血の収穫
ダシール・ハメット/能島武文訳
目 次
一 緑衣の女と灰色の男
二 ポイズンビルの皇帝《ツアー》
三 ダイナ・ブランド
四 ハリケーン通り
五 老エリヒューまともに話す
六 ホイスパーの睹場
七 だから、契約したでしょう
八 キッド・クーパーについての聞きこみ
九 黒い柄のナイフ
十 犯罪を求む――男女を問わず
十一 すばらしいネタ
十二 新規まきなおし
十三 二百ドル十セント
十四 マックス
十五 |杉の丘荘《シダー・ヒル・イン》
十六 ジェリ退場
十七 レノ
十八 ペインター通り
十九 講和会議
二十 阿片チンキ
二十一 十七番目の殺人
二十二 氷かき
二十三 チャールズ・プロクター・ドーン氏
二十四 おたずね者
二十五 ウイスキータウン
二十六 恐喝
二十七 倉庫
解説
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登場人物
わたし……コンティネンタル探偵社のサンフランシスコ支局員
エリヒュー・ウイルスン……パースンビル市第一の実力者
ドナルド・ウイルスン……エリヒューの息子、ヘラルド新聞社社長
フィンランド人ピート……市のボス、闇酒屋
リュー・ヤード……市のボス、質屋
マックス・ターラー……通称ホイスパー、ばくち打ち
レノ・スターキー……リュー・ヤードの後継者
ダイナ・ブランド……娼婦
ダン・ロルフ……ダイナに寄食している肺病の麻薬中毒患者
ロバート・アルベリー……ファースト・ナショナル銀行の出納係
ヘレン・アルベリー……ロバートの妹
ジョン・ヌーナン……市の警察署長
マグロオ……警部
チャールズ・プロクター・ドーン……弁護士
ボブ・マックスウェイン……元刑事
ミッキー・リネハン…コンティネンタル社の社員
ディック・フォリー…コンティネンタル社の社員[#ここで字下げ終わり]
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ジョセフ・トムスン・ショウに捧ぐ
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一 緑衣の女と灰色の男
パースンビルのことを、ポイズンビルと人がいうのをはじめて聞いたのは、ヒッキイ・デュイーという赤毛の選鉱夫からで、モンタナ州の鉱山町ビュートの『ビッグ・シップ』という酒場でだった。その男は、自分のシャツのことも、ショイツといっていた。その時は、その町の名前を、その男がなんといおうと、いっこう気にもならなかった。その後になって、|r《アール》の発音はどうにか出来る人々が、この町のことを同じように発音するのを、度々耳にした。それでも、泥棒仲間の隠語で、ディクショナリ(辞書)のことをリチャーズナリというのと同じような、意味のない洒落ぐらいにしか考えもしなかった。それから数年経って、パースンビルへ行き、そのわけがようくわかるようになった。
駅の構内の電話を使って、『ヘラルド』社を呼び出して、ドナルド・ウイルスンにつないでくれといった。そして、かれに到着を知らせた。
「こん晩十時に、ぼくの家へ来てくれるかね?」気持ちのいい、きびきびした声だった。「山の手通りの二一〇一番地です。ブロードウェイの電車に乗って、ローレル街でおりたら、西へ二町歩くんです」
わたしは、そうしようと約束した。それから、グレート・ウェスタン・ホテルへ車を乗りつけて、荷物をほうりこむと、町を見物に出かけた。
町は、美しくはなかった。たいていの建築家連中が、派手な美しさをねらったのだ。恐らく、はじめはなかなかいい結果をもたらしたのだろう。ところが、精錬業者たちが、町の南にあたる陰気な山のきわに、高くそびえ立っている煉瓦造りの煙突を、なん本も押っ立ててからというものは、黄色い煙で、なにからなにまで町じゅうを薄黒く燻《いぶ》してしまった。その結果は、人口四万の一つの醜悪な町が、鉱山のおかげですっかり汚されてしまった二つの醜悪な山の間の、醜悪な谷間に出来あがってしまったのだ。その谷の上をおおっているのは、精錬所の煙突から湧いて出たかと思われるようなきたない空だった。
最初に見かけた巡査は、不精ひげをのばしていた。二人目のは、着古した制服のボタンが二つもはずれていた。三人目は、この町の目抜きの二つの大通り――ブロードウェイとユニオン通り――の交差点のまん中に立って、葉巻を横ぐわえにしたまま交通整理をやっていた。それからは、巡査に眼をつけるのはやめにした。
九時半に、ブロードウェイ線の電車に乗って、ドナルド・ウイルスンがいった通りの道筋を辿った。すると、街角の、生け垣をめぐらした芝生に建っている一軒の家の前に来た。
ドアを開けた女中は、旦那さまはお留守です、といった。旦那さまとの約束で来たのだと説明していると、緑色のクレープ地の服を着た、まだ三十には間がありそうな、すらりとした金髪《ブロンド》の女が、玄関へ出て来た。にっこり微笑を浮かべる時でも、その青い眼は、石のような堅さをなくさなかった。わたしはもう一度、かの女に約束のことをくりかえしていった。
「ただいま、主人はおりませんのですよ」ほんの少し耳にさわるほどの訛りがあって、Sの発音がはっきりしなかった。「ですけど、お約束したのでしたら、きっと、間もなく帰ってまいりますのでしょう」
二階のローレル街に面した部屋に通された。茶と赤を主調にした部屋で、たくさんの本がならんでいた。やや、火の燃えている暖炉の方に向いた革張りの椅子に、なかば向かい合って腰をおろすと、かの女は、どういう用事があって夫のところへ来たのか、さぐりにかかった。
「パースンビルにお住まいでございますか?」と、まずたずねた。
「いや、サンフランシスコです」
「でも、はじめていらしたのじゃないんでしょう?」
「はじめてです」
「まあ、そうですの? いかがですか、この町がお気に入りまして?」
「まだ、それほどよく見てはいないのです」というのは嘘で、すっかり、もう見てしまっていた。「きょうの午後、着いたばかりですから」
かの女のきらきらと光る眼が、ものをいう間だけは、せんさくするような色をやめた。
「きっと面白くない町だということがおわかりになりますわ」かの女はまた、せんさくするような調子にもどって、「鉱山町って、みんなこんななんでしょうね。あなたも鉱山のお仕事をなすっていらっしゃいますの?」
「いまは、やってはいません」
かの女は、暖炉棚の上の置時計を見て、いった。
「こんな夜の、おつとめもとっくにすぎた遅い時間に、こんなところまでおいでを願っておきながら、お待たせするなんて、ドナルドもずいぶん考えがなさすぎますわね」
かまいませんと、わたしはいった。
「どうせ、お仕事のことではないんでしょうけど」と、遠まわしに、かの女はいった。
わたしは、なんともいわなかった。
かの女は、声を出して笑った――なんとなくとげのある、ぶっきら棒な笑いだった。
「多分、あなたがお考えになっていらっしゃるほど、ほんとうは、いつもは、こんなひどい出しゃばりじゃないんですのよ」と、陽気にいった。「だって、あなたったら、ひどく隠し立てをなさるんですもの、つい気にせずにはいられなかったんですわ。闇のお酒屋さんじゃないんでしょう? ドナルドったら、しょっちゅう相手を変えるんですもの」
わたしはにやにやして、なんとでも勝手に思わせておいた。
その時、階下で電話のベルが鳴った。ウイルスン夫人は、緑色の室内靴をはいた足を燃えている火の方へ伸ばして、ベルの音などきこえないようなふりをしていた。なぜそうする必要があると考えたのか、わたしにはわからなかった。
かの女は、「あたしはそういう気がするんですけど――」といいかけたのをやめて、戸口にあらわれた女中を見た。
奥さまにお電話ですと、女中はいった。かの女は、失礼しますといって、女中の後から部屋を出て行った。階下へはいかずに、すぐに耳にはいるほど近くの内線の受話器に切り換えさせて話した。
「ウイルスンの家内でございます……はあ……なんでございますか?……誰でございます?……もう少し大きな声でおっしゃっていただけません?……なんでございますって?……はい……はい……どなたでいらっしゃいますの?……もしもし! もしもし!」
受話器の掛け金が、がちゃんと鳴った。かの女の足音が、廊下を遠のいて行った――あわただしい足音だった。
わたしは、巻煙草に火をつけて、じっとそれを見つめながら、夫人が階段をおりてしまうまで足音をきいていた。それから、窓際へ行って、ブラインドのはしを持ちあげて、ローレル街を見、その通りに面した、この家の裏手にある四角な白いギャレージを見た。
やがて、黒い外套と帽子の、すらりとした女が、家からギャレージへ急ぐのが視界にはいって来た。ウイルスン夫人だった。かの女は、ビュイックのクーペを運転して出て行った。わたしはもとの椅子へもどって、待っていた。
四十五分がすぎて行った。十一時五分すぎ、ブレーキの軋る音が、外でした。二分ほどすると、ウイルスン夫人が部屋へはいってきた。帽子も外套もぬいでいた。顔は蒼白で、眼はほとんど黒といってもいいほどだった。
「ほんとに相すみません」といったが、かたく結んだ唇を、ぴくぴくと引きつらせて、「でも、こんなにお待ちになりましたのに、なんにもなりませんでしたわ。主人は、こん晩はもどってまいりません」
では、あすの朝、『ヘラルド』社の方へ連絡しましょうと、わたしはいった。
わたしは、かの女の左の室内靴の緑色の爪先が、なにか、たしかに血のようなものに濡れて黒ずんでいたのは何故だろうと、いぶかりながら、この家をはなれた。
ブロードウェイまで歩いて、市街電車に乗った。ホテルから三ブロック北のところまで来ると、市役所の横の入り口のあたりに人だかりがしているので、おりて様子を見に行った。
三、四十人の男のなかに、ちらほらと女もまじっているのが歩道に立って、『警察部』という字のついたドアを見ている。まだ仕事着のままの鉱山や精錬所の労働者たち、公開の賭博場やダンスホールから帰りがけの派手な身なりの若者たち、なまっ白い顔のおしゃれな男たち、社会的地位のある夫といったような面白くもなさそうな顔つきの男たち、同じような数人の鈍い表情の女たち、それに、数人の夜の女など、そんな人の群れだった。
この人だかりのはしの、皺だらけの灰色の服を着た、がっしりした体つきの一人の男のそばに、わたしは立ちどまった。三十をいくつも越してはいないようだったが、その男の顔も、厚い唇までが灰色がかっていた。顔は幅広く、どっしりとした顔つきで、なかなか頭が働きそうだった。この男の身のまわりにある色といえば、灰色のフランネルのシャツの胸に、花のようについている、まっ赤なウインザー式のネクタイだけだった。
「なんの騒ぎだね?」と、その男にたずねた。
かれは、へんじをする前に、じっと注意深くわたしを見た。まるで、うっかりものをいっても大丈夫な人間かどうか、確かめようとでもするような眼つきだった。その眼の色も服地の色と同じように灰色だったが、服地ほどにやわらかではなかった。
「ドン・ウイルスンが、神さまの右側の席へすわりに行っちまったのさ。もっとも、神さまの方で、ピストルの弾丸の孔を気にしなければの話だがね」
「誰がうったんだね?」と、わたしはたずねた。
灰色の男は、頭のうしろを引っかきながら、いった。
「誰か、拳銃を持った男だ」
わたしがほしいのは細かい事実の話で、洒落ではなかった。この赤ネクタイがわたしに気がないのなら、誰か、群集の中のほかの人間をつかまえたってよかったのだ。わたしはいった。
「おれは、よそから来た人間なんだ。ちゃんと順序よく話してもらいたいね。でなきゃ、よその者にはのみこめないよ」
「『ヘラルド』新聞社長のドナルド・ウイルスンとおっしゃる旦那が、ちょっと前に、射殺されているのがハリケーン通りで発見されたのです。誰がうったかはわかりません」と、一本調子の早口で述べ立てた。「これで機嫌を直してもらえますかね?」
「ありがとう」わたしは、指を一本出して、男のネクタイのはしにさわった。「これは、なんのつもり? それとも、ただ着けてるだけ?」
「おれは、ビル・クイントってんだ」
「なんだ、きみか!」その名前をしっかり頭に入れようとしながら、わたしは叫ぶようにいった。「まったく、会えてよかった!」
名刺入れを取り出して、いろんな手を使って、あちらこちらで集めた身分証明書の収集品のなかをかきさがした。ほしかったのは赤い名刺だ。それはI・W・W(世界産業労働組合)の立派な地位にある組合員、熟練海員ヘンリー・F・ネイルが、わたしだということを証明する名刺だ。もちろん嘘っぱちのことだ。
その名刺を、ビル・クイントにわたした。相手は、表も裏も念入りに読んでから、わたしに返し、信用出来んという顔つきで、帽子のてっぺんから靴のさきまで、じろじろとわたしを眺めまわした。
「ここで見ていたって、もうあの男も、あれ以上、死ぬということもあるまい」と、かれはいった。「きみは、どっちの方へ行くんだね?」
「どっちでも」
わたしたちは、並んで通りを歩き、別に目あてもなしに、とある街角をまがった。
「海員さんだとすると、どういうわけで、こんなところへやって来たんだね?」と、なに気なく相手はたずねた。
「どこから、そんなことを思いついたんだね?」
「名刺にそう書いてあったじゃないか」
「森林労働者だってことを証明するやつだって持ってるぜ」と、わたしはいった。「坑夫にしたけりゃ、あすまでに、そういうのを手に入れておくよ」
「そうはいかねえ。ここの坑夫たちは、おれが握ってるんだ」
「シカゴから電報が来たら、どうだね?」と、わたしはたずねた。
「シカゴなんてくそくらえだ! ここのやつらは、おれが牛耳ってるんだ」一軒のレストランの戸口の方へうなずいて見せて、たずねた。「飲むかい?」
「飲めるとなりゃ、飲むさ」
そのレストランをずっと通り抜けて、階段をあがって、長いバーとテーブルがずらっと一列に並んだ、細長い二階の部屋へはいった。ビル・クイントは、テーブルやバーに陣取っている男や女に、「やあ!」とうなずいたり声をかけたりしながら、バーの反対の壁際にならんでいる緑色のカーテンで仕切ったボックスの一つに、わたしを連れこんだ。
それから二時間というもの、わたしたちは、ウイスキーを飲んだり、話したりしてすごした。
灰色の男は、さっき見せた名刺の当人だとも、そのほかの口に出していった人間だとも、わたしのことを思ってはいなかった。かといって、立派なI・W・Wの組合員とも思ってはいなかった。パースンビルでの、I・W・Wの坑夫組合長として、わたしの正体を突きとめることと、自分がやっている大事の仕事について余計なおしゃべりをしないこととが、自分の義務だと思っていた。
こっちの方では、そんなことはどうでもよかった。こっちは、パースンビルのことに関心を持っていただけだ。相手も、赤い名刺を持っているわたしの仕事に、なに気なくさぐりを入れながらも、大して気にもせずに、いろいろなパースンビルの問題を話してくれた。
聞き出したことをまとめると、つぎのようだった。
四十年もの間、老エリヒュー・ウイルスン――こん晩殺された男の父親――は、パースンビルの、身も、皮も、はらわたも、魂までも、自分のものにしていた。パースンビル鉱業会社の社長兼大株主であり、ファースト・ナショナル銀行についても同じであり、この町でのただ一つの新聞である『ヘラルド』社の社主であり、そのほか多少とも重要な、ほとんどありとあらゆる企業の、少なくとも一部分は、かれのものだった。このような資産に合わせて、合衆国上院議員を一人、下院議員を二人、州知事、市長、および州議会議員の大部分をも手に入れていた。エリヒュー・ウイルスンこそは、パースンビルそのものであり、州の大部分でもあった。
第一次大戦中のことだが、I・W・W――当時、西部で全盛をきわめていた――が、パースンビル鉱業会社の従業員を組織した。従業員たちは、それまで十分に酬われてはいなかったのだ。かれらは新しく獲得した力を利用して、ほしいだけのものを要求した。老エリヒューは、与えるべきものを与えて、機会が来るのを待った。
その機会は、一九二一年にやって来た。事業は不振だった。老エリヒューは、一時事業を閉鎖しようがしまいが、そんなことは気にもかけていなかった。かれは、労働者たちとの間に結んだ協約を破って、労働条件を戦前の状態に突きおとしはじめた。
もちろん、従業員は応援を求めた。ビル・クイントは、シカゴのI・W・W本部から派遣されて、争議の采配を揮うことになった。かれは、ストライキ、つまり、公然と同盟罷業をすることには反対した。職場にはとどまりながら、内部からぶちこわす、昔風なサボタージュ戦術をすすめた。しかし、パースンビルの連中には、それではくい足りなかった。かれらは、はなばなしいことをやって、労働運動史上に名を残したいと思ったのだ。
とうとう組合はストライキをやった。
ストライキは、八ヵ月つづいた。敵も味方も、おびただしい出血だった。組合員たちは、ほんとに体から血を流させられた。老エリヒューは、暴力団、ストライキ破り、州兵、はては連邦正規軍の数部隊までもやとって、相当の出血をした。最後の頭蓋骨が打ち割られ、最後の肋骨が蹴折られた時には、パースンビルの組織労働者は、使いすてられた花火のからも同然だった。
だが、と、ビル・クイントは語った。老エリヒューは、自分がイタリアの歴史と同じになるのを知らなかった。ストライキには勝った。が、この市と州に対する支配力を、かれはうしなった。坑夫たちを打ちやぶるためにやとった暴力団を、野ばなしにしなければならなかった。争議がおわっても、暴力団を追い出すことも出来なかった。かれは、かれらに委ねてしまった市政を、かれらから取りあげるだけの力もなくなっていた。かれらは、パースンビルを格好なところと思って、自分たちの縄張りにした。つまり、エリヒューに手を貸してストライキに勝ったのだから、役得として、この市を手に入れたのだ。エリヒューは、卒直にかれらと手を切ってしまうことが出来なかった。かれには、かれらが手に負えなくなってしまったのだ。ストライキ中に、かれらがやったこと一切に、老人は責任を負わなければならなかった。
ここまで話が進んだころには、ビル・クイントもわたしもかなり上機嫌になっていた。かれは、またグラスをあけると、眼にかかって来る髪の毛を払いのけて、物語を現在のことに持って来た。
「いま、ギャングのなかで一番勢力のあるのは、恐らく、フィンランドのピートだろうな。おれたちが飲んでいるこの酒も、あいつのだ。それから、リュー・ヤードってのがいる。こいつは、パーカー通りに質屋の店を持っていて、保釈金の仕事もうんとやっているし、町のうるさ方をあらかた握っているという話だし、警察署長のヌーナンともかなり懇意な仲だ。それから、マックス・ターラー――ホイスパーってあだ名だが――こいつも、なかなか顔が広い奴だ。小柄の、おしゃれな色の黒いやつで、咽喉がどっか悪いらしい。よくしゃべれないんだ。ばくち打ちさ。この三人が、ヌーナンといっしょに、エリヒューを助けて、この町を動かしている――エリヒューの必要以上に助けているんだ。だが、エリヒューには縁を切るわけにはいかない、切ろうなんてすれば――」
「こん晩やられた、その――エリヒューの息子ってのは――その男は、どういう立場にいたんだね?」と、わたしはたずねた。
「おやじのいいつけ通りさ。だから、こん度も、おやじのいいつけ通りのところへ行ったのさ」
「というと、おやじが自分の息子をやったというのかい――?」
「かもしれないね。だが、おれはそうは思わねえ。このドンってのは、外国から帰って来て、おやじのかわりに新聞の方をやりはじめたばかりなんだ。いくら片足を棺桶につっこんでいるにしたところで、自分のものをふんだくられて仕返しもしねえなんて、老悪魔らしくもないことだったよ。だが爺さんとしちゃ、いまいった連中相手じゃ、よっぽど抜け目なく立ちまわらなきゃならなかったんだ。そこで、息子をフランス人の細君もろともパリから連れもどして、自分の身がわりに立てたってわけだ――まったく結構なおやじらしい手さ。ドンは、新聞で改革運動にとりかかった。町から悪徳と腐敗を一掃せよ――ということは、とことんまで押し進めれば、ピートと、リューと、ホイスパーとを、町から叩き出すってことさ。わかるかい? 爺さんは息子を使って、やつらをがたがたにゆさぶろうとしたんだ。おれの想像じゃ、やつらの方ではゆさぶられるのがいやになったんだろうな」
「その想像には、ちっとばかり間違いがありそうだな」と、わたしはいった。
「このきたならしい町には、どんなことにだって、ちっとばかりどころか、間違いは一杯あるよ。このへんでいいかね、話は?」
わたしは、いいといった。通りへ出て歩き出した。ビル・クイントは、フォレスト通りの鉱夫会館に住んでいるといった。そこへの帰り道は、わたしのホテルを通るというので、いっしょに歩いて行った。ホテルの前まで来ると、私服巡査らしい、がっしりした男が歩道のはしに立って、シュタッツのツーリング自動車の中の男と話していた。
「車の中のがホイスパーだ」と、ビル・クイントが教えてくれた。
がっしりした男の脇を通りながら、わたしは、ターラーの横顔を見た。色の黒い、小柄な若者で、まるで型に合わせてつくったように、きちんとした、立派な顔だちだった。
「いい男じゃないか」とわたしはいった。
「ふふ」と、灰色の男はうなずいて、「ダイナマイトだって、格好はいいぜ」
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二 ポイズンビルの皇帝《ツアー》
『ヘラルド』の朝刊は、ドナルド・ウイルスンとその死に、二ページをさいた。かれの肖像は、ちぢれ毛の、にっこり笑いを浮かべた眼と口もと、二重あごに縞のネクタイをした、快活そうで理知的な顔をしていた。
その死去についての記事は、簡単なものだった。前夜の十時四十分、腹と胸と背とに四発の弾丸をうちこまれて、即死した。射殺された場所は、ハリケーン通りの一一〇〇番地だった。銃声を聞いて外を見た同番地の居住者たちは、死んだ男が歩道に倒れているのを眼にした。一人の男と一人の女が、死体の上にかがみこんでいた。通りはひどく暗かったので、人の姿なり、物の形なり、なに一つ、誰にもはっきり見えなかった。その男と女とは、ほかの人々が通りに行き着かないうちに、姿が見えなくなっていた。二人がどんな人相風体をしていたか、知っている者は一人もなかった。二人が逃げ去るところを見た者もなかった。
六発の弾丸が、三二口径のキャリバー・ピストルから、ウイルスンを目がけてうたれていた。うち二発は、狙いをはずれて、一軒の家の正面の壁にあたっていた。この二発の弾丸の弾道をしらべた結果、警察では、通りのむかい側の、狭い路地から発射されたことがわかった。判明しているのはそれだけだった。
『ヘラルド』は社説欄に、市政改革者としての故人の短い経歴を紹介し、パースンビルの粛清をよろこばない何者かの手にかかって殺されたと信ずると述べていた。警察署長が速やかに犯人、もしくは犯人らを逮捕、起訴することこそ、署長自身に共犯関係のないことを明らかにする最良の方法であるはずだ、と、ヘラルド紙は断じていた。その社説は、直截《ちょくさい》で痛烈だった。
二杯目のコーヒーを飲みほすのといっしょに新聞を読み終わると、ブロードウェイの電車に飛び乗り、ローレル街でおりると、殺された男の家の方へ通りを引っ返して行った。
その家から半ブロックほどのところへ来た時、わたしの気持ちと行く先を変えさせることがおこった。
帽子、服、靴と、茶系統の三つの色合いで身なりを整えた小柄な若い男が、行手の通りを横切った。浅黒い横顔は美しかった。マックス・ターラー、一名ホイスパーだ。山の手通りの角まで行くと、ちょうど、茶色のズボンに包まれたうしろ足が、故ドナルド・ウイルスンの邸の玄関に消えるのが、ちらっと眼にはいった。
ブロードウェイまで引っ返し、電話室のある薬屋を見つけて、電話帳でエリヒュー・ウイルスンの邸の番地を調べ、呼び出して、老人の秘書だという男に、こちらはドナルド・ウイルスンに呼ばれてサンフランシスコから来た者だが、ドナルド君の死について知っていることもあるから、ご尊父に会いたいのだと申し入れた。
押し問答のあげく、やっと、来てくれというへんじをもらった。
秘書――物静かな、痩せた、眼の鋭い四十男――が、寝室へ案内して行くと、ポイズンビルの皇帝《ツアー》は、ベッドの中で身をおこした。
老人の頭は小さく、ほとんどまん丸で、短く刈りこんだ白髪をいただいていた。小さすぎるくらいの耳が、ぴったりくっつきすぎるくらい、頭の両脇にくっついているので、まん丸な球といった感じを少しもぶちこわしていない。鼻も小さくて、骨張った額の線がそのままおりて来たようだった。口と顎とが直線で、その球体をぶち切っているのだった。その下に、太く短い頸が、角ばった肉づきのいい両肩の間を、白いパジャマの中におりて行っている。掛けぶとんの外に出ている片腕は、短く、肉が引き締まって、その先が指の太い、無骨《ぶこつ》な手だ。眼は、丸くて、青く、小さくて、うるんでいる。ぼさぼさの白い眉毛の下の、水っぽい膜のかげにかくれているが、折りさえあれば躍り出してつかみかかりそうな眼だ。よほど指先に自信がないかぎり、うっかりポケットのものなど掏《す》れないたちの男だった。
老人は、まん丸い頭を二インチほど動かして、ベッドの脇の椅子に掛けるように命令し、もう一度頭を動かして秘書を追っぱらうと、たずねた。
「なんだ、せがれのことというのは?」
荒々しい声だった。言葉がひどくはっきりしないのは、胸にはいいたいことが多すぎるのに、口が思うように動かないからだった。
「わたしは、コンティネンタル探偵社のサンフランシスコ支局の者です」と、わたしは口を切った。「二、三日前に、ご子息から小切手を同封して、頼みたい仕事があるから、誰か一人よこしてくれとのお手紙をいただきました。それで、わたしが来たわけです。昨晩、家の方へ来てくれとのお話でした。それで伺いましたが、帰っておいでになりませんでした。下町へやって来て、ご子息がなくなったことを知りました」
エリヒュー・ウイルスンは、うさんくさそうに、わたしをうかがって、たずねた。
「ふむ、それがどうした?」
「わたしがお待ちしていますと、奥さんのところへ電話がかかって来て、お出かけになり、やがて、靴に血らしいものをつけてもどって来て、主人は帰らないだろうとおっしゃったのです。ご子息がうたれたのは、十時四十分でしたね。奥さんがお出かけになったのは、十時二十分で、十一時五分に帰っておいででした」
老人は、ベッドにしゃんとおき直ると、嫁のウイルスン夫人のことを、さんざんに罵《ののし》った。そんな言葉をひと通り吐き散らした時にも、まだいくらか気力が残っていた。こん度は、それをわたしに向けて、どなった。
「あの女はつかまったか?」
つかまってはいないと思うと、わたしはいった。
かの女がつかまっていないのが、老人には気に入らなかった。いつまでもむしゃくしゃしていた。こっちの胸までむかむかするようなことを、さんざんがなり立てたあげく、こういった。
「いったい、きみは、なにをぐずぐずしているんだ?」
張り倒すにしては、あまり老人すぎたし、病人だった。それで、声を立てて笑って、いった。
「証拠がありませんからね」
「証拠だと? なにがいるんだ? きみは――」
「ばかなことをいっちゃいけません」と、老人のわめき声をさえぎった。「どうして、奥さんがご子息を殺すわけがあるんです?」
「あの女が、フランスのあばずれ女だからだ! あの女が――」
秘書のおびえた顔が、戸口にあらわれた。
「あっちへ行っとれ!」と、老人がほえるようにわめくと、その顔は引っこんだ。
「嫉妬深い人なんですか?」そのわめき声をつづけないうちにと、たずねた。「それに、大きな声をお出しにならなくても、どうにかおっしゃることは聞きとれますよ。イーストを食うようになってから、わたしのつんぼ耳もずっとよくなりましたからね」
老人は、毛布の中で二つの腿がつくっている二つのこぶの上に、両の握りこぶしを置いて、角張った顎を、ぐっと突き出した。
「年は寄って、病人だが」と、ひどくゆっくりと、「起きあがって、きさまの背中を蹴っ飛ばすくらいの元気はあるんだぞ」
それには構わずに、くり返していった。
「あの婦人は、やきもち焼きだったんですか?」
「やきもち焼きだった」と、こん度はわめかずに、「それに威張り散らす上に、気ままで、疑り深くて、欲深かで、けちで、無遠慮で、嘘つきで、手前勝手で、いまいましい悪性者――どうにもこうにも手のつけられん悪性者だ!」
「やきもちには、理由があるんですか?」
「そうならいいがね」と、にがにがしげにいった。「わしのせがれともあろう者が、あんな女に本気になっているのかと、思うだけでも胸くそが悪くなるわ。ところが、本気になっていたらしい。そういう奴じゃった、せがれは」
「しかし、あの婦人がご子息を殺さなくてはならなかった理由は、おわかりにはなっていないのでしょう?」
「理由がわからんだと?」と、また、どなり立てた。「わしがいったじゃないか、きさまに――」
「うかがいましたよ。でも、なんにも意味のあることはありませんからね。子供っぽいことばっかりですよ」
老人は、毛布をはねのけて、ベッドから出ようとしかけた。すぐに思い直して、まっ赤になった顔をあげて、わめいた。
「スタンリー!」
ドアが開いて、秘書がはいって来た。
「この野郎をほうり出せ!」と、わたしの方にこぶしを振りまわしながら、老人は命令した。
秘書が、こちらに向き直った。わたしは首を振って、いってやった。
「手助けを呼んで来た方がいいぜ」
相手は、顔をしかめた。二人とも、ほぼ同じ年配だ。かれはひょろ長くて、かれこれ頭だけ、わたしより高かったが、目方は五十ポンドはわたしより軽いだろう。わたしの百九十ポンドのいくらかは脂肪だが、それだけということはない。秘書は、もじもじして、いいわけがましくにやっと笑って、行ってしまった。
「わたしがいおうとしたのは、こういうことなんです」と、老人にいって聞かせた。「わたしは、けさ、ご子息の奥さんとお話しするつもりだったんです。ところが、マックス・ターラーがあの家へはいって行くところを見たもんだから、訪問をのばしたんです」
エリヒュー・ウイルスンは、もう一度、毛布をそろそろと足の上へ引っぱりあげ、頭を枕にのせて、天井に眼を向けながら、いった。
「ふむ、そうだったのか?」
「というと?」
「あの女が殺しおったのだ」と、きっぱりいい切った。「そういうことなんだ」
廊下に、騒がしい足音がした。秘書のよりも、がっしりした足音だった。足音がドアの外へ来た時、ちょうど、わたしがいいかけた。
「あんたは、ご子息を使って――」
「あっちへ行っとれ!」老人は、ドアの方にむかってどなった。「ドアをしめとくんだ」老人は、わたしを睨みつけて、問いただすように、「わしがせがれを使って、どうしたというんだ?」
「ターラー、ヤード、それからフィンランド人を、ひそかにやっつけようとしたでしょう」
「嘘をつけ」
「でっちあげた話じゃない。パースンビルじゅうにひろがっている話ですよ」
「嘘だ。わしは、せがれに新聞をやった。それで、あいつは、自分のしたいことをやったのじゃ」
「そんなことは、あんたの仲間におっしゃったらいいでしょう。連中なら信じるでしょうよ」
「奴らがなにを信じようと、くそくらえだ! わしが、きみに話した通りなんじゃ」
「それがどうなんです? あんたの息子さんは、間違いで殺されたからといって――かりに間違いとしてですよ――それだからといって、生き返っては来ませんよ」
「あの女が、せがれを殺したのだ」
「ことによるとね」
「ことによるととは、なんたることだ! たしかに、あの女がやったのだ」
「そうかもしれない。しかし、もう一つの角度からも見なけりゃならんでしょうね――政治的な角度からね。あんたなら話していただけると思うんですが――」
「わしが話せることは、あのフランス人のあばずれが、せがれを殺したということだ。そのほかの、お前さんのようなばかな頭がでっちあげたような考えは、みんな見当はずれだというだけだ」
「でも、その角度からも見なけりゃならないでしょう」と、わたしはいい張った。「それに、パースンビルの市政の内幕について、あんた以上に通じている人は、ほかには見つかりそうにもありません。被害者は、あんたの息子さんだ。少なくとも、あんたに出来る――」
「少なくとも、わしに出来ることは」と、大声をあげて、「さっさと、フリスコへ帰ってしまえというだけだ。お前さんのような低脳は――」
わたしは立ちあがって、いかにも不愉快そうに、いってやった。
「わたしは、グレート・ウェスタン・ホテルにいます。気が変わって、筋の通った話をしたいと思わないうちは、電話をかけないでいただきたい」
寝室を出て、階段をおりた。秘書がいいわけがましい笑いを浮かべながら、階段の下にうろうろしていた。
「やかましい爺さんだな」と、うなってやった。
「大した元気な方で」と、口の中でこたえた。
ヘラルド社で、殺された男の秘書をさがし出した。十九か二十の小柄な娘で、丸い栗色の眼に、明るい茶色の髪と、色白の可愛らしい顔をしていた。名前はリュイスといった。
社長が、わたしをパースンビルに呼んだことについては、なにも聞いていなかったと、かの女はいった。
「でも、それはね」と、いいわけをするように、「ウイルスンさんって方は、いつでも、どんなことでも、出来るだけ、ご自分の胸にしまっておきたいという方だったんですもの。つまり――ここの人は誰も、すっかり信用していらっしゃらなかったんだと思いますわ」
「きみも?」
かの女は、さっと顔を赤らめて、いった。
「ええ。でも、仕方がありませんわ。こちらへいらしてから、ほんのしばらくで、あたしたちを、誰もよくご存じなかったんですもの」
「もっとそれ以上のなにかがあったにちがいないね」
「さあ」と、かの女は唇をかみながら、死んだ社長の、よくみがいたデスクのはしに、一列に指紋をつけて、「あの方のお父さまは、あの方のおやりになることに、あまり――あまり同感していらっしゃらなかったんですのよ。お父さまが、ほんとうはこの新聞の持ち主だもんですから、ご自分よりもエリヒューさまに忠実な雇人がいるかもしれないと、ドナルドさまがお考えになるのも当たり前のことだったでしょうね」
「老人は、市政改革運動には賛成じゃなかったんだね? なぜ我慢したんだろう、新聞が自分のものだというのに?」
娘は、頭をさげて、自分がつけた指紋をじっと見ていた。低い声だった。
「なかなかおわかりになりにくいでしょうね――こん度、エリヒューさまがご病気になって、ドナルドを――ドナルドさまを呼びもどした時のことがおわかりになっていないんですものね。ドナルドさまが、これまでの大部分をヨーロッパでおすごしになっていたことはご存知ね。プライド博士が事業の采配を振るのはあきらめなさいと、エリヒューさまにおっしゃったもんで、それで、国へ帰って来るようにって、息子さんに電報をお打ちになったんですの。ところが、ドナルドさまが帰っていらしたのに、エリヒューさまは、なにもかも手からはなすご決心がつかなかったのね。それでも、ドナルドさまにはこの町にいてもらいたいので、新聞だけを譲って――つまり、社長ということになすったんです。ドナルドさまは、それが好みに合っていたのね。パリにいた時から、ずっとジャーナリズムに関心を持っていらしたんですもの。ところが、この町と来たら、なにからなにまで――市政だのなんだの――とてもひどいということがおわかりになると、改革運動をおはじめになったの。でも、ご存じなかったのね――子供の時から、よそへ行っていらしたので――ご存じなかったの――」
「自分の父親がほかの誰よりも、そのなかに深くはまりこんでいるということを知らなかったというんだろう」と、わたしは、そばから助け舟を出してやった。
娘は、ちょっともじもじして、自分の指紋を睨《にら》みつづけていたが、わたしの言葉には反対もしないで、話しつづけた。
「エリヒューさまと社長とは、一度喧嘩をなすったの。エリヒューさまがいろんなことをかきまわすのをやめろとおっしゃったんですけど、社長はやめようとなさらないの。多分、きっと、おやめになってたわね、ご存じになってたら――みんな、ご存じにならなくちゃいけなかったことなのにね。でも、お父さまがほんとうに、それほど深く関係していらっしゃるとは、きっと夢にもご存じなかったでしょうね。それに、お父さまも話そうとなさらなかったんですもの。そんなふうなことを息子に話すのは、父親にとってはつらいことでしょうからね。そして、話すかわりに、ドナルドさまから新聞を取りあげてしまうぞと、おどかしなすったの。ほんとにそのつもりだったかどうか、あたしにはわかりませんわ。ところが、またご病気が悪くなったので、一切がそのままで進んで行ったんですの」
「ドナルド・ウイルスンが、そんなことを、きみに打ち明けたんじゃないんだろうね?」と、わたしはたずねた。
「ええ」まるで、ささやくような声だった。
「じゃ、いまの話はどこで聞いたんだね?」
「あたしは――あたしは、誰が社長を殺したのかさぐり出すお手つだいをしようとしているのよ」と、むきになって、かの女はいった。「だのに、そんなことをおっしゃるなんて――」
「いまのところは、どこで聞いたかいってくれるのが、一番助けてくれることになるんだよ」と、わたしはねばっていった。
娘は、下唇を噛みながら、デスクを見つめていた。わたしは、じっと待っていた。やがて、娘はいい出した。
「あたしの父が、エリヒューさまの秘書をしているんです」
「ありがとう」
「でも、そんなことをお考えになっちゃいけませんわ、あたしたちが――」
「そんなこと、おれには関係のないことだよ」と、娘にうけ合った。「それにしても、自分の家でおれと会う約束があったのに、ウイルスンは、ゆうべ、ハリケーン通りでなにをしていたんだろう?」
娘は、知らないといった。ドナルドが電話で、十時に家へ来いといったのを聞いたかと、娘にたずねた。聞いたと、娘はこたえた。
「そのあとで、かれは、どんなことをしたかね? あれから仕事がすんで帰るまでの間に、社長のいったことやしたことを、ごくこまかいことまで一切思い出してみてくれないか」
娘は、椅子によっかかり、眼をとじて、額に皺を寄せた。
「あなたが電話をおかけになったのが――家へ来てくれと、社長のおっしゃったのがあなただったとして――二時ごろでしたわね。その後で、ドナルドさまは手紙を口述なすったわ。一通は、製紙会社へ、一通は、上院議員のキーファーさんにあてて、郵便の規則が変わることかなんかについてでしたわ。それから――ああ、そうだわ! 二十分ほどお出かけになったわ、三時ちょっと前に。そして、お出かけになる前に、小切手を一枚、お書きになったわ」
「誰にあてて?」
「わかりませんわ。でも、お書きになっているのは見たんです」
「小切手帳はどこにあるの? 自分で持って歩いているの?」
「ここにありますわ」娘はとびあがって、ドナルドのデスクの前にまわり、一番上の引き出しを開けようとした。「鍵がかかってるわ」
娘といっしょになって、金のクリップをまっすぐにのばし、それと、自分のナイフの刃とで、いじくりまわして引き出しを開けた。
娘は、ファースト・ナショナル銀行の薄い小切手帳を取り出した。最後に切った控えには、五千ドルと書いてあって、ほかにはなにも書いてなかった。支払い先の名前もなければ、文句もなかった。
「この小切手を持って出て」と、わたしは娘に、「二十分留守にしていたんだね? 銀行へ行って、もどって来るのにはじゅうぶんの時間なんだね?」
「あの方なら、五分もかからないで銀行へいらっしゃいますわ」
「その小切手を書くまえに、ほかになにかなかったかい? 考えてごらん。使いは? 手紙は? 電話は?」
「待ってちょうだい」娘は、また眼をとじた。「手紙を口述して、それから――ああ、なんて、あたし馬鹿なんでしょう! 電話がかかって来ましたわ。こうおっしゃってましたわ。『うん、十時には行けるだろうが、急いで帰らなくちゃならんからな』って。それからまた、『よろしい、十時にね』っておっしゃいましたわ。その後『うん、うん』ってなん度かおっしゃったけど、おっしゃったのはそれだけでしたわ」
「相手は、男だったかい、女だったかい?」
「わからなかったわ」
「考えてごらん。相手によって、声の調子に違いがあるはずだよ」
かの女は、しばらく考えていてから、いった。
「それなら、女でしたわ」
「夕方、どっちが――きみと社長と――どっちが先に、ここを出たの?」
「あたしでしたわ。父が――父がエリヒューさんの秘書をしているってお話しましたわね。父とドナルドさんと、夕方早く面会のお約束をしていましたの――新聞の資金ぐりのことかなんかで。父は、五時ちょっとすぎに帰って来ましたわ。ごいっしょに、晩の食事をしたんだと思いますわ」
リュイスという娘が教えてくれたのは、それだけだった。ウイルスンがハリケーン通りの一一〇〇番地にいたわけは、なんにも知らないといった。ウイルスン夫人については、なんにも知らないと、かの女は認めた。
二人で故人のデスクをかきまわして調べたが、手がかりになりそうなものも、なに一つ掘り出せなかった。交換台の女の子のところへも行ってみたが、なんにも聞き出せなかった。一時間ほどかけて、給仕や、社会部長《シティ・エディター》やそのほかにもあたってみたが、どうかまをかけてみても、なんにも引き出せなかった。故人は、秘書がいった通り、自分のことは自分の胸におさめておくということにかけては、まったくいい腕を持っていたのだ。
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三 ダイナ・ブランド
ファースト・ナショナル銀行で、アルベリーという出納係の男をつかまえた。二十五、六の、きれいな顔のブロンドの若者だった。
「ウイルスンの小切手は、わたしが支払保証をしました」と、来意を説明すると、その男は、そういった。「ダイナ・ブランドあてに振り出したもので――五千ドルでした」
「どういう人だか、その女のことを知ってるかね?」
「ええ、知ってますとも! ようく知ってます」
「その女のひとについて、よかったら、知ってることを話してもらいたいんだが、どうだろう?」
「かまいませんとも。喜んでお話しますがね、ただ、会合の約束に、もう八分も遅れているもんですから――」
「じゃ、こん晩、晩飯をいっしょにやって、その時に話してもらえないかね?」
「結構ですね」と、かれはいった。
「グレート・ウェスタンで、七時にどうかね?」
「ええ、いいです」
「じゃ、帰るから、きみは会合へ行ってきたまえ。しかし、その前にちょっと教えてもらいたいんだが、その女は、ここに口座を持っているのかね?」
「ええ、持ってますよ。けさ、その小切手を振りこみましたがね。小切手は、警察が持って行きましたよ」
「そうかい? それで、その女の住居は?」
「ハリケーン通りの一二三二番地です」
「ほほう! じゃ、こん晩会おう」といって、銀行を出た。
つぎに寄ったのは、市役所の中にある、警察署長室だった。
署長のヌーナンは、陽気な丸顔に、きらきら光る緑色の眼をした、ふとった男だった。わたしがこの町でやっていることを話して聞かせると、それを歓迎するようなようすだった。握手をして、葉巻と椅子とをすすめた。
「では」と、二人が腰をおちつけると、かれは、「誰が早業をやってのけたのか話してもらおう」と切り出した。
「黙ってる方が、こっちは安全だからな」
「きみもわしも二人ともな」と、煙のなかから、元気にいった。「だが、見当ぐらいはついとるだろう?」
「見当ってやつは苦手でしてね、ことに、いろんな事実を、まだはっきり聞いていないと来ているんでね」
「わかっとる事実をすっかり話したって、たいしてひまはかからんがね」と、かれはいった。「ウイルスンは、きのう、銀行のしまる直前に、ダイナ・ブランドあての五千ドルの小切手の支払保証をとった。夜になって、その女の家から一町もはなれていないところで、三二口径の弾丸をくらって殺された。ピストルの音を聞いた連中は、死体の上にかがみこんでおる一人の男と一人の女の姿を見かけた。けさ早く、いまいったダイナ・ブランドは、いまいった小切手を、いまいった銀行に振りこんだ。どうだね?」
「そのダイナ・ブランドってのは、何者です?」
署長は、自分のデスクのまん中の灰皿に、葉巻の灰をたたきおとして、ふとった手で、その葉巻を振りまわして、いった。
「堕ちた天使だとか、高等|婬売《いんばい》だとか、一流の男たらしの妖婦だとか、世間じゃいってるね」
「もう、その女にぶつかったんですか?」
「いいや、まだだ。その前に片づけなきゃならんのが二人ばかりいる。あの女には見張りをつけて、待っているのさ。この話は、内証だぜ」
「わかってます。ところで、聞いてください」と前置きをして、ゆうべ、ドナルド・ウイルスンの家で待っている間に、見たことや聞いたことを、署長に話して聞かせた。
話がおわると、署長は、ふとった唇をすぼめて、そっと口笛を吹き、叫ぶように、
「きみ、そいつは面白いことをいって聞かしてくれたぞ! すると、部屋ばきに血がついていたんだね? それから、主人は帰って来んだろうといったんだね?」
「そう思いましたね」と、はじめの問いにはこたえ、二番目のには、「そうですよ」といった。
「それから後、かの女と話でもしたかね、きみは?」
「いいや。けさ、あっちへ出かけて行ったんだけど、ターラーとかっていう若い男が、一足さきにあの家へはいって行ったんで、訪ねるのをよしにしましたよ」
「そいつも面白い話だぞ!」緑色の眼がうれしそうに、ぎらぎらと光った。「ホイスパーが、あの家へ行ったというんだね?」
「そうですよ」
相手は、葉巻を床に投げすてて、立ちあがると、ふとった両手をデスクの上にぐっとつっぱって、どこからどこまでうれしくてたまらないというように、わたしの方へ身を乗り出した。
「きみ、いいことをやってくれたぞ」と、咽喉をならすようにいった。「ダイナ・ブランドてのは、そのホイスパーの女なんだ。よし、二人で行って、あの後家さんと話してみようじゃないか」
二人は、ウイルスン夫人の家の前で、署長の車からおりた。署長は、玄関の石段の一番下の段に、片足をかけたまま、一秒ほど立ちどまって、呼鈴の上にかかっている黒い紗のきれを見た。それから、「うん、やるだけのことは、やらなくちゃいかん」といった。そして、二人は、石段をのぼって行った。
ウイルスン夫人は、あまり会うのに気がすすまないようだったが、たいていの人間は、警察署長がどうしても会いたいといえば、たいていは会うものだ。きょうもそうだった。二階へ案内された。ドナルド・ウイルスンの未亡人は、書斎に腰をおろしていた。喪服を着ていた。青い眼には元気がなかった。
ヌーナンとわたしは、かわるがわる、ぶつぶつとお悔みの文句をつぶやいた。それから、ヌーナンが切り出した。
「ちょっと、二つ三つおたずねしたいと思って伺いました。たとえば、ゆうべは、どちらへお出かけになったか? というようなことなんですがね」
夫人は、いやな顔をして、わたしを見、それから、署長の方に眼をもどし、眉を寄せて、横柄に口をきいた。
「どうしてそんな風なおたずねを受けるのか、伺わせていただけましょうか?」
言葉といい、調子といい、そっくりそれと同じ質問を、なん度聞かされたことだろう。だが、署長は、そんなことにはお構いなしに、愛想よくつづけた。
「それから、あなたの靴の片方が汚れていたということでしたね。右の方でしたかな、それとも、ことによると左でしたかな。とにかく、どちらか片方だったというんですがね」
夫人の上唇が、ぴくぴくと痙攣しはじめた。
「それだけだったかね?」と、署長は、わたしに聞いた。それにへんじをする暇もないうちに、かれは舌打ちを一つして、またにこやかな顔を夫人に向けて、「おっと、忘れるところでした。ご主人が帰らないだろうということを、どうして知っておいでになったのだろうという問題がありました」
夫人は、ふらふらと立ちあがって、白い片方の手で、椅子の背につかまった。
「ほんとうに、失礼でございますが――」
「結構ですとも」署長は、たくましい片手を、鷹揚に振った。「長くお邪魔はしたくないんです。ただ、どこへおいでになったのかということと、靴のことと、どうしてご主人が帰って来ないということをご存じだったのかと、それだけなんです。それから、思い出したから、もう一つ――ターラーが、けさ、こちらにどんな用事があって伺ったか、ということです」
ウイルスン夫人は、ひどくぎこちなく、また腰をおろした。署長は、相手の顔をじっと見た。やさしいところを見せようとして無理に浮かべた微笑が、肥えたその顔に、おかしな皺や凸凹《でこぼこ》をこしらえた。しばらくすると、こわばった夫人の肩がくつろぎはじめ、顎はさがり、固くなっていた背中にも丸味があらわれた。
わたしは、夫人の正面に椅子をすえて、それに腰をおろした。
「奥さん、わたしたちに、話してくださらなくちゃいけませんね」と、出来るだけ同情的に、わたしはいった。「いまのような事柄は、是非説明していただかないといけないのです」
「あたくしが、なにか隠していることがあると思っていらっしゃるんですか?」また、しゃんと身をおこし、体を固くして、挑みかかるように問い返して来た。さ行の発音が少し不明瞭なほかは、一言一言、ひどく正確に吐き出した。「あたくし、出かけました。あのよごれは、血でした。あたくし、主人が死んだことを存じていました。ターラーは、主人の死のことで、あたくしに会いにまいりました。これで、おたずねのごへんじになりましたでしょうか?」
「そんなことはみんな、わたしたちにもわかっています」と、わたしはいった。「おたずねしているのは、そのわけなんです」
かの女は、また立ちあがってむっとしていった。
「あたくし、あなたの態度が気に入りませんの。おことわりしますわ――」
ヌーナンが口を出して、
「そりゃ、大変結構ですがね、ウイルスン夫人、ただそうなると、ごいっしょに市役所まで来ていただかなくちゃならなくなるんですがね」
夫人は、署長に背を向け、深く息をして、わたしに言葉を投げつけるように、話し出した。
「あたくしたちが、ここでドナルドを待っていますと、電話がかかって来ました。男でしたが、名前をいおうとはしないんです。ただ、ドナルドが五千ドルの小切手を持って、ダイナ・ブランドという女のところへ行ったと、そういうんです。その女の人の住所も教えてくれました。それで、あたくしは、そこへ車を飛ばして、通りで、ドナルドが出て来るのを、車の中で待っていました。
待っていると、マックス・ターラーの姿が眼につきました。あの人のことは、顔だけは知っていました。ターラーは、その女の家へ行きましたが、なかへははいりませんでした。そして、行ってしまいました。やがて、ドナルドが出て来て、通りを歩いて行きました。あたくしの方を見もしませんでした。あたくしも、見られたくはなかったんです。あたくし、家へ車を飛ばせようと思って――主人が帰り着く前に、ここへ着こうと思ったんです。ちょうどエンジンをかけたばかりの時、ピストルの音が聞こえて、ドナルドの倒れるのが見えました。あたくしは、車から飛び出して、主人のところへ駆け寄りました。主人は死んでいました。あたくしは気が狂いそうでした。するとそこへ、ターラーがやって来ました。ここにいるのが見つかると、あたくしが殺したといわれると、ターラーがいうんです。そういわれて、あたくしは、車のところへ駆けもどって、車を走らせて家へ帰って来たのです」
涙が、夫人の眼にあふれていた。涙のなかから、わたしがこの話をどう受け取ったかを知ろうとするように、じっとわたしの顔をその眼が見ていた。わたしは、なんにもいいもしなかった。かの女がたずねた。
「お聞きになりたかったのは、こういうことですか?」
「まずまずね」と、ヌーナンがいった。かれはその間に、片隅へ歩いて行っていた。「きょうの午後、ターラーは、どんなことをいっていました?」
「口をつぐんでいろと、すすめました」かの女の声は、小さく、抑揚がなくなった。「あたくしたちが現場にいたことがわかれば、あたくしかターラーか、それとも二人とも、怪しまれるだろうって、それというのが、ドナルドが、女に金をやって出て来るところを殺されたのだからと、そうターラーはいったんです」
「射ったのは、どこからでした?」と、署長がたずねた。
「存じません。あたくしは、なんにも見ませんでした――ただ――あたくしが眼をあげると――ドナルドが倒れるところでした」
「ターラーがうったんでしょうか?」
「いいえ」と、夫人は、あわただしくいった。それから、口を開き、眼を丸くした。かの女は、片手を胸にあてて、「わかりませんわ。そんなこと考えてみもしませんでしたし、ターラーも自分が射ったのじゃないといっていました。でも、あの人がどこにいたのか、あたくしは存じません。どうして、いままで、あの人じゃないかと思わなかったのか、あたくしにもわかりませんわ」
「いまは、どうお考えです?」と、ヌーナンがたずねた。
「さあ――あの人だったかもしれませんわね」
署長は、わたしに目くばせをした。顔じゅうの筋肉が動くような強い目くばせだった。そして、また元へもどってたずねた。
「それで、電話の主は、わからないんですね?」
「どうしても名前をいおうとはしませんでしたの」
「声でわかりませんでしたか?」
「ええ」
「どんな声でした?」
「低い調子で、盗み聞きされやしないかとこわがっているような声でしたわ。とても、なにをいってるのかわからないほどでしたわ」
「ささやくような声でしたか?」署長は、いってしまってからも、口を開けたままだった。その緑色の眼が、脂肪のかたまりのようなまぶたの間から、貪婪《どんらん》な光をはなっていた。
「ええ、しわがれた、ささやき声でしたわ」
署長は、音を立てて口をとじ、つぎにまた開いた時には、相手を説きつけるような口調で、
「あんたは、ターラーが話すのを聞いたことがあるんだから……」
夫人ははっとして、大きく見開いた眼を、署長からわたしへと向けながら、じろじろと凝視した。
「あの人でしたわ」と、叫ぶようにいった。「あの人でしたわ」
グレート・ウェスタン・ホテルへ帰ってみると、ファースト・ナショナル銀行の若い出納係のロバート・アルベリーが、ロビーに腰をおろして待っていた。いっしょに、わたしの部屋へあがり、アイス・ウォーターを持って来させて、その氷を使って、スコッチとレモン・ジュースとグレナーディンとを冷やした。それから、食堂へおりて行った。
「さあ、例の婦人のことを話してくれたまえ」と、スープの皿が来ると、わたしは口をきった。
「いままでに、お会いになったことがおありですか?」と、かれがたずねた。
「いや、まだ会ったことはないね」
「でも、噂は聞いておいででしょう?」
「ただ、その道では腕ききだってぐらいのもんだよ」
「そうなんですよ」と、かれは相槌をうった。「いずれ、あの人にお会いになると思うんですがね。はじめは、きっとがっかりなさるでしょうね。ところが、いつからとか、どうしてそうなったとかいえないうちに、がっかりしたことをすっかり忘れてしまっているんです。そして、気がついてみると、いつの間にやら、自分の身の上話やら、心配ごとやら、希望やらを、みんな、あの女に話しているんですね」少年らしいはにかみを見せながら、かれは声を立てて笑った。「そうなったら、もうとりこですね、完全なとりこですよ」
「注意をしてくれてありがとう。だが、どうして、そんなことを知ったんだね?」
かれは、スープのスプーンを宙に持ったまま、にやっと、恥ずかしそうに笑って、白状した。
「ぼく、買ったんですよ」
「じゃ、ずいぶんかかったろうな。金の好きな女だっていうからな」
「金《かね》気ちがいですよ、まったく。でも、どういうもんか、気にならないんです。あの女と来たら、徹底的に金銭ずくで、あけっぱなしの欲深なんで、まるきり不愉快なところがないんです。あなたもつき合ってごらんになれば、ぼくのいう意味がおわかりになるでしょうがね」
「かもしれないね。ところで、どうして別れるようなことになったのか、聞かしてもらえるかね?」
「ええ、いいですとも。つまり、すっかり金を使いはたしちゃったというわけですよ」
「そんなに冷たい女なのかい?」
かれの顔が、ちょっと赤くなった。かれはうなずいた。
「そのくせ、きみは、それを悪く思っていないらしいね」と、わたしはいった。
