ダシール・ハメット/砧一郎訳
影なき男
目 次
一 金髪の娘
二 昔なじみ
三 女の死体
四 不思議な電話
五 酔った娘
六 まだ子供なのよ
七 約束
八 遭難
九 赤い靴
十 失踪
十一 女は食わせもの
十二 怪文書
十三 危険な過激派
十四 あばた面
十五 白に賭ける
十六 逃亡
十七 ミミの電語
十八 思わせぶり
十九 実の妻
二十 酔いどれの群
二十一 救貧院行き
二十二 活劇
二十三 鎖《くさり》とナイフ
二十四 おさない嫉妬
二十五 ヒステリの発作
二十六 尾行
二十七 重婚の罪
二十八 堂々たる威容
二十九 ワイナントの出現
三十  小間切れ死体
三十一 説明
解説
登場人物
ニック・チャールズ……元探偵
ノラ……ニックの妻
クライド・ワイナント……発明家
ミミ……クライドの先妻
ドロシー……クライドとミミとの娘
ギルバート……ドロシーの弟
クリスチャン・ヨルゲンセン……ミミの夫
ハーバード・マコーリー……クライドの顧問弁護士
ジュリア・ウルフ……クライドの女秘書
アーサー・ナンハイム……警察の手先き
シェップ・モレリ……ギャング
スタシー・バーク……ピックアイアン・クラブの酒場主、前科者
ギルド……警部
一 金髪の娘
そのとき、ぼくは五十二丁目のある酒場のカウンターにもたれて、クリスマスの買物をすませてくる妻ノラを待っていた。そこへ、一人の女が、三人のつれと一しょのテーブルをはなれて、こっちへ近づいてきた。粉っぽい青色のスポーツ着をきた、小柄な金髪の女だったが、その顔をちらッと見て、ぼくは、おやと思った。どこかで見おぼえのある顔だ。はたして女はぼくに話しかけてきた。
「ニック・チャールズさんじゃなくて?」
「ええ、そうですが……」とぼくが答えると、女は手をさしだして、
「ドロシー・ワイナントですの。わたしのこと、おぼえてはいらっしゃらないでしょうけど、父のクライド・ワイナントはご存じですわね」
「知っていますとも。そういえば、君のことも思いだした。でも、あのころは、ほんの十一か二のちびっ子だったのじゃないかな」
「ええ、八年にもなるんですもの。ほら、あのころずいぶんいろんなお話をして下すったわね。みんなほんとうのことでしたの?」
「さあ、どうだったかね……時に父さんはどうしておられるかな」
女は笑った。「それは、こちらからうかがいたいのよ。そら、父さんはママと別れたでしょう。それっきり音さたなしなのよ――たまに、仕事のことで新聞にでるのを見ますけど、お会いにならなくて?」
ぼくのグラスは、空《から》になっていた。ドロシーにたずねると、ウイスキーにソーダ水がいいというので、それを二つ注文した。
「会わないよ、ぼくはサンフランシスコに住んでいるんでね」
「会いたいわ。ママに知れたら大さわぎでしょうけど、それでも会いたいのよ」
「それで?」
「むかしわたしたちの住んでいたリヴァサイド・ドライヴにはいないのよ。電話帳にものっていないわ」
「父さんの弁護士に当ってみたら?」
「ああ、そうね」と彼女は顔を明かるめて、「なんという方?」
「マックなんとかいったっけ――そうそう、ハーバート・マコーリーという人だ。シンガー・ビルディングにいたが……」
彼女は、すぐ電話をかけにゆき、やがて、にこにこ顔で戻ってきた。「わかってよ、すぐそこの五番街だわ」
「父さんが?」
「いいえ、弁護士よ。父さんは、よそに行っているんですって。でも、もうすぐ会えるわ。親子の再会ってわけね」と、グラスを上げてみせたが、そのとき突然、彼女には見なれぬ犬がぼくにとびかかってきたので、「あらあらッ」と声をあげた。ノラが愛犬アスタをつれてもどってきたのだ。
「アスタったら、すばらしいご機嫌だったわ」とノラがいった。「おもちゃ屋では、陳列台を引っくりかえすし、サックスでは、ふとった小母《おば》さんの足をなめて、悲鳴をあげさせるし、三人ものお巡《まわ》りさんに頭をなでてもらうし――」
ぼくは、女どうしを引きあわせた。
「これ、ぼくの女房ですよ。こちらは、ドロシー・ワイナントさん、この人が、これぐらいの背だったころ、父さんがぼくのおとくいだったんだ。いい人だったが、少し変っていたね」
「わたし、ニックさんが大好きでしたのよ、本ものの探偵さんでしたもの。しょっちゅう追っかけまわして、お話をせがみましたわ。でたらめばかりおっしゃったけど、わたし、本気で信じてましたのよ」
ドロシー・ワイナントは、自分のテーブルにもどらなければ、といって、ノラと手をにぎり合った。
ぼくたちもテーブルを見つけた。
「かわいらしい女の子じゃないの」
「あんなのが好きな人にはね」
「あなたはどう?」ノラはにやりとした。
「ぼくの好きなのは、君だけさ。いじの悪そうなあごをした、やせっぽちのブルネット女の君だけさ」
「じゃあ、ゆうべクィンのところで羽目をはずしていたあの赤髪さんは、どうなの?」
「ばからしい。あの女は、フランスのエッチングをぼくにみせようとしていただけじゃないか」
二 昔なじみ
次の日、ぼくの定宿のノーマンディ・ホテルへハーバート・マコーリーから電話がかかってきた。
「君がきているとは知らなかったよ。ドロシー・ワイナントに聞いたんだ。久しぶりで、一しょに昼めしをやらないか」
「いま、なん時だい?」
「十一時半だ。ぼくの電話で起きたのかね?」
「うん。そうなんだ。そんなことは構やしないがね。どうだい、昼めしは、君のほうからやってこないか。二日酔いでね。出かける気がしないんだ……よし、じゃあ、一時だな」
ぼくは、髪を洗いに出かけようとしているノラをつかまえて、一ぱい飲んだ。シャワーを浴びてから、もう一ぱい。かなり気分がよくなってきたころ、また電話が鳴った。こんどは女の声だった。
「そちらにマコーリーさんがうかがっていますでしょうか」
「まだきていませんよ」
「行きましたら、すぐに事務所のほうへ電話をかけるようにおっしゃって下さいませんか。大事なご用なんですが」
「承知しました」
マコーリーは、十分ばかりおくれて現れた。まず美しいといっていい、ちぢれ髪の、ばら色の頬をした大きな男。としは、ぼく――当年四十一才――と同じぐらいだが、ずっと若くみえる。弁護士としては、相当な腕ききで、ニューヨークにいたころ、いくつかの事件で一しょに仕事をしたが、いつも具合よくやってゆけた。さて、われわれは、手をにぎりあい、背中をたたきあい、ひととおりの挨拶がすむと、ぼくは、事務所に電話をするようにすすめた。
電話をかけおえたマコーリーは、渋面をつくりながら、「ワイナントがきていて、会いたいというんだ」
ぼくは、つぎ終った酒を手にしてむき直った。「じゃあ、昼めしのほうは、なんなら――」
「待たせとくさ」かれは、そういって、グラスを受けとった。
「相かわらず左巻きなのかね」
「いや、冗談じゃない」マコーリーは、まじめな声を出した。「あの男が、一九二九年に、一年ちかく療養所にいれられていたこと知っているかね」
「知らんよ」
かれは、うなずいた。腰をおろして、グラスを椅子のわきのテーブルにおくと、からだを乗りだして、「ところで、ミミは、なにかたくらんでいるんじゃないか」
「ミミって? ああ、あいつの女房か……前の女房だな。いや、知らんよ。なにかたくらむようなわけでもあるのかい」
「いつもそうだからさ、君なら知っていると思ったんだが」
「とんでもないよ、マック。ぼくは、六年まえから探偵商売はやめているんだ」ぼくがいうと、かれは、おや、というようにぼくの顔を見つめた。「いや、ほんとうなんだ。結婚して一年目に、女房の父が死んで、製材工場と、軽便鉄道と、そのほかなんやかやを遺《のこ》して行ったものだから、事務所はやめて、そっちのほうの面倒をみているんだ。いずれにしろ、ミミ・ワイナント、いや、今はミミ・ヨルゲンセンか……名前などどうでもいいが、とにかくあの女にやとわれる気はないよ。お互に好きになれないのさ」
「なあに、ぼくは君が――」マコーリーは、あいまいな身ぶりをしてみせてから、グラスをとりあげた。一口飲むとあらためて、「いや、どうかなと思っただけなんだがね。そのミミが、三日まえ――火曜日だったか、電話をかけてよこしてね、ワイナントをさがしているというんだ。昨日《きのう》は、ドロシーが君にきいたといって電話をかけたうえ、自分でやってきた。だから――つまり、君が今でもむかしの商売をやっていると思ったものだから、一体どうしたことかととまどったのさ」
「で、君はなにも聞かなかったのかね」
「聞いたよ――昔なつかしさにワイナントに会いたいというんだが、そこになにかありそうに思えるんだ」
「君たち弁護士は、疑いぶかいんだな。奴《やっこ》さんだって会いたいのが本心かもしれないよ――なつかしいのと、金のことでね。それにしても、なんだってそんなに騒ぎたてるのかな。かくれてでもいるのかい」
マコーリーは肩をすぼめてみせた。「さあ、そこだて……十月以来ぼくも会っていないんだ」また一口飲んで、「君はいつまで滞在するつもりだね」
「年を越すまでだ」
そこでぼくは、電話をかけて、昼めしのしたくをたのんだ。
三 女の死体
その晩、ぼくはノラと一しょに、リットル劇場の『蜜月《ハニムーン》』の初日を観にゆき、それから、フリーマンとか、フィルディングとかいう人のパーティによばれた。翌朝、ノラによび起されたときは、なんとなく気分がすぐれなかった。ノラは、コーヒーのカップと一しょに、新聞をつきつけた。
「読んでごらんなさい」
ぼくは、むしゃくしゃしながら、新聞に眼を走らせたが、やがてそれを放りだして、コーヒーをすすった。「いいかげんにしろよ。どんなにすばらしい特だねを山ほど積んだって、今なら、一滴のウィスキーとよろこんで取っかえっこするぜ」
「おばかさんね」とノラは新聞に指をおいた。「ほら、これ」
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アパートの殺人
発明家クライド・ワイナントの秘書、ジュリア・ウルフの射殺死体発見さる。
ワイナントを指名手配
昨夕、著名な発明家、クライド・ミラー・ワイナントの先妻、クリスチャン・ヨルゲンセン夫人は、先夫の住所を訊ねるために、東五十四丁目四一一番地所在のアパートに住むワイナントの秘書、ジュリア・ウルフ(三十二才)を訪れて、ウルフ嬢が、血まみれの死体となっているのを発見した。
六年間ヨーロッパに滞在、月曜日に帰朝したばかりのヨルゲンセン夫人は、警察当局の訊問にこたえて、部屋のベルを押したとき、かすかなうめき声がきこえたので、エレヴェーター・ボーイのマーヴィン・ホリーに告げ、ホリーが、アパート管理人のウォルター・ミーニーにしらせたと語った。部屋に入ってみると、ウルフ嬢は、胸部に〇・三二口径の弾丸四発を受けて、寝室の床《ゆか》に倒れていたが、警官と医師の来着をまたずに、意識不明のまま息を引きとった。
ワイナントの弁護士、ハーバート・マコーリーの陳述によれば、かれは、十月以来ワイナントに会っていない。昨日電話があって、会う約束をしたが、時間に遅れて会えなかった。ワイナントの現住所は、まったく見当がつかないという。ウルフ嬢は、八年前からワイナントにやとわれていた。被害者の家族、その他私生活については、なに一つ知らないし、事件に関して思いあたるふしもない。
弾痕からみて、自殺の疑いはない。
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それから後《あと》は、おきまりの当局談であった。
ぼくが新聞をおくと、ノラがたずねた。「あの人が犯人だと思って?」
「あの人って、ワイナントかね、そうだったとしても、べつに驚きやしないよ。まるで気ちがいだからね」
「殺された女もご存じ?」
「知ってるよ。ところで、むかえ酒を一ぱいどうだい」
「どんな女でしたの?」
「まあ相当な女だね。顔は悪くなし、頭もはたらいたし、神経も太かった――ああいう男と暮らすには、そうでもなきゃね」
「一しょに暮していたの?」
「そうだよ。ねえ、一ぱい頼む。ぼくの知っていたころでは、一しょみたいなものだったのさ」
「なぜ、朝ごはんを先になさらないの? で、そのひと、ワイナントが好きだったの? それとも、ただ事務的《ビジネス》に……?」
「知らんね……だって、朝めしには早すぎるじゃないか」
ノラが出てゆこうとして戸をあけると、犬が入ってきて前あしをベッドにかけ、ぼくの顔に頭をすりつけた。その頭をなでてやりながら、ふと、いつだったかワイナントが女と犬のことで何かいっていたのを思いだした。結局はっきり思いだせなかったが、思いだそうとしたそのことになにか意味がありそうだった。ノラがグラスを二つ手にして戻ってきた。「ねえ、ワイナントってどんな人?」
「のっぽでね――六フィート以上だ。やせてることったら、あんなに細《ほそ》い人間は見たことがない。体重は五十ポンドぐらい。ぼくの知った時分から、髪はほとんどまっ白だった。いつもぼさぼさ頭で、あらいまだらの口ひげをはやしてね。指の爪をかむのがくせだった」ぼくは、犬をおしのけて酒に手をのばした。
「すてきみたいじゃないの。あなたは、どんな事件を依頼されていらしたの?」
「ワイナントと共同で仕事をしていた男がいてね、なんだかの発明をぬすんだといって、ワイナントにいいがかりをつけたんだ。ローズウォーターという男でね。射ち殺すとか、家に爆弾をほうりこむとか、子供を誘拐するとか、女房ののど首を掻くとか――とてもみんなはおぼえていないが――そんなおどし文句で金《かね》を出させようとしていたんだ。ところがその先生、つかまらないうちに自分のほうで恐ろしくなったらしく、いつのまにか脅迫もやめちゃってね、結局なにごとも起らなかったよ」
「ワイナントは、ほんとうに発明をぬすんだのかしら?」
たたみかけての質問に、ぼくは悲鳴をあげた。
「おいおい、ノラ、今日はクリスマス・イヴだぜ。ちっとはご主人のことを大事に思ってくれよ」
四 不思議な電話
その午後、アスタを散歩につれだし、一杯やるつもりで、ジムの店によったところ、ひょっこりラリー・クローリーに出合ったので、一しょにノーマンディ・ホテルまで引っぱって帰った。すると、ノラが、クィンと、マーゴット・イネズと、もう一人名前を思いだせない男と、それから、ドロシー・ワイナントといったお客たちに、カクテルを注ぎまわっていた。ドロシーがぼくに特別に話したいことがあるというので、ぼくもカクテル・グラスをとって、となりの寝室へ案内した。
ドロシーは、いきなり訪問の要点をきりだした。
「ね、ニック、あの人を殺したの、わたしの父さんだとお思いになって?」
「思わないさ。どうして?」
「でも、警察は――ねえ、あの女、父さんのいい人だったのでしょう?」
ぼくはうなずいた。「ぼくの知っていた時分にはね」
ドロシーは、自分のグラスをみつめた。「わたしの父さんだけど、好きじゃなかったわ。わたし、ママだって好きになれないのよ」眼をあげて、ぼくの顔をみながら、「ギルバートもきらいだわ」
ギルバートというのは、かの女の弟だ。
「そんなことでくよくよしなさんな。自分の身内が好きになれない人はずいぶんあるさ」
「あなたはお好き?」
「ぼくの身内か?」
「いいえ、わたしのよ」と、ドロシーは顔をしかめて、「まるで十二、三の子供を相手みたいなおっしゃりかた、やめて頂きたいわ」
「そんなつもりはないさ。酔いがまわったんだな」
「じゃあ、今のこと、どう?」
ぼくは、頭をふってみせた。「でも、君はいい子だった。少しやんちゃだったがね。ほかの人たちはどうでもよかったよ」
「わたしたち、どうなるのかしら?」その訊きかたは、議論をもちかける風ではなく、心から知りたがっているようであった。
「それは、別の問題だね。君の――」
そのとき、ハリスン・クィンが戸をあけてのぞきこんだ。
「ニック、こっちへきて、ピンポンをやらないか」
「ああ、じきにゆくよ」
「美人も一しょにね」クィンは、ドロシーに流し目をくれて、引っこんだ。
「ヨルゲンセンてひと、ご存じないわね」
ややあって、ドロシーがいった。
「ネルス・ヨルゲンセンなら知っているがね」
「同じ苗字だけど、わたしのいうのは、クリスチャン・ヨルゲンセンていうの。女みたいにきれいな人よ。ママったら、気ちがいと別れたと思ったら、こんどは、女たらしと結婚したりして――」かの女の眼はうるんできた。「わたし、どうすればいいのかしら、ニック?」涙をすすりながら言うその声は、おびえた子どものようだった。
ぼくは、片腕をかの女の肩にまわして、変にとられない程度にせい一ぱいなぐさめてやった。ドロシーは、ぼくの襟のあたりで泣きじゃくった。ベッドのわきの電語が鳴りだした。となりの部屋のラジオから、『ライズ・アンド・シャイン』の曲が聞えてくる。ぼくのグラスは空《から》っぽだった。
「ママたちのことは、あきらめるんだね」ぼくがいうと、
「ご自分のことだったら、そんなこと、おできにならないくせに――」ドロシーはまたすすりあげる。
「一体、なにをいっているんだね」
「どうぞ、いじめないで」
電話に出るために入ってきたノラが、妙な顔をしてぼくをみた。ぼくは、ドロシーの頭ごしに、しかめ面《つら》をしてみせた。ドロシーは、電話にこたえるノラの声を聞くと、あわててぼくから離れ、顔を赤くした。「ごめんなさい、」とどもって、「わたし、べつに――」
ノラは、いとしむように、ドロシーに笑いかけた。ドロシーは、ハンカチーフをさがして、眼をおさえた。
「はいはい、そうです……いるかどうかみてきましょう。どなたですか」ノラは、片手で送話口をふさいで、「ノーマンという人よ。お話になる?」
「知らない名前だな」ぼくは、受話器を受けとった。
しゃがれた声がきこえてきた。「チャールズさんだね……たしか、以前トランス・アメリカン探偵事務所に関係しとった――」
「君はだれ?」
「アルバート・ノーマンだ。名前なんぞどうでもいいよ。それよりも、あんたに聞いて貰いたい話があるんだが、話せば、あんたはきっと――」
「一体、なんの話だね」
「電話じゃ困るんだ。三十分ばかり時間をさいて貰いたいんだが――」
「残念だが、ちょっと忙しいし、それに――」
「いや、チャールズさん、この問題は――」
そのとき突然、大きな音が受話器に入って声がとぎれた。ピストルの音か、なにか落ちたひびきか、いずれにしろ、ひどく大きな音響だった。二、三度呼んでみたが、こたえがないので、ぼくは、受話器をかけた。
ノラは、ドロシーを鏡の前につれてきて、白粉や口紅をつけてやりながら、なだめていた。
「保険屋だったよ」ぼぐは、そういい捨てて、酒をのみに居間のほうへ行った。客はさっきよりふえている。
マーゴット・イネズと一しょにソファに腰かけていたハリスン・クィンが立ちあがった。「さあ、ピンポンだ」
アスタがとびあがって、ぼくの腹をたたいた。ぼくは、ラジオのスウィッチを切って、自分でカクテルをついだ。
クィンも酒をつぎにやってきた。寝室のドアのほうに目くばして、「あのかわいらしいブロンドちゃん、どこで拾ってきたんだね」
「むかし、ぼくの膝の上でぴょんぴょんはねていた女の子さ」
「どっちの膝だね。さわらせてもらいたいな」
ノラとドロシーが寝室から出てきた。ぼくは、ラジオの上にあった夕刊をとりあげて、見出しを読んだ。
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『ジュリア・ウルフの前身は、ギャングの情婦』アーサー・ナンハイム、死体を確認。ワイナントはなお行方《ゆくえ》不明。
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ノラがそばにきて、低い声で話しかけた。「あの子を晩ごはんに招んだわ。子供には親切にしてやるものよ」――ノラだって、まだ二十六才なのだが――「すっかり取り乱しているようね」
ドロシーは、部屋の向うで、クィンと話しながら、声をあげて笑っている。
「まあいいさ。しかし、よその人のごたごたにかかり合って、ひどい目にあったってキッスしてやらないぜ」
「かかり合ったりしなくてよ。おばかさんね。今そんなものを読むんじゃないの」ノラは、ぼくの手から新聞を引ったくって、ラジオのうしろにかくした。
五 酔った娘
ノラは、その晩寝つかれなかった。シャリアピンの自叙伝に読みふけっていたが、ぼくがやっとうとうとしたと思うと、「もうおやすみになったの?」と声をかけてきた。「うん、眠っているよ」すると、ノラは、たばこに火をつけてよこし、自分もすいながら、「ねえ、ときどきは、もう一度探偵をやってみたいと思わないこと? それも、なにか特別な事件の場合だけに――たとえば、リンドバーグ事件みたいな――」
「まあ、ぼくの見当じゃあ、犯人はワイナントさ。手つだってやるまでもなく、警察はつかまえるよ。いずれにしろ、ぼくなんかの知ったことじゃないさ」
「そんな意味でいったんじゃないわ。だけど――」
「だけど――ぼくには暇がないよ。君の財産の世話をやくことで、目の廻るほど忙しいんだ。なにしろ、ぼくはその財産目あてに君と緒婚したのだからね」いいながら、ぼくはキッスをしてやった。「一ぱいやったら眠れやしないかね」
「いらないわ」
「ぼくも飲んだら眠れそうだ」ウィスキーとソーダ水とをベッドまで運んでくるど、ノラは、眉をひそめてそっぽを向いた。「ドロシーはかわいい子だけど、利口じゃないね。さもなければ、あんな男の娘などになりゃしないよ。あの子の話すことのどれだけが心に思っていることなのか、そのまた思っていることのどれだけが、本当にあったことなのか、さっぱりわからない。ぼくは、あの子が好きなんだが、君はじゃまをするだろうね――」
「わたしは、好きというほどでもないけど――」と、ノラは考えこんでから、「あの子は、きっとくわせものだわ。でも、いうことの四半分が本当だとしても、ずいぶんつらい立場にいるわけね」
「ぼくは、あの子になに一つしてやれそうにないな」
「して貰えるつもりでいるわよ」
「ほんとにそう思っているんだね。なるほど、君がよその人と仲よくやってゆけるわけがわかった」
ノラは、ため息をもらした。「あなたが、相談に乗ってくれるほど素面《しらふ》だといいのに」そして、からだをのり出して、ぼくの酒をひとすすりしながら、「ねえ、クリスマスのプレゼント、いま頂だいよ。わたしもあげるから」
「朝めしのときにね」
「だって、もうクリスマスの朝になったじゃないの」
「いや、まだ早い」
「どうせ、わたしの気に入らないものなんでしょうけど」
「どっちにしろ、いずれ君のものになるさ。アクアリアムの店員に、返品は絶対におことわりだっていわれたんだ。お値だんは、ぎりぎりまで負けてあるんだってさ」
「ねえ、あの子を助けてやれるかどうか、考えてみたって損はないでしょう。すっかりあなたを頼っているのよ」
「ギリシャ人は万人から頼りにされるのさ」
「おねがいだわ」
「君は、なんにでも鼻をつっこみたいんだなあ」
「わたしの聞きたいのはね――あの人の奥さんは、ウルフが自分の夫の愛人だったことを知っていたのかってことなの」
「どうだかね。とにかく、細君はウルフが嫌いだったよ」
「奥さんて、どんなひと?」
「知らんね――女だよ」
「きれい?」
「以前は、とてもきれいだったな」
「としは?」
「四十――いや四十二だったかな。もうよそうよ。ほんとうは、そんなことどうでもいいくせにさ。ひとのことはひとに任せておくんだな」
ノラは口をとがらせた。「わたしも、お酒をいただこうかしら。眠れるかもしれないわ」
ぼくは、ベッドをぬけ出して、酒を調合してやった。時計をみると、五時まえだ。
突然、電話が鳴りだした。
「もしもし……はい、こちらですけど――」ノラは、電話にこたえながら、横眼づかいにぼくの顔をみた。ぼくは、頭をふって、ことわれと合図をした。「ええ……あら、どうして? だって、ほんとうよ……そう、ほんとうなの――」受話器をもとにもどすと、にやりと笑った。
「こんな朝っぱらから、なに者だね?」
「ドロシーが下にきているのよ。酔っているらしいわ」
「そいつは面白い」ぼくは、部屋着を拾いあげた。「またひと眠りしなきゃならんのかと、びくびくしていたよ」
ノラは、からだをかがめてスリッパをさがした。「古くさいせりふだわ。昼間ゆっくり眠ればいいじゃないの」さぐり当てたスリッパをつっかけて立ちあがり、「あの子は、自分でいっているように、ほんとうに母さんがこわいのかしら」
「まあそうだろうな。ミミにすれば、あの子はじゃまっけだからね」
ノラは、ぼくを見すえて、ゆっくりと、「なにか、わたしにかくしていることがあるの?」
「うん、実は、いわずにすめばと思っていたんだが、ドロシーは、ぼくの娘なのさ。無我夢中だったよ。ね、ノラ、ヴェニスの春の宵だった。若かったし、それに、空には月が――」
「なんとでもおっしゃい。なにか食べたくないこと?」
「つき合うぜ。なにが欲しい?」
「玉ねぎどっさり半焼肉サンドウィッチに、コーヒーだわ」
終夜営業のたべもの屋に電話をかけて、居間にもどってみると、ドロシーがふらふらしながら立っていた。
「こんなことでご迷惑かけてすみません。ニック。だけど、わたし、このままではおうちに帰れないわ。こわいのよ。どんな目に会わされるかわからないわ。どうすればいいかしら。どうぞ、わたしのこと、怒らないでね」ひどく酔っぱらっている。アスタが足もとで鼻をならした。
「いいとも、ここなら大丈夫だ。まあお掛け。いまにコーヒーがくるよ。どこでそんなにトラになったんだね」
ドロシーは、腰をおろすと、気が抜けたように頭をふった。
「しらないのよ。ここを出てから、まるで方角がつかないわ。そこらじゅう歩きまわったの。自分の家のほうにはゆかなかったわ。だって、こんなふうじゃ、帰れないんですもの。ほら、こんなもの貰ったわ」また立ちあがって、外套のポケットから古ぼけた自動ピストルを出してみせる。「ほら、ね」アスタがしっぽをふりながら、嬉しそうにとびついた。
ノラの息づかいが荒くなる。ぼくは首すじに寒けを感じた。犬をわきへおしのけて、ドロシーからそのとび道具をとりあげた。「どうしたというんだね。まあ坐りたまえ」ぼくは、ピストルを部屋着のポケットに落しこむと、女の子をむりやりに椅子にかけさせた。
「いじめないでね、ニック」ドロシーは泣き声をだした。
「それ、さしあげるわ。自分に迷惑がかかるのはいやなの」
「どこで手に入れたの?」
「十番街の酒場だったわ。エメラルドとダイヤモンドの入った腕環《うでわ》ととっ代えっこしたのよ。どこかの男の人と――」
「腕環は、あとから取りもどしたんだね。そら、今でもはめているよ」
「そうだったかしら――」ドロシーは自分の腕環をみつめた。
ぼくは、ノラに頭をふってみせた。
「ニック、その子をいじめちゃ駄目よ。ドロシーは――」
ノラのことばをさえぎるように、ドロシーは大いそぎで、「いじめてやしなくてよ、奥さん、このかたは――このかたは、世界中にただ一人わたしの頼りになるひとなの」
ぼくは、さっきノラがウィスキー・ソーダに手をつけなかったのを思いだしたので、寝室に行ってそれを飲んだ。もどってみると、椅子のうで木に腰かけたノラが、ドロシーを抱いてやっていた。ドロシーは、鼻をくすくすいわせている。
「だけど、ニックは、怒ってやしないのよ、あの人、あなたが好きなんだもの」ノラはぼくを見あげた。「ねえ、ニック、怒ってなどいないわね」
「うん、怒ってやしない。ちょっとびっくりしただけだ」ソファに腰をおろして、「君は、ピストルをどこで手に入れたの?」
「男の人に貰ったのよ――さっきお話したのに――」
「どんな男?」
「それもお話したわ――酒揚にいた男の人よ」
「で、君は、腕環ととっ代えっこしたのだったね」
「そうだったと思うんだけど、でも、ほら、腕環ははまっているわね」
「そこなんだが」
ノラがドロシーの肩を軽くたたいた。「むろん腕環は、あってよ」
「君たちみたいな駄々っ児と一しょにいるのはごめんだ。ボーイがあがってきたら、幾らかつかませて、ここにいて貰うかな――」
ノラは、ぼくにしかめ面《つら》をしてみせて、「ね、ドロシー、気にしないでいいのよ。一晩じゅうあんなのだから……」
「わたしのこと、ばかな酔っぱらいだと思っていらっしゃるのよ、」というドロシーの肩を、ノラがまたたたいてやる。
「それにしても、君は、ピストルを貰ってどうするつもりだったんだね?」
ドロシーは、からだをまっすぐに起し、酔った眼を大きくひらいて、ぼくの額をみつめた。そして、うわずった小さな声で、
「あの人が――あの人がいじめたら、射ってやろうと思ったのよ。わたし酔っぱらっていたから、きっといじめられると思ったの。だから、射ってやるつもりだったの。それから、それも恐ろしくなったのね。そこで、ここにきたんだわ」
「あの人って、あなたの父さんのこと?」ノラが驚きをおさえるようにいった。
ドロシーは頭をふった。「父さんは、クライド・ワイナントだわ。あの人って、義理の父さんのことよ」いいながら、ノラの胸にもたれかかる。
ノラは、すっかり呑みこんだような調子で、「まあ」と目をみはり、それから、「かわいそうにねえ、」とつぶやいて、意味ありげな眼つきでぼくの顔をみた。
「さあ、みんなで飲もうじゃないか」ぼくがいうと、
「おことわりだわ」ノラは、またしかめ面をして見せた。
「ドロンーだってきっとほしくないわ」
「いや、この子は飲んだほうがいい。飲めば眠れるよ」ぼくは、ウィスキーをたっぷり注いでやって、ドロシーがそれを飲みほすのを見まもった。てきめんだった。コーヒーとサンドウィッチのきたころには、ぐっすり眠りこんでいた。
ノラが、「さあ、あなたもほっとしたでしょう?」
「ほっとしたね、たべる前に、この子を寝床に入れとこうか」
ぼくは、ドロシーを寝室にはこびこんで、ノラが着物をぬがせるのを手つだった。小さな美しいからだをしている。居間にもどって、腹ごしらえにかかった。ポケットからピストルを出して調べてみる。そこらじゅう傷だらけの代物《しろもの》だ。弾丸《たま》は二発入っている――一発は発射位置に、もう一発は、弾倉に。
「それ、どうなさるおつもり?」
「ジュリア・ウルフを殺したピストルかどうか、それがわかるまでは、別にどうもしないさ。こいつも〇・三二口径なんだ」
「だって、あの子の話では――」
「酒場で、どこかの男から、腕環ととっ代えっこしたんだって、そうはいっていたが――」
ノラは、サンドウィッチを手にしたまま、からだをのり出した。眼がひどくぎらぎらと輝いている。「すると、あの子が義理の父さんから貰ったとでも思っているの?」
「そうとも」ぼくの声には、少し力がこもりすぎた。
「あなたって、とんでもない人ね。でも、もしかすると、ほんとうにそうなのかもしれないわ。いいえ、わかるもんですか。あなたは、あの子のいうことを信用しないのね」
「ねえ、君、夜があけたら、探偵小説を山ほど買ってきてやるよ。今は、そのかわいらしい頭を探偵ごっこで痛めないほうがいいな。あの子のいおうとしていたのは、うちに帰れば、ヨルゲンセンにいじめられるのがこわいということと、そんな目に会っても文句がいえないほど酔っぱらっているのが心配だということ、それだけさ」
「だって、母さんがいるのに」
「そこに曰《いわ》くがあるさ。君だって――」
言いかけたとき、長すぎるねまきを着たドロシーが、戸口に立って、部屋のあかりに眼をしばたたいていた。「しばらくおじゃましていいかしら。ひとりでいるのがこわいのよ」
「いいとも」
ドロシーは、ソファのぼくの横にからだをまるめこんだ。ノラは、なにか掛けてやるものを取りに行った。
六 まだ子供なのよ
その午後はやく、三人で朝めしの食卓をかこんでいるところへ、ヨルゲンセン夫妻がたずねてきた。電話にでたノラが、笑いをこらえるような顔でもどってきた、ドロシーに、「あなたの母さんよ。下にきていらっしゃるわ。あがっていらっしゃいと申しあげたのよ」
「困るわ、わたし。電話などかけなければよかった」
「ぼくたち、しばらく廊下に出ているほうがいいかもしれないな」
「あんなこと、いってみるだけなのよ」ノラは、ドロシーの肩をやさしくたたいた。
戸口のベルが鳴った。ぼくはドアをあけに立っていった。八年の風雪も、ミミの顔を少しもそこねてはいなかった。いくらか豊満に、いくらか派手《はで》になっただけだった。娘より大がらだし、金髪もずっと鮮かだ。ミミは笑いながら両手をさし出した。「クリスマスおめでとう。久しぶりでお目にかかれて、ほんとうに嬉しいわ。主人ですの。こちら、チャールズさんよ」
「ほんとに久しぶりだったね、ミミ」ぼくはヨルゲンセン氏とも手をにぎり合った。かれは、細君よりも五つは若くみえる、色の黒い背の高いやせぎすの男だった。きちんと念入りな着つけ。やわらかな髪、口ひげをチックで固めている。
ヨルゲンセン氏は、からだを腰から折りまげるようなおじぎをした。「はじめまして、チャールズさん」重々しいチュートン風のもののいいかた。やせて筋ばった手をしている。ぼくたちは部屋に入った。
紹介がすむと、ミミは、ノラに突然の訪問のいいわけをした。「でも、わたくし、ご主人にお目にかかりたくてたまりませんでしたのよ。それに、このおてんばさんを時間どおりよそさまにつれてゆくには、からだぐるみ抱えてゆくよりしようのないことを承知していますので――」ドロシーに笑顔をみせて、「お前さん、着がえをしなくちゃ」
その『お前さん』は、口一ぱいトーストを頬ばりながら、いくらクリスマスだって、どうしてアリス伯母さんのところなんかで、つまらない思いをしなければならないの、と愚痴をこぼした。「ギルバートはきっと来やしなくてよ」
ミミは、アスタのことを、かわいらしい犬だと讃《ほ》めてから、「まえの主人の居どころ、見当がおつきにならなくて?」
「つかないね」ぼくが答えると、ミミは犬と遊びつづけながら、「こんな時にゆくえをくらますなんて、どうしたって正気のさたじゃないわね。警察がはじめ、あの人に嫌疑をかけたのも無理ないと思うわ」
「警察はなんていっているの?」
ミミは、ぼくを見あげて、「あら、新聞をごらんにならなかったの?」
「見ないよ」
「モレリというギャングが犯人、だったのよ。情夫だったんですって」
「で、つかまったの?」
「まだなのよ。でも間ちがいないわ。早くクライドの居どころがわかるといいのに。マコーリーは、役たたずね。どこにいるのか知らないなんて――、そんなことってないわ。一切をまかされている弁護士なのに。クライドと連絡があることぐらい、ちゃんと知っているわ。マコーリーって信用できる人なのかしら」
「ワイナントの弁護士なんだから、あなたのほうで信用する必要もなさそうだがな」
「ちょっと思ってみただけなの」ミミはソファ上で少しからだをずらして、「おかけにならない? おうかがいしたいことがどっさりあるわ」
「それより、まず一杯どうです」
「エッグ・ノッグでなければ、なんでも頂くわ。エツグ・ノッグを頂くと、気が立ってくるのよ」
勝手《パントリー》からもどってきたときには、ノラとヨルゲンセン氏は、フランス語の会話をやっており、ドロシーは、まだなにか食べているようなふりをしていたし、ミミは犬と遊んでいた。ぼくは、酒をみんなにくばってから、ミミのとなりに腰をおろした。
「奥さまって、かわいらしいかたね」とミミがいった。
「夫婦円満だよ」ぼくが笑うと、
「ねえ、ニック、ほんとうのことをおっしゃってね。クライドは気がちがっているのかしら」
「そんなこと、ぼくにわかるものか」
「子供たちのことが気がかりなのよ。わたしなんか、今さらクライドになに一つ要求する権利はないわ――別れた時の約束で、すっかり片がついているのよ――でも、子供たちには権利があってよ。わたしども一文なしですの。あの人、気が狂っているんだっだら、もしかして、子供たちに全財産をくれないとも限らないわ。どうすればいいかしら」
「どうすればって、監獄にでもたたきこむのかね」
「いいえ」とゆっくりいって、「でも、あの人と話してみたいの」片手をぼくの腕にかけながら、「あなたなら、さがして下さるわね」
ぼくは頭をふった。
「ねえ、助けて下さらないこと、ニック? わたしたち、お友だちだったわね」ミミの大きな青い眼は、やんわりと訴えるようないろを帯びてきた。食卓のドロシーが、ぼくたちにいぶかしげな視線を送っている。
「ミミ、こんどはかんべんしてもらいたいね、ニューヨークには、千人もの探偵がいるんだもの。その中からだれかを頼むんだな。ぼくは、もう商売をやめたんだ」
「知っているわ、でも――あの、ドロシーのことだけど、ゆうべはひどく酔ってて?」
「酔っぱらっていたのは、ぼくのほうかもしれないね。あの子なら、大丈夫だったような気がするよ」
「あの子、ちょっとかわいらしくなったでしょう?」
「いつだってかわいらしいと思っていたよ」
ミミは、しばらく考えこんでから、「だけど、まだほんの子供なのよ、あの子は」
「それがどうしたっていうんだね」
ミミはうす笑いをうかべながら、娘に向って、「ドリー、着がえをしたらどう?」
ドロシーは、ふくれ面《つら》で、愚痴をくりかえした。
ヨルゲンセン氏が向きなおって、細君に呼びかけた。「チャールズさんの奥さんが、ゆっくりするようにって、ご親切におっしゃるんだがね――」
「そうなんですよ、」と、ノラが口をはさんだ。「ゆっくりなさいましよ。そのうちに、ほかのかたもいらっしゃいますわ。大して面白いこともないでしようが――」おしまいまでいう代りに、グラスをふってみせた。
「お仲間に入れて頂きたいわ」ミミがゆっくりという。「でも、アリスがもしかして――」
「あっちのほうは、電話でことわって置くんだね」ヨルゲンセン氏がたすけ舟を出した。
「わたしがかけるわ、」と、ドロシーが立ちあがった。
ミミはうなずいた。「ていねいにおっしゃいよ」
ドロシーは寝室に入って行った。だれもがずっと朗《ほが》らかになったようにみえる。ノラがぼくの視線をつかまえて、嬉しそうにウィンクしてみせる。ちょうどミミがぼくの顔を見ていたので、ぼくは、もつけの幸いと、そのウィンクにこたえた。
ミミが口をひらいた。「ほんとうは、わたしたち、おじゃまじゃなくて?」
「とんでもない」
「どうだか。ところで、あなたあのかわいそうなジュリアが好きだったんじゃない?」
「かわいそうなジュリアだなんて、君の口からそんなことを聞こうとは、思いがけないな。そりゃあ、ぼくは好きだったよ」
ミミは、また片手をぼくの腕にかけて、「わたしとクライドとの生活は、あの女にめちゃめちゃにされたのよ。僧んだのはあたりまえでしょう――その当座はね――でも、ずいぶん昔のことですもの。金曜日に会いに行ったときには、憎らしい気もちは少しもなかったわ。それが、行ってみると、死んでいるじゃないの。殺されるわけなどなかったのに。恐ろしかったわ。以前がどんな気もちだったにしろ、今となっては、かわいそうとしか思わないわ」
「君が一体どんなつもりでいるのか、さっぱりわからないな。君たち二人とも――」
「二人ともって、ドリーがどうかしたの?」
ドロシーが寝室からもどってきた。「うまくやってよ」母親の口にキッスして、隣に腰をおろした。
ミミは、コンパクトの鏡をのぞいて、口のあたりの汚れていないのをたしかめた。「伯母さん、怒ってやしなくて?」
「いいえ、いい具合にいっといたわ。わたし、なにか飲むものを頂きたいんだけど――」
「あそこのテーブルに、氷と瓶とがあるから、注いどいで」
「お前さん、飲みすぎるわ」ミミが口を出した。
「ニックほどじゃなくてよ」ドロシーはテーブルのところまで行った。
ミミは頭をふった。「なんて子でしょう。――ねえ、あなたは、よっぽどジュリアが好きだったのじゃないこと?」
ドロシーが向うから声をかけた。「ニック、あなたもどう?」
「貰おう」それから、ミミに向って、「大好きだったさ」と、ぼくはいった。
「あなたみたいにつかまえどころのない男の人って、お目にかかったことないわ」ミミは、不服らしい声をだした。「このわたしが好きだったぐらいに好きだったの?」
「というと、そら、君と夢中ですごしたあの二、三日のことかな」
ミミは心から大笑いした。「まあ、大した返事のしようね」グラスを運んできた娘のほうを向いて、「お前さんも、そんな青っぽい部屋着を買うといいわね。とてもよくお似合いだよ」
ぼくがドロシーからグラスを受けとって、グッとのみほした。
「ぼくも着がえをするからな」
七 約束
浴室から出てくると、ノラとドロシーが寝室にいた。ノラは髪にくしを入れ、ドロシーは、ベッドのはしに腰をかけて、片ほうの靴下をぶらぶらさせていた。ノラが鏡の中でぼくにキッスを投げる。ひどく嬉しそうな顔だ。
「ノラ、あなたは、ニックがずいぶん好きなのね。そうでしょう?」
ドロシーがいうと、ノラが、
「あの人、本当は、ギリシャ生まれの道化役者なのよ。でも、わたし、馴れているの」
「だって、ギリシャにチャールズなんて姓はないわ」
「シャランビデスっていうのさ」ぼくが口を出した。「じいさんがアメリカに渡ってきたとき、エリス島の検査所のへっぽこ役人が、名前が長すぎて書くのがめんどうだといって、チャールズにちぢめてしまったんだ。じいさんは、どっちだってよかったんだな。入国させてくれさえすれば、|X《エックス》という名だってよかったのだろうよ」
ドロシーは、ぼくをにらんだ。「どこまで本当なんだか、わかりゃしないわ」そして、靴下をはきはじめた手を休めながら、「さっきママは、あんたをどうしょうとしていたの?」
「なんでもないよ。鎌《かま》をかけていたのさ。ゆうべ、君がなにをしてなにをいったか、それが知りたいんだろう」
「思った通りだわ。で、どうおっしゃったの?」
「どうともいいようがないじゃないか。君は、なにもしなかったし、なにもいわなかったもの」
ドロシーは、そのことでなにかいいたそうに額にしわをよせたが、口に出したのは別のことだった。「あなたとママとの間になにかあったって、わたし、ちっとも知らなかったわ。そりゃあ、わたしは小さな子供だったし、教えて貰えるわけもなかったのだけど、それにしても、あなたとママが、ミミとかニックとか、そんな呼びかたをする仲だってことも知らなかったのよ」
ノラが笑いながら鏡から向きなおった。「なんだか面白そうなお話になったわね」ドロシーにくしをふってみせて、
「さあ、それから?」
「ほんとうに、ちっとも知らなかったのよ」
「それで、今になって、なにがわかったの?」
「なにもわかりゃしないけど――」ドロシーの顔は、あからんできた。「でも、見当はつくわ」といいながら靴下のほうに身をかがめた。
「その見当をつけてみたいというんだね。君も困った人だな。しかし、そんな妙な顔をしなくてもいいよ。やましい気もちがあれば、ひとりでにそんな顔になるだろうがね」
ぼくがいうと、ドロシーは、顔をあげて笑いだした。「わたし、ママとよく似ているとお思いになって?」まじめな表情だった。
「似ていたって不思議はないさ」
「でも、そうお思いになって?」
「似ていないといって貰いたいんだね。それじゃあ、うん、似ていないよ」
ノラが嬉しそうな顔をした。「どう、わたし、こんな人と一しょに暮さなきゃならないのよ。あなたなら、がまんできないわね」
ぼくは、着がえをすませて、居間にでて行った。ヨルゲンセン氏の膝に乗っていたミミが立ちあがって、「クリスマスには、なにをお貰いになって?」
「ノラは、時計をくれたよ」ぼくはそれをミミにみせてやった。
「まあ、すばらしい時計! あなたからは、なにを贈りものにしたの?」
「ネックレースだよ」
「一ぱい頂くかな」ヨルゲンセン氏が立ちあがって、自分で酒を調合した。
戸口のベルが鳴って、クィン夫妻と、マーゴット・イネズ夫妻がやってきた。ぼくは彼らを居間にとおして、ヨルゲンセン夫妻に引きあわせた。そのとき、着がえをすませたノラとドロシーとが、寝室から出てきた。クィンは早速ドロシーにつきまといはじめた。そこへまたラリー・クローリーが、デニスという女を連れてあらわれ、四、五分遅れて、エッジ夫妻がきた。千客万来だ。ぼくは、マーゴットとバックガモンを戦わせて、三十二ドル――月末払いで――せしめた。デニス嬢とやらは、寝室で横にならねばならぬ始末になった。六時ちょっとすぎ、アリス・クィンはマーゴットに手伝ってもらって、旦那さまをドロシーからむりやりに引き離し、もう一軒の約束を果しに出かけていった。エッジ夫妻もいとまを告げた。ミミは自分の外套を着てから、夫と娘とに仕度をさせながら、
「ずいぶん急なお話だけど、明晩、ごはんにいらして頂けないかしら」とノラにいった。
「ええ、あがらせて頂きますわ」
そこで、お互に手をにぎりあい、まんべんなくていねいな挨拶を交わしたあげく、客たちはどやどやと帰っていった。ノラは、ドアをしめると、そこにもたれかかって、つぶやいた。「ああ、あのご主人、すばらしいかただわ」
八 遭難
これまで、ぼくは、ウルフ=ワイナント=ヨルゲンセン問題に関するかぎり、自身の立場と行動をはっきり心得ていた――いや、立場も行動もあらばこそ、全然タッチしていなかったのだ。ところが、翌朝四時ころ、遊びまわって帰ると、コーヒーをのみに立ちよったリューベンスの店で、ノラのひろげた新聞をのぞきこむと、ゴシップ欄に、こんな記事が出ていた。
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元トランス・アメリカン探偵事務所随一の腕きき、ニック・チャールズ氏は、ジュリア・ウルフ殺害事件解決のため、太平洋岸から当地についた。
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そして、それから六時間ほどのち、ふと目が覚めベットの上に起きあがってみると、ノラは、しきりにぼくを揺すぶって居り、寝室の戸口には、ピストルを手にした男が突ったっていた。
ふとりじし中背、あごの張った、眼の間のせまい、色の黒い若もの、黒の山高帽《ダービー》、恐ろしくぴったり合った黒の外套、黒の服、黒の靴、頭のてっぺんから足のつまさきまで、十五分まえに買いととのえてきたばかりというような身なり。とび道具は、鈍い黒色の〇・三八口径自動式、別になにをねらうでもなく、気楽そうに手のひらにおさまっている。
「この人、わたしにドアをあけさせて入ってきたのよ。なんだか用があるっていうんだけど――」
ノラが説明する。
「あんたに聞いて貰わなければならん話があるんだ。用はそれだけだ」ピストル男の声は、低くしゃがれている。ぼくは、やっと本当に眼がさめたような気もちになった。ノラをみた。興奮してはいるが、おびえた様子はない。自分の賭けた馬が鼻さきだけリードしながら最後の直線コースを追いこんでくるのを、かたずをのんで見まもる。そんな気分でいるのかもしれない。
