ダシール・ハメット/宇野利泰訳
マルタの鷹
目 次
一 スペードとアーチャー
二 霧のなかの死
三 三人の女
四 黒い鳥
五 レヴァント人
六 つきまとう小男
七 空間に描くGの字
八 みんな嘘
九 ブリジッド
十 ベルヴィディア・ホテルの長椅子
十一 肥った男
十二 回転木馬
十三 皇帝への贈り物
十四 ラ・パロマ号
十五 半気違いぞろい
十六 第三の殺人
十七 土曜日の夜
十八 いけにえの山羊
十九 ロシア人の手
二十 かりに頸を絞められても
解説
登場人物
サミュエル・スペード……私立探偵
エフィ・ペリン……スペードの秘書
マイルズ・アーチャー……スペードの共同経営者
アイヴァ……アーチャーの妻
フロイド・サーズビー……謎の男
ジョエル・カイロ……レヴァント人
ブリジッド・オショーニシー……事件の依頼者
カスパー・グトマン……鷹《ファルコン》をねらう男
ウィルマー……グトマンの子分
シド・ワイズ……弁護士
トム・ポルハウス……部長刑事
ダンディ……警部補
一 スペードとアーチャー
サミュエル・スペードはごつごつした顎が長く尖って、先端がVの字の格好をしている。その上のよく動く口もやはりVの字、鼻翼《びよく》の切れこんでいるところも、小さいながらVの形である。イエロー・グレーの目だけは水平だが、そこにまたVの字のモチーフがあらわれていて、鉤鼻《かぎばな》の上に刻まれた二本の縦じわから外側に向けて、ふとい眉がVの字なりに伸びている。薄茶色の頭髪にしても、左右のこめかみの上が大きく禿げあがっているので、生えぎわがまたVの格好であり、そしてこのような容貌の全体が、陽気な金髪の悪魔といったところだった。
エフィ・ペリンが顔を出したので、彼はいった。「何か用か、エフィ?」
エフィは日焼けしたような肌、ひょろ長い背丈が目立つが、ぴったり身に着けた淡褐色のウール地のドレスが、しっとりした感じをあたえていた。血色のいい、男の子のような顔立ちに、いたずらっ児めいた茶色の目。その彼女が、うしろ手に閉めたドアにからだを凭《もた》せかけて、「ご面会よ。ワンダリーって女のかた」
「依頼人か?」
「そうらしいわ。会ったほうがいいわよ。すごい美人ですもの」
「じゃ、お目にかかるか」スペードがいった。「お通ししてくれ」
エフィ・ペリンはまたドアをあけて、事務室に一歩戻り、ノブから手を離さないままで、「どうぞ、おはいりになって、ミス・ワンダリー」といった。
声が、「ありがとう」と応えた。発音がはっきりしているから聞きとれたが、でなかったら、なんといったか判らぬほどの低い声だった。はいってきたのは若い女性で、ためらいがちな足どりで近づくと、コバルト・ブルーの目でおずおずと、しかしまた、相手の様子を窺《うかが》うように、スペードを見つめた。
女はすらっとした長身、しなやかなからだの姿勢が正しく、胸の膨らみがゆたかで、脚が長い。それでいて手と足は小さかった。服装は目の色に合わせて、濃いのと淡いのと二様のブルーで統一していた。ブルーの帽子からのぞく巻き毛は暗赤色だが、ふっくらした唇の色はずっと明るい赤だった。はにかみがちに微笑を見せると、三日月形の口もとから白い歯がこぼれた。
スペードは立ちあがって会釈をし、指のふとい手で、デスクわきのカシ材の椅子を勧めた。立ちあがった彼の背丈はゆうに六フィートを超え、肩の幅も厚みも目をみはるばかりなので、からだ全体が円錐体を逆さにしたところを思わせ、プレスしたばかりのグレーの上着も身についていない感じだった。
ミス・ワンダリーは低い声で、「ありがとう」ともう一度いうと、木の椅子の端に腰を載せた。
スペードも回転椅子に戻って、それを四分の一ほど回転させ、彼女と向きあうと、愛想のいい笑顔を見せた。唇を結んだままの微笑なので、顔のあらゆる個所のVの字が、よりいっそう長く伸びた。
閉めたドアの向こうから、エフィがタイプライターを打つ音がひびき、近くのオフィスで使用する電動機械の唸りが鈍く聞こえてくる。デスクの上では、吸いがらがいっぱいの真鍮の灰皿に、吸いかけのタバコがくすぶっていた。
そしてその灰が、黄色いデスクの上、緑色の吸取紙と書類に点々ととび散り、淡黄色のカーテンをかけた窓が八、九インチほど開いているので、アンモニアの臭いのする風が吹きこんできて、その灰を躍らせていた。
ミス・ワンダリーは灰の動きを見つめているのだが、その目には落ち着きがなくて、椅子の端に載せた腰をいまにも立ちあがりそうに浮かせ、黒っぽい手袋をはめた両手で、膝の上の平べったい黒皮のハンドバッグを握りしめていた。
スペードは回転椅子を左右に動かしながら、「ご用件はなんでしょうか?」と訊いた。
彼女はハッとしたように、あらためてスペードを見つめ、ごくりと唾をのみこんでから、いそいでいった。「あの、お願いできましたら……ええ、わたくし……その、お願いできるかと思って……」あとは、きらきら光る歯で下唇を咬みしめるだけで、ひと言もいわなかったが、ダーク・ブルーの目が言葉以上の真剣さで何かを訴えていた。
スペードは微笑の顔で、彼女の訴えを了解したかのようにうなずいて見せてから、明るい調子でごく無造作に、「では、お話をうかがいましょう。初めからがいいですよ。そのほうが、どんな処置をとったらよいかが判りますからね。できるだけ初めから」
「ニューヨークのことでした」
「なるほど」
「最初に妹が、どこで彼に会ったのかは知りません。ええ、ニューヨークのどこだったかは判らないという意味です。妹はわたくしよりも五つ年下で、まだ十七になったばかり――そしてわたくしたちには、共通のお友だちがありません。姉妹にしては、親しみが少なかったともいえましょう。パパとママは現在、ヨーロッパに滞在中なのでいいようなものの、こんなことが耳にはいったら、あまりの悲しみに死んでしまうかもしれません。ですからわたくし、両親が帰国するまえに、妹をニューヨークに連れ戻さなければならぬと考えました」
「なるほど」彼はいった。
「パパとママは、来月の一日に帰国します」
スペードの目が輝いて、「すると、まだ二週間ありますね」といった。
「わたくしは妹がどうしてしまったのか、何も知りませんでした。ですから、あの子の手紙で事情を知ったときは、気が狂うのかと思いました」唇がわなわな震えて、両の手で膝の黒皮のハンドバッグを握りつぶした。「あの子が何か警察沙汰になるようなことをしでかしたのではないか、それとも、あの子の身に恐ろしい災難がふりかかったのか、いったい、警察へ届け出たものかどうかと、わたくしは居ても立ってもいられない気持でした。といって、相談相手もいませんし……わたくし、どうしたらいいのでしょうか?」
「むろん、あなたに処理できることではない」スペードがいった。「そこへ、妹さんの手紙が届いたのですね」
「ええ。そこで、わたくし、すぐに電報を打って、ニューヨークへ戻るようにいってやりました。宛先はここの中央郵便局留めです。妹は、それしかアドレスを教えないからです。で、わたくし、一週間待ちましたが、返事の電報も、様子を知らせる便りも送ってきません。パパとママの帰国の日が近づきますし、わたくし、我慢しきれなくなって、このサンフランシスコまで出てきてしまいました。あらかじめ手紙で知らせておきましたけれど、あんなこと、しなかったほうがいいのでしょうか?」
「そうかもしれませんな。どうしたらよいかを知るのは、だれにだって容易なことではないのです。では、妹さんはまだ見つからないのですね?」
「ええ、見つかりません。ホテルはセント・マークだと書いて、いっしょにニューヨークへ帰るのがいやでも、とにかく一度、話しあいたいといってやったのですが、三日間待っても顔を見せないどころか、連絡もしてきませんの」
スペードは眉に同情のしわをよせ、金髪の悪魔の顔でうなずいて見せ、唇を咬みしめた。
ミス・ワンダリーはむりにほほえもうと努めながら、「恐ろしいことです」といった。「妹の身に何が起きたのか、これから何が起きるのかを知らずに、じっと待っていられるものではありません」そこで彼女はほほえもうとする努力をやめて、身震いをし、「わたくしにできる連絡方法は、局留めの手紙だけです。で、もう一通手紙を出して、きのうの午後、中央郵便局で暗くなるまで待ちましたけれど、あの子はあらわれてくれません。けさもまた行ってみましたが、コリーンはやはりあらわれないで、そのかわりフロイド・サーズビーに会いました」
スペードはもう一度うなずいた。渋面が消えて、そこに鋭い注意力があらわれていた。
「サーズビーは妹のいるところを教えようとしないのです」彼女は希望を失ったようにつづけた。「何もしゃベろうとしなくて、ただ、コリーンは元気で無事に暮らしているというだけです。でも、そんな言葉、鵜呑みにできるものでありません。彼としては、妹が幸福でないなどいえるわけがありませんもの」
「それはそうです」スペードは同意してみせてから、「しかし、彼の言葉どおり幸福だということも否定できませんよ」
「そうあってほしいと思っています。それをわたくし、祈っていますわ」彼女は叫んだ。「でも、妹に会いもしないで、電話の声も聞かずに、このままニューヨークへひっ返すことはできません。いくらそう主張しても、彼はわたくしを妹のところへ連れていこうとしなくて、妹は会うのを避けているとさえいうのです。そんなこと、信じられるわけがないのに……そしてけっきょく、わたくしと会ったことは、彼女に話す。そして、もし承知するようなら、今夜、セント・マーク・ホテルへ連れていく。たぶん、承知しないだろうから、そのときは自分ひとりで行って、とにかくもう一度、わたくしと会うと約束しました。たぶん彼は――」
いいかけたところにドアが開いたので、彼女は手で口を抑えた。
ドアを開いた男は、部屋へ一歩足を踏み入れたが、「おっと、これは失礼!」と、あわてて茶色の帽子をぬいで、ひき退がった。
「いいんだよ、マイルズ」スペードが呼びとめて、「はいっていいんだ。ああ、ミス・ワンダリー、これはこの探偵事務所の共同経営者で、アーチャー君といいます」と紹介した。
マイルズ・アーチャーは部屋へ戻って、ドアを閉めると、ぴょこり頭を下げ、ミス・ワンダリーに笑顔を向け、帽子を手にしたまま、妙にもじもじした格好をしてみせた。中背で頑健そうな体格、肩幅が広くて、首がふとく、顎の張った赤ら顔。短く刈りこんだ髪に白いものが混じりだしている。スペードの齢が三十をかなりすぎているように、この男は四十の坂をとうのむかしに越えているらしい。
スペードが説明した。「ミス・ワンダリーの妹さんが、フロイド・サーズビーという男と駆け落ちして、ニューヨークからこのサンフランシスコに移ってきている。ミス・ワンダリーはサーズビーと会って、今夜、ホテルでもう一度会う約束をとりつけた。彼が妹さんを連れてくるかもしれないが、連れてこないと見たほうがまちがいない。そこでミス・ワンダリーは、この事務所の手で妹さんを見つけ、男からひき離し、ニューヨークへ連れて帰りたいとのご希望なんだ」そして彼はミス・ワンダリーの顔を見て、「そうでしたね?」と確かめた。
「ええ」と彼女は漠然と答えた。最初のどぎまぎした様子は、スペードの微笑を含んだうなずきと、力づける応対の言葉で、徐々に消えかけていたのだが、いままたそれがぶり返したかのように、顔をピンク色に染め、膝のハンドバッグに目を落とし、手袋をはめた指で神経質にいじりだした。
スペードはパートナーに目くばせをした。
マイルズ・アーチャーは進み出て、デスクの角に立ち、ハンドバッグに目を落としている若い女性を眺めた。しばらくは、小さな茶色の目で、うつむいた彼女の顔から脚へ、そしてまた顔へと、値ぶみでもするように無遠慮に見下ろし見上げていたが、その目をスペードへ向けて、なるほど、すごい美人だと、口笛を吹く格好をして見せた。
スペードは回転椅子の腕から指を二本あげて、かるくマイルズをたしなめておいてから、ミス・ワンダリーにいった。
「この事務所がお引き受けしたからには、造作なく解決してさしあげます。仕事はいたって簡単で、ホテルを引き揚げていく男のあとを尾《つ》けるだけで、妹さんの居所は判るはずです。もし、妹さんが男といっしょにホテルヘ来られて、あなたの説得に応じ、ニューヨークへ戻られるのなら、こんな結構なことはない。かりに、そうでない場合――たとえば、ぼくたちが彼女の居所を突きとめたあとでも、どうしても男と別れたくないと頑張られたら、そのときはそのときで、また別の手を考え出しますよ」
「そうですとも。この男のいうとおりで」と、そばからアーチャーが保証した。重みのあるしゃがれ声だった。
「でも、よほど慎重になさらないと――」彼女の声はちょっと震えて、しゃべったあとの唇がそのままの形で、神経質に痙攣していた。「わたくし、あの男をとても恐れています。何をやってのけるか判ったものでないのです。年のいかない妹を、ニューヨークからこんな遠くまで連れ出しただけでも恐ろしいことなのに――あの男、何か妹に――よくないことをするのじゃないでしょうか?」
スペードはにっこり笑って、椅子の腕をたたき、「安心して、おまかせなさい」といった。「あの手合いの男のあしらい方は、ぼくたちの得意芸ですよ」
「でも、あの男、まさか妹に――」彼女はあくまでもこだわった。
「むろん、その危険がないとはいえません」スペードはいちおう公平なところを見せて、「それにしたところで、この程度の問題の処理ぐらい、ぼくたちを信頼しておられてまちがいありませんよ」
「もちろん、信頼していますわ」彼女は力をこめていった。「でも、彼がとても危険な男なのを、知っておいていただきたいのです。実際、いったん狙ったからには、どんな乱暴な方法を用いても、やってのける男です。そしてまた、自分がそれで助かるとみたら、コリーンを殺すのだって躊躇《ちゅうちょ》しないと思います。そんな乱暴なまねはしないといいきれませんの」
「あなたのほうから、彼を自暴自棄にさせるようなことをいったのではないでしょうね?」
「わたくしはただパパとママの帰国前に、あの子をニューヨークに連れ戻して、両親に気づかれないようにしておきたいといっただけです。そしてそれに彼が協力してくれたら、パパとママにはひと言もしゃべらないと約束して、もしそうでなかったら、パパはかならず警察に訴え出て、彼を処罰させずにはおかないはずだとにおわせました……でも、わたくしのその言葉、あの男が信じたかどうかは疑問ですわ」
そばからアーチャーが口を出して、「しかし、その男が妹さんと結婚してしまったら、処罰されなくてもすむかもしれませんよ」といった。
彼女は顔を赤らめて、少しうろたえたような声で答えた。「あの男には妻子がありますの。奥さんと三人の子供をイギリスにおいてあるのです。それが彼といっしょに姿をかくした理由だと、コリーンが手紙でいってきました」
「よくある手ですよ。もっとも、イギリスにかぎったことではないが」とスペードはいってから、手を伸ばして鉛筆と用箋をとりあげ、「彼の人相|風采《ふうさい》をうかがいましょう」と質問に移った。
「ええと、年齢はたしか三十五です。あなたと同じくらい長身で、生まれつきか、日焼けのせいか知りませんけれど、かなり黒い肌をしています。髪が黒くて、ふとい眉。大きな声であらあらしい口のきき方をして、いつもいらいらしているみたい――ひと目見ただけで、乱暴な性格という印象を受けますわ」
スペードは顔もあげずに、用箋に鉛筆を走らせ、「目の色は?」と質問をつづけた。
「青みを帯びた淡いグレー、といっても、弱々しい感じではありません。それから――あの――顎に傷痕があります」
「痩せ型、中肉、それとも肥満型?」
「スポーツマン・タイプですわ。肩幅が広くて、姿勢が正しくて、軍人風といったらいいでしょう。けさ会ったときは、ライト・グレーの上着に、グレーの帽子をかぶっていました」
「何をして生活してるのです?」スペードは鉛筆をおいて訊いた。
「存じません」彼女が答えた。「ぜんぜん判っていませんの」
「今夜は、何時の約束です?」
「八時すぎですわ」
「判りました、ミス・ワンダリー。この事務所から、一名さし向けます。たぶん、それで――」
「あの、スペードさん、あなたかアーチャーさんか、どちらかにご足労ねがえないでしょうか?」彼女は両手で訴えるようなジェスチャーをして、「よこしてくださるひとを信頼しないわけではありませんけれど、できることなら、おふたりのどちらかに来ていただいて、ええ――そうですわ――わたくし、コリーンのことがとても心配で。あの男が危険に思えて……お願いできましたら、もちろん、それだけのお礼はさしあげます」と、震える手でハンドバッグを開いて、百ドル紙幣を二枚とり出すと、スペードのデスクの上において、「これでは足りませんかしら?」といった。
「足りますとも」アーチャーがいった。「では、ぼくが行きましょう」
ミス・ワンダリーは立ちあがって、衝動的にアーチャーに手をさし伸べ、
「ありがとう! ありがとう!」と叫び、つづいてその手をスペードに向けて、「ありがとう!」と繰り返した。
「礼をおっしゃられては恐縮です」スペードはあっさりいって、「これがわれわれの商売ですからね。それから、サーズビーとお会いになる場所を、一階にしていただくか、または、適当なときにロビーに連れこんでいただくと、仕事がやりよいのですがね」
「そのようにいたしますわ」彼女は約束して、もう一度ふたりの経営者に礼をいった。
「しかし、ぼくを探したりしてはいけませんよ」アーチャーが注意をあたえた。「ぼくのほうで、まちがいなくあなたを見つけますから」
スペードは廊下へ通じるドアまで、ミス・ワンダリーを送って行った。戻ってくると、アーチャーがデスクの上の二枚の百ドル紙幣にうなずいてみせて、満足そうな唸り声をあげ、「これで足りますかどころか、じゅうぶんすぎるくらいだ」と、その一枚をつまみあげ、折りたたんで、チョッキのポケットに突っこみながら、「あのハンドバッグには、こいつの兄弟がだいぶはいっていたぞ」といった。
スペードもまた、もう一枚をポケットに収いこむと、椅子にからだを落ち着けて、「おい、マイルズ」といった。「彼女からむやみに搾《しぼ》りとるんじゃないぞ。ところで、あの娘をどんなふうに見た?」
「すばらしい金づるだ! それなのにきみは、搾りとるなという」アーチャーはおもしろくもなさそうな笑い声をあげて、「最初に彼女に会ったのはきみだろうが、最初に言葉をかわしたのはおれなんだぜ」そしてズボンのポケットに両手をつっこみ、踵《かかと》で立って、からだを前後にゆすって見せた。
「やっぱり、金の成る木にする気だな」スペードは奥歯までのぞかせて、底意地わるい笑いを見せて、「いいか、マイルズ、頭を使うんだぞ。それだ。その頭を働かせるんだ」そしてタバコを巻きはじめた。
二 霧のなかの死
暗闇のなかで、電話のベルが鳴っていた。三度目のが鳴ったとき、ベッドのスプリングがきしんで、指が木のテーブルの上を探り、何か小さくて堅いものが、音を立てて床の絨毯の上に落ちた。そしてベッドのスプリングがもう一度きしんでから、男の声がいった。
「もしもし……そう、おれだ……なに、死んでいる?……よし……十五分で行く。ありがとう」
スイッチの音がして、天井の中央から金メッキの鎖三つで吊るされている碗形の電灯がともり、部屋じゅうが明るくなった。グリーンと白の格子縞のパジャマを着て素足のスペードが、ベッドの片側に腰を下ろしていた。彼は卓上電話機を睨《にら》みつけるようにして、そのわきにある茶色のタバコ紙とブル・ダラムの袋をとりあげた。
あけ放した二つの窓から、湿った冷気が流れこんで、一分間に六回の割合で吹き鳴らされるアルカトラズ島〔サンフランシスコ湾内の島。連邦刑務所がある〕の霧笛のにぶい響きを運んできた。テーブルの上に読みかけのまま伏せてあるデュークの『アメリカ著名犯罪事件』の端に、あぶなっかしい格好で載っているスズの目覚し時計の針が、二時五分をさしていた。
スペードは太い指で、ことさら念入りにタバコを巻きはじめた。巻き紙にまるみをもたせ、その上に茶色の刻《きざ》みタバコを適当な量だけ載せると、まんなかをかるく押して、紙の両端まで刻みの葉を均分に行きわたらせてから、二本の親指で紙の内側を、そして二本の人差し指で外側を支え、親指と人差し指を左右にすべらして太さのバランスをとる。巻きあがると、紙の合わせ目を舌で舐《な》め、左の人差し指と親指で一方の端をつまみ、右の人差し指と親指で濡れた合わせ目をなめらかにすれば出来あがりだ。そこでスペードは、右の人差し指と親指で片方の端を抑え、もう一方の端を口へ持っていった。
それから彼は、床に落ちている豚皮とニッケルのライターを拾いあげ、操作して、くわえたタバコに火をつけ、腰をあげた。パジャマをぬぎ捨てると、なめらかな皮膚の腕、脚、胴体、大きく盛りあがった肩とが剥《む》き出しになった。クマのように逞《たくま》しい体躯。ただしそれは全身にカミソリをあてたクマで、胸毛も生えていなくて、子供のように柔らかな肌がピンク色をしていた。
彼は首筋を掻《か》いてから、着替えにとりかかった。薄地の白いコンビネーション、グレーの靴下、黒のガーター、ダーク・ブラウンの短靴。靴のひもを結びおえると、受話器をとりあげて、グレーストーン四五〇〇のダイヤルをまわし、ハイヤーを呼んだ。グリーンの縞入りの白いワイシャツに白のソフト・カラー、グリーンのネクタイ、昼間着ていたグレーのスーツ、そしてゆったりしたツイードのオーバーを着て、ダーク・グレーの帽子をかぶった。そのあとタバコと鍵と小銭をポケットに入れているところで、廊下に面したドアのベルが鳴った。
ブッシュ・ストリートがチャイナタウンのほうへ下り坂になる少し手前、ストックトン・ストリートの上を横切るところで、スペードは料金を支払って、ハイヤーを降りた。しっとりと冷たく、しみ込むようにねばっこいサンフランシスコ特有の淡い夜霧に、街路がにじんで見えた。スペードがハイヤーを降りた場所の数ヤード先には、何人かの男たちが立って横丁を見上げていて、道路の反対側にも、男がひとりと女ふたりが同じように眺めている。近所の家々の窓も開いて、いくつかの顔がのぞいていた。
スペードは歩道を横切り、ぞんざいな造りの石段の降り口に近づき、霧に濡れた鉄の手すりに手をあてがって、ストックトン・ストリートを見下ろした。
ちょうど足もとがトンネルになっていて、車が一台、鋭い音とともに、弾丸のようにとび出してきたが、たちまちのうちに走り去った。トンネルの入口近くに倉庫が二軒あって、その中間に、映画とガソリンのポスターを貼った広告板が立ててある。いま、その前にひとりの男がしゃがみこみ、舗道にぴったりつけた片手でからだを支え、もう一方の手で緑色のペンキを塗った広告板の枠を握る不自然な姿勢で、広告板の下を覗きこんでいた。また別に、二人の男が首を並べて、倉庫と広告板のわずかの隙間を見まわしていた。広告板のうしろは空地で、それに面した倉庫の窓のない灰色の壁が街灯の光を反射させて、そこらを動きまわる人影を映し出している。
スペードは手すりを離れてブッシュ・ストリートを進み、人々が集まっている横丁に近づいた。ダーク・ブルーの地に白文字で『バリット小路』と記したエナメル標識の下で、ガムを噛んでいた制服巡査が片手を突き出して、
「きみ、何か用があって来たのか?」と咎《とが》めた。
「サム・スペードだよ。トム・ポルハウスから電話があった」
「ああ、あんたでしたか」巡査は手を下ろして、「気がつかなかったもので、すみませんでした。みんな、奥のほうにいますよ」と親指で背後をさし、「いやな事件が起きたものでさ」といった。
「まったくだ」スペードは相づちを打ってから、横丁にはいっていった。
横丁のなかほど、入口から少しはいったところに、黒塗りの救急車が駐《とま》っていた。その先は、道の左側が荒けずりの板を横にわたした腰の高さの柵で、それを越えると、暗い大地が急勾配に落ちこんで、ストックトン・ストリートの広告板のあたりに達している。
柵のいちばん上の、長さ十フィートの横板が、支柱からもぎとられて、もうひとつの支柱にぶら下がっていた。そこから覗くと、斜面を十五フィートほど下ったところに平石が突き出ていて、それと斜面とのあいだのくぼみに、マイルズ・アーチャーが仰向けに横たわっていた。死体のそばには、二名の刑事が見張りに立ち、そのひとりが懐中電灯の光で、死顔を照らしているが、ほかの大勢はみな、同じように懐中電灯を手にして、斜面のあちらこちらをのぼったり下りたり、忙《せわ》しなく動きまわっていた。
そのなかのひとりが、「おお、サム、きたか」とスペードに声をかけ、斜面を急いで、横丁の路面までのぼってきた。影のほうが本人より早く駈けあがる勢いだった。ビール樽のような腹をして、鋭い目と厚い唇を持つ長身の男で、無造作にカミソリをあてた下顎にひげ剃り痕が青い。靴、膝、両手、顎のどれもが赤土に汚れていた。
彼はこわれた柵を乗り越えながら、「死体を片づける前に、見ておきたいだろうと思ってね」といった。
「ありがとうよ、トム。で、どんなことが起きたんだ?」
と、スペードはいって、柵の支柱に片肘をつき、斜面の刑事たちを見下ろし、会釈してよこす連中にうなずき返した。
トム・ポルハウスは泥に汚れた指で、自分の左胸を突つき、「心臓を撃ちぬかれた――こいつでだ」と、大型リヴォルヴァーを上着のポケットからとり出して、スペードの前にさし出した。リヴォルヴァーの表面のくぼみに泥がつまっていた。「ウェブリーだ。イギリス製だな」
スペードは柵の支柱から肘を下ろして、さし出された凶器の上に身をかがめたが、手を触れようとはしなかった。
「たしかに、ウェブリー・フォズべリー自動拳銃だ。まちがいない。三八口径の八連発。いまは製造していないやつ。で、何発撃ってある?」
「一発だけだ」トムはまたも自分の胸を突ついて、「塀をぶっこわしたときは、死んでいたにちがいない」そして、泥だらけのリヴォルヴァーをかかげて、「こいつを前に見たことがあるかね?」
スペードはうなずいて、「ウェブリー・フォズべリーならいくつも見ている」と興味なさそうにいったが、そのあとすぐに、早口にしゃべりだした。「じゃ、彼はこの場所で撃たれたんだ。きみのいる位置に、柵を背にして立っていた。撃ったほうのやつは、この辺だろう」と、トムの前にまわって、人差し指を水平にして、胸の高さまであげ、「一発くらったんで、マイルズはうしろへのけぞり、柵のいちばん上の板を突き破り、斜面をころがり落ちていった。そしてあの平石でとまった。そうなんだな?」
「そのとおりだ」トムは眉をよせて、ゆっくり答え、「火薬で上着が焦げている」といった。
「死体を見つけたのはだれだ?」
「巡回巡査のシリングだ。ブッシュ・ストリートを降りてきて、ここまでくると、ターンした車があったので、そのヘッドライトが、柵のこわれているのを照らし出した。そこでシリングが、柵の破損個所を調べているあいだに、死体を見つけたのだ。
「ターンした車はどうした?」
「消えてしまって、いまさら探しようがない。シリングは事件と知らないから、注意して見なかった。彼の説明だと、パウエル・ストリートからここまで降りてくるあいだ、この横丁から出てきた人間はひとりもいなかったそうだ。いたらたぶん、問題のふたりに気づいたろうといってたよ。となると、逃げ道は斜面を降りて、ストックトン・ストリートの広告板のあたりへ抜けるだけだが、その形跡はぜんぜんない。霧で地面がぬかっているのに、マイルズがすべり落ちたのと、ここのところにピストルがころがった痕《あと》しか残っていないんだ」
「だれか銃声を聞かなかったか?」
「おい、おい、サム。おれたちはここへ駆けつけたばかりなんだぜ。むろん、だれかが聞いたにちがいないが、それはこれから探すんだ」そして彼はうしろを向いて、柵に片足をかけ、「いっしょに降りてきたらどうだ? 片づける前に、死体を見たいんだろう?」
スペードはいった。「やめておくよ」
柵をまたぎかけていたトムはびっくりして、小さな目でスペードを見た。
スペードはいった。「きみたちが見たんだ。おれが見たって、それ以上のことは判りっこない」
トムはなおもスペードを見つめたまま、疑わしげにうなずいて、柵から足をひき、「やつのピストルは尻のポケットに突っこんであるが」といった。「一発も発射してない。オーバーもボタンをかけたまま。服のポケットに百六十一ドルはいっていた。彼、仕事中だったのか?」
スペードは一瞬ためらったが、うなずいた。
トムが質問した。「その仕事は?」
「たしか、フロイド・サーズビーという男を尾《つ》けていたはずだ」そしてスペードは、ミス・ワンダリーから聞いたとおりに、サーズビーの人相を説明した。
「なんのために?」
スペードは両手をオーバーのポケットに突っこみ、眠そうな目でトムをチラッと見た。
「なんのためだ?」トムはじれったそうに繰り返した。
「この男、イギリス人らしい。なんで暮らしを立てているのか、はっきりしたことは判らない。おれたちは、こいつの住所を突きとめようとしていたんだ」スペードはうすら笑いを浮かべて、ポケットから片手を出し、トムの肩をたたき、「しつっこく訊くなよ」といって、また手をひっこめ、「おれはこれから、マイルズの細君に知らせてくる」と、あちらを向いた。
トムは眉をひそめて、何かいいかけたが、咳払いをしただけで口を閉じ、顔のにがい表情を消して、しゃがれ声でやさしくしゃべりだした。
「マイルズもひどい目にあったものだ。おれたちみんなと同じで、いろいろと欠点もあったが、いいところもある男だった」
「たしかにな」スペードも、ぜんぜん気がないみたいだが、いちおう素直にうなずいて、横丁を出ていった。
ブッシュ・ストリートとテイラー・ストリートの角の終夜営業のドラッグストアで、スペードは電話をかけた。
番号をいってからしばらくして、女秘書の声が応えたので、スペードはしゃべりだした。「エフィか? マイルズが撃たれた……ああ、死んだよ……興奮しないでくれ……きみに頼みがある……アイヴァに知らせてやってほしい……いや、おれじゃまずいから、きみに頼むんだ……いい子だな……頼むよ……事務所にやって来ないようにするんだ……おれのほうから会いにゆくといったらいい…ああ、そのうちに、といっておくことだ……いいか、いつ行くとはっきり約束するんじゃないぜ……頼みはそれだけだ。やってくれるね。きみはおれの天使だ。バイバイ」
