指はこまかく打たれている暗号の点をさぐってゆき、文章に直していった。
“あなたの坊やと公爵が、まぢかな危険にさらされています。寝室はあなたの坊やを引きつけるように設計されたものです。Hはそこに死の罠をたくさんしかけました。その多くは発見されるでしょうが、そのひとつは見落とされるかもしれません”ジェシカはポウルのところへ走ってもどりたい衝動をおさえつけた。通信の全文を知らなければいけないのだ。彼女の指先はその点を追った。“その脅威が正確に何なのかわたしは知りませんが、ベッドと関係しているもののようです。あなたの公爵にせまってくる脅威は、信頼されている話相手とか副官の変節をふくんでいます。Hはあなたを、寵臣のひとりにあたえることを計画しているのです。わたしの知るかぎり、この温室は安全です。もっと教えられないことを許して。わたしの伯爵がHの手先になっていないので、情報源が少ないの、急いで、MF”
ジェシカは葉を横におし、ポウルのところへ急いでもどろうとふりむいた。そのとき、エアロックのドアが勢いよくひらいた。ポウルが何かを右手ににぎって飛びこんできて、うしろ手にドアをしめた。かれは母親を見ると、葉をかきわけて彼女に近づき、噴水を見ると、それをにぎっている手を落ちてくる水の下につきだした。
「ポウル!」ジェシカはかれの肩をつかみ、その手を見つめた。「それは何なの?」
かれはなんでもなさそうに話したが、彼女はその口調に隠されている努力に気がついた。
「|獲物あさり《ハンター・シーカー》。ぼくの部屋でつかまえて、鼻っ先をたたきつぶしたんだけど、まだ安心できないから。水ならショートしてしまうはずでしょ」
「つけなさい」
と、彼女は命令した。
かれはそれに従った。
しばらくしてから彼女はいった。
「手を水の中から出して。それを水の中に残しておくのよ」
かれは手をぬきだし、水をふり飛ばし、泉の中に静止している金属を見つめた。ジェシカは植物の茎を折り、その恐ろしい小さな物をつついてみた。
それは死んでいた。
彼女はその茎を水の中に落として、ポウルを見た。かれは部屋の中をきびしい視線で見まわした。ジェシカにはB・G<ベネ・ゲセリット>[#ルビを間違えたのではありません。こういう書き方です]の方法だとわかる目つきだった。
「ここは何でも隠せるようなところですね」
「わたしにはここが安全だと信じられる理由があるの」
「ぼくの部屋だって安全なはずでしたよ。ハワトが……」
彼女はポウルに思いださせた。
「|獲物あさり《ハンター・シーカー》だったのよ。ということは、だれかこの邸の中にいりものが操作していたってことね。シーカーの制御電波には、距離の制限があるわ。ハワトが調べたあと、ここで使うこともできたはずよ」
そういいながらも彼女は通信文のことを考えていた。
“……信頼されている話相手とか副官の変節をふくんでいます……ハワトじゃないことはたしかよ。ハワトであるはずはないわ”
「いま、ハワトの部下が邸の中を探しています。そのシーカーは、ぼくをおこしにきたお婆さんにあたるところでしたよ」
ジェシカは、階段で言葉をかわしたときのことを思い出して答えた。
「シャダウト・メイプズね……お父さまのお呼びでしょ……」
ポウルはいった。
「待ってもらいますよ。なぜ母上はこの部屋を安全だと思われるのです?」
彼女はノートを指さし、説明した。
かれはすこしほっとしたようだった。
だがジェシカの心は緊張しつづけ、考えていた。“|獲物あさり《ハンター・シーカー》! なんてこと!”ヒステリックに体がふるえだしてこないようにするためには、これまでに受けていた訓練のすべてを必要とした。
ポウルは当然のことのようにいった。
「もちろん、ハルコンネンのしわざです。やつらをたたきつぶさなければいけないってことですね」
エアロック・ドアをたたく音がした――ハワトの部下の暗号ノックだ。
「はいれ」
と、ポウルは呼びかけた。
ドアは大きくひらき、アトレイデの制服に、ハワトの記章を帽子につけた背の高い男が、かがみこむようにして部屋の中にはいってきた。
「そこにおられましたか、若さま。家政婦に聞いてまいりました」かれは部屋の中をちらりと見まわした。「われわれは地下室で石塚を見つけ、その中にいた男をつかまえました。そいつは|あさり制御装置《シーカー・コンソール》を持っておりました」
ジェシカはいった。
「尋問にはわたしも加わりたいわ」
「残念ですが、マイ・レイディ。とらえるときに重傷をおわせ、そいつは死にました」
「身許を示すようなものは?」
「まだ何も見つけておりません、マイ・レイディ」
ポウルはたずねた。
「そいつはアラキーンの原住民だったのか?」
ジェシカはその質問の機敏さにうなずいた。
「原住民の顔つきをしておりました。そのケルンに一ヵ月以上前に入り、われわれの来るのを待っていたようであります。そいつが地下室に出てきた部分の石とモルタルは、われわれが昨日その場所を調べましたとき、手をふれられた形跡がありませんでした。わたくしはそれに自分の名誉をかけます」
ジェシカはいった。
「だれもあなたの手落ちだなどと疑っておりませんよ」
「わたくしが疑っております、マイ・レイディ。われわれはあそこで音響探知機を使うべきでありました」
ポウルはいった。
「きみたちがいまやっているのは、それだな」
「はい、若さま」
「父上に、ぼくらは遅れると伝えてくれ」
「ただちにそういたします、若さま」かれはジェシカを見た。「このような状況でありますから、若さまは安全な場所で警備せよとハワトの命令を受けております」ふたたび、かれの視線は部屋の中を見まわした。「ここはいかがでしょうか?」
「わたしにはここが安全だと信じられる理由があるの。ハワトとわたしの両方が調べましたしね」
「ではこの外に警備兵を配備しておきます、マイ・レイディ。もう一度、邸の中を調べ終りますまで」
かれは頭を下げ、ポウルにむかって帽子に手をふれ、外に出るとドアをしめた。
ポウルはとつぜんの沈黙を破っていった。
「ぼくらで、もう一度家の中を調べたほうがいいんじゃないでしょうか? 母上の目は、ほかのものが見逃すことでも見つけるでしょうから」
「この棟が、わたしの調べておかなかった唯一の場所なの。最後に残しておいたのは……」
「ハワトが自分で調べようとしたから」
彼女はポウルに、問いかけるような視線をむけた。
「あなたはハワトを信頼していないの?」
「いいえ、でもかれは年を取ってきたし……働きすぎでしょう。ぼくらは、かれの仕事をすこし軽くしてやれたはずですよ」
「そんなことをすれば、かれに恥をかかせ、能率を落とさせるだけだわ。このことを聞いたら、虫一匹もこの棟には迷いこんでこられなくなるでしょう。かれは面目なく思い……」
「ぼくらのまわりのものを調べなおしてみなければ」
「ハワトは三代のアトレイデ家の当主に仕えてきた名誉ある人よ。わたしたち、どれほどの尊敬と信頼をかれにはらってもいいわ」
ポウルはいった。
「父上があなたのなさったことで困られると、おまじないみたいに、ベネ[#「ベネ」に傍点]・ゲセリット[#「ゲセリット」に傍点]! っていわれますね」
「お父さまがわたしに困らされるって、どんなときなの?」
「あなたが父上と議論されるとき」
「あなたはお父さまじゃないのよ、ポウル」
そしてポウルは考えた。
“母上を心配させることになるが、ぼくは話さなければいけないんだ。あのメイプズって女がぼくらのあいだに裏切り者がいるといったことを”
ジェシカはたずねた。
「何を隠しているの? あなたらしくないわね、ポウル」
かれは肩をすくめ、メイプズに聞かされたことを話した。
ジェシカは植物の葉が伝えた通信のことを考えた。彼女はとつぜん決心し、ポウルにその葉を見せ、その通信文を話した。
「父上も、このことをすぐに知らなければ。暗号無電ですぐに発信しましょう」
彼女は首をふった。
「いいえ……お父さまとひとりだけで会えるようになるときまで待つのよ。このことを知る物は、できるかぎり少なくしなければいけないわ」
「別の可能性があるからよ……この通信はわたしたちにあてたものでしょう。それをわたしたちに知らせた人々は本当のことだと信じていたのかもしれないけれど、唯一の目的はこの通信をわたしたちに知らせることだったのかもしれないわ」
ポウルの顔は深い憂鬱をたたえていた。
「ぼくらのあいだに不信と疑惑をひろめ、その方法でぼくらを弱くするためですね」
「あなたひとりでお父さまに話し、この考えかたについても警告しておかなければいけないのよ」
「わかりました」
彼女はフィルター・ガラスの高い窓のほうにむき、アラキスの太陽が沈みかけている南西のほうを見つめた――崖の上に低く見えている黄色い球体を。
ポウルは彼女といっしょにむきを変えていった。
「ぼくにもハワトだとは考えられません。ユエだということはあるでしょうか?」
「かれは副官でも話相手でもないわ。それにかれは、わたしたちと同じぐらいひどくハルコンネン家を憎んでいるって断言できるのよ」
ポウルは視線を崖のほうにむけながら、考えた。
“それにガーニィであるはずもない……ダンカンもだ。尉官クラスのだれかだろうか? 考えられないことだ。かれらはみな、何代にもわたってわれわれに忠誠をつくしてきた家から来ているのだ”
ジェシカは疲れをおぼえて、額をもんだ。ここは危険でいっぱいだわ! 彼女はフィルターで黄色く見えている景色を眺め、調べていった。公爵領の地所のむこうに高いフェンスをはりめぐらせた貯蔵場がひろがっている――香料《スパイス》サイロが何列もつづき、そのまわりに驚いた蜘蛛がたくさんいるみたいに、支柱をのばした監視塔が立っている。|遮蔽する壁《シールド・ウォール》の崖までサイロがつづく貯蔵場が少なくとも二十ヵ所見えている――盆地の一面に、サイロがつづいているのだ。
ゆっくりと、フィルターをとおして見えている太陽が地平線の下に沈んでいった。星々が輝きはじめた。地平線すれすれの低いところに明るい星が見え、それははっきりと正確なリズムでまたたいた――光がふるえている。ピカ・ピカ・ピカ・ピカ……と。
うす暗くなってきた部屋の中で、そばにいるポウルがみじろぎをした。
だがジェシカはその明るい星に注意し、それが低すぎるから、|遮蔽する壁《シールド・ウォール》の崖から光っているに違いないと考えていた。
“だれかが信号しているんだわ!”