「よし、話は聞こう。それにしても、その危っかしいおもちゃはどこかへやっちまえよ。家内のほうはかまやしないがね。ぼくは妊娠しているんだから、そんなものを手に持った子供が生まれたら困るよ――」
男は、下くちびるに笑いを浮べた。「おれには、そんなハッタリは要《い》らんよ。あんたのことは聞いているんだから」それでも、かれはピストルを外套のポケットにしまった。「おれ、シェップ・モレリっていうんだ」
「お名前ははつ耳だね」
男は、部屋の中にもう一足ふみこんで、頭をふった。「ジュリアを殺《や》ったのは、おれじゃないぞ」
「君じゃないかも知れんが、お門《かど》ちがいだぜ。ぼくには関係のないことだ」
「あの女には三ヶ月も会っていない。おれたち、手を切ったんだ」
「警察にいって話すんだな」
「おれにゃ、あの女をやっつけるような行きがかりはないんだ。ずっとうまく行っていた」
「大したもんじゃないか。だが、青物市場に魚を持ちこんだって、買っちゃもらえないよ」
「スタシー・パークに教わったんだ。あんたが、万事よろしくやってくれたってことをな。だからおれはここにきた。警察は、おれが――」
「ほう、スタシーはどうしてるね? 一九二三年だったかに、河上の監獄《シンシン》に送られて以来、あの男にはお目にかかっていないが――」
「無事でいるよ。あんたに会いたがっていた。西四十九丁目で、ピッグアイアン・クラブという酒場をやっているんだ。ところで、法律では、おれはどんなことになるんだね。警察は、本気でおれを犯人と思っているのかい。それとも、なにか別のことであげようっていうのかな」
ぼくは頭をふった。「知っていれば話すよ。新聞なんかに化《ば》かされないほうがいいぜ。ぼくは、こんどの事件には関係していないんだ。警察にきいてみるんだな」
「まったく結構な思いつきだよ」また下くちびるに笑いを浮べて、「このおれが、のこのこ警察に出かけてゆくなんざ、一世一代の大できさね。警官に少しばかり痛い目をみせてやったばかりなんだぜ。さぞや警察のお気に召すことだろうよ」
男は片手をひろげて、重きを計るような手つきをしてみせた。「おれには、ほかに下《した》ごころなんかないよ。スタシーは、あんたのことを、まっすぐな人間だといっていた。だから、そのまっすぐなところを見せて欲しいんだ」
「まっすぐなところを見せているのさ。知っていることがあれば、ぼくだって、君に――」
廊下のドアを、拳固で三度はげしくたたく音がした。その音の鳴りやむよりはやく、モレリの手はピストルをにぎっていた。かれの両眼は、一度に全部の方向に動いたかとみえた。胸の奥で金属のぶつかり合うような声で、
「なんだ、あれは?」
「知らんね」ぼくは、からだをまっすぐに立てて、モレリの手のピストルの方へ顎をしゃくってみせた。「どうやら、そいつがお役に立つね」それは、恐ろしく正確にぼくの胸を狙っている。耳のなかで血液のながれる音がひびき、くちびるがふくれあがってくるような気がする。
「非常階段はないよ」
ぼくは、片手を、ベッドの向う側に腰をかけているノラのほうへ延ばす。
また拳固がドアをなぐりつける。幅のある声で、「あけろ、警察だ」
モレリの下くちびるが上くちびるに重なり、瞳《ひとみ》の下の白眼がみえてくる。「ちきしょう!」そのことばは、ゆっくりと、ぼくをあわれむような調子で発音された。両足を床にぴったりつけたまま、ほんの少しずらす。
かぎ穴にかぎの触《ふ》れる音がした。ぼくは、片手で、ノラを部屋の向うはしまで思いきり突きとばし、右手で枕をつかむと、モレリのピストル目がけて投げつけた。それは全く重さがないようだった。一枚の薄葉紙《うすようし》みたいに、空中をふわりふわりと漂《ただよ》っていた。ピストルの発射音が、すさまじくとどろいた。床に伏せたとたんに、左わき腹になにかがぶつかった。モレリの片足くびをひっつかむとそのまま転《ころ》がりざま、からだぐるみ自分の上にひきずり落した。ピストルが、ぼくの背中をこづきまわす。ようやく片手が自由になったので、あらん限りの力をこめて、相手をなぐりつけた。
ぼくたちは、踏みこんできた連中に引きはなされた。ノラを正気にかえらせるのに、五分もかかった。かの女は、頬をおさえて起きあがると、坐ったまま部屋じゅうをみまわし、最後にやっと、二人の警官のあいだに手錠をはめられて立っているモレリをみつけた。曲者《くせもの》の顔はめちゃめちゃだった。警官たちは、少しは面白半分にやっつけたのだ。ノラは、ぼくをにらみつけた。
「ひどい人ね。なにも気絶するほど突きとばさなくたっていいじゃないの。あなたの勝ちはわかっていたけど、自分の目で見たかったのよ」
「気の強いご婦人がいらっしゃるもんだ」警官の一人が笑った。
ノラは、その警官に笑顔を見せながら立ち上がった。視線がぼくの姿にとまる、とノラの微笑はたちまち消え去った。「まあ、ニック、あなたは!」
「大したこともなさそうだよ」ぼくは、ちぎれ残りの、パジャマをあけてみた。モレリの弾丸《たま》は、左乳の下に四インチばかりの溝をえぐっていた。血はかなり出ているが、それほど深い傷でもない。
「悪運の強いやつだ。二インチも上だったらなあ。」そういうモレリの口のはたを、ノラを賞めた警官――あまりよく合っていない灰色の服を着た、四十八か五十ぐらいの、砂色髪の大男――が平手でなぐりつけた。
警官と一しょに来ていたホテルの支配人カイザー氏は、医者に電話をかけに出ていった。ノラは、浴室に走って、タオルをもってきた。ぼくは、そのタオルを傷口に当てがって、ベッドに横になった。「さあ、これでいいから、医者の来るまでまごまごするのはよそうじゃないか。ところで、君たちは、どうしてまたひょっこりおいでなすったんだね」
モレリに平手打ちをくわせた警官がこたえた。「このホテルがワイナント一家や、その弁護士なんかの集り場所みたいになっているって聞きこんだので、ひょっとして、ご本尊のワイナントがあらわれまいでもないと思って、見張らせてあったんだ。すると今朝《けさ》、そこにいるマックが、この野郎のもぐりこむのを見かけて電話をよこした。さっそく駈けつけ、カイザー氏にご足労ねがって上ってきた次第だがね。あんたには運がよかったわけだ」
「うん、まあそうだ。だが、その運が悪ければ、射たれずにすんだかも知れないぜ」
「この野郎はあんたのお友だちかね」警官は、湿っぽい淡灰色の眼で、さぐるようにぼくの顔をみた。
「初対面だよ」
「なにをやらかそうとしていたんだね」
「ウルフ殺しの犯人じゃないっていいにきたのさ」
「それが、あんたとどう関係があるんだね」
「なにもないよ」
「じゃあ、この野郎は、どんなつもりでやってきたんだろう」
「訊いてみるんだな。ぼくは知らん」
「あんたに訊いているんだ」
「いくらでも訊くさ」
「あんたを射った件で、この野郎が起訴されたら、あんたは証言できるね」
「そいつも即答はできないな。暴発だったかもしれないよ」
「よし、時間はたっぷりある。あんたには、思ったよりたくさん訊かなきゃならんようだ」そういって、四人の同僚の一人をふりかえった。「この部屋をさがすんだ」
「令状なしじゃ困るよ」ぼくがいうと、
「なんとでもいうさ。さあ、アンディ」二人は部屋の捜索にかかった。
風采のあがらない、鼻つまり声の医者が入ってきて、出血をとめ、包帯をしてくれた。二日もじっと寝ていれば心配することもないということだった。だれも医者に話しかけなかった。警官は、医者がモレリに触《ふ》れるのを許さなかった。医者は、きた時よりもっと不景気な顔をしてでて行った。砂色の髪をした大男の警官が、居間から戻ってきて、片手をうしろに廻したまま突ったっていたが、医者が立ち去ると、ぼくにいった。「あんたは、銃器所持許可証があるかね」
「ないよ」
「じゃあ、これはどうなんだ」かれは、うしろからドロシー・ワイナントのもってきたピストルを出してみせた。弁解のしようもない。
「サリヴァン法のことは知ってるね」
「うん」
「そんなら、どんな目に会うか知ってるな。あんたの物かね」
「ちがう」
「だれのだ」
「だれのだっけね」
警官は、ピストルをポケットにしまって、ベッドのわきの椅子に腰をおろした。「いいか、チャールズ君、お互にこんなふうだと面白くないね。本心は、どっちもいがみ合う気はないんだと思うよ。あんたも、横っぱらに風穴をあけられていちゃ、機嫌をなおせといわれたって無理だろうから、少しよくなるまではそっとしとくよ。そのうちにまた調子よく話し合えるようになるだろう」
「ありがとう」それは、うそのない気もちだった。「一ぱいおごろうじゃないか」
「ほんとうにそうだわ」ノラがベッドの縁から立ちあがった。
砂色髪の大きな警官は、ノラを見おくって、おもおもしく頭をふった。「まったく、あんたは運のいい人だ」それから、急に手をさし出して、「わしは、ギルド、ジョン・ギルドっていうんだが」
「ぼくのほうはご存じだね」ぼくたちは手をにぎり合った。
ノラが、サイフォンと、ウィスキーの瓶と、グラスとを盆にのせてもどってきた。モレリにもグラスをわたそうとすると、ギルドがそれをさえぎった。「ご親切はうれしいが、医者の処方以外には、拘禁者に酒や薬を飲ませてはならん法律がありますのでね」ぼくのほうを見て、「そうだったね?」
ぼくは、ニンマリうなずいた。
やがて、ギルドは、空《から》になったグラスをおいて立ちあがった。「このピストルは貰って行くが、あんたは心配いらんよ。気分がよくなったら、たっぷり話し合おう」ノラの手をとって、その上におそるおそる身をかがめた。「さっきのことは気にしないで下さい。わしは、ただ――」
ノラは、とっときのすばらしい笑顔をギルドにみせた。「気にするなんて、そんな――わたし、ああいうのが大好きですわ」そういって、警官たちと獲物《えもの》を送りだした。
「いい人ね――ひどく痛んで?」
「いいや、大したこたァない」
「わたしが悪かったのね。そうでしょう?」
「とんでもない。もう一ぱいどう?」
ノラは、酒をついでくれた。「わたし、今日は、あまり飲みたくないわ」
「ぼくも飲まないことにしょう。朝めしは、燻製のにしんがあればいいよ。さあ、これで騒動も一まず片づいたようだから、不在ということにして、交換手にも電話をつながないように頼んでおくといいね。きっと、新聞の連中がやって来るぜ」
「ドロシーのピストルのこと、警察にどうおっしゃるおつもり?」
「まだわからないな」
「ねえ、あなた、わたしは考えが足りなすぎたのかしら。ほんとうのことをおっしゃって」
ぼくは頭をふった。「過ぎたというほどでもないさ」
「しようのない人ね」ノラは笑った。
九 赤い靴
「そんなのは、ただの強がりってものよ。なんにもならないわ。弾丸《たま》が当って跳《は》ねかえったぐらいのことは、よく知っていますよ。そうまでして証明してみせることはないでしょう」
「なあに、起きあがったって大したことなさそうだ」
「一日ぐらいベッドにじっとしていたっていいじゃないの。お医者さまも、そうおっしゃってたわ――」
「自分の鼻詰りをなおせるほどの医者なら、いうことを聞いてもいいがね」ぼくは、起きあがって、両足を床におろした。アスタがその足をなめた。
ノラは、スリッパと部屋着とをもってきてくれた。「いいことよ。強情なひと。カーペットにたんと血をこぼすといいわ」ぼくは、そっと立ちあがってみた。アスタの前足を払いのける左腕が楽にうごかせたところをみると、別にどうってこともなさそうだ。
「いいかね。ぼくは、あの連中にかかり合いたくなかった――今だってそうだ――ところが、事はかなり面倒になりかけている。こうなると、うっかりできない。よく考えてみなければならんのだ」
「どこかへ行ってしまいましょうよ。一、二週間、バーミュダか、ハヴァナへでも。なんだったら、太平洋岸に帰ってもよくてよ」
「例のピストルのことだって、警察になんとか説明しなきゃならんし、あれが、犯人の使ったやつだとわかってごらん。――いずれわかるよ」
「本当にそうだと思うの」
「そんなところじゃないかな。で、今晩は、あの家で晩めしを招ばれて、それから――」
「およしなさいよ、そんなこと。ばかねぇ。会いたいひとがあるんなら、来て貰えばいいじゃないの」
「どっちでもいいってわけにはゆかないさ」ぼくはノラのからだに腕をまわして、「こんなかすり傷ぐらい、なんだい。平気だよ」
「やせがまんよ。射たれたってへいちゃらの英雄気取りがしたいのね」
「わからずやだね」
「どうせ、わからずやですよ。断然ゆかせやしないから――」
ぼくは、ノラの口を手でふさいだ。「ヨルゲンセンとくつろいで話がしたいんだ。マコーリーにも会いたいし、スタシー・バークにもお目にかかりたいよ。もうぬき差しならんところまで踏みこんでいるんだから、いろんなことを考えてみなきゃならない」
「しようのない強情っぱりね。じゃあ、まだ五時になったばかりだわ。着がえの時間まで、横になっていらっしゃい」
ぼくは、居間のソファに横になって、午後の新聞をとりよせた。モレリは、ジュリア・ウルフ殺しの犯人として、ぼくに逮捕されそうになって、ぼくを――ある新聞では二発、別の新聞では三発――射った。ぼくは瀕死の重傷。面会はもとより、病院にうつすことさえできない。と、そんなことになっているらしい。モレリの写真がでている。ぼくの十三才のときの写真もある。妙な恰好のかわいらしい帽子をかぶっている。思いだしてみると。どうやら、ウォール街の爆発景気の当時、働いていたころの写真だ。ジュリア・ウルフ殺しの続報は、どれもこれもいいかげんのものだった。読んでいるところへ、ぼくたちの小ちゃな常客、ドロシー・ワイナント嬢がご来訪になった。
ノラが戸をあけると、ドロシーの声が聞えてきた。「下で、とおしてくれないのよ。だから、こっそりあがってきたの。追いかえさないでね。ニックの看病のお手伝いぐらいできるわ。なんでもするわ」
ドロシーは、ぼくを見て、びっくりした。「あらまあ、だって、新聞には、あなたが――」
「いかにも瀕死の重傷らしいだろう? それよりも、君は一体どうしたの?」
ドロシーの下くちびるは、はれあがって端《はし》に近いところが切れているし、頬ぼねの上には傷がつき、もう片一ぽうの頬にも、|みみず《ヽヽヽ》ばれが見え、眼も赤く腫れている。
「ママにぶたれたのよ。見てちょうだい」かの女は、外套を床にほうりだし、服のボタンを乱暴にはずすと、片腕を袖からぬき出して、背なかが裸《はだか》になるまで服を押しさげた。腕には紫色の傷、背中には、十文字に長い赤い鞭のあとがある。
「どう?」泣きだしそうな声だった。
ノラが、抱きかかえるように腕をまわした。「まあ、かわいそうにねぇ」
「ママは、なぜ君をぶったりしたんだ?」ぼくがきくと、ドロシーは、ノラから離れて、ぼくのソファのそばの床にひざまずいた。アスタが鼻をすりつける。
「ママはね、わたしが――わたしが、父さんとジュリアとのことであなたに会いに――会いにきたと思ったのよ」すすりあげるたびに、ことばがとぎれる。「だから、ママは、たしかめにきたのよ。すると、あなたのようすから、そうじゃないことがわかったの。こんどの事件には関係していらっしゃらないことがわかったの。それで、今日の午後、新聞をみるまでは、ママもどうもなかったんだわ。新聞で、あなたがうそをついていらしたことがばれてしまったのよ。ママは、わたしのしゃべったことを白状させるつもりで、こんなにぶったのよ」
「で、君はなにか白状したの?」
「白状することなんかないわ。クリスのことは、ママにいえやしないし、ほんとうに、いうことなんか一つもなかったのよ」
「クリスは、そこにいたの?」
「いたわ」
「黙って見ていたのかね?」
「だって、あの人は、ママのすること、とめたりしないのよ」
「後生だから、一ぱい恵んでおくれよ」ぼくは、ノラに頼んだ。
「いいわ」
ノラは、ドロシーの外套をひろって椅子の背にかけると、パントリーに入って行った。
「ね、ニック、わたしをここにいさせて下さい。ご迷惑おかけしないわ。いまの家を出たほうがいいって、そうおっしゃったでしょう。ね、おっしゃったわね。ほかに行くところがないのよ。お願いするわ」
「まあいいさ。だが、さし当りどうしたものかな。ぼくだって、君の母さんのミミはこわいんだよ。あの人、君がどんなことをしゃべったと思ったのだろう?」
「ママは、きっと事件のことで、なにか知っているのよ。それをわたしも知っていると思っているんだわ。でも、わたしは知らない。神様のまえでだって、知らないわ」
「そうかな。しかし、君は知っていることがあるはずだよ。そいつから取りかかろうじゃないか。はじめからかくさずに話してくれるね――そうでなければ、味方になってあげるわけにはゆかないよ」
「ええ、きっと」ドロシーは、心を決めるような身ぶりをしてみせた。
「よし。では、まず飲もう」めいめい、ノラからグラスを受け取った。「君は、ママにもう帰らないって話してきたの?」
「いいえ、ママは、わたしが自分の部屋にいないことだって、まだ知らないかもしれないわ」
「それはよかった」
「まさか、帰れっておっしゃるのじゃないわね」ドロシーは大きな声をだした。
ノラが、グラスから口をはなした。「ニック、子供があんな目に会わされるのを放《ほ》っといてはいけないわ」
「なにをいっているんだね。ミミにしてみれば、ぼくたちを晩めしに招んでいるのなら、娘のいなくなったことなどを知っていないほうがいいだろうと考えただけさ」
ドロシーは、おびえた眼でぼくの顔をみつめている。
「あんなところへ連れてゆかれるのは、まっ平《ぴら》ごめんだわ」と、ノラがいった。
ドロシーは大いそぎで、「だって――だって、ママは、新聞に死にかけていると出たあなたが、まさかいらっしゃるとは思っていやしないわ」
「ふむ、いよいよすばらしいね。さぞやびっくりするだろう」
ドロシーは、青ざめた顔を、ぼくの顔に近よせた。ぶるぶる震えて、酒がぼくの袖にこぼれた。「行っちゃいや。いうことをきいて下さいね。ノラのいうとおりにして。行っちゃいけないわ」そして、ノラを見あげて、「ねえ、ノラ、行っちゃいけないっておっしゃって」
ノラは、ぼくの顔に焦点を合わせたまま、「おまちなさいな、ドロシー。この人は、どうするのが一番いいか、よく知っているはずだわ。ニック、どうするの?」
「まだ考えている最中なんだがね。――君がいいなら、ドロシーはここにいるさ。アスタと一しょに寝ればいいだろう。だが、それ以外のことは、一切ぼくに任せてもらいたいな。これからどうするか、そんなことはわからないよ。ぼく一流のやりかたで、いろいろさぐってみなければならん」
「わたしたち、おじゃましないわ。ね、しないわね、ノラ」とドロシー。
ノラは、ぼくの顔をみつめたまま、なにもいわなかった。
ぼくは、ドロシーにだずねた。「あのピストルはどこで手に入れたの? 今度は、でたらめをいうと承知しないよ」
かの女は、下くちびるをしめして、顔をあからめ、咳《せき》ばらいをした。
「いいかい。またうそをいったりしたら、ミミに電話をかけて、連れにきてもらうよ」
「おどかしちゃ駄目よ」ノラが口をだした。
ドロシーは、もういちど咳ばらいして、「あの――わたしの子供のころのこと、お話していいかしら」
「ピストルに関係があるの?」
「本当はないけど、それをお話すればわかって頂けるわ、なぜ、わたしが――」
「またこんどのときだ。ピストルはどこで手に入れたんだね」
「お話させて頂けるといいんだけど――」かの女はうなだれた。
「さあ、どこで手に入れたか、いいたまえ」
「どこかの酒場で、どこかの男の人からだわ」やっと聞きとれる声。
「どうやら本当のこと聞かせてもらえそうだね」ノラが、しかめ面《つら》して、頭をふってみせる。「そこで、どこの酒場だった?」
ドロシーは顔をあげた。「わからないのよ。たしか、十番街だったわ。クィンさんご存知よ。あのかたにつれて行って頂いたんですもの。
「あの晩、ここを出てから、あの男に会ったの?」
「ええ」
「偶然に――だろうね」
ドロシーは、うらめしそうな眼で、ぼくを見た。「わたし、本当のことをお話しようとしているのよ。あのかたとは、パルマ・クラブで会う約束をしていたの。ところ書きをわたされたわ。あなたがたにお休みをいってから、その場所であのかたに会い、それから、ずい分ほうぼう廻ったのよ。ピストルを手にいれた酒場が一番おしまいだったの。とてもひどい場所だったわ。わたしがうそをついていると思ったら、クィンさんにお聞きになるとよくてよ」
「ピストルもクィンが世話してくれたの?」
「いいえ。その時分には、あのかた、のびてしまって、テーブルにつっぷして眠っていらしたわ。帰るときも、おいてきちゃったのよ。みんなが、大丈夫おくりとどけるからっていったわ」
「で、ピストルは?」
「これからお話するわ」ドロシーの顔には、赤味がさしてきた。「クィンさんが、その酒場のことを、ギャングの巣だっておっしゃったので、おねだりして連れて行って貰ったのよ。あのかた眠ってしまってから、わたし、そのお店にいた男の人とおしゃべりをはじめたの。とてもこわい顔をした人だったけど、すっかり気に入ってしまったの。おうちになんか、ちっとも帰りたくなかったのよ。ここにもどってきたかったけれど、そんなこと許して頂けるかどうかわからなかったし」顔はいよい赤くなり、ことばもしどろもどろに乱れる。「だから、本当に困っているようにみせれば、泊ってもいいといって下さるだろうと思ったの。そんな仕かたが大して無茶だとも考えなかったのね。で、ピストルを手にいれ、それをみせて、クリスが恐ろしくておうちには帰れないからと、お願いすることにしたの。こわい顔をしたそのギャングみたいな人に、ピストルが欲しいって頼むと、はじめは、冗談だと思って相手にしないのよ。本気なんだからってせがむと、それでもにやにやしていたけど、しまいに、じゃあ見てくるといってどこかへでて行ったわ。戻ってきて、一つあるがいくら出すかっていうの。お金はあまり持っていなかったので、腕環をだすわっていうと、大したものじゃないと思ったのでしょう。現金でなくちゃ駄目だっていうのよ。結局、タクシー代だけ別にして、十二ドルあったのを全部わたしてピストルを受け取ったのだわ」話が終りに近づくと、次第にはや口になり、幾つものことばが一しょに出てくる。しゃべり終ると、やっとすんだというようにため息をついた。
「じゃあ、本当は、クリスにいじめられたことなんかないんだね?」
ドロシーは、くちびるを噛んだ。「あってよ。でも、そんなに――そんなにひどくじゃないわ」両手をぼくの腕にかけ、顔にほとんど触《ふ》れなんばかりにちかづけて、「信じて下さるわね。でたらめでこんなこといえやしないわ。自分をそんな安っぽいうそつきにするのはいやですもの」
「信用しないほうがよさそうだな。十二ドルってのは安すぎる。まあ、それは、しばらくそっとしとこう。あの午後、ミミがジュリア・ウルフに会いに行ったこと知っていた?」
「いいえ、ママがわたしの父さんをさがしていることだって知らなかったわ。ママもクリスも行くさきをいわなかったのよ。
「クリスもって?」
「一しょに出かけたのよ」
「なん時だった?」
ドロシーは、額にしわをよせた。「たしか、三時まえだったわ。なぜって、わたし、エルジ・ハミルトンと買物にゆく約束におくれそうだったので、大いそぎで着がえをしていたのをおぼえているもの」
「帰ってきたのも一しょだった?」
「知らないわ。わたしの掃った時には、二人ともいたわ」
「それはなん時だった?」
「六時すぎていたわ。早|合点《がてん》しないでね。ママたちが二人で――ああ、そうだわ、ママが着がえしながら、時々するように、フランスの女王さまみたいな勿体《もったい》ぶった口ぶりで、『わたしが訊けば、ジュリアも教えてくれますわ、』って、そんなこといってたのをおぼえていてよ。それっきりしか聞えなかったけど、何か意味があるのかしら?」
「君が帰ってから、ママは殺人事件のこと話してくれたかね?」
「してくれたわ。でも、どんなにびっくりしたかってことと、お巡りさんがどうしたということぐらいだったのよ」
「ママは、ひどく驚いていたようすだった?」
ドロシーは頭をふった。「いいえ、少し興奮していただけ。ママのいつもをご存じでしょう?」しばらくぼくの顔をみつめてから、ゆっくりと、「まさか、ママがあの事件に関係があると思っていらっしゃるのじゃないでしょうね」
「君はどう思う?」
「思ってもみなかったわ。父さんのことは考えたけど」しばらくしてから、重々しく、「父さんだったら、気が狂ったせいだわ。しかし、ママなら、その気になれば、だれだって殺しかねないわ」
「どっちでもないかもしれないよ。警察は、モレリを洗っているようだね。ママは、どういうわけで、君の父さんをさがしているんだね?」
「お金のことだわ。わたしたち一文なしなのよ。クリスが使ってしまったの。」口のはしをゆがめて、「そりゃあ、わたしたちだって使ったけど、ほとんどはクリスなのよ。ママは、お金がなくなったら、クリスに逃げられやしないかと心配しているわ」
「どうしてそんなこと知っているの?」
「二人が話しているのを聞いたのよ」
「君は、クリスが逃げると思う?」
ドロシーは、はっきりうなずいてみせた。「ママのお金がすっかりになればね」
ぼくは時計を見た。「あとは、もどってからにしょう。とにかく今晩はここにいてかまわないよ。のんびりしていたまえ。下の店にいいつけて、食事を運ばせるんだな。そとには出ないほうがいいね」
かの女は、つまらない顔をして黙っていた。
ノラがドロシーの肩をたたいた。「ね、この人がどうするつもりなのか、まるっきり知らないけど、自分からおよばれにゆくっていうからには、どうなるかぐらい、ちゃんと承知しているんだと思うわ。まさか、このひと――」
ドロシーは、笑顔になって、跳びあがるように立った。「わたしも信じてよ。もう、ばかなまねはしないわ」
ぼくは、帳場に電話をかけて、郵便物をとどけさせた。手紙が、ノラに二通、ぼくに一通。日遅れのクリスマス・カード。電話の伝言メモ。それから、フィラデルフィア発信の電報が一通。
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ニューヨーク、ノーマンディ・ホテル
ニック・チャールズ殿
ウルフゴロシノケンニツキハーバート・マコーリートレンラクサレタシ」イサイサシズシタ」ヨロシクタノム」クライド・ミラー・ワイナント
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この電報を封筒に入れ、『今うけ取った』と走り書きして、メッセンジャーを頼み、警察の殺人犯課にとどけさせた。
十 失踪
タクシーの中で、ノラがたずねた。「あなた、ほんとうに大丈夫?」
「大丈夫さ、」
「でも、無理なのじゃなくて?」
「平気だよ。君は、あの子の話をどう思う?」
しばらく考えてみて、「あなたは、あの子を信用していらっしゃらないわね」
「信用するもんか――少くとも自分で当ってみるまではね」
「こういうことは、あなたのほうがよくわかっていらっしゃるに決《きま》っているけど、わたしには、あの子が本当のことをいおうと一生懸命になっているように思えるわ」
「案外そんな連中から、面白い糸口をひき出せることがあるものだよ。ぼくみたいに、一度商売をやめたものにとっては、それをひき出すのが一苦労だがね」
「チャールズさま、あなたは、好奇心が人間の本性だってこと、よっくご存じでいらっしゃいますわね」と、ノラがわざと切口上でいった。「だったら、時には探偵商売の経験を話して下さらなきゃいけないわ」
「酒場で十二ドル出してピストルを買った、とね――そう、あるいはそんなことかも知れないが……」
沈黙のまま二町ほど走らせた。それから、またノラが口をひらいた。「あの子のこと、ほんとはどうなのかしら?」
「おやじは気ちがいだし、あの子はあの子で、自分もそうだと思っているね」
「どうして?」
「君が訊くからいうのき」
「つまり、想像なのね」
「つまりそこんとこがあの子のおかしいところなのさ。ワイナントがほんとうに気ちがいなのか、それは知らないし、果してそうだとしても、あの子にそんな素質が伝わっているかどうかもわからない。ところが、父親も自分もそうだと思いこんでいるものだから、ああいうでたらめをやるんだ」自動車は、コートランド・アパートの正面に停った。「今ごろ、あの子、アスタに小ちゃなおベベを作ってやっているかもしれないよ」
ヨルゲンセン氏の部屋に名前を通じると、だいぶたってから、あがってくるようにと返事があった。廊下で待っていたミミが、両手をひろげて、言葉たくさんに迎えてくれた、「ひどい新聞だこと。あなたが瀕死だなんてうそっぱちを書くもんだから、わたし、気がくるいそうだったのよ。二度も電話をかけたのに、お部屋につないでもくれないし、ようすを教えてくれなかったわ」ぼくの両手をとって、「今晩は、あり合わせもので我慢《がまん》して頂かなくてはならないのだけど。それでも、あなたのことがでたらめだってわかって、とても嬉しいわ。むろん、いらして頂けるとは、夢にも思っていなかったのよ。でも、お顔いろがよくないわね。怪我《けが》なすったのは、ほんとうでしたの?」
「弾丸がわき腹をかすめたんだが、別にどうってこともなかったよ」
「まあ、それなのにわざわざきて下すったのね。嬉しいわ。だけど、乱暴すぎるのじゃないかしら」ノラのほうに向きなおって、「こんなことおさせになって大丈夫ですの?」
「さあ、どうでしょうね。でも、この人が、どうしてもゆくというものですから――」
「男のかたって、わからずやばかりだわね」ミミは、ぼくに腕をまわした。「とんでもない大げさをいうかと思うと、大変なことをなんでもないみたいにいったり――お部屋にゆきましょうよ。さあ、手を貸してあげるわ」
「大したことないんだよ、」とうけあってみせたが、それでも、ミミはぼくを椅子までつれて行って、クッションを五つも六つもからだのまわりにあてがってくれた。
ヨルゲンセン氏が現れて、ぼくの手をにぎった。
「新聞で拝見したのと違って、元気でいらっしゃるのはなによりですな」ノラにもていねいに挨拶をして、「カクテルを仕上げてきますから、しばらくお待ち下さい」
「ドリーったらどこへ行ったのだろう。きっとすねているのよ。お宅には、お子さんはいらっしゃらなかったわね」とミミ。
「ええ、いませんのよ」ノラが答えると、
「ずい分お淋しいわね。そりゃあ時には厄介なこともあるけど」ため息をついて、「そんなに厳《きび》しくしていないんですが、それでも、叱ったりすると、ドリーはわたしのことを人でなしみたいに思うらしいわ」急にあかるい顔になった。「さあ、もう一人のおちびさんがきましたわ。ギルバートや、チャールズさんはおぼえておいでだね。こちら、チャールズ奥さんですよ」
ギルバート・ワイナントは、ドロシーより二つとし下の、青白い顔をして、伸びすぎたようなからだつきの金髪の少年だった。なんとなくしまりのない口もと。小さすぎるあご。目だって澄んだ青い大きな眼と、長いまつ毛とが、顔だちを女のように見せている。小さな時分には、鼻声で愚痴《ぐち》をこばす癖にうるさい思いをさせられたものだが、これだけ成長すれば、そんなこともないだろう。
ヨルゲンセン氏がご自慢のカクテルを運んできた。ミミがせがむので、ぼくはモレリに射たれた時のもようを、実際よりもなんでもなさそうに話してやった。
「でも、その男は、どういうわけで、あなたのところへなど行ったのかしら?」ミミが首をかしげた。
「ぼくのほうで教えてもらいたいな。警察も知りたがっているよ」
ギルバートが口をだした。「なにかで読んだんですが、常習犯罪者の無実の罪を破《き》せられると、ずいぶん小さなことでも、普通の人よりずっととり乱すのだそうですね。ほんとうなんでしょうか?」
「そうだろうね」
「それが、そういう連中にふさわしい大きな犯罪を負わされた場合には、また別なんだそうですよ」
「そうだろうね」
ミミが、「ギルの馬鹿ばなしの相手になっちゃ駄目よ。この子の頭のなかは、本で読んだ知識でごったがえしているんだわ。お前、カクテルをもう一ぱいずつみなさんにさしあげたらどう?」
ギルバートは、シェーカーを取りに行った。ノラとヨルゲンセン氏とは、部屋の隅《すみ》でレコードを選んでいる。
「今日、ワイナントからの電報をもらったよ」ぼくは、ミミにそういった。
ミミは、部屋をそっと見廻してから、からだをのり出した。そして、ささやくように、「あの人、一体なにをいってきたの?」
「ぼくに、ウルフ事件をひき受けてくれというんだがね。今日の昼すぎ、フィラデルフィァから発信しているよ」
「あなた、ひき受けるつもり?」ミミは、重々しくため息をついた。
「警察にまかせるよ」ぼくは、肩をすくめてみせた。
ギルバートがシェーカーを持ってもどってきた。ヨルゲンセン氏とノラは、バッハの『小遁走曲』をかけている。ミミは、カクテルを大いそぎで飲みほし、もう一ぱい注がせた。
ギルバートは腰をおろした。「あの――モルヒネ中毒者は、見ればわかるでしょうか」そういう声が震えている。
「まずわからないね。どうして?」
「知りたかったのです。完全に中毒していてもそうでしょうか。
「長いうちには、どこかの悪いのを気づかれるチャンスがあるだろうが、それでも、モルヒネが原因だとは減多にわからないね」
「別のことですが、グロッスは、刄物で刺されると、その時には、押されたように感じるだけで、しばらくたってからはじめて痛くなる、と、そんな風にいっていますが、本当でしょうか。
「そうだよ。鋭い刄物でつよく刺された時にはね。弾丸のときも同じようなもんだな。はじめは、なぐられたような気がするだけだ――小口径の被甲弾だと、それほどにも感じないな。空気に触れると痛くなってくる」
ミミは三杯目のカクテルを乾《ほ》した。「あなた方、あんな目にあったばかりだのに、気味のわるい話をするのね。ギル、ドリーをさがしてごらん。姉さんのお友だちをだれか知っているだろう。電話をおかけ。どうせ、そのうちに帰ってくるだろうけど、心配なのよ」
「あの子は、ぼくのところにいるよ」ぼくがいうと、
「まあ、あなたのところに?」本気で驚いたようだった。
「今日の昼すぎにやってきて、しばらくいていいかといっていたがね」
ミミは、ものわかりのいい母親らしくほほ笑んでみせ、頭をふった。「このごろの若い人たちはねえ――」いいかけてふと微笑を消して、「そう、しばらくいたいんですって?」
ぼくはうなずいた。ギルバートは、ぼくたちの会話には興味を示さず、またなにか質問しようと待ちかまえているようすだった。
ミミがまた微笑を浮べた。「あなたがたにご迷惑をかけたわけだけど、行方《ゆくえ》がわかって、ほっとしたわ。お帰りのころには、機嫌が直っているでしょう。送りとどけて下さいね」そして、ぼくにカクテルを注いでくれながら、「あの子には、とてもご親切にして下さるのね」ぼくは、なにもいわなかった。
ギルバートが口をひらいた。「あの――職業的犯罪者は、普通――」
「ギル、じゃましちゃ駄目。ほんとうに送りとどけて下さるわね」ミミは、朗らからしくしているが所詮《しょせん》、ドロシーのいっていたフランスの女王さまだった。
「ぼくのところにいたってかまわないんだよ。ノラもあの子が気に入っているから」
ミミは指をふってみせた。「だめだめ。あの子を甘やかしてもらいたくないわ。わたしのことだって、ずいぶんでたらめをいったんでしょう」
「ぶたれたとかいっていたよ」
「それごらんなさい」と、とくい顔になって、「やっぱり帰して下さらなきゃだめだわ」ぼくは、カクテルを飲みほした。ミミは、「どう?」とうながす。
「ぼくのほうは、いて貰ったって、一こうかまわないんだよ」
「それは変だわ。あの子は、自分のうちにいなければならないのよ」声が瞼《けわ》しくなってきた。
「まだ、ほんのねんねなんだから、あの子をおだてたりしちゃ困るわ」
「こっちからどうもしやしないさ。あの子のしたいようにさせればいいよ」
ミミの青い眼は、妖艶な怒りに燃《も》えた。「わたしの娘なんだし、なんといったって、まだ一人まえじゃなくてよ。あなたもずいぶんご親切だけど、わたしがそんなことさせたくないのよ。理窟じゃないわ。送り掃して下さらないのなら、どんなにしてでもつれもどしてみせるわ。わたしだって、いやな思いはしたくないんだけど――」わざとのように言葉を途中で切って、からだを前にかがめ――「断然つれもどすわ」
「まさか、ぼくに喧嘩を売ろうっていうのじゃあるまいね」
「脅迫する気?」ミミは、まるで、あなたが好きだわ、といい出すまえみたいに、ぼくの顔をまじまじとみつめた。
「よしきた。ぼくを逮捕させたまえ。誘拐罪と、未成年者教唆罪と、それから――」
ふいに、ミミがはげしい怒り声を出した。「奥さんに、わたしの主人といちゃつくなって、そういってちょうだいよ」みると、ノラは、ヨルゲンセン氏の腕に片手をかけて、次のレコードを選んでいた。二人ともふりかえって呆気にとられたように、ミミをみた。
「ノラ、ヨルゲンセン夫人がおっしゃるんだが、君の手をヨルゲンセン氏の腕からどけさせてくれってさ」
「あら、ごめんなさい」ノラは、にこっと笑った。それから、ぼくをみて、とってつけたような心配顔になり、小学校の子供が暗誦させられる時みたいな口調で、「まあ、ニック、まっ青だわ。きっと無理だったのね。ぶり返すことよ。奥さまには悪いけど、わたし、この人をつれて帰ってやすませたほうがいいと思いますわ。ゆるして下さいますわね」
ミミは、「どうぞ、」といった。だれもかれもが一応礼儀正しくふるまった。ぼくたちは、階下《した》に降りて、タクシーをつかまえた。
「あなたのおしゃべりのせいで、晩ごはんにありつき損《そこ》ねたわ。これからどうなさるの?ホテルに戻って、ドロシーと一しょに食事をなさる?」
ぼくは頭をふった。「ここしばらく、ワイナント一家には用がないよ。マックスに行こう。かたつむりが食べたくなった。
「いいわ。あなたのほう、なにか獲物があって?」
「なんにもない」
ノラは思いだすような顔をした。「あのミミに、あんな美男のご主人があるなんて、ばかにしてるわ」
「あの男、どんなだね?」
「大きなお人形よ、まるで。ばかにしてるわ」
ぼくたちは、晩めしをすませてから、ノーマンディ・ホテルにもどった。ドロシーはいなかった。思っていたとおりだ。ノラは、部屋じゅうさがしてから、帳場に電話をかけた。おき手紙も伝言もない。
「一体どうしたのかしら」
まだ十時にはなっていない。「多分どうもしやしないだろう。それとも、なにかあったのかな。きっと、夜なかの三時ごろ、酔っぱらって、こんどは機関銃小わきにご帰館になるぜ」
「あきれた女の子ね。さあ、着かえてやすみましょう」
十一 女は食わせもの
つぎの日の昼、ノラによび起されたときには、横腹のぐあいも、だいぶよくなっていた。
「あのすてきなお巡りさんが、あなたに会いたいんですって。気分はどう?」
「恐ろしく悪いよ。どうも、ゆうべは、しらふで寝たらしいな」ぼくは、アスタを押しのけて起きあがった。
居間にゆくと、ギルドが、大きな砂色の顔じゅうに笑いを浮べて、酒の入ったグラスを手にしたまま、立ちあがった。
「よう、チヤールズ君、今朝は、すっかり元気のようだね」ぼくは、手をにぎり、「大ぶんいい」とこたえて、かれと一しょに腰をおろした。ギルドは、気のよさそうなしかめ面《つら》をしてみせた。「いずれにしろ、このわしをたぶらかしちゃいけないね」
「たぶらかすって?」
「そうとも。せっかくあんたをゆっくり休ませてやろうと思って、訊問ものばしたのに、こっそり抜けだすなんて手はないよ。まっ先に話をするのがわしでなくちゃ、意味がないだろうか」
「そいつは失敬した。ところで、ワイナントの電報は見たかね」
「うむ……。フィラデルフィアを当らせてはいるがね」
「それから、例のピストルだが、ぼくは――」
ギルドは途中でさえぎって、「あれがピストルなもんか。撃針はつぶれているし、第一|錆《さ》びついてて動きやせん。あれが発射できたら、わしだってローマ法王さまになってみせるね。もうあんながらくたのことで、時間を無駄にするのはよそう」
「いや、それでわかったよ。実は、ある酔っぱらいから取り上げたんだが、どこかの酒場で、十二ドルだして手に入れたといっていた。まさかと思ったが、そういう代物《しろもの》なら、そんなことだろうな」
「さて、男と男の話だが、打ちあけたところ、あんたは、ウルフ事件をひき受けているのか、いないのか?」
「ワイナントの電報、見ただろう?」
「見た。すると、あの男の依頼はひき受けて居らんのだな。これも訊問のうちだぜ」
「ぼくは、今は探偵じゃないんだ」
「それはこのまえ聞いたが、ともかくちゃんと訊問に答えてもらおう」
「よし、ひき受けていない」
ギルドは、しばらく考えて、「じゃあ、べつの訊きかたをしよう。あんたは、こんどの事件に興味をもっているかね?」
「連中を知っているからね。むろん、興味はあるさ」
「それだけなんだな?」
「うん」
「関係することになりそうだとは思わんのだな」
電話のベルが鳴り、ノラが立っていった。
「正直なはなし、ぼくにはわからないよ。無理やりに押しつけられたとして、どんなことになるか、そいつは見当がつかないな」
ギルドはうなずいた。「なるほどね。なんなら、わしの方から、この事件をひき受けないかとすすめてもいいんだがね――むろん、正当な側からだが」
「というと、ワイナント側からじゃなしにってことだね。あいつが殺《や》ったのかな?」
「どうだかね。しかし、そのワイナントが、真犯人の捜査に役だたないともいいきれないよ」
ノラが戸口に現れた。「電話よ、あなたに」
電話は、ハーバート・マコーリーからだった。「チャールズだね。傷はどうだい?」
「ありがとう、元気だ」
「ワイナントからなにかいってきたかね?」
「うん、いってきた」
「こっちには君に電報を打ったからって手紙をよこしたがね。しかし怪我のぐあいでは――」
「いや、歩きまわっとる。今日の午後、事務所にいるんなら、出かけて行くよ」
「そいつはいい。六時までいるよ」
ぼくは、居間にもどった。ノラは、わたしたちには朝ごはんだけど、ご一しょにお昼になさいませんか、と、ギルドを誘《さそ》っていた。ギルドは、それはご親切なことで、と答えた。ぼくは、朝めしのまえに一ぱいやらなきゃならん、といった。ノラは、食事の注文と、酒の仕度に出ていった。そのあとを見送って、ギルドが頭をふった。「すばらしい奥さんだな」ぼくは、わざと厳粛にうなずいてみせた。
「ところで」とギルドは改って、「あんたがこの事件に無理やり引きずりこまれるとしたら、わしとしては、あんたを相手にまわすよりも、いっそのこと、手伝って貰いたいんだ」
「ぼくだって、そのほうがいいよ」
「よし、手を打とう」ギルドは、少しのり出すようにして、「じつはね、ずっと以前、あんたがこの土地で働いていたじぶん、わしは、四丁目三丁目を巡回していたんだよ。おぼえていやしないだろうか」
「おぼえているとも」それは、儀礼上のうそだった。「どこかで見た顔だと思っていたよ。制服をぬぐと、ずいぶん変るもんだな」
「そうだろうね。ところで、わしの確かめたいのは、あんたが、警察の知らない事実をにぎってはいないかということなんだ」
「そんなものはないさ、警察がどこまで突きとめたか、それさえまるっきり知らないんだ。事件以来、マコーリーには会っていないし、新聞で事件の筋道を辿《たど》ってみたことさえないよ」
また電話が鳴った。ノラは、酒をくばってから出ていった。
「わしたちのほうには、たいして秘密はないがね。聴《き》く気があれば、話したっていいよ」
ギルドは、ひと口酒をふくんで、うまい、というようにうなずきながら、「一つだけ訊いておきたいことがあるんだ。ゆうべ、ヨルゲンセン夫人のところで、ワイナントの電報のこと話したかね?」
「話したよ。電報を君に廻したこともね」
「夫人は、なんていってた?」
「別になにもいわなかった。が、話の様子じゃ、奴《やっこ》さんワイナントをさがしているね」
ギルドは、首をすこしまげて、片眼をなかば閉じた。「どうだろう、あの二人、ひょっとすると、共犯じゃないかな」そして、ぼくの答えるまえに片手をあげて、「いいかい、理由とかなんとかむつかしいことはぬきにだよ。ただ訊いてみるだけなんだ」
「そりゃ、気を廻せばきりがない。しかし、二人は共謀していないとみるほうが安全だろうな。そのわけをいえというのかい?」
「まずそんなとこだろうな。だが、いくぶん問題は残る。いつだってそうなんだが。ところで、これから、わしの方で判明したことは残らず話すことにする。あんたも、今後一しょにやって行くからには、ちょっとしたことでも話してくれれば、恩にきるぜ」
「出来るだけやってみるよ」
「そう、十月三日だったかな、ワイナントは、しばらくよその土地へ行く、とマコーリーに告げた。行先とか用件とかはいわずにだ。マコーリーはなにか秘密の発明の仕事だと想像した――後にジュリア・ウルフに訊いて、自分の想像の当ったことを確かめたそうだ。行先のほうは、アディロンダック辺《あた》りだろうと見当をつけたが、それは、ウルフも知らなかった。
「ウルフは、発明の内容まで知っていたのかね?」
ギルドは頭をふった。「よくは知らなかったらしい。マコーリーが、金の調達をたのまれていたことからすると、金のかかる仕事だったようだな。マコーリーに、株券や債券やそのほかの財産をあずけて、いつでも金に換えられるようにしておき、金策でもなんでも一切まかせていったんだ」
「白紙委任状ってわけだな」
「さよう。その金も、現金でなければならんというんだ」
「あの男は、いつも妙なことばかり考えていたよ」
「そんな評判だね。小切手などで、足どりをさぐられたり、名を知られたりしたくないので、そんなことを思いついたらしい。同じ理由《わけ》から、ウルフを連れてゆかなかったし、行くさきさえしらせなかったんだ――もっとも、あの女のいったのが本当だとしてだが――それに、ひげまで生《は》やしてね」ギルドは、ありもしないひげを、左手でしごいてみせた。
「アディロンダックというのは本当だったのかね?」
ギルドは片一方の肩をうごかした。「そこと、フィラデルフィアぐらいしか当てがないので、そういったまでさ、手配はしてあるんだが。どんなものかな、オーストラリアあたりかもしれないよ」
「で、ワイナントの入用だった現金というのは、どのくらいの額なんだね?」
「そいつは、正確なところがわかっている」ギルドは、ポケットから汚らしい紙束《かみたば》を取りだし、なかでも一番よごれた封筒をぬいて、あとはポケットにもどした。「マコーリーと打ち合わせた翌日、自分で、銀行から五千ドル引きだしている。十月二十八日には、マコーリーに頼んで、また五千ドル、十一月六日に、二千五百ドル、十五日に千ドル、三十日に七千五百ドル、十二月六日に千五百ドル、十八日、千ドル、それから、ウルフの殺されるまえの日、二十二日に五千ドル――」
