コンティネンタル・オプ
ダシール・ハメット/砧一郎訳
目 次
シナ人の死
メインの死
金の馬蹄
だれがボブ・ティールを殺したか
フウジス小僧
作者紹介
[#改ページ]
シナ人の死
呼ばれて行ってみると、その女は、|おやじ《オールドマン》の部屋の椅子にこわばったようなまっすぐな姿勢で、腰をかけていた――たぶん、二十四才ぐらいかと思われる、男もののようなねずみいろの服を着た、背の高い女だった。肩はばがひろく、胸もはっていた。この女が、東洋人であることは、黒びかりのする短かく刈りあげた断髪、おしろいっけのない、黄いろっぽい肌、眼鏡の濃い色の縁に半ぶんかくれた、うわまぶたの重なった目尻、そんなところに、わずかにうかがわれるだけだった。
しかし、眼が釣りあがっているわけではなく、鼻は、かぎ鼻に近かったし、あごも、ふつうの蒙古人種にくらべると立派だった。いずれにしろ、うす茶いろの靴のひらたいかかとから、かざりのないフェルトの帽子のてっぺんまで、申しぶんのないシナ系アメリカ人だった。
|おやじ《オールドマン》に紹介されない先から、ぼくは、その女を見知っていた。ここ二日ばかり、サンフランシスコの新聞という新聞が、この女の事件の記事でいっぱいだった。写真が、図表が、インタビューが、社説が、そして、各方面からの多少とも専門的な意見が、印刷された。はるか一九一二年までさかのぼって、満州王朝の没落したときに、合衆国に亡命をこころざしたかの女の父の入国を拒んだ在留シナ人――そのほとんどが、デモクラシー思想と、満州族への憎悪とがあいたずさえた福建省と広東省からの移民だった――の執拗なたたかいが、思いだされた。当のシャン・ファンの上陸が許されたときのチャイナタウンの興奮――街頭には、侮辱的な文言のプラカードがかかげられ、いやがらせの招待宴が計画された――を回顧する新聞もあった。しかし、シャン・ファンは、広東省人たちの鼻をあかした。かれの姿は、ついに、チャイナタウンにはあらわれなかった。娘と現金《げんなま》――生涯の間、中央政府の眼のとどかない地方で、悪政をほしいままにしてためこんだ儲けだったのだろう――を、両手にかかえて、サン・マテオ郡にはいりこみ、新聞が、太平洋の崖っぷちの宮殿と書きたてた大邸宅を建てた。そこで、かれは、百万長者の大人《たいじん》にふさわしい生活《くらし》をして死んだ。
父親のことは、それぐらいにしておいて、娘のほう――つまり、テーブルをへだててすわったぼくの顔を、冷静な眼でじろじろとながめているこの若い女、かの女も、父親にともなわれて、カリフォルニアにわたってきたときには、いかにもシナ人シナ人した十才の少女、アイ・ホーだった。今、この女にのこされている東洋のものといえば、前にのべた容貌と、それから、父の遺産と、それだけだった。名前は、英語に訳されて、ウォター・リリイとなり、さらにもうひとひねりして、リリアンとなった。東部の大学にまなび、いくつかの学位をとり、なんのことだかちんぷんかんぷんだが、呪物神《フェティシュ》の本質と意義とやらについて、一冊の本を著わしたのも、リリアン・シャンとしてだった。
一九二一年に、父親が死んでからは、四人のシナ人の召使いとともに海浜の家に住み、そこで、最初の本を書きあげ、現に、もう一冊の著作をすすめていた。二週間ほど前に、ふと、仕事の行きづまりを感じ、かの女にいわせると――袋小路にはいりこんでしまった。パリの造兵廠図書館に、古い神秘的な写本があり、それが、この行きづまりを打開してくれそうだった。そこで、かの女は、すこしばかりの衣類を、カバンにつめこんで、ウォン・マーというシナ人の女中を一人連れて、ニューヨーク行の汽車に乗りこんだ。留守のあいだの家は、ほかの三人の召使いにまかせた。
シカゴからニューヨークへの車中で、どうしても解けなかった難問のかぎがひょいと頭にうかんできた。リリアン・シャンは、ニューヨークで一夜の休養をとることさえせずに、そのまままわれ右をして、サンフランシスコへの帰路についた。渡船場《フェリイ》で、自家の運転手に電話をかけて、車を迎えにこさせようとした。応答がなかった。タクシーが、かの女と女中を家まで送りとどけた。玄関のベルを鳴らしたが、だれも出てこなかった。
鍵穴に鍵を差しこんだとたんに、ドアが、中からあいて、若いシナ人の男が、顔をのぞかせた――見たこともない男だった。名をあかすまでは、入れてくれなかった。かの女と、女中とが、広間にはいると、その男は、なにやら意味のききとれないことを、ぶつぶつとつぶやいた。
二人とも、カーテンでみごとにしばられてしまった。
二時間たって、やっと、リリアン・シャンは、いましめからぬけだした――そこは、二階の敷布などをしまっておく押し入れだった。あかりのスウィッチを押して、女中のいましめを、解きにかかった。とちゅうで、その手が、とまった。ウォン・マーは、死んでいた。首に巻きつけた縄《ロープ》が、きつすぎたのだった。
リリアン・シャンは、ひとけのない家をあるきまわって、レッドウッド・シティの治安官事務所に、電話をかけた。
治安官代理が、二人やってきて、事情をききとり、家のなかをしらべ、シナ人の死体を、もうひとつ発見した――それは、首をしめられ、地下室に埋められた女の死体だった。一週間か十日前に、殺されたらしいが、地面がしめっているので、それ以上に確実な死亡日時を推定することはできなかった。リリアン・シャンの証言によって、その死体は、召使いの一人、料理人のワン・ランと確認された。
ほかの召使い――ホー・ルンと、イン・ハンとは、影も形も見えなかった。老シャン・ファンが、生涯かかってしつらえた、数十万ドルにおよぶ調度には、なにひとつ手をふれたあとはなかった。乱闘の形跡もなかった。なにもかもが、きちんとしていた。一番近い隣家も、ほとんど半マイルはなれていた。その隣家では、なにも見も知りもしなかった。
といったようなことの次第を、新聞は、大見出しつきで報道していたし、椅子に棒を立てかけたようにぎごちなくすわった女も、|おやじ《オールド・マン》とぼくに、いたって事務的なきびきびとした口調で、はなしてくれた。
「サン・マテオ郡のおえらがたも、一応は、殺人犯人の逮捕に、努力してくれましたが、わたしは、それにどうにも満足できないんですの」かの女は、はなしのしめくくりをつけた。「そこで、こちらにお願いしたいんですけど」
「犯人について、なにかとくべつのお心当りでもおありですか、ミス・シャン?」ぼくがたずねた。
「ありませんわ」
「召使いのことは――いなくなった連中にしろ、死んだ連中にしろ――事情がわかっているんですか?」
「いいえ、ほとんどわかってやしませんのよ」たいして関心なさそうな口ぶりだった。「ウォン・マーが、一番の新参なのですけど、それでも、七年ちかく、わたしといっしょにいました」
「どこからきた人間ということは、わかっているんですか? みよりのあるなしとか、友人関係とか、そんなことは?」
「いいえ。わたし、べつにそんなことをせんさくしませんでしたもの」
「いなくなった二人は――どんなひとたちですか?」
「ホー・ルンは、頭のまっ白な、やせて、背なかのまがった一人ですわ。いろいろ家の雑用をやっていました。イン・ハンは、わたしの運転手兼庭師ですけど、これは、若い男で、二十才ぐらいじゃないでしょうか。広東人にしても、背の低いほうですが、とてもがっちりした男ですわ。いつのことですか、鼻柱を折られたことがあって、それっきりになっています。まるでぺちゃんこで、ひどくゆがんでいます」
「その二人が、女を殺したかもしれないとお思いですか?」
「そんなことはありませんでしょう」
「その若いシナ人というのは――つまり、あなたがたを、家に入れてくれた見知らぬ男は、どんなひとでした?」
「ほっそりとして、齢は、せいぜい二十か二十一、前歯に、大きな金歯がありましたわ」
「治安官の仕事っぷりが満足できないとおっしゃるのは、ミス・シャン、うちあけたところ、どういうことなんですか?」
「なによりも、そんな腕があるとは思えませんの。わたしの会った人たちなど、ちっともぴんとこないんですのよ」
「それから?」
しばらく手間どってから、やっとことばが出てきた。
「かんじんなところを、見逃がしているような気がするんです。家のまわりばかりをうろうろしているようで。犯人が、のこのこと舞いもどってくると考えるなんて、バカげていますわ」
ぼくは、それを、自分の胸にたたみこんだ。
「ミス・シャン」ぼくは、あらたまった口調でたずねた。
「どうでしょう、あなたご自身が、疑われているような気がしやしませんか?」
「とんでもない!」
「それは、まあそうでしょうが、とにかく、ご自分に疑いがかかっているとは思いませんか?」
「でも、警察が、どう思っているか、そんなことはわかりゃしませんものね」
「ぼくは、新聞で読んだことと、今おはなしいただいたことのほかは、なにひとつ知らないんです。だれに疑いをかけるにしろ、それだけでは、どうにもなりません。しかし、治安官が、さっぱりしないわけは、どうやらわかりますよ。あなたは、急に旅だたれた。その旅だちの理由とか、すぐにもどってきた理由とかについては、あなた自身のことば以外に、判断の根拠がありません。地下室で死体の発見された女は、あなたがお出かけになる前か、または、そのすぐ後で殺されたと見ても、差しつかえがないわけです。生きていれば、事情を説明できたはずのウォン・マーは死んでいます。ほかの召使いたちの行方は知れない。なにひとつ盗まれていない。そうなると、それだけで、治安官が、あなたに不審を抱くのも当然のことですよ!」
「わたしを疑っていらっしゃいますの?」
「いや、そんなことはありません」ぼくのことばに、うそはなかった。「しかし、それだけでは、なにがなんだか、かいもく見当がつきませんからね」
女は、あごを宙につきあげて、じかに|おやじ《オールドマン》に、はなしかけた。まるで、ぼくの頭ごしにものをいっているぐあいだった。
「どうでしょうかしら、この事件を、お引き受けいただけまして?」
「喜んでできるだけのことはいたしますよ」引き受けの条件についても、話がまとまり、女が、小切手を書きこみにかかると、|おやじ《オールドマン》は、ぼくに話しかけた。
「この件は、君にまかせる。要《い》るだけの人数は、使いたまえ」
「まず、お宅に出むいて、家の内外を、よく調べてみましょう」
リリアン・シャンは、小切手帳をしまいこんだ。
「結構ですわ。わたし、すぐに家に帰ります。ごいっしょに参りましょう」
のんびりとしたドライヴだった。女もぼくも、むだ話にエネルギーを使ったりはしなかった。おたがいに、それほど相手が気に入ったふうでもなかった。
シャン家の邸宅は、芝生にかこまれた、茶いろの石で築きあげた大きな建物だった。敷地の三方は、肩ほどの高さの生けがきになっていた。もういっぽうは、いきなり海で、そこは、小さな岩だらけの岬にはさまれた入江だった。
家のなかには、やたらにいろんなものが、吊してあった――壁かけだとか、絵だとか――アメリカ風、ヨーロッパ風、それにアジア風のごちゃまぜだった。家の中では、あまりひまをとらなかった。敷布類の押し入れと、まだ掘りかえしたままになっている地下室の墓場をのぞき、リリアン・シャンが、新しく召使いをやとい入れるまでの間にあわせに、家政を見ている、青い冴えない顔をしたデンマーク人の女に会うと、ぼくは、また外に出た。しばらく、芝生をほっつきあるき、町から乗ってきた一台のほかに、車が二台おさまっている車庫に、頭をつっこみ、それからあとは、近所のひとたちとおしゃべりを交わして、その午後をすごした。だれも、なにも知らなかった。
たそがれどきに、町にもどってきて、ぼくが、サンフランシスコでの最初の一年を暮したアパートに行ってみた。めあての若ものは、自分のこじんまりした部屋で、着がえをしているところだった。小がらなからだに、さくらんぼ色の絹のシャツがよく似あった。シプリアーノは、昼間、そのアパートの玄関をあずかっている陽気な顔のフィリピン人の若ものだった。夜になると、サンフランシスコじゅうのどのフィリピン人もがそうなのだが、シナ人の賭博場で、顔のいろの黄いろい兄弟に、金をまきあげられているとき以外なら、チャイナタウンのすぐ手前のキアニイ・ストリートに行けばつかまえることができた。
前に、半分は冗談のように、いずれチャンスがあったら探偵のまねごとをさせてやろう、と約束をしたことがあった。今なら、その若ものを利用できそうな気がした。
「どうぞ!」
部屋の隅から、椅子を一つひっぱってきてくれて、ニコニコ顔で頭をさげた。
「近ごろ、シナ町のほうの景気はどうだね?」ぼくはたずねた。
若ものは、白い歯を見せた。
「昨夜は、ビーンゲームで、十一ドルせしめましたよ」
「で今日は、そいつを、ご返上申しあげるという寸法なんだな?」
「ぜんぶというわけには行きませんや! なにしろ、このシャツに、五ドルかけちまったからね」
「そいつはなによりだ」ぼくは、シナばくちでかせいだ金の一部を、さっそく品ものにかえたかれの智慧を、ほめてやった。「ほかにうまいはなしでもないかね」
「変ったこともありませんなあ。なにかさぐりだしてえことがあるんですね?」
「図星だ。先週、田舎でおこった殺人事件のことで、噂でも立っていやしないかね?」
「ききませんねえ。だいたいが、シナちゃんというやつは、そういったことには、口がかてえからな。ぼくたちアメリカ人とは、ちがいますよ。その件は、新聞で読みましたが、噂はきかんです」
「このごろ、シナ町には、新顔がたんといるかね?」
「新顔は、いつだっていまさあ。しかし、そういえば、見たことのねえ顔がチラホラしてるような気もしますよ。気のせいかもしれねえが」
「どうだ、すこしばかり骨を折ってくれる気はないか?」
「ありますとも! ありますとも! ありますとも!」
実際は、もっとなん度もおなじことばをくりかえしたのだが、書くぶんには、このくらいでたくさんだろう。
「君に骨を折ってもらいたいのは、こういうことなんだ。つまり、その事件のあった家の召使いが二人、シナ町に、身をかくしたんだがね」ぼくは、イン・ハンと、ホー・ルンの人相を説明した。「まず、その二人の男をさがし出してくれ。だれでもいい、シナ町で、その殺人事件のことを知っている人間があったら、どんなことを知っているのか、そいつをさぐってほしい。殺された二人の女に、どんな友人、親戚がいるのか、どこからきた人間なのか、こいつは、二人の男の召使いについても、おなじことを知りたい。それから、君のいう|見たことのねえ《ヽヽヽヽヽヽヽ》シナ人だが、その連中が、どのあたりを根城にしているのか、宿はどこか、うろうろしているめあてはなにか、そんなこともしらべてほしい。
ところで、なにも、ひと晩のうちに、なにからなにまでやっちまおうとあせることはない。一週間かかって、すこしでもつかめれば、大できだ。ここに二十ドルある。このうち五ドルは、君の夜勤手当てだ。のこりは、そこらをあるきまわるのに使えばいい。まあ、のんびりとかまえて、どのくらいぼくの役にたってくれるか、やってみるんだな。明日《あした》またよるからね」
フィリピン人の部屋から、探偵社の事務所にまわった。夜勤のフィスクのほかには、だれもいなかったが、夜遅くなってから、|おやじ《オールド・マン》が、ほんのしばらく立ちよるはずだということだった。
ぼくは、タバコをふかし、フィスクが、その週、オアフュームにかかっている出しもののなかのしゃれを、総ざらいするのに、耳をかたむけるふりしながら、自分の仕事を、とっくりと考えた。ぼくは、シナ町で、顔を知られすぎているから、とても秘密をさぐりだすようなまねはできない。シプリアーノが、それほど役にたつかどうか、それには、ちょっと自信がもてなかった。だれか、あの界わいになじみきっている人間を、手なずけなければならない。
そういうふうに考えているうちに、ふと『唖《おし》の』ウールのことを思いだした。ウールは、自分の縄張りをなくしてしまった唖の乞食だった。五年前には、かれは世界に君臨していた。その悲しみに満ちた顔と、留め針の包みと、『わたしはつんぼで唖です』と書いた看板とが、きまった順路に沿った事務所や店から、二十ドルをせしめないような日は、よっぽどの悪日だった。疑ぐり深い連中が、うしろからわめいたり、いきなり大きな音を立てたりしても、そ知らぬ顔で、彫像のようにびくともしない芸当は、かれのとっときの切札だった。唖のウールがしゃんとしていたじぶんには、たとえ、耳のそばで、ピストルをぶっ放したところで、まぶたをぴりりともさせずにいたものだった。しかし、ヘロインをやりすぎて、神経をいため、今では、ただのささやき声にも、とびあがるほどになっていた。商売ものの留め針も、看板も、うっちゃらかしてしまった――かれもまた、社会生活に打ちひしがれた人間の一人だった。
それ以来、唖のウールは、だれであろうと相手えらばず、自分の欠かすことのできない鼻ぐすり《ヘロイン》を買う金を出してくれるひとの使い走りをやるようになっていた。チャイナタウンのどこかにねぐらがあり、自分のやっていることの成行きがどうなろうと、そんなことは、たいして気にかけてもいなかった。ぼくも、半年ほど前に、縄張り争いのごたごたで、情報をとるのに、かれを利用したことがあった。もう一度、この男をためしてみることにした。
ぼくは、『|宙返り《ループ》』のピガッティの店に、電話をかけた――そこは、チャイナタウンとラテン区との境い目、パシフィック・ストリートにある安料理店だった。ループは、ひと筋なわで行かぬあいまい屋を経営する、ひと筋なわで行かぬ市民だった。なかなかの商売熱心で、かれの店のショウも、かなり利益をあげていた。ループにとっては、だれかれの区別はなかった。強盗であろうが、警察のいぬであろうが、刑事《でか》であろうが、民生委員であろうが、十ぱひとからげに、おなじ扱いを受けるだけだった。
ループが、自分で電話に出た。
「唖のウールをつかまえてもらえないだろうか?」ぼくは、自分の名をいってから、そうたのんでみた。「今晩会いたいんだが」
「まさか、やつをどうかしようというんじゃねえだろうな」
「いや、ループ、なにもそんなことじゃないんだ。ちょっと手つだってもらいたいことがあってね」
「よし、わかった。どこへ行かせればいいんだ?」
「ぼくのところによこしてくれ。待っているから」
「顔を見せたら、すぐにやるよ」ループは、約束をして、電話を切った。
ぼくは、フィスクに、|おやじ《オールド・マン》がやってきたら、電話をしてもらうように頼んでおいて、自分の部屋にあがって行き、唖のウールのくるのを待った。
かれは十時すこし過ぎにやってきた。四十才かそこらの、背の低い、ズングリとした、青白いはれぼったい顔の男だった。ねずみいろの髪の毛には、黄白色のいく筋かがまじっていた。
「お前さんが、なんだか用があるとかって、ループが、そういってたがね」
「うん」ぼくは、唖のウールに、椅子をすすめて、ドアをしめた。「ニューズを買いたいんだがね」
「どんなニューズだね? おれはなにも知っちゃいねえが」
ぼくは、ちょっと戸まどいを感じた。唖のウールの黄いろく濁った眼は、本来ならば、ヘロイン中毒者に特有の、針のさきほどに小さなひとみになっていなくてはならないはずだった。それが、そうでなかった。ひとみは、正常だった。くすりに不自由しているらしくない――コカインを差して、ひとみをひろげている。なぜだろう?――それがわからなかった。ふだんなら、そんな手間をかけるほど、自分の外貌を気にするような人間ではなかったのだが。
「先週、海岸のほうで、シナ人の殺された事件のことは、きいたかね?」ぼくは、たずねた。
「きかねえな」ぼくは、その返事にはかまわずに、ことばをつづけた。
「ぼくは、行方をくらました二人の顔の黄いろい男をさがしているんだ――ホー・ルンとイン・ハンの二人なんだがね。二人のうちどっちでもいい、さがし出してくれれば、二百ドルかせがせてやるよ。事件のことをさぐってくれれば、もう二百ドルだ。リリアン・シャンと、女中とが、旅行から帰ったとき、玄関のドアをあけた、やせた金歯のあの若いシナ人を見つけてくれたら、これも、二百ドルになる」
「そんなこと、おれは、まるっきり知らねえよ」
しかし、口では、機械仕かけのようにそういいながらも、心のなかでは、ぼくの見せびらかしてやった百ドル紙幣の枚数を、せわしなく胸算用していた。察するところ、かれの麻薬でくさった脳味噌は、それが、合計数千ドルにはなると考えたようすだった。いきなりとびあがった。
「できるかどうか、やってみよう。ところで、今すぐに、百ドルばかり、うち金をもらうわけには行かねえかな?」
ぼくは、相手にならなかった。
その点が、ぼくたちの議論のたねになったが、結局、唖のウールは、ぶつぶついいながら、ニューズをつかみに出て行った。
ぼくは、事務所にもどった。|おやじ《オールドマン》は、まだきていなかった。やってきたのは、ほとんどま夜なかだった。
「また、例の唖のウールを使いますがね」ぼくは説明した。
「それから、もう一人、フィリピン人の若いものを出しています。ほかにも、やってみようと思っていることがあるんですが、だれにやらせるかとなると、ちょっと適当な人間がいないんです。つまり、行方をくらました運転手と下男とに、どこかまるっきりかけはなれた土地に、仕事を世話してやるともちかければ、とびついてくるだろうと思うんですがね。そんな役目を引き受けてくれるようなひとに、だれか心あたりはありませんか?」
「もっと具体的にいうと、どんなひとだったらいいんだね?」
「ずっと田舎のほうに家のあるひとでなければならんのですがね。それも、遠ければ遠いほど、ひっこんでいればいるほどいいんです。そこから、どこか、シナ人の職業紹介屋に、召使いが三人――料理人と、下男と、運転手と――ほしい、と、電話をかけてもらいます。料理人をまぜておくのは、こっちの計略をさとられないためなんですがね。相手には、ぜったいに感づかれないようにしなければなりません。また、魚を釣りあげるには、先ず、こっちの餌を、充分にしらべるだけのひまをくれてやることがかんじんです。そこで、だれか引きうけてくれるにしろ、現に召使いを使っているひとでなければなりません。そして、その召使いが、ひまをとろうとしているというデマを、近所のひとたちに――召使いもいっしょになって――いいふらします。そうしておいて、相手に様子をさぐらせるため、わざと二日ばかり待ってみるんです。職業紹介屋は、ウォシントン・ストリートのフォン・イックの店を使うといいと思いますがね。
それをやってくれるひとには、明日の朝、そのフォン・イックに電話をかけて、木曜日の朝、応募者に会いに行くからと、そうはなしてもらえばいいでしょう。今日は、月曜日だから――それだけあいだをおけば充分でしょう。そのひとには、木曜日の朝の十時に、フォン・イックの店に行ってもらいます。それから、十分遅れて、応募者に面談しているさいちゅうに、ぼくと、ミス・シャンとが、タクシーを乗りつけます。ぼくは、ひと知れず、フォン・イックの店にはいりこんで、失踪した召使いらしい人間がいたら、そいつをつかまえます。一分か二分たつと、こんどは、ミス・シャンが、店にはいって、ぼくのつかまえた相手の首実検をするという寸法です――だから、不法逮捕でいいがかりをつけられる心配もありますまい」
|おやじ《オールドマン》は、なるほどというようにうなずいた。
「よかろう。なんとか段どりをつけられるだろう」
ぼくは、自分の部屋に帰って、ベッドにもぐりこんだ。こんな工合で、第一日はおわった。
次の日、火曜日の朝、九時には、ぼくは、シプリアーノのはたらいているアパートのロビーで、そのフィリピン人の若ものと、はなしていた。かれの眼は、さながら、まっ白な受皿に、ポタリと落したインクのしたたりだった。自分では、獲ものがあったつもりでいるようすだった。
「ほんとでしたなあ! 見なれねえシナちゃんがいますよ。ウェイヴァリー広場のある家に、寝とまりしてるんです――広場の西がわの、ぼくなんかも、さいころばくちをやりに行くことのあるジェア・クォンの家から四軒目ですよ。まだあるんです――ぼくは、ある白人にきいたんですがね、その連中はポートランド、ユリーカ、サクラメントなどの土地から流れてきたならずものだってえことですよ。ヒップ・シンの一党だそうだからこいつは、そのうちに、党《トン》どうしの戦争が、おっぱじまるかもしれませんな」
「ピストルでも振りまわしそうな連中かね?」
シプリアーノは、頭をひっかいた。
「いや、そうじゃねえようです。しかし、そんな顔をしちゃいねえやつだって、いざとなりゃあ、ドカンとやりますからなあ。とにかく、ヒップ・シン党のやつらだってことですよ」
「その白人というのは、どんなやつだった?」
「名前は、知らんのですが、そこに住んでるひとでね。背のちっちゃな――麻薬中毒者ですよ」
「髪の毛が、ねずみいろで、眼の黄いろい?」
「そうなんで」
てっきり、唖のウールにちがいない。ぼくの使っている手先どうしが、ばかしあっているのだ。とにかく、シナ人の党《トン》というやつは、どうも、ぼくにはいただけないしろものだった。たまには、その連中もごたごたをおこすようだが、たいがいは、悪事をはたらいたやつどもが、勝手に党《トン》に、罪をなすりつけてしまうのだった。チャイナタウンでおこる大がかりな殺しあいのほとんどは、家どうしとか、氏族《クラン》どうしの反目――たとえば、例の『四兄弟《フォア・ブラザーズ》』の一座が、よく舞台にかけるような――が、原因だった。
「そのよそものが、寝とまりしているらしいという家のことだが――なにか、知っていることがあるのかね?」
「ありませんね。しかし、ひとつ裏の通り――スポフォード横町ですな――そこのチャン・リイ・チンの家と通りぬけになっているようですがね」
「なるほど。で、そのチャン・リイ・チンというのは、どんなやつなんだ?」
「知らんですがね。でも、その家に、そんな人間がいることは、たしかなんです。だれも、そのひとの顔を見たやつはいねえんだが、シナ人はみんな、大したえらいひとなんだといっていますよ」
「そうかね? そのどえらいやつの家が、スポフォード横町にあるんだな?」
「そうなんです。ドアと階段の赤い家ですがね。行けば、すぐわかります。しかし、チャン・リイ・チンは、相手にしねえほうがいいな」
「よっぽどの大物かな?」ぼくは、さぐりを入れた。
しかし、フィリピン人は、そのチャン・リイ・チンについては、なにひとつ知らなかった。要するに、かれは、自分の同国人たちが、噂をするときに見せる大仰《おおぎょう》なそぶりから、そのシナ人を、よっぽどの大人物ときめこんでいるのだ。
「ところで、例の二人のシナ人のことだが、なにかさぐりだせたかね?」
「それが、サッパリなんで――しかし、さぐり出してごらんに入れますよ、大丈夫、うけあいまさあ!」
ぼくは、よくやったとおだてあげ、今晩もう一度あたってみてくれと頼み、十時半にくる約束になっている唖のウールを待つために、自分の部屋にもどった。帰りついたときには、十時にまだ間があった。ひまつぶしに事務所に電話をかけてみた。|おやじ《オールド・マン》が、ディック・フォリー――尾行はりこみにかけては、わが社のエース――が遊んでいるというので、その男を借りることにした。それから、ピストルの用意をして、腰をおろし、味方のスパイのやってくるのを待った。
ベルの鳴ったのは、十一時だった。おそろしく渋い顔ではいってきた。
「お前さんが、どう思おうが、そんなこたあ知らねえよ」唖のウールは、タバコを巻きながら、もったいぶった口をきいた。「しかし、あそこには、たしかになにかあるね。いずれにしろ、日本人が、シナ町に店を買いはじめてからこっち、しょっちゅうごたごたが絶えねえんだから、こんどのことだって、それと関係があるかもしれねえ。だが、あの界わいには、新顔のシナ人なんてえのは、見かけねえよ――ただの一人だっていやしねえ! こいつは、おれのカンだが、お前さんのいうその二人の男ってえのは、ロサンゼルスにでも、もぐりこんだんじゃあねえかな。とにかく、今晩には、はっきりしたところがつかめるはずだ。おれは、シナ人を一人使って、情報をさぐらせてるんだが、おれが、お前さんだったら、さしずめ、サン・ペドロあたりで、船を見張らせるがね。この国にはいりたがっているシナ人の水夫を見つけだして、身分証明書のとっかえっこぐらい、やりかねねえからな」
「すると、シナ町には、新顔など見あたらないというんだな?」
「まるっきりいやしねえよ」
「おい、ウール」ぼくは、きびしい声で呼びかけた。
「貴様は、うそつきだ。その上大バカものだ。こっちの仕かけたわなに、まんまとひっかかりやがった。こんどの殺人事件には、貴様もぐるになっているんだ。こうなったら、貴様のかばっているその相棒ぐるみ、ブタ箱にぶちこんでやるぞ!」
ぼくは、ウールの脅えて灰いろに変った顔の間ぢかに、ピストルをつきつけた。
「電話をかけるあいだ、じっとおとなしくしているんだ!」
相手から眼をはなさずに、ぼくは、あいたほうの手を、電話器にのばした。
それだけでは、用心が足りなかった。ピストルが、相手にちかすぎた。
いきなり、ピストルをひったくられた。ぼくは、とびかかった。
銃口が、こっちをむいた。その銃身をつかんだ、が――遅かった。轟音がとどろいた銃口は、ぼくの腹から、一フィートとはなれていなかった。火が、腹につきささった。
ぼくは、両手でピストルをつかんだまま床にころがった。唖のウールは、ドアをあけっぱなしにしたまま、逃げて行った。
ぼくは、片手で、焼けるように痛む腹をおさえて、窓ぎわに駈けより、下の町角にぶらぶらしていたディック・フォリーに、手を振って見せた。それから浴室にはいって、傷をしらべた。いくら空包でも、間ぢかでぶっぱなされれば、けがをせずにはすまされないものだ!
チョッキとワイシャツとコンビネーションが、台なしになった。股には、ひどいやけどのあとがあった。膏薬を塗り、ガーゼをあて、ばんそうこうを貼って、服を着替え、ピストルに弾丸をこめなおし、事務所におりて行って、ディックから連絡のあるのを待った。こんどの事件の最初の策略は、どうやらこっちの思うつぼにはまったようだった。唖のウールが、ヘロインの中毒者であるにしろ、ないにしろ、もし、ぼくのあて推量――それは、かれが、こっちの眼をまともに見るのを辛がっていたその態度と、シナ町には、新顔などいないといって見せたしらじらしいうそを頼りに、やみくもにとばしてみたのだったのだが――が、まさしく的のすぐちかくにあたったのでなかったら、ああまであわを喰って逃げだしもしなかったろう。
大して待つ間もなく、ディックが、もどってきた。
「獲もの、どっさりだ」その小がらなカナダ人は、倹約した電文のようなもののいいかたをするのだ。「飛んで行った先は、電話だった。ホテル・アーヴィントンにかけた。電話室だったから、わかったのは、むこうの電話番号だけ。それでたくさんだろう。それから、シナ町。ウェイヴァリー広場《プレース》西側のどこかの地下室に、もぐりこんだ。はっきりどの家とわかるほどは近よれなかった。うろうろしているとあぶないような気がしたんだ。ちっとはお役にたつかね?」
「大だすかりだ。ひとつ、『|口笛吹き《ホイスラー》』の記録を、しらべてみよう」
書類係が、記録をさがしだしてくれた――書類かばんほどの大きさのふくれあがった封筒に、|覚え書《メモ》と、新聞の切抜きと、手紙とが、ぎっしりつまっていた。その紳士の経歴は、こんなふうに記録してあった――
通称、|口笛吹き《ホイスラー》、ネイル・コンヤーズは、一八八三年、フィラデルフィア郊外、ウィスキーー・ヒルに生れた。一八九四年、十一才のとき、ウォシントンの警察に保護された。軍楽隊に入れてもらいたさに、家出をしてきたのだった。家に送りかえされた。一八九八年には、故郷の町で、選挙の夜のかがり火をめぐるけんか沙汰にまきこまれ、若い男を刺して、逮捕されたが、両親の厳重な監督のもとにおかれることを条件に、釈放された。一九〇一年、最初の組織的自動車窃盗団の首領として、ふたたび、フィラデルフィアの警察に、検挙された。証拠不充分ということで、公判をまたずに、釈放された。しかし、この事件から尾をひいた醜聞《スキャンダル》のために、地方検事は、その職を失った。一九〇八年に、コンヤーズは、『掃除人』のヒューと呼ばれる取りこみ詐欺師と組んで、太平洋岸――シアトル、ポートランド、サンフランシスコ、ロサンゼルスなど――に、出没した。その翌年、ヒューは、飛行機製作をたねにしたいかさま取引きでだました相手の男に、射殺された。コンヤーズは同じ詐欺事件に共犯の容疑で、逮捕された、二人の陪審員が、異論をとなえ、評決の一致が得られなかったので、当人は、釈放された。一九一〇年、郵政省の、一攫千金を看板に、世間の人をたぶらかすぺてん師を対象にした、有名な大手入れの網にかかった。このときにも、刑を宣告するに充分な証拠は、にぎられずにすんだ。一九一五年にはじめて、法の網の目を、くぐりそこねた。パナマ運河開通記念博覧会の見物人をだまして、金をまきあげたかどで、サン・クェンティン刑務所に送られた。その刑務所で、三年間服役した。一九一九年には、ハセガワという日本人と組んで、シアトルの日本人居留民から、二万ドルをだまし取った。コンヤーズは、世界大戦中、日本陸軍の顧問をつとめたアメリカ人に、なりすました。天皇陛下に親しく授与されたと称して、偽造の旭日章を見せびらかした。この詐欺が、失敗におわると、ハセガワの家族は、二万ドルを、弁済させられた――コンヤーズは、かすり傷ひとつ負わないばかりか、もうけは、たんまりとポケットにはいっていた。悪い評判さえたてられなかった。事件は、それっきりおさまった。その後、サンフランシスコにもどり、ホテル・アーヴィントンを買い取り、今では、そこに住みついて、五年になる。そのあいだ、相手がだれにせよ、自分の前科を、もうひとつふやさせるようなへまはやらずにいた。なにかやっているにちがいないのだが、決して尻尾をつかませなかった。コンヤーズのもちものであるそのホテルに、探偵をもぐりこませることなど、世界にこれほどむずかしいことはなかった。いつでも、空いた部屋はないようすだった。たとえてみれば、パシフィック・ユニオン・クラブほどにも、よそものを入れないホテルだった。
要するに、唖のウールが、チャイナタウンの自分の巣にもぐりこむ前に、電話をかけたホテルのもち主は、ざっとこういう人物だった。
ぼくは、コンヤーズにお目にかかったことはなかった。ディックも、ご同様だった。封筒には、写真が二枚はいっていた。一枚は、当人が、とどのつまりサン・クェンティン刑務所に送られることになったその事件であげられたときに、土地の警察で撮られた、横顔と正面からのと両ほうそろった鑑識用の写真だった。もう一枚は、胸にまがいものの日本の勲章をかざった燕尾服《イヴニング》姿のコンヤーズが、おなじように燕尾服を着こんだ五、六人の日本人にとりかこまれて立っている集合写真――かれが、その日本人たちを料理にかかっているころの、フラッシュを焚いて撮った写真だった。
写真で見ると、コンヤーズは、大きな角ばったあごに、鋭い眼をした、いかにももったいぶったようすの、よく肥えた大男だった。
「この男なら、見ればわかるかな?」ぼくは、ディックにたずねた。
「わかるとも」
「どうだろう、君が、自分で乗りこんで行って、あの近所――つまり、ホテルを見はれるようなところに、部屋かアパートが借りられるかどうか、あたってみてくれるといいんだがね。ひょっとすると、やつを尾行するチャンスがつかめんでもないからな」
ぼくは、役にたつかもしれない二枚の写真を、自分のポケットにおさめ、ほかの書類は、もとの封筒につっこんで、|おやじ《オールドマン》の部屋に行ってみた。
「例の職業紹介屋をおとりにする策戦の段どりをつけたがね」おやじのほうからいいだした。「マーティネツの奥に牧場をもっているフランク・ポールという人が、木曜日の朝十時に、フォン・イックの店に行って、うまく芝居をやってくれることになっている」
「そいつはよかった! ぼくは、これから、シナ町へ出かけます。もし二日のあいだぼくから連絡がなかったら、すみませんが、道路掃除人に、集めたごみの中をよくしらべるように頼んでくれませんか」
|おやじ《オールドマン》は、そうしようと約束をした。
サンフランシスコのチャイナタウンは、カリフォルニア・ストリートの商店のかたまっているあたりから北にのびて、ラテン・クォーターに達する、幅二ブロック、長さ六ブロックの細長い区域である。大火の前には、その十二のブロックに、二万五千にちかいシナ人が、住んでいた。今は、その三分の一の人口もあるまい。
この細長い区域の|本通り《メイン・ストリート》、いわば背骨にあたるグランド・アヴェニューには、そのほとんど全長にわたって、観光客の気をひきそうなけばけばしい商店と、見かけだおしのシナ料理店が、のきをつらね、ときたまもれるシナ笛のすすり泣くような哀音も、アメリカ風のジャズの騒音に、かき消された。そのあたりを出はずれると、それほど派手な店がまえもなくなり、薬味や酢や乾物のいかにもシナらしいにおいをかぐこともできる。見物客目あての目抜きの通りから、横にそれて、そこかしこの横町とか、うす暗いものかげをのぞきまわり、しかも、生命にべつ条のあるような目に会わずにすめば、なにか面白い話のたね――なかには、あまりぞっとしないのもあろうが――にありつけないでもない。
しかし、ぼくは、なにもそんな道楽ッ気をおこしたわけではなかった。グランド・アヴェニューを、クレイ・ストリートの角でまがると、まっすぐにスポフォード横町《アレー》に、足をむけ、シプリアーノが、チャン・リイ・チンの住家だといっていた、ドアと階段の赤い家を、さがしにかかった。ウェイヴァリー広場《プレース》を通りがてら、ぼくは、ほんの四、五秒立ちどまってあたりをながめた。フィリピン人の話では、この辺に、見なれないシナ人が住んでいて、その家は、チャン・リイ・チンの家と通りぬけになっているらしいということだった。ディック・フォリーが、唖のウールを尾けて行った先も、この広場だった。
だが、どれが、かんじんのその家なのか、まるっきり見当のつけようがなかった。シプリアーノは、ジェア・クォンの賭場から四軒目だといっていたが、そのジェア・クォンの家を、ぼくは、知らなかった。今のところ、ウェイヴァリー広場は、平和と静寂そのものだった。肥ったシナ人が一人、食料品の前に、野菜のかごを積みあげていた。通りのまんなかでは、五、六人の顔の黄いろいこどもたちが、ビー玉あそびにふけっていた。広場のむかいがわのとある地下室から、トウィード地の服を着た金髪の青年が、階段を六段のぼって、通りに出てきた。ドアのしまる前に、白粉を塗りたくったシナ人の女の顔がちらっと見えた。
スポフォード横町に行ってみると、目あての家は、なんのわけもなく見つかった。階段とドアがかわいた血のいろに塗ってあるきたならしい家だった。窓には、のこらず、厚い板が、釘でしっかりと打ちつけてある。一階が、店にも事務所にもなっていないことが、その建ものを、となり近所から、ひときわ目だたせていた。純粋に住宅ふうの家は、チャイナタウンには、めったにないのだ。
ぼくは、玄関前の階段を三段のぼって、にぎった手の関節で、赤塗りのドアを、こつこつとたたいた。
なにごともおこらなかった。
またもっと強くたたいた。それでも、なんの気配もなかった。もう一度やってみた。こんどは、なかでガタガタカチカチと音がした。
その物音が、すくなくとも二分間はつづいて、ドアが、さっと――ほんの四インチばかりあいた。
その隙間から、ななめになった片眼と、しわだらけの茶いろの顔の切れっぱしとが、戸じまりの太いくさりごしに、わたしの顔をのぞいた。
「なんの用か?」
「チャン・リイ・チンに会いたいのだが」
「知らん。むかいの家でないか」|r《アール》と|l《エル》との区別のつかないシナ人英語だった。
「しらばくれるな! ドアをしめて、チャン・リイ・チンに、ぼくが会いたがっている、と、そういいに走って行け」
「だめね! チャンというひと、知らないよ」
「いいから、ぼくがきたといってこい」ぼくは、ドアに背なかを向けて、階段の一番上の段に、腰をおろし、ふりかえりもせずに、「待っているよ」といい足した。
タバコをとり出すあいだ、背中のほうでは、なんのもの音もしなかった。やがて、ドアがそっとしまった。そのむこうがわで、ガタガタカチカチと音がした。ぼくは、タバコを、一本また一本とふかしつづけ、根くらべならこっちのものだというような顔をしながら、時の過ぎるにまかせた。
一時間が、いたずらに過ぎ去った。それからまた五、六分|経《た》つと、おなじみのガタガタカチカチが、ドアのむこうできこえた。
くさりがガチャガチャとなって、ドアがあいた。ぼくは、ふりかえらずにいた。
「帰れ! チャンはいない!」
ぼくは、黙っていた。入れてくれないにしても、ここに坐りこむぐらいのことは、大目に見てくれるだろう。
しばらく間があいた。
「なんの用か?」
「チャン・リイ・チンに会いたい」ぼくは、前をむいたままでいた。
またしばらく間があいた。そのあげくに、くさりが戸わくにガチャンとぶつかる音がした。
「よし、はいれ」
ぼくは、吸いかけのタバコを、通りに投げすてて、立ちあがり、家の中にはいった。うすくらがりのなかに、安ものの古道具が、四つ五つ見えた。シナ人が、玄関のドアに、腕ほどの太さのかんぬき棒を四本もかい、一本一本に南京錠をかけるあいだ、ぼくは待っていた。それがすむと、シナ人は、ぼくにうなずいて見せ、すり足で床を歩きだした。髪の毛のない黄いろ頭に、ロープの切れっぱしのような首をした、背なかのまがった小さな男だった。
玄関から、べつのもっと暗い部屋にはいり、そこから廊下を通って、ぐらぐらする階段をおりた。しばらく、まっくらなほこりっぽい床をあるいて、左にまがると、そこは、セメントでかためた土間だった。くらやみの中で、さらに二度まがった。それから、あら削りの木の階段をのぼりつめると、笠のついた電燈の光で、かなりあかるく照明された広間に出た。
案内のシナ人は、一つのドアのかぎをあけた。はいった部屋には、香が焚かれていた。石油ランプの光で見ると、四方の壁には、金でシナの字の書かれた木の板がかけられ、その前には、茶碗をのせたちいさな赤い机が一つずつ置いてあった。この部屋の反対がわのドアをはいると、そこは、鼻をつままれてもわからぬほどのまっくらやみだった。ぼくは、案内人の別仕たての青いゆるい上衣のすそをつかんで、それを頼りにあるかねばならなかった。
家の中を連れ立って歩きだしてから、シナ人は、一度もぼくをふりかえらなかったし、どっちもひとことも口をきかなかった。階段をのぼったりおりたり、右にまがったり、左にまがったり、こんなことは、べつに気に病むこともなさそうだった。こっちをまごつかせて、それがすこしでもナグサミになるのなら、勝手にするがいい。こっちも、方角だけは、まるでわからなくなってしまった。自分のいる場所が、いったいどの辺なのか、これっぽちの見当もつかない。しかし、それは、たいして気にもならなかった。もし、これから、ぼくが、切りこまざかれる運命にあるとすれば、自分がどこにいるか、そんなことが知れたところで、それが、なんの足しになるものでもなかった。もし、無事にここを出られるのであれば、さしあたり今どこにいようが、それは、どうでもいいことだった。
ぐるぐるめぐりは、まだまだつづいた。階段をのぼったりおりたり、そのほかありとあらゆるバカなまねをした。ほとんど三十分は、家の中をうろつきまわったと思われるころになっても、案内をしてくれるシナ人のほかには、だれ一人姿を見せなかった。
そのとき、ふと目についたものがあった。
ぼくたちは、両がわに、茶いろに塗ったドアのならんだ、幅のせまい長い廊下をあるいていた。どのドアも、きっちりとしまっていた――うすくらがりの中で、いかにも秘密のひそんでいそうな光景だった。ぼくの眼をとらえたのは、ドアの立ちならぶあたりにきらりと光った、金属の鈍い輝き――ドアの中央からのぞく黒い金属の輪だった。
ぼくは、床にころがった。
射たれたと見せかけて倒れたぼくの眼に、閃光は見えなかった。しかし、すさまじい発射音はきこえ、火薬のにおいが鼻を打った。
案内のシナ人が、上ばきを踏みはずしながら、くるりとむきなおった。両ほうの手に、石炭を入れるバケツほどに大きな自動ピストルを、ひとつずつ握っていた。ぼくは、自分のピストルをとり出そうとしながらも、どうしてこんなにちっぽけな男が、ふたつものピストルをかくしていられたのだろう、と、不思議に思った。
小さな男の両手の大きなピストルは、ぼくにむかって、火焔を浴せかけた。シナ人の流儀で、はてしもなく射ちつづけた――ドカン! ドカン! ドカン!
自分のピストルの引き金に力をこめる間ぎわまで、ぼくは、そのシナ人が、ぼくをねらって的をはずしているのだと思った。それから、あやうく応射しかけて、気がついた。
ぼくを射っているのではなかった。ぼくのうしろのドア――ぼくのねらい射ちされたドアを目がけて、射ちまくっているのだった。
ぼくは、ころがってそのドアからはなれた。
やせっぽちの小男は、ひと足つめよって、砲撃に仕あげをかけた。弾丸は、ドアの羽目板を、紙でできたもののように寸断した。空になったピストルが、カチリと鳴った。
ドアが、うちがわのひとの重みに押されてあいた。その男は、ドアの中央ののぞき窓の木ぶたにすがりついて、自分のからだをささえようとしていた。
唖のウール――腹のあたりは、ほとんど形をとどめていなかった――が、床にくずれおちた。それは、死体というよりは、床にできた血だまりだった。
廊下は、顔いろの黄いろい男たちでいっぱいになった。黒いちご畑の中の野いばらのように、黒いピストルが、そこらじゅうに突きでていた。
ぼくは、立ちあがった。ぼくを案内してくれたシナ人が、両手のピストルを下におろし、うたうようなのど声で、なにかいった。シナ人たちは、ほうぼうのドアから、姿を消しはじめた。四人だけのこって、二十発の弾丸で、蜂の巣のように穴のあいた唖のウールの残がいをかき集めにかかった。
筋ばった年よりのシナ人は、空になったピストルをしまいこむと、ぼくのそばによってきて、ぼくのピストルのほうへ手をさしだした。
「それ、わたしなさい」ていねいなことばづかいだった。
ぼくは、わたした。ズボンをぬげといわれたところで、いうことをきかないわけにはいかなかった。
ぼくのピストルは、そのシナ人のシャツの胸のあたりに、しまいこまれた。かれは、四人のシナ人が、はこび去ろうとしているものに、なにげなくちらっとむけた視線を、ぼくのほうへうつした。
「あの手あいは、よくないね?」
「うん、あまりよくないな」ぼくは、あいづちを打った。
「さあ、行くよ」
ふたたび、二人の行進は、開始された。堂々めぐりは、またもやつづいて、もう一つ階段をのぼり、いく度か右にまがり、左にまがり、やがて、案内のシナ人は、あるひとつのドアの前に、立ちどまって、羽目板を、指の爪でひっかいた。
ドアをあけたのは、またべつのシナ人だった。ところが、こんどのは、今までの広東人の一寸法師とは、大ちがいだった。雄牛のようなのど首、山のような肩、ゴリラのような腕、なめし皮のような皮膚――生肉を喰うレスリング選手のような大男だった。この男をつくられた神さまは、材料がよっぽどありあまり、たっぷり時間をかけて、きたえにきたえ給うたのだ。
その大男は、戸口をふさぐカーテンをかかげて、一歩わきへのいた。部屋に入ってみると、戸口のべつのがわに、まるで双子のようにそっくり生きうつしの大男が、もう一人立っていた。
部屋は、大きく、ま四角だった。ドアと窓――窓があるとすれば――は、みどりと青と銀いろのビロードのカーテンにかくされていた。黒い象眼細工のテーブルの向うの、精巧な彫刻のある大きな黒い椅子に、老年のシナ人が、腰をかけていた。あごの尖《さき》にまばらな山羊ひげをはやした顔は、まるくよく肥え、抜けめがなかった。頭には、濃い色のぴったりとあった縁なし帽子がのっていた。首のまわりのきっちりとした紫いろの長衣のすそは、青|繻子《しゅす》のズボンにまつわり、裏張りの黒てんの毛皮が見えていた。
その老人は、椅子から立ちあがらずに、おだやかな微笑をうかべ、頭を、テーブルのうえの茶器にさわりそうになるまで、かがめた。
「いや、このとるに足らぬわしめが、わがいぶせき門口に、名探偵どののご光来を知りながら、早速かけおりて、やんごとなきおみ足の下《もと》に、われとわが身を投げだすことを怠ったのも、じつは、先生ともあろう高貴のおかたが、よもや、かくもくだらぬはしたごとに、貴重な時間をついやされようとは、思いもよらぬことじゃったという、ただそれだけのことでしてな」
この美辞麗句たっぷりの老人のことばは、ぼく自身のそれよりも、よっぽど流暢な英語で、口から出てきた。ぼくは、顔をまっすぐにむけたまま待った。
「もし、|世の悪人どものおそれのまと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》である大先生が、わしめのみじめな椅子に、高貴のおからだをおやすめくださるという光栄をおめぐみくださるのでありますれば、わしは、きっときっと、その椅子を、のちほど焼きすてて、いやしき身分のものどもが、みだりに使用して、その光栄を汚すようなことのなきようとりはからいます。それとも、|ドロボー退治の王子どの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》には、召使いを宮殿につかわして、そのおん身にふさわしき椅子をとりよせることを、お許しくだされますかな?」
ぼくは、口に出すことばのならべかたを、頭の中で考えながら、ゆっくりと、手ぢかの椅子のほうへあるいて行った。このおどけた老人は、その名もきこえたシナふうのていねいさをことさらに誇張した茶番で、ぼくをいっぱい喰わせにかかっているのだ。これぐらいのことに調子をあわせるのは、わけもない。しかけられたからには、ほどほどに相手になってやろう。
「ぼくも、希代の豪傑チャン・リイ・チン先生を、おそれうやまうあまり、膝の力が抜けてしまえばこそしかたなく、腰をかけさせていただくわけなんですがね」ぼくは、いいわけをしながら、椅子に、腰をおろし、頭をまわして、戸口の両わきに立っていた巨人の姿が、消えてなくなっているのをたしかめた。
ぼくの虫の知らせでは、二人とも、戸口をかくすビロードのカーテンの裏より遠くには行っていないような気がした。
「|さがしものの王様《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》とて」――老人は、あい変らずの口調だった――「世に知らぬものなしとはまいらぬものを、それにしても、このわしめのいやしき名を、おききおよびとは、これは、驚き入りましたな」
「ききおよんだかと? だれが、ききおよばずにいるもんですか」ぼくも、冗談めかして、いいかえした。「英語の|チェンジ《ヽヽヽヽ》は、ご尊名のチャンから出たものではありませんかねえ? チェンジとは、変化、つまり、この上ないかしこい人間が、チャン・リイ・チン先生のかしこさをききおよんでからのちに、かれの意見に生ずる現象のことですよ」ぼくは、頭が痛くなってきたので、寄席の茶番めいた口上は、よしにしようと思った。「いずれにしろ、あんたの手下が、あっちの廊下で、ぼくの生命を助けてくれたのは、すみませんでしたな」
老人は、両手を、テーブルの上にひろげて見せた。
「いやなに、あの閣下のお邪魔をいたした不潔なやからを、立ちどころに成敗いたしたのも、ただひとえに、|探偵国の皇帝陛下《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》とも申すべき大先生の優雅なるお鼻には、あの如きいやしき血のにおいが、さぞや、むさ苦しかろうと懸念いたしたからであります。もし、わしめの思いちがいで、先生さまには、あの虫けらを、一寸きざみにきざむがよいとの思し召しであったのでありますれば、これはもう、わしといたしても、自分の息子の一人を、かわりに差しあげて、ぞんぶんに痛めつけていただくだけのことですわい」
「いや、その息子さんは、生かしておきなさい」ぼくは、ぶっきら棒にあしらっておいて、仕事のはなしにかかった。
「ぼくがここにお邪魔したのは、ほかでもない、あんたの偉大な智慧を拝借して、できることなら、バカもののぼくを、ひとなみにして、もらいたいからなんですがね」
「めくらに道をたずねるひとがありますかな?」喰わせものの老人は、小くびをかしげて見せた。「いかにその気があろうとも、星に月をたすけることができますかな? じゃが、探偵犬のじいさまが、チャン・リイ・チンをおだてあげ、チャンにも、大先生に智慧を貸せると思いこませて、興がられるのでありますなれば、いかなチャンめも、からかわれるのがいやさに、大先生の興をそぐようなまねはいたしませんがな」
ぼくは、その老人のことばを、質問があるのなら、喜んできこうという意味に、受けとった。
「ぼくの知りたいのは、なにものが、リリアン・シャンの召使いの、ウォン・マーと、ワン・ランとを殺したのか、ということなんですがね」
「しかを目あての猟師が、野うさぎに目をくれるとは、はてさてどうしたものですかな? これほどの腕ききの名探偵どのが、たかが召使いの死などにかかずろうておられるとありますれば、チャンめとしても、大先生が、ご自分のほんとの目的をかくして喜んでおられる、と、そう思わぬわけにはまいりますまい? しかし、それにしても、殺されたのが、高貴のご婦人でなく、召使いずれであったのであれば、あるいは、|わなよけの名人《ヽヽヽヽヽヽヽ》どのは、このいやしいチャン・リイ・チンめなればこそ、このとるに足らぬつまらぬ名のもち主なればこそ、その召使いどものことも知っておろう、と、そう考えておられるのかもしれませんな。ねずみは、ねずみの道を知っておると申すではありませんか」
老人は、しばらく、ことばをとぎらせた。ぼくは、坐ったまま、耳をかたむけ、相手のまるい抜けめのなさそうな、黄いろい顔をながめながら、そのへんから、なにか読みとれそうなものだがと、考えた。なにひとつ、読みとれなかった。
「わしは、もうちっとは、ものを知っておる。と、うぬぼれておりましたが、いやはや、とんでもないもの知らずでしたわい」老人のおしゃべりは、おしまいになった。
「大先生どのの至ごく簡単なご質問も、このわしめのどろのつまった頭の力には、到底およびもつかぬ難問ですわい。だれが、ウォン・マーとワン・ランとを殺したのか、そんなことは、わしにはかいもくわかりませんな」
ぼくは、ニヤリと笑って見せて、べつの質問を、もち出した。
「ホー・ルンとイン・ハンとは、どこへ行けば見つかりますかね?」
「またまた、わしは、自分のもの知らずを、さらけださねばならん」老人は、ひとりごとのようにつぶやいた。
「この|なぞ解きの名人どの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が、じつは、ご自分の質問の答をちゃんと知ってござって、そのくせ、なにもかもすんでしもうたことのわけを、チャンめには、ひたかくしにかくしてござる、と、そう思うのが、わたしにとっては、せめてものなぐさめですわい」
それが、せいいっぱいの収穫だった。
そのあとにも、正気の沙汰でないお世辞やら、四角張ったおじぎやらが、ながながとつづいて、そのあげくに、ぼくは、また、さっきのロープのような首をした案内人にみちびかれ、まっくらな廊下を、ぐるぐるとあるきまわったり、うすぐらい部屋を抜けたり、がたがたの階段を、のぼったりおりたりした。通りに出る玄関までたどりつくと、案内のシナ人は――ドアのかんぬきをはずした上で――シャツの胸から、ぼくのピストルをとりだして、かえしてよこした。ぼくは、それを、自分のポケットにつっこんで、ドアの外に出た。
「さっき、二階では、手間をかけて、すまなかったね」
シナ人は、なにかぶつぶつと口のなかでつぶやいて、頭をさげ、ドアをしめた。
ぼくは、ストクトン・ストリートを、しばらくあるいて行き、事務所の方角へまがると、ゆっくり足をはこびながら、いろいろと思いめぐらした。
まず考えてみなくてはならないのは、唖のウールの死だった。それはあらかじめ仕組まれた筋書きだったのだろうか? やつが、その朝へまをやらかした罰として、また、それと一しょに、このぼくに強烈な印象をあたえるために。それにしても、どんな筋書きだったのか? なぜ、そんなことをやったのか? それとも、ぼくに恩を着せるつもりだったのだろうか? そうだったとすると、それはなぜか? あるいは、シナ人の好きな、例のことさらいり組んだみせかけの芝居だったのだろうか? とどのつまり、ぼくは、その問題を、しまいこんでおくことにして、こんどは、紫いろの長衣《ローブ》に、身をくるんだ、顔の黄いろい、小さな肥った男に、思いをこらした。
ぼくは、かれが、気に入った。ユーモア、機智、心臓、なにもかもがそろっている。この男をわなにかけて、牢屋にぶちこむことができたら、よっぽど自慢していいことだろう。いずれにしろ、ぼくにとっては、むこうにまわして不足のない相手だった。
といって、なにかその男の尻尾をつかまえた、とうぬぼれていたわけではなかった。コンヤーズのホテル・アーヴィントンと、チャン・リイ・チンとの関係を、ほのめかしてくれたのは、唖のウールだった。その唖のウールは、ぼくに、シャン家の殺人事件に関係があるだろうと図星をさされて、急にバタバタしはじめたのだった。そこまでは、わかっていた――そして、それだけだった。ただ、チャンが、シャン家の事件に、関心がない、と、そうまではっきり断言しなかったのは、事実なのだが。
これだけでは、必ずしも、唖のウールの死が、あらかじめ筋書きの書かれた芝居だったとはいいきれなかった。それよりも、ぼくの姿を見かけて、厄介ばらいしようとしたところを、大親分のチャンのぼくに許したお目通りを邪魔する不届き者ということで、逆に案内人のシナ人にかたづけられてしまったのだ、と、そう考えるほうが、もっともらしいようだった。
事務所にもどってみると、ディック・フォリーからの伝言が待っていた。ホテル・アーヴィントンに近いアパートの、おもて通りに面した部屋を借り、二時間ほど、『|口笛吹き《ホイスラー》』のコンヤーズを尾行したということだった。
コンヤーズは、マーケット・ストリートの『肥っちょ』トムスンの店に、三十分ほど立ちよって、店の主人や、店にゴロゴロしている、お抱えのばくち打ちたちと、話をした。それから、タクシーで、オファレル・ストリートのグレンウェイ・アパートまで行き、たくさんならべたベルの一つを押した。応答はなかったが、自分のもっていたかぎを使って、建物の中にはいった。一時間の後、アパートから出てきて、自分のホテルにもどった。アパートのどのベルを押したのか、どの部屋をたずねたのか、ディックは、そこまで確かめることはできなかった。
ぼくは、電話で、リリアン・シャンを呼びだした。
「今晩、お宅におられますか?」ぼくは、たずねた。「ちょっとおはなししたいことがあるんですが、電話で申しあげるわけにも行かないので」
「七時半までなら、おりますわ」
「結構です。お邪魔しましょう」
かの女の邸の前で、タクシーをおりたのは、七時十五分すぎだった。女主人自ら、ドアをあけてくれた。新しい召使いの見つかるまで、臨時にきているデンマーク人の女は、昼間だけつとめて、夜は自分の家に帰るのだった。
リリアン・シャンの夜会服《イヴニング》はひどく地味だったが、それでも、眼鏡をはずし、すこしばかりなんとかとりつくろえば、まるで女らしさの欠けた女というほどのこともあるまいと思わせるだけのことはあった。案内されて、二階の書斎に通ると、燕尾服をきちんと着こなした二十代と見うけられる青年が、椅子から立ちあがった――金髪色白の姿のいい若ものだった。
紹介された名は、ガーソーンだった。女は、この青年のいる前でぼくとはなしをしても、いっこうかまわない気でいるらしかった。こっちは、そうも行かなかった。あけすけに、二人きりではなしがしたいのだといわないばかりに、いろいろとなだめすかしたあげく、女は、客にいいわけをして――ジャック、と、親しげな呼びかたをした――ぼくを、べつの部屋に連れて行った。
それまでに、ぼくは、いい加減いらいらさせられていた。
「あれは、だれです?」ぼくは、なじるようなききかたをした。女は、眉を釣りあげて見せた。
「ミスタ・ジョン・ガーソーンですわ」
「どのくらいよくごぞんじなんですか?」
「どうしてそんなに気になさいますの、こんなことおたずねしてはいけないかしら」
「いや、ちっとも。しかし、ぼくの勘では、ミスタ・ジョン・ガーソーンは、相当のしたたかものですな」
「したたかものですって?」
ぼくは、ふと思いついたことがあった。
「どこに住んでいるんです」
女は、オファレル・ストリートのある番地をいった。
「グレンウェイ・アパートですね?」
「たぶんね」女は、こればかりの感情もあらわさずに、ぼくの顔を、じっとみつめていた。「でも、なぜ、そんなことを?」
「もう一つだけおたずねしてから、お話しします。チャン・リイ・チンというシナ人を、ごぞんじですか?」
「いいえ」
「よろしい。それでは、ガーソーンのことをいいましょう。今のところ、ぼくは、あなたの事件に、二つの角度からはいりこんでいます。その一つは、シナ町に住んでいるそのチャン・リイ・チンが関係し、もう一つは、コンヤーズという前科ものが、関係しています。あのジョン・ガーソーンという男は、今日、シナ町にいました。おそらくチャン・リイ・チンの家とつながっていると思われる地下室から出てくるのを見かけました。また、今日の午後早く、ガーソーンの住んでいるアパートを、前科もののコンヤーズが訪ねています」
リリアン・シャンは、口をぽかんとあけ、それからまたしめた。
「そんなこと、とても考えられませんわ! わたし、ミスタ・ガーソーンを、前からぞんじていますし、それに――」
「正確にいって、どのくらい前からです?」
「ずいぶん前から――五、六カ月になりますわ」
「どこで、はじめて会いました?」
「カレッジで知っていた女の人に紹介されましたの」
「あの男は、なにをして食っているんです?」
女は、からだをこわばらせて、こたえなかった。
「いいですか、ミス・シャン。ガーソーンには、べつに問題がないかもしれません。しかし、いちおう洗ってみなければならんのです。うしろぐらいところがなければ、どうということもないわけです。あの男について、ごぞんじのことをおっしゃってください」
それは、ぼちぼちと引っぱりだすことができた。かれは、ヴァージニア州リチモンドの、土地では名の知れた家の末っ子だが、いまは、なんだか知らないが、こどもっぽいいたずらをやったとかで、勘当されているのだった。四カ月前に、サンフランシスコにやってきて、父親の怒りのとけるのを待っているところだという。そのあいだ、母親のほうが、金は絶やさぬようにしてくれているので、勘当の身の上とはいえ、額に汗してはたらく必要はなかった。かれは、リリアン・シャンの級友の一人からの紹介状をたずさえてきた。察するところ、リリアン・シャンは、この男に、かなり気をひかれているようだった。
「今晩は、いっしょにお出かけになるんですね?」きくだけきいてしまうと、ぼくはたずねた。
「ええ」
「あの男の車で、それとも、あなたの?」
「あのかたの車ですけど。わたしたち、御飯をいただきに、ハーフ・ムーンまで出かけますの」
「じゃあ、かぎをあずかっておきましょう。ぼくは、お出かけになってから、もう一度、ここへもどってきますから」
「もう一度、どうなさるんですって?」
「ここへもどってくるんです。ぼくが、あの男にくだらん疑いをかけているというようなことは、いっさいお話にならんように願いたいが、正直なところ、ぼくには、あの男が、今晩、あなたを、このお宅から遠ざけておく魂胆で、誘いだそうとしているんだと思いますよ。だから、もし、帰りみちに、車に故障がおこったりしても、あなたは、そこにとくべつの意味があるとは気のつかないふりをしていてください」
女は、不安を感じたらしいが、ぼくのことばを、すなおにうけとろうとはしなかった。いずれにしろ、かぎは、わたしてもらえた。そこで、ぼくは、この女に手つだってもらわねばならない、例の職業紹介屋をおとりに使うはかりごとを説明した。女は、木曜日の朝、九時半に、事務所にうかがうと約束した。
ぼくは、ガーソーンにはあいさつをせずに、いとまを告げた。
待たせてあった車にもどると、もよりの村まで走らせ、雑貨屋で、噛みタバコをひとつまみ、懐中電燈を一つ、ピストルの実包をひと箱、それだけのものを買いととのえた。ぼくのピストルは三八口径のスペシャルなのだが、その店には、スペシャル用のがなかったので、それよりも射程の短い、威力の弱い弾丸で間にあわせなければならなかった。
買いものを、ポケットにしまいこんで、またシャン邸のほうへとってかえした。二つ手前のまがり角で、料金をはらって、車をかえし、あとはあるいた。
シャンの邸は、どこもまっくらだった。
できるだけそっと、家の中にはいりこむと、懐中電燈の光をたよりに、地下室から屋根うらまで、ひとわたりあるきまわった。家のなかにいるのは、ぼくだけだった。台所で、冷蔵庫をあさって、食べるものをさがし出し、それをミルクで流しこんだ。
食事がすむと、台所へ行く廊下の椅子に、腰をおろしてくつろいだ。廊下のかたがわには、地下室におりる階段があった。もう一方のがわには、二階への階段がある。玄関をべつにして、家じゅうのドアをあけっぱなしておけば、物音に耳をすますというかぎりでは、その廊下が、家の中心だった。
一時間が過ぎ去った――百ヤード向うの街道を走る車と、邸の下の小さな入江によせる太平洋の波の音のほかは、ひっそりと静まりかえったままだった。ぼくは、巻きタバコをふかすかわりに、噛みタバコを噛み噛み、立ったりすわったり、なにごとかのおこるのを待ちながら、一生のうちに、こんなふうにしてすごした時間がどれだけあったか、勘定してみようとした。
海からのそよ風に、家の外の木立がざわめくのをききながら、また三十分過ぎた。
風でも、波でも、車でもない物音がした。
どこかで、なにかが、かちりと鳴った。
窓だった。どの窓かはわからなかった。ぼくは、タバコを吐いて、ピストルと、懐中電燈をとりだした。
また、耳ざわりな音がした。
だれかが、窓をこじあけようとしているのだ――それにしても、乱暴すぎる。かけ金が、ガチャガチャと鳴り、ガラスになにかがあたって、大きな音を立てた。わざと音をさせているのだ。だれにしたって、ガラスをぶち割るほうが、よっぽど音を立てずにすませるはずだ。
ぼくは、立ちあがった。しかし、廊下をはなれなかった。窓の音は、家の中にいるかもしれないひとの注意を、そっちへひきつけるためのごまかしなのだ。ぼくは、そのほうには背なかを向けて、台所のなかをすかして見た。
台所は、暗すぎて、まるで眼がきかなかった。
そこには、なにも見えなかった。なにもきこえなかった。
その台所から、しめっぽい風が流れてきた。
気になることだった。家の中に、お仲間がいるのだ。
しかも、このぼくよりもすばしっこいやつが。ぼくの鼻さきで、ドアだか窓だかを、うまうまとあけおおせたのだ。油断はならなかった。
ぼくは、ゴムのかかとに体重をかけて、椅子からあとしざりした。地下室のドアの枠が肩にさわるまで、あとにさがった。台所から踊るように流れてきた細い光の線が、廊下の椅子を照らしたときには、ぼくは、その椅子から、地下室のほうへ三歩はなれて、階段の壁に、背中をぴったりと押しつけていた。
光線は、二秒ほどのあいだ、椅子の上にじっととまり、それから、廊下のぐるりをなめて、むこうの部屋のなかまで射しこんだ。光線のほかには、なにも見えなかった。
べつの新しい音がきこえてきた。道路のほうから、邸へ近づいてくる車のエンジンのうなり、裏の露台《ポーチ》を踏むしのび足の音。台所のリノリウム床《ゆか》をあるく足音。それも、一人ではなかった。においがした――まぎれもないにおい――からだを洗わないシナ人のにおいだった。
それから、それがどうなったか、追っかけるひまはなかった。自分の身の処置が、せい一ぱいだった。
懐中電燈の主は、地下室の階段ぎわまできていた。
階段の下を目がけてむけた細い光線は、一インチのちがいで、ぼくをそれた――おかげで、ぼくは、くらやみの中で、あたりの状況を見当づけるひまがあった。相手が、なみの体格で、左手に懐中電燈を、右手にピストルをにぎり、できるだけからだをかくしているのだとすれば、その頭は、光線のはじまりよりも、一フィート半上のほう、おなじだけうしろのほう、六インチ左より――向って左よりのあたりにあるはずだ。
光が、横に振れて、ぼくのかた脚にあたった。
ぼくは、自分のピストルの銃身を、くらやみのなかで×と印をつけておいた的めがけて横なぐりにたたきつけた。
相手のピストルの吐いた火が、ぼくの頬をなめた。相手の両腕が、ぼくをかかえこもうとした。ぼくは、半身をひらいて、相手が自分だけで地下室におちて行くにまかせた。おちぎわに、キラリと金歯が光った。
家じゅうが、がやがやとののしるひと声、バタバタと走りまわる足音でいっぱいになった。
じっとしているわけには行かなかった――追いつめられるおそれがあった。
階段をおりれば、わなが待っているかもしれない。ぼくは廊下にもどった。
廊下には、ぷんぷんとにおうからだが、ひしめきあっていた。無数の手がひっかき、歯がかみついて、ぼくは、服がぬげてしまわないばかりにもみくしゃにされだした。このさわぎの震源地が、ほかならぬ自分であることは、百も承知だったのだが!