彼女はその信号を読もうとしたが、それは彼女の学んだ暗号ではなかった。
崖の下の平野に別の光が現れた、青い闇の中に小さな黄色い光が間隔をおいてともった。ひとつの光が消えると左のほうのが明るくなり、崖にむかって点滅しはじめた――非常に速く。ほとばしるように速く明滅している!
そして、それも消えた。
崖で光っていた偽の星もすぐに消えた。
信号……そのことに彼女はいやな予感をおぼえた。
“盆地の中で信号するのになぜ光を使ったのかしら? なぜかれらは通信網を使えなかったのかしら?”
その答えははっきりしていた。通信網ではいま、公爵レトの情報部員に傍受されることが明らかだからだ。光の信号が意味していることはただひとつ、敵のあいだの通信――ハルコンネンのスパイのあいだでだ。
背後のドアをたたく音と、ハワトの部下の声がひびいた。
「大丈夫であります、若さま……マイ・レイディ。若さまがお父さまのところへまいられるときでございます」
[#改ページ]
[#ここから10字下げ]
公爵《デューク》レトはみずからアラキスの危険に目をつぶり、不注意にも罠にかかっていったといわれている。それは、かれがあまりにも長いあいだ極度の危険が存在する中でくらしてきていたため、その危険度が変化したことの判断を誤ったと見るほうがとり正しいのではなかろうか? あるいは、かれの嗣子がよりよい人生を見つけられるようにと、意識的にみずからを犠牲にしたとは考えられないだろうか? すべての証拠は、公爵が容易に欺され得る人間でなかったことを示している。
――イルーラン姫による
“ムアドディブ、家庭における論評”から
[#ここで字下げ終わり]
公爵《デューク》レトは、アラキーン郊外にある離着陸司令部の胸壁にもたれかかっていた。その夜の最初の月が、扁平な銀貨のように、南の地平線の空高くかかっている。その下には、|遮蔽する壁《シールド・ウォール》の切り立った崖が、ほこりっぽい靄《もや》の中で結氷したように光っている。左のほうには、アラキーンの明かりが靄の中で輝いている――黄色……白……青、と。
かれは、この惑星の居住民がいるすべての場所に、かれの署名がある布告がかかげられていることを考えた。<われらが至高なる|大 王 皇 帝《パディッシャ・エンペラー》の命により、余がこの惑星を所有し、すべての争いを終わらせることを布告する>
その儀式的な形式に、かれは淋しさをおぼえた。
“この愚かなる形式主義にだれがだまされるのだ? フレーメンでないことはたしかだ。アラキスの惑星内商業をい牛耳っていた|小 公 家《ハウス・マイナー》ではない……そしてハルコンネンの獣《けだもの》めは最後のひとりまでもだ……やつらは、わしの息子の命を奪おうとしたのだ!”
その怒りをがまんするのはむずかしかった。
かれはアラキーンから離着陸場へとやってくる乗り物の明かりを見た。かれはそれがポウルを連れてくる護衛兵と兵員輸送車であればいいがと願った。ハワトの副官たちの警戒のせいだとわかっていても、送れていることにかれはいらだっていた。
“やつらはわしの息子の命を奪おうとしたのだ!”
かれはその腹立たしい想いをふりはらおうとするように首をふり、離着陸場を見まわした。そのまわりにはかれの巡洋艦五隻が歩哨のように立っていた。
“用心して遅れるほうがいいのだ……”
あの副官はいいやつだ、とかれは自分の心に告げた。完全な忠誠心ということで、昇進させるべき男だ。
“われらが至高なる|大 王 皇 帝《パディッシャ・エンペラー》……”
この退廃的な守備隊駐屯都市の人々が“|高貴な公爵《ノーブル・デューク》”にあてた皇帝の私信を見ることさえできれば――ベールをした男や女にたいする軽蔑に満ちたほのめかしを。<……しかし人は野蛮人どもにそのほか何を望むことができよう、かれらの最大の望みがファウフレルヒェスの秩序ある安全さの外で生きることである以上>
公爵はこの瞬間、かれ自身のいちばんの夢は、階級差別のすべてをなくし、恐ろしい秩序など二度と考えなくてすむようになることだと感じた。かれは夜空を見上げ、ほこりの中でまたたきもせずに光っている星を眺めながら考えた。“あの小さな光のどれかのまわりをカラダンがまわっている……しかしわしは、二度とふたたび故郷を見ることができないのだ”カラダンへの渇望は、とつぜん胸の痛みとなった。それはかれの心の中から出てきたものではなく、カラダンからかれのもとへやってきたもののように感じられた。かれにはこのアラキスという乾燥した荒地を故郷と呼ぶことができず、将来そう呼べるようになるとも考えられなかった。
“わしは自分の感情を隠さなければいけない。息子のためにだ。もしあの子が故郷《ホーム》を持てるとすれば、ここがそうでなければいけないのだ。わしはアラキスを、死より先にやってきた地獄のように考えているようだが、あの子はここを、元気づけてくれるところと考えなければいけない。きっと何かがあるはずだ”
自分を哀れむ心が大波のようにかれをおおい、すぐにそれをさげすみ、はねつけたものの、なぜかかれはガーニィ・ハレックがよくうたっている詩の二行を思いだしていた。
わたしの肺の味わうは時の空気
ふりつもる砂をとぎって吹いてゆく
そのとおり、ガーニィはここで、ふりつもる砂をたっぷり見ることになるぞ、と公爵は考えた。あの月の光に凍えているような崖のむこうにある中央荒地は砂漠だ――露出した岩、砂丘、吹きまくる砂ぼこり、地図も作られていない乾燥した荒野で、その周辺のあちこちに、そしてたぶんその中一帯に、フレーメンの集落がちらばっているのだ。もし、アトレイデ家のために未来を買ってくれる何かがあるとすれば、それはたぶんフレーメンだろう。
もしハルコンネン家が、フレーメンをも、かれらの害毒に満ちた陰謀でまだ汚染していなければのことだが。
“やつらは息子の命を奪おうとしたのだ!”
金属がこすりあわされているような騒音が司令塔じゅうにひびき、かれの両腕の下で胸壁がふるえた。噴射防御シャッターがかれの前に下り、視界をさえぎった。
“往復船《シャトル》がはいってくるんだな。下へ行って仕事にかかるときだ”
かれは背後にある階段のほうへむき、大集会堂へ下りてゆきながら、落着いていようと努め、やってくる連中にたいして平然とした表情でいようとした。
“やつらは息子の命を奪おうとしたんだ!”
かれが黄色いドームになった部屋へ達したとき、すでに離着陸場から男たちが続々と流れこんでいた。かれらはスペース・バッグを肩にかつぎ、休暇からもどってきた学生のように叫び、騒いでいた。
「おい! 足の下のものを感じるか? 重力だぞ!」
「ここのGはどれぐらいなんだ? だいぶ重たいぜ」
「本によれば十分の九Gだ」
大きな部屋いっぱいに言葉が投げかわされていた。
「下りてくるときにおめえ、この汚ねえ場所をしっかりと見たかよ? ここにあるはずの宝物はみなどこに行っちまったんだ?」
「ハルコンネンのやつらが、そっくり持っていったんだな!」
「おれは熱いシャワーとやわらかいベッドでいいさ!」
「聞いてなかったのか、この馬鹿! ここにシャワーはねえんだぞ。おゆえ[#たぶん「おめえ」の間違いかと思うが原本に従う]は尻《けつ》の穴を砂で洗うんだ!」
「おい! やめろ! 公爵だ!」
公爵は階段入口から、とつぜん静まりかえった部屋の中にはいっていった。
ガーニィ・ハレックが群集の前を大股で近づいてきた。肩にバッグをかつぎ、もう一方の手に九絃のバリセットのネックを握っている。大きな親指、長い指の両手、それがこまかに動いてバリセットから実に微妙な音楽を引き出すのだ。
公爵はハレックを見つめ、その醜いこぶを嬉しく眺め、わかったよと不作法に明るく光っている目に気づいた。ここにいる男は、階級組織の外に生きながら、そのあらゆる教えに従っているのだ。ポウルはこの男のことをなんと呼んでいた? “勇気の男、ガーニィ”か。
ハレックの薄いブロンドの髪が禿げたところを横におおっている。その大きな口が嬉しそうな笑いにゆがみ、顎にそって走るインクヴァインの鞭で打たれた傷跡が、それ自身生命を持って動いたように見えた。そのい全身から、のんびりとしてはいるが、がっしりと落ち着いた能力があふれていた。かれは公爵の前にやってきて頭を下げた。
「ガーニィ」
と、レトはいった。
「殿《との》」かれはバリセットを部屋の中にいる男たちのほうにふった。「これが最後の連中です。わたしは第一波で来たかったんですが、しかし……」
「まだハルコンネンをすこしおまえのために残してあるよ。こちらへ来てくれ、ガーニィ、話のできるところに」
「ご命令のままに、殿《との》」
男たちが大きな部屋で落ち着かずにざわざわしている中を、ふたりは水の自動販売機のそばにある小部屋にはいっていった。ハレックはバッグを隅に置いたが、バリセットは握っていた。
公爵はたずねた。
「何人ほどハワトのほうに割ける?」
「スフィルが面倒なことにでも、殿《との》?」
「かれは工作員をふたり失っただけだが、かれの先発部隊は、ここにあるハルコンネンの全組織についてすばらしい情報をつかんだ。もしわれわれが急速に行動すれば、防衛手段を確保できるかもしれん。息がつけるようになるだろう。かれはおまえが割けるかぎり多くの男を欲しがっている……ちょっとした危険な仕事にたじろがない連中をな」
「最上の男を三百人わたせます……どこへやればいいですか?」
「メイン・ゲイトへ。ハワトはそこへ迎えの者をよこしている」
「いますぐにおこないますか、殿《との》?」
「このあとで。ほかにも問題があるんだ。離着陸場指揮官は口実をもうけて、ここにいる往復船《しゃとる》を夜明けまでとめておく。協会大宇宙船《ギルド・ハイライナー》はその仕事をつづけようとしており、往復船《シャトル》は香料《スパイス》をつんだ貨物船と接触をとろうとしているらしいんだ」
「われわれの香料《スパイス》ですか、殿《との》?」
「われわれの香料《スパイス》をだ。そのうえ往復船《シャトル》は前政府に勤めていた香料採集人《スパイス・ハンター》をのせていこうともしている。かれらは領土が変わったことを理由に去ろうとしており、|移 動 審 判 官《ジャッジ・オブ・チェンジ》はそれを許可したんだ。貴重な労働者だ、ガーニィ、それが八百人ほどだ。往復船《シャトル》が出発する前におまえは、その連中の何割かをわれわれのところで働くように説得しなければいけないというわけだ」
「どれほどの強さで説得を、殿《との》?」