「しめてざっと三万ドルか。大した預金があったもんだね」
「正確にいうと、合計二万八千百ドルだ」ギルドは、封筒をポケットに納めた。「しかし、全部が預金だったわけじゃない。最初の引きだしは別として、それ以後は、マコーリーが、請求されるごとに、なにか売ったらしいな」またポケットをさぐって、「お望みなら、売った物の明細書もあるぜ」
「別にみたくもないな、送金の方法は?」
「金がいるようになると、ウルフに手紙をよこし、マコーリーも、女に現金をわたした。領収書は女がだしている」
「女からワイナントにわたすのは?」
ギルドは頭をふった。「マコーリーの聞いていたのでは、向うから指定してくる場所で会うことにしていたそうだ。マコーリーは、女が実際はワイナントの行く先も知っていたらしいといっている」
「すると、あの女は、殺されたときに、最後の五千ドルをまだ自分の手もとに置いていたかもしれないな」
「だから、その金が目あての殺人ということかもしれないんだ」――ギルドは、灰色のうるんだ眼をほとんどつぶっている――「金をうけ取りにきたワンナントが犯人でないとすれば、だ」
「それとも、他《ほか》の理由であの女を殺した犯人が、ゆきがけの駄賃にぬすんでいったのかな」
「なるほど。ないことじゃないな、死体の発見者が、注進におよぶ前に失敬することだってあるんだ」ギルドは、大きな片手を、さえぎるようにあげた。「いや、むろん、ヨルゲンセン夫人がそんなことを――まさか――誤解しちゃ困るよ――わしは、なにも――」
「それに、夫人はひとりじゃなかったろう?」
「ところが、ほんのしばらくだが、ひとりでいたんだ。部屋の電話が通じなかったので、帳場からかけるといって、管理人がエレヴェーター・ボーイと一しょに階下に降りていったそのあいだなんだ。しかし、わしは別にあの立派なご婦人が、なにしたなんて、そんなことをいうつもりじゃないんだぜ」
「電話はどうして通じなかったんだね?」
そのとき入口のベルが鳴った。「それが、どうしたわけだかわからんのだが、電話には――」
給仕が入ってきて、食卓の仕たくをはじめたので、話はとぎれた。そろって食卓につくと、ギルドはつづけた。「電話のことだが、さっきもいったように、どうしたわけだか、送話口に弾丸が命中していた」
「偶然かな、それとも――」
「それがわかればね。弾丸は、むろん、女を殺したのと同じピルトルから発射されたものだったが、的を外れたのか、わざと射ちこんだのか、そいつはわからん。電話をこわすやりかたとしては少々荒っぽいようだな」
「荒っぽいといえば、ピストルの音を聞いた人はいないのかね。〇・三二口径だから、猟銃ほどのこともないだろうが、それにしても、誰か聞いた人間がありそうなもんだな」
「そうなんだ」ギルドはいまいましげにいう。「今ごろになって、そういわれれば、聞いたような気がするっていうやつが、うんざりするほどいるんだが、その時には、ピストルの音を耳にして駈けつけるとかなんとかしたのは、ひとりもいなかった。聞いたような気がするなんておっしゃる連中をどれだけよせ集めたところで、どうにもなるまいよ」
「いつだって、そんなものさ」
「どうもわからんな」ギルドは、フォークに料理を満載して、口にはこんだ。「なにを話していたんだっけ。そうだ、ワイナントのことだったな。あの男は、でかけるまえに、アパートの部屋を解約して、もち物は倉庫にあずけた。そのもち物もひとわたり当ってみたが、なんの手がかりも出てこない。一番街にあるあの男の仕事場のほうも洗ったが、同じようなことだった。その仕事場は、ワイナントが行方をくらまして以来、閉めたきりになっていて、ウルフが、週に一度か二度、郵便物などの世話をしに、一時間ほど訪ねることにしていただけだ。女の殺されたのちに届いた郵便物のなかにも、手がかりになりそうなものはない。女の部屋にも、なに一つ見つからなかった」そういって、ノラに笑ってみせた。
「こんな話、たいくつで、ご迷惑でしような」
「とんでもない」ノラは眼をまるくした。「面白くてたまりませんのよ」
「ご婦人がたには、なにかこう、もっと色どりのある話がむきますな。魅力ってやつのあるのがね。いやいずれにしろ、ワンナントの行く先は、皆目わからないんだ。金曜日に、マコーリーに電話をよこして、プラザ・ホテルのロビーで、二時に会おうっていってきたが、それもマコーリが遅れていったもんだから、おき手紙を残して、またわからなくなっちゃった」
「金曜日には、マコーリーはここにいたよ。昼めしを食いにきたんだ」
「わしにもそういっていた。マコーリーは、三時ちかくになってから、プラザ・ホテルに行ったが、相手は見当らず、部屋もとってなかった。あたりの連中に、いろいろ人相を説明して聞いたけど、おぼえている人間はいなかった。自分の事務所にも、電話をかけた。なんのしらせもないということだった。ジュリア・ウルフに電話すると、出てきていることさえ知らないとの返事だった。そのまえの日、ウルフに、ワイナントから頼まれた五千ドルをわたしたばかりだったし、あの男の出てきたのも、それを受け取るためだと思っていたので、マコーリーは、ウルフがうそをついているのだと考えた。そのこともいわずに電話を切ってね、そのまま自分の仕事にかかったってわけなんだ」
ギルドは、口に入れたロール・パンを噛むのをやめて、「さあ、そいつは――訊いてみたって、どうってことはないだろうがね。そのうちにわかるさ。マコーリーを疑うようなこともなさそうだから、気にもかけなかったが、一応アリバイを確かめておいてもいいね」
ぼくは頭をふった。「まあ、あの男なら大丈夫だろう、もっとも、ワイナントの弁護士なんだから、口でいうよりもっといろいろ知ってはいるだろうがね」
「そう、弁護士はそのために頼むんだからな。ところで、あの女だが、ジュリア・ウルフというのは、実の名じゃないかもしれないよ。はっきり確かめたわけではないけど、あの女は、中々のくわせものらしい。マコーリーだって知っていたら、あんな大金を扱わせるようなことはしなかったろうな」
「というと、前科もちかね?」
ギルドはうなずいた。「このシチュー、うまいね――ワイナントに雇われる二年ほどまえにあの女は、クリーヴランドで、美人局《つつもたせ》をやって、六ヶ月食ったことがあるんだ。そのときはローダ・ステュアートと名乗っていた」
「ワイナントは、承知のうえだったのだろうか」
「どうだかな。なにしろ、あの男は、ウルフに首ったけだったらしいから、承知していたって、大金を自由に扱わせるぐらいのことはしただろうな。女のほうは、例のシェップ・モレリや、その子分たちと、時々なにかやっていたんだ」
「モレリから、なにかつかめたかね」
「こんどの事件に関しては、なにもなかったよ」ギルドは、口惜《くや》しそうな顔をした。「ほかに二件ばかりあるので、まだ留めてはあるがね」と砂色の眉をよせて、「それにしても、あいつがあんたのところに押しかけたのは、なんのためだったのかな。ああいうがらくた野郎は、どんなことでもやりかねないが、ともかく一応|理由《わけ》が知りたいね」
「ぼくなら、知っていることは洗いざらい申し訳し上げたぜ」
「それはそうだろうが――」とノラに向って、「奥さん、わしたちのモレリの扱いかたが乱暴すぎるなどと思って下すっちゃ困りますよ。ご承知でしょうが、ご婦人がたは――」
「ええ、よくわかりましてよ」ノラは、微笑を浮べながら、ギルドのカップにコーヒーを注《つ》いだ。
「いや、恐縮ですな」
「でも、がらくた野郎って、どういうことなんですの?」
「アヘン中毒なんですがね」
「すると、モレリって――」ノラは、ぼくの顔をみた。
「どうにもならんほど、はまりこんでいるんだよ」
「まあ、なぜ教えて下さらなかったの。わたし、なんでも知りたいのよ」とたんに電話が鳴ったので、ノラは立っていった。
「ところで、あんたは、モレリを告訴するかね? チャールズ君」
「君の方で必要がなければ、そのつもりはないよ」
「あいつも、ここしばらくは、痛い目に合わされるだろうよ」ギルドは頭をふった。
「君は、ウルフのことを話していたんだぜ」
「そうだった。あの女は、調べてみると、頻繁に外泊していたことがわかった――時には、二、三日続けてだ。もっとも、ワイナントと会っていたのかもしれない。モレリは、三ヶ月ばかり、ウルフと会っていないといっているが、反証はまだあがらない。あんたはどう思う?」
「さあね。三ヶ月というと、ワイナントが姿を消してから、ちょうどそのくらいになるね。そこのところには、なにかあるかもしれんし、ないかもしれん」
ノラがもどっきて、ハリスン・クィンからの電話をとりついだ。出てみると、損を承知で売りにだしていた債券が売れたから、代金をわたす、という知らせだった、ぼくは、そ後ドロシー・ワイナントに会ったか、とたずねてみた。するとクィンは、
「君のところで別れてから会わないが、そういえば、ちょうど今日、昼から、パルマ・クラブのカクテル・パーティで会うことになっているよ。あッそうだ、こいつは、君には黙っているようにたのまれたのだっけ。ところで、ニック、例の産金株はどうだい。乗りそこねたら後悔するぜ。議会でもはじまれば、西部の連中が値をあおって儲けさせてくれるよ。こいつは確かだ。それに、やつらがやらなくても、まわりで待ちかねているんだからね。先週話したように、早くも合併の噂がたっているんだ」
「よし、わかった。ドーム鉱業を、十ニドル半で少し買ってくれ」
そこで、クィンは、新聞に出ていたぼくの遭難をふと思いだしたように話しだしたが、大して興味もなさそうだった。
「すると、ここ二、三日、ピンポンも駄目だな」なによりも、それが残念だという口ぶりだ。「時に、今晩の初日の切符を使わないようなら、こっちに廻してもらって――」
「いや、行くつもりだよ。いずれにしても、ご心配ありがとう」
居間にもどると、給仕が食事を下げにきていた。ギルドは、気もちよさそうに、ソファにもたれかかった、ノラの話をきいている。「……それで、毎年、クリスマスのお休みには、よそに出かけることにしてますのよ、主人はわいわいいうし、客はくるし、こっちからも訪問しないわけにはゆかないし、ニックは、そんなことが大嫌いなもんで――」アスタは、隅っこで前足をなめている。
ギルドは、自分の時計をのぞいて、「これはずいぶんおじゃましましたな。こんなつもりじゃなかったのに――」
ぼくは腰をおろした。「おいおい、やっと事件まで辿りついたところだったじゃないか」
「うん、もう少しだったな」ギルドは、またソファにもどってくつろいだ。「二十三日金曜日の午後三時二十分ちょっと前だった。ヨルゲンセン夫人が訪ねてきて、血まみれのウルフを発見したってわけだ。女がどのくらいの時間たおれていたかははっきりしない。その前、二時半ごろ、ヨルゲンセン夫人が電話をかけたときには、電話も通じたし、相手にも変ったようすがなかった。三時ごろ、マコーリーが電話した時にも、異状はなかった」
「ヨルゲンセン夫人の電話は初耳だな」
ギルドは、咳《せき》ばらいをした。「コートランドの交換手を訊問して、二時三十分ごろに夫人の電話をつないだことを確かめたんだ。別にあやしいと思ったわけではないが、願序として、一応しらべたんだがね」
「電話の内容は?」
「ヨルゲンセン夫人の話では、ワイナントの居どころを知りたかったので電話をかけたんだそうだ。ウルフは知らないとこたえたが、夫人は、そんなはずはないと思い、会えば、本当のことをいわせることができると思ったので、今から訪ねていいかときくと、相手は、どうぞと返事をした」ギルドは、ぼくの右のひざに眼をやって、顔をしかめた。「そこで、夫人が出かけていってみると、もうやられていたというわけだ。アパートの住人で、ウルフの部屋に出入りした人間のあるのをおぼえているものはない。しかし、相当な人数でも、その気になれば、他人に見られずに出入りするのは、わけのないことだからね。ピストルは、現場にはなかった。無理に押し入った形跡はない。部屋さがしをしたようすもない。女は、どうみても数百ドルはする指環をはめたままだったし、ハンド・バッグには三十なんドルだか残っていた。アパートの連中は、ワイナントもモレリも、顔は知っていた――しょっちゅう出入りしていたんだな――しばらく二人とも姿を見せなかったとの証言があった。非常階段に出る窓には、かぎがかかっていたし、最近のぼり降りしたあとはなかった」ギルドは手のひらを上にむけてみせて、「まず、そんなところだな」
「指紋はどうだったね?」
「ウルフのと、部屋の掃除にくる連中のとがあっただけだ」
「ウルフの友達を洗ってみたかね」
「いや、あの女には、親しい友達がなかったらしい」
「なんとかいったっけな、女の写真をみて、モレリの友だちだと証言した男、そうだ、ナンハイムはどうだね?」
「あいつほ、女がモレリと一しょのところをみたことがあって、写真がわかっただけなんだ」
「あれは、どういう男だね?」
「あいつは別状ないよ、あの男のことは、すっかりわかっているんだ」
「君、まさか、かくし立てするんじゃあるまいな。こっちにかくさない約束をさせた以上は――」
「ちょっと困るが――実は、警察の手先に使うことのある男なんだがね」
「ああ、そうか」
ギルドは立ち上がった。「残念だが、わしのほうには、いま話したぐらいしかわかっていないんだ。あんたのほうに、それ以外なにかあるのかい?」
「まあ、そんなところだ」
ギルドは、しばらくぼくの顔をまじまじとみつめてから、「本当のところ、この事件をどう思うね?」
「ダイヤの指環といったね? 婚約指環だったのかい?」
「はめている指はくすり指だったが――」しばらく間をおいて、「だが、なぜだね?」
「贈りぬしを突きとめれば、役に立つかもしれないぜ。今日は昼からマコーリーに会うつもりだ。なにかわかったら電話するよ。ワイナントは白のようだが――しかし――」
「だが、しかし、か――」ギルドは、ノラとぼくの手をにぎり、ウィスキーと、昼めしと、手あついもてなしとに感謝しながら立ちさった。
ぼくは、ノラに話しかけた。「君に向うと、どんな男でも、まるで態度がかわってしまうね。君の魅力のせいじゃないとはいわないが、それにしても、いまの男が、あんなお世辞を本気でいったと思ったら、どんだうぬぼれだぜ」
「あらまあ、やっぱりね。お巡りさんを妬《や》いていらっしゃるわ」
十二 怪文書
マコーリーに宛てたクライド・ワイナントの手紙は、それこそ一大文書というべきものだった。発信地は、ペンシルヴェニア州フィラデルフィア、日附は、一九三二年十二月二十六日、味もそっけもない白い紙に、ひどく下手くそなタィプライターで打ってある。
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ハーバート君
ぼくは、ニック・チャールズに電報を打って、可哀そうなジュリア・ウルフの事件につき、君と会うように頼むつもりだ。かれは、君もおぼえていようが、数年前、ぼくのために力を貸してくれたことのある男で、現にニューヨークに滞在している。君は、できるだけのことをして、〔このところ一行、くしゃくしゃに消してあって読みとることができない〕チャールズに犯人の捜査をひき受けさせてもらいたい。費用はどれだけでも払ってやってくれ。
事件に関して、君自身知っていること以外で、チャールズに話してほしいことを、ここに書こう、あの男がこのままを警察に告げるとは思わないが、一番いい手段はかれ自身で承知しているだろうから、絶対に信頼して、一切をかれの自由裁量にゆだねることにしたい。この手紙をそっくりチャールズにみせてくれたほうがいい。用がすんだら、注意してやぶりすてること、この点、くれぐれもよろしくたのむ。
木曜日の晩千ドル受けとるためにジュリアに会ったが、そのときかの女は、ぼくの秘書の仕事をやめさせてほしいといった。からだの具合がわるく、医者のすすめもあり、ちょうど、伯父の土地が自分のものになることにきまったから、そこに転地して休養したいという話だった。今まで、からだの悪いことなど聞いたおぼえがなかったので、本心は逃げだすつもりなんだと思ったが、向こうはそうじゃないといい張った。伯父の死にかけていたことも、知らなかった。シカゴに住むジョーンという伯父なんだそうだ。必要なら、調べればわかるだろう。結局、ジュリアの気もちを変えさせることはできかなかった。しかたなく、月末には自由にさせてやることにした。不安を感じて脅《おび》えているらしくもあったが、自分では、そんなことはないといっていた。はじめは、手離すのがおしい気もしたけれども、せっかく信頼していたのに、いまさらうそをついていると思えば、それほど心残りはしなかった。
以前はともあれ、ジュリアとぼくとは、〔ここのところ、軽く消しており、『現在は』と読めた、〕ここ一年ばかりは、おたがい、主人と雇人以上の関係ではなかった。このことは、とくにチャールズに了解してもらいたい。
つぎに、数年前ぼくたちと一騒動あった例のヴィクター・ローズウォーター――まずかれの所在を突きとめるべきだと思う。あの男は、ぼくの今やっている実験に、自分を欺《だま》してぬすんだと因縁《いんねん》をつけたのだし、ジュリアがぼくの居どころを教えるのを距《こば》んだ場合、腹だちまぎれに殺しもしかねない気ちがいじみた男だからね。
なによりも重要なのは、ぼくの前の妻に、ローズウォーターと交渉があったらしいことだ。さもなければ、ローズウォーターに手つだわせた実験のことを、あの女が知っているわけがない。
最後に、警察には、ぼくが事件について参考になるようなことをなに一つ知らないことを納得させ、ぼくの行方をさぐる手配などしないように頼んでもらいたい。いまの実験がそのためにあかるみに出ることをおそれるのだ。それには、事件を一刻もはやく解決するのが一番いいし、ぼくののぞむのもそれなのだ。
君とは折にふれて文通するつもりだが、そのあいだにも急用があったら、タイムズ紙上に、『アブナー君、承知した、バニー』と広告を出してくれたまえ。すぐに連絡をつける。
チャールズには、ぜひともひき受けてもらわなければならない。かれならローズウォーターの問題をよく知っているし、事件に関係のある連中とも、大がいは知りあいなのだから。
クライド・ミラー・ワイナント
[#ここで字下げ終わり]
ぼくは、手紙をマコーリーの机のうえにおいた。「なかなか意味深長な手紙だな。君は、ローズウォーターとごたごたのあった発明がどういうものだったか、憶えているのかね?」
「結晶構造の変化というようなことだったっけ。調べればわかるよ」マコーリーは、手紙の一枚目を手にとって、顔をしかめた。「女から受けとった金額を千ドルと書いてあるね。ぼくのわたしたのは五千ドルだったぜ。それだけ要《い》るということだったのでね」
「ワイナントには、四千ドルは、ジョーン伯父の財産からの分とでもいったんじゃないのかな」
「そんなことだろうね。しかし、あの女がワイナントをだまそうとは、思いもよらなかったよ。いずれにしろわたした金の残りのゆくえを突きとめなきゃならんな」
「ジュリアが以前クリーヴランドで美人局をやって引っぱられたこと知っているかね?」
「知らんな。そんなことがあったのか」
「警察の話なんだが、ローダ・ステュアートという名でね。ワイナントは、あの女をどこで拾ってきたんだろう?」
マコーリーは頭をふった。「そいつも知らんね、まるっきり」
「あの女の前身とか、親類関係とかは?」
かれはまた頭をふった。
「誰と婚約していたんだね?」
「ほう、婚約などしていたのかい?」
「くすり指にダイヤモンドの指輪《ゆびわ》をはめていたんだが」
「そいつは初耳だ」マコーリーは、眼をとじて考えこんだ。
「そんなものはめていたかな――いや、思いだせないぞ」両腕を机のうえに投げだして、にやりと笑ってみせ、「ところで、この事件をひき受けてもらえるかな」
「さあ、ちょっとね」
「そうだろうな」とマコーリーは片手で手紙にさわりながら、「だが、君は、ぼくと同じようにワイナントの友人だ。どうだろう、気を変えてもらうわけには行かんかな」
「いや、ぼくには――」
「あの男を納得させて、君に会わせたら、なんとかなるだろうか。それ以外に君をうごかす手がないとでも話したら、あるいは――」
「話してみたっていいがね。それにしても、その手紙よりももっと打ちあけた話をきかせてくれるのでなければ、なんにもならんよ」
「というと、君は、ワイナントが犯人かもしれないと思っているんだね」
「どうともいえんな。警察同様、ぼくはなにも知らないんだ。警察にしたって、ワイナントの所在をつきとめたところで、即座に逮捕できるほどの手がかりはつかんでやしないよ」
マコーリーはため息をついた。「偏屈ものの顧問弁護士なんて、面白い役わりじゃないね。納得するようにやってみるが、無理だろうな」
「ワイナントの金まわりは、最近どうなんだね」
「まずまずってところだ。ご多分にもれず、不景気にはいためつけられたし、金属産業の没落した今では、金属精揀法の特許料も、あってないようなものだがね、防音装置の特許からは、今でも五、六万は入ってくるし、そのほかの細々《こまごま》したものも、ちょっとした金になるんだ。君は、まさか、ワイナントの支払能力を心配しているんじゃあるまいね」
「いや、ちょっと考えたことがあるんでね」考えたのは、それと関係のないことだった。「ワイナントには、まえの細君と、子供たち以外に親類はないのかい?」
「姉がひとりいる。アリス・ワイナントというんだが、だいぶ前から――そう、四、五年になるかな――口もきかない仲になっている」
それが、クリスマスの日に、ヨルゲンセン一家が行くつもりで、とうとう行かずにしまったアリス伯母なんだなとぼくは考えた。「どういうわけでなかが悪いんだね?」
「ある新聞のインターヴューで、ワイナントが、ロシアの五ヶ年計画のことを、必ずしも失敗するとは思わないといったことからなんだが、実際には、それほど強い口をきいたわけでもないのさ」
「二人とも相当なもんだな――」ぼくは笑った。
「姉のほうがまだしもましだな。もの覚えの悪い女だよ。弟が盲腸炎の手術をうけた日、ミミと一しょに、タクシーで見舞いにでかける途中、病院の万角から、霊枢車のくるのに出あったんだ。青くなったアリス嬢、ミミの腕をつかんでいうことには、『まあ、あの霊枢車の中のが、あのひと、ほら、あのなんとかって名のひとだったら、どうしましょう、』だとさ、実の弟の名をド忘れしてしまったんだな」
「その姉は、どこに住んでいるんだね?」
「マディスン街だ。電話帳にでている」口ごもりながら、「しかし、ぼくは、なにもその人が――」
「いや、その人に迷惑をかけるつもりじゃないんだがね――」その先をいうまえに、電話が鳴りだした。
マコーリーは、受話器を耳にあてた。「もしもし……ああ、ぼくだ……だれ?……うん、わかった…」口のまわりの筋肉が急に引きしまり、眼が大きくなった。「……ほう、どこで?」しばらく、向うのいうことに耳をかたむけていたが、「うん、いいとも、そうして貰えるかね?」左手くびの時計に眼をやって、「よし、汽車で会おう」と受話器をもどした。「ギルド警部だがね。ペンシルヴェニア州のアレンタウンで、ワイナントが自殺を企てたそうだ」
十三 危険な過激派
パルマ・クラブに行ってみると、ドロシーとクィンとは、バーのところにいた。そばによって「よう、おそろいだね、」と声をかけるまで、二人ともぼくに気がつかなかった。ドロシーの服は、このまえ会った時と同じだった。
かの女は、まずぼくを、それから、クィンをみて、顔をあからめた。「あなたがおっしゃったのね」
「お嬢さん、すねているんだよ」クィンは嬉しそうな顔をした。「例の株、君の分も買ったぜ。もう少し買い増してもいいね。さて、なにを飲む?」
「オールド・ファッションドだ。ドロシー、君は大変なお客さまだな――ひとことも書きのこさずに、こっそり逃げてしまうなんて」
ドロシーは、またぼくの顔をみた。顔の引っかききずは、赤味がうせ、切りきずはほとんどわからなくなり、口もともはれが引いている。「わたし、あなたを信じていたのに――」泣きだしそうな顔になった。
「というのは、どういうこと?」
「ご存じのくせに。ママに招ばれておでかけになった時にだって、わたし、信じていたのよ」
「それがどうしたというのさ?」
クィンが口をだした。「昼からずっとすねどおしなんだ。いじめちゃいけないよ」といいながらドロシーの手に自分の手を重ねて、「いいよ、いいよ、君は――」
「黙っててちょうだいよ」とドロシーは手をひいて、「すっかりわかっていらっしゃるくせに。ノラとおふたりで、ママのまえで、わたしを笑いぐさにしたでしょう、だから――」
どうやら事情がのみこめてきた。「ママの話を本気にしたんだね」ぼくは笑った。「はたちにもなって、まだママのでたらめに丸めこまれるのかなあ。ぼくの帰ったあとで、ママは君に電話をかけたんだろう。ぼくらはね、喧嘩したりなんかして、あんまり長居はしなかったよ」
ドロシーは、うなだれて、悲しそうに、「ああ、わたし、ばかだったわ」と、両腕でぼくにすがりつきながら、「ねえ、ノラにもあやまらなければならないわ。今すぐつれて行って、ほんとうに、わたし、どうかしていたのよ」
「いいとも、時間はいくらでもあるさ。こいつを飲んでからにしよう」
クィンが、「チャールズ、握手だ。君は、この可愛らしいおちびさんに光を取りもどしてくれたよ」自分のグラスを飲みほした。「さあ、ノラにお目どおりに行こうぜ。酒なら、あそこにはかねのいらん上等なのがある」
「あなたは、ここでじっとしていたらいいじゃないの」ドロシーがにらみつけると、クィンは声をあげて笑いながら、頭をふった。「ごめんだよ。ニックなら、仰せの通りじっとしているだろうがね。ぼくはおともするよ。半日ものあいだ、君の鼻声のお相手をつとめたんだもの、こんどはいい目を見させてもらうんだ」
ぼくたちがノーマンディ・ホテルに戻ってみると・ギルバート・ワイナントがきていた。ギルバートは、姉にキッスして、ぼくと手をにぎり、ハリスン・クィンを紹介されると、かれとも握手した。ドロシーは、早速、ノラに向って、熱心に長々と、あまり筋のとおらないいいわけをのべはじめた。
ノラは、それをさえぎって、「もういいわ。許して上げることなどないじゃないの。わたしが怒ったとか、気を悪くしたとか、ニックがそんなことをいったとしたら、それこそ大うそつきだわ。さあ、外套をおぬぎなさいな」
クィンがラジオのスウィッチを入れると、時刻を知らせる鐘の音がした。東部標準時の五時三十一分五秒だった。ノラは、クィンにむかった、「あなたには、バーテンダーをお願いするわ。なにがどこにあるか、ご存じでしょう」それから、ぼくについて浴室に入った。「あの子を、どこで見つけたの?」
「ある酒場でさ。ギルバートはなにしにきたんだね?」
「姉さんに会いにだって、そういってたわ。ゆうべ家に帰らなかったので、まだここにいると思ったんですって」と笑って、「でも、いなかったのを、驚きもしなかったわ。あの子のことを、いつもどこかしらふらふら歩き廻っているんだといってたわ。母親ゆずりで徘徊狂の素質のあるのが面白いんですって。ステッケルによれば、排徊狂患者は、盗癖をあわせ備えているのが普通だということなので、姉さんのまわりに、いろんなものを置きわすれて、ぬすむかどうか確かめようとしたけど、まだその徴侯はないようだって、そんなこといっているのよ」
「大したもんだな。自分の父親のことを、なにか話していたかい?」
「いいえ」
「まだ聞いていないかもしれないね。ワイナントがアレンタウンで自殺を企てたんだ。ギルドとマコーリーとがようすを見に出かけた。ギルバートに話したものか、話さないものか、どうするかな。ミミの指金《さしがね》で来たのじゃないだろうか」
「まさか。でも、あなたが――」
「いや、もしやと思っただけなんだがね。来てから長いのかね?」
「一時間ほどよ。ずいぶん面白い子だわ。中国語を習っていて、知識と信念とについて、本を書いているんですって――いいえ、中国語で書いているわけじゃないのよ――それから、ジャック・オーキーは、とてもすばらしい俳優だって」
「同感だな。君は、酔ってるの?」
「大したことないわ」
居間にもどると、ドロシーとクィンとが、『イディはレディ』の曲で踊っていた。ギルバートは、見ていた雑誌をおいて、ていねいな口ぶりで、お怪我《けが》はいかがですかと、見舞いの言葉をのべた。ぼくが、だんだんいいほうだ、とこたえると、「ぼく、まだ怪我といえるほどの怪我をした経験がないんです。自分で怪我してみようとしましたが、どうもうまくゆきませんでした。気もちが悪くなり、いらいらして、汗をかいただけでした」
「大体そんなものだよ」
「ほんとうですか、もっとどうかなると思っていたんですが」ギルバートは、ぼくのほうにからだを少しずらせた。
「ぼくは、そういった知識がないんです。まだ若いし、一度もそんなことを――あ、チャールズさん、もしお忙しかったり、聞きたくないとお思いなら、ご遠慮なくおっしゃって下さい。いつかまた、じゃまの入らない時に、お話させて頂けると、とてもありがたいと存じます。お訊ねしたいこと、ほかのひとには教えてもらえそうにないことが、山ほどあるんです。それに――」
「ぼくだって、怪しいもんだが、いつでもいいよ、君の好きなときに、聞かせてもらおうじゃないか」
「ほんとうに構わないのですか。しかたなくそうおっしゃるのじゃありませんか」
「そんなことないさ。ただ、君の思っているほどお役に立つかどうかな。君の知りたいことしだいだが」
「じゃあ、人肉|嗜食《ししょく》のことなんですが。アフリカやニュー・ギニアなんかでなく、合衆国にも、そんな例がたくさんあるんでしょうか」
「今はないよ、ぼくの知っているかぎりでは、そんな例はないね」
「すると、以前にはあったのですか」
「どの程度あったか、それは知らないが、この国のすっかり統治されるまでは、ときどきあったものだよ。ちょっと待ちたまえ、実例を読ませてあげよう」本棚までゆき、ノラが古本屋で買ったデュークの『アメリカの著名犯罪』を取りだし、必要なところをさがして、ギルバートにわたした。「三ページか四ページだがね」
[#ここから2字下げ]
アルフレッド・G・パッカー――コロラド山中で、五人の仲間を殺し、所持金をうばって、その死体を食った『食人鬼』
一八七三年の秋、いのち知らずの男ばかり二十人の一隊が、ロッキー山脈のサン・ホワン地区でひと山掘りあてようと、ユタ州のソルト・レーク・シティをあとにした。ゆくてに待ちうける富のすばらしさをきかされていた一行は、希望にみちて、足どりも軽く旅立ったが、幾週間あるきつづけても、眼に入るのは、不毛の荒野と、雪の白い山ばかりなので、次第に意気を失った。進めば進むほど、その土地はソッポを向くように思えた。ついに、飢餓と死とのほかには、なに一つ酬いはなさそうだとわかると、絶望がおそって来た。まさに自暴自棄の淵におちこもうとしたときに、探鉱者たちは、はるか遠くに、インディアンの設営《キャンプ》をみとめた。赤色の肌をした土人たちに、どんな扱いをされるか、それは、まったく見当もつかなかったが、殺されるにしても、飢餓に苦しむよりはましだ、と、運を天にまかせることにした。
キャンプに近づくと、一人のインディァンに出会った。べつに敵意を見せるでもなく、一行を、酋長のウーレイのところまで案内してくれた。驚いたことに、インディアンたちは、行きとどいたもてなしをしてくれ、旅の疲れのすっかり癒えてしまうまで、キャンプにとどまるように、と、しきりにすすめた。結局一行は、ロス・ピノスのインディアン管理駐屯所を目的地として、ふたたび出発することになった。
酋長のウーレイは、なおも旅行を思いとどまらせよう、と、説得につとめ、それに動かされた一行の中の十人は、旅を断念して、ソルト・レイクに帰ることにした。ほかの十人は、あくまで初志をつらぬくというので、ウーレイは、食糧をあたえ、一八五二年に殺されたガニスン中尉の名をとったガニスン河に沿って行くようにすすめた。〔ガニスン中尉の殺害については、モルモン教徒、ジョー・スミスの伝記を参照のこと。〕
アルフレッド・G・パッカーは、この旅をつづける組のリーダー格であったらしい。かれは、その地方の地理にくわしいことを誇り、どこであろうと、わけなく目的地に行きつくことのできる自分の才能に確信を示した。一行が、しばらく旅をつづけてから、パッカーは、リオ・グランデ河の水源近くに、最近富鉱の発見されたことを打ちあけ、その鉱区まで案内しようと申し出た。四人は、ウーレイの指図にしたがうことを主張したが、パッカーは、スワン、ミラー、ヌーン、ベル、それにハンフリの五人を、自分と一しょに、その鉱区まで行くように説き伏せた。ほかの四人は、河に沿って進んだ。
四人組のうち、二人は、飢餓と日射病のために死んだが、あとの二人は、筆舌につくせぬ苦難に堪えて、一八七四年二月、ようやくロス・ピノスの管理駐屯所にたどりついた。その駐屯所の指揮官は、アダムズ将軍であった。不幸な人たちは、手あつくもてなされた。二人は、体力を回復すると、文明世界にもどって行った。
一八七四年三月、アダムズ将軍は、用務のため、デンヴァーに呼び出されて不在だった。ある寒い吹雪《ふぶき》の朝、朝食のテーブルに向っていた駐屯所の人たちは、戸口に、狂気を起したかと思われる一人の男があらわれ、哀れっぽく食物と宿を乞うのにおどろかされた。その男の顔は、おそろましく腫《は》れ上っていたが、そのほかの点では、健康に別状もなさそうだった。しかし、かれの胃は、あたえられた食物を受けつけようとしなかった。その男は、パッカーと名乗り、病気をしている間に、五人の仲間から、ライフル銃を一挺あてがわれただけで見棄てられたと述べた。そのライフル銃は、駐屯所までたずさえて来ていた。
十日の間、駐屯所の人たちの親身な世話になって、パッカーは、サカチェと呼ばれる土地に移った。兄弟の住むペンシルヴェニアまで、働きながら行くつもりだということだった。サカチェでは、パッカーは、ひどく酒を飲み、金には不自由しないように見うけられた。酔っぱらうと、仲間の運命について、いろいろと矛盾した話を口にした。そんなことから、パッカーは、むかしの仲間を、不法な手段で片づけたのではないかと疑われた。
ときを同じくして、デンヴァーから駐屯所への帰途、サカチェに立ち寄ったアダムズ将軍は、オットー・ミアズの家に泊っている間に、パッカーを逮捕し、過去の行動を探査することを勧告された。将軍は、パッカーを、駐屯所に連れもどることにした。その途ちゅう、ダウニ少佐の宿舎に足をとめ、そこで、インディァンの酋長のすすめに従って、旅行を断念した十人の男に会った。パッカーの陳述が偽りであることの立証されたのは、そのときだった。そこで、将軍は、この問題を、徹底的な調査を必要とするものと判断して、パッカーを、駐屯所に護送し、厳重に監禁した。
一八七四年四月二日、狂気のように興奮した二人のインディアンが、手に手に、肉片を振りかざして、駐屯所に駈けこみ、駐屯所の直ぐ外で、『白人の肉』を見つけたと訴えた。雪の上にあり、気侯が、きわめて寒かったので、その肉片は、まだ生々《なまなま》しかった。その証拠品を見せられると、パッカーの顔は、鉛いろになり、低いうなり声を立てて、床に崩れおちた。気つけ薬をあたえられ、正気にかえったパッカーは、慈悲を乞うて、大要次のように陳述した。
「わたしとほかに五人の仲間が、ウーレイのキャンプを出立したときには、わたしたちの恵まれた食糧は、長途の困難な旅行にも足りるだけたっぷりあると思ったのだったが、それは意外に早くなくなり、やがて、わたしたちは、飢餓の危機に直面した。数日の間は、木の根を掘って、その場のしのぎにしたが、そんなものは、栄養の足しにもならず、極度の寒気が、あらゆるけだものや鳥を、かくれ場所に追いこんでいたので、事態は絶望的となった。一行の誰の眼にも、異様な輝きがあらわれ、誰もかれもが、おたがいに疑ぐり深くなった。ある日、わたしは、焚木《たきぎ》を集めに出かけて帰って見ると、一行の中の最年長者、スワンが、頭を割られて殺され、ほかの連中が、死体を切り刻んで、食べようとしているところだった。スワンの二千ドルに及ぶ所持金は、のこった連中で山分けにした。
「この食物も、わずかに数日つづいただけだった。そこで、わたしは、肉のたっぷりついているミラーを、次の犠牲にえらんだらどうかと提案した。ミラーは、木ぎれを拾いあつめているところを、手斧で、頭蓋骨を打ち割られた。次は、ハンフリとヌーンだった。あとに二人だけのこされたわたしとベルとは、なにが起ろうとも、おたがいに助け合い、争うくらいなら、むしろ飢え死にしよう、と、厳粛にちかい合った。ある日、ベルが、『おれは、もうがまんがならん、』と叫ぶなり、飢えた虎のように、わたしにとびかかり、銃で、わたしをなぐりつけようとした。わたしは、その打撃を受け流して、手斧で、相手を殺した。それから、死体の肉を切りとり、それをたずさえて、旅程を進めた。丘の頂上から、この駐屯所をのぞき見たとき、わたしは、残っていた肉片を、投げ棄てた。白状すれば、わたしは、人間の肉の、それもとりわけ胸のまわりの部分の味を好くようになっていたので、それを棄てるのが惜しまれた」
以上のような血なまぐさい物語りを語り終えると、パッカーは、H・ラウターのひきいる一隊を、殺された男たちの遺骸の棄てられた地点に案内することを承諾した。ところが、あるけわしい山地にたどりつくと、パッカーが、見当がつかなくなったというので、その日は、捜索を打ち切り、次の日に出直すことになった。その夜、パッカーとラウターとは、床《とこ》をならべて寝た。夜なかに、パッカーは、ラウターをおそって、殺した上で逃げようとしたが、ねじ伏せられ、いましめられ、捜索隊が、駐屯所に帰ると、治安官《シェリフ》に引きわたされた。
同じ年の六月はじめ、イリノイ州のピオリアから来た、レイノルズという画家が、クリストヴァル湖畔をスケッチして歩いているうちに、|どく人参《ヘムロック》のしげみの中に、五人の男の遺骸を発見した。四人の死体は、ひとところにならべてあったが、五番目の死体は、少し離れ、頭部が失われていた。ベル、スワン、ハンフリ、およびヌーンの死体には、後頭部に、ライフル銑の弾創があり、べつに発見されたミラーの頭部は、ライフル銃でなぐられたらしく、くだけていた。そのかたわらには、台尻の銃身からとれたライフル銃がおいてあった。
死体の模様から、パッカーが、殺人と、人肉嗜食と双万の罪人であることは、歴然としていた。どの死体も、胸の肉が、あまさず肉骨から切りとられているのを見れば、パッカーが、人の胸の肉を好むと告白したのは、たぶん事実だったのだろう。死体の場所から、ほど遠からぬ小屋まで、踏みつけ道ができていた。小屋の中には、毛布そのほか、被害者の所持品が発見され、あらゆる状況から、パッカーが、殺人を犯したのち、しばらくの間、この小屋に暮し、食用の人肉をとりに、たびたび、死体のところまで行ったことが明らかであった。
治安官は、これらの状況を発見すると、五人を殺害した犯罪の容疑者として、パッカーに対する逮捕令状を入手したが、囚人は、治安官の不在中に逃亡した。それ以来、九年後の一八八三年一月二十九日、アダムズ将軍が、ワイオミング州のシェイヌから、一通の手紙を受けとるまで、パッカーの消息はまったく不明であった。その手紙は、ソルト・レークのある探鉱者が、シェイヌの土地で、パッカーと顔を合わせたことを知らせたものだった。その逃亡犯人は、ジョーン・シュワルツェと名乗り、無頼漢の仲間に入って活躍しているらしいということだった。当局の捜査は開始され、パッカーは、一八八三年三月十二日、ララミ郡のシャープレス治安官に逮捕され、同月十七日、ヒンスデール郡のスミス治安官の手で、ソルト・レーク・シティに護送された。
一八七四年三月一日、ヒンスデール郡のイスラエル・スワンを殺害した容疑を訴因とするパッカーの公判は、一八八三年四月三日にはじまった。パッカーを除く全員が、かなりの額の現金を所持していたことが、立証された。被告は、自分の殺したのは、ベル一人であり、それも、正当防衛の行為であるという、以前の供述をくりかえした。四月十三日、陪審は、被告に対して、有罪の評決を下し、死刑に処すべきものと評定した。パッカーは、直ちに、最高裁判所に上告し、死刑執行の延期がみとめられた。その間、被告は、群衆の暴行から保護するために、ガニスン監獄に移された。
一八八五年十月、景高裁判所は、事件の再審をみとめた。同時に、パッカーは、五件の殺人容疑を訴因として、公判を受けることになった。被告は、各訴因について、有罪と評決され、一訴因に対して、八年宛、通算四十年の服役をいいわたされた。パッカーは、一九〇一年一月一日、特赦され、一九〇七年四月二十四日、デンヴァー附近の農場で、死亡した。
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ギルバートが、この記事を読んでいる間、ぼくは、酒をのんだ。ドロシーが、ダンスをやめて、そばにきた。「あなた、あのひとが好き?」といいながら、クィンのほうに、頭をひねってみせる。
「いい男じゃないか」
「そうかも知れないけど、ひどくおばかさんになることがあってよ。あなたは、わたしが、ゆうべどこに泊ったかって、お聞きにならないわね。気になさらないの?」
「ぼくの知ったことじゃないからね」
「でも、あなたのために、少しさぐり出してあげたのよ」
「どんなことを?」
「わたし、アリス伯母さんのところでとまったのよ。伯母さんは、頭のほうはまともだとはいえないけれど、とてもいい人だわ。わたしの父さんから、ママを用心しろって、手紙を貰ったんですって」
「用心しろって、なんのことだろう? どう書いてあったんだね?」
「手紙は見なかったわ。アリス伯母さんと父さんとは、だいぶ以前から絶交しているのよ。父さんのことを共産党だっていうの。ジュリァ・ウルフを殺したのは共産党だし、父さんも共産党に殺されるよって、そういうの。殺されるのは、みんななんだかの秘密を裏切った酬いだと思っているんだわ」
「へえ、あきれたね」
「わたしをとがめたって駄目よ。伯母さんのいったそのままをお話しただけだもの。頭がまともじゃないって、そういったじゃないの」
「伯母さんは、父さんからの手紙にそんなことが書いてあったといったのかい?」
ドロシーは頭をふった。「そうじゃないわよ。手紙に書いてあったのは、用心しろということだけなの。よくはおぼえていないけど、どんなことがあっても、ママと、ママに関係のある人たちを信用するなって、そんなことだったようだわ。ママと関係のある人たちといえば、きっと、わたしたちみんなのことだわね」
「もうほかにおぼえていないかね?」
「だって、伯母さんの話してくれたのは、それっきりだったのよ」
「父さんの手紙、どこから出したんだろう?」
「航空便だったことしか、伯母さんも知らなかったわ。そんなことどうでもいいじゃないかですって」
「伯母さんは、用心しろという父さんの言葉を、まじめにとっているの?」
「父さんのことを、危険きわまる過激派だってその通りの言葉でいったわ。父さんのいうことなど、気にしていなかったわ」
「君は、どのくらいまじめにとるかね?」
ドロシーは、しばらくぼくの顔をみつめ、自分のくちびるを湿してから口をひらいた。「わたし、こう思うんだけど、父さんは――」
ギルバートが、書物を手にして、ぼくたちのところへやってきた。教えてやった物語には失望したようすだった。「ずいぶん面白い話ですが、なんといいますか、これは病理学上例ではないんですね。餓《が》死と人肉|嗜食《ししょく》とどっちをえらぶか、というような問題でした」
「主人公の陳述を信用すればね」
ドロシーが口を出した。「なんのお話?」
「この本に書いてあることさ、」と、ギルバートが答える。「ひとつ、ギルバート君に父さんの手紙のことを話してごらん」ぼくはドロシーをうながした。
ドロシーの話が終ると、ギルバートは、がまんできないというような苦い顔をした。「ばからしいや。ママが危険なものか。発育不全の一症状なだけさ。ぼくたち、だれだって、倫理とか、道徳とか、そんなものからぬけ出しているんだ、ママは、まだそこまで行きついていないだけなんだよ。そりゃあ、ママは危険な女かもしれない。でも、それは、子供がマッチで遊んでいるようなもんだと思うよ」
ノラが、クィンと踊りだした。
「で、君は、父さんのことをどう思う?」
ぼくがいうと、ギルバートは、肩をすぼめて、「ぼくは、小さいじぶんから、父さんに会つたことがないんです。考えてはみたけれど、みんな想像ばかりです。ぼく、父さんが不能者《インポテンツ》かどうかということを知りたいんですが」
「君の父さんは、今日、アレンタウンで自殺を企てたそうだよ」
「うそだわ」ドロシーが大きな声を出した。それが、ひどくはっきり響いたので、クィンとノラとは、踊りをやめてしまった。ドロシーは、顔を弟の顔に押しつけるようにして、
「クリスは、どこへ行っているの?」
ギルバートは、視線を姉からぼくの方へうつしたかと思うと、またいそいでもとにもどした。
「ばかなことをいっちゃいけないよ。クリスは、例のフェントンという女と、どこかへ出かけたんだ」
ドロシーは、弟の言葉が信じられないような顔をした。
「姉さんは、クリスを妬いているんです。そこが、母親ゆずりなんですが」
「君たち、ぼくが君たちと知りあいになったころ、父さんと問題を起していたヴィクター・ローズウォーターという人に会つたことがあるかい?」
ドロシーは頭をふった。ギルバートは訊きかえした。「いいえ、なぜですか?」
「ちょっと思いついたことがあるんでね。ぼくも会つたことはないが、みんなの話を聞くと、その男のようすを少し変えたら、君たちのクリス・ヨルゲンセンそっくりになるんだが」
十四 あばた面
その晩、ノラとラジオ・シティ・ミュージック・ホールの初日に出かけた。一時間もすると、すっかりたんのうしてしまって、そとに出た。「どこへ行くの?」とノラが訊く。
「どこでもいいんだがね。モレリのいっていたピッグアィアン・クラブを探険してみようか。スタシー・パークは、君の気に入るよ。金庫やぶりが本職の男なんだ。乱暴をはたらいて、ヘイガズタウンの刑務所に三十日間ほうりこまれているうちに、そこの金庫をやぶったって、自分でそういっている」
「そこへ行きましょうよ」