「ほかに、どうしようもなかったんですよ」紅潮した、その愛想のいい若々しい顔を、いっそう赤くして、かれは、ためらい勝ちに話した。「でも、そのおかげで、ぼくは、あの女に助けてもらったようなことになっているんです。あの女は――こんなことをお話するというのも、あの女にはこういう面もあるということをわかっていただきたいからなんです。ぼくは、少しばかり金を持っていたんです。その金がなくなってしまった後――ぼくが若くて、むこう見ずだったってことを忘れないでください。その金がなくなってしまった後でも、銀行の金というものがありました。ぼくが――ぼくが実際に、それをどうかしたとか、それともただ考えただけだったとかは、気にしないでおいてください。とにかく、あの女は、それを感づいたんですね。どんなことでも、あの女から隠しておくなんてことは、絶対にぼくには出来なかったんです。そして、それがおわりだったんです」
「女の方から、きみと別れたんだね?」
「そうです、ありがたいことにね! 相手があの女じゃなかったら、いまごろは、あんたがぼくを追っかけていたかもしれませんね――横領罪でね。その点は、あの人のおかげをこうむっているんです!」かれは、真剣に額に皺を寄せた。「こんなことはおっしゃらないでしょうけど――ぼくの考えはおわかりでしょう。でも、あの人にもいい面があるということを知っていただきたかったんです。ほかの悪いことなら、たっぷり耳にはいるでしょうから」
「恐らくそういう面もあるんだろうね。それとも、深みにはまるような危い目を冒すほどには、たっぷり元がとれないと思っただけかもしれないね」
かれは、この言葉を頭の中でとっくり考えてから、首を左右に振った。
「そういうことも、いくらかはあったかもしれないが、それだけじゃありませんね」
「どうも、はっきりした、お代は先にいただきます主義の女らしいね」
「じゃ、ダン・ロルフはどうです?」と、かれがたずねた。
「どういう男なんだね?」
「兄だとか、腹ちがいだか種ちがいの兄だとか、なんだとかいうことですがね。そうじゃないんです。すっからかんの一文なしで――肺病やみなんです。あの女のところに住んで、女が養ってやっているんです。惚れてるとかなんとかいうんじゃないんです。ただ、どこかで見つけて、家へつれて来ただけなんです」
「ほかにもあるのかい?」
「いつもいっしょに出歩いている、左翼の男もいましたよ。あんな男からは、たいして金もしぼり出せなかったでしょうな」
「左翼のどういう男だね?」
「ストライキの間に、町へ舞いもどって来た男で――クイントという名前なんです」
「ほう、あの男も馴染みの一人かい?」
「ストライキがすんでも、この町にいるのは、そのせいだってことですよ」
「すると、いまでもまだつながりがあるのかい?」
「いいや。おっかないって、あの女はいってましたよ。殺すといって脅かしたんだっていうことです」
「誰でもかれでも、一度やそこらは、網に引っかけたというとこらしいね」と、わたしはいった。
「誰でもかれでも、ほしい男はね」と相手はいったが、そのいい方は、まったく真剣だった。
「ドナルド・ウイルスンが、一番新しい相手だったんだね?」と、わたしはたずねた。
「よく知りませんね」と、かれはいった。「二人のことは、一度も聞いたこともなかったし、見たこともないんです。きのうよりも前に、あの女に振り出している小切手があるんじゃないか探し出せって、警察署長はいったんですけど、なんにも見つからないんです。なんか見たという者もないんです」
「きみの知ってるところじゃ、最近のお客は誰なんだね?」
「近ごろ、いっしょにいるのをよく見たのは、ターラーという男です――この土地で、二つ三つ賭博場を経営しているんです。みんな、ホイスパーといってますがね。多分、お聞きになってるでしょう」
八時半に、アルベリー青年と別れて、フォレスト通りの鉱夫会館へ出かけた。会館から半町ほど手前のところで、ビル・クイントに会った。
「やあ!」と、わたしは声をかけた。「きみに会いに来たところなんだ」
かれは、わたしの前に立ちどまって、上から下まで、じろじろとわたしを眺め、うなり声で、
「やっぱり、サツの人間なんだね、きみは」
「くだらないことをいうなよ」と、わたしは不服らしくいった。「きみを誘おうと思って、わざわざここまでやって来たのに、そんなひどいことをいうんだね」
「こん度は、なにを聞きたいってんだね?」と、かれがたずねた。
「ドナルド・ウイルスンのことさ。よく知ってたんだろう?」
「知ってたよ」
「懇意だったのかい?」
「いいや」
「どう思うね、かれのことを?」
かれは、灰色の唇をすぼめて、その間から無理に息を出して、ぼろを裂くような音をさせてから、いった。
「けちな自由主義者《リベラル》さ」
「ダイナ・ブランドも知ってるんだろう?」と、わたしはたずねた。
「知ってるよ」かれの頸《くび》が、いままでよりも太く、短くなった。
「あの女がウイルスンを殺したと思うかい?」
「そうさ。図星だよ」
「じゃ、きみがやったんじゃないんだね?」
「ううん、やったのさ」と、かれは、「おれたち二人、いっしょに。ほかにたずねることがあるかい?」
「あるさ、だが、やめておこう。嘘しかいわないんだろうからな」
ブロードウェイまで引き返し、タクシーを見つけて、ハリケーン通りの一二三二番地まで乗せて行けと、運転手にいいつけた。
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四 ハリケーン通り
目あての家は、灰色の木造家屋だった。呼鈴をならすと、両頬の上の方に、半ドル銀貨ほどの大きさの赤いところがあるほかには、どこにも生きた色のない疲れきった顔の痩せた男が、ドアを開けた。これが肺病やみのダン・ロルフだなと、わたしは思った。
「ミス・ブランドにお目にかかりたいのですが」と、かれにいった。
「お名前は?」病人らしい声だったが、また、教育もありそうな人間らしい声だった。
「名前をいったって、あの人にはたいしたこともないでしょう。ウイルスンの死の件でお会いしたいんです」
相手は、疲れきった暗い眼をすえて、わたしをじっと見て、いった。
「それで?」
「コンティネンタル探偵社のサンフランシスコ支局のものです。この殺人事件に関係しているんで」
「結構なことですな」と、皮肉たっぷりに、「おはいり」といった。
一階の一室にはいると、そこには、たくさんの書類がのっかっているテーブルの前に、若い女が腰をかけていた。書類というのは、銀行の宣伝ビラや、相場の予想表などだった。一枚は、競馬の予想表だった。
部屋は、乱雑で、散らかりほうだいに散らかっていた。多すぎるほどの家具が、一つとして適当なところに置いてないという気がした。
「ダイナ」と、肺病患者が紹介するように、「この方は、サンフランシスコから、コンティネンタル探偵社の代表として、ドナルド・ウイルスン氏の死について、調べに来られたんだそうです」
若い女は立ちあがり、二、三枚の新聞を蹴散らしながら近づいて来て、片手を出した。
わたしより、一インチか二インチ高いから、五フィート八インチというところだろう。広い肩幅、豊満な胸、肉づきのいい丸い腰、大きなたくましい脚。わたしに差し出した手は、やわらかく、温かで、強い力があった。その顔は、もうすでに衰えのかげを見せはじめた二十五歳の女の顔だった。大きく熟れた口の両わきには、縦に細い線がいくつも見える。それよりもかすかな小皺が、まつげの濃い眼のまわりに網の目のようにはりかけている。眼は大きくて青く、ちょっと血走っていた。
そのこわい髪の毛は――茶色で――手入れが行きとどいていなくて、わけ目はきちんとしていない。上唇の口紅のつけ方も、片側の方がもう一方の方よりも高くなって歪んでいる。ドレスも、ことさら不似合いな赤葡萄酒色で、スナップを留め忘れたのか、はずれたのか、一方の脇がところどころ口を開いている。左の靴下の前には、縦に一本、糸のほつれた筋が出来ていた。
これが、いままで聞いたところによると、ポイズンビルの男たちを手あたり次第につまみ食いしたダイナ・ブランドだった。
「あの人のお父さんがあんたを呼んだのね。もちろん」といいながら、トカゲの皮のスリッパを一足とコーヒー茶碗と受皿とを椅子からのけて、わたしのすわる場所をつくってくれた。
やわらかで、ものうげな声だ。
わたしは、本当のことをかの女に告げた。
「ドナルド・ウイルスンが呼んだのです。家へ会いに行っている間に、殺されていたってわけですよ」
「行かないでね、ダン」と、かの女はロルフに声をかけた。
ダンは、部屋へもどって来た。女は、テーブルの元の席にもどった。ダンは、そのむかい側に腰をおろし、痩せた手に痩せた頬をのせて、気がなさそうにわたしを見ていた。
女は眉根を寄せて、眉間に二本の縦皺をつくって、たずねた。
「すると、誰かがあの人を殺そうと思っているのを、ドナルドが知っていたと、あんたはいうのね?」
「わかりませんね。なにを頼むつもりか、いわなかったんですからね。恐らく、改革運動とやらを手つだわせるだけじゃなかったんでしょうかな」
「でも、あんたは――?」
わたしは、不平をいった。
「探偵がお株をとられて、反対に訊問ばかりされているなんて、おかしくもないですね」
「あたし、いまどんなことになっているのか、知りたくってたまらないのよ」といって、咽喉の奥を鳴らして、小声に笑った。
「こっちもご同様なんでね。たとえば、なぜ、あんたが小切手の支払保証をさせたかなんてことを、とても知りたいんですよ」
ごくなに気なく、ダン・ロルフが椅子の上で身を動かして、うしろによっかかり、痩せた両手をおろして、テーブルのかげに引っこめた。
「それじゃ、そんなこともかぎ出したのね?」と、ダイナ・ブランドがたずねた。かの女は、右脚の上に左脚を重ねて、眼を伏せた。その眼が、靴下のほつれにとまった。「正直なところ、靴下もはけなくなりそうなのよ!」と、愚痴をこぼすようにいった。「はだしになっちまうわ、あたし。きのう、五ドルも出して、この靴下を買ったのよ。だのに、このひどいのを見てちょうだい。毎日毎日――ほつれ、ほつれ、ほつれよ!」
「秘密じゃないんですよ」と、わたしはいった。「ほつれのことじゃなく、小切手のことさ。ヌーナンが持っているんだ」
女は、ロルフの方を見た。それに一ぺんうなずく間だけ、男は、わたしを見守るのをやめた。
「あんたさえ話がわかってくれたら」と、ものうげにいって、眼を細めて、わたしを見ながら、
「あたしの方だって、いくらかお手つだいがしてあげられるかもしれないわ」
「どういう話だか聞かしてもらえればね」
「お金よ」と、いって聞かせるように、「多ければ多いほどよくってよ。大好きなんだもの、あたし」
わたしは、諺を持ち出して、
「倹約した金は、稼いだ金と同じだってね。お金も苦労も、倹約させてあげるよ」
「そんなの、あたしには意味ないわよ」といって、「でも、なんかありそうだわね」
「警察じゃ、まだ小切手のことを、なんにも聞きに来ないのかね?」
来ないと、女は、首を振った。
わたしはいった。
「ヌーナンは、ホイスパーといっしょに、あんたも引っくくるつもりでいるよ」
「脅かさないでよ」と、うっかり口をすべらして、「あたし、子供なのよ、ただの」
「ヌーナンには、ターラーが小切手のことを知っていたことがわかっている。ウイルスンがここに来ているところへ、ターラーはやって来たが、なかへはいらなかったことも、ヌーナンは知っているんだ。ウイルスンがうたれた時に、ターラーがこの近所をうろついていたことも、ヌーナンは知っているんだ。ターラーと一人の女が、死体の上にかがみこんでいたことも、ヌーナンは知っているんだ」
娘は、テーブルから鉛筆を取りあげて、考え考え、頬を掻いた。鉛筆は、頬紅の上に、黒い、小さな曲線を何本も描いた。
ロルフの眼から、ものうそうな色が消えて、ぎらぎらと光り、熱を帯びて、わたしを見すえていた。ぐっと身を乗り出したが、両手は、テーブルのかげの、眼につかないところにかくしていた。
「そういうことは」と、ロルフが口を入れて、「ターラーに関係したことで、ミス・ブランドにはかかわりのないことじゃないか」
「ターラーとミス・ブランドとは、まんざら赤の他人じゃないでしょうな」と、わたしはいった。「ウイルスンは、ここへ五千ドルの小切手を持って来て、帰るところを殺された。そんな風だと、ミス・ブランドも、そいつを現金化するのがむつかしかったかもしれないね――ウイルスンがそこまでようく考えて、支払証明をさせておかなかったらね」
「まあひどい!」と、娘は断言するように、「あたしが殺すつもりだったんなら、誰にも見られないこの家の中でやってるか、さもなければ、この家が見えないところへ行くまで待っていて、殺してるわよ。いったいどういう馬鹿だと、あんた、あたしのことを思ってるの?」
「あんたがやったとは信じてやしないよ」と、わたしはいった。「でぶの署長が、あんたを縛るつもりでいると信じてるだけだよ」
「それで、あんたはどうしようっていうの?」と、かの女はたずねた。
「誰がやったかを確かめたいのさ。誰なら殺せたはずだとか、殺したかもしれないじゃなくて、誰が実際に殺したかをだ」
「あたしだって、少しは手つだってあげられてよ」と、女は、「でも、それにはなにか、こっちも得《とく》にならなくちゃね」
「安全という得があるよ」と、かの女に注意してやった。が、かの女は首を横に振った。
「あたしのいうのは、なにかお金の上で、あたしの得にならなきゃ駄目だってことよ。あんたにだって、なんかの値打ちがあることなんでしょう。だから、まさか、巨万の金ということでなくたっても、いくらかは払うべきだわ」
「出来ない相談だね」わたしは、にやりと女に笑って見せた。「札束のことなんか忘れっちまって、慈善家になるんだね。ぼくのことをビル・クイントだと思うんだね」
ダン・ロルフが椅子から立ちあがろうとした。顔と同じように、唇までまっ青だった。娘が声を立てて笑ったので――退屈そうな、人の好さそうな笑い声だった――かれは、また腰をおろした。
「この人ったら、あたしがビルから、一文も儲けなかったと思ってるのよ、ダン」女はのしかかるようにして、片手をわたしの膝に置いた。「ねえ、いいこと。ある会社の従業員がストライキをしようとしていることを、ずっと前に、あんたが知っていたとするのよ。それからこん度は、そのストライキをいつやめるかも、その前から知っていたとするのよ。その情報やいくらかの資本を株式相場に利用して、その会社の株で結構いい楽しみが出来るとは思わなくって? 出来ることは請け合いよ!」かの女は、勝ち誇ったようにしめくくりをつけた。「だから、ビルがビルなりに金を払わなかったなんて、思いっこなしよ」
「きみは、したたか者だな」と、わたしはいってやった。
「いったい全体、そんなにけちけちして、なんの役に立つのよ?」と、女は問いつめて来た。「あんたの懐《ふところ》が痛むわけじゃあるまいし。仕事の実費は払ってもらえるんでしょう?」
わたしは、なんにもいわなかった。女は、顔をしかめて、わたしを見、靴下の筋を見て、ロルフを見た。それからロルフにいった。
「一杯のましたら、少しはやわらかくなるかもしれないわね」
痩せた男は立ちあがって、部屋を出て行った。
女は、わたしに口をとがらせて見せたり、爪さきでわたしのむこう脛を小突いたりした。それからいった。
「お金なんて、それほど大したことじゃないのよ。主義の問題よ。人のためになるものを持っていて、ただでくれてやるなんて、そんな間抜けな女なんて聞いたことがないわ」
わたしは、苦笑した。
「あんたって、どうしていい子になってくれないの?」と、女は哀願した。
ダン・ロルフが、サイフォンと、ジンの瓶と、レモンと、氷のぶっかきを入れた鉢とを持ってはいって来た。めいめい一杯ずつ飲んだ。肺病やみは出て行った。女とわたしとは、さらに飲みながら、金の問題についていい争いをくり返した。わたしは、どこまでも、ターラーとウイルスンのことを話題にしようとした。女は、どこまでも、それだけの値打ちのある金の問題へ話を切り換えようとした。そんなことをやっているうちに、とうとうジンの瓶がからっぽになった。わたしの時計は、一時十五分をさしていた。
女は、輪切りにしたレモンの皮を噛みながら、三十ぺん目だか四十ぺん目のせりふをくり返した。
「あんたの懐が痛むわけじゃなしさ。なにを気にするのよ?」
「金の問題じゃねえよ。主義の問題だ」と、わたしはいった。
女は、わたしに顔をしかめて見せて、テーブルがあるつもりでグラスを置いた。ところが、八インチも見当が違っていた。グラスは床へおちて割れたのか、どうなったのか、わたしはおぼえていない。おぼえているのは、相手がテーブルも見えなくなったので、ここだと急に元気づいたことだけだ。
「それに、もう一つ」と、新しい論点から切り出して、「どんなことをいってくれるか知らないが、それがほんとに役に立つかどうか、はっきりわからないんだ。聞かないで、やらなくちゃいかんとなったら、やれると思うんだ」
「やれるなら結構よ。だけどね、忘れちゃ駄目よ、あの人が生きてるのを見た最後の人間は、あたしなんですからね、誰が殺したか、殺した人間は別にしてさ」
「ちがう」と、わたしはいった。「あの人の細君が見ていたんだ、ここから出て来て、歩いて行ってから倒れるところをな」
「奥さんが!」
「そうさ。通りにクーペをとめて、その中にいたのさ」
「あの人がここにいるって、どうして、奥さんにわかったんだろう?」
「細君の話じゃ、ターラーが電話をかけて来たってさ、お宅の旦那は小切手を届けに、ここの家へ行ってますって」
「あたしを引っかけようってんだろう」と、女はいった。「そんなこと、マックスが知ってるはずがないじゃないの」
「おれは、ウイルスンの細君が、ヌーナンとおれにそういったと、いってるだけだよ」
娘は、レモンの皮のかすを床の上に吐き出し、それでなくてもぼうぼうの髪の毛を指で掻きむしって、もっとぼうぼうにするかと思えば、手の甲で口を横|撫《な》でにして、それから、テーブルをぴしゃぴしゃとたたいた。
「いいわよ、なんでも知ってる屋さん」と吐き出すように、「あたし、あんたと組んであげるわよ。あんたは、一文も払わないでいいと思ってたっていいけど、あたしは、すっかりすむまでには取るものは取ってみせるからね。取れないと思ってんだろう?」女は挑むようにいって、まるでわたしが一町も遠くにいるように、とろんとした眼をすえて、わたしを見定めた。
金についてのいい合いをむしかえしている時ではなかったので、わたしは、「取れればいいがね」といってやった。その言葉を、三度か四度、かなり熱心にいったような気がする。
「取らなくってさ。ねえ、聞いてちょうだい。あんたも酔っぱらってるし、あたしも酔っぱらってるわよ。あんたが知りたいと思ってることを、なんでもしゃべるには、ちょうどいいぐらいの酔っぱらい方だわ。あたしはそういう女なのよ。気に入った人には、その人の知りたいことなら、なんでもしゃべってやるの。さあ、聞いてちょうだい。どんどん聞いてちょうだい」
わたしはたずねた。
「なんのために、ウイルスンは、きみに五千ドルという金をくれたんだ?」
「面白半分によ」女は、そり返って大声に笑った。それから、「おききよ。あの人、スキャンダルをあさりまわっていたのよ。あたし、いくらかネタを持ってたのよ、証拠の書付けだの、品物だの、いつかなんかの足しになるかもしれないと思ってたものなのよ。あたしは、折りさえあれば、ちょっとした小金を儲けるのが好きな女の子なの。だから、そういう物をためておいたの。そこへ、ドナルドがそういう物を探してるってんで、そういう物を持ってて、売ってもいいって、ちょっと耳に入れてやったのよ。品物が上物だってことがわかる程度に、ちらっとおがませてやったわ。ところが、品物は確かに上物でしょう。それで、いくらだってことになったのよ。あの人は、あんたみたいにけちん坊じゃなかったわ――あんたみたいなの、お目にかかったこともない――でも、ちょっとばかり、しまり屋ね。だもんだから、きのうまで、取引がまとまらなかったのよ。
だもんで、あたし、強く出て、電話をかけてやったの。ほかに買い手がついたといってやったの。そして、どうしてもほしいんなら、こん晩、五千ドルを、現金か、支払保証つきの小切手で持って来いっていってやったのさ。よただったけどさ、相手は子供だから、まんまと引っかかっちまったのさ」
「なぜ、十時といったんだ?」と、わたしはたずねた。
「なぜ、十時じゃいけないの? なん時だっていいじゃないの。こういう取引に一番だいじなことは、きちんと時間をきめることなのよ。さあ、こん度は、なぜ現金か支払保証つきの小切手でなきゃいけないかを聞きたいんでしょう? いいわ、教えてあげるわ。なんだって、あんたの知りたいことなら教えてあげるわよ。あたしって、そういう女なんだから。いつだって、そうよ」
「ようし。さあ、それじゃ、いったいどういうわけで、支払保証つきの小切手でなくちゃいけなかったんだ?」
女は、片眼をつぶって、人さし指をふらふらと、わたしに向けて振りながら、いった。
「そうすれば、支払いをとめようと思ったってとめられないからよ。だって、あたしの売ったネタを使おうと思ったって、あの人には使えないんだからね。品物は上等よ、間違いなしの。上等すぎるのよ。ところが、そいつは、ほかの連中といっしょに、あの人のおやじさんまで牢屋にぶちこんじまうってわけよ。しかも、ほかの誰よりも、エリヒュー爺さんをのっ引きならない目におとしこんじまうってものなのさ」
わたしは、すっかり飲んじまったジンのおかげで、がくんと行きそうな頭を、一生懸命もたげようとしながら、女と声を合わせて笑った。
「ほかには誰が、のっ引きならなくなるんだ?」と、わたしはたずねた。
「あいつらみんなさ」女は、手を振った。「マックス、リュー・ヤード、ビート、ヌーナン、それから、エリヒュー・ウイルスンと――どいつもこいつも、みんなよ」
「マックス・ターラーは、お前さんのやってることを知ってたのか?」
「もちろん、知るもんかね――ドナルド・ウイルスンのほかには、誰も知ったもんなんかいやしないよ」
「確かかい、それは?」
「確かも確か、大確かよ。まだ事がきまりもしないうちに、そんなことを吹聴して歩くと思うのかい?」
「いま知ってるのは、誰だね、そのことを?」
「知るもんか」と、女はいった。「あたしは、あの人をからかっただけなんだもの。使おうと思ったって、あんな種、使えっこないんだものね」
「きみに秘密を売りとばされた連中が、なんかおかしいと考えるとは思わないかい? ヌーナンは、人殺しの罪を、きみとターラーにおっかぶせようとしているぜ。ということは、その種をドナルド・ウイルスンのポケットから、ヌーナンが見つけたってことさ。連中は、エリヒュー爺さんが息子を使って、自分たちをやっつけようとしたと思ってるんじゃないのかい?」
「そうよ、あんた」と、女は相槌を打って、「あたしだって、そう思ってる一人だわ」
「そいつは、恐らく間違いだろうが、そんなことはどうでもいいや。それよりも、もしヌーナンが、きみが売った物をドナルド・ウイルスンのポケットで見つけて、きみが売ったということを知ったら、きみときみの友だちのターラーとが、エリヒュー爺さんの方に走っちまったと判断せずにはいられないだろうじゃないか?」
「だって、エリヒュー爺さんも、ほかの連中とご同様に痛い目をみるってことぐらい、ヌーナンにだってわかるはずよ」
「いったい、そのきみが売りつけたがらくたってのは、なんだね?」
「三年前に、連中はいまの市役所を新しく建てたの」と、女は口を切って、「そして、一人残らず儲けたのよ。もしも、ヌーナンがあの書類を手に入れたら、ほかの連中ばかりじゃなしに、ほかの連中以上にエリヒュー爺さんには、抜きさしのならないもんだということがすぐにわかるはずだわ」
「そんなことは、なんにも関係しないよ。ヌーナンはむろん、ちゃんと爺さんが逃げ道を作っていると思ってるだろう。それよりも、おれのいうことをようく考えてみな、ねえちゃん、ヌーナンや奴の一味の連中は、きみとターラーとエリヒューとが、連中を裏切ろうとしていると思うにきまってるぜ」
「あいつらがなんと思ったって、鼻も引っかけてやらないわ」と、女は強情にいいはった。「ただの冗談だったんだもの。そのつもりでやったんだもの。それだけのことさ」
「それならいいさ」と、わたしはうなるようにいった。「きみなら、はっきり正気で、絞首台に行けるだろうよ。きみは、事件からこっち、ターラーに会ったかい?」
「会わないわ。だけど、マックスがやったんじゃないわよ、あんたはそう思ってたってね、いくら、あの人がそこらにぶらぶらしていたかもしれないけど」
「なぜだい?」
「理由は山ほどあるわ。第一に、マックスは、自分でそんなことをするような男じゃないわ。誰かほかの人間にやらせておいて、自分はよそにいて、びくともしないアリバイを作ってるわ。第二に、マックスの持っているのは、三八口径で、あの人に使われて仕事をする連中だって、みんなそれか、もっと上のを使ってるわよ。いったい、どんなギャングが、三二口径なんか使うっていうの?」
「じゃ、誰がやったんだ?」
「あたしの知ってることは、みんなしゃべっちまったわ」と、女はいった。「しゃべりすぎるくらい、しゃべっちまったわ」
わたしは立ちあがって、いった。
「いや、ちょうどいいだけ話してくれたよ」
「すると、あんたは、誰が犯人だか知ってるというんだね?」
「そうさ。もっとも、あげる前に、二つ三つ、はっきりさせなきゃならんがね」
「誰よ? 誰よ?」女は立ちあがって、急に酔いがさめてしまったように、わたしの上衣の襟を強く引っぱった。「誰がやったんだか教えてよ」
「いまはいえねえよ」
「ね、いい子だから」
「いまは駄目だ」
女は、わたしの襟をはなして、両手をうしろにまわし、まともにわたしの顔を見て大声に笑った。
「いいさ。胸にしまっとくがいいよ――そして、あたしが話したことのうちで、どれが本当のことだか、ようく考えてみるがいいや」
わたしはいった。
「とにかく、その本当のことにはお礼をいうよ。それからジンにもな。それから、もし、マックス・ターラーがお前さんのなんかということになるんなら、ヌーナンが手配をしようとしているって知らせてやった方がいいぜ」
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五 老エリヒューまともに話す
ホテルに帰り着いたのは、朝の二時半に近かった。部屋の鍵といっしょに、宿直の番頭が、ポプラ局の六〇五番へ電話してくれと書いたメモを渡した。その番号は知っていた。エリヒュー・ウイルスンの邸の電話番号だ。
「この電話が来たのは、何時ごろだったね?」と、わたしは、番頭にたずねた。
「一時ちょっとすぎでございます」
そうすると、急用らしい。引っ返して電話室にはいり、その番号を呼び出した。老人の秘書が出て、すぐに来てもらいたいといった。急いで行くと約束しておいて、番頭にタクシーを頼み、自分の部屋にあがって、スコッチを一杯引っかけた。
なるべくなら冷静な素面《しらふ》でいたかったのだが、そうではなかった。こん夜、まだこれから仕事があるというのに、アルコールが体から消えて行きそうな状態では出かけたくなかった。その一杯の酒が、大いに元気をつけてくれた。残っているキング・ジョージを小瓶に流しこんで、ポケットに入れると、タクシーの待っている階下へおりて行った。
エリヒュー・ウイルスンの邸は、上から下まであかりがついていた。わたしの指が呼鈴にとどかぬうちに、秘書が表のドアを開けた。秘書の痩せた体は、薄青いパジャマと紺のバス・ローブの中で、がたがたふるえていた。痩せた顔には、興奮の色が濃くあらわれていた。
「どうぞお急ぎください!」と、その男はいった。「ウイルスンさまがお待ちかねでございます。それから、お願いでございますが、死体を運び出すことを許していただけるように、ご主人におっしゃっていただけますでございましょうか?」
そうしようと約束して、秘書の後から、老人の寝室へあがって行った。
エリヒュー老人は、前と同じようにベッドのなかにいたが、いまは、黒い自動拳銃《オートマティック》が一挺、老人のピンク色をした手のすぐとどく毛布の上に置いてある。
わたしの姿を見るなりすぐに、老人は、枕から頭をはなし、まっすぐにおき直って、吠え立てるようにいった。
「きみは、その肝っ玉に負けないくらいの元気を持ってるか?」
老人の顔は、不健康な黒っぽい赤さだった。その眼からは、水っぽい膜がなくなって、はげしく、燃えあがっていた。
わたしは、その質問はほったらかしにしておいて、ドアとベッドの間にころがっている死体に眼をやった。
茶色の服を着た、背の低い、ずんぐりした体つきの男が、仰向けに横たわって、灰色のハンチングのまびさしの下から、命のない眼で天井をみつめている。顎の一部が吹き飛ばされていた。おとがいが少しひんまがって、もう一発の弾丸がネクタイとカラーをぶちぬいて、頸に孔をあけたのが見える。一本の腕をまげて、体の下にしている。もう一方の手は、牛乳瓶ぐらいの大きさの棍棒《ブラック・ジャック》を持っている。おびただしい血だった。
わたしは、この面白くもない物から眼をあげて、老人に向けた。老人のにたにた笑っている顔は、毒々しく、白痴のようだった。
「お前さんは、大した口の達者な男だ」と、老人が口を開いた。「それは、よくわかっとる。なかなか精力的な、べら棒に口のへらない男だ。だが、そのほかに、なんの取り柄がある? その面《つら》の皮に相当した肝ったまがあるのか? それとも、取り柄といえば、ただのおしゃべりだけか?」
こんなだだっ子のような年寄りの相手になったところで、なんにもなるもんじゃない。にがい顔をして、前にいったことを思いおこさせてやった。
「気がかわって、まともなことを話そうという気にならないうちは、電話をかけないでくれといいませんでしたか?」
「いったよ、若いの」その声には、一種馬鹿のような勝ち誇ったひびきがあった。「だから、わしは、お前さんとまともに話をしようというんじゃ。わしは、わしのかわりに、このポイズンビルの豚小屋を掃除して、鼠どもを、大きいのも小さいのも、いぶし殺してくれる人がほしいのじゃ。これは、男のやる仕事じゃ。お前さんは、男か?」
「そんな詩人の寝言みたいなことをいって、なんの役に立つんです?」と、わたしは、腹を立ててうなり声を出した。「わたしの商売の方で、立派な仕事がしてほしくて、相当な金を払おうというんなら、引き受けないものでもありませんね。しかし、鼠をいぶし殺せの、豚小屋を掃除しろのと、馬鹿げたことを山ほど並べたって、わたしにはなんの意味もありませんね」
「よし。わしは、パースンビルから悪党どもや、汚職ボスどもをすっかり追い出したいのじゃ。このくらいやさしくいえば、お前さんにもわかるだろう?」
「けさは、そんなことをしてくれとはいいませんでしたね?」と、わたしははっきり、「どうして、いまになって、そんなことをしてくれというんです?」
その説明は、ばかでかい、大風のような威張りららす声で、悪口雑言まじりで、長々とつづいた。その要点をいうと、自分は、このパースンビルの町を、自分の手で、一つ一つ煉瓦を積んで築きあげたのだから、この町をこのままに残しておこうと、この山裾から消し飛ばそうと、好きなように出来るというのだ。どんな人間であろうと、だれも、町の持ち主を脅かすなんてことの出来る人間はないはずだ。きょうまでは、奴らにしたい放題にさせておいたのだが、奴らが、このエリヒュー・ウイルスンともあろう者に、ああしろの、こうしてはいけないのと、指図がましいことをいい出すというのなら、わしが何者だかということを、奴らに思い知らせてやるつもりだ。この大演説のしめくくりとして、老人は、死骸を指さして、得意気にうそぶいた。
「あれを見れば、この年寄りにも、まだ毒牙が残っとるのが、奴らにもわかるじゃろう」
わたしは、素面だったらよかったのにと思った。この老人の道化ぶりは、どうしたことだろうと、わたしはとまどった。その道化のかげになにが隠れているのか、酔った頭では、はっきり見きわめることさえ出来なかった。
「あんたの喧嘩相手がよこしたんですね?」と、死人の方へ顎をしゃくって、たずねた。
「わしは、こいつにものをいわせただけじゃ」と、ベッドの上の自動拳銃をたたきながら、「しかし、まあ、そんなことだろうね」
「いったい、どうしたんです?」
「至極簡単じゃ。ドアの開く音を聞いたから、わしはスイッチを押した。明かりがつくと、そいつがおったから、わしが射った。そこにおるのが、それじゃ」
「いつです?」
「一時ごろだった」
「そして、いままでずっと、そこに寝かしておいたんですね?」
「そうじゃ」老人は、残忍な笑い声を立てて、また罵りはじめた。「死人を見て、吐きたくでもなったのか? それとも、そいつの死霊がおそろしいのか?」
わたしは、相手を見返して、大声に笑ってやった。やっと、わかった。このだだっ子の爺さんは、死体におびえていたのだ。道化じみた騒ぎのかげには、恐怖がひそんでいたのだ。悪口雑言をがなり立てていたのもそのためだったし、死体を運び出させなかったのもそのためだったのだ。いわれのない恐怖を追っぱらうために、自分には自分を守る能力があるという眼に見える証拠として、死体をそこに置いて眺めていたかったのだ。わたしは、自分の立場がよくわかった。
「ほんとうに、この町を粛清したいと思うんですね?」と、たずねてみた。
「そうしたいといったし、いまも、そう思っとるのじゃ」
「わたしは、自由に腕をふるわせてもらわなくちゃなりません――誰にも依怙《えこ》ひいきなしに――自分の好きなように仕事をさせてもらわなくちゃね。それと、前渡金として、一万ドルいただかなくちゃなりません」
「一万ドルだと! いったいなんだって、どこの馬の骨かわからん人間に、そんな大金をやらなくちゃならんのだ? おしゃべりのほか、なんにもしとらん人間に?」
「まじめな話です。わたしが、『わたし』といえば、コンティネンタル探偵社ということです。社のことは知ってるでしょう」
「知っとる。むこうも、わしのことを知っとるはずだ。すれば、わしに支払いの能力があるということを――」
「それは、筋が違います。追っぱらってほしいとおっしゃる連中は、きのうまでは、あんたの友だちだったんだ。ことによれば、来週また、友だちにならんとも限らない。そんなことはどうなろうと構わないが、わたしは、あんたの身がわりになって、政治をもてあそんでいるんじゃありませんよ。連中を元の地位に引きもどす手つだいをして――そうなれば、仕事はやめだ――そんなことのために、雇われるのじゃありませんよ。もしも、この仕事をしてほしければ、すっかり仕事をしあげるだけの金を、そくざに払ってください。あまったらお返しします。しかし、これは、とことんまで片をつけるか、なんにもしないか、どっちかですよ。そのほかには道はないのです。やるか、やめるかです」
「やめたって、ちっともかまわん」と、老人はわめいた。
階段の途中までおりたところで、老人は、わたしを呼びもどした。
「わしも年をとった」と、いまいましげに口の中でいった。「もう十歳《とお》も若ければなあ――」わたしを睨みつけて、唇をかたく結んだ。「くそっ、小切手をくれてやる」
「それから、最後まで、こっちのやりたいようにやる権限もですね?」
「うん」
「いますぐ、きまりをつけましょう。秘書は、どこにいます?」
ウイルスンは、ベッドのわきのテーブルの上のボタンを押した。どこに隠れていたのか、だんまりの秘書があらわれた。わたしは、かれにいった。
「ウイルスン氏が、コンティネンタル探偵社にあてて、一万ドルの小切手を振り出したいとおっしゃっている。それといっしょに、探偵社に――サンフランシスコ支局に――対して、その一万ドルを使用して、パースンビルにおける犯罪と政治上の不正行為とを調査する権限を与える証書を一通、書きたいとおっしゃっている。証書には、探偵社は、右の調査を適当と信ずる方法で行なうものとすと、はっきり記載してくれたまえ」
秘書がもの問いたげに老人を見ると、老人は、眉間に八の字を寄せて、丸い白髪頭をひょいと下げて見せた。
「しかし、それよりも先に」と、ドアの方へすべるように行きかける秘書を、わたしは呼びとめて、「警察へ電話をかけて、強盗の死体があることを知らせた方がいいね。それから、ウイルスン氏の医者を呼びたまえ」
老人は、医者なぞ呼ばなくてもいいとどなった。
「いや、腕に一本、注射でもすれば、ぐっすり眠れますよ」と、老人に請け合ってから、死骸をまたいで行って、ベッドから黒い拳銃を取りあげた。「こん晩は、ここに泊めてもらうことにしますからね。あすは一日がかりで、ポイズンビルの問題をご相談しましょう」
老人は疲れていた。わたしが、老人の体をどうすればいいか指図がましいことをいうのは生意気な出しゃ張りだと、口汚く、そのくせいくらか遠まわしに述べ立てたが、その声も、窓ガラスをふるわせるほどの力もなかった。
わたしは、死人の顔をもっとよく見ようと思って、ハンチングをぬがせた。わたしには、なんの意味もない顔だった。もとの通りに、帽子をかぶせておいた。
わたしが身をおこすと、老人が穏やかにたずねた。
「ドナルドの犯人の方は、いくらか見当がついたかね?」
「そう、いくらかね。あすは、片がつくでしょう」
「誰だね?」と、かれはたずねた。
そこへ、秘書が書類と小切手を持ってはいって来た。わたしは、老人の問いにこたえるかわりに、それを相手に手渡した。老人は、ぶるぶるふるえた字体の署名を、どちらにもした。わたしがそれをポケットに押しこんだところへ、警察の連中が到着した。
最初に部屋に姿をあらわした警官は、署長ご自身、つまり、でぶのヌーナンだった。かれは、愛想よくウイルスンに会釈をしてから、わたしと握手をし、きらきら光る緑色の眼で死人を見た。
「なるほど、なるほど」と、かれはいった。「誰がやったか知らんが、えらいことをやってのけましたな。ちびのヤキマだな。持ってる砂袋はどうです?」と、死人の手からブラック・ジャックを蹴飛ばした。「でっかくて、軍艦でも沈められそうだ。あんたが倒したんだね?」と、わたしにたずねた。
「ウイルスンさんですよ」
「なるほど、そいつは、まったくお見事なことでしたな」と、老人をうれしがらせた。「あんたは、大勢の人間の、山ほどのわずらいを取り除いてくださった、わたしもその一人ですがね。運び出せ、おい」と、うしろに立っている四人の巡査にいいつけた。
制服を着たのが二人で、ちびのヤキマの脚と脇の下をかかえて運び出し、残ったうちの一人が、ブラック・ジャックと、死体の下になっていた懐中電灯をひろい集めた。
「誰でも、自分の家へ忍びこんだこそ泥を、こんなふうにやっつけたら、たしかにいいでしょうな」と、署長は、べちゃべちゃしゃべりつづけた。かれは、ポケットから葉巻を三本取り出して、一本をベッドの上に投げ、一本をわたしに突きつけ、残った一本を口にくわえた。「どこへ行ったら、あんたがつかまえられるかと思っとったとこでしたよ」といいながら、二人いっしょに火をつけた。「これから、ちょっとした仕事をするんでね、あんたもいっしょに行きたいだろうと思っていたところですよ。それで出かけようとしておったところへ、この知らせが来たわけなんです」そして、わたしの耳へ口をぴったり寄せて、ささやいた。「ホイスパーをしょっ引きに行くんだがね。いっしょに行きますか?」
「ええ」
「行くだろうと思った。やあ、先生《ドク》!」
かれは、ちょうどそこへはいって来た男と握手をした。小柄な、むくむくとふとった男で、疲れた卵形の顔に、まだ眠っているような灰色の眼をしていた。
医者は、ヌーナンの部下の一人が射殺当時のことを、ウイルスンにたずねているベッドのそばへ行った。わたしは、秘書の後から廊下へ出て、かれにたずねた。
「邸には、きみのほかには誰がいるんだ?」
「はあ、運転手と、シナ人のコックがおります」
「こん晩は、運転手を老人の部屋に寝かしなさい。おれは、ヌーナンといっしょに出かけるからね。出来るだけ早くもどって来るようにする。もうこれ以上の騒ぎは、ここでは起きないとは思うがね、どんなことがあっても、老人を一人で置いちゃいけないよ。それから、ヌーナンやヌーナンの部下とだけにしてもいけないよ」
秘書の口と眼が、音がするほど大きく、丸く開いた。
「ゆうべ、なん時に、ドナルド・ウイルスンと別れたんだね、きみは?」と、わたしはたずねた。
「一昨晩、つまり、ドナルドさまの殺されなさった晩のことをおっしゃいますんで?」
「そうだ」
「きっかり九時半でございました」
「五時からそれまで、いっしょだったんだね?」
「五時十五分すぎからでございます。かれこれ八時まで、ドナルドさまの事務室で、報告書やらそんなようなものを、二人で調べておりました。それから、ベヤードの店へまいりまして、食事をしながら、仕事を片づけたのでございました。約束があるとかおっしゃって、九時半にお別れいたしました」
「その約束のことで、ほかになにかいわなかったかね?」
「いえ、別になにもおっしゃいませんでした」
「どこへ行くとか、誰に会いに行くとか、そんなことは、なにも匂わしもしなかったかね?」
「約束があると、おっしゃっただけでございます」
「そして、それについては、きみは、なにも知らなかったんだね?」
「はい。なぜでございます? 知っていたとでもお思いになっていましたのでございますか?」
「なにかいってやしないかと思ったからさ」それで、こん夜のことに、話を切り換えて、「きょうは、射ったお客は別にして、どんなお客がウイルスンさんのとこにあったかね?」
「それは、ご勘弁ねがいます」と、いいわけでもするように微笑を浮かべて、「ウイルスンさまのお許しがなければ、それは申しあげかねますので。相すみませんでございます」
「誰か、町の顔役が来なかったかね? たとえば、リュー・ヤードとか、さもなければ――」
秘書は首を振って、繰り返して、
「相すみませんでございますが」
「まあ、そんなことをいい争っていてもしようがない」といって、話を切りあげて、寝室の方へもどりかけた。
医者が、外套のボタンをかけながら出て来た。
「じきにお休みになるでしょう」と、忙しそうに、いった。「誰か、そばについていた方がいいですね。朝になったら、また伺います」かれは、階段を駆けおりて行った。
わたしは、寝室へはいって行った。署長と、ウイルスンを尋問していた男とが、ベッドの脇に立っていた。署長は、わたしの顔を見たのがうれしいかのように、にやっと笑いを浮かべた。もう一人の男は、にがい顔をした。ウイルスンは仰向きに寝ころんで、天井を見つめていた。
「ここの用事は、大体片づいた」と、ヌーナンがいった。「どうです、そろそろ出かけますかね?」
わたしも同意して、「おやすみ」と、老人にいった。老人は、わたしの方は見ないで、「おやすみ」といった。秘書が、運転手をつれてはいって来た。背の高い、陽に灼けた、がっしりした若者だった。
署長と、もう一人の探偵――マグロオという名の警部――と、わたしは階下へおりて、署長の車に乗りこんだ。マグロオは、運転手の隣りにすわった。署長とわたしとは、うしろの座席にかけた。
「夜明けごろに、逮捕しようと思うんだ」と、車が走り出すと、ヌーナンが説明した。「ホイスパーは、キング通りに賭場を持っとるんだ。だいたい、夜明けごろには、そこを出よる。襲ってもいいんだが、そうなると、射ち合いってことになるし、楽に片づけた方がいいからね。あいつが出て来たところを、しょっぴこうというわけさ」
ほんとうに、しょっぴくつもりなのか、逃がすつもりなのか、怪しいもんだと思った。わたしはたずねた。
「起訴するだけの証拠はあるんだね?」
「あるかって?」かれは、人のよさそうな笑い声を立てた。「ウイルスンの細君がくれた証拠だけで起訴が出来ないとなれば、わしは禄ぬすっとってことになるよ」
わたしは、二つ三つ、それに気のきいたへんじを思いついたが、口には出さずにおいた。
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六 ホイスパーの睹場
車は、町の中心からあまり離れてはいない、暗い通りの並木の下でとまった。車をおりて、町角まで歩いた。
灰色の外套に、灰色の帽子を眼の上までぐっと深くかぶった、たくましい大男が出て来て、わたしたちを迎えた。
「ホイスパーのやつ、感づきましたぜ」と、大男が署長に話しかけた。「奴さん、ドノホーに電話をかけて、賭場から出ないつもりだといっていました。署長が引っぱり出せると思うなら、やってみろといってまさ」
ヌーナンは、くっくっと笑って、耳を掻きながら、快活にたずねた。
「あすこには、奴さんといっしょに、なん人ぐらいいると思うかね?」
「五十人でしょうな、ざっと」
「ええ、いまごろ! そんなにたくさん、いるわけがないだろう、こんな夜明け前に」
「いなくて、どうするもんですか」と、大男はずけずけといった。「ま夜中すぎから、ぞろぞろ繰りこんで来やがったんでさ」
「そうか? どっかでもれたな。お前が、入れないようにすればよかったんじゃないか」
「そうかもしれませんがね」大男はむっとして、「ですけど、あっしは、いいつけられた通りにしたんですぜ。あんたは、いったでしょう、誰でも勝手に出入りさせておけ、ただ、ホイスパーが姿を見せたら――」
「しょっぴけとね」と、署長はいった。
「ええ、そうでさ」と、大男は相槌を打って、わたしの顔に凶暴な眼を向けた。
ほかの連中も加わって、議論がはじまった。署長のほかは、誰もかれも機嫌が悪かった。署長だけが面白がっているようだった。そのわけが、わたしにはわからなかった。
ホイスパーの賭場は、そこの一区画のまん中の三階建ての煉瓦づくりで、両側は二階建てのビルディングだ。建物の一階は煙草店で、そこが入り口でもあり、階上の賭博場のごまかしにもなっているのだ。大男のいうことがあてになるとすれば、この建物の中に、ホイスパーが五十人の仲間をあつめて、一戦を辞さないというわけなのだ。外には、ヌーナンの部下が、建物を取りまいて、正面の通りにも、うしろの路地にも、両となりの屋根にも散開していた。
「よし、みんな」と、みんながめいめいのいい分をいってしまったところで、署長が機嫌よく、
「わしは思うに、ホイスパーも、われわれと同様、ことを好んではおらんのじゃろう。でなけりゃ、それだけの人数を集めておるんじゃったら、こうなる前にぶっぱなして血路を開こうとしとるはずだ。もっとも、それほど――大勢はいない――といってもいいと、わしは思うがね」
大男が、「とんでもない、いますよ」といった。
「だから、もし、ことを好まんとすれば」と、ヌーナンが言葉をつづけて、「ことによれば、話し合いで、なんとかうまく行くかもしれん。ニック、お前、一っ走って行って、穏かに話が出来んもんかどうか、やってみろ」
大男が、「とんでもねえ、行くなんて」と、またいった。
「電話をかけろ、そんなら」と、署長が思いついていった。
大男はうなるような声でいった。「それなら、まだましだ」と、立ち去った。
やがて、帰って来ると、いかにも満足そうな顔つきだった。
「いいましたぜ、くそでもくらえって」と報告した。
「後の連中を、みんなここへ集めろ」と、ヌーナンが陽気にいった。「明るくなって来たら、やっつけよう」
大男のニックとわたしとは、署長が、部下の配置を見て歩くのについて行った。これでは、頼りにならないなと思った――けちな、落ち着きのない眼付きをした連中ばかりで、大事を前にして一向に張り切った様子もない。
空が、薄墨色になって来た。署長と、ニックと、わたしとは、目あての賭場の筋むかいの、鉛管屋の戸口に立ちどまった。
ホイスパーの賭場は、まっ暗で、上の窓という窓には、なんにもなく、煙草店の方は、窓にも戸口にも、ブラインドがおりている。
「ホイスパーに、一度もチャンスを与えずに行動をおこすのは面白くないね」と、ヌーナンがいった。「あいつも悪い男じゃない。だが、わしが話をしようとしたって無駄だ。昔から、あいつは、わしがひどくきらいじゃったからな」
かれは、わたしの顔を見た。わたしは、なんにもいわなかった。
「あんた、一つやってみようとは思わんじゃろうね?」と、かれはたずねた。
「うん、やってみましょう」
「そいつはありがたい。そうしてくれれば、恩に着るよ。つまらない騒ぎをせずに出て来るように、話が出来るかどうか、あたってみるだけでいい。口上はわかってるね――その方が、あの男の身のためだとかなんとか、そんなことをいえばいいのさ」
「わかってます」といって、わたしは、手ぶらだということを見せるように、わざと両手を両脇で大きく振りながら、煙草店の方へ、通りをわたって行った。
夜明けには、まだ少し間があった。通りは、煙のような色をしていた。靴の音が、舗道にむやみに大きな音を立てた。
ドアの前に立ちどまって、指の関節で、あまり強くなく、ガラスをたたいた。ドアの内側に緑色のブラインドがおろしてあるので、ガラスが鏡の役目をしていた。その鏡に、二人の男が通りのむこう側を移動しているのがうつった。
内部からは、物音一つ聞こえて来ない。こん度は、前よりも強くノックしてから、手をおろして、ドアの握りをがちゃがちゃいわせた。
内部から、警告の声が聞こえた。
「足もとの明るいうちに、とっとと行っちまえ」
なんかで口をおおっているような、よく聞こえない声だったが、|囁き《ホイスパー》ではなかったのだから、多分、ホイスパーではなかったのだろう。
「ターラーと話したいことがある」と、わたしはいった。
「きさまをよこした脂肪樽《あぶらだる》と話をしろ」
「ヌーナンに頼まれて話しに来たんじゃない。ターラーは、おれの声の聞こえるところにいるのか?」
しばらく間があった。それから、さっきの含み声がいった。「いるぞ」
「おれは、コンティネンタル社の探偵《オップ》だ。ヌーナンがお前さんをわなにかけようとしていると、ダイナ・ブランドに教えた男だ」と、わたしはいった。「あんたと、五分間、話がしたいんだ。ヌーナンとは、あいつの手をぶっこわすほかには、なんの関係もない。おれは一本立ちだ。そうしろというなら、拳銃を道にすてたっていいぜ。入れてくれ」
わたしは待った。万事は、わたしと会った時の話を、あの娘がターラーにしたかどうかにかかっているのだ。ずいぶん待ったような気がした。
含み声がいった。
「開けたら、急いで飛びこめよ。ぐずぐずするな」
「よし」
掛け金が鳴った。わたしは、ドアといっしょに飛びこんだ。
通りのむこう側で、一ダースほどの拳銃が一せいに火を吹いた。ドアや窓々から射ち落とされたガラスが、わたしたちのまわりにはげしい音を立てた。
誰かが、わたしの足をすくった。恐怖が、わたしに三人前の頭と眼をはたらかせた。わたしは、窮地におちていた。ヌーナンも、結構なことをしてくれたものだ。こうなれば、ホイスパーの一味も、わたしが、ヌーナンを手玉に取っていたと思わずにはいられないだろう。
わたしは床の上をころがり、体をひねって、ドアの方を向いた。床に倒れた時には、もう手に拳銃を握っていた。
通りのむこう側で、大男のニックが戸口から踏み出して、両手のピストルを、こちらに向けてあびせかけていた。
わたしは、床に肘をついて、拳銃をかまえた。ニックの体が、照星の真正面にはいって来た。引き金を引いた。ニックは射つのをやめた。二挺のピストルで胸に十字をつくって、崩れるように歩道に倒れた。
わたしのくるぶしにかかった両手が、わたしを、うしろへ引っぱった。床が顎を引っ掻いた。ドアがどしんとしまった。誰かふざけたのがいった。
「ふふん、きらわれ者だな、お前は」
わたしは身をおこして、騒がしい音のなかで、大声にどなった。
「こんなつもりで来たんじゃないぞ」
射ち合いがおとろえて、やんだ。ドアや窓のブラインドには、点々と灰色の孔が開いた。暗闇の中で、しわがれた囁き声がいった。
「トッド、お前とスラッツで、ここを見張っていろ。後の者は、二階へ来い」
わたしたちは、店の裏の部屋を通り抜け、廊下へ出て、絨毯を敷いた階段をあがり、クラップ賭博用の緑色のテーブルの並んだ、二階の一室にはいった。小さな部屋で、窓は一つもなく、明かりがついていた。
一座は、五人だった。ターラーは腰をおろして、巻煙草に火をつけた。浅黒い顔色の、小柄な、若い男で、ちょっと見ると、芸人とでもいったような、きれいな顔をしているが、もう一度よく見ると、唇の薄い、けわしい口もとに気がついた。まだ二十前らしい、やせこけたブロンドの若者がツイードの服を着こんで、仰向けに長椅子に寝ころんで、煙草の煙を天井に吹きあげている。同じようにブロンドで、年配も同じだが、それほどにはやせこけていないもう一人の若者は、むやみに、真紅のネクタイの工合を直したり、黄色い髪の毛を撫でつけたりしている。大きなしまりのない口の下に、顎があるかないかの、三十年配の、痩せた顔の男は、退屈そうに、『ばら色の頬』を鼻唄で唄いながら、部屋の中を行ったり来たりしている。
わたしは、ターラーの席から、二、三フィート離れた椅子にかけた。
「いつまで、ヌーナンはこうして頑張ってるつもりなんだ?」と、ターラーがたずねた。かれのしわがれた囁き声には、ただ迷惑そうな調子があるだけで、なんの感情もなかった。
「この捕物は、あんたがめあてだからね」と、わたしはいった。「とことんまで、やるつもりなんだろうね」
ばくち打ちは、人を馬鹿にしたような、うすら笑いを浮かべた。
「あんな一人合点の嫌疑で、おれを引っぱりやがったら、どんなひでえ目に会うか、わかりそうなもんだが」
「裁判で証拠がどうのこうのなんてことは、考えてやしないよ」と、わたしはいった。
「というと?」
「逮捕をこばんだとか、逃亡を企てたとか、そんな口実で、きみをやっつけちまう腹なんだ。そうしてしまえば、後は大したことはいらないからね」
「奴さん、年にしちゃ、がっちりして来やがったな」薄い唇がまがって、また皮肉な笑いを浮かべた。ふとった署長の必死の気持ちなど、大して気にかけているような様子もなかった。「いつだって、おれを消そうと思えば、こっちは消されるだけの凶状はあるんだからな。だが、なんだって、お前さんは敵にまわされたんだ?」
「生かしとけば邪魔になると思ったんだろう」
「気の毒だな。ダイナがいってたぜ、お前は、少しけちん坊だけど、いい男だって」
「ご馳走になったよ。ところで、ドナルド・ウイルスンの殺されたことについて、あんたの知ってることをいってもらえないかね?」
「細君が射ったのさ」
「あんた、見たんだね?」
「つぎの瞬間に見たよ――手に一物《いちもつ》を持ってるのをな」
「それだけじゃ、お互いになんにもならんね」と、わたしはいった。「どこまでが、作り話かわからんからな。間に合わせに証拠を作れば、法廷でねばれる、かもしれない。が、そこまで行ける見込みは、まずないね。もし、ヌーナンがあんたをあげれば、生かしちゃ置かないだろう。正直なところを、おれに聞かしてくれ。おれはただ、早いとこ仕事を片づけるのに、それがほしいだけなんだ」
ホイスパーは、煙草を床におとして、足で踏みにじってから、たずねた。
「そんなに本気なのか?」
「あんたの考えをいってくれれば、おれは、すぐにもそいつを縛ってやる――ここから出られさえすればね」
かれは、また巻煙草に火をつけて、たずねた。
「ウイルスンの細君は、電話をかけたのはおれだといったんだね?」
「そうだ――ヌーナンにそう信じこむように誘導されてからね。いまでは、そう思いこんでる――だろうね」
「お前は、大男のニックの野郎を倒してくれたから」と、かれはいった。「いちかばちか、お前さんに賭けて見よう。あの晩、おれに電話をかけた男があるんだ。知らねえ奴だ。誰だかもわからねえ。ウイルスンが五千ドルの小切手を持って、ダイナのところへ行ったと、そういやがった。べら棒め、なんだって、おれがそんなこと気にするというんだ? だが、考えてみな、おれの知らねえ男が、そんなことをおれにいうなんて、おかしいじゃねえか。それで、おれは行ってみた。ダンの野郎が、おれを玄関から追っぱらやがった。そいつは、まあいい。だが、やっぱりおかしいのは、電話をかけたその野郎のことだ。
おれは通りへ出て、一軒の玄関先にかくれた。ウイルスンの細君の車が、通りにとまっているのが眼にはいったが、その時は、あの女の車だとも、あの女がなかにいるとも知らなかった。間もなく、ウイルスンが出て来て、通りを歩いて行った。射つところは、見なかった。音が聞こえただけだ。その時、その女が車から飛び出して、あの男のところへ走って行った。その女が射ったのじゃないことは、おれにはわかっていた。そのまま、逃げっちまえばよかったんだ。だけど、なんしろあんまりおかしいんで、その女がウイルスンの細君とわかると、いったいどういうことなんだか確かめようと思って、そばへ出て行ったんだ。それが大失敗さ。ね? それで、自分の逃げ路を作らなきゃならなくなったんだ、万一の用心にな。おれは、あの女にいいふくめた。話ってのは、これで残らずだ――正直な話だ」
