死刑は一回でたくさん
ダシール・ハメット/田中融二訳
目 次
ダン・オダムスを殺した男
十番目の手がかり
一時間
パイン街の殺人
蝿とり紙
赤い光
死刑は一回でたくさん
両雄ならび立たず
作家紹介
[#改ページ]
ダン・オダムスを殺した男
監房の高いところにひとつだけある、鉄棒のはまった三十センチ四方の窓からさしこむ光がしだいに薄れて、これまでそこに入れられた連中が反対側の壁に、ひっかいたり鉛筆で書きつけたりした記号や頭文字の落書がはっきり見えなくなってきたころ、ダン・オダムスを殺した男は簡易寝台から起きあがり、鉄格子の扉に近づいた。
「おおい、チーフ!」彼はせまい監房の壁を揺るがす大声で呼んだ。
建物のおもてのほうで床に椅子がきしる音がして、用心深い足音が近づき、ジンゴの町の保安官が執務室と監房をつなぐ通路にでてきた。
「ちょっと話したいことがあるんだ」監房の中の男はいった。「ちょっとだけ――」
監房に近づいて行った保安官は、薄暗い明かりの中に、銃身の短い、重みのある拳銃の光った銃口が、囚人の右の腰のすぐ上から自分を狙っているのを見た。
昔からお定まりの命令をされるよりさきに、保安官は両手を耳のところまで上げた。
鉄格子の向こうの男は簡潔に、ささやくような小声でしゃべった。「むこうを向け! 背中を扉につけろ!」
保安官が背中を鉄格子につけると、囚人はその左のわきの下から手をまわして、ボタンをかけてないチョッキを引きはだけ、拳銃ケースから拳銃を抜きとった。
「さあ、この扉をあけろ!」
囚人は自分の拳銃をどこかへしまって、そのかわりに奪った拳銃を手に握っていた。保安官は監房のほうに向き直って片方の手をおろし、その手の中で鍵束のジャラつく音がして、扉があけられた。
囚人は手にした拳銃で|おいでおいで《ヽヽヽヽヽヽ》のジェスチャーをしながら監房の奥のほうへさがった。
「寝台に寝ろ、うつぶせに」
無言で保安官はそれにしたがった。ダン・オダムスを殺した男はその上にかがみこんだ。銃身の長い黒い拳銃がひらめくように弧をえがいて、うつぶせの保安官の首根っ子を一撃した。
保安官は両脚を一度痙攣させただけで、そのまま動かなくなった。
囚人の指はあわてることなく器用に相手のポケットをさぐり、金とタバコと、手巻き用の紙をさらいとった。つぎに保安官の肩から拳銃の吊りケースをはずし、自分の肩につけた。それから監房から出て、扉に鍵をかけた。
保安官の部屋にはだれもいなかった。ダン・オダムスを殺した男は机の引出しから二袋のタバコと、マッチと、自動拳銃と、二つかみほどの弾丸を失敬した。壁からは、耳まですっぽりかぶさってしまう帽子と、すこし窮屈《きゅうくつ》で長過ぎる黒いゴムびきの雨合羽をいただいた。
それらを身につけて、彼は街路を見わたした。
三日間降り続いた豪雨が、たまたま、ちょっと止んだところだったが、ジンゴの町の街道には人気がなかった。ジンゴの町の家々では、だいたいその時間――五時から六時ごろまで――が夕食の時間にあたっていたのだ。
まつげが短いために動物的な感じが強調されている、深くくぼんだ栗色の目で、彼は木の歩道のついた通りの四ブロックほどの距離を透かし見た。十二、三台の自動車が目にはいったが、馬は見あたらなかった。
最初の角で彼は表通りを外れ、ほんのちょっと行ったところで、表通りに平行しているぬかるんだ路地に曲りこんだ。表通りの玉突き場の裏手にあたる小屋のかげに、四頭の馬がつながれ、鞍や手綱がそばに掛けてあるのを彼は見つけた。その中から、ずんぐりした、筋肉のたくましい葦毛《あしげ》の一頭を選んで――モンタナの泥地でのレースでは、速いということは最主要条件ではないのだ――鞍を置き、路地のはずれまで引いて行った。
それから彼は鞍にまたがり、灯りのつき始めたジンゴの町をあとにした。
彼は雨合羽の下をさぐり、さっき保安官にホールド・アップを食わせた拳銃を尻のポケットからとり出した。 ――石鹸で形をつくり、それにタバコの銀紙を貼りつけたにせものの拳銃。彼は銀紙を剥ぎとり、石鹸を形がわからない塊まりに握りつぶして投げ捨てた。
しばらくすると空が晴れて星があらわれ、彼は自分のたどっている道が南に向かっていることを知った。彼は足場のやわらかい、ねばつく道を、夜っぴて、容赦なく葦毛の歩を進ませた。
夜が明けると、馬はもう休ませずには進ませられなくなった。男は峡谷をさかのぼって、道路から完全に外れたところへ馬を引いて行き、雨とロッキーおろしの暖風が雪を溶かした地面から新しい草が萌《も》え出している、ハコヤナギの木立のかげに、その両脚に手綱をからめて放置した。
それから彼は近くの岡にのぼり、濡れた地面に寝そべって、まつげのない、赤く充血した目で、越えてきた土地を見透かした。濡れた地面とよごれた雪と若草が、起伏する岡の連《つら》なりを黒と灰色と緑の三色に塗り分け、その三つの色の境界をあちこちで侵犯しながら、セピア色のリボンのような郡道が、見え隠れに曲りくねっていた。
そこに寝そべっている間、人影は見えなかったが、近くに人のいるしるしはそこらじゅうに目につき、すこしも安心はできなかった。道路に沿って肩ぐらいの高さの鉄条網の柵《さく》が張られ、小道が近くの岡をよぎり、灰色の空をバックに電信柱がぎごちなく短い腕を張り出していた。
昼ごろ、彼はまた葦毛に鞍を置いて、流れに沿って前進を再開した。何マイルか行ったところで、一本の電話線が架《か》けわたされた小さな柱の列にぶつかった。彼は河床をはずれ、その電線につながっている牧場小屋を見あて、それを迂回《うかい》して進んだ。
午後おそく、彼は不運に見舞われた。
一時間以上も電線を見なかったせいで警戒心をやわらげていた彼は、とある岡を横ぎったとたん、いきなり一群の建物のまん中によろめきこんで行きそうになった。その建物群には、逆の側から一本の電線が延びていた。
ダン・オダムスを殺した男は退却し、別の岡のほうへまわって行き、その向こう側へくだろうとしたとたん、たった今退却してきた斜面のほうからライフルの銃声がした。
彼は葦毛のたてがみに鼻が埋ずまるほど前に体を倒し、片手と片足で馬をあやつった。
またライフルの銃声がした。
馬が倒れる瞬間に彼は地面に身を投げ、イネ科の雑草とヤマヨモギの草むらが背後から彼を見えなくしてくれるところまでころがって行った。それからまっすぐに這《は》い進み、岡の横腹をまわってなおも進み続けた。
もうライフルは射ちかけてこなかった。彼はそれを確かめてみようとはしなかった。
やがて彼は、短くたくましい脚で体を押し進めながら、南から西へ――鉛色の空を背景に、黒と緑の巨大な猫のような輪郭を浮き出させている[タイガー・ビュート](虎ガ峰)のほうへ――方向を転じた。その山のところどころには、谷や亀裂《きれつ》に残った雪が、よごれた白の筋をつくっていた。
彼の左肩はしばらく痺《しび》れていたが、やがて焼けつくような痛みがそれにとってかわった。血が腕をつたって、泥の固まりついた手にしみをつくった。彼はとまって上着とシャツをひろげ、肩の傷の包帯をあて直した。馬から落ちた時、傷口が開いて、また出血し始めていたのだった。
それから彼はまた進みつづけた。
行きあたった最初の道路は[ダイガー・ビュート]のほうへ向かっていた。泥によごれた顔の不機嫌な表情を動かさず、ねばつく泥を鋤《す》くように押し分けながら、彼はその道をたどって行った。
たった一度だけ、彼はジンゴの留置場を脱走して以来、ずっと続けていた沈黙を破った。彼は道のまん中に立ちどまり、充血した目を左右に、そして地面から空に向け、感情のない、しかし妥協の余地のない語気で、泥濘《ぬかるみ》を、柵を、電線を、馬を射ち殺した男を、そして行く手の空から絶えず彼をあざけるように、フルートの音のようなさえずりを降らせてくる揚雲雀《あげひばり》をののしった。
それから、また彼は歩み続けた。二、三マイルごとに立止まって、ブーツにくっついた泥をこそぎ落とし、丘の頂きにさしかかるたびに、うしろを見わたして追手のくる気配はないか、確かめながら。
また雨が降り出し、こびりついた泥で固まった彼の貧弱な頭髪をもつれさせた。帽子は馬からころげ落ちた時になくしてしまっていた。サイズの合わない雨合羽は体の動きを不自由にし、すそが足首にまつわって歩みを鈍らせたが、肩の傷を雨からかばう必要から、脱ぎ捨てるわけにはいかなかった。
二度、車をやり過ごすために、道から離れて身を隠さなくてはならなかった。一度は蒸気をあげているフォード、もう一度は、乾草《ほしくさ》を半分ぐらい積んで、懸命に踏んばる四頭の馬に引かれて、のろのろと這うように進む荷馬車だった。
彼が進んでいるのは、まだ依然として柵でかこわれた土地に挟まれた道で、身を隠すにはひどく不便だった。二、三マイルの間隔で家が点在し、馬を射たれたことが、電話線が遊んではいなかったことの十分な証拠だった。前日の昼からずっと、なにも食べていなかったが、追手の影が見えないとはいえ、ここで食物をあさるわけにはいかなかった。
道路を外れて[タイガー・ビュート]の斜面をのぼりはじめた時は、夜になりかかっていた。すっかり夜がふけてから、彼はとまった。雨は夜通し降り続けた。彼は丸石によりかかり、合羽を頭からかぶってすわったまま、タバコを吸ったりまどろんだりしながら夜を明かした。
ペンキも塗ってない、掘立《ほったて》小屋のようなその家は、谷の合流点に這いつくばるように建っていた。屋根の上に、ふやけたような煙が、それ以上高くはたちのぼろうともせず、正気なくただよっていたが、そのうちに雨にたたかれて消えてしまった。煙突のある家のまわりの他の構築物も、家そのものにおとらずむさくるしかった。その一群の建物は、巨大な猫に恐れおののいて平つくばっているかのように見えた。
しかし、二つの谷をわかつ岡の高みに腹ばいになっている、ダン・オダムスを殺した男の目には、猫のわき腹にあたる位置にあるそのみすぼらしい一軒家は、電話線が引きこまれていないというだけで、建築家や画家が最高の手腕をふるった家にもまして魅力的にうつった。
そうして腹ばいになっている朝のあいだに、二度、女の姿が目にはいった。一度は家から小屋のひとつへ行って戻った。もう一度は戸口に出てきて、しばらく谷を見下ろしながらたたずんでいた。小柄な女で、灰色がかったくたびれた服を着て、年ごろや肌の色は、雨を透かしてではよくわからなかった。
そのあと、十か十二ぐらいの男の子が家の裏手から、両腕にたきつけを高く積んで出てきて、視界から消えた。
やがて、男は岡からしりぞき、輪をえがいて迂回すると、ふたたび――こんどは裏手から――家を見通せる場所に出た。
三十分が過ぎた。男の子が下手の泉から水を運んでくるのが見えたが、女は姿を見せなかった。
脱獄囚は弾力を失ってしまった脚をぎくしゃくはこびながら、建物のほうに忍び寄った。時どき足もとがふらついた。しかし、ねば土がこびりつき、三日間ひげも剃っていないあごは、すこしも弱気を見せず、傲然《ごうぜん》とつき出されていた。
距離をたもちながら、彼は外まわりの小屋を点検した。それらは、どうにも取得《とりえ》のない牝《めす》の栗毛馬と、大地との戦いで見るかげもなくいたんだいろいろな農具を、収容しているとは名ばかりのみすぼらしい小屋だったが、その地方でそういった小屋を[ヘイワイヤ(干し草用の針金)アウトフィット]と呼ぶ由来となっている資材〔つまり針金〕を、器用にとはいえないがふんだんに使って修繕をほどこすことで、そうした道具が完全に解体してしまうのを辛うじて食いとめていた。
地面のどこにも、小柄な女のと、十歳《とう》か十二ぐらいの男の子のより大きな足跡は見あたらなかった。
脱獄囚は足どりが不安定なのを、大股で歩くことで補ないながら、住居のほうへ空間を横切って行った。時計が時をきざむような急がず休まぬ間隔で、力を失った左手の指から、大きなしずくになって血がしたたり、雨にたたかれて濡れた土中にしみこんだ。
よごれた窓ガラスごしに、男は女と少年がドアに面して簡易寝台にならんで腰かけているのを見てとった。
男がドアを引きあけて、なんの仕切りもない屋内にはいって行った時、少年は顔を白くし、口をふるわした。しかし、女の痩せた土気色の顔は、驚いた様子がまったくないことから、彼が近づいてくるのを見ていたことがうかがわれる以外、なんの表情もあらわさなかった。彼女は何も持っていない両手をじっと膝に置き、体を固くして寝台に腰かけているだけで、ぼんやりとした目にはなんの恐怖も関心も見えなかった。
男は動きをとめた場所――ドアをはいってすぐの、片側に寄ったところに、土でこねあげたグロテスクな立像のように、しばらく立ちはだかっていた。短い、がっちりした体躯に、落としたたくましい肩。衣服と髪はすっかり粘土の皮殻《ひかく》におおわれ、顔と両手の一部分がわずかに露出しているだけだった。ただ、手の中にある保安官の拳銃だけが、いやにきれいに光っていて、その不調和な汚れのなさが、それだけ不気味な感じを強めていた。
彼の目は、すばやく室内をながめわたした。――なにも塗ってない板壁に押しつけられた二つの簡易寝台、中央に簡素なモミ材のテーブル、あちこちに散らばった何脚かのぐらぐらの台所椅子、傷だらけの箪笥がひとつ、トランクが一個、男物と女物の衣服がごっちゃにかかっている掛け釘の列、一隅に靴が一山、それからさしかけの台所に通じるドアが開け放しになっていた。
彼はそのドアのところまで歩いて行き、女の顔がそれを追った。
さしかけの台所にはだれもいなかった。男は女のほうに向き直った。
「亭主はどこだ?」
「行ってしまったわ」
「どこへ?」
「知らないわ」
「いつ戻ってくる?」
「もう戻らないわ」
女の返事の平板で無感動な調子は、彼がはいってきた時に感情をあらわさなかったのに続いて、男を面くらわせた。彼は顔をしかめ、血走っていっそう赤くなった目を女の顔から少年の顔へ、それからまた女の顔へと往復させた。
「どういう意味だ?」と彼は押してたずねた。
「開拓の仕事に飽きてしまったのよ」
彼は思案するように唇をきつく結んだ。それから靴が山になっているところへ行った。はき古した男の靴が二足あったが、どちらも乾いて、新しい泥はついていなかった。
男は身を伸ばし、拳銃を吊りケースにおさめ、ぎこちない身ごなしで雨合羽をぬいだ。
「なにか食い物をくれ」
女は無言で寝台から立ち上がって台所へ行った。男はその後ろから少年を押し立てて行き、女がコーヒーとホットケーキとベーコンを調理するあいだ、戸口に立っていた。それからみんな居間に戻った。女は食物をテーブルの上に置き、子供を自分のわきに引寄せて、またさっきの寝台に腰かけた。
男は皿のそばに拳銃を置き、食物を見ずに――ドアに、窓に、女に、少年に、いそがしく視線を移しながら――ガツガツむさぼり食った。左手からはまだ血がしたたって、テーブルと床にしみを作った。髪と顔から剥がれた土のかけらが皿の中にこぼれたが、男は気がつかなかった。
飢えがおさまると、彼はできるだけ左手をかばいながらタバコを巻いて火をつけた。
女ははじめて出血に気づいたらしく、彼のそばに寄ってきた。
「血が出ているわ。手当てしてあげましょう」
男は疲れと満たされた飢えで目蓋が重くなってきた目で、疑わしげに女の顔を観察した。それから彼は椅子の背によりかかり、服をくつろげて、一週間前にできた弾丸の傷をあらわにした。
女は水と布を持ってきて、傷口を洗い、包帯をしてやった。彼女が寝台に戻り、彼がシャツのボタンをかけてしまうまで、二人とも口をきかなかった。それから男が口をきった。
「最近に、だれか訪ねてきたかね?」
「六、七週間、だれにも会っていないわ」
「ここから一番近い電話は?」
「ノーベルの家よ――この谷の八マイル上手《かみ》の」
「あの小屋にいる一頭のほかに、馬は?」
「いないわ」
男は大儀そうに立上がって箪笥のところへ行き、つぎつぎに引出しをあけて中に手をつっこんだ。一番うえの引出しの中に拳銃を見つけ、それをポケットにしまった。トランクの中には、なにも見つからなかった。壁にかかった衣服のかげにライフル銃が一挺あった。寝台には、武器は隠してなかった。
彼は寝台のひとつから毛布を二枚と、ライフル銃と自分の雨合羽をとり上げた。戸口へ向かって行く途中、何度かよろめいた。
「おれはしばらく寝る」彼は重たげな口調でいった。「――馬がいる、外のあの小屋で。時どき見回りにくるが、二人とも逃げたりするなよ。わかったな?」
女はうなずき、自分のほうから提案をした。
「もしだれかがきたら、むこうがあなたを見つけないうちに起こして欲しいんでしょう?」
眠気《ねむけ》のためにどんよりしていた男の目が、またするどくなり、不確かな足どりで引き返してくると、女の顔に顔を近づけて、その無表情な目の奥にあるものを読みとろうとした。
「おれは先週、ジンゴで人を殺した」しばらく間をおいて彼はいった。ゆっくり、念を押すようなその単調なしゃべり方には、警告と威嚇の両方の効果があった。「正面からの射ち合いだったんだ。むこうは死んだが、おれだってその前に肩を射たれていた。だが、やつはジンゴの人間で、おれはそうじゃない。どのみち、おれのほうには勝ち目がない。グレート・フォールスに送られる前に、おれは機会を見つけ、それをつかんだ。今さら、あそこへ連れ戻されて縛り首になるのはごめんだ。ここに長居をするつもりはないが、いる間は――」
女はまたうなずいた。
男は目をこらすようにして女を見、なにか言いかけてやめ、小屋を出て行った。
彼はロープを短くして馬を小屋のすみにつなぎ、それと戸口との間に毛布を広げた。それから保安官の拳銃を手に、横になって眠りこんだ。
目がさめた時は、午後もかなり遅くなって、雨はまだ降り続けていた。男は何も植わっていない庭を注意ぶかく観察し、母屋《おもや》をまわりから偵察してから中にはいった。
女は部屋を掃除整頓し、洗いざらして薄いピンク色になった清潔な服に着かえ、髪はブラシでふんわりととかされていた。彼がはいって行くと、彼女はやりかけの裁縫の手をとめて顔を上げた。労働のせいできびしくなった彼女の顔はまだ若さをとどめ、さっきより血色がよく、目にもいくらか輝きがよみがえっていた。
「子供はどこだ?」と男はするどくきいた。
彼女は親指で肩ごしに戸外をさした。
「岡の上よ。谷を見張りにやったの」
彼は目を細め、外へ出て行った。雨を透かして岡を見やると、いじけたアメリカ杉の根方に腹ばいに寝て東のほうを見ている少年の輪郭が見えた。
男は屋内に戻った。
「肩の具合はどう?」と女はきいた。
彼はためすように肩を上げてみた。
「前よりはいい。食い物をすこし袋にでも入れてくれ。おれは出かける」
「ばかだわ」彼女は台所へ出て行きながら、気の乗らない調子でいった。「らくに旅ができるように肩の傷が治るまで、ここにいればいいのに」
「ジンゴの町に近すぎる」
「あの泥の中を、だれもここまで追ってきたりしやしないわ。自動車はもちろん、馬だってこれやしないわ。そしてかりにあんたがここにいることがわかっているとしても、徒歩で追ってくるとは、あんただって思わないでしょ? それに、この雨は肩の傷にもよくないわよ」
彼女は床から布袋を取ろうとしてかがんだ。ピンクの薄い服の下で、背中と腰と脚の線が板壁をバックにくっきりと浮きあがった。
背を伸ばしたはずみに、男の凝視と目が合うと、彼女は目を伏せ、顔をあからめ、唇がすこし開いた。
男はドアのわきによりかかり、太い親指で泥のこびりついた不精ひげをなでた。
「あんたのいう通りかもしれんな」と彼はいった。
彼女は荷作りしかけていた食物をわきに押しやり、台所のすみからバケツをとり上げて泉へ三度往復し、かまどにかけた鉄のたらいに水を入れた。
男は戸口に立ってそれを見ていた。
彼女は火をかきたてておいて居間にはいり、箪笥から下着を一揃えとブルーのシャツとソックスを、それから履物の山からスリッパを一足とり出した。そしてそれらの衣類を台所の椅子の上に置いた。
それから彼女は居間に戻り、台所との境のドアをしめた。
裸かになって湯浴《ゆあ》みを始めた男の耳に、女が低くハミングするのが聞こえた。二度、彼は忍び足で境のドアのところへ行き、ドアと側住《だき》の間の細いすき間に目をあてた。二度とも、女が寝台に腰かけて、まだ顔をぽっと紅潮させたまま、縫物に没頭しているのが見てとれた。
彼女が呉れたズボンに彼が片脚を通した時、ハミングがはたとやんだ。
彼は手近の椅子にのせてあった拳銃を右手でつかみ、片脚の足首でズボンを引きずりながら戸口に寄った。壁にぴったり身を寄せ、片目をすき間にあてた。
家のおもての戸口に、雨に濡れて光っている合羽を着た背の高い若者が立っていた。若者は両手に二連式の散弾銃を構え、その二つの銃口は愚鈍で敵意ある二つの目のように、台所との境のドアのまん中を睨みつけていた。
台所の男は拳銃をふり上げ、その式の拳銃の扱いに慣れた人間の機械的な正確さで、親指で撃鉄をおこした。
さしかけの台所の裏戸が、バタンと音をたててあいた。
「拳銃を捨てろ!」
脱獄囚はドアのあく音と同時にふり返り、その声を聞くより新しい敵のほうに向いていた。
二つの拳銃は同時に吠えた。
しかし、脱獄囚の脚は、ふり返る拍子にズボンにからまっていた。彼はズボンに足をとられた。二つの銃が鳴った瞬間に、彼は膝をついていた。
彼がはなった弾丸は戸口の男の肩の上の空間にそれた。相手の男の弾丸は、倒れかかった脱獄囚の頭のわずか一インチ上の壁を貫通した。
膝立ちの姿勢でよろめきながら、脱獄囚はもう一発射った。
裏口の男はぐらっと揺れて、弾丸のショックで半分うしろ向きにあおられた。
相手が体勢を立て直す間に、脱獄囚の人差指はふたたび引金を締めつけ――
居間との境の戸口から、散弾銃が轟然と鳴った。
脱獄囚は驚きで顔をいっぱいにして立ち上がり、一瞬棒立ちの姿勢でいてから床に崩れ落ちた。
散弾銃をかかえた若者は台所を通り抜けて、ドアによりかかって脇腹を手でおさえている男のところへ行った。
「やられたのか、ディック?」
「なんでもない――かすり傷さ。おまえ、やつを殺《や》っちまったのか、ボブ?」
「そうらしい。正当防衛さ!」
女が台所にはいってきた。
「バディはどこ?」
「大丈夫だよ、オダムスの奥さん」ボブがうけ合うようにいった。「だけど、泥んこの中をかけ続けてきて、へとへとになっていたんで、うちのおふくろが寝かしつけたよ」
その時、床に倒れていた男が音をたてたので、見ると彼は目をあけていた。
ミセス・オダムスとボブはそのそばに膝をつき、散弾銃が男の背中につくった傷をしらべようとしたが、男はそれを押しとどめた。
「むだだ」ものをいうたびに、口のすみから細いすじになった血をちょろちょろ伝わらせながら、男は拒絶した。「ほっといてくれ」
それから、血走った目をかすませながら、女の視線をとらえようとした。
「あんた――ダン――オダムスの――かみさんだったのか?」のどの奥のゴロゴロいう音に邪魔されながら、それでもどうやら男はそれだけの言葉を吐き出した。
「そうよ」彼女の返事は、自分のやったことを正当化する必要を感じているかのように、どこか挑戦的な響きを帯びていた。
泥を洗い落とした、目鼻だちの大ぶりな、深いしわの刻まれた男の顔からは、その心中に何が去来しているのか、まったく読みとることができなかった。
「人形だったのか……」しばらく間をおいて、彼は少年が伏せているのだとばかり思っていた岡のてっぺんに視線を投げながらつぶやいた。
女はうなずいた。
ダン・オダムスを殺した男は頭を横向けて、口の中にたまった血を吐き捨てた。それから視線を戻して女の目をじっと見た。
「よくやった」と彼ははっきりいい、息《いき》絶えた。
[#改ページ]
十番目の手がかり
「ミスター・レオポルト・ガントブールはお留守でございます」ドアをあけた召使はいった。「ご子息のミスター・チャールスでよろしければ、ご在宅でいらっしゃいますが」
「いや。わたしはミスター・レオポルド・ガントブールと、九時からそれよりすこしあとにお目にかかる約束をしたのでね。今ちょうど九時だから、間もなくお戻りだろう。待たせてもらうよ」
「およろしいように、どうぞ」
召使はわきへ寄って私を通すと、オーバーと帽子を受けとり、二階の一室――ガントブールの読書室――に案内すると、ひきさがって行った。私は卓上に積まれた雑誌の中から一冊をとり上げ、灰皿を引寄せてくつろいだ。
一時間が過ぎた。私は読むのをやめ、しびれをきらし始めた。さらにまた一時間がたち、私はもう我慢がしきれなくなりかけてた。
下のどこかで時計が十一時を打ち始めた時、年ごろは二十五、六の、抜けるように色白で真黒な目と髪をした、背の高いほっそりした青年が部屋にはいってきた。
「父はまだ帰って参りません」と彼はいった。「長いことお待ちいただいて申しわけありません。なにか私でお役に立つことはありませんか? 私はチャールズ・ガントブールです」
「いや、結構です」私は彼の礼儀正しい追い立てを素直《すなお》に受け入れて立上がった。「明日またご連絡しましょう」
「お気の毒でした」と彼は小声でいい、私たちは一緒にドアに向かって歩き出した。
二人がホールまできた時、その一隅にある電話が低く鳴り出し、チャールズ・ガントブールが受話器をとる間、私はホールの戸口に立って待った。
彼は私に背中を向けて、受話器にむかってしゃべった。
「はい、はい、そうです!」それからするどく、「何ですって? はい」そして弱々しく、「はい」
彼はのろのろとこちら向きになり、ショックに目を見開き、ぽかんと口をあけた蒼白な顔を私に向けた。
「父は――」彼はあえいだ。「死にました。殺されたのです!」
「どこで? どんなふうに?」
「知りません。今のは警察からの電話です。私に、すぐこいといっています」
彼はしいて気を静めようとするように胸を張って受話器を置き、顔のこわばりをいくらかゆるめた。
「そんなわけで、私は失礼して――」
「ミスター・ガントブール」私は彼の言いわけを途中でさえぎった。「わたしはコンチネンタル探偵社の者です。今日の午後、あなたのお父上から、相談したいことがあるから、今夜、探偵を一人よこしてくれとお電話があったのです。なにか生命の危険におびやかされているといったようなことをおっしゃっておいででした。しかし、正式のご契約をいただいてたわけではありませんので、あなたからあらためてご依頼がなければ――」
「もちろん! お願いします! 警察がすでに犯人を捕まえていないのだったら、犯人をつかまえるためにあらゆる手段をつくしてください」
「いいですとも! すぐ警察へ行きましょう」
捜査課では五、六人の刑事がわれわれを待ち受けていた。幅広い縁の黒い帽子やら何やら、映画に出てくる村の巡査のような服装をしているが、どうしてすみに置けない、ビリケン頭のオガー部長刑事が捜査の担任だった。彼と私は、前に二、三の事件で協力して、うまく解決にみちびいた経験があった。
彼は私たちを会議室の階下に位置した小さな部屋の一つに連れこんだ。机の上に、十いくつかの品物がごたごたと置きならべられていた。
「ここにある品物をよく見てください」と巡査部長はガントブールにいった。「そして、あなたのお父さんのご遺品をえらび出して欲しいのです」
チャールス・ガントブールが選りわけにかかっている間に、私はそれらの品物を観察した。からの宝石箱、手帳が一冊、故人に宛てられた三通の開封された手紙、その他若干の書きつけ、一束の鍵、万年筆、リンネルのハンカチが二枚、未使用の拳銃の弾丸が二個、金のナイフと金のシャープペンシルが金とプラチナの鎖でつないである金時計、ひとつは新品で、もうひとつは使い古された二つの革財布、紙幣と銀貨のまじったいくらかの金、それに髪の毛と血の付着した、まがり歪んだ小型のポータブル・タイプライターが一台。ほかのものの中にも、血でよごれたものと、よごれていないものがあった。
ガントブールは付属品のついた時計と、鍵束と、万年筆と、手帳と、ハンカチと、手紙と、その他の書きつけと、古いほうの財布をえらびとった。
「これだけが父の物です」彼はわれわれにむかっていった。「ほかのは見おぼえがありません。お金は今夜、父がどれだけ持って出たのか知りませんから、このうちどれだけが父の所持金に属するのか、私にはわかりません」
「他の品物がお父さんのものでなかったことに間違いはありませんね?」とオガーがきいた。
「そう思いますが、自信はありません。ホイップルならわかるでしょう」ガントブールは私を見返った。「今夜、あなたを家にお入れした男です。父の世話をしていたのは彼ですから、彼ならきっと、私がえらび出した以外に父のものがあるかどうか、はっきりいえるでしょう」
刑事の一人が電話のところへ行って、ホイップルにすぐくるようにと告げた。
こんどは私が質問者の役を引きついだ。
「お父さんがいつも携帯しておられたもので、ここにないものはありませんか? なにか高価なものなどで――?」
「私にわかる限りでは、ありません。持っているはずのものは、全部ここにあるようです」
「今夜、お父さんは何時ごろ家を出られましたか?」
「七時半より前でした。七時ごろだったかもしれません」
「どこへ行くおつもりだったか、ご存知ですか?」
「父はいいませんでしたが、ミス・デクスターのところへ行くのではないかと私は思いました」
刑事たちの顔が明るくなり、目がするどくなった。たぶん、わたしもそうなったと思う。もちろん、女がぜんぜん介在しない殺人も、世の中にはたくさんある。しかし、人目をひくような殺人の場合には、女が絡んでいないことはめったにないからだ。
「そのミス・デクスターというのはどういう人です?」オガーが質問の後をひきとった。
「そのう――」チャールス・ガントブールはためらった。「そのう、父は彼女と、それから彼女の兄と、たいへん親密にしていました。毎週、晩に何度か彼女を訪ねるのが習慣のようになっていました。じっさい、父は彼女と結婚するつもりでいたのではないかと思います」
「彼女の素性《すじょう》は?」
「父はその兄妹《きょうだい》と六、七ヵ月前に知合いました。私も何度か会いはしましたが、よくは知りません。ミス・デクスターは――クレダという名前ですが、――私の推察では二十三ぐらいで、兄のマドンはそれより四、五歳年長というところでしょうか。マドンは今、父にかわってなにかの取引をまとめにニューヨークに行っているか、あるいはニューヨークに向かっている途中のはずです」
「お父さんはあなたに、彼女と結婚するつもりだといわれましたか?」
「いいえ。しかし、父がたいへんに――その――夢中にならされていたのは、はた目にも歴然としていました。そのことで二、三日前に――先週でしたが――父と言葉を交わしたことがあります。口論ではなく、ただ言葉を交わしただけですがね。そのとき私は、父の言葉の調子から、結婚するつもりでいるのではないかと不安になりました」
「不安とはどういう意味です?」とオガーはその言葉を聞きとがめた。
チャールス・ガントブールの青白い顔にちょっと赤みがさし、当惑げに咳ばらいをした。
「あの兄妹について、あなたがたにわるい印象を植えつけるつもりはありません。あの二人が父のことに――こんどのことに――関係があるとは思いません。かといって、私はことさらあの二人を好いてもいません。――きらいです。私には彼等が――はっきりいうと――財産ねらいのように思えるのです。父は途方もない大富豪というわけではありませんが、相応の資産を持っています。そして父はまだ五十七で、もうろくするほどの年ではありませんが、年齢の差からいって、クレダ・デクスターは父そのものより父の財産に関心があるのではなかろうかと私には疑われるのです」
「お父さんの遺言状はどうなっています?」
「私の知る限りでは、二、三年前に作られたものが一番新しく、それには私の妻と私にすべてを譲ると書かれています。もっと最近に書き変えられたものがあるとすれば、父の弁護士のミスター・マレイ・アバナシーにおたずねになればわかると思いますが、そんなものがあるとは私には思えません」
「お父さんはもう事業から引退しておられたのでしたね?」
「ええ。貿易の仕事は一年ばかり前に私が引継ぎました。ほかにもいくつかの事業に投資をしていますが、どの事業の経営にも、積極的には介入していません」
オガーは私を見た。
「なにか、あんたからたずねたいことは?」
「ある。ミスター・ガンドブール、あなたはお父上かほかのだれかが、エミール・ボンフィスという名前を口にするのを聞いたおぼえがおありですか?」
「いいえ」
「お父上はだれかから脅迫状を受取っていたことを、あなたにお話になりましたか? それからまた、街頭でだれかから狙撃されたことを?」
「いいえ」
「お父上は一九○二年にパリにおいでになりましたか?」
「その可能性は大いにあります。事業から引退するまで、父は毎年外国に出かけていましたから」
それからオガーと私はガントブールを、父親と対面させに死体置場に連れて行った。生前の彼を見知っていたというだけのオガーや私にとっても、その死人は気持のいい見ものではなかった。私の記憶にある彼は、いつも仕立てのいい服を着て、年よりずっと若い、バネのような弾力性を感じさせる筋骨質の小男だった。
彼は今、脳天を赤いパルプのように打ち砕かれて横たわっていた。
われわれはガントブールを死体置場に残して、警察署のある司法ビルへ向かって歩き出した。
「エミール・ボンフィスだの一九○二年にパリにいただの、あの意味ありげな話は一体なんだ?」オガー部長刑事は街路に出るとすぐきいた。
「こういうわけさ――死んだガントブールは今日の午後、社に電話をよこして、一九○二年にパリで彼と悶着《もんちゃく》のあったエミール・ボンフィスという男から脅迫状を受取ったといってきた。それから前夜、町を歩いていてボンフィスに狙撃されたとも。そのことで相談したいから、今夜、だれかを邸によこしてくれというのだ。それからまた、いかなる場合でも警察には干渉されたくない――そのもめごとが世間に知れるよりはボンフィスにやられたほうがましだということだった。そしてそれ以上のことは電話では話せぬといい、そんなわけでチャールス・ガントブールのところへ父親が殺されたという知らせがあった時、ぼくはその場に居合わせたのさ」
オガーは低く口笛を吹いた。
「そうだったのか!」彼は叫んだ。「署に戻ったら、見てもらいたいものがある」
本署に戻ると、ホイップルが会議室で待っていた。ちらりと見ただけでは、その顔は、その夜もっと早くラッシャン・ヒルの邸に私を招じ入れた時と同じ仮面のような平静さを保っていたが、その完璧な召使としての態度のかげで、彼はびくつき、ふるえていた。
われわれは彼を、さいぜんチャールス・ガントブールを尋問した小部屋へ連れて行った。
ホイップルのいうことは、故人の息子が述べたこととそっくり一致していた。タイプライターと宝石箱と二個の弾丸と新しいほうの財布はガントブールのものではない、と彼は確信ある口ぶりでいった。
デクスター兄妹についての彼の意見を言葉にしていわせることはできなかったが、彼がその二人のことをよく思っていないことは容易に見てとれた。ミス・デクスターは今夜、八時ごろと九時ごろと九時半ごろと、三回も電話をかけてこられました、と彼はいった。三度とも彼女はミスター・レオポルド・ガントブールの在否《ざいひ》をたずねただけで、不在とわかるとなにも伝言は頼まなかった。たぶんガントブールは彼女を訪ねることになっていたのが、なかなか到着しなかったのだろう、というのがホイップの意見だった。
エミール・ボンフィスという人物も、脅迫状のこともぜんぜん知らない、とホイップは答えた。昨夜、ガントブールは八時ごろから夜ふけまで外出していた。帰宅した時、彼が興奮していたかどうかは、それほど気をつけて見なかったのでわからない。平生のガントブールの所持金は、百ドルぐらいが普通だった。
「ガントブールが今夜身につけていた品物で、この机の上にないものはありませんか?」とオガーがきいた。
「いいえ。みんなここにあるようです。――時計とくさり、お金、手帳、財布、鍵、ハンカチ、万年筆……私の存じておりますものは全部」
「チャールス・ガントブールは今夜、外出しましたか?」
「いいえ。ミスター・ガントブールも奥様も、ずっとご在宅でした」
「確かに?」
ホイップルはちょっと考えた。
「はい、かなり確信があります。奥様は間違いなくご在宅だったことを存じておりますが、実を申しますとミスター・チャールスには、八時ごろからこちらのかた――」と私を指さして、「こちらのかたとご一緒に下へおりてこられた時――十一時ごろまでお目にかかっておりません。しかし、間違いなくご在宅だったと存じます。たしか、奥様がそのようなことをおっしゃったようなおぼえがございます」
それからオガーは、その時の私にはわけのわからない質問をした。
「ミスター・ガントブールはどんなカラー・ボタンをお使いでしたか?」
「ミスター・レオポルドでございますか?」
「そうだ」
「金のシンプルなもので。ロンドンの宝石店のマークがはいっております」
「見ればわかりますか?」
「はい」
われわれはそこまででホイップルを引きとらせた。
「なあ、おい」私にとってはまだ何の意味もなさない机いっぱいの証拠品とともに、オガーと二人きりとり残されると、私は水を向けた。「一体なにがどうなっているのか、もうそろそろ種あかしをしてくれてもいいんじゃないか?」
「そうだな――よし! 食料品屋をやっているラガーキストという男が、今夜、車でゴールデン・ゲート公園を通り抜ける途中、暗い道にライトを消して停車している車のわきを通り過ぎた。ところが、その車の運転席にすわった男の様子がなにかおかしく思われたので、最初に行き合ったパトロール警官にそのことを知らせた。警官が行ってみると、ガントブールが運転席にすわったまま頭を砕かれてこときれ、こいつが――」オガーは片手を血塗られたタイプライターにかけて、「わきの座席にころがっていた。時間は十時十五分過ぎだった。検屍によると、ガントブールはこのタイプライターで――頭蓋骨を砕かれて――殺されたらしい。
われわれが行ってみると、死人のポケットは全部裏返しにされて、この新しい財布以外の、この机の上にある品々が車の中に――あるものは床に、あるものはシートの上に――散らばっていた。金も――百ドルばかりだったが――ばらまかれていた。それから、紙きれの中にこんなのがあった」
オガーは一枚の紙を私に手渡し、それにはつぎのような文句がタイプで打たれていた。
[#ここから1字下げ]
L・F・G――
わたしは自分のものを要求する。六○○○マイルの距離と二十一年の時間も、裏切りの犠牲者からおまえを隠しおおせることはできなかった。おまえがわたしから盗んだもののことは、忘れもすまい。――E・B
[#ここで字下げ終わり]
「L・F・Gはレオポルド・F・ガントブールのことかもしれないな」私はいった。「そしてE・Bというのはエミール・ボンフィスかも。二十一年といえば一九○二年から一九二三年までの間隔だし、六○○○マイルをいえばパリ――サンフランシスコ間のおおよその距離だ」
私はその手紙を置き、宝石箱をとり上げた。それは白い繻子《しゅす》で内張りされた黒いレザーの箱で、なんのマークもついていなかった。
それから私は薬きょうをしらべた。二個ともS・Wの四五口径拳銃用のもので、弾丸のやわらかい先端に深い十文字の切りこみがつけてあった。――弾丸があたった時、皿のようにはじけさせるための古い手だ。
「これも車の中にあったのかね?」
「そうだ。それから、これも――」
チョッキのポケットから、オガーは一ふさの短い金髪をとり出した。その髪の長さ二、三センチから五、六センチで、引き抜かれたのではなく刈りとられたものだった。
「ほかには?」
際限もなく、つぎつぎに何かがあらわれてくるようだった。
彼は机の上から新しいほうの財布――ホイップルもチャールス・ガントブールも、故人のものではないといった財布――をとり上げ、こちらにすべらしてよこした。
「それは車から三、四フィート離れた路上にあった」
それは安物で、メーカーのマークも、所持人の名前の頭文字もついていなかった。中には十ドル紙幣が二枚と、新聞からの小さな切り抜きが三枚と、ガントブールを筆頭にした六人の人名と住所をタイプしたリストがはいっていた。
三枚の切り抜きは明らかに三種類の違った新聞――活字の字体が違っていた――の三行広告欄から切りとられたもので、文言《もんごん》はつぎの通りだった。
ジョージー――
準備完了。あまり待ち過ぎるな。――D・D・D
R・H・T――
彼等は応答せず。――FLO
キャピー――
十二時きっかりに。油断するな。――ビンゴ
タイプされたリストのガントブールのあとにつづく名前と住所は――
[#ここから1字下げ]
デンバー、南ジェーソン街一二二三、クインシー・ヒースコート
ダラス、ヒューズ・サークル九六、B・D・ソーントン
ポーツマス、コロンビア街六一五、ルーサー・G・ランドール
ポストン、ハーバード街四五五四、J・H・ボイド・ウィリス
クリーブランド、東七十九番街二一八、ハンナ・ハインドマーシュ
[#ここで字下げ終わり]
「ほかには?」それだけのものを見終わってしまうと、私はきいた。
刑事部長の提供できる材料はまだ尽きていなかった。
「故人のカラー・ボタンが――前もうしろも――とりはずされていた。カラーもネクタイもそのままにしてあったが。それから左足の靴もなくなっていた。あたり一帯をくまなくさがしてみたが、靴もカラーボタンも見つからなかった」」
「それだけかね?」
私はもう何が出てきても驚かない心境だった。
「いったい何が欲しいんだ?」オガーはうなった。「これだけじゃ足りないのか?」
「指紋はどうだった?」
「これといってなにも。被害者のものばかりだった」
「死人の乗っていた車は?」
「ウォーレス・ジラーゴという医者の自家用のクーペだ。マック・アリスター街とポルク街の角の近くに駐めておいたのを盗まれたと今晩六時ごろ電話で届けてきた。この医者のことは今しらべているが、問題はないとおれは思う」
ホイップルとチャールス・ガントブールが故人の所有物だと証言した品物からは、なにも出てこなかった。われわれはそれらの品物を注意ぶかくしらべてみたが、なんのプラスにもならなかった。手帳にはいろいろな記入があったが、どれもみな殺人とはまったく無関係のようだった。手紙類も同様だった。
殺人の凶器となったタイプライターの製造番号はとり除かれていた。明らかにヤスリで削り落としてあった。
「さて、どう思う?」手がかりをつつき回すのに疲れたころ、オガーが私にきいた。
「エミール・ボンフィスという男をさがし出したいものだな」
「それも悪くはなかろうが」彼はうなるようにいった。「しかし、いちばん脈がありそうなのは、ガントブールと一緒にリストにあげられている五人にあたってみることじゃないか? これが殺人リストだとしたらどうだ? このボンフィスという男が、この連中を全部殺そうとしているのだとしたら?」
「そうだな。どっちみち、この連中のことは調べるさ。ことによると、中にはすでに殺されている者もいるかもしれない。しかし、彼等がすでに殺されているか、これから殺されることになっているのか、いないのかにかかわらず、この事件になにかの関係があるのは確実だ。ぼくは探偵社の各地の支局に電報を打って、リストにある名前を調べさせよう。それから三つの新聞広告の切り抜きのことも調べてもらう」
オガーは腕時計を見て、あくびをした。
「もう四時過ぎだ。帰ってすこし睡眠をとろうじゃないか。おれはE・Bという署名のある手紙と人名のリストが、あのタイプライターで打たれたものかどうか、鑑識の連中に調べさせる。たぶんそうだと思うが、確かめないとな。それから明るくなりしだい、公園のガントブールが発見されたあたりをくまなく捜索させる。ことによったら、行方不明の靴の片方やカラー・ボタンが見つかるかもしれない。そして二、三人の部下に、このタイプライターの出所がつかめないか、市内のタイプライター屋をあたらせるつもりだ」
わたしは最寄《もよ》りの電報局に寄って、一束ほどの電報を打った。それから犯罪や探偵の仕事とはかりそめにもかかわりのない夢を見るために、家に帰った。
同じ日の午前の十一時に、五時間の睡眠ですっかり元気をとり戻した私が警察の捜査課につくと、オガーが机に向かってげんなりした様子で、前にならべられた黒い靴の片方と、六個のカラー・ボタンと、錆びついた平べったい鍵と、くしゃくしゃの新聞紙を見つめていた。
「なんだい、そりゃ? 結婚式の引き出物かね?」
「だったら、まだましさ」彼の声は不機嫌な浮かぬ調子だった。「まあ聞いてくれ。シーメンズ・ナショナル銀行の雑役夫が、今朝、掃除を始めて間もなく、入口ホールに紙包みを見つけた。それがこの靴――ガントブールの紛失していた片方の靴で、このカラー・ボタンと鍵と一緒に、五日前の[フィラデルフィア・レコード]にくるんであった。見ての通り、靴のかかとはむしり取られていて、まだ見つかっていない。ホイップルに見せたところ、靴とカラー・ボタンのうちの二個はたしかにガントブールのものだが、鍵は見たこともないというんだ。残りの四個のカラー・ボタンはみんな平凡な金張りの新しいものだ。鍵は長いこと、ほとんど使われなかったもののように見える。これらのことから何か考えつくかね?」
私はなにも考えつくことができなかった。
「雑役夫はどうしてその包みを届け出たのかね?」
「朝刊に事件の記事が詳しくでているのさ――靴とカラー・ボタンが紛失していることとか、いっさいがっさい」
「タイプライターのほうはどうだった?」
「手紙とリストはやはりあのタイプライターで打ったものだったが、タイプライターの出所はまだわからない。クーペの持主の医者を調べてみたが、彼はシロだ。昨夜の彼の時間はすべて説明がついた。ガントブールを発見した食料品屋のラガーキストにも問題はないようだ。あんたのほうはどうだ?」
「昨夜打った電報にはまだぜんぜん返事がきていない。今朝、ここへくる途中で社に寄り、四人の探偵に、ホテルをまわってボンフィスという姓の宿泊者をすべて調べさせるように手配してきた。電話帳にも二、三、ボンフィスという姓が載っている。それからニューヨーク支社に、エミール・ボンフィスという人物が到着していないか船客名簿をしらべるように電報を打った。それにパリの駐在員にも、なにか掘り出せないかやってみるように打電しておいた」
「何をするよりさきに、ガントブールの弁護士、アバナシーに会わなきゃならんな。それからデクスターという女に」とオガー部長刑事はいった。
「そうだな」私はうなずいた。「まず弁護士からあたってみよう。目下の状況では彼がいちばん重要な人物らしいから」
弁護士のマレイ・アバナシーは今なお胸にかたく糊をきかせたワイシャツを着るような、背の高い、痩せた、たどたどしい喋《しゃべ》り方をする老紳士だった。彼はわれわれが期待して行った協力を提供しようとする職業的倫理に満ちあふれていたが、気ままに話させておくと、あっちへ行ったりこっちへ行ったりで、結局たいした情報は得られなかった。彼から得られたのは、だいたいつぎのようなことがらだった。
――故人とクレダ・デクスターはつぎの水曜日に結婚することになっていた。ガントブールの息子とクレダの兄はどちらもその結婚に反対のようなので、二人はオークランドでこっそり結婚し、その午後に東洋行きの船に乗る計画だった。そうすれば二人が長い新婚旅行から帰った時には、息子も兄も気が折れているだろうとあてにしたのだ。
ガントブールに万一のことがあった場合には、遺産の半分を新しい妻に、そしてあとの半分を息子夫婦に贈るという新しい遺言状が作成されていたが、その新しい遺言状にはまだ署名がしてなく、クレダ・デクスターはそのことを知っていた。したがって彼女は、まだ有効なもとの遺言状のもとでは、すべての財産はチャールス・ガントブール夫妻に行くことを承知しており、それはアバナシー弁護士が力を入れて強調した数少ない事項のひとつだった。
アバナシーのまわりくどい説明を総合すると、ガントブールの遺産は現金に換算して百五十万ドル見当と推定された。弁護士はエミール・ボンフィスという人物のことも、故人に対する脅迫や殺人未遂についても、なにも聞いたことがなかった。彼はまた、脅迫状にある、故人が何かを盗んだといった種類のことに光を投げかけるようなことは何も知らないか、かりに知っているとしても喋りそうになかった。
弁護士の事務所を出ると、われわれはガントブールの邸から歩いてわずか二、三分の、クレダ・デクスターの住む新しいエレガントなアパートへ行った。
クレダ・デクスターはまだ二十をいくつも過ぎていない、小柄な女だった。彼女に会って、まず目につくのは目だった。その目は大きく深く琥珀《こはく》色をして、瞳はすこしの間もじっとしていなかった。それは絶えず大きさを変え、あるときはゆっくり、あるときは急に、ピンの頭ほどの大きさから、琥珀色の虹彩《こうさい》を塗りつぶしてしまうかと危ぶまれるまでに、ひろがったり収縮したりした。