ぼく自身が、もがきかきむしり、わめきうめく、眼に見えぬ群衆《モブ》の中の一人だった。ひとの渦が、ぼくを、台所のほうへ押して行った。打たれながら、蹴られながら、つきとばされながら、進んだ。
かん高い声が、シナ語の命令を叫んでいた。
台所に、はこびこまれるときには、戸枠に肩をいやというほどこすりつけられた。ぼくは、力のかぎり、見えない敵を相手にたたかった。まだでも手ににぎっているピストルを使うのは、はばかられた。
ぼくは、この気ちがいじみた押しあいへしあいの一部分にすぎなかった。ピストルが火を吐けば、その自分が、こんどは、さわぎの中心になるおそれがあった。今では、気ちがいどもは、恐慌《パニック》を相手にもがきたたかっているのだった。その連中に、具体的な目標を見せたくはなかった。
ぼくはひとの波にもまれながら、足にあたる邪魔ものを、なんでもかんでも蹴とばして進んだ。こっちも、蹴りかえされた。両脚のあいだに、バケツがはいりこんだ。
けたたましい音といっしょに、ぼくはひっくりかえった。つられて、まわりの連中がころんだ。その一人のからだの上を、ころがり越えた。顔を足で踏みつけられた。もがいて、その足の下をぬけだすと、そこは、部屋のすみだった。亜鉛めっきのバケツは、あいかわらず足にからまりついていた。
天のめぐみのバケツだった!
とにかく、この気ちがいどもをおいだしてやりたかった。こうなれば、相手がどこのだれであろうと、そんなことは、どうでもよかった。おとなしく出て行ってくれるのなら、この連中の罪業をゆるしてやっていいと思った。
ピストルをバケツの中につっこんで、引き金を引いた。部屋の中は、騒音のるつぼだったが、それは、問題にならなかった。まるで爆弾が破裂したような音がした。
もう一ぺん、バケツの中でぶっばなした。べつにいいことを思いついた。左手の指を二本、口に入れて、ピストルの弾倉を空にしながら、思いきりかん高い口笛を鳴らした。
すばらしいさわぎだった!
ピストルの弾丸を撃ちつくし、肺の空気を出しつくしたとき、ぼくは、ひとりぼっちになっていた。ひとりぼっちがうれしかった。ぼくには、あの連中が、なぜ世間をはなれて、自分たちだけの巣にとじこもっているのか、そのわけがわかった。連中を責めることはできない!
ひとりぼっちで、くらやみの中にすわりながら、ぼくは、自分のピストルに、弾丸をつめなおした。
両手と膝がしらをつかって、あけっぱなしの台所のドアまでたどりつき、外のやみをのぞいてみた。なんの気配もなかった。下の入江では、よせてはかえす波のつぶやきがきこえた。家の反対がわでは、車の音がさわがしかった。ぼくをひどい目に会わせた友人連中も、ご帰還の模様とうけとれた。
ドアをしめて、かぎをかけ、台所のあかりを点けた。
現場は、思ったほどごったがえしてもいなかった。なべや皿が、床にちらかり、椅子がひとつ、こわれていた。洗わないからだのにおいがした。しかし――床のまん中に、青木綿のかたそでがおち、廊下に出るドアのそばに、わらじの片方がころがり、その付近に、わずかに血のついたひとつかみの短い黒い髪が散っているほかは――それだけだった。
地下室には、ぼくの送りこんでやったやつの影もかたちもなかった。あけっぱなしになったドアが、逃げ去った経路をものがたっていた。懐中電燈はあった。ぼくのもあった。血が、すこしばかりおちていた。
また上にもどって、家の表てがわをあるいてみた。玄関のドアは、あいていた。敷きものが、くしゃくしゃになっていた。青い色の花瓶が、床に割れていた。テーブルが一つ、押し出され、椅子が二つ、ひっくりかえっていた。古ぼけてあぶら染みた、汗どめの革も、リボンもない茶いろのフェルト帽と、クーリッジ大統領の汚れた写真――シナ語の新聞から切りぬいたらしい――が、見つかった。
二階に行ってみたが、お客さまたちも、そこまではおいでにならなかったようだった。
玄関さきに乗りつける車の音がしたのは、朝の二時半だった。ぼくは、二階のリリアン・シャンの寝室の窓から、外をのぞいた。かの女は、ジャック・ガーソーンにさよならをいっているところだった。
ぼくは、書斎にもどって、女主人を待った。
「なにごともありませんでした?」それが、女の最初のことばだった。その口調は、ほかのなによりも、お祈りに似ていた。
「ありましたよ」ぼくは、うなずいて見せた。「あなたのほうでも、車が故障したでしょうね?」
一瞬、かの女は、うそを吐《つ》くつもりかと思われた、が、うなずいて、椅子に沈みこんだ。
「ずいぶんどっさりお友だちがきましたがね。しかし、それでなにかがつかめたというわけじゃありません。じつをいうと、こっちのほうが、ひどくかじられて、連中を、ここから追っぱらうのが、せいいっぱいだったんです」
「治安官《シェリフ》に電話をおかけになりませんでしたの?」そう問いかける口調には、なにかただならぬものがあった。
「かけません――まだ、ガーソーンを逮捕してもらいたくはないんです」
その返答で、女は、それまでのもの憂げな態度を振りすててしまった。ぼくの真正面に、長身を冷たくこわばらせて、立ちはだかった。
「わたし、二度とこんなことにかかりあいたくありません」
ぼくとしては、そのほうがよかった。しかし――
「まさか、あの男には、なにもいわなかったでしょうね?」
「あのひとにいうんですって?」びっくりしたようすだった。
「あたしが、あのひとに、あなたのあてずっぽうを――あなたのバカバカしいあてずっぽうを、口づたえにして、恥をかかせるなんて、そんなことをするとお思いになって?」
「それは、なによりです」ぼくは、自分の考えについてのかの女の意見はともかく、口をつぐんでいてくれたことには、讃辞を呈しておいた。「ところで、ぼくは、今晩ずっと、ここにお邪魔していることにします。なにかがおこるというチャンスは、百にひとつもありますまいが、念には念を入れましょう」
女は、それほど気乗りがしないようだったが、それでも、しまいには、寝に行った。
むろんのこと、それから夜あけまでなにごともなかった。夜があけるが早いか、ぼくは邸を出て、あたりを検分した。屋敷内には、波打ちぎわから車まわしの道まで、そこらじゅう足あとだらけだった。車まわしに沿って、乱暴な方向転換のため、芝生の傷められたところがあった。
車庫から、車をひとつ借りだして、朝のまだ遅くならないうちに、サンフランシスコに帰りついた。
事務所にもどると、|おやじ《オールドマン》に、ジャック・ガーソーンに尾行をつけること、古帽子、懐中電燈、サンダル、そのほかのお|みやげ《スーヴニア》を顕微鏡でのぞき、指紋、足あと、歯型などをしらべること、そして、社のリチモンド支局に、ガーソーンの身許を洗わせること、それだけを頼んだ。それから、フィリピン人の助手に会いに出かけた。
フィリピン人は、ひどくふさぎこんでいた。
「どうしたんだ? だれかにやっつけられたのかね?」
「とんでもねえ!」むきになった。「だけんど、ぼく、あまりできのいい探偵じゃねえんです。一人尾けてやろうとしたんですがね。それが、角をひょいと曲ったかと思ったら、それっきり、見えなくなっちまいやがったんで」
「相手はだれなんだ? なにをたくらんでいたやつなんだ?」
「それが、わからねえんですよ。車が、四台もやってきてね、それに乗ってたやつらが、そら、前にお話しした、変ったシナ公の住んでいるってその地下室に、もぐりこみやがったんです。それから、一人だけ、出てきました。顔の上半ぶんを、繃帯でぐるぐる巻きにして、その上に帽子をかぶった野郎で、ひどく急ぎ足にあるきやがってね。ぼくは、あとを尾けようとしたんだが、ひょいと角をまがったら、それっきり消えてなくなりやがったんです」
ぼくのお客さまたちに違いない。シプリアーノの尾けようとした相手は、ぼくのなぐりつけてやった男と考えていい。フィリピン人は、車の番号をたしかめることなど、思いもつかなかった。運転していたのが、白人だったか、シナ人だったか、それどころか、どんな型の車だったかさえ、おぼえていなかった。
「いい仕事っぷりだ」ぼくは、ほめてやった。「今晩、もう一度、やってみるんだな」
そこから、電話のある場所に行って、警察本部を呼びだした。唖のウールの殺された事件は、まだ報告されていないことがわかった。
二十分たつと、ぼくは、チャン・リイ・チンの玄関のドアを、拳固でたたきつづけていた。
こんどドアをあけてくれたのは、ロープのような首をした小さな年よりのシナ人ではなく、あばた面の、歯を大きくむき出した若いシナ人だった。
「チャン・リイ・チンに、用があるな?」こっちが口をひらくより先に、むこうからそういって、ひと足さがり、ぼくを通してくれた。
ぼくは、中にはいって、そのシナ人が、ドアにかんぬきを差し、錠前をおろしてしまうのを待った。この前にくらべるとずっと短いみちのりで、チャンのところへ案内されたが、それでも、直接行くのよりは、はるかに遠かった。
案内のシナ人は、ビロードの布をかけめぐらした、だれもいない部屋に、ぼくを通すと、頭を下げ、にやりと白い歯を見せて、立ち去った。ぼくは、テーブルのそばの椅子に、腰をおろして待った。
さすがに、チャン・リイ・チンも、音もなく忽然と姿をあらわすといったふうの芝居がかったまねはしなかった。やわらかな|部屋ばき《スリッパー》の足音がきこえ、それから、たれ幕をわけてはいってきた。一人だった。おじいちゃまらしい微笑に、まっ白なあごひげがそよいだ。
「これはこれは、光栄にも|ギャング追っぱらい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》役どのには、重ね重ね、むさ苦しいわしめの住居を、おたずねくだされましたか」老人は、ぼくに会釈をして、またもや、この前の訪問のときに、さんざんきかされたのとおなじようなバカバカしいたわごとを、くどくどとのべたてた。
|ギャング追っぱらい役《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という呼び名は、きき逃がせなかった――それが、昨夜のできごとを指すものとすればだが。
「昨夜は、うっかり気がつかずに、あなたの召使いの一人をひどい目に会わせましたがね」ぼくは、相手の飾りたっぷりのことばのとぎれたすきをねらって口を出した。「ぼくも、あんなことをしておいて、いまさら弁解の余地のないことはよく承知していますが、せめておわびのしるしに、お宅の屑もの罐《かん》の中で、われとわがのどくびを掻ききり、ありったけの血を流して死ぬことを、お許しねがいますかな」
老人のくちびるから、くっくっ笑いをおさえたかとも思える、かすかなため息がもれた。
「|略奪者撃退役どの《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》には、なにからなにまでご存じじゃて」ひとりごとのような、さりげないつぶやきだった。「追っぱらった鬼どもの足音を、一人一人ききわけ召されるのじゃからな。そのおかたが、なぐりつけた相手を、チャン・リイ・チンの召使い、と、そうおおせになるからには、なんでこのチャンめが、そうではないと申しましょうぞ」
ぼくは、べつの手で攻めてみることにした。
「いやいや、ぼくはたいして知っとらんですよ――昨日ここで殺された男のことを、なぜ、警察がまだききつけていないのか、それさえ知らんくらいですからね」
老人の片手がうごいて、あごひげに、さざ波を立たせた。
「そのことは、わしも、まだきいておらんですがな」
「昨日、ぼくを、ここまで案内してくれた人間に、おききになったらどうです?」
チャン・リイ・チンは、テーブルの上から、尖を布でくるんだ小さな棒をとりあげて、肩のあたりにつるした、房かざりのあるどらをたたいた。部屋のむこうがわのたれ幕がわかれて、ぼくを連れてきたあばた面のシナ人が、あらわれた。
「昨日、このあばら屋に死のおとずれがあったかな?」チャンは、英語でたずねた。
「ございません、親分《ター・イエン》さま」
「昨日、ぼくを案内してくれたのは、こんなちんぴら殿下ではなく、もっとえらいかたでしたがね」ぼくは、わきから説明した。
チャンは、驚いたような顔をして見せた。
「昨日、この|スパイの王さま《ヽヽヽヽヽヽヽ》を、お迎え申したのは、だれじゃった?」老人は、戸口の男にたずねた。
「手前でございます、親分《ター・イエン》さま」
ぼくは、あばた面に、ニヤリとして見せた。むこうも、ニヤリとした。チャンは、やさしげな微笑をうかべた。
「よくできた洒落じゃな」
まったくそうだった。
あばた面は、おじぎをして、たれ幕からあとしざりに引っこみかけた。そのうしろの床板に、ゆるい靴がカタカタと音を立てた。あばた面はくるりとふりむいた。その頭ごしに、前の日にも見かけた大男のレスラーが、顔を見せた。レスラーの両眼は、興奮にギラギラと光っていた。その口から、シナのことばが、ほとばしった。あばた面が、いいかえした。チャン・リイ・チンが、鋭い口調でたしなめて、二人をだまらせた。ぜんぶシナ語で――ぼくには、まるでちんぷんかんぷんだった。
「|人狩り太公殿下《ヽヽヽヽヽヽヽ》には、このはしたなき召使いめが、わずらわしき内輪ごとをとりしきるために、しばらくお暇をいただくことを、ご容赦くだされますかな?」
「結構ですとも」
チャンは、両手を合せて、うやうやしく頭をさげてから、レスラーにはなしかけた。
「お前は、ここにおって、このおえらいおかたに、ご迷惑のかからんように、また、お望みのことは、なんなりとご満足いただけるように、お気をつけ申すのじゃ」
レスラーは、頭をさげて、わきへ立ちのき、チャンとあばた面を通した。そのうしろ姿をかくすように、垂れ幕が、戸口におおいかぶさった。
ぼくは、戸口に立ちはだかっている男には、むだ口ひとつたたかずに、タバコをふかして、チャンがもどってくるのを待った。タバコが、半ぶん燃えつきたころ、家の中のあまり遠くないあたりで、銃声が一発とどろいた。
戸口の男が、顔をしかめた。
もう一発ひびいた。廊下を走る足音が、入りみだれた。たれ幕の割れ目から、あばた面が、顔をのぞかせた。レスラーに、なにかブウブウブツブツと口をきいた。レスラーは、苦い顔で、ぼくのほうへうなずいて見せながらいいかえした。あばた面は、なおもいいつのった。
レスラーは、ぼくのほうへ、しかめた顔をむけて、ガラガラ声で、「あなた、待っていなさい」といいすてると、そのまま出て行った。
ぼくは、床をへだてた下のほうからきこえてくるらしい、かすかな乱闘の物音に、耳をかたむけながら、タバコをのみおえた。ずっと遠くで、また二発きこえた。ぼくのいる部屋のドアの前を、足音が走りすぎた。ぼくが、ひとりでほっておかれてから、たぶん十分ばかり経過した。
ふと気がつくと、ぼくは、ひとりではなかった。
ドアの反対がわの壁にさがったたれ幕が、うごいた。青と緑と銀とでいろどられたビロードの布地が、一インチほどふくれあがり、それからまたもとにもどった。
二度目は、壁に沿って、十フィートばかりむこうがうごいた。しばらくうごかず、それから、ずっと隅のほうのたれ幕が、ブルブルとふるえた。
たれ幕と、壁のあいだを、だれかが這いずっているのだ。
ぼくは、両手をだらんと下げたまま、椅子に坐りこんで、勝手に這いずりまわらせておいた。それが、もし、厄介ごとのたねだとすれば、こっちが、うかつに手を出せば、それだけ早く、その厄介ごとを招きよせることになるだけだった。
ぼくは、たれ幕のふくらみのうごきを、眼で追った。ふくらみは、その壁をずっと端までうごいて、次の壁の中ほどまで行った。そこには、ドアがあるはずだった。それっきり、しばらくは、どこへ行ったかわからなくなった。ドアから出て行ってしまったのだなと思いかけたときに、たれ幕があいて、這い手が出てきた。
身のたけ四フィート半に足りない女性――どこかの飾り棚からおりてきた、生き人形だった。小さなたまご形の顔は、美しく化粧され、その非の打ちどころのないあでやかさが、頭にぴったりとなでつけた、うるしのように黒いつややかな髪の毛で、強調されている。すべすべした頬のそばに、黄金のイヤリングが揺れ、髪には、ひすいの蝶がとまっていた。あごの下から膝がしらまで、白い宝石をちりばめた|ふじ色《ラヴェンダー》の上衣でおおわれている。ふじ色のズボンのすそから、ふじ色の靴下が、のぞき、同じ色の、黄いろい石を眼、羽毛かざりを口ひげとみたてるならば、ねこのような形をした上靴に、小さなてん足が、包まれていた。
この流行雑誌からぬけ出したかと見まごうばかりの姿の、もっとも目立つ点は、かの女が、この世のものとは思えぬほど優雅なことだった。しかし、その女は――彫刻でも、絵画でもない、黒い眼に、恐怖の色をたたえ、細い神経質な指先で、胸もとの絹地をしきりにまさぐる、まぎれもなく生身の女性だった。
|てん足《ヽヽヽ》をしたシナ人の女に特有のたどたどしい急ぎ足で、ぼくのほうへ進んできながら、かの女は、二度、頭をうしろによじって、戸口をかくしているたれ幕を、ふりかえって見た。
ぼくは、椅子から立ちあがって、かの女にあゆみよろうとした。
女の英語はいい加減なものだった。ぼくにむかって、もごもごと話しかけるほとんどのことは、意味がとれなかった。けれども、「ユン・ヘラップ」ときこえるのは、「|助けてくださる?(ユー・ヘルプ)」の意味かと思われた。
ぼくは、うなずいて、よろめきかかる女の両肘をささえてやった。
女は、またなにかいったが――「サレイヴィ・ガル」が、「|どれい女《スレイブ・ガール》」、「タッカ・ウァー」が、「|連れて行って《テイク・アウェイ》」とだけは、察しがついたものの――なにがどうしたのか、皆目わけがわからなかった。
「ここから連れ出してほしい、と、そういうんだね?」ぼくは、きいてみた。
ぼくのあごの下で、女の頭が、こっくりとうなずいた。赤い花びらのような口もとが、ほころびた。それは、ぼくの記憶にあるかぎりのどんな微笑ともくらべものにならない、すばらしい微笑だった。
女は、またなにかしゃべった。ぜんぜんわからなかった。ぼくの手から、自分のかた肘をはずし、袖を押しあげて、一代の名匠が、生涯をかけて、象牙から彫りだしたような前腕を見せた。そこには、五本の指のあとがのこり、その端は、爪が肉に喰いこんで、傷になっていた。
女は、袖口をもと通りにして、口をうごかした。あいかわらず、意味はとれなかったが、美しい鈴を振るような声だった。
「よろしい」ぼくは、自分のピストルをとり出した。「君が行きたいのなら、いっしょに行こう」
女は、両手で、ピストルをおさえつけ、ぼくの顔を、まともにのぞきこみながら、せきこむように、しゃべり立て、最後に、自分のかた手を、首に沿ってうごかして見せた――首を切られるという手まねだった。
ぼくは、頭を横に振って、女をドアのほうへ行くようにうながした。
女は、眼にいっぱいの恐怖をうかべて、立ちすくんだ。
女の片手が、ぼくの時計ポケットにのびた。ぼくは、女に時計を取りださせた。
女は、まっすぐにのばした可愛らしい指のさきを、十二時のところにあてて、それから、文字盤のまわりに、三度、円を描いて見せた。その意味は、どうやらわかった。正午から三十六時間とすると、明晩――木曜日のま夜なかということになる。
「それから?」
女は、ドアのほうを、ちらっと見て、ぼくを、茶器ののっているテーブルのそばまでひっぱって行った。冷たくなった茶に浸した指が、象がんしたテーブルの表面に線を引きはじめた。平行した二本の線、それは、街路をあらわしているようだった。べつの平行線が、交叉した。もうひと組の平行線が、最初の街路の線と平行に、二番目の平行線を横ぎった。
「ウェイヴァリー広場《プレース》だね?」あてずっぼをいってみた。
女の顔が、ぱっとあかるくなって、こっくりこっくりをした。
ウェイヴァリー広場の東がわと思われる位置に、ま四角がひとつ描かれた――一軒の家なのだろう。そのま四角のなかに、ばらの花ともとれるものが描かれた。ぼくは、それをみつめて、眉をよせて見せた。女は、ばらの花を消して、その代りに、ゆがんだ円を描き、点々をつけくわえた。わかるような気がした。ばらの花は、キャベツ、あとのは、馬鈴薯《ポテト》なのだ。ま四角は、食料品店――ぼくも、ウェイヴァリー広場に、そんな店のあることは、おぼえていた。ぼくは、うなずいた。
女の指が、通りを横ぎって、反対がわに、もう一つま四角を描いた。女は、顔をあげて、自分のいいたいことを察してほしいというように、ぼくの顔をみつめた。
「食料品店の向いがわの家」と、ぼくは、ゆっくり口をうごかした。それから、女が、ぼくの時計ポケットを、軽くたたいて見せるので、「明日のま夜なかに」とつけくわえた。
こっちのいうことが、どれだけ相手にわかったか、それは知らないが、女は、はげしくうなずいた。イヤリングが、時計の振子のように揺れた。
女は、す早く身をかがめて、ぼくの右手をつかみ、くちびるを押しつけたかと思うと、よろめくように、跳ぶように、ビロードのたれ幕のかげに、姿を消した。
ぼくが、ハンカチーフを出して、テーブルの上の地図を拭き消し、椅子にもどって、タバコをのんでいるところへ、チャン・リイ・チンが、もどってきた。出て行ってから、二十分たっていた。
それから間もなくバカバカしいお世辞を交換したあげく、ぼくは、いとまを告げた。あばた面が、送り出してくれた。
事務所には、耳新しいニューズもなかった。フォリーも、昨晩は、『|口笛吹き《ホイスラー》』のコンヤーズを尾けることはできなかった。
ぼくは、昨夜ねむらなかったぶんまでぐっすりねむるつもりで、家に帰った。
次の日の朝十時十分すぎに、リリアン・シャンとぼくは、フォン・イックの職業紹介屋の玄関先に、到着した。
「二分ばかり遅れて、入ってきて下さい」ぼくは、女にいいのこして、車をおりた。
フォン・イックの店では、|おやじ《オールド・マン》の頼んでくれたフランク・ポールと思われる、灰いろの髪をしたひょろ長い男が、葉巻を噛みながら、五、六人のシナ人を相手に、しゃべっていた。うす汚ないカウンターのむこうから、肥ったシナ人が、はがね縁の眼鏡ごしに、見まもっていた。ぼくは、その五、六人の連中を、ひとわたりながめた。こっちから三人目は、鼻のまがった、小がらなねこ背の男だった。
ぼくは、ほかのひとたちを押しわけて、その男に、とびかかった。
男が、ぼくになにをしかけようとしたのか、それは知らない――ジュウジツ、あるいはシナ式のそれだったのかもしれない。いずれにしろ、ぱっと身をかがめ、指をまっすぐにのばしてひろげた両手を、眼にもとまらぬ早さでうごかした。
ぼくは、やたらむしょうに、つかみかかった。やがて、どうやらその男の両腕を、うしろにねじあげ、首すじをつかんでいた。
べつのシナ人が、ぼくの背なかにのしかかった。やせっこけた灰いろ髪の男が、顔をめがけてなぐりつけた。そのシナ人は、部屋の隅っこにすっ飛び、うごかなくなった。
そうしたところへ、リリアン・シャンが、はいってきた。
ぼくは、鼻のひしゃげた男を、女のほうへむけて、ゆすぶって見せた。
「まあ、イン・ハンじゃないの!」女は、大きな声をはりあげた。
「その連中のなかに、ホー・ルンはいませんか?」ぼくは、野次馬どもをゆびさした。
女は、頭を強く振って、ぼくのつかまえた男をめがけてわけのわからないシナ語を、ペチャペチャとしゃべりだした。男が、女の視線をまともに受けとめて、やりかえした。
「そのひとを、どうなさるおつもり?」女が、ふだんと違った声で、ぼくにたずねた。
「警察に送って、サン・マテオの治安官に引きわたしてもらいます。あなたなら、この男からなにかききだせますか?」
「いいえ」
ぼくは、男を、戸口のほうへ押して行った。
通りに出ても、さわがしいようすはなかった。ぼくたちはタクシーに乗りこんで、そのブロックと、もう半ブロック走らせ、警察本部の前で、とりこにした男を、車からひきずりおろした。牧場主のポールは、なかなか面白かったが、ほかに用があるので、これで失礼するといって、キアニイ・ストリートをあるいて行った。
リリアン・シャンは、車からおりかけて、考えなおした。
「必要がないのでしたら、わたしは、いっしょでないほうがよろしいでしょう。ここでお待ちしていますわ」
「結構です」ぼくは、捕虜を押し立てて、歩道を横ぎり、階段をのぼった。
なかにはいってみると、面白いことになった。
サンフランシスコの警察当局は、イン・ハンには、大して関心もよせなかったが、むろん、これを、サン・マテオ郡の治安官《シェリフ》に引きわたすことは、二つ返事で引きうけた。
イン・ハンは、英語がまるでわからないふりをした。ぼくは、この男がどんな泥を吐くか、それを知りたかったので、刑事のたまりをさがしまわり、そのあげくに、シナ語もちっとはしゃべるシナ町担当のビル・ソードを見つけ出した。
ビルとイン・ハンとは、しばらくのあいだ、ペチャクチャとこっちにはわからないおしゃべりをかわしていた。
やがて、ビルは、ぼくをふりかえって、ゲラゲラと笑い、葉巻の端を、噛みちぎって、自分の椅子にもたれこんだ。
「この先生の話では」ビルが、はなしはじめた。「料理人のワン・ランという女が、リリアン・シャンと、大げんかをやらかしたというんだがね。で、次の日になると、ワン・ランの姿は、どこにも見えなかった。シャンと、女中のウォン・マーとは、ワン・ランが、暇を取ったのだと説明したが、ホー・ルンにきくと、ウォン・マーが、ワン・ランの衣類を焼いているのを見かけたということだった。
そこで、ホー・ルンと、この先生とは、なにか臭いフシがあると思った。翌日、その不審は、いよいようごかせないものとなった。というのは、この先生の園芸道具の中から、すきが一挺、見えなくなっていたのだ。それは、その晩見つかったが、濡れたどろがついたままになっていた。ところが、そのあたりには――とにかく、家の外には、どこにも、どろを掘ったあとがない。ホー・ルンといっしょに、いろいろと頭をひねってみた。どうも気にくわない結論になった。というわけで、二人は、自分たちまで、ワン・ランの道づれにされないうちに、逃《ず》らかるにこしたことはないと判断した、とそういうことなんだそうだ」
「ホー・ルンは、今どこにいるんだね?」
「それは知らんといってるがね」
「すると、その二人が逃げだしたときには、まだ、リリアン・シャンと、ウォン・マーとは、あの家にいたんだな? つまり、まだ、東部に旅だたないうちのことだったんだな?」
「そういってるよ」
「ワン・ランの殺されたわけについて、なにか心あたりでもあるのかね?」
「おれのききだしたかぎりでは、ないようだな」
「ありがとう、ビル! 治安官には、君から、この男をあずかっていることを知らせてやってくれるね?」
「いいとも」
いうまでもないことながら、警察本部から外に出たときには、リリアン・シャンも、タクシーも、いなくなっていた。
ぼくは、玄関の広間《ロビー》に引きかえし、電話を借りて、事務所を呼びだした。リチモンド支局から、電報がとどいていた。ガーソーン一家が、土地では名の知れた裕福な家がらで、息子のジャックが、しょっちゅう問題をおこしていること、そのジャックが、数カ月前、酒場を荒したときに、禁酒監督官をなぐったこと、父親は、自分の遺言書から、息子の名を削り、家を追いだしたが、母親のほうが、仕送りをしてやっているらしいこと、そんな内容の電報だった。
女からききだしたことと、よくつじつまがあっていた。
ぼくは、電車に乗って、前の日の朝、女の家の車庫から借りたロードスターのあずけてある貸車庫まで行った。
車を西にむけて、金門橋公園《ゴールデン・ゲート・パーク》を抜け、オーション・ブルヴァードのほうへ走らせているうちに、ぼくは、すこしずつ不機嫌になりかけた。仕事が、自分の思いのままにてきぱきとはかどっていないのだ。
リリアン・シャンの邸のベルを鳴らすと、骨っぽい顔にピンクがかった口ひげをはやした男が、ドアをあけてくれた。その男を、ぼくは、知っていた――治安官代理のタッカーだった。
「よう」タッカーのほうから、声をかけた。「なにしにきた?」
「こっちも、お姫さまをさがしているんだがね?」
「さがすだけさがすがいいや」にやりと白い歯を見せて、「べつに邪魔はしないからね」
「いないのか、え?」
「いらっしゃらないね。ここで働いているスウェーデン人の女の話では、おれのくる三十分ほど前に帰ってきて、直ぐにまた出かけたということだ。おれは、十分ばかり前に、やってきたんだが」
「あの女の逮捕令状があるのか?」
「あるともさ。運転手が、口を割ったんだ」
「そうだってね。そいつを手に入れたのは、ぼくなんだぜ」
ぼくは、それから五分か十分ほどのあいだ、タッカーとおしゃべりをした上で、ロードスターを、もう一度、サンフランシスコにむけて走らせた。
デイリ・シティをぬけたところで、南へ走るタクシーと、すれちがった。窓ごしに、ジャック・ガーソーンの顔が見えた。
ぼくは、ブレーキを踏みつけて、腕を振った。タクシーは方向をかえて、こっちへもどってきた。
ぼくは、道路におりて、タクシーのほうへあるいて行った。
「ミス・シャンのお宅へ行かれるのだったら、あそこには、治安官代理が、待ち伏せていますよ」
男の青い眼が、細くなって、ぼくの顔を、さぐるようにみつめた。
「どうです、道ばたによって、すこし話しませんか?」ぼくは、誘った。
男はタクシーをおりた。ぼくたちは、道のむこうがわの、坐りごこちのよさそうな丸い石のほうへあるいた。
「リルは――いや、ミス・シャンは、どこにいるんだ?」男がたずねた。
「|口笛吹き《ホイスラー》のコンヤーズにきいてみたら?」ぼくは、智慧を貸してやった。
「それは、どういう意味だ?」
ぼくには、べつに意味もなにもなかった。それをきいて、どんな反応を見せるか、それが、たしかめたかっただけだった。ぼくは、だまっていた。
「|口笛吹き《ホイスラー》につかまったのかね?」
「そんなことはありますまい」ぼくは、心のなかとはうらはらの返事をした。「しかし、問題は、あのご婦人が、|口笛吹き《ホイスラー》の仕組んだ殺人事件にまきこまれて、首をくくられるのをまぬかれるために、身をかくさねばならなくなっているということなんです」
「首をくくられる?」
「さよう。邸で待ちかまえている治安官代理は、殺人容疑者としてのかの女の逮捕状をもっていますよ」
男は、のどの奥で、そうぞうしい音を立てた。
「ぼくは、行ってみよう! 知っているだけのことを、すっかり打ちあけてやる!」
自分のタクシーのほうへ、もどりかけた。
「お待ちなさい!」ぼくは、声をかけた。「ごぞんじのことを、まず、このぼくに打ちあけていただいたほうが、いいかもしれませんよ。ぼくは、あのかたに依頼されてはたらいているんですからね」
男は、くるりとまわって、引きかえしてきた。
「うん、その通りだ。君なら、どうすればいいか、知っているはずだ」
「ほんとのところ、なにをごぞんじなんです?」男が、ぼくの正面に立ちはだかったときに、ぼくはたずねた。
「なにからなにまで、知っているさ!」男は、どなるような大声を出した。「ひと殺しのことだって、酒のことだって、それから――」
「落ち着いて! そんな大声を出して、せっかく知っていることのありったけを、運転手にただでくれてやるなど、むだなことですよ」
男の気分の静まるのを待って、ぼくは、男の知っているだけのことを吐きださせにとりかかった。のこらずきき出すのには、一時間ちかくかかった。
男の物語ったところによれば、かれの血気にはやる生活の歴史は、禁酒監督官をなぐって、家名に傷をつけ、勘当されたときにはじまった。かれは、サンフランシスコに逃げてきて、父親の勘気のやわらぐのを待った。そのあいだ、母親が生活費を仕送りしてくれたが、さすがに、若い男一匹が、野放図な都会で、使いたいだけ使えるほどの金は、めぐんでもらえなかった。
一ぽう、|口笛吹き《ホイスラー》のコンヤーズは、船と、酒と、待ちかねているお客さまと、それだけのものは、そろっていたが、せっかくの酒を、陸揚げする段どりが、うまくととのっていないということのようだった。かれの目をつけていたのは、太平洋岸のとある小さな入江だった。そこは、サン・フランシスコから近からず遠からず、密輸酒の陸揚げにはもってこいの地点だった。その上、両がわを、岩だらけの岬にかこまれて、ひと目につかず、街道すじからは、大きな邸宅と、高い生けがきとで、目かくしをされていた。その邸を使わせてもらえば、頭痛のタネもなくなるはずだった。つまり、その入江に、密輸酒を揚げ、手早く邸にはこびこみ、なにくわぬ顔でつめ直し、玄関から自分の車に積みこんで、待ちこがれている都会に送りつけるといった寸法なのだ。
邸は、リリアン・シャンと名乗るシナ人の女のもちものだった。売ることも、貸すことも承知しなかった。ガーソーンの役目は、その女に近づいて――|口笛吹き《ホイスラー》は、すでに、その女のかつての同級生、大学を出てからスッカリ落ちぶれてしまった同級生の紹介状を、手に入れていた――こっちから邸を使わせてほしいといいだせるほどの親しい仲になることだった。要するに、かの女が、|口笛吹き《ホイスラー》の仕事の分け前を餌に、近づくことのできるような種類の人間であるのかどうか、それをたしかめるのが目的だった。
ガーソーンが、自分の役割を、もしくはその一部をやりおおせて、女とかなり親しくなったころ、女は突然、数カ月留守にするという伝言をのこして、東部に出かけてしまった。酒類密輸業者にとっては、もっけの幸いだった。ガーソーンは、次の日、邸を訪れて、ウォン・マーが、女主人と一しょに、旅立ち、邸は、ほかの三人の召使いにまかされていることを知った。差しあたり、ガーソーンの知っているのは、それだけだった。自分では望んでいながら、酒の陸揚げには、役割を振りあてられていなかった。女がもどってきたときに、もともとの役割をつづけられるように|口笛吹き《ホイスラー》から、待機していろ、といいつかったのだった。
|口笛吹き《ホイスラー》からきいたはなしでは、邸をあずかる三人の召使いは、うまく金で買収できたのだが、その金の分け前のことで三人が争ううちに、女のワン・ランが、ほかの二人の男に殺されたということだった。リリアン・シャンの留守中に、一度、酒が邸にはこびこまれたことがあった。女がだしぬけにもどってきたので、にっちもさっちも行かなくなった。邸には、まだかたのつかない酒がのこっていた。よんどころなく、女とウォン・マーを捕えて、押し入れ部屋にとじこめ、そのあいだに、品ものをはこびだした。ウォン・マーが死んだのは、予期しなかった事故――綱をかたくしばりすぎたのだった。
ところが、なによりも始末の悪いことに、つぎの火曜日には、別の積荷を、その入江に陸揚げする予定になっていて、しかも、その地点の閉鎖されていることを、船に知らせる手段がまったくなかった。そこで、|口笛吹き《ホイスラー》は、ガーソーンを呼びよせ、女をおびき出し、はやくとも水曜日の朝の二時まで、邸から遠ざけておくことを命じた。
ガーソーンは、その晩、ハーフ・ムーンまで、食事をしに行くことにして、女をドライヴに誘った。女は、承諾した。そのとちゅう、ガーソーンは、車が故障したと見せかけて、女を、二時半まで、邸に帰さなかった。万事とどこおりなくはこんだことは、あとになって、|口笛吹き《ホイスラー》からきいた。
これからあとは、こんどは、ぼくのほうで、ガーソーンがなにをいおうとしているのか、察しをつけてやらなくてはならなかった――ことばがつかえたり、どもったり、考えていることが、なかなかすらすらとは出てこなかった。あれやこれやとりまとめてみると、こういうことになるらしい。つまり、ガーソーンは、女を相手の自分の仕事が、道徳的にいいか悪いか、そこは、大して気にもとめずにいた。魅力のある女ではなかった――女らしさを感ずるには、あまりにも地味で生真面目な相手だった。だから、べつに誘いかけもしなかった――およそいちゃつきと名づけられそうなまねをすらしなかった。そのうちに、ふと、女のほうでは、自分のように無関心でいるわけではないという事実に、気がついた。それは、思いがけない――彼にとっては、耐えることのできないショックだった。はじめて、ことがらの実相がのみこめた。それまでは、至極単純に、ただの智慧くらべあそびと考えていたことだった。愛情が、それを、ちがったものにした――たとえ、その愛情が、まったくいっぽう的であったにしても。
「今日の午後、おれは、|口笛吹き《ホイスラー》に、縁を切るといってやったんだ」ガーソーンは、はなしにしめくくりをつけた。
「やつのご機嫌は、どうでした?」
「大したご機嫌だった。じつは、しかたなしにがんと一発お見舞いしたようなわけなんだがね」
「なるほど。で、これからどうするつもりだったんです?」
「ミス・シャンに会って、ほんとのことを打ちあけ、それから――それから、おれは、身をかくそうと思っていたんだが」
「それがいいでしょうね。|口笛吹き《ホイスラー》も、なぐられてはだまっていないかもしれませんよ」
「いや、こうなったら、かくれたりするもんか! 自分はどうなろうと、事実をぶちまけてやる」
「それはよしたほうがいい! むだなことです。あなたは、あの女を助けることができるほど、なにからなにまでごぞんじではない」
それは、正確には事実でなかった。というのは、かれは、女が、東部に向けて旅立った次の日に、運転手とホー・ルンとが、邸にいたことを、知っているのだ。しかし、ぼくは、今のところまだ、かれにこの仕事をぬけてもらいたくなかった。
「ぼくが、あなただったら」ぼくは、ことばをつづけた。
「どこかしずかなかくれ場所を見つけて、いい知らせのあるまで、じっとしていますがね。いい場所を、ごぞんじですか?」
「うん」ゆっくりと、「おれを――おれを、かくまってくれそうな友だちが――その――ラテン区のそばに、いるんだが」
「ラテン区の近くに?」シナ町かもしれない。ぼくはすかさず切りこんでみた。「ウェイヴァリー広場《プレース》ですね?」
ガーソーンは、とびあがった。
「どうして知っているんだ?」
「ぼくは、探偵ですよ。なんでも知っています。チャン・リイ・チンという男の名を、きいたことがありますか?」
「ない」
ぼくは、相手のきつねにつままれたような顔を見て、笑いをおさえるのに苦労した。
ぼくが、このふざけた野郎を、はじめて見かけたのは、ウェイヴァリー広場《プレース》のある家から出てくるところだった。かれのうしろには、戸口から送り出すシナ人の女の顔が、おぼろげにのぞいていた。その家は、食料品店から、通りをこして向いがわだった。チャンの家で、ぼくのはなしあったシナの若い女は、どれい女というようなことを口にしたし、そのおなじ家に、きてほしいともちかけてきたのだった。今ここにいらっしゃる世にも寛容なおかたは、おなじ一本の糸につながりながら、その女が、チャン・リイ・チンとかかりあいがあるとは気がつかず、チャンの存在も知らず、まして、チャンと|口笛吹き《ホイスラー》とが、ひとつ穴のむじなとは、夢にもご承知なかったのだ。そのジャックが、せっぱつまった今となって、その女に、かくまってもらおうとしている!
ぼくは、こうした筋書きが気に入らなかった。かれは、自分からわなにかかろうとしている。しかし、それは、ぼくには、なんの関係もないことだった――それどころか、そのために自分の肩の荷がかるくなれば、かえっていいとさえ思った。
「そのお友だちの名前は?」
かれは、ためらった。
「食料品店から通りをこしたむかいがわの家にいる、あの可愛らしいご婦人は、だれです?」
「シュウ・シュウという女だ」
「いいでしょう」ぼくは、その男の愚かな思いつきを、おだててやった。「そこへいらっしゃい。もってこいのかくれ場所です。ところで、シナ人の小僧でも使って、連絡したいような場合、どうすればいいんでしょう?」
「入って左手に、階段がある。二段目と三段目とは、とばしたほうがいい。そこには、警報装置がしかけてある。手すりもさわっちゃいかん。二階にのぼったら、また左にまがるんだ。廊下は、まっ暗だ。右手の――廊下の右がわの壁の――二つ目のドアをあけると、部屋がある。部屋の突きあたりの押し入れには、古着の裏がわに、かくしとびらがある。そのドアのむこうの部屋には、しょっちゅうひとがいるから、通り抜けるすきをねらわなくてはならん。この部屋の外に、どの窓からでも出られる小さな露台《バルコニー》がある。露台の腰は、一枚の壁になっているから、身をかがめれば、通りからも、よその家からも、見られる心配はない。露台のはずれの床板が、二枚だけはずせるようになっている。そこにもぐりこむと、壁のあいだの小さな部屋だ。もうひとつ落し戸を抜けると、おなじような小部屋があって、おれは、たぶんそこにいるはずだ。そのどんづまりの部屋には、ほかにも階段をおりる道があるはずだが、おれもまだそっちを通ったことはない」
まったくたいしたもんだ! まるで、こどものかくれんぼじゃないか。このこけおどしの迷路を、つまずきもせずに、よくおぼえている。心から真面目に受けとっているのだ。
「なるほどね!」ぼくは、感心して見せた。「できるだけ早く、そこに行って、ぼくが伝令を差しむけるまで、ジッとしていることですね。通りに出る戸口ですが――そこは、鍵がかかっているんですか?」
「いや、鍵がかかっているのは、見たことがないよ。あの建ものには、四、五十人の――百人ぐらいかな――とにかく、どっさり、シナ人が住んでいるから、ドアに鍵をかけることもないだろうね」
「結構です。では、一刻も早く」
その夜、十時十五分、ぼくは、ウェイヴァリー広場の食料品店とむかいあったドアを、押しあけていた――シュウ・シュウと約束した時刻よりも、一時間四十五分早かった。九時五十五分に、ディック・フォリーから、|口笛吹き《ホイスラー》が、スポフィールド横町の赤塗りのドアをはいって行った、と、電話で知らせがあったのだった。
なかはまっくらだった。ドアを、そっとしめて、ガーソーンの話してくれた、こどもだましの道順に、心を集中した。階段は、少しばかり厄介だったが、それでも、どうやら、手すりにさわらずに、二段目と三段目を、またぎこして、のぼって行った。二階の廊下の二つ目のドア、そのむこうの部屋の押し入れのなかのかくしドアも、見つかった。そのドアのまわりの隙間から、あかりが見えた。なんの気配も、きこえなかった。
ドアを押しあけた――部屋は、空っぽだった。石油ランプのくすぶる臭いが、鼻をついた。手ぢかの窓は、音もなく押しあげられた。智慧のないはなしだった。キーッと音がするようにしてあれば、ガーソーンに、危険を知らせる信号にもなるだろうに。
露台に出ると、指図にしたがって、ぼくは身をかがめた。ゆるい床板をさぐりあて、それをはずすと、まっ暗な穴が、口をあいた。足から先にはいって行った。穴は、おりやすいように、ななめになっていた。壁の対角線に沿って、隙間がつくってあるようだった。おりて行って、間もなく行き着いたのは、厚い壁をくりぬいたような、幅のせまい小さな部屋だった。
あかりは、見えなかった。懐中電燈を照らして見ると、幅四フィート、長さ十八フィートはあろうかとおもわれる部屋に、テーブルと、寝椅子と、ふつうの椅子が二脚、そなえてあった。床の敷ものの下に、落し戸が、見つかった。
ぼくは、腹ばいになって、落し戸に、耳を押しあてた。なんの音もきこえなかった。落し戸を二インチばかり、もちあげてみた。まっくらやみのなかでぶつぶつとつぶやくような声がした。落し戸を、大きくあけて、頭を突っこんだ。二重戸になっているのがわかった。下にもうひとつとびらがあって、それが、下の部屋の天井になっていた。
その下のとびらの上に、用心深くおりてみた。足の下でとびらがうごいた。もう一度、からだをもちあげることもできたのだが、いったんうごかしてしまったからには、成り行きにまかせることにした。
両足をおろした。落し戸が、下にあいて、ぼくは、まぶしい光のなかに、おちこんだ。頭の上で、落し戸がはねあがった。ぼくは、す早く、シュウ・シュウをつかまえて、可愛らしい口に、手で蓋をした。危うく間にあって、声を立てさせずにすんだ。
「やあ、今晩は」ぼくは、びっくりまなこのガーソーンにあいさつをした。「使いのこどもが、夜になって帰ってしまったものだから、ぼくが、自分でやってきましたよ」
「やあ」ガーソーンは、息をつめた。
そこは、見たところ、落し戸の上の部屋と、そっくりおなじつくりの、壁と壁のあいだの物置き部屋だったが、ただこっちのほうには一ぽうの端に白木のドアがあった。
ぼくは、シュウ・シュウを、ガーソーンに引きわたした。
「この女を、しばらくおとなしくさせておいてください。そのあいだに、ぼくは――」
ドアのかけ金のカチリと鳴る音が、ぼくをだまらせた。ぼくは、ドアが、大きくあいたとたんに、ドアと壁とのあいだに、とびこんだ。ドアにさえぎられて、あけたひとの姿は、見えなかった。
ジャック・ガーソーンの青い眼と口とが、そのドアよりももっと大きくあいた。ぼくはピストルをかまえて、ドアのかげから踏みだした。
そこに立っていたのは、どこかの女王さまだった。
あたりを見くだすように、からだをまっすぐに立てた、背の高い女だった。十軒もの宝石店を掠奪してきたほどの宝石をちりばめた、蝶の形のかんざしが、背の高さを、ことさら誇張して見せた。金の糸で綴った紫水晶が、裾に流れて、さながら生きた虹となる、それが、ガウンだった。服というようなものではなかった!
