デイン家の呪い
ダシール・ハメット/村上啓夫訳
目 次
第一部 デイン家
一 八つのダイヤモンド
二 長鼻の男
三 暗い影
四 つかまえどころのないハーパー夫妻
五 ガブリエル
六 悪魔島から脱出した男
七 呪い
八 「しかし」と「もし」
第二部 寺院
九 聖杯寺院
十 枯れた花
十一 神
十二 神聖ならざる聖杯
第三部 クェサダ
十三 断崖の道
十四 大破したクライスラー
十五 「わたしが彼を殺した」
十六 深夜の探険
十七 ダル・ポイントの隠れ家
十八 爆弾《パイナップル》
十九 変質者
二十 入江の家
二十一 アーロニア・ホルドーン
二十二 告白
二十三 サーカス
解説
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登場人物
私……私立探偵
エドガー・レゲット……謎の科学者
アリス・レゲット……その妻
ガブリエル・レゲット……その娘
ミニー・ハーシー……混血の召使女
エリック・コリンスン……ガブリエルの恋人
フィッツステファン……小説家
オッガー……警察の探偵
ジョゼフ・ホルドーン……「聖杯寺院」の会長
アーロニア・ホルドーン……その妻
マディスン・アンドルーズ……弁護士
リーズ博士……医師
トム・フィンク……ジョゼフの助手
ベン・ローリー……郡長代理
ハーヴィー・ホイッドン……フィンクの義子
フィーニー……郡長
ヴァーノン……地方検事
ディック・コットン……町の法律事務執行官
デイジー・コットン……その妻
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第一部 デイン家
一 八つのダイヤモンド
青煉瓦《あおれんが》の歩道から六フィートばかりはなれた芝生の中にきらきら光っているのは、まさしくダイヤモンドだった。それはせいぜい四分の一カラットぐらいしかない、台にはめてない小粒の石だった。私はそれをポケットに入れると、四つんばいになって、いそがずに、できるだけ丹念に芝生をさがしはじめた。二平方ヤードばかり芝生をさがし終えたとき、レゲット家の玄関のドアが開いて、一人の女が戸口の広い石段の上に姿をあらわした。そして愛想のいい好奇心を示しながら私を見おろした。見たところ、私とほぼ同年配の、四十歳ぐらいの女で、黒みをおびた金髪に、快活な丸顔をしており、ピンクの頬にえくぼが見えた。白地に藤色の花模様をあらわした部屋着をきていた。私は芝生のせんさくをやめて彼女の方へ近よった。
「レゲットさんはご在宅ですか?」
「はい」その声は顔と同じようにおちついていた。「お会いになりたいのですか?」
そうです、と答えると彼女は私と芝生を見おろしながらほほえんだ。「あなたさまも探偵でいらっしゃるのですね?」
私はうなずいた。
彼女は二階のグリーンとオレンジとチョコレート色の部屋に私を案内して、錦織布の椅子に坐らせると、研究室にいる夫を呼びに部屋を出て行った。待っている間に私は室内を見廻した。そして足の下に敷いてある渋いオレンジ色の絨毯《じゅうたん》はたしかに正真正銘の東洋産で、かなり古い年代のものであることや、くるみ材でつくった家具はすべて機械製のものではないことや、それから壁にかかっている数枚の日本画は決して淑女ぶった女によって選ばれたものでないこと、などをたしかめた。
エドガー・レゲットは、「お待たせしました。どうしても手が離せなかったものですから。何かわかりましたか?」と言いながら入ってきた。その態度はいかにも親しげだったが、声は意外にも、相手の感情をいらだたせるような、耳ざわりな響きをもっていた。年のころ四十五、六の、あさ黒い皮膚をした、やせ型の中背の男で、もしその前額と、鼻孔から口角へかけて、鋭い深い皺《しわ》がきざまれていなければ、好男子といえるかもしれない顔立ちだった。広い額の上には長めの黒い髪がちぢれて渦まいており、角縁の眼鏡のうしろには赤茶色の眼が病的に光っていた。が、鼻は長い、ほっそりとした高鼻で、唇も薄くて鋭い感じを見せ、小さいな骨ばった顎《あご》の上にきりっとしまっていた。その黒白の服は恰好がよく、手入れがよく行きとどいていた。
「いや、まだです」と、私は答えた。「わたしは警察の探偵ではないので――保険会社からたのまれた――コンティネンタル探偵社の者ですが――なにぶんまだ手を着けたばかりなので……」
「保険会社?」と、レゲット氏はびっくりしたように、眼鏡の黒い縁《ふち》ごしに黒ずんだ眉を上げた。
「ええ、ではあなたはまだ……?」
「いや、もちろん、」と、彼は片手をちょっと振って私の言葉をさえぎった。それは指のさきだけが異常に発達した、長い、細い手だった。「もちろん、保険はかけてあったでしょう。でも、そんなことは考えてもいなかったものですから。ご承知でしょうが、あれはわたしのダイヤではないのです。ホルステッドのものなのですよ」
「ホルステッド=ボーシャンですか? わたしは保険会社から何もくわしいことはきいていないのですが。すると、あのダイヤを気に入ればお買いになるつもりだったのですね?」「いや、わたしは実験的にあれを使っていたのですよ。ホルステッドはわたしがガラスの仕事をしているのを――既成ガラスに彩色したり着色したりする仕事をしているのを知って、この方法がダイヤモンドにも適用される可能性に関心をいだいたのですね。そのうちでも、特に黄味や茶色味を抜き、青みを強めるという、いわゆる色の悪い宝石の改良法に興味をいだいたのですよ。彼はわたしにそれをやってみてくれと言って、五週間前に実験用としてあのダイヤモンドをよこしたのです。全部で八つでしたが、特別高価なものは一つもなかったですね。いちばん大きいのでも半カラットをちょっと出るくらい、中には四分の一カラットくらいしかないものもありました。色も二つをのぞけばみんな貧弱でした。それが泥棒にやられた問題の石ですよ」
「では、あなたはまだ成功なさらなかったわけですね?」
「ざっくばらんにいうと、」と彼は言った。「まだ何の進歩も見られませんでした。これはかなりデリケートな問題で、それに相当厄介な材料ですからね」
「いつもどこにおしまいになっておいででした?」
「ふだんは、何にも入れずにそこらにころがしておきましたよ――といっても、むろん研究室内ですがね――しかしここ数日間は、錠のかかる用箪笥《ようだんす》の中にしまっておいたのです――不成功に終わった最後の実験以来はね――」
「実験のことを、誰か知っていたでしょうか?]
「誰だって、みんな知っていましたよ。別に秘密にするような理由もなかったですから」
「すると、ダイヤはその用箪笥から盗み出されたわけで?」
「そうです。今朝起きてみると、玄関のドアがあいていて、用箪笥の引出しがこじあけられ、ダイヤが紛失しているのに気がついたのです。警官が発見してくれたのですが、台所のドアにもこじあけた痕《あと》がのこっていて、泥棒はここから屋内に侵入し、玄関のドアを開けて出て行ったのだというのが、警察の人たちの意見です。わたしたちは昨夜何の物音もきかなかったし、ほかには盗まれたものは何もないのです」
「今朝わたくしが階下へおりてまいりますと、玄関のドアがあいていたのです」と、レゲット夫人が戸口から声をかけた。「で、すぐ二階へ上がって、エドガーを起こしました。そして二人して家の中をさがしました結果、ダイヤが紛失しているのに気がつきました。警察のかたは、わたしが見た男が泥棒だったにちがいないとおっしゃいました」
私は彼女が見たという男について質問した。
「それは、昨夜、真夜中ごろ、寝床に入ります前に窓をあけたときでした。わたくしは一人の男が角に立っているのを見たのです。その男に何か疑わしい素振りがあったとは、いまでも考えられません。その男は誰かを待ってでもいるように立ちどまっていました。こちらの方を見ていましたが、でも別にこの家をうかがっているようにも思えませんでした。年のころは四十少し過ぎぐらいで、どちらかといえば背の低い、小肥りの――ちょっとあなたのようなからだつきで――短く刈りこんだ口ひげをつけ、青白い顔をしておりました。ソフトもオーバーも黒――いいえ、茶色だったような気がいたします。警察のかたは、それこそガブリエルが見た男と同一人だと申されました」
「どなたですって?」
「娘のガブリエルです」と彼女は言った。「先だっての晩――たしか土曜日の晩だったと思いますが――おそく帰ってまいった娘が、家の前で一人の男を見かけ、うちの玄関から出てきたものと思ったそうでございます。でも、娘もはっきり見たわけではありませんし、泥棒に入られるまでそのことは忘れておりました」
「お嬢さんにお話したいと思いますが、ご在宅でしょうか?」
レゲット夫人は娘を呼びに出て行った。私はレゲット氏にたずねた。
「ダイヤはばらのままだったでしょうか?」
「もちろん、アンセットでした。ホルステッド=ボーシャン商会の小型の封筒に、一個ずつ別々に入れ、封筒には番号と石の重さが鉛筆で書いてありました。その封筒もなくなっていましたよ」
レゲット夫人が娘をつれてもどってきた。袖なしの白い絹のドレスを着た二十才そこそこの少女だった。中背なので背はあまり高くない方だが、実際よりもほっそりと見えた。父親と同じようにちぢれた、明るい褐色の髪をもち、とがったあごと、真白な滑《なめ》らかな肌をしていた。顔のつくりのうちで、緑褐色の眼だけが大きく、額も口も歯も非常に小さかった。私は彼女に紹介してもらうために立ち上がり、それから彼女が見たという男のことをたずねた。
「その人がうちから出てきたという――いいえ、芝生から出てきたという、確信もありませんわ」と、彼女は言った。質問されるのがいやらしく、なんとなく不機嫌だった。「たぶんうちから出てきたのだろうと考えたのですが、でもあたし、その人が通りを歩いているところしか見なかったのですから」
「どんな風の男でしたか?」
「存じませんわ。暗かったのですもの。あたしは車の中にいたのだし、その人は通りを歩いていたのですから。くわしく調べてなんかみませんでしたわ。でも、あなたと同じくらいの背恰好の人よ。たぶんあなただったのかもしれないわ」
「そんなことはありませんよ。それは土曜日の晩ですね?]
「そう――つまり、日曜日の朝よ」
「何時ごろでした?」
「そうね、三時か、少し過ぎてたかしら」彼女はじれったそうに言った。
「おひとりでしたか?」
「まさか――」
私は彼女と一緒だったのが誰かとたずね、やっとその名をおしえてもらった。彼女を家まで車で送ってきたのは、エリック・コリンスンという青年だった。私はどこへ行けば彼に会えるかときいた。彼女は難しい顔をして、ためらっていたが、結局、その青年は株式仲買商のスピーヤ・キャンプ・ダフィーの店に勤めている、と言った。彼女は、もうこれ以上私からきかれることはないはずだと考えたらしく、ひどく頭痛がするから去らせてほしいと言った。そして、私の返事も待たずに、さっさと部屋から出て行ってしまった。私は彼女が背を向けたとき、彼女には耳たぼらしいものがなく、さきが奇妙にとがっているのに気がついた。
「召使についてはどうお考えですか?」と、私はレゲット夫人にたずねた。
「宅には一人しかおりません――ミニー・ハーシーという黒人女です。ここには寝泊りしておりませんし、こんどの事件にはまったく関係がないと信じます。わたくしたちのところでもう二年近くも働いていますが、あの女の正直なことは保証できますわ」
私はミニーに話してみたいと言ったので、レゲット夫人はミニーを呼びいれた。小柄で頑丈な黒白の混血娘で、インディアンの真直ぐな黒髪と褐色の肌をもっていた。非常にていねいな物腰で、自分はダイヤ泥棒とはまったく無関係だと主張し、今朝この家にくるまで盗難のことは少しも知らなかったと言い張った。彼女はサンフランシスコの黒人街の自分の住所をおしえてくれた。
レゲット夫妻は、私を、三階の五分の四を占めている広い研究室に連れて行った。窓と窓との間の白い壁面には、いくつもの図表がかかっており、床は敷物なしの木の床だった。X光線の機械らしいものが一台と、それよりも小さい機械が四、五台、それに鎔鉄炉と、広い流しと、大きなトタン張りのテーブルと、幾つかの小型の陶器類、スタンド類、ガラス製品の棚、サイフォン型の金属性タンク――といったものが、部屋の大部分を占めていた。ダイヤモンドが盗まれた用箪笥というのは、全部一緒に錠がおりるようになっている六つの引出しのついた。緑色の鋼鉄製のものだった。ダイヤモンドが入れてあった上から二つ目の引出しは、開いていた。|かなてこ《ヽヽヽヽ》か|のみ《ヽヽ》を引出しと枠との間に押しこんでこじあけたらしく、その部分だけへこんでいた。ほかの引出しには錠がおりていたが、レゲットの説明によると、ダイヤモンドの入っていた引出しを無理矢理にこじあけたために錠前装置に故障を生じ、ほかの引出しをあけるには職人の手をかりなければなるまいとのことだった。
私たちは階下へおり、先刻の混血女が真空掃除器を押しながら歩きまわっている部屋を通って、台所へ行った。裏口のドアとその枠は、明らかに同じ道具を使ってこじあけたとみえて、用箪笥と同じようにきずがついていた。私はドアを調べおわると、ポケットからダイヤモンドをとり出して、レゲットに示した。
「これはその一つですか?」
レゲットは私の手のひらからそれをつまみ上げると、光りにかざしてぐるぐる廻していたが、やがて言った。「そうです。底面《キューレット》に曇ったところがありますからね。どこで手に入れられたのです?」
「前の芝生です」
「泥棒先生、あわてて戦利品をおとして行ったわけですね」
私は、それもおかしいと言った。すると、レゲットは眼鏡のうしろで眉をよせ、眼を細めて私を見てから、鋭く言った。
「では、あなたのお考えは?」
「わざとそこにおいたんだと思いますね。この泥棒はあんまり知りすぎていますよ。彼はどの引出しをあけるべきかを知っていましたし、よけいなことで時間を無駄にするようなことはしていません。探偵はよく〈内部の仕事〉と言いますが、それはもし現場でうまく犠牲者を見つけることができれば、労力が大いにはぶけるわけですからね。しかし、今のところ私はどうもそれ以外には考えられないのです」
ミニーが、掃除器を手にもったまま、戸口に現れて――自分は正直な女だ、誰にも悪口を言われるいわれはない。もしそうしたいなら、わたしのからだとわたしの家をさがして見たらいいだろう。自分が黒人女だからというようなことは何の理由にもならない――と泣声をあげてわめきはじめたが、真空掃除器をにぎったままでいるのと、それにしゃべりながらすすりあげるのとで、言っていることが全部はっきりとは聞きとれなかった。涙が彼女の頬をつたって、ぽろぽろ流れおちた。レゲット夫人は彼女のそばに行って、肩をたたきながら言った。
「これ、泣くんじゃありませんよ、ミニー、お前がこの事件に関係のないことは、わたしがよく知っていますよ。みなさんもそう思っていらっしゃるのだからね。わかったね」
レゲット夫人は黒人娘の涙をふいてやってから、二階へ行かせた。
レゲットは台所のテーブルの端に腰かけて、たずねた。「あなたはこの家の誰かに嫌疑をかけていられるのですね?」
「この家にいた誰かにですよ」
「誰に?」
「まだ誰とはわかりませんが――」
「つまり、それは、」と、彼は娘のそれと同じくらいに小さな白い歯を見せながら、微笑した。「それはつまり、みんなに――われわれすべてに――という意味ですね?」
「まあ、ちょっと芝生を見てみようじゃありませんか。もしわれわれがもっとダイヤモンドを見つけることができるようでしたら、わたしの見込みちがいかもしれません」
家の中を通って玄関口へ行く途中で、黄褐色の服を着、すみれ色の帽子をかぶったミニー・ハーシーが彼女の女主人に暇《いとま》乞いをするために、やってくるのにぶつかった。彼女は涙ぐみながら、あたしを泥棒だなんて思うような人のいる家で働きたくはありません、と言った。あたしはほかの人と同じように正直なのだ。いいえ、ある人たちにくらべればあたしの方がずっと正直です。だから、あたしだってみんなと同じようにもっと尊敬されていいはずです。一ヵ所でだめなら、ほかの場所へ行くだけです。なぜなら、パン一きれ盗んだこともなく二年間も働いたのちに、物を盗《と》ったなんて悪口を言われないところを、わたしはいくらでも知っているのだから、と言った。
レゲット夫人はなだめたり、すかしたり、叱ったりしたが、どれも効き目がなかった。褐色の娘の決心は動かず、彼女は出て行ってしまった。レゲット夫人はその快活な顔をできるだけ引きしめて、非難するように私に言った。
「おわかりになりまして、これがあなたのなさったことですわ」
わたしはたいへん済まないことをしたと詫びた。それから彼女の夫と二人で芝生を調査するためにおもてに出た。だが、ダイヤモンドはほかには一つも発見されなかった。
二 長鼻の男
私はレゲット母娘が見たという男をつきとめたいと思って、それから二時間ばかり近所を調べまわった。その結果、問題の男にめぐりあう幸運にはぶつからなかったが、別のニュースを手に入れることができた。レゲット家から下手へ三軒目の家に住んでいるプリーストリー夫人という青白い顔をした半病人の婦人が、その男に関して最初の手掛りを私に与えてくれた。プリーストリー夫人は眠られぬ夜など、よく窓ぎわに坐って時をすごす癖《くせ》があったが、そういった夜、二晩もその男を見たというのである。その男は背の高い若い男で、頭を前につき出すようにして歩いていたと、彼女は言った。しかし顔の色や服装については、街路が暗かったので、はっきりしなかった。最初にその男の姿を見かけたのは、一週間ほど前の晩で、そのときは十五分か二十分おきに五、六回街路の向こう側を行ったり来たりしながら、何かを見張ってでもいるように――あるいは何かを探してでもいるみたいに――プリーストリー夫人の家のある側――すなわちレゲット家のある側を見ていたという。それからさらに二、三日後の晩――つまり土曜日の晩、彼女はふたたび彼を見かけた。こんどは歩き廻らずに、街角に立って通りを見ていたが、三十分ほどして立ち去ってしまった。時刻は真夜中ごろだった。それ以後彼女は彼の姿を見かけない、と言った。
プリーストリー夫人はレゲット家の人々を見知っていたが、ガブリエルを少しわがままな娘のようだと評したきり、家族のことについてはあまり知っていなかった。立派な人のようだが、どことも近所づきあいはしていないと言った。レゲットは一九二一年に今の家に引越してきたが、初めは家政婦のベッグ夫人と二人だけで、レゲット夫人や娘のガブリエルが、彼と一緒に暮すようになったのは、一九二三年からだと、プリーストリー夫人は言った。なお、この家政婦のベッグ夫人は、現在パークリーのフリーマンダー家にいるはずだ、とも教えてくれた。
プリーストリー夫人は、昨夜は窓ぎわに出ていなかったので、レゲット夫人が見たという例の男を見てはいなかった。
次に、街路の向こう側の、プリーストリー夫人がその男を見たという角のすぐそばに住んでいる、ウォレン・デイリーという人物が、日曜日の夜、家の戸締りをしようとして玄関に出て行ったとき、戸口に立っていた一人の男――明らかに同じ男だが――をおどろかせたという事実がわかった。デイリー氏は私が訪ねたとき不在だったが、デイリー夫人は私にこれだけのことを話すと、夫を電話口に呼び出してくれた。デイリーは、その男は通りをやってくる誰かから身をかくすつもりか、あるいはその人間を見張るつもりかどちらかだと思うが、とにかく家の玄関口に立っていた、と言った。デイリーがドアをあけると、その男はデイリーの「そこで何をしているんだ?」という言葉には返事もせずに、あわてて通りを逃げ去ったそうである。その男は年のころ三十二、三才の黒ずんだ服をきちんと身につけた男で、長い、細っそりした、鋭い鼻をしていた、とデイリーは言った。
以上が近所から探り出した全部だった。私はその足でモントゴメリー街のスピーヤ・キャンプ・アンド・ダフィーの事務所をおとずれ、エリック・コリンスンに面会を求めた。
コリンスンは、金髪で、背の高い、陽に焼けた、おしゃれな服装の若者で、ポロや射撃や釣りや、それに類することは何でも知っているが、ほかのことはあまり知らないといった、美しいけれど非理知的な顔をしていた。市場《しじょう》時間後なので、やせこけた一人の少年が黒板に数字をいたずら書きしている以外には誰もいない応接間のふっくらした革張りの椅子に、われわれは腰をおろした。私はコリンスンに盗難事件のことを話し、彼とレゲット嬢とが土曜日の夜見たという男のことをたずねた。
「僕の見たところでは、別に変わったところのない男でしたね。何しろ暗かったものですから。背の低い、ずんぐりした男でしたよ。そいつが盗ったとお考えなのですね?」
「その男はレゲット家から出てきたのですか?」
「すくなくとも芝生からはね。なんだかびくびくしていたようでした。きっと入るべきでない場所をうろついていたからかもしれません。僕は追っかけて行って何をしていたのかきいてみようかと思ったんですが、ゲービーがやめろと言ったんです。お父さんの友人かもしれないというんです。あの人にきいてみましたか? あの人は変な人間を知っていますからね」
「客が帰るには遅い時刻でしたか?」彼は眼をそらせたので、私はつづけてたずねた。「何時ごろでしたか?」
「真夜中、だったと思います」
「真夜中?」
「そうです。墓場から死者が解放されて、幽鬼《ゆうき》がさまようあの時刻ですよ」
「レゲット嬢は三時過ぎだと言っていたが」
「はは、そのわけはこうですよ!」と、彼はまるで論争中の問題に証明でも与えるかのように、誇らしげな調子で叫んだ。「つまり彼女は半分|盲目《めくら》なのに、美貌を損なうのを恐れて眼鏡をかけようとしないのですよ。ですから、そういったまちがいは年中やるのです。ブリッジをやっていても2とエースをまちがえるんですからね。あれはたぶん十二時十五分だったのを、彼女は長針と短針をとりちがえて読んだのにちがいありません」
「それはひどすぎますね」と私は言ってから「ありがとう」と礼をのべて、そこを出た。そしてギアリー街のホルステッド・アンド・ボーシャン商会へ行った。ワット・ホルステッドは、愛想のいい、青白い顔をした、禿《は》げ頭の肥った老人で、かたいカラーをつけ、疲れたような眼をしていた。私は自分のしていることを彼に告げ、レゲットとどの程度じっこんか、とたずねた。
「わたしはあの人を、店の好い顧客《おきゃく》として、また名声のある科学者として知っているだけですよ。なぜそんなことをおききになるんですか?」
「こんどの盗難事件はちょっと面倒なのでね――いろんな点で……」
「ああ、そりゃあんたの思いちがいですよ。あれだけの人物がそんなことに関係があるなんて、かりにも考えたら、大まちがいですよ。むろん、召使は問題になります――それはあり得ることだし、事実よくあることですからね。でも、レゲットじゃありません。あの人はある程度地位もある科学者で、色彩についてかなり重要な仕事をやっている人だし――それに信用調査書の報告にまちがいがなければ、相当以上の財産も持っている人物ですよ。わたしがそういうのは、何もあの人が現代的な意味で金持だというのではなく、ただこの種の事件にかかりあうには裕福でありすぎるというだけでさ。これは内々の話ですが、私はある事情から、あの人がシーマンス・ナショナル銀行に持っている預金高が現在一万ドルを超えていることも知っているのですよ。それに――あの八つのダイヤモンドは全部あわせたって、千ドルか千二、三百ドルの値打ちしかないのですからね」
「ばら売りではどうだろう? 五、六百ドルにはなるだろうか?」
「そうですね、」と彼は笑いながら「七百五十ドルって、ところでしょうな」
「どうしてあの人にダイヤを渡したんです?」
「いまもお話ししたようね、あの人はわれわれの店の顧客ですが、あの人がガラスに対してやってる仕事を知ったとき、わたしは同じ方法がダイヤモンドにも適用されたら、どんなにすばらしいだろうと考えたんですよ。フィッツステファンは――わたしがレゲット氏の仕事のことをきいたのは主にこの人からですが――この人はわたしの考えに疑問をもっていたけれども、わたしはとにかく試してみる価値があると思って――レゲット氏を口説《くど》いて承知させたんです」
フィッツステファンという名は、なじみの深い名だったので、私はたずねた。「その人は何フィッツステファンというのかしら?」
「作家のオーウェンですよ。ご存じですか?」
「ああ、でも、彼が西海岸にきているとは知らなかった。僕らは同じ酒ビンから飲んだ仲間さ。彼の住所を知っていますか?」
ホルステッドは電話帳をくって彼の住所を見つけてくれた。ノッブ・ヒルのアパートメントの一つだった。
宝石商の店を出た私は、ミニー・ハーシーの家の近所へ行ってみた。それはいわゆる黒人区域の一つで、正確な情報を得るには普通の二倍も困難な場所だった。だが、私はやっと次の事実を知ることができた。それは、あの娘は今から四、五年前にヴァージニア州のウィンチェスターからサンフランシスコに移ってきたが、半年ほど前からリノ・ティンフリーという黒人と同棲しているということだった。リノのファースト・ネーム〔クリスチャン・ネームのこと〕は、ある人間はエドだというし、ほかの人間はビルだと言ったが、とにかく年の若い大柄な黒人で、あごに傷痕《きずあと》があるのですぐ見分けがつくという点では、誰の意見も一致していた。私はまた、彼の生活はミニーと賭博に依存しているということや、ふだんは決して悪い男ではないが、いったん逆上したら手に負えない男だということ、それから夕方早めにバニー・マックの理髪店か、大足のガーバーの煙草店へ行けば、たいてい彼に会えるということなども、聞かされた。
私はそれらの店の在り場所を教えてもらってから、もう一度下町に引き返し、裁判所内にある警察の捜査課へ行った。質屋係の部屋には誰もいなかった。そこで廊下を横切って、ダフ主任警部の部屋に行き、レゲット事件の担当者は誰にきまったろうかとたずねた。ダフ警部は「オッガーに会いたまえ」と言った。
私は殺人関係の部長刑事が私の仕事にどんな関係があるのだろうかといぶかりながら、オッガーをさがしに、たまり部屋へ行った。そこにはオッガーも彼の相棒のパット・レッディーもいなかった。私は煙草をふかしながら、誰が殺されたのかききたいと思い、とにかくレゲットに電話をかけてみようと考えた。
「わたしがお宅を出てから、誰か警察の探偵が行きましたか?」レゲットの耳|障《ざわ》りな声が聞こえると同時に、私はこうたずねた。
「いいえ、しかしちょっと前に警察から電話があって、家内と娘にゴールデンゲイト・アヴェニューの、ある場所へ来てくれということでした。そこにいるある男が例の男かどうか首実検するためらしいのです。二人とも三、四分前に出て行きましたよ。わたしはその泥棒らしい男を見ていないので、同行しなかったのです」
「ゴールデンゲイト・アヴェニューのどこでしょうか?」
彼は番地はおぼえていなかったが、区画《ブロック》は知っていた――ヴァン・ネッス・アヴェニューの上手《かみて》のブロックである。私は礼を言って電話を切ると、すぐそこへ行った。いわれたブロックのある小さなアパートの入口に制服の巡査が立っているのを見つけて、私はオッガーがいるかと、たずねた。
「三階の十号室です」と巡査は答えた。
ぐらぐらするエレヴェーターにのって、三階でおりると、帰ろうとするレゲット夫人と娘にぶつかった。
「さあ、これであなたも、ミニーがこの事件に何の関係もないということが、おわかりになったでしょう」と、レゲット夫人は叱責するような調子で言った。
「警察が例の男を発見したのですね?」
「ええ」
私はガブリエル・レゲットに言った。「エリック・コリンスンは、土曜日の夜あなたが家に着いたのは、まだ真夜中、あるいは十二時を二、三分すぎたくらいだった、と言っていますよ」
彼女は私のそばを通ってエレヴェーターに入りながら、いらいらした調子で、「エリックは馬鹿よ」と言った。彼女のあとについてエレヴェーターにはいった母親は彼女をやさしくたしなめた。「これ、あなた――」
私は広間を通って、パット・レッディーが四、五人の新聞記者と話している戸口の方へ歩いて行った。私は「やあ」と言って、彼らをおし分けるようにして短い廊下を通りぬけ、一人の死んだ男が壁にくっついたベッドに横たわっている、みすぼらしい調度の部屋に入った。鑑識課のフェルスが大きな眼鏡ごしに私を見上げてうなずいたが、すぐまた検査の仕事にかえった。
オッガーはあいた窓の中へ頭と肩を押し入れるようにしながら、「われわれはまた君のおせっかいを我慢しなければならんのか?」とがみがみ言った。オッガーは頑丈なからだつきをした五十男で、映画に出てくる郡長《シェリフ》のかぶるような広縁の黒のソフトをかぶっていた。この男の円い硬い弾丸頭の中には思慮と分別とがぎっしり詰まっていて、一緒に働くのには気持のいい男だった。
私は死体をながめた――陰気な青白い顔に、貧弱な黒い口ひげをはやし、白髪まじりの髪を短く刈った四十前後の男で、腕と下肢は太くてがっしりしていた。弾孔が臍《へそ》の真上に一つと、左胸上部に一つあった。
「男さ」オッガーは私がふたたび毛布を死体の上にかけると、言った。「死んでるよ」
「ほかに分ってることは、どんなことだい?」と、私はたずねた。
「こいつともう一人のやつが、共謀で例のダイヤを盗んだのだね。だがそのあとで、片方のやつが一人占めをはかったのだ。これが問題の封筒だよ」と、オッガーはポケットから数枚の封筒を取り出して、拇指《おやゆび》でそれをぱらぱらとめくってみせた。「だが、ダイヤはもぬけのからさ。それらの石は、もう一人の男と一緒に、少し前、非常梯子《ひじょうばしご》をつたわって、どっかへ消えてしまったというわけさ。やつが逃げるのを見かけた人間の話によると、何でもこの裏道づたいに行方をくらましたらしい。背の高い、長い鼻の男だそうだよ。このやっこさんは――」と、彼は手にもっている封筒でベッドを指した。「この男は一週間前にここへ来たそうで、名は、ルイス・アプトン、荷物にニューヨークの貼札がついているけれど、われわれはこんな男を知らんね。ここの連中も、この男がほかの誰かと一緒のところを見たという者は一人もないし、もちろん長鼻を知ってる者なんか一人もいないよ」
パット・レッディーが入ってきた。からだの大きな陽気な青年で、経験の不足を補うに足る鋭い頭脳の持主だ。私は彼とオッガーに、これまで私の手でさぐり出した事柄を話してきかせた。
「長鼻とこいつが、交代でレゲット家を見張っていたわけだな」と、レッディーは言った。
「あるいは、そうかも知れん」と私は言った、「しかし、もっと内部を調べる必要があるよ。ところで、オッガー、君はここで封筒を何枚手に入れたね?」
「七枚」
「すると、わざと芝生に捨てておいたダイヤの分が一枚なくなっているわけだな」
「あの混血娘についてはどう考えるね?」と、レッディーがきいた。
「今晩僕はあの女の亭主を見に行こうと思ってる」と私は言った。「君らはこのアプトンのことでニューヨークの方をあたって見るだろう?」
「うん」と、オッガーは言った。
三 暗い影
ホルステッドが教えてくれたノッブ・ヒルのアパートで、私は電話の交換台にいた少年に自分の名を告げ、それをオーウェン・フィッツステファンに伝えてくれるようにたのんだ。私はフィッツステファンを、眠そうな灰色の眼と大きなユーモラスな口とをもった、長い油気のない栗色髪の、三十二才の男として、記憶していた。実際以上に怠け者を装っているこの男は、何をするよりも喋るのが好きで、多少とも変った問題については、いつもたくさんの正確な情報らしいものと独創的な見解とをもっていた。彼に初めて会ったのは、五年前ニューヨークにおいてであった。
当時私はニューヨークで、ある石炭商の寡婦《かふ》から十万ドルをまきあげた詐偽師《さぎし》一味の泥を洗う仕事にたずさわっていたのだが、フィッツステファンは、小説の材料を得るために偶然同じ畑に鋤《すき》を入れていた。二人はすぐ知りあいになり、力をかし合った。私は、彼がこの種の詐偽手段の裏おもてに通じていたおかげで、この二人の同盟から彼が得た以上のものを得ることができた。そして彼の援助で、私は二週間かかからずに自分の仕事を片づけることができた。それから一、二ヵ月間、私がニューヨークを立つまでに、二人はすっかり仲よしになってしまったのである。
「フィッツステファンさんは、どうぞお上がりくださいって、言っていますよ」と交換台の少年は言った。
彼の部屋は六階にあった。私がエレヴェーターから出ると、彼は部屋の戸口のところに立っていた。
「やあ、これはめずらしい!」と、彼は痩せた手を差し出した。「君か!」
「余人にあらずさ!」
彼はちっとも変っていなかった。二人は、六箇の本棚と四つのテーブルでほとんどいっぱいになっている部屋に入った。いろんな外国語の雑誌や、書籍や、新聞や、切抜や、校正刷が、あたり一面にちらばっているところは、ニューヨーク時代の彼の部屋と少しも変りがなかった。われわれは椅子に腰をおろし、テーブルの脚の間にやっと自分の足を入れる余地を見つけてから、お互いに一別以来の生活について簡単に話し合った。かれはもう一年以上も――その間週末と二月間だけ小説を完成するために田舎へ逃避したのを除けば――このサンフランシスコで暮らしている、とのことだった。
「僕はサンフランシスコが気に入ったよ。でも、西部をインディアンにかえす運動には反対しないがね」と彼は言った。
「文筆商売の方はうまく行ってるかね?」と、私はたずねた。
すると、フィッツステファンは鋭く私を見つめながら言った。「君はまだ僕の作品を読んでいないんだね?」
「ああ。でも何だってそんな妙なことを言い出したんだ?」
「いや、君の言葉の調子に何だか変なものが感じられたからさ。ちょうど、作者を何ドルかで買いとった人間の声に感じられるみたいなものがね。僕はそんな目にあんまり出合ったことがないので、変に感じたんだよ。ああ、そうだ! 君はいつだったか僕が自分の本を一揃《ひとそろ》い君にプレゼントしようとしたときのことをおぼえているかい?」彼はいつもこんな調子で話すのが好きなのだった。
「ああ、おぼえているよ。あのときは、君はひどく酔っぱらっていた」
「そうだ、シェリー酒でね――エルザ・ドンのところのシェリー酒で。エルザをおぼえているかい? 彼女は描き上げたばかりの絵をわれわれに見せてくれた。すると君はきれいですねと言った。彼女が狂暴な女でなかったのが、仕合せというものさ! 君はまるで彼女が君にそう言ってもらいたがっているものと確信でもしているように、まじめくさって、いかにも気の抜けた調子で、そう言った。おぼえているかい? 彼女はわれわれを追い出したが、そのときはもう二人とも彼女のシェリー酒にすっかり好い気持になっていた。でも、君は僕の本を受け取ってくれるほど酔っぱらってはいなかったよ」
「いや、あのときは君の本を読んで僕に理解できるだろうかと懸念《けねん》したんだ。そうすれば君だって侮辱されたと感ずるだろうと思ったからさ」と、私は説明した。
中国人のボーイが冷たい白葡萄酒を二人にもってきた。フィッツステファンは言った。
「君は相変らず不幸な悪党どもを追い廻していると見えるね?」
「うん。僕が偶然君のありかを知ったのも、そのためだよ。ホルステッドが、君がエドガー・レゲットを知っていると言ったんでね」
彼の灰色の眼の中の眠気を破って、キラリと閃光《せんこう》がひらめいた。彼はちょっと腰をうかしながら、たずねた。「レゲットが何かしでかしたのか?」
「なぜ、そんなことを言うんだ?」
「言いやしないよ。きいただけさ」彼はふたたび椅子にからだを沈めたが、眼のかがやきは消えなかった。
「さあ、ひとつ、その話を聞こうじゃないか。ただし、僕に変なトリックは使わないでくれよ。そいつは全然君に向かないやり口だからね。そんな真似をしたら、君はおしまいだぞ。さあ、話してくれたまえ。レゲットがいったいどんなことをしでかしたんだ?」
「そいつはいかんよ」と私は言った。「君は作家だ。だから、僕の言うことを土台にして君がどんな風に作り上げんともかぎらんからね。僕の話に合わせるために君の話が歪曲《わいきょく》されては困るから、まずそっちから話してもらおう。それまで僕の方はおあずけだ。君はいったいレゲットをどのくらい前から知っているんだい?」
「ここへ来てからまもなくだよ。彼はいつ会っても僕の興味をひきつけた。彼には何か解し難いものがあるんだ。暗い、それでいて引きつけるものがね。例えば、彼は肉体的に禁欲主義者だ――煙草をのまぬ、酒ものまぬ、食うものもごく少食だし、睡眠も毎晩三、四時間しかとらないという話だ。それでいながら、精神的には快楽主義者だ――デカダンスといってもいいほどだ。君にはこれが何かを意味しないかね? 君はいつも、僕が狂信的な人間に病的な食欲をもつと言ったものだが、この男のことは知る価値があるよ。彼の友人たち――いや、彼には友人なんかないが――彼の選んだ仲間といえば、なんとも奇妙な連中ばかりでね。マーカードとその気狂いじみた風采《ふうさい》(こいつは風采とはいえんがね)、デンバー・カートと彼の代数主義、ホルドーン一家とその聖杯教、気の狂ったローラ・ジョインズ、それからファーナムと――」
「それから、」と私は口を入れた。「何一つ説明もしなければ描写もしない説明と描写をながながとやる君。君のいま言ったことが僕に少しでも役に立ったと、君が考えないことを希望するね」
「僕は君と言う人間を思い出したよ。君はいつもそんな調子だった」と、フィッツステファンは細い指で栗色の髪をかきながら、にやにや笑った。「君のために僕が何かうまい言葉を見つけ出す間に、どんなことがあったのか話してみろよ」
私は彼に、エリック・コリンスンを知っているかとたずねた。彼は知っていると答えた。しかし、コリンスンがガブリエル・レゲットと婚約の間柄であるということ、彼の父親は材木商のコリンスンであるということ、それからエリックは株式証券の仲買人ではあるが、プリンストン出身のナイスボーイであるということ以外には、何も知らなかった。
「そうかもしれない」と私は言った。「だが、彼は僕に嘘をついたよ」
「それは探偵らしくもない、何かのまちがいじゃないか?」とフィッツステファンはニヤリと笑いながら頭を振った。
「君はきっと人違いをしているにちがいないよ。あのベイアール先生〔中世武士の鑑とうたわれたフランスの騎士〕は嘘はつかんよ。それに、嘘をつくには想像力が必要だからね。君は、――いや、ちょっと待て! 君の質問には女が一人関係してやしないか?」私がうなずくと、「それなら、君の言うことは正しい。僕はあやまるよ。騎士ベイアールは、女が関係しているときには、たとえそれが不必要であろうと、またそのために彼女が迷惑をこうむろうと、常に嘘をつくものだ。これがベイアール主義のしきたりの一つだよ。その女というのは何者だ?」
「ガブリエル・レゲットさ」私はそう言って、それから彼に、レゲット家のこと、ダイヤモンドのこと、金門通りの他殺死体のことについて知っているだけのことを全部話した。話しているうちに、彼の顔に失望の色が濃くなってきた。
「そんなことはつまらんことだね」彼は私が話しおえると、不平らしく言った。「僕はレゲットをデュマの観点から考えていたんだ。ところが、君はオー・ヘンリーの中からつまらぬ安ものを一篇持ってきた。がっかりしたよ。君と君のけちなダイヤモンドにはね。しかし――」と、彼の眼はふたたびかがやきをおびた。「このことは何かもっと重要なことに通じているのかもしれんぞ。レゲットに罪があるかないかはともかくとして、つまらぬ保険金詐偽以上のものがあるのかもしれんぞ」
「君のいう意味は、レゲットがいわゆる偉《えら》ものの一人だと言うんだね? 君は新聞を読んでるだろうが、いったい彼をどんな人間だと考えるのだ? 密輸入者の親玉《キング》か? 国際犯罪団の首領か? 白人奴隷売買の大立者か? 麻薬密売業者の首魁《しゅかい》か? それとも変装した貨幣偽造団の女王か? 何だね?」
「馬鹿なことを言うなよ」と、彼は言った。「だが、彼には頭がある。それでいながら、彼には何か暗いところがあるよ。考えまいとしながらどうしても忘れられない、といった何か暗いところがあるね。彼は心の中では幻惑的ないっさいのものに激しい憧れをもちながら、表面は魚のように冷静な人間だよ。いつもその心を狂気で麻痺させながら、一方ではその肉体を常に健康に、敏感に保つことに神経を使っている男なのだ。それが何のためかはわからない。しかし、もしある男が忘れたいと思う過去をもっているだけなら、その男は容易にその肉体を通じて、例えば麻酔薬でなくとも肉欲への耽溺《たんでき》とか官能的な陶酔とかによって、容易にその記憶を忘れることができるだろう。しかし、万一その過去が今でも死んでいないとしたらどうだろう――その場合にはいつなんどきそれが現在の生活の中に入りこんできてもそれに対抗できるように、常に自分自身を準備しておかなければなるまい。それには、彼の肉体をいつも強健に、用意周到に保つと同時に、直接にはその精神を麻痺させることが、彼として最も懸命な策だと思うね」
「で、その過去というのは?」
フィッツステファンは頭を振りながら言った。「僕がそれを知らないとしても――事実知らないのだが――それは僕の罪じゃないよ。君だって、あの家族から情報を得ることがいかに難しいかってことが、いまにわかるよ」
「君はやってみたのか?」
「もちろん。僕は小説家だもの。そして僕の仕事は、人間の魂とその魂の中で行われる事件を扱うことだからね。ところで、彼は僕を引きつける魂をもちながら、まだ一度も僕に対して自分の内側をひっくり返して見せたことがないので、僕はいつも彼から不当な取扱いをうけているような気がして仕方がないのだよ。君も気がついているだろうが、レゲットというのが彼の本名かどうかも怪しいと思うんだ。彼はたしかにフランス人だからね。前に一度アトランタ生まれだと言ったことがあるが、外観からいっても、気質からいっても、彼自身が承認しないだけで、あらゆる点から見てフランス人だよ」
「ほかの家族の連中はどうだね? ガブリエルは少し頭がおかしいんじゃないか?」
「さあ、どうかね」フィッツステファンはふしぎそうに私を見た。「君はいまの言葉を冗談半分に言ってるのか、それとも本気で彼女は気が変だと思ってるのか?」
「そいつは僕にもわからんよ。だが、たしかに一風変った。不愉快な種類の女だね。それから、彼女は動物の耳をもっている。額がほとんどない。また彼女の眼は一色にとどまっていないで、たえず緑から茶色に、茶色から緑にと変化する。いったい君はうろうろのぞきまわりながら、今までにどれだけ彼女というものをつかんだのだい?」
「恐れ入ったね。うろうろ嗅ぎまわることでは上手《うわて》の君が、人間に対する僕の好奇心とそれを満足させようとする僕の企てを、あざ笑おうっていうのか?」
「僕と君とはちがうよ」と、私は言った。「僕は悪党を監獄に入れる目的で仕事をしている。そして充分とはいえないけれど、そのために報酬を支払われているのだからね」
「その点では僕だって同じさ。――僕は人々を本に入れる目的で仕事をしている。そしてやっぱり充分とはいえないけれども、そのために報酬をうけているのだからね」
「うん、だがそれがどんな役に立つんだい?」
「神のみぞ知るさ。じゃ、人間を監獄にぶちこんで、それがいったいどんな役に立つんだい?」
「第一に人口の過剰を救うさ。人間を相当数監獄に入れてしまえば、都市の交通問題だって解決するだろうよ。そんなことよりも、あのガブリエルについて、君はどんなことを知っているんだ?」
「彼女は父親を憎んでいるが、父親は彼女を崇拝している」
「憎んでいる理由は?」
「知らない。たぶん父親が彼女を崇拝しているからかもしれない」
「そいつはナンセンスだね。君はあんまり文学的すぎる。レゲット夫人はどうだね?」
「君はまだ彼女のつくった料理を食べたことがないだろうが、一度でも食べていたら、疑いもなく僕の意見に賛成すると思うね。おだやかな、健全な人でなければ、あんな料理はできるもんじゃないよ。僕は、彼女がその夫や娘であるあの奇妙な連中をどんな風に考えているのだろうかと、たびたび疑問を起こしたことがあったが、しかし本当は、彼女は彼らの変っていることなど意識もせずに、単にあるがままに彼らを受けいれているのかもしれんよ」
「それはそれで、まあ、わからんことはないがね。だが君はまだ僕に、はっきりしたことは何一つ話していないじゃないか」
「うん、話していない。だが、それがつまり、はっきりしたことなんだよ。僕は自分の知っていること、想像していることを、全部君に話した。しかも、それが一つとしてはっきりしていない。そこが重要な点だよ――いいかね、一年間もかかって知ろうと試みながら、結局僕はレゲットについて何一つはっきりしたことを知ることができなかった。僕の好奇心とそれを満足させずにおかない僕のいつもの手腕とを思い出してくれるなら――それだけで、この男が何かをかくしているということ、またそれをかくしおおせるだけの方法を心得ているということを、君に納得させるに充分じゃないかね?」
「充分かどうかはわからないが、誰も監獄に送りこむような理由がないということを知るために、えらく時間を無駄にしたことだけはわかったよ。明日の晩、夕飯を一緒に食おうじゃないか? それとも、あさってがいいか?」
「あさっての七時ごろじゃどうだ?」
では、時間をあけておくからと言って、私は外に出た。もう五時をすぎていた。昼飯をまだ食べていないので、食事をするためにブランコの店まで行き、それからリノ・ティングリーを見に黒人街に引き返した。私は、彼が口の中で太い葉巻を廻しながら四人の黒人を相手に何かしゃべっているのを、ガーバーの煙草店で見つけた。
「……で、やつに言ってやったよ、〈やい黒ん坊、てめえ、そんなことをいってごまかすつもりだな〉って。そして手をのばして、つかまえようとすると、驚いたね、家から八フィートも離れているのにセメントのペーブメントの上に足跡が残っているだけで、やつの姿は影も形もないのさ……」
巻煙草を一箱買いながら、私はしゃべっている彼をそれとなく観察した。年はまだ三十前だが、背は六フィート近くもあり、どう見ても二百ポンドはありそうに思えるチョコレートの色の大男で、大きな、黄色いどんぐり眼《まなこ》と、広い鼻と、厚い紫色の唇と歯ぐきとをもち、醜い真黒な傷痕が下唇から青と白の縞のカラーの上へ走っていた。一見して新しい服を軽快に着こなし、声は太いバスで、聞き手の連中と声を合わせて笑ったときには、ショー・ケースのガラスがビリビリと鳴った。
私は彼らが笑っている間に店を出た。そして背後で彼らの笑い声が止んだのを聞きながら、うしろを振りかえってみたい気持を抑えて、ミニーが住んでいるはずの建物の方へ向かって歩いていった。その建物から半ブロックほど手前まできたとき、ふと気がついてみると、リノが私とならんで歩いていた。私は七歩ばかりならんで歩きながら、黙っていた。すると、彼が声をかけた。
「お前さんだね、おれのことを調べ歩いているって人は?」
イタリア葡萄酒のすっぱい臭いが、強く鼻をついた。私は考えてから、言った。
「そうだよ」
「おれにどんな用があるんだ?」その調子には別に不快そうな響きはなく、本当に知りたがっているような聞き方だった。そのとき、街路の向こう側を、茶色のコートと、茶と黄の帽子をかぶったガブリエル・レゲットがミニーの共同住宅《フラット》から出てきて、われわれの方へは顔も向けずに、南の方へ歩いて行くのが見えた。彼女は下唇をかみながら、急ぎ足で歩いていた。私はリノを見たが、彼の顔にはガブリエルを見たような気配も、また彼女の出現が彼に何かを意味したような気配もまったく見られなかった。私は言った。
「君には何もかくすことなんかないんだろう? それなら、どうしてそんなことが気になるんだ?」
「同じことさ。お前さんがおれのことを知りたいっていうんなら、おれの方だって聞きたいことがあるよ。お前さんだろう、ミニーを首にさせたのは?」
「首にされたんじゃない。自分からやめたんだ」
「ミニーは人からとやかく言われるような女じゃねえよ。あいつは――」
「とにかく、彼女のところに行って話そう」私は先にたって街路を横ぎりながら、そう言った。戸口にくると、こんどは彼がさきにたって階段をのぼり、暗いホールを通って一つのドアの前に行き、二十以上も鍵のぶらさがっている鍵輪から一つをとり出して、それでドアをあけた。小さな枯れたシダみたいに見える黄色い駝鳥《だちょう》の羽根で飾ったピンクのキモノを着たミニー・ハーシーが、私たちを迎えるために寝室から居間に出てきた。
リノが言った。「お前、この紳士を知ってるだろう、ミニー?」
「ええ、」と、ミニーは言った。
私は言った。「君はあんな風にしてレゲット家を出るべきではなかったよ。君がダイヤモンドにかかり合いがあるなんて考えてる者は一人もないんだからね。――ミス・レゲットはここへなにしに来たんだね?」
「ミス・レゲットなんかおいでになりませんよ。あたしには、あなたの言ってることがわかりませんわ」
「僕らが入ってくるとき、出ていったぜ」
「ああ! ミス・レゲットですか。あたしはまた、あなたがミセス・レゲットとおっしゃったのかと思いましたよ。はい、ミス・レゲットはたしかにここへおいでになりました。あの方は、あたしにもう一度もどる気がないかって、ききにいらしったのです。あたしのことをたいへんご心配になっていらっしゃいましてね」
「うん、それだよ、君がやるべきことは。あんな風に暇をとるのは馬鹿だと思うね」
リノはシガーを口からとると、火のついたさきでミニーを指しながら、「あんなところへかえるのはよせ。お前はもう誰からも一銭ももらう必要はねえよ」彼はうなるような声でそう言ったかと思うと、ズボンのポケットから厚い札束をひっぱり出してぽんとテーブルをひっぱたいた。「人のために働くことなんかねえよ」
彼はミニーに話しかけながら、その眼はニヤニヤ笑いながら、紫色の口に金歯を光らせて、私の方を見ていた。ミニーはあざけるように彼の顔を見ていたが、私の方を振り向くと、その褐色の顔を緊張させながら、これだけは信じてもらいたいというように、熱心に言った。
「リノはあのお金をいかさま博奕《ばくち》で儲《もう》けてきたのですよ。そうでなかったら、金を上げてもいいですよ」
リノが言った。「おれが自分の金をどこで儲けてこようが、他人の知ったこっちゃねえよ。おれが儲けたんだからな、おれが――」
彼は葉巻をテーブルの端におくと、札束をとりあげて、浴室用敷物《バス・マット》のような舌で、足のかかと程もある大きな拇指《おやゆび》をぬらして、一枚一枚紙幣をかぞえて、テーブルの上においた。
「ええ、二十――三十――八十――百――百十――二百十――三百十――三百三十――三百三十五――四百三十五――五百三十五――五百八十五――六百五――六百十――六百二十――七百二十――七百七十――八百二十――八百三十――八百四十――九百四十――九百六十――九百七十――九百七十五――九百九十五――千十五――千二十――千百二十――千百七十。おれがいくら儲けたか、みんな知りたがっていやがる。これがおれの儲け高さ――千百七十ドルだ。みんなは、おれがそれをどこで儲けてきたかってことも、知りたがっていやがる。だが、そいつを言う言わねえは、おれの気分次第さ。言うかもしれねえし、言わねえかもしれねえよ」
ミニーが言った、「旦那さま、リノはあれをいんちき博奕で儲けたんですよ。ハッピー・デイ・ソーシャル・クラブで儲けてきたんですよ。そうでなかったら、命をとられてもいいわ」
「そうかもしれねえ」と、リノは相変らず私に向かってニヤニヤ歯をむきながら言った。「だが、そうでねえかもしれねえよ」
「僕は謎解きはごめんだよ」と、私は言って、それからもう一度ミニーは私のうしろでドアを閉めた。ホールを通りながら、私はミニーの怒った声とリノの太い笑い声を聞いた。下町のオウル薬局で、電話帳のバークリー区を繰ってみると、フリーマンダーという苗字の家は一軒しかのっていなかったので、すぐそれを呼び出した。ベッグ夫人はやはりその家にいた。そして次の渡船で来られるなら、お会いしましょうと言った。
フリーマンダー家は、カリフォルニア大学への坂道をのぼっていった道端に立っていた。ベッグ夫人はやせた、骨太の婦人で、頭のてっぺんに白髪まじりの髪をきちんとたばね、きつい灰色の眼と、頑丈な働き者らしい手をしていた。彼女は気むずかしい生真面目な婦人だったが、そのかわり、もったいぶった咳《せき》ばらいや、「ええ」だの「はあ」だのというつなぎ文句抜きで、率直に話してくれた。私はまず彼女に例の窃盗《せっとう》事件のいきさつを話してから、泥棒はレゲット家の家庭内の事情に通じた何者かによって援助されたものと思う(少なくとも情報を提供されたものと思う)と述べ、最後に、「プリーストリー夫人は、あなたがかつてレゲット家の家政婦をつとめていられたということと、きっとわたしに助言を与えてくれるだろうということを、教えてくれたのです」と言った。
ベッグ夫人は、自分は果たしてあなたがわざわざ町から出て来られただけの値打ちのあることをお話しできるかどうか疑わしいが、自分は正直な女だし、別に人にかくし立てすることもないから、よろこんで出来るだけのお手伝いをしようと、言った。一度口を切ると、彼女はまるで私がつんぼででもあるかのように大声で|とうとう《ヽヽヽヽ》としゃべりつづけた。私に興味のない部分を切りすてると、それはだいたい次のような情報だった。
――ベッグ夫人はある斡旋屋の手を通じて一九二一年の春、家政婦としてレゲットに雇われた。最初は彼女の手助けとして小女が一人いたが、二人の手を必要とするほどの仕事もなかったので、ベッグ夫人のすすめで、この娘は暇を出された。レゲットは、趣味のごく単純な男で、ほとんど終日、研究室と小さな寝室のある最上階ですごしていた。彼は夕食に友人たちを呼ぶとき以外は、家の他の部分を使うことはめったになかった。ベッグ夫人は、レゲットのところへ来る友人たちが嫌いだったが、彼らに面と向かっては、ただ「あなた方の話しかたは紳士として恥ずべき、不名誉なことですよ」という以外に、何一つ言うことができなかった。エドガー・レゲットは彼女にいわせると、ちょっと珍しいくらい好い人間だったが、人を神経質にさせるほど秘密主義なところがあった。彼女は三階にのぼることを絶対に許されなかったし、研究室のドアはいつも錠が下りていた。月に一度、見知らぬ日本人がレゲットの監視のもとに部屋を掃除にきた。きっと彼は科学上の秘密をたくさんもっているのだろう、また人に容喙《ようかい》されたくない、同時に人を不安にするような危険な化学薬品でももっているのかもしれない、と彼女は想像した。彼女は自分の雇主の個人的あるいは家族的問題については何も知らなかったし、また自分の地位をよく知っていたので、彼にどんな質問もしなかった。
一九二三年の八月のある日――それは雨の降っていた朝だったのを、彼女はおぼえている――いくつもスーツ・ケースをもった一人の婦人と十五才ばかりの少女がとつぜんこの家にやってきた。彼女が二人を中に入れると、その婦人はレゲット氏に会わせてもらいたいと言った。ベッグは研究室のドアの外まで行って、その旨を告げると、レゲットはおりてきた。生まれてから今日まで彼女は、このときのレゲットみたいにびっくりした人間を、見たことがなかった。彼は真っ青になった。彼女はいまにも彼が倒れるのではないかと心配したが、彼はどうにか持ちこたえた。彼女はレゲットとこの二人の女が、その朝何を話し合ったのか、全然わからなかった。というのは、彼らは世間の誰にも劣らぬくらい立派に英語を話すことができるのに(殊《こと》にガブリエルは、悪口や呪いの言葉を吐くときには、たいていの人よりも達者だったが)、そのときはベッグ夫人にわからぬどこかの外国語でべらべらやっていたからである。ベッグ夫人は彼らをそのままにしておいて、自分の仕事にとりかかった。するとまもなく、レゲットが台所に現われて、あの二人は自分の義姉のデイン夫人とその娘で、最近十年ほど会わなかったが、こんどこの家に一緒に住むことになったからそのつもりでいてもらいたい、と彼女に告げた。デイン夫人はあとになって彼女に、自分たちはイギリス人だが、いままでニューヨークに数年住んでいたと語ったそうである。ベッグ夫人にいわせると、デイン夫人は物分りのいい、分別のある、第一級の主婦で、自分はミセス・デインは好きだが、あのガブリエルは始末におえない娘だと評した。ガブリエルについて何か言うときには、彼女はいつも「あのガブリエル」という言葉を使った。
ところで、デイン夫人の家政的手腕をもってすれば、もうベッグ夫人のいる必要はなくなったので、まもなく彼女は暇をとったが、彼らは非常に大まかで、彼女が新しい職を見つける上にも力をかしてくれたし、去るにあたっても相当の慰労金をくれたと、彼女は言った。それ以来彼らの誰とも会っていないが、毎朝新聞の結婚、死亡、出生の記事に丹念に眼を通す習慣をもっていたおかげで、彼女は暇をとってから一週間目に、エドガー・レゲットとアリス・デインに結婚許可証がおりたことを知った、というのだった。
四 つかまえどころのないハーパー夫妻
翌朝九時に事務所に出てみると、エリック・コリンスンが応接間に坐って待っていた。彼の陽焼けした顔は少しの紅味もなく、黒ずんでいた。彼は髪に櫛《くし》をあてるのも忘れていた。
「レゲット嬢のこと、ご存じですか?」と、彼は椅子からとび上がって、戸口で私を迎えながら、たずねた。「彼女は昨夜家に帰らなかったのです。そしてまだもどってこないのです。父親は彼女の居どころを知らないとは言わないのですが、しかし知っていないことはたしかですよ。彼は僕に心配するなと言うのですが、どうしてこれが心配せずにいられますか? 何かこれについてご存じでしょうか?」
わたしは知らないと言ってから、昨夜彼女がミニー・ハーシーのところから出て行くのを見かけたが、あの混血女に聞いてみたらどうかとすすめた。コリンスンは帽子を頭にのせると、あたふたと出て行った。わたしはオッガーを電話に呼び出して、ニューヨークからまだ何の知らせもないかと聞いた。