そう思って見ると、彼女のすべてがネコにそっくりだということがわかってきた。緩慢でなめらかな、あぶなげのない彼女の身ごなしは、まさしくネコのそれだった。どちらかといえば愛らしい顔の輪廓も、口のかたちも、小さな鼻も、目の位置も、額《ひたい》の高まりも、みんなネコのようだった。おまけに黄褐色の濃い髪のヘヤスタイルが、いっそうその感じを強めていた。
「ミスター・ガントブールと私は、あさって結婚するはずでした」前置きの説明が終ると彼女はいった。「ミスター・ガントブールの息子さんご夫婦はどちらも、そして私の兄のマドンも私たちの結婚に反対でした。みんな、私たちの年齢の差が大き過ぎると思っているようでした。そこで不愉快ないさかいを避けるために、私たちはこっそり結婚して一年かそれ以上外国へ行き、みんなの不満が静まったころに帰ってこようという計画をたてていました。
ミスター・ガントブールがマドンをニューヨークに行かせたのは、そのためです。ミスター・ガントブールはニューヨークでなにかの取引を――製鉄会社の株の処分かなにかを――する必要があり、私たちが新婚旅行に出かけてしまうまで、マドンを遠ざけておく手段にそれを使ったのです。マドンはこのアパートに私と同居しているので、彼に見つからずに旅行の準備をすることは、とうていできない相談でしたから」
「ミスター・ガントブールは、昨夜、ここへ見えられましたか?」と私は彼女にきいた。
「いいえ。私はお待ちしていました――ご一緒によそへ出かけることになっていたので。ほんの二、三ブロックの距離なので、歩いてこられるのが普通でした。八時になってもおいでにならないので、お邸に電話すると、もう一時間ちかく前にお出かけになったとホイップルがいいました。そのあとまた、二回、電話をしました。それから今朝また、新聞を見る前に電話してみると――」
そこで彼女は声をつまらせて言葉をとぎらせた。それがこの日の会見を通じて彼女が見せた唯一の悲しみのしるしだった。チャールス・ガントブールやホイップルの話から、われわれは彼女が多少とも手のこんだ悲しみの演技をして見せるだろうと予想していた。しかし、彼女はわれわれを失望させた。彼女の態度には、すこしも露骨なところはなかった。われわれの前では、涙さえ見せなかった。
「ミスター・ガントブールは、一昨夜は見えられましたか?」
「はい。八時すこし過ぎにいらして、十二時近くまでいらっしゃいました。外へは出ませんでした」
「なにか、生命をおびやかされているようなことを、いっておられませんでしたか?」
「いいえ」
「エミール・ボンフィスという人物をご存知ですか?」
「いいえ」
「ミスター・ガントブールが、そういう名前の人物のことを口にされるのを聞いたことはありませんか?」
「いいえ」
「あなたのお兄さんは、ニューヨークでは、何というホテルのお泊りですか?」
「存じません」
「いつサンフランシスコを立たれました?」
「木曜日に――四日前です」
クレダ・デクスターのアパートを出てから、オガーと私は口をきかずに考えにふけりながら五、六ブロック歩き、それからオガーが口をきった。
「あのネコかぶりめ! やさしく撫でていれば喉を鳴らすが、へたに逆《さか》撫ででもしてみろ、爪がとんでくるぜ。ところで、彼女の兄貴が本当にニューヨークに行っているかどうか、しらべてみても害はあるまい。やつが今日、本当にニューヨークにいるとすりゃ、昨夜ここにいなかったことは確実だからな」
「それは是非やってみよう」私は賛成した。「クレダ・デクスターは、兄が殺しに加担していないという確信は持っていない。またボンフィスに仲間がいないという証拠もない。しかし、クレダ自身が手をかしているとは思えないな。彼女は新しい遺言状にまだ署名がされていないことを知っていた。七十五万ドルをわざわざ棒に振るのはナンセンスだよ」
われわれはコンチネンタル探偵社のニューヨーク支社に長い電報を打ち、それから昨夜私が打った電報に返事がきていないか見に探偵社に寄った。
きていた。
ガントブールと一緒にタイプで打ったリストにのっていた人間は一人も見つからなかった。その中のどの一人にも、手がかりの片鱗すらも見つからないのだった。住所のうち二つは、完全に架空のものだった。それらの番地には家は一軒もないし、かつてあったこともなかった。
午後の残りの時間を、オガーと私は、ラッシャン・ヒルのガントブールの邸とデクスター兄妹の住むアパートの建物との間の通りをしらべることで過ごした。われわれは故人となったガントブールがとった可能性のある三通りの道筋に住み、働き、あるいはそこを遊び場としている人間に、手あたりしだい、男女老若を問わず質問をしかけてみた。
しかし、殺人のおこなわれた前夜に、ボンフィスが発射した銃声を聞いたという人間は一人も見つからなかった。殺人の前夜、なにか疑わしいものを見たという人間にもぶつからなかった。ガントブールがクーペに乗りこむところを見たおぼえのある人間もいなかった。
つぎにわれわれはガントブールの邸に行き、チャールス・ガントブール夫妻と召使の全員をもう一度尋問したが、なんの得るところもなかった。彼等にわかる範囲では、故人の持物はなにもなくなっていなかった。――靴のかかとの中に隠せるほど小さなものは何も。
ガントブールが殺された夜はいていた靴は、二ヵ月前にニューヨークであつられた三足のうちの一足だった。彼がその気になれば、その左足のほうのかかとをとりはずし、穴をあけて何か小さなものを隠すことができたかもしれない。しかし、ホイップルは、熟練した靴屋がやったのでなければ、自分がそれに気づかなかったはずはないとがんばった。
この方面でやれることはもうなくなってしまったので、われわれは探偵社に戻った。ニューヨークの支社からちょうど電報が届いていて、それによるとどの船会社の記録をしらべても、過去六ヵ月間、イギリス、フランス、ドイツのどこからも、エミール・ボンフィスという名の船客は到着していないということだった。
ボンフィスという名の人物を求めて市内を歩き回っていた探偵たちは、みんな空手で戻ってきた。彼らはサンフランシスコ、オークランド、バークレー、アラメダに居住する十一人のボンフィス姓の人物を見つけた。そしてその十一人の全部の素性を洗った。どのボンフィスにもエミールという名の身内はいなかった。ホテルのほうの調査は収穫なしで終わった。
オガーと私は一緒に夕食をたべに行った。食事のあいだ、二人ともむっつりしてほとんど口をきかず、それからまた社に戻るとニューヨークから別の電報がきていた。
[#ここから1字下げ]
マドン・デクスターハBFアンドFセイテツガイシャノガントブールノモチカブヲショブンスルケンゲンヲイタクサレテ/ケサマクアルピン・ホテルニトウチャクシタ」エミール・ボンフィストイウジンブツモ/サツジンジケンノコトモシラヌトノコト」シゴトヲスマセ/アスキトニツクヨテイ」
[#ここで字下げ終わり]
私はコードから平文に直した電文を書きつけた紙片を、指からすべり落ちるにまかせ、机をはさんでオガーと顔を見合わせながらぼんやりすわっていた。
「おかしな事件だ」ややあってオガーがひとりごとのようにつぶやいた。
私はうなずいた。まったくその通りだった。
「九つも手がかりがあるというのに、どれひとつとしてわれわれの役には立たない」彼はふたたび口をひらいた。
「その一――ずっと昔パリでいざこざのあったエミール・ボンフィスという男から脅迫され、狙撃されたといって、被害者があんたたちに電話をかけてきたこと。
その二――被害者を殺す凶器となり、脅迫状とリストを打つのに使われたタイプライター。われわれはその出所をたずねているが、まだなんの糸口もつかめていない。それにしても、なんて奇妙な兇器なんだ? ボンフィスという男は逆上して、いちばん手近にあった物でガントブールをなぐりつけたように見える。しかし、盗難車の中にどうしてタイプライターなんかがあったんだ? それになぜ製造番号をけずり取ってあったんだ?」
私は答を思いつかないというしるしに頭を振り、オガーは手がかりを列挙し続けた。
「その三――ガントブールが午後にかけてきた電話の内容と符合する脅迫状。
その四――先端に切込みをつけた二個の弾丸。
その五――宝石箱。
その六――金髪の束。
その七――被害者の靴の片方とカラー・ボタンが持ち去られた事実。
その八――路上で発見された、十ドル紙幣二枚と新聞の切り抜きと名前のリストのはいった財布。
その九――翌日、その靴がなくなったカラー・ボタンのほかにさらに四個のカラー・ボタンと錆びた鍵と一緒に、五日前のフィラデルフィアの新聞にくるまれて発見されたこと。
これがわれわれの握っている手がかりのリストだ。もしこれらになにかの意味があるとすれば、どういう人間か知らんがエミール・ボンフィスという男は一九○二年にパリで、なにかのことでガントブールにペテンにかけられ、とられたものを取り返しにやってきた。そして昨夜、盗んだ車の中にガントブールを誘いこんだ。そのとき彼は、どういうわけか、タイプライターを持ち歩いていた。それからガントブールと口論が起こり、ボンフィスはタイプライターで彼の頭をなぐりつけ、彼のポケットをさがしたが、何もとらなかった。ボンフィスは自分のさがしているものがガントブールの左の靴に隠されていると考え、それを持ち去った。それから――しかし、カラー・ボタンのいたずらやにせのリストは、まったくのナンセンスだ。それにまた――」
「そうだ!」私はすっかり眠気からさめ、すわり直しながら口をはさんだ。「それが、これからわれわれが追って行かなくちゃならない十番目の手がかりだ。ガントブールの名前と住所以外、リストはでたらめだった。もしあれがまともなものだったら、いくらなんでも、五人のうち一人やそこら、見つからないわけがない。それなのに、どの一人についても、こん跡すらつかめないのだ。おまけに、住所のうち二つは実在しないものだった。
あのリストはまやかしもので、それをいかにも意味ありげに見せかけるために切り抜きや紙幣と一緒に財布に入れ、われわれの捜査方針を狂わすために、車のそばの路上にわざと捨てたのだ。そしてぼくのこの考えが当たっているとしたら、残りの手がかりもまやかしであることは十中八、九、確実だ。
こんご、ぼくは九つの手がかりを、すべてまやかしだときめてかかることにする。そして、それらの逆を行くことにする。ぼくはエミール・ボンフィスという名前でない人間を、そして頭文字がE・Bでない人間をさがす。フランス人でもなく、一九○二年にパリにいなかった人間を。金髪でもなく、四五口径拳銃を持ち歩きもせず、新聞の三行広告にも関心をもたない人間を。靴のかかとやカラー・ボタンに隠されていたかもしれないものを取返すためにガントブールを殺したりしなかった人間を。これからぼくがさがすのはそういう人間だ」
オガー部長刑事は思案するように小さい緑色の目を細めて、頭をかいた。
「それも一法かもしれん」彼はいった。「あんたの考えは当っているかもしれん。かりに当っているとして、だったらどうだというんだ? あのネコみたいな女は犯人じゃない。七十五万ドルもの大金を、そうたやすく棒に振れるもんか。彼女の兄貴でもない。やつはニューヨークに行ってるんだから。それに、自分の妹と結婚するには年がいき過ぎているというだけの理由で人を殺せるものじゃない。チャールス・ガントブールはどうだ? 老人が新しい遺言状に署名する前に死ぬことで金銭的な利益を得るのは彼と彼の細君だけだ。当夜、チャールスが家にいたというのも、ただみんながそういうだけだ。召使たちは八時から十一時まで彼を見ていない。あんたもあの邸に行っていたが、本人には十一時まで会っていない。しかし、あんたもおれも、あの晩はずっと家にいたという彼の言葉を信じている。そしてあんたもおれも、彼が父親を殺したとは思っていない。もちろん、その可能性はあるがね。だとすると、犯人はだれだ?」
「あのクレダ・デクスターは金が目あてでガントブールと結婚しようとしていたんだろう?」私は助け船を出した。「彼女が本気で彼を愛していたとは思わないだろう?」
「ああ。おれのにらんだところじゃ、彼女が愛していたのは七十五万ドルだと思うね」
「よしきた」私は続けた。「つまり彼女はぜんぜん地道《じみち》な女じゃない。ところでだ、彼女に血道をあげた男はガントブールだけだったと思うかい?」
「そうか! わかった!」オガーは叫んだ。「あんたがいいたいのは、本人は百五十万ドルなんて大金には縁がなくて、それを持っている男に恋路《こいじ》の邪魔をされた若い男がいるかもしれないってことだな? あるいはね――あり得ることだ」
「われわれが今まで追っていた手がかりを全部捨てて、この線をたぐってみるというのはどうだ?」
「いいとも」彼は言った。「それじゃ明日の朝から、あの牝ネコにのぼせている、ガントブールのライバルさがしを始めるとしよう」
しかし、それは口でいうほど簡単にはいかなかった。
彼女の過去をいくらほじくっても、求婚者と認められる男は一人も出てこなかった。デクスター兄妹はサンフランシスコに三年住んでいた。われわれはその全期間にわたって、アパートからアパートへ、彼等の移り住んだあとをたどった。たんに彼女を見かけたことがあるといった程度の人間まで、かたっぱしから聞きこみをした。しかし、ガントブール以外に彼女に関心を示した男を知っている者は一人もいなかった。だれ一人として、ガントブールと彼女の兄以外の男と彼女が一緒にいるのを見かけたことはないかのようだった。
そうしたことのすべては、われわれを前進させはしなかったが、すくなくともわれわれが正しい方向に向かっていることを確信させてくれた。ここ三年間に、ガントブールのほか一人も男がいなかったということはあり得ない、とわれわれは言い合った。われわれの目がよほど狂っているのでなければ、彼女は自分に関心を向ける男をニベもなくはねつけるタイプの女ではなかったし、そうした関心をひきつける資質は生まれながらにそなわっていた。そしてもしほかに男がいるとすれば、それが完全に秘匿《ひとく》されているという事実そのものが、ガントブールの死にその男が関係している可能性を強くにおわせた。
デクスター兄妹がサンフランシスコにくる前はどこにいたのか、つきとめることはできなかったが、それ以前の彼らの生活にはたいして関心がなかった。もちろん、昔の恋人が最近再登場したということも可能だったが、それならそれで、昔の関係より最近の関係をつかむほうが容易であるに違いなかった。
調査の結果、デクスター兄妹は財産を目あてにしているのだというガントブールの息子の考えは疑いもなく的中していた。彼等の過去にはっきりした犯罪の経歴はないようだったが、彼らのやり方のすべてはその方向をさしていた。
私はかさねてクレダ・デクスターを訪ね、午後いっぱいを費して彼女の過去の男出入りについて彼女を質問攻めにした。ガントブールと百五十万ドルのために、乗りかえられた男はだれか? そしてそんな男はいない、というのが終始不変の答――とても信じる気にはなれない答――だった。
われわれはクレダ・デクスターを四六時中尾行させたが、捜査は一歩も進展しなかった。あるいは彼女は見張られていることに気づいていたのかもしれない。どっちにしろ、彼女はごくまれにしかアパートを出ず、出るのは怪しみようのない用事の時だけだった。われわれはアパートにも見張りをつけた。しかし、だれもアパートを訪ねる者はなかった。電話も盗聴した。しかし、なにも収穫はなかった。手紙も検閲しようとした。しかし彼女には一通の手紙もこなかった。
そうこうする間に、財布の中にあった切り抜きが、ひとつはニューヨークの、ひとつはシカゴの、もうひとつはポートランドの新聞の三行広告欄から切りとられたものであることがわかった。それらが切り抜かれたポートランドの新聞は事件の二日前、シカゴのは四日前、ニューヨークのは五日前の日付のものだった。その三種類の新聞はいずれも殺人の行われた日にサンフランシスコの売店にならんでいて、探偵たちを混乱させる材料にそれを使いたければ、だれでも買って切り抜くことができたはずだった。
探偵社のパリ駐在員はエミール・ボンフィスという人物を六人も見つけたが、われわれの仕事の見地からは、どれもみな見当はずれだった。
しかし、オガーにも私にも、エミール・ボンフィスのことはもはや苦にならなかった。それはもう死んで埋められてしまったようなものだった。われわれは新しい仕事――ガントブールのライバルの発見――に骨身を削っていた。
こうして日にちが経ち、事態は停頓したまま、マドン・デクスターがニューヨークから帰ってくる日がきた。
探偵社のニューヨーク支社では、彼が出立するまで見張りを続け、彼の出発を知らせてよこしたので、私は彼がどの列車に乗ってくるのか承知していた。私は彼が妹のクレダに会う前に、二、三質問をしたかった。
もし私が彼を見知っていれば、彼がオークランド駅で下車するのをつかまえられたのだが、私は彼の顔を知らなかったし、そうかといって彼を識別させるためにチャールス・ガントブールかほかのだれかを同行させるのはいやだった。
それで私はその朝サクラメントまで行って、彼が乗っているはずの列車に乗りこんだ。それから、自分の名刺を一枚、封筒に入れて、停車場のメッセンジャー・ボーイに渡した。それから彼が列車の廊下を、「ミスター・デクスター! ミスター・デクスター!」と叫んで歩くあとについて行った。
最後尾の展望車まで行った時、仕立てのいいツイードの服を着た、痩せぎすの黒い髪をした男が、窓のほうから振り返って手をあげた。
私はその男がいらいらしたそぶりで封筒の封を破り、私の名刺に目を通すのを観察した。彼のあごはわずかにふるえ、どんな時でもけっして強い印象を与えるとは思えない顔だちを、いっそう弱々しく見せた。年は二十五から三十までの間だろう。髪をまん中で分けて撫でつけ、茶色の大きな目は表情があらわれ過ぎるきらいがあり、鼻は形よく小さく、きれいに剃《そ》りこんだ口ひげをたくわえ、唇は赤くやわらかく……そういったタイプの男だった。
私がとなりの空席に腰を下ろすと、彼は名刺から顔を上げた。
「ミスター・デクスターですね?」
「そうです」彼は答えた。「ミスター・ガントブールが亡くなられた事件のことで会いにいらしたのですね?」
「ええ、まあ。わたしはあなたに二、三、おたずねしたいことがあり、たまたまサクラメントにきていたので、帰りにご一緒の列車に乗れば、時間のむだが省けると思ったものですから」
「お役に立てることがあれば――」彼はいった。「いくらでも喜んでお役に立ちますがね。しかし、私はニューヨークの探偵社の人たちに、知っていることはすっかりお話しましたが、あまりお役には立てなかったようですよ」
「いや、あなたがニューヨークを立たれたあと、状況がすこし変わったのです」私はしゃべりながら彼の顔をじっくり観察した。「はじめ無意味だと思ったことが、今は重要になったかもしれないのですよ」
彼が唇をなめ、私の視線を避ける間、私は言葉を切った。彼は本当になにも知らないのかもしれない、と私は思ったが、びくついていることはたしかだった。私は二、三分間、質問を切り出さずに、考えをこらしているふりをした。うまく扱いさえすれば、私は彼を裏返しにひっくりかえして、すべてをさらけ出させる自信があった。
「あなたの妹さんと交際していた男の中で――」と私はようやく切り出した。「ミスター・ガントブールを除いて、いちばん熱を上げていたのはだれです?」
彼はゴクリと音をたてて唾をのみ、窓の外に目をやり、ちらりと私を見て、また窓の外を見やった。
「正直いって、私は知りません」
「そうですか。では、こういうふうにしましょう。あなたの妹さんに興味を寄せた男、それから妹さんのほうから興味を寄せた男を、しらみつぶしに一人ずつ検討して行くのです」
彼は臆病そうな絶望の色を浮かべた目で、一瞬、ちらりと私の目を見た。
「ばかげたことのように聞こえるかもしれませんが、兄である私としたことが、クレダがミスター・ガントブールに会う前に関心を持った男の名を、ひとつもあげることができないのです。私の知る限り、ミスター・ガントブールに会うまで、あの子はどんな男にも、ほんのかすかにでも心を向けたことがありません。もちろん、私に知られずに、だれかとそういうことがあったということはあり得ないことではありませんが――」
まったく、それはばかげたことのように聞こえた。私が会って話をしたクレダ・デクスターの印象からは、彼女がそんなに長い間、たった一人の男にもつきまとわれずに過ぎたとは、とうてい信じられなかった。私の前にいる弱々しげな男は、ぬけぬけと嘘をついているのだ。それ以外には説明のつけようがなかった。
私はあらゆる手段を用いて彼を攻撃した。しかし、列車がその夜まだ早いうちにオークランド停車場についた時、彼は依然として最初にいったこと――彼の知る限り、ガントブールが彼の妹の唯一の求婚者だという主張――をくり返していた。私は自分がやり損なったこと、マドン・デクスターを甘く見過ぎて、一気に目的をとげようとして、あまりにも性急にこちらの手のうちを見せ過ぎたことに気づいてた。彼は私が判断したよりずっと強い人間なのか、それともガントブール殺害の犯人をかばおうとする彼の決意が、予想したよりずっと固いかのどちらかだった。
ただ、これだけはわかった。――デクスターが嘘をついているのはほとんど間違いのないことだったが、もしそうだとしたら、ガントブールにはライバルがあり、マドン・デクスターはそのライバルがガントブール殺害の犯人だと思っているか知っているかのどちらかだ。
オークランドで列車から下りた時、私は自分が敗れたことをさとっていた。――私が知りたがっていることを、彼はしゃべらないだろう。すくなくとも今夜は。しかし私は、彼が私から逃げたがっているのは明らかなのにもかかわらず、彼のそばにへばりついたまま、サンフランシスコへの渡船に乗りこんだ。なにがきっかけで、予期しなかったハプニングが起こらないとも限らない。だから桟橋を離れようとしている船上でも、私は彼を質問攻めにし続けていた。
そのうちに、一人の男が私たちのすわっているほうへやってきた。黒いカバンをさげ、薄地のオーバーを着た、大きなたくましい男だった。
「やあ、マドン!」彼は手をさしのべながら私の連れのところに歩み寄って挨拶した。「今ちょうどこの船に乗りこんで、きみの電話番号を思い出そうとしていたところなんだよ」彼はカバンを置き、握手しながらいった。
マドン・デクスターは私のほうに向いた。
「ご紹介しましょう。こちらはミスター・スミスです」と彼はいい、それから大きな男に私の名を告げ、そのあとに、「――コンチネンタル探偵社の人だ」とつけ加えた。
明らかにスミスに対して発せられた警告と受けとれるその|つけたし《ヽヽヽヽ》は、私の警戒心を目ざめさせた。しかし、渡船はこんでいて、われわれは周囲にいる百人もの人目にさらされていた。私は気をゆるめ、機嫌よさそうに微笑し、スミスと握手をかわした。スミスが何者であるにせよ、またこの殺人事件にどんなかかわりがあるにせよ――もしなんの関係もないとしたら、デクスターはどうしてあんなに急いで私の職業を彼に知らせる必要があろうか? ――ここでは何もできはしない。おおぜいの人の中にいることは、こっちのつけ目だ。
それは私がその日おかした二つ目の誤算だった。
スミスの左手はオーバーのポケットに――というより、あるタイプのオーバーについている、オーバーのボタンをはずさずに中のポケットをさぐれる縦の切れ目に――さしこまれていた。彼の手はその切れ目にさしこまれ、ほかのだれにも見えず、ただ私にだけ、その手に握った銃身のずんぐりした自動拳銃が私の腹のあたりを狙っているのが見えるように、コートの前がはだけられていた。
「甲板へ行きませんか?」スミスがきいた。それは命令だった。
私はためらった。何も気づかずに、われわれの周囲にたたずんだりすわったりしている人たちから離れるのがいやだった。しかし、スミスの顔は思慮深い男の顔ではなかった。百人の目撃者の前でも平気で発砲しかねない男の顔だった。
私は甲板への昇降口のほうに向いて、人ごみを縫って歩き出した。私のうしろについて歩きながら、彼の右手は親しげに私の肩にかけられ、左手はオーバーの下で握った拳銃を私の背骨につきつけていた。
甲板には人気がなかった。雨のように濡れた濃い霧、サンフランシスコ湾の冬の夜の霧が、船と水を蔽い、人びとを船内に追いやってしまっていた。それはわれわれの周囲に厚く垂れこめ、視界を遮断していた。船の端までも見通すことができなかった。
私はとまった。
スミスは私の背中をこづいた。
「もっとさきへ行け。それから話そう」と彼は私の耳もとでささやいた。
私はさきへ進み、欄干にぶつかった。
私の後頭部全体が突然火花を発して焼け、無数の小さな光の点が目の前の闇の中で明滅し、しだいに大きくなり、私のほうに突進してきた……。
なかば意識を失いながら、私はどうにか水に浮かんで、必死にオーバーを脱ぎ捨てようとしていた。頭のうしろが猛烈にうずき、目が焼けつくように痛んだ。何ガロンもの水を飲んだように、体が重く感じられた。
水上には霧が低く厚く垂れこめ、ほかにはなにも見えなかった。からみつくオーバーをようやく脱ぎ捨てたころには、頭がすこしはっきりしてきたが、意識の回復とともに苦痛がはげしさを増した。
左手のほうにうすぼんやりした光が見え、そして消えた。霧のとばりの奥から、あらゆる方角から、さまざまの音調で、遠く近く、霧笛の音が聞こえた。私は泳ぐのをやめ、あおむけに浮かんで、自分の現在位置を推測しようとした。
私がいるのはサンフランシスコ湾のどこかで、私にわかるのはそれだけだったが、ただ、海流は私を金門橋のほうへ押し流しているように思われた。
しばらく時間が過ぎ、私は自分がオークランド・フェリーの航路から外れたことをさとった。もうここしばらく、一隻の船も私のそばを通らなかった。その航路から外れたのは喜ばしいことだった。こんな霧の中では、船は私を拾ってくれるより、下敷きにして溺れさせる公算のほうが大きかった。
水の冷たさが身にしみてきたので、私は寝がえりを打って、血のめぐりをよくするのにちょうどよく、同時にはっきり目標が定まった時のために力をセーブできるペースで泳ぎ始めた。
ひとつの霧笛が何度も吠えながら近づき、やがて船の前照灯が目にはいった。ソーサリト・フェリーの一隻だろうと私は見当をつけた。
それは私にかなり近づき、私は息が切れ、のどが痛くなるまで叫び続けた。しかし、私の叫びは船の警笛にかき消されてしまった。
船は行ってしまい、そのうしろに霧がとざした。
潮の流れが強さを増していて、ソーサリト・フェリーの注意をひこうとして奮闘したために私は疲れてしまった。私はただ浮かんで、水が私を運んで行くのにまかせて体を休めた。
またひとつ、灯が突然前方に現われ、ちょっと見えていて、すぐに消えた。
ものうさと無力感が私を包んだ。水はもう冷たくなかった。心地よい、なぐさめるような無感覚で私は温たかかった。頭のうずきもとまり、もうなんの感覚もなかった。灯も見えず、ただ前から後ろから左右から、霧笛……霧笛……霧笛の音だけが私を苦しめ、私をいらだたせた。
もしその霧笛の音がなかったら、私はすべての努力を放棄していただろう。水は心地よく、疲労も心地よく、現状にあって不快なものは霧笛の音だけだった。霧笛は私をさいなんだ。私はいらだたしいのろいの声をあげ、霧笛の聞こえないところまで泳いで行こうと決心した。それからやさしい静かな霧の中で、心ゆくまで眠ってやろう……。
時おり私はうとうとして、そのたびに、霧笛の音につつき起こされた。
「畜生! いまいましい霧笛め!」私は何度となく声に出してののしった。
霧笛のひとつがうしろから私に迫り、その音がますます大きく、強くなるのに私は気づいた。私はふり向いて待った。ぼんやりと、霧にかすんだ灯が見えてきた。
私はしぶきを立てないように、大げさな見得《みえ》をつくりながら、一方に避けた。このうるさいしろものをやりすごしたら、ゆっくり眠るんだ……。船の灯が私とならんだ時、私はそれをやりすごそうとしている自分の賢こさに愚かしい勝利感を味わいながら、ひとり忍び笑いをした。まったく、くそいまいましい霧笛め……。
生命が――生命への渇望が――突然私の中によみがえった。
過ぎて行こうとする船にむかって、私は声を限りにわめきたて、全力をふりしぼってそのほうへと泳いだ。水を掻く合間に頭をそちらへ向けて、私は叫び続けた。
その晩、二度目に意識をとり戻した時、私は手荷物用の手押車に寝かされて、押されていた。男も女も、まわりに群らがってきて、好奇の目でこちらをのぞきこんでいた。
私は起き上がった。
「ここはどこです?」と私はきいた。
制服を着たあから顔の小男が私の質問に答えた。
「ソーサリトに上陸したところだ。静かに寝ていなさい。すぐに病院へ連れて行ってあげる」
私はまわりを見まわした。
「この船はいつサンフランシスコへ戻るんですか?」
「すぐ、とんぼ返りだよ」
私は手押車からすべり下りて、船のほうに歩き出した。
「ぼくもこれに乗って行く」と私はいった。
三十分後、濡れた服にくるまってふるえながら、歯がダイスのように鳴るのを止めようとしてあごをかたく噛み合わせながら、私はフェリー・ビルからタクシーを拾って自分のアパートに帰った。
半パイントのウイスキーをあおり、かたいタオルで皮膚が痛くなるまで体を摩擦すると、ひどい疲労と頭痛がするほかは、ほとんどいつもの自分に戻った。
私はオガーに電話をかけて、すぐ私のアパートへ来てくれるようにいい、それからチャールス・ガントブールを電話口に呼び出した。
「マドン・デクスターに会いましたか?」と私はきいた。
「まだです。しかし、電話で話はしました。帰ってくるとすぐ電話をくれたのです。私は彼に、父のかわりに処理してきた仕事のことを話し合うために、明日、アバナシー弁護士の事務所にきてくれるように頼みました」
「今から彼に電話をかけて、あなたは用事でよそへ――朝早く――出かけなければならなくなったから、今夜のうちに彼のアパートへ行って話を済ませてしまいたい、といってやることができますか?」
「ええ、それはもう、そうしろとおっしゃるなら」
「ありがたい! そうしてください。わたしはもうしばらくしたらあなたのところへ行き、それから一緒に彼のところへ行きましょう」
「それはどういう――?」
「わけはお目にかかってから話します」といって私は電話を切った。
私が着替えを済ませかけたところへ、オガーがやってきた。
「それで、何か聞き出せたのか?」デクスターを途中で待ち受けて、さぐりを入れようという私の計画を知っていた彼はたずねた。
「ああ」私はすっぱい顔で答えた。「しかし、もうすこしで、何もかもおジャンになるところだったよ。ぼくはやつをサクラメントからオークランドまで、ずっと質問攻めにしてやったが、なにひとつ聞き出すことができなかった。それから渡船の中でやつはミスター・スミスという男をぼくに紹介し、ぼくが私立探偵だということをミスター・スミスに教えた。それからだが――いいかい、これは人のいっぱい乗った渡船の上で起こったことなんだよ! ミスター・スミスはぼくの腹に拳銃をつきつけ、甲板へ上がらせ、ぼくの後頭部をなぐりつけ、湾にほうりこんだんだ」
「そいつはまた、楽しい目を見させてもらったものだな」オガーは歯をむきだして笑い、それからひたいに皺を寄せた。「してみると、どうやらそのスミスというのが、われわれの求めている男――ガントブールを殺して、いろんな小細工をした男らしいな。しかしまた、どうして自分からそれと暴露するような真似をしたんだろう?」
「デクスターはぼくが妹の昔の恋人の一人を追いかけていることを、もちろん知っていた。そしてきっと彼はぼくがもっとずっとたくさんのことを知っていると思ったのに違いない。さもなきゃ、あんなきわどい芸当――ぼくの面前でぼくの身分をスミスに知らせるなんてことはしなかったろう。
デクスターが思慮をなくして、そういうヘマをやったあと、スミスは、たとえ今すぐでなくとも、いずれは自分に手が回ると計算したのだろう。それでやつはぼくを片づけるやけくその機会をつかんだのさ。しかし、間もなく、何もかもはっきりするよ」待たせてあったタクシーに乗ってガントブールの邸に向かいながら、私はいった。
「スミスが簡単に見つかるとは思っていまいな?」オガー部長刑事はきいた。
「ああ。やつはどこかに身をひそめて、成行きをうかがうだろう。しかし、マドン・デクスターは自分を守る必要上、へたに逃げ隠れするわけにはいかない。やつにはアリバイがあり、したがって殺人そのものに関する限りはシロだ。それにぼくが死んだものと思っている現在では、堂々としていればいるほど安全なわけだ。しかし、やつは直接にこの事件に加担はしていないにしても、詳しい事情を知っていることは確実だ。ぼくの見とどけた限りでは、今夜、スミスとぼくが甲板へ行った時、ついてはこなかった。いずれにせよ、やつは家にいるはずだ。そして、こんどは口を割らないわけにはいくまい」
チャールス・ガントブールは、玄関さきの階段でわれわれを待っていた。われわれは彼をタクシーに同乗させて、デクスターのアパートへ向かった。
アパートにつくと、私はガントブールを追いこして、先頭に立ってベルを鳴らした。
クレダ・デクスターがドアをあけた。私が彼女のわきをすり抜けて勝手に中にはいると、彼女は琥珀色の目をみはり、微笑を消した。
私は躊躇なく細い廊下を突進して、開いたドアから明かりがさしている最初の部屋に踏みこんだ。
すると、スミスが目の前に立っていた!
これにはどちらも驚いたが、彼の驚きのほうが私よりひどかった。というのは、どちらもそこで顔を合わせるとは予想していなかったが、私のほうは彼が生きていることを知っていたのにひきかえ、彼のほうは私が湾の底に沈んでいるものときめこんでいたためだ。
そのハンデにつけこんで、私は彼が動きを起こす前に、相手に対して二歩の距離を詰めた。
彼の片手が下へ伸びた。
私は八十キロの全体重と、水の中で過ごした時間の記憶と、たたき潰された頭への怒りを右のこぶしにこめて、彼の顔に叩きこんだ。
拳銃に向かって伸びかけていた彼の手は、私のこぶしを払いのける暇がなかった。
こぶしが彼の顔に命中した時、ポキンという音がして、その手の感覚がなくなった。
しかし、それで相手は倒れ、そのまま動かなくなった。
私は彼の体をとびこして部屋の向こう側の戸口に行き、左手で拳銃をつかみ出した。
「デクスターがどこかにいるはずだ!」私がはいった戸口からガントブールとクレダと一緒に部屋にはいってこようとしているオガーにむかって、肩ごしに私はどなった。「気をつけろ!」
私はほかの四つの部屋をつぎつぎに、押入れのドアまであけ放して、くまなく探したが、だれも見つからなかった。
それから私は、クレダ・デクスターがオガーとガントブールに手伝ってもらってスミスを介抱しているところへ戻った。
オガー部長刑事が肩ごしに私を見上げた。
「この男をだれだと思う?」
「わが親愛なるミスター・スミスさ」
「ガントブールは、こいつがマドン・デクスターだといっているぜ」
チャールス・ガントブールは頭をうなずかせた。
「ええ、これはマドン・デクスターですよ」
十分ちかく介抱したあげく、ようやくデクスターは目をあけた。
彼が起き上がるやいなや、まだ動揺がおさまらないうちに告白を引き出そうとして、われわれは質問と非難を矢つぎ早に浴びせかけた。しかし、彼はその手に乗るほど動揺していなかった。
われわれが引き出せたのは、「逮捕したけりゃするがいい。しかし、弁護士以外のだれにも口は割らんぜ」というせりふだけだった。
兄が意識をとり戻してから、うしろにひきさがってわれわれを見守っていたクレダ・デクスターが、急に前に出てきた。
「このひとが何をしたっていうの?」と彼女は威丈高《いたけだか》に詰問した。
「それはいえない」私はいった。「しかし、これだけはいってもいい。――われわれは彼に、ちゃんとした法廷で、レオポルド・ガントブールを殺さなかったことを証明する機会を与えてやるよ」
「このひとはニューヨークにいたのよ!」
「いるもんか! 彼は友人をマドン・デクスターとしてニューヨークに行かせ、彼になりすましてガントブールに頼まれた用事を代行させたのさ。もしこの男が本物のマドン・デクスターだとしたら、彼がニューヨークに一番近づいたのは、B・FアンドF製鉄会社の株の取引に関係した書類を受取るために、その友人と渡船の上で落合い、わたしが彼のアリバイのからくりに行きあった時さ。もっとも、その時にはわたし自身はそのことに気づいていなかったがね」
彼女は兄のほうに向き直った。
「それ、ほんと?」と彼女は彼にきいた。
「話すべきことはすべて弁護士に話す」と彼はくり返した。
「あんたはね!」彼女はいい返した。「でも、わたしは今、みんなここで話すわ!」
彼女はふたたび私のほうを向いた。
「マドンはわたしの兄なんかじゃないわ! わたしの本当の姓はアイブスというの。マドンと私は四年ばかり前にセントルイスで知り合い、一年かそこら一緒に渡り歩いて、それからサンフランシスコに来たのよ。このひとは詐欺師よ――そのころも今も。このひとは六、七ヵ月前にミスター・ガントブールと知り合いになり、あのひとにインチキの発明品を売りつけようとしていたの。彼はあのひとを二度ばかりここへ連れてきて、妹だといってわたしを紹介したの。わたしたちはいつも、人前では兄妹をよそおっていたのよ。
ところが、ミスター・ガントブールが二度ばかりここへ来たあとで、マドンは方針を変えました。彼はミスター・ガントブールがわたしに関心を持ったのを見てとり、色仕掛けにしたほうがたくさんお金を絞りとれると計算したのよ。わたしはあのひとをとりこにし、あのひとと関係をもち、のっぴきならないところまで引きこんでおいて、それからごっそりお金をゆすりとる算段だったの。
しばらくの間は、何もかもうまく行ったわ。あのひとは計算通り、わたしに首ったけになったわ。そして、とうとう、結婚してくれといい出したのよ。これは目算《もくさん》違いだったわ。わたしたちはゆすりが目的だったんだもの。だけど、結婚してくれといわれて、わたしはマドンと切れる気になったの。あのひとの財産のことも、考えになかったとはいわないわ。たしかにそれも魅力だったわ。だけど、わたしはすこしあのひとそのものが好きになったの。
それでわたしはマドンにそのことを打明け、ゆすりの計画を中止して、わたしはあのひとと結婚しようと思うけどどうだろうかって相談をもちかけたの。そしてマドンには、結婚したあとずっとお金を都合してあげるって約束したのよ。わたしはミスター・ガントブールから、欲しいものはなんでも引き出せる自信があったわ。
だけど、マドンはききいれないのよ。わたしのいうようにすれば、長い間にはゆすりをするよりたくさんお金をもらえるのに、今すぐ、予定したものを手に入れたいというのよ。おまけにやきもちを焼き始めて、いっそうわけがわからなくなったの。そしてある夜、わたしをなぐったの。
それでわたしの心はきまったわ。わたしは彼を捨てる決心をしたの。わたしはミスター・ガントブールに、兄が結婚に猛烈に反対していると話し、あのひとはマドンのそぶりから、わたしのいうことが本当だと見てとりました。それであのひとは、わたしたちが新婚旅行に出るまでマドンを遠ざけておくために、鉄の会社の株のことで彼を東部に行かせる段どりをつけたの。わたしたちはマドンを完全にだましたと思いこんでいたけど、本当はわたしたちの計画を見抜かれてたことに気づくべきだったわ。わたしたちは一年ぐらい戻らない予定で、その間にはマドンがわたしを忘れてくれるか、それとも彼が面倒を起こそうとしても適当にあしらえるほど、わたしたちの間がらが安定したものになっているだろうとあてにしたのよ。
ミスター・ガントブールが殺されたと聞いた時、わたしはまずマドンを疑ったわ。だけど、翌日、彼がニューヨークにいることが確実らしくなってからは、わたしは彼に悪いことをしたような気がしていました。だけど、今は――」
彼女はかつての共犯者のほうに、くるりと向き直った。
「今はあんたが死刑になればいいと思ってるわ!」
彼女はまた私のほうに向いた。もはや彼女はネコをかぶったネコではなく、爪と歯をむき、たけりたったネコだった。
「マドンのかわりにニューヨークへ行ったのはどんな男?」
私は列車の中で話をした男の特徴を説明した。
「エバン・フェルターだわ」彼女はちょっと考えてからいった。「よくマドンの相棒をつとめていた男よ。たぶんロサンジェルスに隠れているわ。ちょっとおどかしてやれば、すっかり白状するわ。いくじなしだから!」
「さあ、これでどんな気分?」彼女はマドン・デクスターにむかって浴びせかけた。「まず手はじめとして、これぐらいでどんな気分? あんたはわたしの小さな計画をぶちこわしにしてしまったのよ。だからわたしは、これからさき、あんたが死刑になるまで一刻もむだにしないで、あんたを死刑にしようとする人たちのお手伝いをするわ!」
そして事実、彼女はその言葉通りにした。彼女の協力のおかげで、あまりにも多くの手がかりを残した男を死刑にするのに必要な証拠を集めるのには、なんの苦労もいらなかった。
[#改ページ]
一時間
「こちらはミスター・クロストウエイトとおっしゃる」とバンス・リッチモンドがいった。
弁護士のオフィスの大きな椅子の一つに、その肘の間に窮屈に挟まったクロストウエイトは、たぶんその紹介の口上にうなずくつもりだろう、何やらぶつぶついった。わたしもぶつぶつ呟きかえして、自分が腰かける椅子を物色した。
そのクロストウエイトという男は大きな気球のような男で図体《ずうたい》を小さくみせるのには役立たない緑色の格子縞の背広を着ていた。ネクタイは総体に黄色いけばけばしいやつで、真中に一つ大きなダイヤモンドがくっついていた。ずんぐりした両手にも、別に幾つか宝石が光っていた。スポンジのようにふわふわの、ふとってむっくりした目鼻だちで、そのため、その丸まっちい赤い顔は、それにつきものの仏頂づらの豚みたいなの以外の表情をつくることができないようになっていた。そしてジン臭かった。
「ミスター・クロストウエイトは、[ミューチュアル消火器会社]の太平洋岸地方代理人で――」私がすわるやいなやバンス・リッチモンドははじめた。「カーニイ街にオフィスをおもちだ――カリフォルニア街寄りのところに。昨日、午後二時五十五分頃、車を――ハドソンのツーリング・カーを――エンジンをかけたまま表《おもて》にとめておいてオフィスに行かれた。十分して出てきた。車はなくなっていた」
私はクロストウエイトを見た。彼は弁護士がいっていることにはこれっぽっちも関心をあらわさずに、自分の膝を見つめていた。わたしはす早くバンス・リッチモンドを見かえった。そのすっきりした白い顔と痩せぎすの姿勢は、ふくれあがった事件依頼人の傍では際だって見栄えがした。
「ニューハウスという男が――」と弁護士はつづけていった。「カリフォルニア街の、ミスター・クロストウエイトのオフィスのつい先の角を回ったところにある印刷屋の経営者だったが、ミスター・クロストウエイトが車を置きっぱなしにしてオフィスにはいって行ってから五分後に、クレイ街とカーニイ街が鉢合わせする角で、ミスター・クロストウエイトの車にはねられて死んだ。その後間もなく警察はその車を、事故現場からたった一ブロック離れたところ――モンゴメリー街のクレイ街寄りの地点で見つけた。
事情はいたって明白だ。ミスター・クロストウエイトが車を乗り捨てたあとすぐ、だれかがそいつを盗んだ。そして大急ぎで乗り逃げしようとして、はずみにニューハウスを轢き殺した。それから肝をつぶして車を捨てて逃げた。要するにそれだけのことだが、ミスター・クロストウエイトの立場にちとまずいところがあってな。というのは、三日前の夜、何というか少々無鉄砲な運転をして――」
「酔うとりましたんや」とクロストウエイトは格子縞のズボンの膝から目を上げずにいい、その声は嗄れていたが、それはウイスキーに灼けた喉のせいに過ぎず、そこに何の感情もこもっていたわけではなかった。
「何というか少々無鉄砲な運転をして、バン・ネス通りで――」バンス・リッチモンドは途中の邪魔を無視して話のさきをつづけた。「ミスター・クロストウエイトは通行人を轢いてしまった。それほどひどい怪我をさせたわけでもなく、療治《りょうじ》の費用には糸目をつけずに気前よく手あてしてやっておいでだ。が、こんどの月曜日に、われわれは運転規則違反のかどで裁判所に顔を出さねばならないことになっていて、昨日のその印刷屋の轢き逃げ事件が、われわれの立場を悪くするのではないかと心配なのだ。
印刷屋が轢き殺された時、その車にミスター・クロストウエイトが乗っていたとは誰も思わない。乗っていなかったって証拠は山ほどあるんだから。だが、バン・ネス通りの事故の件で法廷に出た場合、その印刷屋轢き逃げの事件がわれわれにとって不利な材料に使われるんじゃないかと心配なのだよ。バン・ネス通りで誰かを怪我させた車が、昨日また別の男を今度は轢き殺したという、本当は全然つながりのない事実を、検事が――そのつもりになれば、だが――どれくらい辛辣《しんらつ》に利用できるものか、弁護士という職業がらわたしも心得ているつもりだ。と同時に、同じく弁護士という職業がら、検事がそういうつもりになる公算がどれくらい大きいかも、わたしは心得ているつもりだ。そして検事は、こっちには弁解の機会を全然与えないか、ほんのぽっちりしかよこさないように事件をさばくことができる。
最悪の場合には、もちろん、こういう事件には通り相場の罰金刑のかわりに、ミスター・クロストウエイトが市の刑務所にほうりこまれるってことも起こりかねない。しかし、それじゃこちらはたまらないので、それこそわれわれとして望む――」
クロストウエイトは、やはり膝を見つめたまま再び口を開いた。
「ほんまに殺生《せっしょう》な!」と彼はいった。
「それこそ、われわれとして望むべくんば、どうにかして御免こうむりたいことなのだ」と弁護士はつづけた。「それ相当の罰金は払う意思があるし、その覚悟もしている、というのはバン・ネス通りの事故は明らかにミスター・クロストウエイトの過失だからだ。しかし、われわれは――」
「|へべれけ《ヽヽヽヽ》でしたんやがな!」とクロストウエイトがいった。
「しかし、われわれは、今言ったもう一つの事故には何の関係もないので、それより軽い別の事故に、それを関連させて重みをかけられてはかなわん。そこで、われわれの望みは、その車を盗んでニューハウスを轢き殺した犯人を、一人かもっと多勢かは知らんが、とにかくみつけることだ。もしわれわれが裁判所に出頭する前にそいつらが捕まれば、その連中がやったことのためにこちらが迷惑をこうむることはなくなる。月曜までに犯人を見つけられると思うかね?」
「やってみましょう」とわたしは約束した。「あんまり見込みは――」
宝石をちりばめた、むくむくした指で時計をいじくりながら、人間気球がゆらりと浮きあがったので、わたしはあとの句が継げなかった。
「三時や」と彼はいった。「三時半からゴルフをする約束がおますさかい」彼は机から帽子と手袋をとり上げた。「あんじょう頼んまっせ、な? 監獄行きやなんて、ほんまに殺生やがな!」
そして彼はよたよた出て行ってしまった。
弁護士のオフィスを出た足でわたしは司法・警察合同庁舎へ行き、二、三分嗅ぎまわっただけでうまくニューハウスが轢かれた直後にクレイ街とカーニイ街のぶつかる角の現場に立会った警官をさがしあてた。
「ちょうど署を出ようとしていたところでしたが、クレイ街の角のところでバスがすうっと逃げるように迂回するのが見えました」と、コーヒーという名で砂色の髪をした大男の巡査はいった。「それから人だかりがするのが見えたんで、行って見るとそのジョン・ニューハウスって男が大の字なりに倒れてたってわけで。もう息がありませんでした。五、六人、轢かれるところを見た者があって、中の一人は轢いた車の番号を書きとめていました。自分らはその車がモンゴメリー街の角を回ってすぐのところに、鼻先を北に向けて空っぽになって乗り捨ててあるのを見つけました。ニューハウスを轢いた時には二人乗ってたそうですが、どんな野郎どもだったか、誰も見とどけていないんですよ。自分らが見つけた時には、誰も乗っていませんでした」
「ニューハウスは、どっちの方角に向かって歩いてたんです?」
「カーニイ街を北に向かって、轢かれた時にはクレイ街にかかって三ブロック行ったところでした。車もカーニイ街を北に向かって来たんです。ひょっとすると、乗ってたほうばかりの罪じゃないかも知れないんですよ――その場を現に見た連中の話じゃ。ニューハウスは手に持った紙きれを見ながら道を横断しようとしたんで。奴さんの手の中に私は外国の金を一枚――つまり紙幣を――見つけましたが、察するところあの男はそいつを見ていたんですな。オランダの金だって部長が教えてくれましたよ――百フロリン札《さつ》だって、部長は言いましたっけ」
「車に乗ってた連中のことで、何かわかりましたか?