「わしはかれらの自発的な協力を求めたいんだ、ガーニィ。その連中は、われわれが必要としている経験と技術を持っている。かれらが去ろうとしている事実は、かれらがハルコンネンの手先でないことを意味している。ハワトはその中に悪いやつらも何人かもぐりこませてあるはずだと信じているが、あらゆる容疑者に暗殺者をつけているよ」
「スフィルはこれまでにもずいぶん役に立つスパイを見つけてきましたからね、殿《との》」
「かれの発見していないものもいるさ。だがわしの考えるところ、この出ていこうとしている群集の中にもぐりこませているスパイは、ハルコンネン家にたいして大きすぎるほどの幻影を抱いており、それが表面に出てくるはずだ」
「それも考えられますよ、殿《との》、その連中はどこにいるんです?」
「下の階、待合室だ。おまえは下へ行ったらその連中の心をやわらげるためにいくつかの曲を聞かせたあとで、圧力をかけたらいいな。それだけの値打ちがある連中には、政府内での地位をあたえてもいい。ハルコンネン家から受け取っていたときより二十パーセント高い賃金を約束しろ」
「それ以上はだめですか、殿《との》? ハルコンネンは歩合い給だったと聞いています。そして、退職金をポケットにうならせ、旅行熱につかれている連中にとっては……そうですな、殿《との》、二十パーセントでもふみとどまらせる誘引にはなりにくいでしょう」
レトはいらいらといった。
「では、特別の場合にはおまえ自身の判断を使え。ただ、経理が底無しではないことをおぼえておくんだぞ。できるかぎり二十パーセントにおさえておくんだ。われわれが特に必要としているのは、香料運転手《スパイス・ドライバー*》、気象観測員《ウェザー・スキャナー*》、砂丘労働者《デューン・メン*》……砂漠での経験があるものはだれでもだ」
「わかりました、殿《との》……かれらはみな暴力を求めてやって来る。かれらの顔は東風を嗅ぎ、砂にとらわれたるものを集めるのだ」
「非常に心を動かされる引用だな……部下を副官にまかせろ。かれに水についての規則を説明させ、それからみんなをここのとなりにある兵舎で今夜は寝させるんだ。ここの係員が面倒をみてくれるはずだ。それから、ハワトのほうへやる連中を忘れるなよ」
「最上の男を三百人、殿《との》」かれはスペース・バッグを持ちあげた。「仕事が終わってから、どこへ報告にまいりましょう?」
「わしはここの最上階にある会議室を使っている。そこに参謀を集めるんだ。わしは、武装隊を最初に出し、新しい惑星疎開命令を用意したいんだ」
むきを変えようとしていたハレックは途中でとまり、レトと視線をあわせた。
「それほどの面倒を予期されているのですか、殿《との》? ここには|移 動 審 判 官《ジャッジ・オブ・チェンジ》がいるはずですが」
「公開の戦闘と秘密裡にやるのと、両方ともな。わしらがやりとげるまでには、多くの血が流されることになるぞ」
ハレックは引用した。
「そしてそなたが川からくみだす水は、乾いた土地の血となるであろう……」
公爵は溜息をついた。
「急いでもどってきてくれ、ガーニィ」
「わかりました、殿」その笑顔に、鞭の傷跡が踊った。「見よ、砂漠のロバのごとく、かれは仕事におもむかん」
かれはふりむき、部屋の中央へ大股で歩いてゆき、命令をつたえるためにとまり、男たちのあいだをいそいで進んでいった。
レトは、その遠のいてゆくうしろ姿にむかって首をふった。ハレックは絶えざる驚きといえるものだった――歌と、引用文と、美しい文句がいっぱいにつまっている頭……そして、ハルコンネン家が相手となると暗殺者の心を持っている男だ。
やがてレトは、エレベーターのところにむかってななめに歩いてゆき、敬礼にはのんびりと手をふって答えた。かれは宣伝班員がいるのに気づき、その男のところでとまって、チャンネルを通じて男たちにつたえるべき知らせを話した。女を連れてきた連中は、女たちが安全であり、どこにいるかを知りたがっているだろうからだ。そのほかの連中は、ここの住民が男より女を誇りにしているらしいことを知れば喜ぶだろう。
公爵は宣伝班員の腕を軽くたたいた。その知らせは最優先権でただちに放送されるべきことを告げる合図だ。それからかれは、男たちにうなずき、微笑し、下級将校と冗談をかわしながら部屋を横切っていった。
“命令はつねに確信に満ちていなければいけない。すべての信頼をその双肩にかけられているとき、危機にあってもそれを見せてはならぬ”
かれはエレベーターの中にはいり、その顔を人間ではないドアにむけられるようになると、ほっと安堵の溜息をついた。
“やつらは息子の命を奪おうとしたのだ!”
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アラキーン離着陸場の出口の上に、粗末な道具を使ったと思われる文字が粗雑に刻まれている。それはムアドディブが何度となくくりかえすこととなった文章だ。かれはアラキスにおける最初の夜、父の全参謀会議に出席するため司令部に連れてこられたとき、それを見た。そこに刻まれている文句は、アラキスを離れる人々への訴えであったが、いましがた危うく死をまぬかれた少年の目には暗く大きな意味をつたえるものであった。その文句は、<ああ、ここにわれらが悩める理由を知るきみよ、祈りの中にわれらを忘れたまうことなかれ>
――イルーラン姫による“ムアドディブの手引き”から
[#ここで字下げ終わり]
公爵はいった。
「戦争の全理論は計算された危険だ……だが、自分自身の家族に危険がもたらされるとなると、計算の要素は……ほかのものの中に沈みこんでしまう」
かれは自分が怒りをおさえているべきなのに、そうしていないことに気づき、むきを変え、長いテーブルの端まで歩き、また引きかえした。
離着陸場の会議室にいるのは公爵とポウルだけだった。そこはうつろに音がひびく部屋で、そなえつけられているものはただ、その長いテーブル、そのまわりにおかれた旧式な三脚椅子、地図掲示板と、端にある映写機だけだった。ポウルは地図掲示板のそばに坐っていた、かれは父に、|獲物あさり《ハンター・シーカー》に襲われたことと、裏切り者がいる危険についての報告を話したのだ。
公爵はポウルの前に立ちどまると、テーブルをたたいた。
[ハワトはわしに、あの家は安全だといったんだぞ!」
ポウルはためらいながちに口をひらいた。
「ぼくも腹をたてました……最初はです。そしてぼくはハワトのせいにしました。しかし、その危険は邸の外から来たものでした。単純で、賢明で、直接的なものだったのです。そしてそれは成功していたはずです。もし、父上やほかの多くのものにあたえられた訓練がなければ……ハワトをふくめてです」
公爵は鋭くたずねた。
「そなたはかれを弁護するつもりか?」
「はい」
「かれは年を取ってきた。そのせいなのだ。かれがやるべきことは……」
「かれは賢明で、経験が豊富です。ハワトの犯した間違いをどれぐらい父上はおぼえておられます?」
「かれを弁護するのはわしであるべきなんだ……そなたではない」
ポウルは微笑した。
レトはテーブルの端に腰をおろし、手を息子の上に置いた。
「そなたは……ちかごろ、大人になってきたな、坊や、わしは嬉しいよ」かれは手を上げ、息子と顔を見あわせて微笑した。「ハワトは自分を罰しているだろう。かれは、わしらがふたりがかりで浴びせかける以上の怒りを自分自身にむけているはずだな」
ポウルは地図掲示板のむこうにある暗い窓に視線をむけ、夜の闇を眺めた。部屋の明かりが外に見えているバルコニーの手すりに反射している。動くものが見え、それはアトレイデの制服を着ている警備兵のひとりだとわかった。ポウルは父の背後の白い壁をふりかえり、ついでテーブルの輝いている表面を見おろし、自分が両手を強くにぎりしめていることに気づいた。
公爵と反対側のドアが大きくひらいた。はいってきたスフィル・ハワトはこれまでよりずっと年をとり、もっときびしい表情になっていた。かれはテーブルの端まで歩いてきて、レトの前に直立不動の姿勢をとった。
かれはレトの頭上の一点にむかって話しかけているように口をきいた。
「殿《との》、わたしはどれほどご期待にそむいたかを知りました。必要となりましたことは、わたしの辞……」
「ああ、そこへ坐って、馬鹿なことをいいだすのはやめろ」と、公爵はいい、ポウルのむかいがわの椅子のほうへ手をふった。「おまえが失敗したとすれば、それはハルコンネン家を過大評価しすぎたことにある。かれらの単純な心は単純なトリックを考えだしたわけだ。われわれは単純なトリックを計算に入れていなかったからな。そしてわしの息子は、その危険から逃れられたのは主としておまえに訓練されたおかげだといって、だいぶ心配していたぞ。おまえはその点で失敗しなかったわけだ!」かれは椅子の背をたたいた。「坐るんだ!」
ハワトは小さくなって椅子に腰をおろした。
「でも……」
「わしは、もうそれ以上は聞かんぞ。事件はすんだことだ。われわれにはもっと大切な仕事がある。ほかの者はどこにいるんだ?」
「外で待っているように頼みました。わたしが……」
「みんなを入れろ」
ハワトはレトの目を見つめた。
「殿《との》、わたしは……」
公爵はいった。
「わしは本当の友人がだれか知っているんだよ。スフィル。みんなを入れてくれ」
ハワトは唾をのみこんだ。
「すぐに、殿《との》」かれは椅子をまわし、あいているドアにむかって呼びかけた。「ガーニィ、みんなを入れてくれ」
ハレックは一団の男たちの先頭に立ってはいってきた。きびしい顔つきの参謀士官たちのあとから、若い副官や専門技術者がつづき、かれらのあいだには気おいこんでいる雰囲気がただよっていた。みんなが席につくまで、しばらく足音が部屋の中にひびいた。興奮剤|ラシャグ《*》のかすかな匂いがテーブルに流れた。
公爵はいった。
「ほしい者にはコーヒーがあるぞ」
かれはみんなを見まわしながら考えた。“いい連中だ。こんな状況だというのに、わしはまったく幸せな人間だな”かれは、となりの部屋からコーヒーが運ばれ、みんなにくばられるのを待ちながら、何人かの顔に疲労が現れていることに気づいた。
しばらくするとかれは精力的な表情になって立ちあがり、拳でテーブルをたたいてみんなの注目を求めた。
「さてと、諸君……われわれの文明は、権利の侵犯が日常茶飯のこととなるほど大きく堕落してしまったらしい。そのため、古い道を刈り上げることなしには、帝国の簡単な命令さえも守れないほどにだ」
テーブルのまわりに乾いた笑いがおこり、ポウルは父が、現在の気分を昂揚するのにぴったりの口調でぴったりのことをいったのだとわかった。その声にある疲労のきざしさえ正しかった。