「うーん、アプトン――ていうのがあいつの本名だが――あの男はかつて君と同じように私立探偵をやっていたそうだよ――自分の事務所をもって――二三年に仲間のハリー・ラッパートという男と二人で陪審員を抱きこもうとして刑務所送りになるまではね。――どうだい、これでなにか見当がつくかね?」
「わからないね。ところで、あのリノ・ティングリーは千百ドルの札束をもっているよ。ミニーは、彼がいかさま博奕《ばくち》で儲けたんだといっているが、あるいはそうかもしれない。レゲットの石ころを売ったにしちゃ、倍ちかい金額だからね。ひとつそいつを警察の手で洗ってもらえないだろうか? やつはその金をハッピー・デイ・ソーシャル・クラブで儲けたといってるんだが……」
オッガーは、そうすることを約して、電話を切った。わたしはニューヨークの支社へ、アプトンとラッパートに関してなるべくくわしい情報を知らせてくれるように電報で依頼し、それから市庁舎の中の郡主事事務所に行って、一九二三年の八月および九月の結婚許可証の綴《つづ》りをたんねんに調べた。私が求めていた申請書は八月二十六日の日付になっていて、エドガー・レゲットとアリス・デインの陳述がのっていた。それによると、レゲットは一八八三年三月六日にジョージア州アトランタに生まれ、こんどが二度目の結婚であり、またアリスは一八八八年十月二十二日にロンドンに生まれ、これが初婚であった。
社にもどると、黄色い髪をいっそうバサバサにしたエリック・コリンスンが、またも私を待っていた。
「ミニーに会ってきました」と、彼は興奮して言った。「しかし、彼女から何も聞くことができませんでした。彼女は、ゲービーが昨夜もどるようにたのみに来たと言いましたが、ミニーが知っているのはそれだけでした。でも、ミニーは――たしかにゲービーのものにちがいないエメラルドの指輪をはめていましたよ」
「その指輪のことを、きいてみましたか?」
「誰にです? ミニーにですか? いいや、そんなことがどうしてできます? そんなことをしたら――そうでしょう?」
「いや、ごもっともです」と、わたしはフィッツステファンの言った騎士ベイアールのことを頭に浮かべながら、同意を表した。「われわれは常に礼儀正しくしなければいけないんですからね。それにつけても、君はなぜ君とレゲット嬢があの晩についた時刻を僕に偽ったのですか?」
困惑のために彼の顔はいっそう魅惑的となり、非知性的となった。「あれは僕の無考えでした。でも、僕は――おわかりでしょう――僕は考えたのです――心配したのです――」
彼の言葉はしどろもどろで、とりとめがなかったので、わたしは言った。「時刻があんまり遅かったので、僕が彼女のことを変に思やしないかと心配したのでしょう?」
「そうです、その通りです」
私はコリンスンを送り出すと、助手室に行った。助手室では、赤ら顔の、いつもだぶだぶな服を着ている大男のミッキー・リニアンと、浅黒い顔をした、きゃしゃな、おしゃれのアル・メインスンとが、互いに相手よりも自分の方がおびえたふりをしながら、いままでに狙撃《そげき》された回数について嘘を言い合っていた。私はレゲット事件について自分の知っている限りのことを二人に話し、アルにはレゲット家の監視をたのみ、ミッキーにはミニーとリノの行動を見張るように命じた。
それから一時間ほどして、私がレゲット家のベルを鳴らすと、レゲット夫人がその明るい顔を曇らせながら、玄関のドアをあけた。私たちは例のグリーンとオレンジとチョコレート色の部屋にはいり、そこで彼女の夫が加わった。私は二人に、オッガーがニューヨークから受け取ったアプトンに関する報告をつたえ、なお私自身ラッパートに関してもっとくわしい情報を得るためにニューヨークに打電したことを告げた。
「ご近所の人たちの中に、アプトンでない男がここいらをうろついていたのを見たという人があるのですよ。しかも、その話とぴったり符合する男が、アプトンの殺された部屋から非常梯子をつたって逃げているのです。ラッパートがどんな様子の男か、いま調べているのですが、もうすぐわかるでしょう」
私はレゲットの顔をじっと注視した。が、その顔には何の変化も起こらなかった。彼の病的に輝いた赤茶色の眼は興味以外の何も示さなかった。
「ミス・レゲットはご在宅ですか?」と、私はたずねた。
「いいえ」と、彼は答えた。
「いつお帰りになるでしょう?」
「たぶん四、五日は帰りますまい。娘は市の外へ行ったものですから」
私はレゲット夫人の方に向きなおりながら、「どこへまいったら、お会いできるでしょう? すこしお嬢さんにお聞きしたいことがあるのですけれど」
レゲット夫人は私の注視をさけて、夫を見た。すると、彼の金属的な声が私の質問に答えた。「はっきりわからないのです。娘の友達のハーパー夫妻が、ロサンゼルスから自動車できて、山岳旅行に娘を誘ったのですよ。どのルートをとるつもりなのか、わたしは知らないし、果たして彼らがはっきりと目的地をきめているかどうかも疑わしいのです」
私はハーパー夫妻について質問したが、レゲットは彼らのことをほとんど知らないと言った。ハーパー夫人のファースト・ネームはカメールだが、夫の方はいつもみんなからバットと呼ばれているので、ほんとうの名がフランクであるのかウォルターであるのか、はっきり分らないと、レゲットは言った。彼はまたハーパー夫妻のロサンゼルスの住所も知らなかった。何でもパサデナのどこかに家を持っているらしいが、その後その家を売ったようにも聞いたし、あるいは単に売るつもりだと言う話を聞かされたのかもしれない、と彼は言った。こんなナンセンスなことを彼がしゃべっている間、レゲット夫人はじっと床を見つめて坐っていたが、それでも二度ほどその青い眼を上げて、すばやく、訴えるように、夫の方を見た。
私は彼女にきいた。「奥さんはハーパー夫妻について、それ以外にご存じありませんか?」
「いいえ――」と彼女は弱々しく言いながら、もう一度夫の顔をチラッとぬすみ見たが、レゲットはそれには少しも注意を払わずに、平然と私の方を見つめていた。
「いつ出かけられたのですか?」と、私はたずねた。
「今朝早くです」と、レゲットは答えた。「二人はホテルに――わたしの知らないホテルに――泊まっていたので、ガブリエルは朝早く出発できるように昨夜から彼のところへ行きました」
私はハーパー夫妻のことは馬鹿らしくなったので、こんどは別のことをたずねた。「お二人のうち、どちらでもけっこうですが、アプトンについて何かご存じありませんか? この事件の前に、彼と何か交渉をもったというようなことはありませんか?」
「いや」と、レゲットは言った。
私はそのほかにもいろいろ質問してみたが、私がひき出すことのできた答弁は何の意味もなかったので、帰るために立ち上がった。私はアプトンについて考えていることをレゲットに話したい誘惑にかられたが、それには何の利益もないことを悟って、やめた。彼も立ち上がって、愛想のいい微笑を浮かべながら言った。
「どうも結局、わたしの不注意からこんな面倒を保険会社にかけて、すまないと思っています。あなたのご意見をおききしたいのですが――あなたはわたしがダイヤモンド紛失の責任をとって、それを弁償すべきだとお考えになりますか?」
「率直に申せば、あなたはそうすべきだと思いますね。しかし、それは取調べをやめさせることにはなりますまい」
レゲット夫人は、急いでハンカチーフを口にあてた。
レゲットは、「ありがとう」と言ったが、その声は思いがけなくていねいだった。「わたしはそのことをよく考えてみるつもりです」
社へもどる途中、わたしは半時間ほどフィッツステファンのところに寄ってみた。彼の言葉によると、フィッツステファンはそのとき、「心理病理学評論」――ちがっているかもしれないが、とにかくそういった種類の雑誌だった――に、無意識とか潜在意識とかいった仮定は一種の陥穽乃至妄想《かんせいないしもうそう》(軽率な人々の陥り易いおとし穴)であり、山師のつけひげであって、たとえば精神分析学者だの行動主義心理学者だのといった好事家どもをいぶし出すことを、健全な学者に不可能ならしめるところの、心理学の屋根の上にあいた一つの隙間穴《ギャップ》である、ときめつけた論文を書いていた。彼は十分間以上もそんな気焔《きえん》を上げたのち、やっと「例のつかまえ所のないダイヤモンド事件は、その後どんな風に進行しているかね?」と言って、ようやく現実のアメリカ合衆国へもどってきた。
「何とか、かんとかね」と、私は言って、いままでわかったことや、やったことを彼に話した。
「たしかに君は、」と、彼は私の話が終るのを待って、祝辞を述べた。「できるだけすべてをこんがらかせ、混乱させてしまったらしいね」
「よくなる前には悪くなるものさ」と私は言った。「僕はひとりでレゲット夫人と十分間会ってみたいよ。彼女の夫がいないところでなら、彼女の口からいろんな事がほぐれてくると思うんだが。どうだろう、君の手でひとつ彼女から何かさぐり出せないか? 居どころはわからないにしても、なぜガブリエルが出かけたのか知りたいんだが」
「やってみよう」と、フィッツステファンはよろこんで応じた。「明日の午後出かけることにしよう――本を借りにね。ウェイトの〈薔薇色の十字架〉がいいだろう。彼らは僕がそういったものに興味があるのを知っているからね。レゲットは研究室で働いているだろうから、僕は彼をじゃますることを拒否するということにしよう。なるべく無造作にそれをやる必要があるが、ことによったら彼女から何かさぐり出せるかもしれないよ」
「ありがたい。では、明日の晩会おう」
私は午後の大部分を、自分の発見や推論を紙に書きとめて、適当に整理するのに過ごした。エリック・コリンスンは二度も電話でガブリエルに関して何かニュースが得られたかときいてきた。ミッキーもアルも、その日は何の報告もよこさなかった。六時に、私は仕事をしまって、帰った。
五 ガブリエル
次の日はいろいろな出来事があった。朝早くニューヨークの事務所から電報が到着した。暗号を解読すると、次のような文面だった。
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「ルイス・アプトン、もと秘密探偵社社長。一九二三年九月セクストン殺人事件公判の際、陪審員二名を買収したかどで逮捕され、雇探偵ハリー・ラッパートを巻きぞえにすることによって己れ自身は助かろうと試みたが、両人とも有罪を宣告される。今年二月六日シング・シング刑務所を出所、ラッパートはアプトンを殺すと脅迫した由。ラッパートは三十二才、五フィート一一インチ、一五〇ポンド、褐色の髪と眼、黄ばんだ肌色、やせた顔、長い細い鼻、前こごみにあごをつき出して歩く癖あり。写真送った」
[#ここで字下げ終わり]
それは、ラッパートが明らかにプリーストリー夫人やデイリーの見た男、そしておそらくはアプトンを殺した男であることを物語っていた。
オッガーが私を電話に呼び出して、言った。「君の黒ん坊、リノ・ティングリーは、昨夜質屋で宝石を処分しようとしたんで、ひっ捕《つか》まえたよ。だが、例の失くなったダイヤはその中に一つも入っていないんだ。いま取り調べているところだが、はっきりしたことはまだ分からない。ひょっとするとレゲット家のものかもしれんと思って、宝石をもたせてレゲット家へ一人やったんだが、彼らは自分のものじゃないと言うんだよ」
ほかにどこにも心当りがないというので、私はすすめた。「ホルステッド=ボーシャンできいてみたまえ。きくときには、自分はこれをレゲットのものだと思うと言うんだよ。レゲットが自分のものじゃないといったことなんか、黙っていた方がいいぜ」
半時間ほどたつと、オッガーが宝石商の店からふたたび電話をかけてきて、ホルステッドはそのうちの二点――真珠のじゅずと黄玉《トパーズ》のブローチはレゲットが娘のために彼の店で買った品物だと鑑定した、と言った。
「それはすてきだ!」と、私は言った。「じゃ、こんどはこうやってくれないか? リノのフラットへ行って、あいつの色女のミニー・ハーシーをひとしめ締めてくれないか。家宅捜索をやって、少しおどかすんだね。おびえればおびえるほどいいよ。あの女はエメラルドの指輪をはめているかもしれないが、もしはめていたら――いや、エメラルドじゃなくとも、レゲット家のものらしい宝石類をつけていたら、取りあげて持ってきたっていいだろう。しかし、あんまり長居はしない方がいいよ。彼女をすこし興奮させておいて、さっと引き上げるんだね」
「よし、あの女を青くさせてやろう」と、オッガーは約束した。
探偵室をのぞくと、ディック・フォリーが、彼を一晩中引きとめた倉庫窃盗事件の報告書を書いていた。私は彼に、急いで混血女を見張っているミッキーに手をかすように命じた。
「警官が引き上げてから、彼女が家を出たら、二人で尾行してくれ。そして彼女がどこへ入るかを見とどけて、一人がすぐ僕に電話してくれ」
私は自分の事務室へもどって、煙草をふかした。三本目を吸っていると、エリック・コリンスンが、ガブリエルはまだ見つからないかと電話をかけてきた。
「まだ全然。しかし、見込みはついたから、もし暇だったら、出かけてきて、僕と一緒に行きませんか――もう少しすると、行くべき場所がわかると思うから」
彼はすぐ行くと、熱心に答えた。数分後にミッキーから電話がかかってきた。「のっぽの混血女《イエロー》は訪問にでかけましたよ」そしてパシフィック通りのその家を知らせた。受話器を放すか放さぬうちに、また電話のベルが鳴った。
「こちらはワット・ホルステッドです。一、二分で結構ですから、わたしに会いに出てきていただけませんか?」
「いまはだめです。ご用は?」
「エドガー・レゲットに関してです。どうも変なのですよ。警官が今朝わたしのところへ宝石類をもってきて、誰のだか知らないかといったのです。で、わたしは、真珠のじゅずとブローチは去年――ブローチの方は春でしたが、真珠の方はクリスマスに――レゲット氏が娘のためにわたしの店から買ったものだということを認めました。警官が帰ったあと、当然のことですが、レゲット氏に電話したところ、彼のそのときとった態度が何ともおかしいのです。レゲット氏はわたしが話し終えるまで黙って聞いていましたが、それからこう言うじゃありませんか、〈あなたがわたしの問題に干渉してくれたことを心からお礼言いますよ〉とね。そしてプッツリ電話を切ってしまいました。いったいどうしたっていうんでしょうね?」
「さあ、わからんね。でも、ありがとう。いまは立てこんでいてだめだけれど、暇ができ次第、そっちへ寄りましょう」
私はオーウェン・フィッツステファンのアパートの番号をしらべて、呼び出した。「ヘロー!」という彼の気取った声がきこえた。
「もしそのために何か利益があるなら、早いとこ本を借りに行った方がいいよ」と、私は言った。
「なぜだい? 事件が進展したのかい?」
「ああ」
「どんな風に?」
「あれやこれやとね。しかし、レゲットのミステリーに鼻をつっこもうというなら、無意識に関する論文なぞいじくりまわしている暇はないぜ」
「わかった」と、彼は言った。「いま出かけようとしていたところだよ」
小説家と話している間に、エリック・コリンスンが入ってきた。
「さあ、行きましょう」と、私はさきに立ってエレヴェーターの方へ進みながら言った。「こんどは本物かもしれない」
「僕たちはいったいどこへ行くのですか?」と、コリンスンは我慢しきれなくなってたずねた。「彼女は見つかったのですか? 無事ですか?」
私はミッキーが先刻知らせてよこしたパシフィック通りの番地を彼に告げることによって、彼の質問に対して私が答え得るただ一つの回答をあたえた。その番地はコリンスンにも何かを意味するらしかった。彼は「それはジョゼフのところだ」と言った。エレヴェーターには、われわれのほかに六人の人々が乗っていたので、私は「そう?」と答えるに止めておいた。
コリンスンは、角をまがったところにクライスラーのロードスターを駐《と》めていた。私たちはそれに乗って、行き交う車と交通信号とに逆らいながら、パシフィック通りに向かった。
「ジョゼフというのは何者なのです?」と、私はたずねた。
「新しい宗教団体の教祖ですよ。彼は自分の家を〈聖杯寺院〉と呼んでいますが、最近なかなかはやっているようです。彼のような連中がカリフォルニアでどんなことをしているか、あなたもご存じでしょうが、もしガブリエルがあそこに行っているのだとしたら、僕はどうも、あんなところに行ってもらいたくないですね――もちろん、僕はよく知りませんし――彼らは悪い人間ではないかもしれませんが、ジョゼフはレゲット氏の風変わりな友人の一人なのですよ。彼女は本当にあそこにいるのですか?」
「たぶんね。彼女はその教団のメンバーなのですか?」
「ええ、行くのですよ。僕も彼女と一緒に行ったことがあります」
「どんな種類のものなのです?」
「別に悪くないようですね」と、彼は何となく気のすすまないような調子で言った。「メンバーは、ペイスン・ローレンス夫人とか、ラルフ・コールマン夫妻とか、リヴィングストーン・ロドマン夫人とかいった、まともな人々ですよ。またホルドーン夫妻――ジョゼフとその細君のアーロニア――も決して悪い人ではないようです。でも――僕はああいうところへ行くというガブリエルの考えが、どうもいやなのです。彼らからあんまり影響をうけることは、彼女にとって決していいことではないと思うのですよ」
「君は行ったことがあるというが、彼らの手品の種は何ですね?」
「あれは手品ではありませんね」と、彼は額にしわをよせながら答えた。「僕は彼らの教義とか教条とかいったものはよく知りませんが、ガブリエルと一緒にその礼拝式に参列したことがあるので知っているのですけれど、それは監督教会《エピスコパリアン》やカトリックの礼拝と同じように、荘厳で美しくさえあるのですよ。〈ホリー・ローラー〉とか〈デヴィッドの家〉とかいった種類のものとお考えになってはいけません。全然ちがいますよ。とにかく、第一級のものです。ホルドーン夫妻も――そうですね――僕なんかよりはずっと教養のある人たちですよ」
「では、彼らにどんな変わったところがあるのです?」
彼は陰鬱《いんうつ》そうに頭を振った。「正直いって、僕には何もわかりません。でも、何となく好かないのです。ですから、ガブリエルが誰にも知らせずにそんなところに行ったと思うと、いやな気がするのです。彼女の両親は彼女がどこへ行ったか知っていたと思いますか?」
「思わないですね」
「僕もそう思いませんよ」
街路から見ると「聖杯寺院」はもとそうであったように、六階建の黄色い煉瓦造りのアパートメントのように見えた。私はコリンスンにその建物の前を通り越してミッキーがその巨体を石塀によりかからせている街角まで車を走らせてもらった。車がとまると、ミッキーがそばによってきた。「あの混血女は、ディックをうしろに従えて、十分ばかり前に帰って行きましたよ。あんたが注意した人物に似た人間は、それ以外に一人も出てきませんよ」
「この車の中で入口を見張っていてくれ」と彼に命じてから私は、「さあ行こう」とコリンスンをうながした。「おもに僕にしゃべらせてくれたまえよ」
聖林寺院の入口にきたとき、私は言った。「そんなに苦しそうな息づかいをするのはよしたまえ。万事うまく行くだろうから」
そして、ベルを押した。ドアはすぐ、肩幅の広い、五十近い肥った女によってあけられた。彼女は五フィート六インチある私よりもさらに三インチほど高く、顔にはぜい肉がだぶだぶしていたが、眼や口もとには柔らかさが欠けていた。彼女の長い上唇の上には剃刀《かみそり》をあてたあとがあった。黒い服をまとい、それがあごから床上一インチぐらいまでの間を蔽《おお》っていた。
「ミス・レゲットにお会いしたいのですが」と、私は言った。
彼女は私の言うことがわからないようなふりをした。
私はくりかえし言った。「わたしたちはミス・レゲットにお会いしたいのです。ミス・ガブリエル・レゲットに」
「わたしは存じませんけれど」彼女の声は太かった。「でも、おはいりください」
彼女は廊下の片側の、薄暗い狭い応接室にわれわれを案内すると、お待ちくださいと言って、どこかへ行ってしまった。
「誰だい、あの村の女|鍛冶屋《かじや》は?」とコリンスンにきいてみたが、彼は知らないと言った。彼はそわそわと落ちつきなく室内を歩きまわっていた。私は腰をおろした、日除けがおりていて、ほんの少しばかりの光線しか通さないので、私には部屋の様子がよくわからなかったが、敷物は柔らかくて厚く、調度は(私の眼にうつったかぎりでは)おごそかというよりも、むしろぜいたくな感じがした。そわそわしたコリンスンの身動きのほか、この建物の中には何の物音もきこえなかった。私は開いたままになっている戸口を見て、自分たちが観察されているのを知った。そこには、いつのまにか十二、三才の一人の少年が立っていて、薄暗がりの中でもそれ自身光をもっているように見える大きな黒眼で、じっと私たちを見つめていた。
私は「おい、君!」と言った。コリンスンは私の声にとび上がった。その少年は何も言わなかった。彼は少なくとも次の一分間は、ただ子供だけが完全に行い得る、空虚な、まばたきをしない凝視を私に向けていたが、とつぜん背を向けると、来たときと同じように音も立てずに歩み去った。
「あれは誰だね?」と、私はコリンスンにたずねた。
「あれはホルドーンの息子のマニュエルにちがいありません。僕はまだ会ったことがないけれども――」
コリンスンは相変わらず行ったり来りしながら、そう答えた。私は坐ったままドアの方を見まもっていた。すると、厚い絨毯の上を静かに歩いて一人の女が、応接室に入ってきた。背の高い、上品な婦人で、その黒い眼は先刻の少年と同じように、それ自身光をもっているようにかがやいていた。それがそのとき私の見ることのできた全部だった。私は立ち上った。すると、彼女はコリンスンに挨拶した。
「ご機嫌いかがですか? コリンスンさんでいらっしゃいますでしょう?」彼女の声はいままで聞いたことがないような音楽的なひびきをもっていた。
コリンスンは何か一こと二こと口の中で言ってから、彼女をホルドーン夫人と呼んで、彼女に私を紹介した。彼女は私に温かい強い握手をすると、部屋をつっ切って窓の日除けをあげ、矩形《くけい》に切られた午後の光線を室内に入れた。とつぜんの明るさに眼をパチパチさせて彼女を見ている間に、彼女は静かに腰をおろして、私たちにも椅子をすすめた。私はまっさきに彼女の眼を見た。それは大きな、黒い、温かい眼で、ほとんど真っ黒ともいっていいまつ毛で重々しく縁《ふち》どられていた。彼女の顔の中で、この眼だけが生き生きとした、人間的な現実味をもっていた。彼女の卵形をしたオリーヴ色の顔には、温かさと美しさがあふれていたが、それは現実とは何の関係もないように見える温かさと美しさだった。それはあたかも顔ではなく、ほとんど顔になるまで着《つ》けていた面のような感じだった。話すための口である彼女の口さえ、肉というよりもむしろ肉の完全な模造品といった感じで、本物の肉よりもいっそう赤く、おそらくいっそう温かそうに見えた。この顔、というよりもむしろ面に近い頭部には、長い黒い髪が真ん中から分けられてきちんと結ばれ、そのさきはこめかみと耳の上部を越えてうなじにまで達していた。その首は長くて細くて、しっかりとしており、背は高く、肉づきがよくて、しなやかだった。服は黒い絹のドレスで、完全にからだの一部をなしていた。私は言った。
「ホルドーン夫人、われわれはミス・レゲットにお会いしたいのですが」
彼女はふしぎそうにたずね返した。「どうしてあの方がここにいるとお思いになったのですか?」
私は、コリンスンが何かへまなことを言い出さぬうちに急いで答えた。「それはどうでもいいことではないでしょうか?――とにかく、ミス・レゲットはここにいるはずです。わたしたちは至急彼女に会いたいのですが」
「それはできないと思いますね」と、彼女はゆっくり答えた。「あの方はからだの具合がよろしくないので、しばらく人々から離れるために、ここへ来られたのですから」
「お気の毒ですが」と、私は言った。「でも、どうしても会わねばならない用件なのです。重大な用件でなかったら、わたしたちもこんな風にしてうかがいはしなかったでしょう」
「重大だとおっしゃるのですね?」
「そうです」
彼女はためらっていたが、「よろしゅうございます。では、そう申してみましょう」と言って、私たちを残して部屋を出ていった。
「ここなら、僕も来てもいいな」と、私はコリンスンに言った。
彼は私が何を言っているのかわからないらしかった。顔を紅潮させ、興奮しながら、「ガブリエルは僕らがこんな風にしてここへ来たのを喜ばないかもしれませんよ」と言った。私は、それは困ったね、と言った。
アーロニア・ホルドーンがもどってきた。
「本当にお気の毒に存じますけれど」と、彼女は戸口に立って愛想のいい微笑をうかべながら、言った。「ミス・レゲットはあなたがたにお会いしたくないそうです」
「それは残念ですが」と私は言った。「でも、われわれはどうしても会わなければならないのです」
彼女はぴんと姿勢を正すと、その顔から微笑が消えた。「どうぞあしからず」と、彼女は言った。
「われわれはどうしても彼女に会わなければならないのですよ」と、わたしは声をおだやかに保ちながら、くりかえした。
「いま申し上げたように、重大な問題が起きているものですから」
「お気の毒に存じます」と、彼女は冷ややかに言ったが、その冷たささえ彼女の声の美しさを消すことはできなかった。「でも、あなた方はお会いになれますまい」
私は言った。「ミス・レゲットはある窃盗《せっとう》事件の――たぶんあなたもご存じだろうと思いますが――重要な証人なのですよ。そのことで、われわれはぜひ彼女に会わなければならないのですが、もしその方がよろしいなら、あなたが必要とお考えになる権限をもった警察官をここへ呼びますから、それまで半時間ほど待たせていただきましょう。われわれはどうしても彼女に会わなければならないのです」
コリンスンは何か言い訳がましい、つまらぬことを言った。アーロニア・ホルドーンは眉ひとつ動かさなかった。
「どうぞ、ご随意になさいませ」と、彼女は冷静に言った。「わたしはミス・レゲットの望みにさからって、あなた方が彼女の気分を乱すことには賛成いたしかねます。わたしとしては、それに許可を与えることはできません。でも、あなた方が強《し》いてとおっしゃるなら、それを妨害することはできません」
「ありがとう。彼女はどこにいるのですか!」
「五階の階段口のそばの左側の部屋です」そう言うと、彼女はちょっと頭をさげてから、出て行った。
コリンスンは片手を私の腕にかけながら、つぶやくように言った。「僕は――僕らは、こんなことまですべきかどうか、わからないですね。ゲービーはきっと喜ばないでしょう。彼女は――」
「いやなら、よしたまえ」と、私はうなった。「でも、僕はのぼっていくよ。彼女はそれを好まないかもしれんが、僕だって盗まれたダイヤについてきこうと思っていたときに、その人間に逃げられたり隠れられたりしたくないからね」
彼は眉をひそめ、唇をかんで、不愉快そうな顔をしたが、でも私のあとからついてきた。二人はエレヴェーターで五階にのぼり、紫色の絨緞を敷きつめた廊下に出て、階段口を越したすぐの左側のドアの前に行った。私は手の甲《こう》でコツコツとドアをたたいた。が、中からは何の応答もなかった。私はさらに強くたたいた。部屋の中でかすかな声がした。女の声らしくなかったけれど、たしかにそれは人間の声だった。あんまりかすかなので何を言っているのかもわからなかったし、誰がそれを言っているのかもわからなかった。私はひじでコリンスンを突いて「彼女を呼んでみたまえ」と命じた。
コリンスンは人差指でカラーをひっぱりながら、しゃがれ声で、「ゲービー、僕エリックだよ」と呼んだ。が、それにも答えはなかった。
私はドアをふたたびたたいて叫んだ。「戸をあけてください!」
中の声が私にはわからぬことを何か言った。私はもう一度たたいて、叫んだ。廊下の下手のドアが一つ開いて、血色の悪い、毛のうすい老人の顔がのぞき、「どうしたんだ?」とたずねた。私は「あんたの知ったこっちゃないですよ」と答えて、またドアをたたいた。
中の声は、まだ何を言っているのかわからなかったが、それでも何かぶつぶつ言っているということだけはわかった。ノブを動かすと、ドアには錠《じょう》がおりていなかった。私はノブをまわして、ドアをそっと一インチばかりあけた。すると、声はさらに明瞭になった。私は床をふむ柔らかい足音と、息づまるようなすすり泣きの声を聞いた。私はドアを押しあけた。エリック・コリンスンは、はるか遠くの方で怖ろしそうに叫んでいる人のような喉音を発した。
見ると、ガブリエル・レゲットが、片手でベッドの白い桟《さん》をつかみ、少しふらつきながらベッドのかたわらに立っていた。眼は茶色のにぶい光を放ち、どこにも焦点があっていなかったし、その小さな額には皺《しわ》がよっていた。彼女は自分の前に誰かが立っていることだけはわかるらしかったが、それが何者なのか、いぶかっている様子だった。片方の足だけに黄色の靴下をはき、はいたままで寝ていたらしい茶のビロードのスカートをつけ、黄色のシュミーズを着ていた。部屋の中には、一対の茶色のスリッパ、片方の靴下、茶と金色のブラウス、茶色の上衣、茶と黒の帽子がちらかっていた。が、それらのものを除けば、部屋の中は白一色だった。白い壁紙、白い天井、部屋の中は白いエナメルで塗《ぬ》った椅子、ベッド、テーブル、備品――電話器までも白色で――柱やドアのような木造部も白のエナメルで塗られていたし、床には真っ白なフェルトが敷きつめられていた。家具ももちろん白一色で、その中には一つも病院用のものはなかったけれど、まるで病院のような外観を呈していた。外側に二つの窓があり、私のあけたドアのほかにも二つの扉があって、左側のは浴室に通じ、右側のは小さな化粧室に通じていた。
私はコリンスンを室内に押し入れて、そのあとから中に入り、ドアをしめた。ドアには鍵穴もなければ、錠前装置もついていなかった。コリンスンはぽかんとしてガブリエルに見とれて立っていたが、あごはたるみ、眼は彼女のそれと同様にうつろな感じをあらわし、顔には恐怖の影が見られた。ガブリエルはベッドの脚によりかかり、青ざめた顔に暗い空虚な眼を光らせていたが、その眼は何も見ていなかった。わたしは彼女のからだに腕をまわし、コリンスンに「早く彼女の衣類をあつめたまえ」と言いながら、彼女をベッドの端に坐らせた。私は彼がその夢幻状態を脱するまで二度も同じことを彼に命じなければならなかった。
コリンスンはやっと彼女の衣類を集めてもってきたので、私はそれを彼女に着せはじめた。すると、彼はいきなり私の肩をぎゅっとつかみ、まるで私が喜捨箱《きしゃばこ》から金を盗みとりでもしたような声で抗議した。「いけません! あなたがそんなことを――」
私は彼の手を払いのけながら言った。「何て馬鹿なことを言ってるんだ? やりたければ、君がやったっていいんだよ」
彼は汗を流しながら、つばをのみこんで、どもった。「いえ、いえ! 僕にはとても――そんなこと――」彼はそういいながら、そこをはなれて、窓の方へ行った。
「彼女は僕に、君のことをお馬鹿さんだといったよ」私は彼の背に向かってそう言ったが、気がついてみると自分も彼女をうしろ向けにしてブラウスを着せていた。彼女は蝋《ろう》人形も同然だったが、それでも私に協力しようとしたようだった。少なくとも、私がこずき廻している間、彼女はおとなしくて、私のなすままにまかせていた。
私がどうにか彼女に上衣を着せ、帽子をかぶせおわると、コリンスンは窓際からもどってきて、彼女はいったいどうしたのだろうかとか、医者を呼んでこなくともいいだろうかとか、彼女を外へ連れ出しても大丈夫だろうかとか、矢つぎばやに質問を浴びせた。そして私が立ち上がると、彼は私から彼女を受けとって、長い太い腕で彼女を支えながら、
「僕エリックだよ。ゲービー、僕がわからないのかい? 話してくれたまえ、いったいどうしたんだね?」などとしゃべりはじめた。
「なあに、麻酔薬をやりすぎただけのことさ」と、私は言った。「無理させない方がいいだろう。家へ連れて行くまで待ちたまえ。君はこっちの腕、僕はそっちの腕を持とう。なあに、うまく歩けるよ。途中で誰かに出合っても、止まっちゃいかんぜ。僕が相手になるから。さあ、出かけよう」
私たちは幸い誰にもぶつからなかった。エレヴェーターで階下におり、大廊下をつっ切って、誰にも出合わずに街路に出ることができた。そして、クライスラーの中にミッキーを置きっぱなしにしておいた街角まで歩いて行った。
「ご苦労、君はこれで用ずみだよ」と、私はミッキーに言った。
彼は、「オーライト、さようなら!」と言って、行ってしまった。
コリンスンと私は、彼女を二人の間に坐らせると、彼の手で車をスタートさせた。三ブロック過ぎたとき、彼は私に言った。「あなたは彼女にとって家庭が最上の場所だとお思いですか?」
私はそう思うと答えた。彼はそれからさらに五ブロック過ぎる間、ひとことも口をきかなかったが、急にまたさっきの質問をくりかえした上、病院のことを何か言った。
「なぜ新聞社へ連れて行こうと言わないのだね?」と、私は皮肉った。
さらに三ブロックの間沈黙がつづいたあとで、彼はまたはじめた。「僕は一人医者を知っているのですが、その医者なら――」
「僕にはしなければならぬ仕事があるんだぜ」と、私は言った。「ミス・レゲットは家に着けば、今のままの状態でも、僕が仕事を進める上に充分手をかしてくれることになると思うんだ。だから、どうしても家に連れて行かなければならないよ」
彼は怒って私のことを睨《にら》みつけながら非難した。「それじゃ、あなたは彼女に恥をかかせ、面目を失わせ、彼女の生命を危険に陥《おとしい》れても、かまわないというんですね。なぜなら――」
「彼女の生命は、君や僕の生命と同様、少しも危険なことなんかないよ。彼女はただ少しばかり麻酔薬の度を過ごしたために、ふらふらしているだけなんだ。それも彼女が自分でやったことで、僕が与えたんじゃないよ」
私たちの論議の的《まと》になっているその娘は、そのとき二人の間にはさまれてちゃんと息をしていたばかりでなく、眼をあけて坐ってさえいたが、たとえフィンランドへ連れて行かれてもわからないように、いま眼の前で何が起こっているのか、全然わからないらしかった。
車は次の街角で右へまがるはずであった。が、コリンスンは顔を硬ばらせて前方をじっと見つめたまま、車を真っすぐに走らせ、速力を四十五マイルに上げた。
「次の角をまがりたまえ」と、私は命じた。
が、彼は「ノー」と言ってまがらなかった。速度計は五十マイルを指し、歩道を歩いている人々がびゅうんと風を切って車が走りすぎるのを、振りかえってながめはじめた。
「じゃ、どうするんだ?」私はガブリエルの脇から腕を抜きながらきいた。
「半島へ行くのです」と、彼ははっきりと答えた。「いまの状態で彼女を家へ連れて行くわけには行きません」
「よし!」と、私はうなって、自由な方の手をさっとブレーキのところへのばした。それを払いのけた彼は、片方の手でハンドルをにぎると、ふたたび私がブレーキへかかるのを防ぐためにもう一方の手をのばした。
「そんなことをしないでください」彼はさらにスピードを六マイル近くもあげながら、私に注意した。「そんなことをすれば、どんな事件が起こるかご存じでしょう」
私は腹の底からはげしく彼を罵《ののし》った。すると、彼は当然の怒りから顔一面に激しい怒気《どき》をみなぎらせて、私の方へぐいと顔をねじ向けた。たぶん、私の言葉が婦人と同席の場合に使用すべからざるものであったからかもしれない。
それはしかし、次のような事件を引き起こすことになった。ちょうどそのとき、一台の青色のセダンが、われわれがそこへ達するほんの一瞬間前に十字路の角に現われた。コリンスンの眼と注意は、すぐ車の運転にもどったので、あやうくロードスターをセダンからカーブさせるのに間にあったが、それをきれいにやりおおすだけの余裕はなかった。われわれの車はわずか二インチの間隔でセダンをやりすごしたが、後部がすれちがう際、後輪がスライドして横にそれた。コリンスンは、車の自由にまかせて車輪を空転させながら、巧みにその場を切り抜けようとしたが、角の辺石《ふちいし》がそれを邪魔した。車はその横側を斜めにその辺石にぶっつけ、そのうしろに立っている街燈柱を打ち倒した。街燈柱は根元からポキンと折れ飛んで歩道にころがり、横倒しになったロードスターは街燈柱のまわりにわれわれを放り出した。顔の半面にかなりひどい擦《す》り傷をうけたコリンスンは、ロードスターのエンジンを止めるために急いで車にはいもどった。その間に、私は自分の胸によりかかっているガブリエルを助けて、その場に起き直った。私の右腕と肩は、放り出された拍子にひどく打ちつけたとみえて、感覚を失っていた。ガブリエルはかすかにすすり泣いていたが、みたところ片方の頬に浅いかすり傷をうけているだけで、ほかには何も傷らしいものはうけていなかった。これはとっさに私が彼女のために緩衝器《かんしょうき》の役をつとめてやったからだった。私が胸部と腹部と背にうけた痛みと、腕のきかなくなっていることは、私がどんなに彼女を救うために力をつくしたかを物語っていた。
人々は私たちに力をかして、立ち上がらせてくれた。コリンスンは彼女に、死んでいないとひとこと言ってくれと懇願しながら、彼女のからだに腕をまわして立っていた。この衝突はガブリエルに衝撃を与えて、半ば意識を回復させたようだったが、それでもまだ、どんな事故が起こったのが理解することはできないらしかった。私はコリンスンに近づき、彼が彼女を支えるのに手をかしてやりながら、集まってきた群衆に言った。「僕らはこの娘を家に送りとどけてやらなければならないのですが――どなたかお願いできないでしょうか?」
ずんぐりした一人の男が、自分が送って行ってやろうと申し出てくれた。コリンスンと私はガブリエルと一緒に彼の車のうしろに乗りこみ、その男に彼女の住所を告げた。彼は病院のことを言ったが、私は家庭が彼女には最適の場所だと主張した。コリンスンは気が転倒していたので、ものを言うどころではなかった。二十分の後、われわれは彼女の家の玄関口に車をつけて、無事に彼女をおろすことができた。私は車の持主に何度も何度もくりかえし礼を言って、われわれのあとについて家の中へ入ってくる機会を与えないようにした。
六 悪魔島から脱出した男
しばらく手間どってから――私は二度もベルを鳴らさなければならなかった――レゲット家の玄関のドアはオーウェン・フィッツステファンの手であけられた。彼の眼には一点の眠気もなかった。それは、いつも彼が人生に興味を発見したときに示す熱と輝きをもっていた。彼に興味を感じさせるものがどんな種類のものかを知っていた私は、いったい何が起こったのだろうといぶかしく思った。
「どうしたんだ、君たちは?」と、彼は私たちの汚れた服や、コリンスンの血のついた顔や、ガブリエルのすりむいた頬を見くらべながらたずねた。
「自動車事故だよ」と私は言った。「たいしたことはないよ。みんなはどこにいる?」
「みんなは」と、彼はこの言葉に特別力をいれて言った。「みんなは上の研究室にいる」そして私に「ちょっと――」と言った。私はコリンスンとガブリエルを入口のドアのすぐ内側に立たせておいて、彼について階段の下まで行った。フィッツステファンは私の耳に口をよせて、ささやいた。「レゲットが自殺したんだ」
私は驚くよりも呆然とした気持ちで、たずねた。「どこにいるんだ、彼は?」
「研究室だ。レゲット夫人と警官が一緒にいる。つい三十分ほど前に起きた事件だよ」
「みんなで上へ行こう」
「でも、ガブリエルをつれて行く必要はないのじゃないか?」
「彼女にはつらいことかもしれないが、」と、私はいらいらしながら言った。「しかし、必要は充分にあるよ。彼女はいま麻酔薬でボーッとしているから、薬がきれた後よりもショックにたえられるだろう」私はコリンスンを振りかえった。「来たまえ。みんなで研究室へ行こう」
娘をつれたコリンスンにはフィッツステファンに手をかしてもらって、私はみんなの先頭に立って階段をのぼった。研究室には六人の人間がいた。戸口にいちばん近く立っているのは、赤い口ひげをはやした大男の制服の巡査。部屋の隅の木の椅子に坐って、からだを前方にかがませながら、ハンカチーフを顔にあてて静かにすすり泣いているレゲット夫人。窓際に立って、大きな手ににぎった一束の紙片の上に頭をこすりつけるようにしているオッガーとレッディー。トタン張りのテーブルのそばに立って、片手で黒リボンのついた鼻眼鏡をいじくり廻している、灰色の顔をした、黒服の伊達男《だておとこ》。それから、頭と上体をテーブルの上に投げ出し、両手をだらしなくのばしたまま椅子に坐っているエドガー・レゲット。
私が入っていくと、オッガーとレッディーは読むのをやめて眼をあげた。窓際の彼らのそばに行こうとしてテーブルの横を通ったとき、私は血と、レゲットの片手とすれすれにころがっている小型の黒い自動拳銃と、頭のそばにまとめておいてある七つのダイヤモンドとをみとめた。オッガーは「見てみたまえ」と言って、手に握っている紙片の一部を私に手渡した――それは黒インキを使って小さな正確な書体でぎっしりと書かれている四枚の丈夫な白い紙だった。何が書いてあるのだろうと興味を起こしたとき、フィッツステファンとコリンスンがガブリエルをつれて入ってきた。
コリンスンはテーブルの前の死体を見ると、真っ青になった。彼はその大きなからだを父親と娘の間に入れた。
「はいりたまえ」と、私は言った。
「ここはミス・レゲットの来るべき場所ではありません」と、彼は怒気を含んで言って、彼女を連れ去るために背を向けた。
「この場所はみんなにいてもらうべきだろう」と、私はオッガーに言った。彼は警官に向かってその弾丸頭をうなずかせた。警官はコリンスンの肩に手をおいて、言った。「お二人ともおはいりになってください」
フィッツステファンは、ガブリエルのために窓際に椅子を用意した。彼女は腰をおろすと、静かに室内を――死者と、レゲット夫人と、それからわれわれ一同を――見まわした。その眼は冴えてはいなかったが、もう完全に空虚ではなかった。コリンスンは私を見つめながら彼女のそばに立っていた。レゲット夫人はハンカチーフを顔にあてたままだった。
私はオッガーに、みんなに聞こえるような大きな声で、「この手紙を大声で呼んでみようじゃないか」と言った。
オッガーは眼の玉をぐるぐるさせて、ためらっていたが、読みかけていた残りの紙片を私に突き出して、言った。「いいだろう。読みたまえ」
私は声をあげてそれを読んだ。
「警察官へ――
私の本名はモーリス・ピエール・ド・マイエーヌといいます。一八八三年三月六日に、フランスの下セーヌ県、フェカンに生れました。一九〇三年、絵画研究のためにパリに行き、そこで四年後に、某《ぼう》イギリス海軍士官の遺児である二人の姉妹アリス・デインおよびリリー・デインと知り合いになりました。翌年私はリリーと結婚し、一九〇九年娘のガブリエルが生れました。
結婚してまもなく、私は自分がおそろしいまちがいを犯したことを発見しました。それは、本当に愛していたのは妻のリリーではなくて、アリスだったということです。わたしはこの発見を、子供がその最も困難な赤児時代を経過するまで、自分の心の中にしまっておきました。そして子供が五才近くになったとき、初めてそのことを妻に打ち明け、私がアリスと結婚できるように離婚を承知してくれ、と頼みました。しかし、彼女はそれを拒絶しました。
一九一三年六月六日、私はリリーを殺し、アリスとガブリエルをつれてロンドンに逃れましたが、すぐそこで逮捕され、パリに送還されて起訴され、悪魔島(南米仏領ギアナにある囚人島)での終身刑を宣告されました。この殺人事件には初めから無関係なばかりか、犯行後もそれを知らずに、ただガブリエルに対する愛情だけで私と共にロンドンまできたアリスも、やはり取調べられましたが、当然彼女は釈放されました。これらのことはすべて、パリにおける記録に残っているはずです。
一九一八年、私はジャック・ラボーという囚人仲間の一人と小さな筏《いかだ》にのって島を脱走しました。われわれがどのくらい長い間大洋を漂流していたか、また最後のころには幾日食物も水もなしに過ごしたことがあったか、私はおぼえていません――当時われわれ二人もそれは分かりませんでした。それから間もなくラボーは立てなくなり、ついに死んでしまいました。彼の死は飢えと長い間日光や風にからだを曝《さら》していたためでした。私が殺したのでありません。私がいかに望んだとしても、当時の弱りはてた私に殺されるほどの、ひ弱い生物はこの世になかったでしょう。しかしラボーが死んでからは、私一人だけなら食物も足りたので、どうにか生きのびて、ガルフォ・トリステの岸に漂着しました。私はウォルター・マーティンと名のって、アロアのイギリス人経営の銅山会社に口を見つけ、数ヵ月後には在留支配人のフィリップ・ハワードの秘書になりました。この昇進後まもなく、ジョン・エッジというロンドン生まれの男が私に接近してきましたが、彼は私に、月々百ポンドあまりの金を会社から上手に詐取《さしゅ》できる計画を打ち明け、私に協力を求めました。私が拒絶すると、その男は私の正体を知っていると居直り、もし自分に助力しないならそのことを暴露するぞと強迫しました。ベネズエラはフランスとの間に逃亡犯人引渡協定を結んでいないので、あの島に送りかえされる心配はありませんでしたが、これだけが私の危険ではなかったのです。ラボーの死体が彼の死後しばらくして、たいして腐乱もせずに海岸に打ち上げられたので、彼と共に島を脱走した殺人犯人である私は、事があらわれれば、ベネズエラの法廷に立って、自分が飢えをのがれるためにこの国の海域で彼を殺したのではないということを、立証しなければならない立場にあったのでした。
しかし、私はエッジに加担することは依然拒絶し、それと同時にひそかに逃亡の準備にとりかかりました。ところが私が準備をしている間に、エッジはハワードを殺害し、会社の金庫を破って金を奪いました。彼は私に向かって、たとえ自分が君のことをばらさなくとも、君はこの事件で警察の取調べに耐えることはできないだろうから、自分と一緒に逃亡しろ、とすすめました。これはたしかにその通りなので、私は彼と共に国外へ脱出しました。二ヵ月の後、メキシコシティで、私は彼がなぜああまで私の同行を望んだのかが分かりました。彼は私の正体を知っていたのと、ひとつには私の才能を高く――むしろ不当に――評価していたので、私を自分のそばに引きつけておき、おのれの力の及ばぬ犯罪を遂行するのに利用するつもりだったのです。私は、たとえどんなことがあろうと、どんな必要が生じようと、絶対に悪魔島へは帰りたくないと決心していましたが、しかしそれだからといって職業的犯罪者になるつもりは毛頭ありませんでした。そこで私は、エッジをメキシコシティに置き去りにして姿をかくそうと企てました。が、彼はすぐ私を見つけ出し、二人は大喧嘩をしたあげく、私は彼を殺してしまいました。しかし、私が彼を殺したのは、まったくの正当防衛で、彼の方から最初に打ってかかってきたのです。
一九二〇年、私はサンフランシスコに来て、ここでふたたびエドガー・レゲットと名をあらため、パリにいたとき若い芸術家として計画したことのある、色に関する実験を発展させ、この世界で新しい自分の地位をきずきはじめました。一九二三年、もはやエドガー・レゲットとモーリス・ド・マイエーヌとを結びつけて考えられることは絶対にないと信じて、私は当時ニューヨークに住んでいたアリスとガブリエルとに迎えを出し、アリスと私は結婚しました。
しかし、過去は死んではいませんでした。レゲットとマイエーヌとの間に橋をかけ得られない深淵《しんえん》はなかったのです。私の脱島以来、私から何のたよりも聞かず、また私の身にどんなことが起ったかもまったく知らなかったアリスは、私を見つけるためにルイス・アプトンという秘密探偵を雇ったのでした。アプトンはこのことでラッパートという男を南アメリカに派遣しましたが、ラッパートはガルフォ・トリステに上陸してから後の私の足跡を一歩一歩たんねんにたどり、エッジの死後メキシコシティから姿を消すまでの私の行動を探索することに成功しました。その結果彼は、ラボー、ハワード、エッジの死についても知ったことはむろんです。これらの死については、私はいずれも無実――少なくともそのうちの一つまたは二つについてはまったく潔白なのですが、もし裁判に附せられる場合には、私の前歴が前歴なので、おそらく有罪を宣告されるのではないかと思いました。
アプトンがサンフランシスコにいる私をどのようにして見つけ出したのかは、知りません。たぶん、彼は私のところへきたアリスとガブリエルの跡をたどって探し出したのでしょう。先週の土曜日の夜、彼はとつぜん私をおとずれ、沈黙の代償として金銭を要求しました。そのとき手許に金がなかったので、私は彼に火曜日まで待ってもらうことにし、支払いの一部としてダイヤモンド数個を与えました。しかし、私は絶望的になりました。私はアプトンの言うがままになることが何を意味するかを知っていましたし、同じようなことをエッジとのときにも経験していましたので、私は彼を殺す決心をして、そのことを公然と警察に通知することに決めました。これを聞けば、アプトンは直ちに何か言ってくるにちがいないと確信しました。後に警察が調べた際、彼の所持品の中からは疑いもなく盗まれたダイヤが発見されるであろうから、この名うての悪党を射ち殺しても私自身罪にならないような筋書きをつくり上げることはたいして困難ではないと考えたので、私は彼と会う約束をしておいて、冷然と射殺してやろうと計画したのでした。
私のこの計画は、次のことさえなかったら、たしかに成功していただろうと思います。ところが、自分自身の怨みからアプトンを追いまわしていたラッパートが、とつぜんアプトンを殺してしまったため、私の手でアプトンを殺す面倒ははぶけましたが、この男もまたアプトンの口から聞いたのか、あるいはアプトンをスパイして知ったのか、ともかくマイエーヌとレゲットが同一人であることを知っていました。そして彼は、アプトン殺しの犯人として警察から追われながら、ここへたずねてきて、例のダイヤを返し、その代償として金を請求した上、自分をかくまってくれと要求しました。
私は彼を殺しました。死体は天井裏にかくしてあります。しかし、表には探偵が一人、さっきからこの家を見張っていますし、他の探偵たちも今ごろはどこかよそで私のことを調べるのに多忙をきわめているにちがいありません。私はこれまでも自分の行動のいくつかについては満足に説明することができませんでしたし、いろいろな矛盾撞着《むじゅんどうちゃく》をさけることもできませんでした。まして自分が本当に嫌疑をかけられるようになった現在、過去の秘密をかくしおおせる見込みはほとんどないように思えます。私はかねてから、このようなことがいずれは起こるであろうということを知っていました。自分自身ではそれを認めまいとしながら、しかも私は最も確実にそのことを知っていました。私は悪魔島へもどりたくはありません。妻と娘は、ラッパートの死については何も知りませんし、何の関係もありません。
モーリス・ド・マイエーヌ」
七 呪い
私が読み終わってからも、数分間は、誰一人口をきくものがなかった。レゲット夫人はときどき静かにすすり泣きながら、ハンカチーフを顔からはなして耳を傾けていた。ガブリエル・レゲットは、眼の中に光と曇りを戦わせながら、けいれん的に室内をみまわして、何か言おうとでもするように唇をふるわせていたが、何も言わなかった。私はテーブルのところへ行き、死体の上にかがみこんで、次々とポケットの上から手さぐってみた。すると上衣の内側のポケットがふくらんでいた。私は死体の腕の下に手を入れて上衣のボタンをはずし、ポケットから茶色の紙入を取り出した。紙入は紙幣の束でふくらんでいた。かぞえてみると一万五千ドルあった。私はみんなに紙入の中身を示してから、たずねた。「彼は僕がいま読んだ書面以外に何か伝言のようなものを残しているだろうか?」
「発見されたものはそれだけだよ」と、オッガーが言った、「なぜだい?」
「レゲット夫人、あなたは何かご存じありませんか?」私がきくと、彼女は頭を振った。
「なぜだい?」と、オッガーがふたたび言った。
「これは自殺ではないよ」と私は言った。「彼は殺されたのだよ!」
すると、ガブリエル・レゲットがとつぜん金切声をあげて、とがった爪をもった白い指でレゲット夫人を指しながら、椅子からとび上がった。「この人が殺したのです」と、この娘は叫んだ。「母は〈ちょっと戻っていらっしゃい〉と言って、片手で台所のドアをあけ、片手で排水台からナイフを取り上げると、あの人がもどってきたところを、いきなり背中に突きさしたのです。わたしは母がそうするのを見ました。彼女が彼を殺したのです。私は着物を着ていなかったもんだから、二人が入ってきたとき、食器室に隠れて、見ていたのです」
レゲット夫人は立ち上がった。が、ふらふらとよろけ、もしフィッツステファンが彼女を支えにかけつけなかったなら、その場に転倒したかもしれなかった。驚愕《きょうがく》が彼女の泣きはれた顔から悲歎《ひたん》の色を拭い去ってしまった。テーブルのそばに立っていた灰色顔のおしゃれな男――あとでこれがリーズ博士だということを知ったが――は、冷静なきびきびした声で言った。「刺傷は一つもありませんよ。彼は銃口を斜め上に向けたピストルの一発でこめかみを射ち抜かれたのです。明らかに自殺だと、わたしは思いますね」
コリンスンはガブリエルをしずめようとして、無理矢理に彼女を椅子にもどらせた。彼女は両手をいっしょに動かして、苦しんでいた。
私は博士の最後の言葉に不賛成だった。そして心中、別のことを思いめぐらしながら言った。「殺人ですよ。彼はこの金をポケットに入れていました。出奔《しゅっぽん》するつもりだったのです。そして、この手紙を、妻と娘が殺人の共犯として罰せられないように、警察に宛てて書いたのですよ」そう言ってから、私はオッガーにきいた。「君にはこの手紙が、自分の愛する妻と娘をあとにのこして自殺しようとする人間の、死にのぞんでの陳述のように受けとれるかね? 二人には何の伝言もなければ、一言の言葉も残してない――全部が警察あてだなんて、おかしいと思わんか?」
「君の言うことは、正しいかもしれん」と、弾丸頭の探偵は言った。「しかし、かりに出奔するつもりだったにしても、彼が二人に何も言い残さなかったというのは――」
「いや、二人には話すつもりだったのだろう――書面か、直接口でね――もし彼がそれまで生きていたら、きっと何かを話したにちがいないよ。とにかく、彼が自分の問題にけりをつけるつもりで、出奔の準備をしていたのだ。この金と手紙の調子からみて僕はそうじゃないと思うけれども、あるいは自殺するつもりだったのかもしれない。しかし、かりにそうだったとしても、僕の推測では彼は自殺したのではないよ。準備をおえる前に、殺されたのだよ――準備にあまり手間どったのが原因かもしれないが。いったい彼はどんな具合に発見されたのだ?」
レゲット夫人がすすり上げながら、それに答えた。「銃声がきこえたので、急いでこの部屋へのぼってきてみますと、主人は――主人はこんな有様になっておったのです。わたくし、電話をかけるために下に行きました。すると、ベルが――玄関のベルが――鳴りました。で、わたくしはありのままをあの方にお話ししました。主人を殺すなんて――この家にはわたくしのほかに誰もいなかったのですから――あり得ないことですわ」
「そのあなたが殺したのだ」と、私は彼女に言った。「レゲット氏は姿をかくすつもりだった。で、あなたの罪まで引きうけて、この書置きを書いたのだ。あなたは台所でラッパートを殺した。それはこの娘さんが話した通りだと思う。ところがあなたは、自分の夫の手紙が誰に見せても自殺者の手記として通用する、と考えた。そこで彼を殺す気になり、思いきって殺してしまった――つまりあなたは、彼の告白と死が事件の一切をもみ消し、今後われわれに口を容《い》れさせなくなるだろうと考えたので、彼を殺してしまったのだ」
彼女の顔は私に何ごとも語らなかった。それは歪《ゆが》んではいたが――どんな風にでもとれるような表情だった。私は両方の肺に息をいっぱいに吸いこんで、フーッと吐きだした。
「あなたの夫の陳述にはたくさんの嘘がある。僕はそれをはっきり指摘することができる。彼はあなた方二人を呼びよせたと言っているが、そうではない。あなた方が彼をたずねてやってきたのだ。ミス・ベッグは、あなた方がニューヨークからやってきたとき、彼がどんなにびっくりしたか、あんなに驚いた人の顔をいままで見たことがないと言っている。彼はまたアプトンにダイヤモンドなんか与えはしなかった。彼がアプトンにダイヤモンドを与えたという説明も、そのあとで彼がどんなことをもくろんだかという説明も、まったく馬鹿げていて、つじつまがあってはいない。要するに、この話は、彼がとっさの間にあなたをかばおうとして考え出した作り話なのだ。レゲットだったらアプトンに金を与えるか、あるいは何も与えなかっただろう。わざわざ他人のダイヤモンドをアプトンに与えてこんな騒ぎを持ち上げるなんて、それほど馬鹿ではないはずだ。
それにアプトンは、あなたをたずねてその要求を持ってきたので――あなたの夫のところへ来たのではないのだ。あなたはレゲットの行方を探すためにアプトンを雇い入れた。彼が知ってるのは、あなただけだ。彼とラッパートは、あなたのためにレゲットの足跡を追って、メキシコシティばかりではない、ここまで来ているのだ。別の犯罪であのとき彼らがシング・シング送りになっていなかったら、もっとずっと前にあなたは彼らから絞《しぼ》られていたはずだ。二人は出獄すると、まずアプトンがここへやってきて、芝居をうった。そこであなたは盗難事件を仕組んで、ダイヤモンドをアプトンにやった。そのことについては、あなたは夫にもかくしていた。あなたの夫はこの盗難事件を普通のこそどろの仕業《しわざ》と考えた。それでなくて、彼が――彼のような過去をもった人間が――どうしてそれを警察になんかとどけるような危険なまねをしよう?