「ありがとう」と、わたしはいった。「それで、来た甲斐があった。さあ、こん度は、なぎ倒されずに、どんな手を使って、ここから出るかだ」
「手もへったくれもあるもんか」と、ターラーが請け合った。「いつだって、出てえと思う時に出られるぜ」
「いま出たいね。おれがきみだったら、やっぱり出て行くだろう。きみとしちゃ、ヌーナンの鼻をへし折らなきゃ気がすまないだろう、こんなインチキななぐり込みをかけられて。だが、なんだって危ない橋を渡るんだ? こっそり抜け出すんだよ。そして、ひるごろまで隠れていりゃ、ヌーナンのたくらみなんか失敗するのはわかりきってるよ」
ターラーは、ズボンのポケットへ手を突っこんで、厚い札束を取り出した。百ドル札を一、二枚、五十ドル、二十ドル、十ドルを、それぞれ何枚か数えると、それを下顎のない男に差し出して、
「出口を買うんだ、ジェリ。誰にも、いつもより余計な金をやることはねえぜ」
ジェリは、その金を受け取り、テーブルから帽子をつまみあげて、ぶらぶらと出て行った。三十分ほどすると、もどって来て、いくらかの札をターラーに返しながら、平気な顔でいった。
「合図があるまで、台所で待つんだ」
みんなで、台所へおりて行った。まっ暗だった。ほかにも大勢が出て来て、いっしょになった。
やがて、ドアに、なにかがぶつかった。
ジェリがドアを開け、三段の階段をおりて、裏庭へ出た。もうほとんど夜が明けていた。一行は十人だった。
「これで、みんなかい?」と、ターラーにたずねた。
かれはうなずいた。
「ニックは、五十人いるといったぜ」
「五十人もいて、あんなけちなおまわりから逃げ出すってのかい!」と、かれはせせら笑った。
制服の巡査が一人、裏門を開けて押えながら、いらいらと口の中でいった。
「早くしてくれ、みんな、頼むから」
わたしは、素直に足を早めたが、ほかの連中は、誰一人、そんな言葉に耳をかす者もなかった。
狭い路地を横切り、また一人、茶色の服を着た大男の開けてくれた別の門をはいり、一軒の家を通り抜けて、つぎの通りに出た。そして、歩道のはしにとまっていた黒い自動車に乗りこんだ。
ブロンドの若者の一人が運転した。その男は、スピードというものを心得ていた。
わたしは、どこか、グレート・ウェスタン・ホテルの近所で、おろしてほしいといった。運転手が振りかえると、ホイスパーはうなずいた。五分の後、ホテルの正面で車からおりた。
「また会おう」と、ばくち打ちが囁き声でいうと、車は、すうっと行ってしまった。
最後に見たのは、角をまがって消えて行く警察署の番号標だった。
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七 だから、契約したでしょう
五時半だった。そのへんを二、三町歩きまわっているうちに、明かりの消えた電気看板に、『ホテル・クロフォード』と出ているところへ出た。階段をのぼって二階の帳場へ行き、宿帳に記入して、十時に起こしてくれと頼み、みすぼらしい部屋に案内されると、ポケットの小瓶のウイスキーを少し胃袋に流しこんでから、エリヒュー老人の一万ドルの小切手とピストルを抱いて、ベッドにもぐりこんだ。
十時に、きちんと服を着て、ファースト・ナショナル銀行へ出かけ、アルベリー青年をつかまえて、ウイルスンの小切手の支払保証を頼んだ。しばらく待たされた。老人の邸に電話をかけて、小切手が間違いないかどうか確かめたのだろう。やがて、きちんと裏書きをして返してよこした。
封筒を一枚もらって、老人の書類と小切手を入れ、サンフランシスコ支局のあて名を書き、外へ出て、町角の郵便箱にほおりこんだ。
それから、銀行へもどって、若者にいった。
「さあ、きみが、かれを殺したわけを話してもらおう」
若者は、にっこりして、たずねた。
「誰をです、コック・ロビンをですか、それとも、リンカーン大統領をですか?」
「ドナルド・ウイルスンを殺したことを、すぐには認めないつもりなんだね?」
「ぼくは、喧嘩はしたくないんですけど」と、まだ微笑を浮かべたままで、「そいつは、ちょっと認められませんね」
「そいつは、どうもうまくないね」と、不平らしくいった。「こんなところに立って、いつまでもいい合っていちゃ邪魔がはいるからね。あの眼鏡をかけて、こっちへやって来る、太ったのは誰だね?」
若者の顔が、さっと赤くなった。
「出納主任の、ドリットンさんです」
「紹介したまえ」
若者は、不愉快そうな顔をしたが、それでも、出納主任の名前をいって呼びとめた。ドリットンは――すべすべした赤ら顔の大男で、まわりに白髪が残っているだけで、後は桃色の薬罐《やかん》頭に、縁なしの鼻メガネをかけて――こちらへやって来た。
若い出納係が、ぼそぼそと紹介した。若者から眼を放さないようにして、ドリットンの手を握った。
「いま、いっていたところなんですがね」と、ドリットンにむかって、「アルベリー君と話がしたいのですが、どこか人目に立たない場所はないでしょうかね。もう少し手間をかけないと、この先生は白状しそうにもないし、そうかといって、わたしが大声でどなるのを、銀行じゅうの人に聞かせたくないもんですからね」
「白状するって?」出納主任の舌が、唇の間から見えた。
「そうですとも」ヌーナンの真似をして、顔も声も物腰も、ていねいさを失わないようにしていた。「アルベリーが、ドナルド・ウイルスンを殺した人間だということをご存じなかったのですか?」
下らない冗談だと思ったのか、出納主任の眼鏡の奥に、品のいい微笑が浮かびかけたと思うと、その眼が部下の顔を見たとたんに当惑にかわった。若者は、まっ赤になっていて、無理矢理、口もとに作ろうとしている苦笑は、ふた目と見られたざまではなかった。
ドリットンは咳ばらいをして、本心からのようにいった。
「結構な朝ですな。まったく結構なお天気がつづきますな」
「しかし、二人で話の出来るような別室はないでしょうかね?」と、わたしは頑張った。ドリットンは、びくっととびあがって、若者にたずねた。
「いったい――いったい、なんだ、これは?」
アルベリー青年は、なんだか、わけのわからないことを口に出した。
わたしはいった。「そういう部屋がなければ、市役所へ連れて行かなくちゃならないんですがね」
ドリットンは、鼻からすべり落ちようとしたメガネを抑えて、ぐっと元のところへ押しつけて、いった。
「こちらへ来てください」
二人は、出納主任の後から廊下のはずれまで行き、戸口を通って、一室へはいった。ドアに、『頭取』と出ていた――つまり、エリヒュー老人の事務室だ。誰もいなかった。
手真似で、一脚の椅子にアルベリーをかけさせ、自分も一脚を引き寄せた。出納主任は、デスクを背にして、わたしたち二人の方に顔を向けて、落ち着かない様子だった。
「さあ、あなた、ご説明願いましょう」と出納主任はいった。
「だんだんに、わかりますよ」といって、若者の方に向き直った。「きみは、ダイナの以前のボーイ・フレンドだったが、ダイナは、きみを相手にしなくなった。ダイナをよく知っていて、しかもウイルスン夫人とターラーに電話をかけたあの時刻に、支払保証小切手のこともよく知っていた人間といえば、きみがただ一人の人間だ。ウイルスンは、三二口径で射たれた。どこの銀行でも、あの口径が気に入ってるんだ。ことによると、きみが使った拳銃は、銀行の備品ではなかったかもしれんが、おれは、そうだと思う。あるいは、きみは、まだ返していないかもしれないから、それなら、一つ足りなくなっているだろう。どっちにしても、専門家に頼んで、ウイルスンを殺した弾丸と、銀行じゅうの拳銃から発射した弾丸とを、顕微鏡と測微計《マイクロメーター》とで検査してもらうつもりだがね」
若者は、落ち着きはらってわたしを見ているだけで、なんにもいわなかった。すっかりまた、落ち着きを取りもどしていた。これじゃ、手がつけられやしない。仕方がないから、少し意地悪くしてやらなくちゃならないと思って、いってやった。
「きみは、あの女のこととなると、少し気ちがいじみていた。きみは、おれに白状したろう、女が聞き入れてくれなかったからよかったが、さもなければ、きみは――」
「あ、やめてください――お願いですから、やめてください」と、あえぎながらいった。顔がまた、まっ赤になった。
わたしは、小馬鹿にしたような顔で、相手を見つめてやったので、とうとう相手は眼を伏せてしまった。それで、わたしはいった。
「きみは、しゃべりすぎたんだよ、若いの。自分の生活にやましいところがないことを、おれに見せようと思って、やけに気を使いすぎたんだよ。きみのような素人犯罪者のやる手なんだ。きみたちのような人間は、いつでも、あけすけに、正直そうに見せようとしてやりすぎることになるのさ」
かれは、じっと自分の両手を見守っていた。わたしは、もう一発、かれにくらわした。
「きみは、かれを殺したことを知っている。銀行の拳銃を使ったかどうか、元へ返したかどうか、ちゃんと知っている。きみが銀行のを使って、元へもどしといたのなら、もうのっぴきならない、逃げ路はないぜ。ピストルの専門家が、その片はつけてくれるさ。やらなかったとしたって、おれは、きみを引っくくるつもりさ、どのみち。そうさ。きみに助かるチャンスがあるかないか、おれがいう必要はないんだ。きみは知っているんだから。
ヌーナンは、この事件を種に、ホイスパーのターラーを罪におとそうとしている。ヌーナンは、ターラーを有罪には出来ないだろうが、わなはがっちり企らんであるから、ターラーが逮捕を拒んで殺されても、署長の立場は安全なんだ。署長が狙っているのはそれさ――ターラーを殺す気なんだ。ターラーは、ゆうべひと晩、キング通りの賭場に立てこもって、警察を近寄せなかった。いまも寄せつけてやしない――警官たちが寄りつかないうちはね。あの男に近寄った最初の警官は――ターラーを逃がしてやったよ。
もし、罪を逃がれるチャンスがあると思うんなら、それからまた、きみのおかげで、ほかの人間を殺させたいと思うんなら、そりゃ、きみの勝手だ。だが、そんなチャンスがないと知っているんなら――拳銃が見つかりさえしたら、きみにはチャンスはないんだぜ――たのむから、ターラーにそのチャンスを与えて、あの男の容疑を晴らしてやってくれ」
「そうしましょう」というアルベリーの声は、老人のような声だった。手を見ていた眼をあげて、ドリットンを見て、もう一度、「そうしましょう」といっただけで、いいやめた。
「拳銃はどこにある?」と、わたしがたずねた。
「ハーパーの物入れに」と、若者はいった。
わたしは、出納主任ににがい顔を向けて、きいた。
「取って来てくれますか?」
かれは、その場からはなれるのがうれしいのか、いそいそと出て行った。
「ぼくは、殺すつもりじゃなかったんです」と、若者はいった。「自分では、そのつもりじゃなかったんです」
わたしは、おごそかな同情のこもった顔つきをしようとしながら、元気づけるようにうなずいた。
「ぼくは、殺すつもりだったとは思えないんです」と、また繰り返して、「そういっても、拳銃は持って行ったことは持っていったんですけど。ぼくが、ダイナに気ちがいのようになっていたとおっしゃるのは、本当です――そのころは。それが、日によっては、ひどく昂《こう》じることがあったんです。ウイルスンが小切手を持って来た日は、そういう悪い日でした。頭の中に浮かぶことといえば、おれは金がなくなったためにあの女をうしなったのに、あの男は五千ドルも女のところへ持って行くということだけでした。いけないのは、小切手だったということです。わかりますか、そのことが? 女とターラーとがそうだということは、そのことは前から知っていました――あなたもご存じでしょう。ウイルスンともそうだということを、小切手を見る前から、知っていたのだったら、なんにもしなかったろうと思うんです。そりゃ、たしかです。小切手を見たからなんです――そして、金がなくなったばかりに、あの女をうしなったということがわかったからなんです。
あの晩、女の家を見張っていて、ウイルスンがはいって行くのを見ました。お話したように気分の悪い日でしたし、ポケットにはピストルを持っているので、どんなことを仕でかすかもわからないと、自分で自分がこわくてたまらなかったんです。正直なところ、なんにもしたくなかったんです。ただ、こわかったんです。小切手のことと、あの女をうしなった原因のほかは、なんにも考えられなかったんです。ぼくは、ウイルスン夫人が嫉妬深いということを知っていました。町じゅう、誰でも知っていることです。電話をかけて、知らしてやったらと考えたんです――いったい、なにを考えたのか、はっきりわからないうちに、すぐ近くの店へはいって、電話をかけてしまったんです。それから、ターラーにもかけました。二人を、あすこへおびき出そうとしたんです。ダイナかウイルスンか、どちらかに関係のある人間を、ほかにも思い出せたら、そういう連中も呼び出していたでしょう。
それから引き返して、またダイナの家を見張っていました。ウイルスン夫人が来ました。それから、ターラーも。二人とも、そこでぐずぐずして、その家を見張っていました。ぼくは、うれしくなりました。二人がいっしょにいると思うと、なにを仕出かすかもわからないという心配がなくなったからなんです。しばらくすると、ウイルスンが出て来て、通りを歩き出しました。ぼくは、ウイルスン夫人の車を、それから、ターラーが隠れていたはずの戸口をうかがいました。二人とも、なんにもしない、ウイルスンは歩いて行っちまう。その時になって、なぜ、二人をそこへ呼び出したのかに気がつきました。ぼくは、二人がなにかやってくれるだろう――自分はやらなくても、と、心の底で、望んでいたんです。ところが、二人ともやらない。ウイルスンは、ずんずん歩いて行ってしまう。もしも、二人のうちどちらか一人が、そばへ行って、なんかウイルスンにいうとか、後をつけでもしてくれていたら、ぼくは、なんにもしなかったでしょう。
ところが、二人とも、そばへも行かなければ、話しかけもしないし、後もつけないんです。ぼくは、ポケットから拳銃を出したのはおぼえています。眼の前の一切の物が、ぼうと見えなくなってしまいました、泣いている時のように。泣いていたのかもしれません。射ったのはおぼえていません――いや、じっと狙ったり、引き金を引いたおぼえがないということなんです――しかし、発射のためにおこった音のことは思い出せますし、それと、音が自分の手の拳銃から出たと気がついたことも思い出せます。ウイルスンがどうなったか、ぼくがくるっと向き直って路地へ走りこむ前に、倒れたかどうかは思い出せません。家へ辿り着いてから、ピストルを掃除して、弾丸をこめ直して、つぎの朝、支払い係りの窓口へもどしました」
若者と拳銃とを携えて市役所へ行く途中、わたしは、口を割らせようとして、はじめに、田舎くさいハッタリをきかせたことをあやまって、いい訳をした。
「なんとかして、きみのかぶっているお面をひっぺがさなくちゃならなかったんでね。それには、ああするよりほかに手がなかったんだ。あの女についてのきみの話し振りから、きみがまともにぶつかっては破れそうにもない、大した役者だということがわかっていたからね」
かれは、ひるんだ様子で、ゆっくりといった。
「ちっともお芝居なんかじゃなかったんです。絞首台を眼の前にして、危険な身の上になったとたんに、あの女のことなど――あんな女は、ぼくには、大して大切だという気がしなくなったのです。ぼくは――いまでも――なぜ、あんなことを仕出かしてしまったのか――どうもまるきり――よくわからないんです。ぼくのいう意味がわかりますか? なんだか、なにからなにまで――自分までが――安っぽくなっちまったようで。なにからなにまでというのは、そもそものはじまりから一切のことなんですけど」
わたしは、なんか気のきいたことをいおうとしたが、
「物事なんて、そんなものさ」というような無意味なことしか浮かんで来なかった。
署長室には、前の晩の捕物に加わっていた部下の一人の――ビドルという赤ら顔の男がいた。不思議そうに灰色の眼を向けて、ぎょろぎょろとわたしを見ていたが、キング通りの件については、なんにもたずねもしなかった。
ビドルは、検事の部屋から、ダートという若い検事を呼んで来た。アルベリーが、ビドル、ダート、ほかに一人の速記者を前にして、いちぶしじゅうの話を繰り返しているところへ、いまベッドから這い出したばかりというような顔つきの警察署長が到着した。
「やあ、あんたの顔が見られて、まったくうれしいよ」といって、ヌーナンは、わたしの手を握って上下にはげしく振りながら、片手では背中をたたいた。「いやまったく! ゆうべは、危いところだったな――あの鼠ども! てっきり、あんたはやられたもんだと思って、踏みこんで見ると、賭場はからっぽじゃないか。いったい、あん畜生どもがどうしてずらかったか、教えてもらいたいね」
「あんたの部下が二人、裏口から連中を出して、裏の家の中をぬけて、察《サツ》の車で逃がしてやったんですよ。おれは、連中に引き立てられて行ったから、あんたに知らせることも出来なかったんだ」
「わしの部下が二人、そんなことをしたって?」と、別に驚いた顔もせずに、ヌーナンはたずねた。「なるほど、なるほど! どんな顔つきのやつだったね、二人は?」
わたしは、二人の人相を話して聞かせた。
「ショーアとリオダンだな」と、かれはいった。「気がつかなかったな。ところで、これは、どういうんだね」と、ふとった顔を、アルベリーの方にしゃくって見せた。
若者が陳述をつづけている間に、わたしは、簡単に話をしてやった。
署長は、くっくっと笑って、いった。
「ふむ、ふむ、ホイスパーには悪いことをしたな。あの男をさがし出して、なんとか話をつけなくちゃならんだろうな。すると、あんたがこの坊やをあげたんだね? そいつは大したもんだ。お祝いとお礼をいうよ」署長は、もう一度、わたしの手を握った。「もうすぐに、わしらの町から行っちまうんじゃないだろうね?」
「いますぐには行きませんよ」
「そいつは結構だ」と、安心したようにいった。
わたしは外へ出て、朝昼兼用の食事をした。それから大奮発をして、髪を刈り、ひげを剃り、探偵社へ電報を打って、ディック・フォリーとミッキー・リネハンをパースンビルへよこしてもらうように頼んでから、部屋へ寄って着換えをすますと、依頼主の邸へ出かけて行った。
エリヒュー老人は、日あたりのいい窓際で、毛布にくるまって、肘かけ椅子にかけていた。ずんぐりした手を、わたしの手にのせて、息子を殺した犯人をつかまえた礼をいった。
わたしは、いい加減なへんじをしておいた。どうしてその知らせを聞いたのか、わたしはたずねなかった。
「ゆうべ、きみにやった小切手は」と、老人が、「きみがやってくれた仕事の報酬として、やっと間に合うくらいじゃ」
「息子さんからいただいた小切手で、余るくらいです」
「じゃ、わしの分は、ボーナスとしときたまえ」
「コンティネンタルでは、ボーナスとか謝礼とかはいただかない規則になっています」と、わたしはいった。
老人の顔が赤くなりはじめた。
「ふん、そんな規則など――」
「あなたの小切手は、パースンビルの犯罪と汚職を調査する費用にあてるものだということを、お忘れになったのじゃないでしょう?」と、わたしはたずねた。
「ありゃ愚にもつかん考えじゃった」と、老人は鼻であしらった。「ゆうべは、お互いに興奮しとった。あれは、取り消しだ」
「こっちは、やめませんよ」
老人は、むやみに悪口を吐き散らした。それから、
「あれは、わしの金じゃ。それを、むやみにくだらんたわごとに使ってもらいたくないのじゃ。きみがした仕事の報酬として受け取らんというのなら、返してもらおう」
「どなるのはおやめなさい」と、わたしはいった。「わたしは、立派に市政を粛清する仕事のほかには、なにもしてさしあげないつもりです。あんたが取引なすったのはそれだし、あんたが、わたしから受け取るのもそれです。あんたには、いま、息子さんがアルベリー青年のために殺されて、ご自分の喧嘩仲間の仕業じゃないということがおわかりになった。その連中も、ターラーがあんたの裏切りを助けていたのではないということを、いまでは知っている。息子さんが死んだので、新聞で、これ以上汚いことをほじくり出さないと、連中に約束出来ることになった。それで、再び天下泰平というわけだ。
そんなことになりそうだと、わたしは、あんたにいいましたね。だから、あんたに契約してもらったでしょう。そして、あんたは、あの契約に縛られているんです。小切手は、支払保証を取っちまいましたから、支払いを停止することは出来ませんよ。権限を認めた書類は、契約書ほどには力はないかもしれないが、無効を証明するには、あんたは法廷へ出なきゃならない。そういうことが公けになってもいいとおっしゃるんなら、どうぞおやりなさい。ひどい目にあうのを、ゆっくり拝見しましょう。
あんたの手下の、でぶの警察署長は、ゆうべ、わたしを闇討ちにしようとした。ああいうことは、わたしは気に入らない。それだけでも、きゃつを没落させてやりたいと思うぐらいの根性は、わたしにだってある。勝負の元手としちゃ、あんたの金を一万ドル握っている。そいつを使って、ポイズンビルを、咽喉ぼとけから足の先まであばいてみせますよ。報告書は、出来るだけきちんきちんと、お手もとへ届けるようにします。楽しみにして待っていてください」
そして、老人のいまいましそうな呪いの言葉が、わたしの頭のまわりに飛ぶのを聞き流して、邸から出た。
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八 キッド・クーパーについての聞きこみ
その日の午後の大半は、ドナルド・ウイルスン事件についての、三日間の報告書を書くのについやした。それから、ゆっくり腰を落ちつけて、ファティマをくゆらしながら、夕食の時間まで、エリヒュー・ウイルスンの依頼の件について、どういう風に取りかかって行ったらいいか、考えをめぐらした。
ホテルの食堂へおりて行って、マッシュルーム添えのビーフステーキを注文することにきめたとたん、給仕が、わたしの名前を呼んでさがしているのが耳にはいった。
給仕は、ロビーの電話室へつれて行った。ダイナ・ブランドのだるそうな声が、受話器から飛び出して来た。
「マックスが、あんたに会いたいんですって。こん晩、寄ってくださる?」
「きみの家へかい?」
「ええ」
行くと約束して、食堂へもどり、食事をした。食べおわってしまうと、五階の表側の自分の部屋へあがって行った。ドアの鍵をあけて、中へはいり、電灯をつけた。
一弾が、頭をかすめて、ドアのかまちに孔をあけた。
あとからあとから、ドアや、ドアのかまちや、壁に、弾丸が孔をあけたが、もうその時には、窓からは死角にあたる安全な片隅に、頭を運んでしまっていた。
通りのむかい側には、四階建ての事務所風のビルディングがあって、その屋根が、わたしの部屋の窓よりは少しばかり高くなっていることを、わたしは知っていた。きっと、屋根はまっ暗にきまっている。こちらの部屋には、明かりがついている。こんな条件では、外を覗いて見ようとしたって割に合うものじゃない。
電灯の球にぶっつける物はないかと、まわりを見まわすと、ギデオン聖書があったので、それをぶつけた。電球が割れて、おかげでまっ暗になった。
射つのは、もうやんでしまった。
窓まで這って行き、膝をついて、窓わくの下の隅から片眼だけ出してうかがった。むかい側の屋根はまっ暗な上に高すぎて、縁《ふち》が見えるだけで、そのむこうは見えなかった。こうして片眼で、十分間うかがっていたが、頭が痛くなっただけで、なんのご利益《りやく》もなかった。
電話器のところへ行って、交換手の娘に、ホテルの雇い探偵をよこしてくれと頼んだ。
探偵というのは、堂々とした体つきの、白い口ひげを生やした男で、子供のままの、まん丸い、一向に発達していない額をしていた。小さすぎる帽子を後頭部にちょこんとのせているので、その額がすっかり見えている。名前は、キーパーといった。狙撃の話を聞くと、ひどく興奮した。
ホテルの支配人もやって来た。丸々とふとった男で、顔も、声も、物腰も、この上なしの慎重さだ。この男の方は、まるきり動揺しているような様子もなかった。熱演の最中に思わぬどじを踏んだ大道手品師のように、『聞いたこともない一大事だが、なあに、実は大したことはないさ』とでもいうような態度だった。
新しい電球を持って来させ、危険をおかして、明かりをつけ、弾痕を勘定してみた。十個あった。
警官が何人も来て、出て行って、もどって来て、残念ながらなんの手がかりも得られなかったと報告した。ヌーナンが電話をかけて来た。はじめに、担当の警部と話をしてから、わたしがかわった。
「いま聞いたばかりなんだがね」と、かれはいった。「ところで、あんたを狙いそうな人間は、誰だろうね?」
「見当もつきませんね」と、わたしは嘘をついた。
「一発もあたらなかったんだね?」
「ええ」
「うん、そいつはなによりだ」と、心からいった。「それから、どこのどいつだったか知らないが、その小僧っ子は、きっとふんじばってくれるから、安心していてくれたまえ。ときに、後の用心に、二、三人、残しておこうか?」
「いや、結構です」
「あんたがいるといえば、残してもいいんだよ」
「いや、ありがとう、結構ですよ」
かれは、出来るだけ早い機会にかれを訪問することを、わたしに約束させ、パースンビルの警察は、及ぶ限りの便宜をはからうつもりだといって、もしも、わたしの身になにかことがあったら、自分の一生は破滅だということを、よく了解してくれと念を押した。それでやっと、かれから放免になった。
警官は行ってしまった。わたしは、そうやすやすと弾丸の飛び込んで来そうにない別の部屋に、荷物を移した。それから、着換えをして、囁き声のばくち打ちとの約束を守って、ハリケーン通りへ出かけた。
ダイナ・ブランドが、ドアを開けてくれた。大きな、ふっくりした唇は、こん晩は、まっすぐに口紅がついていたが、茶っぽい髪の毛は、相もかわらず手入れがしてなくて、分け目もろくにわからないほどぼさぼさで、オレンジ色の絹のドレスの前には、いくつもしみがついていた。
「じゃ、まだ生きてたのね」と、女はいった。「どうやってもだめだとは思ってたけど。おはいんなさい」
取り散らかした居間へはいって行った。ダン・ロルフとマックス・ターラーとが、トランプ遊びのピノクルをやっていた。ロルフは、わたしを見て会釈した。ターラーは立ちあがって、握手をした。
しわがれた囁き声で、かれはいった。
「ポイズンビルに宣戦を布告したそうだね」
「ぼくのせいにしないでくれ。この町の空気を入れかえてくれというお客があるんだから」
「あるんじゃなくて、あったんだろう」と、わたしのあやまりを直してから、二人は腰をおろした。「なぜ、手を引かないんだね?」
わたしは、そこで一席ぶった。
「いやだね。おれは、ポイズンビルの、おれに対するもてなし振りが気に入らないんだ。やっと、機会をつかんだんだから、こん度は、こっちが仕返しをするつもりだ。きみは、また仲間へ返ろうとしていると、おれは見たんだ。兄弟みんなかたまって、すんだことはすんだこととしてね。きみたちは、お節介なんかされずに、そっとしておいてほしいと思っている。おれも、勝手にさしてお節介してもらいたくない時があった。ほっといてくれれば、いまごろは、サンフランシスコへ帰って行ってるとこだったろう。ところが、そっとしておいてくれなかった。ことに、あのでぶのヌーナンがほっといてくれなかった。二日間に二度も、おれの首をねらやがった。それで沢山だ。こん度は、こっちがぎゅうの目に会わしてやる番だし、その通りに、これからやってやる。ポイズンビルは熟しきって、収穫時だ。これは、おれの好きな仕事だから、大いにやるつもりだ」
「命のつづく間はね」と、ばくち打ちがいった。
「そうよ」と、相槌を打った。「けさの新聞で読んだが、ベッドの中で、チョコレート・エクレアを食べていて、窒息して死んだやつがあるってね」
「それも、いいかもしれないわね」と、ダイナ・ブランドが、肘かけ椅子に大きな体をぶざまに投げ出しながら、「でも、けさの新聞には、そんなこと出てなかったわよ」
かの女は、巻煙草に火をつけて、チェスターフィールド式長椅子の下の見えないところへ、そのマッチの燃えかすを投げすてた。肺病やみは、カルタを寄せ集めて、あてもないのに、なん度もなん度も切っていた。
ターラーは顔をしかめて、わたしにいった。
「ウイルスンは、きみに一万ドルを取っといてもらいたいといっている。それで、手を打てよ」
「おれは、けちな性分でね。闇討ちをかけられたので、気ちがいにさせられちまったよ」
「そんなことをしたって困るだけで、なんにもなりゃしないぜ。おれは、お前さんの味方だ。ヌーナンのわなから、おれを助け出してくれたからね。だから、おれがすすめるんだぜ、すっぱり忘れちまって、フリスコへ帰んなせえよ」
「おれも、お前さんの味方だ」と、わたしはいった。「だから、すすめてるんだ、やつらと縁を切れよ。やつらは、一度、きみをだました。一度あったことは、二度あるもんだ。とにかく、やつらは、もう坂を滑ってるようなもんだ。いまのうちに手を切った方がいいぜ」
「おれは、まったく居心地がいいんでな」と、ターラーがいった。「それに、自分の始末ぐらいは、自分でつけられるからな」
「だろうね。だけど、商売の道としちゃ、うますぎて、長つづきしないぐらいのことは、きみだって知ってるだろう。さんざん、うまい汁は吸ったんだ。いまが切りあげ時だぜ」
かれは、小さな黒い頭を振って、わたしにいった。
「あんたも、なかなかいい腕だとは思うが、この町をぶっつぶすほどの腕だとは、とても思えねえ。なにしろがっちりしてるからな。あんたが勝てると思えば、おらあいっしょにやるさ。ヌーナンとおれとの仲は、知っての通りだ。だが、とてもあんたには出来ることじゃねえ。やめときなせえ」
「いや。エリヒューの一万ドルが最後の一セントになるまで、おれはやるよ」
「だから、あたいがいったろう、馬鹿強情者だから、道理なんかいって聞かしたって聞かないって」と、ダイナ・ブランドが、あくびをしながら、いった。「台所に、なんか飲む物はないの、ダン?」
肺病やみが、テーブルから立ちあがって、部屋から出て行った。
ターラーが肩をすぼめて、いった。
「じゃ、好きなようにするさ。あんたも身のほどはわきまえてるはずだ。あすの晩、拳闘《ボクシング》試合には行くかい?」
行くつもりだと、わたしはこたえた。ダン・ロルフが、ジンとつまみ物とを持って来た。めいめい、二杯ずつ飲んだ。試合の話になった。わたし対ポイズンビルの話は、それっきり、もうなんにも出なかった。ばくち打ちは、どうやら、わたしのことはさじを投げたらしいが、わたしの頑固さに反感を持った様子はなかった。それどころか、試合について掛け値なしの内報らしいことまで――メイン・イベントで、キッド・クーパーが、第六ラウンドで、アイク・ブッシュを、ノック・アウトすることさえ忘れなければ、賭けははずれっこないということまで、教えてくれた。ターラーは、自分が口にしていることの意味は、ようく承知しているらしく、ほかの二人にも耳新しいことではないようだった。
十一時すこしすぎに、その家を出て、なにごともなく、ホテルに帰った。
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九 黒い柄のナイフ
つぎの朝、眼をさますと、すばらしい思いつきが頭に浮かんだ。パースンビルには、たかだか四万しか住民はいない。ニューズをひろめるのに、それほど骨が折れることもあるまい。十時には、わたしは、流言をばらまいていた。
賭博場、煙草屋、闇酒場《スピーク・イージー》、喫茶店、街角――一人でも二人でも、ぶらぶらしてる人間がいそうなところなら、ところ構わず、ニューズをばらまいて歩いた。わたしの流言技術は、ざっと、こんな調子だった。
「マッチ、お持ちですか?……ありがとう……こん晩、拳闘に行きますか?……アイク・ブッシュが、第六でつぶれることになってるそうですな……間違いっこなしです、ホイスパーから聞いたんですから……そう、みんなそうですよ」
人間というものは、内幕話が好きなものだ。その上、どんなことでもターラーという名がからんでいれば、パースンビルでは非常な内幕だった。ニューズは、いい工合にひろがった。わたしがしゃべった連中の半分は、ただ、その内幕話を知っていることを自慢したいばっかりに、ほとんど、わたしがばらまくのと同じくらい一生懸命にひろめてくれた。
やりはじめたころには、七対四の割で、アイク・ブッシュに賭ける人の方が多く、三人のうち二人は、ブッシュがノック・アウトで勝つと信じこんでいた。二時になると、どこの賭博場でも、一対一以上の率で賭け金を受け取るところはなくなった。そして、三時半には、キッド・クーパーの方が、二対一の人気になった。
最後に、一軒の軽食堂に立ち寄って、あたたかいビーフ・サンドウィッチを食べながら、給仕と二、三人のお客に、ニューズをもらした。
外へ出ると、一人の男がドアのそばで待っていた。がに股で、顎のさきが長くとんがって、豚のような顔をした男だった。うなずいて、わたしと並んで通りを歩き出した。爪楊枝を噛みながら、横眼で、ちらちらとわたしの顔を見ている。角まで来ると、男はいった。
「あれは、そういう風にはならねえってことを、おれは、よく知ってるんだぜ」
「なにが?」と、わたしはきき返した。
「アイク・ブッシュが倒れるってことさ。そうはならねえってことを、おれは知ってるんだ」
「それなら、気にすることはないじゃないか。だが、睹金は、二対一でクーパーに集まってるよ。ブッシュが八百長でもやらないかぎり、クーパーにはそんな力はないんだがね」
豚の顎は、くしゃくしゃにした爪楊枝を吐き出して、黄色い歯をむき出して見せた。
「ゆうべ、クーパーなんざ、やわな相手だって、自分で、ブッシュがおれにいったんだぜ。八百長なんて、やる男じゃねえ――おれにゃ嘘はつかねえ」
「きみの友だちか?」
「友だちってんでもねえが、おれのことは、よく知ってるんだ――それよりも、おい! さっきの話は、ホイスパーがお前にいったのか、本当に?」
「本当さ」
男は、ひどく悪口をいった。「それだのに、おれはなけなしの三十五ドルを、やつのいうことを信用して、あの鼠野郎に賭けちまったんだ。畜生、あのことを、やつにいってやれりゃなあ――」急に口をつぐんで、うつむいてしまった。
「あのことって、なんだね?」と、わたしはたずねた。
「いっぺいよ」と、男はいった。「いや、なんでもねえよ」
わたしには、ぴんと来た。
「あの男のことで、なにか知ってるんなら、二人で話そうじゃないか。ブッシュが勝ったって、こっちは構うことはねえんだ。きみの考えてることが役に立ちそうなら、そいつをブッシュにぶっつけたって構わないだろう?」
男は、わたしの顔を見てから、歩道を見、チョッキのポケットをさぐって新しい爪楊枝を取り出し、口にくわえて、つぶやいた。
「あんたは誰だね?」
わたしは、ハンターだったかハントだったかハンチントンだったか、そんな風ないい加減な名をいって、相手の名をたずねた。男は、マックスウェイン、ボブ・マックスウェインだと名乗った。嘘だと思ったら、誰でもこの町の人間にきいてくれといった。
わたしは、信じるよといって、それからたずねた。
「どういうことなんだ? 二人で、ブッシュにねじこむっていうのか?」
男の眼に、さっとけわしい光があらわれたと思うと、消えた。
「いいや」と、息をのみこんだ。「おれは、そんな人間じゃねえ。おれは、一度だって――」
「人にだまされるばかりで、一度だって、だましたことなんかねえというんだろう。きみが、あの男にぶつかることはないんだぜ、マックスウェイン。ネタを教えてくれりゃ、おれが一芝居打ってやる――まともなネタならね」
男は、唇をなめながら、じっと考えていた。爪楊枝が落ちて、上衣の前に引っかかった。
「おれが関係があるってことは、口に出さねえだろうな?」と、男はたずねた。「おれは、この町の人間だから、万一ばれると、のがれっこねえからね。それから、やつの方に引っくら返ったりしないだろうな? あいつに勝たせるために、使うだけだな?」
「わかった」
男は、興奮して、わたしの手を握って、問いつめた。
「誓うな?」
「誓う」
「あいつの本名は、アル・ケネディってんだ。二年前、フィラデルフィアでキイストーン・トラストの手入れがあって、その時、|はさみ締め《シザーズ》のハガーティの一味が、メッセンジャーを二人殺したもんだ。アルは、殺しには関係はなかったんだが、暴動には加わってたんだ。もともと、フィラデルフィアで喧嘩ばかりしていたやつなんだ。ほかの連中はご用になったなかで、あいつは、ずらかりやがったのさ。だから、こんなつまらんところにぐずぐずしてやがるんだ。新聞やちらしに、決して面《つら》を出さねえのも、そのためなんだ。一流の力を持ちながら、八百長でもなんでもいうなりになっているのは、それだからなんだ。わかるかい? つまり、このアイク・ブッシュってのは、キイストーン事件で、フィラデルフィアの刑事《デカ》が探している、アル・ケネディというおたずね者なんだ。わかるかい? あいつは――」
「わかった。わかった」と、ぐるぐるまわりをやめさせた。「ところで、つぎは、ブッシュに会うことだ。それには、どうすればいいんだね?」
「あいつは、ユニオン通りのマックスウェルにとまっているよ。いまなら、試合前の休養をとるんで、きっと、あすこにいるだろうよ」
「なんのための休養だい? 試合なんかやるつもりもねえのに、まあ、おれたちでいってみよう、だが」
「おれたち! おれたちだって! おれたち二人で、どこへ行くってんだい? お前はいったじゃねえか――おれのことは隠しとくって誓ったじゃねえか」
「そうだ」と、わたしはいった。「いま、思い出したよ。どんな風の野郎だい?」
「髪の黒い野郎だ。痩せてる方だ。片っ方の耳がつぶれて、眉が、一文字になってら。話したって、きくかどうか、おれは知らねえぜ」
「まあ、おれにまかせておけよ。後で、どこで会おうか?」
「マリーの店でぶらぶらしてら。おれのことはいわねえように気をつけろ。約束だぞ」
マックスウェルは、ユニオン通りに十二軒もある安ホテルの一つで、表通りの店と店の間の狭い戸口をはいって行くと、みすぼらしい階段をのぼって、二階の帳場へ行けるようになっている。マックスウェルの帳場は、ホールの隅の、ペンキのはげた木のカウンターの奥に、鍵の棚と郵便物の棚とがあるという、ただそれだけの場所だ。真鍮の呼鈴と、汚れた宿帳とが、カウンターの上においてある。誰もいなかった。
宿帳をめくって見ると、八ページ前のところに、『ソルト・レーク市、アイク・ブッシュ、二一四号』と書いてあるのを見つけた。鍵棚のその番号の仕切りは、からっぽだった。また階段をのぼって、その番号のドアをたたいた。へんじがない。もう二、三度たたいてから、階段の方へ引っ返した。
下から、人がのぼって来た。その男をひと眼見ようと思って、階段のてっぺんで待っていた。やっと見えるぐらいの明るさだった。
軍隊シャツに、青い背広、灰色の庇帽《キャップ》をかぶった、痩せた筋肉質の若者だった。黒い眉毛が、眼の上に一直線をつくっていた。
わたしはいった。「やあ」
男は、うなずいただけで、足をとめもしなければ、なんにもいいもしなかった。
「こん晩は、勝つかい?」と、わたしはたずねた。
「勝ちたいね」と、そっけなくいって、通りすぎようとした。
四歩ばかり部屋の方へやりすごしておいて、話しかけた。
「勝ってもらいたいね。きみをフィラデルフィアへ送り返したくはないからな、アル」
男は、もう一足行ってから、ひどくゆっくりと向き直り、壁に肩をもたせかけ、眠そうに眼を細めて、うなるような声でいった。
「うむ?」
「第六|回目《ラウンド》だか、第何|回目《ラウンド》だか知らないが、キッド・クーパーみたいなへぼ拳闘家《ボクサー》にぶっ倒されたりしちゃ、つむじを曲げちゃうぜ」と、わたしはいった。「そんなこと、するなよ、アル。フィラデルフィアへは、帰りたくねえんだろう」
若者は、顎を頸《くび》にうずめるほど頭をさげて、わたしの方へもどって来た。腕のとどくところまで来ると、立ちどまって、左の半身を少し前へ出した。両手は、だらんと垂れたままだった。わたしの両手は、外套のポケットに突っこんでいた。
男は、「うむ?」と、またいった。
わたしはいった。
「忘れねえようにしろ――こん晩、アイク・ブッシュが勝たなきゃ、あすの朝は早く、アル・ケネディが東部行きの汽車に乗ることになるんだぜ」相手は、左の肩を一インチほどあげた。わたしは、ポケットの中で、ピストルをたっぷり動かして見せた。男は、だみ声でいった。
「おれが勝たねえなんて、そんなたわごとを、どこで聞いた?」
「ちょいと聞きこんだだけさ。この話に、なんか魂胆《こんたん》があるとすりゃ、フィラデルフィアへ無罪釈放の犯人を送り返そうというぐらいのことじゃねえかと思うんだ」
「手前の顎をぶち割ってやるぞ、この肥っちょの悪党め」
「やるならいまだぜ」と、いい知らせてやった。「こん晩、きみが勝てば、二度と、おれを見るようなこともあるめえ。負けりゃ、会うことになるだろうが、その時は、お前の手は自由がきかねえことは請け合いだ」
わたしは、ブロードウェイの賭博場のマリーの店で、マックスウェインを見つけた。
「あいつに会ったかい?」と、かれはたずねた。
「うん。すっかり話をつけたよ――あいつが爆弾で町を吹っ飛ばすか、後援者どもに告げ口するか、おれのいったことを聞き流しにするか――そんなことでもしねえ限りは――」
マックスウェインは、むやみに落ち着きがなくなって行った。
「気をつけた方がいいぜ」と、わたしに警告した。「やつら、お前をかたづけちまおうとするかもしれねえぜ。やつは――おう、おれは、あすこにいる男に、会う用がある」といって、わたしを置き去りにして行ってしまった。
ポイズンビルの懸賞付き拳闘試合は、町はずれの、もとは遊園地だったところにある、大きな木造の元の賭博場《カジノ》で行なわれた。八時半に、そこへはいって行って見ると、大部分の市民が集まったかと思うほどで、土間にぎっしりと並べた折り畳み椅子は、びっしり満員で、両側の小ざっぱりした桟敷のベンチは、それ以上の大満員だった。
煙草の煙、悪臭、熱気、騒音。
わたしの席は、リングサイドの三列目だった。そこへおりて行きながら、あまり遠くない通路わきの席に、ダン・ロルフが、ダイナ・ブランドとならんでいるのを見つけた。かの女も、どうやら髪の手入れをし、ウェーブまでかけ、大きな灰色の毛皮の外套にくるまって、まるで大金持ちの貴婦人のような様子だった。
「クーパーに賭けて?」と、挨拶がすむと、かの女はきいた。
「いいや。どっさり賭けてるんだろうね、きみは?」
「それほどでもないわ。もっと率がいいと思っていたのに、案外悪くなったから、控えちゃったのよ」
「町じゅう、誰もかれも、ブッシュが負けるのを知ってるみたいだね」と、わたしはいった。「ちょっと前に、大勢が、四対一でクーパーに賭けてるのを見たよ」わたしは、ロルフの体越しに乗り出して、灰色の毛皮の襟にかくれている女の耳に、ぴったり口を寄せて、囁くように、「ノック・ダウンはやめだってさ。時間のあるうちに、ブッシュを買った方がいいぜ」
女の、大きな血ばしった眼が大きく見開かれ、不安と、貪欲と、好奇心と、疑惑とで、暗くなった。
「あんた、本気なんだね?」と、しわがれ声でたずねた。
「うん」
女は、まっ赤にぬった唇を噛み、眉間に皺を寄せて、たずねた。
「どこで聞いたの?」
わたしは、いおうともしなかった。女は、さらに強く唇を噛んで、たずねた。
「マックスも乗ってるの?」
「まだ会わない。来てるのかい?」
「来てると思うんだけど」と、遠くを見るような眼で、うつろにいった。胸の中で勘定でもしているように、その唇が動いていた。
わたしはいった。「やるやらないは、きみの勝手だが、こいつは穴だぜ」
女は、ぐっと身を乗り出して、鋭くわたしの眼を見つめ、かちっと歯を鳴らすと、ハンドバッグを開いて、コーヒー罐ほどの大きさにまるめた札束を取り出した。その札束の一部を、女はロルフに抑しつけた。
「さあ、ダン、これで、ブッシュを買っておくれ。とにかくまだ一時間はあるんだから、とっくりいい率を見て買うんだよ」
ロルフは、金を受け取って、立って行った。わたしは、その後の席に腰をおろした。女は、わたしの二の腕に手をかけて、いった。
「あたしに、あの金を損させたら、承知しないわよ」
わたしは、ばかげたことをいう、という顔をして見せた。
前座の四回戦の試合が、いく組かへぼの組合わせで行なわれていた。わたしは、ターラーを探しつづけたが、見つけ出せなかった。女は、ろくに試合には眼もくれず、ただもう、どこからわたしが情報を握って来たのか聞き出そうとしたり、もしうまく行かなかったらひどい目に合わすよと脅かしたり、そんなことにばかりかかっていて、しじゅうそわそわとしていた。
セミ・ファイナルの試合のさいちゅうに、ロルフが帰って来て、一つかみの|賭け札《チケット》を女にわたした。じっと眼をこらしてチケットを見つめている女を後にして、自分の席へもどった。女は眼もあげずに、声をかけた。
「すんだら、外で待っていてね」
わたしが無理に割りこむようにして、自分の席へもどって行く時、キッド・クーパーがリングにのぼった。血色のいい、麦藁色の髪の毛の、がっしりした体つきの若者で、ぶたれて凹んだ痕のある顔に、薄紫色の胴の上の方には、つきすぎるくらい肉がついている。アイク・ブッシュことアル・ケネディが、反対側の隅から、ロープをくぐって出て来た。体格は、かれの方がずっとよく――肉はしまり、すばらしく盛りあがっていて、はしっこそうに――見えたが、その顔は青ざめて、不安そうな色が見えた。
紹介がすむと、リングの中央で、おきまりの注意を与えられて、めいめいのコーナーにもどり、バス・ローブをぬぎすて、ロープにつかまって柔軟運動をやり、ゴングが鳴って、なぐり合いがはじまった。
クーパーは、不器用なぐずだった。横ざまに大きく振る両手のスウィングは、あたれば、痛い目に会うかもしれないが、二フィートもはなれていれば、誰でもかわすことが出来るものだった。ブッシュは優秀で――すばしこい脚、スムーズな速い左の手、眼にもとまらぬ速さで飛び出す右の手を持っていた。この肉のひき締まった若者が、本当にやる気だったら、クーパーに相手をさせるのは、殺人行為だったろう。ところが、この若者は本気ではなかった。つまり、勝つ気がなかった。勝つまいとしていた。そして、勝つまいとして手一杯だった。
クーパーは、扁平足のように、リングじゅうをよろめき、電灯だろうが、コーナーの柱だろうが、やたらにそこらじゅうの物に、例の大きなスウィングをぶっつけていた。かれのやり方は、ただ、そのスウィングを放つだけで、当るか当らんかは運まかせというわけだった。ブッシュは、たくみなフット・ワークを見せて、好きな時に、血色のいい相手にグローブをぶつけてはいるが、そのグローブには、なんの力もこもってはいなかった。
観衆は、第一ラウンドがおわらないうちから、ぶうぶうと非難の声をあげていた。第二ラウンドも、まったくふくれっ面ばかりだった。わたしも、あまりいい気がしなかった。ブッシュは、わたしとの短い話にも、大して影響を受けなかったらしい。眼の隅から、わたしの注意をひこうとしているダイナ・ブランドの姿が見えた。かの女は、ひどく熱中している。それに気がつかないように、わたしは見せかけていた。
リングの馴れ合い振りは、第三ラウンドにもつづいて、『二人ともほうり出せ』とか、『なぜキッスしねえんだ』とか、『真剣にやれ』とかいった風の罵声が、観客席から飛んだ。このわめき声が一瞬切れたとき、狆《ちん》のワルツのような二人の姿が、わたしに一番近いコーナーへまわって来た。
両手をメガフォンにして、わたしはどなった。
「フィラデルフィアへ帰れ、アル」
ブッシュは、こちらに背中を向けていた。かれは、クーパーともみ合いながらまわりこんで、相手をロープに追いつめたので、かれ――ブッシュ――は、わたしの方に顔を向けた。
その時、建物のどこか、ずっとうしろの方から、別のどなり声が飛んだ。
「フィラデルフィアへ帰れ、アル」
マックスウェインだな、と、わたしは思った。
脇のちょっと離れたところにいた一人の酔っぱらいが、ふくれた顔をあげて、同じ言葉をわめき、素敵な冗談をいってやったというように、大声を立てて笑った。ほかの客も、ただ、それがブッシュを困らせるらしいというほかには、まるきりなんの理由もなしに、口々にその言葉を叫び立てた。
ブッシュの眼が、黒い一文字になった眉毛の下で、右に左に、いそがしく動いた。
クーパーの猛烈なグラブの一撃が、ほっそりした若者の顎のわきに命中した。
アイク・ブッシュは、レフェリーの足もとに崩折れた。
レフェリーは、二秒間に五つまで数えたが、ゴングが鳴って、レフェリーが数えるのを中断した。
わたしは、ダイナ・ブランドを見て、笑った。ほかに、どうしようもなかったのだ。かの女は、わたしを見たが笑わなかった。その顔は、ダン・ロルフの顔と同じように青ざめていたが、それよりもずっと怒りに燃えていた。
ブッシュの介添人たちが、かれをコーナーへ引きずって行って、体をさすった。大して一生懸命にさすりもしていなかった。ブッシュは、眼を開けて、足もとを見つめた。ゴングが鳴った。
キッド・クーパーが胴体をもちあげて、よたよたと進み出た。ブッシュは、のろまな相手がリングの中央に来るまで待っていて、素早く飛び出して行った。
ブッシュの左のグラブがさがり、突き出された――実際は、見えなくなるほど、クーパーの腹の中へ突っこまれた。クーパーは「うっ」と声を出し、うしろへすさって、体を折りまげてしまった。
ブッシュは、右手の|突き《ポーク》を口に受けて、のけぞった相手の腹に、また左を深く埋めた。クーパーがまた「うっ」といって、膝がくずれかけた。
ブッシュは、相手の頭の両側に一度ずつ|平手打ち《カフ》を入れ、右を突きあげ、左の長打でクーパーの顔を、うまく元のように押し立てておいてから、自分の顎の下からクーパーの顎をめがけて、右のストレートをたたきこんだ。
満場の観衆は、自分がそのパンチをくったような気がした。
クーパーは、どっと床に倒れ、はね返って、動かなくなった。レフェリーは、十を数えるのに、半分間をかけたが、半時間をかけたとしても、同じことだったろう。キッド・クーパーは、気をうしなっていた。
とうとうレフェリーは、数えるのをあきらめると、ブッシュの手を高く持ちあげた。二人ともうれしくなさそうだった。
きらっと、強い閃光が、わたしの眼にはいった。短い銀色の光の筋が、小さな特別席《バルコニー》の一つから斜めに落ちた。
一人の女が悲鳴をあげた。
銀色の光の筋は、斜めにひらめいて、リングにとまった。ぴしっという音と、どさっという音とが、同時にした。
アイク・ブッシュの腕が、レフェリーの手からはなれ、キッド・クーパーの上に折り重なって倒れた。黒い柄のナイフが、ブッシュの頸筋に突き刺さっていた。
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十 犯罪を求む――男女を問わず
三十分の後、拳闘場を出て来ると、ダイナ・ブランドが、薄青い色の小型マーモンの運転手席にすわりこんで、外の道に立っているマックス・ターラーと話していた。
女は、四角い顎を突き出していた。大きな赤い口が、しゃべる言葉につれてけだ物じみて動き、両方の口もとの縦皺は、深く、堅い感じだった。
ばくち打ちも、女と同じように不快そうな顔つきだった。その美しい顔が、黄色っぽく、樫の木のように硬《こわ》ばっていた。しゃべっているのを見ると、唇が紙のように薄かった。
ちょっと見ると、睦まじい夫婦づれのようだった。見つからなければ、いっしょになるつもりはなかったのだが、女が声をかけた。
「あらまあ、来ないのかと思ってたわ」
車のそばへ行った。ターラーがエンジンの蓋越しに、まるきり親しみもない顔で、わたしを見た。
「ゆうべ、おれは、フリスコへ帰れとすすめたっけな」かれの囁き声は、誰のどなる声よりもずっと荒々しかった。「いまも、はっきりいっとくぜ」
「どっちにしても、礼はいうよ」といって、わたしは、女の横に乗りこんだ。
女がエンジンをスタートさせていると、ターラーが女にいった。
「お前がおれを裏切ったのは、これがはじめてじゃねえ。だが、これが最後だぞ」
女は、車をスタートさせ、肩越しに振り返って、歌うようにこたえた。
「勝手におしよ、あたしのマックス!」
車は、たちまち町へはいった。
「ブッシュは死んだの?」とたずねながら、女は、車をブロードウェイへまげた。
「きまったことさ。体をおこしてみたら、ナイフの切っ先が前まで突き抜けていたよ」
「あの連中を裏切るなんて、相手を知らなすぎたのよ。なんか食べたいわね。あたい、こん晩だけで、千百ドルほど儲けたんだから、あの人のご機嫌が悪くったって、お気の毒さまみたいなもんだわ。あんたは、どのくらい儲けたの?」
「賭けなかったさ。それで、きみのマックスはおかんむりなんだね?」
「賭けなかったって?」と、女は叫ぶようにいった。「いったい、なんてばかなの、あんたって人は? あれだけはっきりしたネタをつかんでおきながら、賭けない人なんて、どこにあるの?」
「確かに勝つかどうか、わからなかったんだ。すると、マックスは、ああいうことになったのが気に入らなかったんだね?」
「あてたわ、あんた。マックスは大損したのよ。そこへ持って来て、あたしがうまく頭をはたらかして乗り換えて、勝ちの方を買ったから、よけいにむくれてるのさ」女は、一軒のシナ料理屋の前で、乱暴に車をとめた。
「なにさ、あんなやつ、声の出ないちびの小ばくち打ちのくせに!」
女の眼がかがやいていたのは、涙で濡れていたからだった。女は、ハンカチを眼にあてながら、車からおり立った。
「ああ、おなかがぺこぺこだわ」といいながら、わたしの手を引っぱって、歩道をわたって行った。「炒麺《チャウ・メン》を一トンほどおごってくれる?」
まさか一トンは食べなかったが、ずいぶんよく食べ、自分の皿を何枚も重ねた上に、わたしの分も半分平らげてしまった。それから、マーモンにもどって、自分の家まで走らせた。
ダン・ロルフは、食堂にいた。水のコップと、レッテルの貼ってない茶色の瓶とが、かれの前のテーブルの上にのっていた。かれは、きちんと姿勢を正して椅子にかけ、その瓶を睨みつけていた。部屋の中は、阿片チンキのにおいがした。
ダイナ・ブランドは、するっと毛皮の外套をぬぎ、半分は椅子に、半分は床に、それをおとした。そして、肺病やみにむかって、ぱちんと指をならして、せっかちにいった。
「お金、とれて?」
瓶から眼をはなさずに、ロルフは、上衣の内ポケットから札束を取り出して、ぽとんとテーブルの上におとした。女は、それをひったくって、二度もその札を勘定し、唇を鳴らして、自分のバッグに押しこんだ。
女は、台所へ出て行って、氷を割りはじめた。わたしは、腰をおろして、煙草に火をつけた。ロルフは、瓶を睨みつづけていた。この男とわたしの間には、お互いに大して話すこともないようだった。やがて、女は、ジンとレモン・ジュースとソーダ水と氷とを持ってはいって来た。
飲み出すと、女がロルフに話しかけた。
「マックスがね、すごく怒ってるんだよ。あんたが、どたん場でブッシュに賭けるんで走りまわっていたということを聞いて、あのちびの猿、あたしが裏切ったと思ってるのさ。それとあたしと、なんの関係があったというのさ? あたしはただ、頭のはたらく人ならすることを、しただけじゃないの――勝つ方に賭けただけじゃないの。赤ん坊と同じで、あたしはなんにも関係しやしなかったわねえ?」と、女は、わたしにむかって、たずねた。
「関係はないよ」
「ないわよ、むろん。マックスが騒ぐのはね、仲間から、自分もあたしといっしょだと思われやしないかと、ダンがあたしのといっしょに、あの男の金も賭けたと疑ぐられやしないかと、びくびくしているのよ。そうよ、それは、あの人の運が悪いということなのよ。あの人がどうなろうと、あたしの知ったことじゃないわ、けちなちびなんか。もう一杯、飲もうよ」
女は、自分のとわたしのとに、もう一杯ついだ。ロルフは、まだはじめのグラスにも、手をつけていなかった。まだ茶色の瓶を睨みつけたままで、かれはいった。