公爵は言葉をつづけた。
「まず、スフィルがフレーメンにかんする報告について何かつけ加えることがないか聞いてみるべきだと思う。スフィル?」
ハワトは視線を上げた。
「一般的は報告のあとに申しあげるべき経済上の問題がすこしあります、殿《との》。しかし、いま申しあげられることは、フレーメンがわれわれの必要とする味方であるという想いが強くなるばかりだということです。かれらはいま、われわれを信用できるものかどうか見わけるために待っておりますが、かれらはあけっぴろげに交渉しょようとしているもののようです。かれらは贈り物をよこしました……かれらのところで作られたスティルスーツ……ハルコンネン家が残していった防御拠点のまわりにひろがる砂漠の地図……」かれはテーブルに視線を落とした。「かれらの情報は完全に信頼できるものと説明され、移動審判官《ジャッジ・オブ・チャンジ》とのわれわれの交渉においてずいぶん役立ってくれました。かれらはまたそれととものほかのものも送ってまいりました……レイディ・ジェシカへの宝石、香料《スパイス》、酒、菓子、医薬品です。わたしの部下がいまそれらを検査しておりますが、なんのトリックもないもののようです」
テーブルの下のほうにいた男がたずねた。
「きみはその連中が好きなんだな、スフィル?」
ハワトはその質問者のほうに顔をむけた。
「ダンカン・アイダホによると、かれらは尊敬さるべき連中だそうだ」
ポウルは父をちらりと眺め、ハワトに視線をもどして質問してみた。
「フレーメンの数がどれぐらいかということについての何か新しい情報は?」
ハワトはポウルを見た。
「食料生産その他の証拠から、アイダホは、かれの訪れた洞窟都市が一万人ほどの人間を収容しているものと考えています。かれらの指導者は、かれが二千の炉からなる|シーチ《*》を支配していると告げました。われわれには、そのような集合住居地《シーチ・コミュニティ》が無数に存在していると信じるにたる理由があります。かれらのすべてが、リエトと呼ばれる何者かに忠誠を捧げているようです」
公爵はいった。
「それは初耳だな」
「それはわたしのほうでのまちがいかもしれません、殿。このリエトというのが土俗信仰における神を意味するのかもしれないこともありますから」
テーブルについていた別の男が咳ばらいしてたずねた。
「かれらが密輸業者と取引きしているのはたしかなのかい?」
「アイダホが滞在していたあいだにそのシーチから、大量の香料《スパイス》をつんだ隊商が出ていった。かれらは運搬用の動物を使い、十八日間の旅行をやることになるといったそうだ」
公爵はいった。
「この不安定な時期のあいだに密輸業者は、かれらの活動を倍加したものと思われる。このことはよく考えてみる必要がありそうだ。われわれは、この惑星に出入りする無許可の輸送船についてあまり心配すべきではないな……これまでもつねにおこなわれてきたことだ。だがかれらを完全にわれわれの観測できる以外のところに置くことは……それはまずい」
ハワトはたずねた。
「何か計画がおありですか、殿?」
公爵はハレックを見た。
「きみは代表団を率いて、大使と呼んでもいいが、それらのロマンチックな実業家たちと接触してほしい。わしに十分の一税をくれるかぎり、かれらの活動を無視しようというのだ。ハワトの計算によると、かれらがその活動においてこれまで、贈賄と余分な戦闘要員のために必要としてきた費用は、その金額の四倍になっているそうだ」
ハレックはたずねた。
「皇帝がこの噂を聞きつけたらどうなさいます? かれはCHOAMの利益についてずいぶん疑り深そうですが、殿」
レトは微笑した。
「われわれはその全額をシャッダム四世の名前で大っぴらに預金し、われわれの徴税必要経費として合法的にそれをさっぴく、それにたいしてはハルコンネンに戦わせろだ! これでわれわれはハルコンネンの組織下にあって肥えてきた現地人をもう何人かきりきり舞いさせることになる。もう不正利益はなしだ!」
ハレックの顔は笑いにゆがんだ。
「ああ、殿、見事なロー・ブロウですな。男爵《バロン》がこれを知るときの顔を見たいものですよ」
公爵はハワトのほうにむいた。
「スフィル、きみが買えるといっていた経理簿は手に入れたのか?」
「はい、殿。いまもくわしく調べております。ですがわたしはざっと目をとおしましたので、大体のところは申しあげられます」
「では話してくれ」
「ハルコンネン家は、三百三十標準日ごとに、この惑星から百億ソラリスを得ておりました」
低い驚きの声がテーブルのまわりを走った。すこし退屈していたらしい若い副官たちでさえ、背をのばして目を大きくひらき、顔を見あわせた。
ハレックはつぶやいた。
「……かれらは海にみなぎるものと、砂に隠されたる財宝を奪い取るであろう……」
レトはいった。
「わかったかな、諸君。皇帝の命令というだけのことで、ハルコンネン家がこのすべてを投げ出し、荷造りしてここから静かに立ち去ったと信じるほど純真な者がここにだれかいるかな?」
みんなは首をふり、公爵の言葉に賛成するつぶやきをもらした。
「われわれはそれを、刀にかけて取らねばいかんのだ」レトはそういってから、ハワトのほうにむいた。「設備資材について報告するべきときだ。かれらはどれぐらいの|サンドクロウラー《*》、|ハーヴェスター《*》、香料工場《スパイスファクトリー*》、それらの支援設備を残していったのだ?」
「移動審判官《ジャッジ・オブ・チャンジ》によって検査された帝国在庫品調査によると、全設備です」ハワトはそういって助手にフォルダーをくれと身振りで示し、テーブルの上にそのフォルダーをひらいた。「それが指摘していないのは、クロウラーの半分ほどが使えないこと、香料砂漠《スパイス・サンド》へ飛ばすうちの三分の一だけに|キャリオール《*》がついていること……ハルコンネン家がわれわれに残したすべてのものが、いまにもこわれ分解してしまいそうな状態にあること。設備の半分を動かすことができればわれわれは幸運であり、その四分の一が六ヵ月も動いていればもっと幸運であるということです」
レトはいった。
「われわれが予期していたとおりだな。基本的な設備についての確実な見積もりは?」
ハワトはフォルダーを見た。
「数日中に送り出せる|収 穫 工 場《ハーヴェスター・ファクトリー》は九百三十台。調査、偵察、気象観測に使える鳥型飛行機《オーニソプター》は六千二百五十機ほど……キャリオールは、千台をすこし欠けるほどです」
ハレックはいった。
「協会《ギルド》と交渉を再開して、気象人工衛星用に巡洋艦を軌道にのせる許可を求めたほうが安上がりじゃないのか?」
公爵はハワトを見た。
「その点で新しいことはないのか、え、スフィル?」
「われわれはいまのところ、ほかの逃げ道を求めなければいけません。協会《ギルド》の代理人は現実にわれわれと交渉していたわけではありません。その男はたんにはっきりいっただけです……メンタートからメンタートへとしてですが……つまり、その価格がわれわれの手のとどかないものであり、どれほどわれわれが手を長くのばしたといころで、手のとどかないままに留まっている、というのです。われわれの仕事は、かれにいま一度接近する前に、なぜなのかを発見することです」
ハレックの副官をしている男のひとりが、椅子をまわして鋭い声を出した。
「正義はないのか!」
「正義? だれが正義を求めている? われわれはわれわれ自身の正義を作るんだ。われわれはそれをこのアラキスで作る……それを手に入れるか死ぬかだ。きみはわれわれと運命をともにするのを後悔しているのか?」
その男は公爵を見つめて答えた。
「いえ、殿。殿がこの宇宙でもっとも大きな収入源である惑星を拒絶することなどできるはずはなく……わたしは殿のおともをする以外何もできるはずがありません。われを忘れて叫んだことはお許しください、しかし……」かれは肩をすくめた。「……われわれはみな、何度も腹を立てなければ」
公爵はいった。
「その怒りはわかる。だが、武器としてそれを使う自由を持っているかぎり、正義について文句をいうのはやめようじゃないか。諸君のうち、ほかにも腹を立てているものは? あるなら、それを口に出すんだ。これはだれでも考えていることを口にできる自由な会議だぞ」
ハレックは身じろぎして口をひらいた。
「心にひっかかるのはこれだと思いますよ、殿《との》。ほかの|大 公 家《グレイト・ハウス》からひとりの志願兵も来ないことです。かれらはあなたに、正義の男レトと呼びかけ、永遠の友情を約束するが、それもかれらになんらの出費を必要としないかぎりです」
公爵は答えた。
「かれらはいまだに、この領土の変更で、どちらが勝つことになるかわからんわけだ。公家《ハウス》の多くは、ほとんど危険をおかさないことで肥えてきた。それを責めることはできないな。軽蔑できるだけだ」かれはハワトのほうに視線をむけた。「われわれは設備のことを話していた。みんながこの機械類をよく知るため、例をすこし映写してみてくれないか?」
ハワトはうなずき、映写機のそばにいた副官に合図した。
実体三次元投影像《ソリッド・トリディー・プロジェクション*》が、公爵から端までの三分の一ほど離れたテーブル表面の上に現れた。テーブルの端にいた男の何人かは立ち上がって、もっとよく見ようとした。
ポウルは前にかがみこんで、その機械を見つめた。
そのまわりに小さく投影されている人間の大きさを縮尺にすると、それは長さほぼ百二十メートル、幅ほぼ四十メートルのものだった。それはあっさりいうと、それぞれ独立した何組もの広い無限軌道[#わかるとは思いますが、これは「キャタピラ」のことです]に乗って動く、長い昆虫のような胴体だ。
ハワトはいった。
「これが|収 穫 工 場《ハーヴェスター・ファクトリー》。われわれはこの映写のために、修理状態良好なものを選んだ。だが帝国生態学者の最初のチームとともに運ばれてきた掘削機が一台あり、それはまだ動いている……どうやって……なぜなのか、わたしは知らないが」
副官のひとりがいった。
「もしそれが、連中の称するオールド・マリアなら、それはある博物館に属しているものです。ハルコンネン家が、刑罰のために保存していたと思われます。労働者の頭上にぶらさがっている脅威。おとなしくしろ、さもないとおまえには|お婆さん《オールド・マリア》を割当てるぞ、と」
笑い声がテーブルのまわりでひびいた。
ポウルはその冗談に心を動かされないまま、その投影像と心をうずめた疑問に注意を集中していた。かれはテーブルの上にある映像を指さしてたずねた。