それにしても、あなたはなぜアプトンのことを彼に話さなかったのか? あなたは、自分が悪魔島からサンフランシスコまで彼の足跡を一歩一歩たどったということを、彼に知らせたくなかったのか? あなたがラボーやハワードやエッジのことも知っているということを、彼に知らせたくなかったのか?」
私は彼女にこれらの質問に対して答える機会を与えなかったが、それでもちょっと声の調子をゆるめて、すぐさきをつづけた。
「次にラッパートだが、アプトンのあとを追ってこのサンフランシスコへやってきたラッパートは、おそらくまずあなたのところへやってきたにちがいない。そこであなたは彼をつかってアプトンを殺させた。これは彼が独力でもやろうと思っていた仕事だから、喜んで引きうけたにちがいない。そしておそらく、彼はアプトンを殺すと、ここへやってきた。そこであなたは下の台所で彼の背にナイフを突き刺す必要を感じたのだろう。あなたは、娘が食器室にかくれて自分を見ていたとは知らなかったので、自分がおちこんだ深淵からなんとかしてのがれ出ようと考えた。しかし、ラッパートの殺人をかくしおおせる機会はごくわずかしかないことをあなたは知っていた。この家はあまりに集中的にスポットライトを浴びすぎていたからだ。そこで、あなたは夫のところへ行ってはじめて一部始終を――といってもそれは彼を納得させるために、あなたによってアレンジされたものだが――とにかく一部始終を物語り、そしてあなたに代わってその重荷を彼に荷《に》なわせてしまった。彼はあなたを守護してくれた。それまでだって彼はいつもあなたを守護してきたのだ。あなたの――」と、私は一段と声を張り上げて、どなった。「あなたの妹リリー、彼の最初の妻のリリーを殺したのも、あなたなのだ。そしてそのために彼は破滅させられたのだ。あなたは事件の後に彼と一緒にロンドンへ行ったが、もしあなたが無実なら、自分の妹を殺した人間と果たして一緒に行くだろうか? その後あなたは彼の行方をたずね、彼のあとを追って、ここへやって来た。そして彼と結婚した。彼がまちがって妹と結婚したと決めたのも、あなたなのだ。あなたが彼女を殺したのだ」
「あのひとがやったのです! あのひとがやったのです!」と、ガブリエル・レゲットはコリンスンの手をはらいのけて椅子から立ち上がろうとしながら、叫んだ。
レゲット夫人は、すっと立ち上がると、その黄ばんだ歯を見せて微笑した。そして部屋の中央へ二歩ほど進み出て、片手を腰にあて、片手をだらりとわきにたらした。フィッツステファンが言った、平和で健全な妻の姿は突如として彼女のからだから消え失せた。それは、もはや満ち足りた中年婦人の豊満さではなく、獲物を狙う牝猫のようなしなやかな筋肉でまるまるとふとった金髪女だった。私はテーブルからピストルを取り上げて、ポケットに入れた。
「あなたは誰がわたしの妹を殺したか知りたがっていらっしゃるようですわね?」と、彼女は口もとに微笑をうかべながら、おだやかにきいたが、その歯は話している間じゅうカチカチと鳴り、両眼は火のように燃えていた。「あの鬼娘のガブリエル――あの子が自分の母親を殺したのです。レゲットが守ったのは、あの娘ですわ」
ガブリエルがとつぜん何か訳のわからぬことを叫んだ。
「ナンセンスだ!」と、私は言った。「彼女は赤ん坊だったじゃないか」
「いいえ、ナンセンスではありません。彼女はもう五才でした。母親が眠っている間に、引出しからピストルを取り出して遊んでいた五才の子供でした。ピストルが発射されて、リリーは死んだのです。もちろん、これは不慮の事故ですが、モーリスは娘が成長して母親を殺したのは自分だと知ったときのことを考えると、それだけで耐えられなくなるような神経質な人でした。それに、モーリスはこの事件にたいして自分にも罪があると感じたようでした。あの人とわたくしが親しくしていたことや、あのひとがリリーから自由になりたがっていたことは周知の事実でしたし、ピストルが発射されたとき、あの人はリリーの寝室の戸口にいたからです。しかし、それはあの人にとって大した問題ではありませんでした。モーリスの唯一の願いは、たとえ不慮の事故にせよ自分が母親を殺したのだと知ることによって、娘の生涯が暗くさせられないように、彼女の心からその記憶を抹殺してしまいたいということでした」
彼女のこの話を特に不快に感じさせたのは、彼女が語るときにたえず微笑を忘れなかったことと、できるだけ注意して言葉を選び、それを上品に気取って発言したことだった。彼女はなおも言葉をつづけた。
「ガブリエルは、麻薬を常用するようになる前から、いつも限られた知能の子供でした。それですから、ロンドン警察がわたくしたちを発見するときまでに、わたくしたちは彼女の過去の記憶――つまりこの特殊な思い出を、彼女の心から跡形もなく拭《ぬぐ》い去ることに成功しました。でも、彼女こそ自分の母親を殺したのです。そしてあなたのお言葉に従えば、彼女の父親は彼女のために破滅したのです」
「いかにも、もっともらしい話だが、」と、私は言った。「しかし全部嘘だ。レゲットにはそれを信じこませることができたかもしれないが、僕は信じない。あなたは継娘のガブリエルが、台所であなたのラッパート殺しを見ていて、それをわれわれに話したものだから、なんとかして彼女を傷つけようとしているのだ」
彼女は歯をむくと、かっと眼を見開いて、一歩私の方へ近よったが、そこでじっとこらえて、鋭い笑い声をあげたと思うと、その眼からぎらぎらした光が消えた。彼女は腰に手をあてて、うきうきとした微笑をうかべ、楽しそうに私に話しかけたが、その眼と微笑と笑い声の裏には気狂いじみた憎悪が燃え立っていた。
「ほほ、わたしがですか? それなら、このことをお話いたさなければなりません。真実でなければ、こんなことをお話しできないことですけれど。――実は、わたくしがガブリエルにその母親を殺すことを教えたのですわ。おわかりになりまして? 私が彼女に教え、訓練し、下げいこをさせたのです。おわかりになりますかしら? リリーとわたくしは、お互いにはげしく憎みあいながら、離れることのできない、実の姉妹でした。モーリスは、わたくしたち二人と心から親しくしておりましたが、どちらとも結婚する気はありませんでした。このことを、文字通り理解していただきたいと思います。ところが、わたくしたちは貧乏でしたが、モーリスはそうでありませんでした。そしてそのためには妹はモーリスと結婚したがりました。が、わたくしの方は――リリーが結婚を欲したために、自分も彼と結婚を欲するようになったのです。わたくしたちは、万事につけてこのような姉妹でした。でも、リリーの方が最初に彼を得ました――彼を罠《わな》にかけて夫婦関係を結んでしまったのです――それは露骨ではありますが、正確なやり方でした。ガブリエルは結婚後六、七ヵ月目に生まれました。なんという幸福な家族だったでしょう。わたくしは彼らと一緒にくらしました――そして最初からガブリエルは母親よりも私になつきました。わたくしも彼女の世話をよく見てやりました。伯母のアリスが愛する姪《めい》のためにしてやらないことは何もありませんでした。リリーは娘が自分よりもわたくしの方になつくのを見て、たいへん腹を立てましたが、それはリリーがこの子をそれほど愛していたからではなく、わたくしたちが姉妹だったからなのです。わたくしたちは片方が欲するものはどんなものでも他方がまた欲する。それも分けあうのではなく独占的に欲したのでした。
ガブリエルが生れるとほとんど同時に、わたくしは他日実行するつもりで、ある計画をたてました。そして彼女が五才近くなったとき、わたくしはそれを実行したのです。モーリスのピストルは小型なもので、いつも化粧箪笥の上の引出しに入れて錠がおりていました。わたくしはその錠をはずして、引出しのなかのピストルから弾丸をぬき、ガブリエルにちょっとした面白い遊戯を教えました。わたくしが眠ったふりをしてリリーのベッドに横になると、子供が化粧箪笥の前に椅子を押して行って、それによじのぼり、引出しからピストルを取り出す。そしてベッドにはいのぼって、銃口をわたくしの頭につけ、引金を引く、という遊びでした。彼女がその小さな手にピストルをしっかりとにぎりしめて、ほとんど音をたてずにこの仕草《しぐさ》を上手にやりとげたときには、わたくしはごほうびにお菓子をやり、〈そのうちにこの遊びでお母さんに不意打ちをくわせてびっくりさせてやろうね。だからこのことはお母さんにもほかの誰にも黙っているんだよ〉とよく注意しておきました。
それからまもなく、リリーが頭痛のためにアスピリンをのんでベッドに眠っていたある午後、わたくしたちは完全に彼女に不意打ちをくわせたのでした。そのときわたくしは引出しの錠をはずし、ピストルの弾丸は装填《そうてん》したままにしておきました。そして子供には、お母さんにあの遊戯をしてあげてごらん、と言っておいて、誰が見てもわたくしが愛する妹の死に関係があったとは思えないように、わざと階下のお友だちのところへ行っていました。わたくしはその午後モーリスは帰ってこないものと考えていたので、銃声を聞いたらすぐお友だちと一緒にかけ上がって、ピストルをおもちゃにしていた子供があやまって母親を射ち殺してしまったところを彼らと一緒に発見するつもりでした。わたくしは、あの子があとで余計なことをしゃべらないだろうかというような心配は少しももっていませんでした。さきほどもお話した通り、あの子は知能が少し足りません上に、わたくしのことを信頼し、愛しておりましたので、彼女をわたくしの思い通りに支配し、この計画におけるわたくしの役割を暴露《ばくろ》するような何ごともしゃべらせないようにすることはできると信じていたからです。
しかし、モーリスはあやうくこの企てをめちゃめちゃにするところでした。予期に反して帰宅した彼は、ガブリエルが引金をひいたちょうどその瞬間に、寝室の戸口に来ていたのです。ほんの一秒早かったら、彼は妻の生命を救うのに間にあったのでした。でも、このことが後に彼を有罪に陥れることになったのは、まことに不幸でした。しかし、そのおかげでわたくしが彼から疑われずにすんだこともたしかで、つづいて彼の心を占領した強い願望――つまりこの事件に関するいっさいの記憶を子供の心から拭い去ってしまいたいという願望は、それ以上わたくしが自分の身について心配したり努力したりする必要をなくしてくれました。
その後彼が悪魔島を脱出したのち、わたくしはこの国へまいり、アプトンがわたくしのために彼の居どころを見つけてくれると同時に、彼を追ってこのサンフランシスコへ来ました。わたくしはガブリエルのわたくしに対する愛情と父親に対する憎しみ――この憎しみは、母を殺した父の罪を許すように彼女を説得するという極めて狡猾《こうかつ》な手段で、わたくしが注意ぶかく育《はぐく》んだものですが――この愛と憎しみと、ガブリエルにはあくまで真相を隠しておかなければならないというモーリスの希望と、それから彼や彼女に対して、いかにわたくしが忠実であったかという過去の記録などを利用して、わたくしはとうとう彼を説いてわたくしと結婚させることに成功しました。モーリスがリリーと結婚した日、わたくしは何とかして彼を彼女から奪いとってやろうと心ひそかに誓いましたが、ついにその望みは達せられたのです。わたくしは地獄にいるあの妹にそれを知らせてやりたいと思います」
微笑は消えていた。気狂いじみた憎悪はもはや眼と声のうしろに隠れてはいなかった。それは彼女の眼と声の中に、彼女の顔全体に、そのからだのポーズに、むき出しにあらわれていた。この気の狂った憎悪だけが、部屋の中で生きている唯一のもののように見えた。彼女をポカンと見つめ。彼女の話に黙って聞き入っていたわれわれ八人の者などは、その場合生きた人間の数には入らなかった。われわれはただ彼女にだけ気を奪われて、お互いはもちろん、彼女以外のものに対してはまったく生きた感覚を失っていた。
彼女は私から目を転ずると、こんどは部屋の反対側に坐っているガブリエルに向かっていきなりその片腕を突き出した。彼女の声はいまやしゃがれた震え声に変り、その調子には残忍な凱歌《がいか》が感じられた。彼女はときどき短い間《ま》を入れていくつものグループに区切ったその言葉を、まるで歌うように叫んだ。
「お前はあの女の娘なのだよ――だから、お前はその生れからいっても、あの女やわたしやその他デイン家の誰もが持っているあの黒い魂と腐った血に呪われているんだよ。その上、おまえは赤ん坊のときに自分の手にかけた母親の血にも呪われているし、またお前へのわたしの贈物である、そのねじくれた心や麻薬中毒にも呪われているのだ。だから、お前の一生は、お前の母親やわたしの一生が真っ暗であったように、きっと真っ暗だろうし、またお前に接触するすべての男たちの一生も、あのモーリスの一生がそうであったように、きっと真っ暗だろうよ。そしてお前の――」
「やめろ!」と、エリック・コリンスンが喘《あえ》ぎながらどなった。「あの女をやめさせてくれ!」
両手を耳にあてて、恐怖で顔をゆがませたガブリエル・レゲットは、ひと声おそろしそうに悲鳴をあげると、椅子からのめり落ちた。
パット・レッディーはまだ年も若く人間狩りには経験が浅かったが、オッガーと私は、いかに娘のけたたましい悲鳴と転倒が私たちの注意を引いたにせよ、たとえ半秒でもこの際レゲット夫人から眼を離してはならぬということを知っていなければならぬはずだった。ところが、われわれは二人とも娘のほうをみた――それは半秒よりももっと短かったかもしれないが、それでも長すぎたのである。
ふたたびわれわれがレゲット夫人を見たときには、彼女ははやくも手に拳銃をにぎって、戸口に向かってその第一歩をふみ出していた。彼女とドアとの間には誰もいなかった。制服の巡査はコリンスンに手をかしてガブリエルを介抱するためにそっちへ行っていた。彼女はドアに背を向けながら、第一にその視野にとらえたのはフィッツステファンだった。彼女は銃口ごしに燃えるような眼をわれわれの一人から一人へと走らせると、一歩さがって「動いてはいけません!」と、うなるように言った。パット・レッディーがからだの重心を足の拇指《おやゆび》に移して、今にもとびかかりそうな身構えを見せたので、わたしは頭をふって、眼くばせした。彼女をとらえるにはホールと階段の方がここよりもいい。この部屋では誰か犠牲者を出すだろう、と思ったからである。彼女はうしろ向きに戸口のしきいを越えると、歯の間からシューッという音といっしょに息を吐きながら、ホールへと姿を消した。
ドアを通り抜けて最初に彼女を追ったのは、オーウェン・フィッツステファンだった。私の行手には制服の警官がいたが、私が第二に部屋をとび出した。見ると女はすでにうす暗いホールを横切って、追い迫るフィッツステファンをすぐうしろにしながら、うす暗い階段の上に達していた。そして私がちょうどその階段の降り口に達したときは、フィッツステファンが階段の中途の踊場で彼女に追いついたところだった。彼は彼女の片腕をその胴に抑さえつけたが、拳銃をもっている方の手はまだ自由だった。彼はその手をつかまえようとして、失敗した。彼女はいきなり拳銃の銃口を彼のからだにねじりこむようにした。が、それと、私が頭を下げて階段の上から彼らめがけて飛びおりたのと、ほとんど同時だった。私はきわどいところで間に合って、二人の真ん中にぶつかり、かれらを壁の隅に衝突させて、栗色の髪の男にあてるつもりで発射した彼女の弾丸を、階段の一つに命中させた。
われわれは転がったままで争った。私は両手で彼女の拳銃をとらえようとして失敗し、彼女の腰をつかんだ。わたしのあごのすぐそばで、フィッツステファンの曲がった指が、彼女の拳銃をもった手首に迫っていた。彼女はからだをよじって私の右腕を振りはなそうとした。私の右腕はクライスラーから放り出されたために、まだ効《き》かなかった。彼女の肥ったからだはくるりと回転して私の上になった。
とつぜん銃声が耳のそばでとどろき、私の頬を焼いた。それと同時に、女のからだがぐんにゃりとなった。オッガーとレッディーがわれわれを引きはなしたときには、彼女はもう静かに横たわっていた。二発目の弾丸は彼女の咽喉《のど》を貫いていた。
私は研究室にのぼって行った。ガブリエル・レゲットが床の上に横たわり、そのそばに医者とコリンスンが膝をついていた。私は医者に言った。「レゲット夫人をちょっと見てください。階段の上にいますから。もうだめだと思うけれども、やはりあなたが見られたほうがいいでしょう」
医者は出て行った。意識を失ったガブリエルの手をさすっていたコリンスンは、私をまるで告訴さるべき人間ででもあるかようににらみながら、言った。「僕はこれであなたが、自分の仕事も終ったと満足されんことを希望しますね」
「僕の仕事は終ったよ」と、私は言った。
八 「しかし」と「もし」
フィッツステファンと私は、その晩シンドラー夫人の天井の低い地階で、彼女の自慢の夕食の一つをたべ、彼女の亭主の自慢のビールを飲んだ。フィッツステファンの中の小説家は、彼のいわゆる「レゲット夫人の心理的基礎」なるものを発見しようとするのに忙しかった。
「彼女が妹を殺したことは、彼女の性格を知ってみれば、充分わかる」と、彼は言った。「また、自分の秘密が暴露したとき、夫を殺したのも、姪の一生を破滅させようとしたのも、さらに捕われるよりは階下で自殺しようと決意したのも、わからないことはない。しかし、その間の静穏《せいおん》な幾年月――あれはいったいどう解釈すべきかだ?」
「いや矛盾しているのはレゲット殺しだよ」と、私は論じた。「彼女は彼を欲した。だから彼女は妹を殺したのだ――あるいは殺させたのだ――彼を自分に結びつける手段としてね。だが、法律は彼らの間を引きはなした。それに対しては、彼女は彼が自由な身になる機会を待ち望む以外に、何をなし得たろう。彼女が当時それ以外の何かを望んだとは思えない。そうだとすれば、彼女が期待した将来の機会に対する人質としてガブリエルをしっかりおさえておき、疑いもなく彼が残した金で安楽に生活しながら、静かにしていたとしても、おかしいわけはあるまい?
彼女は彼が島から逃亡したと聞くと、アメリカへやって来て、彼の行方をたずねる仕事に着手した。そして彼女の雇った探偵が彼の居どころをつきとめてくれると同時に、彼のところへやってきた。彼はすすんで彼女と結婚した。彼女は自分の欲したものを得たのだ。どうして静かにしていていけないわけがあろう? 彼女は気まぐれな事件屋ではなかった――いたずら半分に事を起す人間ではなかった。彼女は自分の欲するものを欲し、それを手に入れるためにはどんな遠くへ出かけて行くこともいとわない、単純な女なのだよ。彼女がどんなに辛抱強く、またどれだけ長い年月、娘に対して自分の憎しみをかくしていたかを、考えてみたまえ。それに、彼女の望みはそうたいして異常なものでもないよ。君がもし彼女を解く鍵を複雑な精神錯乱に求めるなら、結局失敗するだろう。彼女は動物のように単純な女なのだ――正邪に対して動物がもつ単純な無知と、邪魔するものに対する嫌悪と、罠《わな》にかけられたときの執念ぶかさとをもった単純な女だよ」
フィッツステファンはビールを飲みながら、たずねた。「すると、君はデイン家の呪いを、原始的な血統に帰そうというんだね?」
「それよりも、もっとつまらぬもの――怒った女の口から出た言葉に帰そうというのさ」
「人生から一切の色彩を奪ってしまうのは、君らのような連中だよ」と、彼は煙草の煙のうしろで嘆息した。「ガブリエルが彼女の母親を殺す道具にされたということは、君にこの呪いの必然性――そう、少くとも詩的必然性――を信じさせないかね?」
「たとえガブリエルが道具にされたことが事実だとしても、僕は信じないね。まして、それが事実かどうか怪しいと思うのだよ。なるほどレゲットはそれを疑わなかったようだ。彼が娘のことをかばうために昔のことをあんなに細々と書いているところを見てもね。しかし、彼が実際に娘が母親を殺したのを見たかどうか、それについてはレゲット夫人の証言しかないのだ。ところが一方では、レゲット夫人はガブリエルの面前で、彼女は父親を殺人者だと信ずるように育てられたと言っている――だから、そのことは信ずることができる。だが、これは娘の罪の記憶を取りのぞいてやる処置としては――全然有り得ないことではないけれども――少し行き過ぎだと思うね。だから、この点については、いろいろな推測が成り立つわけだよ。それよりも、レゲット夫人は彼を欲して、望み通り彼を得た。それなのになぜ彼女は彼を殺したかだ?」
「君はとび廻りすぎるよ」と、フィッツステファンはこぼした。「そのことについては、君はあのとき研究室の中で答えたじゃないか。なぜ君は自分の答えを固執しないのだ? 彼女はあの手紙が自殺者の書置きとして充分通用すると考えて、彼を殺した。彼女はその手紙と彼の死が自分の安全を保証してくれるものと考えたのだ、と君は言ったじゃないか」
「あのときはそう思ったのだ。しかし、適合すべき事実がさらにふえた今はちがうよ。彼女は長い年月、彼を得るために苦心をし、そして待った。彼は彼女にとって何らかの価値があったにちがいない」
「しかし、彼女は彼を決して愛してはいなかったよ。少なくとも彼女が彼を愛していたと想像すべき理由は一つもないよ。彼は彼女にとってそれだけの価値はなかったのだ。彼女にとっては、彼は狩のトロフィー〔狩の記念品の獣の頭や角〕にすぎなかったのだよ。つまり死によって影響されない価値――防腐剤をつめて壁にかけておくあれさ」
「では、なぜ彼女はアプトンのことを彼にかくしておいたのだ? なぜラッパートを殺したのだ? なぜ彼のためにそんな重荷を背負わなければならなかったのだ? もし彼が彼女にとって何の価値もないものだったら、なぜ彼女はそんな危険までおかしたのだ? 過去がよみがえってきたことを彼に知らせまいとして、なぜああまでいっさいのものを賭けたのだ?」
「君がつかもうとしているものが何か、僕にもわかるような気がする」と、フィッツステファンはゆっくり言った、「君はこう思っているのだろう――」
「待ってくれ――もう一つ別のことがある。僕は二回、レゲット夫婦が一緒のときに彼らと話した。その二回とも、二人はお互いに一ことも口をきかなかった。そしてあの女は、彼がいなければ、娘の失踪について何か僕に話してもいいような素振りを示したよ」
「君はどこでガブリエルを見つけたのだね?」
「ラッパートが殺されたのを見ると、あの娘はあり金全部と宝石類をもってホルドーン家に逃れ、それらの宝石は金をつくるためにミニー・ハーシーに渡したのだよ。ミニーはそのうちのいくつかを自分の装飾用として買った――ちょうどあの女の情夫が一晩か二晩前にインチキ賭博で相当の金を手に入れていたものだからね――それから残りの宝石を売りとばすために男を質屋へ行かせたところ、やつはそこで怪しまれてしまったというわけさ」
「ガブリエルは永久に家を出るつもりだったのだね?」
「それだからといって、彼女を非難することはできないよ――自分の父親を殺人者だと思っているところへ、こんどは継母までが殺人を犯す現場を見せられたんだからね。誰だってそんな家で暮らしたいとは思わないだろう」
「ところで、君はレゲットと彼の細君は仲が悪かったと考えているんだね? あるいはそうかもしれん。僕は最近二人にあまり会っていなかったし、たとえそんなことがあったにしても、その種の事情に介入できるほど親密な間柄ではなったからね。君はレゲットが何かを――彼女に関して何か真相を、知っていたと思うのか?」
「おそらくね。しかし、ラッパートの殺人に関して彼女の身代わりになることを拒否するほどではなかったのだね。それに、彼が知っていたのは、僕が初めて彼に会ったとき窃盗事件を信じこんでいたところから見ても、これら最近の問題に関してではなかったようだ。しかし――」
「おい、ちょっと待った! 君はどんなことにでも二つの〈しかし〉と一つの〈もし〉をくっつけないうちは、どうしても満足しないらしいな。でも、僕にはレゲット夫人の話を疑う理由がわからんよ。彼女は一切の話をまったくの無償で話したんだからね。なぜわれわれは、彼女がわざわざ自分自身を巻きぞえにするために嘘をついたと考えなければならないのだ?」
「君は彼女の妹の殺人事件のことを言ってるのだろう? 彼女はこの事件では無罪とされた。従って、何を告白しようと、ふたたび取調べられないという点では、フランスの法律も、このアメリカの法律と同じだろうと思うね。してみると、彼女は何の犠牲もはらったのではないよ、君」
「相変らず過小評価をやるね。君の魂をひろくするために、もっとビールを飲む必要があるぜ」
レゲット=ラッパート事件の取調べに立ち会った私は、そこでふたたびガブリエル・レゲットに会った。が、彼女が私をおぼえていたかどうかさえわからなかった。彼女は、これまでレゲット家の顧問弁護士であり、いまは同家の財産管理人でもあるマディスン・アンドルーズと共にいた。エリック・コリンスンもきていたが、めずらしいことに、ガブリエルと一緒ではないらしかった。彼は私にうなずいただけだった。
新聞はレゲット夫人が一九一一年にパリで起こったと言った事件をとりあげて、約二日間騒ぎ立てた。ホルステッド=ボーシャンのダイヤモンドが取りもどされたことは、コンティネンタル探偵社を有名にした。
私は、使用人たちが不正を働いていると考えている、ある金鉱所有者の頼みで、その実情をさぐるために山へ行くことになった。私の考えでは少なくとも一ヵ月はかかる予定だった。この種の内輪の仕事はとかく時間をとるからである。ところが、山へ入って十日目の夕方、私はわが社のボスの「老人」から長距離電話をうけた。「君の代りにフォーリーを送るから、彼を待たずに、すぐ今夜の汽車で帰ってきてくれ。レゲット事件がまた活気をおびてきたのだ」
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第二部 寺院
九 聖杯寺院
マディスン・アンドルーズは、白いバサバサな髪と眉と口ひげとがその骨ばった顔の赤みを引き立てている、痩せた、背の高い、六十ばかりの老人だった。彼はだぶだぶの服を着、しじゅう噛み煙草をかむくせがあって、過去十年間に二度までも、離婚訴訟において公然と姦通《かんつう》相手に名ざしされたことがあった。
「あの若造のコリンスンは君にもいろいろと馬鹿げたおしゃべりをしたろうと思うが、」と、彼は私に言った。「わしのことを第二の幼年期にあると思っとるらしい。わしにそう言ったよ」
「僕はまだ会っていないのですが」と、私は言った。「二時間前に着いたばかりで、社へ寄ってから、すぐこちらへきたものですから」
「うむ、あの男は彼女の婚約者《フィアンセ》だが、わしは彼女に対して責任があるからね。彼女の主治医のリーズ博士の忠告に従うことにきめたのだよ。博士は、彼女をしばらくあの寺院へ行かせる方が、他のどんなことよりも、彼女の心の健康を回復させる上に有効じゃろう、と言うのだよ。わしはその忠告を無視することができなかった。というのは、ホルドーン家の連中は山師かもしれんが、ジョゼフ・ホルドーンはたしかにガブリエルが心を許して話のできるたった一人の人間じゃからね。それに両親が死んでからは、あの男と一緒にいるときだけ彼女の心がおちつくらしいことも事実なのじゃよ。リーズ博士は、寺院に行きたいというあの娘の望みを妨げることは、結局彼女の心をもっと深い精神の病に追いやることになると、言っておるのじゃ。若いコリンスンがそれを好かんからといって、二つ返事でその意見を承認できるかね?」
「できないですね」と、私は言った。
「わしはあの礼拝に関しては、別に何の幻想もいだいてはおらんよ」と、彼は弁解しながら言った。「あれだってたぶん、ほかの礼拝宗教と同じようにインチキなものかもしれん。しかし、われわれは何もその宗教的な面に関心をもっとるんじゃない。ただ、一種の治療術として、ガブリエルの精神治療術として、あれに興味をもっとるのじゃ。かりにその会員の性質がガブリエルの安全という点でわしが考えとるようなものでないにしても、わしはやっぱり彼女を行かせてみたいという誘惑を感ずるね。いま言ったように、われわれが現在最も関心をもっとるのは、彼女の回復ということで、ほかのどんなこともそれに干渉することは許されんからね」
彼はいらいらしていた。なぜ彼がそんなにいらいらしているのか知りたいと思って、私はただうなずくだけで、黙っていた。が、彼の廻りくどい話をきいているうちに、少しずつそれがわかってきた。
リーズ博士の忠告に従い、コリンスンの反対を押しきって、彼はガブリエル・レゲットをしばらくの予定で聖杯寺院に逗留《とうりゅう》させることにした。そこにはリヴィングストーン・ロドマン夫人のような尊敬すべき人物も逗留していたし、もともとホルドーン夫妻はエドガー・レゲットの友人でもあるので、ガブリエルは熱心に行きたがった。そこでアンドルーズは思いきって、彼女を行かせることにしたのである。それはいまから六日前のことだった。
ガブリエルは混血女のミニー・ハーシーを女中として一緒につれて行った。リーズ博士は毎日ガブリエルを見に出かけたが、はじめの四日間は調子がたいへん良いように見えた。ところが、五日目から、彼女の様子が急に彼を心配させはじめた。彼女は前よりもいっそうぼんやりした精神状態におちいり、ある種のショックをうけた人のような症状を呈しはじめたのである。博士は彼女から何も知ることができなかったし、ミニーからも何も聞くことができなかった。またホルドーン家の人々からも何も得ることができなかった。何があったのか(もし何かがあったとしても)、博士にはそれを知る術《すべ》がなかった。
エリック・コリンスンはリーズ博士からガブリエルに関する報告を毎日聞かせてもらうことになっていたので、博士はその最後の訪問のときの模様をありのまま彼に語った。コリンスンはとび上がるほどおどろいた。彼は即刻彼女を寺院から連れもどしてもらいたいと言った。彼の意見によれば、ホルドーン夫妻はガブリエルを殺す準備をしているというのだった。彼と弁護士アンドルーズは大喧嘩をした。アンドルーズの考えでは、ガブリエルの健康の変化は単に病気が再発しただけのことだから、彼女がいたいという場所においてやればすぐ回復するだろうというのだった。リーズはどちらかというとアンドルーズの意見に賛成だった。が、コリンスンは反対だった。もし二人が即刻ガブリエルをつれもどさなければ、この事実を世間に公表するといっておどかした。
このことは、アンドルーズを悩ませずにおかなかった。もし彼女の身に何か起こるようなことがあれば、冷静な法律家として、自分の被後見人をそういう場所に行かせたということは、どうも面白くないことになるからだった。そこで、とうとう彼はコリンスンと一つの妥協をむすんだ。それは、少くとももう二、三日、ガブリエルをあの寺院に逗留させることにする。が、その間たえず彼女に目をくばり、万が一にもホルドーン家の連中が彼女にいたずらをしかけないように監視するため、誰かを介添え役につけることにする、という妥協案だった。リーズ博士はその介添え役として私の名を出した。レゲットの死について私の言ったことが幸運にもあたっていたのが、彼に深い印象を与えたらしかった。コリンスンはガブリエルがこうなったのは私の残忍さに大いに責任があるといって初めは反対したが、結局彼もその決定に従った。そこでアンドルーズはさっそく「老人」に電話をかけ、私をほかの仕事から引きぬいてもらうために、それを正当化するだけの十分な高額な報酬を出すことを約し、その結果私がここに来ることになったというわけだった。
「ホルドーン夫妻もあんたが行くことを知っているはずじゃ」と、アンドルーズは言った。「だが、彼らがそれをどう考えようと問題ではないよ。わしはただ簡単に、ガブリエルの心がもう少しおちつくまで、万一の場合を考えて一人有能な人物についていてもらうことにしたから承知してもらいたい、これはリーズ博士とわしとできめたことだから、と、彼らには話しておいた。あんたには何も指示を与える必要はないと思う。要するにあらゆる注意を払ってもらえば、それでいいわけじゃ」
「レゲット嬢は僕が行くことを知っていますか?」
「いや、あの娘には何も言う必要はないと思うので、話してはいない。なるべく出しゃばらないようにして見張ってもらいたいのはもちろんじゃが、あの娘の現在の精神状態から見て、それを怒ったりするほどあんたの存在に注意を払おうとは思われんよ。もしそんなことになったら――うん、そのときはまた考えよう」
アンドルーズは、私にアーロニア・ホルドーン宛の添書を書いてくれた。一時間半ののち、私は聖杯寺院の応接間で、その手紙を読んでいる彼女と対座していた。彼女は手紙をかたわらにおくと、白い硬玉の箱に入った長いロシア煙草をすすめた。私は「ファティマ」だけしかのまないことにしているからと弁解して、彼女が二人の間に押し出してくれた喫煙台のライターで自分の煙草に火をつけた。二人の煙草がもえはじめたとき、彼女は言った。
「わたくしたちはできるだけあなたにお気持よくいていただけるようにしたいと思います。わたくしたちは野蛮人でも狂信者でもないのでございますから。わたくしがこんなことを申し上げるのは、たくさんの方々がそうでないことを知ってびっくりなさるからでございます。ここは寺院ではございますけれど、わたくしたちは、幸福とか快適とか、その他文明生活の普通の事柄がここの神聖を汚すなどとは、誰も考えてはおりません。あなたはここの会員ではいらっしゃいませんが、たぶんいまにそうなってくださるだろうと――わたくし期待しておりますわ。でも、無理にはおすすめいたしませんから、ご安心なさってください。きっと退屈なさるようなことはないと思います。わたくしたちの礼拝にお出になる、ならないは、ご自由になさってください。そしてお好きなところへどこへでも自由にご出入りになってください。その代り、あなたもどうぞ、わたくしたちがお見せすると同じ配慮を、わたくしたちにお示しくださいませんか。そしてお目にとまったものがどんなに奇妙に見えようとも――それがあなたの忍耐に影響するおそれがないかぎりは――どうぞそれに干渉なさらないでくださいませ」
「もちろん、しませんよ」と、私は約束した。
彼女は感謝するように微笑し、煙草のさきを灰皿でもみ消してから立ち上がって言った。「あなたのお部屋をお目にかけましょう」そして私のこの前の訪問のことについては、お互いに一言もふれなかった。
私は帽子と旅行カバンをもって、彼女のあとに従い、五階でエレヴェーターをおりた。
「そこがミス・レゲットのお部屋です」と、アーロニア・ホルドーンは、二週間前にコリンスンと私がたたいたドアを指さしながら言った。「それからこれがあなたのお部屋です」彼女はガブリエルの部屋と廊下をへだてて向かいあわせになっているドアを開けた。部屋の内部は、化粧室がないだけで、あとはガブリエルの部屋と瓜《うり》二つだった。そして私の部屋のドアにも、同じように鍵がついていなかった。
「レゲット嬢の女中はどこで眠るのですか?」と、私はたずねた。
「最上階にある召使部屋の一つです。ミス・レゲットのところには、いまリーズ博士がお見えになっているはずです。あなたがおいでになったことをおつたえ申しましょう」
私は彼女に礼をいい、彼女はドアをしめて出て行った。十五分ばかりすると、リーズ博士がノックして入ってきた。
「よく来てくださった」と、彼は握手しながら言った。彼はときどき手の中の黒いリボンつきの鼻眼鏡で拍子をとるようにして言葉に力を入れながら、テキパキと正確に発言した。私はその眼鏡が彼の鼻の上にのっているのをまだ一度も見たことがなかった。「われわれはおそらくあなたの専門的手腕を必要としないですむと信じていますが、来ていただいて喜ばしいです」
「何かおかしなことでもありましたか?」と、私はたずねた。
彼は鼻眼鏡で左の拇指の爪をたたきながら、じっと私を見た。「いや、わたしの知るかぎりでは、おかしいのはわたしの方かもしれません。ほかにおかしいことは何もないですから」そう言ってからふたたび私の手を握って、「お役目が退屈ですむことを、望みますよ」
「しかし、あなたのお役目はそうでないのでしょう?」と、私はほのめかした。
彼は戸口の方へ行きかけながら立ちどまって、眉をひそめ、もう一度爪を眼鏡でたたきながら、「いや、そんなことはありません」と言ってから、あとを言おうか言うまいかと決しかねている様子だったが、そのままドアの方へ歩きはじめた。
「わたしは、あなたがそれについて正直にどう考えていらっしゃるか知る権利があると思うのですが――」と、私は言った。
彼はふたたびじっと私の顔を見て、「わたしには、どうもそれがわからないのです」と言って、ちょっと間をおいてから言いそえた。「とにかく、満足してはいません」それはいかにも満足していないように見えた。「今晩もう一度くるつもりです」そう言って、彼は廊下へ出てドアをしめたが、三十秒たたぬうちにまたドアをあけて、「レゲット嬢はひどく悪いのです」と言って、ふたたびドアをしめて、立ち去った。
私は一人になると、「これはだいぶ面白くなってきたぞ」とつぶやいて、窓際に腰をおろし、煙草をすいはじめた。しばらくすると、白と黒の服を着た女中がドアをノックし、食事に何が欲しいか、とたずねた。彼女は二十五、六才の血色のいい、肥った金髪女《ブロンド》で、めずらしそうに私を見つめた青い眼には、おどけたようなところがあった。私はカバンのなかからスコッチ・ウィスキーの瓶をとり出して一杯やり、女中が運んできた昼飯をたべて、午後はその部屋ですごした。
耳をすまして外の様子に気をつけていた私は、四時少し過ぎごろ、ミニーが彼女の女主人の部屋から出てきたところをつかまえた。ミニーは私が自分の部屋の入口に立っているのを見て、眼をまるくした。
「おはいり。リーズ先生は、僕がここにきているって話さなかったかい?」
「いいえ、旦那さま、あの――あなたさまは――ガブリエルお嬢様に、何かご用でも――?」
「うん、あのお嬢さんの身に何ごとも起こらぬように、こうして見張っているのだよ。だから、もしお前が、あのお嬢さんの言ったりしたりすることや、それからほかの連中の言ったりしたりすることを、わたしに知らせてくれれば、わたしを助けてくれることになるし、お嬢さんを助けることにもなるのだよ。なぜなら、そうすれば、僕はあのひとをうるさがらせずにすむからね」
混血女はよくわかったというように「はい、はい」と言ったが、その褐色の顔から判断し得るかぎりでは、協力を求めようとする私の考えは、先方にはあまり通じないらしかった。
「今日の午後は、あのひとの具合はどうだね?」と私はきいた。
「今日の午後は、お嬢さまはまことにお元気でいらっしゃいます。はい、旦那さま。あの方はここがたいへんお気に召していらっしゃいます」
「午後をどうやって過ごしたね?」
「あの方は――いえ、あたしは存じません、旦那さま。でも、たいへんお静かにお過ごしのようでした」
たいしたニュースでもなかった。で、私は言った。「リーズ先生は、お嬢さんに僕がここにいることは知らせない方がいいだろうと言っていられたから、あのひとには僕のことを何も言うにはおよばないよ」
「はい、申し上げません、旦那さま」と、彼女は約束したが、その調子にはていねいのわりに誠実さが感じられなかった。
夕方、アーロニア・ホルドーンが上がってきて、下に食事が用意してあるからとさそった。食堂は周囲を鏡板で張りめぐらし、濃いくるみ色の調度で飾られていた。テーブルには私をいれて十人の者が席についた。ジョゼフ・ホルドーンは、背の高い、立像のようにがっちりした体格の男で、黒い絹の外袍《ローブ》を着ていた。髪は濃くて、長くて、真っ白で、そのうえ光沢があった。まるく刈った濃いあごひげも、白くてつやつやとしていた。ホルドーン夫人は、まるで彼に姓がないみたいに、ただ「ジョゼフ」と呼んで、私に紹介した。ほかの連中も同じように彼のことを呼んでいた。ジョゼフは歯並のそろった真白な歯を見せて、私にほほ笑みかけ、温かい強い握手をした。健康そうな血色のいい顔には皺《しわ》一つ見えなかった。その静かな顔と、中でも澄んだ茶色の眼は、相手に何となくこの世界を平和に感じさせるような静けさをたたえていた。同じような物柔らかさは、そのバリトンの声にも感じられた。
彼は言った。「あなたに来ていただけて、わたしたちは本当に幸福に思います」――この言葉は要するに儀礼的な、意味のないものだったが、それでいながら、彼がこの言葉を発したときには、私が本当に何かの理由から彼が幸福を感じているように信じさせられた。私はガブリエル・レゲットがここへ来たがる気持が、はじめてわかったような気がした。私も、ここへ来たことを幸福に思うと述べた。そういいながら、実際私はそういう気がしたのだった。
ジョゼフとその細君と男の子のほかに、食卓には、次の六人の男女がついていた。――すき通るような肌と、しぼんだ眼と、つぶやき以上に出ない小さい声とをもった、見るからにひ弱そうな、背の高いロドマン夫人。痩せた浅黒い顔に黒い口ひげをつけ、自分自身の考えに忙しいといった、一種孤立的な様子をしたフレミングという青年。仕立のいい服を身につけ、その態度にも注意深いところの見える、禿頭で、血色のよくないジェフリー少佐。三十才にしては若すぎる、妙に仇《あだ》っぽい女だが、なかなか愉快なところのあるその細君。あごも声もとがった、非常に熱心な態度のヒレン嬢。それに、頬骨の高い浅黒い顔をした、始終みんなの眼をさけるようにしている、まだ若いパヴロフ夫人。以上の六人だった。
食べ物は二人のフィリピン人のボーイが運んできたが、どれも上手な料理だった。食事中、会話はあまりかわされなかった上に、宗教的なことは一切話題にのぼらなかったので、感じはそんなに悪くなかった。
食後、私は自分の部屋にもどった。ガブリエルの部屋の戸口で二、三分間耳をすましてみたが、何の物音もきこえなかった。自分の部屋に入ると、私は何となくいらいらして、煙草を吸いながら、リーズ博士が約束どおり姿を見せるのを待っていた。しかし、博士はなかなかやってこなかった。きっと医者の生活につきものの急な患者でもできたのかも知れないと思ったが、彼の来ないことは私をじりじりさせた。
ガブリエルの部屋には、誰一人出入りしたものはなかった。私は二回、彼女の部屋の戸口に忍びよって聞き耳を立てた。一度は何もきこえなかった。が、一度はかすかな、何か衣《きぬ》ずれのような音がきこえたような気がした。十時すこし過ぎたころ、幾人かの在宿者が私の部屋の前を通りすぎたのを耳にした。たぶん寝るために自分たちの部屋へ帰って行くのだろう。十一時五分過ぎ、ガブリエルの部屋のドアが開くのがきこえた。私は自室のドアを開けてみた。ミニー・ハーシーが廊下を通って建物の後部の方へ歩いて行くのが見えた。よっぽど呼ぼうかという誘惑を感じたが、呼ぶのをやめた。彼女から何かを得ようとする私の最後の企てもこれで失敗に終ったので、私はもうあきらめた気持で部屋にもどった。
このときはもうリーズ博士と今夜中に会うという希望もすてていたので、私は電燈を消すと、ドアをあけ放したまま闇の中に腰をおろして、彼女の戸口をながめながら世を呪った。私はありもしない黒い帽子を暗がりの部屋で探すタッドの盲人のことを考えて、彼がどんな風に感じたかがわかるような気がした。十二時少し前、おもてから帰ってきたばかりのような恰好をして、帽子とコートを着たミニー・ハーシーがガブリエルの部屋にもどってきた。私の姿をみた様子はなかった。私はそっと立ち上がり、彼女がドアをあけたときにそのうしろから室内をのぞこうと試みたが、うまく行かなかった。ミニーは一時近くまでガブリエルの部屋にとどまっていたが、出てきたときにはそっとドアを閉め、爪《つま》さき立って歩いて行った。これは厚い絨緞《じゅうたん》には不必要な注意だった。それが不必要な注意だっただけに、よけい私を神経質にした。私は戸口のところへ行って、小声で「ミニー」と呼んだ。
たぶん聞えなかったのだろうが、彼女は相変らず爪さき立ちで、廊下を遠のいて行った。これはさらに私の神経をいら立たせた。私は急いで彼女のあとを追って行って、その頑丈な腕をつかまえた。彼女の黒い顔は無表情だった。
「様子はどうだい?」と、私はたずねた。
「ガブリエルお嬢さまはお元気でいらっしゃいます。旦那さま。そっとしておいてあげてくださいまし」と、彼女はつぶやくように言った。
「彼女は元気ではないはずだよ。いま何をしているのだ」
「おやすみになっておいでです」
「麻薬をやったのだろう?」
ミニーは怒ったどんぐり眼《まなこ》を上げたが、何も言わずにまた眼をふせた。
「薬を買いにお前を外へやったのだろう?」私は腕をつかんだ手に力を入れて、強く言った。
「は、はい、旦那さま。お嬢さまは――あるお薬を――買いに――あたしを外へお出しになったのです」
「その薬をのんで、それで眠ったのだろう?」
「は、はい、旦那さま」
「一緒に部屋へもどって、彼女の様子を見よう」と、私は言った。
混血女は腕を自由にしようとしてもがいたが、私ははなさなかった。
彼女は言った。「あたしを放っておいてください、旦那さま。でないと、大声を出しますよ」
「よし、彼女を見たら、はなしてやるよ。たぶん――」私はもう一方の手で肩をおさえて、彼女をぐるっと廻した。「大声を出したけりゃ、さあ出してもいいぞ」
彼女は女主人の部屋へもどりたくはないらしかったが、それでも私に引きずって行かせるようなことはしなかった。ガブリエル・レゲットは、横向きになって、息で静かに夜具をうごかしながら、すやすやと眠っていた。とび色のカールした髪の毛を額におとして眠っている彼女の小さな顔は、病児のそれのように見えた。私はミニーをはなして、自分の部屋へもどった。暗やみに坐っていると、私は人々が爪をかむ理由がわかった。一時間以上も坐っていてから、やっと靴をぬぎ、いちばん坐り心地のよい椅子を二脚選んで、その一脚に足をのせ、毛布をかけて、あいている戸口からガブリエルの部屋の戸口の方を見ていたが、そのうちにいつのまにか眠りこんでしまった。
十 枯れた花
私はうつらうつらしながら眼をあけ、ほんの一瞬間眠ったのだなと考えてから、また眼を閉じてトロトロとまどろみかけたが、すぐ気がついてふたたびのろのろと眼をさました。何か変だった。私は無理に眼をあけ、それから閉じ、もう一度あけてみた。何かおかしな感じがした。眼をあけても真っ暗だし、眼を閉じても真っ暗だった。その夜は闇夜だったし、私の部屋の窓はおもての街燈の光がとどかない場所だったから、ちょっと考えると当然のように思われたが、私にはそう思われなかった。
私はふと部屋のドアをあけ放しにしておいたことを思い出した。廊下には電燈がついているはずだった。それなのに、私の面前には、戸口の形にきりとられた青白い電燈の光も見えなければ、それを通して見えるはずのガブリエルの部屋のドアももちろん見えなかった。はっとしたが、そのときはもうすっかり眼がさめていたので、あわててとび上るようなことはしなかった。私は息をつめて、じっと耳をすましたが、腕時計のかすかな音のほかは何もきこえなかった。そっと手を動かして腕時計の発光板をのぞくと、三時十七分だった。思ったより長く眠ってしまったので、その間に廊下の電燈も消されたのかもしれないと思った。
頭がぼんやりして、からだ全体が妙に硬《こわ》ばって重苦しく、口の中にも何かまずい味が感じられた。私は毛布をのけると、いうことをきかないからだをそろそろ動かして、二つの椅子の上からおりた。そして靴下のままで戸口の方へはっていったが、いきなりドスンとドアにぶつかった。ドアはやはりしまっていたのだ。あけると、廊下には前と同じように電燈がともっていた。廊下から流れこんでくる空気は新鮮で、さわやかで、澄んでいた。私は鼻をクンクンいわせながら、ふり返って部屋の中へ顔を向けてみた。花の香りがした。かすかな、むっとするような匂いで、花自身の香りというよりも、その中で花が枯れ死んでいる密閉した部屋の匂いとでもいったほうが当っている匂いだった。谷間の百合、夕顔、それに何かあと一、二種類の花もまじっているようだった。私は一生懸命にその匂いを分類しようと試み、スイカズラの匂いもまじっているのではなかろうか、と本気で考えたりした。それから、自分が葬式の夢を見ていたことをぼんやりと思い起した。その光景をはっきり思い出そうとして、ドアの柱によりかかっているうちに、ふたたびうつらうつらと眠りに誘いこまれた。が、頭ががっくり落ちた拍子に、首の筋肉が引きつって、眼をさました。私は無理に眼をあけ、しびれて自分のものではなくなっている脚で立ちながら、愚かにもなぜ自分はベッドへ行かなかったのだろうといぶかった。きっと眠ってはいけないわけがあるのかもしれないと、そんなことをうつらうつら考えながら、からだをしっかりさせるために壁に手をあてた。すると偶然にも手が電燈のボタンにふれて、パッと光が私の眼を射た。瞬間、私の眼には現実の世界がうつり、自分にはしなければならぬ仕事があるのだ、ということを思い出すことができた。私は浴室に行って、冷たい水で頭と顔を洗った。それでもまだ頭のもやもやはとれなかったが、しかし少なくともある程度意識をとりもどすことはできた。
私は自室の電燈を消すと、廊下を横ぎってガブリエルの部屋の戸口へ行き、じっと耳をすましてみたが、何の音もきこえなかった。私はドアをあけて、内側に入り、うしろ手でドアをしめた。私の懐中電燈は空っぽのベッドと裾《すそ》の方に投げ出されている毛布とを照らし出した。私は手をベッドのくぼみにあててみた。冷たかった。浴室にも化粧室にも、誰もいなかった。ベッドの下に緑色の上靴が一足おいてあり、緑色の化粧着らしいものが椅子の背にかかっていた。
私は靴をはきにいったん自分の部屋へもどり、それから家中を下から上までさがすつもりで正面階段をおりて行った。初めは静かにさがし、もしだめだった場合には、かたっぱしからドアをたたいて人々を起こし、彼女の姿が見つかるまで徹底的にやるつもりだった。一階と二階の中途まで来たとき、私はふと下の方に何か動くものを認めた――というよりも、チラッと何か動いたような気がした。それは街路に面した戸口の方から家の内部へ向かって動いたようだった。ちょうど階段の手すりが私の視野をさえぎっていたので、眼に見えたのは、数本の手すりの柱の間をひらめきすぎた影のような動きだった。急いで眼の焦点をそこにすえたときには、もう何も見えなかった。何か顔のようなものを見たと思ったが、それは私のような立場に立てば誰だって感ずることだろうから、結局実際に見たと言えるものは、何か青白い影のようなものだった。
だが、私が一階に達したときには、そこのロビーも廊下も完全に空虚だった。私は建物の後部へ向かって進みはじめたが、すぐ立ちどまった。というのは、そのとき私は、眼がさめてから初めて、自分自身が起こす音ではない何かの物音を聞いたからである。それは玄関のドアの向こう側から聞こえてくる靴のかかとを引きずる音だった。私は玄関の戸口に行くと、片手をかんぬきに、片手をかけ金にかけて、いっしょにそれをはずし、それから右手を拳銃に近よせて、左手でいきなりドアを引きあけた。エリック・コリンスンが石段のいちばん上に立っていた。
「こんなところで、君はいったい何をしていたんだ?」と、私は気むずかしい顔をして、たずねた。
話は長かったが、彼はひどく興奮していて、それをはっきり話すことができなかった。その言葉からだいたい判断すると、彼は毎日ガブリエルの容態をリーズ博士に電話できくことにしていたが、今日――というよりも、厳密には昨日だが――昨日は昼間も夜も運悪く博士を電話でつかまえることができなかった。で、今朝午前二時にもう一度電話をかけてみたところ、博士はまたも不在で、どこへ行っているのか、家の者も知らなかった。そこで、なんとかして私にでも会って、ガブリエルの様子をきこうと思い、この近所をうろついていた、というのだった。彼は、私が外を見ている姿を認めるまでは、戸口に来るつもりはなかった、と言った。
「君が何をしたまでだって?」と、私はきき返した。
「あなたの姿を見るまでは、ですよ」
「いつ?」
「一分ほど前ですよ。あなたは外を見ていたじゃありませんか」
「君の見たのは僕じゃないよ。どんなものを君は見たんだ?」
「誰かが外を見ていました――のぞいていましたよ。で、あなただと思って、角にとめてある車からとび出して、やってきたのです。ガブリエルに異常はありませんか?」
「大丈夫だよ」と、私は言った。彼女を探しているところだなどと告げて、彼をこの上興奮させても何の益もないと思ったからであった。「そんな大きな声で話さないでくれたまえ。リーズ家の人は博士がどこへ行ったのか知らないんだね?」
「知らなんですよ――みんな心配しているらしいです。でも、ガブリエルに異常がなければ、そんなことは問題ではありません」そう言いながら、彼は私の腕に手をかけた。「あの――彼女をちょっと見ることはできないでしょうか? ほんのちょっとでいいんです。何も言わなくともいいんです。僕が見ていることを彼女に知らせる必要はありません、そんなつもりじゃないんです――ただひと目見せてもらいませんか?」
この男は年も若く、背も高くて、強かった。そのうえガブリエル・レゲットのためなら、身を粉にすることもいとわない男だった。ところが、いまそのガブリエルの身の上になにか変事が起こったらしいことは私にも見当がついたが、それがどんなことなのかは、わからなかった。従って、それをどう処理したらいいのか、それにはどれだけの助力が必要ななのかもわからなかった。だが、彼をこのまま帰らせることは不可能だったし、一方今夜の事態をありのまま彼に知らせることもできなかった。そんなことをすれば、彼を野蛮人に変えてしまうことは必定だからだ。で、私は言った。「とにかく、はいりたまえ。僕はいま巡視中なんだが、静かにしているなら、一緒にきてもいいよ。あとでわれわれにできることを考えてみよう」
コリンスンは私のことを、まるで彼を天国に導く聖ペトロでもあるかのように見上げ、それから中に入った。私はドアをしめ、彼をロビーから中央廊下の方へつれていった。と、そのとき、ガブリエル・レゲットがわれわれのちょっとさきの角をまがって、とつぜん姿を現わした。足ははだしで、着ているものはわずかに、黒ずんだしみのついた黄色い絹のナイトガウンだけだった。歩きながら前につき出した両手には、ほとんど剣といってもいいような大きな短剣がにぎられていた。それは真っ赤にぬれていた。その両手も、むき出した腕まで、赤くぬれていた。頬の片方にも、血がベットリついていた。眼は澄んで、かがやき、おちついていた。その狭い額はなめらかで、口はかたく結ばれていた。少しも当惑したところのない視線を、おそらく当惑していたにちがいないわれわれの視線にじっと合わせながら、彼女は私のそばへ近よってきて、まるで私をここで見つけることを予期してでもいたように平然とした調子で、「これを取ってください。証拠品よ。わたし、あのひとを殺しました」と言った。
「えっ?」と私は言った。
彼女は相変わらず私の眼をまっすぐに見つめながら言った。「あなたは探偵でしょう。わたしを絞首台へつれて行ってください」
舌を動かすよりも、手を動かす方が、私には容易だった。私は血にそまった短剣を彼女の手から取りあげた。それは幅の広い、薄い双刃で、十字架に似た青銅の柄《え》がついていた。エリック・コリンスンはわけのわからぬことをブツブツつぶやきながら、私を押しのけるようにして、前につき出した両手をふるわせながら、彼女の方へ進みよった。すると、ガブリエルは急に顔に恐怖の色をうかべて、彼をさけるように壁の方へ後すざりした。
「この人にわたしをさわらせないでください」と、彼女は懇願するように言った。
「ガブリエル!」と、コリンスンは彼女に近づきながら、叫んだ。
「いけません、いけません!」と、彼女は喘《あえ》ぎながら言った。
私は二人の間にからだを割りこませると、片手で彼の胸を押し返しながら、言った。「おちつきたまえ、コリンスン君」
コリンスンはその大きな両手で私の肩をつかみ、私を押しのけようとした。私は短剣の重い青銅の柄で彼のあごに一撃をくわす身構えをした。が、そうまでする必要はなかった。私の肩ごしにガブリエルをながめると、彼は私を押しのけようとする意図も忘れて、肩をつかんでいた両手から力を抜いた。そのすきに私は彼の胸に片手をつっぱって、相手を壁のところまで押しもどした。そして、二人が互いに反対側の壁から顔を見あわせることができるように、私はすこし横にどいた。
「何が起こったのかわかるまで静かにしてくれたまえ」と、私は彼に言うと、それから彼女の方に向き直って言った。「いったい、どうしたんですか?」
彼女はふたたび落ちつきをとりもどして、言った。「来てください。お見せいたしますから。でも、どうか、エリックは来させないでください」
「この人にあなたの邪魔はさせませんよ」と、私は約束した。
それを聞くと、彼女は重々しくうなずいてから、二人を案内して廊下を後もどりし、角をまがって、少し開いている小さな鉄のドアのところまで行った。第一に彼女がその戸口を通りぬけ、次が私、コリンスンが私のあとにつづいた。戸口を通りぬけると、急に新鮮な空気がわれわれを打った。見上げると、暗い夜空にかすかな星影が見えた。わたしはふたたび眼をおとした。うしろの開いた戸口からさしてくる光で、われわれがいま歩いているのは白い大理石、あるいは大理石をまねた白い五角形のタイルの床であることがわかった。そこは背後からの光をのぞけば真っ黒だった。わたしは懐中電燈をつけた。ガブリエルは、タイル張りの床には冷たいにちがいない素足でゆっくりと歩きながら、行手にボーッと見える四角の灰色がかったものの方へまっすぐにわれわれを導いて行った。そのそばまで行くと、彼女は立ちどまって、「ここです」といったので、私は懐中電燈の光を向けた。光は輝くような白い水晶と銀の広い祭壇の上を照らし出した。三段になっている祭壇の段のいちばん下には、リーズ博士が仰向けの姿勢で、死んで横たわっていた。
博士の顔はまるで眠ってでもいるようだった。腕をまっすぐに両わきにのばし、上衣とチョッキのボタンははずれていたけれど、服はしわ一つついていなかった。ただシャツだけは血まみれで、そのシャツの前面には彼女が私に渡した例の短剣によってあけられたらしい、同じ形の、同じ寸法の穴が、四つあいていた。もうその傷口から血は出ていなかったが、額に手をあててみると、すっかり冷たくなっていた。血は祭壇の階段の上にも、また黒リボンのついた彼の鼻眼鏡がおちている下の床にも、ついていた。私は立ち上って、懐中電燈の光を娘の顔にあてた。彼女はちょっとまばたきして眼を細めたが、その顔は肉体的な不快さ以外に何もあらわしていなかった。
「あなたが殺したのですね?」と、私はきいた。
コリンスン青年は夢うつつのような状態からさめて、叫んだ。「いや、ちがう!」
「黙っていたまえ!」私は彼が二人の間に割りこめないようにガブリエルに身をよせて、「あなたがやったのですか?」とふたたび彼女にたずねた。
「びっくりなさって?」と彼女は静かに聞き返した。「あなたは、あの継母《はは》がわたしには呪われたデイン家の血が伝わっていると言ったとき――そしてその血がわたしや、わたしに触れるすべての人たちに、どんなたたりをするかって話をしたとき、その場にいたわね。こういうことを――」と、彼女は死体を指さしながら言った。「あなたはまったく予期なさらなかったの?」
「馬鹿なことをいうもんじゃありません」と、私は彼女の冷静さを考えながら、言った。前に彼女が麻薬をやりすぎたときの状態を見たことがあるが、こんどはそれとちがっていた。私には、この冷静さがどういうところから来ているのか、わからなかった。
「なぜあなたは、あの人を殺したのです?」
コリンスンは私の腕をつかんで、顔をつきあわすように、ぐるりと私のからだを廻した。彼は火のように興奮しながら叫んだ。「われわれはここで立ち話しているわけには行きませんよ。いっときも早く彼女をここからつれ出さなければいけません。それからあの死体はどこかへかくすか、それとも誰かほかの人間がやったように見えるところへ移さなければなりますまい。あなたはそういうことをよく知っているはずだから、ひとつうまくやってください。僕は彼女をつれて帰りますから」
「何だって? 僕にどうしろっていうんだい? フィリピン人のボーイの一人にでもおっかぶせろ、っていうのか? そうすれば、彼女のかわりにそいつが絞首刑になるだろうっていうのか?」
「そうです、その通りです。あなたはどうやればいいかよく知っているはずだから――」
「とんでもない話だ。君はまたえらいことを考えたものだね」
彼は顔を赤くしながら、どもった。「な、なにも僕は、だれかを絞首刑に、し、しようなんて、言いやしませんよ。僕は、そ、そんなことまで、してもらいたいと思ってやしませんよ。でも、彼にうまくここを立ちのかせることぐらいできるでしょう? 僕は――僕は、彼に相当の謝礼を出しますよ。そうすれば、彼は――」
「やめたまえ。時間の無駄だよ」と、私はどなった。
「しかし、あなただってそうする必要がありますよ」と、彼は主張した。「あなたは、ガブリエルの身に何ごとも起こらぬように、ここへ来たのだから、あくまでそういうことにしなければなりますまい」
「へえ? 君って人間は、たいした男だな」
「僕はうんと吹っかけられるでしょうが、払いますよ」
「やめたまえ」私は彼の手から腕をはなすと、ふたたびガブリエルの方を向いて、たずねた。
「これをやったとき、ほかに誰かいましたか?」
「いいえ、誰も」
私は、死体と、祭壇と、床と、壁面に、もう一度懐中電燈の光をあててみたが、前に見なかったもので新しく眼にふれたものは何もなかった。壁は白く滑らかで、われわれが通ってきたドアと寸分ちがわないドアが、反対側にもう一つあるだけで、ほかには一ヵ所もあいたところはなかった。飾りけのない白塗りのまっすぐな四壁が、六階の高さまでつづいていて、その上が空になっていた。私はリーズ博士の死体のそばに短剣をおき、懐中電燈を消して、コリンスンに言った。
「とにかくレゲット嬢を彼女の部屋へつれて行こう」
「いや、彼女は断じてここからつれ出さなければいけません。この家から。さあ、遅れないうちに!」
