ガラスの鍵
ダシール・ハメット/砧一郎訳
目 次
第一章 チャイナ街の死体
第二章 帽子の手品《トリック》
第三章 一斉掃射《サイクロン・ショット》
第四章 ドグ・ハウス
第五章 病院
第六章 『オブザーヴァー』紙
第七章 後継者
第八章 お払い箱
第九章 裏切りもの
第十章 砕けた鍵
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登場人物
ネド・ボウモン……賭博者
ポウル・マドヴィグ……市政の黒幕
オパル・マドヴィグ……その娘
ラルフ・B・ヘンリー……ポウルの支持する上院議員
ジャネット・ヘンリー……その娘
テイラー・ヘンリー……その息子
シャド・オロリ……マドヴィグと対立するボス
ジェフ・ガードナー……シャドの子分
ラスティ……シャドの子分
ハル・マシューズ……「オブザーヴァー」紙発行人
ジョセフ・ファー……地方検事
ジャック・ラムゼン……ネドの協力者
ティモシー・イヴァンズ……ある犯罪の容疑者
ウォルター・イヴァンズ……その兄、ポウルの子分
バーニー・デスペイン……のみ屋
リー・ウィルシャー……その情婦
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第一章 チャイナ街の死体
一
みどり色の台の上を、みどり色のさいころがコロコロところがり、台の縁《へり》にぶつかってはねかえった。さいころのひとつは、すぐとまって、白い点が同じ数ずつ二列に並ぶ六の目を出した。もうひとつは、台のまんなかまでころげて来て一の目を上にしてとまった。
ネド・ボウモンは、低くうなった――「ううん!」――勝ったほうが、台の上の現金をすっかりさらいとった。
ハリー・スロッスが、さいころをつまみ上げて、青白い毛むくじゃらの大きな手の中で、カラカラといわせた。「さあ、二十五ドルと行くぜ」台の上に、二十ドル紙幣と五ドル紙幣を落とした。
ネド・ボウモンは、台からうしろに退《さが》った。「さあ諸君、やりたまえ。おれは、軍資金を補給して来るよ」ビリヤード室のドアまで行くとウォルター・イヴァンズの入って来るのに出会った。「よう、ウォルト」と、声だけかけて、そのままやり過ごそうとしたが、すれちがいざまに肘《ひじ》をつかまれ、前に立ちふさがれた。
「あんた、ポ、ポ、ポウルに、は、は、はなしてくれたか?」イヴァンズが、「ポ、ポ、ポウル」とどもると、くちびるの間から、細かなつばが飛び散った。
「これから会いに行くところだ」イヴァンズの青磁色の眼が、美しいまる顔に輝きわたった。ネド・ボウモンは、眼を細めていい足した。「あまり当てにするなよ。まあ、しばらくがまんするんだな」
イヴァンズのあごの先が、ピリピリッとひきつれた。「しかし、ら、ら、らいげつ、あれに、あ、あ、あかんぼが生まれるんだ」
ネド・ボウモンの黒い眼に、ビックリしたような表情があらわれた。背の低い相手の手から、自分のうでをもぎ離して、ひと足うしろに退《さが》った。黒い口ひげの下のくちびるの隅が、ピクピクとけいれんした。「そいつは、まずいときにぶつかったもんだ――そうだな、十一月までは、あまり当てにすると、ガッカリさせられるぜ」
「だけど、あんたが、は、は、はなしてくれたら――」
「そりゃあ、おれも、できるだけ一生懸命に頼んでみるよ。大将ができるだけのことをやってくれるのは、君も知っている通りだが、今は、大将もむずかしいところだからなあ」ネド・ボウモンは、肩をうごかして見せた。眼は、油断なく光っているが、顔には陰がさして来た。
イヴァンズは、くちびるを湿《しめ》らして、眼をしばたたいた。息を深く吸いこんで、両手でネド・ボウモンの胸をたたいた。「さあ、い、い、いってくれ」訴えるような、うながすようないいかただった。「こ、こ、ここで、ま、ま、まっているぜ」
二
ネド・ボウモンは、細い葉巻に火をつけながら、階段をのぼって行った。二階にのぼりつめると、そこの壁には、知事の肖像がかかっていた。建物のおもてのほうに歩いて、廊下の突きあたりの幅の広いオーク材のドアをノックした。
「いいよ」とこたえるポウル・マドヴィグの声をきいてから、ドアをあけて部屋に入った。
その部屋には、ポウル・マドヴィグが一人で、ドアのほうに背を向け、ズボンのポケットに両手をつっこんで、窓のスクリーンの隙間から、暗いチャイナ街を見おろしていた。
ゆっくりとふり向いて、「やあ、君か」と会釈《えしゃく》した。マドヴィグは、としのころ四十五、背たけは、ネド・ボウモンと変らないが、体重は、四十ポンドばかり重く、しなやかさもない。うす色の髪をまん中から分け、ピッタリと撫《な》でつけていた。赤ら顔が、男らしいという意味で美しい。着ているものは派手だが、生地の質のよさと着こなしで、ケバケバしさからは救われていた。
ネド・ボウモンは、ドアをしめた。「金を貸してもらいたいんだがね」
マドヴィグは、内ポケットから、茶色の大きな紙入れをとり出した。「いくら要《い》るんだね?」
「二百ドルばかり」
マドヴィグは、百ドル紙幣を一枚と、二十ドル紙幣を五枚抜いてわたした。「クラップス(二個のさいころを使うばくち)かね?」
「すまんね」ネド・ボウモンは、受け取った紙幣《さつ》を、ポケットにしまった。「そうなんだ」
「負け出してから、もうずいぶんになるんじゃないか?」マドヴィグは、両手を、ズボンのポケットにもどした。
「それほどでもないよ――ひと月か六週間ぐらいのもんさ」
マドヴィグは、微笑をうかべた。「それだけ損がつづけば大したもんだ」
「なあに、おれには普通だよ」ネド・ボウモンの声には、かすかないら立ちがあった。
マドヴィグは、ポケットの中で、小銭《こぜに》をチャラチャラいわせた。「今晩はどうだね、大きな勝負があったかな?」テーブルの端っこに尻をのせて、自分のピカピカ光る赤色の靴を見おろした。
ネド・ボウモンは、不審な顔をして、金髪の相手をみつめ、それから頭を振った。「ケチな勝負ばかりさ」窓ぎわに行った。通りを越して向い側の建物の上の空は、ドス黒かった。マドヴィグのうしろをまわって、電話のところに行き、番号を呼んだ。「よう、バーニーだな? ネドだが。ペギー・オトゥールの率はどうなっているね?……それっぽちか?……そうさな、五百ずつ貰うか……そうとも……このぶんでは雨になりそうだから、そうなったら、あの馬は、インシネレーターを出し抜くよ……よしよし、そのときはもっとふやして貰うさ……わかった」受話器をかけ金にもどして、またマドヴィグの前にまわった。
「なぜ、運のむいて来るまで、しばらくおとなしくしていないんだね?」マドヴィグが訊《たず》ねた。
ネド・ボウモンは、顔をしかめた。「神妙にしてみたってなんにもならんよ。かえって、ますます落ち目になるばかりさ。ほんとは、クラップスなどで巻き上げられるくらいならあの千五百ドルも思いきって馬に張ればよかったんだがね。どうせ、あんたのお小言《こごと》をくうんならね」
マドヴィグはクックッと笑って、頭を上げた。「がまんができるかな」
ネド・ボウモンは、口をへの字に曲げた。それといっしょに口ひげもへの字になった。
「いざとなれば、どんなことだってがまんできるよ」いいながら、ドアのほうに歩いて行った。
ドアの握りに手をかけると、マドヴィグの声が追っかけて来た。「君なら、できるんだろうね」
ネド・ボウモンは、ふりかえった。「できるって、なにが?」かんを立てたようないいかただった。
マドヴィグは、眼を窓のほうにそらした。「なんでも、がまんができるってことさ」
ネド・ボウモンは、そむけたマドヴィグの顔を、ジロジロと見た。金髪の男は、モジモジと落ち着きなく身じろぎして、またポケットの中の小銭《こぜに》をチャラチャラいわせた。ネド・ボウモンはキョトンととぼけた眼をして見せた。「誰のことだな?」しん底《そこ》からわからないというような訊《き》きかたをした。
マドヴィグの顔が赤くなった。テーブルから立ち上がってひと足、相手のほうに踏み出した。「こいつ、とぼけてるな」
ネド・ボウモンは、笑い出した。
マドヴィグも、はにかむように笑って、緑色のふち取りのあるハンカチーフで、顔を拭いた。「なぜ、この頃うちへやって来ないんだね? ゆうべも、おふくろが、君のことをもうひと月も顔を見ないといっていたぜ」
「今週のうちに、ひと晩お邪魔しよう」
「ぜひ来てくれ。君は、おふくろの大のお気に入りだからな。晩めしに来たまえ」マドヴィグは、ハンカチーフをしまいこんだ。
ネド・ボウモンは、眼の隅っこから、金髪の男を見まもりながら、ゆっくりと、またドアのほうに行きかけた。握りに手をかけて、「おれに用だというのは、そんなことだったのかな?」
マドヴィグは、眉を寄せた。「うん、そうさな――」咳《せき》ばらいをした。「ええと――ああ、そうだ――まだ用があったっけ」その照れたような態度はすぐに失《な》くなって、あとには、いつもの落ち着きすました物腰が残された。「実は、こういうことは、おれよりも、君のほうがくわしいと思ってね。つまり、こんどの木曜日は、ミス・ヘンリーの誕生日なのさ。なにを|贈り物《プレゼント》にしたもんだろうね?」
ネド・ボウモンは、ドアの握りから手を離した。あっけにとられたような眼つきも、もう一度マドヴィグと向かい合ったときには、もとにもどっていた。葉巻の煙《けむ》りを吐《は》き出して、「お祝いのパーティでもあるのかね?」
「うん、あるんだ」
「招《よ》ばれているのか?」
ネド・ボウモンは、自分の葉巻をジッとみつめ、その眼をまたマドヴィグの顔に移した。「あんたは、あの上院議員《セネタ》のあと押しをするつもりなのか?」
「そのつもりだがね」
「なぜだね?」ネド・ボウモンの訊《き》きかえした声も、顔にうかんだ微笑もおだやかだった。
マドヴィグも、笑顔になった。「なぜって、おれたちであと押ししてやれば、あの男は、ローンを圧倒的に負《ま》かすことができるし、おれたちはおれたちで、あの男を味方につけておけば、おれたちの得票《ティケット》をどうにでも自由にできるから、誰もおれたちに勝てないという寸法なのさ」
ネド・ボウモンは、葉巻を口にくわえた。「あんたがあと押ししなくても――」あんたが、ということばに力をこめて発音した。しかし、口ぶりはどこまでもおだやかだった。
「――こんどは、あの先生、大丈夫勝てるんじゃないのかな?」
「まったく見こみなしだね」マドヴィグは、静かに、しかしキッパリといい切った。
しばらく間をおいて、ネド・ボウモンが訊ねた。「それを自分では承知しているのかな?」
「誰よりもよく承知してなきゃならん筈だ。承知していなかったら――だが、なんだって、そんなことが気になるんだね?」
ネド・ボウモンは、人を馬鹿にしたような笑い声を上げた。
「承知していなかったら、あすの晩、あんたを晩めしに招《よ》ぶようなこともしないだろう、と、そういうんだな?」
マドヴィグは、眉をしかめた。「なんだって、そんなことが気になるんだね?」
ネド・ボウモンは、葉巻を口から抜き取った。葉巻の吸い口は、歯にかみしだかれて、みじめにくずれていた。「べつに気にしてやしないよ」考え込むような表情になって、「あんただって、自分たちの票をまとめるのに、あの先生の応援がなくてはならんと思っているわけじゃないだろう?」
「選挙の応援なんてものは、たいして当てになるもんじゃない。しかし、あの男がいなくたって、おれたちで、なんとかつじつまを合わせるくらいのことはできるさ」
「もうなにか約束しているのかね?」
マドヴィグは、くちびるをすぼめた。「うん、とり決《き》めは充分にできている」
ネド・ボウモンは、頭を下げた。ひたいごしに、相手の顔をうかがった。顔の色が青くなった。「あの男とは、手を切ったほうがいい、ポウル」低いかすれたような声だった。
「止《や》めたまえ」
マドヴィグは、両腰ににぎりこぶしを当てた。おとなしい声で、自分の耳が信じられないというように、「なにを君はいっているんだ!」
ネド・ボウモンは、マドヴィグのそばを通り過ぎて、テーブルの上の銅を打ち出した鉢《はち》に、神経質な細い指で、葉巻の火の点《つ》いた先を押しつけた。
マドヴィグは、自分より若い相手の背中をみつめたまま、相手が、からだをのばしてふり向くのを待った。やがて、人なつっこい、少し誇張したような笑顔を見せた。「いったいなにを思いついたんだね、ネド? 今までずっとうまくやっていたのに、それが、いきなりなんの理由もなしに、妙なことをいい出すじゃないか。なんのことやら、おれにはさっぱりわからん!」
ネド・ボウモンは、苦虫をかみつぶしたような顔になった。「いいよ、なんでもないんだ」それからすぐにまた、さぐるような質問をつづけた。「あの先生がまた当選したら、それから後でも、あんたと手を握って行くと思うかね?」
マドヴィグは、平気な顔をしている。「おれのほうで、うまくあしらって行けるさ」
「行けるかもしれんが、あの先生が、生まれてから一度も人の口車に乗ったことがないってことは、忘れないほうがいいぜ」
マドヴィグは、まったくそうだというように、うなずいて見せた。「そうとも。だからこそ、おれも、あの男を仲間にする気になったんだ」
「そうはいかんよ、ポウル」ネド・ボウモンのいいかたには、熱がこもっていた。「だからこそ、よしたほうがいいというんだ。頭の痛くなるまで考えてみるんだな。それにしても、あの先生のすばらしい金髪娘は、あんたとどのくらい深い仲なんだね?」
「おれは、ミス・ヘンリーと結婚するつもりなんだ」
ネド・ボウモンは、口笛を吹くような口をしたが、音は出なかった。眼を細めて、「それも取引きのうちかね?」
マドヴィグは、子供っぽい笑顔を見せた。「まだ誰も知らない、君とおれとのほかは」
ネド・ボウモンの肉のない頬に、赤みがさして来た。とっときの微笑をうかべて見せて、「おれなら大丈夫だ。そんなことをいいふらして歩きやしないよ。しかし、差し出がましいようだが、あんたが、心から結婚したい気でいるなら、その約束を書類に作って、公証人の前で宣誓し、結納《ゆいのう》を供託しておくんだな。結婚式の日どりを、選挙日より前に決められれば、それにこしたことはない。そうすれば、少なくともあんたの分け前、つまり花嫁だけは、確実に君のものになる。さもないと、いざとなってから、歩《ぶ》の悪い天秤《てんびん》にかけられることになるんじゃないかな?」
マドヴィグは、足を組みかえた。ネド・ボウモンの視線を避けながら、「いったいどういうわけで、君は、あの上院議員のことを、まるで強盗かなにかのようにいうんだね? あの男は、立派な紳士だし――」
「まさにその通りだ。『ポスト』紙を読んでみたまえ――アメリカ政界に残された数少ない貴族的な人物の一人だ、とね。娘もお姫様だ。だからこそ、あんたも、あの連中に会いに行くときには、シャツをしっかり縫い合わせて行ったほうがいいというんだ。そうしないと、帰りには、シャツなしということになるぜ。なにしろ、向こうにしてみれば、あんたなんか自分たちとしきたりのちがう下等動物なんだからね」
マドヴィグは、ため息《いき》をついた。「ああ、ネド、馬鹿なことをいうのはやめてくれ」
しかし、そのときには、ネド・ボウモンは、べつのことを思い出していた。眼が意地わるくキラキラと光った。「そういえば、あの若僧のテイラー・ヘンリーだって、貴族の若さまだってことを忘れちゃいかんぜ。あんたも、それに気がついて、娘のオパルにあいつとの手を切らせたんだろうがね。あんたが、あいつの妹と結婚して、あいつが、あんたの娘の義理の伯父だかなんだかってことになったら、どうなるかね? またぞろ、あんたの娘のまわりをウロチョロする立派な口実を作ってやるようなもんじゃないか」
マドヴィグは、ウンザリしたように、あくびをもらした。
「君は、おれのことをわかってくれん、ネド。おれは、なにもそんなことで相談に乗ってくれと頼んだんじゃないよ。ミス・ヘンリーに、どんな|贈り物《プレゼント》をしたらいいだろう、と、それをきいただけだ」
ネド・ボウモンの顔は、生気を失って、むっつりした陰気な表情になった。「どのくらい深入りしてるんだね?」自分の思っていることとはまるっきりうらはらの声だった。
「深入りなどしてやしないんだ。上院議員《セネタ》に話があって、五、六度あの家を訪問したかな。その度に、見かけたこともあれば、見かけなかったこともある。実は、まだ一度も直《じ》かに口をきくチャンスはなかった。ほかの連中にも、『今日《こんにち》は』ぐらいの挨拶しかしたことはないんだ」
ネド・ボウモンの眼に、ほんの束の間、からかうような閃光がきらめいて、すぐに消えた。おや指の爪で、口ひげの片ほうをなでつけた。「すると、あすの晩は、最初の晩さんに招《よ》ばれるというわけだな?」
「うん、そうだ。しかし、それが最後というわけではない」
「それで、誕生日のパーティには招《よ》ばれていないんだね?」
「招《よ》ばれていない」マドヴィグはためらった。「まだ招《よ》ばれていないんだ」
「そうだとすると、あんたの気に入らんような返事しかできないな」
マドヴィグの顔には、なんの感情もあらわれない。「というと?」
「贈り物はしないほうがいい」
「馬鹿をいうな、ネド!」
ネド・ボウモンは、肩をすぼめて見せた。「そんなら、したいようにするんだな。あんたが訊《き》くからいったんだが」
「しかし、なぜだね?」
「相手が気もちよく受け取ってくれることが確かでないかぎり、人に物をやったりするもんじゃない」
「だが、物を貰えば、誰だって――」
「喜ぶかもしれん。しかし、この場合は、もうちっと事情がこみいっている。あんたがなにか贈りものをすれば、確かに相手が、あんたからなにかを貰いたがっている、と、大声で宣伝してまわるようなもんだから――」
「わかった」マドヴィグは、右手の指で、あごの先をこすった。顔をしかめて、「君のいうのがほんとうのようだな」顔が明るくなった。「しかし、どう考えても、見逃がすには惜しいチャンスだ」
ネド・ボウモンは、早口に、「じゃあ、花かなにか、そんなものでいいじゃないか」
「花だって? ああ神さま! おれの考えていたのは――」
「そうだろうさ。あんたは、|二人乗り《ロードスター》の自動車か、真珠の首かざりの二ヤードばかりもあるのでも贈ろうと考えていただろうよ。そのチャンスは今に来るさ。小さく生んで、大きく育てるんだ」
マドヴィグは、苦《に》が笑いをした。「君のいう通りのようだ、ネド。やっぱり、こういうことは、おれより君のほうがよく知っている。花にしよう」
「それも沢山すぎないほうがいい」それから、同じ調子のまま、「ウォルター・イヴァンズが、自分の弟は、あんたが金を積んで保釈を取りはからうのが当然だ、というようなことを触れてまわっているがね」
マドヴィグは、チョッキの裾をギュッと引っぱった。「ティムは選挙のすむまで、娑婆《しゃば》には出せんといってやるか」
「すると、裁判所にもち出させるのかね?」
「そのつもりだがね」もっと熱をこめて、「ネド、君だってそれよりほかに、しようのないことはわかっているじゃないか。みんなが、もう一度当選させようと夢中になっていて、婦人団体がカンカンに怒っている今、ティムの事件に決着をつけようなんて、まるで、湖《レーク》に自分から身を投げるようなもんだ」
ネド・ボウモンは、ゆがんだ笑顔を見せた。わざとゆっくりした口調で、「おれたち、おえらがたと手を握るまでは、婦人団体なんてものに気をつかうことはなかったがなあ」
「今は、そうはいかん」マドヴィグの眼が、どんよりと曇った。
「ティムの細君に、来月あかんぼができるそうだ」
マドヴィグは、やりきれんというように、大きな息《いき》を吐いた。「ヤレヤレ、頭痛のたねばかりだな。なぜ、そんな厄介なことにならんうちに、よく考えてみないのだろう? 誰れもかれも、脳味噌の足りん連中ばかりだ」
「連中だって、票を集めなきゃならんからね」
「困ったことだよ」マドヴィグは、うなるような声を出した。しばらく、床《ゆか》をにらみつけ、それから、頭を上げた。
「票の勘定《かんじょう》がすんだら、すぐにでも、あいつの面倒をみてやろう。しかし、それまでは、打つ手がない」
「そんなことじゃ、あの連中を引っぱって行くことはできない」ネド・ボウモンは、流し目に金髪の男の顔を見た。「脳味噌があるにせよ、ないにせよ、連中は、人に世話を焼かせつけているからね」
マドヴィグは、あごの先をちょっと突き出した。まるい、どんよりと青い眼が、ネド・ボウモンの眼に釘づけになった。やわらかな声で、「それで?」
ネド・ボウモンは、うす笑いをうかべ、あい変わらず、キビキビした声で、「そんな仕うちをしたら、上院議員《セネタ》のほうの目鼻のつかんうちに、連中は、昔はこんなじゃなかったといい出すぜ」
「なるほど?」
ネド・ボウモンは、声も微笑もそのままに、容赦なく攻めたてた。「あんただって、連中に、シャド・オロリーは、今でも子分の面倒をみてやっている、というようなことをいい出させるのに、ひまも手間も要《い》らんことは、よくわかっている筈だ」
熱心に耳を傾けていたマドヴィグは、わざとのように静かな声で、「おれのほうでは、君にまかせておけば、連中にそんなまねをさせっこないと思っているよ。君なら、ちょっとでもそんな不平を耳にしたら、どんなことをしてでも止《や》めさせてくれると当てにしているんだがね」
それからしばらくの間、二人は、眼と眼を見合ったまま、黙って突っ立っていた。どちらの表情も変らなかった。ネド・ボウモンが、その沈黙を破った。「ティムの細君と子どもの面倒をみてやれば、ちっとは役に立つかもしれないな」
「それも思いつきだな」マドヴィグは、あごの先を引っこめた。眼の曇りが消えた。「みてやってくれるかね? 欲しいだけやってくれ」
三
階段の下では、ウォルター・イヴァンズが、眼を輝かし、期待に胸をふくらませて、ネド・ボウモンを待っていた。「大将、な、な、なんといったね?」
「おれのさっきいった通りだ。どうにもならんね。選挙がすめば、どれだけ積んででも、ティムを出してやれるが、それまでは、どうしようもない」
ウォルター・イヴァンズは、頭を垂れて、胸の奥で、うなるような声を出した。
ネド・ボウモンは、背の低い相手の肩に、手をかけた。
「今は時期が悪い。それを、誰よりもポウルが一番よく知っているんだが、大将にも、手の打ちようがないんだ。君の弟の細君の勘定書は払わんでいい、みんな大将のところへもって行きたまえ――部屋代でも、食料品店の払いでも、病院の勘定でも――大将が、そうしろといっているよ」
ウォルター・イヴァンズは、キッと顔を上げて、両手でネド・ボウモンの手をつかんだ。「ああ、大将は、や、や、やっぱり、い、い、いい人だなあ!」瀬戸もののような青い眼がうるんだ。「し、し、しかし、ティムを、出してくれるとあ、あ、ありがたいんだがなあ」
「それは、いつかは、そんなチャンスがあるさ」つかまれた手をふりほどいて、「また会おうぜ」ネド・ボウモンは、イヴァンズをまわって、ビリヤード室のドアのほうに行った。
ビリヤード室はからっぽだった。
自分の帽子と外套《コート》をとって、玄関まで行った。チャイナ街には、牡蠣《オイスター》のような色の雨が、斜めに降っていた。会心の笑《え》みをもらしながら、声をひそめて、雨に呼びかけた。「どんどん降ってくれ。君のおかげで、三千二百五十ドルころがりこむんだからな」
また戻って、タクシーを呼んだ。
四
ネド・ボウモンは、死んだ男から両手を離して、立ち上がった。死んだ男の顔は、少し左のほうにころがって、歩道のきわからはみ出し、そのせいで角《かど》の街燈の光が、まともに顔を照らした。若い顔だった。怒った表情が、前額を波立った金髪の生えぎわからまゆまで斜めに走る黒いみみずばれのために、いっそう誇張されていた。
ネド・ボウモンは、チャイナ街の上下《うえした》をすかして見た。眼の届くかぎり、通りには人かげがなかった。二ブロック向こうのログ・ケビン・クラブの前で、二人の男が車から降りるところだった。二人は、車をクラブの前に、ネド・ボウモンのほうに向けたまま残して、クラブの中に入って行った。
ネド・ボウモンは、しばらくその車をじっと見まもってから、急に頭をねじって、もう一度通りをすかして見て、それから、二つの動作がひとつながりになるような速さで、クルリと向き直りざま、歩道の手近な立木《たちき》の影の中にとびこんだ。口で息《いき》をしていた。影からはみ出てあかりを受けている両手には、小さな汗の玉が、キラキラと光っていたが、ふと寒けを感じて、外套《がいとう》の襟を立てた。
片手を木の幹に突っぱって、三十秒ほどの間、木の影にじっとしていた。それから急にシャンと身を立てて、ログ・ケビン・クラブのほうに歩き出した。からだを前にかがめるようにして、次第に足なみを速め、半分駆けあしになりかけたときに、通りの向う側を、一人の男がやって来るのに気がついた。すぐさま歩度をゆるめ、姿勢を立てなおした。その男は、行きちがわないうちに、とある家に入った。
クラブに着くまでには、口から息《いき》をするのをやめていた。くちびるは、まだ色があせていた。足をとめずに、からっぽの車に眼を走らせ、二本の燈柱の間の階段をのぼり、クラブに入った。
ハリー・スロッスともう一人の男が、外套室《クローク・ルーム》からロビーに出て来た。二人は立ちどまった。「やあ、ネド」二人がいっしょに声をかけた。スロッスがいい足した。「今日は、ペギー・オトゥールを当てたそうだな?」
「うん」
「たんとかね?」
「三千二百ドルだ」
スロッスは、舌で下くちびるをなめずった。「でかしたな。それじゃあ、今晩はどうあってもひと勝負やらなきゃならんね」
「あとで、やるかもしれん。ポウル、来ているかね?」
「知らんな。おれたち来たばかりだ。やるなら、あまり遅くならんように頼むぜ。早く帰ると約束したんだからな」
「うん、わかった」ネド・ボウモンは、外套室《クローク・ルーム》まで行った。
「ポウル、来たかね?」係員に訊《たず》ねた。
「ええ、十分ばかり前に」
ネド・ボウモンは、自分の腕時計を見た。十時半だった。二階の正面の部屋まであがって行った。部屋に入ると、タキシードを着こんだマドヴィグは、テーブルに向って腰をかけ手をのばして、受話器をとろうとしているところだった。
マドヴィグは、のばした手を引っこめた。「やあ、どうだね、ネド?」大きな美しい顔は赤らみ、おだやかだった。
「さっぱりいかんな」ネド・ボウモンは、答ええながらドアをしめた。マドヴィグから遠くない椅子に腰をおろした。「ヘンリーのところの晩めしはどんな具合だったね?」
マドヴィグの眼の隅《すみ》の皮膚にしわがよった。「おれのほうも、さっぱりいかんな」
ネド・ボウモンは、葉にまだらのある葉巻の吸い口をはさみ切っていた。「テイラーもいっしょだったかね?」その落ち着いた声に似合わず、両手がふるえていた。顔を上げずに、マドヴィグを見上げた。
「晩めしには出て来なかったが、どうしてだね?」
ネド・ボウモンは、組んだ両脚をグッとのばして、椅子のうしろにもたれかかり、葉巻をもったほうの手を動かして、なんということもなく半円を描いて見せた。「そこの通りの溝《みぞ》の中で死んでいるよ」
マドヴィグは、平気な顔をしていた。「そうかね?」
ネド・ボウモンは、からだを前に乗り出した。やせた顔の筋肉が引きしまった。指の間で、葉巻の外巻き葉が、かすかな音を立てて破れた。「おれのいったことがわかったのかね?」怒ったような声だった。
マドヴィグは、ゆっくりとうなずいた。
「それで?」
「なにが、それでだ?」
「殺されているんだ」
「いいじゃないか。このおれに、そんなことで気ちがいのようにわめき立てろというのかね」
ネド・ボウモンは、椅子の中で、まっすぐに坐りなおした。「警察を呼ぼうか?」
マドヴィグは、眉を少し釣り上げて見せた。「警察は知らんのか?」
ネド・ボウモンは、金髪男の顔を、ジッとみつめた。「おれのみつけたときには、あたりに誰もいなかった。なにをするにせよ、あんたに会ってからにしようと思ったんだ。おれが発見したといってもかまわないかね?」
マドヴィグの眉が降《お》りた。「かまうわけがあるかね?」
ネド・ボウモンは立ち上がり、ふた足電話のほうに行きかけて、立ちどまり、また金髪男をふりかえった。ゆっくりと、ことばをひとつひとつ区切って、「あいつの帽子がなかったぜ」
「今さらそんなもの要《い》らんだろうよ」マドヴィグは、顔をしかめた。「ネド、君も馬鹿な野郎だな」
「おれたちのどっちかがね」ネド・ボウモンは、電話のところまで行った。
五
[#ここから1字下げ]
テイラー・ヘンリー殺害さる
チャイナ街で上院議員令息の死体発見
昨夜十時すぎ、チャイナ街とパメラ街との交差点附近の路上に、上院議員ラルフ・バンクロフト・ヘンリー氏の令息テイラー・ヘンリー氏(二十六才)が、死体となって発見された。ホールドアップの犠牲になったものと思われる。
検屍官《けんしかん》ウィリアム・J・フープス氏の談によれば、死因は、前頭部をブラック・ジャック、あるいはその他の鈍器で打たれて倒れ、後頭部を歩道の縁石で強打したことによる頭蓋骨折、ならびに脳震盪《のうしんとう》である。
死体は、二ブロック離れたログ・ケビン・クラブに赴《おもむ》く途中の、ランドール街九一四番地、ネド・ボウモン氏によって、最初に発見された模様である。同氏は、直ちに警察に電話で通報しようとしたが、その電話の通じる以前に、パトロール中のマイケル・スミット巡査が、同じ死体を発見し、本署に報告した。
フレデリック・M・レイニー署長は、即刻、全市の要注意人物の一斉検挙を命じ、犯人、もしくは犯人グループを逮捕するまでは、一木一草をもあまさぬ捜査に、努力を傾けるとの声明を発表した。
テイラー・ヘンリー氏の家族の談話によれば、被害者は、同夜九時三十分ごろ、チャールズ街の自宅を出て……
[#ここで字下げ終わり]
ネド・ボウモンは、新聞をわきへのけて、カップに残っていたコーヒーを飲み干し、カップと|受け皿《ソーサー》を、ベッドのわきのテーブルに置き、枕に頭をのせた。顔はくたびれて血色が悪い。かけぶとんを、あごの下まで引っぱり上げ、両手を頭のうしろに組み、不満な眼つきで、寝室の窓と窓の間にかかっているエッチングの額をみつめた。
そのまま三十分の間、まぶたのほかは顔の筋ひとつ動かさずに、じっと横になっていた。それから新聞をとり上げてもう一度、同じ記事を読みかえした。読み進むにつれて、不満の表情は、眼から顔全体にひろがって行った。また新聞を置いて、のろくさとベッドから起《お》き上がり、白いパジャマを着たやせたからだを、細かな模様のついた茶と黒のガウンにくるみ、茶色のスリッパを足につっかけて、小さな咳《せき》をしながら、居間に入って行った。
そこは、旧式な大きな部屋だった。天井が高く、窓は大きく、壁暖炉《ファイア・プレース》の上には、とほうもなく大きな鏡がある。家具には、赤いビロードがたっぷり使ってある。テーブルの上の箱から、葉巻を一本とり出して、幅のひろい赤い椅子に腰をおろした。窓からさしこむ遅い朝の日光のつくる平行四辺形の中に、両足を置く。プーッと噴き出した煙《けむ》りが、日ざしの中に入ると、急に濃くなった。顔をしかめ、葉巻を口から離している間は、指の爪を噛む。
ドアにノックの音がした。油断のない鋭い眼になって、まっすぐに坐りなおした。「入りたまえ」
白い上衣を着た給仕が入って来た。
「ああ、下げていいよ」ネド・ボウモンは、がっかりしたような声を出して、また椅子の赤いビロードに、グッタリともたれかかった。
給仕は、寝室に入り、空《から》の皿をのせた盆をもって出て来ると、そのまま立ち去った。ネド・ボウモンは、葉巻の吸いがらを、暖炉の中に投《ほ》うりこんで、浴室に入った。ひげを当たり、シャワーを浴び、着がえをすませたころには、顔の色がよくなり、身のこなしもシャンとして来た。
六
正午少し前に、ネド・ボウモンは、自分の部屋を出て、八ブロック先のリンク街にあるうす灰いろのアパートメント・ハウスまで歩いた。入口の押しボタンを押し、ドアの錠《じょう》のはずれる音のするのを待って、中に入り、小さな自動エレベーターで、六階までのぼった。
六一一と数字の入ったドアの枠についているベルのボタンを押すと、すぐにドアがあいて、ほんの数ヶ月前に十代を抜け出したかと思われる小がらな女が顔を出した。その女の黒い眼には、怒った色があった。顔が、眼のまわりをのけて青白く、やっぱり怒った表情だった。「あら、あんただったの」女は、怒っているのを弁解でもするように、片手をあいまいに動かして見せながら、微笑をうかべた。声は、細く金属的なひびきがあった。茶色の毛皮の外套を着ているのに帽子はない。短くカットした髪――ほとんど黒に近い――まるい頭に、ピッタリとなでつけ、エナメルのように光らせている。耳たぶからぶら下がった金のイヤリングには、紅《あか》いカーネリアンがはまっている。ひと足|退《さが》って、ドアを大きくあけた。
ネド・ボウモンは、ドアを入りながら訊ねた。「バーニー起きてるかい?」
女の顔には、また怒りが燃え上がった。「なにさ、あんな汚らしい虫けら野郎なんか!」
ネド・ボウモンは、ふりかえりもせずに、ドアをしめた。
女がそばに寄って来て、両ほうの肘《ひじ》の上をつかみ、ゆさぶろうとした。「あたいが、あのトンチキ野郎にどんなによくしてやったか、あんた知ってる? あたいは、あたいのことを、まるでイエス様の娘みたいに大事にしてくれた母さんと父さんを放《ほ》ったらかしにして、どんな娘っ子でももたないようなすばらしい家庭を追ん出て来たのよ。そりゃあ、みんな、あいつのことを、よくない男だって、そういったわ。やっぱりそうだったのよ。それを、あたいは馬鹿だからわからなかったんだわ。今になって、やっとわかったわ……」あとは、金切声で、思いきり汚らしい言葉が果てしもなくつづいた。
ネド・ボウモンは、身じろぎもせずに、まじめな顔をして聞いていた。病人のような眼になった。女の息《いき》が切れて、ちょっとことばがとぎれた隙をつかんで、「あいつ、どうしたんだ?」
「どうしたっていうの? あたいをおっぽらかして、逃《ず》らかりやがったのさ……」またあとは、筆にできないような汚ない言葉だった。
ネド・ボウモンは、たじろいだ。口のあたりに、無理やりに気の抜けたような微笑をうかべた。「どうせ、おれになにも残して行ったりはしなかったんだろうな?」
女は、歯をカチッと音を立てて噛み合わせ、額を男の顔の前に突き出した。眼をまるくして、「あいつ、あんたに借りがあったの?」
「おれは勝ったんだがね――」咳《せき》をして、「昨日《きのう》の第四レースで、三千二百五十ドル勝ったはずなんだ」
女は、男の腕から両手を離し、ばかにしたような笑い声を立てた。「そんなもの、取れっこないよ。ほら」両手を差し出して見せる。左手の小指に、カーネリアンの指輪が光っていた。それから、両手を挙げて、カーネリアンのイヤリングに触って見せた。「あたいの宝石でも、持っていかれなかったのはこれっきりさ。これだって、あたいが身につけていなかったら、置いて行ってくれるもんか」
「いつ、いなくなったんだね?」ネド・ボウモンの声は、妙に上《うわ》の空《そら》だった。
「ゆうべさ。あたいは、今朝《けさ》まで気がつかなかったんだけど。でも、いくらあの野郎が、あたいにめっからないように、神さまにお願いしたって、あたいのほうで、なにがなんでもさがし出してやるからね」女は、手を服の内側に突っこみ、なにかをつかみ出した。握《にぎ》った拳《こぶし》を、ネド・ボウモンの顔の前に差し上げて、開いて見せた。手のひらには、小さくまるめた紙きれが三つのっていた。手をのばして取ろうとすると、また指を握って、うしろにさがり、ヒョィと手を引っこめた。
ネド・ボウモンは、口の隅を、癇《かん》が立ったようにピリピリと動かして、手をダランと下げた。
「あんた、今朝の新聞で、テイラー・ヘンリーのことを読んだ?」
「うん、読んだ」ネド・ボウモンの声は静かだが、息《いき》がはずんで、胸が波打った。
「これ、なんだか知ってる?」女は、もう一度、三つのまるめた紙きれをのせた手のひらを差し出した。
ネド・ボウモンは、頭を振った。眼が細くなって、キラキラと光った。
「テイラー・ヘンリーの借金証文《アイ・オウ・ユー》なのさ」勝ち誇ったようないいかただった。「みんなで、千二百ドルの値打ちもんだよ」
ネド・ボウモンは、なにかいいかけて、思いとどまった。もう一度口を開いたときには、死んだような声が出た。「死んじまったのだから、そんなもの、一文の値打ちもないよ」
女は紙きれを、また服の内側に押しこんで、ネド・ボウモンに詰め寄った。「いいこと、これが一文の値打ちもなかったもんだから、あの人は、死ななきゃならないことになったのさ」
「当てずっぽうにそう思うのかね?」
「当てずっぽうだってなんだって、好きなようにいうがいいわ。だけど、これだけ教えといて上げる。バーニーは、この前の金曜日に、テイラーんとこに行って、借金かえすのを三日だけ待ってやるって、そういったのよ」
ネド・ボウモンは、おや指の爪で、片いっぽうのひげをなでつけた。「まさか、君は、ばかなまねをしようというんじゃないだろうな?」
女は、怒った顔になった。「むろん、あたいはばかよ。あたいはばかだから、これを警察にもってってやるよ。もってってやるんだから。そんなことするもんかと思ったりしたら、あんたのほうが、よっぽどばかよ」
ネド・ボウモンは、まだ合点が行かぬという顔をしていた。「そんなもの、どこにあったんだね?」
「金庫に金庫に入ってたのさ」女は、光った頭を、部屋の奥のほうへしゃくって見せた。「いなくなったのは、ゆうべの何時ごろ?」
「知らないよ。あたい、九時半に帰ってきて、それから、ほとんど夜っぴいて寝ないで待っていたのさ。朝になって、やっとどうも怪しいと感づいて、見てまわると、家じゅうにビタ一文なくなっているし、あたいの宝石も、身につけているの以外ぜんぶなくなっちまっているじゃないの」
ネド・ボウモンは、またおや指の爪で、口ひげをなでつけた。「どこに行ったと思うかね?」
女は、両足をバタバタと踏みならし、両手の握り拳《こぶし》を上下に打ち振りながら、またもや金切り声をふりしぼって、逃《ず》らかったバーニーをのろいはじめた。
「やめろ」ネド・ボウモンは、女の両手首をつかんで、おとなしくさせた。「君に、そんなふうにわめき散らすより能がないのなら、さっきの証文をわたしたまえ。おれが、なんとか始末してやるから」
女は、つかまれた両手を振りほどいて、大きな声をはり上げた。「あんたになんかわたすもんか。警察にもって行ってやるんだ。ほかの誰にだってわたさないよ」
「いいよ。そうしたまえ。しかし、どこに行ったと思うかね、リー?」
リーは、苦いものを吐き出すような口調で、そんなこと知るもんか、しかし、自分なら、こんな場合に、あの男を行かせようと思う先だったら知っている、と、そう答えた。
「それだ。冗談から駒《こま》が出るということもある。あいつが、ニューヨークにもどったと思うかね?」あまり気もなさそうないいかただった。
「あたいは知らないよ」急に油断のない眼つきになった。
ネド・ボウモンの頬に赤みがさして来た。「君は、今までなにをしていた?」さぐるように訊ねた。
女は、とぼけたように、無邪気な顔をして見せた。「なんにも、どうして?」
ネド・ボウモンは、女のほうにかがみこんだ。頭をゆっくり左右に振りながら、熱をこめて話しかけた。「君は、それを警察にもって行くつもりなんだろうね?」
「むろん、行くわ」
七
アパートの一階にある薬屋の店で、ネド・ボウモンは、電話をかりた。警察本部の番号をいって、ドゥーラン警部を呼び出した。「もしもし、ドゥーラン警部ですね?……ミス・リー・ウィルシャーの代理のものです。ミス・リー・ウィルシャーは、リング街一六六六番地のアパートに、バーニー・デスペインと同居しているのですが、バーニーが、昨夜急に行方をくらましたらしいのです。そのあとで、テイラー・ヘンリーの借金証文が見つかりました……そうです。ミス・ウィルシャーの話では、バーニーが、二日ばかり前にテイラーを脅《おど》しているのをきいたということです……そう、そこで、至急お目にかかりたいといっているのですがね……いや、ご自身お出向きいただくか、人をよこしていただいたほうがいいようです、それもできるだけ早く……そうです……どっちでもいいでしょう。いや、ぼくは、ご存じのないものです。ミス・ウィルシャーが、自分の部屋から電話をかけるのはいやだというものですから、代わりにかけているだけなんですがね……」それから、しばらく黙ってきいて、そのまま、受話器をかけ金にかけ、薬屋を出た。
八
ネド・ボウモンは、テムズ街の山手に立ちならんだ小ぎれいな赤煉瓦づくりの家の一軒に行った。ベルを鳴らすと、茶色の顔じゅうに笑いをたたえた若い黒人の女が、ドアをあけてくれた。「いらっしゃいませ、ボウモンさま」と、愛想よく迎え入れてくれる。
「やあ、ジューン、今日《こんにち》は。誰かいるかね?」
「はい、みなさん、まだお食事ちゅうでいらっしゃいますよ」
奥の食堂に入ってみると、白地に赤い模様入りのテーブルかけのかかった食卓に、ポウル・マドヴィグと母親とが向かい合っていた。食卓には、椅子がもうひとつあったが、そこには主がなく、前の皿や食器も手がつけてない。
ポウル・マドヴィグの母親は、背の高い、やせた女だった。七十いく歳だというのに、白髪《しらが》頭にはまだ金髪のおもかげが残っている。眼は、息子《むすこ》のそれと同じほど青く澄んで若い――まったく、部屋に入って来るネド・ボウモンを見上げた眼は、息子《むすこ》よりもっと若かった。しかし、話しかけたときには額のしわが深くなった。「とうとうやって来たのね。こんなお婆さんを放《ほ》ったらかしにしておくなんて、ほんとによくない子ですよ」
ネド・ボウモンは、無遠慮に歯をむき出して笑って見せた。
「だって、お母さん、ぼくは、もう大人になったのだから、面倒を見なきゃならん仕事がありますからね」
マドヴィグに手をヒラヒラさせて見せて、「よう、ポウル」
「まあ、坐りたまえ。ジューンが、なにか食うものをかき集めて来るだろう」マドヴィグが、椅子をすすめた。
ネド・ボウモンは、身をかがめて、ミセス・マドヴィグのさし出したやせこけた手に口をつけようとした。老婦人は、その手をヒョイと引っこめた。「お前さん、いったいどこでそんな芸当をおぼえて来たんだね?」
「だからいったでしょう、ぼくはもう大人になったんだって」マドヴィグに向かって、「ありがとう。今、朝めしをすませたばかりなんだ」|空《あ》いた椅子に眼をやって、「オパルは?」
ミセス・マドヴィグがこたえた。「おねんねだよ。かげんが悪いのよ」
ネド・ボウモンは、うなずいて、ちょっと間をおいてからていねいなことばで、「ひどく悪いのではないでしょうな?」と訊ねたが、眼は、マドヴィグのほうを見ていた。
マドヴィグは、頭を振った。「いや、頭痛だかなんだかでね。どうも、ダンスが過ぎるようだな」
ミセス・マドヴィグが、口を出した。「お前も立派なお父さんだよ、自分の娘が、どんなときに頭が痛くなるか、知りもしないのだからね」
マドヴィグの眼のまわりにしわが寄った。「これこれお母さん、品の悪いことをいってはいけませんよ」ネド・ボウモンのほうに向きなおって、「なにか、いい話でもあるのかね?」
ネド・ボウモンは、ミセス・マドヴィグのうしろをまわって、空いた椅子に腰をおろした。「実は、バーニー・デスペインのやつが、昨夜《ゆうべ》、おれがせっかくペギー・オトゥールに賭けて勝った金をもって逃《ず》らかりやがってね」
金髪男は、眼をまるくした。
「それが、テイラー・ヘンリーの千二百ドルという借金証文《アイ・オウ・ユウ》を残して行ったんだ」
金髪男の眼が、急に細くなった。
「リーの話では、金曜日に、テイラーに電話をかけて、三日だけ支払いを待ってやるといったそうだ」
マドヴィグは、手の甲で、自分のあごの先に触《さわ》った。「リーって誰だね?」
「バーニーの女さ」
「へえ」ネド・ボウモンが、何もいわないので、「テイラーが、その約束を果たさなかったら、どうするつもりだといったんだね?」
「そいつはきかなかった」ネド・ボウモンは、片腕をテーブルの上に載《の》せて、金髪男のほうに、上半身をかがめた。
「ポウル、どうだろう、おれを、副治安官《デブティ・シェリフ》だかなんだかに任命してもらえないかな?」
「なんだって?」マドヴィグは、大きな声を出して、眼をパチクリさせた。「なんのために、そんなことを思いついたんだね?」
「そのほうが、おれには便利だからさ。おれは、あの野郎をさがしだしてやろうと思っているんだが、役人の徽章《きしょう》があれば、いざこざにまきこまれんですむからね」
マドヴィグは不安そうな眼で、自分より若い男を見た。
「なんでまた、そんなにカンカンになっているんだ?」
「三千二百五十ドルやられたからね」
「なるほど。しかし、君は、昨夜《ゆうべ》、もち逃げされたことを知らんでいるうちから、なにかしらいらいらしていたじゃないか」
ネド・ボウモンは、かんに障《さわ》ったように、腕をうごかした。
「このおれが、死体につまずいて、まばたきひとつせずにすましていられると思うかね? まあ、そんなことはいい。関係のないことだ。こいつはちがう。おれは、あの野郎をつかまえなきゃならん。どうしてもつかまえてやる」顔の色が青くなり、表情がこわばって、声には、ひどく熱がこもって来た。「いいかね、ポウル、金《かね》だけの問題じゃないんだ。三千二百ドルといや大金だが、五ドルだって同じことだ。この二ヶ月というもの、おれは負け通しに負けて、くさりきっている。そんなときに勝った。いや、勝ったと思っただけで、おれは、またシャンと立ち直る。両脚の間にすっこめた尻尾《しっぽ》を出して、おれだって、そうしょっちゅう痛めつけられてばかりはいやしない、と、人心地がついたような気になれる。金も大事だが、そんなものはどうでもいい。おれが腹を立てているのは、トコトンまで巻かされたというその気もちなんだ。わかるかね? その気もちがこたえるんだ。それだのに、折角おれが厄払いができたと思っているそのときに、あの野郎、おれの勝った金をごまかしやがった。おれには、がまんできん。がまんすれば、負けたことになる。おれはがまんするつもりはない。おれはあの野郎をさがし出してやる。どんなことでもやるつもりだが、あんたがおれの頼みをきいてくれれば、ずいぶんやりよくなるんだ」
マドヴィグは、ひろげた大きな手をのばして、ネド・ボウモンのゆがんだ顔を乱暴に押しやった。「わかったよ、ネド。おれが、うまい具合にしてやるさ。おれとしては、君につまらんことの係り合いになってもらいたくないからな。しかし、そんなことなら――そうだなあ、君を、地方検事局の特別捜査官《スペシャル・インヴェスティゲイター》に任命するのが一番いいようだ。そうすれば、君は、ファーの部下ということになるから、あの男も余計なせんさくはしないだろう」
ミセス・マドヴィグが、骨っぽい両手に、皿を一枚ずつもって立ち上がった。「わたしは、男同士のことには首を突っこまないことにしているんだけど、そうでなかったら、お前さんがたにいってやりたいところだよ。なんだかしらないが、インチキ臭いことを企《たくら》んだりして、どんな目に合うことになるか、それこそ神様だってご存じなしだよってね」
ネド・ボウモンは、老婦人が皿を手にして部屋を出て行くまで、ニヤニヤ顔をして見せた。それから真顔《まがお》にかえって、「じゃあ、今日の午後のうちに、万事うまく段どりをつけてもらえるね?」
「いいとも」マドヴィグは立ち上がった。「ファーに電話しよう。ほかにも、おれにできることがあったらいってくれ」
「うん、ありがとう」ネド・ボウモンがこたえると、マドヴィグは立ち去った。
ブラウン・ジューンが入って来て、食卓を片づけはじめた。
「ミス・オパルは、今、おねんねだろうか?」ネド・ボウモンが訊ねた。
「いいえ、わたし、たった今、お茶とトーストをもって上がったばかしでございますよ」
「そんなら、大急ぎで行って、これからお邪魔していいかどうか、訊《き》いてくれないかな?」
「はいはい、ようございますとも」
黒人の女が行ってしまうと、ネド・ボウモンは、食卓をはなれて、部屋の中をあちこち歩きはじめた。やせた頬の頬骨のすぐ下に赤味がさして来た。マドヴィグがもどって来たので、歩くのを止めた。
「オーケーだ。ファーがいなかったら、バーベロに会いたまえ。余計な口をきかなくとも、万事心得てやってくれるはずだ」
「すまんな」ネド・ボウモンは、戸口の黒人の女の顔を見た。
「すぐにおいで下さいということでございますよ」黒人女は、ミス・オパルのことばを伝えた。
九
オパル・マドヴィグの部屋は、青が主調色となっていた。ネド・ボウモンが入ると、ミス・オパルは、青と銀の部屋着を身にまとい、ベッドの上で、背中にまくらをかって半身を起こしていた。父親や祖母に似て大がらな体つきに、青い眼をしている。しっかりした顔だちだが、美しいピンク色の肌には、まだ子どものようなきめのこまかさがある。白眼《しろめ》が赤い。
膝の上にのせた盆に、トーストのかけらを落して、ネド・ボウモンに手を差し出す。笑った口もとから、清潔な白い歯がこぼれる。「いらっしゃい、ネド」声に落ち着きがない。
ネド・ボウモンは、差し出された手をとらずに、その甲を軽くたたいた。「やあ、おチビさん、どうしたね?」ベッドの裾に腰をおろして、長い脚を組み、ポケットから、葉巻を一本とり出す。「喫《の》んじゃ、頭に悪いかな?」
「いいことよ、どうぞ」
ネド・ボウモンは、ひとり合点《がてん》のようにうなずいて、葉巻をポケットにもどし、それまでの投げやりな態度をあらためた。ベッドに腰かけたまま、からだをよじって、相手の顔をまともに見た。その眼は、同情にうるんでいる。「わかるよ、辛《つら》いだろうね」声がしゃがれる。
女の子は、赤んぼのような眼をした。「いいえ、ちっとも。頭痛なんか、もうどっかへ行っちゃったわ。それに、そんなに辛いなんてほどのことじゃなかったのよ」
男は薄いくちびるに微笑をうかべた。「じゃあ、ぼくは、もう相手にしてもらえないんだね?」
女の子は、眉の間にしわを寄せた。「なんのことをいってるの? わからないわ、ネド」
男の口もとと眼とがこわばった。「テイラーのことさ」
膝の上で盆が少し動いたが、女の子の顔は変わらなかった。
「だって、あたし、あの人と何カ月も会っていなかったのよ、パパが――」
ネド・ボウモンは、ふっと立ち上がった。「わかったよ」ドアのほうに歩きながら、肩ごしにいい棄てた。
ベッドの女の子は、なにもいわなかった。
男は、そのまま部屋を出て、階段をおりた。
階下《した》の広間には、外套を着たポウル・マドヴィグがいた。
「おれは、これから例の下水工事の請負《うけおい》のことで、事務所に出かけなけりゃならんが、なんなら、君をファーの役所まで送り届けてもいいよ」
「ありがたいな」ネド・ボウモンが答えたのといっしょに、二階からオパルの声がきこえた。「ネドったら、ねえ、ネド!」
「今行くよ」こっちも大きな声で返事をしておいて、マドヴィグに、「急ぐのだったら、おれを待たずに先に行ってくれ」
マドヴィグは、時計を見た。「うん、急がにゃならん。じゃあ、晩にクラブで会おう」
「う、ふ」あいまいな返事を残して、ネド・ボウモンはまた二階にのぼって行った。
盆はベッドの足もとのほうへ押しやってあった。「ドアをしめて」オパルは、ネド・ボウモンが、ドアをしめると、ベッドの上でからだをずらせて、自分のそばに相手の坐る場所をつくってやった。「なぜ、そんなふうになさるの?」
「俺に嘘をついてはいけないよ」腰をおろしながら、まじめに答える。
「だって、ネド!」女の子の青い眼が、男の茶色の眼の奥をさぐろうとした。
「君が最後にテイラーに会ったのは、いつだね?」
「会ったって、話したりなんかしたのはいつかとおっしゃるの?」顔も声もさりげない。「ずいぶん前だわ。いく週間になるかしら」
男はいきなり立ち上がった。「わかったよ」ドアのほうへ歩きながら、肩ごしにいい棄てた。
ドアにあと一歩のところまで行ったとき、女の子が声をかけた。「ああ、ネド、そんなに意地わるしないで」
男は、ゆっくり振りかえった。顔には、なんの表情もない。
「あたしたち、お友だちじゃないの」
「そうさ」男は、即座に気のない返事をした。「しかし、お互いに嘘のつきっこをしているあいだは、そんなこと、うっかりすると忘れてしまいそうだよ」
女の子は、横に身をよじって、枕に額を押しつけ、泣きはじめた。声は出さない。涙が枕をぬらして、しみをつくった。
男は、ベッドにもどって、また女の子のそばに腰をおろした。女の子の顔を、枕から自分の肩に移してやる。
しばらくの間、女の子は、そのまま声もなく泣いていた。やがて、男の上衣に押しつけた口のあたりから、ふくみ声がもれた。「あたしが――あたしが、あの人と会っていたことも知っていらっしゃるの?」
「知っているよ」
女の子は、ビックリしたように、身を起こした。「パパ、そのこと知ってるかしら?」
「どうだかな。知らんと思うがね」
「ああ、ネド――」女の子は、また男の方に頭をもたせかけたので、こもったような声になった。「あたし、昨日《きのう》の午後――午後ずうっと、あの人といっしょだったわ!」
男は、女の子のからだにまわした腕に力をこめたが、なにもいわなかった。
しばらく間《ま》をおいてから、女の子が訊ねた。「あの人にあんなことをしたのは誰かしら?」