「スフィル、これをぜんぶ呑みこんでしまうほどの大きな|砂 虫《サンド・ウォーム》はいるのかい?」
テーブルのまわりは急に静かになった。公爵は心の中で舌打ちし、ついでに思いなおした。“いや……みんなはここで、現実に直面しなければいけないんだ”
ハワトは答えた。
「砂漠深部には、この工場をひと呑みにできるほどの砂虫がおります。|遮蔽する壁《シールド・ウォール》に近い、香料《スパイス》採取のほとんどがおこなわれるあたりでは、この工場を行動不能にし、ゆっくりと食べてゆくほどの砂虫がいっぱいいます」
ポウルはたずねた。
「なぜかれらは防御遮蔽《シールド》しないんだ?」
「アイダホの報告によると、砂漠においてシールドを使うと危険だそうです。個人用シールドは数百メートル以内にいるすべての砂虫を呼びよせます。それはどうもかれらを殺戮にかりたて狂わせるらしいのです。フレーメンがそういっており、それを疑う理由はありません。アイダホは、居住区に防御遮蔽《シールド》装置が備えられている証拠を何ひとつも見つけませんでした」
ポウルはたずねた。
「まったくか?」
「そういったものを何千人もの中で隠すことはむずかしいことです。アイダホは、シーチ内のあらゆるところへ自由に行けました。かれはシールドを見かけず、かれらがそれを使っている証拠も何ひとつなかったのです」
公爵は口をひらいた。
「それは妙なことだな」
ハワトはいった。
「ハルコンネンの連中が、ここで大量のシールドを使ったことは、はっきりしています。かれらはすべての守備駐屯部落に修理工場を持ち、かれらの帳簿によると、シールドの交換および部品について大きな支出がされています」
ポウルはたずねた。
「フレーメンがシールドを無効にするなんらかの方法を持っているということは?」
「どうもそのようには思われません。もちろん、理論的には可能ですが……山ほどの大きさの逆静電圧をかければやれるはずですが、まだそれを実験まで持ちこめた者がいないのです」
ハレックが口をひらいた。
「以前に聞いたことがあります。密輸業者はフレーメンと密接に接触しており、そのような装置が本当にあるのなら、もう手にいれているだろうこと、そしてかれらは、それをこの惑星以外のところで売るぶんには、べつにかまわないと思っているらしいことです」
レトはいった。
「この重大な問題が未解決のままなのは、どうも気に入らんな。スフィル、その解決を最優先にしてやってくれ」
かれは咳ばらいして答えた。
「われわれはすでにそれを始めております……ああ、アイダホはこういいました。シールドにたいするフレーメンの態度を見まちがうことはない。かれらはそれを楽しむだけだ、と」
公爵は眉をよせた。
「いま話しあっているのは、香料採取《スパイシング》の設備だったな」
ハワトは、映写機のそばにいる副官に合図した。
|収 穫 工 場《ハーヴェスター・ファクトリー》の実体像は、翼のついた機械の映像にかわり、そのまわりにいる人間の映像は小人《こびと》のように見えた。
「これがキャリオール。これは本質的に大型のソプターであり、その全機能は工場を香料《スパイス》の豊かな砂地に運び、ついで砂虫が現れたときに工場を救うことにある。かれらはつねに現れるんだ。香料《スパイス》を収穫するとは、できるだけ何度もはいったり出たりすることのくりかえしだ」
公爵はいった。
「ハルコンネンの道徳には実にぴったりだったな」
とつぜんおこった笑い声は大きすぎるほどだった。
投影の焦点が、キャリオールから鳥型飛行機《オーニソプター》に変わった。
ハワトはいった。
「これらのソプターはほぼふつうのものと同じだ。主要な変更は、距離をのばしたことにある。砂とほこりにたいして、重要部分を密閉することに特別の注意がくばられている。シールドされているのは三十機のうち一機……距離を増すためにシールド発生機の重量を削減したせいだ」
「どうもシールドを不要のものとしすぎているのが気に入らんな」
公爵はそうつぶやきながら考えた。“これはハルコンネンの秘密だろうか? これは、すべてがわれわれに敵対することになったとき、われわれがシールドをほどこした巡洋艦で脱出することさえできなくなることを意味しているのだろうか?”かれは首をふって、そんな考えをふりはらい、それからいった。
「仕事の見積もりにはいろう。われわれの利益はどれぐらいになるんだ?」
ハワトはノートを二ページめくった。
「使用し得る設備と修理を要するものを調べ終わったあと、われわれは必要経費についての最初の見積もりを出しました。それはもちろん、安全のために余裕をみた少な目の数にもとづいています」かれは目をつぶり、メンタートの半催眠状態にはいっていった。「ハルコンネンにあっては、維持費と給料が十四パーセントにおさえられていました。われわれは、最初のうちそれを二十パーセントにできれば幸運でしょう。再投資と成長要素を勘定に入れ、CHOAMの歩合いと軍事費をふくみ、われわれの利益率は、こわれた設備を交換できるようになるまで、六あるいは七パーセントといった非常に小さいものに低減するでしょう。それからのちは、当然十二から十五パーセントに増加するべきです」かれは目をあけた。「殿が、ハルコンネン家の方法を採用されないかぎりはですが」
公爵はいった。
「われわれは、頑丈で永久的な惑星基地を作りだすために働くんだ。民衆の大部分を幸福にしなければいけない……特にフレーメンをだ」
ハワトはうなずいた。
「特にフレーメンをです」
「カラダンにおけるわれわれの主権は、海軍と空軍の力によっていた。ここでは、わしが|砂漠の力《デザート・パワー》と呼ぶものを作り出さなければいけない。これは空軍部隊をふくむだろうが、そうならない場合も考えられる。わしは、ソプター・シールドの欠けている点に、諸君の注意をうながしたい」かれは首をふった。「ハルコンネン家は、鍵《キー》となる人員の多くを、惑星外から来る契約労働者に頼っていた。われわれは、あえてそんなことをしない。新しい土地のすべてに、扇動者がはいりこむだろうからだ」
ハワトはいった。
「そうなるとわれわれは、はるかに少ない利益と少ない収穫でがまんしなくてはいけないことになりますぞ。最初の二シーズンの生産は、ハルコンネンの平均から三分の一に落ちてしまいます」
「われわれの考えたとおりだ。われわれは急いでフレーメンを相手の行動をおこさなければいけない。わしは最初のCHOAMの会計検査以前に、全装備したフレーメン部隊を五大隊ほしい」
ハワトはいった。
「それにはあまり時間がありませぬが。殿」
「きみもよく知っているとおり、われわれにはあまり時間がない。やつらは最初の機会に、ハルコンネンに変装したサルダウカーをここへよこすだろう。どれぐらいの兵力をよこすだろうな、スフィル?」
「全部で四大隊か五大隊ですな、殿。それ以上ではありません。協会《ギルド》の兵員輸送はご承知のとおり高価につきますから」
「では、フレーメンの五大隊、プラス、われわれの兵力でやれるはずだ。捕虜にする少数のサルダウカーをランドスラード議会の前で行進させれば事態はずいぶん変わるだろう……利益があろうとなかろうとだ」
「われわれは最善をつくします、殿」
ポウルは父を眺め、視線をハワトにもどし、とつぜんこのメンタートがたいへんな年齢であることに気づき、この老人がアトレイデ家に三代にわたって仕えていたことを考えた。老齢。それは、リューマチにかかったように光っている茶色の両眼に、異国の天候にひびわれ日焼けした両頬に、丸くなった両肩に、ツルコケモモ色にサフォ・ジュースのしみがついている薄い唇に現れていた。
ポウルは考えた。
“ひとりの年取った男に、これほど多くのことがかかっているのだ”
公爵はいった。
「われわれはいま|暗 殺 者 戦 争《ウォー・オブ・アサシン》の渦中にあるわけだが、まだ全面的にそうなっているわけではない。スフィル、ここにあるハルコンネンの組織はどんな状態なんだ?」
「かれらの鍵となる連中の二百五十九人を排除しました、殿。ハルコンネンの細胞で残っているものは三つ以上ではなく……全部でたぶん百人ほどです」
「きみが排除したハルコンネンのやつらは、財産のある連中か?」
「ほとんど相当な地位のものでした、殿……企業家クラスです」
「その連中それぞれの署名した忠誠契約書を偽造しておくことだな。コピーは移動審判官に提出しておく。かれらが偽の忠誠契約書のもとに留まっていたという合法的な立場をつかむんだ。かれらの財産を押収し、すべてを取り上げ、家族を追い出し、身ぐるみはいでしまえ。そして君主がその十パーセントを取ることを忘れんように。すべてを合法的にしておかなければいけないんだ」
スフィルは、赤い唇の下から赤いしみのついた歯を見せて笑った。
「ご先祖に似つかわしい行動ですな、殿。それを先に考えつかなかったことを恥ずかしく思います」
ハレックは、ポウルが苦々しい顔つきになったのに驚き、テーブルの反対側で眉をよせた。ほかの男たちは、微笑し、うなずいていた。
ポウルは考えていた。
“これはまちがっている。これでは、その連中をいっそう激しく戦わせるだけだ。降伏することで何ひとつ得るものはないのだから”
かれはカンリイを支配する公開された会議がどんなものか知っていたが、これはかれらに勝利をあたえても破滅させてしまうことになる行動だった。
ハレックは引用した。
「……わたしは|異 星 の 異 邦 人《ストレンジャー・インナ・ストレンジ・ランド》だった……」
ポウルはかれを見つめ、それがO・Cバイブルからの引用だったことに気づき、“ガーニィも、この正道をはずれた計画をやめさせたいと思っているのだろうか?”と、考えた。
公爵は窓の外を眺め、ハレックに視線をもどした。
「ガーニィ、あの砂丘労働者たちを何人ほど留まらせることができたんだ?」
「全部で二百八十六名です、殿。それだけ手に入れられたのは幸運だったと考えるべきだと思います。全員がなくてはならぬ職種の連中です」
「それだけだったのか?」公爵は口をかたく閉じ、やがていった。「よし、では伝えてくれ、そのことを……」
ドアのあたりからひびいた物音に、かれは話すのをやめた。そこにいる警備兵のあいだを通ってダンカン・アイダホが現れ、急いでテーブルの端まで歩くと、かがみこんで公爵の耳に口を近づけようとした。
レトは手をふってかれを離れさせた。
「話せ、ダンカン。戦略会議の諸君ばかりだからな」