「いや、まるっきり! 自分らはカリフォルニア街とカーニイ街――つまり車の盗難の現場と、クレイ街とモンゴメリー街――というのは車が置去りにされていた界隈に見あたる限り、誰と言わず片っぱしから訊問してみました。しかし野郎どもが車にのりこむところにしろ、とび出してくるところにしろ、見た覚えのある者は一人もいないんでさ。運転していたのは持主じゃない――たしかに盗まれたんだろうと自分は思いますね。最初は何かあの事故には暗いかげがつきまとってるかも知れないって気がしたんですが。というのは、あのニューハウスって男の片目のまわりに、二、三日たったらしい|あざ《ヽヽ》がついてたもんですから。ところが出かけて調べてみると、あの男は二、三日前に心臓か何かの発作を起こして、倒れる拍子に目を椅子にぶつけたんだってことがわかりました。それから三日間、家で寝こんでいて――事故にあう三十分かそこら前に起きて家を出たばかりだったんですよ」
「住居はどこです?」
「サクラメント街の――はずれのほうです。どこかに控えたものを今ここに持ってるはずです」
彼は汚れた手帳のページを操り、わたしは故人の家の番地と、コーヒー巡査が訊問した目撃証人たちの名前と住所を知った。
それでその警官が教えてくれることは|たね《ヽヽ》ぎれになったので、わたしは彼においとまを告げた。
つぎにわたしが打つべき手は、車が盗まれた場所と乗り捨てられた場所の近くを実地に点検し、それから目撃者たちに会ってみることだった。さきに警察が同じことをして何の収穫もなかった事実からして、わたしが何か値うちのあることをみつけることはありそうになかった。けれども、それだからといってそういう順序をはぶくわけにはいかない。私立探偵の仕事の九十九パーセントまでは、辛抱づよくこまかい事実を集めることなので――その事実についての情報は、自分より前にだれが同じことをしていようと、できるだけ本人からの直接の聞きこみに近いものでなければならないのだ。
けれども、そういう方針ではじめる前に、わたしは死んだ男のものだった印刷所へまわって――警察署からたった三ブロックのところだったが――彼が使っていた傭い人たちが何か役に立つことでも小耳にはさんでいなかったか、当ってみることにした。
印刷所はカーニイ街とモンゴメリー街の中間のカルフォルニア街にある小さなビルの一階を占領していた。はいって|とっつき《ヽヽヽヽ》に小さく仕切った事務所があって、そこからドアで奥の印刷工場につながっていた。
わたしがはいって行った時、その小さな事務室にいたのはただ一人、背の低い、ずんぐりした、心配そうな顔をした四十年配の金髪の男だけで、シャツの袖をまくり上げ、机に向かって一冊の帳簿にある数字を、別に前にある一束の伝票にある数字とつき合わしていた。
自分はニューハウスの死亡事件に関心をもっているコンチネンタル私立探偵社の探偵だ、とわたしは自己紹介した。相手は名前をベン・ソウルスといって、ニューハウスの下で職長をつとめていた、と教えてくれた。わたしたちは握手し、それから彼は机を隔てた椅子に腰かけるようにわたしに手真似ですすめ、それまで取組んでいた伝票と帳簿を押しのけ、手にした鉛筆でくさくさしたように頭を掻いた。
「お話になりませんや!」と彼はいった。「まったく|てんやわんや《ヽヽヽヽヽヽ》で、みんな頭から逆さに仕事の中に埋まっているところで、ことにわたしゃさっぱりわけのわからない帳簿なんぞをかかえこまされて――」
彼は言葉をとぎらせ、ちょうど鳴り出した電話器をとり上げた。
「はいはい。……ソウルスです。……今かかってるところで……遅くとも月曜日の昼までに仕上げてお届けしますがね。……昨日までにって約束したって――そりゃわかってますが、しかし……。ええ! ええ! でも、親方が亡くなったんで仕事がつかえちまったんです。ミスター・クロストウエイトに、ひとつ、そうお伝えいただきたいもんで。それで……それで、月曜日の午前中にきっとお届けするように約束しますよ、間違いなく!」
ソウルスはいらいらした手つきで乱暴に受話器をかけ、私を見た。
「手前《てめえ》の車が|うち《ヽヽ》の親方を轢き殺したってのに、せめて、仕事が遅れたからってがみがみ言わないだけの思いやりくらいあってもよさそうなもんじゃありませんかい!」
「クロストウエイトですか?」
「ええ――なに、今の相手は事務員ですがね。あの男の註文でちょっとしたビラを刷ってるんで――昨日までに仕上げるって約束でしたが――親方が死んじまったのと、二、三人新米をいれたばかりなのとで、何もかも遅れ遅れになっちまって。わたしゃここに傭われて八年になるけど、仕事が註文に追いつけないなんてこれが初めてのこって――どの客もみんなやいやいわめき立ててやがるんでさ。相手が普通の印刷屋だったら遅れには慣れっこになっちまってるはずなんですが、これまでうちはあんまり客によくし過ぎたんですよ。それにしても、あのクロストウエイトまで! 自分の車が親方を轢き殺したんだから、何とか思いやりがあってもよさそうなもんでしょうが!」
わたしは同情するようにうなずき、葉巻を一本机の上にころがしてやり、それがソウルスの口にくわえられて燃えはじめるまで待ってから、つぎの質問をしかけた。
「今、新米を傭ったとか何とか言われましたね。そりゃどういう事情からです?」
「ああ、それね。ミスター・ニューハウスは先週、印刷工を二人|馘《くび》にしたんで――フィンチャーとキーって。二人が赤の組合にはいってるってことがわかったんで、それででさ」
「何かいざこざが、それともその二人が赤の組合員だったってことのほかに何かあったんですか?」
「いや――二人とも、いい働き者でしたよ」
「馘にしたあとで何か面倒なことは?」とわたしはたずねた。
「面倒ってほどのことは何も。かなり|かっ《ヽヽ》となっちゃいましたがね。あっちこっち、そこらじゅうで演説をぶってから出て行きましたよ」
「いつの日だったか覚えていますか?」
「先週の水曜日――だったと思いますがね。そうだ、水曜日だ。というのは、わたしが二人の新顔を傭い入れたのが木曜でしたからな」
「みんなで幾人働いているんです?」
「三人――わたしのほかに」
「ミスター・ニューハウスは、ちょいちょい病気におかかりでしたか?」
「寝込むほどのことは、そうちょいちょいってほどありませんでしたがね、心臓の具合いが、今度こそもうよくなったかと思うとまた悪くなるって調子で、そうなると一週間か十日寝こむってことになって。いつも、本当に健康って時はありませんでしたね。あの人は事務っきりやらなかったんで――工場はわたしがとりしきってたんですよ」
「最後に病気がはじまったのは?」
「ミセス・ニューハウスが火曜日に電話をかけてきて、親方はまた発作がおこって、二、三日こっちへ出てこれないって話でした。それが、昨日の木曜日の昼過ぎてから十分間ほど顔を見せて、今朝からまた出てきて仕事するつもりだっていいましたっけ。それから出て行ったところを轢き殺されちまったんです」
「どんな様子でした――ひどく加減が悪そうでしたか?」
「それほどじゃなさそうでしたよ。むろん、健康そのものってな様子をしていることは決してないんで、それでも昨日いつもとひどく違ってる様子ってのは見えませんでしたね。最後の発作は、いつものほどひどくなかったんでしょうよ、きっと。――一週間かそれ以上長いこと寝込むのが、いつものきまりなんですから」
「出て行く時、どこへ行くつもりかいいませんでしたか? こうおたずねするわけは、住居が町はずれのサクラメント街だからには、もし家に帰るつもりだったら、当然車に乗っただろうに、実際にはクレイ街を歩いているところをお轢かれになったからですが」
「ポーツマス広場に行って、三十分かそこら日なたぼっこをしてくるって言いましたっけ。――二、三日、家の中にとじこもりっきりだったので、家に帰る前にすこし日にあたりたいって」
「轢かれたとき、あの人は手に外国の紙幣を一枚握っていました。何か、心当りがありませんか?」
「ああ、そういえば、あれはここで手に入れたんですよ。客の一人が――ファン・ペルトって男ですが――昨日の午後に仕上げた仕事の代金を払いに、親方がここにいる間にやって来ましてね。ファン・ペルトが請求された代金を払おうとして財布を開けると、あのオランダの札《さつ》が――何て札《さつ》かわたしゃ知りませんが――ほかの紙幣にまじってあったんでさ。何でも三十八ドル相当の値うちがあるんだって、奴さんが言ったような気がしますがね。とにかく、親方はそれを受取って、ファン・ペルトに釣銭を出しました。そのオランダの紙幣を子供に見せてやって――それからあとでアメリカの金にとりかえてもらう、と親方はいいましたよ」
「そのファン・ペルトというのは、どういう人物です?」
「オランダ人で――このさき一月か二月のうちに、この町で煙草の輸入の商売をはじめるんだとか。そのことのほか、わたしゃあんまりよく知りません」
「住居か、それともオフィスはどこに?」
「オフィスはブッシュ街のサンソム街に寄ったほうでさ」
「その人は、ニューハウスがそれまで病気だったことを知っていましたか?」
「そうは思いませんね。親方は、ふだんとあまり違って見えませんでしたから」
「ファン・ペルトってのは苗字でしょうが、姓名は――?」
「ヘンドリック・ファン・ペルトってんで」
「人相は?」
ソウルスが返事をするより早く、工場の裏手で、印刷機のがたがた鳴る音、まわる音にも紛れず、等分に間をおいたブザーの音が三つつづいて聞こえた。
わたしはわたしの拳銃の鼻面を――そいつをわたしはもう五分間も膝の上で構えていたのだが――ベン・ソウルスの目にはいるように、机の縁までずっと滑らせた。
「両手を机の上に置け」とわたしはいった。
相手はそうした。
印刷工場のドアは彼の真後ろにあったから、机を間にはさんで彼と向かい合っていれば、その肩ごしにわたしはそのドアを見すかすことができた。彼のずんぐりした体は、誰にしろソウルスの合図に応じてそのドアを通って出てくる相手に対して、わたしの拳銃が見えないようにする衝立《ついたて》の役目をしてくれる。
長くは待たされずに済んだ。
印刷インキで黒くなった三人の男が戸口へ、それを抜けて小さな事務室に出てきた。三人は互いに笑い合い、冗談を言い合いながら、不用意に|のんき《ヽヽヽ》に事務室にはいってきた。
けれども、その中の一人はドアから一歩はいったとたんに唇を噛んだ。もう一人は、目玉のまわり全体に白目をむき出した。三人目のは一番の役者だった――が、それでも肩を、さもなくば全然何気ないそぶりに見せかけ通せるところだったが、ほんの少々いかつく硬わばらせた。
「そこで止まれ!」最後の一人が室内に踏みこんだとたん、わたしは吠えて――みんなに見えるところまで拳銃をもち上げた。
三人とも、まるで足だけは共通のもので間に合わせているように、ぴたりと同時に止まった。
わたしは自分が座っていた椅子を蹴りのけて起ちあがった。
わたしは自分の立場が全然気にいらなかった。その部屋は、わたしにとっては、まるきり狭すぎた。たしかにわたしは拳銃を手にしていたし、相手の連中がめいめいどんな武器を持っているにせよ、それはわたしの目にはいっていなかった。けれども、相手の四人とわたしの距離はあまりに近すぎた。そして拳銃は奇蹟をおこなう道具ではない。それはただ、できるだけのことをするだけで、それ以上のことはしてくれない一個の器械に過ぎない。
もし相手の男たちがわたしにとびつこうと心をきめたら、その中の一人を、他の三人がわたしを押さえつける前に、片づけることができるだけだ、そのことをわたしは知っていたし、相手も知っていた。
「手をあげろ」とわたしは命令した。「そして回れ右しろ!」
相手はだれも言うことをきかなかった。インキのついた男の一人は、にやりと気味わるい笑いをもらした。ソウルスは、ゆっくり|いやいや《ヽヽヽヽ》をした。あとの二人は立ったまま、じっとわたしを見た。
わたしは多少処置に窮した。ただ、命令に服従しないからというだけで人を射つわけにはいかない――たとえ相手が犯罪人でも。もし相手がわたしのいうことを素直にきいて回れ右してくれれば、わたしはみんなを壁に向かって並らばせ、そうすれば相手は背中に目があるわけではないのだから、電話をかける間どうにか安全に牽制《けんせい》しておくことができるのだが。
ところが、相手はそうしてくれないのだ。
わたしがつぎに考えたのは、拳銃で相手をおさえておいて、道路へ出るドアのところまで後ずさりして、戸口に立って助けを呼ぶか、それとも連中を街路に連れ出すかすることだった。外ならば、四人だってさばくことができる。けれどもわたしはその考えを、思いつくと同時に急いで追いはらった。
四人の男はわたしにとびかかろうとしている。それだけは、疑いの余地もなかった。必要なのは、どんな種類のものであれ、彼等を爆発的行動にみちびく導火線の口火をきることだけだった。彼等は足をかたくし、緊張して、わたしのほうから動く時を狙っていた。もしわたしが一歩後退したら――戦闘開始にきまっていた。
わたしたちは互いに、相手の四人のうち誰でも手を伸ばせばわたしに触れることができるほど、接近していた。息の根をとめられる前に、その中の一人だけは射ち倒すことができるだろう。四人の中の一人だ。ということは、四人の相手のめいめいは、自分が犠牲になる確率四分の一ということだ。とびぬけて臆病な男ででもない限り、誰でも賭けてみようかって気にさせるに十分なほど低い確率だ。
わたしは自信あるものの微笑のようにみせかけるつもりで、にやりと笑って――というのは、もうぎりぎりの瀬戸際まで追いつめられていたからだが――電話器に手を伸ばした。とにかく、何かしなくちゃ! それからわたしは自分を罵った。敵の襲撃のきっかけをつくる行為の、ただかたちを変えただけのことではないか。今にも、わたしが電話器をとり上げたとたんに、相手は襲いかかってくるだろう。
けれども今さらやめるわけにはいかない。そうすることも、やはりきっかけをつくるだろうから――やってのけるより仕方なかった。
左手で電話器を引き寄せながら、帽子の下から汗が額をたらたらと流れた。
おもてのドアが開いた! 驚きの叫びがわたしの背後でした。
わたしは前にいる四人から目を離さずに、早口で言った。
「早く! 電話を! 警察だ!」
だれだか知れぬその人物――たぶんニューハウスの店の客の一人――がやって来たことで、わたしはまた体勢をとり直したと計算した。もしその男がただ警察を呼ぶだけのほか、全然戦闘には加わってくれないとしても、敵はその男をとり押さえるために分散するだろう――そのことは、わたしが倒される前にすくなくとも二人はやっつける機会を与えてくれる。四人のうち二人――相手は各自、自分がやられる確率をそれだけずつ均等に持合わせているわけで――という確率は、たとえ興奮しやすい男にでも、とびつく前にちょっと考えさせる原因となるにたりる。
「早く!」とわたしは新米の客をせきたてた。
「はい! はい!」とその男はいった――その語尾の妙な発音は、外国生まれであることを物語っていた。
あがってはいたけれども、それ以上の警告はわたしには無用だった。
わたしは横ざまに身を投げた――それまで立っていた位置から自分を消して、相手を混乱させようとして。けれどもわたしの動きには早さが不十分だった。
後ろから襲った一撃はみごとに命中したとはいえなかったけれども、わたしに、まるで紙でつながっているだけのように膝をがっくり折らせるだけの効き目はあって――わたしは重たい塊になってどさりと床に叩きつけられ……。
何か暗い影のようなものがわたしに向かって衝突してきた。それをわたしは両手でつかまえた。それはわたしの顔を蹴りつけてきた足だったかも知れない。わたしはそれを洗濯女がタオルを絞るようにねじった。
わたしの背筋を、つづけざまに衝撃が走った。たぶんだれかがわたしの頭を撲っていたのだろう。わたしにはわからない。頭ははたらかなかった。わたしを打ち倒した一撃で、体じゅうどこもかしこも感覚がなくなっていた。目もよくきかなかった。目の前で、影がふらふら揺れる――だけだった。その影めがけてわたしは撲り、えぐり、つかみかかった。まるきり何もつかめないこともあった。何か、人体の部分らしいものに行きあたることもあった。するとわたしはそいつを撲りつけ、掻きむしった。拳銃はなくなってしまっていた。
耳のほうも、目よりもいい状態に――いや、目ほどいい状態に、あるとも言えなかった。世界中から音というものがなくなってしまったようだった。わたしは、それまでにわたしが知っていたどんな静けさよりも静かな静けさの中でたちまわった。わたしは多勢の幽霊を敵にまわして格闘している一匹の幽霊みたいだった。
やがてわたしは再び自分の体の下に足が二本あることを自覚し、ただし何かのたくるようなものがわたしの背中に貼りついていて、わたしが真直ぐ立つことを邪魔していることに気がついた。手らしい、熱い湿ったものがわたしの頭を押さえていた。
そいつにわたしは歯を立てた。同時に頭をできるかぎり勢いをつけてのけぞらせた。たぶん、それがどうやらだれかの顔らしいものに激突したのだろう。とにかく、のたくるような何かはもうわたしの背中に貼りついていなかった。
わたしはさんざんに打ちのめされていることをぼんやり自覚したが、痺《しび》れてしまって感じはなかった。性こりもなく、頭と肩と肘と拳と膝と足で、わたしはまわりにたかった影にむかって打ちかかった……。
不意にものが見えた――はっきりとではない――が、影に色がついた。そして耳も聞こえてきて、ぶうぶう鼻を鳴らす声、唸り声、罵り声、それにものを打つ音がそれらにまじって耳にはいった。無理やり凝らしたわたしの視線が、目の前六インチかそこらのところにある真鍮の灰皿にとまった。その時わたしはふたたび自分が床にくずれおちるのを意識した。
わたしが上にのしかかった柔らかい体を蹴りつけようと足をねじった時、|やけど《ヽヽヽ》のような、けれども|やけど《ヽヽヽ》ではない何かがわたしの片足を走った――のはナイフだ。その激痛が、疾風のようにわたしの中に意識を吹きこんだ。
わたしは真鍮の灰皿をつかんで、それを棍棒がわりに振りまわして足を自由に、前面に空間をきり開いた。相手の男たちは体ごと襲いかかってきた。わたしは灰皿を高くかざして、相手の頭の上を越し、ガラスのドアを破ってカリフォルニア街の街路にほうった。
それからわたしたちはまたしばらく戦った。
けれどもモンゴメリー街とカーニイ街の間のカリフォルニア街で、ガラスのドアを破ってとび出した真鍮の灰皿が、人目につかずに済むわけはない。なにしろ昼日中のサンフランシスコの中心部近くでのことだ。そこで、やがて――目方にして六百ないし八百ポンドの肉塊の重みで、顔を床板にめりこまされながら、ふたたびわたしが床に倒れていた時――わたしたちは引き分けられ、わたしは堆積の底から警官隊の手で発掘された。
砂色の髪をした大男のコーヒーもその中にいたが、わたしがほんのしばらく前に彼と話をしたコンチネンタル探偵社員であることを納得させるには、かなり口数を煩わさなければならなかった。
「やれやれ!」と、ようやく納得すると彼はいった。「いやはや、あいつらは――ううん! 相当なことをしてくれましたね! あんた、まるで、びしょ濡れのゼラニウムみたいな顔をしてますぜ!」
わたしは笑わなかった。笑いごとではなかったからだ。
わたしはちょうど今しがた機能をとりもどしはじめたほうの一つ目をこじあけて、オフィスの向こうに列をつくらされた五人の男を見た。――ソウルスと、三人のインキまみれの印刷工と、妙な発音をした上に後ろからわたしの頭を撲りつけて襲撃の口火を切った男を。
三十かそこらの年頃で、丸い血色のいい顔のところどころに今の格闘で傷がついた、どちらかといえば背の高い男だった。明らかに金のかかったかなり上等な黒い服を着こんでいたらしかったが、今では破れてぼろぼろになってしまっていた。何者であるか、たずねるまでもなくわたしにはわかった。――ヘンドリック・ファン・ペルトだ。
「さあ、あんた、一体どうしたってんです?」とコーヒーがわたしにきいた。顎の片側を手でしっかり支えていれば、我慢できないほどの苦痛なしに口がきけることをわたしは知った。
「こいつらは、ニューハウスを轢き殺した一味だ」とわたしは言った。「あれは事故じゃない。もうすこし細まかい点を二、三つきとめてからでも、わたしのほうの都合は構わなかったんだが、全部わかる前に先方からとびかかってきやがった。轢き殺された時、ニューハウスは百フロリン紙幣を手にして警察のほうに向かって――警察署からたった半ブロックしか離れていないところを歩いていた。
ソウルスはわたしに、ニューハウスは自分にポーツマス広場に日なたぼっこをしに行くと言った、と言った。けれどもソウルスは、ニューハウスが目の縁に|あざ《ヽヽ》をこしらえていたことを知っていないようだった。あんたが調べてみたという、あの|あざ《ヽヽ》のことだよ。もしソウルスがその黒あざの目を見ていないとしたら、その日ソウルスがニューハウスの顔を見なかったことは、賭けてもいいほど確かなことだ。ニューハウスは一枚の外国紙幣を手にして、自分の印刷工場から警察署に向かって歩いていた――そのことを忘れなさんな!
ニューハウスはしばしば病気の発作に見舞われ、ソウルス先生《ヽヽ》の話によれば、その度にこれまではいつも一週間か十日、仕事に出て来られなかったそうだ。ところがこの度はたった二日半しか寝こまなかった。ソウルスはわたしに、工場の仕事が註文より三日も遅れていて、そんなことはこの八年間に初めてだと言った。あの男はニューハウスが死んだせいにかこつけようとしたが――事故が起こったのはつい昨日のことだ。明らかに、以前のニューハウスの病気の発作は、仕事を遅らせはしなかった。それが何故こんどの場合に限ってそういうことになったのか?
先週二人の印刷工が馘になって、すぐ翌日に二人新規補充された。間髪を入れずってところだ。ニューハウスを轢いた車は、ほんの角をまわったところで盗まれ、印刷工場から急いで歩けばすぐの距離のところに乗り捨てられた。それの鼻先が北に向けてあったことは、乗り手が降りて南に行ったことのかなり確実な証拠とみていい。自動車泥棒たちは、普通、自分たちがやって来たほうにわざわざ旋回して向きを変えたりしないものだ。わたしの推理はこうだ。――そのファン・ペルトって男はオランダ人で、百フロリンの贋紙幣《にせさつ》の原版を持っていたのではないか、と。彼はさんざんそこらじゅうをさがし廻って、ようやく自分に加担しようという印刷工をみつけた。というのはソウルスで、心臓の加減が悪くて、時々一度に一週間かそれ以上も家で養生しなければならない経営者がやっている印刷工場の職長だった。ソウルスの下ではたらく印刷工のうち一人は、一味に加担することを承知した。あとの二人は、たぶんその誘いをしりぞけたのだろう。あるいは、その二人には全然誘いかけなかったのかも知れない。とにかくその二人は馘になり、ソウルス先生《ヽヽ》の仲間二人がその地位にとってかわった。
そこで一味の用意はととのい、ニューハウスの心臓が発作を起こすのを待った。それは起こった――月曜日の夜に。翌朝奥さんから電話があってそのことを知らされると、連中はその贋紙幣を刷りはじめた。それが、正規の仕事が遅れた原因だ。けれどもニューハウスの今度の発作は、いつものより軽かった。たった二日で床から起きて動き出し、昨日の午後、ほんの少時ここにやってきた。
きっとニューハウスは、この一味の仲間たちがどこかの隅で忙がしくて手が離せずにいるところへはいって来たに違いない。きっと彼はその贋金の一部を目にとめ、ただちに事情を察し、警察に見せるためにその一枚をつかみとり、警察に向かって行きかけたのだろう。――疑いもなく、ここにいるこの一味の連中に見とがめられずに済んだものと思って。けれども、彼が出て行くところを、彼等はちらりと見てとったのだろう。二人があとを追って出た。警察からわずか一、二ブロックの範囲内では、歩いて行って危険なしに彼を襲うことはできない。けれども角をまわったところに、クロストウエイトの車がエンジンをかけたまま置きっぱなしにしてあるのを見つけた。どうして逃げるかの問題はそれで片づいた。彼等はそれに乗りこみ、ニューハウスのあとをつけた。最初の計画では射殺するつもりでいたのだろうとわたしは思う――が、ニューハウスは手にした偽紙幣に目を釘づけにしたままクレイ街を横切りにかかった。それこそ天の与え。彼等は車を彼にぶつけた。絶体絶命だと彼等には自信があった。衝突の衝撃そのもののせいでは死なないとしても、弱った心臓が仕上げをしてくれるだろう、と。それから二人は車を乗り捨ててここへ舞い戻ったのだ。
はしばしの説明は、まだうんと補足しなくちゃなるまい――が、今わたしが話して聞かせた夢物語は、すでにわかっているあらゆる事実に符合するし――当らずといえども遠からずだってことについては、一月分の給料を賭けてもいいよ。
三日間の仕事に相当するだけのオランダの贋紙幣が、きっとどこかに隠してあるはずだ! あんたがたは――」
わたしはいつまでも喋りつづけていたに違いない――わたしを満たした完全な消耗からくる、目がくらみ頭がぐらぐらする恍惚状態にあって――砂色の髪をした、あの大男の警官が大きな手をあててわたしの口をふさいでくれなかったら。
「さあ、もう黙って、あんた」と、彼はわたしを机の上に平らに仰向けに寝かしてくれながらいった。「すぐ担架をここへ来させるから」
印刷屋のオフィスはわたしの開いている一つ目の前でぐるぐる廻った。黄色い天井がわたしにのしかかるように低く迫り、それからまた高くなり、奇妙に歪んで再び寄せかえしてきた。それを避けようとわたしは頭を一方に捻じ曲げ、わたしの視線は独楽のようにぶんぶん廻っている置時計の白い文字盤にとまった。
やがて文字盤は静止し、わたしは時刻を読んだ。――四時だ。
クロストウエイトがリッチモンドのオフィスでの会談を三時に散会させ、それからわたしは仕事にかかったのだとわたしは思い出した。
「ちょうど、まる一時間だ!」と、わたしは眠りに落ちる前、何とかしてコーヒーにそのことをわからせようとつとめたものだ。
わたしが寝台に仰向けに寝ている間に、警察は証拠品を差し押えた。ブッシュ街のファン・ペルトのオフィスで、百フロリン紙幣の大包がみつかった。やがてわかったところではファン・ペルトはヨーロッパで腕ききの紙幣贋造人としてすでにかなり聞こえの高い男だった。印刷工の中の一人が泥を吐いて、工場からニューハウスのあとをつけて殺したのはファン・ペルトとソウルスの二人だと白状した。
[#改ページ]
パイン街の殺人
きわだった緑色の目に、しまりのない厚い唇をした太っちょの女中に案内されて、途中にひとつ休み場のある階段をあがり、凝った趣味の女部屋にはいると、喪服を着た女が窓のそばにすわっていた。年はまだ三十そこそこの痩せた女――殺人被害者の未亡人のその女は、血の気のない、やつれた顔をしていた。
「コンチネンタル探偵社からいらしたかたね?」私が部屋にはいって二歩と歩かぬうちに、女はたずねた。
「そうです」
「夫を殺した犯人をさがしてちょうだい」その声はかすれてかん高く、黒い目には狂おしい光があった。「警察はなにもしてくれませんの。四日もたつというのに、なんにも!」
「しかし、ミセス・ギルモア――」彼女のヒステリーを滑稽とばかりつき放すのは哀れで、私はなだめるようにいった。「そうおっしゃられても――」
「わかってます! わかってますわ!」彼女はさえぎった。「でも私には、ほんのすこしでも警察が努力をはらったとは思えませんの。夫を殺した|おん《ヽヽ》――|おと《ヽヽ》こをさがし出す気が、警察にはあるとは思えないの!」
「おとこですって?」私は彼女が|おんな《ヽヽヽ》といいかけたのを聞きとがめて反問した。「あなたは犯人が男だとお思いなんですか?」
彼女は唇をかんで、私から窓の外に目をそらした。
「わかりませんわ」彼女はためらいがちにいった。「もしかしたら、ただ私の――」
彼女の顔がクルッとこちらを向き――それはピクピクひきつった顔で――だれにも真似できそうにない、おそろしい早口で投げつけるようにしゃべり出した。
「お話ししますわ。判断はご自由になさって。夫のバーナードは私に忠実ではありませんでした。本名かどうか、キャラ・ケンブルックと名乗っている女がありました。その女が初めてじゃありません。でも、その女のことが先月わかりました。それで私たちはいさかいをしました。夫は手を切ると約束しました。実行したかどうですか。でも、もし夫がそうしたとしても、あの女を見のがしてやるつもりはありません。ああいう女は、どんなことでもやってのけるものです。心の底では、私は本当にあの女がやったのだと信じています」
「それなのに、なぜか警察はその女を逮捕しようとしない、といいたいのですか?」
「そこまでいう気はありませんわ。私はショックでおかしくなっていて、何を口走るかわかりません。ご存知のように、バーナードは政治に関係していました。それでもし警察が、夫の死にそういったことがちょっとでもからんでいることを知るか、あるいはそう考えるかしたら、それをはばかって――ああ、どういったらいいのか、私にはわかりません。私は打ちひしがれ、妄想にとりつかれたヒステリー女です」彼女はかぼそい手を私のほうに伸ばした。「どうぞ、もつれた糸をほぐしてください! 夫を殺した人間を見つけてちょうだい!」
私はまだその依頼人をあまり気に入ることができずに、空虚な気持でうなずいた。
「そのケンブルックという女性を、あなたはご存知なのですか?」と私はきいた。
「外で見かけたことがあります。あの女がどういう人間かを見分けるには、それだけで十分よ!」
「警察に彼女のことを話しましたか?」
「いいえ」彼女はまた窓の外に視線をそらし、それから弁解するように言葉をついだ。
「ここへきた警察の人たちは、まるで私が夫を殺したとでも思ってるみたいな態度でしたわ。私、やきもちを焼くいわれがあるように受けとられるのがいやだったのです。あの女のことをだまっているのはいけなかったかもしれないけど、もっとあとになって、警察が犯人をなかなか見つけてくれないので焦《じ》れだすまでは、あのひとがやったとは思わなかったの。それから、あのひとがやったのだと思い始めたのよ。でも私は、知っていることを隠していましたと警察にいいに行く勇気がありませんでした。そんなことをしたらどう思われるか、わかりきっていますもの。ですから私は――あの女のことを私が知らなかったみたいに、うまくごまかすことがおできになって?」
「まあ、それはね。ところでご主人は、パイン街の、レブンワース通りとジョーンズ通りにはさまれた地点で、金曜日の午前三時に射殺されたのでしたね?」
〔以下、「街」と「通り」は交差しているもの――たとえば××街とあればすべて地図上で縦に走っている道路、××通りとあればこれらと交差するように、横に走っている道路――として理解されたい〕
「そうです」
「ご主人はどこへ行こうとしていたのですか?」
「家に帰ろうとしていた――のだと思います、でも、それまでどこにいたのかはわかりません。だれ一人、知らないのです。警察もまだつきとめていません。夫は月曜日の晩、仕事のことで人に会う約束があると私にいいました。あのひとは建築請負業者です。あのひとは夜の十一時半ごろに、たぶん四〜五時間戻れないだろうといい置いて出かけました」
「仕事で人に会うには異常な時間ではありませんか?」
「いいえ、うちのひとにとっては。真夜中に人を家に呼ぶことも、よくありました」
「あの夜、ご主人はどこへ行こうとしていたのか、ぜんぜん心当たりはありませんか?」
彼女は強くかぶりを振った。
「いいえ、私はあのひとの仕事のことはぜんぜん知りませんでしたし、あのひとがあの夜どこへ行ったのか、会社の人たちさえ知らないようです」
それはあり得ないことではなかった。B・F・ギルモア建設会社の業務内容は市や州の建設事業の請負がおもで、そうした種類の仕事には秘密の会談がつきものだとはよく耳にすることだ。政治屋兼請負業者といった輩《やから》は、いつも表面でばかり動いているとは限らない。
「敵はありませんでしたか?」と私はきいた。
「あのひとを殺すほど憎んでいた相手には心当たりがありません」
「ケンブルックという女性がどこに住んでいるか、ご存知ですか?」
「ええ。ブッシュ街の[ガーフォード・アパート]です」
「なにかわたしに《ヽヽヽヽ》話し忘れていることがありませんか?」私は|わたしに《ヽヽヽヽ》というところにすこし力を入れてきいた。
「いいえ、私の知っていることは何もかも――ひとつ残らず――お話ししましたわ」
カリフォルニア街にむかって歩きながら、私はバーナード・ギルモアについてこれまでに聞きかじったことを、記憶の中から掘り起こそうとつとめた。選挙の年にはいつも、反対派の新聞は彼にケチをつけようとする暴露記事を載せるならわしで、そうした記事で読んだりした二、三のことを私は思い出すことができたが、どれもみな今の場合の役には立ちそうもなかった。私は彼を見たことがあった。――れんが運びの人夫から五十万ドルの事業のオーナー兼羽ぶりのいい地方政治家にのし上がった、強壮なあから顔の男。「マニキュアをした労働者」とだれかが彼を評したこともあった。たくさんの敵と、もっとたくさんの友人を持つ男。人のいい、にぎやかな、好戦的な大男。
彼が関係し、しかし彼を失脚させるきめ手はだれにもつかめなかった一ダースもの黒い噂の断片が、ダウンタウン行きのケーブルカーの、私には小さ過ぎる外の座席に腰かけた私の脳裡《のうり》をよぎった。
私はカーニイ街で下車し、警察署のある司法ビルまで歩いた。殺人課長のオガー部長刑事は刑事たちの溜まり部屋にいた。彼は五十かっこうのずんぐりした男で、映画に出てくるいなかの保安官のような、つばの広い帽子を愛用するが、小さい青い目と砲弾形のビリケン頭の機敏さは、そのやぼったい帽子とはうらはらだった。
「ギルモアの事件について、情報が欲しいんだが」と私はいった。
「それはこちらもさ」と彼は応じた。「しかし、そこまで一緒にくれば、ほんのぽっちりだがおれの知っていることを、食いながら話してやるぜ。おれはまだ昼飯を食ってないんだ」
ひとから盗み聞きされる心配のない、サッター街のざわついた軽食堂で、部長刑事ははこばれてきた蛤《はまぐり》チャウダーをがっつきながら、殺人事件について、あまり多くもない、彼の知っていることを話してくれた。
「火曜日の朝早く、受持の区域を巡回していたケリーって巡査が、カリフォルニア街からパイン街にむかう、ジョーンズ通りの坂道をくだっていた。時刻は午前三時ごろ、霧もなにもない、見通しのいい夜だった。パイン街にさしかかる六、七メーター手前のところで、彼は銃声を聞いた。やつがあわてて角をまわると、パイン街がジョーンズ通りとレブンワース通りのそれぞれと交差する中間あたりの北側の歩道に人が倒れていた。ほかにはぜんぜん人影は見えなかった。ケリーはその男のそばにかけつけ、それがギルモアだということを知った。ギルモアは一言もしゃべらずにこと切れた。彼は突き倒され、それから射たれたんだと医者はいっている。ひたいに打撲傷があり、弾丸が下から上へ、斜めに胸に貫入していたからだ。わかるか? 射たれた時、彼は弾丸がくるほうに足を向けて、あおむけに倒れていたんだ。拳銃は、三八口径だった」
「所持金は?」
「六百ドルばかり。それにダイヤモンドのカフスボタンに時計だ。何ひとつとられていない」
「まだ夜明け前のそんな時間に、パイン街で何をしていたのかな?」
「それがわかりゃ世話はないさ。家へ帰ろうとしていた可能性が大きいが、それまでどこにいたのかがわからない。なぐり倒された時、どちらへ向かって歩いていたのかさえわからん。彼は歩道とぶっちがえに、足を車道のほうに向けて倒れていた。だが、それだけじゃなにもわからない。射たれたあとで、ごろごろころがったかもしれんからな」
「あのへんはアパートばかりだったな?」
「ああ。南側にひとつふたつ路地がある。だが、ケリーのいうには、銃声が聞こえた時――角をまわる前だぜ――どっちの路地の口も見えていたが、だれもそっちへ逃げ込んだ者はいなかったそうだ」
「その一画に住んでるだれかが射ったんじゃないのか?」
「かもしれん。しかし、ギルモアがその一画に住むだれかと知合いだったということを示すものはなにもつかんでいない」
「だいぶ弥次馬が集まったのか?」
「すこしはな。なにか起こると、すっとんでくる連中はいつでもいるものさ。しかし、うさん臭いやつは一人もいなかった――ただ普通の人だかりで――とケリーはいっている。近所も手分けしてよく洗ったがなにも出てこなかった」
「あたりに自動車は?」
「なかった――見えなかった。もし一台でもいたら見のがしっこはなかった――とケリーはいっている」
「ぼくはある女に、あたりをつけているんだがな」私はいった。「一緒にきて、話してみるかい?」
「そうしたいところだがな」彼は残念そうにいった。「してはおれん。おれは午後、裁判所に行かなくちゃならないんだ」
[ガーフォード・アパート]の玄関さきで、私は[ミス・キャラ・ケンブルック]という名札のついたボタンを何度も押して、ようやくカチリと音がしてドアがあいた。それからひとつづきの階段をのぼり、廊下を歩いて彼女の部屋の戸口まで行った。ドアをあけてくれたのは、黒と白のクレープのドレスを着た二十三、四の背の高い娘だった。
「ミス・キャラ・ケンブルック?」
「ええ」
私は彼女に名刺を――正直に身分を書いてある本物の名刺を――渡した。
「二、三、うかがいたいことがあるんですが、入れていただけますか?」
「どうぞ」
彼女はだるそうにわきへ退いて私を通らせ、私がはいったあとのドアをとざし、それから私を居間へ案内した。その部屋には新聞や、火もつけてない新しいのから冷たい灰になってしまったのまで、あらゆる状態で捨てられたタバコや、女が身につけるさまざまな品物で、足の踏み場もなく散らかっていた。
「殺されたバーナード・ギルモアのことでうかがったんですが」私は彼女の顔を観察しながら切り出した。それは美しかるべき顔でありながら、美しくなかった。美人としての条件は残らずそなわっていた。――申し分のない顔だち、なめらかな白い肌、きわだって大きい茶色の目。だがその目は死んだように活気がなく、顔は陶器のドア・ノブのように無表情で、私のいうことを聞いてもなんの変化もあらわれなかった。
「バーナード・ギルモアね」彼女は無感動にいった。「ああ、あのひと」
「あなたと彼はかなり親しかったのじゃありませんか?」私は彼女の無感動ぶりに面くらいながらきいた。
「以前にはね――ええ」
「以前とは?」
「先週、手を切ったのよ」と彼女はこともなげにいった。
「最後に彼とお会いになったのは?」
「先週――月曜日だったかしら――彼が殺される一週間前よ」
「わかれることにきまったのはその時ですか?」
「そう」
「けんか別れですか、それとも円満に?」
「どっちでもないわね。ただあたしのほうから、あんたとはもう終わりよ、といってやっただけよ」
「彼の反応は?」
「泣いたりわめいたりはしなかったわ。同じようなことは、前にもあったんでしょう」
「彼が殺された夜、あなたはどこにいました?」
「[コーヒー・カップ]に。友だちと一緒に、夜中の一時ごろまで食べたり踊ったりしてたわ。それから帰って寝たわ」
「ギルモアとは、なぜ別れたんです?」
「奥さんが、耐えきれないひとだったからよ」
「え?」
「うるさいったらありゃしない」いいながら、眉をひそめるでもなく、笑うでもなかった。「夜、ここへ乗りこんできて、大さわぎをしたのよ。だから、あたし、バーニーにいってやったのよ。奥さんをここへこさせないようにできないのなら、ほかに相手をおさがしなさいって」
「だれが彼を殺したのか、心あたりはありませんか?」
「ないわ――あの奥さんのほかにはね。カッとしやすい女のひとは、何をしでかすか知れたもんじゃないから」
「あなたが彼女のご主人と手を切ったのなら、どうして今さら殺す理由があるんです?」
「知らないわ、そんなこと、あたしにきいたって」彼女はぜんぜん他人ごとのように答えた。
「だけど、バーニーが目を向けた女はあたし一人じゃありませんからね」
それは聞き流しにしておいて、この娘はいろんなことを知っているかもしれないとあてにしながら、ミセス・ギルモアのことに話を戻した。
「彼の奥さんがここへやってきた夜の模様は?」
「べつにどうってことはないわ。あのひとはここまでバーニーをつけてきてベルを鳴らし、あたしがドアをあけると、あたしの前をつっ切って中にはいりこみ、バーニーの名前を呼びながら泣き出したのよ。それからあたしにかかってきたので、あたしは彼に、この女を連れ出してくれなければ何をやるかわからないわよ、といってやったわ。それで彼はあの女を家へ連れて帰ったわ」
どうやらここのところはわたしの負けらしい、と私は認め、立上がってドアのほうへ行った。今のところ、この娘には手のつけようがない。彼女の話が全部本当だとは思わなかったが、それほど努力なしにもっともらしく、そんなに無頓着に嘘がつけると考えるのも、かえっておかしなものだった。
この中途はんぱなインタビューを済ますと、そこからほんの二つか三つ、大きな通りを越したところにある事件現場へ、近所の様子を検分しに行った。行ってみると、私の記憶通りの、そしてオガーが説明してくれた通りの一画だった。両側ともアパートが立ちならび、南側に二本の袋小路《ふくろこうじ》があって、そのひとつにはタッチャード・ストリートという、もったいらしい名前がついていた。
殺人があったのはもう四日も前のことだ。今さらそこらをのぞき回っても時間をむだにするだけのことだから、ひとわたりその通りを歩くと、ハイド街行きの電車に乗ってカリフォルニア街で乗り換え、もう一度ミセス・ギルモアに会いに行った。キャラ・ケンブルックのアパートに行ったことをなぜ彼女はだまっていたのか、知りたかったからだ。
前と同じふとっちょの女中が玄関のドアをあけた。
「奥さまはお留守ですけど」と彼女はいった。「でも、三十分ぐらいでお戻りだと思います」
「待たせてもらうよ」
女中は私を読書室へ案内し、ドアのほうへ戻って行きかけて立ちどまり、書棚のところへ行って、二、三冊の本のならび具合を正しながら、なかば問いかけるような、なかば誘うような表情を緑色の目にうかべて私を見た。
そうした動作や表情から、彼女はなにかいいたいことがあって、こちらから水を向けて欲しがっているのだなと私は察した。私は椅子に深くもたれ、彼女にむかって笑いかけた。彼女はしまりのない唇に媚びるような微笑をいっぱいにうかべると、腰をわざと大きくくねらせながら歩いてきて、私のすぐ前にたちはだかった。
「どうしたんだね?」と私はきいた。
「もしも――もしもだれかが、ほかのだれも知らないことを知っているとしたら、お金になるものかしら?」
「それは、それがどれだけ値打ちのあることかによって違うね」
「もしあたしが、だれが旦那さまを殺したか知っているとしたら? いくらぐらいになります?」
「ギルモアが入会していたどこかのクラブが、千ドルの懸賞をかけたって新聞に出ていた。それをもらえるよ」
緑色の目が貪欲《どんよく》に、それから疑いぶかく光った。
「あなたが横どりなさらなけりゃね」
私は肩をすくめた。それがどんなことであるにしろ、彼女はもうしゃべらずにはいられなくなっているのが私にはわかった。だから私は、コンチネンタル探偵社は懸賞金には手を触れないこと、そして社員にもそれを禁じていることを説明しなかった。
「そんなことはしないと約束するよ」私はいった。「しかし、わたしを信用するかしないかは自分できめたまえ」
彼女は唇をなめた。
「あんたはいい人らしいわ。あたし、警察には話さなかったの、お金にならないことがわかっていたから。でも、あんたなら信用できそうだわ」彼女は私の顔を流し目で見た。「昔、あんたにそっくりの紳士の友だちがあったけど、そのひとはとっても――」
「だれかがはいってこないうちに、しゃべっちまったほうがいいぜ」と私は注意してやった。
彼女はちらりとドアのほうへ目をやり、咳ばらいをし、しまりのない唇をもう一度なめて、私の椅子のそばに片膝をついた。
「あたし、月曜日の夜――旦那さまが殺された夜――おそくなって家へ帰ってきて、外の暗がりで友だちにおやすみをいっていたら、旦那さまが家から出てきて、通りを歩いて行ったの。それで曲り角まで行ったか行かないかに、こんどは奥さまが――ミセス・ギルモアが――出てきて、旦那さまのあとを追って行ったのよ。追いつこうとするのじゃなくて――ね、わかるでしょ? ――あとをつけていたのよ。これ、どうお思いになる?」
「きみはどう思うんだね?」
「旦那さまが[約束]っていうのはみんな、建築のお仕事とはなんの関係もないってことに、奥さまがようやく気づいたんだと思うわ」
「仕事と関係ないってことを、あんたは知っているのかい?」
「あたしが知っているのかですって? 旦那さまのことなら、よくよくわかってるわ。あのひとは女好きだったわ――女ならだれでも」彼女は私の顔をのぞきこんで笑った。それはひどく邪悪な笑いだった。「はじめてこの家にきて、そのことはすぐにわかっちゃったわ」
「その夜、ミセス・ギルモアはいつ帰ってきたか――何時ごろだったか――知ってるかい?」
「ええ」彼女はいった。「三時半よ」
「確かかね?」
「絶対よ! あたし、寝間着に着かえたあと、毛布をかぶって、おもての階段のてっぺんのところにすわってたの。あたしの部屋はいちばん上の階の裏手なんだけど。あたしは二人が一緒に帰ってくるかどうか、けんかをするかどうか、見たかったのよ。でも、奥さまが一人で帰ってきたあと、部屋へ戻ったんだけど、その時がちょうど四時二十五分前だったわ。目ざまし時計を見たのよ」
「ミセス・ギルモアがはいってきた時、彼女を見たかい?」
「踊り場のところで自分の部屋のほうへ曲がるのを、上から、頭と肩だけを」
「きみの名前は?」と私はきいた。
「リナ・ベスト」
「わかった、リナ」私はいった。「もしきみのいうことが的《まと》を射ていたら、ぼくが責任を持って賞金をとりたててやろう。これからもしっかり見張っていて、またほかに何か起こったら、コンチネンタル探偵社のわたしに連絡するんだ。さあ、わたしたちが|ぐる《ヽヽ》になっていることをだれにも知られないように、もう行ったほうがいい」
読書室にひとりになると、私は片目で天井をにらみながらリナ・ベストが提供してくれた情報を吟味した。しかし、すぐやめてしまった。――どうせそのうちにしぜんにわかることを、かれこれ推測するのは無意味なことだ。私は本を一冊抜き出し、どう見ても頭のからっぽな若くて愛らしい女と、これまたどう見ても頭のからっぽな、大きくて強い男が、どうしてこうしてといった話を読んでそれからの三十分をつぶした。
やがてミセス・ギルモアが、一見して外出から戻ったその足で、部屋にはいってきた。
私は立上がって彼女がはいったあとのドアをしめ、その間彼女は大きく見開いた目で私を見つめていた。
「ミセス・ギルモア――」ふたたび彼女と向き合うと、私はいった。「ご主人が殺された夜、あなたはご主人のあとをつけたことを、なぜおっしゃらなかったんです?」
「うそよ!」彼女は叫んだが、その声には真実の力がこもっていなかった。「うそだわ!」
「間違いをおかしている、とは思いませんか?」私は説いた。「何もかもすっかりわたしに話したほうがいいと思いませんか?」
彼女は口を開いたが、かわいたすすり泣きのような音がでてきただけだった。そして彼女は黒い手袋をはめた片手の指で下唇をつかみ、ねじったり引っぱったりしながら、ヒステリックに身もだえをしはじめた。
私は彼女のわきに寄り、それまで自分がすわっていた椅子に彼女をすわらせ、押さえた、おろかしげな声で懸命に彼女をなだめようとした。気づまりな十分間が経過し、彼女はしだいに自分をとり戻してきた。目からどんよりした感じがなくなり、口をひっかくのもやめた。
「つけましたわ」聞きとれるかとれないかの、しわがれたささやき声だった。
それから彼女は椅子からすべり下りると、膝をついて、両腕を私のほうへさしのべ、かぼそい悲鳴のような声で叫んだ。
「でも、わたしが殺したんじゃないわ! わたしじゃありません! わたしがやったんじゃないことを信じてください!」
私は彼女を助け起こし、もとの椅子にかけさせた。
「あなたがやったとはいってませんよ。どんなことがあったのか、話してくださればいいのです」
「あのひとが仕事のことで約束があるといった時、わたしは信用しませんでした」彼女はうめくようにいった。「わたしはあのひとを信用しませんでした。嘘をつかれたことは前にもありました。わたしは主人があの女の部屋へ行くのではないか、確かめるためにあとをつけました」
「彼はそこへ行きましたか?」
「いいえ。あのひとはパイン街の、あとで殺人の場所になった一画にあるアパートにはいって行きました。わたしは距離を置き過ぎていたので、どの建物だったのか正確にはわかりません。でも、あのひとがその一画のまん中あたりの階段をのぼって、アパートのひとつにはいって行くのが見えました」
「それからあなたはどうしました?」
「街路の反対側にある建物の戸口の暗がりに隠れて待ちました。あの女のアパートがブッシュ街にあることはわかっていましたが、引越したかもしれないし、それともそこで主人と逢びきしているかもしれないと思ったからです。わたしはがたがたふるえながら、長いこと待ちました。外は寒かったし、わたしが隠れている戸口にだれかはいってきやしないかと心配でたまりませんでした。でも、わたしは我慢しました。あのひとが一人で出てくるか、それともあの女が出てくるか、どうしても確かめたかったのです。わたしにはそうする権利がありました。だって、あのひとは前にわたしを欺したんですもの。