男はためらった。
女の子は、ふいに頭を上げた。もうメソメソしていなかった。「ネド、知ってるの?」
男は、すぐには答えずに、くちびるを湿らし、つぶやくように、「見当はついている」
「誰なのよ?」はげしい口調だった。
男は、またためらった。相手の眼を避けるようにしながらゆっくり訊きかえす。「時期の来るまで、誰にもいわないことを約束してくれるかね?」
「約束するわ」しかし、男が口をひらこうとすると、両手で男の肩をつかんだ、「待って。その連中が逃《ず》らかりっこないって――必ず逮捕され、処刑されるって、それをあなたのほうで請《う》け合ってくれなきゃ、あたしも、約束するわけには行かないわ」
「請《う》け合うなんてことはできないよ。誰にだってできるもんか」
女の子はくちびるを噛んで、男の顔をじっとみつめた。やがて「じゃあ、いいわ。約束することよ。誰なの?」
「あの男が、バーニー・デスペインというばくち打ちから、とても払えっこないほどの金《かね》を借りていたのを聞いていたかね?」
「その――そのデスペインとかって人が――?」
「そうじゃないかと思うんだが、あの男が君に、借金の話をしていたかね?」
「あの人が困っているのは知ってたわ。あの人が、そういっていたわ。だけど、お金《かね》のことで、父さんと喧嘩をしていてヤケを起こしているというようなことだけで、借金のことなどいわなかったわ」
「デスペインのことは、話に出なかった?」
「きかなかったわ。いったいなにがあったの? あなたは、なぜそのデスペインのやったことだと思っているの?」
「その男は、千ドル以上の値打ちのあるテイラーの借金証文《アイ・オウ・ユー》をもっていて、それを取り立てることができずにいたんだ。それが、昨夜《ゆうべ》、急に行方《ゆくえ》をくらました。今、警察が網を張っている」声を低めて、女の子の顔を流し目に見ながら、「君は、デスペインを逮捕する手つだいをしてくれる気があるかね?」
「いいことよ。どんなこと?」
「少しばかりいかがわしい男なんだがね。わかるだろうが、その男に有罪の判決を下させるのは、なかなか厄介《やっかい》なことなんだ。しかし君も、その男が犯人だとしたら、いや応なしに逮捕されるように、ちっとくらい――なんというか――インチキなことでも手つだってくれるだろう?」
「なんでも手つだうわ」
男は、ホッと息をついて、くちびるをこすり合わせた。
「あたしにどうしろというの?」熱心な訊きかただった。
「テイラーの帽子をひとつ手に入れてもらいたいんだ」
「え? なんですって?」
「テイラーの帽子が欲《ほ》しいんだよ」ネド・ボウモンは、顔を赤らめていた。「手に入れてもらえるかね?」
女の子は、解《げ》しかねる顔をした。「だけど、ネド、そんなもの、どうするのよ?」
「デスペインが、いや応なしに逮捕されるようにするのさ。今は、それだけしか言えない。手に入れてもらえるかね、もらえないかね?」
「あたし――できると思うわ。でも、教えて下さると――」
「いつ?」
「今日の午後なら、大丈夫と思うけど、あたし――」
男は、また女の子のことばを中途でさえぎった。「君は、なにも知らないことにしておくんだ。知らなければ知らないだけ、君のためにはいい。帽子を手に入れるためにもそうだ」女の子のからだに腕をまわして、自分のほうに引き寄せて、「君は、ほんとにテイラーを好きだったのかね? それとも、君の父さんのためを思って――」
「あたし、ほんとに好きだったのよ」女の子は、すすり上げた。「嘘なんかじゃなく、好きだったわ」
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第二章 帽子の手品《トリック》
一
あまりよく合わない帽子を頭にのせたネド・ボウモンは、赤帽のあとから、グランド・セントラル停車場《ターミナル》の四十二丁目の出口に出た。赤帽にチップをやって、えび茶色のタクシーに乗りこみ、運転手に、ブロードウェイのはずれの四十なん丁目かにあるホテルの名を告げ、座席にもたれこんで、葉巻に火をつけた。タクシーが、劇場を目ざして混《こ》み合う通りを縫って、ブロードウェイのほうへノロノロと走る間、葉巻をふかすよりは、むしろ噛んでいた。
マディスン街まで来ると、交通信号を無視して曲がった緑色のタクシーが、まともに突っこんで来て、ネド・ボウモンのえび茶色のタクシーを、歩道に寄せて駐《と》めてあった車に押しつけた。ネド・ボウモンは、座席からほうり出されて、砕《くだ》けたガラスの雨を浴びた。
どうやら車を抜け出して、集ってくる野次馬の中に立った。べつに怪我《けが》はない、と自分で説明した。巡査の訊問に答えた。あまりよく合わない帽子をさがし出して、頭にのせた。ほかのタクシーに鞄を積みかえ、二人目の運転手にホテルの名を告げ、座席の片すみにちぢこまった。青ざめた顔をして、車の走る間じゅう、ガタガタ震えていた。
ホテルのフロントで宿帳を記入し、自分宛の手紙の有無を訊ねた。電話の伝言メモを二枚と、切手のない封書を二通わたされた。
部屋まで案内してくれたボーイに、ライ・ウィスキーの小瓶《パイント》をたのんだ。ボーイが行ってしまうと、ドアの鍵をまわしておいて、電話の伝言メモを読んだ。二枚とも、日附はその日だった。時刻は、ひとつが午後四時五十分、もうひとつは午後八時五分だった。腕時計を見た。八時四十五分だった。
早いほうのメモには、≪ガーゴイルにて≫とあった。あとのほうには、≪トム・アンド・ジェリにて。後刻電話する≫とあった。両ほうとも、電話のかけ手はジャックとなっていた。
封筒の一方《いっぽう》をあけた。前の日の日附で、便箋二枚に、男手のなぐり書きがあった。
≪女は、マーティン・ホテルの一二一一号室に、シカゴのアイリーン・デールの名で泊っている。そこから電話を使って、東三十丁目に住む、ある男と女に連絡をつけた。三人でほうぼうを歩きまわった。立ちまわり先は、ほとんどが安酒場《スピーキー》だった。あの男をさがしているらしいが、大した収穫もなかった模様。おれの部屋は七三四号。男と女の名はブルック≫
もういっぽうの封筒の中の紙にも、その日の日附で、同じ手の文字があった。
≪今朝《けさ》、デワードに会ったが、バーニーがこの土地に来ているのは知らないということだった。後刻電話する≫
手紙はどちらも、ジャックと署名《サイン》があった。
ネド・ボウモンは、顔を洗って、鞄から新しい下着を出して着替えた。葉巻に火をつけているところへ、ボーイがウィスキーの小瓶をもって来た。寝室の窓のそばまで、椅子を引っぱって行った。そこに腰をおろして、葉巻をふかし、酒を飲み、通りの向かい側を眺めているうちに、電話のベルが鳴った。
「もしもし」送話口に呼びかけた。「うん、ジャックだな……ついさっきだ……どこだって?……いいとも……いいとも、すぐに行く」
ウィスキーをもうひと飲みして、あまりよく合わない帽子をかぶり、椅子の背にかけてあった外套をとり上げ、それを着こみ、ポケットを軽くたたき、あかりを消して、外に出た。
九時を十分過ぎていた。
二
ブロードウェイから眼と鼻の先にあるビルの正面、トム・アンド・ジェリと文字の入った電気看板の下の、二重になったガラス張りの自動ドアを抜けて、ネド・ボウモンは細い廊下に入った。廊下の左手の自動ドアを入ると、小さなレストランになっていた。
隅のテーブルにいた男が立ち上がって、人さし指をあげて見せた。中ぐらいの背たけの、若い、キリッとした男だった。つやのある浅黒い顔は、どちらかといえば美しいほうだった。
ネド・ボウモンは、その男のところまで行った。「よう、ジャック」二人は、手を握り合った。
「二階にいるぜ、例の女と、ブルックって連中が」ジャックは、いきなり要点に入った。「あんたは、階段に背なかを向けて、ここに頑張ってるといい。連中が出て行ったり、例の野郎がやって来やがったら、おれが教えてやるし、大ぜいいるから、向こうであんたに気がつくこともあるまい」
ネド・ボウモンは、ジャックのテーブルに坐った。「連中は、あいつを待っているのか?」
ジャックは、肩を動かした。「どうだか知らんが、あの連中は、なにか企んでいやがるよ。なにか喰《く》うかね? 階下《した》では、酒は出ないんだが」
「おれは、酒が欲しいな。二階に、連中に見つからないような手ごろな場所がないかね?」
「あまり大きな店じゃないんでね」ジャックはしりごみした。「二つばかりあるボックスなら、連中の眼はごまかせるかもしれんが、あいつが入って来やがったら、見つかるぜ」
「かまわんさ。おれは、酒が飲みたいし、あいつがあらわれたら、その場で話をつけたっていいから」
ジャックは、詮索《せんさく》するように、ネド・ボウモンの顔をみつめ、それから眼をそらした。「あんたのほうが親方だからね。ボックスがあいているかどうか見て来よう」ちょっとためらって、また肩を動かしてから、テーブルを離れた。
ネド・ボウモンは、椅子の中で身をよじって、キビキビした若者が、階段をのぼって行くのを見まもった。そのまま若者がもう一度おりて来るまで待った。ジャックは階段の二段目から手まねきをした。ネド・ボウモンが追いつくと、「ちょうど絶好のボックスがあいているよ。あの女は、背なかをこっちに向けているから、行きがけに、ブルックのやつらを見ることができる」
二人は、二階に上がった。ボックス――胸の高さの木のついたての中に、テーブルと長椅子がある――は、階段をのぼりつめた右手にあった。ふりかえると、幅の広いアーチを通して、バーの向こうに、二階の食堂が見わたせた。
ネド・ボウモンの眼は、淡黄茶《フォーン》色の袖なしのドレスに茶色の帽子をかぶったリー・ウィルシャーの背なかに、焦点を結んだ。椅子の背には茶色毛皮の外套がかかっていた。連れの連中に眼をとめた。左手にいるのは、鷹《たか》のくちばしのようなかぎ鼻に、長いあごをした、食肉獣のような感じのする、四十歳ばかりの青白い顔の男だった。リー・ウィルシャーのま向かいには、肉のやわらかそうな、赤い髪、眼と眼の間のひどく離れた女が坐っていた。その女は、声を出して笑っているところだった。
ネド・ボウモンはジャックのあとから、ボックスに行った。二人は、テーブルをはさんで腰をおろした。ネド・ボウモンは、食堂のほうに背を向けて、木のつい立ての目かくしをできるだけうまく利用できるように、長椅子のはしっこに坐った。帽子はとったが、外套は着たままだった。
給仕が来た。ネド・ボウモンは「ライだ」と、ジャックは「リキー」と、それぞれ注文を通した。
ジャックは、たばこの封を切って、一本抜き出し、それをみつめた。「あんたのやっていることだし、おれは、あんたに使われているんだから、どうでもいいことだが、あいつと話をつけるには、仲間のいるこんな場所はよくないぜ」
「仲間がいるかね?」
ジャックは、たばこを口の隅に突っこんだ。ものをいうにつれて、指揮棒《バトン》のように動いた。「あの連中が、ここで待ち伏せしているからには、ここは、あいつの巣みたいなもんかもしれんからね」
給仕が、酒をはこんで来た。ネド・ボウモンは、自分のグラスを即座にほしてしまった。「よけいなことをいうな」
「うん、そうかもしれんな」ジャックは、自分のグラスをひとすすりした。たばこに火をつけて、もうひとすすりした。
「さて、おれは、あいつがあらわれたら、すぐに話をつけてやるよ」
「それもいいだろう」ジャックの美しい浅黒い顔は変わらなかった。「それで、おれはどうすればいいんだね」
「まあ、おれにまかしときな」ネド・ボウモンは、給仕の眼をとらえた。
スコッチ・ウィスキーのダブルを注文した。ジャックも、リキーをもう一杯いった。はこばれて来るが早いか、ネド・ボウモンは、自分のグラスを空《から》にした。ジャックは、まだ半分以上も残っているはじめのグラスをもって行かせ、二つ目をすすった。しばらくすると、ジャックが一杯も飲みほさないうちに、ネド・ボウモンはさらに二杯も、ウィスキーのダブルを平らげてしまった。
それから、バーニー・デスペインが、二階に姿をあらわした。
階段を見張っていたジャックが、ばくち打ちを見て、テーブルの下で、ネド・ボウモンの足を踏んだ。ネド・ボウモンは、空《から》っぽのグラスから顔を上げた。急に眼がかたく冷たくなった。テーブルに両手のひらを押しつけるようにして立ち上がった。ボックスから出て、デスペインの前に立ちふさがった。「バーニー、おれは、自分の金《かね》をもらいたいんだ」
デスペインのあとから二階にあがって来た男が、前に出て左手の握り拳《こぶし》を、ネド・ボウモンの胴腹に、猛烈にたたきつけた。背の高い男ではないが、両肩がいかつく、握り拳《こぶし》は、金魚鉢ほども大きかった。
ネド・ボウモンは、ボックスの仕切り板に、うしろざまにぶつかった。上半身が前に折れ、膝がガクガクになったが、倒れはしなかった。しばらく、そのままの姿勢でいた。どんよりした眼になった。皮膚が緑いろっぽくなった。なにか聞きとれないことをつぶやいて、階段の降り口に行った。
関節をガクガクにして、青ざめた顔で、頭にはなにもかぶらずに、階段をおりて行った。階下の食堂を抜けて外に出ると、歩道に胃の中のものを吐いた。吐《は》くだけ吐いてしまってから、十フィートばかり向こうに駐《とま》っていたタクシーにたどりつき、運転手に、グリニチ・ヴィレジの、あるアドレスをいった。
三
ネド・ボウモンは、ある家の前でタクシーをおりた。茶色の石の階段の下の地下室のドアから、騒音とあかりとが洩《も》れていた。せまい部屋に入ると、白い上衣を着たバーテンダー二人が、二十フィートの長さのカウンターに寄っている十二、三人の男女の相手をしていた。ほかの連中の坐っているテーブルの間を、二人の給仕が動きまわっていた。
頭のはげたほうのバーテンダーが、背の高いグラスに、桃色の酒を注ぎ分けていたシェーカーを下に置いて、カウンターごしに濡れた手を差し出した。「これはこれは、ネドじゃねえか!」
「やあ、マック」ネド・ボウモンは、濡れた手を握った。
給仕の一人がやって来て、ネド・ボウモンの手を握った。次は、まるまっちい血色のいいイタリー人だった。その男にネド・ボウモンは、トニーと呼びかけた。挨拶がひと通りすむと、ネド・ボウモンは、金を出すから酒を飲ませてもらいたいといった。
「とんでもないこった」トニーが答えた。カウンターのほうに向き直って、空《から》っぽのカクテルグラスで、コツコツと音をさせた。バーテンダーが、こっちを向くのを待って、「おい、今晩は、この野郎に、水一杯だって金を払わせるなよ。欲しいだけ、ただで飲ませてやれ」
「おれは、どっちでもいいが、そんなら、スコッチのダブルをたのむ」
部屋の向こうはしのテーブルにいた女が二人立ち上がって、声をそろえてわめいた。「ようったら、ネド!」
「すぐにもどって来る」ネド・ボウモンは、トニーにいい置いて、女のテーブルに行った。二人の女は、ネド・ボウモンに抱きつき、質問を浴びせかけ、連れの男たちに紹介し、自分たちのテーブルに場所を作った。ネド・ボウモンは腰をおろし、質問に答えて、ニューヨークには、ほんのちょっと来ただけで、長居はしない、酒は、スコッチのダブルだといった。
三時少し前に、テーブルから立ち、みんな揃って、トニーの店を出て、三ブロック離れたほとんどそっくりのような別の店に入り、はじめのとけじめがつかないほどよく似たテーブルを占領し、今まで飲んでいたのと同じ種類の酒を飲んだ。
三時半に、男のうちの一人がいなくなった。誰もさよならをいわなかった。十分たつと、ネド・ボウモンともう一人の男と、二人の女とは、店を出た。町角《まちかど》で、一台のタクシーに乗りこんだ。ワシントン広場《スクエア》近くのホテルで、もう一人の男と、女のうちの一人とが、車をおりた。
もう一人のフェンディンクと呼ばれた女が、ネド・ボウモンを七十三丁目のアパートメントまでつれて行った。ひどく温かなアパートメントだった。ドアをあけると、温かな空気が二人を迎えた。居間に入ると、女はため息をついて、床の上にころがった。
ネド・ボウモンは、ドアをしめて、女の眼をさまそうとしたが、無駄だった。かかえたり引きずったり、どうやらこうやら、女を次の部屋にはこびこんで、更紗《さらさ》の覆《おお》いのかかったベッド兼用の長椅子に寝かせた。女の着ているものを半分脱がせて、毛布を見つけてかけてやり、窓をあけた。それから浴室に入って、吐《は》いた。居間にもどって、着たまま長椅子《ソファ》にころがり、眠りこんだ。
四
ネド・ボウモンは、頭のすぐそばで鳴る電話のベルで、目がさめた。眼をあけて、両足をゆか)におろし、横向きになって部屋の中を見まわした。電話が見つかると、眼を閉じて、グッタリとなった。
ベルは、鳴りつづけた。唸り声を出して、もう一度眼をあけ、モゾモゾと身じろぎして、からだの下になっている左手の腕を抜き出した。手首を眼のそばまでもって来て、眼を細くしながら、時計を見た。時計は、ガラスがなくなっていた。針は十二時十二分過ぎでとまっていた。
ネド・ボウモンは、また長椅子の上でからだを動かして、やっとのことで左の肘《ひじ》を突っ張り、その手のひらに頭をのせた。電話のベルは、まだ鳴っていた。みじめにどんよりとした眼で、部屋を見まわした。電燈は、つけっ放しになっていた。あけてある戸口から、ベッド兼用の長椅子のはしに、毛布をかぶせたフェンディンクの足が見えた。
もう一度唸り声を出して起き上がり、指先で、クシャクシャに乱れた黒い髪を引っかきまわし、両手でこめかみを挟んでゆすった。くちびるはカサカサに乾いて、かさぶたのようになっていた。その上を舌でなめまわして、まずそうな顔をした。それから立ち上がり、二、三度咳をして、手袋と外套を脱《ぬ》いで長椅子の上に落とし、浴室に入って行った。
浴室から出て来ると、ベッド兼長椅子のそばに行って、フェンディンクを見おろした。顔を伏せ、青い袖に包まれた片腕を頭の上のほうに曲げて、グッスリと眠っていた。電話のベルは、もう鳴り止んでいた。ネクタイを引っぱって真っ直ぐにして、居間にもどった。
二つの椅子の間にはさまれたテーブルの上の箱の中に、|たばこ《ムラッド》が三本残っていた。一本つまみ出して、「のんきなもんだ」と、別におかしくもなさそうにつぶやき、マッチをさがし出し、たばこに火をつけ、台所に入った。背の高いグラスに、オレンジ四つ分の果汁をしぼりこんで飲んだ。コーヒーを沸《わ》かして、二杯飲んだ。
台所から出て来ると、フェンディンクが、なさけない声で訊ねた。「テッドはどこにいるの?」片眼を半分ほどあけて聞いた。
ネド・ボウモンは、女のそばに行った。「誰だい、テッドっていうのは?」
「あたいといっしょになったやつよ」
「君は、誰かといっしょになったのかね? そんなこと知るもんか」
女は口をあけて、気もちの悪い音を立て、口をしめた。
「なん時?」
「それも知らんよ。もう朝だろう」
女は、更紗《さらさ》のクッションに顔をこすりつけた。
「昨日《きのう》、すてきな男をめっけて、結婚の約束をしたんだけど、その人、どっかへ行っちまったんだわ」女は、頭の上で、手のひらをあけて閉じて見せた。「ここ、あたいのうち?」
「どうだか知らんが、君はこの部屋の鍵をもっていたよ。オレンジ・ジュースとコーヒーはいらないかね」
「死んでも、そんなもの欲しかないわ。ねえ、ネド、あんた、行ってしまったら、もうもどって来ないの?」
「来られそうにないが、まあできるだけ来るようにしよう」ネド・ボウモンの声は不機嫌だった。
外套を着て、手袋をはめ、外套のポケットから、しわくちゃのハンティングを引っぱりだしてかぶり、外に出た。
五
三十分後、ネド・ボウモンは、自分のホテルの七三四号室のドアをノックしていた。やがて、ジャックのねむそうな声が、ドアごしにきこえた。「誰だ?」
「ボウモンだ」
「ああ、そうか」気のない声だった。「いいよ」
ジャックは、ドアをあけて、あかりをつけた。緑色の水玉模様のパジャマを着ていた。素足だった。眠さのせいで、赤い顔に濁《にご》った眼をしていた。あくびをして、うなずき、ベッドにもどり長々と寝そべって、天井をにらみつけた。「今朝は、具合はどうだね?」 たいして面白くもなさそうな聞きかただった。
ネド・ボウモンは、ドアをしめた。ドアとベッドとの中間に立ったまま、ベッドの上の男を、陰気な眼でみつめた。
「おれが行ってから、どうなったかね?」
「どうもならなかったよ」ジャックは、またあくびをした。
「それとも、おれがどうしたかって、そう訊《き》くのかね?」相手の答えるのを待たずに、「おれも外に出て、通りの向こう側で、連中の出て来るのを見張ったよ。デスペインとあの女と、それから、あんたをなぐった野郎が出て来た。連中は、四十八丁目のバックマン・アパートへ行った。デスペインのやつ、そこの九三八号室に、バートン・デュウィという名で隠れてやがるんだ。おれは、三時過ぎまで張りこんで、それから引き上げた。おれが化《ば》かされたのでなけりゃ、連中は、まだあそこにいるよ」頭を部屋の隅のほうに、ちょっとしゃくって見せて、「あんたの帽子は、そこの椅子の上にあるよ。もって来たほうがいいと思ったんでね」
ネド・ボウモンは、椅子のところに行って、そのあまりよく合わない帽子を拾い上げた。しわだらけのハンティングを外套のポケットに突っこんで、帽子《ハット》を頭にのせた。
「一ぱいやりたいんなら、テーブルの上に、ジンが少しばかりあるぜ」
「いや、いいよ。ピストルをもっているかね?」
ジャックは、天井をにらみつけるのを止《や》めた。ベッドの上に起き上がり、両腕をグッとのばして、三度目のあくびをした。「なにをやらかそうってんだね?」その声には、義理に訊ねてみたというだけの響きしかなかった。
「デスペインに会いに行くんだ」
ジャックは両膝を抱えこんで、まるまったような恰好で、ベッドの足もとをみつめていた。ゆっくりとした口調で「居間は、やめといたほうがいいと思うがね」
「いや、今でなきゃならん」
その声で、ジャックはネド・ボウモンの顔を見た。その顔は、不健康な、黄味がかった灰いろだった。泥のようににごった眼は、まわりが赤らんで、白眼が見えるほどにも開いていない。くちびるは乾いて、いつもよりはれぼったいようだった。
「夜《よる》じゅう起きていたのかね?」ジャックが訊ねた。
「ちっとは眠ったがね」
「眠たいだろう?」
「うん、しかし、ピストルはどうなんだ?」
ジャックは、かけぶとんから、両脚をベッドのわきに投げ出した。「それよりか、少し眠ったらどうだね? 連中を追っかけるのは、それからだっていいよ。あんたは、まるでクタクタじゃないか」
「おれは、今行くんだ」
「わかったよ。だけど、あの連中だって、そんなフラフラのからだで向かって行けるような赤んぼうじゃないぜ。連中も本気だからな」
「ピストルはどこだ?」
ジャックは立ち上がって、パジャマの上衣のボタンをはずしはじめた。
「おれにピストルをよこして、もう一度ベッドにもぐりこめ。おれは行くよ」
ジャックは、はずしたばかりのボタンを、またかけて、ベッドにもぐりこんだ。「ピストルなら、箪笥《たんす》の一番上のひき出しだ。要《い》るんなら、同じところに、予備の挿弾子《カートリッジ》もあるよ」そのまま横向きになって、眼を閉じた。
ネド・ボウモンは、ピストルを見つけ出して、尻のポケットにしまいこんだ。「また会おうぜ」あかりを消して、部屋を出た。
六
バックマン・アパートメントは、そのブロック全体をほとんど占領している四角四面の黄色いビルディングだった。中に入ると、ネド・ボウモンは、ミスター・デュウィに会いたいと申しこんだ。係員に訊《き》かれて、自分の名を、「ネド・ボウモン」と名のった。
五分たつと、エレヴェーターをおりて、長い廊下を、バーニー・デスペインの立っている、あいたドアのほうへ歩いていた。
デスペインは、背の低い、からだの割に頭の大きすぎるたくましい男だった。その大きな頭が、密生して波立つフワフワの髪の毛のせいで、異様なまでに誇張されていた。顔は浅黒く、眼のあたりを除くと、いったいにつくりが大まかで、額と、鼻から口にかけて、深いしわが刻まれていた。片ほうの頬に、かすかに赤い傷あとがあった。青い服は念入りにプレスしてあった。飾りめいたものは、なにひとつ身につけていなかった。
戸口に立って、冷ややかなうす笑いをうかべていた。「ようお早う、ネド」
ネド・ボウモンが答えた。「おれは、貴様と話がしたいんだ、バーニー」
「そうだろうと思ったよ。下から電話であんたの名をいわれたとき、おれは、ひとりごとをいったね、『話があるってのは、おれのことにちがいねえ』って」
ネド・ボウモンは黙っていた。黄色っぽい顔に、くちびるをかたく結んでいた。
デスペインの口もとがゆるんだ。「まあ、こんなところに突っ立っていたってしょうがねえやな。入んな」通りみちをあけた。
そのドアを入ると、小さな玄関口になっていた。突き当りのあけっ放しのドアの向こうに、リー・ウィルシャーと、ネド・ボウモンをなぐりつけた男の姿が見えた。二人は、二つの旅行鞄を荷づくりしていた手を休めて、ネド・ボウモンを見た。
玄関に入った。
デスペインがあとから入って、廊下のドアをしめた。
「このキッドの野郎は、あわてんぼうでね、昨日《きのう》、あんたがあんなふうにして、おれのほうにやって来たのを、なにか因縁《いんねん》でもつけて喧嘩を売るのかと感ちがいしやがったんだ。そのことでおれから散々とっちめてやったから、あんたが言えば、あやまるだろうよ」
キッドと呼ばれた男は、ネド・ボウモンをにらみつけていたリー・ウィルシャーに、低い声でなにかいった。女は、毒を含んだ笑い声を立てた。「そうよ、とことんまでスポーツマンだわ」
「さあ、遠慮なく通りなよ、ボウモンさん」バーニー・デスペインがうながした。「この連中には、会ったことがあるんだろう、なかったかね?」
ネド・ボウモンは、リー・ウィルシャーとキッドのいる部屋に足を踏み入れた。
「腹の具合はどうだね?」キッドが訊ねた。
ネド・ボウモンはなにもいわなかった。
「こいつは呆れたぞ!」バーニー・デスペインが、大げさないいかたをした。「話をしたいといって来たくせに、まるで口をきかねえじゃねえか。そんなのあるかい」
「おれは、貴様に話があるんだ」ネド・ボウモンが、口をひらいた。「この連中といっしょでなけりゃならんのか?」
「うん、おれはそうだ」デスペインが答えた。「あんたはいやだとおっしゃる。なんなら、よけいなおせっかいはよしにして、とっとと出て行きゃ、この連中といっしょにならずにすむぜ」
「おれは、ここで用があるんだ」
「よし、わかった。なにやら金《かね》のことだったな」デスペインは、キッドにニヤリとして見せた。「金《かね》の話があるとかってことだったなあ、おい、キッド?」
キッドは、ネド・ボウモンの入って来たドアのところに行って、立ちはだかっていた。「うん、なんだかね――」耳ざわりな声だった。「忘れちまったよ」
ネド・ボウモンは、外套を脱《ぬ》いで、茶色の安楽椅子の背にかけた。その椅子に腰をおろして、帽子は自分のうしろにまわした。「こんどは、自分の用じゃないんだがね。おれは――ええと――」上衣の内ポケットから書類を引っぱり出し、それをひろげ、ちょっと眼を走らせて、「おれは、地方検事局の特別捜査官てことになっているんだ」
デスペインの眼は、一秒の何分の一かの間曇った。しかしすぐに、「おいおい、あんた、正気なのか! この前会ったときにゃ、ポウルの使い走りだかなんだかやっとったじゃねえか」
ネド・ボウモンは書類をたたみ直して、ポケットにもどした。
「いいよ。やってみな。なんだか知らんが、捜査とやらをやってみせてくんなよ」デスペインは、ネド・ボウモンの向かいに腰をおろして、大きすぎる頭を振り立てた。「まさか、テイラー・ヘンリー殺しの一件で、おれを訊問しに、わざわざニューヨークくんだりまでお出《い》であそばしたんじゃねえだろうな?」
「実は、そうなんだ」
「そいつあ気の毒したな。もうちっとのことで、そんな大旅行をせずにすませてやったのにな」片手を床《ゆか》の上の旅行鞄のほうにヒラヒラさせて見せて、「おれは、リーから一件の話をきくと直《じ》きに、あっちにもどって、あんたのおれに仕かけた罠《わな》の裏をかいて大笑いしてやろうと、荷づくりにかかっていたところなのさ」
ネド・ボウモンは、椅子の中でゆったりと、もたれかかった。片手は腰のうしろにまわしていた。「罠というようなものがあるとしたら、そついはリーが仕かけたんだよ。警察のネタは、そこから出ているんだからね」
「そうよ」リーが怒った声を出した。「あんたが、よけいなおせっかいをして、警察のやつをよこしたりするから、そんなことになっちまったんだ。こん畜生ッ!」
「うふッ、リーは、気のきかねえ|うすのろ《ヽヽヽヽ》だからな――」デスペインは、さげすむようないいかたをした。「しかし、あんな古証文など、なんの役にも立たねえよ。警察の野郎どもは――」
「あたいがうすのろだってのかい、このあたいが?」リーは大声でわめいた。「お前さんが、ありったけかっさらって逃《ず》らかったあとを追っかけて、わざわざこんな遠くまで、知らせに来てやったのは、いったい誰だと思ってやがるのさ? あたいじゃないって、そういうのかい?」
「お前だよ」デスペインは愉快そうに同意した。「自分がどれだけ気のきかねえあまっ子かってことを、わざわざ見せに来てくれたようなもんじゃねえか。その証拠に、このうるせえやつをおれんとこまで道案内したのは、お前なんだからな」
「お前さんがあたいの折角の苦労を、そんなふうに思ってるんならいいさ。あたい、あの|借金の証文《アイ・オウ・ユー》を、みんな警察に渡しちまったんだからね。ヘン、どうだい?」
「よしよし、それは、このお客さんにお帰りを願ってから、ゆっくり話をつけよう」ネド・ボウモンのほうに向き直って、「すると、おれに、そんなつまらねえ言いがかりをつけようってのは、ポウル・マドヴィグの差し金なのかな?」
ネド・ボウモンは、微笑をうかべた。「おれたちは、べつに貴様を罠にかけようとしているわけではないさ、バーニー。リーの話をしてくれたことが、おれたちの感にピンと来ただけのことさ」
「じゃあ、リーのしゃべりやがったことのほかにも、なにかネタが上がってるのかね?」
「どっさりね」
「どんなことだ?」
ネド・ボウモンは、また微笑をうかべた。「貴様に話さなきゃならんことは、うんとあるが、大ぜいの前ではしゃべりたくないからな」
「クソッ!」
キッドが戸口から、耳ざわりな声でデスペインに話しかけた。「この野郎を、さかさまに放り出してやろうじゃねえか」
「まあ、待ちな」デスペインは、顔をしかめた。ネド・ボウモンに、「おれに、逮捕令状が出ているのか?」
「そうだなあ、おれは、べつに――」
「イエスかノーか、それだけ言うんだ」デスペインのからかうようなおどけた調子はなくなっていた。
ネド・ボウモンは、ゆっくりと答えた。「出ているとは聞いてないがね」
デスペインは立ち上がって、自分の椅子をうしろに押した。「そんなら、ここから消えて失《う》せやがれ。くずくずすると、もう一度キッドから痛い目に合わされるぞ」
ネド・ボウモンは立ち上がって、外套をとり上げた。街頭のポケットから、ハンティングを出して、それを片手にもち、もういっぽうの腕に、外套を抱えた。「邪魔をしてすまなかったな」まじめな声だった。もったいぶった歩きかたで外に出た。キッドのかすれた笑い声と、リーの金切り声とがあとを追った。
七
バックマン・アパートを出ると、ネド・ボウモンは、急ぎ足に通りを歩きだした。くたびれた顔に、眼だけが燃えていた。微笑をたたえた口もとに、濃い色の口ひげがピクピクと動いた。
はじめての角《かど》まで来ると、ジャックに出会った。「こんなところで何をしているんだ?」
「おれは、まだあんたに使われていることになっているらしいから、なにか用があるかと思ってやって来たんだよ」
「そいつはよかった。大急ぎでタクシーを拾って来てくれ。あの連中、逃《ず》らかろうとしている」
「あいよ」ジャックは、車をさがしに行った。
ネド・ボウモンは、角《かど》で待った。そこからは、バックマン・アパートの正面と横の出入口が見わたせた。
しばらくすると、ジャックがタクシーに乗ってもどって来た。ネド・ボウモンも乗りこんで、運転手に車を駐《と》める位置を指図《さしず》した。
「あんたは、連中のところで、なにをして来たんだね?」車がいいつけられた場所に落ち着くと、ジャックが訊ねた。
「いろんなことさ」
「へえ」
十分たつと、ジャックが「おい、見ろよ」といいながら、バックマン・アパートの横の入口に寄って来たタクシーを指さした。
はじめに旅行鞄を両手にさげたキッドが出て来て、タクシーにおさまり、それから、デスペインと女が走り出て乗りこんだ。タクシーは走り去った。
ジャックは前に乗り出して、運転手に指図した。車はもう一台の車を追って走った。朝の陽《ひ》に明るい町をグルグルと走りまわったあげく、西四十九丁目の、古ぼけた茶色の石づくりの家まで来た。
デスペインのタクシーは、その家の前でとまり、今度もまずキッドが歩道におり立った。通りの前後を確かめてみてから、玄関のドアまで行って、鍵《かぎ》をはずした。それからまた車のところにもどった。デスペインと女とが、車をとびおりて、家の中に駆けこんだ。キッドが、鞄を提《さ》げてあとにつづいた。
「君は車に乗ったまま、ここで待っていたまえ」ネド・ボウモンがジャックにいいつけた。
「どうするんだね、あんたは?」
「一《いち》かばちか、やってみるんだ」
ジャックは頭を振った。「こんなところでゴタゴタを起こすと、厄介なことになるぜ」
ネド・ボウモンはジャックの忠告に耳を貸さなかった。
「おれがデスペインといっしょに出て来たら、グズグズせずに別のタクシーを拾って、バックマン・アパートにもどり、見張るんだ。おれが出て来なかったら、君にまかせるから、適当にやってくれ」
タクシーのドアをあけて、外に出た。武者ぶるいをした。眼はキラキラと輝いていた。ジャックが、からだを乗り出して何かいいかけるのを構わずに、通りを横ぎって、二人の男と一人の女をのみこんだ家の前に立った。
まっすぐに石段をのぼって、片手をドアの握りにかけた。握りはまわった。鍵はかかっていなかった。押してドアをあけ、薄暗い玄関をのぞきこんでから踏みこんだ。
うしろで、ドアが音高くしまるのといっしょに、キッドの握り拳《こぶし》が、目にもとまらぬ早さで頭を打った。帽子《キャップ》がふっとび、身ぐるみ壁にたたきつけられた。フラフラと目まいを感じて、片膝をつきかけた。その頭ごしに、キッドの二つ目の握りこぶしが、壁にぶつかった。
ネド・ボウモンはくちびるを噛みしめて拳固《げんこ》をかため、キッドの股《また》のつけ根に、思いきりたたきつけた。キッドは唸り声をあげて、たじろいだ。ネド・ボウモンは、相手の立ち直るひまに、やっとのことで立ち上がった。
玄関の少し奥で、バーニー・デスペインが壁によりかかっていた。歯を喰いしばり、眼を細めて、低い声で、「やっつけろ、キッド、やっつけろ……」とくりかえした。リー・ウィルシャーの姿は見えなかった。
キッドの次の打撃は、二度つづけざまにネド・ボウモンの胸にきまった。ネド・ボウモンは背中を壁にぶつけて、咳《せ》きこんだ。顔をまともに狙った三つ目は避けた。相手ののど首に前腕を押し当てながら、腹を蹴《け》上げた。キッドは、けだもののように唸って、両拳《りょうこぶし》で打ってかかった。ネド・ボウモンは、腕と足とで攻撃を防ぎながら、わずかの隙に右手をのばして、腰のポケットから、ジャックのピストルをとり出した。そのピストルをまっすぐに構える余裕はなかった。下に向けたまま、引き金を引いて、キッドの右腿を射《う》った。キッドは叫び声を立てて、玄関の床《ゆか》に倒れた。ころがったまま、脅《おび》えたような血走った眼で、ネド・ボウモンを見上げた。
ネド・ボウモンは、ひと足さがり、左手をズボンのポケットにつっこんで、バーニー・デスペインに呼びかけた。「おれといっしょに来るんだ。貴様に話がある」むっつりと、テコでも動かんぞというような顔だった。
頭の上で、足音がした。奥のどこかでドアのあく音がして、カンの立った声がきこえて来たが、誰も姿をあらわさなかった。
デスペインは、まるで魅入《みい》られたように、ネド・ボウモンの顔をみつめつづけた。それから、ひとことも口をきかずに床にころがっいる男のからだをまたぎ越し、ネド・ボウモンの先に立って、外に出た。ネド・ボウモンは、石段をおりる前に、ピストルを上衣のポケットにおさめたが、手は離さなかった。
「あそこのタクシーまで行くんだ」ネド・ボウモンは、ジャックが外に出ようとしているタクシーを指さした。タクシーまで行くと運転手に、どこでもいいから走らせろといいつけた。「行く先をいうまで走りまわればいい」
車が動き出したころ、デスペインはやっと自分の声をとりもどした。「まるでホールド・アップじゃねえか。おれは殺されるのはいやだから、あんたの言いなりに、なんでも出すが、これじゃまるでホールド・アップじゃねえか」
ネド・ボウモンは、うす気味の悪い笑い声を立てて、頭を振った。「おれが、地方検事局のおえらがたに出世したんだってことを忘れるなよ」
「そんなこといったって、おれは起訴《きそ》されているわけじゃねえし、お尋ね者でもねえからな。あんたは、いったじゃねえか――」
「あれは、わけがあって嘘をついたのさ。貴様は、お尋ね者だよ、バーニー」
「なぜだい?」
「テイラー・ヘンリー殺しの一件でさ」
「あれか? ふん、おれは、大いばりであの土地に帰って行ってやらあ。おれがやったって証拠に何があるんだ? なるほど、おれはあいつの借金証文をもっていたよ。なるほど、おれはあいつの殺《や》られた晩に、あの土地を逃《ず》らかったよ。なるほど、おれはあいつがはっきり片をつけねえから、悪態をついたよ。腕っこきの弁護士を頼んだら、そんなことくらいでへこたれるもんか。九時半より前に――リーがそんなことをいってたがね――金庫の中に、借金証文を置きっ放しにして行ったからって、おれがその晩、金をとり立てようともしねえで、あいつを殺《や》っつけたってことにはならねえよ」
「そりゃあそうだ。しかし、おれたちの決《き》め手は、それだけじゃない」
「だって、ほかにありっこはねえじゃないか」デスペインは一生懸命だった。
ネド・ボウモンはせせら笑った。「そうはいかんぞ、バーニー。今朝、貴様に会いに行ったときに、おれがソフトをかぶっていたのをおぼえているか?」
「そうだったかもしれんな」
「それが、帰りぎわには、外套のポケットからハンティングを出してかぶったのをおぼえているか?」
浅黒い男の小さな眼には、当惑と恐怖とがあらわれた。
「それがどうした? いったい何をやらかそうとしているんだ?」
「なあに、証拠をかためようとしているんだがね。そのソフトが、おれにあまりよく合っていなかったのをおぼえているか?」
バーニー・デスペインの声はしゃがれた。「わからねえ、ネド。なんのことをいっているんだ?」
「つまり、あれはおれの帽子じゃないから、おれには、あまりよく合っていなかったということなのさ。テイラーが殺されたときにかぶっていた帽子が行方《ゆくえ》知れずになったことをおぼえているか?」
「おれは知らねえ。おれには、あいつのことなど、これっぽちも知らねえんだ」
「おれの言おうとしているのは、今朝おれのかぶっていた帽子は、テイラーの帽子で、それが今は、バックマン・アパートの貴様の住居だった部屋の、あの茶色の安楽椅子の座席のクッションと背もたれとの間に突っこんであるってことなんだ。ほかの証拠といっしょに、それだけ揃えば、貴様を電気椅子にかけさせるのに充分だとは思わないかね?」
ネド・ボウモンが、片手で口を押えて耳のそばで、「黙っていろ」と唸《うな》り声を出さなかったら、デスペインは恐怖のあまり金《かな》きり声を立てるところだった。
浅黒い顔を、汗が流れた。デスペインは、ネド・ボウモンに覆いかぶさるようにして、両手で上衣の襟先をつかんだ。
「おい、ネド、おれにそんなことをしねえでくれ。やめてくれたら、借りてるだけ一文も残さずに返すよ。利息もつけて返すよ。おれは神さまに誓ってもいい。あんたの金をごまかしたりするつもりはなかったんだ。手もとが苦しかったもんだから、借金の形にしてもらおうと思っただけなんだ。ほんとなんだ、ネド。おれも、今はたんともっちゃいねえが、今日、リーの宝石を売って金が手に入ったら、それから、あんたのぶんを一文残らず払うよ。いくらだったかね、ネド? 今朝のうちに残らず払うよ」
ネド・ボウモンは、浅黒い男を押しのけて、自分の席に落ち着かせた。「三千二百五十ドルだ」
「そうか、三千二百五十ドルだな。今朝のうちに、それだけ一文も残さずに払うよ」デスペインは、自分の時計を見た。
「ほんとに、これからあそこへ行って、その場で払うよ。スタインじいさんは、もう店に出ているよ。なあ、ネド、頼むから、昔のよしみでおれに行かせてくれ」
ネド・ボウモンは、仔細《しさい》らしく、両手をこすり合わせた。
「いや、行ってもらうわけにはいかん。今は駄目だ。おれだって、地方検事局のつとめがあるから、貴様がお尋ね者だってことを忘れることはできない。おれたちの間で取引きできるのは、例の帽子だけだ。おれのほうの条件はこうだ。おれの金を返してよこしたら、おれが自分だけで、あの帽子を見つけ出すことにして、ほかには誰もそれに気づかないようにする。それがいやなら、ニューヨークじゅうのお巡りを半分、いっしょに引っぱって行く。好きなようにするんだ」
「しかたがねえ!」バーニー・デスペインは唸った。「じゃあ、運転手に、スタインじいさんの店まで行くようにいってくれ。その店は――」
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第三章 一斉掃射《サイクロン・ショット》
一
ニューヨークから着いた汽車をおりたネド・ボウモンは澄んだ眼をした、背の高い、姿勢の正しい男だった。強《し》いていえば、胸の平べったさだけが、からだのあまり頑健でないことを思わせた。顔の色にも表情にも健康が溢《あふ》れていた。歩きかたは大またで弾《はず》んでいた。列車の発着場から、コンクリートの階段を身軽にのぼって、待合室を抜け、案内所のカウンターの向こうにいた顔見知りに手を振って見せ、停車場から外に出た。
歩道で、自分の鞄をはこんで来る赤帽を待つ間に、新聞を買った。荷物といっしょにランドール街に向かうタクシーの中で、新聞をひろげた。第一面の半分を占領している記事を読んだ。
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ウェスト家を見舞った二度目の悲劇
兄が奇禍《きか》の死を遂げた同じ路上で
弟が射殺される
北アチランド街一三四二番地のウェスト一家は、二週間のうちに二度まで死の悲劇に見舞われた。フランシス・F・ウェスト(三十一才)は、昨夜、兄のノーマンが先月酒類密造業者とみなされる自動車に轢殺《れきさつ》された現場から一ブロックと離れぬ路上で射殺された。
ロッカウェイ・カフェに給仕として勤めていたフランシス・ウェストが、夜半過ぎ勤務先からの帰途、アチランド街を歩行中、目撃者の話によれば、猛烈なスピードで疾走してきた黒塗り幌《ほろ》型の自動車が、ふいに歩道ぎわに寄ったかと思うと、車内から十数発の弾丸が発射された。ウェストは八発の弾丸を受けて倒れ、目撃者が駆けつけたときには、すでに死亡していた。死の自動車は直ちにスピードを回復して、バウマン街の角《かど》を曲がり、姿を消した。目撃者の証言がまちまちなので、警察は、当該自動車の捜査に困難を感じている。車中の人物は、一人も確認されていない。
先月のノーマンの奇禍をも目撃したもう一人の弟、ボイド・ウェストの話によれば、フランシスが殺されるような理由は思い当らぬということである。兄には、まったく敵がなかったと語っている。次の週に、フランシス・ウェストと結婚するはずであったベーカー街、一九一七番地、ミス・マリー・シェパードも同様に、自分の婚約者の死を願う人物の名をあげることはできなかった。
先月ノーマン・ウェストを過って轢殺した自動車の運転手、ティモシー・イヴァンズは、市監獄で、過失致死罪の公判を待っているが、新聞記者との会見を拒絶した。
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ネド・ボウモンは、新聞を念入りにゆっくりたたんで、外套のポケットにつっこんだ。くちびるをへの字に歪《ゆが》め、眼は光っていた。そのほかでは、顔に変ったところはなかった。タクシーの片隅によりかかったまま、火のつかない葉巻をもて遊んだ。
自分の部屋に入ると、帽子も外套も脱がずに電話まで行き、四度番号を呼んで、そのつどポウル・マドヴィグの在否を確かめ、心当りの行先を訊ねた。四度目の問い合わせが無駄に終ると、それっきりマドヴィグさがしをあきらめた。
電話を下におろし、テーブルの上にあった葉巻をとり上げ、火をつけてから、またテーブルの縁に置き、もう一度電話をとって、市役所の番号を呼んで、地方検事の事務所に接続を依頼した。待つ間に、足をのばして椅子を引っぱり寄せ、腰をおろして、葉巻を口につっこんだ。
やがて、送話口に向かって、「もしもし、ミスタ・ファーはおられるかね?……ネド・ボウモンだ……そう、すまないが」葉巻の煙りを、ゆっくりと吸いこんで吐き出した。「もしもし、ファー検事ですな?……ほんの二、三分前にもどって来ました……そうです。すぐにお目にかかれますか?……結構です。ポウルは、ウェスト殺しの件で何か言っていましたか?……あの男、どこに行ったか、ご存じありませんかな?……実はその件で、ちょっとお話したいことがありましてね……そうですな、三十分ばかりですかな……
結構でです」
電話を置いて、ドアのそばのテーブルの上の郵便物を見に行った。雑誌が数冊と、手紙が九通あった。封筒にざっと目を通すと、開封もせずにそのまま、またテーブルの上に置いた。寝室に行って着替えをし、それから浴室に入ってひげを剃り、シャワーを浴《あ》びた。
二
地方検事のマイケル・ジョゼフ・ファーは、四十がらみのガッチリした男だった。気の短かそうな血色のよい顔に、髪の毛をまとまりなくボサボサにのばしている。クルミ材のデスクには、電話器と、大きな緑いろの縞《しま》メノウ製のデスク・セットのほかには、なにひとつのっていなかった。デスク・セットには、斜めになった黒と白の日本の万年筆の間に、片足で立って飛行機を高々と差し上げる裸体の金属像が取りつけてあった。
地方検事は、ネド・ボウモンの手を両手で握って、革張りの椅子に、押しつけるようにして坐らせてから、自分の椅子にもどった。うしろにもたれかかって、「どうだったね、旅行は?」愛想のいいまなざしに、さぐるような光がきらめいた。
「うまく行きましたよ」ネド・ボウモンはこたえた。「ところで、フランシス・ウェストの事件ですがね あの男が死んだら、ティモシー・イヴァンズの立場は、どんなことになりますかな?」
ファーはびっくりした。それから、そのギクリとした動作を、椅子の上で坐り心地のいい姿勢になる身じろぎの一部にしてしまった。
「そうだな、どんなことって、べつに大して変わりもあるまいね。つまり、黒が白になってしまうようなことはないだろうさ。もう一人、イヴァンズを確認できる弟が残っているからね」わざとらしく、ネド・ボウモンの顔から目を外《そ》らし、クルミ材のデスクの角《かど》をみつめていた。「なぜだい? なにを考えているんだね?」
ネド・ボウモンのほうでは、自分から目を外らせている相手の顔をじっとみつめた。「いや、ちょっと気になったのでね。しかし、もう一人の弟がティムを確認できて、自分でも確認する気があるのなら、まあ、いいでしょう」
ファーは、まだ眼を上げなかった。「そうとも」自分の椅子をゆっくりと、前後にそれぞれ一インチか二インチばかり、五回か六回ゆすった。肉づきのいい両頬の、口をあけたてする筋肉のあたりが、ピリピリッと痙攣した。咳ばらいをして立ち上がった。こんどは、愛想のよい眼でネド・ボウモンをみつめた。「ちょっと待っていてくれたまえ。仕事に眼を通して来なくてはならんのでね。どうも、連中はうっかり眼を離すと、なんでもかんでも忘れちまうんだよ。行かないでくれよ。デスペインのことで、君と話をしたいからね」
ネド・ボウモンはつぶやいた。「どうぞ、ごゆっくり」地方検事が部屋を出て行くと、腰をおろして、留守の間十五分たっぷり、静かに葉巻をくゆらした。
ファーが、顔をしかめながらもどって来た。「放《ほ》ったらかしてすまなかったね」腰をおろして、「どうにもこうにも、仕事で押しつぶされそうなんだ。こんなことが続くと――」言いかけたことばの続きを、両手をひろげて、処置なしだ、というような|身振り《ジェスチュア》にかえた。
「結構じゃありませんか。テイラー・ヘンリー殺しのことで、なにか新しい事実でもつかめましたか?」
「全然ないね。だからこそ、君に訊いてみたかったのだよ――デスペインのことをね」今度もファーは、ネド・ボウモンの顔をまともには見なかった。
ネド・ボウモンの口の隅が、あざけるような微笑に、ほんの一瞬ゆがんだ。それは、相手には感づかれなかった。「綿密に調べてみると、あの男に不利な事実はたいしてありませんな」
ファーは、自分のデスクの角《かど》に向かって、ゆっくりとうなずいた。「そうかもしれんが、事件の当夜に逃《ず》らかった点は、怪しいともいえるね」
「それは、ほかに理由があったんですよ。充分うなずける理由がね」ネド・ボウモンの顔に、影のような微笑がうかんで消えた。
ファーはなるほどというように、またうなずいて見せた。「すると、あの男が手を下して殺したという可能性はない、と、君はそう考えるんだね?」
「あいつがやったとは思いません」ネド・ボウモンの答えはさり気《げ》なかった。「しかし、可能性がないというわけではないから、お望みなら、しばらく逮捕してみるのもいいでしょうな」
地方検事は、顔をあげてネド・ボウモンを見た。はにかみと親しさとがゴッチャになったような微笑をうかべた。「余計なおせっかいだというかもしれんが、いったいぜんたいどういうわけで、ポウルは君にいいつけて、わざわざニューヨークくんだりまで、バーニー・デスペインを追っかけさせたんだね?」
ネド・ボウモンは、答える前に、ほんのしばらく間をおいた。それから、両方の肩を少し動かした。「いや、ぼくは、言いつかったわけではなく、頼んで行かせて貰ったんですがね」
ファーは、なにもいわなかった。
ネド・ボウモンは、葉巻の煙《けむ》りを肺いっぱい吸いこんで吐き出した。「バーニーのやつ、ぼくの競馬で勝った金をごまかしやがってね。それが、あの野郎のずらかった理由なんでさ。ところが、ぼくが千五百ドル張ったペギー・オトゥールが一番に来たその日の晩に、偶然、テイラー・ヘンリーが殺されるというめぐりあわせになったんですな」
「わかったよ、ネド」地方検事は、あわてたような言いかたをした。「君やポウルがなにをやらかそうと、そんなことはおれにはどうでもいいんだ。ただね、おれは――そう、おれは、デスペインが街のなかでひょっこりヘンリーの御曹司《おんぞうし》と出くわして、ぶん殴ったかどうか、そんなことはなかったかもしれんが、どうも確信がもてなかったのでね。場合によっては保護のために、あの男をしばらく逮捕するようになるかもしれんな」鈍重な感じの受け口がゆがんで、なんとなくへつらうような微笑となった。「このおれが、いらんおせっかいにポウルや君のことに口ばしを入れると思わんで欲しいが――」血色のよい顔が、はれぼったく光っていた。急にからだをかがめて、デスクの抽《ひ》き出しを引っぱりあけた。指先に、紙の音がカサカサと鳴った。手紙が抽き出しから出て来て、デスク越しにネド・ボウモンのほうへ差し出された。その手には、縁《ふち》を切った小さな白い封筒があった。
「こいつなんだがね」冴《さ》えない声だった。「自分で見て、どう思うか言って貰いたい。それとも、ほんのいたずらに過ぎんのだろうか?」
ネド・ボウモンは、封筒を受け取ったが、すぐには見ようとしなかった。今は冷たくギラギラと光る眼を、地方検事の赤ら顔に据えつづけていた。
ファーの顔は、相手の凝視を受けて赤黒くなった。よく肥《こ》えた手をあげて、なだめるような仕ぐさををして見せた。なだめるような声で、「いや、べつに、そんなものを取り上げてとやかくいうつもりはないんだよ、ネド。しかし、事件が起こると、決まってそんなつまらんものがどっさり舞いこむのでね――まあ、よんでみてくれ」
またしばらく間をおいてから、ネド・ボウモンは、視線をファーの顔から封筒にうつした。封筒には宛名がタイプで打ってあった。
市役所内
地方検事 M・J・ファー殿
親展
日付スタンプは、前の土曜日だった。封筒の中には、白い紙が一枚入っていた。その紙には、書き出しの挨拶も署名もなく、三つの文章がタイプしてあった。
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ポウル・マドヴィグは、なぜテイラー・ヘンリーが殺されたのち、かれの帽子を盗んだのか?
テイラー・ヘンリーが殺されたとき、かれのかぶっていた帽子はどうなったのか?
テイラー・ヘンリーの死体の最初の発見者と自称する人物は、なぜ、貴下の部下の一員に加えられたのか?