四十九丁目まで行き、タクシーの運転手二人、新聞売子二人、それから、巡査にまでたずねまわったあげく、やっとのことで目あての店をみつけだした。玄関番は、パークなんて知らん名だが見てこよう、と、そんな口のききかたをした。スタシーが自分で出てきた。「どうしたい、ニック。まあ、入りたまえ」
スタシーは、がっしりした中背の男。少し肥りぎみだが、肉はしまっている。五十には届いているはずなのに、十は若く見える。大してゆたかでもない平凡な色の髪をもった顔は、幅がひろく、あばたをちりばめて、陽気な醜男《ぶおとこ》ぶりをみせている。禿げあがっているくせに、額は大してひろくもみえない。深いバスの声。ぼくたちは手をにぎり合い、ノラを紹介した。
「奥さんか。なるほどなるほど。まあいいやな。シャンパンを抜くかね。それとも、一つなぐりっこでもやるか」ぼくは、なぐりっこはごめんだと答えて、中へ入った。酒場はうす汚いが、それがかえってくつろいだ感じをあたえている。中途はんぱな時間なので、客は三人しかいない。片すみのテーブルに落ちつくと、スタシーは、どこそこの棚のなん番目の瓶といって、給仕に酒をいいつけた。それから、ぼくをじろじろと眺めてうなずいた。
「結婚して立派になったよ」あごを引っかきながら、「ずいぶん会わなかったな」
「そう、ずいぶんになるね」
スタシーは、ノラに向って、「こいつが、おれを河上《かわかみ》の別荘に送りこみやがってね――」
「いい探偵でしたこと?」
「みんなそういうがね、どんなものかな」
額とおぼしきあたりにしわをよせながら、「おれの時のことは、まあ偶然といっていいよ。こっちからつかまってやったようなもんさ」
ぼくはたずねてみた。「なんだってまた、あのモレリとかいうならず者を、ぼくのところによこしたんだね?」
「うむ、渡り者というやつは、ヒステリーみたいなところがあるね。やつがあんなことをやらかそうとは思わなかったよ。ウルフ殺しの嫌疑をかけられそうなのを、気にやんでいたんだ。君がおみこしを上げるって、新聞で見たもんだからおれたち、やつに入れ智恵してやった。『おまは相談あいてがほしいんだろう。ニックは、話のわかる男だよ』ってね、で、君はどんなことをしたんだね。しかめっ面《つら》でもしてみせたのか?」
「逃げ場を失ったもんで、ぼくに食ってかかったんだがね。どうしてぼくのいる場所を知ったのだろう」
「仲間というものがあるさ。君だって、かくれていたわけじゃあるまい」
「やってきてから、一週間にしかならんし、新聞にも、宿のことは書いてないぜ、」
「なるほど――住居はどこだな?」
「サンフランシスコさ。それにしても、どうして宿がわかったのかな」
「だいぶ長いこと行かんが、サンフランシスコはすばらしい土地だな。宿のことは、おれからいうわけには行かんよ。本人にきくんだな」
「ぼくのところによこしたのは君だろう?」
「うん、まあそうだな。だが、君の提灯もちをつとめてやったぜ」
「ありがたく思うよ」
「やつがあんなことをやらかすとは思わなかったな。いずれにしろ、君は大した怪我じゃなかったのだろう?」
「でも、いい気もちはしなかったぜ。それに――」給仕がシャンパンを持ってきたので、話はとぎれた。ぼくたちは、シャンパンを味わってみて、いい酒だとほめた。実をいえば、飲めた代物《しろもの》ではなかったのだが。
「ところで、モレリは黒だろうか」
「絶対にノーだ」、スタシーは、確信をこめて頭をふった。「あいつなら、人にたのまれて射つぐらいのことはやりかねないよ」
「そうさな――どうも渡り者というやつは、ヒステリーみたいだ。だが、あの日は、やつ、ずっとこの辺にいたぜ」
「ずっとかね」
「そうさ。誓ってもいい。二階では、男も女もわいわい騒いでいた。やつが一人で出て行ったりしなかったのは確かだ。証人だっている」
「あいつは、なにを気にやんだんだね?」
「そんなこと、おれの知ったことかよ。訊くわけにも行くまいじゃないか。渡り者ってやつは――」
「ヒステリーみたいだってね。だれか仲間を女のところにやりはしなかったかな」
「君は、モレリを誤解しているな。ウルフって女は、おれも知っていたよ。やつと一しょにここへも来たもんだ。二人の仲は、ただのあそび友だちさ。やつだって、女を殺さにやならんほど夢中だったわけじゃないよ、正直な話」
「女も飲んだかね」
「知らんな。時々はやっているのを見かけたが、つき合いぐらいのことだったかもしれん」
「あの女、ほかのだれかと達れだって、この辺に現れたことがあるかね」
「知るもんか。ナンハイムとかいう青二才野郎が、あの女を張りにきていたが、結局、ものにできなかったようだな」
「なるほど、その辺からぼくの宿をきいたんだな」
「ばかいうなよ。やつにしてみれば、張り倒したいほどの相手だったのさ。モレリが女の知り合いだってことばらしたのは、その野郎なんだ。君のお友だちかね」
ぼくは、ちょっと考えてから答えた。「会ったことはないが、警察の手先をやっている男だそうだ」
「ううむ、ありがたい」
「なにがありがたいんだね。まだなにもいわないぜ」
「いいんだ、いいんだ。こんどは、こっちから訊くぜ、なあに、ウルフ事件のことなんだがね。ワイナントとかいう男が殺ったのじゃないかな」
「そう思っているのが、かなりあるね。だが、ぼくは、無罪《しろ》のほうに、君の倍だけ賭けるよ」
スタシーは頭をふって、「おれは、君の商売ごとで賭けるのはごめんだよ」といったが、すぐ顔を明かるめて、「だが、うちあけ話、なんならちょっとぐらい賭けたっていいぜ。そら、君にしょっぴかれた時な、あれはさっきもいったように捕まってやったんだが、もう一度君にあんなことがやれるかなって、しょっちゅう考えているんだ。どうだい、いつか、君のいい時に、――」
「だめだ。すっかり調子が狂ってしまったよ」ぼくは笑った。
「おれだって、豚みたいにふとったぜ」
「あの時は、けがの功名さ、君がどうかしてたんだ」
「こんどなら、おれもわけなくやられてしまうだろうな」一種の感がいをこめて、「しかし、君は、あれで運をつかんだようなものだな。そうか、君が気のりしないとすると――さあ、もう一ぱい注ごうじゃないか」
ノラが、はや目に帰りたいというので、十一時をすこし廻ったころ、スタシーとかれのピッグアイアン・クラブとに別れを告げた。
「あの人のお話、半分はなんだかわからなかったわ」ノラは、スタシーのことを、驚くべき人物だと思っているらしかった。
「あんなやつなのさ」ぼくは笑った。
「あなたは、探偵をやめたとおっしゃらなかったのね」
「あいつ、ぼくの尻尾をつかもうとしているんだと思ったらしいね。ああいうつまらん人間には、むかし探偵だったものが、いつまでたっても探偵に見えるんだ。そうすると、こっちも、しらをきると思われるよりは、本当にしらをきったほうがよかったな。たばこあるかい。あいつ、心からぼくを信頼しているんだよ」
「ワイナントは無罪だって、そうおっしゃったわね。ほんとうなの?」
「知らないよ。そんなことだろうと思っているんだがね」
ノーマンディ・ホテルには、アレンタウンに出張したマコーリーからの電報が待っていた。
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ワイナントジサツミスイノケン、ヒトチガイ。
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十五 白に賭ける
翌日の朝、速記者を一人たのんで、たまっていた郵便物をあらかた片づけ、サンフランシスコに電話をかけて、製材所関係の仕事のことで弁護士とうちあわせ、一時間ほどかかった所得税の申告を軽くする案をねり、それやこれやと、二時ごろきりをつけるまで、多忙な実業家としてまず高潔な快適な気分を味わってから、ぼくはノラと昼めしにでかけた。昼から、ノラはブリッジの約束があった。ぼくは、朝のうちに電話で話しておいたギルド警部に会いに行った。
手をにぎり合って、椅子にくつろぐと、ぼくはすぐ切りだした。
「それじゃあ、自殺のしらせはでたらめだったんだね」
「そうなんだ」と、ギルドはあきれた様子をしてみせながら、
「まるで似てもつかぬ他人だったよ。フィラデルフィアの警察に、ワイナントが電報をよこしたことを知らせてね、人相書をまわして手配したものだから、それ以来、ペンシルヴェニア州のあっち半分では、ひげのあるやせ男が一人残らずワイナントだってことになっちゃったんだ。問題の男は、仕事にあぶれたバーローという大工さ、黒人にホールド・アップをやられてね、一発食って、まだ口もきけないようなんだ」
「射ったほうもワイナントと間ちがえたのじゃないかな」
「そんなことかもしれない。――あの男を殺してなにかの役に立つとすればだが、どうかな」
「なんともいえないね。マコーリーから、ワイナントの手紙のことを聞いたかね」
「内容は聞かなかったが」
ぼくは、ローズウォーターのことも一しょに話してやった。
「そいつは面白い」と、ギルドは大きくうなずいた。
ドロシーに聞いたアリス伯母あての手紙のことも話した。
「ずいぶん方々に手紙を書くじゃないか」
「ぼくもそう思ったよ」それからまた、ヴィクター・ローズウォーターの人相書が、クリスチャン・ヨルゲンセンによく似ていることを話した。
「いいことに気がつくね。どんどん話してくれ」
「いや、こっちの獲物は、ざっとそんなところだ」
ギルドは椅子にかけたままからだをそらし、うす灰色の眼を天井にむけた。「あんたの話でこっちにも仕事ができたわい」
「アレンタウンの一件は、〇・三二口径だったかね」だしぬけにぼくがきくと、ギルドは、好奇の眼でぼくの顔をしばらくながめてから、頭をふった。
「○・四四口径だったよ。なにか思い当ることでもあるかね」
「いや、頭の中で筋を追ってみているだけさ」
「なるほどね」ギルドは、また天井を見あげた。しぼらくすると、なにか別のことを考えていたような口をきいた。「あんたは、マコーリーのアリバイのことをいっていたね。あれは申しぶんなしだよ。ワイナントとの約束におくれたんだが、三時五分から二十分まで、つまり事件のあった時間には、五十七丁目のヘルマンという男の事務所にいたことがわかった」
「三時五分というのは?」
「そうか、あんたは知らんわけだ。一番街のカレスという洗濯屋が、あの日の三時五分に、ウルフの部屋にご用ききに行って、洗濯物はなかったが、女が近く引越すかもしれないと話したのをきいているんだ。だから、事件は、三時五分から三時二十分までのあいだということになった。まさか、本気でマコーリーを疑っているんじゃあるまいね」
「だれだって、一応は疑わしいよ。そういう君は、三時五分から二十分までどこにいたね?」
ギルドは笑った。「わしは、どうもアリバイのないひとりの人間らしいんだ。映画を観ていたがね」
「ほかの連中は大丈夫なんだな」
ギルドはうなずいた。「ヨルゲンセンは、細君と一しょに家をでかけ――三時五分まえごろだ――自分だけこっそり西七十三丁目に廻って、オルガ・フェントンという女のところに五時までいた――こいつは、奥がたには黙っている約束だがね。細君のほうの行動は、ご存じの通りだ。娘は親たちの出かける時には着がえをしていたが、三時十五分すぎ、タクシーでまっすぐにベルグドーフ・グッドマンの店へ行った。息子のほうは、午後ずっと図書館にいた――そういえば、あの子はまったく妙ちきりんな本を読むね――モレリは四十何丁目かの酒場にいた」笑いながら、「あんたはどこにいたかね?」
「ぼくのアリバイは、いざという時まで預っておこう。どれもこれも、まずまずという程度だがアリバイというやつは、大がいそんなものさ。ナンハイムはどうだね?」
ギルドは、びっくりしたようすで、「なにを思いついたんだい?」
「ウルフに野心があったと聞いたんでね」
「どこで聞いた?」
「とにかく聞いたのさ」
「たしかな筋だというんだね?」ギルドは顔をしかめた。
「そうさ」
「まったく、あいつは当ってみていい人間のひとりだ。しかし、あんたの考えはどうだな? ワイナントじゃなかろうか」
「無罪のほうに、君の倍だけ賭けるよ」ぼくは、スタシーの是と同じ賭をもちだした。
ギルドは、口をつぐんだまま額にしわをよせて、しばらくぼくの顔を見つめた。「なるほど。一体あんたの星はどの辺なんだね?」
「まだそこまでは行っていないのさ。ワイナントじゃないとはいわないよ。あの男を黒とするような決め手が一つもないというだけだ」
「それで、二対一に賭けるのか。星としないわけは?」
「お望みなら、勘といってもいい。しかし――」
「そんなことは、どうでもいいよ。それよりも、わしは、あんたのことを腕ききの探偵と思えばこそ、相談もするんだが、あんたの意見をききたいのさ」
「その前に質問があるんだ。たとえば、エレヴェーター・ボーイが、ヨルゲンセン夫人をウルフの階でおろしてから、つぎにうめき声が聞えるといって呼ばれるまで、どのくらい時間があったかというようなことをね」
ギルドは口をすぼめた。「あんたは、あの細君がやったのかも知れないと――」あとは口の中で消えてしまった。
「かも知れない、とは思うよ。ぼくの知りたいのは、ナンハイムのアリバイ、ワイナントの手紙にあったローズウォーターの件の解答、女がワイナントにわたしたらしい千ドルと、マコーリーの渡した金との差四千ドルのゆくえ、それから、婚約指環の贈りぬし、そんなことなんだ」
「こっちは、できるだけのことはやっているんだがね。わしのほうでも、ワイナントが無罪なら、なぜ出頭しないかということを、今すぐにでも知りたいよ」
「うっかり出てくれば、またヨルゲンセン夫人につかまるという懸念《けねん》もあるんだろうな」そういいかけたが、ふと思いついて、「マコーリーは、ワイナントの弁護士なんだが、君はまさか、アレンタウンの男が人ちがいだというかれの言葉を、そのまま鵜のみにしたのじゃなかろうね」
「そんなことはない。ワイナントより若い男だったよ。頭には一すじの白髪《しらが》もなく、染めているわけでもないし、写真とくらべたって、まるっきり他人だった」と、かれは十分の確信があるらしい。「これから一時間ほどつきあってもいたいが、ほかに用でもあるかい」
「いや、別に」
「ありがたい」ギルドは立ちあがった。「これからちょっと担当の連中と話してくるが、それがすんだら、一しょに行ってもらうところがあるんだ。いいね」
「いいとも」
ギルドは部屋を出ていった。
紙屑かごをのぞくと、『タイムズ』紙がつっこんである。拾いあげて、三行広告の欄をひろげてみた。マコーリーの広告があった。『アブナー君、承知した、バニー』
ギルドが戻ってきた。ぼくはたずねた。「ワイナントの仕事場で働いていた助手の連中は、しらべ上げたかね」
「ははあん。だが、あの連中は、ワイナントが姿をくらました週の終りで、みんな――といっても二人だが――おはらい箱になってね、それっきり雇いぬしには会っていないんだから、なにも知りやしないよ」
「仕事場では、おしまいごろなにをやっていたんだね」
「ペンキのようなもんだった――パーマネント・グリーンとかいってたっけ。必要ならしらべさせる」
「その必要もなさそうだな。大きな場所だったのか」
「よくできていたようだな。いやに仕事場にこだわるね」
「仕事場にかぎらんさ」
「なるほど。じゃあ、ひとっぱしり行ってみようじゃないか」
十六 逃亡
ぼくはギルドと連れだって役所を出かけた。
「まず、ナンハイム殿にお目にかかろう。家にいるはずだ。電話するまでじっとしていろって、いっといたからね」歩きながら、ギルドがいった。
ナンハイム殿のおすまいは、六番街の、高架線のやかましい、じめじめとしてうす暗い、妙なにおいのする建物の四階にあった。ノックすると部屋のなかで、あわただしくうごきまわる気配がして、「だれだ」と鼻にかかった男のどなり声が聞えた。
「ジョーンだ」とギルドが応じた。
ドアが急にあいて、中からあらわれたのは、肌シャツに、青いパンツに、黒の絹靴下だけという風態《ふうてい》の、血色のわるい、小がらな三十五、六の男だった。なにかにおびえているようすで、
「旦那がこようとは思わなかった。電話をかけると聞いていたんでね」顔の中心によりすぎたような黒い小さな眼。うすっぺらでしまりのない、人なみはずれて大きな口。妙にぐにゃぐにゃした感じの、長くたれさがった鼻。
ギルドにうながされて、なかに入った。左手のあけっぱなしのドアから、片づけないままのベッドがみえる。居間は、ほこりっぽく、衣類や新聞紙や、よごれた皿などがちらかっている。右手の引っこんだところに、流し台とストーブとがある。そこに、沸騰する小鍋を手にした女が立っていた。骨ぐみの大きな、ふとった、赤髪の女。品《ひん》わるくだらしない、その頽《くず》れた感じが、美しいといえぬこともない。としは二十七、八か。しわくちゃの桃色のキモノをはおり、すりへった桃色のうわ靴をはいて――すねた顔でぼくたちを見つめている。ギルドは、ぼくをナンハイムに紹介するでもなく、女には一顧だにあたえなかった。ソファから邪魔になる衣類をおしのけ、腰をおろす場所をつくった。
「すわろうじゃないか」
ぼくも、ゆり椅子から新聞をのけて、そこに腰をかけた。ギルドが帽子をとらないので、こっちもそのまねをする。ナンハイムは、テーブルのほうへ行った。そこには、ウィスキーの二インチほど残ったパイント瓶と、グラスが二つ三つのっている。「一ぱいやるかね」
ギルドは顔をしかめた。「げてものはごめんだよ。さっそくだが、君がウルフのことを、顔を知っているだけだといったのは、どういうわけなんだな?」
「どういうわけって、その通りなんでさ。まったく正直のところ――」ナンハイムは、ちらッちらッと二度ばかりぼくの顔をみた。「出会えば、ようとか、今日はとか、そんなことぐらいいったかも知れんが、それっきりなんだ。うそじゃねえ」
部屋のすみの女が、あざけるような笑い声をあげた。ナンハイムがからだをよじって、女にどなった。「よけいな口をきいてみろ。歯を引っこぬくぞ」声は怒りにふるえた。女は、手にしていた鍋を、いきなりナンハイムめがけて投げつけた。それは、的をはずれて壁にぶつかり脂《あぶら》とたまごの黄味とがそこらじゅうにしみをつけた。ナンハイムは、女に飛びかかろうとした。ぼくは腰かけたまま足をのばした。みごとに引っくりかえった。それよりもはやく、女はほうちょうをつかんでいた。
「やめろ、」ギルドが大きな声をだした。「おれたちは、きさまに話があってやってきたんだぞ。どたばた喜劇はたくさんだ。しゃんとしろ」
ナンハイムはのろくさと立ちあがった。「この阿魔《あま》、酔っぱらいやがると、おれをかっとさせるんだ」と右手をうごかしてみて、「手くびをくじいたようだ」女は、さっと寝室に入ってドアをしめた。
「きさまが、よその女を追っかけまわすのをやめさえすれば、そんな目に会わずにすむのさ」とギルド。
「というのは、なんのことだね。旦那」ナンハイムは、無邪気な、しかし、痛いところにさわられたような顔をした。
「ジュリア・ウルフのことさ」
「うそだ。そんなデマをとばすやつは、くそ――」今度は、本気で怒った。
ギルドがぼくに話しかけたので、その言葉はとぎれた。「こいつに一発食わせたいなら、今だぜ。とめだてはしないよ。どっちみち、こいつは弱虫だ」
ナンハイムは、両手をつき出したまま、ぼくのほうを向いた。「あんたのことをいったんじゃない。だれか知らんが誤解したやつがいるんだ。その野郎を――」
ギルドがまたさえぎった。「きさまだって、あっちの女をものにしていたら、今のあばずれなど、よせつけもしないだろうが」
ナンハイムは、下くちびるを湿し、おそるおそる寝室の気配をうかがいながら、低い声で、「むろん、あっちは上玉だったからな。おれもまさか、はねつけはしなかったろうさ」
「一度もあの女に手を出そうとしたことはなかったのか」
ナンハイムは、ちょっとためらってから、肩をゆすってみせた。「旦那だって、まんざら経験がねえわけでもあるめえが、男が一度ほれこんだら、大がいのこたァやってみるさ」
ギルドは、苦い顔をして、ナンハイムをにらみつけた。「しょっぱなからそういえば、手数がかからなかったんだ。あの女の殺られた時、きさまはどこにいた?」
相手は、釘をうちこまれたようにとび上がった。「まさか、旦那、おれを怪しいと思っているんじゃなかろうな。おれにそんなわけがあるもんか」
「どこにいたんだ?」
ナンハイムのしまりのないくちびるは、神経質にひきつれた。「なん日だっけかな――あの女の――」
とつぜん寝室のドアがパッとあいて、女がスーツケースを提げて出てきた。外出着にきかえている。
「ミリアム!」と、ナンハイムが呼びとめた。
女は、ぼんやりと男を見た。「わたしゃ、ペテン師が嫌いよ。その中でもスパイをやるペテン師なんか、まっ平ごめんだわ」いいながら廊下のドアのほうへ行きかける。
「おい、きさまはどこにいたんだ?」ギルドは、男の腕をつかんだ。
「ミリアム、ゆかんでくれ。どんなことでもするからゆかんでくれ」ナンハイムの大声をあとに、女はそとに出てドアをしめた。
「はなしてくれ」男はせがんだ。「あいつがいないと、おれはやって行けねえんだ。連れもどしてからなんでも話すよ。はなしてくれ、後生だから」
「ばか、すわれ」ギルドは、男を椅子におしこんだ。「女の殺られたとき、どこにいたんだ?」
ナンハイムは、顔に両手をあてて泣きだした。
「ぐずぐずすると、張りたおすぞ。トンチキめ」
ぼくは、グラスにウィスキーを注いで、ナンハイムにもたせてやった。
かれは礼をいって、ウィスキーを一口飲んだが、すぐ咳こんだ。汚れたハンカチーフを引っぱりだして、顔をなでまわしながら、「そんな、いきなり思いだせといったって無理だよ、旦那。射的場にいたんだっけかな。いや、ここにいたかも知れん。ミリアムならおぼえているよ。連れもどすから、行かせてくれ」
「よし、思いだせなくて、豚箱にぶちこまれてもいいのか」
「ちょっと待ってくれ。思いだすよ。いいのがれなんかしやしねえ。旦那とは、いつだってさっぱりしていたじゃねえか。そんなこといったって、なあ、この手くびを見てくれよ」と、はれ上がった右の手くびをさし出してみせた「ちょっと待ってくれ」また両手を顔にあてる。ギルドが、ぼくに目くばせして、ナンハイムの記憶のはたらきだすのを待つことにした。
やがて、突然、かれは顔から両手をはなして笑いだした。
「なあんだ。馬鹿らしい。もう少し問いつめられていたら、すぐにも思いだせたのに。あの日、おれは――待てよ、見せるものがある」いいすてたまま寝室に入った。
五分ばかりたった。ギルドがどなった。「おい、はやくしろ。ひと晩待たせる気か」返答がない。踏みこんでみると、寝室はもぬけのからだった。浴室もからっぽだった。窓があいている。そこに非常階段があった。
ぼくは、黙ったまま、つとめて平静をよそおっていた。ギルドは、帽子をうしろへずらして、舌うちをした。「チッ、こんなことにならなきゃいいがと思ったよ」
ギルドが電話をかけに居間へ行っているあいだに、ひき出しや戸棚をさがしてみたが、なにも出てこなかった。
ギルドがもどってきた。「大丈夫、見つかるよ。情報があったぜ。ヨルゲンセンすなわちローズウオーターだ」
「だれに聞いたんだ」
「例のオルガ・フェントンから聞き出したんだ。アリバイはくずれなかったそうだ。ひとつ、その女を自分で洗ってみよう。一しょにくるかい」
ぼくは、時計をのぞいてみた。「ゆきたいが、少しおそい。ヨルゲンセンは、まだあげていないのかね」
「手配はしたよ」ギルドは、しげしげとぼくの顔をながめながら、「あの娘にも、なにかしゃべらせなきゃならんな」
ぼくは、にやりとしてみせた。「こうなると、だれが犯人だと思うかね」
「わしは、そんなことにくよくよしないさ。しめあげる道具さえそろやあ、あっというまに犯人をあげてみせるよ」
そとに出ると、ギルドは、一ぶしじゅうを知らせると約束して、手をにぎった。行きかけてから引きかえし、くれぐれもノラによろしくといった。
十七 ミミの電語
ホテルにもどったぼくは、ノラにギルドのことばを伝え、その日のニュースを話してやった。
「あなたにも伝言があってよ。ギルバート・ワイナントがきてね、あなたが留守だったので、がっかりしていたわ。なんだか、『とっても大事な』お話があるんだって、そういってくれとたのんで帰ったのよ」
「きっと、ヨルゲンセンに母親からの遺伝のあることでも発見したんだろう」
「あなたは、ヨルゲンセンを犯人だと思って?」
「ぼくには、見当がついたような気がしていたんだが、こうなると、なにもかもごちゃごちゃで想像するよりしようがないね」
「その想像はどう?」
「犯人はね、ミミ・ヨルゲンセンか、ワイナントか、ナンハウムか、ギルバートか、アリス伯母さんか、君か、ぼくか、ギルドか、ひよっとすると、スタシーかもしれない。どうだい、カクテルでも作らないか」
ノラはカクテルをふった。二杯目か三杯目をやっている時、電話が鳴った。ノラが出てもどってきた。「あなたのお友だちのミミよ。お話があるんですって」
「もしもし、ミミかい」ぼくが出ると、
「この間の晩は、ずいぶん失礼したわね。わたし、なにがなんだかわからなくなって、お里《さと》を出しちゃったのね。ごめんなさいな」ミミは、追いつかれるのを恐れるみたいに、猛烈な早口でまくしたてた。
「なあに、大したこともなかったよ」
こんどは、ゆっくりと熱をこめて、「わたし、お目にかかれないかしら。なんだか、大変なことになりそうなのよ。どうしていいのか、皆目わからないの」
「一体なにごとだね」
「電話じゃいえないわ。でも、あなたなら、どうすればいいか教えてくださるわね。だれかに助けてもらわなきゃ、わたし、駄目なのよ。こっちにいらして下さらないかしら」
「今すぐに?」
「ええ、お願いだわ」
「わかった、ゆくよ」ぼくは居間にもどった。「これから、ミミに会ってくる。なんだかひどく弱っているらしい」
ノラは笑いだした。「しっかりなさいよ。あのひと恐縮していたでしょう? わたしにもあやまっていたわ」
「うん、まるで立板《たていた》に水だったよ。ドロシーは家に帰ったかな。それともまたアリス伯母ちゃんのところかな」
「ギルバートの話では、伯母ちゃんのところらしいわ。遅くなるの?」
「用がすめばすぐ帰ってくるさ。もしかすると、ヨルゲンセンがあげられて、もらい下げをなんとかしてくれって、そんな話だよ」
「あの人をどうしようっていうのかしら、ウルフ殺しの犯人じゃあるまいし――」
「旧悪がばれたんじゃないかな。ありがちなことさ」ぼくは飲むのをやめて、ノラと、それから自分の心とにたずねてみた。「ヨルゲンセンとナンハイムとが知りあいだったってことはないかな」しばらく考えてみたが、あり得ないことではないという結論しかでてこなかった。
「じゃあ、行ってくるよ」ぼくはひとりでホテルを出た。
十八 思わせぶり
ミミは、両手をひろげてむかえた。「ニック、許して下さって、とても嬉しいわ。わたし、月曜日の晩には、どうかしていたのよ。せっかくよくして下さったのにね」
「そんなこと、もういいじゃないか」
ミミの顔は、いつになく赤味がさして、筋肉が引きしまっているので、としよりも若くみえる。青い眼はぎらぎらと輝いている。手が冷い。なぜこんなに興奮しているのかわからない。
「奥さんは、とてもやさしくして下さったわね」
「もういいよ」
「ね、ニック、殺人犯の証拠物件をかくしたら、どんな目にあわされるの?」
「共犯の罪に問われるかも知れないよ」
「考えなおして、その証拠を自分からさしだしたら?」
「まず容赦して貰えるだろうが、そう行かないこともあるな」
ミミは、あたりにひとのいないことを確かめるように、部屋のなかを見まわした。「犯人はクライドなのよ。わたし、その証拠をかくしたの。どんな目に会わされるかしら?」
「すぐにとどけ出れば、せいぜいどなられるぐらいですむさ。とにかく君の夫だった男なんだから、それをかばったところで、陪審員も大して咎《とが》めやしないだろう。ほかに動機があったと思わせちゃ駄目だがね」
「あなたは、どう思って?」その声は冷く念入りだった。
「そうだね、ワイナントに不利な証拠をにぎり、金を出させるのに利用するつもりだったのが、なにかわけができて、気が変った、と、そんなことじゃないのかな」
ミミは、鈎《かぎ》形にまげた右手の鋭い爪で、ぼくの顔を引っかいた。くちびるがまくれ上がって、くいしばった歯ぐきがむき出しになる。
ぼくは、ミミの手くびをつかんだ。「女って厄介なもんだな。今も、自分の男に鍋を投げつけた女と別れてきたばかりなんだ」
ミミは、声をあげて笑ったが、眼つきは変らない。「いじわる。あなたには、いつも、わたしの一番悪いところを見せるわね」手くびをはなしてやると、かの女は、痛そうに指のあとをこすった。
「鍋を投げた女って、どこのひと? 知っている人かしら?」
「といったって、ノラじゃないぜ。ところで、ヴィクター・クリスチャン・ローズウォーター・ヨルゲンセン氏は、まだ逮捕されないかね」
「なんですって?」
相手がもっとあわてるだろうと思ったぼくの確信は、みごとに裏切られた。
「ヨルゲンセン、またの名ローズウオーターだよ。まさか忘れやしまい」
「ヨルゲンセンが、あの恐ろしい男だというの?」
「そのとおり」
「まさか――」ミミは、両手の指をからみ合わせながら立ち上った。「そんなこと、まさか、そんなこと――」顔は、恐怖に青ざめ、声は腹話術師さながら、この世のものとも思えない。
「信じられないわ」
「間違いだといいがね」
ぼくのことばが耳に入らないかのように、ミミはぼくに背を向けて窓ぎわに立った。
「おもてにとまっている車に、警官らしいのが二人いたぜ。君のご主人の出てくるのを待ちかまえているようだったが」
「わたしの主人は、本当にローズウオーターなの?」向きなおったミミの顔には、もう恐怖の色がなかった。声も人間らしくなっている。「たしかにお巡りさんがいるわね」
二人は、お互に顔を見つめあったまま、めいめいいそがしく考えをめぐらせた。ミミは、主人の逮捕を懸念するよりも、ヨルゲンセンが、ワイナントを向うにまわしてたくらんだ筋書の一部として、自分と結婚したのではなかろうか、と、それを考え煩《わずら》っているらしい。
そういう相手の気持が不意に心に浮んできたことがおかしかったので、ぼくは思わず笑ってしまった。ミミは、目をみはったが、やがてあいまいな微笑を浮べた。「あの人の口からきくまでは、わたし、そんなこと信じられないわ。でも、あの人が白状したら――そうしたらどうなるの?」と、肩をゆすぶり、下くちびるをゆがめて、いいはなった。「あの人は、わたしの夫だわ」
ぼくはおかしくてたまらないはずなのに、かえって苦しくなってきた。
「そんなことをいったって、ぼくは、君、ニックなんだよ」
「わかっててよ、どうせわたしのことをよく思っていやしないわね。あなたは、わたしをよく思っていやしないわね。あなたは、わたしを――」
「よしよし、それはもういいことにしよう。それよりもさっきのワイナントの証拠の話にもどろうじゃないか」
「いいわ」ミミは顔をそむけた。次に向きなった時には、くちびるが震えていた。「あれはうそだったのよ。わたし、なにも見つけやしなかったわ」いいながら、そばによってきて、「クライドには、あんな手紙をアリスに出す権利などありゃしないわ。マコーリーまで、わたしに疑いがかかるようにし向けるし、だから、わたしわざわざこしらえてでも、クライドにかたき打ちしてやりたかったのよ。それだって、あの人を犯人だと思ったから――いいえ、今でも思っていればこそ、だわ。それに――」
「こしらえるって、どんなことだね?」
「まだなんにもしていないわ。ただ、そんなことをしたら、どんな目に会わされるか、それが知りたかっただけなの。あの日、わたしがひとりになった時に、ジュリアが意識をとりもどして、クライドにやられたといった、と、そんな風にこしらえることができやしないかと思ったのよ」
「君は、なにかを聞いたとはいわなかったよ。なにか見つけた物をかくしているというような話だったぜ」
「でも、わたし、どっちにしようかって、決心がついていなかったのだわ」
「マコーリーのところへ来たワイナントの手紙のことは、いつ聞いたんだね」
「今日だわ。警察から人がきたのよ」
「ローズウォーターのことを訊かれなかったかね」
「知っているかって訊かれたわ。知らないと返事をしたんだけど、その時は、本気でそういったのよ」
「そうだろうね。だが、さっき、君が、ワイナントに不利な証拠を見つけた、と、そういったのも、今になれば、やっぱり本気だったのだと思うよ」
ミミは眼を大きく見ひらいた。「一体なんのことなの?」
「なんのことだろうね。こうじゃないかな、つまり、君は本当になにかを見つけて、ワイナントに売りつけるつもりでかくした。それから、マコーリーにきた手紙から、自分に疑いの目が向けられだしたので、金もうけのほうはあきらめて、その証拠を警察にわたし、ワイナントに復讐すると一しょに、わが身を守ろうとした。最後に、ヨルゲンセンすなわちローズウォーターだということを知ると、こんどは、愛情もないのにワイナントへの面当《つらあ》てに自分と結婚したヨルゲンセンの立場をできるだけ悪くしようと考えて、またしまいこんだ、とね」
ミミは、おだやかな笑いを浮べた。「あなたは、わたしのことを、大それたことのできる女だと思いこんでいるみたいだわね」
「そんなことはどうでもいいよ。それよりも、これからの余生をどこかの監獄で送るかどうか、それを第一に考えるんだな」
ミミは金切声をあげた。すさまじい声だった。今までにない恐怖を顔にあらわして、ぼくの上衣の襟にしがみついた。
「そんなこといわないで。どうぞ、取り消して頂だい」震えかたがあまり激しいので、ぼくは片腕をまわして、支えてやった。
咳ばらいと、「ママ、どうしたの?」という声で、はじめてギルバートのいるのに気がついた。
ミミはぼくから手をはなして一足さがった。「おまえのママは馬鹿なのよ」まだ震えはとまらないが、それでも、微笑をみせ、陽気らしく作った声で、「あんなにびっくりさせるなんて、ほんとうに悪いかたね」
「いや、すまなかった」
ギルバートは、外套と帽子を椅子の上において、礼儀を失わぬほどの好奇の色をみせながら、ぼくと母親との顔をかわるがわる見つめた。二人とも黙っているので、また咳ばらいをして、
「ご機嫌よう」といいながら、ぼくの手をにぎった、ぼくも挨拶をかえした。
「目を疲らせておいでだね。また眼鏡をかけずに一日じゅう本を読んでいたのね」ミミは頭をふって、ぼくに、「この子は、父親そっくりのわからずやなのよ」
「父さんのことで、なにかニュースがありましたか」ギルバートがいった。
「自殺の知らせは、人ちがいだったのだが、それは聞いたろう?」
「ええ」ちょっとためらってから、「実は、お帰りのまえに、ほんの二、三分お話したいことがあるんですが」
「いいとも」
「今だっていいじゃないの」ミミの口ぶりは、すっかりあかるさを取りもどしていた。からだの震えもとまっている。
「それとも、わたしには聞かせられないような秘密のお話があるの?」
「じゃあ、御迷惑でしょうが」ギルバートは、自分の外套と帽子をとり上げ、ぼくにうなずいてみせて、部屋を出ていった。
ミミがまた頭をふった。「あの子はさっぱりわからないわ。わたしたちのこと、どう思ったのかしら」大して気にしているらしくもない。まじめな顔になって、「あなたは、どうしてあんなことおっしゃったの?」
「君の監獄行きのことかね」
「ああ、もうたくさんよ」身ぶるいをして、「うかがいたくないわ。晩ごはん、ご一しょにどう? 今日は、ほかにだれもいないのよ」
「残念だが、そうも行かない。ところで、証拠物件のことはどうなんだね」
「本当にそんなものありゃしないわ。嘘だったのよ」真剣なようすで顔をしかめながら、「そんな風にわたしをごらんになっちゃいやよ。ほんとうに出たらめだったのよ」
「嘘をつくために、ぼくをわざわざ呼びよせたんだね。それがまたどうして気を変えたんだ?」
ミミはクックッとしのび笑いした。「ねえ、そんなになにからなにまで、つっかかるところをみると、やっぱり、あなたは、わたしが好きなのね」
ぼくには、ミミの言葉の意味がわからなかった。「じゃあ、ギルバートのお相手をしてから、大いそぎで帰るよ」
「もっとゆっくりしていらっしゃいよ」
「残念ながら、そんなわけには行かない。あの子の部屋はどこ?」
「二番目のドアだわ。ねえ、クリスは本当に入れられるかしら」
「答弁のしようによってはね。筋のとおったことをいわなければ入れられるよ」
「まあ、あの人が――」いいかけて、ぼくの顔に烈しい視線をそそぎ、それから、「からかっているんじゃなくて? あの人がローズウォーターだなんて、ほんとうかしら」
「警察はそう決めているようだ」
「だって、今日きた人は、クリスのことなんか訊かなかったわ、ただわたしに、あの人を――」
「その時分には、まだはっきりしていなかったんだ」
「それがはっきりしたの?」
ぼくはうなずいた。
「どうしてわかったのかしら」
「クリスの知りあいの女に聞いたんだ」
「それ、だれ?」一瞬、ミミの眼には暗い影がさしたが、声の調子はかわらなかった。
「名前は忘れたよ」それから思いなおして、「事件の当時のクリスのアリバイを証言した女なんだがね」
「アリバイですって?」ミミは腹をたてた。「あんな女の言葉を警察が信用するもんですか」
「あんな女というと?」
「わかっているくせに」
「わからないな。その女を知っているのかい?」
「知るもんですか」侮辱を感じたようないいかただった。眼を細くして、低い声で、ほとんどささやくように、「あなた、クリスがジュリアを殺したと思って?」
「そうとしたら、なんのためにだろう?」
「あの人、元々クライドに復讐するつもりで、わたしと結婚したのじゃないかしら――わたしにクライドから金を取らせようとけしかけたのよ。そりゃあ、ほのめかしたのは、わたしだったかも知れないけど――そうしろといったのはあの人だったわ。そんなことから、ジュリアと喧嘩したのじゃないかしら。一しょにクライドに雇われていたのだから、知りあいだったのよ。あの日わたしがジュリアのところへ行くことは、あの人も知っていたし、わたしがあの女を怒らせたら、自分のたくらみをばらされるかも知れないと思って、さき廻りして――とそんな風に推理できないこと?」
「全然意味のない推理だね。君と一しょに出かけて、そういうひまのあろうはずはないし――」
「でも、わたしのタクシーは、とてもゆっくりだったわ。それに、どこかで車をとめたような気が――いいえ、たしかにとめたわ。薬屋でアスピリンを買ったのよ。わたし、おぼえているわ」
ミミは力をこめてうなずいた。
「それをご主人には話してあったから、ご主人のほうでは、君がより道することを知っていた、というんだね。そんな考えかたはよくないよ。殺人といえば大変なことなんだぜ。自分がだまされたからって、それだけで、ひとをわなに掛けるのはよくないね」
「だまされたって?」ぼくをにらみつけて、「あなたは、なぜ、あの、……」と、ヨルゲンセンのことを、ありとあらゆる不信心きわまる、けがらわしい、侮辱的な名で呼びわめいた。息をつごうとことばを切ったそのすきに、ぼくは口をはさんだ。「大変な剣幕だね。しかし――」
「いいえ、あの人なら、ジュリア殺しを、わたしにそそのかすぐらいの神経をもっていてよ。自分ではあからさまにいわなかったけれど、わたしを次第にさそいこんで、しまいに、わたしのほうから、そのことをいい出すように――いいえ、わたし、いい出しやしなかったわ。
「だいぶ違うほうへ話がむいたね。そのことって、君はどんなことをいい出したのかね」
「訊問はやめてよ」ミミは、足を踏みならした。
「やめるよ。勝手にしたまえ。自分から好きで出かけてきたんじゃないぜ」ぼくは、帽子と外套を取りに行きかけた。
ミミは、追いついて腕をつかんだ。「ニック、ごめんなさい。わたし、しようのない女ね。自分でももてあますのよ」
ギルバートが入ってきた。「ぼく、途中までお送りします」
「ギルバート、おまえは立ち聞きしていたね」ミミは、息子ににがい顔をしてみせた。
「だって、あんな大きな声を出せば、どうしたってきこえるよ。お金を少し下さい」
「母さんたち、まだお話がすんでいないのよ」
ぼくは時計を見た。「いや、もう遅い。いそがねばならん」
「そっちのご用がすんだら、もう一度いらして下さる?」
「遅すぎなければくるが、待たないでもらいたいな」
「どんなに遅くても、わたしは構わないわ」
「なんとかしよう」小づかいをせしめたギルバートとつれだって、ぼくは階段を降りた。
十九 実の妻
「実は、ぼく、立ち聞きしていたんです」そとに出るとギルバートが話しかけた。「人間を研究するつもりなら、機会のあるごとによその人の話をそっと聞くに限りますね。面と向ってと、そうでない時と、話すことが必ずしも同じじゃないんですからね。そりゃあ、立ち聞きされるほうでは、いい気持はしないでしょうが」――微笑を浮べながら――「きっと鳥やけだものも、博物学者にしらべられるのは、いい気もちじゃないでしょうね」
「たっぷり聞いたの?」
「ええ、大事なところは大体わかるぐらいに」
「で、どう思った?」
ギルバードはくちびるをすぼめた。額にしわをよせ、裁判官のような態度で、「正確にいうのはむずかしいんですが。つまり、ママは、物をかくしたりするのは上手だけど、うそをつくのはまずいんですね。面白いことには、うそつきといわれる人は、ほとんど全部、うそをつくのが下手だし、普通の人よりだまされやすいんです。だまされまいと用心しているくせに、すぐになんでも信じこむんですね」
「そのとおりだ」
「クリスは、ゆうべ帰ってきませんでした。ママがいつもよりとり乱していたのも、そのせいです。それから、今朝の郵便物のなかにクリスにあてた手紙が一通ありました。なにか曰くがありそうに思えたので、湯気をあてて開封してみたんです」ポケットから封書をとり出してわたしながら、「読んで頂いたほうがいいのじゃないでしょうか。すんだら、封をしなおして、どうせ帰ってこやしないでしょうが、もしあの人が帰ってきたら、明日の郵便物と一しょにわたします」
「なぜ、帰ってこやしないと思うんだね」
「だって、あの人はローズウォーターなんですもの……」
「そのことをクリスに話した?」
「このまえお話してから、一度も会っていないんです」
ぼくは、わたされた手紙に眼をとおした。封筒には『一九三二年十二月二十七日、マサチュセッツ州ボストン』の消印がある。宛名は子供っぽい女文字で『ニューヨーク州ニューヨーク市コントランド・アパート内、クリスチャン・ヨルゲンセン様』となっている。手紙の中身をとり出しながら、
「どうして、あけてみる気になったんだね?」
「ぼくは大体直観などというものは信じないほうなんですが、それでも、時によると、匂いとか、音とか、筆蹟とか、はっきりは分析できないながら、なにかしらぴんとくることがあるんです。この手紙の場合にも、中に大事なものが入っているんだなって、なにかそんな感じがしました」
「自分の家にくる手紙に、しょっちゅうそんな風なことを感じるかね?」
ギルバートは、ぼくの言葉が、冗談なのか本気なのか、それを確かめでもするように、ぼくの顔にすばやい視線を投げた。「しょっちゅうというわけじゃありませんが、まえにも他人《ひと》の手紙をあけたことがありますよ。ぼくは、人間の研究に興味をもっているんです」
ぼくは手紙を読んだ。
[#ここから2字下げ]
ヴィック様
オルガさんからのお手紙で、あなたのご帰朝のこと、そして、クリスチャン・ヨルゲンセンと名乗っておいでのことを承知しました。いままで長年の間、お便りも下さらずに、わたしをほったらかしにしておかれたこともさることながら、こんどのなさりかたは、ずいぶんひどいと思います。それに、お金も下さらないのね。ワイナントさんとの問題のために、よそへ行っていらっしゃらなければならなかったわけは、わたしにもよくわかっていますけど、それにしても、わたしが相かわらずあなたのお友だちであり、できるほどのことなら、いつどんなことでもしてあげようと思っていることをご存じなのだから、せめてお手紙ぐらい下すってもよろしいのに――
わたし、ぜひお目にかからなくてはならないのよ。日曜と月曜とが新年のお休みにあたるので、土曜日の晩に、ニューヨークに出ますから、その時にお会いしてお話しますわ。ご迷惑おかけしないように、いつどこでお会いできるか、お手紙を下さいませ。
あなたの真の妻
ジョージアより
[#ここで字下げ終わり]
余白にところ番地が書き加えてある。ぼくは、手紙を封筒にもどした。「なるほどね。君は、よく母さんに黙っていられるね」
「うっかり話したら、どんなことになるか知っていますもの。さっきのあなたのお話ぐらいで、あんな始末ですからね。それでも、話したほうがいいでしょうか」
「警察にぼくから話すのがいいだろうな」
ギルバートは、待ちかまえていたようにうなずいた。「それがよければ、どうぞ。なんなら、そのままお見せになっても構いませんよ」
「そうしよう」ぼくは、手紙をポケットにしまいこんだ。
「もう一つあるんです。ぼく、実験に使うつもりで、モルヒネをもっていたのを、だれかに二十錠ばかりぬすまれたのですが」
「実験というと?」
「飲んで、どんなことになるか、調べてみようと思ったのです」
「で、好きになれそうかね?」
「いいえ、そんなつもりではなく、ただ経験したかっただけなんです。ぼくは、大体が神経をにぶらせるようなものは嫌いですから、そのせいで、お酒はあまり飲まないし、たばこもやりません。でも、コカインはためしてみたいような気がしますよ。あれは、頭を鋭くするのじゃありませんか」
「そういわれているね。ぬすんだのはだれだと思う?」
「姉さんらしいんです。ぼくは、これからアリス伯母さんのところへ晩ごはんをよばれに行くのですが、姉さんもまだそこにいるはずですから、モルヒネのことを確かめてやります。ぼくなら姉さんにどんなことでもいわせることができるんですよ」
「姉さんが、ずっと伯母さんのところにいたんなら、ぬすむひまもないわけじゃないか」
「ところが、ゆうべ、しばらくのあいだだったけれど、うちに帰ってきたんです。それに、ぬすまれたのがいつのことだか、はっきりしないんです。三日か四日ぶりに箱をあけてはじめてわかったのですから」
「姉さんは、君がそんなものを持っていることを知っていたの?」
「ええ。ほかにはだれも知らないはずだから、姉さんだろうと思っているんです。実は、姉さんにも実験してみましたよ」
「どうだった?」
「すっかり好きになりました。でも、どっちみち飲むようになっていたでしょうね。そんなに短い期間でも、中毒することがあるんでしょうか」
「そんなに短いというのは?」
「一週間――いや、十日ぐらいで――」