かの女は――そう、こういえば、はっきりさせられるかもしれない。シュウ・シェウは、ぼくの想像のおよぶかぎり、もっとも完璧な女性美の化身だった。非の打ちどころとてなかったのだ! それが、この女王さまの前ではシュウ・シュウの美しさも、あとかたもなく消えうせてしまった。太陽の前の蝋燭だった。可愛いといえば可愛い――その点では、戸口にあらわれた女よりもずっと可愛い――しかし、もはや、この女に注意をはらうものはない。シュウ・シュウは、可憐な女性だった。戸口の高貴の女性は――ぼくは、ことばを知らない。
「どうしたことだ!」ガーソーンは、押し殺したかすれ声を出した。「おれは、夢にも知らなかった!」
「こんなところにきて、どうしようというんです?」ぼくは、その女に立ちむかった。
かの女は、ぼくに耳を貸さなかった。牝虎が、横町のネコに出会ったように、シュウ・シェウを見すえていた。シュウ・シュウは、牝虎に出っ会した横町のねこのように、かの女をみつめていた。ガーソーンの顔に、汗がにじんできた。口もとは、病人のようにひきつれた。
「こんなところで、どうしようというんです」ぼくは、おなじことばをくりかえしながら、リリアン・シャンのほうへ、つめ寄った。
「わたしの家ですもの」女はゆっくり口をうごかした。「仲間のところへ、もどってきましたのよ」
たいした口がきけるものだ。ぼくは、とびだしそうな眼をしているガーソーンのほうへ、むきなおった。
「シュウ・シュウを、上の部屋へ連れて行って、おとなしくさせてください。ぼくは、ミス・シャンに話がある」
ガーソーンは、まだ腑に落ちない顔のまま、テーブルを、落し戸の下に、押して行き、それを足場に、天井の穴によじのぼり、手を差しのべた。シュウ・シュウは、蹴ったり、ひっかいたりしたが、ぼくが手つだって、押しあげてやった。それから、ぼくは、リリアン・シャンのはいってきたドアをしめて、かの女とむきあった。
「どうして、ここへきたんです?」
「職業紹介屋の店で、本人の口からきいて、イン・ハンが、なにをいおうとしているかがわかったので、わたしは、あなたを置き去りにして、家にもどりました。家にもどってみると――いいえ、家に帰りつくのと一しょに、この、わたしにとっては当然のおち着き先であるここにくることを、決心したんです」
「うそだ! 家にもどってみると、チャン・リイ・チンから、ここへくるように命令した手紙がとどいていたんです」
女は、なにもいわずに、ぼくの顔を見た。
「チャンは、どんな用があったんです?」
「わたしを助けることができそうだというので、わたしは、ここにいることにしました」
それもうそだ。
「チャンは、ガーソーンが|口笛吹き《ホイスラー》と、仲間割れをして、生命が危い、と、そうあなたにいってきかせたんです」
「|口笛吹き《ホイスラー》ですって?」
「あなたは、チャンを相手に、取引きをしました」ぼくは、女のききかえしたことばを、ほったらかして置いて、いいたいことをいった。この女が|口笛吹き《ホイスラー》を、そういう名で知らないのも、あり得ないことではなかった。
「取引きなどしませんわ」
ぼくは、信用しなかった。口に出して、そういった。
「あなたは、ガーソーンを|口笛吹き《ホイスラー》から、助けだすこと、つまりは、あなた自身を、法律の制裁から助けだすことの約束と引きかえに、自分の邸を――さもなければ、その邸の使用権を、チャンにわたしたのです」
女は、胸を張った。
「その通りですわ」女の声は、おち着いていた。
「あなたという人は、思いきりこらしめてやらなければならん!」ぼくは、女に、がみがみ声を、あびせかけた。「いまさら、シナ人のゴロつきどもとぐるにならなくったって、いい加減ひどい目にあっているじゃありませんか。|口笛吹き《ホイスラー》には、会いましたか?」
「男の人が一人いましたけど、名前は、知りませんの」
ぼくは、ポケットをさがして、その男が、サン・クェンティン刑務所に送られたときの写真を、見つけだした。
「このひとですわ」女は、写真を見てうなずいた。
「えりにえって結構な相棒を見つけたもんだ」ぼくは、くってかかった。「こんな男のいうことが、ちっとでもあてになると思うんですか?」
「わたしは、このひとのいうことをあてにゃしませんわ。わたしの約束したのは、チャン・リイ・チンですもの」
「どっちだって、おなじことです。二人とも、ぐるなんですからね。どんな取引きをしたんです?」
女は、からだをまっすぐにして、首すじをこわばらせ、視線を水平にむけたまま、こたえなかった。ぼくは、べつのほうから攻めてみた。
「あたたは、取引きの相手がだれであろうと、そんなことはいっこう気にしないひとです。ひとつ、ぼくが、相手になりましょう。ぼくは、|口笛吹き《ホイスラー》にくらべると、これでも、前科がひとつすくないから、あいつが口をきいて、ちっとでも役に立つのなら、ぼくのいうことは、たいした値うちがあるはずです。どんな取引きだったのか、それをいってください。それが、半ぶんでもまともな取引きだったのなら、ぼくは、尻尾を巻いて逃げだし、いっさい忘れてしまうことを、約束しますよ。あなたが、いってくれないのなら、ぼくは、窓が見つかりしだい、そこから外にむけて、ピストルを弾丸のありったけぶっぱなします。この界わいで、一発ブッぱなせば、どれだけたくさんのお巡りがよってくるか、びっくりしないでくださいよ」
脅しがきいて、女は顔色を失った。くちびるを噛みしめ、両手の指をよじりあわせているうちに、やっと決心がついたようだった。
「チャン・リイ・チンは、シナの本国での、反日運動の指導者《リーダー》の一人だったんです。孫文《スンウェン》――南シナとかこの国では、孫逸仙《スンヤッセン》と呼ばれていますけど――が、亡《な》くなって以来、日本人は、シナ政府にたいする圧力を、今までになく強めてきました。チャン・リイ・チンと、その仲間とは、今もなお、孫文ののこした事業を、押しすすめているんです。
本国の政府に容れられないその連中にとって、差しあたり必要なのは、時機のきたときに、日本人の侵略に抵抗するに足る愛国者たちに、武装させることです。わたしの家を使うのも、そうした目的のためなんですの。そこで、ライフル銃弾、薬を、小舟に積みこみ、沖に泊っている本船に、送りとどけるんです。あなたの|口笛吹き《ホイスラー》とおっしゃるその人は、武器をシナにはこぶ船のもち主なんですけど」
「すると、召使いが、殺されたのは?」
「ワン・ランは、シナ政府の――つまり日本人のスパイでした。ウォン・マーが死んだのは、なにかの間違いだったと思いますが、あの女も、スパイの疑いをかけられていました。愛国者にとって、叛逆者の死が、当然のことであるのは、おわかりでしょう? お国があやうくなれば、あなたがただって、おなじことですわ」
「ガーソーンは、なにか、酒の密輸入というような話をしていましたがね。それは、どうなんです?」
「あのひとは、そう思いこんでいますの」女は、ガーソーンのよじのぼったおとし戸を見あげて、おだやかな微笑をうかべた。「あのひとが、どれだけ信用できるか、それがわからなかったので、そういうことにしてあったんです」
女は、片手を、ぼくの腕にかけた。
「どうか、このままお見逃がしくだすって、だまっていていただけないかしら?」訴えるような口調だった。「こんなことは、お国の法律に反することでしょうけど、あなたでも、ご自分の国を救うためには、ほかの国の法律を犯すぐらいのことをなさらないでしょうか? 四億の民衆には、自分たちをくいものにしようとする外国人と戦う権利がないのでしょうか? 道光《クオクワン》のむかしから、わたしの国は、侵略国家のもてあそびものにされてきました。祖国に愛情をささげるシナ人にとって、その恥辱の時代に終止符を打つためなら、たとえどれだけ大きな代償を支はらおうとも、それが大きすぎるということがありましょうか。あなたも、まさか、わたしの国のひとたちの解放を邪魔なさるおつもりは、おありにならないと存じますが?」
「ぼくも、お国のかたがたの勝利を、望まないわけではありません。しかし、あなたは、だまされている。あなたの邸にもちこまれ、もちだされた武器があるとしても、それは、そこに出入した連中が、めいめいポケットにしのばせていたピストルぐらいのものですよ! そんなもので、ひと船いっぱいにするには、それこそ一年もかかるでしょう。いかにも、チャンはシナに武器を送っているかもしれません。ありそうなことです。だが、それは、あなたの邸とは関係のないルートを通っているんです。
ぼくのお邪魔した晩、大ぜいの苦力《クーリー》がお邸を通り抜けました。海岸からやってきて、車に乗って行ったんです。|口笛吹き《ホイスラー》は、チャンに頼まれて、武器をはこび、苦力を連れてもどるというような仕事を、やっているのかもしれませんね。一人上陸させれば、千ドルにはなります。きっとそうですよ。つまり、チャンの武器をはこんだ帰り船に、自分の商売もの――苦力《クーリー》と、それに、阿片もあるにきまっています――を積みこんで、タンマリかせいでいるんです。武器をはこぶぐらいのことでは、ろくな金にはならないんでしょうね。
武器は、おそらく、なにかほかのものに見せかけて、波止場から、堂々と積みだしているのでしょう。あなたの邸が利用されるのは帰り船の場合です。チャンが、苦力《クーリー》とか阿片とかの商売に関係しているかどうか、それはわかりませんが、口笛吹きが自分の武器をはこんでくれさえすれば、ほかになにをしようが、見て見ないふりをしているといったところでしょうね。だから、あなたは、まんまといっぱいくわされているんですよ!」
「しかし――」
「しかしもなにもあるもんですか! あなたは、苦力《クーリー》の密入国にひと役買って、チャンを手つだっているんです。そしてぼくの察するところ、あなたの召使いが、殺されたのは、かれらがスパイだったからではなく、あなたをだまして、そうした秘密の取引きの片棒かつぐことを、承知しなかったせいです」
女は、まっ青になって、フラフラとよろめいた。ぼくは、立ちなおるすきをあたえなかった。
「あなたは、チャンが、|口笛吹き《ホイスラー》を信用しているとお思いですか? 二人の仲が、うまく行っているように見えましたか?」
チャンが、あんな男を信用するわけのないことは、よくわかっていたが、ぼくは、そこに、なにかはっきりした裏書きがほしかった。
「いいえ」女は、ゆっくりと口をうごかした。「なんですか、船が行方知れずになったというような話が出ていましたわ」
それでたくさんだった。
「今でも二人はいっしょにいるんですか?」
「ええ」
「どう行けばいいんです?」
「そこの階段をおりて、地下室をまっすぐに通り抜け、突きあたりの階段を、二階までのぼりつめた右手の部屋に、三人がいますわ」
おかげで、知りたいだけのことをそっくり、いちどきに知ることができた!
ぼくは、テーブルの上にとびあがり、天井をコツコツとたたいた。
「おりてきなさい、ガーソーン、お嬢さんもいっしょに」
四人が、また勢ぞろいすると、ぼくは、間ぬけ男とリリアン・シャンとに、いってきかせた。「お二人とも、ぼくの戻ってくるまでここにじっとしていてください。ぼくは、シュウ・シュウを連れて行きます。さあ、出かけよう。都合の悪いやつに出会ったら、君にしゃべってもらう。ぼくたちは、チャン・リイ・チンに会いに行くんだ。わかるかね?」ぼくは、こわい顔をして見せた。
「君が、ちょっとでも大きな声を出したら、これだぞ」ぼくは、シュウ・シュウの首に両手の指をまわして、軽くしめて見せた。
せっかくの見せ場も、脅した相手が、おかしそうにくっくっと笑ったのですこしばかり効果が減じた。
「行先は、チャンのところだ」ぼくは、命令をくだして、シュウ・シュウの肩をつかみ、ドアのほうへ押して行った。
ぼくたちは、まっくらな地下室におり、そこをとおりぬけて、階段をさがし出し、のぼりはじめた。
一階までくると、うすぐらい灯りが点いていた。そこで、むきをかえて、二階へのぼる階段にとりつこうとしたとたんに、うしろから足音がきこえてきた。
ぼくは、女を二段ひっぱりあげて、あかりの射さない蔭にはいり、女がうごかないように、しっかり押えつけたまま、しゃがみこんだ。一階の廊下を、四人のしわだらけの服を着たシナ人がやってきて、ぼくたちの身をひそめている階段には、ひと目もくれずに、行きすぎかけた。
シュウ・シュウの赤い花びらのような口があいて、金切り声がほとばしった。対岸のオークランドにいてもきこえそうな、突拍子もない悲鳴だった。
「くそッ!」ぼくは、女を振りすてて、階段をのぼりにかかった。四人のシナ人は、ぼくのあとを追ってきた。行くての踊り場に、チャンのお抱えの大きなレスラーが一人、刃わたり一フィートばかりのぬき身を握ってあらわれた。ぼくは、あとをふりかえってみた。
シュウ・シュウは、一番下の段にすわりこんで、頭をのけぞらせ、まるで、音色をためしでもするように、キャーキャー、キイキイ、いろんな調子の金切り声をはりあげていた。その笑った人形のような顔には、喜色があふれていた。黄いろい顔の男たちの一人は、階段をのぼりながら、自動ピストルを、めった射ちしていた。
ぼくは、階段の頂上に立ちはだかるひとくい人種めがけてとびかかって行った。相手が、おおいかぶさるようにかがみこむところへ、一発お見舞いした。
弾丸は、のど首に穴をあけた。
ころげ落ちる大男の、顔にピストルをたたきつけてやった。
誰かの手が、ぼくの足首をつかんだ。
ぼくは階段の手すりにしがみついて、あいたほうの足でうしろざまに蹴りつけた。足は、ガツンとなにかにあたった。これで、邪魔ものはなくなった。
階段をのぼりきって、右手のドアにとびついたときに、ピストルの弾丸が、一階の天井を、すこしばかり切り欠いた。
ドアをひっぱりあけるが早いか、とびこんだ。
もう一人の大男が、ぼくを、受けとめた――子どもが、ゴムのボールを受けとめるように、ぼくの百八十ポンドなにがしのからだを、かるがると抱きとめた。
部屋の奥で、チャン・リイ・チンが、肥った指で、まばらなあごひげをなでながら、ぼくに笑顔をむけた。そのそばの椅子に坐っていた、|口笛吹き《ホイスラー》とおぼしき男が、肉の多い顔をひきつらせて、立ちあがった。
「|狩人の王子様《ヽヽヽヽヽヽ》には、ようこそおいでなされた」チャンが、声をかけて、そのほかになにかシナ語で、ぼくをつかんでいるひとくい人種にいい足した。
ひとくい人種は、ぼくを床におろして、追跡者の鼻先にドアをピシャリとしめきった。
|口笛吹き《ホイスラー》は、また腰をおろした。血走った眼で、うさんくさそうに、ぼくを見た。肥った顔には、露ほども面白がっている様子がなかった。
ぼくは、ピストルを、服の内がわにつっこんでから、チャンのほうへあるいて行った。あるきながら、ふと、あることに気がついた。
|口笛吹き《ホイスラー》のうしろのビロードのたれ幕が、ほんの少しばかりふくれあがっていた。おなじようなふくれあがりを、前にも見たことのあるひとでなければ、気がつきそうにないほどごくわずかのふくれあがりだった。やっぱり、チャンは、自分の相棒を、これっぱかりも信用していないのだ!
「お目にかけたいものがあるんですが」ぼくは、シナの老人の前までくると、立ったまま話しかけた。
「|復讐者の父《ヽヽヽヽヽ》ともあられるおかたのおもちくだされたものとあらば、なんなりと、喜んで拝見いたしますじゃ」
ぼくは、片手を、ポケットに入れた。「シナへむけて送り出された品ものは、ひとつとして、目的地に到着していないということですがね」
|口笛吹き《ホイスラー》が、また、椅子からとび立った。口もとが、ねじゆがみ、顔は、どす赤くなった。チャン・リイ・チンが、顔をむけると、もとの椅子に、腰をおろした。
ぼくは、|口笛吹き《ホイスラー》が、胸に旭日章をひからせて、一団の日本人の中に立っている写真をとりだした。チャンが、その日本人相手の詐欺事件を知らず、勲章がニセものであることに気がつかずにいてくれることを願いながら、その写真を、テーブルの上におとした。
それをチャン・リイ・チンは、両手をにぎりあわせて、かなりのあいだ、ジッと見ていた。年老いたその眼は、やさしく抜けめがなく、顔は、おだやかだった。顔の筋肉は、まったくうごかなかった。眼に、なんの表情の変化もあらわれなかった。
右手の指の爪が、ジリジリと組みあわせた左手の甲の肉にくいこんで、赤い筋をのこした。
「賢者の仲間入りをすれば、バカでもかしこくなると申すのは、まったく真理ですな」静かな口調だった。
老人は、組みあわせた両手をほどいて、写真をつまみあげて、肥った男に差し出した。|口笛吹き《ホイスラー》は、それをつかんだ。かれの顔は、血の色をうしなって、灰いろになった。眼の玉が、とびだしそうだった。
「いや、これは――」いいかけた口をつぐんで、写真を、自分の膝の上におとし、ぐったりと肩をすぼめた。敗れ去ったものの姿だった。
「これをおもちくだすった代価としては、なにによらず、お望みのものを差しあげますわい」チャン・リイ・チンは、ぼくにはなしかけた。
「ぼくは、リリアン・シャンと、ガーソーンの身のあかしをたてていただきたいんです。それから、ここにおられる肥ったお友だちと、そのほかに、例の殺人事件にかかわりのある人間をのこらず頂だいしたい」
チャンは、しばらく眼をつぶった――ぼくの見たかぎり、この丸顔にあらわれた最初の疲労の徴候《しるし》だった。
「結構ですじゃ、おもちくだされ」
「むろんのこと、ミス・シャンとの間の取引きは、ぜんぶご破算ですよ」ぼくは、念を押した。「ほかに、この悪党」――の|口笛吹き《ホイスラー》のほうへうなずいて見せながら――「首を間ちがいなく絞めてやるための証拠も、ちっとは要りそうですがね」
チャンは、夢を見るような微笑をうかべた。
「残念だが、それはかないますまい」
「それはまた、どういうわけで――?」ぼくは、いいかけて、黙ってしまった。
見ると|口笛吹き《ホイスラー》のうしろのビロードのたれ幕には、もう、ふくれあがりがなくなっていた。椅子の脚の一本が、あかりを受けてキラキラと光っていた。その下の床に、まっ赤な液体のたまりが、ひろがっていた。この男の首を絞めるワケに行かないことは、かれの背なかをしらべて見るまでもなく、よくわかった。
「そんなら、話はべつだ」ぼくは、椅子一つ、足で押して、テーブルに寄せた。「では、ご相談しましょう」
ぼくは、腰をおろして、打ちあわせをすすめた。
二日たつと、すべては、警察が、新聞が、そして世間が得心するほどに、あきらかにされた。|口笛吹き《ホイスラー》は、とある暗い街に、背なかを割かれた、死後数時間の死体となって発見された。やみ酒屋どうしの縄ばり争いで殺されたのだということだった。ホー・ルンが、発見された。リリアン・シャンが、旅からもどったときに、玄関のドアをあけた金歯のシナ人が発見された。ほかの五人も発見された。この七人は、運転手のイン・ハンもろとも、とどのつまり、めいめい終身の刑をいいわたされる破目となった。みんな、|口笛吹き《ホイスラー》の手下だった。その連中を、チャンは、まばたきひとつするでもなく、あっさりと見すててしまった。かれらには、ぼく同様、チャンの共犯関係を証明する証拠がほとんどなかったので、自分たちに不利な証拠を、ぼくにわたしたのが、チャンであることを知りながら、反撃するよしもなかった。
女と、チャンとぼくのほかには、だれ一人、ガーソーンの役割りを知ったものはなかったから、かれは、難をまぬかれて、すきなだけ、女の家で時をすごせることとなった。
チャンを、警察につき出せるような証拠はなかった。皆目つかめなかった。ぼくは、愛国心などにはだまされずに、なんとか、そのじいさんを、監獄にほうりこむすきはないものかと、うの目たかの目でさがしまわった。うまく行けば、たいした自慢のたねができるところだった。しかし、尻尾をつかむチャンスはまるっきりなかった。結局、商談が成立し、ご本尊とその腹心をかけたいっさいがっさいを、引きわたしてもらえたことで、満足しなければならなかった。
キイキイ声のドレイ女、シュウ・シュウが、どんな目に会ったか、それは知らない。あの女は安穏無事でいていいだけのことをしてくれた。チャンのところへ、様子をききに行くべきだったかもしれないが、それはしなかった。写真のなかで、|口笛吹き《ホイスラー》が、胸にかざっている勲章がニセものだということは、結局、チャンに知れた。じいさんは、こんな手紙をくれた。
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はかり知れぬ敬愛の念をもって、秘密あばき手閣下に申しあげます。
その愛国の熱情と、生来の痴愚とが結びついて、盲目となり、その果てには、かけがえのない仕事仲間まで失うことになったおろかものめも、閣下との世俗的な取引きのおかげで、これからは、二度と、そのとぼしい才能で、ナゾ解き皇帝陛下の、なんびとも打ちかちがたい意志と、目くるめくばかりの知能に、太刀打ちいたそうなどと、大それた考えをおこさぬことを、誓います。
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諸君が、この手紙を、どう受けとられようと、それは勝手だ。しかし、ぼくは、これを書いた主を知っている。だから、ぼくは、シナ料理店で、食事をするのを、やめているのだ。そして、あれ以来、シナ町に出かける用もなくなったとはいうものの、やがて、遠からず、また用ができることだろう。
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メインの死
係長にきくと、その件なら、ハッケンとベッグとが扱っているということだった。ぼくは、その二人が、刑事部屋を出ようとしているところをつかまえた。ベッグは、ヘビーウェイト級のからだつきをした、そばかすだらけの男だった。ひとなつっこいことにかけては、セント・バーナード種の小犬にもおとらないが、智慧のほうは、それほどでもなかった。この二人組の頭脳《ブレイン》の役割りは、もっぱら、手斧のような顔をした、やせぎすの部長刑事のハッケンが、受けもっていた。こっちは、ベッグほど陽気な男ではなく、いつもうかぬ顔をしていた。
「おいそぎかね?」ぼくは、声をかけた。
「おれたち、勤務がすんじまえば、いつだって、おいそぎにきまってるさ」ベッグが、ニヤリと、白い歯を見せた。
「なんの用だね?」ハッケンが、口を出した。
「じつは、メインの一件について、わかっていることがあったら、そいつをききたいんだが」
「君が、その事件をやることになったのか?」
「うん。メインの親方《ボス》の――つまり、ガンゲンから、依頼があってね」
「そんなら、こっちにもきかせてもらいたいことがあるぜ。あの男は、いったいどういうわけで、二万ドルという大金を身につけてもっていたんだ?」
「それは、明日の朝はなしてやるよ。まだ、ガンゲンには、お目にかかっていないんだ。今晩、会うことになっているがね」
話しながら、ぼくたちは、デスクとながいベンチを、学校の教室のようにならべた刑事部屋に入りこんだ。部屋には、五、六人の刑事連が散らばって、報告書をつくっていた。ぼくたち三人は、ハッケンのデスクをかこんで腰をおろした。やせっぽちの部長刑事がはなし手だった。
「メインは、日曜日の夜八時に、紙入れに二万ドルという現なまをつめこんで、ロサンゼルスから帰宅した。ガンゲンにいいつかって、なんだかを売りこみに、そっちへ出かけていたというんだがね。細君のきいたところでは、ある友人――その名はわかっていない――といっしょに、ロサンゼルスから、車をとばしてきたということだ。細君は、十時半ごろ本を読んでいるメインをのこして、自分だけ寝床に入った。問題の金は――つまり、百ドル紙幣二百枚は、茶いろの紙入れに入れて、メインが、自分の身につけていた。
そこまでは、どうということもなかった。メインは、居間で、本を読んでいる。細君は、寝室でねむっている。アパートの住居には、ほかにだれ一人いない。ふとさわがしい物音が、細君の眼をさました。ベッドからはねおきて、居間にかけこむ。メインが、二人の男と、とっ組みあっている。くせものの一人は、背の高いたくましい男。もう一人は、小がらな――女の子のようなからだつきの男だ。二人とも、黒いハンカチーフで、顔をつつみ、ひさしのある帽子を、まぶかにかぶっている。
ミセス・メインの姿を見ると、小男のほうが、メインからはなれてきて、ピストルを顔につきつけ、おとなしくしろと脅した。メインともう一人の男は、まだもみあっている。メインの手にも、ピストルがあるが、くせものは、その手くびをつかんで、ねじあげようとしている。ひまも手間もかからない――メインの手から、ピストルが落ちる。くせものは、自分のピストルをひけらかして、メインを遠ざけ、おちたピストルを、ひろおうとする。身をかがめる男に、メインがのしかかった。どうやら、相手のピストルを、たたきおとす。しかし、そのときには、くせものの手に、べつのピストルが――メインの床におとしたピストルがある。二人は、二秒ほどのあいだ、棒だちのままつかみあう。ミセス・メインにはどうなっているのかわからない。そのとき、ドンと一発! メインが、倒れる。チョッキが、燃えている。銃口のはいた火が、燃えついたのだ。心臓に、弾丸がはいっている。メインのピストルは、覆面のくせものの手のなかで、けむりを吐いている。ミセス・メインは、そのまま、気をうしなった。
細君が、正気にかえったときには、自分と、死んだ夫のほかに、だれの姿もなかった。紙入れがなくなっていた。ピストルもない。細君が、気をうしなっていたのは、三十分ほどのあいだだった。このことは、銃声をきいた連中があって――その銃声のした場所は、知らなかったが――時刻をおぼえていたので、見当がつくのだ。
メインの住居《すまい》は、アパートの六階にある。アパートは、八階建てのビルディングだ。となりは、十八番街の町角で、そこに、二階づくりの建ものがある。階下は、食料品店、二階は、その店の住居になっている。この両方の建もののうしろがわには、細い裏通り――横町がある。いいね?
キニー――そのあたりを受けもっているパトロールの警官だ――は、十八番街をあるいていた。そこへ、ピストルの音がした。メインの住居は、アパートのそっちのがわ――つまり、食料品店を見おろすがわにあるのだから、その音は、はっきりときこえたのだが、キニーには、すぐには音のした場所がわからなかった。そのへんをあちこちさがしまわって、時間を、だいぶむだにした。さがしあぐねて、裏の横町まできたのは、相手の逃げたあとだった。しかし、くせものののこして行ったものが、手に入った。その横町に、ピストルが落ちていた。メインがうばいとられ、それで殺されたピストルだった。ところが、くせものは、影もかたちも見えなかった――うさん臭い人間は、一人もいなかった。
ところで、アパートの三階の広間《ホール》の窓からだと、食料品店の屋根に、わけなく出られる。片輪ものでなければ、出るもはいるも自由だし、その窓には、錠のおりていたためしがない。食料品店の屋根から、横町におりるのも、ほとんどおなじぐらい、わけのないことだ。そこには、鋳鉄のパイプと、深く入りこんだ窓と、大きな蝶番《ちょうつがい》の出っぱったドアがある――裏がわの壁をのぼりおりするはしごが、とりつけてあるようなものだ。ベッグとおれとでためしてみたが、汗ひとつかかなかった。二人組も、そこから逃げたと考えていい。それは、手がかりがあった。食料品店の屋根の上に、メインの紙入れ――むろんのこと空っぽだ――と、ハンカチーフが一枚おちていた。紙入れには、角《かど》にあて金がしてあった。その一つに、ハンカチーフがひっかかって、くせものが紙入れを投げすてたとき、いっしょに落ちたのだ」
「メインのハンカチーフかね?」
「女ものだ――片すみに、Eという頭文字が、縫いとってある」
「ミセス・メインのかな?」
「細君の名はアグネスだ。おれたちは、紙入れと、ピストルと、そのハンカチーフを見てもらった。はじめの二つは、夫のものだと証言したが、ハンカチーフは、はじめて見るものだということだった。しかし、それについている香水の名前を、細君は知っていた――『|心の願い《デジール・デュ・クール》』というのだそうだ。そこで――つまり、そのハンカチーフから考えて――覆面二人組のうち小さいほうは、ひょっとすると女だったかもしれない、と、細君は、そういうんだがね。前にも、そのくせもののことは、女の子のようなからだつきだったといっているしね」
「指紋かなにか、そういったものは?」
「なかったね。フェルズが、住居はむろんのこと、窓から、屋根から、紙入れも、ピストルも、ぜんぶしらべた。汚点ひとつない」
「ミセス・メインは、その連中を見れば、見わけがつくかな?」
「小がらなやつのほうなら、わかるといっているがね。たぶん、見わけがつくだろうな」
「くせものどもの身もとについて、ちっとは手がかりもあったのか?」
「今のところ、まだなにもない」こたえるやせぎすの部長刑事もいっしょに、ぼくたちは、連れだって、ドアのほうへあるいて行った。
通りに出ると、ぼくは、刑事たちに別れを告げて、ウェストウッド公園《パーク》のブルーノ・ガンゲンの家にむかった。
その珍奇な古い貴金属類をあつかう商人は、いかにもちっぽけな、そしてまたふうがわりな男だった。着ているタキシードは、まるでコルセットのように、ぴったりとからだにあい、両肩は、たっぷりの|つめもの《パッド》で高々とそびえていた。髪の毛と、口ひげと、山羊ひげを、まっ黒に染め、その上、桃いろの指の尖《さき》のとがった爪とおなじほどぴかぴかに、油で光らせてあった。かれの五十才という年齢に似あわぬ血色は、頬紅を使っているにちがいなかった。
そんな男が、深々とおさまった革ばりの読書椅子から、立ちあがり、軽く頭をさげ、その頭をいっぽうにかしげて、ニコヤカに笑顔を見せながら、こどもの手ほどもない、やわらかなあたたかな手を、ぼくにさしだした。
それから、細君に紹介された。細君のほうは、テーブルにむかった椅子から立ちあがらずに頭をさげた。見たところ、夫の年齢の三分の一をすこし出たぐらいの年かっこうの女だった。十九才を一日だって越しているはずはないと思われ、顔だちからすると、むしろ十六才といったほうがあたっていそうだった。夫におとらず、小づくりなからだつき、顔は、オリーヴ色の肌にえくぼがくぼみ、茶いろの眼はまるく、鮮やかに塗ったくちびるは厚く、ぜんたいの感じが、おもちゃ屋の窓にかざられた高価な人形といったふうだった。
ブルーノ・ガンゲンは、ぼくのことを、細君に、コンティネンタル探偵社の人間で、ジェフリー・メインを殺した犯人をさがしだし、盗まれた二万ドルをとりもどしてもらうために、警察の手助けとして依頼したのだと説明した。
「まあ、そうでしたわね」細君は、そんなことにはまるで興味がない、というような口調でつぶやいて、立ちあがった。
「じゃあ、あたくし、お邪魔をしちゃ悪いから――」
「いやいや!」夫は、桃いろの指を、細君に振って見せた。
「君にきかれてこまるようなことは、なに一つないはずだ」
ガンゲンは、いっぷう変った小さな顔を、くるりと、ぼくのほうに振りむけ、頭を横にまげて、くっくっと小声にふくみ笑いをもらしながら、ぼくに話しかけた。
「そうではありませんかな? 夫と妻とのあいだには、秘密などあるはずがないのですからね」
ぼくは、いかにもそうだというふりをして見せた。こんどは、椅子にかけなおした細君に呼びかけて、「君だって、この事件には、わたしとおなじぐらい関心があるにきまっているさ。ジェフリーは、われわれ両方の大のお気に入りだったじゃないか。そうじゃないかね?」
「まあ、そうでしたわね!」細君は、あいかわらず、まるで興味のなさそうな口調で、前とおなじことばをくりかえした。
ガンゲンは、ぼくのほうへむきなおった。「そこで?」
「警察に行って、係の刑事に会ってきましたがね。連中の知っていること以外に、なにかつけくわえられることでもありますか? なにか、新しい事実でも?」
ガンゲンは、頭をまわして、細君のほうに、顔をそむけた。
「そんなことがあったかな、エニッド?」
「あたくしは、なんにもぞんじませんわ」
夫は、くっくっと笑って、あかるい顔を、ぼくに見せた。
「その通りです。われわれは、なんにも知らんのです」
「メインは、日曜日の夜八時に――つまり、殺されて金をとられる三時間前に――百ドル紙幣で二万ドルという現金をポケットに入れて、サンフランシスコにもどってきました。そんな大金を、どうするつもりだったんでしょう?」
「ああ、それは、お客に品ものを売った代金だったのです」
ブルーノ・ガンゲンは、説明してくれた。「売った先は、ロサンゼルスのミスタ・ナサニエル・オーグルヴィですがね」
「しかし、それをまたなぜ現金で?」
小さな男は、頬紅をつけた顔をしかめて、ずるそうなながし目をくれた。
「なあに、ちょっとしたからくりでしてね」悦に入った口ぶりだった。「商売のかけひきとでも申しますかな。特殊品目蒐集家《ジェナス・コレクター》というのをごぞんじですか? ご存じない。では、ちょうどいい勉強になります。いいですか? わたしが、古いギリシャの職人の手になる――いや、もっと正確に申せば、古いギリシャの職人の手になるとつたえられる、また、南ロシヤのオデッサのちかくで発見されたとつたえられる、黄金の宝冠《テイアーラ》を、手に入れます。このいいつたえに、これっぽちでも真実がふくまれているかどうか、それは、わたしも知りませんが、宝冠《テイアーラ》が、美しいものであることにはまちがいがありません」
ガンゲンは、面白そうに、くっくっと笑った。
「ところで、お客さまの一人に、ミスタ・ナサニエル・オーグルヴィと申されるロサンゼルスのかたがありましてな。そのおひとが、いま申した種類の骨董に趣味をおもちでして――それも、なんとか狂のほうなので。そういったしろものの値うちは、これはもうよくおわかりでもありましょうが、それを売って、どれだけの金になるかによるものでしてな――それより多くも少くもないというわけです。さて、この宝冠《テイアーラ》はというと――この手のありきたりの品ものが取引きされる場合のような売りかたをしたとしても、どうころんだところで、一万ドルをくだらぬ金をあてにすることができます。しかし、遠い昔に、今は忘れられたスキティアの王のつくらせた黄金の冠を、ありきたりの品ものといえるでしょうか? いや、とんでもない! そこで、ジェフリーは、この宝冠《テイアーラ》を、綿にくるみ、手のこんだ箱におさめて、ほかならぬお得意さまのミスタ・オーグルヴィのごらんに入れるために、ロサンゼルスくんだりまで、ご持参申しあげるという次第なのですがね。
その宝冠《テイアーラ》が、どんな筋から、われわれの手にはいったか、そんなことは、おくびにも出しません。ただ、巧妙な陰謀、密輸入、暴力、非合法手段、秘密の必要、といったようなことを、それとなくほのめかします。ほんものの蒐集狂にとって、これは、なによりのえさです! 苦労して手に入れたのでなければ、なんの値うちもないというのですね。ジェフリーも、うそは吐《つ》きませんよ。吐《つ》くものですか! そんな不正直な見さげたまねはいたしません! しかし、さんざんごたくをならべ立てたあげくに、小切手の支払いは、かんべんしていただきたい、と、これはもう力をこめて申しあげます。小切手は、いけません! 筋をたどられるおそれのあるようなものは、いっさいだめです! 現金でなければ! と、こういった|仕かけ《カラクリ》なんですな。
どうです、ちょっとした手品でしょう? しかし、だれの腹が痛みますかね? ミスタ・オーグルヴィは、なにがなんでも、その宝冠《テイアーラ》を買いにかかっているし、われわれのごく罪のないぺてんも、いうなれば、珍品を手に入れるたのしみをふやしてさしあげるだけのことです。おまけに、その宝冠《テイアーラ》がほんものではない、と、だれにそんなことがいえますか? それだとすれば、ジェフリーのならべて見せたごたくも、まぎれもないほんとのことだということになります。ミスタ・オーグルヴィは、二万ドル投げだして、お買いあげです。といったようなわけで、気の毒なジェフリーは、そんなにもどっさりの現金《げんなま》を、しょいこんだのです」
「メインが、もどってきてから、なにか連絡がありましたか?」
小さな骨董屋は、ぼくの質問が、くすぐったいように、うす笑いをうかべ、その笑顔を、細君のほうへ、むけなおした。
「どうだったかね、エニッド?」ぼくの質問は、細君に取りつがれた。
細君は、口をとがらせて、自分には関係のないことだというふうに、肩をすぼめて見せた。
ガンゲンが、細君のその身振りをぼくに通訳した。「あの男の帰ってきたことを、はじめて知ったのは、月曜日の朝、つまり、かれが死んだのをきいたのと一しょでした。そうではなかったかな」
「そうでしたわ」細君は、椅子から立ちあがりながらつぶやいた。「あたくし、失礼しますわ。お手紙を書かなければなりませんから」
「いいとも」ガンゲンは、ぼくと一しょに立ちあがって、細君を見送った。
細君は、自分の夫のすぐそばを通って、ドアのほうへ歩いて行った。ガンゲンの染めた口ひげの上で、小さな鼻が、ぴくぴくとうごめいた。眼をまるくして、漫画のうっとりしたという顔つきになった。
「ああ、なんといい匂いだろう!」大きな声だった。
「まるで天国の香りだ! 名のある香水なのだろうね?」
「ええ、そうよ」細君は、戸口に立ちどまって、振りかえった。
「なんという名だね?」
「『|心の願い《デジュール・デュ・タール》』ですわ」肩ごしにこたえて、細君は、出て行った。
ブルーノ・ガンゲンは、ぼくを見て、くっくっと笑った。
ぼくは、椅子にもどって、ジェフリー・メインについて知っていることをはなしてくれと頼んだ。
「おやすいご用です。これで十二、三年のあいだ、まだ十八という少年のじぶんから、あの男は、わしの片腕でしたからな」
「どういう種類の人間でした?」
ブルーノ・ガンゲンは、桃いろの手のひらをならべて見せた。
「人間に種類などがありますかね?」
あろうがなかろうが、そんなことは、どうでもよかったので、ぼくは、黙って待った。
「では、こう申しますかな」やがて、小がらな男は、口をひらいた。「つまり、ジェフリーは、わたしのやっているこの商売に、眼もあれば、趣味もあるという人間でした。わたし自身はべつとして、こうした問題に、ジェフリーほどの判断力をそなえたひとは、ちょっといませんね。いいですか、正直なところ、この点で、誤解してもらっては、こまるんですが、とにかく、わたしとジェフリーとは、まるで、鍵穴と鍵のように、ぴったりと気があっていましたよ。生きながらえていてくれたなら、生涯そうだったでしょうな。
しかし――しかしです。あの男の私生活ときたら、これがまた、|ごろつき《ヽヽヽヽ》というよりほかに、いいあらわすことばが見つからないようなありさまなんでしてね。飲むわ、打つわ、女をつくるわ、金を使うわ――いや、まったく、たいした使いっぷりでしたよ! ほどほどなどということは、あの男にかぎって、通用しません。親からのこされた金、結婚したときに、細君のもっていた五万ドルなにがし、それが、少しものこっていないのです。保険をたっぷりかけてあったからよかったようなものの、そうでなかったら、細君は、一文なしでおっぽり出されるところでした。いやはや、まったくのはなしが、とんだヘリオガバルス〔紀元二○○年代のローマ皇帝。放蕩者として、悪名が高かった〕ですよ!」
いとまを告げると、ブルーノ・ガンゲンは、玄関まで送ってきてくれた。ぼくは、おやすみをいって、砂利を敷いた道を、車を駐めておいたところまであるいて行った。よく晴れた、月のないまっ暗な夜だった。ガンゲンの屋敷の両側の高い生けがきが、黒い壁のように見えた。左手のくらやみの中に、かろうじてそれとわかる穴があいていた――濃い灰いろの――たまご形の――ひとの顔ほどの大きさの穴があいていた。
ぼくは、車に乗りこんで、エンジンをスタートさせ、走り出した。最初の十字路で、わき道にまがりこみ、道のへりに車を駐め、もう一度、こんどはあるいて、ガンゲンの家のほうへ、あともどりした。さっきの顔ほどの大きさのたまご形が、気になったのだった。
まがりかどまでくると、ガンゲンの家のほうから、こっちへあるいてくる一人の女の姿が見えた。ぼくのいたのは、壁の蔭のなかだった。それでも用心をして、かどから、れんがづくりの控え壁の出っぱっている門のところまで、ひきかえし、控え壁のあいだにぺったりとへばりついた。
女は、通りを横ぎって、車道を、駐めた車の列のほうへ、あるいて行った。どういう女なのか、ぼくには見当がつかなかった。ガンゲンの屋敷から出てきたのかもしれない。そうでないかもしれない。生けがきをバックにして見えたたまご形は、この女の顔だったのかもしれない。ちがったかもしれない。要するに、どっちつかずの宙ぶらりんといったところなのだ。ぼくは、自分で決めて、あとを尾けてみることにした。
女の行先は、自動車のならんだがわのくすり屋だった。そこでの用は電話だった。その電話に十分かかった。ぼくは、きき耳を立てに、店にはいって行くようなまねはせずに、通りのむかいがわに、じっとしていて、女の姿をよく見さだめることで、満足した。
年恰好二十五、六の女だった。背たけは、中ぐらい、からだつきは、ずんぐりとした感じで、うす灰いろの眼の下がたるみ、鼻ばしらは太く、下くちびるのつきでた受け口だった。茶いろの髪に帽子はなかった。青いケープをまとっていた。
尾けて行くと、女は、くすり屋からガンゲンの家にもどった。はいったのは、裏口だった。使用人の一人らしいが、夕方、玄関のドアをあけてくれた女中ではなかった。
ぼくは、また車にもどって、町まで帰り、事務所に行ってみた。
「ディック・フォリーは、なにか仕事があるのかね?」ぼくは、コンティネンタル探偵杜の仕事を、夜だけ請負っているフィスクに、たずねた。
「ないよ。ところで、君は、首の手術をやった男のはなしをきいたかな?」
フィスクは、こっちが、ちょっとでも乗り気になろうものなら、口をやすめるひまもなく、十でも二十でも、あとからあとから、とっときの話をきかせたがる男なのだ。だから、ぼくは、その話も、知っていることにした。
「うん、きいたよ。すまんが、ディックをつかまえて、ウェストウッド公園のほうに、明日の朝からかかってほしい尾行の仕事がある、と、そういってくれ」
それから、フィスクに――ディックに伝えてもらうために――ガンゲンの宛名と、くすり屋で電話をかけた女の姿恰好を、説明してやった。それがすむと、ぼくは、自分の事務室に逃げこんで、社のロサンゼルス支局に、メインが、最近その土地に行ったときの足どりそのほかをさぐってもらう電報の案文を練り、それを暗号《コード》になおした。
次の日の朝、ハッケンとベッグとが、たずねてきた。ぼくは、メインが、大枚二万ドルを、現金でもっていた理由について、ガンゲンからきいた説明を、はなしてやった。刑事諸君のほうからは、警察の使っている密偵《いぬ》のもちこんできた情報だという前置きで、バンキー・ダール――禁制品などうしろ暗い品ものをはこぶトラックをねらって、追い剥ぎをはたらき、甘い汁を吸っている、この近在でのおたずねもの――が、ちょうどメインの殺されたじぶんから、札束をひけらかしてあるいているという話をしてくれた。
「おれたち、まだ、その男を、挙げていないんだがね」ハッケンが、話をすすめた。「居どころをつきとめることができずにいるわけなんだが、筋は、やつの情婦《おんな》のほうから、一応たどっている。むろん、その金は、ほかから手に入れたのかもしれんがね」
その朝、十時には、ぼくは、オークランドまで出かけて、ありもしないゴム会社の株式を売りつけた二人組のぺてん師の罪状について証言する用があった。夕方六時に社にもどってきてみると、デスクの上に、ロサンゼルスからの電報が、とどいていた。
電文によると、ジェフリー・メインは、土曜日の午後オーグルヴィとの商談がすませると、すぐにホテルをひきはらって、その晩の急行列車|ふくろう《アウル》号に乗ったから、日曜日の朝早くに、サンフランシスコに着いたはずだということだった。オーグルヴィが宝冠《テイアーラ》の代金に支はらった百ドル紙幣は、つづき番号の新しいものだった。ロサンゼルス支局では、その番号を、オーグルヴィの銀行で、調査して、知らせてよこした。
その日の仕事を切りあげる前に、ぼくは、ハッケンに電話をかけて、電報で知った情報を、紙幣の番号もいっしょに知らせてやった。
「ダールは、まだ見つからん」というのが、先ぽうのあいさつだった。
翌朝、ディック・フォリーから、報告がはいった。女は、前の晩、九時十五分に、ガンゲンの家を出て、ミラマー・アヴェニューと、サウスウッド・ドライヴの角まで行き、そこで、ビュウィックのクーペに待っていた男とおちあったということだった。ディックは、その男の人相書を、次のように記していた。年齢、三十才ぐらい。身長、約五フィート十インチ。やせがた。体重、約百四十ポンド。顔色、ふつう。頭髪、眼、ともに茶いろ。やせたながい顔に、尖ったあご。帽子、服、靴、いずれも茶いろ。外套、ねずみいろ。
女は、男の車に乗りこみ、海岸のほうへ走らせ、グレート・ハイウェイを、しばらく行ってから、また、ミラマー・アヴェニューと、サウスウッド・ドライヴの角までもどり、女だけが、車をおりた。女は、そこから家に帰るらしい様子だったので、ディックは、女のほうはそのままにしておいて、ビュウィックの男を、メイスン・ストリートのフューテュリティ・アパートまで尾けた。
男は、そこで、三十分ばかり手間どってから、もう一人の男と、二人の女と連れ立って、出てきた。二人目の男は、はじめの男と同じぐらいの年恰好で、背の高さ、ほぼ五フィート八インチ、体重は、百七十ポンドもあろうかと思われ、髪の毛と服は、茶いろ、顔は、浅黒く、頬骨の高い、平べったい、面積のひろい顔をしている。青い服に、ねずみいろの帽子をかぶり、外套は、うす茶いろ、黒い靴をはき、真珠のネクタイピンを、つけていた。
女の一人は、二十二才ぐらい、背が小さく、ほっそりとした姿に、髪はブロンドだった。もう一人は、たぶん三つ四つとしかさの髪の毛の赤い、中肉中背の女だった。
四人は、はじめの男の車に乗って、アルジェリアン・キャフェに行き、そこに、夜なかの一時すこしすぎまでいた。それから、また、フューテュリティ・アパートに帰った。三時半に、男が二人出てきて、ビュウィックをポスト・ストリートの貸車庫《ギャレージ》まで走らせ、そこからあるいて、マース・ホテルに行った。
ひと通り読んでしまうと、ぼくは、控え室にいたミッキー・リネハンを呼びよせて、その報告書をわたした。
「これに出てくる連中の身もとを洗ってもらいたい」
ミッキーは、出て行った。電話が鳴った。
ブルーノ・ガンゲンだった。「やあ、お早うございます。今日ぐらいには、なにかはなしてもらえることがあるかもしれないと思ったものですからね」
「ありそうですな。きようの午後、お邪魔します」
正午に、ミッキー・リネハンがもどってきた。「はじめのやつ、つまり、女といっしょのところを、ディックが見たやつは、ベンジャミン・ウィールという名だ。自分のビュウィックをもち、マース・ホテルに住んでいる――四一〇号室だ。セールスマンだが、なんの商売だか、そいつはわからん。もう一人の男は、はじめのやつの友人で、二日ほど前から、同じ部屋に寝泊りしている。そっちのほうの身もとは、かいもく見当がつかない。宿帳にも、記入していないんだ。フューテュリティ・アパートの女は、二人とも相当のしたたかものだな。部屋は、三〇三号。大きいほうは、ミセス・エフィ・ロバーツで通っている。小さな金髪女はヴァイオレット・エヴァーツだ」
「待て」ぼくは、ミッキーを制しておいて、ファイル室の索引《インデックス》カード箱のところへ行った。
Wのひきだしを、ずっとしらべてみた――ウィール・ベンジャミン、通称|咳こみ《カフィング》のベン、ファイル三六三一二Wを見よ。
ナンバー三六三一二Wのファイルを見ると、|咳こみ《カフィング》のベン・ウィールは、一九一六年に、アマダー郡で、詐欺罪容疑で逮捕され、サン・クェンティン刑務所に送られ、三年間服役している。一九二二年にも、こんどは、ロサンゼルスで、映画女優の恐喝取材をたくらんだかどで、逮捕されたが、このときには、免訴になっている。人相書は、ディックの報告にあったビュウィックの男と、よくあっている。写真――一九二二年に、ロサンゼルスの警察の撮影したものの写し――を見ると、鋭い顔つきに、くさびのようなとがったあごをした若い男だった。
ぼくは、その写真をもって、ミッキーのところへもどった。
「これが、五年前のウィールだ。しばらく尾けてみてくれ」
ミッキーが出て行ってから、ぼくは、警察の刑事部に、電話をかけた。ハッケンも、ベッグも、不在だった。鑑識課のルウィスを呼びだしてもらった。
「バンキー・ダールというのは、どんなやつだね?」
「ちょっと待てよ」しばらくして、また、ルウィスの声がした。「三十二才。五フィート七インチ二分の一。百七十四ポンド。中肉。頭髪、茶いろ。眼、茶いろ。幅広の平たい顔。頬骨高し。下あご左に、ブリッジ加工の義歯あり。右耳下に、茶いろのほくろ。右足の小指に、わずかな奇形を認む」
「その男の写真に、よぶんがあるかね?」
「あるよ」
「ありがたい。使いをとりにやるからな」
ぼくは、トミー・ハウドに、写真をもらってくるようにいいつけておいて、腹ごしらえに出かけた。昼めしをすますと、ポスト・ストリートのガンゲンの事務所に行った。
その小男の商人は、この前の晩着ていたタキシードよりももっと肩に|つめもの《パッド》を入れて、もっと腰まわりをぴったりとあわせた黒の上衣、縞の入った|灰いろ《グレイ》のズボン、深紅色《マゼンダ》がかったチョッキに、金糸の刺繍のある繻子《しゅす》のネクタイを、大きく波うたせて、豪勢な装《な》りをしていた。
ぼくたちは、連れだって、店の奥から細い階段をのぼり、せま苦しい事務室にはいった。
「さて、お話をうかがうとしますかな」ドアをしめて、めいめい腰をおろすと、さっそくの催促だった。
「話というよりも、おたずねせねばならんことがあるんですがね。まず、お宅におられる、鼻すじの太い、下くちびるの厚い、灰いろの眼の下の肉のたるんだ婦人は、どういうひとですか?」
「それは、ローズ・ルーベリーと申す女です」化粧をしたちいさな顔に、わが意を得たりといいたげな微笑がうかんだ。
「わたしの妻の女中でしてね」
「前科ものといっしょに、ドライヴなどしていますよ」
「そうですか?」小男は、いかにも面白そうに、桃いろの手で、染めたあごひげをなでた。「いずれにしろ、あれは、妻の女中なんですがね」
「メインは、細君に、ロサンゼルスから、友人といっしょに、車をとばしてきたといいましたが、事実はそうではなかったんです。土曜日の夜行で帰ってきています――だから、家にもどるよりも十二時間前に、こっちへ着いたことになります」
ブルーノ・ガンゲンは、うれしそうな顔を、一ぽうにかしげて、くっくっと笑った。
「ほほう!」まだくすくすと笑いながら、「それは、たいした進歩だ! 一大進歩です! そうではありませんかな?」
「そうかもしれません。そのローズ・ルーベリーが、日雇日の晩――そうですな、十一時から十二時のあいだに――お宅にいたかどうか、それをおぼえておいでですか?」
「おぼえていますよ。家にいました。まちがいありません。その晩、妻は、気ぶんがすぐれなかったのです。妻は、日曜日の朝早く、友だちと――どの友だちだったのか、それは知りませんが――田舎のほうへドライヴに行くといって出かけたのでした。ところが、その晩の八時にもどってくると、はげしい頭痛を訴えました。わたしは、妻の容態が、ひどく心配だったものですから、たびたび様子を見に行きました。そんなわけで、女中が、ひと晩じゅう、いや、すくなくとも一時までは、家にいたことを承知している次第なのです」
「警察は、メインの紙入れといっしょに発見されたハンカチーフを、ごらんに入れましたか?」
「見ましたよ」小がらな商人は、椅子の縁からずりおちそうに身をよじった。クリスマスツリーに眼をみはるこどものような顔だった。
「それが奥さんのもちものだということは、確かですか?」
相手は、くっくっ笑いにはばまれて、声が出ないので、かわりに頭を上下に振りたてて、「確かだ」とこたえた。あごひげが、ちり払いの黒いブラシのように、ネクタイをこすった。
「すると、奥さんは、ミセス・メインを訪問されたときに、忘れてこられたと考えることもできますね」
「それは、あり得ませんな」一所懸命ないいかただった。
「妻とミセス・メインとは、おたがいに知りあっていないのです」
「でも、奥さんは、メインとは、お知りあいだったのでしょう?」
また、くっくっ笑いが洩れて、あごひげが、ネクタイをこすった。
「どの程度のお知りあいでした?」
ブルーノ・ガンゲンは、詰めものでいからせた両肩を、すぼめて見せた。
「知りませんな」陽気な声だった。「探偵をたのんでいるのは、このわたしのほうなのですからね」
ぼくは、眉をよせて、相手の顔をみつめた。「しかし、このぼくという探偵を依頼しておられるのは、メインを殺し、金をうばった人間をさがしだすためですよ――ほかに用はないはずです。もし、ご自分の家族の秘密をさぐるために、依頼している、と、そうお考えだとすると、それは、禁酒法《プロヒビジョン》に負けず劣らず、とんでもない見当ちがいです」
「いや、しかし、それは、どうして?」シドロモドロになって、「わたしには、知る権利がないというんですか? 知ったところで、なんの面倒なことが起るわけではなし、醜聞《スキャンダル》沙汰とか離婚さわぎとか、そんなおそれのないことも、これは、うけあいますがね。ジェフリー・メインは、死んでしまったのだから、すべては、いわばむかし語りです。あの男の生きていたときには、わたしは、なにも知らなかった。あきめくらでした。死んではじめて、なにかのあったことがわかったのです。自分で自分を納得させたい――それだけのことなんだ。どうか信じてください――わたしは、確実なところをつかみたいのです」
「ぼくに、そんな註文をされても、それは、むりですよ」ぼくは、そっけなく突きはなした。「あなたからうかがった以外、そうしたことについては、なにひとつ知らないんですからね。これ以上そのほうに深入りすることは、おことわりです。それに、知った上でどうしようというつもりもないのなら、なぜ、よけいなことをつっつきまわしたりせずに、そっとしておかないんです――眠らせておかないんです?」
「いやいや、そうは行きません」小男は、陽気さをとりもどして、眼を輝かせていた。「わたしも、老人というほどではないが、五十二才です。妻は十八才、これは、まったく愛くるしい一ぽうの女です」くっくっと笑って、「その妻に、そうしたことがありました。それが、二度とくりかえされていいものでしょうか? そしてまた、妻を――なんと申しますか――しっかりとつかまえておくのも、夫たるものの才覚のひとつではありませんかな? たとえ、同じことは、二度とおこらないにしても、過去を夫ににぎられている妻は、かえってそのために従順にならないともかぎりませんからね」
「それは、ご勝手です」ぼくは、噴きだしながら、立ちあがった。「しかし、ぼくは、そんなことに手を出すのは、まっぴらごめんですね」
「ああ、喧嘩はよしましょう!」ブルーノ・ガンゲンも、とびたって、ぼくの手をにぎった。「気がすすまないのなら、それで結構です。しかし、まだ、そこには、犯罪という問題が、のこっています――つまり、あなたを、ここまでひっぱってきた問題です。その点では、できるだけのことをしていただけましょうね、まちがいなく?」
「かりに――かりにですよ――奥さんが、メイン殺しに加担しておられたということが、判明したとします。そうなったら、どうします?」
「どうするって」――肩をすぼめ、手のひらを前に、両手をひろげて見せて――「それは、法律のきめることでしょう」
「よくわかりました。お引き受けします――ただし、あなたのいわゆる『犯罪という問題』に関係する以外の情報を、ご要求にならないことを、条件として」
「ありがたい! で、ひょっとして、妻をその問題と切りはなせないようなことになっても――」
ぼくは、うなずいた。相手は、もう一度、ぼくの片手をにぎって、それを軽くたたいた。ぼくは、その手を、もぎはなして、社にもどった。
デスクの上に、部長刑事のハッケンに電話をするようにとメモがあった。電話をかけた。
「バンキー・ダールは、メインの一件に無関係だ」斧のような顔の刑事は話した。「その晩、やつは、|咳こみ《カフィング》のベン・ウィールという仲間と一しょに、ヴェレホ近くのロードハウスでひらかれたパーティに出ていた。二人は、十時ごろから、明けがたの二時すぎ、喧嘩をはじめて、放りだされるまで、そこにいた。それは、はっきりしている。その情報をもちこんできたのは、まちがいのない人間だし――二人ばかりほかの連中にも、確かめてみた」
ぼくは、ハッケンに礼をのべて、次に、ガンゲンの家のほうに、電話をかけ、ミセス・ガンゲンを呼び出し、会ってもらえるだろうかとたずねた。かまわないという返事だった。
ぼくは、ダールとウィールの写真をポケットにおさめて、タクシーを呼びとめ、ウェストウッド公園に出かけた。車の中では、|安たばこ《ファティマ》の煙で脳を刺戟しながら、依頼人の細君にならべて見せるすばらしいうそ――欲しいだけの情報を引き出すことのできそうなうそを、組みたてた。
目あての家から百五十ヤードばかり手前に、ディック・フォリーの車がとまっているのを見かけた。やせた、ぼってりとした顔の女中が、ガンゲンの家の玄関をあけて、二階の居間に案内してくれた。ミセス・ガンゲンは、ヘミングウェーの『日はまたのぼる』をおいて、手ぢかの椅子のほうへ、手を振って見せた。今日は、ペルシャふうのオレンジいろの衣裳にくるまり、片脚をたくしこんだその姿は、さながら高価な人形だった。
ぼくは、タバコに火を点け、ミセス・ガンゲンの顔を見まもり、この婦人と、かの女の夫との最初の出会い、そして、かの女の夫との二度目の出会いを思いだしながら、ひとつ、車の中でせっかく苦労して組みたてた、世にも悲しい物語りを、くりだしてやれと決心した。
「お宅には、女中が――ローズ・ルーベリーという女中がいますね。これから申しあげることを、きかれたくないんですが」
「結構ですとも」女は、うの毛ほども驚いた様子は見せなかった。「しばらくお待ちあそばせ」といいのこして、椅子を立ち、部屋から出て行った。