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ネド・ボウモンは、この書きつけをたたんで、封筒にもどし、デスクの上に落して、親指の爪で、口ひげをまん中から左へ右へとなでつけながら、地方検事の顔をまっすぐ見すえた。抑揚のない声で、「それで?」
ファーの頬のあごを動かす筋肉のあたりが、ピリピリとふるえた。額にしわをよせて、訴えるような顔をした。「おいおい、ネド、おれは、何もそんなものをまじめにとっていやしないよ。なにか起こるといつでも、そんなでたらめ情報が、どっさり集まるんだ。ただちょっと見てもらおうと思っただけなのさ」
「あんたが、そういう気もちでいてくれる限りは、なにもいうことはありませんがね」ネド・ボウモンは、あいかわらず眼をまっすぐにすえていた。声にも抑揚がなかった。
「ポウルには、なにか話しましたか?」
「その手紙のことをかね? いや、話さないよ。今朝、そいつが届いてから、まだ会っていないんだ」
ネド・ボウモンは、デスクの上から封筒をひろい上げて、自分の内ポケットにしまいこんだ。地方検事は、手紙が相手のポケットに納まるのを見まもりながら、片づかないような面《おも》もちだったが、べつになんともいわなかった。
ネド・ボウモンは、手紙をしまい終ると、今度はべつのポケットから、細いまだらの葉巻をとり出した。「ぼくがあんただったら、なにもいわずに黙っているでしょうな。もういい加減、気にかけていますからな」
ファーは、相手のことばが終らないうちに、おっかぶせるように、「そりゃそうだ。君の言う通りだよ、ネド」
それからしばらくは、二人とも口をきかずにいた。その間ファーは、またデスクの角《かど》を見すえていた。やがて、地方検事のデスクの下から、やわらかなブザーの音が聞こえてきて、沈黙のひとしきりにピリオドを打った。
ファーは受話器をとり上げた。「うん、そうだ……うん」うけ口の下くちびるが、上くちびるに押しつけられて反《そ》りかえった。血色のいい顔に斑点があらわれた。「なんだと? はっきりせんというのか?」吠えるような声になった。「その野郎を連れて来て、あいつと突きあわせてみるんだ。それでもわからんといいやがったら、ひと責め、責めてやろう……うん……やってみろ」受話器をかけ金《がね》にたたきつけて、ネド・ボウモンをにらみつけた。
ネド・ボウモンは、葉巻に火をつける動作を途中でやめていた。片手には葉巻があった。もう一ぽうの手には、火のついたライターがあった。その両手の間から、顔を少し突き出すようにしていた。眼がきらめいた。くちびるの間から、舌の先を出して引っこめ、感情とはかけ離れた微笑をうかべた。「ニュースですか?」押しつけがましい低い声だった。
地方検事の声は、あらあらしかった。「イヴァンズを確認したもう一人の弟のボイド・ウェストだ。君と話しているうちに思いついて、あの男が今でも確認できるかどうか、人をやって確かめさせた。はっきりしないといいやがる。とんでもない野郎だ」
ネド・ボウモンは、思いがけないニュースでもなかったような顔でうなずいて見せた。「すると、どんなことになりますかな?」
「そんな手が抜け抜けと押し通せるもんか」ファーは、吠《ほ》え立てた。「いったん確認したからには、陪審《ばいしん》の前に出てから前言をひるがえすわけにはいかん。今連れて来させるから、少し痛い目に合わせてやれば、いい子になるだろう」
「そうですかな? もしいうことをきかなかったら?」
地方検事のデスクは、地方検事のたたきつけた拳固《げんこ》の下でガタガタと震えた。「なにがなんでも、いうことをきかせてやるんだ」
ネド・ボウモンは、ビクともしない平気な顔だった。葉巻に火をつけ、ライターを消してポケットにしまい、煙りを吐き出し、面白そうな口調で、おだやかに、「そりゃあ、きくでしょう。しかし、万一きかなかったとしたら? ティムの顔を見て、『この男だったかどうか、はっきりしない』といったらどうします?」
ファーは、また自分のデスクをなぐりつけた。「そんなことが言えるもんか――おれの手にかかった以上、言えるもんか――陪審の前に立って、『この男です』とそう言うよりほか、なにがやれるもんか」
ネド・ボウモンの顔から、面白そうな表情が消えた。気の乗らない声で、「あの男は、確認を取り消そうとしています。それは、あんたにもわかっているはずだ。そうなったら、どうします? あんたには打つ手がありますまい。ありますかね? そうなったら、せっかくのティム・イヴァンズに対する訴因《そいん》も台無しです。なるほど、現場には酒を満載したトラックが発見された。しかし、その車がノーマン・ウェストを轢《ひ》き倒したときに運転していたのがあの男だという証拠は、被害者の二人の弟の証言のほかには、なにひとつない。そこでフランシスが殺され、ボイドが証言を拒んだとしたら、あんたの訴因は、あとかたもなくなってしまう。あんたは、それを知っておられる」
「このおれが、地べたに膝まずいて――」ファーは、怒りに燃えた大声でいいかけた。
しかし、ネド・ボウモンは、葉巻をもった手を性急に動かしてさえぎった。「膝まずこうが、立とうが、自転車に乗ろうが、あんたの負けですよ。それをあんたは知っている」
「おれの負けだと? おれは、この市とカウンティの地方検事だ。おれが――」ふいに、ファーのどなり声はとだえた。咳ばらいをして、つばをのみこんだ。眼から猛《た》けだけしさが消えて、先ず混乱が、それから、恐怖に近い表情があらわれた。デスクの上に乗り出すような姿勢になった。赤らんだ顔には、露骨すぎるほどの不安がまざまざとうかんで来た。「むろん、そんなことは、百も承知だろうが、もし君が――いや、もし、ポウルが――つまり、その、おれにそうしなきゃならん理由があるんだったら……いいかね、このまま放《ほ》ったらかしにしといたっていいんだぜ」
ネド・ボウモンのくちびるの端《はし》っこがもち上がって、また内心の感情とはなんの関係もない微笑がうかんだ。葉巻の煙りの向こうで、眼がキラキラと光った。ゆっくりと頭を振って気もちの悪いほど甘ったるい声で、ゆっくりと、「いや、理由とかなんとか、そういったようなものはありませんな。いかにもポウルは、選挙が終ったらイヴァンズを保釈して出獄させることを約束しました。しかし、嘘のような話だが、ポウルって男は、人を殺させたりしたことのない人間でね。かりにあの男がやったとしても、イヴァンズは、人の生命《いのち》ととっかえっこしなきゃならんほど大事な人物ではありませんよ。いずれにしろ、理由などありっこないし、あんたが、そのありもしない理由だかなんだかを、うさん臭《くさ》そうにさがしまわるなんてことは、まっぴらご免でさあ」
「ご生《しょう》だから、ネド、そんなにひねくれないでくれ。君だってこの町で、ポウルや君のことを、おれくらい一生懸命思っている人間のいないことは、よく知っているはずじゃないか。そこをわかってくれなきゃ困るよ。いつでも、このおれを当てにしていてくれれば大丈夫だって、おれの言ったのもそれだけのことでしかないんだ」
「結構ですな」ネド・ボウモンは、たいして気もなさそうにこたえて立ち上がった。
ファーは椅子を立って、赤らんだ手を差し出しながら、デスクをまわって来た。「なぜ、そんなに急ぐんだね? ゆっくりして、ウェストのやつが、ここにやって来てどんな振りをするか、見物して行ったっていいじゃないか。それとも」――自分の時計をのぞいて見て――「今晩はどうするね? おれと晩めしをいっしょにやらんかね?」
「せっかくですが、ほうぼう走りまわらなきゃならんのでね」
ネド・ボウモンは、地方検事が、しょっちゅう寄ってくれなきゃいかん、そのうち、晩めしをいっしょにやろうと、しつこく繰りかえすのに、「そうしましょう」と答え、相手の堪能《たんのう》するだけ、にぎられた手を上下に振らせてから立ち去った。
三
ウォルター・イヴァンズは、職長としてつとめている製函工場の、打釘機《だしんき》を運転する行員の列のかたわらに立っていた。すぐにネド・ボウモンをみとめ、手を上げて振りながら中央の通路をやって来たが、イヴァンズの青磁色の眼と、まるい色白の顔は、見せかけようと努めているほど嬉しそうでもなかった。
「よう、ウォルト」ネド・ボウモンは、すぐに入口のほうに向きを変えて、相手の差し出した手を握ったり、わざとらしく無視したりする煩《わずら》わしさを避けた。「ここはうるさいから、外に出よう」
イヴァンズがなにか言ったが、板に釘を打ちこむ金属的な騒音にかき消された。二人は、ネド・ボウモンの入って来た戸口のほうへ行った。外は頑丈な材木でつくった、幅のひろい露台だった。そこから地面まで、二十フィートばかりの木の階段が降りていた。
露台に出ると、ネド・ボウモンが訊ねた。「君の弟を起訴した側の証人の一人が、昨夜殺《ゆうべや》られたのを知っているか?」
「うん、し、し、しんぶんで見たよ」
「もう一人の証人が、今になって、ティムを確認できるかどうか自信がないといっていることも知っているかね?」
「いや、そ、そ、それは知らないよ、ネ、ネ、ネド」
「そいつが証言しなければ、ティムは釈放されることになるぜ」
「うん、そ、そ、そうだな」
「それにしては、あまり嬉しそうな顔をしないね?」
イヴァンズは、シャツの袖で額を拭《ふ》いた。「でも、おれは、う、う、うれしいよ、ネ、ネ、ネド。ほ、ほ、ほんとに、う、う、うれしいんだ」
「君は、ウェストを知っていたのか? 殺《や》られたほうの」
「いや、ティムのことを、て、て、てかげんしてくれ、と、た、た、たのみに行ったとき、い、い、いちど会ったきりだ」
「なんて言ったね?」
「い、い、いいやだといいやがった」
「いつのことだ?」
イヴァンズは、足を踏みかえて、またシャツの袖で顔を拭いた。「ふ、ふ、ふつかか、み、み、みっか前だ」
「どうだね、ウォルト、あいつを誰が殺《や》ったか、心当りでもないかな?」ネド・ボウモンは、やさしく訊ねた。
イヴァンズは、頭をはげしく振った。
「じゃあ、誰があいつを殺させたかの心当りは?」
イヴァンズは、頭を振った。
ネド・ボウモンは、しばらくの間、考えこむようにイヴァンズの頭の上あたりをみつめていた。十フィート離れた戸口から、打釘機のやかましい音がきこえた。べつの階からは、機械|鋸《のこ》のうなり声がきこえた。イヴァンズは、深い息を吸いこんで吐き出した。
ネド・ボウモンが、視線を背の低い相手の青磁色の眼に移したころには、その態度には思いやりがあった。少し前かがみになって、「君のほうは大丈夫かね、ウォルト、つまり、君が弟を助けるために、ウェストを射ったのかもしれんと思うやつらが出て来そうだが、君は――」
「お、お、おれは、ゆうべ、八時から、あ、あ、あさの二時まで、ずっと、ク、ク、クラブにいたよ」ウォルター・イヴァンズは、どもりながらも、できるだけ早く口を動かした。
「ハ、ハ、ハリー・スロッスと、ベ、ベ、ベン・フェリスと、そ、そ、それから、ブラガに訊いてみてくれ」
ネド・ボウモンは、笑い出した。「そいつは運がよかったな、ウォルト」明るい声だった。
そのまま、ウォルター・イヴァンズに背を向けて、木の階段を通りまでおりた。ウォルター・イヴァンズが愛想よく、「さよなら、ネド」と挨拶したのに、振り向きもしなかった。
四
ネド・ボウモンは、製函工場から四ブロック歩いて、料理店に入り、電話を借りた。同じ日のもっと早くにかけた四つの番号を、順々に呼び出して、またポウル・マドヴィグの在否を訊ね、いないのがわかると、その度に、来たら電話するようにと伝言を頼んだ。それからタクシーを拾って、家に帰った。
ドアのそばのテーブルの上には、郵便物がもっとふえていた。帽子と外套を釘にかけ、葉巻に火をつけて、郵便物もろとも、一番大きな赤ビロード張りの椅子に腰をおろした。四番目に封を切った封筒は、地方検事から見せてもらったのと同じだった。中には、書き出しの挨拶も署名もなしに、三つの文章のタイプしてある紙きれが一枚だけ入っていた。
[#ここから1字下げ]
君は、テイラー・ヘンリーが殺されてから、かれの死体を発見したのか、それとも、殺されたときに、その現場に居合わせたのか?
君はなぜ、警察が死体を発見するまで、かれの死を知らせなかったのか?
君は、無実の人間に、犯罪の証拠を押しつけて、真の犯人を救うことができると考えているのか?
[#ここで字下げ終わり]
ネド・ボウモンは、この手紙を前にして眼を細め、額にしわをよせ、葉巻の残りを深く吸いこんだ。地方検事の受け取った手紙とくらべてみた。紙もタイプも、それぞれ三つの文章をならべたその並べかたも、スタンプの日付も同じだった。
顔をしかめたまま、それぞれの紙きれを封筒におさめ、いっしょにポケットにしまったが、すぐにまたとり出して読みなおし、調べなおした。葉巻は、あまり早くふかし過ぎたので、いっぽうの側だけが、不規則に片燃えした。その葉巻を、まずそうに顔をゆがめながらテーブルの縁《ふち》におき、神経質な指先で口ひげをつまんだ。手紙をもう一度しまって、椅子の背にもたれかかり、天井をにらみつけて、爪を噛んだ。指で髪の毛をかき上げた。指をカラーと首すじとの間に突っこんだ。坐りなおして、またまたポケットから封筒をとりだしが、見もしないで元にもどし、下くちびるを噛みしめた。最後にせっかちに身ぶるいして、残りの郵便物を読み進んでいるところへ、電話のベルが鳴った。
電話のところへ行った。「もしもし……やあ、ポウルか。どこにいるんだね?……いつまでそこにいる?……そうか、それがいい。途中で寄ってもらおう……わかった。待っている」
また郵便物にもどった。
五
通りを越した向かい側の灰いろの教会で、お告げを知らせる鐘が鳴っているとき、ポウル・マドヴィグがネド・ボウモンの部屋にやって来た。「どうしたい、ネド? いつ帰って来たんだね?」大きなからだは、灰いろのツウィードの服に包まれていた。
「今朝遅くだ」ネド・ボウモンは、握手を交わしながら答えた。
「首尾は上々かな?」
ネド・ボウモンは、満ち足りた微笑をうかべて、歯の先を見せた。「まずまず、追っかけて行っただけのことはあったね」
「それはよかった」マドヴィグは、帽子を椅子の上にほうり投げて、暖炉のそばのべつの椅子に腰をおろした。
ネド・ボウモンは、自分の椅子にもどった。「おれの留守の間に、なにかあったかね?」訊ねながら、肘《ひじ》のところのテーブルにのっている銀のシェーカーとならんだ、半分中身の入っているカクテルグラスをとり上げた。
「うん、下水工事の契約のゴタゴタを片づけたよ」
ネド・ボウモンは、カクテルをひとすすりして、「うんと値引きしなきゃならんのか?」
「とてものことじゃないんだ。当然もらっていい利益なんてものも出せそうにないが、それでも、選挙間近に厄介な騒ぎを起こして、危ない橋をわたるよりはましだからな。来年、サレム街とチェスナット街の延長工事で、タンマリもうけさせてもらうよ」
ネド・ボウモンはうなずいた。うなずきながら、金髪男の前にのばして重ねた脚のくるぶしをみつめていた。「ツウィード地の服には、絹の靴下はいかんね」
マドヴィグは片脚を空に上げて、くるぶしに眼をやった。「そうかな? おれは、絹の感触が好きなんだが」
「そんなら、ツウィードをよすんだな。テイラー・ヘンリーの葬式はすんだのか?」
「金曜日だった」
「葬式に出たかね?」
「出たよ」それから、いいわけのように、「上院議員《セネタ》の先生が、出たほうがいいというもんでね」
ネド・ボウモンは、グラスをテーブルの上におろして、胸のポケットから出した白いハンカチーフでくちびるをおさえた。「その上院議員殿は、どんな具合だね?」流し目に金髪男を見やって、その眼のからかうような表情を隠しもしなかった。
「相変わらずだよ」なんとなく照れたように、「今日も、午後はほとんどずっといっしょだったんだがね」
「先生の家で?」
「う、ふ」
「例の金髪の危険物はいたかね?」
マドヴィグはその冗談に、たいしていやな顔もしなかった。「ジャネットならいたよ」
ネド・ボウモンは、ハンカチーフをしまいこんで、のどの奥がつまったようにガーガーと音を立てた。「ほほう、もうジャネットと、洗礼名を呼ぶようになったのか。で、どのへんまで進んだのかね?」
マドヴィグは、落ち着きをとりもどした。平板な口調で、「今でも、おれは結婚しようと思っているんだがね」
「かの女はその、なんというか――あんたの意図が純粋なものだってことを承知しているのかね?」
「おいおい、止《や》めてくれ、ネド! いつまでこのおれを、法廷に立たされた証人扱いするんだよ?」
ネド・ボウモンは笑い出した。銀製のシェーカーをとり上げて、自分のグラスに注ぎ足した。「ところで、フランシス・ウェスト殺しの一件をどう思うね?」グラスを手にして、自分の椅子にもどった。
マドヴィグは、しばらく解《げ》しかねる様子だった。それから、パッと顔を明るくして、「ああ、昨夜、アチランド街で射たれた男のことか」
「そう、その男だ」
マドヴィグの青い眼に、かすかな当惑の色がもどって来た。「さあて、おれは、その男を知らんのでね」
「ウォルター・イヴァンズの弟を起訴した検事側の証人の一人だったやつだ。ところで、もう一人の証人のボイド・ウェストが証言を尻ごみしているから、一切はご破算《はさん》ということになるんだがね」
「ほう、そいつは好都合じゃないか」しかし、その最後のことばが口から出ないうちに、マドヴィグの眼には、不審の色があらわれた。両脚を引っこめて、からだを前に乗り出した。「証言を尻ごみしているって?」
「うん、なんなら脅《おび》えているといってもいいがね」
マドヴィグの顔が、キッと引きしまった。眼は、冷たい青い円盤となった。「ネド、いったいなにを言おうとしているんだ?」鋭い声だった。
ネド・ボウモンは、自分のグラスを空《から》にして、テーブルの上に置いた。「あんたが、ウォルター・イヴァンズに、選挙が片づくまでは、ティムを娑婆《しゃば》に出してやるわけに行かんと、そういったもんだから、あいつ、シャド・オロリーに話をもちこんだ」暗誦《あんしょう》でもするように、ゆっくりと抑揚のない言いかただった。「そこで、シャドは、身内の三下《さんした》にいい含めて、ウェスト兄弟がティムに不利な証言をしないように脅迫させた。兄弟のうちの一人は、いうことをきこうとしなかったので、闇打ちにあって殺された」
マドヴィグは眉をしかめて、とがめるように、「ティム・イヴァンズのいざこざに、なんでまたシャドが、よけいな口出しをするんだ?」
ネド・ボウモンは、カクテル・シェーカーに手をのばしながら、かんを立てたように、「もういいよ。そんなことじゃないかなと、見当をつけてみただけだ。気にするな」
「よしてくれ、ネド。当てずっぽうでもなんでも、おれが聞き捨てにするわけに行かんことはよくわかっているじゃないか。なにか考えていることがあるのなら、思いきりよく吐き出しちまうんだな」
ネド・ボウモンは、酒を注がないままのシェーカーを下に置いた。「いかにも当てずっぽうかもしれんが、おれにはそんなふうに思えるんだ。ウォルト・イヴァンズが、第三区であんたのために走りまわっていることや、クラブのメンバーだってこと、それに、あの男が自分で頼めば、あんたが、あいつの弟の保釈のためにひと肌《はだ》脱ぐだろうってことは、どこの誰でもよく知っている。そこでだ、その誰でもが、さもなければ、どっさりの人間が、あの男の弟に不利な証言をする証人を殺したり、脅かして黙らせたりさせたのが、あんたじゃないかと考えはじめている。あんたの近ごろしきりにこわがっている婦人団体や、ちゃんとした市民など、外部の人たちがそれだ。事情をよく知っている連中――たとえあんたのやったことだったとしても、たいして気にかけない連中は、いずれ、真相に近いニュースを手に入れることになる。その連中は、あんたの手下の一人が話をつけるために、よんどころなくシャドを頼って行き、シャドがその話をつけたということを嗅ぎつける。それは、シャドの思うつぼなんだ――あんたは、シャドが、あんたをおとし穴に落とすために、そこまでやるとは思わんかね?」
マドヴィグは、歯を喰いしばって唸るような声を出した。「思うも思わんも、あのクソ野郎のやりそうなことだ」
苦《にが》い顔で、足もとの敷物に織り出された緑色の葉模様をにらみつけた。
ネド・ボウモンは、金髪男の顔をじっとみつめてからまたつづけた。「もうひとつべつの見かたもあるんだ。そんなことにはならんかもしれんが、シャドがその気になれば、あんたは、マンマと引っかけられるぜ」
マドヴィグは顔を上げた。「どんなことだ」
「ゆうべ、ウォルト・イヴァンズは、夜なかの二時までずっとクラブにいた。選挙の日の晩とか、宴会でもないかぎり、あいつはいつも十一時前に引き上げる。今までにないことだ。わかるかね? やつはクラブで、自分のアリバイを作ろうとしていたのだ。いいか」ネド・ボウモンの声は低くなった。暗い眼が、まるく重々しくなった――「シャドが、ウェスト殺しの証拠をしかけて、ウォルトをその筋に売りこみにかかったとしたらどうだ? あんたの苦手の婦人団体や、なにかにつけて難くせをつけたがってウズウズしている連中は、さっそくウォルトのアリバイはインチキだといい出すぜ。やつをかばうために、おれたちでこしらえ上げたアリバイだとね」
「きたねえ野郎だ」マドヴィグは立ち上がって、両手をズボンのポケットに突っこんだ。「ああ、選挙なんてものが、もうすんじまっているか、もっとずっと先のことだったらなあ」
「そうだったら、こんなことにならなかったろうね」
マドヴィグは、部屋のまん中のほうへ、ふた足歩いた。「こん畜生」とつぶやいて、寝室のドアのわきの電話をにらみつけた。大きな胸が、息づかいといっしょに上下した。ネド・ボウモンから眼をそらしたまま、口のへりから、「そういう真似をやらせないためには、どういう手を打つか?」また電話のほうへひと足踏み出して、立ちどまった。「なあに、わけはない」ネド・ボウモンに向き直って、「おれは、シャドをこの町からたたき出してやる。あの野郎にウロウロされるのにはうんざりした。今晩からかかって、すぐに追い出してやる」
「たとえば?」
マドヴィグは、ニヤリと白い歯を見せた。
「たとえば、ドグ・ハウス、パラダイス・ガーデンなど、シャド一味の息のかかっている闇酒場を、一軒のこさず閉鎖させてやるんだ。今晩にでも、レイニーにいって、片っぱしから臨検をやらせることにしよう」
「そんなことをしたら」――少し口ごもりながら――「レイニーは困った立場に追いこまれるぜ。この土地の警察の連中は、禁酒法関係の取りしまりなど、やりつけておらんからね。大して気乗りもせんだろうよ」
「一度ぐらいやらせたからって、恩を売られるようなこともあるまい」
「そうかもしれんな」ネド・ボウモンの顔にも声にも、まだ釈然としない影があった。「しかし、そういう根こそぎ戦術は、道具をうまく使えばこっそり開けられる金庫の扉を、わざわざ機関銃をもち出して、大げさにぶちこわすみたいなもんだ」
「君は、胸になにか一物《いちもつ》あるんだな、ネド?」
ネド・ボウモンは頭を振った。「べつにそんなものはありゃしないが、二日やそこら待ってみたって、どうってこともないだろうし――」
こんどは、マドヴィグが、頭を振った。「いや、おれは、ぐずぐずしてはおられんたちだ。金庫の開けかたなどは、これっぽちも知らんが、この両手を使って、おれなりに戦うことなら知っている。ボクシングを習うチャンスはなかったし、たった一ぺんやったときには、みごとに負けちまった。ひとつ、オロリー殿には、猛烈なやつをお見舞いすることにしよう」
六
ロイド眼鏡の筋ばった男が、口を出した。「だから、なにもそんなことを心配するには当たらんよ」その男は、ゆったりと椅子におさまっていた。
左隣りの男――茶いろのボサボサの口ひげを生やしているくせに、頭にはあまりたんと毛のない、やせこけた男――が、さらに左隣りの男に話しかけた。「おれには、それほど楽観もできないような気がするがね」
「楽観できないって?」筋ばった男は、眼鏡ごしに、やせこけた男をにらみつけた。「しかし、なにもポウルがわざわざ自分でおれの区までやってくることは要《い》らんよ」
やせこけた男は、「馬鹿いうな!」
マドヴィグが、やせこけた男に、「パーカーに会ったかね、グリーン?」
グリーンが、「うん、会った。五つだといっているが、もう二つばかりよけいに出させることができそうだ」
眼鏡の男が、けいべつするように、「そうら見ろ、おれの思った通りだ!」
グリーンは、横眼づかいにせせら笑った。「ふん、それだけでも出すやつがほかにあるかね?」
幅のひろいオーク材のドアに、ノックが三つ聞こえた。
ネド・ボウモンが、またがっていた椅子から立ち上がって、ドアまで行った。ドアを、一フット足らず開けた。
ノックをしたのは、くたびれた青い服を着た、額のせまい、色の浅黒い男だった。部屋に入ろうとせず、低い声で話そうとしたが、興奮しているので、その言葉は部屋にいるみんなに聞こえた。「階下に、シャド・オロリーが来ている。ポウルに会いたいそうだ」
ネド・ボウモンはドアをしめて、ポウル・マドヴィグをふりかえった。部屋にいた十人の男たちの中で、額のせまい男の言葉に動揺の色を見せないのは、ネド・ボウモンとポウルの二人だけのようだった。ほかの連中も、びっくりしたような顔をあらわには見せなかったが――みんなの顔がふいにこわばったことから、それを見てとれないこともないが――それまでと変わらない落ち着いた呼吸をしているものは一人もなかった。
ネド・ボウモンは、繰りかえす必要もないことを素知らぬ気に、ほどほどの興味を口調にあらわしながら、「オロリーがあんたに会いたいといって、階下《した》に来ているそうだ」
マドヴィグは、時計をのぞいて見た。「今忙しいが、しばらく待ってくれるならば会おうと、そういってもらおう」
ネド・ボウモンはうなずいて、ドアを開けた。ノックをした男に向かって、「ポウルは、今いそがしいが、しばらく待っていてくれれば会うといってくれ」と指図してドアをしめた。
マドヴィグは、四角な顔をした、黄いろっぽい男に、チェスナット街の向う側で、もっと票を集めるわけには行かないかと訊《たず》ねていた。四角な顔をした男は、この前のときよりは、「ウンとどっさり」集められると思うが、まだまだ、反対派への喰いこみが足りないと答えた。その男の眼は、話しながらも、絶えずドアのほうへ行きがちだった。
ネド・ボウモンは、窓のそばの椅子にまたがって、葉巻をふかした。
マドヴィグは、べつの相手に、ハートウィックという名の男から、どの程度の応援を期待できるかというようなことを訊ねた。相手の男は、ドアに眼をやらないようにしていたが、返答にはトンチンカンなところがあった。
マドヴィグとネド・ボウモンの、落ち着きはらった、選挙問題以外のことにかまけない態度も、部屋の中の空気に緊張が高まって来るのを、どうしようもなかった。
十五分たつと、マドヴィグは立ち上がった。「おれたち、まだ楽観するわけには行かんが、なんとか形だけはできたようだな。一生懸命がんばれば、乗り切れそうだ」ドアまで行って、帰る連中一人一人の手を握った。みんなは、なんとなく追いたてられるようにせかせかと出て行った。
部屋に二人きりになると、椅子から立ち上がらずにいたネド・ボウモンが、マドヴィグに訊いた。「おれは、ぐずぐずしていようか、それとも退散しようか?」
「ここにいてくれ」マドヴィグは、窓のところに行って、日当りのいいチャイナ街を見おろした。
しばらくしてから、ネド・ボウモンがまた訊ねた。「両手を使うことになるかね?」
マドヴィグはうなずきながら、窓からふりかえった。
「どんなことになるかわからんが」――椅子にまたがっている男に、子供っぽくニヤリとして見せて――「足まで使うことになるかもしれんよ」
ネド・ボウモンは、なにか言いかけたが、ドアの握りをまわす音にさえぎられた。
ドアがあいて、一人の男が入ってきた。平均よりも少し背が高く、かえって弱々しさを感じさせるほどキチンとしたからだつきの男だった。髪の毛は、みごとに真っ白になっているが、齢は、三十五そこそこらしかった。いくぶん細長い、しかし、彫《ほ》りの深い整った顔に、目立つほど澄んだ灰青色の眼をしていた。濃青色の服に、濃青色の外套を着て、黒手袋をはめた手に、黒の山高帽をもっていた。
あとからもう一人、同じぐらいの背丈の、見るからにならず者らしいガニ股の男が入って来た。大きななで肩や、長すぎるような太い腕や、平べったい顔に、なんとなく猿を思わせる、色の黒い男だった。この男の帽子――灰色の中折帽――は、頭にのっかっていた。格子じまの外套のポケットに、両手を突っこんだまま、しめたドアによりかかった。
はじめの男は、四歩か五歩、部屋の中のほうに進んで、帽子を椅子の上に置き、手袋をぬぎはじめた。
マドヴィグは、両手をズボンのポケットに入れて、愛想よく笑顔を見せた。「どうだね、シャド?」
白髪《しらが》の男は、音楽的なバリトーンだった。「元気だよ、ポウル。君のほうは?」かすかにアイルランドなまりがあった。
マドヴィグは、頭を少し椅子のほうにしゃくって見せた。
「ボウモンは知っているね?」
「うん、知っている」オロリーが答えた。
「うん、知っている」ネド・ボウモンが答えた。
二人とも、お互いに会釈はしなかった。ネド・ボウモンは、椅子から立ち上がりもしなかった。
シャド・オロリーは、手袋をぬぎ終っていた。それを外套のポケットにしまって、「政治は政治、仕事は仕事だ。おれは、出すだけの金は出して来た。これからも、出して行くつもりだが、金を出しただけのことはしてもらいたい」そのやわらかな声には、上機嫌な熱心さ以外のものはなかった。
「それは、どういうことだね?」たいして気にもかけていないような訊《き》かただった。
「つまり、この町の警官の半分は、おれや、おれの仲間から捲《ま》き上げた金《かね》で、菓子を喰ったり、ビールを飲んだりしているってことだ」
マドヴィグは、テーブルのそばに腰をおろした。「それで?」相変わらずむとんちゃくな様子だった。
「金を出しただけのことは、こっちにもしてもらいたいんだ。おれは、よけいな手出しをせずに放ったらかしといてもらうために、金を出している。おれのことは、放ったらかしといてもらいたい」
マドヴィグは、クックッとのどを鳴らした。「要するに、せっかく金を出しているのに、警官が思い通りになってくれん、と、そう不平をいっているんだな?」
「ゆうべ、ドゥーランにきいたところでは、おれの店の閉鎖命令は、君からじかに出たということなんだがね」
マドヴィグは、またのどをクックッと鳴らして、ネド・ボウモンをふりかえった。「君はどう思うかね、ネド?」
ネド・ボウモンは、かすかな微笑をうかべたが、なにもいわなかった。
マドヴィグが、「おれがどう思っているかは、いわなくてもわかっているだろう? ドゥーラン警部は、ずいぶん根《こん》をつめて働いた。いい加減骨休めの休暇をもらってもいいころだからね。それを忘れるおれでもないよ」
オロリーが、「おれは、よけいなおせっかいをしてもらいたくないから、金を出した。出したからには、それだけのことはやってほしい。仕事は仕事、政治は政治だ。はっきり区別しようじゃないか」
「そういうわけにも行かんよ」
シャド・オロリーの青い眼は、夢を見るように、遠いところに焦点を合わせた。悲しげな微笑がもれた。いくぶんアイルランドなまりのある音楽的な声にも、悲しげなひびきがあった。「それでは、血の雨がふることになるぜ」
マドヴィグの青い眼は不透明だった。声からも、眼からも、感情は読みとれなかった。「それは君の出かた次第だよ」
白髪頭の男はうなずいた。「どうしたって、血の雨がふることになる」もっと悲しげに、「おれだって、もう一人前の大人《おとな》だから、そう君のいいなりにはなっていないよ」
マドヴィグは、椅子のうしろにもたれかかって、両脚を組み合わせた。「そう、君も一人前だから、おめおめと引き退《さ》がるわけにもいかんだろうが」――そのいいかたには、少し重みが加わった――「いずれ、おれのいいなりになるよ」くちびるをすぼめて見せて、あとから思いついたように、「すでになっているよ」
シャド・オロリーの眼から、見る見るうちに、夢心地と悲しみとが消え去った。黒い帽子を頭にのせた。外套の襟を首すじに合わせた。長い白い指をマドヴィグに突きつけた。「おれは今晩、ドグ・ハウスを再開して見せる。邪魔はしてもらいたくない。邪魔をしたら、おれのほうにも考えがある」
マドヴィグは、組み合わせた脚をほぐして、テーブルの上の電話に手をのばした。警察部の番号をいって、部長を呼び出した。「レイニーだね……うん、結構だ。君のほうはどうだね?……それはいい。ときにレイニー、シャドが、今晩、店を再開するつもりだそうだが……うん……そう、こっぴどくやっつけてやれ……その通り……そうだ。さようなら」電話を押しもどして、オロリーに話しかけた。「さあ、これで君の立場がわかっただろう? シャド、君はもう駄目さ。この土地では、永久に駄目さ」
オロリーは、おとなしく、「わかったよ」とこたえて、向き直り、ドアをあけて出て行った。
ガニまたのならず者は、敷物の上にわざと――ペッとつばを吐き、マドヴィグとネド・ボウモンを、いどみかかるような眼でにらみつけた。それから出て行った。
ネド・ボウモンは、ハンカチーフで手のひらを拭いた。マドヴィグが物問いたげな眼を向けたが、黙っていた。ネド・ボウモンの眼は陰気だった。
しばらく間をおいて、マドヴィグが訊いた。「どうだね?」
「よくないな、ポウル」
マドヴィグは、立ち上がって、窓ぎわに行った。「やれやれ! 君には、どんなことだって、お気に召さないんだね?」
ネド・ボウモンは椅子から立って、ドアのほうに行った。
マドヴィグが、窓からふりかえった。怒ったように、「またなにか馬鹿なまねをやらかそうというのか?」
「うん」ネド・ボウモンは、部屋を出た。階下におりて、帽子を受けとり、ログ・ケビン・クラブを立ち去った。鉄道の駅まで、七ブロックを歩き、ニューヨークまでの乗車券を買い、夜の列車に座席をとった。それから、タクシーを拾って、自分のアパートに帰った。
七
ネド・ボウモンが指図《さしず》して、灰色の服を着た、ズングリと不恰好な女と、よく肥った大人になりかけの少年とに、トランクと、三個の革鞄とに、身のまわりのものを詰めこませているところへ、ドアのベルが鳴った。
膝まずいていた女が、ドッコイショと声を出しながら立ち上がって、ドアのところに行った。ドアを大きくあけた。「おやまあ、マドヴィグさま。さあ、どうぞ、お入り下さい」
マドヴィグが、しゃべりながら入って来た。「やあ、デュヴェーンさん。あんたは、毎日若くなるみたいだね」視線は、トランクから鞄、少年へと移って行った。「よう、チャーリー。コンクリート・ミキサーを運転する仕事は、いつからはじめてもいいかね?」
少年は、はにかんだように白い歯を見せた。「今日は、マドヴィグさん」
マドヴィグの笑顔が、ネド・ボウモンに向けられた。「旅に出るのかね?」
ネド・ボウモンも、愛想よく微笑をうかべた。「うん」
金髪男は、部屋の中を見まわして、鞄、トランク、椅子の上に積み重ねた衣類、そしてあけっぱなしの抽き出しに眼をとめた。女と少年とは、仕事にもどった。ネド・ボウモンは、椅子の上の積み重なりから、少し色のあせたシャツを二つ見つけて、それをわきへのけた。
マドヴィグが訊ねた。「三十分ばかりひまが作れるかね、ネド?」
「ひまはいくらだってあるよ」
「帽子をとって来たまえ」
ネド・ボウモンは帽子と外套をとって来た。「できるだけどっさり詰めこんでくれ」マドヴィグと連れ立って、ドアのほうに行きながら、女にいいつけた。「入りきらんやつは、ほかのものといっしょに送らせればいい」
二人は階下《した》におりて、街《まち》に出た。南へ一ブロック歩いた。マドヴィグが、「どこに行くんだね?」
「ニューヨークだ」
とある横町に入りこんだ。
マドヴィグが訊ねた。「帰って来ないのか?」
ネド・ボウモンは、肩をすぼめて見せた。「この土地から足を洗うつもりなんだがね」
赤れんがづくりの建物のうしろ壁にある緑色の木のドアをあけて、通路を行き、もうひとつのドアを抜けると、五、六人の男たちの飲んでいる酒場だった。二人は、バーテンダーと、客の中の三人とに会釈を交わしながら、テーブルの四つもある小さな部屋に入った。そこには誰もいなかった。二人は、テーブルの一つに向かって腰をおろした。
バーテンダーが、頭をのぞかせて訊ねた。「いつもの通り、ビールですかい?」
マドヴィグが、「そうだ」とこたえた。バーテンダーが行ってしまうと、「足を洗うというのはなぜだね?」
ネド・ボウモンが答えた。「このちっぽけな町にあきあきしたんだ」
「おれのことかね?」
ネド・ボウモンは、なにもいわなかった。
マドヴィグも、しばらく黙っていた。やがて、ためいきをついて、「こんな時におれを捨てるというのは、ひどい仕打ちだな」
バーテンダーが、ビールのジョッキを二つと、つまみ物をひと皿はこんで来た。また出て行って、ドアがしまると、マドヴィグは大きな声を出した。「やれやれ、まったく君はつき合いにくい人間だよ!」
ネド・ボウモンは、肩をゆすった。「そうでないといった覚えはないがね」ジョッキをとり上げて飲んだ。
マドヴィグは、|つまみ物《プレッツェル》を小さく割っていた。「どうしても行ってしまうつもりかね、ネド?」
「おれは行くよ」
マドヴィグは、|つまみ物《プレッツェル》のかけらを、テーブルの上に落して、ポケットから小切手帳をとり出した。一枚裂きとってべつのポケットから万年筆を出し、金額を書きこんだ。その小切手をヒラヒラと振って、インクを乾かし、ネド・ボウモンの前のテーブルの上においた。
ネド・ボウモンは、小切手を見おろして、頭を振った。「おれは、金など要らんよ。君に貸しがあるわけでもないし」
「いやいや、君には、これどころではない借りがあるよ、ネド。とっておいて貰いたいな」
「それじゃあ、貰っとく。ありがとう」ネド・ボウモンは、小切手を自分のポケットにしまいこんだ。
マドヴィグはビールを飲み、つまみ物を口に入れ、もうひと口飲みかけたのを、途中でやめて、ジョッキをテーブルの上においた。「君は、今日の午後のクラブでの一件以外に、なにか不満に思っていることがあるのかね?」
ネド・ボウモンは、頭を振った。「そういうもののいいかたをしちゃいかん」
「どうしたんだ、ネド? おれは、なにも言いやしないじゃないか」
ネド・ボウモンは、黙っていた。
マドヴィグは、またビールを飲んだ。「よかったら、おれのオロリーの扱いかたがよくないと思っているわけを話してくれないか?」
「話したって、なんの役にも立たんよ」
「それでも」
「よし、話そう。しかし、役には立たんことだろうな」ネド・ボウモンは、片手にジョッキを、片手につまみ物をもって、椅子をうしろにかたむけた。「シャドは、売られた喧嘩を買うよ。買わんわけには行かん。あんたは、あいつを窮地《きゅうち》に追いつめた。あんたは、あいつに、この土地では永久に駄目だと宣告した。こうなっては、あいつも、思いきった手を打つよりしようがない。今度の選挙であんたをやっつけることができれば、あいつは、どんなことでも、自分の思い通りになる。あんたが選挙に勝てば、あいつは、いやでも押し流されてしまう。あんたは警察をあやつって、あいつに圧力をかけている。あいつは、警察に歯向かわねばならんことになる。歯向かうだろう。そうなれば、この町は犯罪が大きな顔をしてのさばり歩いているようなことになる。あんたは、市政当局の再選を狙っている。連中は選挙のドサクサがすんで、市政が軌道に乗らんうちに、どうにも手の着けようのない犯罪の巣を抱えこむわけだ。すると、連中は――」
「このおれが、どうでもあいつにねじ伏せられることになるというのか?」マドヴィグは、顔をしかめた。
「そうはいわん。ただ、あんたとしては、あの男に、出口を、引っこみの糸口を残して置いてやらなければならなかったというだけだ。壁ぎわのトコトンまで追いつめたのはまずかった」
マドヴィグの額のしわが深まった。「どうも、おれには、君の戦術がよく飲みこめないな。仕かけたのは向こうのほうだ。おれとしては、相手を窮地に追いつめたら、もうひと足踏みこんでとどめを刺すというやりかたしか心得ていない。これまで、いつもそのやりかたで、うまく行っていた」ちょっと顔をあからめて、「おれは、なにも、自分のことをナポレオンだかなんだかになったつもりでいるわけではないよ、ネド。しかしおれは、むかしの第五区で、パッキー・フラッドの使い走りをやっていた身の上から、今の地位まで、自分の力でのし上がったんだからな」
ネド・ボウモンは、ジョッキを空けて、椅子の前脚を床におろした。「それが、こんどはなんの役にも立つまいといったんだ。まあ、好きなようにするがいいさ。むかしの第五区で通用したやり方が、どこに行っても通用すると思っていればいいよ」
「まさか、おれのことを、一流の政治家だと思っているんじゃあるまいね、ネド?」その声には、立腹と謙遜とがまじり合っていた。
こんどは、ネド・ボウモンの顔が赤くなった。「おれは、そんなことをいいやしないぜ、ポウル」
「しかし、君のいっているのは、結局そういうことになるじゃないか」
「ちがう。しかし、こんどばかりは、あんたも、うまうまと引っかかったと思うよ。第一に、あんたはヘンリーの口車に乗せられて、上院議員の後押しをさせられた。あの場合にこそ、窮地に追い詰められた相手に、もう一歩踏みこんでとどめを刺すチャンスがあったのに、たまたまその相手に、娘や、社会的な地位や、そんなものがあったもんだから、あんたは――」
「やめてくれ、ネド」マドヴィグは、不平を鳴らした。
ネド・ボウモンの顔から、表情がなくなった。立ち上がった。「ところで、おれは行かなければならん」ドアのほうへ行きかけた。
マドヴィグも、いそいで立ち上がり、うしろから相手の肩に手をかけた。「ちょっと待て、ネド」
「手をどけてくれ」ネド・ボウモンは、ふりかえりもしなかった。
マドヴィグは、空《あ》いたほうの手で、ネド・ボウモンの腕をつかんで、向き直らせた。「いいか、ネド」
「はなせ」ネド・ボウモンのくちびるが青ざめこわばった。
マドヴィグは、相手をゆすぶった。「おい、馬鹿なまねはよせ。君とおれとは――」
ネド・ボウモンは、左手の拳《こぶし》を、マドヴィグの口のあたりにたたきつけた。
マドヴィグは、両手をネド・ボウモンからはなして、ふた足うしろによろめいた。とまった心臓の鼓動が、もう一度打ちはじめるまでに、三度ばかり口をパクパクとあけしめした。顔には、驚愕《きょうがく》の表情があった。それから、怒りが顔をくろずませた。口をしっかりと結んだ。あごのあたりがこわばって、ふくれ上がった。両手の拳をかため、肩を盛り上がらせながら、前に突き出した。
ネド・ボウモンの片手がす早くのびて、テーブルの上の思いガラス製のジョッキをつかんだが、テーブルからもち上げはしなかった。その動作のせいで、状態が少しそっちのほうに傾いたが、全身は、金髪男の正面からたじろがなかった。顔がキッと引きしまって、口のまわりに、白い緊張線ができた。暗い色の眼は、マドヴィグの青い眼を、はげしく見据えた。
二人は、こうして一ヤードとはなれずに向かい合った。金髪の一人は、背が高くたくましく、大きな両拳を前に構え、大きな肩を盛り上がらせて前かがみになり、髪も眼も濃い色の一人は、やせて高いからだを少し横に傾け、のばした片手で、思いガラスのジョッキの持ち手をにぎって――部屋の中には、二人の息づかいのほか、なんの物音もなかった。うすいドアの向こう側の酒場からも、なんの物音もきこえなかった。ガラスの触れ合うひびきも、話し声も、水のはねる音も。
二分間たっぷり過ぎてから、ネド・ボウモンは、ジョッキから手をはなして、マドヴィグに背なかを向けた。その顔は、少しも変っていなかった。ただ、眼だけは、もはやマドヴィグの眼から焦点をはずして、怒りのこもった凝視が、硬く冷たくなっていた。ゆっくりと急がずに、ドアのほうへひと足踏み出した。
マドヴィグが、からだの奥のほうから、しわがれた声を出した。「ネド」
ネド・ボウモンは、立ちどまった。顔がひとしお青白くなった。ふり向かなかった。
マドヴィグが、「この気狂い野郎」
ネド・ボウモンは、そろそろと向き直った。マドヴィグが、ひろげた片手をのばして、ネド・ボウモンの顔を横ざまにグイと押した。からだのバランスを失ったネド・ボウモンは、片脚を急いで横に開き、片手で、テーブルのそばの椅子につかまった。
マドヴィグが、「こいつめ、性根をたたき直してやらなきゃならん」
ネド・ボウモンは、照れ臭そうに顔をくずして、よろめいた身を支えた椅子に腰をおろした。マドヴィグも、向かい合った椅子に腰をおろして、自分のジョッキで、テーブルをコツコツとたたいた。
バーテンダーが、ドアをあけて頭をのぞかせた。
「ビールだ」マドヴィグは注文した。
あけたドアを通して、酒場から人の話し声や、ガラスとガラスがぶつかり合う音がきこえて来た。
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第四章 ドグ・ハウス
一
「入りたまえ」ベッドの上で、朝めしを食べていたネド・ボウモンが声をかけた。入口のドアが、あいて閉《し》まる音がした。
「なんだ?」
居間から、低い耳ざわりな声がきこえた。「どこにいるんだね、ネド?」答えない先に、耳ざわりな声のもち主は、寝室のドアまで来ていた。「えらくヒッソリしているじゃねえか」血色の悪い角ばった顔に、濃い色の陽気な|すが眼《ヽヽヽ》をした、たくましい若ものだった。くちびるの厚ぼったい、幅の広い口のへりから、たばこがダランとたれていた。
「よう、ウィスキか」ネド・ボウモンが、眼顔で会釈した。
「そこらの椅子にかけてくれ」
ウィスキは、部屋を見まわした。「ちょっとした部屋だな」口からたばこをとって、頭をまわさずに、たばこの先で、肩ごしにうしろの居間のほうを指した。「鞄をたんと出して、どうしたんだね、引っ越すのか?」
ネド・ボウモンは、口にほうばったカキたまごを、充分に噛んでのみこんでしまってから答えた。「うん、そのつもりなんだがね」
「へえ」ウィスキは、ベッドのわきの椅子に、腰をおろした。「どこに?」
「たぶん、ニューヨークにね」
「たぶんてのは、どういうことなんだね?」
「そうだな、どっちみち、ニューヨーク行きの切符が買ってあるんだ」
ウィスキは、たばこの灰をゆかに落して、そのたばこをまた口の左のへりにもどした。鼻をクンクン鳴らした。「で、いつまで行ってるんだな?」
ネド・ボウモンは、コーヒーのカップを、盆と口との途中までもって行った。カップごしに、顔色の悪い若ものをじっと見た。やがて、「切符は片道だ」といって、コーヒーを飲んだ。
ウィスキは、片眼をすっかり閉じ、もう一ぽうの眼は細い黒糸ほどに細めて、ネド・ボウモンの顔を見かえした。口からたばこをとって、また床に灰を落した。「出かける前に、なぜシャドに会わねえんだな?」その耳ざわりな声には、押しつけがましいひびきがあった。
ネド・ボウモンは、カップを下におろして微笑をうかべた。「シャドとおれとは、おれが、挨拶なしで行っちまったからって、向こうが気を悪くするほどの仲でもないからな」
「そんなことをいってるんじゃねえ」
ネド・ボウモンは、盆を膝の上から、ベッドわきのテーブルにうつした。横になって、肘まくらを突いた。夜具を胸まで引っぱり上げた。「じゃあ、なんだ?」
「あんたとシャドとは、組んで仕事をやれるはずだ、と、そういってるんだ」
ネド・ボウモンは、頭を振った。「やれそうにないね」
「あんたのこったから、見こみちがいってこともねえだろうな?」
「そういえば、おれだって一九一二年だかに、見こみちがいをやらかしたことがあるぜ。なんのことだったか、忘れちまったが」
ウィスキは、立ち上がって、盆の上の皿にたばこを押しつぶした。ベッドのわきに突っ立ったままで、「なぜ、やってみねえんだよ、ネド?」
ネド・ボウモン、顔をしかめた。「どうせ、時間の無駄だろうからさ。シャドとおれとは、とてもいっしょにやって行けそうにないよ」
ウィスキは、騒々しく歯を吸った。下に反《そ》りかえった厚ぼったいくちびるのせいで、人をばかにしたような音にきこえた。「シャドは、やって行けると思ってるぜ」
ネド・ボウモンは、パッと眼をあけた。「そうかね? あいつにいわれて、ここにやって来たのか?」
「あたりめえよ。そうでなけりゃ、おれが、こんなことを言いに、ノコノコやって来るもんか」
ネド・ボウモンは、また眼を細めた。「なぜだね?」
「なぜって、大将は、あんたと組んで仕事をやれると思っているのさ」
「いや、おれがいうのは、なぜシャドは、おれがあいつと組みたがっている、と、そう考えたかってことなんだがね」
ウィスキは、いまいましげな顔をした。「おいおい、おれをからかう気かい?」
「そんなことはないさ」
「なら、考えてもみろよ。町じゅうの誰だって、昨日、あんたとポウルとが、ピップ・カースンの店でひと騒動やらかしたってことを知ってるんだぜ」
ネド・ボウモンはうなずいた。ひとりごとのように、「やっぱりそうか」
「そうとも。それに、シャドは、ポウルがシャドの縄張りの店を閉めさせた一件で、あんたがポウルを責めたってことを知っている。だから、あんたは、利口に立ちまわりさえすれば、シャドと手をにぎって行けるんだ」
「どうだかな。とにかく、おれは、この土地から足を洗って、大きな都会にもどりたいよ」
「ちったあ頭を使って考えろよ」ウィスキは、耳ざわりな声を出した。「選挙がすんでからだって、大きな都会は消えてなくなりゃしねえさ。それまで、この土地にじっとしているんだ。シャドは、唸るほど金があって、マドヴィグをやっつけるためになら、いくらだって出すといってるんだぜ。じっとしていて、たんまり分け前にありつきゃいいじゃねえか」
「なるほど」ネド・ボウモンは、ゆっくりといった。「あいつと話し合ってみても悪くはないな」
「そうとも、悪いもんか」ウィスキは、一生懸命ないいかたをした。「さあ、おしめを当てな。出かけようぜ」
「よし来た」ネド・ボウモンは、ベッドから抜け出た。
二
シャド・オロリーが立ち上がって、軽く頭を下げた。「よく来てくれたな、ボウモン。帽子と外套は、どこかそこらに投《ほ》うっておきたまえ」握手はしようとしなかった。
「お早う」ネド・ボウモンは、外套をぬぎはじめた。
ウィスキが戸口から、「じゃあ、あとでまた来るぜ」
オロリーが、「ああ、いいよ」と答えると、ウィスキは、ドアをうしろ手に閉めながら、立ち去った。
ネド・ボウモンは、外套を長椅子の肘かけの上に置き、外套の上に帽子をのせて、自分はそのそばに腰をおろした。オロリーの顔を、しごく当り前のように見た。
オロリーは、鈍《にぶ》い葡萄酒色に、金色をあしらった、フカフカとからだごと埋まってしまうような自分の椅子にもどっていた。膝を組んで、上になった膝のあたりで、ひろげた両手の指先どうしを合わせた。彫りのみごとな顔を深く胸のほうにかがめ、灰青色の眼で、額《ひたい》ごしにネド・ボウモンをみつめた。明るい抑揚をつけたアイルランドなまりで、「おれは、君に恩を着ているんだがね。例の、君がポウルを説きつけて、おれに余計なことをするのを止めさせようとしてくれた一件で――」
「そんなことはないさ」
「ないって?」
「ないよ。あのときにゃ、おれもあの男と仲間どうしだったからな。あの男のためを思えばこそ、ああいうことをいったのさ。まずい手を打とうとしていると思ったのでね」
オロリーは、おだやかな微笑をうかべた。「トコトンまで行かんうちに、いずれよせばよかったと気がつくだろうよ」
二人の間には、しばらく沈黙がわだかまった。オロリーは笑顔を見せながら、椅子に半分埋りこんでいた。ネド・ボウモンは長椅子にかけたまま、少しも感情のあらわれない眼を、オロリーの顔に注いでいた。
オロリーのほうから、沈黙を破った。「ウィスキは、どこまで話したかね?」
「べつになにもきかないよ。あんたが、おれに会いたがっているとはいったがね」
「まったくその通りなんだが」オロリーは、合わせていた両手の指先を離して、ほっそりとした手の甲を、もういっぽうの手のひらで軽くたたいた。「君とポウルとが、もうこれっきりで割れちまったというのはほんとかね?」
「そのことは、もう知れていると思っていたんだがね。だからこそ、あんたも、おれを呼びよせたのじゃなかったのかね?」
「うん、聞くことはきいたが、うわさが事実とはかぎらんからな。これからどうするつもりなんだね?」
「おれのポケットには、ニューヨークまでの切符が入っているし、身のまわりのものも、チャンと荷づくりができているよ」
オロリーは片手をあげて、つやのいい白髪をなでつけた。
「君は、たしか、ニューヨークからこの土地へ来たのじゃなかったっけね?」
「おれが、どこから流れて来ようと、どうでもいいじゃないか」
オロリーは、頭から手を離して、まあそういうなというような仕ぐさをして見せた。「おれが、そんなことを気にするとでも思っているのか?」
ネド・ボウモンは、なにもいわなかった。
白髪の男は、「しかし、君がこれからどこに行くかってことは、おれも気になるし、それに、勝手をいわして貰うなら、ここしばらくは、ニューヨークなどへ行かずにいて欲しいよ。君は、この土地でも、まだもうちっとなら甘い汁が吸えると考えてみたことはないかね?」
「ないね。つまり、ウィスキのやって来るまでは、そんなことは考えなかったよ」
「すると、今なら、どう考えるね?」
「さあ、皆目《かいもく》わからんな。あんたの話をきこうと思って待っているわけなんだがね」
オロリーは、また片手を髪にもっと行った。青灰色の眼は、愛想よく如才《じょさい》がなかった。「この土地に来てからどれくらいになるかな?」
「十五ヶ月だ」
「君とポウルとが、隣どうしの二本の指みたいに仲よくやっていたのはどのくらいだ?」
「一年だな」
オロリーはうなずいた。「すると、あの男のことなら、ずいぶんどっさり知っていていいわけだ」
「知っているよ」
「おれの役に立つようなことも、たんと知っているはずだ」
「で、あんたの話というのは?」ネド・ボウモンの声は落ち着いていた。