ふるえ、おびえながら暗がりにうずくまっているのは、恐ろしく、たまらないことでした。それから――二時半ごろでしたかしら――いよいよ我慢しきれなくなりました。わたしはあの女がおとなしく自分の部屋にいるかどうか、電話をかけて確かめてやろうと決心しました。わたしはエリス通りにある終夜営業のスナックへ行って、あの女のアパートに電話をかけました」
「彼女はいましたか?」
「わたしは十五分かそれ以上もの間、何度もダイヤルを回し続けましたけど、電話にはだれも出ませんでした。やっぱりあの女はパイン街のアパートにいたんですわ」
「それからどうしました?」
「もとの場所に戻って、主人が出てくるまで待とうと決心しました。わたしはジョーンズ通りをパイン街のほうへ向かって行きました。ブッシュ街とパイン街の中間にいた時、銃声が聞こえました。その時は自動車のパンクの音かと思ったんですけど、今になって考えると、主人が射たれた拳銃の音だったんですわ。
ジョーンズ通りとパイン街の角にくると、歩道に倒れたあのひとにかぶさるように警官がかがみこみ、人がたかっているのが見えました。でも、歩道に倒れているのが主人だとは、その時にはわかりませんでした。暗いのと距離があるのとで、男か女かもわかりませんでした。
何が起こったのかと主人が見に出てくるか、それとも窓から首を出すかして、わたしを見つけはしないかと恐ろしくて、そばへ寄ってみる勇気はありませんでした。それに警察の人たちから、朝の三時に町をふらついて何をしているのか尋問されて、夫のあとをつけていたことを知られるのがこわくて、それ以上その近くにいる気にはなれませんでした。それでわたしはジョーンズ通りをカリフォルニア街まで歩きつづけて、それからまっすぐ家に帰りました」
「それから?」と私はあとをうながした。
「それから寝床にはいりました。でも、眠りはしませんでした。ただ横になって、主人のことを心配していたのです。歩道に倒れていたのがあのひとだったとは、まだ知りませんでしたが、その朝の九時に刑事が二人やってきて、あのひとが殺されたことを教えてくれました。それからわたしに質問をする調子があまりきびしいので、洗いざらい本当のことをいうのが恐ろしくなりました。やきもちを焼く理由がわたしにあり、あの夜主人のあとをつけて行ったことを警察に知られたら、わたしは殺人の罪をきせかけられるに違いありません。そしたら、わたしに何ができるでしょう? みんな、わたしのことを有罪だと思うにきまっています。
だからわたしは、あの女のことは一言もしゃべりませんでした。どうせ警察は犯人をつかまえるだろうし、そうすればなにも問題はないと思ったのです。その時にはわたしは、あの女がやったとは思っていませんでした。でも、四日たっても犯人は警察にあがらず、警察はわたしを疑っているんだと、わたしは考え始めました。恐ろしかったわ! でも、今さら警察へ出かけて行って嘘をついたことを告白し、犯人はたしかにあの女なのに、わたしがそのことをだまっていたために疑いをかけられずにいるのだということを教えてあげるわけにはいきません。
だからわたしはあなたを雇ったのです。でも、あなたにさえ、洗いざらいお話しする勇気は出ませんでした。主人にはほかに女がいて、その女がだれかということを教えれば、あとはあなたに、あの夜わたしが主人のあとをつけたことは知られずに、うまくことを運んでもらえると思ったのです。何もかもすっかり話したら、あなたはきっとわたしが主人を殺したのだときめこみ、わたしを警察に引渡すにちがいないと思ったのです。ほら、やっぱりあなたはそう思ってるんだわ! あなたはわたしを逮捕させる気なんだわ! そしてわたしは死刑にされるんだわ! ちゃんとわかってるんだから!」
彼女は椅子の中で、狂気のようにはげしく身をもんだ。
「まあまあ――」わたしはなだめた。「まだ逮捕しちゃいないじゃありませんか。さあ、落着いて」
彼女の話をどう解釈すべきか、私は迷った。そういった神経質でヒステリー症の女は、本当のことをしゃべっているのか嘘をついているのか、傍証でもない限り、知れたものではないからだ。だいたい、半分ぐらいは本人自身にもどちらかわからないのだ。
「銃声を聞いた時――」彼女がすこし落着いたのを見すまして私はきいた。「あなたはジョーンズ通りを北へ、ブッシュ街とパイン街の間を歩いていたのですね? そこからパイン街の角が見えましたか?」
「ええ――はっきりと」
「人影が見えましたか?」
「いいえ――角まで行って、パイン街を見わたすまでは。それから夫にかぶさるようにかがみこんだお巡りさんと、二人の男がそちらへ歩いて行くのが見えました」
「その二人の男が見えたのは?」
「ジョーンズ通りからいって東かたの、パイン街です。二人とも銃声を聞いて家から出てきたみたいに、帽子をかぶっていませんでした」
「銃声を聞く前かあとに、車を見かけましたか?」
「ぜんぜん見かけませんでしたし、それらしい音もしませんでした」
「まだすこしうかがいたいことがありますが、今はちょっと急ぐことがありましてね」私はいった。「わたしから連絡があるまで、外出せずにいてください」
「しませんわ」と彼女は約束した。「だけど――」
だれから何をきかれても、今のところ答えるべき返事の持合わせは私にはなかったから、頭をちょっと下げておいて読書室を出た。
それから私はガーフォード・アパートまで、歩いて引返した。というのは、もう一度キャラ・エンブルックに会う前に、頭の中で整理しておきたいことがいろいろとあったからだ。そして随分ゆっくり歩いたつもりだったが、そこに行き着いてもまだすっきりと整理はついていなかった。彼女は黒と白のドレスを明るいグリーンのコール天のようなガウンに着かえていたが、人形のように無表情な顔はもとのままだった。
「もうちょっとききたいことがあるんですが」ドアをあけた彼女に私は弁解した。
彼女はものもいわず、身ぶりもしないで私を入れると、さっき二人で話をした部屋へ案内した。
「ミス・ケンブルック――」私は彼女が勧めてくれた椅子のそばに立ったままで切り出した。
「なぜあなたは、ギルモアが殺された時間には家で寝ていたなんていわれたんです?」
「だって、そうだったからよ」彼女は睫《まつげ》一本動かさずにいった。
「呼鈴を鳴らしたのに出られなかったそうですがね」
私は目的を追求するために、いくらか事実を曲げざるを得なかった。ミセス・ギルモアは電話をかけただけだったが、それに応答しなかった理由を交換局のミスのせいにして、ごまかすチャンスを彼女に与えたくなかった。
ほんのかすかに、彼女はためらった。
「あらそう。ぜんぜん知らなかったわ」
この冷血動物め! 私には彼女の本性《ほんしょう》がつかめなかった。彼女は世界一のポーカー・フェースの持主なのか、それとも生まれつきの不感症なのか、その時も私にはわからなかったし、今もってわからない。だが、どっちであるにせよ、彼女は完全にそれになりきっていた。
私はそんなことで思考力を浪費するのをやめて、本来の問題を追及することにした。
「それに、電話にも出られなかったそうですがね」
「電話なんか鳴らなかったわ。それとも目がさめるほど長く鳴り続けなかったのかしら」
私は|そら《ヽヽ》笑いをしてみせた。――わかってるさ、交換局がつなぐ番号を間違えることだってあるからな。だが……
「ミス・ケンブルック――」私はまた嘘をついた。「あなたの電話は午前二時半と二時四十分に鳴ったんですよ。そしてドアの呼鈴は、二時五十分から三時過ぎまで、ほとんど鳴りづめに鳴っていたんですよ」
「――かもね」彼女はいった。「でも、いったいだれがそんな時間にあたしを起こそうとしたのかしら」
「どちらも、聞いたおぼえがないのですか?」
「ええ」
「しかし、あなたはここにおられた?」
「ええ。いったいだれだったの?」
「帽子をとってきたまえ」私はハッタリをかましてやった。「警察へ行って、対面させてあげよう」
「マントもとってきたほうがよさそうね」と彼女はいった。
「ああ」私は口を添えた。「ついでに歯ブラシも持って行くほうがいいな」
そこで彼女はくるりと向き直って私を見、一瞬、彼女の大きな茶色の目に、はじめてある種の――おそらくは驚きの――表情が浮かんだかに見えた。
「あたしを逮捕するつもり?」
「まだわからんよ。しかし、あんたがこの前の火曜日の午前三時に家で寝ていたとどこまでもいい張るなら、まず間違いなく逮捕されるね。わたしがあんたなら、もっと別のストーリーを考えるよ」
彼女はゆっくり戸口を離れて、二人の間にある椅子のところまで戻ってくると、その椅子の背もたれに両手をかけ、それに蔽《おお》いかぶさるようにして私を見た。一分ばかり、どちらも口をきかず、お互いに相手を見つめ合いながら、私はできるだけ彼女と同じぐらい無表情をよそおおうとつとめた。
「あなたは本当に、バーニーが殺された時、あたしはここにいなかったと思ってるの?」と彼女はついにきいた。
「わたしは忙しい人間なんだ、ミス・ケンブルック」私はつくれる限りの確信ある口調を声にこめた。「あんたがあくまでそのとぼけたお話をひっこめないのなら、それはそれで構わんさ。しかし、わたしがここにつっ立って、いつまでも|ごたく《ヽヽヽ》を聞いてると思ったら大間違いだよ」
彼女は肩をすくめ、よりかかっていた椅子のうしろを、こちらへ回ってきた。
「あんた、なにかつかんでるのね」彼女は腰を下ろしながらいった。「いいわ、スタンには気の毒だけど、女と子供には、さきに降参する権利があるわ」
スタンという名前が私の耳にひっかかったが、彼女の邪魔をするのはさし控えた。
「一時までは[コーヒー・カップ]にいたの」彼女は依然として単調な、感情のこもらない声でしゃべり出した。「そのあと、一応ここへ帰ってきたわ。でも、わたしはずっとワインを飲みつづけて、いつものことだけど、憂鬱《ゆううつ》な気分になってたの。それで、帰ってきてからいろんなことをくよくよ考え始めたのよ。バーニーと切れてから、ふところ具合もあまりよくなかったしね。その夜――というより朝かな? ――あり金《がね》をしらべてみたら、たったの四ドルしきゃありゃしないじゃない。部屋代を払う期限はきてるし、つくづく憂鬱だったわ。
安物のワインでホロ酔い加減になってもいたし、その勢いを借りて、わたしはスタンのところへ押しかけ、困ってることを話して、すこし都合をつけてもらえるかどうか、あたってみることにきめたの。スタンは気のいいひとで、いつでも無理をきいてくれるのよ。しらふだったら、いくらなんでも朝の三時に押しかけたりはしないわ。でも、その時には、とてもいい思いつきみたいに思えたのよ。
ここからスタンのところまでは、ほんの目と鼻のさきの距離なのよ。あたしはブッシュ街をレブンワース通りまで行って、それからレブンワース通りをパイン街のほうに向かって行ったの。バーニーが射たれたのは、わたしが最後のブロックの真中へんまで行った時だったわ。――音が聞こえたのよ。そしてパイン街にはいる角を曲ると、スタンのアパートのまん前の歩道に人が倒れて、お巡りがそこにかがみこんでいるのが見えたの。あたしは電柱のかげに隠れて、その倒れている男のそばに三、四人の人だかりがするまで、二、三分、迷っていたわ。それからそばへ寄って行ったの。
倒れていたのはバーニーだったわ。そしてちょうどあたしがそばへ行きついたとき、お巡りさんが寄ってきた人の一人に、射たれたんだって説明するのが聞こえたわ。どんなにショックだったか、わかるでしょ!」
私はうなずいたが、その小娘の顔にも態度にも声にも、ショックをあらわすようなものはこれっぽっちもなかったことは神さまが知っている。彼女はまるで天気のことを話すような調子だった。
「あまりのことに、どうしたらいいのかもわからずに――」彼女はつづけた。「立ちどまることもできなかったわ。わたしはバーニーのすぐそばを――今のあたしとあんたぐらいのところを――通り過ぎてスタンのアパートの呼鈴を鳴らしたの。彼はすぐあたしを入れてくれたわ。あたしがベルを鳴らしたとき、彼はちょうど服を脱ぎかけていたところみたいだったけど、あのひとの部屋は建物の裏手にあって、銃声なんか聞こえなかった、と彼はいったわ。あたしが教えるまで、バーニーが殺されたことをあのひとは知らなかったのよ。あたしがそのことを知らせると、ひどい驚きようだったわ。バーニーは十二時ごろからずっとそこに――スタンの部屋に――いて、たった今しがた出て行ったところだったんですって。
スタンはあたしに、今ごろ何をしていたんだとたずね、あたしは自分の困っている話をしたの。バーニーとあたしがそんなところまで行ってたことを、スタンはその時はじめて知ったのよ。あたしはスタンから紹介されてバーニーとつき合うようになったんだけど、あたしたちがそんな仲になっていたことを、スタンは知らなかったのよ。
スタンはバーニーがその夜、彼のところへ来ていたことが知れるのをひどく心配していたわ。きっと、なにか秘密の取引をしていて、それが明るみに出ると、いろんな面倒が起こるからじゃないかしら。だからバーニーを見に出て行かなかったんだと思うわ。あたしに話せることはこれぐらいよ。あたしはスタンからいくらかお金を借りて、警察の連中がその辺から引揚げてしまうまで彼のアパートにいたわ。二人のうちどちらも、へんなことに巻きこまれたくなかったから。それから家へ帰ったの」
「どうしてそれを前に話さなかったのかね?」相手がどう答えるか、知りながら私はきいた。
返事はやっぱり思った通りだった。
「こわかったのよ。バーニーに捨てられたあたしが、彼が殺された時、そのすぐ近くに――たった一ブロックかそこら離れたところに――いて、いいかげん飲んだくれていたなんてわかったらどう? だれだって、あたしがやったんだって思うでしょ?」
「すると、手を切ったのはあんたのほうからじゃなくて、彼のほうだったんだね?」
「ええ、そう」こともなげに彼女はいった。
私はタバコに火をつけて、しばらく黙々とそれをふかし、女は落着きはらって私を見ていた。
私は二人の――どちらも正常でない――女をかかえこんでしまった。ミセス・ギルモアは異常に神経質なヒステリーだし、この女は鈍感な低脳だ。一人は殺された男の妻で、もう一人はその情婦。そしてどちらも、もう一人のために|つれなく《ヽヽヽヽ》されたと思いこんでも不合理ではないと考えるべき理由がある。おまけにどちらも――お互いに、相手の姿は見なかったといっているが――犯罪が行われた時に犯行現場の近くにいたと告白している。どちらも、本人自身の告白によれば、その時、正常というにはほど遠い状態にあった。――ミセス・ギルモアは嫉妬に狂い、キャラ・ケンブルックはなかば飲んだくれて。
一体どう答をだしたらいいのだろう? 容疑者としての条件はどちらにもそなわっていた。しかし、二人が気違いじみた同盟でも結んだのでない限り、二人とも犯人ということはあり得ず、だとすれば――
突然、私がそれまでに集めた事実の全部が――まぎれのないものも、まやかしかもしれないものもひっくるめて――私の頭の中でぴったりとひとつに組み合わさった。――答が出たのだ。単純で納得のいく、ただひとつの答が!
私はキャラの顔を見てニヤリと笑い、私の出した答の中に残っているすき間を埋ずめにかかった。
「スタンというのは?」と私はきいた。
「スタンリー・テナント――市に関係のある人よ」
スタンリー・テナントだと? その男なら私は評判で知っていた。評判によれば、彼は――
玄関のドアに鍵をさしこんで回す音がした。
ドアが開いて、しまり、男の足音がわれわれのいる部屋のほうへ近づいてきた。それからツイードの服を着た、背の高い肩幅の広い男が戸口をいっぱいにふさぐように立ちあらわれた。年は三十五ぐらいで血色がよく、髪もブロンドで非の打ちどころのないスポーツマン・タイプといいたいところだが、はっきりしない青色の、間隔のせますぎる目が、他の長所を帳消しにしていた。
私を見て、彼は部屋に一歩はいったところで立ちどまった。
「いらっしゃい、スタン!」女はいそいそした調子でいった。「こちらはコンチネンタル探偵社からこられたかた。今、バーニーのことを洗いざらいしゃべっちまったとこ。はじめはごまかそうとしたんだけど、だめだったわ」
男はあいまいな目で女と私とを交互に見た。うす青い虹彩のまわりの白目はピンクがかっていた。
彼は背筋を伸ばすと、愛想のよすぎる微笑をうかべた。
「それで、あなたのたどりついた結論は?」と彼はきいた。
私のかわりに、女が答えた。
「あたしに、一緒に警察へ行こうといってるわ」
テナントは前かがみになった。かと思うと、やにわに床から椅子をさらいとって、正面から私に投げつけた。たいして力はこもっていなかったが、すばやかった。
私は壁のほうへ後退しながら両手で顔をかばい、とんでくる椅子をわきへ払いのけたが、その間に相手はニッケルめっきをした拳銃を私に向けていた。
テーブルの引出しがひとつ開いていた。私が椅子を避けている間に、そこから彼は拳銃をとり出したのだ。その拳銃が三八口径であることを私は見てとった。
「さあ」彼の声は酔いどれのようにねばっこかった。「むこうを向け」
私が彼に背を向けると、彼の手が私の体をはいまわり、拳銃をとり上げた。
「よし」と彼がいい、私はふたたび彼と向き合った。
彼はなおニッケルめっきをした拳銃を私に向けたまま、女の側にあとずさりした。私の拳銃は見えなかった。たぶん彼のポケットにおさまっているのだろう。彼は息づかいを荒くし、眼球はピンクから赤に変わっていた。
「おれは知ってるな?」と彼はかみつくようにいった。
「ああ、知ってるとも。あんたはいろいろとうわさのある、市の建設局次長のスタンリー・テナントさ」拳銃をつきつけている相手と会話を続けることは、銃口の前に立たされている人間にとっていつも有利だという一種の迷信じみた考えによりかかって、私はしゃべり続けた。「あんたは去年の建設局の汚職調査に、よく訓練された証人の一連隊を供給して、それを茶番劇にさせてしまった張本人さ。そうとも、ミスター・テナント、わたしはあんたを知ってるよ。ギルモアがいつも幸運にも、競争相手の業者よりほんの何ドルか低い請負価格で市の事業を落札した、その秘密はつまりあんたなのさ。そうとも、ミスター・テナント、わたしはあんたを知っている。あんたという利口者は――」
しゃべる材料はまだいくらでもあったが、彼は私をさえぎった。
「ほざくのはそれぐらいにしとけ!」と彼はわめいた。「頭のかどを、この拳銃でけし飛ばされたくなけりゃな」
それから彼は私から目を離さずに、女にむかっていった。
「立ってこい、キャラ」
女は椅子から立って彼のそばへ行った。女が立っているのは、彼が拳銃を構えている右手の側だった。彼はぐるっとまわって反対の側へ行った。
それから女の胸の高まりにかけて深くえぐれたグリーンのガウンの内側に、左手の指をかけた。その間も彼の拳銃のねらいはピタリと私につけられていた。それから左手で、彼は女のガウンを腰のところまで一気に引き裂いた。
「やつがやったんだぞ、キャラ」とテナントはいった。
女はうなずいた。
彼の左手は、こんどは露出した肌色の下着にかけられ、ガウンと同じやり方でそれを引き破った。
「これもやつがやったんだぞ」
女はまたうなずいた。
彼の血走った目はチラチラと彼女の顔色をうかがいながら、私が彼にとびかかるのに必要なほんの瞬時も私から離れなかった。
それから、目と拳銃のねらいを私につけたまま、左のこぶしを女の無表情な白い顔にたたきこんだ。
低い短いうめき声をもらして、女は壁にもたれかかりながら、ずるずるとくずおれた。彼女の顔は――いや、顔にはそれほどたいした変化はなかった。彼女は倒れた場所から、無言でテナントを見上げた。
「これもやつがやったんだ」とテナントはいった。
女はうなずき、床から立ち上がり、もとの椅子に戻った。
「話はこうだ――」テナントは油断のない目を私にそそぎながら、早口にしゃべりだした。「ギルモアはいっぺんもおれのアパート来たことはないし、キャラ、おまえも来たことはない。彼が殺された夜、おまえは一時すこし過ぎにここへ戻り、ずっとここにいた。おまえは――たぶん、ワインを飲みすぎたせいで――気分が悪くなり、医者を呼んだ。ハワードという名の医者だ。そっちの手配はおれがつける。医者は二時半にやってきて、三時半までここにいた。
今日、このイヌはおまえがギルモアと親密だったことをかぎつけて、質問をしにやってきた。やつはおまえがギルモアを殺したんじゃないことは承知のうえで、おまえに|なぞ《ヽヽ》をかけにきたんだ。そこのところの演技は、うんと腕に|より《ヽヽ》をかけてやれ。――もう何ヵ月も前からしつこくつきまとわれていたとか……。そしておまえがきっぱりとことわると、やつはおまえを罪におとしいれてやると脅した。
おまえがやつとかかわりを持つのは一切ごめんだというと、やつはおまえをつかまえ、おまえがさからうと、やつはおまえの着ているものを引き裂き、顔をなぐりつけた。そこへちょうど、おまえを訪ねる約束をしていたおれがやってきて、おまえの悲鳴を聞いた。玄関のドアには鍵がかかっていなかったので、おれはとびこんで行って、やつを引き離し、拳銃をとり上げた。それからおれたちは警察がやってくるまで――これから呼ぶんだが――やつをとり押さえておいた。――わかったな?」
「ええ」
「よし! いいか、あとをよく聞くんだ。――警察がここへやってきたら、こいつはもちろん自分の知っていることを洗いざらいしゃべりまくるだろうし、そうなると三人とも連行される可能性が大きい。だから、今、これからの手順をよく知っておいて欲しいんだ。おれは手づるを頼って、おれとおまえが今夜じゅうに保釈金を積んで釈放されるようにするか、最悪の場合でも、必要な証人の手配をするために今夜じゅうに弁護士と打合わせができるようにしなくちゃならない。やつがどこまで真相を知っているのか、おれにはわからないが、おまえの話と、おれの頭の中にあるもう二、三人のお利口な女たちの証言とで、どんな陪審団でも絶対にやつを信用することができなくなるように仕組んでやる。
どうだ、こういう趣向《しゅこう》は?」と彼は私にむかって得意然《とくいぜん》ときいた。
「とんだ道化者だぜ、あんたは」私は笑いとばした。「お茶わかしだよ!」
しかし、本心では私はそうは思わなかった。ギルモア殺しについて私が知っていると自分で思っていること――単純で納得のいくただひとつの解答――の真否《しんぴ》はともかく、なにかがムズムズと背すじをはい上がり、膝の力が抜け、両手に汗がにじんできた。無実のワナにはめられかけたことは前にもあった。私立探偵を長くやっていれば、何度かそういう目に会わずに済ますことはだれにもできない。だが、私はどうしてもそれに慣れることができなかった。とりわけ、陪審員の気持の動きというものが、どれほどあてにならないものかということがわかってくると、自分の判断では無実が証明されることがどれほど確実に思えても、体じゅうがムズムズするような理窟《りくつ》ぬきの恐怖に襲われるのをどうすることもできない。
「警察に電話をかけろ」テナントは女にいった。「そして今の話を、きっと間違えないようにするんだぞ!」
そしてその重要性を女に強く印象づけようとして、目が私から離れた。
私から彼とその手に構えられた拳銃までの距離は、五フィートぐらいだったろうか。
一とびに――まっすぐにではなく、片側に避けながら――私は彼に迫った。
私の腕の下で拳銃が吠えた。おどろいたことに、弾丸があたった感じはなかった。当然命中するものと覚悟していたのだが……。
二発目は発射されなかった。
ジャンプしながら、私は右手のこぶしを大きく振った。私が着地するのと同時に、それは相手にあたった。ちょっと高すぎて、頬骨のあたりだったが、相手に二、三歩あとさがりに|たたら《ヽヽヽ》を踏ませた。
彼の拳銃はどうなったのかわからなかった。とにかくそれはもはや彼の手にはなかった。私はとまってそれをさがしたりはしなかった。彼に立ち直る暇を与えず、間隔をとらさずに、両手でパンチをくり出し、うしろに追いたてるのに忙しかった。
相手は頭ひとつ分、私より高く、腕も長かったが、私より重くも強くもなかった。パンチを叩きこみながら、部屋を横ぎって相手を追いつめる間に、私も何発か食らったと思う。いや、食らったに違いない。だが、私はなにも感じなかった。
私は彼を部屋の隅に追いつめた。押し返してなぐり返そうとしても、両脚のバネがきかないように体の下に折り曲げさせ、部屋の隅に押しつけた。左の腕を相手の胴に巻きつけ、こちらの望む位置に押さえこんで、右手のこぶしを叩きこみ始めた。
いい気分だった。彼の腹はたるんでいて、なぐりつけるたびに、ますますやわらかくなった。
彼はさかんに私の顔につかみかかったが、私は彼の胸に鼻をうずめてそこに押しつけ、あたら私の美貌が台なしになるのを防いだ。そうしながら、右手のこぶしをぶちこみ続けた。
それから私はキャラ・ケンブルックが私のうしろをまわって行こうとしているのに気づくと同時に、私がテナントにとびついたとき、そのへんに落ちたはずの拳銃のことを思い出した。それはいやな感じだったが、さし当り私としてはパンチにいっそう力をこめるよりほかにどうしようもなかった。私自身の拳銃が、彼のどのポケットかの中にあるはずだ、と私は思った。しかし、私も相手も、今はそれをさがしている暇はなかった。
つぎのパンチで、テナントの膝はグニャリとなった。
もう一発だ、と私は自分にいった。――それから一歩あとにさがり、最後のフィニッシュ・パンチをあごにきめれば、やつは完全にダウンだ……。
しかし、そうはいかなかった。
なにかが――といっても、さっきどこかへけし飛んだ拳銃だということはわかりきっていたが――私の脳天を一撃した。気を失うほどの有効打ではなかったが、私のパンチの力はにぶった。
それからまた一撃。
こんどもまた強い打撃ではなかったが、鉄のかたまりで頭をなぐるには、なにもそんなに力強くなぐる必要はない。
つぎの一撃を、身をひねってよけようとしたが、よけそこなった。ばかりでなく、つかまえていたテナントに逃げられてしまった。
そうなってはもうおしまいだった。
くるりと向き直って、またもや女が頭をなぐりつけてくるのを、かろうじて受けとめたが、とたんにテナントのこぶしが耳の上にとんできた。
私はふらふらと倒れ、目をあけたまま、意識もはっきりしているのに、両手両脚を使っても立ち上がれない状態になった。
テナントはどこかのポケットから私の拳銃をとり出し、それを私に向けて構えながら安楽椅子にすわり、私に叩き出された空気を補充しようとするかのようにあえいだ。女も別の椅子に腰かけ、どうやら体を動かせるようになった私は床の真中に起き直ってあぐらをかき、二人をながめた。
テナントはまだ荒い息をつきながらいった。
「ちょうどいい――この格闘のあとは、おれたちの話を信用させるのにもってこいだぜ!」
「それでも警察が信用しなかったら――」私は痛む頭を両手でおさえながら、すっぱくいった。
「ズボンをぬいで、おれになぐられた|ぽんぽん《ヽヽヽヽ》を見せてやるんだな」
「そして、おまえはこれを見せてやるんだ!」
身を乗り出した彼に、いきなり私はアッパーカットを食わされ、唇が切れた。
怒りが私の脚に力をよみがえらせた。私は立上がった。テナントは安楽椅子のうしろにまわった。その手には私の黒い拳銃がしっかり握られていた。
「早まるなよ」彼は警告した。「射ち殺してしまっても、おれの話は通るんだ。ひょっとしたら、そのほうが好都合かもしれん」
それもひと理屈だった。私は動かなかった。
「警察に電話しろ、キャラ」と彼はいいつけた。
女は部屋を出てドアをしめた。それから女のしゃべる声が、とぎれとぎれに、かすかに聞こえてきた。
十分後、制服の警官が三人やってきた。三人ともテナントの顔を知っていて、丁重《ていちょう》な態度をとった。テナントは女と二人ででっち上げた話を、ニッケルめっきの拳銃が発射されたいきさつと、私との格闘のくだりについて多少の訂正を加えて、よどみなくしゃべった。女は警官が顔を向けるたびに、しきりにうなずいてみせた。テナントは二挺の拳銃を、三人の中の頭株《あたまかぶ》らしい白髪の巡査部長に渡した。
私は抗弁も否定もせず、ただこれだけを巡査部長にいった。――「わたしはある事件でオガー部長刑事と一緒にはたらいているんだ。わたしに電話で彼と話をさせて、それから三人を一緒に捜査課へ連行してもらいたい」
むろんテナントは反対したが、成算があったわけではなく、僥倖《ぎょうこう》をあてにしただけだった。白髪の巡査部長は目をパチクリさせながら、われわれ三人を交互に見くらべた。――唇が裂け、すりむき傷だらけの顔をした私と、私の最初の一撃が命中した目の下を腫らしたテナントと、腰から上の着ているものはあらかたちぎれ、頬にあざをこしらえた女と。
「とにかく、相当なものですな」巡査部長は声高にいった。「これじゃ捜査課にでも行くよりほか、おさまりどころがありますまいて」
私は警官の一人に付添われて廊下に出て行き、家にいたオガーを電話に呼び出した。時間はもう十時に近く、彼は寝支度にかかったところだった。
「ギルモア事件のケリをつけようとしていたんだ」私は彼にいった。「署で会おう。ギルモアを発見したケリーという巡査をつかまえて、連れてきてくれ。彼に面《めん》通しをして欲しい連中がいるんだ」
「わかった」とオガーは約束し、私は電話を切った。
三人の警官がキャラ・ケンブルックの通報に応じて乗ってきたパトカーで、われわれは警察へ、それからマクタイ警部が当直にあたっていた捜査主任室へ連れていかれた。
私はマクタイ警部とは知合いだったし、折合いも悪くはなかったが、市の政治に、私は関係がなく、テナントは関係していた。テナントが私に濡れぎぬを着せようとするのを、故意にマクタイが助けるとは思わなかったが、市の建設局次長対私ということになれば、こっちの分が悪いことはわかりきっていた。
女になぐられて|こぶ《ヽヽ》だらけになった頭がズキズキ痛んだ。テナントとキャラ・ケンブルックが、さっきの巡査たちには話さなかった細部をつけたしながら説明をし、傷を見せる間、私は頭をさすりながら、だまってすわっていた。
テナントが女の悲鳴を聞きつけ、部屋にとびこんだ時に目にした恐るべき光景なるものを弁じたてているところへ、オガーがはいってきた。彼はテナントを見知っているらしく、目を丸くし、私のそばへ来てすわった。
「いったいどうしたんだ?」と彼は小声でいった。
「愚にもつかん、ごたごたさ」私も小声で答えた。「ところで、頼みがある。――机の上にあるニッケルめっきの拳銃の中に、からの薬莢が一個はいっている。それをとってきてくれ」
彼は疑わしげに頭をかき、テナントの話になお二言三言耳を傾け、ちらりと私に流し目をくれてから、机のところへ行って拳銃をとり上げた。
マクタイがするどい、詰問するような目で彼を見た。
「ギルモア殺しに関係したことでね」と部長刑事は拳銃を二つに折りながらいった。
警部はなにかいいかけてやめ、オガーは薬莢を持ってきて私に手渡した。
「どうも」と私はいって、それをポケットにしまった。「まあ、そこにいるおっさんの話を聞けよ。どうして、なかなかの熱演だぜ」
テナントの話は大詰めにさしかかろうとしていた。「……弱い女にそういうことをしかける男に限って意気地がないもので、いったん拳銃をとり上げてしまってからは、あしらうのは造作もなかった。二つ三つパンチを食わしたらへなへなとなって、やめてくれと膝をついて頼むじゃないか。それからわれわれは警察を呼んだ」
マクタイは冷たい、きびしい目で私を見た。
テナントはマクタイに自分を信用させ、彼ばかりでなく、巡査部長と二人の部下も私をにらみつけていた。何度となく私と一緒に嵐をくぐってきたオガーさえも、もしテナントが、私が膝をついて許しを乞うたという蛇足をつけ加えなかったら、半分ぐらい信用させられていたのではないかと思う。
「さあ、あんたの言い分は?」今さら私が何をいおうと、たいして変わりはなさそうに思わせる声音《こわね》でマクタイがいった。
「そんな夢物語に、なにもいうことはない」私はそっけなくいった。「わたしの関心があるのはそんなことじゃなくて、ギルモア殺しだ」私はオガーのほうを向いた。「例の巡査はきているかい?」
部長刑事はドアのところへ行って、呼んだ。「おい、ケリー!」
ケリーがはいってきた。鉄灰色の髪に、賢そうなふとった顔をした、姿勢のまっすぐな大男だった。
「ギルモアの死体を見つけたのはきみかね?」と私はきいた。
「そうです」
私はキャラ・ケンブルックを指さした。「このひとを前に見たことがあるかい?」
彼は灰色の目で注意深く彼女を観察した。
「おぼえがありません」と彼は答えた。
「このひとはきみがギルモアを見ている間に通りを歩いてきて、死体のすぐ鼻さきの家にはいって行きはしなかったかね?」
「いいえ」
私はオガーがさっき渡してくれたからの薬莢をとり出し、巡査の前の机の上にのせた。
「ケリー――」私はきいた。「きみはなぜギルモアを殺したんだ?」
ケリーの右手が上着のすその下の、尻のあたりに伸びた。
私は彼にとびついた。
だれかが私のえりをつかんだ。別のだれかは私の背中にのしかかった。マクタイは大きなこぶしを私の顔に叩きこんだが、ねらいが外れた。それから急に下から脚を蹴られ、私はみんなの下敷きになってどっと倒れた。
立上がらされてみると、大男のケリーは手にした制式拳銃の重みをはかるような手つきをしながら、机の前に直立していた。彼は濁りのない目で私の目を見て、拳銃を机の上に置いた。それからバッジをはずして拳銃のそばに置いた。
「事故だったんです」と彼は簡潔にいった。
その時ようやく、私を虐待していた連中も、もしかしたら自分たちの知らないことがあったのかもしれず、私が偏執狂ではないのかもしれないという事実に目がさめたようだった。私の体から手をはなして、みんなケリーの話に耳を傾け始めた。
ケリーは動揺もなく曇りもない目で、急がず、声をふるわしたりはり上げたりもせず、話を進めて行った。
「あの夜、私はパトロールをしていて、ジョーンズ通りからパイン街にはいる角をまわった時、一人の男が建物の階段から玄関へかけ戻るのが目にとまりました。泥棒だ! と私は思い、足音をたてずにそのほうへ近づきました。それは暗く、奥の深い玄関でした。
「出てこい! と私は叫びましたが、返事はありませんでした。私は拳銃を構えて階段をのぼり始めました。すると相手が動き出し、こちらへ出てこようとするのが見えました。その時、私は足をとられました。いちばん下の段が、すり減ってすべりやすくなっていたのです。私は前のめりに倒れ、はずみに拳銃が暴発して、弾丸がその男にあたってしまいました。その時には、その男はかなりこちらへ出てきていて、弾丸にあたって前向きに倒れ、階段から歩道にころげ出ました。
見ると、それはギルモアだとわかりました。私は彼に会えば[こんちは]の挨拶ぐらいはするし、彼のほうでも私を知っていました。だから彼は私が角をまわってくるのを見て、姿を隠そうとしたのでしょう。彼は自分が、ミスター・テナントが住んでいることを知っている建物から出てきたのを、私に見られたくなかったのに違いありません。それとこれとをつき合わして私が推理をめぐらし、人にしゃべるかもしれないと思ったのでしょう。
私が嘘をついたのはよいことだとは思いませんが、それでだれかが傷つくわけではありません。あれは事故でしたが、あの人にはえらい友だちがたくさんいるし、事故であろうとなかろうと、私の将来は挫折し、もしかしたらしばらく刑務所に送られるかもしれない状況に追いつめられていました。それで私はみなさんのご存知のような話をつくり上げたわけです。なにか疑わしいことを見たと私がいえば、きっとだれか無実の人に迷惑がかかることになるだろうし、そんなことにならせたくありませんでした。もしだれかがこの事件で逮捕され、その人たちに状況が悪くなったら、私がやったのだと名乗り出ようと心にきめていました。事情をすっかり書いた告白書が――私の身に何かが起こった場合、ほかのだれかに罪が着せられないように、書いておいたものが――家にあります。
ここにいる、この女の人を見なかったといったのも、その理由からです。じつは見ました。あの夜、このひとがあの建物――ギルモアが出てきたあの建物――から出てくるのを私は見ました。でも、見たといったら、このひとの立場を悪くせずには済みますまい。だから嘘をついたのです。もっと時間があれば、きっと、もっともっともらしい話をでっち上げられたでしょうが、時間がありませんでした。とにかく、すっかりお話してしまって、さっぱりしました」
ケリーも、そのほかの制服警官もいなくなってしまい、室内にはマクタイとオガーとキャラ・ケンブルックとテナントと私だけになった。テナントは私のそばに寄ってきて、弁解を始めた。
「今夜のことについて、ぼくに謝罪をさせてくれたまえ。しかし、自分の愛するだれかが面倒に巻きこまれているのを見たらどんな気持になるか、きみだってわかるだろう。キャラを助けるためなら――もちろんそれが正当なことだとしてだが――ぼくは殺人だっておかすだろう。なぜきみは、彼女を疑っていないことを教えてくれなかったんだ?」
「いや、わたしはあんたがたを疑ったよ」私はいった。「ケリーがやったに違いないようには見えた。しかし、あんたがたがあんまり|あこぎ《ヽヽヽ》なことをやり続けるので、わたしはあんたがたを疑い始めた。はじめのうちはおもしろかった――あんたは彼女がやったのだと思い、彼女はあんたがやったのだと思いこんでいるのが。むろん、その前に、どちらも自分がやったのじゃないと相手に誓っていたんだろうが。しかし、そのうちに、おもしろくなくなってきた。あんたがたはやり過ぎたよ」
「どうしてケリーだと目星をつけたんだい?」横合いからオガーがきいた。
「銃声が聞こえた時、ミス・ケンブルックはレブンワース通りを北に向かって、ブッシュ街とパイン街の間を歩いていた。そして角を曲るまで、人も車もぜんぜん見えなかった。いっぽうジョーンズ通りを北に向かって、同じ時、同じぐらいの距離のところを歩いていたミセス・ギルモアも、パイン街に行き着くまでだれも見かけなかった。もしケリーが本当のことをいっているのだったら、ミセス・ギルモアはジョーンズ通りで彼の姿を目にしたはずだ。銃声がした時、彼はまだその通りの角を曲っていなかったといっているんだから。
女たちのうちどちらでも、ギルモアを殺した可能性はあるが、二人が共謀してやったということはまず考えられないし、どちらかが彼を殺して、ケリーにも、女たちのうちのもう一人にもぶつからずに逃げおおせるということも、ありそうには思えなかった。それでは女たちが二人とも本当のことをいっているとしたら? ――ケリーが嘘をついているんだ! どっちにしろ、論理的にいっていちばん怪しいのはケリーだということになる。わかっている限り、拳銃が発射された時、現場のいちばん近くにいた人間は彼なんだから。
さらにおかしいのは、ミス・ケンブルックが午前三時にあのアパートへはいって行くのを、そのまん前で人が殺されたというのに、尋問もせずに通し、報告書にも彼女のことが書きこまれていなかったことだ。まるで、犯人はだれなのか、彼が知ってるみたいじゃないか。そこでぼくは、からの薬莢のトリックに賭けてみた。彼が自分の拳銃の薬莢を捨ててしまった公算《こうさん》大とにらんで、あの薬莢をだしてみせたら――」
マクタイの重くるしい声が私の説明を中断させた。
「暴行の訴えのほうはどうなったんですかね?」と彼はたずね、さすがに、みんなと一緒にそちらを向いた私の目を避けるだけの羞恥心は持ち合わせていた。
テナントは咳ばらいをした。
「ええ――その――物事の成行がこんなふうになったことでもあるし、この種のことにつきものの不愉快な世評が立つのを、ミス・ケンブルックは望まないだろうから、いっさい何もなかったことにして水に流してはどうかね?」彼はせいいっぱいの笑顔をマクタイから私のほうに向けた。「――まだ公式の書類にもなっていないことだし」
「もちろん、ミス・ケンブルックがどうしても訴えをとり下げないというのでなければ――」マクタイは目のすみで私の様子をうかがいながらいった。「こちらはいっこうに――」
私はいった。「こちらはぼくをひっかけようとした謀略だったということをみんなが認め、あの話を聞いた警官たちを今ここへ呼んできて、テナントとミス・ケンブルックの口から、あれはみんなでたらめだったと取消すなら、ぼくはそれで我慢しよう。さもなけりゃ、このままじゃ済まさないよ」
「ばかだな、おまえは!」オガーがささやいた。「もっと油をしぼってやれよ!」
しかし、私はかぶりを振った。ほかのだれかを多少痛い目に会わせるために、さんざん面倒な手数をかけることに、なんの意味もあるとは私には思えなかった。それに、もしテナントが自分の話を証明できたとしてみろ――
警官たちが部屋に連れてこられて、真相が告げられた。
それからやがて、テナントと女と私は、三人の仲よしの古い友だちのように、廊下を玄関のドアのほうへ歩きながら、テナントはまだ、なにかその夜の償ないをさせてくれといい続けていた。
「なにかさせてくれなくっちゃ!」彼はいい張った。「それでなくちゃ、ぼくの気が済まないよ!」
彼はコートのポケットに手をさし入れて、分厚い札束をとり出した。
彼はいった。「さあ、これを受取ってくれ」
その幸福な瞬間、われわれはカーニイ街に出る玄関の六、七段ある石段をくだりかけていた。
「いや」私はいった。「それより、こいつを――」
私が手を伸ばして、思いきり突きとばした時、彼はてっぺんから二つ目の段にいた。
彼は下までころげ落ちて、ぐちゃりとした塊まりになった。
うつけた顔の女に彼の介抱をまかせておいて、私は厚いビフテキを食わせるレストランを目ざして、ポーツマス広場を抜けてそぞろ歩いて行った。
[#改ページ]
蝿とり紙
一
それは家出娘に関する仕事だった。
ハンブルトン家は何代かにわたって、資産もあり、世間の聞こえもいいニューヨークの名家として続いていた。その一家の歴史のどこをつついても、一族の最年少者であるスーの行状《ぎょうじょう》や性癖の説明となるようなものはなにも出てこなかった。彼女は子供のころからひねくれたところがあり、洗練された世界を嫌って粗野な世界を好んだ。一九二六年に二十一歳になったころには、彼女ははっきりと、五番街より十番街を、銀行家よりペテン師を好み、彼女に求婚したセシル・ウィンダウン議員よりも、[鋲《びょう》打ち]ハイミーをえらんだ。
両親はスーの行状を正そうとしたが、もう遅すぎた。法的に、彼女はすでに成年に達していた。あげくに、勝手な捨てぜりふを吐いて家を出て行ってしまった時、それに対して彼らにできることはあまりなかった。父親のウォルド・ハンブルトン少佐は、かつては持ったこともある、彼女を救おうとする望みはすっかり捨ててしまったものの、避けられる限りは、娘を憂き目に会わせたくなかった。そこで彼はコンチネンタル探偵社のニューヨーク支社にやってきて、彼女から目を離さないようにしてくれと依頼したのだった。
[鋲打ち]ハイミーは地元の仲間たちとうまくいかなくなったあと、青の格子縞の油布にくるんだトムソン式軽機関銃をかかえて、その大都会へと北上してきたフィラデルフィア出身のならず者だった。機関銃で仕事をするには、ニューヨークはフィラデルフィアほどいい場所ではなかった。一年ばかり、ハイミーが自動拳銃をふところに、ハーレムで小さなクラップばくちの賭場《とば》荒しで糊口《ここう》をしのいでいる間、あたらトムソン銃はあくびをしていた。
スーがハイミーと暮らすようになって三、四ヵ月たったころ、彼はニューヨークに西部なみの規模の組織をつくろうとしてシカゴから乗りこんできた最初の一党と、いい目の出そうなつながりができた。しかし、シカゴからきた連中はハイミーが欲しかったわけではなかった。欲しかったのはトムソン銃だった。雇ってもらう大きな条件として、それを彼等に見せると、彼等はハイミーの頭に風穴をあけ、銃を持って行ってしまった。
スー・ハンブルトンはハイミーを埋葬したあと、食べるために指輪を質に入れたりして二週間あまりをさびしく過ごし、それからバソスという名のギリシア人が経営するもぐり酒場のホステスに雇われた。
バソスの店の常連にベーブ・マクルアという男がいた。百十キロもの頑強な骨格と筋肉だけでできているような、スコットランドとアイルランドとインディアンの混血の、黒い髪に青い目をした大男で、ニューオリンズからオマハまでの間にある小さい郵便局をほとんど総なめに襲ったかどで、レブンワース刑務所で十五年の刑期をつとめあげたあと、しばらく神妙にしているところだった。ただ、暗い通りで通行人を脅したりして、飲みしろだけはどうにか都合していた。
ベーブはスーを気に入った。バソスもスーを気に入った。スーはベーブが気に入った。バソスにはそれが気にいらなかった。嫉妬がそのギリシア人の判断を誤らせた。ある夜、彼はもぐり酒場のドアに鍵をかけて、ベーブを店にはいらせまいとした。しかし、ベーブはドアの破片を手にしてはいってきた。バソスは拳銃をとり出したが、腕にすがりついたスーを振りきることができなかった。ベーブは真鍮のノブのついたドアの破片で彼をなぐりつけ、彼は動かなくなった。ベーブとスーは手をとり合ってバソスの店におさらばした。
そのころまで、ニューヨーク支社はどうにかスーとつながりを保っていた。といっても、常時監視をしていたわけではない。父親の依頼は、絶えず見張れというのではなかった。そうではなくて、支社では毎週一遍ぐらいの割合で人をやって彼女がまだ生きていることを確かめ、友だちや近所の人たちから――もちろん、監視していることを彼女に知られないようにして――なにくれとなく情報を拾わせた。そこまではやさしい仕事だったが、彼女とベーブがそのジン酒場を破壊して逐電《ちくでん》してからあと、彼女の消息は完全にとだえた。
市内をくまなく捜索してもむだとわかると、ニューヨーク支社は前記のような説明にスーと彼女の新しいプレイメートの写真と特徴書を添えた手配書を全国の支社局に配布した。一九二七年の末のことだった。
われわれのところでも写真をふんだんに焼き増しして、それから一月かそこら、手の空いた暇があると、消えた男女を求めてサンフランシスコとオークランドをさがしまわった。しかし、見つからなかった。他の都市の探偵たちも同じことをしたが、結果は同じだった。
それから一年近くたって、ニューヨークの支社から一通の電報が届いた。コードを解読すると、電文はこうだった――
ハンブルトンショウサハ/キョウ/サンフランシスコニイルレイジョウカラ/エディスガイ(街)六○一ノアパートノ二○六ゴウシツキツケ(気付)デ千ドルオクレトノデンポウヲウケトッタ」デンポウニハサラニ/イママデノコトヲユルシテクレルナライエニカエル」ユルスイシ(意思)ガアルカドウカシラセテホシイ」シカシドチラニセヨカネハオクッテホシイ」トノベラレテイタ」ハンブルトンハタダチニレイジョウニカネヲトドケルヨウ/ワレワレニイライシタ」シカルベキタンテイニカネヲモタセ/レイジョウヲタズネテ/レイジョウニキタクヲウナガセラレタシ」デキレバオトコトオンナノタンテイヲクミニシテツキソワセルノガヨカロウ」ハンブルトンモチョクセツレイジョウニデンポウヲウツ」イジョウ/シキュウデンポウニテヘンジヲコウ」
二
局長《おやじ》は私にその電報と小切手を渡しながらいった。
「状況はわかったな。どう扱えばいいかもわかっているだろう」
私はわかっているふりをして銀行へ行き、小切手を何通りかの大きさの紙幣の束にして電車に乗り、エディス街六○一番地の、ラーキン通りとの角にあるかなり大きなアパートの建物に行った。
入口の二○六号室の郵便受けにはJ・M・ウェールズという名札がついていた。
私は二○六号室のボタンを押した。建物の玄関の遠隔操作式の開錠装置がブザーの音をたてて作動すると、私は建物の中にはいり、エレベーターの前を通り過ぎて階段を上がった。二○六号室は階段からとっつきの角をまわったところだった。
部屋のドアをあけたのは、行儀よくダークスーツを着た三十ぐらいの年ごろの背の高い痩せた男だった。長い青白い顔に、細い黒い目をしていた。頭にぴったり貼りつくように撫でつけられた黒っぽい髪には、すこし白髪がまじっていた。
「ミス・ハンブルトンにお会いしたい」と私はいった。
「それで――ご用件は?」声の調子はなめらかだったが、愛想がいいというほどではなかった。
「お会いしたいんですよ」
彼の上まぶたがすこし下がり、その上の眉がすこし寄った。「それは――」と彼はたずねかけて、私の顔をじっと見ながら言葉を切った。
私はだまっていた。それから彼は質問のあとをつづけた。
「なにか、電報に関係したことかね?」
「ええ」
長い顔の表情がたちまち明るくなった。彼はたずねた。
「彼女の親父さんがあんたをよこしたのかね?」
「ええ」
彼はうしろへ下がり、ドアを大きくあけていった。
「はいれよ。つい今しがた、ハンブルトン少佐からの電報がついたところだ。だれかをよこすといってきたっけ」
われわれは細い廊下を通って、日当たりのいい居間に行った。家具や調度は安っぽいが、部屋はけっこうきれいに片づいていた。
「すわれよ」と男は茶色のロッキング・チェアを指さしながらいった。
私はすわった。彼は私とさし向かいに、目の荒い麻布のカバーのかかったソファにすわった。私は部屋を見まわした。女が住んでいることを示すものは何も見あたらなかった。
彼は長い鼻梁を、それより長い人差指でこすり、のろのろとたずねた。
「金は持ってきたのかい?」
それより彼女と話したい、と私はいった。
彼は鼻をこすっていた指を見つめ、それから目を上げて私を見て、やわらかくいった。