「恐らくそんなことはあるまいな。中毒したと自分で思いこんでいるだけじゃないかね。たくさん飲ませたの?」
「いいえ」
「ぬすんだのがわかったら知らせてくれたまえ。そのうち会おう」
「今晩おそく、うちへいらっしゃるんでしょう?」
「できたらね。その時、君にも会えるかもしれないな」
「ええ。では、どうもありがとう」
ぼくは、一番近くの薬屋によって、ギルドに電話をかけた。当てにはしていなかったのに、まだ役所に残っていた。
「ずいぶん勉強だね」
「そうとも」ギルドの声は、ひどくあかるかった。
ぼくはジョージアの手紙を読み上げ、ところ番地も教えてやった。
「いい拾いものだ」
「ヨルゲンセンは、昨日から出かけたきりだそうだ」
「ボストンに手配するかな」
「さもなければ、ずっと南のほうへ遠っぱしりしているかもしれないよ」
「両ほうとも当ってみよう」あいかわらず、朗らかな声で、
「ところで、こっちにもニュースがあるよ。例のナンハイムがあれから一時間たたないうちに、〇・三二口径で殺られたんだ――即死さ。ウルフ殺しと同じピストルらしい。いま調べさせているから、おそくなっても結果をしらせてもらえるはずだが」
二十 酔いどれの群
ホテルにもどってみると、ノラは、鴨の冷肉をかじりながら、ジグソー・パズルをやっていた。
「わたしを放《ほ》ったらかして、ミミと駈け落ちしたのかと思ったわ。そうそう、あなたの本職は、物をさがすことだったわね。首の長いかたつむりみたいな格好をした茶色のをさがして下さらない?」
「鴨のかね、それともパズルのかね? 今晩エッジの家にゆくのはよそうや。たいくつな連中だぜ」
「よしてもいいわ。でも、あの人たち、怒りやしない?」
「ほっとくさ、あいつたち、クィンのところでも怒ったし――」
「クィンといえば、電話があってよ。マッキンタイア・ポーキュパイン会社が買いどきだからって――わたしもそう思うわ――ドーム社と似合いなんだって。二十ドル四分の一見当だそうよ」といいながらパズルの上に指をのせて、「ここんとこにはまるのをさがしているんだけど」
ぼくは、それを見つけだしてやり、それから、ミミのところで起った事件を、言葉までそっくり話してやった。
「ほんとうかしら。作り話でしょう。そんな人ってないわ。一体どうしたっていうの。人間とは思えないじゃないの」
「そっくりそのまま話しているだけさ。説明してるんじゃないよ」
「じゃあ、それをどう説明するの? だって、ミミが、クリスまでうらぎるのなら、あの一家には、おたがいに家族らしい気もちを感じ合うどうしが、一人もいないみたいじゃないの。そのくせ、家じゅうが、似たものどうしなのね」
「そんなことかな」
「アリス伯母さんには、会ってみたいな。そのお手紙、警察にわたすの?」
「もうとっくに、電話でギルドに知らせたよ」そしてナンハイムの殺られたことも話してやった。
「それは、どういうことなのかしら?」
「つまり、ぼくの想像どおり、ヨルゲンセンが逃げたのなら、しかも、ピストルがジュリア・ウルフの時と同じだとすれば――大体そうらしいヨルゲンセンを犯人とするには、警察は共犯をさがし出さねばならん、と、そういえるね」
「なんだかややこしいのね。腕のいい探偵さんなら、もっとわかりやすく説明して下さるはずですよ」ノラは、またパズルに熱中しはじめた。「もう一度ミミに会いにいらっしゃるの?」
「どうするかな。いずれにしろ、晩めしのあいだぐらい、そんなこと忘れようじゃないか」
電話が鳴ったので出ると、ドロシー・ワィナントからだった。
「もしもし、ニック?」
「うん、ドロシーだね、どうしているの?」
「いま、ギルバートがきて、ご存じのことをわたしに訊ねたわ。ぬすんだのはわたしなんだけど、それも、ギルが中毒すると困ると思ったからなのよ」
「それをどうしたかね?」
「ギルが取りかえしていったわ。あの子は信用しなかったけれど、正直なところ、ぬすんだわけはそれっきりだわ」
「ぼくは信用するよ」
「じゃあ、ギルにおっしゃってね。あなたが、そうおっしゃれば、あの子だって信用しますわ」
「会ったら話そう」
しばらく間をおいてから、「ノラは、どうしていらっしゃるの?」
「まず、無事のようだね。話すかい?」
「ええ、でも、もう一つお訊ねしたいわ。今日、うちにいらした時、ママは、わたしのことをなんとかいっていまして?」
「どうだったかな。なぜ?」
「じゃあ、ギルは?」
「モルヒネのことだけだ」
「ほんとう?」
「ほんとうさ。どうしてなんだね」
「いいえ、なんでもないの。あなたが、そうおっしゃるのなら――」
「わかったよ。ノラを呼んでこよう」居間にもどって、ノラに、「ドロシーが話したいそうだ。晩めしに招んだりするんじゃないよ」
ノラは、意味ありげな眼つきをして、電話からもどってきた。
「なんだって?」
「なんでもないの。ご機嫌いかがって、それだけよ」
「とし上の人にうそをつくと、ばちが当るよ」
やがて、ぼくたちは、五十八丁目の日本人店で晩めしをすませ、結局ノラの口から、エッジの家にゆきましょうといわせた。
ハルジー・エッジは、やせて黄色い顔をした、背のたかい、骨ばったからだつきの五十男だった。頭には、かみの毛が一本もない。考古学者なのだが、みずから、「商売といい、性質といい、食人鬼だ、」と称し、それが、この男のとっときの酒落《しゃれ》でもあった。戦斧の収集が大のご自慢で、大して悪い人間ではない。ぼくたちの目ざす相手は、妻君のほうだった。レダという名なのだが、旦那さまからは、チップと呼ばれている、ひどく小さな女である。髪も眼もはだも、むろん、それぞれ違った色ではあるけれども、みんなどんよりしている。椅子におさまってじっとしていることは滅多になく、なにか椅子でないものに腰を下ろして頭をかしげた。そんな姿勢が自分でもお気に入りだった。ノラにいわせると、チップは、エッジが古代の墓を発堀した時、そこからとび出してきた女だそうだし、マーゴット・イネズは、この妻君のことを、地の精の小人《こびと》といっている。それはともかく、エッジ夫妻は、グリニッチ村のはずれの、面白い恰好をした古ぼけた三階建ての住人で、酒はすばらしいものだった。
もう十二、三人集っていた。チップは、初対面の客への紹介をすませると、ぼくをすみっこへ引っぱって行った。「あなたったら、どうして、クリスマスの日にお宅でお目にかかったかたたちが殺人事件の関係者だってこと教えて下さらなかったの?」
「ほう、そいつははつ耳だ。今どき殺人事件とは、はてね」
チップは、頭を右にかしげた。「その事件をひき受けていることも黙っていらっしゃるのね」
「ぼくがどうしたっていうの? ああそうか、わかったよ、そんなものひき受けた覚えもなければ、現にひき受けてもいないさ。第一、ぼくが怪我《けが》したこと、それがなによりの証拠じゃないか」
「痛まなくて?」
「ちょっと痒《かゆ》いな。包帯をかえるのを忘れたんでね」
「ノラは、ちっともこわがらなかった?」
「ぼくも、射ったやつも、ちっともこわがりやしなかったよ。ハルジーがいるね。まだ挨拶をすませていないんだ」
すきをねらって逃げだそうとすると、「ハリスンも、例の娘さんと一しょにくるはずよ」
やつとエッジをつかまえて、かれの買おうとしている、ペンシルヴェニァの土地のことを話題に、しばらく話した。それから、自分で酒をさがしだして、ラリー・クローリーとフィル・テムズとが、きたならしい話をかわしているのに耳をかたむけていると、そこへだれか女のひとがやってきて、コロンビア大学教授のフィルに、この週の話騒になっているテクノクラシーについて質問した。ラリーとぼくは、その場をはずしてノラのそばへ行った。
「ご用心なさいよ。あの小人さん、あなたからジュリア・ウルフ殺しの内幕ばなしを引っぱり出そうと、まるで夢中だわ」
「ドロシーから引っぱり出させよう。クィンと一しょにくるそうだから」
「そうですってね」
ラリーが、「クィンのやつ、あの娘に夢中なんだろう? アリスと別れて、ドロシーと結婚するつもりだといってだぜ」
「アリスが可哀そうだわ」その実、ノラはアリスが嫌いなのだ。
「みかたによってはね」そういうラリーは、本当はアリスが好きなのだ。「昨日、あの娘の母おやと結婚した男にあったぜ。ほら、君のところで一しょになった背の高いやつさ」
「ヨルゲンセンかね」
「うん、そうだ。六番街の四十六丁目あたりの質屋から出てきたところだったよ」
「話をしたかい」
「いや、こっちはタクシーだった。どっちみち、質屋から出てくる人には、知らんふりをするのが礼儀だろうじゃないか」
チップが、「しいッ、」と声をかけた。レヴィ・オスカントのピアノがはじまった。演奏の途中にクィンとドロシーがやってきた。ドロシーも顔が赤いだけのご機嫌ではないらしい。
「お帰りの時、お伴したいわ」ドロシーがぼくにささやいた。
「朝めしまでいるつもりじゃないのかい?」
チップが、ぼくのほうに、「しいッ」と声をかけた。ぼくたちもしばらく音楽に耳を傾けた。
しばらくもじもじしていたドロシーが、またささやいた。
「ギルは、あなたが今晩遅くママのところにくるっていっていたけど、いらっしゃるの?」
「どうするかな」
クィンがふらふらとよってきた。「どうしたい。ノラ、ぼくの電話、伝えてくれた?」チップがまた「しいッ」といったが、クィンは頓着《とんちゃく》しない。ほかの連中もほっとした顔になってしゃべりはじめる。「ねえ、君、サンフランシスコのゴールデンゲート信託と取引があるんだろう、君は。ええ、おい」
「金を少しばかり預けてあるよ」
「そうか。おい、そいつをひき出しちまえ。あの会社はあぶないって、いま聞いたぞ」
「わかったよ。だが大した金高《かねだか》じゃない」
「大したもんじゃないって? じゃあ、君は財産をどう始末しているんだ?」
「フランスと同じに、金塊を蓄《た》めているよ」
「君みたいなやつが、国をあやうくするんだな」クィンは、もったいらしく頭をふった。
「国がつぶれて生き残るのも、ぼくみたいなやつなのさ。どこで、そんなに酔っぱらったんだね?」
「アリスさ。あいつ、一週間というものむくれどおしなんだ。飲みでもしなきゃ、気が狂うよ」
「なにをむくれているんだね?」
「ぼくが飲むからさ。あいつはね――」と、秘密らしくからだをのり出し声をひそめて、「ねえ、君は親友だなあ。だから教えてやるよ。じつはね、あいつと離婚して、もう一度結婚しなおすんだ。だれとかって? そりゃぁ――」
いいかけて、ドロシーに片腕を廻そうとした。ドロシーはふり払って、「ばかねえ。うるさいわよ。ほっといてちょうだい」
クィンは、ぼくに向って、「このひとは、ぼくのことを、ばかとか、うるさいとかいうんだよ。なぜぼくと結婚するのをいやがってるのか、わかるかい? いや、わかるものか。いいかい、このひとは――」
「いっちやいや。いわないで。酔っぱらいのばか」まっ赤な顔をして、クィンの顔を両手でたたきはじめる。「こんどいったら、殺してやるから」
ぼくは、ドロシーをクィンから引きはなした。倒れそうになるクィンを、ラリーが支えた。「ああ、ぼくはなぐられたよ」泣き声をだすクィンの頬を、なみだが伝った。ぼくの上衣《うわぎ》に顔をおしあてたドロシーも泣いているらしい。
この騒ぎをすかさず聞きつけたチップが、好奇心に顔をかがやかせながら駈けよった。「どうしたの、ニック」
「なあに、二匹のトラがふざけ合ったのさ。もうすんだよ。ぼくが送りとどけてやる」
が、そんなことでひき下がるチップではない。ことの真相を知るチャンスをつかむまでは、二人をひきとめておく気でいる。ドロシーには、しばらく横になれ、と、しきりにすすめ、立っているのがやっとのクィンにも、なにか召し上がれとすすめた。
ぼくとノラとは、二人をつれ出した。ラリーが手伝おうと申しでたが、その必要はなさそうだった。タクシーに乗ると、両はしに、眠りこけたクィンと、からだをかたくしたドロシーとを坐らせ、そのあいだにノラが腰かけた。ぼくは、補助椅子にしがみつきながら、いずれにしろ、エッジの家にながいをせずにすんだのだと思った。ノラとドロシーを車のなかに待たせて、クィンをかれの部屋までつれあがった。クィンは、まるで骨なしのようだった。
ベルを鳴らすと、アリスがドアをあけた。アリスは、緑色のパジャマを着て、ヘアブラシを片手にもっていた。夫をみる眼つきも、なかに運びこんで、という声も、気がなさそうだった。
ベッドにころがすと、クィンは、なんだかわけのわからないことをつぶやき、片手をだらしなく動かしたが、眼をあけなかった。
「寝かしつけてやろう」ぼくは、ネクタイをゆるめてやった。
アリスは、ベッドの足もとによりかかったまま、つぶやいた。「お願いするわ。わたし、そんな世話をしてやるのをあきらめたのよ」ぼくは、外套とチョッキとシャツを脱がせてやった。
「今ごろまで、この人、どこにいたの?」知ったってしようがない、というような調子だった。あい変らず、突ったったまま、自分の髪にブラシをかけはじめる。
「エッジのところなんだがね」ぼくはズボンのボタンをはずしてやった。
「いつものワイナントのちびっ子と一しょだったの?」
「ずいぶんいろんな連中がきていたよ」
「そうでしょうとも。この人が、淋しい場所などにわざわざゆくもんですか」一しきりブラシを動かして、「なにをおっしゃっても、わたしなら、遠慮なさらなくていいのよ」
クィンが少し身うごきして、「ドリー」とつぶやいた。ぼくは靴をぬがせた。
「わたし、この人がまだきちんとしていたころのことを思いだすわ」アリスは、ぼくがクィンの着ているものをすっかり剥《はぎ》とって蒲団《ふとん》のなかにころがしこむまで、夫の顔をみつめていた。それから、ため息をついて、「お酒をさしあげるわ」
「大いそぎで頼むよ。ノラがタクシーで待っているんだ」
アリスは、なにかいいたそうに口をひらきかけたが、それを一たんとじてから、「すぐよ」と台所へかけこんだ。ぼくもそのあとについてゆく。
しばらくして、「どうでもいいことだけど、みんなはわたしのことをどう思っているのかしら」
「特別どうってことはないさ。君を好きなひともあれば嫌いなひともあるし、全然どっちでもないひとだってあるよ」
アリスは顔をしかめた。「そんなこときいていやしなくてよ。ハリスンが乱痴気のし放題《ほうだい》をしているのに、わたしがいつまでもくっついているのを、よそのひとたち、どう思っているかっていうのよ」
「知らんね」
「じゃあ、あなたは?」
「ぼくは、君が承知でやっていることだと思うし、それに、なにをしようと、君の勝手じゃないか」
アリスは、不服そうにぼくをみつめた。「あなたは、面倒なかかり合いになりそうなことを、決していわないひとね、どう?」と、皮肉な微笑を浮べて、「わたしが、お金のためだけにへばりついているんだってこと、ご存じのくせに。あなたには、どうでもいいことかもしれないけれど、わたしには大事なことだわ――わたしは、そういう風に育《そだ》ってきたんだもの」
「離婚には扶養料がつきものだよ、君はどうしても――」
「もういいことよ。飲んだらお帰りになって」
二十一 救貧院行き
タクシーにもどると、ノラは、ドロシーとのあいだに場所をつくってぼくを坐らせた。「コーヒーを飲みたいわ。ルーベンの店にゆかない?」
「よかろう」ぼくは運転手に行くさきを告げた。
ドロシーがおそるおそるたずねた。「奥さん、なにかいって?」
「君に、くれぐれもよろしくってさ」
「冗談はおよしなさいよ」ノラがきめつけた。
「わたし、ほんとうは、あの男《ひと》が嫌いなの。もう会いたくないわ――ほんとうに」ドロシーは、かなり酔いがさめたようだった。「淋しかったのよ。そこへ、あの人が近よってきたんだわ」
ぼくは、なにかいおうとしたが、ノラによこ腹をこづかれたので、思いとどまった。
「そんなこと、気にしなくていいのよ。クィンは、お人よしなんだから」ノラがなだめた。
「別にまぜっかえす気じゃないが、クィンは、ほんとうは女房を愛しているぜ」
またノラによこ腹をつつかれた。
「あなたはわたしのこと、からかったりしないわね」ドロシーは、薄《うす》あかりにすかして、ぼくの顔をのぞきこんだ。
「しないとも」
「ねえ、わたし、今晩、エッジの小人さんのことで新しいお話を聞いたわ」と、ノラがひとの話のじゃまをする気はないが、というような顔で、口をだした。「こうなのよ、レヴィ・オスカントがね、エッジの奥さんに……」その話は、チップを知っている人なら、面白かった。ノラは、ルーベンの店の前でタクシーを降りるまで話しつづげた。
その店には、ハーバート・マコーリーが、髪の黒い、よく肥《こ》えた赤い服の女と一しょにテーブルに向っていた。ぼくは手をふって挨拶した。料理を注文しておいて、マコーリーのところへ行った。
「ニック・チャールズ君。ルイズ・ジャコブスさんだ」マコーリーは、つれの女をぼくに紹介すると、「まあ、かけたまえ。何かニュースがあるかね」と聞いた。
「ヨルゲンセンは、ローズウォーターだとわかったよ」
「ほんとうか」
ぼくはうなずいて、「あの男には、ボストンにも妻君がいるようだぜ」
「その男に会ってみたいな。ローズウォーターなら知っているから、自分で確かめたいね」
「確認したかどうかは知らんが、警察は自信があるようだ。君の知っているその男なら、ジュリアを殺しかねないかね」
マコーリーは、力をこめて頭をふった。「いや、ローズウォーターが人殺しをやるとは思えないね。脅迫のほうにかけては、相当なものだが、それでも、例の問題の時、ぼくがまじめにとり合わなかったのをおぼえているだろう? ほかになにかあったかい?」ぼくのためらうのを見て、
「ルイズは大丈夫だ。しゃべってもかまわないよ」
「いや、そうじゃないんだ。自分のテーブルにもどらねばならんのでね。実は、今朝《けさ》の『タイムズ』に君の出した広告だが、返事があったかい?」
「まだないよ。まあ、かけたまえ。君には訊きたいことがずいぶんあるんだ。ワイナントの手紙のことを警察に話したかね、それとも――」
「いや、そいつは、明日、昼めしにやってきたまえ。そのとき大いに話そう。ぼくは、つれがあるから――」
「あの金髪のかわいらしい女のかた、どなた?」ルイズ・ジャコブスが口を出した。「わたし、あの人がハリスン・クィンと一しょのところをみかけたわ」
「ドロシー・ワイナントというんです」
マコーリーが、「君は、クィンを知っているのか?」
「十分ほどまえ、ベッドに寝かせつけてきたところさ」
マコーリーは、にやりと笑った。「そのくらいの――つまり、社交上のつき合いぐらいにしておいたほうがいいな」
「というのは?」
「あの男は、ぼくのまかせていた株の仲買人なのさ」マコーリーの笑顔に悲しそうな色があらわれた。「あいつのいうことをきいたおかげで、すんでのことに救貧院にゆくところだったよ」
「そいつほ面白い。今は、ぼくの仲買人だよ。あいつのいうとおりにやっているがね」
相手は声をあげて笑った。ぼくも笑うふりをしながら自分のテーブルにもどった。
ドロシーが、「まだ夜なかにならないわ。ママは、お待ちしているっていったのよ。みんなで行っちゃ悪いかしら」
ノラのカップにコーヒーをつぐ手つきが、必要以上に慎重なように見えた。
「変だな。どうしたの? 君たち、なにを話していたんだ?」
ノラとドロシーとは、またとないほど無邪気な顔をした。
ドロシーが、「なんでもないのよ。みんなでゆけばいいのにってお話していたの。まだ時間もはやいし、それに――」
「それに、みんなミミが好きだし」
「いやなひと、でも――」
「帰るにははやすぎてよ」とノラ。
「酒場があるさ。ナイトクラブもあるし、なんならハレムだってあるよ」
ノラが顔をしかめた。「いつだって同じことしか思いつかないのね」
「パリの店に行って、運だめしはどうだい?」
ドロシーは、それがいいわ、といいかけて、ノラがまた顔をしかめたのでやめた。
「とにかく、ミミにまた会うのは閉口だよ。今日はもうたくさんだ」
ノラは、もうじき勘忍ぶくろの緒が切れるわよ、といいたげにため息をついた。「どうせ酒場にくりこむなら、あなたのお友だちのスタシーの店に行きたいわ。でも、あの凄いシャンパンだけはごめんよ。スタシーって人、すばらしいわね」
「じゃあ、そうしよう」ドロシーに、「ギルバートは、ミミとぼくとが怪《あや》しいって、君に話したかい?」
ドロシーは、ノラに目くばせしようとしたが、当のノラは、自分の皿のチーズ・ブリンツに眼をとられている。「そんなこといわなかったわ」
「手紙のことは?」
「クリスの奥さんでしよう? ええ、いってたわ」青い眼がかがやいた。「ママを怒らせるのはまっぴらよ」
「ほんとうは怒らせたいくせに」
「あら、どうして? ひどいわ。ママが、わたしに――」
「ニック・子供をいじめちゃだめよ」ノラに叱られて、ぼくは頭をかいた。
二十二 活劇
ピッグアイアン・クラブは繁盛していた。店のなかは、人と、ざわめきと、たばこの煙で一ぱいだった。スタシーがレジスターのうしろから現れて、ぼくたちを迎えた。「来そうなもんだと思っていたところだ」ぼくとノラの手をにぎり、ドロシーには、顔じゅうで笑ってみせた。
「今晩はなにかお祭りなのかね」
スタシーは、うやうやしく頭を下げた。「こちらのような貴婦人がたがおいでになれば、いつだってお祭りみたいなもんでさ」
ぼくは、彼をドロシーに紹介した。
スタシーはおじぎをして、ニックのお知りあいなら、そりゃあもう――というようなお世辞をいって、給仕を呼びとめた。「おい、ピート。チャールズさんにテーブルをこしらえてさしあげるんだ」
「毎晩こんなに。大入りなのかい?」
「客の選りごのみをしないんでね。一度きた客はまたくるんだ。黒大理石の痰壷などありやしないが、飲んだり食ったりしたものをその場に吐きだしたっておかまいなしでさ。どうです、テーブルの仕たくのできるまで、カウンターによっかからないかね」
ぼくたちは、そうしようと答えて、飲物を注文した。「ナンハイムのこと聞いたかい?」
スタシーは、しばらくぼくの顔をみつめていたが、やっと決心がついたというように、「うん、聞いた。あいつの女がそこにきているぜ」頭で部屋のむこう隅をさし、「女のほうは喜んでいる、と、まあおれは思うがね」
ぼくは、スタシーの肩ごしに部屋をみわたした。五、六人の男女にまじって、あから髪の大女、ミリアムがみえる。「だれのしわざか訊いてみたかね?」
「警察の仕事だといってるよ――たんと知りすぎていたせいだというんだが」
「笑わせるね」
「まったく笑わせる。さあ、テーブルができた。まあ、ゆっくりしてくれたまえ。すぐに戻ってくるよ」
ぼくたちは、いままででさえやっとの空間をどうにか占領していた二つのテーブルの、そのまたあいだにむりやり割りこませたテーブルに、めいめいのグラスを運んで、できるだけ楽にすわった。
ノラは酒をあじわって、肩をすぼめてみせる。「これ、クロスワード・パズルによく出てくる『ビター・ヴェッチ』というお酒じゃないかしら」
「あら、ごらんなさい」ドロシーがびっくりしたような声をだした。
ふりむくと、シェップ・モレリがこっちへやってくるのが見えた。ドロシーの注意をひいたのは、その顔だった。そこらじゅうやたらに凹んだりはれあがったりしているばかりでなく、片ほうの目のまわりの濃い紫色から、あごにはりつけた絹絆創膏のうす桃色まで、色もとりどり鮮かだった。ぼくたちのテーブルまでくると、蔽いかぶさるようにして、両のこぶしをついて、「スタシーが、あやまってこいっていうもんでね」
「お作法の先生みたいね、スタシーって」ノラが口のなかでつぶやく。
「それで?」
モレリは、でこぼこ頭をふった。「いいわけなどしないよ――ひとがどう思ったって、そんなことはいい――だが、かっとなって、あんたを痛い目に会わせたことはあやまるよ。大したことなかったんだろうな。なにかおれで片づくことがあるんなら、おれは――」
「もういいよ。すわって飲みたまえ、モレリ君だよ。こっちは、ワイナント嬢」ドロシーの眼が大きくなった。
モレリは、椅子を引っぱってきて、腰をおろした。ノラに、
「あのことで恨まんで下さいよ」
「面白かったわ」そういうノラを、モレリは不思議そうにみた。
「保釈かね?」
「うん、今日の午後出てきたばかりさ」自分の顔を、片手でこわごわ撫でてみながら、「このへんの新しい傷は、あの時こさえたんだがね。やつらは、おれをつかまえるのに夢中で、かんじんの獲物を逃がしてしまったのさ」
「まあ、ひどい。あのお巡りさんたち、ほんとうに――」怒ったようにいうノラの手を、ぼくは軽くたたいた。
「見ていろよ」モレリは、腫れあがったくちびるを動かして、軽蔑の微笑らしいものを浮べた。
「二人や三人でやっているあいだは、大したことないさ」
ノラがぼくに、「あなたが、あんなことなすったの?」
「え、ぼくがって?」
スタシーがやってきた。モレリのほうへうなずいてみせながら、「どうだい、大したご面相じゃないか」ぼくたちは、たがいにゆずりあって、スタシーのすわる場所をつくってやった。かれは、ノラの酒とノラの顔とをみくらべて、満足したようににやりと笑った。「お気に入りのパーク街一流の酒場にだって、こいつみたいな上等の酒はありませんぜ――それに、ここでは、一ぱいたった五十セントしか頂かないんだからね」ノラは、あるかなきかの微笑を浮べた。テーブルの下で、ノラの片足が、ぼくの足の上にのっかった。
「君は、クリーヴランド時代のジュリア・ウルフを知っているかね?」ぼくは、モレリに訊いてみた。
モレリは、椅子の背にもたれかかって部屋を見まわしながら売りあげを目勘定しているスタシーに、チラと横目をなげた。
「ローダ・スチュアートといっていた時分だ」ぼくがいいたすと、こんどはドロシーに眼をやった。
「遠慮はいらんよ。この子は、クライド・ワイナントの娘だ」
スタシーが、部屋を見まわすのをやめて、ドロシーに笑いかけた。「なるほどそうか。で、パパはどうしているね」
「だって、わたし、小さいころから会っていないのよ」
モレリは、たばこの端をなめて、ふくれたくちびるのあいだに挾んだ。「おれは、クリーヴランドの出なんだがね」マッチを擦る。冴《さ》えない眼をしている――というよりも冴えないように努めている。「あの女がローダ・スチュアートの名を使ったのは、一度きりだよ。ナンシー・ケーンというのが本名だ」もう一度、ドロシーの顔をみて、「あんたのパパなら、そのことを知っているよ」
「父さんをご存じなの?」
「一度話したことがあるがね」
「どんな話をしたんだね?」とぼくが口をだした。
「あの女のことさ」モレリのマッチは、指まで燃えあがって行った。それを落して、別の一本をすりなおし、ようやくたばこに火を点《つ》ける。そして、ぼくに肩をあげてみせ、額にしわをよせて、「こんなこと、しゃべっても構わんかね?」
「いいとも、聞かれて困るようなやつはいないよ」
「そうか。クライドは、大へんなやきもち焼きだった。おれは一発お見舞いしてやろうと思ったが、あの女が承知しなかった。むりもない話でね、クライドは、女のドル箱だったのさ」
「いつ頃のことだね?」
「六ヶ月だか八ヶ月だか前のことさ」
「女が殺られてから、クライドに会ったかい?」
モレリは頭をふった。「大たいが、お目にかかったのは二度だけなんだ。いま話したのが、最後の時のことさ」
「女はクライドをペテンにかけていたのかね?」
「そうはいっていなかったが、おれは図星だとにらんでいた」
「どういうわけで?」
「なかなかりこうな女でね――スマートだったよ。べつに金蔓《かねづる》があったんだな。いつだったか、おれが五千ドルねだったらね、」と指をぱちんと鳴らしながら、「なんと、それを現金でズバリよこしたじゃないか」
その金をかえしたかと、訊ねようと思ったが、やめにした。「金蔓というのは、クライドじゃなかったのかな」
「違いないね――多分」
「そのこと、警察に匂わせでもしたかね?」
人をばかにしたような笑い声をだして、「やつらは、おれにそいつを吐かせるつもりだったのさ。いまどう思っているか聞いてみろよ。あんたたちは堅気《かたぎ》の人間だし、おれは、なにも――」途中でやめて、口からたばこを抜き取り、「この野郎、」と怒鳴りざま、隣のテーブルからもたれかかってくる男の耳を、指ではじいた。相手の男は、びっくりして、やせた青い顔をふりむけた。
「その耳を引っこめろ。おれの酒の中に入るじゃねえか」
男は口ごもって、「おれ――おれ、べつに、なにも――なにもそんなつもりじゃなかったんだ、シェップ」腹をテーブルに押しつけて、できるだけ離れようとする。そんなことではこっちの話を聞かせないわけには行かないのだが――
「貴様《きさま》は、そんなつもりじゃねえといいながら、しょっちゅう同じことをやるじゃねえか」ぼくの方へ向きなおって、「あんたのためなら、お役に立つぜ――あの女も死んじまったから、ぶちまけたって気を悪くしゃしねえだろうさ――とに角、警察のマルーニーの野郎、俺からなにひとつ引っぱり出せなかったんだ」
「そいつは凄《すご》い」と、ぼくは膝をのりだした。「ジュリアのことをぜひ話してくれ。どこではじめて会ったか、ワイナントとかかり合うまで、なにをやっていたか、ワイナントは、あの女をどこで拾ってきたか、そんなことをさ」
「まあ、待ってくれ、一ぱいやらにやあね」からだをねじって、「おい、給仕――おい、そこの背なかの曲った」
さっきスタシーにピートと呼ばれたせむし気味の給仕が、人ごみを押しわけてやってきた。あいそ笑いをして、「なにかご用で?」めいめいの注文を聞くと、歯を騒々《そうぞう》しく吸いながら立ち去った。
「おれとナンシーとは、同じ丁目に住んでいたのさ。おやじのケーンは、角《かど》店のキャンディ屋だった。ナンシーのやつ、よくたばこをちょろまかしては、おれにくれたもんだよ」モレリは笑った。「針金を使って公衆電話からニッケル玉を釣りあげてみせたら、あいつのおやじにいやというほどどやされたこともあったっけ。どうせ、おれたちはがらの悪いことしかやれないんだが。それから、近所の建築中の家から、手あたり次第金具をぬすんで、おやじの地下室にかくしてね。巡査のシュルツにいいつけてひどい目に会わせてやらうとたくらんだが、こいつは、あの女がやらせなかったよ」
「あなたでも、昔はかわいらしいやんちゃっ子だったのね」ノラが口を出した。
「そうなのさ」モレリは、嬉しそうな顔をした。「あれは、五つの時だっけ」
「やっぱりあんただったね」突然、ぼくの頭の上で女の声がした。
見あげると、あから髪のミリアムだった。「よう、君か」
ミリアムは、両手を腰にあて、陰気な眼つきでぼくをみつめる。「ナンハイムは、あんたらの知りたいようなこと、ずいぶんたんと知っていたよ。
「それを少しも話してくれずに、靴をぶらさげて非常階段から逃げてしまったんだ」
「いい気味だわ」
「なあに。ところで、どんなことを知っていたのかな」
「ワイナントの居どころさ」
「なるほど、で、どこだね?」
「わたしが知るもんか。知ってたのはあの人よ」
「借しいことをしたな」
「いい気味よ。でも、本当はあんたも知ってるくせに。警察だって知っているんだわ。ひとをからかうのもいい加滅にしなよ」
「からかってるもんか。こっちだって知りやしないよ」
「だって、あんたのおとくいじゃないの。警察もぐるなのさ。からかうんじゃないよ。あの人、大した金になることを知っていたのに、かわいそうな人。金にする方法は知らなかったけど」
「君には、そのこと話したかい?」
「わたし、それほど馬鹿じゃなくてよ。話してくれたわ。わたしには、そのネタの使いかたがわかっていたんだよ。わたしだって、二に二をたせば幾つになるかぐらいわかるんだから」
「四になったり、二十二になったりさ。ワイナントも、いまはぼくのおとくいじゃないよ。『いい気味だ』は願いさげるぜ。どうだ、ぼくを手つだって――」
「いやなこった。あの人はスパイだったのさ。ひとには隠していたけど。手にいれたネタを金で売っていたのよ。いいかい? わたしがあんたらをおいて出ていってからすぐに、あの人が死体になって見つかったことを、わたしは決して忘れやしないよ」
「なんでも忘れないほうがいいよ。それよりも、思いだしてもらいたいことがあるんだが――」
「トイレットに行ってくるよ」ミリアムは立ち去った。その歩きっぷりときたら、とりわけお淑《しと》やかだった。
「あんな女とかかり合いになるのはごめんだな。いやなやつさ、」とスタシーが物思わしげにいうのに、モレリは目くばせしてみせる。
ドロシーがぼくの腕にさわって、「なんのことだかわからないわ」
ぼくは、なんでもないよ、と答え、モレリに、「ジュリア・ウルフのことを話してもらっていたんだっけな」
「うん、それでね、あの女は、十五、六のころ、ハイスクールの教師と問題を起したあげくさ、フェース・ペプラとかいう、おしゃべりなのが玉にきずの男とべたつきやがってね、おやじにおっぽり出されちまったんだ。忘れもしねえや、おれとそのフェース野郎とは――」そこまでいいかけ、咳ばらいをして、「いや、そんなことはどうだっていい、とにかく、フェースとくっつきやがって――くそっ――五、六年もつづいたかな。男が兵隊にいってる間に飛びだして、こんどは、名はおぼえてないが、ディツク・オブライエンにはいとこにあたる、めっぽう酒ずきな、髪の黒いやせた男と一しょになったもんだ。ところが、フェースが除隊になると、またぞろもとの鞘《さや》に収まって、しばらくおとなしくしていた。それから、トロントからぽっと出の椋鳥《むくどり》をゆすりそこねてね、女は六ヶ月ですんだが、男のほうは、このまえ聞いた話では、まだ入っているそうだ。おれは、女の出てきたとき会ったよ――土地を変えたいから、二百ドルばかり貸せ、ということだったのさ。その金をかえしがてらもらった手紙には、ジュリア・ウルフと名乗っているとか、大都会がめっぽう気に入ったとか、そんなことが書いてあったよ。フェースとも、しょっちゅう文通していたらしいね。おれは、一九二八年、この土地に住み替えると早速、あの女のことをさぐってみた。すると――」
ミリアムがもどってきた。あい変らず、腰に両手の姿勢で、「あんたのいったこと考えてみたわ。ひとをよっぽど馬鹿だと思っているんだね」
「そんなことあるもんか」
「あんたのお説教にころりと参るようなわたしじゃないよ。人の顔を見ただけで、本心が見抜けるのさ」
「なるほど」
「なるほどじゃないよ。よくも、ひとの男を殺しといて――」
「おいおい、大きな声を出すなよ」スタシーが立ちあがって、ミリアムの腕をつかんだ。なだめるように、「さあ、こっちへきな。話がある」そのまま、カウンターに引っぱって行った。
モレリが、また目くばせした。「スタシーは、ああいうことが好きなのさ。ええと、話は、この土地に移って、女のことをさぐってみたってところまでだったね。あいつは、ワイナントに雇われていること、男が自分に夢中なので至極具合のいいことなど話してくれたっけ。オハイオで六ヶ月いれられていたあいだに、速記を習ったんだ――あとでなにかの役に立つと思ったんだな。つまり、その腕をたねにどこかに勤めるようになれば、そのうちに、ほかの連中が金庫をあけっ放しで出かけることもあろうというわけさ。口入屋の世話で、二、三日の約束でワイナントのところに雇われたんだが、あいつのことだから、す早いところやっつけてずらかるよりも、気長に稼いだほうがましだと見当をつけてね。奥の手をだして、男をたらしこんだんだな。前科者だってことや、これから堅気になるつもりでいることなど、自分から話したところは、なかなかスマートなお手並だよ。それというのも、ワイナントの弁護士に迂散《うさん》がられたものだから、万一身元を調べられても、仕事のじゃまにならんようにって先手を打ったわけだ。しかし、あの女が本当のところ、なにをやっていたのか、そこまでは知らないぜ。なにしろ、道楽でやっている仕事なんで、人の手を借りるまでもなかったし、おれたち、仲間といっていいあいだがらだったにしろ、せっかくの鴨に告げ口されそうなことをわざわざ打ちあけるなんて、およそ意味ないからね。おれの女とかなんとか、そんなんじゃないよ。幼なじみなだけさ。以前はときどき会ったよ――店にもよく一しょにきたがね。男がうるさくいうし、女も切れてくれというんで、やめにした。おれとほんのちょっぴり酒を飲んだばかりに、やわらかなベッドを取りあげられちゃつまらないからって、そういわれたっけ。それっきりさ。十月だったな、それ以来会ったことないんだがね」
「ほかにどんな連中が、あの女とつき合っていたかね」
モレリは頭をふった。「知らんな。女からも聞かなかったよ」
「あの女、ダイヤモンドの婚約指環をはめていたんだが、心あたりがあるかい?」
「少くともおれじゃないね。このまえ会った時には、そんなものはめていなかったぜ」
「ペプラが出てきたら、また一しょになるつもりだったのかな?」
「ひょっとしたらね。もっとも、あの女は、ペプラがぶちこまれていることを大して気にかけていなかったよ。まあ、女にしてみりゃ、相棒のあるに越したことはないからね、出れば一しょになっただろうな」
「ディツク・オブライエンのいとことかいうやせた男は、どんなもんだね?」
「さあ、どうだったかね」モレリは、びっくり顔をした。
スタシーがひとりでもどってきた。「どうも、あのミリアムは、ちゃんと締めてやれば、なんとか物になりそうな気がするよ」
モレリが、「締めるって、のど首をか」
スタシーは、気げんよく笑った。「ちがうよ。あの女、堅気になりたがっているんだ。唄の勉強に一生懸命だし――」
モレリは、空になったグラスをみつめながら、「兄貴んとこのウィスキーなら、きっとあの女ののどにいいぜ」ふり返って、ピートに怒鳴った。「おい、せむし、さっきのやつをもっと持ってこい。明日、教会で合唱するんだからな」
「はい、すぐに」ピートのしわだらけの灰色の顔にも、いつもの陰気な表情がなかった。
そのとき、ミリアムと一しょのテーブルにいたおそろしくふとった金髪の男がやってきて、女のようなほそい震え声で、「ちびのアート・ナンハイムにいいがかりつけやがったのは、貴様)たちだな――」
いい終らぬうちに、モレリが、その男の腹をめがけて、猛烈な一撃をお見舞いした。スタシーは、立ちあがりざま、モレリの肩ごしに、男の顔をなぐりつける。うしろに廻ったせむしのピートは、手にした盆を、力まかせにたたきつける。ふとっちょがあお向きに引っくりかえるはずみを食って、三人の男と、一台のテーブルとがぶっ倒れる。バーテンダーが二人ともとんできた。その中の一人は、起きあがろうとするふとっちよを、ジョッキでなぐりつける。こんどは四つん這いになるやつを、もう一人のバーテンダーが、カラーのうしろに手を突っこんで、思いっきりのどを締めあげる。最後に、モレリも加勢して、ふとっちょをひき起し、砂ぶくろみたいにおもてに放りだしてしまった。
ピートはあとを見送りながら、歯を吸った。
「スパローの野郎が飲んでいる時には、相手にならんほうがいいですぜ」
スタシーは、ひっくり返った連中が起きあがったり、持ちものを拾ったりするのを手伝った。「ああいうのは、商売のじゃまなんだが、そうかといって、ここからは客じゃないって、線を引くわけにも行かん。おれの店は、いんちき酒場じゃないが、若い娘の学校でもないからな」
ドロシーは、おびえてまっ青になり、ノラはあきれ顔で眼をみはっている。「まるで気狂病院だわ。なんだって、あんなひどいことをするの?」
「ぼくにも、さっぱりわからん」
モレリとバーテンダーが、にこにこ顔でもどってくる。モレリとスタシーは、めいめいの椅子に腰をおろした。
「君たちは猛烈だな」
「猛烈はよかった、ハッハッハッハ」スタシーが大笑いした。
モレリはまじめな顔で、「あん畜生、いつもなにかおっ始めやがる。先手を打つよりしようがないよ。おっ始まったらもう遅い。しょっちゅうあんなふうだ。なあ、スタシー」
「あんなふうって、まだなにもやっていなかったぜ」とぼくが横から口をいれると、
「やっていなくて幸いさ。あんただって、いまに、あの野郎のことを、おれたちと同じように思うようになるよ。なあ、スタシー、そうじゃないか」
「まあ、そうだな。まったく、あの野郎、ヒステリーみたいだよ」
二十三 鎖《くさり》とナイフ
スタシーとモレリにおやすみをいって、ピッグアイアン・クラブを出たのは、二時ごろだった。ドロシーは、タクシーのシートに、からだを投げ出すようにすわると、もったいぶった口ぶりで、「わたし、気もちが悪くなりそうだわ」
「あのお酒のせいよ」ノラは、ぼくの肩に頭をのせた。「ねえ、ニックちゃん。奥さまは、お酔いあそばしたわ。いいこと、今日のことを何からなにまで一つ残らずすっかり話して下さるのよ。いいえ、いまじゃないの。あしたね。あの店でのお話も、出来ごとも、まるっきりなにがなんだかわからなかったわ。とても変てこだったわねえ」
ドロシーが、「こんな風では、アリス伯母さん、きっと発作を起してしまうわ」
ノラが、「あのふとっちょさんを、あんなにぶたなくたっていいのに。でも、みんな面白かったでしょうね」
ドロシーが、「アリス伯母さんと顔を合わせないわけにはゆかないわ。だって、わたし、鍵を忘れてきちゃったんですもの」
ノラが、「ねえ、ニック、わたし、あなたが大好きよ。あなたったら、あんなにすばらしい人たちと知り合いなんだもの。
ドロシーが、「ママのところによって頂いても、そんなに廻りみちにはならないわね」
「ならないとも」ぼくは、運転手に、ミミのアパートを教えた。
ノラが、「一しょにわたしんとこまでいらっしゃいよ」
「いいえ、おじゃましないほうがいいわ」
「まあ、どうして?」
「だって、おじゃましちゃ悪いような気がするんだもの」
女二人のやりとりは、車がコートランド・アパートの前で停るまでつづいた。
ぼくは先に降りて、ドロシーに手を貸した。ドロシーは、ぼくの腕にぐったりよりかかって、
「どうぞ、よっていらして。ほんのしばらくでも」
「じゃあ、ほんのしばらくよ」ノラもタクシーを降りた。
運転手に待っているようにいいつけて、ぼくらは二階へあがって行った。ドロシーがベルを押した。パジャマに部屋着をはおったギルバートが、ドアをあけた。片手で、用心しろというしぐさをしながら、ひそひそ声で、「警察からきているんです」
居間からミミの声がした。「だれだい、ギル?」
「チャールズさんたちと、ドロシーだよ」
入ってゆきかけると、ミミが出てきた。「まあ、いまなら、だれがきてもほんとに嬉しいわ。どうしてよいやら、困りきっていたのよ」桃色のねまきに、桃色|繻子《じゅす》の部屋着、顔まで桃色、どうみても困りきった表情ではない。ドロシーには目もくれず、ぼくたちの手をにぎった。「さあ、すっかりおまかせするわ。この頭のわるい女に、どうすればよいか、教えて下さるのよ」
ドロシーが、ぼくのうしろから、小さな声で、しかし感じはたっぷり出して、「いい気味だわ」とささやいた。ミミは、娘のいったことが聞えない顔をしていた。手をにぎったまま、ぼくたちを居間にひっぱってゆく。「ギルド警部さん、ご存じだわね。とてもいいかたなの。でも、わたし、ずいぶんあのかたの癇にさわったらしいわ。困ってしまったのだけど、もう、あなたがいらして下すったのだから――」
居間に入ると、ギルドがぼくには、「よう」と、ノラには、「奥さん、今晩は」と挨拶《あいさつ》した。もう一人、モレリの訪れた朝、ぼくの部屋の捜索を手つだったアンディは、ぼくたちをみて、うなずきながら鼻を鳴らした。
「なにごとだね?」ぼくは尋ねた。
ギルドは、ミミを横目でにらみ、それから、ぼくの顔をみた。「ボストンの警察が、ヨルゲンセンだか、ローズウォーターだか、とにかく例の男を、まえの妻君のところで見つけて、われわれの代りに訊問してくれたんだ。その結果からすると、その男は、ジュリア・ウルフとは、なんの関係もないらしいんだがね。そのことは、ヨルゲンセン夫人のにぎっている、ワイナントに不利な証拠で証明できると、そういっているんだそうだ」ギルドの眼玉が横に動いて、ミミの顔に焦点を合わせた。「ところが、このご婦人は、イエスだか、ノーだか、はっきりおっしゃらんのだ。真実のところ、このご婦人の扱いようが、わしにはわからんのさ」
ぼくにはその意味がよく飲みこめなかったが、「きっと、おびえているんだよ」そういうと、ミミは急におびえたらしい顔を作ろうとした。「で、ヨルゲンセンは、まえの妻君と離婚しているのかね?」
「妻君のほうでは、そんなことないといっているよ」
ミミが口を出した。「うそをいっているんだわ」
ぼくは、ミミを制して、「ヨルゲンセンは、ニューヨークにもどるつもりなのかい?」
「こっちから要求すれば、ひき渡されてもいいつもりのようだよ。弁護士を呼べって、うるさくいっているらしい」
「君たちは、あくまでひき渡しを要求する気かね?」
ギルドは、大きな肩をゆすってみせた。「こっちでは、こんどの事件の役にたつと思うんだ。古きずとか、重婚とか、そんなことはどうでもいいさ。われわれは、関係していない事件をもちだして、人をせめる気はないからね」
「どうだね?」ぼくがミミにきくと、それには答えず、「あなたとだけでお話したいことがある」という。
「役に立つことなら、かまわんよ」とギルド。
ドロシーが、ぼくの腕にさわった。「それよりも、わたしのお話のほうを、先に聞いて頂きたいわ。わたしね――」それだけでやめてしまった。部屋中の人がドロシーを見た。
「なんだね?」
「わたし――わたしのお話を先にして頂きたいのよ」
「話したまえ」
「べつのお部屋で」
「じゃあ、あとにしょう」ぼくは、ドロシーの手を軽くたいた。
ミミは、ぼくを寝室に案内して、ドアをそっと閉めた。ぼくは、ベッドに腰をおろして、たばこに火を点けた。ミミは、ドアにもたれかかったまま、ひどく神妙な笑顔をしてみせた。十秒ほどすぎた。
「ね、ニック、わたしのためを思って下さるわね」黙っていると、「そうでしょ?」
「いいや」ぼくは、そっけなくいった。
ミミは、声を出して笑いながら、ドアから離れた。「すると、信用がならないというのね」ベッドのぼくのとなりに腰をおろして、「でも、助けるぐらいのことはして下さるわね」
「ことによるよ」
「ことによるって、どんな――」
ドアがあいて、ドロシーが入ってきた。「ニック、わたし、どうしても――」
ミミは、跳び上って、娘のまえに立ちふさがった。いまいましげに、「あっちへおいきよ」
ドロシーはしりごみしながら、「いやだわ。ママは、まさか――」
ミミが、右手の甲でドロシーの口のあたりをたたいた。「出てお行きったら」
ドロシーは悲鳴をあげて、片手を口にあてた。おびえて大きくみひらいた眼を母親の顔にすえたまま、あとずさりに部屋を出ていった。ミミがドアをしめた。
「そのうちに、きっとぼくが君の平手打ちを食うことになるね」