ポウルはアイダホを見つめた。そのしなやかな動き、敏速な反射神経、それがこの男をならぶ者のない武術師範としているのだ。アイダホの黒い丸顔はポウルのほうにむき、その洞穴に住む隠者のような目にかれを認めたきざしはなかったが。ポウルはアイダホの落着いた表情の下に興奮が隠されていることを知った。
アイダホは、テーブルの端まで視線を走らせてから口をひらいた。
「われわれは、フレーメンに偽装したハルコンネンの外人部隊と交戦した。フレーメンたち自体、それより先に、かれらに偽装している一団がいることを警告するため、こちらに使者を出発させていたのだ。ところがその戦闘の結果、われわれは、ハルコンネン部隊がフレーメンの使者を待ち伏せし、重傷をおわせたことを知った。わたしがその男を見つけたとき、かれは何かを捨てようとしていた。その男がどれほどの容態かわかったので、わたしは自分では手をくださず、こちらで治療するために運んだのだが、そのとちゅうで、その使者は死んだ。かれが捨てようとしていたのは」アイダホはレトをちらりと見た。「ナイフでした、殿。これまでご覧になったことのないナイフです」
だれかがたずねた。
「クリスナイフ?」
「それにまちがいない。乳白色で、それ自体の光で輝いているようだ」
アイダホはそういい、上衣の中に手を入れて、黒いうね[#「うね」に傍点]の握りがついている鞘を取り出した。
「その刃《やいば》を鞘にしまっておけ!」
部屋の端にひらいているドアから朗々とひびいた声に、全員がぐきりとそちらに顔をまわした。
ローブをまとった長身の男が入口に立ち、警備兵の交差した剣にさえぎられていた。薄い黄褐色のローブはその男の全身をおおっており、あいているのは頭巾と黒いベールのあいだのすき間だけで、そこからまっ青な両眼がのぞいていた――白い部分がまったくない目だ。
「かれを入れてください」
と、アイダホはささやいた。
公爵はいった。
「その男を通せ」
警備兵はちょっとためらってから、剣を下げた。
その男は急いではいってくると、公爵の前に立った。
アイダホは紹介した。
「こちらはスティルガー、わたしが訪れたシーチの長であり、偽者の一隊をわれわれに警告しようとした連中の指導者です」
レトはいった。
「卿《けい》よ、よくまいられた。しかし、なぜこの刃を鞘から抜いてはいけないのかな?」
スティルガーはアイダホをちらりと見て口をひらいた。
「きみは、われわれのあいだにある清めと名誉の習慣を見た。わたしはきみが、きみの助けた男の刃《やいば》を見ることを許そう」かれの視線は、部屋の中にいるほかの男たちをぐるっと見まわした。「だが、わたしは、ここにいるかたがたを知らない。きみは、名誉ある武器をかれらによって冒涜させたいというのか?」
公爵はいった。
「わしは公爵《デューク》レトだ。わしがその刃《やいば》を見ることを許してくださるかな?」
「その鞘を抜く権利を戦い取ることを許しましょう」スティルガーはそういい、抗議のつぶやきがテーブルのまわりでひびくと、黒く血管がうき出ている細い手を上げた。「申し上げておくが、これはあなたがたを助けようとした男の刃《やいば》ですぞ」
それにつづいた沈黙の中でポウルはその男を見つめ、霊気《オーラ》のように力がそいつから拡散しているのを感じた。かれは指導者――フレーメンの指導者なのだ。
ポウルと反対側のテーブルのまん中あたりにいた男がつぶやいた。
「アラキスでの権利をうんぬんするこの男は何者なのだ?」
そのフレーメンはいった。
「公爵《デューク》レトは、治められるものの同意を得て統治すると聞いている。それでわたしも、われわれの掟《おきて》を諸君に話しておかなくてはいけない……クリスナイフを見た者には、ある責任が生じるのだ」かれは暗い視線をアイダホにむけた。「その者がわれわれの一員となり、われわれの同意なくしてアラキスを離れることは絶対にできないということだ」
ハレックとほかの何人かは、怒りの表情を浮かべて立ち上がりかけた。ハレックは口をひらいた。
「それは公爵《デューク》レトが決められること……」
「ちょっと待ってくれないか」レトはそういい、その放心したような口調にみんなは静かになった。“この男を離してはいけないのだ”と、かれは考え、そのフレーメンにむかって話しかけた。「卿《けい》よ、わしはなんぴとであろうとわしの尊厳さに敬意をはらう者にたいしては、その個人の持つ尊厳さに敬意をはらうことにしている。わしはあなたがたに大きな借りがある。そしてわしはつねに借りを返す。もしそのナイフを、ここでは鞘の中に留めておくのがあなたがたの習慣だといわれるなら、そのようにしよう……わしの命令によってだ。また、われわれのために死んでくれた男の名誉を讃える方法がほかにあるなら、どうかそれをいっていただきたい」
そのフレーメンはじっと公爵を見つめると、ゆっくりとベールを横にひっぱり、薄い鼻と、すややかに光る黒い髭にかこまれたぶあつい唇を現した。かれはゆっくりとテーブルの端にかがみこみ、その磨かれた表面に唾を吐いた。
テーブルのまわりで男たちが、ざわざわと立ち上がりかけると、アイダホの声が部屋じゅうにひびきわたった。
「静かに!」
とつぜんみなぎった静寂の中で、アイダホはいった。
「スティルガー、きみの肉体にある水分を贈り物にしてくれたことを、われわれは感謝する。われわれはそれを、あたえられたと同じ精神で受けよう」
アイダホは、公爵の前のテーブルに唾を吐いた。
公爵のほうにむいて、かれはいった。
「ここでは水がどれほど貴重なものかご存知でしょう、殿。いまのは尊敬のしるしだったのです」
レトは椅子に腰をおろし、ポウルと視線をあわせ、息子の顔に浮かんでいおる悲しそうな表情に気づき、テーブルのまわりにいる部下が理解するにつれて緊張がゆっくりとほぐれてきたのを感じた。
フレーメンはアイダホを見ていった。
「きみはわたしのシーチでよく見ていたんだな、ダンカン・アイダホ。きみの公爵にたいする忠誠心には、それを結びつけるものがあるのか?」
アイダホはいった。
「かれはわたしに、仲間に加わることを求めているのです、殿」
レトはたずねた。
「かれは二重の忠誠を認めてくれるだろうか?」
「わたしがかれと行動をともにすることを望まれるのですか、殿?」
「この問題についてはきみ自身に決めてほしいな」
レトは、緊迫感を隠せない声でそういった。
アイダホはフレーメンを見た。
「きみはぼくをその条件で受け入れてくれるか、スティルガー? ぼくは公爵のもとにもどって仕えなければいけなくなることが何度もあると思うが」
「きみはわれわれの友人のためによく戦い、最善をつくしてくれた」スティルガーはそういい、レトを見た。「このようにいたしましょう。この男、アイダホはクリスナイフを、われわれにたいする忠誠のしるしに持ちつづける。もちろんかれは清められなければならず、儀式に出なければいけないが、これはやれることだ。かれはフレーメンとなり、アトレイデの兵士となる。これには先例がある。リエトは二人の主人に仕えている」
「ダンカン?」
と、レトはたずね、アイダホは答えた。
「わかりました、殿」
レトはいった。
「では承知した」
スティルガーはいった。
「きみの水はわれわれのものだ、ダンカン・アイダホ。われらが友人の体はきみの公爵《デューク》のもとに残る。かれの水はアトレイデ家の水だ。それがわれわれのあいだの絆《きずな》だ」
レトは溜息をもらし、ハワトをちらりと眺め、年老いたメンタートの目を見た。ハワトはうなずき、その表情は喜んでいた。
スティルガーは言葉をつづけた。
「アイダホが友人諸君と別れを告げるあいだ、わたしは下で待とう。テュロクが、亡くなった友の名前だ。かれの魂を解放するとき、その名前をおぼえていてほしい。諸君はテュロクの友人なのだ」
スティルガーはふりむいて立ち去ろうとした。
レトはたずねた。
「もうしこしいてくださらぬか?」
フレーメンはふりむき、なにげない動作でベールをもとにもどし、その下にある何かを調節した。ベールがもとにもどる前にポウルが見たのは、細いチューブのようなものだった。
フレーメンはたずねた。
「ここに留まっている理由がありますかな?」
「あなたに名誉をあたえたいのだが」
「名誉は、わたしがすぐ、別のところに行くことを求めていますのでな」
フレーメンはそう答えると、もう一度アイダホを見て、くるりとむきを変え、入口を守る警備兵のあいだを通って出ていった。
レトはいった。
「もし他のフレーメンがかれと争うことになれば、われわれは両方を同じように助けるのだな」
アイダホは乾いたような声で答えた。
「かれはいい男ですよ、殿」
「きみがやるべきことはわかっているな、ダンカン?」
「わたしはフレーメンへの大使です、殿」
「きみの双肩に多くがかかっているのだぞ、ダンカン。サルダウカー軍が降下してくる前に、少なくともあの連中の五個大隊をわれわれは必要とするんだ」
「これにはだいぶ工作が必要となりますな、殿。フレーメンはみな独立心の強い連中ですし」アイダホはためらった。「それに、殿、こういうことがありました。われわれの倒した外国人傭兵のひとりは、殺されたフレーメンの友人からこの刃《やいば》を取ろうとしていました。その傭兵のいいますには、クリスナイフを一本持ってきた者にはだれであろうと、ハルコンネンが百万ソラリスを賞金としてあたえるそうです」
レトは、はっきりと驚きを見せて顎を上にむけた。
「なぜそれほど、そのナイフをほしがっているのだ?」
「このナイフは|砂 虫《サンド・ウォーム》の歯をといで作ったものであり、フレーメンのしるしなのです、殿。これを持っていれば、青い目の人間は、どこのシーチにもはいってゆけます。わたしの場合、知られるまでは訊問を受けるでしょう。わたしはフレーメンに似ていませんから。それでも……」
公爵はいった。
「パイター・ド・ブリースだな」
ハワトが口をそえた。
「悪魔のような奸智にたけた男です、殿」
アイダホは、鞘に入れたナイフを服の下に入れた。
「そのナイフを奪われるな」
と、公爵はいった。
「わかりました。殿」かれはベルトにつけたトランシーバーをたたいた。「できるだけ急いで報告いたします。スフィルがわたしの呼出し暗号を知っております。戦闘用言語《バトル・ランゲージ*》を使ってくれ」
かれは敬礼し、ふりむき、急いでフレーメンを追っていった。
廊下を去ってゆくかれの足音が大きくひびいた。
レトとハワトのあいだに了解の表情がかわされた。ふたりは微笑した。
ハレックはいった。
「やるべきことがずいぶんありますな、殿」
レトは答えた。
「それなのに、わしはきみの仕事を取り上げているというわけだ」