「でも、ぼくは彼女の友だちなんだぜ」
「ほう?」と私はそれに対していった。
「だとも」と彼はうけ合った。彼は唇のうすい口もとをひきつらせて、ちょっと顔をしかめた。
「金を持ってきたかどうか、それをきいてるんだよ」
私はだまっていた。
「というのはだな」彼はしごくもっともらしくいった。「あんたが金を持ってきているのなら、もちろん彼女は自分以外のだれにもそれを渡させやしないさ。だが、あんたが金を持ってきていないのなら、会いたくないんだとさ。ぼくが思うに、その気持は変えさせられそうもないね。だから、金を持ってきたかときいているんだ」
「持ってきている」
彼は疑わしげに私を見た。私は銀行から受取ってきた金を彼に見せた。彼はとびはねるようにソファから立った。
「すぐ連れてくる」彼は長い脚でドアのほうに歩きながら、肩ごしにいった。戸口で彼は立ちどまってたずねた。「本人を、あんたは知ってるのかい? なんなら、身分証明になるものを持ってこさせようか?」
「ああ、そう願えればね」と私はいった。
彼はドアをあけ放しにして出て行った。
三
五分とたたないうちに、彼はうす緑色の絹のドレスを着た、もし本人だとすれば二十三歳になるはずのほっそりとしたブロンドの娘を連れて戻ってきた。小さい口のしまりがなく、青い目のまわりが出っぱり気味なのが難だが、どちらも器量を台なしにするほどではなかった。
私は立上がった。
「ミス・ハンブルトンだよ」と男はいった。
彼女は私をちらりと見て、それから手にしたハンドバッグの革紐を神経質そうにもてあそびながら目を伏せた。
「証明できますか?」と私はきいた。
「もちろん」と男がいった。「それを見せておあげ、スー」
彼女はバッグをあけ、何かの紙きれや品物をとり出して私のほうにさし出した。
「すわって、すわって」私がそれを受取るのを見定めて、男はいった。
彼らは腰をおろした。私もまたもとのロッキング・チェアに腰をおろして、彼女が渡してくれたものをあらためた。――そのアパートの住所でスー・ハンブルトンに宛てられた手紙が二通、よろこんで帰宅を待つという父親からの電報、名宛のはいった百貨店のレシートが二枚、自動車の運転免許証、残高が十ドルもない預金通帳が一通。
私が検分を終えた時には、もう娘にはおどおどした様子がなくなっていた。彼女はわきにすわっている男と同じように、まともに私を見た。私はポケットをさぐり、捜索が始まった時にニューヨーク支社から送られてきた写真をとり出して、それと彼女とを見くらべた。
「口はちぢんだのかもしれないな」私はいった。「しかし、鼻は、どうしたらそんなふうに伸びるんだろう?」
「あたしの鼻が気にいらないんなら――」彼女はいった。「さっさと、どこへでも行ったらどう?」彼女は顔を真赤にしていた。
「そんなことを問題にしてるんじゃない。きみの鼻はすてきな鼻だよ。ただ、スーの鼻じゃないってだけさ」私は写真を彼女の目の前にさし出して見せてやった。「自分で見るといい」
彼女は写真をにらみ、それから男をにらみつけた。
「なんてお利口さんだこと」と彼女は男にいった。
男は細い筋になった瞼のあいだにのぞいて見える、いらただしげな光の宿った黒目で私の様子をうかがっていた。彼は私に注目したまま、口の端できびしく女にいった。
「だまってろ」
女はだまった。彼はすわったまま私を注視していた。私もすわったまま、彼を注視していた。私の背後で時計のきざむ音がばかにはっきりと聞きとれた。男の目は私の片方の目からもうひとつの目に、焦点を移し始めた。女はため息をついた。
男は低い声でいった。「それで――?」
私はいった。「あんたの立場はよくないね」
「どうしようってんだい?」彼はかるい調子でたずねた。
「詐欺の共同正犯だ」
女はとび上がって、手の甲で男の肩をピシャンと打って叫んだ。
「なんてお利口さんだこと、あたしをこんな面倒に巻きこむなんて! なによ、お茶の子さいさいだなんて! なによ、赤ん坊の手をひねるようなもんだなんて! それが、どう? この男に、消えてうせろっていってやる度胸もないんだから」彼女はくるりと私のほうに向き直ると、まだロッキング・チェアにすわったままだった私の顔に、真赤になった自分の顔を押しつけるようにして、叫んだ。
「さあ、何を待ってるのよ? さよならのキスをしろっていうの? あんたにはなんの借りもないでしょ? 一セントだってあんたのお金をチョロまかしたわけじゃないんだから。だったら、出て行ってよ。外へ! さっさと!」
「やめろ、おねえちゃん」私はどなった。「ものがこわれちまうぜ」
男がいった。
「頼むから、わめくのはやめろ、ペギー。すこしは人にもしゃべらせるもんだ」それから私にむかって、「それで、どうしろってんだい?」
「あんたはどういういきさつでこれに首をつっこんだんだ」と私はきいた。
彼は早口に、熱心にしゃべり出した。
「ケニーってやつがおれにあのネタをよこして、スー・ハンブルトンのことや、彼女の親父さんが金持ちだなんてことを話してくれたのさ。それでおれはちょいとやってみる気になった。おれの方寸《ほうすん》じゃ、親父さんはだまって金を電報で送ってくるか、さもなきゃぜんぜん送ってよこさないかのどちらかだと思った。こんなふうに人をよこすってことは、おれの考えにはなかった。それから彼女に会いに人をよこすって電報が届いて、その時におれはおりればよかったんだ。
だけどよ! ここに千ドルの現金を持った男がやってこようとしてる。何もせずに見送っちまうには、おいしすぎる話じゃないか。まだチャンスがあるかもしれないとおれは思ったので、ペギーにスーの替え玉をやらせることにした。もしだれかが今日やってくるとすれば、そいつは西海岸に住んでるにきまってるから、直接にはスーを知らないで、せいぜい人相書を持ってるぐらいだろうと思ったのさ。ケニーから聞いたところじゃ、ペギーは彼女の特徴にかなり合ってるはずだった。あんたがどうしてその写真を持ってるのか、いまだにおれには合点がいかない。テレビジョンでも使ったのかね? おれが親父さんに電報を打ったのは、つい昨日のことだ。ここの住所でスーに宛てた手紙を投函したのも昨日さ。電信会社から金を受取る時の身分証明にするつもりでな」
「親父さんの住所はケニーが教えたのか?」
「そうさ」
「スーの住所は?」
「教えなかった」
「ケニーはどうしてこんなネタをつかんだんだ?」
「いわなかったよ」
「ケニーは今どこにいる?」
「さあね。やつはほかに火急のことがあって、東部へ行くといってた。こっちのほうは、かまっちゃいられないって。だからおれに譲ったのさ」
「気前のいいことだ」私はいった。「あんたはスー・ハンブルトンを知ってるのかね?」
「いや」と彼は強くいった。「ケニーから聞くまで、名前も知らなかったよ」
「どうもそのケニーというのが気にいらんな」私はいった。「その男がいなけりゃ、あんたの話にも多少の取得《とりえ》はあるんだが。その男をぬきにして説明をし直してくれんかな?」
彼はゆっくりかぶりを振りながらいった。「嘘をいうわけにゃいかんさ」
「残念だな。わたしにとっちゃ、詐欺犯人なんかよりスーを見つけるほうが大事なんだが。あんたと取引ができるとよかったんだがな」
彼はまたかぶりを振ったが、目に思案の色が浮かび、下唇が動いてすこし上唇にかぶさった。
女は二人がしゃべるのが見えるように後にさがって、二人の顔を交互に目で追いながら、気にいらぬ顔でながめていたが、今や男の顔に視線を釘づけにし、目にはふたたび怒りがにじんできた。
私は立上がりながらいった。
「好きにするさ。だが、そっちがそう出るのなら、二人とも一緒にきてもらわなくちゃならんな」
男は唇を内側に巻きこむようにして、にやりと笑って立上がった。
女は二人の間に割りこんで、彼のほうに向いた。
「シラをきり通そうとしても、もうだめよ」彼女は男に浴びせた。「しゃべっちまいなさいよ、やせっぽち。さもなきゃ、あたしがしゃべるわ。あたしがあんたと心中すると思ったら、あんたは気ちがいよ」
「だまれ」と彼はのど声でいった。
「だまらせてみなさいよ」と彼女は叫んだ。
彼は両手を使って、だまらせようとした。私は彼女の肩のうしろから手を伸ばして、彼の一方の手首をつかみ、もう一方の手をはね上げた。
彼女は二人の男の間からぬけ出して私のうしろに隠れ、金切声を上げた。
「ジョウは知ってるわ。あのいろんなものは、その女からもらったのよ。あの女はオファレル街の[セント・マーチン]ってアパートにいるわ――ベーブ・マクルアと一緒に」
私はそれを聞きながら、頭をわきに引いて彼の右手のフックをかわし、彼の左腕を背後にねじ上げ、彼の膝を尻で受けとめ、左手の掌で彼の顎をこじ上げなくてはならなかった。それから彼の顎に日本式の突きを入れようとした時、彼は抵抗をやめてうなるようにいった。
「しゃべるよ」
「早くいえ」私は承知して、彼から手をはなし、あとへさがった。
彼は私にねじられた手首をさすりながら、私を通りこして女をののしった。彼は彼女を四通りの言い方で呼び、その中でいちばんおとなしいのが「くそ女郎」というのだった。
「おれたちをブタ箱に放りこむなんて、おどしにきまってるじゃないか。ハンブルトンの老いぼれが、新聞ダネになるのをよろこぶと思うのか?」それはわるい着眼ではなかった。
彼はまだ手首をさすりながらソファに腰をおろした。女は部屋の反対のすみに逃げたまま、彼をあざ笑っていた。
私はいった。「さあよし、しゃべるんだ、二人のうちどちらでも」
「もうわかったろ」彼はぶつぶついった。「おれは先週ベーブのところへ行ってあれを見て、話を知り、だまって放っとくにはもったいないと思ったのさ」
「ベーブは今、何をしているんだ?」と私はきいた。
「おれは知らないよ」
「知らんだろうともさ」
「本当に知らないんだ」彼はいい張った。「ベーブって男は、自分が何をやってるか、ぜんぜんしゃべらないんだよ」
「彼とスーは、この土地へきてどれくらいになるんだ?」
「おれが知ってるのは、ここ六ヵ月ぐらいさ」
「だれと組んでるんだ?」
「おれは知らんよ。ベーブはいつでも相棒を道ばたで拾って、仕事が終ると道ばたでおさらばするんだ」
「彼の暮らし向きは?」
「わからないね。とにかく、やつのところにゃいつでも、食うものと飲むものはたっぷりあるよ」
三十分ぐらい押し問答をしたあげく、それ以上のことは聞き出せそうもないと納得がいった。私は廊下にある電話で探偵社を呼び出した。交換台の男は探偵の溜まり部屋にマbクマンがいると教えてくれた。私は彼にこっちへきてもらうように頼み、居間に戻った。私がはいって行くと、ジョウとペギーは寄せていた頭をパッと離した。
十分たたぬうちにマックマンはやってきた。私は彼を中に入れて、いった。
「こっちの男は自分でジョウ・ウェールズという名前だといい、女は上の四二一号室に住んでいるペギー・キャロルだと思われる。詐欺の共謀の事実ははっきりしているんだが、おれはこいつらと取引をした。これからおれは出て行って、ちょっとしらべてくる。ここに、この部屋にいて、こいつらを見張ってくれ。だれも中に入れず、だれもここから出さず、電話のところへも、あんたのほかはだれも行かせるな。窓のむこうに非常階段がある。今、窓はしまっている。そのままにしておいて欲しい。まともな取引だとわかったら、こいつは放してやるが、おれの留守中にこいつらが手むかいしたら、好きなだけなぐりつけて構わんぜ」
マックマンは固い丸い頭をうなずかせると、彼等とドアとの間に椅子を引っぱってきた。私は帽子をとり上げた。
ジョウ・ウェールズが呼びかけた。
「なあ、おれのことをベーブにばらしゃすまいな? こいつも取引のうちだぜ」
「必要さえなけりゃ、だまってるさ」
「成行きにまかせて、裁判にかけられたほうがよかったかもしれねえな」彼はいった。「牢屋の中にいるほうが安全かもしれねえや」
「できるだけ、おまえのことは引合いに出さないでやる」私は約束した。「しかし、それでもくばられてきたカードは、受けとるより仕方がないさ」
四
ウェールズのアパートから通りをたった五つか六つ越したところにある[セント・マーチン]をさして歩きながら、私はベーブと女のところへ、先週アラメダで起こった銀行支店強盗事件の犯人としてベーブに疑いをかけているコンチネンタル社の探偵のふりをして乗りこむことにきめた。銀行の連中が教えた強盗の人相が、半分でも正解だとすれば、彼はその事件には関係なく、したがって私のでっち上げた嫌疑で、彼がそれほどあわてることはないはずだった。そればかりか、彼は自分の潔白を証明しようとして、なにか私の利用できる情報を漏らしてくれまいものでもなかった。むろん、私の最大関心事は、女の父親に娘さんを見たと報告できるように、彼女を実際に見ることだった。彼女の父親が彼女から目を離さずにいようとしていることを、彼女とベーブが知っていると想定すべき理由はなにもなかった。ベーブには前科がある。探偵が時おりやってきて、彼になにかをおっかぶせようとすることはごくしぜんのことだ。
[セント・マーチン]は三階建ての赤い煉瓦づくりのアパートで、それより高層のホテルに両側をはさまれていた。入口の名札には、ウェールズとペギーが教えた通り、[三一三号――R・K・マクルア]と書かれていた。
私は呼鈴のボタンを押した。反応がなかった。四回押しても、一度も反応はなかった。私は[管理人]と札の出ているボタンを押した。
カチリと音がしてドアが開いた。私は中にはいった。アイロンをかけたほうがよさそうな、ピンクの縦縞の木綿のドレスを着た肉づきのいい女が、通りからはいってすぐの部屋の戸口に立っていた。
「マクルアという人が住んでますね?」と私はきいた。
「三百十三号室よ」と彼女はいった。
「もう長く住んでるんですか?」
彼女はぽってりとした唇をすぼめ、じっと私を見ながらためらったが、ようやく答えた。「この六月からよ」
「どんな人たちです?」
彼女はあごと眉を上げて、返答を避けた。
私は彼女に名刺を渡した。それは私が彼等の部屋へ行くのに使うつもりでいる口実に適合しているので、問題はなかった。
名刺を読んでから上げた彼女の顔は、好奇心に輝いていた。
「おはいりなさいな」と彼女は戸口から後退しながら、嗄《しゃが》れ声でささやくようにいった。
私は彼女について中にはいった。二人は長椅子に腰をおろし、彼女はひそひそ声でたずねた。
「どういうことなんですの?」
「何でもないかもしれないんですがね」私は彼女の芝居がかった調子に合わせて、声を低めた。
「彼は金庫破りで刑務所にいたことがありましてね。最近あったちょっとした事件に、彼がからんでいるかもしれないと思って、このごろの彼の様子が知りたいんですよ。でも、本当に関係しているかどうかはわかりません。なにも確信があるわけじゃないんです」私は彼の写真――レブンワース刑務所でとられた、正面と横顔のを、ポケットからとり出した。「この男ですね?」
彼女はそれをもどかしげにつかむと、うなずいていった。「ええ、たしかにこの人だわ」それから裏返して説明を読むと、もう一度くり返した。「そう、たしかにこの人よ」
「細君も一緒に住んでいるんですか?」と私はきいた。
彼女は強くうなずいた。
「私は細君を知らないんですがね」私はいった。「どんな女のひとです?」
彼女の説明からすると、それはスー・ハンブルトンであるかもしれなかった。しかし、スーの写真をとり出して見せるわけにはいかなかった。彼女とベーブがそのことを聞いたら、私の意図がばれてしまうおそれがあった。
私はその女管理人に、マクルア夫婦について知っていることをたずねた。彼女が知っているのは、家賃をきちんと払うとか、時間が不規則だとか、ときどき人を呼んで酒を飲むとか、よく喧嘩をするとか、あまりたいしたことではなかった。
「今、いるんですかね?」私はきいた。「ベルを鳴らしたんだけど、答がないんですよ」
「さあ、どうかしらね」彼女は小声でいった。「わたしはおとといの晩から、どちらも見かけてないのよ。あの夜もまた喧嘩をしてたけど」
「ひどい喧嘩でしたか?」
「いつもにくらべて、そうひどいのでもなかったわ」
「二人がいるかどうか、見てもらえませんか?」と私はたのんだ。
彼女は目のすみから私を見た。
「あなたにはなにも迷惑はかけませんよ」と私はうけ合った。「しかし、もし彼等が逃げ出したのなら、そのことを知っておきたいし、あなただってそうでしょう」
「いいわ、見てきましょう」彼女は立上がってポケットをたたき、そこにはいっている鍵束をジャラつかせた。「ここで待っててね」
「わたしも三階までご一緒しましょう」私はいった。「そして、どこか目につかないところに隠れていますよ」
「いいわ」と彼女はしぶしぶ承知した。
三階につくと、私はエレベーターのわきに残った。彼女はうす暗い廊下の角をまわって姿を消し、やがて内にこもったベルの音が聞こえた。それは三度鳴った。それから鍵のガチャつく音と、そのひとつが鍵穴にはまる音がした。カチャリと音をたてて鍵があいた。つづいてドアのノブをまわす音がした。
それから長く感じられる静寂のあと、壁の端から端まで、廊下じゅうに響きわたる悲鳴が聞こえた。
私は廊下の角までとんで行き、それをまわり、あいたドアを前方に見つけて中にとびこみ、うしろ手にドアをとざした。
悲鳴はやんでいた。
そこは、私がとびこんだの以外に三方にドアのある、暗いせまい玄関になっていた。ドアのうち、ひとつはしまっていた。あいているひとつは浴室のだった。私は残るひとつに踏み入った。
ふとった女管理人は、はいってすぐのところに、こちらにまるい背中を向けて立ちすくんでいた。私は彼女を押しのけて前に出、彼女が見つめているものを見た。
黒いレースの縁どりのついた、うす黄色のパジャマを着たスー・ハンブルトンが、ベッドに交差して倒れていた。あお向けだった。伸ばした両腕が頭の上に投げ出されていた。片方の脚は体の下に折り込むように曲げられ、もう一方の脚は伸ばされて、はだしの足の裏が床についていた。その足の色は、生きている足にしては白過ぎた。右の眉から右の頬骨にかけて、色がまだらになって腫れ上がっているのと、のどに黒い鬱血《うっけつ》がある以外は、顔もその足と同じように白かった。
「警察に電話をかけなさい」と私は女にいい、部屋のすみや押入れや引出しをしらべ始めた。
探偵社に戻った時は、午後ももう遅くなっていた。私は資料係にジョウ・ウェールズとペギー・キャロルに関する記録がないか、しらべるようにたのんでから局長室に行った。
局長《おやじ》は読みかけていたなにかの報告書を置き、目顔ですわるように合図して、たずねた。
「娘に会ったかね?」
「ええ。死んでいました」
局長《おやじ》はまるで私から雨が降っていると知らされたような調子で、「そうか」といい、私がウェールズのアパートの呼鈴を押した時から、ふとった女管理人の悲鳴で、死んだ娘の部屋にとびこんで行ったところまでの一部始終を説明するのを、微笑しながら慇懃《いんぎん》な熱心さで聞きとった。
「娘はすこしなぐられたらしく、顔と首にあざができていました」と私は締めくくった。「しかし、それが死因じゃありません」
「殺人だときみは思うのか?」彼は相変わらず穏やかに微笑しながらきいた。
「わかりません。ジョーダン医師は砒素《ひそ》かもしれないといっています。今、死人の体内からそれを検出しようとしています。あのアパートで妙なものを見つけました。一冊の本――[モンテクリスト伯]という本なんですが――の間に、厚ぼったい、濃い灰色の紙を何枚かはさんだのが、一月ばかり前の古新聞にくるまれて、台所のレンジと壁の間の暗いすみっこに押しこまれているのが見つかったんです」
「ああ、砒素入りの蝿とり紙だな」局長《おやじ》はつぶやいた。「メイブリック・セドンズ社の目玉製品だ。水にひたすと、一枚につき四〜六グラムの砒素がとれる。人ふたりを殺すのに十分な量だ」
私はうなずいていった。「わたしも一九一六年にルイビルでぶつかったことがありますよ。ところで、昨日の朝九時半にマクルアがアパートを出て行くのを、ハーフ・ニグロの掃除夫が見ています。娘はたぶんその前に死んでいたんでしょう。それ以後、彼を見かけた者はいません。その朝もっと早くに、となりの部屋の住人が、二人の話し声と、女のうめき声をきいています。しかし、二人はしょっちゅう喧嘩をするので、近所の連中はあまり気にとめなくなってしまっていたんです。管理人の話だと、その前夜にも喧嘩をしたそうです。警察が男の行方を追っています」
「警察に女の素性《すじょう》を知らせたのかね?」
「いいえ。じつはその点なんですが、どうしましょうか? すっかりぶちまけずには、ウェールズのことを、警察に通報することができませんが」
「いずれ、すっかり知れずには、済むまいよ」局長《おやじ》は考え深げにいった。「わたしからニューヨークに電報を打とう」
私は局長室を出た。資料係は新聞記事の切抜きを二つくれた。そのひとつは一年三ヵ月前にジョーゼフ・ウェールズ、別名ホリー・ジョウが、彼とほかに三名の男からいんちきの「事業投資」に誘われて二千五百ドルをまきあげられたという、トゥーミーという名の農夫の訴えにもとづいて逮捕されたこと、もうひとつはトゥーミーが法廷に現れなかった――まき上げられた金の一部あるいは全部を返還するというありきたりの方式で示談が成立したため、公訴棄却になったことを私に教えてくれた。われわれの資料室にあるウェールズに関する資料はそれで全部で、ペギー・キャロルについてはなにもなかった。
五
ウェールズのアパートに戻ると、マックマンがドアをあけてくれた。
「何かあったかね?」と私はたずねた。
「なんにも――ただ二人とも何かをばかにくよくよ苦に病んでたように見えるほかには」
ウェールズが近づいてきて、勢いこんでたずねた。
「納得がいったかい?」
女は窓のそばに立って、心配そうな目で私のほうを見ていた。
私はなにもいわなかった。
「見つかったのかい?」ウェールズは眉根にしわを寄せながらきいた。「あの子はおれが教えた場所にいたろう?」
「ああ」と私はいった。
「そうか、それじゃ――」いくらか安心した表情が彼の顔に戻った。「おれとペギーは放免になる――」彼は途中で言葉をとぎらせ、下で下唇をなめ、手を顎にやって、するどくたずねた。「まさか、おれのことをやつらにばらしたんじゃないだろうな」
私はかぶりを振った。
彼は顎から手をはなして、いらだたしげにたずねた。
「それじゃどうしたんだ? どうしてそんな顔をしてるんだ?」
彼のうしろで、女がにがにがしげにしゃべり出した。
「きっとこんなふうになるとわかってたわ」彼女はいった。「逃げられやしないって、わかってたわ。ほんとに、あんたって、なんてお利口さんだこと!」
「ぺギーを台所へ連れて行って、ドアをしめてくれ」私はマックマンにいった。「ホリー・ジョウとわたしは、本当に腹をうち割って話がしたいんだ」
女はおとなしく出て行ったが、マックマンがドアをしめようとした時、彼女はふたたび頭を室内につっこんでウェールズにいった。
「あんたなんて、隠しごとをしようとして、その人に鼻をへし折られるといいのよ!」
マックマンはドアをしめた。
「あんたのプレイメートは、あんたが何かを知ってると思ってるようだな」と私はいった。
ウェールズはドアの方をにらんで、ぶつぶついった。「あの女ときたら、折れた脚より始末に悪いんだから」彼は率直に親しげに見えるように努力しながら、私のほうに顔を向けた。
「どうしろってのさ? おれはもう洗いざらいしゃべっちまったぜ。こんどはなにがお望みなんだい?」
「何だと思う?」
彼は上下の歯の間に唇を巻きこむようにした。
「何のためにそんなことを答えさせようとするんだい?」彼は反問した。「おれはあんたのいうなりになろうとしてるんだぜ。だけど、おれから何が欲しいのか、それをいってくれなくちゃお話にならないじゃないか。あんたの頭の中までは、おれには見えないよ」
「もし見えたら、さぞかしおもしろかろうぜ」
彼はうんざりしたように頭を振ってソファのところへ戻って行き、両手を膝の間にはさんで前かがみに腰をおろした。
「わかったよ」彼はいった。「ゆっくり、何でもきいてくれ。おれは待つよ」
私は彼の前に行って立った。それから親指をほかの指から離して大きく広げた左手を彼の顎にあてがってグイと顔を上げさせ、そこへ鼻と鼻がくっつくぐらい近く、私の顔をもって行った。そしていった。
「おまえの失敗は、ジョウ、殺しのすぐあとで電報を打ったことだよ」
「やつは死んでたのか?」その言葉は、目が丸く大きくなるより早く口からとび出した。
その質問は私のバランスを崩した。私はひたいにしわが寄りかけるのを懸命におさえて、必要以上の平静さを声にこめてたずねた。
「だれが死んでいたって?」
「だれが? そんなこと、おれが知るかい。あんたはだれのことをいってるんだ?」
「だれのことをいったと思った?」
「知るもんか。そうか、いいさ! スーの親父のハンブルトンじいさんだろ?」
「そうだ」と私はいい、彼の顎から手をはなした。
「それで、殺されたんだって?」彼は私が上げさせた顔を微動だにさせずに、たたみかけてたずねた。「どんなやり方で」
「砒素の――蝿とり紙さ」
「砒素入りの蝿とり紙?」と彼は思案するようにいった。「妙なものだな」
「ああ、おそろしく妙なものさ。おまえがそれを手に入れたくなったとしたら、どこへ買いに行く?」
「買う? 知るもんか。そんなもの、がきの時分に見たっきりさ。とにかく、このサンフランシスコじゃ、だれもそんなものは使やしねえ。だいたい、そんなに蝿なんかいやしねえよ」
「しかし、だれかが使ったのさ」と私はいった。「――スーを殺すのにな」
「スーを?」彼がとび上がった拍子に、ソファがキイと音をたてた。
「ああ。昨日の朝、殺されたんだ。――砒素入りの蝿とり紙で」
「二人ともかい?」彼は信じられないようにいった。
「二人ともとは、だれとだれのことかね?」
「スーと、スーの親父さんか?」
「そうだ」
彼は胸の上までとどくほど投げ首をして、片方の手の甲を、もう一方のひらでさすった。
「それでおれの立場がまずくなったわけか」と彼はのろのろいった。
「そういうわけだ」私は楽しげにうなずいた。「言い抜けができるか、やってみるかい?」
「考えさせてくれ」
私は彼に考えさせてやり、私はだまって時計がカチカチいう音を聞いていた。そのうちに彼の蒼白の顔に汗の粒がふき出してきた。やがて彼はまっすぐすわり直し、派手な柄のハンカチで顔を拭いた。
「しゃべるよ」彼はいった。「しゃべるよりほか、手はなさそうだからな。スーはベーブを捨てるつもりだった。あの子とおれは逃《ず》らかることになっていた。あの子は――ほら、見てくれ」
彼はポケットに手を入れて、一枚のたたまれた厚手の便箋を私にさし出した。私は受取って、読んだ。
[#ここから1字下げ]
愛するジョウ――
もうこれ以上がまんできないわ――早く二人で逃げ出さなくっちゃ。今夜もベーブにぶたれたの。どうか、ほんとに私を愛しているのなら、早くしてちょうだい。 スー
[#ここで字下げ終わり]
筆跡はとり乱した女の、ギクシャクした、誇張された字体だった。
「ハンブルトンの金をねらったのは、こいつのためだったのさ」彼はいった。「このところ二、三ヵ月、おれは金に縁がなくて、昨日その手紙を受取って、あの子を逃がすために、どうでも金をこさえなくちゃならなくなったんだ。でも、あの子は親父からせびるのを承知しないにきまってるから、おれはあの子に知られないようにやろうと思ったのさ」
「彼女に最後に会ったのは?」
「あの子がその手紙を出した日――おとといさ。午後に、ここで会っただけだけど。その晩、その手紙を書いたのさ」
「ベーブはおまえがやろうとしていることを承知していたのか?」
「おれたちは、そうは思ってなかったが。さあ、どうかね? やつは理由があろうがなかろうが、いつだってひどい嫉妬《やきもち》やきだったからな」
「理由はどの程度あったのかね?」
ウェールズはまっすぐに私の目を見て、いった。
「スーはいい子だったよ」
私はいった。「しかし、殺されちまったんじゃ、なんにもならないな」
彼は無言だった。
暗くなって、晩になろうとしていた。私は戸口に行って電灯のスイッチを入れた。そうしながらも、私はホリー・ジョウ・ウェールズから目をはなざすにいた。
スイッチから指をはなした時、窓でカチンという音がした。その音は大きく、はっきり聞こえた。
私は窓を見た。
男が一人、非常階段にうずくまって、窓ガラスとレースのカーテンを通して、こちらを見透かそうとしていた。それは体の大きさからベーブ・マクルアと直観される、大ぶりな目鼻だちの、色の黒い男だった。大きな黒い自動拳銃の銃口が、男の前のガラスに押しつけられていた。彼はわれわれの注意を引くためにガラスをたたいたのだった。
われわれは注意を引かれた。
私としては、とっさにどうすることもできなかった。私はそこに立ったまま、男を見た。むこうは私を見ているのか、それともウェールズを見ているのか、私にはわからなかった。相手はかなりはっきり見えてはいるものの、レースのカーテンに邪魔されて、そこまでは見てとることができなかった。しかし、彼はわれわれのどちらに対しても注意を怠ってはいないだろうし、レースのカーテンもそれほど邪魔にはならないはずだ。彼はわれわれよりカーテンに近くいるし、私が電灯をつけてしまったからだ。
ウェールズは凍りついたようにソファにすわって、マクルアを見つめていた。彼の表情は奇妙にこわばって陰鬱だった。目も陰鬱だった。彼は息をとめていた。
マクルアは拳銃の先をカチンとガラスに打ちつけ、三角形にかけたガラスが床に落ちてさらに砕けた。その音は小さくて、台所にいるマックマンの注意をひきそうにはなかった。その部屋と台所との間には、二重のとざされたドアがあった。
ウェールズは割れ落ちた窓ガラスを見て、目をつぶった。まるで眠りに落ちるように、すこしずつ、ゆっくりつぶった。こわばって陰鬱な顔は、まっすぐ窓のほうへ向いたままだった。
マクルアは三発射った。
弾丸は壁を背にしたウェールズをソファの上に打ち倒した。ウェールズの目はとび出しそうに大きく開いていた。唇はまくれて、歯ぐきまでむきだしになった。舌がとび出した。それから頭がガクリと落ち、彼はもう二度と動かなかった。
マクルアが窓からとびすさるのと同時に、私はそれにとびついた。カーテンをかきのけ、窓の錠をはずして押し上げている間に、彼が下のコンクリート舗装にとび下りた音が聞きとれた。
マックマンが乱暴にドアをあけてはいってきた。あとに女もいた。
「あとをたのむ」私は窓敷居を乗りこえながら命令した。「マクルアに射たれたんだ」
六
ウェールズの部屋は二階だった。非常階段はそこで終り、あとは人が乗るとひとりでに下がってコンクリート舗装の庭に下りられる、シーソー式の鉄梯子になっていた。
私はベーブ・マクルアがやったのと同じように、庭にとび下りられる高さに下がるまで梯子をくだり、それから梯子をはなした。
庭から通りへの出口はひとつしかなかった。私はそこからとび出した。
あきれ顔の小柄な男が一人、庭に接した歩道の真中に立って、とび出してきた私をぽかんと見つめていた。
私は彼の腕をつかんで、ゆさぶった。
「大きな男が走って行ったろう」私はわめいたかもしれない。「どっちへ行った?」
彼はなにかいおうとしたが言葉にならず、通りの反対側の空地の前に立っている広告看板のほうを腕で示した。
私は「ありがとう」をいうのも忘れてそちらへ走った。
私はどちらの端にもある通路にまわらないで、その看板の下を這ってくぐって向こう側に出た。空地は広く、雑草が生い茂っていて、だれでも――ベーブ・マクルアぐらいの大男でも――隠れて追手を待ち伏せることができそうだった。
頭の中でそれを計算している間に、空地の一隅で犬が吠えるのが聞こえた。その犬は、そばを走り過ぎた男にむかって吠えているのかもしれない。私はそちらへ向かって走った。空地から通りへ出る細い路地があって、犬はそのかどの、板塀でかこわれた家の裏庭で吠えているのだった。
私は板塀に顎をのせて中をのぞき、ワイヤヘアド・テリアが一匹いるだけなのを見て、こんどは私にむかって塀ごしに吠えたてる犬にはかまわず、路地をかけ抜けた。
路地から通りへ出る前に、私は拳銃をポケットに戻した。
小型のツーリング・カーが一台、路地の口から五、六メーターのところにあるタバコ屋の前に駐車していた。おまわりが一人、タバコ屋の戸口にいる顔のくろい痩せた男と話をしていた。
「ほんのちょっと前に、その路地からとび出してきた大男ですが」私はいった。「どっちへ行きました?」
巡査はボケッとしていた。痩せた男は通りの下手のほうに顎をしゃくって、「あっち」といい、また巡査を話を続けた。
私は「どうも」といい、角のところまで行った。角にはタクシー用電話があり、二台の空車のタクシーがとまっていた。通りをひとつ越してすこしさきを、路面電車が走り去るのが見えた。
「ちょっと前にここを通った大きな男は、タクシーを拾ったかね、それとも電車に乗ったかい?」タクシーの一台によりかかっていた二人のタクシー運転手にむかって私はたずねた。
せっかちなほうがいった。
「タクシーにゃ乗らなかったぜ」
私はいった。
「わたしを乗せて、今の電車においついてくれ」
路面電車はわれわれがスタートする前に、三ブロックもさきを走っていた。乗降客をタクシーの中から見定められるほど街路は空いていなかった。タクシーは電車がマーケット通りにとまったところで、それに追いついた。
「ついてきてくれ」私はタクシーからとび下りながら運転手にいった。
電車の後部乗降口に立って、私はガラス窓を透かして見た。乗客は八〜十人しかいなかった。
「ハイド通りでばかでかい男が乗ってきたろう」私は車掌にいった。「やつはどこで下りた?」
車掌は私が指でつまんでひねくり回している一ドル銀貨を見て、大男がテーラー通りで下りたことを思い出した。それで銀貨は彼のものになった。
私は電車がマーケット通りに曲ろうとしたところでとび下りた。すぐあとについてきていたタクシーが徐行し、ドアが大きく開いた。
「六番とミッションの交差点だ」とび乗るなり、私はいった。
マクルアはテーラー通りから、どちらの方向にでも行った可能性があった。私は推理をはたらかさなくてはならなかった。マーケット通りの向こう側に行ったと考えるのが、いちばん可能性の大きそうな結論だった。
もうかなり暗くなっていた。マーケット通りの向こう側にまわるには五番街まで行き、それからミッション通りをとって六番街に戻らなくてはならない。六番街まで行く間にはマクルアは見つからなかった。六番街にも――交差点からどちら側を見通しても――彼の姿は目にはいらなかった。
「このまま九番街までたのむ」と私は命じ、走っている間に、どういう男をさがしているのか、運転手に説明した。
九番街の交差点についた。マクルアは見あたらない。私は悪態《あくたい》をつきながら脳味噌をふりしぼった。
あの大男は放浪者だ。サンフランシスコは彼にとって危険なところになってきた。放浪に慣れた男がまず考えるのは、貨物列車に乗って逃げ出すことだろう。貨物駅は市のこちら側にある。もしかすると、頭をはたらかして、逃げ出すよりも潜伏するほうをえらぶかもしれない。その場合には、マーケット通りからこちらにはぜんぜんこなかったろう。しかし、じっとしているなら、まだ明日にでも捕まえるチャンスはある。しかし高とびする気なら、今つかまえるか、それともとり逃がすしかない。
「ハリソン通りへ」と私は運転手に命じた。
われわれはハリソン通りへ行き、ハリソン通りを三番街まで戻り、つぎにブライアン通りを八番街まで、それからブラナン通りをまた三番街まで行ってタウンゼント通りへと出た。それでもベーブ・マクルアは見つからなかった。
「えらい仕事だねえ、ほんとに」サザン・パシフィック鉄道の旅客駅の、通りをこして向かいに停車しながら、運転手が私に同情した。
「わたしは行って停車場の中を見てくる」と私はいった。「わたしのいない間、よく見張っててくれ」
駅にいた警官に私が事情を話すと、彼はマクルアを張るためにそこに配置されていた二人の私服刑事に私を紹介してくれた。スー・ハンブルトンの死体が発見されたことで、張りこみの命令が出されていたのだった。ホリー・ジョウ・ウェールズが射殺されたのは、彼等には初耳だった。
駅から出ると、私の乗っていたタクシーの運転手が車をこちら側に回してきて、ホーンを鳴らし続けていた。喘息《ぜんそく》のような心もとない音なので、屋内では聞きとれなかったのだ。せっかちな運転手は興奮していた。
「あんたがいった通りの男が、たった今キング通りからやってきて、もう動き出していた十六番の電車にとび乗りましたぜ」
「どっちへ行った?」
「あっちへ」と南東のほうを指さしながらいう。
「追っかけろ」と私はいって車内にとびこんだ。
電車は二ブロックさきの三番街のカーブをまわって見えなくなっていた。われわれがそのカーブをまわると、電車は四ブロックほど前方で速度を落としかけていたが、まだ完全に速度が落ちないうちに、一人の男が身を乗り出して、乗降口からとび下りた。背の高い男だったが、肩幅が広いために高く見えなかった。彼はとび下りた惰性をとめようとしないで、かえってそれを利用し、そのまま歩道をつっきって姿を消した。
私はその男がとび下りたところで車をとめた。
私は運転手に過分の金をやって、いった。
「タウンゼント通りに引返して、駅にいるおまわりに、わたしがサザン・パシフィックの操車場構内へ、ベーブ・マクルアを追って行ったと伝えてくれ」
七
二列につながった有蓋貨車の間を、音をたてないで進んでいるつもりだったが、七メーターも行かないうちにパッと光が顔にあたって、するどい声が命令した。
「とまれ――動くな!」
私はとまった。何人かの男が貨車の間から出てきた。その一人が私の名を口にし、それからつけたした。「こんなところで何をしてるんだ? 迷ったのか?」それはハリー・ペブル刑事だった。
私はとめていた息をついて、いった。
「やあ、ハリー。ベーブをさがしているのかい?」
「ああ。貨車を見まわっているんだ」
「やつはここにいるぜ。わたしは通りからやつを追跡してきたんだ」
ぺブルは口ぎたなくののしり、とっさに懐中電灯を消した。
「気をつけろ、ハリー」私は忠告した。「気を許すなよ。やつはでかい拳銃を持っているし、今夜もう、一人殺しているんだ」
「のんびりやるさ」とぺブルはうけ合い、その場にいる一人に、構内の向こう側にいる連中に、マクルアがこの中にいることを知らせ、それから電話で増援を乞うようにいいつけた。
「おれたちは両端をふさいで、増援がくるまでやつを釘づけにしておこう」と彼はいった。
それは思慮のあるやり方らしく思われた。われわれは散開して待った。一度、ぺブルと私は、二人の間を通って構内にはいりこもうとしたノッポの男を追い払い、刑事の一人は、寒さにふるえながら忍び出て行こうとした子供を一人つかまえた。ダフ警部が貨車二両分の警官隊を率いて到着するまで、そのほかには何も起こらなかった。
合流した人員の大半は、操車場の周囲に非常線を張るのにまわされた。残りのわれわれは小さいグループにわかれて、貨車を一台ずつ、しらみつぶしにしらべて行った。べプルとその仲間が前に見つけそこなった放浪者が二、三人見つかったが、マクルアは見つからなかった。
そうして彼の所在がぜんぜんつかめずにいるうちに、だれかが貨車のかげに倒れていた鉄道公安官の体につまずいた。彼を正気づかせるのに一、二分かかり、正気づいても口がきけなかった。顎をぶち砕かれていた。しかし、マクルアにやられたのかときくと彼はうなずき、どっちへ行った、ときくと弱々しい手つきで東の方角をさした。
われわれはそちらへなだれて行って、サンタフェ鉄道の操車場をさがした。
しかし、マクルアは見つからなかった。
八
私はダフ警部の車に同乗して警察へ行った。マックマンは三、四人の刑事と一緒に捜査主任室にいた。
「ウェールズは死んだか?」と私はきいた。
「ああ」
「何かいい残したか?」
「あんたが窓から出ないうちに、もう死んでたよ」
「女は逃がさなかっただろうな?」
「今この警察にいる」
「何かしゃべったか?」
「取り調べる前に、あんたがくるのを待っていたんだ」オガー部長刑事がいった。「どう扱っていいかわからないんでな」
「連れてこいよ。ぼくはまだ夕食もたべていないんだが。スー・ハンブルトンの検屍の結果は?」
「砒素の慢性中毒だ」
「慢性? すると、いちどきに多量ではなく、すこしずつ飲まされたんだな?」
「ああ、そうだ。腎臓と腸と肝臓と胃と血液から検出されたものをみんな合わせても、五十ミリグラムにもならないとジョーダンはいっている。それだけじゃ、いちどきに飲まされても彼女は死なない。しかし、毛髪の末端からも砒素がみつかり、ある分量の砒素を飲まされてから、すくなくともひと月はたたなくちゃ、そういう状態にはならないそうだ」
「砒素が死因じゃないという可能性は?」
「ないね、ジョーダンがやぶ医者でない限りは」
婦人警官がペギー・キャロルを連れてきた。
金髪娘はすっかりやつれていた。瞼も口もとも体もたるんで、私が椅子を押してやると、彼女はそれに崩れこんだ。
「いいか、ペギー」私はいった。「このゴタゴタに、きみのつとめた役割を白状するんだ」
「あたしはなにもつとめやしないわ」彼女は目を上げなかった。疲れた声だった。「ジョウに引きずりこまれただけよ。そのことはもう彼が話したでしょ」
「きみは彼のおんなか?」
「そういえばいえるでしょうね」と彼女は認めた。
「きみはやきもちやきか?」
「いったい――」彼女は顔を上げて私を見、キョトンとした表情で反問した。「それがこれとなんの関係があるの?」
「スー・ハンブルトンは、殺された時、彼と連れ立って逃げる準備をしていた」
女は椅子にまっすぐすわり直して、ゆっくりいった。
「あのひとが殺されたなんて、今はじめて知ったわ」
「だが、彼女が死んでいたことは知っていたな」と私は確信ある口調でいった。
「知るもんですか」と彼女は同じぐらいきっぱりした口調で否定した。
私はオガーを肘でつついた。彼はつき出た下顎を彼女のほうにつき出して吠えた。
「なにをとぼけてるんだ? 死んでることは知っていたさ。殺しといて、死んだことを知らないわけがどこにある?」
彼女が彼を見つめている間に、私はほかの連中にも合図をした。彼等は女のまわりに寄ってたかって、部長刑事がリードを歌ったあとを引きついで大合唱を始めた。それからの数分間、彼等は彼女にむかって吠えつき、うなり、いがみかかった。
彼女が抗弁する意思をなくしたのを見はからって、ふたたび私が割りこんだ。
「待て」私はひどく本気らしくいった。「ひょっとしたら、この女がやったんじゃないかもしれん」
「やらなかっただと!」オガーは吠えたけり、その場の主役の座を引きとって、他の連中が女の目にあまりわざとらしく見えずに引きさがれるように芝居をした。「あんたはおれに、この小娘が――」
「やらなかったとはいわなかったぜ」私はいい返した。「やらなかったかもしれんといっただけだ」
「じゃ、だれがやった?」
私はその問いを女に中継した。「だれがやったんだ?」
「べーブよ」と彼女は即座に答えた。
オガーは信じられないことを彼女にわからせるために鼻を鳴らした。
私は本当に混乱したふりをしてきいた。
「彼女が死んだことも知らないなら、なぜそんなことがわかる?」
「だって、あのひとがやったのなら辻つまが合うもの」彼女はいった。「そんなこと、だれにだってわかるでしょ? ベーブは彼女がジョウと一緒に逃げようとしているのを知って彼女を殺し、それからジョウのところへ行って彼を殺したのよ。ベーブだったら、それこそ間違いなくやりそうなことだわ」
「そうかね? 二人が一緒に逃げるつもりでいるのを、あんたはいつから知った?」
「二人がそうきめた時からよ。ジョウはひと月かふた月前に打明けたわ」
「それでもあんたは気にしなかったのかい?」
「あんたたちはぜんぜん間違ってるわ」彼女はいった。「もちろん、気になんかするもんですか。あたしはそれに割りこませてもらえるはずだったんだもん。いいこと、あの子のおとうさんはお金を持ってる。ジョウが追いかけていたのはそのお金よ。あの子はその年寄りにつけ入るための糸口ってよりほか、彼にとって何でもありゃしなかったのよ。そしてあたしはあたしの分け前にありつけるはずだった。ことわっとくけど、ジョウだろうとほかのだれのためだろうと、あたしがとび下り自殺でもするなんて思ったら大間違いよ。とにかく、ベーブは勘づき、二人をかさねて置いて片づけた。ちっとも不思議はないわ」
「そうかね? ベーブはどうして彼女を片づけたと思う?」
「どうして? あんたはあのひとが――」
「わたしがたずねているのは、彼はどういうふうにして彼女を殺しただろうかということだ」
「ああ、それ!」彼女は肩をすくめた。「たぶん、両手で絞め殺したんでしょ」
「つまり、いったんこうと心をきめたら、すぐさま、暴力を使ってやるだろうということかい」私は水を向けてやった。
「それがベーブよ」と彼女はうなずいた。
「しかし、やつがゆっくり――ひと月もかかって――彼女に毒を盛るというようなことは想像できないか?」
気がかりな色が女の青い目に宿った、彼女は下唇をかんで、それからゆっくりいった。
「いいえ、そんなふうには想像できないわ。ベーブらしくないわ」
「だれならそういうふうに想像できる?」
彼女は大きく目をみはって問い返した。「ジョウのことをいっているのね?」
私はだまっていた。
「ジョウならやったかもしれないわ」彼女は説き聞かすようにいった。「何のためにそんなことをやる気になったのかはわからないけど、いずれは重荷になる人間を切り捨てたいとは思ったでしょうね。でも、あのひとがやろうと思っていることを当てるのは、とてもじゃないけど難しいわ。ずいぶんばかげたことをやるんだから。いつでも何かたくらんでいなくちゃ気が済まないのよ。でも、もし彼があの子を殺そうと思ったとすれば、たぶんそんなふうなやり方をするでしょうね」
「彼とベーブとは仲がよかったかね?」
「いいえ」
「彼はよくベーブの家へ行ったかい?」
「あたしの知ってる限りじゃ、いっぺんも行かないわ。抜け目がないんだから、ベーブに現場を押さえられる危険をおかすもんですか。あたしがあのアパートの上に引越したのもそのためよ。――スーがあたしのところで彼に会えるように」
「それじゃ、ジョウは彼女を毒殺するのに使った蝿とり紙を、どうして彼女のアパートに隠しておけたんだい?」
「蝿とり紙?」彼女の困惑は芝居ではなさそうだった。
「見せてやれよ」と私はオガーにいった。
彼は机の上からそれを一枚とって、女の顔の近くにかざして見せた。
彼女は一瞬それを見つめ、それからとび上がって両手で私の腕をつかんだ。
「何なのかは知らなかったけど――」彼女は興奮した声でいった。「ふた月ぐらい前に、ジョウはそういうのを持ってたわ。あたしがはいって行ったら、それを手にして眺めていたの。それ、何にするもの? とあたしがきくと、彼は例の知ったかぶりのニヤニヤ笑いをして、『これを使って天使をつくるのさ』といって、また包み紙にくるんでポケットにしまいこんじまったわ。あたしはあまりまじめにとらなかったわ。あのひとときたら、いつも大金がもうかるという変てこなものをいじくりまわしていて、それが本当になったためしはないんだもの」
「あとでまたそれを見たことは?」
「ないわ」
「あんたはスーをよく知ってたかい?」
「ぜんぜん。一度も会ったことがないわ。ジョウとあの子の邪魔にならないように、いつもあたしのほうから避けてたから」
「だが、ベーブは知ってるんだろう?」
「ええ、一、二度、パーティで一緒になったことがあるわ。でも、それっきりよ」
「スーを殺したのはだれだ?」
「ジョウだわ」彼女はいった。「だって、彼はそれであの子を殺したってあんたがいう、その紙を持ってたんでしょ?」
「なぜ殺した?」
「知らないわ。時どきあのひとは、まるでわけのわからないことをするから」
「あんたは殺さないのか?」
「ぜったいやらないわ!」
私は口のすみでオガーに合図を送った。
「嘘つきめ!」彼は彼女の顔の前で蝿とり紙を振りたてながらどなった。「おまえが殺したんだよ」残りの連中も襲いかかって彼女に非難を浴びせかけた。女がグロッキーになり、婦人警官が心配そうな顔になるまで、彼等はやり続けた。
それから私が、いまいましげにいった。
「よし。ブタ箱にほうりこんで、ようく考えさしてやれ」それから女にむかって、「あんたは自分が今日の午後ジョウにいったのを忘れちゃいまい? ――シラを切り通そうとしたって、もうだめよ、って。今夜、とっくり考えるんだな」
「あたしはぜったいに殺していないわ」と彼女はいった。
私は彼女に背中を向けた。婦人警官が彼女を連れ去った。
「ああ、あ」オガーはあくびをした。「時間をかけなかった割りにゃ、いいかげんしごいてやったな」
「まあまあだな」私はいった。「ほかのだれかがもっと本当にやったらしく見えりゃ、スーを殺したのはあの女じゃないっていいきれるんだが。しかし、もしあの女のいうことが本当なら、ホリー・ジョウがやったんだってことになる。だが、黄金の卵を生んでくれようって鵞鳥を、どうして殺さなくちゃならないんだ? それに、どんなふうにして、またなぜ、彼は毒を彼等のアパートに隠しておいたんだ? ベーブにも動機はあるが、じわじわ毒殺するってやり方をするとは、どうしてもぼくには思えない。しかしまあ、なんともいえんさ。ベーブとホリー・ジョウが共謀してやったということだって、絶対にあり得ないとはいえんからな」
「それはそうだ」ダフがいった。「しかし、それを受けつけるにゃ、よほど想像力が豊かでないとな。まあ、あんたはせいぜい変わった思いつきをひねくりまわしてるがいい。われわれとしては、今までのところ、ペギーが最有力容疑者だ。朝、もう一度、あの女をうんときつく取調べてみるか?」