私は、血のついた寝室着に素足で街路を駈けぬけたら、さぞ彼女は立派に見えるだろうよ、と言った。彼が何かごそごそやっている音がきこえたので、もう一度懐中電燈をともしてみると、コリンスンはオーバーから腕をぬいでいるところだった。「僕は角に車をとめてあるから、そこまで彼女を運んでいきます」そう言いながら、彼はガブリエルにそのコートを着せかけようとした。
すると、彼女はパッと私の反対側に身をさけて、「ああ、あの人にわたしをさわらせないで!」と、うめくように訴えた。
私は彼をとめようとして、腕をさし出したが、力が足りなかった。彼女はうしろに廻ったが、コリンスンがそれを追っかけたので、こんどは前側に廻ってきた。私はちょうどメリーゴーランドの中心にいるような気がして、気持が悪かった。コリンスンがひと廻りして私の前にきたとき、私は肩をもっていきなり彼を祭壇の横へつきとばした。そしてこの大馬鹿野郎の前に立ちふさがって、どなりつけた。「やめないか! われわれと一緒にやりたいんなら、邪魔だてをやめて、言われた通りにしたまえ。そして、彼女にはかまわないでくれ。イエスかノーか、どっちだ?」
彼は両脚をふんばりながら、言った。「しかし、あんたは――あんたは――」
「彼女にかまわないでくれ」と、私はくりかえした。「それから僕にも干渉しないでくれ。こんど君が邪魔だてしたら、僕は拳銃の銃身で君のあごをぶんなぐるから。それでもやるというんなら、そう言いたまえ。そうする気か?」
彼はつぶやくように言った。「わかりました」
私が気がついて振りかえると、素足でタイルの床の上を音も立てずに走っていく灰色の影のようなガブリエルの姿が見えた。私はすぐそのあとを追っかけたが、私の靴は走りながらおそろしい音を立てた。ドアの内側でやっと追いついた私は、彼女の腰に腕を巻きつけるようにして抱きとめた。が、次の瞬間、私の腕はもぎはなされ、私は横っとびに壁にぶつかって、滑って膝をついた。闇の中で見ると六フィートもあるように見えるコリンスンが、私のすぐそばに立って、かみつくようにどなっていたが、彼の吐きちらしたたくさんな言葉の中から私が拾い上げることのできたのは、「畜生、いまいましいやつだ!」という言葉だけだった。
私は立ち上がると、思わず苦笑をもらした。気狂い娘のお守役だけではまだ足りなくて、彼女のボーイ・フレンドにまでこづき廻されなければならないのかと思うと、腹も立たなかった。私はわざと声をやわらげて、彼に言った。「君ともあろうものが、そんなことをするもんじゃないよ」それからドアの前に立っている娘のそばへ行って、「さあ、あんたの部屋へ行きましょう」と言った。
「エリックはいけません」と、彼女は抗議した。
「彼には、決してあなたの邪魔はさせませんよ」私はこんどこそ大丈夫だと思わせるように、言葉に力を入れて、ふたたび約束した。「さあ、行きましょう」
彼女はためらっていたが、やがて戸口を通って家の中に入った。コリンスンは、それには頭から不満らしかったが、黙って私のあとについてきた。私はドアをしめると、彼女に鍵《かぎ》をもっているか、とたずねた。彼女はそのドアに鍵があるかどうかも知らないというように、「いいえ」と答えた。
私たちは、エレヴェーターに乗ったが、その間もずっとガブリエルは、私を彼女と彼女の婚約者《フィアンセ》――彼が依然としてそうだとしての話だが――との間に、はさむようにしていた。コリンスンはぼんやりして、何も見ていなかった。私は彼女がこの騒ぎからうけたショックですでに正気をとりもどしているのか、それともまだそこまで行っていないのか、見きわめるために、それとなく彼女の顔を観察した。ちょっと見るとはじめの方の推測があたっているようにも見えたが、私には何となくそうでないような予感がした。祭壇から彼女の部屋へ行くまでに、われわれは誰にも会わなかった。スイッチを押して明りをつけてから、三人は部屋に入った。私はドアをしめて、それに背をもたせた。コリンスンはオーバーと帽子を椅子の上におくと、両腕を組んで、ガブリエルをながめながら立っていた。ガブリエルはベッドの端に腰をおろして、私の足を見ていた。
「さあ、すっかり話してください――早く」と、私は言った。
彼女は私の顔を見上げると、言った。「わたしはいま、眠りたいわ」
この言葉は私に関するかぎり、彼女の正気云々の問題を解決してくれた。つまり、彼女は少しも正気にもどってはいないのだ。だが、それよりもいま、私にはもう一つ気にかかることがあった。それはこの部屋の状態が、さっき見たときと正確に同じでないということだった。何十分か前に私が入ったときと、どこか変わっていた。私はそのときの記憶を呼び起こそうとして、眼をとじた。それから眼をあけて、室内を見廻した。
「眠ってはいけません?」と、彼女はたずねた。
私は彼女の質問にはすぐ答えずに、一つ一つの品物について調べながら、できるだけ丹念に室内をながめまわした。私がわずかにかぞえ上げることのできた変化は、コリンスンのコートと帽子が椅子の上にあることだけだった。それがそこにあることには何の不思議もなかった。私を悩ませたのはきっとこの椅子だったのだ、と考えた。だが、やはり気にかかったので、私は椅子のそばへ近よると、その上にのっているコリンスンのコートをつまみ上げた。見ると、その下には何もなかった。だが、それこそ前とちがっている点だった。前にはたしかに緑色の化粧着のようなものがのっていたのに、今はそれがないのだ。部屋の中を見廻しても、それはどこにも見あたらなかった。ただ緑のスリッパだけがベッドの下においてあった。
「いまは、眠ってはいけません。早く浴室へ行って、血を洗いおとして、着物をお着かえなさい。あなたの服を持っていって、着かえたら、その寝着《ねまき》をコリンスン君にお渡しなさい」そう言ってから、私はコリンスンの方を向いて、「受けとったら、それをポケットに入れて、待っていてくれたまえ。僕がもどってくるまで、部屋を出ないように。それから誰も入れてはいけないよ、長くはかからないから。君は拳銃をもっているかね?」
「いや、もっていません。しかし、僕は――」と彼が言いかけると、ガブリエルが、いきなりベッドから立ち上って、私の前に立ちふさがった。
「この部屋にエリックと二人だけおいて行かないでください」と、彼女は熱心に言った。「わたし、エリックと二人だけになりたくないの。今夜一人の男を殺しただけで充分だわ。わたしに、もう一人殺させないで――」彼女の態度は熱心だったが、興奮してはいなかった。まるで当然のことを言っているみたいな話しぶりだった。
「僕はちょっと出てこなければならないのです。でも、あなたを一人でおいとくわけには行かないから、僕のいう通りにしてください」
「あなたはいま、ご自分がしようとしていることがどんなことかおわかりになって?」と、ガブリエルは細い、疲れたような声で言った、「あなたはおわかりにならないのだわ。でなければ、そんなこと決してしないと思うわ」彼女はコリンスンの方に背を向け、顔を上げて、ささやくように言ったので、私は彼女の唇からもれるほとんど音のないそれらの言葉を、聞くというよりもむしろ見るといった感じで受けとった。「エリックはだめ――あの人を行かせてください!」
彼女の言葉は私の頭を変にさせた。私はあやうく彼女をそのいう通りにさせようかと思ったが、思い返して、かたわらの浴室を拇指でさして言った。「その方がよかったら、僕がもどってくるまで、あの中に入っていらっしゃい。コリンスン君にはここにいてもらいますから」
彼女は絶望的にうなずくと、化粧室に入って行った。そして腕に衣類を抱えて、浴室へ行くために、ふたたびそこから出てきたときには、眼に涙が光っていた。私はコリンスンに自分の拳銃を渡した。それを受けとる彼の手は、硬ばってふるえていた。私は言った。「こんどは馬鹿なまねをしないでくれよ。一度ぐらいは僕を困らせずに、手助けになってくれたまえ。誰を入らせても出しても行けないぞ。せっぱつまったら射ちたまえ!」
私の近い方の手をつかんで、力いっぱいにぎりしめながら、彼は何か言おうとしたが、言えなかった。私はその手をもぎはなすと、部屋を出て、リーズ博士の殺人現場へ引き返した。そこへ達するには、ちょっとした困難があった。数分前にわれわれが通った鉄のドアに、いつのまにか鍵がおりていたからである。鍵は簡単なものらしいので、私はポケット・ナイフについている妙な附属道具でそれを攻めたて、すぐあけることができた。だが、家の中で緑のガウンを見失った私は、こんどは祭壇の階段の上からリーズ博士の死体が消え失《う》せているのにぶつかった。短剣もむろんなくなっていたし、白い床の上の血痕も、かすかな黄色いしみを残しているだけで、あとかたもなく消えうせていた。誰かが片づけてしまったのだ。
十一 神
私はロビーに引き返し、さっき電話器を見かけた壁の凹所へ行った。電話器はあったが、通じなかった。電話器を放り出すと、私はその足で六階のミニー・ハーシーの部屋へ急いだ。今までこの混血女には手をやいたものだが、それでも見たところその女主人には献身的な女であるらしいから、電話が使えなくなった以上、せめて走り使いにでも彼女をたのみたいと思ったのである。
彼はほかの部屋と同じように鍵のないドアをあけて彼女の部屋に入り、うしろ手でドアを閉めてから、レンズに手をかぶせて懐中電燈をつけた。ベッドに眠っている褐色の娘をてらし出すには、指の間からもれる光で充分だった。窓はしまったままで、例のかすかにむっとする匂い――ちょうど花が枯れ死んだような匂い――で、空気が重苦しくよどんでいた。
私はベッドに寝ている混血娘をながめた。彼女は大きな口をあけて息をしながら、仰向けに死んだように眠っていた。見ているうちに、こんどは私自身がうとうとと眠気《ねむけ》をおぼえはじめ、いまさら彼女を起こすことが恥ずかしい行為のような気がしてきた。たぶん彼女は夢を見ているのかもしれない――そんなことを考えながら、わたしは頭のもやもやを払いのけようとして夢中で頭をふった。谷間の百合、夕顔――枯れた花――スイカズラもまじっているかしら? この疑問が私にはひどく大事なことのように思われた。懐中電燈が急に手の中で重くなった。持っていられないほど重くなってきた。ええ、こんなもの! と、私はそれを落とした。それは私の足にぶつかった。わたしは一生懸命に考えた。誰がおれの足にさわったのだろう? ガブリエル・レゲットがエリック・コリンスンから救ってくれ、と頼んでいるのだろうか? いや、そいつは筋が通らないぞ、でもそうかな? 私はもう一度、頭を振ろうとし、必死になってそれを試みた。まるで一トンも重さがあるみたいで、やっと一回横に動かすことができただけだった。私は体が揺れているような気がして、思わず片足を前につき出したが、足もすねもへなへなで、捏粉《こねこ》のようにたよりなかった。私はなんとかしてもう一歩前に出なければ倒れてしまうと考え、無理に頭を上げ、眼をカッと開いて一歩ふみ出した。見ると、顔から六インチばかりのところに窓が見えた。私は一生懸命に体を支えながら、ふらふらと前に進み、窓敷に股をぶっつけた。両手は窓敷の上にあった。私は窓のハンドルを見つけようと思って、いろいろ試みたが、見つからなかった。そこで、あらゆる手段をつくして窓を上へ持ち上げようとしたが、窓はビクともしなかった。両手は釘づけにされたように自由がきかなかった。いま考えてみると、私はそのときすすり泣いていたようだった。そして右手で窓敷をつかむと、あいている左手で窓ガラスの真中を力いっぱいなぐった。アンモニアのように刺激的な空気が、くだけたガラスの穴から流れこんできた。私は両手で窓敷にしがみつき、顔をその穴に押しつけて、口と鼻と眼と耳と毛孔とから、夢中で空気を吸いこんだ――しみる眼からポタポタ涙を流し、声をあげて笑いながら。私はふたたび自分の足と視力とにどうにか自信が持てるようになるまで、そこにしがみついて、空気を吸いつづけた。しかし、それ以上いつまでもそうしているわけには行かなかった。私はハンカチーフを口と鼻にあてると、窓から離れて、室内に顔を向けた。
すると、私から三フィートばかり離れたところに、一見人体のような恰好はしているけれども、生きた人間とは思えない青白い光ったものが、身もだえしながら、暗やみの中に光っているのだった。丈は高かったが、それは床の上に立っているのではなくて、床から一フィート以上も足が浮いているので、思ったほど高くはなかった。その両足――その怪物は足を持っていることは持っていたが、それがどんな恰好をしているのか私にはわからなかった。が、それは他の部分――すねや、胴や、腕や、頭や、顔とまったく同じように、きまった形をもっていなかった。それらの各部分は、たえずふくれ上ったり、もつれあったり、のびたり、ちぢんだりしながら、身もだえしていた。例えば、腕は胴体の中に呑みこまれたり、吐き出されたりしていたし、不恰好な口の上に垂れさがった大きな鼻は、顔全体が果肉のような両頬で占領されてしまうほど顔の中へちぢこんだかと思うと、すぐまたもとのように大きくなった。また二つの眼は顔の上部がなくなってしまうほど大きく見開かれたと思うと、次の瞬間には糸のように細く小さくなり、それからふたたび前にように大きく見開かれた。脚はよじれて一本の脚になったかと思うと、たちまち二本になり、三本になったりした。そんな調子で、体のあらゆる部分が間断なくよじれ、ふるえ、もがくのをやめないので、いったいそれがどんな外観をしているのか、もともとどんな形のものなのか、見当がつかなかった。要するにそれは、人間のような恰好はしているけれども、闇の中でもはっきり見え、湖水のように透明で流動性をもった、おそろしく歪《ゆが》んだ緑色の顔と青白い肌の、ふわふわした化物だった。
そのとき私は、自分でも枯れた花の匂いを吸ったために、体の調子が狂っていることに気がついていたが、それだからといって、目前の怪物が単なる幻覚だとはどうしても思えなかった。それは現に眼の前にいるのだ。身をかがめさえすれば手のとどくところに、私とドアの中間に、ふるえながら、もがきながら、浮かんでいるのだ。私は元来超自然的なものは信じない人間だが――ではいったい、その怪物はなんだろうか? それはたしかに実在するものだが、決して生きた人間にシーツをかぶせて発光塗料をぬったというようなトリックではなかった。私は考えるのをあきらめて、鼻と口にハンカチーフをあてたまま、身動きも、呼吸も、おそらく体内の血行さえとめて、じっと立っていた。私はそこにいた。そしてそいつもそこにいた。私はじっとそのまま動かずにいた。
すると、そいつはしゃべったのである。実際にことばを聞いたとはいえないけれど、たしかにしゃべったのである。ちょうど全身でそのことばを意識でもしたように、私は聞いたのである。
「大神の敵よ、坐れ! ひざまづけ!」私は思わず乾いた舌で唇をなめるために身を動かした。「大神に逆らうものよ、坐れ、神の怒りの下る前に!」
その言葉の趣旨だけは、私にもどうにかわかった。私はハンカチーフを動かすと「くそ、消《う》せやがれ!」と言った。が、それはきしるような声で言われたので、間が抜けてひびいた。怪物は相変わらずけいれん的によじれ、ゆれながら、私のほうへ身をかがめた。私はハンカチーフを落すと、いきなり両手をのばしてそいつにとびかかった。私は相手をつかまえたと思った。が、実際は何もつかまえていなかった。というのは、私は両手でそいつをおさえ、そいつの手首をつかみ、そいつのからだの真ん中へ手を突っこみさえしたのだが、手の中に残ったのは、ただ、温かくも冷たくもない、温度のない、湿気にすぎなかったからである。
それと同じ湿気は、そいつの顔がふわりと私の顔にぶつかってきたときにも感じられた。私はそいつの顔にかみついた。が、それは何の歯ごたえもなかった。それでいて私自身は、自分の顔がそいつの顔の中に入っているのを、はっきり眼で見、心に感ずることができたのである。そしてそいつは、私の手の中に、顔の上に、からだのまわりに、のたうち、ふるえ、真っ暗な空中で気狂いのように離れたり合わさったりしながら、ふらふらとゆれているのだ。私はそいつの透明なからだを通して、自分の両手の湿った体内でしっかりにぎりしめられているのを見ることができた。私は両手をほどくと、指をまげて、そいつのからだの中を上下にかきまわした。すると、たちまちそいつは引き裂かれてバラバラになったが、私が手を休めると、すぐまたふわふわと一体になってしまった。そして私の手にふれたものは、ただ湿気だけだった。
そのとき、ふと私は、もう一つの感じを――まるで私の上にのしかかってくるような窒息的な重量感を覚えた。それはひとたび感ずると、急速に増大して行った。固体でないこいつが重さを――しかも私を押しつぶすような重さを、もっていたのだ。私の膝はその重さで今にもくず折れそうになった。私はそいつの顔につばを引っかけると、右手をそいつのからだからなはして、力いっぱい顔をなぐりつけた。しかし、私が感じたのはやはり拳《こぶし》をかすめた湿気だけだった。私はもう一度この、実にはっきり眼に見え、かすかながら皮膚に感じられる物体を引き裂こうとして、左手でそいつの体内をかきむしった。するとその左手の上に何かがついているのが見えた――それは血だった。指の間から流れ出て、手を一面に染めている、黒い濃い血の流れだった。私は大声で笑い、背中にのしかかってくる重みをはねのけるようにして、そいつの内部をかきむしりながら、ふたたびしゃがれた声でどなった、「畜生、きさまの臓腑《ぞうふ》をえぐり出してやるから!」指の間からはますます血がほとばしり出た。私は勝ちほこったようにもう一度笑おうとしたが、咽喉《のど》がつまって声が出なかった。私の上にのしかかってくる重みは、前の二倍となった。私はよろよろと後ずさりしながら、壁にぶつかって、あやうく自分をささえた。こわれた窓の穴から流れこんでくる冷たい澄んだ空気が肩ごしに鼻孔を刺激した。それは、私がいままで呼吸していた空気とのちがいから、あの重さは化物の重さではなく、毒の花の香料のせいだということを私にわからせた。そいつの緑がかった青白い湿気は、なおも私の顔やからだにまつわりついてきた。私は咳をすると、そいつのからだの真ん中を突っ切って、ふらふらと戸口までよろめいて行き、ドアをあけるといっしょに廊下へころげ出た。廊下は室内と同じように真っ暗だった。
ころげ出ると同時に、何ものかが私の上に折りかさなって倒れた。だが、これは別に説明できないようなものではなかった。それは人間だった。私の背中を強く打ったのは、人間の膝だった。私の耳が感じた熱い息も、人間の息だった。また私の指がつかんだ腕も、たしかに痩せた人間の腕だった。私はその腕が痩せているのを、神に感謝した。廊下の空気は私をかなり元気づけてくれたとはいえ、まだ拳闘家と格闘する元気はなかったからである。私は全力をしぼってその痩せた腕をにぎると、ぐるりとからだを回転させながら、その男を下に組み敷いた。回転する拍子に、そいつの痩せたからだの外へとび出した私の左手は、そのとき床の上に落ちていた何か固い金属的なものにぶつかった。私は手首をまげながら、指でその物体をさぐってみた。それはリーズが殺された例の大型の短剣だった。私はとっさに、自分の組み敷いているこの男は、私がミニーの部屋から出てくるところを斬りつけるつもりで戸口に立っていたのだな、と察した。私がころげ出た拍子に私の足にぶつかったため、彼は足をすくわれて、やりそこなったにちがいない。彼は私の百九十ポンドの体重におさえつけられながらも、顔を床の上にふせたままの姿勢で、私を蹴ったり、突いたり、さかんにあばれていた。私は右手を彼の腕から放すと、短剣をにぎったままそれを彼の後頭部にあて、顔を敷物にこすりつけながら、ひと息ごとによみがえってくる力を待った。あと一、二分すれば、彼を引っぱり起こして、泥を吐かせることもできると思った。
だが、私はそれまで待つことを許されなかった。というのは、そのとき不意に何か固いものが私の右の肩を打ち、つづいて背中と、われわれの頭のすぐそばの敷物とを打ったからである。だれかが棍棒をふり廻しているのだった。私は痩せた男を放して転がった。すると、棍棒をふり廻しているやつの足が、わたしのからだの回転をとめた。私はとっさに右手でその足をかかえたが、背中にまた一発くった拍子につるりと足をぬかれ、同時に手にスカートのようなものがさわった。私はハッとして手をひっこめた。が、つづいてまたも一発――こんどは脇腹にとんできた棍棒が、私に、ここは婦人に対して礼儀を重んじている場所ではないことを思い出させた。私は拳を固めると、そのスカートを打ち返した。スカートは私の拳にまつわりつき、肉づきのいい脛《すね》が私の拳をとめた。脛の持主は私の頭の上で何か叫んだが、私がもう一度打つ前にうしろへとびのいた。両手と両膝で四つんばいになった私は、そのとき頭を何かの板にぶっつけた――それはドアだった。ノブにかかった手が私を助け起こしてくれた。一インチとはなれぬ闇中で棍棒が空を切る音がした。ノブは私の手の中でまわった。私はドアといっしょに室内にはいり、できるだけ音を立てないようにドアをしめた。
すると、私のうしろで非常に柔らかだが、しかしまた非常に熱心な声がした。「すぐここを出て行ってください。さもないと射ちますよ」それは私のとつぜんの侵入にびっくりした、例の肉づきのいい金髪女中の声だった。私は万一射たれた場合の用心にからだをかがめながら振りかえった。明け方近い、にぶい灰色の光線が、差しだした片手に何か小さな黒いものをにぎってベッドの上に坐っている影をポーっと浮かび上がらせた。
「僕ですよ」と、私はささやいた。
「ああ、あなたなの」そう言いながら、彼女はそれでも手にもったものを下げようとはしなかった。
「この騒ぎに、君はこの部屋の中にいたの?」私は思いきってゆっくりとベッドの方へ一歩進みながらたずねた。
「あたしは言われた通りのことをして、口にもふたをしているけれども、力仕事はいやですわ。お金をいただいてもご免よ」
「そりゃいい心がけだよ」と言って、私は足ばやにベッドの方へ近づきながら、「シーツを二、三枚つなぎ合わせれば、この窓から下の床へ飛びおりられるかしら?」
「さあ、わからないわ――あら! やめて!」
私は右手でその拳銃――〇・三二口径の自動拳銃――をつかみ、左手で彼女の手首をおさえると、手をねじり上げた。
「はなしたまえ!」私が命じると、彼女はおとなしくはなした。私は二、三歩もどって、ベッドの脚もとに落としておいた短剣をひろい上げた。ドアに近づいて、耳をすましてみると、何もきこえなかった。私はゆっくりとドアをあけた。灰色の薄闇を通して廊下には何も見えなかったし、何の音もきこえなかった。ミニー・ハーシーの部屋のドアはさっきころがり出たときと同じようにあいていた。私が戦った相手はもうそこにはいなかった。私はミニーの部屋に入って、スイッチをひねって明りをつけた。彼女はさっきと同じように、ぐっすりと死んだように眠っていた。私は拳銃をポケットに入れると、ミニーを抱き上げて、前の女中の部屋に運んで行き「生きかえらせるかどうか、やってみたまえ」と言って、混血女を彼女のそばに寝かせた。
「もう少しすれば、すっかり回復してよ。みなさんいつもこうなのですから」
「へえ、そうかね?」と言って、私は部屋を出ると、急いで五階のガブリエル・レゲットの部屋へ言った。が、ガブリエルの部屋は空っぽだった。彼女が浴室へ持っていった衣類もないし、血のついたナイトガウンもなくなっていた。
私はそこにいない二人にさんざん悪態《あくたい》をあびせてから――自分では|えこひいき《ヽヽヽヽ》なしのつもりだったけれど、たぶんその大部分はコリンスンに向けられていたかもしれなかったが――それから電燈を消し、憤懣《ふんまん》と打ちのめされた気持をいだきながら、片手に赤い短剣を、片手に拳銃をにぎって、正面階段を駈けおりた。五階から二階までは何も聞こえなかったが、二階にきたとき下の方に小さな雷のような音がきこえた。残りの階段を一足とびに飛びおりると、それは誰かが正面玄関のドアをたたいた音だということがわかった。私は制服の巡査であってくれればいいと念じながら、急いで戸口の錠をはずして、ドアをあけた。眼を大きく見開き、真っ青な顔をした、狂人のようなコリンスンが立っていた。「ガブリエルはどこにいますか?」と、彼は喘《あえ》ぎ喘ぎ言った。
「何を言ってるんだ!」私は言うが早いか、持っていた拳銃で彼の顔をなぐりつけた。
彼はぐらぐらと前のめりによろけて、玄関の反対側の壁に手をついて、からだをささえたが、ちょっとの間そうしていてから、のろのろとまたからだを起こし、「ガブリエルはどこにいますか?」と、頑固にくりかえした。
「君こそ彼女をどこにおいてきたんだ?」
「ここですよ。僕は彼女を連れ出そうとしたところ、彼女は通りに誰かいやしないか見てくれといって、さきに僕をおもてへ出したんです。すると、ドアが閉まってしまって――」
「君はいい男だよ」と、私はつぶやいた。「彼女はいまになっても、あのいまいましい呪いから君を助けようと思って、君をだましたのさ。いったい、なぜ君は僕の命じた通りにできなかったんだ? まあいい、来たまえ。いっしょに見つけよう」
彼女はロビーの先の、どの応接室にもいなかった。二人は応接室の明りをつけっぱなしにしておいて、本廊下をさきへ急いだ。と、とつぜん白いパジャマを着た小男が眼の前の部屋の戸口からとび出だしてきて、私にぶつかり、足にからみついて、私を面くらわせた。彼は何かわけのわからぬことを口走っていた。私はその男を引きはなして、よく見ると、それはマニュエル少年だった。すっかり度を失っている少年の顔は涙でぬれ、その泣き声は彼が言おうとする言葉をめちゃめちゃなものにした。
「気をおちつけるんだ、君。何を言ってるのか、さっぱりわからんじゃないか」
やっと私は、少年が「彼に彼女を殺させないでくれ」と言っているのがわかった。
「誰が誰を殺すというんだ? ゆっくり、おちついて、言いたまえ」
彼はとてもゆっくり話す余裕なんかなかったが、それでもどうやら彼が「父《ファザー》」と「母《ママ》」といったのを聞きとることができた。
「君のお父さんが君のお母さんを殺そうとしているんだね?」この結びつきがいちばん妥当に思われたので、私がそうたずねると、少年はうなずいた。
「どこで?」と、私は重ねてきいた。
少年は行手に見える鉄のドアに向かって手を振った。私はその方をじっとながめてから言った。「よく聞きたまえ、君! わたしは君のお母さんを助けてあげたいけれど、その前にまずレゲット嬢がどこにいるか知る必要があるんだよ。君はレゲット嬢がどこにいるか知っているかね?」
「あそこにいっしょにいます。早く、さあ、早く行ってください!」と、彼はわめいた。
「よし、さあ行こう、コリンスン君」
私たちは鉄のドアまで競争で走った。ドアはしまっていたが、錠はおりてなかった。私はパッとドアを引きあけた。祭壇は建物の屋根の端から斜めにさす青白い強い光線で、白と銀色と水晶色にキラキラ輝いていた。祭壇の一端に、ガブリエルが顔を朝の光に向けてうずくまっていた。その顔は強い光線の中で幽霊のように白く無表情だった。見ると、アーロニア・ホルドーンが、先刻リーズが横たわっていた祭壇の段の上に横たわっていた。額には黒い傷痕が見え、手足は幅の広い白の布バンドでしっかりとしばられ、両腕も胴体にしばりつけられていた。着ている服はそこらじゅう裂け切れていた。祭壇の前には、白衣のジョゼフが立っていた。彼は両腕をひろげて高くあげ、背と顎を、そのひげ面が空へ向くくらい曲げていた。右手には普通の角の柄のついた。長い湾曲した刃の肉切庖丁をもっていた。彼は空に向かって何かしゃべっていたが、背をわれわれの方へ向けていたので、何を言っているのか聞きとれなかった。われわれが戸口を通ったとき、彼はその腕をおろして、妻の方へ身をかがめた。まだわれわれと彼との距離は三十フィート以上あった。私は大声で「ジョゼフ!」と、どなった。
彼はもう一度からだを真っすぐにのばすと、こっちを振りかえった。私は肉切庖丁がまだきれいで、ギラギラ光っているのを見た。
「もはやジョゼフでないわしのことを、ジョゼフと呼ぶのは誰じゃ?」と、彼は言った。それをきくと、正直なところ私はおもわずその場に――彼からまだ十フィートもはなれているその場に――立ちどまってしまい、彼をながめ、彼の声に聞き入りながら、こりゃ何か恐ろしいことが起こったのかもしれないぞ、という気になり出した。
「ジョゼフはおらぬ」と、彼は自分の問いに対する答えを待たずに、なおも言葉をつづけた。「いまにお前らにもわかるだろうが、これまでお前らの間でジョゼフとして通ってきた彼は、もはやジョゼフではなく、神ご自身であるのじゃぞ。それがわかったら、さあ、行け!」
あたりまえなら、私は「何をたわごと言うか!」と言って、彼にとびかかったに違いない。ほかの相手だったらおそらくそうしただろう。だが、私はそれをしなかった。それどころか、私はこう言ってしまった。「僕はレゲット嬢とホルドーン夫人をつれて行かなければならないのです」しかも、私はそれをうじうじと、ほとんど弁解でもするように言ったのだ。
彼はぐっと背をのばすと、その白いひげ面をおごそかにひきしめながら、ふたたび命令した。「行け! お前の挑戦が破滅を招かぬうちに、わしから去れ!」
アーロニア・ホルドーンが、そのとき、しばられたまま横たわっている階段の上から、私に向かって言った。「射って! 射ってください! 早く、射ってください!」
私は彼に言った。「僕はお前さんの名前が何であろうと、そんなことは問題じゃないよ。どうせ君は警察に行く人間だ。さあ、そのナイフを捨てろ!」
「神を恐れぬ不敬者め!」と、彼は大喝して、一歩私の方へ近づいた。「お前こそ死ぬがいい!」
普通なら、彼のそんな態度は滑稽に見えたにちがいない。だが、その時はそうでなかった。私は思わず「とまれ!」とどなった。が、彼はとまろうとしなかった。私はおそろしくなった。私は発砲した。弾丸は彼の頬に命中した。私は弾丸がつくった穴をはっきりと見た。だが、彼は顔の筋ひとつ動かさなかった。瞬《またた》きさえしなかった。彼はゆうゆうと、急がずに、私の方へ向かって進んできた。私は自動拳銃の引金に指をかけ、つづけざまに六発の弾丸を彼の顔と胴体とに射ちこんだ。私はそれらの弾丸がすべて命中したのを見た。しかし、彼はそんなことは意識もしないといった様子で、つかつかと大股に進んできた。その眼と顔はおごそかだったが、怒ってはいなかった。そして、私の前までくると、その手ににぎっていたナイフを頭上高くかざした。それは決してナイフで戦うやりかたではなかった。彼は戦っているのではなかった。私に天罰を与えようとしているのだった。ちょうど親が幼い子供を罰しようとするとき、子供が逆らうのを気にとめないのと同じように、彼は私が止めようとする企てに何の顧慮《こりょ》も払っていないのだった。
だが、私は戦っていた。二人の頭上にかがやくナイフが私めがけて振りおろされたとき、私はとっさにとびこんで、彼のナイフをもった方の手を右腕でささえ、左手ににぎった短剣を相手の咽喉へ突き刺した。私は十字架状の柄だけを残して、その重い刃を柄もとまで彼の咽喉に突き通した。
私は思わず眼をとじた。ふたたび眼をあけてそれに気がつくまで、私は自分が眼をとじたのを知らなかった。眼をあけて最初に見たものは、まばゆい朝の光線から彼女の顔をそむけさせようとしてガブリエル・レゲットのそばに膝まづいているエリック・コリンスンだった。次に見たものは、明らかに祭壇の段の上に気を失って横たわっているアーロニア・ホルドーンと、泣きながらふるえる手で彼女の縄をひっぱっているマニュエル少年だった。それから、ようやく私は自分が両脚をひろげて立っているのと、その脚の間にジョゼフが首に短剣を突きさされたまま倒れているのを見た。
「彼が本当に神でなくてよかった」と、私は自分自身につぶやいた。
白衣の褐色の女が、私のそばを走りすぎた。ミニー・ハーシーだった。彼女はガブリエルの前に身を投げると、大声で叫んだ。「ああ、ガブリエルお嬢さま、あたくしはあの悪魔がまた生き返って、あなたを追っかけてきたのかと思いました」
彼は混血女のそばに近づいて、肩をつかまえて起こしながら、言った。「あの人がいったいどうしたんだ? お前があの人を殺したんじゃないのか?」
「はい、旦那さま、でも――」
「しかし、お前は、彼がまた違った形でやってきたのかもしれないと思ったのだろう?」
「は、はい、旦那さま。あたくしは、あのひとが――」と、彼女は言いかけて、唇をとじた。
「僕だと思ったのだろう?」
彼女は私を見ずに、うなずいた。
十二 神聖ならざる聖杯
オーウェン・フィッツステファンと私は、その晩もまたシンドラー夫人の店で自慢の夕食をたべた。といっても、私の方は話の合間合間にすきを見てつめこんだにすぎなかった。フィッツステファンの好奇心は、矢つぎばやの質問と、あの点この点をもっとはっきりさせろという要求と、私がちょっとでも息をついたり食べようとしたりすると早く先をつづけろという命令とで、私を少しも休ませなかったからだ。
「君はこんどの事件になぜ僕を関係させなかったのだ?」と彼はスープの出ないうちから不平を言った。「僕は君も知ってるように、ホルドーン家の連中を知っている。少なくとも一度や二度はレゲットのところで会っている。君は、僕を参加させる口実として、この事実を利用することができたはずだ。そうすれば、僕はなにも君の話や新聞の興味本位な想像的記事を頼りにしなくとも、直接ことの真相を知ることができたのに、残念だよ」
「もっとも僕は、」と、私は言った。「一人この事件に関係させたために、ひどい目にあったよ――エリック・コリンスンさ」
「君がいくら彼に手を焼いたからって、そりゃ自業自得というものさ。こんなに役に立つ男がいるのに、すき好んでちがった助手を選んだのだからね。だが、まあいいや。僕は耳をすましているから、ひとつ話してみてくれ。そうすれば、君のどこがまちがっているか、言えると思うよ」
「よし」と私は言った。「君ならきっとできるだろう。もっともあのホルドーン夫婦は元来が役者の上に、僕がこれから君に話す事柄の大部分はホルドーン夫人の口から出ているのだから、だいぶ眉つばの点があるかもしれんよ。フィンクのやつは全然しゃべらないし、ほかの召使たちは――女中にしても――たいして役に立つことは知っていないらしいのだ。で、結局アーロニア・ホルドーンの話を基礎にするほかないのだが、彼女にいわせると、アーロニアもジョゼフも役者としてはかなり立派な才能をもっていたが、さっぱりうだつが上がらなかった。それで、一年ほど前、彼女はある知合いの老人のところへ相談に行った。この老人も以前は俳優で、彼らと一座したこともあったが、その後舞台をすてて説教師となってからは、とんとん拍子にそれがあたって、いまでは汽車の代りにパッカードを乗り回すようになっていた。
このことは彼女にいろんなことを考えさせた、というのだ。彼女の頭には、すぐエイミーとか、ブックマンとか、ジェドゥーとか、その他この道の大立者《おおだてもの》のことが浮かんだのだそうだが、結局、人にできることなら自分たちにもできないわけはないだろう、と考えたのだね。そこで二人は――といっても、ジョゼフは頭の足りない男だから、彼女が中心になって、アーサー王時代にあったゲール教会の再興とかなんとかいう触れ込みで、いいかげんな礼拝宗教をでっち上げたというわけさ」
「うん」と、フィッツステファンは言った。「アーサー・マケンのあれだな。で、それから?」
「そこで、彼らは誰もがやるように、この新宗教をカリフォルニアへ持ちこんだ。それも、ロサンゼルスよりは競争者が少いという理由で、サンフランシスコを選んだ。そのとき彼らが一緒につれてきたのが、以前有名な奇術師や手品師の舞台装置をやっていたフィンクというあの小男と、村の女|鍛冶屋《かじや》のような大女の女房だよ。彼らは多勢の金のない信者よりも、少数の金持の信者を欲した。初めははかばかしく行かなかったが、そのうちにとうとうロドマン夫人をつかまえることに成功した。彼らは夫人の所有物であるアパートの一つを手に入れたばかりでなく、その改造費まで彼女に支払わせたという話だ。改造は舞台装置家のフィンクが担当し、万事手際よくやってのけた。それまで各部屋についていた台所はもう必要がなくなったので、それを秘密戸棚に改造したし、また彼はガス管や水道管や電燈線を彼らのインチキ仕事に利用する方法もちゃんと心得ていた。
いまここで、君にそのくわしい話をしている暇はないが、一例をあげると、ベッドの下の羽目板の中を通って暗い部屋の隅につき出ている秘密のパイプから蒸気を立ちのぼらせるようにし、それに適当な光をあてることによって幽霊を現出させる仕掛けなどがそれだよ。光のあたらない蒸気の部分は暗中では見えないから、こっちの眼にはブルブルふるえたり、のたうったりしている人間の形が見えるだけで、感触はあっても固さの全然ない湿《しめ》っぽい化物ができ上がるわけだ。ところで、もし彼らがこの蒸気の化物をぶっ放すまえにポンプで室内に特殊な薬品を放出し、それを君がうんと嗅がされていたとしたら、君だってきっと、いま僕がいった蒸気の塊《かたまり》を何か気味のわるい、得体の知れないものと考えるにちがいないよ。彼らがエーテルを使ったか、クロロホルムを使ったか、あるいは何を使ったか、僕にはわからないが、その匂いを巧みにある種の花の香りに似せていたことは、たしかだ。この化物と――僕は大真面目に戦ったのだよ。そして、外気を入れようとして窓ガラスをたたき破ったため手に怪我したこともわすれて、僕は相手に血を流させたのだと考えたのだから、世話はないさ。
とにかく、たいしたもんだよ。わずか二、三分間を何時間にも思わせただけでもね。最後のドタン場になって、ホルドーンが狂い出すまで、やつらの仕事には一点の手抜かりもなかったわけだ。やつらは、できるだけの威厳と秩序と自制とをもって、そのおつとめ――礼拝をつづけながら、手品はすべて犠牲者の寝室でこっそり行うという方法がとられた。まず、好い匂いのするガスがポンプで放出される。次に、照明をあてられた蒸気の化物がその犠牲者に命令を与えるために、同じパイプから送り出される声――いや、声の方は別に仕掛けがあるのかもしれないが――とにかく声といっしょに、彼の上にかがみこむ。ガスは鋭い眼や疑惑をもつことを防げるだけでなく、その意志を弱めもするので、彼は命ぜられた事柄を無条件で実行せずにはいられないような気分になる。実にうまいもんだよ。やつらは、この手でしこたま儲けたに違いないよ。部屋に一人で閉じこめられていると、これらの幻覚は大いに権威をおびてくるものだし、それにホルドーン夫婦は彼らに対する態度によっていっそうそうの気分を促進することもできただろう。これらの幻覚に関して論じ合うことは、必ずしも禁じられてはいなかったが、むろん奨励はされなかったし、誰も口にするものはなかった。というのは、この種の現象は、犠牲者と神との間だけの機密に属することであって、口に出して吹聴《ふいちょう》するにはあまりに神聖なものと考えられていたからだ。従って、それに触れることは、たとえ相手がジョゼフであろうと、特別の理由がないかぎり、つつしまねばならぬ行為とされていたのだ。いかにそのカラクリが巧妙をきわめていたかが、わかるだろう。しかも、ホルドーン夫婦は、これからの幽霊問題にはいっさい無関心な態度を示し、犠牲者がその幽霊からどんな指図をうけたか、またそれを実行したかどうかにも、興味をもっていないような振りをしていた。それは犠牲者と神とだけの問題であって、ほかの人間の関与すべきことではないというのが、彼らの主張だったのだよ」
「なかなか巧妙だね」と、フィッツステファンは愉快そうに微笑して言った。「一般のやり方と正反対じゃないか――その点普通の宗派では、ざんげとか、信仰の宣言とか、その他何らかの形式で神秘の広告を強要するものだがね。さあ、先をつづけてくれ」と、彼は私が食事をとろうとするのを見て、先をうながした。「会員とはどういう連中なんだね? 彼らはその礼拝をどんな風に考えているんだ? そのうちの誰かと、君は話してみたんだろう?」
「ああ、――しかしあんな連中に何が期待できるもんか。彼らの半数は、いまでもアーロニアと一緒になってごまかそうとしているんだからね。僕はロドマン夫人に、亡霊の出てくるパイプの一つを見せてやったよ。すると、彼女はちょっと息をつめ、二回つばをのんでから、あなたがたをカトリックの寺院に連れていって、そこにある聖像を見せてあげましょう、と言ったよ。つまり、それらの聖像は(十字架の像まで含めて)蒸気よりももっと固い土質のものでできているというのだ。そして本当の血や肉が――たとえ神聖なものだあろうとなかろうと――その聖餅安置器の中にないからといって、それを証拠にあなた方はそこの僧正を逮捕するでしょうか、とたずねたよ。善良なカトリック教徒のオッガーだったら、きっと彼女を棍棒でぶんなぐっただろうと思うね」
「コールマン家の連中はそこに来ていなかったかい? ラルフ・コールマン家の連中さ?」
「いや、いなかった」
「そいつは残念だったな」と、フィッツステファンはニヤニヤしながら言った。「僕はラルフをたずねて、質問してみなければならない。もちろん彼はいまでも世を忍んでいるだろうが、ひとつ狩り出す価値があるよ。あの男は、どんな馬鹿げたことをやった場合にも、それに対して常に辻つまの合うようなりっぱな理由をつけるからね。彼は広告屋だよ」フィッツステファンは私がまた食べだしたのを見ると、もどかしそうに言った。「さあ、君、先を話した!」
「君はホルドーンに会ったことがあるね。あの男をどう考えるね?」
「彼には二度会ったと思う。たしかに印象的な男だよ」
「そう」と、私も同意した。「あの男は自分に必要なものをもっている。話したことがあるかい?」
「ない。つまり〈お会いしてうれしい〉というような儀礼的な言葉しか交わしたことがないよ」
「すると、君を見てちょっと言葉をかけただけで、あの男は君の内部に何か反応を与えたわけだね。僕はめったものに眩惑《げんわく》しない人間だが、あの男には参らされたよ。いまいましい話だが最後には彼が本当に神ではないかと信じそうになったのだからね。彼はまだ三十代だが、あのジョゼフ神父の顔つきに似せるために髪もひげも染めていた。彼の細君はいつも彼が何か行動するときには、かならずその前に催眠術をかけることにしていたそうで、催眠術がかかっていないときは人々に影響を与えることができなかった、と言っている。が、のちには彼は、彼女の手をかりずに自己催眠を行うことができるようになり、しまいにはそれが常態になってしまったらしい。
ところで、細君の方は、ガブリエルが教会に滞在するようになってからも、しばらくの間、自分の亭主が彼女にぞっこん惚れこんでいることを知らなかった。彼女は、亭主もまた自分と同じようにガブリエルのことを――最近起こったトラブルのために自分のふところに飛びこんできた有望なお客さんだと考えているものと、思っていたのだ。ところが、ジョゼフはいつのまにか彼女に夢中になり、彼女をなんとかして自分のものにしたいと考えるようになった。もっとも、彼がどんな風に彼女に働きかけたか、それがどの程度まで進んでいたかは、もちろん僕は知らないよ。だが、僕の想像するところでは、彼はデイン家の呪いに対する彼女の恐怖を利用し、例のトリックを用いて、彼女を完全に自分の支配下におこうとしたのじゃなかろうか、と思う。とにかく、そんなわけで、リーズ博士は彼女の容態が急変したのに気がついた。そこで、昨日の朝僕に、夕方また来ると約束し、事実その通り来たのだが、彼は彼女にも僕にも会わないうちに、ああいうことになってしまったのだよ。彼はガブリエルの部屋に行く前に、ジョゼフに会っておこうと思って階下へ引き返したところ、そこで偶然ジョゼフがフィンクに命令を与えているのを立ち聞きしてしまったのだ。本来ならそれで万事解決したはずなのだが、そうは行かなかった。というのは、うかつにもリーズは立ち聞きしたことをジョゼフに知られてしまったのだ。そこでジョゼフはリーズをとらえて監禁した――捕虜にした、というわけさ。
一方、ミニーに対しては、彼らは初めから思うままにふるまった。彼女のような黒白混血児は、この種のトリックには極めてかかりやすい上に、彼女はガブリエル・レゲットに対してはめずらしく献身的な女だ。この弱点を利用して、彼らはこの哀れな混血女にリーズを殺させようと決心したのだ。彼らはまずリーズに麻薬をかがせて、祭壇の上に寝かしておいてから、こんどはミニーに例の幽霊と声のトリックを使って、リーズを悪魔だと信じこませた。この悪魔は、ガブリエルをさらって彼女が聖女になるのを邪魔するために、地獄からやってきたのだと彼女に思いこませてしまった。あとはもう問題ではなかった――幽霊から、お前は女主人を守るために選ばれた女である、お前は浄《きよ》められた武器をテーブルの上に見出すだろう、と言われると、よろこんでその命令に従った。彼女はベッドから起き出て、テーブルの上においてあった短剣をつかむと、祭壇に走って行って、リーズを刺し殺してしまった。彼らはミニーがこの仕事を遂行する間、僕をふらふらにしておくために、僕の部屋にガスを放出したわけだ。だが、僕はひどく神経質になっていたものだから、ガス・パイプのそばのベッドには寝ずに、部屋の真ん中の椅子の上に眠っていた。そのため、夜があまり更《ふ》けないうちに、麻薬からさめることができた。
ところが、このときまでに、アーロニア・ホルドーンは二つの発見をした。第一は、ガブリエルに対する亭主の関心が決して金銭づくのものではないということ、第二は、彼がすでに正気を失って、危険な狂人になっているということ、だった。いつも催眠状態におかれていた彼の脳髄《のうずい》は、そのためにだんだん正常な機能を失ってそのときは完全に支離滅裂な状態になっていたと彼女は言っている。彼女に言わせると、彼はなんでもできる。どんなことでもやり終《おお》せると考えた。全世界をして自分の神性を信じこませることもできると夢想した。彼はすでに、自分は神聖にして犯すべからざるものだ、という気狂いじみた観念を実際に抱いていたので、世界をだますことがどんなに難しいことかということも分からなかったのだ、と彼女は言っている。だが、僕はそこまでは考えないね。彼は自分がそんなものではないことを充分承知の上で、ただ世間をだますことはできる、と考えたのだと思う。が、この点はどっちだって、たいした違いはあるまい。問題は彼が自分の力の限界を知らない誇大妄想狂になっていたということさ。
だが、アーロニア・ホルドーンは、(彼女に言わせると)リーズの殺人が行われるまで、そのことを知らなかったそうだ。ジョゼフは例の幻と声のトリックを使って、ガブリエルに祭壇の死体を見に行かせた。これは君にもわかるだろうが、彼女の呪いに対して自分の尊厳を対抗させることによって、彼女を完全に自分にしばりつけておこうとする彼の初めからの計画にぴったり合うわけだ。明らかに彼はそこで彼女と一緒になり、彼女に対してある種の行動に出るつもりだったと思う。ところが、コリンスンと僕がそれを邪魔した。ジョゼフとガブリエルは、われわれが入口で話しているのを聞いたものだから、彼はひとまず引き返し、彼女はわれわれに会いにきた。ジョゼフの計画もここまでは成功だった。というのは、あの娘は自分の身につきまとう呪いのためにリーズを殺したのは自分だから、絞首刑にしてくれといった。だが、僕はリーズの死体をひと目見て、これはガブリエルが殺したのではないと考えた。彼は普通の姿勢で横たわっていた。彼が殺される以前に麻薬をかがされていたことは明らかだった。それに、これは僕の想像だが、当然鍵がかかっていたはずのドアがあいているのに、その鍵について彼女が何も知らないということが、僕に疑いをもたせた。彼女はこの殺人に何か関係があるかもしれないけれど、彼女が告白するように彼女一人でやったという公算は一つもなかった。
だが、その祭壇のある場所は、他からぬすみ聞きできるように科学的装置が施《ほど》されていたので、ホルドーン夫婦は彼女の告白を聞いてしまった。そこでアーロニアは急いでこの告白に合うように証拠をつくろうと考えた。彼女はまずガブリエルの部屋からその化粧着をぬすみ出し、次に僕が娘から取り上げて死体のそばに残しておいた血ぞめの短剣を拾って、それを化粧着にくるみ、警官が調べればすぐ発見できるような部屋の片隅にわざとそれをかくしておいた。一方、ジョゼフはその間どうしていたかというに、彼は全然別の方向にむかって活動していたらしい。彼は、彼の妻のようにガブリエルを監獄や警察へ送らせたくはない。それどころか、彼は彼女が欲しいのだ。彼が彼女にその罪と責任とを信じこませようとするのも、彼女を去らせるためでなく、自分に結びつけるためなのだ。だから彼は、リーズの遺留品《いりゅうひん》をあつめると全部秘密戸棚の中にかくしてしまい、フィンクに命じて食堂をきれいに片づけさせてしまった。あとは目撃者である僕とコリンスンの処置だが、彼はコリンスンが僕にこの事件の口止めをたのんだのをぬすみ聞きしていたろうから、僕さえ片づけてしまえば、残る唯一の証人であるあの男を黙らせておくことは、わけなくできると考えたにちがいない。
さて、あとは僕の問題だけれど、この気狂い男にとっては、僕一人を〈片づける〉ことくらい、単にもう一回殺人を重ねるだけのことで、何でもなかっただろう。そこで彼とフィンクは、ふたたび幽霊を使って、ミニーに働きかけようとした。彼女はリーズをわけなく殺せたのだから、どうして僕を殺せないはずがあろう。それにはやはりミニーを僕の眠っているところへ行かせて、短剣を突き刺させるように誘導するのがいちばんいいと考えた。そして、例の短剣をさがしまわった末、アーロニアがかくしておいた化粧着の中からそれを発見した。そのとき初めてジョゼフは、妻が自分を裏切ろうとしているのではないか、という疑念をもちはじめた。そしてまもなく、アーロニアがミニーの部屋にむかって、彼女を完全にノックアウトしてしまうほど強い麻薬を放出している現場をおさえるにおよんで、妻の裏切りをはっきりと確信した。というのは、あのときの麻薬の放出のし方はたしかに猛烈で、もはや十匹の幽霊を使ってもミニーを行動にかり立てることはできないほど、彼女を熟睡させてしまったからだ。それでジョゼフはカッとなって彼女を殺そうと決心した」
「自分の妻をかい?」と、フィッツステファンが聞いた。
「そうだよ。しかしそうだからって、どんな違いがあるのだ? まるでほかの誰かならいいみたいに言うけれども、そんなことは無意味だよ。そんな無意味なことを、君がまじめに考えないことを望むね。それに君も知っているように、いま話したことは、実際に起こったことじゃないのだから――」
「では、どんなことが起ったのだい?」と、彼はちょっと当惑したような調子でたずねた。
「知らないよ。誰も知ってる者はないと思うね。僕は自分が実際に見たことと、それからアーロニアの話のうちで僕の見たことと矛盾しない部分を、君に話しているわけだが、僕の見たことと一致させようとすれば、事件はだいたいいま言ったようなことになるはずだ、というまでさ。もし君がそのとおり信じたければ、それも結構。しかし、僕は信じないよ。僕はむしろ自分がそこになかったものを見たと信じているからね」
「ちょっと、やめてくれ」と、彼は抗議した。「後になって、話が終ってからなら、君はいくらでも〈もし〉だの〈しかし〉だのをくっつけて、好きなようにそれをひねったり、ねじ曲げたり、こんがらかせたりするのもいいだろうさ。だが、たのむから、まず話をすませてくれよ。そうすれば、僕は少なくとも一度は、君によって改ざんされない前の、オリジナルな形においてそれを見ることができるだろうからね」
「すると、君は、僕がこれまで話したことを本当に信じるんだね?」と、私はきいた。フィッツステファンはニヤニヤしながらうなずいた。そして、信ずるだけでなく、僕は君の話を聞くのが好きなんだよ、と言った。
「おやおや、ひどく子供らしい気持をもっているんだな。それじゃ、ひとつあの狼の話をしてやろうか、狼が少女のおばあさんの家に出かけて行った話を――」
「ああ、その話も大好きだが、しかし今はこっちの話をしまいまでやってくれ。ジョゼフが妻を殺す決心をした、と。それから?――」
「よし。もうたいして長くないよ。いま言ったように、ミニーがガスでやられている最中に、僕は彼女の助力を求めるつもりで彼女の部屋へとびこんだ。だが、他人の眼をさます前に、僕は自分の眼をさます必要に迫られた。ガスを両肺いっぱいに吸いこんでしまったからだ。そのとき僕に幽霊をぶっ放したのは、フィンクだったにちがいない。というのは、ジョゼフはそのころ細君をつれて階下へ行こうとしていたはずだからだ、彼はすでに自分を本当に神の楯《たて》と信じていたのか、それとももう完全に気が狂ってしまっていたのか、とにかく細君を祭壇にしばりつけて、切りきざむつもりだったのだね。僕がミニーの部屋で化物とさかんに格闘していたあいだに、彼は彼女を下につれていったらしい。幽霊は僕にえらく汗をかかせたが、やっとそいつからのがれて廊下によろめき出ると、フィンク夫婦がとびかかってきた。僕はあえて彼らだと言うよ。わかっている。もっとも真っ暗で顔は見えなかったがね。二人を引っぱなして、女中から拳銃を手に入れ、ガブリエルの部屋へ行った。が、コリンスンもガブリエルもそこにはいなかった。まもなく僕はコリンスンを見つけた。彼はガブリエルに戸外へ閉めだされたのだそうだ。
そのとき、ホルドーンのせがれが――十三才の少年だが――パパがママを殺そうとしているという知らせをもって、われわれのところへとんできた。ガブリエルも一緒だという。そんなわけで、僕はホルドーンを殺した。が、あやうく殺しそこなうところだったよ。普通なら、一、二発できれいに片づくはずなのに、僕は七発もやつの顔とからだに射ちこんだ。しかも至近距離でぶっ放したのだが、彼はそれを知りさえもしなかったのだからね。これは、どれくらい完全に彼が自己催眠にかかっていたかという証拠だよ。最後に短剣を首に突きさして、やっと倒したというわけさ」
私は話をやめた。
フィッツステファンはきいた。「それで?」
「それでとは?」
「それからどんなことが起こったのだ?」
「何も起こらないよ。これがそのままの話さ。僕はこの話には意味がないと警告しておいたろう」
「しかし、ガブリエルはそこで何をしていたのだね?」
「きれいな朝の光を見上げながら、祭壇のそばにうずくまっていたよ」
「しかし、なぜ彼女はそこにいたのだろう? そこにいた彼女の理由は何かね? 呼びかえされたのだろうか? それとも、彼女自身の自由意志でそこへきたのだろうか? どうしてそこへ来るようになったのだろう?」
「知らないね、彼女にもわからなかったらしい。僕はたずねてみたが、なぜそこにいたのか彼女も知らなかったよ」
「しかし、君はほかの連中から何か知ることができただろう?」
「うん」と私は答えた。「僕がいま話したことは、主としてアーロニア・ホルドーンからきいたことだよ。要約すれば、彼女は夫と二人で教会を経営したが、夫が乱心して人々を殺しはじめたので、自分にはついて行けなくなったというだけの話さ。フィンクは何も話そうとしなかった。自分は一介の技師で、ホルドーン夫妻のためにトリック装置をつくり、それを操作していただけで、昨夜どんなことが起こったのか全然知らない、と言った。なるほど、いろんな騒音は耳にしたけれど、それをたしかめに鼻をつき出すのは、自分の仕事ではないので引っこんでいた。自分がはじめて何か変だと知ったのは、朝になって警察が幾人もやってきたからだ、と言っていた。フィンクの細君は姿を見せなかった。ほかの雇人たちも、何か推測ぐらいはできたろうが、くわしいことは何も知らなかったというのが、おそらく本当だろう。少年のマニュエルは、おどろきのあまり何もしゃべらなかったけれど、おどろきがおさまってからだって、きっと何も知ってはいないにちがいない。
だから、いまわれわれに分かっているのは次のことだけだよ。もしジョゼフが乱心して、自分だけの考えで殺人を犯したのだとしたら、ほかの連中はたとえ知らずに彼に手助けをしたとしても、潔白だということになる。彼らのうちで最後のクジを引きあてた者でも、せいぜいインチキ礼拝に加担したかどで軽い宣告をうけるぐらいですむだろう。だが、もし誰にせよ事情を知って手伝ったとなれば、その人間は殺人の共犯者として責任を問われなければならないだろう。しかしおそらく誰もそんなことにはなるまい」
「わかった」と、フィッツステファンはゆっくり言った。
「ジョゼフは死んだ。だからジョゼフが一切をやった、ということになっているんだね。君はそれをどんな風に考えるのだ?」
「僕は知らんよ。警察はすくなくとも取り調べるだろうがね。僕の目的は一応達せられたのだ。二時間前に、マディスン・アンドルーズもそう言ったよ」
「しかしだね、もし君がいうように、この事件の全貌をつかんだという確信がえられないなら、君は――」
「それは僕のすることではないよ」と、私は言った。「僕にはまだしたいことが山ほどあるが、しかしこんどは僕はガブリエルが寺院にいる間だけ彼女を守るために、アンドルーズから雇われたのだからね。それに、彼女はもうあそこにはいないし、アンドルーズもこれ以上あそこで起こったことについては知りたいと思わないらしいのだ。今後もし彼女の保護が必要であるとすれば、それは彼女の夫がなすべきだろう?」
「彼女の何だって?」
「夫だよ」
フィッツステファンはビールがふちからこぼれるくらいコップをドシンとテーブルの上においた。
「君はそこまで知っていながら、」と、彼は非難するように言った。「そのことについては何も僕に話さなかったね。ほかにも君が僕に話さないことがどれほどあるか、神のみぞ知るだよ」
「コリンスンはどさくさまぎれに、彼女をレノへつれて行ってしまったのだよ。レノでは、このカリフォルニア人が結婚許可をとるのに三日と待たせるようなことをしないからね。僕も実は三、四時間たってアンドルーズからひどく叱言をくうまでは彼らがぬけ出したことを知らなかったのだよ。アンドルーズはそのことを不愉快に思ったらしかった。われわれが依頼人と探偵の関係を打ち切るようになったのも、一つはそれが原因となっているのさ」
「僕は、あの男が、ガブリエルの夫としてコリンスンを選ぶことに反対だとは知らなかった」
「彼が反対かどうかは知らないが、少なくとも二人の結婚にとって、いまが時機だとも、こんどのようなやりかたが正しいとも考えなかったようだ」
「それはわかる」と、彼はテーブルから立ち上がりながら言った。「アンドルーズは、たいていのことを自分の思い通りにしたがる男だよ」
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第三部 クェサダ
十三 断崖の道
エリック・コリンスンがクェサダから電報を打ってきた。
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「すぐおいで請《こ》う。貴下を必要とす。危機の心配あり。サンセット・ホテルでお会いしたし。通信無用。ガブリエルに秘密。いそがれたし。エリック・カーター」
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電報は金曜日の朝、事務所にとどいた。が、その朝、私はサンフランシスコにいなかった。私はいくつもの偽名をもったフィル・リーチをさがし出す必要から、彼の別れた妻とちょっとした取引をするためにマーティネフに行っていた。小柄の可愛い顔をした金髪《ブロンド》の電話交換手であるフィルの別れた妻は、彼の最近とった写真をもっていて、売る気は充分にあった。「あの人はわたしのことなんか、ちっとだって考えてくれたことがないのですからね。チェック縞《じま》一枚送ってくれたことがないのよ」と、彼女は不平をもらしてから、「あたしだって、少しは自分の分け前にあずからなければね。――あんた、それにいくら出してくださるつもり?」と言った。
もちろん彼女は、その写真がわれわれに対してもっている価値をひどく大げさに考えていたが、私は適当にそれを値切って取引をすませた。しかし、市中にもどってきたのは、夕方の六時すぎだったので、その晩のうちにクェサダに着く汽車に乗るにはもうおそすぎた。私はカバンに必要な品を詰めこむと、ガレージから自分の車を引っぱり出して、出発した。クェサダは、サンフランシスコから約八十マイルはなれた、太平洋にのぞむ低い岩だらけの山の斜面にたった、ホテルが一つしかない寂しい町である。クェサダの海岸は岩が多く、けわしすぎて、海水浴には適しなかったので、避暑客がおとす金は知れていた。一時は酒の密輸入港として少しばかり活気を呈したこともあったが、いまはその騒ぎも消えてしまった。というのは、酒の密売者たちが海外からの輸入酒よりも内地の密造酒を扱う方が儲けも多いし、苦労も少ないことを知ったからだ。それでクェサダは、またもとのさびしい町にもどってしまった。
私はその夜十一時すぎにそこへ着くと、車をガレージにあずけて、街路を横ぎってサンセット・ホテルへ行った。それは低い、ぶざまに横にひろがった、黄色い建物だった。夜勤の番頭が一人ロビーにいた。彼は見たところ六十をだいぶ過ぎていたが、自分のバラ色に光った指の爪を何とかして私に見せようと苦心しているらしい、小柄な、にやけ男だった。私が旅客名簿に名を書き入れると、彼はそれを読んで、エリック・コリンスンの筆跡の、私に宛てたホテルの封筒を渡した。私はすぐ封を切って読んだ。
「あなたにお会いするまで、ホテルを出ないでください。E・C・」と書いてあった。
「この手紙はどのくらい前にあずかったのかね?」と、私はたずねた。
「八時ごろでございます。最後の乗合が駅から着くまで、一時間以上あなたさまをお待ちしておいででした」
「では、ここに泊ってはいないのだね?」
「はあ、ここにはお泊りでございません。あの方は花嫁さまとお二人で、下の入江のトゥーカー荘にいらっしゃるのです」
コリンスンは、私がその指図に全部の注意を払わなければならないといった人間ではなかった。で、私はきいた。