ハワトはいった。
「前進基地についての報告があります。このつぎの機会にいたしましょうか、殿?」
「長いあいだかかるのか?」
「概略の説明ならば短くてすみます。砂漠用植物試験場だった時期のあいだに、ここアラキスでは二百以上の前進基地が作られたと、フレーメンのあいだでいわれております。そのすべてが放棄されたはずですが、放棄される前に密封封鎖されたという報告もあります」
公爵はたずねた。
「その中に設備があるのか?」
「ダンカンより得た報告によりますれば」
ハレックはたずねた。
「それらの位置は?」
ハワトは答えた。
「その質問にたいする答えはみな同じ……リエトが知っている、だ」
レトはつぶやいた。
「神のみぞ知る、だな」
ハワトはいった。
「そうではないかもしれませぬぞ、殿。あのスティルガーがその名を申したのを聞かれたはず。現実に存在する人間のことをいっていたとは思われませぬか?」
ハレックは口をはさんだ。
「ふたりの主人に仕える……それはどうも、信仰の上から引用した言葉のようだ」
公爵はいった。
「そうきみには思えるはずだぞ」
ハレックは微笑した。
「この移動審判官」と、公爵レトは言葉をつづけた、「帝国の生態学者、カインズ……かれがそれらの基地のありかを知っているのではないかな?」
ハワトは警告した。
「殿……カインズは皇帝に仕える人間でございますぞ」
「だがかれは皇帝から遠く離れている。わしはそれらの基地がほしい。われわれが引っぱりだせる資材が山のようにあり、設備機材の修理に使えるかもしれないのだ」
ハワトはいった。
「殿! それらの基地は法的に、まだ皇帝陛下の領土でございます」
公爵はこたえた。
「ここの気象は、あらゆるものを破壊できるほどすさまじいものだ。われわれはつねに、気象のせいにできる。カインズをつかまえ、少なくともそれらの基地が存在するかどうかを知るんだ」
ハワトはいった。
「それらを徴発するのは危険かと思われます。ダンカンははっきりいっていました。それらの基地、もしくはそういった考えは、フレーメンにとって何か深い意味があることだと。もしわれわれがそれらの基地を取ると、フレーメンを遠ざける結果になるかもしれません」
ポウルはまわりにいる男たちの顔を眺め、かれらがすべての言葉を聞き逃すまいと真剣になっているのを知った。かれらは父の態度に深い心配をおぼえているようだった。
「かれのいうとおりです、父上」と、ポウルは低い声でいった。「かれは真実を話しています」
ハワトはいった、
「殿……それらの基地は、われわれに残されているすべての機械を修理するだけの材料をもたらしてくれるでしょうが、戦略的な意味にはほど遠いものです。より大きな知識を手に入れないかぎり、行動をおこすのは軽率でありましょう。このカインズは、皇帝より裁決権を得ております。われわれはそのことを忘れてはなりませぬ。そして、フレーメンはかれに敬意を表しているのです」
公爵は答えた。
「では、穏やかにやるのだ。わしはただ、それらの基地が存在するかどうかだけを知りたいのだ」
「お言葉のままに、殿」
ハワトは坐り、目を伏せた。
公爵はいった。
「よろしい。さて、われわれはこれから先、何が待っているか知っている……仕事だ。われわれはそのための訓練をつんできた。経験もいくらか持っている。報償として手に入れるものは何か、そしてその反対の場合はどうなるのか、われわれははっきりと知っている。諸君にはみなその任務がある」かれはハレックを見た。「ガーニィ、まず密輸業者のほうを頼むぞ」
ハレックは節をつけて答えた。
「……われは背きたるものの中に行かん、乾ける土地に住むものの中に……」
公爵はいった。
「いつか引用文がいえないようにしてやるぞ、そのときは裸にされた気がするだろうな」
テーブルのまわりで笑い声がおこったが、ポウルはそれを作り笑いのように感じた。
公爵はハワトのほうにむいた。
「この階にもうひとつの司令部を作るんだ、情報と通信用にな、スフィル。その用意ができたら、きみに会いたい」
ハワトは立ち上がり、助けを求めるかのように部屋の中を見まわした。かれはむきを変え、列の先頭に立って部屋から出ていった。ほかの男たちは椅子の音を立て、混雑しながら急いで行動した。
“混乱の中で終わってしまったな”と、ポウルは最後の男たちが出てゆく姿を見つめながら考えた。これまでの幕僚会議はつねに、はりつめた空気で終わったものだった。それがいまの会議は、それ自体の不完全さで弱体化し、その権威をなくすような議論をともない、はりつめた雰囲気をなくしてしまったように思えた。
初めてポウルは、敗北の可能性が現実にあることを考えさせられることになった――恐怖から、あるいはあの年老いた教母のおどかしから考えたのではなく、事態を自分自身で評価した結果、それを直視することとなったのだ。
“父上は必死になっている。事態はわれわれにとってそうよくないのだ”
そしてハワトの……ポウルは、老齢のメンタートが会議のあいだ、どんな態度だったかを思いだした――微妙なためらい、心が落ち着いていないしるしを。
ハワトは何かにひどく心を悩まされているのだ。
「そなた、今夜はここの留まっているほうがいいぞ、坊や。とにかく、もうすぐ夜が明けるからな。わしからそなたの母に伝えておく」公爵はゆっくりと。ぎこちなく立ち上がった。「椅子をいくつか集めて、その上に横になってすこし休んだらどうだ」
「それほど疲れていませんよ、父上」
「好きなようにするがよい」
公爵は両手をうしろに組み、テーブルの端から端へと行ったり来たりしはじめた。
“檻に入れられた動物みたいだな”
そう考えながらポウルはたずねた。
「裏切り者がいるかもしれないこと、ハワトと相談なさるのですか?」
公爵は息子の前でとまり、暗い窓にむかって話しかけた。
「われわれはその可能性を何度も話あったよ」
「あの老婆は確信を持っていたようですし、それに母の発見した通信文……」
「予防手段はとってあるのだ」公爵はそういい、部屋じゅうを見まわした。ポウルは父の目に追いつめられたものの荒々しさを見てとった。「ここにいろ。司令部のことでわしはスフィルと話したいことがある」
かれはふりむき、入口の警備兵に短くうなずいて部屋から出ていった。
ポウルは、父が立っていた場所を見つめた。公爵が部屋から去る前も、そこは虚空のようだった。かれはあの老婆が警告したことを思いだした。
“……あんたの父さんには、なにひとつないんだよ”
[#改ページ]
[#ここから10字下げ]
ムアドディブが家族とともにアラキーンの市街を走った最初の日、道筋にいた人々の多くは伝説と予言を思いおこし、かれらはあえてさけんだ。「|マーディ《*》!」と。しかしかれらの喚声は事実の陳述ではなく、むしろ質問であった。なぜならば、いまだかれらのとっては、かれが伝説に聞く|リザン・アル−ガイブ《*》、外なる世界からの声であると望み得るだけの段階であったからだ。かれらの注意はかれの母にも集中した。その理由は、かれらの聞くところ彼女はベネ・ゲセリットであり、それはかれらにとって彼女がいまひとりのリザン・アル−ガイブであるかもしれぬと思われたからである。
――イルーラン姫による“ムアドディブの手引き”から
[#ここで字下げ終わり]
公爵は、警備兵が案内した隅の部屋に、スフィル・ハワトがただひとりいるのを発見した。となりの部屋では通信設備をすえつけている男たちの声がしていたが、その部屋はだいぶ静かだった。書類でいっぱいのテーブルからハワトが立ち上がると、公爵はあたりを見まわした。壁は緑色で、テーブルのほかにサスペンサー椅子が三脚あり、それらにはハルコンネンの<H>を急いで除去したあとが、うっすらと残っていた。
ハワトは話しかけた。
「椅子は作用しておりますが、安全です。ポウルはどこに、殿?」
「会議室に残してきた。わしがいないほうが、心が散らされないで休めるだろうと思ってな」
ハワトはうなずき、となりの部屋へのドアへ歩き、そこをしめ、空電雑音とスパークの音を遮断した。
レトはいった。
「スフィル、帝国とハルコンネン家の備蓄している香料《スパイス》にわしは関心を持っている」
「殿?」
「倉庫は破壊しやすいものだ」かれは、ハワトが口をひらこうとすると手を上げた。「皇帝の財産は無視してよい。ハルコンネン家が困ると皇帝はひそかに喜ぶことだろう。そして男爵《バロン》のほうは、何かが破壊されてもはっきりそれを認められない場合、抗議できるかな?」
ハワトは首をふった。
「われわれには割《さ》ける人員がありませんぞ、殿」
「アイダホの部下をすこし使え。それにフレーメンの連中にも、この惑星を離れる旅を喜ぶものがいるだろう。ジェディ・プライムの攻撃だ……そういう牽制《けんせい》には戦術的は利点があるぞ、スフィル」
「お言葉のとおりに、殿」
ハワトはふりむき、公爵は老人が心を悩ませていることを知った。“かれはわしに信頼されておらぬと思っているかもしれん。わしが、裏切り者について個人的な報告を受けたことをかれは知らなければいかん。そう……すぐにかれの悩みをなくすことだ”
「スフィル、おまえはわしが完全に信頼できる少数のもののひとりである以上、話しあわなければいけない別の問題がある。われわれの中に裏切り者が潜入してくるのを防ぐために、どれほど監視をきびしくしなければいけないか、われわれはどちらもよくわかっている……ところが、わしは新しい報告を二つ受けた」
ハワトはふりむき、かれを見つめた。
そしてレトは、ポウルがもたらした話を伝えた。
メンタートとしての強い精神集中を始めるかわりに、その報告はハワトのいらだちを増しただけだった。
レトは老人を見つめ、しばらくしてからいった。
「おまえは何か隠しているな、古い友よ。幕僚会議のときにおまえがあれほど心を乱していたことから、わしはそうと察しているべきだった。みんなの前に出せなかったほどの秘密とはいったい何なのだ?」
|サフォ《*》のしみがついたハワトの唇は、かた苦しくまっすぐ閉じられ、そこにこまかい皺が走った。その皺をこわばらせたまま、かれは口をひらいた。
「殿、わたしはどのようにこれをいいだせばいいのかわかりません」
「われわれは多くの苦しみをともにしてきた仲だぞ、スフィル。わしを相手には、どんなことでもいいだせるとわかっているはずだ」
ハワトはかれを見つめつづけ、考えていた。
“これだからこそ、おれはかれが大好きなんだ。これは、おれの忠誠と努力のすべてを捧げるにたる誇り高い男だ。なぜおれは、この男を傷つけなくてはいかんのだ?”