「マックスを機嫌よくさせようと思ったって、そいつは無理ですよ」
女は、顔をしかめて、気むずかしそうにいった。
「あたしは、なんでも思いたいように思うわよ。それにしても、あたしに、あんな口のきき方をするって法はないわ。あたしは、あの人の持ちものじゃないんだからね。自分じゃ、そう思ってるかもしれないけど、いずれ、そうじゃないってことを見せてやるわ」女は、一気にグラスをあけて、がちゃんとテーブルに置いてから、ぐるっと椅子の中で身をまわして、わたしの方に向き直った。「本当なの、この町の大掃除をするために、エリヒュー・ウイルスンの金を一万ドル、あんたが持ってるというのは?」
「うん」
女の血走った眼が、飢えたように光った。
「そして、あたしがその仕事を手つだったら、その一万ドルから、あたしにいくらか――?」
「そういうことは出来ないよ、ダイナ」そういったロルフの声は濁ってはいたが、まるで子供にでもいい聞かせるように、やさしくきびしかった。「それは、まったくけがらわしいことだよ」
女は、ゆっくり、かれの方へ顔を向けた。その口もとが、ターラーと話していた時と同じような様子を帯びていた。
「あたしは、やるつもりよ」と、女はいった。「それが、ほんとにけがらわしいことになるの?」
ロルフは、なにもいいもしなかったし、瓶から眼をあげもしなかった。女の顔は、赤く、かたく、残忍な色を浮かべていた。だが、声はやさしく、甘く囁くように、
「あんたのような|清廉な《ヽヽヽ》紳士が、たとえ、ちっとばかり肺病にかかっているからといって、あたしのようなけがらわしいのらくら女といっしょに暮らさなきゃならないというのは、ほんとうにお気の毒さまだわね」
「肺病はなおるよ」と、男は、ゆっくりいって、立ちあがった。頭まで、阿片がしみついていた。
ダイナ・ブランドは、椅子からはねあがって、テーブルをまわって、男のそばへ走り寄った。男は、ぽかんとした、麻酔剤のまわった眼で、女を見た。女は、その顔をぴったり男の顔に寄せて、問いつめた。
「すると、あたしは、あんたにとっては、いま、とってもけがらわしい女だというのね?」
ロルフは、抑揚もなくいった。
「この男に、友だちの秘密をもらすのは、けがらわしいことだといったのだよ」
女は、やにわに、男の、痩せた片方の手首をつかんで、逆手にねじって、男を膝まずかせてしまった。そして、片方の手を開いて、男のこけ落ちた頬を、右から左から、ぴしりぴしりと、つづけさまに、五、六回ずつ打った。その度に、男の顔は、右に左にゆれ動いた。男は、つかまれていない方の手で防ごうとすれば防げたのに、防がなかった。
女は、男の手首をはなして、男に背を向け、ジンとソーダ水の方へ手をのばした。女は、にこにこしていた。わたしには、その微笑が気に入らなかった。
男は、立ちあがって、眼をしばたたいた。手首の、つかまれていた跡はまっ赤で、顔にはあざが出来ていた。男は、しっかりと身をおこして、どんよりした眼を、わたしに向けた。
生気のない、その顔と眼の色を少しも変えずに、相手は、上衣の下に片手を入れ、黒い自動拳銃《オートマテック》を取り出して、わたしをめがけて射った。
しかし、ぶるぶると震える手には、スピードもなければ、正確さもなかった。わたしは、その間に、グラスを相手に投げつけた。グラスは、相手の肩にあたった。弾丸は、どこか頭の上を飛んで行った。
つぎの一発を射ち出さないうちに、わたしは、躍りあがって――躍りあがって、相手に飛びかかり――拳銃をたたきおとした。第二弾は、床にあたった。
わたしは、相手の顎を、思い切り強くなぐりつけた。相手は、すっ飛んで、倒れたままおきあがれなかった。
わたしは、気配を感じて、くるっと向き直った。
ダイナ・ブランドが、いまにもソーダ水の瓶をふりあげて、わたしの頭になぐりかかろうとしていた。重いガラス製のサイフォンで、あたれば、わたしの頭蓋骨をくだいてしまったにちがいない。
「よせ」と、わたしは叫んだ。
「なんだって、そんなにダンを殴らなくちゃいけないのよ」と、女はどなった。
「まあ、すんだことだ。それよりも、おこしてやった方がいいよ」
女は、サイフォンを下に置いた。わたしは、女に手をかして、いっしょにかれを抱いて寝室へつれて行った。男が眼を動かし出したので、また食堂へもどった。十五分ほどすると、女ももどって来た。
「もう大丈夫よ」と、女はいった。「でも、あんたも、あんな風にしなくてもよかったのに」
「うん。だけど、おれは、あの男のためを思ってしたのさ。なぜ、おれを射ったか、わかるかい?」
「すると、マックスの秘密を売る相手をなくなそうとしたというの?」
「ちがう。あの男を手荒く扱うきみを、ぼくが見たからなんだよ」
「そんなこと、あたしにはわけがわからないわ」と、女はいった。「手荒く扱ったのは、あたしじゃないの」
「あの男は、きみを愛しているんだ。それに、あんな目に会ったのも、きょうがはじめてじゃないんだろう。きみと力ずくで争っても無駄だということを、知りつくしているように振舞っていたからな。しかし、ほかの男の見ている前で、平手打ちを食わされてうれしがってると、きみが思うのがどうかしているね」
「あたし、すっかり男がわかったつもりでいたんだ」と、悲しげに、「だのに、ああ! あたしにはわからないわ。男って、気ちがいだわ、男という男、みんな」
「だから、いくらかでも、あの男に自尊心を取りもどさせようと思って、おれは、やったんだ。わかるだろう、女の子にぴしゃぴしゃと殴られる、素寒貧の居候じゃなくて、一人の男として、扱ってやったんだよ」
「なんとでもおっしゃい」と、女はため息をついた。「もうよすわ。それより、もっと飲んだ方がいいわ」
二人は、飲んだ。それから、わたしはいった。
「きみは、さっき、ウイルスンの金の分け前がもらえるんなら、おれといっしょに仕事をすると、いっていたっけね。もらえるよ」
「いくら?」
「いくらでも、きみが働いただけさ。つまり、いくらでも、きみの仕事の値打ちだけ払うさ」
「そんなの、はっきりしないわね」
「きみの方だって、どれくらい手つだってくれるか、おれにははっきりわからないからね」
「そうかしら? ネタはあげられるわよ、兄さん、うんとこさと。あげられないとは思えないわ。あたしは、わがポイズンビルのことなら、なにからなにまで、ようく知ってる女なのよ」女は、灰色のストッキングをはいた自分の両膝を見おろし、片脚を振って見せて、腹立たしそうに大声でいった。「これを見てよ。また筋がはいっちゃったわ。なんとかならなくって? ほんとに! いまに、はだしになっちまうわ」
「きみの足が大きすぎるんだ」と、わたしは、女にいって聞かせた。「あんまり糸が引っ張られすぎるんだよ」
「あんたから儲ければいいわ。ねえ、あたしたちの村を綺麗にするって、どうやるつもりなの?」
「おれの聞いてる話が嘘でなければ、ターラー、フィンランドのピート、リュー・ヤード、ヌーナン、この四人が、ポイズンビルを、甘酸っぱいにおいのするごみ溜めにした人間なんだ。エリヒュー爺さんも、いく分の責任はあるが、どこからどこまで、爺さんのあやまちとはいえないだろうね。それに、爺さんは、自分ではいやがっているが、おれの依頼主だから、なるべくは、きびしくはやりたくないんだ。
さしあたり、おれが考えているのは、後の連中が関係していそうな不正を、洗いざらいほじくり出して、掃き出してしまうことだ。恐らく、広告を出すのがいいかもしれない――『犯罪を求む――男女を問わず』とね。連中が、おれの思っている通りの悪党なら、一つや二つ、やつらを引っくくれるような悪事を探し出すのに、たいした骨は折れないだろうよ」
「きょうの拳闘の八百長の裏をかいたのも、そういう考えだったの?」
「あれは、ただ実験しただけさ――どんなことになるか、やってみただけさ」
「すると、あれが科学的探偵のやり方なのね。あきれた! でぶの、中年の、|がっちり屋《ハード・ボイルド》の、ばか強情のくせに、聞いたこともないような、とてつもないやり口を知ってるわね」
「時には、計画を立ててやるのもいいが」と、わたしはいった。「時には、騒ぎをおこさせるだけでいいこともある――殺されても死なないくらいタフで、いつも眼をはっきり開いていれば、その騒ぎが頂上に達した時に、見たいものが見られるだろうね」
「じゃ、もう一杯飲むだけの値打ちはあるわね」と、女がいった。
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十一 すばらしいネタ
わたしたちは、もう一杯飲んだ。
ダイナは、グラスを下に置き、舌なめずりをして、いった。
「騒ぎをおこさせるっていうのが、あんたの手だというんなら、あたし、すばらしいネタを持ってるわ。あんた、ヌーナンの弟のティムってのが、二年ほど前に、モック湖で自殺したって話を聞いたことあって?」
「聞かない」
「そんなことまで、聞いてるはずはないわね。とにかく、ティムは、自殺なんかしなかったのよ。マックスが殺したの」
「そうか?」
「ねえ、眼をさましてよ。この、あたしがいってることは、本当なのよ。ヌーナンは、ティムを父親のように可愛がってたわ。ヌーナンに証拠をつきつけてごらん。あいつ、どこまでも眼の色をかえて、マックスを追っかけるわよ。そういうのが、あんたはほしいんでしょう?」
「証拠はあるのだね?」
「ティムが息を引き取る前に会った人が二人いて、その二人にマックスにやられたと、ティムはいってるのよ。二人とも、いまでも町にいるわ、もっとも、一人は、あまり長く生きられそうにもないけど。どう、これは?」
女は、いかにも真実を口にしているような顔つきだった。もっとも、女というものは、ことに青い眼の女となると、いつだって、そんなことを重大なことだとも思わないものなのだが。
「もっと後を聞かしてもらおうじゃないか」と、わたしはいった。「おれは、こまかいことまで聞くのが好きなんだ」
「詳しく教えてあげるわよ。モック湖へは行ったことがあるんでしょう? そう、谷間の道を三十マイルほどあがった、あたしたちの避暑地なの。湿気はひどいんだけど、夏は涼しくって、なかなかいいところなの。去年の夏の、八月の最後の週末だったわ。あたし、ホリーという男といっしょに、そこへ出かけたの。ホリーは、いま、イギリスへ帰ってるけど、それは、なにも気にしなくていいのよ。だって、ホリーには関係はないんだから。おかしなお婆さんみたいな男だったわ――綴じ目の糸で足を痛めるからといって、いつも白い絹のソックスを裏返しにはいてるのよ。つい先週、かれから手紙をもらったわ。どっか、そこらへんにあるはずだけど、そんなこと、どうでもいいわ。
とにかく、あたしたちが行ってると、マックスも来てたの、いつもいっしょに遊びまわっていた――マートル・ジェニスンという――女の子といっしょに。その女はいま病院に――市立病院に――入院していて、腎臓炎だかなんだかで死にかけてるわ。そのころは、なかなか粋な様子の子だったわ、すらっとした金髪でさ。二、三杯お酒を飲むと、とてもうるさくなるのをのければ、あたし、いつも好きだったわ。ティム・ヌーナンがその子に夢中だったんだけど、その夏は、マックスのほか、あの子は誰も振向くどころじゃなかったの。
ティムは、あの子につきまとって、一人になんかしておかないの。大柄な、なかなか様子のいい、アイルランド系なんだけど、兄貴が警察署長だというだけで、どうにかやっていた、のろまの小悪党だったの。どこでもマートルの行くところへは、じきに顔を出すの。マートルは、そんなこと、マックスになんとかいう気もなかったの。マックスに、ティムの兄弟の署長と、間違いをおこすようなことをさせたくなかったからでしょう。
それで、むろん、その土曜日にも、ティムは、モック湖にあらわれたわ。マートルとマックスとは、二人きりだったわ。ホリーとあたしとは、ほかの仲間といっしょだったんだけど、マートルを見かけたから話しかけたの。すると、あの子、ティムから手紙を受け取ったっていうの。こん晩、四、五分でいいから会ってくれ、ホテルの庭にある小さなあずまやのどことかで待っているからって。もし来てくれなければ、自殺するって書いてあるんですって。それには、あたしたち、大笑いしちゃったわ――ずいぶん大げさな出鱈目のおどしだって。あたしは、すっぽかしちゃえってマートルにいったんだけど、あの人ったら、いい加減お酒を飲んで、ひどくご機嫌だったもんで、耳にたこが出来るほどいってきかせてやるつもりだなんていってたの。
その晩、あたしたちみんな、ホテルでダンスをしていたのよ。マックスの姿も、しばらく見かけたけど、そのうちに見えなくなっちまったの。マートルは、ラトガーズという、この町の弁護士の人と踊ってたわ。そのうちに、あのひと、ラトガーズからはなれて、脇の出口から出て行ったの。あたしのそばを通りがかりに、あたしにウィンクをしたんで、ははあ、ティムに会いに行くんだなと、あたしにはわかったわ。ところが、出て行ったと思うと、ピストルの音がきこえたのよ。ほかには気にとめた人もなかったわ。あたしだって、マートルとティムのことを知っていなかったら、気がつかなかったと思うわ。
あたしは、マートルを見て来るからとホリーにいって、マートルの後を追って出たの、一人で。あのひとが出てから、きっと、五分ぐらいしてからだったわ。外に出て見ると、一軒の別荘のそばに灯《ひ》がちらちらして、人だかりがしているじゃないの。そこへ行ってみると――ああ、おしゃべりって、咽喉がかわくわね」
わたしは、指二本ほどジンをついでやった。女は、サイフォンのかわりと氷を取りに台所へ行った。それを割って飲んでしまうと、女は、ゆっくりと身を落ち着けて、また話をはじめた。
「行って見ると、こめかみに孔をあけられて、ティム・ヌーナンが死んでるじゃないの。そばには、ティムの拳銃が落ちていたわ。十二、三人の人が、立ってたわね、ホテルの人や、お客や、ヌーナンの手下の一人で、マックスウェインっていう探偵なんかだった。マートルは、あたしを見つけると、すぐにその人だかりからはなれた木かげへ、あたしを引っぱって、『マックスが殺したのよ、どうしましょう?』と、あのひとがいうのよ。
それで、きいてみると、話はこうなの。あのひと、ピストルの火を見たんですって。それで、はじめは、やっぱりティムが自殺したな、と、思ったんですって。ずっと離れたところにいて、それにまっ暗だったんで、ほかのものはなにも見えなかったらしいの。そばへ走って行って見ると、ティムは唸りながら、ごろごろころげまわっていたそうよ。『あの女のことで、あいつに殺されるわけはないんだ。おれは――』とそれだけで、後は、聞きとれなかったんだって。こめかみからどくどくと血を出しながら、ころがりまわっていたそうよ。
マートルは、マックスがやったんじゃないかと心配になったけど、確かめようと思って、膝をついて、ティムの頭を持ちあげて、『誰がやったの、ティム?』ときいたんですって。もうほとんど死んでいたそうだけど、息を引き取る前に、やっとのことで、『マックス!』っていったそうよ。
あの人、『どうしましょう?』って、あたしにきいてばっかりいるんで、誰かほかにティムの声をきいた人があるかってきき返すと、刑事がきいていたって、そういうの。マートルがティムの頭を持ちあげようとしているところへ、駆けつけて来たのね。ほかには誰も、きこえるような近くにはいなかったと思うけど、刑事にはきかれてしまったっていうの。
あたしは、ティム・ヌーナンみたいな間抜けを殺したぐらいで、マックスを暗いところへ入れたくなかったの。その時分は、マックスは、あたしにはなんでもなかったの、ただ好きだというだけ、ヌーナン兄弟なんか大嫌いだったわ。その刑事の――マックスウェインというのも、あたしは知ってたの。奥さんと知り合いだったの。もとは、とても気持ちのいい、生《き》一本な正直な男だったけど、警察へはいってからは、ほかの刑事と同じになっちまったわ。奥さんは、ずいぶん我慢していたけど、とうとう別れちまったわ。
その刑事を知ってるもんだから、うまく話をつけられると思うって、あたし、マートルにいったの。少し金を使えば、マックスウェインは、すっかり忘れてくれるだろうし、それが気に入らないっていえば、マックスなら、相手をのすことだって出来ると考えたの。それに、マートルは、自殺するというティムの脅しの手紙だって持っているんだし、その刑事さえうまく調子を合わせて、ティムの頭の傷は、自分のピストルのせいだということにして、その手紙と辻褄を合わせりゃ、万事うまく納められるはずなのよ。
あたしは、マートルを木かげに残して、マックスを探しに行ったの。ところが、どこにもいないじゃないの。大して人もいなかったし、ホテルのオーケストラは、まだダンスの曲をやっていたわ。マックスが見つからないんで、あたし、マートルのところへ引っ返したわ。すると、マートルはマートルで、別のことを思いついたの。あのひと、ティムを殺したのがマックスだということを知ってるのを、マックスに感づかれたくなかったのよ。マックスがこわかったのね。
あたしのいう意味がわかって? あのひと、もし自分とマックスとが仲違いでもするようなことがあった時、マックスの弱味を握っていることがわかれば、マックスが生かしておくはずがないだろうとおそれたのよ。あたしにも、その気持ちはわかるわ。それから後のことだけど、あたしにも似たようなことがあって、同じような考えから、あのひとのように小さくなっていたことがあるんですもの。それで、マックスに知れないようにして話をつけることが出来たら、それに越したことはないと、あたしたち、考えたわけよ。どっちにしろ、あたしは、表に出たくないと思っていたわ。
マートルは一人で、ティムのまわりの人だかりの方へもどって行って、マックスウェインをつかまえると、少し離れたところへ引っ張って行って、談判をしたの。いくらかお金を持っていたもんだから、二百ドルと、ボイルって男に千ドルで買ってもらったダイヤモンドの指環をやったの。あたしは、そんだけくらいではすまないで、後になって、もっとくれろっていって来るだろうと思っていたんだけど、そんなこともなかったようだわ。ちゃんとやってくれたわ。そして、うまい工合に手紙を使って、自殺の筋をでっちあげたのよ。
ヌーナンは、この筋書がなんか臭いなとはわかっていたんだろうけど、どうしても本当のところをかぎ出すことが出来なかったの。マックスがなんか事件と関係がありそうだと、ヌーナンは怪しんでいたと思うわ。でも、マックスには、水ももらさぬアリバイがあって――その点は信用していいわ――さすがのヌーナンも、とうとうマックスを除外してしまったらしいわ。でも、ヌーナンは、見かけ通りのような筋書だったとは決して信じてなかったのね。マックスウェインを首にして――警察からおっぽり出しちまったわ。
マックスとマートルとは、それから後しばらくして切れっちまったわ。喧嘩とかなんとかじゃなく――ただ、なんとなく別れちまったの。あたしの考えじゃ、それ以来、マートルは、もとのように楽な気持ちで、男のそばにいられなかったのね。もっとも、あたしが知っている限りじゃ、男のほうでは、一度だってマートルがなにか知っているとは怪しんだこともなかったらしいんだけど。あのひとも、さっきいったように、いまは病気で、長くは生きられそうにもないの。だから、きかれれば、そう大して気にもしないで本当のことをいうと思うわ。マックスウェインは、いまでも町にぶらぶらしているわ。いくらでもお金になると思えば、あの男はしゃべるわよ。まあ、この二人が、マックスの一番痛いネタを握っているわ――そうよ、ヌーナンが食いつかないはずがないわ! どう、あんたのいう騒ぎをおこすきっかけには、十分じゃなくって?」
「自殺だったとは考えられないのかね?」と、わたしはたずねた。「ティム・ヌーナンが、死にぎわに、マックスをくわえこんでやれなんて、頭のいいことを思いついたんじゃないのかね?」
「あのほら吹きのから威張りが、自分が射てるというの? とんでもないことだわ」
「マートルが射ったとは考えられないかね?」
「その点は、ヌーナンも見のがさなかったわ。でも、ピストルがなった時、マートルは、斜面を三分の一もおりてはいなかったの。ティムの頭には、すぐそばで射たれた証拠に、火薬の痕があったんだし、射たれてから、斜面をころがり落ちたんじゃなかったの。マートルは問題外よ」
「しかし、マックスには、アリバイがあるんだろう?」
「ええ、本当に。あのひとには、いつだってあるわ。あの人は、ずっと、建物の反対側の、ホテルのバーにいたんだって。四人の男が、そういったわ。あたしがおぼえてるところじゃ、その四人が、まだ誰も聞きもしないうちから、おおっぴらに、なんべんも、そういってたわ。バーには、ほかにも男の人たちがいて、マックスがいたかいなかったか、はっきりおぼえていないというのに、その四人だけは、ちゃんとおぼえていたの。その連中は、マックスのおぼえていてほしいことなら、なんだっておぼえているんだわ」
女の眼が大きくなり、それから黒いまつ毛の縁がついた一筋の線になるまで細まった。かの女は、ぐっとわたしの方へ身を乗り出すはずみに、肘で自分のグラスを引っくり返した。
「ピーク・マリーが、四人のうちの一人だったわ。あの男とマックスとは、いまはうまく行ってないから、いまなら、ピークはしゃべるかもしれないわ。ブロードウェイで、賭博場をやってるわ」
「そのマックスウェインというのは、ひょっとして、ボブという名じゃないか?」と、わたしはきいた。「豚みたいに長い顎の、がに股の男だろう?」
「そうよ。知ってるの?」
「見かけただけさ。いまは、なにをしているんだね?」
「けちないかさま師さ。どう思う、この話?」
「悪くはないね。使えるかもしれないね」
「じゃ、お金のことを話そうよ」
わたしは、女の眼の貪欲な光を見て、にやっと笑って、いった。
「まだ早いよ、ねえちゃん。金をばらまく前に、どういう手で行くか考えて見なくちゃねえ」
女は、なんていまいましいけちん坊だろうと、わたしの悪口をいって、ジンの瓶に手をのばした。
「おれは、もう沢山だ、ありがとう」といって、自分の時計を見た。「もうそろそろ、朝の五時だよ。きょうは一日、忙しいや」
女はまた、腹がぺこぺこだといい出した。そういわれて、わたしも空腹を思い出した。ワッフルだの、ハムだの、コーヒーだのが出来あがるのに、三十分か、いや、もっとかかった。それから、そいつを胃袋へ送りこんで、もう一杯コーヒーのおかわりをして、二、三本の煙草をすうのに、また少し時間がかかった。いよいよ立ちあがって帰ろうとした時は、六時をかなりすぎていた。
ホテルに帰って、水風呂にはいった。それで、どうやら元気が出た。それに、元気をつける必要があったのだ。四十になっても、ジンを睡眠の代用品として、やって行こうとすればやって行くことも出来るのだが、あまり楽なものではない。
服を着てしまうと腰をおろして、一通の書類を作った。
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ティム・ヌーナンは、死の直前、マックス・ターラーに射たれたと、わたしに告げました。かれがわたしにそういうのを、刑事のボブ・マックスウェインが聞いていました。わたしは、マックスウェイン刑事に、そのことを口外しないで自殺に見せかける口留料として、現金二百ドルと、千ドルの値打ちのあるダイヤモンドの指環を与えました。
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この書類をポケットに入れて、階下へ行き、ほとんどコーヒーだけといってもいい朝食をもう一度とって、それから市立病院へ出かけた。
面会時間は、午後ということになっていたが、コンティネンタル探偵社の身分証明書を振りまわして、誰かれお構いなしに病院の人間に、一時間遅れれば何千人の命にかかわるかもしれない、と、そうまではいわないが、それくらいのきき目のある言葉を使って、どうやら、マートル・ジェニスンに会うことが出来た。
かの女は、三階の病室に、たった一人でいた。ほかの四つのベッドは、あいていた。かの女は、二十五の娘と見れば見られたし、五十五の老婆とも見れば見られた。その顔は、ふくれた、しみだらけのお面だった。生気をうしなった黄色い髪の毛が、二筋に編まれて枕の上に長くなっていた。
わたしは、案内してくれた看護婦が行ってしまうまで、待っていた。それから、例の書類を病人にさし出して、いった。
「すみませんが、これにサインしていただけますか、ジェニスンさん?」
かの女は、はれあがった肉のかたまりのようなまぶたのために、色というもののなくなってしまった醜い眼を、わたしの方に向け、それから書類に向け、それから、やっとのことで、毛布の下から、形のわからないほどふくれあがった手を出して、その書類を手に取った。
わたしの書いた、たった五、六行の文章を、かれこれ五分間近くも、かの女は読むふりをしていた。やがて、書類を毛布の上におとして、たずねた。
「こんなこと、どこで聞いたの?」その声は、錫《すず》のような音色で、いらいらしていた。
「ダイナ・ブランドが行けといったのです」
女は、懸命な声で、たずねた。
「あのひと、マックスとわかれたの?」
「そんなことはないでしょう」と、わたしは嘘をついた。「まさかの時に使うつもりで、これを持っていたいだけじゃないでしょうかな」
「そして、咽喉でも切られたいのかしら、ばかなひとねえ。鉛筆を貸してちょうだい」
わたしは、万年筆を貸してやった。そして、わたしが手帳を書類の下にあてがって支えていてやると、女は、文章のおわりにサインをして、おわるとすぐに、わたしの手に渡した。紙を振って、インクをかわかしていると、女がいった。
「あのひとがほしいというのなら、あたしは、構やしないわ。いまになって、誰がなにをしたって、あたしがなにを気にするっていうの? あたしは、もうおしまいだもの。みんな、どうともするがいいわ!」女は、くすくすと忍び笑いをすると、いきなり毛布を、膝のあたりまでくるっとおろして、安物の白いねまきにくるまっている、恐ろしくふくれあがった肉体を見せた。「どう、気に入って? ねえ、あたしは、もうだめ」
わたしは、毛布をかけ直してやって、いった。
「サインをどうもありがとう、ジェニスンさん」
「いいのよ。あたしには、もうなんでもないんだから、ただ」――と、ふくれた顎のさきがふるえた――「こんな、きたならしい姿で死ぬのが、くやしいだけさ」
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十二 新規まきなおし
わたしは、マックスウェインをさがしに出かけた。市の居住者名簿にも、電話帳にも、なんにものっていない。公開賭博場や、煙草店や、闇酒場などへはいって行って、まずそこらを見まわしてから、用心しながらたずねてみた。それでも、なんにもわからなかった。がに股をさがして、あちらこちらの通りを歩いた。それも、収穫はゼロだった。そこで、ホテルへ帰って、一眠りしてから、夜になってさがすことにした。
ロビイのずっとむこうの隅に立って、新聞で顔を隠していた男が、わたしを見て、やって来た。がに股で、豚の顎の、その男こそ、マックスウェインだった。
わたしは、気軽にうなずいたまま、エレベーターの方へ足を運んで行った。相手はついて来て、口の中でつぶやいた。
「よう、ちょっとぐらい暇はあるんだろう?」
「うん、ちょっとならね」わたしは、無関心なふりをして、立ちどまった。
「ひと眼につかないところへ行こうよ」と、そわそわといった。
わたしは、自分の部屋へつれて行った。かれは、両足をふんばって椅子にまたがり、マッチの棒を口にくわえた。わたしは、ベッドのへりに腰をかけて、相手がなにかいい出すのを待った。男は、しばらくマッチを噛んでいたが、やがて切り出した。
「あんたと、きれいに話をつけようと思って来たんだ。おれは――」
「というと、きのう、おれに、はっぱをかけた時から、おれの素性を知っていたといいに来たんだろう?」と、わたしはたずねた。「それから、ブッシュが自分に賭けろとはお前にいわなかったと、いいに来たんだろう? それから、後になってからも、賭けなかったともな? それから、もとは刑事《デカ》だったから、やつの前科は知っていたというんだろう? それから、おれをおだてて、そのことをやつの耳に入れさせることが出来れば、ちょっと小金が儲けられると思ったというんだろう?」
「まさか、そこまでいうつもりはなかったが」と、男はいった。「だが、そういわれてみりゃ、うん、と、いうしかねえや」
「どうだい、儲けたかい?」
「銀貨で六百ばかり儲けたよ」男は、帽子をぐっと、うしろへ押して、噛んでいたマッチの棒のはしで、額を掻いた。「それから、さいころばくちで、その金をまるまると、手前の金を二百とちょっとすっちまったよ。どうだい? 魚でも釣るみたいに六百ドルひろったと思ったら、きょうは朝飯に、四ドルとちょっとねだらなくちゃならねえのよ」
そいつはひどい目に会ったが、それが世の中というものさ、と、わたしはいった。
かれは、「ふふん」といって、またマッチの棒を口に入れてから、しばらく、口の中でまわしていて、つけ加えていった。「だから、お前さんに会いに来ようと思ったんだ。おれも、もとはその商売だったんで、それで――」
「なんだって、ヌーナンは、お前をお払い箱にしたんだ?」
「お払い箱? なにがお払い箱だ? おれが追ん出たんだ。女房が自動車事故で死んだ時に、おれが気がかわったのよ――保険がとれてよ――おれが、さよならしてやったんだ」
「おれが聞いたところじゃ、弟が自殺した時に、署長がお前を追ん出したという話だぜ」
「ふん、そいじゃ、お前の聞きちがいだ。やめたのは、あのすぐ後だったさ。だけど、おれがやめたんじゃねえというんなら、野郎にきいてみるといいや」
「そんなことは、おれには大したことじゃねえ。それよりも、おれに会いに来たわけの方を、どんどん話せよ」
「おれは、一文なしのすっからかんなんだ。おらあ、お前さんがコンティネンタルの探偵《オップ》だってことも知ってるし、この土地でなにをやってるかってことも、たいがい察しがついてるんだ。この町で、両方のやつらがやってることにも、うんとくわしいんだ。なんたって、もとは刑事《デカ》なんだし、両方に手づるもあるんだから、お前さんの役に立つ事柄が、ずいぶんあるんだ」
「すると、おれのためにスパイをやりたいというんだね?」
男は、まっすぐわたしの眼を見て、開き直っていった。
「ほかになんとでもいいようもあろうに、一番いやな言葉を使うなんて、あんまり気がきかねえじゃねえか」
「じゃ、仕事をやろう、マックスウェイン」わたしは、マートル・ジェニスンの署名のある書類を取り出して、相手にわたした。「これについて、話を聞かせてもらいたいんだ」
かれは、念入りにおわりまで読んだ。読むにつれて、言葉通り唇を動かすので、マッチが口の中で、上下に動いた。読んでしまうと、立ちあがって、その紙をベッドのわたしの脇に置いて、にがい顔をして、それを見おろした。
「まず話す前に、調べなくちゃならねえことがある」と、ひどく物々しい口振りで、相手はいった。「じきにもどって来て、すっかり話そう」
わたしは、笑い出して、かれにいってやった。
「ばかなことをいっちゃいかん。お前を逃がすようなおれじゃないことぐらい、よくわかってるだろう」
「そんなこと、おれにはわからん」相かわらず物々しく、首を振った。「あんたにだってわかるまい。あんたにわかってることといえば、おれを引きとめるつもりでいるかどうかということだけだ」
「うん、引きとめるつもりだ」といって、この男は、なかなか頑丈で強そうだし、年も六つか七つは若いが、目方は二、三十ポンドは軽そうだな、と、わたしは考えた。
相手は、ベッドの足もとに突っ立って、物々しい眼つきで、わたしを見ていた。わたしはわたしで、どんな眼つきか自分にはわからないが、いつでもこういう時にするような眼つきで、相手を見ていた。こうして、かれこれ三分近くも、二人は睨み合っていた。
その睨み合いの間には、二人の間の距離を目分量で測り、もし、相手が飛びかかって来たら、いきなりベッドにうしろざまにぶっ倒れて、どう腰をひねれば、靴のかかとで相手の顔を蹴っ飛ばすことが出来るかを考えていた。ピストルを引っぱり出すにしては、相手が近すぎる。これだけの作戦計画を頭の中で仕あげたちょうどその時、相手が口を開いた。
「あんなけちな指環が、千ドルなんて値打ちがあるもんか。二百ドルで売れただけでも、大した上出来だったよ」
「腰をおろして、その話を聞かせろよ」
かれは、また首を振って、いった。
「それよりもまず、そいつをネタに、どうするつもりだか、そいつを知りてえんだ」
「ホイスパーを引っくくるのよ」
「そういうことをいっちゃいねえ。おれのことをいってるんだ」
「いっしょに、市役所まで行ってもらわなくちゃなるまいな」
「おらあ、行かねえよ」
「どうして、行かねえんだ? たった一人の証人じゃないか」
「たった一人の証人かしらねえが、ヌーナンの奴は、それがすんじまえば、収賄か共犯か、悪くすりゃ両方で、おれをしばりあげちまえるんだ。そんな機会がありゃ、奴さん、大よろこびだろう」
こんないい合いをつづけていたって、けりはつきそうにもなかった。わたしはいった。
「気の毒だが、ヌーナンに会ってもらうつもりだ」
「やれるなら、やってみろ」
わたしは、ぐっと上体をおこして、右手を腰の方へまわした。
相手は、つかみかかって来た。わたしは、ベッドに、どっと仰向けに倒れ、くるっと腰をひねって、相手をめがけて足をぶんまわした。いい手だったのだが、ただ、うまく相手にあたらなかった。相手が、あわてて、わたしに飛びかかろうとしたはずみに、どしんとベッドにぶちあたって横にずらせたので、わたしは、もののみごとに床に振りおとされた。
わたしは、仰向けに大の字なりに、床におちた。ごろんとベッドの下にころがりこもうとしながら、拳銃を引き出そうとしつづけていた。
マックスウェインはマックスウェインで、わたしをつかみそこね、力余って、低い足台を飛び越し、ベッドの縁を踊り越えて、とんぼ返りを打って、逆さになって、わたしの横へ落ちて来た。
わたしはピストルの銃口を、相手の左の眼に突きつけて、いった。
「二人を、いい道化役者にしてくれるな、お前は。じっとしてるんだぞ、おれが起きあがるまで。でないと、お前の頭に孔をあけて、脳味噌を流れ出さすぞ」
わたしはおきあがり、書類をさがしてポケットに入れ、それから、手をかして相手をおこしてやった。
「帽子のへこんだのを直して、ネクタイを前へまわせよ。いっしょに通りを歩くのに、おれが笑われるからな」と、まず相手の服を上から撫でまわして、武器らしいものを持っていないのを確かめてから、こう命令した。
「それから、このパチンコは、おれの外套のポケットに入れて、ちゃんと手をかけているってことをおぼえといた方が都合がいいぜ」
かれは、帽子とネクタイを直してから、いった。
「ねえ、聞いてくんなよ。もうこうなっちゃ、ジタバタしたって、しようがなさそうだ。な、信用してくれよ。取っ組み合いのことなんか、忘れてくれねえか? だってよ――無理に引っ張って来られたんじゃねえんで、進んで来たと思わせた方が、おれにも、ずっと風当りがねえかもしれねえだろうじゃないか」
「オーケー」
「すまねえ、兄貴」
ヌーナンは、食事に外出していた。わたしたちは、待合室で、三十分ほど待たされた。帰って来ると、いつものように、どうだね?……そいつはすばらしい……といった調子で、署長は、わたしに挨拶した。マックスウェインには、なんにもいわなかった――ただ、にがにがしげに、かれに眼を向けただけだ。
署長室へはいると、自分のデスクのそばまで一脚の椅子を引いて行って、わたしに掛けさせてから、自分も自席にかけたが、元刑事は無視してしまった。
わたしは、病気の娘の陳述書を、ヌーナンにわたした。
署長は、ちらっとそれを見たかと思うと、椅子からはねあがって、メロンぐらいの大きさの握りこぶしを、マックスウェインの顔にたたきつけた。
そのパンチで、マックスウェインはひとっ飛びに、部屋のはしまでふっ飛ばされた。壁がなかったら、どこまで飛んで行ったかわからない。壁は、その衝撃でみしみしと鳴り、ヌーナンや、そのほかの市の有力者たちが、誰だか知らないがスパッツを着けた男を歓迎している写真のはいった額が、ぶん殴られた男といっしょに床に落ちた。
でぶの署長は、よたよたと足を運んで、額を拾いあげたと思うと、それでマックスウェインの頭や肩を、つづけざまにぶんなぐって、額縁をばらばらにしてしまった。
ヌーナンは、デスクにもどり、息をはずませ、にこにこしながら、陽気にわたしに話かけた。
「こういう野郎のことを、裏切り者というのさ」
マックスウェインは、身をおこして、左右を見まわした。鼻からも、口からも、頭からも血が流れていた。
ヌーナンが、どなり立てた。
「ここへ来い、きさま」
マックスウェインは、「はっ、署長」といって、あわてて這いおきると、デスクのそばへ走り寄った。
ヌーナンがいった。「すっかりいわんと、殺してしまうぞ」
マックスウェインは、こたえた。
「はいっ、署長。そこに書いてある通りであります。ただ、あのダイヤモンドは、千ドルの値打ちはありませんでした。しかし、あの女が口留め料に、指環と二百ドルをくれたのであります。というのは、自分が駆けつけたちょうどその時が、女が『誰がやったの、ティム?』とたずねて、『マックス!』とこたえたその時だったからであります。息を引き取る前に、はっきり言っときたいというように、高い、鋭い声でいいました。それというのも、いったと思うと、すぐに死んでしまったからです。まったく、その通りでありますが、ダイヤモンドは、まるきり値打ちのないもので――」
「ダイヤモンドなんか、くそくらえだ」と、ヌーナンはほえた。「それよりも、わしの絨毯に血をたらすのをやめろっ」
マックスウェインは、ポケットをさぐって、きたないハンカチを引っ張り出し、鼻と口とを拭いてから、早口にしゃべりつづけた。
「その通りだったんです。署長。ほかのことはなにもかも、あの時にいった通りであります。ただ、マックスがやったというのを聞いたことだけは、申しあげなかったのであります。自分は、当然――」
「だまれ」といって、ヌーナンは、デスクの上にならんだ押しボタンの一つを押した。
制服の巡査がはいって来た。署長は、親指を、ぐいとマックスウェインの方へ動かして、いった。
「この旦那を地下室へつれて行って、ちっとばかり痛めつけてから、ぶちこんでおけ」
マックスウェインは、必死になって、「おお、署長!」と哀訴しかけたが、巡査は、それ以上いう間もないうちに連れて行ってしまった。
ヌーナンは、葉巻を一本、わたしに突き出し、もう一本の葉巻で、例の書類をたたきながら、たずねた。
「この女は、どこにいるんだね?」
「市立病院で、死にかけてますよ。陳述書を取りに、執行吏をやろうというんでしょう? その書類は、法律的には大して役に立つもんじゃない――きき目があるかと思って、細工してみただけですよ。もう一つ――ピーク・マリーとホイスパーとは、もう仲間別れしたってことを耳にしたんですがね。マリーも、ホイスパーが現場にいなかったと証明した一人じゃなかったんですか?」
署長は、「そうだった」といって、一つの電話器を取りあげて、「マグロオ」といった。それから、「ピーク・マリーをつかまえて、ちょっと寄れといってくれ。それから、例のナイフを投げたトニー・アゴスチをあげろ」
電話器をおろすと、立ちあがって、やたらに葉巻をふかし、その煙の中から、いった。
「いままでは、いつも、あんたとうまく行っているというわけじゃなかった」
ずいぶん控え目ないい方だと思ったが、黙って、相手が話しつづけるのをきいていた。
「きみも、自分の商売のことはよく知ってるだろう。この仕事がどういうものか、よく知ってるはずだ。あっちにもこっちにも、いうことを聞かなきゃならん人があるもんだ。ただ警察の親方だからというだけで、誰にでも親方というわけにはいかん。ことによると、わしがひどく迷惑がるような人に、あんたがひどく迷惑をかけかねないのだ。あんたが間違いのない男だと、わしだけが思ったところで、そりゃそれっきりのことなんだ。わしは、自分を仲間にしてくれる連中と仲よくやっているより仕方がなかったのだ。わしのいうことがわかるかね?」
わかるということを見せるために、わたしは、首を上下に振った。
「いままでは、そういうわけだったのだ」と、かれはいった。「だが、これからは違う。話が違って来た。新規まき直しだ。わしのお袋が死んだ時、ティムはほんの子供だったが、お袋が『あの子を頼むよ、ジョン』というんで、わしは受け合ったのだ。すると、ホイスパーが、あの渡り者の女のために、ティムを殺しやがった」ヌーナンは手を伸ばして、わたしの手をとった。「わしの考えていることがわかるかい? あれは、一年半前のことだったが、それをあんたが、はじめて、あの野郎を引っくくるチャンスを、わしに与えてくれた。わしは、はっきりあんたにいうが、このパースンビルで、あんたに大きな口をきく奴がいたら、わしが許さん。きょうからは絶対に許さん」
わたしは、うれしかったから、うれしいといった。二人がお互いに相好をくずして悦《えつ》に入っているところへ、まん丸な、そばかすだらけの顔のまん中に、おそろしく天井の方へそっくり返った鼻をくっつけた、ひょろ長い男が案内されてはいって来た。それが、ピーク・マリーだった。
「いま、わしらはティムが死んだ時のことを話し合っていたんだがね」と、マリーに椅子と葉巻とをやってから、署長が切り出した。
「あの時、ホイスパーがどこにいたかということをさ。きみも、あの晩、モック湖へ出かけていたんだったな?」
「うん」と、こたえたマリーの鼻の先が、ぐんととんがった。
「ホイスパーといっしょにかい?」
「ずうっと、いっしょじゃなかったよ」
「弾丸を射った時は、いっしょだったのかい?」
「いいや」
署長の緑色を帯びた眼が、細くなって、光を増した。そして、やわらかにたずねた。
「あの男がどこにいたか、きみは知っているんだろう?」
「いいや」
署長は、腹の底から満足したという風に、大きく息をはいて、ぐっと椅子にもたれかかった。
「よせやい、ピーク」と、署長は口を開いて、「前には、いっしょにバーにいたといったじゃないか」
「ああ、いったよ」と、ひょろ長い男は認めた。「だが、そんなことは、そう頼むから、友だちを助けてやるのに別に気にすることはねえと思っただけのことさ」
「というと、偽証罪でやられてもかまわんということかい?」
「からかっちゃいけねえ」マリーは、痰壺めがけて、威勢よく唾をはいた。「おれは、法廷なんかで、そんなことをいったおぼえはないぞ」
「ジェリや、ジョージ・ケリーや、オブライエンはどうだ?」と、署長がたずねた。「三人とも頼まれたから、いっしょだったといったのか?」
「オブライエンはそうだ。ほかの二人のことは、なんにも知らねえ。おれがバーを出ようとしていると、ホイスパーとジェリとケリーとが飛びこんで来たんで、やつらと一杯飲みにもどったんだ。ティムが殺《や》られたというのは、ケリーが教えてくれたんだ。すると、ホイスパーが、『誰でも、アリバイがあるに越したことはねえ。おれたちは、ずっと、ここにいたんだ、な、そうだろう?』といって、バーのかげにいたオブライエンを見たんだ。オブライエンが『いたとも』というと、ホイスパーがおれの顔を見たんで、おれも同じことをいったんだ。ところが、きょうになってみりゃ、なんで、おれがあの野郎をかばい立てしなくちゃならなかったのか、さっぱりわけがわからねえのさ」
「すると、ティムがやられたというのは、ケリーがいったんだね? 死んでいたと、いったんじゃないんだね?」
「『殺《や》られた』と、やつはいったよ」
署長はいった。
「ありがとう、ピーク。はじめから、いまのようにいえばよかったんだが、まあ、すんだことは、すんだことだ。ときに、子供たちはどうだね?」
マリーは、みんな元気にやっているが、赤ん坊だけは、どうも思うようにふとらない、とこたえた。ヌーナンは、検事局に電話をかけて、ダートと速記者を呼びよせ、ピークの陳述をとらせてから、かれを帰らせた。
ヌーナンと、ダートと、速記者とは、マートル・ジェニスンから完全な陳述をとるために、市立病院へ出かけた。わたしは、いっしょに行かなかった。一眠りした方がいいと思って、署長には、また後で会おうといっておいて、ホテルへ帰った。
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十三 二百ドル十セント
チョッキのボタンをはずしおわったところへ、電話のベルが鳴った。
ダイナ・ブランドだった。十時ごろから、わたしをつかまえようとしていたのだったと、不平たらたらだった。
「あたしの話してあげたこと、手をつけて?」
「ずっと吟味していたんだがね。なかなかいいネタらしいね。きょうの午後には、やっつけようと思っているんだ」
「駄目。あたしに会うまで待ってよ。いますぐ、来てもらえる?」
わたしは、まっ白な、空っぽのベッドを眺めながら、「うん」と、あまり気のりのしない声でいった。
また水風呂に飛びこんだが、さっぱりききめがなくて、危く浴槽の中で眠りこんでしまうところだった。
玄関のベルを鳴らすと、ダン・ロルフが入れてくれた。顔つきといい振舞いといい、ゆうべは、なに一つ平常と違ったことなどなかったような様子だ。ダイナ・ブランドが廊下へ出て来て、外套をぬぐのを手つだった。黄褐色の毛織りのドレスを着ているのだが、一方の肩の縫い目が二インチほどもかぎ裂きになっていた。
かの女は、わたしを居間へ案内した。チェスターフィールド式長椅子に、わたしと並んで腰をおろして、いった。
「あたし、お願いがあるの。あんた、あたしが嫌いじゃないでしょう?」
わたしは、そうだといった。女は、あったかい人さし指で、わたしの左手の指の関節を一つ一つおさえながら、その頼みというのを説明した。
「ゆうべ話したこと、あれはあの場限りにして、なにもしないでほしいの。いいえ、ちょっと待って。すっかりいうまで待ってよ。ダンのいった通りだったわ。あんな風にマックスを売るなんて、しちゃいけなかったんだわ。まったくけがらわしいことだわ。それだけじゃなく、あんたが一番やっつけたいのは、ヌーナンなんでしょう? だからさ、いい子だから、こん度だけは、マックスをそっとしといてくれれば、ヌーナンをとことんまでやっつけられるネタを、あんたにあげるわ。あんただって、その方がいいんでしょう? あんたは、あたしのことが好きだというんだから、まさか、マックスのいったことにかっとしたばっかりに、あたしが漏らしたネタを使うなんて、そんな自分勝手なことをしたいとは思わないわね?」
「ヌーナンの痛いところってのは、なんだい?」と、わたしはたずねた。
女は、わたしの二の腕の筋肉をもむようにまさぐりながら、つぶやくように、「約束してくれるわね?」
「まだ駄目だ」
女は、ふくれ面をして見せて、いった。
「あたし、死ぬまでマックスとは離れられないわ、正直な話。あんたには、あたしを裏切者にする権利はなくてよ」
「ヌーナンの話は、なんだい?」
「その前に約束してよ」
「いやだ」
女は、ぎりぎりとわたしの腕に指をくいこませて、鋭くきいた。
「あんた、もうヌーナンのところへ行ったのね?」
「うん」
女は、腕をはなし、顔をしかめ、肩をすくめて、陰気な声でいった。
「じゃ、どうしようもないわね?」
わたしは立ちあがった。すると、声がした。
「腰をおろせ」
しわがれた囁くような――ターラーの声だった。
振り返って見ると、食堂の戸口に、小さな手に大きな拳銃を握って、ターラーが立っていた。そのうしろには、頬に傷跡のある赤ら顔の男が立っていた。
もう一つの戸口――廊下への戸口も――わたしが腰をおろすと、ふさがれた。ホイスパーがジェリと呼んでいるのを聞いたことのある、だらしない口もとの、顎のない男が、その戸口から一足、居間へ踏みこんだ。そいつは、二挺、拳銃を持っていた。その肩越しに、キング通りの賭場にいた二人の金髪の若者のうちの、痩せて角張った体つきの方のが、こっちを見ていた。
ダイナ・ブランドがチェスターフィールドから立ちあがり、ターラーに背を向けて、わたしに話しかけた。その声は、はげしい怒りに、艶もやわらか味もなかった。
「これは、あたしのしたことじゃないわよ。この人が自分からここへやって来て、きのうは、あんなことをいってすまなかったといって、ヌーナンをあんたに売りわたせば、どんなに大金が手にはいるかってことを、あたしに教えてくれたんだよ。みんな罠だったのに、あたしが引っかかっちゃったのよ。本当よ! あんたに話してる間、この人は、二階で待ってるはずだったのよ。ほかのやつらのことは、あたしは、ちっとも知らなかったのよ。あたしは――」
ジェリのなに気ない声が、ものうげにいった。
「姐さんの下着のピンに一発お見舞申したら、まちがいなく腰をおろして、口をとじてくれますぜ。いいですか?」
わたしには、ホイスパーの顔は見えなかった。二人の間に、女が立ちふさがっていたのだ。ホイスパーがいった。
「いまはいけねえ。ダンはどこだ?」
角張った金髪の若者がいった。
「二階の風呂場の床にのびてまさ。ちっとばかり痛めつけてやったんで」
ダイナ・ブランドは、くるっと向き直って、ターラーの顔をまっ正面に見た。ストッキングの縫い目が、豊かな女のふくらはぎのところに、Sの字をかいていた。女はいった。
「マックス・ターラー。お前さんもけちな――」
男は、ひどく落ちついて、囁くようにいった。
「黙って、脇へ寄んな」
驚いたことには、女は、二つともいわれた通りにした。女は、ターラーがわたしにものをいう間、おとなしくしていた。
「すると、お前さんとヌーナンとは、奴の弟の一件を、おれになすりつけようとしているんだね?」
「なすりつけることなんかいらないさ。ありのままだからな」
かれは、薄い唇をまげて、いった。
「お前も、野郎に劣らねえ悪党だな」
わたしがいった。
「お前さんの方が、よく知ってるはずだ。ヌーナンが、お前さんを罠にかけようとした時、おれは、お前さんの味方をした。こん度は、当然、むこうがお前さんを縛る番だ」
ダイナ・ブランドが、またかっとして、部屋のまん中で両腕を振りまわしながら、荒れくるった。
「出てっとくれ、一人残らず。いったいなんだって、お前さんたちの下らないいがみ合いに、あたしが迷惑しなけりゃいけないんだい? とっとと出てっとくれ」
ロルフを痛めつけたといっていた金髪の若者が、ジェリを押しのけて、にやにや薄笑いを浮かべながら、部屋へはいりこんで来た。かれは、振りまわしている女の片腕をつかんで、うしろにねじあげた。
女は、身をよじって若者の方へ向き直ると、自由な方の拳で、男の胃のあたりをぐんと突いた。それこそ見事な一突き――大の男が突いたほどの力だった。男は、思わず女の腕をはなして、よろよろと二、三歩、うしろによろめいた。
若者は、大きく口を開けて、あえぐように息をはいて、腰からブラック・ジャックを抜き出して、また踏み出した。薄笑いは消えていた。
ジェリが声を出して笑った。小さな顎が見えなくなった。
ターラーが、囁き声で荒々しくいった「よせ!」
若者は、ターラーのいうことなど聞きもしなかった。歯をむき出して、女を睨みつけていた。
女は、銀貨のようなかたい顔で、若者を見つめた。ほとんど全体重を、左足にかけて立っていた。金髪がずっとそばへ寄ったのは、女に蹴飛ばされない用心だったのだ。
若者は、あいている左手でつかみかかるふりをしたと思うと、かの女の顔をめがけて、ブラック・ジャックを振りあげた。
ターラーは、もう一度、「よせ」と囁くような声でいったと思うと、発砲した。
弾丸は、金髪の右の眼の下に命中し、男は、くるりとひとまわりして、のけぞるようにダイナ・ブランドの腕の中へ倒れこんだ。
いまだと思った、そうだったかどうかはわからないが、そういう気がした。
騒ぎにまぎれて、わたしの手は、腰にまわっていた。さっと、ピストルを引き抜くなり、ターラーの肩を狙って引き金を引いた。
失敗だった。まんまん中を狙っていたら、きっと肩にあたっていたのだ。顎なしのジェリは笑ってはいたが、眼はちゃんと見ていたのだ。わたしより、一瞬、かれの射つのが早かった。かれの弾丸は、わたしの手首に焼けるような痛みを感じさせ、わたしの狙いを狂わせた。だが、ターラーをそれたわたしの弾丸は、そのうしろにいた赤ら顔の男を打ち倒した。
手首がどのくらいひどくやられたかよくわからずに、ピストルを左手に持ちかえた。
ジェリは、二発目をわたしに射とうとしていた。女が、抱きとめていた死体を、ジェリをめがけて突き飛ばした。死んだ黄色い頭が、どすんと相手の膝がしらにぶちあたった。そのよろめいた隙《すき》に、わたしは相手に躍りかかった。
躍りかかったおかげで、ターラーの弾丸はわたしをそれた。と同時に、わたしとジェリとはもつれ合って、廊下にころがり出た。
ジェリは、手ごわい相手ではなかったが、早いところ片づけなければならない。うしろには、ターラーがいる。二度なぐりつけ、一度は蹴っとばし、すくなくとも一度は拳銃の台尻で突き、下になった時には、噛みつく場所をさがした。もう一度、顎があるはずのところを突きあげて――気絶したふりをしているのじゃないことを確かめたのだ――四つん這いになって、戸口からは死角になっているところまで、廊下をいざって行った。
わたしは、壁を背にしゃがんで、ピストルをターラーのいる部屋の戸口に、まっすぐ向けて待った。しばらくは、頭の中で血がずきんずきんと鳴る音のほか、なんにもきこえなかった。
ダイナ・ブランドが、わたしがころがり出た戸口からあらわれて、まずジェリを、それから、わたしを見た。歯の間から舌の先をのぞかせて、にっこり笑いを浮かべながら、頭をぐいとまげて、部屋にもどるように合図をして見せてから、居間へ帰って行った。用心しながら、ついて行った。ホイスパーは、部屋のまん中に突っ立っていた。両手はからっぽで、顔もうつろだった。毒々しい小さな口もとをのければ、洋服屋のショウウィンドウのマネキン人形みたいだった。
ダン・ロルフが、そのうしろに立って、小男のばくち打ちの左の脇腹に、ピストルの筒先を押しつけていた。ロルフの顔は、血まみれだった。金髪の――いまは、ロルフとわたしとの間の床に死んでしまっている――若者が、よっぽどひどく痛めつけたらしい。
わたしは、ターラーににやっと笑って見せて、「なるほど、なかなか面白い」といって、ロルフの方を見ようとすると、ロルフは、もう一挺ピストルを持っていて、わたしのふとった胴のまん中に向けていた。こいつは、あまり面白くもなかった。ところが、わたしの拳銃も、いつでもぶっぱなせるように、ちゃんと狙いをつけていた。まず五分五分というところだった。
ロルフがいった。
「ピストルを下へ置け」
わたしはダイナを見た。きっと戸惑った顔をしていたことだろう。ダイナは、肩をすぼめて、わたしにいった。
「ダンの勝ちらしいわね」
「そうかね? 誰か、おれはこんなやり方は嫌いだと、その男にいってくれるといいんだがね」
ロルフがくり返していった「ピストルを下に置け」
わたしは、不機嫌にいった。
「置くなんて飛んでもねえ。おれは、その小僧を取っつかまえるのに二十ポンドも痩せたが、同じ結果のためなら、もう二十ポンドぐらい痩せたっていいんだ」
ロルフがいった。
「きみたち二人の間のことなんか、おれは面白くもないし、どっちにも味方をする気もないが――」
ダイナ・ブランドが、その間に、ぶらぶらと部屋のむこうへ歩いて行っていた。ちょうど女がロルフのうしろにまわった時、わたしは、ロルフのおしゃべりにはお構いなしに、女に声をかけた。
「いま、きみがその男を引っくり返してくれれば、間違いなく、きみには二人、味方が出来るんだぜ――ヌーナンとおれと。もうターラーは頼りにはならないんだから、助けたって役には立たないぜ」
女は、大声に笑って、こたえた。
「お金の話をしなよ、かわいい坊や」
「ダイナ!」と、ロルフが強くとめた。だが、かれは、にっちもさっちもいかなくなっていた。女は、かれのうしろにいたし、ロルフを片づけるぐらいの力は持っていた。ロルフが、かの女を射つなどということは出来そうもなかったし、それ以外には、かの女のしようと思うことをやめさせるものもなさそうだった。
「百ドルだ」と、わたしは値をつけた。
「まあ!」と、女は大声でいった。「とうとう、あんたから現ナマを切り出さしたわね。でも、それじゃ足りないわ」
「二百ドル」