間もなくもどってくると、こんどは、両脚をたくしこんですわった。
「女中は、すくなくとも三十分は、外に出ていますわ」
「それだけのひまがあれば充分です。じつはそのローズが、ウィールという前科ものと、親しくしているんですがね」
人形のような顔に、しわがきざまれ、口紅の赤い肥ったくちびるがきっと引きしまった。ぼくは、相手に、なにかいいだすひまをくれてやって待った。なにもいわなかった。ぼくは、ウィールとダールの写真をとりだして、それを見せた。
「そのやせた顔の男が、お宅のローズの友人です。もう一人は、仲間の――やっぱり悪党です」
女は、ぼくの手とおなじぐらい、しっかりとした、小さな手を出して、写真を受けとり、念入りに見くらべた。口もとが、小さくかたくつぼまり、ひとみの茶いろが濃くなった。やがて、その顔は、次第にあかるくなった。
「まあ、そうですの」つぶやくようにいって、写真をかえしてよこした。
「ご主人にお話すると」――ぼくは、慎重な口のききかたをした――「ご主人は、『妻の女中でしてね』と、そうおっしゃって、面白そうに笑われましたがね。どういう意味だったのでしょう?」
「あたくしに、そんなこと、わかりませんわ」女は、ため息を吐《つ》いた。
「奥さんのハンカチーフが、メインの空っぽの紙入れといっしょに発見されたこと、それは、奥さんも、ごぞんじですね?」ぼくは、碧玉《ジャスパー》の灰皿に、タバコの灰を落すことにかまけているようなふりをしながら、そのことばを、ホンのついでだがというような調子で、ほうりだしてみた。
「ええ、ぞんじていましてよ」うんざりしたというふうな口調だった。「あたくしが、自分でそういったんですもの」
「どうして、そんなことになったとお思いですか?」
「想像もできませんわ」
「ぼくにはできますよ。しかし、はっきりした事実を知りたい。ミセス・ガンゲン、ぼくたち、おたがいに、打ちあけたお話ができれば、ずいぶん時間の節約になるんですがねえ」
「結構でしてよ」気乗りのしない言いかただった。「主人の信頼を受けていらして、あたくしを訊問する許しを得ていらっしゃるんですもの。あたくしが、侮辱を感じるようなことになったとしても――でも、やっぱり、あたくしは、あのひとの妻でしかありませんものね。それに、あなたがたが、ごめいめい工夫をこらして、新しい侮辱の手を考えだされたにしたところで、あたくしのこれまでに受けたはずかしめよりも悪いってことは、考えられませんわ」
ぼくは、その芝居がかりの口説に、あきれたというようにうなり声を出して見せて、先へすすんだ。
「ミセス・ガンゲン、ぼくが関心をもっているのは、メインを殺して、金をうばった人間を、つきとめることだけなんですよ。それに関係のあることなら、なにごとによらず、ぼくにとって、値うちがあります。しかし、それも、関係のあるかぎりにおいてのことです。ぼくのいう意味が、おわかりですか?」
「もちろん。あなたは、主人に依頼されておいでなんですものね」
そんなことでは、らちがあかなかった。もう一度やってみた。
「この前の晩、ここにお邪魔したときに、ぼくが、どんな印象を受けたとお思いですか?」
「それは」――かすかな微笑をうかべながら、――「主人が、あたくしのことを、ジェフリーの情婦《おんな》だったと思っている。と、そんな印象をお受けになったにちがいがありませんわ」
「それで?」
「あなたは」――えくぼがあらわれた。面白がっているふうだった――「あたくしが、ホントに、あのひとの情婦だったのか、と、そうおたずねになりますの?」
「いや――しかし、むろん、知りたいことは知りたいんですがね」
「それは、そうでございましょうとも」うれしそうな声だった。
「奥さんはあの晩、どんな印象を受けられましたか?」
「あたくしが?」女は、額に小じわを寄せた。「ええ、主人が、あたくしが、ジェフリーの情婦だったことを、証明するために、あなたに依頼した、と、そんな印象でしたわ」情婦ということばは、それがいかにも気に入ったというようなぐあいに、くりかえされた。
「それは、思いすごしです」
「あたくし、主人を知っていますから、とても信じられませんわ」
「ぼくも、自分を知っているからこそ、ハッキリ思いすごしと申しあげるんです。ミセス・ガンゲン、ぼくとご主人とのあいだには、そうした問題について、アイマイなところはありません。ぼくの仕事が、メインを殺して、金をうばった犯人を、さがしだす以外にないこと、それは、おたがいに了解がついています」
「ほんとかしら」それが、女のすっかり退屈しきっていた議論の、いんぎんなしめくくりのことばだった。
「奥さんは、ぼくの手のうちを、さぐりにかかっておられるんですね」ぼくは、不平がましくいいながら、立ちあがり、そのあいだにも、そ知らぬふりで、相手の様子に、気をつけた。「さしあたって、ぼくにできるのは、ローズ・ルーベリーと、二人の男をつかまえて、なにをしぼりだせるかやってみることだけです。その女中は、三十分ほどでもどってくるということでしたね?」
女は、まるい茶いろの眼で、まっすぐに、ぼくの顔をみつめた。
「もうそろそろもどってくるはずですわ。訊問なさるおつもりですの?」
「お宅ではしません。警察に連れて行って、男のほうも、逮捕してもらいます。電話をお借りできますか?」
「ええ、どうぞ。隣の部屋ですわ」女は、あるいて行って、ドアをあけてくれた。
ぼくは、デヴンポートの二〇番を呼んで、刑事部屋につないでもらった。
居間のほうのがわに立っていたミセス・ガンゲンが、きこえるかきこえないぐらいの声を出した。
「お待ちになって」
ぼくは、受話器をにぎったまま、戸口ごしに、女のほうをふりかえって見た。女は、顔をしかめながら、赤いくちびるを、親指とひとさし指でつまんでいた。ぼくは、女が、手を口もとからはなして、こっちへさしのべるまで、受話器をおろさずにいた。それから、ぼくは、居間へもどった。
こっちが優勢だった。ぼくは、口をつぐんだままでいた。むこうが、はなしを切りだす番だった。
「あたくし、心にもなく、口先だけで、あなたを信頼するなど、と、そんなことは申しませんわ」半ぶんは自分にいいきかせるような、ためらいがちのはなしぶりだった。
「あなたは、主人に頼まれてはたらいていらっしゃいます。主人は、あのお金のことなどよりも、あたくしがなにをしたかということのほうを、よっぽど気にしていますのよ。それにしても、はっきりした事実と、かもしれないぐらいのことを、はかりにかけるなんて、腹黒いことですわ」
女は、話をやめて、両手をこすりあわせた。まるい眼が、どっちつかずのあいまいな表情になった。
「ぼくたちは、二人きりですよ」ぼくは、うながした。
「証人がないんだから、あとになって、いっさいを否認することもできます。奥さんと、ぼくとのあいだのことです。話していただけないのなら――ほかの方面から、さぐりだせます。電話をかける途中から呼びもどされたおかげで、それを思いつきました。奥さんは、ぼくが、なにもかもご主人に告げ口する、と、そう思っておられる。しかし、それが、ほかの方面からききださねばならないとなると、たぶん、ご主人は、いっさいを、報告書で読まれることになりましょうね。奥さんにとっては、ぼくを信頼してくださるかどうかがわかれ道ですよ」
三十秒の沈黙が、わだかまった。
「どうでしょう」ささやくような声だった。「あたくしからお払いしたら――」
「なんのためにです? ぼくがそのつもりになれば、こちらからいただくだけいただいて、なおその上に、ご主人に打ちあけておはなしすることもできますよ」
赤い口もとがゆがみ、えくぼがあらわれ、眼があかるく輝いた。
「それで安心しましたわ。おはなししましょう。ジェフリーは、ロサンゼルスから、早めに帰ってきてくれましたので、あたくしたちは、いつもの小さな貸し部屋で、その日をいっしょにすごすことができました。その午後、二人の男が――合鍵を使って――部屋にはいりこんできました。二人は、回転胴式《レヴォルヴァ》のピストルを、手にしていました。そして、ジェフリーのもっていたお金を、とりあげたのです。はじめから、それが目あてで、押しこんできたのでした。二人は、お金のことも、あたくしたちのこともすっかり知っているようでした。あたくしたちは、そのひとたちが逮捕されるようなことになったら、なにもかもばらしてしまう。と、そういって脅されたのです。
二人組が行ってしまってからも、あたくしたちは、どうすることもできませんでした。どうにもこうにも身うごきのとれない|はめ《ヽヽ》に追いこまれてしまったのです。お金をとりもどすことができないとなると、手のほどこしようがありません。ジェフリーは、それをうしなったふりをすることも、一人でいるときに盗まれたといいつくろうこともできなかったのです。その日早くに、サンフランシスコにもどってきていたという秘密がばれただけでも、疑いをかけられるにきまっています。ジェフリーは、度をうしなってしまいました。あたくしに、自分といっしょに逃げてくれとせがみました。そうかと思うと、こんどは、あたくしの主人のところへ行って、ホントのことを打ちあけるといいます。むろんのこと、あたくしは、どっちも、承知しませんでした――どっちにしろ、バカげていることには、かわりがありませんもの。
あたくしたちは、七時ちょっと過ぎ、べつべつに、アパートを出ました。じつをいうと、そのじぶんには、あたくしたち、おたがいにしっくり行っているとはいえないありさまだったのです。あのひとも――おたがいが、こまった立場におかれてみると――今までのように――いいえ、それは、申しあげなくてもいいことですわ」
女は、そこで口をつぐんで、おち着きはらった人形のような顔を、ぼくにむけた。
「その二人組というのは、写真をごらんに入れたあの連中だったんですね?」
「ええ」
「お宅の女中は、奥さんとメインとのことを、知っていたんですか? そのアパートの部屋のことも? メインが、ロサンゼルスに出かけたことと、その日早くに、現金をもって帰ってくることも?」
「知っていたかどうか、それはぞんじませんわ。でも、すき見をしたり立ちぎきをしたり、あたくしの――あたくしは、ジェフリーからロサンゼルスに出かけることと、月曜日の朝会いたいということをいってよこした手紙を受けとっていましたから、そんなものをコッソリ読んだりして、だいたいの察しをつけることは、できたにちがいありませんわ。ええ、たぶん、その手紙を読んだでしょうね。あたくし、ほったらかしだもんですから」
「では、ぼくは、失礼します。こちらから連絡するまでジッとしていらして下さい。それから、女中に感づかれて、よけいな用心をされないように願います」
ぼくは、ガンゲンの家から、まっすぐにマース・ホテルへ行った。ロビーの片すみに、ひろげた新聞に顔をかくして、ミッキー・リネハンが坐っていた。
「いるかね?」
「うん」
「あがって行って、お目にかかろうじゃないか」
ミッキーが、四一〇号室のドアを、こつこつとたたいた。金属性の声がこたえた。「だれだ?」
「お届けものですが」ミッキーが、給仕になったつもりの声を出した。
あごのさきのとがったやせ男が、ドアをあけた。ぼくは、名刺をわたした。相手は、ぼくたちを、部屋に招じ入れるふうは見せなかったが、そうかといって、ぼくたちが、部屋に踏みこむのを、押しとどめようともしなかった。
「君が、ウィールか?」ミッキーが、ドアをしめているあいだに、ぼくは、そうたずねて、その男の返事を待たずに、ベッドに腰かけている、顔の幅のひろい男のほうへ、むきなおった。「君は、ダールだな?」
ウィールが、ダールに、むとんちゃくな金属性の声をかけた。
「刑事さんがただ」
ベッドの男が、ぼくたちのほうへ、顔をむけて、にやりと白い歯を見せた。ぼくは、気が急《せ》いていた。
「メインからとりあげた現金をわたしてもらいたいんだが」単刀直入に切りだした。
二人の男は、まるで練習してあったように、調子をあわせて、せせら笑った。
ぼくは、ピストルをとりだした。
ウィールが、耳ざわりな笑い声を立てた。
「おい、バンキー、帽子をかぶりな」くっくっとおかしそうに笑って、「おれたち、牢屋にぶちこまれるんだとよ」
「勘ちがいしちゃいかん」ぼくは、説明してやった。
「逮捕じゃないんだ。ホールドアップだよ。手をあげろ!」
ダールは、直ぐに両手をさしあげた。ウォールは、ためらった。ミッキーが、三八口径スペシャルの銃口で、あばら骨をこづくと、しぶしぶいうことをきいた。
「服の上からあたってみろ」ぼくはミッキーにいいつけた。
ミッキーは、ウィールの服をさぐって、ピストルを一挺、四、五枚の紙きれ、バラ銭をひとつかみ、それから、タンマリふくれあがった胴巻を、とりあげた。ダールにも、おなじことをした。
「算《かぞ》えてみるんだ」
ミッキーは、胴巻の中味をひっぱりだして、指さきにつばをつけ、算えにかかった。
「一万九千百二十六ドルと六十二セントだ」
ぼくは、あいているほうの手を、ポケットにつっこみ、メインが、オーグルヴィから受けとった百ドル紙幣の番号を書きとめておいた紙きれをさがして、それを、ミッキーにさしだした。
「百ドル紙幣の番号を、これと照らしあわせてみてくれ」
ミッキーは、紙きれを受けとって、しらべた。「あっているよ」
「よし――その金とピストルをしまって、ほかになにが出てくるか、こんどは、部屋をさがすんだ」
|咳こみ《カフィング》のベン・ウィールは、どうやら息がつけるようになっていた。
「おいおい、妙なまねをするなよ。お前たち、いったい、手前をなんだと思っていやがるんだ? そうは問屋がおろさねえぞ!」
「なあに、大丈夫さ。君は、お巡りさあん! と、大声でわめきたてるつもりなんだろうな。そうにきまっているさ! だがさしあたり、君がギャーギャーいうとすれば、あの女をたっぷり脅しつけておいたから、警察の手のまわることは、心配しなくてもいい、と、そう思いこんだ自分のバカさ加減に、うらみごとをならべたてるぐらいが、せいいっぱいだ。これで、ぼくは、君が、あの女とメインをひとからげにしてしくんだのとおなじような筋書きを、君たちにしかけているつもりなんだがね。――ただ、ぼくの筋書きのほうが、ちっとはましなだけだ。なぜって、君たちのほうは、あとで知らぬ顔の半兵衛をきめこもうにも、世間がほっといてくれないんだからね。さあ、よけいな口をきくなよ!」
「ほかに金はないぜ」ミッキーが報告した。「あったのは、切手が四枚だけだ」
「そいつは、頂だいしとこう、八セントに通用するからな」
「おい、せめて三ドルぐらいは、おいて行ってくれよ」ウィールが、せがんだ。
「よけいな口はきくなといったぞ」ぼくは、どなりつけて、ミッキーのあけた戸口のドアのほうへ、あとじさりをした。
廊下には人かげがなかった。ぼくが、うしろむきに部屋を出て、ドアの鍵を、内がわから外がわへ差しかえるあいだ、ミッキーは、廊下に立って、ウィールとダールに、ピストルをむけていた。ぼくは、ドアをぴしゃりとしめて、鍵をまわし、その鍵を、ポケットにおとしこむと、階下におりて、ホテルの外に出た。
ミッキーの車が、すぐ近くに駐めてあった。車にはいりこむと、戦利品を――ピストルをのけて――ミッキーのポケットから、ぼくのポケットにうつしかえた。ミッキーは、車をおりて、社へもどって行った。ぼくは、ジェフリー・メインの殺されたアパートの建ものへ、車を走らせた。
ミセス・メインは、二十五才には、まだ手のとどかない、背の高い女だった。あたたかみのある豊かな顔だちに、青い眼のまつ毛がながく、茶いろの髪は、波うっている。豊満なからだが、黒ずくめのドレスにつつまれていた。
わたした名刺を読み、ガンゲンに依頼されてメインの死を究明しているのだというぼくの説明をきくと、うなずいて、灰いろと白とで調度をそろえた居間に、通してくれた。
「ここが、その部屋ですね」ぼくは、たずねた。
「ええ」女の声は、あかるく、わずかにかすれていた。
ぼくは、窓ぎわによって、食料品店の屋根と、半ぶんばかり見える裏通りを見おろした。
ぼくはふりかえった。「ミセス・メイン」これからいい出そうとすることがらの唐突さを、少しでもやわらげようと、ぼくは、声を低めた。「ご主人の死なれたのち、奥さんは、ピストルを、この窓から、外に投げすてられました。それから、紙入れにハンカチーフを突っこんで、それも、窓からすてられた。そっちのほうは、ピストルよりも軽かったので、裏通りまでとどかず、そこの屋根の上に、おちました。どういうわけで、ハンカチーフを道連れになすったんですか?」
女は、声ひとつ立てずに、気を失った。
ぼくは、床に倒れる途中で、女のからだを受けとめ、長椅子にはこび、気つけ薬をさがしだして、それをかがせた。
「それが、だれのハンカチーフだったのか、奥さんは、ご存じですか?」女が、正気にかえって坐りなおすと、ぼくは、さっそくたずねた。
女は、頭を振った。
「では、なぜ、そんなことをなすったんです?」
「あのひとのポケットにはいっていたんです。ほかにどうすればいいか、わからなかったものですから。警察にきかれると思ったんです。あまりいろんなことをきかれたくありませんでしたの」
「金を盗まれたというつくり話をなすったのは、どういうわけです?」
こたえはなかった。
「保険ですか?」
女は、きっと、頭をもたげて、いどみかかるように、大きな声を出した。
「そうなんです! あのひとは、自分の財産もわたしのも、すっかり使いはたしてしまいました。だから、あのひと、どうしても――なにかそんなことをしなければ、しかたがなかったんです。あのひとは――」
ぼくは、女のくりごとをさえぎった。
「ご主人は、なにか、証拠になるような、書いたものをのこされた、と、そう思うんですがね」この細君が犯人でないことを示す証拠をという意味だった。
「ええ、ありますわ」女は、黒いドレスの胸の中に、指を入れてさぐった。
「いや、結構です」ぼくは、立ちあがった。「明日の朝、なにはおいても、それを、お宅の弁護士にわたして、いっさいのことを、お打ちあけになることです」
ぼくは、口の中で、なぐさめのことばをつぶやいて、いとまごいをした。
その日二度めに、ガンゲンの家のベルを押したときには、もう夜になりかかっていた。ポッテリとした土いろの顔の女中が、ドアをあけて、ミスタ・ガンゲンは、在宅中だといった。二階に通された。
階段の上から、ローズ・ルーベリーがおりてくるところだった。ぼくたちを通すために、踊り場に立ちどまった。ぼくは、女中を先にやりすごしておいて、その女の前に、立ちふさがった。
「うまくやられたね、ローズ」ぼくは、踊り場の女に呼びかけた。「十分だけヒマをやるから、逃《ず》らかるがいいよ。だれにも、口をきくんじゃない。それがいやなら――そうだな、お望みだったら、牢屋のなかを見物させてやってもいいぜ」
「まあ――なんてことを!」
「悪党どもは、どじを踏んだよ」ぼくは、かた手をポケットに突っこんで、マース・ホテルで手に入れた紙幣《さつ》たばを、ひとつだけ見せてやった。「ぼくは、|咳こみ《カフィング》のベンと、バンキーを訪ねてきたところだがね」
それは、ききめがあった。女は、むきを変えると、あわてたように階段をかけのぼった。
ブルーノ・ガンゲンが、書斎の戸口まできて、ぼくをさがした。不審そうな眼を、女――三階への階段をかけあがって行くところだった――から、ぼくへとうつした。小がらな男のくちびるが、なにかをたずねるようにうごきかけた。ぼくは、その先をこした。
「かたづきましたよ」
「でかしたぞ!」大きな声だった。ぼくたちは、連れだって書斎にはいった。「お前さん、きこえたかい? 片づいたんだとさ!」
その|お前さん《ヽヽヽヽ》は、この前の晩とおなじ、テーブルのそばの椅子に、すわっていた。なんの表情もない人形顔に、微笑がうかんだ。「まあ、そうですの」そのことばにも、表情はなかった。
ぼくは、テーブルのところに行って、ポケットの現金を、ぶちまけた。「一万九千百二十六ドルと、切手も入れて七十セントです。あとの八百七十三ドル三十セントは、見つかりません」
「ほほう!」ブルーノ・ガンゲンは、すきのような形の黒いあごひげを、ぶるぶるとふるえる桃いろの手でなでながら、かたいきらきらと光る眼を、さぐるように、ぼくの顔にむけた。「で、いったい、どこで見つけだしました? なにがなんでも、はなしてくださらなければ。われわれは、死ぬほど知りたくてたまらんのです。ねえ、お前さん」
|お前さん《ヽヽヽヽ》は、あくびをした。「ええ、そうですわ!」
「話すったって、たいしたはなしもありませんよ。金をとりもどすためには、黙っていることを約束しなければならなかったのでね。メインは、日曜日の午後、その金を盗まれたんです。ところが、かりに盗んだ犯人をとらえたとしても、有罪にしてやるわけには行かんようなことになっています。連中の顔を見て知っている人間は、ただの一人しかいないんですが――それが証言してくれそうにありません」
「しかし、だれが、ジェフリーを殺したんです?」小男は、桃いろの両手で、ぼくの胸につかみかかった。「あの晩、あの男を殺したのは、いったいだれなんだ?」
「自殺ですよ。説明することのできない状況で、金を盗まれて、やけをおこしたんですな」
「そんな、バカな!」ぼくの依頼人は、自殺説が、お気に召さなかった。
「ミセス・メインは、ピストルの音で、眼をさましました。自殺となると、保険金は、もらえません――ミセス・メインは、文なしでのこされます。そこで、ピストルと紙入れを、窓の外に投げすて、遺書をかくし、金を盗まれたというつくり話を、でっちあげたんです」
「だが、例のハンカチーフがある!」ガンゲンは、カン高い声をはりあげた。すっかり逆上していた。
「あんなものは、べつになんでもありませんよ。メインが――でたらめな男だということでしたね――そのメインが、あなたの奥さんの女中をまるめこみ、女中のほうでは――よくあるように――奥さんのもちものを、ちょろまかしていたというぐらいのことでしょうね」
ブルーノ・ガンゲンは、赤い頬をふくらませて、踊るように、両足を、バタバタと踏みつけた。怒りだしたもとになったことばもおかしなものだったが、その怒りっぷりも、それに劣らず、妙ちきりんだった。
「とっちめてやるぞ!」小男は、くるりとまわれ右をして、部屋からかけだして行った。
エニッド・ガンゲンが、ぼくに手を差しだした。人形のような顔に、笑いがあふれみなぎった。
「すみませんでしたわね」ささやくような声だった。
「なんのために礼をいわれるのか、ぼくにはわかりませんがね」ぼくは、出された手をとらなかった。「なにもかもが、ごっちゃになってしまったから、今さら証拠めいたものをさがそうったって、むりな話ですよ。しかし、ご主人は、なにがなんでもつきとめようとなさるでしょう。ぼくは、すれすれのところまで、ほんとのことをいいましたからね」
「まあ、そんなことは!」ミセス・ガンゲンは、小さな頭を、ぐっとうしろにそらせて、あっさりとかたづけてしまった。「あの人が、はっきりした証拠を、手に入れずにいるあいだは、あたくしも、素知らぬ顔でいることができますわ」
ぼくは、そのことばを、信用した。
ブルーノ・ガンゲンが、口からあわを吹きながら、ばたばたとそうぞうしく書斎にもどってきた。染めたあごひげをかきむしりながら、ローズ・ルーベリーが、どこにもいない、と、火のようにまっ赤になって怒っていた。
その女中がウィールとダールに会い、三人いっしょに、ポートランドへ去ったということは、次の日の朝、ディック・フォリーにきいた。
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金の馬蹄
「こんどは、たいして面白い仕事でもないんだがね」ヴァンス・リチモンドは、握手がすむと、さっそく切りだした。
「つまり、君に、ある男を、さがしだしてもらいたいというわけなんだ――それも、犯罪者でもなんでもないふつうの人間なんだが」
その声には、いいわけがましい調子があった。このやせた顔いろのさえない弁護士が、ぼくにくれてよこした仕事のうち、ことに最後の二つばかりは、射ちあいやらなんやら、とにかく相当に派手なさわぎにまで発展した。だから、そこまで行かないような事件だと、ぼくが、ねむけをもよおすとでも思っているらしい。まったくその通りだった時代も、かってはあった――ぼくが、まだ二十かそこらの青二才で、コンティネンタル探偵社に入れてもらったばかりのじぶんのことだ。ところが、それ以来、いつしか流れすぎた十五年という歳月が、そうした荒っぽい仕事に対するぼくの食欲を、スッカリ減退させてしまっていた。
「さがしてもらいたいのは、ノーマン・アッシュクラフトという名の、イギリス人の建築家なんだ」腰をおろすと、弁護士は、ことばをつづけた。「年齢は三十七才ぐらい、背の高さ、五フィート十インチ。たくましいからだつき、いろは白く、髪は、淡いろ、眼は、青い。四年前には、きちんととりすました、英国の金髪紳士の見本みたいな男だった。今は、そうでもないだろう――なにしろ、四年のあいだには、ずいぶん苦労をしてきているはずだからね。
ことのあらましは、こうなんだ。つまり四年前には、アッシュクラフト夫婦は、イングランドのブリストルに住んでいた。ミセス・アッシュクラフトは、ひどく嫉妬ぶかく、それには、アッシュクラフトも、ひと通りではなくなやまされていたらしい。その上、自分には、仕事でかせぐ収入しかないのに、細君のほうには、両親ののこしたかなりの遺産があった。アッシュクラフトは、自分が、金をもっている細君の夫であることを、バカらしいほど気に病んでいた――細君の財産など、あてにしていないこと、そんなものに眼をくれるつもりのないことを、ことさらに見せようとして、ともすれば、野放図なまねをしがちだった。むろんバカなことだが、ああいう気質の男としては、いかにももっともらしいやり口だ。ある晩のこと、よその女に気をつかいすぎるといって細君に責められた。喧嘩になって、とどのつまり、アッシュクラフトは、かばんに身のまわりのものをつめこんで、家をとびだしてしまった。
一週間とたたないうちに、細君は、後悔をしはじめた――自分の疑いが、嫉妬心からというよりほかには、根も葉もないことだったとさとって、その後悔の気もちは、なおさら強かった、そこで、夫をさがしだそうとした。しかし、行方は知れなかった。ブリストルから、ニューヨークへ渡り、そこからさらにデトロイトに行ったまでは足どりがつかめた。デトロイトで、酒を飲んで乱暴をはたらき、逮捕され、罰金刑をいいわたされたのだった。それっきり、ぷっつりと消息は絶え、十カ月たってから、こんどは、シアトルに、ひょっこりと姿をあらわした」弁護士は、デスクの上の書類を、ひっくりかえして、一枚のメモを見つけだした。
「そう、一九二三年、五月二十三日のことだ。アッシュクラフトは、ホテルの自分の部屋にしのびこんだ泥棒を、ピストルで射殺した。シアトルの警察は、そのいきさつに、納得できないふしがあると見たようだが、アッシュクラフトの身がらを、引きとめておくほどの根拠もなかった。射殺された男は、これは、まちがいなく泥棒だった。その後、アッシュクラフトは、ふたたび、姿をくらまし、今から一年ほど前になるまで、なんの音沙汰もなかった。ミセス・アッシュクラフトは、アメリカの主要都市の新聞の案内欄に尋ね人の広告を出した。
ある日、夫からの手紙が、舞いこんだ。それが、このサンフランシスコからだった。広告をやめてもらいたい、と、それだけの内容しかない、ひどく他人行儀の手紙だった。自分は、あいかわらずノーマン・アッシュクラフトという本名で通しているが、その名が、どの新聞にも、レイレイしく印刷されているのを見るのが、気にくわない、と、そんなことが書いてあった。
細君は夫に宛てた手紙を、この土地の郵便局の局どめにして、それといっしょに、そのことを知らせる広告を出した。そっけない返事がきた。細君は、また、こんどは、帰ってきて欲しいと書いて出した。ことわってきたが、それでも、細君のことを、今までほど悪くは思っていないようだった。いく度か、便りがかわされた。細君は、夫が麻薬の中毒者になったことを知った。わずかにのこされたかれの自尊心から、せめて見せかけでも、昔なみの人間にもどるまでは、帰ってくる気をおこしそうにはなかった。細君は、中毒をなおすために自分の仕送る金を受けとることを、かれに納得させた。その金は、毎月、この土地の局どめで、送られた。
そのいっぽう、細君は、イングランドの家をたたんで――あっちには、うしろ髪をひかれるような縁の深い身よりもなかったのだが――サンフランシスコへわたってきた。夫が自分のところへもどってこられるようになったときに、間ぢかにいようというわけだ。一年が過ぎ去った。細君は、今でも、毎月、金を仕送りしている。今でも、夫が、もどってきてくれるのを待っている。夫は、せめて会ってもらいたいという細君の要求を、いく度となく断っているし、手紙も、逃げ口上めいてきた。今月、麻薬の中毒から抜けだす努力に、かなりの進歩があったと思えば、次の月には、またまた逆もどりするといったぐあいの、自分の苦闘ぶりを綿々と書きつづっているのだがね。
今では、むろん細君のほうでも、夫が、もう自分のところへ帰ってくる気をなくしているのではないかと疑っている。麻薬を思いきるつもりもなく、自分を、ただ金の出どころとして利用しているだけらしい、とそういっている。ぼくは、細君に、毎月の仕送りを、しばらくやめてみるようにすすめた。しかし、やめようとしない。つまり、夫が、今のような有様になったのは、自分のせいだというんだ。自分が、つまらない嫉妬の火を燃やしたことが夫の今の苦境の原因だと考え、夫を、痛めつけたり、夫がこれ以上自分自身を傷つける動機となることをしたりするのを、尻ごみしている。その点では、細君の気もちは、今さらかえさせようとしてもどうにもならないほど、しっかりとこりかたまってしまっているのだ。夫がもどってくることを願い、夫がまともになることを願ってはいるのだが、もしもどってくる気がないにしても、細君は、仕送りを、これからの生涯のあいだ続けることで自分は満足だ、と、そんな気もちなんだ。だが、せめて見こみがあるのかないのか、それが知りたいというわけだ。細君は自分の生きてきたこのたまらないどっちつかずの気分に、はっきりした片をつけたいと思っている。
そこで、君に、そのアッシュクラフトを、さがしだしてもらいたい。こっちの知りたいのは、その男に、もう一度、ま人間に立ちかえる見こみがあるかどうか、もうとりかえしのつかないところまで落ちこんでしまっているかどうか、その点なのだ。だから、君の仕事は、その男を見つけて、できるだけのことをしらべあげるということになるわけだな。そして、われわれは、ある程度の事情がわかった上で、二人を――細君になら、かれの気もちを変えさせることができるだろうという点に、望みをつないで――むりやりにでも会わせるのが、賢明であるかどうか、それを決定しようと考えているんだがね」
「やってみましょう」ぼくは、引き受けた。「ミセス・アッシュクラフトは、毎月の金を、いつ送るんですか?」
「毎月の一日《ついたち》だ」
「今日は、二十八日ですね。すると、ぼくの今やっている仕事を、三日のうちにかたづければいいわけだ。その男の写真がありますか?」
「それが、残念なことに、ないのだ。二人が喧嘩したすぐあとで、ミセス・アッシュクラフトは、カンシャクまぎれに、夫を思いおこさせるようなものを、ひとつのこらずやぶいたりこわしたりしてしまったというんだがね」
ぼくは、立ちあがって、帽子に、手をのばした。
「来月の二日にうかがいます」といいのこして、ぼくは、事務所を立ち去った。
一日の午後、郵便局に出かけて行って、担当の監督官のラスクをつかまえた。
「じつは、北のほうから流れこんだいかさま師に、ねらいをつけているんですがね」ぼくは、ラスクに話しかけた。「その男は、この局の窓口で、郵便物を受けとることにしているらしいんです。そこで、どうでしょう、ぼくが、その男をつきとめることができるように、なんとかうまくとりはからってもらえませんか?」
郵便監督官という役人は、犯罪に関係のあることが確実な場合をのぞき、私立探偵に助力をあたえることを禁止する規則や条令で、がんじがらめにされているものなのだ。とはいうものの、気のいい監督官なら、そんな規則をたてにとって弱いものいじめをしたりはしない。うそを吐《つ》けばいい――むこうがやりこめられたときにいい抜ける口実《アリバイ》になる――むこうが、それをうそと思おうが、思うまいが、そんなことは、問題外だ。
という次第で、間もなく、ぼくは、階下におりて、AからDまでの窓口の見わたせるあたりをぶらぶらしていた。その窓口の係は、アッシュクラフト宛の郵便物を請求されたら、ぼくに合図をするようにいいつけられているといった寸法である。そのときには、かれ宛の郵便物はなかった。ミセス・アッシュクラフトの手紙が、その日の午後のうちに、窓口までとどくということは、まず考えられないのだが、万一を用心したのだ。ぼくは、窓口のしまるまで、そこで見はっていた。
次の日の朝、十時すこし過ぎに、いよいよ本番となった。係の一人が、合図をよこした。青い服《スーツ》に、灰いろのソフトをかぶった小がらな男が、手に封筒をもって、その窓口をはなれるところだった。たぶん四十才のはずだが、もっと年よりに見えた。はりのない青白い顔をして、足をひきずるようなあるきかたをしていた。ブラシをかけない、プレスもされていない、みすぼらしい服だった。
まっすぐにあるいてきたのは、ちょうど、ぼくが、その前に立って、手もち無沙汰に、新聞などをいじくっていたデスクだった。ポケットから大型の封筒をとりだした。チラッと眼にはいったその封筒のおもてがわには、宛名が記され、切手も貼ってあった。男は大型の封筒の宛名のがわを、自分のほうにむけて、窓口で受けとった手紙を、その中に入れ、そのまま封筒の蓋の糊を、ふつうとは逆のほうから舌をのばすようにしてなめた。だから、封筒のおもては、どうにものぞき見する方法がなかった。それから、蓋をおろして、ていねいにこすりつけ、こんどは、差しだし口のほうへ行った。ぼくは、あとを追った。こうなれば、いつも使ってうまく行く『つまずき』の手を応用するよりしかたがない。
ぼくは追いついて、わざとそばにより、大理石に足をすべらせたふりをして、男にぶつかり、バランスをとりもどすために、相手につかまろうとした。それが、うまく行かなかった。得意の妙技のさいちゅうに、ぼくは、ホントに足を踏みすべらせた。二人とも、レスリングの選手のように、床にひっくりかえった。
ぼくは、どうにかこうにか立ちあがって、相手の男をひっぱりおこし、弁解のことばを、もごもごとつぶやいた。床の上に下むきに落ちている封筒を、先に手に入れるためには、相手をつきとばさないばかりに押しのけなければならない始末だった。封筒を拾って、わたしてやるときに、おもてをかえして、宛名を見た。
メキシコ、バーハカリフォルニア州ティファナ
ゴールデン・ホース・シュー・カフェ
エドワード・ボハノン殿
こうして、どうやら、宛名は、こっちのものになったが、それといっしょに、とんだへまをやってしまった。ぼくが、その宛名を見ようとしてやっきになっていたこと、それを、このちっぽけな青服の男が、感づかずにいてくれればいいがと願ってみたところで、そんな望みは、とんでもない空《そら》だのみだ。
ぼくが、服のほこりをはたいているうちに、男は、差しだし口に封筒を入れに行った。用がすむと、こっちにはもどってこずに、そのまま、ミッション・ストリートの出口のほうへあるいて行った。感づかれて、それなりにほうっておくわけには行かない。せっかくつきとめたアッシュクラフトに、風をくらって逃げだされては困る。こうなっては、床がほんとにすべったおかげで、みごとにしくじった手と古さの点ではかわらない、もうひとつの奥の手を出してみないことには、どうにもおさまりがつきそうになかった。ぼくは、もう一度、小さな男を、追っかけにかかった。
追いついたとたんに、相手は、自分が尾けられているかどうか確かめようと、ふりかえった。
「おい、ミッキー!」ぼくは、大声で呼びかけた。「シカゴのほうは、どんなぐあいだな?」
「ひとちがいだ」男は、足をとめずに、灰いろのくちびるの端のほうから、声を出した。「おれは、シカゴのことなど知らねえよ」
男の眼は、淡青いろだった。ひとみが、針のさきのように小さい――ヘロイン、またはモルヒネ常習者の眼だ。
「しらばくれるのはよせ、つい今朝、貨物列車で、お着きになったばかりじゃねえか」
男は、歩道の上で立ちどまって、ぼくとむかいあった。
「おれが? いったい、おれのことを、だれだと思ってるんだ?」
「ミッキー・パーカーじゃねえか。例のオランダ人から、お前が、この土地へむかったって、連絡があったんだぜ」
「バカいうな」男は、せせら笑った。「なんの話だか、おれには、まるでわからんよ」
そんな口上ぐらいは、なんでもない。ぼくは、外套のポケットの中で、右の手をあげた。
「そんなら、わからせてやるぞ」ぼくは、すごんで見せた。男は、ぼくのふくれあがったポケットを見て、しりごみした。
「おいおい、冗談じゃねえ!」哀願する声になった。
「ひとちがいだよ――ほんとに。おれの名は、ミッキー・パーカーじゃねえし、それに、サンフランシスコにきてから、たっぷり一年にもなるんだぜ」
「証拠を見せろ」
「見せるとも」一所懸命の大声だった。「おれといっしょにきてくれたら、見せるよ。おれは、ライアンといって、すぐそこの六丁目に住んでいるんだ」
「ライアン?」ぼくは、ききかえした。
「うん――ジョン・ライアンというんだがね」
こいつはこっちの勝ちこしだと思った。古いギャングで、この名を、一度も名のったことのない人間は、全国に三人とはいないはずだ。いうなれば、ギャング界のジョン・スミスといった格のありふれた名前だった。
それはともかく、このジョン・ライアン君は、ぼくを、六丁目のとある家まで連れて行った。その家の女将《おかみ》――毛むくじゃらの、村のカジ屋ほどにもたくましい腕を、むきだしにした、五十がらみの下品な女だった――は、ライアンのことを、このひとが、もう何カ月も前から、サンフランシスコにいることは、だれがなんといおうと、この自分がよく知っている、とうけあって見せた。ことに、ここ二週間ほどなら、一日にすくなくとも一度は顔をあわせているということだった。ぼくが、もし、ホントにこのライアンを、シカゴから流れこんだことになっている架空の人物、ミッキー・パーカーと疑っているのならば、女将《おかみ》のことばを、鵜のみにはできないはずのところだが、この場は、それで納得のいったふりをしておいた。
さてこれで、所期の目的は達したと見てよさそうだった。ミスタ・ライアンは、すっかりはぐらかされてしまった。ぼくの不審の挙動も、べつに、アッシュクラフトの手紙に目をつけたわけではなく、どこかの悪党とひとちがいしたまでのことだと思いこんでいる。こうしておけば、成り行きにまかせたところで、ぼくの立場はひとまず安全といえるだろう。しかし、このままひきさがるには、気になることがある。この男は、麻薬に中毒している。それに、あやしげな偽名を使っている。とすると――
「いったい、お前は、なんで食っているんだ?」ぼくはたずねた。
「ここ二月《ふたつき》ばかり、なにもしてやしねえんだがね」早口だった。「しかし、来週には、ある男と組んで、簡易食堂《ランチルーム》をひらくことになっている」
「お前の部屋にあがらせてもらおうじゃないか。話したいことがある」
気乗りしないふうだったが、それでも、ぼくを通してくれた。三階の台所のついた二間つづきだった。汚いいやなにおいのする部屋だった。
「アッシュクラフトは、どこにいるんだ?」ぼくは、いきなり切りこんでみた。
「なんのことだね? さっぱりわからんが」男は、口ごもった。
「とっくり考えたほうがいいぜ。気のついたときにゃ、ひんやりと涼しい刑務所の檻のなかだったってことにならないともかぎらないからな」
「おれ、なにも悪いことなどしちゃあいねえよ」
「そうは行かないぜ。浮浪罪で、三十日か六十日ってのはどうだ?」
「なにが浮浪罪だ!」吠えるような大声だった。「おれのポケットには、五百ドルもあるんだからな」
ぼくは、にやりと笑って見せた。
「とぼけるなよ。カリフォルニア州では、現なまが、ポケットいっぱいあったって、なんの役にもたちゃしないんだ。お前は、職なしだ。その金をどこから手に入れたか、お前にはいいわけができない。浮浪者取締条令には、おあつらえむきじゃないか」
ぼくは、この男を、麻薬の密売業者とにらんだ。そうだとすれば――そうでなくても、浮浪罪であげられて、明るみに出されてはこまるような傷をすねにもっているとすれば――ひょっとすると、自分が助かるために、アッシュクラフトを売りわたす気になるかもしれない、とりわけ、ぼくの知るかぎりでは、アッシュクラフトのほうは、法律をやぶるようなことまでしているわけではないのだから、なおさらだ。
「おれが、お前だったら」ぼくは、床をみつめて考えこんでいる相手を尻目にかけて、ことばをつづけた。「ここまできたからには、すなおに泥を吐く気になるがね。お前は――」
男は、椅子の中で、横ざまに身をよじって、かた手をうしろにまわした。
ぼくは、足をあげて、蹴とばした。
テーブルにのせていた尻が、すべらなければ、男は、一発で伸びていたところだった。あごのさきをめがけて蹴りあげた足のねらいがはずれて、胸にぶつかり、男は、|揺り椅子《ロッキン・チェア》ごと、うしろざまにひっくりかえった。ぼくは椅子をのけて、相手のピストル――ニッケルめっきした安ものの三二口径――をとりあげた。それから、ぼくは、テーブルの端のもとの席にもどった。
男の戦意は、それっきりでおしまいになった。泣き声でブツブツいいながら、おきあがってきた。
「なにもかも話すよ。おれだって、つまらねえかかりあいにゃ、なりたくねえ。アッシュクラフトは、奥さんの目をくらますためだって、そういってるがね。おれは、手紙を、毎月受けとり、それを、ティファナのやっこさんとこへ送ってやって、十ドルずつもらってるんだ。やっこさんが、こっちにいるじぶんに、おれは知ってたから、あっちへ行くときに――女の子を連れてったんだがね――その仕事を、引き受けた。手紙のなかみが、金だってことは、おれも知ってる――やっこさんが、自分で、『扶養料』だとかだっていってたからね――だけど、それが性質の悪い金だかどうだか、そんなことは、知らなかったんだ」
「アッシュクラフトってのは、どんなひとだ? なにをやっているんだ?」
「知らんね。ぺてん師ぐらいのところかもしれねえな。きれいな顔をしてるよ。イギリス人でね。たいがいは、エド・ボハノンの名で通している。麻薬をやってるんだ。おれは、そんなものはやらんがね」――よくもヌケヌケといったものだ――「なにしろ、この土地のことだからね、どんなやつにぶつかることか、まるで見当もつかねえ」
その男からききだせたのは、それだけだった。アッシュクラフトが、サンフランシスコではどこに住んでいたのか、どんな連中が、仲間だったのか、そんなことは知らなかった――知っているのかもしれないが、口を割ろうとはしなかった。
でも、ライアンは、ぼくが、まだ、かれを、浮浪罪でひっくくろうとしているのがわかると、突拍子もない声で、わめきたてた。
「話せばゆるしてやるって、そういったじゃねえか」
「いわなかった。たとえいったにしてもだ――ピストルをむけられたからには、どんな約束だって反古《ほご》も同然だからな。さあ、行くんだ」
ぼくとしては、アッシュクラフトにわたりのつくまでは、この男を野放しにするわけには行かなかった。
ぼくが三|丁場《ブロック》と行かないうちに、この先生はさっそく電報をとばし、ぼくのねらう相手は、東西南北どっちの方角へでも、御意のままに行方をくらますということになるだろう。
しゃにむにライアンをひっぱって行ったのは、やっぱり虫の知らせがよかった。警察本部で、指紋を照合してみると、通称『ハモウチャ』こと、フレッド・ルーニーといい、八年の刑期をあまして、レヴンワースの連邦刑務所を脱獄した、麻薬の密輸密売犯人であることが、判明した。
「この人物を、二日ばかり、罐づめにしておいてもらいたいんですがね」ぼくは、市警拘置所《シティジェイル》の主任に頼んだ。
「ここしばらく、黙っていてくれたほうが都合のいい仕事があるんです」
「いいとも」主任は、請けあってくれた。「どうせ、連邦刑務所の連中も、ここ二、三日は受けとりにくるまいからね。それまでは、だれも近づけないようにしておいてやるよ」
拘置所から、ぼくは、ヴァンス・リチモンドの事務所に行って、手に入れただけのニューズを報告した。
「アッシュクラフトは、ティファナで、手紙を受けとっています。そっちのほうで、エド・ボハノンと名乗って暮しているんです。女もいるらしい。じつは、かれの友だちの一人――脱獄したぺてん師で、手紙の世話をしていた男なんですが――その男を、ぶた箱にほうりこんできたところです」
弁護士は、電話器に手をのばした。
「ミセス・アッシュクラフトは、お宅ですか?……リチモンドですが……いや、まだ突きとめたというところまではいかんのですが、どうやら、居どころだけは、わかったようです……承知しました……十五分ほどで」
リチモンドは、受話器をおくと、立ちあがった。
「これから、ひとっ走りミセス・アッシュクラフトに、お目通り願ってこよう」
十五分経つと、ぼくたちは、ジャクスン・ストリートのガフに近いあたりで、リチモンドの車をおりていた。めあての家は、白い石造りの三階建てだった。道路からひっこんで建てられた家の前庭は、低い鉄の柵をめぐらした、手入れのよく行きとどいた芝生になっていた。
ミセス・アッシュクラフトは、二階の客間でぼくたちを迎えた。まだ三十にならない、背の高い婦人だった。ねずみいろのドレスをまとった姿が、ほっそりと美しかった。すきとおるようなということばが、なによりも似つかわしかった。眼の青さ、肌のうすももいろ、そして、髪のあかるい茶いろが、そのことばで、適切にいいあらわされた。
リチモンドがぼくを紹介した。それから、ぼくは、自分の知ったことを、ティファナの女のことは省いて話した。かの女の主人が、すでにまともな人間ではなくなっているかもしれないということも、話さずにおいた。
「ミスタ・アッシュクラフトは、ティファナにおられるということです。六カ月前に、サンフランシスコを立ち去られました。手紙は、その土地のあるカフェ気付けで、エドワード・ボハノンという名に宛てて、転送されています」
ミセス・アッシュクラフトの眼は、嬉しさにあふれて、キラキラと輝いたが、べつに発作はおこさなかった。そんな性質の女ではないのだ。弁護士に話しかけた。
「わたくしが、自分で行ったほうがいいかしら? それとも、行ってくださいまして?」
リチモンドは、頭を振った。
「どっちもだめです。あなたはいらっしゃらないほうがよろしい。そして、ぼくは――差しあたっては、都合がつきません」ぼくのほうへむきなおって、「君に行ってもらうことになりそうだ。君なら、ぼくなどよりずっとうまくとりはからうことができるにちがいない。どうすればいいか。それをどんな手順でやればいいか、君にはわかっているだろう。ミセス・アッシュクラフトは、ご主人にむり強いすることは望んでおられないのだが、それと同時に、ご主人の助けになるようなことは、それがなんであろうと、しのこしのないようにしたいと思っておられるのだ」
ミセス・アッシュクラフトは、強そうな、すんなりとした手を、ぼくに差しのべた。
「どんなことであろうと、ご自分でこれがなによりとお思いのことをなすってくださいますわね」
それは、半ぶんは質問であり、半ぶんは、信頼の表現だった。
「やりましょう」ぼくは、約束をした。
ぼくは、このミセス・アッシュクラフトが、すきになった。
ティファナは、ぼくの見なかった二年のあいだに、大して変ってもいなかった。あいかわらず、六、七百フィートのほこりっぽいうす汚い通りの両がわに、ほとんどびっしりと、酒場が立ちならび、もっと汚いいく筋かの横町には、通りに空きを見つけだすことのできなかった飲み屋が、巣くっている。
サン・ディエゴから、ぼくをはこんでくれた車から、町の中心にほうりだされたのは、午後早く、ちょうど、その日の日課が、はじまりかけたじぶんだった。つまり、通りには、犬やら、ぶらぶらあるきのメキシコ人にまじって、わずかに二人か三人の酔っぱらいが、うろうろしているだけだったが、これから酔っぱらいになろうという連中は、早くも、酒場から酒場へと、はしごに余念がなかった。
次のブロックのなかほどに、金めっきした大きな馬蹄が見えた。ぼくは通りをあるいて行って、その看板のうしろの酒場に入った。そこは、まずまず、田舎の酒場の標本といった恰好の店だった。はいって左手には、建ものの半分ほどのながさに、バー・カウンターが延び、そのはずれに、二、三台のスロット・マシンがおいてある。カウンターの反対がわ、右手の壁に沿って、入口から、小高くなった舞台までが、ダンス・フロアになっている。舞台では、脂ぎった楽団の連中が、仕事にかかる用意をしていた。そのむこうには、しきり板の低いボックスがならび、それぞれ、テーブルをはさんで、長腰かけがむかいあっている。
まだ早いので、客は、わずかしかいなかった。ぼくは、バーテンダーの視線をつかまえた。肉づきのいい赤ら顔のアイルランド人だった。コテコテとポマードを塗りたくった二筋の赤い捲き毛が、ホンのチョッピリ額をかくしている。
「エド・ボハノンに会いたいんだがね」ぼくは、ワザと馴れ馴れしいいいかたをした。
バーテンダーは、なんの表情もない眼を、ぼくにむけた。
「エド・ボハノンなんてひとは、知らんですがねえ」
ぼくは、紙きれを一枚出して、鉛筆で『ハモウチャが挙げられた』と書きなぐり、それを、相手のほうへすべらせた。
「エド・ボハノンという男がきて、なにかたずねたら、そいつをわたしてくれないか」
「へえ、そうしましょう」
「よかろう。ぼくは、しばらくお邪魔をするよ」
ぼくは、部屋の奥に行って、ボックスのひとつに、腰をおろした。席におち着くかおち着かないうちに、ぼくのとなりには、髪の毛をどうとかして、紫いろに染めた、おそろしくやせっぽちの女が、坐りこんでいた。
「ねえ、あたしにも、なにかおごって」
女は、たぶん、お愛想笑いをして見せたつもりなんだろうが、えたいの知れない表情をつくった顔を、ぼくにむけた。つもりはどうあろうと、やりきれない顔だった。
ぐずぐずしていると、もう一度やられそうなので、降参することにした。
「いいとも」ぼくは、肩ごしに身をかがめて待ちかまえていた給仕人《ウェイター》に、自分のぶんには、ビールをひと瓶いいつけた。
となりの紫いろの髪をした女が、自分のとったウィスキーのグラスをおろして――そこに間髪を入れないのが、腕ききの資格なのだが――もう一ぱい飲もうよ、と、口をひらきかけたときに、ぼくのうしろのほうから、声がかかった。
「コーラ、フランクが、用があるってさ」
コーラは、ぼくの肩ごしに、顔をしかめて見せた。
それから、またもや、例のなんともいえない妙ちきりんなつくり顔を、ぼくにむけた。「いいわキュウピー。ここは、あんたが、かわりにお世話してね」といいのこして、いなくなった。
キュウピーが、ぼくのとなりの席にすべりこんだ。十八ぐらいの――それよりは、一日だってとしをとっていない――ズングリと小がらな女だった。まだほんのこどもだ。短かく切った、茶いろのちぢれっ毛をのせた、まるい男の子のような顔に、今にも笑いだしそうな、ものおじしない眼が光っている。
ぼくは、この女にも、一ぱい買ってやって、自分のぶんには、ビールを、もうひと瓶とった。
「なにか、気になることがあるの?」ぼくはたずねた。
「お酒よ」女は、ニヤッと笑って見せた――まっすぐに見すえる茶いろの眼とおなじように、男の子を思わせる笑いかただった。「お酒なら、なんガロンでもいいわ」
「ほかには?」
この女の子の交替に、なにかのこんたんのあることは、見えすいていた。
「あたいの友だちを、さがしてらっしゃるってきいたんだけど」
「どうだかな。君の友だちというと、どんなひとがいるんだね?」
「そうねえ、エド・ボハノンてひとがいるわ。エドを知ってて?」
「いや――まだ知らないよ」
「でも、さがしてるんでしょう?」
「ふふん」ぼくは、あいまいな返事をした。
「どんな用があるの? なんなら、あたい、つたえてあげてもいいことよ」
「まあいいさ」ぼくは、はぐらかした。「君のそのエドという友だちは、まるでひとをよせつけないらしいね。まあ、そんなことは、ぼくには、どうでもいいが。ぼくは、君に、もう一ぱいおごったら、出かけるとしよう」
キュウピーは、パッと立ちあがった。
「待って。あたい、そのひとがいるかどうか見てくる。あんたは、なんて名なの?」
「パーカーとでもなんとでもいっとくさ」ライアンにすごんで見せたときに使った名が、ひょいとまっ先に心にうかんできたまでのことだった。
「待っててね」女は、裏のドアのほうへ行きかけながら、ふりかえって、念を押した。「きっといると思うわ」
「ぼくもそう思うがね」
十分ばかりたつと、店のおもてのほうから、一人の男が、ぼくのほうへやってきた。四十にはならない金髪碧眼のイギリス人だった。いわゆる英国紳士《ジェントルマン》のおもかげは、まるっきりのこっていない。どん底に落ちこんだというほどではないにしても、青い眼の暗さ、眼の下の皮膚のたるみ、口のまわりの小じわ、口もとのだらしなさ、そして、灰いろの肌に、落ちめの証拠は、あからさまに見うけられる。容貌には、まだかなりひとをひきつけるものがあった――そこに、以前の健全な生活が、辛うじて名ごりをとどめているのだ。
その男は、ぼくの前に、腰をおろした。
「おれをさがしているって?」
「あんたかね、エド・ボハノンというのは?」
男はうなずいた。
「二日ほど前に、ハモウチャが挙げられてね。今ごろは、古巣のカンサスの刑務所に、連れもどされているころだろう。そのことをあんたに知らせてほしいと、伝言があったんだ。ぼくが、こっちのほうへくることになっていたのを、やっこさん知っていたもんだからね」
男は、顔をしかめて、テーブルをみつめた。やがて、急に眼をあげて、ぼくの顔を見た。
「ほかに、なにかいっていたかね?」
「いや、じかに話をしたわけではない。ほかの人間を通じて伝言があったんだ。ぼく自身はやっこさんに会っていないんだがね」
「君は、しばらく、この土地に滞在するのかな?」
「そう、二日か三日はね。ぐずぐずしてもいられない用があるんだ」
男は、微笑をうかべて、手を差しだした。
「よく知らせてくれた、ありがとう、パーカー。ところで、いっしょに、ひとあるきしないかね。ほんとの酒の味を教えてあげるよ」
こっちには、べつに辞退する理由もなかった。男は、ぼくを、ゴールデン・ホース・シューから連れだして、とある横町を、町から沙漠に出はずれのところにある、天日《アドービ》煉瓦づくりの家まであるいた。玄関を入った部屋で、手を振って、ぼくに椅子をすすめ、自分は、次の部屋にはいって行った。
「おこのみは、なんだね?」ドアごしに、大きな声がきこえた。「ライ、ジン、スカッチ――」
「そのスカッチだな」ぼくは、ほっとけばはてしもなくつづきそうな、酒の目録《カタログ》を、途中でさえぎった。
男は、ブラック・アンド・ホワイトの瓶と、炭酸水のサイフォンと、いくつかのグラスをはこんできた。ぼくたちは、腰をすえて、飲みにかかった。飲んではしゃべり、飲んではしゃべり、めいめい、実力以上の飲み手のような顔をして飲んだ――そのじつ、二人とも、間もなく、まるでへべれけになってしまっていたのだが。
芸も曲もない、ただの飲みくらべだった。相手は、ぼくを、どろんこに――秘密であろうと、なんであろうと、たあいもなくしゃべってしまうほどどろんこに酔いつぶしてしまおうとかかっていたし、こっちはこっちで、相手に同じことをたくらんでいた、どっちも、たいしてはかが行ってはいなかった。
くらがりのどこかで、男は、ぶつぶつとろれつのまわらぬ口をきいていた。「おれ、おれって、まったくバカな男よ、なあ。女房がさ――世界じゅうにまたとないような、すばらしい女房がさ、このおれに、帰ってこいって、うるさくせがみやがるんだよ。なあ。それを、おれは、あろうことか、こんな土地に流れこんで、こいつに――つまり、麻薬におぼれてやがるんだ。おれだって、これで、ひとかどのケン――ケンチッカなのさ――わかるかね、おい――そう、建築家なんだよ。ところが、このへんのぐうたら連中の仲間入りをして、年じゅうだらけている始末さ。とても、こいつを抜けだしてまともになる見こみはなさそうだ。しかし、おれは、なんとか抜け出そうとしている――うそじゃないよ。世界一のすばらしい可愛らしい女房のところへ、なんとかもどってやろうと、おれは、一所懸命なんだ。麻薬からなにから、いっさいがっさいおさらばしてやるんだ。なあ、おれの顔を見てくれよ、麻薬中毒みたいに見えるかね? 見えるもんか! 自分の力でなおしたんだからな。ひとつ、見せてやろう――いいかね、これから、くすりを一服やって見せるからな――やるもやらないも、自由自在なところを、ごらんに入れる」
男は、よろよろしながら椅子から身をおこし、ふらふらとおぼつかない足どりで、となりの部屋にはいり、やがて、精巧な阿片吸煙具――すべて、銀と象牙でできた――をのせた銀の盆をはこんできた。盆を、テーブルの上におろすと、一本の煙管を、ぼくに振って見せた。
「どうだね、パーカー、君も、一服やってみないか」
ぼくは、スカッチのほうがいい、と、遠慮した。
「なんなら、コカインを打ってみるか」
それも断ると、男は、テーブルのそばの床の上に、ながながと寝そべり、阿片を、丸薬にまるめ、火にかざしてじりじりといぶした。ぼくたちのパーティは、つづけられた――男は、阿片をくゆらし、ぼくは、酒をあおって――めいめい、さも相手をもてなすようにおしゃべりをつづけ、そのじつ、相手に、自分のききだしたいことをしゃべらせようとかかっているのは、あいかわらずだった。
ま夜なかごろ、キュウピーがはいってきたじぶんには、あらかた一箱の酒を空にしていた。
「まあ、殿がただけでおたのしみなのね」女は、声を出して笑うと、かがみこんで、イギリス人のくしゃくしゃにみだれた髪に、口をつけた。
女は、テーブルの端に、腰をかけて、スカッチ・ウィスキーに、手をのばした。
「なにもかも、大変愉快だね」ぼくは、女に請けあって見せたが、どうも、それほどはっきり発音したのではなかったようだ。
「あんたも、しょっちゅう、そんなふうに、お口がお上手だと、よっぽどいいひとなんだがな」