オロリーは、埋りこんでいた椅子から立ち上がって、ネド・ボウモンの入って来たのと反対側のドアまで行った。そのドアをあけると、大きなイギリス種のブルドッグがヨタヨタと入って来た。オロリーは、自分の椅子にもどった。犬は、葡萄酒色の地に金をちりばめた椅子の前の敷物の上に寝そべって、気むずかしげな眼で主人の顔を見上げた。
オロリーが、「おれのほうから君に提供できるのは、ポウルにうんと仕かえしをしてやるチャンスだ」
「そんなものは、一文の値打ちもないよ」
「そうかね?」
「おれのほうでは、あの男に恨みも恩もないからな」
オロリーは、頭をもたげた。おだやかに、「すると、あの男を痛い目に合わせるようなことはしたくないんだな?」
「そんなことはいいやしないよ」ネド・ボウモンは、少しカンに障《さわ》ったようないいかたをした。「あの男が、痛い目に会ったからって、おれはちっともかまわないが、そんなことぐらい、おれひとりで、いつでも好きなときにやれるし、あんたのほうでも、それっぽちのことで、おれに途方もない恩を着せたつもりになってもらいたくはないな」
オロリーは、愉快そうに頭を上げ下げして見せた。「おれの味方になるだけで、あの男には、手痛いことになるよ。ところであの男は、どういうわけで、ヘンリーの若僧をやっつけたんだね?」
ネド・ボウモンは、声を出して笑った。「お手やわらかに願いたいな。あんたのほうでは、まだ条件をもち出していないじゃないか。いい犬だね、いくつになる?」
「もう寿命だよ。七つだがね」オロリーは、靴の先で犬の鼻つらをなでた。犬は無精《ぶしょう》ったらしく、尻尾《しっぽ》を振った。「こういうのはどうかな? つまり、選挙がすんだら君に、この州ではじめてというような、とび切り上等な賭場《とば》をあてがって、思い通りに切りまわしてもらう。うしろだては、君の欲しいだけいくらでもかしてやるよ」
「そんなのは、もしあんたが勝てばという頼りない話だ」ネド・ボウモンは、うんざりしたようないいかたをした。「いずれにしろ、おれは、選挙が済んでからでも、いや、それまでだって、この土地にぐずぐずしている気になれるかどうがわからんからな」
オロリーは、靴の先で、犬の鼻をなでるのをやめた。またネド・ボウモンの顔を見上げて、夢見るような微笑をうかべた。「おれたちが、選挙に勝てるとは思わんのかね?」
ネド・ボウモンも、微笑をうかべた。「あんただって、確信があるわけじゃないだろう」
オロリーは、微笑はそのままにして別のことを訊ねた。「君は、おれといっしょにやることに、さっぱり気がないようだな?」
「ないな」ネド・ボウモンは、立ち上がって、帽子をとり上げた。「おれのほうには、初めからちっともそんなつもりはなかったからね」さりげない声だった。顔にも、これといって表情はなかった。「ウィスキにも、どうせ時間の無駄だからといったんだが」外套に手をのばした。
「坐りたまえ」白髪の男が、声をかけた。「これっきりで話ができんわけじゃないだろう? どこかで妥協できるかもしれんよ」
ネド・ボウモンは、二の足を踏んだ。肩を少し動かして見せて、帽子を脱ぎ、外套と一しょに長椅子の上に置き、そのそばに腰をおろした。
オロリーが、「君が、その気になってくれれば、今この場で、現金一万ドル渡そう。おれたちがポウルに勝ったら、選挙の当夜、もう一万ドル、それに、さっきの賭場の話は、それまでとって置くから、引き受けるなり断るなり、好きなようにするといい」
ネド・ボウモンは、くちびるをすぼめ、ひそめた眉の下から、陰気な眼をオロリーの顔に向けた。「むろん、その代りに、あの男を裏切れというんだな?」
「うん、『オブザーヴァー』紙に乗りこんで行って、あの男の関係した事件について、君の知っている内幕をありったけさらけ出してもらいたい――下水工事の一件、テイラー・ヘンリー殺しの動機と方法、例の去年の冬のシューメーカーの麻薬事件、市長の暗黒面などをね」
「下水工事には、なにもありゃしないよ」ネド・ボウモンは、まるでべつのことを考えているような口のききかたをした。「自分のもうけを吐き出してまで、汚職の起こらんようにしているからね」
「よし、わかった」オロリーは、あっさり認めた。「しかし、テイラー・ヘンリー殺しの一件には、なにかある」
「そう、それはありそうだ」ネド・ボウモンは、顔をしかめた。「だが、シューメーカーの一件が、使いものになるかどうか、そいつは自信がないな」――ちょっとためらって
「つまり、おれ自身が危ない橋を渡らずにということなんだが」
「いや、そんなことはしてもらいたくない」オロリーは、急いでさえぎった。「そいつはやめとこう。ほかになにかないかね?」
「電車路線免許の延長の件と、それから、去年の郡役所のゴタゴタを突っつけば、なんとかなるかもしれん。しかし、先ずほじくってみなければならんね」
「それだけの値打ちはあるだろう。ヒンクル――というのが『オブザーヴァー』紙のやつなんだが――そいつにいいつけて、そのネタをまとめさせよう。君は、情報を提供するだけでいい。先ずとっぱじめは、テイラー・ヘンリーの一件からかかることとしよう。そいつが、一番役に立ちそうだ」
ネド・ボウモンは、親指の爪で口ひげをなでながらつぶやいた。「かもしれんな」
シャド・オロリーは笑った。「なるほど、そんなことより、先ずとっぱじめは、一万ドルだと、そういうんだな? どうもそうらしい」立ち上がって、犬にあけてやったドアまで行った。ドアをあけ、うしろ手にしめながら見えなくなった。犬は、金色をちりばめた葡萄酒色の椅子の前にじっとしていた。
ネド・ボウモンは、葉巻に火を点けた。犬が頭をまわして、それを見まもった。
オロリーは、緑色の百ドル紙幣を、茶色の帯紙でたばね、青インクで一〇、〇〇〇と書いてある厚ぼったい束を手にしてもどって来た。空《あ》いたほうの手で、紙幣束《さつたば》をたたいて見せながら、「ヒンクルは、もうあっちに来ているぜ。こっちへ来るように言っておいたがね」
ネド・ボウモンは、顔をしかめた。「頭の中を整理するのに、ちょっとばかり暇がかかるよ」
「いや、思い出すはしから、ヒンクルに話せばいいさ。あいつが自分でなんとかまとめるよ」
ネド・ボウモンはうなずいた。葉巻の煙りを吐き出して、「うん、それでもいいな」
オロリーは、紙幣束を差し出した。
ネド・ボウモンは、「すまないな」といいながらそれを受けとって、上衣《うわぎ》の内ポケットにしまいこんだ。上衣の胸のあたりがふくれ上がった。
シャド・オロリーは、「すまないのはお互いさまだ」と答えて、自分の椅子にもどった。
ネド・ボウモンは、口から葉巻を離した。「忘れないうちに、あんたにいっときたいことがあるんだが……ウェスト殺しの一件をネタに、ウォルト・イヴァンズをわなにかけたって、ポウルは痛くもかゆくもないよ」
オロリーは、しばらくネド・ボウモンの顔をさぐるようにみつめてから、「なぜだ?」
「ポウルには、あいつにクラブにいたというアリバイを作ってやる気はないんだ」
「というと、みんなに、イヴァンズがクラブにいたことを忘れろ、と、そんな命令を出す気でいるのか?」
「そうだ」
オロリーは舌打ちをした。「おれが、イヴァンズに一ぱい喰わせようとしているなんてことを、いったいどこから思いついたんだ?」
「なあに、おれたちで考え出したのさ」
オロリーは、笑顔を見せた。「つまり、君の思いつきだってことだな。ポウルは、それほど血のめぐりがよくないよ」
ネド・ボウモンは、顔を少しゆがめた。「あんたは、あいつにどんなことをやらせたんだね?」
オロリーは、クックッとのどを鳴らした。「おれたちは、あの道化役を、プレイウッドにやって、ピストルを買わせ、そいつを使ったんだ」灰青色の眼が、急に硬く鋭くなった。それからまた、からかうような表情がもどって来た。「いや、そんなことは、ポウルのやつが、そいつをネタにひと騒ぎやらかそうと夢中になっているにしても、大したことじゃないよ。しかし、ポウルがおれをいじめにかかったのも、そんなことがきっかけなんだろう?」
「それはそうだが、遅かれ早かれ、いずれはそんなことになっただろうな。なにしろポウルは、あんたがこの土地で出世する糸口をつけてやったのは自分なんだから、あんたが自分に歯向かうほど強くなっちゃ困る、いつまでも、自分の羽根の下にじっとしていなきゃいかん、と、そう思っているんだ」
オロリーは、おだやかに微笑をうかべた。「ところが、このおれは、そんな糸口をつけてもらったことを後悔するような男に成り上がったと来たからね。あの男は――」
ドアがあいて、一人の男が入って来た。ダブダブのねずみ色の服を着た若い男だった。眼と耳とが、馬鹿に大きかった。長らく床屋《とこや》にご無沙汰しているようなボサボサの茶色の髪をして、うす汚れた顔には、年の割には深いしわがきざまれていた。
「入りたまえ、ヒンクル」オロリーが声をかけた。「これは、ボウモンだ。君に話すネタがあるそうだが、そいつをまとめて買って、よかったら、明日の新聞の特ダネにしよう」
ヒンクルは、汚い歯を見せて笑い、ネド・ボウモンに、なにかよくきき取れない挨拶をつぶやいた。
ネド・ボウモンは立ち上がった。「それじゃあ、おれたちいっしょに、おれのところに行って、仕事にかかろう」
オロリーは、頭を振った。「ここで片づけたほうがいい」
ネド・ボウモンは、帽子と外套をとり上げて、微笑をうかべた。「生憎《あいにく》だが、電話がかかって来ることになっているし、ほかにも用があるんでね。ヒンクル、君も帽子をとって来たまえ」
ヒンクルは脅《おび》えた顔で、立ちすくんだ。
オロリーが、「ボウモン、君はここにじっとしていなきゃいかん。君を危ない目に合わせるわけには行かんな。ここにいれば、君も心配は要らんよ」
ネド・ボウモンは、とっときの微笑を含んだ。「金のことが気がかりなら」――上衣の内側に手を入れて、紙幣束《さつたば》を引っぱり出して、「記事がまとまるまで預けといていいぜ」
「そんなものは、気にかけやしないさ」オロリーのことばは静かだった。「しかし、君がここに来てくれたことを、ポウルがききつけたら、君は、むずかしい立場に追いこまれるし、おれは、君を殺させるようなまねはしたくないからな」
「まあ、そうも行かんさ。おれは行くよ」
「いかん」
「行くさ」
ヒンクルは、あわてたように身をかえして、部屋を出て行った。
ネド・ボウモンは、オロリーに背中を向け、急ぐでもなく悠然と歩いて、この部屋に来たときに入ったドアのほうへ行きかけた。
オロリーが、足もとのブルドッグに声をかけた。犬は、うるさそうにノッソリと立ち上がり、ヨタヨタとネド・ボウモンの先まわりをして、ドアのほうに行った。ドアの前に、脚を広く突っぱって立ちはだかり、不機嫌な眼を、ネド・ボウモンに据《す》えた。
ネド・ボウモンは、かたく結んだくちびるに微笑をただよわせて、オロリーをふりかえった。ネド・ボウモンの手には、百ドル紙幣の包みがあった。その手を差し上げて、「おれが、これくらいの金で、わなにかかるもんか」といいながら、さつの包みを、オロリーめがけて投げつけた。
ネド・ボウモンの腕は、不器用にとび上がったブルドッグの口にぶつかった。犬のあごが、ネド・ボウモンの手首をくわえて閉った。そのはずみで、ネド・ボウモンは左に振りまわされ、片膝ついて腕を床に押しつけ、犬の体重が、手首にかかるのを防いだ。
シャド・オロリーが、椅子から立ち上がって、ヒンクルの出て行ったほうのドアに行った。ドアをあけて、声をかけた。「ちょっと来てくれ」それから、まだ片膝をついたまま、喰いつかれた腕を、犬の力にさからわぬように、あちこち動かしているネド・ボウモンに近づいた。犬は手首をくわえたまま、ほとんど腹が床にくっつかんばかりに、四つあしを突っぱっていた。
ウィスキと、ほかに二人の男が部屋に入って来た。その一人は、シャド・オロリーといっしょに、ログ・ケビン・クラブに来ていた猿のような顔のガニ股の男だった。もう一人は、頬の赤い、すねた顔をした、ズングリと背の低い、砂色の髪の十九か二十《はたち》の小僧だった。すねた顔の小僧が、ネド・ボウモンのうしろをまわり、ドアとの間に入った。ガニ股のならずものは、ネド・ボウモンの左腕、犬に喰いつかれていないほうの腕に、右手をかけた。ウィスキは、ネド・ボウモンと、もうひとつのドアとの間に立った。
オロリーが、犬に声をかけた。「パティ、離せ」
犬は、ネド・ボウモンの手首を離し、ヨタヨタと主人の前に寄って行った。
ネド・ボウモンは、立ち上がった、顔は青ざめ、汗に濡れていた。破れた上衣の袖と手首を見た。手を伝わって血が流れていた。その手が震えていた。
オロリーが、音楽的なアイルランドなまりの声を出した。「君が、よけいなまねをするからだ」
ネド・ボウモンは、自分の手首から眼を上げて、白髪の男を見た。「うん、しかし、このくらいのことでは、おれをこんなところにじっとしていさせるわけには行かんよ」
三
ネド・ボウモンは、眼をあけて唸り声を出した。
砂色の髪にばら色のほっぺたをした小僧が、肩ごしにふりかえった。「黙れ、うるせえ野郎だ」
猿顔の浅黒い男が、「放《ほ》っとけ、ラスティ。また逃《ず》らかろうとするかもしれんから、そうしたら、また面白く遊べるじゃねえか」自分の腫《は》れ上がった拳固《げんこ》に、ニヤリと笑って見せて、「さあ、札《ふだ》を配りな」
ネド・ボウモンは、なにかフェディンクのことをつぶやいて起き上がった。そこは、敷布らしいものもない幅のせまいベッドの上だった。むき出しのわらぶとんは、血にまみれていた。ネド・ボウモンの顔は腫れ上がり、傷つき、血まみれだった。犬に喰いつかれた手首には、乾いた血でシャツの袖がへばりつき、手も、乾いた血でカサカサにこわばっていた。黄色と白に塗り分けた小さな部屋には、ベッドのほかに、椅子が二つとテーブルがひとつ、抽き出し箪笥がひとつ、それに壁には鏡が一枚と、フランスの絵の複製が三枚、白い額ぶちに入っていた。ベッドの裾に、半びらきのドアがあって、白タイルをはった浴室の中がかいま見えていた。もうひとつドアがあった。それはしまっていた。窓はひとつもなかった。
浅黒い猿顔の男と、砂色髪にばら色の頬をした小僧とは、椅子に腰をかけて、テーブルに向かってトランプをやっていた。テーブルの上には、紙幣と銀貨で、二十ドルばかりあった。
ネド・ボウモンは、ずっと奥のほうから、憎悪が鈍く光を放つ茶色の眼を、トランプをもてあそぶ二人に据えたまま、ベッドからおりかかった。ベッドをおりるのは、並み大ていの苦労ではなかった。右の腕はダランと垂れて、役に立たなかった。片脚ずつ、左手でもち上げるようにして、ベッドの縁から外に押し出た。二度横ざまにひっくりかえった。その度に、左腕を突っ張って、身を立て直さなければならなかった。
一度だけ、猿顔の男が、自分の手のカードから、横眼づかいにこっちを見て、からかうように声をかけた。「なにをゴソゴソやってござるんだね?」それっきり、テーブルに向かった。二人は、知らん顔でいた。
やっとのことで、震える足で、ベッドのわきに立った。左手をベッドの上について、からだを支えながら、ベッドの端までたどりついた。そこで、まっすぐに立って、目ざす目標をにらみ据えながら、しまったドアのほうに、よろめき進んだ。あと一歩というところでつまずき、両膝をついたが、捨て鉢のように投げ出した左手が、ドアの握りをつかみ、それを頼りに、もう一度立ち上がった。
そのとき、猿顔の男が、自分のカードを、テーブルに伏せた。「さて」ニヤリとしたその口から、とても自然のものとは見えない、白すぎる義歯が、むき出しになった。大またに足を運んで、ネド・ボウモンの横に立ちどまった。
ネド・ボウモンは、ドアの握りを引っぱっていた。
「いいかね、フウディニ君」声をかけておいて、猿顔の男は、右の拳に全身の重みをかけて、ネド・ボウモンの顔をなぐりつけた。〔訳注。フウディニは、世界的に有名な魔術師。どんなに厳重な密室、または金庫からでも、抜け出して見せたという〕
ネド・ボウモンは、うしろざまに壁にたたきつけられた。一番先に、頭が壁にぶつかり、それから全身が壁にはりついたかと思うと、そのままズルズルと床の上に崩れ落ちた。
テーブルに向かって、あいかわらずカードを手にしたままでいたばら色頬のラスティが感情のない陰気な声を出した。
「おいおい、ジェフ。くたばっちまうぜ」
「こいつのことか?」ジェフは、ネド・ボウモンの太ももを、靴の先で、あまりひどくなく蹴って見せた。「こいつがくたばるもんか。不死身だよ。不死身の赤ちゃんだ。こんなのが好きだとさ」身をかがめて、意識を失った男の両襟を両手でつかんで、引っぱり起こした。「どうだい、赤ちゃん。こんなのが好きなんだろう?」ネド・ボウモンを、膝まずいた姿勢に片手で支えておいて、片手の拳で、顔をなぐりつけた。
ドアの握りが、外側からカタカタと鳴った。
ジェフがね声をかけた。「誰だ?」
シャド・オロリーの楽しそうな声がきこえて来た。「おれだ」
ジェフはネド・ボウモンを、ドアがあくだけ引きずり離して、そこに倒し、ポケットから鍵を出して、ドアをあけた。
オロリーと、ウィスキとが入って来た。オロリーは、床の上にころがっている男からジェフへ、それからラスティへと眼をうつした。青灰色の眼が曇った。ラスティに、「ジェフの野郎、面白半分にこいつを張り倒したのか?」
ばら色のほっぺたをした小僧は、頭を振った。ムッツリとすねたような顔で、「このボウモンって野郎が、とんでもねえ大馬鹿野郎でね。正気づくたびに、ゴソゴソ起き上がって、なにかやらかしやがるんだ」
「おれは、まだこの男を殺して欲しくはないんだ」オロリーは、ネド・ボウモンを見おろした。「もう一度、生きかえらせるかどうか、やってみてくれ。こいつに話したいことがある」
ラスティが、テーブルから立ち上がった。「どんなものかな。こんどは、だいぶひどかったからね」
ジェフは、もっと楽観的だった。「なあに、大丈夫だよ。やってみよう。ラスティ、貴様は、足のほうをもて」両手を、ネド・ボウモンのわきの下にさし入れた。
二人がかりで、正気のない男を、浴室にはこびこみ、浴槽の中に入れた。ジェフは、浴槽の排水溝に栓をして、下の水栓と上のシャワーと、両ほうから、冷たい水をほとばしらせた。「こうやっとけば、すぐに息を吹きかえすよ」
五分たって、浴槽からビショビショになったネド・ボウモンを引きずり出して立たせると、うまく立てた。二人は、ネド・ボウモンを、寝室に連れもどした。オロリーは、椅子に腰をかけて、たばこをのんでいた。ウィスキはいなかった。
「ベッドに腰かけさせろ」
ジェフとラスティは、ネド・ボウモンをベッドまで引っぱって行って、うしろ向きにならせ、肩を押して坐らせた。二人が手を離すと、まっすぐうしろに倒れた。二人は、また引っぱり起こして、ジェフが、ネド・ボウモンの汚ならしい顔を、平手でたたいた。「さあ、リップ・ヴァンウィンクルじいさん。眼をさますんだよ」
「よくもたびたび息を吹きかえす野郎だ」ラスティが、むっつり顔でうなった。
「貴様は、もう駄目だと思ったんだな?」ジェフは、またネド・ボウモンの顔をひっぱたいた。
ネド・ボウモンは、腫《は》れふさがっていないほうの眼をあけた。
オロリーが呼びかけた。「おい、ボウモン」
ネド・ボウモンは、顔を上げて、部屋を見まわした。しかし、シャド・オロリーの顔が見えたらしい様子はなかった。
オロリーは、椅子から立ち上がって、ネド・ボウモンの正面に立ちはだかり、身をかがめ、相手の顔に数インチのあたりまで、顔を近寄せた。「おれの声がわかるか、ボウモン?」
ネド・ボウモンのあいたほうの眼が、鈍い憎悪をこめて、オロリーの眼をみつめた。
ネド・ボウモンは、腫れ上がったくちびるを、やっとのことで動かした。「わかる」
「それはよかった。では、おれのいうことをきいてくれ。君は、このおれに、ポウルについての情報を提供してくれるんだ」オロリーは、声をはり上げずに、非常に明瞭に発音した。その声は、音楽的な美しさを失ってはいなかった。「いやだというかもしれんが、そんなわけには行かん。承知するまで、どこまでも責めさせてやるぞ。わかるか、おれの話が?」
ネド・ボウモンは、うす笑いをうかべた。そのうす笑いは、恐ろしい表情になった。「いやだ」
オロリーは、ひと足うしろにさがった。「こいつを責めてやれ」
ラスティがためらっている間に、ジェフがネド・ボウモンの上げた手を横に払い、ベッドの上に押し倒した。「こんどはこうしてやる」ネド・ボウモンの両脚をすくい上げて、ベッドの上にのせた。相手のからだにおおいかぶさって、両手を忙しく動かした。
ネド・ボウモンの胴体と、腕と、脚とが、はげしく引きつった。三度うなった。それっきり、ネド・ボウモンは動かなくなった。
ジェフは、からだをのばして、ベッドの上の男から、両手を離した。猿のような口から深い息がもれた。不満と弁解とのまじり合ったうなり声を出した。「こうなっちゃ、役に立たん。また気を失いやがった」
四
意識をとりもどしたときには、ネド・ボウモンは、部屋に一人にされていた。あかりが点《つ》いていた。さっきと同じように、難儀を重ねて、ベッドをおり立ち、部屋を横切って、ドアまで行った。ドアには鍵がかかっていた。握りをいじくっていると、ドアがいきなり大きくあいて、壁ぎわに押しつけられた。
下着姿にはだしのジェフが入って来た。「生きていたのか? しょっちゅうなにか企んでいやがる。まだでも床にたたきつけられるに飽きねえのか?」左の手で、ネド・ボウモンののど首をつかみ、右手の拳で、顔を二度なぐった。以前ほどひどいなぐりかたではなかった。それから、ネド・ボウモンをあとしざりに押して行き、ベッドの上にころがした。「こんどは、ちったあじっとしていろ」うなるような声だった。
ネド・ボウモンは、眼をとじて、じっと横たわった。
ジェフは、部屋を出て、ドアに鍵をかけた。
ネド・ボウモンは、苦労して、ベッドからはいだし、ドアまで行った。握りをまわしてみた。二歩さがって、身ぐるみぶつかって行こうとしたが、ヨロヨロとよろめきかかっただけだった。くりかえしくりかえしやっているうちに、またジェフがドアをあけた。
「こんなになぐられるのが好きな野郎は、見たことがねえ。おれも、こんな野郎をなぐるのは、面白くてこたえられねえよ」ジェフは、グッと横のほうに身をかがめ、握った拳固を膝よりも低いあたりから振り上げた。
ネド・ボウモンは、その拳固の通り道に、ノッソリと突っ立っていた。拳固は、まともに顔にぶつかり、全身が床の上に長くのびた。倒れたなり動かなかった。そのまま二時間ばかり横たわっているところへ、ウィスキが入って来た。
ウィスキは、浴室から運んで来た水をぶっかけて、ネド・ボウモンを正気づかせ、ベッドに腰をかけさせた。「ちっとは考えろよ」哀願するようないいかただった。「あの向こう見ずの連中に殺されるぜ。連中と来たら、容赦《ようしゃ》ということを知らねえからな」
ネド・ボウモンは、どんよりと曇った血走った眼で、ウィスキの顔を、ぼんやりとみつめた。「やらしとけばいい」どうやらこうやら声が出て来た。
それから眠りこんで、こんどは、オロリーと、ジェフと、ラスティの三人に起こされた。ポウル・マドヴィグのことは、ひとこともしゃべるのを拒んだ。ベッドから引きずり落され、気を失わされ、またベッドに投り上げられた。
数時間の後、もう一度、同じことがくりかえされた。食べ物は、運んでもらえなかった。
最後に責められてから、息を吹きかえすと、両手と両膝ではって浴室に入り、洗面台の脚のうしろに、数ヶ月もの錆《さび》をかぶってまっ赤になった細い安全かみそりの刃があるのを見つけた。それをタイルばりの床から拾い上げるのに、神経の利かない指から、いく度となく取り落したりして、たっぷり十分間かかった。それを使って、自分ののどを切ろうとしたが、あごの先を三ヶ所ばかり引っかいただけで、手から落としてしまった。浴室の床にころがったまま、息をはずませているうちに、眠りこんだ。
次に眼をさましたときには、立ち上がることができた。立ち上がった。冷たい水に頭を突っこんだ。たてつづけにグラス四杯の水を飲んだ。飲みすぎた水のせいで、はき気をもよおし、それから寒気がして、ブルブル震えた。寝室にもどって血にまみれたむき出しのわらぶとんの上にころがったが、ほとんどすぐにまた立ち上がり、つまずきよろめきながら、大急ぎでもう一度浴室に入り、四つんばいになって、床の上をさがしまわり、錆だらけの安全かみそりの刃を見つけ出した。床に坐って、かみそりの刃をチョッキのポケットに押しこんだ。その指が、ライターにさわった。ライターを引っぱりだして、それをみつめた。みつめているうちに、あいた片眼に、ずるそうな光が輝いてきた。正気の人間の眼の光ではなかった。
震えに歯をガチガチいわせながら立ち上がって、また寝室にとってかえした。猿顔の浅黒い男と、ばら色の頬の小僧とが、トランプで遊んでいたテーブルの下に、新聞紙があるのを見て、かすれた笑い声を出した。その新聞を両手で引きちぎり、クシャクシャにまるめると、ドアのそばまでもって行って、床の上に置いた。箪笥の抽き出しを引っぱり出してみると、どれにも、底に包み紙の切れっぱしが敷いてあった。それをまるめて、ドアのそばの新聞紙といっしょにした。かみそりの刃で、わらぶとんに、長い切り裂き孔《あな》をつくり、そこから灰色の綿をつかみ出して、それもドアのそばに運んだ。もう震えもつまずきもしなかった。小まめに両手を働かせたが、やがて、わらぶとんを空っぽにするのに飽きて、残りをふとん側《がわ》ぐるみ、ドアまで引きずって行った。
クックッと笑いながら、ライターをカチカチいわせ、三度目に火をつけた。その火を、ドアに押しつけた紙屑とボロ綿の山の底にうつした。はじめのうちは、そばにかがみこむようにして立っていたが、くすぶりはじめると、咳きこみながら、ひと足ひと足うしろにさがった。しまいに、浴室まで退却して、タオルを水に浸し、それを頭に巻きつけ、眼と鼻と口とを蔽《おお》った。つまずきながら、寝室にもどった。煙りでいっぱいになった部屋の中で、定かならぬ人影がベッドによろけかかり、そのそばの床の上にうずくまった。
ジェフが入って来たときに、ネド・ボウモンは、そこにそうしていた。
ジェフは、汚れたハンカチを、鼻と口に押し当て、雑言を吐き散らし、咳きこみながら入って来た。ドアをあけると、燃えさかるボロ綿の山が、少し押されて動いた。あとは靴先で蹴とばしたり、踏みにじったりして、ネド・ボウモンのところにたどりついた。ネド・ボウモンの襟がみをつかんで、部屋から引きずり出した。
外に出ると、ジェフはネド・ボウモンを足でこずいて立ち上がらせ、廊下の突きあたりまで、追いやった。そこにあけっぱなしになっていたドアに押しこみ、「こん畜生、こんどもどって来たら、貴様の耳を喰い切ってやる!」と吠え立て、また蹴《け》とばした。廊下に退がって、ドアをたたきつけると、鍵をまわした。
蹴とばされたネド・ボウモンは、そこにあったテーブルにつかまって、身を支えた。どうやらからだをまっすぐに立てて、あたりを見まわした。タオルは、マフラーのように、くびのまわりと肩にぶら下がっていた。その部屋には、窓が二つあった。近いほうの窓ぎわに行って、窓を押し上げようとした。錠がかかっていた。錠をはずし、窓を押し上げた。外は夜だった。窓の敷居をまたぎ越し、からだをまわして、敷居に腹を押しあて、ズルズルとずり下がり、両手で窓の外にぶら下がった姿勢で、爪先で足がかりをさがした。なにもなかった。そのまま落ちて行った。
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第五章 病院
一
一人の看護婦が、ネド・ボウモンの顔をいじくっていた。
「ここはどこだ?」
「聖路加《せいろか》病院よ」おそろしく大きな、よく光る、はしばみ色の眼をした小がらな看護婦だった。息を殺したようなかすれ声でものをいう。ミモザのかおりがした。
「なん曜日?」
「月曜日よ」
「なん年なん月の?」相手が妙な顔をするのを見て、「いや、ごめんよ。ここに来て、なん日になる?」
「三日目だわ」
「電話はどこ?」起き上がろうとする。
「だめよ。とても電話なんかかけられっこないわ。それに、興奮しちゃいけないことになってるのよ」
「じゃあ、代わりにかけてくれ。ハートフォードの六一一六番を呼んで、マドヴィグさんに、すぐにお目にかかりたいって、そういってくれ」
「マドヴィグさんなら、毎日午後には、ここに見えてよ。だけど、テイト先生はまだ誰ともお話ししていけないって、きっとそうおっしゃるわ。そういえば、今だっておゆるしが出ているよりもずっとたんとおしゃべりが過ぎているわ」
「今は、朝かね、午後かね?」
「朝よ」
「午後までは待てない。すぐに電話してくれ」
「もう直《じ》き、テイト先生がいらっしゃるわ」
「テイト先生だかなんだか知らんが」――イライラしたように――「そんなものに用はない。おれの用のあるのは、ポウル・マドヴィグだ」
「いわれた通りにするのよ。テイト先生のいらっしゃるまで、じっとおやすみしていなくちゃだめ」
しかめっ面《つら》になって、「やれやれ、よくできた看護婦さんだよ、君は。患者のいうことに逆らっては、病気に悪いって教わったことないのかい?」
この問いは無視された。
また、「おまけに、顎《あご》が痛くなったじゃないか」
「動かさずにいれば、痛くなんかならないのよ」
しばらくおとなしくしていた。やがて、「おれは、いったいどうしたことになっているんだね? それとも、君の課業は、まだそこまで進んでいないのかね?」
「きっと、酔《よ》っぱらって喧嘩《けんか》でもしたんでしょう」それから後は、まじめくさった顔でいることができなくなって、プッと噴きだした。「だけど、ほんとに、そんなにおしゃべりしちゃいけないわ。それに、先生がよろしいとおっしゃるまでは、誰とも会っていけないのよ」
二
ポウル・マドヴィグは、午後になると早々やって来た。「これはこれは、生きかえってくれて、こんなにうれしいことはないよ!」ほんとうに嬉しそうに、病人の包帯のない左手を、両手で握りしめた。
ネド・ボウモンは、「うん、もう大丈夫だ。ところで、早速だが、ウォルター・イヴァンズをつかまえて、プレイウッドまで引っぱって行って、そこでピストルの売買をやってる連中に面通しをやらせてみてくれ。あいつは――」
「そのことなら、君からすっかりきいたよ。ちゃんとやっておいたがね」
ネド・ボウモンは、眉をしかめた。「おれからきいたって?」
「そうさ。君が拾い上げられたその朝にね。君は、救急病院に収容されたんだが、おれに会うまでは手当てを受けないっていい張るもんだから、おれが行ってみると、君はイヴァンズとプレイウッドの一件を話してくれて、それから意識不明になっちまった」
「まるっきり憶えがない。それで、うまく行ったかね?」
「イヴァンズ兄弟のほうは上首尾だ。ウォルト・イヴァンズのやつ、プレイウッドで、面に指を差されると、すっかり泥を吐いちまったので、ジェフ・ガードナーとほかに二人ばかり起訴された。しかし、かんじんのシャドの尻尾をつかむことは、こいつはちっとむずかしい。イヴァンズと取引きをやった当の相手のガードナーが、シャドの指図のないかぎり、自分からなにかをやるような男でないことは、誰でもよく知ってるが、それを立証するとなると、そいつはまたべつだからな」
「ジェフってのは、あの猿みたいな顔をした野郎だな? その男は、もう挙げられたのかね?」
「いや、まだだ。君が抜け出してから、シャドといっしょに地下にもぐったらしい。君は、その二人にやられたんだろう?」
「うん。ドグ・ハウスの二階でね。おれは、向うを罠《わな》にかけてやるつもりで出かけて、あべこべにやられちまったんだ」顔をしかめて、「ウィスキ・ヴァッソスといっしょに行って、犬に喰いつかれ、ジェフと、それから、もひとり金髪の小僧っこにこずきまわされたことは憶えているね。それに、なんだか火事さわぎがあって――それっきりだな。誰が、おれを見つけてくれたんだね? どこで?」
「朝の三時ごろ、コールマン街のまん中を、君が、血の筋を後に引きながら、四つんばいになって、ゴソゴソはいずりまわっているのを、お巡りがめっけたんだ」
「そいつは、さぞや見ものだったろうな」
三
大きな眼をした小がらな看護婦が、ドアをそっとあけてのぞきこんだ。
ネド・ボウモンが、くたびれたような声で呼びかけた。
「いいよ――そら、いないいないバーだ! だけど、君は、こんなことをして遊ぶには、少し大きすぎるね」
看護婦は、ドアをもっと広くあけて、片手でドアの縁を支えながら、敷居の上に乗った。「いじわる。みんなにいじめられるのも無理ないわね。眼がさめていらっしゃるかと思って、のぞいてみたのよ。マドヴィグさんと、それから」――眼を輝かせ、いつもよりもっと息をひそめたような声で――「女のかたが見えているんだけど」
ネド・ボウモンは、さぐるように相手の顔をジロジロとながめてから、からかい気味に、「女のかたって、どんな?」
「それが、ミス・ジャネット・ヘンリーなのよ」思いもよらぬ嬉しいことを打ちあけるようないいかただった。
ネド・ボウモンは、寝がえりを打って、看護婦から顔をそむけ、眼をとじた。口の隅が、ピクピクと引きつれた。しかし、声にはなんの表情もなかった。「まだ眠ってるって、そういってくれ」
「そんなわけには行かなくてよ。おしゃべりが聞こえてなくたって、おやすみでないことぐらい、もうわかってるわ――眠ってらしたら、わたしが、こんなにぐずぐずしてるはずないもの」
ネド・ボウモンは、大げさに唸って見せ、頭をもたげ、肘まくらをついた。「あんな女など、またべつのときに来てもらえばいいんだ。追っぱらってくれればよかったのに」
看護婦は、さげすむような眼つきで見ながら、皮肉たっぷりに、「だって、あなたをお見舞いに来る女の人たちを追っぱらうためには、病院の玄関で、お巡りさんに張り板をしてもらわなければならなかったのよ」
「まったくやれきれんよ。君なんか、しょっちゅうグラヴィア欄に写真の出る上院議員の娘を見れば、ワクワクするかもしれんが、おれみたいに、あの連中にしつこくつけまわされた経験はないんだからな。あの連中や、茶色のグラヴィア欄のおかげで、おれの人生はみじめなもんだよ。上院議員の娘は、いつだって上院議員の娘さ、下院議員の娘でもなければ、閣僚の娘でも、市会議員の娘でもない。上院議員の娘ばかりが、ウヨウヨしていやがる。君は、上院議員のほうが、よっぽど子沢山だと思うかね?」
「そんなこと、ちっとも面白くなくてよ。自分勝手なことばかりいって。いいわ、とにかくお通しするわ」看護婦は、部屋を出て行った。
ネド・ボウモンは、深い息を吸った。眼がキラキラ光った。くちびるを湿《しめ》らして、キッと結んだまま、こっそり笑い出しそうな顔になったが、ジャネット・ヘンリーが部屋に入って来たときには、仮面をかぶったように取りすましていた。
ジャネット・ヘンリーは、まっすぐベッドのそばまで来た。
「まあ、ボウモンさん、もうすっかりおよろしいってうかがったものだから、わたくし、嬉しくなっちゃって、お見舞いに来ずにはいられなかったのよ」片手を男の手にのせて、笑顔を見せた。女の眼は、濃茶色というほどでもないのだが、金髪に肌も白いので、実際よりも濃く見えた。「だから、来てはいけなかったとしても、ポウルを責めないでね。わたくしからせがんで、連れて来てもらったんですもの」
ネド・ボウモンは、女の顔に微笑をかえした。「いや、わざわざ来て下すってありがとう。ご親切は、嬉しく思いますよ」
ジャネット・ヘンリーの後から、部屋に入って来たポウル・マドヴィグは、ベッドをまわって、反対側に来ていた。やさしい眼を、女からネド・ボウモンに移して、「そうだろう、ネド? この人にもそういったんだよ。今日は、具合はどうだね?」
「順調だよ。そこらの椅子を引っぱって来たまえ」
「いや、ゆっくりできないんだ。グランドコートで、マクローリンと会うことになっているんでね」
「でも、わたくしはいいのよ」ジャネット・ヘンリーは、また笑顔をネド・ボウモンに向けた。「わたくし、お邪魔していけません――ほんのしばらく?」
「結構ですとも」
ベッドをまわって、女のために椅子をはこんで来たマドヴィグが、晴れ晴れとした面《おも》もちで、二人の顔を見くらべた。
「そいつは好都合だ」女が、ベッドのわきに進めた椅子に腰をおろし、黒い外套を椅子の背にかけると、マドヴィグは自分の時計をのぞいてみてつまらなそうな声を出した。「おれは、もう行かなきゃならん」ネド・ボウモンの手を握って、「なにか用はないかね?」
「ありがとう、べつにないな」
「じゃあ、ご機嫌よう」金髪男は、ジャネット・ヘンリーのほうに向き直りかけたのを途中でやめて、またネド・ボウモンに話しかけた。「マクローリンとは、こんどがはじめてなんだが、どのへんまで深入りしてかまわんだろうか?」
ネド・ボウモンは、両ほうの肩を少し動かして見せた。「そりゃあ、むきだしにはっきりものをいわん限り、どこまでだって好きなだけ深入りしていいさ。あんまりはっきりいうと、ビックリしてしまうからな。しかし、それとなく遠まわしないいかたをすれば、あの男を使って、人を殺させることだってできるぜ。たとえば、『どこそこに、スミスだかなんだかって名の男がいるんだが、そいつが、病気だかなんだかで、二度と動けないようになったら、おれんとこに寄ってみな。うまく行けば、お前に宛てた封筒が来ていて、その中に、大《たい》まい五百ドル入っていないともかぎらんよ』てなことでね」
マドヴィグはうなずいた。「べつに人を殺してもらいたいとは思わんが、鉄道関係の票をなんとかしたいのでね」顔をしかめて、「君が起き上がれるようになってくれるといいんだがなあ、ネド」
「もう一日か二日の辛抱だ。ところで、今朝の『オブザーヴァー』紙を見たかね?」
「いや、見ないよ」
ネド・ボウモンは、部屋の中を見まわした。「誰かがもって行っちまったな。第一面のドまん中に、枠でかこんで、デカデカと汚ならしい社説が出ていやがるんだ。『この事態に対して、市政当局は、いかなる手を打たんとするのか?』という見出しでね。わが市は、犯罪波に襲われているってわけで、この六週間の犯罪統計が出ている。それよりもずっと少ない数の、逮捕された人間のリストがならんでいて、警察がいかに無能であるかを示している。ギャーギャーわめき立てている大部分は、テイラー・ヘンリー殺しの一件のことだ」
自分の兄の名が出ると、ジャネット・ヘンリーは身をすくめ、声を出さずにあえぐように、くちびるを半分あけた。マドヴィグは、女の様子に気がついて、あわててネド・ボウモンに、もうよせというように、頭を振って見せた。
ネド・ボウモンは、自分の言葉が、ほかの人たちにあたえた影響には委細《いさい》かまわず、話をつづけた。「まるで死にもの狂いなんだ。その殺人事件を一週間も放ったらかしにして、政治関係で有力なばくち打ちの一人が、ほかのばくち打ちとのいざこざを片づけるため、その事件を利用するにまかせたといって、警察を非難している――こいつは、おれが自分の金を取りかえしに、デスペインを追っかけた一件のことだ。ヘンリー上院議員は、新しく手を握った同志が、自分の息子の非業の死をそういう目的に利用したことについて、どう考えているのか、と不審を投げかけている」
マドヴィグは、顔を赤らめながら時計をまさぐって、口早やに、「どこかで手に入れて、読んでみよう。いずれにしろ、おれは――」
「それに――」ネド・ボウモンは、平気な顔で、先へ進んだ。「警察が――今までなん年もの間、保護を加えていたのに――莫大な政治献金を出すことを承知しなかった人物の所有するもぐり酒場に手を入れたことを非難している。あんたが、シャド・オロリーにしかけた喧嘩が、そんなふうに解釈されているわけだ。そして、所有者が政治献金を承知したという理由で、あい変わらず営業を許されている酒場のリストの掲載を予告している」
マドヴィグは、居ごこちが悪そうに、「まあ、そのくらいでいい」とつぶやき、ジャネット・ヘンリーに、「じゃあ、さよなら。ゆっくりしたまえ」と、ネド・ボウモンには「また来るよ」と、それぞれことばをのこして出て行った。
ジャネット・ヘンリーは、椅子の上で、前のほうにのり出した。「なぜ、わたくしを好きになって下さらないの?」ネド・ボウモンに訊ねた。
「好きになっているかもしれませんよ」
女は、頭を振った。「うそよ。わかっているわ」
「あんたには、ぼくみたいに行儀の悪い人間は、がまんができませんよ」
「好きになって下さらないのね」相手の微笑にはこたえずに、「わたくしは、好きになっていただきたいのよ」
「なぜです?」おとなしく訊きかえした。
「あなたが、ポウルの一番のお友だちだからなの」
「ポウルには」ながし眼に女の顔を見ながら、「どっさり友だちがありますよ。政治家ですからね」
女は、いら立たしそうに、頭を振った。「一番のお友だちはあなたなのよ」しばらく間をおいてから、「あの人は、そう思っているわ」
「そういうあんたは、どう思ってるんです?」まじめだか冗談だかわからないような訊きかただった。
「わたくしだって同じだわ」女のほうはまじめだった。「そうでなければ、あなたも、こんな目に会ってやしなくてよ。あの人のために、あれほどのことまでして下さるはずはないわ」
男の口が引きつれて、弱々しい微笑になった。なにもいわなかった。
男が、口を開こうとしないのがはっきりすると、女は熱心な口調で、「あなたのほうでかまわなければ、わたくしを好きになって下さるといいのに」
「好きになっているかもしれませんよ」男は、同じことばをくりかえした。
女は頭を振った。「うそだわ」
男は、女に笑いかけた。若々しい魅力にみちた笑顔だった。はにかむような眼だった。若さの内気と人なつっこさとがいっしょになったような声で、「ヘンリーさん、あんたが、なぜ、ぼくのいうことをうそだと思うのか、ぼくが教えて上げましょう。ぼくが、あんたなどから見れば、ドン底といってもいいようなところから、ポウルに拾い上げてもらったのは、ほんの一年かそこら前のことです。だもんだから、ぼくは、あんたがたのような、社交界だとか、新聞のグラヴィア欄だとか、まるでちがった世界に属している人たちと一しょにいると、おどおどしちまって、へまばかりやらかすんです。そこであんたは、そういう――なんというか、つまり、不器用さを、まるで見当ちがいの敵意と取りちがえているんですな」
女は立ち上がった。「からかっていらっしゃるのね」べつに怒っている様子はなかった。
女が行ってしまうと、ネド・ボウモンは頭をまくらののせて、ギラギラと光る眼で、天井をにらみつけた。
看護婦が入って来た。「いったい今までなにをしてらしたの?」
ネド・ボウモンは頭をもたげて、すねたような眼で看護婦を見たが、なにもいわなかった。
「あの女のかた、今にも泣き出しそうな顔で、出て行ったわ」
ネド・ボウモンは、頭をまたまくらの上におろした。「おれも、どうやら腕がにぶったようだな。いつもなら、上院議員《セネタ》の娘ぐらい泣かしちまうんだがね」
四
中背の若いキビキビした、つやのある浅黒い、どちらかといえばきれいな顔の男が入って来た。
ネド・ボウモンは、起き上がってベッドの上に坐った。
「よう、ジャックか」
ジャックは、「思ったほど悪くもなさそうだな」といいながら、ベッドのわきまで進んで来た。
「うん、まだ、なんとかバラバラにならずにいるよ。椅子を引っぱって来たまえ」
ジャックは腰をおろして、たばこの包みをとり出した。
「頼まれて欲しい仕事があるんだ」ネド・ボウモンは、まくらの下に手をつっこんで、封筒を引っぱり出した。
ジャックは、たばこに火をつけてから、ネド・ボウモンの手の封筒を受け取った。なんの飾りもない白い封筒だった。宛名は、聖路加病院内ネド・ボウモン、二日前の消印がおしてある。ジャックは、中身のタイプで打った一枚の紙を引き出して読んだ。
[#ここから1字下げ]
君は、シャド・オロリーが、あれほど知りたがっていたポウル・マドヴィグのことについて、どれだけ知っているのか?
それは、テイラー・ヘンリー殺害事件と、関係がありでもするのか?
関係がないとすれば、なぜ君は、その秘密を守るために、あんなにまでしなければならないのか?
[#ここで字下げ終わり]
ジャックは、紙をたたみ直して、封筒にもどしてから、顔を上げた。「意味のあることなのかね?」
「わからんな。これを書いた人間を突きとめてもらいたいんだ」
ジャックはうなずいた。「あずかっといていいかね?」
「いいよ」
ジャックは、封筒を自分のポケットにおさめた。「誰が書いたか、ちっとは心当たりでもあるのかね?」
「それが、全然ないのさ」
ジャックは、たばこの火のついた先を調べるように見た。「なにか企《たくら》みがあるね」
「うん、あるようだ。おれにいえるのは、先週のうちにそういったのが、ずいぶん沢山――というか、幾通も出まわっているということだけだ。そいつは、おれの受け取った三通目だ。ファーが、少なくとも一通受け取っていることはわかっている。ほかに誰が受け取ったか、それは知らん」
「ほかのやつを見せてもらえるかね?」
「おれの手もとにあるのは、そいつだけなんだ。しかし、どれもこれも、そっくり似ているね――同じ紙に、同じタイプライターで、同じ問題について、それぞれ三つの質問がならべてあるんだ」
ジャックは、さぐるような眼つきでネド・ボウモンの顔を見た。「といっても、みんながみんな、同じ質問というわけではあるまい?」
「うん、同じじゃないが、ねらっているのは、みんな同じだ」
ジャックはうなずいて、たばこをふかした。
「わかってるだろうが、この件は、絶対に秘密をまもってくれ」
「わかってるとも」ジャックは、口からたばこを放した。
「そのねらっている点というのは、例の殺人事件とマドヴィグとの関係なんだな?」
「そうだ」ネド・ボウモンは、キビキビした浅黒い若者の顔を、まっすぐな眼でみつめた。「しかし、実際には、そんな関係などありゃしないんだ」
ジャックの浅黒い顔にうかんだ表情からは、なんの意味も汲みとれなかった。「うまくやれるかどうか、まだわからんが」といって立ち上がった。
五
看護婦が、大きな果物《くだもの》かごをはこびこんだ。「すてきじゃなくて?」といいながら、かごをおろした。
ネド・ボウモンは、用心深くうなずいた。
看護婦は、果物かごから小さな、かたい封筒を取った。「きっとあのかたからだわ。かけてもいいことよ」その封筒をネド・ボウモンにわたした。
「なにをかける?」
「なんでも、おのぞみのものを」
ネド・ボウモンは、もやもやとしていたものがはっきり確かめられたようにうなずいた。「そうか、君は見たんだな」
「あら、だって、あなた――」相手が笑い出したので、途中でつまってしまったが、腹を立てたような顔つきは残った。
ネド・ボウモンは、封筒からジャネット・ヘンリーの名刺を取り出した。「お願い!」と一語だけ書いてあった。名刺に向かって顔をしかめながら、「君の勝ちだ」といって、名刺で親指の爪を軽くたたいた。「おれは、もう見ただけで、おなかが一ぱいになったから、君の欲しいだけもって行きたまえ」
その午後遅く、手紙を書いた。
[#ここから1字下げ]
ヘンリーさん
あなたの度重なるご親切――まず、わざわざお見舞いいただいたこと、それから、果物かご――には、ぼくも、まったく圧倒されてしまいました。なんとお礼を申し上げてよいやら、とほうにくれておりますが、いつかまた、ぼくの感謝の気もちを、もっとはっきりお見せできる日もあろうかと思っています。
ネド・ボウモン
[#ここで字下げ終わり]
書きおえて、読みかえしてから、破きすて、またべつの紙に書きあらためた。使った字句は同じだが、文章をならべかえて、最後の結びが、「ぼくの感謝の気もちを、もっとはっきりお見せできる日も、いつかまたあろうかと思っています」となるようにした。
六
今朝は、湯上りのガウンにスリッパを穿《は》いたネド・ボウモンが、病室の窓ぎわのテーブルに向かって、朝めしを食べながら『オブザーヴァー』紙を読んでいるところへ、オパル・マドヴィグがやって来た。新聞をたたんで、記事の面を下に、盆のそばに置いて立ち上がった。「やあ、おチビさん」その顔は青かった。
「なぜ、ニュー・ヨークから帰って来たときに、電話をかけてくれなかったの?」女の子のいいかたには、責めるような調子があった。女の子の顔も青かった。その青さが、子供っぽい肌のきめをきわだたせてはいるが、かえってそれが、顔を齢よりも老けて見せた。青い眼は、大きく見ひらかれ、感情のたかまりのせいで、色が濃くなっているけれども、表情は読みとれなかった。しなやかに、足もとの安定よりはむしろ、動きのバランスに自信のある人のように、スラリと立っている。ネド・ボウモンが、壁ぎわからはこんで来た椅子には眼もくれずに、「なぜ、かけてくれなかったの?」とくりかえした。きめつけるような訊ねかただった。
ネド・ボウモンは、いたわるように、そっと笑った。「君は、その茶色を着るとすてきだな」
「ねえ、ネド、お願いだから――」
「君の家に訪ねるつもりだったんだが、帰って来てみると、いろんなことがもち上がっていたし、いない間に、いろいろゴタゴタがあったもんだから。それに、そんなこんなが片づいたころには、シャド・オロリーと鉢合わせをして、こんなところに、送りこまれちまったのさ」
男の軽やかな口のききかたも、女の子の重々しい態度を変えさせなかった。
「デスペインとかって人、死刑になりそうなの?」
男は、また笑った。「そんなもののいかたをしたって、なんの役にも立たんよ」
女の子は、顔をしかめた。「ねえ、どうなのよ、ネド?」横柄な調子は減った。
「死刑にはならんだろうな」頭を小さく振りながら、「結局、テイラーを殺したのは、あの男じゃなさそうだからね」
女の子は、ビックリしたらしくもなかった。「そのことは、あたしに、あの人に不利な証拠を手に入れてくれって頼んだときに、もうわかっていたの?」
とがめるように微笑をうかべて、「むろん、わかってなどいるもんか。おれのことを、なんだと思っているんだね、おチビさん?」
「わかってたんだわ」女の子の声にも眼にも、冷たい非難がこもっていた。「あなたは、自分のお金をとりかえしたかっただけなのよ。そのために、あたしに手伝わせてテイラー殺しを利用したんだわ」
「どうとでも、勝手に思いなよ」突き放すように、そっけなくこたえた。
女の子はひと足、男に詰めよった。ほんの束の間、あごの先がかすかにふるえたが、やがてまた、若々しい顔は、かたく引きしまった。「誰が殺したのか知ってるの?」相手の眼をさぐるように、じっとみつめた。
男は、ゆっくりと頭を振った。
「パパは?」
男は、眼をしばたたいた。「ポウルが、犯人を知っているか、と、そういうの?」
女の子は、じだんだを踏んだ。「いいえ、パパが、あの人を殺したのかってきいてるのよ」大きな声を出した。
男は、片手を女の子の口に押し当てた。眼は、す早く、閉じたドアのほうへ向けられていた。押し殺した声で、「黙りたまえ」
女の子は、両手で男の手から顔をもぎ離して、後にさがった。「パパがしたの?」
怒りのこもった低い声で、「君の馬鹿は仕かたがないにしても、そんなことを、あたりかまわずわめきまわるのだけはやめたほうがいいぜ。君が、どんなアホらしいことを考えているにしたって、口に出さずにいるかぎりは誰も気にする人はいないが、口に出してしゃべってはいかん」
女の子の眼は、大きく見ひらかれ、色が濃くなった。「やっぱり、パパなのね」抑揚のない小さな声だったが、動かせない確信がこもっていた。
男は、女の子のほうに、顔を突き出した。「ちがうよ」怒りを含んだ甘ったるい声で、「パパは、あの男を殺さなかったよ」
顔を、もっと女の顔に近づけた。その顔は、意地の悪い微笑にゆがんだ。
女の子は、少しもたじろがずに、きっぱりと心を決めた顔と声で、「パパがしたのでないのなら、あたしが何をいおうが、どんな大きな声を出そうが、ちっともかまいやしないじゃないの。あたし、さっぱりわからないわ」
男の口のはしが引きつれて、冷笑となった。「君にわからないことなら、自分でもビックリするくらいどっさりあるさ」怒ったような声だった。「そんなふうにすねているんなら、いつまでたったってわかるもんか」大またにうしろにさがって、握りしめたままの両手を湯上りガウンのポケットに突っこんだ。口をへの字に結び、額には、しわが寄っていた。細めた眼で、女の子の足もとの床をみつめている。「そんな馬鹿な思いつきを、いったいどこで仕入れて来たんだね?」
「ちっとも馬鹿な思いつきじゃないわ。知ってるくせに」
男は、いらいらしたように肩を動かして見せた。「どこで仕入れて来たんだ?」
女の子も、両肩を動かした。「どこからも仕入れて来やしなくてよ。あたし――あたし、急にわかったのよ」
「馬鹿な!」額ごしに、女の子の顔を見て、「今朝の『オブザーヴァー』を見たかね?」
「見ないわ」
男は、疑うようなかたい眼で、女の子の顔をみつめた。
女の子の顔は、困ったようにほんのり赤らんだ。「ほんとに見なかったわ。なぜ、そんなことを訊くの?」
「ほんとかね?」信用しないようないいかただったが、眼からは不信の色が消え去っていた。陰気な、考えこむような眼だった。その眼が、ふいに輝いた。右手をガウンのポケットから出した。その手を、手のひらを上に向けて、女の子のほうに差し出した。「手紙を見せたまえ」
女の子は、まるい眼をして、男の顔をみつめた。「なにを?」
「手紙さ。タイプで打った――質問を三つならべた。サインのない手紙だよ」
女の子は、男の視線を避けて、眼を伏せた。表情が、ほんの少し当惑に乱れた。しばらくためらってから、「どうして知ってるの?」と訊きかえして、茶色のハンドバッグをあけた。
「町じゅうの人が、一通は受け取っているよ。それが、はじめてかね?」
「そうよ」女の子はクシャクシャにまるめた紙きれを、男にわたした。
男は、紙きれのしわをのばして読んだ。
[#ここから1字下げ]
君は、ほんとうに、自分の父親が、君の愛人を殺したことを知らないほど馬鹿なのか?
それを知らないのなら、なぜ君は、父親とネド・ボウモンが、その罪を無実の人間になすりつけようとするのを手伝ったのか?
君は、父親が罪を逃れようとするのを手伝えば、君自身が共犯者となることを知っているか?