「そこへ行くには、どう行ったらいいのだね?」
「夜は絶対に見つかりますまい」と、番頭は保証した。「東側の道をぐるっと廻っておいでにならなければ――いや、それでもこの地方のことをよほどご存じでなければ、ご無理でしょう」
「そう。じゃ、昼間はどう行ったらいいのかね?」
「この通りをつき当るまでいらしって、海岸の方へ道を折れ、それから入江に沿ってその道をずっといらっしゃればいいのですが、道路とはいえないほんの小道で、その家まで三マイルほどでございます。小さな丘の上にたった、板ぶき屋根の茶色の家です。海に沿って右へ右へと行くことをお忘れにならなければ、昼間ならすぐ見つかります。しかし、夜は絶対に――」
「ありがとう」私は話をもう一度はじめから聞かされてはたまらないと思って、こう言った。番頭は私を部屋へ案内し、明朝五時に起こすことを約束し、私はすぐ眠ってしまった。
翌朝電話のベルに眼をさまされた私が、「オーライト、ありがとう」というためにベッドからはい出してみると、空は一面に曇り、何となく荒れ模様の天候で、霧ふかい寒々とした朝だった。服に着かえて階下に向かったときも、天候はたいしてよくなっていなかった。番頭は、クェサダでは七時過ぎなければ何も食べものを手に入れることはできないと言った。私はホテルを出ると、教えられた汚ない道路を分岐点まで行き、それから海岸に向かって折れまがっている細道に入った。この細道ははじめから実際道路とはいえないようなひどい道で、まもなく、海に向かってつき出ている岩棚に沿って徐々にのぼり坂になっていた。岩棚はだんだん勾配がけわしくなり、ついにそれは断崖に面したあるところでは八フィートから十フィート、また他のところでは四、五フィートを出ない不規則な棚になっていた。断崖は細道から上が六十フィート乃至《ないし》七十フィート、下が百フィート以上もあって、急勾配をなして海に消えていた。海の方から吹いてくる微風が断崖の上に霧を吹きつけ、断崖のすそでは海水が騒がしい白波を立てていた。断崖がいちばん険しくなっている角を廻りながら、――そこは実際百ヤードほどのあいだ、上も下も切り立ったようになっていたが――私はふと、細道の外側の縁《ふち》に、くずれた一つの穴を見つけて立ちどまった。それは直径六インチぐらいの小穴で、新しいぼろぼろの土が小さな半円形の塚《つか》をつくってその片側にもり上り、反対の側には土がちらばっていた。別に眼を引くほどの刺激的な穴ではなかったが、私のような都会人にさえも、それは一本の小さな潅木《かんぼく》が根こぎにされてからまだあまり時間がたっていないことが、明らかにわかった。
根こぎにされた潅木は見えなかった。私は口にくわえていた煙草をすて、手と膝をついて小道の縁から頭をつき出して下をのぞいて見た。その潅木は二十フィートばかり下に見えた。それは断崖にほとんど平行して生えている一本のいじけた木の頭にひっかかっていた。その潅木の根にはまだ新しい褐色の土がついていた。私の眼が次にとらえたのは、細道と海とのちょうど中間につき出ている。二つの尖《とが》った灰色の岩の間にさかさまにひっかかっている一つのソフト帽子《ハット》だった。さらに眼を断崖のふもとにやると、人間の足と脛《すね》が見えた。それは黒い短靴と黒ずんだズボンをはいた男の足と脛だった。左右の足は六インチほど離れて、どちらも横向きに、滑らかな転石の上に横たわっていたが、脛の部分は斜めに水面に向かって傾斜し、膝から上はまったく水中に没していた。これが断崖の道から私に見えたすべてだった。
その地点からではないが、私は断崖を下った。そこは中年の男が攻撃するにはあまりに険しすぎたからである。二百ヤードほど戻ると、細道は断崖を上から下まで斜めに横ぎっている曲がりくねった峡谷と交叉していた。私はその峡谷まで引きかえし、すべったり、ころんだりしながら、それを下って行った。しかし、指を怪我したのと、服をよごしたのと、靴を台なしにしたのとを除けば、たいしたこともなく、一気に断崖の下までくだることができた。断崖と海の間に横たわっている岩の縁はとても歩けそうに見えなかったが、一、二度水中を――それもせいぜい膝ぐらいまでの深さの水中を――歩くことをよぎなくされただけで、どうにか道のりの大半を征服することができた。だが、例の足と脛が見える場所にたどりつくと、こんどは、転石の斜めになった側面に仰向けに横たわっている死体を引っぱり上げるために、太平洋の海中に腰までつけて奮闘しなければならなかった。私は死体の両腕に手を入れると、固い足場を見つけて、やっとそれを引き上げた。それはエリック・コリンスンの死体だった。背骨が肉と服を貫いてつき出していたし、後頭部――頭の半分――もくだけていた。私はその死体を乾いた岩の上に寝かせた。水びたしになったポケットには、百五十四ドル八十二セントの現金と、時計と、ナイフと、万年筆と、鉛筆と、紙と、二通の手紙と、メモの手帳とが入っていた。さっそく紙と手紙と手帳とをひろげて読んでみたが、そこに書かれていることは彼の死と無関係なことばかりで、何も知ることができなかった。結局、根こぎにされた潅木と岩の間でひろった帽子と死体の位置とが私に知らせてくれたこと以外には、彼の持ち物からもその附近からも、何も発見できなかった。
私は死体をそのままにしておいて、峡谷まで引きかえし、胸の動悸を高めながらようやく断崖の細道によじのぼり、潅木が生えていた最初の地点にもどった。そこでも、私は手がかりになりそうな痕跡とか足跡のようなものを一つも見出せなかった。細道は、主に固い岩でできていた。私はその細道をさきへ進んだ。ほどなく断崖は海からそれて遠ざかりはじめ、その側面についている細道もしだいに低くなってきた。それからさらに半マイルほど進むと、断崖はまったく姿を消し、その下に沿って細道が走っている潅木の生えた隆起だけになった。まだ太陽はのぼらなかった。私のズボンは、痛む脚に気持わるくへばりついていたし、やぶれた靴の中には水がしみ通っていた。私は朝飯を食っていなかったし、煙草もぬれていた。左の肘は谷をすべりおりたときにうけた捻挫《ねんざ》でずきずき痛んだ。私は自分の探偵商売をつくづく呪いながら、なおも細道を進んで行った。道はしばらくの間私を海から遠ざけ、海の方へつき出た森の中を横ぎって小さな村へはいり、低い丘の斜面を上っていった。そこまで行ったとき、私は前夜ホテルの番頭が話した家を前方にみとめた。
それはかなり大きな二階建ての家で、屋根も壁も茶色の板ぶきと板張りで、海が入りこんで四分の一マイルほどのU字形の入江をつくっている海辺に近い、円い丘の上に立っていた。家は海に面していたので、そこは裏手になっているわけだった。一階の窓はすべて日除けがおりて閉まっていたが、二階の窓はあいていた。家の片方の側には、少し距離をおいて四、五軒の小さな農家が見えた。私はぐるっと廻って、家の正面に出た。柳の枝でつくった数脚の椅子とテーブルとが、しきられた前面のポーチにおいてあり、ポーチのドアは内側から掛けかぎがおりていた。私はそれをうるさくガタガタゆすぶった。それから少なくとも五分は待ったが、何の返事もなかった。私はもう一度裏手にまわり、裏口のドアをたたいた。たたいているうちに、ドアがわずかばかり開いた。中は暗い台所で、しんとしていた。私は、なおも大きな音をたててたたきながら、ドアをいっぱいにあけた。相変らず静かだった。私は「コリンスン夫人!」と呼んでみた。が、やはり答はなかった。私は台所と、暗い食堂を通って、二階への階段をのぼり、部屋部屋に頭をつっこんでみた。だが、家の中にも誰もいなかった。
一つの寝室に〇・三八口径の自動拳銃が一|挺《ちょう》、床の中央においてあった。そのそばに空の薬莢《やっきょう》が一個、部屋の隅の椅子の下にもう一個落ちていて、焼けた火薬の臭いがかすかに空気中に漂っていた。見ると、天井の一隅に、この三八口径の銃弾がつくったにちがいない小さな穴があいていて、その真下の床の上に漆喰《しっくい》のくずれた粉がおちていた。寝具は乱れていなかった。戸棚の中の衣類や、テーブルや机の上の品は、この部屋がエリック・コリンスンの寝室であることを物語っていた。また同じ種類の証拠品から見て、それに隣接した部屋は明らかにガブリエルの寝室だった。彼女のベッドもきちんと片づいていて、昨夜はそこに寝なかったか、あるいは起きてから片づけたか、のいずれかだった。戸棚をあけてみると、床の上に黒のサテンのドレスと、よごれた白のハンカチーフと、一足の黒い革のスリッパとが発見された。どれもぬれて泥にまみれており、ハンカチーフには血がついていた。彼女の浴室――浴槽――の中には、浴用タオルと、顔ふきタオルとが一枚ずつ、どっちも血と泥でよごれ、まだ湿っていた。化粧台の上には、厚手の小さな白紙が一枚おいてあって、真っ白な粉がそのたたみ目についていた。私は舌のさきでそれに触れてみた――モルヒネだった。
私はクェサダのホテルに引き返すと、靴と靴下とをとりかえて、朝食をとり、ぬれてない煙草を用意してから、ホテルの番頭――例のおしゃれ男――に、この町の法律と秩序に責任のある人は誰かとたずねた。
「裁判事務執行官はディック・コットンさんですが、昨夜市へ行かれたようです。ベン・ローリーさんが郡長代理をやっていますから、あの人のおやじさんの事務所へお出でになれば、お会いになれるでしょう」
「どこかね?」
「ガレージのお隣です」
それは平屋建の、大きなガラス窓のついた赤煉瓦の建物だった。窓には、J・キング・ローリー、不動産、抵当、公債、株式証券、保険、職業紹介所、公証人、移転および保管、等々、その他忘れてしまったが、たくさんのはり紙がしてあった。二人の男が古ぼけたカウンターのうしろの、古ぼけたテーブルの上に足をのせて、椅子に腰かけていた。一人は髪も眼も皮膚も洗いざらしたようなはっきりしない黄褐色をしている。人のよさそうな、無定見な顔つきをした五十前後の男で、いま一人はそれよりも二十才ほど若い、そしてあと二十年もたてば前の男とまったく同じようになりそうに見える若い男だった。
「郡長代理にお会いしたいのですが?」と、私は言った。
「わたしです」と、足を机からおろして、若い方の男が言った。彼は立ち上がらずに、片方の足をのばすと、そのさきに壁ぎわの椅子をひっかけて、引っぱり出し、それからふたたび二本の足をデスクの上にのせて、拇指《おやゆび》でもうひとりの男を指しながら言った。「どうぞ、おかけください。これは父ですから、ご心配なく――」
「エリック・カーターをご存じですか?」と、私はきいた。
「トゥーカー荘へ移ってきた新婚の人でしょう? フロント・ネームがエリックだとは知らなかった――」
「エリック・カーターだよ」と、年とった方のローリーが言った。「わしは最近その名前で彼のために受領書を書いてやったからね」
「死んだのです、彼は」と、私は二人に話した、「昨夜か今朝、断崖の道から落ちたのです。事故かもしれません」
父親は黄褐色の円い眼で息子を見た。息子はいぶかしげな黄褐色の眼で私を見てから、舌打ちした。「チェッ、チェッ、チェッ、」
私は彼に名刺を渡した。彼は丹念にそれを読んでから、裏返してそこに何も書いてないのを知ると、それを父親に渡した。
「行って、見てくださいませんか?」と、私は言った。
「行かなければなりますまい」若い郡長代理は同意して、椅子から立ち上がった。彼は私が想像していたよりも大男で、ちょうど死んだコリンスンぐらい背丈があり、うつむいて歩くくせがあるにもかかわらず、均整のとれた、たくましい体格をしていた。私は彼のあとについて事務所を出て、前においてある埃《ほこり》まみれの自動車のそばへ行った。父親のローリーは一緒に行かなかった。二人の乗った自動車が動き出したとき、郡長代理は私にたずねた。「あなたは誰かからそのことをおききになったのですか?」
「いや、わたし自身が偶然ぶつかったのですよ。カーターがどんな人間かご存じですか?」
「何か特殊な人物ですか?」
「サンフランシスコの寺で行われたリーズ殺人事件をお聞きになったでしょうか?」
「ふーむ、新聞で読みましたが」
「カーター夫人は、あの事件にまきこまれたガブリエル・レゲットで、カーターはエリック・コリンスンですよ」
「チェッ、チェッ、チェッ、」と彼は舌打ちした。
「しかも、彼女の父親と継母は、その二週間前に殺されたのです」
「チェッ、チェッ、チェッ、」と舌打ちしてから、彼は言った。「いったい、どうしたのですか?」
「家庭の呪いですよ」
「本当ですか?」
私には、彼がどの程度真面目な気持で、その質問を発したのかわからなかったし、彼の人物もまだよくわかっていなかったので、ちょっと答弁にまよった。しかし、田舎ものであろうとなかろうと、とにかく彼はクェサダ駐在の郡長代理であって、犯罪を取り調べる資格をもっているのだ。そう思って私は、ひどい道路の上をマリのようにはねっ返りながら進む車の上で、彼に一九一三年のパリからつい二時間前の断崖の道までの一部始終を語って聞かせた。
「ふたりがリノで結婚して戻ってきてから、コリンスンはひょっこりわたしのところへ訪ねてきたことがあるのです。二人ともホルドーン一味の公判に立ちあうために遠くへは行けませんでしたが、彼はせめて静かなところに彼女をおきたいと望んでいました。彼女はまだ頭の状態が回復していなかったのものですから。あなたはオーウェン・フィッツステファンをご存じですか?」
「去年しばらくここに滞在していた小説家でしょう?」
「そうです。彼がこの土地をすすめたのですよ」
「知っています、うちのおやじもそんなことを言っていました。ところで、なぜ彼は偽名なんか使ったのでしょう?」
「世間の評判をさけるためと、一つには、何かこういったことをさけようとしたためかもしれませんね」
彼はちょっと眉をひそめてから、きき返した。「彼らがこんどのようなことを予期していた、と言われるのですね?」
「さあ――事が起きてから〈おれは君にそういっただろう〉というのはやさしいことですが、われわれは彼女が最近まきこまれた二つの事件のどっちについてもまだ解答を得たとは思っていません。その答を得ないで――どうして、将来のことなど予期できましょう? しかし、それが何であるにせよ、何かが依然として彼女の上に迫っていたときに、彼らがこんなさびしいところへ来ようとは思いませんでしたね。もっとも、わたしはコリンスンに、もし変なことに気づいたら、すぐ電報を打つように言っておきました。で、彼は電報を打ってよこしたのですが」
ローリーは三、四度うなずいてから、たずねた。「彼が断崖から落ちたのではない、とあなたがお考えになったわけは?」
「彼はわたしに来てくれと電報を打ってよこしたのです。何か変だったにちがいありません。それに、これを単なる事故だと信じさせるには、彼の妻をめぐってあまりにも多くの事件が起きていますからね」
「やっぱり、呪いがあるのですかな」と、彼は言った。
私は彼の漠《ばく》とした顔つきをながめ、その心中を見抜こうと思って、言った。「そうですよ。しかし、厄介なのは、その呪いがあんまり見事に、あんまり規則的に作用されている点です。こんなことにぶつかったのは、わたしとして、はじめての経験ですよ」
彼は私の意見に対して二、三分間眉をひそめていたが、それから車をとめた。「ここで車をおりなければならんでしょう。これから先は道がひどいですから」と言った。
「世の中には――人生には――自分のよく知らないことがたくさんあるものだと、人間をして悟らせるようなことが起こるものですよ」彼は二人が歩きだしたとき、もう一度顔にしわを寄せてそう言ったが、すぐ自分の好きな言葉を見つけて、「人生は不可解ですね」と結んだ。私はそれに対しては黙っていた。
彼は断崖の小道を先にたって進み、私がくわしく話しておいた、潅木の根こぎにされている場所に自発的に立ちどまった。彼は眼下に横たわっているコリンスンの死体をじっと見おろしていたが、それから、何か探すように断崖の表面をたんねんに見まわし、それがすむとこんどはその黄褐色の眼をじっと地面に注いで、遠くの方まで曲がりくねった小道を行ったり来たりしはじめた。そして十分以上も歩きまわっていたが、からだをのばすと、言った。
「ここには何も発見できるようなものはありませんね。下へ行ってみましょう」
私が例の峡谷に向かってもどりはじめると、彼はこのさきにもっといい道があるといった。なるほどあった。私たちはその道を下って、死体のおいてあるところへ行った。ローリーは眼を死体から頭上の小道の縁へうつして、つぶやいた。「どうしてこんな風にうまくここに落ちたのかわからんな」
「ここに落ちたのじゃありませよ。わたしが海中から引きあげたんです」私は死体を発見した場所を正確に彼に示した。
「そうでしょうね」
彼が岩や小石や砂を調べたり、動かしたりしながら、そこらを歩きまわっている間、私は岩の一つに腰をおろして、煙草を吹かしていた。彼は何の幸運もつかんだ様子はなかった。
十四 大破したクライスラー
私たちはふたたび断崖の小道によじのぼって、コリンスンの家へ行った。私はローリーに、よごれたタオルや、ハンカチーフや、ドレスや、スリッパを見せた。それから、モルヒネのはいっていた紙や、コリンスンの部屋に落ちているピストルや、天井の穴や、床の上に転がっている薬莢も見せた。「椅子の下の薬莢は前のままですが、もう一個の方――部屋の隅にあるあの薬莢の方は、わたしが今朝見たときは、ピストルのそばにおちていましたがね」
「あなたが見たのち、それを動かしたものがあると言われるのですね?」
「そうです」
「しかし、誰かがそんなことをしたとして、何の益になるんです?」と、彼は抗議した。
「さあ、それは知りませんが、とにかく動かされていますよ」
ローリーはそれには興味を失ったらしく、天井を眺めていたが、「二発射って、穴が一つとは、おかしいですね。もっとも一発は窓からとび出したのかも知れません」彼はガブリエルの部屋にもどり、黒いビロードのガウンを調べた。それには破れた箇所がいくつか――裾の近くに――あったが、弾痕はなかった。服をおくと、彼は化粧台の上のモルヒネの包み紙をつまみ上げた。「これがここにおいてあることについて、あなたのお考えは?」
「彼女はいつもそれを使っているのです。継母が彼女に教えた癖なのですよ」
「チェッ、チェッ、チェッ、――彼女は麻薬の常用者ですって? すると、二人は何かトラブルを起こし、彼があなたを呼んだ、そこで――」彼はちょっと言葉を切って、口をつぐんだが、やがてたずねた。「いつ彼は殺されたとお考えですか?」
「わかりません。が、たぶん昨夜、わたしを待っての帰り途じゃないでしょうか」
「あなたは一晩中ホテルにおられましたか?」
「十一時すぎから今朝五時までいました。もちろん、やろうと思えばその間に、殺人を犯すに充分な時間、抜け出すこともできたでしょうね」
「いや、わたしは何もそんなことを言ってるんじゃありませんよ。ただ、不思議なことだらけなのでね。コリンスン・カーター夫人というのは、いったい、どんな風采《ふうさい》の人なのですか? わたしはまだ一度も会ったことがないのですが」
「年は二十才前後、背丈は五フィート四インチ乃至《ないし》五インチ、実際よりも痩せて見える婦人です。カールした短い薄茶色の髪と、時として茶色に見えたり緑色に見えたりする大きな眼の持主で、皮膚は白く、前額がほとんどないみたいに狭い。口も歯も小さく、あごはとがっており、耳たぼがなくて先がとがっています。二ヵ月ほど前から病気をしているので、一見して病人らしく見えます」
「彼女をさがすのは、むずかしいことでないらしいですね」そう言ってから、彼はそこらの引出しや戸棚やトランクを調べはじめた。私もさっき来たときそれらを調べてみたのだが、これといって興味ある発見は一つもできなかったのだった。
「彼女がなにか荷造りをしたり、まとまったものを持ち出したりした様子は見えませんね」彼は化粧台のそばに腰をおろしている私のところへもどってきて、そう判断をくだしたが、それから卓上においてある頭文字《モノグラム》入りの銀の化粧函を太い指でさして、たずねた。「G・D・Lというのは何でしょう?」
「彼女の結婚前の名は、ガブリエル・何とか・レゲットというのです」
「ああ、そうですか。――わたしの考えでは、彼女は車で立ちのいたと思うが、どうでしょう?」
「二人はここで車をもっていたのですか?」と、私はたずねた。
「彼は徒歩でないときは、いつもクライスラーのロードスターで町へ出てきましたよ。車で行ったとすれば、彼女は|東の道《イーストロード》を行く以外に道はないはずだ。ひとつ外へ出て調べてみましょう」
外へ出ると、彼は家のまわりをぐるぐる廻って調べたが、何も発見できなかった。明らかに車置場に使っていたらしい小屋の前に行ったとき、彼は地面についているタイヤの跡をさして言った。「今朝、車を出したにちがいありません」私もそのとおりだと思った。
私たちは泥道を通って砂利道に出た。そしてそれを一マイルほど歩いて、一群の赤い農家の間に一軒だけまじっている灰色の家に行った。一人の小柄な、肩の張った、いくぶんびっこの男が、家の裏でポンプに油をさしていた。ローリーは彼のことをデブロと呼んだ。デブロはローリーの質問に答えて言った。「はい、ベンさん、あの婦人は地獄からきたこうもりみたいに、今朝七時ごろここを通りましたよ。車の中にはほかに誰もいませんでした」
「どんな服装をしていたね?」
「帽子なしで、黄褐色の上衣を着ていましたよ」
私は彼がいちばん近い隣人なので、カーター一家について何か知っていることはないかとたずねた。が、彼は二人について何も知らなかった。彼はカーターには二、三度話しかけたことがあって、彼を若いにしては愛想のいい人間だと考えた。そこで一度妻を連れてカーター夫人をたずねたことがあったが、カーターが出てきて、彼女は具合が悪くて寝ていると語ったそうである。自分たちは遠くから、彼女が夫と一緒に歩いているところとか車を走らせているところを見かけただけで、それ以外には彼女に会ったことはない、と言った。
「この近所であの奥さんと話した者はないと思いますよ」と彼は結論した。「むろん、マリー・ヌネッツは別ですがね」
「マリーはあそこへ働きにいっていたのだね?」と、郡長代理はたずねた。
「そうですよ。何かあったのですか、ベンさん? あそこで何か?」
「あそこの主人が昨夜崖から落ちたのだ。そして細君の方は誰にも何も言わずにどこかへ行ってしまったのだよ」
デブロは口笛を吹いた。
ローリーはデブロのところの電話をかりて郡長に報告するために家の中へ入って行った。私はもっとほかに――せめて彼の意見だけでも――聞きたいと思って、デブロと一緒に屋外に残った。だが、私が彼から得たものは、驚愕《きょうがく》の表情だけだった。郡長代理は電話からもどってくると、「これから行って、マリーに会ってみましょう」と言った。そしてデブロに別れて道路を横ぎり、野原をつっきって、ひと群れの木立の方へ歩いて行きながら、言った。「あの女があそこにいなかったのは、どうもおかしい」
「誰のことです、あの女というのは?」
「メキシコ人の女ですよ。ここの連中と一緒にこの窪地《くぼち》に住んでいるのです。彼女の亭主のベドロ・ヌネッツというのは、二、三年前、泥棒の上まえをはねていたダンネという闇酒屋を殺したかどで終身刑の宣告をうけ、フォルサム刑務所に入っているのですよ」
「この区内で起きた殺人事件ですね?」
「そう、トゥーカー荘の入江で起きた事件です」
私たちは木立をぬけ、スロープをくだって、貨車に似た四角の赤いトタン張りの掘立小屋が五、六軒、うしろに野菜畑をひろげて、流れの岸にならんでいるところへ出た。その小屋の一軒の前に、一人の不恰好なメキシコ女が桃色のゴバン縞《じま》の服を着て、トウモロコシの軸でつくったパイプで煙草をすいながら、茶色の赤ん坊をあやしていた。みすぼらしい、きたない子供たちが、騒々しい声を上げて小屋の間で遊んでいたが、同じようにみすぼらしい、きたない雑種犬がその騒ぎをいっそう大きくしていた。庭の一つで、かつては青かったにちがいない上っ張りを着た一人の褐色の男が、のろのろと鍬《くわ》を動かしていた。子供たちは、ローリーと私の姿を見ると遊ぶのをやめて、二人が水中に置かれた石をふんで流れを渡るのを見ていた。犬どもは吠え声をあげて私たちを迎え、子供たちの一人が追い払うまで二人のまわりで、うなったり、ほえたりしていた。私たちは赤ん坊を抱いた女の前で立ちどまった。郡長代理は赤ん坊に笑いかけながら言った。「よし、よし、この子は荒っぽいやくざにはならんじゃろう!」
女は口からパイプをはずすと、ブツブツ愚痴《ぐち》をこぼした。
「年中腹が痛いだよ」
「チェッ、チェッ、チェッ、――マリー・ヌネッツはどこにいるね?」パイプのさきが隣の丸太小屋をさした。「そうか、おれはまた、あの女はトゥーカー荘へ働きに行ってるものと思っていたよ」と、彼は言った。
「ときどきね」と、女はそっけなく答えた。
私たちは隣の丸太小屋へ行った。鼠《ねずみ》色の上っ張りを着た老婆が戸口のところにいて、黄色い鉢の中で何かをかきまわしながら、私たちを見た。「マリーはどこだね?」と郡長代理はたずねた。
老婆は肩ごしに丸太小屋を振りむいて、声をかけた。そして中から出てきたもう一人の女を通すために横へどいた。その女というのは、利口そうな黒い眼と、幅の広い平べったい顔をもった、背の低い、がっしりした体格の、三十そこそこの女だった。彼女は首のまわりに黒ずんだ毛布をかけていた。毛布の先が彼女の足もとの床まで垂れさがっていた。
「どうだね、マリー」とローリーは声をかけた。「なぜカーター家へ行かないのだ?」
「あたし病気なんですよ、ローリーさん」と、彼女は抑揚のない調子で言った。「風邪を引いたんです。それで、今日は家にいるんです」
「チェッ、チェッ、チェッ、――そいつはいかんね。医者にみてもらったかい?」
彼女はまだみてもらわないと言った。ローリーはみてもらわなければいけないと言い、彼女はそれにはおよばない、風邪はよく引くのだから、と言った。ローリーは、そうかもしれないが、もしそうならなお医者にみてもらう必要がある、と言った。彼女は、それはそうだが、医者にかかれば金を払わなければならないから、と言った。ローリーは、医者にみてもらわない方が、みてもらうよりも結局金がかかるものだ、と言った。私は二人が一日中こんな会話をつづけているのではないかと心配になりはじめたとき、ローリーがやっと話をカーター家のことにもどし、カーター家で彼女がしている仕事のことをたずねた。
彼女は、カーター夫妻があの家に来たときから、すなわち二週間前から雇われた、と言った。彼女は毎朝九時にあの家へ行って――彼らは十時にならなければ起きなかったので――食事の仕度をし、家事仕事をして、晩方夕食の皿を洗ってから帰ることにしているが――たいてい七時半を過ぎるのが普通だと、言った。
彼女は、コリンスン――彼女にはカーターだが――が殺され、夫人のほうもいなくなったと聞かされると、びっくりした様子を見せた。彼女の話によると、コリンスンは前夜、夕食のすぐあとで、散歩に行ってくると言って、一人で出て行った。時刻は、別に特別の理由があったわけではないがいつもよりも夕食が少し早目に終ったので、六時半ごろだった。七時少しすぎに彼女が帰るとき、カーター夫人は二階の部屋で本を読んでいたそうである。マリー・ヌネッツは、コリンスンが私を呼び出した理由について何か推測の手掛りを与えるようなことは、一つも語ることができなかった。あるいは語ろうとしなかった。彼女は、カーター夫人が幸福には見えなかった――いや、たしかに幸福ではなかった――ということのほか、二人については何も知らない、と言い張った。彼女は――マリー・ヌネッツは――すべてを自分の好きなように解釈して、カーター夫人にはほかに誰か愛している人があったのに、両親が無理にカーターと結婚させたのだ。だから、むろんカーターはその男に殺されたにちがいない、そしてカーター夫人はその男と駈け落ちしたのだ、と言った。だが彼女がそう信じたのには、女としての直観以外に何か根拠があったのかとたずねても、彼女は何も言うことができなかったので、私は次にカーター家の訪問客のことをたずねてみた。だが、彼女は一度も客を見たことがないと答えた。
ローリーが、カーター夫妻は喧嘩したことがあるか、とたずねた。彼女は「いいえ」と言いかけて、すぐそれを訂正し、よく喧嘩をした、決して仲のいい方ではなかった、と言った。カーター夫人は夫がそばにくるのを好まないらしく、マリーの聞いている前で、もしあなたがわたしから去らずに一緒にいるなら、わたしはあなたを殺すことになるだろうと言った、と彼女は話した。わたしは彼女にくわしい証言をさせようと思って、なぜそんな脅迫《きょうはく》をするようになったか、どんな言葉でそれが言われたかとたずねたが、彼女はそれに対してはっきりした言質《げんち》を与えなかった。そして、自分がおぼえているのは、もしカーターさんが去らなければ殺すと言って、カーター夫人が脅かしたことだけだと、言い張った。
「これでどうやら見当がついたぞ」と、ローリーは私たちがふたたび流れを渡って、デブロの家の方へスロープをのぼって行ったときに、満足そうに言った。
「何がどう見当がついたのですか?」
「彼の細君が彼を殺したということですよ」
「彼女が殺したと考えられるのですね?」
「あなたもそう考えるでしょう」
「いや、わたしはそう考えません」
ローリーは足をとめ、漠然とした不安な眼つきで私をながめた。「では、どういうわけで、あなたはそう考えるのです?」と、彼は抗議するように言った。「彼女は麻薬常用者じゃないですか? その上、あなたの話しぶりから察すると、気が変なのでしょう? それに、彼女は逃亡しなかったでしょうか? 彼がおそろしくなってあなたに呼び出しをかけたほど、彼を脅迫しなかったでしょうか?」
「マリーは脅迫の言葉なんか聞かなかったのですよ」と、私は言った。「それは警告――呪いに対する警告だったのですよ。ガブリエル・コリンスンは呪いを心から信じていて、彼の身を思うあまり、何とかして彼をその呪いから救おうとしたのですよ。私は前にもそれを見たことがあるのです。彼女は自分のしていることがわからないほど頭が混乱しているときでも、彼が遠くへ自分をつれて行ってくれないかぎり、彼と結婚しまいとしたのは、そのためなのですよ。要するに結婚の後におこることを恐れたのですね」
「でも、誰がそんなことを信ずるでしょう――?」
「わたしはなにも信じてくれと誰にもたのんでいるのじゃありませんよ」と、私はうなるように言った。「ただ、自分の信ずることをお話しているだけですよ。ついでに言っておきますが、マリー・ヌネッツが今朝あの家に行かなかったというのは、あれは嘘ですね。おそらく彼女はコリンスンの死には無関係でしょう。きっとあそこへ行って、コリンスン夫妻がいないことを知り、血のついたものや拳銃――床を歩きながらうっかり薬莢をけとばしたらしいのですが――を見て、びっくりして丸太小屋へ逃げ帰り、掛かり合いにならぬために風邪を引いたということにしたのですよ。彼女は亭主がつかまったとき、そういった厄介を、いやというほどなめさせられたことでしょうからね。あるいはちがうかもしれませんが、とにかく、彼女のような女が彼女のような立場におかれれば、十人のうち九人までがそうすることはまちがいありませんよ。ですから、もっとちゃんとした証拠がないかぎり、彼女が今朝にかぎって偶然風邪を引いたというのは、信じられませんね」
「そうですか」と、郡長代理は言ってから、きき返した。「しかし彼女がこの事件にまったく関係ないとしたら、別に問題はないじゃありませんか?」
私がそれに対して心の中で考えた答弁は、きわめて侮辱的な非礼なものだったので、それを口に出すのは控えた。
デブロ家にもどると、われわれは少くとも三つのちがった式のものをよせ集めてつくった、がたがたの幌《ほろ》型自動車を借りうけて、彼女の乗ったクライスラーを追跡するために|東の道《イーストロード》を走らせた。最初に車をとめたのは、クロード・ベイカーという男の家の前だった。ベイカーは、もう三、四日もかみそりをあてないらしい、角ばった顔をした、色の浅黒い、痩せた男だった。細君は彼よりも若いらしかったが、年よりもずっとふけて見え――かつては可愛らしい時代もあったのだろうが、いまは疲れ、やつれて、痩せほそっていた。六人の子供のいちばん上は、足のまがった、そばかすだらけの、十ぐらいの女の子で、いちばん下は今年生れたばかりの、肥った、やかましい子だった。中の四人は、男の子もあれば女の子もあって、みんなそろいもそろって鼻風邪を引いていた。ベイカー家では、全家族がわれわれを迎えるためにポーチに出てきた。そして彼らは異口同音に誰もカーター夫人の姿など見かけなかった、もっとも七時なんて早くには起きなかったから、と言った。彼らはカーター夫妻の顔は知っていたが、二人の生活については何も知らなかった。彼らはローリーと私がしたよりもずっとたくさんの質問を私たちに浴びせた。
ベイカーの家からすこし先へ行ったところで、道路は砂利道からアスファルトに変っていた。私たちがクライスラーの車輪の跡と見たのは、この道を最後に通った車の車輪のように思われた。ベイカーの家から二マイルほど行って、われわれはバラのやぶに囲まれた小さな明るい緑色の家の前で車をとめた。
「ハーヴ、おおい、ハーヴ!」と、ローリーがわめいた。
三十五、六の骨太の男が戸口に現われて、「やあ、今日は、ベンさん!」と言って、バラのやぶの間を通って車のそばへ近づいてきた。この男の顔つきは、声と同じように重々しく、態度も口のきき方も慎重だった。彼の姓はホイッドンといった。ローリーは彼に、クライスラーを見なかったか、とたずねた。
「ええ、見ましたよ」と彼は言った。「今朝七時十五分すぎごろ、彼らはすっ飛ばしてこの前を通りすぎましたよ」
「彼ら?」と私が言ったのと、ローリーが「彼らだって?」とたずねたのと、同時だった。
「一人の男と一人の女――あるいは娘かな――とにかく二人乗っていましたよ。よくは見えませんでしたがね。何しろヒューッとすっとんで行ったのを見たんですから。女が運転していましたよ。ここから見たところでは、茶色の髪の小柄な女のようでした」
「男の方はどんな様子だったね?」
「さあ、四十ぐらいですかな。どっちにしても、大男じゃなかったようです。薄桃色の顔をして、グレーの上衣と帽子をかぶっていました」
「カーター夫人に会ったことがありますか?」と、私はたずねた。
「入江のそばに住んでいる花嫁ですね? 会ったことはありませんね。主人の方には会ったことがありますが、花嫁さんの方は見たことがありませんよ。へえ、あれがそうですか?」自分たちはそう考えているのだと、私は言った。「でも、男はあの人じゃありませんでしたよ。見たことのない男でした」と、彼は言った。
「会えば、わかりますか?」
「わかると思いますがね――ちらっと見ただけですが」
ホイッドンの家から四マイル行った地点で、われわれはクライスラーを発見した。車はラジエターを一本のユーカリ樹の幹に突っこんだまま、四つの車輪をまだ地面につけていたけれど、道路の左手に道から一、二フィートはずれてとまっていた。ガラスは全部割れ、金属部の前面三分の一はかなりひどくめちゃくちゃになっていた。車の中は空っぽで、血の痕《あと》はなかった。見渡したところ、附近には郡長代理と私のほかに一人の人影も見えなかった。二人は眼を皿のようにして地面を見つめながら、そこら中を調べまわった。そして結局われわれが知ったことは、最初からわかっていた事実――すなわち、クライスラーがユーカリ樹に衝突したということだけだった。そこでわれわれは、ふたたび自分たちの車にとびのって、先へ走らせながら、人に会うごとに質問をあびせたが、彼らの答は一様に「いや自分たちは彼女にも彼らにも行き会わなかった」であった。
「あのベイカーって男をどうお思いですか?」と、われわれが車をまわして帰路についたとき、私はローリーにたずねた。「デブロは車の中に彼女一人しか見なかった。ところが、車がホイッドンの家の前を通りすぎたときは、彼女のほかに、もう一人の男がのっていた。ベイカー夫妻は何も見ていない。するとその男が彼女と一緒になったのは、ベイカー家の近所にちがいない、と思うのですが」
「そう、そういうこともあり得るでしょうな?」と、ローリーは理屈っぽい調子で言った。
「そうですよ。で、あの連中とも少し話してみたらどうでしょう」
「もし、お望みなら」と、彼は興味なさそうに言った。「しかし、彼らとの議論にわたしを引き入れないでください。彼はわたしの妻の弟なのです」
そうだとすると、私の考えも少しちがってきた。私はたずねた。「彼はどんな人ですか?」
「クロードは意気地なしですよ、まったく。年よりがよく言うように、彼は自分の畑の子山羊よりほかに怒らせることのできない人間ですよ。彼が誰かに害を加えたという話を、わたしはまだ一度も聞いたことがありません」
「あなたが大丈夫だとおっしゃるなら、それで充分です」と、私は嘘を言った。「彼をわずらわすのはよしましょう」
十五 「わたしが彼を殺した」
肥った、赤ら顔の、鼻下に大きな茶色の口ひげを生やした部長のフィーニーと、攻撃的で、鋭い顔つきをした、名誉欲旺盛な地方検事のヴァーノンが、郡役所所在地からやってきた。二人は私たちの話に耳をかたむけ、犯行の動機を検討したのち、ガブリエル・コリンスンがその夫を殺したというローリーの意見に同意した。態度の尊大な、四十男にしてはあまり聡明でなさそうな執行官のディック・コットンもサンフランシスコから帰ってきたが、彼もこの二人の意見に一票を加えた。検屍官と検屍陪審員は、公式には常例通り「未知の人または人たち」というだけにその意見の表明を限定したけれども、彼女を関係者の一人と見るという勧告で、事実上彼らと同意見であることを示した。
コリンスンの死んだ時刻は、金曜日の夜の八時と九時の間と鑑定されたが、彼の死体には明らかに墜落以外の理由によって引き起されたと見られる痕跡は一つも認められなかった。彼の部屋で発見されたピストルは、彼のものと確認された。しかし、それには誰の指紋も残っていなかった。このことについては、郡の役人たちの幾人かは――誰一人明らさまにはそうとは言わなかったけれど――私が細工をしたのではないかと半ば疑っているらしい様子が見えた。マリー・ヌネッツは風邪で家に引きこもっていたという主張をあくまで固執した。彼女には味方として一群のメキシコ人の証人がついていた。私はそれをくつがえすだけの何の証拠も発見することができなかった。また、われわれはホイッドンが見たという男の行方についても何の手掛りも得られなかった。私は自分自身でベイカー夫妻をもう一度調べてみたが、これもまた何の収穫もなかった。執行官の細君は弱々しいがちょっときれいな顔をした、はにかみやの若い婦人で、電信局で働いていたが、彼女の話によると、コリンスンは金曜日の早朝私宛に電報を打ったということだった。そのとき彼は青ざめた落ちつかない様子をし、眼のまわりが黒ずんで、血走っていた、と彼女は言った。
コリンスンの父親と兄とが、サンフランシスコからやってきた。父親のヒューバート・コリンスンの方は、一見して太平洋岸の木材から何百万ドルでもすきなだけ儲けることができそうに見える、おちついた大柄な男だったし、兄のローレンス・コリンスンの方は死んだ弟よりも一、二才年上だが、外観は弟そっくりだった。コリンスン父子は、ガブリエルがエリックの死に責任があるととられそうなことはひとことも言わないように気をつけていたが、しかし内心そう考えているらしいことは、ほとんど疑いをいれなかった。ヒューバート・コリンスンは静かに私に言った。「ひとつ徹底的に、真相を究明してください」かくて彼は、わが社がガブリエル事件に関係するようになってから第四番目の依頼者となったのである。
マディスン・アンドルーズも、サンフランシスコからやってきた。彼と私は、私の泊っているホテルの部屋で話し合った。彼は窓際の椅子に腰をおろし、黄ばんだ圧搾煙草から四角の一片を切りとって口に入れながら、コリンスンは自殺したのだ、と断定した。私はベッドの横に腰をおろし、ファティマ〔煙草の名〕に火をつけてから、彼の説を反駁《はんばく》した。
「もし彼が自発的にとびこんだのなら、潅木を根こそぎになんかしないでしょう」
「それなら、事故じゃよ。夜歩きには、あそこは危険な道じゃからね」
「僕は事故という考え方はすてましたよ」と、私は言った。「第一に、彼は僕にSOSを打ってきています。それに彼の部屋には発射された拳銃がおいてありました」
アンドルーズは、腰かけたまま前こごみになった。彼の眼つきは急にきびしい、警戒的な光をおび、その態度は証人を反対尋問する弁護士のそれに変った。「君は、ガブリエルがやった、と考えられるのじゃね?」
私はそこまでは考えたくなかった。で、私は言った。「とにかく彼は殺されたのです。誰かに殺されたのです――僕は二週間前に、あなたに、われわれはまだあのいまわしい呪いについてよくわかっていないということ、そしてそれを解決する唯一の道はあの聖杯寺院の事件を徹底的に究明することだと申しあげましたね」
「そう、それはおぼえている」と、彼はすなおに肯定した。「君は彼女の両親の死と、ホルドーン家における彼女の事件との間には、ある連環的な関係があるという理論を提出された。だが、わしのおぼえているところでは、君はその連環がどんなものかということについて何の意見ももっていなかった。この欠陥が君の理論をいくぶん――そう、いくぶん空中|楼閣《ろうかく》的なものにしている傾向があると、君は考えられんかね?」
「そうでしょうか? しかしですね、彼女の父親、継母、医師、それから夫は、ここ二ヵ月を出ない間につぎつぎと殺され、彼女の女中は殺人罪で投獄されました。それらの人たちはみんな彼女に最も近い、親しい人たちです。これは一つの計画のように思えませんか?」そう言って、私はニヤリと微笑してみせた。「これ以上、それが進展しないと、あなたは確信がおもちになれますか? そしてもしそれが進展するとすれば、次に彼女に最も近い人はあなたではないでしょうか?」
「そ、そんな馬鹿げたことが!」と、彼はすっかり気を悪くして言った。「われわれは彼女の父の死についても、リーズの死についても、よく知っている。そしてこの二つの死の間には何の連環もないことも知って居る。それに、リーズの殺害に責任のあった連中は、いまはいずれも死んでしまったか、投獄されてしまったのだ。もう何も問題はないのだ。それなのに、これらの犯罪の一つ一つの間に連環があるなんて、馬鹿らしいにもほどがある!」
「われわれには、まだそういったことは何もわかっていないのですよ。われわれにわかっていることは、われわれがまだその連環を発見していないということだけです。いったい、これまで起こった事件で利益を得るのは誰でしょうか――あるいは少なくとも利益を期待することができるのは誰でしょうか?」
「わしの知るかぎりでは、一人もおらんね」
「たとえば、彼女が死んだと仮定しますか? その場合誰が遺産をうけるのですか?」
「知らんね。イギリスかフランスに遠い親戚があると思うが――」
「それでどうやらわかります」と私はうなった。「とにかく、誰も彼女のことを殺そうとはしなかった。やられたのは、彼女の親しい人たちばかりですからね」
弁護士は、にがにがしげに、君はそう言うけれど、われわれが彼女を発見するまでに、誰も彼女を殺そうとしない――殺してしまわない――とは断言できんだろう、と言った。私はそのことで彼と議論することはできなかった。というのは、彼女の足跡はユーカリ樹がクライスラーをストップさせたところで消えたまま、いまだに消息がわからないからだ。ただ私は彼が去る前に一つの忠告だけをしておいた。「どんなことをあなたが信じられるにせよ、これらの事件を偶発的なものとお取りになることだけは無意味だと思いますね。そこには何か計画があるのかもしれない、ということをよくお考えになってください。用心するにこしたことはありませんからね」
彼は私に感謝したばかりでなく、君はわしが自分の身を守るために私立探偵を雇うとでも思っているのだろうと、不愉快そうに、皮肉を言った。
マディスン・アンドルーズは、彼女の所在を発見してそれを通報してくれた人には、一千ドルの報酬を出すと発表した。ヒューバート・コリンスンも、これとは別に彼の息子の殺害者の発見に一千ドルの懸賞を申し出て、なお犯人を逮捕および自白させた者にはさらに二千五百ドルの追加賞金を贈る、と発表した。それを見ると、この地方の住民の半数以上は探偵犬と化してしまった。それからは、郡内のどこへ行っても、野原であろうと、丘であろうと、谷であろうと、何かの手掛りを得ようとして歩きまわり、はいまわっている人の影が絶えたことがなく、森の中にも、樹木の数よりも多い素人探偵のゴム靴姿が見られた。ガブリエルの写真もいちはやく復製されて、売り出された。
一方、サンフランシスコからヴァンクーヴァーへかけての新聞は、手持ちの色インクを全部使いはたしてこの事件を書き立て、はやし立てた。サンフランシスコとロサンゼルスのコンティネンタル社の探偵たちも、他の仕事を延ばしておける者はみんな、クェサダの各出口をおさえて、そこらをかぎまわり、漁《あさ》りまわり、質問してまわった。ラジオもこれに一枚加わった。どこの警察も探偵社もわき立った。しかしこの騒ぎも、月曜日まで、われわれには何の収穫ももたらさなかった。
月曜日の午後、私はサンフランシスコにもどり、「老人」に自分の苦心を全部話してきかせた。彼は、あたかも自分に個人的関係のない面白い話でも聞くように、いんぎんに耳をかたむけていたが、話が終ると彼のくせである意味のない微笑を口もとに浮かべ、何の助言も与えずに、ただ君の成功を確信するという意見をたのしそうに述べただけだった。それから彼は、フィッツステファンが私に連絡をつけようとして電話をかけてきた、と言った。「何か重要なことらしいよ。もしわしが、君とまもなく会うことになってると告げなかったら、彼は君を見つけるためにクェサダまで出かけて行ったかもしれんよ」
私はフィッツステファンの電話番号を呼び出した。「すぐ来ないか」と、彼は言った。「つかんだものがあるのだ。新しい謎、それとも謎を解くキイか、どっちかは知らんが、とにかく何かだよ」
私はケーブルカーでノッブ・ヒルにのぼり、十五分後に彼のアパートに着いた。相変わらず新聞と雑誌と書籍で足のふみ場もないような彼の部屋に腰をおろすと、私はすぐ言った。
「さあ、話ってのをきかせてくれ」
「まだガブリエルの消息はわからないのか?」
「わからない。それよりもその謎というやつを聞かせてくれ。僕には文学的な言い廻しや、小説的な組立はごめんだよ。野育ちの僕にはそんなことはわからんし――ただ腹痛《はらいた》を起させるだけだからね。さあ、はやいところやってくれ」
「相変わらずだな、君は」と言って、彼はいかにも失望した様子を見せようとしたが、内心何かひどく興奮していたので成功しなかった。「ある人間が――男だね――土曜日の朝早く――一時半ごろだぜ――僕を電話に呼び出したんだ。〈そちらはフィッツステファンさんですか?〉ときくから、〈そうだ〉と答えると、その声は〈実は、わたしは彼を殺しました〉って言うんだ。彼はこのとおりの言葉を使ったよ。その言葉は明瞭ではなかったが、たしかにそうきこえたよ。電話にひどく雑音が入っていて、遠くからかけているらしかった。僕はいったい相手が誰なのか、何のことを言っているのかわからなかったので、〈誰を殺したのですか? あなたはどなたですか?〉ときいたんだ。だが、彼の返事のうちから僕にわかったのは、〈金《マネー》〉という言葉だけで、それ以外の言葉はどうしても理解することができなかった。彼はたしかに金に関して何か言っていたらしく、それを数回くりかえしたけれど、僕には結局この一言だけしかわからなかった。
ちょうどこの部屋に数人集まっていたときで、マルクァード夫婦に、ローラ・ジョインズ、それに彼女がつれてきたある男、それからテッドと、シュー・ヴァン・スラックといった連中で、文学的な雑談に花を咲かせていた最中さ。ちょうど木馬はトロヤだというのと同じ意味で、キャンベルはロマンティストだといったような警句を思いついたときなので、このわけの分からない電話をかけてきた酔っぱらいのおどけもののために、その発言の機会を奪われたくなかった。そこでいいかげんに電話を切ってしまって、客のところへもどってきた。
昨日の朝新聞でコリンスンの死を知るまでは、この電話の会話が何か重要な意味をもっていようとは、僕には思われなかった。僕はロスのコールマンのところへ行った。土曜日の朝そこへ行き、週末をそこですごして、その間にラルフをとうとう追いつめてやったよ」彼はニヤリと笑った。「今朝僕が去るのを見て彼はほっとしたらしいよ」それから彼はふたたび真剣な調子にもどった。「コリンスンの死のあとでも、僕はあの電話の呼び出しを重要なもの、何かの意味をもったものとは考えなかった。実際気狂いじみた電話だからね。だが、もちろん、君にはそのことを話そうと思っていた。ところが見たまえ――今朝僕が帰って見ると、これが郵便物の中にまじっていたのだよ」
フィッツステファンはポケットから一通の封筒をとり出すと、私に差し出した。それはどこでも売っている安ものの光った白い封筒だった。しばらくポケットに入れて持ち歩いたもののように、四隅がうす黒くよごれて、めくれていた。封筒の表にはフィッツステファンの宛名と住所が、かたい鉛筆で、誰かつまらぬ印刷屋、あるいは印刷屋と見せかけたい人間によって、活字体で書かれていた。消印はサンフランシスコ、土曜日の午前九時となっていた。中味はきたない、しわくちゃな茶色の包装紙を裂いた一片で、表書きと同様貧弱な鉛筆の活字体で「カーター夫人を欲しい者は、誰でも一万ドル支払うことによって同夫人を得ることができる」と書かれていた。日付も前書きや後書きの言葉も、署名もなかった。
「土曜日の午前七時、彼女が一人で車を運転して行くのを見た人間がいるんだ」と、私は言った。「ところが、これは九時の消印――つまり朝の第一回開函に間にあうように、八十マイルはなれたこの地で投函されている。考えた手だね。だが、もっとおかしいのは、この手紙が、彼女の後見を引きうけているアンドルーズのところとか、大金持の彼女の義父のところへ来ないで、君のところへ来たことだよ」
「そいつはおかしくもあるが、またおかしくもないよ」と、フィッツステファンは答えたが、彼の痩せた顔は熱していた。「ここに光明の一点があるのかもしれないよ。君も知っているように、僕は〈アシュドッドの壁〉を脱稿するために去年の春クェサダで二ヵ月ばかりすごしたことがあるので、コリンスンにあそこを推せんし、ローリーという不動産仲介業者――この男はクェサダの郡長代理のおやじだが――にあてて、彼をエリック・カーターとして紹介した名刺を一枚渡しておいた。だから、クェサダの土地の人間は彼女が旧姓レゲット・ガブリエル・コリンスンだということを知らないかもしれないよ。そこであの場合僕に電話をかけてきた男は、彼女夫婦をクェサダへやった僕を通じる以外に、彼女の家の人間に接触する方法を知らなかったのかもしれない。だからこそ、手紙は僕にあてながら、関係者の手に渡る場合を考えて、|誰でも《ヽヽヽ》という言葉を使っているよ」
「地元の者が出したのかもしれんな」と、私はゆっくり言った。「でなければ、われわれに地元の者だと思わせたい誘拐者――いいかえれば、われわれに彼がコリンスン一家を知っていると思わせたくない誘拐者かもしれん」
「まさにその通りだよ。そして僕の知るかぎりでは、地元の人間で僕のここのアドレスを知っているものはないはずだ」
「ローリーはどうかね?」
「コリンスンが教えなければ、知らないはずだ。僕は名刺の裏に紹介文をなぐり書きしただけだから」
「電話の呼び出しと、この手紙のことを、誰かに話したかい?」
「冗談かいたずらと考えたので、金曜の晩にここにいた連中には電話のことを話したよ。手紙の方はまだ誰にも見せてない。実をいうと、こいつを見せることには少し疑いをもったのだ――いまだってそうだがね。僕に厄介なことがふりかかってきやしないだろうか、と――?」
「うん、そうなるかもしれんね。しかし心配することはないさ。僕はまた君は第一級の厄介がすきだとばかり思っていたよ。君のお客さんたちの名前と住所とを僕に言っておいた方がいいぞ。お客とコールマンが君の金曜日の夜と週末の所在を明らかにすれば、君には別に面倒なことは起らんだろう。君はクェサダへ行って、郡の役人どもに拷問にかけてもらう方がいいのだがね」
「二人ですぐ行こうか?」
「僕は今夜帰るつもりだから、明日の朝、あそこのサンセット・ホテルで会うことにしよう。そうすれば、僕は役人どもに、君を見てもすぐ土牢にぶち込まないように、工作する時間ができるからね」
私は社にもどって、電話でクェサダを呼び出した。ヴァーノンと郡長をつかまえることはできなかったが、コットンに通じた。私は彼に、フィッツステファンから得た情報を知らせ、明日この小説家を訊問に出頭させることを約束した。コットンはガブリエルの捜査は依然継続中だが、まだ何の成果もあげていないと答えた。彼の話によると、彼女を目撃したという報告が、ロサンゼルス、ユーレカ、カースンシティ、デンヴァー、ポートアイランド、ティジュアナ、オグデン、サンジョーズ、ヴァンクーヴァー、ポータヴィル、なかにはハワイさえから、いちどに殺到したが、どれもこれも馬鹿馬鹿しい報告ばかりで、役に立ちそうなものは一つもない、と言った。
また電話会社は私に、オーウェン・フィッツステファンを土曜日の朝呼び出した電話は長距離電話でないということ、クェサダからサンフランシスコの電話番号を呼び出したものは金曜日の夜から土曜日の朝へかけて一つもないということを、知らせてくれた。
社を出る前に、私はもう一度「老人」をたずねて、地方検事にアーロニア・ホルドーンとトム・フィンクを解放するように進めてもらえないだろうか、とたのんだ。「彼らを刑務所に入れておいても、われわれに何の利益もないと思うのです。釈放させて、あとをつければ、彼らはきっとわれわれをどこかへ案内してくれるにちがいありません。検事だって、いまはもう彼らを殺人罪に引っかける機会のないことは知っているのですからね」「老人」は最善をつくしてみようと約束し、そしてもし彼らが釈放されたら、一人一人に社の探偵を尾行させようと言ってくれた。
私はマディスン・アンドルーズの事務所へ行った。彼にフィッツステファンの例の電話の話を告げて、くわしく説明すると、この老弁護士は骨ばった白髪頭をうなずかせて言った。「その説明が当っていようといまいと、これで郡当局も、ガブリエルが夫を殺したなどという、彼らの馬鹿げた考えをすてるにちがいあるまい」
私が頭を振ると、「なぜ?」と、彼は爆発するようにききかえした。
「彼らは、この電話は彼女を潔白にするために仕組まれた芝居だと考えるでしょう」
「君もそう考えるのか?」
「僕はそう思いたくないのです。なぜなら、トリックとしたら、ずいぶん子供っぽいトリックですからね」
「なにがトリックなものか?」と、弁護士は大声で言った、「つまらぬ話はやめたまえ。われわれは誰もその時刻には何も知らなかったはずだ。死体だって発見されていなかったのだからな――」
「そうですよ」と、私は相づちを打った。「それだけに、もしこれが彼女の離れ業《わざ》だとわかれば、ガブリエルは絞首刑ものでしょう」
「君のいうことは、どうもわしにはわからん」と、彼は不愉快そうに言った。「あの娘を迫害している人間のことを話しているかと思うと、次にはすぐ、彼女を殺人犯人だとでも考えるような口振りを弄《ろう》するし――いったい、君はどう考えているんだ?」
「両方とも真実であり得ると思うのです」と、私は無愛想に答えた。「わたしがどう考えていようと、たいしたちがいはないでしょう。彼女の身柄が発見されれば、あとは陪審員がやる仕事ですからね。そんなことよりも、目前の問題はいまお話した一万ドルの身代金要求に対してあなたはどうなさるかということです――もちろん相手のいうことに嘘いつわりがない場合ですが――」
「わしがやろうと思っていることは、彼女の発見に対する報酬をもっと増やし、誘拐者の逮捕にはさらに報酬を追加するということだ」
「それはまずいやり方ですよ。報酬金としてはすでに充分な金額が公示されているのですからね。誘拐事件を扱う唯一の方法は、やはり相手に直接ぶつかることです。わたしだってそんなことはいやですが、でもそれ以外に方法はありませんよ。不安、焦燥、恐怖、失望は、どんなおとなしい誘拐者をも気狂いにしてしまうものです。彼女を無事に救い出そうと思ったら、金で買い取りなさい。そのあとで、あなたの戦いをすすめればいいでしょう。要求されたものを要求されたときに払ってやることです」
弁護士はバサバサの口ひげを引っぱり、あごを強情につっ張って見せたが、眼は悩んでいた。が、ついにあごが勝利をしめた。「畜生、わしは屈服せんぞ!」と、彼は言った。
「それはあなたのご自由です」と、私は立ち上がって、帽子をとった。「僕の仕事は、コリンスンの殺害者を見つけることですから、彼女を殺させる方が、おそらく僕の手をはぶいてくれることになるかも知れませんよ」
彼は一言も答えなかった。
私はヒュバート・コリンスンの事務所へ行った。彼は不在だったが、私は息子のローレンス・コリンスンに用件を話し、次のように結んだ。「お父さんにお金を出すように説いてくださいませんか?」
「別に父を説く必要はありますまい」と、彼は即座に答えた。「もちろんわたしたちは、彼女の安全を保証するために、要求されただけの金を支払いますよ」
十六 深夜の探険
私は五時二十五分発の南行きの汽車をつかまえた。汽車は七時三十分に、クェサダの二倍ほどある、埃《ほこり》っぽいボストンの町に私をおろした。私以外に乗客のないがたがたの乗合が三十分後に私を目的地のクェサダへつれて行ってくれた。車をおりてホテルへ行く途中で、雨がふりだした。サンフランシスコの新聞記者の一人であるジャック・サントスが電話局から出てきて、私に声をかけた。「へロー、何かニュースですか?」
「そうかもしれんが、まずヴァーノンの耳に入れなければならんのでね」
「彼はホテルの部屋にいるでしょう。十分前にいましたから。誰かが受けとった身代金要求の手紙の件でしょう?」
「そうだよ。彼はもう発表してしまったのか?」
「コットンは発表しようとしたのだが、ヴァーノンはそれをとめて、われわれに、もう少し伏せておくように言ったのですよ」
「なぜ?」
「なあに、われわれにそれを知らせようとしたのがコットンだったという以外に何の理由もないのでしょう」と、サントスは薄い唇の両端を下にひいた。「誰の名前と写真がいちばん多く新聞に出るかってことで、ヴァーノンとフィーニーとコットンの間は競争になっているんでさ」
「彼らはそれ以外に何かやってるんだろう?」
「彼らに何ができますか?」と、彼はにがにがしげに言った。「彼らはお互いにトップ記事をつくろうとして一日十時間費し、他人にそれをつくらせまいとしてあとの十時間を費す、そしてあとはときどき眠るというだけでさ」
ホテルに入ると、さらに幾人かの新聞記者がいたが、彼らには何も新しいことは話さずに、旅客名簿に名前を記入して部屋に行き、カバンをおいてから二〇四号室に行った。ノックすると、ヴァーノンがドアをあけた。彼は一人だった。明らかにいろいろな新聞を読んでいたらしく、ベッドの上にピンクや緑や白い新聞が束をなしていた。葉巻の煙で室内は青灰色にけむっていた。この地方検事は三十才前後の黒ずんだ眼の持主で、始終あごを突き出すくせと、話すときに歯をむくくせがあり、自分が手腕家であるという強い意識をもった男だった。彼は元気よく私に握手して言った。「君がもどって来られたので、わたしはうれしいですよ。さあ、おはいりなさい。そこにお坐りになって。何か新しい発展がありましたか?」
「わたしがお知らせした情報を、コットン氏からおききになったでしょう?」
「ききました」と、ヴァーノンは両手をポケットに突っこみ、両足を開いて、ポーズをつくった。「あれにどういう重要性を認めますか?」
「わたしはアンドルーズ氏にすぐ金を用意するようにすすめましたが、彼はやらんでしょう。コリンスン父子は金を出すらしいですが」
「彼らは出しますよ」と、彼は私の予想を確認するかのように言った。「で、それで?」と、彼はすっかり歯があらわれるくらい、唇をぐっとうしろに引いた。
「これがその手紙です」と、私は彼に手紙を渡した。「フィッツステファンは明朝来るはずです」
ヴァーノンは重々しくうなずくと、それを電燈に近よせて、封筒と手紙をたんねんに調べた。調べおわると、さげすむようにそれをテーブルの上において、押しやった。「明らかにインチキですね。これはフィッツステファンと言う人の名前ですか? 話というのは、正確にはどんなことなのですか?」
私はくわしくその話をした。それがすむと、彼は歯をカチッとかみ合せて電話器をとり上げ、地方検事のヴァーノン氏がすぐ会いたいとフィーニーに伝えてくれ、と誰かに命じた。十分ほどすると、郡長のフィーニーが大きな茶色の口ひげについた雨のしずくを払いながら入ってきた。ヴァーノンは拇指で私を指して、「この人と話たまえ」と、言った。
私はフィッツステファンから聞いたことを、もう一度くりかえした。彼は熱心に聞いていたが、そのために彼の血色のいい顔は紫色に変わり、息づかいが喘《あえ》ぐようになった。最後の言葉が私の唇をはなれると、地方検事はパチッと指を鳴らして、言った。「よろしい。彼は電話がかかってきたとき客がきていたと主張しているのですね。その連中の名前をひかえておいてくれたまえ。彼は、ええと、誰ですって、ラルフ・コールマンか――そのラルフ・コールマンとロスで週末をすごした、と主張しているのですね。よろしい、郡長、それらの点を照合してみてくれ給え。どこまで事実か知りたいからね」