「気ばったわね。でも、まだまだ、うんといえないわ」
「いくらだかいってみろ」と、わたしはいった。「ロルフの拳銃を射たせないようにするだけの金だぜ。だが、それ以上は出せないよ」
「出だしはよかったじゃないの。弱気になっちゃ駄目。もう一声、さあ」
「二百ドルと十セント。それっきりだ」
「大馬鹿ね、あんたったら」と、女はいった。「そんなことじゃ聞けないわ」
「勝手にしろ」わたしは、ターラーに渋い顔をして見せて、警告を発した。「どんなことがはじまっても、じっとしているんだぞ」
ダイナが叫んだ。
「待って! ほんとに、あんた、やる気?」
「ターラーを連れて出る、どうなろうと構わねえ」
「二百ドルとニッケル一つね?」
「そうだ」
「ダイナ」と、わたしから眼を離さずに、ロルフが声をかけた。「きみは、そんな――」
だが、ダイナは、声を立てて笑い、ぴったりロルフのうしろに寄り添うと、力強い両腕を男の体にまわし、両脇にぐっと締めつけて、両腕をおろさせてしまった。
わたしは、右腕でターラーを突きのけ、拳銃は、ターラーにつけたままで、ロルフの武器を二挺とももぎ取った。ダイナは、肺病やみの羽掻い締めをほどいた。
ロルフは、食堂のドアの方へ、二足歩いたが、「そんなことは――」といいかけて、そのまま、床にくず折れた。
ダイナは、その方へ走り寄った。わたしは、ターラーを押して廊下への戸口を通り、まだ眠っているジェリのそばを通って、電話があるのを見ておいた表階段の下の、|壁の凹み《アルコーブ》のところまで行った。
わたしは、ヌーナンを呼び出して、ターラーを捕えたことと、いまの居場所とを知らせた。
「おお、ありがたい!」と、かれはいった。「わしが行くまでは、殺さんでくれよ」
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十四 マックス
ホイスパーが逮捕されたというニューズは、またたくうちに広がった。ヌーナンと、ヌーナンが連れて来た警官たちと、わたしとが、ばくち打ちと、いまは正気に返ったジェリとを市役所へ連れこんだ時には、少なくとも百人の人間が立ちどまって、われわれを見ていた。
どの顔を見ても、みんな、うれしそうな顔つきをしていなかった。ヌーナンの部下の警官たちは――どうひいき目に見ても、みすぼらしいとしかいいようのない一団だが――緊張に青ざめた顔で、うろうろしていた。しかし、ヌーナンこそは、ミシシッピ河以西で、もっとも意気揚々たる男だった。ホイスパーを拷問《サード・デグリー》にかけなければならなかった不幸さえも、ヌーナンの幸福をそこねはしなかった。
ホイスパーは、ありとあらゆる拷問にも、毅然として堪えぬいた。自分の弁護士のほかには、誰にも口をきかないといって、頑張った。そして、ヌーナンにしてみれば、このばくち打ちを憎めば憎むだけに、かれは、この囚人に、どう手をつけることも出来ず、かといって、しかるべき救いの手にわたすことも出来なかった。ホイスパーは、署長の弟を殺した人間であり、署長は、相手の大胆不敵な行為を憎んではいたが、しかもなお、ホイスパーは、手荒に扱うことの出来ないポイズンビルの名士だった。
とうとう、ヌーナンは、この囚人をあしらうのに飽きてしまって、留置所へ――留置所は、市役所の最上階にあったが――ぶちこんでしまった。わたしは、署長の葉巻をもう一本失敬して、火をつけ、署長が、病院にねている瀕死の女からとって来た、詳しい口述書を読んだ。ダイナとマックスウェインから聞き出した以上のことは、なんにもなかった。
署長は、晩飯に自分の家へ来ないかといったが、手首が――いまでは、大げさに包帯を巻いていた――痛むからとごまかして、ことわってしまった。ほんとうは、ちょっとしたやけどほどの傷でしかなかった。
そんな話をしているところへ、二人の私服刑事が、ホイスパーを狙ったわたしのそれ弾丸《だま》を、受けとめてくれた赤ら顔の男を連れこんで来た。その弾丸は、かれの肋骨を折ったのだが、わたしたちがほかのことに気を取られて夢中になっている間に、かれは、裏口からこっそり逃げ出してしまったのだった。ヌーナンの部下たちは、ある医師の手もとから、かれをあげて来たのだ。署長は、尋問してみたものの、これというネタもつかめなかったので、そのまま病院へ送りこんでしまった。
わたしは立ちあがって、出かける用意をしながら、いった。
「あのブランドという娘《こ》が、こん度のネタを内々でくれたんです。だから、あの女とロルフとは、巻き添えにしないように頼みますよ」
署長は、それまでの二時間ほどの間で、五へん目か六ぺん目に、わたしの左の手を握った。
「あんたが、あの女のことを頼むというんだから、大丈夫引きうけたよ」と、かれは請け合った。「それどころか、あのインチキ野郎を引っくくるのに手を貸してもらったというんだから、いつでも、なんでもほしいものがあったら、ちょっといってさえもらえば間に合わせると、そうあのひとにいっておいてもらいたい」
じゃ、そういっておこうとこたえて、清潔な白いベッドのことを考えながら、ホテルへもどって行った。だが、もうかれこれ八時に近かったので、胃袋のことも面倒をみてやる必要があった。ホテルの食堂へ行って、その方をまず片づけた。
すると、革張りの椅子が、葉巻を一本すう間、ロビイで休めとわたしを誘惑した。休んだおかげで、セントルイスにいるわたしの知人を知っているという、デンバーから来た鉄道会社の監査役という男と話しこむことになった。そうこうしていると、通りの方で、さかんにピストルの音がしはじめた。
いっしょに玄関まで出て見て、射ち合いは、市役所の付近だということになった。わたしは、監査役をほっぽり出して、そっちの方へ足を向けた。
道のりの三分の二ほど歩いた時、一台の自動車が、すごいスピードで、後部の方から銃火を吐きながら、こちらの方にむかって飛んで来た。
わたしは、とある路地の入り口へとびこんで、拳銃を取り出した。車が、眼の前へ来た。街灯の光が、前の席にいる二つの顔を照らし出した。運転しているのは、見も知らぬ奴だった。もう一人の男の顔の上半分は、ぐっと引きおろしてかぶった帽子で隠れていた。下半分は、ホイスパーのそれだった。
通りのむこう側にも、わたしのいる路地と同じ横丁の入り口があって、そのずっと奥に電灯がついていた。その電灯とわたしとの間を、ちょうどホイスパーの車がうなりをあげて通って行った時、ちらっと人の影が動いた。その影は、ごみ箱かなにかのかげから飛び出したと思うと、つぎのごみ箱のかげへ、さっと隠れてしまった。
わたしにホイスパーのことを忘れさせてしまったのは、その影の男の脚が、がに股だったからだ。
巡査を一杯に乗せた車が、前の車めがけて弾丸をあびせながら、うなりを立てて通りすぎた。
わたしは、通りを突っ切って、がに股らしい人影のはいった、むこう側の横丁へ飛びこんだ。
あれが、わたしの目指す男なら、まず武器を持っているはずはなかった。そのつもりで、眼と耳と鼻とを使って、薄暗いかげというかげの中をのぞきこみながら、狭い横丁のまん中をまっすぐ進んで行った。
その横丁の四分の三ほど行ったとき、かげのなかから、影が飛び出して――ひとりの男が、遮二無二《しゃにむに》、わたしから逃げようとした。
「とまれ!」と、どなって、足音も荒く追っかけた。「とまらなけりゃ、射つぞ、マックスウェイン」
相手は、さらに五、六歩走ってから、立ちどまって、振り返った。
「なあんだ、あんたか」と、また暗いところへ連れもどされるにしても、誰に連れもどされたって、そんなことは関係がないとでもいうような口振りだった。
「そうよ」と、わたしははっきりいった。
「みんなぬけ出して、なにをうろうろしているんだ?」
「なにがなんだか、おれにもわからねえんだ。誰だか知らねえが、留置所の床に、ダイナマイトで穴をあけた奴がいるんだ。おれもほかの奴らといっしょに、その穴から出て来た。刑事《デカ》どもを寄せつけねえように、男どもが立っていたっけ。おれは、後の組に入れられて、大勢といっしょだったんだ。そのうちにばらばらになっちまったんで、横丁づたいに、山の方へ逃げこもうかと思っていたとこだったんだ。おれは、なんにもしやしなかったんだからな。どかんと穴があいたから、出て来ただけなんだ」
「きょうの夕方、ホイスパーがつかまったんだ」と、わたしはいって聞かせた。
「ちえっ! それで、こんなことになったんだな。ヌーナンも、あの男をつかまえておけねえってことは、とうに知ってるはずだがね――この町じゃ出来ねえ相談だ」
わたしたちは、まだマックスウェインが走るのをやめた地点に立っていた。
「あの男がなんであげられたか、知ってるだろう?」と、わたしはきいた。
「ふふ、ティム殺しでだろう」
「誰がティムを殺したか、お前は知っているだろう?」
「ふん? きまってら、奴がやったのさ」
「お前がやったんじゃないか」
「うむ? どうしたってんだ? あんた、正気か?」
「おれの左の手には、ピストルがあるぞ」と、わたしは警告した。
「だって、まあ聞きねえ――ホイスパーが殺《や》ったと、あの女に、ティムの奴がいわなかったというのかい? それを、お前さんは、どうしたというんだ?」
「ティムは、『ホイスパー』とはいわなかったんだぞ。おれは、女たちがターラーのことを、『マックス』と呼ぶのは聞いたが、この土地の男が、あの男のことを『ホイスパー』とよりほかに呼ぶのを、一度だって聞いたことがねえ。ティムは、|Max《マックス》といったんじゃないのだ。|Macs《マックス》と――|Macswain《マックスウェイン》のはじめの方だけをいって――すっかり、いい切らないうちに死んじまったのだ。おい、この手のピストルのことを忘れるな」
「なんのために、おれがあの男を殺すいわれがあるんだ? あいつが追いまわしていたのは、ホイスパーの――」
「そこまでは、おれにもまだわかってはいねえ」と、わたしも認めた。「だが、待てよ。お前と細君との仲はまずくなっていた。ティムは、女に眼のない奴だったな? どうやら、そこになんかあったらしいな。そいつは、調べてみりゃわかることだ。おれが、お前のことをおかしいと思いはじめたのは、お前があれっきり、あの娘から一切金を取ろうとしなかったからなんだ」
「よしてくれよ」と、かれは哀願するようにいった。「お前だってわかってるんだろう、そんな話、筋が通ってねえってことは。それなら、なんだっておれが、後までも現場にうろうろしていたんだ? ホイスパーみたいに、さっさとほかへ行ってアリバイでも作ってらあね」
「わからないかい? その時分、お前は、刑事《デカ》だった。間近にいるのが、お前には一番うってつけだった――万事順調に運ぶかどうか見とどけて――自分で始末をつけるにはな」
「そんなの、辻褄が合わねえ、なんの意味もねえってことは、お前こそ、ようく知ってるじゃねえか。たのむ、やめてくれ」
「馬鹿な話だろうとなんだろうと、おれは構わねえ」と、わたしはいった。「とに角、引っ返して、ヌーナンにそういってやる。ホイスパーに脱走されて、がっかりしているだろうから、この話を持って行ってやれば、ちっとは気がまぎれるだろう」
マックスウェインは、泥んこの横丁に膝まずいて、泣き出した。
「ああ、勘弁してくれ、いけねえよ! おらあ、署長に締め殺されちまうよ」
「立て。わめくのはよせ」と、わたしは、大声でどなった。「それなら、正直に、おれにいうか?」
かれは、哀れっぽい声で、「おらあ、署長に締め殺されるよう」
「勝手にしろ。お前がしゃべらないというんなら、おれがヌーナンにいってやる。もし、お前がすっかり、おれに打ち明ければ、おれだって、出来るだけのことはしてやる」
「どんなことをしてくれるというんだ?」と、やけになったようにたずねてから、また、おろおろ声を出しはじめた。「なんとかしてくれるったって、おれには、わかりゃしねえじゃねえか?」
わたしは思い切って、少しばかり本当のことを打ち明けてやった。
「お前は、おれがこのポイズンビルでなにをしているか、察しがついているといったね。それなら、ヌーナンとホイスパーとを喧嘩させておこうというのが、おれの手だぐらいのことはわかっているはずだ。ヌーナンに、ティムを殺したのはホイスパーだと思わせておけば、二人の仲は、いつまでも割れたままでいることになるんだ。しかし、お前がおれと組みたくないというんなら、おれたちは、ヌーナンを相手にやり合おうじゃないか」
「じゃ、署長にはいわないということなんだね?」と、相手は、懸命にたずねた。「約束してくれるんだね?」
「約束なんかしないよ」と、わたしはいった。「どうして、約束なんかしなくちゃいけないんだ? お前の首根っ子は、おれが押さえているんだからな。おれに話すか、ヌーナンに話すかだ。早く決心をしろ。夜通し、こんなところに立っちゃいられねえんだ」
とうとう、かれは心をきめて、わたしにしゃべり出した。
「どこまであんたが知ってるか、おれは知らねえが、さっきあんたがいった通り、女房の奴、ティムにのぼせあがっちまやがったんだ。おれがぐれちまったのも、そのせいなんだ。誰にでも聞いてみてくんな、その前には、まともな男だったって、誰でもおれのことをいうから。おれはね、女房のしたいことは、なんでもさせてやりたい、そういう考えだったんだ。たいてい、女房のしたいということは、おれには手に負えねえようなことだった。だが、ほかにどうしようもなかったんだ。出来れば、どんなによかったかしれねえんだ。それで、おれは、女房が出て行って、ティムと結婚出来るように、離婚書類に判を押してやったんだ、野郎が本気で結婚するつもりだと思ったもんだから。
ところが、間もなく、野郎がそのマートル・ジェニスンを追っかけまわしているって噂が、おれの耳にはいり出したんだ。おれには、そんなこと信用も出来なかった。ヘレンといっしょにしてやるために、きれいさっぱりと、女房をくれてやったんだからな。ところが、そのマートルのために、ヘレンに秋風と来やがったんだ。おれは、我慢が出来なかった。ヘレンは、そんないかさまな女じゃねえ。そうはいっても、あの晩、湖で野郎に出くわしたのは、偶然だった。野郎が別荘の方へおりて行くのを見て、おれは、後を追って行った。話をつけるにゃ、静かな、お誂え向きの場所だと思ったんだ。
どうもあの時は、二人とも、もう、ちっとばかり酒がはいっていたようだった。とにかく、二人で、火花を散らしていい争った。そのうちに、野郎はたまりかねて、ピストルを引っぱり出しやがった。野郎は、意気地なしだ。おれは、ピストルをつかんだ。もみ合っているうちに、弾丸《たま》が出ちまった。おれは、神さまに誓うが、おれがわざと射ったんじゃなくて、そういうわけだったんだ。両方がピストルに手をかけて、もみ合っているうちに、弾丸が出ちまったんだ。おれは、飛んで逃げて、木陰に隠れた。ところが、木陰にはいったとたん、野郎がうなりながら、なにかいってるのがきこえて来たんだ。そこへ、人がやって来た――一人の女の子が、ホテルから走って来たのが、そのマートル・ジェニスンだった。
おれは、引っ返して、ティムがうなっていっていることをきこうと思った。そうすりゃ、おれの立場もわかると思ったんだが、しかし、いくらなんでも、最初に駆けつけた人間がおれじゃまずいからね。だから、女が野郎のそばへ来るまでじっと待ってながら、その間、野郎がうなるのを聞いていたんだが、離れすぎているもんだから、はっきりききとれねえんだ。それで、女が野郎のそばへ来るといっしょに、おれが飛び出して、行きついたのと、奴がおれの名前をいいかけて、死んじまったのといっしょなんだ。
あの女が、自殺をするって書いた脅しの手紙と、二百ドルと、指環とを持っておれに相談をかけに来るまで、おれは、あれがホイスパーの名前だとは、ちっとも知らなかったんだ。おれは、そのへんをうろうろして、その事件を扱っているようなふりをして――そのころは、警察にいたからね――そして、自分がどうすればいいか、さぐろうとしていたんだ。そこへ、女がその話を持ちこんで来たんで、こいつはうまいぞと思ったんだ。それからずっと、あんたが古いことをほじくり出すまで、そんな風でつづいて来たんだ」
かれは、泥んこの中で、むやみに足をあげたりさげたりしながら、つけ加えていった。
「そのつぎの週に、女房の奴、殺されやがった――事故で。ううん、事故だよ。フォードを運転していて、タンナーからの長い坂道をおりて来た六番線のバスの正面にぶっつけて、それでおわりさ」
「モック湖というのは、この郡《カウンティ》のうちかい?」と、わたしはたずねた。
「いいや、ボールダー郡だ」
「じゃ、ヌーナンの管轄外だね。おれがむこうへ、お前を連れて行って、治安官《シェリフ》に引きわたしちゃ、どうだ?」
「駄目だ。治安官は、キーファー上院議員の婿だ――トム・クックだよ。ここでやられるのと同じことだ。キーファーの手を通じて、ヌーナンは、おれを手に入れられるからね」
「お前のいう通りだとすると、少なくとも、裁判で有罪か無罪か、五分五分のチャンスだぜ」
「そんなチャンスなんか、おれにくれるものか。そりゃ、五分五分のチャンスなら、やってみてもいいが――あいつらが相手じゃ、駄目だよ」
「さあ、市役所へ引っ返そう」と、わたしはいった。「口をきくんじゃないぞ」
ヌーナンは、署長室の床をよちよちと歩きまわりながら、どこかへ行ってしまいたいというような顔で立ちつくしている六人ほどの部下に、口汚く悪口雑言をあびせかけていた。
「こんなのが、うろうろしてたから、連れて来たよ」といって、わたしは、マックスウェインを前へ押し出した。
ヌーナンは、元刑事を殴ったり、蹴ったりしてから、一人の巡査に、あっちへ連れて行けとわめき立てた。
誰かが、ヌーナンに電話をかけて来た。わたしは、「さよなら」もいわずに、こっそりぬけ出して、歩いてホテルへ帰った。
北の方で、ピストルの音がきこえた。
三人の男がひとかたまりになって、こっそりあたりをうかがいながら、ぬき足さし足で、わたしのそばを通って行った。
もう少し行くと、また一人、前から来た男が、せい一杯歩道のはしまで寄るようにして、わたしをやりすごした。わたしは、そんな男は知らなかったし、むこうも、わたしを知っていそうにもなかった。
あまり遠くないところで、たった一発、銃声がひびいた。
ホテルへ着いたとき、こわれかけたような黒い幌型の車が一台、幌がふくれあがるほど人間を詰めこんで、少なくとも五十マイルは越していると思われるスピードで、通りを飛ばして行った。
それを見送って、わたしは、にやっと笑いを浮かべた。ポイズンビルは、どうやら鍋の中で煮立ちかけて来たらしい。わたしは、もうすっかり土地の人間のような気持ちになっていたので、この煮えたぎる鍋の中で、自分がひどい悪役をつとめているということさえ忘れて、まる十二時間というもの、ぐっすり眠りつづけた。
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十五 |杉の丘荘《シダー・ヒル・イン》
ミッキー・リネハンが、正午ちょっとすぎに、電話でわたしをおこした。
「おれたち、やって来たぜ」と、かれはいった。「歓迎委員会は、どこにあるんだね?」
「多分、どっかで、一杯やってるんだろう。荷物を預けて、ホテルへやって来てくれ。五三七号室だ。来たことを、やたらに広告するなよ」
二人が着いた時には、わたしは、ちゃんと着換えをすませていた。
ミッキー・リネハンは、撫で肩に、いまにも体じゅうの関節がそっくりばらばらになりそうな、ぐにゃぐにゃの不格好な体つきをした、大きな肥った男だ。両方の耳は、赤い羽根のようにぴんと立っていて、まんまるい赤ら顔には、いつ見ても、薄のろみたいな意味のないにたにた笑いを浮かべている。一見して喜劇役者のようで、また事実、そうだった。
ディック・フォリーは、子供ぐらいの背丈しかないカナダ人で、癇癪《かんしゃく》持ちらしいとげとげしい顔をしていた。背丈を高く見せるためにハイヒールの靴をはき、ハンカチに香水をふり、出来るだけ言葉を節約する男だ。
そのくせ、二人とも、探偵としては優秀なものだった。
「仕事について、|おやじ《ヽヽヽ》は、どんなことをいってたね?」と、めいめいが席に落ちつくと、わたしはたずねた。『|おやじ《ヽヽヽ》』というのは、コンティネンタル探偵社のサンフランシスコ支局長のことだ。|おやじ《ヽヽヽ》は、またの名、ポンテオ・ピラト(キリストを十字架にかけたユダヤの総督)で通っていた。というのは、死地に飛びこむような自殺的な仕事に、われわれを送り出す時でも、楽しそうに、にこにこと笑っているからだった。おとなしい、礼儀正しい初老の紳士だが、温か味というものは、絞首縄ほどにも持ち合わせていなかった。|おやじ《ヽヽヽ》の吐く息は、七月の最中でも氷柱《つらら》になるとは、社内での洒落だった。
「どうなっているのか、|おやじ《ヽヽヽ》は、あまりよく知らないようだったぜ」と、ミッキーが引きとって、「ただ、きみから応援を頼むという電報が来たとだけさ。この二日ほど、きみから、なんの報告も来ないとはいってたっけ」
「報告が行くまで、もう二、三日は待つことになりそうだな。このパースンビルについちゃ、なんか知ってるかい?」
ディックは、首を振った。ミッキーがいった。
「連中がポイズンビルといってるのを聞いただけだが、毒の町ってことなんだろう」
わたしは、自分の知っていることと、やったこととを話して聞かせた。もう少しで話がすむというところまで来た時、電話のベルに邪魔をされた。
ダイナ・ブランドのものうげな声がきこえて来た。
「もしもし! 手首の怪我はどう?」
「ほんのやけどさ。脱獄騒ぎを、どう思うね?」
「あたしのせいじゃなくってよ」と、かの女はいった。「あたしは自分の振られた役をやっただけよ。ヌーナンがようつないでおかなかったからって、お気の毒さまっていうだけだわ。あたし、きょうおひるから、帽子を買いに町へ出るのよ。もし、あんたがそこにいるんだったら、ちょっと一、二分、寄ろうかと思ってたとこなの」
「なん時だい?」
「そうね、三時ごろ」
「よし、待ってよう。それから、借りてる二百ドルと十セントも用意しとこう」
「そうしてよ」と、かの女はいった。「実は、そのために寄るのよ。はいちゃい」
わたしは、席にもどって、話をつづけた。話がすむと、ミッキー・リネハンがひゅーと口笛を鳴らしてから、いった。
「なるほど、きみが報告を送るのをおそれるのも、無理はないね。きみがやろうとしていることを聞いたって、|おやじ《ヽヽヽ》だって、あんまり手の打ちようもないだろうじゃないか?」
「おれがやろうと思っているように、ことが運べば、なにもいやなこまごましたことまで、すっかり報告しなくったっていいだろうじゃないか」と、わたしはいった。「探偵社としては、いろいろな規則や制限があるのは当り前のことだが、仕事で外へ出て来た時には、自分の出来る最善の方法でやるより仕方がないさ。ポイズンビルへ倫理だの道徳だのってものを持ちこんだところで、そんなものはみんな錆びついて一文の値打ちもなくなっちまうんだ。とにかく、報告書なんてものは、きたならしいことをこまごまと書くものじゃないよ。だから、きみたちも、おれにまず見せないで、どんなものでもサンフランシスコへ手紙を出さないようにしてもらいたいんだ」
「どういう犯罪を、おれたちに調べさせようというんだい?」と、ミッキーがたずねた。
「きみには、フィンランド人のピートを引き受けてもらいたいんだ。ディックには、リュー・ヤードを頼もう。どうせ、おれがやって来たのと同じ流儀でやらなくちゃならないだろう――つまり、行きあたりばったりさ。おれは、いまの二人がヌーナンを説いて、ホイスパーに手をつけさせないようにするだろうという気がするんだ。ヌーナンがどういう手に出るか、おれにはわからん。恐ろしく気のかわり易い奴だし、弟殺しには仕返しをしたいだろうしな」
「おれは、そのフィンランドの旦那を引き受けるったって」と、ミッキーがいった。「奴さんをどうすればいいんだい? おらあ、手前の馬鹿を自慢したくはねえんだが、まるでこの仕事と来たら、おれには天文学みたいに茫々としているからね。きみの話は万事わかったが、きみがなにを、なんのためにやったか、これからなにをやろうというのか、どうやるのか、それだけがさっぱりわからないんだ」
「まずピートをつけることからはじめればいいよ。ピートとヤード、ヤードとヌーナン、ピートとヌーナン、ピートとターラー、でなけりゃ、ヤードとターラーの間に打ちこめる楔《くさび》を握らなくちゃいけないんだ。そいつを十分に打ちこんで行くことが出来れば――というのは、やつらの結びつきをぶっこわせば――奴さんたち、お互いの背中にお互いのナイフをぶちこみっこして、おれたちのかわりに仕事をやってくれるよ。ターラーとヌーナンを噛み合わせたのは、その手はじめなんだ。だが、その噛み合いに手を貸してやらないと、逆に、おれたちに降りかかって来るだろうからね。
ダイナ・ブランドからは、もっともっとネタを仕入れられるだろう。だが、どいつを法廷に引っ張り出したって、なんの役にも立たないし、どんな証拠を握ったって、問題じゃないんだ。裁判所そのものが、奴らの縄張りの中だし、いまのおれたちには、裁判所なんてノロくって話にならない。おれ自身は、なにかの事件に巻きこまれることになるだろう。それが、|おやじ《ヽヽヽ》に嗅ぎつけられると――|おやじ《ヽヽヽ》の鼻をごまかすほどサンフランシスコは遠くないからね――きっとすぐに、|おやじ《ヽヽヽ》は電話をかけて来て、わけを聞かせろといわれるのはきまりきっている。こまかいごたごたなど隠してしまうような結果をものにしなくちゃならないんだ。だから、証拠なんかはいらない。手に入れなくちゃならんのは、ダイナマイトなんだ」
「おれたちの尊敬すべき依根主の、エリヒュー・ウイルスン氏はどうなんだ?」と、ミッキーがたずねた。「大将をどうするつもりなんだ?」
「やっつけることになるか、おれたちの味方にして手を組むか、どっちでも、おれは構わん。きみは、パースン・ホテルに泊まる方がいいだろう、ミッキー。それから、ディックは、ナショナル・ホテルにするんだな。お互いに離れていることだ。とに角、おれの首をつないでおいてくれる気なら、|おやじ《ヽヽヽ》があわてて出て来ないうちに、さっさと仕事をやってくれ。さあ、これだけは書きとめておいてくれた方がいいね」
わたしは、エリヒュー・ウイルスン、その秘書のスタンリー・リュイス、ダイナ・ブランド、ダン・ロルフ、ヌーナン、マックス・ターラーまたの名ホイスパー、その片腕の顎なしのジェリ、ドナルド・ウイルスン未亡人、ドナルド・ウイルスンの秘書だったリュイスの娘、それからダイナの元のボーイ・フレンドの左翼のビル・クイント、以上の人間の名前と、人相と、わかっている者はその住所とをいって、二人に書き取らせた。
「さあ、跳びかかってくれ」と、わたしはいった。「それから、ポイズンビルには、自分で作るほかには、法律があるなどと思ったら飛んでもないことだよ」
ミッキーは、法律なんか有ったってなくたってやってみせるから驚くな、といった。ディックは、「あばよ」といっただけで、二人は出て行った。
朝飯をすませて、市役所へ出かけて行った。
ヌーナンの緑色を帯びた眼は、一睡もしなかったようにぼんやりしていて、顔の色も、いく分、赤味がなかった。いつもと同じように熱烈に、わたしの手をポンプのように、あげたり下げたりした。声にも態度にも、いつもの通りの真心があふれていた。
「なにかホイスパーの手がかりがありましたか?」と、握手がすむと、わたしはたずねた。
「ちょっと掴んだと思うんだ」かれは、壁の時計を見、それから電話に眼をあてた。「いまにも、なにかいって来るかと待ち構えているところだ。まあ、かけたまえ」
「逃げたのは、ほかに誰々です?」
「まだつかまらんのは、ジェリ・フーパーにトニー・アゴスチの二人だけだ。後の奴らは、あげちまった。ジェリというのは、ホイスパーの影のようについている手下で、もう一人のイタリア人は、暴徒の一人だ。そいつは、あの拳闘試合のあった晩に、アイク・ブッシュにナイフを投げた奴だ」
「ホイスパーの子分で、ほかにもはいっているのがいるんですか?」
「いや、きみが射ったバック・ウォーレスをのければ、三人だけだ。ウォーレスは、病院にいる」
署長は、また壁の時計に、つづいて、自分の腕の時計に眼をやった。正二時だった。
電話の方へ向き直った。ベルが鳴った。受話器を掴んで、かれはいい出した。
「ヌーナンだ……うん……うん……うん……よし」
電話器を押しやると、ずらりとデスクの上に並んでいる真珠のボタンを、ピアノの鍵《けん》を押すように、はしからはしまで押した。署長室は、たちまち警官で一杯になった。
「|杉の丘荘《シダー・ヒル・イン》だ」と、署長はどなった。「お前は、部下といっしょに、わしについて来い、ベイツ。テリー、お前はブロードウェイを突っ走って、裏手から打ってかかれ。途中で、交通整理の奴らを全部拾って行け。いくら手があっても足らんということになりそうだからな。デュフィ、お前は部下をつれてユニオン通りへ出て、旧鉱山の道をまわるんだ。マグロオは本部を確保するんだぞ。誰でもかれでも集めて、後から追いかけさせろ。出動!」
かれは、帽子を引っ掴んで、部下の後から出ながら、がっしりした肩越しに、わたしに声をかけた。
「来たまえ、きみ、こいつは戦争だ」
かれの後について車庫までおりて見ると、六台ほどの車が、エンジンのうなりを立てていた。署長は、運転手の隣りにすわりこんだ。わたしは、四人の刑事といっしょに、うしろの座席に腰をおろした。
警官たちは、先を争ってほかの車によじのぼった。機関銃のおおいが、それぞれ取り払われた。ライフル銃や非常用の拳銃などの武器の荷や、弾薬の包みなどが分配された。
署長の車が、まっ先に飛び出した。そのはずみを食って、歯と歯がかちんとぶちあたった。車庫のドアをすれすれにかすめ、来かかった二、三人の通行人がはすっ飛びに身を避けるのを追い散らして、がたんと角石でひと跳ね跳ねて車道へ出ると、あっというほどの危いところで大きなトラックをかわし、サイレンを鳴らしっぱなしで、キング通りをまっしぐらに走り出した。
あわてふためいた往来の車は、われわれの車を通すために、交通規則などにはお構いなしに、右に左にすっ飛んだ。とても面白かった。
振り返って見ると、もう一台、警察の車が後につづき、三台目が、ブロードウェイにまがるところだった。ヌーナンは、火のついていない葉巻を噛みながら、運転手に、
「もう少しスピードを出さんか、パット」といいつけた。
パットは、おびえて動けなくなった女のクーペを、ぐいとかわしたかと思うと、電車と洗濯屋の大型車《ワゴン》の間の狭いすき間を――こちらの車がすべすべしたエナメル塗りでなかったら、通り抜けられそうもない狭いすき間をすり抜けて――いった。
「スピードを出すのはいいが、ブレーキがよくないんですぜ」
「そいつはありがたい」と、左隣りのごま塩の口ひげを生やした刑事がいったが、あまりありがたそうにはきこえなかった。
町の中心部を出はずれると、うるさい車の往来はすくなくなったが、道路の舗装が悪くなった。誰もかれもが、なんかのはずみがあれば、誰かの膝の上に尻もちをつくという、まことにありがたい三十分間のドライブだった。ことに最後の十分間は、ブレーキがよくないといったパットの言葉を、忘れてしまおうとしても忘れさせないような、丘から丘といってもいいほどの凸凹以上の道だった。
車は、門のところで、ぐるっとまわった。門には、電球がなくなる前には、『|杉の丘荘《シダー・ヒル・イン》』と読めたらしい、薄汚い電気看板がてっぺんにのっかっていた。宿屋は、その門から二十フィートほど奥のところにある、くすんだ緑色のペンキ塗りの、棟の低い木造の建物で、家のまわりは、あらかたがらくただった。玄関のドアも、窓という窓も、しめ切ってあって、ブラインドもおろしてはなかった。
われわれは、ヌーナンにつづいて車から出た。つづいて来た車も、道路のまがり角をぐるっとまわって姿を見せたと思うと、われわれの車の脇にすべりこんで、人間と武器の積荷を吐き出した。
ヌーナンが、あれこれと命令を下した。
三人一組の警官が、建物の両側にまわった。機関銃手を含んだ別の三人組が、門の脇に残った。残りの全部は、空き罐や、空き瓶や、古新聞の中を踏んで、玄関へ進んで行った。
車の中で隣りにかけていた、ごま塩の口ひげが、赤い柄の斧を握っていた。わたしたちは、ポーチにのぼった。
轟音と銃火とが、一つの窓枠の下からおこった。
ごま塩の口ひげの刑事が倒れて、赤い斧が死体の下にかくれた。
後のわれわれは、いっせいに逃げた。
わたしは、ヌーナンといっしょに走った。道ばたの、宿屋寄りの溝にかくれた。なかなか深く、縁もたっぷり高くなっていたので、ほとんどまっすぐ突っ立っていても、狙われる気づかいはなかった。
署長は、興奮していた。
「ありがたい!」と、かれは、うれしそうにいった。「やつめ。ここにいる。確かに、ここにいる!」
「あの弾丸は、窓枠の下から射って来たぜ」と、わたしはいってやった。「悪くない手だね」
「なあに、すぐに、そんな手は台なしにしてやるさ」と、陽気にいった。「根こそぎやっつけてやる。もういまごろは、デュフィがむこうの道へやって来ているはずだし、テリー・シェーンも、遠からず、その後から着くはずだ。おうい、ドンナー!」と、大きな石の陰から覗《のぞ》いている男に声をかけた。「大急ぎで裏へまわって、デュフィとシェーンが来たら、すぐにかかれといえ。ありったけの弾丸をぶっぱなさせるんだぞ。キンブルはどこだ?」
覗いていた男が、脇の樹の方へ、ぐいと親指をひねって見せた。その樹は、溝の中からでは、梢《こずえ》の方だけしか見えなかった。
「機械をすえつけたら、がらがらまわしはじめろといえ」と、ヌーナンは命令を下した。「低く、正面を横に、チーズを切るようにやるんだ」
覗いていた男の姿が消えた。
ヌーナンは、溝の中を往ったり来たりしては、時々、危険を冒して頭を溝の縁から出して、あたりを見まわしたり、そうかと思うと、部下に声をかけたり、手真似で合図をしたりしていた。
そのうちに、かれはもどって来て、わたしの脇へしゃがみ、葉巻を一本くれてから、自分のにも火をつけた。
「うまく行くぞ」と、満足そうにいった。「ホイスパーも、逃げるチャンスはないぞ。一巻のおわりだ」
樹のそばの機関銃が、火を吐いた。たどたどしく、ためすように、八発か十発。ヌーナンは、にやっと薄笑いを浮かべて、口から煙の輪を吹きあげた。機関銃が本式に射ちにかかった。まるで、忙しい、小さな死の工場のように、絶え間なく弾丸を送り出した。ヌーナンは、もう一つ煙の輪を吐き出して、いった。
「うん、あれでなくちゃいかん」
その通りだと、わたしも賛成した。粘土の溝の壁にもたれて、葉巻をふかしていると、遠くで、第二の機関銃が射ちはじめ、つづいて、第三のも射ち出した。その合い間合い間には、ライフルや、ピストルや、短銃の音が、不規則に加わった。ヌーナンは、したり顔にうなずいて、いった。
「ものの五分も、この調子でやれば、奴さんも、この世に地獄があることを思い知らされるだろう」
その五分間がすぎたので、どんな様子か、ひとつ見てみようじゃないかと、わたしはいってみた。署長の尻を押しあげてやって、その後から溝の縁を這いあがった。
宿屋は、以前の通り、さむざむとして、人っ子一人いそうにもなかったが、銃撃でいっそうひどく痛めつけられていた。むこうからは射って来なかった。こちらからは、たっぷり射ちつづけていた。
「どう思うね、あんたは?」と、ヌーナンがたずねた。
「地下室があれば、下っぱの一人ぐらいは生きてるかもしれないね」
「ふん、そんなのは、後から片づければいい」
かれは、ポケットから呼子を取り出して、むやみに吹き鳴らした。かれが、よく肥えた両腕を振ると、銃火はおさまり出した。その命令が行きわたるまで、しばらく待たなくてはならなかった。
それから、玄関のドアを打ち破った。
一階は、くるぶしが隠れるほどの酒の海だった。まだごぼごぼと音を立てて、家じゅうが一杯になるほど積みあげた、箱や酒樽に弾丸があけた孔から、酒が流れ出していた。
密造酒の強い香りに眼がくらくらとするような気がしながら、じゃぶじゃぶと歩きまわったあげく、四人の死体を見つけたが、生きている人間は一人もいなかった。死んでいた四人の人間は、職工服を着た、色の浅黒い、外国人らしい顔つきの男たちだった。そのうち二人は、ほとんど五体がばらばらになるくらいに射たれていた。
ヌーナンがいった。
「こいつらはこのままにして、外へ出よう」
その声は、元気がよさそうだったが、懐中電灯の光に照らし出されたその眼には、恐怖に血の気のなくなった輪が出来ていた。
みんなは、喜んで外に出た。もっとも、わたしは、『デワール』というレッテルの貼ってある割れていない瓶を一本、ポケットに入れる間だけぐずぐずしていた。
カーキ色の制服を着た一人の警官が、門のところで、ころがり落ちるようにオートバイから飛びおりた。かれは、大声で、わたしたちの方にわめいた。
「ファースト・ナショナルが襲われたぞ」
ヌーナンが、荒々しく呪いの言葉を吐いて、どなった。
「裏をかきゃがったな、畜生! 町へ引っ返せ、みんな」
署長と同乗して来た者をのぞいて、みんなは、武器を取りにとんで行った。そのうちの二人は、死んだ刑事をかつぎあげた。
ヌーナンは、流し目にわたしの顔を見て、いった。
「こいつは、手ごわい相手だ、馬鹿に出来んぞ」
わたしは、「うん」といって、肩をすぼめて見せ、ぶらぶらと署長の車のところまで歩いて行った。運転手は、もうハンドルの前にすわっていた。わたしは、建物に背中を向けて、パットと話をした。なにを話したのかおぼえていない。やがて、ヌーナンやほかの探偵たちもやって来た。
道路の曲がり角をまがる時、開けっぱなしたままの宿屋の戸口から、小さな炎だけがわずかに見えた。
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十六 ジェリ退場
ファースト・ナショナル銀行のまわりは、大変な群集だった。人ごみを押しわけて玄関にたどりつくと、苦が虫を噛みつぶしたようなマグロオの顔が、眼にはいった。
「覆面したのが六人でした」と、連れ立って中へはいると、かれは、署長に報告した。「襲ったのは、二時三十分ごろでした。五人は、金をさらって、きれいにずらかりました。銀行の警備員が、一人だけ倒しました。ジェリ・フーパーです。そこのベンチに、冷たくなっています。非常線も張りましたし、それぞれ電話もかけておきましたが、間に合いますかどうですか。やつらを最後に見た時には、黒塗りのリンカーンに乗って、キング通りへまがって行くところでした」
わたしたちは、ジェリの死体を見に行った。広間のベンチにねかせて、茶色の長衣《ロープ》がかぶせてあった。弾丸は、左の肩胛骨《けんこうこつ》の下に命中していた。
銀行の警備員は、悪気のなさそうな顔つきの、とんまな爺さんで、得意気に胸を張って、当時の模様を話して聞かせた。
「どうするもこうするも、はなは、手の出しようもなかったんでさ。誰も、なんにも気がつかねえうちに、ぬっとはいりこんで来やがったんで。それに、なんだか仕事だって、素早くはなかったね。ぬうと来て、悠々とさらいこみやがった。あんな時は、どうしようもないね。だが、わしゃ腹の中でいってやったんで。『いいとも、若えの、持って行きな。だが、待ってろ、手前たちがいざ逃げようとする時に、どうするか見やがれ』とね。
わしゃ、そういった通り、わしゃ、やってやったんで。やつらが出て行く後からドアのところへ飛んで行って、手馴れのピストルをぶっぱなしてやったんで。その野郎が、ちょうど車に乗りこもうとするところを、ぶっ倒してやったんでさ。大きなことをいうようだが、もう少し弾丸さえありゃ、もっとやっつけてやったんだが、なにしろ、思うようにいかねえやね、こうやって、こんなところに立っていて射つってのは――」
ヌーナンは、「やあ、まったく見事だ。まったく見事だ」といいながら、老いぼれ爺さんの背中を、息がとまるほどどやしつけて、やっと、おしゃべりをやめさせた。
マグロオは、死人にロープをかけ直しながら、どなるようにいった。
「どいつも見わけはつけられなかったらしいんです。だが、ジェリがいたところをみると、確かにホイスパーのいたずらには違いないです」
署長は、うれしそうな顔でうなずいて、いった。
「ここは、お前にまかせるぜ、マック。もうちっと、ここを突っついて見るかね、それとも、わしといっしょに市役所にもどるかね?」と、かれは、わたしにたずねた。
「いや、帰ります。人に会う約束があるし、乾いた靴とはきかえたいからね」
ダイナ・ブランドの小型のマーモンが、ホテルの前にとまっていた。かの女の姿は見えなかった。わたしは、自分の部屋へあがって、鍵はかけずにおいた。帽子と外套とをぬぎおわったところへ、ノックもせずに、かの女がはいって来た。
「あらまあ、なんて部屋を酒くさくしておくの」と、かの女はいった。
「おれの靴だよ。ヌーナンに引っ張られて、ラム酒の中を歩かされたのさ」
女は、窓のところまで突っ切って行って、窓を開け、窓枠に腰をかけて、たずねた。
「なんだって、そんなことをしたの?」
「大将は、きみのマックスが、|杉の丘荘《シダー・ヒル・イン》というごみ捨て場で見つかると思ったんだ。そこで出かけて行って、ばかばかしい殴りこみをかけて、三、四人、イタリア人を殺し、なんガロンという酒をぶちまけたあげくに、その家に火をつけて引きあげて来たってわけさ」
「杉の丘荘だって? あすこは、もう一年以上も、しめたっきりだと思ってたけど」
「そうらしかったが、誰かが倉庫に使っていたらしいね」
「でも、マックスはいなかったんでしょう?」と、女はたずねた。
「おれたちがむこうにいる間に、エリヒュー爺さんのファースト・ナショナル銀行を荒らしていたらしいね」
「あれなら、あたしも見たわ」と、かの女はいった。「銀行の二軒先の、ベルグレンの店から、ちょうど出たばっかりだったわ。自分の車に乗りこんで、ひょいと見ると、大きな男が銀行から後じさりに出て来るじゃないの、袋とピストルとを持って、黒いハンカチで顔を包んでさ」
「マックスも、いっしょだったかい?」
「いいえ、いっしょのはずがないじゃないの。ジェリや若い者にやらせたのよ。そんなことのために飼ってあるんだもの。ジェリはいたわ。車から出て来るなりわかったわ、黒いハンカチはしてたけど。みんな、黒いマスクをしてたわ。四人が銀行から出て来て、歩道のはしにとまっている車のところへ走って来たわ。ジェリともう一人の男は、車のなかにいたのよ。四人が歩道を突っ切って来ると、ジェリが飛び出して、四人を迎えに出て行ったの。そのとたんにピストルが鳴り出して、ジェリが倒れちゃったのよ。ほかの連中は、車に飛び乗って、一目散に行っちまったわ。あたしにくれるっていうお金はどうなの?」
わたしは、二十ドル札を十枚かぞえて、十セント銀貨一つとを出した。かの女は、窓際をはなれて、受け取りにやって来た。
「これは、ダンを押えて、マックスをつかまえるようにしてあげたお礼よ」といいながら、バッグに金をしまいこんだ。「どこでティム・ヌーナン殺しのネタが拾えるか、教えてあげた方の分は、どうなの?」
「そいつは、マックスが起訴されるまで待ってもらうんだね。あのネタが本物かどうか、どうして、おれにわかるんだね?」
かの女は、額に八の字を寄せて、たずねた。
「そうやって、使いもしないお金を一杯握っていて、どうするのよ?」と、急に顔を輝かせて、
「あんた、マックスがいまどこにいるか、知ってるんでしょう?」
「知らないね」
「わかったら、いくらくれる?」
「一文もやらないよ」
「百ドルなら教えてあげるわ」
「そんなんじゃ、きみの世話になりたくないよ」
「五十ドルで教えるわ」
わたしは、首を左右に振った。
「二十五」
「あの男には用がないんだ」と、わたしはいった。「どこにいたって構わない。なぜ、そのニューズをヌーナンに売りつけないんだ?」
「そうだ。搾《しぼ》ってやろう。あんたのとこは、お酒は匂いだけなの? それとも、飲めるのがあるの?」
「ここに、『デワール』と称するやつがあるぜ、きょう午後、『杉の丘』で拾って来たやつだ。鞄の中には、キング・ジョージも一瓶ある。どっちがいい?」
かの女は、キング・ジョージの方を選んだ。生《ストレート》で、一杯ずつ飲んだ。それから、わたしはいった。
「腰をおろして、そいつを相手にしていてくれよ。着換えをするから」
二十五分ほどして、浴室から出て来て見ると、かの女は、小机にむかって腰をおろし、煙草をふかしながら、わたしの旅行鞄の脇ポケットに入れてあった覚書用の手帳を、熱心に調べていた。
「これは、ほかの事件で、あんたが社に請求した費用だわね」と、眼もあげずに、かの女はいった。「あんたったら、どうして、あたしにはもっと気前よくしてくれないんだか、ほんとにいやになっちまうわ。ほら、ここに六百ドル『情』と書いたのがあるわ。誰かから買った情報のことでしょう? それから、ここに、その下の行に百五十――上――というのがあるわ、なんだか知らないけど。それから、この日なんか、千ドル近くも使ってるじゃないの」
「きっと電報だよ」といいながら、女から手帳を取りあげた。「きみは、どこで育ったんだ? 人の荷物を掻きまわしたりして!」
「あたしは、修道院で育ったのよ」と、女はいった。「あそこにいる間じゅう、毎年、品行では優等賞をもらったものよ。チョコレートに余分のお砂糖を入れる女の子は、いやしんぼの罪で地獄へ行くと思っていたもんよ。十八になるまでは、罰当りな言葉があるなんてことさえ知りもしなかったわ。そんなひどい言葉をはじめて聞いた時には、もうちょっとで気絶するとこだったわ」
かの女は、眼の前の敷物に、ぺっと唾をはき、椅子をうしろにのけぞらせて、組んだ足をわたしのベッドにのせて、たずねた。
「あんた、どう思って、それを?」
わたしは、女の足をベッドから払いのけて、いった。
「おれは、港の酒場で育ったよ。おれの部屋の床に唾をはくのをやめないと、きみの首根っ子をつかんで、ほり出すぜ」
「その前に、もう一杯飲もうよ。ねえ、市役所の新築の時に、奴さんたちがたんまり儲けた内幕話にいくら出す――あたしが、ドナルド・ウイルスンに売りつけた書類に書いてあった話にさ?」
「おれには、ぴんと来ないね。ほかのをいってみたまえ」
「リュー・ヤードの最初の奥さんが、精神病院に入れられた話はどう?」
「駄目だ」
「この郡の治安官のキングが、四年前には八千ドルも借金があったのに、いまじゃ、あんただって見たいと思うくらいの、下町の目抜きのすばらしい土地を買い占めちゃったわ。全部は、よう教えてあげられないけど、誰に聞けばいいか、教えてあげられてよ」
「もっといってごらん」と、わたしは、かの女をおだててやった。
「いや。あんたは、買う気がないのね。ただで、なにか拾おうと思ってるんだわ。これは、悪くないスコッチだわね。どこで手に入れたの?」
「サンフランシスコから持って来たのさ」
「あたしの提供するネタを、どれもこれもいらないというのは、いったい、どういうつもりなの? もっと安く、手にはいると思ってるの?」
「そういう情報は、いまのおれには、あんまり役に立たないんだ。すばしこく立ちまわらなくちゃいけないんだ。おれのほしいのは、ダイナマイトだよ――やつらを、ばらばらに吹き飛ばすようなものだ」
女は、大声に笑って、飛びあがった。大きな眼が、きらきらとかがやいた。
「あたし、リュー・ヤードの名刺を一枚持ってるわ。あんたがとって来たデワールの瓶に、その名刺をつけて、ピートにとどけてやるのはどう。ピートは、それを宣戦布告ととらないかしら? 『|杉の丘《シダー・ヒル》』がお酒の隠し場だったのなら、ピートのよ。その瓶と名刺とで、ヌーナンがリューの手先になって、あすこへ殴りこみをかけたと、ピートに思わせるんじゃないかしら?」
わたしは、ちょっと考えてから、いった。
「お粗末すぎるね。そんなことで、あの男はだまされないよ。それに、いまのところ、おれは、ピートもリューも二人とも、署長と喧嘩させておきたいと思ってるんだ」
女は、ふくれっ面をして、いった。
「あんたは、なにからなにまで知ってるつもりでいるのね。まったく、つき合いにくい人だわ。こん晩、どっかへ出かけない? みんなが眼をまわすような着物を新調したのよ」
「よかろう」
「八時ごろに、迎えに来てよ」
女は、温かい手で、わたしの頬を軽くたたいて、「はいちゃい」といって、出て行った。ちょうどその時、電話のベルが、りんりんと鳴り出した。
「おれの南京虫とディックの南京虫とが、いっしょに、きみのお客のところにいるぜ」と、ミッキー・リネハンが電話で報告して来た。「どうも、おれの南京虫は、二つの寝床をかかえた腕っこきよりも、忙しそうにしてたっけよ。もっとも、なにを目論んでるのか、まだわからんがね。なにか新しいことはないかい?」
別になにもないとこたえてから、わたしはベッドの上に寝ころんで、ヌーナンの『|杉の丘荘《シダー・ヒル・イン》』襲撃と、ホイスパーのファースト・ナショナル銀行襲撃とから、つぎにはなにが出て来るだろうかな、と、一人で想像をたくましくした。エリヒュー爺さんの邸で、爺さんと、フィンランドのピートと、リュー・ヤードの三人が集まって、なにを話し合っているのか、そいつを盗み聞きするような力でもあったら、なんか聞き出せたのにちがいないのだが、生憎、そんな力も備えてはいなかったし、それに、もともと、想像をめぐらすなどということは、あまり得意ではなかったので、三十分ほどして、自分の頭を苦しめることはやめにして、眠ってしまった。
うたた寝から眼をさましたのは、かれこれ七時だった。顔を洗い、服を着換え、ポケットにピストルと、一パイント入りのスコッチの小瓶とを押しこむと、ダイナの家に出かけた。
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十七 レノ
かの女は、わたしを居間へ連れて行って、ずっと後ずさりしてから、くるっとまわって見せて、新調の着物が気に入ったかどうかと、わたしにたずねた。気に入ったと、わたしはへんじをした。かの女は、色はローズ・ペイジだとか、脇につけた変なのは、なんだとか、かんだとか、腕を振りまわしながら、いろいろ説明をして聞かせた。
「それで、ほんとに、あたしによく似合うと思って?」
「なんだって、きみには似合うよ」と、わたしはいってやった。「リュー・ヤードと、フィンランドのピートとが、きょう午後、エリヒュー爺さんを訪ねて行ったぜ」
かの女は、わたしに顔をしかめて見せて、いった。
「あたしの着物のことなど、ぽちっともいわないのね。いったい、あの連中、なにをしたっていうの、あすこで?」
「やかましい会談だろうね」
かの女は、うわ眼使いに、わたしの顔を見て、たずねた。
「ほんとに、あんた、マックスのいどころを知らないの?」
それで、わたしはわかった。いままで知らずにいたといってみたところで、なんの役に立つものでもなかった。それで、わたしはいった。
「ウイルスンのとこだろう、多分。だが、そいつを確かめるほどの興味は持っていなかったのでね」
「そいつは、あんたもとんまというもんよ。あの男には、あんたとあたしを憎むわけがあるんじゃないの。ママのいうことをきいて、さっさと、あの男をつかまえるのよ、自分の命が大切なら、ママの命も大切だと思うなら」
わたしは、大声に笑って、いってやった。
「もっと悪いことを、きみは知らないんだ。マックスは、ヌーナンの弟を殺したんじゃないんだぜ。ティムは、『マックス』といったんじゃないんだ。『マックスウェイン』といおうとしたんだが、いい切らないうちに死んじまったのさ」
かの女は、わたしの両肩をむずとつかんで、百九十ポンドのわたしの体をゆすぶろうとした。ゆすぶりかねないほどの強い力だった。
「畜生、畜生、畜生!」かの女の息が、熱く、わたしの顔にかかった。その顔色は、その歯と同じほどに白かった。まっ赤な紅が、唇や頬にまっ赤なレッテルを貼りつけたように、くっきりと浮き出した。「あんたが、あの人に濡れぎぬをきせようと悪だくみをして、あたしにも、あの人をおとしいれるようにさせたのだったら、あの人を殺してしまわなきゃ駄目よ――いますぐ」
たとえ、相手が若い女であろうと、その女が、いきり立てば、神話の中からでも出て来たように凄く美しかろうと、乱暴に扱われるのはあまり好きではない。わたしは、女の両手を肩からもぎはなして、いった。
「わめくのはよせよ。きみは、まだ生きてるじゃないか」
「そうよ、まだ生きてるわよ。でも、あたしの方が、あんたよかマックスという男のことを、よく知っててよ。あの人をおとそうとして悪だくみをした人間が、どのくらい命を永らえるチャンスがあるかぐらい、あたしは、ちゃんと知ってるのよ。ちゃんとした証拠を握ってやったって、ひどいことになるのに、それがしかも――」
「そんなに大騒ぎをするなよ。おれは、何百万人も罪におとして来たが、なんのこともなかったよ。帽子と外套を着ろよ。飯を食いに行こう。そうすりゃ、ずっと気分がよくなるぜ」
「あたしが出かけるなんて思ってるんだったら、あんた、気ちがいだわ。そんなことがなくたって――」
「よせよ、姐ちゃん。そんなに物騒な男なら、ここにいようがどこにいようが、やられるさ。どこだって、違いはないじゃないか?」
「違う――それよりも、あんた、どうしなきゃいけないか、知ってんだろう? あんたはね、マックスが消えてなくなるまで、ここにいるんだよ。みんな、あんたのせいなんだから、あたしを守ってくれなきゃいけないのよ。ダンさえ、いないんだもの。病院にいるのよ、あの男」
「おれはいられないよ」と、わたしはいった。「しなきゃならん仕事があるんだ。きみは、なんでもないことにふるえあがってるんだ。マックスも、もういまごろは、きみのことなんか、すっかり忘れてしまってるよ。いいから、帽子をかぶって、外套を着たまえ。おれは、腹がぺこぺこだよ」
女は、またわたしの顔に、ぴったり顔を寄せた。その眼は、なにか、恐ろしいものを見つけでもしたように、わたしの眼の中を見詰めた。
「まあ、あんたって、あきれたわね!」と、女はいった。「あたしがどうなろうと、鼻も引っかけないのね。ほかの人間を利用するのと同じように、あたしを利用だけしてるのね――あんたの必要なダイナマイトとして。あたしは、あんたを信用していたのに」
「きみがダイナマイトだってことは、間違いないよ。だが、そのほかのことは、馬鹿げてるよ。きみは、楽しそうにしている時の方が、ずっときれいだ。きみの目鼻立ちは、大振りだから、怒ると、まったく野獣のようになるね。とに角、おれは、腹がへって死にそうだよ、きみ」
「ここで食べるのよ」と、女はいった。「暗くなってから、あたしを引っ張り出そうなんてしないでよ」
女は、本当にその気だった。ローズ・ペイジの服を、エプロン姿に換えて、冷蔵庫の中の物を取り出した。じゃがいもに、レタスに、罐詰めのスープに、フルーツケーキが半分。わたしは外へ出かけて行って、二人前のステーキと、パンと、アスパラガスと、トマトを買って来た。
帰って来ると、女は、一クォート入りのシェイカーに、ジンとベルモットと、オレンジ・ビタスとを、振っても動くすき間がないほどに入れて、懸命に振っていた。
「なんかかわったことがあって?」と、女はたずねた。
いかにも好意を持っているように、ふんとおどけた顔をして笑って見せた。二人は、カクテルを食堂へ持ちこんで、料理が出来るまでの間、グラスを乾し合った。何杯もあけるうちに、かの女は、ひどく元気になった。食事にかかるころには、ほとんど恐怖を忘れてしまったようだった。かの女は、大して上手な料理人とはいえなかったが、二人は、かの女がすてきにうまい料埋を作ったのを感嘆するように、舌づつみを打って食べた。
晩餐の最後は、二杯のジン入りジンジャエールだった。
女は、これから遊びに出かけようといい出した。あんなけちなちびの小悪党が、あたしを家に閉じこめとけるなんて思ったら飛んでもないことだ。だって考えてもごらん。あたしは、これまであの男には貸しも借りもなしに来たのに、あの男がやっかいなことを持ちこんで来たからいけないんだ。あたしのしたことが気に入らなければ、勝手に木へのぼるなり、池に飛びこむなりするがいいんだ。だから、二人で『|銀の矢《シルバー・アロウ》』へ行こう。はじめから、あんたを連れて行くつもりだったのだ。というわけは、レノに、きっとかれのパーティに行くと約束したからなんだ。だから、きっと出るんだ。出ないなんて思う奴がいたら、そいつは、とんちきの気ちがいだ。あんたは、どう思う、それを?