[#ここで字下げ終わり]
ネド・ボウモンは、うなずいて、軽い微笑をうかべた。「どれもみんなよく似ているな」紙きれをまるめて、テーブルのそばの紙屑かごの中に投りこんだ。「君の名は、名簿にのっているから、きっともっと受け取るぜ」
オパル・マドヴィグは、下くちびるを噛んだ。青い眼が、冷たく光った。その眼は、ネド・ボウモンのとりすました顔を仔細《しさい》にさぐった。
「オロリーは、その事件を、選挙戦に利用しようと企んでいる。おれとあの男とのいざこざを知っているだろう。その起こりは、あいつが、おれが君のお父さんと仲間割れしたので、殺人事件の罪をお父さんになすりつけるのを手伝ってもらえる――少なくとも、お父さんの票数をぶんどるぐらいには――と思いこんだのに、おれのほうで、いうことをきかなかったせいなんだがね」
女の子の眼は変わらなかった。「父さんと、なにを喧嘩したの?」
「ほんとに喧嘩をしたとしたって、そんなことは、おれたちの間だけのことだよ、おチビさん」
「だって、カースンの酒場で、ほんとに喧嘩をしたじゃないの」歯をカチリといわせて、思い切ったように、「父さんが――父さんが、テイラーを殺したことがわかったもんだから、そのことで口論したんだわ」
男は声を出して笑い、からかうような口調で、「すると、それまでおれは、そんなことを、ちっとも知らなかったことになるのじゃないかね?」
その冗談めかしたいいかたにも、女の子の表情は動かなかった。「さっきは、なぜ、『オブザーヴァー』を読んだかって訊いたの? なにが出ていて?」
「同じような馬鹿げたことが、もっとどっさり出ているよ。見たいのなら、そこのテーブルの上にあるぜ。選挙がすむまでは、あとからあとから、いくらでも出るね。君のいってることだって、似たようなことだ。君が、そんなデマをうのみにすれば、自分の父さんを、思いきり痛い目に会わせるような――」女の子がきいていないので、じれったそうな身振りをして、途中で口をつぐんだ。
女の子はテーブルのところに行って、新聞をとり上げていた。
男は、面白そうに女の子の背中に微笑を向けた。「第一面だよ。『市長への公開状』だ」
読み進むにつれて、女の子の膝や、手や、口が、小きざみに震えはじめたので、ネド・ボウモンは眉をひそめて、気づかわしげに女の子を見まもったが、女の子が読みおわって、新聞をテーブルの上に落とし、まともにふりかえったときには、女の子のスラリとのびたからだも、美しい顔も、まるで銅像の顔のように、シッカリとしていた。女の子は、くちびるをほんのわずかだけ動かして、低い声で話しかけた。
「ほんとのことでなかったら、あんなことを堂々と書くわけないわ」
「ふたをあけてみるまでは、いったり書いたりすることには、なんの意味もないさ」面白がっているようないいかただったが、その眼の光のうちには、辛《かろ》うじて抑えつけている怒りのきらめきが、ほの見えていた。
女の子は、しばらくの間、男の顔をじっとみつめてから、なにもいわずに、ドアのほうへ行きかけた。
「待ちたまえ」
女の子は立ちどまって、また向き直った。男の微笑には、今度はとり入るような愛想のよさがあった。女の子の動かない顔は、赤らんでいた。
「政治ってものは、こんどの選挙を見てもわかるように、なかなか骨の折れるゲームなんだよ、おチビさん。『オブザーヴァー』は、垣根のあっち側の新聞だから、ポウルを痛めつけるようなネタなら、真実であろうがなかろうが、そんなことは、大して気にかけやしない。連中は――」
「信じられないわ。あたし、マシューズさんを知ってるわ――あの人の奥さんは、学校で、ほんの二、三年先輩で、あたしたち、お友だちだったのよ――だから、ほんとでないかぎり、さもなければ、ほんとと思っていい理由がないかぎり、パパのことを、あんなふうに書いたりするとは思えないわ」
ネド・ボウモンはクックッと笑いをもらした。「なるほど、ずいぶんよく知っているわけだね。マシューズは、借金で首がまわらないんだ。その男の新聞社も、自宅も、借金の抵当として、ステート・セントラル信託会社におさえられている。ステート・セントラルは、ビル・ローンの持ち物だが、そのビル・ローンが、ヘンリーと上院議員を争っているのだ。マシューズは、いわれた通りに動き、印刷しろといわれたことを、そのまま印刷しているだけだよ」
オパル・マドヴィグは、黙っていた。ネド・ボウモンのいう理由を納得したらしい様子は、少しもなかった。
ネド・ボウモンは、もの柔らかな、説きつけるような口調で、話を進めた。「こういったものは」――テーブルの上の新聞を指でさしながら――「これから後のことにくらべると、なんでもありゃしないよ。連中は、もっと深刻な新手を思いつくまで、こうやって、テイラー・ヘンリーの幽霊をこけおどしに使うつもりなんだ。選挙がすむまでは、同じような記事を、いやというほど読まされるだろうね。おれたちは馴れっこになって、平気な顔をしているほうがいい。とりわけ、君なんかが、こういう代《しろ》ものを気にするようでは困りものだ。いずれにしろ、ポウルはたいして気にかけやしないよ。なんといったって、政治家だし――」
「人殺しだからね」女の子は、低い、しかしはっきりとした声で、口をはさんだ。
「その娘は、うすのろと来ていやがる」ネド・ボウモンは、カンを立てたような大声を出した。「いい加減、そんな馬鹿なことをいうのはやめてくれんか」
「父さんは、人殺しだわ」
「まるで気狂いだ。いいかね、おチビさん、君のお父さんはテイラー・ヘンリー殺しとは、まるっきりなんの関係もないんだ。お父さんは――」
「あたし、あなたを信用できないの」女の子は、生《き》まじめないいかたをした。「これからも、決して信用しないわ」
男は、女の子の顔をにらみつけた。
女の子は身をかえして、ドアのほうへ行った。
「待ちたまえ。おれは――」
男の声をふりもぎるように、女の子は部屋を出て、ドアをしめた。
七
女の子のしめて入ったドアをにらみつけるネド・ボウモンの怒りにゆがんだ顔は、重々しく思いにふける表情に変って行った。額には、深いしわがきざみこまれた。黒い眼は細まり、心の内側に焦点を合わせた。口ひげの下のくちびるはすぼまった。しばらくすると、指を口にもって行って、爪を噛みはじめた。息づかいは規則正しいが、いつもより深かった。
ドアの外に、足音がきこえた。考えこむ表情をあっさり消して、『|小ちゃな迷児ちゃん《リトル・ロスト・レディ》』の曲を鼻でうたいながら、ブラブラと窓のほうに歩いた。足音は、ドアの前を通りすぎた。鼻うたをやめて、からだをかがめ、オパル・マドヴィグに宛てた、三箇条の質問を書き記した紙きれを拾い上げた。しわをのばしもせずに、まるまったまま、湯上りガウンのポケットに突っこんだ。
葉巻をさがし出して火をつけ、歯の間にくわえたまま、テーブルのわきに立ちどまり、そこにひろげたままになっている『オブザーヴァー』の第一面を、煙りにすかすようにして見おろした。
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市長への公開状
『オブザーヴァー』紙は、今般、テイラー・ヘンリー殺害事件をめぐる謎の解決に、はかり知れぬ重要性を有すると信じられる、ある種の情報を入手した。
この情報は、数通の宣誓供述書に作成された上、現に、『オブザーヴァー』紙名義の保護預金庫に、厳重保管されている。これらの宣誓供述書の内容を要約すれば、次の如くである。
一 ポウル・マドヴィグが数ヶ月前、自分の娘との関係について、テイラー・ヘンリーと口論し、娘にヘンリーと会うことを禁止したこと。
二 それにもかかわらず、ポウル・マドヴィグの娘が、その目的で借りた調度つきの貸室で、テイラー・ヘンリーと密会をつづけていたこと。
三 二人が、テイラー・ヘンリーの殺害された当日の午後、その調度つき貸室で、共に過ごしたこと。
四 事件の当夜、ポウル・マドヴィグが、テイラー・ヘンリーの自宅に訪れ、当人に、もしくは、当人の父親に、再度抗議を申し入れたと推測されること。
五 ポウル・マドヴィグが、テイラー・ヘンリー殺害の数分前、ヘンリー宅を辞去するに当たり、ひどく立腹の様子であったこと。
六 ポウル・マドヴィグと、テイラー・ヘンリーとが、それぞれ死体の発見より十五分とさかのぼらぬ時刻に、互いに半ブロックと隔てぬ地点で目撃され、両地点とも死体発見の現場より、一ブロックとは隔たっていないこと。
七 警察当局が現在のところ、未《いま》だ、ただ一人の刑事をもテイラー・ヘンリー殺害犯人の捜査に従事せしめておらぬこと。
『オブザーヴァー』紙は、貴下、ならびに有権者および納税者が、これらの諸事実を承知していることと信じている。『オブザーヴァー』紙は、正義の裁きの下されることを望むほか、なんらの意図も動機もない。『オブザーヴァー』紙は、これらの宣誓供述書、ならびにそのほかの現に所有するすべての情報を、貴下、もしくは市、または州の有資格公務員に提供する機会のあたえられることを歓迎し、かつ、公正な処置に必要であることが明かにされるならば、これらの宣誓供述書の内容の一部、もしくは全部の発表見合わせの要求にも、よろこんで応ずるものである。
しかしながら、『オブザーヴァー』紙は、これらの宣誓供述書の内容を構成する情報が無視されるようなことがあれば、断じて容赦しないであろう。もし本市、または本州において法令を執行すべく選出され、あるいは任命された公務員が、これらの宣誓供述書を軽視し、必要な行動を怠るならば、『オブザーヴァー』紙は、その全部をあますところなく発表して、本市市民の判定にゆだねるであろう。
『オブザーヴァー』発行人
H・K・マシューズ
[#ここで字下げ終わり]
ネド・ボウモンは、あざ笑うような声を出して、この気負い立った宣誓書に、葉巻の煙りを吹きかけたが、眼は、あい変わらず陰気だった。
八
その午後早く、ポウル・マドヴィグの母親が、ネド・ボウモンに会いに来た。
母親は、両腕をまわして額にキスを押しつけるネド・ボウモンを、わざと乱暴に押しのけた。「およしよ。人夫上がりのポウルのほうが、よっぽどお行儀がいいよ」
「ぼくだって、おやじのほうは、人夫でしたからね」ネド・ボウモンは、うしろにまわって、|あざらし皮《シール・スキン》の外套を、手つだってぬがせた。
母親は、黒いドレスの具合を直して、ベッドの上に腰をおろした。
ネド・ボウモンは、外套を椅子の背板にかけ、ガウンのポケットに両手をつっこんだまま、両足をひらいて母親の前に立った。
母親は、様子をしらべるように、ジロジロと見上げ、見おろした。やがて「大して悪くもなさそうだけど、まだほんとによくはないようだね。気分はどうなの?」
「すばらしいんですがね。看護婦がうるさいもんだから、まだここで、ぐずぐずしているだけなんですよ」
「そりゃあ、あたりまえだよ、お前さん。だけど、そんなとこにつっ立って、ニヤニヤするのはよしておくれ。気もちが悪いじゃないの。お坐りよ」母親は、ベッドの自分の横をたたいて見せた。
ネド・ボウモンは、母親のそばに腰をおろした。
母親が、「ポウルは、お前さんが、なんだか知らないが、大変立派なことをしたように思ってるらしいけど、わたしはお前さんが、じっとおとなしくしていたって、どうせ今度みたいなことになったんだからと、いいわけみたいなことをいっても承知できないよ」
「だって、お母さん――」ネド・ボウモンはいいかけた。
母親は、それをさえぎった。息子と同じぐらい若く見える青い眼が、ネド・ボウモンの茶色の眼を、突き刺すようにみつめた。「ねえ、ネド、あの憎たらしい若僧を殺したのは、ポウルじゃないんだろうね?」
ネド・ボウモンは、ビックリしたように、眼を大きくひらいて、口をポカンとあけた。
「ちがいますよ」
「そうだろう、わたしも、そう思っていたよ。いつだって、あの子はいい子だものね。でも、なんだか汚ならしい噂《うわさ》がひろまっているってきいたよ。政治なんて、裏っかわでどんなことになっているか、神さまだってご存じないからね。ほんとに、なにもかも見当もつかないよ」
ポウルの母親の骨ばった顔をみつめるネド・ボウモンの眼には、驚きと上機嫌とがまじり合っていた。
母親は、「いくらでも、ひとの顔をじろじろ見るがいいよ。だけど、わたしなんか、お前さんがたがなにを企んでいようと、深く考えもせずになにをやろうと、ちっとも知らせてもらえないんだからね。わたしはお前さんの生まれるよりもっと前から、ひとのことを詮索《せんさく》するのは、すっかりあきらめちまったよ」
「まったく、すばらしいお母さんですね」ネド・ボウモンは、母親の肩をたたいた。
母親は、ネド・ボウモンの手から、からだをのけて、また、激しく突き刺すような眼を向けた。「お前さん、もしあの子が殺したのだったら、わたしに教えてくれるだろうね?」
ネド・ボウモンは、頭を振って見せた。
「だったら、あの子じゃないってことを知りようがないじゃないの」
ネド・ボウモンは、声を出して笑った。「もし、ポウルがやったのだとしても、ぼくは、『ノー』といいますよ。しかし、その場合には、お母さんがほんとのことを教えてくれとお頼みになったら、ぼくは、『イエス』といいます」眼と声とから、陽気さがなくなった。「犯人は、ポウルじゃありません」くちびるだけでかすかに笑って見せた。「ぼく以外に、土地の人間でポウルのことを犯人じゃないと考えてくれる人がいるといいんですがね。その人がお母さんだったらこの上なしなんですがね」
九
ミセス・マドヴィグが帰って行ってから一時間たつと、書物が四冊と、ジャネット・ヘンリーの名刺の入った包みが届いた。礼状を書いているところへ、ジャックがやって来た。
ジャックは、ことばといっしょに、たばこの煙りを吐き出した。「手がかりがあったように思うんだ。あんたの気に入るかどうかはわからんが」
ネド・ボウモンは、キビキビした若い男に、考えこむような眼を向けて、人さし指で口ひげの左半分をなでつけた。
「頼まれただけのことを果たしてくれたのなら、気に入るも入らんもないさ」その声は、ジャックの声と同様、いたって事務的だった。「まあ、腰をおろしたまえ。話をきこう」
ジャックは、用心深く腰をおろして脚を組み、帽子を床の上に置いて、たばこからネド・ボウモンに眼をうつした。
「例の妙な手紙は、どうもマドヴィグの娘が書いたらしいんだがね」
ネド・ボウモンの眼は、少し大きくなったが、それもほんの束《つか》の間《ま》だった。顔の色がいくぶん褪《あ》せて、息《いき》づかいが乱れた。声には、なんの変わりもなかった。「どういうことから、そう思えるんだね?」
ジャックは内ポケットから、大きさも質もよく似た、同じように折りたたんだ二枚の紙きれをとり出した。ネド・ボウモンは、その紙きれを受け取ってひろげた。どっちの紙きれにも、タイプライターで打たれた同じ三箇条の質問がならんでいた。
「その片いっぽうは、昨日《きのう》、あんたから預かったやつなんだが、見わけがつくかな?」
ネド・ボウモンは、ゆっくりと頭を振った。
「まるでちがわんだろう。片いっぽうは、おれが、チャーター街のテイラー・ヘンリーがマドヴィグの娘と会うために借りていた部屋で作ったんだ――そこにあったコロナのタイプライターと、そこにあった紙を使ってね。心当たりをあたってみたが、その部屋の鍵は、二つしかないから、男と女とで、ひとつずつもっていたんだ。娘のほうは、男が殺されてからも少なくとも二度は来ている」
ネド・ボウモンは顔をしかめて、両手の紙きれを見くらべながら、眼を上げずにうなずいた。
ジャックは、新しいたばこに火をうつして立ち上がり、テーブルのそばまで行って、古い吸いがらを、灰皿の中に押しつぶし、また自分の席にもどった。その顔にも態度にも、ネド・ボウモンの示した反応に興味を感じているようなところは少しもなかった。
それからしばらく沈黙がつづいた後、ネド・ボウモンが、顔を少し上げた。「これがどうしてわかったのかね?」
ジャックは、たばこを口のへりにくわえた。それが、ものをいうたびにピクピクと動いた。「今朝の『オブザーヴァー』に、その貸部屋のことが出ていたので思いついたんだがね。警察も、同じ記事から思いついて、おれより先まわりしていたよ。ところが、おれは運がよかった。監視に残された警官が、おれの友だちだったんだ――フレッド・ハーリってやつでね――十ドルつかませたら、好きなだけ部屋さがしをやらせてくれた」
ネド・ボウモンは、手にもった紙きれをガサガサいわせた。「警察は、こいつを知っているのか?」
ジャックは、肩をすぼめて見せた。「おれは、そんなことしゃべりゃしないがね。ハーリのやつにかまをかけてみたがなにひとつ知ってやしなかった。――次の段取りを決《き》めるまで見張りに置いとかれているだけなんだ。連中は、知ってるかもしれん、知らんかもしれん」たばこの灰を床に振り落して、「さぐればさぐれるぜ」
「いや、いいよ。ほかに、なにかあったかね?」
「ほかにって、べつにさがしもしなかったがね」
ネド・ボウモンは、色の黒い若者の、謎を包んだような顔をチラッと見てから、また紙きれに眼を落した。「どんな場所だね、そこは?」
「チャーター街の一三二四番地だ。そこに、フレンチという名で、浴室つきの部屋をひとつ借りていたんだ。管理人の婆さんにきいてみたが、今日警察からやって来るまでは、借り手の素性をまるっきり知らなかったそうだ。ほんとに知らなかったのかもしれん。よけいな詮索をしないような、あいまいな宿だからな。二人は、たいがいは午後にしょっちゅう来ていたらしい。娘のほうは先週も、婆さんの知っているだけで、二度ばかり現れたが、人に見られずに出入りするのも、わけのないことだといっていた」
「マドヴィグの娘だってことに、まちがいないか?」
ジャックは片手で、どっちつかずの|仕ぐさ《ジェスチュア》をして見せた。「人相書きには合ってるよ」そこでことばを切って、それから、煙りを吐き出しながらつけ加えた。「婆さんが、男が殺されてから見たのは、その娘だけだそうだ」
ネド・ボウモンは、また顔を上げた。眼はかたかった。
「すると、テイラーは、ほかの人間もその部屋に来させていたのかね?」
ジャックはまたもや、どっちつかずの|仕ぐさ《ジェスチュア》をして見せた。「婆さんは、口を割らなかったな。知らんといってたが、そのいいかたからすると、どうも嘘をついているらしかった」
「部屋の中の様子からわからなかったか?」
ジャックは、頭を振った。「わからなかったな。女の持ち物は、あまりたんとなかったよ――服が一着と、化粧品とそのくらいのものだった」
「男の持ち物は、たんとあったかね?」
「うん、服がひと揃いに、靴が一足、それから、肌着や、パジャマや、靴下やなんかがね」
「帽子は?」
ジャックは、微笑をうかべた。「帽子はなかったな」
ネド・ボウモンは、立ち上がって、窓ぎわに行った。外はほとんどまっ暗になっていた。窓のガラスには、雨の粒が光り、その数はネド・ボウモンが、そこに立っている間に、もっと沢山になった。ジャックをふりかえって、ゆっくりと「よくやってくれた、ありがとう」にぶい放心したような眼が、それでもジャックの顔に、焦点を結んだ。「すぐにまた――今晩にも――頼むことがあるかもしれん。電話をかける」
「いいとも」ジャックは、立ち上がって部屋を出て行った。
ネド・ボウモンは、|押し入れ《クロゼット》に行って服を出し、それを浴室にもちこんで、着こんだ。浴室から出て来ると、ピカピカ光る青白い顔をした、背の高い肥った看護婦が部屋にいた。
「どうなすったの、着かえたりして!」看護婦は、大きな声を出した。
「うん、ちょっと外出しなければならんのでね」
驚愕《きょうがく》の表情に、警戒の色がまじった。「でも、そんなこと駄目だわ、ボウモンさん。夜だし、それに雨が降り出したのよ。テイト先生にめっかったら――」
「わかってるよ」ネド・ボウモンは、うるさそうにいい棄てると、看護婦のそばを避《よ》けてドアまで行った。
[#改ページ]
第六章 『オブザーヴァー』紙
一
ミセス・マドヴィグが、玄関のドアをあけた。「まあ、ネド!」大きな声を出した。「お前さん、気でも狂ったのかい? こんな晩に、外を歩きまわったりして。病院を出て来たばかりだのに」
「タクシーは、べつに雨が漏《も》りゃしませんからね」しかし、ネド・ボウモンの、ニヤリと笑って見せた顔には、元気がなかった。「ポウル、いますか?」
「三十分にはならない前に、出かけたのよ。クラブじゃないかね。でも、お入りよ。さあ、お入りよ」
「オパルは、お宅ですか?」ドアをしめながら訊ねて、ミセス・マドヴィグのあとから廊下《ホール》を歩いて行った。
「いいえ、あの子は、朝からどこかへ出たっきりなのよ」
ネド・ボウモンは、居間の戸口で立ちどまった。「ぼく、ゆっくりできないんですがね。クラブに行って、そこで、ポウルに会いましょう」おぼつかない声だった。
老婦人は、すばやく向き直った。「そんなことしてはいけないよ、お前さん」叱るようないいかただった。「今にも風邪《かぜ》を引きそうな顔をしているじゃないか。あそこの火のそばにお坐り。わたしが、なにか熱い飲みものをもって来てあげるから」
「駄目です、お母さん。ぼくは、どうしても行かなきゃなりません」
齢《とし》のあらわれていない青い眼が、鋭く光った。「お前さんいつ退院したの?」
「たった今です」
ポウルの母親は、くちびるをキッと結んだ。やがて、とがめるように、「抜け出したのね、お前さん?」澄んだ青い眼に、ふと影がさした。ネド・ボウモンのそばに寄って、顔を相手の顔に近づけた。背の高さは、ネド・ボウモンと、ほとんどちがわなかった。のどがつまったようなかすれ声で、「ポウルのことで、なにかあったの?」眼にうかんだ影は、恐怖に変わった。「それに、オパルも?」
ネド・ボウモンの声は、かろうじて聞きとれた。「どうしても、二人に会わなきゃならんことがあるんです」
母親は、骨っぽい指先で、ネド・ボウモンの頬に臆病そうにさわった。「いい子だね、お前さん」
ネド・ボウモンは、片腕を老婦人にまわした。「大丈夫ですよ、お母さん。案じたほどのことでもありませんでした。ただ、オパルが帰って来たら――できれば――外に出さないほうがいいようですね」
「わたしが聞いても構わないことなの?」
「今は駄目です。それに――そうですな――お母さんが、心配していることを、二人に知らせないほうがいいでしょう」
二
ネド・ボウモンは、雨の中を、とある薬店《ドラッグストア》まで、五ブロック歩いた。そこで電話を借りて、先ずタクシーを呼び寄せ、次に、二度かけなおしてマシューズ氏の所在をたずねた。マシューズ氏は、どちらの番号にもいなかった。
もうひとつ、べつの番号にかけて、ラムゼン氏を呼び出した。しばらく待ってから、「やあ、ジャックだな。ネド・ボウモンだ。いそがしいか?……そう、それは好都合だ。いいかね、おれは、さっき話した例の女の子が、今日、『オブザーヴァー』のマシューズを訪ねたかどうかってことと、もし訪ねたのだったら、それからどうしたかってことを知りたいんだ。……うん、その通り。ハル・マシューズだ。社と自宅とに電話をかけてつかまえようとしたんだが、つかまらなかった。……そう、できれば、秘密にやってもらいたいが、とにかく是非、それも大いそぎでさぐってほしいんだ。……いや、病院は出た。家で待っている。電話の番号は、わかってるな……そうだ、大丈夫だ、ありがとう。できるだけ度々電話をかけてくれ……さよなら」
外で待っていたタクシーに乗りこんで、運転手に自分のアパートの所在地を告げたが、五、六ブロック走ると、仕切りのガラスを指先でコツコツとたたき、ちがった行先を命じた。
やがてタクシーは、けわしい坂になった芝生のまん中にうずくまったような、灰色の家の前にとまった。「待っていてくれ」運転手に頼んで、車をおりた。
灰色の家の玄関のベルを押すと、赤い髪をした女中が、ドアをあけた。
「ファーさんはおられるかね?」
「どちらさまでございますか?」
「ボウモンだ」
地方検事は、両手を前にさし出しながら、客間にあらわれた。かんしゃく持ちらしい血色のいい顔いっぱいに、微笑をたたえていた。
駆け出しそうな早足で、客のほうに進んで、「やあ、よく来たね、ボウモン君。こんなに嬉しいことはないよ。さあ、外套と帽子をよこしたまえ」
ネド・ボウモンは、笑顔で頭を振った。「いや、ゆっくりできません。病院から家に帰る途中、ほんのちょっとのつもりでお寄りしただけなんです」
「ほほう、すっかりよくなったのか? それはよかった!」
「気力は上々ですな。なにかニュースがありましたか?」
「大したこともないね。君を痛めつけたやつは、まだ捕《つか》まらん――どこに隠れているんだ――しかし、捕まえてみせるよ」
ネド・ボウモンは、人を馬鹿にしたような口をした。「ぼくは、この通り生きているし、あいつらだって、ぼくを殺すつもりはなかったのだから、起訴できたとしても、たかだか暴行罪ぐらいのもんですな」睡《ねむ》そうな眼で、ファーの顔を見て、「例の三箇条の質問書は、あれから来ましたか?」
地方検事は、咳ばらいをした。「うん、そういえば、あれからまた一通だか二通だか来たっけな」
「なん通です?」ネド・ボウモンの声は、さりげなくおだやかだった。くちびるの両はしがちょっともち上がって、気のないような微笑をつくった。眼には、面白がるような色がうかんだが、ファーの顔から離れなかった。
地方検事は、咳ばらいをした。「三通だな」いやいやいわされたようないいかただった。それから、眼が明るく輝いた。「ところで、君はきいたかな、われわれのすばらしい会合《ミーティング》のことを――」
ネド・ボウモンは、その言葉を途中でさえぎった。
「みんな、似たような文章ですか?」
「うん――似たりよったりだね」地方検事は、くちびるをなめた。眼には、訴えるような表情があらわれた。
「似たりよったりというと、どんな?」
ファーは、ネド・ボウモンの眼を避けて、視線を自分のネクタイに、それから横に、自分の左肩にと移した。くちびるをあいまいに動かしたが、ことばにはならなかった。
ネド・ボウモンは、あからさまに意地の悪い微笑をうかべた。「ぜんぶ、ポウルがテイラー・ヘンリーを殺したと、そういっているんですな?」甘ったるい声で訊ねた。
ファーは、とび上がった。顔色があせて、うすいオレンジ色になった。ビックリしたような眼の焦点が、またネド・ボウモンの眼にもどった。「冗談じゃない、ネド!」あえぐような声だった。
ネド・ボウモンは、笑い出した。「だいぶ神経に来ていますな」その声は、あい変わらず甘ったるかった。「気をつけないと、からだをこわしますよ」まじめな顔になって、「ポウルは、なにかいっていましたか? つまり、あんたの神経のことを?」
「い、いや」
ネド・ボウモンは、また笑顔になった。「まだ、気がついておらんのかもしれませんな」腕を上げて、腕時計を見た。きめつけるように鋭く、「差出人は、判明しましたか?」
地方検事は口ごもった。「いいかね、ネド、ぼくは、べつに――いや、君は――」先がつづかなくなってやめた。
「それで?」ネド・ボウモンがうながした。
地方検事は、ゴクリと唾をのんで、どうにでもなれというように、「手がかりはつかめたがね、ネド。まだ話すのは早すぎるんだ。あるいは、見当ちがいかもしれん。君だって、われわれの仕事のやりかたは、よくわかっているだろう」
ネド・ボウモンは、うなずいた。その顔には今は、好意以外の表情はなかった。声には抑揚がなく、冷静だった。冷淡ではなかった。「つまり、あの手紙を書いた場所と、使ったタイプライターはわかったが、今のところ、それっきりしかわかっていない、書いた人間に至っては、推測すらできない、と、そういうわけですな」
「そう、その通りなんだよ」ファーは、いかにも肩の重荷をおろしてホッとしたような様子を見せた。
ネド・ボウモンは、ファーの手を握った。「よくわかりました。ぼくは、失礼しなければなりません。先へ進む前に、いちいちまちがいのないことを確かめながら、ゆっくりおやりになれば、失敗することはありませんよ。ぼくがうけあいます」
地方検事の顔と声とは、感動から熱っぽくなった。「ありがとう、ネド、ありがとう」
三
その晩、九時十五分過ぎに、ネド・ボウモンの居間の電話が鳴った。ネド・ボウモンは、いそいで電話に出た。「もしもし……そうだ、ジャックだな……うん……うん……どこ? ……そうか、それはよかった……今晩はもういいだろう。すまなかったな」
電話から立ち上がったネド・ボウモンは、色のさめたくちびるに、微笑をうかべていた。眼はキラキラと輝き、向こう見ずな勇気があらわれていた。両手が少し震えていた。
三歩あるかないうちに、また電話のベルが鳴った。ためらってから、電話にもどった。「もしもし……ああ、ポウルか……うん、もう病人ごっこに飽きちまったんだ。……いや、べつにたいした用でもないんだ――会えるかと思って、ちょっと寄ってみたんだがね……いや、それは駄目だ。案外弱っているんで、寝たほうがいいと思っている……うん、明日《あした》なら大丈夫だ……さよなら」
ネド・ボウモンは、レインコートを着こみ、帽子をかぶって階下《した》におりた。外に出るドアをあけると、雨まじりの風が、まともに吹きつけた。顔を雨にたたかれながら、角《かど》のガレージまで、半ブロックあるいた。
ガレージのガラス張りの事務所では、以前は白かった仕事服《オーヴァオール》を着た、ヒョロ高い茶色の髪をした男が、木の椅子をうしろに傾け、電気ストーブの上に両脚を上げて、新聞を読んでいた。
「やあ、トミー」ネド・ボウモンが声をかけると、その男は、新聞をおろした。
トミーの顔の汚れは、歯の白さをきわ立たせていた。その白い歯をむき出して笑顔を見せた。「えらい天気だね、今ばんは」
「まったくだ。借りられる車はあるかね? こんな晩に、田舎《いなか》道をとばせるやつが?」
「うん、あるよ。あんたも運がよかったよ。うっかりするととんでもねえ車をあてがわれるからな。ちょうど、どんな目に会ったって構わねえようなビュウィックが一台あるんだ」
「そいつなら、田舎道でも大丈夫かね?」
「今晩みたいな天気にゃ、おあつらえ向きだな」
「よし。そいつにガソリンを詰めてくれ。ところで、こんな晩にレイジ・クリークに行くには、どの道が一番いいかな?」
「レイジ・クリークったって、どこまで行くんだね?」
ネド・ボウモンは、男の顔をじっとみつめた。「クリークが河に入るあたりだ」
トミーは、うなずいた。「マシューズの家かね?」
ネド・ボウモンは、黙っていた。
トミーは、「行く先によって、道はいろいろあるぜ」
「そうかね? じゃあ、マシューズの家だ」ネド・ボウモンは、顔をしかめた。「こいつは内証だぜ、トミー」
「あんたは、おれがおしゃべりだと思って、やって来たのかね、それとも、おれなら口がかたいと知って来たのかね、どっちだ?」トミーは、議論を吹っかけるようないいかたをした。
「おれは急いでいるんだ」
「そんなら、ニュー・リヴァ・ロードをバートンまでいって、そこで、橋を渡るドロンコ道に入り――うまく通れるとしての話だが――それから、最初の交差点を東にもどるといいよ。すると、坂道のてっぺんあたりで、マシューズの家のうしろに出る。この天気で、ドロンコ道を行かれねえようなら、ニュー・リヴァ・ロードを、どこまでも突っ走って、旧道にぶつかったら、逆もどりするんだな」
「わかった、ありがとう」
ネド・ボウモンが、ビュウィックに乗りこむと、トミーはわざとのようにさりげない口調で、「車の横の|物入れ《ポケット》に、余分のピストルが入っているぜ」
ネド・ボウモンは、ヒョロ高い男の顔を見た。「余分の?」あっけにとられたようなききかただった。
「元気で行きなよ」
ネド・ボウモンは、ドアをしめて走り去った。
四
計器盤《ダッシュボード》の時計は、十時三十二分を指していた。ネド・ボウモンは、ライトを消して、いく分ぎこちなくビュウィックから外に出た。風にあふられた雨は、やぶを、地面を、人を、車を、絶え間なくたたいて濡らした。斜面の下のほうに、雨と木の葉をすかして、小さな黄いろっぽいあかりが、かすかにまたたいていた。ネド・ボウモンは身震いをして、一生懸命、レインコートをからだにまといつけ、ビショ濡れの下生《したば》えをかき分けるようにしながら、あかりを目ざして、つまずきつまずき、坂をおりて行った。
背なかから吹きつける風と雨とが、ひとりでにからだを前のほうに押した。斜面を下るにつれて、からだのこわばりもゆるみ、たびたびつまずいたりよろめいたりしたが、それでもどうやら、足をとられることもなく、かなり敏捷《びんしょう》に目的地に向かって進んだ。
やがて、細い踏みつけ道があった。あやめもわかたぬ暗やみの中を、半分は足の下の地面の具合で、半分は両側から顔に当たるしげみの小枝の感触で、その小《こ》みちをさぐりながら、はぐれないようにたどった。小みちは、しばらくの間、ずっと左のほうへ外《そ》れたが、それから、ゆるい曲線を描《えが》いて、はげしい水の音のする小さな谷の崖っぷちに出た。そこからもう一度曲がると、黄いろいあかりのまばゆい家の正面玄関があった。
ネド・ボウモンは、そのまままっすぐに、ドアまでのぼって行って、ノックした。
ごま塩頭の眼鏡をかけた男が、ドアをあけてくれた。灰色っぽいおだやかな顔に、色のうすい鼈甲縁《べっこうぶち》の眼鏡から不安そうにのぞく眼も灰色だった。茶色の服は生地《きじ》もよく、小ざっぱりしているが、流行の型ではなかった。高目のかたいカラーの片がわに、四ヶ所ばかり、雨のしずくでしみができていた。ドアをあけたまま、わきへ寄って、「お入りなさい。入って雨をおよけなさい」とすすめる声は、心がこもっているというほどではなくても、愛想がよかった。「出かけるにはいやな晩ですな」
ネド・ボウモンは、二インチばかり、お辞儀《じぎ》のはじまりほどに頭を下げて、家の中に入った。そこは、家の一階の全部をしめる大きな部屋だった。家具がまばらで、単純なので、その部屋には見栄を張らない、こころよい素ぼくな空気があった。そこは台所と食堂と、居間とをひとつに兼ねた部屋だった。
壁暖炉のそばの小さな腰かけに坐っていたオパル・マドヴィグが立ち上がって、棒立ちになったまま、敵意のこもった冷たい眼で、ネド・ボウモンをみつめた。
ネド・ボウモンは帽子をぬぎ、レインコートのボタンをはずしにかかった。ほかの人たちも、客の素性に気がついた。
ドアをあけてくれた男が、「これはこれは、ボウモンじゃないか!」と、信じられないというような声を出して、みはった眼をシャド・オロリーに向けた。
シャド・オロリーは、部屋の中央の木の椅子に坐って、暖炉のほうを向いていた。ネド・ボウモンに、夢見るような微笑を見せて、持ち前のかすかにアイルランドなまりのある音楽的なバリトンの声で、「なるほどね。どうしたね、ネド?」
ジェフ・ガードナーの猿に似た顔が、笑いにくずれて、きれいな義歯《いれば》がむき出しになり、小さな赤い眼は、ほとんど見えなくなった。「おいおい、ラスティ!」そばのベンチにもたれこんでいた。頬の赤い、すねたような顔の若者に呼びかけた。「あのゴムまり小僧が、おれたちのところへもどってござったぜ。おれがいったじゃねえか、あいつは、おれたちのこずきまわしようが、お気に召したようだってさ」
ラスティは、ネド・ボウモンを見て顔をしかめ、うなるようになにかつぶやいたが、その意味はききとれなかった。
オパル・マドヴィグの近くに坐っていた赤い眼のやせた女が、黒いよく光る、期待するような眼で、ネド・ボウモンをみつめた。
ネド・ボウモンは、レインコートをぬいだ。ジェフとラスティとの拳固《げんこ》のあとのまだ残っているやせた顔は、眼が向こう見ずの勇気にギラギラ輝いているのを除けば、ひどく落ち着きはらっていた。レインコートと帽子を、ドアに近い壁ぎわに寄せた横の長い白木の箱の上にのせた。通してくれた男に、いんぎんな笑顔を見せて、「マシューズ君、車が途中で故障を起こしてね。おかげで助かったよ」
「いやなに――嬉しいよ」マシューズは、あいまいないいかたをして、脅えた眼を訴えるように、またオロリーに向けた。
オロリーは、ほっそりとした青白い手で、滑らかな白髪をなでながら、ネド・ボウモンに、楽しそうな微笑を見せたが、なにもいわなかった。
ネド・ボウモンは、暖炉のそばまで行った。「今ばんは。おチビさん」
オパル・マドヴィグは、挨拶をかえさなかった。突っ立ったまま、憎しみのあらわなゾッとするような眼でにらみつけた。
ネド・ボウモンは、赤い服のやせた女に、笑顔を向けた。
「マシューズの奥さんですな?」
「はい」赤い服の女は、やわらかな、ほとんど甘えるような声で答えて、手を差し出した。ネド・ボウモンは、手をにぎりながら、お愛想をいった。
「オパルとは学校でごいっしょだそうですな」こんどは、ラスティとジェフに向きなおって、「やあ、諸君。近いうちに、きっと会えるような気がしていたよ」
ラスティは黙っていた。
ジェフは、ニヤリと白い義歯《いれば》をむき出して、みっともない顔になった。「お互いさまだよ。おれの拳固も、どうやらすっかりなおったからな。あんたを痛い目に会わせたおかげで、おれがどんな大目玉をちょうだいしたと思うかね?」
シャド・オロリーが、ふり向かずに、おだやかな声で猿に似た男をたしなめた。「おい、ジェフ、おしゃべりが過ぎるぞ。貴様の口がそんなに軽くなければ、貴様の口には、自分の歯がまだ残っている筈だ」
ミセス・マシューズが、低い声でオパルに話しかけた。オパルは頭を振って、暖炉のそばの腰かけにもどった。
マシューズが、暖炉に近い、オパルとは反対側の木の椅子をすすめた。神経質な声で、「かけたまえ、ボウモン君。温まって足を乾かすといい」
「ありがとう」ネド・ボウモンは、椅子をもっと火の近くに引っぱって、腰をおろした。
シャド・オロリーは、たばこに火をつけていた。火がつくとたばこを口から離して、「気分はどうだね、ネド?」
「だいぶんいいよ、シャド」
「そいつは結構だ」頭を少しまわして、ベンチの二人に、「貴様たち、明日になったら、町にもどっていい」それからネド・ボウモンに、「おれたち、君が生きているってことが確かでなかったもんだから、大事をとっていたんだが、なんなら、暴行容疑で訴えてもらうからな」
ネド・ボウモンはうなずいた。「おれのほうでは、そんなことであんたを向こうにまわすような手間はかけんつもりだがね。しかし、ウェスト殺しの一件で、ジェフがおたずねものになってるってことは、忘れないで欲《ほ》しいな」軽い調子のいいかただが、暖炉の火格子《ひごうし》の上で燃える丸太をみつめる眼には、不吉な光がきらめいていた。その視線が左にうつって、マシューズの顔に焦点を合わせたときには、さげすむような色しか見えなかった。「そうなると、むろん、あんたをかくまったということで、マシューズに迷惑をかけることになるかもしれんがね」
マシューズが、あわてたように口を出した。「そんなことはないよ、ボウモン君。ぼくは今日ここへ来てみるまで、この人たちの来ていることすら知らなかったんだ。実は、ぼくもビックリして――」そこで、ことばをとぎらせ、脅えたような顔になり、シャド・オロリーに向かって、泣き出しそうな声を出した。「いや、なにも、あんたがたに来てもらっては困るなどと、そんなことをいっているんじゃない。ただ、ぼくのいいたいのは」――急に嬉しそうな笑顔に変って――「なにひとつ事情を知らずに、あんたがたを助けた形になったのだから、法律的に責任をとらねばならんようなことはしておらんということだ」
「そうとも」オロリーの声は、やわらかだった。「君は、なにもわけを知らずに、おれを助けてくれたのさ」新聞発行人の顔をみつめる、目立つほど澄んだ青灰色の目には、なんの関心もあらわれていなかった。
マシューズの微笑は、ぎこちなくなり、やがてすっかり消えてしまった。指先でネクタイをまさぐり、やっとの思いでオロリーの視線をはずした。
ミセス・マシューズが、甘ったるい声でネド・ボウモンに話しかけた。「今晩はみんな、とても退屈していましたのよ。おいでになるまではほんとに、ゾッとするほどでしたわ」
ネド・ボウモンは、さぐるような眼でミセス・マシューズの顔を見た。色の濃い眼は、明るく、やわらかく、人を誘いこむようだった。男の無遠慮な視線を浴《あ》びて、こびるように少し顔をうつむけ、くちびるをすぼめ気味にした。そのくちびるは薄く、口紅の色が濃すぎたが、恰好《かっこう》は美しかった。男は、微笑をうかべて立ち上がり、そばに寄って行った。
オパル・マドヴィグは自分の前の床をみつめた。マシューズと、オロリーと、ベンチにならんだ二人の男とは、ネド・ボウモンとマシューズの細君とを見まもった。
「なぜそんなに退屈だったんです?」ネド・ボウモンは、ミセス・マシューズの前の床の上にあぐらをかいた。火を背中にして、片手をうしろにのばして床につっぱり、頭をねじって斜めに女を見上げた。
「それがさっぱりわかりませんのよ」ミセス・マシューズは、くちびるをとがらせた。「ハルから、オパルもいっしょにここに来ないかと誘われたときには、楽しい時が過ごせると思ってましたの。ところが、来てみると、この人たちが――」しばらく間をおいて、「ハルのお友だちが――」お友だちだかなんだかわかりゃしないという気もちを露骨にあらわしたいいかたで、「来ていて、それからというものは、誰もかれもが坐りこんだまま、めいめいお互いどうしの、わたしなんかにはまるっきりわからないような秘密のことで、当てこすりのいい合いっこをして、まったく馬鹿らしいったらありませんわ。オパルまでがお仲間入りをしているんですもの。オパルったら――」
「おいおい、エロイーズ」マシューズが、威厳の足りない声でたしなめた。顔を上げた細君と視線が合うと、とまどったような眼になった。
「かまやしなくてよ」細君は、突っぱねたようないいかたをした。「ほんとだもの。それに、オパルはあんたがたの仲間よ。なぜって、あんたとオパルとは、どんな用があってここに来るのか、まるっきり話もしなかったじゃないの。こんな風ででもなかったら、わたし、こんなところにぐずぐずしてやしなかったわ。するもんですか」
オパル・マドヴィグは、顔を赤らめていたが、あい変わらず眼を上げなかった。
エロイーズ・マシューズは、顔をネド・ボウモンのほうに向けもどした。怒った表情がなくなった。「あなたには、その埋め合わせをしていただきたいの。わたし、お目にかかれてとても嬉しいんですけど、それは、あなたが美しくていらっしゃるからではなくて、退屈の埋め合わせをしていただけると思うからですわ」
ネド・ボウモンは、わざと怒ったように顔をしかめて見せた。
女も顔をしかめた。それは、わざとではなかった。「車が故障したというのは、ほんとですの? それともやっぱりなんだかわけのわからない退屈な仕事のことで、この人たちに会いにいらしたんですの? きっとそうだわ。あなたもこの人たちのお仲間なのよ」
ネド・ボウモンは、声を出して笑った。「あんたに会ってから、ぼくの気もちが変わったとしたら、ここにやって来たはじめの理由がなんであろうと、そんなこと、どうだっていいじゃありませんか」
「どうだってよくはなくてよ」――まだ納得《なっとく》がいかないようだった――「でも、気もちが変ったことは、ほんとらしいわね」
「どっちにしたって」気軽な口調で、「ぼくは、なにも隠したりはしませんよ。あんたは、この連中が、なんでこんなに心をくだいて苦労しているのか、ほんとになんにも知らないんですか?」
「ちっとも知らないわ。なにかひどく馬鹿らしい、たぶん政治だかなんだかのことにちがいないとは思うけど」
ネド・ボウモンは、あいているほうの手で、女の片手を軽くたたいた。「当たりさわりのないことをいって、お利口さんですな」顔をめぐらして、オロリーとマシューズを見た。女の顔にもどって来た眼は、たのしそうに輝いていた。「教えて上げましょうか?」
「いいわ」
「まず第一に、オパルは、自分のお父さんがテイラー・ヘンリーを殺したと思いこんでいるんです」
オパル・マドヴィグが、のどを絞《し》められたようなすさまじい声を出して、椅子からとび上がった。片手の甲を自分の口に押しあてた。黒眼のまわりがすっかり白眼になるほど、眼が大きくなった。どんよりと曇った恐ろしい眼つきだった。
ラスティが、ヒョイと立ち上がった。顔が怒《いか》りに赤くなった。ジェフが横から腕をつかんだ。「ほっときな」きしるような声だった。「大丈夫だよ」立ち上がった男は、猿に似た男につかまれた腕を引っぱったが、強《し》いてもぎ離そうとはしなかった。
エロイーズ・マシューズは、わけのわからないような眼をオパルの顔に釘づけにして、からだをこわばらせた。
マシューズは、ブルブル震えていた。くちびるとまぶたがダランと垂れ下がって、病人のようなしなびた灰色の顔になった。
シャド・オロリーは、前かがみに腰をかけていた。恰好のいい顔は青ざめ、こわばり、青灰色の氷のような眼をして、両手で椅子の肘《ひじ》かけをつかみ、両足をピッタリと床につけた。
「二番目に――」ネド・ボウモンは、ほかの連中の興奮をよそに、平然と落ち着いていた。「オパルは――」
「やめて、ネド!」オパル・マドヴィグが金切り声を立てた。
ネド・ボウモンは床の上で身をよじってふりかえった。オパル・マドヴィグは、両手を胸の前に組んでいた。底知れぬ恐怖に打たれた眼が、やつれた顔が、必死に慈悲を願っていた。
ネド・ボウモンは、深刻な顔つきで女の子をじっと見た。窓と壁をとおして、はげしく息《いき》を吐《つ》くように、建物をたたきつける雨の音、そして、その息づかいの合間に、近くを流れる河のざわめきがきこえた。女の子をみつめる男の眼は冷ややかに落ち着いていた。やがて、やさしい、しかし取りつくしまのないような声で、「君は、そのせいで、ここに来ているんじゃないかね?」
「お願いだからやめて」女の子の声はしゃがれていた。
ネド・ボウモンは、冷たい眼とはうらはらな微笑をうかべた。「君と、それからここにいる君のお父さんを敵にまわした連中のほかに、そんなことを触れまわっている人間はないんだからね」
オパル・マドヴィグは、両手を――かたく握りしめて――わきに垂れて、怒ったようにキッと顔を上げた。よくひびくかたい声で、「父さんが、テイラーを殺したのよ」
ネド・ボウモンは、またうしろに突っぱった片手にもたれかかる姿勢にもどって、エロイーズ・マシューズを見上げた。ゆっくりと、「そのことなんですよ、ぼくがいったのは。そんな考えにとりつかれているものだから、今朝《けさ》、ご主人の新聞に出たくだらない記事を読んで、さっそくご主人のところへ出かけて行ったんです。ご主人は、むろんポウルが人殺しなどをやったと思っていやしません。ただ、シャドがあと押しをする上院議員候補者のやっているステート・セントラル信託会社の借金で首がまわらないので、なんでもいわれた通りにやらなきゃならんという、むずかしい立場に追いこまれているだけなんです。オパルは――」
マシューズが、細い、死にもの狂いの声でさえぎった。
「もうやめてくれ、ボウモン。君は――」
こんどは、オロリーがマシューズをさえぎった。静かな音楽的な声だった。「いいよ、マシューズ。いうだけのことはいわせるんだ」
「すまんな、シャド」ネド・ボウモンは、ふりかえりもしなかった。「オパルは、自分の疑念を確かめに、ご主人のところへ行ったのですが、ご主人にしてみれば、嘘でもつかないかぎり、オパルの欲しいような情報を提供することはできっこなかったのです。なにも知りゃしないんですからね。シャドのいいなりに、どんなでたらめ記事でも、そのまま載せているだけなんです。ところが、ご主人にも自分からできることがあるのです。つまり、明日《あした》の新聞に、オパルが来て、自分の父親が自分の恋人を殺したと信じていると語ったという記事を載せることならできます。ちょっとしたスクープ記事ですな。『オパル・マドヴィグ、父親を殺人の罪に問う。大立者《ボス》の娘は語る、上院議員《セネタ》令息殺しの犯人は、わたくしの父です!』とね。どうです。『オブザーヴァー』の第一面いっぱいの幅で、そんな見出しが黒々と印刷されているのが眼に見えるような気がしやしませんか?」
エロイーズ・マシューズは、青ざめた顔に眼を大きくみはり、前かがみになって、息もつかずにきき入った。ラスティが、長い息をいっぱいに吸いこんで、また吐《は》き出した。
ネド・ボウモンは、微笑をたたえたくちびるの間から、舌の先をのぞかせて引っこめた。「そういうわけで、ご主人は、その記事の出るまでかくまっておくために、オパルをここに連れて来たんです。シャドたちがここに来ていたことは、知っていたかもしれないし、知らなかったのかもしれません。どっちにしたって大した問題じゃないわけです。とにかく、明日の新聞の発行されるまで、誰にも感づかれないような場所に連れ出しただけのことだったのです。だからといってオパルが、自分の意志に反して連れて来られたとか、無理やりにここにとじこめられようとしているとか、ぼくは、べつにそんなことをいってやしません。なにしろオパルは、自分の父親を破滅におとし入れるためになら、どんなことでもする気でいるんですからね」
オパル・マドヴィグが、ささやくような、しかし、はっきりきこえる声を出した。「父さんが殺したのよ」
ネド・ボウモンは、まっすぐに身を起こして、女の子の顔を見た。そのまましばらくは、まじめな顔をじっと動かさなかった。それから、笑顔になって、やっぱり駄目だというように頭を振って見せ、からだをうしろに倒して肘をついた。
エロイーズ・マシューズは、不審の色をいっぱいにたたえた濃い色の眼で、夫をみつめていた。マシューズは、腰をおろしていた。頭を垂れて、両手で顔を蔽《おお》っていた。
シャド・オロリーは両足を組みかえて、たばこを抜き出した。「すんだかね?」おだやかな声だった。
ネド・ボウモンは、オロリーに背中を向けていた。そのままふり向かずに、「すんだといったって、あんたは信用すまいがね」その声は変わらなかったが、顔は、ガックリとくたびれた表情になった。
オロリーは、たばこに火をつけた。「そこで、今の話は、結局どういうことになるんだね? こんどは、おれたちが君に一発ドカンと喰らわしてやる番だ。いいかね、オパルとかって女の子は、自分からその話を売りこみにやって来た。自分が来たくて、ここにやって来たんだ。君もそうだ。オパルでも、君でも、ほかの誰でも、好きな時に好きなところに出かけて行って、少しもかまやしない」立ち上がって、「おれはねむたくなった。マシューズ、どこかで寝かせてもらえるかな?」
エロイーズ・マシューズが、夫に話しかけた。「今のこと、ほんとじゃないわね、ハル」それは質問ではなかった。
マシューズは、ゆっくりと両手を顔から離した。夫としての威厳をどうやらとりつくろって、「警察は、少なくともマドヴィグを訊問《じんもん》すべきだというわれわれの主張を正当化する証拠なら、ありすぎるほど集めてあるんだよ。それが、われわれのやったことなんだ」
「そんなこといってるんじゃなくてよ」
「しかし、ミス・マドヴィグの来たときには――」灰色の顔をした男はそこまでいいかけてやめてしまった。ブルブルと身震いをして、細君の眼をみつめ、また両手で顔をおおった。
五
エロイーズ・マシューズとネド・ボウモンは、二人だけ一階の大きな居間に残って、暖炉の前で、互いに数フィート離れた椅子に坐っていた。女は、からだを前にかがめて、悲しそうな顔で、燃え尽きかけた最後の丸太をみつめていた。男は、両脚を組んでいた。男の片腕は、自分の椅子の背板にかかっていた。葉巻をくゆらせながら、女の様子を盗み見ていた。
階段がきしって、マシューズが半分までおりて来た。カラーをはずしただけで、まだキチンとした装《な》りだった。ほどいたネクタイがチョッキの上に垂れていた。「おいお前、もう寝ないかね? まだ夜なかだよ」
女は、身じろぎもしなかった。
「ボウモン君、君も――」
ネド・ボウモンは、自分の名をきくとすぐにふりかえって、非常に落ち着きすました顔を、階段の上の人物に向けた。マシューズの声が途中でとぎれると、また葉巻とマシューズの細君とに、眼をもどした。
ほんのしばらく間をおいて、マシューズは、また階段をのぼって行った。
エロイーズ・マシューズが火から眼を離さずに、口を開いた。「そこの箱の中に、ウィスキーがあってよ。とって来て下さらない?」
「よしきた」ネド・ボウモンは、ウィスキーをさがし出してもって来た。それから、グラスを。「混ぜないの?」
女はうなずいた。息づかいといっしょに、女の丸い胸が、赤い絹のドレスを不規則に動かした。
男は、二つのグラスにたっぷりと酒を注《つ》いだ。
女は、グラスを手に渡されるまで、火から眼を上げずにいた。見上げた顔は口紅の濃い、きゃしゃなくちびるが横ざまにゆがんで、ねじけたような微笑をうかべていた。暖炉の火照《ほて》りを映《うつ》した眼が、ひどく輝いていた。
男は、笑顔で女を見おろした。
女は、グラスをあげた。甘えるように、「わたしの主人のために!」
「いやだ」ネド・ボウモンは、自分のグラスの中身を暖炉の火の中にぶちまけた。酒のしぶきを浴びて、炎がユラユラと踊るように立ち上がった。
女は、明るい声で笑いながら、勢いよく立ち上がった。命令するように、「もう一ぱいお注《つ》ぎなさい」
男は、床から瓶をとりあげて、自分のグラスに注ぎ直した。
女は、グラスを頭より高くさし上げた。「あなたのために!」
二人は、グラスをほした。女は身ぶるいした。
「いっしょに、なにか食べたほうがいいね。あとでもいいけど」
女は、頭を振った。「飲むだけのほうが好きなのよ」片手を男の腕にかけ、火に背中を向けて、男に寄りそった。「あのベンチをここにもって来ましょうよ」
「それがいい」
二人は、暖炉の前から椅子をどけて、二人がかりで、ベンチをはこんで来た。そのベンチは幅が広く、低く、もたれがなかった。「さあ、あかりを消して」
男は、あかりを消した。ベンチにもどって来たときには、女は腰をかけて、グラスにウィスキーを注いでいた。
「こんどは、あんたのために」男のことばで、二人は飲み合い、女は身ぶるいした。
男は、女のそばに腰をおろした。二人の姿は、暖炉の火あかりを受けてバラ色に輝いた。
階段がきしって、マシューズがおりて来た。一番下の段に立ちどまって、「お前、お願いだから!」
女が、ネド・ボウモンの耳に、荒々しい声でささやいた。
「なにか、投げつけておやんなさいよ」
ネド・ボウモンは、クックッと笑った。
女は、ウィスキの瓶をとり上げた。「あなたのグラスは?」
女が、二人のグラスに酒を注いでいる間に、マシューズは、二階にあがって行った。
女は、ネド・ボウモンにグラスをわたして、自分のグラスと触れ合わせた。男の眼は赤い火照《ほて》りが映《は》えて、狂気じみていた。色の濃い髪のひと房が乱れて、額に垂れ下っていた。女は口で息をして、そっと足踏みをした。「わたしたちのために!」
二人は飲んだ。女は、空《から》っぽのグラスを手から離して、男の腕の中に倒れこんだ。男の口が、女の口に重なると、女は身を震わせた。落ちたグラスが木の床に当って、音を立てて倒れた。ネド・ボウモンの眼は細くなり、ずるそうに光った。女の眼は、かたく閉じられた。
二人が、身うごきもしないでいると、また階段がきしった。それでも、ネド・ボウモンはじっとしていた。女は、男のからだにまわした細い腕をしめつけた。男には階段が見えなかった。二人とも、荒い息《いき》づかいになっていた。
エロイーズ・マシューズは、片手を男の頭のうしろにすべらせて、男の髪の毛をかきむしり、頭に爪を立てた。女の眼は、今では閉《と》じられていなかった。黒く細い隙間《すきま》が笑っていた。「人生ってこんなものよ」わざと苦しそうな小さな声を出して、ベンチの上で男といっしょにうしろに倒れ、男の口を自分の口に引き寄せた。
二人が、そういう姿勢でいるときに、銃声がきこえた。
ネド・ボウモンは、すぐに女の腕から逃れて、立ち上がった。「部屋はどこ?」鋭い声だった。
女は、口もきけない恐怖におそわれて、眼をしばたたいた。
「マシューズの部屋はどこ?」男はくりかえした。
女は、なえたような手を動かした。「前のほうだわ」やっとききとれるいいかただった。
男は、階段に駆けて行って、数段とびに駆けのぼった。階段の頂上で、靴をのけてキチンと服を着こみ、腫れぼったい眼をねむそうにパチパチさせている猿面《さるづら》のジェフと、鉢合わせをした。ジェフは片手を尻にまわし、片手をのばしてネド・ボウモンを押しとどめ、うなり声を出した。「いったいどうしたんだ?」
ネドは、のばした手を避《よ》けて、すり抜けざまに、左の拳《こぶし》を猿面の口もとにたたきつけた。ジェフは、うなりながらうしろによろめいた。ネド・ボウモンは、そのまま建物の前面のほうに走った。べつの部屋から出て来たオロリーが、あとを追った。
階下《した》から、ミセス・マシューズの悲鳴がきこえて来た。
ネド・ボウモンは、ドアをあけるなり立ちどまった。寝室のランプの下の床に、マシューズがあお向けに倒れていた。あいた口から、血が少し滴《したた》っていた。片腕は、床の上に投げ出し、片腕は胸の上にのっていた。投げ出した腕の先のほうの壁ぎわに、黒い回転胴型《レヴォルヴァ》のピストルが落ちていた。窓のそばのテーブルの上には、インク瓶――その栓はかたわらに上向きに置いてあった――と、ペンと、一枚の紙とがあった。テーブルの前には、一脚の椅子が寄せてあった。
シャド・オロリーが、ネド・ボウモンを押しのけて、床にころがった男のそばにひざまずいた。ネド・ボウモンは、オロリーのうしろから、すばやくテーブルの上の紙に眼をとめ、それをつかんで、ポケットに突っこんだ。
ジェフが入って来た。その後《あと》から、はだかのラスティが来た。