レトはうながした。
「さあ……」
ハワトは肩をすくめた。
「一枚の紙きれです。われわれはそれを、ハルコンネンの密使から手に入れました。その紙片はバーディーという名前のスパイにあてられたものです。そいつはここにあるハルコンネンの地下組織の最高責任者であると信じられる有力な理由があります。それは……大きな影響をおよぼし得るものなのか、あるいはなんらの影響もおよぼさないものか。いろいろな解釈がなりたつものなのです」
「その紙きれの持つ微妙な内容とは何なのだ?」
「たった一枚の不完全なノートです、殿。それは|ミニミック・フィルム《*》で、ふつうの消滅カプセルがついておりました。われわれは酸が全部を消してしまう寸前にとめ、そのごく一部が残りました。しかしながら、その断片は実に驚くべき内容だったのです」
「それで?」
ハワトは唇をなめた。
「その内容はこうです……レトは絶対に疑いを持たないだろう。そして攻撃が最愛の者から加えられたとき、その攻撃をおこした人間がだれか知るだけでも、かれを破滅させるに充分なものであるはずだ……その通信文には男爵自身の封印がされており、それが本物であることはわたしが確認しました」
「おまえの疑惑は、はっきりしている」
と、公爵はいい、その口調はとつぜん冷ややかになっていた。
「あなたを傷つけるよりはむしろ、わたしの両腕を切り取ったほうがましですが、殿。しかしもし……」
レトは、怒りが全身にかけめぐるのをおぼえた。
「レイディ・ジェシカ……そのバーディーから真実を吐き出させることはできなかったのか?」
「残念ながら、われわれがその密使をつかまえたとき、バーディーはすでに生きておりませんでした。密使が自分の運んでいたものの内容を知らなかったのは明らかです」
「わかった」
レトは首をふり、考えた。
“なんといういやな手を打つんだ。そんなことあるはずがない。わしは自分の妻がどんな女かよく知っている”
「殿、もし……」
公爵は大きな声をだした。
「いや! それはまちがっておる……」
「無視してしまうわけにはまいりませんぞ、殿」
「彼女はわしといっしょになって十六年だぞ! そんなことなら数えきれないほどの機会があったはずだ……おまえが、おまえ自身で学校とあの女を調査したのだぞ!」
ハワトは苦しそうにいった。
「ちかごろは、わたしの目のとどかぬことが多いようです」
「そんなことはあり得ないんだ! ハルコンネンはアトレイデ家の血統をなくしたがっている……ポウルも、ということだ。かれらはすでにそれを一度試みた。女が自分の息子にたいして陰謀をたくらむことなど考えられるものか?」
「彼女がご子息に陰謀をたくらんでいるのではないかもしれません。昨日の試みは、頭のいいごまかしかもしれませぬぞ」
「ごまかしなどではあり得ないことだ」
「殿、彼女はどこのご出身かお知りになっていないはずですが、もし知っておられるとしたら? もし彼女が孤児であられたとしたら、アトレイデ家のために孤児にされたものだったとすれば?」
「ずっと以前に行動をおこしていたはずだ。わしの飲み物に毒を……夜中に短剣でとな。それ以上の機会を持っていた者はないんだぞ」
「ハルコンネン家はあなたを破滅させようとしているのですぞ、殿。やつらの目的は、たんに殺すだけではありません。カンリイの特異性には広い幅があります。これは二家族間の復讐における芸術的な仕事であり得るのです」
公爵の両肩は丸くなった。かれは目を閉じ、年老い疲れた表情になった。
“そんなことはあり得ない、彼女はわしに心をひらいていてくれている”
かれはたずねた。
「わしの愛している女に疑惑を持たせる以上に、わしを破滅させるうまい方法はないというんだな?」
「わたしの考えついた解釈はそうですが、それでも……」
公爵は目をあけ、ハワトを見つめながら考えた。
“かれには疑わせておこう。疑惑がかれの仕事で、わしのではない。わしがこのことを信じているふりをしていれば、それでだれかが慎重さを欠くかもしれないんだ”
公爵はささやくようにいった。
「おまえの提案することは?」
「いまのところ監視を絶やさないことです、殿。つねに彼女を監視しているべきです。目立たないように気をつけます。この仕事にはアイダホが理想的でしょう。一週間ほどすれば、かれを引き上げられるでしょうから。アイダホの部隊にわれわれが訓練している若い者がおり、それをフレーメンへ交替に送るのがいいかと思われます。外交に天分のある男です」
「フレーメンとの足がかりを危うくするんじゃないぞ」
「もちろんそんなことはいたしません、殿」
「そしてポウルのほうは?」
「ドクター・ユエに警告しておいては」
レトは背をハワトにむけた。
「おまえにまかせるよ」
「充分に気をつけます、殿」
少なくともそれは信用していい、とレトは考えてからいった。
「わしはちょっと散歩してくる。わしに用があれば、場内にいるからな。警備兵に……」
「殿、行かれる前に、読んでいただきたいフィルムクリップがあります。フレーメンの信仰についての最初の推定分析です。それができたら報告しろといわれましたので」
公爵はふりむかずにたずねた。
「待てないことか?」
「もちろん結構でございます、殿。ですが、あなたはかれらの叫んでいたことが何かとたずねられました……マーディ! それは若さまにむけられた言葉でした。かれらが……」
「ポウルにだと?」
「そうです、殿。この地には伝説、予言があります。ひとりの指導者がかれらにおもとにやってくる、ベネ・ゲセリットの子供で、かれらを真実の自由に導くものだ、と。そのあとには、ありふれた救世主《メサイア》パターンがつづきます」
「かれらの考えているのは、ポウルがその……その……」
「かれらは希望を持っているだけです、殿」
ハワトはフィルムクリップのカプセルをわたした。
公爵はそれを受け取ってポケットに入れた。
「あとで見よう」
「はい、殿」
「いまのところ、わしは時間が必要だ……考えるためのな」
「もちろんでございます、殿」
公爵は深く、溜息をつくように息をして、ドアから出ていった。かれは廊下を右へ曲がり、背中に両手を組み、どこに自分がいるかには注意をはらうことなく歩きはじめた。廊下、階段、バルコニー、ホール……人々はかれに敬礼し、横に立って道をあけた。
やがてかれは会議室へもどり、テーブルの上で眠っているポウルの姿を見つけた。警備兵の外套がその上にかけてあり、小さな袋を枕に使っている。公爵は静かに部屋の端へ歩き、離着陸場を見おろすバルコニーに出た。バルコニーの隅にいた警備兵が、離着陸場のライトのかすかな反射で公爵に気づき、さっと直立不動の姿勢をとった。
「休め」
と、公爵はつぶやき、バルコニーの冷たい金属の手すりによりかかった。
夜明け前に静寂が砂漠の盆地をおおっていた。かれは顔をあげた。頭上の星空は、小金属片をちりばめたショールを青い闇にかけたようだった。南の地平線に低く、その夜のふたつめの月が薄いほこりの靄をとおして見えていた――信じられないよと冷笑するような光でかれを眺めている月だ。
公爵が見つめていると、月は|遮蔽する壁《シールド・ウォール》の崖を凍らせながらその下に沈み、とつぜん深まった闇に、かれは冷たさをおぼえ、ぶるっとふるえた。
“ハルコンネン家はこれが最後と、わしの邪魔をし、追いつめ、狩りたてた。やつらは憲兵の心を備えた糞《くそ》のかたまりだ! ここでわしは踏みとどまるぞ!”かれは淋しさをおぼえながら考えつづけた。“わしは、小鳥の中の鷹のように、目と爪をもって統治しなければいけないんだ”
無意識のうちにかれの手は、上着についている鷹の紋章をさわっていた。
東のほうで、夜は明るい灰色に変わってゆき、貝殻のような白さが星の光を弱めた。ぎざぎざになった地平線を鐘が長く尾を引きながら打つように夜明けが始まったのだ。
あまりにも美しいその景色にかれの注意力のすべてが引きつけられてしまった。
“乞食にも誇れる宝物はあるか……”
いま見えている砕かれたような赤い地平線と紫と黄色の崖ほど美しいものがこの地にあるとは、かれの想像もしていないことだった。離着陸場のかなたには、かすかな夜露がアラキスの成長の速い種子に生命をあたえ、赤い花が大きな水たまりのように見え、そのあいだにはっきりと紫色の道が走っていた……巨人の足跡のようにだ。
「美しい朝でございますね、殿」
と、警備兵はいった。
「ああ、そのとおりだ」
公爵はうなずきながら考えた。
“たぶんこの惑星はしっかりとひとつのものになるだろう。たぶん、わしの息子にとって、いい故郷となり得るだろう”
それからかれは人間の姿が花畑の中にはいってゆくのを見た。奇妙な大きい鎌に似た機械が走ってゆく――|露を集めるもの《デュ・ギャザラー*》だ。水があまりにも貴重なここでは、夜露でさえも集められなければいけないのだ。
“そしてまたここは、恐ろしい場所でもあるのだ”
と、公爵は考えた。
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底本 デューン 砂の惑星1
出版社 株式会社 早川書房
発行年月日 昭和四十七年十二月三十一日 初版発行
入力者 ネギIRC