ミミの眼には、憂《うれ》いのかげがかかり、ぼくのいうことが耳に入らない様子だった。くちびるをとがらせ、うす笑いを浮べた。のどに引っかかるような声で、
「あの子は、あなたに惚れているわ」
「馬鹿なことを」
「いいえ、ほんとよ。だから、わたしを妬いているんだわ、わたしがあなたのそばによると、あの子、がたがた震えだすのよ」そのじつ、別のことを考えているようないいかただった。
「冗談じゃないよ。小さいころ、ぼくを好きだったのがいまでも後を引いているってことはあるだろうが、それっきりさ」
ミミは頭をふった。「そうじゃなくてよ。でも、いいわ」またぼくの隣にきて、「助けて頂きたいのよ。わたし――」
「いいとも、雄々しき男性の庇護《ひご》を求めるかよわき野の花よ、か」
「あら、それ、あの子のこと?」ドロシーのでて行ったドアのほうへ、片手をふってみせて、「あなたにご迷惑をかけちゃ――だって、なんでもすっかりご存じの通りなんだもの。ご心配なことは、一つもないのよ」うす笑いを浮べて、「ドリーがお要りようなら、つれて行ったっていいことよ。しかし、そんなことでセンチになるものじゃないわ。もういいじゃないの。むろん、わたしなんか、かよわき野の花ってがらじゃないわ。そんなこと思ったこともないくせに。
「ないね」
「じゃあ、いいわね?」
「いいって、なにがさ」
「そんなに気をもたせるもんじゃないわ。わかっていらっしゃるのに、おたがいにわかり合っている仲じゃないの」
「どうやらね。だけど、君のほうだって、気をもたせっぱなしじゃないか。ほら、いつかのあれ以来さ」
「そうよ。あれは遊びだったの。でも、いまは本気だわ。ヨルゲンセンは、わたしをまるで馬鹿にしていたのよ。だのに、自分のほうが困ってくると、わたしが助けてくれると思いこんでいるんですもの。ええ、わたし、助けてやるわ」ぼくの膝に手をのせ、とがった爪を突きたてた。「警察は、わたしを信用しないのよ。あの連中に、ヨルゲンセンがでたらめをいっているんだということと、わたしは、いままで話した以外、殺人事件のことをなにも知らないということを、どうしたらのみ込ませられるかしら」
「それは無理だよ。それに、ヨルゲンセンは、君が四、五時間まえぼくに話してくれた通りのことを陳述しているんだからね」
「あなたは、それを警察に話したの?」ミミは息をつめ、また爪を突き立てた。
「まだ話していないがね」ぼくは、ミミの手を膝からのけた。
「こうなったら、もう話したりしないわね」ミミは救われたようにため息をついた。
「なぜだね?」
「うそだからよ。あのひともわたしもうそをついたのよ。わたし、なにも発見しなかったわ」
「またふり出しにもどったね。ぼくは、いまでも君のいうことを信じられないよ。さっきの約束はどうなったんだね? おたがいにわかり合っているとか、気をもたせっこなしとか、冗談も遊びもなしとかって」
ミミはぼくの手を軽くたたいた。
「わかったわ。ほんとうのことをいえば、わたし、見つけたものがあるのよ――大したものじゃないんだけど――でも、あんなやつを助けるために、いまさら持ちだす気にはなれないわ。この気もち、わかって下さるわね。あなただって――」
「そうかも知れないね。しかし、そんなことで君の味方をする理由はないさ。クリスがぼくの仇《かたき》というわけじゃなし、あの男をわなに掛ける手伝いをしたって、なんの得にもならないよ」
ミミは溜息をついた。「そのことなら、ずいぶん考えてみたわ。わたしのさしあげられるぐらいのお金で、いまのあなたが満足するとは思わないけど、」ゆがんだ微笑をみせて、「わたしの美しいまっ白なからだをさしあげたって、同じことでしよう。でも、あなたは、クライドを助けたほうがいいと思っているんじゃないの?」
「必ずしも思っていないがね」
「なんのことだか、わけがわからないわ」ミミは笑った。「助けてやるまでもない、と思っているかも知れないのさ。警察だって、たいした人物とはみていないよ、頭の変な男だからね。事件の日に、この土地にいたとか、ジュリアに甘い汁を吸われていたとか、それだけで逮捕するわけにもゆくまいさ」
ミミは、また笑った。「でも、わたしも手伝ったのだったら?」
「わからんね。どういうことなんだい?」答えを待たずに、
「どういうことであれ、君はどうかしているよ。クリスは、重婚でおどかせばいいじゃないか。それ一本槍でゆくんだな。べつに――」
ミミは甘ったるい微笑をもらした。「それは、いまに利用してやるのにとっておくわ、もし、あの人が――」
「もし、殺人罪をうまく逃れたときのためにっていうのかい? そうはゆかないよ。せいぜい三日ぐらい監獄にぶちこめるぐらいのことだ。それだって、検事は、あの男がジュリア殺しの犯人でないこと、君が偽証していたこと、そんことが一切はっきりするまでしらべあげるのだから、いまさらつまらん重婚の訴えを持ちだしたところで、うるさがられるぐらいが関の山だ」
「でも、しらべあげることなんかできないわ」
「できるさ。検事は、君がなにかをかくしていると嗅ぎあてたら、どこまでも洗いあげるぜ」
「ほんとにそうするのね」ミミは、下くちびるを噛んだ。
「本当だとも。検事の役目が以前と同じだとすれば、その通りさ」
「クリスが釈放されては困るわ。でも、自分が事件にまきこまれるのもいやなの」ぼくの顔を見あげて、「わたしにうそを教えたりしたら、それこそ――」
「ぼくのいうことを信用するか、しないか、それっきりしかないよ」
ミミはほほ笑み、ぼくの頬に片手をあてがい、口にキッスをして立ちあがった。「しゃくにさわる人ね。しかし、あなたのいうこと信用するわ」部屋の向うはしまで歩いてゆき、またもどってきた。その眼は輝き、顔は楽しげに火照《ほて》っている。
「ギルドを呼ぼうか」
「だめよ。ちょっと待って。それよりも前に、あなたの考えを知りたいのよ」
「いいよ。だが、ふざけっこなしだぜ」
「あなたは、こわがってばかりいるのね。大丈夫よ。あなたをペテンにかけたりしないわ」
「じゃあ、見せたまえ。ほかの連中はあわてるぜ」
ミミは、ベッドを廻って、戸棚の扉をあけ、衣類をわきへ押しのけ、その向うの布《きれ》のなかに手をつっこんだ。
「愉快だわね」
「愉快なもんか」ぼくも立ちあがった。「大さわぎだよ。ギルドなんか卒倒するぜ」
「興奮しないでよ。あったわ」
ミミは、まるめたハンカチーフを手にして向きなおった。ぼくが近よると、ハンカチーフをひろげて、三インチほどの時計の鎖をみせた。その片はしはたち切られ、他のはしに金製の小さなナイフがついている。ハンカチーフは女もちで、茶色のしみがある。
「これは?」
「あの女がにぎっていたのよ。わたしがひとりになったとき見つけて、クライドのだとわかったから取ったのよ」
「たしかにクライドのものなんだね?」
「そうよ。この鎖は、金と銀と銅でできているのよ。自分の発明した精煉法の初製品からつくらせたのだわ。知っている人なら、一目でわかるはずよ――ほかにこんな鎖はないわ」ナイフを裏がえして、|C・M・W《シー・エム・ダブリュ》と彫りつけたイニシャルをみせた。「あのひとの頭文字《かしらもじ》だわ。ナイフのほうははじめて見たけど、鎖はおなじみだったのよ。何年か身につけていたわ」
「見ないでいえるほどよくおぼえている?」
「むろんよ」
「ハンカチーフは君の?」
「そうよ」
「しみは血だね?」
「ええ。あの女がにぎっていたので、鎖に血がついたの。あら、信用できないような顔をするのね」
「そうでもないよ。こんどというこんどは、君も、本当のことをいっているらしいと思っているんだがね」
ミミは床を踏みならした。「あなたったら――」といいかけて、笑いだし、怒りの色も消えた。
「あなたみたいに厄介なひとははじめてよ。ええ、そうなの。わたしも、こんどこそは本当のことをいっているのよ。なにからなにまで、寸分ちがわないわ」
「そうだろうさ。もういい時分だよ。で、君がひとり残されたあいだに、ジュリアが口をきけるほどの意識を取りもどさなかったということも、木当だね?」
「またひとを怒らせるの。むろん、ほんとだわ」
「よし、わかった。ここで待っていたまえ。ギルドを連れてくる。しかし、この鎖をジュリアがにぎっていて、その時には、まだ死んでいなかったなどと話すと、ギルドに、乱暴をしてうばい取ったのじゃないかと疑ぐられるぜ」
ミミは眼をみはった。「じゃあ、どういえばいいの?」
それには答えず、ぼくは部屋をでて、ドアをしめた。
二十四 おさない嫉妬
居間では、ねむそうな顔のノラが、ギルドとアンディの相手をつとめていた。ドロシーの姿は見えない。「さあ、行ってみたまえ。左手の一番目のドアだ。ヨルゲンセン夫人が待っているよ」
ぼくはギルドをうながした。
「口を割らせたのかね?」
ぼくはうなずいた。
「なにか掴《つかめ》たのか」
「自分で訊いてみるんだな。あとで、ぼくのと合わせてどんなことになるかやってみよう」
「よしきた。アンディ、ゆこう」二人は出ていった。
「ドロシーはどこだね?」
ノラはあくびをした。「あなたがたと一しょだと思っていたわ。ギルバートも、どこかにいるはずよ。いままでここにいたわ。まだ長くかかるの?」
「大してかからないよ」ぼくは、廊下に出て、ミミの部屋をとおり越し、もう一つの寝室まで行ってみた。ドアがあいているので、のぞきこんだ。だれもいない。むかい側のドアはしまっている。そこをノックした。
「だれ?」ドロシーの声だった。
「ぼくだよ」答えて入って行った。ドロシーは、ベッドに横になっていた。靴をスリッパにはきかえただけで、着がえはしていない。ギルバートが姉のそばに腰かけている。ドロシーの口の辺りは、幾ぶんか腫れているようにもみえるが、泣いたせいかも知れない。眼が赤い、頭をもたげ、すねた顔をぼくに向けた。
「まだぼくに話があるかい?」
「ママはどこにいますか」ギルバートが立ちあがった。
「警察の人と話しているよ」
ギルバートは、なにか分らないことをつぶやきながら出ていった。
ドロシーは、肩をすぼめてみせた。「ギルは、わたしのご機嫌とりしていたのよ」それから、思いだしたようにすねた顔にもどった。
「ぼくに話すことがあるの?」
「さっきはどうしてわたしにさからったりなすったの?」
「だだっ子だね。君は」ぼくは、ギルバートのあとに腰をおろした。「ママの見つけたナイフと鎖のこと知っているかね?」
「知らないわ。そんなもの、どこにあるの?」
「ぼくに話したいのは、どんなこと?」
「もういいのよ。でも、せめて、お口のまわりの口紅をお拭きなさいな」ぼくは、口のまわりを拭いた。ドロシーは、そのハンカチーフをひったくり、ベッドのわきのテーブルからマッチ箱をとって、マッチをすった。
「そんなことすると、臭くてたまらないよ」
「かまやしなくてよ」それでも、ドロシーはマッチを吹き消した。ぼくは、ハンカチーフをとりあげ、窓から外にすてた。「さあ、これで気がすんだろう」
「ママ、わたしのことをどういってて?」
「ぼくに惚れているんだとさ」
ドロシーは、急に起きあがった。「で、あなたは、なんとおっしゃったの?」
「小さなころから好きだったのが続いているだけだといったよ」
ドロシーは下くちびるをゆがめた。「あなたは――あなたは、ほんとうにそう思っていらっしゃるの?」
「ほかに思いようもないじゃないか」
「知らないッ」泣きはじめた。「みんな、そのことで、わたしをからかうんだわ――ママも、ギルバートも、ハリスンも――わたし――」
「意地の悪いひとたちだね」ぼくは、ドロシーのからだに腕をまわした。
しばらくしてから、「ママは、あなたを愛してるの?」
「とんでもない。君のママほど男ぎらいの女って知らないな。同性愛ならともかく」
「でも、ママはいつでも――なんというのかしら――」
「それは表面だけさ。そんなことでだまされちゃ困るね。ママは男ぎらいなんだ――相手によらずひどいもんだよ」
ドロシーは泣きやんでいた。額にしわをよせて、「わからないわ。あなたは、ママがお嫌い?」
「まず、嬢いじゃないね」
「今でも?」
「うん。ママはどうかしているんだ。それを、自分ではとても利口なつもりなんだから厄介なのさ。でも、嬢いということはないよ」
「わたしは嫌いだわ」
「前にも、そんなことをいったね。ところで、君は、今晩スタシーの酒場で話題になったアーサー・ナンハイムという男を知っているかね?」
ぼくの顔を刺すようにみつめて、「ひとの話をはぐらかしてばかりいるのね」
「ちょっと知りたいんだが、どうだい?」
「知らないわ」
「新聞にもでていたぜ。ほら、モレリがジュリアと知りあいだって事を警察に告げ口した男さ」
「知らない名前だわ」
その男の人相を話してやった。「そういう男を見たことない?」
「ないわ」
「もしかすると、アルバート・ノーマンと名乗っていたかもしれない。その名なら聞いたことがあるのじゃないかな?」
「ないわ」
「今晩会った連中に知った人はいなかったかね?」
「ええ本当に知らないわ。わたし、お役に立つことなら、かくしたりしなくてよ」
「だれかの不利になるようなことでも?」
「ええ。でも、どういう意味なの、不利になるって?」ドロシーは、両手で顔をおおった。ようやく聞きとれる声で、「こわいわ。もしかすると、わたし――」その時、ドアにノックが聞えたので、あわてて両手をおろした。
「入りたまえ」
やっと頭の入るだけドアをあけたのは、アンディだった。顔に好奇心をあらわすまいとつとめながら、「警部殿が、お目にかかりたいって、そういっているんだがね」
「すぐに行くよ」
すると、アンディは、ドアをもっと広くあけて、ドロシーに「待っているんだよ」といいながら意味ありげなウインクをしてみせたらしい。が、眼よりも口のほうがよけいに動いたので、びっくりしたような顔になった。
「じきもどってくるからね」ぼくは、アンディのあとから部屋の外にでた。アンディは、ドアをしめると、ぼくの耳に口をよせて、「あの小僧っ子が、鍵穴からのぞいていたぜ」
「ギルバートかね?」
「うん、おれの足音で逃げだしたんだ」
「ありそうなことだよ。ヨルゲンセン夫人のほうは、うまくやれたかい?」
アンディは、厚ぼったい唇をまるくすぼめて、騒々《そうぞう》しい息をふき出した。「なかなか大した|しろもん《ヽヽヽヽ》だね」
二十五 ヒステリの発作
ぼくたちはミミの寝室に入った。ミミはひどくうきうきした様子で、窓ぎわの深椅子《ふかいす》に腰かけている。はしゃぐようにぼくに笑いかけて、「せいせいしたわ。すっかり白状しちゃったのよ」
ギルドは、テーブルのそばに立って、ハンカチーフで顔をぬぐっていた。頭のてっぺんには、汗のしずくが光り、顔はつかれて老けたように見える。テーブルのうえには、ナイフと鎖とハンカチーフとがのっていた。
「すんだかね?」ぼくがきくと、
「どうだろう」と、ギルドはミミをふりかえって、「これでおしまいだって、そういいなさるんだね?」
ミミは笑った。「だって、もっとあるだろうといわれたところで、どうしようもなくってよ」
「それでは、二、三分暇をもらって、チャールズ君と話したいんだが」ギルドは、自分のハンカチーフをていねいにたたんで、ポケットに納めた。
「ここでお話しなさいな」ミミは立ちあがった。「わたしは、あちらのお部屋で、チャールズ奥さまとお話しているわ」ぼくの横を通るときに、ふざけるように人さしゆびのさきでぼくの頬にさわった。「このかたたちに、あまり恐ろしいことをおしゃべりさせないでね」
アンデイは、ミミにあけてやったドアを閉めると、まもや口をまるくすぼめて、騒々《そうぞう》しい音をたてた。
「どうだったね?」ぼくは、ベッドに寝ころんだ。
ギルドは咳ばらいをした。「夫人は、この鎖とナイフを、ジュリアの部屋の床で見つけた、ワイナントと争ってちぎったのだろう、とそういったよ。いままでかくしていたわけもしゃべった。あんただからいうんだが、大して意味のあることじゃないよ。合理的に見ればね。しかし、いまの場合には、そんな見かたはよくないかもしれないな。率直にいって、ぼくには、あの女をどう扱っていいのか、さっぱりわからんのだ。事実はなに一つつかめていない」
「なによりも、あの女にうんざりしてしまわないことが大事だよ。一つのうそをとっちめれば、恐れ入って、その代りにまたうそをつく、それもとっちめると、もう一つ別のうそをもちだす、といった具合だ。大がいの相手なら――女でも――三度目か四度目のうそをとっちめられると、そこで降参して、白状するか黙ってしまうかするのだが、ミミはそうじゃない。際限《さいげん》なく先へ行くのだから、よっぽど用心しないと、とっちめることにうんざりしたあげく、いつのまにか相手のいうことを信じこむようになるんだ」
「なるほど、そんなことかも知れないな」ギルドは、カラーの隙間に指をつっこんだ。「ところで、あんたは、ヨルゲンセン夫人を怪しいとは思わないかね」
気がつくと、アンディは、両の眼玉がとびだすほど力をこめて、ぼくの顔をにらみつけている。ぼくは起きあがって、足を床におろした。「ぼくも、それをはっきりさせたいな。鎖の話はペテンのように思えるが……クライドがそういう鎖を持っていたが、いまでも持っていやしないか、調べればわかるさ。自分でいっているほどくわしくおぼえているなら貴金属店に作らせることもできようし、ナイフぐらいどこででも買える。イニシャルを彫らせるのも簡単だからね。そうまで仕組んだと考えなくてもいい。あの女が元々あの鎖を自分で持っていたかもしれない。これも調べればわかることだ」
「われわれは、できるだけのことはやっているんだがね。すると、あんたは、あの女がやったと考えるん、だね?」
「殺人をか?」ぼくは頭をふった。「まだそこまではゆき着いていないさ。ナンハイムはどうだい? 弾丸は符号したかね?」
「うん、同じピストルを使ったものだった。五発とも全部がね」
「五発も射たれたのか」
「そうなんだ。しかも、服の焦げるほど近くでね」
「ナンハイムの女に、今晩ある酒場で会ったぜ。あいつがよけいなことを知りすぎていたので、君とぼくとでやっつけたのだといっているよ」
「ほう。どこの酒場だね? その女と話してみたいな」
「スタシー・バークのピッグアイアン・クラブだ」場所も教えてやった。「モレリもうろうろしていたよ。やつが話してくれたんだが、ジュリア・ウルフは、本名をナンシー・ケーンといって、情男《おとこ》がオハイオの監獄に入っているそうだ――フェース・ペプラとかいっていた」
「そうかね」ペプラのことも、ジュリアの前身もしらべあがっているらしい返事ぶりである。
「なにかほかに獲物はなかったかね?」
「ぼくの友人のラリー・クローリーという新聞記者のはなしだが、昨日の午後、六番街の四十六丁目あたりの質屋から、ヨルゲンセンの出てくるのを見かけたそうだよ」
「そうかね」
「君は、ニュースを聞かせても、大して気乗りしないようだね。ぼくは――」
ドアがあいて、ミミが、グラスと、ウイスキーと、ソーダ水とを盆にのせて入ってきた。「お酒が要るだろうと思ったのよ」ぼくたちはありがとうといった。
盆をテーブルにおくと、「おじゃまはしないわ」と、男の集っているところで女のみせる気をひくような微笑を浮べながら、ミミは出ていった。
「あんた、なにかいいかけてたね」ギルドがうながした。
「ぼくのことを打ちとけないようだと思っているんなら、そういってほしいんだ。今まで力を合わせてきたんだし、ぼくだって、別に――」
「いやいや、そんなつもりはないよ」ギルドは顔を赤くした。「わしらはね――いや、じつは、部長が、やけにせき立てるんでね。わしは、そんなこと知らんふりしようと思っているんだが、二度目の殺人がことを面倒にしているのさ」テーブルのうえの盆をみて、「あんたもやらんかね」
「ストレートで願うよ。ありがとう。二度目のは手がかりがないのかね」
「だからさ。ピストルが同じだということだけだ。店と店とのあいだのアパートの廊下でやられたんだがね。そこに住んでいる連中には、ナンハイム、ワイナント、その他関係のありそうな人間を知っているものがない。玄関には鍵がかかっていなかったから、だれでも出入り白由なのだが、それは大した意味もないようだな」
「なにか見たり聞いたりした者はいなかったのかな?」
「むろん、ピストルの音はきこえたのだが、犯行を見たやつはいない」
ギルドはウイスキーのグラスをよこした。
「からの薬きょうはみつかったかい?」
ギルドは頭をふった。「まえの時も、こんどの時も見つからん。多分|回転胴式《レヴオルヴアー》なのだろう」
「両方とも全弾発射だね。ウルフの電話器に当ったやつを入れるとそうなる。つまり、連中がよくやるように、持ってあるく時には、撃鉄の下にからの胴がくるようにしてあったとすれば、五発装填してあったわけだからね」
ギルドは口にもってゆきかけたグラスをおろした。「まさか、行きずりのならず者の仕業だ、というのじゃあるまいな」
「考えるだけは、考えてもいいだろう。ウルフの殺られたとき、ナンハイムがどこにいたか、それはわかっているのかね?」
「わかっている。あの女の部屋の近所にいたのだ。ずっといたかどうかはわからんが少くともしばらくはいた。まずまず信用できそうな連中のいうことによれば、あいつは、アパートの前ででも裏口ででも人に見られている。エレヴェーター・ボーイは、事件の前日、あいつが女の部屋まで行ったと証言した。すぐに降りてきたが、部屋に入ったかどうかは知らんそうだ」
「なるほどね。ミリアムのいうのは本当かもしれない。じっさい、知りすぎていたのだろうな。ところで、マコーリーのわたした金と、クライド・ワイナントの受け取った金との食い違いの四千ドルについて、なにか手がかりでもあったかね?」
「いや、なにもない」
「モレリの話じゃ、あの女は、しょっちゅう大金をもっていたそうだぜ。現金で五千ドル即座に用立てたこともあるといっていた」
「ほほう」ギルドは眉をあげた。
「それから、ワイナントは女の前科を承知していたともいったよ」
「モレリは、あんたにずいぶんしゃべったようだな」
「おしゃべりが好きなんだな。ワイナントの姿をくらますころの仕事とか、姿をくらました目的とかわかったかね?」
「いや、なにもわかっていない。あんたは、ワイナントの仕事場に興味があるらしいな」
「あるとも。あの男は、発明家だし、仕事場が巣のようなものだったからね。いつかその仕事場を見せてほしいな」
「うむ、いつでもいい。ところで、モレリのことをもっと話してくれよ。縛《しば》って洗ってみたらどうだろう?」
「喜んでしゃべるだろう。君スパローという男を知っているかい? 女のような声をだす、青い顔をしたふとっちょだ」
「知らんね。なぜだい」
「スタシーの酒場で、その男が、ミリアムと一座していて、ぼくになぐりかかったんだが、ほかの連中にやっつけられた」
「どういうわけで、なぐりかかったんだね?」
「知らんよ。ミリアムが、ぼくのことを、君とふたりでナンハイムを殺した、と告げ口したのかもしれんな」
「なるほど」ギルドは、親指の爪であごを引っかきながら、時計を見た。「だいぶおそくなったな。明日――いや今日だ、いつでもいいから、わしのところへよってくれないか」
「いいとも」付け加えていいたいことがあったが、それはやめて、ぼくは、ギルドとアンディとにうなずいてみせただけで、居間へ移った。
ノラは長椅子の上で眠っていた。ミミは読んでいた本を下においた。「秘密会議はすんで?」
「うん」ぼくは、ノラの長椅子に近づいた。
「しばらくそっとしておいたら。――あなたは、警察の人たちの帰ったあと、しばらくここにいらっしゃるわね」
「うん、ドロシーともう一度話したいからね」
「でも、あの子は眠っていてよ」
「いいよ。起してやるから」
「でも――」そこへ、ギルドとアンディが入ってきて、おやすみをいった。ギルドは、眠っているノラを残念らしく眺めやりながら帰っていった。
ミミはため息をついた。「お巡りさんには、うんざりしたわ。例のお話、おぼえていらっしゃる?」
「おぼえているよ」
ギルバートが入ってきた。「警察は、クリスを疑っているんですか」
「いいや」
「じゃあ、だれを?」
「明日になったら、話してもいいが今日はだめだ」
「まあ、おかしいわ」とミミが抗議した。「クライドが犯人だってことは、警察も認めているし、あなただって、そうなのに」ぼくが黙っていると、さらにはげしい調子で、「あなたも、クライドのしわざだとはっきりご存じなのに」
「犯人はあの男じゃないよ」
ミミの顔は勝利のいろに輝いた。「やっぱり、あなたは、今でもクライドに依頼を受けているんでしよう?」
「そんなことないさ」しかし、ぼくのその言葉は、なんの反応も示さずにはねかえった。
ギルバートは、議論を仕かけるほどでもなく、ただなんとなく知りたいのだが、というような調子で、「なぜクライドじゃないとおっしゃるのですか」
「可能性がないわけではないが、あの男じゃない。ミミは、自分にとって不利な証拠をかくしてかばってくれるただ一人の味方なのだ。そのミミにことさら嫌疑の目をむけさせるような手紙を、クライドがわざわざ書くだろうか」
「でも、証拠のことは知らなかったのかもしれないし、警察も判明していることをそうやすやすとあかしはしないと思ったのかもしれませんよ。普通ならあかしはしませんものね。もしかすると、むしろ母さんに疑いをかけさせたほうがいいと考えたのかもしれません。そうなれば、警察は母さんを信用しないし――」
「そうだわ、きっと、あの人そのつもりだったのよ」
ぼくはギルバートに向って、「しかし君だって、クライドを犯人とは思っていないんだろう?」
「ええ、思っていませんが、ぼくは、あなたのほうの推理の筋道を知りたいのです」
「ぼくも君のそれを知りたいよ」
「いや、でも、ぼくは――それは別のことです」ギルバートは顔をあからめた。そのとき、ふいに、「ギルは犯人を知っててよ」と、べつの声がした。ふりかえると、ドアのところにドロシーが立っていた。まだ着がえをしていない。ほかの人の顔をみるのは恐ろしいとでもいうふうに、ぼくの顔だけを、まじろぎもせずにみつめている。その顔は青ざめ、小さなからだはこわばっている。
ノラが眼をあけ、片ひじついて起きあがり、ねむそうな声で、「どうしたの?」と、きいた。
だれも答えない。
「ドリー、そんなお芝居じみた馬鹿なまねはおやめ」ミミにいわれて、
「すんでしまってからぞん分にいじめて頂だい。どうせいじめるつもりなんでしよう」ドロシーは、そういいながらも、ぼくから眼をそらさない。ミミは、娘のいうことが耳に入らないような顔をしている。
「だれが犯人を知ってるんだって?」ぼくが聞くと、ギルパー卜が、
「ドリー、君は自分を馬鹿にしているんだ。君は――」と、いいつのる。それをさえぎって、
「ドロシーのしたいようにさせたまえ。いいかけたことをいわせるんだ。ドロシー、だれがあの女を殺したの?」
ドロシーは弟をみて眼を伏せた。床をみつめたまま、ぼんやりと、「わたしは知らないわ。知っているのはギルよ」眼をあげて、ぼくを見つめ、ふるえはじめた。「わたしがこわがっているのがわからないの?」大きな声で、「この人たちがこわいのよ。どこかへ連れてってちょうだい。そしたらお話するわ。だって、こわいんですもの」
ミミがぼくをみて笑った。「あなたのほうでもつれてゆきたかったのね。丁度いいじゃないの」
ギルバートが顔を赤くしてつぶやいた。「馬鹿なこといって――」
「よし、連れてゆこう。だが、話すだけは、いまここで、みんなの前で話したまえ」ぼくはドロシーをうながした。
「こわいのよ」ドロシーは頭をふった。
「その子を甘やかしたら駄目よ。ますますしようがなくなるばかりだわ」と、ミミがいった。
「ノラ、君はどうする?」
ノラは立ちあがって、のびをした。眠ったあとにはいつもそうなるように、ノラの顔は桃色に染ってかわいらしい。ねむそうに笑いかけて、「帰りましょうよ。この人たちいやになったわ。さあ、ドロシー、帽子と外套をとっていらっしゃいな」
「ドリー、お前は寝るんだよ」ミミがどなりつけた。
ドロシーは、左手の指先を口にあて、泣き声で、「ね、ニック、ママにわたしをいじめさせないで」
ぼくはじっとミミの顔をみていた。微笑をうかべたおだやかな顔だが、息をするたびに鼻の孔が動き、はげしい息づかいが伝わってくる。
ノラがドロシーに近づいた。「さあ、いらっしゃい。顔を洗ってあげるわ。それから――」
ミミは、のどの奥で、けだものじみた音をたてて、首の筋肉をこわばらせ、重心を爪さきに移した。
ノラが、ミミとドロシーとのあいだに入った。ぼくは、一足踏み出そうとするミミの肩を右手でつかみ、左手をうしろから腰にまわして、ミミのからだを吊しあげた。ミミは金切声をあげ、拳を固めて、うしろざまにぼくをなぐり、ハイヒールでぼくの向うずねを蹴りつけた。
そのまにノラは、ドロシーを部屋のそとに押しだして、戸口にたったまま、ぼくたちを見つめている。ひどく生き生きした顔だった。そのノラの顔だけがくっきりと明るく見え、ほかは一切ぼんやりとかすんでいる。突然、背なかと肩が滅多打ちになぐりつけられた。ふり向くとギルバートだった。が、少しも痛くない。その姿もぼんやりとしか見えない。ぼくは肩でギルバートをおしのけた。
「よせよ、ギルバート、君には怪我をさせたくないからな」ミミをソファにはこんで、あおむけに寝かせ、両膝のうえに腰をおろし、両手首をつかんだ。
ギルバートがまた向ってきた。膝がしらを蹴とばしたねらいが低すぎて、すねに当った。相手は崩れるように倒れた。もう一度蹴ったが当らなかった。「喧嘩はあとからできる。水を持ってきたまえ」
ミミの顔は紫色になっていた。眼はとび出してどんよりと意識がない。くいしばった歯のあいだから、息をするたびに泡を吹く。赤い首すじに、はち切れそうにふくれあがった血管がのたうっている。水のグラスを手にしたノラの姿が見えたのが、ぼくには心から嬉しかった。
「顔にぶっかけるんだ」
ノラはいわれた通りにした。ミミは歯をゆるめて大きくあえぎ、眼を閉じた。顔を左右にはげしくふる。「もう一度やってくれ」三杯目の水を浴びて、ミミはなにか抗議めいたことをつぶやいたが、それっきり、ぐったりしてしまった。弱々しくあえぎながら、静かに横たわっている。
ぼくは、ミミの両手首をはなして立ちあがった。ギルバートは、片足で立って、テーブルによりかかり、蹴られたほうのすねをさすっている。ドロシーは、眼を大きくみはり、まっさおな顔をして戸口にたちすくんだまま、入ろうか逃げだそうかと心をきめかねているふうであった。ノラは空のグラスを手にしたまま、ぼくのそばにいた。
「大丈夫かしら」
「大丈夫さ」
やがて、ミミは眼をあき水を払いのけるようにしばたたいた。ハンカチーフを持たせてやるとそれで顔を拭き、身ぶるいしながら、長い溜息をつき、からだを起した。眼をぱちぱちさせながら部屋を見まわす。ぼくに眼がとまると、弱々しくほほ笑んだ。その微笑には、罪を思わせるものこそあれ、後悔のいろは少しも見えない。ふるえる手で自分の髪にさわって、
「もう少しで溺れるところだったわ」
「今にほんとうに溺れて、助からんようなことになるぜ」
「ギル、お前はどうしたの?」ミミは、息子に眼を移した。ギルバートはあわててすねから手をはなし、足を床におろした。「いや――なんでもないんだ」口ごもって、「どうもしやしないよ」髪をなでつけ、ネクタイをなおした。
ミミは笑いだした。「まあ、ギル、お前は、ほんとうに母さんを護ろうとしたのね」いよいよ大笑いになって、「なんてかわいい子なんだろう、お前は。でも、馬鹿ね。ニックは巨人みたいなんだよ。だれだって、ニックには――」こらえきれないというように、ハンカチーフを口にあてて、からだを前後にゆすった。
ぼくは、横眼でノラをみた。口を一文字に結び、怒った顔をしている。そっとノラの腕に手をおいて、「さあ、ぼくたちは帰ろう。ギルバート、君は、母さんに酒を飲ませてあげたまえ。しばらくすれば、すっかりよくなるよ」
ドロシーは、自分の帽子と外套をもって、爪さきだちで玄関のほうへ行った。ノラとぼくは、めいめいの帽子と外套をさがして、ドロシーのあとからそとに出た。ミミは、まだソファのうえで、ぼくのハンカチーフを口にあてたまま、笑いつづけていた。ノーマンディ・ホテルまでのタクシーのなかでは、三人ともあまり口をきかなかった。ノラは考えこみ、ドロシーはまだおびえているらしく、ぼくはくたびれていた――なにしろ、まる一日じゅうの奮闘だったから。
ホテルにもどったのは、五時にちかかった。アスタが大さわぎして出迎えた。ノラがコーヒーを作りに台所に行っているあいだぼくは床に転って犬とふざけた。ドロシーは、自分の小さな頃のことを話したがっていた。
「まえにも、そんなことだったっけ。精神分析学者じゃないんだから、ぼくには、幼時の影響というようなことはわからないよ。そんなことはどうだっていいんだ。それに、ぼくはくたびれたよ――一日じゅう大奮闘したからね」
ドロシーは口をとがらせた。「わたしには、できるだけつらく当ろうとなさるのね」
「いいかい、さっき話そうとしたこと、君はほんとうに知っているのかね? 知っているなら、話してしまうんだな。ぼくのほうでも聞きたいことがある。
ドロシーは、スカートのひだをねじって、すねたようにそれを見ていたが、やがて顔をあげた時には、顔は明るくかがやいていた。小声で、しかし、部屋にいる人ならだれにでも聞えるように、「ギルバートは、父さんに会っているのよ。今日も会って、犯人を教えてもらったんだわ」
「それはだれ?」
ドロシーは頭をふった。「ギルは、わたしに教えてくれないのよ。もう少しでいいそうにしたんだけど」
「それが、ギルやミミの前ではこわくていえなかったことなんだね?」
「そうなの。わたしのお話を聞いて下されば、わかっていただけるんだけど――」
「子供の時分のことなんだね? いや、それは聞きたくないよ。ほかにギルはどんなこといっていた?」
「それっきりよ」
「ナンハイムのことも?」
「ええ」
「父さんはどこにいるの?」
「ギルは教えてくれなかったわ」
「いつ会ったって?」
「それもいわないわ。怒らないでね。聞いただけのことは、すっかりお話しているのよ」
「君は、それをいつ聞いたんだ?」
「今晩だわ。あなたがわたしのお部屋にいらした時、ちょうど、ギルがそのことを話しているところだったのよ。ほんとうに、それっきりしかいわなかったわ」
「君たち、なんでもおしまいまでいってくれると素晴らしいんだがなあ――どんなことでもいいんだ」
ノラがコーヒーをもって入ってきた。「こんどはなにを配しているの?」
「謎とかうそとか、そんなものを面白がるには、ぼくはもう年とりすぎているし、くたびれすぎている。ノラ、ぼくたち、サンフランシスコヘもどろうよ」
「お正月にならないうちに?」
「うん、今日すぐに」
「いいことよ」ノラは、カップをわたしてくれた。「飛行機でもいいね。それなら大晦日には帰れる」
ドロシーがからだをふるわせた。「わたし、うそをつきゃしなかったわ。すっかりお話したのよ。どうぞわたしを怒らないで。わたし――」いいかけてすすりあげる。
ノラが、「みんな、疲れていらいらしているのよ。もう犬を寝かせて、わたしたちもやすみましょう。頭をやすめてからまたおしゃべりすればいいわ。さあ、ドロシー、あなたのコーヒーは寝室にもって行ってあげるわね。ねまきも貸してあげるわね」
ドロシーは立ちあがった。「やんちゃをいって、ごめんなさいね。おやすみなさい」ぼくにいうと、ノラについてでて行った。
もどってきたノラが床の上のぼくのそばにすわった。「ドリーも一人前に泣いたり、ぐちをこぼしたりするのね。あの子にしてみれば、今こそたのしい人生ではないけれど、それでも――」あくびをして、「あの子の恐ろしい秘密ってなんだったの?」
ぼくはドロシーのいったことを話して「どうも、かなり与太のようだがね」と笑った。
「どうして?」
「だって、ぼくたちが自分で掴《つか》んだことのほかは、なんでも与太ばかりじゃないか」
ノラはまたあくびをした。「探偵さんならそれでいいのかもしれないけど、わたしには納得できないわ。ねえ、なぜ、こうなさらないのよ。ほら、容疑者や、動機や、手がかりや、すっかり一覧表にして、それを片っぱしから調べあげて――」
「君がやりたまえ。ぼくは寝るよ。お母ちゃま、ぼく、ねむいよう」
「今晩、ミミのところでひとりでいた時、わたしが眠りこんでいると思ったのね、ギルバートが爪さき立ちで電話のところにきて、交換手に、朝まで電話をつながないように、たのんでいたようだったわ」
「なるほど」
「それから、ドロシーは、しきりにアリス伯母さんのところの鍵をさがしていたらしいわ」
「なるほど」
「それから、モレリがね、ディック・オブライエンのいとこに当るのんだくれがジュリア・ウルフの知りあいだったことをいいかけたとき、スタシーは、テーブルの下でモレリをつっついていたようだったわ」
ぼくは立ちあがって、カップをテーブルのうえにおいた。
「世のなかの探偵諾君は、君と結婚せずによくやってゆけるもんだな。だが、いずれにしろ、君はやりすぎるよ。スタシーがモレリを突っついたことは、ぼくも、ずいぶん考えてみたんだがね。それよりも、連中がスパローをぼくから引きはなしたのが、ぼくに怪我をさせないためなのか、それとも、よけいなことをしゃべらせないためなのか、そいつを考えてみたほうがよさそうだ。ぼくは眠たいよ」
「わたしもよ。でももう少し訊くことがあるわ。ほんとうのこと返事するのよ。ねえ、あなた、ミミと取組《とっく》み合いした時、興奮しなかった?」
「そりゃあ、少しはね」
ノラは笑って立ちあがった。「あなたが、いやらしいおじいちゃんでなければねえ。あら、もう明るくなったわ」
二十六 尾行
十時十五分すぎ、ノラにゆり起された。
「電話よ。ハーバート・マコーリーからだわよ。大事なご用ですって」
居間に寝ていたぼくは、寝室に入って電話に出た。ドロシーは、すやすやと眠っていた。「もしもし」マコーリーの声が聞える。「昼めしにはまだ早いが、至急会いたい。今すぐそっちへ行っていいかい?」
「いいとも、朝めしを一しょにやろうじゃないか」
「ぼくはすんだよ。君はやりたまえ。十五分したら行くぜ」
「よし」
ドロシーが眼を半分あけて、ねむそうな声で、「もうおそいんだわ」ねがえりを打つと、また眠りこんだ。
ぼくは、冷い水で顔と手をぬらし、歯をみがき、髪をなでつけ、それから居間にもどった。
「やってくるそうだ。朝めしはすんだといっていたが、コーヒーでも頼むといいね。ぼくはチキンのリヴァーだ」
「わたしも一しょでいいこと? それとも、わたし――」
「いいさ。マコーリーははじめてだろう? いいやつだぜ。ヴォーの附近で、あいつの大隊に四、五日付いていたことがあってね。戦争がすんでから、おたがいにさがし出したんだ。二、三度仕事をくれたよ。ワイナントの一件もそうなんだがね。どうだい、痰《たん》切りになにか一たらしほど」
「せめて、今日ぐらいしらふでいたらどうなの?」
「しらふでいるために、ニューヨークくんだりまでおいでになったんじゃないぜ。ところで、今晩ホッケーの試合を見るかね?」
「見たいわ」ノラは酒をついで、朝めしを注文しに行った。朝刊に一通り眼を通す。ヨルゲンセンがボストンの警察にあげられたこと、ナンハイムの殺されたことなどのニュースがある。しかし、それよりも、タブロイド型新聞のいわゆる『地獄台所ギャング戦』事件その後の発展、『公爵マイク』ガーガスンの逮捕、それから、リンドバーグ愛児誘拐事件の『ジャフジー』のインタヴューなどの記事が、大きくはばをきかせでいる。
アスタをつれてあがってきたベルボーイと一しょにマコーリーが現れた。アスタはマコーリーが好きだった。たたきかたになんとなく手ごたえを感じるかららしい。大体がこの犬はやさしくして貰うのをあまり好《この》まなかった。
マコーリーは、口のまわりにしわをよせていた。いつもの頬の赤味も、けさは幾ぶんあせている。
「警察は、新しい証拠をどこから手に入れたのだろう。君はどう思う――」と、マコーリーがいいかけたが、そのときノラが入ってきたので、話はとぎれた。ノラは、着がえをすませていた。
「ノラ、ハーバート・マコーリー君だよ。これが家内だ」
ぼくの紹介で二人は手をにぎった。
「ニックは、コーヒーだけでいいというんですけど、なにか召しあがるものは――」
「いや、恐縮です。朝めしはすませてきました」
「で、警察がどうしたって?」うながすと、マコーリーはためらった。「ノラは、ぼくの知っていることならなんでも承知しているんだ。かくしたほうがいいと思うことは――」
「いやいや、別にそんなことじゃないんだ。ただ――いや、奥さんを心配させちゃ悪いと思うものだから」
「大丈夫さ。自分のしらせて貰えないことを気にするだけだよ。警察の新しい証拠というのはなんだね?」
「けさ、ギルド警部がやってきてね。いきなり時計の鎖の切れっぱしにナイフのついたのを出して、見たことがないかって訊くんだ。見おぼえがあったので、ワイナントの持ってたやつじゃないかって、そう答えた。すると、こんどは、それがほかの人の手にわたるようなチャンスはなかったろうかって訊くのさ。話の具合から、そのほかの人というのが、君か、それともミミのことを指しているものと察しられた。で、ぼくは、ワイナントがだれかに贈ることだってあろうし、だれかが、ぬすむことだって、拾うことだってあろうし、ぬすんだか拾ったかしただれかが、別のだれかに贈ることだってありうる、さもなければ、ワイナントから贈られただれかが、まただれかに贈ることだってあろう、と、そういってやったよ。それ以外にでも、そんなものを手に入れる方法ぐらい、いくつだってあるんだっていうと、警部どの、からかわれていると思ったらしい、それ以上訊こうとはしなかった。
ノラの頬に赤いまだらが現れ、眼のいろが濃くなった。
「ひとを馬鹿にしているわ」
「いやいや、君にはいっておくんだったが、ギルドは、ゆうべも、その辺に当りをつけていたんだ。どうも、ミミが入れ知恵したらしいね。ほかにどんなことをいっていたかね?」
「そう、こんなことを訊いていたよ。君とウルフと、最近でもつき合いがあったか、それとも、すっかり切れているのかって」
「そいつもミミのさし金だな。で、君の返答は?」
「チャールズとあの女とが、『最近』つきあっていたかどうか、そいつは知らない。第一、以前そんな仲だってことも知らないほどだ、と、そう返事した。それから、いずれにしろ、チャールズは、ずっと以前から、ニューヨークには住んでいないんだ、といってやった」
「あなた、まえには、そんな仲だったの?」ノラが口を出した。
「マックだって知らないっていってるんだぜ」とぼくはノラからマコーリーに目を移した。「ギルドはなんといったかね?」
「なにもいわなかった。ほかに、君とミミとのことを、ヨルゲンセンは知っているだろうかってそんなことも訊いた。ぼくほ、チャールズとミミとのことって、一体なんだって、逆にきき返えしてやった。すると、とぼけるなって――じっさい、そういう言葉を使ったよ――そう責めるのさ。話はそれっきりになってしまった。君にいつ会ったかとか、どこで会ったかとか、根ほり葉ほり訊いていたね」
「そいつは面白い。ぼくもどっさりアリバイを用意しとかなきゃいかんね」
給仕が朝飯を運んできた。テーブルの仕度のできるまで、ぼくたちは、あたり障りのない話をかわした。
「君などびくびくすることないさ。ぼくは、ワイナントを警察にわたすつもりだよ」マコーリーの声には落ちつきがなく、無理に感情をおさえているようなところがあった。
「君は、あの男にまちがいないと思うのか。ぼくは、そう思わんがね」
「わかっているよ」マコーリーは咳ばらいをして、「ぼくの見当が万一まちがっているとしてもあの男は気ちがいだ。それを野ばなしにしておくのは無茶だよ」
「そうだろうな。で、君にもしわかっているなら――」
「もしじゃないよ。女の殺された日、ぼくは、ワイナントに会ったんだ。事件から三十分とはたたない時間だったが、こっちは、そんなこととは知らなかった」
「ハーマンの事務所で会ったのだろう?」
「なんだって?」
「警察のしらべでは、君は、あの日の午後三時から四時ごろまで、五十七丁目のハーマンという男の事務所にいたことになっているぜ」
「警察の手に入れた作りばなしは、まさにその通りなんだ。ところが、真相はこうだ。つまり、ぼくは、プラザ・ホテルではワイナントに会えず伝言もなかったので、自分の事務所と、ジュリアのところへ電話をかけた。なんの手がかりもなかった。あきらめて、ハーマンのところへ行くつもりで歩きだした。ハーマンは、とくい先の鉱山技師なんだが、作ってやった契約書の条文に字句の訂正をくわえる必要ができたのだ。五十七丁目までくると、不意に、よくあるやつで、尾行されているらしいことを感じた。そんな理由も思いつかなかったが、なにぶん弁護士のことではあるし、まんざらあり得ないことでもないのだ。いずれにしろ、はっきりさせたかったので、五十二丁目の角を東に曲って、マディスン街まで歩いた。まだわからない。ひとり、血色のわるい小さな男の顔が、どうも、プラザで見かけたような気もしたが――タクシーで走ってみれば、手っとりばやく確かめられると思いついて、さっそく呼びとめてね、とにかく東へ走れ、といいつけたんだ。交通がはげしすぎて、はっきりわからない。そこで、三番街を南に折れ、五十六丁目で東にまがり、二番街でまた南にまがった。その辺までくると、一台の黄色いタクシーに尾行されているのが、大体わかった。中の客が、例の小さな男だかどうか、そこまでは確かめられなかった。ところが、つぎの交差点で、赤信号になって、車がとまったとき、五十五丁目を、西に向ってはしるタクシーのなかに、ワイナントの姿を見かけたんだ。大して意外なことでもなかったよ。なぜって、そこは、ジュリアの住居から二町しかはなれていないし、ぼくが電話をかけたとき、ジュリアがあの男のきていることを知らせなかったとしても、まず当然だろうし、もしかすると、ぼくとの約束をはたしに、プラザ・ホテルヘゆく途中なのかも知れなかったのだからね。大体が、時間をまもる男ではなかった。で、運転手にいいつけて、半町ほどあとからつけて行ったが、レキシントン街までくると、まえの車は南へまがった。プラザ・ホテルの方角とも、ぼくの事務所の方角ともちがうので、もう勝手にしやがれと思って、そのままハーマンの事務所へはしらせた。そのころには、ぼくの車は尾行されている様子はなかった」
「ワイナントをみかけたのは、何時ごろだった?」
「三時十五分か二十分だった。ハーマンのところに着いたのが、四時二十分前だったから、それよりも二十分か二十五分まえだろうね。ハーマンの秘書――そら、ゆうべ一しょだった女の子さ。ルイズ・ジャコブスというんだがね――その女の子が、ハーマンは、昼からずっと鍵をかけて会議中だが、もう四、五分もすればすむだろうといった。その通りまもなく出てきたので、十分ばかり用談をして、それから自分の事務所にもどったんだ」