スペードがふたたび、天井から吊るした碗型の照明にスイッチを入れると、スズの目覚し時計が三時四十分を指していた。彼は帽子とオーバーをベッドの上にほうり出して、キチンへ行き、ワイン・グラスと背の高いバカルディ・ラム酒のボトルを手に、寝室にもどってきた。一杯|注《つ》いで、立ったまま飲んでから、グラスとボトルをテーブルの上におき、それと向かいあった位置でベッドに腰を下ろし、タバコを巻きはじめた。そして、三杯目のバカルディ・ラムを飲み、五本目のタバコに火をつけたところで、廊下に面したドアのベルが鳴った。目覚し時計の針が四時三十分を示していた。
スペードはため息をついて、ベッドから立ちあがると、バス・ルームのドアのそばにある電話機に歩みより、表口のドアの錠をはずすボタンを押した。そして、「困った女だ」とつぶやき、黒い電話機を睨みつけているうちに、息づかいが荒くなり、頬ににぶい赤味が射してきた。
廊下の向こうから、エレべーターの扉の開閉するきしみの音が聞こえてきた。スペードはもう一度ため息を洩らして、廊下に面したドアへ近づいた。廊下の厚い絨毯《じゅうたん》を踏む重々しい足音からして、あきらかに男がふたりだ。スペードの顔が明るくなった。目にも悩みの色が消えた。彼はいそいでドアを開いた。
「やあ、トムか」彼は、さっきバリット小路で話しあった長身で太鼓腹の刑事に声をかけ、「おや、警部補さんもごいっしょですか。さあ、さあ、おはいりなさい」と、トムに並んで立っている男にいった。
彼らはいっしょにうなずいたが、何もいわずにはいってきた。スペードはドアを閉めて、ふたりを寝室へ導いた。トムは窓ぎわのソファの端に腰を下ろし、警部補はテーブルのそばの椅子にかけた。
警部補はひきしまったからだつきの小柄な男で、丸い頭の半白の髪を短く刈りこみ、四角い顔の口髭にも白いものが混じっていた。五ドル金貨をネクタイ・ピンにして、衿《えり》のラベルには、どこかの秘密結社のものらしい、小さいながら手の込んだ、ダイヤモンド入りのバッジを付けていた。
スペードはキチンからワイン・グラスを二つ持ってきて、それと自分のとにバカルディを注ぎ、そのそれぞれを来客に手渡し、自分のを手にしてベッドに腰かけた。顔は平静で、夜中の訪問を不思議がる様子もなかった。そして、グラスをかかげ、「捜査の成功を祈って!」といい、いっきに飲みほした。
トムもグラスを空けると、それを足もとの床において、泥だらけの人差し指で口を拭った。それから、ベッドの脚をじっと見つめた。それが連想させる何かを思い出そうとしているのか。
警部補は十秒ばかりグラスを眺めてから、中身にちょっと口をつけただけで、膝もとのテーブルの上においた。それから、意味ありげな険しい目で部屋のなかを見まわし、その目をトムに向けた。
トムはソファでもじもじしながら、顔を伏せたまま質問した。「サム、あれをマイルズの細君に知らせたのか?」
スペードは、「ああ」と答えた。
「彼女、どんなふうに受けとった?」
スペードは首をふって、「女の気持は判らんよ」といった。
トムは口のなかで、「知らない柄《がら》か」とつぶやいた。
警部補は両手を膝について、からだを乗り出し、緑がかった目を異様なきびしさで、スペードの顔に据えた。まるでその視線が機械仕掛けによるもので、レバーを引くか、ボタンを押さないことには、焦点の移動はありえぬようなすさまじさだった。
「きみの持っておるガンはどんなものだ?」警部補が訊いた。
「ガンは持っていませんよ。あんまり好かない品なんでね。もっとも、事務所にはおいてありますが」
「そのひとつを見たいのだが」警部補がいった。「今夜はたまたま、ここにおいてあるんじゃないか?」
「おいてありませんよ」
「たしかか?」
「探してみたらいいでしょう」スペードはにやり笑って、空になったグラスをふって見せて、「そこらのがらくたをひっくり返したって、文句はいいませんぜ。捜索令状を持っているのならね」
トムがあいだにはいって、「おい、サム! おだやかに話せ!」といった。
スペードはグラスをテーブルにおいて、警部補の前に突っ立ち、
「おい、ダンディ、なんの用があってやってきた?」といった。その目と同様、険しくて冷たい声だった。
ダンディ警部補は相手の動きにつれて目を移動させたが、焦点はスペードの顔からはずさなかった。
トムはソファの上でさらにもじもじし、鼻からふとい息を吐いて、哀願するような調子でいった。「おれたちは、ごたごたをひき起こしたくて来たんじゃないぜ、サム」
しかし、スペードはトムを無視して、ダンディ警部補にいった。「何しに来たのか、はっきりいったらどうだ。何さまだとうぬぼれてるんだ。おれをつかまえられるなら、つかまえてみろ」
「よし、話すから」ダンディはしぶしぶながらいった。「腰かけて、聞け」
「坐ろうが立っていようが、おれの勝手だ」スペードは動こうともしなかった。
「頼むから、落ち着いてくれ」トムが哀願しはじめた。「おれたちだって、喧嘩して得になるわけじゃない。最初、率直に話さなかったのは、さっき事件の現場で、おれがサーズビーという男のことを訊いたとき、きみはそっぽを向いて、おれの知ったことじゃないといった顔をした。あんなふうに、おれたち警察の人間を扱うべきでないだろう。よくない態度だし、きみにとっても得にはならんよ。犯罪捜査はおれたちの役目なんだからな」
ダンディ警部補は突然、立ちあがって、スペードの前に近より、真四角な顔をより長身の相手のそれに突きつけ、「前にも警告したことがあるが、そんな態度をとっておると、そのうちかならず足をすべらすぞ」といった。
スペードは眉をあげ、ばかにしたように口をゆがめて、「だれの足だって、ときにはすべることがあるさ」と応じた。嘲笑的な口調だが、ある程度のおだやかさがもどっていた。
「ところが、こんどすべったのは、きみの足だ」
スペードはにやにや笑って、首をふり、「とんでもない。おれは要領よくやってるよ」といったが、笑いはすでに消えて、上唇の左側がねじれて、犬歯が見えていた。目が鋭く、熱がこもって、警部補におとらずふとい声で、「おれのほうだって、こんなふうに扱われるのはいやだ。何を探りだしたいのか、訊きたいことを訊いて、さっさと出ていってくれ。おれは眠りたいんだ」
「サーズビーって、何者だ?」ダンディ警部補が質問にとりかかった。
「知ってることは、全部、トムに話した」
「ちっとも話しておらんじゃないか」
「ちっとしか知らないからだ」
「だったら、なぜ尾行してた?」
「おれじゃない。マイルズが尾《つ》けていたんだ。むろん、りっぱな理由がある。うちの事務所に、アメリカ合衆国のお札《さつ》をたんまり支払ってくれるお客があらわれて、尾行を依頼していったのだ」
「その依頼者はだれだ?」
スペードの顔と声に落ち着きがもどって、とがめるような口調でいった。「非常識な質問だぜ。おれたちは商売柄、本人の意向を聞きもしないで、名前を明かすわけにいかないものだ」
ダンディ警部補はかっとなった様子で、「おれに話すか、法廷でしゃべるかのどちらかなんだぞ。殺人事件だってことを忘れんほうがいい」
「たぶん、忘れんよ。それから、そっちにも忘れんでいてほしいことがある。しゃべるかしゃべらないかは、おれの勝手だってことだ。おまわりに睨まれて、泣きながら口を割ったのは、遠い昔のことだ」
トムはソファを離れて、ベッドの脚もとに坐りこんだ。ぞんざいに剃って、泥に汚れた顔に疲労の色が濃かった。
「頼むよ、サム、落ち着いてくれ」彼は訴えた。「おれたちも捜査の手がかりがほしい。きみが情報をかくしていたんじゃ、マイルズ殺しも解決しないじゃないか」
「そんなこと、きみが頭痛に病むにはおよばんよ」スペードがいって聞かせた。「わが家の死者は、わが手でりっぱに葬ってやる」
ダンディ警部補は椅子に腰を下ろし、ふたたび両手を膝についた。両の目が緑の円盤のように燃えていた。
「そういうだろうと思っておった」彼は底意地悪い含み笑いを見せて、「だからおれたち、さっそくきみに会いにきた。そうだったな、トム」
トムはうめき声のようなものを洩らしたが、はっきりした言葉にはしなかった。
スペードは用心深く、ダンディ警部補の顔を見まもっていた。
警部補はつづけて、「おれがトムにいったのも、いまのきみの言葉とそっくり同じ文句だった。おれはこういった。『おい、トム、気をつけたほうがいいぞ、おれには、サム・スペードの人柄からして、彼の身内のトラブルは自分たちで片をつけそうな予感がするだ』と。そのとおりの文句をトムにいい聞かせたばかりなんだ」
スペードの顔から用心深さが消えた。目をわざと、うんざりしたような色でおおって、トムにふり向き、できるだけ何げない調子を装って訊いた。「きみのボーイ・フレンドは、なんでいらいらしてるんだ?」
ダンディ警部補は突っ立ちあがって、折り曲げた二本の指でスペードの胸を突っつき、
「こんなぐあいに」と、一語一語をはっきりさせるように努め、それをさらに、二本の指で突つくことで強調しながら、「サーズビーがホテルの入口で撃たれたんだ。きみがバリット小路を立ち去って、三十五分後のことだ」
スペードも同じように言葉をはっきりさせようと努めながら、「このいやらしい手をどかしてくれよ」といった。
ダンディ警部補は突ついていた指をひっこめはしたが、声の調子は変えずに、「トムの話だと、きみはひどく急いでいて、仲間の死体を見ようともしなかった」
トムは言い訳がましく、「そうだったぞ、サム。きみはそんなぐあいに、飛んで行ってしまった」
「そしてきみは」と、あとの言葉を警部補がひきとって、「アーチャーの家へ事件を知らせに行ったわけでもない。あの家に電話してみたら、きみの事務所の女が居合わせて、きみの使いで知らせにきたといった」
スペードはうなずいた。まったくの無表情で、落ち着きはらっていた。
ダンディ警部補は、またも折り曲げた二本の指をスペードの胸へ持っていったが、いそいでひっこめ、そのかわりにいった。「電話を見つけて、きみの事務所の女と連絡するまでが十分。サーズビーのホテルへ行くのに十分。あのホテルはギアリー・ストリートのレヴンワース寄りにあるんだから、十分あればじゅうぷん行きつける。何かで手間どったにしても、せいぜい十五分だ。そうだとすると、彼がそこに姿をあらわすまでに、きみには十分から十五分の余裕があった計算だ」
「そいつのホテルを、どうしておれが知っていたんだ?」スペードが反駁した。「やつがマイルズを殺したあと、まっすぐホテルへもどらなかったことまで、どうしておれに判るんだ?」
「知ってたから知ってたのさ」ダンディはあくまで言い張った。「きみがここへもどったのは何時だ?」
「四時二十分前だ。あれこれ考えごとをしながら、街を歩きまわっていた」
警部補は丸い頭を上下に動かして、「三時半に、まだ帰っていなかったのは判っておる。電話してみたからだ。どこをほっつき歩いておった?」
「ブッシュ・ストリートのあたりだ」
「だれかに出会ったか?」
「いや、だれにも会わんよ」スペードは答えて、ほがらかな笑い声をあげ、「まあ、腰を下ろすさ。酒も残っている。トム、きみも飲むか?」
「遠慮するよ、サム」
ダンディ警部補は椅子に腰を下ろしたが、ラム酒のグラスを見向きもしなかった。
スペードは自分のグラスをみたして、いっきに飲みほすと、空のグラスをテーブルにおいて、ベッドのふちの席にもどった。
彼は親しみをとりもどした目で、警察官ふたりを、交互に見やりながらしゃべりだした。「おれのおかれた立場がやっと判ったよ。かっかとして悪かった。きみたちがとびこんでくるなり、わけも話さずに脅し文句を並べたんで、癇《かん》にさわった。相棒が殺《や》られてくさくさしてるところに、嫌味な言葉を聞かされたら、だれだってああなるじゃないか。だが、もう大丈夫だ。きみたちの目的が判ったから」
トムがいった。「そのことは忘れよう」
警部補は何もいわなかった。
スペードが訊いた。「で、サーズビーは死んだのか?」
警部補が返事をためらっていると、トムが代わって、「死んだよ」と答えた。
すると警部補が、残念そうにつけくわえた。「知らないんなら、話しておくが、そのサーズビーという男、だれに、何をいうまもなく、死んでしまった」
スペードはタバコを巻いていたが、顔もあげずに質問した。「あんたのその言葉、どういう意味だね? おれが知っていたとでも思っているのかね?」
「言葉どおりの意味だ」ダンディはぶっきらぼうに応じた。
スペードは顔をあげて、相手の顔を見ると、にやり笑って、巻きあげたタバコを片手に、もう一方の手にライターを持って、
「やあ、警部補さん。だからといって、まだいまのところ、おれを拘引するまでの腹は決まっていないんだろうな」
ダンディ警部補は緑色の目を向けただけで答えなかった。
「そうと判れば」スペードがつづけていった。「あんたの考えてることを、いちいち気にしなけりゃならぬ理由はないわけだ」
「おい、おい、サム」と、トムがあわてて口を入れた。「冷静でいてくれ。興奮しないで」
スペードはタバコをくわえて、火をつけ、笑いながら煙を吐き出して、
「興奮はしないよ、トム」と約束してから、「では、おれがサーズビーを殺したとして、どんなぐあいに殺《や》ったのか 忘れてしまった。そいつを話してくれ」
トムは不快そうなうめきを洩らした。ダンディ警部補がひきとって、「背中を四発撃たれた」と説明した。「四四口径か四五口径のやつでだ。ホテルへはいろうとしたところを、道路の反対側からで、目撃者はおらんのだが、状況上、そんなように判断できる」
トムが補足していった。「彼は、肩から吊るしたホルスターに、ルガーを入れて持ち歩いていたが、一発も射っていなかった」
「ホテルの連中が、彼について何か知ってるんじゃないのか?」
「何も知らんね。一週間滞在してたことのほかは」
「ひとりで泊まっていたのか?」
「ひとりでだ」
「所持品は? 部屋においた荷物は?」
ダンディ警部補がきっとなって、「おれたちに何が見出せると思うね?」と訊きかえした。
スペードは吸いさしのタバコで、漠然と空間に輪を描いて、「身元を明らかにするもの、なんで食っているかが判るもの――何か見つかったのじゃないのかな」
「それを話してもらえると思って、やってきたんだ」
そのようにきめつける警部補を、スペードはイエロー・グレーの目で見つめた。そしてその目の色に、彼がこの事件にかかわりがないのを、誇張といえるほどに強調して、「おれはサーズビーという男を、生きているうちにも、死んでからも、一度だって見たことがない」といった。
ダンディ警部補は不満そうな表情で立ちあがった。トムもまた腰をあげ、あくびをし、伸びをした。
「訊きたいことはみんな訊いた」ダンディは緑の小石のようにきびしい目をして、渋面をつくりながらいった。そして、口髭の下の唇を咬みしめるようにして、あとの言葉をつづけた。「だが、訊かれるきみより、訊くおれたちのほうが、ずっと余計にしゃべった。フェア・プレイといえるだろう。判ってくれたか、スペード。おれはこのとおり公平な男なんだ。この殺しをきみがやったにしろ、やらなかったにしろ、おれの捜査方法はあくまでも公平で、釈明のチャンスはじゅうぶんにあたえてやる。いまのところ、きみの仕業と断定するだけの証拠はつかめぬが、だからといって、シロときまったわけでもないんだから、そのつもりでいてくれよ」
「たしかにフェア・プレイだ」スペードはおだやかな口調で応えた。「だけど、そのグラスを空にしていってくれると、もっと感じがいいんだけどね」
ダンディ警部補はふり返って、テーブルに歩みより、彼のグラスをとりあげ、ゆっくり飲みほした。それから、「じゃ、おやすみ」と、手をさし出した。ふたりは儀式めいた格好で握手をかわした。トムとスペードも、同じ儀式めいた握手をした。ふたりが出ていったあと、スペードは服をぬいで、明りを消し、ベッドにはいった。
三 三人の女
翌朝の十時、スペードが事務所に到着すると、エフィ・ペリンが自分の机で、朝の郵便物を開封していた。男の子めいた彼女の顔が、日焼けの下で青ざめていた。手にした十束の封筒と真鍮製のペーパー・ナイフをおくと、「あの女《ひと》来ているわ」といった。声を低めて、警告的だった。
「来させないように、頼んでおいたはずだぞ」スペードは苦情をいったが、その声も低かった。
エフィ・ペリンは茶色の目を大きくみひらいて、スペード同様いらだつような調子で、「そうよ、頼まれたわ。だけど、その方法を教えてくれなかったじゃないの」彼女はちょっと目を閉じて、肩を落とし、「がみがみいわれたくないわ、サム」と、疲れきったような声を出した。「ゆうべはあたし、一晩じゅうあの女《ひと》の相手をしていたのよ」
スペードは女秘書のわきに立ち、彼女の頭に手をおくと、髪の分け目から左右に撫《な》でてやって、「悪かったな、おれの天使《エンジェル》、そうとは知らなかったんで――」といいかけて、口をつぐんだ。奥の部屋のドアが開いたのだ。彼はあわてて、ドアを開いた女に、「やあ、アイヴァ!」と声をかけた。
「サム!」彼女もいった。
彼女は三十を越したばかりの金髪女で、可愛い顔立ちだが、盛りを五年はすぎている。肥り気味ではあるが、均整のとれたみごとな肉体の持ち主だ。帽子から靴まで黒ずくめの服装だが、とりあえずの喪装といった感じがしないでもない。声をかけただけで、すぐにまた部屋にもどり、そこに立ったまま、スペードが来るのを待ち受けた。
彼はエフィ・ペリンの頭から手を離して、奥の部屋にはいって、ドアを閉めた。アイヴァはいそいで彼に近寄り、悲しみの顔を上に向けて、キスを求めた。彼が彼女を抱くより早く、彼女の両腕が彼のからだにからみついた。キスがすんで、スペードは彼女から離れようと少し身動きしたが、彼女は彼の胸に顔を押しつけたまま、すすり泣きをはじめた。
スペードは彼女のまるい背中を撫でて、「可哀そうに」といった。声はやさしかったが、その目は、彼のデスクとは反対側の位置の、かつての共同経営者のデスクを斜めに見て、怒りがみなぎっていた。歯を噛みしめ、じりじりするように顔をゆがめ、顎が彼女の帽子の山に触れるのを避けながら、「マイルズの兄に連絡をとったかい?」と訊いた。
「ええ。彼、けさ、来たわ」その言葉は、すすり泣きと、口を男の上着に押しつけているので、はっきりは聞きとれなかった。
スペードはまたも顔をしかめて、その顔を曲げ、腕時計をこっそり見ようとした。左腕は彼女の腰を抱いて、腕時計を巻いた手は、彼女の肩にあった。カフスがずりあがっているので、時計が見てとれた。十時十分だった。
女は彼の腕のなかで身動きをして、またも顔をあげた。青い目が濡れて、丸く、まぶたが青白んでいた。唇も湿っていた。
「サム」彼女は苦しそうな声でいった。「彼を殺したの、あなたなの?」
スペードはとび出しそうな目で彼女を見つめた。ごつごつした顎がだらんと下がった。彼女のからだから手を離して、一歩|退《さ》がり、彼女の抱擁から逃れると、睨みつけるように彼女を見て、咳《せき》ばらいをした。
彼が抱擁を逃れても、彼女は両腕をあげた姿勢のままでいた。苦悩にくもった目が、八の字に寄せた眉の下で半ば閉じ、濡れてやわらかな赤い唇が震えていた。
スペードは荒々しい笑い声をあげて、黄褐色のカーテンのかかった窓ぎわへ歩いていった。そこに立って、彼女に背中を向けたまま、カーテンの隙間から中庭を見下ろしていたが、彼女が追ってきたので、くるりふり向くと、デスクにもどった。回転椅子にかけて、デスクに肘をつき、拳の上に顎を載せた姿勢で、彼女を見た。せばめたまぶたのあいだに、イエロー・グレーの目が光っていた。
彼は冷やかな口調で訊いた。「だれが、そんなばかげたアイデアを、きみの頭に吹きこんだ?」
「あたし、そんな気がして――」いいかけて、片手で口を抑えたが、両の目に新しい涙があふれだした。そして彼女は、極端なほど小さくて極端なほど踵の高い黒靴をはきながら、しっかりして、しかも優美な足どりで、デスクに近寄ると、そのわきに立って、「やさしくしてよ、サム」と、媚《こ》びるような言い方でいった。
スペードは声をあげて笑った。が、目はきらきら光っていた。「うちの亭主を殺したのはあんたね。そしてそのあとのセリフが、やさしくしてよ、サム、か」彼は両手を打ち合わせて、「驚いたものだ」といった。
彼女は白いハンカチを顔に押しあてて、こんどはだれの耳にも開きとれる声で泣きだした。
スペードは立ちあがって、彼女のすぐうしろに立ち、両腕を彼女のからだにまわして、耳と衿もとのあいだにキスをした。そして、「アイヴァ、泣くんじゃない」といった。が、その顔は無表情だった。彼女が泣きやんだと見ると、耳もとに口をよせて、ささやいた。「きょう、この事務所にあらわれたのはまずかったよ。利口なことじゃない。だれかに見られぬうちに、家へ帰ったほうがいい」
彼女は彼の腕のなかで、からだの向きを変え、彼と向きあうと、「今夜、来てくださる?」と訊いた。
彼は静かに首をふって、「今夜はだめだ」と答えた。
「でも、じきに来てくれるわね?」
「ああ」
「いつなの?」
「できるだけ早くだ」
彼は彼女の口にキスをし、戸口に導き、それを開き、「じゃ、さよなら、アイヴァ」といって送り出すと、ドアを閉めて、デスクにもどった。
そのあと彼は、チョッキのポケットからタバコとシガレット・ペーパーをとり出したが、巻きはじめるわけでなく、片手にペーパーを、もう一方の手にタバコを持ったまま、暗い目つきで、死んだパートナーのデスクを見つめていた。
エフィ・ペリンがドアを開いて、はいってきた。茶色の目に落ち着きがなかった。はいってくるなり、「どうだったの?」と訊いた。
スペードは何もいわなかった。暗い表情で、パートナーのデスクを見つめたままなのだ。
女秘書は眉をひそめて、デスクをぐるりまわって、彼のそばに近より、声を大きくして、「どうだったのよ?」と繰り返した。「あの後家さん、満足したみたいな顔で帰っていったけど」
「彼女、マイルズを撃ったのはおれだと思っている」唇を動かすだけにすぎなかった。
「それで彼女と結婚できるってわけね?」
それにはスペードも答えなかった。
彼女はスペードの頭から帽子をとって、デスクの上においた。つづいて、身をかがめて、動きを失った彼の指から、タバコの袋とシガレット・ペーパーをとりあげた。
「警察は警察で、サーズビーを撃ったのをおれだと考えている」
「だれなの、そのサーズビーというのは?」彼女はシガレット・ペーパーのパケットから一枚はがして、タバコの葉を移しながら訊いた。
「きみだったら、おれがどっちを撃ったと思う?」
その質問を彼女が無視しているので、彼はいった。「サーズビーというのは、あのワンダリーという娘の依頼で、マイルズが尾行していたはずの男だ」
女秘書の細い指がタバコを巻きあげた。彼女はそれの紙の合わせ目を舐《な》め、指を走らせてなめらかにし、端をひねって、スペードの口にくわえさせた。彼は、「ありがとうよ」といって、片腕を彼女のひきしまった腰にまわし、疲れたような顔を彼女のヒップに押しつけると、目を閉じた。
「それであなた、アイヴァと結婚する気なの?」彼女はスペードの薄茶色の頭髪を見下ろして訊いた。
「ばかなことをいわないでくれ」彼は低い声でいった。唇の動きにつれて、火のついていない巻タバコが上下にゆれた。
「彼女はばかなこととは思っていないわよ。思うわけがないじゃないの――あんなふうに、ふたりで楽しんできたんだもの」
彼はため息をついて、「彼女を知らなけりゃよかったと思うよ」といった。
「いまはそう思っているかもしれないけど」女秘書の声に意地の悪さがくわわってきた。「熱をあげてたときもあったじゃないの」
「おれは女とつきあうのに、あれしか方法を知らんのだ」と彼は愚痴をいって、「それにおれは、マイルズとは気が合わなかったこともある」
「そんな言葉、嘘よ、サム。だれが見たって彼女、シラミみたいに自堕落な女だけど、あたしにしたって、あれだけのからだに恵まれていたら、やはり同じシラミになったと思うわ」
スペードはいらいらするように、女秘書のヒップに顔を押しつけただけで、口をきかなかった。
エフィ・ペリンは唇を咬み、額にしわをよせ、男の顔をよく見るために、からだを曲げて、「マイルズを殺したの、あんがい彼女だとは思わない?」といった。
スペードは女秘書の腰から手を離して、まっすぐ坐り直し、彼女にほほえみかけた。おもしろがっているだけの微笑だった。ライターをとり出して、点火し、タバコの先に火をつけると、「きみは天使《エンジェル》だよ」と、タバコの煙を吐き出しながら、やさしい声でいった。「頭のからっぽな天使さ」
エフィはちょっとにが笑いをして、「あら、そうかしら。だったら、話してあげるけど、あたしがあのひとのところへ事件を知らせに行ったのは、けさの三時よ。そのとき、あなたのアイヴァは、外出先から帰ってきたばかりだったわ」
「ほんとうのことか?」彼は訊き直した。口もとに徽笑を浮かべたままだが、目が鋭くなっていた。
「彼女は着替えをすますまで、しばらくあたしを戸口に待たせたのよ。椅子の上に、外出着がぬぎ捨てたままで、その下に帽子とコートがのぞいていたし、いちばん上においたセーターなんか、まだあたたかかったわ。眠っていたといってたけど、嘘なのは明瞭よ。ベッドもしわになってたけど、寝たのでできたしわじゃなかったわ」
スペードは彼女の手をとって、かるくたたき、「きみは大した探偵さんだ。だが――」と首をふって、「彼女は彼を殺してはいないよ」
エフィ・ペリンは握られた手をふり離して、「あの女、あなたと結婚したがっているのよ、サム」と、にがにがしげにいった。
スペードは、頭と片手で、もうやめてくれというしぐさをした。
彼女は彼を睨みつけるようにして、「あなた、ゆうべ、彼女に会ったんでしょう?」と訊いた。
「会わないよ」
「正直に話して」
「正直にいってるよ。ダンディみたいなまねはしないでくれ。きみらしくもないことだ」
「じゃ、あなた、ダンディに追いまわされたのね?」
「なあに、彼とトム・ポルハウスが、朝の四時に、一杯飲ませてくれと、立ち寄っただけさ」
「じゃ、あのふたりも、そのなんとかいう男を撃ったのはあなただと見ているのね」
「そいつの名はサーズビーだ」彼はタバコの吸いさしを真鍮の灰皿に捨てて、新しいのを巻きはじめた。
「ねえ、そうなんでしょう?」彼女はしつっこかった。
「さあ、どうかな」彼は巻いているタバコから目を離さずに、「最初、彼らがそんなふうに考えたのはたしかだ。だからおれは、釈明しておいたんだが、どこまで納得してくれたかは疑問だよ」
「サム、あたしの顔を見て」
スペードはエフィの顔を見て笑いだしたので、その瞬間だけ、不安と安心感が彼女の顔で混ざりあった。
「あなたってひと、あたしを心配させてばかりいるわ」彼女はしゃべっているうちに、顔の真剣さをいっそう色濃くして、「自分のしていることに自信を持つのは結構だけど、抜け目がなさすぎるのもよしあしよ。いつか、しまったと思うときがあるわ」
スペードはため息をつくまねをして、頬を彼女の腕にこすりつけ、「それと同じことを、ダンディもいってた。だが、きみがアイヴァをおれに近づけないでおいてくれたら、そのほかのトラブルはなんとか切り抜けてみせる」そして立ちあがって、帽子をかぶりながらいった。「表のドアの『スペード&アーチャー事務所』の文字を消して、『サミュエル・スペード事務所』と書き変えさせてくれ。一時間もしたらもどってくる。おくれるようなら、電話する」
スペードはセント・マーク・ホテルのむらさき一色に統一した長いロビーを通って、フロントのデスクに近づき、赤毛のクラークに、ミス・ワンダリーはまだ泊まっているかと訊いた。赤毛のクラークは、ちょっと顔をそむけたが、すぐに向き直り、首をふって、「けさ、お発《た》ちになりました、スペードさん」と応えた。
「ありがとう」
スペードはデスクの前を通りすぎて、ロビーの奥にある小部屋へ向かった。そこには、ロビーに面したところに『ミスター・フリード』と記したマホガニーと真鍮製の三角板を載せたマホガニーの机を据えて、中年だか若いのだか年齢不詳の小肥りの男が、地味な黒服姿でおさまっていた。
スペードが近づくのを見ると、小肥りの男は立ちあがって、机をまわり、片手をさし出しながら彼を迎えて、
「やあ、スペードさん。アーチャーはとんだ目にあいましたな。お気の毒なことで」と、さし出がましいと思われずに、同情の言葉を吐ける習練を積んだ男の口調でいった。「ちょうどいま、『コール』で読んだところです。昨夜、このホテルに来ておられたのに、人の災難は判らんものですな」
「で、フリード、昨夜、彼と話しあったのかね?」
「いいえ、昨夜早く、わたしが出勤しますと、アーチャーがロビーに腰かけているのを見かけましたが、声もかけずに通りすぎました。あなたたちが仕事中のときは、見て見ぬふりをしていたほうがいいと知っているからです。あれがこの災難に関係があるんですか?」
「ないと思うが、いまはまだ、たしかなことは判らんのだ。だが、どうなったところで、このホテルには迷惑がかからぬようにする」
「よろしくお願いします」
「その点は安心しててくれ。ところで、ここに泊まっていた客のひとりについて、知らせてもらいたいことがある。ただし、おれが訊いたと、だれにもしゃべらんで」
「心得ています」
「けさ、ミス・ワンダリーという客が発《た》っていった。この客について、詳しいことを知りたいのだ」
「いっしょに来てください」フリードがいった。「判るだけのことは調べますから」
スペードは首をふって、そこを動かなかった。「おれは顔を出したくない」
フリードはなるほどとうなずいて、小部屋を出ていった。だが、ロビーで急に立ちどまって、ひっ返してきた。
「このホテルの探偵は、ハリマンが昨夜の当番なんで」とフリードがいった。「アーチャーを見かけたにちがいありませんよ。口どめしておいたほうがいいんじゃないですか?」