オロリーが、立ち上がって両手をひろげ、もう駄目だというような|仕ぐさ《ジェスチュア》をして見せた。「自分で、口から上顎《うわあご》に射ちこんだんだ。こと切れている」
ネド・ボウモンは、その部屋を出た。廊下《ホール》で、オパル・マドヴィグに会った。
「どうしたの、ネド?」脅《おび》えた声だった。
「マシューズが、ピストルで自殺したんだ。おれは階下《した》に行って、君が着替えをして来るまで、マシューズの細君といっしょにいる。あの部屋には行かないほうがいい。なにも見るようなものはありゃしないよ」ネド・ボウモンは、階下におりた。
エロイーズ・マシューズは、うす暗やみの中で、ベンチのそばの床に倒れていた。
ネド・ボウモンは、そのほうに、つとふた足踏み出して、立ちどまり、機敏な冷たい眼で部屋の中を見まわした。それから、女のそばまで歩いて行って、ひざまずき、脈にさわってみた。消えかけた暖炉の火のうすあかりを頼りに、できるだけよくしらべた。まったく意識を失っていた。倒れている女の夫のテーブルからさらって来た紙きれをポケットから出して、暖炉の近くまでににじりより、残り火の赤い輝きにかざしながら読んだ。
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私、ハワード・キース・マシューズは、健全なる精神と記憶の所有者として、これを、私の死後の財産処分に関する遺言書とする。
いかなる種類のものであるかを問わず、私のすべての個人的かつ物的財産は、あげて愛する妻、エロイーズ・ブレードン・マシューズ、およびその正当なる継承者にあたえる。
私は、ここにステート・セントラル信託会社を、この遺言書の唯一の執行人に任命する。
右証拠として、私はここに、私の姓名を記し……
[#ここで字下げ終わり]
ネド・ボウモンは、うす気味の悪い微笑をうかべて、読むのをやめ、遺言書を三つに裂いた。立ち上がって手をのばし、裂いた紙きれを、赤く輝く|おき《ヽヽ》の上に落した。紙の断片はしばらく明るい焔をあげ、それから消えた。暖炉のそばに立ててある鉄のショベルで、紙の灰を、丸太の灰の中に混《ま》ぜこんだ。
紙きれを片づけてしまうと、ミセス・マシューズのそばにもどり、自分の飲んでいたグラスに、ウィスキーを少し注ぎ、女の顔をもたげ、くちびるの間に、無理やり流しこんだ。女が、意識をいくぶんとりもどし、咳こんでいるところへ、オパル・マドヴィグが二階からおりて来た。
六
シャド・オロリーが、階段をおりて来た。ジェフとラスティが、そのあとにつづいた。みんな、服を着ていた。ネド・ボウモンは、レインコートを着て、帽子をかぶり、戸口に立っていた。
「どこに行くんだ、ネド?」シャドが訊ねた。
「電話をさがしにね」
オロリーはうなずいた。「そいつは、なるほどいい思いつきだが、おれには、君に訊きたいことがある」三人がひとかたまりになって、階段をおり切った。
「なんだね?」ネド・ボウモンは、ポケットから手を出した。その手はオロリーたちには見えたが、オパルが、エロイーズ・マシューズに両腕をまわして坐っているベンチからは、ネド・ボウモンのからだのかげになって見えなかった。角ばったピストルが、手の中にあった。「訊くことがあるんなら余計な手間はとらせないでくれ。おれは急いでいるんだ」
オロリーは、ピストルには眼もくれない様子だったが、それでも、近寄っては来なかった。考えこむような口調で、「あの部屋のテーブルの上には、ふたのあいたインク瓶とペンとがあり、椅子が、そのテーブルに寄せてあったのに、かんじんの書いたものが、どこにも見つからないのは、こいつは妙だと思っているんだがね」
ネド・ボウモンは、わざとビックリしたように笑って見せた。「へえ、書いたものがないって?」ひと足、ドアのほうにあとすざりした。「まったく、妙な話じゃないか。電話をすましてもどって来たら、そのことをなん時間でも話し合うことにしよう」
「すぐのほうがよかないか?」
「残念だが――」ネド・ボウモンは、すばやくドアに背中をつけて、うしろ手にドアの握りをさぐり、さぐり当てるが早いか、サッとドアをあけた。「長くはかからんつもりだ」いい棄てざまに外にとび出し、ドアをしめた。
雨はやんでいた。小みちをそれ、背の高い草の中を走って家の反対側に出た。家から、もう一度、ドアを勢いよくしめる音がきこえた。左手の遠くないあたりに、川の水音がした。ネド・ボウモンは、下生《したば》えをかきわけて、水音のほうへ進んだ。
うしろのほうのどこかで、大きくはないが鋭い口笛が、甲《かん》高くひびいた。やわらかな泥の中を、もがくようにして足をはこび、ようやく木立ちに辿りつき、川から離れてその中に入りこんだ。また口笛が、こんどは右のほうからきこえた。木立ちを抜けると、肩の高さのやぶだった。これ以上はないほど暗い夜の闇ではあったが、身をかくすように腰をかがめて前進した。
行く手はのぼり坂だった。すべりやすい凹凸のはげしい斜面を、顔や手をきずつけ、服を引っかける小枝を分けながらのぼった。三度引っくりかえった。口笛はその後、聞こえなかった。ビュウィックは見つからなかった。さっき来た道路が見つからなかった。
今はもう足を引きずるように前に出し、なにもないのにつまずき、そんなにしてしばらく行くと、やっとのことで斜面の頂上に出た。丘を向うがわに下りにかかると、ころぶ度数がふえて来た。丘を下りきったところに一本の道路が見つかったので、それに沿って右に曲った。道路の粘土が、靴の底にねばり着き、それがだんだんかさばって来るので、しょっちゅう立ちどまっては、こそげ落とさねばならなかった。
うしろで、犬の吠える声がきこえた。ネド・ボウモンは足をとめ、よっぱらいのようにフラフラとふりかえって見た。五十フィートばかりうしろの、道路のすぐそばに、気がつかずに通りすぎて来た一軒の家のおぼろげな輪郭《りんかく》が見えた。あともどりして、背の高い門にたどりついた。犬は――暗やみの中の得体《えたい》の知れぬ怪物のように――門の向こうがわで、はねまわり、狂ったように吠え立てた。
ネド・ボウモンは門のとびらの縁《へり》をさぐって、とめ金《がね》を見つけると、それをはずして、よろけこんだ。犬はしりごみして駆けめぐり、襲いかかるように見せかけながら、寄っては来ず、ただ夜の空気を騒々しく引っかきまわした。
窓のひとつが、きしるような音を立てて上にあき、重々しい声が呼ばわった。「いったい犬を相手になにをやっているんだ?」
ネド・ボウモンは、弱々しく笑った。それから、身ぶるいをして答えた。「地方検事局のネド・ボウモンというものだが、電話を借りたい。この近くに、死んだひとがいるんだ」それほど弱い声でもなかった。
窓の声がどなった。「なにをいっているのか、さっぱりわからん。これ、ジャニー、だまれ!」犬は、四度ばかり、いっそう力をこめて吠え立て、それからおとなしくなった。「なんの用だ?」
「電話を借りたい。地方検事局のものだ。近くに死んだ人間がいる」
重々しい声が、ビックリしたように叫んだ。「そいつは大変だ!」窓は、きしりながらしまった。
犬が、また吠えたり、駆けめぐったり、見せかけの攻撃を加えたりしはじめた。ネド・ボウモンは、泥まみれのピストルを投げつけた。犬は、身をひるがえすと、家のうしろに走りこんで見えなくなった。
玄関のドアがあいて、青い長い寝間着《ねまき》姿の、樽《たる》のように太った、赤ら顔の背の低い男が出て来た。戸口からのあかりの中に入ったネド・ボウモンを見て、あえぐような声を出した。「やあこれは、大変な恰好《かっこう》だ!」
「電話を」
赤ら顔の男は、よろめいて倒れそうになるネド・ボウモンを支えた。「誰を呼んで、なんというかいいなさい。あんたには、とてもかけられやしないよ」
「電話を」ネド・ボウモンはくりかえした。
赤ら顔の男は、ネド・ボウモンをかかえるようにして廊下《ホール》を歩かせ、ドアをあけた。「さあ、そこにある。婆さんが留守でよかったよ。そうでなかったら、そんな泥だらけの恰好じゃ、とても中に入れてもらえんところだ」
ネド・ボウモンは、電話の前の椅子に倒れこんだ。すぐには、電話器に手を出さなかった。青い寝間着の男をにらみつけて、たどたどしく、「部屋の外に出て、ドアをしめてくれ」
部屋に入って来ずにいた赤ら顔の男は、ドアをしめた。
ネド・ボウモンは、受話器をとり上げ、テーブルに両肘をついて、その上に上半身をもたせかけた。ポウル・マドヴィグの番号を呼んだ。待っている間に、五、六度も、まぶたが垂れ下ったが、その度に力をこめて押し上げ、やっとのことで電話が通じたときには、眼をはっきりとあけていた。
「ポウルだね――ネドだ……こっちのほうは大丈夫だよ。おれのいうことをきいてくれ。マシューズが、川のそばの別荘で自殺した。遺言書はない……まあ、聞いてくれ。これからが大事なところだ。借金がドッサリあって、しかも、執行人を任命する遺言書がないとなると、事件は、法廷にもち出されて、財産の管理人が任命されることになるんだ。わかるかね?……うん、そうだ。それで、その事件が、都合のいい判事……たとえば、フェルプスだな……の担当になって、選挙のすむまで、『オブザーヴァー』を……おれたちの側ならともかく……選挙戦に関係させないようにすることができたらどうだ? わかったか? そうだ、そうだ、その通り。まだある。今のはまだ序の口だ。こんどは、さっそく手を打たなきゃならんことなんだ。『オブザーヴァー』の明日の朝刊には、ダイナマイトが、うんとこさ仕かけてある。そいつを抑えてもらわなければいかん。フェルプスをベッドからたたき起こして差し止め命令を出させるんだ……『オブザーヴァー』に雇われている連中に、その新聞が、一ヶ月かそこらの間、おれたち一党の手に握られることになるとしたら、連中の立場がどんなものかってことを思いきり知らせてやれるまでは、なにがなんでも、発行を停止させるんだ……電話で話すわけにはいかんが、とにかくダイナマイトにちがいないんだから、どうしても売らせないようにしなければいかん。フェルプスをたたき起こしてから、出かけて行って、自分で見るといいよ。街で売り出されるまでに三時間ぐらいしかないぜ。……その通りだ……なに?……うん、オパルか? あの子なら、大丈夫だ。おれといっしょだよ……うん、おれが家まで送り届けよう……それから、あんたのほうで、郡役所に電話をかけて、マシューズのことを知らせてくれないか? おれは、これからすぐに現場にもどる。よし」
ネド・ボウモンは、受話器をテーブルの上に置きっ放しにしたまま立ち上がって、よろめきながらドアにたどり着き、二度目にようやくドアをあけ、ヨロヨロと廊下に倒れかけたが、壁に支えられて、床《ゆか》には崩れ落ちなかった。
赤ら顔の男が、いそいでやって来た。「さあ、おれにもたれかかんな。楽にしてやるよ。泥のことなど心配せんでいいように、寝椅子の上に毛布をひろげておいたからな」
「車を貸してもらいたい。おれは、マシューズの別荘にもどるんだ」
「すると、死んだてのは、マシューズかね?」
「そうだ」
赤ら顔の男は、眉を釣り上げて、甲高い口笛のような音を出した。
「車を貸してくれないか?」ネド・ボウモンは、同じことをくりかえした。
「おいおい、無茶をいいなさんな! あんたが、どうやって運転できるっていうんだな?」
ネド・ボウモンは、赤ら顔の男から離れて、よろめいた。
「じゃあ、おれは歩く」
赤ら顔の男は、皿のような眼をした。「そんなことがやれるもんか。ズボンをはいて来るまで、じっとしていなよ。おれが車で送りとどけてやるからな。だけど、お前さん、途中でくたばっちめえやしねえかな」
ネド・ボウモンが、赤ら顔の男に連れられて、というよりは、抱えられるようにして、マシューズの別荘に着いたときには、オパル・マドヴィグとエロイーズ・マシューズとが、階下の大きな部屋にいた。男たちは、ノックもせずに入りこんだ。二人の女はビックリして、はじかれたように立ち上がり、ぴったりと寄りそい、眼をみはった。
ネド・ボウモンは、連れの男の腕から自分をもぎ離し、ノロノロと鈍い動作で、部屋の中を見まわした。つぶやくように、「シャドは、どこだ?」
オパルが答えた。「行っちゃったわ。みんな行っちゃったわ」
「そうか」舌のもつれるようないいかただった。「おれは、君とだけで話をしたい」
エロイーズ・マシューズが、駆け寄った。「あなたなのね、あの人を殺したのは!」
ネド・ボウモンは、腑《ふ》抜けのように、だらしのない笑い声を立てて、女を抱《だ》きかかえようとした。
女は、金切声を出して、平手で男の顔をたたいた。
男は、棒を倒すように、真っ直ぐにうしろに倒れた。赤ら顔の男が支えようとしたが、間に合わなかった。床《ゆか》に倒れるとそれっきり動かなかった。
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第七章 後継者
一
ヘンリー上院議員は、ナプキンをテーブルの上に置いて立ち上がった。立つと、実際の背たけよりも高く、そして若く見えた。いくぶん小さ目の、目立つほど均整のとれた頭には灰色の髪が薄かった。貴族的な顔には、齢《とし》を思わせて筋肉がたるみ、縦じわを強調している。しかし、そのたるみは、まだ口元にまでは及ばず、また、眼にも年齢の衰えらしいものは少しも見えていない。その緑がかった灰色の眼は、深くくぼみ、大きくはないが、よく光り、まぶたもしっかりしている。わざとらしい、もったいぶった丁寧《ていねい》ないいまわしで、娘に訊ねた。「ほんのしばらくだが、ポウルを二階に連れて行くことを、お前は許してくれるだろうね?」
「ええ、ボウモンさんを残しておいて下さるなら、それに、夜《よる》じゅう二階に行ったきりにしないって約束して下さるならいいことよ」
ネド・ボウモンは、頭をかたむけて、いんぎんな微笑をうかべた。
ジャネット・ヘンリーといっしょに移った白い壁の部屋には、白い暖炉棚《マントルピース》の下の火格子《ひごうし》に、石炭の火がトロトロと燃え、マホガニーの家具を鈍い赤に照らしていた。
ジャネット・ヘンリーは、ピアノのそばのスタンドにあかりをつけ、鍵盤に背中を向けて坐った。うしろからランプの光を受けた金髪が、頭のまわりに後光をつくった。スエード皮に似た生地のまっ黒なガウンは、光を少しも反射しなかった。宝石類も身につけていなかった。
ネド・ボウモンは、前かがみになって、葉巻の灰を燃える石炭の上にはたき落した。ワイシャツの胸の濃い色の真珠が、暖炉の火に映《は》えて、身うごきにつれて、またたく赤い眼のように光った。元の姿勢にもどって、「なにか弾きませんか?」
「ええ、お望みなら――わたくし、そんなにうまくはないんだけど――でも、後でね。それよりも、ちょうどいいチャンスだから、あなたとお話がしたいのよ」ジャネット・ヘンリーは、両手を膝にのせていた。腕を突っぱっているので、両肩が盛り上がっている。
ネド・ボウモンは、ていねいにうなずいたが、なにもいわなかった。暖炉から離れて、ピアノに近い、端に七弦琴の飾りのある長椅子に腰をおろした。その態度は、いんぎんだが、強いて話に興味がありそうでもなかった。
ジャネット・ヘンリーは、ピアノ椅子の上で身うごきして、まともに男のほうに向いた。「オパルは、どうなの?」その声は、低く、馴れ馴れしかった。
「ぼくの知っているかぎりでは、どこもどうもありませんよ。先週からまだ会っていないんですがね」さりげなくこたえ、葉巻をいったん口のほうへもって行きかけてから、またおろして、女の質問がようやく頭に届いたとでもいうように、「なぜです?」
女は、茶色の眼を、大きく開いた。「あのひと、神経衰弱だかで寝てるんじゃありませんの?」
「ああ、そのことですか!」ネド・ボウモンは、微笑を見せた。「ポウルから聞きませんでしたか?」
「いいえ、神経衰弱で寝てるってことはきいたけど」女は、とまどったように、男の顔をみつめた。「そういうお話だったわ」
ネド・ボウモンの笑顔がやさしくなった。「たぶん、用心してそういってるんでしょうな」葉巻を見ながら、ゆっくりといった。それから眼を上げて、肩をちょっと動かして見せた。「あの子は、神経衰弱なんかじゃありませんよ。ただ、ポウルがあなたのお兄さんを殺したなどという馬鹿馬鹿しい考えにとりつかれて、――もっと馬鹿馬鹿しいことに――そのことを、やたらに触れ歩いていただけのことなんです。ポウルにしてみれば、自分の娘が、自分のことを人殺しだと触れてまわるのを放っておくわけにはいかんので、そんな思いつきを頭から追っぱらっちまうまでは、娘を家にとじこめておかねばならんということですな」
「すると、あのひと――」ちょっとためらって、眼を輝かせながら、「――あのひと――つまり――監禁されてるのね?」
「それは大げさですよ。なんてったって、まだほんの子どもですからね。子どもを部屋にとじこめておくのは、ごくあたりまえのしつけかたじゃありませんか」
ジャネット・ヘンリーは、大いそぎでこたえた。「そりゃそうよ! でも――」膝の上の自分の手をみつめてから、また顔を上げて、「でも、なぜあのひと、そんなことを考えるのかしら?」
「考えない人がいますか?」ネド・ボウモンの声も、顔の微笑も生ぬるかった。
女は、両手をピアノ椅子の縁《へり》にかけて、前かがみになった。白い顔が引きしまった。「それなのよ、ボウモンさん、わたくしのお訊きしたいのは。みんな、そう思っていますの?」
男はうなずいた。その顔は、落ち着きはらっていた。
ピアノ椅子の縁《ふち》にかけた女の手に力がこもって、指の関節が白くなった。ひからびたような声で、「どうしてですの?」
ネド・ボウモンは、長椅子から立ち上がって、暖炉のそばまで行き、葉巻の残りを火の中に押しこんだ。元の席にもどって、脚を重ね合わせ、うしろに楽にもたれかかった。「敵がたは、政略のほうから、みんなにそう思わせておいたほうがいいと思っていますからね」その顔にも、声にも、態度にも、自分のしゃべっていることに、個人的な興味をもっているような様子はまったくなかった。
「だけど、ボウモンさん、証拠もないのに、証拠らしく見せかけることのできるようなものもないのに、なんだってみんなが、そんな風に思うのかしら?」
男は、ジロジロと、面白そうに女の顔をながめた。「むろん、それはありますよ。ご存じだと思ったのだが」親指で、口ひげの片がわをなでながら、「あんたは、このごろ流行《はや》っている匿名《とくめい》の手紙を、まだひとつも受けとっていませんか?」
女は、急いで立ち上がった。顔が、興奮にゆがんだ。「受けとったわ、今日!」と大きな声を出して、「それをお見せしようと思っていたのよ」
男は、やわらかな声で笑い、片手を派手に動かして見せた。「いや、いいですよ。どれもこれも、そっくり同じだし、ずいぶんたんとお目にかかりましたからね」
女はゆっくりと、不精無精《ふしょうぶしょう》のように、また腰をおろした。
「そういう手紙や、『オブザーヴァー』が、われわれの手で、戦列からひきずり出されるまで盛んに印刷していた記事や、向こうがわの連中のいいふらしている噂話などですな」――やせた両の肩をすぼめて見せて――「連中も、いろんな事実をさぐり出して、ポウルに対する充分な訴因を作り上げていますよ」
女は、噛みしめていた下くちびるを歯から離した。「あのひと――あのひと、ほんとに危ないの?」
ネド・ボウモンはうなずいた。おだやかに、キッパリと。
「あの男が選挙に負けて、この市や州の当局に対する支配権を失ってしまったら、まず電気椅子に腰かけさせられることになりますな」
女は、身ぶるいをした。ふるえ声で、「でも、勝てば大丈夫なんでしょう?」
ネド・ボウモンは、またうなずいた。「そりゃあ、大丈夫ですとも」
女は、息をつめた。「勝てるかしら?」くちびるがピクピクとけいれんして、いきなりのように言葉がとび出して来た。
「勝てるでしょうな」
「そうだったら、あのひとに不利な証拠が、どんなに沢山あったって、どうせ役に立ちはしないのだから、あのひとは――」そこで、ことばがとぎれて、「――あのひとは、ちっとも危ないことなどないんじゃなくて?」
「法廷にもち出されることはないでしょうね」ネド・ボウモンは、急に居ずまいを正した。眼をかたく閉じ、それからまた開けて、女の緊張に青ざめた顔をじっとみつめた。その眼に、嬉しそうな輝きがあらわれた。それが、顔じゅうにひろがった。笑い出した――声高《こわだか》ではないが、ひどくほがらかに。大きな声で、「ここにもジュディスがいる!」と叫んで、立ち上がった。
ネド・ボウモンは、部屋の中を不規則なコースを描いて歩きまわりはじめた。歩きながら楽しそうにしゃべった――女に向かってではなく――しかし、ときおり、肩ごしにふりかえっては、女に笑いかけた。「むろん、それが手なんだ。父親に必要な政治的な後押しをしてもらうために、心にもなくポウルと仲よくすることはできるが、それには限度がある。いや、ポウルのほうで、首ったけなんだから、いいかげんにあしらうだけでいい。しかし、ポウルが、自分の兄を殺したと思いこんだ。そして、自分が戦っていれば、罪を逃れるが、もし、自分が――うん、大したもんだ! ポウルは、自分の娘からも、恋人からも電気椅子に連れて行かれようとしている。まったく、女運のいい男だよ」
ネド・ボウモンは、うす緑の斑点のついた細い葉巻を手にもっていた。ジャッネット・ヘンリーの前で立ちどまり、葉巻の端をつまみ切り、責めるというよりは、むしろ、その発見を、女とわかち合おうとでもするように、「あんたですね、例の匿名の手紙の差し出し人は。たしかに、あんたにちがいない。あんたのお兄さんと、オパルとが会うのに使っていた部屋のタイプライターで打ったんだ。お兄さんとオパルとが、めいめい鍵をもっていました。オパルは、自分がその手紙に脅かされているのだから、あの子の仕わざではない。あんたの仕わざだ。お兄さんの持ち物が警察からもどされると、あんたは、お兄さんの鍵を使って、その部屋にしのびこんで、手紙を書いた。そいつはよかった」また歩き出して、「そうすると、ひとつ、お父さんに腕っぷしの強いえり抜きの看護婦をドッサリ集めてもらって、あんたを神経衰弱に仕立てて、部屋にとじこめなくてはならんことになるかな。どうも、こいつは、おれたち政治家の娘たちがみんな流行病のように、そんなことになりそうだが、町じゅうのどの家にも、神経衰弱患者がいるようになっても、それでも選挙に負けるわけにはいかん」肩ごしにふりかえって、愛想のいい笑顔を女に向けた。
女は、片手を自分ののどに押しあてた。そのほかは、身じろぎひとつしない。口もきかなかった。
ネド・ボウモンは、話をつづけた。「都合のいいことに、上院議員はおれたちに、大して面倒をかけないようにしている。ほかのことは――あんたのことも、亡くなった息子のことも――なにひとつ構わずに、再選を目ざして一生懸命になっているし、ポウルなしでは再選のおぼつかないことも、よくご存じだ」笑い出して、「ははあ、それがあんたを、ジュディスの役割に駆り立てたんだな、そうでしょう? あんたは、お父さんがポウルと――たとえ、ポウルを犯人だと思っても……選挙に勝つまでは、仲たがいなどしそうにないことをよく知っている。それがわかれば‥…おれたちには、安心だ」
ネド・ボウモンは、葉巻に火をつけるために話をやめると、女が口をひらいた。のどの手は、離していた。両手は膝にあった。まっすぐに坐っているが、かたくなってはいなかった。冷静な落ち着いた声だった。「やっぱり、わたくし、嘘をつくのが下手だわ。わたくし、ポウルがテイラーを殺したことを知っていてよ。手紙も、わたくしが書いたのよ」
ネド・ボウモンは、火のついた葉巻を口から離して、たて琴のかざりのある長椅子にもどって、女と向かい合わせに腰をおろした。まじめだが、悪意のない顔をしていた。「あんたは、ポウルを憎んでいるんじゃありませんか? ぼくが、テイラーを殺したのがポウルでないことを証明してみせても、それでも、その憎しみはなくならないのでしょう、そうじゃありませんか?」
「そうよ」女のうす茶色の眼は、男の濃い色の眼から離れなかった。「きっと、憎しみはなくならないと思うわ」
「そうら、ごらんなさい。あんたは、ポウルがお兄さんを殺したと思うから、あの男を憎んでいるのではない。ポウルを憎めばこそ、あの男が、お兄さんを殺したと思っているんです」
女は、ゆっくりと頭を振った。「そうじゃないわ」
ネド・ボウモンは、信用しないような微笑をうかべた。「そのことで、お父さんと話しあってみましたか?」
女はくちびるを噛んで、少し顔を赤らめた。
ネド・ボウモンは、また微笑をうかべた。「で、お父さんに、妙なことをいうね、と、そんなことをいわれたんですな」
女の頬の赤みが深くなった。なにかいいかけたが、いわなかった。
「ポウルが、お兄さんを殺したのだったら、お父さんは、そのことがわかっていますよ」
女は、膝の上の自分の手をみめながら、悲しそうに、「父は、わかっていても、それを信じようとしないんだわ」
「わかっているはずです」ネド・ボウモンの眼は細まった。「ポウルは、あの晩、テイラーとオパルのことを、なにかお父さんに話しましたか?」
女は、ビックリしたように顔を上げた。「あの晩、どんなことがあったか、ご存じないの?」
「知りませんな」
「べつに、テイラーとオパルとには関係のないことだったのよ」力が入りすぎて、ことばとことばがもつれ合うようないいかただった。「それは……」ハッとしたように顔をドアのほうに向けて、口をつぐんだ。ドアをとおして、胸の底の深いところから出て来るような笑い声と、近づいて来る足音がきこえた。急いで顔をネド・ボウモンのほうにもどして、訴えるように両手をあげた。「どうしても、お話したいのよ」熱心にささやいた。「明日、お眼にかかれるかしら?」
「いいですよ」
「どこで?」
「ぼくのところでは?」
女は、すばやくうなずいて見せた。男が自分の住所をささやき、女がうなずく間もなく、ヘンリー上院議員とポウル・マドヴィグとが、部屋に入って来た。
二
十時半に、ポウル・マドヴィグとネド・ボウモンは、ヘンリー親娘《おやこ》におやすみをいって、茶色のセダン型の車に乗り、ポウル・マドヴィグが運転して、チャール街を走らせた。一ブロック半ばかり走ったあたりで、マドヴィグは、よかったというように、大きな息をついた。「おい、ネド、君とジャネットとが、あんなふうに調子よくうまを合わせてくれて、おれがどんなに喜んでいるか、想像もつかんだろうな」
ネド・ボウモンは、流し目に金髪男の顔を見た。「なあに、おれは、誰とでもうまを合わせるくらいのことはできるよ」
マドヴィグは、クックッとのどを鳴らした。「うん、君はそうだ。まったくその通りだ」おだてるようないいかただった。
ネド・ボウモンのくちびるがゆがんで、ひそやかな微笑となった。「明日、あんたとちょっと話したいことがあるんだが。そうだな、三時ごろ、どこにいるかね?」
マドヴィグは車をチャイナ街にのり入れ、「事務所だな。月はじめだからね。どうして今、話さないんだ、夜なら、まだタップリ残っているぜ」
「今は、まだ話すネタがないんだ。ところで、オパルはどうだね?」
「べつに、どうってこともないよ」マドヴィグは、面白くもなさそうに答えてから、こんどは大きな声で、「畜生ッ! あの子を、思い切りどやしつけてやれたらなあ。そのほうが、よっぽど簡単だ」車が街灯のひとつを通りすぎた。吐き出すように、「あの子は、妊娠などしてやしない」
ネド・ボウモンは、なにもいわなかった。その顔には、なんの表情もなかった。
マドヴィグは、ログ・ケビン・クラブに近づくと、車のスピードを落した。顔は赤かった。しゃがれ声で、「ネド、君はどう思うね? あの子は」――咳ばらいをして――「テイラーの女だったのだろうか? それとも、ほんのママゴト遊びだったのだろうか?」
「知らんな。そんなこと、どうだっていいよ。あの子には訊かないほうがいいぜ、ポウル」
マドヴィグは車をとめて、そのまま、まっすぐ前をみつめて、しばらくハンドルの前に坐っていた。それから、また咳ばらいをして、低いかすれ声で、「君は、案外いい男だな、ネド」
「そうさ」ネド・ボウモンは、車からおりながら答えた。
ネド・ボウモンは、奥の、あまり広くない部屋に入った。五人の男がポーカーをやり、三人がそれを見ていた。テーブルに席をつくってもらい、ゲームの終った三時には、四百ドルばかり勝っていた。
三
ネド・ボウモンの部屋にジャネット・ヘンリーが来たのは、正午に近かった。それまでネド・ボウモンは、一時間以上も爪を噛んだり、葉巻をふかしたりしながら、床の上を歩きまわっていた。ベルが鳴ると、急ぐでもなく戸口に行って、ドアをあけ、ちょっとビックリしたように、しかし嬉しそうに、微笑をうかべた。「やあ、いらっしゃい」
「ごめんなさい、遅くなっちゃって。でも……」
「でも、遅かありませんよ。十時以降ということで、べつに時刻を約束したわけじゃありませんからね」
女を、居間に案内した。
「いいお部屋ね」女は、頭をゆっくりとまわして、その古めかしい部屋おそ天井の高さ、窓の広さ、壁暖炉の上の恐ろしく大きな鏡、椅子の赤いビロードなどをしらべるように見まわした。「すばらしいわ」茶色の眼を、半分開いたドアのほうに向けて、「そこが寝室なの?」
「そうですよ、見ますか?」
「見せていただきたいわ」
ネド・ボウモンは、女に寝室を見せた。台所と浴室も見せた。
二人は、居間にもどった。「すてきね。わたくし、自分のうちのように町じゅうが近代的になってしまった中に、まさかこんなのが残っていようとは、ちっとも知らなかったわ」
男は、そのほめことばに答えるように、軽く頭を下げた。「ぼくも気に入ってますよ。それに、ごらんの通り、ここにはぼくたちの話を立ちぎきするような人間はいません。|押入れ《クロゼット》の中に隠れていればべつですが、そんなこともありますまいからね」
女はキッとなって、まっすぐに男の眼をみつめた。「わたくし、そんなことを考えていたわけじゃないわ。わたくしたち、お話が合わないかもしれないし……敵どうしになるかもしれないわ。でも、あなたが紳士だってこと知ってるわ。でなければ、こんなところに来やしなくてよ」
「つまり、ぼくが、青い服に茶色の靴を穿くものでないとか、そんなことを心得ているとおっしゃるんですね?」
「そんなこといってるのじゃないわ」
男は笑顔を見せた。「じゃあ、あなたの思いちがいです。ぼくは、|ばくち打ち《ギャンブラー》で、政治屋の腰巾着です。紳士などじゃありません」
「わたくし、思いちがいなどしやしないわ」女の眼に、訴えるような表情があらわれた。「お願いだから、喧嘩はよしましょう。せめて、喧嘩をしなくてはならないときの来るまでは」
「どうもすみません」あやまるような微笑になって、「かけませんか?」
女は腰をおろした。男は向かい合った別の、広い赤い椅子に腰をかけた。「さて、お兄さんの殺された晩に、お宅であったことを話して下さるんでしたね」
「ええ」女の声は、やっときこえるほどかすかだった。顔を桃色《ピンク》に染めて、視線を床《ゆか》にうつした。次にまた顔を上げたときには、恥じるような眼になっていた。困り果てたような、つかえるいいかたで、「お知らせしたかったの。あなたはポウルのお友だちだから……そのせいで、わたくしの敵ということになるかもしれないけど……でも、起こったことを知って下すったら……ほんとうのことを知って下すったら……あなただって……少くともわたしの敵ではなくなると思うのよ。わたくし、わからないの。たぶんあなたなら……だけど、あなたなら、きっとわかってよ。それから、決めればいいんだわ。それに、あの人はあなたには話さなかったのだし」女は、眼の中のはにかみが消えてなくなるほど、一心に男の顔をみつめた。「話して?」
「ぼくは、あの晩、お宅でどんなことがあったのか知りませんよ。ポウルは、話してくれませんでした」
女は、急いで前にのり出すようにして、「話さなかったのは、そのことを隠したいからじゃないかしら? 隠さなきゃならないのじゃないかしら?」
男は、両肩を動かして見せた。「そうだとしたら?」その声は興奮もしていないし、熱もこもっていなかった。
女は顔をしかめた。「でも、そんなこと、わかっているはずだわ……いいことよ、今は。わたくしは起こったことを話すから、自分で考えてみるといいわ」女は、茶色の眼で男の顔を一心にみつめながら、もっと前にのり出した。「あの人、晩ご飯に来たのよ。はじめておよびしたのよ」
「それは知っています。で、お兄さんは、お宅じゃなかったんですね?」
「いいえ、ご飯のときにいっしょでなかったのよ。自分の部屋にいましたの。テーブルには、父さんとポウルと、それにわたくしと、三人きりだったわ。テイラーは外に食事に出かけようとしていたの。兄さんは、オパルのことでゴタゴタがあったものだから、ポウルといっしょの食事なんかいやだといっていたのよ」
ネド・ボウモンはていねいに、しかし、冷淡にうなずいた。
「食事がすむと、ポウルとわたくしは、しばらくの間、あの部屋で……昨夜《ゆうべ》、あなたとお話したあの部屋で、二人きりになったのよ。するとあの人が、ふいにわたくしを抱きしめて、キスをしたの」
ネド・ボウモンは、笑い出した。大きな声ではなかったが、だしぬけの、愉快でたまらないような笑いかただった。
ジャネット・ヘンリーは、呆気《あっけ》にとられたように、男の顔を見た。
男は、笑いを微笑になおした。「いや、失礼しました。先へ行って下さい。後で、ぼくが笑ったわけをお話します」女が、口をひらきそうにすると、「ちょっと待って。あの男はキスをしたとき、なにかいいましたか?」
「いいえ。そりゃあ、いったかもしれないけど、わからなかったわ」女の顔の当惑が深まった。「どうして?」
ネド・ボウモンは、また笑った。「あの男、自分の分け前というようなことをいったはずですがね。実はあの男に、あんたのお父さんの選挙の後押しをするのをやめさせようとして、お父さんはあんたを、ポウルに後押しさせるための餌《えさ》に使っているんだから、後押しはいいとして、選挙の前に、自分の分け前、というのは、つまりあんたのことですが、それだけは、確実に自分のものにしておかないと、後押しはしてやったは、分け前は貰えんはということになるって、そういったんです。こいつは、ぼくの思いちがいだったかもしれませんがね」
女は、眼を大きくみはった。当惑の表情はうすらいだ。
「それが、あの日の昼すぎのことだったのですが、そんなお説教に、それほどきき目があるとは思いませんでしたよ」ネド・ボウモンは、額にしわを寄せた。「あんたは、あの男にどうしました? あの男、あんたと結婚するつもりで、まるで首ったけになっていましたよ。それを、きっとあんたが煮え切らないあしらいようをしたもんだから、ジリジリして、そんな直接行動に訴えたんでしょうな」
「わたくし、あの人に、べつになんにもしやしなくてよ」女は、ゆっくりと答えた。「だけど、なんだかとてもむずかしい晩だったわ。誰もかれも、みんながソワソワして、しっくりいかなかったのよ。わたくしも……そんな素ぶりは見せないようにつとめていたけど……おもてなしするのがいやだったの。あの人だって、ちっともくつろがないし、わたくし……やっぱり、あなたにそんなことをいわれたせいなのね、あんなふうにドギマギしたり……」最後は、口でいうかわりに、両手を前に突き出すような、すばやい仕ぐさをして見せた。
ネド・ボウモンはうなずいた。「それから、どうしました?」
「むろん、そんなことをされて、わたくし腹を立てて、あの人をおっぱらかして出て行ってしまったわ」
「あんたは、なにもいわなかったの?」ネド・ボウモンは、こみ上げて来るおかしさを隠し切れないように、眼をしばたいた。
「ええ、あの人も、わたくしにきこえるようなことは、なにもいわなかったわ。それから、わたくしが二階に上がって行こうとすると、おりて来る父さんと出会ったの。父さんに、今あったことを話しているうちに――わたくし、父さんにも腹を立てていたのよ。だって、ポウルが来たのは、父さんのせいなんだもの……ポウルが、玄関から外に出て行く音がきこえたの。そこへテイラーが、自分の部屋から出て来たわ」女の顔は、緊張して青ざめ、声もかすれて来た。「わたくしが父さんに話しているのをきいて、どうしたんだと訊ねたけど、わたくしは、あんまり腹が立って、話すのもいやになったもんだから、テイラーと父さんとを置きっ放しにしたまま、自分の部屋に入ってしまったのよ。それっきり、父さんが部屋に来て、テイラーが殺されたことをいうまで、父さんにも兄さんにも会わなかったわ」女は話をやめて、青い顔をネド・ボウモンに向け、両手の指をからみ合わせながら、相手の反応を待った。
ネド・ボウモンは、頭をゆっくりと左右に振った。女のことばをさえぎったその声には、どこまでも自信がこもっていた。「そうじゃない。そんなわけはありません。ポウルがテイラーを殺さなければならないような理由はないし、殺したりするはずもない。あんたのお兄さんぐらい、片手であしらえますよ。それに、争っている間に逆上するような男でもありません。ぼくはよく知っている。ポウルの喧嘩するのを見たこともあれば、ぼく自身、あの男と喧嘩したこともありますからね。あんたのいうようなことがある道理はない」眼を細めた。その眼は石のように冷たくなった。「しかし、仮にあの男がやったとしましょうか? つまり、なにかの偶然でということなんですが、ぼく自身は、そういうことだって信じることはできませんがね。しかし、仮にそうだとしたって、正当防衛以外のことが考えられますか?」
女は、軽べつするような顔をあげた。「正当防衛だとしたら、なぜ隠さなければならないの?」
ネド・ボウモンは、少しも動じない面《おも》もちだった。「あの男は、あんたと結婚したがっています」大きな声だった。
「だから、お兄さんを殺したことをみとめるのは、あの男にしてみれば、ちょっと具合の悪いことです。たとえ、あの男がほんとうに……」クツクツ笑いをもらして、「おやおやぼくまでが、あんたにかぶれちまいそうです。とにかく、ポウルは、お兄さんを殺しやしませんよ、ミス・ヘンリー」
女の眼も、男の眼と同じように冷たかった。じっと男の顔をみつめて、黙っていた。
ネド・ボウモンは、考えこむような表情になった。「あんたは」……片手の指を出して、「二足す二が四になるからというぐらいの気もちで、お兄さんがあの晩、ポウルの後を追っかけて行って、と思っているだけなんでしょう?」
「それで沢山じゃないの。あの人よ。あの人がやったにちがいないわ。そうでないとすれば、兄さんは帽子もかぶらずに、チャイナ街のあんなところで、なにをしていたというの?」
「お父さんは、お兄さんの出て行くのを見なかったんですね?」
「そうよ。父さんは、知らせを受けるまでは、兄さんが出かけたことなど、ちっとも……」
ネド・ボウモンはさえぎった。「お父さんは、あんたの意見に賛成なんですか?」
「賛成するにきまってるわ」女は叫んだ。「まちがいなしだわ。口ではどういうか知らないけど、わたくしと同じ意見にちがいないわ。あなただってそうよ。あなたに、今までにどういうことがわかっているのか、そんなこと知らないわ。あなたがテイラーの死んでいるのを見つけたのね。そのほかに、なにを見つけたのか、それは知らないけど、今はあなただって、ほんとうのことを知っているにちがいないわ」
ネド・ボウモンの手が、震えはじめた。椅子のもっと奥に腰を引いて、両手をズボンのポケットに突っこんだ。口もとに、こわばったようなしわができた以外、顔は静かに落ちついていた。「ぼくは、お兄さんの死んでいるのを見つけた。ほかには誰もいなかった。それだけです。そのほかには、なにも知りませんでした」
「今は、知ってるわ」
ネド・ボウモンの口が、色の濃い口ひげの下でゆがんだ。眼は、怒りに熱《あつ》っぽくなった。低い、かすれた、わざとのようにとげのある声で、「誰だか知らんが、お兄さんを殺した人間は、まったくいいことをしてくれたもんですよ」
女は、椅子の中で身をちぢめ、片手をのどに押し当てたが、それとほとんどいっしょに、顔から恐怖の色がなくなった。すぐに坐りなおして、あわれむように男の顔をみつめた。おだやかに、「わかってよ。あなたはポウルのお友だちだもの。お気の毒ね」
男は、頭を少し下げてつぶやいた。「いや、つまらんことをいったもんだ」にが笑いをして、「だから、はじめに、ぼくは紳士などじゃないといったんですよ」にが笑いをやめると、眼からはにかみが消えて、澄んだ落ち着いた眼になった。静かな声で、「おっしゃる通り、ぼくはポウルの友だちです。あの男が誰を殺そうと、友だちであることに変りはありません」
女はしばらく、一心に男の顔をみつめたあげくに、抑揚のない小声で、「そんならこんなことしたって役に立たないわ。ほんとうのことを教えて上げることができたらと思ったのだけど……」しまいまでいわずに、両手と両肩と頭とを使って、あきらめたわ、というような|仕ぐさ《ジェスチュア》をして見せた。
男は、ゆっくりと頭を振った。
女は、ため息をついて立ち上がり、手を差し出した。
「わたくし、すっかり当てがはずれてがっかりしたわ。でも、だからって、わたくしたち、かたき同士になることは要《い》らないわね、そうでしょう?」
男も立ち上がって、女と向い合ったが、女の差し出す手をとらなかった。「あんたがポウルを罠《わな》にかけたり、かけようとしているところだけは、ぼくの敵《かたき》です」
女は、手を差し出したままで、「そのほかの、そんなことと関係のないところは?」
男は、女の手をとって、その上に軽く頭を下げた。
四
ジャネット・ヘンリーがいなくなると、ネド・ボウモンは電話のところに行って、ある番号を呼んだ。「もしもし、ボウモンです。ミスタ・マドヴィグはもう来ていますか?……それじゃ、来たら、ぼくから電話があったと、そしてこっちから会いに行くから、と、そう伝えてくれませんか……そうです。ありがとう」
ネド・ボウモンは、腕時計をのぞいた。「一時少しすぎだった。葉巻に火をつけ、窓ぎわに坐り、通りをこして向かい側の灰色の教会堂をみつめた。口から吐《は》いた葉巻の煙が、窓ガラスに当ってもどって来て、頭の上に灰色の雲をつくった。歯が、葉巻の端《はし》を噛みつぶした。そのまま十分ばかりも坐りこんでいると、電話のベルが鳴った。
電話のところまで立って行った。「もしもし……やあ、ハリーか……そうとも。どこにいるんだ?……おれは、これから下町に出かける。そっちで待っていてくれ……三十分だな……よし、わかった」
葉巻を暖炉の中に投げこみ、帽子をかぶり、外套を着て外に出た。六ブロック歩いて、とあるレストランに入り、サラダとロールパンをとり、コーヒーを一ぱい飲んで、マジェスティックという名の小さなホテルまで四ブロック歩いた。エレベーターで、四階までのぼった。エレベーターを運転する背の低い若者が、ネドと馴れ馴れしく呼びかけ、第三レースはどうだろうと訊ねた。
ネド・ボウモンは考えてみて、「まず、ロード・バイロンが来るだろうな」
エレベーター・ボーイは、「そいつは、ちょっと困るな。あっしの買ったのは、パイプオルガンなんでさ」
ネド・ボウモンは、肩をすぼめて見せた。「ひょっとすると、そんなのが入るかもしれんが、あれは、ずいぶん目方をしょわされるからね」エレベーターをおりると、四一七号室まで行って、ドアをノックした。
ワイシャツの袖をまくり上げたハリー・スロッスが、ドアをあけた。頭の少しはげた、青白い顔の大きな、ズングリした三十五歳ばかりの男だった。「きっかり約束どおりの時刻だ。入りな」
スロッスがドアをしめると、ネド・ボウモンは訊ねた。「どんな具合だ?」
ズングリした男は、ベッドに行って腰をおろした。不安そうにしかめた顔を、ネド・ボウモンに向けて、「どうもうまくねえようだよ、ネド」
「なにがうまくないんだ?」
「ベンの野郎が、警察で泥を吐《は》きやがったことがよ」
ネド・ボウモンは、カンを立てたように、「前置きはいいから、さっさと話すんだ。君の話は、いつもまだるっこくていかん」
スロッスは、青白い大きな片手をあげた。
「まあ待ってくれよ。それをいま話すからさ」ポケットをまさぐって、つぶれたようなたばこの包みを引っぱり出した。
「ヘンリーの小僧っ子が、射《う》たれた晩のこと、おぼえているかね?」
「う、ふ」
「あの晩に、おれとベンとが、あんたとほとんどいっしょに、クラブに入って行ったのをおぼえているかね?」
「うん」
「それじゃあ、いいかね、おれたち、ポウルと小僧っ子とがあそこら辺《へん》の並木の下でいい争っているのを見かけたんだ」
ネド・ボウモンは、親指の爪で口ひげの片ほうをなでつけてから、わけがわからんというような顔で、ゆっくりと、「しかし、おれは、君たちがクラブの前で車をおりるのを見たぜ――死体を発見してすぐ後のことだ――それに、君たちは、逆のほうからやって来ていたがね」人さし指を動かして見せて、「おまけに、ポウルは君たちより先に、クラブに入っていたんだが」
スロッスは、大きな頭を勢いよくうなずかせた。「その通りだが、おれたちは、チャイナ街を、ビンキ・クラインの家まで走って行って、あいつがいなかったもんだから、またクラブまで引きかえしたんだ」
ネド・ボウモンは、うなずいた。「それで、どんなところを見かけたんだ?」
「並木の下で、二人が立ったまま、いい争っていたんだ」
「車で走りながらでも、そんなものが見えたのか?」
スロッスは、また勢いよくうなずいた。
「あの辺は、とくべつ暗い場所だぜ。スピードをゆるめるか、停車したのでなければ、車で走りすぎながら、二人の顔の見分けがついたなんて、ちょっと考えられんことだ」
「おれたちは、スピードをゆるめも、とまりもしなかったが、ポウルならどこにいたって、ひと目でわかるからな」
「そうかもしれん。しかし、いっしょだったのが、あの若僧だってことは、どうしてわかったね?」
「そうだったんだ。まちがいなくそうだった。見わけのつくぐらいは見えたよ」
「そして二人がいい争っているってことまでわかったんだな? どういうことなんだね、それは? なぐり合いでもやっていたのか?」
「いや、しかし、いかにもいい争っているような恰好だったからな。あんただって、道ばたに突っ立ったままいい争っているやつを見れば、それがわかるだろうさ」
ネド・ボウモンは、陰気な微笑をうかべた。「わかるよ、一人が、相手に噛みつきそうな恰好で立っていたりすればね」微笑が消えた。「で、そのことを、ベンが警察でしゃべったというんだな?」
「うん。あの野郎が、自分から出かけて行ってしゃべったのか、それとも、ファーがどうかして嗅ぎつけて、ベンをしょっ引いたのか、どっちだかおれは知らんが、とにかくあの野郎、ファーにそのことをしゃべりやがったんだ。昨日《きのう》のことだがね」
「それが、どうして君に知れたんだ?」
「おれのきいたのは、ファーがおれをさがしてるってことなんだ。ベンがおれといっしょだったってことをしゃべったもんだから、ファーが、おれに来てくれ、話がしたいといってよこしたのさ。しかし、おれはどうも気乗りがしねえんだ」
「気乗りがしなくて結構だよ、ハリー。ファーが強気に出て、逮捕されたら君はどんな話をするつもりなんだ?」
「おれは、できたら、そんな目に会わずにすましたい。あんたに会いたかったのも、そのことなんだ」スロッスは咳ばらいをして、くちびるをしめした。「おれ、こんどのことが鎮まるまで、一、二週間、よその土地に行ってたほうがいいんじゃねえかと思うんだが、そうなると、先立つものは金というわけなのさ」
ネド・ボウモンは、微笑をうかべて、頭を振った。「そんなことをする必要はないよ。君が、ポウルを助けたいのなら、ファーのところへ行って、並木の下の二人の人間が誰だか見わけがつかなかった、同じ車に乗っていたやつにも、見わけがついたとは思えん、と、そう話すことだ」
「よし、わかった、そうしよう」スロッスはあっさり同意した。「しかし、ネド、おれ、それだけのことをしたら、ちっとはなんとかして貰ってもいいと思うんだがね。おれだって危ない橋を渡るんだから……なんというか……いわんでもわかっとるだろうが」
ネド・ボウモンはうなずいた。「選挙がすんだら、なにか楽な仕事をやって貰うようにしよう。一日に一時間も顔を出せばいいような仕事をね」
「それもいいが……」スロッスは立ち上がった。緑色の斑点のある青い眼には、さし迫った表情があった。「だけど、ネド、おれは、スッカラカンなんだ。あとのことはあとのこととして、それよか、今、少しでいいから、金をなんとかして貰えんだろうか? そうしてくれるとまったく好都合なんだが?」
「なんとかなるかもしれん。ポウルに相談してみよう」
「ぜひ頼むよ、ネド。電話してくれよ、な」
「いいとも。じゃ、さよなら」
五
マジェスティック・ホテルから、ネド・ボウモンは、市庁の地方検事局に行って、ミスター・ファーに会いたいと申しこんだ。
その申しこみを受けた丸顔の若者は、奥に入って行って、一分ほどたつとすまなそうな顔でもどって来た。「お気の毒ですが、ミスター・ファーは不在です」
「いつごろ帰って来られるかね?」
「わかりかねます。秘書にも、なにもいい残さずに出られたそうで」
「じゃあ、とにかく、しばらく部屋で待たせて貰おう」
丸顔の若い男は、前に立ちふさがった。「いや、それは困ります。そんな……」
ネド・ボウモンは、とっときの微笑をたたえて見せて、やさしい声で、「君は、今の仕事が気に入っているんじゃないかね?」
若者はためらってから、急にソワソワして、ネド・ボウモンの前をのいた。ネド・ボウモンは、奥の廊下を地方検事室まで歩いて、ドアをあけた。
ファーが、デスクから眼を上げて勢いよく立ち上がった。「やあ、君だったのか?」大声を出した。「しようのないやつだ。まちがってばかりいる。ミスター・バウマンだなんて取り次ぐもんだから」
「なあに、べつにどうってこともありませんでしたよ。いずれにせよ、勝手に入りこんで来ましたからね」
地方検事は握手をして、ネド・ボウモンに椅子をすすめた。めいめい座がきまると、ネド・ボウモンが面白くもなさそうに、「なにか、ニュースでも?」と訊いた。
「ないね」ファーは、椅子の後ろにもたれかかり、両手の親指をチョッキの下ポケットに引っかけた。「あいも変わらずというところだ。神さまなら、なにかをご存じだろうがね」
「選挙のほうは、どんな具合ですか?」
「もうちっと、どうにかなっていいところなんだが」――地方検事の喧嘩早そうな赤ら顔を、チラッとなにかの影がかすめた――「でも、なんとかやれると思うよ」
ネド・ボウモンは、あい変わらずつまらなそうな声を出した。「いったいどうしたんです」
「あれやこれやでね。しょっちゅういろんな問題が起こって来る。それが政治というものなんだろうが」
「ぼくに――でなければポウルに、なにかお手つだいできることがありませんか?」ネド・ボウモンはそう訊ねて、ファーが、赤い刈り立ての頭を振って見せると今度は、「一番の難問題は、ポウルが、ヘンリー殺しにかかり合っているという例の話ですかな?」
ファーの眼に、脅《おび》えたような光があらわれたが、眼をしばたくと、それが消えた。椅子の上で、いずまいを正した。
「そう」地方検事は、慎重ないいかたをした。「選挙前に、ぜひとも、あの殺人事件を解決してしまわなければならんような気がしているんだ」
「この前お目にかかってから、なにか進展がありましたか? つまり、なにか新しい事実でも判明しましたか?」
ファーは頭を振った。眼は陰気だった。
ネド・ボウモンは、温かみのない微笑をうかべた。「なにかのわけがあって、そんなにグズグズしているんですか?」
地方検事は、椅子の中でモジモジと身動きした。「そうだな、ネド、うん、むろんそんなこともあるんだ」
ネド・ボウモンは、なるほどというようにうなずいた。眼に、敵意が光った。なじるように、「ベン・フェリスの証言の一件が、あんたのグズグズしているわけのひとつなんですか?」
ファーの不恰好《ぶかっこう》な受け口が、あいて閉まった。くちびるをこすり合わせた。ビックリしたように大きくみひらいた眼から、表情が消えた。「いや、フェリスの証言に、どんな意味があるのかないのか、そんなことは知らんよ。先ずないと思っているがね。まだ、君にいえるほど、よく考えもしていないんだ」
ネド・ボウモンは、あざけるように高笑《たかわら》した。
ファーが、「君も知っての通り、ぼくは、君とポウルには、なにひとつ、大事なことはなにひとつ、隠したりしやしないぜ。それは、君もよく知っているじゃないか」
「あんたが、そんなふうに神経を立てる前には、たしかにそうでしたな。しかし、そんなことはいいですよ。もし、フェリスといっしょに車に乗っていた人間を逮捕したいのなら、今すぐになら、マジェスティック・ホテルの四一七号室にいますぜ」
ファーは、デスクの上の、斜めに立った二本のペン軸の間に、飛行機を差し上げて踊るように立っている緑色の裸像をみつめた。その顔には、石のように表情がなかった。なにもいわなかった。
ネド・ボウモンは、うすいくちびるに微笑をただよわせて、立ち上がった。「ポウルは、いつも、子分どもを窮境《きゅうきょう》から助け出してやるのが好きです。どうです、ポウルを逮捕して、ヘンリー殺しの件で裁判にかけてみては?」
ファーは、緑色のデスク・セットから眼を離さなかった。「ぼくには、ポウルに対して、とやかくいうことはできない」
「そいつは、結構な考え方です」ネド・ボウモンは、大きな声を出した。デスクの横からからだを乗り出して、地方検事の耳もとに口を寄せ、内証らしく声をひそめて、「それといっしょに、もひとつ考えていただきたいんですがね。つまり、ポウルにいいつけられもしないことに、あまり手を出さんということをね」
ニヤニヤ顔で外に出たが、部屋の外に出ると、まじめな顔にもどった。
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第八章 お払い箱
一
ネド・ボウモンはイースト・ステート土木会社という文字の入ったドアをあけ、すぐ内側のデスクに向かっている二人の若い女性と会話をかわし、五、六人の男に話しかけながら、大きな部屋を通りぬけ、『私室《プライヴェート》』と書いてあるドアをあけた。ま四角な部屋に入ると、ポウル・マドヴィグは、うす汚ないデスクの前で、正面に置かれた書類を見ていた。そのそばには、書類をもって来た小さな男が、つつましく控えて待っていた。
マドヴィグは、顔をあげた。「やあ、ネド」書類をわきに押しやって、小さな男に、「こいつは、しばらくしてから、またもって来てくれ」
小さな男は、書類をかきあつめた。「かしこまりました」それから、「いらっしゃいまし、ボウモンさん」と挨拶をして、部屋を出て行った。
マドヴィグが、「よっぽど夜ふかしをしたような顔をしているね。どうかしたのかな? まあ、かけたまえ」
ネド・ボウモンは外套をぬいだ。それを手近の椅子に置き、その上に帽子をのせて、葉巻をとり出した。「いや、べつにどうもしないよ。あんたのほうは、なにか面白い話でもあるかね?」いいながら、汚ないデスクの隅に腰をかけた。
「マクローリンの様子を見に行ってくれると好都合なんだが、君なら、あの男をあしらうことができるだろう」
「いいとも、あの男、なにかあったのか?」
マドヴィグは、青い顔をした。「そいつはわからん。おれのほうでは、あいつをチャンと握っているつもりだったんだが、どうも、おれたちを裏切りそうな気配があるんだ」
ネド・ボウモンの色の濃い眼に、鈍い光があらわれた。金髪男を見おろして、「あいつもか? なるほどね」
マドヴィグは、ちょっと考えてみてから、ゆっくりとした口調で、「というと、どういうことなんだね、ネド?」
ネド・ボウモンは、答えるかわりに、べつのことを訊ねた。「あんたのほうは、万事都合よく運んでいるかね?」
マドヴィグは、いら立たしそうに、両方の肩をゆすったが、眼からは、そのさぐるような表情がなくならなかった。
「都合よく、ということもないが、たいして悪くもないぜ。いざとなれば、マクローリンの手にある票ぐらいなしにだって、なんとかやって行けるよ」
「それはそうかもしれんが……」ネド・ボウモンのくちびるはうすくなっていた。「そういつまでも、票をなくしつづけて、それでも大丈夫だというわけには行かんよ」葉巻を口の端に突っこんで、「あんたも知っているように、おれたち、二週間前ほどには調子がよくないんだ」
マドヴィグは、デスクに腰をかけている男に、寛大な笑顔を見せた。「やれやれ、君も、よくよくそういうことをいうのが好きな男だ! 君にかかっては、どんなことでも、調子よくは見えないんだな?」その答えを待たずに、静かな声で、「いつの選挙だって、途中で、こいつはいかんという気のしないような選挙は、一度もなかった。しかし、それで大丈夫なんだからね」
ネド・ボウモンは、葉巻に火をつけていた。煙りを吐き出して、「だからといって、決してそうならんということにはならないよ」葉巻の先を、マドヴィグの胸につきつけて、「テイラー・ヘンリー殺しの一件が、トントン拍子に片づかなきゃ、あんたも、そうそう選挙のことばかり気に病んでいるわけにはいかないぜ。誰が勝とうと、あんたは元も子もなくなってしまうことになるんだからね」
マドヴィグの青い眼は曇った。そのほかには、顔は少しも変わらなかった。「いったい、どういう意味なんだね、ネド?」
「町じゅうの誰でも、あんたがテイラーを殺したと思っている」
「そうかね?」マドヴィグは、片手をあごの先にもって行って、そこをこすりながら考えこんだ。「そんなことくらいで心配するなよ。おれは、前にもつまらん噂を立てられたことがある」
ネド・ボウモンは、なまぬるい微笑をふくんで、わざと大げさに、「へえ、あんたって人は、どんなことにでも経験があるんだね。たいしたもんだ。じゃあ、電気椅子に坐らされたことがあるかね?」