私はフィッツステファンが私に話した名前とその住所を郡長に知らせた。フィーニーはそれを洗濯物の価格表の裏に書きとめ、郡の犯罪捜査機関にそれを調査させるために、ハアハア喘ぎながら出て行った。ヴァーノンはほかに私と話すことは何もないらしかった。私は彼をふたたび新聞にまかせて、階下におりた。例のにやけた番頭が私をデスクのとこへつれて行きながら言った。「サントスさんが今晩お部屋で気晴らしをなさるそうで、そのことをあなたにお伝えしてくれとのことでございます」
私は番頭に礼をいって、サントスの部屋へのぼって行った。彼と、仲間の三人の新聞記者と、ほかにカメラマンが一人いた。勝負は飾りボタンでやった。十二時半ごろ、私は十六ドルだけ勝ち越した。そのとき、電話がかかってきて、地方検事の攻撃的な声がきこえた。「わたしの部屋へすぐ来てくれませんか?」
「承知しました」私は上衣と帽子をとって、サントスに言った。「現金に引き換えてくれ。重要な電話なのだ。いつも少し勝ち出すと電話なのでいやになるよ」
「ヴァーノンですか?」私に渡す金を勘定しながら、サントスはきいた。
「そうだ」
「たいしたことじゃないでしょう」と、彼はくさすように言った。「そうでなければ、彼はレッドのことも呼ぶでしょうからね」そう言って写真班員の方にうなずいて見せながら、「次の朝、読者が新聞を手にしたときに彼の顔が見られるようにね」
地方検事の部屋には、彼と一緒にコットン、フィーニー、ローリーがいた。あごにえくぼのある円顔の、中背のコットンは、黒のゴム長にレインコートを着こみ、ぬれて泥だらけの帽子をかぶって、部屋の真ん中に立っていた。フィーニーは椅子にまたがって、口ひげをひねっていたが、彼の血色のいい顔は不機嫌そうだった。タバコを巻きながら彼のそばに立っているローリーは、いつものように漠然と愛想のいい顔をしていた。ヴァーノンは私のうしろのドアをしめると、いらいらしながら言った。「コットンが何か発見したそうですよ。彼の考えでは――」
コットンは胸を張って進み出ながら、それをさえぎった。「わたしは何も考えてなんかおらんよ。何も知らんよ――」
ヴァーノンは執行官と私の間で指をパチンと鳴らしながら、ぶっきら棒に言った。「心配することはないよ。みんなで出かけてみよう」
私はレインコートと拳銃と懐中電燈をとりに自分の部屋に寄った。それから、みんなで階下におりて、泥まみれの自動車に乗りこんだ。コットンが運転し、ヴァーノンがその隣に坐った。ほかの三人は後部の座席に坐った。雨は車の屋根とカーテンをたたき、すきまから車内にしたたり落ちた。
「夢みたいな話を追っかけるには、結構な晩さ」雨のしずくをさけながら郡長はこぼした。「ディックは自分の仕事のことを考えてれば、それでいいのに――」
ローリーが相づちを打った。「何だって彼はクェサダで起ったものでないことに関係しようとするんでしょう?」
「もっと彼がクェサダで起きたことに関心をもったら、海岸で起ったことなんかに気を使わなくてもすむのさ」と、フィーニーが言った。そして郡長と郡長代理はクスリと笑った。
二人の会話は、何のことを言っているのか私には見当がつかなかったので、私はたずねた。「いったい彼はどうしたのですか?」
「何でもないですよ」と、部長は言った。「何でもないことが、いまにあんたにもわかるじゃろう。誓っていうが、わたしは彼に直言しようと思っている。彼の言うことを多少とも真にうけているヴァーノンの気持が、わたしには全然わからん」
私には何のことかさっぱりわからなかった。私はカーテンの間から外をのぞいてみた。雨と闇が視界をとざしていたが、車が|東の道《イーストロード》のある地点に向かって走っているらしいことはわかった。それは雨と泥でぬかるんだ、でこぼこのひどい道だった。車はやがていままで過ぎてきたと同じ、暗い、ぬかるんだ地点にとまった。コットンはライトを消して、外へ出た。われわれもそのあとから車をおりて、ぬかるみの中をすべったり、くるぶしまで泥まみれになったりしながら、ついて行った。「これはなんぼ何でもひどすぎる」と、郡長はこぼした。
ヴァーノンが何か言ったが、コットンはどんどん歩いて行った。われわれは、眼よりもむしろぬかるみをビチャビチャふんづけるお互いの足音をたよりに、はぐれないようにして、彼のあとからとぼとぼとついて行った。あたりは真の闇だった。やがてわれわれは道路をはなれ、高い鉄条垣を苦労して越えた。足の下の泥は前よりも少かったが、そのかわりすべりやすい草が生えていた。われわれは丘をよじのぼった。風は雨をわれわれの顔に吹きつけた。私はびっしょり汗をかいてしまった。一行は丘の頂きを越えると、行手に岩にあたってくだける波の音を聞きながら丘の反対側を下った。勾配が険しくなるにつれて、円石がふえてきた。一度コットンがすべって膝をつき、その拍子にヴァーノンをつきとばしたので、ヴァーノンは私にかじりついた。郡長の喘ぎはいまでは唸《うな》り声のようにあたりに響いた。左に折れて、浜辺のすぐ近くを一列になって進み、それからまた左に曲って、斜面をのぼり、板屋根が十二、三本の柱の上にのっているといった、壁のない低い小屋の下でとまった。気がついてみると、われわれの前にはこの小屋よりももっと大きな建物が、黒い空を背景に真っ黒い影をつくっていた。コットンがささやいた。
「彼の車がここにあるかどうか、僕が見てくるまで、待っていてくれたまえ」
彼は遠ざかって行った。郡長はフーッと息をはきながら、「こんな探険は真っ平だね」とぶつぶつ言い、ローリーはため息をついた。
執行官は意気揚々ともどってきた。「車はないから、彼はここにいないよ。さあ、こっちへ来たまえ。どうにかぬれなくてすみそうだぞ」
われわれは、やぶの間のぬかるみ道を彼のあとからついて行って、その黒い家の裏手のポーチにのぼった。彼が窓をあけて、中に入り、ドアの錠をはずすまで、みんなはポーチに立っていた。ここで初めて使用したわれわれの懐中電燈は、小さな、小ぎれいな台所を照らし出した。われわれは床を泥でよごして、そこへ入った。みんなの中で興奮しているのは、コットン一人だけだった。帽子のふちの下からくびれたあごまで――彼の顔は、みんながびっくりするにちがいないと思うことを、これからまさにやろうとしている集会の司会者の顔そっくりだった。ヴァーノンは疑わしそうに彼をながめ、フィーニーはがっかりしたように、ローリーは無関心に、そして私は、いったい何のためにみんなでここへ来たのか理由がわからないので、明らかに好奇心をそそられながら彼を見まもっていた。
そのうちにやっと、われわれはこの家を捜索するためにやって来たのだということが、私にもわかってきた。われわれは、少なくともコットンは、あとの四人が彼に手伝うような恰好を見せている間に、さっさとその捜索にとりかかった。それは小さな家で、階下には台所のほかにたった一室しかなかったし、二階も一室――それもまだすっかり完成されていない寝室があるきりだった。テーブルの引出しの中の食料品店の受取りと納税受領証が、これが誰の家かということを私に教えてくれた。それはハーヴィー・ホイッドン――例のガブリエル・コリンスンのクライスラーに見知らぬ男が同乗していたのを見たと言った、あの骨太の、落ちついた男の家だった。われわれはむなしく階下を捜索したのち、二階に上って行った。十分間ほど引っかき廻したのち、ここであるものが発見された。ローリーが、ベッドの台の敷布団の間から、それを引っぱり出したのだった。それは白い麻のタオルにつつまれた、小さなふくらんだ包みだった。コットンは、その下が見えるように郡長代理のためにもち上げていた敷布団をおとすと、ローリーの発見したこの小さな包みのまわりに集まったわれわれに加わった。
ヴァーノンは郡長からその包みを受けとると、ベッドの上でほどいて見た。タオルの中には、ヘア・ピンの束と、レースで縁《ふち》どった白いハンカチーフと、G・D・Lと頭文字のほってある銀のヘア・ブラシと櫛《くし》、小さな女持ちの黒い山羊皮の手袋がはいっていた。ほかの誰よりもびっくりしたのは私だった。「G・D・Lというのは――」と、私は思わず口走った。「ガブリエル・某・レゲットのことじゃないか――コリンスン夫人の結婚前の名前ですよ」
コットンは勝ちほこったように叫んだ。「あんたの言うことは絶対にまちがいなしだ」
このとき、とつぜん戸口から重々しい声がきこえた。「あんたたちは捜査令状をもっているのか? もってないのなら、いったいここで何をしているのだ? これは夜盗のすることじゃないか!」
それはこの家の主人のハーヴィー・ホイッドンだった。黄色のレインコートを着た彼の大きなからだが戸口をふさいでいた。その重々しい顔は暗く、怒っていた。
ヴァーノンは言い出した。「ホイッドン、われわれは――」
すると、コットンが「こいつだ!」と叫んで、いきなり上衣の下から拳銃を引き出した。彼が戸口の男をねらって発砲したのと、私が彼の腕を押したのとが同時だった。弾丸はそれて壁にあたった。
ホイッドンの顔は、怒りよりも驚愕《きょうがく》につつまれた。彼は身をひるがえすと、階下へ駈けおりた。私の一押しでひっくりかえったコットンは、立ち上がると、私に悪罵《あくば》を浴びせてから、あわててホイッドンのあとを追った。ヴァーノンとフィーニーとローリーは、二人のあとを見送ったまま、突っ立っていた。私は言った。「これは実にみごとなスポーツだが、僕にはわけがわからんですね。いったい、どうしたんですか?」誰も答えなかった。そこで私はローリーに言った。「この櫛とブラシは、二人であの家を捜索したとき、コリンスン夫人のテーブルの上にあった品ですよ」郡長代理はなおも戸口のほうを見つめながら、あいまいにうなずいた。もう戸口からは何の物音も聞こえてこなかった。「どうもわからないが、コットン氏には、ホイッドンを陥《おとしい》れようとする、何か特別な理由でもあるのですか?」
「二人は仲のいい友達ではないんですよ」と、郡長が言った。(私はこの言葉に注意を引かれた。)「ヴァーノン、あんたはどう思いますね?」
地方検事は戸口から眼をはなし、ふたたびタオルに包まれていたものを包みなおすと、それをポケットにつっこんだ。
「さあ、行こう」彼はパチッと指を鳴らして、階下へおりて行った。
玄関のドアはあいていた。コットンの姿もホイッドンの姿も見えなければ、何の物音もきこえなかった。一台のフォード――ホイッドンの――が雨にずぶぬれになって門のところにとまっていた。みんなはそれに乗りこんだ。ヴァーノンがハンドルをにぎり、車はまもなく例の入江の家の前でとまった。ドアをたたくと、灰色の下着を着た老人が出てきて玄関の戸をあけた。郡長が番人としてここにおいた老人だ。老人は、コットンが前夜八時にもう一度調べる必要があってきたと言って見えました、と話した。番人の老人は、執行官を警戒しなければならぬ訳があろうなどとは夢にも知らなかったので、別にうるさいことも言わずに、彼の好きなようにさせたが、自分の知るかぎりでは執行官はコリンスンの持物を何も持っては行かなかったようだ、と言った。
ヴァーノンとフィーニーは、老人を頭ごなしに叱りつけ、それから四人はふたたび車に乗りこんで、クェサダに引きかえした。私は自分とならんでうしろの座席に坐ったローリーにたずねた。「あのホイッドンというのは何者なのです? なぜまたコットンはあの男を眼のかたきにしているのですか?」
「まあ、一例をあげると、ハーヴィーという男は前に酒の密輸に関係したり、ときどき悶着をおこしたりして、あんまり評判のよくない男でもあるのです」
「なるほど。で、ほかには?」
郡長代理は、額に八の字をよせて、躊躇《ちゅうちょ》しながら、言葉をさがしていたが、彼がその言葉を見つけ出す前に、車が暗い街路の一隅の、つる草におおわれた小さな家の前にとまった。地方検事は玄関前のポーチに立って、ベルを鳴らした。しばらくすると、女の声が頭の上でした。「どなたですか?」
みんなはその女を見るために、石段のところまで退いた。二階の窓から見おろしているのはコットン夫人だった。
「ディックはまだもどりませんか?」と、ヴァーノンがきいた。
「いいえ、ヴァーノンさん、まだもどりませんよ。心配していたところなのです。ちょっとお待ちください。下へまいりますから」
「どうぞ、おかまいなく」と地方検事は言った。「われわれはすぐ引きとりますから。ディックには明朝会いましょう」
「いいえ、お待ちください」彼女はしつこくそう言うと、二階の窓から見えなくなった。
それからすぐ彼女は玄関のドアをあけた。彼女の青い眼は黒ずみ、興奮していた。バラ色の化粧着をきていた。
「心配なさることはありませんよ」と、地方検事は言った。「別に特別のことがあったんじゃありませんから。実はわれわれは少し前に彼と別れたので、帰っているかどうかと思って寄ってみたのです。彼は別状ありませんよ」
彼女の手は、痩せた胸の上で化粧着のひだをつかんでいた。「あの人は――あの、ハーヴィーを――ハーヴィー・ホイッドンを――追っかけて行ったのではないでしょうか?」
ヴァーノンは彼女の方を見ずに、「そうです」と言った。フィーニーとローリーも、ヴァーノンと同じように気まずそうな様子を見せた。
コットン夫人の顔は桃色に変った。下唇がふるえ、言葉がよくききとれなかった。「あの人のことを信じないでください、ヴァーノンさん、あの人の言うことを信じないでください。ハーヴィーはあのコリンスン夫妻とは何の関係もない人です――お二人のどちらとも。ディックに、あの人がやったんだと言わせないでください。あの人はそんなことをやりはいたしません」
ヴァーノンは足もとに眼をやったまま、ひとことも言わなかった。ローリーとフィーニーは、わざと開かれた戸口から――われわれはそのときドアのすぐ内側に入っていたので――雨をながめていた。誰も口をきこうとするものはなかった。私は、自分が実際に感じていた以上に疑いの気持を声の調子にふくめてたずねた。「本当に、やらなかったのですか?」
「ええ、決して」と、彼女は私の方を振りむいて叫んだ。「するはずがないじゃありませんか。何の関係もないのですから」
桃色が彼女の顔から消え、白く、絶望的になった。「あの人は――あの人は、あの晩ここにおったのですから――一晩中――七時から夜明けまでここにおったのですから」
「ご主人はどこにおられたのです?」
「サンフランシスコに行っておりました。母のところに」
「お母さんのご住所は?」
彼女はノエ街の番地をおしえた。
「誰かが――?」
「おい、行こう」と、郡長が相変わらず雨を見つめながら抗議した。「それでまだ足りないのですか?」
コットン夫人は私から地方検事の方へ向きなおって、その片腕に手をかけながら、「ヴァーノンさん、わたしがこんなことを言ったとおっしゃらないでください。お願いです。そんなことがわかったら、わたし、どうしていいかわかりませんわ。でも、あなたがたにはお話しなければならないと思ったのです。わたし、あの人がハーヴィーに罪を着せるのを見ているわけに行きませんもの。お願いです、ほかのかたにはおっしゃらないでください」
地方検事は、どんなことがあろうと、自分もここにいるほかの三人も、彼女のしゃべったことを決して誰にももらさないと誓った。しかし、ふたたびフォードに乗りこんで、彼女からはなれると、彼らはいままでの気詰りから解放されて、ふたたび人間を追う猟師《かりうど》に返った。十分もたたぬうちに、彼らは、コットンが金曜日の晩サンフランシスコの母親のところへ行ったというのは嘘で、クェサダに残っていてコリンスンを殺し、フィッツステファンに電話をかけるためと手紙を出すために市へ行き、それからコリンスン夫人を誘拐するためにふたたびクェサダにもどってきたのにちがいないと決めた。それというのも、コットンはふだんからホイッドンと仲が悪かった上に、彼以外の誰もが知っているホイッドンと自分の妻との恋仲を近ごろは感づいていたから、ホイッドンを陥れるために、初めから計画的に考えてこんなことをやったのだろうと、彼らは考えた。
数分前までは、私がしつこく女に質問するのを邪魔するだけの侠気を持ち合わせていた郡長までが、いまは腹をゆすって笑いながら言った。「こいつは面白いことになったぞ。彼にハーヴィーを告発させる。ハーヴィーは苦しまぎれに、あの晩は彼のベッドに寝ていたというアリバイを持ち出す。そのときの彼の顔は漫画そっくりだろうよ。よし、今晩中に彼を見つけ出そうよ」
「待った方がいいですよ」と、私はとめた。「その前に彼がサンフランシスコへ行ったかどうかを調べてみるのも無駄ではないでしょう。いままでに彼についてわかったことは、彼がホイッドンに罪をかぶせようとしたことだけですからね。それに、彼が殺人犯人で誘拐者だとすると、どうもあんまりたくさんの不必要な馬鹿げたことをやっているようにも思われますからね」
フィーニーは顔をしかめて、自説を固守した。「いや、おそらく彼はほかのどんなことよりもハーヴィーを陥れることに興味をもって、初めから計画的にやったのだよ」
フィーニーはそれに反対だった。彼はコットンを即刻ひっとらえることを主張した。だが、ヴァーノンがしぶしぶ私に味方した。われわれはローリーを彼の家の前でおろして、ホテルにもどった。部屋に入ると、私はすぐサンフランシスコの社の事務所に電話を申しこんだ。接続を待っていると、ドアをたたく者があった。私はドアをあけて、パジャマ姿にスリッパをはいたジャック・サントスを入れた。
「ドライブはどうでした?」と、彼はあくびをしながらきいた。
「ふん、すばらしかったよ」
「何か突発事件?」
「内々の話だけれど――実はわれわれの執行官が女房のボーイ・フレンドをお手製の証拠で料理しようとしたというところに新味があるわけだ。当局のおえら方は、コットンが独力でこのトリックをやってのけたと考えているよ」
「そいつはトップ記事ものですね」と、サントスはベッドの裾に腰かけて煙草に火をつけながら、「僕はこんな話を聞いたことがありますよ――フィーニーはいまのコットン夫人をめぐってコットンの有力なライヴァルだったんですってね。だが、ついに彼女は執行官の方をお選びになった――つまりえくぼが口ひげに勝ったんだそうですよ」
「知らんね――だが、それがどうしたというんだ?」
「僕が知るもんですか。ただ、ちょっとそんなことを聞いたんでね。ガレージの男が話していましたよ」
「どのくらい前の話だね?」
「彼らがライヴァルだったときのことですか? まだ二年になりますまい」
サンフランシスコの事務所が出たので、私は宿直のフィールドに、ディック・コットンがノエ街の家を訪ねたかどうか、至急誰かに調べさせてくれとたのんだ。サントスは私が電話で話している間に、あくびをしながら出て行った。私は電話をすませると、ベッドに入った。
十七 ダル・ポイントの隠れ家
翌朝十時少し前に、電話のベルが私の眠りをさました。サンフランシスコのミッキーからの電話で、コットンは土曜日の朝七時から七時半の間に母親の家に着き、強盗の張り込みで徹夜したと母親に告げ、五、六時間眠ってから夕方六時に自宅へ帰った、と知らせてきた。
部屋を出てロビーに行くと、コットンが通りから入ってきた。赤い眼をして疲れているようだったが、まだしっかりしていた。「ホイッドンをつかまえましたか?」と、私はきいた。
「いや、あの野郎、いまいましい畜生だ。だがきっとつかまえてみせるよ。僕は君が腕をゆすぶってくれたことことにお礼を言うよ。おかげであいつを取り逃がしてしまったが――でも、人間の熱狂というやつは、ときには冷静な判断よりもまさることだってあるんだぜ」
「そりゃそうです。だから、ゆうべだってわれわれはあなたがどんな風に成功したか知ろうと思って、帰りにお宅へ寄ったんですよ」
「僕はまだ家へもどっていないんでね。一晩中あの野郎を追っかけていたものだから。ヴァーノンとフィーニーは?」
「まだ寝ていますよ。あんたも少し眠った方がいいですね。何か起こったら電話をしますから」
コットンは家へ帰って行った。私は朝食をとりにカフェへ行った。半分ほど食べたときに、ヴァーノンが入ってきて一緒になった。彼はフィッツステファンのアリバイを確認したサンフランシスコ警察署とマリン郡役所とからの電報をもっていた。
「僕もコットンに関する報告をうけましたよ。彼は土曜日の午前七時か七時ちょっとすぎに母親のところへ行って、その晩六時に帰ったそうです」
「七時か七時少しすぎに?」ヴァーノンは意外らしかった。コットンがもしその時刻にサンフランシスコにいたとすれば、ガブリエルをかどわかすことは、どう考えてもむずかしいからだった。
「たしかですか?」
「さあ、でもこれ以上の調査はむずかしいでしょう。あっ、フィッツステファンがきました」カフェの戸口から外を見ていた私は、ホテルのデスクに向かっている小説家のひょろ長いうしろ姿を見た。「ちょっと失礼します」
外に出て、フィッツステファンをつかまえると、もとのテーブルへつれもどって、ヴァーノンに彼を紹介した。地方検事は立ち上って、彼と握手したが、いまはコットンのことで頭がいっぱいで、ほかのことを考える余裕がないらしかった。フィッツステファンは、市を立つ前に朝飯をたべたから、と言って、コーヒーを一杯注文した。ちょうどそのとき私に電話がかかってきた。コットンの声だが、まるで別人の声のように興奮していた。「お願いだから、ヴァーノンとフィーニーをつれて、ここへ来てください」
「どうしたのですか?」
「早く! おそろしいことが起きたのです。早く!」と叫んで、彼は電話を切った。
私はテーブルにもどって、ヴァーノンにそのことを告げた。ヴァーノンはフィッツステファンのコーヒーを引っくり返してとび上がった。フィッツステファンも立ち上がったが、躊躇するように私を見た。「来たまえ」と、私は彼をさそった。「おそらくこれは君の好きな事件の一つかもしれんよ」
フィッツステファンの車はホテルの前においてあった。コットンの家はホテルから七ブロックしかはなれていなかった。玄関のドアはあいていた。ヴァーノンは入りしなにドアをノックしたが、答を待たずに中へ入った。ホールでわれわれはコットンに出合った。大理石のように蒼白な顔の中に、両眼が赤く血走っていた。彼は何か言おうとしたが、歯を食いしばっているため言葉が出なかった。彼は一枚の茶色の紙をにぎりしめた拳《こぶし》で、うしろのドアを指した。戸口を通して、コットン夫人の姿が見えた。彼女は青い絨緞《じゅうたん》を敷きつめた床の上に横たわっていた。淡青色のドレスを着ていたが、その咽喉《のど》は黒ずんだあざでおおわれていた。唇と舌は――舌のほうははれ上って、だらりと垂れていたが――咽喉のあざよりももっと黒ずんでいた。眼は大きく見開かれて、ふくれ上り、すでに上ずって、生気を失っていた。手は、触れてみると、まだ温かかった。
われわれのあとについて部屋に入ってきたコットンは、手にもっていた茶色の紙片を差しだした。それは裏表とも鉛筆で走り書きした神経質な文字で一面におおわれている、不規則に裂いた包装紙の一片だった。フィッツステファン宛の手紙よりもやわらかい鉛筆で書かれ、紙の色ももっと黒ずんだ褐色だった。私はコットンのいちばん近くにいたので、その紙をうけとり、不必要な言葉をとばして、大声で読んだ。
「ホイッドンが昨夜来て――コットンが自分を追っている――コリンスン事件にひっかけようとしていると言いました――わたしは彼を屋根裏にかくしました――彼は自分を助ける唯一の道は、自分が金曜日の夜ここにいたと言ってくれることだといいました――もしわたしがそう言わなければ、彼らは自分を絞首刑にするだろうとも言いました――ヴァーノンさんがきたときも、ハーヴィーはもしそう言わなければ殺すとわたしをおどかしました――そこでわたしはそう言いましたが――あとになって彼はわたしにこう話しました――彼は木曜日の夜彼女を誘拐しようとしましたが――コットンにもう少しで捕まりそうになったので中止し――それからコリンスンが電報を打ったあとに局へ行ってそれを見たので――すぐあとをつけてコリンスンを殺し――サンフランシスコへ行ってウィスキーを飲み――とにかく誘拐を実行しようと決めたそうです――そして彼女を知っている男に電話をかけて、誰から金がとれるかを聞き出そうとしたが――酔っ払っていたのでうまく話ができなかった――そこで手紙を出してから引きかえし――道で彼女に会ったので――ダル・ポイントの下手にある古い闇酒屋の隠れ家へ――ボートで彼女を連れこんだ、と言っていました――彼はわたしを殺すかもしれません――わたしを屋根裏に閉じこめてしまいました――彼が食べものをとりに下へ行ったすきにこれを書いています――殺人者――わたしは彼の手伝いをしたくありません――ディジー・コットン」
私がそれを読んでいる間に、郡長とローリーが到着した。フィーニーの顔はコットンと同じように白かった。ヴァーノンがコットンに歯をむいてどなった。「これを書いたのは君だろう?」
フィーニーはその紙片を私の手からひったくって見ていたが、頭を振り、それからしゃがれ声で言った。「いや、ちがう。これは彼女の筆蹟だ。まちがいない」
コットンはしゃべりつづけていた。「ちがう。誓って言うが、僕はそんなことはやらない。僕はなるほどあの男を陥れようと計画した。そのことは認めるが、それだけだ。僕は家にもどってきて、彼女がこんなになっているのを発見したのだ。神かけて誓う!」
「金曜日の夜は、君はどこに行った?」と、ヴァーノンが詰問した。
「ここだ。この家を見張っていた。僕はあいつが――だが、その晩はとうとうあいつはやってこなかった。僕は夜明けまで見張っていて、それから市《シティー》へ行った。僕は決して――」
そのとき郡長のどなり声が、コットンのあとの言葉をかき消してしまった。郡長は死んだ女の手紙を振りまわしながらどなった。「ダル・ポイントの下手だ! みんな何をぐずぐずしているんだ?」
彼はまっさきに家をとび出し、われわれもそれにつづいた。コットンとローリーは岸までローリーの車に乗り、ヴァーノンと郡長と私は、フィッツステファンの車に乗った。郡長は膝の上でにぎりしめている自動拳銃に涙をとばせながら、車が疾走するあいだ中わめきつづけた。岸につくと同時に、われわれは車からとびおり、頬の赤い亜麻色の髪のティムという少年が操縦する緑と白のモーター・ボートに乗りかえた。ティムは、ダル・ポイントの密造業者の隠れ家は知らないが、もしあれば見つけられるでしょう、と言った。
ティムの手でボートはかなり猛烈なスピードを出したが、それでもフィーニーとコットンは不満足だった。二人は拳銃をにぎりしめて船首《へさき》につっ立ち、前方をにらんだり、もっと速力を上げろと、どなったりした。半時間ほどして、ダル・ポイントと呼ばれるなだらかな岬をまわると、ティムはスピードをおとして、水際に高く突き出ているいくつかの鋭い岩の近くへボートを近づけた。われわれはからだ中を眼にしてにらみまわした。真昼の太陽のもとでは、見つめているとすぐ眼が痛んだけれど、それでもみんなはにらみつづけた。二度われわれは海岸の岩壁に裂け目を見つけ、勇《いさ》んでその中に突進したが、どちらも行き止りで、どこにも出口がなく、隠れ家にも通じていなかった。三度目に見つけた裂け目は見たところ前の二つよりも見込みがなさそうだったが、ダル・ポイントからすでにかなりの距離にきていたので、どんなものも見すごすことはできなかった。ボートをあやつってその裂け目のすぐそばまで近よったわれわれは、この穴もまた行きどまりであることをたしかめて、断念し、ティムにさらに先へ進むように命じた。ボートは、亜麻色髪の少年が方向を転ずる前に、さらに二フィートほど岸に近づいた。船首に立っていたコットンが、とつぜん腰から上を前方にまげてどなった。「ここで!」
彼は拳銃でその岩穴の片側を指した。ティムはさらに一、二フィート、ボートを近よせた、首をのばして見ると、われわれがいままで海岸線の一部だとばかり思っていた片側の岸壁は、実はその口もとだけ二十フィートばかりの水面で海岸の絶壁から隔てられている、高い、薄い、鋸《のこぎり》の歯のような別の岸壁であることがわかった。
「ボートをこの中へ入れろ」と、フィーニーが命じた。
ティムは眉をひそめて水面を見おろしながら、ためらった、「このボートじゃはいれませんよ」
ボートは少年の言葉を裏書きするように、とつぜん不快な軋《きし》り音を立てて、われわれの足の下でふるえはじめた。「畜生! 船を入れろ」と、郡長はどなった。ティムは郡長のおそろしい顔を見て、ボートを入れた。
ボートはさらにはげしく、もう一度われわれの足の下でふるえた。こんどはガリガリいう軋り音にまじって裂けるような音がきこえたが、ボートは入口を突破して、鋸の歯のような岩礁の裏側に廻った。いまわれわれは、陸からは絶対に接近できない、両側を高い岸壁で囲まれた、入口の幅二十フィート、深さ約八十フィートのV字形のポケットの中にいるのだった。ボートを浮かべている海水――もっともそれは船底の穴からどんどん船内に侵入しつつあったが――は、その岩穴の三分の一のところまで流れ入っていた。あとの三分の二は白砂がつづいていて、水際に小さなボートが一隻、へさきを砂に突っこんで乗りすててあった。船の中にはもちろん、あたりにも人影は見えなかった。ただ砂上に大小の足跡が入りみだれてのこっており、ほかに缶詰の空き缶がいくつかと、焚火のあとがあった。
「ハーヴィーのだ」と、ローリーがボートに向かってうなずきながら、言った。
われわれのボートもそのそばにのり上げた。みんなはコットンを先頭にとび出すと、穴の奥へ突進した。すると、とつぜん、あたかも空中からわき出たように、ハーヴィー・ホイッドンがV字型のはるか先端に姿を現わし、ライフルを両手に、砂上に立ちはだかってこっちをにらんだ。と、憤怒《ふんぬ》と驚愕の色が彼の重々しい面上に現われた。それは、「畜生、裏切りやがったな――」とわめいた声にもあらわれていた。が、つづいて彼の発射したライフルの音が、のこりの言葉をかき消してしまった。
コットンはさっととびのいて地上にふした。弾丸は数インチも彼をそれて、フィッツステファンの帽子の縁をかすめて、彼と私のうしろの岩にあたってプスッと音を立てた。われわれの四つの拳銃もいっせいに火ぶたを切り、つづけざまに何回も発射された。ホイッドンは足を宙に上げて、仰向けにぶっ倒れた。近づいてみると、もう息絶えていた――胸に三弾、頭に一弾をうけて。
われわれはまもなく、岸壁についた狭い岩穴――傾斜の関係からいままでわれわれの視野に入らなかった細長い三角形の洞穴――の片隅に、ガブリエル・コリンスンがちぢこまっているのを発見した。乾いた海草を積み重ねた上にひろげられた毛布、缶詰類、ランプ、それにもう一挺のライフルがおいてあった。ガブリエルの小さな顔は赤く熱っぽかったし、声もしゃがれていた。風邪を引いているらしかった。初めのうちは話もできないほどすっかり脅《おび》えきっていて、明らかに私のこともフィッツステファンのこともおぼえていない様子だった。
乗ってきたボートはもはや使用にたえなくなっていたし、ホイッドンのボートでは荒い磯波を乗りきって安全に三人以上を運べそうもなかった。そこでティムとローリーがこれに乗って、もっと大きな船をもってくるためにクェサダに向かって出発した。二人が行ったあと、われわれはガブリエルをなだめ、もう彼女は味方の間にいるのだということ、もう何も恐れることはないのだということを確信させるために全力をつくした。彼女の眼からは次第におびえた色がうすらぎ、息づかいも楽になり、かたくにぎっていた拳もだんだんゆるんできた。そして一時間の終りには、われわれの質問にもどうにか答えられるようになった。
彼女は、ホイッドンが木曜日の夜彼女をかどわかそうとしたことも、エリックが私に電報を打ったことも、まったく知らなかった。金曜日の夜は、夫が散歩から帰ってくるのを一晩中寝ずに待っていた。そして夜が明けると同時に、夫の帰らないことが心配で気が狂いそうになり、彼を見つけるために外に出た。彼女は私が発見したのと同じように断崖の小道で彼を発見した。家にかけもどった彼女は、自分のからだに弾丸を射ちこむことによって呪いに終止符を打とうと決心した。
「わたし、二度までそれを試みました」と、彼女はささやくような声で言った。「でも、できませんでした。どうしてもできませんでした。臆病すぎたのです。ピストルのさきをじっと自分に向けていられなかったのです。最初は、こめかみを射とうと試み、次には胸を射とうと試みました。でも、わたしには勇気がありませんでした。二度とも引金をひく前にピストルを動かしてしまったのです。二度目が失敗してからは、もうふたたび試みる勇気を失ってしまいました」
彼女はそれから、泥だらけになった裂けたイヴニングをほかの服に着かえ――自動車に乗って家から逃げ出した。彼女はどこへ行くつもりだったか言わなかった。自分にもわからないようだった。おそらく何の当てもなく――ただ呪いが自分の夫に現われた場所からすこしでも遠くへのがれたかったのだろう。家を出てからまだそれほど行かぬうちに、彼女はのちに自分をこの岩穴へつれてきた男の運転する一台の自動車に行きあった。男は彼女の車の前方に自分の車を横にして道をふさいでしまったので、衝突をさけようとして彼女は道ばたの木に車をぶつけてしまった。そしてこの洞穴で眼をさますまで、ほかのことは何も知らなかった。そのとき以来彼女はずっとここでくらしてきた。男は一日のうちの大部分の時間、彼女をここに一人でおいた。彼女には泳いで逃げ出す力も勇気もなかったし、それ以外には脱出の方法はなかった。男は彼女に何も言わず、何もたずねなかった。「ここに食べものをおいて行くよ」とか、「おれが水を持ってくるまで、咽喉がかわいたら缶詰のトマトでしのいでいてくれ」とか、そんなこと以外にはほとんど口をきかなかった。彼女は以前に彼を見た記憶がなかった。名も知らなかった。しかも、それは夫の死後彼女が見た唯一の人間だった。
「彼はあなたを何と呼びましたか?」と私はきいた。「カーター夫人と呼びましたか、それともコリンスン夫人と呼びましたか?」
彼女は考えるように額にしわを寄せていたが、頭を振って言った。「わたしの名を呼んだことはなかったように思います。あの男は用がなければ、しゃべりませんでした。それに、ここにはあまりいませんでした。たいていわたし一人でした」
「こんどはどのくらいいたのですか?」
「今朝、夜明け前からです。ボートの音でわたし眼をさましましたから」
「まちがいないですか? これは重要なことですから。彼が夜明けからずっとここにいたというのは、確かですか?」
「ええ」
私は彼女の前にしゃがんでいた。コットンは私の左に郡長とならんで立っていた。私はコットンを見上げて、言った。「問題はあなたにからんでいるのですよ。あなたの奥さんはわれわれが見たときには、まだ温かみが残っていました――十一時すぎでしたが」
彼は私に向かって眼をむきながら、どもった。「き、きみの言う意味は、ど、どういうことなのだ?」
私の反対側で、ヴァーノンが歯をカチッと鳴らす音がきこえた。「君の細君はホイッドンに殺されるのをおそれて、あの手紙を書いたのだ。しかし、彼は彼女を殺さなかった。彼は夜明けからここにいたのだからね。君はあの手紙を発見し、その文面から二人が仲のよすぎたのを知った。よし、それから君はどうしたんだ?」
「それは嘘だ」と、彼は叫んだ。「あんたの言うことには、これっぽっちも本当のことはない。彼女は僕が発見したときにはすでに死んでいた。僕は決して――」
「君が彼女を殺したのだ」と、ヴァーノンは私の頭ごしにどなった。「あの手紙でホイッドンに嫌疑がかかるのを見こして、彼女の首をしめたのだ」
「嘘だ」執行官はもう一度叫ぶと、うっかり拳銃に手をかけた。瞬間、フィーニーが彼をなぐりつけ、起き上らぬうちに、その手首に手錠をかけてしまった。
十八 爆弾《パイナップル》
「どうも筋が通らんよ、」と、私は言った。「われわれがいよいよそいつをひっ捕まえたときには、わかるだろうが、そいつはよっぽど馬鹿者にちがいないよ」
「それが、」と、フィッツステファンは言った。「それが君の特徴だよ。君はいま途方にくれ、面くらい、弱りこんでいる。それでいて、君は自分がどえらい相手にぶつかった、自分には手に負えない狡猾《こうかつ》な犯人に出合ったとは、思わないのだろう。そいつが君の裏をかいた。だから、そいつは馬鹿か気狂いだ、というんだろう。おどろいたよ」
「しかし、そいつはたしかに馬鹿者にちがいないよ」と、私は主張した。「考えてみたまえ、あのマイエーヌはそもそも結婚――」
「君はまたあのカタログを復誦しようというのか?」と、フィッツステファンは不愉快そうに言った。
「君は気まぐれだから、そんなに言うのだ。そんなこって、この仕事はできやせんよ。自分に興味のある考えだけを抱いて、たのしみながら犯人をつかまえようたって、そんなことはできるものか。そのためには自分が手に入れた一切の事実を前にじっくり坐りこんで、それがカチッとうまく合うまで、それらをひっくり返しひっくり返ししなければならないのだ」
「それが君のやりかたなら、君は辛抱しなければなるまい。しかし、僕はごめんだね。君は昨夜マイエーヌ=レゲット=コリンスンの歴史を一歩一歩順を追って少くとも六回くりかえしたよ。今朝も朝飯がすんでから、君はそれ以外に何もしなかった。僕は正直いってうんざりしたよ。どんな人間のミステリーだって、君の話ほど退屈なものはあるまい」
「畜生! 僕は君が寝てからだって、夜中まで起きていて、ひとりでそれをくりかえしていたんだぞ」
「僕はニック・カーター流の方が好きだな。君はそのひねくり廻しで到達した結論にまたおびやかされているんじゃないのか?」
「うん、一つの結論だけは得たよ。それは、コットンがホイッドンと共謀して誘拐をやり、あとで彼を裏切ったのだというヴァーノンやフィーニーの考え方はまちがっているということだ。彼らの意見によれば、計画をたてたのはコットンで、彼は執行官の地位を利用してうまくかばってやるからとホイッドンを説得して、あの荒仕事をさせた。コリンスンはこの計画にもとずいて殺された。それからコットンは、自分の女房に命じてああいうにせの陳述書を書かせ、そのあとで彼女を殺し、われわれをホイッドンのところへ連れていった。われわれがあの隠れ家に着いて真っ先に岸にとびあがったのはコットンだったが、これはホイッドンにしゃべる余裕を与えずに逮捕に抵抗させ、それによって確実に彼を殺そうとしたためだ、というのだ」
フィッツステファンは、長い指で栗色の髪をかきながら、言った。「君は、嫉妬がコットンにその動機を与えるのに充分だったとは思わないかい?」
「うん。しかしコットンの手中に自分をおいたというホイッドンの動機はどこにあるんだ? さらに、寺院の騒動と符節を合わせたあの設計は、どう説明するんだ」
「その二つの事件にかならず関連があると、君は本当に考えているのか?」
「そうさ。ガブリエルの父親、継母、医者、それから夫が、何週間もたたぬ間に次々と殺された。それも彼女に極めて近い関係の人間ばかりじゃないか。僕には、これだけで全部を結びつけるに充分だよ。でも、君がもっと連環が欲しいというなら、僕はそれを指摘することができる。
アプトンとラッパートは第一の事件の火つけ人だった。そして殺されている。ホルドーンは第二の事件の火つけ人だった。そしてやはり殺されている。またレゲット夫人は自分の夫を殺したし、コットンは明らかに自分の妻を殺したようだし、ホルドーンも僕が妨害しなければ自分の妻を殺しただろう。ガブリエルの女中はリーズを殺すようにさせられたが、僕だってあぶなく彼女に同じようにしてやられるところだった。また、レゲットはかならずしも満足とはいえないながらも、とにかく一切を説明して声明をのこして、殺された。コットン夫人がやはりそれと同じようにして殺されている。これらの幾組かの符号をどれ一つでもいいから思い出してみたまえ。そうすれば君だって、自分勝手な構想をたて、それにあくまで執着している、ある人間を指摘する余地がまだのこされていることを認めざるを得ないだろう」
フィッツステファンは考え深げに細眼で私を見ながら、同意した。「なるほど、それには一理あるかもしれない。君が指摘するように、一人の人間の仕業のようにも見えるね」
「そしてそれは馬鹿者だよ」
「その点はいくらでも意地を張るさ」と、彼は言った。「しかしだね、君のいう馬鹿者にしたって動機はあるにちがいないよ」
「なぜ?」
「チェッ、情けない人間だな」と、彼は人の好い性急さで言った。「もしその男にガブリエルに関連した動機が一つもないとしたら、どうしてその犯罪が彼女と結びつくはずがあろう?」
「その全部がそうかどうかわからんよ。いくつかがそうだということはわかっているがね」
彼はニヤリと笑って言った。「君はどんなことにも一言、異をたてずには気がすまんのだね、そうだろう?」
私は言った。「じゃ、もう一度言うが、その馬鹿者の犯罪は、そいつが馬鹿なために、ガブリエルに結びついているのかもしれんよ」
それをきくと、フィッツステファンはその灰色の眼を眠そうに細め、口をすぼめて、私の部屋とガブリエルの部屋の間のドアに眼をやった。
「ガブリエルに近い、君のいわゆる狂人とは誰なのだろう?」
「ガブリエルにいちばん近い、いちばん馬鹿なやつは、ガブリエル自身さ」
フィッツステファンは立ち上がると、そのホテルの部屋を横ぎって私に近づいてきて――そのとき私はベッドの端に坐っていたので――真面目くさった熱心さで私の手をにぎった。
「君はすばらしい男だ。驚嘆のほかないよ。寝汗をかかんかい? 舌を出して〈ああん〉と言ってみたまえ」
「もしも、だね――」私がそう言いかけたとき、廊下のドアをかすかにたたく音がそれをさえぎった。私は立って行って、ドアをあけた。しわのよった黒服を着た、私と同年配ぐらいの、背の高い痩せた男が、廊下に立っていた。赤らんだ鼻で苦しそうに息をし、小さな茶色の眼がおずおずしていた。
「わたしをご存じだろうと思いますが、」と、彼は弁解するように言った。
「ええ、どうぞおはいりください」
私は彼をフィッツステファンに紹介した。「聖杯寺院でホルドーンの助手をやっていたトム・フィンクさんだよ」
フィンクはとがめるように私を見てから、しわくちゃになった帽子を頭からとって、フィッツステファンのそばに行って握手した。それがすむと、ふたたび私のところにもどってきて、ささやくような声で言った。「ちょっとお話したいことがあって、まいったのですが」
「そうですか」
彼はもじもじと手の中で帽子を廻していた。私はフィッツステファンに眼くばせをして、フィンクと一緒に廊下へ出た。ドアをしめると、立ちどまって「お話というのは?」とうながした。
フィンクは唇をなめてから、痩せた手の甲でそれをこすった。そして半ばささやくような声で言った。「実は、あなたにぜひお知らせしたいことがあったものですから――」
「というと?」
「それは、殺されたあのホイッドンに関することですが」
「なるほど」
「彼は――」
と、そのとき、とつぜん私の部屋のドアが大きな音をたてて裂けたと思うと、床と壁と天井が一度に私たちの周囲でぐらぐらと揺れ、物すごい音響を発した。耳で聞くというよりも、からだ全体で感じられた轟音《ごうおん》だった。トム・フィンクはうしろへはねとばされ、私自身はその反対の方向へふきとばされたが、私の方は壁にぶつかって肩に打撲傷をうけただけで、たいしたことはなくてすんだ。だが、フィンクの方は意地悪くドアの柱にぶつかって、その角に後頭部をぶっつけたので、ふたたび前のめりにのめったと思うと、床に顔をふせたまま、頭から血をふき出して、動かなくなってしまった。私は立ち上ると、すぐ自分の部屋に入って見た。フィッツステファンはまるでもみくちゃになった肉と服のかたまりみたいに床の中央に横たわっていた。そしてベッドがブスブス燃えていた。窓にはガラスも鉄網もそのかけらさえ残っていなかった。私はよろめく足でガブリエルの部屋へ向かいながら、それらの光景をチラッと機械的にながめただけだった。仕切りのドアは――たぶん吹き開けられたのだろうが――あいたままになっていた。ガブリエルは枕に両足をのせ、片足の上に顔をふせて、からだを二つに折ってベッドの中にちぢこまっていた。その寝室着は肩のところが裂けていた。顔をかくすまでに垂れさがったその茶色の巻き髪の下に光っている彼女の緑褐色の眼は、罠《わな》に陥った野獣の眼そっくりだった。室内には、ほかに誰もいなかった。
「看護婦はどこへいったのです?」私の声は詰まった。彼女は何も言わなかった。その両眼は気狂いじみた恐怖をたたえて私をじっと見つめていた。「布団の下にお入りなさい。肺炎になりたいのですか?」と、私は命ずるように言った。彼女は動かなかった。私はベッドのそばに近よると、片手で夜具の端をあげ、片手で彼女を助け起こして言った。「さあ、中へはいりたまえ」
彼女は胸の奥で奇妙な音を発すると、いきなり頭をおとして、私の手の甲に鋭い歯を立てた。彼女を寝かせて、自室へもどり、燃えている布団を窓から押し出していると、人々があつまってきた。「医者をつれて来てください!」と、私は最初に来た人に言った。「そして誰もここに入らないでください」
廊下にあつまった人々をかき分けてミッキー・リニアンが入って来たときには、もう布団のかたはついていた。ミッキーはフィッツステファンの様子をちらっと見て、眼をまるくした。「いったい全体、どうしたんです?」
彼の大きなしまりのない口は両端がたるんで、ニヤニヤ笑ってでもいるように見えた。私は火傷した指をなめ、不機嫌にたずね返した。「いったい全体、どんな風に見えるね?」
「また厄介な事件ですね、たしかに」
ベン・ローリーが入ってきた。あたりを見まわして、「チェッ、チェッ、チェッ」と舌打ちしてから、「何が起こったのですか?」
「パイナップル(爆弾)ですよ」と、私は言った。
「チェッ、チェッ、チェッ」
ジョージ博士が入ってきて、もみくちゃになっているフィッツステファンのそばに膝をついて、しゃがんだ。ジョージは前日ガブリエルが岩穴からもどって以来、彼女のからだを診ている医師だった。背の低い、ずんぐりした中年男で、唇と頬と鼻梁《びりょう》をのぞいて、顔中一面に黒い毛が生えていた。その毛深い手がフィッツステファンの上で動いていた。
「フィンクがここへ来るまでの様子はどんな風だった?」と、ミッキーにたずねた。
「別に変ったことはなかったですね。昨日の昼ごろ、刑務所から釈放されると、その足ですぐカーニー街のホテルへ行って、一室予約し、午後はほとんど公立図書館にこもって、初めから今日までガブリエル事件の記事の出ている新聞の綴込みを読んでいましたよ。それから食事をして、ホテルに帰りました。私の尾行を感づいていたかもしれませんが、どっちにしても、昨夜は一晩中部屋にこもっていたようです。朝六時にまた監視につくつもりで、見張りを解いたのが真夜中でした。彼は七時すぎに姿を見せ、朝飯を食ってから、ボストン行きの汽車に乗り、それから乗合に乗りかえてまっすぐにこのホテルへ来たわけです。これが昨日からの収穫でさ」
「これはおどろいた!」と、膝をついている医師が叫んだ。
「この人はまだ死んでいないぞ」
私には医者の言葉が信じられなかった。フィッツステファンの右腕はなくなり、右脚の大部分も吹きとんでいた。からだはよじれて、何が残っているのか、ちょっと見たのではわからなかった。が、顔の片面だけは見えた。
「廊下にもう一人いるのです。この方は頭をやられたのですが」と、私は言った。
「ああ、あの人は大丈夫です」と、医師は上も見ずに言った。「だが、この人は――うん、おどろいたな!」医師はふらふらと立ち上がると、あれこれと命令をくだした。彼は興奮していた。数人の男が廊下から入ってきた。ガブリエル・コリンスンの看護を担当していた女――ハーマン夫人――もその中に加わり、さらに毛布をもった一人の男も加わった。彼らはフィッツステファンを運び去った。
「廊下にいる方はフィンクですか?」と、ローリーがたずねた。
「そうです」と、私はフィンクが私に話したことを話し、それにつけ加えて言った。「爆発が起こったとき、彼はまだ話しおわってなかったのです」
「すると、爆弾は彼をねらったものかもしれませんね、話をさせまいという目的で――」
ミッキーが言った。「だが、わたし以外に市《シティー》からあの男をつけてきたものは一人もいないのだが――」
「そうかもしれん。ところで、みんなが彼をどう扱っているか見てきた方がいいよ、ミッキー」と、私が言ったので、ミッキーは出て行った。
「この窓はしまっていたのです」と、私はローリーに話した。「爆発の直前にガラスを破って何か投げ入れたような音もしなかったし、窓掛も全部おろしてあったのですから、爆弾は窓から投げこまれたものではないと言えそうです」
ローリーはガブリエルの部屋のドアを見ながら、うなずいた。
「フィンクと僕は廊下で話していたのだし、」と、私はつづけた。「爆発後、僕はすぐここを通って彼女の部屋にかけつけたのだから、僕に見られずに――あるいは聞かれずに――誰も彼女の部屋から出て行くことはできなかったはずです。彼女の部屋の廊下に面したドアを僕が外から見ていたときと、中からふたたび見たときとの間には、ほとんどまばたきするほどの時間しかはさまっていなかったんですからね。彼女の部屋の窓掛も異常はないですよ」
「ハーマン夫人は彼女と一緒にいなかったんですか?」
「いると思ったのですが、いませんでしたよ。その点は調べてみましょう。コリンスン夫人が爆弾を投げたと考えるのは、馬鹿らしいことで、考えるだけ無駄でしょう。彼女は昨日われわれがダル・ポイントからつれかえって以来、ずっとベッドに寝ていたのですからね。それに、彼女はあの部屋には入ることをあらかじめ知ってはいなかったのだから、あそこに爆弾をかくしておけるはずはないし、またあの部屋には昨日から、あんたと、フィーニーと、ヴァーノンと、医者と、看護婦と、僕以外には、誰も出入りしたものはないのですから」
「僕は何も彼女がこの事件に関係していると言ったつもりはありませんよ。彼女自身は何と言っているのです?」
「まだ、なにも。役に立つかどうか疑問ですが、ひとつきいてみましょう」
だが、何の役にも立たなかった。ガブリエルは、何かあったらすぐさまその中にもぐりこむつもりか、あごのところまで夜具をたくしあげて、ベッドの真中に横たわっていて、答が合っていようがいまいが、われわれのたずねるどんな質問にも「ノー」の意味で頭をふるばかりだった。
そのとき、顔にそばかすのある、青い眼の正直そうな顔つきをした、赤毛の、四十すぎの看護婦が入ってきた。彼女は聖書に手をおいて、自分は病人が眠っている間にヴァレジョにいる甥に手紙を書こうと思って、文房具屋へ行くつもりで下へ行ったが、部屋にいなかったのは五分にも足りない短い時間だった、そして今日部屋を出たのはこのときだけだと、宣誓した。彼女が下へ行くとき、廊下では誰にも会わなかった、とも言った。
「ドアは鍵をかけずに行ったのですか?」と、私はたずねた。
「もどってまいったとき、ご病人の眼をさまさないようにと思って、かけずにまいりました」
「君が買物に行った文房具屋というのはどこですか?」
「まだ買いにまいらぬうちに、爆音がきこえたので、二階へかけ上がりました」恐怖の色が顔に浮かび、そばかすが醜い斑点に変わった。「まさかあなたは、わたくしが――!」
「それよりも、早くコリンスン夫人をみてあげたまえ」と、私はぶっきらぼうに言った。
十九 変質者
二人は私の部屋にもどって、仕切りのドアをしめた。ローリーは舌打ちして言った。「チェッ、チェッ、チェッ――わたしはハーマン夫人こそまちがいない人だと思っていたのに――」
「そう考えられるのは当然でしょうな」と、私も不満の意をこめて言った。「あなたが彼女を推せんされたのだから。彼女はどんな人なのですか?」
「あれはトッド・ハーマン――あのガレージを持っている男の細君ですよ。彼女はトッドと結婚する前から熟練した看護婦だったのです」
「彼女にはヴァレジョに甥がいるのですか?」
「うーむ、それはメーア島に働いているシュルツの子供のことでしょう。あなたは彼女がこの事件に関係していると考えられるのですか?」
「おそらく、そんなことはないでしょう。さもなければ、買いに行った便箋をもっていたでしょうからね。……調査のためサンフランシスコから爆弾の専門家にきてもらうまで、誰にもここへ入らせないように、誰か見張りをつけてくれませんか」
郡長代理は廊下にいた部下の一人を呼び、その男を部屋にのこして出た。下へ行くと、ミッキーがロビーにいた。
「フィンクは頭蓋骨を砕《くだ》かれたそうです。ほかの負傷者と一緒にいま郡の病院へ送られて行きましたよ」
「フィッツステファンは死んだかね?」と、私はきいた。「いいえ、医者は設備のととのった病院に移せば、とりとめるだろうと言ってます。誰だって知らんでしょう――あんな恰好になった人間を。でも、医者は案外面白いと思うかもしれませんね」
「アーロニア・ホルドーンはフィンクと一緒に刑務所を出されたのかね?」
「ええ、アル・メイスンが彼女を尾行しています」
「老人《おやじ》に電話して、アルが彼女に関して何か報告をよこしたかどうか調べてくれないか。ついでに、ここで起きたことも知らせてくれたまえ。それから弁護士のアンドルーズは見つかったかどうかも調べてくれたまえ」
「アンドルーズ?」と、ミッキーが電話の方へ行くのを見送りながら、ローリーがたずねた、「あの人に何か起こったのですか?」
「それについては、僕はまだ何も知らないのです。ただ、彼の居どころがわからないので、コリンスン夫人が救いだされたことも知らせることができないのですよ。彼は昨日の朝から事務所に姿を見せないし、どこにいるのか誰にもわからないのです」
「チェッ、チェッ、チェッ、――現在何かあの人を必要とするような特別なわけでもあるのですか?」
「僕はこれからさき一生、あの娘の面倒をみたくはないですからね。アンドルーズは彼女の保護を担当している人です。彼は彼女に対して責任があるのです。だから、早くあの人に彼女を渡してしまいたいのですよ」
ローリーはあいまいにうなずいた。私たちは外に出て、できるだけ多くの人々に、私たちが思いつくことのできる、あらゆる質問を試みた。しかし、どの答からも、結局爆弾は窓から放りこまれたのではないという保証を得ただけで、ほかにはなんの得るところもなかった。爆発の直前、ならびに爆発の瞬間に、偶然ホテルのその側面を見ていたという六人の人を見つけ出すことができたが、六人が六人とも、爆弾が投げられたととれるような、いかなる徴候もみかけなかった、と証言した。
ミッキーは、アーロニア・ホルドーンは市の刑務所から釈放されると、サン・マテオのジェフリという家に着き、ずっとそこにいるという情報と、アンドルーズを追っかけているディック・フォーリーもソウサリトでその居どころをつきとめる見込みを得たという情報とをもって、電話からもどってきた。
ヴァーノン地方検事とフィーニー郡長は、多勢の記者と写真班とを従えて、郡役所所在地から到着した。彼らはサンフランシスコとロサンゼルスの全新聞の第一面――これこそ彼らのいちばんお気に召す場所だが――をにぎわすような捜査活動を開始した。
私はガブリエル・コリンスンをホテルの中の別室に移し、仕切りのドアには鍵をかけずに、ミッキーを隣室に寝泊りさせることにした。ガブリエルもいまではもう、ヴァーノンやフィーニーやローリーや私に話すようになっていた。が、彼女の話は、たいしてわれわれの役には立たなかった。彼女は言った――眠っていたら、恐ろしい音とベッドの震動とで眼をさまされた。そうしたらすぐ私が入ってきた、と。これが彼女の知っているすべてだった。
午後おそくなって、サンフランシスコ警察の爆弾専門家のマックラッケンが到着した。掃き集めた大小の破片を検査したのち、彼は、この爆弾は低度のニトログリセリンを詰めた小型のアルミニューム製のもので、粗雑な摩擦装置で爆発させたものだ、と予備的判断を下した。
「素人の仕事でしょうか、専門家の仕事でしょうか?」と、私はきいた。
マックラッケンは煙草のくずをペッと吐き出して――彼は煙草をかむ人種の一人だったので――言った。「これは、作り方は知ってるが、手に入れられる材料だけで仕事をしなければならなかったやつが作ったものでしょうな。研究室へもって行って調べれば、もっとくわしくお話しできると思います」
「時限装置はついていないでしょうか?」
「その形跡はないようです」
ジョージ博士が、フィッツステファンはまだ息をついているというニュースをもって、郡役所所在地からもどってきた。博士はひどく愉快そうにはしゃいでいた。で、私はガブリエルとフィンクに関する質問を彼の耳に入らせるためには、大声でどならなければならなかった。彼は、フィンクは生命に別状がないと言い、ガブリエルの風邪は本人が望むなら、もうベッドから起きてもいいくらいによくなっている、と話した。私は彼女の精神状態についても質問したが、彼はフィッツステファンのところへもどるのをばかに急いでいて、ほかのことには注意が向かないようだった。「ふん、ふん、さよう、その通り」などとつぶやきながら、私の前を通り過ぎて自分の車の方へ近よりながら、「安静、休息、不安からの解放」と言って、さっさと行ってしまった。
その晩、私はホテルのカフェで、ヴァーノン、フィーニーと夕食を共にした。二人は私が爆弾について知っていることを全部彼らに話したとは考えていなかったので、食事の間じゅう私に目撃談をさせつづけた。食後、私は新しく移った自分の部屋に行った。ミッキーはベッドの上に腹ばいになって新聞を読んでいた。「飯を食ってこいよ」と、私は言った。
「ところで、うちのベビーはどんな様子だね?」
「起きてますよ。彼女をどう思いますね――少しおかしくないですか?」
「どうして? 何かやったのかい?」
「別に何も。ただそう考えただけですよ」
「それは腹がへっているせいだ。食ってきたまえ」
「はい、はい、ミスター・コンティネンタル」と言って、彼は出て言った。
隣の部屋は静かだった。私はドアに耳をつけ、それからノックした。ハーマン夫人の声が言った。「お入りなさい」彼女はベッドのそばに腰かけて、刺繍枠《ししゅうわく》の上にひろげた黄色っぽい布に派手な蝶々を縫いとりしていた。ガブリエルは部屋の反対側においてある揺り椅子に腰かけて、膝の上でにぎりしめた両手――指の関節が白くなるくらい固くにぎりしめた両手――を、じっと見つめていた。彼女は誘拐されたときに着ていたツウィードの服を着ていた。まだしわだらけだったが、泥だけはきれいにブラシでおとされていた。私が入って行ったときも、彼女は眼を上げなかった。看護婦は不安な微笑を浮かべて私を見上げた。「今晩は」と、私はきさくな調子で彼女の気を引き立てるように言った。「どうやら、私たちは病人と縁がなくなったようですね」
この言葉はガブリエルから何の応答も得られなかったが、看護婦からは多すぎるくらいの反響があった。「はい、本当に」と、ハーマン夫人は大げさな感激を見せて叫んだ。「わたくしたちは、もうコリンスン夫人を、ご病人とは申せませんですわ。もうお起きになっておいでになるのですもの。でも、これはわたくしには、残念なことでございまして――ほ、ほ、ほ、――なぜと申しますに、こんな立派な患者さんにいままでおつき申したことがございませんもの。わたくしども看護婦は、病院で修行中いつもこう申したものですわ。患者さんがいいかたであればあるほど、付添の期間は短くなるものだ、と。それに反して、いやな患者さんですと、いつまでもいつまでも、永久に生きているような――そんな気もいたすものですわ。一度こんなことがありましたわ――」私は彼女に顔をしかめて、ドアの方へ頭をふって見せた。彼女はあわててあとの言葉をあけた口の中へ呑みこんでしまった。彼女の顔は赤くなり、それから白くなった。彼女は刺繍を落して、立ち上り、「はい、はい、では、わたくしちょっとあれを――あなたもご存じのあれを――調べてまいらなければなりませんから、二、三分の間お願いいたします。では、ごめんください」と、わけのわからぬことを口走りながら、まるで私がうしろから忍びよって蹴とばしでもするように、あたふたと部屋を出て行った。
ドアがしまると、ガブリエルは膝の上の手から眼をあげて、「オーウェンは死にました」と言った。彼女は質問したのではなく、そう言ったのだが、この場合、それを質問とみなす以外に扱いようがなかった。
「いや――彼は生きていますよ」私は看護婦の椅子に腰をおろして、煙草をとりだした。
「死なないでしょうか?」彼女の声は風邪のためにまだしゃがれていた。
「医者はそう言っています」と、私は誇張して言った。
「たとえ生きていても、あの人は――?」彼女はこの質問を終わりまで言わなかったが、そのしゃがれ声は人間のものとは思えなかった。
「きっとひどい不具になるでしょう」
彼女は私にと言うよりも自分自身に向かって言った。「それでもよかったわ」
私はニヤリと笑った。
「お笑いになったのね」と、彼女は真面目に言った。「わたし、あなたがあれを笑いとばしてくださるといいと思うのだけれど。でもそれはできないことですわ。あれは本当なのですわ。いまもそうだし、これからも永久にそうなのですわ」彼女は手に眼をおとしてささやいた。「呪われた女――」
もしこれが別の調子でしゃべられたとしたら、この最後の言葉はあまりにメロドラマ的であり、ばかばかしく芝居がかってきこえただろう。だが、彼女はあたかもそれを言うのが習慣になってでもいるように、きわめて自然に、何の感情もまじえずに言ったのだった。私は、彼女が暗闇の中のベッドに横たわりながら、何時間も何時間もこの言葉を自分自身に向かってささやいている姿を、また着物を着かえるときには自分のからだに向かって、鏡に向かうときには鏡面にうつる自分の顔に向かって、来る日も来る日もこの言葉をささやいている姿を、まのあたりに見るような気がした。私は椅子の中でもじもじしながら、うなった。「おやめなさい。意地悪な女は二十回でも三十回でも、そういうことを言って、自分の憎しみや怒りを晴らすものですよ」