スペードは横目でフリードを見て、「それにこしたことはないが、ワンダリーという女に関係ないかぎり、大した問題じゃない。ハリマンはいいやつだが、口がかるすぎる。むしろ、口止めしなけれはならぬことだと思わせないほうが無事だろう」
フリードはまたうなずいて歩み去ったが、十五分ほどすると、もどってきて報告した。
「その女の客は、先週の火曜日に到着して、宿泊簿にはニューヨークからだとしてあります。荷物はトランクでなくて、バッグをいくつか持っていただけで、電話を部屋につないだこともなく、郵便物はあったにしてもわずかな数でした。ただ一度、三十五、六の長身で色の黒い男といっしょのところを見かけた者がおります。彼女は、けさ九時半に外出して、一時間後にもどってくると、支払いをすませて、バッグを車へ運ばせました。運んだボーイの話だと、車はナッシュのほろ付き大型車で、たぶんレンタカーだろうとのことです。つぎの宿泊先を書き残して行きましたが、ロサンゼルスのアンバサダー・ホテルとしてあります」
スペードは、「ありがとうよ、フリード。それだけ聞けば、大助かりだ」と礼をいって、セント・マーク・ホテルを出た。
事務所にもどると、エフィ・ペリンが打ちかけていたタイプの手をとめて、「あなたの親友のダンディがあらわれたわ。あなたのピストルを見たいんだって」
「それで?」
「あなたのいるときに来てくれといっといたわ」
「けっこうだ。しかし、こんどまたやってきたら、見せてやってくれ」
「それから、ミス・ワンダリーから電話があったわ」
「かかってくるころだと思っていた。で、彼女、なんといった?」
「あなたに会いたいんですって」そして彼女は机の上の紙片をとりあげた。そして、鉛筆で走り書きをしたそのメモへ目をやって、「彼女がいまいるところは、カリフォルニア・ストリートのコロネット・アパート、部屋ナンバーは一〇〇一。ミス・ルブランといって訪ねてきてほしいそうよ」
スペードは、「そのメモを渡してくれ」と、片手をさし出した。受けとると、ライターをとり出して、その焔を紙片に移し、燃えあがる紙片の片端をつまんだまま、そこだけを残して、ちぢれた黒い灰に変わるまで待った。そして、燃えきったと見ると、床に落として、靴の踵で踏みにじった。
女秘書は彼の動作を、不快そうな目で見守っていた。
スペードは彼女に微笑の顔を向けて、「こうするものなんだよ、エフィ」というと、また外へ出ていった。
四 黒い鳥
グリーンのクレープ・シルクのドレスにべルトをしめたミス・ワンダリーがドアを開いた。ここはコロネット・アパートの一〇〇一号室。彼女の頬は赤らんでいた。暗赤色の髪を左側で分けて、右のこめかみへかけてゆるやかに波打たせているのだが、それがかなり乱れている。
スペードは帽子をとって、「おはよう」といった。
彼の笑顔が彼女の顔に、わずかながら微笑を誘った。スミレ色ともいえるブルーの目が、不安の表情を隠しきれなかった。かるく会釈をした彼女が、低いおずおずした声で、「おはいりになって、スペードさん」といった。
彼女は彼を、ドアを開け放したままのキチン、バス・ルーム、寝室の前を通り、クリーム色と赤の二色で飾った居間へ導いた。そこがとり散らかっているのを詫びて、「何もかもひっくり返したままみたいで、すみません。まだ荷ほどきもしてない状態でして」といった。
そして彼女は、スペードの帽子をテーブルの上におき、自分はクルミ材の長椅子に腰を下ろした。スペードは彼女と向かいあった位置の、楕円形の背のついた紋じゅす張りの椅子にかけた。
彼女は指を組んだりほどいたりして、それを見つめていたが、しばらくしてから、「スペードさん、わたくし――」と口を切った。「とても、とても、恐ろしい告白をしなけれはなりませんの」
スペードは如才《じょさい》なくほほえんでみせたが、彼女が顔を伏せたまま、せっかくの微笑も見ようとしないので、黙りつづけた。
「あの――昨日、申しあげたあの話――みんな、作りごとでした」彼女は口ごもりながらいって、みじめなほど怯《おび》えた目で、彼を見上げた。
「ああ、あの話ですか」スペードはかるくいってのけた。
「あれだったら、ぼくたちもほんとうのこととは考えていませんでした」
「とおっしゃるのは――?」彼女の目のみじめなほどの怯えに、困惑の色がくわわった。
「ぼくたちが信じたのは、あなたの二百ドルのほうでした」
「それ、どういうことで――」彼女には、彼の言葉の意味が判りかねる様子だった。
スペードはおだやかな口調で説明した。「あなたの話が真実だとしたら、二百ドルの謝礼は非常識な金額だったからです。あの程度の仕事には多すぎましたよ」
彼女の目の色が急に明るくなった。長椅子から数インチ腰をあげ、また下ろし、スカートの乱れを直し、からだを乗り出すようにして、熱心な口調で訊いた。「でしたら、いまではわたくしの言葉を信じてくださるのね?」
スペードはてのひらを上に向けるしぐさで、彼女の質問をさえぎった。顔の上半分は渋面だが、下半分はほほえんでいて、「信じる信じないは、これからのあなたの話しだいです」といった。「何より先に知っておきたいのは、あなたの名前――ミス・ワンダリーとミス・ルブランのどっちがほんとうの名です?」
彼女は顔を赤らめて、ささやくような声でいった。「ほんとうの名はオショーニシーです――ブリジッド・オショーニシー」
「いいですか、ミス・オショーニーシー、この問題で厄介なのは、殺人がふたつも起きたことです」――彼女はぎくっとした――「一晩に殺人事件がひきつづいて起きれば、世間は騒ぎだし、警察が徹底的な捜査に踏み切る。そうなると、だれがあなたの依頼を引き受けるにしても、仕事がとてもやりにくくなるし、費用も相当なものを覚悟しなければならない。これはけっして、生やさしいものでは――」
スペードはいいかけた言葉を切った。彼女がもはや聞いてもいないで、彼がしゃべりおえるのを待っているのが見てとれたからだ。
「スペードさん、ほんとうのことをおっしゃって」声が震えて、ヒステリーの発作寸前の状態だった。顔がやつれ、必死の目の色である。「ゆうべ、あんなことが起きたのは、わたくしのせいなのでしょうか?」
スペードは首をふって、「そんなことはない。もっとも、ぼくの知らないことがあれば別だが」といった。「あなたは、サーズビーが危険な男なのを警告しておられた。もちろん、妹さんのことその他で嘘をついたが、それは大した問題じゃない。ぼくたちは最初から、あの話を信用していなかったのだから」と、彼はその撫《な》で肩をゆすって、「あなたのせいだなんていう考えはありませんよ」
彼女は、「ありがとう」と、とても低い声でいってから、首を左右にふって、「でも、わたくし、これからずっと、自分を責めつづけなけれはなりません」と喉に手をあてがって、「昨日の午後のアーチャーさんは、あんなにお元気で、あんなにお丈夫だったのに――」
「おやめなさい」スペードは命令するような口調でいった。「あの男は、危険を承知で行動していたのです。ぼくたちの仕事に、危険はつきものですからね」
「あのかた――あの、結婚していらしたのでしょうか?」
「もちろん、していました。生命保険が一万ドル。子どもはいない。細君から嫌われていた」
「おっしゃらないで、そんなこと!」彼女は泣き出しそうな声でいった。
スペードはまたも肩をゆすって、「現実はそうでした」というと、腕時計にチラッと目をやってから、椅子から立ちあがり、彼女の長椅子のそばに近寄って、「そんなことを気に病んでいる場合じゃない」といった。明るいが、きびしい声だった。「いま、このサンフランシスコのいたるところを、警察の連中、地方検事事務所の連中、新聞社の連中が、何か情報はないものかと、鼻づらを地面に押しつけんばかりにして走りまわっている。あなたはいま、どんな気持でいるのです?」
「あなたに救い出していただきたいのです――この恐ろしい災難から」彼女は震え声で答え、おずおずと手を彼の袖口にふれさせて、「スペードさん、そのひとたち、わたくしのことを知っているのでしょうか?」と訊いた。
「いまはまだ、知っていませんよ。だからぼくは、早くあなたに会いたかった」
「何を――どんなことを、そのひとたち、考えるでしょうか? もし、きのうわたくしが、あなたの事務所を訪問したのを知ったら――そして、そのときの話が嘘なのを知ったら」
「怪しいと思うでしょうね。だからぼくは、あなたに会うまで、あの連中をごまかしてきた。何も彼らに、詳しい事実を教えるまでのことはないと考えた。必要とあれば作り話で、彼らを眠らせておくのも悪いことじゃないとね」
「あなたご自身は、わたくしがあれに関係してるとお考えではないのでしょうね――あのふたつの殺人に?」
スペードはにやりと笑って、「それを聞くのを忘れていた。かかわりあいがあるんですか?」
「いいえ」
「それならけっこう。ところで、警察にはなんといっておきますかね?」
彼女は長椅子の端でもじもじして、彼のきびしい視線を逃れようと焦るのか、長いまつげの下の瞳が動揺した。
からだまでが小さくなった感じで、叱られた小娘を思わせた。
「わたくしのこと、警察に知らせなくてはいけないのでしょうか? そんなことになるのなら、死んでしまったほうがましですわ。理由はいまのところ説明できませんけれど、なんとかあなたのお力で、警察につかまらないですむようにしていただけないでしょうか? いまのわたくしが、警察官の尋問に耐えられるとは思えません。それくらいなら、死んでしまったほうが……お願いですわ、スペードさん。助けていただけますかしら?」
「やってやれないこともないが」とスペードは応えて、「だが、それには詳しいことを知っておく必要がある」
彼女は彼の足もとにひざまずいて、顔を見上げた。その顔は青ざめ、恐怖でひきつり、手をかたく握りしめていた。
「わたし、じつは、ちゃんとした生活を送ってきた女じゃないの」彼女は泣き声で告白した。「悪い女よ――あなたの想像以上に。でも、悪いところばかりじゃないわ。わたしを見て、スペード。顔を見てくれたら、そんな悪い女じゃないと判るわ。あなたなら、判るはずよ。そして、少しはわたしのいうこと、信用してくれるのじゃないかしら。わたし、ひとりぼっちで、こわいの。あなたに断わられたら、頼れるひとがいないのよ。むろん、こちらが詳しいことを打ち明けないで、信じてくれというのが無理なのは判っているわ。でも、わたしはあなたを全面的に信頼しているのよ。ただ、話せないだけ。いまは話せないの。いつか話せるようになったら、みんな話すわ。ねえ、スペード、わたし、こわいの。あなたを信頼するのがこわいのよ。いいえ、信頼できないひとっていう意味じゃないの。ほんとうに信頼しているわ。でも、フロイドのことを信頼してしまったばかりに……信頼できるひとなんて、ひとりもいなくなってしまったの。ねえ、スペード、あなたならわたしを救えるのよ。さっきも、救えないものでもないといったわ。救ける力のあるひとと思えばこそ、きょう、来てもらったの。でなかったら、とっくにこの土地を逃げ出してしまったわ。こうやって、ひざまずいて、お願いしてるのでも、判るのじゃなくて? 救ける力のないひとに、こんなことはしないわ。自分勝手なお願いなのは判っているの。でも、スペード、何も訊かないで、わたしの態度を大目に見て、救けてやるといって! あなたは強いひとだわ。知恵があって、勇気があって。ねえ、スペード、わたしを救って! わたし、とてもあなたが必要なの。わたしを救ける力のある男は、あなたのほかにひとりもいないわ。いくら、その気になっても、力のないひとではだめですもの。わけも話さずに、救けてという権利はないけれど、お願いしないではいられないの。ねえ、スペード、お願い! いやな顔をしないで。わたしを救って!」
彼女の長い哀願を、スペードは息をとめて聞いていたが、いま、かたく結んだ唇のあいだから、ため息を大きく吐き出して、「きみはひとりでやってのけられる。男の援助なんか必要としないのだが、それにしても、うまいものだな。うますぎるよ。ことに、その目だ。それから、ねえ、スペード、大目に見て、なんていったときの声の震わせ方」
彼女は急に立ちあがった。顔は口惜しさで赤く染まっていたが、スペードの目を真正面から見据えて、
「そんなふうに見られても仕方がないけれど」といった。「だけど、あなたの援助がほしいのよ。とてもほしいの。とても必要なの。あの嘘は言い方だけで、話したことの内容には嘘がないのよ」そして、顔を横に向け、きりっとした姿勢もくずして、「でも、諦めるわ。信じてもらえないのも、わたしの罪ですもの」といった。
スペードは顔を赤らめて、目を床に落とし、つぶやくよぅにいった。「そういうきみが、おれのにが手なんだ」
ブリジッド・オショーニシーはテーブルに歩み寄って、スペードの帽子をとりあげた。もどってくると、帽子を手にしたまま彼の正面に立ったが、それをさし出すわけでもなく、帰りたいのならこれを受けとって、さっさと出てゆくがいいといった態度だった。ただ、その顔は青ざめて、鋭くなっていた。
スペードは自分の帽子を見ながら、「昨夜は、どんなことがあった?」と訊いた。
「フロイドが九時にホテルに来たので、いっしょに散歩に出たの。アーチャーに彼を見せておくために、わたしが誘い出したのよ。そして、ギアリー・ストリートだと思うけれど、レストランに立ち寄って、食事をして、ダンスをして、ホテルにもどったのが、だいたい十二時半。フロイドが玄関で帰っていったので、扉のなかで見ていると、アーチャーが道路の向こう側を尾行していったわ。ふたりはホテル前の道路を下っていったのよ」
「下っていったというと、マーケット・ストリートのほうへだな」
「そうよ」
「アーチャーは、ブッシュ・ストリートとストックトン・ストリートが交差するあたりで撃たれたのだが、ふたりはあんな場所で何をする気だったのだろう?」
「そこ、フロイドの住んでいるところの近くじゃないの?」
「それがちがうんだ。フロイドがきみのホテルから自分の住居へ向かったとすると、あそこはコースから十ブロックもはずれている。まあ、それはそれとして、ふたりが行ってしまったあと、きみは何をした?」
「ベッドにはいったわ。そして、けさ、食事に出て、新聞の見出しが目についたので、読んでみて――それからあとは、あなたの知ってるとおりよ。ユニオン・スクエアにレンタカー会社があるのを見ておいたので、いそいでとんでいって、一台借り出し、ホテルへ荷物をとりにもどったの。きのう、部屋を捜索されたので、場所を変更しなければと思ったところなの。このアパートは、きのうの午後に探しておいたので、移ってくるとすぐに、あなたに電話したってわけよ」
「セント・マーク・ホテルのきみの部屋が捜索されたのか?」
「そうなの、あなたの事務所へ行ってるあいだに」彼女は唇を咬んで、「このことは、あなたにも黙っているつもりだったけれど」
「というのは、捜索された理由を訊かれたくないからか?」
彼女はぐあいわるそうにうなずいた。
スぺードは不きげんな顔をした。
彼女は手にした帽子を少し動かした。
彼はいらいらするように大声で笑って、「おれの目の前で、帽子をひょこひょこ動かすのはやめてくれ。おれにできるだけのことはしてやるといったはずだぜ」
彼女はすまなそうにほほえんで、帽子をテーブルにもどし、彼と並んで長椅子に腰を下ろした。
スペードがいった。「おれは、わけを聞かずにきみを援助することを承諾した。だが、何も知らなけりゃ、何をしていいのか判らんよ。たとえば、きみのフロイド・サーズビーだ。少しは彼についての知識がなくては、おれとしても動きようがないじゃないか」
彼女は目を伏せ、彼とのあいだの長椅子の上に、爪先を伸ばした指で8の字を書きながら、しゃべりだした。「彼とは東洋で初めて会ったの。そして先週、香港からいっしょに帰国したのよ。わたしに手を貸してくれると約束したからなのに、わたしがひとりぼっちで、彼を頼りにしているのを利用して、けっきょくはわたしを裏切ったんだわ」
「どんなふうに?」
彼女は首をふるだけで、何も答えなかった。
スペードはいらだって、眉をひそめ、「彼を尾行させた理由は?」と、さらに訊いた。
「彼がわたしに内緒で、何をしているのかを知りたかったの。泊まっているところさえ教えないんですもの。どこで、何をしているのか、だれと会っているのか、そういうことを知っておきたかったのよ」
「アーチャーを殺したのは、彼かね?」
彼女は意外そうな表情でスペードを見上げ、「そうよ。きまってるじゃないの」といった。
「彼は肩から吊るしたホルスターに、ルガーを入れて持ち歩いていた。だが、アーチャーはルガーで撃たれてはいない」
「あのひとの外套のポケットには、いつもリヴォルヴァーが入れてあったわ」
「きみはそれを見たのか?」
「ええ、なんども。いつだって、かならず入れてあったわ。ゆうべは見なかったけれど、外套を着ているかぎり、かならず持っていたはずよ」
「なぜ二挺も持ち歩くんだ?」
「あのひとは、ピストルで生活していたのよ。香港で聞いた話だけれど、あのひとが東洋へわたったのも、アメリカを逃げだしたある賭博師のボディ・ガードに雇われたからで、その賭博師がとつぜん姿を消してしまったので、香港に住みついたそうなのよ。噂だと、賭博師の失踪については、フロイドがいちばん詳しく真相を知ってるんですって。でも、わたしは何も知らないわ。知っているのは、彼がピストルをからだから離さないことと、眠るときはかならずベッドのまわりに、しわくちゃな新聞紙を敷きつめていたこと――そうしておけは、だれかが近づけば足音で目がさめるからなのよ」
「きみも結構な遊び仲間をみつけたものだな」
「そういう男でなければ、わたしを助けられなかったからだわ」彼女はあっさりいってのけて、「もっとも、わたしに忠実でいてくれたらだけれど」
「なるほど、忠実であってくれればだな」スペードは下唇を親指と人差し指でつまみ、暗い顔つきで彼女を見つめた。鼻の上の縦じわが深くなり、左右の眉が寄った。「ところできみがいま、追いこまれているのは、どの程度の難局なのだ?」
「考えられるかぎり最悪のものよ」
「命の危険があるのか?」
「わたしは英雄的な女じゃないので、死がいちばん凶悪な危険だと思うわ」
「すると、やっぱりあれが――?」
「そうよ。あなたに助けてもらえないと」――彼女は身震いして――「あんな目にあうのは、ここにこうして坐っているみたいに確実なのよ」
スペードは唇をつまんでいた指を離して、その指で髪を掻きあげ、「おれは神さまじゃないから、空中から奇跡をとり出すわけにいかない」と、いらいらするようにいって、時計に目をやり、「時間がどんどん経っていくのに、きみは手がかりらしいものを何ひとつあたえようとしない。サーズビーを殺したのは、だれなんだ?」
彼女はしわくちゃのハンカチを口にあてがって、その下から、「知らないのよ」といった。
「きみの敵の仕業か、それとも彼の敵か?」
「知らないわ。彼のであってほしいけれど、もしかしたら――でも、判らないわ」
「あの男、きみを助けるのに、どんなことをするはずだった? つまり、きみが彼を香港から連れてきた理由だが」
彼女は怯えた目でスペードを見て、何もいわずに首をふった。顔はやつれて、みじめなほど意固地になっていた。
スペードは立ちあがって、両手を上着のポケットに突っこみ、きびしい顔で彼女を見下ろし、
「きみがそんな態度なら、この事件の解決は見込みうすだ」と、荒々しい口調でいった。「おれとしても手の打ちようがない。きみが何をしてもらいたがってるのか、はっきりしないからだ。きみ自身、自分の希望が判っていないみたいだ」
彼女は首うなだれて、泣きだした。
スペードは喉の奥で、けものが吠えるような音を立てて、テーブルへ帽子をとりにいった。
「ま、まさか、警察へ行くのじゃないでしょうね」彼女は顔をあげずに、喉にからんだような声で、「そんなこと、なさらないで」と哀願した。
「警察へだって?」スペードは叫んだ。怒りに駆られた大声だった。「冗談じゃない。わざわざ出かけてゆくまでのことはない。けさの四時から、やつらに付きまとわれて困っている。ここへ来るのだって、やつらを巻くのに苦労した。なんのためにと訊くことはない。おれの頭に、きみを救けてやろうという、気ちがいじみた考えが浮かんだからだ。だが、やめたよ。そんな気持はなくなった」彼は帽子をかぶり、つばをぐいとひき下ろして、「これからは、じっとして動かずにいたら、やつらのほうから押しかけてくる。そこでおれは、知ってるだけのことをしゃべる。その結果がどうなるかは、きみの運しだいさ」
彼女も長椅子から立ちあがって、彼の前に立ちはだかった。しかし、その両膝が震えていた。つづいて、恐怖にひきつった顔を仰むけたが、口もとと顎の痙攣を抑えきれなかった。彼女はいった。
「わたしのわけの判らない話、よく我慢して聞いてくれたわ。お礼をいうわよ。それから、救けてくれる気持だったことにも。だけど、本人のわたしが考えても見込みうすだわ。やってみるだけむだよ」そして彼女は右手をさし出し、「くれぐれも感謝しているわ。そして、あとはわたしの運にまかせるつもりよ」
スペードはもう一度、喉の奥からけものの吠え声のような音を出して、長椅子に腰を落とし、「ドルをいくら持っている?」と訊いた。
その質問は彼女を驚かせた。下唇を咬んで、「残っているのは、五百ドル程度よ」としぶしぶ答えた。
「わたしてくれ」
彼女はためらって、おずおずとスペードの顔を見た。彼は口と眉、両手、両肩で、怒りのジェスチャーをやって見せた。彼女は寝室へはいっていったが、すぐに片手に札束を握ってもどってきた。
彼は札束を受けとって数えてから、「四百ドルしかないぜ」といった。
「少しは生活費に残しておかなくちゃ」と、胸に手を押しあてて、細い声で言い訳をした。
「もう少し、どうにかならんのか?」
「できないわ」
「金に換えられる品が何かあるだろう?」彼は言い張った。
「指輪がいくつかと、宝石類が少し」
「質屋へ持っていこう」彼は片手をさし出して、「リミーディアルがいい店だ――ミッション・ストリートと五番街のかどにある」
彼女は哀願するように、スペードを見たが、彼のイエロー・グレーの目は冷たく、情け容赦のない色だった。彼女はのろのろと片手をドレスの衿の下に入れ、小さな札束を抜き出して、待っている彼の手の上に載せた。
彼は札束のしわを伸ばして、数えた――二十ドルと十ドル紙幣が四枚ずつに五ドル紙幣が一枚だった。彼はそのうち、十ドル紙幣二枚と五ドル紙幣を彼女に返して、残りをポケットに突っこむと、立ちあがって、いった。
「おれはこれから、きみのために何をしてやれるかを探りに行く。いいニュースをつかみしだい、いそいでもどってくる。入口のベルが四つ――長く、短く、長く、短く――鳴ったら、おれだと思ってくれ。送ってくることはないよ。ひとりで出られるから」
部屋の中央に突っ立って、ブルーの目で呆然と見送っている彼女を残して、彼は出ていった。
スペードは、入口のドアに『ワイズ・メリカン&ワイズ』と記した弁護士事務所の受付室にはいっていった。交換台にいる赤毛の娘が、「あら、いらっしゃい、スペードさん」といった。
「やあ、こんにちは」彼は応えて、「シドはいるかい?」と訊いた。
そしてスペードは娘のそばに立ち、まるまっちいその肩に片手を載せ、彼女がプラグをさし入れて、送話口にしゃべりだすのを待った。「ワイズさん、スペードさんが、おいでになりました」そして彼女は彼の顔を見上げて、「どうぞ」といった。
スペードは感謝のしるしに小娘の肩をひねってから、受付室を横切り、薄暗い電灯のともっている廊下へ出て、まっすぐ進むと、突きあたりに曇りガラスをはめたドアがあった。なかが事務室で、書類を山と積みあげたばかでかいデスクの向こうに、オリーブ色の皮膚、疲れたような卵型の顔、黒い髭にフケの目立つ小男の姿が見えていた。
小男はスペードを見ると、火の消えた葉巻の吸いさしで椅子をさし示して、「そいつをこっちへひきずってきて、かけてくれ。昨夜はマイルズがえらい目にあったそうだな」そういう小男の疲れた顔にも、やや甲高い声にも、なんの感情もこもっていなかった。
「そうなんですよ。きょう、うかがったのも、じつはその件なんで」とスペードは眉をしかめて咳ばらいをした。
「どうやらこの事件で、検視官とやりあう羽目になったようなんで、お尋ねしておきたいのは、われわれ私立探偵にも牧師や弁護士みたいに、依頼人の秘密、身元、その他何やかやについて、黙秘権を行使できるものかどうかなんで」
シド・ワイズは肩をそびやかし、口の両端をひき下げて、「やってみたらいいじゃないか。検死審は裁判とはちがうんだ。いちおうやってみるさ。きみはこれまでにも、それ以上のことをたびたびやりながら、なんとか無事に切り抜けてきたはずだぜ」
「それはまあそうだが、こんどはダンディのやつが自信満々なんで、面倒なことになりかねないんです。そこであんたにお願いだ。いっしょに来てくれませんか。会ってもらいたい人間がいるんです。打つだけの手は打っておきたいんでさ」
シド・ワイズはデスクの上の書類の山を見やって、渋い顔をしたが、けっきょくは椅子から腰をあげて、窓のそばの衣裳戸棚へ向かった。そして帽子かけから帽子をとりながら、
「あいかわらず厄介な男だな、サム」といった。
その日の夕方五時十分すぎに、スペードは事務所へもどった。エフィ・ペリンはスペードのデスクで『タイム』を読んでいた。スペードはデスクに尻を載せて、
「何かあったか?」と訊いた。
「なんにもなかったわ。あら、どうしたの? カナリアを呑みこんだみたいな顔をして」
スペードは満足そうににやにや笑って、「おれたちにも運が開けてきたようだよ。以前からおれは考えていた。マイルズがどこかへ行ってしまうか、どこかで死んでくれたら、おれたちの収入がぐっと増えるだろうとだ。おれの名前で、花を届けてもらおうか」
「届けておいたわ」
「まったく、気のきく天使だよ、きみは。ところで、きみの女性の第六感だが、きょうはどんなふうに働いている?」
「なんのこと?」
「ワンダリーという女を、どう思う?」
「あたしはあのひとの味方よ」エフィは躊躇することなく答えた。
「あの女はいろんな名前を持っている」スぺードは考えながらいった。「ワンダリー、ルブラン、そして彼女自身は、オショーニシーが本名だといっている」
「いいじゃないの。電話帳の名前をみんな持っていたって気にすることはないわ。いいひとだもの。それはあなただって知ってるはずよ」
「それが怪しくなってきた」スペードはエフィ・ペリンに、眠そうにまばたきをして見せて、くすくす笑いを洩らし、「この二日間に七百ドルもわたしてよこしたんだから、≪いいひと≫にはちがいないが」
エフィ・ペリンはまっすぐ坐り直して、「サム、あのひとが苦しんでいるのに見捨てたり、その弱みにつけこんで絞りとったりしたら、あたしが承知しないわよ。一生、あなたってひとを軽蔑しますからね」
スペードは不自然な笑い方をして、すぐにその顔を渋面に変えた。その表情もまた不自然なものだった。そして何かいいだそうとしたが、廊下に面したドアが開いて、だれかがはいってくる音がしたので、口をつぐんだ。
エフィ・ペリンは立ちあがって、事務室へ出ていった。スペードは帽子をぬいで、デスクの椅子についた。女秘書がもどってきて、名刺をさし出した。ジョエル・カイロとしてある。
「変な男よ」女秘書がいった。
「だったら、会おう。通したらいい」スペードがいった。
ジョエル・カイロ氏は中肉中背で細みの骨格、浅黒い皮膚の持ち主だった。頭髪は漆黒、なめらかで光沢があった。顔立ちからして、あきらかに中近東のレヴァント人だった。スクエア・カットの大型ルビーが長方型カットのダイヤモンド四個に囲まれて、ダーク・グリーンのネクタイの上にきらめいている。狭い肩に合わせた仕立ての黒の上着が、やや肥り気味の尻の上でほんの少し拡がって、最近の流行スタイルよりは細目のズボンが、まるまっこい脚をぴったり包んでいた。パテント革の靴の上部は、淡黄褐色のスパッツでおおってある。セーム皮の手袋をはめた手に黒の山高帽を持ち、ひょいひょいと小きざみに、踊るような足どりで、スペードのほうに歩み寄ってくる。シープル香水の匂いがぷんとにおった。
スペードは来訪者にかるく頭を下げて、つづいてその頭で椅子を示し、「おかけください、カイロさん」といった。
カイロは帽子を胸にあてがって、気取った格好の会釈をしてから、甲高い声で、「失礼します」といいながら椅子に腰を下ろした。そしてきちんとした姿勢のままで足首を組み、山高帽を膝の上におくと、黄色の手袋をぬぎはじめた。
スペードは椅子のなかでからだをゆすりながら、「で、カイロさん。ご用はなんでしょうか?」と訊いた。愛想はいいが無造作な口ぶり、椅子のなかのからだの動かし方、それら全部の態度が、前日にブリジッド・オショーニシーに同じ質問をしたときと少しのちがいもなかった。
カイロは帽子をさかさにして、そのなかに手袋を落とし、さかさにしたままのそれを、デスクの彼に近いほうのすみにおいた。ダイヤモンドが左手の中指と小指にきらめいている。右手の薬指にはめた指輪の大型ルビーは、まわりをダイヤモンドに囲まれたところまでが、ネクタイ・ピンのそれとそっくりだった。やわらかで、手入れの行きとどいた手が、大きすぎるわけではないのだが、ぶよぶよと膨らんだ感じで不格好に見えている。彼はてのひらをこすりあわせ、摩擦音を立てながら、「初めてお目にかかるのに、無躾《ぶしつけ》なこととは思いますが、ご同僚の不幸な死にお悔みを述べさせていただきます」
「ごていねいに恐縮です」
「で、スペードさん、お尋ねしますが、この不幸な出来事と、その少しあとに起きたサーズビーという男の死とのあいだには、新聞記事が書き立てているように、何か――そのう――関連性というようなものがあるのでしょうか?」
スペードは文字どおり空白の顔で何もいわなかった。