金髪男は、笑い出した。「だから坐りたいと思っている、なんていうなよ」
「ポウル、あんたは、現に電気椅子からあまり遠くないところにいるんだよ」ネド・ボウモンの声は、やわらかだった。
マドヴィグは、また笑った。「なにをいうんだ!」ひやかすような口調だった。
ネド・ボウモンは肩をすぼめた。「いそがしいんじゃないかね? 馬鹿話であんたの時間をつぶしちゃすまんからね」
「おれは、君の話をきいているよ」マドヴィグは、静かないいかたをした。「君の話をきいて、損をしたことはないからね」
「どうもありがとう。どういうわけで、マクローリンが、コソコソ逃げ出そうとしていると思うのかね?」
マドヴィグは、頭を振った。
ネド・ボウモンは、「あの男は、あんたが負けると考えているんだ。警察が、テイラーを殺した犯人をさがそうとしていないことは、誰もが知っている。誰もがそれを、あんたが犯人だからだと思っている。マクローリンは、それだけであんたが、こんどの選挙に負けるに充分だと考えているんだ」
「そうかな? するとあいつは、みんなが、おれよりもシャドにこの市を切りまわさせたがっていると考えているわけかな? このおれが、殺人犯の容疑をかけられたぐらいのことで、シャドより評判が悪くなると考えているのかな?」
ネド・ボウモンは、眉をしかめて金髪男の顔をみつめた。「あんたは、おれをからかっているのかね、からかおうとしているのかね? シャドの評判なんてものが、それとどんな関係があるんだ? あの男は自分の候補者たちのかげに隠れて、表に出て来やしない。その殺人事件に、なにひとつ手が打たれていないのは、あんたの、そして、あんたの候補者たちの責任だ」
マドヴィグは、またあごの先に手をあてて、デスクの上に片肘をついた。美しい赤ら顔には、しわひとつなかった。「ネド。おれたちは、ほかの連中の考えていることについて、だいぶ話した。こんどは、君の考えていることについて、話そうじゃないか。おれが負けると思うかね?」
「多分まけるだろうな」ネド・ボウモンの声は、低いが、確信にみちていた。「あんたが、のんきにじっとしていたら、まちがいなしに負けるよ」微笑をたたえて、「しかし、あんたの候補者たちは、大丈夫、当選するだろう」
「説明して貰わんことには、どうもよくわからんが」マドヴィグは、腑《ふ》に落ちぬいいかたをした。
ネド・ボウモンは上体をかがめて、デスクのわきの真鍮《しんちゅう》のたん壺に、葉巻の灰をソッとたたき落した。それから、感動のない声で、「あんたは、裏切られることになる」
「というと?」
「わかっているだろうが。あんたは自分から仕向けるようにして、つまらん連中を、ほとんど全部、シャドにつかせた。あんたは、選挙をやるのに品のいい連中を当てにしている。その連中が、疑い深くなって来た。そこで、あんたの候補者たちは、大変なスタンド・プレイをやらかすわけだ。つまり、殺人の容疑で、あんたを逮捕する。すると、品のいい連中は――たとえ隠れもない自分たちのボスであっても、法律を破ったとあれば、容赦なく牢屋にぶちこむだけの勇気のある、大したえらいお役人がただと大喜びで――死にもの狂いに先を争って投票にかけつけ、その英雄たちに、もう四年、市政をやって貰おうと選挙することになる。しかしあんたは、自分の子分どもを責めることはできない。連中は、そうやれば自分たちは安泰で、やらなければ、首が飛ぶってことを、ちゃんと心得ているんだ」
マドヴィグは、あごの先から手を離した。「要するに、あの連中の忠誠など、あまり当てにはならんというんだな。ネド?」
ネド・ボウモンは微笑した。「その点で、あんたご同様だ」微笑が消えた。「おれは、当てずっぽをいっているわけではないぜ。この午後、おれは、ファーに会って来た。関所を破って押しこんだんだ。居留守《いるす》を使いやがったんでね。あの男、殺人事件をまだ充分掘り下げていないような振りをしていた。自分の発見した事実などないといって、おれをはぐらかそうとした。しまいには、おしみたいに黙りこんじまいやがった」けいべつするような口をして、「いつもおれがいいさえすれば、ピョイと輪をとび抜けていやがったファーの野郎がさ」
「だが、それはファーだけのことなんだから――」
ネド・ボウモンは、マドヴィグのことばを中途でさえぎった。「ファーだけといったって、それがきっかけなんだ。そりゃあトレッジだって、ブロディだって、レイニーでさえあんたから離れないかもしれんが、ファーがなにかをやらかそうとしているのは、ほかの連中が自分についていることを知っている証拠だ」顔をしかめて、金髪男のこわばった顔をみつめた。「あんたがそうしたいのなら、いつでも、おれのいうことを信用するのをやめちまっていいぜ、ポウル」
マドヴィグは、あごの先にもって行った手で、さり気ない仕ぐさをして見せた。「うん、そのときには知らせるよ。なんでまた、ファーのところなんかに出かけて行くことになったんだね?」
「今日、ハリー・スロッスが電話をかけてよこしてね。あの男とベン・フェリスとが、口でそういっているだけかもしれんが、とにかく、あんたが人殺しのあった晩、チャイナ街で、テイラーと口論しているのを見かけたということらしい」ネド・ボウモンは、とくべつな表情のない眼で、金髪男の顔をみつめていた。声にもなんの表情もなかった。「そのことを、ベンがファーのところへ行ってしゃべったんだ。ハリーは、自分はそんなことをしないから、その代わりに金をよこせといった。つまり、あんたのクラブの会員の中にも、情勢を読んだ人間が二人ばかりいるということだ。ファーが、カンシャクを起こして無茶をやるのを見たことがあるので、おれは、あの男の様子をさぐりに行ったんだ」
マドヴィグは、うなずいた。「で、君は、あの男が、確かにおれを裏切ろうとしている、と、そういうんだな?」
「そうだ」
マドヴィグは、椅子から立ち上がって、窓ぎわに行った。ズボンのポケットに両手を突っこんで、そこに立ったまま、三分間ばかりも外を眺めた。その間、ネド・ボウモンは、デスクに腰をかけて、葉巻をふかしながら、金髪男の幅の広い背中をみつめた。やがて、マドヴィグが、ふりかえらずに訊ねた。「君は、ハリーにどういった?」
「だましてやったよ」
マドヴィグは、窓を離れてデスクにもどって来たが、腰はおろさなかった。顔の赤さが深くなっていた。ほかに変わりはなかった。声は平板だった。「おれたち、どうすればいいと思うかね?」
「スロッスのことか? なにもしなくていい。もう一人の野郎は、もうファーについている。スロッスがなにをやらかそうと、大したことではない」
「いや、そればかりじゃない。ぜんぶの情勢のことだ」
ネド・ボウモンは、葉巻をたん壺の中に落しこんだ。「おれはいったよ。テイラー・ヘンリー殺しの一件がトントン拍子に片づかんかぎり、あんたは没落するとね。考えることはそれだけだ。それ以外に、手を打って甲斐《かい》のあることはなにもない」
マドヴィグは、ネド・ボウモンから眼を離して、なにもない広い壁面をみつめ、口をしっかりと結んだ。こめかみに汗がにじんだ。胸の底から声が出て来た。「それは駄目だ。ほかの手を考えてくれ」
ネド・ボウモンの鼻の孔が、息づかいといっしょに動いた。眼の茶色が、瞳孔と同じぐらいに濃くなった。「ほかの手などあるもんか、ポウル。それ以外の手を打てば、シャドか、ファーか、その一味につけこまれ、身をほろぼすばかりだ」
マドヴィグの声は、少ししわがれた。「いや、どこかに抜け道があるにちがいない。考えてくれ」
ネド・ボウモンは、デスクをおりて、金髪男の前に近く立った。「あるもんか。それがたったひとつの手だ。あんたは、いや応なしに、その手を打たなきゃならん。あんたが打たんなら、おれが、あんたのかわりに打つ」
マドヴィグは、はげしく頭を振った。「いかん。やめてくれ」
「そればかりは、あんたのいうことをきくわけには行かんよ、ポウル」
マドヴィグは、ネド・ボウモンの眼をみつめた。かすれたささやき声で、「おれが殺《や》ったんだ、ネド」
ネド・ボウモンは、息を吸いこんでから、長いため息をついた。
マドヴィグは、ネド・ボウモンの肩に両手をかけた。にごった不明瞭なことばづかいで、「ヒョッとした間違いだったんだ。おれがヘンリーのところを出てから、テイラーがあとを追っかけて来た。手には、出かけに引っつかんだステッキをにぎっていた。おれに追いつくと、そのステッキでうちかかって来た。どうしてそんなことになったかわからんが、おれはステッキを引ったくって、相手の顔をなぐった――強くじゃない――そんなに強かったはずはない――ところがあの男は、あお向きにひっくりかえって、歩道の角で、頭を割ったんだ」
ネド・ボウモンはうなずいた。その顔から、一切の表情がなくなり、ただ一心不乱に、マドヴィグのことばに耳を傾けた。顔にふさわしいキビキビした声で、「そのステッキはどうした?」
「おれは、それを外套の下にかくしてもっていき、燃やしちまった。あの男の死んだことがわかり、クラブまで歩いて行く途中、ふと気がつくと、ステッキをもっていた。そこで、外套の下に隠し、あとで燃やしたんだ」
「どんなステッキだったね?」
「ゴツゴツした茶色の重いステッキだったよ」
「テイラーの帽子は?」
「知らんな。ステッキでなぐったはずみに落ちて、誰かが拾ったのじゃないかな」
「かぶっていたことはいたのか?」
「うん、それは確かだ」
ネド・ボウモンは、口ひげの片側を親指の爪でなでた。
「スロッスとフェリスの乗った車が通りすぎたのをおぼえていないな?」
ネド・ボウモンは、顔をしかめて金髪男の顔を見た。「ステッキをもって逃げ、それを燃やしたきり知らん顔でいるなんて、ずいぶんよけいなことをやったもんだ。正当防衛の申し開きは、立派にできたのに」
「それはわかっている。しかし、そっとしておきたいんだ」マドヴィグの声は、しわがれた。「おれは、今、なにはなくとも、ジャネット・ヘンリーだけは失いたくない。生れてはじめての気持ちなんだ。おれのやったことが知れたら、たとえ偶然のまちがいだったとしても、元も子もなくなっちまうじゃないか」
ネド・ボウモンは、まともにマドヴィグの顔に笑いかけた。大きな声ではなかったが、痛烈な笑いだった。「いや、今よりはましだったろうさ」
マドヴィグは、相手の顔に眼をすえたまま、なにもいわなかった。
ネド・ボウモンが、「あの娘はずっと、あんたが兄を殺したと思っているよ。あんたを憎んでいる。なんとかして、あんたを電気椅子に坐らせようと、一生懸命になっている。名無しの手紙を、関係のありそうな人間に手当り次第送りつけて、あんたに容疑をかけさせるきっかけをつくったのも、あの娘なんだ。オパルに、父親のあんたを裏切らせたのも、あの娘だ。あの娘は今朝、おれのアパートにやって来て、おれまで裏切らせようとしたよ。あの娘は……」
「もう沢山だ」マドヴィグは、姿勢をまっすぐにした。金髪の大男の眼は、氷のように冷たい青い円盤だった。「どうしたというんだね、ネド。君自身、あの女が欲しいのか、それとも……」ことばがとぎれた。さげすむように、「そんなことはどうでもいい」親指を、ドアのほうに振って見せて、「出て失《う》せろ、裏切り者めが。貴様はお払い箱だ!」
ネド・ボウモンは、落ち着きはらって、「話がすんだら出てゆくよ」
「いわれたときに出てゆくんだ。貴様のいうことは信用できん。なにひとつ信用できん。二度と信用するものか」
「わかったよ」ネド・ボウモンは、帽子と外套をとり上げて、出て行った。
二
ネド・ボウモンは、自分のアパートに帰った。青ざめ、むっつりした顔をしていた。大きな赤い椅子に、前かがみに坐りこんだ。そばのテーブルに、バーボン・ウィスキーの瓶とグラスをもって来てのせたが、飲まなかった。自分の足の黒靴を陰気ににらみつけて、爪を噛んだ。電話のベルが鳴った。出ようともしなかった。部屋の中に、夕闇がしのびこんで来はじめた。かなりうす暗くなってから、立ち上がって、電話のところに行った。
ある番号を呼んだ。やがて、「もしもし、ミス・ヘンリーにお話しがしたいんですが、お願いします」しばらく待つ間に、音のない口笛を吹いた。それから、「もしもし、ヘンリーさんですか?……そうです……例のことを、あんたのことを、ポウルに話して帰って来たところなんですがね……そうです、おっしゃる通りでした。やっぱり、あの男がやったんです……」声を出して笑った。「そう、その通りです。ぼくを嘘つきだといって、ぼくのいうことに耳を貸さずに、ぼくをほうり出しましたよ……いや、なあに、大丈夫ですよ。いずれそうなるところだったんですから……いや、ほんとうに……ああ、多分これっきりでしょうな。なかなか口に出してはいえないことまでいい合いましたからね……そう、今晩は夜っぴてでしょうな……結構ですとも……承知しました。さよなら」
電話がすむと、ウィスキーをグラスに注いで飲んだ。それから、暗くなった寝室に入り、目ざまし時計の針を八時に鳴るように合わせて、服を着たままベッドに横になった。しばらく天井をみつめていた。やがて眠りこみ、不規則な息がつづいているうちに、時計のベルが鳴り出した。
けだるそうにベッドから起き上がり、あかりをつけて、浴室に入り、顔と手を洗い、新しいカラーをつけ、居間の壁暖炉に火をおこしにかかった。新聞を読んでいると、ジャネット・ヘンリーがやって来た。
ジャネット・ヘンリーは、興奮していた。さっそく自分がここに来たことをポウルに話すなどとは思いもよらなかったし、その結果がどうなるか予測もしなかったということを、ネド・ボウモンに納得させようとしはじめたが、それとは裏はらに、眼には得意らしい色があからさまにあらわれ、いいわけがましいことばを口にしながらも、くちびるに微笑がうかんで来るのをとめようがない様子だった。
「なあに、構いやしませんよ。どうなるかっていうことがわかっていたにしても、どうせやらなければならんことだったのですからね。自分では、わかっていたような気がしますよ。ありがちなことです。あんたが、そうなるといって下すっていたとしても、ぼくとしては、やれるならやってみろといわれたと感じて、とびかかって行ったでしょうな」
女は、両手を差し出した。「うれしいわ。うれしくないような顔をしようと思っても駄目なの」
ネド・ボウモンは、女の両手をとりながら、「気の毒には思いますが、それを避けるために、わが道を踏みはずすつもりはありませんでした」
「わたくしのいうのがほんとうだということが、わかっていただけたのね。あの人がテイラーを殺したのよ」女は、さぐるような眼をした。
男はうなずいた。「自分でそういいましたよ」
「こんどは、わたくしを手伝って下さるわね?」女は、両手で男の両手を強く握って、男のほうに寄って行った。
男は、ためらった。眉をしかめて、女の懸命な顔を見おろした。「正当防衛か、そうでなければ、偶然のまちがいだったんです。ぼくには、どっちだか……」
「殺人よ!」女は叫んだ。「むろん、自分では、正当防衛だというにきまっているわ!」イライラしたように頭を振って、「それに、正当防衛か、まちがいだったとしても、あの人は、ほかの人と同じように、法廷に出てそれを証明して見せなければいけないのよ」
「あの男は、グスグスしすぎましたよ。こうなったら、黙っていればいるほど、あの男に不利でしょうな」
「そんなこと、誰のせいでもない、自分のせいじゃないの。それに、もし正当防衛だったのなら、そんなに長いこと内証にして黙っているはずはないでしょう?」
男は、ゆっくりとうなずいた。「それは、あなたのためだったのです。あの男はあなたに惚れています。そのあなたに、自分があなたのお兄さんを殺したことを知られたくなかったのです
「わたくしは知ってるわ! もうすぐ、みんなに知れてしまうことだわ!」
男は、肩を少し動かして見せた。顔は陰気だった。
「わたくしを手伝って下さるの、おいや?」
「いやです」
「あら、どうして? あの人と喧嘩わかれなすったのじゃないの」
「ぼくは、あの男の分を信じます。既に法廷にもち出すには手遅れだということを承知しています。打つ手はありません。しかし、自分から、あの男をそんな目に会わせる気にはなれません」ネド・ボウモンは、くちびるを湿らした。「あの男のことは放っときましょう。あなたやぼくがどうもしなくたって、痛い目に会うのは同じことです」
「いやよ、わたくしは、あの人が当然の罰を受けるまでは、放っといたりしないわ」女はハッと息をとめた。眼が暗くなった。「ねえ、あの人をほんとに信じているんだったら、あの人の話が嘘だということを証明してみようという気を起こさないこと?」
「というと?」男は答える前に用心して訊ねた。
「あの人が、嘘をついているにせよ、いないによ、ほんとうのところを確かめるお手伝いをして下さらない? どこかに、きっと動かせない証拠があるはずだわ。わたしたちのさがし出すことのできるような証拠が。もし、ほんとにあの人を信じていらっしゃるんだったら、その証拠をさがし出すのを手伝って下すったって、ちっともかまわないはずよ」
男は、口を開く前に、女の顔を仔細《しさい》に観察した。「ぼくがお手伝いして、おっしゃるような証拠が見つかったとしたら、それが、どっちに転んでも、そのまま受けいれることを約束してくれますか?」
「するわ」女の答えはすぐに出て来た。「あなたもよ」
「そして、一切が片づいてしまうまでは……つまり、あなたのいう動かせない証拠が固まってしまうまでは……どんな事実が見出されたとしても、それをあなた自身の胸にたたんで、あの男を攻める道具に使ったりはしませんね?」
「しないわ」
「よろしい、それで話はきまりました」
女は、嬉しそうにすすり上げ、眼に涙があふれた。
「おかけなさい」男の顔は、やせて硬かった。そっけない声で、「まず、きちんと計画を立てなければなりません。今日、午後にでも、夕方にでも、ぼくとあの男とが喧嘩わかれしてから、あなたは、あの男からなにか聞きましたか?」
「いいえ」
「じゃあ、あなたとあの男との関係がどうなっているか、まだあいまいですね。ひょっとすると、あの男、ぼくのいったことが正しいと考え直していないともかぎりません。ぼくとの間では――手を切っちまったのですから――今さらどうということもありませんが、いずれにしろ、できるだけ早く、それを確かめておくことが必要ですね」
男は顔をしかめて、女の脚をみつめ、親指の爪で、口ひげをなでつけた。
「それにしても、向こうからあなたのところへ出むいて来るのを待つほかはないでしょうね。こっちから電話をかけるわけにも行きますまい。あなたに対する気もちがフラついているようなら、あの男も決心するかもしれませんよ。どうです、あの男に対してどのくらい自信がおありですか?」
女は、テーブルのそばの椅子に腰をかけようとしていた。「どのくらいって、そりゃあ、女性が男性に対してもつ自信ぐらいなら、わたくしにだってあるわ」とまどいしたように、短い笑いをもらした。「妙ないいかただけど、ほんとにそうよ、ボウモンさん」
男はうなずいた。「それなら、たいがい大丈夫でしょうが、それでも明日までには、確かなところを知っておいたほうがいい。あの男にカマをかけて聞き出そうとしたことはありませんか?」
「ないわ、まだ。わたくし、時が来るのを待って……」
「差し当たりは、そんなことはしないほうがいい。あなたのほうで、どんなに自信があっても、こうなったら、よっぽど用心してかからなければなりません。まだぼくのきいていないことで、なにかわかったことがありゃしませんか?」
「ないわ」女は、頭を振った。「どんなふうにしたらいいのか、あまりよくわからないのよ。だから、あなたにお手伝いしていただきたくて……」
男は、女のことばをまたさえぎった。「私立探偵を頼んでみようとは思いませんでしたか?」
「思ったけど、こわかったの。もしかポウルに知れやしないかと、それがこわかったのよ。誰に頼めばいいのか、誰なら信用できるのか、ちっとも見当がつかなかったわ」
「ぼくは、安心して使える探偵を知っています」男は、濃い色の髪の中に、指を走らせた。「ところで、あなたに確かめてもらいたいことが二つあります。お兄さんの帽子で、見えなくなったのがありませんか? ポウルの話では、お兄さんは帽子をかぶっていたということです。ぼくがお兄さんを発見したときには、ありませんでした。お兄さんの帽子がいくつあったか、行方がみんなわかっているかどうか、それを確かめて下さい」――妙な微笑をうかべて――「ぼくの借りたのはべつですがね」
女は、相手のうす笑いには注意を払わなかった。頭を振って、両手をちょっと上げ、しょげたように、「駄目なのよ。兄さんのものは、みんな始末してしまったし、そうでなくたって、兄さんの持ち物のことを正確に知っている人なんていないと思うわ」
ネド・ボウモンは、肩をすぼめた。「もうひとつは、ステッキですがね、お兄さんのか、お父さんのか、ステッキのどれかがなくなってやしませんか――ゴリゴリした茶色の濃いのが?」
「それなら、父さんのだわ。今でもあると思うけど」
「確かめて下さい」ネド・ボウモンは、親指の爪を噛んだ。
「明日《あした》までに、それだけやって下さればいい。それと、あなたとポウルの間がどんなことになっているか、それも確かめてもらえるといいな」
「どうしたというの? そのステッキのことなんだけど」
「ポウルの話では、お兄さんがそのステッキを振り上げて、襲いかかって来たので、それをとり上げたというんです。ステッキは、ポウルがもって行って燃やしてしまったそうですが」
「あら、だって、父さんのステッキはみんなそろっているわ。確かに」女は、大きな笑い声を出した。顔は青ざめ、眼が大きく開かれていた。
「テイラーは、ステッキをもっていませんでしたか?」
「銀の握りのついた黒いのが一本だけだったわ」女は、男の手首を握った。「一本も欠けたのがないとすると……」
「そう、とんでもないことになるかもしれませんね」男は、女の手をつかんだ。「だからといって、変な細工はしないほうがいいですよ」
「そんなことしないわ。わたくしが手伝っていただいて、どんなに喜んでいるか、どんなに手伝っていただきたかったか、それをわかって下すったら、わたくしを信用して下すって大丈夫なことが、きっとおわかりになるわ」
「そうでしょうな」ネド・ボウモンは、手を女の手から離した。
三
ひとりになったネド・ボウモンは、ひきつった顔に、眼をギラギラと輝かせて、部屋の中を歩きまわった。十時十分前に、腕時計をのぞいてみた。それから外套を着て、マジェスティック・ホテルまで行った。ハリー・スロッスはいないということだった。ホテルを出てタクシーを拾うと、行き先を告げた。「ウェスト・ロード館だ」
ウェスト・ロード館は、町を三マイルばかり出た、道路から引っこんだ木立ちの中の、ま四角な白い建物だった――夜目には灰色に見えた。一階にあかりが輝き、前には五、六台の車がとまっていた。左のほうに離れて建つ長い駐車場の屋根の下にも、車があった。
ネド・ボウモンは、玄関番に親しげにうなずいて見せて、大きな食堂に入った。そこでは、三人編成のバンドが派手な音をまきちらし、八人から十人の人たちが踊っていた。テーブルの間を抜け、ダンス・フロアーの裾をまわって、部屋の隅のバーの前に立ちどまった。カウンターには、ほかに客はなかった。
バーテンダーは、海綿のような鼻をした肥った男だった。
「こんばんは、ネド。だいぶ顔を見せなかったな」
「よう、ジミー。お行儀よくしていたんでね。マンハッタンをたのむぜ」
バーテンダーは、カクテルを混ぜにかかった。バンドが、一曲片づけた。かん高い女の声が、けたたましくひびきわたった。「あたいはいやだよ、あんなボウモンみたいな畜生野郎といっしょにいるのは」
ネド・ボウモンはクリルとふり向いて、カウンターの縁に背なかをもたせかけた。バーテンダーは、カクテル・シェーカーを手にしたまま、凍りついたように動かなくなった。
ダンス・フロアーのまん中に、リー・ウィルシャーが立ちはだかって、ネド・ボウモンをにらみつけていた。女の片手は、きつすぎるような青い服を着た大柄な若者の腕にかかっていた。その男も、間の抜けた顔でネド・ボウモンを見ていた。「あいつは、性の悪い畜生だよ。お前さんが、あいつを投り出してくれなきゃ、あたいが出て行くからね」
部屋の中のほかの連中は、固唾《かたず》を飲んで静まりかえっていた。
若者の顔が赤らんだ。こわい顔になろうとすると、ますます困った顔になった。
女がわめいた。「お前さんが、グズグズするんなら、あたいが行って、あいつを引っぱたいてやるよ」
ネド・ボウモンは、うす笑いをうかべた。「やあ、リーじゃないか。その後、バーニーに会ったかね?」
リーは、汚ないことばを吐いて、ひと足前に踏み出した。
大がらな若者は、片手をのばして、女をつかみとめた。「おれが、あん畜生と話をつけてやる」上衣《うわぎ》の襟の具合を直し、前裾を引っぱりおろして、もったいぶった歩きかたでネド・ボウモンの前に進み出た。「貴様、なんの因縁があって、あのご婦人に、そんな口をききやがるんだ、おい?」
ネド・ボウモンは、落ち着きはらって若者をにらみつけ、右手をわきにのばし、手のひらを上にしてカウンターの上にのせた。「ジミー、こいつを殴ってやるから、なにか貸してくれ。素手の殴り合いは苦手だからな」
聞くが早いか、バーテンダーの片手は、カウンターの下に入っていた。錘《おも》りつきの棍棒をとり出して、それをネド・ボウモンの手にのせた。ネド・ボウモンは、手をそのままにして、「あのご婦人は、ずいぶんいろんな口のききかたをされていらっしゃるぜ。この前会ったとき、いっしょだった男なんか、あのご婦人のことを、うすのろ雌鶏《めんどり》と呼んでいたがね」
若者は、姿勢をまっすぐにして、眼を左から右へうつした。「ようし、憶えてろ。いつか、二人きりのときに話をつけてやるからな」かかとでまわって、リー・ウィルシャーに呼びかけた。「さあ、こんな下らねえところは出ようじゃねえか」
「勝手に出てお行きよ」女は、意地の悪い口をきいた。「お前さんなんかといっしょに行ってやるもんか。つくづくお前さんがいやになったよ」
口じゅう金歯ずくめのたくましい男が出て来た。「そうだ、出て行ってもらおう、二人とも。さあ、出て行け」
ネド・ボウモンは、声を出して笑った。「うん、その――ご婦人のほうは、おれといっしょなんだ、コーキー」
「いいとも」コーキーは、こたえて置いて、若者に、「貴様は出ろ」
若者は出て行った。
リー・ウィルシャーは、自分のテーブルにもどった。椅子に腰をおろして、両手の握りこぶしの間に頬をはさみ、テーブル掛けをにらみつけた。
ネド・ボウモンは、女に向かい合って腰をおろした。給仕に、「ジミーのところに、おれのマンハッタンがあるんだ。それから、なにか食べるものを貰いたいな。君は、すませたかね、リー?」
「すんだわ」女は、眼を上げずにこたえた。「シルヴァ・フィズをちょうだい」
「よし。おれには、マシュルーム添えの一分焼きステーキに、ロクフォール・ドレッシングのサラダ、レタスとトマト、それからコーヒーだ」
給仕が行ってしまうと、リーが吐き出すように、「男なんか、どれもこれもろくでなしだよ。とんでもない喰わせもの野郎だ!」と、声もなく泣き出した。
「君の選びようが悪かったのかもしれないな」
「よくもそんなことがいえたもんね」女は怒った眼を上げて、ネド・ボウモンをにらんだ。「あたいをあれだけなぶりものにしておいてさ」
「なにも、おれは君をなぶりものにしやしないさ。バーニーが、おれからごまかした金をかえすのに、君の大事なものをくすねたからって、そんなことは、おれのせいじゃないよ」
バンドが、演奏をはじめた。
「なんだって、男のせいじゃないのさ。さあ、そんなことよか踊ろうよ」
「うん、いいとも」ネド・ボウモンは、大して気が進まなそうだった。
二人が、テーブルにもどって来ると、カクテルとフィズが来ていた。
「このごろ、バーニー、どうしているの?」のみながら、ネド・ボウモンが訊ねた。
「知らないわ。あいつがとび出してから一度も会わないし、会いたくもないわ。あいつもトンチキ野郎よ! あたいったら、どうしてこんなに運が悪いんだろう! あいつも、テイラーも、こんどの野郎も!」
「テイラー・ヘンリーかね?」
「そうよ。でも、あの人とはあまりかかりあわなかったわ。バーニーといっしょだったじぶんのことだったからね」
ネド・ボウモンは、カクテルを飲みほしてから、「なるほど、君も、チャーター街のあの男の家に、ときどき押しかけていた女の子の一人だったってわけか」
「そうよ」女は物憂げに、男の顔を見た。
「もう一ぱい飲もう」
女が、顔に白粉《おしろい》をたたきつけている間に、ネド・ボウモンは給仕に合図して、酒を頼んだ。
四
ネド・ボウモンは、ドアのベルで眼をさました。ねむそうにベッドを抜け出し、小さな咳をして、ガウンを羽織り、スリッパをつっかけた。眼ざまし時計は、九時少し過ぎていた。ドアまで行った。
ジャネット・ヘンリーが、いいわけをしながら入って来た。
「こんなに早くうかがっちゃって悪いってわかっていたけど、わたくし、どうしても待てなかったのよ。ゆうべはひっきりなしに電話をかけて、あなたを呼び出そうとしたのに、とうとう駄目だったもんだから、ほとんど一睡もしなかったわ。父さんのステッキ、みんな揃っていてよ。やっぱり、あの人嘘をついたのね」
「お父さんのステッキに、ゴツゴツした重い茶色のがありますか?」
「あるわ。ソウブリッジ少佐が、スコットランドのお土産《みやげ》に下さったのが。使ったことはないけど、今でもあってよ」女は、勝ち誇ったようにネド・ボウモンに笑いかけた。
男は、ねむそうに眼をしばたいて、クシャクシャの頭髪を指でかき上げた。「それなら、あの男は、嘘をついたということになりますね」
「それから」女は、うきうきとした声を出した。「ゆうべわたくしが家にかえってみると、あの人が来ていたわ」
「ポウルが?」
「ええ。わたくしに結婚して欲しいと、そういうのよ」
ネド・ボウモンの眼から、ねむ気がなくなった。「ぼくと喧嘩したこと、なにかいっていましたか?」
「いいえ、ひとことも」
「あんたは、なんといいました?」
「テイラーが亡くなったばかりだのに、今は、まだ婚約するのだって早すぎるといったわ。でも、はっきりいやだとはいわなかったのよ。だから、わたくしたち、なんていうのかしら、諒解《りょうかい》ができたというようなことになっているのよ」
男は、さぐるような眼を女に向けた。
女の顔から、陽気な表情が消えた。片手を男の腕にかけた。かすれた声で、「ねえ、お願いだから、わたくしのことを無情な女だと思わないで。だって、わたくし、わたくしたちが今度のことを、できるだけ人に気どられないようにしているのだから、あの人にも、そうしたほうがいいと思ったのだわ」
男は、くちびるを湿らして、重々しい静かな声で、「あんたが、あの男を憎んでいるのといっしょに、愛したりしたらあの男の立場は、いったいどういうことになりますかな」
女は、足を踏み鳴らして、大きな声を出した。「いわないで! そんなこと、二度といわないで!」
男の額に青筋が立ち、くちびるはかたく結ばれた。
女は、後悔したように叫んだ。「だって、わたしくし、堪え切れなかったのよ」
「気の毒ですね。朝めしはすませましたか?」
「いいえ。わたくし、あなたに知らせようと、そればっかり一生懸命だったのよ」
「じゃあ、いっしょにやりましょう。なににします?」男は、電話のところに行った。
朝食を注文すると、ネド・ボウモンは浴室に入って、歯を磨き、顔と手を洗い、髪をなでつけた。居間にもどって来たときには、女は帽子と外套をぬぎ、暖炉のそばに立って、たばこをのんでいた。なにかいいかけたが、電話のベルが鳴ったのでやめにした。
男が受話器をとり上げた。「もしもし……うん、ハリー、寄ってみたんだが、君はいなかった……君にききたかったんだ……そう……あの晩、君が、ポウルといっしょのところを見かけたという男のことをね。その男、帽子をかぶっていたかな?……そうか、やっぱりね? まちがいないな?……そして、ステッキを手にもっていたかな?……よし、わかった……いや、残念だが、そのことは、ポウルと話ができなかったよ。君が自分で会ったほうがいい……うん、そうだ……さよなら」
ジャネット・ヘンリーは、電話から立ち上がった男に、物問いたげな眼を向けた。
「あの晩、通りでポウルがお兄さんと話しているのを見かけたといっている男の一人なんですがね。お兄さんは、帽子はかぶっていたが、ステッキはもっていなかったと、そういっていますよ。しかし、あのあたりは暗く、それに、その二人は、車で通りかかったんです。それほどはっきり見分けがついたとも思えませんな」
「なぜ、そんなに帽子のことを気になさるの? よっぽど大事なことなの?」
男は、肩をすぼめて見せた。「どうですかな。ぼくは、ほんの素人探偵にすぎませんが、どうも、なにかの意味がありそうな気がするのでね」
「昨日から、ほかになにかわかったことがあって?」
「ありませんね。昨夜は、テイラーが相手にしていたことのある女の子に酒をおごったりして過ごしましたが、べつに収穫もありませんでした」
「わたくしの知っている女の子?」
男は頭を振って、鋭い眼で女の顔を見た。「オパルじゃありませんよ、あんたの思っているのが、そうだったとしても」
「あのひとから、なにか手がかりがつかめやしないかしら?」
「オパルですか? 駄目ですね。あの子も、自分の父親が、テイラーを殺したと思いこんでいますが、それは、自分だけの理屈からですからね。なにもわけを知って騒ぎ立てていたのではなく、あんたの例の手紙や、『オブザーヴァー』の記事などのせいなんです」
ジャネット・ヘンリーはうなずいたが、納得しない様子だった。
朝の食事が運ばれて来た。
食べているところへ、電話のベルが鳴った。ネド・ボウモンは、電話に立って行った。「もしもし……そうです、お母さん……え、なんです?」しばらく、顔をしかめて聞いていた。それから、「放《ほ》っとくより、どうにも仕かたがないでしょうな。べつに悪いことにもなりますまいからね……いや、どこに行ったか、ぼくには見当がつきませんよ……さあ、駄目でしょうな……とにかく、あまり気になさらんほうがいいですよ、お母さん。大丈夫ですよ……そうですとも……さよなら」ネド・ボウモンは、笑顔でテーブルにもどって来た。「ファーが、あんたと同じことを考えているようですよ。今の電話は、ポウルのお母さんからなんですがね。地方検事局から人が来て、オパルを訊問しているようです」眼の中に、明るい輝きがあらわれた。「どうせ、あの子は役に立ちますまいが、どうやら、ポウルの身辺に、手がのびて来たようですね」
「お母さんが、どうして電話をかけてよこしたの?」ジャネット・ヘンリーが訊ねた。
「ポウルが出かけたきり、居どころが知れないんです」
「お母さん、あなたとポウルが喧嘩をしたことを知らないの?」
「知らないようですね」フォークを下に置いて、「ところで、あなたがこの問題をどこまでも突っこんで行きたいというのは、口先きだけではないでしょうな?」
「そうよ、どこまでも突っこんで行きたいわ。こんなに一生懸命になるのは、生まれてはじめてだわ」
ネド・ボウモンは、意地の悪い声で笑った。「ポウルが、同じようなことばを使って、あんたを欲しがっていましたよ」
女は、身ぶるいをした。顔がこわばった。冷たい眼で、男をみつめた。
「ぼくは、あなたのことをよく知らない。あなたに確信がもてない。どうもよくない夢を見たのでね」
女は、微笑をうかべた。「夢など信じていないくせに」
男は笑わなかった。「ぼくは、なにも信じやしませんが、それでも、ばくち打ちはいろんなことが気になるもんでしてね」
女の微笑から、からかうような表情がうすれた。「わたくしが信用できなくなったというのは、どんな夢のせいなの?」女は、わざとまじめくさって、指を一本上げて見せた。「それを話して下すったら、こんどは、わたくしの見たあなたの夢のことを話すわ」
「魚釣りをしていたんです」男は、夢の話をはじめた。「すばらしく大きな魚がかかりました……紅鱒《べにます》なんですが、それが、すばらしく大きいんです……すると、あなたがそれを見たいといって、とり上げたかと思うと、ぼくが止めようとする暇もなく、水の中に放り投げてしまいました」
女は、陽気な声で笑った。「あなたはどうして?」
「それで、夢はおしまいでした」
「嘘だわ。わたくしが、せっかくあなたの釣り上げた鱒を、水に投げたりするもんですか。こんどは、わたくしの夢を話すわ。わたくしは……」いいかけて、眼を大きくした。「あなたの夢って、いつのこと? 晩ご飯にいらした晩?」
「いや、昨夜の夢です」
「あら、惜しいわね。わたしくたち、同じ晩の同じ時刻に夢を見たのだったら、ずいぶんよかったのに。わたくしは、あなたのいらした晩なのよ。わたくしたち……夢の中のことよ……あなたとわたくしとが、森の中で道に迷って、くたびれ切っていたのよ。おなかもペコペコだったわ。歩きに歩いて、やっとのことで、一軒の小さな家にたどりつき、ドアをノックしたんだけど、返事がないの。ドアを押してみたわ。鍵がかかっていたの。それから二人で窓からのぞくと、家の中には、とても大きなテーブルの上に、想像できるかぎりのご馳走が、それこそ山盛りになっているんだけど、その窓にも、鉄の格子がはまっているもんだから、どうしても中に入れないのよ。そこで、またドアのところにもどって、いく度となくノックしたわ。それでも、誰も出て来ないの。ふと、鍵を靴拭きの下に隠しておく人のあることを思い出して、さがしてみると、やっぱりあったわ。ところが、ドアをあけると、窓からは見えなかった床の上に、かぞえ切れないほど沢山の蛇《へび》がいて、それが、残らずわたくしたちのほうにはい寄って来るのよ。見るなりドアをピシャンとしめて、鍵をかけ、シューシューと這《は》いまわる音や、頭をドアの向こう側に打ちつける音をききながら、死ぬほどこわい気もちで、そこに立ちすくんでいたの。そうしているうちに、あなたが、ドアをあけてどこかに隠れていれば、きっと蛇は、外に這い出していなくなってしまうって、そういうので、やってみたわ。わたくしは、あなたに手を貸してもらって、屋根の上に……その屋根が、このときには、ずっと低くなっていたわ。前にはどんなだったかおぼえていないけど……その屋根の上によじのぼり、あなたも後からよじのぼって、手をのばしてドアをあけると、案のじょう、ぜんぶの蛇が這い出して来たのよ。わたくしたちは、かぞえきれないほど沢山の蛇の、最後の一匹が、森の中に見えなくなってしまうまで、屋根の上で横になったまま、息を殺していたわ。それから、とびおりて、家の中に駆けこみ、中からドアに鍵をかけ、そりぁもう夢中になって食べたの。眼がさめたときには、ベッドの上に坐りこみ、両手をにぎり合わせて、ゲラゲラ笑っていたわ」
「あんたのこしらえた夢のようですな」しばらく間をおいてから、ネド・ボウモンは口をひらいた。
「あら、どうして?」
「はじめは、うす気味の悪い夢のようだが、しまいには、いやに現実臭くなって来ますからね。それに、食べもののことでぼくの見た夢は、どれもこれも、ほんとうに口に入れて食べるまでにならないうちにさめてしまうやつばっかりでしたよ」
ジャネット・ヘンリーは、声を出して笑った。「ぜんぶがぜんぶ作り話というわけじゃないわ。でも、どこまでがほんとの夢かって、そんなこときかなくていいのよ。わたくしのことを嘘つきだなんていうから、もう決して教えてあげないわ」
「ああ、結構ですよ」ネド・ボウモンは、フォークをまたとりあげたが、食べなかった。ふと思いついたというような調子に、「お父さんは、なにかご存じでしょうかね? ぼくたちが、知っていることをもって行ったら、なにかお父さんからきき出せると思いますか?」
「ええ、きき出せると思うわ」女は、力をこめてこたえた。
男は、考えこむように、顔をしかめた。「ただ、お父さんが、前後の見さかいがなくなって、こっちの用意のできないうちに、ぶちこわすようなことをされると困りますね。お父さんは、かんしゃく持ちでしょう?」
「そうだけど……」気の進まないいいかただったが、それからパッと顔を輝かせて、訴えるように、「でも、わたくしたちが、用意のできるまで待たなければならないわけを、はっきり話したら、お父さんだって、きっと……しかし、わたくしたちも、もう用意はできているじゃないの?」
男は、頭を振った。「いや、まだです」
女は、すねた顔になった。
「明日《あした》ならいいかもしれません」
「ほんと?」
「約束じゃありませんよ。しかし、そんな気がします」
女は、テーブルごしに手を差しのべて、男の手をにぎった。「だけど、もういいとなったときには、昼間であろうと、夜なかであろうと、すぐに知らせて下さるわね?」
「知らせますとも、それは約束します」男は、流し目に女の顔を見た。「あなたは、死というものと向かい合っても、それほど心配しない性質《たち》のようですね?」
男のその口調が、女の顔を赤らめさせたが、それでも眼は伏せなかった。「わたくしのことを人でなしと思っているのね。たぶんそうよ」
男は、眼を自分の皿に落してつぶやいた。「ほんとうにそんな目にあったときもそうだといいが」
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第九章 裏切りもの
一
ジャネット・ヘンリーが帰って行ってから、ネド・ボウモンは電話のところに行って、ジャック・ラムゼンの番号を呼んだ。相手が出ると、「ジャック、ちょっと寄って欲しいんだが……結構だ。さよなら」
着替えをすませたところへ、ジャックがやって来た。二人は、向かい合って腰をおろした。めいめい、バーボン・ウィスキ入りの炭酸水のグラスを抱えこみ、ネド・ボウモンは葉巻を、ジャックはたばこをふかした。
ネド・ボウモンが訊ねた。「ポウルとおれが仲間割れしたことを、なにかきいたかね?」
「うん」ジャックは、そっけなくこたえた。
「どう思う?」
「べつに。そういえば、この前そんなことのあったときは、結局、シャド・オロリーをたぶらかす手だってことになったっけな」
ネド・ボウモンは、その返事を待ちかねていたように、うす笑いをうかべた。「こんども、みんなそんなふうに思っているのか?」
小がらなキビキビした男は、「そう思ってる連中が、ずいぶんいるね」
ネド・ボウモンは、葉巻の煙りを、ゆっくり吸いこんだ。
「おれが、こんどこそはほんものだといったら?」
ジャックはなにもいわなかった。顔にも、心の中で思っていることはあらわれなかった。
「ほんものなんだ」ネド・ボウモンは、自分のグラスから飲んだ。「君には、どれだけ借りがあったかな?」
「マドヴィグの娘の件で、三十ドルだ。ほかのは、みんな払ってもらったからな」
ネド・ボウモンは、ズボンのポケットから、紙幣束《さつたば》をとり出し、十ドル紙幣を三枚かぞえ分けて、それを、ジャックにわたした。
「ありがとう」
「さあ、これで片づいた」ネド・ボウモンは、話しながら、煙りを吸って吐き出した。「ところで、もうひとつやって貰いたい仕事があるんだが。おれは、テイラー・ヘンリー殺しの一件で、ポウルをやっつけにかかっている。あの男は自分がやったといっているが、おれは、もうちっと証拠を手に入れなきゃならん。どうだ、ひと肌ぬいでくれるか?」
「いやだね」
「どうしてだ?」
浅黒い顔をした若い男は、立ち上がって、自分の空のグラスをテーブルの上に置いた。「おれは、フレッドといっしょに、この土地で、ちょっとした私立探偵の商売をはじめようとしている。二年ばかりもやれば、目鼻がつくだろう。おれはあんたが好きだよ、ボウモン。だれど、あんたのために、この町を切りまわしているお偉らがたに楯《たて》つくほどの気にはなれんな」
「あの男は、もう落ち目だよ」ネド・ボウモンの声は変わらなかった。「みんなが、よってたかって、あの男を引きずりおろしにかかっている。ファーにしても、レイニーにしても――」
「そいつは、したいようにさせとけばいい。おれは、そんな連中の片棒をかつぎたくはないし、やりとげるまでは、うかうかと信用できんからな。連中には、あの男を一つや二つこずきまわせるかもしれんが、トコトンまでやっつけるのは、それとはべつだ。おれなんかより、あんたのほうがあの男をよく知っているだろうけど、あの男は、ほかの連中をひっくるめて束《たば》にしたより、もっと勢力があるよ」
「確かにそうだが、そこが、あの男の弱みになっているんだ。しかし、やりたくないというのを、やらせるわけにはいかんな」
「おれは、やりたくないね」ジャックは、帽子をとり上げた。「ほかのことなら、喜んで引き受けるが……」片手を動かして、そいつは駄目だといような仕ぐさをして見せた。
ネド・ボウモンは立ち上がった。その態度には、少しも相手をとがめるようなところはなかった。「おれも、君がそんな気もちでいるかもしれんと思ったよ」親指の爪で口ひげの片側をなでながら、考えこむような眼つきをした。「こいつなら、言って貰えるだろうが、シャドがどこにいるか、見当でもつかんかな?」
ジャックは頭を振った。「あいつの店が、三度目にやられて以来――警官が二人殺されたときだ――それっきり、鳴りをひそめているね。連中も、あいつ自身は、大して痛い目に合わせることができなかったらしいが」たばこを口から話して、「ウィスキ・ヴァッソスを知ってるかね?」
「うん」
「あの男を、よっぽどよく知っていれば、ひょっとするときき出せるかもしれんよ。あの男なら、この町にいる。夜になってから、スミス街のティム・ウォーカーの店をのぞけば、たいがい見つかるがね」
「すまんな、ジャック、やってみよう」
「それがいい」ジャックは、ぐずぐずした。「おれは、あんたがマドヴィグと割れたことを、まったく残念に思っているよ。せめて、あんたが……」そこで、ことばをとぎらせて、ドアのほうに行きかけた。「あんたのことだから、自分のやっていることは承知しているんだろう」
二
ネド・ボウモンは、地方検事局に出かけた。こんどは、すぐにファーの部屋に通された。
ファーは、デスクから立ち上がりも、手を差し出しもしなかった。「どうだね、ボウモン? かけたまえ」その声はていねいだが、冷たかった。癇癪《かんしゃく》もちらしい顔は、いつもほど赤くはならなかった。かたい動かない眼をしていた。
ネド・ボウモンは腰をおろし、脚を組んで、楽な姿勢になった。「実は、昨日ここにお邪魔してから、ポウルに会いに行ったときに起こったことについて、お話したいんです」
「なるほど」あいかわらず、ファーの声は冷たく、いんぎんだった。
「ぼくは、あんたが……なんというか、ひどく脅えていたことを話しました」ネド・ボウモンは、とっときの微笑をうかべながら、いかにも面白い、しかし、重要でもなんでもない逸話を話すような調子で、話を進めた。「あんたが、せいいっぱいの勇気をふるい起こして、あの男に、テイラー・ヘンリー殺しの容疑をかけようとしていると、そういいました。最初は、ぼくのいうことを信用してきいてくれたのですが、こうなったからには、真犯人を明るみに出す以外に、助かる道はない、と意見を述べると、それは駄目だ、と、一言のもとにはねつけるんです。そして、真の犯人は、この自分だが、事件は偶然の過失、または正当防衛といい張りました」
ファーの顔は青ざめていた。口もとがこわばった。しかし、なにもいわなかった。
ネド・ボウモンは、眉を釣り上げて見せた。「退屈なら、止めましょうか?」
「つづけたまえ」地方検事は、冷ややかにうながした。
ネド・ボウモンは、椅子を後ろに傾けた。顔には、とってつけたような微笑があった。
「ぼくが、冗談をいっていると考えておいでじゃありませんか? 二人して、あんたをからかっていると思っておいでですな」頭を振ってつぶやいた。「案外、きもっ玉が小さいんですな、あんたも」
「おれは、どんな情報でも、大いに歓迎するが、なにぶん、ひどく忙しくて、せっかくの君の話も――」
ネド・ボウモンは、笑い出した。「わかりました。ぼくはまた、宣誓供述書かなにかでも作りたいとおっしゃるかもしれん、と、そう思っていましたがね」
「そんなら、そうしよう」ファーは、デスクの上に並んだ真珠色の押しボタンのひとつを押した。
緑色の服を着た灰色頭の女が入って来た。
「ボウモン君が、供述したいといわれるんだ」
「かしこまりました」女は、ファーのデスクの向こう側に腰をおろして、デスクの上にノート・ブックをひろげ、銀色の鉛筆をかまえて、表情のない眼でネド・ボウモンの顔を見た。
ネド・ボウモンは、供述をはじめた。
「昨日の午後、ポウル・マドヴィグは、ネーベル街のかれの事務所で、次のような事実を申し述べました。すなわち、テイラー・ヘンリーの殺害された当夜、ヘンリー上院議員の宅に晩餐に招かれていたこと。その際、テイラー・ヘンリーとの間に、なにかの争いの起こったこと。その家を出てから、テイラー・ヘンリーが後を追って追いつき、ゴツゴツした茶色のステッキで、なぐりかかって来たこと。テイラー・ヘンリーから、そのステッキを奪いとろうともみ合ううちに、過ってそれでかれの前額を打ち、転倒させたこと。また、かれがこのような事実をこれまで秘していたのは、それを、ジャネット・ヘンリーに知られるのを望まなかったからだということでありました。それだけです」
ファーが、速記者に呼びかけた。「そいつを、すぐに清書してくれ」
速記者は出て行った。
「やれやれ」ネド・ボウモンは、ため息をついた。「あんたをビックリ仰天させてしまうニュースをもちこんだつもりだったんですがねえ。きっと髪の毛をかきむしって口惜しがるにちがいない、と、ずいぶん自信があったんですよ」
地方検事は、眼を据えて、じっとネド・ボウモンの顔を見た。
ネド・ボウモンは、平気な顔をしていた。「少なくとも、さっそくポウルをしょっ引かせて、今の事実を」――手を振って見せて――「つきつけるぐらいのことはすると思いましたがねえ。いや、まったく当てがはずれましたよ」
地方検事が、感情を殺した声で、「まあ、おれの仕事のことは、おれにまかせておいて貰いたいね」
ネド・ボウモンは声を出して笑い、黙りこんだ。やがて、灰色髪の速記者が、タイプした供述書を手にしてもどって来た。「ぼくは、宣誓するんですか?」
「いや」ファーがこたえた。「サインするだけでいい」
ネド・ボウモンは、書類にサインをした。「思っていたほど面白くはありませんでしたな」不平らしくもない陽気ないいかただった。
ファーの突き出たあごのあたりが引きしまった。「そりゃそうさ」わが意を得たというように、ニヤリと白い歯を見せて、「おれにだって面白くないよ」
「あんたも臆病な人ですな。道路を横切るときには、タクシーに気をつけたほうがいい」頭を軽く下げて、「じゃあ、またお目にかかります」
部屋の外に出ると、ネド・ボウモンは苦虫《にがむし》を噛みつぶしたような顔になった。
三
その晩、ネド・ボウモンは、スミス街にある、うす暗い三階建ての家のベルを鳴らした。ガッチリした肩の上に小さな頭ののっている小がらな男が、ドアを細目にあけ、顔を確かめてから、残りをあけた。
「よう」と会釈をして、ネド・ボウモンはドアを入り、うす暗い廊下を二十フィートほど歩いた。右手にしまったドアが二つ、左手に開いたドアが一つあった。木の階段を降りると、地下室にはバーがあって、ラジオが低い音で鳴っていた。
バーの向こうに、化粧室と文字の入った、曇りガラスのドアがあった。そのドアが開いて、一人の男が出て来た。大きな肩の恰好、太い長い腕、平べったい顔、湾曲した脚など、どこか猿を思わせる男……ジェフ・ガードナーだった。
ネド・ボウモンに気づくと、その男の眼はキラキラと光った。「よう、殴られのボウモンじゃねえか!」相好《そうこう》をくずした顔に、きれいな歯が目立った。
「やあ、ジェフ」あいさつをかえしたネド・ボウモンに、その場の人たちの目がぜんぶ集った。
ジェフは、大またに歩み寄って、左腕を乱暴にネド・ボウモンの肩にまわし、右手で相手の右手を握り、陽気な声で一座に呼びかけた。「こいつ、おれの拳固をお見舞いしたやつの中で、一番すばらしいやつだよ。それをまた、おれはたっぷりお見舞してやったんだからな」ネド・ボウモンをバーに引っぱって行って、「まあ、一ぱいやってからのことにしようじゃねえか。それから、思う存分やっつけてやる。クソッ、やっつけてやるぞ!」ネド・ボウモンの顔を横目でにらみつけて、「どうだね、兄貴?」
ネド・ボウモンは、相手のみっともない浅黒い顔を、ぼんやりと見かえした。「スコッチだ」
ジェフは、愉快そうに笑い出した。また、一座の方に向かって呼びかけた。「どうだい、殴られるのが、よっぽど好きなんだぜ、こいつは。こんなのを……」ちょっとためらって、くちびるをなめ、「……|殺されたがり屋《マサクリスト》っていうんだぜ」ネド・ボウモンの顔を見て、「あんた、マサクリストって、なんだか知ってるか?」
「知ってる」
ジェフは、がっかりしたようだった。バーテンダーに、「ライだ」といいつけた。注文の酒がめいめいの前に置かれると、やっとネド・ボウモンの手を離したが、肩にまわした腕は、そのままにしていた。二人は、酒を飲んだ。ジェフは、自分のグラスを下に置いて、ネド・ボウモンの手首をつかんだ。「二階に、おれたちにちょうどいい部屋があるんだ。あんたが引っくりかえるのには、小さすぎるぐらいの部屋だから、おれはあんたを、壁から壁にたたきつけてやる。そうすりゃ、あんたは、いちいち床から起き上がらんですむから、だいぶ時間の節約になるぜ」
ネド・ボウモンが、「こんどは、おれがおごるよ」
「そいつは、悪かねえ思いつきだ」ジェフは賛成した。
二人は、また飲んだ。
金を払ってしまうと、ネド・ボウモンは階段のほうに引っぱって行かれた。「おれたち、失敬するぜ」ジェフが、ほかの連中に挨拶をした。「上に行って、おさらいをやらなきゃならんからな」ネド・ボウモンの肩をたたいて、「なあ、兄貴」
二人は階段を二つ登って、二階の小さな部屋に入った。長椅子に、テーブルが二つ、それに椅子が五、六脚ゴタゴタしていた。テーブルの上には、空っぽのグラスやサンドウィッチの残っている皿などがあった。
ジェフは、近眼の人がものをさがすように、部屋じゅうをあちこちのぞいてまわった。「いったい、どこに行きやがったかな?」ネド・ボウモンの手首を離し、肩にまわした腕をほどいて、「この部屋のどこにも、女は見えねえようだな?」
「見えないね」
ジェフは、大げさにうなずいて見せて、「行っちまいやがった」フラつく足でうしろにさがり、ドアのそばの呼鈴のボタンを汚い指でグッと押した。それから、手をヒラヒラさせ、不器用に頭を下げて、「かけなよ」
ネド・ボウモンは、二つあるテーブルの、少しは片づいている方の前に腰をおろした。
「どれでも、気に入った椅子にかけてくれよ」ジェフは、また大げさな身振りをして見せた。「そいつが気に入らなけりゃ、べつの椅子にかけるんだな。おれの客になったつもりでいて貰いてえと思っているんだから、気に入らねえ椅子にかけさしちゃ、すまねえ」
「いや、すばらしい椅子だよ」
「とんでもねえ。ここにゃ、椅子らしい椅子などありゃしねえよ。見ろ」ジェフは手近の椅子をもち上げて、前の脚を一本ちぎりとって見せた。「これでもすばらしい椅子というのか? いいか、ボウモン、あんたは椅子のことをまるで知っちゃいねえよ」椅子を下におろして、とれた脚を長椅子の上にほうり投げた。「おれをごまかそうとしたって、そうはいかねえぜ。あんたがなにしにやって来たか、ちゃんと知っているんだ。あんたは、おれが酔っぱらっていると思ってるな、そうじゃねえか?」
ネド・ボウモンは、ニヤリとして見せた。「いや、君は酔っぱらってやしないよ」
「なにが酔っぱらっていねえんだ? おれは、あんたなんかよか、よっぽど酒飲みだ。この家で一番の酒飲みだ。おれは、酔っぱらっているよ。酔っぱらっていねえなどと思ったら、大まちがいだ。しかしだな……」ジェフは、太い、うす汚ない人さし指を突き出して見せた。
戸口に、給仕がやって来た。「なんですかね、用は?」
ジェフは、そっちのほうに向き直った。「貴様、どこに行っていた? 眠っていたのか? 一時間前にベルを鳴らしたんだぞ」
給仕はなにかいいかけた。ジェフはおっかぶせるように、「おれは、世界で一番の友だちに酒を飲んで貰うために、ここにやって来た。それが、このざまはなんだ? おれたちを一時間も待たせやがって、お客さんが気を悪くしたら、お前のせいだぞ」
「用はなんですかね?」給仕は、相手にならずに、また訊ねた。
「ここにいた女の子は、いったいどこに行きやがった?」
「ああ、あのひとですか? 出て行きましたよ」
「どこへ?」
「知りませんな」
ジェフは、顔をしかめた。「じゃあ、さがして来い。大急ぎだ。どこへ行ったか知らねえなどと、どっからそんなせりふが出て来るんだ? おれが教えてやる。女便所に行って見て来い」
「そんなとこにはいませんよ。外に出て行きました」
「クソッ、汚ねえあまっ子めが!」ジェフは、ネド・ボウモンのほうを向いた。「あんたならどうするね? おれは、あの女に会って貰おうと思って、あんたを二階に引っぱって来たんだ。あの子なら、あんたともお互いに気に入ると思ってね。それが、あのうす汚ねえあまっ子、逃《ず》らかりやがった」
ネド・ボウモンは、葉巻に火をつけていた。なにもいわなかった。
ジェフは、頭をかいて、うなるような声を出した。「よし、じゃあ、おれたちになにか酒をもって来るんだ」ネド・ボウモンのテーブルをへだてた向かい側に腰をおろして、乱暴に、「おれは、ライだ」
ネド・ボウモンは、「おれは、スコッチ」
給仕は立ち去った。
ジェフは、ネド・ボウモンをにらみつけた。「あんたが、なにしにやって来たか、そんなことぐらい、おれにわからねえと思うなよ」怒った言いかただった。