「ああ」私はいった。「それからベーブを見つけなくっちゃ」
ほかの連中は夕食を済ましていた。マックマンと私は外に出て食事をとった。捜査課へ戻って見ると、刑事たちはほとんど全員といっていいぐらい、いなくなっていた。
「四十二号桟橋にマクルアがいるって通報で、みんなそっちへ出かけたよ」とスチーブ・ウォードが教えてくれた。
「どれぐらい前だい?」
「十分ぐらいかな」
マックマンと私はタクシーを拾って四十二号桟橋に向かった。しかし、四十二号桟橋には行き着けなかった。一番街の、埠頭《ふとう》まであと半ブロックぐらいのところで、タクシーは不意にブレーキをきしらせて急停車した。
「いったい何だって――?」と私はいいかけて、車の前に立ちふさがっている男が目にはいった。大きな拳銃を持った大男だった。「ベーブだ!」と私はうなり、拳銃をとり出そうとするマックマンの腕を押さえた。
「おれを乗せて――」マクルアは仰天した運転手にいいかけ、私たちを目に入れた。彼は私の側にまわってきて、われわれに拳銃をつきつけながらドアを引きあけた。
彼は無帽だった。髪は濡れて、頭にへばりついていた。小さな流れになって、それから水がしたたり落ちていた。彼の着ているものはズブ濡れだった。
彼は私たちを見ておどろいた様子で、命令した。
「おりろ」
私たちが車から出ると、ベーブは運転手をどなりつけた。
「お客が乗ってるのに、何だって空車の札を立ててるんだ?」
運転手はそこにはいなかった。彼は反対側からとび出して、いちもくさんに通りを逃走しているところだった。マクルアは彼をののしって、拳銃を私につきつけて吠えた。
「行け、消えちまえ」
私がだれだか、彼にわかっていないのは明白だった。照明の具合いは悪かったし、今の私は帽子をかぶっている。ウェールズの部屋で、彼が私を見たのはほんの数秒間だった。
私はわきへよけた。マックマンは別の側へよけた。
マクルアはわれわれ二人からはさみうちにされないようにあとずさりして、怒りの言葉を吐いた。
マックマンはマクルアの拳銃を持ったほうの腕にとびついた。
私はマクルアの顎にこぶしを見舞った。しかし、それが彼に与えた効果からいえば、ほかのだれかをなぐったも同じことだった。
彼は私を払いのけ、マックマンの口のところをなぐった。マックマンはうしろに吹っとんでタクシーにぶつかり、折れた歯を一本吐き出し、それからまた同じことをやられに、とびついて行った。
私はマクルアの左側にかじりつこうとしていた。
マックマンは彼の右側からつけ入ろうとして、拳銃のチョップをよけ損ない、それをモロに頭に受けてはげしく倒れた。そしてもう起き上がってこようとしなかった。
私はマクルアの足首を蹴りつけたが、彼の足はビクともしなかった。私は右のこぶしで彼のウエストを攻め、左手で彼の濡れた髪をつかんで引張ったが、彼がうるさそうに首を振ると、私は宙に浮いて引きずられた。
それからわき腹に一発くわされたパンチで、私の肋骨と内臓は本の間にはさまれた木の葉のように偏平になる感じだった。
私は彼の首のうしろをこぶしでなぐりつけた。彼はうるさがり、胸の奥でとどろくような音をたてると、私の肩を左手でつかまえ、右手にある拳銃で私をなぐった。
私は彼のどこかを蹴り、もう一度首をなぐりつけた。
街路のさきの埠頭のあたりで、警官の呼子《よびこ》の音がしていた。一番街をわれわれのほうへ、バラバラと人がかけつけてこようとしていた。
マクルアは蒸気機関のように鼻を鳴らし、私を振りとばした。そうさせまいとして、私は彼にかじりついた。結局、彼は私を振りもぎって、街路を走り出した。
私はよろばい起きて、拳銃を抜き出しながらあとを追った。
最初のかどで彼は立止まって、私を目がけて三発、発砲した。私も一発射ち返した。合計四発のうち、一発も命中しなかった。
彼はかどを曲って見えなくなった。私はそのあとを追って、彼が壁にへばりついて待ち伏せしているのをかわせるように、大きくかどをまわった。しかし、彼は待ち伏せていなかった。彼は三十メーターぐらいさきにいて、二つの倉庫の間の空地に逃げこもうとしていた。その空地をかけ抜ける間に、百十キロ対九十五キロの体重の差がものをいって、私はすこし距離を詰めた。
彼は通りを横ぎり、波止場と反対側のほうへ向かおうとしていた。その曲がり角に街灯があった。私がその光の中にはいった時、彼はクルリとふり向いて、拳銃を構えた。カチリという音は聞きとれなかったが、彼が拳銃を投げつけたので、そうだとわかった。拳銃は五、六十センチ私をそれ、背後のドアにぶつかってけたたましい音をたてた。
マクルアは通りを曲って走り続けた。私も追い続けた。
私はほかの連中にわれわれの所在を知らせるために、わざとすこし狙いをはずして一発射った。つぎの角で彼は左に曲ろうとしてやめ、そのまま直進した。
私は力走して距離を十六、七メーターから十三、四メーターにちぢめながら叫んだ。
「とまらないと射つぞ!」
彼は横ざまに、細い路地にとびこんだ。
私はいったんその路地の口をジャンプして通り過ぎ、彼が待ち伏せていないのを確かめてからはいって行った。街路からの明かりで、互いに相手を、あたりの様子を、はっきり見てとることができた。その路地は袋小路《ふくろこうじ》で、両側と突きあたりは窓とドアをスチールのシャッターでとざされたコンクリートの建物でふさがれていた。
七メーターたらずさきで、マクルアは私と向き合った。彼は顎をつき出し、腕を体から離して垂らし、肩はこぶのように盛り上がっていた。
「手を上げろ」私は拳銃を構えながらいった。
「そこをどけ、チビ公」彼はこわばった足どりで進んできながらうなった。「食い殺すぞ」
「きてみろ」私はいった。「おだぶつだぞ」
「やってみな」彼はすこしかがみながら、また一歩踏み出した。「射たれても、きさまをぶっとばす力は残ってるぞ」
「まあ、おれの体にさわれたらお慰みだな」ほかの連中が追いついてくる暇をかせごうと、私はおしゃべりになった。彼を殺したくはなかった。もしその気だったら、とっくに、タクシーの中からやれていた。「おれはアニー・オークリーじゃないが、この距離であんたの両方のひざのお皿を二発で割ることができなかったらお目にかかるよ。でも、割られたかったら、とびかかっておいで」〔アニー・オークリーは有名な女の名射撃手〕
「くそくらえ」と彼はいって突進してきた。
私は彼の右膝を射ち抜いた。
彼はよろめきながら向かってきた。
私は彼の左膝を射ち抜いた。
彼はひっくり返った。
「だから、いったろう」と私はグチった。
彼はゴロリと横転し、両手で自分を支えて、私にむかってあぐらをかいた。
「おまえが、本当にやるほど利口だとは思わなかったよ」と、彼は歯をかみ締めながらいった。
九
私は入院中のマクルアと話した。彼は頭が斜めに立つように、枕を二つかさねて寝台にあおむけに寝ていた。口と目のまわりの皮膚が張って白んでいたが、ほかにはぜんぜん苦痛をあらわしているものはなかった。
「ひどい目にあわせやがったな、この野郎」私がはいって行くと、彼はいった。
「わるい」私はいった。「しかし――」
「文句をいってるんじゃない。自業自得さ」
「どうしてホリー・ジョウを殺したんだい?」私は彼のベッドのわきに椅子を引き寄せながら、なんの成心もなしにきいた。
「ふふん――そんなカマにはかからんよ」
私は声をたてて笑い、あの時の現場にジョウと一緒にいたのは私だと教えてやった。
マクルアは白い歯を見せて笑っていった。
「前にどっかで見たことがあると思ったんだが。あそこだったのか。あんたの手が動かないようにってことばかり頭にあって、面《つら》までよく見てる余裕がなかったっけ」
「なぜ殺したんだ?」
彼は唇をすぼめ、ついでに目まですぼめて私を見、なにか思い返すように考えてからいった。
「やつはおれの知ってる女を殺したからさ」
「というと、スー・ハンブルトンのことかね?」
彼はしばらく私の顔を観察してから答えた。「そうだ」
「どうしてつきとめた?」
「ばかな」彼はいった。「つきとめたりするもんか。スーがじぶんからしゃべったのさ。タバコをくれ」
私はタバコをやってライターで火をつけてやり、それから反論した。
「しかし、それだと、わたしの知ってることと、しっくりかみ合わないんだ。実際はどんな成り行きで、彼女はどんなことをいったんだ? とりあえず、彼女にあざを作らせた夜のことから話してみないか?」
彼は鼻から煙をゆっくり噴出させながら思案して、いった。
「目にあざを作らしたのはおれが悪かったかもしれない。それは本当だ。だがいいかい、彼女《あれ》は午後ずっと家を留守にしておいて、どこに行っていたのかぜんぜんしゃべろうとせず、それでおれたちは諍《いさか》いをした。今はいつ――木曜日の朝だな? だとすると、あれは月曜日の朝だ。喧嘩のあと、おれはとび出して行って、その夜はアーミー通りのドヤ街に泊まった。家に帰ったのは朝の七時ごろだった。彼女《あれ》は今にも死にそうに苦しがっていたくせに、医者を呼ぶなというんだ。それはおかしい感じだった。――何かをひどくこわがっているみたいで」
マクルアは何かを回想しているように頭を掻き、残りのタバコを吸いつくすほどの勢いで一息に肺に煙を吸いこんだ。それから口と鼻から同時に煙を吐き出しながら、煙の雲を透かして、だるそうに私を見た。それから、ぶっきら棒にいった。
「彼女《あれ》は死んだ。だが、死ぬ前に、ホリー・ジョウに毒殺されたんだとおれに打明けた」
「どんなやり方で毒を飲まされたのか、説明したかね?」
マクルアはかぶりを振った。
「どういうことなんだとおれはさんざん彼女《あれ》にきいたが、彼女《あれ》はなんにもいわなかった。それから、子猫が鳴くみたいな声で、毒を飲まされたんだと訴え出した。――『毒を飲まされたのよ、ベーブ』息もたえだえに彼女《あれ》はいった。『砒素なの。あのホリー・ジョウのやつが……』それからもうなんにもいわず、足を蹴るみたいにピクピクさせて、あっという間に逝《い》っちまった」
「ほう。それからあんたはどうしたんだ?」
「ホリー・ジョウを射ち殺しに出かけた。やつの顔は知ってたが、どこにトグロを巻いてるのかは知らなくて、わかったのは昨日になってからだった。おれが行った時、あんたもあそこにいたから、そのことはわかってるだろう。逃げる時のために、おれは車を盗んでターク通りにとめといた。ところがそこに戻ってみると、おまわりがそのすぐそばに立ってた。怪しい車だとにらんで、そこへ戻ってくるやつを待ち受けてるんだとおれは思ったんで、それは放っといて、電車に乗って操車場へ行った。ところが、あそこであんたたちにさんざん追いまわされて、仕方がないからチャイナ・ドックで海にとびこみ、どこかの桟橋に泳ぎついたが、そこにも張り番が立っていたんで、また別の桟橋まで泳ぎ、はい上がったのはよかったが、結局、いちばん悪いクジを引きあてることになったってわけさ。あのタクシーが[空車]の札を立ててなかったら、とめようとしたりしなかったんだが」
「スーがジョウと逃げる計画を立ててたのは知ってたのかい?」
「そんなこたあ知らんよ、今だって」彼はいった。「彼女《あれ》がおれを裏切ってることは知ってた。だが、相手はだれなのかは知らなかったよ」
「もし知ってたら、どうしたと思う?」と私はきいた。
「おれがか?」彼は狼のように歯をみせて笑った。「ご存知の通りにやっただろうよ」
「かさねてまっぷたつか?」と私はいった。
彼は親指で下唇を拭いて、しずかに私にたずねた。
「あんたは、おれがスーを殺《や》ったとおもってるのかい?」
「現に殺《や》ったじゃないか」
「まあいいさ」彼はいった。「おれも年をくって、面倒なことはいやになった。小うるさい私立探偵なんかと、どうしてグダグダしゃべり合っていなくちゃならないんだ? いっそ悲しいだけさ。わるいが、坊や、出てってくれないか。おれはもう、しゃべりたいだけしゃべっちまった」
そのようだった。彼からはもう、ただの一言も引き出すことができなかった。
十
局長《おやじ》は長い黄色い鉛筆でコツコツ机をたたきながら、うす青い縁なし眼鏡の向こうの目を、私を通りこして遠くに投げながら、私のいうことを傾聴した。全部聞きおわると、彼はたのしげにきいた。
「マックマンの容態《ようたい》は?」
「歯を二枚なくしましたが、頭蓋骨はだいじょうぶです。あと二日ぐらいで退院できるでしょう」
局長《おやじ》はうなずいて、たずねた。
「あと、残っていることは?」
「なんにも。ペギー・キャロルをもういっぺん絞ってみるという手はありますが、たいしたものが出てくるとは思えません。それ以外は、だいたいこんなところじゃないでしょうか」
「それで、君の結論は?」
私は椅子の中でモジモジして、いった。
「自殺です」
局長《おやじ》は温かく、しかし皮肉に微笑した。
「わたしだって、満足してるわけじゃありません」私はいった。「それに、報告書にそう書く気にも、まだなっちゃいません。でも、これまでにわかったことを寄せ合わせると、そういうことにしかならないのです。女から隠しておきたいものを、その女のアパートの台所に、あんなふうに隠しておくというのはどうしても解《げ》せません。女が自分でそうしたのでなけりゃ。
ペギーはあの蝿とり紙をホリー・ジョウが持っていたのを見たといっています。すると、スーがあれを隠したのだとしたら、彼から受取ったのでしょう。やつらは二人で逃げようと計画し、ただ文《もん》なしのジョウが金を手に入れるのを待っているだけでした。やつらはベーブを恐れて、もし計画を知られたら、彼をやっつけられるように、毒をあそこに隠しておいたのでしょう。
わたしが初めて殺しのことを口にした時、殺されたのはベーブだとやつは思いました。やつはおどろいたようでしたが、その驚きかたは、ただ、それが計算していたより早すぎたというだけの感じでした。スーも死んだのだといってやると、それよりもっと驚きはしましたが、その驚きかたは、生きているマクルアが窓の外にいるのを見た時とは、とてもくらべものになりませんでした。
スーはホリー・ジョウをのろいながら死に、自分は毒殺されたのだと知りながら医者を呼ぶのをことわりました。このことは、彼女がジョウを裏切り、毒をベーブにのませるかわりに自分がのんだのだとは考えられないでしょうか? 毒はベーブに見つかりませんでした。しかし、もし見つかったとしても、ベーブが人を毒殺するような人間だとは私には思えません。自分が毒殺されようとしていたことを知って、逆にその毒を彼女にのませた場合を別として。しかし、それだと髪の毛から検出された砒素の説明がつきにくいのです」
「しかし、きみの自殺説では、その説明がつかないわけじゃないんだな?」
「ええ」私はいった。「あんまりケチをつけないでください。それなりに説明はつけられるんです。こんどの場合が自殺だったとすれば、前にも――たとえばジョウと諍《いさか》いをした時に――同じことをやって、未遂に終わったと考えられないこともないじゃありませんか。そうすれば、髪から毒が検出されたとしてもおかしくはありません。彼女がひと月前に毒をのみ、それからあと、昨日までの間にまた毒をのんだという証拠はなにもないのですから」
「ああ、絶対の証拠はね」局長《おやじ》は穏やかに反論した。「慢性中毒だという検屍医の診断のほかにはな」
私は専門家の説なんぞに、自分の言い分を邪魔されたくなかった。私はいった。
「彼らが根拠にしているのは、彼女の死体から検出された砒素が、一度にのんだ場合の致死量以下だということだけでしょう。それに、胃の中にあった毒の量は、死ぬ前にどれぐらい吐いたかによっても変わるはずです」
局長《おやじ》は寛容に微笑して、きいた。
「しかし、きみはまだ報告書を書く気はないといったな? それまで、どうして過ごす気だ?」
「ほかに何も思いつきが浮かばなけりゃ、家に帰って、女心のふしぎさをあれこれ考え、こんどの事件を自分の頭の中で整頓できるか、やってみるだけです。とりあえず[モンテ・クリスト伯]を一冊買って、読んでみますよ。がきの時分に読んだきりですのでね。あの本は、蝿とり紙をその間にはさんで、壁とレンジの間からズリ落ちないようにするために使われたのですが、ひょっとしたら、なにかそれ以上の意味があるかもしれません。どっちにしろ、とにかくやってみます」
「ゆうべ、わたしもそれをやってみたんだ」と局長《おやじ》は口の中でいった。
私はきいた。「それで――?」
彼はその本を机の引出しからとり出し、目じるしの紙がはさんであるところを開いて、ピンク色をした指でその一節をさし示した。
「この毒物を一日目には千分の一グラム、あくる日は千分の二グラムというふうに、一日につき千分の一グラムずつふやしてのんだんだと仮定しよう。すると、十日目には百分の一グラム、二十日目には二十グラムのむことができるようになり、やがてその人間にとってはなんでもないのに、そうした方法をとらなかった他の人間にとってはきわめて危険な分量に達し、ひと月たてば、同じ水差しから、その毒物をまぜた同じ水を飲んで、相手からなにも気づかれずに、自分は生き残って、その相手を殺すことができるだろう……」
「それだ」私はいった。「それですよ。あの二人はベーブがかならず追ってくることを承知していて、彼を殺さずに逃げることができなかったのです。彼女はすこしずつ砒素の分量をふやしてのみ、自分の体をそれに慣らして、最後にはベーブの食べものに致死量の砒素をまぜることを考えたのです。彼女もいくらかは害を受けるでしょうが死にはせず、警察は彼女を有罪と断定することができません。なぜなら、彼女も彼と同じ毒入りの食べものを食べたのですから。
それでピッタリ計算が合います。月曜の夜の喧嘩のあと、彼女は逃亡の時期を早めようとジョウに手紙を書くと同時に、一気に分量をふやして、まだ耐性《たいせい》のできていない大量の砒素を摂取してしまったのです。死にぎわに彼女がジョウをのろったのは、それがジョウの立てた計画だったからです」
「あるいは彼女が計画の実行をあせったのかもしれない」局長《おやじ》はいった。「しかし、かならずしもそうとは限らんよ。砒素に対する耐性をつくる場合、個人差がかなり大きくものをいうらしい。普通には、スー・ハンブルトンのように、致死量をとることができるようになる前に、慢性中毒で死んでしまう者が多いらしいよ」
六ヵ月後、ベーブ・マクルアはホリー・ジョウ・ウェールズ殺害のかどで絞首刑に処された。
[#改ページ]
赤い光
その男のネクタイは夕日のようなオレンジ色をしていた。背が高く、肉づきもいいが、どこにもやわらかいところのなさそうな大男だった。まん中で分かれて、頭蓋から頑丈そうに張った頬にかけて貼りついた黒い髪、きわだって体に合った服、そして頭の両わきに平たく貼りついたような小さいピンク色の耳まで、それぞれがひと続きのなめらかな表面の、色分けされた部分のようだった。年は三十五ぐらいにも、四十五ぐらいにも見えた。
彼はちょっと前かがみに、籐《とう》のステッキによりかかるような姿勢でサミュエル・スペードの机のわきに腰かけて、いった。「いや。わたしはあんたに、あの男の身に起こったことを調べて欲しいんだ。いっそ、見つからなきゃいいと思ってる」彼のとび出た緑色の目は、まじめにスペードを見つめていた。
スペードは椅子の背にもたれかかった。骨ばった顎、口、小鼻《こばな》、そして毛深い眉まで、なにもかもV字形の悪魔めいた、しかし不愉快ではない顔だちの顔に、声と同様、節度ある関心をあらわしてスペードは反問した。「なぜ?」
緑色の目をした男は、貫禄《かんろく》のある低い声でしゃべった。「あんたは話のわかる男だ、スペード。あんたは、私立探偵ってものはこうでなきゃとわたしが思う種類の探偵だって評判だ。だからわたしはやってきたんだ」
スペードは無表情にうなずいた。
緑色の目をした男はいった。「筋の通る値段なら、いくらでも払う」
スペードはまたうなずいた。「それはわたしも歓迎するよ」と彼はいった。「しかし、あんたは何を買おうとしているのか、それを教えてもらわないとね。あんたはこの――ええと――イーライ・ヘイブンという男の身に何が起こったのか知りたい。しかし、彼がどんなことになっていようとかまわんというのかね?」
緑色の目をした男は声を低めたが、態度にはなんの変化もなかった。「ある意味ではな。たとえば、あんたがあの男を見つけて、もう二度と戻ってこないようにしてくれたとすれば、その時にはそれだけ多く謝礼をすることになるかもしれない」
「本人がそうしたがらなくてもかね?」
緑色の目をした男はいった。「その場合は特に、さ」
スペードは微笑して、いやいやをした。「それじゃ、|それだけ多く《ヽヽヽヽヽヽ》とかいう謝礼をもらっても間尺《ましゃく》に合わんかもしれんな――あんたの話のようだと」彼は長い指をした両手を椅子の肘から離して、掌を上に向けた。「いったい、どういうことなんだい、コリヤー?」
コリヤーの顔にすこし赤みがさしたが、その目はまばたかず、つめたく相手を見つめたままだった。「この男には女房がいる。わたしは彼女が好きだ。先週、二人はけんかをして、男は出て行っちまった。もしわたしが彼女に、彼はもう戻ってこないってことを納得させられたら、彼女は離婚するかもしれない」
「その女と話をしてみたいな」スペードはいった。「イーライ・ヘイブンというのはなにものかね? 何をしているんだ?」
「のらくら者さ。何もしていない。詩を書いたりなにかしてるらしい」
「彼について、なにかわたしの役に立つようなことを教えてくれられるかね?」
「ジュリアが教えられる以上のことは、なんにも。どうせ彼女と話すんだろう」コリヤーは立上がった。「もっとも、わたしにはコネがある。そっちのほうからなにかはいったら、あとで教えてやれるかもしれん」
骨ぼその、二十五、六の女がアパートのドアをあけた。銀のボタンのついたブルーのパステル・カラーのドレスを着ていた。バストはボインだがすらりとした体つきで、まっすぐな肩にヒップは締まり、彼女ほど美しくない女だったら気どりと受取られるにちがいないプライドを身につけていた。
スペードはいった。「ミセス・ヘイブンですね?」
「ええ」と彼女はちょっとためらってから答えた。
「ジーン・コリヤーから、お会いするようにいわれてきました。スペードといいます。私立探偵です。彼はわたしに、あなたのご主人を見つけて欲しいというんです」
「それで、見つかりましたの?」
「わたしは彼に、まずあなたと話がしたいといいました」
彼女の顔から微笑が消えた。彼女は彼の顔を、その造作《ぞうさく》をひとつずつじっくり観察し、それから「どうぞ」といい、ドアを引きながらわきに一歩さがった。
子供たちの声が騒がしく聞こえる公園を見下ろす、安っぽい家具を置いた部屋にさし向かいで腰をおろすと、彼女はいった。「ジーンはどうしてイーライを見つけたいのか、あなたにいいましたか?」
「もしご主人が二度と帰ってこないことがわかれば、あなたも考えるようになるだろうと彼はいいました」
彼女は無言だった。
「こんなふうに、出て行かれたことが前にもあったのですか?」
「何べんも」
「どんな人です?」
「いい人よ」彼女は熱のこもらない調子でいった。「飲んでいない時はね。飲んでいる時だって、女とお金のことを別にすればいい人よ」
「それじゃ、許してあげる余地は十分にありますね。彼はどうして暮らしを立てているんです」
「あの人は詩人なの」彼女は答えた。「でも、詩で暮らしは立てられないわ」
「それで?」
「時どきどこかから小銭《こぜに》を持ってくるわ。ポーカーや競馬でかせいだんだといってるけど。どんなものかしら」
「結婚してどれくらいにおなりです?」
「四年――ちかくよ」彼女はあざけるように微笑した。
「ずっとサンフランシスコに――?」
「いいえ、最初の年はシアトルにいて、それからここへきたの」
「彼はシアトルの生まれですか?」
彼女はかぶりを振った。「デラウェア州のどこかよ」
「どこです?」
「知りません」
スペードはすこし濃い眉を寄せた。「あなたのお生まれは?」
彼女はすらすらといった。「わたしをさがしてらっしゃるんじゃないでしょ」
「なるほど、そうおいでなさるか」彼はぶつぶついった。「ところで、彼の友人は?」
「わたしの知ったことじゃなくってよ!」
彼はいらだったしかめ面をした。「何人かはご存知でしょう」と彼は追及した。
「まあね。ミネラって名前の人と、ルイス・ジェームズって人と、あのひとがコニーと呼んでる人と」
「どういう人たちです?」
「男たちよ」彼女はやわらかくいった。「どういう人たちなのか、ぜんぜん知らないわ。電話をかけてきたり、彼を引っぱり出しにきたり、あのひとと一緒にいるのを町で見かけたり。わたしが知っているのはそれで全部よ」
「何をして食べているんです? まさか、全部が詩人ってわけじゃありますまい」
彼女は笑い声をたてた。「――かもよ。その中の一人――ルイス・ジェームズはジーンの子分だったと思うわ。今申し上げたことっきり、わたしは本当に知らないの」
「あなたのご主人がどこにいるか、その連中が知っていると思いますか?」
彼女は肩をすくめた。「もし知ってるとしたら、わたしをからかってるんだわ。今でも時どき、彼が戻ってきたかって電話をかけてくるんですもの」
「それから、さっき口に出された女たちのことは?」
「わたしの知らないひとたちよ」
スペードは思案げに床をにらんで、きいた。「食えない詩を書き始める前は、彼は何をしていたんです?」
「何でもよ。電気掃除機のセールスマンをしたり、渡り労働者をしたり、船に乗ったり、かっぱらいをしたり、鉄道工夫、カン詰め工場、材木の切り出し、巡業の見世物屋……何でもかんでも。新聞社で働いたこともあるわ」
「出て行く時、金は持っていましたか?」
「わたしから借りた三ドルだけよ」
「何といってました?」
彼女は声をたてて笑った。「留守のあいだ、わたしがお祈りをしながら待っていたら、ビックリしてとび上がるようなおみやげを持って夕食までに帰ってくるって」
スペードは眉を上げた。「あなたがたは仲よくやってたんですか?」
「もちろんよ。最後のけんかは、その二日前にもう仲直りしてたわ」
「出て行ったのはいつです?」
「木曜日の午後。三時――だったと思うわ」
「彼の写真がありますか?」
「ええ」彼女は窓のそばのテーブルのところへ行って、引出しをあけ、一枚の写真を手にしてスペードのほうへ戻ってきた。
それはくぼんだ目に官能的な口、深いしわのきざまれた額《ひたい》に硬《こ》わそうな金髪のもつれかかった、痩せた顔をした男の写真だった。
スペードはその写真をポケットに入れ、帽子をとり上げた。彼はドアにむかって行きかけて、とまった。「詩人として、彼はどうなんです? 優秀なんですか?」
彼女は肩をすくめた。「それはたずねる相手によるわ」
「ここに彼の詩集はありませんか?」
「いいえ」彼女は微笑をうかべた。「詩集のページの間に隠れているとでもお思い?」
「何が手がかりになるか、わからないものですよ。またいつかうかがわせていただきます。もうすこし心を許していただける道がないものか、お考えになってみてください。じゃあ」
彼はポスト街を歩いてマルフォーズ書店に立寄り、ヘイブンの詩集があるかとたずねてみた。
「あいにくですこと」と女店員はいった。「先週、最後の一冊が売れてしまいましたの」彼女は微笑した。「ご本人のミスター・ヘイブンに。注文しておとり寄せしましょうか?」
「きみは彼を知ってるのかい?」
「ご本を売るお手伝いをしているだけです」
スペードは唇をすぼめて、きいた。「それは何日だった?」彼は彼女に職業用の名刺を渡した。「たのむ。大事なことなんだ」
彼女は机のところへ行き、赤い表紙の売上帳のページを繰って、そこのページを開いたまま手に持って彼のところへ戻ってきた。「先週の水曜日です」と彼女はいった。「あのかたのおいいつけで、パシフィック・アベニュー一九八一番のミスター・ロジャー・フェリスとおっしゃる方のお宅にお届けしました」
「どうもありがとう」と彼はいった。
その店を出ると、彼は手をあげてタクシーをとめ、ミスター・ロジャー・フェリスの住所を告げた。
パシフィック・アベニューのその家は、細長い芝生が前についた、グレイストーンづくりの四階建てだった。まるまるした顔をした女中がスペードを案内してくれた部屋は、天井が高く、ひろびろとしていた。
スペードは腰をおろしたが、女中が行ってしまうと立上がって室内を歩きまわり始めた。それから本が三冊のっているテーブルのそばに立止まった。その中の一冊のカバーは鮭肉色《サモン》の地《じ》で、一対の男と女の間を切り裂くように一条の赤い稲妻が上下に走っている絵が描かれ、「採光――イーライ・ヘイブン著」という字が黒で印刷されていた。
スペードはその本をとり上げて椅子に戻った。
見返しの余白に、青インクで、ふとい、不規則な筆蹟で献辞が書かれていた。
[#ここから1字下げ]
――いろどられし光を知る古き良き友バックへ。その時とところの思い出をこめて。イーライ。
[#ここで字下げ終わり]
スペードはでたらめにページを開いて、むぞうさにその中の一篇を読んだ。
[#ここから1字下げ]
陳述
あまりにもおおくの人間が
これまでに生きた
われわれの生を
われわれの生きている証《あか》しにしようとして
われわれが生きるように
あまりにもおおくの人間が
これまでに死んだ
|かれらの死を《ヽヽヽヽヽヽ》
われわれが死ぬ証しにしようとして
われわれが死ぬように
[#ここで字下げ終わり]
そのとき、ディナー・スーツを着た男が部屋にはいってきたので、スペードは本から目を上げた。その男はさほど長身ではなかったが、まっすぐな姿勢のために、身長百八十センチ以上のスペードと向き合って立っても、十分に背が高く見えた。五十を越した年齢にも青い目は輝きを失わず、日焼けした顔のどの筋肉にもたるみがなく、つややかな額《ひたい》をして、ほとんど白髪にちかい濃い髪を短く刈りつめていた。その容貌は威厳と人なつこさを兼ねそなえていた。
彼はスペードがまだ手にしたままでいた本を目顔でさして、いった。「どうです、その本は?」
スペードは歯をみせて笑い、「いやどうも、わたしなぞはまったく門外漢で」といって本を置いた。「しかし、実はこの本のことでうかがったのです、ミスター・フェリス。あなたはヘイブンをご存知ですか?」
「もちろん。おかけなさい、ミスター・スペード」彼はスペードの椅子からあまり離れていない椅子に腰をおろした。「彼がまだほんの若者だった時分から知っていますよ。彼がどうかしたんじゃありますまいな?」
スペードはいった。「わかりません。わたしは彼をさがし出そうとしているのです」
フェリスはためらいがちにきいた。「なぜさがすのか、うかがっても構いませんかな?」
「あなたはジーン・コリヤーをご存知ですか?」
「ええ」フェリスはふたたびためらい、それからいった。「腹を割って打明けますが、わたしは北カリフォルニアに映画館のチェーンを持っていて、二年ばかり前に一種の労使紛争が起こった時、それをおさめるのにはコリヤーに頼むのがいいと人から聞かされましてな。それが彼と知合った始めです」
「なるほど」スペードは冷淡にいった。「そんなふうにしてジーンとの縁ができる人たちが多いようですな」
「しかし、彼がイーライをどうしようというのです?」
「見つけて欲しがっているんです。最後にイーライを見たのはいつです?」
「先週の木曜日、彼はここにきましたよ」
「いつごろ帰りました?」
「真夜中――十二時をすこし回っていました。やってきたのは午後の三時半ごろでした。何年ぶりかの再会なので、わたしは彼に夕食を食べて行くように勧め――彼はかなり困っているらしい様子でしたから――すこし金を貸してやりました」
「どれぐらい?」
「百五十ドル――手もとの有り金をすっかり」
「帰る時、それからどこへ行くつもりなのか、いいましたか?」
フェリスはかぶりを振った。「翌日電話するといいました」
「それで、電話をかけてきましたか?」
「いや」
「あなたは彼を、ずっと昔からご存知なのですね?」
「さあ、そういえるかどうか。しかし、彼は十五、六年前にわたしが、はじめしばらくはもう一人の共同経営者と、あとは一人で、[グレート・イースタン・アンド・ウエスタン・コンバインド・ショー]という見世物会社を経営していた時、そこで働いていました。わたしはずっと彼をかわいがっていました」
「木曜日に彼が訪ねてくるまで、どれぐらい会わなかったんです?」
「さあ、どれぐらいかな? とにかく、長いあいだ音沙汰がなかったもので。それから水曜日に、まるで天から降ったように、所書《ところがき》もなにもつけずにその本が届き、翌日の朝、彼から電話がかかりました。わたしは彼がまだ健在で、一応まともなことをやっていることを知って、とび立つように嬉しい思いがしました。そんなわけで、その午後、彼がやってくると、わたしたちは九時間もぶっ続けで思い出話にふけりました」
「あなたと別れて以後、どんなことをやっていたか話しましたか?」
「ただ、いろいろなことをつぎつぎに、手当りしだいにやっていたということだけです。それほど愚痴《ぐち》はこぼしませんでした。わたしは百五十ドルを押しつけるようにして受けとらさなくてはなりませんでした」
スペードは立上がった。「ありがとうございました、ミスター・フェリス。わたしは――」
フェリスは礼を述べるスペードをさえぎった。「どういたしまして。わたしでお役にたてることがあれば、いつでもまたおいでください」
スペードは腕時計を見た。「なにか変わったことがなかったか、事務所に電話をかけさせていただけますか?」
「どうぞ。電話はこの右隣の部屋です」
「どうも」とスペードはいって出て行った。彼は手でタバコを巻きながら戻ってきた。顔は無表情だった。
「なにかニュースがありましたか?」とフェリスがきいた。
「ええ。コリヤーが仕事は中止だといってきました。彼の話によると、サンホセのあっち側の藪《やぶ》の中に、弾丸を三発うちこまれたヘイブンの死体が発見されたそうです」スペードは微笑しながら穏やかにつけ加えた。「コリヤーはわたしに、なにかを聞き出せるかもしれないコネがあるといっていましたっけ」
スペードの事務所の窓のカーテンを通してさしこむ朝の日光が、二つの肥満した黄色い矩形を床につくり、部屋の中のすべてのものを黄色っぽく染めていた。
スペードは机に向かってすわり、思案をめぐらすように新聞をながめていた。エフィー・ペリーンが外のオフィスからはいってきても、彼は目を上げなかった。
彼女はいった。「ミセス・ヘイブンが見えています」
彼は顔を上げて、いった。「ちょうど都合がいい。通してくれ」
ミセス・ヘイブンは走るようにはいってきた。彼女の顔は白く、あたたかい日に毛皮のコートを着ていながら、ブルブルふるえていた。彼女はまっすぐスペードのところへきて、きいた。
「ジーンが殺したの?」
スペードはいった。「さあ、どうかな?」
「知りたいわ!」と彼女は叫んだ。
スペードは彼女の手をとった。「まあ、おすわりなさい」彼は彼女を椅子にかけさせた。それから、きいた。「コリヤーはあなたに、わたしへの仕事の依頼をキャンセルしたことを教えましたか?」
彼女は仰天《ぎょうてん》して彼を見つめた。「彼が――何をしたんですって?」
「昨夜、あなたのご主人が見つかり、コリヤーはわたしに、もう仕事をしなくてもいいといってよこしたのです」
彼女は頭を垂れ、やっと聞きとれる声でいった。「じゃ、彼がやったのね」
スペードは肩をすくめた。「無実だからそういう処置がとれたのか、それとも頭がよく、神経もふとくて、開き直って逆手《ぎゃくて》をとってきたのかも――」
彼女は彼のいうことを聞いていなかった。彼に寄り添ってきながら、彼女は熱をおびた声でいった。「でも、ミスター・スペード、あなたはこのままになさりはしないわね? ストップをかけられて、おめおめ引きさがりはしないわね?」
彼女がしゃべっている間に電話が鳴った。彼は「失礼」といい、電話器をとった。「なに?……ほう。……ふうん」彼は口もとを引き締めた。「ちょっと待ってもらえ」彼は受話器をゆっくりわきへ置いて、ミセス・ヘイブンのほうに向き直った。「外にコリヤーがきています」
「わたしがここへきていることを彼は知っているでしょうか?」と彼女は口早にきいた。
「さあ、どうですかな」彼は彼女を観察しているのを、そぶりには見せずに立上がった。「知っていたら困りますか?」
彼女は下唇をかんで、ためらいながらいった。「いいえ」
「よろしい。彼をここへ呼びましょう」
彼女は抗議するように手を上げたが、すぐ下ろし、蒼白な顔に落着きをとり戻した。
スペードはドアをあけて、いった。「ハロー、コリヤー。はいってきたまえ。ちょうどあんたのうわさをしていたところだ」
コリヤーは片手にステッキを、もう一方の手に帽子を持ってオフィスにはいってきた。
「おはよう、ジュリア。わたしに電話すればよかったのに。町まで車で送ってあげられただろうに」
「わたし、どうしていいかわからなかったの」
コリヤーは一瞬じっと彼女を見つめ、それから無表情な緑色の目の焦点をスペードの顔に移した。「わたしがやったのじゃないことを、このひとに納得させてもらえたかね?」
「話はまだそこまで行っていない」スペードはいった。「ただ、あんたを疑うべき理由がどれぐらいあるか、検討していたところだ。すわりたまえ」
コリヤーはしかつめらしくうなずいた。「わかった、スペード」彼はいった。「あんたをもう一度雇おう。このことに、わたしが無関係なことをミセス・ヘイブンに証明してくれ」
「ジーン!」彼女はのどがつまった声で叫び、訴えるように彼のほうに両手をさし出した。「あなたがやったとは思わない。あなたがやったなんて思いたくないわ。でも、わたし、こわいの」
コリヤーは彼女のそばへ行った。「落着きなさい」彼はいった。「二人で力を合わせて解決しよう」
スペードは外のオフィスに出て、うしろ手にドアをしめた。
エフィー・ペリーンはタイプで手紙を打っていた手をとめた。
彼は彼女にニヤリと笑ってみせて、いった。「だれか、いつか、いろんな人間についての本を書かんものかな? 人間というのは、まったく奇妙な生物だよ」そして冷水器のところへ行った。「ウォーリー・ケロッグの電話番号が控えてあるだろう。彼を呼出して、どこへ行ったらトム・ミネラをつかまえられるか、たずねてくれ」
彼は奥のオフィスに戻った。
ミセス・ヘイブンは泣きやんでいた。彼女はいった。「ごめんなさい」
スペードはいった。「かまいませんよ」彼はコリヤーを横目で見た。「わたしの首はまだつながっているのかね?」
「ああ」コリヤーは咳《せき》ばらいをした。「しかし、今、特になにもないのだったら、わたしはミセス・ヘイブンを家に送って行くよ」
「オーケー、ただひとつききたいことがある。[クロニクル]紙によると、あんたが彼の死体を確認したそうだが、どうして現場に居合わせたのかね?」
「死体が見つかったという情報がはいったから、出かけてみたのさ」コリヤーは慎重にいった。
「わたしにはコネがあるといったろう? その方面から情報がはいったのさ」
「わかった。それじゃまた」とスペードはいって、二人のためにドアをあけてやった。
廊下へ出るドアがしまると、エフィー・ペリーンがいった。「ミネラはアーミー街の[バクストン]にいるそうです」
「ありがとう」とスペードはいい、帽子をとりに奥のオフィスにはいった。出て行きしなに、彼はいった。「もしぼくが二ヵ月ぐらいたっても帰ってこなかったら、[バクストン]に死体をさがしにくるようにいってくれ」
スペードはむさ苦しい廊下を[四一一]という番号が書きつけられた、くたびれた緑色のドアの前まで歩いて行った。ドアを通してくぐもった話し声がしたが、言葉は聞きわけられなかった。彼は立ち聞きするのをやめてドアをノックした。
あきらかにつくり声の男の声がきいた。「何だ?」
「トムに会いたい。私はサム・スペードだ」
ちょっと間をおいてから――「トムはいないよ」
スペードは把手《ノブ》に手をかけて、貧弱なドアをガタガタ揺すった。「おい、あけてくれ」と彼は唸るようにわめいた。
二十五、六の痩せた色の黒い男がドアをあけて、ビーズのように丸い小さい黒い目を、いかにも無邪気そうに見せようと努力しながら、「はじめ、あんたの声みたいに聞こえなかったもんだから」と弁解した。締まりのない口のために、小さい顎がいっそう小さく見えた。襟もとをはだけたグリーンの縦縞のシャツは薄よごれていたが、灰色のズボンはピンとプレスされていた。
「ちかごろは気をつけないとヤバいからな」とスペードはもっともらしくいい、戸口を抜けて部屋にはいった。そこにいるあと二人の男は、どちらも彼の入来を気にとめていないふりをしようとしていた。
その一人は窓枠によりかかって指の爪の手入れをしていた。もう一人はテーブルの端に足をのせて椅子にそっくり返り、顔の前に新聞を広げていた。彼等は申し合わせたようにスペードにチラリと目をやっただけで、またそれまでやっていたことをし続けた。
スペードは楽しげにいった。「トム・ミネラの友だちは、みんな私の友だちだよな」
ミネラはドアをしめ終わって、ぎごちなくいった。「ああ、そうとも、ミスター・スペード。ミスター・コンラッドとミスター・ジェームズを紹介しよう」
窓のそばにいた男――コンラッド――は爪やすりを持った手で、ちょっと挨拶するようなしぐさをした。年はミネラより二つ三つ上か、中背のたくましい体つきで、愚鈍な目と愚鈍な顔だちをしていた。
ジェームズは新聞をおろし、つめたい目でスペードをジロリと見て、「やあ、兄弟《ブラザー》」といい、また新聞を読み始めた。彼もコンラッドに劣らずたくましい体つきだが、ただもっと背が高く、体つきにはコンラッドに欠けている狡猾《こうかつ》さが感じられた。
「ああ、みんな、死んだイーライ・ヘイブンとも友だちだったな」とスペードはいった。
窓のそばの男は爪やすりの手もとを狂わして指を刺し、口ぎなたくののしった。ミネラは唇をなめ、それから哀れっぽく鼻を鳴らすような声で早口にしゃべった。「だけど、正直いつわりなしに、スペード、この一週間、おれたちはだれも彼に会っていないんだよ」
スペードはその色の黒い男の態度を、いくぶん面白がっているように見えた。
「彼はどうして殺されたんだと思う?」
「おれが知ってるのは新聞に出てることだけさ。ポケットは全部裏がえしにされて、マッチ一本身につけていなかった」彼は口をへの字に結んだ。「でも、もともと金は持ってなかったんだ。火曜日の夜にはぜんぜん持ってなかった」
スペードは柔らかにいった。「木曜日の夜には、いくらか持っていたって話だがな」
スペードの背後で、ミネラが息をのむのがはっきり聞こえた。
ジェームズがいった。「あんたには、知るべきいわれがあるんだろう。おれはそんなことは知りたくないよ」
「彼はきみらと一緒に仕事をしたことがあるのかね?」
ジェームズは読んでいた新聞をゆっくり傍に置いて、テーブルの上にのせていた足を下ろした。スペードの質問に関心をそそられはしたが、その関心は個人的なものではないといった感じだった。「それはどういう意味だね?」
スペードは驚いたふりをした。「しかし、きみらは何か仕事をしようとしているんだろう?」
ミネラがスペードの傍に寄ってきた。「ねえ、聞いてくれよ、スペード」彼はいった。「あのヘイブンってやつは、ただおれたちと知合いなだけなんだ。やつを消すなんてことに、おれたちはこれっぽっちもかかわっちゃいない。おれたちは何も知らないんだ。いいかい、おれたちは――」
用心ぶかく、しかしはっきりと、ドアを三つノックする音がした。
ミネラとコンラッドがジェームズの顔を見、ジェームズはうなずいたが、その時すでにスペードはすばやい動きでドアのところに行って、それを引きあけていた。
外の廊下にはロジャー・フェリスが立っていた。
スペードはフェリスを、フェリスはスペードを、まじまじと見た。それからフェリスは握手の手をさし出していった。「ここでお会いできるとは――」
「おはいりなさい」とスペードはいった。
「これを見てください、ミスター・スペード」フェリスは手をふるわしながら、すこしよごれた封筒をポケットからとり出した。
封筒にはフェリスの名前と住所がタイプされていた。切手は貼ってなかった。スペードはその中身――細長い安っぽい一枚の白紙――をひっぱり出した。それにはこんな文句がタイプで打たれていた。
[#ここから1字下げ]
――木曜日の夜の一件につき、今日午後五時、アーミー街の[バクストン・ホテル]四一一号室にこられたし。
[#ここで字下げ終わり]
署名はなかった。
スペードはいった。「五時までにはまだ随分、間がありますな」
「そうなんです」フェリスは勢いこんでうなずいた。「しかし、わたしはそれを受取るとすぐ出てきたんです。木曜日の夜といえば、イーライがわたしの家にきていた時ですからね」
ミネラはスペードをつつきながらたずねた。「一体どういうことなの?」
スペードは紙きれをかざして、ミネラに読ましてやった。彼は読み、黄色い声でわめいた。
「ほんとに、スペード。おれ、そんな手紙のこと、なにも知っちゃいないぜ」
「だれか知ってる者は?」とスペードはきいた。
コンラッドは、「ノー」と急いでいった。
ジェームズはいった。「何の手紙だい?」
スペードは一瞬、夢みるような目でフェリスを見、それから自分自身にむかってしゃべるようにいった。「むろん、ヘイブンはあんたをゆすりにかかっていたのさ」
フェリスは顔を紅潮させた。「何だって?」
「ゆすりさ」スペードは辛抱づよくくり返した。「金さ。強迫だよ」
「なあおい、スペード」フェリスは気色《けしき》ばんでいった。「まさか、きみは本気でそんなことを考えているんじゃあるまいな? わたしをゆする、どんな材料を彼が持っていたというんだ?」
「いろどられし光を知る古き良き友バックへ。その時とところの思い出をこめて――」スペードは死んだ詩人の献辞を暗誦《あんしょう》した。彼は心もち上げた眉のかげから、まじめにフェリスを見つめた。「どんな色の光だ? 走っている列車からだれかを突き落とすことを、見世物やサーカスで働く連中の隠語で何といったっけ? ――赤い光……|赤い灯《レッド・ライティング》だ〔列車の赤い尾灯から出た俗語〕。そうとも――赤い光さ。だれかをあんたは列車から突き落とした――そしてヘイブンがそれを知っていたんだ?」
ミネラはその辺にあった椅子にすわり、膝に頬杖をついて、しらばくれた顔で床を見つめた。コンラッドはまるでマラソン走者のような息づかいをしていた。
スペードはフェリスにむかってうながした。「さあ?」
フェリスはハンカチで顔を拭き、そのハンカチをポケットにおさめて、簡潔にいった。「そう。ゆすりだった」
「で、彼を殺した――?」
スペードのトパーズ色の目を見つめるフェリスの青い目は、声と同様、澄んで平静だった。
「わたしはやらなかった」彼はいった。「誓っていう、わたしはやらなかった。説明させてくれ。前に話したように、彼はわたしにあの本を送ってよこし、見返しに書きつけられた冗談めいた文句が何を意味するのか、わたしには即座にわかった。だから、翌日、彼が電話をかけてきて、わたしと昔話をしに、そして昔のよしみでいくらか借金を申しこみに訪ねてくるつもりだといってきた時にも、それが何を意味しているのかすぐにわかり、わたしは銀行へ行って一万ドル引き出してきた。そのことは調べてくれればわかる。銀行は[シーメンズ・ナショナル銀行]だ」
「調べる」とスペードはいった。
「実際には、そんなにはいらなかった。彼はそれほどの悪党《あくとう》ではなく、わたしは彼に五千ドルで手を打つように説きつけることができた。翌日、わたしは残った五千ドルを銀行に戻した。これも調べてくれればわかる」
「調べる」とスペードはいった。
「わたしは彼に、今後いっさい脅迫には応じないぞといってやった。この五千ドルが最初で最後だと。わたしは彼に、彼がわたしの――わたしのやったことに手を貸したという自供書に署名しろといい、彼はそれに署名をした。出て行ったのは真夜中ごろで、それが彼を見た最後だ」
スペードはフェリスから渡された封筒をたたいた。「この手紙の説明は?」
「昼ごろ、メッセンジャー・ボーイが届けにきて、わたしはすぐ出かけてきた。イーライはだれにも何もしゃべらなかったといったが、実際にはどうかわからない。とにかく、わたしとしては対決せざるを得なかった」
スペードは木偶《でく》のように無表情に、ほかの連中の顔を見わたした。「どうだね?」
ミネラとコンラッドはジェームズの顔を見、ジェームズはいらだたしげなしかめつらをして、いった。「ああ、その手紙を送ったのはおれたちさ。そうしていかんわけがあるか? おれたちはイーライの友だちで、やつはこのおっさんを締め上げに出かけたっきり姿を消し、それから死体になって見つかった。だからおれたちはこの紳士に、きて、説明してもらおうと思ったのさ」
「脅迫のことを、あんたは知ってたのか?」
「もちろん。やつがそのことを思いついた時、おれたちはみんな一緒にいたんだ」
「どんなふうに彼は思いついたのかね?」とスペードはきいた。
ジェームズは左手の指を広げた。「おれたちは飲みながらお喋りをしていた。よくあるだろう、何人か寄り集まって、見たりやったりしたことを喋り合うことが? で、やつは、いつかある男が別の男を列車から谷に突き落とすのを見たことがあるって話をして、ついでにそれをやった男の名前も出した。――バック・フェリスって名前をな。するとだれかが、そのフェリスって男はどんなやつだときいた。イーライはもう十五年も会っていないがと断わりながら、そのころその男がどんなふうだったか説明して聞かせた。するとそのだれかが口笛を吹いて、いった。――そいつはこの州の映画館の半分ぐらいを持っている、あのフェリスに似てるぞ。もしそうだったら、その古傷を明かさないと約束すれば、相当のものを出すだろうぜ!