カイロは立ちあがって、「失礼しました」と頭を下げ、ふたたび椅子に腰を下ろすと、デスクの片隅に、てのひらを伏せた両手を並べておいた。「スペードさん、わたしが失礼と知りながら、このような質問をしましたのは、ただの無意味な好奇心によるものではありません。じつはわたし、ある美術品を――これは、その――なんと申しましょうか――つまりその、誤って紛失したのですが、なんとかして取りもどそうと努めているところで、あなたのお力を借りたらと考えたうえでおうかがいしたようなわけなのです」
スペードは注意深く聞いているのを示すために、眉をあげてうなずいて見せた。
「その美術品は小さな彫像でして」とカイロは、言葉を慎重に選びながらつづけた。「黒い鳥の姿をあらわしたものです」
スペードはもう一度うなずいて、関心ぶりを如才なく示した。
「この品を取りもどしていただけたら、わたしは正当な持ち主のために、五千ドルの謝礼をさしあげる用意があります」カイロはデスクのすみの片手をあげて、幅広い爪をもつ不格好な人差し指で、空中の一点を押さえるような動作をして、「そしてまた――どう表現したらいいでしょうか――要するに、これについては、どんな質問も行なわれないと約束する用意もあります」それから、その手をふたたびデスクにもどして、もうひとつの手と並べておくと、私立探偵に明るい笑顔を向けた。
「五千ドルとは大した金額ですな」スペードはカイロをじっと見つめていった。そして、「それはよほど――」と、つぎの言葉をいいかけたとき、ドアを指でかるくたたく音がした。
スペードが、「おはいり」と声をかけると、ドアがほんの少し開いて、エフィ・ペリンの顔と肩がのぞいた。彼女は、グレーの毛皮の衿のついた黒いコートを着て、黒いフェルトの小さな帽子をかぶっていた。
「まだ何かご用がありまして?」彼女が訊いた。
「もうないよ。帰っていい。出てゆくとき、表のドアに鍵をかけていってくれ」
「では、お先に」彼女はドアを閉めて、姿を消した。
スペードは椅子のなかでからだの向きを変え、ふたたびカイロと顔を合わせて、「それはよほど重要な意味のある品なんでしょうな」といった。
エフィ・ペリンが廊下へ出て、ドアの閉まる音が聞こえてきた。
カイロの顔に微笑が洩れると、その手が内ポケットから、黒くて平たい小型のピストルをとり出して、「では、恐締ですが、両手を首のうしろへまわして、指を組みあわせていただきましょう」といった。
五 レヴァント人
スペードはピストルを見ようともしなかった。両腕をあげ、椅子のなかで反りかえり、首のうしろで指を組み合わせた。目はなんの表情も示さずに、カイロの浅黒い顔に焦点を合わせていた。
カイロは言い訳めいた咳ばらいをして、唇を神経質にぴくぴくさせた。顔はすっかり血の気を失っている。黒い目も力なく、照れくさそうな様子だが、それでいて、恐ろしいくらい真剣だった。「スペードさん、この部屋を捜索させていただきたいのです。あらかじめお断わりしておきますが、邪魔をなさると、まちがいなく撃《う》ちますから」
「好きなようにやるがいい」スペードの声は、顔と同様、まったくの無表情だった。
「立っていただきましょうか」男はスペードの厚い胸に突きつけたピストルをちょっと動かして、指図をした。「武器をお持ちになっておられぬのを確かめておきたいのです」
スペードは腰をあげて、脛《すね》で椅子を背後に押しやり、脚を伸ばしてまっすぐ立った。
カイロは彼のうしろへまわった。ピストルを右手から左手に持ちかえると、スペードの上着の裾をめくって、その下をあらためた。つづいて、ピストルの銃口をスペードの背中のすぐ近くにかかげたまま、右手で横腹をさぐり、胸をたたいた。そのときのレヴァント人の顔は、スペードの右肘のすぐうしろ、六インチほど下のところにあった。
スペードがいきなり右へからだの向きを変え、肘をぐいと落とした。カイロは顔をうしろへ引いたが、同時にスペードの右足の踵がパテント革の爪先を踏んづけ、小男の動きを封じたので、肘の落下を避けきれなかった。それは頬骨のすぐ下を直撃した。男は大きくよろめいて、スペードの足が彼の足の上にのっかっていなかったら、ぶっ倒れるところだった。驚いている浅黒い顔の前で、スペードの手が肘を伸ばし、同時にピストルを強打して、それがカイロの手を離れた瞬間、指がそれにふれていた。ピストルはスペードの手のなかで、ひどく小さなものに見えた。
つづいてスペードはカイロの爪先から足を離し、くるりからだの向きを変えると、左手で小男の衿をつかみ――ルビーをセットしたピンでとめたダーク・グリーンのネクタイが、指関節のあいだからはみ出した――右手は奪いとった凶器を上着のポケットにしまいこんだ。スペードのイエロー・グレーの目が暗く曇り、顔は木彫りの面のように無表情で、わずかに口もとに不機嫌の色が見えていた。
カイロの顔は、苦痛と口惜しさでゆがんでいた。黒い目に涙を浮かべ、肘の直撃を受けて赤くなった頬骨のあたりを除けば、黒光りのする鉛色だった。
スペードは、レヴァント人の衿くびをつかんだ手で、ゆっくり相手の向きを変えさせ、彼が最前まで腰かけていた椅子の前まで押していって、そこに立たせた。鉛色の顔の苦痛の色が、けげんそうな表情と交代した。スペードはほほえんだ。夢でも見ているような、おだやかな微笑だった。彼の右肩が数インチもちあがった。その動きで、肘を曲げた右腕が突き出された。こぶし、手首、前膊、肘、上膊のすべてが、鋼鉄塊のように凝りかたまり、一個所だけにしなやかさを残す肩の力で、急激に駆動したのだ。握りこぶしはただ一発で、カイロの顔の下半分を――顎の片側、口の端、かん骨と顎の骨のあいだの頬を、みごとにとらえていた。
カイロは目を閉じ、意識を失った。
そのぐったりしたからだを、スペードが椅子の上にひきずりあげた。カイロはだらんと手を伸ばし、頭を椅子の背にもたせ、口をぽかんと開いたまま横たわった。
スペードはつづいて、気を失った男のからだを最小限度に動かしながら、ポケットの中身を順々にとり出して、デスクの上に積みあげた。最後にポケットを裏返してしまうと、自分の椅子にもどって、タバコを巻いて火をつけ、戦利品の点検にとりかかった。いそがず、あわてず、完全を期した慎重な調査だった。
やわらかな黒皮の大きな札入れがあった。中身はさまざまな金種のアメリカ紙幣が三百六十五ドルと五ポンド紙幣が三枚、カイロの名前と写真の載ったギリシア政府発給のパスポート、折りたたんだピンク色の薄葉紙五枚(これにはアラビア文字らしいものが、びっしり書きこんであった)、アーチャーとサーズビーの死体発見を報じた新聞記事のぞんざいな切り抜き、冷酷で大胆な目と垂れ下がった唇を持つ黒人女の葉書大の写真、使い古して黄色くなり、折り目がすり切れだした大型の絹ハンカチ。そのほかには、ジョエル・カイロと銅版印刷をした名刺が数枚と、その夜のギアリー劇場の一階席入場券だった。
札入れの中身のほかは、シープル香水の匂いの浸みこんだ派手な色の絹ハンカチが三枚、プラチナとレッド・ゴールドの鎖付きのロンジンの時計は、時計本体がプラチナで、鎖の端には、梨形をした小さなホワイト・メタルのペンダントがついていた。それから、アメリカ、イギリス、フランス、中国の硬貨がひと握り、半ダースほどの鍵を吊るしたキー・ホルダー、銀と縞瑪瑙《しまめのう》の万年筆、模造皮のケースに入れた金属製の櫛、サンフランシスコ市街の小型ガイドブック、サザン・パシフィック鉄道の手荷物《チッキ》引換え証、半分ほど残っている香錠の袋、上海の保険代理業者の業務用の名刺、そしてベルヴィディア・ホテルの用箋が四枚、その一枚には、サミュエル・スペードの名前と、事務所とアパートのアドレスが、小さな凡帳面な字体で書きつけてあった。
スペードはそれらの品を注意深く調べてから――時計の裏蓋をあけて、何か隠してないかと確かめるまでの手間をかけた――親指と人差し指を使って、気を失っている男の脈を診《み》た。それだけすませて、相手の男の手首を放すと、椅子にもどって楽な姿勢をとり、新しくタバコを巻いて、火をつけた。それをすっているあいだの彼の顔は、ときどき意味もなく、わずかに下唇を動かすことのほかは、平静すぎて、ばかになったかと思われるほどだった。しかし、そのうちにカイロがうめき声を洩らし、まぶたを動かしだしたので、スペードの顔も明るくなり、目と口もとに心あたたかい微笑が浮かんできた。
ジョエル・カイロは徐々に意識をとりもどした。最初に両目を開いたが、その視線が天井の一角に固定するまでには、ちょっとした時間が経過した。つぎに口を閉じ、ごくり唾を呑みこみ、そのあとで鼻からふとい息を吐き出した。つづいて、片足をひっこめ、股に載せた手を上向きにした。それから、椅子の背にもたせた頭を起こして、さめきらぬ意識のままに部屋のなかを見まわしていたが、スペードの顔に気がつくと、坐り直した。そして、口を開いて何かいいかけたが、びくっと顔をしかめて、スペードのこぶしに殴られた頬を手で押さえた。そこは赤く脹れあがっていた。
カイロは痛さに耐えられぬように、歯のあいだからいった「スペードさん、わたしに撃つ気があれば、あなたを撃てたんですよ」
「そういうわけだな」スペードはそれを認めた。
「だが、わたしはそんなことをしなかった」
「そうだったな」
「それだのに、武器を失ったわたしを、なぜ殴ったんです?」
「すまなかったな」スペードはいって、歯をむき出しにした凄味のある笑いを見せ、「だが、五千ドルで喜ばされたあと、じつはヨタ話と知ったときのおれの気持を考えてみろ」
「誤解ですよ、スペードさん。あの申し出は嘘じゃありません。いまだってその考えでいるんです」
「え? なんだって?」スペードは心から驚いていった。
「あの彫像がもどれば、五千ドル提供する用意があります」カイロは傷ついた顔から手を離し、きちんと坐り直して、ふたたびビジネスライクな態度になった。「あなた、お持ちなんですか?」
「いや」
「この部屋にないのでしたら」とカイロは、わざとらしいほどていねいな口調で疑念をあらわした。「身の危険をおかしてまで、わたしの捜査を妨げようとなさったのはなぜなのです?」
「見たこともない男が部屋にはいりこんで、凶器を突きつけるのを、おとなしく腰を据えたまま、黙って見ていなけりゃならんのか」そしてスペードは、デスクの上のカイロの所持品を指ではじいて、「おれのアパートの所番地まで詞べあげてあるようだが、あそこはもう調査ずみか?」
「ええ、スペードさん、調査させてもらいました。彫像がもどれば、五千ドルを支払う用意がありますが、しかし、できることなら本来の所有者に余計な出費をかけさせたくないと考えるのが、当然のことではありませんか」
「その男はだれなんだ?」
カイロは首をふって、ほほえみ、「その質問にはお答えしないことにしておりますから、ご諒承ねがいます」
「おれが諒承する?」スペードはきつく結んだ口もとに微笑を浮かべて、「おい、カイロ、きみを生かすも殺すもおれの気持しだいなんだぜ。きみのほうからやってきて、昨夜の二つの殺しにからんで、警察が喜ぶことをやってのけた。こうなったからには、おれと手を組むか組まないかの二つにひとつだ」
カイロの微笑はいぜんとしてとりすましたもので、動じる様子はいささかもなかった。「わたしはこの行動を起こすに先立って、あなたについては、かなり立ち入った調査をさせてもらいました」と彼はいった。「そしてあなたが、もうけ仕事をとり逃がすようなつまらぬ考えを抱くには、あまりにも賢明なお方と確信しました」
スペードは肩をゆすって、「そんな仕事がどこにあるんだ」と訊いた。
「わたしは五千ドル提供しております」
スペードはカイロの札入れを指の背でたたいて、「これには五千ドルなんてはいっていないじゃないか。思いがけないカモが舞いこんだと喜んだのに、口先だけじゃがっかりさせられる。紫色の象を見つけたら、百万ドル支払うと聞かされても、話だけではなんの意味もないんだぜ」
「そうです、そうです。ごもっともで」カイロは目をすぼめて、考えこみながら、「つまりあなたは、わたしの申し出の保証がほしいとおっしゃるのですね?」彼は赤い唇を指の先でこすって、「着手金がその役目をつとめてくれんでしょうか?」
「いいだろう」
カイロは紙入れへ手を伸ばしたが、ためらって、その手をひっこめながらいった。「あのなかの紙幣を、ええと、そうですな、百ドルおとりねがいましょうか」
スペードは紙入れをとりあげて、百ドル紙幣をひきぬいたが、ちょっと眉をひそめて、「二百ドルにしてもらうと、なおのことうれしいのだが」といった。
カイロは何もいわなかった。
「きみは最初、おれがその鳥を持っていると推測した」スペードは二百ドルをポケットに突っこみ、紙入れをもとのようにデスクの上においてから、歯切れのいい口調でいった。「だが、それは見当はずれだった。そこできみの第二の推測は?」
「あなたでしたら、あれがどこにあるかを知っておられる。少なくとも、どこを突っつけばとりもどせるかをご存知のはずだと考えました」
その言葉を、スペードは肯定も否定もしないで、耳にはいらなかったような様子だった。そして彼は質問した。
「きみの依頼人がほんとうの所有者だという証拠を見せてもらえるのかね?」
「残念ながら、証拠といっては何もありません。しかし、これだけはいえます。ほかのだれにしたところで、自分がその所有者だと立証できるだけの証拠を握ってはいないのです。そしてわたしの推測どおり――そう推測すればこそ、こうしてお訊ねしたわけですが――あなたがもし、この問題についての知識をお持ちなら、わたしの依頼人の手からあの品が奪いとられた経過を思いかえしていただくだけで、彼がほかのだれよりも――たとえばサーズビーという男などより――正しい権利を主張できる立場にあるのがお判りいただけるはずです」
「で、彼の娘は?」とスペードが訊いた。
それを聞くと、カイロが急に興奮しだして、目をみひらき、口を大きくあけ、まっかになった顔を向けると、声を震わして、「彼《ヽ》は真の所有者じゃない!」と叫んだ。
「ほう、そうかね」スペードはおだやかに、漠然といった。
「あの男、このサンフランシスコに来ているんですか?」カイロの声は甲高さがいくぶん薄らいだが、興奮がさめきらないのが明らかだった。
スペードは眠そうに目をしばたたいて、「どうだね、カイロ。きみもおれも、ここらで手札を見せあったほうがよさそうに思えるが」
カイロもようやく平静をとりもどして、「わたしには、そうは思えません」と、声だけは当たりのいい調子で、「あなたの知識がわたし以上なら、その知識を利用させていただいて、その報償を五千ドルの範囲でお支払いしますが、何もご存知ないとすると、わたしがあなたを訪問したのは誤りだったわけです。お言葉どおりにこちらの手札をお見せしたら、誤りをいっそう大きなものにするだけです」
スペードはどうでもいいようにうなずいて、デスクの上の品に手をふって見せ、「きみの所持品はあれで全部だ」といった。そして、カイロがそれをポケットにしまいおえるのを見てから、「では、きみのために黒い鳥を入手するまでの諸経費と、成功したときは謝礼として五千ドル払ってもらえると考えていいんだね?」と念を押した。
「その計算はこうなるんです、スペードさん。五千ドルから前渡し金をさし引いたもの――総額で五千ドルです」
「いいだろう。しかし、おれはこれをあくまでも合法的な行為の報酬と解釈するぜ」スペードの顔は、目尻に笑いのしわがよっているのを除けば、厳粛そのものだった。「いい換えれば、おれはきみに、人殺しや盗みをやるために雇われたわけじゃない。可能なかぎり正当かつ合法的な方法で、目的の品をとりもどすことにある」
「そのとおり――可能なかぎり、です」カイロも同意した。彼もやはり、目の光を満足そうにやわらげているほかは、厳粛そのものの顔を見せて、「そして、どんな場合でも、慎重な行動をおねがいします」と立ちあがって、帽子を手にして、「ご用がありましたら、ベルヴィディア・ホテルに泊まっておりますから、ご連絡ください。部屋番号は六三五号です。では、スペードさん、これからはわたしたちふたりの協力で、双方に最大の利益がもたらされるように期待しましょう」そして、ちょっとためらってから、「わたしのピストルをお返しいただけるでしょうか?」といった。
「そう、そう。忘れていたよ」
スペードは上着のポケットからピストルをとり出して、カイロの手にわたした。
カイロは受けとるが早いか、それをスペードの胸に突きつけて、「おそれいりますが、両手をデスクの上にのせていただけませんか」真剣な口調だった。「この事務所を捜査しておきたいのです」
スペードは、「やられたな」といってから、大声に笑って、「まあ、いい。やるがいい。邪魔はしないよ」といった。
六 つきまとう小男
ジョエル・カイロが出ていったあとの三十分間、スペードはデスクを前にして、眉をひそめたままで考えこんでいた。それから、問題を頭から追い払おうとするかのように、「よし、この返礼はかならずしてみせるぞ」と大声にいうと、デスクの引出しからマンハッタン・カクテルのボトルと紙コップをとり出した。紙コップに三分の二ほどカクテルを注ぐと、いっきに飲みほして、ボトルを引出しにもどし、紙コップは屑籠に投げこんだ。そして外套を着て帽子をかぶり、電灯を消して、夜の灯の輝く街へ出た。
見ると、彼の事務所のある建物の街筋のかどに、年のころ二十か二十一ぐらいの小柄な若者が、小粋なグレーの縁なし帽に外套姿といった格好で、所在なげにたたずんでいた。
スペードはサッター・ストリートをカーニー・ストリートのほうへ歩いていって、葉巻店へ立ち寄り、ブル・ダラムの刻みタバコの二包みを買った。店を出てみると、反対側の町かどで電車を待っている人が四人いて、そのなかにさっきの若者の顔が見えていた。
スペードはパウエル・ストリートのハーバート・グリルで夕食をとった。グリルを出たのが八時十五分前。若者は近くの装身具店のショーウインドーをのぞきこんでいた。
つぎにスペードはベルヴィディア・ホテルへ行って、フロントにカイロ氏が部屋にいるかと訊くと、お出かけですとの返事だった。例の若者は、ロビーのいちばん奥の椅子に腰かけていた。
それからスペードはギアリー劇場へ行き、ロビーを探したが、カイロの姿が見あたらないので、外へ出て、劇場の向こう側の歩道に立った。若者はその通りを少し下ったところのマークワード・レストランの前の人混みに混じってぶらぶらしていた。
八時十分すぎに、ジョエル・カイロが姿をあらわした。独特の歩き方である、踊るような小刻みな足どりで、ギアリー・ストリートを登ってくる。スペードがいるのに気がつかないので、私立探偵のほうから肩をたたいた。彼は一瞬ぎょっとした様子を示したが、すぐにいった。「ああ、そうでしたな。あなたは切符を見ておいでなんだ」
「そういうわけだ。ところで、きみに見せたいものがある」スペードはカイロを、開場を待つ観客たちから少し離れたところまで引っ張っていって、「マークワード・レストランの前に、縁なし帽をかぶった若僧がいる」といった。
カイロは低い声で、「どれどれ、見てみましょう」というと、まず最初、時計に目をやり、それからギアリー・ストリートの通りを見上げ、正面にかかげてある、ジョージ・アーリスがシャイロックに扮した劇場看板をながめ、それからその視線を、瞳を動かさずに横に移動して、縁なし帽の若者の、落ち着きはらった青白い顔と反りかえったまつ毛の下の目を見た。
「あいつはだれだ?」スペードが訊いた。
カイロは笑顔をスペードに向けて、「わたしの知らない男ですよ」と答えた。
「あの若僧、さっきからおれの尾行をつづけている」
カイロは下唇を舌で濡らして、「そうだとすると、わたしたちがいっしょのところを見られたのは、まずかったかもしれませんな」といった。
「そんなこと、おれに判るはずがない」スペードは答えた。「どっちみち、見られてしまったんだ」
カイロは帽子をとって、手袋をした手で髪を撫でつけると、注意深く帽子を頭にのせて、嘘でないのを示すように、はっきりした口調でいった。「スペードさん、誓っていいますが、あの若者をわたしは知りません。ぜんぜん関係のない男です。わたしの名誉にかけていいますが、あなたのほかにはだれの援助も求めていないのです」
「すると、相手方のひとりか?」
「そうかもしれませんな」
「確かめておきたかったのだ。うるさくまつわりついたら、痛い目にあわせぬわけにいかんからね」
「どうぞご自由に。わたしの友人ではありませんから」
「そうと判れば結構。そろそろ幕が開くぜ。おやすみ」スペードはいって、西行きの電車に乗るために、道路を横切った。
縁なし帽の若者も同じ電車に乗りこんできた。
スペードはハイド・ストリートで電車を降りて、彼のアパートへの道路を登っていった。部屋は荒らされたというほどではなかったが、捜査の跡が歴然と残っていた。スペードはシャワーを浴びて、ワイシャツとカラーを新しいのととり替えると、ふたたび外出した。サッター・ストリートまで道路を登って、西行きの電車に乗った。若者もまた同じだった。
コロネット・アパートの五、六ブロック手前で電車を降りたスペードは、すぐそばにある、高い、茶色のアパートメントハウスに歩み入って、呼び出しベルのボタンを三つ、いっしょに押した。ブザーが鳴って、入口の扉の錠がはずれた。彼はなかにはいって、エレベーターの前も階段も通りすぎ、黄色の壁の長い廊下を建物の裏手まで進み、エール錠のかかった裏口を見出して、そこから狭い中庭へ出た。中庭の先は暗い裏通りで、それをスペードは二ブロックほど歩き、カリフォルニア・ストリートを横切って、コロネット・アパートに到着した。まだ九時半にもなっていなかった。
ブリジッド・オショーニシーはスペードを迎えて、異常なくらいうれしがった。それからして、彼がもどってくるのを危《あや》ぶんでいたのが明らかだった。彼女は、そのシーズンにブーローニュ風と呼ばれて流行したブルーがかった色調で玉髄《ぎょくずい》色の肩紐のついたサテンの部屋着を着て、ストッキングも上履きもブーローニュ風だった。
赤とクリーム色に統一された室内はきちんと片付いていて、黒と銀色の背の低い花瓶に盛られた花がみずみずしかった。暖炉には樹皮を半剥ぎにした小さな薪が三本燃えていた。スペードがそれを眺めているあいだに、彼女が彼の帽子と外套をしまいに行った。
「いいニュースを持ってきてくださったの?」彼女は部屋へもどってくると、訊いた。微笑の顔に不安の色がはっきりあらわれて、息をつめている。
「すでに知られていることのほかは、知られないですみそうだ」
「警察が、わたしの調査をはじめないかしら?」
「そんなことはしないよ」
彼女はほっとしたように息を吐いて、クルミ材の長椅子に腰を下ろした。顔もからだも緊張がゆるんで、賛美するような目で彼を見上げ、「でも、どんな方法で確かめられたの?」と訊いた。好奇心というより、どうしてそこまで判ったのかと、不思議に思っているようだった。
「サンフランシスコでは、たいていのことは金の力で片がつく。買いとれるってわけだ」
「そうだとすると、あなたに迷惑をかけなくてすむのね。さあ、ここにおかけになって」彼女は長椅子の上でからだをずらして、席をつくった。
「筋の通ったトラブルなら、気にするようなおれじゃないが」彼はむしろ不機嫌にいってのけた。
そして彼は暖炉のそばに立ち、無遠慮に彼女を観察した。じろじろ眺めまわし、腹の底まで見きわめて、正しい評価を下してやるぞといわぬばかりの目付だった。あまりにも露骨な吟味の視線を浴びて、彼女はやや顔を赤らめたが、それでもいまは、目の色にはにかみをわずかに残しているものの、以前にくらべれば、よほど自信をとりもどした様子だった。そこで、並んで腰かけるようにと彼を誘ったのだが、彼のほうはなおしばらく突っ立ったままでいて、いちおう彼女の誘いを無視する態度を見せておいたうえで、はじめて長椅子へ近づいていった。
スペードは腰を下ろしながら、「きみぐらい、うわべと実際のちがう女もめずらしいと思うが、どうだろう?」といった。
「どういう意味だか、よく判らないわ」彼女はけげんそうな目で彼を見上げて、押し殺したような声でいった。
スペードは説明して、「口ごもったり、顔を赤らめたり、その他いろいろやって見せるところは、女学生そっくりだが、しかし――」
彼女はいっそう顔を赤くし、彼を見ないようにして、いそいで答えた。「きょうの午後、わたしは悪い女――あなたが想像しているのより、ずっと悪い女だといったはずよ」
「それだよ、おれがいってるのは、たしかにさっき、それとまったく同じ言葉をいった。だが、それは練習を積んだセリフにすぎない」
彼女はどぎまぎして、涙が出かかったが、急に声を出して笑って、「そう見えるのなら、それでもいいわ。たしかにわたし、うわべとはまるでちがった人間よ。実際は、信じられないくらい腹黒い八十の老婆で、商売は鍛冶屋。でも、うわべのわたしが身についてしまったポーズなら、いまさら捨てろといわれてもどうなるものじゃないわ」
「いいんだよ、それで」彼は彼女を安心させるようにいって、「ただ、ほんとうのきみが善良な娘だとすると困るというだけだ。善良な娘と手を組んだのでは、もうけ仕事にならんからね」
「大丈夫よ、善良な娘なんかにならないから」彼女は片手を胸にあてがって、約束した。
「おれは今夜、ジョエル・カイロに会ってきた」スペードは社交的会話をはじめるような口調でしゃべりだした。
とたんに彼女の顔から明るさが消えて、彼の横顔を見つめる目を不安の色がおおい、用心深くなった。スペードは両脚を伸ばし、組みあわせた足の先を眺めるだけで、何かを考えているような様子はまったく見せなかった。
長い沈黙がつづいてから、彼女が不安げに訊いた。
「あなたは――彼をご存知だったの?」
「今夜、会った」スペードは彼女を見ないで、気がるな会話の調子を変えずにいった。「彼はジョージ・アーリスの舞台を見に行くところだった」
「話をしたの?」
「ほんの一、二分。開幕のベルが鳴るまでだ」
彼女は長椅子から立ちあがり、暖炉に歩み寄って、火を掻きおこした。それから、マントルピースの置物の位置を少し変え、部屋の奥のテーブルへシガレットの箱をとりに行き、カーテンの乱れを直してから、もとの席にもどった。彼女の顔は平静で、落ち着いていた。
スペードは彼女を横目で見て、にやにやしながら、「よくやるな。うまいものだ」といった。
彼女は顔色も変えずに、「あのひと、どんなことをいったの?」と訊いた。
「何について?」
彼女はちょっとためらってから、「わたしのことをよ」
「何もいわなかった」スペードは彼女に向き直って、ライターの火を、彼女のくわえた巻タバコの先へ持っていった。木彫りの悪魔の面のような顔に目だけがきらめいていた。
「だったら、なんの話をしたの?」彼女はじりじりしてくるのを、冗談めかした口調にまぎらして訊いた。
「黒い鳥の件だ。それをとりもどしてくれたら、五千ドルの謝礼を提供するといった」
彼女はハッとした様子で、そのはずみに、歯がタバコの端を咬み切った。そしてすばやく、スペードの顔を見てから、不安げなその目をそらした。
「もう一度、暖炉の火をかき立てて、そこらの品をおき直して歩かなくていいのかい?」とスペードは、ふざけたような口調でいった。
彼女は声をあげて笑った。明るい、ほがらかな笑い声だった。咬み切ったタバコを灰皿に捨てると、明るい、ほがらかな目でスペードを見て、「やめておくわ」といってから、「で、あなたの返事は?」と訊いた。
「五千ドルは大金だよ」
彼女はほほえんだ。しかし、スペードが微笑に同調するかわりに、きびしい目を彼女に向けているのに気づくと、彼女の微笑はうすれ、とまどい、やがて消えてしまった。そしてそのあとに、傷ついた困惑の表情があらわれていた。「もちろんあなたは、そんな言葉、本気で考えはしなかったでしょうね?」
「本気にとってはいけないのか? 五千ドルは大金だぜ」
「でも、スペードさん。あなたはわたしに手を貸すと約束したのよ」彼女は彼の腕に両手をおいて、「わたしはあなたを頼りにしてたわ。それだのに、まさかあなたは――」彼女の声がとぎれた。そして両手を彼の袖から離して、握りあわせた。
スペードは、不安におののく彼女の目にやさしくほほえみかけ、「信頼感を金銭で計算するのはやめよう」といった。「おれはきみを援助すると約束した。たしかに約束した。だが、きみは黒い鳥のことを、ひと言もいわなかった」
「でも、あなたは知っていたはずよ――でなかったら、話し出すわけがないもの。ともかく、いまは知っているわ。それだのに、わたしを責めるなんて――」彼女のコバルト・ブルーの目が必死に哀訴していた。
「五千ドルは」とスペードが三度繰り返していった。「大金だよ」
彼女は肩と両手をもちあげて落とすしぐさで、敗北を認める気持を示して、「あなたの協力をお金でせりあうのだとしたら、わたしの敗けだわ」と、がっかりしたような小さな声でいった。「そんな大金、わたしの力ではどうにもならないもの」
スペードは声をあげて笑った。短い笑いだが、辛辣《しんらつ》な響きがあった。「きみの口から出るにしては、いい言葉だ。きみにしたところで、おれの協力を金で買おうとした。ほかに何か提供したかね? きみ自身の秘密、この問題の真相、きみを援助するのに必要な知識、何ひとつ話してくれなかった。要するに、金だけで、ほかのものはゼロで、おれの協力を買いとりたかったのじゃないのか? 売り物なら大きな金額のほうに気持が動くのが当然だろう」
「わたしは持っているお金の全部をさし出したわ」白い輪に縁どられた目に涙がきらめき、声がかすれて顫《ふる》えていた。「あなたの足もとにひざまずいて、あなたの情けにすがり、あなたの協力なしには絶望だと訴えたわ。ほかに何か、提供するものがあるの?」そこまでしゃべって、急に彼のほうににじり寄り、あらあらしい声で、「わたしのからだなら、買いとることができるの?」と叫ぶようにいった。
ふたりの顔は数インチしか離れていなかった。スペードは両手で彼女の顔をはさんで、軽蔑するような乱暴なやり方で、彼女の口にキスをした。それから坐り直して、「その点、よく考えてみるとしよう」といった。顔に怒りがあふれて、けわしい表情だった。
男の手が離れたあとも、彼女の顔は麻痺したように、その位置から動かなかった。