「レノって誰だい?」と、わたしはたずねながら、女がエプロンの紐をほどこうとして、間違った方を引っ張って、ますます結び目がかたくなるのを見ていた。
「レノ・スターキーよ。あんた、好きになってよ。いい男よ。あたし、お祝いの会に出るって約束したのよ。だから、行くんだ」
「なんのお祝いだい?」
「いったい、どうしたってんだろう、このエプロン? レノは、きょうの午後、保釈で出て来たのよ」
「むこうを向いてごらん、ほどいてやるから。なにをやって入れられてたんだい? 動かずに、じっとしてるんだよ」
「六、七ヵ月前に、金庫破りをやったのよ――宝石屋のターロックで。レノに、パット・コリンズに、黒ん坊のホエーレンに、ハンク・オマラに、それから、一足半というあだ名のびっこの男とで。大物にかくまわれていたんだけど――リュー・ヤードという――ところが、宝石商組合のお雇いの探偵が、先週、その連中の仕事だってことを突きとめちゃったの。だもんだから、ヌーナンも仕方なしにつかまえちゃったんだけど、そんなことは、なんでもないのさ。きょうの五時に、保釈で出て来て、もうこれでおしまいよ、噂にも出なくなるわ。レノなんか馴れたもんよ。これまでにも、三度も保釈で出ているんだ。どう、あたしが着換えるうち、もう一杯飲んだら」
『銀の矢』は、パースンビルとモック湖の中ほどにあった。
「悪くない店よ」と、例の小型のマーモンで行く途中、ダイナは、わたしにいった。「主人のポリー・デ・ボートってのも、いい女よ。それに、なかなかいいものを食べさせるの、ウイスキーだけは別だけど。いつ飲んでみても、ちょっと死骸からしぼったような味がするのよ。あんた、きっと、あの女が気に入るわ。騒々しくさえしなければ、なにをやってもいいの。やかましいのだけが、ポリーは嫌いなんだって。ほうら、あすこよ。木の間から、赤と青の灯火《あかり》が見えるでしょう?」
森を抜けると、道路のすぐ近くに、むやみに電灯で飾り立てた、お城まがいの旅館の全貌が見えた。
「やかましいのが嫌いだってのは、なんのことだい?」と、ぱん、ぱん、ぱん、と鳴りひびくピストルのコーラスに耳を傾けながら、わたしはたずねた。
「なにかあったんだわ」と、女は口の中でつぶやきながら、車をとめた。
二人の男が、一人の女を両脇からかかえて引きずるようにして、旅館の玄関から走り出したかと思うと、暗闇の中へ駆け去った。横手のドアからも一人の男が飛び出して、行ってしまった。ピストルは、鳴りつづけていた。閃光は、まるきり見えなかった。
また一人、飛び出して来て、裏手の方へ姿を消した。
正面の二階の窓から、一人の男がぐっと身を乗り出した。その手には、黒いピストルを握っていた。
ダイナが強く息をはいた。
道ばたの生け垣のところから、窓の男を目がけて、オレンジ色の閃光が、さっと走った。窓からも、下向けに閃光が走った。窓の男は、さらにぐっと乗り出した。生け垣からは、第二の閃光は走らなかった。
窓の男は、片脚を窓枠にかけ、両手でぶらさがって、下へ飛びおりた。
ダイナが、ぐっと車を前へ出した。かの女は、下唇を強く噛みしめていた。
窓から飛びおりた男は、四つん這いから、起きあがろうとしていた。
ダイナが、わたしの顔の前に、ぐっと顔を出して、叫んだ。
「レノ!」
男は跳ねおきて、わたしたちの方へ顔を向けた。三足で道をわたって、近づいたこちらの車に飛びついた。
レノの足が、わたしの前のステップにかかる前に、ダイナが小型マーモンの扉を大きく開けていた。わたしは、両腕でかれの体を、肩の骨が脱臼しそうになりながらも、抱きとめた。レノは、抱きかかえられながら、まわりから弾丸を浴びせかけて来る拳銃に応戦しようとして身をもがいたので、わたしを痛い目に会わせたのだ。
それも、たちまちおわってしまった。車は、危険区域を出て、パースンビルとは反対の方向に突っ走り、『銀の矢』の灯も見えなくなり、騒ぎの音もきこえなくなった。
レノは、体の向きを変えて、ようやく落ち着いた。わたしは、腕を引っこめた。どの関節もみんな、まだ使えることがわかった。ダイナは、運転に懸命になっていた。
レノがいった。
「ありがてえ。拾ってもらって、助かった」
「いいのよ、そんな挨拶なんか」と、かの女はいった。「あんたのやるパーティって、ああいう調子なの?」
「呼びもしねえお客がやって来やがってね。タンナー街道を知ってるだろう?」
「知ってるわ」
「そっちへ行ってくれ。そこから、マウンテン・プールバードへ出て、町へ帰れるよ」
女はうなずいて、少しスピードをおとして、たずねた。
「呼ばないお客って、誰?」
「おれに手出しをすると危ねえことをよく知らねえ、やくざどもだ」
「あたしの知ってる連中?」と、いかにもなにげない風にたずねながら、ずっと狭く、悪い道へ車をターンさせた。
「よけいなことを聞くなよ、姐ちゃん」と、レノはこたえた。「おりる時に、乗った時と同じ人数がいた方がいいだろうじゃないか」
女はまた、マーモンで、一時間十五マイルを出そうとして骨を折った。かの女は、車を道から飛び出させないようにするだけで手一杯だったし、レノはレノで、車にかじりついているだけで手一杯だった。二人とも、いくらか舗装のましな道へ出るまで、口もきき合わなかった。
そこまで来ると、レノがたずねた。
「お前、ホイスパーをチャイしたってな?」
「ふふ」
「お前が密告《さ》したって噂だぜ」
「そういうだろうね。あんたは、どう思うの?」
「捨てるのはいいさ。だが、刑事《デカ》とぐるになって、闇討ちをかけるなんざ、いやなこったな。大嫌いだ、お前がきくからいうんだが」
そういう間、レノは、わたしの顔を見ていた。三十四、五の、かなり背の高い男で、ふとってはいないが、どっしりとした、立派な体つきだ。大きな眼は、茶色で、鈍く、やや血色の悪い、長い馬面に、その眼が、ひどく間が離れてついている。まるきりユーモアのない、鈍感な感じだが、それでいてなんとなく、いやなところはない顔だ。わたしは、その顔を見返したが、なんにもいわなかった。
女が、「あんたがそんな風に思うんなら、あんたは――」と、いいかけた。
「おい、見ろ」と、レノが咽喉の奥でいった。
車は、一つのカーブをまがったところだった。行く手の道のまん中に、真横向きに、一台の長い黒塗りの車がとめてあった――バリケードだ。
弾丸が、われわれのまわりを飛んだ。レノとわたしが、まわりへ弾丸を飛ばしているうちに、女は、小型のマーモンをポロの馬のようにあやつった。
ぐっと、道の左手へハンドルを切って、左の車輪を高く、土手に乗りあげたかと思うと、こん度は、レノとわたしの重味を内側にかけて、もう一度、道を横切り、二人の重味がかかっているのに、われわれの乗っている方の車体が浮きあがりかかったほどに、右側の土手に左の車輪を乗りあげ、ようやく敵を後に必死に道を飛ばして、いくらかその場を遠ざかった時には、二人とも、ピストルはからっぽになっていた。
かなりの人数が、かなりの射ち合いをやったのだが、眼にしたかぎりでは、誰の弾丸も、誰も傷つけなかったようだ。
レノは、肘をドアに突っ張って、自動拳銃に新しい弾丸を詰めかえながら、いった。
「すばらしい運転だね、姐ちゃん。よく思い通りに車をあやつったもんだな」
ダイナがきいた。「こん度は、どっちへ行くの?」
「まず遠くへ離れよう。この道なりに走ってくれ。その間に考えよう。町にはいる道を全部、ふさいじまやがったらしいな。とにかく、走りつづけてくれ」
わたしたちは、さらに十マイルか十二マイル、パースンビルから離れた。五、六台の車とすれ違ったが、追跡されているような気配はなかった。短い橋が、車の下でごろごろと音を立てた。すると、レノがいった。
「坂をのぼり切ったところで、右へまがってくれ」
右に折れると、泥んこ道が木立の間をうねうねとまがりくねって、ごつごつした岩尾根の丘の中腹をくだっていた。ここでは、一時間十マイルでも、よっぽどスピードを出している方だった。のろのろと五分ばかり行くと、レノがとまれといった。なんにも見ず、なんにも聞かずに、そのまま暗闇の中に三十分、じっとしていた。すると、レノがいった。
「この道を一マイルばかり行ったところに、からっぽの掘立小屋があるはずだ。そこで、夜を明かすとしようじゃないか? こん晩のうちに、もう一ぺん、町へ押しこもうなんて正気の人間のすることじゃねえ」
ダイナは、もう一ぺん射たれるくらいなら、どんなことだって我慢するといった。わたしは、なるべくなら町へ帰る道を探して見たかったが、おれもいいよと、いった。
泥んこの道を、用心しながら辿って行くと、やがて、ヘッドライトが小さな板張りの家を照らし出した。一度もペンキなど塗り直したこともないほど、ひどくはげちょろけた家だ。
「これがそう?」と、ダイナがレノにきいた。
「うん。おれが見て来るから、ここにいてくれ」
かれは、わたしたちから離れて行ったが、すぐに、ヘッドライトに照らされている小屋の戸口に姿をあらわした。南京錠に鍵をさしこみ、がちゃがちゃやって、錠をはずし、ドアを開けて、なかへはいって行った。やがて、戸口へ出て来て、声をかけた。
「大丈夫だ。はいって、ゆっくりしてくれ」
ダイナは、エンジンをとめて、車を出た。
「車のなかに、懐中電灯はあるかい?」と、わたしはたずねた。
女は、「あるわ」といって、それをわたしに渡して、あくびをした。「やれやれ、くたびれた。小屋に飲むものでもあればいいんだけどな」
スコッチの小瓶を持っているというと、それを聞いて、かの女は元気になった。
小屋は、一部屋きりの建物で、茶色の毛布のかかった軍隊用のベッド、一組のトランプとべとべとするようなポーカーチップののった勝負用のテーブル、赤っちゃけた鉄のストーブ、四脚の椅子、石油ランプ、皿、ポット、鍋、バケツ、罐詰食品ののっかった三段の棚、一山の薪、一台の手押し車、そんな物があった。
わたしたちがはいって行くと、ランプに火をつけていたレノがいった。
「そうひどくはねえだろう。おれは、車を隠してくら。その後で、朝までゆっくりしよう」
ダイナは、ベッドに近寄り、毛布をめくって見て、いった。
「なにか、いるかもしれないけど、大したこともなさそうだわ。さあ、そのお酒を飲ましてよ」
わたしは、小瓶の栓を抜いて、かの女にわたした。レノは、車を隠しに出て行った。女が飲みおわると、わたしも一口飲んだ。
マーモンのエンジンの音が、だんだんかすかになった。入り口のドアを開けて、外を見た。丘の下の方の、木や藪の間から、白い光りが、ちらちらと見えたり隠れたりしながら、遠ざかって行くのが見えた。すっかり見えなくなってから、部屋へもどって来て、女にたずねた。
「きみは、これまでに、歩いて家へ帰ったことがあるかい?」
「なによ?」
「レノが車を持って行っちまったよ」
「まあ、けちな奴! でも、とにかく、ベッドのあるところに置いてってくれて、助かったわ」
「そんなわけには行かないよ」
「だめ?」
「だめさ。レノは、この小屋の鍵を持っていたろう。まあ十中八、九、あの男を追っかけている奴らも、そのことは知ってるだろうね。だから、われわれをここへ置き去りにして行ったのさ。われわれが、その連中とごたごたいい合っていりゃ、少しでも、追手の足を遅らせることになると考えたのさ」
女は、がっかりしたように寝床から立ちあがって、レノや、わたしや、アダム以来のあらゆる男を呪う言葉をはいてから、不機嫌にいった。
「あんたは、なんでも知ってるのね。じゃ、これからどうすればいいの?」
「外の、あまり遠くないところに、なるべく気持ちのいいところを見つけて、どういうことがはじまるか様子を見るんだね」
「じゃ、毛布を持って行くわ」
「一枚ぐらいはいいだろうが、それ以上持ち出すと、怪しまれるぜ」
「怪しまれたって知るもんか」と、ぶつぶついいながらも、一枚だけしか持ち出さなかった。
ランプを吹き消し、ドアに南京錠をかけて、懐中電灯の光をたよりに、草むらのなかの小道をひろって行った。
少しのぼった山ふところに、小さなくぼみが見つかった。そこからは、茂みの間から、道路も小屋も、どうやら見えるし、明かりを見せさえしなければ、茂みが深いので見られる気づかいはなかった。
毛布をひろげて、その上に落ち着いた。
女は、わたしにもたれかかって、地面がじめじめしているとか、毛皮の外套を着ているのに寒くてかなわないとか、脚が痙攣するとか、煙草が吸いたいとか、さまざまな不平をならべ立てた。
小瓶からもう一口、酒を飲ませてやった。それで、十分間ほどは静かになった。
それから、かの女はいった。
「風邪を引きそうだわ。来るか来ないか知らないけど、誰か来るころには、町まできこえるほど、咳やくしゃみが出るわよ」
「一ぺんでもやってみろ」と、女にいって聞かせた。「首を絞められちまうぜ」
「鼠だか、なんだか、這ってるわ、毛布の下を」
「なあに、蛇ぐらいのもんだ」
「あんた、結婚してるの?」
「そんな話、よせよ」
「じゃ、結婚してるのね?」
「してないよ」
「なくって、奥さんよろこんでるわよ」
なにかうまい文句をいって、しっぺ返しをしてやろうと考えていると、遠くからヘッドライトが、道を照らしながらのぼって来た。しっ、と、女に声をかけたと思うと、その光が消えた。
「なによ、あれ?」と、女がたずねた。
「ヘッドライトさ。消えちゃったよ、もう。お客さんたちは車をおりて、後は、歩いておいでになるらしい」
かなりの時がたった。女は、頬をわたしの頬にくっつけて、ぶるぶると震えた。足音がきこえ、黒い人の影がいくつも、道路を歩いたり、小屋のまわりを動きまわるのが見えたような気がした。見えたのか、見えなかったのかは確かではないが。
やがて、小屋のドアに、懐中電灯のまるい光があたったので、その疑いはおしまいになった。重々しい声がいった。
「女を出せ」
三十秒ほど、しんと静まり返って、内側からのへんじを待っているらしかった。また同じ重々しい声が、「来るか?」とたずねた。それから、またしんとした。
一発、こん晩はおなじみになってしまった音が、あたりの静けさを破った。なんかで、板をたたきつける音がした。
「行こう」と、わたしは、女にささやいた。「奴らが、がたがたやっている隙に、車を失敬しよう」
「よしなさいよ」といいながら、出かけようとするわたしの腕を、女は引きとめた。「もう今夜はたくさんだわ。ここにいればいいのよ」
「行こう」と、わたしは頑強にいい張った。
女は、「あたしは、いやよ」といって、動こうともしない。そうやって、いい争っているうちに、手遅れになった。下の男たちは、ドアを蹴破ってはいり、小屋がからっぽなのを見ると、わめき声をあげて車を呼んだ。
車が来て、八人の男を積みこむと、レノの逃げた方へ、丘をおりて行った。
「もう一度、小屋へはいってもいいだろう」と、わたしはいった。「こん晩のうちに、舞いもどって来ることもあるまい」
「その小瓶に、スコッチが残っていればありがたいんだけどな」といいながら、女は、わたしの手につかまって立ちあがった。
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十八 ペインター通り
小屋に置いてあった罐詰類には、朝食として、われわれの食欲をそそるような物は、一つもなかった。トタンのバケツにあった腐りかけた水で、コーヒーをわかして、食事がわりにした。
一マイル歩くと、一軒の百姓家にたどりついた。そこにいた一人の若者が、大して気にもかけずに、四、五ドルで、自家用のフォードで町まで送ることを承知してくれた。若者が、むやみに事情を聞き出そうとするのに、わたしは、でたらめのへんじをするか、黙っていた。キング通りの上手の小さな料理店の前でおろしてもらって、そば粉のケーキとベーコンを、たっぷり詰めこんだ。
タクシーがわたしたちをダイナの家の戸口におろしたのは、九時ちょっと前だった。かの女に頼まれて、屋根裏から地下室まで、すっかり調べて見たが、お客が来た形跡はなかった。
「こん度は、いつ来てくれるの?」と戸口までついて来て、かの女はたずねた。
「ま夜中までには来ることにしよう、四、五分でも。リュー・ヤードは、どこに住んでるんだ?」
「ペインター通りの一六二二番地よ。ペインターというのは、ここから三つ目の通り。それから四つ上手のブロックが、一六二二番地よ。なにしに、そんなところへ行くの?」まだへんじをしないうちに、わたしの腕に両手ですがりついて、哀願するように、いった。「マックスをつかまえてくれるわね? あたし、あの人がこわくてたまらないのよ」
「もう少し後で、ヌーナンをけしかけて、あの男をつかまえさせるかもしれないがね。それも、これからの成り行きによるよ」
女は、わたしのことを、自分のけちな仕事がすむまでは、ひとがどうなろうと気にもかけない、二股膏薬《ふたまたこうやく》のなんとか野郎だとかなんとか、さんざん毒づいた。
わたしは、ペインター通りへ行った。一六二二番地は、赤煉瓦建ての家で、玄関のポーチの下に、車庫があった。
一ブロック先の通りに、運転手なしの貸しビュイックにおさまっているディック・フォリーを見つけた。わたしは、かれの隣りに乗りこんで、たずねた。
「なにをしているんだ?」
「二時、見つけた。出た、三時半、つけた、ウイルスン。ミッキー。五時。帰宅。賑やか。見張り継続。三時終了。七時。まだなし」
察するところ、つぎのようなことを、わたしに報告するつもりらしい。つまり、前の日の午後二時に、リュー・ヤードの姿を、はじめて見かけ、三時半に外出するのをつけて、ウイルスンの邸まで行った。すると、同じくピートをつけて来たミッキーに会った。リュー・ヤードは、五時に、ウイルスンの邸を出て、自宅へ帰った。この家には、人の出入りが盛んにあったが、誰も尾行せず、けさの明けがたの三時まで見張りをつづけ、いったんホテルに帰り、七時にもどって来て見張りについたが、それからいままで、誰も出入りをするのを見かけないということらしい。
「ここはやめて、ウイルスンの邸を見張ってくれ」と、わたしはいった。「ホイスパーのターラーが、あの家に居すわっているという話だから、ヌーナンにあの男を引き渡すかどうか、おれが腹をきめるまで、眼を離さずにいてもらいたいんだ」
ディックはうなずいて、エンジンにスイッチを入れた。わたしは、車を出て、ホテルにもどった。
|おやじ《ヽヽヽ》から電報が来ていた。
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ゲ ンザ イノシゴ ト」ヒキウケタジ ジ ヨウ」シキュウテガ ミデ シラセ」ニッポ ウモオクレ
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わたしは、電報をポケットに押しこんで、急速に事態が進行してくれないと困るなと思った。この際、|おやじ《ヽヽヽ》が要求するような報告を送ることは、わたしの辞表を送るのも同じだ。
新しいカラーを頸にまきつけて、市役所へ急いで行った。
「やあ」と、ヌーナンがわたしを迎えた。「きみが来てくれればいいがと思っていたところだ。ホテルに連絡したんだが、きみがずっと帰らんといっとったよ」
けさは、あんまり元気らしくなかったが、それでも、うれしそうな握手の仕方で、気がかわって、わたしに会えたことを本当に喜んでいるようだった。
腰をおろしたとたんに、いくつかある電話の一つが鳴り出した。かれは、受話器を手にあてて「うむ?」といって、しばらく耳を傾けていたが、「そりゃ、きみが自分で行った方がいいね、マック」とこたえて、受話器を元の通り置こうとしたが、手もとが狂って、やり直しをしなければならなかった。顔色は、少し青ざめていたが、わたしに話しかけた時の声は、ほとんどいつもの通りだった。
「リュー・ヤードがやられた――たったいま、自分の家の玄関の階段をおりて来るところを射たれたそうだ」
「ほかに詳しいことは?」とたずねながら、ディック・フォリーを、ペインター通りから引きあげさせるのが、一時間早すぎたのがくやしかった。まったくひどい失敗だった。
ヌーナンは首を振って、自分の膝のあたりを見詰めていた。
「現場を見に出かけようじゃありませんか?」と促しながら、立ちあがった。
ヌーナンは、立ちあがるどころか、顔もあげなかった。
「よそう」と、飽き飽きしたように、自分の膝にむかってこたえた。「打ち割ったところをいうと、行きたくないんだ。いまの有様では、我慢し切れるかどうか、自分でもわからんのだ。この殺し合いにうんざりして来た。いや、わしが――わしの神経がやり切れなくなって来た、ということさ」
わたしは、また腰をおろして、かれの元気のなさについて考えてみた。そして、たずねた。
「誰が殺したんだろうね?」
「わかるもんか」と、口の中でこたえた。「みんなが、みんなを殺し合っているんだ。どこまで行ったら、けりがつくというんだろう?」
「レノがやったと思いますか?」
ヌーナンは、ぎくっとして、顔をあげて、わたしを見かけたが、思い直して、同じ言葉を繰り返していった。
「わかるもんか」
わたしは、別の角度から、かれに当ってみた。
「ゆうべの『銀の矢』のたたかいでは、誰かやられたのかね?」
「三人きりだ」
「誰々でした?」
「きのうの五時に保釈になったばかりの、|黒ん坊《ブラッキー》のホエーレンに、パット・コリングズという闇酒屋が二人と、愚連隊のドイツ人のジャック・ワールとだ」
「どうしたっていうんです、いったい?」
「ただの大喧嘩じゃないかな。パットやブラッキーや、そのほかいっしょに保釈になった連中が、大勢友だちを集めて祝い酒をやっていて、そのはてが射ち合いになったんだろうな」
「みんな、リュー・ヤードの子分ですか?」
「そういうことは、なんにも知らん」と、かれはこたえた。
わたしは立ちあがって、「やあ、わかりましたよ」といって、ドアの方へ行きかけた。
「待ってくれ」と、かれは呼びとめた。「そんな風にして行かないでくれ。みんな、あんたのいう通りらしいよ」
わたしは、元の席にもどった。ヌーナンは、机の上をじっと見ていた。その顔は、塗り立てのパテのように、蒼白で、弱々しく、じっとり脂が浮いていた。
「ホイスパーは、ウイルスンの邸にいますよ」と、わたしは知らせてやった。
署長は、ぐいと頭をもたげた。眼の色が陰気だった。やがて、口もとをゆがめて、またがっくりと頭をたれた。眼の色が褪せた。
「わしには、もうやって行けん」と、つぶやくように口の中でいった。「この殺し合いには、胸が悪くなって吐きそうだ。もう、これ以上、我慢が出来ん」
「平和になれるんなら、ティム殺しの仕返しをしようという考えをすててもいいと思いますか?」と、わたしはたずねた。
「うん」
「あれが、そもそものはじまりだったんですよ」と、わたしは、署長に思いおこさせた。「あんたの方から手を引く気になれば、殺し合いはやめられるはずですよ」
署長は顔をあげて、犬が骨を見るような眼で、わたしを見た。
「ほかの連中も、あんたと同じように、うんざりしているはずです」と、わたしは言葉をつづけた。「連中に、あんたの気持ちを話すんですね。集まって、和解することですよ」
「わしが、なんかたくらんでいると思うだろうな」と、みじめないい方で反対した。
「ウイルスンの邸で会合をしなさい。ホイスパーは、あすこにいるんだから。あすこへ行くってことになれば、あんたの方こそ、たくらみにかかる危険を冒すわけですからね。おっかないですか、それが?」
かれは、顔をしかめて、たずねた。
「きみもいっしょに行ってくれるか?」
「お望みなら」
「ありがとう」と、かれはいった。「わしも――わしも、やってみよう」
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十九 講和会議
約束の時間の、その晩の九時に、ヌーナンとわたしがウイルスンの邸に着いた時には、講和会議のほかの代表たちは、みんなそろっていた。みんな、わたしたちにうなずいたが、それ以上の挨拶はなかった。
フィンランドのピート一人だけが、これまで一度も会ったことのない人間だった。この闇酒屋は、大きな体つきの、すっかり禿げあがった五十男だ。額が狭くて、顎が恐ろしく大きく――幅が広い上に、筋肉がふくれあがって、がっしりとした顎だ。
われわれは、ウイルスンの図書室のテーブルをかこんで席についた。
エリヒュー老人が、一番上席についた。まん丸い桃色の頭の短く刈りこんだ白髪が、電灯の光を受けて銀のように光っていた。丸くて碧い眼は、毛深いまっ白な眉毛の下で、きびしく、人を威圧するようだ。口も顎も、どっちも横一文字に平らだ。
その右隣りに、フィンランドのピートが腰をおろして、またたき一つしない小さな黒い眼で一同を睨みつけていた。レノ・スターキーが、その闇酒屋のつぎに席をしめた。レノの血の気のない馬面は、その眼と同じように鈍重だ。
マックス・ターラーは、ウイルスンの左隣りの椅子にふんぞり返っていた。この小男のばくち打ちは、ていねいにプレスしたズボンをはいた脚を、無雑作に組んでいる。その固く結んだ口のはしから、巻煙草がぶらさがっていた。
わたしは、ターラーの隣りに腰をおろした。ヌーナンがそのつぎにすわった。
エリヒュー・ウイルスンが、開会の挨拶をした。
挨拶の要旨は、つぎのようだった――事態は、このまま放任しておくわけには行かん。われわれはみな、分別のある、道理というもののわかる大人であって、誰であろうと、なんでもかんでも自分の思い通りになるものではないということが、よくわかっているほど世の中を見て来た者ばかりだ。妥協というものは、時には、誰でもしなければならないものなのだ。自分の望みをかなえるためには、他人の望みもかなえてやらなくてはならんものなのだ。いまや、われわれがなによりも望んでいるところのものは、この気違いじみた殺し合いをやめることだと、自分は信じておる。万事を卒直に話し合うことが出来れば、このパースンビルを屠殺場に化することなく、一時間で結末をつけることが出来ると、自分は信じている。
まずい演説ではなかった。
爺さんの演説がすむと、ちょっとの間、沈黙がその場を支配した。ターラーは、なんかいうのを待ち受けるように、わたしを越してヌーナンの顔を見た。後の者もそれにならって、警察署長の方を見た。
ヌーナンは、顔をまっ赤にしながら、うわずった声で話し出した。
「ホイスパー、わしは、きみがティムを殺したことを忘れるよ」かれは立ちあがって、厚ぼったい手の平を差し出した。「この手は、そのためだ」
ターラーの薄い口もとがまがって、毒々しい微笑が浮かんだ。
「お前さんの弟は、殺されてもいいインチキ野郎だったが、殺したのは、おれじゃねえぜ」と、冷やかに、囁き声でいった。
署長の顔の、赤が紫になった。
わたしは、先をこして、大声でいい出した。
「待ちたまえ、ヌーナン。そういうことではまずいよ。みんなが、洗いざらい話をしなけりゃ、なんにもならない。さもないと、かえって、いままでよりもひどいことになるよ。ティムを殺したのは、マックスウェインだ。あんたも、知ってることじゃないか」
ヌーナンは、あきれてものもいえないという眼で、わたしを見詰めた。驚いて、息がとまりそうだった。わたしになにをいわれたのか、はっきりわからないようだった。
わたしは、わざと、飛び切り有徳な紳士のような顔をして、ほかの連中に眼を向けて、たずねた。
「この問題は、これで片づいたでしょう? こん度は、後の不平にきまりをつけようじゃありませんか」わたしは、フィンランドのピートに話しかけた。「きのう、あんたの倉庫がやられて、四人殺された事故をどう思います?」
「ひでえ事故さ」と、ピートは、咽喉を鳴らすようにこたえた。
わたしは、説明して聞かせた。
「ヌーナンは、あんたがあすこを使ってるとは知らなかったんだ。あすこを空き家だと思って乗りこんで行ったので、要は、町の中で仕事をする邪魔者を追っぱらうためだった。あんたの子分が先に射って来たので、ヌーナンは、ターラーの隠れ家にぶちあたったと、本気に思いこんじまったのだ。あんたの領分に踏みこんだと気がついた時には、すっかりのぼせてしまって、あすこに火をつけちまったのだ」
ターラーは、眼と口とに、こわばったような弱い微笑を浮かべて、わたしを見守っていた。レノは、相かわらず面白くもなさそうな無神経な顔だった。エリヒュー・ウイルスンは、油断のない、鋭い眼をして、ぐっと、わたしの方へ身を乗り出していた。ヌーナンがどんな顔つきをしていたか、わたしにはわからない。この際、かれの方へ眼を向けるわけには行かなかった。わたしは、自分のカードの出し方さえ間違えなければ、有利な地位に立てるが、間違ったら、飛んでもないことになるどたん場だった。
「やつどもは、やったことの報いを受けただけだ」と、フィンランドのピートがいった。「もう一つの方は、二万五千ドルで手を打とう」
ヌーナンは、すかさず、勢いこんでしゃべった。
「いいとも、ピート。それだけ、きみに払おう」
その声のあわてふためいた調子に、わたしは、唇を噛みしめて、大声に笑い出しそうになるのを我慢した。
もうこれで、かれの方を見ても安全というわけだった。かれは、すっかり打ちひしがれ、気力も衰えて、肥えた頸さえ助かることなら、いや、助かる望みさえあれば、どんなことでも喜んでやる気だった。わたしは、そのかれの顔を見た。
かれは、わたしの方を見ようともしなかった。誰の顔も見ないようにして、すわっていた。かれは、わたしのおかげでほうりこまれた、この狼どもの巣窟から、八つ裂きにされないうちに逃げ出せるものと思いこんでいるような、そしらぬ顔つきをしようとして懸命になっていた。
わたしは、エリヒュー・ウイルスンの方に向き直って、さらに仕事を進めた。
「あんたは、自分の銀行が襲われたことについて、文句がおありですか、それとも、あれでいいんですか?」
マックス・ターラーが、わたしの腕に手をふれて、いい出した。
「お前さんの知っていることを、まずいってもらえると、誰が文句をいう資格があるか、よくわかるんじゃねえかな」
わたしは、喜んでそうすることにした。
「ヌーナンは、きみを逮捕しようと思っていた」と、わたしはホイスパーにむかって、「しかし、その前に、ヤードやここにいるウイルスンから、きみのことには構わずにおくという、言質をとったか、いや、とりたいと思っていた。そこで、銀行を襲って、その罪をきみに負わせてしまえば、きみの後楯になっている連中も、きみを見すてて、きみを逮捕させてくれるだろうと、考えたわけだ。ヤードは、町じゅうでどんな騒ぎがおこっても、黙っていてくれると思われていたのだと、おれは睨んでいる。きみは、ヤードの縄張りを荒すことになるんだし、ウイルスンの金をまきあげている。見かけは、そういうことになるんだからね。そうすれば、二人とも腹を立てて、ヌーナンがきみを縛るのを手つだってくれるだろう、とそう思われていたのさ。きみがここにいようとは、ヌーナンも思いもよらなかったのさ。
レノとその子分たちは、留置所にいた。レノは、ヤードの子分だが、親分に弓を引くことぐらい気にもかけない男だ。もうその前から心の中では、リューの手からこの町を、自分の縄張りに取りあげるつもりになっていたところだった」わたしは、レノの方を向いて、きいた。「そうじゃないかい?」
レノは、無表情にわたしを見て、こたえた。
「そりゃ、お前さんの話だ」
わたしは、自分の話をつづけた。
「ヌーナンは、きみが『|杉の丘《シダー・ヒル》』にいるという情報をでっちあげて、信頼出来ない巡査どもを全部、ブロードウェイの交通巡査まできれいにさらって、連れて行ってしまった。そうすりゃ、レノは、邪魔一つない道を、大手を振って行けるというわけさ。マグロオと、残っていた部下どもは、レノとその一味を、豚箱からぬけ出させて、仕事をさせ、また元通りもぐりこませる方の芝居をやってのけた。アリバイは、立派なものだ。それから、二、三時間後には、連中は、保釈で出て来た。
どうもリュー・ヤードの方は、味噌をつけたというとこらしいね。リューは、ゆうべ、ドイツ人のジェイク・ワールや、そのほかの若い者を『銀の矢』へやって、レノやその一味の者に、ああいう手前勝手な真似をするなと教えようとした。ところが、レノは、逃げて、無事に町へ帰って来た。そうなると、レノか、リューか、どっちかということだ。だから、どちらかにきめようとして、レノはけさ、リューが出て来るところを、玄関でピストルを持って待ち構えていて、はっきりきめてしまった。レノの見込みは正しかったというわけだ。というのは、現にいま、リュー・ヤードが氷詰めになっていなかったら、当然すわっているはずの椅子に、レノがちゃんとおさまっているところを見るとね」
誰もかれも、腰をおろしたまま、しんとしていた。まるで、誰もかれも、どのくらいしんとして腰をおろしているかに、注意を引こうとでもしているようだった。この場にいる者のうち、誰一人として、これこそ仲間だとして当てに出来る相手を持っている者はなかった。誰にしたところで、迂闊に身動き一つ出来る場合ではなかった。
かりに、わたしのしゃべったことが、どっかで痛いところに触れたとしても、それを色に出すようなレノではなかった。
ターラーが、そっと囁くように、いった。
「お前さん、少し飛ばしたんじゃないのかい?」
「ジェリのことだろう?」わたしは、一座の中心を保った。「いま、その話にもどろうとしていたところだ。きみが留置所を破って飛び出した時、ジェリも逃げて、後でつかまったのか、それとも、逃げなかったのか、逃げなかったとしたらどういうわけがあったのか、その辺のことは一切、おれは知らない。それからまた、あの男がどの程度まで進んで、銀行荒しについて行ったのかも知らない。しかし、いっしょに行ったことは行ったのだ。行って、銀行の前で、車からおとされて後に残された。それというのも、あの男が、きみの右の腕で、あの男が殺されたということで、きみのやったことだと見せることが出来るからだ。あの男は、いよいよ逃げるという時まで、車の中にじっとさせられていた。いよいよという時になって、押し出されて、背中を射たれた。射たれた時は、銀行の方を向いて、車に背中を向けていた」
ターラーは、レノを見て、囁くような声でいった。
「そうか?」
レノは、鈍い眼でターラーを見返して、おだやかにきき返した。
「それがどうした?」
ターラーは立ちあがって、「おれは抜けるよ」といって、ドアの方へ足を運んだ。
フィンランドのピートがすっくと立ちあがり、大きな骨張った両手をテーブルに突いて、胸の奥から出て来るような声で呼びかけた。
「ホイスパー」そして、ターラーが立ちどまって、かれの方に向き直ると、「これだけは、お前にいっとく。ホイスパー、お前にだが、みんなにもだ。こんなやくざなピストル騒ぎはやめだ。みんな、わかったな。みんな、どうすれば一番いいか、わかるような頭はねえんだから、おれが教えてやる。こんな風に、おおっぴらに町をぶっつぶし合ってるのは、商売のためにならねえ。おれは、もうごめんだ。お前たちがおとなしくしなければ、おれがおとなしくさせてやる。
おれには、ピストルを胸に突きつけられたって、びくともしねえ若え者が山ほどいる。おれの商売には、そういう若え者がいるんだ。そいつらを、お前たち相手に使わなくちゃならねえとなったら、おれは使うぞ。お前たちは、火薬やダイナマイトで遊びてえというのか? それなら、おれが遊び方を教えてやる。戦さが好きだってのか? それなら、おれが相手になってやる。おれがいったことを忘れるな。それだけだ」
フィンランドのピートは、腰をおろした。
ターラーは、しばらく考えているようだったが、なにを考えたのか、口からも出さず、顔にも出さずに、出て行った。
かれが出て行ったことが、ほかの連中をじっと落ち着いていられないようにしてしまった。誰かほかの人間に、手近なところに武器をかき集めさせる間、じっと、そこに残っていたいという者は一人もなかった。
僅か数分のうちには、図書室には、エリヒュー・ウイルスンとわたしとだけになってしまった。
わたしたちは、腰をおろしたまま、お互いに顔を見合わせた。
やがて、老人がいった。
「警察署長になっちゃどうだね、きみ?」
「いいや。わたしは、つまらん使い走りが役どころですよ」
「あの連中のことをいっとるんじゃない。やつらをすっかり追っぱらった後のことだ」
「そして、やつらと似たような連中を集めた時でしょう」
「馬鹿をいう」と、老人はきめつけるように、「おやじにしてもいいほどの年寄りをつかまえて、もうちっと優しい口のきき方をしたって、損にはなるまい」
「悪口の出放題をいっておきながら、年のせいにしてしまう人にはね」
怒りが、その額に、静脈を青く浮き出させた。と思うと、大声で笑い出した。
「減らず口をたたく奴だ」と、老人はいったものの、「だが、わしが払っただけの仕事をしなかったとは、わしにもいえんのう」
「まだまだうんと、あんたに手つだってもらわなくちゃ」
「乳母がほしかったのか? わしは、きみに金をやって、勝手なことをさせた。それが、きみの要求じゃった。そのほかに、なにがほしかったのじゃ?」
「あんたは、老海賊ですよ」と、わたしはいっておいて、「わたしが、あんたを脅かして、この仕事に肩を入れさせたんだが、あんたは、いままでずうっと、わたしの邪魔ばかりしていたじゃありませんか。しかも、やつらがお互いに食い合って、死に物狂いになっていることがわかっている時でさえそうなんですからね。そして、いまになって、わたしのためにしたようなことをおっしゃるんですからね」
「老海賊か」と、老人は繰り返していった。「きみ、わしが海賊じゃなかったら、いまでもまだ、アナコンダで日給で働いとるじゃろうし、パースンビル鉱業会社なんというものもなかったろうね。きみも煮ても焼いても食えん変わり者らしいが、わしもな、きみ、頭を坊主刈りにするところにもおったことがあるのじゃ。気に入らんことも、いろいろあった――こん晩まで知らなかった、一段といやなこともあったのじゃ――だが、わしはとりこになっていたようなものじゃから、時の来るのを待つよりどうしようもなかったのじゃ。そうだろう、あのホイスパーのターラーがこの家に来てからというものは、わしは、自分の家にいながら囚人同様じゃったのじゃ、いまいましい人質じゃ!」
「手ごわいね。それで、これからは、どっち方になるんです?」と、わたしは問いつめた。「わたしの尻押しをしてくれますか?」
「勝ち目があればね」
わたしは、立ちあがって、いった。
「あの連中につかまってしまえばいいよ、あんたなぞ」
かれはいった。
「きみこそつかまるだろうが、わしはつかまらんよ」老人は、楽しそうに眼を細くして、わたしを見た。「わしは、きみに金を出しとるのじゃ。それが、わしがよく思っとる証拠じゃないかな? そんなに、わしにつらく当るなよ、きみ、わしはな、こう見えても――」
わたしは、「勝手にしろ」といいすてて、部屋を出た。
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二十 阿片チンキ
つぎの角に、ディック・フォリーが、貸し自動車におさまっていた。その車で、ダイナ・ブランドの家の一区画手前まで送らせて、後は歩いた。
「ひどく疲れてるようね」と、かの女の後から居間へはいると、そうたずねた。「仕事をしてたの?」
「ある講和会議に出席していたんだが、その会議のおかげで、少なくとも、あと一ダースは、人殺しがおこるだろうな」
電話が鳴った。かの女が出て、わたしを呼んだ。
レノ・スターキーの声だった。
「きっと、あんたが聞いたら喜ぶだろうと思ったんでね、ヌーナンがやつの家の前で、車から出るところを、めちゃめちゃに射たれて、いっちまった。あれほどはっきり死んだやつを見たこともねえ。たしかに三十発は、ぶちこまれたろうね」
「ありがとう」
ダイナの、大きな碧い眼が、へんじを催促していた。
「講和会議の最初の収穫だ。刈り取ったのは、ホイスパー・ターラーさ」と、わたしは知らせてやった。「ジンは、どこにある?」
「レノが知らせたのね?」
「うん。ポイズンビルに、警察署長がいなくなったことを聞いたら、おれが喜ぶと思ったんだろうな」
「というと――?」
「ヌーナンが、こん夜、いっちまったのさ、レノのいう通りだと。ジンはないのかい? それとも、おれにねだらせるのが面白いのか?」
「あるとこぐらい知ってるじゃないの。やっぱり、あんたの筋書にあったことなの?」
わたしは、台所へ行って、冷蔵庫の天井を開け、氷割りを氷にたたきつけた。その氷割りは、丸い青と白の柄に、長さ六インチもある、鋭い錐《きり》のついたやつだった。女は、戸口に立って、いろいろ問いかけた。わたしは、へんじもしないで、二つのグラスに、氷と、ジンと、レモン・ジュースと、ソーダ水とを入れた。
「なにをしてたっていうの?」と、めいめい、飲み物を持って食堂にもどりながらも、女はきいた。「あんた、ぞっとするような顔をしててよ」
テーブルにグラスを置き、その前に腰をおろして、わたしは、ぶつぶつとこぼし出した。
「このいまいましい町は、おれをとりこにしようとしてやがるんだ。大急ぎで逃げ出さないと、土地っ子と同じように血に飢えた馬鹿になっちまいそうだ。いままで、どんなことがあったというんだ? おれが来てからでも、一ダース半の人間が殺されたじゃないか。ドナルド・ウイルスン、アイク・ブッシュ、|杉の丘《シダー・ヒル》では四人のやくざと刑事《デカ》が一人、ジェリ、リュー・ヤード、『銀の矢』では、ドイツ人のジェイクに、黒ん坊のホエーレンに、パット・コリングズ、おれに射たれた巡査の大男のニック、ホイスパーがここで倒した金髪の若者、エリヒュー爺さんの家へ忍びこんで来たこそ泥のちびのヤキマ、それから、こん度のヌーナン。一週間にもならないうちに、十六人で、まだまだありそうだ」
女は、にがい顔をわたしに向けて、強い声でいった。
「そんな顔しないでよ」
わたしは、大声に笑って、いいつづけた。
「おれは、これまでにも、必要に応じて、一つや二つの人殺しを仕組んだことはある。だが、こんなに熱をあげたことは、これがはじめてだ。それこそ、この呪われた町のせいだ。ここじゃ、まともには歩けねえんだ。いきなり、おれ自身が巻きこまれちまった。エリヒュー爺さんにそっぽを向かれた時には、奴さんたちをお互いに噛み合わせるしか、どう手の打ちようもなかった。おれのやれるような一番いい方法で、うまく仕事をさばくしかなかった。その一番いい方法ってのが、こんなにおびただしい人殺しになったからって、ほかに、どうしようがあったというんだ? エリヒューが後押しをしてくれない以上、こうするよりほか、どんな方法でも、この仕事はさばけなかったんだ」
「いいじゃないの、ほかにどうしようもなかったのなら、下らないことをむやみに騒ぎ立てたって、なんの役に立つというの? いいから、お酒でも飲みなさいよ」
わたしは、グラスを半分あけた。すると、もっとしゃべらずにはいられないような、衝動を感じた。
「あんまり人殺しの相手になっていると、人間というものは、二つあるうちのどちらかになる。いや気がさして来るか、好きでたまらなくなるかだ。ヌーナンは、前の方になった。ヤードがやられてからというもの、あの男は、いまにもへどを吐きそうに、まっ青になって、和解のためなら、どんなことでも進んでしようとした。そこで、おれは、あの男を説き伏せて、ほかの生き残った連中と寄り合って、みんなの意見の違いを話し合ったらどうだといってみた。
それで、こん晩、ウイルスンの邸で、会議を開いた。なかなかいい顔振れだった。おれは、なにもかも洗いざらい話し合って、みんなの誤解を取り払ってやろうとしているようなふりをして、ヌーナンを素っ裸にして、やつらの前にほうり出してやった――ヌーナンとレノとをだ。それで、会議はめちゃめちゃだ。ホイスパーは、抜けるといい切った。ピートは、みんなをおどかした。戦《いくさ》ごっこは、自分の闇酒の商売には邪魔だから、いまから先、なにかはじめた奴には、自分の手下の酒の番人どもをさし向けるから、そのつもりでいろといった。ホイスパーは、平気な顔をしていた。レノもそうだった」
「あの二人なら、そうでしょうね」と、女はいった。「ヌーナンにはなにをしたの、あんたは? つまり、どんな風に、ヌーナンとレノを裸にしたっていうの?」
「はじめから、ヌーナンが、ティムを殺したのはマックスウェインだということを知っていたんだと、ほかの連中にいってやった。おれがみんなにしゃべった話のうちで、嘘はこれだけだ。それから、銀行強奪は、レノと署長とが組んでやったことで、ホイスパーの仕業と見せかけるために、ジェリをつれて行って、やっつけたんだということを、みんなに話してやった。きみがおれに話した通り、ジェリが車から出て、銀行の方へ行きかけて、射たれたというのが本当なら、そういう段取りになるってことが、おれにはわかったんだ。弾丸のはいった孔は、背中にあったんだからね。強盗団の車を最後に見た時には、車がキング通りへまがるとこだったというマグロオの話とも、ぴったり辻褄が合うじゃないか。やつらは、市役所へ帰るとこだったんだ、留置所にいたというアリバイをつくるためにな」
「でも、銀行の警備員は、ジェリを射ったのは自分だと、いったんじゃなくって? 新聞には、そう出てたわよ」
「あの男は、そういったさ。しかし、あの爺さんは、そう信じて、しゃべってるのさ。きっと眼をつぶって、弾丸がなくなるまで射ちまくったのだから、倒れた人間は誰でも、自分が射ったつもりでいるんだろう。きみは、ジェリが倒れるのを見たんじゃなかったのかい?」
「ええ、見たわよ。銀行の方を向いてたわ。でも、あんまりごちゃごちゃしてたんで、誰が射ったかわからなかったわ。とても沢山の人が射ってたし、それに――」
「うん。やつらは、そこまで考えに入れていたんだ。それからまた、レノがリュー・ヤードを射ったことも――少なくとも、おれには、事実だと思えるんだが――その事実も、みんなに広告してやった。あのレノという奴は、無法な悪党だね? ヌーナンなんて奴は、すっかり気が抜けたように元気がなくなっちまったが、レノって奴は、『それがどうした?』といっただけさ。その様子たるや、どこからどこまで、立派な紳士のようだったよ。やつらは、公平に二つに割れた――ピートとホイスパー、対、ヌーナンとレノさ。ところが、どいつもこいつも、なんかやり出そうとすると、仲間のつもりでいた相手が、一人として信用出来なくなっちまったんだ。そして、会のおわるころには、その仲間もすっかり割れてしまっていた。ヌーナンは、勘定外だ。レノとホイスパーとは、お互いに敵でいながら、ピートを共同の敵にまわしていた。だから、みんなが、行儀よくすわりこんで、ほかのみんなを警戒して眼を光らせている間に、おれは、死と破壊の手品を使ってやったというわけさ。
まっ先に出て行ったのは、ホイスパーだった。そのおかげで、署長が家へ帰り着いたころには、ヌーナンの家の前に、なん挺かのピストルを持った手下を集めるだけの時を稼いだらしい。署長は、射ち殺された。もし、フィンランドのピートが、本心通りのことを口から吐き出したのなら――それに、やりそうな面構えの男だが――あの男は、ホイスパーを狙うだろう。レノは、ジェリの死んだことについては、ヌーナンと同罪だから、ホイスパーは、当然あの男を狙うはずだ。それがわかっているから、レノは、自分から先にホイスパーを片づけようとするだろう。そうなれば、ピートもレノを襲うことになる。そればっかりじゃない。レノは、死んだリュー・ヤードの子分で、自分を頭《かしら》と思わない連中を追っ払うのに、手一杯ということになりそうだ。つまり、なにもかにも一つ鍋の中で結構な料理が煮あがるというわけだ」
ダイナ・ブランドは、テーブルのむこうから手をのばして、わたしの手を軽くたたいた。かの女は、不安そうな眼をして、いった。
「そんなこと、あんたのせいじゃないわよ。自分だって、ほかにどうしようもなかったといったじゃないの。それよりも、すっかり明けちまって、もう一杯飲みましょうよ」
「ほかにたっぷり、打つ手はあったのだ」と、わたしは、かの女にさからっていった。「エリヒュー爺さんが、はじめおれにそっぽを向いたのは、あの連中が自分の手に負えないんで、確かに連中が根こそぎやっつけられるという見当がつくまでは、連中と手を切るような危い橋を渡る気にならなかったという、ただそれだけの理由からなんだ。おれがどこまでやれるか、先が見えなかったから、やつらと手を組んだのさ。爺さんは、本当はあんな凶漢と種が違うんだ。それに、この町を自分の財産だと思いこんでいるんだから、あんな風に、その町を取りあげてしまったやつらのやり方を、よく思っていないんだ。
おれだって、きょうの午後、爺さんのところへ行って、おれが連中をめちゃめちゃにしてしまったと教えてやろうと思えば、教えてやることも出来たんだ。爺さんだって、筋道の立った話には耳を傾けたろう。おれの味方になって、合法的に手際よく片づけるのに必要な支持をしてくれたかもしれない。そうやればやれたんだ。だが、それよりも、やつらに勝手に殺し合いをさせる方が、易しかったからね、易しいし、確実だし、それに、いまになってみれば、一番もっともだったという気がするんだ。探偵社にはなんと説明したらいいか、おれにもわからない。おれのやったことがわかったら、|おやじ《ヽヽヽ》は、おれを油ゆでにするだろう。それもこれもみんな、この呪われた町のせいだ。ポイズンビルとは、よくもいったものだ。おれは、すっかりその毒《ポイズン》にあてられちまったよ。
ねえ、おれは、こん晩、ウイルスンの邸でテーブルにむかって、きみが鱒を料理するように、奴らを料理してやった。なかなか面白かったよ。おれは、ヌーナンの顔を見て、おれの料理のおかげで、千に一つも、あすまで生き伸びる運がないとわかって、おれは、腹の中で大笑いをした。内心、たまらないほど愉快な気がした。あれは、おれらしくないことだ。確かに、おれには、魂らしいものが残っていたのに、その上にまで、すっかり硬い皮がかぶさってしまった。二十年もの間、犯罪を相手にして取っ組んでいたおかげで、どんな人殺しにお眼にかかっても、自分の飯の種、毎日の勤めとして、平気で眼を開いていられるようになっている。だが、こんな殺し合いの計画を立てて陰から見ているなんてことは、おれの持ち前にはないことだ。この土地が、おれをこんなにしちまったんだ」
女は、優しすぎるくらいにっこり笑いを浮かべて、ひどくあまやかすような調子で話しかけた。
「そんな大げさなこと、あんた。みんな、自業自得よう。ねえ、そんな顔しちゃ、いや。人をぞくぞくさせちゃうじゃないの」
わたしは、にやっと笑って、二人のグラスを取りあげて、台所へ行ってジンをまたついだ。帰って来ると、女は、心配そうな陰気な眼をわたしに向け、眉を寄せて、たずねた。
「そんな|氷かき《アイス・ピック》なんて持って来て、どうするの?」
「おれがどんなことを考えているか、きみに見せてやろうと思ってさ。おとといまでは、こいつを見たって、氷のかたまりを砕くのにお誂え向きの道具だとしか思わなかったろうよ」わたしは、その六インチほどの長さの丸い鋼鉄の錐を、指で、きっ尖《さき》まで撫でおろした。「服ごと人間をぐさっと突き刺すには、悪くない代物だよ。おれが考えてるのは、そんな風さ、正直なところ。ライターでさえ、おれのきらいな奴のために、ニトログリセリンを詰めておいたらと思わずには眺めていられないんだ。きみの家の前の溝に、銅の針金が落ちているがね――細くて、やわらかくて、ちょうど人間の頭にぐるっと巻いて、両はしをしっかり持っていられるぐらいの長さだ。そいつを拾って、ポケットに押しこむのを我慢するのに、いまいましいほどひまがかかったよ、いつかなんかの時に――」
「あんたどうかしてるわ」
「知ってるよ。さっきからいってるのは、それなんだ。おれは、殺人狂になりかかっているんだ」
「ねえ、あたしいやよ、そんなこと。そんなもの、台所へ返して来て、ここへすわって、気を落ち着けるのよ」
わたしは、三分の二だけ、このいいつけに従った。
「いけないわね」と、女は、わたしを叱りつけるように、「あんたの神経がやられていることだわ。この二、三日、ずうっと気が立ちすぎていたからよ。こんなことをつづけていると、神経衰弱で、正気をうしなっちゃうわよ」
わたしは、片手を前へ出して、指を開いて見せた。ちっとも震えてもいなかった。
女は、それを見て、いった。
「そんなことは、なんにもなりゃしないわよ。あんたの体の中にあるのよ。どうして、二日ほど休養をとらないの? みんなが自分自分であばれまわるように、あんたはお膳立てをしたんじゃないの。ソルト・レイクへでも行きましょうよ。そうすれば、よくなるわ」
「駄目だよ、姐ちゃん。誰かがここにいて、死人を数えなきゃいけないんだ。それに、全部の筋書きは、ここにいる人間と事件との現在の結びつきを土台にして立てられているんだからね。おれたち二人が町から出て行けば、そいつがかわっちまうし、なにもかにも、はじめからやり直さなくちゃならんことになるんだ」
「あんたがいなくなったことを、誰にも知らせなくたっていいじゃないの。それに、あたしなんか、なんにも関係はないんですもの」
「いつから、関係がなくなったんだい?」
かの女は、身を乗り出し、眼を細くして、たずねた。
「ねえ、なにを冗談いってるの、あんた?」
「なんにもいってないよ。どうして、きみが、いきなり無関係な見物人になっちまったのかと、変な気がしただけさ。きみのために、ドナルド・ウイルスンが殺されて、それがこん度の全事件の発端になったってことを忘れてしまったのかい? 途中で事件が立ち消えになりかかったのを、きみがホイスパーについて教えてくれたネタで、うまくつなげたということを忘れてしまったのかい?」
「あんなこと、あたしのせいじゃないってことくらい、あんただって、よく知ってるじゃないの」と、女は、顔の色を変えて、いった。「それに、どっちみち、みんな済んだことじゃないの。あんたは、気持ちがむしゃくしゃして、文句がいいたいから、そんなことを持ち出しただけなのよ」
「ゆうべ、ホイスパーに殺されるといって、震えあがっていた時には、まだすんでいやしなかったぜ」
「そんな殺すだの殺されるだのって、しゃべるの、やめてよ!」
「アルベリーの話じゃ、ビル・クイントがきみを殺すといって脅かしたってことだぜ」と、わたしはいってやった。
「よしてったら!」
「きみは、ボーイ・フレンドたちに人殺しをしようという気をおこさせる、天賦の才を持ってるらしいね。ウイルスン殺しで裁判を待っているアルベリーがいる。そこらへんには、きみをふるえあがらせているホイスパーがある。おれだって、きみの影響を逃がれられなかった。おれのこの変わりようを見てくれ。それから、前からこっそり気がついていたが、ダン・ロルフも、いつか、きみをやっつけようとしているぜ」
「ダンが! あんた、気がおかしいわよ。だって、あたしは――」
「そうさ。あの男は肺病やみで、落ちぶれてまいっていたのを、きみが拾ってやった。きみは、住む家と、あの男のほしがる阿片とを、あの男に与えてやった。あの男を使い走りに使い、おれの眼の前であの男の頬を引っぱたき、ほかの人間の前でも引っぱたいた。きみに惚れているからなんだ。そのうちに、朝、眼がさめて見ると、あの男がきみの首を切りはなしているかもしれないぜ」
女は、ぶるぶると震えて、立ちあがり、大声に笑い出した。
「なにをいってるんだか、わからずにいってるんだから、うれしくなっちまうわ」といいすてて、女は、からになった二人のグラスを持って、台所へ消えた。
わたしは、巻煙草に火をつけて、なぜ、こんな気持ちになったのだろうといぶかった。気がおかしくなりかかっていたのだろうかといぶかり、この予感というものに、なんかの意味があるものだろうか、それとも、神経を痛めただけだろうか、と、いぶかった。
「あんたが出かけないっていうんなら、そのつぎの一番いい方法は」と、二つのグラスに酒を満たしてもどって来ると、女は、わたしに忠告するように、「お酒に酔っぱらって、四、五時間、なにもかも忘れることだわ。あんたのには、ジンを倍にしといたわ。あんたには、それが必要なのよ」
「おれじゃないよ」といいながら、なぜ、そんなことをいい出したのかといぶかったり、そのくせ、なんとなく、そんなことをいうのを楽しんでいた。「きみだよ。おれが人殺しのことを口に出すたびに、きみは、おれを叱り飛ばしたじゃないか。きみは女だ。口ではなんにもいわなくても、恐らく、きみを殺したがっている人が、この町にどれくらいいるかわからないと、腹の中では思っているんだろう。馬鹿なことさ。おれたちがなんといおうと、いわずにおこうと、たとえば、ホイスパーが――」
「お願い、お願いだから、よして! あたしは馬鹿よ。あたしは、そういう言葉がこわいの。あの人がこわいの。あたしは――ああ、どうしてあたしが頼んだ時に、あんたってば、あの男を片づけてくれなかったの?」
「すまん」と、心からそう思って、いった。
「あんたは、あの人が――」
「おれは知らんよ」と、わたしは女にむかって、「きみの考えの通りなんだろう。そんなこと、つべこべといったってなんの役にも立たないよ。それよりも飲むことだ。そうはいっても、このジンじゃ大して酔えそうにもないがね」
「酔えないのは、あんたよ、ジンじゃないわ。あんた、本当に酔っぱらいたいの?」
「おれは、こん晩、ニトログリセリンを飲むよ」
「それよ、あんたにあげようというのは」と、かの女は約束した。
女は、台所で瓶をがちゃがちゃいわせていたが、やがて、いままで飲んでいたのと同じようなものをグラスについで持って来た。わたしは、それをかいでみて、いった。
「ふん、ダンの阿片チンキだね? あの男は、まだ病院にいるのかい?」
「ええ。頭の骨が割れたらしいわ。さあ、旦那さま、お気に召すかどうですか、ご注文のぴりっとした味ですよ」
わたしは、麻薬入りのジンを、咽喉に流しこんだ。やがて、ずっと気持ちがよくなって来た。飲むほどに、語るほどに、世界はバラ色に、楽しくなり、友情と、地上の平和とに満ちあふれて、時はすぎて行った。
ダイナは、ジン一てんばりだった。わたしもしばらくは、ジンをやってみたが、やがて、もう一杯、阿片入りのジンを飲んだ。
それからしばらく、わたしは、一つの面白いことをやってみた。なんにも見えないくせに、眼をさましているように、眼を見開いていようとしてみたのだ。この手品が、もうかの女をだませなくなったので、わたしは、あきらめてやめた。
最後に、わたしがおぼえているのは、かの女がわたしに手つだって、居間の長椅子に、わたしを寝かしてくれたことだ。