その女のことばに返事をしたかしなかったか、それはおぼえていない。とにかく、それから間もなく、ぼくは、床の上のイギリス人のそばにころがって、眠ってしまった。
次の日も、またそのあくる日も、まずまず最初の日とおなじような工合だった。アッシュクラフトとぼくとは、二日とも、二十四時間一しょにくらした。女も、たいがいはいっしょだった。ぼくたちが酒を飲まずにいたのは、飲んだ酒に酔いつぶれて眠っているあいだだけだった。その三日間のほとんどを、ぼくたちは、天日《アドービ》煉瓦づくりの例の家か、または、ゴールデン・ホース・シューかですごしたが、そのあいだにも、ひまを見つけては、町のほかの酒場の大部分に、足をはこんだ。自分の身のまわりで、どんなことがあったか、なかには、ぼんやりとしか記憶にのこらないこともある。しかし、まるっきりおぼえがないというようなできごとはなかったようだ。
アッシェクラフトとぼくとは、上《うわ》っつらでは、まるで|どろぼう《ヽヽヽヽ》仲間のようにしっくりとむつまじかったが、内心では、どんなにのんだくれても――二人とも、大いにのんだくれたのだが――おたがいに、相手に対する疑惑を捨ててしまったことは、ただの一度もなかった、男はきまった時間をおいては、阿片の煙管を手にした。女が、阿片を飲むのを見たおぼえはないが、強い酒にかけては、たいした腕ききだった。
こんな三日間をすごしたあげく、ぼくは正気にかえって、サンフランシスコにもどった。その車中、ぼくは、エド・ボハノンと、ノーマン・アッシュクラフトについて知ったこと、判断したことを、表《リスト》につくってみた。できあがった表《リスト》はざっと次のようなものだった。
[#ここから1字下げ]
一 ぼくが、かれの細君に頼まれて、会いにきたということ、それを、むこうは、はっきり知っていたのではないにしても、うすうす感づいていた。そのことを、ぼくにさとらせないために、あんなにもそつなく、あんなにも心をかたむけて、ぼくをもてなしたのだ。
二 見せかけは、いかにも、細君のもとへもどる決心をしたようにふるまったけれども、それが、本心なのかどうか、そこには、なんの保証もない。
三 麻薬に中毒しているといっても、治癒のみこみのないほどではない。
四 細君の眼のとどくところにおけば、あるいはまともな生活に返ることができるかもしれないが、それも、疑わしい。肉体的にこそ、まだ救いようのない破滅のふちに落ちこんでいないにしても、すさんだどん底生活が、身についてしまって、自分でも、それが、気に入っているらしいのだ。
五 キュウピーなる女は、むちゅうでかれを愛し、かれも、女を好いてはいるが、身も世もあらぬ首ったけというほどではない。
[#ここで字下げ終わり]
ロサンゼルスからサンフランシスコへの汽車の中で、ひと晩ぐっすり眠ったおかげで、タウンゼント街《ストリート》三丁目の停車場におりたときには、頭も胃も、あたり前だったし、神経も、それほどもつれてはいなかった。三日間に口にしたぜんぶを合わせたよりも、もっとたくさんの分量の朝めしをたいらげると、ぼくは、ヴァンス・リチモンドの事務所に行ってみた。
「ミスタ・リチモンドは、ユリーカにお出かけですわ」というのが速記嬢《スチノグラファ》の返事だった。
「電話で呼びだしてもらえないかな?」
それならできるということで、早速呼びだしてもらった。
人の名は、いっさい口にださずに、見ききしたことと、自分の判断とを、弁護士に話した。
「なるほどね、じゃあ、ひとつ、君が、細君の家に行って、ぼくが、今晩、手紙を書くから、と、そう伝えてくれたまえ。ぼくはたぶん、明後日には、そっちへもどるつもりだ。行動をおこすのは、それからのことにしても、まず別条はあるまい」
ぼくは、電車をつかまえ、ファン・ネス・アヴェニューで乗りかえて、ミセス・アッシュクラフトの家まで行った。ベルを鳴らしても、さっぱり手ごたえがなかった。いく度か鳴らしたあげくに、ふと気がつくと、玄関に、新聞の朝刊が、二日ぶんおちていた。日付をたしかめた――今朝のと、昨日の朝のとだった。
隣の家の芝生で、いろのさめた仕事着《オーバーオール》の老人が、水をやっていた。
ぼくは、声を張って呼びかけた。「この家のひとたち、どこかへ出かけたんでしょうか?」
「そんなことはないでしょう。今朝見たときは、裏口のドアがあいていましたがね」
老人は、ことばを休めて、あごのさきをひっかいた。
「いやあ、出かけたのかもしれんぞ」半ぶんひとりごとのような、ゆっくりとした口調だった。「そういえば、だれ一人見かけませんな。いつからだったか――それは、おぼえていないが、とにかく、昨日は、だれの姿も、見えませんでしたな」
ぼくは、玄関の階段をおりて、家をまわり、裏庭の低い垣根をよじこえ、勝手口の段をのぼった。台所のドアは、一フィートばかりあいたままになっている。台所には、ひとかげはなかったが、流しっぱなしの水の音がしていた。
ぼくは、こぶしをかためて、ドアを、ドカンドカンとたたいた。ドアを押しあけて、はいって行った。水の音のするのは、洗い場だった。流しのなかを、のぞいてみた。
蛇口のひとつからチョロチョロと流れる水の下に、鋭い刃わたり一フィートに近い肉切り庖丁があった。庖丁そのものは、きれいだったが、瀬戸ものの流しの奥――はねかえった水のしぶきの辛うじてとどくかとどかないあたりに――赤茶色の斑点が、ぽつぽつとついていた。ぼくは、その斑点のひとつを、指の爪で、かきとってみた――乾いた血だった。
その洗い場の流しをべつにすれば、台所には、どこにもこれといってとり散らしたあとは見えなかった。配膳室のドアをあけてみた。そこも異常はないようだった。その部屋のもうひとつのドアは、家のおもてがわに通じていた。ぼくは、そのドアをあけて、廊下に出た。台所からもれこむあかりがとぼしくて、廊下は暗かった。ぼくは、くらがりの中を、手さぐりして、どこかにあるはずの電燈のスウィッチをさがした。なにかやわらかなものが、足にさわった。
足をひっこめてポケットをさぐり、マッチをとりだすと、それを擦った。眼の前には、頭と両方の肩を、床につけ、尻と脚とを、階段の下のほうの段にかけた恰好で肌着姿のフィリピン人の若い男が、ころがっていた。
その男は、死んでいた。片眼に傷があり、あごのすぐ下の首すじを、ま一文字にかき切られていた。眼をとじて考えるまでもなく、その殺し場は想像することができた。この階段の頂上でのことだ。犯人は、左手で、フィリピン人の顔を、まっこうから、ぐいと押した――親指の爪が、眼につきささるほど、力まかせに――のけぞってさらけだされた褐色の首すじに、庖丁の刃がひらめいて――フィリピン人は、そのままうしろざまに、階段をすべりおちたのだ。
二度目に擦ったマッチのあかりで、電燈のスウィッチが見つかった。ぼくは、あかりを点けて、外套のボタンをかけると、階段をのぼった。階段のあちこちに、赤黒く乾いた血のあとがあった。のぼりつめたあたりの二階の壁紙は、べっとりと大きな血痕で汚れていた。階段のおり口に、電燈のスウィッチがあったので、それを押した。
二階の廊下をあるいて、二つの部屋に、顔を突っこんでみたが、どっちも、きちんとしているようだった。それから、曲り角を曲ると――思わずぎょっとして、棒だちになった。もうすこしで、そこにころがった女のからだにつまずいて、ひっくりかえるところだった。
その女は、床の上にうつ伏せになり、両膝をかがめこみ、両手で胃のあたりを押えていた。ナイトガウンを着ていた。髪の毛を編んで、背なかに垂らしていた。
ぼくは、指のさきで、首すじのうしろをさわってみた。石のように冷たかった。
床に膝をついて――からだをあおむけにしなくてもすむように――顔をのぞきこんだ。四日前に、リチモンドとぼくを玄関に出迎えた、この家の女中だった。
ぼくは、立ちあがって見まわした。女中の頭は、しまったドアに、ほとんどさわりそうになっている。女のからだをまわって行って、そのドアを押しあけた。寝室だった。女中のではない。フランスできのプリントの壁紙をはりめぐらし、クリームいろとねずみいろで、調度をそろえた、ぜいたくな美しい寝室だった。部屋のなかは、ベッドをのけて、どこもきちんと整頓されていた。夜具がくしゃくしゃに乱れて、ベッドのまん中に、うず高く盛りあがっていた――大きすぎる盛りあがりだった。
ぼくは、ベッドの上にかがみこんで、夜具をとりのけにかかった。二枚日の夜具は、血に汚れていた。のこりを、ひとまとめにひっぱがした。
そこに、ミセス・アッシュクラフトが死んでいた。
死体は、無ざんにちぢこまって、小高いかたまりとなっていた。そのかたまりから、首すじを、骨にとどくまでみごとに切られた頭が、不自然な恰好で垂れさがり、ぶらぶらとゆれていた。顔には、こめかみから、あごのさきまで、四本の深いひっかき傷があった。青い絹のパジャマの片袖が、つけ根から引きちぎられていた。死体の上に積みかさねられた夜具に蒸されて、乾くひまのなかった血のりが、パジャマと敷きぶとんを、しとど濡らしていた。
ぼくは、死体の上に毛布をかけなおして、廊下に死んでいる女のそばをすりぬけ、表ての階段をおり、ほうぼうの電燈を点けて、電話をさがした。階段の足もとの近くに、見つかった。はじめに、警察の刑事部を、その次に、ヴァンス・リチモンドの事務所を、呼びだした。
「ミスタ・リチモンドに、ミセス・アッシュクラフトが殺された、と、そう伝えてほしいんだが」電話にでた速記嬢に頼んだ。「ぼくは、その家にいるから、そっちのほうに、連絡をつけてくれるようにってね」
それから、玄関の外にでて、階段の一番上の段に尻をおろし、タバコをふかしながら、警察のやってくるのを待った。
やりきれない気もちだった。ぼくは、これまでにだって、三人どころでない、もっと大ぜいが、ひとまとめにやられた現場を見たことはある。しかし、こんどというこんどは、三日間飲みつづけて、神経がざらざらに荒《すさ》んでいるところへ、ドカンときたのだった。
一本目のタバコが、灰になってしまわないうちに、警察の車が、角をまわってきて、一隊のひとたちを、吐きだしはじめた。先頭に立って、階段をのぼってきたのは、殺人犯担当の部長刑事、オガーだった。
「やあ」と、会釈をして、「こんどは、いったい、なにをつかんだね?」
「この家の中に、死体が、三人ぶんあるんだ。それ以上は、さがすのを、やめちまったんだがね」話しながら、ぼくは相手を、玄関の中へ、案内した。「君みたいな、専門家なら、もっとでも見つかるかもしれんよ」
「いやいや、君だって、なかなかやるじゃないか――若いにしてはだ」
二日酔いの重苦しい気ぶんは、さっぱりと消えていた。もりもりとはたらきたい気もちになった。
まず、フィリピン人の死体を、オガーに見せた。次に、二人の女のところへ、案内した。さすがに、それ以上は、見つからなかった。それから数時間、ぼくたち――オガーと、その部下の八人と、そして、ぼくと――は、あれやこれやこまごまとした仕事にかかりっきりだった。家の中は、屋根裏から地下室まで、洗いざらい捜査せねばならなかった。となり近所のひとたちを、ギューギューしぼりあげなければならなかった。この家の召使いを世話した口入れ屋を、しらべなければならなかった。フィリピン人と女中の身寄りや、友人関係をたどって、それぞれ訊問せねばならなかった。新聞配達、郵便配達、食料品店の配達人、洗濯屋などを、さがしだして、とりしらべなければならなかった。
あらかたの報告があつまったじぶんに、オガーとぼくは、ほかの連中から、そっとはなれて、書斎にとじこもった。
「おとといの晩のことだな? 水曜日の晩だね?」めいめい坐りごちのいい革ばりの椅子を占領して、タバコに火を点けると、オガーが、ぶつぶつ声で、きりだした。
ぼくは、うなずいた。死体を検視した医者の報告、玄関先に、二日ぶんの新聞のあったこと、そして、となりの住人も食料品店の人間も、肉屋も、水曜日からあと、この家のひとをだれも見ていないという事実、そんなものを組みあわせると、水曜日の夜、――または、木曜日の早朝――が、正確な日時ということになる。
「犯人は、裏口をこじあけて、はいったのだろうな」オガーは、タバコの煙ごしに、天井を見あげながら、ことばをつづけた。「台所にあった肉切り庖丁をとりあげ、二階にあがった。まっすぐに、ミセス・アッシュクラフトの部屋に乗りこんだかどうか、そこは、はっきりしない。しかし、いずれにしろ、間もなく、その部屋に入った。パジャマのかた袖がちぎれ、顔にかき傷がついておるのは、抵抗されて、格闘のあったことを意味する。フィリピン人と女中とが、さわぎを耳にして――悲鳴をきいたのかもしれん――かけつけ、事態を知った。恐らく、女中は、部屋から出てくる犯人と、鉢あわせをして――やられたのだろう。フィリピン人のほうは、犯人の姿を見て、逃げだしたんだろうな。犯人は、裏階段のおり口で、フィリピン人に追いついて――そこで、とどめを刺した。それから、台所におりて手を洗い、庖丁をおいて、逃げた」
「そこまではいいようだね」ぼくは、同意した。「しかし、君は、その犯人が、どんな人物で、どんな理由で殺したかという問題を、とばしてしまったようだな」
「そうせっつくな」オガーは、ガラガラ声を出した。「今いおうとしておったところだよ。犯人と、犯行の動機について考えられる可能性は、三つしかないようだ。つまり、殺すのが面白くてやった殺人狂のしわざか、もの盗りが目的でしのびこんだ泥棒が発見されて、居なおったのか、そうでなければ、ミセス・アッシュクラフトを殺す動機のあった人間が、その犯行を発見されて、二人の召使いまで、殺さねばならんことになったのか、そのどれかだ。おれ個人の考えでは、ミセス・アッシュクラフトを、この世から消してしまうことを望んだ人間のしわざだと思うておるがね」
「悪くはないね」ぼくは、賞めてやった。「ところで、いいかね、ミセス・アッシュクラフトは、ティファナに夫がいるんだ。救いようのないというほどでもない麻薬中毒者で、ならずものの仲間入りをしている男なんだがね。細君のほうでは、その夫を、説き伏せて、自分のところへもどってこさせようと、やっきになっていた。男には、その土地に、女がいる。若い、下手くそな芸人で、男に、首ったけになっている――手に負えないちんぴら女だ。男は、その女から、逃げだして、細君のところへ帰ろうとしていた」
「そうかね?」オガーは、ねこなで声だった。
「しかし」ぼくは、話をつづけた、「ぼくは、おとといの晩――つまり、犯行のあったときだ――ティファナで、その男と女といっしょにいたんだがね」
「そうかね?」
ドアにノックがきこえて、ぼくたちの話は中断された。一人の警官が、ぼくに、電話がかかっている、と伝えにきたのだった。ぼくは階下《した》におりて行った。ヴァンス・リチモンドの声が、伝わってきた。
「いったい、どうしたんだ? ミス・ヘンリーから、君の伝言をきいたが、くわしいことは知らないということだったもんでね」
ぼくは、いちぶしじゅうを、話してきかせた。
「ぼくは、今晩発って、そっちへ帰るつもりだ。君は、自分の考え通り、なんでもどしどしやってくれ。いっさいまかせるよ」
「結構です。こっちへお帰りのじぶんには、ぼくはたぶん、よそへ出かけているでしょう。社のほうから、連絡のつくようにしておきます。これから、アッシュクラフトに――あなたの名前で――すぐこい、と、電報を打つつもりですが」
リチモンドが、受話器をおくのを待って、ぼくは市警拘置所を呼びだし、主任に、ジョン・ライアンこと、フレッド・ルーニーこと、ハモウチャが、まだそこにいるかどうか、たずねてみた。
「いや、昨日の朝、連邦の役人がきて、レヴンワースへ、連れて行ったがね」
もう一度、二階の書斎にもどると、ぼくは、相手に口をきかせずに、自分のいいたいことをいった。
「ぼくは、今晩の南行きの列車をつかまえるよ。ぼくの見当では、こんどの事件は、ティファナが根城にちがいないからね。アッシュクラフトには、すぐくるように電報を打つ。あの男には、ここ一両日、ティファナから遠のいていてほしいんだ。こっちにあらわれたら、君のほうで、見はっていてくれればいい。人相を教えとくから、ヴァンス・リチモンドの事務所にやってくるところを、つかまえたまえ」
のこされた時間は、わずかしかなかったが、そのうち三十分を費して、電報を三本書いて打った。
最初の電報は、アッシュクラフト宛だった。
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メキシコ、ティファナ
ゴールデン・ホース・シュー・カフェ
エドワード・ボハノン殿
ミセス・アッシュクラフトガナクナッタ」スグニオイデマツ」ヴァンス・リチモンド
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あとの二通は、暗号《コード》文だった。コンティネンタル探偵社のカンザスシティ支社に宛てて、レヴンワースへひとをやって、ハモウチャを、とりしらべるように依頼した一通と、もう一通は、ロサンゼルス支社に、明日、サン・ディェゴに、社員を一人よこすことを頼んだ電文だった。
それから、大いそぎで、自分の部屋に帰り、身のまわりのものを、カバンにつめこみ、またまた、南行き列車にのりこんで、眠った。
次の日午後早く、列車をおりたときには、サン・ディエゴの町は、陽気にゴッタがえしていた――国境向うの、競馬シーズン最初の土曜日に引きよせられた連中で、いっぱいだった。ロサンゼルスの映画屋、インペリアル・ヴァレリーの百姓、太平洋艦隊の水兵、あらゆる方面から流れこんだ、バクチ打ち、観光客《ツーリスト》、香具師《やし》、それに、なみの人間までが、ウヨウヨとあふれていた。ぼくは、昼めしをすますと、手ぢかのホテルにカバンをほうりこんで、電報で頼んでおいた、ロサンゼルス支社の探偵に会いに、グランド・ホテルに出かけた。
めざす相手は、ロビーにいた――二十二かそこらの、ソバカスだらけの顔をした若造だった。あかるい灰いろの眼を、手にもった競馬の番組に、いそがしく走らせていた。その手の指には絆創膏が巻いてあった。ぼくはその男のそばを通りすぎ、タバコ売場に立ちどまって、タバコをひと箱買い、自分の帽子のありもしないくぼみしわを、手でのばすふりをした。それから、また、通りへ出た。絆創膏を巻いた指と、帽子をいじくるしぐさとが、ぼくたち仲間どうしを見わける目じるしだった。独立戦争よりももっと前に、だれだかが、そんなことを思いついたのだったが、今でも、なんの支障もなく通用しているのだから、古くさいといって、それを捨ててしまう理由はなかった。
ぼくが、フォース・ストリートを、ブロードウェイ――サン・ディエゴのめぬき通り――から遠ざかる方角へ、ブラブラとあるいて行くと、相手は追いついてきた。ゴーマンという名の男だった。ぼくは、やってもらう仕事を説明した。
「これから、ティファナへ行って、その土地のゴールデン・ホース・シューという飲み屋に、腰をすえてもらいたい。その店に、酒をよく飲む、こまっしゃくれた女の子がいる――背の低い、茶いろのちぢれっ毛のこれも茶いろの眼をした、顔のまるい、大きめの口を、まっ赤に塗りたくった、肩のはった女だ。見のがしっこないさ。キュウピーといって、十八、九の、ちょっと踏める女だがね、そいつが君に目をつけてほしい相手だ。よせつけないほうがいい。気を引いてみるようなことをしてはいけない。君には、ぼくより一時間前に行ってもらう。それから、ぼくが、その女と話に行く。ぼくの知りたいのは、その女が、ぼくの立ち去ったすぐあとになにをするか、それから四、五日のあいだに、なにをするかということなんだ。ぼくとの連絡は、毎ばん」――ホテルの名と、部屋の番号を教えて――「そこにやってきてくれ。それ以外の場所では、会っても、知らん顔をしていなければいけない」
相手と別れると、ぼくは広場《プラザ》に行って、一時間ばかり、ベンチに坐りこんだ。それから、町角まであるき、押しあいへしあいして、ティファナ行きのバスの座席を占領した。
ホコリっぽい道路を三人ぶんのシートに、五人つめこまれて十五マイルかそこらのバス旅行だった。途中、移民検査所で、ちょっととまった。ぼくは、競馬場の入口で、バスをおりた。すでに、いくつかのレースはおわっていたが、それでも、観客は、絶え間もなく、あとからあとから、押しかけていた。ぼくは、競馬場の門に、背なかをむけて、モンテ・カーロ――大きな木造の賭博場《カジノ》――の前にならんでいるバスのほうへ行き、オールド・タウン行きに乗った。
オールド・タウンは、ひとけがないように見えた。みんなが、犬のけんかを見に、ひとところにかたまっていた。ゴールデン・ホース・シューに入ってみると、ゴーマンのそばかす顔が、メスカル酒のグラスごしに見えた。アルコールに強い男だといいがと思った。|さぼてん《ヽヽヽヽ》を蒸溜した酒を相手に、探偵をやるとなると、よっぽど強くなければ、つとまらないのだ。
ぼくは、店の連中から、久しぶりでわが家に帰ったような歓迎を受けた。油でかためたちぢれ毛を額にたらしたバーテンダーまでが、にやりと、白い歯を見せた。
「キュウピー、いるかね?」
「エドと、義理の兄弟になろうっていうの?」大きなスウェーデン女が、ぼくに、流し眼をくれた。「さがしてきてあげるわ」
ちょうどそのとき、当のキュウピーが、裏のドアから入ってきて、ぼくにかじりつくやら、ぶらさがるやら、顔を、ぼくの顔にこすりつけるやら、大変なことになった。「また飲みにきたの?」
「いや」ぼくは、女を、奥のボックスのほうへ、ひっぱって行った。「こんどは、仕事なんだ。エドは、どこだね?」
「北のほうへ行ったの。奥さんが、死んだもんだから、遺産をもらいに行くんだって」
「君には、気の毒だな」
「なにいってるのさ! パパが大金もちになるかと思うと、あたい、わくわくするのよ」
ぼくは、眼のすみから、女の顔を見た――そんなうろんくさい眼の使いかたが、この際、賢明なようだった。
「すると、君は、エドが、その金をもって、自分のところへもどってくると思っているんだね?」
女は、くらいかげのさした眼を、パチパチと、しばたたいた。
「いったい、なにを考えてるのよ?」
ぼくは、心得顔に、笑って見せた。
「どういうことになるかといえば、二つのうち、どっちかだな。つまり、君が、このまま捨てられるか――どっちみち、あの男の考えていたことだからな――さもなければ、あの男のほうが、自分のくびを絞められないために、ありったけの金を、投げださなければならんことになるか――」
「うそ吐《つ》き!」
女の右肩が、こっちによってきて、ぼくの左の肩にさわった。左の手が、ひらめくように、短いスカートの下に、もぐった。ぼくは、女の肩を、ぐんと前に押して、自分のからだから放した。はずみをくらって、女の左手は、自分の脚から抜いたナイフをにぎったまま、テーブルの下に、深くはいってしまった。投げて正確に狙いがつくように、バランスをとった、厚刃のナイフだった。
女は、うしろざまに蹴りつけた。とがったかかとが、ぼくの足首にぶつかった。ぼくは、左の腕を、女のうしろからまわして、女がナイフをにぎった手を、テーブルの下から引きぬくのといっしょに、その肘を、わき腹にしっかりと押しつけた。
「いったいどうしたってんだね?」
ぼくは、眼をあげた。テーブルのむこうがわに、一人の男が――両脚をひらき、両方のにぎりこぶしを腰にあてがって――立ちはだかり、ぼくをにらみつけていた。背の高い、やせっこけた男だった。幅のひろい肩のまん中から、ながっ細い黄いろっぽい首が生えて、小さなまるい頭をささえている。つぶれた小さな鼻柱の上のほうにポチポチと二つくっついている、黒い靴ボタン、それが、眼だった。
「今の手めえの話は、どこから|ねた《ヽヽ》をしいれやがったんだ」愛きょうものは、吠えたてた。
説明してやったところで、おとなしく引きさがるような相手ではなかった。
「君が、ここの給仕《ウェイター》なら、ぼくに、ビールをひと瓶と、この子になにかもってきたまえ。給仕でなかったら――とっとと失せちまえ」
「なんだと、このおれに、なにをもってこいって――」
女が、身をよじって、ぼくの腕から抜けだし、高飛車に男を黙らせた。
「あたいは、お酒だよ」
男は、うなるような声を出して、ぼくたち二人の顔をかたみに見くらべ、もう一度、汚い歯をむきだして見せてから、ふしょうぶしょうのように立ち去った。
「誰だい、あのお友だちは?」
「あのひとのことは、さわらないほうがよくってよ」女は、ぼくの質問にはこたえずに、忠告してくれた。
それから、手にもつたナイフを、スカートの下にもどして上半身をねじり、ぼくに顔をつきつけた。
「さあ、きかせて。エドが、そんなふうだってのは、いったいどうしたのさ?」
「殺人事件のことは、新聞で読んだね?」
「読んだわ」
「そんなら、くわしい話はする必要がないわけだ。エドのやらかしたただひとつのへまは、その一件を、君のせいにしたことだ。しかし、そんなことがうまく行くとは思えない。しくじれば、自分がつかまることになる」
「気ちがい!」女は、大声を張りあげた。「あんたが、その殺人事件のおこったときに、あたいたちが二人とも、ここにいたのを知らなかったほど酔っぱらっていたなんて、そんなことはいわせないよ」
「ぼくが、かりに気ちがいだとしても、そんなことが、なにかの証拠になると思うほどではないよ。犯人を、手くびにひょいとひっかけて、サンフランシスコに帰るぐらいのことは考えているがね」
女は、ぼくの顔をめがけて、高笑いをした。ぼくも、一しょになってゲラゲラ笑って見せて、立ちあがった。「またくるよ」ぼくは、ぶらぶらと、ドアのほうへあるいて行った。
サン・ディエゴにもどると、ロサンゼルスに電報を打って、もう一人よこしてくれるように頼んだ。それから、腹ごしらえをして、その晩は、ホテルの部屋にじっとしていて、ゴーマンを待った。
やってきたのは、遅くなってからだった。サン・ディエゴから、セント・ルイスに行ってもどるほど、メスカル酒のにおいを、プンプンさせていたが、頭は、しっかりしているようだった。
「あのときには、とびだして行って、あんたを助けださなきゃならんか、と、ちょっとそんな気がしたよ」ゴーマンは、にやりと白い歯を見せた。
「ぼくのことはほったらかしといてくれ。君は、どんなことがおこるか、それを見はっていれば、それだけでいいんだ。あれから、どうなったね?」
「あんたがいなくなると、女の子と、あの大きなやつとは、顔をよせあって、なにやら、相談していたよ。ひどくあわてていたようだったな――大さわぎだったといってもいいぐらいだ。男のほうは、店を抜けだした。で、おれも、女はほっといて、あとから、そっと抜けだした。町に行って、電報を一本打った。宛先がわかるほど、そばによるわけにゃ行かなかったがね。それから、また、もとの店にもどった」
「あの大きなやつは、なにものだね?」
「おれのきいたところでは、とても生やさしい相手じゃなさそうだな。『|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》』のフリンという名で通っているんだ。あの店の用心棒兼なんでも屋なんだがね」
すると、その|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》野郎は、ゴールデン・ホース・シューの掃除屋だったわけだが、ぼくが、三日間のんだくれていたあいだに、ただの一度もお目にかからなかったのだろうか? ぼくが、あのみっともない面がまえを、見ておぼえていないほど、とらになっていたとは、どうしても考えられない。しかも、ミセス・アッシュクラフトと、その家の召使いたちの殺されたのは、その三日間のうちの一日のことだったのだ。
「ぼくは、君の支社のほうに、もう一人出してくれ、と、電報を打ったがね。君と連絡をとるようにしてある。女のほうは、そっちにわたして、君は|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》を、しっかり尾けてくれ。三人殺しの星ってことになりそうだから、足もとに気をつけてくれよ」
「合点だ、大将」威勢のいい返事をのこして、ゴーマンは、寝に行った。
次の日の午後、ぼくは、競馬場で、馬を相手に、ひまをつぶして、夜になるのを待った。
最後のレースがすむと、サンセット・インで、めしをくって、それから、おなじ建もののべつの端にある大きな賭博場《カジノ》のほうへ、足をむけてみた。そこでは、千人もの、ありとあらゆる種類のひとたちが、競馬であました金や、もうけた金を、ポーカー、さいころ賭博、ルーレット、二十一などのゲームに注ぎこんで、すっからかんになろうと、ひしめきあっていた。ぼくは、そんなゲームなど、見むきもしなかった。お遊びの時間はすんだのだ。人ごみの中を歩きまわって、ものになりそうな相手を物色した。
最初の一人が見つかった――一帳羅を着こんだ作男としか見えない日焼けした男だった。ひとを押しわけて、ドアのほうへ行こうとしていた。ゲームの終らないうちに、早くもあり金のこらずはたいてしまったバクチ打ちによくある、なんともいいようのない空っぽの顔をしていた。金をすったことよりも、ゲームをやめなければならないことのほうが、残念でたまらないのだ。
ぼくは、その作男とドアとのあいだに、立ちふさがった。「きれいさっぱりやられたね?」いかにも同情にたえないという顔で、声をかけた。
相手は、はにかむようにうなずいた。
「どうだね、ほんの四、五分で、五ドルになる仕事をやってみないか?」
やってみてもいいが、どんな仕事だ、とききかえしてきた。
「ぼくといっしょに、オールド・タウンまで行って、ある男の顔を見てもらいたいんだがね。そうすれば、五ドルは、君のものだ。べつにひももなにもついていない」
それだけでは、腑におちない様子だったが、なんといったって、五ドルは、五ドルだ。それに、臭いと思ったら、いつでも、すき勝手に、ほうりだしてしまえばいい、やってみよう、と決心がついた。
作男を、ドアのそばに待たせておいて、もう一人、追っかけた――まるい陽気な眼に、口もとのしまりのない、肥っちょの小男だった。そんなわけのない簡単な仕事で、五ドルにもなるなら、と、即座にとびついてきた。その次につかまえたのは、臆病なやつで、そういうわけのわからない仕事に、あぶない橋をわたるのはごめんだ、と尻ごみをした。それから、うす茶いろのはでなスーツにめかしこんだフィリピン人と、給仕人か、さもなければ、理髪職人らしい、ずんぐりとした若いギリシャ人とが、つかまった。
四人で、たくさんだ。すばらしい四人組《カルテット》だった。どの顔を見ても、頭がはたらきすぎて、ぼくのたくらみに差しつかえるというほどのおひとがらではない。といって、いのち知らずのならずものにも、ひとかどのぺてん師にも見えない。ぼくは、その連中を、バスにのせてオールド・タウンにひっぱって行った。
「さて、段どりはこうだ」到着すると、ぼくは指図をした。
「これから、ぼくは、すぐそこのゴールデン・ホース・シューというカフェにはいって行く。二、三分たったら、君たちも同じ店にはいって、なんでもいい、酒を註文するんだ」作男の手に、五ドルの紙幣を一枚のせてやって、「その店に、ながい黄いろい首に、小さなみっともない顔をのっけた、背の高い、肩幅のひろい男がいる。見のがしっこないよ。君たちには、その男の顔を、相手にさとられないように、よくよく見てもらいたいのだ。つぎには、どこで会っても、その男だということが、すぐにわかる自信がついたら、ぼくに合図をして、この場所にもどってきたまえ。ここで、金を払うから、ぼくに合図をするときには、用心をしてくれ。店の人間に、君たちが、ぼくを知っていることを、感づかれてはこまるんだ」
筋の通らない妙な話だが、めいめい五ドルずつの約束がある。賭博場《カジノ》にとってかえせば、その五ドルに運がついて、ひょっとすると――それからあとのことは、なんとでも、勝手に夢を見るがいい。質問にはいっさい、返答をお断り申しあげた。しかし、今さらいやだとは、だれもいわなかった。
ぼくが、店にはいったときには、|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》は、カウンターのむこうがわで、バーテンダーを手つだっていた。実際、手つだいが必要だった。店は、お客でふくれあがっていた。
そのひとごみの中に、ゴーマンのそばかす顔は見つからなかったが、もう一人の、ロサンゼルス支社の探偵、フーバーの、斧のような形をした顔があった。ぼくの二つめの電報に応じて、駈けつけたものと知れた。キュウピーは、カウンターのずっとむこうのはずれで、客と酒を飲んでいた。相手の小男のおとなしい顔には、旅先ではめをはずしている恐妻亭主の、ひどくのんびりとした表情があった。女は、目顔で、ぼくに会釈をしたが、客のそばをはなれなかった。
|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》は、ぼくをにらみつけて、註文のビールの瓶をよこした。間もなく、ぼくの雇った四人組がはいってきた。その連中の演技ときたら、いやはや、まったくみごとなものだった!
まず、タバコの煙りをすかして、一人一人の顔を丹念にのぞきこみ、相手と視線が合うと、あわてて眼をそらした。そのうちに、フィリピン人が、カウンターのむこうに、ぼくのいった通りの人物を見つけだした。発見の興奮に、思わず、片足をガタンといわせたが、当の相手の|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》が、こちらを見ているのに気がつくと、急に背なかをむけてもじもじとした。ほかの三人にも、がちょう首が、それとわかった。めいめいこそこそと盗み見するその様子は、かえって、つけひげをひけらかすほども、ひと目についた。がちょう首は、眼をむいて、四人組をにらみつけた。
フィリピン人が、ぼくをふりむいて、ひょこっと、首をすくめるが早いか、外に逃げだした。のこった三人は、自分の酒を、無我夢中で、食道に流しこみながら、ぼくの眼をつかまえようと、やっきになった。ぼくは、そ知らぬ顔で、カウンターの奥の壁にかかった看板の文字を読んでいた。
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当店でお出しするウィスキーは、
米国産、英国産とも、すべて、
正真正銘の戦前ものばかりです
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この文句の中に、うそがいくつあるか、それを、数えにかかった。もっとでもありそうだったが、とにかく、四つまでかぞえあげたときに、ぼくとぐるの連中の一人、ギリシャ人が、まるで、ガソリン・エンジンの逆火《バックファイア》のような、とほうもなく大きな咳ばらいをした。|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》は、手に、ビール樽の栓ぬき金具をにぎり、血相をかえて、カウンターから乗りだしていた。
ぼくは、仲間のほうに、視線をむけた。合図も、一人一人べつだったのなら、それほどのこともなかったろうが、連中は、ぼくが、視線をそらさないうちに、なんとか自分の合図を、ぼくにみとめさせようと、一所懸命になっていた。三つの顔が、一しょにペコリとうなずいた――二十フィート以内にいるひとなら、だれであろうと、見のがしっこのないような、また、実際、見のがしたひともないようなすさまじい合図だった――と思ったとたんに三人とも、なが首男と、ピール樽の栓ぬきに、恐れをなして、ドアから、とびだして行った。
ぼくは、ビールのグラスを空っぽにしてから、ぶらぶらとなにげなく、店を出た。四人組は、ぼくのいった場所に、かたまって、待っていた。
「おぼえたぜ! 忘れないぞ!」異口同音のコーラスだった。
「そいつはよかったな」ぼくはおだてあげてやった。「まったく、たいしたもんだ。君たち、まるで生れつきの刑事みたいじゃないの。さあ、お駄賃だ。ところで、ぼくだったら、あんな場所には、二度と行くまいと思うがね。なぜって、みんな、感づかれないように、なかなかうまくやったが――いや、すばらしかったよ!――それでも、ひょっとすると、むこうは、なにか臭いととっているかもしれんからね。いずれにしたって、わざわざ火のなかの栗を拾いに行くことはないさ」
四人は、めいめい、約束の金を、わしづかみにして、ぼくの演説のおわらないうちに、どこかへ消えてしまった。
フーバーが、ぼくのホテルの部屋にやってきたのは、その夜なかの、二時ちょっと前だった。
「|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》はいなくなったよ。あんたが、この前、あの店に行ったときから、やつのあとを尾けているゴーマンもいっしょだ。あれから、例の女は、町はずれの天日《アドービ》煉瓦づくりの家に行って、おれの引きあげるときにも、まだそこにいた。中は、まっ暗だったがね」
ゴーマンは、顔を見せなかった。
次の朝十時に、ホテルのボーイが、電報をとどけにきて、おこされた。電報は、メキシカリからだった。
サク夜、当地マデ、ドライヴ」仲間トオチアイ、電報ヲ、二通ウッタ」ゴーマン
いい|知らせ《ニューズ》だった。あの首のながい男は、まんまと、ぼくの計略にひっかかって、四人の文無しのばくち打ちを、てっきり、目撃証人だと思いこみ、それが、自分を当人と見きわめて、ぼくに、合図したものと、早合点したのだ。実際に手をくだして殺したのは、|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》なのだ。その|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》が、風をくらって逃げだした。
パジャマをぬぎ捨てて、コンビネーションに手をのばした時に、また、ボーイが、もう一通の電報を、とどけてきた。
アッシュクラフト、サク日、失踪シタ
ぼくは、電話で、フーバーを、ベッドから、ひきずりだした。
「すぐに、ティファナに行ってもらいたい。例の女が、ゴールデン・ホース・シューにいなかったら、昨夜、君のひきあげるときに、女のいた家で、テキのあらわれるのを待つんだ。その女が、金髪のガラの大きな、イギリス人の男と会うまでねばって、こんどは、男のほうに、乗りかえるんだ。まだ四十には手のとどかない、背の高い、青い眼をした、黄いろっぽい髪の男だがね。男にまかれないようにしてくれよ――そいつが、今のところ、こんどの事件での大ものだからな。ぼくも、出かける。そのイギリス人が、ぼくといっしょになって、女が、ぼくたちをはなれるようなことがあったら、君には、女のほうについてもらうが、そうでなければ、どこまでも、男につきまとってほしい」
ぼくは、着がえをすませて、朝めしをたべ、メキシコ行きのバスをつかまえた。運転手は、かなり飛ばしたが、それでも、パーム・シティの近辺で、一台のエビ茶いろのロードスター型の車が、バスを追いこしたときには、ご想像の通り、ただ見送るよりしかたがなかった。そのロードスターを走らせていたのが、ほかならぬアッシュクラフトだったのだが。
おなじロードスターに、次にまたお目にかかった時には、それは、空っぽで、天日《アドービ》煉瓦の家の前に、とまっていた。フーバーは、となりのブロックのあたりで、酔っぱらったまねをしながら、メキシコ陸軍の制服を着た二人のインディアンを相手に、くだをまいていた。
ぼくは天日《アドービ》煉瓦づくりの家のドアを、ノックした。
キュウピーの声で、「だあれ?」
「ぼくだよ――パーカーだ。今、エドがもどったって、きいたもんだからね」
「まあ!」大きな声だった。しばらく間をおいて、「おはいりよ」
ぼくは、ドアを押して、なかにはいった。イギリス人は、椅子の背に、もたれかかっていた。右の肘を、テーブルにかけ、その手の先は、上衣のポケットにはいっていた――ポケットの中に、ピストルがあるとすれば、その銃口は、ぼくをねらっていた。
「やあ」むこうから、声がかかった。「おれのことで、だいぶいい加減なデマをとばしてくれたってね」
「デマとでもなんとでも、すきのようにいうさ」ぼくは、手ぢかの椅子を、相手の二フィート前まで、押してきて、それに、腰をおろした。「だが、おたがいに、ごまかしっこはなしにしよう。君は、細君の財産を、手に入れるために、|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》を使って、細君を殺させた。ところが、|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》みたいな|うすのろ《ヽヽヽヽ》に、それをやらせたのは、君のミステークだった――血も涙もない殺しかたをしておきながら、あとになって、そのことをひどく気に病んでいるような、けちなやつだからね。三人か四人の人間が、自分のほうを見たという、たったそれだけのことで早合点して、おろおろしてしまう! そのくせ、高とびするとなれば、それが、ほんのメキシカリくんだりまで逃げだすのがせきの山とくる! まったく気のきいた行先をえらんだもんだよ! あれだけ脅えていれば、山ごしに、五、六時間のドライヴも、さぞかし、世界の涯てまでの旅路とも思えたことだろう!」
ぼくは、あごをうごかしつづけた。
「君は、バカじゃない。ぼくも、そうだ。ぼくは、君に手錠をかけて、北へ連れて行くつもりだが、べつにいそいでいるわけではない。今日が、だめなら、明日まで待とう。だれかが、よけいなおせっかいをしないかぎり、いつかは、君を、手に入れて見せる――そのくらいのことで、ぼくの心は、痛みやしない。ぼくのチョッキの内ポケットに、ピストルがある。が、キュウピーにいいつけてそれをとりあげさせれば、それで、おたがいに打ちあけた話をする用意は、万端できたことになる」
相手の男は、眼を、ぼくからはなさずに、ゆっくりとうなずいた。女が、背なかのほうから、ぼくにちかづいてきた。女の片手が、肩ごしにのびて、ぼくのチョッキの下から、古い黒しあげのピストルを、抜きとった。女は、いつも、肌身につけているナイフのさきを、ほんのしばらく、ぼくの首すじに押しあててから、はなれて行った――意味ありげなほのめかしだった。
「それでいい」女が、そのピストルをイギリス人にわたし、男が、左手で、それを、ポケットにしまいこむと、ぼくは、ことばをつづけた。「ところで、ぼくのもくろみはこうだ。つまり、君とキュウピーとは、ぼくといっしょに、同じ車で国境をこえる――そうすれば、国外逃亡犯人引きわたしの、面倒くさい書類をつくらなくてすむ――それからぼくは、君を、拘置所に送りこむ。決着は、おたがいに、法廷でつけることにしよう。ぼくだって、君たち二人のどっちかに、殺人の罪をかぶせることができる、と、絶対の自信があるわけではない。もし、ぼくの負けということなら、君は、自由の身になれる。ぼくが、勝てば――勝つつもりだが――むろん、君は、絞首台行きだ。
逃げたところで、どうなるかね? のこりの一生を、警察の眼をかすめて、肩身をせまくすごそうとでもいうのかな?
とどのつまり、逮捕されるか――さもなければ、逃《ず》らかろうとして、撃ち殺されるぐらいのことではないだろうか? ひょっとして、生命は、たすかるかもしれんが、それにしても、細君ののこした金のほうは、どうなる? その金があればこそ、君も、あぶない橋をわたろうとしているんだからね――君が、細君を殺させたのも、その金が目あてだった。法廷に出れば、それを、自分のものにするチャンスもないではない。高とびするのは、せっかくのお宝に、さよならのキスをするようなもんだ」
ぼくのたくらみは、今のところ、エドと女とが、逃げるようにしむけることだった。相手が、こっちのいうなりに拘置所にはいってくれれば、あるいは、二人のうちどっちかに、有罪の判決を、たたかいとることができるかもしれないが、それも、絶対に確実というわけではない。今後、どんな事実が、どう展開してくるかにかかっているのだ。つまり、事件の当夜、|がちよう首《ヽヽヽヽヽ》が、サンフランシスコにいた、というそのことを、ぼくが立証できるかどうかにかかっているのだが、それにしたところで、相手もさるもの、ありとあらゆる反証を、充分に用意しているはずだ、とにらんでいる。ミセス・アッシュクラフトの家にも、犯人の指紋は、ただのひとつすら、見つけだすことができなかった。だから、たとえ、その人物が、当時、サンフランシスコにいたことを、ぼく自身の力で、陪審に納得させることができたとしても、その次には、ほかならぬその男が、殺人を犯したのだということを、あきらかにしてみせねばならないことになるだろう。そのあとにも、ぼくには、まだ、大変な仕事がのこっている――かれが、自分自身の理由からでなく、ここにいるこの二人のどちらかのために、罪を犯したということを、証明して見せなければならない。
ぼくが今苦労しているのは、このひと組の男と女とを、世間の眼のとどかないところにかたづけてしまうことなのだ。二人が、身をかくしていてくれるかぎりは、どこへ行こうがなにをしようが、知ったことではない。この二人に、ぼくの手間賃を出させるには、運と、それから自分の智慧とを信頼することにしよう――さしあたっては、事実をゆさぶりだしにかかっているところなのだから。
イギリス人は、一所懸命に考えこんでいる。ぼくが|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》のフリンについていったことを気にしているのは、よくわかった。やがて、くっくっと笑いをもらした。
「君も、苦労を知らない、おひとよしだよ。しかし、君は――」
相手が、なにをいおうとしているのか――ぼくが、勝つのか、負けるのか、それは、見当がつかなかった。
いきなり、おもてのドアが、バタンとあいて、|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》のフリンが、部屋にはいってきた。|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》の服は、ホコリで白くなっていた。長い黄いろい首の長さいっぱいに、顔を、前に突きだしていた。
靴のボタンのような眼は、ぼくの顔に、釘づけになっていた。両手がかえった。見えたのは、それだけだった。あっさりと、両手がかえった――そしてその両手には、大きな回転胴式のピストルが、ひとつずつにぎられていた。
「手前の両手を、テープルの上にのせろ、エド」|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》が、どなりつけた。
エドのほうは――ポケットのなかで、ピストルをにぎっていたのだとしても――テーブルの角が邪魔になって、戸口に立ちはだかった男を射つことができなかった。空っぽの両手を、ポケットから出して、手のひらを下に、テーブルの上にのせた。
「お前は、そこに、じっとしてるんだ!」女にむかって、吠えたてる。
|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》は、ほとんど一分ほどのあいだ、ぼくをにらみつけていた。
話しかけたのは、エドとキュウピーにむかってだった。
「おれに電報を打ちやがったのは、やっぱり、こんな目にあわせるためだったんだな、え? わなにかけやがった! おれは、貴様の身がわりだったんだ! ようし、身がわりになってやる! おれのやったことを、すっかりぶちまけてからここをとびだすんだ。くそいまいましいメキシコの軍隊が総がかりになったって、そんなものを、煙に巻くぐらい、わけはねえ! そうとも、おれは、貴様の女房を殺した――使用人たちもだ。連中を殺《や》ったのも、千ドルもらって――」
女が、一歩踏みだして、金切り声をはりあげた。「お黙りよ、この野郎!」
「おまえこそ、黙りやがれ!」|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》は、どなりかえして、ピストルの撃鉄を、親指であげた。それが、女を脅えさせた。「おれは、ぶちまけてやるんだ。おれが、貴様の女房を殺したのは――」
キュウピーが、身をかがめた。左手が、スカートの縁の下にはいった。出てきた手は空っぽだった。宙を飛んだ鋼鉄の刃に、|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》のピストルの吐いた火がうつって、キラリとひらめいた。
女のからだが、きりきり舞いをした――胸板をつらぬいたいく発かの弾丸に、たたきつけられたのだ。背なかが、壁にぶつかった。前のめりに床に倒れた。
|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》は、射つのをやめて、しゃべろうとした。その黄いろいのど首には、女の投げたナイフの茶いろい柄が、突ったっていた。さすがに、のどにささった刃《やいば》ごしに、ことばを出すことはできなかった。いっぽうのピストルを手から落して、とびでているナイフの柄を、つかもうとした。手は、途中まであがって、だらんと落ちた。からだが、ゆっくりとくずれて行った――膝をついた――両手をついて――横むきにころがり――そのまま、うごかなくなった。
ぼくは、イギリス人にとびかかって行った。|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》の落したピストルを踏んづけて、横ざまにひっくりかえった。そのはずみに片手が、イギリス人の上衣にかかったが、相手は、身をかわして、ピストルをとりだした。
エドの眼はかたく冷たく、口は、しっかりとむすばれて、細い一線となっていた。ぼくが、ころがったまま、じっとしているあいだに、むこうは、そろそろとあとずさりをした。ひとことも、口をきかなかった。戸口で、一瞬ためらった。ドアが、あいて、しまった。いなくなった。
ぼくは、つまずいたピストルを、すくいあげ、|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》のそばにとんで行って、冷たくなった手から、もうひとつのピストルをひったくるが早いか、通りにとびだした。えび茶いろのロードスターは、尻にほこりの雲を曳いて、沙漠のほうへ、走りだしていた。三十フィートむこうに、泥のこびりついた、黒い幌型の車がとまっていた。|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》が、メキシカリから走らせてきた車らしい。
ぼくは、それにとびのって、エンジンをスタートさせ、前方のほこりの雲に、鼻さきをむけた。
ふと気がつくと、ぼくの乗っかったこの車は、見かけのみすぼらしさにしては、思いのほか、力が強かった。エンジンの調子のいいことから、国境破り常習者の車とわかった。無理をせずに、いたわりながら走らせた。三十分ばかり、ほこりの雲を行手に見ながら、おたがいの距離は変らなかった。それから、だんだん、あいだをつめて行った。
道は悪くなった。道路らしい道路などは、とっくの昔に、なくなってしまっていた。車を、いくぶんいそがせたが、そのガタピシ飛んだりはねたりはすさまじいばかりだった。
大きな玉石にぶつかってはねとばされるところを、間一髪で避けた――胸をなでおろして、前を見ると、えび茶いろのロードスターは、もう砂利道にゆさぶられてはいなかった。とまっていた。
車は空だった。ぼくのほうは、走らせつづけた。
前のロードスターのかげから、こっちをねらうピストルの音が、三つ鳴った。よっぽどの名射手でなければ、あたりっこなかった。なにしろ、こっちは、神経質な人の手のひらの上の水銀の玉のように、シートの上で、ピョンピョンとはねとんでいるさいちゅうだったのだ。
もう一発、車のむこうから、射ってよこし、それから、いきなり、左手のせまい幅十フィートほどの、鋭く落ちこんだ地隙《ちげき》――アロヨーのほうへ駈けだした。その縁までくると、ふりかえりざまに、また一発射って身をおどらせたかと思うと、見えなくなった。
ぼくは、舵輪《ホイール》を、急角度にねじりながら、ブレーキのペダルを踏みつけて、相手の見えなくなった地点まで、黒い幌型の車をすべらせた。前の車輪の下で、地隙《アロヨー》の縁が、ぼろぼろとくずれおちた。ぼくは、ブレーキのペダルから、足をはなすのといっしょに、とびおりて、車を押しとばした。
車は、まっさかさまに、地面に口をあいた谷のなかへ、おちこんで行った。
ぼくは、両手に、|がちょう首《ヽヽヽヽヽ》のピストルを、一挺ずつにぎって、腹ばいになり、谷の縁から、頭をのぞかせた。イギリス人は、四つんばいのまま、さかおとしにせまってくる車を避けようと、はいずりまわっていた。車は、滅茶滅茶になっているが、まだエンジンは、まわっていた。男のかた手には、ピストル――ぼくの――があった。
「ピストルを捨てて、立ちあがるんだ。エド!」ぼくは、思いきりの声をはりあげた。
男は蛇のようなすばしこさで、からだをひねって、地隙《アロヨー》の底にすわりこみ、ピストルを、上にむけた――ぼくの射った二発目が、相手の前腕に命中した。
そばまですべりおりたときには、相手の男は、怪我をした腕を、左の手で押えていた。ぼくは、おちていたピストルを拾いあげ、ほかにもっていないことを確かめるために、男の身辺をさぐった。それから、ハンカチーフを、止血帯のようによじって、傷ついた腕をしばってやった。
「上にあがって、話そう」ぼくは、男をたすけながら、谷の急ながけを、よじのぼった。
地面にもどると、ぼくたちは、男のロードスターに乗りこんだ。
「さあ、どれだけでも、話すがいい」男がうながした。「だが、話したからって、このおれに、足りないところをいわせようというのは、むりだぜ。君は、おれのことを、なにひとつ、つかんでやしない。君の見た通り、キュウピーは、自分のことを告げ口させまいとして、がちょう首を殺した」
「君の思うつぼだったというわけだね?」ぼくはたずねた。「あの女は、君が、自分を捨てて、自分の世界にもどって行こうとしているのを、感づくと――嫉妬心からがちょう首を雇って、君の細君を殺させたということかな?」
「その通りだ」
「悪くない筋書きだがね、エド。しかし、つじつまのあわないところが、ひとつだけあるよ。君は、アッシュクラフトじゃない!」
男は、とぴあがって、それから、大声で笑いだした。「一所懸命の甲斐があって、君の目も、だいぶ高くなったようだな」男は、からかうような口調だった。「このおれが、ひとの細君を、だましおおせたというのかね? あの女の弁護士のリチモンドが、おれに、自分の身もとを証明させずにいると思うのかね?」
「なるほどね、エド。しかし、どうやら君たち二人よりも、ぼくのほうが、ちっとはスマートなようだ。君が、アッシュクラフトのもちものを――書類とか、手紙とか、その男の自分で書いたものなどを、どっさり手に入れていたとすれば、どうだ? 弁護士のことなら――君に、自分の身もと証明させるのは、ほんの形式上の問題だからな。君が、アッシュクラフトでない、と、そんな疑いはひとかけらだっておこしっこないさ。
最初、君がたくらんだのは、ミセス・アッシュクラフトから――中毒を癒すための――小づかい銭をしぼりとることだった。ところが、あの細君が、イングランドの家をたたんでこっちへわたってきてからは、いっそのことに相手を亡きものにして、根こそぎ自分のものにすることにきめた。あの女が、みなし児で、よけいなくちばしを入れる身よりもないことは、知っていた。自分をアッシュクラフトでないといえる人間が、アメリカに、それほど|たんと《ヽヽヽ》はいないことも、知っていた」
「そんなら、おれが、そのアッシュクラフトの金を使っているあいだ、ご本人のほうは、どこにどうしていたということになるんだね」
「生きちゃいないのさ」
そのぼくのことばには、相手も、ぎくりとしたが、べつにさわぎたてるでもなかった。しかし、顔にたたえた微笑の奥で、眼には、考えこむような表情があった。
「それは、君のいうことが、ほんとかもしれん」わざと間ののびた話しぶりをした。「だが、たとえ、そうだとしても、君が、どんな方法で、このおれを絞首台に追いあげるつもりなのか、それがわからない。キュウピーが、おれをアッシュクラフトだとは思っていなかった。と、それを、君は、証明できるのかね? ミセス・アッシュクラフトが、おれに金を送ってよこしていたわけを、あの女が、知っていた、と、証明できるかね? おれのたくらみを、その端しくれでも知っていたと、証明できるかね? とてもできそうにないな」
「なるほど、うまくきりぬけられそうだな」ぼくは、うなずいて見せた。「陪審は、なかなか気まぐれだからね。それにしても、打ちあけた話だが、こんどの事件に関して、ぼくのまだ知らずにいることが、すこしでも知れたらぼくは、嬉しいよ。どうだろう、君が、アッシュクラフトと入れかわったひと幕の真相を、ぼくに教えてくれないかね?」
男はくちびるをすぼめ、それから、肩をすくめて見せた。
「よし、教えてやろう。どうせ、たいしたかわりはあるまいからね。どっちみち、その件を、徹底的にしらべあげられることになるのなら、つけたりのけちな窃盗罪を白状したところで、どうということもあるまい。おれの渡世は、ホテルの空巣ねらいだった」イギリス人はしばらく黙っていたあげくに、口をひらいた。
「イングランドが、住みづらくなって、アメリカにわたってきた。ある晩のこと、シアトルのホテルで、おれは、錠前をうまくあけて、四階の一室に、しのびこんだ。うしろ手に、ドアをしめないうちに、べつの鍵を、ガチャガチャいわせる音がした。部屋のなかは、まっ暗だった。おれは、危険を承知で、もっていた懐中電燈を、パッとひと照らしして、押し入れのドアを見つけそのなかにかくれた。
押し入れは、空っぽだった。部屋の主が、とりにくるようなものは、なにひとつなかったのだから、運がよかったわけだ。そのじぶんには、部屋の主――男だった――は、あかりを点けていた。やつは、部屋の中を、あるきはじめた。それが、往ったりきたり、たっぷり三時間もつづいたもんだ。そのあいだ、おれは、いきなりあけられた場合の用心に、ピストルをにぎりしめて、押し入れのドアのうしろに突ったっていた。往ったりきたりが、まるまる三時間だぜ、それから、やっと、椅子に、腰をおろした。紙の上を走るペンの音がきこえた。十分ばかりすると、またあるきだした。しかし、こんどは、ほんの四、五分ほどだけだった。かばんの錠を、パチンといわせる音がした。そして、ドカンと一発だ!