スペードは立ちあがって、舌打ちをし、「こんなことをしていても、なんの意味もない」と吐き出すようにいった。そして、二足で暖炉に近寄ると、燃えている薪を睨み、歯咬《はが》みをした。
女は動こうともしなかった。
彼は彼女のほうをふり向いた。鼻の上に縦じわが二本、深く刻まれている。「実際のところ、きみが正直に真実を話そうが話すまいが、おれの知ったことじゃない」と彼はいった。「きみがどんな|いかさま《ヽヽヽヽ》を企んでいようと、きみの秘密がなんであろうが、おれにはかかわりのないことが。ただ、おれの協力を求めているのなら、きみの行動が衝動的なものでない証拠を見せてほしいのさ」
「もちろん、考えてのうえでのお願いよ。信じて! わたしを信じて! いちばんいい方法と思えばこそ、お願いしてるのだわ」
「だったら、証拠を見せてくれ」彼は命令するようにいった。「それで初めて、きみに協力する気持になれる。もっとも、いままでだって、できるだけのことはしてきたつもりだ。これからだって、必要とあれば、目隠しされたままの状態で突進しないわけでもない。だが、おれの気持を考えて、もうちょっときみを信額できるように仕向けてくれてもいいじゃないか。きみがこの事件の真相を確実に知っていて、ただの臆測で動きまわっているのでないこと、きみの方針をつらぬけば、最後にはそれが正しかったと判るはずだと、おれ自身が自信を持ちたいのだ」
「わたしを信頼して、もう少しのあいだ、何も聞かないで、助けてくださらない?」
「もう少しのあいだって、いつまでだ? きみはいったい、何を待っているのだ?」
彼女は唇を咬み、うつむいて、「それには、ジョエル・カイロと話しあわなくては」と、ほとんど聞きとれないような声でいった。
「だったら、今夜にでも、会わせてやる」とスペードは時計に目をやって、「劇場はそろそろ終幕だ。ホテルへ電話すれば、つかまえられるよ」
彼女は目をあげて、警戒するような表情を見せ、「いいえ、それはだめ。彼に、わたしの居場所を知られたくないの。こわいのよ」
「おれのアパートでは?」とスペードが提案した。
彼女はためらって、唇をぴくぴくさせていたが、「でも、彼、出てくるかしら?」といった。
スペードは、かならず来るはずだと、うなずいてみせた。
「じゃ、呼び出してもらうわ」と、彼女は目をかがやかして、長椅子から立ちあがり、「わたしたち、すぐに出かけましょう」といった。
そして彼女は隣室へ駆けこんだ。スペードは部屋のすみのテーブルに歩み寄って、音を立てないように引出しを開いた。なかにはトランプが二組とブリッジ用の得点カード、真鍮ねじ、赤い紐、金のシャープペンシルがはいっていた。引出しを閉めて、タバコに火をつけていると、彼女が小さな黒い帽子をかぶり、グレーのキッド皮のコートを着て、スペードの帽子と外套を手にもどってきた。
ふたりのタクシーが、スペードのアパートに到着すると、入口のまん前に黒っぽい色のセダンが停まっていて、アイヴァ・アーチャーひとりが運転台にいた。スペードはタクシーをセダンのうしろに停めさせて、彼女に帽子をちょっと上げてみせてから、ブリジッド・オショーニシーといっしょに建物のなかにはいった。しかし、ロビーのベンチのそばで足をとめて、「ここで少し待っていてくれないか。じきにすむから」といった。
「ええ、いいわ」ブリジッド・オショーニシーが、ベンチに腰を下ろしながら、「いそぐことはないのよ」と答えた。
スペードは外へ出て、セダンのところへ行った。車の扉を開けると、アイヴァがすぐに、「話があるの、サム。部屋へ行っていいでしょう?」といった。顔は緊張で青ざめていた。
「いまはだめだ」
アイヴァは歯を鳴らして、鋭く訊いた。「あの女、だれよ?」
「いまは、説明している時間がないんだよ、アイヴァ」スペードは腹も立てずにいった。「で、なんの話だね?」
「だれなのよ、あの女?」アイヴァはアパートの入口を顎でしゃくって、同じ言葉を繰り返した。
スペードは彼女から顔をそむけて、道路の先を見た。つぎの角にあるガレージの前に、例の二十か二十一ぐらいの小づくりの若者が、小粋なグレーの縁なし帽子に外套を着て、壁に背をもたせて、ぼんやり立っていた。スペードは眉をひそめて、目をふたたびアイヴァの片意地な顔にもどして、「何かあったのか?」と訊いた。「こんな夜おそく、訪ねてきては困るよ」
「あなたの気持が、だんだん判ってきたわ」彼女は不服をいった。「さっきは、事務所へ訪ねてきてはいけないというし、いまは、アパートへ来るのじゃないという。つまり、あなたのあとを追うな、というのね。だったら、なぜそうとはっきりいってくれないの?」
「いいかね、アイヴァ。きみにはそんな態度に出る権利はないはずだぜ」
「そうよ。わたしに権利はないわ。あなたのことには、なんの権利もないんでしょうよ。でも、これまでは、あると思っていたわ。愛してくれてるみたいなことをいうので、わたしはうっかり――」
スペードはうんざりしたように、「いまは、そんなことで議論をしている時間がないんだ。話というのはなんだ?」
「こんなところじゃ話せないわ。ねえ、サム、部屋へ行ってもいいでしょう?」
「いまはだめだ」
「なぜだめなの?」
スペードは何も答えなかった。
彼女は唇を咬んで、ハンドルに向き直り、怒ったように前方をみつめ、エンジンを作動させた。
セダンが動きだすと、スペードは、「おやすみ、アイヴァ」と、車の扉を閉め、車が走り去るまで、帽子を手にそこに立っていた。
それから、アパート内にもどると、ブリジッド・オショーニシーが明るい笑みを浮かべてベンチから立ちあがり、ふたりは彼の部屋へあがっていった。
七 空間に描くGの字
スペードの寝室は壁にとりつけたベッドをはねあげると居間に使用できて、いまは居間の状態だった。彼はブリジッド・オショーニシーの帽子とコートを受けとって、彼女をクッションつきの揺り椅子にくつろがせると、ベルヴィディア・ホテルへ電話した。カイロは劇場からもどってきていなかった。スペードは自宅の電話番号をいって、カイロが帰ってきたら、すぐに電話するようにと言伝てた。
それからスペードはテーブルのそばの肘かけ椅子に腰を下ろすと、なんの前置きもなしに、導入部をいっさい省略して、数年前に北西部で起きた事件のことを語りだした。終始変わらぬ事務的な語り口で、強調や間をおくことをいっさい控え、ときどき少しの言い直しはあったが、起きた出来事を細かな点にいたるまで、経過どおりに正確に伝えるのを主眼にしているのが明らかだった。
ブリジッド・オショーニシーは初めのうち、あまり気を入れて聞いてはいなかった。話そのものに興味をおぼえるよりも、彼がいきなり語りはじめたことに驚くのが先で、彼女の関心はもっぱら、そんな話をはじめた彼の意図にあった。しかし、話が進むにつれて、しだいにその内容に惹きつけられて、いつか熱心に耳を傾けていた。
ワシントン州のタコマ市で不動産業を営むフリットクラフトという男が、ある日、昼の食事に事務所を出たまま、二度ともどってこなかった。その日は四時からゴルフの約束があり、それも昼の食事に出かける三十分前に彼のほうから申しこんだものなのに、その約束も守らなかった。妻子はその後、彼の姿を見ないのだが、夫婦仲は円満と見られていて、男の子がふたり、上が五歳で下が三歳だった。
住居はタコマ市の郊外、パッカードの新車を持ち、成功したアメリカの実業家の生活にふさわしい家具調度をことごとく備えていた。
フリットクラフトは父親から七万ドルの遺産を相続し、不動産業に成功したので、失踪した時点では、だいたい二十万ドルほどの資産があった。事業は順調で、し残した仕事からしても、姿を消す準備に事務を整理した形跡はなく、たとえば大きな利益をもたらす取引が失踪の翌日に成立することになっていた。出かけるにさいして、持ち出した金も五、六十ドル以上のものがあるとは思えなかった。過去数カ月の行動を調査しても、生活上の暗い秘密とか情婦の存在とかの疑惑は皆無とみてまちがいないのだった。
「といったわけで」とスペードはいった。「この男、握りこぶしを開いたみたいに、パッと消えてしまったんだ」
話がそこまで進んだとき、電話のベルが鳴った。
「もしもし」スペードが受話器にいった。「カイロ君か?……ああ、スペードだ。会いたい用件ができた。おれのアパートまで来てくれないか――ポスト・ストリートだ。いますぐだぜ……なるほど。それもそうだな」彼は彼女を見て、口をすぼめたが、そのあと、すぐにいった。「じつは、ここにミス・オショーニシーが来ていて、きみに会いたいといってるんだ」
ブリジッド・オショーニシーは顔をしかめて、椅子のなかでもじもじしたが、何もいわなかった。
スペードは受話器をおいて、「カイロは数分以内に到着する」と彼女にいってから、「それが起きたのは一九二二年だ」とさっきの話をつづけた。「一九二七年に、おれはシアトルの大きな探偵事務所で働いていた。その事務所にフリットクラフト夫人があらわれて、夫とそっくりの男をワシントン州東部の都市スポキャンで見かけたひとがいるから、調査してくれといった。おれがさっそく現地へ出向いて調べたところ、フリットクラフトにまちがいなかった。彼はすでに二年のあいだ、スポキャンの町に、チャールズ・ピアスと名乗って暮らしていた。チャールズは彼のファースト・ネームだ。商売は自動車のブローカーで、年収二万から二万五千ドルといったところ。妻と生まれたばかりの男の子があって、スポキャン市の郊外に家を所有し、シーズン中はいつも午後四時からゴルフに出かけていた」
スペードはフリットクラフトを発見したあと、どのような処置をとるべきかの明確な指示を受けていなかったので、ダウンポート・ホテルの彼の部星で、フリットクラフトと話し合った。フリットクラフトには罪の意識がまったくなかった。最初の家族にはじゅうぶんな財産を残してきたし、自分のとった行動は完全に道理にかなったものと信じているのだ。彼にとって気がかりな点はただひとつ、その合理性をどう説明したらスペードに理解してもらえるかのもどかしさだった。彼はその日まで、この行動についてはだれにも話したことがなかった。合理性の説明が必要でなかったからで、これが初めての試みだったのだ。
「おれは了解したよ」スペードはブリジッド・オショーニシーにいった。「だが、フリットクラフト夫人は納得しないで、ばからしい言い訳だといった。あるいはそうかもしれない。それはともかく、これで事件は解決した。夫人はスキャンダルを世間に知られるのを恐れ、また、彼女を騙した――と彼女はこの出来事を解釈していた――夫の行為からして、すっかり愛想をつかしているのだった。そこでふたりは、世間に内緒で離婚して、万事が無事におさまった。
さて、この事件が起きたのは、つぎのような原因によるものだった。昼の食事に行く途中、彼はあるビルの建築現場を通りかかった――まだ骨組みだけのビルだ。すると、その八階か九階から、鉄材か何かが落ちてきて、彼のそばの舗道にぶちあたった。彼のからだを掠《かす》めるくらい近かったが、激突はまぬがれた。だが、それが舗石を砕いて、その破片が彼の頬を撃った。皮膚を剥ぎとった程度だが、傷痕が残って、おれが会ったときもまだ目立っていた。彼はその話をしながら、いとおしいみたいに指で撫でていたよ。もちろん、彼はその場に立ちすくんだ。彼にいわせると、ただの恐怖以上のショックを感じたそうだ。たとえていえば、だれかが≪人生≫という箱の蓋を開けて、なかの|からくり《ヽヽヽヽ》を見せたようなショックだ」
フリットクラフトは善良な市民であり、善良な夫で父親だった。それも外部から強制されたわけでなく、周囲と歩調を合わせた生き方に、もっとも心安まるものを感じる性格だったのだ。彼はそのように育てられた。彼がつきあうのは、そのような人たちばかりで、彼が知る人生とは、清潔で秩序があり、健全で信頼できるものであった。ところがいま、鉄材が落下してきたことで、本来の人生がそのようなものでないのを示された。善良な市民、夫、父親である彼も、事務所とレストランとのあいだの路上で、鉄材落下の事故により、この地上から簡単に消し去られる。人間の生命はまったくでたらめに奪いとられ、盲目的な運命が見のがしてくれているあいだ生きているにすぎない、と彼は悟った。
もっとも、正確にいえば、彼の心をかき乱したのは、このような運命の非条理性ではなかった。それは彼も、最初のショックから遠のくと受け容れることができた。彼の心が動揺したのは、これまでの日常生活を条理的に秩序立ててきたのが、人生と歩調を合わせていたからでなくて、むしろそれを踏みはずしていたためなのを発見したことだった。彼自身が語っていた。鉄材落下の現場から二十フィートと歩かないうちに、新しく覗いて見た真実の人生に生き方を適応させないかぎり、二度とふたたび心の安らぎを回復できぬのを知ったのだと。そして彼は、昼の食事を食べ終えるまでに、適応の方法を見出していた。彼の人生は鉄材落下の偶然的な事故で終結したかもしれなかった。だから、ただ簡単にどこかへ行ってしまうことで、この人生を変えてしまうべきだ。もちろん彼は妻子を愛していた。少なくとも、世間の人々と同程度には。しかし、彼がいなくなっても、食うに困らぬだけのものは残してあるし、彼の家族への愛情にしても、家族の者を失うことが耐えられぬ苦痛だというほどではないのだった。
「といったわけで、彼はその日の午後にシアトルへ行って、そこから船でサンフランシスコに移った。それからの二年間、そのあたりを放浪したあとで、ふたたび北西部に舞いもどり、スポキャンの町に落ち着いて、結婚した。第二の妻は、第一の妻とは似ていなかった。それでも両者は、ちがうところよりは似ている点のほうが多かった。つまり、ふたりともゴルフとブリッジを上手にこなし、新しいサラダの作り方に興味を持つタイプだったのだ。彼としては、自分の行動を少しも後悔しないで、条理にかなったものと信じていた。おそらく彼は、せっかくタコマで飛び越えてきたのと同じ溝に、またしても身を落ち着けてしまったのに気づいていなかったのだろう。だが、おれが気に入ってるのはその点だ。彼は鉄材の落下に自分を適応させた。そして落下するものがなくなると、こんどは落下しないものに自分を適応させたのだ」
「とてもおもしろい話ね」ブリジッド・オショーニシーがいった。彼女は椅子を離れて、彼の前に立った。すぐそばにである。目が大きく見開かれて、深い色をたたえていた。「いまさら言うこともないけれど、あの男があらわれたら、わたしの運命はあなたの意のままってわけなのよ」
スペードはかるく笑って、低い声で、「そうだ。そのとおり、おれの意のままさ」といい、うなずいてみせた。
「だけど、わたしがそれを承知で、あの男と会うことにきめたのは、あなたを全面的に信頼していればこそってことも判ってくださるわね」そして彼女は身をすり寄せて、彼のブルーの上着の黒いボタンを、親指と人差し指でひねりだした。
「またはじまったね」スペードはふざけ半分、うんざりした顔をしてみせた。
「でも、これでわたしの気持を判ってくれたわね」彼女はあくまで言い張った。
「いや、そこまでは判っていないぜ」彼はボタンをひねっている手をかるくたたいて、「きみを信頼していいだけの合理的な根拠があるのかないかを追求した結果が、こんなふうに運んでしまっただけだ。問題を混同させるんじゃない。きみにしたって、おれを信頼することはない。きみに必要なのは、その口説でおれを説き伏せ、きみを信頼するように仕向ければいいんだ」
彼女は彼の顔をじっと見つめた。その鼻孔が顫えていた。
スペードは声を出して笑い、もう一度、彼女の手をたたいて、いった。「いまはそんな問題をとやかくいってる場合じゃない。そろそろカイロがやってくる。彼との用件をすませてしまってくれ。それで、おれたちのおかれた立場がはっきりするというものだ」
「彼をどう扱うかは、わたしに任せてくれるのね? わたしの好きなようにしてもいいの?」
「いいとも」
彼女は彼の手の下で自分の手を上に向け、指を押しつけた。そして、小さな声で、「あなたに会えたのは、神さまのお恵みだわ」といった。
スペードは、「大げさなことをいわないでくれ」と応えた。
彼女はちょっと睨むまねをして、ほほえみながらクッションつきの揺り椅子にもどった。
ジョエル・カイロは興奮していた。黒い目をその全体が瞳になったように見開き、甲高い声で何やら口走っていた。スペードがドアを半分ほど開くと、「スペードさん、あの若僧がこのアパートを見張っていますぞ。劇場の前で、あなたが教えてくれた若者、いや、正確には、あいつにわたしを示したというべきか――とにかく、やつが外をうろついているんです。これをどう解釈したらいいんです? わたしはあなたを信用して、ここまでやってきたんです。ワナが仕掛けてあるとは思ってもみなかった。まさかあなた、わたしの誠意を裏切るわけじゃないでしょうな?」
「こちらも誠意で来てもらった。おかしなことをいってもらいたくないね」とスペードは眉をひそめて考えこみ、「しかし、あの若者があらわれる恐れがあると考えておくのがほんとだったかもしれない。で、きみはこの建物へはいるのを見られたのか?」
「いやでも見られますよ。いちおう、通りすぎてしまうこともできないわけじゃなかったが、さっきあなたといっしょのところを見せてしまったので、いまさら隠してみてもはじまるまいと……」
ブリジッド・オショーニシーが戸口まで出てきて、スペードの背後から心配そうに、「どんな若者なの? その若者がどうしたっていうの?」と訊いた。
カイロは黒い帽子をぬいで、ぎごちない格好で頭を下げ、ていねいな言葉つきで、「ご存知ないのでしたら、スペードさんにお尋ねください。わたしはこのひとから聞いた以外は何も知らないのですから」
「あの小僧、今夜ずっと、おれのあとを尾《つ》けまわしているんだ」スペードはふり返って彼女に向き直る手間も惜しんで答えてから、「まあ、いい、なかへはいってくれ、カイロ。わざわざ廊下で立ち話をして、近くの部屋の住人に聞かせることもないだろう」
ブリジッド・オショーニシーはスペードの肘の上をつかんで、「さっきあなたがわたしの部屋に来るとき、やはりその男に尾《つ》けられていたの?」と訊いた。
「いや、あの建物に近づく前に、巻いておいた。たぶん彼は巻かれてしまったので、もう一度おれをつかまえようと、この外に張り込んでいたのだろう」
カイロは黒い帽子を両手で腹のあたりに捧げて、なかへ通った。スペードは廊下とのあいだのドアを閉めて、ふたりを居間へ導いた。カイロはまたも、帽子を捧げた格好でお辞儀をしながら、「やあ、ミス・オショーニシー、またお会いできて、大へんうれしく存じます」と、堅苦しい挨拶の言葉を述べた。
「わたしもよ、ジョエル」彼女はいって、握手の手を差し出した。
カイロはその手の上に古風なお辞儀をしたが、すぐに離した。彼女はさっきまで腰かけていた揺り椅子にもどった。カイロがテーブルのそばの肘かけ椅子に腰を下ろし、スペードはカイロの帽子と外套を衣裳戸棚に収めてから、窓ぎわのソファの端に腰かけ、タバコを巻きはじめた。
ブリジッド・オショーニシーがカイロにいった。「サムの口から、鷹《ファルコン》についてのあなたの申し出を聞いたけれど、そんな大金を、そんなに早く用意できるの?」
カイロは眉をぴくっと動かしたが、すぐに微笑で隠して、「用意はできているのです」といい、そのあともしばらく彼女の顔を眺めていてから、スペードへ目を向けた。
スペードは巻きあげたタバコに火をつけるところで、平静な顔だった。
「現金で?」彼女が訊いた。
「もちろんです」カイロが答えた。
彼女は不機嫌な顔になって、唇からちょっと舌を出し、すぐにひっこめ、質問した。
「だったら、いますぐ、わたしたちが鷹《ファルコン》をさし出したら、その五千ドルを揃えてくれる用意があるの?」
カイロは片手をあげ、くねくねさせて見せながら、「これは失礼しました」といった。「言い方が適当でありませんでした。いま、ポケットに入れてあるといったわけではなくて、きわめて僅かな時間内にとり揃える用意があると申しあげたのです。銀行の営業時間内なればですな」
「あら、そうなの」彼女はスペードの顔を見た。
スペードはタバコの煙をチョッキの前に吹き下ろして、「そのとおりだろうね」といった。「きょうの午後、彼の所持金を調べてみたのだが、ポケットには数百ドルしかはいっていなかった」
そして、彼女が目を丸くしたので、にやり笑った。
レヴァント人は椅子のなかで身を乗り出した。目と声に熱心さがあらわれるのを隠しきれなかった。「明朝十時でしたら、かならず用意をしておきますが、いかがでしょう?」
ブリジッド・オショーニシーはほほえんで、「でも、いまここに鷹《ファルコン》を持ってるのじゃないのよ」といった。
カイロの顔に、むっとしたような表情があらわれた。不格好な手を椅子の腕において、骨細のからだをまっすぐさせて、黒い目に怒りをみなぎらせたが、口に出しては何もいわなかった。
彼女は、半ばからかうような、半ばなだめるような顔を彼に向けて、「だけど、一週間もあったら、手に入れられるわ」といった。
「どこにあるんです?」カイロは疑念をあらわすのに、慇懃さだけは失わなかった。
「フロイドが隠した場所よ」
「フロイドというと、サーズビーのことですか?」
彼女はうなずいた。
「そしてその場所をご存知なんですか?」カイロは訊いた。
「知っているつもりよ」
「でしたら、どうして一週間もかかるのです?」
「たぶん、そんなにはかからなくてすむと思うわ。だけど、ジョエル、だれのためにこの買いとり仕事をしているの?」
カイロは眉をあげて、「そのことは、スペードさんには話してあります。真の所有者のためです」
驚きの色が彼女の顔を走った。「じゃ、あなた、あの男のところへもどったのね」
「もちろん、もどりました」
彼女は喉のなかでかすかに笑い声を立てて、「そのときの様子を見たかったわね」といった。
カイロは肩をすくめて、「論理的に当然の成行きですよ」と、片方のてのひらで、もう一方の手の甲をこすり、上まぶたが垂れ下がって、目を覆った。「おさしつかえがなければ、こんどはこちらから質問させていただきます。あなたはあれを、ほんとうに売るおつもりなのですか?」
「売るわ」彼女はあっさりいってのけた。「フロイドがあんなことになったので、わたし、こわくなったのよ。いまあれが手もとにないのも、それが理由よ。触れるのもこわいくらいで、早くほかの人の手に渡してしまいたいのだわ」
スペードはソファの上に片肘をついて、ふたりを等分に眺め、やりとりを聞いていた。姿勢を楽に、のんきそうな顔つきで、好奇心のかけらもなく、話が長びくのにいらいらする気配はまったくなかった。
「正確なところ」とカイロが低い声でいった。「フロイドの身に、何が起きたのです?」
ブリジッド・オショーニシーの右の人差し指が、空間にすばやくGの字を描いた。
「なるほど」とカイロはいったが、徴笑を含んだその顔には不信を示す色があった。「で、彼はいま、この都会にいるのですか?」
「知らないわ」彼女はいらいらするようにいった。「わたしにとっては、どうでもいいことですもの」
カイロの微笑の不信の色が濃くなって、「どうでもいいことではなくなるかもしれません」といいながら、膝の上の手の位置を変えたので、故意か偶然か、不格好な人差し指の先がスペードに向いた。
彼女はその指の先をちらっと見て、いよいよいらいらしてきた様子で、「でなかったら、わたしかあなたに」といった。
「それになお、外にいる若者を加えるべきじゃありませんか?」
「そうだわね」彼女は同意して、笑い声を立て、「そうよ、そのとおりよ。その若いひとが、あなたがコンスタンチノープルで可愛がっていた男でなければね」といった。
そのひと言で、カイロが顔をまっかにさせて、甲高い怒りの声で、「あなたがものにできなかった男か!」と叫んだ。
ブリジッド・オショーニシーが椅子からさっと立ちあがった。下唇を咬みしめ、緊張に青白んだ顔に黒い目を大きく見張って、すばやく二歩、カイロに近寄った。相手はぎょっとして腰をあげかけたが、彼女の右手が彼の額に鋭い音を立て、そこにくっきり指の痕を残した。
カイロも捻るような声を出して、彼女の頬をたたき返した。彼女はよろめき、その口から短く低い悲鳴を洩らした。
そのときはすでに、スペードが木彫りの面のような顔でソファから立ちあがり、ふたりのあいだに割りこんでいて、カイロの喉もとをつかんで、ふりまわした。カイロは苦しげな呻《うめ》き声をあげ、片手を上着の内側へ差し入れた。その手首をスペードが抑えて、上着からひきもぎって、横へ伸ばさせ、ねじあげたので、ぐにゃっとした指が開いて、黒いピストルが絨毯の上に転げ落ちた。
ブリジッド・オショーニシーがすばやくピストルを拾いあげた。
喉をつかまれたカイロは苦しい息のうちに、「暴力をふるわれるのはこれが二度目だ」と叫んだ。喉をしめられて、眼球がとび出さんばかりだったが、それでも冷ややかに睨みつけるのを忘れなかった。
「そうさ。二度目さ」スペードがいった。「だから、殴られても、おとなしくしているほうが得なのが判るだろう」そして、カイロの手首を放すと、その横顔に三度目の猛烈な平手打ちを食わした。
カイロはスペードの顔に唾を吐きかけようとしたが、口がからからで、怒ったような顔つきになっただけだった。スぺードがさらにその口もとを殴りつけたので、下唇が切れた。
そのとき、ドアのベルが鳴った。カイロの目がびくっと動いて、ドアへ向かう通路を見た。その目には怒りの色が消えて、警戒心があらわれていた。彼女もまた、あっとあえいで、同じように通路を見た。怯えきった顔だった。スペードは一瞬カイロの唇からしたたる血を、いやらしい物でも見るように眺めたが、レヴァント人の喉から手を離して、一歩|退《さ》がった。
彼女はスペードのそばに寄って、「だれかしら?」と小声でいった。カイロも目をスペードに向けて、同じ質問をしようとした。
スペードは怒ったような声で、「おれにも判らん」と答えた。
ベルがまた鳴った。前よりも長く鳴りつづけた。
「静かにしててくれ」いいおくとスペードは、部星から通路に出て、さかいのドアを閉めた。
スペードは通路の電灯をつけ、廊下に面したドアを開けた。ダンディ警部補とトム・ポルハウスが立ってぃた。
「やあ、サム」トムがいった。「きみのことだから、まだベッドにははいっていまいと思って、やってきた」
ダンディ警部補はうなずいて見せただけで、何もいわなかった。
スペードは機嫌のいい声で、「よく来てくれたといいたいところだが、きみたちはよその家を訪問するのに、おかしな時間を選ぶ癖があるようだな。こんどはどんな用件だね?」
ダンディが初めて口をきいて、「やあ、スペード、話しあいたいことがあるのだ」といった。おだやかな口ぶりだった。
「だったら」スペードは戸口をかためるように立ちはだかって、「話してくれ。聞かせてもらうよ」
トム・ポルハウスが一歩出て、「しかし、こんなところで、立ち話ってわけにもいくまい」といった。
スペードは戸口に突っ立ったままで、「あいにくいまは、なかへ通すわけにいかないんだ」その口調には、かすかに言い訳めいた響きがあった。
トムの厚手の顔がスペードの顔と同じ高さで向きあっていて、その小さな目が鋭いうちにもなごやかさを示していたが、軽蔑の色が浮かんでいたことも確かで、「何なんだよ、サム? 見られて困ることっていうのは」と、冗談半分ではあるが、大きな手をスペードの胸にあてて、押し通ろうとした。
スペードはその手を押し返して、凄みのある笑いを見せ、「おい、トム、腕ずくではいりこむつもりか?」といった。
ダンディ警部補が歯を鳴らして、「そうだ、通してもらうぜ」と応じた。
スペードの唇が犬歯のあたりまでめくれあがった。「はいられては困るといったじゃないか。きみたちのとる行動は三つしかない。ひとつは部屋へ通ることだが、これはこっちが断わる。だから、ここで話したらいい。それがいやなら、出直すことだ!」
トムはうなった。
ダンディ警部補は歯を鳴らしつづけて、「おい、スペード、少しはおれたちに協力したほうが、私立探偵という商売上、得なんじゃないか。きみはこれまで、あれやこれやと要領をきかすだけでやってきたが、そんな事がいつまでもつづくものでないぞ」
「やめさせられるんなら、やめさせてみるがいい」スペードは昂然《こうぜん》と答えた。
「いずれそのうち、やってやる」ダンディ警部補は両手を背中で組んで、ごつごつした顔を私立探偵の前に突き出し、「世間では、きみはアーチャーの女房とできあって、亭主をこけにしておったと噂しとるぞ」
スペードは笑って、「それはあんたが創作した噂らしいな」といった。
「じゃ、そんな事実はないというのか?」
「あるはずがない」
警部補はつづけて、「噂はまだある。女のほうはきみと夫婦になりたくて、亭主に離婚話を持ち出したが、許してもらえなかったそうだ。この噂はどうなんだ?」
「事実無根だな」
「まだあるんだ」ダンディは意地になったようにつづけた。「アーチャーが殺されたのも、それが理由だそうだ」
スペードはおもしろそうな顔をして、「欲張るんじゃない」といった。「一度にふたつの殺人をおれに押しつけるのは無理なことだ。最初きみたちは、おれがサーズビーをやっつけたのは、やつがマイルズを殺したからだと考えた。そのマイルズ殺しもおれの仕業と考えたのじゃ、話の筋が通らなくなるんじゃないかな」
「きみがだれかを殺したなんて、おれはひと言もいっておらんぞ。何かというと、あれをいいだすのはきみのほうだ。だが、かりにおれにいわせてもらうと、きみがふたつの殺人をやってのけるのも、できないことじゃない。その計算もじゅうぶん成り立つんだ」
「なるほど。マイルズの女房を手に入れるために、彼を殺す。それから、サーズビーをやっつけて、マイルズ殺しの罪をおっかぶせる。たしかにすばらしい計算だな。ついでにもうひとりだれかを殺して、サーズビー殺しをそいつに押しつけたら、ますますすばらしい。となると、この連続殺人をいつまでつづけたらいいのかな。これから先は、サンフランシスコで起きる殺人事件の全部がおれの罪にされるかもしれないね」