「いいえ、いいえ。わたしの継母は、わたしがいつも知っていたことを言葉に出しただけですわ。わたしはそれがデイン家の血の中にあることは知りませんでしたが、自分の血の中にあることは知っていました。どうして知ることができたかというに――わたしには、肉体的に変質のしるしがないでしょうか?」彼女は部屋を横ぎって私の前に立ち、頭を横に向けて、両手で巻毛をうしろへおさえた。「わたしの耳を見てください。耳たぼがなく、さきがとがっています。こんな耳の人はおりませんわ。獣の耳ですわ」彼女は髪をおさえたまま、私の方へ向きなおった。「それからわたしの顔をごらんになって。その狭さと恰好――これは動物のものですわ。わたしの歯も、」と、彼女は歯を――白い、小さな、とがった歯を――出して見せた。「それから顔の形も、」彼女は髪をはなしたその両手で頬をなでおろし、奇妙にとがった小さなあごの下でそれを合わせた。
「それで全部ですか?」と、私は言った。「あなたには悪魔の分趾蹄《ぶんしひずめ》はないのですか? よろしい。では、それらのものを、あなたの考えるように特殊なものだとしましょう。でもそれが何ですか? あなたの継母はデイン家の一人でした。しかも、彼女は毒婦でした。でも、彼女のどこに肉体的変質のしるしが見られましたか? 彼女はあなたがいくらでも見出すことのできるほかの夫人たちと同じように、満足な外観をそなえた、異常のない女ではなかったですか?」
「でも、それは答になっていませんわ」と、彼女はもどかしそうに頭をふった。「継母には、肉体的なしるしはなかったかもしれません。しかし、わたしにはあるのです。しかも精神的な変質のしるしも」彼女は私のすぐそばのベッドの端に腰をおろし、膝の上に肘をついて、両手で白い顔をおさえた。「わたしはほかの人たちのように、はっきり物を考えることができないのです。どんな簡単なことでもできないのです。あらゆることがいつもわたしの頭の中では混乱しているのですわ。どんなことでも何か考えようとすると、きまってわたしとそのこととの間に霧のようなものがかかり、ほかのいろんな考えがわりこんでくるので、欲しいと思う考えをつかまぬうちに見失ってしまうのです。そこで、また霧の中をさがしまわり、やっと見つけたかと思うと、こんどもまた前と同じようなことが起こり、そしてそれが何べんでもくりかえされるのですわ。こういう状態を年々つづけて行くということ、いいえ、それがますます悪くなって行くということが、どんなに恐ろしいことか、おわかりになりますかしら?――」
「わかりませんね。そんなことは、僕には、何でもない当たりまえのことのように聞こえますがね。人間なんて、たとえ表面はどう装おうとも、実際は明瞭に考えられる者なんて一人もありませんよ。考えるということは、あなたがやられると同じように霧の中の瞥見《べっけん》をいくつもとらえて、それをできるだけうまく接ぎ合わせて行く、めまぐるしい仕事なのですよ。人々が一度得た信念や意見を容易に捨てないのも、そのためです。なぜなら、彼らがそれに到達したときのでたらめな偶然的なやり方にくらべれば、どんなに間の抜けた意見でもおそろしく明瞭、健全、自明に思えるからです。そして、もしそれを捨ててしまえば、彼らはふたたびあの霧に包まれた混沌《こんとん》の中へとびこまなければならないからですよ」
彼女は顔から手をはなして、はずかしそうに私にほほ笑みかけて、言った。「わたし、どうしていままであなたが嫌いだったのか、不思議ですわ」それからふたたび真面目な顔にかえって、「けれど――」
「けれども、何もないでしょう」と、私は言った。「人間というものは、よほどの気狂いか、白痴でないかぎり、誰でもときどきは自分自身を不健全ではないかと疑ってみるものだということぐらい、あなたの年ごろになればわかるはずですよ。それなのに、あなたの愚かさにもあきれ返りますね。あなたは、何とかして自分を馬鹿だと証明しようとして、もがき苦しんでいるのだから。どんな人間の心だって、あなたが自分自身に課したような試練にたえられるものではないでしょう。気違いにならなかったのが、不思議なくらいですよ」
「たぶん、私は気が狂っているのかもしれませんわ」
「いや、僕の言葉を真面目にとってください。あなたはその生涯のスタートにおいて恐ろしい目にあわれたのだ。最初から悪人の手中におちたのだ。あなたの継母は正真正銘の毒婦で、あなたを破滅させようとして全力をつくした。そして最後に、あなたには極めて特殊な一家の呪いがかかっているということを、あなたに信じこませることに成功したのです。この一ヵ月間――それはちょうどわたしがあなたと知り合った期間だが――あなたにはありとあらゆる災厄がのしかかってきた。しかもその呪いを信じこんだあなたは、その災厄の一つ一つが自分に責任があるように思いこんでしまった。それがあなたにどんな風に影響を与えたか? なるほど、あなたは一時茫然としたし、夫が殺されたときには自殺を試みさえした。しかし、そのときでもあなたは、弾丸が肉体を貫くというショックに面と向っていられるほど心の平衡を失ってはいなかったのです。
いいですか。僕は単に雇われた人間で、あなたのトラブルにも、ただ雇われた人間としての興味しかもたない男です。それでも、そのうちのいくつかは僕をグロッキーにさせたものです。僕はあの寺院で幽霊にかみつかなかったでしょうか? しかも、僕は犯罪に対しては、あなたなどとちがって老練でもあり、タフでもあると思われている人間なのですよ。今朝また――あなたがやっとすべての危難を突破したと思っていたら――誰かがあなたのベッドの近くでニトログリセリンの包みを爆発させて、あなたをおどろかせた。それなのに、今晩あなたはもうベッドから起きて、ドレスを着け、そして僕と自分の健康問題について議論を戦わしているのではないですか。もしあなたが尋常《ノーマル》でないとすれば、それはあなたが尋常《ノーマル》以上に強靭《きょうじん》であり、健全であり、冷静だからですよ。あなたはデイン家の血のことを考えるのはおやめなさい。それよりも、あなたの中にはマイエーヌの血が流れていることをお考えなさい。彼からでなしに、どこからあなたはその強靭を得たと考えられるのです? 彼をして悪魔島から中央アメリカ、メキシコと、その困苦を突破させ、最後まで毅然たらしめたものは、実にそれと同じ強靭なのです。あなたは、僕が見たデイン家の一婦人よりもむしろ彼の方に似ていますよ、肉体的にもあなたは父親の方をうけ継がれている。もしあなたに何か肉体的変質の徴候があるとすれば――それが何を意味するものであれ――あなたはそれを父親からうけ継がれているのですよ」
彼女はそう言われたのをよろこぶように見えた。彼女の両眼は何となく幸福な光をおびてきた。だが、私がしばらくの間話すのをやめて、煙草の煙の間からもっと多くの反応をさがし求めてる間に、その眼のかがやきは消えた。「わたしうれしく思いますわ――たとえあなたがわたしをよろこばせるつもりでおっしゃったにしても、わたし、あなたのお言葉に感謝いたしますわ」だが、そう言いながらも、彼女の調子にはふたたび絶望があらわれ、彼女の顔はまた両手の間にもどった。「でも、わたしがどうであろうと、継母の言ったことはやはり正しかったのですわ。彼女がまちがっていたとは、あなただっておっしゃれないはずです。わたしの生活がこれまで呪われ汚されていたことや、わたしに触れたすべての人たちの生活がやはり呪われ汚されたことは、あなただって、否定なされないはずです」
「僕自身がそれに対する回答の一つですよ」と、私は言った。「僕は最近かなりあなたに接触していますし、あなたの事件に深入りしています。しかも、夜よく眠れないなどといったことは、ただの一度だって僕に起こったことはありませんよ」
「でも、それは事情がちがいますわ」と、彼女は額にしわをよせながら、ゆっくり抗議した。「あなたとは何の個人的な関係もありませんもの。あなたの職業ですもの。それとはちがいますわ」
私は笑って言った。「その言葉はあたりませんよ。フィッツステファンがいます。彼はもちろんあなた方一家を知ってはいるでしょう。しかし、彼がここにきているのは、僕を通してで、僕のためにきたのです。そして事実、あなたからは、僕などよりもずっと離れていました。なぜ僕の方がさきにやられなかったのです? なるほど爆弾は僕をねらったのかもしれません。たぶんそうでしょう。しかし、それはあくまでその裏にある人間のことを――へまをやりかねない人間のことを――いってるのであって、決してあなたのいうような絶対に避けられぬ呪いのことをいってるのではありませんよ」
「あなたは考えちがいをしていらっしゃるのだわ」と、彼女は自分の膝を見つめながら言った。「オーウェンはわたしを愛していました」
私は自分の驚愕を隠して、たずねた。「そしてあなたも、ですか――?」
「いいえ。どうぞ、どうぞ、そのことで、わたしに話せとおっしゃらないでください。今朝事件が起きたばかりのいま、それをおたずねなさらないでください」彼女は肩を高くそびやかし、はっきりした調子で言った。「あなたはいま絶対に避けられない呪いについて何かおっしゃいましたね。わたしには、あなたがわたしの言うことを誤解していらっしゃるのか、それともわたしを馬鹿者に見せようとしてわざとそういうことをおっしゃるのか分かりませんが、わたしだってまさか、ヨブの呪いのように悪魔とか神様とかから来る絶対避けられない呪いのことなんか信じてはおりませんわ」彼女はいまや真剣になって話しつづけた。「でも、接触するあらゆる人々を毒し、相手の中に最悪なものを植えつけるような心底《しんそこ》からの悪人というものは、ありえないでしょうか? この世の中にいないものでしょうか?」
私は半ば肯定していった。「欲するときにはそれをなし得る人間はいるでしょう」
「いいえ、いいえ、自分が欲しようが欲しまいがです。絶対に欲しないときでもです。――わたしは、エリックが清潔で純粋だったので、彼を愛しました。彼がそうだったことは、あなたもご存じですわね。で、わたしもそれと同じように彼を愛し、彼を欲しました。それなのに、二人が結婚しましたら、彼は――」彼女は急に身をふるわせて、両手で私につかまった。その手の平は乾いて熱をもっていたが、指さきは冷えていた。私はそのとがった爪が私の肌にくいこまないように彼女の両手をしっかりとおさえていなければならなかった。「彼と結婚したとき、あなたは処女だったのでしょう?」
「ええ、そうでした。そしていまでも。わたしは――」
「それは別に興奮されるようなことではありませんよ。あなたは、よくある馬鹿げた観念に支配されているのです。あなたは麻薬を使っていますね。そうでしょう?」彼女はうなずいた。わたしは言葉をつづけた。「それが性というものに対するあなたの興味を普通以下に減殺したのです。そしてそのため、ほかの人がもっている正常な性的関心を何か異常なものに思わせたのです。エリックは年も若く、あなたをあんなにも愛し、それにおそらく無経験でもあったでしょうから、不手際っだったかもしれません。しかし、そのことから何も恐ろしいことを考えることはできませんよ」
「でも、エリックだけではないのです」と、彼女は説明した。「わたしの知っている男の人は誰でもそうなのです。わたしを自惚《うぬぼ》れ屋だとお考えにならないでください。わたしは自分が美人でないことをよく知っています。でも、それだからといって邪悪ではありたくありません。なぜ男の人たちは? なぜわたしの接触する男の人たちはみんな――?」
「あなたは僕のことをいっているのですか?」と、私はきいた。
「いいえ――そうでないことはご存じのくせに。どうぞわたしをからかわないでください」
「それでは例外もあるのですね? 誰かほかには? 例えば、マディスン・アンドルーズは?」
「あなたがあの人とのことをよく知っておいでになるか、あるいはいろんな噂をきいておいでになれば、そんなことはおたずねにならないと思います」
「そうでしたね」と、私は同意した。「しかし、特別に彼を非難することはできないでしょう――それは習慣なのですから。彼はそんなに悪いことをしたのですか?」
「とてもこっけいでした」と、彼女は辛辣《しんらつ》に言った。
「それはどのくらい前のことですか?」
「そうですね。一年半ぐらい前のことです。父にも継母にも何も話しませんでした。わたしは、男の人たちが自分に対してそんな風な態度をとったことを、はずかしく思ったからです」
「たいていの男がたいていの女に対してそんな風でないと、どうしてあなたは知っているのです? あなたの場合が特に例外的だと、どうして考えるのです? あなたの耳が鋭かったら、いまでもサンフランシスコの何千という婦人がそれと同じ不平をこぼしているのをきくことができるでしょう」
彼女は私から手をはなすと、ベッドの上に坐りなおした。顔にいくらか赤みがさしてきた。「わたし、あなたのお話を聞いて、やっと自分が馬鹿だと気がつきました」
「僕だって同じですよ。僕は世間から探偵だと思われている人間です。それだのに、この仕事にとりかかってからもう何ヵ月にもなるというのに、あなたの呪いの正体に疑問を抱きながら、いつまでたっても同じ距離を保って、それに追いつくことができないのです。まるでメリーゴーランドのようにぐるぐる廻っているのです。でも、こんどこそやりますよ。あと一、二週間辛抱できますか?」
「とおっしゃいますと――?」
「僕はあなたの呪いなるものが実はくだらぬものだということを、見せてあげようと思っているのです。しかし、それにはまだ数日、いや、たぶん一、二週間はかかるでしょう」
彼女は眼をまるくし、私のいうことを信じようとしながら、一方ではそれをおそれるように、からだを震わせた。私は言った。「それはもうきまっているのです。あなたはこれからどうなさるつもりですか?」
「わたし――わたしにはわかりませんわ。あなたがおっしゃったのは、どういう意味なのですか? もうこの事件は終わるということですの? もうわたしには心配がないということですの? あなたはそうできるとおっしゃるのですか――?」
「そうです。で、しばらくあの入江の家へもどってくれませんか? その方が万事好都合に運ぶと思うのです。あなたには絶対に危険がないようにしますよ。ハーマン夫人を一緒につれて行くこともできますし、探偵助手を一、二人つけておいてもいいです」
「まいりましょう」と、彼女は言った。
私は腕時計を見て、立ち上がりながら言った。「もう休まれた方がいいですよ。では、明日移ることにしましょう。おやすみ」
彼女は何か言いたいような、またそれを言うまいとしているような様子で、下唇をかんでいたが、とうとう口を切った。「わたし、モルヒネを手に入れなければならないのですけど」
「そう。あなたの一日の分量はどのくらいですか?」
「五グレインから十グレインです」
「まだ軽い方ですね」そう言ってから、ふと何気なしにきいた。「あなたはあれを使いたいのですか?」
「いまさら、使いたいとか使いたくないとか言っても、おそすぎやしないかと思うのですけれど」
「あなたはハースト系の新聞を読んでおいでですね。それならおわかりになると思うが、もしあなたがその習慣をやめたいと思うなら――そしてあそこでわれわれに数日の暇ができたら、あなたの悪習をなおすことに、その時間を利用しましょう。たいしてむずかしいことではありませんよ」
彼女は口を奇妙にゆがめて。弱々しく笑った。「おかえりください。どうぞ、もうそれ以上のどんな保証も、どんな約束もわたしになさらないでください。今晩はもうそれに酔っぱらってしまいましたわ。どうぞ、お引きとりください」
「オール・ライト。では、おやすみ」
私は自室にもどってドアをしめた。ミッキーが酒瓶の口をぬいていた。彼の膝はよごれていた。間のぬけたニヤニヤ笑いを浮かべながら、彼は言った。「いやどうも、あなたもたいしたもんですね。だいぶ話に|み《ヽ》が入ってたようだが、いったい何をしていたんですか?」
「シーッ、ニュースがあるのか?」
「おえら方は、町へ引き上げましたよ。わたしが食事からもどってきたら、あの赤毛の看護婦が鍵穴からのぞいていましたぜ。で、あたしは追っ払ってやりましたよ」
「それで、君が彼女に代わったというわけか?」と、わたしは彼のよごれた膝を見て、うなずきながらきいた。
が、ミッキーは不死身だった。「とんでもない、あの女がのぞいていたのは、廊下の方のドアですよ」
二十 入江の家
私はフィッツステファンの車をガレージから出してきて、ガブリエルとハーマン夫人をのせて、翌朝おそく入江の家に向かった。ガブリエルは元気がなかった。彼女は話しかけられると弱々しく微笑して受け答えしたが、自分からは何も言わなかった。たぶんコリンスンと生活を共にした家へもどるという考えが、彼女を憂うつにしているのだろうと思ったが、家に着くと、彼女は別に嫌がっている様子もなく進んで家の中へ入り、そのために特別元気を失ったようにも見えなかった。
ハーマン夫人の料理で昼食をすませたのち、ガブエリエルは外へ出てみたいと言ったので、私と彼女はマリー・ヌネッツに会うためにメキシコ人の部落まで歩いて行った。このメキシコ女は翌日からまた働きにくることを約束した。彼女はガブリエルを好いているようだったが、私のことは好いていないらしかった。わたしたちは散らばった岩の間の小道をひろいながら、海岸づたいに家の方へもどってきた。二人はゆっくりと歩いた。彼女の顔には眉の間にしわがよっていた。家から四分の一マイルほどのところにくるまで、二人はひとことも口をきかなかったが、そこまでくると彼女は日光を浴びて温かくなっている転石の一つに腰をおろして、とつぜん口を開いた。「昨夜わたくしにお話しになったこと、おぼえていらっしゃって?」彼女は性急な調子で一気にそうたずねた。彼女は何か脅《おび》えているようだった。
「ええ」
「もう一度おっしゃって」彼女は丸石の片方の端にからだをずらせながら言った。「ここにお坐りになって、もう一度昨夜お話しになったことをおっしゃって――すっかりおっしゃって!」
私は腰をおろした。そしてだいたいつぎのような話を彼女にきかせた。それは、私の考えでは、耳の恰好からその人の性格をきめるなどということは、星の位置や、お茶の葉や、砂上の泡で、人の運命を占うのと同じように馬鹿らしいことだということ。誰にしても自分の中に精神的異常の証拠をさがし出そうとすれば、よほど愚鈍な人間でないかぎり、かならず心に混乱や悩みをもっているものだから。容易に見つけ出せるということ。また、かりに血の遺伝というようなことを信ずるとしても、私の見るかぎりでは、彼女はその体内にデイン家の血を多量にもつには、あまりに父親の方に酷似《こくじ》しており、決して彼女が考えるような心配はないということ。また多くの人々はかならずしも異性に対してよい影響を与えるものとはかぎらないのだから、彼女の異性に対する影響がほかの人たちのそれにくらべて特に悪いという証拠は一つもないということ。それにこの点について自分を正常でないと判断するには、彼女はまだあまりに年が若く、あまり無経験でもあり、あまりに自己中心的でもあるということ。彼女が遭遇した多くの困難に対しては、呪いなどということよりも、もっとはるかに具体的な、論理的な解答があることを私は数日中に示そうと思っているということ。それから最後に、彼女は麻薬常用者としてはまだ軽い方だから、この悪習を断つことも決して困難ではないだろうということ。――これらのことを、私は約四十五分間を費して、じゅんじゅんと彼女に説いてきかせた。話すにつれて、彼女の眼からは恐怖の影がしだいに消えて行った。
私が話しおわると、彼女はとび上がり、笑いながら、両手の指を合わせて「ありがとう、ありがとう」と言った、「どうぞわたしにいつまでもあなたのお言葉を信じさせるようにしてくださいね。どうぞわたしのこの気持をくじかせないようにしてくださいね。たとえあなたが――いいえ、これは本当ですわ。本当のことですわ。さあ、まいりましょう。もう少しご一緒に歩きましょう」
彼女は途々しゃべりつづけながら、家までの残りの道のりを私と競走でほとんど走るようにして帰った。ミッキー・リニアンがポーチに立って待っていた。彼女が家に入ったあと、私がそこに立ちどまると、ミッキーはニヤニヤ笑いながら「ローリー氏じゃないが、チェッ、チェッ、チェッ、ですな」と言った。
「何か村からニュースをもってきたかい?」
「アンドルーズの居どころがわかりましたぜ。アーロニア・ホルドーンが滞在しているサン・マテオのジェフリーの家にいたそうですよ。火曜日の午後から昨夜まで。アルがその家を見張っていて、アンドルーズが中に入るのを見たが、出てくるまでは見張っていなかったそうです。ディックがいまアンドルーズを尾行しています。ジェフリー一家は留守で、サン・ディエゴに行っているのだそうです。それから、フィンクはすっかり意識を回復しましたが、爆弾については何も知らないと言っている、とローリーが話していました。フィッツステファンはまだ生死の境をうろついているそうです」
「じゃ、午後ひと走り行って、フィンクと話してみよう」と、私は言った。「君はここから離れないでくれ。そして――そうだ――コリンスン夫人がいる前では、僕に対してもう少していねいな態度をとってくれなければいけないよ。彼女におれを頼もしい活動家だと思わせておくことが大切だからね」
「すこし飲ませてもらいたいですね。とてもしらふじゃ、そんなことはできませんよ」と、ミッキーは言った。
私が行ったとき、フィンクはベッドにへばりついていて、繃帯《ほうたい》の下からわたしを見上げた。彼は、爆弾については何も知らないと言い張った。そしてあの日私を訪問したのは、ハーヴィー・ホイッドンが彼の義理の子、つまり彼の細君と前の亭主との間にできた子だということを私に話すためだった、と言った。
「で、それがどうしたというんだ?」と、私はきいた。
「彼がそうだってこと以外に、別にどうってことはありませんよ。わたしはたぶんあなたがそれを知りたがるだろう思って、うかがっただけです」
「なぜまた、わたしが知りたがると考えたんだ?」
「新聞に、あなたはここで起きたことと、サンフランシスコで起きたこととの間には、ある種の関連があると言った、と書いてあったものですから。またあなたは、わたしが証言した以上にそれについてはもっとよく知っているはずだと言った、とも書いてあったものですから。それにわたしはもうこれ以上面倒なことにまきこまれるのはいやですから、何かかくしてでもいるように、あとになって言われないように、うかがったわけですよ」
「そうか。それなら、マディスン・アンドルーズについて君の知っていることを、話してくれたまえ」
「あの人のことは何も知りませんよ。だいたい、わたしはあの人を知っていないのです。なんでも、彼女の後見人とか何とかだそうじゃありませんか。そんなことを新聞で読みましたがね。でも、わたしはあの人を知りませんよ」
「アーロニア・ホルドーンは知ってるよ」
「彼女はたぶん知っているでしょう。でも、わたしはただホルドーン夫婦のために働いていたのですから。それだって仕事以外に何の関係もありませんよ」
「君の奥さんの方は?」
「同じですよ。やっぱり仕事ですよ」
「奥さんはいまどこにいるんだね?」
「知りません」
「彼女はなぜ寺院から逃げ出したんだ?」
「この前お話したように、わたしにはわかりません。面倒なことにまきこまれたくなかったんでしょう。機会さえあれば、誰だって逃げだしたくなりますよ」
それまで方々とびまわっていた受持ちの看護婦がうるさいことを言いはじめたので、私はこの辺で切り上げて、病院を出ると、裁判所構内の地方検事の事務所へ行った。ヴァーノンはもったいぶった態度で書類の山を押しやりながら、「ようこそ。どうぞおかけください」と、歯を全部見せて重々しくうなずいた。
私は腰をおろすと、すぐ言った。「フィンクと話してきました。今日は何も聞き出せませんでしたが、でも、やつは有望ですよ。あの男以外に、爆弾をあそこへ持ちこむことはできないはずですからね」
ヴァーノンちょっと額に皺《しわ》をよせてから、あごを私のほうへつき出して言った。「彼の動機は何ですか? それに、あなたはその場におられたのでしょう。彼が部屋にいる間じゅう見ておられたのでしょう。しかも、何も見なかったというじゃありませんか」
「それがどうしたんですか? やつにまんまと一杯くわされたんですよ。やつは以前手品師だった男ですからね。爆弾の作りかたも知っているし、わたしの眼をかすめて、あそこに置いていくことぐらいできたでしょう。フィッツステファンがそれを見たかどうかはわかりません。病院では、危機を脱するだろうと言っていますから、彼が回復するまで、フィンクをしっかりつかまえておこうじゃありませんか」
ヴァーノンはカチッと歯を鳴らした。「結構です。あの男を放さずにおきましょう」
私は廊下をさきへ進んで、郡長事務所へ行った。フィーニーは不在だったが、彼の主任代理のスウィートという、背のひょろ長い、あばたのある男がいて、「フィーニーからあなたのことはうかがっています。フィーニーはあなたが望まれる一切の援助を与えたいと言っていました」と言った。
「それはありがたい――実は、いまわたしが関心をもっているのは、二本ばかり――ええと、ジン、つまりスコッチですな――そいつを手に入れたいのですが、この地方で最上のものが何とかならんでしょうか?」
「さあ」と、スウィートは咽喉ぼとけをかきながら言った。「そいつはどうも私にはわかりかねますが、たぶんエレヴェーター・ボーイが知ってるかもしれません。やつのジンは絶対安全だと思います。――それから、あの、ディック・コットンがひどくあなたに会いたがっていますよ。お会いになりますか?」
「何のためか知りませんが、会ってみましょう」
「では、二、三分したら、またいらしってください」
私は部屋を出て、エレヴェーターのボタンを押した。ドアがあいて、中に、灰色の口ひげを生やした。年とったボーイが乗っていた。「白いやつを一ガロン手に入れてくれないか。君が知っているだろうって、スウィートが言ってたよ」と、私は言った。
「あの人はどうかしているよ」ボーイはぶつぶつつぶやいていたが、私が黙っていると、「これからお出かけなんでしょう?」ときいた。
「ああ、もうすこししたら」
彼はドアをしめた。私はスウィートのところへもどった。彼は渡り廊下を通って、裏側に未決監のついた裁判所の建物へ私をつれて行き、小さな鉄板張りの独居にコットンと私だけを残して、どこかへ行ってしまった。コットンは青い顔をして、すっかり神経質になっていた。そしてしゃべるたびに、あごのえくぼがぴくぴく動いた。彼は自分が無実だということ以外に、何も私に話すことはなかった。で、私も彼に言えたことは「そうかもしれないが、証拠はどれも不利なものばかりなのでね。それが君を有罪にするかどうかは、僕にはわからない――要するに、君の弁護士の腕しだいだろう」ということだけだった。
私がもどってくると、スウィートは「彼の用件は何でしたか?」とたずねた。
「自分が無実だということを、わたしに話すためだったのです」
スィートはまた咽喉ぼとけをかきながら言った。「そのために何か影響を受けられましたか?」
「ええ、また一晩わたしを寝かせないでしょう。では、さようなら」
私は部屋を出て、エレヴェーターに乗った。ボーイは新聞紙にくるんだ一ガロン入りの瓶を渡して「十ドルです」と言った。私は金を払って、その瓶をフィッツステファンの車につみこみ、地方電話局を見つけて、サンフランシスコのミッション区のヴィック・ダラス薬局を呼び出した。「M《モルヒネ》五十グレインと、カロメル=イペカック=アトロピン=ストリキニーネ=カスカラを調剤したやつを八回分欲しいんだが、」と、私はヴィックに言った。「社の誰かに今晩か明朝とりに行かせるが、いいかね?」
「どうしてもとおっしゃるなら、つくりますがね。これで誰かを殺すのなら、どこで手に入れたか言わないでくださいよ」
「わかった」
私はもう一本サンフランシスコを呼び出し、事務所へかけて「老人」に話した。
「もう一人助手をさいてもらえませんか?」
「マックマンがあいている。あるいはドレイクと交代させてもいい。どっちにする?」
「マックマンで結構です。こっちへくるときにダラス薬局によって薬包をとってきてくれるように言ってください。場所は彼が知っています」
アーロニア・ホルドーンとアンドルーズについてはその後新しい報告はない、と「老人」は言った。
私は車をとばして、入江の家にもどった。見ると、三台の見なれぬ車が車道に乗りすててあって、六、七人の新聞記者がポーチでミッキーをかこんで、坐ったり立ったりしていた。彼らは私の姿を見ると、さっそく質問をあびせてきた。
「コリンスン夫人はここへ休養にきているんだから、」と、私は言った。「インタヴューも写真もおことわり。お願いだから、彼女をひとりにしておいてやってくれないか。もし何か起きたら、彼女をそっとしておいてくれた諸君には、すぐ知らせることにするよ。僕がいま話せることは、フィンクが爆弾の件で身柄を拘束されることになった、ということだけだ」
「アンドルーズは何のためにやってきたんですね?」と、ジャック・サントスがきいた。
それは私にとって別に意外なことでもなかった。隠れ家から出てきた以上、もうそろそろ姿を現わすだろうと期待していたからだ。
「彼にきいてみたまえ」と、私は言った、「彼はコリンスン夫人の財産を管理してる人間なんだから、彼女に会いにここに来たからといって、そのことから君らはミステリーをつくり上げることはできないだろうよ」
「お二人が仲が悪いというのは、本当ですか?」
「そんなことはない」
「では、なぜ今まで、ここへ姿をあらわさなかったのですか? 昨日とか一昨日とかに」
「彼にきいてみたまえ」
「彼は借金で首がまわあらないっていうのは本当ですか、それともレゲットの財産が手に入るまではそうだったのですか?」
「彼にきいてみたまえ」
サントスはうすい唇に微笑を浮かべて、言った。「きく必要はありませんよ。われわれは彼の債権者に数人会ってたずねたのですから、コリンスン夫人と彼女の夫が、彼が殺される数日前に、彼女がホイッドンとあまり親しくしすぎるというので喧嘩をしたという報告には、何か根拠がありますか?」
「絶対に嘘だよ。みんな君らの作り話さ」
「そうかもしれませんが、」と、サントスは言った。「それじゃ、彼女と彼女の夫の家族とは、仲たがいをしているというのは本当ですか。ヒューバート老人は息子の死に彼女が関係していると信じて、彼女がその償いをするのを見るまでは、費用をおしまずにやるといってるそうですが、本当ですか?」
私はそんなことは知らなかったので、言った。「馬鹿なことを言いたもうな。それどころか、彼女の面倒をみるために、われわれはいまヒューバートに雇われているんだぜ」
「じゃ、ホルドーン夫人とフィンクが釈放されたのは、もし自分たちを裁判にかけるなら、知ってることを全部ばらしてしまうと二人がおどかしたためだというのは、本当ですか?」
「ジャック、僕をペテンにかけようとしたってだめだよ。――ところで、アンドルーズはまだいるのかい?」
「ええ」
私は家の中に入って、ミッキーを呼び入れ、「ディックに会ったかい?」ときいた。
「彼はアンドルーズが来てから、二分ほどして家の前を車で通りすぎましたよ」
「こっそり行って、彼を見つけてくれ。そして場合によってはアンドルーズをしばらく見失ってもかまわないから、新聞記者のギャングどもに感づかれないようにしてくれ、と話してくれたまえ。われわれがアンドルーズを尾《つ》けていることを知ると、やつらはまた夢中になって書き立てるからね。いまそうさせたくないんだ」
ハーマン夫人が階段をおりてきた。アンドルーズはどこにいるか、私はたずねた。
「二階の正面のお部屋です」
私は上って行った。黒ずんだ絹のガウンを着たガブリエルが、革張りの揺り椅子の端にかたくなって腰かけてていた。顔色は青ざめ、むっつりしていた。彼女は両手の間にひろげたハンカチーフに眼をおとしていたが、私が入って行くと、うれしそうにこっちを見た。アンドルーズは暖炉に背を向けて立っていた。彼の血色のいい骨張った顔からは、白い髪と眉と口ひげがそれぞれかってな方向につき出ていた。彼は苦虫をかみつぶしたような渋面を彼女から私の方に向け、私の入ってきたのをあまり喜ばないようだった。私は「ハロー」と言って、テーブルの端に身をよせた。
アンドルーズは言った。「わしはコリンスン夫人をサンフランシスコへつれもどそうと思ってきたのじゃが――」
彼女は何も言わなかった。私は言った。
「サン・マテオじゃないのですか?」
「それはどういう意味かね?」例のもじゃもじゃな白い眉毛がさがって、彼の青い眼の上半分を蔽《おお》いかくした。
「神さまだけがご存じでしょう。新聞記者たちのうるさい質問でくさらされたせいかもしれません」
彼はすこしもたじろがなかった。そして、ゆっくりと、慎重な調子で言った。「ホルドーン夫人はわしの専門のことで迎いをよこしたのじゃ。だが、現在の事情では、わしには彼女に助言したり、その代理をつとめたりすることは不可能なので、そのことを彼女に説明しに行っただけじゃよ」
「たいへん結構なことです。たとえそのことを彼女に説明するのに三十時間かかったとしても、それは誰の知ったことでもないですからね」
「まったくじゃよ」
「しかし、下で待っている記者たちに話すときには用心しましょう。彼らは――別に何の理由がなくとも――疑いぶかいですからね」
アンドルーズはふたたびガブリエルの方を向くと、静かに、しかし多少いらいらした調子で言った。「さあ、わしと一緒に行きませんか?」
「行かなければならないでしょうか?」と、彼女は私の方をふりむいた。
「特に行きたくないなら、行かなくともいいでしょう」
「わたし――わたし、行きません」
「そう、それで話はきまりました」と、私は言った。
アンドルーズは、うなずくと、彼女の手をとるために前に進み出ながら言った。「それでは残念だが、わしはすぐ市へもどらねばなりません。万一わしが必要になったら、電話をかけてください」彼は、食事をという彼女のすすめをことわって、私にも案外さっぱりした調子で「さよなら」と言って出て行った。窓から見ていると、彼はまわりに集まってきた記者たちにはできるだけ相手にならないようにして、まもなく車に乗って走り去った。
ガブリエルは、窓からもどってきた私に眉をひそめて見せながら、たずねた。「あなたがサン・マテオとおっしゃったのは、どういう意味ですの?」
「彼とアーロニア・ホルドーンとの仲はどんな風ですか?」と、私はきいた。
「存じませんわ。なぜですの? なぜあの人にあんな風におっしゃいましたの?」
「探偵仕事ですよ。たとえば、彼には財産管理のおかげで溺《おぼ》れずにすんでいるという噂があるのです。あるいは事実無根かもしれませんが、すこしおどかしておくのも無駄ではないでしょう。そうすれば、彼は――もし何か不正をやっていたとしても――あわててその始末をつけるでしょうからね。あなたにしても、その上お金まで失くす必要はありませんよ」
「すると、あの人――?」と、彼女は言いはじめた。
「もちろん、穴埋めをするには一週間か、少なくとも四、五日はかかるでしょうがね。大丈夫ですよ」
「でも――」
私たちの会話は、そのとき食事の知らせに上ってきたハーマン夫人によって中断された。ガブリエルはほんの少ししか食べなかった。で、彼女と私はせいぜい話題を見つけて話をしなければならなかったが、そのためとうとう私は、ミッキーが英語を知らぬ外国人のふりをしてユーカリへ行ったときの話を持ち出してミッキーをあわてさせた。英語は彼が知っている唯一の言葉である上に、あいにくユーカリには世界中の国の人間が少なくとも一人以上はいたので、彼は自分がどこの国の人間かということを人々にわからせまいとして戦々きょうきょうと日を送ったというのである。彼はそれについて長いこっけいな話をしてきかせた。彼はいつもこんな半分まの抜けたことをやって人々を笑わせる男だった。食後、彼と私は春の夜の闇が地上を暗くしている戸外を歩きまわりながら話し合った。
「明日の朝マックマンが来ることになっているから、そうしたら君と彼とで番犬の役をつとめてもらいたいんだ。仕事は好きなように分担していいから、ただいつもどっちかが、かならず見張りについていてくれなければ困るよ」
「何も、あんた一人がいちばん悪い役を引きうけるようなことはしないでください」と彼は不平を言った。「ここでこうやっているのは何か目当てがあるんですか――罠ですかね?」
「ことによったらね」
「ことによったらですって? ウフフフ――あんた自分が何をやるのか、わからないんですね。ポケットの中の磁石に何かが吸いつくのを待ちながらブラブラしているわけですか」
「立派な計画の成果はいつも間抜けな男には幸運に見えるものさ。――ディックは何かニュースをもってきたかい?」
「いえ、彼はアンドルーズを家からここまで尾行してきただけです」
玄関のドアがあいて、黄色い光りがポーチにさっと流れた。肩を黒いケープでくるんだガブリエルが黄色い光の中にあらわれ、ドアをしめて、砂利道を歩いてきた。「よかったら、いまのうちにひと眠りしておきたまえ」と、私はミッキーに言った。「番がきたら、起こすよ。朝まで立番してもらわなければならんからね」
「あんたはたいしたもんだ」と彼は暗闇の中で笑った。「たしかに、たいしたもんですよ」
「車の中にジンが一ガロンあるよ」
「へえ? それならおしゃべりなんかして時間をつぶさずに、なぜ早くそう言ってくれなかったんです?」彼が歩き去るとき、芝生が靴にあたってシュッシュッと音をたてた。
私は彼女に会うために、砂利道の方へ進んで行った。
「美しい晩ですこと」と、彼女が言った。
「そうですね。しかし、たとえあなたのトラブルが実質的には終わったにしても、あなたが一人で暗がりを歩きまわろうとは思いもよりませんでしたよ」
「わたし、そんなつもりではなかったのですわ」彼女は私の腕に手をかけながら言った。「それに実質的に終わったって、どういう意味ですの?」
「まだ用心しなければならない細かいことが若干のこっているということです――例えば、モルヒネの問題なども」
彼女はブルっとからだをふるわせて、言った。「わたし、もう今晩の分だけしかのこっておりませんの。あなたはお約束なさいましたが――」
「五十グレイン、明朝くることになっています」
彼女は、私が何か言うのを待つように、じっと黙っていた。が、私は何も言わなかった。彼女の指が私の袖の上でもじもじ動いた。「あなたはおっしゃらなかったかしら、わたしをなおすのは、そうむずかしいことではないって――」彼女は私がそんなことは言わなかったと否定するのを予期するかのように、半ば質問的に言った。
「むずかしくはないでしょう」
「あなたはおっしゃいましたね。たぶん――」あとの方はそのまま消えて、言葉にならなかった。
「ここにいる間に、やりますか?」
「ええ」
「やる気がありますか? あなたにその気がなければ、無駄ですよ」
「わたしにやる気があるかって、おっしゃるのですか?」彼女は立ちどまって、私に顔を向けた。「わたしは――」急に嗚咽《おえつ》が彼女の言葉をとぎらせた。が、すぐその声は高い調子をとりもどした。「あなたはわたしに正直に話していらっしゃるのですか? あなたがわたしにお話しになったこと、昨夜と今日の午後わたしにおっしゃったこと、あれはあなたのお言葉どおり本当ことなのですか? わたしは、あなたが誠実な方なので、あなたを信じたのかしら? それとも、あなたが職掌がら人々を信頼させる手を心得ていらっしゃるために、あなたを信じたのかしら?」
彼女には、たしかに狂的なところがあった。しかし決して愚鈍《ぐどん》ではなかった。で、私はその場合もっとも適当と思われる返事を与えた。「あなたの僕に対する信頼は、僕があなたに抱いている信頼の上にきずかれたものなのです。ですから、もし僕の信頼がまちがっているとしたら、あなたの信頼もまちがっているわけです。そこで、まず僕に次の質問をさせてください。あなたは悪い人間でありたくない、といわれたが、それは嘘をいったのですか?」
「ああ、わたし悪い人間でありたくありません。ありたくありません」
「そう、それならば、」と、私は決然とした態度で言った。
「あなたがその悪習をやめたいといわれるなら、僕は誓ってそれを取り除いてあげましょう」
「どのくらい――どのくらい長くかかるのでしょうか?」
「一週間とみれば、充分でしょう。たぶんもっと短くてすむと思いますが」
「それで大丈夫でしょうか? それ以上かからないでしょうか?」
「それは重要な部分に対する日時ですよ。あなたのからだが完全に健康をとりもどして、人並みに活動できるようになるまでは、その後もしばらく用心しなければならんでしょう。しかし、とにかくそれで麻薬から脱却できるわけです」
「苦しむでしょうか――とても?」
「苦しいのは二、三日です。しかし、あなたが考えるほどひどくはないでしょう。あなたのお父さんの強靭さがきっとあなたを突破させてくれますよ」
「万一、」と、彼女はゆっくり言った。「万一その途中で、とてもわたしにはだめだということがわかったときには、わたし――」
「できないことがあるものですか」と、私は快活に保証した。「じっとしていれば、自然に別の出口から出てしまいますよ」
彼女はふたたび身ぶるいした。そしてたずねた。「いつからはじめますの?」
「明後日からはじめましょう。明日はいつもの量だけおとりなさい。貯めておこうなどとしないように。そんなことに気を使ってはいけませんよ。辛いのはあなたよりも、僕の方です。僕はあなたの苦しむのを我慢して見ていなければならないのだから」
「では、たとえわたしが、突破する途中で|たしなみ《ヽヽヽヽ》を失ったとしても、あなたは許してくださいますわね――理解してくださいますわね? たとえ、どんなに醜態を演じても――」
「わかりませんね」私はことさらに彼女を甘やかして、そんな真似をさせたくはなかった。「僕は、わずかな苦痛ですぐ醜さに変わるような|たしなみ《ヽヽヽヽ》なんかありがたくありませんよ」
「|おお《ヽヽ》、でも――」と、彼女は眉をよせて、口ごもった。「ハーマン夫人は帰らせていただけません? わたしいやなのです――あの人にわたしの苦しむのを見せるのはいやですわ」
「よろしい、明朝、彼女を帰らせましょう」
「それから、もしわたしが……したら、ほかの誰にもわたしを見せないようにしてくださいますわね。たとえわたしがそれほど恐ろしい真似をしなくとも――?」
「見せません」と、私は約束した。「しかし、いいですか。あなたは僕のためになにか見世物を演じて見せる覚悟でいるらしいが、そんなつまらぬ考えはやめた方がいいですよ。あなたはいま立派な振舞いをしようとしているのです。そのあなたに僕はそんなえげつない真似をさせたくありませんよ」
とつぜん彼女は笑い出した。「わたしが悪いことをしたら、ぶってくださる?」
私は、あなたはまだ若いのだから、あなたをよくするためには打つかもしれない、と答えた。
二十一 アーロニア・ホルドーン
マリー・ヌネッツは、翌朝七時半にやってきた。またミッキー・リニアンは、ハーマン夫人をクェサダまで車で送り、彼女をそこへおろして、代わりにマックマンと野菜の荷を積んで帰ってきた。マックマンは角ばった体格の、肩幅の広い、退役兵士だった。大平原の森林地帯での十年間の軍隊生活は、彼のキリッと結んだ口と、がっしりしたあごと、いかめしい顔とを黒樫のように焼いてしまった。彼は完全な兵士だった。彼は派遣されたところへはどこへでも行き、止れと言われたところにはどこにでも止った。そして命ぜられたことを正確に行うこと以外には何も考えない男だった。
彼は薬局から受け取ってきた薬の包みを私に渡した。私はその中からモルヒネ十グレインだけをガブリエルに持って行ってやった。彼女はベッドで朝食をたべていたが、眼は涙でうるみ、顔はやつれて、灰色がかっていた。私の手の中の紙包みをみると,彼女は皿を押しやって、もだえるように肩を動かしながら、熱心に両手をさし出した。「五分間だけあちらへ行っていてくださらない?」と、彼女は言った。
「僕の前で一杯ひっかけてもかまいませんよ。僕は赤面しないから」
「わたしが赤面しますわ」と、彼女は顔を赤らめた。私は部屋を出て、ドアをしめ、それによりかかりながら、紙のカサカサいう音と、コップにスプーンのあたる音とを聞いていた。やがて、彼女が「もうよろしいですよ」と言った。
私はふたたび室内に入った。盆の上の丸めた白紙が、薬包の残骸のすべてだった。彼女は半ば眼を閉じ、金魚をたらふく食べた猫みたいに心地よさそうに枕に背をもたせかけていた。彼女はけだるそうに私にほほ笑みかけて言った。
「あなたはご親切な方ね。今日わたしが何をしたがっているかご存じ? お食事なさったら、海へ出てみましょうよ――そして一日中日光にあたってすごしましょうよ」
「それはあなたにはたしかにいいことです。ミッキーかマックマンを一緒につれておいでなさい。一人で出かけては行けませんよ」
「では、あなたは?」
「クェサダまで行って、それから郡役所所在地へまわり、ことによったら市《シティ》まで行ってくるかもわかりません」
「ご一緒に行ってはいけません?」
私は頭を振った。「僕にはしなければならない仕事があるのです。それに、あなたはここに休養にきていることになっているのですからね」
「おお!」と、彼女は言って、コーヒーの方に手を出した。私がドアの方へ行きかけると、コーヒー茶碗を口に近よせたまま言った。「あなたは誰にも見つからない安全な場所に、あれをおしまいになったわね?」
「そう」私は上衣のポケットをたたきながら、彼女に笑って見せた。
クェサダでは、ローリーと話したり、サンフランシスコの新聞を読んだりして、三十分ばかりすごした。諸新聞は誹謗《ひぼう》にならない程度の暗示と疑問の調子をまじえて、アンドルーズのことを書きはじめていた。それはこっちにはかえって好都合だった。ローリーからは何も聞けなかった。
それから、私は郡役所所在地へまわった。ヴァーノンは裁判所に行っていたし、郡長との二十分の会話も別に私の知識に何も加えてくれなかった。私はサンフランシスコの社に電話をかけて「老人」と話し合った。彼は、われわれの依頼者であるヒューバート・コリンスンが、息子の殺人事件はホイッドンの死によって解決したはずであるのに、なぜわれわれが探偵活動をつづけているのか、意外に思っていると言った。
「解決してはいないと彼に言ってやってください」と、私は言った。「エリックの殺人はガブリエルの諸事件と結びついているのだから、これを解決しないうちはエリック事件の真相をつかむことは不可能なのだと説明してやってください。たぶんあと一週間ぐらいで目鼻がつくでしょう。コリンスン氏は大丈夫わかってくれると思います」と、私は「老人」に保証した。
「老人」は「わしもそれを期待しているよ」と、依頼者が金を払うのをしぶっているような仕事に五人の探偵を働かせながら、そのことに興奮もせずに、むしろ冷然と言った。
私はサンフランシスコに車を走らせ、セント・ガーメンで食事をすませ、着がえの服や洗濯したシャツをとりに自分の部屋に立ちより、それから夜の十二時すこし過ぎに入江の家にもどってきた。車庫に車を押し入れていると――われわれはまだフィッツステファンの車を使っていた――闇の中からマックマンが出てきた。彼は、私の留守中には何も変わったことはなかったと言った。私たちは一緒に家の中に入った。ミッキーは台所で、あくびをしながら一杯やっていた。彼はこれからマックマンと交代して見張りに立つところだった。
「コリンスン夫人は寝たかい?」と、私はきいた。
「明りがまだついていますよ。彼女は一日中部屋にいました」
マックマンと私はミッキーと一杯やってから、私だけ二階へ上って行った。私は彼女の部屋のドアをノックした。
「どなた?」と、彼女の声がきこえた。私だと言うと、「そう」と言った。
「あすは朝飯抜きですよ」
「ほんとう?」と、彼女はまるでそれを忘れてでもいたように言った。「ああ、それから、わたし、自分をなおすのにあなたにご厄介をかけまいと決めましたの」彼女はドアをあけて、戸口に立ち、読みかけの本に指をはさんで、うれしそうに私にほほ笑みかけた。「ドライヴはよろしかったこと?」
私はポケットからモルヒネの残りの包みをとり出して、彼女の方にさし出しながら言った。「よかったですよ」
彼女はそれをとろうとしなかった。そして私の顔を見て、笑って言った。「あなた、獣じゃないわね?」
「さあ、とにかくこれはあなたの治療であって、僕の治療じゃないのですよ」私はそう言ってから、ふたたびその薬の包みをポケットにもどした。「もしあなたが――」だが、そう言いかけて、私は耳をすました。広間の方でかすかに板がギーギーと鳴る音がした。素足で床を歩いているような柔らかい音だった。
「あれは、マリーがわたしの番をしてくれているのですよ」と、ガブリエルはたのしそうにささやいた。「彼女は屋根裏に寝床をこしらえて、家へ帰らないといっていますの。彼女は、わたしがあなたやあなたのお友達と一緒にいるのを危険だと思っているのです。わたしに、あなたのことを警戒するようにと言いましたわ。あなたを――ええと、何でしたっけ――ああそうだ――狼だって言ってましたわ。あなた、そうですの?」
「たしかにね。忘れないでくださいよ――朝飯は抜きですよ」
翌日の午後、私は彼女にヴィック・ダラスの混合薬の第一回分を与えた。そして六時間おきにさらに三回与えた。彼女はその日、終日部屋ですごした。それは土曜日だった。日曜日には、彼女はモルヒネ十グレインをとり、自分でももう治ったように考えて、終日元気だった。月曜日にはまたヴィックの混合薬の残りを飲んで、だいたい土曜日と同様だった。
ミッキー・リニアンが、フィッツステファンは意識を回復したが、まだ衰弱がひどいのとからだじゅう繃帯をしているので話ができないということと、アンドルーズはまたアーロニア・ホルドーンに会いにサン・マテオへ行ったということと、アーロニアはフィンクに会いに病院へ行ったが警察から許可されなかったというニュースをもって、郡役所所在地からもどってきた。
火曜日はいままでにない刺激的な日だった。ガブリエルは、私がオレンジ・ジュースを朝食がわりに持って行ってやると、ベッドから起きてドレスを着ていた。眼がかがやき、おしゃべりになり、よく笑った。私はそれを見て何気なく――あなたはもうモルヒネをとる必要はない、と言った。
「ずっとですか?」急に彼女の顔と声に狼狽の色があらわれた。「ねえ、そういう意味ではないのでしょう?」
「そういう意味ですよ」
「でも、そんなことをしたら、わたし死んでしまいますわ」涙が眼からあふれ、白い小さな顔をぬらした。そして両手をはげしく振った。それは子供っぽい悲愴さだった。私はふと、涙はモルヒネ禁止現象の一つだということを思い出した。「ねえ、あなただってご存じでしょう。それは無理ですわ。わたし、いつもと同じだけの量をほしいとは言いません。毎日少しずつ減らして行くことはできます。でも、そんな風に一気にやめるなんてことできませんわ。冗談をおっしゃるのでしょう? だって、それではわたし殺されてしまいますもの」彼女は殺されるという考えで、いっそう泣き声をあげた。
私は同情もするが、しかしそんなことはこっけいだというように、わざと笑いながら、快活に言った。「ナンセンスですよ。これからあなたに起こってくるいちばん厄介なことは、あんまり元気になりすぎやしないかってことですよ。それが二日すぎれば、それで万事解決するんじゃないですか」
彼女は唇をかんでいたが、やっと微笑を見せて、両手を私の方にさし出した。「わたし、やっぱりあなたを信じようと思いますわ。いえ、信じますわ。どんなことを言われようと、信じますわ」
彼女の手はじっとりと汗ばんでいた。私はその手を強くにぎって言った。「そりゃ、素敵だ! さあ、ベッドにおかえりなさい。ときどき見にきますが、その間に何か用ができたら、大声で呼んでください」
「今日はお出かけにならないわね」
「出ません」と、私は約束した。
彼女は午後はずっとかなりよく苦しみにたえた。もちろん、くしゃみとあくびに襲われているとき、それを笑うだけの元気はなかったが、重要な点は彼女が笑おうとつとめたことだった。夕方五時すぎに、マディスン・アンドルーズがやってきた。彼の車が入ってくるのを見た私は、玄関へ出て行って、ポーチで彼に会った。いつもの顔の赤みはすっかり消えて、弱々しいオレンジ色に変わっていた。「今晩は」と、彼はいつになくていねいに言った。「コリンスン夫人にお会いしたいのだが」
「どんなご用ですか、僕がうかがって、彼女にお伝えしましょう」と、私は言った。
彼はその白い眉毛を引き下げ、いつもの赤みがいくらか顔にもどってきた。
「コリンスン夫人にお会いしたいのじゃよ」それはまさに命令だった。
「彼女はあなたにお会いしたくない、と言っています。何かご用でしょうか?」
彼の顔の赤みはすっかりもとにもどり、その眼は血走っていた。私は彼とドアの間に立っていた。私がそこに立っている間は、彼は中へ入ることはできないのだ。一瞬間、彼は私を押しのけようとしたようだった。が、別に私は気にもしなかった。というのは、彼と私とは体力の点で二十ポンドも開きがあったし、年も私の方が二十才も若かったから。アンドルーズはあごをぐっと引くと、声に威厳を見せて、「コリンスン夫人はわしと一緒にサンフランシスコへもどらねばならん。ここにおくことはできん。これは非常識なやりかたですぞ」
「彼女はサンフランシスコへ行きたくないそうです。それに、必要なら地方検事は参考人として彼女をここに止めおくことができるはずです。それがご不満なら、あなたの得意な裁判所の命令でも申請して、これを引っくりかえしてごらんなさい。そのときはわれわれのほうも、別のあることを持ち出して、あなたを苦しめることになりますよ。こう申し上げれば、あなたにも今われわれがどういうことを考えているかが、おわかりになるでしょう。われわれは、彼女があなたのために危険に陥《おとしい》れられようとしていることを証明するつもりです。あなたが彼女の財産でおはじき遊びをしていないと、どうしてわれわれにわかるでしょう? あなたがそれに関して起こる紛争から自分の身をまもるために彼女の今の狂った状態を利用しようとしていないと、どうしてわれわれにわかるでしょう? いかがですね、僕に言わせれば、あなたは彼女の財産を今後も長く自分の管理下におくために、彼女を精神病院へ送る計画さえ立てているかもしれないのだ――」
彼は私のこの痛烈な皮肉にもじっとたえて、その態度をくずさなかったが、さすがに眼の奥には苦悶の色がありありと見えた。彼は息をフーッとつくと、言った。「ガブリエルもそのことを信じているのかね?」彼の顔は朱を染めたようになった。
「誰それがそれを信じたなどと、僕は申しましたか?」私はできるだけ態度を和らげるようにして言った。「僕はただ、われわれが法廷に持ち出すかもしれないことをお話ししたまでですよ。あなたは弁護士でいらっしゃるからご存じでしょう? 真実であることと、法廷――または新聞――に持ちこまれることとの間には、かならずしも関連はないということを……」
彼の眼の奥の苦悩はひろがり、顔を赤くそめ、骨をぎこちなく硬ばらせたが、しかし依然としてからだだけは真直ぐに保ち、声も普通と変らなかった。「わしは今週中に、財産の清算書とわしの解任要求をつけて、遺言執行命令書を裁判所に返すつもりだということを、コリンスン夫人に伝えてもらいたい」と、彼は言った。
「それは結構でしょう」と、私は答えたが、この老人が車まで足を引きずるように歩いて行って、のろのろとそれによじのぼるのを見ていたら、気の毒な気がしてきた。私は彼が来たことをガブリエルには話さなかった。
彼女は相変わらずあくびとしゃっくりに攻められどおしで、さすがに眼から涙を流して、すすり泣いていた。顔もからだも手も、汗でぐっしょりぬれ、いまは食べ物もまったく喉を通らなかった。私はオレンジ・ジュースだけを彼女に与えた。音と匂いは――それがどんなにかすかな、どんなに心地よいものであっても――彼女には苦痛を与えるらしく、たえずベッドの中でからだをよじったり、びくびく震わせたりしていた。「これ以上悪くなるのでしょうか?」と、彼女は情けなさそうにきいた。
「たいしたことはありません。たえられないようなことは決してありませんよ」
私が階下におりて行くと、ミッキーが待っていて、「あのメキシコ女がナイフをもっていますよ」と、面白そうに言った。
「本当かい?」
「本当ですとも。それは、あんたが買ってきたあの安物のジン――いや、借りてきたと言ったほうがいいかな。だって、あんなもの、誰も飲めないことは売り手の方で知ってるでしょうから、あとで返しにくることを承知の上で渡したにちがいないと思うんでさ――とにかくあの安物のジンから臭みを抜くためにわたしがレモン切りに使っていたナイフですよ。つまり皮むきナイフでさ。ステンレス・スティールの刃渡り四、五インチのもんですから、彼女があんたの背中に突っ刺しても、アンダーシャツまでは通らんでしょうがね。そいつがどうしても見つからないので、わたしは彼女にきいてみたんです。すると、あの女め、いつもはわたしのことを井戸に毒を入れる人間みたいに見るのに、そのときにかぎってそんな風は見せずに何も知らないって言ったんです。それで、ハハ、この女が隠してるなと、わかったんですよ」
「きみとしちゃ大出来だ。よし、あの女から眼を離さないでいてくれ。彼女はわれわれにあんまり好意をもっていないからね」
「私がそれをやるんですか?」と、ミッキーはニヤリと笑った。「だって、彼女がいちばんねらっているのは、あんたなんですぜ。ナイフで切られるんだって、あんた以外にはなさそうですぜ。いったい彼女に何したんです? まさかメキシコ・レディーの愛情をもてあそぶほど、あんたも馬鹿じゃないと思うが、どうですね?」彼はおどけて言ったのかもしれないが、私にはそう思えなかった。
アーロニア・ホルドーンがリンカーンのリムジンに乗ってやってきたのは、暗くなるすぐ前で、家の前の車道に車を入れるとき黒人の運転手が長いこと警笛を鳴らした。そのとき私はガブリエルの部屋にいたが、彼女の鋭敏になった耳にはたしかに恐ろしい騒ぎに思われたにちがいないこのけたたましい警笛の音は、彼女をすっかり脅《おび》え上がらせて、あぶなくベッドからとびおりようとした。
「あれはなに? なんですのあれは?」からだでベッドを震わせ、歯をカチカチいわせながら、彼女は大声をあげた。
「シーッ!」と、私は彼女をなだめた。だいぶ看護にも慣れてきていた。「自動車のサイレンですよ。お客がきたのです。下へ行ってことわってきますからね」
「誰もわたしに会わせないようにしてくださいね?」
「大丈夫ですよ。もどってくるまで、おとなしくしているんですよ」
玄関に出て行ってみると、アーロニア・ホルドーンが自動車のそばに立って、マックマンに話しかけていた。夕方の微光の中で、彼女の顔は黒い帽子と黒い毛皮のコートにはさまれて、すすけた卵形のマスクのように見えたが、その眼だけはいきいきと光っていた。
「ご機嫌いかがですか?」と、彼女は手をさし出しながら言った。「あなたがここにいらっしゃるのを、わたくしコリンスン夫人のために本当によろこばしく存じますわ。あなたのもっていらっしゃる保護能力については、彼女もわたしもすばらしい証拠をもっておりますもの。二人はいわばあなたのお力によって命を完《まっと》うできたのでございますからね」
まさにその通りだったが、それは前にも言われたことがあったので、その問題に触れられるのはあまり好まないと言うことをそれとなく身振りで示しながら、私は言った。「残念ですが、コリンスン夫人はお目にかかれないのです。からだの具合がよくないものですから」
「おお、でも、ちょっとでも結構ですから、お目にかかりたいのですが。そのほうがあの方のためにもなると思うのですけれど、いかがでしょうか?」私はお気の毒ですが、だめですと言った。彼女は「わたくし、あの方にお会いしたいと思ってわざわざ遠くからまいったのですのに」と口では言ったけれど、私の言葉を決定的なものと受けとったらしかった。
私は話の糸口を見つけようと思って、何気なくたずねた。「アンドルーズ氏があなたに何か話されませんでしたか?」
彼女はそれには何も答えずに、うしろを向くと、ゆっくりと草地を横ぎって歩きはじめた。私は彼女のわきにつき添って黙って歩いて行くほかなかった。夕闇がほんの二、三分間だけ私たちの周囲から遠のいた。やがて車から三、四十フィートのところまできたとき、彼女は言った。「アンドルーズさんは、あなたに疑われているとお考えになっておいでですわ」
「あの人の言う通りです」
「どんなことで、あなたはあの方をお疑いになっていらっしゃるのですか?」
「財産をごまかそうとしていることです。僕はよく知りませんが、しかし彼には疑惑はもっています」
「本当ですか?」
「本当です。しかしほかのことは何も疑ってはいませんよ」
「おお、それは結構だと思いますわ」
「僕には結構ですが、あなたには結構じゃなかったのではないですか?」
「失礼ですが、もう一度おっしゃっていただけませんでしょうか?」
私はこの女といつまでも話し合っているのがいやだった。彼女が怖かったのだ。で、私は自分の知っている事実を積み重ね、その上に若干の想像を加えて、その堆積《たいせき》の頂《いただき》から思いきって空間にとびこんだ。「あなたは刑務所から出るとアンドルーズを呼び出して、彼にかまをかけて、彼の知っていることを全部さぐり出された。それからあなたは、彼があの娘の金で危険な遊びをやっていることを知ると、これこそ彼に嫌疑をかけて事実を混乱させるチャンスだと見てとられた。あの老人は女狂いです。あの男などは、あなたのような婦人にとっては朝飯前の相手でしょう。僕はあなたが彼を相手にどんなことを企んでおられるか知りませんが、あなたは彼をびくっりさせ、新聞に彼のあとを追っかけさせはじめた。新聞に彼の金廻りのいいことについてこっそり情報を与えたのはあなただと、僕はにらんでいますがね。
それは無駄ですよ、奥さん。おやめなさい。なるほど、あなたは彼を煽動することも、彼に犯罪を行わせることも、ひどい窮地に陥れることもできるでしょう。しかし、彼がいま何をしようと、それによって、ほかの誰かが過去において行ったことが隠されはしないですからね。彼は財産を整理して引き渡すことを約束しました。彼を放っておきなさい。そんなことをしても何にもなりませんよ」