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二十一 十七番目の殺人
わたしは夢を見た。
ボルティモアの、ハーレム公園の噴水を前にしたベンチに、ヴェールをつけた女の横にすわっていた。女といっしょに、そこへ来たのだった。誰だか、よく知っている女だ。ところが、不意に誰だか忘れてしまった。黒い長いヴェールのせいで、女の顔を見ることも出来なかった。
なんか話しかけてみたら、へんじをする声で、わかるにちがいないと思った。ところが、ひどくきまりが悪くて、話の糸口を見つけ出すのに、長いことかかってしまった。やっと、キャロル・T・ハリスという男をご存じですか、と、たずねた。
女はへんじをした。が、噴水の音が、その声をかき消してしまったので、なんにもきこえなかった。
エドモンドスン街を、消防自動車が走って行った。女は、ひとりで、消防自動車を追っかけて走り出して行った。走りながら、「火事だ! 火事だ!」と叫んだ。それで、女の声を聞いて、誰だったかわかった。誰だか、だいじな女だとわかった。それで、女を追っかけたが、間に合わなかった。女も消防自動車も、どこかへ行ってしまって影も形もなかった。
女をさがして、町々を歩きまわった。ボルティモアのゲイ通りとマウント・ローヤル街、デンバーのコルファックス街、クリーブランドのエトナ通りとセント・クレア街、ダラスのマッキニー街、ボストンのルマルティーヌ通りとコーネル通りとアモリー通り、ルイスビルのベリ・ブールバード、ニューヨークのレキシントン街と、アメリカじゅうの通りの半分ほどをさがしまわった挙句、ジャクスンビルのビクトリヤ通りへ来て、やっとまた女の声がきこえたが、姿はまだ見つからなかった。
女の声をたよりに、さらにたくさんの通りを歩いた。女は、誰かの名を、わたしのではなく、知らない名を呼びつづけていた。だが、いくら急いで歩いても、どっちの方へ歩いても、少しもその声に近づくことが出来なかった。エルパソのフェデラル・ビルディングの前の通りででも、デトロイトのグランド・サーカス公園ででも、その声は、同じくらい離れたところからきこえて来た。すると、ふっと声がしなくなった。
くたびれて、がっかりして、ノース・カロライナ州のロッキー山の駅前のホテルのロビーへ、一休みするためにはいって行った。そこに腰をおろしていると、列車がはいって来た。その列車から女がおりて、ロビーへはいって来て、わたしのそばへ来て、わたしにキスしはじめた。人という人がみんな、二人を取り巻いて、二人を見ながら、大声に笑っているので、ひどく気持ちがよくなかった。
その夢は、そこでおしまいになった。
こん度の夢では、ある知らない町で、憎んでいる男をさがし求めていた。抜き身のナイフをポケットに忍ばせていた。見つけ次第、その男を殺すつもりだった。日曜日の朝だとみえて、教会の鐘が鳴りひびき、通りには人々がこみ合い、教会を出たりはいったりしていた。はじめの夢と同じくらい歩きまわった。が、いつも同じその知らない町の中だった。
すると、追っかけていた男が、大声で声をかけたので、その男に眼を向けた。小柄な茶色の男で、とてつもなく大きな、縁の広いメキシコ帽をかぶっていた。大きな広場の、ずっとむこうの高いビルディングの階段に立っていて、こちらを見て、声高に笑っていた。むこうとの間の広場には、たくさんの人の群れが、肩と肩とが押し合うほど密集していた。
ポケットの抜き身のナイフを片手に握りしめて、広場の群集の頭の上や、肩の上を、茶色の小男を目がけて走った。人々の頭も肩も、高さがまちまちだったし、間隔も同じではなかった。おかげで、頭や肩の上で、すべったり、もがいたりした。
茶色の小男は、手がとどきそうになるまで、階段の上に立って、笑っていた。あっと思うと、男は、高いビルディングの中へ走りこんだ。男を追っかけて、何マイルも何マイルも、螺旋階段をのぼった。いつでも、もう一インチで手がとどくという先に、男はいた。とうとう屋根へ出た。男は、屋根のはしまで、一直線に走ったが、こちらの片手が相手の体にさわったと思うと、さっと、跳ねあがった。
男の肩が、指先からするっと抜けた。わたしの手が、男のメキシコ帽をたたきおとして、相手の頭にさわった。つるつるの、固い、丸い頭で、大きな卵よりも大きくはなかった。指で撫でまわした。もう一方の手で、ポケットのナイフを取り出そうとして――はっと、男といっしょに、屋根のはしから空中に飛び出しているのに気がついた。二人は、眼もくらむような速さで、何マイルも下の広場で空を仰いでいる、何百人とも知れぬ顔の上へ落ちて行った。
眼をあけると、どんよりした朝の太陽の光が、おろしたブラインドをとおしてさしていた。
わたしは、食堂の床にうつ伏せにねていて、頭は、左の前腕にのせていた。右の腕は、まっすぐ、ぐっと外にのばしていた。その右の手には、ダイナ・ブランドの氷かきの、青と白との丸い柄を握っていた。その氷かきの、針のように鋭い六インチもある錐が、ダイナ・ブランドの左の胸に突き刺さっていた。
女は、あお向けに倒れて、死んでいた。その長い、筋肉質の両脚は、台所のドアの方へ向けて投げ出されていた。右のストッキングの前のところに一本、筋が抜けていた。
ゆっくりと、静かに、眼をさまさせるのを恐れるように、わたしは、氷かきをぬき、腕を引っこめて、立ちあがった。
眼が、かっとほてった。咽喉も、口も、焼けるようで、むかむかした。台所へ行き、ジンの瓶をさがし出して、口へ持って行って、息のつづく限り飲みつづけた。台所の時計は、七時四十一分を指していた。
ジンを飲んだ勢いで、食堂へもどり、電灯をつけて、死んだ女を見た。
血は、たいして見えなかった。女の青い絹のドレスに、銀貨ぐらいの大きさの紅いしみが、氷かきが刺さった孔のまわりににじんでいた。右の頬の、頬骨のま下に、打撲傷があった。もう一つ、指で引っ掻いたような掻き傷が、右の手首にある。手は、両手ともなんにも持っていない。体の下に、なんにもないことがわかる程度に、女の体を動かした。
部屋を調べて見た。おぼえている限りでは、なに一つかわったところはなかった。台所へも行って見たが、気のついたような異状は、そこにもなかった。
裏手のドアのばね錠はしまっていた。いじった形跡もなかった。玄関のドアへも行って見たが、なんの痕跡も見つけ出せなかった。上から下まで、すっかり家じゅうを調べて見たが、なんにもわからなかった。窓という窓にも異状はなかった。化粧台の上の女の宝石類(指にはめている二つのダイヤモンドは別として)も、寝室の椅子の上のハンドバッグの中の四百ドルあまりも、手一つつけてなかった。
もう一度、食堂へはいって行って、死んだ女のそばに膝をついて、自分のハンカチで、氷かきの柄に指紋が残っていないように、きれいに拭った。わたしが手を触れた、または、手を触れたような気のする、グラス類や、酒の瓶、ドア、電灯のスイッチ、それから家具類も、同じようにした。
それから、手を洗い、衣服に血がついてはいないか調べ、自分の持ち物がなんにも残っていないのを確かめてから、玄関のドアのところへ行った。ドアを開け、内側の握りをぬぐい、外へ出てドアをしめ、外側の握りを拭いて、立ち去った。
ブロードウェイの上手の薬屋《ドラッグ・ストア》から、ディック・フォリーに電話をかけて、ホテルに来てくれと頼んだ。帰り着いて数分すると、かれはやって来た。
「ダイナ・ブランドが、ゆうべか、けさ早くか、自宅で殺された」と、わたしは、かれに告げた。
「氷かきで突き刺されてね。警察は、まだ知らない。きみには、あの女のことはようく話しておいたから、あの女を殺す動機のありそうな人間がいくたりもあることは知っているね。まず調べてもらいたいのが三人――ホイスパーと、ダン・ロルフと、左翼のビル・クイントだ。三人の人相はわかっているね。ロルフは、頭の打撲傷で病院にいる。どこの病院かはわからん。最初に市立病院にあたってくれ。ミッキー・リネハンをつかまえて――まだフィンランドのピートをつけているはずだ――この仕事で、きみに手を貸す間、ピートの方は休ましてやってくれ。いまいった三人が、ゆうべ、どこにいたか調べてくれ。それも、早いとこやってくれ」
小男のカナダ人の探偵は、わたしが話している間じゅう、なにか聞きたそうに、わたしを見ていた。聞いてしまって、なにかいおうとしかけたが、思い直して、「よし」と口の中でいっただけで、出て行った。
わたしは、レノ・スターキーをさがしに出かけた。一時間ほどさがしまわった挙句、ロニー通りのアパートにいたのを、電話でさがしあてた。
「お前さんだけか?」と、会いたいというと、そう、かれはきき返した。
「そうだ」
来てもいいといって、道順を教えてくれた。タクシーで行った。町はずれの、薄ぎたない二階建ての家だった。
手前の角の食料品店の前に、二人の男がぶらぶらしていた。つぎの角の家の低い木の階段にも、また二人、腰をおろしていた。四人とも、目に立つほどしゃれたなりをしてはいなかった。
ベルを鳴らすと、二人の男がドアを開けた。どちらも、あまりおとなしい顔つきではなかった。
通された二階の表側の部屋に、レノがいた。カラーなしのシャツ一枚にチョッキだけで、窓枠に両足をのせて、のけぞるように椅子にかけていた。
血色の悪い、馬面をしゃくって、いった。
「椅子を一つ、引っ張って来たまえ」
案内して来た男たちは、ドアをしめて行ってしまった。わたしは腰をおろして、話し出した。
「アリバイがほしいんだがね。ゆうべ、おれが帰った後で、ダイナ・ブランドが殺された。そのために、万一にも逮捕されることはないと思うが、ヌーナンが死んだんで、警察とうまが合うかどうか、わからんのでね。どんなものにしろ、嫌疑をかけられるような、きっかけを与えたくないんだ。いざとなれば、ゆうべの居どころを証明も出来るが、きみさえその気になってくれれば、うんと手数がはぶけるというわけなんだ」
レノは、鈍い眼でわたしを見ていたが、やがてたずねた。
「なぜ、おれをえらんだのだい?」
「ゆうべ、あすこにいた時、きみがおれに電話をかけて来たろう。宵の口に、おれがあすこにいたことを知っているのは、きみだけだ。たとえ、ほかの場所でアリバイをつくるにしたところで、きみとは、話をつけておかなくちゃならん、だろう?」
かれがたずねた。
「お前さんがやったんじゃねえだろうな?」
わたしは、「ちがうよ」と、なに気なくいった。
かれは、口をきかずに、しばらく、窓の外を眺めていた。それから、たずねた。
「どうして、おれが手を貸すと考えたんだね? ゆうべ、ウイルスンの家で、お前がおれにした仕打ちで、おれが恩に着る筋でもあるのかい?」
わたしは、こたえた。
「おれは、なんにも、きみに傷なんかつけなかった。どっちにしろ、話は、半分しかぶちまけなかったんだ。ホイスパーは、残りは察しがつくほどには知っていたのだ。きみには、ただ切り札を見せただけさ。気になることがあるのかね? あったって、きみなら、自分で始末がつけられるだろう」
「やってみるつもりでいるがね」と、かれもうなずいた。「よし、わかった。お前さんは、タンナーのタンナー・ハウスにいたんだぜ。タンナーってのは、山を二、三十マイルのぼった小さな町だ。ウイルスンの邸を出てから、朝まで、お前さんはそこに泊まっていた。マリーの店の辺にいつもいる、ハイヤーの運転手のリッカーという野郎が、お前さんを送って帰って来た。むこうで、したことぐれえは、お前さんが知ってるはずだ。お前さんのサインをくれれば、宿帳には、いい工合に書きこんでおくよ」
「ありがとう」といいながら、万年筆のキャップを取った。
「礼にはおよばんよ。出来るだけ友だちがほしいから、こんなことをするんだ。いつか、お前さんが、おれや、ホイスパーや、ピートの仲間入りをした時に、いやな思いをしたくねえからな」
「きみに、そんな思いはさせないよ」と、わたしは約束した。「警察署長には、誰がなるんだろう?」
「マグロオが、署長代理をやってる。あいつが署長になりそうだな」
「大将、どういう手を打つかな?」
「ピートと組むね。ピートもそうだが、荒っぽいたちだから、仕事をめちゃめちゃにするだろうな。他人もめちゃめちゃにせずにはおかないだろう。ホイスパーのような野郎がしたい放題をしている間は、手をこまねいてじっとしていりゃ、とんだ馬鹿を見ることになるよ。おれか、奴か、だからな。奴が、あの女をやったと思うかい?」
「動機は十分にあるね」といって、自分の名前を書きおわった紙きれをわたした。「たっぷり、女も、ホイスパーをだましたり、売ったりしたからね」
「お前さんとは懇意だったんだろう?」と、かれはたずねた。
わたしは、質問はそのままにして、巻煙草に火をつけた。レノは、しばらくへんじを待っていたが、やがて、いった。
「リッカーをさがし出して、お前さんの顔を見せておいた方がいいぜ。あいつが聞かれた時に、お前さんの人相を知ってると都合がいいからな」
向こう見ずらしい眼のまわりに、そばかすのある痩せた顔の、二十二、三の、脚の長い若者が、ドアを開けて、はいって来た。レノは、ハンク・オマラだと、その男をわたしに紹介した。わたしは立って、その男と握手をしてから、レノにたずねた。
「あんたに用があったら、ここへ来ればいいかね?」
「ピーク・マリーを知ってるかい?」
「会ったこともあるし、店も知っている」
「あの男にいえば、おれにとどくよ」と、かれはいった。「ここは引きはらうつもりだ。あんまりいい場所じゃねえからな。タンナーの件は、引き受けたぜ」
「わかった。ありがとう」わたしは、その家を出た。
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二十二 氷かき
下町へ来ると、まず警察本部へ行った。マグロオが、署長のデスクを占領していた。かれの金色まつげの眼が、うさんくさそうにわたしを見た。かたい顔の皺が、ふだんよりも深く、気むずかしそうだった。
「あんたが、最後に、ダイナ・ブランドに会ったのは、いつだね?」と、前置きもなければ、会釈さえもせずに、いきなり、かれはたずねた。その声は、骨張った鼻をぬけて、気持ち悪くきしった。
「ゆうべの十時四十分か、そのころだね」と、わたしはいった。「なぜだね?」
「どこで?」
「あの女の家でさ」
「どのくらいいたね、そこに?」
「十分、いや、十五分かな」
「なぜだね?」
「なぜって、なんだね?」
「なぜ、もっと長くいなかったんだね?」
「いったい」といいながら、かれがすすめるのを待たずに、わたしは椅子に腰をおろして、「それが、きみの仕事にどうだというんだね?」
マグロオは、わたしを睨みつけながら、肺に一杯になるまで息を吸いこんだと思うと、
「殺人だ!」と、わたしの顔に向けて、どなった。
わたしは、大声に笑って、いった。
「まさか、ヌーナンの死とあの女と、なんか関係があると思っているんじゃないだろうね?」
わたしは、巻煙草を吸いたくなった。しかし、こういう場合に、煙草が神経をしずめるのに、まっさきに役に立つことを知りすぎるほど知っているだけに、この際のわたしには、かえってはばかられた。
マグロオは、わたしの眼の奥にあるものを覗こうとしていた。わたしは、ある種の多くの人と同じように、嘘をいっている時のわたしが一番正直そうに見えるという、わたしの考えに強い自信を持っていたので、平気で、相手に眼を覗かせておいた。やがて、かれは、覗くのをあきらめて、たずね返した。
「なぜ、関係がないんだね?」
これは、まさに弱いいい方だった。わたしは、「そうさ、なぜ関係がないんだろうね?」といって、そんなことには関係がないというような顔で、相手に煙草をすすめ、自分にも一本とった。それから、補足するようにいった。「おれの想像では、ホイスパーがやったんだろうな」
「あの男が、いたのかね?」と、はじめて、鼻声を出すのを忘れて、勢いよく、歯の間から言葉を吐き出した。
「いたのかって、どこに?」
「ブランドの家にいたのかい?」
「いなかったよ」といって、わたしは、額に皺を寄せて見せた。「なぜ、いるわけがあるんだ――ヌーナン殺しで飛んでいるってのに?」
「ヌーナンなんか、くそくらえだ!」と、署長代理は、癇癪をおこして大声を出した。「なんのために、いつまでも、あんな男のことを引っ張り出してばかりいるんだね?」
わたしは、相手が気がおかしいんじゃないかというような眼を、かれに向けた。
かれがいった。
「ゆうべ、ダイナ・ブランドが殺されたんです」
わたしは、「そうかい?」といった。
「わたしの質問にこたえてくれますか、こん度は?」
「むろんさ。おれは、ヌーナンやほかの連中といっしょに、ウイルスンの家にいた。十時三十分ごろに、あすこを出てから、かの女の家へ寄って、タンナーへ行かなきゃならんことになったと告げた。女とは、会う約束をしたような、しないような工合になっていたからだ。十分ほど、酒を一杯飲む間だけ、あの家にいた。ほかには、誰もいなかった。隠れていたのなら別だが。殺されたのは、いつだね? どんな風にやられたんだね?」
マグロオの話によると、かれは、部下の刑事を二人――シェップとバーナマンとを――けさ、女の家へ使いに出した。ヌーナン殺しの犯人としてホイスパーを逮捕するのに、どのくらい、ダイナが警察に手を貸すことが出来るか、貸す気があるかを知るためだった。刑事たちは、九時三十分に、女の家へ着いた。玄関のドアは、少し開いていた。ベルを鳴らしても、誰も出て来なかった。二人が家の中へはいって行ってみると、女が、食堂に仰向けに倒れて、左の胸に突き傷を受けて、死んでいた。
検屍した医者の言葉だと、被害者は、午前三時ごろ、長さ六センチほどの、細く、長い、錐のような凶器で殺されたと認められるということだ。箪笥、戸棚、トランク、その他は、あきらかに、手際よく、徹底的に、あさりつくされていた。女のハンドバッグの中にも、そのほか家じゅうのどこにも、金は一文もなかった。化粧台の上の宝石箱も、からっぽだった。二つのダイヤモンドの指環は、女の手に残っていた。
女が突き刺された凶器は、まだ見つからなかった。指紋係りは、手がかりになりそうな指紋を検出することが出来なかった。どのドアも、どの窓も、こじ開けた様子はなかった。台所の様子から、女が、一人または数人の客と酒を飲んだということがわかった。
「六インチの、丸い、細い、とんがったというと」と、わたしは、凶器の特徴を繰り返していった。「どうやら、あの家の氷かきらしいね」
マグロオは、電話に手をのばして、シェップとバーナマンをよこせと、誰かにいいつけた。シェップは、背の高い、猫背の男で、大きな口がものすごく正直そうな感じを与えていたが、どうやら、それは歯並《はな》みが悪いかららしかった。もう一人の刑事は、背が低く、ずんぐりしていて、鼻には紫色の血管を浮きあがらせた、猪首《いくび》の男だった。
マグロオは、わたしたちを引き合わせてから、二人に、氷かきのことをたずねた。二人とも、そういう物は見なかったし、たしかになかったとこたえた。そういうような品物を見おとすはずがないともこたえた。
「ゆうべは、あったのかね?」と、マグロオが、わたしにたずねた。
「おれが立っている脇で、あの女が、そいつで氷を割ってたんだ」
わたしは、その氷かきの形を説明して聞かせた。もう一度、女の家をくまなく捜査して、見つからなかったら、その家の近所ででも、氷かきを見つけ出すようにやってみろと、マグロオは、刑事たちに命じた。
「あんたは、あの女をよく知っていたね」と、シェップとバーナマンが出かけてしまうと、マグロオがいった。「あんたの見込みは、どうだね?」
「聞いたばっかりでは、どうともいえないね」と、わたしは、質問をはぐらかした。「一時間か二時間、とっくり考えさせてもらいたいね。きみは、どう思うんだね?」
かれは、不機嫌に椅子にもたれて、うなるように、「そんなこと、なんだって、わたしにわかるんだね?」
だが、それ以上の質問もしないで、わたしを帰らせたという事実は、マグロオが肚《はら》の中では、女を殺した犯人はホイスパーだと、もうきめてしまっているということが、わたしにはわかった。
わたしは、本当にあの小男のばくち打ちの仕業だろうか、それとも、ポイズンビルの警察署長が、あの男におっかぶせようとした罠だろうか、はっきり知りたいものだと思った。いまのところは、どっちにしたところで、大した違いはなさそうだった。ヌーナンを片づけたのが――自分でやったにしろ、――人を使ってやったにしろ――ホイスパーだということは確かなことだし、どうせ、警察は一度しか、かれを死刑にすることは出来ないのだから。
マグロオと別れて出ると、廊下には、大勢の人がいた。その中の幾人かは、ひどく若く――ほんの小僧っ子で――外国人もかなりまじっていたが、ほとんどが、ちょっと見ただけで、いかにもならず者らしい風体だった。
通りへ出るドアのそばで、『|杉の丘《シダー・ヒル》』の遠征の時にいた巡査のドンナーに会った。
「よう」と、わたしは、かれに声をかけた。「あの連中は、なんだい? 新入りを入れるんで、留置所をからっぽにしたのかい?」
「ありゃ、新しい特別隊の連中ですよ」と、大して連中のことなど気にもとめていないような口のきき方だった。「うるさい警察ということになるんですぜ」
「そいつはお目出とう」といって、わたしは外へ出た。
ピーク・マリーは、自分の賭博場の中の、煙草売場のカウンターの奥で、デスクの前にすわって、三人の男としゃべっていた。わたしは、そこから離れた部屋の片側に腰をおろして、二人の若者が球ころがしをやっているのを見物していた。しばらくすると、痩せた主人が、わたしのそばへ来た。
「いつか、レノに会ったらね」と、わたしは、かれに話しかけた。「フィンのピートが、自分の子分を、特別警官隊に仕立てたと知らせてもらいたいね」
「ようがす」と、マリーは承知した。
ホテルへ帰って来ると、ミッキー・リネハンが、ロビイに腰をおろしていた。わたしについて部屋へあがって来て、報告した。
「ダン・ロルフは、ゆうべ、真夜中すぎに、病院をぬけ出したよ。医者どもは、煮えくり返るような騒ぎだ。どうやら、けさ、あの男の割れた頭から、骨のかけらを取り出すつもりだったらしい。ところが、当人も持ち物も見えなくなっちまった。ホイスパーの手がかりは、まだつかめない。ディックはいま、ビル・クイントの居どころを突きとめに行っている。こんどの女殺しってのは、いったいどういうことなんだね? ディックの話じゃ、警察より先に、あんたが知っていたということだが」
「それは――」
電話のベルが鳴った。
男の声が、ことさらよそ行きの口調で、わたしの名をいって、おしまいを、疑問符号《クエスチョン・マーク》をつけたように、ぴんとあげた。
わたしは、「そうです」とこたえた。
その声がいった。
「こちらは、チャールズ・プロクター・ドーンと申します。お差し支えがなければ、なるべくお早く、わたくしの事務所へお出かけくださる方がご得策だろうと存じますのですが」
「わたしがですか? あなたはどなたなんですか?」
「弁護士のチャールズ・プロクター・ドーンです。すまいは、グリーン通り三一〇番地、ラトレッジ・ブロックにございます。おわかりのことと存じますが――」
「用件を、ちょっと話していただけませんか?」と、わたしがきいた。
「電話では申しあげにくい問題がいくつかありまして。おわかりのこととは存じますが――」
「わかりました」と、また、わたしは、相手をさえぎった。「都合がつけば、きょう午後、うかがいましょう」
「とても、とてもお役に立つことと存じますので」と、相手は、請け合うようにいった。
わたしは、それ以上聞かずに、電話を切った。
ミッキーがいった。
「あんたは、ブランド殺しのいきさつを、聞かしてくれようとしていたんだよ」
わたしはいった。
「そうじゃない。ロルフを見つけ出すのは、そうむずかしいはずはないといいかけていたんだ――頭の骨をくだかれて、包帯を一杯まいて、かけまわっているんだろうからね。やってみてくれ。まずハリケーン通りをあたって見るんだね」
ミッキーは、その喜劇役者のような赤い顔じゅうで、にやっと笑って見せて、いった。
「まあいいや。なんにも聞かなくてもいいよ、事件の話は――おれは、あんたにくっついてやってるだけだからね」といって、帽子をとりあげると、出て行った。
わたしは、ベッドの上に長く伸びて、煙草を吸い切っては、その煙草の火でつぎの煙草に火をつけるようにして、何本も煙草を吸いながら、ゆうべのことを――自分の精神状態や、眼の前であったことや、夢の中のことや、そして、眼をさました時の状況などを、考えめぐらした。あまりにも不愉快な考えごとだったので、邪魔がはいった時には、うれしくさえなった。
ドアの外側を、爪で引っ掻く音がした。わたしは、ドアを開けた。
そこに立っているのは、わたしの知らない人物だった。若い、痩せた男で、派手ななりをしていた。ひどく蒼白い、神経質な、しかし臆病ではない顔にしては、石炭のようにまっ黒な、太い眉毛と、ちょびひげが、不似合いなほど際立っていた。
「テッド・ライトってんです」といいながら、まるで、わたしが相手に会ったことを喜んででもいるように、手を差し出した。「ホイスパーから聞いてるでしょう、おれのことは」
わたしも手を出し、中へ入れて、ドアをぴったりしめてから、きいた。
「ホイスパーと友だちなんだね?」
「その通り」かれは、細い二本の指を、ぴったりくっつけて見せた。「まさに、こんな工合さ、おれとあいつとは」
わたしは、なんともいわなかった。相手は、ぐるっと部屋を見まわし、にこっと神経質に笑いを浮かべて、開けはなした浴室のドアのところへ行き、覗きこみ、わたしのそばへ帰って来て、舌で唇をなめてから、用件にとりかかった。
「五百ドルくれれば、あいつをばらしますぜ」
「ホイスパーをかね?」
「うん、おそろしく安いもんだ」
「なぜ、おれが、あの男を殺したがるんだね?」と、わたしはきいた。
「お前さんの女を殺したじゃねえか?」
「そうか?」
「お前さん、それほど頓馬じゃねえはずだ」
さっと、ある考えが、頭の中をかすめた。それを、ゆっくり這いまわらせる時を稼ぐために、わたしはいった。「まあ、腰をかけろよ。話を聞こうじゃないか」
「話すことなんかねえ」といって、相手は、きっと、わたしを見て、椅子の方へ寄ろうともしなかった。「ばらしてほしいか、ほしくねえか、それっきりだ」
「そんなら、ほしくねえ」
男は、咽喉の奥で、よく聞きとれないことを、なんだかぶつぶついっていたが、ドアの方へ向き直った。わたしは、その前に立ちふさがった。相手は立ちどまったが、眼は、そわそわと落ち着きがなかった。
わたしはいった。
「すると、ホイスパーは死んだんだな」相手は、たじたじと後じさりして、片手をうしろへまわした。わたしは、百九十ポンドの体重を、その一突きにこめて、相手の顎を突きあげた。
相手は、両脚をからめて、倒れた。
わたしは、両の手首をつかんで相手を引きおこし、相手の顔を、ぐいと自分の顔のそばまで引き寄せて、どなった。
「みんな、いっちまえ。どうしたんだ?」
「おらあ、あんたには、なんにもしやしねえじゃないか」
「はっきりいえ。誰がホイスパーを殺《や》ったんだ?」
「おらあ、なんにも知らねえよ、ただ――」
わたしは、相手の片方の手首を離し、その顔に平手打ちをくわせておいて、また、その手首をつかみ、いちかばちか運をためすように、両の手首を力の限り締めつけながら、繰り返していった。
「ホイスパーをばらしたのは、誰だ?」
「ダン・ロルフだよ」と、相手は哀れっぽい声を出した。「あの男が、すうっとホイスパーのそばへ寄って来て、ホイスパーが浮気女をやっつける時に使ったのと同じ串を、ずぶりと突っこんだんだ。ほんとだよ」
「どうして、その串が、ホイスパーが女をやったやつだってことを、お前は知ってるんだ?」
「ダンがそういったんだ」
「ホイスパーは、なんといった?」
「なんにもいわねえ。凄い顔をして、横っ腹に錐の柄を突っ立てたままで、立っていたよ。それから、いきなりぱっとパチンコを抜いて、ダンに二発、まるで一発みたいにぶちこんで、二人いっしょにぶっ倒れたっけが、二人とも頭をぶち割って、ダンの頭なんか、包帯まで血だらけになったよ」
「それから、どうした?」
「それっきりだよ。おれは、二人をころがして見たが、二人とも死んでたよ。おれのいうことに一言だって、嘘はねえよ」
「ほかには誰がいた、その場には?」
「誰もいねえ。ホイスパーは、隠れていたんだ。子分との連絡に、おれだけがいっしょだった。ヌーナンは、ホイスパーが自分でやっつけたんだ。先行きの様子がわかるまでというもの、二、三日というものは、おれのほかは、誰も信用する気になれなくなっていたんだ」
「そこで、お前は、利口な奴だから、ホイスパーの敵のところを走りまわって、あの男が死んじまった後で、あの男を殺すといって、小金を手に入れようと思ったってわけだな?」
「おらあ、一文無しだったんだ。それに、ホイスパーがやられたってことがひろまれば、子分の者は、この土地にはいられなくなるんだ」と、ライトは泣き声を出した。「だから、ずらかる金を集めなきゃならなかったんだ」
「いままでに、どれくらい稼いだ?」
「ピートから百ドル、ピーク・マリーからは――レノのかわりに――百五十ドル、二人とも、うまく行ったら、もっとくれると約束したぜ」しゃべっているうちに、泣き声が、自慢そうな調子になった。「マグロオだってもよ、会えさえすりゃ、きっと出させてみせるぜ。それから、あんただって、いくらかくれると思ったんだがな」
「そんな間抜けな手に引っかかって、金を投げ出すなんて、よっぽど、あいつら、のぼせあがってるんだな」
「さあ、どうだかね」と、えらそうにいった。「そんなに、つまらない手でもねえさ」かれはまた、へり下った調子になった。「ねえ、見のがしてくんなよ、大将。おれをやっつけないでくんなよ。おれが、うまくやっちまって汽車をとっつかまえるまで、黙って口をふさいでてくれりゃ、いまここに持っている五十ドルも出すし、どれだけよこすか知らねえが、マグロオからせしめる分の分け前も出すからさ」
「お前のほかには誰も、ホイスパーの居どころは知らないんだな?」
「ダンのほかは誰も知らねえが、そいつは、死んじまったあね」
「どこだ?」
「ポーター通りのレドマンの古倉庫だ。裏の二階に、ベッドや、ストーブや、いろんな食べ物などを用意して、ホイスパーは、一部屋もっていたんだ。ねえ、見のがしてくださいよ。いま、五十ドルと、後の分け前とさ」
わたしは、腕をはなしてやって、いった。
「金はいらねえが、行けよ。二時間ばかり、待っていてやる。それだけありゃ、たくさんのはずだ」
「すまねえ、大将。すまねえ、すまねえ」というと、あたふたと、わたしのところから去って行った。
外套を着、帽子をかぶって、グリーン通りと、ラトレッジ・ブロックをさがしに、出かけた。ラトレッジ・ブロックというのは、木造で、盛りの時代はあったとしても遠い昔にすぎ去ってしまったという建物だった。チャールズ・プロクター・ドーン氏の住まいは、二階にあった。エレベーターもなかった。わたしは、古びてこわれかかった木の階段をのぼった。
弁護士は、二部屋をしめていたが、どちらも薄ぎたなく、いやなにおいがして、貧弱な明かりがついているだけだった。その部屋によく似合った書記が、取りつぎに行った間、わたしは、外の部屋で待っていた。三十秒後には、書記がドアを開けて、わたしを通した。
チャールズ・プロクター・ドーン氏は、五十そこそこの、ふとった小男だった。ひどく薄い色の、詮索するような三角眼に、肉の厚い短い鼻、その貪欲さを、ほんの一部分だけ、みすぼらしいごま塩の口ひげと、みすぼらしいごま塩のバンダイク式の顎ひげの間にかくした厚ぼったい口の持ち主だった。服装は黒っぽい色合いの物で、ほんとはよごれてはいないのに、不潔な感じだった。
かれは、デスクの前から立ちあがらなかった。わたしがいる間じゅうずっと、右の手を、六インチほどあけたデスクの引き出しの縁にかけたままでいた。
かれはいった。
「ああ、よくおいでになりました。わたくしの助言の価値をお認めになるだけの良識をお持ちになっていることを知りまして、まったく満足に存じます」
かれの声は、電話の時よりも、いっそう演説口調だった。
わたしは、なんともいわなかった。
なんともいわないのを、それも良識の表現だとでも思ったように、顎ひげをしゃくって、かれは言葉をつづけた。
「わたくしは、公平な立場において、いかなる事件におきましても、わたくしの助言の示すところに従われることこそ、健全なる判断力の動かすべからざる一部とお認めになるであろうということを申しあげたいのであります。かかることを申しあげますのは、偽りの謙遜からではなく、適切なる謙譲と、真実にして永続的なる価値に対する深い世論とを、ともに正しく感知いたします者として、かつは、繁栄きわまりなき当州における、ある――いや、あると、漠然と申しあげるかわりに、一個のと明確に申しあげることの正当なることを感ずる人物が存在するという事実を、何故にわたくしが隠すべきでありましょうか?――すなわち、当州の法廷における、自他ともに認める首席弁護士としてのわが輩の責任でもあり、特権でもあることを認識して、申しあげようとするのであります」
ドーン氏は、こういういい方をたくさん知っていて、遠慮なくわたしに使って見せた。その挙句、やっとのことで本題にはいった。
「かくして、とるに足らぬ小弁護士の場合には、不法と見られる行為も、それを行なう人物が、その社会――あえて申さば、たんに直接影響ある社会のみでなく――かれの属しております社会において、なんら非難を恐れる必要のない、不動の卓越せる名声の持ち主である場合にありましては、人類に対し、その一員たる個人を通じて奉仕する機会に当面いたしましたる時には、取るに足らぬ因習を蔑視する、かの偉大なる倫理によってのみ律せられるのであります。従いまして、ここにわたくしは、いささかも躊躇することなく、些々《ささ》たる世俗の先例のごときに対する考慮を揚棄《ようき》いたしまして、貴下のご足労を煩わし、率直かつ無遠慮に、わたくしを、貴下の法律上の代理人としてご依頼になることこそ、あなたのご利益をもっともよく守られるゆえんであることを申しあげる次第であります」
わたしはたずねた。
「いくら、かかります?」
「その点は」と、尊大にかまえて、「第二義的な問題にすぎません。しかしながら、われわれの関係におきまして、それ相当の地歩を占める事項でありまして、かならずしも、看過し、無視することの許されぬ事項であります。さよう、さしあたり一千ドルと申しあげましょう。最後には、むろん――」
かれは、そこまでいうと、顎ひげを引っかいて、後は、はっきりいわなかった。
そんな大金は、むろん、出せない、と、わたしはいった。
「ごもっとも。いや、まったく、ごもっとも。しかし、それはいかなる点においても、さして重要なことではありません。ご心配ご無用。その点は、いつでも結構です。明朝の十時までならば、いつでも結構です」
「あすの朝の十時ということにしましょう」と、わたしは承知した。「ところで、なぜ、わたしに法律上の代理人が必要だと考えられているのか、それを伺いたいのですがね」
かれは、むっとした顔をした。
「これは、あなた、冗談ごとではありませんですぞ。その点は、わたくしが保証します」
冗談をいっているのではない、本当にわけがわからないのだと、わたしは説明した。
相手は、咳ばらいをして、いくぶん、もったい振ったしかめ面をして、いった。
「あなたの周囲を取り巻いている危難を十分にご了解になっておられんというのは、ごもっともな次第ではありますが、昨晩よりもさして遠からぬ過去、いや、昨晩ですぞ、その時において発生した出来事によって、いまや、直面されんとしておられる難局――しかも法律上の難局――その難局を全く予感しておられんなどと、このわたくしが考えていると想像されるならば、それは疑いもなく笑止千万なことであります。しかしながら、その点については、ただいまは立ち入るべき時間的な余裕もありません。わたくしは、レフナー判事と差し迫った約束がありますので。明朝は、さらに徹底的に、事態の細部にわたって――これは、はっきり申しあげますが、非常に多くの点にわたっておりますのですが――あなたとよくご相談申しあげましょう。では、明朝十時に、お待ちしております」
その時刻に来ようと約束して、わたしは、外に出た。その晩は、部屋にいて、うまくもないウィスキーを飲み、面白くもない考えごとにふけりながら、ミッキーとディックからの報告が来るのを待っていた。が、二人ともとうとう来なかった。それで、真夜中ごろ、眠りについた。
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二十三 チャールズ・プロクター・ドーン氏
つぎの朝、着換えをしている最中に、ディック・フォリーがやって来た。例のひどく言葉を節約したいい方で、ビル・クイントが、きのうの正午、鉱夫会館を引きはらって、行く先も告げずに立って行ったと報告した。
十二時三十五分に、オグデン行きの列車は、パースンビルを出た。ディックは、コンティネンタル社のソルト・レーク支局に電報を打って、オグデンへ社員を派遣して、クイントの足取りを突きとめてくれと頼んだということだ。
「どんな手がかりも見のがすわけには行かんが」と、わたしは口を開いて、「しかし、目指す人間は、クイントではないような気がするんだ。ダイナが、あの男をお払い箱にしたのは、ずっと前のことなんだ。だから、なにかやる気があれば、もうとっくにやっていたはずだ。おれの推量では、女が殺されたということを耳にして、振られて、脅かしたことがあるので、逃げ出すことにしたんだろうな」
ディックはうなずいて、いった。
「拳銃騒ぎが、ゆうべ、街道であった。強奪だ。密造酒を積んだトラックが四台、襲われて、もやされた」
どうも、大男の闇酒屋の手下が、警察の特別隊に採用されたというニューズに対する、レノ・スターキーの挨拶らしい。
着換えをすませるころには、ミッキー・リネハンが来た。
「ダン・ロルフが、あの家へ行ったことは確かだ」と、かれは報告した。「角のギリシャ人の食料品屋が、きのうの朝の九時ごろ、あの家から出て来るのを見かけているんだ。よろよろとよろめくように、ひとり言をいいながら、通りを歩いて行ったそうだ。ギリシャ人は、酔っぱらっているのだと思ったというんだ」
「どうして、そのギリシャ人は、警察に知らせなかったんだ? それとも、知らせたのか?」
「きかなかった。この町の警察は大したもんだね。こっちはどうする? 連中のかわりにロルフをさがし出して、のしでもつけて、進上するか?」
「マグロオは、女をやったのは、ホイスパーだときめこんでしまっている」と、わたしはミッキーにむかって、「だから、それと筋のちがう手がかりなんか、うるさいぐらいにしか考えやしまい。氷かきを取りにもどって来なけりゃ、ロルフがやったことだとわかりもしなかったんだ。女は、明け方の三時に殺されたんだ。ロルフは、八時半にはいなかったんだし、氷かきは、女の胸に突っ立ったままだったんだ。とすると――」
ディック・フォリーが、わたしの前へ来て突っ立ち、たずねた。
「どうして、それを知ってるんだね?」
その顔つきも、その口のききようも気に入らなかった。わたしはいった。
「おれがいうから、知ってるんじゃないか」
ディックは、なんともいわなかった。ミッキーは、例の薄のろみたいなにやにや笑いを浮かべて、たずねた。
「これから、どうするんだね? 早いとこ片づけっちまおうじゃないか」
「おれは、十時に人に会う約束があるんだ」と、わたしは、二人に知らせた。「もどって来るまで、ホテルでぶらぶらしていてくれ。ホイスパーもロルフも、多分死んでるだろう――だから、さがし出してやるまでもないさ」わたしは、にがい顔をディックに向けて、いった。「人から聞いた噂だ。どっちも、おれが殺したんじゃないぞ」
小男のカナダ人は、わたしの眼を見つめたまま、うなずいた。
わたしは、一人で朝食をとってから、弁護士の事務所へむかった。
キング通りからまがろうとすると、グリーン通りをこっちへ走って光る自動車の中に、ハンク・オマラのそばかすだらけの顔を見かけた。知らない男の脇にすわっていた。脚の長い若者は、わたしに腕を振って、車をとめた。わたしは、そばへ寄って行った。
かれはいった。
「レノが、あんたに会いたがってるよ」
「どこにいるんだね?」
「この車に乗ってくんな」
「いまは駄目だ」と、わたしはいった。「午後でないと、どうも行けそうもないよ」
「都合のいい時に、ピークに連絡しなよ」
そうしようと、わたしはこたえた。オマラと連れの男とは、そのままグリーン通りを車を走らせて行った。わたしは、半ブロックほど南へ、ラトレッジ・ブロックまで歩いた。
いまにも倒れそうな階段の一段目に、片足をかけて、弁護士の事務所のある二階へのぼろうとした時、ふと眼にとまったものがあって、足をとめた。
そのものは、一階の薄暗い片隅に、かろうじて見えていた。片方の靴だった。からの靴なら、そんな風にはならない格好で転がっていた。
かけた階段から足を引っこめて、その靴の方へ行って見た。すると、その靴の上っ面《つら》につづいて、くるぶしと、黒いズボンの裾とが眼にはいった。
これで、見つけたものに対する覚悟が出来た。
階段の裏側と壁の隅とで出来ている小さなくぼみの中に、二本の箒と、一本の雑巾棒《モップ》と、一つのバケツにまじって詰めこまれている、チャールズ・プロクター・ドーン氏を見つけた。バンダイク風の顎ひげが、額にななめに口をあいた傷口からの血で、赤く染まっている。頭は、頸の骨を折らなければ、そんな風には出来そうもない工合に、うしろ横にねじまげられていた。
わたしは、「やるだけのことは、やらなくちゃいかん」という、ヌーナンのお得意の言葉を、胸の中で繰り返しながら、死人の着ている上衣の裾を、慎重に引っ張り出して、内ポケットのなかの、黒表紙の手帳と一束の書類を、自分のポケットに移した。
それ以外には、これはと思うものはなかった。残りのポケットは、死体を動かさなければ調べられなかったが、そうまでする気にはなれなかった。
五分の後には、ホテルにもどって来たが、ロビイにいるディックやミッキーに会うのを避けて、横の入り口からはいり、中二階まで歩いて、そこからエレベーターに乗った。
部屋へはいると、腰をおろして、取って来た物を調べて見た。
まず手帳からはじめた。どこの文房具屋ででも、大した金を出さずに買えるような、小さな模造革の表紙の手帳だった。わたしにはなんの用もない断片的な控えと、三十人ばかりの名前と住所とが書きつけてあった。どれもほとんど用のないものばかりだったが、たった一つだけ、例外があった。
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ヘレン・アルベリー ハリケーン通り 一二二九番地のA
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これが、わたしの関心をひいたのは、第一に、ドナルド・ウイルスンが、ダイナ・ブランドといい仲になったと思いこんで、嫉妬にかられたあまり、ウイルスンを射殺したと自供して、拘置されている青年がロバート・アルベリーという名前だからであり、第二には、ダイナ・ブランドが住んでいて、殺された、ハリケーン通りの一二三二番地から、道路をへだてたむかい側が、この一二二九番地のAにあたるからだった。
わたしの名は、その手帳にはなかった。
手帳を脇に置いて、いっしょに持って来た告知の束をほどいて、読み出した。こん度もまた、必要なものを見つけ出すために、たくさんの用もないものを一枚一枚、骨を折って調べなければならなかった。
見つけ出したのは、輪ゴムでひとまとめにした四通の手紙だった。
手紙は、封を切った封筒にはいっていて、平均一週間ぐらいずつ間をおいて消印が押してあった。一番新しいのでも、六ヵ月以上も前の日付だった。宛名は、どれもダイナ・ブランドだ。最初の――つまり、一番古い日付の――手紙は、恋文としても、そうまずいものではなかった。二番目のは、ちょっと馬鹿馬鹿しいようなものだ。三番目四番目になると、熱烈な、しかも振られ通しの求愛者というものが、とりわけ、その求愛者が年をとっている場合、どれほど人間は馬鹿になってしまうかという、この上なしの見本だった。手紙は四通とも、エリヒュー・ウイルスンの署名があった。
結局、チャールズ・プロクター・ドーン氏が、なんだって、わたしを脅迫して、一千ドル巻きあげられると思ったのか、その理由をはっきりつかめるようなものは、なにも見つからなかったが、考えさせられる種はたっぷり発見した。わたしは、ファティマを二本すって頭の働きを活発にしてから、階下へおりて行った。
「チャールズ・プロクター・ドーンという弁護士のことを調べて来てくれ」と、わたしはミッキーにいった。「グリーン通りに、事務所を持っているが、そこへは、近寄らないでいろ。あまり時間をかけるな。急いで、ざっとしたことだけがほしいんだ」
ディックには、わたしよりも五分おくれて、ハリケーン通りの一二二九番地のAの近くまでついて来てくれといった。
一二二九番地のAというのは、ほとんどダイナの家のまむかいで、二階づくりの建物の階上のアパートだった。一二二九番地は、二軒にわかれていて、それぞれ入り口は別になっていた。わたしは、Aの方の入り口のベルを鳴らした。
ドアを開けたのは、十八、九の、濡れたような短く切った茶色っぽい髪の毛の、黄味がかった艶のある顔に、黒い、眼と眼の間の近い、女の子だった。
ドアを開けたと思うと、咽喉の奥で、あっとおびえたような、息がつまったような声を出して、わたしから後ずさりして、両手で開いた口をふさいだ。
「ヘレン・アルベリーさんですね?」と、わたしはたずねた。
女は、はげしく首を左右に振った。まるきり本当らしさはなかった。気ちがいじみた眼の色だ。
わたしはいった。
「ちょっとお邪魔をして、二、三分、お話がしたいんですが」と、いいながら中へはいって、うしろ手にドアをしめた。
女は、なんともいわなかった。先に立って階段をのぼって行きながら、頭をねじ向けて、おびえた眼でわたしを見守っていた。
ほとんど家具らしい物のない居間にはいった。窓から、ダイナの家がひと眼で見えた。
女は、まだ両手を口にあてたままで、部屋のまん中に突っ立っていた。
わたしは、ずいぶん暇をかけ、口をすっぱくして、害意のない人間だということを納得させようとしてみた。そんなにしても、うまく行かなかった。わたしのいうひと言ひと言に、恐怖が高まるようだった。たまらないほど、いやになって来た。面倒くさくなって。用事に取りかかった。
「あんたは、ロバート・アルベリー君の妹さんですね?」と、わたしはきいた。
ただ、純然たる恐怖からの意味もない表情のほかには、なんの反応もない。
わたしはいった。
「兄さんが、ドナルド・ウイルスン殺害の件で逮捕されてから、ダイナが監視出来るこの部屋を借りたんですね。なんのためです?」
女は、ひと言もいわない。しようがないから、自分のこたえで間に合わせた。
「復讐だね。兄さんがああいうことになったのを、あんたは、ダイナ・ブランドが悪いからだとうらんだ。そして、機会を狙っていた。その機会が、おとといの晩に来た。あんたは、あの家へ忍びこんで行き、あの女が酔っぱらっているのを見て、その場にあった氷かきで、あの女を突き刺した」
女は、なんともいわなかった。女のおびえた顔から、無表情が動揺するのを読みとろうとしたが、うまく成功しなかった。わたしはいった。
「ドーンは、あんたを助けて、あんたのかわりに、うまくことを始末しようとした。ドーンは、エリヒュー・ウイルスンの手紙を手に入れたがった。その手紙を取りにやった男が、実際に殺人をやったのだろうが、それは誰です?」
それでも、手ごたえはなかった。女の表情というより、無表情さに、なんの変化もない。口もきかない。一つ尻をぴしゃっと、ひっぱたいてやろうかと思った。
「わたしは、あんたに話をする機会を与えてあげた。よろこんで、あんたのいい分に耳をかそうと思っていた。だが、いやなら、勝手にするさ」
女は、自分の好きなように、沈黙を守りつづけた。わたしは、あきらめた。これ以上無理押しをすると、黙っている以上に、もっと気違いじみたことをやりそうな気がして、恐ろしくなった。こっちのいったことが、ひと言でもわかったのかどうか、それさえわからずに、わたしは、その部屋を出た。
街角で、わたしは、ディック・フォリーにいった。
「あすこに、娘が一人いる。ヘレン・アルベリー、十八歳、五フィート六インチ、痩せている。百ポンドとはあるまい。眼の間がせまい。茶色だ。肌は黄色、茶色の短い断髪で、まっすぐだ。いまは、グレイのスーツを着ていた。その女をつけてくれ。手むかいするようだったら、警察へぶちこんでくれ。気をつけろよ――南京虫みたいに狂っているからな」
レノの居どころを突きとめて、なんの用で会いたいといっているのか聞こうと思って、ピーク・マリーの賭場へ出かけた。半町ほど手前で、一軒の事務所用のビルディングの戸口に身をひそめて、あたりの様子をうかがった。
マリーの賭場の前に、警察のパトロールの囚人自動車が一台とまっていた。大勢の男たちが、賭場から、引きずられたり、かつがれたりして、その車に押しこまれていた。
先に立っている人間も、引きずり出したり抱きかかえたりしている連中も、正規の巡査のようじゃなかった。どうも、フィンランドのピートの子分の、特別警官隊らしかった。ピートは、マグロオの助けをかりて、ホイスパーとレノとが戦いをしかけなければいられないように、思う存分、脅しをかけているらしかった。
見ているうちに、一台の救急車が着いて、怪我人を積みこんで走り去った。立っている場所が遠すぎたので、積みこんだのが誰か、一人か数人かもわからなかった。騒ぎが峠を越したと思われるころ、二町ほどまわり道をして、ホテルにもどった。
ミッキー・リネハンが、チャールズ・プロクター・ドーン氏についての情報を手に入れて、待っていた。
「あの男は、評判の悪徳弁護士だってさ。きみがつかまえた、そのアルベリーという男、あの男の家族の誰かが、アルベリーの弁護に、あの男を依頼したんだ。アルベリーは、ドーンが面会に行ったんだが、全然、相手にしようともしなかった。この三つ名のある三百代言は、去年、ヒルという牧師に関係した恐喝詐欺で、あやうく手前自身がやられるところを、やっとのがれたということだ。どこだか知らんが、リバート通りというところに、ちょっとした不動産を持っている。もっとほじくってみるかい?」
「それで、いいだろう。ディックからいって来るまで、待ってみよう」
ミッキーは、あくびをして、そんなにかけずりまわらなくても、血液の循環が悪くなるようなこともないから、それでもいいとこたえ、わたしたちが全国的に有名になりかけているのを知っているかとたずねた。
それはどういうことなんだ、と、わたしは聞き返した。
「いま、そこで、トミー・ロビンズとぶつかったのさ」と、かれはいった。「コンソリデーテッド・プレスから、この事件で特派されたんだそうだ。ほかの通信社や、一、二の大新聞も特派員を出して、おれたちのごたごたを扱おうとしかけているといってたぜ」
わたしがお気に入りの――新聞なんてものは、火を消すのに油をぶっかけるようなまねをするほかには、なんの役にも立たんものさ――という不平をならべているところへ、ボーイが、わたしの名を呼び歩いているのがきこえた。銀貨を一つやると、電話がかかっていると告げた。
ディック・フォリーだった。
「さっき、娘が出て来た。グリーン通りの三一〇番地へ来た。警官が一杯だ。ドーンという弁護士が殺された。娘は、警察へつれて行かれた」
「女は、まだ市庁にいるんだね?」
「うん、署長室にいる」
「頑張ってろ。なにか聞きこんだら、すぐ知らせてくれ」
ミッキー・リネハンのそばへもどり、部屋の鍵と指図とを与えた。
「おれの部屋にいてくれ。どんなことでも、おれのところへ来た知らせを、連絡してくれ。おれは、すぐ近くのシャノン・ホテルに、J・W・クラークという名でいるからね。ディックに知らせるほかは、誰にもいうなよ」
ミッキーが、「いったい、どうしたんだ?」とたずねたが、へんじがないので、関節のゆるんだ体を動かして、エレベーターの方へ行った。
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二十四 おたずね者
シャノン・ホテルへ行き、宿帳に変名を書いて、一日分の宿賃を払うと、三二一号室に案内された。
一時間ほどすると、電話が鳴った。
ディック・フォリーが会いに行くといった。
五分もしないうちに、かれは来た。痩せた悩ましそうな顔は、好意を持っている顔ではなかった。声も無愛想だった。かれはいった。
「あんたに逮捕令状が出た。殺人だ。それも二件――ブランドとドーンだ。おれが電話をかけた。ミッキーが出て、あんたはここだといった。ミッキーもあげられた。いまごろ、きびしく尋問されているだろう」
「うん。おれも、そいつは予期していた」
「おれもだ」と、かれが鋭くいった。
わたしは、わざと、ゆっくり言葉を引きのばして、いった。
「お前は、おれが、あの二人を殺した、と、思っているんだろうな、ディック?」
「やらなかったんなら、そういうのにゃ持って来いの時だぜ」
「はっきり、おれだと指摘するというのかい?」と、わたしはたずねた。
かれは、唇を深く噛んだ。顔の色が、赤から鈍い黄色にかわった。
わたしはいった。
「サンフランシスコへ帰れよ、ディック。おれは、手にあまるほど仕事があって、お前の見張りまでは手がまわらん」
ディックは、ひどく念入りに帽子をかぶり、ひどく念入りに後のドアをしめて、出て行った。
四時に、ちょっとした昼食をとり、煙草をすい、イブニング・ヘラルドを部屋に持って来させた。
ダイナ・ブランドの殺害事件と、チャールズ・プロクター・ドーン殺害の新しい事件とが、ヘラルドの第一面をうずめ、その二つの事件を、ヘレン・アルベリーが結びつけている。
読んで見ると、ヘレン・アルベリーは、ロバート・アルベリーの妹で、兄の自供には頓着なく、どこまでも、兄は殺人犯人ではなく、ある仕組んだ陰謀の犠牲者と固く信じている。ヘレンは、チャールズ・プロクター・ドーンに、兄の弁護を依頼した。(これは、ヘレンが、故チャールズ・プロクター・ドーンを頼んだというより、チャールズ・プロクター・ドーンの方で、かの女をさがし出して売りこんだのだと、考えた方がよさそうだ)兄は、ドーンばかりでなく、ほかのどんな弁護士も依頼することを拒んでいるが、妹は、(疑いもなく、ていよくドーンにけしかけられて)まだ闘争をあきらめてはいない。
ヘレン・アルベリーは、ダイナ・ブランドの家のまむかいに、あいた部屋を見つけ、そこを借りて、双眼鏡持参で移り住み、ダイナとその一味こそが、ドナルド・ウイルスン殺しの犯人であることを立証しようと考えた。
わたしは、『一味』の一人ということになっているらしい。ヘラルドは、わたしのことを、「サンフランシスコから来た私立探偵ということになっている男で、数日前から当市に来ているのだが、マックス(ホイスパー)・ターラー、ダニエル・ロルフ、オリバー(レノ)・スターキー、およびダイナ・ブランドらと、明らかに親密な間柄にあるもののようである」と書いている。わたしたち一味が、ロバート・アルベリーを無実の罪におとし入れた、筋書の作者というわけだった。
ダイナが殺された晩、自分の部屋の窓からうかがっていたヘレン・アルベリーは、(ヘラルドによれば)その後、ダイナの死体が発見されたことと結びつけて考え合わせると、きわめて意味深長な、さまざまの事柄を見たのだった。殺人のあったことを聞くとすぐに、ヘレンは、自分の知っている重大な事実を、チャールズ・プロクター・ドーンに伝えた。ドーンは、(警察が、かれの書記から聞き出したところによれば)ただちに、わたしを呼び、その午後、わたしと密談をかわした。その後で、ドーンは書記に、わたしが、つぎの日――つまり、きょう――午前十時に、もう一度来ることになっていると話して聞かせた。けさ、わたしは約束を守らなかった。十時二十五分に、ラトレッジ・ブロックの管理人は、階段裏の隅で、チャールズ・プロクター・ドーンの殺害された死体を発見した。死体のポケットから、重要な書類が持ち去られたもののようである。
管理人が、弁護士の死体を発見した、まさにその時刻に、わたしは、ヘレン・アルベリーの部屋にあらわれ、無理やり押し入り、かの女を脅迫していた(らしい)。ヘレンは、やっとのことで、わたしを追っぱらうと、ドーンの事務所へかけつけた。折柄、まだ警官がいるところに着いたので、いちぶしじゅうを警官に述べた。警察は、ホテルに警官を赴かせたが、わたしは不在で、部屋には、同じくサンフランシスコの私立探偵と自称する、マイケル・リネハンなる者がいた。マイケル・リネハンは、目下、警察で取り調べ中である。ホイスパー、レノ、ロルフ、およびわたしは、殺人容疑者として厳探中である。重要な進展が期待されている。
第二ページに、面白い半段ほどの記事がのっていた。ダイナ・ブランドの死体を発見した二人の刑事、シェップとバーナマンが、謎の失踪をとげた。われわれ『一味』の陰謀が、懸念されている、というのだった。
ゆうべの街道筋でのトラック襲撃事件のことも、ピーク・マリーの賭場の手入れのことについても、新聞には一行ものっていなかった。
暗くなってから、わたしは出かけた。レノと連絡をとりたいと思ったのだ。
とあるドラッグ・ストアから、ピーク・マリーの賭場へ電話をかけた。
「ピークはいるかい?」と、わたしはきいた。
「ピークだ」といった声は、まるきりピークらしい声ではなかった。「誰だい?」
わたしは吐き出すように、「リリアン・ギッシュさ」といって、受話器をかけ、その近所から遠ざかった。
レノをさがすのはあきらめ、わたしの依頼主のエリヒュー老人を訪ねて、老人がダイナ・ブランドにあてて書いた、そして、わたしがドーンの死体のポケットから盗み出した恋文を種に、おとなしくするように老人を脅してやろうと決心した。
出来るだけ暗い通りの暗い側から出ないようにして歩いた。運動なんてものを馬鹿にしている人間にとっては、ずいぶん長い道のりだった。ウイルスンの邸のある町内に辿りついたころには、すっかり機嫌が悪くなって、老人とのいつもの調子の会見に、まったく似つかわしい状態になっていた。しかし、まだそれからしばらくの間は、老人に面会する段取りにはならなかった。