おれは、押し入れから、とびだした。部屋の主の男は、頭の横っちょに弾丸の穴をあけて、床の上に伸びていた。おれにとっては、運の悪いことだった。逃がれっこない! 廊下のほうで、がやがやとさわぎたてる気配がした。おれは、死んだやつをまたぎこして、書きもの机の上に、今まで書いていた手紙を、見つけだした。イングランド、ブリストルのワイン・ストリートの番地で、ミセス・アッシュクラフトに宛てた手紙だった。おれは、封筒をやぶってあけた。自殺をする、と書いてあった。署名《サイン》は、ノーマンとなっていた。これさえあれば、他殺と疑われることはない。
だが、このおれが――下の階で盗んだひとつかみほどの宝石類は、べつにしても――懐中電燈と、合鍵と、それに、ピストルまでもって、おなじ部屋に、うろうろしている。だれかがドアを、ノックした。
警察を呼んでくれ! おれは、ドアごしにどなった。時間をかせぐためだ。
それから、おれを、そんな目に会わせてくれた男のほうへとってかえした。そいつは、たとえ、手紙の宛名を見なかったとしても、ひと目で、おれとおなじイギリス人とわかる男だった。そいつもいっしょにして、おれたちとおなじような姿恰好の人間――金髪で、かなり背が高く、姿勢のいい――は、なん千人となくいる。おれは、いちかばちかの綱わたりをすることにきめた。その男の帽子と外套は、椅子の上にほうり投げたままになっていた。おれは、それを身につけて、自分の帽子を、死んだ男のそばにおとした。膝をついて、おれのとその男のと、両方のポケットを、空にして、おたがいになかみをとっかえっこした。ピストルもとりかえた上でドアをあけた。
おれの目算《つもり》では、とっぱじめに駈けつけてくるやつは、部屋の主の顔を知らないか、さもなければ、知っていても、すぐには見わけがつかないかもしれないということだった。目算通りに行けば、おれは、自分が殺されたことにとりつくろう数秒のヒマが、かせげるはずだった。ところが、ドアをあけると、せっかくの思いつきが、うまく運びそうにないことがわかった。そこにいたのは、ホテルのお雇い探偵と、一人の警官だった。おれは、観念した。しかし、とにかく、おれは、自分の筋書きをそのまま押しすすめた。よそから、自分の部崖に帰ってきてみると、その床にころがっている男が、もちものをあさっているところにぶつかった。ひっつかまえて、もみあっているうちに、射ち殺してしまった、と、そう説明した。
なん分かの過ぎるのが、なん時間ものように思えた。おれは、だれにも責められなかった。みんなが、おれのことをミスタ・アッシュクラフトと呼んだ。おれの変身術は、みごとに成功したのだ。自分ながら、息のつまるほどの驚きだったが、のちになって、アッシュクラフトのことを、もっとよく知ってみれば、なんのことはなかった。やつは、その日の午後、ホテルに着いたばかりで、帽子に外套――おれの身につけていた帽子と外套だ――を着たところしか、だれにも見られていなかったのだった。おたがいに、がらとタイプ――典型的な金髪《ブロンド》青眼のイギリス人という――が、ソックリおなじだった。
もうひとつ、思いがけないことがあった。探偵が、死んだ男の着衣をあらためてみると、仕立て屋のマークがはぎとられていた。あとになって読んだその男の日記から、そのことは、説明がついた。やつは、自殺しようか、それとも、名前までかえて、自分だけの安住の地を見つけだそうか、と、その二つの考えに迷って、心のなかで、投げた銅貨の裏表を占っていたのだった。のこらずの衣類から、マークをはぎとってしまったのは、名前をかえることを考えていたあいだのことだったのだ。だが、そんなことは、大ぜいにとりかこまれていたおれには、わからなかった。わかったのは、奇蹟がおこりかけているというそのことだけだった。
その当座は、できるだけ、口をつつしんでいなければならなかったが、死んだ男のもちものを、丹念にしらべあげてしまうと、おれは、やつの心のなかから、上っつらまで、過去のことから、現在のことまで、なにもかも知りつくした。書類は、山ほどあった。日記には、自分のやったこと、考えたこと、なにもかもが、のこらず書きつけてあった。おれは、最初の晩から、そうした書類や日記を勉強し――おぼえこみ――署名をまねることにとりかかった。ほかのことはともかく、やつのポケットからとりあげたもののなかに、額面千五百ドルの旅客用小切手《トラヴェラーズ・チェック》があり、おれは、次の朝にも、それを現金にしたかったのだ。
おれは、三日間――ノーマン・アッシュクラフトになりすまして、シアトルに滞在した。思いもよらぬ豪勢な目に会って、それを、あっさりと投げ捨てる気になれなかった。なにをどうしくじったところで、細君に宛てたあの手紙がありさえすれば、万が一にも、ひと殺しの罪をしょわされる気づかいはなかった。それに、早まって逃げだすよりは、成り行きを見とどけたほうが安全だった。さわぎがしずまるのを待って、おれは、身のまわりのものをとりまとめ、サンフランシスコにうつり、自分の本名――エドワード・ボハノン――にもどった。しかし、アッシュクラフト家の財産との縁は、あいかわらず、しっかりとつながっていた。というのは、やつの細君が、金もちだということは、知っていたし、こっちが、うまく立ちまわれば、その金のわけ前にあずかれることもわかったからだった。ところが、うまく立ちまわるまでもなく、むこうから、救いの手が伸びてきた。たまたま、細君が、『エクザミナー』紙に出した広告にぶつかり、おれは、さっそく、返事の手紙を書き送った。そこで――つまり、ここにこうしているわけだ」
「しかし、ミセス・アッシュクラフトを殺させたのは、自分ではない、と、そういうんだね?」
相手は、うなずいた。
ぼくは、ポケットから、タバコの包みを出し、二本抜きとって、それを、二人のあいだのシートの上においた。
「ひとつ、ゲームをやろう。ぼく自身の気がすめばいいことなんだがね。それで、だれかがどうなるというようなことじゃない――なにが証明されるというわけでもない。もし、君が実際に、なにかをやったのだったら、その君にちかいほうのタバコをとりたまえ。やらなかったのなら、ぼくにちかいほうのをとるんだ。やってみるかね?」
「いや、やらん」男の口調には、力がこもっていた。
「そんなゲームは、きらいだ。しかし、おれは、タバコが吸いたい」
男は怪我をしていないほうの手をのばして、|ぼくにちかい《ヽヽヽヽヽヽ》タバコを、つまみあげた。
「ありがとう、エド。ところで、こんなことは、いいたくないんだが、君は、絞首台にのぼってもらうことになりそうだな」
「君も、血のめぐりがよくないね」
「エド、君は、サンフランシスコの一件を頭においているようだが、ぼくのいっているのは、シアトルの件なんだ。ホテル専門のこそ泥かせぎをやっていた君は、ある部屋で、頭に弾丸の穴をあけて死んだばかりの男といっしょのところを発見された。陪審が、そのことをどう解釈すると思うかね、エド?」
男は、ぼくの顔をめがけて、笑いだした。やがて、その笑い声に、なにか、お門ちがいのものが、まじりこんだ。笑いが消えて、気もちの悪いニヤニヤ顔になった。
「そうら見ろ。君がミセス・アッシュクラフトを殺させて、財産をのこらず、自分が相続するという思いつきの実行にとりかかったときに、最初にやったのは、その女の亭主の遺書をやぶり捨ててしまうことだった。どんなに用心をして、かくしておいたところで、いつなんどき、偶然のことから、それがあばきだされ、自分のせっかくのたくらみが、水の泡にならないともかぎらない。はたすだけの役割は、はたしてしまったし――今さら、そんなものが必要となることもあるまい。それを、わざわざだいじにとっといて、見つけだされる危険をおかすのは、バカげた話だろうね。君は、サンフランシスコの殺人の筋書きも、自分で書いた。それを、君のせいにすることは、残念ながら、ぼくにはできない。しかし、シアトルで、君が、実際には、手をくださなかった事件を武器にして、君を、どやしつけることはできる――どっちみち、法律は、ごまかされずにすむわけだ。エド、君は、シアトルに行って、アッシュクラフトの自殺の一件で、首をくくられることになるんだぜ」
その通りの結末だった。
[#改ページ]
だれがボブ・ティールを殺したか
「昨夜、ティールが殺《や》られたんだがね」|おやじ《オールドマン》――コンティネンタル探偵社のサンフランシスコ支社長――は、ぼくの顔を見ずに、口をうごかした。その声は、顔の微笑とおなじように、おだやかだったし、心のなかの煮えくりかえるばかりの感情の混乱を、それと知らせる徴候《しるし》は、どこにもなかった。
ぼくが、おち着きはらって、おやじの次のことばを待っていたとしても、それは、そのニューズが、ぼくには関係のないよそごとだったからではなかった。ぼくは、ボブ・ティールがすきだった――だれもがそうだった。二年前に、カレッジを出たばかりのほやほやの新人として、社にはいってきた男だった。生れながらに一流の探偵の素質をそなえた人間というものがあるとすれば、そのすらりとやせた、肩幅の広いやつこそは、そんな人間だった。二年といえば、探偵術の第一課を身につけるにも足りない年月なのだが、眼のすばしこい、神経の冷静な、頭のバランスのとれた、仕事には精根を打ちこむボブ・ティールは、早くも、ひとかどの専門家になりかけていた。ぼくは、自分が、やつの手ほどきのほとんどをしてやったこともあって、父親らしいといっていいほどの関心を、やつによせていたのだった。
|おやじ《オールドマン》はあいかわらず、ぼくの顔から眼をそらせたまま、ことばをつづけた。肘の先にあるあけっぱなした窓にむかってしゃべる恰好だった。
「三二口径で、二度、心臓のまんなかを射ちぬかれたんだ。昨夜十時ごろに、ハイド街とエディ街との角の空地に立ちならぶ看板のうしろで、射たれたんだがね。死体は、十一時をすこしまわったじぶんに、パトロールの警官に発見された。ピストルは、十五フィートばかりはなれたところにあった。ぼくは、自分で見に行って、そのへんをしらべた。昨夜の雨が、地面にあったかもしれない手がかりを、のこらず洗い流してしまっていたが、ティールの着衣の模様とか、発見された位置などから、まずまず、乱闘の様子はなく、また、あとからそこへはこばれたのでもなく、発見された地点で射たれたようだった。倒れていたのは看板のうしろ、歩道から三十フィートほどはなれたあたりだった。手には、なにももっていなかった。ピストルは、上衣の胸に焼け焦げのできるほどの至近距離から、発射されている。ピストルの発射を見たりきいたりした人間は、一人もいないらしい。雨と風がはげしかったから、街には出あるく人間もなく、三二口径の、どっちみち格別大きいわけでもない発射音が、かき消されてしまったのだろう」
おやじの鉛筆が、コツコツと、デスクをたたきはじめた。その静かなひびきが、かえって、ぼくの神経を、いらだたせた。やがて、その音もやんで、おやじは、話をすすめた。
「ティールは、ハーバート・ホウィッタカーという相手を尾けていた――その日が三日目だった。ホウィッタカーは、農地開発を業とするオグバーン・アンド・ホウィッタカー商会の共同経営者の一人だった。その商会は、ほうぼうの新灌漑地区に、広大な土地の権利をもっていた。オグバーンが、販売のほうを受けもち、ホウィッタカーは、それ以外の会計もふくめた仕事を、引き受けていた。
先週、オグバーンは、自分の相棒が帳簿をごまかしているのを見つけだした。帳簿には、土地の代金支払いが幾項目か記入してあったが、しらべてみると、その支払いは、実際には行われていなかった。ホウィッタカーの詐取した金額は、十五万ドルから三十五万ドルのあいだと見つもられた。オグバーンは、三日前に、わしをたずねてきて、そのことを打ちあけ、ホウィッタカーが、ごまかし金で、なにをやっているのか、それをつきとめるために、本人を尾行してもらいたいと頼んだ。商会としては、まだ共同経営のたて前になっているのだから、経営者の一人が、相手を、詐取のかどで訴えることはむろんできない。したがって、オグバーンは、相棒を逮捕するわけには行かないのだが、詐取された現金の所在をつきとめ、行政処分でとりもどすことを望んだのだ。また、ホウィッタカーが行方をくらますかもしれないともあやうんでいた。
わしは、ティールに、ホウィッタカーを尾けさせた。当人は、自分が、相棒に疑ぐられているとは、気がついていないはずだった。そこで、こんどは、君に、ホウィッタカーをさがしだしてもらいたいのだ。わしは、たとえ、いっさいのおきまり仕事をうっちゃらかして、ありったけの人間を、一年のあいだ、そっくり注ぎこんででも、その人間を見つけだし、法廷にひきずりだしてやるつもりでいる。ティールの報告書は、係にいって出してもらいたまえ。わしには、連絡をおこたらないように頼む」
これだけの話も、|おやじ《オールドマン》の口からきけば、そこらの人間が血で書いた誓書どころではない、真実のひびきがこもっていた。
担当の係に行ってみると、ボブの報告書は、二通あった。むろん昨日のぶんはなかった。その夜、仕事がすんでから書くつもりだったのだろうから、当然のことだ。二通の報告書のうち、最初のぶんは、すでにコピーができていて、オグバーンにも送った。もう一通は、タイピストが、コピーをたたいているところだった。
ボブが、報告書に書いているところによると、ホウィッタカーは、齢のころ、三十七、八、髪の毛と服は茶いろ、態度は神経質、ふつうの肌いろの顔をきれいに剃りあげ、どっちかというと小さいめの足をした男だった。身長は、約五フィート八インチ、体重は、約百五十ポンド、はでではないが流行の服を着こんでいる。ガフ街のアパートに、細君といっしょに住んでいる。子どもはない。ミセス・ホウィッタカーはボブが、オグバーンからきいたところでは、背の低い、よく肥えた、三十に手のとどきそうな金髪女だということである。
この事件を記憶しているひとたちは、それにからまる町の名も、探偵社の名も、関係したひとの名も、みんな、ぼくのここにあげたのとは、ちがっていることが、すぐにわかるだろう。しかし、それといっしょに、事実そのものには、すこしのうそもないこともわかるだろう。筋をはっきりさせるためには、ある程度、登場人物に名をあたえることが、必要なのだが、実名をもち出すことが、迷惑のたねとなったり、ときには、苦痛とさえなるおそれのある場合には、変名を使用するのが、一番適当した代案なのだ。
ボブは、ホウィッタカーを尾行して、結局、盗まれた金の行方をつきとめるのに役だちそうな事実は、なにひとつつかめなかったのだった。ホウィッタカーは、はたから見れば、いつもとすこしもかわりのない仕事をつづけ、ボブも、はっきり怪しいといえる素振りには、ぶつかっていない。しかし、ホウィッタカーは、ひどく神経をたかぶらせている様子で、確信があるわけではなく、ただなんとなく自分が尾けられている気がするらしく、しょっちゅう立ちどまっては、あたりを見まわした。ボブは、いく度か、感づかれるのを避けるために、尾行を中止しなければならなかった。これも、そういう場合のことだったが、ホウィッタカーの住居の付近で相手の帰ってくるのを待っているとき、ボブは、ミセス・ホウィッタカー――または、オグバーンのいった人相に符合する婦人――が、タクシーで出かけるのをみとめた。ボブは、その婦人を尾けようとはしなかったが、タクシーの番号を、書きとめた。
二通の報告書を、丹念に読み、ほとんどおぼえこんでしまうと、ぼくは、社をとび出して、パッカード・ビルディングのオグバーン・アンド・ホウィッタカー商会に行ってみた。速記嬢《ステノ》の案内で通された、趣味のいい調度に飾られた事務室のデスクにむかって、オグバーンは、手紙にサインをしていた。椅子をすすめてくれた。ぼくは、自己紹介をした。オグバーンは、中肉中背の、たぶん三十五才かと思われる男だった。茶いろの髪の毛を、きれいになでつけ、ぼくの観念によれば、雄弁家、弁護士、セールスマンなどにつきものであるはずの、二重にくくれたあごをしていた。
「ああ、そうでしたか!」オグバーンは、手紙を、わきへ押しやって、表情のよくうごく、知性的な顔をかがやかした。
「で、ミスタ・ティールは、なにか、つきとめてくれましたか?」
「ミスタ・ティールは、昨夜ピストルで射ち殺されました」
オグバーンは、茶いろの眼を大きくみはって、しばらく、あっけにとられたように、ぼくの顔をじっとみつめた。やがて、「射ち殺された?」と、ききかえした。
「そうです」ぼくは、自分の知っているわずかばかりのことを、話してきかせた。
「君は、まさか――」いいかけたことばが、とちゅうでつかえた、「君は、まさか、ハーブが、そんなことをやったと思っているんじゃありますまいね?」
「どうでしょう?」
「まさか、ハーブが、ひと殺しはやらんでしょう! この数日来、ひどく神経を立てていて、わたしも、悪事の露顕したことを感づいたかなと、そう思いはじめていたところだが、たとえ、ミスタ・ティールに尾行されていることを知ったとしても、そこまで極端なことをやったとは、思えませんな。とても思えない!」
「昨日のいつごろだか、ティールが、その盗んだ金のあり場所をつきとめ、それから、ホウィッタカーが、そのことを知ったとすればどうでしょう? そういう事情があったとすると、ホウィッタカーも、殺すぐらいのことをやりかねないとは思えませんか?」
「あるいはね」オグバーンは、ゆっくりとした口調だった。
「しかし、わたしとしては、そんなふうに考えたくありませんね。なにかうろたえるような目に会ったとっさのあいだになら、ハーブだって、ひょっとすると――いや、まさか、あの男が、そんなことをやるとは、とても思えないが」
「最後に会ったのは、いつです?」
「昨日です。ほとんど一日じゅう、この事務所でいっしょでしたからね。ハーブは、六時ちょっと前に、家に帰るといって、出て行きました。しかし、それから後に、わたしは、電話をしたのです。七時をすこしまわったころ、家に電話をかけてよこし、話があるので、訪ねて行きたいがということでした。わたしは、かれが自分の不正行為を白状するつもりなんだな、そういう気になったのなら、この悲しい事件も、わたしたちのあいだで、片をつけることができそうだと思いました。ところが、やってこないのです。気もちがかわったのだなと思いました。十時ごろ、細君から、電話がかかってきました。なにか、帰りみちに下町で買ってきてもらいたいものがあるということだったのですが、むろん、当のご本尊はきていないのです。わたしは、ひと晩じゅうまんじりともせず、待っていました。しかし、とうとう――」
オグバーンは、口ごもって、話をとぎらせた。顔が、さっと青ざめた。
「ああ、わたしは、もうだめだ!」やっと自分自身の立ち場がわかってきたというような、力のない口調だった。「ハーブに裏ぎられ、金をもって行かれ、これで、三年間のはたらきも、水の泡だ! しかも、法律の上からは、あの男の盗んだ金は、最後の一セントまで、わたしが、責任をとらなければならない。ああ、神さま!」
オグバーンは、自分のことばに反対してくれと訴えるような眼で、ぼくの顔を見たが、ぼくとしては、ホウィッタカーと、盗まれた金との両方をさがしだすために、できるだけのことをしよう、とうけあうよりほか、なんともしかたがなかった。電話で、自分の弁護士と連絡をとろうと、やっきになっているオグバーンをのこして、ぼくはいとまを告げた。
オグバーンの事務所から、ホウィッタカーのアパートにまわった。ガフ街の通りにまがったときに、一人のぶざまに大きな男が、アパートの玄関の石段をのぼって行くのを見かけた。すぐに、ジョージ・ディーンだとわかった。いっしょになろうといそぎながら、ぼくは、本署の殺人課の数あるつわもののなかで、えりにえってこの男が、こんどの事件の担当となったことを、残念に思った。ディーンの腕がなまくらだというのではないが、ほかの連中にくらべると、いっしょの仕事をやる相棒として、申しぶんなしというわけには行かなかった。要するに、ジョージ・ディーンという男は、どたん場になって、自分が、頭のよい刑事だったということで、評判になるように、なにか重要なデータを、自分だけのものにしてかくしていないとは、どうしても確信のもてないような相手なのだ。こういう性質《たち》の男といっしょに、仕事をやっていると、いつの間にか、自分までがおなじくせにそまってしまう――ティームワークという点では、まことに始末の悪いくせだった。
ぼくは、ディーンが、アパートの玄関で、ホウィッタカーのベルのボタンを押しているところへ、追いついた。
「よう」ぼくは、声をかけた。「君が、担当なのか?」
「うふう。なにか、つかんだかね?」
「ぜんぜんだ。引き受けたばかりだからな」
玄関のドアが、カチリと音を立ててあいた。ぼくたちは、いっしょに三階のホウィッタカーの部屋まで、のぼって行った。淡青色の仕事着《ハウス・ドレス》の、肥った金髪の女が、ドアをあけてくれた。肉づきのいい、動作の鈍そうな、それでも、ちょっと可愛らしい女だった。
「ミセス・ホウィッタカーですな?」ディーンがたずねた。
「はい」
「ミスタ・ホウィッタカーは、お宅ですか?」
「いいえ。今朝、ロサンゼルスに参りました」うそを吐いている顔ではなかった。
「連絡をとるとすれば、その先は、わかっておりますか?」
「たぶん、アンバサダ・ホテルと思いますけど、明日には、もどってくるはずですわ」
ディーンは、警官バッジを見せた。
「すこしぱかり、おたずねしたいことがあるんですがね」ミセス・ホウィッタカーは、べつにおどろいた顔もせずに、ドアを大きくあけて、ぼくたちを通した。青とクリームいろとによそおわれた居間に、案内され、めいめい椅子をあてがわれた。女は、むかいあった大きな青いろのなが椅子に、腰をおろした。
「ご主人は、昨夜、どこでした?」ディーンがきいた。
「家にいましたけど。どうしてですの?」女のまるい青い眼に、かすかに不審のいろがうかんだ。
「ひと晩じゅうですか?」
「ええ、いやな雨のふる晩でしたから。なぜ、そんなことを?」女は、ディーンからぼくへと、眼をうつした。
ディーンの眼が、ぼくの眼とあった。ぼくはその眼にあらわれた疑問に、うなずいて見せた。
「ミセス・ホウィッタカー」ディーンがぶっきら棒に呼びかけた。「実は、ご主人に、逮捕令状が出ておるんですがね」
「逮捕令状が? どんな理由ででしょう?」
「殺人の容疑です」
「殺人の?」のどをつまらせた悲鳴だった。
「さよう。それが、昨夜のことなんです」
「でも――でも、さっき申しあげたように昨夜は、あのひと――」
「オグバーンにきいたんですがね」ぼくが前にのりだして、女のことばをさえぎった。「昨夜、奥さんが、電話をかけてきて、ご主人が、訪ねて行っているかどうかをきかれたということでしたが」
十秒ばかりのあいだ、女は、あっけにとられたように、ぼくの顔をみつめた。それから、急に笑いだした。なにか、気がるな冗談のたねにされた人のような、濁りのない笑い声だった。
「負けですわ」その顔と声には、露ほども、恥とか、不面目とか、そういう表情はなかった。「ところで」――面白がっている態度は、なくなっていた――「わたし、ハーブが、どういうものなのか、自分の立場が、どういうものなのか、なにひとつ存じませんし、弁護士と相談の上でなければ、おしゃべりをしてはいけないのでしょうけど、でも、わたし、できるだけ、自分で、この難局を切りぬけたいと思います。あなたが、ほんとに包みかくしなく、打ち割った事情を話してくだされば、わたしも、知っていることがあれば、それをお話しする気になるかもしれません。つまり、お話しすることで、わたしの気もちが楽になるのだったら、あなたがたが、そのことを、わたしにわからせてくだされば、わたしも、お話しできるかもしれないということなんです――もし、わたしの知っていることがあるのならばですけど」
いささか思いがけない申し出ではあるにしても、いかにももっともなことだと思えた。このなにくわぬ顔で、うそを吐くこともできれば、うっかりつまずいたときには、笑ってごまかしもする。肥った女は、なによりも、自分自身の安楽だけが、気がかりのようだった。
「君から話してやれよ」ディーンが、ぼくをうながした。ぼくは、なにもかもいっしょくたにして、ぶちまけた。
「ご主人は、ここしばらくのあいだ、ずっと帳簿をごまかしつづけて、オグバーンの気がつくまでに、二十万ドルなにがしかの金を相棒からくすねていたのです。オグバーンは、それに感づいて、金のありかを突きとめるために、ご主人を、尾行させました。昨夜、ご主人は、自分を尾けている男を、ある空き地にひっぱりこんで、射ち殺したのです」
女は、考えこむように、顔をしかめた。長椅子のうしろのテーブルの上にあった、ごくありふれた銘がらのタバコの包みに、手をのばし、それを、ディーンとぼくにすすめた。機械的な動作だった。ぼくたちは、頭を振った。女は、一本抜きとって、自分の口にくわえ、部屋ばきの底で、マッチを擦って、タバコに火を点け、赤くなったさきを、じっとみつめた。それから、しまいに、肩をすぼめ、あたり前の顔にもどって、ぼくたちのほうへ、眼をあげた。
「お話ししましょう。わたしは、そのお金を、これっぽちも自分のものにはしていませんし、自分からハーブの身代りに立つほどのおひとよしでもありません。あのひとは、いいひとですわ。でも、わたしをうっちゃらかして逃げたのだとすると、わたしが、そんなことで、いくら苦労したところで、苦労のしがいはありません。じつは、わたし、宿帳の上ではともかくとして、ミセス・ホウィッタカーと名乗れるほどの身分ではありませんのよ。わたしの名は、メェ・ランディスといいます。ほんものの、ミセス・ホウィッタカーが、どこかにいるのかいないのかわたしぞんじません。ハーブとわたしとは、一年以上のあいだ、ここにいっしょに暮しています。
ひと月ばかり前に、あのひとは、神経質になって、いらいらしはじめました。それが、いつになく、ひどいのです。仕事のことで心配があるということでした。それから、二日ほど前に、わたしは、自分が、ここにきてからずっと、そこからもちだしたことのないピストルが、ひきだしにないことに気がつきました。わたしは、『いったいなにを思いついたの?』と、あのひとにたずねました。すると、あのひとは、自分が尾行されているような気がする、と、そういい、このあたりに、わたしたちの部屋を見はっているらしい人間がうろうろしているのを見かけないか、とききかえすのです。わたしは、見かけないとこたえました。きっと頭がどうかしているのだと思いました。
おとといの晩、あのひとは、わたしにむかって、自分は、こまった立場に立たされているので、よその土地へ行かなければならないことになりそうだ、わたしを連れて行くわけには行かないが、しばらくは、ここで暮せるだけの金をのこして行こう、と、そんなことをいいました。興奮した様子で、急に要りようになった場合の用意に、かばんの荷づくりをして、自分の写真や、手紙や書類を、のこらず焼いてしまいました。そのかばんは、しらべてごらんになるのなら、今でも寝室にありますわ。昨夜帰ってこなかったので、わたしは、あのひとが、わたしに金をのこすどころか、かばんももたずに、なんのあいさつもなしに、どこかへ行ってしまったのだな、と、そんな気がしていたところなんです――わたしの手もとには、自分名義の預金がたったの二十五ドルしかなく、しかも、ここ四日のうちに、アパートの家賃をはらわなければならない始末なんですのよ」
「最後に顔をあわせたのは?」
「昨夜の八時ごろですわ。あのひとは、仕事のことで話があって、ミスタ・オグバーンを訪ねるといって、出かけました。ところが、行っていないのです。それを、わたしが知っているのは、こういうわけです。つまり、わたしは、自分のタバコを切らしてしまったので――わたしは、ロシヤタバコのエリクサーが好きで、いつものんでいるんですけど、この山手のほうでは、手にはいらないのです――ミスタ・オグバーンに、電話をかけて、ハーブに、帰り道にそのタバコを買ってくるようにとつたえていただきたいと頼みました。だのに、ミスタ・オグバーンは、こっちにきていない、と、そうおっしゃるんです」
「ホウィッタカーと知りあって、どのくらいになります?」ぼくがたずねた。
「二年ほどですわ。たしか、どこかの海岸で、はじめて会ったのだと思いますけど」
「身よりは?」
「わたしは、そんなひとのあるのを知りませんわ。わたし、あのひとのことで知らないことは、ずいぶんありますのよ。ああ、そうだわ! あのひとが、文書偽造の罪で、オレゴン州の監獄に、三年はいっていたことを知っていますわ。ある晩、酔っぱらったときに、話してくれたんです。そのときには、バーバーとか、バービーとか、なんでもそんな名を使っていたんだそうです。今は、まっすぐなせまい道をあるいているのだといいました」
ディーンがドロがこびりついても、まだま新しく見える小型の自動ピストルをだして、女にわたした。「見たことがありますか?」
女は、金髪の頭を、うなずかせた。「ありますとも! ハーブのです。そうでなければ、ハーブのとそっくりです」
ディーンは、そのピストルを、またポケットにしまいこんだ。ぼくたちは、立ちあがった。
「これで、わたしの立場は、どうなるのでしょう?」女がたずねた。「まさか、証人だかなんだかで、繭《まゆ》づめにされるんじゃないでしょうね?」
「今のところは、そんな心配はありませんな」ディーンが、うけあった。「用のあるときに、いつでも連絡がとれるように、居どころをはっきりさせておいてもらえば、迷惑をかけるようなことはないでしょう。ホウィッタカーが、だいたいどの方面に行ったか、心あたりはありませんか?」
「ありませんわ」
「このアパートを、ひとわたり捜査したいのですが、かまいませんか?」
「どうぞどうぞ」女は、愛想がよかった。「なんなら、部屋じゅうばらばらになすっても。あたしって、ずっと、警察のかたがたとはおなじみでしたのよ」
ぼくたちは、ほとんど部屋じゅうをばらばらにしないばかりに、根こそぎしらべあげた。しかし値打ちのあるようなものは、なにひとつ見つからなかった。ホウィッタカーは、手がかりになりそうなものを、焼いてしまったということだったが、それも、なかなか鮮やかな手ぎわだった。
「ホウィッタカーは、写真屋に、自分の写真をとらせたことがありませんか?」ぼくは、立ち去りがけに、きいてみた。
「わたしは、おぼえがありませんけど」
「なにか役にたちそうなことをきいたり、思いだしたりしたときには、知らせてもらいたいですな」
「ええ、お安いご用ですわ」女は、心からそう思っている口ぶりだった。
ディーンとぼくは、ものもいわずに、エレヴェーターでおりて、ガフ街に出た。
「どう思うかね?」外に出ると、わたしはたずねた。
「なかなかいける女じゃないか、え?」ディーンはニヤリと白い歯を見せた。「しかし、どこまで知っておるんだろう? ピストルは、すなおに、当人のものだと確認したし、こっちのききもしない文書偽造の前科まで、ペラペラとしゃべったが、どっちも、いずれはしらべのつくことなんだからね。頭のいい女だったら、わしらがしらべてさぐりだすにきまっておるようなことは、自分からいっさいがっさいぶちまけて、それを裏づけに、こんどは口から出まかせのうそまで、こっちに信用させようとするだろうな。あの女は、バカなのか、かしこいのか、どっちだろう?」
「そんなことを考えてみたってはじまらないよ。それよりも、あの女に、監視をつけ、郵便物に気をつけていることにしよう。二日前にあの女の乗ったタクシーの番号が、わかっているから、それもあたってみよう」
町角の|くすり屋《ドラッグ・ストア》で、ぼくは、おやじに電話をかけて、メェ・ランディスの動静と、かの女のアパートを、夜昼となく見はるために、二人ばかり人をだすことを頼んだ。また、郵政部に連絡して、女あてに、ホウィッタカーの差しだしと思われる郵便物のとどいた場合には、それを知らせてもらうようにしておくことも頼んだ。郵便物の確認の方法としては、ぼくが、オグバーンに会って、当人の筆蹟の見本を手に入れ、それを、女の受け取る手紙と比較することにした。
それから、ディーンとぼくは、ボブ・ティールの報告書にあった、女の乗って出かけたというタクシーを、突きとめにかかった。タクシー会社の事務所で三十分ねばって、女が、そのタクシーで、グレニッチ街に行ったことと、行った先の番地とを、さぐりだした。ぼくたちは、グレニッチ街のその番地まで行ってみた。
そこは、今にも崩れそうなおんぼろビルだった。中は、アパートだか、フラットだか、いくつものみすぼらしい貸し部屋にわかれていた。地下室に、管理人のおかみがいた。やわらか味のないうすいくちびるに、色の淡い陰険な眼をして、汚いねずみいろの服を着た、ぞっとしない貧相な女だった。キイキイと音をたてる椅子にすわって、からだをはげしくゆすりながら、作業服《オーバーオール》を縫っていた。そのまわりでは、三人の汚らしいこどもたちが、雑種の小犬ととっ組みあって、ふざけていた。
ディーンが、警官のバッジを見せて、内密に話したいことがあるのだがといった。おかみは、直ぐにたちあがり、こどもたちと犬を、部屋から追いだし、両手を腰にあてて、ぼくたちの前に、たちはだかった。
「さあ、なんの用だね?」不きげんな口のききかただった。
「お前さんのところで、部屋を借りておる連中のことを、少しばかりききたいのだが」ディーンが、きりだした。「どんな連中がおるのか、話してくれんかね?」
「どんなひとがいるかって?」それほど|つむじ《ヽヽヽ》をまげていないときにでも、よっぽど耳ざわりだろうと思われるようなひどい声だった。「なんだって、このあたしが、そんなことをいわなければならないんだい? あたしを、いったいなんだと思っているんだね? あたしは、これでも、商売だいじに思っている女だよ! あたしが、みっともない商売をやってるなんてことは、だれにだっていわせやしないんだからね――」
これでは、らちがあきそうになかった。
「一号には、どんなひとがいるんだね?」ぼくがたずねた。
「オウドさんだよ――老人夫婦に、孫たちだがね。このひとたちが悪いことをしたなんて、十年もいっしょに暮してるあたしが知らないんだから、あんたがたの知ってるわけはないよ!」
「二号は?」
「ミセス・コドマンと、息子のフランクにフレッドだよ三年前から、ここにいるけど――」
こういったぐあいで、部屋から部屋へと、押しすすめて、ついに、二階のある部屋まできた。その部屋も、ぼくがいかにバカでも、なにを疑うにもせよ、かくべつ怪しいふしがあるわけではなかった。
「クワークさんの部屋だがね」それまでは、横柄にふんぞりかえっていたおかみが、急に苦が虫をかみつぶしたような顔になった。「立派なかたがただよ」
「いつからいるんだね?」
「六カ月かそこらになるよ」
「なにをして暮しているひとだね?」
「知らないね」すねたように、「地方まわりの販売員《セールスマン》かもしれないけど」
「家族は?」
「ご夫婦だけだよ。二人とも、おとなしいいいかただがね」
「男のほうは、どんなひとだね?」
「どんなって、あたり前のひとだよ。あたしは、探偵でもないんだからね。どんなひとだろうだなんて、ひとさまの顔をのぞいてまわったり、そんなことはしやしないよ」
「男の齢は?」
「三十五から四十のあいだだろうね」
「からだは、大きいかね、小さいかね?」
「あんたほど小さかないし、こっちのひとほど大きくもないよ」おかみは、ぼくの背の低いずんぐりとしたからだから、ディーンのバカでかい姿に、けいべつのこもった視線をうつした。「それに、あんたがたみたいに、|でぶ《ヽヽ》じゃないしね」
「口ひげは?」
「ないよ」
「髪は淡いろかね」
「いいや」勝ちほこったように、「濃いいろだよ」
「眼のいろも濃いほうだね?」
「そうだろうね」
すこしはなれて立っていたディーンが、おかみの肩ごしにぼくの顔を見た。くちびるだけがうごいた。「ホウィッタカー」と。
「ところで、ミセス・クワークのほうだが――どんなひとだね?」ぼくは、質問をつづけた。
「淡いろの髪で、背が低く、むっくりしたひとだよ。三十にはなっていないようだがね」
ディーンとぼくとは、おたがいに、なるほどねというように、うなずきあった。たしかに、メェ・ランディスらしい。
「いつも家にいるかね?」
「あたしは、知らないよ」おかみは、つっけんどんないいかたをした。ぼくは、相手が知っていると見て、顔をじっとみつめながら待った。やがて、おかみは、いいたした。「しょっちゅう出かけるようだけど、よくは知らないんだよ」
「いやいや」ぼくは、ひと押し押した。「二人とも、めったに家にはいない、それも、いるのは昼間だけだ――君は、それを知っている」
べつに否定もしないので、ぼくはたずねた。「今はいるかね?」
「いないだろう」
「その部屋を、ちょっと見せてもらおうじゃないか」ぼくはディーンを誘った。
ディーンは、うなずいて、おかみに話しかけた。「わしらをその部屋に案内して、ドアの鍵をあけてくれ」
「いやなこった!」ピシャリとはねつけた。「あんたがただって、捜査令状がなければ、ひとの家にはいりこむ権利はないんだよ。あるかね?」
「そんなものはないがね」ディーンはにやりと笑った。「しかし、お前さんのほうで騒ぎを大きくしたいというんなら、どれだけでももってくるよ。お前さんは、このアパートを、自分でやっておるんだから、どのフラットでも、はいりたいときに入れるわけだ。わしらを、部屋に入れてくれれば、お前さんには、なんのめいわくもかからんが、わしらに、よけいな手間をかけるつもりなら、クワークとぐるになっておるということで、いっしょに牢屋にぶちこまれることになっても、それは、お前さんのせいだよ。とっくりと考えてみるんだな」
おかみは、とっくりと考えてみたあげくに、階段の一段ごとに、ぶつぶついったりうなったりしながら、ぼくたちを、クワークの部屋に、案内した。
部屋の主の留守をたしかめた上で、ぼくたちを、部屋に入れた。
三部屋に、浴室と台所のついたアパートだった。ビルそのものの荒れはてた外観から覚悟していたように、かざりつけは、まったくみすぼらしいものだった。部屋には、男と女の衣類が、すこしばかりと、化粧道具などがあったが、根をおろした住居らしい形跡は、どこにもなかった。絵の額も、クッションの類も、そのほか、ふつうの家庭にならあるようなこまごました身のまわり品もなかった。台所は、ながいあいだ、使っていない様子だった。コーヒー、紅茶、香味料、メリケン粉などの容れものは、どれもこれも、きれいさっぱりと空っぽだった。
わけのありそうなものが、二つ見つかった。ロシヤタバコのエリクサーが、テーブルの上にひとつかみと、それから、化粧台のひきだしに、三二口径のピストルの弾丸の、封を切ったばかりの箱がひとつ――十発足りなくなっている――あった。
捜査のあいだじゅう、おかみは、鋭い怪しむような眼つきで、ぼくたちにつきまとった。ひとわたり仕事がすむと、ぼくたちは法律がどうだろうと、この部屋はぼくたちがあずかるから、といいきかせて、しゃにむにそのおかみを追っぱらった。
「ここが、ホウィッタカーと、その女とのかくれ家だったのか、今でもそうなのか、それは、まちがいがない」ぼくたちだけになると、早速、ディーンが切りだした。「ただひとつの問題は、あの男がここに、身をかくすつもりだったのか、それとも、逃らかる用意をするためだけの場所だったかということだ。一番いいのは、係長に頼んで、ホウィッタカーが姿を見せるまで、ここに、夜昼ぶっ通しの見はりを一人つけてもらうことだな」
「それにこしたことはない」ぼくが賛成するとディーンは、その段どりをつける電話をかけに、おもての部屋に行った。ディーンの電話がすむと、こんどは、ぼくが|おやじ《オールドマン》を呼びだして、なにかニューズでもありゃしないかときいてみた。
「ニューズはないね」|おやじ《オールドマン》がこたえた。「君のほうは、どんなぐあいだ?」
「幸先よしです。ヒョッとすると、今晩にも、吉報をおきかせできるかもしれませんよ」
「オグバーンから、ホウィッタカーの筆蹟の見本を、手に入れたかね? なんなら、だれかほかの人間をやってもいいがね」
「いや、ぼくが、今晩行きます」
オグバーンの事務所に、電話をかけたが、ナカナカ出てこない。十分ほどもたってから、時計を見ると、もう六時をすぎていた。電話帳を繰って、自宅の番号をさがし出し、そっちを呼びだした。
「お宅に、なにか、ホウィッタカーの書いたものはありませんか?」ぼくはたずねた。「筆蹟の見本を二種類ばかりほしいんですがね――今晩のうちに手にはいると好都合なんですが、だめなら、明日でも結構です」
「ここにも、あの男の手紙があると思いますがね。すぐにきてもらえば、おわたししますよ」
「十五分以内に行きます」ぼくは、電話を切った。
ディーンに、「ぼくは、オグバーンの家に行って、ホウィッタカーの筆蹟をもらってくるから、君は、本署から、部下がやってきて、見はりに立つまで、ここで待っていたまえ。君が、抜けられたら、すぐに、ステーツで会おう。そこで、飯を食いながら、今晩これからどうするか、プランを練ろうじゃないか」
「うふう」ディーンは、返事の代りに、うなるような声をだし、椅子の一つに腰をかけ、くつろいだ姿勢で、両脚を組みあわせた。ぼくは、外に出た。
アパートに行ってみると、オグバーンは、着替えのさいちゅうだった。カラーとネクタイを手にして、ドアまで出てきた。
「ハーブの手紙というやつが、それほどたくさんは、見つからなくてね」ぼくたちは、肩をならべて、寝室に行った。ぼくは、テーブルの上に出してある十五、六通の手紙に、目を通して、気に入ったのをさがした。オグバーンは、着替えをつづけた。
「仕事のほうは、すすんでいますか?」やがて、オグバーンが声をかけた。
「まあまあというところですな。なにか役にたちそうなききこみでもありましたかな?」
「いや、しかし、ついさっき、ハーブが、しょっちゅう、ミルズ・ビルディングに出入りしていたことを、思いだしましてね。わたし自身、それをたびたび見かけているんですが、べつになんとも思っていませんでした。そんなことに、重要な意味があるかどうか、それは知りませんが――」
ぼくは、自分の椅子から、とびあがった。
「そうだ!」大きな声をはりあげた。「電話を貸してくれませんか?」
「結構ですとも、玄関の近くの廊下です」オグバーンは、あっけにとられたようにぼくの顔を見た。「通話ごとに料金を入れる式の電話ですがね。ニッケル玉をおもちですか?」
「あります」ぼくは、寝室を出ようとした。
「玄関のドアのそばに、あかりのスウィッチがありますよ」オグバーンは、ぼくのうしろから、声をかけた。「しかし、どうなんです――」
ぼくは、なにかたずねようとした相手のことばを、おしまいまできかずに、ポケットのなかのニッケル玉をさぐりながら、電話をめざしていそいだ。あわててとりだしたニッケル玉が、手からころげ落ちた――それは、まったくの偶然でもなかった。なんとなく虫の知らせがあって、それをたしかめたかったのだった。ニッケル玉は、カーペットを敷いた廊下を、コロコロところげて行った。ぼくは、あかりのスウィッチを押してから、ニッケル玉を拾いあげ、クワークのアパートの番号を呼んだ。虫の知らせをたしかめたのはよかったと思った。
ディーンは、まだそこにいた。
「そこは、ぐずぐずしていてもむだだ。おかみを、本署にひっぱって行って、それから、例のランディスも、しょっぴいてくるんだ。そこで――つまり、本署で会うことにしよう」
「まちがいはないのか?」ディーンは、のどを鳴らすような声だった。
「だいたい大丈夫だ」ぼくは、受話器を、もとにもどした。
廊下のあかりを消し、自分だけにきこえる口笛を吹きながら、オグバーンをのこしてきた部屋にひきかえした。その部屋のドアは、ほそめにあいていた。まっすぐにドアまであるいて行って、片足で蹴とばして押しあけるが早いか、とびのいて、壁にへばりついた。
ピストルの発射音が、二発――ほとんど一発かと思われるほどやつぎばやにつづいて――とどろいた。
ぼくは壁に平ぐものようにはりついたまま、床と壁の腰羽目に、足をばたつかせ、金切り声とうめき声とを、かわりばんこにだして、そうぞうしい野蛮人に、ほんものと思わせようとした。
間もなく、オグバーンが、残忍な顔つきで、片手にピストルを構えたまま、戸口にあらわれた。あくまでぼくを殺さずにはおかない決意のあふれた顔だった。相手かこっちか、生命のやりとりとあれば、やむを得ない――ぼくは、自分のピストルを、オグバーンの、茶いろの髪の毛をぴったりとなでつけた頭のてっぺんに、打ちおろした。
かれが、眼をあけたときには、二人の警官に、かつぎあげられ、パトロールカーのうしろに、はこびこまれるところだった。
ディーンは、警察本部の刑事溜りにいた。
「おかみは、メェ・ランディスを、ミセス・クワークにまちがいなしといっておるぜ」ディーンがいった。「それで、どうなるんだ?」
「おかみは、どこにいるんだ?」
「二人とも、婦人警官がつき添って、係長の部屋にいるよ」
「オグバーンは、あっちの調べ室に入れてあるがね。おかみを連れて行って、面通しをさせようじゃないか」
ぼくたちが、みすぼらしいおかみを連れて、調べ室に行くと、オグバーンは、椅子に腰をかけ、前かがみになり、両手で頭をかかえて、すねたように、見はりに立っている制服の警官の足もとを、にらみつけていた。
「このひとを、見たことがあるかね?」ぼくが、おかみにたずねた。
「あるよ」――しぶしぶのように――「ミスタ・クワークだね」
オグバーンは、顔をあげなかった。ぼくたちのだれにも、まるっきり注意をはらわなかった。
おかみに、家に帰っていいと申しわたすと、ディーンは、ぼくを、邪魔をされずに話のできる、刑事溜りの遠いすみっこへ、ひっぱって行った。
「さあ、泥を吐けよ!」ディーンは、大声でどなった。
「いったいどうしたことなんだ、この、新聞の連中にいわせれば、驚くべき展開ってやつは?」
「そうだな、まず、ぼくには、この『だれがボブ・ティールを殺したか?』という問題には、ただのひとつより解答が考えられないことがわかった。ボブは、バカではなかった! やつだって、自分の尾けていた相手の男に、やみ夜に立看板のならんだうしろに、誘いこまれるぐらいのことはあるかもしれないが、やつなら、すきにつけこまれて、面倒なことにならないだけの用意があったはずだ。から手のままで、しかも、外套に焼けこげのできるほどちかくから射たれて死ぬはずはない。犯人はボブの信頼する人間でなければならない。だから、ホウィッタカーってことはあり得ない。ところで、ボブは几帳面な性質《たち》の男だから、そのやつがより道をして、友だちと話をするために、ホウィッタカーの尾行を、途中でやめるはずはない。しばらくにもせよ、ホウィッタカーをうっちゃらかすように、やつを説き伏せることのできるのは、一人いるだけだ。その一人というのは、やつの仕事を頼まれた相手――つまりオグバーンだったんだ。
ぼくも、もし、ボブを知らなかったのなら、あるいは、やつが、ホウィッタカーの挙動を見はるために、看板のうしろにかくれたのだろうと、そう考えたかもしれない。しかし、ボブは、素人ではない、そんなこけおどしの刑事のまねをするより、もっといい手を知っていた。だから、相手は、オグバーンでなければならない!
こうときまれば、あとは至極簡単だ。メェ・ランディスのしゃべったこと――ピストルを、ホウィッタカーのものと確認したこと、そして、十時に、電話で話したといって、オグバーンのアリバイをつくったこと――は、なにもかもが、あの女と、オグバーンとが、ぐるだという事実を、ぼくに納得させるばかりだった。あのおかみが、クワークの人相を話してくれたときに、ぼくの確信は、かなりかたまった。その人相は、ホウィッタカーとオグバーンのどっちにもあてはまりそうだったが、ホウィッタカーが、グレニッチ街などに、アパートをかまえるなんてことは、ナンセンスだ。ところが、オグバーンとランディスとが、熱い仲だったとすると、どこかに密会の場所ぐらいは、必要があっただろう。あそこにあった、使いのこりの弾丸の箱も、すこしは足しになった。
それから、今晩のことだ。ぼくは、オグバーンのアパートで、ちょっとした芝居をやってのけた。ころげたニッケル玉を追っかけて、床をはいまわり、掃除のときに見逃がされた、乾いた泥のあとを、見つけだした。オグバーンが、雨の降っているさいちゅうに、あの空き地をあるいて通りぬけ、家に帰ったときに、カーペットについたものにちがいなかった。専門家に、それが、ボブの殺されたあの空き地の泥かどうかを鑑定させれば、あとは、陪審に決めてもらえばいい。
ほかにまだ、ピストルの件など、こまごましたことが、すこしばかりのこっている。ランディスは、あのピストルが、一年以上前からあるといっていた。しかしあれは、泥まみれになっているが、ぼくは、かなり新しいものとにらんだ。工場に番号を知らせてやれば、製造した月日がわかるだろう。
動機ということになると、今のところ、ぼくに確信のもてるのは、あの女だが、それだけで充分なはずだ。もっとも、オグバーン・アンド・ホウィッタカー商会の帳簿を監査して経理状態をしらべあげれば、そこにも、なにか見つかるだろう。ぼくは、ホウィッタカーも、自分の殺人の容疑が晴れたとわかれば、姿をあらわすと思うよ。まちがいなしだ」
そして、まさにその通りだった。
次の日、ハーバート・ホウィッタカーは、サクラメントの警察に、自首して出た。
オグバーンもメェ・ランディスも、口を割らなかったが、その時がくると、ぼくたちは、ホウィッタカーの証言と、ぼくたちの諸々ほうぼうで拾いあつめた事実を頼りに、法廷に出て、真相は次のようなことだったと、陪審を納得させた。
オグバーンとホウィッタカーは、もともと詐欺を目的として農地開発業をはじめたのだった。かれらは、ある広い土地に、優先購買の権利をもっていたので、その優先権《オプション》を行使できる時期のくるまでに、できるだけたくさんの予約をとり、集った予約金を、カバンにつめこんで、行方をくらまそうとたくらんだ。ホウィッタカーは、たいして神経の太い男ではなく、それに、文書偽造の罪で、三年つとめあげた監獄の味を、身にしみて忘れかねていた。そこで、オグバーンは自分には、首都ウォシントンの郵務省に、友人がいて、その筋ですこしでも不審を抱きはじめたら、すぐに知らせてくれる手はずになっているのだからとホウィッタカーを元気づけた。
二人は、そのきわどい商売で、かなりの金をためこんだ。その金は、山わけのときまで、オグバーンが、あずかることになっていた。そのうちに、オグバーンは、メェ・ランディス――ホウィッタカーの仮りの細君――といい仲になった。二人は、グレニッチ街のアパートを借りて、ホウィッタカーが、事務所で、いそがしくはたらいている午後などに、オグバーンは、新しい獲ものを狩りに出かけたことにして、密会を重ねた。このアパートで、オグバーンと女とは、自分たちだけのたくらみを育てあげた。それがうまく行けば、ホウィッタカーをのけものにして、金は、のこらず自分たちのふところに入れた上に、オグバーンは、オグバーン・アンド・ホウィッタカー商会詐欺事件の共犯容疑を逃がれるという仕組みだった。
オグバーンは、コンティネンタル探偵社を訪ねて、相棒の裏ぎりを、まことしやかに訴え、ボブ・ティールを頼んで、ホウィッタカーを尾行させることにした。それから、ホウィッタカーには、ウォシントンの友人から、捜査が開始されようとしているとの知らせがあったと話した。二人は、次の週に、べつべつの道をえらんで、町を立ちのくことにした。次の日の晩、メェ・ランディスは、ホウィッタカーに、近所に一人の男がうろうろして、自分たちの住んでいる建ものを見はっているらしいと告げた。ホウィッタカーは――ボブを、郵務省の検査官と感ちがいして――すっかり度をうしなってしまった。女とオグバーンとは、いろいろと苦心をして――いっしょにではなく、それぞれべつの方面からだったらしいが――そのあげくに、やっとのことで、すぐにも逐電しようとするホウィッタカーを押しとどめた。結局、二人は、せめてもう四、五日ガマンするように、と、かれを説き伏せたのだった。
殺人のあった晩、オグバーンは、ホウィッタカーの、自分が尾行されているという話を信用しない顔で、それでは、はたして尾けられているのかどうかたしかめようといって、ホウィッタカーと会った。二人は、町の中を雨に濡れながら、一時間ほどあるいた。やがて、尾行者のあることを納得したオグバーンは、それならば、あともどりをして、その検査官と思われる人物と話し、金で買収できるかどうかやってみようと提案した。ホウィッタカーは、いっしょに行くのはいやだが、そこらのくらい戸口で待っていようとこたえた。オグバーンは、なにかの口実をもうけて、ボブ・ティールを、立看板の裏の空き地にさそいこみ、かれを殺した。それから、大いそぎで、相棒のところにとってかえして、泣き声で訴えた。「ああ、大変なことをやってしまった! むこうがつかみかかってきたから、射ったんだ。逃げなきゃならん!」
盲目的な恐怖におそわれたホウィッタカーは、カバンをとりに、家に立ちよるどころか、メェ・ランディスに知らせもせずに、サンフランシスコをとびだしてしまった。オグバーンも、べつのルートで、町をはなれることになっていた。二人は、十日後に、オクラホマ・シティで会い、そこで、いろいろの名義であずけてあるもうけの金を、ロサンゼルスの銀行から引きだしてきたオグバーンが、ホウィッタカーに、わけ前をわたし、それっきり、わかれわかれになる約束だった。
次の日、ホウィッタカーは、サクラメントで新聞を読み、自分の立場を知った。かれは、いっさいの帳簿の記入を引き受けていた。オグバーン・アンド・ホウィッタカー商会の帳簿のでたらめの収支は、すべて、かれの手で書きこまれていた。メェ・ランディスは、かれの前科を、あかるみに出し、ピストルのもち主――実際は、オグバーンなのだが――を、かれだといいきっている。完全にはかられたのだ! 自分の身のあかしは、到底立てられそうにない。
ホウィッタカーには、自分がどういいわけしたところで、ほんとにはしてもらえないことが、わかっていた。前科もあった。すすんで警察に出頭し、真相をのべても、笑いものにされるのがせきの山だと思えた。
とどのつまり、オグバーンは、絞首台にのぼり、メェ・ランディスは、現に、十五年の刑期をつとめている。ホウィッタカーは、証言をし、自分のわけ前を、そっくり返却したごほうびに、詐欺の件では、起訴されなかった。
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フウジス小僧《キッド》
ことのおこりは、一九一七年、ボストンでのことだった。ある日の午後、トゥレーヌ・ホテルの、トレモント街のがわの歩道で、ばったりと、リュウ・メイハーに出会った。ぼくたちは、雪の中で、しばらく立ち話をかわした。
なんの話だったか、ぼくのほうで口をうごかしていたさいちゅうに、リュウが、急にぼくの袖をひっぱった。
「おい、むこうからやってくる小僧ッ子を、横眼でそっと見てみろよ。濃い色の帽子《キャップ》をかぶったやつだ」
見ると、まだ十八かそこらの背のひょろ高い若造だった。ぼってり青ぶくれしたにきび面に、ふてくされたような口とどんより曇ったハシバミいろの眼と、厚ぼったいぶかっこうな鼻とがついている。市警の刑事のリュウとぼくには、眼もくれずに通りすぎた。耳が見えた。その耳は、拳闘選手のようにつぶれているわけではなく、かく別ひと眼をひくほどの妙な形でもないが、縁がくねくねと波を打っていた。
角まで行くと、その男は、ボイルストン街を、ウォシントン街のほうへまがって、見えなくなった。
「まだ若いが、早目に消されちまいでもしなければ、あれでそのうちに、売りだすやつだぜ」リュウが、予言者のようなことをいった。「君のリストにも、のっけといたほうがいいな。フウジス小僧《キッド》というやつなんだがね。君だって、そのうちにきっと、あの小僧を、追っかけまわすことになるよ」
「商売は?」
「ホールド・アップさ。ピストル・ギャングなんだ。そのほうでは、相当の大ものになる素質がある。ピストルの腕はいいし、それに、とんでもないむこう見ずな野郎でね。いったん思いたったがさいご、あとがどうなろうと、そんなことを気にするどころか、考えもしない。そこが、こまりものなんだ。ちっとは用心をして、見さかいもつけてくれると、これほどひっつかまえやすい相手はないんだがね。先月、ブルックリン界わいに、二つばかり事件が起っているが、あの小僧が、それに関係していることは、誓ってもいい。ところが、どうにも決め手がない。しかし、おれは、そのうちに、やつをひっくくって見せるよ――約束したっていい」
リュウは約束をまもらなかった。それからひと月のちに、オーデュボン|通り《ロード》の自宅で、浮浪者に殺されてしまった。
このリュウ・メイハーとの立ち話から一、二週間たったころ、ぼくは、コンティネンタル探偵社のボストン支社を去って、軍隊生活にはいった。戦争がすむと、シカゴ支社に舞いもどり、そこに、二年ばかりぐずぐずしたあげく、サンフランシスコへ転任した。
だから、ドリームランド・リンクにすわっていたぼくが、ふと、前のほうに、忘れもしないフウジス小僧《キッド》のしわの寄った耳のあるのに気がついたのは、通算かれこれ八年もすぎてからだった。
ステイナー街の拳闘場では、金曜日の晩が恒例の試合日になっている。ちょうどそれは、数週間このかたはじめてひまになった晩にあたっていた。ぼくは、拳闘場に出かけて行って、リングからあまり遠くないかたい木の椅子におさまり、威勢のいい若ものたちが、グローブをたたきつけあうのを身を入れて見まもっていた。ぼくの二列前に、へんてこな、しかしなんとなく見たことのあるような一対の耳のあるのに眼がとまったのは、番組が四半分《しはんぶん》ばかりすすんだときだった。
直ぐには思いだせなかった。耳の主の顔は見えなかった。キッド・シプリアーニと、バニー・ケオとが、打ちあうのを一心に見ている。ぼく自身は、その試合を、ほとんど見そこなった。しかし、次の試合のはじまる前の、短い待ち時間のうちに、フウジス小僧は、頭をまわして、となりの男になにか話しかけた。顔が見えて、それとわかった。
あまりかわっていなかった、すこしもましにはなっていなかった。眼は、ぼくの記憶にあるよりも、もっとどんよりしていた。口もとは、もっと憎たらしくふてくされていた。顔は、にきびこそ減ってはいても、あいかわらず青白くぼってりとしていた。
ぼくとリングとのちょうど中間に、その男の席があった。正体が知れてみれば、なにも、のこったせっかくの試合《カード》を、そっちのけにすることもなかった。相手の頭ごしに、試合を見物していれば、こっちの知らないあいだにだしぬかれる気づかいはないわけだった。
ぼくの知るかぎり、フウジス小僧は、どこの土地のおたずねものでもなかった――いずれにしろ、コンティネンタル探偵社のつけまわす相手ではなかった――これが、すりとか、ぺてん師とか、われわれの社ではめったに相手にしないいんちき商売の一味とか、そんな素姓の人間なら、こっちも、ほったらかしておいたところだった。だが、ピストル・ギャングとなると、これはもう、いつなんどきでも、用のないときのない相手なのだ。コンティネンタル探偵社の一番だいじなおとくいさまは、いろんな種類の保険会社だし、とりわけ、ちかごろでは、保険事業の中でも、盗難保険が、かなりのパーセンテージを占めていた。
メイン・イヴェントのかたがつかないうちに、フウジス小僧は、席を立った――見物人のほとんど半数が、リングの上でからみあっている筋肉のもりあがったヘヴィ級選手のどっちがどうなったか、そんなことはいっこうおかまいなしに、帰りじたくにかかった――ぼくも、いっしょに出た。
相手は一人だった。このうえなくわけない尾行だった。通りは、帰りがけの拳闘ファンでいっぱいになっていた。小僧は、フィルモア街をあるいて行って、とある軽食店で、パンとベーコンとコーヒーをとり、それから、二十二番系統の電車に乗った。
マカリスター街で、五番系統に乗りかえ――ぼくも――ポーク街で降り、北へ一ブロックあるき、西にもどって、一ブロックとほんのちょっと行くと、ゴールデン・ゲート・アヴェニューの南がわ、ヴァン・ネス街と、フランクリン街とのあいだにある修理工場の二、三階を占領した、うす汚いアパートの玄関前の階段をのぼって行った。
どうも合点が行かない。ヴァン・ネス街か、フランクリン街かどっちかで電車をすてれば、一ブロックだけあるくのを節約できたはずだ。それを、ワザワザ、ポーク街まで乗りこして、あともどりをした。運動のためなのか? そうかもしれない。
ぼくは、通りのむかいがわをしばらくぶらぶらして、正面の窓がどうなるか、それを見はった。小僧のはいって行くまでまっ暗で、それがあかるくなったというそんな窓はひとつもなかった。正面がわの部屋ではないらしい――それとも、若いくせに、よっぽど用心深いやつなのか。こっちの尾けているのに気がついたのではあるまい。万が一にもその気づかいはなかった。条件は、こっちにとって、よすぎるほどよかったのだ。
とにかく、その建物の正面には、なんの気配もなかった。ヴァン・ネス街を、ぶらりぶらりと、裏のほうへまわってみた。建ものは、そのブロックを、ま半ぶんに割る細い裏通りのレッドウッド通りまでのびていた。裏がわには、あかりのはいった窓が四つあったが、それだけでは、どうということもなかった。裏口があった。修理工場の出入口らしかった。それを、階上にいるひとたちが使えるのかどうか、たぶん使えるようにはなっていないのだろう。
自分のベッドと目覚し時計のそばに帰る途中、事務所に寄り道して、|おやじ《オールド・マン》に宛てたおき手紙をのこした。
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フウジス小僧を張り込みちゅう、ピストル稼業。二五〜二七才。体重、百三十五ポンド。身長五フィート十一インチ。血色悪し。淡色の頭髪。ハシバミいろの眼。太い鼻。まがった耳。ボストンの産。心あたりありませんか? 自分は、ゴールデン・ゲート・アヴェニューから、ヴァン・ネス街の付近にいます。
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翌朝八時、ぼくは、小僧のはいりこんだ家から一ブロック手前で相手が姿をあらわすのを待っていた。篠つく雨が、小止みもなく降っていたが、そんなことは気にならなかった。ぼくは、黒塗りの|二人乗り《クーペ》のなかに、とじこもっていた。この型の車は、それほど目だたず、ほどよく上品で、町のなかの仕事には、もってこいだった。ゴールデン・ゲート・アヴェニューのこのあたりには、自動車修理工場、中古車の販売店といった種類の店が、軒をならべていた。しょっちゅう十二、三台の車が乗りすててあった。一日じゅう、そこにじっとしていたが、目につきすぎるという心配はなかった。
あいかわらずおなじことだった。ぼくは、まるまる九時間というものを、そこに坐りつづけて、屋根にあたる雨の音に耳をかたむけ、フウジス小僧を待った。そのあいだ、めざす敵の姿には、チラッともお目にかからず、口にするものとては、安タバコのファティマのほかにはなにひとつなかった。ウッカリ見のがしたかどうか、そのへんの自信はなかった。自分の見はっているこの家に、だいたい相手が住んでいるのやら、いないのやら、それがわからなかった。昨夜、ぼくが家にもどったあとで、自分の家に帰ることができたはずだ。しかし、こうした探偵商売では、いつでも、そんなことをくよくよと考えだしたら、それこそきりのない話だ。ぼくは、車をとめたまま、昨日の晩、獲ものの逃げこんだ、うす汚いドアに、眼を釘づけにした。
夕がたの五時ちょっとすぎたころ、事務所のしし鼻の給仕、トミー・ハウドが、さがしにきて、|おやじ《オールド・マン》の手紙を、わたしてくれた。
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フウジス小僧という男を、ボストン支社では、強盗事件の星とにらんでいるが、べつに確証があるわけではない。本名はアーサー・コリー、またはキャリーというらしい。先月ボストンでおこった、タニクリフの宝石盗難事件に、関係しているかとも思われる。その事件では、雇い人が殺され、六万ドルのバラの宝石がうばわれた。二人の賊の人相は、あきらかにされていない。ボストン支社は、フウジス小僧の筋はたぐってみる価値ありと考えている。だから、君が、はりこみをつづける理由はあるわけだ。
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読みおえると、ぼくは、その手紙を、給仕の手にかえした――現在やっている仕事に関係した書類などを、ポケットにつめこんであるくのは、決して利口なことじゃない。
「すまんが、|おやじ《オールド・マン》に電話をかけて、ぼくが飯をくいに行くあいだかわりになってくれる人間を、だれかよこすように頼んでくれないか。朝飯から、まるっきりなにもくっていないんだ」
「しめたッ!」トミーは、素とん狂な声を出した。「みんないそがしいんだ。今日は、いちんちじゅう、探偵さんは一人もいなかったよ。だけど、わかんねえなあ、なぜ、あんたたち、ポケットに、チョコレートのひとかけらやふたかけらぐらい入れといて――」
「君は、北極探検隊の話を、読んだことがあるだろう? 人間は、餓え死にしかけたときには、そりゃあ、どんなものだって食う気になるが、ふだん、腹が減ったぐらいでは、甘いものなどで、胃をびっくりさせたがらんものなんだ。いいから、そのへんをさがして、サンドウィッチをふた切ればかりと、ミルクひと瓶、もってきてくれ」
トミーは、面白くなさそうな顔でぼくをにらんでいたが、やがて、その十四才の顔にこすっからしい表情がうかんできた。
「そいじゃあ、こうしよう。おれに、相手のやつ、どんな面をしているとか、どの建ものにいるとか、そいつを話してくれたら、おれ、あんたが、ご馳走くってるあいだ、かわりに見はってやらあ。どうだい? ステーキに、フランス風の焼きじゃがに、パイにコーヒーだ」
トミーのやつ、いつかこんなときに、仕事をまかされ自分が見はっているうちに、すばらしい運にありつき、まるっきり自分一人で、一連隊もの生命しらずどもをひとからげにするという、そんな夢を見ているのだ。ぼくも、この子が、まるでやりそこなうとは思わないし、できることならそんなチャンスをくれてやりもしたい。しかし、ぼくが年端も行かぬこどもを、ならずもののなかにほうりっぱなしにしたことが知れようものなら、|おやじ《オールド・マン》にどやしつけられるにきまっている。
だから、ぼくは、首を振った。
「そいつは、ピストルを四挺に、その上、斧までもってるやつなんだぜ、トミー。君なんか、たべられちまうぞ」
「バカいってらあ! 探偵さんて、いつも、ほかの人にゃ、自分のやってることが、できっこないように思わせてばかりいるんだ。そんな手ごわい悪党なんぞあるもんか――あったら、あんたなんかに、つかまりっこないさ!」
そのいいぶんに、真理がないではなかった。そこで、ぼくは、トミーを、クーペから雨のなかに、むりやりに押しだした。
「タンのサンドウィッチと、ハムのやつと、ひとつずつ、それから、ミルクをひと瓶だ。大いそぎだぞ」
だが、給仕が、たべものをもってもどってきたときには、ぼくは、そこにいなかった。給仕の姿が、見えなくなるかならないときに、外套の襟を立てたフウジス小僧が、アパートの玄関から出てきた。雨は、猛烈なドシャブリになったところだった。
フウジス小僧は、ヴァン・ネス街を、北へまがった。
ぼくのクーペが、角まできたときには、どこにも、相手の姿はなかった。先のマカリスター街まで行き着いたはずはなかった。そのへんの建ものにはいりこんだのでなければ、レッドウッド街――ブロックを二つにわける細い通り――が、まずまちがいのないところだった。ぼくは、ゴールデン・ゲート・アヴェニューを、もう一ブロック走って、南にまがった。フランクリン街と、レッドウッド街との角で、うまく間にあって、マカリスター街のあるアパート建築の裏口にもぐりこもうとする敵の背なかが、ちらっと見えた。
ぼくは、考えながら、ゆっくりと車を走らせた。
小僧がひと晩をすごした建ものと、この今もぐりこんだ建ものとは、裏がわが、どっちも同じ裏どおりに面していて、おたがいのあいだは、半ブロックとはなれていなかった。小僧の部屋が、アパートの裏手にあって、強力な双眼鏡がありでもするのならば、マカリスター街のアパートのそっちがわに面した部屋のぜんぶの窓を――恐らくはずっとなかのほうまで――かなり精密に監視することができるわけだ。
昨夜は電車に乗って、ひとブロックまわり道をしている。今しがた、裏口からしのびこんだ姿を見て、ぼくは、やつがこのアパートから見える場所で、電車を降りるのをきらったのだと判断した。もっと便利な停留所は、二つあるのだが、この建ものから見えるのだろう。結局、小僧は、このアパートに住むだれかを見はっていて、自分のほうが、逆に見はられるのを、警戒しているのだ。
それが今は、裏口から、そのアパートにはいりこんだ。べつに説明のつかないことではない。玄関のドアには、鍵がかかっているが、裏口は――たいがいの大きなビルディングがそうなのだが、一日じゅうあけっぱなしなのだろう。管理人とかそういった種類の人間にぶつからなければ、なんの面倒もなしに、もぐりこむことができる。相手がいるのかいないのか、どっちにしろ、小僧の訪問ぶりにはひと目をはばかるものがあった。
どういう事情があってのことなのか、それは、かいもくわからないが、そんなことは、かくべつ気にならなかった。さしあたっての問題は、キッドの出てきたときに、すかさず、その姿をつかまえることのできる、絶好の見はり場所を見つけることだった。裏口から出てくるのなら、おなじレッドウッド街の一ブロック先――フランクリン街と、ゴウ街のあいだ――が、手ごろなクーペの駐め場所だった。しかし、なにも、そっちから出てくる、と、そんな約束をして行ったわけではなかった。どっちかといえば、玄関から出る公算のほうが大きかった。裏から、こそこそと抜け出すよりも、おもてから、堂々と出て行くほうが、ひとの注意をひきにくい。そこで、ぼくは、マカリスター街とヴァン・ネス街の角をえらんだ。そこからなら、建ものの玄関と、レッドウッド街のいっぽうのはずれと両ほうを見ることができる。
その角まで、クーペをすべらせて行って待った。
三十分が過ぎ去った。四十五分。
フウジス小僧が、玄関先の階段をおりて、ぼくのいるほうへあるいてきた。あるきながら、外套のボタンをかけ、襟を立てた。頭を前にかがめて、雨を避けている。
その男のうしろから、幌をかけ垂れ幕をおろした黒塗りのキャディラックが、追ってきた。たしか、ぼくが、自分の車を、ここに駐めたときに、むこうの市役所《シティ・ホール》のちかくにいた車だった。
ぼくのクーペを避けて、カーヴを切ったはずみに、スリップして、歩道につっかけそうになったが、もう一度スリップしながら、もとの方向をとりもどし、雨に濡れた舗装に、スピードをあげた。
幌の垂れ幕が、雨のなかでばたついた。
垂れ幕のすき間から、青白い閃光がほとばしった。小口径のピストルの発射音が、空気をつんざいた。七度。
フウジス小僧の帽子が、頭から浮いた――風船のように、ふわふわと、ゆっくり舞いあがった。
小僧の動作は、決して鈍くはなかった。
くるりと身をひるがえして、手ぢかの店先にとびこんだ。外套の裾が、スカートのように、ぱあっとひろがった。
キャディラックは、次の角まで行くと、車輪をすべらせながら、曲芸のようなまがりかたをして、フランクリン街を走って行った。ぼくも、クーペの鼻先をそっちの方へむけた。
小僧のとびこんだ店先を走りすぎるとき、ぼくは、かれの様子を、ちらっと眼にとめた。膝をついた姿勢で、なおも、外套にひっかかった黒いピストルをひっぱりだそうと、やっきになっていた。そのうしろのドアのガラスごしに、興奮した顔が、いくつも見えた。通りは、すこしもザワめいていなかった。ちかごろでは、だれもかれもが自動車の音になれっこになってしまって、六インチ砲でもぶっぱなさなければ、なみたいていのもの音には、振りむきもしないのだ。
ぼくが、フランクリン街に出たじぶんには、キャディラックはもう一ブロック先まで行っていた。左にハンドルを切って、エディ街にまがろうとしているところだった。
こっちは一つ手前のターク街にまがって、平行におなじ方向に走った。あいだのブロックの二つ抜けているジェファスン広場《スクエア》までくると、また相手の車が見えた。スピードが落ちていた。五、六ブロック先のステイナー街で、右に折れて、ぼくの車の行手を、走りぬけた。鑑札番号が読めるほどの近さだった。ほかの車なみのスピードだった。車の主は、うまく逃げおおせたと思って、スピード違反のごたごたを避けようとしているのだ。ぼくは、三ブロックほどの間隔をおいてあとを追った。
それまでに相手に見られていないのだから、今さらこっちの下心を感づかれる気づかいはなかった。
ヘイト街を出はずれて、公園のそばまで行くと、キャディラックは、停車して、乗り手を一人吐きだした。クリーム色の顔に、黒い眼と、ちっぽけな黒い口ひげをつけた小がらな――背が低くやせた――男だった。濃いいろあいの外套の仕立てと、灰いろの帽子の形とに、なんとなく異国ふうのところがあった。ステッキをたずさえていた。
ほかにどんな人間が乗っているのか、それを見とどけるひまもなく、キャディラックは、ヘイト街を先へ走り出した。心のなかで、ニッケル玉の裏おもてを占ってみて、ぼくは、車からおりたほうの男を尾けることにした。怪しい車の正体を、その鑑札番号からつきとめようとしても、たいがいは、あてがはずれるものなのだが、それでも、一縷《いちる》ののぞみがないではない。
ステッキの男は、町角の|くすり屋《ドラッグ・ストア》にはいって、電話を借りた。その店で、ほかになにをしたのかしなかったのか、そこはわからない。やがて、一台のタクシーがやってきた。男はそれに乗りこんで、マーキス・ホテルまで走らせた。帳場でうけとった鍵の番号は、七六一号だった。エレヴェーターに乗ったところまで見とどけて、こっちはひきさがった。
マーキス・ホテルには知った顔が、そこらじゅうにうようよしている。中二階で、お雇い探偵のデュランをつかまえた。
「七六一号室はどんなお客だね?」
デュランは、顔つきから話しかたから、動作まで、超一流銀行の頭取といったふうの、頭のまっ白なじいさんだった。以前には、中西部の中どころの都市で、刑事係長をやっていた。あるとき、金庫破りの容疑者の自供書をとろうと、いたぶりすぎて、殺してしまった。デュランは、新聞界での嫌われものだった。この事件は早速槍玉にあがり、刑事係長は、職を追われた。
「七六一号室かね?」デュランは、いかにもひとのいいおじいちゃまといったものごしだった。「たしか、ミスタ・モーロアといったと思うが、なにか、気になることでもあるのかな?」
「ありそうなんだがね。どんな客だ?」
「よくは知らんがね。ここにきて、二週間ぐらいじゃなかったかな。ひとつ階下《した》へ行ってしらべてみようじゃないか」
ぼくたちは、帳場をしらべ、交換台をしらべ、給仕連中をあたり、それから、七階まであがって、部屋つきの女中を二人ほどつかまえた。七六一号室の客は、二週間前に到着し、フランス、ディジョンの、エドアルド・モーロアと記帳していた。電話は、たびたび使うが、受けとる郵便物はなく、訪問客もない。早く帰ったり遅く帰ったり、出入りの時刻にきまりはなく、チップは、よくはずむ。以前なにをしていたのか、今なにをやっているのか、それは、ホテルの人間は知らなかった。
「もしさしつかえなかったら、教えてもらいたいが、君がその客に目をつけたのは、どうした理由からなのかね?」しらべがかたづくと、デュランがたずねた。いつも、こんなふうにもってまわった口のききかたをするやつなのだ。
「そいつは、ぼくにだってまだわからないんだがね」ぼくは本音をはいて見せた。「よくないやつと関係があるというだけで、モーロア本人は、べつにどうということもないかもしれんのだが。なにか、はっきりしたことがつかめたら、すぐに連絡するよ」
その客が、まっ昼間、市役所《シティ・ホール》の眼と鼻のさきで、ならずもの相手に、ピストルを浴びせかけるのを見かけたことはデュランにあかすわけにはいかなかった。マーキス・ホテルは、評判が大事なのだ。妙なことが知れたら、フランス人は、即座におもてにほうり出されるだろう。こっちにしてみれば、相手を脅しつけたところで、なんの足しにもならない。
「どうか、そう願いたい。われわれも、ちっとは、君の役にはたっているんだから、君のほうでも、われわれが、よくない評判をたてられるのを未然に防げそうな情報は、出し惜しみせずにきかせてほしい」
「ぜひそうしよう」ぼくは約束をした。「ところで、ことのついでに、もうひとつ、役にたってもらいたいのだが、じつは、今朝の七時半から、ぼくは、自分の口に、なにひとつくれてやっていないんだ。あんたは、そこのエレヴェーターを見ていて、モーロアが、出かけるようだったらぼくに知らせてくれないか。ぼくはグリルの入口のそばにいるから」
「いいとも」
グリルに行くとちゅう、ぼくは電話室にはいって、事務所を呼びだし、夜勤の人間に、キャディラックの鑑札番号を告げた。
「リストをしらべて、もち主をたしかめてもらいたい」
やがて、しらべがついた。「サン・パブロのH・J・ペイタスンだ。|幌型二人乗り《ロードスター》のビュウィックに発行されたことになっているがね」
それで、そっちのほうはまずまずだめとわかった。ペイタスンをつきとめることはできようが、つきとめたところで、なにかの手がかりがつかめるとは思えない。車の番号札《ナンバー・プレート》などというものは、いったん悪事に利用されはじめたが最後、その行方をたどるのは、自由公債《リバティポンド》のわたった先をたどるほどにも、できない相談なのだ。
まる一日、空き腹をこらえにこらえたあげくだった。グリルにはいると、早速、つめこみにかかった。口をうごかしながら、その日のできごとを、思いかえしてみた。それでも、食欲をそこなうほど、深く考えたわけではなかった。だいたいが、それほど考えるたねもなかったのだ。
フウジス小僧は、マカリスター街のアパートを見はることのできる家に住んでいた。そのアパートに、ひと目をはばかりながらはいりこんだ。そこから出てくると、その近くに待ち伏せしていたにちがいない車の乗り手に、ねらい撃ちにされた。キャディラックに乗った、フランス人の仲間――一人でなかったとすると、仲間たち――は、小僧のしのびこんだアパートの住人だったのだろうか? その連中は、小僧が、アパートにくることを、知っていたのだろうか? たち去りがけに、ねらい撃ちにすることをたくらんで、相手を、なにかの手を使って、おびきよせたのだろうか? それとも、小僧が、建ものの裏がわを見はっているあいだに、逆に、小僧の住む家のおもてがわを見はっていたのだろうか? そうだとすると、両方とも自分の見はられていることを承知していたのだろうか? それにしても、そのアパートの住人は、なにものだったのか?