二人がさらに十二、三歩あるいて行く間、彼女は何も言わなかった。小道が二人の足もとにあらわれてきた。「これが、エリック・コリンスンが突き落された断崖へのぼって行く小道ですよ。あなたは彼をご存じでしたか?」
彼女はほとんど嗚咽のような音と一緒に鋭く息をすいこんだが、彼女が答えたときには、その声は落ちついていて、静かで音楽的だった。「わたくしが存じていることは、ご存じでいらっしゃるはずですわ。なぜまたお聞きになるのですか?」
「探偵というものは、すでに答のわかっているような質問を好むものなのです。奥さん、あなたはまた、なぜここへおいでになったのですか?」
「それもまた、答がわかっている質問なのでしょう?」
「あなたが二つの理由のうちの一つ、あるいはその両方のために、来られたことは知っていますよ」
「それで?」
「第一は、われわれが謎の解答にどの程度まで近づいたかを知るため、そうでしょう?」
「もちろん、わたくしだって、わたくしなりに好奇心はもっておりますわ」と、彼女は白状した。
「その点にかぎり、あなたのご旅行を成功させてあげてもかまいませんよ。僕はその解答を知っているのですから」
彼女は深い夕闇の中に燐光のような眼をかがやかせながら、私の方に顔を向けて、小道の上に立ちどまった。私よりも背の高い彼女は片手を私の肩においた。そして、もう一方の手はコートのポケットに入れたまま、その顔を私の顔に近づけた。彼女は何とかして理解してもらいたいというように、ゆっくりとしゃべりはじめた。「何もかもありのままお話しくださいませんか。偽らずにありのままを。わたくし、不必要な誤解をいたしたくありませんから。ちょっとお待ちになって。お話しになる前に、よくお考えになってください。そして、いま知らぬふりを装ったり、嘘を言ったり、虚勢を張ったりするときではないという、わたくしの言葉をお信じになってください。さあ、では真実をお話しください。あなたは解答をご存じなのですか?」
「ええ、知っていますよ」
彼女は私の肩から手をはなすと、かすかにほほ笑んだ。
「では、もうお互いに駆け引きをしても無益ですわね」
私はいきなり彼女にとびかかった。もし彼女がポケットのなかから発射していたら、おそらく弾丸は私に命中していただろう。ところが、彼女は拳銃をとり出そうとしたのだ。だが、そのときはもう、私は彼女の手首をおさえていた。弾丸は二人の間の地面に射ちこまれた。おさえられていない方の彼女の手の爪が、私の顔の側面に三すじの赤いリボンをたらした。私は彼女のあごの下に頭を押しこむと、片腕を彼女のからだにまわして、強く私の方へ引きつけ、拳銃をもっている方の手をうしろにねじ上げた。二人が倒れたとき、彼女は拳銃をとり落とした。私は組み伏せたままで、その拳銃をさぐりあてた。マックマンがかけつけたとき、私は立ち上がりかけていた。
「一発おみまい申しますか?」と、マックマンはまだ地面に横たわっている女を見て、言った。
「いや、この女の方は大丈夫だ。運転手の方を見てくれ」
マックマンは走り去った。女は足をまげて地面に坐り、手首をなでていた。
私は言った。「僕はあなたがコリンスン夫人を射つつもりだと思ったが、これがあなたのここへ来た第二の理由なのか」彼女は無言のまま立ち上がった。私はひどくふらふらしていたので、それを彼女に知らせたくないと思って、わざと助け起さなかった。「もうここまできてしまったのだから、話し合うのも害にはならんでしょう、何か役に立つかもしれませんよ」と、私は言った。
「いまは何ごとも役に立たないと思います」彼女は帽子をきちんとかぶり直した。「あなたは何もかもご存じだとおっしゃいます。そうだとすれば、嘘はもう何の価値もないわけですが、嘘以外に役に立ちそうなことは何もございません」そう言って、彼女は肩をそびやかした。「さあ、どういたしたら、よろしいのでございますか?」
「棄てばちになるときはもう過ぎたのだ、ということをおぼえていてください。それを約束してくれれば、何も言うことはありませんよ。この種のことは、三つの部分に分けることができます――つまり、捕われる、有罪の判決を受ける、罰せられる、の三つです。第一に関してもう何をするのも遅すぎるとしましょう。――が、あなたはカリフォルニアの法廷と刑務所がどんなものか、知っておいででしょう」
彼女はいぶかしそうに私を見て、たずねた。「どうしてそんなことをわたくしにおっしゃるのですか?」
「それは、射たれるのは僕にとってありがたいことではないし、それにいったん事がすんだら、あっさり水に流してしまいたいのが僕の流儀だからです。またこんどの事件であなたが演じた役割を取り上げてあなたを有罪にさせようとする興味も、いまの僕にはないからです。まあ、家に帰って、行動をあやまらないようにしてください」
二人は自動車のところへもどるまで、それ以上どっちからも口をきかなかった。車のそばまでくると、彼女は私の方を向いて、手をさし出して、言った。「わたくし――まだよくわからないのですけれど――今日は前よりいっそうあなたのご恩になったような気さえいたします」
私はそれには何も言わず、手も出さなかった。彼女が「ピストルを返していただけますでしょうか?」と言ったのは、そのためだったかもしれない。
「だめです」と、私は言った。
「では、コリンスン夫人にくれぐれもよろしくお伝えくださいませ。そしてお会いできなかったのが本当に残念だったとお伝えくださいませんか?」
二十二 告白
ミッキー・リニアンは私のために玄関のドアをあけた。彼は引っかかれた私の顔を見て、吹き出した。「あんたはどうも女どもにはひどい目にあいますね。その顔はどうしたんです?」彼は拇指《おやゆび》を天井に向けて、「上へ行って、あの女と相談した方がいいですよ。彼女は大騒ぎをしていましたぜ」
私はガブリエルの部屋へ上がって行った。彼女はいままでさんざんころげまわっていたらしいベッドの上に坐って、両手を髪の中につっこんでかきむしっていた。その涙にぬれた顔は三十五才の顔だった。彼女は咽喉の奥で傷ついた野獣の呻《うめ》き声のような音を立てていた。「ほお、これは戦闘ですね?」と、私は戸口から声をかけた。
彼女は髪から手をはなすと、「わたし死んじまわないでしょうか?」と言った。それは、くいしばった歯の間からもれてくる泣き声だった。
「そんなことは絶対にありません」
彼女はすすり泣きながら、倒れ伏した。私は夜具をきちんとその上にかけてやった。彼女は咽喉にかたまりがあるとか、膝のうしろのくぼみが痛むとか、不平を言った。
「正常の症状ですよ」と、私は保証した。「この様子では、あなたはそう苦しまないですみますよ。痙攣《けいれん》だって来ないでしょう」
ドアを爪で引っかく音がした。ガブリエルは、「もう行かないで!」と、叫びながらベッドの上にはね起きた。
「戸口からさきへは行きませんよ」と私は約束して、ドアのところへ行った。マックマンが立っていた。
「あのメキシコ女のマリーは、」と、彼はささやいた。「藪《やぶ》の中にかくれて、あなたとあの女のことを見張っていたらしいです。わたしは彼女が出てきたのを認めたので、あとをつけて下の道路まで行ったところ、彼女はリムジンを停めて、五分から十分ばかりあの女と話していましたよ。何の話か聞こえるほどそばまで寄れませんでしたが」
「いまどこにいる?」
「台所にいます。もどってきたばかりで、自動車の女は行ってしまいました。ミッキーは、あのメキシコ女はナイフをもっていて、わたしたちをねらっている、と言っていますが、本当でしょうか?」
「彼のいうことはたいていまちがいないよ。マリーはコリンスン夫人に強い愛情をもっていて、われわれが何か彼女のためにならないことをしやしないか、と考えているんだ。だから、ホルドーン夫人がわれわれの味方でないのを見て、きっとコリンスン夫人の味方だろうと想像し、彼女を支持したんだろうと思うね。とにかく、われわれとしては彼女を監視する以外に手はないわけだ。料理人を失うわけにはいかんからね」
マックマンが行ってしまうと、ガブリエルはさっき来客のあったことを思い出して、そのことを質問し、また彼女が耳にした銃声と、私の顔の引っかき傷のことについても質問した。
「さっき来たのはアーロニア・ホルドーンですよ」と、私は言った、「彼女は度を失ってちょっと失敗をやりましたが、別に害はありませんでした。もう帰りましたよ」
「あの人はわたしを殺しにきたのですわ」と、ガブリエルはまるでそのことを確実に知ってでもいるように、興奮もせずに言った。
「そうかもしれません。でも、彼女は何も認めませんでしたよ。いったいなぜ、彼女はあなたを殺さなければならないのですか?」しかし、その答は彼女の口から得られなかった。
それは長い、いやな一夜だった。私は前の室から引っぱってきた革張りの安楽椅子によりかかって、その夜の大部分を彼女の部屋ですごした。彼女は三回に分けて一時間半ばかり眠った。そして三回とも悪夢にうなされて眼をさました。私は彼女が相手にしなくなるたびに、うとうととまどろんだ。その間も一晩中、断続的に廊下にコソコソいう音がきこえた――マリー・ヌネッツが女主人の番をしているのだな、と思った。
水曜日はさらに長い、さらに悪い日だった。昼ごろには、あまり緊張して奥歯をかみしめていたために、ガブリエルと同じようにあごが痛くなった。彼女はまた例の調子で苦しみ出していた。光は彼女の眼に、音は彼女の耳に、匂いはどんな種類の匂いでも彼女の鼻に、それぞれ刺激が強すぎて苦痛を与えるらしかった。絹のナイトガウンの重みさえ、上と下のシーツの感触さえ、彼女を苦しめた。体内のあらゆる神経がたえずあらゆる筋肉を引きつらせた。あなたは決して死にはしないという私の確約も、いまはもう何の役にも立たなかった。生はもはや楽しいものではなかった。
「つらければ、頑張るのをおやめなさい。好きなようになさい。面倒は僕が見てあげますから」と、私は言った。
彼女は私の言葉をきくと、私にすがりつき、私は両手であばれまわる狂人を抱えていなければならなかった。一度、彼女の悲鳴は、マリー・ヌネッツを戸口へ引きよせた。マリーはメキシコなまりのスペイン語で私に悪口をあびせかけた。私はガブリエルと同じように汗をかきながら、彼女をベッドに寝かせて肩をおさえつけていたが、ふりかえるや「出て行け!」と、メキシコ女をどなりつけた。マリーは片方の褐色の手を服の胸につっこむと、室内に一歩踏み入れた。が、そのときミッキーが彼女のうしろに現われて、廊下に彼女を引きずり出し、ドアをしめた。
この出来事の間も、ガブリエルは、苦しみ、もだえつづけながら、絶望的な眼で天井を見つめて、仰向けに横たわっていた。ときどき彼女は眼をとじたが、からだの痙攣的な動きはやまなかった。
ローリーがその日の午後、フィッツステファンはヴァーノンの訊問にたえられるまで回復したという知らせをもって、クェサダからやってきた。フィッツステファンは地方検事に、自分は爆弾を見なかったし、いつ、どこから、どうして、それが部屋の中に持ちこまれたのかも全然知らなかったと言い、しかしフィンクと私が部屋を出た直後、こわれたガラスが落ちるようなチャリンという音とドシンという音とをすぐそばの床の上に聞いたような記憶が残っている、と答えたということだった。私はローリーに、明日はどんな都合をつけてでもヴァーノンに会いに行くことにするし、またフィンクに対してもねばってみようと思うから、そのことをヴァーノンに伝えてくれるようにと頼んだ。郡長代理はかならず伝えると約して、帰って行った。
ミッキーと私はポーチに立っていた。二人はお互いに話すこともなかったので、その日は終日口をきいていなかった。ガブリエルの声が家の中からきこえてきたとき、私は煙草に火をつけていた。すると、ミッキーが何か悪口を言って、そっぽを向いた。
私は彼を叱って、腹立たしげに言った。「ええ、おれが正しいか、まちがっているか――」
ミッキーは私をにらみ返すと、「どっちかといえば、まちがっていると思いますね」と言って、歩き去った。正面階段をのぼりかけたマリー・ヌネッツは私の姿を見ると、狂気のように私を見つめながら、あとすざりして、台所の方へ退却した。私は彼女のうしろ姿に罵言をあびせてから、階段を上って、マックマンを立たせておいた彼女の部屋の戸口にもどった。が、マックマンもそっぽを向いて私を見ようとしなかったので、私は彼にまで悪口を吐きちらかした。
ガブリエルは、金切り声をあげたり、モルヒネをくれとせがんだり、大声でそれを要求したりして、午後の残りをすごした。
その晩、彼女は完全な告白をすると言って、次のように話した。
「わたしはいつぞやあなたに、自分は悪い人間になりたくないと言いましたわね」彼女は熱のある両手で寝具をまるめながら言った。「あれは嘘ですわ。わたし、本当はなりたかったのですわ。わたし、いつもそうなりたいと望んでいましたし、またいつだってそうだったのですわ。だから、ほかの人たちにしたことをあなたにもするつもりでいましたの。でも、今はもうあなたなんか要《い》りませんわ。モルヒネの方がほしいのです。彼らだってまさか私を絞首刑にはしないでしょう。ちゃんとわかってますわ。ですから、モルヒネさえ手に入れば、あとはどうされようと、私は平気ですわ」彼女は毒々しく笑って、言葉をつづけた。「前にあなたは、他人を悪くしようと望めば、いくらでも悪くすることのできる人間がいるとおっしゃいましたわね。あれは本当ですわ。わたしがそうなのですわ。わたしはそれを望み、その通り実行したのですもの。ただリーズ博士とエリックにだけは失敗しました。どうしてそうなったのか、わたしにもわかりませんが、でも二人にだけは失敗しました。そしてそのために、二人にはあんまり多くわたしのことを知らせてしまいました。二人が殺されたのは、そのためですわ。リーズさんのときは、ジョゼフが麻薬を使って彼を眠らせ、そしてわたしが殺したのです。そしてそのあとでミニーに彼女が殺したのだと思いこませたのです。またわたしはジョゼフに、アーロニアを殺すようにすすめました。もしあのときあなたが邪魔をしなかったら、彼は彼女を殺していたにちがいありません。ジョゼフはわたしが頼むことなら何でもやりましたもの。わたしはまたハーヴィーをそそのかしてコリンスンを殺させました。それはわたしが法律的にエリックに――私を善良な女にしようと望んでいた善人のエリックに、結びつけられていたからですわ」
彼女は唇をなめながら、また笑った。「ハーヴィーとわたしはお金が必要でしたが、わたしは――疑われるのがこわかったので――アンドルーズから充分引き出せませんでした。そこで、わたしたちはお金を手に入れるために、わざとわたしが誘拐されたようなふりをしたのです。あなた方がハーヴィーを殺したのは、恥ずかしいことですわ。また、あの爆弾はわたしが数ヵ月前から手に入れて、持っていたものですわ。わたしは父がある映画会社のために実験をしていたとき、父の研究室からそれを盗んだのです。それは小さなものでしたから、万一の場合にそなえて、いつも身につけていたのです。わたしはホテルの部屋で、それであなたをねらったのですわ。わたしとオーウェンとの間には何の関係もありません――あのこともやっぱり嘘ですわ――彼はわたしを恋してなんかいませんでした。わたしが爆弾であなたを殺そうとしたのは、あなたがだんだん事件の真相に近づいてきたのが心配だったからです。わたしはあのとき熱があったので、二人の男が一人を残して部屋から出て行くのを耳にしたとき、残った一人がてっきりあなただと思ったのです。それがオーウェンだとわかったときは、もう遅すぎました――だってドアをちょっとあけて、急いで投げこんだんですもの。さあ、これであなたは知りたいと思ったことを全部お知りになったわけでしょう。わたしにモルヒネをください。もうあなたにはわたしを相手になさる理由はなくなったのです。モルヒネをください。あなたは成功したのですわ。わたしがいまお話ししたことを全部記録におとりになったらいいでしょう。わたしサインをいたしますから。もうあなたは、わたしのことを治療の価値があるの、救う価値があるの、と言いくるめることはできませんよ。さあ、早くモルヒネをください」
それをきくと、わたしは思わず声をあげて笑った。「その次には、あなたはチャーリー・ロスを誘拐したとか、メイン号を爆破したとか、白状するつもりじゃないのですか?」
彼女がふたたび疲れきってしまうまで、なおしばらく地獄のような状態がつづいた。夜はのろのろと更けて行った。彼女は前夜よりも半時間多く、二時間あまり眠った。私はすきを見ては椅子によりかかって、居眠った。夜の明ける少し前、上衣に誰かの手を感じて眼をさました。規則正しく息をしながら、私はまつ毛の間からすき見をするために、そっとまぶたを押しあけた。室内はまだ薄暗かった。眠っているのか起きているのかわからなかったが、ガブリエルはたしかにベッドにいた。私の頭は椅子の背に斜め仰向けにのっていたので、上衣の内ポケットをさぐっている手も、肩の上にのしかかっている腕も見ることができなかったけれど、台所の臭いがしたので、すぐそれが褐色の手だという見当だけはついた。
メキシコ女は私のうしろに立っていた。私はミッキーから彼女がナイフを持っていると聞かされていたので、彼女はもう一方の手にそれをにぎっているだなと想像した。判断力は彼女を放っておく方がいいと私に告げたので、私はふたたび眼をとじて、彼女のなすままに任せておいた。そのうちに、彼女の指の間で髪がカサカサ鳴ったかと思うと、手はポケットからはなれた。私は眠そうに頭を動かし、それから足の位置を変えた。うしろでドアが静かにしまる音がすると同時に、私は身を起こしてあたりを見まわした。ガブリエルは眠っていた。ポケットの紙包みを調べてみると、そのうちから八個だけとられていた。
やがて、ガブリエルが眼をあけた。彼女が静かに眼をさましたのは、治療をはじめてから、これが最初だった。その顔はやつれてはいたが、もう狂暴な眼ではなかった。彼女は窓に眼をやると、「まだ夜が明けないのですか?」とたずねた。
「明るくなるところですよ」と答えて、私は彼女にすこしオレンジ・ジュースを与えた。「今日はすこし固いものをたべてごらんなさい」
「食べものなんか、ほしくないわ。モルヒネをください」
「馬鹿なこというもんじゃありません。今日は昨日とちがうでしょう。まだいくらか苦しむかもしれませんが、峠はこしたのです。あとは下り坂です。いまモルヒネをほしがるなんて馬鹿の骨頂ですよ。あなたはいったい何をしたいのですか? せっかく突破した地獄の苦しみに対して何も見せないでいいのですか? あなたはいま勝ったのですよ。それを無駄にしないでください」
「わたし――わたし、本当に勝ったのでしょうか?」
「本当ですとも。あなたがいま克服しなければならないのは、神経過敏と、麻薬の魅力に対する記憶だけですよ」
「わたし、できますわ。あなたができるとおっしゃるのだから、きっとできますわ」
その朝はおそくまで割合に調子がよかった。そのあとで一、二時間ちょっと荒れたが、それもたいして心配するほどではなかった。マリー・ヌネッツが軽い食事を彼女に運んできたとき、私は二人をのこして、自分も食事をしに下へおりて行った。
ミッキーとマックマンは、すでに食堂のテーブルについていた。二人とも、食事のあいだひとことも口をきかなかったし、私にも話しかけなかった。で、私も黙っていた。食後ふたたび二階へもどってみると、ガブリエルは二晩私のベッドになっていた革張りの安楽椅子に、緑色の化粧着を着て坐っていた。髪にブラシをかけ、顔にも白粉をつけていた。彼女は私の姿を見ると、真面目くさった態度で、「おかけください。わたし、あなたに真面目にお話しいたしたいと思います」と言った。私は腰をおろした。
「どうしてあなたは、こんなにお骨折り下さったのですか――わたしのために?」彼女の調子は本当に真剣だった。「こんなことを何もなさらなくてもよかったのです。それは決して愉快なことではなかったはずです。わたしは――わたしは、どんなに悪い女だったでしょう」彼女は額からあごまで真っ赤になった。「わたしは、自分がどんなにいやらしい、愛想のつきるような真似をしたかを知っています。わたしはいま自分がどんな風にあなたに思われなければならないかも知っています。どうして――どうしてあなたはなさったのですか?」
「僕はあなたの二倍も年上ですよ。いわば老人ですよ。わたしが、なぜこんなことをやったかとか、なぜそれがいやらしいものでも不愉快なものでもなかったかとか、なぜもう一度でもやる気があるかとか、そんな機会があればうれしいだろうとか――そんなことをあなたに説明して、自分を愚物にするのは、まっぴらですよ」
彼女は椅子からとびあがり、眼をまるくし、唇をふるわせて言った。「するとあなたは――?」
「僕は何も自分で認めると言ってるのじゃありませんよ。――それよりも、そんな着物をひっかけて歩きまわっていると、気管支炎にでもなりますよ。いまのあなたは風邪を引かないように用心しなければいけないんだ」
彼女はふたたび腰をおろし、両手を顔にあてて、泣き出した。私は彼女を泣かせるままにしておいた。しばらくすると、彼女は指の間でクスリと笑い、そしてたずねた。「今日はお出かけになって、午後じゅうわたしをひとりにしておいてくださる?」
「ええ、もしあなたが温かくしているのなら」
私は郡役所所在地まで車を駆り、郡立病院に行って、私をフィッツステファンの病院に入れさせるまで、病院の人々とさんざん押し問答をした。フィッツステファンは、からだの九十パーセントまで繃帯で包まれ、片眼、片耳と、口の片端だけが、そのかげからのぞいていた。その片眼と口の半分が繃帯の下から私にほほ笑みかけ、声も繃帯を通してもれてきた。「君のホテルにはもう僕のための部屋はないかい?」彼はあごを動かすことができないのと、繃帯にじゃまされているのとで、その声は明瞭を欠いていたが、それでも精気にあふれていた。それはあくまで生きようとする人間の声だった。
私は微笑して、言った。「サン・クェンティンをホテルだと思わないかぎり、君にはもうホテルの部屋はないよ。どうだね、拷問にたえられるかね? それとも二、三日待とうか?」
「もう大丈夫だ。論より証拠、顔の表情を見てくれ」
「よろしい。では、第一の点はこうだ。フィンクは君と握手したとき、君にあの爆弾を渡した。僕の眼をかすめて爆弾を部屋に持ちこみ得る方法は、それ以外にないよ。彼はそのとき僕に背を向けていた。君は彼が何を渡そうとしたかは知らなかったろう。しかし、君はそれを受けとらなければならなかったろう。ちょうどいま、君がそれを否定しなければならないようにね。あるいは君が聖林寺院の一味に関係があって、フィンクには君を殺す理由があったということを、暗黙のうちに承認しなければならないようにね」
「君は実に面白いことを言いはじめたものだね。でも、彼に理由があってよかったよ」
「君はリーズ殺しの計画をたて、その采配をふるった。ほかの連中は、君の共犯者に過ぎないのだ。ジョゼフが死んだとき、一切の罪はこのいわゆる狂人に押しつけてしまった。ほかの連中が罪から免れるには、それで充分だった。ところが君は、その後もコリンスンを殺したり、まだ何かいろいろと危ないことを企んでいる。フィンクは、君がそんなことをつづけていると、いまに寺院殺人事件の真相まで暴露することになり、君と一緒に絞首台にぶらさがらなければならなくなると考えて、それを恐れるあまり、君の息の根をとめてしまおうとしたのだ」
「いよいよ面白いね。すると、僕がコリンスンを殺したというのかい?」
「君は彼を殺させたのだ――つまりホイッドンを雇って殺させたのだが、そのとき君は彼に金を払わなかった。そこでホイッドンは、君のほしがっているものがガブリエルだということを知って、彼女を誘拐して、金のかたにおさえてしまった。われわれがホイッドンを追いつめたとき、彼の弾丸がいちばん近くに落ちたのは君だったということを忘れないだろうね」
「ほお、僕の感嘆句も種切れになりそうだぞ。すると、僕が彼女を追いまわしていたというのか? それにしても、僕の動機がわからんじゃないか」
「君は彼女にそうとう下劣なことをしかけたにちがいない。彼女はアンドルーズやエリックにさえも、その点では不満をもっていたようだが、僕が君の求愛についてくわしいことを知ろうとしたとき、彼女は身をふるわせて口をつぐんでしまったぞ。おそらく彼女は君がガクンとするほど肘鉄をくわしたものと想像するね。そして君はそのために、どんなことでもやりかねないエゴイストになったのだと思うよ」
「君も知ってるように、僕は君が極端に馬鹿げた理論をひそかに育てていたとは、折々見当をつけていたが、これほどまでとは思わなかったよ」と、フィッツステファンは言った。
「しかし、僕として、どうしてそう考えずにいられるか? レゲット夫人がとつぜんピストルを手にしたとき、君は夫人のそばに立っていた。あの場合、ほかのどこから彼女がピストルを手に入れられるか? 研究室から彼女を追って階段をかけおりたのは君だが、あれはその性質からいって君のやるべき仕事ではなかったはずだ。弾丸が彼女の首にあたったとき、君の手は彼女のピストルの上にあった。僕をおしで、つんぼで、めくらとでも思っていたのかね? 君も同意したように、ガブリエルをめぐる諸事件の背後には、一貫して一人の人物がいるはずだった。が、君こそその種の精神をもち、各々の事件に何らかの関連を有し、しかも必要な動機をそなえている唯一の人物なのだ。その動機が僕には大切だったのだが、あの爆破事件ののちガブリエルから初めていろいろなことをきき出すチャンスを得るまでは、それに確信がもてなかったのだ。それから、もう一つ僕を牽制《けんせい》したのは、フィンクとアーロニア・ホルドーンが僕にそれをわからせてくれるまでは、君を寺院の仲間と結びつけることがどうしてもできなかったことだ」
「ほお、アーロニアが僕を結びつける手伝いをしたって? いったいどんなことを彼女がしたんだ?」フィッツステファンは上の空でそう言った。そして、そのうらにかくれた他の考えを一心に追っているかのように、見える方の灰色の片眼を細くしていた。
「彼女はわざと混乱を起こして、事態をごまかすために、われわれをアンドルーズにけしかけたり、最後には僕を射とうとまでして、君をかばうのに最善をつくしたよ。アンドルーズに偽の嫌疑をつくろうとした謀略が失敗に終わったと知ったのちでも、僕がコリンスンの話をちょっとしたら、どんな機会も見のがさない彼女は、ひょっとしたら僕をだませるかもしれないという万一の僥倖《ぎょうこう》を当てにして、わざとそれとなく溜息とすすり泣きをしてみせたよ。僕は彼女が好きだね。あっぱれな策略家だよ」
「あの女はひどく強情だよ」フィッツステファンは自分の考えを追うのに急で、私の言ったことを半分もきかずに、あっさりとそう言った。彼は細くしているその片眼を天井にむけるために、枕の上で頭の向きをかえた。
私は言った。「それで、偉大なデイン家の呪いも終わったわけさ」
すると、彼は片眼と口の半分でできるだけ笑ってみせ、そして言った。「おい、万一僕が自分もデイン家の一員だと君に言ったら、どうするね?」
「えっ?」と、私は問い返した。
「僕の母と、ガブリエルの母方の祖父とは兄妹だったのさ」と、彼は言った。
「へえ!」私は二の句がつげなかった。
「君はもう帰ってくれ、そして僕を一人にして考えさせてくれ」と、彼は言った。「これからどうするか、まだ自分にもわかっていないのだ。おい、こう言ったからって、誤解しないでくれ。僕はまだ何も認めているのじゃないぞ。しかし、かりに君の言ったことが本当だとしても、僕があくまで呪いを主張すれば、自分の可愛い首を助ける望みはまだまだあるというものさ。その場合には、君はすばらしい弁論と、アメリカ中の新聞を興奮のルツボに投げこむような曲芸《サーカス》が見られるだろうよ。僕は呪われた血をもったデイン家の一員となるわけだから、そうすれば従姉妹のアリスや、リリーや、その娘のガブリエルや、その他幾人いるか知れない犯罪的なデイン家の連中の行為は、僕に有利な証拠となるだろう。また狂人でないかぎり何ぴともそうそう多数の罪を犯すことはできないという理論に基づけば、僕自身の犯罪数も僕に有利なものとなるわけだ。これでまだ数が不足だというなら、僕は子供のときから犯した自分の罪をいくらでも持ち出してみせるよ。文献さえ僕に味方してくれるだろう。たいていの批評家は、僕の『青白いエジプト人』を白人よりもむしろ蒙古人に近い人間の作品だと批評しなかったろうか? さらに僕の記憶するところでは、僕の『十八インチ』は作者の変質的傾向をいよいよ顕著にあらわした作品だという点で、一致した世評をうけたものだ。
君、これらはすべて僕の可愛いい首を助ける証人となってくれるだろうよ。僕は、このめちゃめちゃに毀《こわ》れた自分のからだを――犯した罪と天とによって完膚《かんぷ》なきまでに罰せられたこの肉体の残骸を――彼らに振って見せてやるつもりだ。こんなことを考えるのも、たぶん爆弾のショックが、僕を正気にもどしてくれたのかもしれない。少なくとも犯罪的精神状態から脱却させてくれたのかもしれない。そしてこれからはたぶん、僕は宗教的にさえなるかもしれんよ。それは何てすばらしい見ものだろう。僕はいまそれに誘惑をおぼえているのさ。しかしそうときめる前に、僕はもう一度よく考えてみなければならない」彼はしゃべり疲れてぐったりとなり、その半分の口ではげしく喘《あえ》いだが、眼だけには勝ち誇ったような喜びの色を浮かべて私を見た。
「たぶん君はそうするだろうよ」私は帰る仕度をしながら言った。「君がそうすれば、僕は満足だよ。完全に君は敗北したわけだからね。そして法律的には、君はまんまと罪を免れる資格をもっているよ」
「法律的に資格がある?」彼の片眼からは喜びの色が消えて、遠くの方を見たが、ふたたび不安げにその視線を私の顔にもどした。「本当のことを言ってくれ。本当にその資格があるのか?」私はうなずいて見せた。「しかし、畜生! それじゃ面白くないじゃないか」彼はいつもの屈託のない調子をとりもどそうと努めながら、不平を言った。「僕が本当に気がふれているのだとしたら、面白くないね」
入江の家にもどってくると、ミッキーとマックマンが玄関の前の階段に腰をおろしていた。マックマンは「お帰りなさい」と言い、ミッキーは「またどこかの女にひっかかれて傷をしませんでしたか? あんたの小っぽけな遊び相手がずっとあんたを待っていますぜ」と言った。私はミッキーのこの言葉から、ガブリエルは今日の午後は具合がよかったな、と思った。
ガブリエルは枕を背にしてベッドに坐っていた。彼女の顔にはまだ――あるいはあらためてつけたのか――白粉のあとが見え、眼も幸福そうにかがやいていた。
「わたし、あなたに、永久にどこかへ行ってしまってくださいなんて、申し上げなかったつもりよ」と、彼女は小言を言った。「意地悪ね。わたしあなたをびっくりさせてあげようと思って、じりじりしながら待っていたのですわ」
「さあ、帰ってきたから、いいでしょう。用というのは何ですね?」
「眼をつぶって!」私は眼をつぶった。「眼をあけて!」私は眼をあけた。彼女はマリー・ヌネッツが私のポケットから盗んだ八つの紙包みをさし出していた。「お昼からこれを持っていましたの」と、彼女は得意そうに言った。「指のあとと涙のあとがついていますけれど、一つも開けやしませんよ。でも、正直いって、そんなに辛くはありませんでしたわ」
「それは僕にもわかっていたのです。だから、マリーから取りあげなかったのですよ」
「知っていらしったの? そこまでわたしを信用してくださったのね。これをわたしの手にのこして、お出かけになったほど――」よっぽど馬鹿な男でないかぎり、誰だってこの紙包みは二日前からモルヒネの代わりに白砂糖をつつんでおいたのだなどと、白状する者はなかったにちがいない。「あなたって、本当に世界一いいかたね」彼女は私の片手をとって頬をすりつけたが、急にそれをはなすと、こんどは顔がゆがむほど眉をひそめて、言った。「でもおかしいわ! あなたは今日昼間、ここに坐って、さもわたしを愛してでもいるようなことをおっしゃったじゃないの」
「それで?」と、私は顔をまっすぐに向けるように努めながら、たずねた。
「あなたは偽善者よ。若い娘をだます女たらしよ。もし私が無理にあなたと結婚すると言ったら――それとも約束違反であなたを告訴するとしたら、どうなさるつもり? わたし、お昼からずっとあなたのおっしゃったことを正直に信じていたのですわ。たったいま、あなたがここへはいっていらっしゃるまで、あなたを信じていたのですわ。そうしたら、わたしが見たのは――」彼女は口をつぐんだ。
「何を見たのです」
「怪物よ。すばらしい怪物よ、特に困っているときに身のまわりにおくと、とても頼みになるすばらしい怪物よ。でも、愛するなんて人間的な馬鹿らしさなんか露《つゆ》ほどももたない怪物よ。そして――ああ、どうしたんだろう? わたし、何か言ってはいけないことを言ったのじゃないかしら」
「そうとは思いませんね。――僕だって、もし声の出るその大眼玉の女が売物だったら、フィッツステファンに交渉して位置を代わってもらわなかったとは断言できませんよ」
「まあ!」と、彼女は言った。
二十三 サーカス
オーウェン・フィッツステファンは、そのとき以来二度と私と言葉を交わさなかった。彼は私と会うことを拒否し、囚人としてどうしてもわがままを通せないときは、頑強に口をつぐんで、ひとこともしゃべらなかった。この私に対するとつぜんの憎悪――結局そう考えるほか解釈のしようがなかったが――は、おそらく私が彼のことを狂人と考えたことに原因しているらしかった。彼は世間のほかの人々、少なくとも彼の陪審員として世間を代表している十二名の人々に対しては自分を狂人だと思わせようとし――事実そう思わせることに成功したのだが――私にだけは彼らと意見を同じくしてもらいたくなかったのである。狂人を装って自分勝手にふるまい、まんまと罪をまぬがれた正気の人間として、彼は世間を笑いたかったのだ。だが、もし彼が自分の狂気を知らずに狂人を装ったつもりでいるとしたら、物笑いになるのは彼自身の方でなければならない。従って、たとえ自分では狂気であるなどと絶対に認めないにしても、私からそういう眼で見られることは、彼の自我主義のたえられるところではなかったのだ。そんなわけで、私が病院で、君は法律的に見て絞首刑を免れる資格があると言ったあの日以来、彼は二度と私と口をきこうとしなくなったのである。
その後数ヵ月して、法廷に立てるようになったとき、フィッツステファンの公判は、彼が予言したとおり、その一こま一こまが曲芸の連続で、アメリカ中の新聞を興奮の嵐に巻きこんだ。彼はまずコットン夫人殺害事件で郡裁判所の公判に附された。事件のあった朝、彼がコットン家の裏口から出て行くのを見たと言う二人の証人と、その前夜一晩中――というよりも夜半から明け方まで――コットン家から四ブロックさきの地点に停まっていた自動車がたしかに彼の車だったと証言する第三の証人が現われたからであった。市の検事も郡の地方検事も、この証拠を彼の有罪を決定する最も有力なものと認める点で一致していた。これに対してフィッツステファン側の申し立ては、「精神異常による無罪」ということ――法律用語はどうあろうと――だった。コットン夫人の殺人はフィッツステファンの犯罪の最後のものだったので、弁護士たちは彼の精神異常を立証する証拠として、他の事件で彼が行った一切の犯罪行為を持ち出すことができたし、また事実持ち出した。言いかえれば、彼らはフィッツステファンの独創的な着想――つまり自分が狂人であることを証明する最善の方法は、自分がどんな正気の人間よりも多数の犯罪を犯したことを示すことだという彼自身の主張を実現するために、全力を傾注したのである。その結果、フィッツステファンがこれまでおかした犯罪は、全部白日のもとにさらされることになった。
彼は、従姉妹のアリス・デインが当時まだ子供だったガブリエルと共にニューヨークに住んでいたときに、彼女と知り合った。ガブリエルはこのことを証言することができなかったので、フィッツステファンの言葉以外にそれを確証する道はなかったけれど、おそらく本当だったろう。彼とアリスは、当時の彼らの関係を娘の父親に知らせたくなかったので、二人が親戚関係にあることも他の人々には最後まで秘していたのだ、とフィッツステファンは言った。彼によれば、アリスはニューヨーク時代に彼の情婦だった、というのだった。これは事実だったかもしれないし、事実だったとしても別に問題ではなかった。アリスとガブリエルがニューヨークを去ってサンフランシスコに移ったのちも、二人の間にはときどき手紙のやりとりが行われたが、しかしこれにははっきりした目的はなかった。
フィッツステファンはまた、そのころホルドーン夫妻とも知り合いになった。例の礼拝宗教は彼の発案だった。しかし、フィッツステファンを知る者は誰でも、彼の懐疑主義を知っていたし、なまじ彼が関係していることが知れると、事業のインチキ性を広告することにもなりかねないので、両者の関係は一切秘密にされていたけれども、最初にこの事業を組織立てたのも彼であれば、それをサンフランシスコへもって行ったのも彼だった。自分にとっては、礼拝などはおもちゃと食券の組合せにすぎなかったと彼は言った。彼は元来こういう目立たぬ方法で人々の間に勢力を張るのが好きだったし、一方世間の人は彼の著書を買うのをあまり喜ばなかったからでもあった。アーロニア・ホルドーンは彼の情婦だった。ジョゼフは寺院内でと同様、家庭でも傀儡《かいらい》にすぎなかった。
サンフランシスコで、フィッツステファンとアリスは他の家庭友達を通して、彼が彼女の夫やガブリエルと知り合いになれるように事を運んだ。ガブリエルはもうりっぱな一人前の娘になっていた。彼女のもっている肉体上の特殊性は、そういうことに異常な魅力を感ずるフィッツステファンの魂を奪った。彼は自己の幸運を彼女で試してみたが、ガブリエルからは何の反応も得られなかった。このことは彼に輪をかけて彼女を物にしようという決心をさせた。アリスは彼の味方だった。彼女は彼を知っていたし、一方では娘を憎んでいたので、彼に娘を得させようとしたのだった。アリスはまたフィッツステファンには家庭内のいままでのいきさつを全部打ち明けていた。一方、娘の父レゲットは、当時まだ娘が彼を母親の殺害者だと思うように教えこまれていようなどとは夢にも知らなかった。彼は娘が自分に対して深い嫌悪を抱いていることは察していたが、それが何のためかは知らなかった。彼の考えでは、たぶん投獄以来の苦しい経験が自分の態度のどこかに親しみ難い厳しさを残しているため、血縁の間柄でも実際は最近知り合いになったばかりの若い娘に自然反撥を感じさせるのだろう、ぐらいにしか思っていなかった。
だが、その後まもなく、フィッツステファンがガブリエルを口説いている現場に不意に行きあわせ、フィッツステファンの口から、自分たち夫婦親子が三角関係にあることを知るにおよんで、初めてその真相をさとるにいたった。レゲットはいまや自分がどんな種類の女と結婚したかをようやく悟るようになった。このことがあってから、フィッツステファンはレゲット家に招かれなくなったが、しかしアリスとはその後も接触を保って、時機の到来するのを待っていた。
アプトンが恐喝にあらわれたとき、ついにその機会は到来した。アリスはフィッツステファンに助言を求めてきた。彼は悪意にみちた助言を与えた。彼は、アプトンのことはレゲットにかくして、彼女自身で処理するようにとそそのかした。それはアプトンがレゲットの過去を知っているからだと言った。レゲットは彼女がガブリエルに自分を殺人者だと思いこませるようなことをしたのを深くうらんでいるから、万一の場合の貴重な切札として、彼女がレゲットの中央アメリカやメキシコ時代の話を知っていると言うことは、なお当分かくしておく方が得策だろうと、彼女に説いた。アプトンにダイヤモンドを与えたのも、窃盗のにせの証拠をつくったのもすべてフィッツステファンの発案だった。気の毒に、アリスはもう彼には何の意味もないのだった。彼はレゲットを破滅させ、ガブリエルを手に入れられれば、彼女などはどうなろうと問題ではなかったのだ。
彼はこの二つの目的のうち第一の目的にはまんまと成功した。彼にあやつられて、アリスはレゲット家を完全に破壊してしまった。しかも彼女は、研究室で彼が自分にピストルを与えたのち、すぐあとを追ってきた最後の瞬間まで、フィッツステファンには自分を救ってくれる賢明な策がたっているものと、信じていたのだ。だが、フィッツステファンは、彼の賢明な計画なるものが実は彼女を陥れる罠であったことを彼女が知ったときにどういうことが起こるかを知っていたので、彼女の口から自分の本性が暴露されるのを防ぐためにも、彼女を殺さざるを得なかったのである。
フィッツステファンは、レゲットを殺したのは自分だ、と言った。ラッパート殺しを見て家出するとき、ガブリエルは幸福を探しにいくと書きのこして行った。このことはレゲットに関するかぎり、彼らの手順を狂わすことになった。一切の事情を知ったレゲットは、自分も娘のあとを追って出て行くつもりだとアリスに語り、その代わり彼女のしたことに対しては自分が責任を負う旨の書置きをのこして行こう、と進んで申し出た。フィッツステファンは、アリスに彼を殺すようにすすめたが、彼女は承知しなかった。そこで、彼自身手を下してレゲットを殺した。それは、たとえ逃亡犯人であろうと、レゲットが生きているかぎり、ガブリエルを手に入れることは難しいと考えたからであった。
こうしてレゲットを亡きものにし、つづいてアリスを殺すことによって犯行の発覚を免れたフィッツステファンは、この成功によって勇気づけられた。彼は娘を手に入れる計画をいそいそと進めた。すでに数ヵ月前からホルドーン夫妻はレゲット一家にも紹介されて懇意になり、徐々にではあるがガブリエルをまるめこみにかかっていた。そんなわけで、彼女は家出をしたときも、一時彼らのところへ身を寄せたくらいであった。そこで、彼らはふたたび彼女に寺院へくるようにすすめた。ホルドーン夫妻は、フィッツステファンが何を企んでいるのか、またレゲット家に対してどんなことをしたのかも、全然知らなかったので、ガブリエルのこともいつものように彼が餌として与えてくれた有望な客の一人だぐらいにしか考えていなかった。ところが、私が寺院へ行った日の夜、リーズ博士はジョゼフに会うつもりで寺院内をさがしまわり、本当なら鍵をかけておかなければならぬはずのドアをあけて、偶然にもフィッツステファンとホルドーン夫妻が相談しているところを見てしまった。これは実に危険な失敗だった。リーズ博士を黙らせておくことはおそらく不可能だろうし、ひとたびフィッツステファンと寺院との関係が世間に知れるとなると、レゲット家の事件で彼が演じた役割までいつなんどきばれないとも限らないからだった。幸いフィッツステファンには、二つの扱いやすい道具――ジョゼフとミニーという、二つの道具があった。そこで、彼はこの二人を使ってリーズ博士を殺させてしまった。しかし、これはアーロニアに、彼がガブリエルに対して抱いている本当の気持をさとらせることになった。アーロニアの嫉妬ぶかいことを知っている彼は、おそらくアーロニアは彼にガブリエルを断念させるか、さもなければ彼を破滅させるような挙に出るにちがいないと察した。そこで彼は、アーロニアが生きている間は、二人とも絞首台をのがれることができないだろうと、ジョゼフを説きつけて、彼女を殺させようとした。
このことは私の妨害で実現されなかったが、私は彼女の夫を殺すことによってアーロニアを救ったと同時に、しばらくの間フィッツステファンをも救うことになった。というのは、アーロニアもフィンクも、この事件で共犯に問われまいとすれば、勢いリーズの死に関して沈黙をまもらざるを得なかったからである。この間にフィッツステファンは、着々と前進をつづけていた。彼はガブリエルを、自分が直接に手を下した幾人かの死によってあがなった自己の財産とみなしていた。それらの死は一回毎に、彼にとって彼女の価格、彼女の価格を高めたのであった。それだからエリックが彼女を連れ出して結婚したと聞いたときも、フィッツステファンは躊躇《ちゅうちょ》しなかった。エリックは殺されなければならなかった。
一年ほど前に、フィッツステファンはある小説を完成するために、静かな場所を欲したことがあった。そのとき彼にクェサダをすすめたのは、村の女|鍛冶屋《かじやああ》然たるわがフィンク夫人だった。彼女はこの村の生れで、前夫との間にできた息子のハーヴィー・ホイッドンがまだそこに住んでいたからである。フィッツステファンは、数ヶ月間クェサダに滞在して、ホイッドンとかなり懇意になった。もう一回殺人の必要が生じたいま、フィッツステファンは金を出せばやるかもしれない人物としてホイッドンのことを念頭に浮かべた。ホルドーン事件の裁判の間、コリンスンが妻の休息できるような静かな土地をさがしていると聞いたとき、フィッツステファンは即座にクェサダをすすめた。たしかにここは、静かな、カリフォルニアでも最も静かな土地だった。話がきまると、フィッツステファンはホイッドンをたずねて、報酬一千ドルを条件にエリック殺しを依頼した。ホイッドンは最初ことわったが、あまり頭のよくないこの男は、結局フィッツステファンの弁舌に説き伏せられて、ここに相談一決した。
ホイッドンは木曜日の夜それを試みたが、失敗して、コリンスンを怖がらせ、私に電報を打たせてしまった。彼はその電文を電信局で見て、こうなればわが身を救うためにも、どうしてもやり遂げなければならぬと決意した。そこでウィスキーで元気をつけ、金曜日の夜コリンスンの後をつけて、断崖から突き落してしまった。それからまたさらにウィスキーをあおり、そのときはもう自暴自棄の気持になっていたので、その足でサンフランシスコへ出てきた。そして、すぐ依頼主に電話をかけ、「わけもなく、完全に殺しましたよ。すぐ金をもらえませんか」と言った。
フィッツステファンの電話は、アパートの交換台を通っていたので、ホイッドンの話を誰に盗み聞かれているかもわからなかった。そこで彼は上手に立ちまわることにきめ、誰がかけてきたのか、何をしゃべっているのか、わからないような振りをした。フィッツステファンに裏切られたと考えたホイッドンは、この小説家の欲しているものが何であるかを知っていたので、ガブリエルを連れ出して人質におさえておき、初めにきめた一千ドルの代わりに一万ドルの身代金をとってやろうと腹を決めた。彼はフィッツステファンにあててサインなしの短い手紙を書いたが、そのときはもうひどく酔っぱらっていたので、自然に筆跡もごまかされ、その文句もだれが書いたのかフィッツステファン以外の人間にはわからないほど乱れていた。
フィッツステファンはそれを見ると、落ちついて坐っていられなくなった。彼はホイッドンのこの短い手紙を受けとると同時にせっかくここまでこぎつけた幸運をとりにがさないためにも大胆にふるまおうと決心した。彼は電話のかかったことをわざと私に話した上、その手紙を私に渡した。これで彼はクェサダへ行く立派な理由ができたわけだった。しかし、彼は私に約束したよりも早く、前夜サンフランシスコを出発してクェサダへ行き、コットン夫人をたずねて――彼はホイッドンと彼女の関係を知っていたので――そこでホイッドンを見つけることができた。ホイッドンはコットンからかくれてここにいたのだった。ホイッドンは前にも言ったように頭の働きがあまりいい方ではなかったが、フィッツステファンの方は必要に応じて相手を自由に説得する力をもっていた。彼はホイッドンの無謀なやり方を責め、そのためにどんなに自分が苦心したかを説明し、現在自分にはホイッドンにその要求する一万ドルを得させる計画があると言って、彼にそのことを信じこませた。
ホイッドンはまもなくその隠れ家に帰って行き、フィッツステファンはコットン夫人とあとに残った。可哀そうに、コットン夫人はあまりにも事実を知りすぎてしまっていた。彼女の運命は定まった。殺人は、その人間を黙らせる最も確実な、安全な方法だった。フィッツステファンの最近の経験は、すべてそれを証明していた。中でもレゲットのときの経験は、もし彼女が事件に関する神秘的な点を一応つじつまが合うように説明した書置きをのこして死んでくれれば、彼の立場はいっそうよくなるということを彼に教えた。だが、コットン夫人は彼の意図を疑い、初めはなかなかその言葉に従わなかった。それでも、最後にはとうとう彼が口述する文句を紙片に書きしるしたが、それは朝かなりおそくなってからだった。彼は彼女にそれを書かせると、すぐ彼女を絞め殺してしまった。そのときほんの一瞬の差で、彼女の夫が帰ってきた。フィッツステファンはあわてて裏口から逃げ出すと、その足でホテルへ出かけて、私とヴァーノンに会い、それからわれわれと一緒にダル・ポイントのホイッドンの隠れ家へ行った。彼はホイッドンをよく知っていたので、この愚鈍な男が彼の二度目の裏切りに対してどんな反応を示すかを知っていた。そしてそのときは、コットンやフィーニーが躊躇なくホイッドンを射つにちがいないということも知っていた。フィッツステファンは自分の幸運を――賭博者のいう「勝ち目」を――信じた。が、万一それが思いどおりに運ばなかった場合には、ボートから岸へとびうつる際に、わざとつまづいて倒れ、その拍子に手にしたピストルでホイッドンを射てばいい、と考えていた。(彼はレゲット夫人を上手に処理したときのことを忘れなかった。)もっとも、その場合には、たぶん非難をうけるだろうし、疑われさえするかもしれないが、しかしそれがもとで有罪を宣告されるようなことはあるまい、と確信していた。しかし、またしても、彼は幸運にめぐまれた。フィッツステファンがわれわれと一緒にいるのを見たホイッドンは、カッとなって彼を射とうとし、われわれは彼を殺してしまったのである。
これが、自分を正気と考える狂人が、自分の狂気であることを立証しようと企てて、成功した物語である。フィッツステファンに対する告発はすべて却下となった、彼はナパの国立保護収容所に送られ、一年後に放免された。収容所の役人は彼を治ったとは考えないらしかったが、彼はすでにひどい不具者になっているので、危険はないと思ったのだろう。まもなくアーロニア・ホルドーンが彼をプジェット・サウンド〔アメリカのワシントン州の北部にある太平洋岸の湾〕のある島に連れ去ったという話を聞いた。彼女は公判中彼の証人の一人として証言台に立ったが、彼女自身は起訴されなかった。彼女の夫とフィッツステファンが彼女を殺そうと企てたことが、特に彼女を罪に問われることから救ってくれたのだった。フィンク夫人は二度とわれわれの前に姿を現わさなかった。
トム・フィンクは、フィッツステファンに対する殺人未遂を罪に問われて、五年|乃至《ないし》十五年の不定期刑を宣告され、サン・クェンティンの懲治監に送られた。彼が告白したところによると、爆弾を持ちこんだ動機は殺された義理の子《ホイッドン》のために復讐するにあったというのだが、誰もこの言葉を真に受けた者はなかった。彼はフィッツステファンの無謀な行動が一切を暴露するようなことにならぬうちに、彼の行動を制止しようとしたことは、明らかだった。
刑務所から釈放されると、フィンクは尾行されているのを知って、それを身の安全のために利用しようと思いついた。その夜、彼はミッキーの眼をかすめて、爆弾の材料を手に入れるためにホテルを忍び出、まもなくまたこっそりもどってきて、一晩中かかって爆弾をつくり上げた。彼が私のところへもってきたニュースというのは、やはり自分がクェサダにいたことの説明だったように思われる。爆弾は大きなものではなかったので――その外皮は白紙でくるんだアルミニウムの石鹸入れだったから――彼もフィッツステファンも、握手しながらこっそり受け渡しをするのに何の困難も感じなかった。フィッツステファンは、それをてっきりアーロニアが自分にとどけてきたもの――それもこんな危険な方法を冒して手渡すところを見ると、よほど重要な品物だろうと考えたらしかった。そうでなくとも、彼は自分とフィンクとの関係を私に気づかれずに、それを受けとるのを拒むことはできなかったろう。フィッツステファンは、私たちが部屋を出るまでそれをかくしていて、それから包みを開いたのだが――その結果は病院で眼をさますことになってしまった。フィンクは、刑務所の門を出たときから尾行されていることを証明するにはミッキーがいるし、爆発の現場での行動を証明するには私という証人がいるので、自分は絶対に安全だと考えていたという。
フィッツステファンは、リリーの死に関する姉アリスの説明は真実とは思えない、自分の考えではアリスが自ら手を下して彼女を殺し、そしてガブリエルを苦しめるために嘘を言ったのだと思う、と言った。最もこれは彼の推論で、それを裏づけるだけの何の証拠もあったわけではなかったが、誰もみんな――ガブリエルをも含めて――それを本当だろうと考えた。私はフィッツステファンが掘り起こしたこの昔の謎を、社のパリ通信員にたのんでもっとよく調べてもらおうかという誘惑もおぼえたが、結局やめることにした。それはガブリエル以外の人間のやるべき仕事ではなかったし、彼女自身はそれでもう充分満足しているように見えたからである。
彼女はいまコリンスン家の保護のもとにある。彼らは、フィッツステファンがエリック殺しの真犯人として起訴されたという新聞の号外を見ると同時に、彼女のためにクェサダへ飛んできた。コリンスン父子は、いままで彼女にある疑いを抱いていたことを素直に認めた。そしてアンドルーズが彼のもっていた遺言執行状を引き渡して、別の管財人――ウォルター・フィールディング――が任命されると同時に、コリンスン家は彼女に最も近い親戚として彼女を引き取ることを申し出たのであった。
山地の二ヵ月はガブリエルの治療を完全なものにし、彼女はまったく別人のような顔色でサンフランシスコへもどってきた。変化は外観だけではなかった。「あんなことが本当にわたしにあったなんて、とても信じられませんわ」彼女とローレンス・コリンスンと私とで、午前と午後の開廷の合間に食事をしていたとき、彼女は言った。「あんまりいろいろなことがあったんで、無神経になってしまったのでしょうか?」
「いや、それよりも、あなたがいつも麻薬を使っていたことを思い出してください。それがあなたをきわどいところで救ったのですよ。あなたにとってそれはかえって幸運だったのだ。いまはモルヒネをやめてしまったので、何もかも夢のように思えるのでしょう。以前のことをはっきりさせたいと思ったら、モルヒネを飲んでごらんなさい」
「まっぴらですわ、永久にまっぴらですわ。また治療で私をいじめて面白がろうとなさってもだめよ。この人、とてもそれが面白かったらしいのですよ」と、彼女はローレンス・コリンスンに言った。「いつもわたしを罵倒《ばとう》したり、ひやかしたり、それはそれは恐ろしいことを言って脅かしたりしましてね。そして最後にはわたしを誘惑しようとしたんじゃないかと思いますの。あら、わたしがときどき、ぶしつけなことを言っても、ローレンスさん、あなたはこの人をお責めにならなければなりませんわ。この人にはたしかに人を洗練する力はありませんものね」
彼女は以前のことをだいぶ思いだしたらしかった。
ローレンス・コリンスンは私たちと一緒に声をあげて笑ったが、決して私みたいにあごをはずすような笑いかたはしなかった。彼もきっと私には洗練する力がないと考えたにちがいない、と私は思った。(完)
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解説
アメリカの近代文学が約二世紀にわたる旧大陸の文化や伝統の支配から脱して独自の発展をとげるようになったのは、主として第一次世界大戦以降のことであるが、この時期はまた、アメリカの探偵小説界にとっても未曾有の活況を呈した時代であった。その第一はポー以来の大作家といわれるヴァン・ダインをはじめエラリー・クイーン、ディクスン・カー等の有力な本格もの作家が輩出して史上空前の推理小説黄金時代を招来したことであり、第二はいわゆるハードボイルド派(Hardboiled School)の台頭――一名行動派とも呼ばれる純写実的な新しい探偵小説――が出現して、たちまちの間に全米の探偵小説壇を風靡するに到ったことである。
このハードボイルド探偵小説の事実上の生みの親であり、かつ最もすぐれた代表作家として一九二〇年代の末から三十年代の中期へかけてはなばなしい活躍を見せ、ハードボイルド派全盛の基礎を築いたのが、この「デイン家の呪い」(The Dain Curse)の作者ダシール・ハメット(Dashiell Hammett)である。
ハメットには、「デイン家の呪い」のほかになお、「血の収穫」(Red Harvest)「マルタの鷹」(The Maltese Falcon)「ガラスの鍵」(The Glass Key)「影なき男」(The Thin Man)の四つの長篇と多数の短篇小説があるけれども、このうち最もよくハメットの特色を発揮しているといわれる代表作は「呪い」と「収穫」と「鷹」と「鍵」の四長編であって、いずれも発表当時批評家から、清新簡潔な手法をもって恐怖と戦慄の世界を描いためずらしいリアリズム探偵小説であるとの賛辞をうけ、そのヴィヴィッドな会話と適確な性格描写はヘミングウェイをしのぐものがあるとまで言われた。この四長編のうち「デイン家の呪い」と「血の収穫」は一九二九年に相前後して発表された、いわば彼の出世作であり、翌年「マルタの鷹」が出るに及んで、ハメットの文名は不動のものとなったのである。
こんどの大戦中スイスに亡命していたアンドレ・ジードが、米誌「ニュー・リパブリック」の記者の問いに答えてアメリカ作家評を試みた中に、ヘミングウェイ、スタインベック、フォークナー等とならべてハメットの作品(「血の収穫」)を取り上げ、その異常な魅力を称讃したという話は、あまりに有名であるから、読者諸君もご存じのことと思うが、この一事をもってしてもハメットの探偵小説がいかに文学的にすぐれたものであるかがうかがわれると思う。
また厳選をもって知られる「モダン・ライブラリー」に探偵小説として初めて入ったのが、ハメットの作品であるということなども、アメリカにおけるハメットの声価がいかなるものであるかを知る一つの手がかりとなるであろう。
ダシール・ハメットは、一八九四年五月、アメリカの東海岸に近いメリーランド州のセント・メリースに生れた。父はリチャード・トマス、母はアニーといい、「ダシール」という彼の名は母方(フランス系)の家名の「ド・シエ」(De Chiel)をアメリカ風に言いかえたものだという。家が貧しかったため、十四才のときボルティモア市のハイスクールを中途で退き、新聞売り子を振りだしに、メッセンジャー・ボーイ、鉄道の雑役夫、沖仲仕、運送屋の手代、宝石商の店員等、種々雑多な職業を点々と渡りあるいた末、最後にピンカートン探偵社の私立探偵となり、これは一九一八年第一次世界大戦に出征するまで数年間つづいた。このときの経験がのちに探偵作家としての彼に大いに役立ち、多数の傑作を生むことになったのであるが、ハメット自身の言葉によれば、「デイン家の呪い」と「血の収穫」はそのときの経験をほとんどそのまま書いたもので、登場人物もほぼ実在の人間をモデルにしたものだという。
第一次世界大戦には野戦衛生隊の軍曹として従軍したが、まもなく胸を病んで送還され、数カ月の病院生活の後、軍務を退いた。この療養中にジョゼフィン・アンナ・ドーランという女性と親しくなり、二人は一九二〇年に結婚した。結婚後ハメットはふたたび私立探偵の職にもどったが、彼の健康はもはや探偵のような激職に長くとどまることを許さなかった。そこで彼は生活のために小説を書くことを思いたち、主に過去の体験に取材した犯罪小説や実話風のミステリーを書いて、探偵雑誌に寄稿しはじめた。しかし、彼が探偵作家として本当に世間から認められるようになったのは、前にものべたように一九二九年の「血の収穫」と「デイン家の呪い」の二長編が発表されてからで、この二作によってハメットの新進作家としての地位は確立され、翌三十年「マルタの鷹」の成功によって彼は一躍探偵小説壇の寵児となったのである。そしてその後も「ガラスの鍵」(一九三一)「影なき男」(一九四三)と、矢つぎばやに力作を発表して世間の期待にこたえる所があったが、この「影なき男」を最後として彼はしだいに探偵小説から遠ざかり、まったく小説の筆を断つにいたった。
その後、彼は夫人とも別れて、ニューヨークの家に一人自由な生活を送りながら、戦後の政治・社会の問題に大きな関心をよせている。彼の思想的立場はかなり進歩的で、これまでもしばしば政治問題や社会問題に対して反資本主義的見解を表明してきたため、「赤狩り」で有名なマッカーシーの書籍追放運動の槍玉にあがり、そのブラックリスト中にハメットの探偵小説があげられたことが、わが国にも伝えられた。しかし、この「デイン家の呪い」を読んでもわかるように、彼の小説にはそうした思想的傾向はほとんどあらわれていない。しいていえば「血の収穫」と「ガラスの鍵」にわずかにその片鱗がうかがわれる程度のものである。
ハメットの著書(短篇集を含む)を年代順に列記すると、だいたい次の通りである――
Red Harvest(1929)血の収穫
The Dain Curse(1929)デイン家の呪い
The Maltese Falcon(1931)マルタの鷹
The Glass Key(1931)ガラスの鍵
Creeps Night(1931)
The Thin Man(1934)影なき男
Blood Money(1942)血の報酬
The Adventures of Sam Spade(1944)
The Continental Op(1945)コンティネンタル・オプ
Return of the Continental Op(1945)
Hammett Homicides(1946)
Dead Yellow Women(1947)
Nightmare Town(1948)
The Greeping Siamese(1950)
Woman in the Dark(1951)
A Man Called Thin(1952)