トムがいった。「冗談はやめろよ、サム。おれたちだって、こんなまねはしたくないんだが、仕事だからやむをえんのだ」
「もう少しまともな仕事がないものかね。毎日、真夜中ごろに、ばかばかしい質問を山ほど抱えこんでやって来られたんじゃ、こっちがたまったものじゃない」
「嘘の返事を開かされるほうだってたまらんぞ」ダンディ警部補も厭味な文句でいい返した。
「おたがいに我慢ってことか」
そういうスペードを、ダンディ警部補は見上げ、見下ろして、その目をまっすぐ彼の目に据えると、「きみの口から、アーチャーの女房とのあいだになんにもなかったと聞かされるとは思わなかった」といった。「はっきりいっておくが、驚くべき嘘つきだよ、きみは」
トムの小さな目に、ぎょっとしたような表情が走った。
スペードは舌の先で唇を濡らして、「その問題についての情報をつかんだので、こんな真夜中の来訪に踏み切ったってわけか?」と訊いた。
「それも理由のひとつだ」
「ほかの理由は?」
ダンディ警部補は、「いいからそこを通してくれ」と、スペードが立ちはだかっている戸口を、意味ありげに顎でしゃくり、口をきつく結んでみせた。
スペードは顔をしかめて、首をふった。
ダンディはまた口もとをゆるめて、満足そうな笑いを洩らし、トムに、「やっぱりなかが臭いぞ」といった。
トムはもじもじして、ふたりの男のどちらの顔も見ないで、「さあ、どんなものですかね」と、自信なさそうにいった。
「何をふたりで話しあっている?」スペードがいった。「謎解き遊びをやっているのか?」
「じゃ、いい。今夜はこれで引き揚げることにする」ダンディは外套のボタンをかけながらいった。「だが、スペード、これからはちょいちょい寄らせてもらうぜ。たしかにきみには、今夜みたいに門前払いを食わせる権利がある。だが、その損得を考えたほうが利口だろうよ」
スペードはにやにやしながら、「やあ、警部補、遠慮しないで訪ねてきなさるがいい。忙しくなけりゃ、いつでもなかへ通しますぜ」
そのとき、スペードの部屋に叫び声があがった。「助けて! 助けてくれ! おまわりさん! 助けて」甲高く細い声の叫びは、ジョエル・カイロのものだった。
帰りかけていたダンディ警部補が立ちどまり、スペードに向き直って、断固とした口調で、「通してもらうぞ」といいきった。
たたきあい、殴りあう音、押し殺した叫びが聞こえてきた。
スペードの顔が、てれ隠しの苦笑にゆがんだ。「通さぬわけにもいかんだろうな」といって、道をあけた。
私服警察官ふたりがなかに通ると、スペードは入口のドアを閉めて、ふたりのあとから居間にもどった。
八 みんな嘘
ブリジッド・オショーニシーが、テーブルのそばの肘かけ椅子にうずくまっていた。両腕を頬まで上げ、両膝をひきあげて、顔の下半分を隠している。目のまわりに白い輪ができて、恐怖におののいているのを示していた。
ジョエル・カイロがその正面に立ち、彼女の上にのしかかるようにして、さっきスペードにもぎとられたピストルをつきつけていた。しかし、もう一方の手は額を押さえ、その指のあいだから血がしたたって、目のあたりを赤く染めているのだった。唇の切り傷からの血が三本の糸を引いて、顎の先まで達していた。
カイロは警察官がはいってきたのを気にする様子もなく、彼の前にうずくまっている女を睨みつけて、唇を痙攣的に動かしているのだが、意味のある言葉は洩れてこなかった。
三人のうちいちばん先に居間へはいったダンディ警部補が、すばやくカイロの横に歩み寄って、片手を自分の外套の下、尻のポケットに突っこみ、もう一方の手でレヴァント人の手首をつかんで、「おい、何をしてるんだ?」と大声でどなりつけた。
カイロは血に染まった手を額から離して、警部補の目の前にさし出した。額には三インチほどの傷が見てとれた。
「この女がやったんです」カイロが叫んだ。「見てください、このひどい傷を」女は足を床に下ろして、おずおずと三人の顔を見た。カイロの手首をつかんでいるダンディと、そのすぐ背後に立っているトム・ポルハウス、そしてドアの枠によりかかっているスペードを。スペードの顔は無表情だったが、彼女の視線を受けとめた瞬間、イエロー・グレーの目がからかうような煌《きらめ》きを見せたが、すぐにもとの無表情にもどった。
「あんたがやったのか?」ダンディがカイロの傷ついた額を顎でしゃくって訊いた。
彼女はまたスペードの顔を見た。しかし、スペードは哀訴するような彼女の目になんの反応も示さず、ドアの枠によりかかったまま、室内の連中の様子を眺めていた。無関心の傍観者の、超然ととりすました態度だった。
彼女はダンディ警部補に目を向けた。大きく見開いて、真剣さのこもった黒い目だった。「仕方なしにしたことです」低い、震え声で彼女がいった。「この部屋に、あの男とふたりきりになると、いきなり襲いかかってきたのです。近寄らせまいと、ピストルで防ごうとしたけれど、発射するわけにもいきませんし……」
「嘘つき! 何をいうんだ!」カイロは叫んで、ピストルを持つ手を警察官の手からふりほどこうと焦りながら、「こんな嘘つき女のいうこと、信じないでください」と身をねじってダンディに向き直り、「みんなまっかな嘘です。わたしはふたりの言葉を信じて、この部屋を訪れたところ、彼らに襲撃されました。折よくベルが鳴ったので、彼はこの女にピストルを預けて、あなたたちと話しに部屋を出たんです。するとこの女、あなたたちが帰ったあとで、彼とふたりでわたしを殺してしまうと脅すのです。そこでわたしは、あなたたちに帰られたら殺されてしまうと、大声で助けを求めたところ、この女がピストルで殴りつけたんです」
「とにかく、その品はわれわれが預かっておく」ダンディ警部補はいって、カイロの手からピストルをとりあげると、「では、話をはっきりさせよう。きみはここへ何しに来た?」
「あの男に呼ばれたからです」カイロは首をまわして、スペードをねめつけた。「電話をかけてきて、いますぐ会いたいといったので」
スペードはレヴァント人に気のないような視線を向けただけで、何もいわなかった。
ダンディ警部補はさらに質問をつづけて、「あの男は、きみにどんな用があったのだ?」といった。
カイロはすぐに答えず、ラヴェンダー色の縞のはいったハンカチで、額と顎の血を拭った。その動作のあいだに、怒りの気持がいくぶんおさまって、かわりに用心深さがあらわれていた。「彼が、いや、彼と彼女のふたりが、至急わたしに会いたいというだけで、なんの用件だか説明しませんでした」
トム・ポルハウスがうつむいて、カイロのハンカチが漂わすシープル香水の匂いを嗅いでいたが、問いただすような視線をスペードに向けた。スペードはウインクを返しただけで、タバコを巻く手を休めなかった。
ダンディ警部補の質問がつづいた。「で、それからどうした?」
「それから、ふたりしてわたしに襲いかかったのです。最初に女が殴りかかって、それからあの男が首を絞めて、わたしのポケットからピストルを奪いとりました。そのときあなたたちが来られたからよかったので、そうでなかったら、何をされたか判ったものでありません。たぶんわたしは殺されていたことでしょう。ベルが鳴ったので、彼は戸口へ出て行くにあたって、ピストルをこの女に渡して、わたしを見張らせました」
ブリジッド・オショーニシーは肘かけ椅子から立ちあがって、「なぜあなたがたは、この男にほんとのことをいわせないのです?」と叫びながら、カイロの頬に平手打ちを食わせた。
カイロは言葉にならぬ叫び声をあげた。
ダンディ警部補はレヴァント人の腕をつかんだ手で、彼女を肘かけ椅子に押しもどし、「そんなまねをするんじゃない!」と叱った。
スペードはタバコの火をつけ、煙を吐き出し、にやにや笑いの顔でトムにいった。「彼女は衝動的なところがあるんだ」
「そうらしいな」トムはうなずいた。
ダンディは彼女に目を据えて、「ほんとのことって、なんだね?」と訊いた。
「この男の話、みんなでたらめよ」彼女は答えた。「ひとつもほんとのことがないわ」そして、スペードにふり向き、「そうだわね?」と同意を求めた。
「おれが知ってるわけがない」スペードは答えた。「それはみんな、おれがキチンでオムレツを作っているあいだに起きたことだ」
女は額にしわをよせて、戸惑った目で彼を見つめた。
トムが不快そうな呻き声を洩らした。
ダンディ警部補は彼女をねめつけたまま、スべードの言葉を無視して、質問を継続した。
「この男の話が嘘だとしたら、助けを呼んだのがあんたじゃなくて、この男だったのが、おかしくないかね?」
「それは、わたしにぶたれて、震えあがったからよ」彼女はレヴァント人をさげすむように見ながら答えた。
カイロの顔が、血に汚れていないところまで赤くなった。「また嘘だ! けしからん嘘だ!」とわめき立てた。
彼女は足をあげて、カイロの足を蹴った。ブルーの上履きの高い踵が、相手の膝のすぐ下に激突した。ダンディがカイロをひき離しているあいだに、トムが彼女に近づいて、がらがら声でいった。「あんたもおとなしくしてるんだ。乱暴なまねをするんじゃない」
「だったら、この男にほんとのことをいわせたらいいじゃないの」彼女は挑戦的にいった。
「それをこれからするところだ」彼は約束して、「だから、乱暴なことはしないでいてくれ」
ダンディ警部補は緑色の目を明るくきらめかして、スペードをじっと見据え、満足そうに部下に話しかけた。「おい、トム、この連中の全員に、署まで来てもらうのがよさそうだな」
トムは暗い表情でうなずいた。
スペードがドアを離れて、部屋の中央に進み出た。途中、くわえていたタバコをテーブルの灰皿に投げ捨てて、態度も微笑も落ち着きはらったところを示し、「そんなにいそいでおれたちをしょっぴくことはない」といった。「この場のいきさつは、ここでちゃんと説明できるんだから」
「それはまあ、そうだろう」ダンディは冷笑を浮かべながら、うなずいた。
スペードは彼女に一礼して、「ミス・オショーニシー、このふたりを紹介させてもらう」といった。「こちらがダンディ警部補、こちらが部長刑事のポルハウス君だ」つづいてダンディにいった。「ミス・オショーニシーはうちの事務所の女探偵――」
ジョエル・カイロが憤然として、「とんでもない嘘だ。この女は――」
スペードが大声でしゃべりだして、レヴァント人の言葉をさえぎった。しかし、調子だけはいぜんとしておだやかに、「もっとも、彼女を雇ったのはごく最近のことで――正確には昨日なんだ。それから、このジョエル・カイロ氏はサーズビーの友人――少なくとも知人で、きょうの午後、うちの事務所にあらわれて、われわれに依頼したい仕事があるといいだした。仕事の内容は、サーズビーが殺されたとき、ある品を所持していたそうで、それを捜し出すことなんだが、話っぷりがおかしいんで、お断わりした。するとこの男、いきなりピストルを突きつけた――いや、いや、その問題は、いますぐきみたちの手を煩わすことでない。いずれそのうち、双方が告訴する騒ぎに発展するかもしれないが、それまではお預けだ。それはともかく、断わられたので彼は帰っていったが、あとでおれは、その件をミス・オショーニシーと話しあっていて、ひょいと思いついた。彼の口から、マイルズとサーズビーの殺しの問題で、手掛りになる何かがひき出せるんじゃないかとだ。そこで今夜、ここまで来てもらった。おれたちの質問が少しは荒っぽすぎたかもしれないが、怪我させられるからと、助けを呼ばなけれはならぬほどのものじゃない。もっとも、もう一度、ピストルをとりあげておく必要はあったがね」
スぺードの話が進むにつれて、カイロの赤く染まった顔に不安の色が濃くなってきた。目がしきりに上下し、焦点が定まらず、床の絨毯とスペードのすましこんだ顔とのあいだを絶えず移動している。
ダンディはカイロに向き直って、言葉短かに訊いた。「いまの説明に、いいたいことがあるのじゃないか?」
カイロはすぐには答えず、警部補の胸を見つめていたが、顔をあげたとき、その目はおどおどして、警戒的だった。「なんといったらよいのか……」とつぶやいたが、困惑ぶりは心からのものだった。
「事実をそのまましゃべればいいんだ」ダンディが示唆をあたえた。
「事実ですか?」カイロの目は落ち着きがなかったが、警部補の顔から視線を離さずに、「事実をしゃべったところで、信じてもらえるかどうか判らんし……」
「言いのがれはやめてもらおう。きみはただ、宣誓のうえで、このふたりに殴られたと申し立てればいい。裁判所の書記がそれを信じて、逮捕状を発行してくれたら、この連中をしょっぴく段取りになる」
スペードはおもしろがっているような口調で、「さあ、カイロ、遠慮しないでしゃべるがいい。警察のダンナがたを喜ばせてやることだ。きみがしゃべって、おれたちが反駁する。そこでダンナがたは、おれたちみんなに署まで来てくれといいだせる」
カイロは咳ばらいをして、神経質に室内を見まわした。みんなの視線を避けるための動作だった。
ダンディ警部補が鼻から息を吐き出して、「じゃ、みんな、帽子をかぶってくれ」といった。
不安と疑惑をたたえたカイロの目が、スペードのからかうような視線にぶつかった。スペードは彼にウインクをして見せてから、クッションつきの揺り椅子の腕に腰を下ろして、「さて、諸君」と、レヴァント人と彼女に笑顔を向けた。声も顔も、うれしがっているのが明らかだった。
「これでこの場の出来事の説明が、じゅうぶん納得してもらえたはずだ」
ダンディ警部補の真四角ないかつい顔に、ほんのわずか、かげりが生じたが、すぐに断固とした口調で、「帽子をかぶってくれ」と繰り返した。
スペードはにやにや笑いの顔を警部補に向けて、椅子の腕の上のからだをよりいっそう楽な姿勢にかえて、のんびりした口調でいった。「やあ、おまわりさん、あんたたちにも困ったものだな。冗談が冗談と受けとれないとは」
トム・ポルハウスの顔にさっと血が射して、ぎらぎら光った。
ダンディ警部補の顔はさらに暗い表情になり、唇をぎごちなく動かして、「冗談とは受けとれんよ」といった。「詳しいことは、署まで来てもらって聞くことにする」
スペードは腰をあげて、両手をポケットに突っこみ、からだをまっすぐ伸ばして立った。警部補を見下ろすかたちや、うすら笑いがあざけりの色を濃くし、自信にあふれた口調でいってのけた。
「やあ、ダンディ君、連行したけりゃしてみるさ。サンフランシスコの全部の新聞から、いい笑いものにされるだけだぜ。おれたちとカイロが告訴合戦をはじめるとでも考えているのなら、大笑いだ。しっかりしてくれよ。あんたたちはかつがれたんだ。ベルが鳴ったとき、おれはミス・オショーニシーとカイロにいった。『またデカたちがやってきた。だんだん煩《うるさ》くなってくるな。ひとつからかってやろうじゃないか。やつらが帰りかけたら、部屋にいるどちらかが悲鳴をあげる。彼らがどんなぐあいにひっかかるか、見てやるのも愉快だぞ』ってね。そして――」
ブリジッド・オショーニシーが椅子のなかで前こごみになって、ヒステリックな笑い声をあげた。
カイロもそれと気がついた様子で、うすら笑いを浮かべた。生気のない微笑だが、いつまでも顔に残していた。
トムが苦い顔をして、「サム、冗談はやめておけ」と文句をいった。
スペードはくすくす笑って、「だけど、それが事実なんだ。おれたちは――」
だが、ダンディ警部補は負けていないで、「そうだとすると、この男の頭と口の傷は」と、さげすむように訊いた。「なんでできた傷なんだ?」
「本人に訊いてみるんだな」スペードは答えた。「おおかた、髭を剃っていて切ったのだろう」
カイロは質問される前に、いそいでしゃべりだした。そのあいだにも微笑を消すまいとして、緊張のあまり顔の筋肉が顫えていた。「わたし、ころんだんです。おふたりに、ピストルの奪いあいをやってるところを見せようとして、その芝居の最中に、絨毯の端につまずいてころんでしまったんです」
「でたらめをいうな」ダンディ誓部補が一喝した。
スペードがいった。「やあ、ダンディ君、信じる信じないはあんたの勝手だが、肝心なところは、おれたちはぜったいにこの主張を変更しないことだ。新聞にしても、信じる信じないは別として、大見出しで書き立てるにちがいない。とても愉快な記事だからな。いや、愉快以上のものがある。となったら、あんたたちはこれをどう処理する気だね? おまわりをかついだところで、犯罪にはならんだろう。いっておくが、おれたちは三人とも、罪をおかした証拠を握られていないんだぜ。おれたちのしゃべったことは、みんな冗談だ。それでおれたちを留置場にぶちこんで、あとの始末をどうつける気かね?」
ダンディ警部補はスペードに背を向け、カイロの肩をつかむと、「おまえは逃げるわけにいかんぞ」と、レヴァント人のからだを大きく揺すって、「おれたちの助けを求めたんだ。いちばん安全な場所に連れていってやるのに文句はあるまい」
「ちがいますよ、警部さん」カイロは口から唾をとばしていった。「あれだって冗談のうちです。あなたたちは友人なんだから、了解してもらえるはずだと、スペードさんがいったんです」
スペードが笑いだした。
ダンディ警部補はカイロの手首と首筋をつかんで、あらあらしくひきずりまわし、「おまえはどっちみち、銃器不法所持の罪で連れて行く」と言い渡し、「それから、あとのふたりにも来てもらうぜ。この冗談に笑えるのはどっちだかを知るためにだ」
カイロの怯えた目が、いそいでスペードの顔をうかがった。
スペードは落ち着きはらっていった。「ばかなまねはよせよ、ダンディ。ピストルもこの芝居の一部で、じつをいうとおれのものだ」と大声で笑って、「だが、あいにくと三二口径だ。そうでなけれは、サーズビーとマイルズ殺しに使ったやつだと決めつけられるところだが」
ダンディはカイロを放して、くるり向きを変えると、いきなり右のこぶしをスペードの顎にたたきつけた。
ブリジッド・オショーニシーが悲鳴をあげた。
殴られた瞬間、スペードの顔から微笑が消えたが、すぐにまた、夢見るような感じを加えてもどってきた。そして一歩退がって身構えをし、分厚い撫で肩が上着の下で動いた。だが、こぶしがふりあげられる前に、トム・ポルハウスのからだがふたりのあいだに割って入って、その太鼓腹と両腕で、スペードの手の動きをさまたげた。
「よせ、よせ。頼むからやめてくれ!」トムが哀願した。
長いあいだ緊張していたスペードの筋肉がようやくゆるんで、「だったら、早いところ、この男を連れ出してくれ」といった。彼の微笑はふたたび消えて、暗い表情に変わり、顔の色もいくぶん青ざめていた。
トムはスペードにからだを押しつけて、スペードの腕の動きを両腕で妨げながら、首をまわしてダンディ警部補を見た。トムの小さな目に非難の色が濃かった。
ダンディはからだの前で両のこぶしを握りしめ、両足を少し開いて身構えていたが、威嚇的な顔の表情はやや和らいで、緑色の瞳と上まぶたのあいだに、白い、細い輪が見えていた。
「こいつらの住所氏名を書きとっておけ」と、トムに命令した。
トムがカイロへ目を向けると、レヴァント人はいそいでいった。「ジョエル・カイロ、ベルヴィディア・ホテルです」
つづいてトムが彼女に質問しようとすると、それより早くスペードがいった。「ミス・オショーニシーに用があったら、おれを通じて連絡したらいい」
トムはダンディ警部補の顔を見た。ダンディはがらがら声で、「住所を聞いておけ」といった。
スペードがまた口を出していった。「彼女の住所は、おれの事務所気付だよ」
ダンディ警部補は一歩進み出て、彼女の前に立ちはだかり、「どこに住んでおる?」と訊いた。
スペードがトムに声をかけた。「早いところ、こいつを連れ出してくれ。もうたくさんだ」
トムはスペードの目を見た。ぎらぎらときびしい光を放っている目を。そして、「まあ、まあ、サム。いきり立つんじゃない」と、つぶやくようにいうと、外套のボタンをかけながら、ダンディにふり向いて、「質問はこれくらいでしょうな」となにげない声でいい、さっさと戸口へ歩きだした。
ダンディはしぶい顔をして、腹が決まらぬのを隠しきれずにいた。
カイロがすばやくドアのほうへ移動して、「わたしも帰らせてもらいます」といった。「お手数ですが、スペードさん。わたしの帽子と外套をお出しねがいたいので」
スペードは、「なぜそう急ぐんだ?」と訊いた。
ダンディ警部補が腹立たしげにいった。「みんな冗談だといったくせに、こいつらといっしょに部屋に残るのはこわいのだな」
「そんなことはありませんが」とレヴァント人はもじもじしながら、だれの顔も見ないで答えた。「夜もだいぶ更けたことですし――とにかくわたしは帰らせていただきます。おさしつかえなければ、ごいっしょに」
ダンディ警部補は口をきつく結んで、何もいわなかった。緑色の目がぎらぎら光っていた。
スペードは戸口に近い衣裳戸棚から、カイロの帽子と外套を出してきた。スペードの顔は無表情、声もまた無表情で、一歩退がってレヴァント人に外套を着せかけてやりながら、トムにいった。「ピストルをおいていくようにいってくれよ」
ダンディ警部補がカイロの外套のポケットからピストルを抜きとって、テーブルの上においた。彼がまっ先に部屋を出て、カイロがそのあとにつづいた。トムはスペードの前で足をとめて、「むやみなことはしないでくれよ」と低い声でいったが、返事がないので、溜息をつき、ふたりのあとから出ていった。スペードは通路の曲がりかどまでついていって、入口のドアをトムが閉めるあいだ、そこに突っ立っていた。
九 ブリジッド
スペードは居間にもどって、ソファの端に腰を下ろした。膝に肘をつき、両手の上に顎をのせ、頬杖の姿勢で床を見つめていた。肘かけ椅子から弱々しい微笑を向けるブリジッド・オショーニシーには目もくれなかった。彼の目は暗かった。鼻の根もとに二本の深いしわをよせ、息をするたびに鼻孔がひくひく動いた。
ブリジッド・オショーニシーは、彼が顔をあげて視線を向けそうもないと知ると、微笑をやめて、彼の様子を見守る目に、不安の色を濃くしていった。
突然、怒りの色がスペードの顔を染めて、ぎすぎすしたしわがれ声でしゃべりだした。怒りに燃えた顔を両手で支え、ぎらぎらした目を床に落としたまま、五分ほどのあいだ、休みなしにダンディ警部補を罵《ののし》った。猥雑な、冒涜的な言葉が、しわがれ声で繰り返された。
それから彼は頬杖をはずして、彼女に目をやり、てれくさそうににやり笑って見せ、「ちょっと子供っぽいやり口だったな」といった。「判ってはいたが、顎に一発食らいながら、殴りかえすわけにもいかんのだから、あのくらいのいたずらはやむをえなかった」そして顎にそっと指を触れて、「大してひどくやられたわけでなし」と大声に笑って、ソファの背によりかかり、脚を組んで、「勝つためには安い代償さ」といったが、すぐにまた眉をひそめて、「だが、この仕返しはかならずしてやるぞ」といった。
彼女はもう一度ほほえんで、肘かけ椅子からソファに席を移し、彼と並んで腰を下ろすと、「あなたみたいに気の強いひと、初めて見たわ」といった。「いつもあんなふうに高飛車に出るの?」
「高飛車どころか、おとなしく殴られてやったじゃないか」
「それはそうだけれど、相手が警察官ですもの」
「警察官だから殴らせたわけじゃない」スペードはいって聞かせた。「あの男、かっとなっておれを殴ったので、面子《めんつ》を保てた。おれが殴り返したら、やつは引っ込みがつかないから、主張を押しとおすことになる。そこでおれたちは警察本部に連行されて、あのばか話をもう一度繰り返させられたところだ」そして彼は彼女の顔を見つめて訊いた。「ところできみは、カイロに何をしたんだ」
「何もしないわ」だが、彼女の顔は赤くなった。「警察の人たちが帰るまでおとなしくさせておこうと、脅してみたの。そうしたら、怯えすぎたのか、依怙地《いこじ》なのか知らないけれど、大声でわめきだしたのよ」
「そこできみがピストルで殴ったのか?」
「仕方がなかったのよ。向かってきたんだもの」
「きみこそ、無鉄砲なところが大ありだよ」スペードの微笑も、内心の困惑を隠しきれなかった。「さっきも注意しておいたが、あと先の考えなしに行動する癖がある」
「悪かったわ」彼女の顔と声に後悔の表情があらわれていた。「これから気をつけるわ、サム」
「そうしてくれ」彼はポケットからタバコと巻き紙をとり出して、シガレットを巻きはじめ、「きみはカイロとの話合いをすませたんだから、こんどはおれに説明する番だぜ」と催促した。
彼女は指の先を口にあてがって、何を見るわけでもなく、大きな目で部屋のなかを見まわしてから、その目を鋭くして、すばやい視線をスペードに向けた。彼はタバコを巻くのに熱中していた。
「ええ、いいわ」彼女はしゃべりだした。「もちろん、話しあったわ」と、指を口から離し、ブルーのドレスの膝のしわを伸ばし、眉をよせて、そのあたりを見つめた。
スペードは巻きあがったシガレットの紙の合わせ目を舐め、ライターを探りながら、「それで?」と先を促した。
「でも――」と彼女は慎重な口調で、一語一語をていねいに選んで、「じゅうぶんに話しあうには時間が足りなかったの」と、膝を見るのをやめて、その目をスペードに向けた。こだわりのない、明るい目だった。「話しだしたと思ったら、あんな邪魔がはいったので」
スペードは笑って、タバコに火をつけ、口から煙を吹き出して、「だったら、また電話して、もどってくるようにいってやろうか?」といった。
彼女は笑いもしないで、首をふった。首をふりながらも、まぶたの下で瞳を前後に動かし、スペードの目から焦点をはずさなかった。何かを問いただす目付きだった。
スペードは片腕を彼女の背中にまわし、白い裸の、彼には遠いほうの肩に手をおいた。彼女は彼の腕に身をもたせた。彼はいった。「さあ、聞こうじゃないか」
彼女は首をねじって、彼にほほえみかけた。冗談めかした口調でからかうように、「話を聞くのに、そんなふうに腕をまわす必要があるの?」といった。
「いや、ないよ」彼は手をはずして、腕を彼女のうしろに垂らした。
「あなたってひと、ずいぶん思いきったことをするので、驚いたわ」
彼は笑って、「さあ、話を聞くから、話してごらん」と、いっそう親しみをこめた口調でいった。
「もう、あんな時間よ!」彼女はいって、本の上に載っている目覚し時計を指さした。その不格好な針が二時五十分を示していた。
「今夜はいろいろなことがあったからな」
「わたし、もう帰らなけりゃ」彼女はソファから腰をあげていった。「こんなにおそいと知らなかったわ」
スペードは腰をあげなかった。首をふって、「話しおえるまでは帰さんよ」といった。
「でも、時計を見て」彼女はさからった。「話しおえるには、何時間もかかるのよ」
「かけたらいいだろう」
「まるで捕虜みたいじゃないの」彼女は明るい声でいった。
「それに、外にはあの若僧が待っている。まだ寝に帰ってはいないはずだ」
彼女の明るさがたちまち消えて、「まだ見張りをつづけていると思うの?」
「いるだろうね」
彼女は身震いして、「見てきてくれない?」と訊いた。
「見てきてもいいぜ」
「だったら――お願いするわ」
スペードは少しのあいだ、彼女の心配そうな顔を見つめていたが、ソファから立ちあがると、「十分もしたら、もどってくる」といって、衣裳戸棚から帽子と外套をとり出した。
彼女は入口のドアまでついてきて、「気をつけてね」といった。
「心得ているよ」彼は彼女を安心させて、出ていった。
スペードが建物の外へ出たとき、ポスト・ストリートには人かげがなかった。彼は東の方向へ一ブロック歩いて、道路を横切り、こんどは西の方向へ二ブロック歩いた。
そこでまた道路を横切って、彼のアパートまでもどってきたが、途中のガレージで車を修理している二名の職工を見かけただけで、だれにも出遭わなかった。
住居のドアを開けると、居間とのあいだの通路のなかほどに、ブリジッド・オショーニシーがカイロのピストルを持って立っていた。
「あの若僧、まだいるよ」スペードがいった。
彼女は唇を咬んで、ゆっくりむこうを向くと、居間へもどっていった。スペードもそのあとにつづいて、居間にはいった。帽子と外套を椅子の上に投げ出して、「これで話しあう時間ができたってものだ」といいながら、キチンへ向かった。
彼女がキチンのドアからのぞいてみると、スペードはコーヒー・ポットをストーブに載せ、細長いフランスパンを薄く切っていた。彼女は戸口に立ったまま、憑《つ》かれたような目で男の動作を見守っていた。そしてそのあいだも、まだ右手が持っているピストルの銃身と胴を、左手の指で意味もなく撫でまわしていた。
「テーブルクロスはそこにあるぜ」と、スペードはパン切り用のナイフで、朝食用の場所の仕切りになっている食器戸棚をさした。
彼女がテーブルの支度をしているあいだに、スペードは小さな楕円形に切ったパンに、レバー・ペーストを塗ったり、冷えたコーンビーフを挟んだりした。それから彼はコーヒーを注いで、それに角壜のブランディを垂らすと、ふたりして食卓についた。彼と彼女はベンチに並んで腰をかけ、彼女がベンチの自分に近い端に、ピストルをおいた。
「さあ、食べながら、話したらいいだろう」スペードがいった。
彼女は顔をしかめ、「あなたみたいに、しつっこいひとはないわ」と厭味《いやみ》をいい、サンドイッチを食べはじめた。
「そうだよ。おれはがむしゃらで、意地っ張りな男だ。で、問題の鳥、みんなを夢中にさせている黒い鷹《ファルコン》とはなんなのだ?」
彼女は口のなかのビーフとパンを呑みこんで、サンドイッチの縁に残った小さな三日月形の歯の痕をじっと眺めて、「わたしが何も話さなかったら――それについて、何もしゃべらなかったら、あなたどうするつもり?」と訊きかえした。
「鳥のことをか?」
「いいえ、この話の全部をだわ」
「大して驚きはしないよ」と彼は奥歯が見えるくらい大きく口を開けて笑い、「次に打つ手は心得ているさ」といった。
「で、それはなんなの?」彼女は視線をサンドイッチから男の顔に移して、「わたしはそれを知りたかったのよ。あなたの打つ次の手は、どんなことかということを」
彼は首をふって答えなかった。
彼女の微笑にあざけりの色が走って、「がむしゃらで、思いきったこと?」