そうしたナゾのどれひとつとして、こたえられるものはなかった。わかっているのは、フランス人とその仲間たちが、フウジス小僧を、目のかたきにしているらしいこと、それっきりだった。
たいした分量の食事だったが、それだって、たいらげるのに、そういつまでもかかるものではなかった。食事をすませると、ぼくは、またロビーに出ていった。
交換台のわきを、通りかかると、交換嬢の一人――くしゃくしゃにかきまわして糊でかためたような赤い髪をした女の子――が、ぼくにうなずいて見せた。ぼくは足をとめた。
「お友だちのかたに、電話がかかってきたわよ」
「話をきいたかね?」
「ええ。キアニイ街とブロードウェイ街の角で、待ってるんだって。いそいできてくれってことだったわ」
「どのくらい前だった?」
「前じゃなくてよ。今すんだばかりなの」
「名前は?」
「いわなかったわ」
「ありがとう」
デュランが、エレヴェーターに眼をくばりながら、ブラブラしているそばに行った。
「まだおりてこないかね?」
「まだだ」
「それは好都合だ。交換台の赤毛嬢にきいたんだが、電話があって、ある男と、キアニイ街とブロードウェイ街の角で、待ちあわせることになったそうだ。ぼくは、先まわりして、待つことにするよ」
ホテルのちょっと先まで歩いて、クーペにのりこみ、フランス人の約束の町角まで走らせた。そこには、もう、午後に見かけたキャディラックがきていた。番号札《ナンバー・プレート》がかわっていた。その車のそばを通りすぎながら、乗り手をのぞきこんだ――帽子《キャップ》を、まぶかにひっぱりおろした、四十代のずんぐりした男だった。顔で見えたのは、がっちりとしたあごと、その上にななめに結んだ幅のひろい口と、それだけだった。
ぼくは、その通りを、すこし行った空き場所に、クーペを駐めた。フランス人は、待つほどもなく、姿をあらわした。あるいて角をまわってきて、そのまま、キャディラックに乗りこんだ。大きなあごをした男が、車を運転した。ユックリとブロードウェイを走って行った。ぼくは、あとを追った。
あまり遠くまでは、走らなかった。キャディラックの乗り手が、車を駐めたのは、そのあたりに軒をならべているイタリア料理の店の、そのなかでも、目だってケバケバしいヴェニス軒を見はるのに手ごろな場所だった。
二時間たった。
そのヴェニス軒では、フウジス小僧が、食事をしているのだ、と、ぼくにはそんな気がした。やがて出てきたら、その午後、マカリスター街ではじまったお祭りのつづきに、もう一度、花火があがることになるだろう。こんどは、小僧のピストルが外套にひっかかったりしなければいいがと思った。しかし、だからといって、なにも、その二対一の射ちあいに助け太刀を買って出ようと、そんなつもりは、毛頭ないのだが。
形勢はピストル・ギャングどうしの戦争だった。すくなくとも、ぼくには、なんのかかわりもないはずだ。せめてもの望みは、どっちかの勝つまで、即《つ》かずはなれずにいて、勝負のついたときに生きのこったなかから、おたずねものの一人でも二人でも手に入れ、コンティネンタル探偵社に、すこしばかりかせがせてやることだった。
フランス人のねらう獲ものは、ぼくのつけた見当と、まるでちがっていた。フウジス小僧ではなかった。男と女と一人ずつのひと組だった。顔は見えなかった。あかりに背をむけていた。二人は、ヴェニス軒の玄関から、待たせてあったタクシーまで、セカセカと歩いて行った。
男は、背が高く、幅がひろく、よく肉のついた恐ろしく大きな男だった。女のほうは、いかにも小づくりに見えた。とだけではいいたりない。その大きな男といっしょにすれば、重さ一トン以下のものなら、なんでも、ちんまりとちぢこまって見えそうだった。
タクシーが、ヴェニス軒の前をはなれると、キャディラックがうしろにつづいた。ぼくは、キャディラックのあとを尾けた。
ほんのしばらくの追っかけごっこだった。
タクシーは、シナ町の縁で、まっくらな通りにまがりこもうとした。その横っぱらに、キャディラックがつっこんだ。タクシーは、歩道に乗りあげた。
ブレーキが軋った。さけび声があがった。ガラスがくだけた。女の金切り声がひびいた。幌型の車と、タクシーとのあいだのせまくるしい隙間に、いく人もの人影がうごめいた。両方の車は、たがいに噛みあっていた。うなる声。ぶつかりあう音。ののしりあう不潔なことば。
男の声で、「おい! なにをするんだ! いかん! いかん!」
間の抜けた声だった。
ぼくは、クーペのスピードを、うんとおとして、のろのろと進んだ。ちかづきながら、雨とくらやみとをすかして見たが、ほとんどなにも見えなかった。
あと二十フィートのあたりまで行ったとき、タクシーのドアが、バタンとあいた。女が、ほうりだされた。女は、歩道におちて、膝をついたが、すぐさまはねおきて、こっちのほうへ走りだした。
ぼくは、クーペを、歩道ぎわによせて、ドアをあけた。窓は、雨にたたかれて、曇っていた。通りすぎる女の顔を、よく見たかった。むこうが、あけっぱなしのドアを、自分を迎えるため、と、そうとるのなら、話をしてもよかった。
女は、まるで、ぼくが待っているのを予期してでもいたように、まっすぐに、こっちへやってきた。毛皮の襟の上に、小さなたまご形の顔が見えた。
「助けて!」息を切らした声だった。「よそへ連れて行って――早く!」
そのことばには、アクセントがちがうとまでは行かない、ごくかすかな外国なまりがあった。
「いったい、なにが――」
いいかけて、ぼくは、口をつぐんだ。女が、ぼくのわき腹に押しつけているのは、筒のずんぐりと短い自動ピストルだった。
「いいとも! 乗りたまえ」
女は、車にはいろうとして、頭をかがめた。ぼくは、片腕を、女の首に巻いて、力まかせに、膝に押しつけた。女はもがいた――骨組のきゃしゃな、肉のしまったからだだった。力はあった。
女の手から、ピストルをもぎとって、ムリヤリ隣のシートにすわらせた。
女の指が、ぼくの腕にくいこんだ。
「早く! 早く! お願いだから、いそいで! あたしを、よそへ――」
「いっしょの男の人は?」
「あのひとは、ちがうの! あっちのほうの仲間なのよ! お願い、早く!」
あけっぱなしのクーペのドアいっぱいに、男が、立ちはだかった――キャディラックを運転していたあごの大きな男だった。
男の手が、女の首のまわりの毛皮をつかんだ。
女は、悲鳴をあげようとした――出てきたのは、のどをしめられた男のようながらがら声だった。ぼくは、女からとりあげたピストルで、男のあごをなぐりつけた。
男は、クーペのなかに倒れこもうとした。ぼくは、つきとばした。
男の頭が、歩道にぶつからないうちに、ぼくは、クーペのドアをしめ、車の方向転換にかかっていた。
車は、走りだした。最初の角をまわるときに、ピストルの音が、二つ鳴った。ぼくたちをねらったのかどうか、それはわからない。次々に、角をまわった。キャディラックは、それっきり、姿を見せなかった。
ここまでは、まずまずのできばえだった。しょっぱなは、フウジス小僧だった。それから、モーロアに乗り換え、こんどは、そっちをうっちゃらかして、この女の正体を見きわめにかかっている。これがどうしたさわぎなのか、そのへんのことは、まるっきり見当もつかなかった。しかし、さわぎの立役者がなにものなのか、それは、どうやらわかりかけてきたようだった。
「どこへ行くの?」やがて、ぼくはたずねた。
「家に」女は、行先を教えた。
ぼくは、待っていましたとばかり、クーペの鼻っ面をそっちの方角へむけた。その夕がた早くに、フウジス小僧のしのびこんだマカリスター街のアパートが、それだった。
一刻を惜しんで、車を走らせた。ぼくの連れの女が、そこまで感づいているかどうか、それはともかくとして、このさわぎの関係者が、一人のこらず、そのアパートを知っていることに、疑問の余地はなかった。どうあっても、フランス人と、大あご男よりも先に、そこへ行き着きたかった。
車に乗っているあいだじゅう、ぼくたちは、どっちも口をきかずにいた。女はガタガタふるえながら、ぼくにかじりついていた。ぼくは、じっと前方をにらみつけながら、女のアパートにあがりこむ方法を、あれこれと考えた。女のピストルのないのは、残念だった。|大あご《ヽヽヽ》を、車から押しだすときにおとしてしまったのだ。それがあれば、おはいりなさいといってもらえなくても、もう一度出なおす口実になったところだった。
案ずるよりも生むはやすかった。おはいりなさいとはいわなかった。なにがなんでもいっしょにきてくれといいはってきかなかった。脅えてこちこちになっていた。
「あたしを置きざりにしないでね」マカリスター街を走りながら、女は訴えた。「あたし、こわくてこわくて、どうしていいかわからないのよ。あたしをおいてっちゃ、いや! 部屋にきてくださらないんなら、あたし、あなたからはなれないから」
部屋まで行くのに、不足はなかったが、クーペを、自分の居どころを広告するような場所に駐めておく気にはならなかった。
「もうすこし先まで行って、そこに、車を駐め、それから、君といっしょに、部屋まで行こう」
ぼくは、ブロックをひとまわりしながら、四方八方に、眼をくばってキャディラックをさがした。どこにも見えなかった。フランクリン街の通りに、クーペを乗りすてて、マカリスター街のアパートまで、あともどりをした。
女にせきたてられて、今では小降りになった雨のなかを、小走りにいそいだ。
玄関のドアの鍵穴に、鍵を押しこもうとする女の手は、ブルブルとふるえて、どうにもねらいがきまらなかった。ぼくが、鍵をとりあげて、ドアをあけてやった。自動エレヴェーターで、三階までのぼった。だれにも会わなかった。案内されたドアの鍵を、これもぼくがあけてやった。その部屋《アパート》は、建もののうしろがわのほうだった。
女は、片手で、ぼくの腕をつかんだまま、手をのばして、なかの廊下のあかりを点けた。
女がなにを待っているのか、大声で呼びたてるまでわからなかった。
「フラーナ! フラーナ!」
小犬のくぐもった吠え声がきこえた。出てはこなかった。女は、ぼくの濡れそぼれた外套の胸にかじりついた。「いるんだわ!」女は、しんそこから恐怖に打たれた、乾いた細い声で叫んだ。「いるんだわ!」
「いるとすれば、だれがいるんだね?」ぼくは、女を、廊下にむかいあっている二つのドアを見通す邪魔にならない片わきへ、押しやった。
「いいえ! 小犬のフラーナだけだけど、でも――」
ぼくは、いざというときにひっかからないように、ピストルを、ポケットから半ぶん出してみて、また元にもどし、もういっぽうの手で、すがりつこうとする女の両腕を、はらいのけた。
「君は、ここにいたまえ。ぼくは、君の友だちができたかどうか、見てくる」
ちかいほうのドアのほうへ行きながら、ぼくは、耳のなかで、七つのこどものような声をきいていた――リュウ・メイハーの声だった。……ピストルの腕はいいし、それにとんでもないむこう見ずな野郎でね。いったん思いたったがさいご、あとがどうなろうと、そんなことを気にするどころか、考えもしない……
左の手で、最初のドアの|握り《ノブ》をまわした。左の足で、ドアを蹴とばしてあけた。
なにごともおこらなかった。
片手を、戸の枠ごしにまわして、スウィッチをさぐり、あかりを点けた。
居間だった。なにもかもが、きちんと片づいていた。
その部屋の突きあたりの、あけっぱなしたドアのむこうから、フラーナのくぐもった吠え声が、きこえてきた。今までよりも大きな、いらだった声だった。戸口まで行ってみた。こっちの部屋のあかりにすかして見たところでは、人もいなければなんの別条もなさそうだった。はいりこんで、スウィッチを押した。
犬の吠え声は、べつのしまったドアのむこうでしていた。そのドアまで行って、ひっぱりあけた。黒い毛むくじゃらの犬が、ぼくの脚をめがけてとびついた。ぼくは、その犬の毛の一番厚そうなところをつかんで、もちあげた。小犬は、もがきながら吠えた。あかりがあたった。むらさきいろ――葡萄のようなむらさきいろだった。むらさきいろに、毛を染めた犬だった!
ぼくは、キャンキャンとわめきたてる人工の犬を、左の手にささげて、からだからできるだけはなしながら、次の部屋――寝室に、足を踏みこんだ。からっぽだった。押し入れにかくれているものもなかった。台所と浴室があった。からっぽだ。部屋《アパート》じゅうにだれもいない。むらさきいろの小犬は、今日のずっと早くに、フウジス小僧にとじこめられていたのだ。
犬を連れて、女のところにもどろうと、二つの部屋を通りがてらに、テーブルの上におもてを伏せてのせてある、封を切った封筒に、眼がとまった。おもてをかえしてみた。当世ふうの封筒に、宛先は、このアパートの番地、ミセス・イネズ・アルマッドとなっていた。
どうやらこんどの一味は、なかなか国際色豊かなことになりそうだった。モーロアは、フランス人、フウジス小僧は、ボストン系アメリカ人、犬には、ボヘミアふうの名がついている(すくなくとも、ぼくのおぼえているかぎりでは、数カ月前につかまえた偽造犯人のチェコ人が、フラーナという名だった)。それに、イネズは、たしか、スペインだか、ポルトガルだかの名前だ。アルマッドがなんであったか、それは知らないが、この女は、どう見ても、外国人だし、しかも、フランス人とは受けとれない。
ぼくは、女のそばにもどった。女は、一インチとうごいてはいなかった。
「異状はないようだがね。この犬は、押し入れにとじこめられていたよ」
「だれもいなくて?」
「だれもいない」
女は、両手で、犬を受けとり、むらさきいろに染めた毛むくじゃらの頭に、キスをした。いかにも可愛らしくてたまらないふうに、鼻にかかった甘い声で、犬に話しかけた。なんのことやら、そのことばは、ぼくにはわかりかねた。
「君の友だち――つまり、今晩、君とごたごたをおこした連中は、君のこの家を、知っているの?」
ぼく自身は、知っているとわかっていた。相手の女が、それを承知していることをたしかめたかったのだ。
女は、すっかり忘れていたというふうに、犬を、下に落して、眉をすぼめた。
「どうだか知らないわ」ゆっくりとした、口調だった。「でも、知ってるかもしれなくてよ。知ってるとすると――」
女は、ぶるぶると身ぶるいをして、かかとでくるりとまわり、玄関のドアを、乱暴にしめた。
「今日の午後、ここにきたのかもしれないわね」女は、ことばをつづけた。「フラーナは、前にも、自分で押し入れにはいりこんで、出られなくなったことがあるけど、あたし、なにもかもがこわいのよ。すっかり臆病になっちまったのね。でも、今はだれもいやしないんでしょう?」
「だれもいないさ」ぼくは、もう一度うけあって見せた。
ぼくたちは、居間にはいった。帽子を脱ぎ、ケープをとった女を、ぼくは、はじめて、つくづくとながめた。
中背というよりは、いくぶん低めの、肌の浅黒い三十女だった。目もさめるようなあざやかなオレンジいろのガウンを着ていた。髪のいろも、眼のいろも、インディアンのように黒く、むきだしのまるっこいなで肩は、茶いろに輝き、小さな可愛らしい足と手、指には、重そうに指輪が光っていた。鼻は、細く、美しい曲線を描き、口もとは豊かなくちびるが赤く、眼は――まつ毛が、濃くながかった――極端に細かった。眼は、濃いいろなのだが、両まぶたのあいだの細いすき間からは、はっきりしたひとみのいろを、見きわめることはできなかった。すだれのようなまつ毛をすかして、細く、二本の黒い線が光っていた。黒い髪の毛が、今は、けば立った絹のおしろい刷毛《ばけ》のように乱れていた。浅黒い胸もとには、真珠のくびかざりがさがっていた。黒い鉄製のイヤリング――クラブに似た変ったデザインの――が、両頬のわきに、ぶらぶらと揺れていた。
そうたいとして、なんともいいようのないふう変りな女だった。しかし、そんなかの女を、ぼくが、美人とは受けとらなかった、と、そう思われてもこまる。たしかに、奔放な美しさはあった。
帽子と外套を脱ぎすてた女は、がたがたブルブルとふるえた。白い歯で、下くちびるを噛みしめながら、電気ヒーターのスウィッチを入れに行った。そのすきを利用して、ぼくは、ピストルを、外套のポケットから、ズボンのポケットにうつしかえた。それから、外套を脱いだ。
女は、ほんのしばらく、部屋を出たかと思うと、やがて、青銅《ブロンズ》の盆に、茶いろの液体のつまったクォート瓶と、タンブラーを二つのせて、もどってきて、それを、ヒーターのそばの小さなテーブルの上におろした。
最初のタンブラーを、女は、縁から半インチとないところまで満たした。二つめのタンブラーに、半ぶん近くまで注いだときに、ぼくは、押しとどめた。
「ぼくはそのくらいでたくさんだ」
ブランディだった。なんの苦もなく飲みほせた。女はタンブラーにほとんどいっぱいの酒を、かつえていたように、のどのなかに流しこんで、むきだしの肩をふるわせ、ほっとしたようにため息をもらした。
「きっと、あたしのことを、気ちがいと思ってらっしゃるわね」女は、ぼくに笑いかけた。「街でぶつかった見も知らぬかたの車にとびこんで、とんだ面倒をかけたりして」
「そんなことはないさ」ぼくは、まじめな顔で、うそを吐《つ》いた。「君は、こうしたさわぎにはなれていないが、それにしては、案外おち着いていると思っているんだがね」
女は、小型のソファを、電気ヒーターのそばの、ブランディをのせたテーブルに手をとどくあたりまでひっぱってきて自分が腰をおろすと、空いている半ぶんを、目顔でさしながら、誘うようにうなずいて見せた。
むらさきいろの犬が、女の膝にとび乗った。いきなり払いおとされた。もう一度、とび乗ろうとした。女は、部屋ばきのとがった爪さきで、わき腹を蹴とばした。小犬はキャンキャンと泣いて、部屋のむこうの椅子の下にはいりこんだ。
ぼくは、部屋をぐるっと遠まわりして、窓のそばに行くのを避けた。窓には、カーテンがかかっていた。しかし、万が一にも、ちょうど今、フウジス小僧が、自分の部屋の窓ぎわに坐りこんで、双眼鏡を眼にあてているとすれば、その眼から、部屋じゅうをかくしおおせるほど厚いカーテンではなかった。
「だけど、あたし、ほんとは、ちっともおち着いてやしないのよ」女は、そばに腰をかけたぼくに、話しかけた。「とっても臆病なの。でも、もうなれっこになってしまって――あたしの主人なのよ。いいえ、あたしの主人だったひとなの。あたし、すっかり話すわ。親切にしていただいたのだから、わけを話さなくちゃ。それに、あなたには、ありもしないことを想像してもらいたくないし」
ぼくは、相手のことばを、そのまままに受けたような顔になろうとした。そのじつ、なにをいわれようとも、いっさい信用しないつもりでいたのだが。
「あのひと、まるで気ちがいみたいにやきもちを焼くんだもの」女は、低いやわらかな声で、話しつづけた。その口調には、アクセントがちがうとまではいいきれないが、なんとなく外国ふうのなまりがあった。「年よりのくせに、ひとがきいたらほんとにできないほど、そりゃあひどく意地が悪いのよ。さっきのひとたちだって、あのひとが、差しむけたんだわ――女をよこしたことだってあるのよ――今晩の連中がはじめてのことじゃないの。あの連中が、どうするつもりだったのか、それは、あたし、知らないわ。あたしを、殺すつもりだったのよ、たぶん――でも、けがをさせるつもりだったのかしら、かたわにする気だったのかしら――わからないわ、あたし」
「君といっしょにタクシーに乗っていた男、あれも連中の一味だったのかね?」ぼくはたずねた。「君の襲われたとき、ぼくはそのうしろを走っていたもんだから、男の人が君といっしょだったのが見えたんだがね。あの男も、仲間なのかね?」
「そうなのよ! あたし、知らなかったんだけど、あいつだってぐるだったにちがいないわ。ちっともあたしのことかばってくれないんだもの。みかたみたいな顔をしていただけなんだわ」
「その君のハズのことで、警察の厄介になろうとしたことはないの?」
「どういうこと?」
「警察に訴えたことがあるのかね?」
「あるわ、でも」――茶いろの肩をすぼめて見せて――「さわぎ立てずにそっとしといたほうが、よっぽどましだった。バッファローでのことだったわ。警察は、あたしの主人を逮捕したわ。治安維持のためにっていうのかしら、なんでも、そんな理由だったわ。罰金が千ドルよ! やきもちに狂ってる男に、それぐらいのお灸が、なにになるっていうの? それに、あたし――あたし、新聞がわいわい書きたてるのが、ガマンできなかったわ――ひどいからかいようなんだもの。とうとうバッファローをおんでるはめになっちまったのよ。そうよ、あたし、一度だけ、主人のことで、警察の厄介になったわ。でも、それっきりよ」
「バッファローね?」ぼくは、すこしばかりさぐりを入れてみた。「ぼくも、しばらく住んでいたがね――クレセント大通りに」
「まあ、そうだったの? デラウェア公園のむこうだわね」
その通りだった。しかし、この女が、バッファローの地理をちっとばかり知っているからといって、話のほかの部分の真実性が証明されるわけではない。
女は、ブランデイを、もっと注《つ》いだ。ぼくは、できるだけ口をうごかして、これからひと仕事かたづけねばならない身に、酒が過ぎないように気をつけた。女は、自分のタンブラーには、あいかわらずたっぷりと注いだ。ぼくたちは飲んだ。女が、うるし塗りの箱にはいったタバコをすすめた――黒い紙に手で巻いた細いタバコだった。
そのタバコを、ぼくは吸いつづける気にはなれなかった。まるで火薬のように、焦げくさい味とにおいがした。
「あたしのタバコ、お気に召さなくて?」
「ぼくは、旧弊な人間でね」ぼくは、いいわけをしながら、火を青銅《ブロンズ》の皿にこすりつけ、自分のタバコの包みを、ポケットにさぐった。「タバコにはちがいないようだが、いったいなにが入っているんだね?」
女は、声を出して笑った。甘ったるいたのしそうな笑い声だった。
「すまないわね。それの嫌いなひと、ずいぶんあってよ。ヒンズーの香料をまぜさせたんだけど」
それには、ぼくは、黙っていた。犬をむらさきいろに染めるほどの女には、ありそうな気まぐれだった。
ちょうどそのとき、犬が、椅子の下で身うごきをして、爪で床をひっかいた。
あっという間もなく、女は、ぼくの膝に乗っかって、両腕で首玉にかじりついていた。恐怖に大きくひらいた眼は、間ぢかに見ると、すこしも黒くはなかった。灰緑いろだった。濃いまつ毛の影になって、黒く見えたのだった。
「犬だよ、犬だよ」ぼくは、女を、膝からおろして、元の席にもどらせた。「犬が、椅子の下で、もじもじうごいただけなんだ」
「ああ!」女は死ぬ目に会ったのを助かったというように、フウッと、息を吐きだした。
そこで、ぼくたちは、ブランデイを、もう一ぱいほすことになった。
「ね、あたし、とっても臆病なの」三ばいめの酒が、腹の中におさまってしまうと、女は、わかったでしょうという顔をして見せた。「でも、それだけ苦労をしてるんだから。気ちがいにならないほうが不思議なくらいだわ」
自慢できるほど、気ちがいに遠いわけではない、と、そういってやってもよかったのだが、ぼくは、さも同情するというふうに、うなずいて見せた。
女は、あわてふためいておとしたタバコのかわりを、もう一本点けた。女の眼は、また、黒い細い隙間にもどった。
「あたし、お行儀が悪いわね」――女が笑うと、茶いろの頬に、えくぼらしいものがあらわれた――「名前もなにも知らないひとにかじりついたりして」
「そんなことなら、なんでもないさ。ぼくは、ヤングというんだ」ぼくは、でまかせをいった。「スコッチのひと箱ぐらい、びっくりするほどの値段で、わけてあげるがね。なんなら、ぼくのことをジェリーと呼んでくれてもかまわないよ。ぼくの膝に乗っかるようなご婦人には、たいがいそう呼んでもらっているんだが」
「ジェリー・ヤング」女は、ひとりごとのようにくりかえした。「立派な名前だわ。すると、あなた、れっきとしたやみ酒屋さんなのね?」
「れっきとしたまでは行かないがね。ここは、サンフランシスコだからな」
それからが、厄介なことになった。
この茶いろの肌をした女のすることということ、なにからなにまで、でたらめだったが、恐怖心ばかりは、ほんものだった。こちこちになるほど、脅えきっていた。今晩、一人ぼっちになるつもりはなかった。ぼくを引きとめておくつもりでいた――自分に楯つく男がいれば、そいつのあごのさきを、ぼくにひっぱたかせるために。自分の魅力で、ぼくをとりこにできると思いこんでいるのだ――そんな種類の女だった。だから、自分のありったけを、さらけだして見せなくては気がすまなかった。お行儀だとか、たしなみだとか、そんなものは、まるっきりどこかへおき忘れてしまっていた。
こっちにだって、つもりはあった。最後のゴングの鳴りひびくときに、この女と、仲間のうちのいく人かを、市の監獄にひっぱって行こうというのが、こっちのつもりだった。そんな立派な理由があればこそ――ほかにも、理由は、いくつでも考えだせないことはなかったが――この女にとろかされてしまうわけには行かなかった。
ぼくは、なにかのおっぱじまるまで、ここで女といっしょにくらすことに、|いや《ヽヽ》はなかった。この次になにかがあるとすれば、その舞台は、このアパートということになりそうだった。しかし、自分の手のうちは、かくしておかなければならない。女に、この女が、その舞台での端役にすぎないことをさとられてはまずい。ぼくとしては、女のいうなりに、ここにぐずぐずしているのも、ただ女の身をまもりたい気もちがあるからだけのことで、ほかになんの下心もないのだというふりをしていなくてはならなかった。ほかの男なら、私利私欲をはなれた、騎士《ナイト》らしい義侠心からの婦人保護者といった態度を見せたところだったかもしれない。しかしぼくは、そんながらでもなければ、そういう人間らしいまねをするのも不得手だった。女をよせつけず、しかも、自分の関心が私的なものでないことを、女にさとられないように、気をくばらねばならなかった。容易なことではなかった。女は、いまいましいばかりに無遠慮だったし、ブランディがはいりすぎていた。
ぼくは、女の手あついもてなしを、自分の美しさと個性のせいだ、と、そんなふうにうぬぼれたりはしなかった。こっちは、大きな二つの拳固に身をかためた男性だった。女は、窮地に追いこまれていた。女にしてみれば、ぼくは、保護者という名の男だった。女と難局とのあいだに、ついたてのようにおかれたものだった。
まだ、厄介なことがあった。ぼくは、めくら滅法夢中になるのも悪くはないと思わせるような女はべつとして、そうでないありふれた女に、相手かまわず熱をあげるほど、若くもなければ、年をとってもいなかった。ちょうど、男が、女の美しさよりも、そのほかの素質――たとえば、愛矯――に、よけいに点をくれる、四十前後というどっちつかずのとしごろだった。この茶いろの女には、手こずらされた。自信のありすぎる女だった。手練手管は、荒っぽかった。ぼくを、百姓のせがれのようにあつかおうとした。しかし、なんといっても、こっちは生身の人間だった。相手の女は、顔とからだつきからすれば、平均点以上のしろものだった。まったく虫のすかない相手だった。できることなら、仕事はどうでも、いますぐに牢屋にぶちこんでやりたかった。だが、ぼくが、この女に、抱きつかれたり、誘いをかけられたり、それに飲みすぎのブランディのせいもあって、内心、浮気の虫がむずむずしていなかった、と、そういってしまっては、うそになる。
とにかく厄介なことだった――冗談ごとではなかった。
二度ばかり、逃げだしたくなった。一度は、時計をのぞいて見た――二時六分だった。女は、重そうに指輪を光らせた茶いろの手で、時計をかくして、それを、ポケットに押しもどした。
「お願いよ、ジェリー!」女の声にこもった真剣な調子は、ほんものだった。「行かせやしないわよ。あたしをおいてったりしたら、承知しないから。そんなことさせるもんか。あたしも、どこまでだってついてってやる。あたしをおきっぱなしにして、殺させようたって、そんなわけには行きゃしないさ!」
ぼくは、また、腰をおちつけた。それから、四、五分経つと、ベルがけたたましく鳴りひびいた。
女は、たちまち、しどろもどろになってしまった。ぼくにしゃにむにおおいかぶさって、はだかの両腕で、ぼくの首をしめつけた。ぼくは、口がきけるだけに、その両腕をゆるめさせた。
「どこのベルだ?」
「階下の玄関よ。ほったらかしといて」
ぼくは、女の肩を軽くたたいた。
「さあ、いい子だから、返事をしたまえ。どこのだれだかたしかめるんだ」
女の両腕がしまった。
「いや! いや! いやよ! あのひとたちがきたんだわ!」
ベルが、また鳴った。
「返事をしたまえ」
女は、ぼくの上衣に、顔を押しつけ、鼻を、ぼくの胸に埋めた。
「いやよ! いやよ!」
「よし。じゃあ、ぼくが、自分で、返事をしてやる」
ぼくは、女のからだを、もぎはなし、おきあがって、廊下に出て行った。女は、ついてきた。もう一度、女に返事をさせようと説いてみた。承知はしなかったが、ぼくが話すぶんには、文句はなかった。階下にきたのがだれであれ、女が一人でないことを知られるのは、今の場合、ぐあいが悪いような気がした。しかし、女は、|てこ《ヽヽ》でもいうことをききそうにはなかった。
「なんだ?」ぼくは通話管にむかって、声をかけた。
「貴様は、いったい、どこのやつだ?」胸の奥から出る耳ざわりな声が、ききかえしてきた。
「なんの用だ?」
「イネズに、話がある」
「ぼくに話したまえ。イネズには、ぼくから話してやる」
女は、ぼくの片腕をつかんだまま、通話管に、耳を寄せていた。
「ビリーだわ」女が、ささやいた。「帰れといって」
「帰れとさ」ぼくは、女のことばをつたえた。
「なんだと?」声は、もっと耳ざわりにもっと深くなった。
「ドアをあけてくれるか、それとも、こっちからぶちやぶってはいるか?」
その口調には、冗談やひやかしではないひびきがあった。ぼくは、女には相談せずに、玄関のドアの錠をはずすボタンを押した。
「はいりたまえ」通話管に呼びかけた。
「あがってくるぜ」ぼくは、女に説明した。「ぼくは、ドアのうしろにかくれていて、やってきたら、頭をなぐりつけてやろうか? それとも、まず、やつと話をしたほうがいいかね?」
「なぐっちゃだめ!」女は、大きな声を出した。「ビリーだもの」
ぼくは、そのほうがよかった。もともとなぐったりするつもりはなかった――いずれにしろ、相手の正体を見きわめるまでは。それに、女がなんというか、それをたしかめたかった。
ビリーがあがってくるのに、ひまはかからなかった。ベルが鳴ると、ぼくがドアをあけた。女は、そばに立っていた。客は通されるのを待つようなことはしなかった。ドアを半ぶんあけたかあけないうちに、もう戸口からなかにはいっていた。ぼくを、ぐっとにらみすえた。あたりいっぱいに立ちはだかった感じだった。
顔の赤い、髪の毛の赤い、とほうもない大男――どこからどう測っても、ケタはずれな大きさ――それも、よぶんな肉などどこにもついていなかった、鼻の皮が赤むけにむけ、かたほうの頬には、ひっかき傷があり、もういっぽうの頬は、腫れあがっていた。帽子をかぶらない頭は、赤毛のジャングルだった。
外套のポケットのひとつが、むしりとられ、リボンのように細ながく裂けた六インチほどの布地の端に、ボタンがひとつぶらさがっていた。
まぎれもなく、女といっしょにタクシーに乗っていた大男だった。
「どこの野郎だ?」男は、大きな手を、ぼくのほうにうごかして見せた。
女が、油断のならないくわせものであることは、先刻ご承知ずみだった。ぼくを、そのみじめに傷だらけの大男の腹いせの餌食にくれてやる気になったとしたところで、べつにおどろくほどでもなかった。しかし、それはしなかった。大男の手をにぎってなだめた。
「がみがみいわないで、ビリー。お友だちなのよ。あたし、このひとがいなかったら、今日みたいな晩、とてもがまんできなかったわ」
男は、しぶい顔をした。やがて、あたり前の顔になると、女の手をつかんだ。
「君が、無事で逃げだせて、なによりだ」男の声は、しゃがれていた。「ひろい場所だったら、おれたち、もっとうまくやれたんだがなあ、なにしろ、あのタクシーのなかでは、身うごきもならなかったよ。どの野郎だったか、そいつはわからんが、頭を、こっぴどくなぐられてね」
おかしな光景だった。この図体ばかりでかい道化師は、自分をほったらかして逃げた女をかばって、もみくしゃにされたことを、弁解している。
女は、大男を居間に通した。ぼくも、くっついて行った。二人は長椅子に腰をおろした。ぼくは、窓から見通しのきかない椅子をえらんだ。窓は、フウジス小僧が見はっているにきまっている。
「いったいどうしたのよ。ビリー?」女は、指のさきで、男のひっかき傷のできた頬と、皮のむけた鼻にさわった。
「怪我をしているわ」
男は、てれたように、白い歯をむきだして見せた。頬が腫れあがっていると見たのは、じつは、噛みタバコの大きなかたまりとわかった。
「おれも、なにがどうなったのか、すっかりは、知っちゃいないんだがね。頭をなぐられたっきり、正気にかえったときには、二時間たっていた。タクシーの運ちゃんは、おれが、夢中になってやりあってるときには、知らん頭をしてたが、タクシー代を出すのが、どこのだれかってことは、さすがにちゃんと心得てやがったよ。大きな声を出したり、そんなことはしなかったね。わざわざ、よけいな口のきかないお医者のとこへ連れてってくれた。そこで、おれは、手あてを受けて、ここへやってきたというわけなんだ」
「その相手の連中を、一人一人見ておいたこと?」
「見たとも! 見たし、さわったし、ひょっとすると、噛みついてやったかもしれん」
「いったいなん人いたの?」
「二人っきりさ。妙なひげをはやしたちっぽけなやつと、あごのでかいがっちりしたやつとだ」
「それっきり? ほかに、もっと若い、背の高いやせた男がいやしなくて?」
てっきりフウジス小僧のことだ。女は、小僧とフランス人とが、ぐるになっていると思ったのだ。
ビリーは、傷だらけのもじゃもじゃ頭を振った。
「いなかったな。二人っきりだった」
女は、眉をしかめて、くちびるを噛んだ。
ビリーは、横眼づかいに、ぼくを見た――「出て失せろ」というような眼つきだった。
女が、その眼つきに気がついた。長椅子の上で、身をよじって、男の頭に、手をのせた。
「可哀そうなビリー」甘ったるい声だった。「あたしをかばうために、こんなひどい怪我をしちゃって、その上、おうちで、ゆっくりねんねしなくちゃならないのに、あたしが、おしゃべりさせちゃったりするんだもの。さあ、お帰りなさいな、ビリー。明日になっておつむのぐあいがいいようだったら、電話をかけてくれるわね?」
男の赤い顔がくろずんできた。眼をむいて、ぼくの顔をにらみつけた。
女は、声を出して笑いながら、噛みタバコでふくれている男のほっぺたを、軽くたたいた。「ジェリーをやっちゃだめよ。ジェリーは、どこかのもっと色の白い女のひとに、首ったけなんだわ。色の黒い女なんか、これっぽちもすきになれないんだって」女は、いどむようにぼくに笑いかけた。「そうなんだわね、ジェリー?」
「そうとも」ぼくは、うなずいて見せた。「それに、たいがいの女は、いろが黒いからな」
ビリーは、噛みタバコのかたまりを、ひっかかれたほうの頬にうつして、両肩をそびやかした。
「なにをぬかしやがるんだ?」噛みつくようないいかただった。
「そんな悪い意味でいったわけじゃないわよ、ビリー」女は笑った。「しゃれたいいかたをしただけじゃないの」
「なにお!」ビリーはひねくれて兇暴になった。どうやら、ぼくが気にくわないらしい。「とにかく、ちびで肥っちょの君の友だちに、きいたふうな口をきくなといってくれ。おれは、こいつが、虫がすかん」
理くつもなにもない。ビリーは、喧嘩をふっかけようとしているのだ。相手を自由自在にあやつれるだけしっかりと男の気もちをつかんでいる女は、ただ笑っただけだった。この女のすること為すことの裏に理由を見つけだそうとしたところで、なんの役にもたたない。男どうしが反目しあって、二人いっしょに、自分に引きよせておくことができなければ、いっそのこと噛みあわせて、かたいっぽうを消してなくし、のこったほうを、自分がにぎっていようと、そんなことを考えているかもしれないのだ。
いずれにしろ、雲行きは、険悪だった。ふだんなら、ぼくは、ことなかれ主義だ。売られた喧嘩を、面白がって買う年ごろでもない。しかし、そんなことを気にするには、あまりにもいろんなさわぎがありすぎた。負けたところで、それほどみじめな目にあうものでもない。このでかぶつが、自分よりも肉がよけいにくっついているという、ただそれだけの理由で、のめのめと引きさがるつもりはなかった。ぼくは、大きなやつに立ちむかったときには、いつも運がよかった。男は、宵のうちに、さんざんいためつけられている。だから、馬力もすこしは弱まっているだろう。ぼくは、できることなら、もうしばらく、この部屋《アパート》にぐずぐずしていたかった。ビリーのほうで、ひとさわぎやらかそうというのなら――そのつもりらしい――相手になってやってもいい。
むこうに腹をたてさせて、五分五分の戦いにもちこむのはわけのないことだった。こっちが、口をききさえすれば、相手の気にさわるにきまっていた。
ぼくは、男の赤ら顔ににやりと笑いをかけながら、女に、まじめくさった口をきいた。
「この先生、洗濯に使う|青味づけ《ブリューインク》の中に、どっぷりとつけてやれば、ほかの連中とおなじいろあいになるだろうね」
これが、ばかみたいによくきいた。ビリーは、いきなり立ちあがって、両方のにぎりこぶしをかためた。
「外へ出ろ。もっとひろい場所へ行くんだ」
ぼくは、立ちあがって、足で椅子をうしろへ押した。
「君がもっとちかくによれば、場所ぐらいたっぷりあるさ」
「赤」のバーンズのよく使った文句だった。
相手は、つべこべいってやる必要のない男だった。早速、立ちまわりがはじまった。
拳と拳のたたかいだった。まず、大男の右が、ぼくの頭をめがけて飛んできた。ぼくは、その下をくぐって、ありったけの力をこめた右と左とを、矢つぎばやに相手の腹にたたきこんだ。男は、口のなかの噛みタバコをウッとのみこんだ。しかし、痛さをこらえて、かがみこむようなことはしなかった。見かけ通りに強い大男というものは、めったにあるものではない。ビリーは、その数すくない一人だった。
よくよく総身に智慧のまわりかねる大男だった。喧嘩とはデクの棒みたいにつっ立って、相手の頭を的に、拳固を――右左、右左と――ただやたらにつきだすことと心得ているのだ。その拳固がこれまた、紙クズ籠ほどの大きさがあった。それがビュンビュンと音をたてて、空気をきった。しかし、ねらうのは、きまって頭ばかりだった――ほかのどこよりもかわしやすいところだ。
ぼくには、踏みこみ、とびさがる余地は、充分にあった。それを利用した。腹をなぐった。心臓をなぐった。もう一度腹をなぐった。なぐりつける毎に、相手の背たけは、一インチずつ伸び、体重は、一ポンドずつ増え、力も、一馬力ずつ強くなった。こっちは、冗談づくでなぐっているのではなかったが、なんとしても、この息のかよった人間小山を――噛んでいたタバコをのみこませるぐらいのききめはあったとはいえ――眼に見えるほど痛めつけることはできなかった。
ぼくは、つねづね、自分の拳固のききめを、かなりうぬぼれていた。それが、これ以上は出せないというほど猛烈なパンチをくらわせて、しかも、この大男に、うなり声ひとつ出させることができないとなると、まるでがっかりだった。だが、ぼくはくじけなかった。こいつだって、そういつまでもがまんができるものではない。根気づくで行くことにした。
こっちも二度ばかりは、痛い思いをした。一度は、肩先だった。大きな拳固がぶつかって、ぼくは半回転させられた。次にどう攻めるか、相手は、それを知らなかった。見当ちがいのがわに、踏みこんできた。身をかわして避けた。もう一度は、おでこをゴツンとやられた。これは痛かった。相手はもっと痛かったにちがいない。にぎった指の関節《ナックル》よりは、頭の骨のほうが、丈夫にできているのだ。つめよってくるところを、ひょいとすかして、首すじのうしろに、ちっとは記憶にのこりそうなやつを一発くれてやった。
姿勢を立てなおすビリーの肩ごしに、女の浅黒い顔が見えた。濃いまつ毛の奥の眼が、キラキラと光り、あいた口に、まっ白な歯が輝いていた。
ビリーは、ボクシングに飽きて、レスリングに転向した。ぼくは、なろうことなら、なぐりあいをつづけたかった。しかし、そういうわけにも行かなかった。なにしろ、むこうがリードしているのだ。いきなり、かたほうの手くびをつかまれ、ぐっとひっぱられた。胸と胸とがドサッとぶつかった。知らないといえば、まだしも、なぐりっこのほうがましなくらいだった。べつに知らなくてもよかった。ぼくごときをあしらうには、からだの大きさと、力の強さと、それだけで充分だった。
床に倒れてゴロゴロところがりはじめたときには、ぼくのほうが下になっていた。ぼくは最善をつくした。なんの手ごたえもなかった。三度、はさみ絞めをかけた。相手のからだが大きすぎて、ぼくの短い脚は、まわりきらなかった。まるで、赤ん坊をからかうようなぐあいに、あっさりとつきはなされてしまった。男の両脚を始末しようと、いろいろやってみたが、なんのかいもなかった。名のついたほどのレスリングの手では、どうにもできなかった。両腕も、それにおとらず強かった。ぼくは、あきらめた。
ぼくの知るかぎり、この怪物を相手に、ものの役に立ちそうな戦法はなかった。とても歯が立たない。こっちはもう、のこされた体力のありったけをしぼり出して、かたわにされないように逃げまわり――相手を出しぬくチャンスをねらうのが、せいいっぱいだった。
ぼくは、やたらにこづきまわされ、ふりまわされた。やがてチャンスはやってきた。
ぼくは、あおむけに寝ころがっていた。腹の上にのしかかられて、ハラワタが、しぼりだされそうな苦しさだった。大男は、膝をついて、ぼくの上にまたがり、大きな両手で、ぼくののど輪をしめにかかった。
ものを知らないにも、ほどがあるというものだ!