「なにかをしに来たわけじゃないさ」ネド・ボウモンは、無頓着にこたえた。「シャドに会いたいんで、ここへ来ればウィスキ・ヴァッソがいるかもしれんと思ってね。あの男なら、おれをシャドのところに送り届けてくれるだろうからな」
「シャドの居どころを、このおれが知ってるとは思わねえのか?」
「知っているはずだな」
「なら、なぜ、おれに訊かねえんだ?」
「わかった。どこにいる?」
ジェフは、平手でテーブルの表面を強くたたいた。吠えるように、「嘘をつけ。シャドがどこにいようと、あんたがそんなことを気にするもんか。おれをさがしに来たにちげえねえ」
ネド・ボウモンは、微笑をうかべて頭を振った。
「そうにきまっている」猿顔の男は言いつのった。「あんたは、百も承知の上で、そんな……」
厚ぼったい、赤いくちびるをした、眼のまるい、少し齢のいった男が、戸口にあらわれた。「やめろ、ジェフ。貴様一人で、ほかの連中をみんないっしょにしたよりもっとうるせえぞ」
ジェフは椅子の中で、クルリとふり向いた。「うるせえのは、この野郎だ」ネド・ボウモンのほうに親指をグイとしゃくって見せて、「こいつ、なにしにやって来たのか、おれが知らねえと思っていやがる。おれは、ちゃあんと知ってるんだ。こいつは、裏切り者だ。だから、おれはこいつをぶちのめして、泥を吐かせてやるんだ」
「それにしても、貴様みたいにうるさくがなりたてることはあるまい。気をつけろ」戸口の男は、ネド・ボウモンに片眼をつぶって見せて、立ち去った。
「ティムの野郎も、裏切りを企んでいやがる」ジェフは、床にペッとつばを吐いた。
給仕が注文の酒をはこんで来た。
ネド・ボウモンは、グラスを上げた。「君のために」と飲みほした。
「おれは、あんたのためには飲みたかねえよ。あんたは、裏切り者だからな」ジェフは陰気な眼で、ネド・ボウモンをにらんだ。
「このトンチキ野郎」
「この嘘つき野郎。おれは酔っぱらってる。だれど、あんたがなにしにやって来たか、それがわからねえほど酔っぱらっちゃいやしねえよ」自分のグラスを空《から》にして、手の甲で口を拭いた。「あんたは、裏切り者さ」
ネド・ボウモンは愛想のいい笑顔になって、「よしよし。なんとでもいうがいい」
ジェフは、猿に似た口を少し突き出した。「あんたは自分のことを、えらくスマートな人間だと思ってるんじゃねえか?」
ネド・ボウモンは、なにもいわなかった。
「なに喰わぬ顔でやって来やがって、おれをおだて上げ、隙をねらって足をすくおうとしていやがる。スマートなやりかただとうぬぼれているんだろうが、その手は喰わねえよ」
「君のいう通りだ」ネド・ボウモンは、無頓着にいってのけた。「君は、フランシス・ウェスト殺しの容疑で逮捕令状を出されている。そうじゃないか?」
「フランシス・ウェストがなんだ」
ネド・ボウモンは、肩をすぼめた。「おれの知らん人間だ」
「あんたは、裏切り者だ」
ネド・ボウモンが「おれが、酒をおごろう」
猿に似た男は、重々しくうなずいて、椅子をうしろに傾け、呼鈴に手をのばした。ボタンに指をかけたまま、「いくら酒をおごったって、あんたは裏切り者だ」椅子を元にもどしながら、グルッとまわした。引っくりかえりそうになって、両足を床に踏んばり、危うく椅子を落ち着かせた。「こん畜生ッ!」椅子をまたテーブルに引きつけて、両肘をテーブルに突き、片手の拳の上にあごの先をのせた。「このおれが、そうやすやすと人の口車にのせられてたまるもんか。どうせ、おれは、痛い目を見ずにすむことになってるんだからな」
「なぜだね?」
「なぜだ? よしてくれよ! いいか、おれは、選挙のすむまでは逮捕されっこないし、選挙がすんだら、一切合切シャドにかぶせてやるんだ」
「そうかもしれん」
「なにが、そうかもしれんだ!」
給仕が来て、注文をきいて行った。
「しかし、シャドはどんな手を打ってでも、君を逮捕させようとするかもしれんよ。今までだって、たいがいそういう具合になっているからな」
「とてもできるこっちゃねえよ」ジェフはあざ笑った。
「あいつの弱みは、すっかりこっちが握っているんだからな」
ネド・ボウモンは、葉巻の煙りを吐き出した。「どんなことを握っているんだ?」
猿顔の男は、馬鹿にしたように騒々しく笑って、テーブルを平手でドシンとなぐりつけた。「ヘッ、おれがいくら酔っぱらってたって、そんなことをうっかりいったりするもんか」
戸口のほうで、いくぶんアイルランドなまりのある静かな美しいバリトンの声がした。「いいとも、ジェフ、いってやりな」戸口には、シャド・オロリーが立っていた。灰青色の眼が、思いなしか愁《うれ》いを含んで、ジェフをみつめた。
ジェフは、陽気な眼を細めて戸口の男を見た。「どうしたね、シャド? こっちへ入って、一ぱいやりなよ。ボウモンさまがおいでだ。こいつ、裏切り者なんだが」
オロリーがやわらかな声で、「貴様には、おとなしくすっこんでいろ、と、そういっておいたんだが」
「だけど、そんなこといったって、シャド、もうクサクサしちまって、今にも自分の手か足でも喰っちまいそうな気がするんだ。それに、ここにいたって、すっこんでいることになるじゃねえか。ここは闇酒場《スピークイージー》だからな」
オロリーは、しばらくジェフの顔を見て、それからネド・ボウモンに、眼をうつした。「こんばんは、ボウモン」
「やあ、シャド」
オロリーはおだやかに笑いながら、ジェフのほうにちょっとうなずいて見せ、「たんときき出せたかね?」
「いや、おれのまだ知らないようなことは、あまりきかなかったな。ガヤガヤとだいぶうるさかったが、筋の通らんことばかりでね」
ジェフが、「どうも、二人とも裏切り者らしいな」
給仕が酒をはこんで来た。オロリーがそれを止めた。「もういい。二人ともたっぷりきこし召しているから」給仕は、そのまま行ってしまった。シャド・オロリーは部屋に入って、ドアをしめた。ドアに背なかをもたせかけて立った。「ジェフ、貴様はおしゃべりが過ぎる。前にもそういったが」
ネド・ボウモンは、わざとジェフに片眼をつぶって見せた。
ジェフは怒った。「この野郎、妙な真似をすると、承知しねえぞ」
ネド・ボウモンは笑い出した。
オロリーが、「おい、ジェフ、おれは貴様にいっているんだ」
「わかってらい」
「おれたち、どうやら決着をつけなきゃならんところに来たようだな」
ジェフは、立ち上がった。「おれを裏切るのはよせ。シャド、いったい、どうしたっていうんだ?」テーブルをまわって来て、「おれとあんたとは、長い間友だちだったじゃねえか。あんたは、いつもおれの友だちだったし、おれはいつまでも、あんたの友だちのつもりだ」オロリーを抱こうとするように両腕を差し出して、前によろめいた。「そりゃあ、おれは、コロリとだまされる。しかし……」
オロリーは色の白い手を上げて、猿顔の男の胸を突いた。「坐れ」その声は、いつもと変わらなかった。
ジェフの左の拳《こぶし》が、オロリーの顔に飛んだ。
オロリーの頭が右に動いて、ジェフの拳固は、辛うじて頬をかすめた。オロリーの彫りのみごとな長顔が引きしまった。右手が、尻にまわった。
ネド・ボウモンが、すばやく立ち上がってオロリーの右腕にとびかかり、両手でつかんで、力まかせに下に引っ張った。膝をついた姿勢になった。
自分の振った左の拳の反動で、壁にぶつかったジェフが、こんどは両手でシャド・オロリーの首をつかんだ。猿に似た顔は、黄いろくものすごくゆがんだ。もはや、酒に酔った様子はなかった。
「ピストルは、とり上げたか?」
「うん」ネド・ボウモンは、立ち上がってうしろにさがり、ピストルをオロリーに向けてかまえた。
オロリーの眼はつやがなくなり、とび出した。顔には斑点がうかび、ふくれ上がった。のどをつかんだ男と争おうとはしなかった。
ジェフはふりかえって、肩ごしにネド・ボウモンにニヤリとして見せた。けだものを思わせる、心から満足し切った笑顔だった。小さな赤い眼が、うれしそうにキラキラと光った。無邪気なしわがれ声で、「どうだい、これでいいだろう? こうやっていじめてやればいいんだ」
「おれは、そんなことをして貰うつもりはなかった」ネド・ボウモンの声は、冷静だった。小鼻がひきつった。
「そんなつもりじゃなかったのか?」ジェフは、横目づかいに相手を見た。「しかし、シャドは、こんな目に会っといて、きれいさっぱりと忘れちまうような野郎じゃねえ」くちびるを舌でなめずって、「よし、忘れちまうようにしてやる」
ジェフは、首をしめている男には眼もくれず、ネド・ボウモンに向かって、耳から耳まで届きそうな大きな口でニヤニヤ笑いをつづけて見せながら、息をゆっくりと長く吸ったり吐いたりしはじめた。上衣の肩と背なかと腕のあたりがふくれ上がった。みっともない浅黒い顔に、汗がにじんで来た。
ネド・ボウモンの顔は青ざめた。息づかいが深くなり、こめかみが濡れた。ジェフのふくれ上がった肩ごしに、オロリーの顔をみつめた。
オロリーの顔は、肝臓のような色だった。眼はとび出し、視力がなかった。青いくちびるの間から、青く色の変わった舌が垂れた。細いからだがのた打った。片手が、力なく、機械的に、うしろの壁をバタンバタンとたたきはじめた。
あいかわらず、ネド・ボウモンに白い歯をむき出した顔を向けたまま、ジェフは両脚を少しはだかって、うしろに反りかえった。壁をたたくオロリーの手は、動かなくなった。どこかで鈍くポキンと音がして、すぐにまたもっと鋭い音がした。オロリーの全身から力が抜けて、ジェフの両手からブランとさがった。
ジェフは、のどの奥で笑った。「片づいたぞ」邪魔になる椅子を蹴《け》とばして、オロリーのからだを長椅子の上に落した。オロリーはうつ伏せにころがり、片手と両脚とは、床に垂れ下がった。ジェフは、両手を尻のあたりにこすりつけ、ネド・ボウモンのほうに向き直った。「おれは、気のいいうすのろだった。誰にでも、やりたいほうだいにこずきまわされて、黙っていた」
ネド・ボウモンが、「この男がこわかったんだな?」
ジェフは、声を出して笑った。「まったくの話が、そうだったよ。正気の人間なら、誰でもこいつがこわかった。あんたは、こわがっとらんようだったな?」また笑って、部屋を見まわした。「誰もやって来んうちに、逃《ず》らかろうじゃねえか」手を差し出して、「そのピストルをよこしな。おれが始末してやる」
「駄目だ」ネド・ボウモンは、ピストルをもった手を横に動かした。筒先がジェフの腹のあたりに向かった。「正当防衛だといえばいい。おれもいっしょだ。審理に出ても、立派に申し開きは立つ」
「とんでもねえ思いつきだ!」ジェフは、大きな声を出した。「ウェスト殺しの一件で、逮捕令状が出ているおれが、審理に出るって!」小さな赤い眼が、ネド・ボウモンの顔から手のピストルに、焦点をうつした。
ネド・ボウモンは、色のあせたうすいくちびるに、微笑をうかべた。「おれには、それが思うツボだ」やわらかな声だった。
「ばかをいうねえ」ジェフは、どなって一歩前に踏み出した。「この野郎……」
ネド・ボウモンは、テーブルをまわってうしろにさがった。「おい、ジェフ、変なまねをすると、こいつをお見舞いするぞ。貴様には貸しがあるからな」
ジェフは立ちすくんで、頭のうしろを掻いた。「こん畜生ッ! いったい、こいつはどうした筋書きなんだ?」ほんとうに途ほうにくれた顔だった。
「お互いさまだよ」ネド・ボウモンは、ピストルをヒョイと突き出した。「坐れ」
ジェフは、しばらくためらってから腰をおろした。
ネド・ボウモンは、左手をのばして呼鈴のボタンを押した。
ジェフが、立ち上がった。
「坐れ」
ジェフは坐った。
「両手を、テーブルの上にのせろ」
ジェフは、悲しそうに頭を振った。「あんたに、こんな気のきいたまねがやれるたあ、思いもよらなかったよ。まさか、おれをここから無事に連れ出せると思っているんじゃなかろうな?」
ネド・ボウモンは、またテーブルをまわって、ジェフと入口のドアとに向った椅子に腰をおろした。
ジェフが、「そのピストルを、おれにわたしてくれるのが、一番いいぜ。そうしたら、おれも、今のことは水に流すとしよう。ここはおれの縄張りのうちじゃねえか、ネド。ここの連中を相手に、うまく立ちまわろうたって、そいつは無理な話だ」
ネド・ボウモンは、「その手をケチャップの瓶からのけるんだ」
給仕がドアをあけて、二人を見て眼をまるくした。
「ティムに来るようにいってくれ」ネド・ボウモンが頼んだ。猿顔の男が、なにかいおうとすると、「黙れ」
給仕は、ドアをしめて駆け去った。
「なあ、ネド、ばかなまねはよせよ。そんなことをしたら、あんたがたたき殺されてしまうだけじゃねえか。おれを突き出して、なんの役に立つというんだ? なんの役にも立つもんか」くちびるを舌でなめずって、「おれたちで痛めつけたときには、あんたもつらかっただろうさ、だけど……くそッ……あれは、おれのせいじゃねえ。おれはシャドのいうようにしただけだし、それだって、あいつを殺してやったんだから、五分五分じゃねえか」
「その手を、ケチャップの瓶からどけないと、孔をあけてやるぞ」
「この裏切り野郎!」
厚ぼったいくちびるをした、眼のまるい中年近い男がドアをあけ、すばやく中に入って、ドアをしめた。
ネド・ボウモンが、「ジェフが、オロリーを殺した。警察に電話をかけろ。連中のやって来るまでに、君たちの逃《ず》らかる暇はあるだろう。あいつにまだ息があるようなら、医者も呼んだほうがいい」
ジェフが、馬鹿にしたように笑った。「あれで息があったら、おれは法王さまだ」笑うのをやめて、くちびるの厚ぼったい男にことさら親しげに呼びかけた。「この野郎、ここから無事に抜け出せる気でいやがるんだが、どう思うかね? とんでもねえ思いちがいだってことをいってやってくれよ、な、ティム」
ティムは、長椅子の上の死んだ男からジェフに、それからネド・ボウモンへと、眼をうつして行った。まるい眼は落ち着いていた。ネド・ボウモンに、ゆっくりと、「この店には都合の悪いことになったものだ。どうだろう、あの死体を通りに引きずり出して置いて、連中に見つけ出させるというような具合には行かんかな?」
ネド・ボウモンは、頭を振った。「いや、警察の連中の来ないうちに店を空っぽにしちまえば、君たちには迷惑はかからないよ。おれも、できるだけのことはする」
ティムが心を決めてかねているうちに、ジェフが、「なあ、ティム、お前は、おれをよく知ってるじゃねえか。お前は……」
ティムは、相手にしない口調で、「おいおい、頼むから、そんな大きな声を出さんでくれ」
ネド・ボウモンは、微笑をうかべた。「ジェフ、シャドが死んでしまえば、誰も君のことなど知りやしないさ」
「そうか?」猿顔の男は、椅子のうしろにもたれかかった。顔が明るくなった。「そんなら、おれを突き出してくれ。わかったよ、貴様たち、とんでもねえ極道者だってことがさ。そんなやつに頭を下げて頼むよか、立派に逮捕されるよ」
ティムはジェフに構わずに、「どうしても、そうしなきゃならんのか?」
ネド・ボウモンはうなずいた。
「まあ、なんとかなるだろう」ティムは、ドアの握りに手をかけた。
「ジェフが、ピストルをもっているかどうかさがしてみてくれないか?」ネド・ボウモンが頼んだ。
ティムは、頭を振った。「ここで起こったことだが、おれには関係のないことだ。おれは、係り合いになるのはいやだよ」いい棄てて行ってしまった。
ジェフは、椅子のうしろにゆったりともたれかかり、両手をテーブルの縁にだらしなくのせたまま、警官が来るまで、ネド・ボウモンを相手におしゃべりをつづけた。愉快そうな話しかただった。ネド・ボウモンを、数かぎりない汚ならしい、わいせつな、神をけがす名で呼んだ。
ネド・ボウモンは、おとなしく面白そうに耳をかたむけていた。
先頭に立って入って来たのは、警部《ルテナント》の制服を着た、白髪頭のやせこけた男だった。そのうしろには、六人ばかりの警官がつづいた。
ネド・ボウモンが、「やあ、ブレット。こいつ、ピストルを身につけていると思うんだが」
「いったいどうしたんだ?」ブレットが、長椅子の上の死体を見に行くと、二人の刑事がそのうしろをすり抜けて、ジェフ・ガードナーをとりおさえた。
ネド・ボウモンは、ブレットに事件を説明した。オロリーが、武器をとり上げられてからではなく、はげしい格闘中に殺されたという印象をあたえたことをのぞけば、なにからなにまで嘘のない説明だった。
ネド・ボウモンが話しているうちに医者が来て、長椅子の上で、シャド・オロリーのからだを引っくりかえし、簡単に検診をすませ、立ち上がった。警部が、医者の顔を見た。医者は、「駄目ですな」と頭を振って、人の混み合った小さな部屋を出て行った。
ジェフは、自分をつかんでいる二人の刑事に、楽しそうに汚ならしいことばを浴びせかけていた。なにかいう度に、一人の刑事が握り拳《こぶし》で、ジェフの顔をなぐった。ジェフはゲラゲラと笑い、罵倒《ばとう》をつづけた。義歯は、抜け落ちていた。口もとから血が出ていた。
ネド・ボウモンは、死んだ男のピストルをブレットにわたして、立ち上がった。「今すぐに本部にお伴しようか? それとも、明日にするかね?」
「今すぐのほうがいい」ブレットがこたえた。
四
ネド・ボウモンが警察本部を出たのは、ま夜なかをだいぶ過ぎていた。いっしょに出て来た二人の新聞記者におやすみをいって、タクシーに乗った。運転手に告げた行先きは、ポウル・マドヴィグの家だった。
マドヴィグ家の一階には、あかりがついていた。玄関の階段をのぼって行くと、ミセス・マドヴィグがドアをあけた。黒い服を着て、肩にショールを羽織っていた。
「やあ、お母さん。こんなに遅く、なにをしているんです?」
「ポウルだと思ったのよ」しかし、当てがはずれてガッカリした様子はなかった。
「いないんですか? 会いたかったのだが」鋭い眼を向けて、「いったいどうしたんです?」
老婦人は、ドアをあけながら、うしろにさがった。「どうぞ、お入り、ネド」
ネド・ボウモンは入った。
ミセス・マドヴィグは、ドアをしめた。「オパルが、自殺しようとしたのよ」
ネド・ボウモンは、眼を伏せた。「つぶやくように、「え? どうしたというんです?」
「看護婦の眼を盗んで、手首を切ったの。だけど、たいして血も出なかったし、もう一度やったりしなければ大丈夫なのよ」その声にも態度にも、弱っているところはほとんどなかった。
ネド・ボウモンの声は、落ち着きを失っていた。「ポウルは、どこに行ったんです?」
「それがわからないのよ。まださがし出せないの。いつもなら、こんなに遅くなることはないのに。どこにいるのか見当もつかないのよ」骨ばった手を、ネド・ボウモンの腕にかけた。少し震える声で、「お前さん……お前さんとポウルとは、なにか……」途中で声をのんで、男の腕をギュッと握った。
男は、頭を振った。「手を切りました」
「まあ、ネド、なんとか元にもどすわけには行かないの? お前さんとあの子は……」またことばがとぎれた。
男は顔を上げて、老婦人を見た。その眼はうるんでいた。やさしく、「いや、お母さん。手を切ったんです。なにか聞きましたか?」
「いいえ、ただ、お前さんに地方検事局から人が来ていることを電話で知らせたというと、あの子は、二度とそんなことしてはいかん、お前さんのことを、もう友だちでもなんでもないんだから、と、そういっただけなんだけど」
ネド・ボウモンは、咳《せき》ばらいをした。「お母さん、ぼくが会いに来たといって下さい。うちに帰って、ひと晩じゅうでも待っているからって」また咳ばらいをして、「それだけ伝えて貰いたいんですが」
ミセス・マドヴィグは、骨ばった手を相手の肩に置いた。「お前さんはいい子だよ、ネド。わたしは、お前さんとあの子とには、喧嘩なんかして貰いたくないのよ。どんなことがあったにしても、お前さんは、あの子の一番のお友だちだったんだからね。いったいどうしたというんだね? あのジャネットのことでも……」
「ポウルに訊いて下さい」低い、辛《つら》そうな声だった。頭をイライラと動かして、「じゃあ、お母さん、失礼しますよ。お母さんかオパルのことで、ぼくに出来ることはありませんか?」
「べつにないけど、お前さん、なんなら二階に行って、あの娘《こ》に会ってやっておくれでないかね? まだ眠っちゃいないだろうから、ちょっとでも話をしてやってくれるとありがたいがね。あの娘も、お前さんのいうことなら、いつもよくきいていたもんだよ」
ネド・ボウモンは、頭を振った。「やめときましょう。あの子も、ぼくには」――息をのんで――「会いたかないでしょうからね」
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第十章 砕けた鍵
一
ネド・ボウモンは、家に帰った。コーヒーを飲み、本を半分読んだ。ときどき読むのをやめて、セカセカと部屋の中を歩きまわった。玄関のベルは鳴らなかった。電話のベルも鳴らなかった。
朝の八時にシャワーを浴び、ひげを剃って、新しい服に着替えた。それから朝食を届けさせ、それを食べた。
九時に、電話のところに行って、ジャネット・ヘンリーの番号を呼んだ。相手が出ると、「お早う……いや、元気です。ありがとう……いよいよ、ひと仕事の用意ができました……そうです……お父さんがおられるのなら、先ずお父さんに一切のことを打ちあけてお話したらどうでしょう?……結構ですな、しかし、ぼくの行くまでは、ひとこともいわないほうがいい……できるだけ急いでうかがいます。これから出かけるところです……そうです。では、すぐにお目にかかりますからね」
電話から立ち上がって、空間を一心にみつめ、両手をパチンと打ち合わせ、手の平をこすり合わせた。口ひげの下の口をへの字に結んだ。茶色の瞳が、燃え上がるように輝いた。|押入れ《クロゼット》まで行って、もどかしそうに外套を着こみ、帽子をかぶった。『小ちゃな迷児ちゃん』の曲を歯の間で吹き鳴らしながら、部屋を出て、大またに通りを歩いて行った。
ヘンリーの家のドアをあけてくれた女中に、「ミス・ヘンリーが、お待ちになっているはずですが」
「はい、どうぞ」女中は、ネド・ボウモンを壁の色の明るい、日当りのいい部屋に案内した。上院議員と娘とが、朝食のテーブルに向かっていた。
ジャネット・ヘンリーが、すぐにとび立って、両手を差し出した。興奮を抑え切れないような声で、「お早う!」
上院議員もゆっくりと立ち上がって、ビックリしたような眼を娘に向け、それから、ネド・ボウモンに手を差し出した。「ボウモン君、お早う。よく来てくれた。君もいっしょに、ここで……」
「いや、ありがとう。朝めしはすませて来ました」
ジャネット・ヘンリーは、ブルブル震えていた。興奮のせいで、肌の色があせ、眼は黒くなり、薬をのまされた人のようだった。「父さん、わたくしたち、お話があるのよ」緊張にふるえる声だった。「お話というのは……」急にネド・ボウモンのほうに向き直って、「ね、お話して! あなたからお話して!」
ネド・ボウモンは、流し目で娘の顔をチラッと見て、眉をひそめ、それから父親を見た。上院議員は、自分の席のそばに立っていた。「ぼくたちは、ポウル・マドヴィグがご子息を殺したという、かなり強力な証拠を……自供を含めて……手に入れました」
上院議員の眼が細くなった。「そのかなり強力な証拠というのは?」
「それは、申すまでもなく、本人の自供が中心です。ポウルからきいたところでは、あの晩ご子息が後を追って来て、ゴツゴツした茶色のステッキを振り上げ、打ってかかったので、そのステッキをとり上げようとしたはずみに、まちがってご子息をそれでなぐってしまったということです。そのステッキは、もって帰って焼きすてたといっていますが、お嬢さんの話では」――ジャネット・ヘンリーに向かって、頭を軽く下げて見せて――「まだお宅にあるそうです」
「あるわ。ほら、ソウブリッジ少佐にいただいたステッキよ」
上院議員の顔は、大理石のようにかたく青ざめていた。「それで?」
ネド・ボウモンは、片手でちょっとした仕ぐさをして見せた。「そうなると、あの事件が、偶然のまちがいだとか、正当防衛だとかというあの男の証明は、でたらめだということになります……ご子息は、ステッキをもっていなかったのですからね」両ほうの肩を少し動かして、「昨日ぼくは、ファーにそのことを話しました。あの男は……おわかりのことでしょうが……火の中の栗を拾うようなまねをするのは、気が進まないようでしたが、いかにそうでも、今日あたり、ポウルを逮捕せずにいるわけには参りますまい」
ジャネット・ヘンリーは困ったように顔をしかめ、なにか言いかけたが、思いなおして、くちびるを引きしめた。
ヘンリー上院議員は、左手にもっていたナプキンで、自分の口に触り、そのナプキンをテーブルの上に落した。「ほかにも……ほかにもなにか証拠があるのかね?」
ネド・ボウモンは答える代わりに、訊きかえした。「まだ足りませんか?」
「だって、もっと証拠があるじゃないの?」ジャネットが訊ねた。
「この自供を裏書する事実がね」ネド・ボウモンは、とり合わぬようないいかたをした。上院議員に、「もっと詳細に申し上げることもできますが、本筋の話はそれだけです。それで充分ではありませんか?」
「まったく充分だ」上院議員は、額に手をあてた。「どうも信じられんことだが、やっぱりそうなのだ。わしは、しばらく失礼して」――娘に――「お前にもだが、ひとりになって、考えて見なければならん――いやいや、お前はここにいるがいい。わしは自分の部屋に行こう」もったいぶって頭を下げ、「どうかゆっくりしてくれたまえ、ボウモン君。あまり暇はかかるまい。ただ、これまでわしといっしょに仕事をやっていた男が、息子を殺した犯人だという事実を、トックリのみこむまで、ほんのしばらくでいい」
もう一度頭を下げ、ぎこちなく足を運んで出て行った。
ネド・ボウモンはジャネット・ヘンリーの手首をつかんで、はりつめた低い声で、「お父さんは、理性を失うほど腹を立てるようなかたですか?」
女は、ビックリしたように男の顔を見た。
「やみくもにとび出して、ポウルをさがしに行くようなかたでしょうか? そんなことになると困ります。とんでもないことがもち上がるかもしれません」
「知らないわ、わたくし」
ネド・ボウモンは、ジリジリしたように顔をしかめた。
「お父さんにそんなことをさせてはいけません。いざという場合に引きとめることができるように、どこか玄関のそばに待ち伏せするわけにはいきませんか?」
「いいわ」女は、脅《おび》えていた。
女は、男を案内して、玄関の近くの小さな部屋に入った。窓には厚いカーテンがかかってうす暗かった。その部屋のドアは、玄関のドアからわずかしか離れていなかった。二人は、うす暗い小部屋の六インチばかりあいたドアの近くに、身を寄せ合って立った。二人とも震えていた。ジャネット・ヘンリーが何かささやこうとするのを、男はシーッととめた。
たいして待つほどもなく、廊下のカーペットに忍ばせた足音がきこえ、帽子をかぶり、外套を着たヘンリー上院議員が、玄関のドアのほうに急いで来た。
ネド・ボウモンが、足を踏み出した。「待って下さい、ヘンリーさん」
上院議員は、ふりかえった。冷たくこわばった顔に、さし迫った眼つきをしていた。「いや、すまないが、失礼する。わしは出かけなくてはならんので」
「よしたほうがいいですよ」ネド・ボウモンは、上院議員につめ寄った。「ゴタゴタを大きくするばかりです」
ジャネット・ヘンリーが父親のそばに来た。「行かないで、父さん。ね、ボウモンさんのいうことをおききになって」
「わしは、ボウモン君のいうことをきいた。まだ話があるというのなら、喜んできかせて貰おう。そうでなければ、引き止めて貰いたくない」ネド・ボウモンに笑顔を見せて、「さっきの話をきいたからには、わしもやらなきゃならんことがあるんでね」
ネド・ボウモンは、上院議員の顔をジッと見た。「あの男に会いに行かれる必要はないと思いますよ」
上院議員は、ネド・ボウモンをおうへいに見かえした。
ジャネットが、「だって、父さん」と口を出しかけたが、父親の眼の表情を見て思いとどまった。
ネド・ボウモンは、咳ばらいをした。両頬に赤みがさして来た。サッと左手をのばして、ヘンリー上院議員の外套の右のポケットに触った。
ヘンリー上院議員は、怒ったようにうしろにさがった。
ネド・ボウモンは、うなずいた。「そんなことをなすったって、なんの役にも立ちませんよ」ジャネット・ヘンリーを見て、「お父さんのポケットには、ピストルがありますよ」
「まあ、父さん!」ジャネット・ヘンリーは、大きな声を出して、片手を口に押しあてた。
ネド・ボウモンは、くちびるをすぼめた。上院議員に、「どうあっても、ピストルをポケットに忍ばせたまま、ここから外にお出しするわけには行きませんな」
「父さんを行かせないで、ネド」ジャネット・ヘンリーがせがんだ。
上院議員の眼が、ギラギラと光った。「お前たち、どうもわれを忘れたようだな。ジャネット、どうか自分の部屋に行ってくれないか」
ジャネットは、しぶしぶふた足うしろにさがったが、そこでとまって叫び声をあげた。「わたくし、いやだわ! どうしても父さんを行かせやしないわ。ねえ、ネド、父さんを行かせないで」
ネド・ボウモンは、くちびるを湿らした。「行かせやしませんよ」
上院議員は、ネド・ボウモンに冷たい視線をそそいだまま、右手をドアの握りにかけた。
ネド・ボウモンは上体をかがめて、上院議員の手の上に自分の手を重ねた。ことばづかいはていねいに、「ぼくは、どうあってもおとめしなければなりません。よけいなお節介をしているだけではないんです」上院議員の手から自分の手を離して、上衣の内ポケットをさぐり、汚れてしわだらけになった書類を引っぱり出した。「これは、先月、ぼくが地方検事局の特別捜査官に任命されたときの辞令です」それを上院議員につきつけるようにして、「今でも取消しにはなっていないはずです」――肩をすぼめて見せて――「そのぼくが、あなたを野放しにして、他人を射殺するのを、黙って見ているわけには行きません」
上院議員は、書類を見なかった。軽べつをこめて、「すると君は、殺人を犯した友人をかばおうとしているんだな」
「そうでないことは、あんたがご存じのはずです」
上院議員は、姿勢を立て直した。「もう沢山だ」ドアの握りをまわした。
ネド・ボウモンが「ピストルをポケットに入れたまま、外に出てごらんなさい。ぼくは、あんたを逮捕します」
ジャネット・ヘンリーが、金切り声を上げた。「父さんたら!」
上院議員とネド・ボウモンは、お互いに相手の眼をにらんで立っていた。二人の息づかいがきこえた。
上院議員のほうが先に口を開いた。娘に向かって、「しばらくの間、わたしたちを二人だけにしてくれないか? ボウモン君に話したいことがあるんだが」
娘は、ネド・ボウモンの顔を物問いたげに見た。ネド・ボウモンはうなずいた。「いいことよ、父さん。わたくしに会わずに出かけたりしないって、約束してくれれば」
父親は、微笑を見せた。「ああ、いいよ」
二人の男は、娘が廊下を歩いて行くのを見送った。娘は、チラッと二人をふりかえって、左手のドアの中に見えなくなった。
上院議員は、後悔したように、「君は、どうも、娘によくない影響をあたえてくれたようだな。あの子も、いつもはあんなに頑固ではないんだが」
ネド・ボウモンは、いいわけのように微笑をうかべたが、なにもいわなかった。
上院議員が、「いったいいつごろから、こんなことがはじまったんだね?」
「ぼくたちが、こんどの事件を掘り下げはじめたのは、いつからかとおっしゃるんですか? ぼくのほうは、ほんの一日か二日前からですがね。お嬢さんは、最初から眼をつけておいででした。ずっと変わらずに、ポウルの仕わざと考えておられますよ」
「なんだって?」上院議員の口は、あいたままふさがらなかった。
「ずっとあの男のやったことだと思っておいでです。ご存じなかったのですか? あの男を毒のように憎んでおられます……今までずっとそうでした」
「憎んでいるって?」上院議員は、息をつめた。「とんでもないことだ」
ネド・ボウモンは、さぐるように微笑をうかべて、玄関のドアを背にした相手の顔をみつめた。「ほんとうに、ご存じなかったのですか?」
上院議員は、はげしく息を吐いた。「こっちへ入ってくれたまえ」先に立って、さっき、ネド・ボウモンとジャネット・ヘンリーが隠れたうす暗い部屋に入った。上院議員が、スイッチを押してあかりをつけ、ネド・ボウモンがドアをしめた。二人は、立ったまま向かい合った。
「ボウモン君、わしは、君と男同士として話をしたい」上院議員ははじめた。「君の」――微笑をうかべて――「公式の身分は忘れていいだろうね?」
ネド・ボウモンはうなずいた。「結構です。たぶんファーも覚えてはいないでしょうからね」
「よろしい。さて、ボウモン君、わしは、なにも血に飢えているような人間ではない。しかし、自分の息子を殺した男が、大手を振って歩きまわっているのを我慢できるものではない。しかも、あの男は……」
「そのことなら、あの男はいずれ逮捕されるだろうと申し上げましたよ。黙っているわけにはいきますまい。証拠は、あまりにもはっきりしているし、知らん人間は、一人もありませんからな」
上院議員は、また冷たい微笑をうかべた。「君はまさか、ポウル・マドヴィグが、みんなから狙われていて、どんなつまらんことでもとり上げられて、痛い目に合わされるような危ない状態に置かれている、と、そんなそこらの政治屋どものいいそうなことを、このわしにいおうとしているのではあるまいね?」
「ところが、そうなんです。ポウルは、もう駄目です。みんながよってたかって、あの男をたぶらかしにかかっています。それをなかなか手を出さずにいるのは、連中たちは、あの男が鞭《むち》を鳴らせばとび上がりつづけているし、勇気をふるい起こすのに、少しばかり暇がかかる、と、たったそれだけの理由からです」
上院議員は微笑をうかべた顔で、頭を振った。「どうも、わしには賛成できないね。わしは、君の生まれるよりもっと前から、政治というやつをやりつづけているよ」
「そりゃあ、そうでしょう」
「だから、わしは受け合ってもいいが、連中には、どんなに時間がたっぷりあったって、要《い》るだけの勇気がだせるもんじゃないよ。なんといったって、ポウルは連中の親方だから、一時的には、謀反《むほん》も起こるかもしれんが、あい変わらず親方の地位は握りつづけるだろう」
「その点では、お互いに意見が一致しそうにもありませんな。しかし、ポウルはもう見こみがありません」ネド・ボウモンは、顔をしかめた。「ところで、おもちになっているピストルのことですが、なんの役にも立ちやしませんよ。ぼくがお預かりしたほうがよさそうです」手を差し出した。
上院議員は、右手を外套のポケットにいれた。
ネド・ボウモンは、ひと足上院議員に詰めよって、左手で相手の手首をつかんだ。「わたして下さい」
上院議員は怒りの燃える眼で、相手をにらみつけた。
「よろしい、こうなればしかたがありません」ネド・ボウモンは、しばらくもみ合ったあげく、上院議員から、ピストル――旧式のニッケルめっきした回転胴式だった――をとり上げた。椅子がひとつ引っくりかえった。ネド・ボウモンは、そのピストルを自分の尻のポケットにしまった。そこへ、青ざめた顔に、眼を狂おしく光らせたジャネット・ヘンリーが入って来た。
「まあ、どうしたの?」娘は叫んだ。
「お父さんがきき分けがないものだから、ピストルをとり上げなければなりませんでしたよ」ネド・ボウモンは、うなるような声を出した。
上院議員は顔を引きつらせて、荒々しい息を吐いた。ネド・ボウモンに詰めよって、「わしの家から、出て行ってくれ」
「いやです」ネド・ボウモンのくちびるの端がけいれんした。眼に怒りの色が燃え上って来た。手をのばして、ジャネット・ヘンリーの腕を乱暴につかんだ。「坐っておききなさい。あなたが頼むから、ぼくもいいます」上院議員に向かって、「話は長くなりますから、あなたもお坐りになったほうがいいですよ」
ジャネット・ヘンリーも父親も、腰をおろさなかった。娘は脅えたように眼をみはって、ネド・ボウモンの顔をみつめた。ネド・ボウモンの眼は、かたく油断がなかった。どの顔も、同じように青かった。
ネド・ボウモンが、上院議員に向かっていった。「ご子息を殺したのは、父親のあなたです」
上院議員の顔は、少しも変わらなかった。身じろぎもしなかった。
かなりの間、ジャネット・ヘンリーも身じろぎもしなかった。それから顔に、まぎれもない恐怖の色があらわれ、ゆっくりと床の上に坐りこんだ。倒れはしなかった。ゆっくり膝を曲げ、坐った姿勢になり、右のほうに倒れかけたのを、右手を床について支えた。恐怖に打たれた顔を上げて、父親とネド・ボウモンを見た。
男は、二人とも娘のほうを見なかった。
ネド・ボウモンは上院議員に、「あなたは、自分が息子を殺したことを口外されないように、ポウルを殺そうと思ったのです。あの男を殺しても、ぼくたちをいいくるめようとしたように、世間を――旧弊《きゅうへい》な人間の、激情に駆られた凶行というようなことで――いいくるめることができさえすれば、なんとか切り抜けられると考えたのですな」そこで、しばらく口をつぐんだ。
上院議員は、なにもいわなかった。
ネド・ボウモンは、ことばをつづけた。「ポウルは、もし逮捕されたら、あなたのかばい立てをするのをやめるにきまっています。今のままだって、あの男にしてみれば、できることなら、お嬢さんのジャネットに兄さんを殺したなどと思われたくはないでしょうからね」苦しそうに笑って、「とんだ道化の役まわりですよ!」ネド・ボウモンは、髪の毛をかき上げた。「事件の真相は、たぶんこんなことだったのでしょうな。つまり、テイラーは、ポウルがジャネットに無理なキスをしたのをきいて、後を追っかけました。そのときには、ステッキをつかみ、帽子もかぶって出たのですが、それは、どうでもいいことです。あんたは、ポウルに万一のことがあったら、自分の再選される見こみはどうなるかわからん、と、そう考えて……」
上院議員が、怒りのあふれたしゃがれ声でさえぎった。「ばかなことをいうな! わしは、自分の娘の前でそんなでたらめをいわれて、黙っているわけには……」
ネド・ボウモンは、けだもののように笑った。「まったく、ばかなことですよ。あなたが、ご子息を殺したステッキをわざわざお宅にもって帰ったり、なにもかぶらずにとび出したもんだから、ご子息の帽子を頭にのせて帰ったりしてのも、ばかなことです。そのせいで、ご自分が十字架にはりつけにされることになるんですからな」
ヘンリー上院議員は、あざけるような低い声を出した。「そんなら、ポウルの自供はどうなるんだ?」
ネド・ボウモンは、ニヤリと白い歯を見せた。「あんなものは、もう沢山です。ぼくたちがどうするか、ごらんに入れましょうか? ジャネットさん、ポウルに電話をかけて、すぐに来るようにいって下さい。あの男がやって来たら、お父さんがピストルをポケットに忍ばせて、あの男のところに出かけようとしていたと話して、なんというか聞いてみましょう」
ジャネットは、身じろぎしたが、床から立ち上がらなかった。表情を失った顔だった。
父親が、「ばかな話さ。お前も、そんなまねをするんじゃないよ」
ネド・ボウモンは、容赦しない口調で、「電話をかけなさい、ジャネットさん」
娘は、まだ空白な表情のままで立ち上がり、父親の、「ジャネット!」と叫ぶ鋭い声にふり向きもせずに、ドアのほうへ行った。
上院議員は、こんどは声の調子を変えて、「お待ち」と娘に呼びかけ、ネド・ボウモンに、「もう一度、二人きりで君と話をしたいが」
「結構ですよ」ネド・ボウモンは、戸口でためらっている娘をふりかえった。
娘は、ネド・ボウモンが、声をかけるのを待たずに、「わたくしも聞きたいわ。わたくしには聞く権利があってよ」
ネド・ボウモンはうなずいて、また父親のほうに向き直った。「たしかに、お嬢さんにも権利があります」
上院議員は、「ジャネットや、わしはお前に、心配をかけまいとしているんだよ。わしは……」
「わたくし、のけものにされるのはいやだわ」娘の声は、低く、抑揚がなかった。「わたくしだって知りたいのよ」
上院議員は、手に負えんというように、手のひらをひろげて見せた。「じゃあ、わしは、なにもいうまい」
ネド・ボウモンが、「ポウルに電話をおかけなさい、ジャネットさん」
「いかん」上院議員は、娘が行こうとしないうちに、声をかけた。「わしには、どうもこの上なく辛いことだが……」ハンカチーフをとり出して、両手を拭いて、「まず、ほんとうに起こったことをくわしく話して、その上で、君の慈悲にすがることにしよう。いかなる君でも、それをしりぞけることはできまいと思う。しかし……」そこで、ことばをとぎらせて、娘のほうを見た。「お前も、どうしても聞くというのなら、ドアをしめて、こっちへおいで」
娘はドアをしめて、そばの椅子に腰をおろし、身をこわばらせ、緊張した顔で前にのり出した。
上院議員は、ハンカチーフをもった両手を背なかにまわし、今は敵意のない眼でネド・ボウモンを見た。
「あの晩、わしは、息子の向こう見ずのせいで、ポウルの友情を失いたくなかったので、テイラーの出て行った後を追って走った。チャイナ街で追いついた。ポウルが、息子からステッキをうばい取ったところだった。二人は、いや、少なくともテイラーは、はげしくいい争っていた。わしはポウルに、この場をまかせてくれるように頼んだ。ポウルは承知して、わしにステッキをわたしてくれた。テイラーは、父親に向かっていうべきでないような乱暴な口をきいて、わしを押しのけ、またもやポウルを追いかけようとした。それからどうなったか、わしには、自分ながらよくわからんのだが……ひどくなぐりつけたらしい……とにかく、テイラーは倒れて、歩道の後に頭を打ちつけた。そこへポウルがもどって来た……遠くへは行ってなかったのだ……二人でしらべてみると、テイラーが即死しているのがわかった。ポウルは、このままにして立ち去ろうといい張った。この事件に係り合わなかったことにしなきゃいかんというのだ。うっかりすると、次の選挙のときにどんな汚ない噂を立てられるかわからんというので、わしも、あの男のいいなりになった。ポウルは、テイラーの帽子を拾って、かぶって帰るようにと、わしにわたしてくれた。わしは帽子もかぶらずに、とび出して来たのだった。ポウルは、警察の取り調べが、わしらの身辺に及びそうになったら、いつでも手を引かせると受け合った。後になって……実は、先週のことだが……ポウルが、テイラーを殺したという噂がひろがっているのを知って、わしはポウルを訪ね、黙っていたのが、かえって悪かったのじゃないかと訊いてみた。するとあの男は、わしの弱気を笑いとばし、自分の力でなんとでもできるからということだった」背なかにまわした手を出して、ハンカチーフで顔を拭った。「真相は、そういうことだったのだが」
娘が、のどのふさがったような声で叫んだ。「まあ、父さんが、あの兄さんを、街のまん中に、あんなふうに置きっぱなしにしたのね!」
父親は顔をしかめたが、なにもいわなかった。
しばらく間をおいて、ネド・ボウモンが、「選挙演説ですな――大げさなところもある」苦い顔をして、「ところで、なにかお頼みになることがあったようですが?」
上院議員は床に眼を伏せ、それからまた、ネド・ボウモンの顔を見た。「しかし、それは、君だけに願いたい」
「駄目です」
娘に向かって、「許しておくれよ」それからネド・ボウモンに、「君にほんとうのことをすっかり打ち明けたのだが、わしは、自分の立場をよく心得ている。君の慈悲を願いたいというのは、実は、わしのピストルをかえして、五分間……いや、一分間、この部屋で、ひとり切りにして置いて貰いたいのだ」
「駄目です」
上院議員は、手を胸に当ててよろめいた。その手から、ハンカチーフがぶら下がっていた。
「運命には従わねばなりません」ネド・ボウモンの声は冷たかった。
二
ネド・ボウモンは、ファーと、灰色の髪をした速記者と、二人の刑事と、それから上院議員とを、玄関まで見送った。
「いっしょに行かないのかね?」ファーが訊ねた。
「いや、あとでお目にかかります」
ファーは、差し出された手を力をこめて握った。「しょっちゅう来て貰いたいよ、ネド。君は、おれをたぶらかしたが、こうなってみると、そのことで君を恨んだりはしないよ」
ネド・ボウモンはニヤリと笑って見せ、二人の刑事とうなずきかわし、速記嬢には頭を下げて、ドアをしめた。二階にのぼって、ピアノのある、あの壁の白い部屋に入った。竪琴の飾りのついた長椅子から、ジャネット・ヘンリーが立ち上がった。
「行ってしまいましたよ」わざとのように、そっけないいいかただった。
「あの人たち、父さんを……」
「かなり完全な供述書――ぼくたちのきいたのよりずっとくわしい――を作りましたがね」
「わたくしに、ほんとうのことを話して下さる?」
「話しますよ」
「父さんは――」ことばは、いったんとぎれた。「父さんは、どうなるのかしら?」
「たぶん、たいしたことにはならんでしょうな。お父さんの齢や、身分といったようなことが役に立ちますよ。殺人罪の判決を下してから、宣告を保留するか、執行猶予にでもするでしょうね」
「ほんとに偶然のまちがいだったのかしら?」
ネド・ボウモンは、頭を振った。眼は冷たかった。ぶっきらぼうに、「自分の息子が、再選を邪魔すると考えて、カッとなってなぐりつけたのでしょう」
女は、抗《あらが》わなかった。黙って、指をより合わせていた。次の質問は、やっとの思いで口から出て来た。「父さんは――父さんは、ほんとに、ポウルを射つ――射ち殺すつもりだったのかしら?」
「そうですよ。年老いた父親が、息子の死に復讐したというようなことになれば、さすがの法律も、いく分かは手ごころを加えるでしょうからね。お父さんには、ポウルが逮捕されれば、いつまでも口をつぐんでいないことがわかっていました。ポウルは、あなたが欲しいばかりに、選挙でお父さんを助ける気になっていたし、黙ってもいたのです。ところが、自分があなたのお兄さんを殺したふりをしていては、あなたを手に入れることはできない。ほかの連中がどう思おうと、なんの気にもかけなかったが、まさか、あなたまでがそう思っていようとは、夢にも知らなかったのです。それを知ったら、たちまち、なんとしてでも身のあかしを立てたでしょうがね」
女は、いたましそうにうなずいた。「わたくし、あの人が嫌いよ。誤解だったってことはわかったけど、それでも好きになれないわ」すすり上げて、「なぜなんでしょう、ネド?」
男は片手で、やり切れんというような仕ぐさをして見せた。「ぼくに謎をかけるのはやめて下さい」
「あなたは、わたくしをだましたり、からかったり、こんな目に会わせたりしたけど、わたくし、憎めないのよ」
「また謎だ」
「どのくらい前から、父さんのことを知っていらしたの、ネド?」
「ちっとも知ってやしませんよ。ずいぶん以前から、頭のうしろのほうではモヤモヤしていましたがね。ポウルのとぼけたような態度を、ピッタリ説明できそうなことといえば、そのくらいしかありませんでした。もし、あの男がほんとうにテイラーを殺したのだったら、もっと早くにぼくには打ち明けていたはずです。そんなことを、ぼくに隠すような理由はありませんでした。あなたのお父さんの犯した罪を、ぼくに隠す理由ならありましたよ。ぼくがあなたのお父さんを嫌っていたのを、あの男は知っていました。あからさまに口にもしていましたからね。打ちあけて、ぼくがお父さんを陥《おとし》し入れるたねに利用しないとは、あの男には信用し切れなかったのです。自分を陥し入れたりしないことは知っていました。だから、ぼくがなんといわれようと、あの事件をあばいてやるつもりだ、と、そうあの男に話したときに、ぼくを思いとどまらせようとして、あんな出たらめな打ち明け話をしたんです」
「あなたは、どうしてお父さんが好きになれなかったの?」
「それは、ぼくは女を取りもって、うまい汁にありつくような男が、好きになれないからですよ」
女は、顔を赤らめ、眼を伏せた。しめつけられたような乾いた声で、「じゃあ、そんな男の娘だったわたくしのことも好きになれないのね?」
男は黙っていた。
女はくちびるを噛み、大きな声で、「返事をして!」
「あなたはべつです。ただ、あなたがポウルをあんなふうにあしらったやりかたはよくない。あなたがた親娘《おやこ》は、ポウルにとって毒みたいなものでした。ぼくは、そのことをポウルに忠告しようとしました。あなたがたがあの男を、一段と低級な動物だと考え、どんな扱いようをしてもいい相手だと思っていることを教えてやろうとしましたよ、あなたのお父さんは、一生の間、苦労もなしにうまい汁を吸うのに慣れている人間だから、せっぱつまれば、どんなことでもやりかねないといってやりました。ところがあの男は、あんたに首ったけなもんだから――」男は、それきり口をつぐんで、ピアノのほうに歩いて行った。
「わたくしをからかっているんだわ」女の声は、低くかたかった。「わたくしのことを、下等な女だと思っているんだわ」
「からかっていやしませんよ」男は、ふりかえらなかった。「あなたがなにをしようと、それ相応の報いは受けているんですからね。誰だってみんなそうです」
二人とも、しばらくものをいわなかった。やがて女が、「あなたとポウルとは、これでまたお友だちになれるの?」
男は、今にもガタガタ震え出しそうな様子で、ピアノから離れて、手首の時計をのぞきこんだ。「もうおいとましなければなりません」
女は、あわてたような眼をした。「まさか、行ってしまうのじゃないでしょうね?」
男は、うなずいた。「四時三十分の汽車に間に合います」
「もう帰ってこないのじゃないわね?」
「こんどの公判に出なくてもすむように、うまくいい抜けができれば、帰って来ないつもりです。たぶんできると思いますがね」
女は衝動に駆られたように、両手を差し出した。「わたくしも連れて行って」
男は眼をしばたいた。「ほんとに行きたいんですか? それとも、ヒステリーを起こしたんですか?」男の顔は、まっ赤になっていた。女が口を開こうとする前に、「どっちでも同じようなもんだ。行きたいのなら、連れて行って上げますよ」顔をしかめて、「しかし、こういったものは」――片手を振って、家ぜんたいを指して見せて――「誰があとを見るんです?」
女は吐き出すように、「知らないわ――家主でしょう」
「もうひとつ考えなきゃならんのは、みんなに、お父さんが困っているのを放ったらかして行ったといわれますよ」
「そうよ、父さんなんか放ったらかしでいいのよ。みんなにそういって貰いたいくらいだわ。なんといわれたってかまわないの――あなたが連れて行ってくれたら」すすり上げて、「父さんが、兄さんをあの暗い通りに、ひとりぽっちで置きっ放しで逃げたりしなかったのなら、わたくしだって、こんなことはしなかったのに」
ネド・ボウモンは、ぶっきらぼうな口調で、「そんなことはもういい。行くのなら荷づくりをなさい。鞄二つに入るだけ詰めこんで。ほかのものは、あとから取りに来させればいい」
女は、不自然な甲《かん》高い声で笑い出し、部屋を駆け出して行った。男は葉巻に火を点け、ピアノの前に腰をおろした。女のもどって来るまで、低い音で奏でた。もどって来た女は、黒い帽子に、黒い外套を着て、両手に旅行鞄をさげていた。
三
二人は、タクシーを拾って、男のアパートに走らせた。走っている間じゅう、ほとんど口をきかなかった。一度だけ、女がふいにしゃべり出した。「あの夢の中で――あのときには話さなかったけど――蛇のいた家の鍵は、ガラスだったわ。錠がかたくて、無理にまわしたものだから、ドアがあいたと思ったら、その鍵は、手の中で粉々に砕《くだ》けてしまったのよ」
男は、横目づかいに女の顔を見た。「それで?」
女は、身ぶるいした。「わたくしたち、蛇をとじこめることができなかったものだから、みんなわたくしたちのほうへ出て来て、わたくし、思わず叫んだ自分の声で目がさめたの」
「そんなことは、ほんの夢の中のことですよ。忘れたほうがいい」男は、明るさのない微笑をうかべた。「ぼくの夢ではあなたが、ぼくのせっかく釣った鱒《ます》を、水の中にほうり投げてしまったっけ」
タクシーは、男のアパートの前でとまった。二人は、男の部屋までのぼって行った。女が、荷づくりを手伝おうと申し出ると、男は、「いや、ぼくで間に合います。そこに坐ってやすんでいらっしゃい。汽車の出るまで、まだ一時間ある」
女は、赤い椅子に腰をかけた。「あなたは――わたくしたちは、どこに行くの?」臆病な訊きかただった。
「とにかく、差しあたってニューヨークまで」
鞄をひとつ詰め終ったところへ、玄関のベルが鳴った。「あなたは、寝室に入っていたほうがいい」男は、女の鞄を寝室にはこびこんだ。出て来ると、間のドアをしめた。
外のドアをあけた。
ポウル・マドヴィグが、「おれは君のいうのが正しいということが今になってわかったと、そう言いにやって来たのだが」
「あんたは、昨夜《ゆうぺ》は来なかった」
「そう、そのときには、それがわからなかったんだ。おれは君と入れちがいに、家にもどって来た」
ネド・ボウモンはうなずいた。「入りたまえ」戸口からわきに避けた。
マドヴィグは、居間に入った。すぐに鞄に眼をとめたが、ひとわたり部屋の中を見まわしてから、「行ってしまうのか?」
「うん」
マドヴィグは、さっきまでジャネット・ヘンリーのいた椅子に腰をおろした。その顔には齢があらわれ、坐りかたもだるそうだった。
「オパルはどうだね?」ネド・ボウモンが訊ねた。
「大丈夫だが、可哀そうな子だよ。すぐによくなるだろう」
「あんたのせいだよ」
「わかっているよ、ネド。よくわかっているんだ」マドヴィグは、両脚を前にのばして、靴に眼をやった。「おれがうぬぼれているなど思わんで貰いたいな」しばらく間をおいてから、「オパルは、きっと、君の出かける前に会いたがるぜ」
「おれがよろしくいっていた、と、そう伝えてくれ。お母さんにもね。四時三十分の汽車に乗るんだ」
マドヴィグは、苦悩に曇った青い眼をあげた。「むろん、君のいうのが正しいよ、ネド。しかし――いや、やっぱり、君のいう通りなんだろうな」また自分の靴に眼をやってた。
ネド・ボウモンが訊ねた。「あんたは、あまり忠実でもなかった子分どもをどうするつもりだね? もう一度|性根《しょうね》をたたき直して面倒を見てやるか? それとも、性根の直るのを待つか?」
「ファーだとか、そのほかのああいった連中のことか?」
「うふ」
「あいつたちには、知恵をつけてやるつもりだ」マドヴィグはきっぱりといい切ったが、その声には熱がなく、眼は靴から上げなかった。「おかげでおれは、四年間を棒に振ることになるだろうな。しかし、その四年間を利用して、大掃除をやらかし、ビクともしないしっかりした組織を作り上げるよ」
ネド・ボウモンは、眉を釣り上げて見せた。「そして、選挙の票をうまくかり集めようというのかね?」
「票を集めるどころか、敵の連中をダイナマイトでふっ飛ばして見せる! シャドは死んだ。こんどの四年間は、あいつの一味にやらせるさ。なあに、あの連中に、おれの心配するほどしっかりした仕事がやれるものか。次のときには、またこの街をとりもどしてやる。その時までには、おれのほうの大掃除も片づいているはずだからな」
「今度だって勝とうと思えば勝てるぜ」
「そりゃあそうだが、おれは、ああいう汚ない連中を味方にして勝つ気はしない」
ネド・ボウモンはうなずいた。「ずいぶん我慢と勇気とが要《い》るだろうが、まあ、それが一番いいやりかただろうな」
「おれには、せいいっぱいのところだ」マドヴィグは、哀れっぽい顔になった。「どうも、おれは頭がよくないよ」眼の焦点を、靴から暖炉にうつして、「君は、どうしても行かなきゃならんのか、ネド?」ほとんどきこえないような声だった。
「そうだよ」
マドヴィグは、乱暴に咳ばらいをした。「ばかなやつだといわれるかもしれんが、君が行くにしろ、行かんにしろ、おれに恨みなどもっていないと思っていいだろうな」
「あんたに恨みなどこれっぽちももっていやしないよ、ポウル」
マドヴィグは、すばやく顔を上げた、「おれと握手をしてくれ」
「いいとも」
マドヴィグは、ネド・ボウモンの手をつかんで握りしめた。「ネド、行かんでくれ。おれといっしょにいてくれ。今こそ、どんなに君を頼りに思っていることか。これまでのことは、どんなにしてでも埋め合わせをするよ」
ネド・ボウモンは、頭を振った。「おれに埋め合わせをすることはないさ」
「そんなら、君は――」
ネド・ボウモンは、また頭を振った。「駄目だ。おれは行かなきゃならん」
ポウル・マドヴィグは手を放して、また坐りこんだ。すねたように、「やっぱり、おれには、当然の報いだ」
ネド・ボウモンは、いい加減にしろというような仕ぐさをして見せた。「それとは関係のないことなんだが――」いいかけて、くちびるを噛んだ。それから思い切ったように、「ジャネットが来ているよ」
マドヴィグは、眼をまるくした。
ジャネット・ヘンリーが寝室のドアをあけて、居間に入って来た。顔は青ざめゆがんでいたが、その顔を高くもたげていた。まっすぐに、ポウル・マドヴィグのそばまで進んで行って、「ポウル、わたくし、さんざんご迷惑をかけたわね。わたくし――」
マドヴィグの顔も、女の顔と同じほど青ざめていた。その顔に急に血が上って来た。「いや、そんなことはないよ、ジャネット」ひどくしゃがれた声だった。「君は、べつになにも――」そのあとは、聞きとれないつぶやきになった。
女は、しりごみをした。
ネド・ボウモンが、「ジャネットは、おれといっしょに行くんだ」
マドヴィグは、口をポカンとあけた。ぼんやりとネド・ボウモンをみつめるその顔から、血の気がなくなった。まっ青な顔でつぶやいたなかから、「しあわせに」ということばだけが聞きとれた。よろけるように戸口まで歩き、ドアをあけて出た。ドアはあけっぱなしにしたままだった。
ジャネット・ヘンリーは、ネド・ボウモンをみつめた。男はドアをにらみつけていた。(完)