その思いつきにイーライは衝《つ》き動かされたみたいだった。はた目にもそれはわかった。やつはしばらく考えこみ、それから用心深くなった。やつはその映画館チェーンの持主のフェリスのファースト・ネームをきき、相手になっていた男が[ロジャー]だと答えると、やつはがっかりしたような様子を作って、いった。――そうか、それじゃ違う。おれが話したやつのファースト・ネームは[マーチン]っていうんだ。……おれたちはみんな、やつに、とぼけるな、といってやり、それからやつもとうとう、その男に会ってみようと思っているんだと白状し、それから木曜日の昼ごろ、おれに電話をかけてきて、その夜[ポギー・ヘッカーズ]でみんなに一杯おごるつもりだといってよこしゃ、やつが何をやろうとしているのか、いっぺんで読めたさ」
「突き落とされた男の名前は?」
「やつは教えなかった。すっかり口をつぐんじまった。その気持はわかるさ」
「まあ、な」スペードは相槌を打った。
「それから音沙汰なしさ。[ポギー]には姿を現わさなかった。おれたちは午前二時ごろ、やつを電話口に呼び出そうとしたが、やつのかみさんの話だと、やつはまだ家に帰っていないというので、おれたちは四時か五時ごろまでねばっていて、それからやつはおれたちにスカを食わしたんだとあきらめて、[ポギー]の勘定をやつに請求させることにして解散した。それっきり、おれはやつに会っていない――生きていようと死んでいようと」
スペードは穏やかにいった。「なるほど。しかし、こういうのはどうかな? ――あんたはその朝、もっとあとになってからやつを見つけ、ドライブに連れ出し、フェリスの五千ドルが目あてで彼に弾丸をぶちこみ、死体を藪《やぶ》の中に――」
ドアを二つ、するどくノックする音がした。
スペードの顔が明るくなった。彼はドアのところへ行って、あけた。
若い男がはいってきた。非常にきびきびして、非常に均整のとれた体つきをしていた。薄地のトップコートを着、両手をポケットにつっこんでいた。戸口のすぐ内側で、彼は右側に寄り、背中を壁に向けて立った。その時にはもう一人別の若い男がはいってきていた。その男は左側に寄った。二人は実際には似ていなかったが、同じようにきびきびした動き、同じように均整のとれた体つき、そしてほとんど対称の位置に、壁に背を向けて立ち、両手をポケットにつっこみ、つめたく光る目で室内にいる者を見すえている様子は、一瞬、二人を双生児のように錯覚させた。
それからジーン・コリヤーがはいってきた。ジェームズが「ハロー、ジーン」といったが、彼はスペードにむかってうなずいただけで、ほかの者には注意を払わなかった。
「何か新しいことがあったかね?」コリヤーはスペードにきいた。
スペードはうなずいた。「どうやらこの旦那が――」彼は親指でフェリスを指さした。
「二人で話せる場所があるか?」
「この奥にキッチンがある」
コリヤーが「よく見張ってろ!」という意味にとれるしぐさを、肩ごしに二人の若い男に向かってすると、スペードのあとについてキッチンにはいって行った。彼はひとつきりない椅子にすわると、緑色の目をまたたきもせずスペードにそそぎ、スペードがそれまでにわかったことを話すのに聞き入った。
スペードが話し終えると、彼はきいた。「それで、あんたの結論は?」
スペードは思案げに相手を見た。「あんたのほうも、なにか情報を拾ったんだろう? それを聞きたいな」
コリヤーはいった。「死体の見つかった場所から六百メーターばかり離れた小川の中から拳銃が見つかった。――ジェームズのだった。いつかバレホで、やつの手から射ちとばされた時についた傷でわかった」
「それは結構」とスペードはいった。
「まあ聞け。サーバーって名の若僧《わかぞう》の話なんだが、先週の水曜日、ジェームズがそいつのところへやってきて、ヘイブンを尾《つ》けるように頼んだ。サーバーは木曜日の午後にヘイブンを見つけ、フェリスの家にはいるのを見とどけてジェームズに電話した。ジェームズは彼に、その場で見張りを続けて、ヘイブンが出てきたらその行先を知らせるようにいいつけたが、近所の神経質な女が、小僧がうろうろしているのを怪しんで騒ぎ出し、十時ごろ、お巡りがやってきてやつを追いまわした」
スペードは口を結び、思案をめぐらすように天井をみつめた。
コリヤーの目は無表情だったが、まるい顔は汗で光り、声はしわがれていた。「スペードに――」彼はいった。「わたしはやつを引渡すつもりだ」
スペードは凝視の視線を天井から、とび出た緑色の目に移した。
「わたしは身内の人間を引渡したことは一度もない」コリヤーはいった。「だが、こいつは仕方がない。たとえわたしの身内の者を引渡そうと、わたしはジュリアに、このことにわたしは無関係だってことを納得してもらわなくちゃならない。そうじゃないか?」
スペードはゆっくりうなずいた。「――だろうな」
コリヤーは不意に目をそらし、咳ばらいをした。それからこんどは簡略にいった。「よし、きまった」
スペードとコリヤーがキッチンから戻ると、ミネラとジェームズとコンラッドは椅子にすわっていた。フェリスは床を行ったりきたりしていた。二人のかっこうのいい若い男は動かずにもとの場所にいた。
コリヤーはジェームズの前に行った。「ルイス、おまえの拳銃はどこだ?」と彼はきいた。
ジェームズは左胸のほうにやりかけた右手をとめて、いった。「持ってくるのを忘れましたよ」
コリヤーは手袋をはめた手で――平手で――ジェームズの横面をひっぱたき、椅子からふっとばした。
ジェームズは立上がりながら、口の中で弁解した。「悪気《わるぎ》はなかったんですよ」彼はひっぱたかれた頬に手をあてた。「わかっちゃいたんですが、ボス、やつは電話で、手ぶらじゃフェリスに立ちむかう勇気がないし、自分じゃ拳銃なんか持っていないというんで、おれは『わかったよ』といって、やつにおれのを持たせてやったんですよ」
コリヤーはいった。「それからおまえはサーバーをやつのところへ行かせたろう」
「やつがうまくやりおおせるかどうか、見たかったんですよ」とジェームズは口の中でいった。
「おまえは自分で行くか、ほかのだれかをやることはできなかったのか?」
「サーバーのやつが、あんな騒ぎをひき起こしちまったあとにですかい?」
コリヤーーはスペードのほうに向いた。「こいつらをつき出すのを手伝ってくれるか? それともパトカーを呼ぶか?」
「まともなやり方で行くよ」とスペードはいい、壁にとりつけられた電話のところへ行った。電話をかけ終って、ふり向いた彼の顔は無表情で、夢みるような目をしていた。彼はタバコを巻き、火をつけ、コリヤーにむかっていった。「おれも焼きがまわったのかな、ジェームズの話にもっともな点がかなりあると思うようじゃ」
ジェームズはあざのついた頬から手を離し、びっくりした目でスペードを見つめた。
コリヤーがいった。「いったい何だってんだ?」
「なんでもない」スペードはやわらかくいった。「ただ、あんたがいやにそいつに押っかぶせたがってることのほかはね」彼は煙を吐き出した。「たとえば、人がみんな知ってる|しるし《ヽヽヽ》のついた拳銃を、なぜ投げ捨てたりしたのかな?」
コリヤーはいった。「こんなやつに脳|みそ《ヽヽ》があると思うのか?」
「もしこの連中が彼を殺し、彼が死んだことを承知していたとしたら、なぜ、死体が発見されてみんなが騒ぎ出す前に、いち早くフェリスに再攻撃を加えなかったのかね? もしこの連中が彼の金を狙ったのだったら、なぜポケットを裏返しにしたままにしておいたりしたのかね? なにかほかの理由で彼を殺し、それを強盗に見せかけようとしたのでなけりゃ、そんなまわりくどいことはしやしない」彼はかぶりを振った。「あんたはあんまり熱心に、こいつらに罪を押っかぶせようとしているよ。どうしてこの連中が――」
「いま問題なのはそんなことじゃない」コリヤーはいった。「問題なのは、わたしがやつに罪を押っかぶせようとしていると、あんたがそんなにしつこく言い張る理由だ」
スペードは肩をすくめた。「できるだけ早く、またできるだけはっきり、あんたの潔白をジュリアに証明したいためかもしれない。そしてさらには警察に対しても潔白を証明するためかも。そうなればあんたは上玉《じょうだま》の顧客《おとくい》さんをガッチリ握ることにもなるわけだし」
コリヤーはいった。「なんだって?」
スペードは手にしたタバコでむぞうさにジェスチャーをした。「フェリスさ」と彼は穏やかにいった。「もちろん、彼がやったのさ」
コリヤーの瞼が、まばたきもしないのにピクピク痙攣した。
スペードはいった。「第一に、彼はわれわれの知っている、生きているイーライを見た最後の人間で、これはいつだって有力な嫌疑材料だ。第二に、彼はイーライの死体が発見される前にわたしと話をした人間の中で、何かを隠そうとしているのじゃないかとわたしに思われはしないかと気にした唯一の人間だった。ほかの連中は、わたしはただ行方不明の人間をさがそうとしているだけだと思いこんでいた。しかし、フェリスは、わたしがさがしているのは自分が殺した男だということを知っていたから、なんとか身の明《あか》しを立てなくちゃならなかった。あの本を捨ててしまうことすらできなかった。なぜならその本は本屋から届けられたもので、いずれそのことは、あとをたどられて露見するだろうし、見返しに書きつけられた献辞を見た店員もいるかもしれなかった。第三に、イーライのことを、ただ気だてのやさしい、罪のない、愛すべき若者だというふうにいったのは彼だけだった。これも理由は同じさ。第四――脅迫者が午後の三時にやってきて、五千ドルをまんまとせしめ、それから夜中までのうのうと|おみこし《ヽヽヽヽ》をすえているというのは、どんなにうまい酒を飲まされたにしろばかげているよ。第五――イーライが自供書に署名したという|おはなし《ヽヽヽヽ》は――そんなもの、偽造するのは簡単だろうが――それ以上に最低だね。第六――フェリスにはイーライが死ぬことを他のだれよりも望む理由があった」
コリヤーはゆっくりうなずいた。「しかし――」
「しかしもくそもあるもんか」スペードはいった。「銀行から一万ドル引出し五千ドル戻すトリックは、実際にやったろうよ。だが、それはなにも難しいことじゃない。それから彼は気の弱い脅迫者を家に迎え入れ、召使たちが寝てしまうまで引きとめ、やつが人から借りてきた拳銃をとり上げ、その拳銃をつきつけて階下へ、そして車の中へ追い立て、ドライブに連れ出し――そのドライブの途中でか、それともあの藪《やぶ》のそばでか、やつを射ち殺し――身元が割れるのを困難にして、ただの強盗事件のように見せかけるためにあらゆるものを剥ぎとり、拳銃を川の中にほうりこんで家に戻って――」
彼は話を中断し、外からパトカーのサイレンの音が聞こえてくるのに耳を澄ました。それから、話し始めてからはじめて、フェリスの顔に目をやった。
フェリスの顔色は蒼白だったが、目つきはしっかりしていた。
スペードはいった。「これはただのカンだがね、フェリス、例の[赤い光]の一件にも、いずれは|かた《ヽヽ》をつけることになるような気がするよ。あんたはわたしに、イーライがあんたの下で働いていた時分、あんたはしばらくパートナーと一緒に見世物興行の会社をやっていたが、そのあと単独のオーナーになったといったな? そのパートナーのことをしらべるのは、それほど手数のかかることじゃない。――行方不明になったのか、自然死をとげたのか、それともまだ生きているのかといったことを」
フェリスはいくらかぐったりした様子だった。彼は唇をなめて、いった。「わたしは弁護士を呼ぶ。弁護士に会うまではなにもしゃべらんよ」
スペードはいった。「わたしは構わんよ。あんたは現にそれにぶつかったわけだが、脅迫者という連中はわたしも好きじゃない。考えてみると、イーライのやつも、あの本の中にうまい墓碑銘を書き残したものさ。――『あまりにもおおくの人間が、これまでに生きた』ってな」
[#改ページ]
死刑は一回でたくさん
サミュエル・スペードはいった。「わたしはロナルド・エームズといいます。ミスター・ビネットにお会いしたい。――ミスター・ティモシー・ビネットに」
「ミスター・ビネットは、ただ今お休み中でございますが」執事は口ごもりがちに答えた。
「いつごろお目にかかれるか、きいてきてもらえないかな? 大事な用件なんだ」スペードは咳ばらいをした。「わたしは――ええと――オーストラリアから戻ったばかりで、あちらにあるあのかたの財産のことで話がしたいのだ」
執事は|きびす《ヽヽヽ》をめぐらしながら、「うかがってまいりましょう」といい、その言葉の終らぬうちに正面玄関をのぼり始めていた。
スペードはタバコを巻いて、火をつけた。
執事が階下に戻ってきた。「あいにくでございますが、今はお目にかかれないそうでございます。かわりにミスター・ティモシーの甥御《おいご》さまのミスター・ウォーレス・ビネットがお目にかかられますそうで」
スペードは、「ありがとう」といい、執事について二階へ上がった。
ウェーレス・ビネットは色の浅黒い、三十八歳のスペードと同じ年ごろのスラッとした好男子で、にしき織りの椅子から微笑しながら立上がって、「はじめまして、ミスター・エームズ」といい、手で別の椅子のほうをさし示して、また腰をおろした。「オーストラリアからお戻りだそうで――?」
「今朝つきました」
「ティム伯父の事業面でのお仲間ですか?」
スペードは微笑してかぶりを振った。「それほどの間柄ではありませんが、一刻も早くお耳に入れたい情報があるのです」
ウォーレス・ビネットは考え深げに床に目を落として、それからスペードを見上げた。「できるだけお目にかかるように伯父を説得してみましょう、ミスター・エームズ。しかし、率直にいって、うまくいくかどうかわかりません」
スペードはすこし驚いたように、「なぜです?」
ビネットは肩をすくめた。「伯父はお天気屋なのです。いや、精神状態はしごく健全なのですが、健康を害した老人にありがちな、短気で風変わりなところがあって――その――時どき頑固で手におえなくなることがあるものですから」
スペードはゆっくりきいた。「伯父上はわたしに会いたくないといわれたんですね?」
「そうです」
スペードは椅子から立上がった。金髪の悪魔めいた顔は無表情だった。
ビネットはあわてて手を上げた。「まあまあ、お待ちください」彼はいった。「気を変えさせるように、できるだけやってみますから。たぶん――」彼の黒い目が急に警戒の光を帯びた。「あなたは伯父に何かを売りつけにいらしたのではありますまいね?」
「いや」
警戒の色がビネットの目から消えた。「では、なんとかして――」
その時、若い女が怒ったように叫びながらはいってきた。「ウォリー、あの|もうろく《ヽヽヽヽ》じじいは――」彼女はスペードを見て、片手を胸にあてて言葉をとぎらせた。
スペードとビネットは同時に立上がった。ビネットは愛想よくいった。「ジョイス、こちらはミスター・エームズとおっしゃる。わたしの義妹のジョイス・コートです」
スペードは会釈《えしゃく》した。
ジョイス・コートは短い、まごついたような笑い声をたてて、いった。「いきなりとびこんできて、ごめんなさい」彼女は背が高く、形のいい肩と、かぼそいがしっかりした体つきの、青い目に浅黒い肌をした二十四、五の女性だった。顔だちはさほどととのっていないが、一種の温かみがそれを補っていた。彼女は脚のたっぷりした、青いサテンのパジャマを着ていた。
ビネットは気だてのよさそうな笑顔を彼女に向けて、きいた。「どうしたんだい、そんなに興奮して?」
怒りでまた彼女の目が暗くなり、しゃべり出そうとしたが、スペードを見て、いった。「でも家の中のこんなばかげた騒ぎにミスター・エームズを巻きこんではいけないわ。もしよかったら、ちょっと失礼して――」彼女はためらった。
スペードはまた一楫《いちゆう》した。「どうぞ」彼はいった。「わたしにはおかまいなく」
「すぐ戻りますから」とビネットは断わって、彼女と一緒に部屋を出て行った。
スペードは二人が出て行った、開けっぱなしのドアのところへ行って、そのすぐ内側に立って聞き耳をたてた。足音はしだいに遠くなった。ほかにはなにも聞こえなかった。スペードは夢みるような黄灰色の目をしてそこに立っていた。その時、悲鳴が聞こえた。それはきしるようにかん高い、恐怖におののく女の悲鳴だった。スペードが戸口からとび出した時、銃声が聞こえた。それは壁と天井に反響し、拡大された拳銃の銃声だった。
戸口から六、七メーターのところに階段があり、スペードは一度に三段ずつとび上がって行った。それから左に曲がった。廊下を半分ぐらい行ったところに、女が仰向けに倒れていた。
ウォーレス・ビネットがその女のそばに膝をつき、女の手をとって狂気のようになでまわし、低い懇願するような声で叫んでいた。「どうした、モリー、一体どうしたんだ?」
ジョイス・コートが彼のうしろに立って、両手を絞るように握り合わせ、頬に涙を伝わらせていた。
床に倒れた女はジョイス・コートに似ていたが、ジョイスよりは年をとって、その顔にはジョイスにないきびしさがあった。
「死んじまった。殺されたんだ」ウォーレスは蒼白な顔でスペードを見上げながら、信じられないようにいった。ビネットが頭を動かすと、倒れた女の黄褐色のドレスの心臓のあたりに丸い穴があいて、その下から赤黒いしみが急速に広がって行くのがスペードの目にはいった。
スペードはジョイス・コートの腕にさわった。「警察と救急病院へ――電話を」と彼はいった。彼女が階段のほうへかけ出すのを見とどけておいて、スペードはウォーレスにむかってたずねた。「だれがこんなことを――?」
スペードの背後で弱々しいうめき声がした。
彼はすばやくふり返った。開いた戸口のむこうに、白のパジャマ姿の老人が、しわくちゃになったベッドと十文字になるように、だらしなく横たわっているのが見えた。その頭と、片方の肩と腕は、ベッドの縁から下に垂れ下がっていた。もう一方の手は、自分ののどをかたくつかんでいた。彼はもう一度うめき、瞼をピクピクさせたが、目は開かなかった。
スペードは老人の顔と両肩をかかえ上げて、枕の上にのせた。老人はまたうめいて、のどから手をはなした。のどには五つ六つ傷がついて赤くなっていた。彼はひどく痩せて、おそらく年齢よりも老けて見える皺だらけの顔をしていた。
ベッドのわきのテーブルの上に、水のはいったコップがのっていた。スペードはその水を老人の顔にひっかけ、老人の瞼がふたたびピクピク動いたのを見て、かがみこんで、低い声できいた。「だれにやられました?」
痙攣《けいれん》するまぶたがすこし上がって、血走った灰色の目がほんのわずかだけ、細くのぞいた。老人はまた手をのどへあてながら、苦しげにいった。「男が――男が――」老人は咳《せ》きこんだ。
スペードはいらいらして顔をしかめた。彼は老人の耳にくっつくぐらい唇を近づけた。「そいつはどこへ行きました?」彼は急《せ》きこんだ声でたずねた。
老人は痩せた手を弱々しく動かして家の裏手のほうをさしたが、その手はすぐベッドの上に落ちてしまった。
廊下の死んだ女のそばには、ウォーレス・ビネットのほかに執事と二人の女召使がきもをつぶした様子で寄り集まってきていた。
「だれがやったんだ?」スペードは彼等にきいた。
彼等はばかのように彼の顔を見つめるばかりだった。
「だれか、老人を見てやれ」と彼は叱りつけるようにいい、廊下を進んで行った。
廊下のはずれに裏階段があった。彼は一階まで下り、食料貯蔵室を抜けて台所にはいった。だれもいなかった。台所のドアはしまっていたが、把手を回してみると鍵はかかっていなかった。彼はせまい裏庭を横切って、これまたとざされてはいるが錠はおりていない門まで行った。門をあけてのぞいてみたが、そのむこうの細い路地にも人気《ひとけ》はなかった。
彼はため息をついて門をしめ、家の中に戻った。
スペードはウォーレス・ビネットの邸の二階正面の部屋の深い革ばりの椅子にだらしなくすわっていた。部屋には書棚があって、明かりがついていた。窓の外には、遠くにひとつ、ぽつんとある街灯にかすかに薄められた暗闇が広がっていた。スペードと向かい合って、もうひとつの革椅子に、プレスする必要のあるダーク・スーツを着た、剃り残しのひげの目立つ血色のいい大男――トム・ポラウス部長刑事が寝そべるように腰かけていた。部屋の中央には、ポラウスより小づくりで、がっちりした体つきの、角ばった顔をしたダンディ警部が、頭を心もち前につき出すようにして、両脚を踏み開いて立っていた。
スペードはしゃべっていた。「……それで医者はぼくに、二、三分間しか老人と話させてくれなかった。すこし休養したら、もう一度やってみることはできるだろうが、どっちみち、あの老人は多くを知っていそうには思えないな。うたた寝をしていたが、気がつくとだれかに両手でのどをつかまれてベッドのまわりを引きずり回されていたというんだから。自分ののどを絞めている男をチラッと見るぐらいがせきの山だったろう。目の上までソフト帽を引き下ろしてかぶった、色の黒い、不精《ぶしょう》ひげの生えた大男だったそうだ。なんだかトムにそっくりじゃないか」スペードはポラウス部長刑事のほうに顎をしゃくった。
ポラウスはくつくつ笑ったが、ダンディは「さきへ行けよ」とそっけなくいっただけだった。
スペードはニヤッと笑ってあとを続けた。「ミセス・ビネットがドアのところであげた悲鳴が耳にはいった時、老人はもうほとんど失神する一歩手前だったんだ。男の手がのどからはなれ、それから銃声が聞こえ、気を失う直前に老人はその大男が裏手に向かって行き、ミセス・ビネットが廊下の床にころがるのをチラリと目におさめた。その大男は前に見たことのないやつだと老人はいっていた」
「拳銃の口径は?」とダンディがきいた。
「三八口径だ。どうやらこの家の連中はだれも、たいした助けにはならんらしい。ウォーレスと義妹のジョイスは――二人とも彼女の部屋にいたと本人たちはいうんだが――廊下にとび出した時、そこに倒れていたミセス・ビネットのほか何も見なかった。ただ、だれかが裏階段を廊下へかけ下りて行く音だったかもしれないものを聞いたような気がする、というだけなんだ。
執事は――ジャーボーという名前だが――悲鳴と銃声が聞こえた時はこの部屋にいたと自分ではいっている。女中のアイリーン・ケリーは一階にいた――と、これも自分でそういっているだけだが。料理女のマーガレット・フィンは三階の裏手の自分の部屋にいて、なにも聞かなかったといっている。もっとも、みんなのいうところでは、この女はまったくの金《かな》つんぼだそうだがね。裏のドアも門も鍵がかかっていなかったが、本来ならいつも鍵がかけてあるはずなんだとみんなはいっている。その時に台所や裏庭のあたりにいたと申し立てている人間は一人もいない」
スペードは両手を広げて、これで終りだというしぐさをした。「――といったようなわけさ」
ダンディはかぶりを振った。「いや、まだある」と彼はいった。「どうしてあんたはここに居合わせたんだ?}
スペードの顔が明るくなった。「ぼくの依頼人が犯人かもしれんな」と彼はいった。「アイラ・ビネットといって、ウォーレスの従弟だ。知ってるかい?」
ダンディはかぶりを振った。彼の青い目はきびしく、疑惑の光を帯びていた。
「サンフランシスコの弁護士だ」スペードはいった。「――信用もあるし、その他もろもろの。二日前、彼はティモシー伯父の話を持ってぼくのところへやってきた。しわんぼうで、金をたんまり溜めこんだが、ひどい生活ですっかり健康を害してしまった伯父の話をね。ティモシーは、いわば一族のもて余し者だったんだ。長年、彼の消息を聞いた者もなかった。ところが半年か八ヵ月ぐらい前に、彼はかなりひどい格好で、ただ金銭的には裕福になって――どうやらオーストラリアでひと財産つくったらしいんだが――姿を現わし、あの世に行く前の最後の日々を現在生存している肉親たち、つまり甥のウォーレスとアイラと一緒に送りたいといい出したんだそうだ。
甥たちとしては、その申し出に(否否《いないな》やはなかった。『生存している肉親』というのは『遺産の相続人』と同義語だからな。しかし、やがて甥たちは二人の遺産相続人のうちの一人であるよりは、唯一の相続人であるほうがいいと考え始め――そりゃそうだよな、もらい分が二倍になるわけだから――老人に対して有利な地位を占めようと策動を始めた。ともかく、ウォーレスがそういう策動をしているというのがアイラの言い分だった。もっとも、ウォーレスがアイラについて同じことをいったとしても、ちっとも驚きはしないがね。ただ、二人のうち、よけいに金を必要としているのはウォーレスのほうらしいが。いずれにせよ、甥たちは不和になり、それをきっかけに、それまでアイラのところに滞在していたティム伯父はここへ移ってきた。それが二ヵ月ぐらい前のことで、いらいアイラはティム伯父に会ってもいないし、電話をかけても手紙を出しても老人と連絡がとれない。
それで彼は私立探偵を雇う気になったのさ。彼はティム伯父がここでなにかの危害を加えられると思っちゃいない――そのことは、アイラは口をすっぱくして力説したよ――しかし、老人を自分たちの意に従わせるためにいろんな手が使われているんじゃないか、あるいはだまされようとしてるんじゃないか、すくなくとも老人の愛するもう一人の甥のアイラについて、あることないことを吹きこまれているんじゃないかと心配なのだ。で、そこのところがどうなっているのか、はっきり知りたいというわけさ。ぼくはオーストラリアからの船がひとつ入港した今日まで待って、ティム伯父さんに、オーストラリアにある彼の財産について重要な情報を持ってきたミスター・エームズという男になりすまして、ここへ乗りこんできたのさ。そんなわけで、ぼくはただ十五分ぐらい、老人と二人きりになりたかっただけだ」スペードは思案を凝らすように眉根にしわを寄せた。
「だが、うまくいかなかった。老人はぼくに会うことを拒否しているとウォーレスがいうんだ。どうもわからん」
ダンディのつめたい青い目に疑惑の色が深まった。「で、そのアイラ・ビネットは今どこにいるんだ?」
スペードの黄灰色の目は、声と同じく、すこしも構えたところがなかった。「それはぼくも知りたいことさ。彼の家と事務所に電話して、すぐこっちへくるように伝言を頼んだ。しかし、ひょっとすると――」
その部屋の一つきりのドアに、二つ、手の甲でするどくノックする音がした。室内の三人は一斉にそのほうを向いた。
ダンディがいった。「どうぞ」
ドアをあけたのは日焼けした金髪の巡査で、その左手は四十から四十五ぐらいの年配の、よく体に合った灰色の服を着た、ふとった男の右手首をしっかりつかんでいた。巡査はその男を室内に押し入れた。「この男が台所のドアをいじくっているところを見つけました」と巡査はいった。
スペードは見上げて、いった。「やあ!」その声には満足の調子があった。「ミスター・アイラ・ビネット。――ダンディ警部とポラウス部長刑事です」
アイラ・ビネットは早口にいった。「ミスター・スペード、この男に説明して――」
ダンディが巡査にいった。「よし、よくやった。その男はここに置いて行っていいよ」
巡査はあいまいに敬礼の動作をして、引きさがって行った。
ダンディはアイラ・ビネットにむかってきびしい顔をつくって、詰問した。「これはどういうことです?」
ビネットはダンディからスペードの顔に視線を移した。「ちょっとわけがあって――」
スペードはいった。「なぜあなたは表玄関からでなく裏口からはいろうとしたのか、そのわけを警部に話したほうがいい」
アイラ・ビネットは急に顔を赤くした。彼は狼狽《ろうばい》して咳ばらいをした。彼はいった。「わたしは……そのー……説明します。もちろん、悪意があったわけじゃないんで、執事のジャーボーから電話があって、ティム伯父がわたしに会いたがっているということで、ジャーボーは台所のドアに鍵をかけないでおくから、ウォーレスに知れないように、こっそりはいってこいと――」
「伯父さんはどんな用件であなたに会おうとしたんです?」とダンディはきいた。
「わかりません。ジャーボーはいいませんでした。ただ、とても重要なことだということで」
「あなたはわたしからの伝言を受取りませんでしたか?」とスペードがきいた。
アイラ・ビネットは目を丸くした。「いや。何です? 何か起こったのですか? いったい何が――」
スペードはドアのほうに歩き出した。「まあ、続けてくれたまえ」と彼はダンディにむかっていった。「ぼくはすぐ戻る」
彼はドアをそっとうしろ手にしめて、三階への階段をのぼって行った。
執事のジャーボーがティモシー・ビネットの部屋のドアの前に膝をついて、鍵穴をのぞいていた。そばの床の上に、卵カップにはいった卵とトーストとコーヒーのポットと、陶器と銀器の食器類とナプキンののった盆が置いてあった。
スペードはいった。「トーストがさめるぜ」
ジャーボーは急いで立上がろうとしてコーヒー・ポットをひっくり返しかけ、顔を赤くし、おどおどしながら口ごもった。「私――えー――失礼いたしました。これをお部屋におはこびする前に、ミスター・ティモシーがお目ざめかどうか、確かめようと存じましたもので」彼は盆を持ち上げた。「お休みをお邪魔したくなかったので――」
すでにドアのそばに寄っていたスペードは、「そりゃそうさ」といいながら、かがみこんで、鍵穴に自分の目をあててみた。それから身を起こすと、いくらか不平っぽい口調でいった。「なんだ、ベッドは見えないじゃないか。椅子と窓がすこし見えるだけで」
執事は急いで答えた。「はあ、私にもそれがわかりましたところで」
スペードは笑い声をたてた。
執事は咳ばらいをして、なにかいおうとしかけたように見えたが、いわなかった。そしてちょっとためらい、それからドアを軽くノックした。
疲れた声が応じた。「はいれ」
スペードは急いで、小声でたずねた。「ミス・コートはどこにいる?」
「お部屋においでだと思います。――左側の二番目のドアで」と執事は答えた。
部屋の中で、疲れた声が不機嫌にいった。「はいってこいったら」
執事はドアをあけて、はいって行った。執事がドアをしめきる前に、スペードは戸口を通して、ティモシー・ビネットがベッドの枕から頭をもたげるのを目に入れた。
スペードは二つ目のドアの前に行ってノックをした。ほとんど間髪《かんぱつ》を入れずにジョイス・コートがドアをあけた。彼女は戸口に立ったまま、笑いもしなければ口をきこうともしなかった。
スペードはいった。「ミス・コート、わたしがあなたの義兄《にい》さんといっしょにいる部屋にはいってこられた時、あなたは『ウォリー、あの|もうろく《ヽヽヽヽ》じじいは――』といいかけましたね。あれはティモシー伯父さんのことだったのですか?」
彼女は一瞬スペードを見つめ、それから――「そうよ」
「あの時、何をいいかけてやめたのか、教えていただけますか?」
彼女はゆっくりいった。「あなたが本当はどういう人なのか、またなぜそんな質問をなさるのかは知りませんけど、教えてさしあげるわ。わたしはこういおうと思ったの。――『(あの|もうろく《ヽヽヽヽ》じじいは)アイラを呼んだわよ』って。あの直前にジャーボーが教えてくれたのよ」
「ありがとう」
スペードが背中を向けるより早く、彼女はドアをしめた。
彼はティモシー・ビネットの部屋の前に引返して、ドアをノックした。
「だれかね、こんどは?」と老人の声がたずねた。
スペードはドアをあけた。老人はベッドの上に起き直っていた。
「さっき、ジャーボーがお部屋のドアの鍵穴をのぞきこんでいましたよ」とスペードはいい捨てて読書室に戻った。
アイラ・ビネットが、さっきまでスペードがすわっていた椅子に腰をかけて、ダンディとポラウスにむかってしゃべっていた。「それでウォーレスも、われわれのおおかたと同じように、暴落の巻き添えを食いましたが、ただ彼は自分を救うために取引の清算をごまかそうとしたらしいのです。それで彼は株式市場から締め出しの処分をうけてしまいました」
ダンディは部屋とそこにある家具や調度類をさし示すように手を大きく振った。「破産した人にしては、なかなか結構なお住居《すまい》ですな」
「細君が小金を持っていましてね」アイラ・ビネットはいった。「それで、いつも分に過ぎた生活をしてきたのです」
ダンディは不興げにビネットを見た。「それであなたは本当に彼と奥さんとがうまく行っていないとお考えなのですね?」
「|考える《ヽヽヽ》のじゃありません」ビネットは平静に答えた。「|知っている《ヽヽヽヽヽ》のです」
ダンディはうなずいた。「それから、彼が義妹のミス・コートに気があることも知っておいでなのですな?」
「そっちのほうは、知っているわけじゃありません。ただ、そういったうわさを何度も耳にしているというだけです」
ダンディはのどの奥でうなるような音をたて、それからするどくきいた。「老人の遺言はどんなふうに書かれているのですか?」
「知りません。だいたい、遺言を書いているのかどうかさえ、わたしは知りません」それからスペードにむかって、訴えるようにいった。「わたしは自分の知っていることは全部、ひとつ残らず話しましたよ」
「いや、まだだめです」とダンディはいった。彼は親指でドアのほうをさした。「トム、このお方に待っていただく場所をお教えしてくれ。それから、もう一度ミスター・ウォーレスの話を聞いてみようじゃないか」
大男のポラウスは、「了解」といってアイラ・ビネットと一緒に出て行き、青ざめてけわしい顔をしたウォーレス・ビネットと一緒に戻ってきた。
ダンディがきいた。「伯父上は遺言状を作っておいでですか?」
「知りません」とビネットは答えた。
スペードが、ものやわらかく、つぎの質問をした。「奥さんは作っておられましたか?」
ビネットは口をこわばらせて陰気に微笑した。彼はゆっくり話し出した。「あまり話したくないことですが、お話ししないわけにはいきますまい。はっきりいって、わたしの家内の金などというものはありません。以前、わたしの経済が窮地に立たされた時、わたしは多少の不動産を温存するために、家内の名義に書き変えたことがありますが、家内はそれをわたしが知らないうちに現金に換えてしまいました。その中から家内はわたしたちの費用――生活費――を払っていたのですが、その財産を家内はわたしに返すことを拒絶し、どんなことがあろうと――自分が生きていようが死のうが、わたしと一緒に生活していようが離婚しようが――ビタ一文わたしに返す気はないと断言しました。その時わたしは、家内は本気でそういっているのだと思いましたし、今でもそう思っています」
「離婚したいと思っていましたか?」とダンディがきいた。
「ええ」
「なぜ?」
「夫婦でいることが、どちらにとっても幸福ではなかったからです」
「原因はジョイス・コートかね?」
ビネットは顔を赤らめた。そして固苦しくいった。「わたしがジョイス・コートを心底《しんそこ》愛しているのは事実ですが、そのことがあろうがなかろうが、どっちみち離婚したいと思っていました」
スペードがいった。「それで、伯父さんがいわれる、伯父さんを絞《し》め殺そうとした男の特徴に符合する人物に、本当にぜんぜん心当りがないのですか?」
「ぜんぜんありません」
玄関のドアのベルの鳴る音が、かすかに部屋に聞こえてきた。
ダンディがすっぱい顔でいった。「どうぞ。もう結構です」
ビネットは出て行った。
ポラウスがいった。「なかなかのしたたか者ですな。それに――」
階下から、屋内で発射された拳銃のズドンとひびく音が聞こえた。
そして電灯が消えた。
暗闇の中で三人は、いっせいに暗い玄関にかけつけようとしてぶつかり合った。一番に階段口にたどりついたのはスペードだった。あとにつづく足音は聞こえたが、踊り場まで下りるまではなにも見えなかった。それから、玄関のドアの外からさしこむ明かりで、開いたドアを背にして立ちはだかっている男の姿が見えた。
スペードのすぐあとにつづいていたダンディの手の中で、懐中電灯のスイッチの音がして、まばゆい白い光がその男の顔に浴びせられた。それはアイラ・ビネットだった。彼はまぶしさに目をパチパチさせ、自分の前の床の上にある何かを指さした。
ダンディは光を床に向けた。そこにはジャーボーが顔を下にして、後頭部にあけられた弾痕から血を噴き出させながら倒れていた。
スペードは口の中で低くうなった。
トム・ポラウスがドタドタ階段をかけ下りてきた。ウォーレス・ビネットがすぐあとに続いていた。上のほうでジョイス・コートのおびえた声が聞こえた。「何があったの? ウォリー、何が起こったの?」
「電灯のスイッチは?」とダンディが吠えた。
「地下室の中です、この階段の下の」ウォーレス・ビネットがいった。「何があったんです?」
ポラウスはビネットをはねとばすようにして地下室のドアに向かって行った。
スペードはのどの奥で言葉にならない音をたて、ウォーレス・ビネットを押しのけて階段をかけのぼって行った。彼はジョイス・コートの傍をかすめ、彼女がおどろいて悲鳴をあげるのにもかまわず、なおもかけのぼった。三階への階段の途中にさしかかった時、上で拳銃の銃声がした。
スペードはティモシー・ビネットの部屋にかけつけた。ドアはあいていた。彼は中へはいった。
なにか固い角ばったものが右耳の上のところにぶつかり、彼はよろよろとよろめいて片膝をついた。部屋のすぐ外の床に、なにかがドサリと落ちてころがる音がした。
電気がついた。
部屋のまん中にティモシー・ビネットがあおむけに倒れて、左の前腕の銃創から血が流れ出ていた。パジャマの上着が裂け、老人は目をとじていた。
スペードが立上がって顔に手をやった。彼は床に倒れた老人と、室内の様子と、廊下の床にころがった拳銃を眺めまわした。それからいった。「起きろ、古狸の人殺しめ。起きて椅子にすわれ。医者がくるまで、出血の応急手当をしておいてやる」
床の上の男は動かなかった。
廊下に足音がして、ダンディが老人の二人の甥をしたがえて部屋にはいってきた。彼の顔は赤黒く怒気をみなぎらせていた。「台所のドアがあいている」彼は怒りを押し殺した声でいった。
「犯人はあそこから――」
「そうじゃない」スペードはいった。「犯人はティム伯父さんだよ」ウォーレス・ビネットがあえいだのにも、ダンディとアイラ・ビネットの顔に浮かんだ信じられないといった表情にも、彼は頓着《とんちゃく》しなかった。「さあ、起きろ」彼は床にころがった老人にむかっていった。「そして執事が鍵穴から何を見たのか、話して聞かせるんだ」
老人は身じろぎもしなかった。
「この男は、執事がのぞき見をしたとぼくが教えてやったので、執事を殺したんだ」スペードはダンディに説明してやった。「ぼくものぞいて見たが、椅子と窓のほかなにも見えなかった。それまでに、ドアの外ですこしゴタついていたので、こいつはベッドに戻ってしまったのだ。ぼくは窓のほうをしらべてみるから、あんたは椅子をバラしてみてくれ」彼は窓のところに行って、それを注意ぶかくしらべ始めた。彼は頭を振り、手をうしろに伸ばして、いった。「懐中電灯を貸してくれ」
ダンディは彼に懐中電灯を手渡した。
スペードは窓を押し上げ、建物の外側に光をあてた。やがて彼は口の中でぶつぶつつぶやき、あいているほうの手をのばして、窓枠のすこし下の煉瓦の一個を抜きとりにかかった。煉瓦はやがてはずれて、引きずり出された。彼はそれを窓枠の上に置き、煉瓦を抜きとったあとにできた穴に手をつっこんだ。そしてその穴から、からの黒い拳銃ケースと、弾丸がいくらかはいった箱と、封のしてないマニラ紙の封筒を、ひとつずつ順番にとり出した。
それらの物品を手にして、彼はみんなのほうに向き直った。ジョイス・コートが水のはいった洗面器とガーゼを持ってはいってきて、ティモシー・ビネットのそばにひざまずいた。スペードは拳銃ケースと弾丸のはいった箱をテーブルの上に置き、マニラ紙の封筒を開いた。中には、両面に乱暴な鉛筆の手書きの文字が書きつけられた二枚の紙がはいっていた。スペードはその一節を黙読し、だしぬけに笑い声をたて、それからまた初めから、こんどは声をたてて読み始めた。
[#ここから1字下げ]
私、ティモシー・キーラン・ビネットは、心身ともに健全な状態にあって、ここに遺言を書き残す。この私を家庭に迎え入れ、私の晩年をみとってくれた温かい思いやりを嘉《よみ》して、私は愛する二人の甥、アイラ・ビネットとウォーレス・ビネットに、私がこの世に所有するいっさいを均等に遺贈する。すなわち私の遺骸と私の着用している衣類がそれである。
私はまた、私の葬式の費用と、私が以下に指摘することを、忘れ得ぬ思い出として共有するように、二人に遺贈する。――一、私が、シンシン刑務所で過ごした十五年間を、オーストラリアで送ったものと信じこんだバカさかげん。二、その十五年が私に莫大な富をもたらし、私が二人の世話になり、二人から借金をし、自分の金をぜんぜん使わないのは、二人が相続するはずの財産の持主である私の吝嗇《りんしょく》のせいだと思いこんだ考えの甘さ。三、かりに私が人に残すようなものを持っていたとして、それを自分たちのうちどちらかに残すと思っていた虫のよさ。ついでにいうなら、ユーモアの感覚がぜんぜん欠けているために、こうしたことのすべてがどんなに滑稽かということが、二人には永久にわからないだろう。以上、ここに署名捺印する。
[#ここで字下げ終わり]
スペードは目を上げて、いった。「日付ははいっていないが、花文字でティモシー・キーラン・ビネットと署名してある」
アイラ・ビネットは怒りで紫色になり、ウォーレスの顔は死人のように蒼白になって、全身がぶるぶるふるえていた。ジョイス・コートはティモシー・ビネットの腕の手当をするのをやめてしまっていた。
老人は起きあがって目を開いた。彼は甥たちを眺め、それから笑い出した。その笑い声はヒステリックでもなく、気ちがいじみてもいなかった。それは正気の、心からの笑い声で、やがて徐々に静まった。
スペードがいった。「よし、もう十分に楽しんだろう。こんどは人殺しの話をしよう」
「はじめのやつについては、わしはあんたに話した以上のことは何も知らんよ」と老人はいった。「それから、こんどのは殺人じゃない。わしはただ――」
ウォーレス・ビネットが、まだはげしくふるえながら、歯の間から絞り出すようにいった。
「うそだ。あんたはモリーを殺した。ジョイスとぼくがジョイスの部屋から出てきたとたんにモリーの悲鳴と銃声が聞こえ、それからモリーがあんたの部屋からころがり出るのが見えた。しかし、そのあと、だれも出てきやしなかった」
老人は平静にいった。「よし、説明しよう。あれは事故だったのさ。オーストラリアにあるわしの財産のことで、わしに会いたいという男がオーストラリアから訪ねてきたと聞いて、わしはどうも解《げ》せぬ話だと思った」老人はニンマリ笑った。「なにしろ、わしはそんなところに、行ったこともないんだからな。わしのかわいい甥の一人が疑いを持って、わしをひっかけにかかっているかどうかはわからなかったが、ウォリーは自分がそれに加担しているのでなけりゃ、オーストラリアからやってきたその男からわしのことを聞き出し、わしは無賃下宿のひとつを失うことになるかもしれないと思った」彼はクツクツ笑った。
「そこでわしは、こちらの風向きが悪くなったらアイラの家へ戻れるように、アイラに連絡をとると同時に、そのオーストラリア人を厄介ばらいできないものか、やってみることにきめた。ウォリーはずっとわしのことを、頭がおかしくなりかかっていると思っていて――」彼はウォリーを流し目で見た。「わしが彼に有利な遺言状を書かないうちに気ちがい病院に送りこまれることを心配していた。もしそうなったら、わしがそういう遺言状を書いても、無効にされてしまうかもしれないとな。なんせ彼は例の株式取引所とのごたごたなどでひどく評判が悪く、もしわしの精神状態が正常でなくなったら、もう一人――」彼は今度はアイラに流し目をくれた。「押しも押されもせぬ立派な弁護士の甥がいる限り、どこの裁判所も自分を伯父の後見人に指名してはくれないだろうということを承知しておった。だから、もしわしが精神病院送りの原因になるような騒動を起こしそうな気配が見えたら、彼はその訪問者を追い出すだろうとわしは計算し、たまたまわしの一番身近にいたモリーを相手に芝居を打った。だが、あの女はそれをまじめに受取りすぎた。
わしは拳銃を手にして、オーストラリアにいるわしの敵が、わしをスパイしようとしているという世迷い言《ごと》をわめき散らし、下へ行ってその男を射ち殺してやるといきまいてみせた。だが、あの女はひどく興奮して、わしから拳銃をとり上げようとし、気がついてみると拳銃が暴発していて、わしはこうして首にあざをつけたり、色の黒い大男の話をでっち上げたりしなくてはならなくなった」彼はさげすむようにウォーレスを見た。「わしはウォリーがわしをかばおうとしているとは、ちっとも知らなんだ。どうせろくな人間だとは思っていなかったが、まさか自分の妻を殺した人間を――かりに夫婦の仲がうまく行っていなかったにせよ――ただ金だけのために、かばおうとするほど下劣な男だとは思いもよらなんだよ」