「たぶん、そうだろう。しかし、きみとしても、いまさらそれを隠したところで、なんの意味もあるまい。いずれは判ってくることなんだ。たしかに、おれの知らないことがたくさんある。だが、ある程度は知っているんだぜ。それに、想像で見当のつくこともある。もう一日余裕をあたえてくれたら、きみの知らないことまで知ってしまうだろうよ」
「そうね。知ってしまうわね」彼女はうなずいて、もう一度サンドイッチを見た。真剣な表情だった。「でも――あたし、このことにはうんざりしてしまったの。話すのもいやになったのよ。話なんかしないで、あなたが自分で知るのを待ってたほうがいいのじゃないかしら」
スペードは笑って、「さあ、どっちが利口な方法か、きみ自身で考えてみるんだな。おれが事実を突きとめる方法は、複雑な機械仕掛けのなかにモンキーレンチを突っこんで、がむしゃらにひっ掻きまわすことだ。おれのほうはそれでいい。ただ、部品が飛んできて、きみを傷つけるのが心配なだけだ」
彼女は不安そうに裸の肩を動かしたが、何もいわなかった。数分のあいだ、ふたりは無言でサンドイッチを食べた。彼は冷静そのものであり、彼女は何かを考えながらだった。やがて彼女がしゃがれたような声でいった。
「わたし、あなたが怖《こわ》くなったわ。ほんとうに」
「いや、そんなおれじゃない」
「いいえ、ほんとだわ」彼女は同じ低い声でいいはった。「わたし、怖い男をふたり知っているの。そして今夜はその両方に会ったのだわ」
「きみがカイロを恐れているのは判る」スペードがいった。「彼はきみの手に負える男じゃない」
「あなたはそうじゃないの?」
「おれはちがうさ」スペードはにやにや笑って見せた。
女は顔を赤らめた。灰色のレバー・ペーストを塗ったパン切れをとりあげて、皿の上におき、白い額にしわをよせて、話しだした。
「それは鳥の形をした、すべすべして光沢のある黒い彫像なの。鳥は鷹《ファルコン》で、高さはこれくらい」と、両手を一フィートほど離してみせた。
「それがそんなに重要な品なのか」
彼女はブランディ入りのコーヒーに口をつけてから、首をふって、「わたしもじつは知らないの」といった。「あの連中、何も話そうとしないで、その入手を手伝ったら、五百ポンドの謝礼をすると約束したのよ。ところがそのあと、ジョエルと別れると、フロイドがそれを七百五十ポンドに値上げしてきたのだわ」
「アメリカ・ドルに直すと、七千五百ドル以上ということになるな」
「もっとかもしれないわ」彼女はいった。「分け前を等分にするとは、ぜったいにいおうとしないのを見ると、そんなふうにも考えられるわ。彼らはあくまで、わたしを手伝いに雇ったつもりなのよ」
「どんな方法で、手を貸すのだ?」
彼女はまたコップを唇へ持っていった。スペードはイエロー・グレーの目の突き刺すような視線を彼女の顔から動かさずに、シガレットを巻きはじめた。そのうしろでは、ストーブの上のコーヒー沸しが煮立っていた。
「あれを持っている男からとりあげる仕事に手を貸すのよ」と、彼女はコップをおきながらいって、「ケミドフという名のロシア人から」とつけ加えた。
「どうやって?」
「方法なんか、大して問題じゃないわ」彼女は返事を拒んだ。「それに、どっちみち――」反抗的なうすら笑いさえ示して「どっちみち、あなたには関係のないことだし――」
「コンスタンチノープルでの話だな?」
彼女はためらったが、けっきょくうなずいて、「正確にはマルマラなの」と答えた。
スペードはタバコをふってみせ、「で、どんなことが起きた?」と話を促した。
「でも、それで全部よ。みんな話してしまったわ。手伝ったら五百ポンドくれるってあの連中が約束したので、わたし、手伝ったわ。ところがあとで、ジョエル・カイロの腹が判ったの。鷹《ファルコン》を手に入れたら、ひとりで逃げてしまって、わたしたちに分け前をぜんぜん残さない腹だってことが。だからわたしたち、それとそっくり同じことを、彼にしてやったの。先手を打ってね。だけど、わたし自身は、なんの得もしなかったわ。カイロと組んでいるのと、ちっとも変わりがなかったの。フロイドもカイロと同じで、約束の七百五十ポンドを支払う気持なんか、初めからなかったのよ。わたしにはそれが、この土地に渡って来るまでに、はっきり判ったの。彼は、ニューヨークへ行って、あれを現金にする。それで分け前をわたすというのだけれど、ほんとの気持でないのが見てとれたのだわ」彼女の目は怒りで紫色になっていた。「あなたに会って、鷹《ファルコン》の在り場所を探すのに協力してってお願いしたのは、そういうわけだからなのよ」
「で、もし手に入ったら? そのときは、どうする気だ?」
「鷹が手に入ったら、フロイド・サーズビーとの折衝に、有利な立場に立てるわ」
スペードは彼女を横目で見て、「だけどきみは、それをどこへ持っていったら、フロイドが約束したのより、もっと多額の金が入手できるのか、つまり、フロイドが当てにしている売り先を知ってたわけじゃないのだろう?」
「そうよ。知らなかったわ」彼女は答えた。
スペードはサンドイッチの皿に落としたタバコの灰を見つめて、「どうしてその品に、そんな値打ちがあるんだ?」と訊いた。「きみにも、見当ぐらいはつくのだろう」
「いいえ、ぜんぜん知らないの」
彼は渋面を彼女に向けた。「なんでできている?」
「陶器か黒石のようね。でも、たしかなことは知らないわ。ほんの数分見ただけで、触ったこともないのだから。フロイドが最初手に入れたとき、ちらっと見せてくれただけなのよ」
スペードはタバコの吸いさしを皿に押しつぶして、ブランディ入りコーヒーのカップに口をつけた。渋面は消えていた。口をナプキンで拭って、それをまるめてテーブルにおくと、さりげない口調で、「きみは嘘つき女だよ」といった。
彼女は立ちあがって、テーブルの端から、ピンク色に染まった顔の、きまり悪そうな目で彼を見下ろし、「そうね。わたしは嘘つき女よ。ずっと昔から、嘘をついてばかりいたんだわ」
「自慢そうにいうことはない。子供じみてるぜ」スペードの声は明るかった。テーブルとベンチのあいだの狭い場所から出てきて、「いまの話のうちに、いくらかはほんとうのことがあるのかね?」と訊いた。
彼女は首うなだれた。黒いまつげに光るものがあって、「いくらかはね」と小さな声でいった。
「どのくらい?」
「ほんの少し――たくさんじゃないわ」
スペードは彼女の顎に手をかけて、顔を上向かせた。目が濡れているのを見て、彼は声をあげて笑い、「夜が明けるにはまでじゅうぶん時間がある」といった。「もっとコーヒーを淹《い》れて、ブランディもたっぷり入れて、もう一度話しあおうじゃないか」
彼女はまぶたを伏せて、「でも、わたし、疲れたわ」と震え声でいった。「こんな自分がつくづくいやになったわ。嘘をついて、嘘ばっかり考えて、何が嘘で何が真実なのか、そのけじめもつかなくなっているわたしがよ。いまのわたしは、こうしたいだけなの」
彼女はいきなりスペードの頬を両手ではさんで、開いた口を彼の口にあてがったかと見ると、からだをぴたっと押しつけてきた。
スペードは両腕を彼女のからだにまわし、腕の筋肉がブルーの袖口を盛りあげんばかりの力で、彼女を抱きしめた。そして片手で彼女の頭をかかえ、指で赤い髪の毛を探り、もう一方の手が彼女のほっそりした背中を撫でつづけた。その目には黄色い炎が燃えていた。
十 ベルヴィディア・ホテルの長椅子
スペードが目をさますと、明るみそめたあかつきの色が、夜の闇を灰色の薄もやのなかに押しもどしつつあった。同じベッドのなかで、ぐっすり寝こんだブリジッド・オショーニシーが規則正しい寝息を立てている。スペードはそっとベッドから下りて、寝室をぬけ出し、ドアを閉めた。バス・ルームで着替えをすますと、熟睡している女のドレスを探って、上着のポケットから平たい真鍮の鍵をとり出し、外出した。
彼はコロネット・アパートへ行って、その鍵で建物内に入り、さらに彼女の部屋にはいった。見たところ、彼の行動にはこそこそしたところがまったくなく、大胆で無遠慮なものだったが、耳に聞くかぎりでは、だれも気づかぬほど音を立てなかった。
彼女の部屋にはいると、電灯を全部つけて、室内の隅から隅まで捜しまわった。目と太い指が、それと判るほど急ぐわけでなく、そうかといって、ひとつところに停滞したり、もとの場所にあともどりすることもなく、専門家の着実さで、一インチ一インチと調べ、探り、確かめていった。引出し、食器戸棚、押入れ、箱、袋、トランクのたぐいを――鍵のかかっているのもいないのも――ことごとく開いて、なかの品を目と指であらためた。衣類は一枚一枚、少しのふくらみも手で触れてみて、押さえた指のあいだで紙片が音を立てないかと耳を澄ました。ベッドの寝具をはがし、絨毯をめくり、家具の下側をのぞきこんだ。
窓のブラインドをひき下ろして、そこに巻きつけてある物はないかと、つづいて窓から身を乗り出し、外側に吊るした品はないかと確かめた。化粧台の上のおしろいとクリームの瓶はフォークの先で突っついてみたし、香水の壜と吹きつけ器は電灯の光にすかしてみた。皿、鍋、食料品とその容器を調べ、ごみ入れの罐《かん》の中身は新聞紙をひろげて、その上にぶちまけた。バス・ルームの便器の蓋をあけて、水を流し、なかをのぞきこんだ。浴槽、洗面台、流し台、洗濯幾の排水口の金網まで調べて確かめた。
黒い鳥はついに発見されなかった。それと関連がありそうなものも見つからなかった。書いた物で彼が探し出したのは、一週間前にブリジッド・オショーニシーが支払った部屋代一カ月分の領収書で、彼の興味を惹いて捜査を少しおくらせたのは、化粧台の鍵のかかる引出しに入れてあった色はなやかな箱のなかの宝石類だった。それはかなり高価なものばかりで、ふた握りほどもあった。
捜査をすますと、スペードはコーヒーを沸かして、カップに一杯飲んだ。それから、キチンの窓の錠をはずして、錠の縁にポケット・ナイフで傷をつけ、その窓を開け放った。ちょうどその下が非常階段になっていた。そして、居間の長椅子の上の帽子と外套を身につけると、来たときと同じ手順で、アパートを出た。
ホテルへもどる途中、食料品店の前を通りかかると、小肥りの店主がねぼけ眼《まなこ》で、寒さに身震いしながら表戸を開けていたので、オレンジ、卵、ロールパン、バター、クリームなどを買い求めた。
それから足音を立てぬように気をつかって、部屋にはいったが、ドアを閉めきらないうちに、ブリジッド・オショーニシーが叫び声をあげた。「だれなの?」
「スペード青年だ。朝食の材料を仕入れてきた」
「びっくりしたわ!」
出しなに閉めておいた寝室のドアが開いていた。彼女は寒さに震えながら、ベッドの端に腰かけて、右手を枕の下に突っこんでいた。
スペードは買い物袋をキチンのテーブルの上において、寝室にはいり、彼女と並んでベッドに腰を下ろし、彼女のすべすべした肩にキスをしていった。「あの若僧がまだ見張りをつづけているか見に行って、ついでに朝飯の材料を仕入れてきた」
「彼、まだいたの?」
「いや、いなかった」
彼女はほっと息を吐いて、彼によりかかった。「目がさめたら、あなたがいなくて、そのあとすぐに、あの足音を聞いたのよ。こわかったわ」
スペードは、彼女の顔に垂れかかった赤毛の髪を掻きあげてやって、「悪かったな、おれの天使。もどってくるまで眠りこんでいると思っていたのさ。そのピストル、一晩じゅう枕の下に入れておいたのか?」
「ちがうわよ。入れてなかったこと、あなただって知ってるじゃないの。足音が聞こえたので、とび起きて取ってきたんだわ」
スペードは朝食の支度にとりかかった。そして、彼女がバス・ルームでからだを洗って、着替えをしているあいだに、平たい真鍮の鍵を彼女の上着のポケットにもどしておいた。
彼女は『エン・キューバ』の曲を口笛で吹きながら、バス・ルームから出てきて、「ベッドを直しておこうかしら?」といった。
「そうしてくれると助かる。卵はあと二、三分かかるんでね」
朝食をテーブルに並べおえたところに、彼女がキチンにもどってきた。ふたりは昨夜と同じ席で、腹いっぱい食べた。
ややあって、「さて、鳥の話を聞こうか」とスペードがいいだした。
彼女はフォークをおいて、彼の顔色を見た。そして眉をひそめ口を小さく尖らせて、「よりによって、事件の翌朝話せといわれても、しゃべる気特にならないわ」と苦情をいった。「そんな気持には、まだ当分なれそうもないのよ」
「相当な意地っぱりだな、きみという女は」スペードは不服そうにいって、ロールパンをちぎって口にほうりこんだ。
スペードとブリジッド・オショーニシーは横丁を突っ切って、客待ちの駐車場へ向かった。前夜スペードを尾行していた若者の姿は見えなかった。タクシーも尾行されなかった。コロネット・アパートに到着したときも、その近所には、例の若者はもちろん、そこらをうろつく人影はひとつも見えなかった。
ブリジッド・オショーニシーは、スペードがいっしょにはいるのを拒んだくせに、「こんな時間にイヴニングドレス姿で、連れもなしに帰ってくるなんて、みっともないったらないわ」といった。「だれにも見られなけりやいいけど」
「今夜、食事をいっしょにしようか?」
「ええ、いいわ」
ふたりはキスをして、彼女はなかへはいっていった。スペードはタクシーの運転手に、「ベルヴィディア・ホテルへ」と命じた。
ベルヴィディア・ホテルに到着すると、例の尾行の若者が、ロビーの長椅子に腰かけていた。そこからだと、エレベーターへの人の出入りを見ることができて、若者は新聞を読んでいる格好をしていた。
スペードはフロントのデスクで、カイロが外出していると聞くと、顔をしかめて、下唇を咬んだ。目に黄色い光が躍りだした。「ありがとう」とクラークにいうと、デスクに背を向けた。
彼はそのあと、ゆっくりした足どりでロビーを横切り、エレベーターの見える位置の長椅子に歩みよって、新聞を読んでいる格好の若者と並んで腰を下ろした。ふたりのあいだは一フィートと離れていなかった。
若者は新聞から顔をあげなかった。このような近くで見ると、二十歳にもなっていないらしい。顔もからだと調子を合わせて小ぶとりだが、目鼻立ちがととのって、白い膚《はだ》がきれいで、髭の濃くなる齢でもないので、血の気の薄い頬の蒼さがいちじるしい。着ている服は新品でもなければ、上質なものでもないが、着こなしがいいせいか、男性的な身ぎれいさを感じさせていた。
スペードは、タバコの葉を茶色の巻き紙に移しながら、何げない口調で、「彼、どこへ行ったんだね?」と問いかけた。
若者は新聞を下ろして、周囲を見まわした。本来なら、さっそく反応したいところだが、わざと抑えた緩慢な動作だった。反りかえったやや長めのまつげの下から、ハシバミ色の目でスペードの胸のあたりを見て、「なんですか?」と訊きかえした。その若々しい顔にふさわしい、無色で、落ち着いた、冷ややかな声だった。
「彼がどこへ行ったかだよ」スペードはタバコを巻く手をやすめずにいった。
「彼というと?」
「きみのホモ仲間さ」
ハシバミ色の目が、スペードの胸からえび茶のネクタイの結び目まで視線を上げて、そこに止まった。「おまえはいったいだれだ? 生意気な口をきくんじゃねえぜ」若者はいった。「おれをからかう気か?」
「からかう気なら、もっとはっきりいうよ」スペードはシガレットを巻きおえて、相手にほほえみかけ、「ニューヨークからやってきたんだな」といった。
若者はスペードのネクタイを見つめるだけで、何もいわなかった。スペードは相手が肯定の返事をしたかのようにうなずいて、「判ったよ。ボームス法〔ニューヨーク州の常習犯取締法〕がこわくて逃げ出してきたんだろう」といった。
若者の目はなおしばらくスペードのネクタイを見つめたままだったが、やがて新聞をかかげて、それに視線を移し、「あっちへ行ってくれ」と、口をゆがめていった。
スペードはタバコに火をつけて、長椅子の背にゆったりもたれかかり、気がるな調子でしゃべりだした。「おい、若いの、おまえたちの仕事をやりぬくのは、おれと話しあわなけりゃ無理なんだ。Gにいうがいい。おれがそういったとな」
若者はすばやく新聞をおいて、スペードに向き直り、冷たいハシバミ色の目でスペードのネクタイを見つめていたが、小さな両手をひろげて腹の上にあてがった。「いつまでごたくを並べていやがるんだ。いいかげんにしねえと、ただじゃすまさねえぞ」若者はいった。「こっぴどい目にあわせてやるからな」声は低くて一本調子だが、凄味があった。「あっちへ行けといったのが聞こえねえのか」
ちょうどそのとき、眼鏡をかけた小肥りの男と脚の細い金髪女が通りかかったので、スペードはそのふたりが遠ざかるのを待ってから、くすくす笑いながらいった。
「そんな脅しは、あちらの七番街あたりなら通用するだろうが、あいにくここはニューヨークじゃねえ。シスコはおれの縄張りなんだ」彼はタバコの煙を深く吸いこみ、淡青色の雲にして吐き出し、「で、彼はどこにいる?」と、また訊いた。
若者はただひと言、「うるせえ!」と吐き出すようにいった。
「そんな口のきき方をしていると、前歯が抜けちゃうぞ」スペードの声はいぜんとしておだやかだったが、顔は木彫りの面のように冷たく変わって、「この街でうろつきたかったら、もうちょっと行儀よくすることだ」といった。
若者は「うるせえ!」と繰り返した。
スペードはタバコを、長椅子のそばの背の高い石の壷に投げこむと、片手をあげて、少し前から葉巻売場の端に立っていた男に合図をした。男はうなずいて、近寄ってきた。中年の中肉中背の男で、血色のよくない丸顔、ひきしまった体躯、黒い服をきちんと着ていた。
「やあ、サム」男は近寄りながら声をかけた。
「やあ、ルーク」
ふたりは握手をして、ルークがいった。「マイルズは可哀そうなことをしたな」
「そうだ。とんだ災難だった」
スペードは応えてから、長椅子に並んで腰かけている若者を頭で示して、「きみのところじゃ、こんなチンピラやくざがロビーに出入りするのを許しておくのか。こいつら、服がハジキでふくらんでるぞ」
「ほんとか?」ルークは急にきびしい顔になって、鋭い茶色の目で若者をじろじろ眺め、「ここで何をしている?」と訊いた。
若者は立ちあがった。スペードも立ちあがった。若者はふたりの男を、そしてふたりのネクタイを、かわるがわる見た。ルークのネクタイは黒かった。若者はふたりの前に、小学校の生徒のような格好で立っていた。
「用がないんなら、さっさと出て行け」ルークがいった。「二度ともどってくるんじゃないぞ」
若者は、「おぼえていろ」と捨てゼリフを残して出ていった。
若者の出て行くうしろ姿を見送ってから、スペードは帽子をぬいで、ハンカチで額の汗を拭った。
ホテル専属の探偵が、「何なのだ、あいつは?」と訊いた。
「知らんよ」とスペードは答えた。「たまたま目にとまっただけの男だ。ところで、ジョエル・カイロという客のことを知りたいんだが。六三五号室に泊まっているはずだ」
「ああ、あの男か」ホテルの探偵は思わせぶりの目つきを見せた。
「いつから泊まっている?」
「きょうが五日目――四日間だ」
「どんな様子だ?」
「詳しいことは知らんよ、サム。人相は気に入らんが、どうってこともなさそうだ」
「昨夜は部屋で寝たか、調べてくれないか?」
「いいとも」探偵は引き受けて、調べにいった。スペードは長椅子に腰を下ろして、待った。ルークはもどってくると、
「寝ておらんね」と報告した。「ゆうべは帰って来なかった。だが、それがどうかしたのか?」
「いや、なんでもない」
「はっきりいえよ。おれの口が堅いのは知ってるはずだぞ。おれのほうだって、何か問題があるのなら、知っておかなけりゃならん。勘定をとりっぱぐれると困るからな」
「そんなことじゃないんだ」スペードは保証した。「じつをいうと、おれはいま、あの男の依頼で、ちょっとした仕事をしている。様子がおかしかったら、知らせるよ」
「そうしてくれると助かる。おれのほうでも目をつけておこうか?」
「ありがたいよ、ルーク。こっちもそれで安心して仕事ができる。最近の依頼人は、正体の判らん連中が多いんでね」
エレベーターの上の時計が十一時二十一分をさしたとき、ジョエル・カイロが玄関からはいってきた。額に包帯を巻いている。長い時間着たままでいたからであろう、服がしわだらけで、顔に生気がなく、口もともまぶたもたるんでいた。
スペードはフロントのデスクの前で彼をつかまえて、「やあ、おはよう」と気安くいった。
カイロは疲れきったからだをしゃんと伸ばし、たるんだ顔の線をひきしめて、「おはよう」と気のない調子で応えた。
少しのあいだ、ふたりとも無言でいた。
それからスペードが、「どこか落ち着いた場所で話しあおうよ」というと、カイロは顎をあげて、「ご容赦ねがいたいですな」といった。「正直なところ、あなたとの秘密会談なるものにはすっかり悩まされて、もう一度繰り返す気にはなれんのです。失礼なことを申しあげてなんですが、それが実際の気持でして」
「ゆうべのことをいってるんだな」スペードは頭と両手でじれったそうなジェスチャーを示して、「あの場合、おれとしては、ほかに仕様がなかった。それはきみにも判ってもらえると思っていた。きみが喧嘩をしかけたのか、彼女のほうからだったかは知らないが、ああなったからには、おれは彼女に味方しないわけにいかんじゃないか。問題の鳥の在り場所をおれは知らないのだ。きみだって知らない。知っているのはあの女だけだ。となると、鳥を手に入れるには、彼女と折り合っていく以外に方法がないのだ」
カイロは疑わしげな表情で、口ごもりながら、「あなたってひとは、どんなことにもすらすらと説明の言葉が出てくるんですな」といった。
スペードは不機嫌な顔をして、「じゃ、どうしろというんだ? どもりの練習でもしたらいいのか。とにかく、あの話のつづきを聞こう。場所はあそこでもいいだろう」と、さっきの長椅子にカイロを導いた。ふたり並んで腰を下ろすと、スペードが訊いた。「ダンディに警察本部へ連れていかれたんだな?」
「ええ」
「どのくらいの時間、しめあげられた?」
「ついさっきまでですよ。こっちの意向なんか、ぜんぜん考えてもくれんのです」苦痛と怒りがカイロの顔と声に顕著だった。「この問題はかならず、ギリシア総領事館と弁護士の手で解決してみせます」
「やってみるのもいいだろう。どんな結果が生じるかは知らんがね。で、警察ではどんなことをしゃべってきた?」
カイロはにやり、満足そうにほほえんで、「ひと言だってしゃべりはしませんよ。昨夜あなたがあの部屋で、あらかじめ示してみせた筋書の線を守りぬきました」そしてそこで、急に微笑を消してつけ加えた。「ほんとうのところは、あの妨害がもう少し筋の通ったものであったらと思いました。繰り返していて、ばかばかしくなってきたぐらいで――」
スペードはにやにや笑って、「たしかにそうだ」といった。「だけど、そのばかばかしいところが効果的だったのさ。ところで、尻っぽをつかまれなかったと、たしかにいえるのか?」
「その点、信用してもらって大丈夫。ひと言もしゃべりません」
スペードは指で、彼とのあいだの皮張りのシートをかるくたたいて、「ダンディからもう一度尋問されるのを覚悟していたほうがいい。そのときもシラを切りとおしたら、こんどこそ完全に放免される。話がばからしいのは気にする必要がない。あれがなまじ、もっともらしい説明だったら、おれたちみんなブタ箱入りのところだった」そして彼は立ちあがっていった。「一晩じゅう尋問のあらしに吹きまくられていたんじゃ、さぞかし眠たいことだろう。あとでまた会うことにしよう」
スペードが事務所にはいっていくと、エフィ・ペリンが電話に、「いいえ、まだですわ」といっていた。エフィはふり向いて彼を見ると、唇の動きだけで、≪アイヴァ≫という名前を示した。スペードは首をふった。「ええ、いいですわ。もどりしだい、電話するように伝えます」彼女は大きな声でそれだけいうと、受話器をおいて、「けさ、彼女の電話、これで三度目よ」とスペードにいった。
彼は落ち着きを失った格好で、うなり声を洩らした。
女秘書は茶色の目を動かして、奥の個室を示し、「あなたのミス・オショーニシーが、九時ちょっとすぎから待ってるわ」といった。
スペードはそれを予期していたようにうなずいて、「ほかに何か?」と訊いた。
「ポルハウス部長刑事から電話があったわ。言伝てはなかったけど」
「では、彼に電話してくれ」
「それから、Gからの電話よ」
スペードの目がきらっと光って、「だれだって?」と訊いた。
「Gだっていったわ。いったのは、それだけなの」彼女はこの問題に、ぜんぜん関心がないようだった。「あたしが、所長はまだ出勤していませんと答えると、出勤したら、連絡をもらったGから電話があったと伝えてほしいというの。そして、あとでまたかけてよこすと付け加えていったわ」
スペードは好きなものを味わっているように唇を動かして、「やあ、ありがとう」といい、「トム・ポルハウスを電話でつかまえてくれよ」といいおくと、個室のドアをあけてなかに通り、すぐにそのドアを閉めた。
ブリジッド・オショーニシーが最初の訪問のときと同じ服装で、デスクのそばの椅子から立ちあがり、すばやく彼のそばに走りよると、「わたしの部屋が荒らされてたわ」と叫んだ。「何から何までひっくり返して、部屋のなか、見られたものじゃないのよ」
彼はいちおう驚いた顔を見せて、「で、何か持っていかれたか?」と訊いた。
「そんなようでもないわ。たしかなことは判らないけれど。それでわたし、こわくなって、着替えをすますと、いそいでここへ来てしまったの。やっぱりあなた、あの若者に尾《つ》けられていたのね」
スペードは首をふり、「そんなことはないさ」というと、ポケットから早版の夕刊をとり出して、開いて見せ、『悲鳴、泥棒を走らす』と見出しをつけた一段ぶっこぬきの記事を示した。
サッター・ストリートのアパートにひとりで住むカロリン・ビールという若い女性が、その日の未明の四時に、何者かが寝室内を動きまわる音で目をさました。そして悲鳴をあげたので、泥棒は逃げだした。同じアパート内に独身婦人がなお二名いて、彼女たちも夜が明けてから、泥棒にはいられた形跡を発見した。ただし三人とも、何も盗られていなかった……。
「そのアパートだよ、おれがあの若僧を巻いてやったのは」スペードが説明した。「おれはいったん、あのアパートにはいって、裏口からぬけ出した。泥棒に襲われた三人がみんな独身の女なのはそのためだ。あの若僧、きみが偽名で住んでいるものと思いこんで、玄関ホールの名札で女名前の部屋を調べて侵入したのさ」
だが、彼女は反駁《はんばく》して、「でも、あの男、わたしたちがあなたの部屋にいるのを見張っていたのじゃないの?」といった。
スペードは肩をすくめて、「やつがひとりでとびまわっているとみる理由はあるまい。きみがおれの部屋に泊まっていくものと思い返して、その留守をねらって、サッター・ストリートのアパートへ駆けつけたと考えられる。要するに、可能性はいろいろあるのだが、おれはあいつにコロネット・アパートを突きとめられるようなへまはやらなかった」
彼女は不満そうに、「だけど、けっきょくは見つけられてしまったのよ。彼でなければその仲間に」
「それはそうだ」スペードは眉をひそめて彼女の足もとを見ながら、「侵入したのはカイロということもありうるよ」といった。「彼は一晩じゅうホテルにもどらなかった。あらわれたのはほんの少し前で、夜どおし警察でしぼられたと語ったが、ほんとかどうか判らんよ」そしてふり返って、ドアを開けると、エフィ・ペリンに、「トムはまだつかまらないのか?」と訊いた。
「いま、いないそうなの。もう少ししたら、またかけてみますわ」
「頼んだぜ」スペードはドアを閉めて、ブリジッド・オショーニシーと向きあった。
彼女は暗い目でスペードを見て、「けさ、ジョエルに会いにいったのね?」と訊いた。
「そうだ」
彼女はためらいがちに、「なんのために?」と問いただした。
「なんのため?」彼は笑顔で彼女を見返して、「それはだね、雲をつかむようなこの事件の真相を知るには、どんな引っかかりからも目を離すわけにいかないからさ」そして彼女の肩を抱いて、回転椅子にひきよせ、鼻の頭にかるくキスをしてから、椅子にかけさせた。彼自身はデスクに尻を載せて、「こうなると、きみのために新しい住居を探さねばならんな」といった。
彼女は力をこめてうなずいて、「そうしてもらうわ。わたし、二度とあそこへはもどりたくないの」
彼は太股のわきのデスクの上をかるくたたきながら考えていたが、「心当たりがないこともない」といって、「ちょっと待ってくれ」と隣の事務室に出て、ドアを閉じた。
事務室では、エフィ・ペリンが電話に手を伸ばして、「もう一度かけてみるわ」といった。
「その電話はあとでいい。それより、きみに訊きたい。きみにそなわった女性の直感力には、あの女がいまでもやはり、マドンナか何かと思えるかだ」
エフィは鋭い視線を彼に向けて、「ええ、そうよ。いまだって信じているわ。どんなトラブルに巻きこまれたか知らないけど、信用してまちがいないひとだわ。この質問がそういう意味なら、あたし、請け合うわ」
「そういう意味だよ」スペードがいった。「それほど信用しているのなら、このさい、彼女を助けてやってくれないか?」
「どうやって?」
「二、三日、きみのところに泊めてもらう」
「あたしの家に?」
「そうだ。彼女の部屋が荒らされたのだ。しかもそれが、今週にはいって二度目だ。だから彼女をひとりでおかないほうがいい。きみのところに泊めてもらえたら、とても助かるんだが」
エフィ・ペリンはからだを乗り出して、熱心に訊いた。
「あのひと、ほんとに危険なの、サム?」
「危険だと思うね」
エフィは爪で唇をひっかきながら、「ママがこわがって、発作を起こしかねないわ。承知させるのが大へんよ。あなたが見つけたとっておきの証人で、最後の段階まで世間の目から隠しておきたいのだとでもいおうかしら」
「なんとか頼むよ」スペードがいった。「いますぐここから連れ出してくれ。アパートの鍵はおれが預かって、必要な品はあとで運んでおく。ちょっと待った。きみと彼女がいっしょに出るのを見られてはまずい。きみが一足先に出て、タクシーを拾って帰ってくれ。尾けられないようにしてくれよ。そんなことはないと思うが念には念を入れよだ。少し間をおいてから、彼女もタクシーで送り出す。尾行がないのを確かめてからだ」