「ワイナントが興奮していたとか、例の時計の鎖をつけていたとか、火薬の匂いがしていたとか、そんなことのわかるほどは近づかなかったのだね?」
「うん、横顔が通りすぎるのをみただけだが、ワイナントだったことには間違いないよ」
「よし、それから?」
「ワイナントは、それっきり電話をよこさなかった。事務所にもどって一時間ばかりすると、警察から、電話でジュリアの殺されたことを知らせてきた。その時にも、ワイナントが犯人だなどとは、考えてもみなかったのだがね。だから、現場に行って、ワイナントのことを訊問され、あの男の疑われているのを知った時にも、ぼくは、百人中九十九人までの弁護士がおとくいに対してとる態度をとった。つまり、殺されたと推定される時分に、ワイナントを現場附近で見かけたことは黙っていたんだ。ただワイナントが約束を守らなかったことだけを話し、ぼく自身は、プラザからハーマンのところに行ったということを納得させた」
「つまり、ワイナントの話を聞くまでは、よけいなことをしゃべるまいと考えたんだね?」
「そのとおり。あの男が姿をあらわすか電話をかけてよこすか、どうにかするだろうと思って待っていたんだが、さっぱり音さたなしだった。火曜日になって、例のフィラデルフィアからの手紙をうけとった。ところが、それには、金曜日にプラザ・ホテルの約束を守らなかったことに、まるっきりふれてないんだ――君には見せたね。どう思ったかね?」
「なにか臭いところがあったかというのかね?」
「そうだ」
「べつにそうは思わなかったな。犯人でなければこそ書けるような手紙だったよ。警察から疑われているのを恐れているわけではないし、仕事にじゃまの入ることを気にしているだけで、要するに、自分に迷惑のかからぬように事件の解決することを望んでいるのだからね。あの男の変人ぶりのよくあらわれている手紙だ。なによりも事件の日の自分の行動を説明するのが大事だということを、すっかり忘れているみたいだな。君の見かけたワイナントが、ジュリアのところから出てきたところだということに、君はどのくらい確信をもてるかね?」
「今なら百パーセントだね。はじめのうちはそれほどでもなかった。もしかすると、仕事場に行っていたのかもしれないと思った。仕事場も、あの交差点から、二、三町のところなんだ。しめたきりだった仕事場も、先月貸借契約を更新して、いつでももどってこられるようになっていたから、そう考えてもよかったんだ。その日、ワイナントが仕事場を訪れたかどうかは、警察のしらべでも、積極的な証拠はあがらなかった」
「ところで、ワイナントは、あごひげを生やしているという噂があるんだがね」
「いや、あい変らず長い骨ばった顔に、ほとんど白くなったもじゃもじゃの口ひげを立てているよ」
「べつの話だが、きのう、ナンハイムという男が殺されたんだ。小さい男で――」
「ぼくも、それをいおうとしていたんだが」
「君を尾行したらしいという小さな男のことから思いついたんだが」
マコーリーは、ぼくをみつめた。「それが、ナンハイムだったのじゃないかというんだね?」
「そんな気もするんだ」
「ぼくにもわからんな。ナンハイムには会ったことがないし。ただ、ぼくは――」
「小さなやつで、五フィート三インチそこそこだった。百二十ポンドぐらいかな。年は三十五、六。血色がわるく、髪は、黒、眼も黒くて細い。大きな口、長くてぐにゃぐにゃの鼻、こうもりのような耳――ずるそうな顔つきだった」
「その男だったかもしれないね。でも、はっきり見えるほど近くまではこなかった。警察が会わせてくれそうなもんだが」肩をすぼめてみせて、「今じゃあとの祭だがね。なにを話していたのだっけ。うん、そうだ。ワイナントに連絡がつかなかったことだったね。そのおかげで、不愉快な目に会ったよ。警察は、実は連絡をとっていながら、ぼくがうそをついているのだ、と思っていたのだからね。君だってそうだろう?」
ぼくはうなずいた。
「あの日に、ぼくがプラザかどこかでワイナントに会ったのだと疑っていたわけだな?」
「ありそうなことだったからね」
「まったくだ。それに君の疑いも全然見当はずれだったわけではない。少くともあいつを見かけたんだからね。しかも、時といい、場所といい、それだけで犯人の太鼓判でも捺《お》されそうな状況だった。そうなると、それまでは本能的に黙っていたぼくも、こんどは、積極的に虚構をつくる気になった。ハーマンは会議にかかりきりだったから、ぼくをどれだけ待たせたかしらない。秘書の女の子は、ぼくの仲よしだから、詳しいことは抜きにして、ぼくが三時一、二分すぎにきたことにしてくれたら、ぼくと、ぼくのおとくいとを助けることができるんだが、と話したら、わけなくひき受けてくれた」深く息を吸って、「しかし、もうそんなことはどうでもよくなったよ。それよりも、けさ、またワイナントから連絡があったんだがね」
「また妙な手紙をよこしたのかい?」
「いや、電話なんだ。今晩会う約束をした。君と一しょにね。会って話をきめなければ、ひき受けそうにない、といったら、それでは、今晩会おうということになったのだ。むろん、警官をつれて行くぜ。ぼくとしても、あの男をかばってやる口実はたねが尽きたからね。どうせ、精神異常を理由に保釈きせられるから、そのうえで監禁するんだな。ぼくの力のおよぶところは、まずそれしかないよ」
「警察には話したかい?」
「まだだ。それよりも、まず君に会いたいと思ったのでね。つまり、君には借りがあるってことを忘れていないつもりなんだ」
「あほらしい」
「そんなことはないさ」ノラにむかって、「砲弾の穴のなかで、ご主人に助けて頂いたことがありましてね。そんな話、聞かれませんでしたか」
「本気にするんじゃないよ。こいつが敵をねらって当てそこなったものだから、ぼくが代りにやっつけた、それだけのことなのさ」マコーリーに、「警察のほうは、しばらく待たせておいたって、いいじゃないか。今晩は、君とぼくとだけで会って、あの男のいうことを聞こうよ。犯人にまちがいなしってことになって、ことが面倒になりそうだったら、それから警官を呼んだっていいさ」
マコーリーは微笑を浮べて、うんざりするというような顔をしてみせた。「まだ疑っているんだね。よし、それじゃあ君のしたいようにしょう。しかし、そいつはなんだな――いや、電話の内容を話したら、君の気もちも変るだろう」
そこへ、ノラのねまきと部屋着と、どちらも長すぎるのを着たドロシーが、あくびをしながら入ってきた。客の姿を見て、「あら」と叫んだが、マコーリーだとわかると、「まあ、きていらっしゃること知らなかったわ。父さんのことで、なにかニュースがあって?」
マコーリーは、ぼくの顔を見た。ぼくは頭をふった。
「まだ、なにも聞かないが、今日あたりなにかいってくるのじゃないかな」
ぼくは、「この子も、間接にだが聞いていることがあるんだ。ドリー、マコーリーに、ギルバートの話をしてみないか」
「父さんのこと?」ドロシーは床を見つめ、しばらくためらった。
「いや、ギルの話さ」
ドロシーは、顔をあからめ、非難するような眼差しをぼくに投げてから、マコーリーに向って、早口に、「ギルが、きのう、父さんに会ったのよ。父さんは、ウルフを殺した人のことを話したんですって」
「本当かね?」
ドロシーは、熱をこめて四、五へんうなずいた。
「そんなはずないがな」マコーリーは、狐につままれたような顔をして、ぼくを見た。「ギルがそういうんだそうだ」
「なるほどね。君は信用するんだな」
「君は、あの一家が割れてから、連中と話したことないだろう?」
「ないね」
「まったくいい経験だぜ。だれもかれもが、色きちがいみたいでね。そいつが頭にもきているんだ。いまに、あの連中は――」
こんどはドロシーが怒ったように、「いやらしいかたね。わたしだって、できるだけ――」
「ぶつぶついうなよ。こんどこそは最後のチャンスを、君に捕《つかま》えさせようとしていたんだぜ。ギルがそんな話をしたってことは、ぼくも信用するが、ひとをあまり甘くみるんじゃないよ」
マコーリーが、「一体、だれが犯人だというんだね?」
「知らないわ。ギルは教えてくれないんですもの」
「君の弟は、しょっちゅう父さんに会っていたの?」
「なんべん会ったのか、そんなことは知らないわ」
「ほかになにか……そうだな……ナンハイムのことなど、いっていなかったかね?」
「いいえ。ニックも同じことを訊いたけど、ギルは、ほかのことなにも話さなかったわ」
ぼくは、ノラの視線をつかまえて合図した。ノラは立ちあがった。「ドロシー、わたしたち、むこうのお部屋に行って、この人たちに気ままにさせてあげようじゃないの」ドロシーは気がすすまないようだったが、結局、ノラと一しょにでて行った。
「あの子は、大きくなってみると、なかなか目立つね」マコーリーは咳ばらいをした。「まさか、君の奥さんは――」
「ほっとけよ。ノラは心得ているさ。君はワイナントの電話のことをいいかけているんだぜ」
「つまり、電話をかけてきて、『タイムズ』の広告を見たが、なんの用だっていうんだ。で、ぼくは、チャールズは事件に捲きこまれることを喜んでいない。とにかく本人と会って話をしないことには問題にならないといっている、と話して、今晩、会うことに決めたんだ。向うからミミに会ったかと訊くから、ヨーロッパからもどって以来、一、二度会った、娘のほうにも会った、と答えた。それから、ミミが金をほしがったら、適当にいくらでもわたしてくれと、そんなことをいうのさ」
「まさか――」
マコーリーはうなずいた。「ぼくも変に思ってね、どういうわけだって訊きかえしたよ。すると、ミミがローズウォーターの手さきだということを、朝刊を読んで知ったが、自分は、それでもなおミミが自分に好意をもっていると信じられるたねをにぎっているんだ、と、そういう返事なのさ。どうやらあの男のたくらみがわかりかけたような気がしたので、ミミがナイフと鎖とを警察にわたしたことを話してやった。あの男、どういったと思う?」
「見当もつかないな」
「咳をしたり、少し口ごもったりしたあげく、修繕のために自分がジュリアに預けてあった時計の鎖とナイフのことかって、聞きかえしたものだ」
「で、君は?」ぼくは笑った。
「それが、こっちは、まるっきり虚をつかれた形なのさ。なんと答えたものかと思案しているうちに、重ねてむこうから、その件は、今晩会った時に、もっと詳しく話し合おうじゃないか、と片づけられてしまった。会う場所と時刻は、もう一度十時に電話でしらせるということだった。いまは忙しくて、話しているひまがない、と、それで電話は切れてしまった。君に電話したのはそのすぐあとだったのさ。さて、これで、君のワイナント無罪説はどうなるね?」
「前ほどではないがね。今晩十時には、間ちがいなく電話がかかってくるだろうか」
「どんなものかな」マコーリーは肩をすぼめた。
「ぼくが君だったら、その電話がかかってきて、いよいよつき出せるようになるまでは、警察には黙っているよ。連中にそんなあやふやな話をもって行ってみたまえ、こっちが臭く思われるに決っているさ。そのあげく、今晩、また相手にすっぽかされたりしたら、それこそ万事はおじゃんだ」
「それはそうだが、肩の重荷を早くおろしたいんでね」
「四、五時間長びいたって、大したことないさ。れいのプラザ・ホテルの違約の一件は、どっちからもいい出さなかったのかね?」
「その話は出なかった。こっちからは、いいだす暇がなかったのだ。待てというのなら、待ちもしようが――」
「いや、とにかく、今晩電話のかかってくるまでは待とうじゃないか。警察の手を借りる件は、それから決めたっていいよ」
「電話をよこすだろうか」
「あまり信用はおけんね。前にも君との約束をやぶっているんだからな。それに、時計の鎖とナイフとの話をきいたとたんに、言葉があいまいになってしまったようだし。いずれにしろ、楽観するわけにもゆかんようだ。だが、どんなことになるかみょうじゃないか。九時ごろ君のところに行くことにするかな」
「晩めしにきたまえ」
「そいつは駄目だが、できるだけ早めに行くよ。敏速に行動するんだな。君はどこに住んでいるんだね?」
マコーリーは、スカーデール・アパートのありかを教えて立ちあがった。「奥さんによろしく。ああそうだ。君は、ゆうベハリスン・クィンのことで、ぼくを誤解しやしなかったろうね。あの男の言葉を真にうけたばかりに株で損をしたといったが、それだけのことなんだ。クィンが怪しいとか、客にもうけさせたためしがないとか、そういう当てこすりのつもりじゃなかったのだがね」
「わかってるよ」ぼくは、ノラを呼んだ。ノラとマコーリーとは、手をにぎり、ていねいな挨拶をかわし合った。マコーリーは、アスタを押しのけ、「まあ、できるだけ早くやってきたまえ、」といい残してたち去った。
「ところで、ホッケーの試合なんだがね」と、ぼくはノラにいった。
「だれか君をつれて行ってくれる人はいないかな」
「そんなものを見逃して、わたしが残念がったことがあって?」
「なかったっけね」そこでぼくは、ノラに、マコーリーの話をつたえて、「ぼくがどう思うかなんて、聞いてくれるなよ。まだ海のものとも山のものともわからないんだ。ワイナントは、なるほど頭はおかしいが、人殺しをするとまでは思えないね。なにかをたくらんでいるらしいが、それがなにかということは、神のみぞ知りたもうだ」
「だれかをかばっているのじゃないかしら」
「君があの男を犯人と思わないわけは?」
ノラはびっくりしたような顔で、「だって、あなたも犯人だとは思わないんでしよう?」
「立派な理由だね。君のいうだれかって、だれなんだい?」
「わからないわ。からかうのはよしてちょうだいよ。ずいぶん考えてみたんだけど、マコーリーじゃないわね。マコーリーは、そのだれかをかばう手伝いをしているんですもの。それに――」
「ぼくでもなさそうだな。ワイナントは、ぼくを利用したがっているんだからね」
「その通りだわね。でも、わたしをからかうと、ひどい目に会ってよ。わたし、あなたより先にそのだれかを当ててみせるから。ミミやヨルゲンセンでもないわ。ワイナントは、あの人たちに進んで嫌疑をかけさせようとしているぐらいだもの。ナンハイムでもないわ。あの人は、同じ犯人に殺られたようだし、今さらかばったって、しようがないものね。モレリじゃないわ。ワイナントはあの人を妬いて喧嘩していたほどなんだもの」ノラは顔をしかめた。「スパローとかいうふとっちょと、あの髪の赤い大女とは、もっと調べたほうがいいんじゃないかしら」
「ドロシーとギルバートはどうなる?」
「それは、こっちから伺いたいわ。ワイナントは、あの子たちに父親らしい愛情を少しでも感じているのかしら」
「感じてやしないね」
「あなたは、わたしを落胆させようとばかり思っていらっしゃるのね。でも、あの子たちとつき合ってみると、どっちかが犯人とは考えにくいわ。そりゃあ、個人的な感情など抜きにして、論理だけを頼りにしているのだけど。わたし、ゆうべ寝るまえに一覧表を作ってみたのよ」
「不眠症予防のためにそんなことをしたのなら、論理主義者らしくもないね。まるで――」
「勿体ふるのは、よしてちょうだい。いつでもなんとかかんとかいってごまかすのね」
「べつに悪気はないのさ」キッスをしてやりながら、「新しい服を着ているね」
「まあ、またはぐらかして、臆病なひと」
二十七 重婚の罪
午後になるとすぐ、ぼくはギルド警部に会いに行った。手をにぎっていきなり用談に入る。
「弁護士は連れてこなかったよ。一人のほうがよさそうに思ったのでね」
「そんな挨拶があるかね」ギルドは、気分を害したような顔をして頭をふった。
「いや、大ありさ」
ギルドはため息をついた。「あんたまでが、わしたちのことを、そんなふうに考えようとは、思いもよらなかったな。われわれは、事件をあらゆる角度からみようとしているんだぜ」
「そんなことは聞きあきたよ。君の知りたいのはなんだね?」
「女を一人と、男を一人と、だれが殺したかということだけさ」
「ギルバートにでも訊ねるんだな」
「というのは、どういうわけだね?」ギルドはくちびるをすぼめた。
「犯人を知っている、と、姉に話したんだ。ワイナントから聞いたということだが」
「すると、おやじに会ったんだな」
「そうらしいよ。本人にたしかめたのじゃないが」
「あの一家は、一体どんなことになっているんだね?」
「ヨルゲンセン一家かね。それは、君のほうでもわかっているはずだ」
「わかっているもんか。あの連中だけは、見当のつけようがないんだ。大体が、ヨルゲンセン夫人というのは、なにものだね?」
「金髪の女さ」ギルドは陰気にうなずいた。「こっらにわかっているのも、それだけなのさ。しかし、あんたは、ずいぶん以前から知りあいなんだし、あの女が、自分とあんたとの仲についていっていることからすると――」
「そればかりでなく、ぼくとあの娘との仲、ぼくとジュリア・ウルフとの仲、そして、ぼくとアスタとの仲からすると、と、こうくるんだろう? だから、女は嫌いさ」
ギルドはぼくの言葉をおさえるように手をあげて、「こっちが、あの女を一から十まで信用するわけではなし、腹を立てるにもあたらないさ。あんたの物のいいかたは、まるで、わしたちがあんたを引っくくろうとしているみたいじゃないか。ぜんぜん誤解だよ。ぜったいに誤解だよ」
「そうかも知れない。だが、ゆうべのあのとき以来、君は二枚舌を使っているね」
ギルドは、うすいろの瞳を動かさずに、ぼくの顔をみつめた。「わしは警察官だし、やらなきゃならん役目があるしね」
「立派ないいわけだな。君は今日出頭しろといっていたが、なんの用だね」
「出頭しろなどというものか。きてもらいたいって頼んだだけだ」
「まあいいさ。なんの用だね」
「おたがいこんな具合になるのは面白くないがね。今まで、男同士のつき合いでやってきたじゃないか。やっぱりそれでやってもらいたいね」
「君のほうで勝手に変えちまったのさ」
「そんなことはないよ。ねえ、あんたは、かくしていることなどないって誓えるだろうな。ないといってくれるだけでもいいが」
ないといってみたところで、ぼくを信用しないギルド相手には、役に立つわけでもなかったので、「まずまずね、」と答えておいた。
「まずまずか。なるほどね」不平らしく、「だれだって、まずまずほんとうのことはいってくれるよ。こっちの望むのは、まずまずなどじゃなく、金的を貫くようなやつなんだがな」
そういうギルドの気持がわからないではなく、同情もできた。「君の目星をつけた連中には、本当のことを知っている人間は一人もいないかもしれないぜ」
ギルドは不愉快な顔をした。「そんなところだろうな。わしは、手のとどくかぎり一人残らず話をしてみた。まだほかにもあるというなら、その連中とも話そう。あんたのいいたいのはワイナントのことかね? われわれは役所の全能を動員して、夜となく昼となく、あの男を追っかけ廻しているんだぜ」
「息子のほうはどうだね」
「そういえば、息子がいたっけね」ギルドは、いろの黒いがに股のクラインという男と、アンディとを呼び入れた。「ワイナントの息子を呼びだせ。つまらんやつだが、話があるんだ」二人は出ていった。「わしは、誰とでも話してみるんだ」
「今白は、ずいぶん癇を立てているようだな。ヨルゲンセンは、ボストンから連れてくるのかね?」
ギルドは大きな肩をすぼめて、「どうするかな。あの男のいうことは、もっともだと思うんだが。あんたのほうには、なにか考えたことがあるかね?」
「あるとも」
「じつは、今日は気分がさっぱりしないんだ。ゆうべはまるっきり眠らなかったよ。いやになっちまう。なんだってこんな商売にしがみついているのか、われながらさっぱりわからない。少しばかりの土地と、柵を結ぶ針金と、幾頭かの銀狐を手にいれて、――そんなことはどうでもいいがとにかく、ずっと以前、一九二五年に、ヨルゲンセン、当時のローズウォーターは、あんたたちと争って、姿をくらましたね。あの男は、女房をほったらかして、名を変え、技師とやらの商売もやめて、ドイツに逃げて行ったんだ。あちらでは、手当りしだい、どんな仕事でもやったといっているが、わしの見当では、どうやらジゴロ稼業だったらしい。それも、大して金持の女を釣りあげたわけでもないようだがね。二十七年だったか、二十八年だったかに、イタリーのミラノで新聞をみて、クライド・ミラー・ワイナントと離婚したばかりのミミがパリにきていることを知った。たがいに知らない同士だったのだが、あいつのほうでは、ミミが、男好き、遊び好きの、大して頭のよくない向うみずの金髪女だということを知っていた。ワイナントの財産の一部が女の手にわたっているとにらんだ。自分はワイナントにかたり取られたのだから、その女からありったけ取りあげたところで、もともと自分のものを取りかえすだけのことだと思った。そこでパリまで押しかけて行った。ここまではいいね?」
「いいようだな」
「パリでは、じかにぶつかったのか、だれかに紹介させたのか、いずれにしろ大した面倒もなく女と知りあいになった。はたしてミミは二十万ドルという大金をせしめていた。男のいい出すまえに、女のほうで惚れこんで、結婚を考えていたというね。まるで、一も二もなくドル箱のなかに引っぱりこまれたようなものさ。二人は結婚した。あいつは、それをごまかしの結婚だといっている。つまり、スペインとフランスとのあいだの山のなかの、フランス領の土地で、スペインの坊さんを頼んで式をすませたのだから非合法だというんだ。しかし、そんなことは、重婚の罪を免れようとする口実にすぎない。わし個人としては、どうでもいいことだ。それよりもだいじなことは、男が女のドル箱を、一文なしになるまで抱えこんでいたことだ。女のほうでは、男のことを、まさか前夫を裏切ったローズウォーターだとは知らず、パリではじめて会ったクリスチャン・ヨルゲンセンだとばかり思いこんでいた。あいつは、ボストンでつかまった時にも、女はまだ気がついていないといっていたよ。この辺はまちがいないだろうね」
「そんなところだろうな。結婚手続きのことは別だが、それだって、あるいは本当かもしれないぜ」
「まあね、だが、どっちだって大したちがいはないさ。やがて、銀行の勘定も心細くなったので、男は残った金をにぎって、女から逃げだすしたくにかかった。女は、アメリカにもどってワイナントをしぼれば、もう少しなんとかなる、とそんな入れ知恵をした。男はそれができればうまいと思い、女も必ずできると思ったので、二人は船に乗って――」
「その辺から、そろそろ怪しくなるね」
「どうしてさ。あいつは、前の女房のいることのわかっているボストンにわざわざゆく気はなかった。それよりも、ことにワイナントも含めて、知人に会わないようにするつもりだった。それに、七年たてば、なにもかもご破算になる時効法のことをだれかにきいたんだ。あまり危険を冒さないことにした。この土地にも長居するつもりはなかった」
「そこんとこはまだ頂けないな。しかし、まあ先へ行きたまえ」
「この土地へもどってきて二日目だ。ワイナントをさがしているうちに、飛んだへまをやった。というのは、街で、前の女房の友だち――オルガ・フェントンに顔を見られてしまったのだ。そこで、前の女房をしくじったことには触れないようにしながら、自分のでっちあげた、映画物語めいた筋書き――あいつの想像力はまったく大したものだよ――それを持ちだして、オルガをいいくるめにかかった。それも大して長もちはせず、オルガは自分の教会の牧師に打ちあけて、どうしたものかと相談した。そして牧師から、まえの女房に話せといわれてね、そのとおり実行したオルガは、つぎにヨルゲンセンに会ったとき、そのことをいった。あわてたあいつはまえの女房をなだめにボストンにでかけ、そこでわれわれに捕った、という次第なんだ」
「あの男が質屋に行ったのは?」
「ボストン行きの途中だったのさ。発車まで四、五分しかないのに、一文なしだった。銀行はしまっている。それで、時計を曲げたのだ」
「その時計を見たかね?」
「必要があれば見られるが、なぜだね?」
「ミミが君にわたした鎖に、その時計がついていたのじゃないだろうか」
ギルドは上体をまっすぐにした。「そんなことがあるものか」ぼくの顔を横眼づかいにみて、疑わしげに、「心当りでもあるのか、それとも――」
「いや、どうかなと思っただけさ。こんどの事件のことを、ヨルゲンセンはなんといっているかね? あの男は、だれを犯人と思っているのだろう?」
「ワイナントだと思っているよ。一度は、ミミかも知れないと思ったが、ミミ自身から、そうでないことを納得させられそうだ。ミミは、ワイナントに不利な証拠のことを、あいつに話していないらしい。もしかすると、あいつは、自分をかばうために、そんなことをいっている、かもしれない。あいつたちが、ワイナントから金をしぼるのに、それを利用するつもりでいることには、疑いがないようだな」
「じゃあ、君は、ミミが、あのナイフと鎖とを、落しこむわなに使ったとは思わないかね?」
「ワイナントをゆするたねとも考えられるね。それでもいいだろう?」
「その考えかたは、ぼくみたいな人間には、少しややこしすぎるな。ところでフェース・ペプラが、今でもオハイオの監獄にいるかどうか、当ってみたかね?」
「うん、あいつは、来週でるよ。ダイヤモンドの指環も、そのことで説明できるんだ。ペプラはそとにいる仲間に、あの指環をとどけさせた。出たら結婚して堅気で暮すつもりだった、というようなことらしい。典獄は、二人のあいだの手紙に、そんなことの書いてあるのをみたそうだ。しかし、こんどの事件に関係のあるようなことは思いだせないと典獄はいっている」
そのとき、電話がかかってきた。ギルドは受話器をとって、「うん……なに?……いいとも、いいとも、だが、だれかを残しておくんだぞ……よし」ガチャンと電話を切ると、
「いや、ほかの連中が、きのうの二十九丁目殺人事件をやっているんでね」
「へえ。ぼくは、また、ワイナントという名前がきこえたような気がしたんだが。電話によっては、妙なきこえかたをするのがあるようだね」
ギルドは、顔をあからめて、咳ばらいをした。「べつのことがそんな風にきこえたのだろう――きっとそうだよ。そんなことだってあるよ――あるとも。そうだ、忘れるところだったが、あのスパローを、お望みによって当ってみたぜ」
「どうだった?」
「これということもないようだ。本名を、ジム・ブロフィーというんだが、ナンハイムの女とよろしくやっていたところへ、女があんたのことで腹を立てたので、いいかげん酔っぱらってもいたし、あんたに一つ食わせれば、女に実をみせることにもなると思ったんだな」
「結構な思いつきだ。君は、スタシーに迷惑のかかるようなことはしなかったろうな」
「あいつ、あんたの友だちか。すばらしくどっさり前科のあるペテン師あがりだぜ」
「そうとも、ぼくも一度あいつを縛ったことがあるよ」ぼくは、帽子と外套をとりあげた。「忙しいんだろう。ぼくは一走り行って来て――」
「いやいや、あんたのほうで暇なら、ここにいてくれたまえ。あんたの面白がりそうなことが、二つ三つあるんだ。それに、ワイナントの息子のことでも、手つだって貰えるかもしれない」
ぼくは、また腰をおろした。
「そうだ、あんたには、一杯やって貰うかな」ギルドはデスクのひきだしをあけた。「いや、いいよ」元来、警察の酒でたのしい目に会ったためしはないのだ。
また電話が鳴った。「うん……うん……それでいい、もどってこい」ぼくは、それとなく注意していたが、こんどは、なにもきこえなかった。
ギルドは、椅子にふんぞりかえって、両足をデスクにのせた。「さっきの銀狐を飼う話は、本気なんだがね。どうだろう、その場所として、カリフォルニアあたりは?」
カリフォルニア州南部のライオンと駝鳥の養殖場のことを、話すか話すまいかと考えているとき、ドアがあいて、ふとった赤髪の男が、ギルバート・ワイナントを連れて入ってきた、片目のまわは、肉が腫れあがって、眼玉がみえないほどになり、ズボンの破れから左の膝小僧がのぞいていた。
二十八 堂々たる威容
「君の部下は、呼びだせといいつけられた時には、ただ呼びだすのじゃないのか」ぼくはギルドをなじった。
「そういうな。あんたの思っているよりも、もっと大物だぜ」ふとった赤髪の男に、「さあ、フリント、聞こうじゃないか」
フリントは、手の甲で口を拭った。「この小僧は、まったく食わせものですぜ。みかけはおとなしそうなくせに、抵抗しやがってね。いやはや大ごとでしたよ。逃げ足の早いことといったら――」
「でかしたよ。部長どのに申しあげて、賞状を頂いてやる。だが、今は手がら話はやめて、すぐ本論に入れ」
「わしは、なにも、自分が手がらを立てたなんていいやしませんぜ」フリソトはむきになった。
「わしは、ただ――」
「お前がなにをやろうと、わしの知ったことじゃない。訊いているのは、この小僧のやったことだ」
「それをいおうとしとったんです。今朝八時に、モーガンと交代してから、二時二十分ごろまでは、虫一匹はいだすでなく、まったく静かなものでした。それが、二時二十分、鍵の音がきこえてね」くちびるを吸いこんで、聞き手がびっくり顔をするのを、待ちかまえる。
「ウルフの部屋なんだがね、」と、ギルドが説明をくわえた。
「虫の知らせがあってね」
「へえ、虫の知らせがね。大したもんだ」フリントが、酔ったような感嘆の声をあげた。が、ギルドににらみつけられて、あわてて話をつづける。「鍵の音がして、ドアが開いて、入ってきたのが、この小僧なんでさ」わざわざギルバートの方を向いて誇らしげに、また愛《いと》しむように、にやりとしてみせた。「こいつ、びっくり仰天棒立ちになってね、わしが近よると、やにわに飛びだし、いちもくさんに逃げるんですよ。一階まで追っかけて、どうやら捕えると、こいつ、組みついてきやがったもんだから、眼をなぐりつけて、やっとおとなしくさせたんで。大して強そうにもみえないが――」
「部屋に入ってなにをしたね?」
「なにもかにも、する暇などあるもんですか。わしが――」
「なんだと? お前は、なにしにやってきたか見とどけもせずに、とびかかったのか?」ギルドの首すじはふくれあがり、カラーからはみ出し、顔は、フリントの髪ほどにも赤くなった。
「余計なことをさせちゃいかんと思ったんですが」
ギルドのいかりに燃えたうたぐるような眼が、ぼくの顔をにらみつけた。ぼくは顔の表情が変らないように、一生懸命努力した。「もういい、フリント。外で待っていろ」
赤髪の男は、とまどったような顔になった。「はい。これが、こいつの持っていた鍵で――」その鍵をギルドのデスクのうえにおくと、ドアのほうへ行った。戸口で、首をねじって肩ごしに「こいつ、自分のことを、クライド・ワイナントの息子だって、頑張っていますぜ」嬉しそうに笑った。
ギルドは、どこかに引っかかったみたいな声で、「そうか、そんなことをいっているのか」
「そうなんで。わしは、こいつをどこかでみたおぼえがあります、ね。ビッグ・ショーティ・ドランの騒動の時の一味だったかな」
「そとに出ろ」ギルドにどなりつけられて、フリントは出ていった。
「くそっ。ビッグ・ショーティ・ドランの騒動だと、よくもぬけぬけと――」ギルドは、絶望したように頭をふって、それから、ギルバートに、「どうだね、坊や?」
「ぼく。悪いってわかっていたんですが……」ギルバートは目をおさえながら、すなおにいった。
「よしよし、うまくゆきそうだぞ」愛想よく、そういい、顔ももと通りになった。「だれだってまちがいはあるもんだ。その辺の椅子を引っぱってきたまえ。君がどうすればこのごたごたから抜けだせるか、一つ一しょに考えてみょうじゃないか。その眼は、どうかしなくていいかな」
「いや、大丈夫です」ギルバートは、椅子を二インチほどギルドのほうへ動かして、腰をおろした。
「よっぽどひどくなぐられたね」
「いや、ぼくが悪かったのです。抵抗したからです」
「そうだろうとも。誰だって捕るのはいやだからな。ところで、どうしたわけだったんだね?」
ギルバートは、開いているほうの眼を、ぼくに向けた。
「君は、まんまとギルド警部の思う壷にはまっちまったのさ。この人を安心させてやれば、君だって楽な気もちになれるぜ」ぼくは助け舟をだしてやった。
ギルドは熱心にうなずいた。「その通りだ」思いやりのある調子で、「その鍵は、どこから手に入れたんだね?」
「父さんが、手紙のなかに入れて、送ってよこしたんです」ポケットから白い封筒を出して、ギルドにわたした。
ぼくは、ギルドのうしろに廻って、肩ごしにのぞきこんだ。宛名は、コートランド・アパート内、ギルバート・ワイナント殿、とタイプしてある。切手は貼ってない。「いつ受たけとったの?」ぼくは訊ねた。
「ゆうべ、十時ごろ帰ってきたら、それが、帳場のデスクに置いてありました。いつごろとどいたのか、それは訊いてみませんでしたが、ご一しょに出かけた時にはなかったと思います」
封筒のなかみは、二枚の紙に、みなれた下手なタイプで打った手紙だった。ギルドと一しょに読んでみた。
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ギルバート殿
ここ数年のあいだ、一度もおまえに便りをせずにいたのは、母さんがそれを望んだからなのだ。それが、こんど、母さんのその希望にさからってでも、おまえに手紙を出して、ぜひとも手を貸して貰わなければならない事態が起った。おまえも一人前の男なのだから、これからも父親と他人でありつづけるか、それとも、血のつながりを絆《きずな》として父親に協力するか、そのいずれかを自分で選ぶことができると思う。わたしが、いまジュリア・ウルフ殺害事件に関して困難な立場におかれていることは、おまえも知っているだろうが、父親がその事件にまったく毛筋ほども関係していないことを望むだけの愛情を、心の片隅に残してくれていることを、わたしは信じている。事実もまたその通り、わたしはあの事件になんの関係もない。その潔白を、警察と世間とに断乎として証明してみせるためにこそ、おまえの手を借りたいのだ。これを頼むについては、おまえが父親に対して抱いていると想像される愛情のかけらとは比べものにならないほど大きな信頼をおまえにかけるわけなのだが、わたしは、おまえが、自分と、姉さんと、父親との名前を清浄に保つためになら、力のおよぶ限りを尽したいと願っているものと信じよう。現にわたしの無罪を信じ、その立証にあらゆる努力を傾けてくれる有能な弁護士もいれば、ニック・チャールズ氏も助けてくれるとは思うけれども、その人たちに、どう見ても非合法であるようなことを依頼するわけにはゆかないし、そうかといって、わたしは、おまえよりほかに信頼していい人間を一人も知らない。
ところで、おまえに頼みたいのは、こういうことだ。明日、東五十四丁目四一一番地にあるジュリア・ウルフのアパートに行って、ここに同封する鍵を使って部屋に入り、『堂々たる威容』という標題の書物を見つけだし、ページのあいだにはさんである書きつけを読んで貰いたい。読んでしまったら、すぐに、必ず灰も残らぬほど完全に焼きすてること。そうせねばならぬわけはその書きつけを読めばわかるはずだ。同時に、ことさらにほかならぬおまえの手を借りた理由も了解されよう。
この計画を変更しなくてはならないようなことになったら、今晩、おそく、電話で連絡する。その電話がなかったら、たのんだとおり実行してもらう。そして明日の晩こちらから電話をかけて、結果をしらせてもらい、おまえとあう相談をしよう。おまえがこの限りなく大きな責任を果すであろうことを、また、わたしのおまえによせた信頼のあやまらぬであろうことを確信しつつ。
愛情をもって
父より
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『父より』の下には、だらしのない署名が、インクで書きこんである。
ギルドとぼくは、お互に相手がなにかいいだすのを待った。しばらくすると、ギルドがギルバートに向って、「電話はかかってきたかね?」
「かかってきません」
ぼくは口を出した。「それが、どうしてわかる? 君は、電話を一切つながないように交換手にたのんだんだろう?」
「いや、ぼくは――ええ、たのみました。あなたのいらっしゃるあいだにかかってきて、相手をさとられるのが恐ろしかったのです。でも、交換手への伝言もありませんでした」
「すると、まだ父さんと会ってはいないんだね?」
「ええ」
「ジュリア・ウルフ殺しの犯人もだれだか聞いていないんだね?」
「ええ」
「じゃあ、ドロシーには、うそをついたんだな」
ギルバートは、床を見つめながらうなずいた。「ぼくは、姉さんを妬いたんです」眼をあげてぼくを見た顔は赤くなっていた。「つまり、姉さんは、ぼくのことを、だれよりも物しりだと思って、尊敬してくれていました。わからないことがあると、ぼくに相談して、ぼくのいう通りにしていました。ところが、あなたに会ってからは、そうでなくなって、あなたのほうをずっとよけいに尊敬するようになったのです。こんなこと、当りまえで、比べるほうが間ちがっているんです。しかし、ぼくは、そのことが妬けてたまらなかったんです。なにか姉きんの心を自分に向けさせるようなことをしてみせたくなりました。ええ、つまらない見栄ですが――。そこで、いまお読みになった手紙を受けとると、それを、父さんにじかに会って、犯人のことを聞いたという風にしたのです。そうすれば、姉さんも、やっぱりぼくのほうがあなたより知っでいると思うだろうって考えたのです」そういって、ホッと息をつぎ、ハンカチーフで顔をふいた。
ぼくが黙ったままでいると、しびれを切らせたギルドが口をひらいた。「なるほどね、大して悪いこともしていないようだな。なにも大事なことをかくしてやしないだろうね?」
ギルバートは頭をふった。「かくしていることなんかありません」
「君の母さんが、わしにわたしたナイフと鎖の詳しいことも知らないんだね?」
「知りません。そんなことのあることだって、あの時まで知らなかったのです」
「ママはどうしているね?」ぼくがたずねた。
「今日は寝ているっていっていましたけど、大したことないと思います」
「あのご婦人がどうかしたのかね」ギルドは、眼をほそくした。
「ヒステリさ。ゆうべ、娘と一騒動あってね。ママは発作を起したんだ」
「どういうわけだったんだね?」
「そんなこと知るもんか。女にはつきものの気ちがい沙汰さ」
ギルドはうなずきながら、あごを引っかいた。
「フリントは、君がなにもさがす暇はなかったといっているが、本当かね?」ぼくはギルバートに訊ねた。
「本当です。追っかけられて、ドアをしめるひまもなかったくらいなんです」
ギルドが唸《うな》るような声で、「あの連中は、すばらしい警官だよ。君にとびかかるとき、でかい声で『くそっ』といったろう? 気にするなよ。ところで、君に対してとる処置は二通りあるんだが、君次第でどっちでもいいんだぜ。つまり、しばらく泊ってもらうか、それとも、すぐ放してやるかだ。だが、放してやるからには、父さんと連絡のつき次第、父さんの話したことと、会う約束をした場所とを教えてくれることだ」
ぼくは、ギルバートの答えない先に、ギルドに向って、「それはいかん。とにかく親子のあいだがらなんだからね」
「いかんか。なるほどね」顔をしかめて、「だけど、父さんが無罪なら、かえって為になるんじゃないかな」
ぼくは答えなかった。
ギルドの顔が次第にあかるくなった、「よしわかった。じゃあ、一つ約束してもらおう。父さんにでも、ほかの誰にでも、なにかたのまれたら、このぼくに約束があるからできない、と、そういうこと。いいかね」
ギルバートは、ぼくの顔を見た。それならいいだろうというぼくの言葉で、「わかりました。約束します」と答えた。
「よし、帰ってよろしい」ギルドは、片手で大げさな身ぶりをしてみせた。
ギルバートは立ちあがった。「どうもありがとう」ぼくのほうを向いて、「あなたは、これから――」
「うん、急ぎの用がないなら、そとで待っていたまえ」
「そうします。ギルド警部さん、失礼します」ギルバートはでて行った。ギルドは受話器をとりあげて、『堂々たる威容』という書物と、そのなかに挾んである紙きれをさがして持ってくるようにいいつけた。電話がすむと、両手を頭のうしろで握りあわせて、椅子にかけたままそりかえった。「さて、どうするかな?」
「もうわけはないね」
「おいおい、あんたは、まだワイナントを犯人ではないと思っているのかい?」
「思っていることが、こんなことぐらいで変ったりするもんか。どっちにしろ、君は君で、ミミからワイナントに不利な証拠をたっぷり手に入れたじゃないか」
「うん、あれはあれで大した獲物だがね、あんたの考えと、その理由とを知りたいんだ」
「ぼくの家内は、ワイナントが、誰かをかばっているんだと思っているぜ」
「なるほど。大体がぼくは決してご婦人の本能を軽《かろ》んじたりしないたちだが、それにしても、奥さんはすばらしく頭のいいご婦人だな。で、奥さんの考えでは、だれをかばっているんだね?」
「さっきはまだはっきりしないようだったが」
ギルドは溜息ついた。「まあいいさ。ワイナントが息子に取りにゆかせた書きつけで、なにかが判明するかもしれないよ」
だが、その午後のうちには、なにごとも判明しなかった。殺された女の部屋には、『堂々たる威容』と題する書物のかげも形もなかった。
二十九 ワイナントの出現
ギルドは、赤髪のフリントを呼び入れて、油をしぼった。フリントは、汗を十ポンドほど流したが、それでも頑固にギルバートには、なに一つ触らせなかったし、自分の見張っているあいだ、だれにも一切部屋のものには手をつけさせなかった。といい張った。『堂々たる威容』のことを詰問すると、そんな本のあったことは記憶にないとの返答だった。とはいえ、この男、元来が書物の標題など頭に入れておきそうながらではない。そのうちに、少しでも役にたちたいと思ったのか、余計な助言をもちだしたりしたので、どうとうギルドに追いだされてしまった。
ぼくはいってみた。「もう一度ギルバートと話す必要があるなら、そとでぼくを待っているはずだが、……」
「あんたは、そうしたほうがいいと思うかね?」
「いや、べつに」
「じゃあ、いいさ。それにしても、本をぬすんだやつがあるんだな。そうなると、こっちも――」
「なぜ、だね?」
「なぜって、なにがさ?」
「だって、ぬすまれるといったところで、もともとそんなものがあったかどうか怪しいもんだぜ」
「というと?」ギルドはあごを引っかいた。
「ワイナントという男は、事件の当日、マコーリーとの約束をすっぽかした。アレンタウンの自殺の一件は人ちがいだった。ジュリア・ウルフから受けとった金額に不審がある。ジュリアとの仲も、みんなの考えているのに相違して、単なる友だちづき合いだといっている。そんな具合で、あの男のことになると、どうも信用できない気がするよ」
「まったくだ。あの男も、姿をあらわすか、さもなければ、高飛びでもしてしまうのなら、そのほうがよっぽどはっきりするんだが。今みたいに、即《つ》かず離《はな》れずのあたりでうろうろされると問題がややこしくなって、よけい始末がわるい」
「ワイナントの仕事場は、監視をつけてあるのかね?」
「注意だけは怠っていないつもりなんだが、どうしてだい?」
「べつにどうしてというわけもないがね。あの男は、ひとの注意をいろんなところへ惹《ひ》きつけては、そのたびに無駄ぼねを折らせているだろう? だから、注意の圏外にあるようなところを洗ってみるのもいいかもしれないよ。あの仕事場は、そういう場所の一つだぜ」
「なるほど」
「そいつは、ぼくの置きみやげだ」ぼくは、帽子をかぶり、外套を着た。「今晩おそくなってから、君をつかまえるには、どこに連絡すればいいかね?」
ギルドは、電話番号を教えてくれた。ぼくは、握手して部屋を出た。
ギルバートは、廊下で待っていた。タクシーに乗るまで、二人とも無言だった。車に乗ると、ギルバートは、「警部さんは、ぼくのいったことをほんとうだと思っているのでしょうね?」
「そうだとも。ほんとうじゃなかったのかね?」
「いいえ、ほんとうですけど、他人はなかなか信用してくれないものですからね。今日のこと、ママには内証にして頂きたいんです」
「君がそういうなら、黙っているよ」
「すみません。どうでしょう、若い者にとっては、東部より西部のほうにチャンスが多いんでしょうか」
ギルドの養狐場のことだなと思った。「今は、それほどでもないだろうな。西部にゆく気があるのかい?」
「はっきりしているわけじゃないんですが、なにかやってみたいと思うのです」ネクタイをいじりながら、「それから、妙なことうかがいますが、あの、近親相姦って、ほんとうにあることなんでしょうか」
「たまにはね。あるからこそ、そんなことばもできているのさ」ギルバートは顔をあからめた。
「君をからかっているんじゃないぜ。君のいうそのことは、他人には、見つけだしようがなくて、わからないことなんだ」
二、三町走るあいだ、沈黙がつづいた。やがて、「もう一つ、やっぱり妙なことですが、あなたは、ぼくのこと、どう思っていらっしゃるのでしょう?」
「君は、常人と変人とを一しょくたにしたような男だな」
ギルバートは、眼を窓のそとにそらした。「ぼくは、まだわかくて駄目なんです」またしばらく、二人とも黙った。そのうちに、ギルバートが咳きこんだかと思うと、口のはしから、血が少しあふれてきた。
「怪我をしたね」
ギルバートは、はずかしそうにうなずいて、ハンカチーフで口をおさえた。「ぼくは弱虫なんです」
コートランド・アパートまでくると、ギルバートは、助けおろそうとするぼくの手をふり払って、大丈夫だと頑張ったが、ほっとけば、怪我のことを黙っているだろうと思ったので、ぼくは一しょに階段をのぼった。鍵をとりだそうとするギルバートの先を越して、ベルを押した。ミミがドアをあけた。息子の眼のまわりが黒ずんでいるのをみて、彼女は、眼をみはった。
「怪我をしたんだ。ベッドに寝かせて、医者を呼んでやりたまえ」
「一体どうしたの?」
「この子は、ワイナントに用事をたのまれたんだがね」
「用事って?」
「よくなるまで、そっとしておいたほうがいいよ」
「だって、クライドなら、ここにきていたのよ。あなたに電話したんだけど」
「なんだって?」
ミミははげしくうなずいた。「そうなのよ、あの人がきたのよ。ギルはどこへ行ったかって、訊いていたわ。一時間もいたかしら。出ていってから、まだ十分とたってないわ」
「なるほど。いや、とにかく、この子を寝かせてやりたまえ」ギルバートを母親にまかせて、ぼくは電話器のところへ行った。
出てきたノラに訊ねた。「電話があったかい?」