そんな手つきで、大の男の首がしめられるものではない――手の指は、バラバラだし、指一本となれば、手のほうが強いのだ。
ぼくは、相手のむらさきいろの顔を目がけて笑いをふっかけながら、両手を、上にのばした。その両手がうまく大男の両手の小指を、一本ずつつかんだ。無我夢中だった。ぼくはくたびれはてていた。相手は、そうではなかった。しかし、小指一本で、手の力にかなうやつはいない。ぼくは、その両手の小指を逆にねじあげた。二本とも、ポキンと音をたてて折れた。
大男は、悲鳴をあげた。ぼくは、次の――くすり指をつかんだ。かたいっぽうが、ボキリと鳴った。もういっぽうのくすり指が今にも折れそうになったとき、首にまわった両手がはなれた。
身をおこしざま、男の顔をなぐりつけて、両膝のあいだから抜けだした。立ちあがったのは、両方いっしょだった。
入口のベルが鳴った。
女の顔から、喧嘩を面白ろがる表情が消えた。かわって恐怖があらわれた。口に手をあてた。
「だれだか、ききたまえ」ぼくは、女にいいつけた。
「だれ――だれなの?」
女の声は抑揚がなく、かさかさに乾いていた。
「ミセス・ケイルですよ」廊下の声には、とげがあった。
「さわぐのは、すぐにやめてください。ほかの部屋《アパート》のかたがたが、文句をいっていらっしゃいます――あたり前ですよ! こんな時間に、お客をして、さわぎまわるひとがあるもんですか」
「おかみさんだわ」いろの黒い女は、ささやいた。声をはりあげて、「ごめんなさい、ミセス・ケイル。もうさわぎませんわ」
ドアのむこうがわでは、鼻をふんと鳴らしたらしい気配があった。足音が、次第に遠ざかった。
イネズ・アルマッドは、とがめるように、ビリーに顔をしかめて見せた。
「あなたが悪いのよ」
男は、恐縮したように、眼を伏せ、それから、ぼくの顔を見た。またまた、顔が、むらさきいろになった。
「すまなかったな」つぶやくような口調だった。「だから、おれは、こいつに、外に出よう、と、そういったんだ。こんどこそひっぱり出してやる。そうすれば、もううるさがられることもあるまい」
「ビリー!」女の鋭い声が飛んだ。切り口上になって、「出ていらしてもいいことよ。でも、あなたは、ひどく怪我をしてるわ。そのせいであなたのほうが負けたら、あたしは、ひとりぼっちにされて、ここで殺されてもしかたがない、と、そうおっしゃるのね?」
大男は、しきりに足を踏みかえて、女の眼を避けながら、世にもみじめな顔になった。それでも、かたくなに頭を振った。
「そんなわけには行かんのだよ、イネズ。おれとこの野郎とは、どうあってもしめくくりをつけなければならん。指を折られたからには、こいつのあごをたたき割ってくれるんだ」
「ビリー!」
女は、小さな足をトンと踏んで、横柄に、男をにらみつけた。男は、できることなら、手足を空にのばしてあおむけにころがり、小犬のように甘えたい、そんな顔をした。だが、立ちはだかったままだった。
「やむを得ん。どうしても、かたをつけるほかはない」
女の顔から、怒りのいろがなくなった。ひどくやさしげに笑いかけた。
「しようのない人ねえ、ビリーったら」つぶやいて、かたすみのデスクのほうへ、歩いて行った。
ふりかえった女の手には、自動ピストルがあった。その銃口は、ビリーをねらっていた。
「さあ、出てお行き!」
赤ら顔の男は、とっさのあいだに、判断のつく人間ではなかった。ほれた女が、ピストルを突きつけて、自分を追いだそうとしている。そのことが、腑におちるまでには、タップリ一分ほどかかった。いかなウドの大木でも、指を三本もへし折られた自分が、女に愛想づかしされたぐらい、すぐにも気がついていいはずだった。両脚をうごかすまでには、その上にまた一分かかった。男は、まだ、そんな目に会わされていることが半ぶん信じられない顔つきで、のろくさと、ドアのほうへ足をはこんだ。
女は、同じ歩調で、あとにつづいた。ぼくはひと足先に、ドアをあけに行った。
ドアのにぎりをまわした。ドアはむこうからあいて、ぼくは反対がわの壁に、押しつけられた。
戸口には、エドアルド・モーロアと、もう一人、ぼくが、あごのさきをなぐってやった男が立っていた。二人とも、ピストルをにぎっていた。
ぼくは、イネズ・アルマッドの顔を見ながら、こうした状況に直面した女が、こんどは、どんな狂態を見せるだろうかと考えた。思ったほどではなかった。女の手のピストルが、ガタンと床におちる音が、金切り声といっしょにひびいた。
「ははあ!」フランス人が、口をひらいた。「お客さまがたには、お帰りになるところでしたかな? どれ、お引きとめいたすとするか」
あごの大きな男――そのあごが、ぼくになぐられて、前にみたときよりも、もっと大きくなっていた――のほうは、それほどていねいな口はきかなかった。
「手前ら、あともどりするんだ!」命令をくだしながら、かがみこんで、女のおとしたピストルをひろった。
ぼくはまだ、ドアのにぎりに、手をかけたままでいた。その手をはなしがけに、すこしばかりガタガタと音をさせ、それにまぎらわせて、自動錠のラッチをはずし、外からでもあけられるようにする小さな押しボタンを、そっと押した。助けをもとめる段になって、それがやってきたときに、できるだけ手間のかかる錠の数をすくなくしておきたかったのだ。
それから――ビリーと、女と、ぼくの三人は、あとじさりしながら――ぼくたちは、うち連れて、居間のなかへと行進して行った。モーロアと、その連れの男とは、二人とも、タクシーのなかでの乱闘のなごりをとどめていた。フランス人は、かた目のまわりに、みごとな黒アザをつくり、つむった眼のまなじりが裂けていた。泥にまみれてしわくちゃになった服を、それでもいちおう気どったふうに着こなし、ピストルをもたないほうの腕には、まだ柄のまがったステッキが、ぶらさがっていた。
|大あご《ヽヽヽ》が、自分のと女のと二挺のピストルを、ぼくたちにつきつけているあいだに、モーロアは、ビリーとぼくの服の上からなでまわして、とび道具の有無をたしかめた。ぼくのピストルを見つけだして、それを、自分のポケットにしまいこんだ。ビリーは、なにももっていなかった。
「ご迷惑でも、そのまま、壁ぎわまでおさがりいただけますかな?」身体検査がすむと、モーロアが、いんぎんな口をきいた。
ぼくたちは、ちっともご迷惑ではないような顔で、あとにさがった。気がつくと、ぼくのいっぽうの肩が、窓のカーテンにさわっていた。ぼくは、それを、窓わくに押しのけ、肩をひねって、窓ガラスが、一フィートかそこらあくようにひっぱった。
フウジス小僧が、自分の部屋から見はっているとすれば、そのカーテンの隙間から、夕がた自分をねらい射ちにしたフランス人の姿を、はっきり見ることができるはずだった。これからのことは小僧にまかせることにした。廊下のドアは、外からでもあくようになっている。小僧が、この建ものにうまくしのびこんでくれれば――それほどむずかしいことでもない――あとは、なんの邪魔ものもないのだ。註文通りにやってくれるかどうか、それはわからないが、なろうことなら仲間入りをしてもらいたかった。よもや、がっかりさせられることはあるまいと思った。のこらずのひとが、ここにひとかたまりになってくれるならば、なにごとがおころうとも、とにかくそれは、ぼくの眼の前でおこり、ぼくは、事情をのみこむことができる寸法だった。
そのいっぽう、ぼく自身は、できるだけ、窓からはなれるようにした。ことによると、小僧のやつ、裏通りごしに、ピストルをぶっぱなす気にならないでもない。
モーロアは、イネズと顔をつきあわせていた。|大あご《ヽヽヽ》は、ビリーとぼくに、ピストルをむけていた。
「わたし、英語あまりよくわかりまシェん」フランス人は、カラカイ半ぶんに、フランス語をまぜたかたことでしゃべった。「あなた、こんど、わたしに会う、それ、ニューオーリアンズと、そういったと思いました。あなた、サンフランシスコで会うといったこと、わたし、知りまシェん。わたし、まちがえて、たいへんすみまシェんねえ。あなた、待たせたこと、それもすみまシェんねえ。しかし、わたしここにきました。わたしのわけ前、ありますね?」
「そんなものないわよ」女は、両手をひろげて、なにもないというしぐさをして見せた。「小僧に、なにもかも、もって行かれちまったもの」
「なんですと?」モーロアの顔から、からかうような微笑が消え、寄席芸人の使いそうな外国人のかたこと口調もなくなった。あいたほうのかた目が、怒りに輝いた。「あの男が、どうして、それとも、あなたが――?」
「あたしたち、あいつに、つけねらわれてたのよ、エドアルド」女の口は、ブルブルとふるえた。懸命な口調だった。眼は、信じてくれと訴えていた。口にしていることの内容はうそだった。「ずっと、あたしを尾けさせていたんだわ。ニューオーリアンズに着いたあくる日に、あいつやってきたのよ。みんなもって行かれたわ。あたし、あなたを待っていられなかったの。とてもあたしのこと信じてもらえないと思って、それがこわかったのよ。あなただって――」
「信じられないことだ!」これはフランス語だった。モーロアは、ひどく興奮していた。「わたしは、あれから――わたしたちの狂言がすんでから、すぐの汽車で、南に発った。おなじ汽車に、小僧も乗りあわせていて、それをわたしが知らずにいたとは、そんなことがあるだろうか? |あるもんか《ノン》! それがないとすると、どうして、やつがわたしより先に、あなたのところへ行くことができただろう? あなたは、わたしを、からかっておいでだ、|わたしの可愛い《マイ・プティット》イネズ。あなたが、小僧とおちあったこと、それは、ほんとでしょうな。しかしニューオーリアンズでではない。あなたは、あの土地に行きはしなかった。このサンフランシスコにきたのです」
「まあ、エドアルド!」女は、茶いろの手で、フランス人の袖をつかみながら、次のことばが出てこないのをもどかしがるように、かた手で、のどをおさえた。「そんなことが、あなたには、わかんないの! ボストンで、あれだけなん週間もひまがあったのに、できるはずがないというの? あたしが、小僧みたいなやつのために――ほかのだれのためにだって――あなたを裏ぎったりするかしら? あなたって、あたしがそんなことをすると思うほど、あたしって女を知らないつもりなの?」
女は、役者だった。ひとの心に訴えるものがあった。同情をひくものがあった。そのほかなんでもかんでも――あぶなっかしさもふくめて――身につけた女だった。
フランス人は、女の指から、袖をもぎはなして、ひと足さがった。小さなヒゲの下の、口のまわりに、白い線が見えていた。あごの筋肉が、ふくれあがった。怪我をしていないほうの眼に、不安のいろがあった。女は、そのフランス人を、意のままにあやつっていた。しかし、相手に、われを忘れてうろたえさせるほどではなかった。筋書きは、まだ幕があいたばかりだった。
「なんのことやら、わたしにはわからないが」ゆっくりとしたいいかただった。「わたしの思いちがいであったのなら――そうなら、なによりも、小僧をさがしださなくてはならない。やつが見つかれば、うそのないところが、わかるでしょうからな」
「いやいや、なにもさがすことはねえよ。こっちから参上申しあげたってことさ!」
戸口へ行く短い廊下に、フウジス小僧が、立ちはだかっていた。両ほうの手に、一挺ずつ、黒い回転胴式《レヴォルヴァ》のピストルがあった、撃鉄《ハンマー》がおこしてあった。
ちょっとした一幅の画面《タブロー》だった。
入り口にはフウジス小僧――二十代のやせほそった若造。顔の線が弱く、ほお骨がこけおち、眼がどんよりと曇っている。それだけに、なおのこと非情な容貌に見えた――が立っている。撃鉄をおこした両手のピストルは、見かたによってだれでもをねらっているようにも見えれば、だれもねらっていないようにも見える。
茶いろの肌をした女がいる。にぎった両手で、自分の頬をはさみ、両ほうの眼を、ひとみの灰緑いろがまざまざと見えるほど、大きくみひらいている。その眼にうかんだ恐怖のいろは、ぼくの前に見たそれとはくらべものにならないほど濃かった。
フランス人がいる。小僧の口にした最初のことばといっしょに、くるりと、ドアのほうへむきなおり、自分のピストルを、相手につきつけた。あいかわらず、ステッキを、腕にかけ、顔は、緊張に青ざめていた。
|大あご《ヽヽヽ》がいる。そのからだは、半ぶんまわりかけたままとまり、自分の肩ごしに、顔を、ドアのほうへむけている。ピストルも、いっぽうだけは、顔といっしょに、そっちをむいていた。
ビリーがいる。その傷だらけの大男は、イネズ・アルマッドに、ピストルをむけられ、部屋《アパート》を追いだされそうになったあのとき以来、ひとことも口をきかなかった。
そして、その画面《タブロー》のなかの最後の人物、それが、ほかならぬぼくだった。今ごろは、家のベッドにおさまっていていいころだと思えば、あまり愉快ではなかったが、といって|かんしゃく《ヽヽヽヽヽ》をおこすほどでもなかった。局面が、こうした形をとったことが、決して気にくわないというのではない。この部屋《アパート》で、なにかが、まさにおころうとしている。しかし、ぼくは、おなじ画面のなかのどの人物にもしろ、とくにその人間の運命が気がかりだという、それほどよく知った相手もいなかった。自分自身としては、ぼくは、とにもかくにも、バラバラにされずに切りぬけることを考えていた。男一匹、めったなことでは、殺されるものではない。だしぬけに、この世におさらばさせられたような連中のたいがいは、自分から進んで殺されていた。こうした運命をかわすことに、ぼくは、二十年という経験をつんできた。なにごとがもちあがろうとも、自分が、生きのこりの一人となりおおせることには、成算があった。その上、ほかに生きのこった連中を、ひとからげに連れて行くことまで考えた。
だが、さしあたり、この場は、ピストルを手にしたひとたち――フウジス小僧と、モーロアと、|大あご《ヽヽヽ》と――ににぎられていた。
最初に口をきいたのは、小僧だった。厚ぼったい鼻からモタモタと抜ける泣くような声だった。
「ここは、約束のシカゴたあ、ちっとばかし方角がちがうようだが、どっちにしろ、顔だけは、のこらずそろっていやがるようだな」
「シカゴだと!」モーロアが、大声をはりあげた。「君は、シカゴへは、行きもしなかったんだ!」
小僧は、せせら笑った。
「手前は、行ったのかよ? この女は、行ったのかよ? おれだけが、そんな土地になにしに行くものかよ? 手前は、おれが、この女とぐるになって、手前を出しぬいた、と、そう思っていやがるんだな? おれだって、手前がだまされやがったように、あの間ぬけ野郎が、おれたち三人にだまされやがったように、この女に、まんまとだまされなかったら、ことによると、この女とぐるになったかもしれん」
「それは、そうかもしれない」フランス人がこたえた。「しかし、君は、そんなことで、わたしが、君とイネズとは、仲が悪かった、と、そう思いこむと考えているのではあるまいね? 今日の午後、君が、このアパートを出るのを、わたしが見なかったとでもいうのかな?」
「いかにも、手前は、おれを見たさ」小僧は、うなずいた。
「しかし、おれのパチンコが、ポケットにひっかからなかったら、手前だって、それっきり、ほかになにも見えなくなっていやがったところだぜ。だが、いまは、手前を敵にまわすような|ねた《ヽヽ》はなにもねえ。おれは、手前が、おれのことを、感ちがいしやがったのとおなじに、てっきり、手前のほうが、この女とぐるになって、おれを出しぬきやがったと思ったんだ。それが、ここにやってきたときにきいたことから、見当ちげえとわかった。この女は、おれたちが、あの間ぬけ野郎をあしらってくれたように、おれたち二人を、手玉にとりやがったんだ。まだわからねえのか?」
モーロアは、頭を、ゆっくり振った。この会話を、とげとげしいものにしたのは、二人の男が、めいめいピストルをむけあいながら話しているからだった。
「いいか」小僧は、カンをたてたような、声を出した。「おれたち、シカゴで会って、獲ものを、三人で山わけにすることになっていた。そうじゃなかったか?」
フランス人は、うなずいた。
「ところが、この女は、手前を出しぬいて、おれと、セント・ルイスで会おう、と、そうおれにはいいやがった。そのいっぽう、手前には、おれをまいて、ニューオーリアンズで会う約束をした。そうしておいて、自分は、しろものをにぎったまま、このサンフランシスコに逃らかり、まんまと、おれたちを、ぺてんにかけやがったんだ。
二人とも、出しぬかれたどうしのわけだが、そのおれたちが、たがいに熱くなってみたところで、なんの役にもたちゃしねえ。しろものは、二人でたんまりちょうだいするだけある。だから、おれのいいてえのは、今までのことは、忘れちまって、おれと手前と二人で、山わけといこうじゃねえか、と、そのことなんだ。おれは、なにも、手前に頭をさげて頼みゃしねえ。相談づくだ。気にくわねえのなら、勝手にしゃがれ! おれは、手前も知っての通りの人間だ。相手が手前だろうが、ほかのだれだろうが、こうとなったら、ピストルにかけてでも、思い通りにしてみせる。どっちでもすきなほうにしろ!」
フランス人は、しばらくなにもいわなかった。気もちをうごかされはしたのだが、二つ返事でいうなりになって、自分の立場を弱いものにしたくなかったのだ。小僧のいったことを信用したのかどうか、それはわからないが、いずれにしろ小僧のピストルは、信用しないわけに行かなかった。撃鉄をおこした回転胴式ピストルは、撃鉄のない自動式よりは、かなり早く弾丸を発射することができる。それだけ、小僧のほうが優位に立っていた。小僧が、あとはどうなろうと、そんなことは、これっぽちも気にしていないという顔を、露骨に見せていることでも、フランス人は、すっかり圧倒されてしまっていた。
しまいに、モーロアは、問いかけるような視線を、|大あご《ヽヽ》にむけた。|大あご《ヽヽヽ》は、くちびるをなめずったが、なにもいわなかった。
「君のいうことは、もっともだ。それで行くことにしよう」
「よし!」小僧は、ドアから、少しもうごかなかった。「ところで、こいつらは、どこの野郎だ?」
「このお二人は」――モーロアは、ビリーとぼくのほうに、うなずいて見せた――「イネズのお友だちでいらっしゃる。こっちは」――|大あご《ヽヽヽ》をゆびさしながら――「わたしの相棒なのだがね」
「すると、手前のかた棒をかついでいるってことだな? おれのほうは、そんなことはどうでもいいが」きびきびとした口調になって、「しかし、いいか、わけ前は、手前のぶんから出すんだぞ。おれは、半ぶんとる。ちっとでも欠けちゃ承知しねえ」
フランス人は、いやな顔をしたが、それでも、わかったというふうに、うなずいて見せた。
「半ぶんは、君のものだ。もし見つかったらの話だが」
「そんなこたあ、くよくよするにあたらねえ。ここにあるんだから、見つかるにきまってるさ」
小僧は、かたっぽのピストルをしまいこんで、部屋のなかにはいってきた。もういっぽうのピストルは、かたわきに、ダランとぶらさげていた。女のほうへ歩きながらも、決して、|大あご《ヽヽヽ》とモーロアとには、背なかを見せなかった。
「しろものは、どこだ?」小僧が、女にたずねた。
イネズ・アルマッドは、まっ赤な口を、舌でしめして、その口をすこしあけたまま、やさしいまなざしを、小僧にむけた。こんどは、自分の出る幕だというふうに。
「あたしたち悪いといえば、みんなおたがいっこなのよ、キッド。あたしたち、みんな――だれもかれもが、めいめい、自分だけでひとりじめしようとしたんだわ。あなたと、エドアルドとは、すんだことを、水に流したわね。そのあなたがたよりも、あたしのほうが、悪ものなのかしら? あれを、あたしがもってるのは、ほんとだけど、ここにはないのよ。あしたまで待ってくださる? そうしたら手にはいるわ。約束の通り、三人で山わけするのよ。それじゃいけなくて?」
「いかん!」小僧の声には、容赦のない調子があった。
「そんなことで、公平といえて?」女は、あごを、すこしひきつらせながら、訴えた。「おたがいっこだのに、あなたとエドアルドとがよくて、あたしだけが悪いなんて、そんな道理があるかしら? あなたは――」
「道理もくそもあるもんか」小僧はきめつけた。「おれと、このフランスの先生とは、手をつないでいっしょにやることに、話がついた。だから、おれたちは、仲間どうしだ。お前はわけがちがう。おれたちは、君に用はねえんだ。しろものは、おれたちで、君からとりあげてみせる。お前は、アウトだ! しろものは、どこにあるんだ?」
「ここには、ないんだったら! あたしが、あれを、あんたがたにわけなく見つかっちまうこんな場所に、ほったらかしとくほど、ばかな女だと思うの? さがしだそうたって、あたしが手を貸さなきゃ、どうにもなりゃしないのよ。そのあたしをのけものにしたら、あなたがただって――」
「バカな女だってことよ! おれも、お前って女を知らなかったら、その手に乗せられたかもしれねえところだ。だが、おれは、お前が、ごうつくばりで、とてもあれだけのしろものを、自分から遠くへはなす気になりっこはねえって、ことを、チャンと承知の助なんだ。それに、お前は、ごうつくばりに輪をかけたほどの弱虫だ。一つか二つはりとばしてやりゃ、降参するにきまってる。このおれが、お前をはりとばすのに、気がとがめるとかなんとかそんなことを考えていやがるんだったら、大ちげえのコンコンチキだ!」
女は、ふるえあがって、小僧のふりあげた手から、あとじさった。
フランス人があわてたように、口を出した。
「とにかく、わたしたちで、部屋をさがしてみようではないか、キッド。ここに見つからないときまった上で、次にどうするか、それを考えればいい」
フウジス小僧は、モーロアに向って、バカにしたようにせせら笑った。
「よしよし。だが、これだけはいっておくぜ。おれは、この|どぶねずみ《ヽヽヽヽヽ》みてえな女を、八つ裂きにしなきゃならねえとしたって、しろものを手に入れねえうちは、ここからてこでもうごかねえつもりだからな。おれは、気の短けえのが性ぶんだ。しかし、手前が、そのほうがいいんなら、まずさがしてみるとしよう。手前の相棒だかなんだか知らねえが、あん畜生は、おれと手前とで、部屋さがしをやるあいだ、この二人を釘づけにさしとけばいい」
二人は、仕事にとりかかった。小僧は、ピストルをしまって、刃わたりのながいとびだしナイフをとりだした。フランス人は、ステッキの下から三分の二のながさのところをねじって、しこみになった一フィートほどの刃をむきだしにした。さがすとなれば、いい加減なさがしかたではなかった。ぼくたちのいる部屋が手はじめだった。根こそぎさらけ出し、骨のずいまで切り裂いた。家具も、絵の額も、バラバラにされた。安楽椅子はつめもののはらわたを吐きだした。床の敷きものは、ズタズタに切られた。壁紙も、納得の行くまで、はぎとられた。ゆっくりと腰をすえた仕事ぶりだった。そのあいだにも、相手に背なかをむけるようなことはしなかった。小僧は、その上に|大あご《ヽヽヽ》にも、背なかをむけないように気をくばっていた。
居間を廃墟にしておいて、二人は、女とビリーとぼくを残がいのなかにおき去りにしたまま、次の部屋にはいった。|大あご《ヽヽヽ》と、二挺のピストルが、ぼくたちを見はった。
フランス人と小僧とが、見えなくなるが早いか、女は、ぼくたちの見はり人に、奥の手を出しにがかった。かの女は、男をあやつる自分の能力に、ひと通りでない自信をもっていた、と、かの女にかわって、ぼくからいっておこう。
しばらくのあいだ、女は、|大あご《ヽヽヽ》に、さかんにながし目をくれた。それから、ひどくやさしげな声を出した。
「いいかしら、あたし――?」
「いかん!」|大あご《ヽヽヽ》が、荒々しい大声をはりあげた。
「口をきくな!」
フウジス小僧が、戸口に、姿をあらわした。
「よけいな口をきいて、怪我をしたって知らねえぞ」吠えたてておいて、仕事にもどっていった。
女は、そんなおどしで、おとなしく引きさがるほど、自分の値うちを低く踏んではいなかった。声は出さなかったが、やたらにほうぼうを、|大あご《ヽヽヽ》にむかって、ちらちらさせた――それが、|大あご《ヽヽヽ》に汗をかかせ、顔を赤らめさせるような、きわどい|ちらちら《ヽヽヽヽ》だった。相手は、単純な男だった。ぼくは、女が、ちっとでも苦労のしがいがあったとは思わなかった。ほかにひとがなく、二人きりだったら、|大あご《ヽヽヽ》も、われを忘れたかもしれないが、二人もの見物人を前にして、女に無茶なまねをさせるようなことは、しそうになかった。
キャンと甲高い鳴き声がきこえた。むらさきいろのフラーナ――モーロアと|大あご《ヽヽヽ》がやってきたときに、あとじさりしながら、どこかへ逃げこんでいた――が、捜索者たちと、いざこざをおこしたらしい。鳴き声は、キャンとそのひと声だけで、それっきりきこえなくなってしまった。どうやら、犬のほうが、みじめな目に会わされた様子だった。
ほかの部屋のほうで、二人は、ほとんど一時間ほどもぐずぐずしていた。やっとのことでもどってきた二人の手には、刃もののほか、なにもなかった。
「そうら、ここにはないって、そういったじゃないの」イネズが、勝ちほこったようないいかたをした。「さあ、こんどは、あなたがた――」
「お前のいうことが、あてになるものか」小僧は、ナイフをパチンと音をさせてしめ、それをポケットにおとしこんだ。
「おれは、まだ、ここにあるとにらんでいるんだ」
女の手首をつかみ、自分のもういっぽうの手を、手のひらを上にむけて、女の鼻の下につきつけた。
「おれのこの手の上に、そいつをのっけてくれるか、さもないと、力づくででも、とりあげて見せるぞ」
「ここにはないってったら! ちかってもいい!」
小僧の口のすみっこが、たけだけしくもちあがった。
「うそを吐け!」
女の腕を、乱暴にねじりあげて、むりやりに、ひざまずかせた。自由なほうの手が、オレンジいろのガウンの肩ひもにかかった。
「アッという間に、見つけだしてやる」
ビリーが、気をとりなおした。
「おい!」ビリーの胸は、はげしく波うっていた。「妙なまねをするな!」
「待て、キッド!」モーロアが――しこみ杖の刃を、もとのようにおさめながら――声をかけた。「ほかにやりかたがないか、ひとつ考えてみようじゃないか」
フウジス小僧は、女の手をはなして、三歩うしろにさがった。その眼は、なんのいろもない、死んだまるい穴だった。はげしい興奮にとらえられて、神経がまひしてしまった人間の、うつろな眼だった。骨ばった手を、外套の前あきからなかに入れて、チョッキの、腰骨のとがった角でふくれあがったあたりに支えた。
「手前とおれとで、ハッキリかたをつけようじゃねえか」泣くような声だった。「手前は、おれの味かたか、この女の味かたか、どっちなんだ?」
「そりゃあむろん、君の味かただが、それにしたって――」
「よし、わかった。そんなら、おれの仲間だ! おれのやることに、いちいち口を出すな。おれは、なにがなんでも、この女をはだかにしてさがすつもりだ。手前は、どうする?」
フランス人は、小さな口ヒゲが、鼻のさきをくすぐるまで口をすぼめた。眉をよせ、怪我のないほうの眼を、じっとこらして、考えこんだ。しかし、どうするつもりもなかった。そしてそのことは、自分でもよく承知していた。しまいに、肩をすぼめて見せた。
「わかった。さがしたほうがいい」
小僧は、さも軽べつしたように、ぶつくさいいながら、もう一度、女のほうへ行きかけた。
女は、とびあがって、ぼくのほうに逃げてきた。それがくせになっているみたいに、ぼくの首に腕を巻きつけた。
「ジェリー!」まともにぼくの顔にむけて、金切り声をはりあげた。「あなたなら、そんなこと、承知しないわね! ジェリー、お願いだから、いけないといって!」
ぼくは、黙っていた。
ぼくも、女のからだをさがそうという小僧のやりかたが、お上品だとは思わなかったが、それをとめようとしなかったには、いくつかの理由があった。第一に、さかんに話題になっているその『しろもの』の正体のあかされるのが遅れるようなことは、なにによらずしたくなかった。第二に、ぼくは、アーサー王の円卓に、その純潔を誇った騎士のギャラハッドでもなんでもなかった。この女は、すき勝手に自分の仲間を選んだのだし、こんな|はめ《ヽヽ》になったのも、もとはといえば、そのほとんどが、自分のせいなのだ。相手が、乱暴に出てきたとしたって、ガマンするよりしかたがない。それに、なによりも三番目に、|大あご《ヽヽヽ》が、ぼくのわき腹に、ピストルの筒先を押しつけて、たとえ、ぼくが、なにをしたくても――自分が殺される以外には――どうしようもないことを、思いださせてくれていたのだった。
小僧は、イネズを、ひきずるようにして、連れて行った。ぼくは、ほったらかしておいた。
電気ヒーターのそばの、形ばかりのなごりをとどめている長椅子まで、女をひっぱって行くと、頤をしゃくって、フランス人を呼びよせた。
「おれのさがすあいだ、この女をつかまえているんだ」
女は、肺いっぱいに、息を吸いこんだ。その息を、悲鳴といっしょに吐きだそうとするより早く、小僧の細長い指が女ののどにからみついた。「ちょっとでも、声をたててみろ、首をねじり切ってやるから」
女は、鼻から、息を吹きだした。
ビリーが、足を、ガサガサといわせた。ぼくは、頭をまわして、そっちを見た。口ではげしく呼吸をしていた。クシャクシャの赤い髪の毛の下の額は、汗で光っていた。ぼくは、『しろもの』の正体が、あかるみにもちだされるまでは、この大男が狼の本性をあらわさなければいいがと願った。しばらく待ってくれれば、手を貸してやれるかもしれないのだ。待ってはくれなかった。モーロアにつかまえさせておいて小僧が女の服をぬがせにかかるが早いか、行動をおこした。
そっちのほうへ、一歩、足を踏みだした。大あごが、ピストルを振って、あともどりさせようとした。ビリーは、そんなものに、眼をくれなかった。まっ赤に充血した眼は、長椅子のまわりの三人に釘づけになっていた。
「おい、妙なまねはさせんぞ!」腹の底から出るガラガラ声だった。「させるもんか!」
「させるかさせないか、見ていやがれ」小僧は、仕事の手をとめて顔をあげた。
「ビリー」女が、大男のバカさ加減につけこんで、そそのかした。
ビリーは、突進した。
|大あご《ヽヽヽ》は、だいじをとって、大男をやりすごし、両手のピストルを、ぼくにつきつけた。フウジス小僧は、あやうく、とびかかってくる巨人の進路からすりぬけた。モーロアは、女を、ビリーのほうへ、つきとばしておいて、自分のピストルをとり出した。
ビリーとイネズとがぶつかってからまりあった。
小僧は、すばやく、大男のうしろにまわった。小僧のかた手が、とびだしナイフをにぎって、ポケットから出てきた。ビリーが、バランスをとりもどしたとき、ナイフは、カチンと音を立ててあいた。
小僧が、とびかかった。
ナイフの使いかたを知っていた。逆手に握ったナイフを下むきにたたきおろしたところで、どうにもならないものだ。
親ゆびと、まげたひとさしゆびとで、刃の方向をきめるようなにぎりかただった。上むきに、つきあげた。目標は、ビリーの肩の下だった。ただのひとつき。それも、思いきり深く。
ビリーは、前にのめって、女を下じきにしながら、床に倒れた。ゴロゴロところがって、女からはなれ、椅子の|はらわた《ヽヽヽヽ》のちらかるなかで、あおむけざまに息絶えた。死んでみれば、見るからに大きな図体だった。部屋じゅういっぱいに、のさばったような感じだった。
フウジス小僧は、ナイフを、カーペットのきれっぱしで拭いて、パチンとしめ、自分のポケットに、おとしこんだ。それをやるのに、左手を使った。右の手は、尻のちかくにあった。ナイフを見たりはしなかった。眼は、モーロアからはなさなかった。
しかし、フランス人が、ギャーギャーさわぎたてると思っていたのだったら、それは、見当はずれだった。モーロアの小さな口ひげが、ピクピクとひきつった。顔は、青白くこわばっていた、が、
「するだけのことは、早くかたづけて、ここを立ちのいたほうがよさそうだ」と、そういっただけだった。
女は、死んだ男のそばにすわりこんですすり泣いていた。浅黒い皮膚が青ざめている。うちのめされてしまったのだ。ブルブルとふるえる手が、服の下をさぐった。小さな平たい絹の袋が、とり出された。
モーロア――小僧よりもちかかった――が、その袋を受けとった。口がシッカリと縫いつけてあって、指さきではあけられない。モーロアにもたせておいて、小僧が、ナイフで切り裂いた。フランス人が、袋のなかみの一部を、くぼめた手のひらに、ザラザラとあけた。ダイヤモンド。真珠。いろのついた宝石もあった。
|大あご《ヽヽヽ》が、息を吐きだしながらかすかな口笛を鳴らした。チカチカと光を放つ宝石を見すえる眼が、輝いた。モーロアの眼も、女の眼も、小僧の眼も、輝いた。
|大あご《ヽヽヽ》の姿勢は、すきだらけになった。それが、こっちの気もちをそそのかした。手をのばせばとどくところに、あごがさらけだされていた。今なら、一発、思いきりくらわしてやることができる。ビリーを相手に、痛めつけられた体力もほとんど回復していた。|大あご《ヽヽヽ》をなぐりつけておいて、小僧とモーロアとがとびかかってくるまでに、すくなくとも片方のピストルを、こっちのものにすることができそうだ。とにかく、ここらあたりで、なんとか始末をつけていいころだった。この喜劇役者《コメディアン》どもには、もうタップリしたい放題をさせた。話題のしろものも、あかるみにもちだされた。連中をバラバラにさせてしまったがさいご、いつまたお目にかかれて、一網打尽とすることができるかわからない。
しかし、ぼくは、このチャンスをつかみたい誘惑をしりぞけて、もうしばらく待つことにした。機の熟さないのに早まっては、なんの甲斐もない。ピストル一挺を手に、小僧とモーロアと二人にたちむかったところで、五分五分の勝負とまでは行くまい。戦っただけですむものではない。探偵商売の要は、英雄をきどることだけではなく、悪党をつかまえることなのだ。
もう一度見たときには、モーロアは、宝石を袋にもどしているところだった。その袋を、自分のポケットにしまいかけた。フウジス小僧が、その腕をつかんでとめた。
「おれがもとう」
モーロアは、眉を釣りあげた。
「手前は、二人で組んでやがるし、おれは、一人だ」小僧は説明をした。「なにも、手前のことを、信用しねえとかなんとか、そんなことをいうわけじゃねえが、どうせおなじことなら、おれのぶんは、おれが、自分でもつことにしてえな」
「しかし――」
戸口のベルが鳴って、モーロアのことばを、中断させた。
小僧が、クルリと、女のほうへむきなおった。
「お前が出ろ――妙なまねをするんじゃねえぞ!」
女は、床から立ちあがって、廊下のほうへ行った。
「だれ?」
女が、呼びかけると、アパートの女将《おかみ》の怒った声が、きこえてきた。
「ミセス・アルマッド、こんど音をたてたら、警察を呼びますよ、ちっとは恥しいと思うがいい、ほんとに!」
女将が、もし、その錠のかかっていないドアをあけて、部屋《アパート》のなかをのぞきこんだとしたら、いったいどう思ったことだろう――家具という家具が、見るかげもなく、打ちこわされ、切り裂かれ、そのガラクタのまんなかに、死体がひとつ、ころがっている――その死体のできたときのさわぎが、二度までも、女将の足をはこばせたのだが――
そんなことを考えながら――のるかそるかのばくちを打ってみることにした。
「ツベコベ吐《ぬ》かすと、下水にほうりこむぞ!」ぼくは、大声で、悪態をついた。
息を詰めたような短い叫び声があがり、それっきり、なんの音もしなくなった。腹だちまぎれに、電話をかけに飛んで行ってくれたのなら、こっちの思うつぼなのだが。女将が、警察を呼ぶといったのは、脅しのつもりだろうけど、いっそのこときてもらったほうがいい。
小僧は、ピストルを出してかまえていた。ぼくが、ビリーのわきに、おなじ死体となってころがることになるかならないか、しばらくは、どっちつかずのかねあいだった。肩先にナイフをつき立てて、声をたてさせずにすむのなら、ぼくは殺されていただろう。しかし、ぼくの背中のほうには、だれもいなかった。小僧は、ぼくがナイフをつき立てるまで、おとなしくじっとしているはずのないことを、よく承知していた。眼の前に、めあての宝石のブラさがっている今、必要以上のさわぎをひきおこすことは、望まなかった。
「貴様は、黙っていろ。さもないと、黙らせてやるぞ!」
小僧は、また、フランス人のほうにむきなおった。フランス人のほうでは、この幕間劇《サイド・プレイ》にまぎれて、宝石を、自分のポケットにしまいこんでしまっていた。
「今ここで、おれのわけ前をよこすか、そうでなければ、まるまるおれにもたせろ」小僧は、つめ寄った。「手前ら二人が、眼を光らせて見ている前で、おれがごまかしたりするもんか」
「しかし、キッド、ここにぐずぐずしているわけには行かない。さっきの女将が警察に電話をかけているかもしれないだろう? どこかよそへ行って、そこでわけることにしよう。いっしょなら、信用できないわけはないじゃないか」
小僧は、二歩踏み出して、モーロアと|大あご《ヽヽヽ》の二人組と、ドアとのあいだに、立ちふさがった。小僧のかた手には、ぼくを脅したピストルがあった。もういっぽうの手は、すぐにも、もういっぽうのピストルが出せるところに構えていた。
「なにもひまのかかることじゃねえ」小僧は、鼻にかかった声を出した。「せっかくのおれのわけ前が、よその野郎のポケットにおさまってはこばれるなあ、がまんがならねえんだ。ここで山わけするというならそれでよし。それがいやなら、おれがもって行く。それだけのこった」
「しかし、警察が!」
「そんなこたあ、手前が、勝手にくよくよすりゃあいいこった。おれは、一度にひとつことっきや、考えねえ。今は、宝石が先だ」
フランス人の額に、青い静脈が盛りあがってきた。小さなからだが、こわばった。小僧を相手に、ピストルの射ちあいをやってのけるだけの勇気を、ふるいおこそうとしていた。筋書きが、とどのつまりには、どっちか、一人が、しろものをまるまる頂だいすることにならずにはすまされないというそのことは、フランス人にも、小僧にも、わかりすぎるほどよくわかっていた。その筋書きは、すでに、おたがいの化しあいではじまっていた。この手あいにとって、そうした習慣をかえるのは、容易なことでない。幕切れに、一人が、宝石にありつく。もう一人がありつくのは――セイゼイ自分の葬式ぐらいのところだろう。
|大あご《ヽヽヽ》は、勘定のほかだった。今は、フランス人と組んでいるといったところで、こんな単純な悪党が、いつまでも相手にしてもらえるわけのものではない。ちっとでも勘がはたらけば、両手にかまえたピストルを、すかさず二人の立役者につきつけていいはずなのだ。ところが眼のすみっこから、二人のほうをうかがいながら、あいかわらず、ぼくに銃先をむけたままでいる。
女は、女将に声をかけにいかされたまま、ドアのそばに立っていた。フランス人と小僧とを、ジッと見ている。ぼくはその女の視線をつかまえようと、今の場合、数時間とも感じられる貴重な数分間を浪費した。やっとのことで、女の視線がつかまった。
ぼくは、女から一フィートしかはなれないところにあるあかりのスウィッチのほうへ、眼くばせをして見せた。その眼を、まともに、女の顔にむけた。もう一度、スウィッチのほうへ、眼くばせをした。また女の顔を見て、スウィッチのほうへ、視線をひっぱった。
女はさとった。女の手が、壁に沿って、横のほうに、ジリジリとのびた。
ぼくは、この果しあいの二人の主役をじっと見まもった。
小僧の眼は、生きたいろのない――そして、相手に、生きたいろを失わせる――二つの円盤だった。モーロアのあいたほうの眼は、うるんでいた。ついに乗り切ることはできなかった。モーロアの片手が、ポケットに入って、絹の袋をとりだした。
女の茶いろの指が、スウィッチのボタンにかぶさった。女を信用していいかどうか、そんなことは、神さまにしかわからないが、どうにもいやおうなしの場合だった。あかりの消えるのといっしょに、ぼくはうごいていなければならない。|大あご《ヽヽヽ》のピストルが、火を吐くだろう。ぼくとしては、イネズがうまくやってくれるのをあてにするほかはなかった。そのあてがはずれたら、ぼくは、殉教者の列にくわえられることになる。
女の爪が白くなった。
ぼくはモーロアに、とびかかって行った。
くらやみ――橙いろと青の光線がとびかって――そのくらやみが、騒音でいっぱいになった。
ぼくの両腕が、モーロアをかかえこんだ。もろに、死んだビリーの上にころがった。ぼくは、からだをひねって、フランス人の顔を蹴とばした。片腕が、自由になった。相手の腕をつかんだ。もういっぽうの手は、ぼくの顔につっぱっていた。それで、宝石の袋は、ぼくのつかんだほうの手にあることがわかった。まげた指が、口のなかにはいった。ぼくは、その指を、ガッキと噛んだ。ぼくのかた膝は、相手の顔の上にあった。その膝に、全身の重さをかけた。歯は、まだ指を噛んだままだった。両手が、自由になった。これで、袋をとりあげることもできる姿勢になった。
手ぎわのいい仕事とはいえないが、たしかにききめはあった。
部屋は、巨人《ジャイアント》が、ながい連打《ロール》を打ちならす、そのまっ黒な太鼓の内がわのようなさわぎだった。四挺のピストルが、かわるがわる火を吐き、うなり声をたてていた。
モーロアの指の爪が、ぼくの親指にくいこんだ。その痛さに、ぼくは、口をあけた――フランス人の指が抜けでた。ぼくのかた手が、袋にさわった。それを、相手は、はなすまいとした。ぼくは、フランス人の親指をねじりあげた。悲鳴があがった。袋は、ぼくの手にあった。
ぼくはそのまま相手からはなれようとした。両脚に抱きつかれた。蹴りつけた。ねらいがはずれた。フランス人は、二度、ブルブルと身ぶるいをして――それっきりうごかなくなった。流れ弾丸が命中したのだった。ぼくは、床にころがって、モーロアににじりより、からだをさぐった。かたくふくれあがったものがあった。ポケットに、手をつっこんで、自分のピストルをとりもどした。
手と膝とで、よつんばいになり――片手に、ピストルをにぎり、片手に、絹の宝石袋をつかんで――ぼくは、となりの部屋のドアのあるはずの方角へむかった。一フィートばかり見当がくるった。もう一度やりなおした。戸口を通りぬけるとき、うしろの部屋の大さわぎは、はたとやんだ。
ドアの裏がわにちぢこまって、絹の袋をしまいこみ、こんなところに逃げこまず、フランス人のかげの床の上に、へばりついていたほうがよかったのに、と後悔した。部屋は、まっくらだった。女が、居間のあかりを消したときには、たしか、くらくはなかった。どの部屋にも、ぜんぶ、あかりが、点いていた。それが、今はのこらずまっくらになっている。ぼくは、気にくわなかった。
ぼくのあとにした部屋からは、なんのもの音もきこえてこなかった。
ぼくのいるところからは見えない、あけっぱなしの窓の外では、しずかな雨が、しとしととふりそそぐ音がしていた。ぼくのうしろで、べつの音がした。歯と歯とが、かすかに触れあう音だった。
うれしくなった。臆病もののイネズだ。むろん、やみにまぎれて、居間を抜けだし、ほかの部屋のあかりを、消してまわったのだ。ぼくよりほかに、あとにはだれものこっていないのかもしれない。
ぼくは口を大きくあけて、静かに息をしながら待った。くらいなかで、女をさがそうにも、音をたてずには、それができなかった。モーロアと小僧とが、二人がかりで、そこらじゅうに、家具と、家具のかけらを、ちらかしていた。女がピストルをもっているかどうか、それが知りたかった。女に、弾丸を浴びせられてはたまらない。
様子がかいもく知れないので、そのまま待った。
女の歯のかちあう音は、四、五分のあいだつづいた。
居間のほうで、ひとのうごく気配がした。銃声が一発とどろいた。
「イネズ!」ぼくは、歯の音のするほうへむかって、声を殺しながら、呼びかけた。
こたえはなかった。居間で、椅子の脚が床をこする音がした。二発の銃声が、いっしょにとどろいた。うめき声がきこえた。
「しろものを手にいれたぜ」うめき声にまぎらせるように、ぼくは、低い声で話しかけた。
それには、こたえがあった。
「ジェリー! ああ、こっちへきて!」
むこうの部屋のうめき声はつづいた。しかし、次第に弱くなった。ぼくは、女の声のしたほうへ、はって行った。よつんばいになって、ものにぶつかっても、できるだけ、音をさせないように用心をしてすすんだ。なにも見えなかった。とちゅうで、濡れた毛皮に、かた手がさわった――今は亡《な》き、むらさきいろの小犬、フラーナだった。はいつづけた。
イネズの懸命な手が、ぼくの肩をおさえた。
「あたしにちょうだい」それが、女の最初のことばだった。
ぼくは、まっくらやみのなかで、ニヤリと笑いながら、女の手を、かるくたたき、女の頭のありかをさがして、耳のそばに口をもって行った。
「寝室に行こう」ぼくは、女が、獲ものをせがむのにはとりあわずに、ささやいた。「小僧がやってくる」小僧が、|大あご《ヽヽヽ》に、勝つことは、疑いがないと思った。「やつをあしらうには、寝室のほうが都合がいい」
ぼくは、ドアのひとつしかない部屋で、やつを相手にしたかった。
女が先にたって――二人ともよつんばいで――寝室へとむかった。ぼくは、はって行きながら、作戦に必要と思われることを考えた。フランス人とぼくとがどうなったか、小僧には、まだそれが知れるわけはなかった。もし、見当をつけたとすれば、たぶん、フランス人のほうが生きのこった、と、そう見当をつけたことだろう。ぼくのことを、ビリーなみの間ぬけと見て、フランス人にわけなくあしらえる相手だと考えたことだろう。|大あご《ヽヽヽ》をしとめた小僧が、今ごろは、自分の相手の正体を見きわめているかもしれない。居間はこの上なくまっくらだが、今では、その部屋に生きのこったのが、自分一人だけだということがわかったにちがいない。
廊下への出口は、ただひとつ、それを、小僧がふさいでいたのだ。だから、イネズとモーロアとが、獲ものといっしょに部屋のなかにのこっているはずだと考えるだろう。それをどう始末する気になるか? 今となっては、仲間どうしらしい見せかけもへったくれもない。そんなものは、あかりといっしょに消えてしまっていた。小僧は宝石をねらっていた。それだけをねらっていたのだ。
ぼくは、他人の次のうごきの見ぬける名人でもなんでもない。しかし、相手が、すぐにも、ぼくたちをさがしにかかるだろうぐらいの見当はついた。小僧も、警察のやってくることは知っている――知っているはずだ。だが、ぼくの計略にはめられた小僧は、いよいよとなるまで、警察などにかまっていられないほど、のぼせあがっている。警察といったところで、せいぜい二人組のお巡りが――それも、酔っぱらいどものらんちきさわぎといった程度の心がまえしかないのが――顔を見せるのが、せきの山とでも思っているのだろう。そんなものぐらい、かるくあしらえるつもりでいるのだろう。とにかく、今は、なにをおいても宝石を手に入れにかかるにちがいない。
女とぼくとは、寝室にたどりついた。そこは、一番奥の、ドアのひとつしかない部屋だった。女が、ドアをさぐってしめようとする気配がした。見えなかったが、ぼくは敷居のきわにかた脚をのばして、それをとめた。
「あけときたまえ」ぼくはささやいた。
小僧にしめだしをくわせたくはなかった。部屋のなかへさそいこむつもりだった。
腹ばいになってドアのそばににじり寄り、時計を出して、それを、敷居の上の戸枠にたてかけた。七、八フィートはなれたところまではいもどった。そこからななめに、時計の夜光塗料をぬった文字盤が光って見えた。
戸口のむこうがわからは光る数字は見えないはずだった。文字盤は、こっちをむいていた、だれでも、戸口を通りぬければ――とびこしでもしないかぎり――一秒のなん分の一にもしろ、からだのどの部分かで、時計を、ぼくの眼からさえぎるにちがいない。
ぼくは、腹ばいのまま、ピストルの撃鉄をおこし、銃把を床に安定させて、時計のかすかな文字が、さえぎられて見えなくなる瞬間を待った。
ずいぶん待った。イヤになった。やってこないのかもしれない。こっちから出かけて行かなければならないのかもしれない。逃げだすのかもしれない。サンザン苦労したあげくにとどのつまりとり逃がしてしまうのかもしれない。
イネズは、ぼくのそばで、息をはずませながら、ふるえていた。
「さわらないでくれ」ぼくは、かじりつこうとする女をしりぞけた。
女は、ぼくの腕をふるわせた。
となりの部屋でガラスが割れた。
静まりかえった。
時計の淡く光る文字が、ぼくの眼に焼きついた。まばたきひとつすることができなかった。まばたきのあいだに、かた脚ぐらいは、文字盤を横ぎるかもしれないのだ。まばたきすることができないにしても、しないわけには行かなかった。まばたきをした。そのあいだに、時計の前を通ったものがあったかなかったか、それは見当がつかなかった。もう一度、まばたきをしなければならなかった。眼をあけたままにしておこうとがんばった。だめだった。三度目のまばたきと一しょに、もう少しで引き金を引きそうになった。なにかが、時計とぼくの眼との間をすりぬけたような気がしたのだった。
なにをしているのか、小僧は、コソッとも音を立てなかった。
そばで、女がすすり泣きをはじめた。のどの音が、弾丸をおびきよせそうだった。
ぼくは、やみのなかでにらみつけて、呪いのことばを――声には出さなかったが、心をこめて――浴びせかけた。
眼が、痛くなった、涙がたまった。眼の曇りをのけるために、まばたきをした。千金にも替えがたい一瞬間、時計が見えなくなった。ピストルの銃把は、汗でぬるぬるだった。どうにもがまんできなくなってしまった。
火薬が、ぼくの顔を焼いた。
気の狂ったような女の悲鳴が、おそいかかってきた。
ぼくの弾丸は、天井にあたったようだった。
身をひるがえして女をつきはなした。蹴とばしたかもしれない。そして、すぐに、もとの場所にはいもどった。どこかで、女はうめいていた。小僧は見えなかった――気配もきこえなかった。時計は、遠くのほうで、また見えていた。カサコソと、音がした。
時計が消えた。
そこをめがけて、引き金を引いた。
まっくらな床の近くから、火の棒が二本ほとばしり、すさまじい音がした。
ぼくは、自分のピストルの銃身を、できるだけ床に押しつけて、その二本の光の棒のまんなかに射ちこんだ。二度。
もう一度、二本の光の棒が、とびかかってきた。
ぼくの右手がきかなくなった。ピストルを、左手にもちかえた。つづけさまにもう二発射った。のこりは、一発だけだった。
その一発をどうしたか、ぼくは知らない。ぼくの頭の中は妙な考えでいっぱいになった。部屋もなにもなかった。いっさいがっさいなくなってしまって……
眼をあけると、うすぐらいあかりが点いていた。ぼくは、あおむけにころがっていた。そばに、浅黒い肌をした女が膝をついて、ブルブルふるえながら、泣きじゃくっていた。両手で、しきりにぼくの服をさぐっていた。女のかた手が、チョッキのポケットから、宝石の袋を、ひっぱりだした。
正気づくといっしょに、ぼくは女の腕をつかんだ。女は、死体がうごきだしたとでもいうふうに、金切り声を立てた。ぼくは、袋をとりもどした。
「それをかえして、ジュリー」女は、泣きながら、ぼくの指を、死にもの狂いでもぎはなそうとした。「あたしのものだわ。かえして!」
ぼくは、おきなおって、あたりを見まわした。
ぼくのそばには、ベッド用のスタンドが、くだけおちていた。それがおちて――ぼくが不注意に蹴とばしたのか、小僧の弾丸があたったのか――ぼくを、ノックアウトしたのだった。部屋のむこうに、両腕をもがくような恰好にひろげ、うつ伏になって、フウジス小僧が、横たわっていた。死んでいた。
廊下のほうで、ドカンドカンとなぐりつける音がした――ズキンズキンとひびく頭の痛みと、ほとんど区別がつかなかった。警察の連中が、鍵のかかっていないドアをたたき割ろうとしているのだ。
女は、静かになった。ぼくは、ふりかえってみた。ナイフが頬をかすめて、上衣の襟先に切りこんだ。ぼくは、女から刃ものをもぎとった。
意味のないことだった。警察の連中は、もうそこまできているのだ。ぼくは、急に頭がはっきりしてきたというようなふりをしながら、女のご機嫌をとった。
「ああ、君だったのか! そうら、あげるよ!」宝石のつまった絹の袋を、女の手にわたした、ちょうどそのときに、先頭の警官が、部屋にはいってきた。
イネズには、それっきり、マサチューセッツの刑務所で、終身刑をつとめに、東部へ連れもどされるまで、二度とお目にかからなかった。その晩、女のアパートに踏みこんだ警官たちのなかに、ぼくを知っている人間は、一人もいなかった。知ったやつにめぐりあうまでに、女とぼくとはべつべつにされてしまったし、ぼくは、筋をたどって、女に、自分の身もとを知られないように、段どりをつけた。一番厄介だったのは、新聞の連中に、ぼくのやったことを嗅ぎつけられないようにすることだった。なにしろ、検死審には、ビリー、|大あご《ヽヽヽ》、モーロア、それにフウジス小僧の死んだテンマツを、こと細かに述べないわけには行かなかったのだ。しかし、どうにかこうにか、ことはうまくはこんだ。ぼくの知るかぎり、あのいろの黒い女は、いまだにぼくを、やみ酒屋のジェリー・ヤングと思いこんでいる。
|おやじ《オールド・マン》は、女が、サンフランシスコをはなれる前に、会って話をした。そのときに、女の口からきいたことと、ボストン支社のつかんだ情報をとりまとめると、物語は次のようなことだった。
ボストンの、タニクリフという宝石商にやとわれ、信用もされていた、バインダーという男がいた。バインダーは、イネズ・アルマッドと名のるいろの黒い女と知りあった。その女は、べつに、二人の素姓のあやしげな友人があった――一人は、モーロアというフランス人、もう一人は、キャリーとかコリーとか名のっているが、フウジス小僧のあだ名のほうがよく通っているボストン生れの男だった。これだけ顔がそろえば、なにかはじまらなければ、そのほうがよっぽどおかしいといった種類の組みあわせだった。
さっそく、筋書きは書かれた。忠実なバインダー――店での仕事の中には、朝、店をあけ、夜、それをしめるという役目があった――は、店の仕入れもののなかから、一番金目の品をえらび、それを、閉店のときに運びだして、イネズにわたすことになった。女は、それを、金にかえる手はずだった。
バインダーの盗みだしをかくすために、次の日の朝、店のあくと同時に、フウジス小僧とフランス人とが、宝石店に押し入る。店にはバインダーと、ほかに、店の品の値うちものが、なくなろうが、盗られようが、めくらと同然な玄関番が一人と、それだけしかいない。盗賊は、手あたり次第、ほしいだけもちだせる。その二人組には、盗み出したしろもののほかに、二百五十ドルずつ支払い、逮捕されるような目に会ったとしても、バインダーには、犯人の人相の見わけがつかないという段どりだった。
バインダーの知らされた筋書きは、そういったところだった。ところが、それとはべつに、まるっきり夢にも知らない筋書きがあった。
イネズ、モーロア、そして小僧と、この三人のあいだにはもうひとつのとり決めができていた。バインダーから宝石をうけとった女は、すぐに、シカゴへ飛び、そこでモーロアとフランス人とを待ちあわせる約束だった。女とフランス人とは、自分たちが、行方をくらまして、バインダーに|すか《ヽヽ》をくわせるだけで充分だと思っていた。しかしフウジス小僧は、計画通り、強盗仕事をやっつけ、間ぬけのバインダーを殺してしまおうと主張してきかなかった。小僧のいいぶんは、バインダーは、狂言の筋書きを知りすぎているから、自分がいっぱいくわされたことに感づくが早いか、われを忘れてわめきたてるにきまっているというのだった。
小僧は、いいぶんを通して、バインダーを射ち殺した。
それからが、三人三つどもえの化しあいとなり、結局、三人が三人とも、わが身の破滅をもたらしたのだった。女は、小僧と、フランス人とを相手に、それぞれべつの約束をした――いっぽうには、セントルイスで会うといい、もういっぽうには、ニューオーリアンズで会うといって――自分は、一人で、獲ものをつかんだまま、サンフランシスコに逃らかった。
ビリーは、なんの罪もない――ほとんど、とつけ加えたほうがいいかもしれないが――局外者だった。イネズが、どこかでめぐり会って、自分の荒かせぎの必要な場合に、クッションの役目をさせるため拾いあげた、もともとは材木の伐り出し人夫だったのだ。(完)
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作者紹介
ハメットは、一八九四年五月二七日、アメリカ、メリーランド州、セント・メアリー郡で生まれた。ダシールという名は、フランスのドシエという母方の家名にもとづいているという。ごく普通の少年として、少年時代をボルチモア市で過ごした。が、家が貧しかったので、十四歳の時、学業を中途でやめて、鉄道会社の給仕となって働かなければならなかった。それから引きつづいて七年間、さまざまの職業を転々とした後、最後にアメリカ随一の民間探偵社ピンカートン社の私立探偵となった。
第一次世界大戦には野戦衛生隊の軍曹として従軍したが、結核に感染し、数ヵ月の病院生活の後、軍隊を退いた。除隊して、またもとの探偵の生活に返ったが、健康がそういう激務にたえられないのと、他人のことに余計なおせっかいをするのにたえられなくなって、ついに探偵の職を放ってしまった。そして生活のために、低級なパルプ雑誌に小説を書きはじめた。おもに過去の体験に取材した犯罪小説や、実話風のミステリーだった。一九二二、三年ごろからは、探偵雑誌『ブラック・マスク』の常連作家となった。
当時の『ブラック・マスク』の常連作家には、かれのほかに、B・S・ガードナーなどもあった。
やがて、かれは、処女長編『血の収穫』につづいて、同じ一九二九年には、『デイン家の呪い』を、一九三〇年には『マルタの鷹』を、一九三一年には『ガラスの鍵』を、一九三四年には『影なき男』を発表した。
これらの諸作は、いずれも批評家の賞賛を浴びた。その好評と成功に刺激されて、かれの作風と文体とを真似る追従者が、つぎからつぎと出て来た。そして、批評家は、それらの作家を『ハメット派』とか、『ハード・ボイルド派』とか呼んだ。
そればかりではない。ハメット以後のアメリカ探偵小説作家で、多少とも、ハード・ボイルドの影響を受けない作家はないほどになり、以後の探偵小説の作風を一変してしまうほどになった。
それまでの推理小説が、作品の全重点をプロットに置き、論理的に謎を解いて行くことに主眼を置いたのに対して、ハメットは、まず人間を描こうとした。謎を主にした探偵小説を書くよりも、犯罪と探偵と危機との中に、人間の性格を捉え、それを描写しようとした。
しかも、その人間も、事件その物も、かれが描こうとするのは、すべて現実の、眼の前のアメリカ社会の中に、日々の生活の中に、息づいている人間であり、事件であった。
対話も、在来の探偵小説の対話が、ともすれば、筋の展開のためだけの、くだくだしい説明的なものであるのに対して、ハメットの対話は、簡潔で、性格の裏づけのある、生きたものであり、行動はスピーディで、時として眼を瞠るほどの飛躍をする。
かれの主人公は、いずれも現代のアメリカの実社会の中に生きているのを、そのままに引き出して来たかと思われる民間の、したたか≪ハード・ボイルド≫な探偵で、非情で、利己的で、好色ではあるが、しかも、その心の中には、飽くまでも正義を追求しようとする、強情な性格を持っている。
一言にしていえば、かれの作品は、探偵小説的な興味よりも、心理的性格描写をねらったものであり、その点で、探偵小説を、より高度な、文学の域にまで高めたものといっても、あえて過褒《かほう》ではないと信ずるものである。
つまり、かれの作品は、一九二〇年代の『ロースト・ジェネレーション』の作家がねらったのと同じように、アメリカの現実を描写することによって、自我を表現しようとしたものであった。
そこに探偵小説作家としての、否、文学的作家としての、かれの路標的な意義があるといわなければならない。(中田耕治)