目あての邸まで、まだ二筋、横町のあるところまで来た時、誰かが、しいっ、と、わたしを制した。
恐らく、二十フィートとは飛びのかなかったろう。
「大丈夫だよ」と、囁く声がした。
そこは暗かった。灌木の茂みの下から――どこかの家の前庭に四つん這いになっていた――そっと覗いて見ると、生け垣のこちら側にぴったり身を寄せて、うずくまっている人の姿が見わけられた。
わたしは、ピストルを手に握っていた。大丈夫だというその男の言葉を、そのまま受け取って悪いという特別な理由はなかった。
地面から膝をはなして、その男のそばへ寄って行った。間近へ行って見ると、きのう、ロニー通りの家で案内してくれた男の一人だとわかった。
その男の脇にしゃがみこんで、たずねた。
「どこへ行けば、レノに会えるかね? ハンク・オマラから、会いたがっていると聞いたんだが」
「会いたがってたよ。キッド・マクレオドの店を知ってるかね?」
「知らない」
「キング通りより上手の、マーティン通りの、横町の角だ。キッドといってきいてみな。ここから三町後もどりして、それから下町の方へ行くんだ。見つけそこなうことはねえよ」
じゃ、さがしてみようといって、生け垣のかげにうずくまっている男のそばを離れた。男は、わたしの依頼主の邸を見張り、フィンランドのピートか、ホイスパーか、誰かレノの敵が、エリヒュー老人を訪ねることでもあれば、一発に仕止めようと待ち伏せしているのだろう、と、わたしは思った。
教えられた通りに辿って行くと、赤と黄のペンキを一面に塗りたくった、喫茶店兼酒場にぶつかった。なかへはいって、キッド・マクレオドに会いたいと頼んだ。奥の部屋へ通された。よごれたカラーをつけて、恐ろしくたくさんの金歯に、片方だけしか耳のない肥った男が、おれがマクレオドだといった。
「レノが会いたいといって来たんだが」と、わたしはいった。「どこへ行けば、会えるだろう?」
「そういうお前さんは、誰だい?」と、相手はたずねた。
わたしは名前を告げた。相手は、なんともいわずに出て行った。十分待っていた。マクレオドは、にきびだらけの赤い顔に、表情のない、十五、六の男の子を連れてもどって来た。
「|坊や《ソニー》といっしょに行ってくんな」と、キッド・マクレオドが、わたしにいった。
少年について、横の戸口から出て、裏通りを二町、下町の方へ行き、砂地の空地を突っ切り、こわれかけた門をぬけて、一軒の木造の家の裏口に着いた。
少年が、そのドアをたたくと、誰だ、ときく声がした。
「ソニーだよ。キッドのとこから、お客を連れて来たよ」と、少年はへんじをした。
ドアを開けたのは、脚の長いオマラだった。ソニーは、帰って行った。台所へはいって行くと、ビールの瓶がたくさんのっかったテーブルのまわりに、レノ・スターキーとほかに四人の男がいた。はいって来たドアの上に、自動拳銃が二挺、釘にかけてあるのに気がついた。この家の人間がドアを開けた拍子に外に敵がいて、ピストルを突きつけて、手をあげろ、といわれた場合に、都合がいいだろうと思った。
レノは、ビールを一杯、ついでくれてから、食堂をぬけて、表の部屋へ、わたしを案内して行った。一人の男が腹這いになって、おろしたブラインドと窓枠の下との隙間から、片眼で、外の通りを見張っていた。
「裏へ行って、ビールでも飲め」と、レノがその男にいった。
男は立ちあがって、出て行った。わたしたちは、隣り合った椅子に腰をおろしてくつろいだ。
「お前さんのために、タンナーのアリバイを手配した時に」と、レノはいった。「出来るだけ、たくさん友だちをつくりたいから、こんなことをするんだって、いったっけな」
「だから、一人出来たじゃないか」
「あのアリバイは、まだ割れないかい?」と、かれがきいた。
「まだ割れない」
「大丈夫さ」と、請け合うようにいった。「やつらが、むやみやたらと、お前さんをつけ狙わん限りはね。つけ狙われそうかい?」
つけ狙われているような気がしていた。でも、わたしはいった。
「そうでもない。マグロオは、面白半分にやってる気さ。あれはあれで、どうにかなるさ。きみの方はどうだい?」
レノは、ビールのグラスをあけて、手の甲で口をふいてから、いった。
「なんとかやるつもりだ。だが、そのことで、お前さんに会いたかったんだ。それというのも、女のしわざなんだが、ピートの奴が、マグロオと手を握りゃがった。それで、その筋の奴らと、ビール・ギャングが、おれとホイスパーとに突っかかって来やがるんだ。だが、畜生! おれとホイスパーとは、力を合わせて威勢を張るどころか、相手の腹にドスをぶちこもうとして血眼になっているんだ。ひでえ話さ。二人がいがみ合ってる間に、あののらくら連中の餌食になって、食いつくされてしまうじゃねえか」
同じことを考えていたところだった、と、わたしはいった。レノは、言葉をつづけた。
「ホイスパーも、お前さんのいうことならきくと思うんだ。奴を、さがしてくれねえかな? そして、奴に話してもらいたいんだ。おれの案は、こうだ。ホイスパーは、ジェリ・フーパーを殺《や》ったってんで、おれを片づけるつもりでいる。だから、むこうがそうなら、おれが先に、奴を片づけるつもりなんだ。それを、ここ二、三日、お互いに忘れようじゃねえか。誰も他人を一切、信用出来ねえ有様だ。ホイスパーは、どんな仕事にも姿を見せたためしはねえ。子分どもを向けるだけだ。おれも、こん度はそうする。両方の人手を一つにして、ひと騒ぎをやらかすんだ。かためた同勢を使って、あのフィンランドの畜生を消してしまう。それから、たっぷり暇をかけて、お互いの間で射ち合いでもなんでもやろうじゃねえか。
ということを、奴さんに、じっくり伝えてもらいたいんだ。おれは、奴とであろうと、ほかのどんな野郎とであろうと、喧嘩を避けようとしているなどとは、奴に思われたくはねえ。二人してピートを片づけちまったら、それだけ、おれたちが果し合いをする場所が広くなるじゃねえか、と、おれがいったと、奴に伝えてくれ。ピートは、ウイスキータウンにもぐりこんでるはずだ。あすこまで出かけて行って、野郎をおびき出すだけの人数が、おれにはねえ。ホイスパーにもねえ。二人がいっしょになれば、それが出来るんだ。そいつを、奴に納得させてほしいんだ」
「ホイスパーは」と、わたしはいった。「死んだぜ」
レノは、「ほんとか?」と、そんなことはないというように、いった。
「ダン・ロルフが、きのうの朝、あの男を殺したよ。レッドマンの古倉庫へ行って、ホイスパーが、例の女に使った氷かきで、あの男を突き刺したんだ」
レノがきいた。
「確かだろうな? 出鱈目をいってるんじゃねえだろうな?」
「確かだよ」
「それにしては、奴の手下どもが、誰もそれらしい素振りを見せねえのは、おかしいじゃねえか」とはいったが、だんだん、わたしの言葉を信じかけていた。
「手下の奴どもは知らないよ。ホイスパーは、身を隠していたんだ。たった一人、テッド・ライトだけがいっしょだった。テッドは、ホイスパーが死んだことを知った。そこで、それをだしにして、金にした。きみからも、ピーク・マリーの手を通して、百ドルとか百五十ドルとか物にしたと、おれに話したぜ」
「あの大馬鹿野郎が、それだけのちゃんとしたネタを持って来りゃ、その倍も、おれはくれてやったろうにな」と、レノは、不服そうにいった。かれは、顎を撫でていった。「じゃ、それでホイスパーは片づいたということだ」
わたしは、「まだ片づかないよ」といった。
「片づかないってのは、どういうことなんだ?」
「ホイスパーの子分が、親分の居どころを知らないのなら」と、わたしはそそのかすように、「子分どもに知らしてやろうじゃないか。あの連中は、ヌーナンがホイスパーを引っ張った時、留置所を爆破して親分を助け出したじゃねえか。マグロオが、こっそりホイスパーを引っくくったという情報をばらまいたら、もう一度、子分どもがやるとは思わないかい?」
「その先を話してくれ」と、レノがいった。
「ホイスパーが豚箱にいると思って、奴さんの仲間が、もう一度、そいつをぶち破ろうと企んでいるということになったら、警察じゃ、ピートの特別隊もそうだが、仕事が忙しくなるというもんだ。そのひまに、きみは、ウイスキータウンで、運だめしがやれるわけじゃないか」
「なるほど」と、ゆっくり、かれはいった。「一つ、そいつを、やってみるか」
「きっと、うまく行くぜ」と、相手を元気づけて、立ちあがった。「じゃあ、また――」
「まあ、いいじゃないか。お前さんも逮捕令状が出ているんだから、そんな時なんかには、ここは、いい隠れ場所だぜ。それに、お前さんみてえないい男を一人、おれたちも仲間にほしいからな」
そう大して気も進まなかった。だが、そんなことが口に出してはいえないということも、よくわかっていた。わたしは、また腰をおろした。
レノは、噂を流すのに懸命だった。電話は、超過勤務ではたらかされた。台所のドアも、人が出たりはいったり、ひどくはたらかされた。出て行く人より、はいって来る方が多かった。家じゅうが、人と煙と緊張とで一杯になった。
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二十五 ウイスキータウン
一時三十分、レノは、かかって来た電話にこたえをすませてから、振り返って、いった。
「出かけようぜ」
かれは、二階へ行った。おりて来た時には、黒い手さげ鞄を持っていた。もうその時には、大がいの男たちは、台所のドアから出てしまっていた。
レノは、黒い鞄を、わたしにわたしながら、いった。
「あんまり、ぶちあてないようにしてくんな」
鞄は、重かった。
家に残っていたわたしたち七人は、表玄関から出て、ちょうどオマラが、家の前に横づけにした幌型の車に乗りこんだ。レノは、オマラの横にすわった。わたしは、うしろの席の二人の男の間に押しこまれ、鞄も両脚の間に押しこまれた。
はじめの十字路で、別の車が出て来て、わたしたちの車の前を走った。三台目の車が、うしろにつづいた。スピードは、四十マイル前後で、のろすぎもしなければ、人目に立つほど早すぎもしなかった。
旅行がほとんどおわりかけた時、邪魔がはいった。
戦端は、町の南のはずれの、掘立小屋めいた一階建てばかりの家並みのところで、開かれた。
一軒のドアから首を出した一人の男が、口に指を入れて、鋭く口笛を鳴らした。
うしろの車にいた誰かが、その男を射ち倒した。
つぎの角では、ピストルの一斉射撃の中を、車は走り抜けた。
レノが振り返って、わたしにいった。
「その鞄を射たれたら、おれたちは一人残らず、昇天だぜ。そいつを開けてくれ。むこうへ着くなり、早いとこやっつけなくちゃならんからな」
わたしが鞄のチャックを開けおわった時には、車が、黒っぽい三階建ての煉瓦造りの家の正面の、歩道の際にとまったところだった。
男たちは、わたしの上に折り重なるようにして、鞄の口を開き、めいめいが勝手に、鞄の中の物を取り出した。鞄の中には、おが屑を詰めた中に、太さ二インチのパイプを短く切って作った爆弾が、いくつもはいっていた。弾丸が飛んで来て、車の幌を大きく裂いた。
レノは、うしろへ手をのばして、その爆弾を一つ受けとると、歩道に飛びおりて、そのとたんに、さっと、左の頬のまん中に、血が一筋、にじみ出たのもものともせず、火薬を詰めたパイプを、煉瓦造りの家の表ドアに投げつけた。
ぱっと炎がひらめいたと思うと、耳を聾する轟音が、それにつづいた。爆風にたたきつけられないようにと懸命に身をちぢめるわたしたちのまわりに、いろいろな物の破片が降りそそいだ。気がついて見ると、赤煉瓦の建物には、侵入者をさえぎるドアは、もうなくなっていた。
一人の男が飛び出して行って、大きく腕を振りあげざま、パイプ爆弾を入り口からほうりこんだ。階下の窓という窓のシャッターが吹っ飛び、火とガラスとがつづいて飛び散った。
うしろにつづいて来た車も、少し離れたところにとまって、あたりと弾丸のやりとりをはじめている。前を走っていた車は、横町へまがりこんで行った。わたしたちの荷物がつぎつぎに爆発する間に、赤煉瓦の建物の裏手からピストルの音がきこえるのは、前を走った車が、裏口を押さえたということだった。
オマラが通りのまん中へ飛び出したと思うと、ぐっと大きなモーションをつけて、爆弾を煉瓦の建物の屋根へ投げあげた。それは、爆発しなかった。オマラは、片足を高く宙にあげ、咽喉をかきむしって、どっとうしろざまに倒れた。
もう一人の味方も、煉瓦建ての隣りの木造の建物から、わたしたちを目がけて射ちおろして来る弾丸にあたって倒れた。
レノがのっそりと呪詛の言葉を吐いて、いった。
「火をつけて、奴らを追い出せ、ファット」
ファットは、爆弾に唾をはきかけ、車のうしろへまわって行って、腕を振りあげた。
わたしたちは、歩道からとびのいて、飛び散って来るものをさけた。眼をあげると、木造家屋は骨組みだけになり、そのはしばしを炎が這いのぼっていた。
「まだ残っているか?」と、レノがきいた。わたしたちは、改めて射たれないですんだのが珍しいような顔つきで、あたりを見まわした。
「これが最後だ」といって、ファットが爆弾をさし出した。
火が、煉瓦の家の階上の窓の中で、ちらちらと踊っていた。レノは、それを見てから、ファットから爆弾を受けとって、いった。
「さがってろ。奴ら、出て来るぞ」
みな、家の正面から離れた。
家のなかから、どなり声がきこえた。
「レノ!」
レノは、自動車のかげに身をかくしてから、どなり返した。
「なんだ?」
「おれたちの負けだ」と、のぶとい声が叫んだ。「出て行くからな。射つな」
レノがきいた。「おれたちとは、誰だ?」
「おれはピートだ」と、のぶとい声がこたえた。「残っているのは、四人だ」
「お前が先に出て来い」と、レノが命令して、「両手を頭の上にあげるんだぞ。ほかの奴も、一度に一人ずつ、同じ格好で、お前の後から出て来るんだ。三十秒ずつ、間をおくんだぞ。さあ、出て来い」
しばらく待っていた。すると、フィンランドのピートが、ダイナマイトで破壊された玄関に、両手を禿げ頭の上にのせて、あらわれた。燃えている隣りの家からの照り返しで、その顔が傷つき、着ているものも、ほとんど破れて裂けてしまっているのが見えた。
散らばった残骸の上を踏み越えて、闇酒屋は、ゆっくりと階段をおり、歩道に立った。
レノは、一声、この罰あたりめと、罵声をあびせておいて、矢つぎ早に四発、顔と体とに射ちこんだ。
ピートは、倒れた。わたしのうしろにいた一人の男が、声をあげて笑った。
レノが残った爆弾を、玄関の戸口から投げこんだ。
わたしたちは、車のなかへよじのぼった。レノがハンドルを握った。エンジンはきかなかった。弾丸があたったのだ。
レノが警笛を鳴らしている間に、後の者は、どやどやとおりた。
角にとまっていた車が、こっちへやって来た。それを待ちながら、わたしは、燃えている二軒の建物の白熱のような光で明かるくなった通りの左右を見わたした。あちらこちらの窓に、いくつか顔が見えていたのが、わたしたちのほかには、通りにいた人間は一人残らず、隠れてしまっていた。あまり遠くないところから、消防の警鐘がきこえて来た。
車がスピードをおとして寄って来て、わたしたちを乗りこませた。それまでにも、その車は一杯だった。わたしたちは折り重なって乗りこみ、あふれた者は、ステップに足をかけてぶらさがった。
車は、死んだハンク・オマラの脚の上をどしんと乗り越えて、家路にむかった。一ブロックだけ走る間は、気楽とはいえなかったが、それでも無事だった。それからは、そうは行かなかった。
一台の箱型自動車《リムージン》が行く手の角をまがり、半町ほどこちらへむかって来ると、こちらに横腹を見せて、とまった。その横腹から、一斉に銃火が飛んで来た。
もう一台、その箱型をまわって、こちらへむかって来た。その車からも、銃火をあびせて来た。
わたしたちも必死に応戦したが、なにぶんにも、あまりにぎっしり詰めこまれていて、うまく戦えなかった。膝に人間を一人乗っけて、肩にはもう一人がぶらさがり、その上に、すぐうしろの、耳から一インチのところでは、三人目の人間がピストルを射っているという有様では、まともにピストルを射てるものではない。
味方のもう一台の車――建物の裏手へまわっていたのが――追いついて、加勢した。しかし、それまでに、敵方にももう二台、加わっていた。どうやら、どんな形でだかわからないが、ターラー一味の留置所襲撃がおわって、そちらへ応援に送られていたピートの特別隊がもどって来たのが間に合って、わたしたちの逃げ出すのがぶちこわしになったものらしい。まったく、目ざましい混戦だった。
わたしは、火を吐いているピストル越しに身を乗り出して、レノの耳にどなった。
「これじゃ駄目だ。おれたち余計者《エキストラ》は飛び出して、勝手にずらからせろよ」
そいつはいいと、レノも考えたとみえて、命令を下した。
「お前らのうち、少し出ろ、横町からずらかれ」
まっ暗な路地の入り口に狙いをつけて、わたしは、まっ先に飛び出した。
ファットが、わたしにつづいて、そこへ飛んで来た。物かげへはいると振り返って、どなりつけた。
「ついて来るな。自分の穴をさがせ。あすこに、よさそうな地下室の入り口があるぞ」
ファットは、おとなしくその方へ駆け出したが、三足目に射ち倒された。
わたしは、自分の路地を奥へ進んだ。奥行は、わずか二十フィートしかなく、突きあたりは高い板塀で、木戸にも鍵がかかっていた。
ごみ箱を足場にして、その木戸を乗り越え、煉瓦敷きの庭にはいった。その庭の横手の塀を越えて、つぎの庭へはいり、そこからまた別の庭へはいった。そこでは一匹のフォックステリヤが、めちゃくちゃに吠えついた。
その犬を蹴飛ばして、むこう側の塀を目がけて行くと、洗濯用の綱に引っかかった。どうやらそれをくぐりぬけて、さらに二つの庭を突っ切り、とある窓からどなりつけられたかと思うと、空瓶を投げられたりしながら、どうやら、丸石を敷いた裏通りへころげ落ちた。
銃声は、うしろになったが、まだそれほど遠くは来ていなかった。わたしは、ただ全力をつくして、そこから遠ざかることにかかった。わたしは、ダイナが殺された晩に、夢の中で歩いた通りの数にも劣らないほど、たくさんの通りを歩いたのにちがいない。
エリヒュー・ウイルスンの玄関の階段をのぼりながら、腕時計をのぞいて見ると、針は、午前三時三十分を指していた。
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二十六 恐喝
わたしは、依頼主の玄関のベルを、むやみに押しつづけたのだが、一向ききめがなかった。
やっとのことで、ドアを開けてくれたのを見ると、背の高い、日焼けした運転手だった。アンダーシャツにパンツという姿で、片手に、撞球のキューを握っていた。
「なんの用だね?」ときいてから、もう一度、わたしをよく見て、「あんたか? それで、なんの用です?」
「ウイルスンさんに会いたいんだ」
「朝の四時にかね? ご冗談でしょう」と、ドアをしめかけた。
わたしは、片足を出して、それを抑えた。運転手は、足の先から顔まで、ずっと見あげ、撞球のキューを持ちあげて、きいた。
「膝がしらが割れてもいいのかい?」
「おれは、ふざけてるんじゃないぜ」と、わたしはいいつのった。「どうしても、爺さんに会わなきゃならないんだ。取りついでくれ」
「取りついじゃならないことになってるんだ。きのうの昼すぎ、あんたが来たって会わないぞって、そういいつけられたんだからね」
「そうか?」わたしは、ポケットから四通の恋文を取り出し、最初の、一番馬鹿げていないのを抜き出し、運転手に突きつけて、いった。「こいつを持って行って、おれが、残りの手紙を持って、玄関の段々にすわりこんでいるって、爺さんに、そういえよ。五分間、ここにすわっていて、それから残りのやつを合同通信のトミー・ロビンスのところへ持って行くと、そういってくれ」
運転手は、にがい顔をして手紙を見てから、「ちえっ、トミー・ロビンスに、めくらのおばさんか!」といって、手紙を取って、ドアをしめた。
四分すると、もう一度ドアを開けて、運転手がいった。
「はいんな」
運転手について、二階の、エリヒュー老人の寝室へはいった。
わたしのお客は、ベッドの上におき直って、丸い桃色の片手には自分の恋文を、片手には封筒を、くしゃくしゃに握りしめていた。
短い、まっ白な髮の毛が、逆立っていた。まん丸な眼が血走り、口と顎との平行な線が、いまにもくっつきそうになっている。大変なご機嫌だった。
わたしの顔を見るなり、どなり立てた。
「あれだけ威張った口をきいておきながら、この老海賊のところへ、命乞いに帰って来なきゃならなかったのじゃろう?」
そんなことで来たのじゃないと、わたしはこたえた。どうしても、そんな間抜けみたいな口のきき方をしようというんなら、もう少し声を低くして、ロサンゼルスの人間にまで、自分の間抜けを知られないようにした方がいいだろうと、わたしはいってやった。
爺さんは、もう一調子、声を張りあげて、わめき立てた。
「なにを、ひとの手紙を、一つや二つ盗んだからといって、きさま、そんなことを――」
わたしは、両方の耳に指で栓をした。そんなことで、相手の大声がさえぎれるものではなかったが、さすがに軽蔑されたと思ったのか、途中でわめき声を切りあげた。
わたしは、指の栓をとって、いった。
「このおべっか者をさがらせてください、話が出来ないから。この男がここにいる用はないでしょう。わたしは、あんたに怪我をさせるつもりはないんだから」
老人は、「出ろ」と、運転手にいった。
運転手は、好意のない眼でわたしを見ながら、ドアをしめて行ってしまった。
エリヒュー老人は、たちまち、猛然とたけり立って、いますぐ残りの手紙を引きわたせと要求するかと思えば、どこで手に入れたのか、なにに使ったのかと、大声で、あらん限りの汚ならしい言葉を使って聞き出そうとしたり、あれこれと手をかえ品をかえて脅かしたりしたが、大がいは、わたしに対する、ただの罵詈雑言《ばりぞうごん》だった。
わたしは、手紙をわたさなかった。わたしはいった。
「手紙は、あんたが取りもどすために雇った男から手に入れたんですよ。その男が、あの女を殺す羽目になってしまったのは、あんたには飛んだお気の毒なことでしたがね」
老人の顔から赤味がだいぶ引いて、いつもの桃色になった。唇を結んで、もぐもぐ動かしながら、眼をむいて、わたしを睨みつけていたが、やがて、口を開いて、いった。
「そういうんだな、お前の手は?」
その声は、割合に穏やかに、胸の奥から出て来た。どっしりと腰をすえて、これからわたしと喧嘩をする気になったのだ。
わたしは、ベッドのそばまで椅子を引いて行って、腰をおろし、出来るだけ楽しんでいるようににやっと笑って見せて、いった。
「これも一つの手ですよ」
老人は唇を動かしただけで、なんにもいわずに、わたしを見守っていた。わたしはいった。
「あんたみたいな、ひどいお客に、わたしはお目にかかったこともありませんね。いったい、あんたのやり口はなんです? あんたは、この町を浄化してくれって、わたしを雇っておきながら、気がかわって、わたしから離れて、わたしに反対してさまざまな手を打った。そのうちに、わたしに勝ち目が見えそうな気がして来ると、|洞ヶ峠《ほらがとうげ》で形勢観望とおいでなすった。そして、こん度はまた、わたしが負けて来たと思うと、わたしを家の中に入れることさえいやだとおっしゃる。偶然なことから、この手紙を見つけたのは、わたしとしては幸運でしたよ」
老人は、「恐喝だ」といった。
わたしは、声を立てて笑った。
「誰がそういうのか、聞きたいもんですね。よろしい、そういうことにしておきましょう」わたしは、人さし指でベッドのはしをたたいて、「わたしは負けちゃいませんよ、大将。わたしは勝ちましたよ。あんたは、何人かのならず者に、ご自分の小さな町を乗っ取られたと、わたしに泣きついて来た。フィンランドのピート、リュー・ヤード、ホイスパーのターラー、それにヌーナン。あいつらは、いまどこにいるんです?
ヤードは、火曜日の朝、死んだ。ヌーナンは、同じ日の晩、ホイスパーは、水曜日の朝、そして、フィンランド人は、ついさっきだ。わたしは、あんたがほしがるかどうか知らないが、あんたの町をあんたの手に返してあげますよ。それが恐喝だというんなら、それでも結構だ。ところで、ここで、あんたのしなきゃならんことを教えてあげましょう。まず、市長をしっかりつかむこと、こんなけちな田舎の村にだって、市長ぐらいいるでしょう。あんたとその市長とで、州知事に電話をかけるんです――話がすむまで、静かにしていてください。
知事に電話をかけて、この市の警察が手にあまってどうにもならないとか、闇酒屋どもが警官になりすましているとか、なんとかいうんです。そして、救援を求めるんです――州国防軍が一番いいでしょう。どんな有象無象《うぞうむぞう》が、町のまわりにうようよしているのか、わたしは知らないが、しかし、大物連中――あんたがこわがっていた大物連中――が死んだということだけは、はっきり知っていますよ。相手にするには、あんたには荷が勝ちすぎていた連中は、死んじまったんです。そいつらの後釜をねらって、いまや大勢の若い者が、猛烈に鎬《しのぎ》を削っています。それが多ければ多いほど、結構。そいつらが多ければ多いほど、一切の組織が崩壊している間に、|白い襟《ホワイト・カラー》の軍隊にとっては、権力を握るのがずっと楽になるというものです。ボスどもの身がわりになる奴で、ひどく、あんたに害をしそうな奴はいそうもないからね。
まず市長なり、知事なり、どちらでもいいから、どちらかに、パースンビルの市警察の機能を停止させて、新しい組織が出来るまで、国防軍に治安の維持を委せるんです。市長も知事も、あんたの腹心だという話だから、あんたのいいなりになるでしょう。そして、いまいった通りのことを、いいつけるんです。出来ることだし、やらなきゃならんことです。
そうなれば、あんたの市は、あんたの手へもどって来ることになる。すっかり綺麗に掃除がすんで、またいつでも犬どもにくれてやろうと思えばくれてやれるのです。もし、わたしのいう通りに、あんたがしないというのなら、わたしは、このあんたの恋文《ラブ・レター》を新聞記者にわたしてやる。あんたの自由になるヘラルドなどじゃありませんよ――レッキとした通信社ですよ。わたしは、この手紙をドーンから手に入れました。この手紙を取りもどすために、あんたが、あの三百代言を雇わなかったとか、こいつを取りもどそうとして、あいつが女を殺したんじゃないとか、そんなことを立証するのは、あんたにしても、なかなか面白いことでしょうな。だが、そういう、あんたが味わう楽しさも、この手紙を読んで味わう読者の楽しみとは、くらべものになりませんな。とにかく、熱烈なものだ。わたしだって、子供の時に、弟が豚にくいつかれて以来、あんなに大笑いしたことはありませんでしたよ」
わたしは、しゃべるのをやめた。
老人は、ぶるぶる身をふるわせていた。が、恐怖のためのふるえではなかった。顔はまた、紫色になっていた。そして、口を開いて、どなり立てた。
「新聞に出すなら出してみろ、べらぼうめ!」
わたしは、ポケットから手紙を取り出し、ベッドの上におとし、椅子から立ちあがり、帽子をかぶりながら、いった。
「あの女が、誰だか知らんが、あんたがその手紙を取りもどしにやった、その男のために殺されたと証明出来るのなら、おれは、右の脚でもやるんだがな。くそっ。あんたを絞首台に送って、この仕事にけりがつけられたらなあ!」
老人は、手紙には手も触れずに、いった。
「ターラーとピートのことは、あれは本当なんだな?」
「そうさ。だが、本当だとしたら、どうだというんです? あんたはどうせまた、誰かかわりの人間に追いまわされるだけじゃありませんか」
老人は、毛布をはねのけて、パジャマに包まれたずんぐりした脚と桃色の足とを、ベッドのへりから投げ出した。
「もし、きみは勇気があるんなら」と、ほえるように、「わしが、前にいい出した職を引き受けんか――警察署長を?」
「いやですね。あんたがベッドの中にすっこんでいて、わたしを追っ払う手だてを考えている間に、わたしは、あんたのかわりに死に物狂いで戦ったおかげでそんな勇気なんかすっかりなくなっちまいましたよ。ほかの乳母になる人間を見つけるんですな」
老人は、わたしを睨みつけた。すると、眼のまわりに、すばしっこい小皺があらわれた。
爺さんは、白髪頭をうなずかせて、いった。
「ふむ、二の足を踏んどるな。さては、女を殺したのは、きみだな?」
わたしは、この前に別れた時と同じように、「勝手にしろ!」といいすてて、老人と別れ、部屋を出た。
運転手は、相もかわらず撞球のキューを握り、相もかわらず気に入らないような眼つきで、わたしを見ながら、わたしを一階で迎えて、玄関へ連れて行った。その眼つきたるや、わたしがなにか乱暴でもしかけてくれればいいとでもいいたげだった。が、わたしは、なにもしなかった。わたしが外へ出ると、うしろで、ばたんと音を立てて、ドアがしまった。
通りは、夜が明けかけて、ほの白かった。通りのむこうの木の下に、一台の黒いクーペがとまっていた。人が乗っているのかいないのか、わからなかった。大事をとって、反対の方角へ歩き出した。クーペが動き出して、追って来た。
車が追っかけて来るのを、通りを走ったところで、どうなるものでもない。わたしは立ちどまって、車に正面を向けた。車は、追いついて来た。前の風除けガラスをとおしてミッキー・リネハンの赤ら顔が見えたので、わたしは、ポケットに入れていた手を出した。ミッキーは、さっと車のドアを開けて、わたしを迎え入れた。
「ここへ、やって来るかもしれないと思ってね」と、隣りに腰をおろしたわたしに、ミッキーはいった。「ところが、一秒か二秒、遅かったのさ。家の中へはいる、きみの姿は見えたんだが、遠すぎて、つかまえられなかったんだ」
「警察からは、どうして出て来たんだね?」と、わたしはたずねた。「車を走らせながら、話した方がいいよ」
「なあに、なんにも知らん、心当りもない、きみがなにをしているのか一つも知らん、ただ偶然、町へ来て、きみに会っただけだ。古い友だちだ――まあ、こんな工合さ。それでもまだあきらめずに、おれを調べているところへ、騒動がおっぱじまった。おれは、会議室のむかいの小さな部屋に入れられていたんだがね。騒ぎにまぎれて、裏の窓からずらかったのさ」
「騒動は、どんなことになったね?」と、わたしはきいた。
「警官どもの射ったこと、射ったこと。三十分も前に情報がはいったもんだから、あたり近所は、特別隊でぎっしりさ。片づくまでは、なかなか面白い騒ぎだったらしいよ――ああなると、お巡りも楽じゃないね。ホイスパーの子分どもだと聞いたがね」
「そうだよ。レノとフィンランドのピートが、こん晩、やり合ったんだが。なにか聞いたかい?」
「やり合ったという話だけだ」
「レノがピートを殺して、逃げようとするところを待ち伏せに合ってね。それから先は、どうなったか知らんが。ディックに会ったかい?」
「ホテルへ行ってみたら、夜の汽車に乗るといって、勘定をすませて、たって行ったという話だった」
「おれが帰らせたんだ」と、わたしは説明した。「おれが、ダイナ・ブランドを殺したと思っているらしいんだ。それが、おれの神経にカツンと来たんでね」
「それで?」
「というのは、おれが殺したか、というのか? おれにもわからないんだ、ミッキー。おれは、そいつを突きとめようとしているんだ。おれといっしょに仕事をつづける気があるかい、それとも、ディックを追っかけて西海岸《コースト》へ帰りたいかい?」
ミッキーはいった。
「たかが、人を一人、殺したかどうかもわからんのに、あんまりうぬ惚れるなよ。しかし、いったい、どうしたというんだい? きみは、あの女の金や宝石を取らなかったということだけは知ってるんだろう」
「犯人も、取らなかったんだ。おれが、あの家を出たあの朝の八時すぎにも、まだあすこにあったんだ。それから九時までの間に、ダン・ロルフが、あの家へはいって、また出た。あの男が、盗むなんてことはないだろう。その――わかった! 死体を発見した警官――シェップとバーナマン――が、九時半に、あすこへ行ってるぞ。宝石と金のほかに、ウイルスン爺さんが、あの女にやった手紙も――きっと、そうにちがいない――盗まれたんだ。その後で、おれがその手紙を、ドーンのポケットで見つけた。二人の刑事《デカ》は、ちょうどそのころ姿をくらました。どうだ、わかるか?
シェップとバーナマンとは、女が死んでいるのを見つけると、それを急報する前に、そこらじゅうを荒したんだ。ウイルスン老人といえば百万長者だから、その手紙なら役に立ちそうな気がして、ほかの貴重品といっしょに持ち出して、そいつを――その手紙を――エリヒューに売りつけるつもりで、あの悪徳弁護士にわたしたんだ。ところが、目的を果さないうちに、ドーンが殺された。手紙は、おれが失敬した。シェップとバーナマンとは、その手紙が死んだ男のポケットにはなかったということを、知っていたのかいなかったのかわからんが、ひやっとした。その手紙から、自分たちに足がつくのを恐れた。とに角、金と宝石とは持っていた。そこで、二人とも、あわててずらかったというわけだ」
「筋は、通ってるようだな」と、ミッキーはうなずいて、「だけど、それだけじゃ、明確に、殺害犯人を指摘していないようだね」
「いくらかは、はっきりするよ。もう少し、二人ではっきりさせようじゃないか。ポーター通りってところに、レドマンという古い倉庫があるかどうか、調べるんだ。おれが聞いたところじゃ、ロルフは、そこでホイスパーを殺したというんだ。ホイスパーのそばへ、のこのこ歩いて行って、女の死体に刺さっていた氷かきで、ずぶりとホイスパーを刺したというんだ。ロルフが、そういう風にやったとすれば、女を殺したのは、ホイスパーじゃないということだ。でなくて、殺したのなら、そんなことになりゃしないかと、いくらかは予期していたろうから、あの肺病やみを、そんなに身近まで寄せつけなかったろう。おれは、二人の死体を見て、その点を確かめたいんだ」
「ポーター通りというのは、キング通りの先だよ」と、ミッキーがいった。「南のはずれからさがしてみよう。そっちの方が近いし、いかにも倉庫などのありそうなところだ。そのロルフって男は、女殺しとはどう関係があると、きみは思うんだね?」
「ないね。女を殺したからというのでホイスパーを殺したとすれば、無関係だという証拠さ。それに、女には、手首や頬に傷跡がついていたんだが、ロルフには、女にそんな乱暴をするほどの力はなかったろう。おれの考えでは、あの男は病院を抜け出して、どこか誰も知らないところで、その晩をすごし、あくる朝、おれが帰った後で、女の家へあらわれたんだね。自分が持っていた鍵で勝手になかへはいったんだが、女の死体を見ると、ホイスパーのやったことだと思いこんで、女の体から氷かきを抜き取って、ホイスパーをさがしに行ったんだろうな」
「そうか?」と、ミッキーはいった。「ところで、きみは、自分がやったかもしれんという考えを、なにから抱くようになったんだい?」
「そいつはよせ」と、不機嫌にいったとたん、車はポーター通りへまがった。「さあ、倉庫をさがすんだ」
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二十七 倉庫
車を走らせながら、左右に眼をくばって、人けのない倉庫らしい建物はないかと物色した。もう、あたりがよく見えるくらいには、明かるくなっていた。
やがて、雑草の生い茂った敷地のまん中に建っている、大きな四角い、赤い色もあせた建物が眼についた。敷地にも建物にも、いまは使ってはいないものだという感じが、ありありと感じられた。いかにも目あての倉庫らしかった。
「つぎの角でとめてくれ」と、わたしはいった。「どうも、こいつがそうらしい。おれがさぐって来るから、きみは、車の中で待っていてくれ」
わたしは、二ブロックまわり道をして、その建物の裏手の空地へはいりこんだ。こっそり忍びこむというのではなかったが、出来るだけ音を立てないように気をつけて、空地を突っ切った。
そっと、裏のドアにあたってみた。もちろん、鍵がかかっていた。窓のところへ行って、のぞいて見たが、中が暗いのと、ガラスが汚れているのとで、なんにも見えなかった。開けようとしてみたが、びくとも動かなかった。
その隣りの窓へ行ってみたが、やはり同じだった。建物の角をまわって、北側にそって順にあたってみることにした。一番目の窓は、駄目だった。二番目の窓をそろそろと押しあげると、大して音も立てずに、開いた。
窓枠の内側には、上から下まで、板が釘づけにしてあった。こちら側から見ると、いかにもがっしりと丈夫そうだった。
畜生め、と思ったが、大した音も立てずに窓があがったところを見ると、望みがありそうな気がした。窓の敷居によじのぼり、板に手をあてて、そっと押してみた。
手ごたえがあった。
もっと手に力をこめて押した。窓枠の左手から板がはがれて、ぴかぴか光る釘の列が見えた。
さらに、ぐっと力をこめて押しながら、その間から覗きこんだが、まっ暗闇のほか、なにも見えもしなければ、物音一つきこえなかった。
右の手にピストルを構え、窓枠を乗り越えて、建物のなかへおりた。一足、左へ寄ると、窓から差しこむほの明かりからははずれた闇に、身をおくことが出来た。
ピストルを左の手に持ちかえて、右手で、板をもとの通り窓に押しつけた。
たっぷり一分間ほど、息を殺して耳をすましたが、なんの気配もなかった。ピストルを構えた腕をぴったり脇につけて、建物の探検にとりかかった。一インチ一インチ、ずるようにして前へ出して行く足に触れるものといえば、床ばかりだ。暗闇の中を手さぐりする左手は、なに一つふれないで、とうとう最後に、ざらざらした粗壁にぶつかった。どうやら、空っぽの部屋を横切ったものらしかった。
壁にそって、ドアをさがしながら、動いて行った。普通よりも小さい歩幅で六歩行くと、ドアのところへ来た。耳を押しつけてみたが、なんにもきこえなかった。
握りをさぐりあてて、そっとまわし、ドアを細目に押し開けた。
しゅっと、音がした。
わたしは、四つのことを同時にした。握りをはなし、飛びのき、引き金を引くといっしょに、左の腕を、墓石のような、硬い、重い物でなぐりつけられた。
ピストルから出た閃光では、なにも見えなかった。普通は、いろいろな物が見えたと思い易いものだが、決して見えるものではないのだ。ほかに、なにをしていいかわからないので、もう一発、つづいてもう一発、射った。
老人らしい声が哀訴するように、いった。
「やめてくれ、兄弟。そんなことするにはおよばねえ」
わたしはいった。「明かりをつけろ」
しゅっと、床でマッチをすると、ぼーっと燃えあがって、ゆらゆらとする黄色い光が、皺だらけの顔を照らし出した。公園のベンチによく似合った、役にも立たない、無性格な老人の顔だった。床の上にじかにすわって、肉のない両脚を開いて、投げ出している。どこにも怪我をしている様子はなかった。テーブルの脚が一本、そばにころがっている。
「立って、明かりをつけろ」と、命令口調で、「つけるまで、マッチを燃やしつづけろ」
老人は、もう一本マッチをすって、用心深く両手でかばいながら立ちあがり、部屋のむこうへ行って、三本脚のテーブルの上の蝋燭に火をつけた。
わたしは、老人から離れないようにしてついて行った。わたしの左の腕がしびれていなかったら、自分の安全を守るために、老人の襟首でも、しっかりつかんでいるところだった。
「こんなところで、なにをしているんだ?」と、蝋燭に火がつくと、わたしはたずねた。
へんじを待つまでもなかった。部屋の一方に寄せて、『特製メープル・シロップ』と焼印を押した木箱が、うず高く六段に積みあげてあった。
誰が主人だか、そんなことはなんにも知らないのだとか、知っていることといえば、二日前に、イェーツという男に夜番に雇われたということだけだとか、なにか間違いがあったとしても、自分は、潔白も潔白、なんのかかわり合いもないのだとか、くどくどと、老人がいいわけをいっているのを聞き流しながら、わたしは、一つの箱の蓋をちょっと、引っぺがしてみた。
中の瓶には、ゴム印ででも押したらしい『カナディアン・クラブ』のラベルが貼ってあった。
木箱はそのままにしておいて、老人に蝋燭を持たせて先に立て、建物のなかを調べた。思った通り、ホイスパーのいた倉庫だという証跡らしいものは、なに一つ見つからなかった。
酒を置いてある部屋へもどって来たころには、わたしの左の腕も、瓶を一本持ちあげるぐらいの力はついていた。瓶をポケットに入れて、老人に忠告をしてやった。
「さっさと逃げた方がいいぜ。お前は、フィンランドのピートが、子分を特別隊に入れたので、そのかわりに雇われたんだ。しかし、もうピートは死んだんだから、あの男の商売も、もう駄目だぜ」
窓から外へ出た時、老人は、木箱の前に立って、欲の探そうな眼つきで、指を折って数えていた。
「どうだ?」と、クーペのところへもどって来ると、ミッキーがたずねた。
わたしは、いわゆるカナディアン・クラブの瓶を取り出し、コルクの栓を抜いて、ミッキーにわたしてやり、その後で、自分の体のなかに一口流しこんだ。
ミッキーは、「それで、どうだった?」と、もう一度たずねた。
わたしはこたえた。「レッドマンの古倉庫をさがそうじゃないか」
かれは、「あんたは、おしゃべりがすぎるから、いつか、身を滅ぼすことになるぜ」といって、車をスタートさせた。
さらに、三ブロック通りを行くと、『レッドマン商会』という色のさめた看板が、眼にはいった。その看板の下の建物は、長く、棟が低く、奥行きが狭くて、屋根は波形鉄板で、窓は碌になかった。
「車は、その角のあたりに置いとこう」と、わたしはいった。「こん度は、きみもいっしょに来てくれ。さっきは、一人で、あんまり面白い目に会わなかったからね」
車からおりると、眼の前に見える路地が、倉庫の裏手へ通じていそうだった。二人で、その路地へはいって行った。
その辺の往来には、いくらか人通りがあったが、このあたりの大部分を占めている工場がはじまるには、まだ時間が早すぎた。
目あての建物の裏手で、面白い物を見つけた。裏口のドアはしまっていた。ところが、ドアのふちと、かまちのふちの、錠のすぐそばのところに傷がついていた。誰かが、かなてこでこじ開けたのだ。
ミッキーが、ドアにあたってみた。鍵はかかっていなかった。一度に六インチずつ、少しずつ、間にまを置いて、どうにか体が通れるぐらい、ミッキーがドアを押し開けた。
体を押し入れたとたん、人の声がきこえた。なにをいっているのかわからなかった。わかるのは、遠くで、なにかいい争っているなと思えるような、のぶとく響いて来る、かすかな、男の声だけだった。
ミッキーは、親指でドアの傷をさして、囁くようにいった。
「お巡りじゃないな」
わたしは、ゴムのかかとに重心をかけて、二歩、なかへ進んだ。ミッキーは、わたしの頸筋のうしろに息を吐きかけながら、後につづいた。
テッド・ライトの話では、ホイスパーの隠れ場所は、裏二階だということだった。遠くの、のぶとい声は、そちらの方からきこえて来るらしかった。
わたしは、ミッキーの方に顔をねじ向けて、たずねた。
「懐中電灯は?」
かれは、それをわたしの左の手にわたしてくれた。右手には、ピストルを持っていた。二人は、忍び足で進んで行った。
一フィートほど開けたままにしておいた、裏口のドアから差しこむ光線で、その部屋を突っ切ったむこう側の、ドアのない戸口までの足もとは、どうやらわかった。その戸口のむこう側は、まっ暗だった。
その暗闇に向けて、懐中電灯を照らすと、ドアが見つかったので、電灯を消して進んだ。もう一度、光を照らすと、二階へのぼる階段が見えた。
いまにも、足もとから階段が崩れ落ちやしないかと、びくびくするような足取りで、のぼって行った。
のぶとい声は、やんでいた。なにか、あたりの様子に、別の気配が感じられた。なんだか、わからなかった。なんか感じられるのは、きこえるかきこえないほどの声のせいだったかもしれない。
九つまで階段を数えたとたん、上の方で、はっきりと、人の声がきこえた。声はいった。
「そうさ、あのあばずれは、おれが殺したんだ」
ピストルが、へんじをした。同じへんじが四度、鉄板屋根の下で、十六インチのライフルをぶっ放したようにとどろきわたった。
はじめの声がいった。「やったな」
もうその時には、ミッキーとわたしとは、残りの階段をのぼり切って、ドアを突きのけ、ホイスパーの咽喉首から、レノ・スターキーの両手をもぎ離そうとしていた。
なかなか手ごわい仕事だったが、もう無駄なことだった。ホイスパーは、死んでいた。
レノは、わたしに気がつくと、手をゆるめた。
かれの眼は、相かわらず鈍重で、その馬面も、相かわらず木のように無表情だった。
ミッキーは、死んだばくち打ちを、部屋の片隅にある寝台へ運んで行って、そこにころがした。
もとは事務室だったらしいその部屋には、窓が二つあった。その窓からの明かりで、寝台の下に押しこんである死体が見えた――ダン・ロルフだった。コルトの軍隊用の自動拳銃が一挺、床のまん中に落ちていた。
レノは、両肩をおとして、ゆらゆらと体をゆり動かしていた。
「怪我をしたのか?」とわたしはきいた。
「四発ともぶちこまれた」と、静かにいいながら、両腕を下半身に押しつけて、かがみこんだ。
「医者を呼べ」と、わたしは、ミッキーにいった。
「駄目だよ」と、レノはいった。「おれの臓腑なんぞ、一つも残ってやしねえ」
わたしは、折り畳み椅子を引っぱって来て、それにかれをかけさせて、前かがみになっても倒れないようにしてやった。
ミッキーが駆け出して、階段をおりて行った。
「野郎がやられてないってことを、お前さんは、知ってたのか?」と、レノがきいた。
「いや、知らなかった。おれは、テッド・ライトから聞いたそのままを、きみに話したんだ」
「テッドの逃げるのが、早すぎたんだ」と、レノはいった。「おれはどうも、怪しいという気がしたんで、確かめに来たんだ。野郎め、見事に、おれに一杯食わしやがって、死んだふりをしてやがった、おれがピストルの前へ来るまで」レノは、鈍い眼で、ホイスパーの死体をじっと見つめた。「おまけに、勝負と来やがったんだから、畜生、大した野郎だ。死んだって、じっところがってなどいねえ。手前で包帯をして、じっと一人で、ここで、待っていやがった」レノは、微笑した。この男が微笑するのを見た、ただ一度の笑顔だった。「だが、こいつももう肉のかたまりで、それも、いまでは、あまり残っちゃいねえ」
声が濁って、はっきりしなくなって来た。椅子のはしの下の床に、小さな血だまりが出来はじめた。わたしは、気になって、かれに手を触れることも出来なかった。前かがみの姿勢と、押しつけている両腕の力とだけが、かれが崩れ落ちるのを支えていたからだ。
レノは、その血だまりをじっと見つめながら、たずねた。
「いったい、どういうとこから、お前は、女を殺したのは自分じゃねえと、考え出したんだね?」
「たったいままでは、どうしてもおれではないと思いながら、しじゅう腹の中では、おれでなければいいがと思っていたのさ」と、わたしはいった。「きみにも、ひそかに疑いをかけていたが、確かめようがなかった。あの晩、おれは、阿片ですっかりわからなくなっちまって、いろんな夢を見た。鐘ががんがん鳴ったり、人がむやみにどなったり、そんな夢ばかりやたらに見た。おれの考えじゃ、あれはただの夢じゃなくて、ひどく麻薬でしびれた頭が、まわりであったことに刺激されて、夢魔に襲われたのかもしれないという気がするんだ。
おれが眼をさました時には、明かりが消えていた。おれは、女を殺しておいて、明かりを消して、それからまたもどって来て氷かきの柄を握ったとは、どうしても考えられなかった。しかし、それ以外のやり口なら、いくらでも考えられた。あの晩、おれがあすこにいたことは、きみも知っていた。だのに、そくざにおれのアリバイを作ってくれた。それで、ふっと思いついたんだ。ドーンは、ヘレン・アルベリーの話を聞いてから、おれを恐喝しようとした。警察は、ヘレンの話を聞いてから、きみと、ホイスパーと、ロルフと、おれとを、一つに結びつけた。おれは、オマラに会って、まだオマラが半ブロックも行かないと思う時に、ドーンが死んでいるのを見つけた。して見ると、あの三百代言は、きみも恐喝しようとしたらしいんだね。そのことと、警察がおれたちを一つに結びつけているということから、おればかりじゃなく、きみたちにも同じ程度の容疑を警察ではかけているんだなと思いはじめた。警察が、おれを怪しいと思うのは、ヘレン・アルベリーが、あの晩、おれが、あの家へはいって行くところか、出て来るところか、あるいはその両方を見ていたからだ。きみたちも、同じように見られたと考えていいだろう。ところが、ホイスパーとロルフとには、除外していい理由がある。すると、残るのはきみだ――それと、おれだ。ところが、なぜ、きみがあの女を殺したかということになって、おれは迷ってしまった」
「その通りだ」と、床の血だまりが、だんだん拡がって行くのを見守りながら、レノはいった。
「あれは、あの女の自業自得さ。おれに電話をかけて来て、ホイスパーが来ることになっているから、先に来ていれば、闇討ちしてやっつけることが出来る、というんだ。そいつは面白えと思った。出かけて行って、待ったが、野郎はあらわれねえ」
そこで言葉を切って、赤い血だまりが拡がって作って行く形を面白がっているような顔をした。苦痛が、言葉を途切らせたのだということが、わたしにはわかっていたが、一息ついたらまたすぐに話しつづける気だということもわかっていた。生きていた時と同じように、強情な殻をかぶったままで死ぬつもりなのだ。しゃべるのは、地獄の責苦のはずだが、他人が自分の前にいるからというのではなく、そのむこう見ずの本性のために、やめるという気が、この男にはないのだ。この世の中のどんなことでも、またたき一つせずに、勇敢に受け取って来たレノ・スターキーなのだ。最後までそういう風にして芝居を演じおわろうとしているのだ。
「おれは、待ちくたびれた」と、しばらくして、かれは言葉をつづけた。「女の家のドアをたたいて、どうしたんだとたずねた。女は、誰もいないといいながら、おれを中へ入れた。怪しいとは思ったが、一人だといい張るんで、二人で台所へはいって行った。あの女のやり方は知ってるから、こいつは、罠にかかるのはホイスパーじゃなくて、おれかもしれないぞと、おれは思いはじめた」
ミッキーがもどって来て、電話で救急車を呼んだといった。
レノは、その邪魔を利用して、一息入れ、それからまた物語りをつづけた。
「後になってわかったんだが、ホイスパーは、行くという電話をかけて来て、おれより先に、来たらしいんだ。ところが、お前は、阿片で正気がなくなっていた。女はおっかなくなって、中に入れなかったんで、あいつは帰って行ったんだ。それを、女は、おれにいわねえ。おれが行っちまって一人になるのが、おっかねえんだ。
お前は、薬に酔ぱらってるし、ホイスパーが、もどって来た時に、守ってくれる男がほしかったのだ。こっちは、その時には、そんなことは、なんにも知らねえ。あの女のことは、よく知っているから、一杯食わされたなという気がした。女を、とっつかまえて、引っぱたいて、泥を吐かせてやろうと、思った。やりかけると、女め、氷かきをつかんで、わめきゃがった。わめいたとたんに、男の足が、床を蹴るのが、きこえるじゃねえか。罠が、はね返ったな、と、おれは思った」
話し方が、いっそうのろのろとなり、ひと言ひと言、静かに、ゆるゆると口から出すのに、いままでよりも時間がかかり、いっそうの苦痛を伴うようになって来た。声も、弱くなって来たが、それに気がついていたとしても、気づかないふりをして、話しつづけた。
「おれ一人だけが、損の卦《け》を引くつもりは、おれにはねえ。氷かきを、ねじり取って、女に突き刺した。そこへ、お前が、とことんまで、薬で酔っぱらってるくせに、両方の眼をとじたままで、平気で、ずかずかと歩いて来るじゃねえか。女が、お前にぶつかって、ひっくり返った。お前も、ぶっ倒れて、ごろごろころげまわった。そのうちに、お前の手が、氷かきの柄にあたった。それをつかんだままで、女といっしょに、おとなしく、お前は眠っちまった。その時になって、おれは、自分のしたことに気がついた。だが、畜生! 女は、もう死んじまった。どうしようもねえ。おれは、明かりを消して、家へ帰った。お前が――」
くたびれた顔つきの救急車の係り員が――まったくポイズンビルは、かれらに山ほど仕事をめぐんでくれていた――担架を部屋に持ちこんで来たので、レノの物語は、そこでおわった。わたしは、ほっとした。聞きたいだけのことは、みんな聞いてしまったし、じっとすわりこんで、相手が息が絶えるまでしゃべりつづけるのに耳を傾けて、その姿を見守っているのは、愉快なことではなかった。
わたしは、ミッキーを部屋の隅へ引っぱって行って、囁くように耳打ちした。
「後の仕事は、きみにまかせるよ。おれは、逃げ出す。とやかくいわれるはずはないんだが、おれぐらいポイズンビルを知りつくしてみると、空だのみなんかしていられないからね。きみの車で、どこか途中の駅まで行って、オグデン行きの列車に乗ることにする。オグデンに着いたら、P・F・キングという名で、ルーズベルト・ホテルにとまる。きみは、ここで仕事をつづけて、時機が来たら、もう本名を名乗ってもいいとか、それとも、ホンジュラスへ亡命するのが賢明だとか、おれに知らせてくれ」
オグデンでは、社の規則や、州法を、相当にたくさん犯したり、生きた人間の骨をどっさり折ったりしたのがばれないような報告書をでっちあげるのに、ほぼ一週間近くかかった。
六日目の晩、ミッキーが着いた。
かれは、レノが死んだこと、わたしの容疑が正式に晴れたこと、ファースト・ナショナル銀行の被害金額の大部分が回収されたこと、マックスウェインがティム・ヌーナン殺しを自白したこと、そして、パースンビルが、戒厳令を布かれて、香りの豊かな、刺《とげ》のないばらの花床になろうとしていることなどを、わたしに話して聞かせてくれた。
ミッキーとわたしとは、サンフランシスコへ帰った。
報告書を瑕瑾《かきん》のないものにするために流した汗も労力も、どうやら骨折り損のくたびれ儲けのようだった。そんなもので、|おやじ《ヽヽヽ》はだまされはしなかった。にこにこ顔で、思い切り大眼玉をくってしまった。(完)
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解説
この『血の収穫』Red Harvest は、一九二九年、Knopf社から出版された、作者 Samuel Dashiell Hammett の長編処女作である。
ハメットは、一八九四年五月二七日、アメリカ、メリーランド州、セント・メアリイ郡で生まれた。ダシールという名は、フランスのドシエ(de Chiel)という母方の家名にもとづいているという。ごく普通の少年として、少年時代をボルチモア市で過ごした。が、家が貧しかったので、十四歳の時、学業を中途でやめて、鉄道会社の給仕となって働かなければならなかった。それから引きつづいて七年間、さまざまの職業を転々とした後、最後にアメリカ随一の民間探偵社ピンカートン社の私立探偵となった。
第一次世界大戦には野戦衛生隊の軍曹として従軍したが、結核に感染し、数ヵ月の病院生活の後、軍隊を退いた。除隊して、またもとの探偵の生活に返ったが、健康がそういう激務にたえられないのと、他人のことに余計なおせっかいをするのにたえられなくなって、ついに探偵の職を放ってしまった。そして生活のために、低級なパルプ雑誌に小説を書きはじめた。おもに過去の体験に取材した犯罪小説や、実話風のミステリーだった。一九二二、三年ごろからは、探偵雑誌『ブラック・マスク』の常連作家となった。
当時の『ブラック・マスク』の常連作家には、かれのほかに、B・S・ガードナーなどもあった。
やがて、かれは、この処女長編作『血の収穫』につづいて、同じ一九二九年には、『デイン家の呪い』The Dain Curseを、一九三〇年には、『マルタの鷹』The Maltese Falcon を、一九三一年には、『ガラスの鍵』The Glass Keyを、一九三四年には、『影なき男』The Thin Manを発表した。
これらの諸作は、いずれも批評家の賞賛を浴びた。その好評と成功に刺激されて、かれの作風と文体とを真似る追従者が、つぎからつぎと出て来た。そして、批評家は、それらの作家を『ハメット派』とか、『ハード・ボイルド派』とか呼んだ。
そればかりではない。ハメット以後のアメリカ探偵小説作家で、多少とも、ハード・ボイルドの影響を受けない作家はないほどになり、以後の探偵小説の作風を一変してしまうほどになった。
それまでの推理小説が、作品の全重点をプロットに置き、論理的に謎を解いて行くことに主眼を置いたのに対して、ハメットは、まず人間を描こうとした。謎を主にした探偵小説を書くよりも、犯罪と探偵と危機との中に、人間の性格を捉え、それを描写しようとした。
しかも、その人間も、事件その物も、かれが描こうとするのは、すべて現実の、眼の前のアメリカ社会の中に、日々の生活の中に、息づいている人間であり、事件であった。
対話も、在来の探偵小説の対話が、ともすれば、筋の展開のためだけの、くだくだしい説明的なものであるのに対して、ハメットの対話は、簡潔で、性格の裏づけのある、生きたものであり、行動はスピーディで、時として眼を瞠るほどの飛躍をする。
かれの主人公は、いずれも現代のアメリカの実社会の中に生きているのを、そのままに引き出して来たかと思われる民間の、|したたか《ハード・ボイルド》な探偵で、非情で、利己的で、好色ではあるが、しかも、その心の中には、飽くまでも正義を追求しようとする、強情な性格を持っている。
中でも、この『血の収穫』の主人公、コンティネンタル・オプは、かれを主人公とした多くの短編の場合でも、非情のうちに、超然とした、不思議な風格を持っていて、読む者の心を打つ。
一言にしていえば、かれの作品は、探偵小説的な興味よりも、心理的性格描写をねらったものであり、その点で、探偵小説を、より高度な、文学の域にまで高めたものといっても、あえて過褒《かほう》ではないと信ずるものである。
つまり、かれの作品は、一九二〇年代の『ロースト・ジェネレーション』の作家がねらったのと同じように、アメリカの現実を描写することによって、自我を表現しようとしたものであった。
そこに探偵小説作家としての、否、文学的作家としての、かれの路標的な意義があるといわなければならない。(訳者)