「はい、旦那さま」と、ノラがおどけ声でいった。「マコーリーさまと、ギルドさまと、ヨルゲンセン奥さまと、それから、クィン奥さまとから、電話を頂きたいとのことでした。お子さんがたからは、まだでございますわ」
「ギルドの電話は、いつごろだった?」
「五分ばかり前ですわ。ごはんはおひとりになるけど、よくって? ラリーが、オスグッド・パーキンズの新しいショーを観にゆこうつていうのよ」
「行きたまえ。あとで会うよ」つぎは、ハーバート・マコーリーを呼びだした。
マコーリーの声で、「約束はとり消すよ。電話はかかってきたんだが、あいつ、とんでもないことをたくらんでいるぜ。警察に行くつもりだ。もういいと思うんだがね」
「いまさら、ほかにどうしようもないようだな。こっちも、警察に電話しようと思っているところだ。いま、ミミのところにいるんだが。あの男、しばらく前まで、ここにいたんだぜ。ほんのちよっとのところで、ゆき違いになった」
「なにしにきたんだね」
「これから調べるつもりなんだが」
「君は、警察に電話をかけるといったね?」
「うん」
「じゃあ、そっちのほうは君にたのもう。ぼくは、そこに行くよ」
「よし、あとで会おう」
こんどは、ギルドを呼びだした。
ギルドは、「君の行ったあとで、ちょっとしたニュースがあったよ。話してもいいか、そっちはさしつかえないかな?」
「ヨルゲンセン夫人のところからかけているんだ。あの子を送ってきたんだがね。君の手下の赤髪君が、内出血を起させたようだ」
「ひどい野郎だ。じゃあ、今はしゃべらんほうがいいな」
「こっちにもニュースがあるぜ。ワイナントが、今さっき一時間ばかりここにいたんだ。ヨルゲンセン夫人がそういうんだがね。ぼくのくる五、六分まえに出ていったそうだ」
しばらく返事がなかった。それから、「そのままそっとしておいてくれ。わしはすぐ行く」
クィンの電話番号をしらべていると、ミミが入ってきた。
「ひどい怪我なのかしら?」
「ぼくにはわからないが、すぐ医者を呼んだほうがいいよ」電話をミミのほうへ押しやった。医者への電話がすんでから、「ワイナントのきたこと、警察に話したぜ」
ミミはうなずいた。「わたしも、警察にしらせたものかどうか、それをおたずねするつもりで、あなたに電話したのよ」
「マコーリーにもしらせたよ。ここにくるそうだ」
「あんな人になにができるもんですか。クライドは、自分でわたしてくれたんですもの――断然、わたしのものだわ」
「君のものって、なにがだね?」
「あの債券よ」
「どの債券?」
ミミは、テーブルのところまで行って、ひきだしをあけてみせた。「どう?」
そこには、太いゴムのバンドでくくった債券の束が三つあった。一番うえに、パーク・アヴェニュー信託振出しの桃色の小切手が挾んである。額面一万ドル。受取人、ミミ・ヨルゲンセン。署名は、クライド・ワイナント。日附が、一九三三年一月三日になっている。
「五日も先の日附にしてあるのは、どういう酒落《しゃれ》なんだね?」
「なんでも、いま、それだけの預金がないし、二、三日ちゅうにも工面《くめん》がつかないから、ということだったわ」
「ひどい目に会うぜ。覚悟していたほうがいいな」
「あら、どうして? わたしのまえの良人が、わたしと子供たちとにお金をくれようとしているのに、それが悪いなんて、わからないわ」
「とぼけるなよ。で、この代りに、君のほうからは、なにをわたしたんだ?」
「代りにって?」
「そうさ。この日附までに、なにする約束をしたんだね?」
ミミは、がまんがならないというふうに、顔をしかめた。
「あなたって人は、時々つまらない疑念を起して、頭が変になるのね」
「せいぜい、頭を変にする研究をやっているのさ。もう三度ほど変になれば卒業だ。だが、おぼえているだろう? きのう、そんなことをすると、事件にまきこまれるって注意したのを」
「やめてよ」ミミはぼくの口を手でふさいだ。「そんなことをいえば、わたしがおびえるって知っているくせに――」その声は、甘ったるく変っていった。「ねえ、ニック、わたしがこのごろなにを一生懸命になっているのか、わかって下さらなきや駄目だわ。もう少し親切にして下されないの?」
「そんなら、警察のほうを気をつけるんだな。ぼくなど相手にしなくていいよ」ぼくは、また電話を取りあげて、アリス・クィンを呼びだした。
「ニックだが、なにか用があるって、ノラが――」
「ええ。ハリスンにお会いになって?」
「ゆうべ、君のところで別れたきりだよ」
「じゃあ、お会いになっても、ゆうべわたしの申しあげたことは、内証にして頂きたいわ。あんなつまらないことをいうつもりはなかったのよ」
「ぼくだって、あれが君の本心だとは思わなかったよ。どっちにしたって、そんなこと話すものか。クィンはどうしている?」
「行っちゃったわ」
「え?」
「わたしをおいて行っちゃったのよ」
「いつかもそんなことがあったね。もどってくるさ」
「ええ、でも、こんどは心配なのよ。自分の事務所にも行っていないわ。どこかで酔っぱらってでもいてくれると、そのほうがいいんだけど。ねえ、あなたは、あの人、ほんとうに、あの女の子を愛していると思って?」
「自分ではそう思っているらしいな」
「あの人、自分でそういって?」
「いったとしても、大して意味はないさ」
「あの女の子と話し合ったら、どうにかなるのかしら?」
「いや」
「あら、どうして? 女の子のほうでも愛しているとお思いなの?」
「いや」
「一体、どうなすったのよ」
「ここは、ぼくの部屋じゃないんだ」
「え? あら、そんなお話のできないところにいるとおっしゃるの?」
「そうだ」
「その女の子のおうちなのね、そこは?」
「うん」
「あの子もそこにいて?」
「いないよ」
「あの人と一しょなのかしら」
「知らんね。一しょじゃないだろうな」
「お話ができるようになったら、電話して頂きたいわ。それよりも、こちらにきて下すったほうがいいわ」
「うん、そうしよう」ぼくは電話を切った。
ミミは、青い眼で、ぼくの顔を面白そうに見つめている。
「わたしの娘の気まぐれを本気にしている人がいるらしいわね」ぼくが黙っていると笑いだした。「ドリーつて、まだ、感傷の乙女《おとめ》なのかしら」
「そうらしいぜ」
「自分のことばを、他人に信用してもらえるうちは、ずっとあんなでいるんでしょうね。だれよりも、あなた自身がだまされているのよ。そうよ、わたしがいくら本当をいったって信用しようとしないあなたが、あの子にはだまされているんだわ」
「そうかもしれないね」その先をいおうとした時、ベルが鳴った。ミミは、まるまるとふとった、足もとのおぼつかない老人の医者を招じ入れて、ギルバートのところへ案内した。ぼくは、もう一度ひきだしをあけて、債券の束をしらべてみた。国内国外の社債公債とりまぜて、額面の合計おおよそ六万ドル。時価は、その四分の一、せいぜい三分の一とにらんだ。
また入口のベルが鳴った。ぼくは、ひきだしをしめて、マコーリーを迎えた。くたびれた顔をしている。外套もぬがずに腰をおろして、「さあ、最悪のニュースを聞かせてもらおう。あの男、なにしにやってきたんだね?」
「それは、まだ判らないが、とにかく、ミミに債券と小切手とをわたしている」
「そのことは知っているんだ」マコーリーは、ポケットをさがして、一通の手紙をわたしてよこした。
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ハーバート君
今日、ミミ・ヨルゲンセンに、別紙一覧表の債券と、額面一万ドルのパーク・アヴェニュー信託振出し一月三日附の小切手をわたすつもりだ。その日附までに、それだけの金額を信託にはらいこむよう配慮ねがいたい。公共事業債の一部を処分してくれてもいいが、その辺のことは、君の判断にまかせる。ぼくは、これ以上、ニューヨークで暇をつぶしているわけにはゆかなくなった。たぶん、ここ数ヶ月には、もどってくることもできそうにない。君には、折にふれ、手紙を書くつもりだ。今晩、君とチャールズ君とに会うまで、待てないことを、残念に思う。
誠実なる友 クライド・ミラー・ワイナント
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のたくるようなサイン。別に債券の一覧表がついている。
「君の手にとどいたのは?」
「使いが持ってきた。それにしてもあの男がミミに金をやるとは、いったい本気なのだろうか」
ぼくは頭をふった。「ミミは、あの男が、自分からその気になったのだといっているよ」
「ミミのいうことなら、あまり当てにはならないね」
「ここに書いてある債券のことだが、あの男の全財産は、君が預つていると思っていたのに」
「こっちもそのつもりだったのだが、こんなものは、あることも知らなかったな」マコーリーは、膝にひじをついて頭をかかえた。「どこまでが真実なのやら――」
三十 小間切れ死体
ミミが、医者と一しょにもどってきた。マコーリーを見て、なんとなくぎこちない態度で、「あら、いらっしゃい、」といいながら、手をにぎり、医者をひきあわせた。「グラント先生なの。マコーリーさんと、こちらは、チャールズさんですわ」
病人の様子を訊ねると、グラント先生は、咳ばらいをしてから、大したことはないが、安静がなによりだ、というような返事をした。ミミは、医者を送りだした。
「ギルバートがどうかしたのかね?」マコーリーが不審な顔をした。
「ワイナントのいいつけで、ジュリア・ウルフの部屋に忍びこんで、はり番していた腕自慢のお巡りと鉢合わせしたんだ。ワイナントが、なぜ、そんなことをいいつけたのか、それはわからんがね」
ミミが、入口からもどってきた。「チャールズさんから、債券と小切手のこと、お聞きになって?」
「わたしのところへも、手紙でいってきていますよ」
「すると、もういいのかしら?」
「いいとおっしゃるのは、問題はないということなんですね? それは、まず大丈夫でしょうな」
ミミは、ほっとした顔になり、「わたしも、大丈夫と思ったのだけど、この人が、」と、ぼくを指さして、「おどかすようなことをいうんですもの」
マコーリーは、つつましげな笑いを浮べながら、「ワイナント氏は、これからどうするというようなことを話しませんでしたか?」
「なんでも、遠方にゆくとかいっていましたわ。でも、わたし、あまり身を入れて聞かなかったものだから、細かなこと、話したか話さなかったかさえおぼえていないんですの」
ぼくは、怪しいもんだと思ったが、口には出さなかった。マコーリーは、ミミの言葉を信用するような顔をしている。
「こんどの殺人事件につながりのあるようなことはどうでしょう? そんな話があったのならいって頂きたいのですが」ミミは頭を強くふった。「全然話さなかったわ。わたしのほうから訊いてもみたんですけど、そら、あの人、いいたいこともろくすつぽいえないような人でしょう。だから――」
ぼくは、マコーリーの立場からは、訊ねにくいらしいことを、代って質問してやった。「じゃあ、どんなことを話したの?」
「わたしのことや、子供たちのことなどよ。ギルバートに会いたかったらしく、今にも帰ってくるかと、そればかり待っていたわ。ドリーのことも話さないわけではなかったけど、あまり気にかけていないようだったわ。ほんとうに、そんなこときりだったのよ」
「ギルバートに手紙をだしたことは?」
「一こともいわなかったわ。お望みなら話したことすっかり繰りかえしてもいいことよ。ほんとに、あの人がくるなんて、思いもよらなかったわ。階下から知らせてもこなかったの。ベルが鳴ったので、出てみたら、あの人だったのよ。前からみるとだいぶとしをとっていたし、やせていたわ。まあ、クライド、どうしたのっていうと、ひとりかいって、そう訊ねるの。そうだと答えるのを聞いて入ってきたわ。それから――」
なおもいいかけたとき、戸口のベルが鳴って、ミミは立って行った。
マコーリーは、低い声で、「ミミの話、どう思うかね?」
「ミミが本当のことをいっているらしいと思われる時には、なおさら、そのまま受けとらないほうがいいようだな」
ギルドとアンディとが、ミミに案内されて入ってきた。ギルドは、ぼくにうなずいて見せ、マコーリーと手をにぎり、それがすむと、ミミのほうを向いて、「それでは、話してもらいますかな――」といった。
マコーリーがギルドをさえぎった。「いや、先にぼくの話を聞いてもらおう。ヨルゲンセン夫人の話よりも以前のことなんだし――」
ギルドは、大きな手をふって、「どうぞどうぞ、」といいながら、ソファに腰をおろした。マコーリーは、今朝ぼくに話してくれたことを繰りかえした。ギルドは、一度だけにがい顔を向けたが、それっきり、ぼくの存在を無視した。一ことも口をはさまない。ミミは、二度ばかりなにかいいそうにしたが、その度に思いなおして耳をかたむけた。弁護士は話し終ると、債券と小切手のことの書いてある手紙をギルドにわたした。「きょう昼すぎに、使いのものが届けて来たんだがね」
ギルドは、その手紙を念入りに読んでから、ミミに、「さあ、いよいよ、ヨルゲンセンの奥さんの番ですな」
ミミは、ぼくに話した通りのことを繰りかえした。ギルドが根気よく問いただすと、細々した点をいい繕《つくろ》いはしたが、ジュリア・ウルフ殺しについてはなにも語らなかったこと、債券と小切手とは、なにかの代償ではないこと、遠方にゆくとだけで、いつどこへとはいわなかったこと、そういう点では変らなかった。だれもが信用していないのが判っているくせに、ミミはそれが少しも気にならないようだった。微笑を浮べながら、「ずいぶんやさしいところもある人なんだけどまるで変なのよ」
「みせかけでなく、実際に頭が変だというんですな?」とギルドが念を押す。
「そうなんですの」
「どういうわけで?」
「一しょに住んだのでなければ、あの人の頭の変なことはわかりませんわ」
「どんな服装だったね?」
「茶色の服に、茶色の外套、茶色の帽子、靴も茶色だったわ。シャツは白、それに、赤だの赤茶色だかで模様の入った灰色のネクタイよ」
ギルドは、アンディに頭をぐいとしゃくってみせた、「しらせてやれ」アンディは出ていった。
警部はあごを引っかきながら、渋面をつくった。みんながそれを見ている。やがて、あごをかくのがすむと、ミミとマコーリーとを見た。その視線は、ぼくには向けられなかった。「あなたがた、D・W・Qというイニシャルの人間を知らないかな?」
マコーリーは、ゆっくり頭をふった。ミミは、「あら、なぜなの?」と叫んだ。
ギルドが、こんどはぼくの顔をみて、「あんたは?」
「知らないよ」
「なぜなの?」ミミが繰りかえした。
「思いだしてほしいわ。ワイナントと特別に関係の深かった人らしいんだが」
マコーリーが、「どのくらい以前のことなんだね?」
「四、五ヶ月になるか、四、五年になるかそのへんははっきりしない。かなり大きな男だ。骨組みも大きく、腹も大きく、もしかすると、びっこだったかもしれない」
「思いだせないよ」マコーリーは、もう一度頭をふった。
「わたしもよ。でも、なんだか気になるわね。もっとはじめから話して頂けません?」
「結構ですとも」ギルドは、チョッキのポケットから葉巻をとりだし、眺めてから、またもとへもどした。「つまり、そういう男が、ワイナントの仕事場の床下に埋められていたんですがね」
「なるほどね」ぼくはうなずいた。ミミは両手で口を抑えた。その大きくみはった眼に蔭がさしてきた」
「うそじゃあるまいね?」マコーリーは顔をしかめた。
「そうら、あんたにだって、一とおりで片のつく問題じゃないことがわかるだろうが」ギルドは溜息をつき、うんざりするというような顔をして見せた。
マコーリーは顔をあからめて、ずるそうな笑いを浮べた。
「いや、われながら愚問だった。ところで、どういうことから発見されたんだね?」
「チャールズ君が、あの仕事場には注意したほうがいいって、しょっちゅういっていたし、元来この人は、口には出さないが、ずいぶんいろいろ知っているらしいので、もしかと思って、けさ四、五人やってしらべさせたんだ。前にも一応は当ってみたんだが、こんどは、隅から隅まで、徹底的にやった。案のじょうチャールズ君のいった通りだった」ぼくの顔を無愛想な冷い表情でみながら、「床のコンクリートが、一ところほかよりも新しいようにみえたので、掘りかえすと、そこにD・W・Q氏の死体があったというわけだ。どう思うね?」
「チャールズのすばらしい推理力なんだろうな」と、マコーリーが応じた。ぼくのほうを向いて、「君は、どうして――」
ギルドがさえぎった。「そんなことは、いわずもがなさ。だが、ただの推理として片づけてしまうなら、それは、チャールズ君のごらんの通りのスマートさを信用しないというもんだ」
マコーリーは、そのギルドのいいかたにとまどいして、物問いたげにぼくを見た。
「いやどうも。けさの君の話を警部どのに黙っていた罰が当ったようだな」
「まあ、そんなところだ」ギルドは、おだやかに同意した。ミミは笑いだしかけたが、ギルドににらみつけられると、いいわけがましく、うす笑いを浮べた。
「D・W・Q氏は、どんな殺されかただったね?」
ギルドは、ちょっとためらってから、大きな肩をゆすってみせ、「それがまだわからないんだ。第一、わしは、死体を見ていない。完全にそろっているかどうかも確かめていないんだ」
「完全に揃っているか、どうかというのは?」マコーリーが訊く。
「小間切れ死体なのさ。石灰詰めにされているとかで、肉もあまり残っていないという報告があった。着衣も一しょに発見されたのだが、そのなかに手がかりになりそうなものがあった。ステッキの切れはしがあって、その尖《さき》にゴムがはめてあるので、びっこだったのじゃないかと思えるんだ。それから――」そこへ、アンディが入ってきた。「どうだったね?」
警官は、陰気くさく頭をふった。「そんな装《な》りの男が出入りしたかどうか、影を見た人間もいないようですな。影といえば、同じところに二度立たなきゃ、影のうつらないほど痩《や》せたやつとかって、そんな酒落がありましたっけね」
ぼくは笑った――といっても、酒落がおかしかったわけでおはない。「ワイナントは、そんなに痩せていやしないよ。しかし、あの男のこの世にうつす影は、なん度もよこした手紙、それから例の小切手と同じぐらい、あってなきが如しというところだな」
「なんだと?」ギルドが気色《けしき》ばんだ。
「ワイナントは生きていないよ。紙のうえではいざしらず、本人は、ずっと以前に死んでいるのさ。君の掘らせた床の穴の骨があの男だということになら、いくらでも賭けるぜ」
「まさか、そんなことが――」マコーリーが、からだを乗りだした。
「一体、なにをいうつもりなんだ」ギルドが吼《ほ》え立てた。
「お望みなら、賭けるっていったのさ。いいかい、死体をそれほど念入りに始末しといて、服をそっくりそのまま残すなんて、誰がそんなことをするものか」
「そっくりそのままじゃなかったぞ」
「むろんさ。警察のほうで手がかりにしそうなものだけ残して、あとはわからないようにしてあるはずだ。君たちがイニシャルに飛びついたなんざ、お誂え向きだったわけだ」
「どうもわからん」ギルドは、いく分ほとぼりがさめたらしい。「帯革のバックルにあったんだが」
ぼくは笑った。
ミミが怒ったように、「ニック、おかしいわ。クライドは、さっきまでここにいたのよ。あの人は――」
「黙りたまえ。君が一しょになって芝居をやるなんて、愚にもつかんはなしだ。ワイナントは死んだのさ。つまり、相続人の君の子供たちに、あのひきだしにあるどころでない財産が転《ころ》がりこんでくるということだ。それを、なんだって、詐欺の手伝いをしたがるんだね?」
「なにをおっしゃるのか、わたしにはわからないわ」ミミの顔は紙のように青ざめていた。
マコーリーが口をだして、「チャールズ君のいおうとしているのは、こうなんです。つまり、ワイナントがここへきたというのはうそだ。と、そして、あの債券と小切手とは、ほかの人間から受け取ったか、そうでなければ、ぬすんだのだろう、と、そうだね?」最後のことばはぼくに向けられた。
「大体、その通りだ」
「だって、そんなこと、へんじゃないの」ミミはあくまでいい張った。
「ミミ、しっかりするんだぜ。ワイナントが三ヶ月前に殺され、死体は、だれだかわからないように始末されたとしよう。みんなは、あの男が、弁護士に一切を委任して、よその土地へ行ったものと思いこんでいる。すると、あの男の全財産は、永久に、いや、委任された人間が自分の名儀に書き換えてしまうまで、その人間の手ににぎられていることになる。君には、ほんの申しわけほどの――」
マコーリーが目の色をかえて立ちあがった。「君のたくらみがわかったぜ。だが、ぼくは――」
「じっとしていたまえ」ギルドが制止した。「いうだけは、いわせてしまうんだ」
「その人間、つまり、マコーリーは、ワイナントを殺し、ジュリアを殺し、ナンハイムを殺したのだ。そうなると、ミミ、君はどうするね? つぎに殺される番に当りたいのかね? マコーリーにしてみれば、君が、生きたワイナントに会った、と、そういってくれるのは、もつけの幸いだ。わかるだろう? つまり、十月からこのかた、ワイナントを見たといっているのは、この男ひとりだけで、それが、この男の弱味だったのだからね。いまさら、考えなおして、会ったのはうそだなんていってみたまえ、れいのピストルで射ち殺され、ワイナントの仕業にされてしまうだけさ。君は、そこのひきだしにある僅かばかりの金目に眼がくらんで、心にもないでたらめをいっているんだ。そんなものぐらい、ワイナントの死亡の証明された場合、子供たちを通じて、君の自由になる財産に比べれば、九牛の一毛にすぎんのだ」
「悪党め――」ミミが、マコーリー目がけて、吐きだすように叫んだ。ギルドは、ぼくの話よりもミミがそんなことばを口にしたことにびっくりして、大きな口をぽかんとあけたまま、ヨルゲンセン夫人の顔をみつめた。
マコーリーが身動きした。ぼくは、かれの動作をみきわめるより早く、左の拳をかためて、顎をなぐりつけた。パンチは、みごとに命中した。それと一しょに、左の脇腹に、焼けるような痛みを感じた。弾丸《たま》の傷が口をあいたらしい。それをこらえながら、ギルドに、「さて、こいつをセロファン包にして、君に進呈するかな」
三十一 説明
ぼくがノーマンディ・ホテルの自分の部屋に、やっとのことで辿りついたのは、あけがたの三時に近かった。居間には、ノラと、ドロシーと、ラリー・クローリーとがいた。ノラとラリーとは、バック・ガモンを戦わせ、ドロシーは新聞に夢中だった。
ノラが、さっそく切りだした。「マコーリーが犯人というのは、ほんとうなの?」
「そうだよ。朝刊にワイナントのことがでているかね?」
「でていないわ」ドロシーが答えた。「マコーリーが逮捕されたことだけよ。父さんのことって、どうしてなの?」
「マコーリーは、ワイナントも殺したんだ」
「ほんとう?」「なんてことだ」ノラとラリーが同時に叫んだ。ドロシーは泣きだした。ノラがびっくり顔で、ドロシーを見た。
ドロシーはすすりあげて、「わたし、ママのところへ帰りたいわ」
「なんなら、送って行ってあげようか」ラリーが、それほど熱心でもなさそうに申しでた。
「お願いするわ」
ノラは、やきもきするような様子をみせたが、思いとどまらせようとするでもなかった。ラリーは、気乗りしない顔を見せないようにつとめながら、帽子と外套とをさがした。二人を送りだして、ドアをしめると、ノラはそこにもたれかかって、「さあ、名探偵さま、説明して下さいませ」
ぼくは頭をふった。
ノラは、ソファのぼくの隣に腰をおろした。「さあ、おっしゃいよ。ひとことでもごまかしたら、それこそ――」
「一ぱい飲ませてもらわんことには、口が動かないよ」
ノラは、ぶつぶついいながら、それでも、酒をもってきてくれた。「あの人、自供したの?」
「するもんか。殺人の場合、自供だけで有罪とするわけにはゆかない。検事が証拠がためをすることになるのだが、それには、件数が多すぎる。そのうち、少くとも二件は、冷酷そのもののような殺人だね。ああいう人間は、とことんまで追いつめてゆくよりほかに手がないよ」
「でも、あの人のしわざにはちがいないのね?」
「そうだとも」
ノラは、ぼくの口から、グラスをもぎ取って、「とぼけないで、ちゃんと教えてよ」
「そう、しばらくのあいだ、あの男とジュリアとがぐるになって、ワイナントをだましていたんだな。株をやって、かなりすっていたのと、女の前身をさぐりだしていたので、ジュリアをそそのかしたんだ。マコーリーと、ワイナントと、両方の帳簿をつきあわせれば、かなりめんどうな仕事だが、不正のあとは辿《たど》れるだろう」
「そうすると、まだはっきり知れたわけじゃないのね?」
「知れているさ。ほかに筋書きなどありっこないよ。ワイナントが、十月三日に、旅行にでかけようとしていたのがチャンスだった。本人は、預金を五千ドルひきだしただけで、仕事場を閉鎖したり、アパートの部屋をことわったりしたのは、マコーリーが、数日後にやった仕事だ。その三日の夜、ワイナントは、スカーデール・アパートのマコーリーの部屋で殺された。四日の朝、通勤のコックが出てくると、玄関でマコーリーに会って、とってつけたような小言をいわれ、二週間ぶんの給料をつきつけられた。その場で首になったんだね。つまり、兇行をさとられるのを防いだのだ」
「飛ばしちゃ駄目よ。あなたが、そんなことを突きとめたやりかたが知りたいのよ」
「なんでもないことさ。犯人を逮捕した場合の当然の筋道として、あの男の事務所と自宅とをしらべたんだ。いまいるコックが、十月八日に新しく雇われたというので、そこから、以前のコックへとたどってみた。すると、人間の血痕らしい染みの残っているテーブルが見つかった。そのほうは、現に鑑識に廻っている」(これは、後に、牛肉の血痕であることが判明した。)
「じゃあ、それほど確かなことでもないのね」
「おだまり。ほかに考えようもないじゃないか。こうなんだ。ワイナントは、ジュリアとマコーリーとが、自分をだましていることに気づいた。二人が乳繰りあっていると思って、妬《や》いたこともあるんだろう。なにか知らんが、自分のにぎった証拠をたずさえて、乗りこんだ。悪事を、感づかれ、引っこみのつかなくなったマコーリーは、じいさんを殺してしまった。そう考えるよりしようがないよ。たしかじゃないなどというなよ。で、とにかく、あの男は、死体を一つ抱えこんだわけだ。なによりも一番片づけにくいものだね。――ウィスキーは、これっきりしか頂けないのかい?」
「一ぱいだけよ。でも、あなたのお話は、想像じゃないの」
「想像とでもなんとでもいうがいいさ。ぼくには、それでたくさんだ」
「だって、どんな悪人でも、有罪が立証されるまでは、無罪なので、合理的な疑問があれば――」
「陪審員ならそうだが、探偵はちがうよ。いいかい、犯人と考えられる人間が見つかったら、それを牢屋にぶちこんでおいて、新聞という新聞に写真をのせる。検事は、こっちの集めた情報をもとにして、できるだけ納得のゆく理論を組み立てる。新聞で写真を見た連中がやってきて、いろんなことを話してくれる。といった段取りで、やがて、電気椅子にお連れ申すことになるんだ」
(二日たつと、新聞の写真をみたブルックリンの一婦人が、マコーリーを、自分が三ヶ月部屋を貸していたジョージ・フォリーだと証言した。)
「ずいぶん頼りないお話ね」
「殺人が数学で行われるなら、数学で解決できようさ。ところが、まずそんな殺人事件はない。こんどのだってちがう。想像であれなんであれ、ぼくは、一番もっともらしくみえることをいっているだけなんだ。死体を小間切れにしたのは、袋詰めにして、運びだすためだったのだろう、運びだしたのは、十月六日以後だ。というのは、その日に、仕事場で働いていた二人の機械工、プレンティスとマクノートンとが解雇され、仕事場は閉鎖されたからだ。ふとった男の服と、びっこの使うステッキと、D・W・Qのイニシャル入りの帯革と、そんなものを死体と一しょに床に掘った穴に投げこみ、石灰だかなんだか、肉を腐らせるものを適度に詰めあわせ、それから、セメントを使って、床を元通りになおした。服とステッキとセメントの出どころは、遠からず判明するよ」(セメントは、山手のある店で買い求めたのがわかったが、他の品の入手経路は判明しなかった。)
「そうでしょうね」ノラは、頼りなさそうな声をだした。
「こんどは、仕事場のあと始末だ。賃貸契約を更新して、ワイナントのもどってくるのを待っているようにみせかけると一しょに、墓穴が見つからないようにした。万一見つけられても、ふとっちょのD・W・Q氏だということになるし、ご本尊は、それまでに大体骨ばかりになっていて見当のつけようもないという寸法だ。つぎにマコーリーは、ジュリアの手を借りて、委任状を偽造し、クライドの財産を自分たちの手に移す仕事に取りかかった。ここでもう一度想像にもどるのだが、ジュリアは人殺し沙汰を好まなかった。恐ろしかったのだ。マコーリーも、女がいつまでも自分の味方でいることに自信がもてなくなった。なにかの拍子にばらされないでもないと考え、女に、ワイナントの嫉妬を口実に、モレリと手を切らせた。それから、モレリよりもっとふかい仲のフェース・ペプラの出獄が迫るにつれて、それが心配のたねとなった。なんとかしなくてはならない。計画をめぐらせはじめた。ここからこんどの事件がまっしぐらに進展して行く。ミミと子供たちとが帰ってきて、ワイナントのゆくえをさがしはじめる。ぼくが、この土地に現れ、ミミたちとゆききする。マコーリーは、ぼくの登場が、かえって自分の便利になると思う。わが身の安全をはかるために、ジュリア殺しを決心する。ここまではいいかね?」
「いいようだけど――」
「段々怪しくなってくるさ。さて、マコーリーは、事件の日、ここへ昼めしにくる途中、どこかによって、自分の事務所に、ワイナントになりすまして電話をかけ、プラザ・ホテルの約束をでっちあげた。ワイナントがニューヨークにいるという事実を作ろうとしたんだね。わざわざプラザに行って、あたりの連中にワイナントのことを訊ねまわったり、自分の事務所に電話をかけて、ワイナントから伝言の有無をたしかめたりしたのも、同じ目的からだった。ジュリアにも電話した。ジュリアは、ミミがワイナントのいどころを訊ねにくることになっていると告げた。その声はおびえているようだった。そこで、マコーリーは、ミミの先廻りをする気になった。一足さきに行って、ジュリアを殺した。あの男の射撃の腕前は、戦争中拝見したが、なっちゃいないんだ。初弾は、ねらいはずれて、電話機に命中した。残りの四発を使いはたしても、女を即死させることはできなかったのだが、死んだと思ったのだろうね。いずれにしろ、ミミが現れないうちに、早いところ逃げださなければならない。ワイナントに罪を被《き》せる証拠物件として、例の鎖の切れはしを床に落した――三ヶ月も前から、そんな物を用意してあったことからするともともとジュリアを亡きものとするつもりだったらしいね――それから、こっそり抜けだして、ハーマン技師の事務所を訪れた、仲よしの秘書のいるそこなら、都合のよいアリバイが作れると思ったのだ。ところが、予期しなかったことが二つ起った。その一つは、女に近づこうとうろうろしていたナンハイムに、部屋を出るところをみられ、ピストルの音も聞かれたらしいこと。もう一つは、せっかくの鎖を、ミミがワイナントをゆする道具に使う気になったことだ。マコーリーは、フィラデルフィアまで行って、ワイナントの名で、電報と手紙を送った。ワイナントがミミに嫌疑をかけさせようとたくらんでいるらしくみせかければ、ミミはかっとなって、その証拠を進んで警察にわたすだろうと思ったのだ。アリス伯母さんへの手紙も同じ趣向だ。しかし、ミミは、ヨルゲンセンに鉾尖《ほこさき》を向けだしたので、この苦心も水の泡となった。マコーリーは、ヨルゲンセンがローズウォーターであることは知っていた。ワイナントを殺すとすぐに、財産のことで一家が危険にさらされるかもしれないという口実で、ミミたちをヨーロッパにわたらせた。それに探偵をつけた。その探偵がヨルゲンセンの正体をみやぶった。それについてはマコーリーの書類のなかに報告書があったよ。こんな要りもしない情報を集めたのも、ワイナントのために働いているとみせかけるためだったのだ。
つぎに気がかりになったのは、ぼくがワイナントを犯人と思っていないことだった」
「あなたは、どうして、そう思わなかったの?」
「だって、あの男が犯人なら証拠をかくしているミミに疑いのかかるような手紙を、わざわざ書いたりするわけがないじゃないか。だから、ミミが鎖をだして見せた時にも、ぼくは、それをわなだと思ったよ。もっとも、そのわなを、ミミが自分で仕かけたと考えたのは、ぼくの思いすごしだったがね。マコーリーは、モレリのことも気にした。だれにしろ、とり調べられることによって、自分の計画を思わぬ方向にもって行きそうな人間に目星をつけられることを望まなかったのだ。この点、ミミは、ワイナントを陥しこもうとしていたのだから、大丈夫だったが、それ以外の連中は、全部が全部あぶなかった。ワイナントに嫌疑の向けられることは、いいかえれば、ワイナントが生きていることを保証するようなものだ。それに、マコーリー自身が手を下したのでないとすれぱ、ほかにワイナントを殺すような人間は考えられない。だから、なによりもあきらかで、しかも事件全体の鍵となる事実は、ワイナントが生きていないということだったんだ」
「というと、そのことは、はじめから、わかっていらしたの?」ノラは、眼を大きくみはって、ぼくの顔を見つめた。
「ところが、そうじゃなかった。それを見とおせなかったのは、われながらはずかしい次第だがね。しかし、床に埋められた死体のことを聞いたその瞬間から、たとえ医者が、それを女性だと誕言しようとも、ぼくは、ワイナントの死体だと頑張る気になったんだ。どうしてもそうでなければならなかったのさ」
「そんな話しかたをなさるのは、ずいぶん疲れていらっしゃるからなのね。きっと」
「それから、ナンハイムだ。あいつは、自分の手柄を見せたかったので、一応モレリに星をつけさせておいて、マコーリーに会いに行った。また想像になるが、アルバート・ノーマンと名乗る男が、ぼくに電話をかけてよこした。話のすまないうちに、大きな音がして切れてしまった。これは、ナンハイムが、マコーリーに口どめ料をねだって、はぐらかされたので、ぼくを呼びだし自分のネタを買わせようとしたものだから、マコーリーが受話器を引ったくったのだろう。ナンハイムはなにがしかをせしめたか、あるいは約束ぐらいさせたかだ。ギルドとぼくとでナンハイムを訊ねた。あいつは逃げた。電話で、マコーリーに、この町からずらかる代りに、かなりの現なまを出せと申しこんだ。この電話のあった事実は突きとめた。マコーリーの交換手が、アルバート・ノーマンの名前と、その電話のすぐ後で、マコーリーの出かけたことをおぼえていたのだ。これは、君のいう想像じゃない。議論の余地のない事実を、ただ組み立てただけだ。で、マコーリーも、ナンハイムが金で片づく人間だとは思わなかったので、多分あらかじめ用意してあった場所におびきよせて、息の根をとめた」
「きっとそうに違いないわね」
「そうそう、君は、そのことばを、もっとたくさん使わなきゃいかんよ。そうに違いないというやつをさ。さて、ギルバートにきた手紙だが、あれは、ワイナントが、ジュリアの部屋の鍵を持っていたことを知らせるということだけのためだったのだ。あの子がそれを自分だけの内証ごとにしないために、わざわざ部屋まで行かせ、逮捕されるようにしむけた。最後まで残ったのは、時計の鎖をにぎっているミミだ。そうこうするうちに、ミミが、ギルドの疑いをぼくに向けるように企みだした。けさ、マコーリーが、大した用もないくせに、ここにやってきたのは、ぼくを自分のアパートに誘って、ワイナント犠牲者一覧表の三番目に載せるつもりがあったのじゃないかな。それを、途中で考えなおしたか、さもなければ、ぼくを、とても一筋縄で誘いだせる男じゃないと気がついたのだろう。いずれにしろ、ワイナントに会ったというギルバートのでまかせが、あの男に、べつのたくらみを思いつかせた。つまり、だれかに、ワイナントに会ったといわせ、それを飽くまで頑張り通させることができたら……というわけだ。さて、ここから後のことは、もうまちがいっこなし、はっきりしている」
「まあ、よかったこと」
「今日の午後、マコーリーはミミに会いに行った。ミミの部屋のある階より二階上にのぼって、それから、階段を歩いておりた。エレヴェーター・ボーイの記憶をはぐらかしたんだ。ミミに向って、ワイナントが犯人であることには、問題がないが、警察があの男を捕えるかどうかは疑わしい、というようなことから、話をきりだした。一万、自分はワイナントの全財産を預けられている、山分けということなら、それがミミの手に入るように尽力しよう。そこで、ポケットから、なにがしかの債券と、なにがしかの小切手とをとり出し、ワイナントから貰ったのだといいふらしてくれるなら、また、この――それも、あらかじめ用意して来た手紙を、ワイナントからのように自分に送ってくれるなら、これだけおわたしするが、と誘惑した。罪を負って追われているワイナントが、そんなものを取りかえしに、のこのこ出てくる気づかいはないし、あんたがた以外、利害関係者はなく、この分け前に文句をいわれる筋合いもないのだとうけ合ってみせた。ミミはもともと金《かね》に目のない女だから、一も二もなくOKだ。マコーリーも、自分の望みのもの――ワイナントに会ったといってくれる人間を手に入れたわけだ。また、世間では、これだけのものをもらったのなら、代りになにか頼まれただろうというだろうが、これは否定してさえいればいい、証拠になるものはまったくないのだから、と入れ知恵したんだ」
「すると、けさあの人が、ワイナントから、なにかの償いとして、要求されるだけミミにわたすように指図されたとかって話していたのは、どういうことになるのかしら?」
「きっと、いま話したことを思いつく前だったのだろうね。ざっとこんなところで、ご満足いただけるかな」
「まずまずというところだわね。大してスマートじゃないけど」
「あの男を電気椅子に腰かけさせることができさえすれば、スマートでなくたっていいよ。筋は通っているし、ほかに考えようもないからね。そうだ、まだ、ピストルと、ワイナントの手紙を作ったタイプライターをさがす仕事があるが、そんなものぐらい、必要となれば、すぐにでも出てくるだろうよ」(それは後日、マコーリーが、ジョージ・フォリーの名で借りていたブルックリンのアパートで発見された。)
「わたし、探偵というものは、細々したところまで全部の道具だてがそろうまで、おとなしく待っているのだと思っていたわ」
「そして、犯人は、犯罪者引き渡し協定のない外国に逃げてゆく時間がありそうなものだのに、なぜそうしないのか、と思っていたんだろう?」
ノラは笑いだした。「もうたくさん。どう、今でも、明日になったら、サンフランシスコに帰ろうっておっしゃる?」
「君が急ぐのでなかったら、しばらく延ばそうや。騒動のおかげで、飲むほうがすっかりおるすになっていたからね」
「よくってよ。でも、ミミと、ドロシーと、ギルバートは、どんなことになるのかしら?」
「どうってこともないよ。あい変らずのミミと、ドロシーと、ギルバートとだろうな。いくら殺人事件といったって、殺されたやつと殺したやつとの生活を変えるだけで、そうやたらにだれでもの人生を変えたりはしないよ」
「そうかも知れないわ。でも、それじゃあ、面白くないわね」(完)
解説
ハードボイルド派――時には行動派とも呼ばれる写実的な新しい型の探偵小説が出現したのは第一次大戦後で、このハードボイルド探偵小説の事実上の生みの親であり、代表作家として活躍したのが本書「影なき男」の筆者ダシール・ハメットである。
Samuel Dashiell Hammett は一八九四年五月二十七日アメリカ東海岸メリーランド州のセント・メアリに、リチャード・トマス・ハメット及びアニー・ボンド・ハメットの息子として呱々の声を上げた。 Dashiell という名は母方の祖先(フランス系)の家名 de Ciel をアメリカ風につづり直したものだという。ハメットはこのドシエルの家系について、あらゆる戦いに出たが一度も勝ったことのなかった家柄だといっている。彼は少年時代をボルチモア市で過ごし、パルチモア市の初等工業学校に入ったが、家が貧しかったため、十四才の時に学を離れ、職についた。新聞売子を振り出しに列軍貨物係り、鉄道工夫、メッセンジャー・ボーイ、沖仲士、サンフランシスコの宝石商の広告係りなど種々の職業を転々としたあげく、アメリカ随一の民間探偵ピンカートン社の私立探偵となったが、これは一九一八年に第一次大戦に従軍するまで八年間続いた。その間にはいろいろと有名な事件にも関係したので、この八年間の経験が後年小説を書くようになってから大いに役立ったわけである。実際、ハメット自身の言葉によれば、「デイン家の呪い」と「血の収穫」はその時の経験をほとんどそのままに書いたものであり、登場人物もほぼ実在の人物をモデルにしたものだという。またハメットの作品に登場する私立探偵コンチネンタル・オプも、ハメットがピンカートン探偵社のボルチモア支社で働いていた時に彼の上役であったボルチモア支社次席のジェームス・ライトという名探偵をモデルにしたものだといわれている。
第一次大戦には、野戦衛生隊軍曹として従軍したが、従軍中に結核に感染し、数ケ月の病院生活の後、軍務を退いた。この療養中附添看護婦であったジョセフィン・アンナ・ドーランという女性と親しくなり、二人は一九二〇年結婚した。結婚後、ハメットはもとの探偵の職にもどったのだが、彼の健康は、探偵のような激務たずさわることを許さなかったのである。そこで彼は生活のため、小説を書くことを思いたち、主に過去の体験取材した犯罪小説や実話風のミステリーを書いて探偵雑誌に寄稿しはじめた。一九二二年以前は二、三の詩を発表するにとどまったが、一九二二年頃から探偵雑誌「ブラック・マスク」の定連作家の一人となり、当時チャールス・M・グリーンの署名を使っていたガードナーなどと一緒に探偵小説をせっせと書き出したのである。
その後数年間は「ニューヨーク・イヴニング・ポスト誌」や「土曜文学評論誌」などの探偵小説書評欄を担当したりしていたのだが、ハメットの名が本当にクローズ・アップされたのは何といっても一九二九年に処女長篇「赤い収獲」を発表してからのことである。続いて同年「ディン家の呪い」、翌一九三〇年に「マルタの魔」を発表するに及んで、ハードボイルド派探偵小説の始祖としてのハメットの地位が確立された。そしてその後も「カラスの鍵」〔一九三一〕本書「影なき男」〔一九三四〕と矢つぎばやに力作を発表して好評を博したが、本書「影なき男」を最後として次第に探偵小説から遠ざかり、最近はまったく小説の筆をたつに至っている。
現在ハメットは夫人とも別れてニューヨークの家でひとり自由な生活を送りながら、戦後の政治・社会問題に大きな関心をよせているといわれている。彼の思想的立場はかなり進歩的で、これまでも、しばしば政治問題や社会問題に対して反資本主義的な見解を表明してきたため、赤狩りのマッカーシーの槍玉にあげられ、左翼著書征伐のリストにハメットの探偵小説がふくまれていたということである。
評論家ハワード・ヘイクラフトは、ハメットを評して次のようにいっている。
「近代の探偵小説家で、探偵小説というものをこれほど一変させ、しかもこれほど強く時代に受け入れられた作家は、ハメットをおいてほかにあるまい。彼の創造した作風からして、全く新しい一つの流派ともいうべきハードボイルド派が生まれ、その追随者が続出し、一代の風をなしたのである。かつて『ブックマン誌』は、彼の文体を評して、アーネスト・ヘミングウェィですら、ハメットほど効果的な会話が書けるかどうか疑わしいと称讃したが、これは少しほめすぎであったとしても、ハメットのリアリスティックな性格描写は、確かにヘミングウエイの道を行くものであった。彼の主人公は凡て現実社会から引き出してきたような民間の『したたか探偵』である。非情で、利己的で、好色で、しかし、彼自身の心の中に定めた法則は固く守り通すという強情な性格を持っている。その行動は機関銃の如く敏速で、事件処理の手段は、時として依頼者を裏切るのではないかと思われるほど凶暴である。しかし、この速度と凶暴にもかかわらず、あるいは却ってそれ故に探偵小説と心理的性格描写とを組み合わせた、最上の作風を成就しているのである。ハメットの名は、探偵文学の一つのエポック・メイキングな路標的作家として永く残るであろう」
またヘイクラフトは、ハメットの作品について次のように批評している。
「ハメットの第一作『血の収穫』は構成が緊密を欠き、探偵小説というよりはむしろ血と銃声のギャング小説であったが、次作『デイン家の呪い』では、作者の才能と技術が本来の光彩を放ちはじめ、第三作『マルタの鷹』に至って、それが最高調に達したといえよう。これは全探偵小説史を通じて、最も高い地位を要求してよい傑作である。その次、一九三一年の『ガラスの鍵』は、作者自身はこの作品を最も愛しているらしいが、『マルタの鷹』よりはいくらか劣り、『マルタの鷹』につぐ佳作と見るべきであろう。最後の長篇『影なき男』は、ウイリアム・ポウエルとマーナ・ロイ共演の映画が大成功を収めたため、最もポピュラーになっている。この映画はハメットの名によって続篇、続々篇と幾つも書下され、いずれも成巧したので、ハメットは財をなして、もう小説を書かなくなってしまった。『影なき男』はアメリカ探偵小説に、最もアメリカらしい好みと、ユーモアを導入した点で、記憶さるべき作品であろう」
本書「影なき男」はヘイクラフトもいっているように、我が国でも、ハメットの作品中では一番ポピュラーな存在になっている。探偵小説をあまり読まぬ、ましてやハメットの名など全然知らぬ人でも「影なき男」といえば、「ああ、あのウイリアム・ポウエルとマーナ・ロイの主演した映画か」ということであろう。第一作の「影なき男」の好評に気をよくしたMGMでは引きつづいて「夕陽特急」「影なき男の唄」「影なき男の影」「影なき男の帰還」と立て続けに影なき男シリーズを製作し、いずれも好評を博した。原作の題名は「やせた男」で、作中では失踪した発明家、クライド・ワイナントをさしているのだが、それがいつのまにか、ウイリアム・ポウエル扮するところのニック・チャールズの仇名になってしまったのである。これらの映画はすべて我が国でも封切られている。
◆影なき男◆
ダシール・ハメット/砧一郎訳
二〇〇四年九月十日