スペードはいった。「それはもういい。執事の一件のほうはどうだ?」
「執事のことなぞ、わしはなにも知らんよ」老人は落着いた目でスペードを見て、いった。
スペードはいった。「あんたは彼が何かをしたり、いったりする前に、手早く彼を片付けなくちゃならなかった。それであんたはこっそり裏階段を下りて、みんなをあざむくために台所のドアをあけ放し、それから表にまわって呼鈴を鳴らし、ドアをしめ、正面階段の下の地下室へのドアのかげに隠れた。そして呼鈴に答えて出てきたジャーボーを射ち殺し――弾丸の穴は彼の頭のうしろにあいていたからな――地下室のドアのすぐ内側にある電灯のスイッチを切り、暗闇の中をまた裏階段をかけ上がって、慎重に自分の腕を拳銃で傷つけた。ところが、あんたが計算したより早く、わたしが上がって行ったので、あんたはわたしを拳銃でぶんなぐり、その拳銃をドアの外へ放り出し、わたしが頭を振って正気をとり戻そうとしている間に、床にぶっ倒れてみせたんだ」
老人はまた鼻のさきで笑った、「そんなこといったって、あんたはただ――」
「やめろよ」スペードは辛抱づよくいった。「議論するのはよそう。最初の殺しは事故だったと――よかろう。だが、二つ目のはそうはいかんぜ。ふたつの殺人をひき起こした弾丸と、あんたの腕を傷つけた弾丸が、同じ拳銃から発射されたものだということを立証するのは簡単なことだ。どちらの殺しで第一級謀殺の判決をかちとるか、そんなことは問題じゃない。どっちみち、あんたを死刑にできるのは一回だけなんだから」彼はこころよげに微笑した。「それに、きっと、そうできるだろうしな」
[#改ページ]
両雄ならび立たず
ベン・キャムズリーの家での毎週水曜日のポーカーの集まりからの帰途、わたしは午前二時十一分の列車がはいってくるのを見に停車場に立寄り――それはわれわれが「町を寝かしつける」と呼んでいる習慣的な行為だったが――その男が喫煙車からおりてくるのと同時に、わたしには彼だとわかった。その顔は見まちがえようがなかった。――まるで定規《じょうぎ》をあてて引いたように、下まぶたの線がまっすぐなうす青い目、目立つほどさきのひしゃげた骨っぽい鼻、あごにきざまれた深いくぼみ、わずかにこけた生気のない頬。背が高く、痩せて、黒っぽい肌に黒の長いオーバー、それに山高帽子という身だしなみのいいいでたちで、黒い手さげカバンをさげていた。年は四十歳のはずだが、それよりいくらか老《ふ》けて見えた。彼は街路へ出る階段のほうに向かってきて、わたしとすれちがった。
あとを追おうとして踵《きびす》をめぐらした時、ウォリー・シェーンが待合室から出てくるのが見えた。わたしは、ウォリーの視線をとらえ、黒いカバンをさげた男のほうにあごをしゃくってみせた。そばを通り過ぎるその男を、ウォリーは注意ぶかく観察した。そのことに男が気づいたかどうか、わたしにはわからなかった。わたしがウォリーのそばまで行った時には、その男はもう街路への階段を下りはじめていた。
ウォリーは上下の唇をこすり合わせ、青い目をキラリと光らせた。「ねぇ――」彼はほとんど唇を動かさずにいった。「手配のきてる、あの男に似てますね」
「あの男だ」とわたしはいい、ふたりしてその男を追って階段をくだった。
われわれの目ざす男は、客待ちをしていたタクシーの一台に向かいかけたが、通りをたった二つへだてた距離にある[ディアウッド・ホテル]の照明を目に入れ、運転手にむかって頭を振ると、街路を歩き出した。
「どうします?」とウォリーがきいた。「もっとあとをつけて、様子を見ますか?」
「かまわん。アゲてしまおう。わたしの車をとってきてくれ。路地のかどにとめてある」
わたしはウォリーが車をとってくるのに必要な二、三分の時間をとってから、彼に近づいた。
「ハロー、ファーマン」彼のすぐうしろに追いつくと、わたしは呼びかけた。
彼はサッと顔をふり向けた。「どうしてわたしが――」彼は口をつぐんだ。「わたしは、あんたみたいなひとは――」彼は前後の路上を見透かした。あたりには、二人のほか人影はなかった。
「あんたはレスター・ファーマンだろう?」とわたしはきいた。
「そうだ」と彼は即座にいった。
「――フィラデルフィアの?」
彼はわれわれが立っている場所の、あまり強くない光にわたしを見透かすようにした。「そうだ」
「わたしはスコット・アンダースン」わたしはいった。「この町の警察署長だ。わたしは――」
彼のカバンがどさりと舗道に落ちた。「彼女《あれ》に何があったんです?」彼はしわがれ声できいた。
「彼女《あれ》って、だれのことかね?」
そのときウォリーがわたしの車を運転して、歩道に乗り上げて急停車した。ファーマンは驚きに顔をひきつらせ、わたしからとびすさった。わたしは追いすがり、きき手で彼をつかまえ、[ヘンダースン倉庫]のおもての壁に彼をつき戻した。ウォリーが車から出てくるまで、彼は抵抗をつづけていた。それからウォリーの制服を見て、すぐに抵抗をやめた。
「わるかった」と彼は弱々しくいった。「わたしはちょっと――あんたが警察の人じゃないんじゃないかと思ったもんだから。あんたは制服を着ていないし……。ばかなことをした。済みません」
「かまわんよ」とわたしはいった。「野次馬がたかってこないうちに行こうじゃないか」わたしの車のちょっとさきに二台の車がとまり、ホテルのほうからボーイと無帽の男がひとり、こちらへ向かってくるのが見えた。
ファーマンはカバンを拾い、わたしのさきに立っておとなしく車に乗りこんだ。彼と私は後部席にすわり、ウォリーが運転した。
つぎの通りを横ぎるまで、みんなだまりこんでいて、それからファーマンがきいた。「警察に連れて行くのかね?」
「そうだ」
「なんのために?」
「フィラデルフィアからの手配でさ」
「わたしは――」彼は咳《せき》ばらいをした。「わたしにはわけがわからないが」
「フィラデルフィアで、殺人犯として捜索されていることは知ってるだろう」
彼は憤然としていった。「ばかばかしい。殺人だなんて! そんな――」彼はわたしの腕に手をかけ、わたしの顔に顔を近づけたが、その声には今や怒りのかわりに、必死な真率さとでもいった調子がこもっていた。「だれがそんなことをいったんだ?」
「とにかく、わたしがでっち上げたわけじゃない。さあ、着いたぞ。きたまえ、見せてやるから」
われわれは彼を署長室に連れて行った。おもてのオフィスの椅子でうたた寝をしていたジョージ・プロッパーも、われわれについて部屋にはいってきた。わたしは[トランス・アメリカン探偵社]の手配書を見つけて、それをファーマンに渡した。それにはおきまりの形式で、レスター・ファーマン、別名ロイド・フィールズ、別名J・O・カーペンターを、先月二十六日にフィラデルフィアで発生したポール・フランク・ダンラップ殺害のかどで逮捕した者に千五百ドルの賞金が与えられるむねが記載されていた。
その手配書を持ったファーマンの手はふるえてもいず、彼はそれを注意ぶかく読んだ。彼の顔は青ざめていたが、話すために口を開くまで、筋肉《すじ》ひとつ動かさなかった。彼は静かに話そうと努力した。「嘘だ」彼は手配書から目を上げずにいた。
「あんたはレスター・ファーマンなんだろう?」とわたしはきいた。
彼は依然として顔を上げずにうなずいた。
「そこに書いてある人相やなにかも、あんたのものだろう?」
彼はうなずいた。
「写真もあんたのだろう?」
彼はうなずき、それから手配書の自分の写真を見つめながら――唇も手も脚もいちどきに――ふるえ始めた。
わたしは彼のうしろに椅子を押しやって、「すわりたまえ」といい、彼は崩れ落ちるようにそれにすわり、まぶたをかたく合わせて目をとじた。わたしは彼の力ない手から手配書をとりあげた。
戸口の片側によりかかっていたジョージ・プロッパーは、しまりのない笑顔をわたしからウォリーのほうに向けて、いった。「あんたたちは千五百ドルの賞金を山分けにする幸運をものにしたってわけか。ついてるぜ、ウォリー! ――官費でニューヨークで羽をのばすか、さもなきゃ懸賞金か」
ファーマンは椅子からとび上がってわめいた。「嘘だ。でっち上げだ。なにも証明できるもんか。証明できることなんか、なにもありゃしない。わたしはだれも殺しゃしない。こんなワナにはかからないぞ。わたしは絶対に――」
わたしは彼を椅子に押し戻した。「落ちつくんだ」わたしは彼にいった。「いくらわれわれにむかってわめいてもむだだよ。いいたいことがあるなら、フィラデルフィアの警察の連中がくるまでしまっておくんだな。われわれはただ、連中にかわってあんたをとり押さえただけだ。なにかが間違っているとしても、それはあっちでのことで、こっちには関係ない」
「でも、その手配書は警察のじゃない。それはトランス・アメリカン探――
「われわれはあんたをフィラデルフィア警察に引渡す」
彼はなにかいおうとしてやめ、ため息をつき、両手で小さな絶望のジェスチャーをして、微笑しようとした。「それじゃ、さしあたりわたしにできることはなにもないわけか?」
「朝までは、だれにも、なにもできることはないよ」とわたしはいった。「これからあんたの身体検査をして、あとはもう、連中があんたを引取りにくるまで、あんたをわずらわすようなことはなにもしない」
黒い手さげカバンの中には、若干《じゃっかん》の着替えと、洗面具と、弾丸をこめた三八口径の自動拳銃が見つかった。彼のポケットにあったのは百六十何ドルかの現金と、フィラデルフィアの銀行の小切手帳と、名刺と、彼が不動産業者であることを示すように思われる何通かの手紙と、たいていの男のポケットの中に見つかる種類の雑多な物品だった。
それらの品物をウォリーが保管庫にしまっている間に、わたしはジョージ・プロッパーに、ファーマンを留置場に入れるように命じた。
ジョージはポケットの中で鍵をチャラチャラ鳴らしながらいった。「おいであそばせ。うちのブタ箱には、ここ三日、ひとりもお客がないんだ。あんたはひとりで、リッツ・ホテルの続き部屋みたいにゆったりくつろげるぜ」
ファーマンは「おやすみ、ありがとう」とわたしにいい、ジョージのあとについて出て行った。
ジョージは戻ってくると、またドアの枠によりかかって、きいた。「気前のいい旦那がた、おいらにもほんのちょっぴり、あの賞金の分け前にあずからしてもらうわけにはいかないものかね?」
ウォリーがいった。「いいとも。ここ三月、返してもらっていないあの二コ半の貸しを帳消しにしてやろう」
わたしはいった。「あの男を、できるだけ居心地よくしてやれよ、ジョージ。差入れて欲しいというものがあったら、何なりとオーケーだ」
「大事なお客ってわけですかい? これがもし五セント玉一個の値うちもない男だったら……。そのうちに、おれの枕をとり上げて、やつに貸してやれなんていい出さないように願いまっせ」彼は痰《たん》壺をねらって唾を吐いたが、ねらいは外れた。「おれにとっちゃ、ほかのだれとも、なんの違いもありゃしねえ」
(あんまりいい気になっていると、おまえの伯父貴が郡長だなんてことは頭から追い出して、もとの貧民窟に投げ戻してやるぞ)とわたしは思った。「なんとでもほざけ。だが、いわれたことはちゃんとやるんだぞ」とわたしはいった。
わたしが家に着いたのは四時で――わたしは町からちょっと離れた農場に住んでいた――寝たのはそれから三十分ぐらいしてからだった。六時五分過ぎに、電話のベルの音で眠りを破られた。
ウォリーの声が、いった。「きてください、スコット。あのファーマンの野郎が、首をくくりました」
「なんだと?」
「自分のベルトで、窓の鉄棒からぶら下がって。完全にこと切れています」
「よし、すぐ行く。ベン・キャムズリーに電話して、わたしが途中で拾って行くといってやってくれ」
「どんな医者にきてもらっても、手のほどこしようはなさそうですがね、スコット」
「見せても、害にはなるまい」わたしは押していった。「ダグラスビルにも電話したほうがいい」ダグラスビルは郡庁所在地だった。
「オーケー」
わたしが着替えをしている間にウォリーはまた電話をよこして、ベン・キャムズリーは急患に呼ばれて町の反対側のどこかに出かけているが、細君が連絡をとって、帰りがけに警察に寄るようにさせると約束したことを知らせてきた。
車を運転して町にはいり、[レッドトップ・ダイナー]の二十メーターぐらい手前にさしかかった時、ヘック・ジョーンズが拳銃を手にして走り出てきて、わたしのわきをかすめ去った黒いロードスターに乗った二人の男を目がけて射撃した。
わたしは車をUターンさせながら窓から身を乗り出して、「どうしたんだ?」とわめいた。
「強盗だ」と彼は腹立たしげにどなった。「そこにいてくれ」彼はもう一発弾丸を発射して、わたしの車の前輪のタイヤを二、三センチ外れたところを通過させ、それからふとった脚のまわりにエプロンをはためかしながらかけ寄ってきた。ドアをあけてやると、彼はわたしのわきに巨体を押しこみ、われわれはロードスターの追跡にかかった。
あえぎが止まると、彼はいった。「アタマにくるのは、やつらがまるで人をなめきったやり方をしやがったことだ。やつらははいってきてハムエッグとコーヒーを注文し、おもしろそうにふざけ合っていて、それから冗談みたいに拳銃をつきつけやがった」
「いくら取られた?」
「六十ドルかそこらだが、おれのアタマにきてるのはそんなことじゃねえ。やつらがそれを冗談みたいにやりやがったことだ」
「気にするな」わたしはいった。「とっつかまえてやるさ」
しかし、へたをしたらもうすこしでとり逃がすところだった。[隠れ鬼]みたいな追いかけっこになった。われわれは二度ばかり彼等を見失い、それでもどうやら幸運のおかげで、州境を三キロばかり越えたところでようやくとり押さえた。
いったん追いつめたあとは、とり押さえるのは造作もなかったが、彼等は自分たちが州境を越えたことを承知していて、正式の越境犯人引渡しの手続きをとるか、さもなければ釈放しろと言い張るので、われわれは彼等をバディントンに連れて行き、必要な書類が通達されるまで留置場にぶちこんでおくことにしなければならなかった。そんなわけで、わたしが署に電話をかける暇ができた時は、もう十時過ぎになっていた。
ハミルが電話に出て、地方検事のテッド・キャロルがそこにいるというので、わたしはテッドと話した――といっても、おもに話したのはむこうのほうだったが。
「おい、スコット」彼は興奮した口調でいった。「これは一体どうしたんだ?」
「何が?」
「あの得体《えたい》の知れない、くびれて死んじまった男さ」
「それはどういう意味かね?」わたしはいった。「自殺じゃなかったのか?」
「いかにも自殺だよ。しかし、わたしが[トランス・アメリカン]に電報を打ったら、ほんの二、三分前に電話がかかってきて、ファーマンの手配書なんか送ったおぼえはないし、犯人として彼に容疑のかかっている殺人事件のことなんかなにも知らんというのだ。彼に関して彼等の知っていることといえば、前に仕事を頼まれたことのあるお客だということだけだそうだ」
わたしは正午《ひる》までにディアウッドに戻る、という以外にいうべきことを思いつかなかった。そして正午には、そこにいた。
わたしが署長室にはいって行くと、テッドがわたしのデスクにすわり、電話の受話器を耳にあてがって、「ああ……ああ……ああ」とうなずいていた。彼は受話器を置いて、きいた。「何をしていたんだ?」
「[レッドトップ・ダイナー]に二人組の強盗がはいって、バディントンの近くまで追いかけさせられたのさ」
彼は口の片端で笑った。「この町も、あんたの押さえがきかなくなってきたんじゃないか?」彼とわたしは政治的にいわば垣根をはさんで対立した間がらで、キャンドル郡の政治は二人のどちらにとってもまじめな問題だった。
わたしは笑い返した。「どうやらね。なにしろ半年の間に重犯罪が一件だからな」
「それと、あれか」彼は署の裏手の、留置場があるほうを親指で指さしてみせた。
「あれがどうした? あれの話をしよう」
「なにやら間違いだらけだぜ」彼はいった。「わたしはたった今フィラデルフィアの警察と話をしたところだ。ポール・フランク・ダンラップ殺しなんて事件はぜんぜん知らんそうだ。先月二十六日に起こった未解決の殺人事件なんかないとさ」彼はまるでそれがわたしの過失ででもあるかのような目でわたしを見た。「ファーマンが首を吊《つ》る前に、どんなことを聞き出した?」
「本人は無実だといっていた」
「取調べはしなかったのか? この町で何をしているのか、つきとめなかったのか? それから――」
「何のために?」わたしはいった。「あの男は自分の名がファーマンだと認め、特徴は手配書に一致し、写真も彼のだし、[トランス・アメリカン]は信用できる探偵社だ。そしてフィラデルフィア警察が彼の行方をたずねていた。おれがたずねていたわけじゃない。むろん、彼が首をくくるとわかっていたら――。あんたは今、あの男は[トランス・アメリカン]のお客だったといったな。どんな仕事を頼まれたのか、きいてみたか?」
「彼の細君が二年ばかり前から家出していて、その捜索を依頼されて五、六ヵ月さがしてみたが、見つからなかったそうだ。今夜、状況を検分しに、だれか人をよこすといっていた」彼は立上がった。「わたしは昼めしを食ってこよう」戸口で、彼は肩ごしに頭をふり向けていった。「こいつはちょっと面倒なことになるかもしれんぞ」
そんなことは、いわれなくたってわかっている。留置場で死んだとなれば、面倒なことになるのは当り前だ。
ジョージ・プロッパーが嬉しそうにニヤニヤ笑いながらはいってきた。「あの千五百ドルの|たま《ヽヽ》のことは、どう片づきましたい?」
「昨夜、何があったんだ?」とわたしはきいた。
「なんにも。やつが首をくくっただけさ」
「おまえが見つけたのか?」
彼はかぶりを振った。「ウォリーが、非番になって帰る前に、ちょいと様子をのぞいておこうとして、見つけたんでさ」
「おまえは寝ていたんだろう」
「なあに、そりゃウトウトはしてましたがね」彼は言葉じりをにごした。「だけど、それぐらいはだれでもやるこって――ウォリーだって、一仕事終えて戻ったあとなんか、時どきやってまさ――電話がかかったり、そのほか必要な時はいつだって目があきまさ。それに、目をあけていたって、首を吊るのが聞こえるわけじゃなし」
「死後どれぐらい経っているか、キャムズリーはいったか?」
「やったのは五時ごろだと思うといいましたよ。死体を見ますかい? 今、フリッツ葬儀店に行ってまさ」
わたしはいった。「今はいい。おまえは家へ帰って、今夜はちゃんと目をさましていられるように、もうすこし寝ておけ」
彼は、「あんたとウォリーがもらい損なったお金のことについちゃ、おれだって自分のことみたいに同情してるんですぜ」といって、ホクホク含み笑いをしながら出ていった。
テッド・キャロルが、ファーマンとヘック・ジョーンズの店を襲った二人の男との間になにか繋がりがあるのではなかろうかという思いつきを持って昼食から戻ってきた。わたしにはあまり意味をなす思いつきのようには思えなかったが、とにかく調べてみようと約束した。しかし、もちろん、そんな繋がりなぞ、見つかりはしなかった。
その晩、[トランス・アメリカン探偵社]のフィラデルフィア支局の副支局長でライジングという名の男がやってきた。彼は死んだファーマンの弁護士だという、ホィーロックという名の骨ばった、喘息《ぜんそく》もちらしくゼイゼイ息をする男を連れてきた。彼等に死体を確認させたのち、われわれは話合いをしに署に戻った。
わたしの知っていることを全部――その午後にわたしの知った、この州のこのあたりのたいていの町の警察に、例の賞金つきの手配書が送られてきていたという事実をつけ加えて――話し終えるのに、さして時間はかからなかった。
ライジングはその手配書を検《あらた》めて、すばらしい出来ばえのにせ物――紙も文体もタイプライターの字体も、彼の会社で日ごろ使われているものとほとんど同一――だといった。
二人の話によると、死んだファーマンはフィラデルフィアではよく知られ、尊敬もされている富裕な市民だった。彼は一九二八年に地元のフィラデルフィアの、裕福ではないにしても尊敬されている家の、当時二十二歳だったエセル・ブライアンという娘と結婚した。一九三○年に子供が生まれたが、二、三ヵ月で死んでしまった。一九三一年にファーマンの細君は家出をし、以来、彼は彼女をさがそうとして多額の金を使ったが、彼にも彼女の実家にも彼女の消息はまったく不明だった。ライジングはわたしに、弱々しい口と、みはったような大きな目をした、顔の小さい美しいブロンドの彼女の写真を見せてくれた。
「一枚焼き増してください」とわたしはいった。
「それをとっておいてください。われわれが焼き増した中の一枚ですから。裏にその他の特徴が書きつけてあります」
「どうも。それで、彼は彼女を離縁しなかったんですか?」
ライジングははっきり首を横に振った。「いや。彼は彼女を熱愛していて、彼女のことを、子供をなくしたために頭がすこしおかしくなって、何をしているのか自分でもわからないのだと思っていたようです」彼は弁護士を見た。「そうでしょう?」
ホィーロックは二つばかり喘息性の咳をして、いった。「わたしはそう思います」
「彼は金持だといいましたね? 財産はどれぐらいで、遺産はだれが相続するんです?」
骨ばった弁護士はまたすこしゼイゼイいってから、いった。「遺産はたぶん五十万ドルぐらいで、全部おくさんのものになります」
それはわたしに考えるべき材料を提供してくれたが、さしあたっては、考えたところでなんのたしにもなりはしなかった。
ファーマンがなぜディアウッドにやってきたのか、彼等は説明できなかった。どうやら彼はだれにも行先を知らせず、召使や使用人たちに、一、二日、町を留守にするとだけ言い置いて出てきたらしかった。またライジングにもホィーロックにも、彼の敵といった人物の心当りはなかった。収穫はそれだけだった。
翌日の検屍審問でも、依然としてそれ以上の収穫はなかった。すべての状況は、ファーマンがわたしの署の留置場にほうり込まれるようにだれかが工作し、それが彼を自殺に追いこんだことを示していた。それ以上のことを示すものはなにもなかった。しかし、もっとほかに何かが、もっとほかにたくさんのことが隠されているに違いなかった。
ほかのことの一部は、審問の直後に早くもあらわれ始めた。審問が行われた葬儀店をわたしが出ると、ベン・キャムズリーが待ち受けていた。「人のいないところに行こう」と彼はいった。
「あんたに話したいことがある」
「わたしのオフィスに行こう」
われわれはそこへ行った。彼はふだん開けっぱなしになっているドアをしめ、わたしのデスクのかどに腰かけた。「目につく傷が二つあったぞ」彼は低い声でいった。
「なんの傷だ?」
彼は一瞬、けげんそうにわたしを見、それから頭のてっぺんに手をやった。「ファーマンさ。髪の中のここに――傷が二つあった」
わたしは叫び出しそうになるのをこらえた。「なぜそれをわたしに教えなかったんだ?」
「今、教えているじゃないか。あの朝、あんたは不在だった。あれ以来、あんたに会うのはこれが初めてだからな」
わたしは[レッドトップ・ダイナー]に強盗にはいって、わたしをファーマンの自殺事件から遠ざける結果を生んだあの二人の愚連隊をのろい、それから詰問した。「それじゃ、検屍審問での証言で、なぜそのことをしゃべらなかった?」
彼は眉間にしわを寄せた。「わたしはあんたの友人だよ。このわたしが、あんたはあの男をいたぶり過ぎて自殺に追いやったんだとみんなからいわれるような立場に、あんたを追いこむと思うのかね?」
「あんたは気ちがいだ」わたしはいった。「あの男の頭の傷の具合はどうだった?」
「それが死因じゃない――あんたのききたいことがそれだとすればね。頭蓋《ずがい》はどうもなっていない。髪を分けてしらべなけりゃ、だれもわからない打撲傷が二つついているだけだ」
「だが、しかし、そのために彼は死んだんだぞ」わたしはがみがみいった。「あんたと、あんたの友情ってやつは――」
そのとき電話のベルが鳴った。葬儀屋のフリッツだった。「なあ、スコット」彼はいった。
「ここに、あの男をひと目見たいって二人のご婦人が見えとるんだがね。見せてもかまわんかね?」
「だれなんだ?」
「わからん。他所者《よそもの》だよ」
「なんのために見たいというんだ?」
「わからん。ちょっと待ってくれ」
女の声が電話線を伝わってきた。「どうぞ、会わせていただけませんでしょうか?」とても気持のいい、真実のこもった声だった。
「なぜ、ごらんになりたいんです?」わたしはきいた。
「じつは、わたし――」長い沈黙の間があって、「わたしは――」前よりも短い間をおいて、言い終わった時の彼女の声は、ほとんどささやきに近かった。「あの人の妻なんですの」
「ああ、それはどうも」わたしはいった。「すぐそちらへ行きます」
署を出て行きがけに、わたしはウォリー・シェーンとぶつかった。彼は非番なので私服姿だった。「おやじさん、ちょっと!」彼はわたしの腕をとって、街路から見えない玄関のホールにわたしを連れ戻した。「わたしがフリッツ葬儀店を出ようとした時、女が二人はいってきましてね。一人は腕ほども長い犯罪歴のあるホッチャ・ランドールって女です。ほら、去年の夏、あんたがわたしをニューヨークへ行かせた、あのときの一味の一人ですよ」
「むこうはきみを知っているのか」
彼はニヤリとした。「もちろん。でも、本名でじゃないし、わたしのことをデトロイトの酒の密輸人だと思ってますよ」
「わたしがいうのは、今、気づかれたかということだよ」
「見られなかったと思いますよ。とにかく、わたしに気づいたらしい様子は見せませんでしたよ」
「もう一人のほうは知らないのか?」
「知りません。金髪の、ちょっとした美人でしたがね」
「オーケー」わたしはいった。「しばらくこの辺にいてくれ。ただし、姿を見せるな。もしかすると、その女たちを連れてくるかもしれんから」
エセル・ファーマンは写真で見たよりも美しかった。一緒にいる女は彼女より五、六歳年長で、ずっと大女で、粗野な感じだがそれなりに魅力があった。二人とも、ディアウッドにはまだはいってきていない、しゃれたスタイルの服を着ていた。
大女はわたしにミセス・クロウダーだと名乗った。わたしはいった。「あんたの苗字《みょうじ》はランドールだと思ったがな」
彼女は声をたてて笑った。「まあ、どうでもいいじゃない、署長さん? わたしはあんたの町で悪いことをするつもりはないわ」
わたしはいった。「なれなれしく呼ばんでくれ。わたしはあんたみたいなゴミを掃除する、町の掃除人さ。さあ、この店の奥へ行こう」
エセル・ファーマンは夫を見ても愁嘆場《しゅうたんば》はくり広げなかった。彼女はただ三分ぐらい彼の顔をじっと見つめていて、それからこちらに向き直って、「ありがとうございました」といった。
「あんたに二、三、たずねたいことがあるんだが」わたしはいった。「署はこのすぐ筋向かいで――」
彼女はうなずいた。「わたしのほうにも、おうかがいしたいことがあります」彼女は連れのほうを見た。「でも、もしミセス・クロウダーが――」
「ホッチャと呼びなさい」わたしはいった。「わたしたちはお馴染《なじ》みでね。もちろん、このひとにも一緒にきてもらいますよ」
ランドールあねごは、「あんた、おもしろい人じゃない?」といって、わたしの腕につかまった。
署長室で、わたしは彼等に椅子をすすめて、いった。「あんたがたに質問をする前に、いっておきたいことがある。ファーマンは自殺したんじゃない。殺されたんだ」
エセル・ファーマンは大きく目を見開いた。「殺されたんですって?」
ホッチャ・ランドールはまるで待ち構えていたように、すらすらといった。
「わたしたちにはアリバイがあるわ。二人ともニューヨークにいたんだもの。証明できるわ」
「やるチャンスだってあったわけだ」わたしは彼女にいった。「あんたたちは、どうしてこの町にやってくるようになったんだね?」
エセル・ファーマンはぼう然とした声で、「殺されたんですって?」とくり返した。
ランドールがいった。「このひと以上に、ここへくる権利がだれにあるっていうの? このひとはまだそのひとの妻じゃなくって? このひとには、そのひとの遺産を受けつぐ権利があるんでしょ? このひとには、自分の利益を守る権利があるわ」
それはわたしにあることを思い出させた。わたしは電話器をとり上げ、ハミルに、だれか人をやって弁護士のホィーロックを――もちろん、彼は検屍審問に立会うために、この町に泊ったのだが――ひきとめさせるように、そしてわたしが会いたがっていることを伝えさせるようにいった。「それから、その辺にウォリーがいるか?」
「ここにはいません。おやじさんから、目につかないところにいろといわれたといってましたが。でも、さがしてみましょうか?」
「たのむ。今夜、ニューヨークに出張してもらいたいとわたしがいっていたと伝えてくれ。それからメイスンを家に帰らして、睡眠をとらせろ。ウォリーの当直を代わらせるから」
ハミルは「オーケー」と答え、わたしは客のほうに向き直った。
エセル・ファーマンはぼう然とした状態から立直ったようだった。彼女は身を乗り出してきいた。「ミスター・アンダースン、あなたはわたしがあの人の――レスターの死に、なにか関係があるとお考えですか?」
「さあね。わたしが知っているのは彼が殺されたことと、彼があなたに五十万ばかりの財産を残されたことです」
ランドールという女は、低く口笛を吹いた。彼女は立ってきて、ダイヤモンドの指輪をはめた手をわたしの肩にかけた。「五十万って、ドル?」
わたしがうなずくと、浮かれた表情が彼女の顔から消えて、「わかったわ、署長さん」彼女はいった。「ばかみたいなことを考えるのはやめて。このひとは、あんたが起こったと思ってるどんなことにも、なんの関係もないわ。わたしたちは昨日の朝の新聞で彼が自殺したということ、そしてそれにはなにかおかしな点があるという記事を読んで、行ってみるようにわたしがこのひとを説き伏せて――」
エセル・ファーマンが、友人をさえぎるようにしていった。「ミスター・アンダースン、わたしはレスターを傷つけるようなことをする気を起こしたことはいっぺんだってありません。わたしはただあのひとから離れたいばかりに家を出ましたけれど、お金のためにはもちろん、ほかのどんなもののためにでも、あのひとに対して何かをしかけようと思ったことはありません。だって、もしお金が欲しければ、あのひとにそういってやるだけでよかったんですもの。あのひとは、もしこうして欲しいと思うことがあったら、なんでもいってよこすようにとわたしに呼びかける広告を、何べんとなく新聞に出しましたが、わたしは一度も応じたことはありません。だれにだって――たとえばあのひとの弁護士とか――すこしでも事情を知っている人ならだれにだって、おたずねになればすぐわかりますわ」
ランドールが話のあとをひきとった。「それは本当よ、署長さん。何年もわたしはこのひとに、その男からしぼり取らないなんて大間抜けだっていい続けてきたんだけど、このひとは頑《がん》としてきかなかったわ。こんどだって、彼は死んでしまい、ほかに財産を残す相手もいないっていうのに、自分の当然の分け前をとりに行く気にならせるのに、大骨《おおぼね》を折らされたわ」
エセル・ファーマンはいった。「わたしには、あのひとを傷つける気はこれっぽっちもありませんでした」
「なぜ家出をしたんです?」
彼女は肩を動かした。「どう説明したらいいのか、わたしにはわかりません。ただ、あのひとと共にした生活は、わたしがこういうふうに生きたいと思う生き方ではありませんでした。わたしは――わたしにはよくわかりません。とにかく、子供をなくしてからはもうそれ以上耐えられなくなって出てきてしまいましたけれど、わたしはあのひとになにも要求する気はありませんでしたし、あのひとを傷つけるつもりもありませんでした。あのひとはいつもわたしによくしてくれました。わたしのほうが――わるいのはわたしのほうです」
電話が鳴った。ハミルの声で、「二人とも連絡がとれましたよ。ウォリーは家に帰っていました。ホィーロックって年寄りはそちらへ向かっています」
わたしはにせの懸賞金つき手配書を引っぱり出して、エセル・ファーマンに見せた。「彼が留置場に入れられたのは、これのためです。その写真を前に見たことがありますか?」
彼女は「いいえ」といいかけ、それから驚愕の表情が顔に走った。「まあ、これは――そんなはずはないわ。これは――これはわたしが持っていた――いえ、持っているスナップ写真ですわ。それを引き伸ばしたものです」
「ほかにこの写真を持っている人は?」
いっそう強い驚愕の色が顔にあらわれたが、彼女はいった。「わたしの知っている限りでは、ほかにはだれも。ほかに持っている可能性のある人は思いつけません」
「ご自分のは、今でもお持ちですか?」
「はい。最近とり出して見た記憶はありませんけど――古い新聞やなにかと一緒に――たしかに保存してあるはずです」
わたしはいった。「どうもこれは、ミセス・ファーマン、わたしのほうでもあなたのほうでも、うやむやにしておくわけにはいかない問題ですな。これを片づけるには二通りのやり方があります。わたしのほうで事実を確かめるまで、あなたに容疑者としてここにいてもらうか、それとも部下を一人、あなたにつけてニューヨークへやって確かめさせるかです。ものごとがスピーディにはこぶように、あなたができるだけその男を助け、おかしな真似はしないと約束してくださるなら、あとのほうのやり方をとりたいのですがね」
「約束しますわ」彼女はいった。「早く事件を片づけたい気持は、わたしだってあなたがたと変わりありませんわ」
「よろしい。あなたはこの町まで、何できました?」
「わたしの車できたのよ」とランドールがいった。「通りの向こうにとまっている、大きなグリーンのがわたしの車よ」
「よろしい。それじゃわたしの部下があなたがたをその車に乗せて送って行くことにしよう。だが、いいかね、おかしな真似はしっこなしだぞ」
おかしな真似はしないと彼女らが約束している間にまた電話が鳴った。ハミルだった。
「ホィーロックがきてますが」
「通せ」
エセル・ファーマンを目にした弁護士は、喘息の発作で今にも窒息しそうになった。発作がまだ完全におさまらないうちに、わたしはきいた。「このひとは本当にミセス・ファーマンですか?」
彼はまだゼイゼイいいながら頭を上下に振った。
「けっこう」わたしはいった。「ここで待っていてください。しばらくして戻ってきますから」わたしは二人の女を連れて外へ出、通りを横切って緑色の車のところへ行った。「この通りの終りまでまっすぐ行って、それから左へ二ブロック行くんだ」
「どこへ行くの?」と彼女はきいた。
「あんたがたと一緒にニューヨークへ行く、シェーンという男のところへ行くんだよ」
ウォリーの下宿の女主人、ミセス・ドーバーがドアをあけてくれた。
「ウォリーはいるかね?」とわたしはきいた。
「ええ、いるわよ、ミスター・アンダースン。どうぞ、お上がりなさいな」彼女はわたしの連れを大きく見開いた好奇の目で見つめながらいった。
われわれは階段を上がって、彼の部屋のドアをノックした。
「だれだい?」
「スコットだ」
「どうぞ」
わたしはドアを押しあけ、わきに寄って女たちをさきにはいらせた。
エセル・ファーマンは息をのんで、「ハリー!」といい、あとずさりしてわたしの足を踏んだ。
ウォリーは手をうしろに回したが、わたしの手にはすでに拳銃が握られていた。「あんたの勝ちだな」と彼はいった。
「どうもそうらしいな」とわたしはいい、みんなでそろって署に戻った。
「おれはドジを踏んだよ」署長室に二人きりになると彼はこぼした。「あの二人の女がフリッツ葬儀店にはいって行くのを見たとたんに、こいつはいかんと思った。それから、あの二人の目を避けようとしてあんたにぶつかった時、一緒にこいといわれそうなんで、女の一人に顔を見知られていることを打明けなくちゃならなくなった。そうすればあんたはおれに、しばらく目につかないところにいろというだろうし、あわよくば町から逃げ出す時間が稼げるだろうと計算したわけさ。だが、せっかくそこまで計算しながら、その通りに実行するだけの思慮がなかった。
おれは逃げ出す前に二、三、物をとろうと家に寄り、そこでハミルからの電話がかかり、すっかりそれに乗っちまった。ひょっとすると、うまくこの場をしのげるかもしれないと思っちまったんだ。あんたはまだ真相をつかんでいないで、おれをもう一度デトロイトの酒の密輸人に仕立てて、あの連中からなにかをつかませに、ニューヨークに送りこむつもりなんだと思いこんで、部屋でのんびり構えていたんだ。いや、うまく一杯食わされたよ。それも、そうじゃないのかな――なあ、スコット、あんたはただの偶然で真相に思いあたったんじゃないんだろうな?」
「いや、違う。警官でなければファーマンを殺せるはずはなかった。懸賞つきの手配書をあれだけ上手に偽造できるのは、ほかのだれより、まず警官だ。あれはだれに印刷させたんだ?」
「あんたの話を続けてくれ。おれはだれも巻き添えにする気はないよ。あれをこさえたのは、ほんのすこしばかりの金が必要だった、どこかの哀れな印刷工さ」
「オーケー。こういった種類の物事がはこばれる手順を十分に心得ているのは警官だけだ。彼の監房にはいって行って、頭に一撃をくらわせ、そいつを吊るすことができるのは警官だけ――わたしの部下の警官の一人だけだ。傷があらわれていたぞ」
「へえ、そうですかい? おれはブラックジャックにタオルを巻いて、だれが見ても、髪の中にあとが残らないように加減したつもりなんだがなあ。おれはヘマをやらかしたらしいな」
「それで犯人はわたしの部下に絞られてきた」わたしは続けた。「そして――そこへもってきて――おまえはわたしに、あのランドールって女を知っているといった。そこまでくれば、おまえはやつらとグルになっていたんだと察しをつけざるを得んじゃないか。なんでおまえはそんなことになったんだ?」
彼はすっぱい口つきをしてみせた。「たいていの阿呆が悪事に首をつっこむのは何でです? あぶく銭《ぜに》をつかみたいからですよ。おれはあんたの命令で、あのダットンの事件でニューヨークに行き、やつらの同類の一人になりすまして、密造酒業者やそのほかの悪党どもと仲間づき合いをしていた。そうするうちに、警官としてのおれの仕事は、やつらの仕事と同じぐらい頭もいるし、やつらと同じぐらいタフで、やつらと同じぐらい危険をおかさなくちゃならない。それなのにやつらはでっかい金をものにし、おれときたらコーヒーとドーナッツのためにあくせくしているのはどういうわけだと考えるようになった。そういう種類のことは、えてして頭にくるものでね。とにかく、おれは頭にきちまった。
それからおれはあのエセルとめぐり会い、あの女はおれに首ったけになっちまった。おれもあの女は好きだから、それはそれでよかったが、あの夜、あの女はおれに亭主のことと、彼がどれくらい財産を持っているかとか、彼がどれくらい彼女に夢中で、今でもどんなふうにして彼女の行方をたずねているかといったことを話し、それでおれは考え始めた。おれはあの女がおれと結婚したいと思うぐらい、おれに熱をあげているという自信があった。おれは今でも、もしおれが彼を殺したのだということを知らなければ、おれと結婚すると思うよ。彼と離婚させるのは良策じゃない。というのは、彼から金をとれなくなるか、とれるにしてもぽっちりになっちまうからな。そこでおれは、彼が死んで彼女に遺産を残すということになったらどうかと考えついた。
そのほうがずっと都合がよさそうだった。おれは二度ばかり、午後、フィラデルフィアに出かけてあの男の様子をさぐり、万事うまく行きそうに思えた。彼にはごく小額以上の財産を譲るのが妥当な近親者は、ほかにだれ一人いなかった。だから、おれはやることにきめた。といっても、いきなりじゃない。時間をかけてこまかい準備をととのえ、その間、デトロイトにいるある男を通して彼女と文通していた。
それから、おれはやった。おれはあの手配書を――あとでこの町だけに焦点が絞られないように――あっちこっちに宛てて発送した。そして用意がととのうと、彼に電話をかけて、あの夜に[ディアウッド・ホテル]にくれば、つぎの夜までの間のいつかに、エセルから連絡が行くといってやった。おれが思った通り、あの女を餌にすれば、どんな罠《わな》にでも彼は引っかかったろうよ。あんたが停車場で彼を見つけたのは、思いもよらない手違いだった。もしあんたに見つかっていなかったら、あの夜、ホテルに泊っている彼をうまく発見できたはずなんだが。とにかく、おれは彼を殺し、それからおれが飲んだくれになるとか何とかすりゃ、あんたはおれを馘《くび》にし、おれはこの町を出て行って、おれがデトロイトで使ってた偽名でエセルと彼女の五十万ドルと結婚するって段どりだった」彼はまたすっぱい口つきをした。「ただ、どうやらおれは、自分で思ってたほど頭の切れる人間じゃなかったらしいな」
「そんなことはないさ」わたしはいった。「だが、切れるってだけじゃ成功しないこともあるのさ。ベンの親父のキャムズリー老がよくいってたっけ。――『よく切れるナイフは固いビフテキにぶつかる』ってね。おまえがやったことが、わたしには残念だよ、ウォリー。わたしはずっとおまえが好きだったのになあ」
彼は疲れたように微笑した。「それはわかってたよ」彼はいった。「おれの計算には、それもはいっていたんだ」(完)
[#改ページ]
作家紹介
ハメットは、一八九四年五月二七日、アメリカ、メリーランド州、セント・メアリー郡で生まれた。ダシールという名は、フランスのドシエという母方の家名にもとづいているという。ごく普通の少年として、少年時代をボルチモア市で過ごした。が、家が貧しかったので、十四歳の時、学業を中途でやめて、鉄道会社の給仕となって働かなければならなかった。それから引きつづいて七年間、さまざまの職業を転々とした後、最後にアメリカ随一の民間探偵社ピンカートン社の私立探偵となった。
第一次世界大戦には野戦衛生隊の軍曹として従軍したが、結核に感染し、数ヵ月の病院生活の後、軍隊を退いた。除隊して、またもとの探偵の生活に返ったが、健康がそういう激務にたえられないのと、他人のことに余計なおせっかいをするのにたえられなくなって、ついに探偵の職を放ってしまった。そして生活のために、低級なパルプ雑誌に小説を書きはじめた。おもに過去の体験に取材した犯罪小説や、実話風のミステリーだった。一九二二、三年ごろからは、探偵雑誌『ブラック・マスク』の常連作家となった。
当時の『ブラック・マスク』の常連作家には、かれのほかに、B・S・ガードナーなどもあった。
やがて、かれは、処女長編『血の収穫』につづいて、同じ一九二九年には、『デイン家の呪い』を、一九三〇年には『マルタの鷹』を、一九三一年には『ガラスの鍵』を、一九三四年には『影なき男』を発表した。
これらの諸作は、いずれも批評家の賞賛を浴びた。その好評と成功に刺激されて、かれの作風と文体とを真似る追従者が、つぎからつぎと出て来た。そして、批評家は、それらの作家を『ハメット派』とか、『ハード・ボイルド派』とか呼んだ。
そればかりではない。ハメット以後のアメリカ探偵小説作家で、多少とも、ハード・ボイルドの影響を受けない作家はないほどになり、以後の探偵小説の作風を一変してしまうほどになった。
それまでの推理小説が、作品の全重点をプロットに置き、論理的に謎を解いて行くことに主眼を置いたのに対して、ハメットは、まず人間を描こうとした。謎を主にした探偵小説を書くよりも、犯罪と探偵と危機との中に、人間の性格を捉え、それを描写しようとした。
しかも、その人間も、事件その物も、かれが描こうとするのは、すべて現実の、眼の前のアメリカ社会の中に、日々の生活の中に、息づいている人間であり、事件であった。
対話も、在来の探偵小説の対話が、ともすれば、筋の展開のためだけの、くだくだしい説明的なものであるのに対して、ハメットの対話は、簡潔で、性格の裏づけのある、生きたものであり、行動はスピーディで、時として眼を瞠るほどの飛躍をする。
かれの主人公は、いずれも現代のアメリカの実社会の中に生きているのを、そのままに引き出して来たかと思われる民間の、したたか≪ハード・ボイルド≫な探偵で、非情で、利己的で、好色ではあるが、しかも、その心の中には、飽くまでも正義を追求しようとする、強情な性格を持っている。
一言にしていえば、かれの作品は、探偵小説的な興味よりも、心理的性格描写をねらったものであり、その点で、探偵小説を、より高度な、文学の域にまで高めたものといっても、あえて過褒《かほう》ではないと信ずるものである。
つまり、かれの作品は、一九二〇年代の『ロースト・ジェネレーション』の作家がねらったのと同じように、アメリカの現実を描写することによって、自我を表現しようとしたものであった。
そこに探偵小説作家としての、否、文学的作家としての、かれの路標的な意義があるといわなければならない。(中田耕治)