十一 肥った男
ブリジッド・オショーニシーをエフィ・ペリンの家へ送り出して、スペードが事務室にもどってみると、電話のベルが鳴っていた。彼は電話機に向かった。
「もしもし……ええ、スペードです……ええ、聞いています。電話をお待ちしていました……というと?……おお、グトマンさんとおっしゃる? 判りました……ええ、けっこうです……いますぐですな――たしかに、早いほうがいいでしょう……一二号のCですね……大丈夫ですとも。十五分もあれば行けますよ……承知しました」
スペードは電話のそばのデスクの端に尻を載せて、タバコを巻きはじめた。口を満足そうにVの字なりに結んでいるが、タバコを巻く指先を見つめる目がまぶたの下にひき緊っているのは、思い悩むところがあるのだろうか。
ドアが開いて、アイヴァ・アーチャーがはいってきた。
スペードが「やあ、アイヴァ」と愛想のいい声で迎えた。それと同時に、顔の表情も明るく変えていた。
「サム、あたしを許して! 悪いことをしちゃったわ!」彼女はいきなり泣き声でいって、ドアのすぐ内側に立ったまま、手袋をはめた手に黒い縁どりをしたハンカチを握りしめた。赤く泣きはらした目が怯えの色をたたえて、彼の顔をのぞきこんだ。
スペードはデスクの端から顔もあげずに、「いいんだよ。気にしなくて大丈夫さ。忘れてしまうんだな」といった。
「だけど、サム」と、彼女は泣き声でつづけた。「あそこへ警官を行かせたのは、あたしの焼きもちなの。嫉妬に頭が狂って、警察へ電話して、あそこへ行ったら、マイルズ殺しの手掛りがつかめるはずだって、いってしまったの」
「どうしてそんなことを考えた?」
「考えたんじゃなくて、頭が狂っていたのよ。あなたを苦しめたかったばかりに――」
「そのおかげでひどい目にあったよ」スペードは彼女の腰に腕をまわしてひきよせ、「だが、もう大丈夫だ。ただ、そんなばかげた考えは、二度と起こさぬようにしてくれよ」
「ええ、二度としないわ」彼女は約束した。「いつまでも。でも、ゆうべのあなたは、ずいぶん冷たかったわ。話しておかないと危険なことがあったので、わざわざ出かけていって、長いあいだ待っていたのに、あんな冷淡にあしらって、早く帰れといわぬばかりの態度で――」
「話しておかないと危険なこととは?」
「フィルのことよ。彼、あたしたちの仲を勘付いているのよ。あたしが離婚を求めたこと、マイルズの口から聞いたのね。もちろんそのときは、その理由までは知らなかったようだけど、でも、いまはこんなふうに考えているのだわ――マイルズが離婚を承知したら、あたしたちは結婚できる、だけど、マイルズは承知しようとしないので、あなたに殺されてしまったのだって。彼はその考えをあたしにまで話して、昨日、警察へ行ってしゃべってきたのよ」
「厄介なことだな」スペードはあわてずにいって、「そこできみは警告にやってきた。ところが、おれが忙しがっていたのに腹を立てて、フィル・アーチャーの人騒がせな密告の手伝いまでやってのけた」
「悪かったわ」アイヴァは泣き声でいった。「赦してもらえないわね。あたし――あたし、後悔しているわ」
「当然後悔すべきだよ。おれが困るばかりか、きみだって、ひどい目にあう恐れがある。で、フィルが密告したあと、ダンディがやって来なかったか? でなけりゃ、ほかの警察官が?」
「だれも来なかったわ」しかし彼女は、不安に目と口を大きく開いていた。
「いずれは来るぞ」スペードはいった。「そうなると、きみがここにいるのを見られてはまずい。きみは警察への電話で、名前をいったのか?」
「いわないわ! ただひと言、いますぐあなたのアパートへ行けば、殺人事件の手掛りがつかめるといっただけで、電話を切ってしまったのよ」
「どこからかけた?」
「あなたのアパートの少し上のところにあるドラッグストアからよ。ねえサム、あたし――」
スペードは彼女の肩をかるくたたいて、明るい声でいった。「ばかなまねをしたものだが、まあ、いい。すんでしまったことだ。いまは早く家へ帰って、警察へ話して聞かす文句を考えておいたほうがいい。調べられるのを覚悟しておけばまちがいない。そしてそのときは、何を訊かれても、≪知りません≫で押しとおすのが利口だろう」そして彼は額にしわをよせて、遠くを見るような顔をしていたが、「家へ帰る前に、シド・ワイズに会っておくのがいいかもしれないな」というと、彼女の腰から手を離して、ポケットを探って名刺をとり出し、裏に三行ほど走り書きして彼女に手渡した。そして「シドには何を話してもいい」といったが、また眉をひそめて、「だいたいのところはだ」といい直し、「ところで、きみ、マイルズが撃たれた夜、どこにいたんだ?」
「家にいたわ」アイヴァはためらうことなく答えた。
スペードは頭をふって、にやり笑った。
「ほんとうにいたのよ」彼女はいいはった。
「嘘だね」スペードはいった。「だが、それがきみの筋書なら、おれはとやかくいわんでおこう。とにかく、シドに会ってくれ。この事務所の前の道路の次のかどに、ピンク色のビルがある。そこの八二七号室がシドの事務所だ」
彼女の青い目がスペードのイエロー・グレーの目を探るように見て、「あたしが家にいなかったって、どんな理由で考えるの?」と訊いた。
「理由なんかないが、きみがいなかったのを知っているのさ」
「だって、いたわよ。ちゃんといたわ」アイヴァの唇がねじれて、怒りで目が暗くなった。「エフィ・ペリンがいったのね」といきり立って、「それで判ったわ。あの娘が、あたしのドレスや部星のなかをじろじろ見まわしていた理由が。エフィはもともとあたしが嫌いなのよ。だから、あたしを困らせることなら、なんでもするのだわ。あなただって、そのこと、知ってるはずよ。それだのに、どうしてエフィの言葉を信じるの?」
「うるさいものさ、女ってやつは」とスペードはおだやかな口調でいってから、手首の時計を見て、「そろそろ出かけたほうがいいぜ」と促した。「おれも約束の時間におくれている。それから、余計なことをいうようだが、シドに会ったら、真実を話して、それ以外のことは何もしゃべるんじゃない。つまり、知られたくないことは話さなくてもいいが、その脱落部分を作り話で補うな、ということだ」
「あたし、あなたに嘘をついてはいないわよ、サム」彼女は不服をいった。
「信じられんね」彼はいって、立ちあがった。
彼女は爪先立ちをして、男の顔に自分の顔を近づけ、「あたしを信じてくれないのね」と泣き声を出した。
「ああ、信じないよ」
「だったら、赦してもくれないのね?――あたしのしたことを」
「それは赦すといったじゃないか」彼は頭を下げて、彼女の口にキスをし、「あれはあれでいいのさ。それより、早く出かけることだ」
彼女は腕を彼のからだにまわして、「ワイズさんのところへ、いっしょに行ってくれない?」と頼んだ。
「それがだめなんだ。いっしょに行ったところで、邪魔になるだけだ」彼は彼女の腕をたたき、それを自分のからだからひき離すと、左の手首の手袋と袖口のあいだにキスをした。それから、両手で彼女の肩をつかんで、くるりドアのほうへふり向かせると、かるく押しやって、「さあ、出かけるんだ」と命令した。
アレグザンドリア・ホテルの組み部屋一二号Cで、マホガニーのドアを開いたのは、スペードがベルヴィディア・ホテルのロビーでやりあった若者だった。スペードは愛想よく、「よう!」といった。若者は何もいわずに、ドアを開いた姿勢のままで、そこに立っていた。
スペードはなかに通った。肥った男が迎えに出てきた。
男はぶよぶよ締りなく肥っていた。頬、唇、顎、頸のどれもがピンク色の球根のように膨れあがり、柔らかな巨大な卵のような胴体に、円錐形の腕と脚がぶら下がっている。いま、スペードを迎えに出てくると、一足ごとにその球根が、それぞれ別個の動きを示して、あるいは盛りあがり、あるいは震え、そしてまた垂れ下がって、それはちょうど管から吹き出されたたくさんのシャボン玉が、管を離れようとしてなかなか離れないのに似ているのだった。目は周囲の肉が厚すぎるので小さく見えるが、暗く、鋭い光を放って、禿げあがった頭蓋のまわりを、黒い巻毛が細い輪となってとりまいている。黒いモーニング服、黒いチョッキ、黒いサテンのアスコット・タイ、ピンク色の真珠のネクタイ・ピン、ウーステッド地のグレーの縞ズボン、そしてパテント革の靴といった服装だった。
彼は喉にからんだような声で、「おお、スペードさん!」と力をこめた口調でいって、ピンク色のヒトデのようなまるまるした手をさし出した。
スペードは微笑を含んだ顔で握手を交わしながら、「はじめまして、グトマンさん」といった。
肥った男はスペードの手を握ったまま横に並んで、もう一方の手をスペードの肘にあてがうと、緑色の絨毯《じゅうたん》を踏んで、緑色のビロード張りの椅子へ導いた。そのわきのテーブルの上に、盆に載せたジョニー・ウォーカーのボトルとサイフォン、いくつかのグラスが、そしてまた、葉巻を入れた箱――中身はコロナ・デル・リッツ――二種の新聞紙、黄色トパーズのなめらかな小箱がおいてあった。
スペードは緑色の椅子に腰を下ろした。肥った男がボトルとサイフォンからグラスふたつに飲みものを満たした。若者は姿を消していた。三方の壁にそれぞれドアがあるが、どれもみな閉まっていて、スペードの背後の、つまり四番目の壁のふたつの窓から、ギアリー・ストリートが見下ろせた。
「遠慮なく召しあがってください」肥った男はグラスをさし出して、ネコが喉を鳴らすような声でいった。「あたしは飲みものを勧めて遠慮されると、その相手を信用しないことにしておるのです。彼が飲みすぎに気をつかっているのは、飲んだら信用できない男だからです」
スペードはグラスを受けとって、ほほえみながらその上にかるく頭を下げた。
肥った男はグラスをかかげ、窓からの光線に透かして、泡立つ中身に満足そうにうなずくと、「では、これからの率直な話合いと明確な理解のために、乾杯といきましょう」
ふたりはウィスキーを飲んで、グラスをおいた。
肥った男は抜け目のない目でスペードをじろじろ見ながら、「あなたは口の重いほうらしいですな」といった。
スペードは首をふって、「いや、話し好きのほうですよ」と答えた。
「けっこう、けっこう!」肥った男は大声でいった。「あたしは無口な相手を信用しないことにしております。彼らは概して、しゃベらんでもよいときに、見当ちがいなことをしゃべりだしたりして……会話には平素の習練が大切なんですな。それではじめて、いざというときに、賢明な話合いができるというものです」彼はグラス越しに明るい笑顔を見せ、「しかし、あたしたちのこの会談は順調に運びそうですな」と、グラスをテーブルの上におき、コロナ・デル・リッツ葉巻の箱をスペードの前にさし出し、「一本いかがです」といった。
スペードは葉巻を一本とって、端を切り、火をつけた。
そのあいだに肥った男は、もうひとつ緑色のビロード張りの椅子を、スペードと向かいあうところへひきよせた。ふたつの椅子は適当な距離があり、そのあいだの、両者から手の届く位置に灰落としスタンドがあった。それから彼は、テーブルからはグラスを、葉巻箱からは一本をとって、椅子に腰を落とした。顔面のいくつかの球根が震動をとめて、ぶよぶよした感じの静止状態におさまった。そして、気持よさそうに息を吐いて、「よろしかったら、会談に移りましょう」といった。「あたしは、話好きなお方と話しあうのが好きな性分でしてな」
「そうお願いしましょう。黒い鳥についてですね」
肥った男が声をあげて笑った。またしても顔面の球根がぶるんぶるんと揺れた。「やはりあの件ですか? さよう、さよう、あの件がよろしい」と自問自答して、ピンク色の顔をうれしそうにかがやかし、「あなたは会談の相手に打ってつけのお方――あたしと同じタイプの性格とお見受けした。いまも遠まわしなことはいわずに、単刀直入に『黒い鳥についてですね』と、問題の核心に触れられた。気に入りましたよ。ビジネスはビジネスライクに話しあうのにかぎります。では、黒い鳥についての話に移りましょう。
ただ、その前にひとつだけ、あたしの質問にお答えねがいたいのです。あるいは不必要な質問かもしれませんが、会談をはじめるにあたって、相互の理解を深めておくのも無意味なことでないと考えます。そこでお尋ねしますが、あなたはここに、ミス・オショーニシーの代理人として来られたのですか?」
スペードは葉巻の煙を吐き出した。煙は長い尾をひいて、肥った男の頭上斜めの方向へ流れていった。彼は葉巻の先の灰を見つめて考えていたが、やがて慎重な返事をした。
「その点、イエスともノーともいいかねます。現在のところ、そのどちらにも確定的なものがないからで」と顔をあげて肥った男を見て、ひそめていた眉を開き、「要するに、ことと次第によりけりといったところです」といった。
「ことと次第とは?」
スペードは首をふって、「それが判っていたら、イエスかノーを答えられるんですがね」
肥った男はグラスのウィスキーをひと口含んで、飲み下すと、「それは、ジョエル・カイロのことではないでしょうか?」といった。
スペードはとりあえず、「あるいはね」と言質をあたえぬようにあいまいな返事をしておいて、ウィスキーを飲んだ。
肥った男は出張った腹が許すかぎり上体を前に乗り出した。そして、機嫌をとるような微笑を見せ、「そうするとこれは、彼らのうちだれを代理するかの問題になりますな」と、ネコが喉を鳴らすような声で訊いた。
「そう考えていいでしょう」
「彼女にするか、彼にするか?」
「そうはいわなかったはずですよ」
肥った男の目が光った。声もいちだんと低くなって、「まだほかに、だれかいるのですか?」
スペードは葉巻で自分の胸をさして、「この男がいます」と答えた。
肥った男は乗り出した上体をひっこめ、緊張をゆるめて、満足そうにふとい息を吐き出し、「いいお言葉ですよ」といった。「うれしいお言葉を聞いて、いよいよあなたが好きになりました。自分がいちばん大事なんだと、即座に、率直にいってのけるお方が好きなんです。人間だれしも、自分がいちばん可愛いものです。表面上、それを否定するような言葉を吐く男を、あたしはぜったい信用しません。また、実際に自分を大事にしないような男なら、これはもう軽蔑するよりほかに扱いようがありません。そんな男はばかです。自然の法則に逆らう大ばか者です」
スペードはまた煙を吐き出した。相手の言葉を注意して聞き入っている表情を保ち、「ではそろそろ、黒い鳥の話に移りたいものですね」と催促した。
肥った男は笑顔で受けとめて、「そうしますかな」と、じろりスペードを見た。とたんに顔の贅肉《ぜいにく》がより集まったので、黒く光る瞳がわずかに見えるだけで、目の在り場所が判らなくなった。「ところで、スペードさん。この黒い鳥にどのくらいの価値があるのかをご存知ですか?」
「知りませんね」
肥った男はふたたびからだを乗り出して、膨れあがったピンク色の手をスペードの椅子の腕に載せて、「あたしがその金額を口にしたら――その半分の金額でも――あなたはあたしを大法螺吹きだといわれるでしょうな」
「いいませんよ」とスペードは笑って、「腹のなかでそう思ったところで、口に出してはいわんでしょう。だが、そう思われるのがいやなら、金額をはっきりいってみたらどうです。それでこちらも、この仕事の損得を計算できますからね」
肥った男は大声で笑って、「あなたには無理でしょうな。いや、あなたにかぎらず、この種のものによほどの経験を積んだ者でなくては、想像もできぬ金額でして」と、印象を強めるように間をおいてから「それに、かつてこれに似た例のなかったものですし」と、もう一度笑ったので、顔の球根がぶつかりあった。そして、そのあと急に笑いをとめ、分厚い唇を笑いのときの格好のまま垂れ下がらせて、近視を思わせる目でスペードを凝視しながら、「あなたはほんとうに、それがなんであるかをご存知ないのですか?」と訊いた。よほどそれが意外であったものか、声が喉にからむ調子が消え失せていた。
スペードは葉巻を持つ手で、そんなことは大した問題でないというようなジェスチャーを示して、「いや、なに」とかるくいった。「どんな格好の品かぐらいは知っています。あんたたちがどのくらいの値段をつけているかも。ただ、知らないのはその正体でしてね」
「彼女は話しませんでしたか?」
「彼女とは、ミス・オショーニシーのこと?」
「そうです。あの美人ですよ」
「いいませんでしたね」
肥った男の目が、ピンク色の肉のかたまりの奥で、伏兵のような暗い光を放ち、「彼女、知っているはずだが」とあいまいにいって、「カイロもやはりいわなかったのですか?」と訊いた。
「カイロは用心深い男ですからね。あの品を買いとりたがっているだけに、こっちの知らないことまでしゃべって、値段がつりあがるのを避けているのでしょう」
肥った男は舌で唇を濡らして、「いくらで買いとるといいました?」と訊いた。
「一万ドルですよ」
肥った男は軽蔑的な笑いを見せて、「一万か。それもポンドでなくて、ドルでね。インチキ野郎め! 呆れたケチだ。で、あなたはなんといいました?」
「渡す気持になりさえしたら、一万ドルでも渡さんものでもないとね」
「なるほど、その気になったら、ですか! うまいことをいいましたな」肥った男の額に、ぶよぶよした肉のかたまりが動いて、「やつら、あの品の値打ちを知ってるはずだが」と半ばひとり言のようにいった。「どうでした、あなたの印象は? 彼ら、鳥のほんとうの値打ちを知っておるようでしたか?」
「残念ながら、見てとれませんでした」スペードは正直にいった。「判定の資料が不足しているのでね。カイロは知ってるとも知らないともいわなかった。女のほうは、知らないとはっきりいったが、それが嘘なのは明瞭でした」
「そう見たほうがまちがいありませんよ」肥った男は上の空でいって、頭を掻き、額に色あざやかな赤いしわがよるほど顔をしかめた。それから、椅子の大きさと彼の肥満体が許す範囲で、もじもじからだを動かしていたが、やがて閉じていた目を、急に大きく開いて、「彼らはたぶん、知ってはいない」とひとり言のようにいった。そして、ピンク色の球根のかたまりのような顔から不安の色が徐々に消えていくのを見ていると、たちまちそれが名状しがたいほどのうれしげな表情にかわって、「彼らが知らんのなら」と大声でいい、同じ言葉をふたたび、「やつらでさえ知らんのなら」と繰り返し、「この広い世界で、それを知っておるのはあたしひとり、ということになる」と叫んだ。
スペードは口もとにこわばった微笑を浮かべて、「さいわいなことに、あんたを訪問したのは正しかったようです」といった。
肥った男も同じようにほほえんだが、その微笑はどことなくあいまいだった。ほほえんではいるものの明るい表情が消え、目に警戒の色があらわれていて、この顔は心のなかの考えをスペードに悟られまいとする微笑の仮面だった。そしてスペードの視線を避けるように、スペードの肘もとのグラスへ目をやると、顔をかがやかして、「おお、グラスがからですな」といって立ちあがり、テーブルへ歩み寄り、グラスとサイフォンとボトルをがちゃがちゃいわせてふたり分の飲みものをつくった。
その間スペードは椅子についたまま、身じろぎもしないで待っていた。肥った男はもどってくると、大げさな身振りで頭を下げてみせ、冗談めいた口調で、「この薬なら、いくら飲んでもからだに障《さわ》りませんからな」といいながら、新しくつくった飲みもののグラスをさし出した。するとスペードは椅子を離れて、肥った男にからだをぴったり寄せ、相手を見下ろす姿勢で立った。目がけわしく光っていた。そして受けとったグラスを高くかかげて、ことさらに挑戦的な口ぶりで、「率直な話合いと明確な理解のために乾杯!」といった。
肥った男はくすくす笑って、ふたりはグラスをあけた。肥った男が腰を下ろした。そして、グラスを腹の前に両手で捧げる格好で持ち、スペードにほほえみかけていった。
「あのふたりは鳥の正体をはっきりとは知っておらぬ。これは意外に思えることだが、事実と見てまちがいないようです。そうだとなると、この広い世界でそれを知っておるのは、あなたの忠実な友カスパー・グトマン氏ただひとりということになりますな」
「すてきなことだ」スペードは両脚を開いて突っ立ち、片手はグラスをかかげ、もう一方の手をズボンのポケットに突っこんでいった。「それをここで話してくれたら、知っているのはわれわれふたりということになる」
「数学的にはそうなりますな」肥った男は日をきらめかしたが、「しかし――」と、顔面いっぱいに笑いをひろがらせて、「しかし、まだいまのところ、それを話したものかどうか、あたしの腹はきまっておらんのです」
「つまらぬことをいわんでほしい」スペードは辛抱していった。「あんたはそれがなんであるかを知っている。そしてこっちは、それがどこにあるかを知っている。だからこそ、われわれふたりが、ここでこうして顔を合わせている」
「では、お尋ねしますが、それはどこにあるんです?」
スペードはその質問を無視した。
肥った男は唇をひき緊め、眉を吊りあげ、頭を少し左へかたむけると、口調だけはおだやかにいった。「あたしには知っておることを話させる。しかし、あなたはご存知のことを話さない。これではちょっと公平を欠きますな。だめですよ、こんな調子では。この会談はビジネスライクに進まんですよ」
スペードの顔が青ざめ、けわしくなった。怒りのこもった低い声で、口早にしゃべりだした。「早いところ考えて、腹をきめたほうが利口だぜ。あのチンピラやくざにもいっておいたが、おれと話をつけぬことには、この仕事はやってのけられないのだ。さあ、ここでおれとの話をつけるか、それともこの仕事から手を引くか、どっちかに早くきめてくれ。いつまでおれを待たせるんだ。秘密、秘密とご大層に騒ぎ立てるが、こっちの知ったことじゃない。おれが知っているのは、どこの地下金庫に収《しま》ってあるかで、おれひとりの力ですぐにでもとり出せるんだ。なるほど、そっちもおれなしでやってのけられたかもしれないが、いまとなっては――おれが知ってしまったからには――そうはいかないのだ。おれの縄ばりのサンフランシスコではだよ。さあ、おれと手を組むか、それともこの土地を引き揚げるか――きょうじゅうに決めてもらおうじやないか」
スペードはふり返ると、苛立ちのあまり、手にしたグラスをテーブルにたたきつけた。グラスが砕けて、中身がテーブルの上と床にとび散った。スペードはそれに目もくれずに、ふたたびふり返ると、肥った男と向きあった。
相手もスペードと同様に、グラスの運命に少しの注意も払わなかった。さっきから、唇を閉じ、眉をあげ、頭を少し左にかしげたまま、スペードの怒り声がつづくあいだ、ピンク色の顔におだやかな表情を保っていたのだが、グラスが悲惨な運命に見舞われたいまも、いぜんとして平静さを失わなかった。
スペードはなお怒り狂って、「いいたいことはまだあるぞ。おれはぜったいに――」
そのとき、スペードの左手のドアが開いて、彼をこの部屋に案内した若者がはいってきた。ドアを閉めると、その前に突っ立ち、両手を横腹にあてがって、スペードを見た。若者の目は大きく見開かれ、大きな瞳が暗くのぞいていた。そして視線がスペードのからだを、肩から膝まで走り、ふたたび上方にもどって、スペードの茶色の上着の胸ポケットにのぞいているえび茶色の縁取りをしたハンカチのところにとまった。
スペードは若者を睨みつけて、「いっておくことがもうひとつある」と繰り返した。「あそこに立っている稚児《ホモ》野郎のことだ。おれはあいつが見たくない。とりあえずあいつを消えさせてくれ。でないと、ぶち殺したくなる。おれはあいつが嫌いなんだ。そばにいるだけで、いらいらしてくる。おれの邪魔をしたら最後、ぶっ殺してやる。有無をいわさず、待ったなしに、殺さずにはおかぬからな」
若者は唇をねじって、暗い微笑を浮かべたが、目を吊りあげもしないし、口もきかなかった。
肥った男は寛容な口ぶりでいった。「なるほど。あなたというひとは、よほど怒りっぽい性格のようですな」
「怒りっぽい男だと?」スペードは気違いじみた笑い方をして、部屋を横切り、帽子をおいた椅子に歩みよると、それをとりあげ、頭に載せた。そして長い腕を伸ばして、ふとい人差し指を肥った男の腹に突きつけ、部屋じゅうにひびきわたるような声でいった。「よく考えるがいい。五時半まで待ってやるが、それがぎりぎりだ。それまでに、おれと組むか、仕事を諦めるかをきめるんだ。真剣に考えるんだぞ」そして、長い腕を下ろし、少しのあいだ相手の平静な顔を睨み、若者を睨みつけてから、はいってきたドアへ向かって歩きだした。ドアを開けると、ふり返って、もう一度あらあらしい声でいった。「五時半までだ――それで幕だぞ」
若者はスペードの胸を見つめたまま、ベルヴィディア・ホテルのロビーで二度も口にした罵言《ばげん》をまた繰り返した。声は大きくなかったが、激しさがこもっていた。
スペードは廊下へ出て、ドアをたたきつけるように閉めた。
十二 回転木馬
スペードはグトマンの部屋の階からエレベーターで階下へ下りた。顔は青ざめ、汗に濡れていたのに、唇だけが乾いてかさかさしていた。顔の汗を拭おうとハンカチをとり出す手が震えていた。苦笑して思わず「ひゃあ!」といったが、声が大きかったので、エレベーター・ボーイがふり返って、「なんでしょうか?」と訊いた。
スペードはギアリー・ストリートを下ってパレス・ホテルに行き、昼の食事をとった。食卓につくまでには、顔色は旧に復して、唇の乾きが去り、手の震えもとまっていた。腹が空いていたので、時間をかけてじゅうぶんに食べ、それからシド・ワイズの事務所に向かった。
スペードがはいって行くと、ワイズは爪を噛みながら、窓を見つめていた。その手を口から離し、椅子をぐるり回転させて、スペードと向かいあうと、「そこの椅子をひっぱってくるがいい」といった。
スペードはいわれるままに、部屋のすみの椅子を、書類を山と積んだ大型デスクのそばまで運んで、腰を下ろした。そしてさっそく、「アーチャー夫人は来ましたか?」と訊いた。
「来たよ」そう答えるワイズの目に、かすかな光がきらめいた。「サミー、きみにはあの婦人と結婚する気があるのか?」
スペードは苛立つように鼻を鳴らして、「あんたまでがそんなことをいい出すとは!」と不服そうにいった。
弁護士の口もとに、うんざりしたような微笑がちらっと浮かんで、「結婚する気がないとなると、きみは面倒な問題を片付けねばならぬことになるぜ」といった。
スペードは巻きかけていたタバコから目をあげて、皮肉な調子で、「その面倒なことを持ち出すのがあんたってわけか。弁護士商売だから仕方がないが、で、彼女、どんなことを話していきました?」
「どんなことって、きみについてか?」
「いや、何にかぎらず、意味のあることなら、みんな聞かせてもらいますよ」
ワイズは指で髪をかきむしったので、ふけが両肩に舞い下りた。「彼女はいったよ。マイルズに離婚を求めたとね。それによって彼女は――」
スペードは弁護士の言葉をさえぎって、「そこのところは知っているから、とばしてけっこう。話はこっちの知らない部分に絞ってもらいましょう」
「そういわれても、わしが知ってるわけがないじゃないか。彼女がどこまで――」
「ごまかさんでくださいよ、シド」スペードはタバコの先へライターの火を持っていって、「あの女は、おれに隠しておきたいことを何か話したはずだ」
そういうスペードを咎《とが》めるように、「なあ、サミー」とワイズはしゃべりかけた。「それはけっして――」
スペードは天を仰ぐように天井を見上げて、うめくような声を出した。「おお、神よ、この男はおれを食い物にして、ひと財産築きあげた弁護士です。その男にしゃべってもらうのに、ひざまずいて哀訴しなけれはならんのでしょうか!」そしてワイズを睨みつけて、「あの女をあんたのところへ来させたのは、なんのためだと思っているんです?」
ワイズはいよいようんざりしたように渋面を見せて、「きみみたいな依頼人がもうひとりいたら」と愚痴をいった。「わしは療養所《サナトリューム》かサン・クエンティン刑務所行きを希望するだろうよ」
「依頼人の大部分をひき連れてですね。で、あの女、マイルズが殺《や》られた夜、どこにいたかを話しましたか?」
「話したよ」
「どこだといいました?」
「マイルズのあとを尾《つ》けていたそうだ」
スペードは坐り直して、目をしばたたき、とても信じられないという顔つきで、「まったくもって、女というやつは!」と叫び、つづいて大声に笑いだし、からだの緊張をほぐしてから、「その尾行で、何を見たといいました?」と訊いた。
ワイズは首をふって、「大したものは見ておらぬようだ。あの夜、マイルズは夕食にもどると、今夜はこれから、セント・マーク・ホテルで可愛い娘とデートする。離婚の材料をつかむには、またとないチャンスだろうと、いやがらせをいった。彼女は最初、夫はただ、彼女を怒らせるためにいってるだけと考えた。マイルズは彼女の浮気を知っているので――」
「あの家庭のいざこざはおれも知らないわけじゃない」スペードがいった。「そこはとばして、彼女の話だけを聞かせてもらいましょう」
「話の腰を折らなければ話すよ。マイルズが出かけたあと、彼女は考えた。デートの話はほんとうかもしれないとな。きみがいちばんよく知ってるはずだが、いかにもマイルズらしいことなんで――」
「マイルズの性格のこともとばしてもらおう」
「とばしてばかりいたら、何も話せんじゃないか」弁護士はいった。「そこで彼女は、ガレージから車をひき出し、セント・マーク・ホテルまで車を走らせ、道路の反対側に駐《と》めて、車内から見張っておった。するとマイルズがホテルから出てきた。彼女にも、夫が一足先に出てきた男女を尾行しておるのが判った。彼女にいわせると、その女は前の晩、きみといっしょだった女だそうで、それで彼女も、マイルズはホテルに仕事でやってきたこと、デートうんぬんは自分をからかうための言葉と知ったのだ。たぶん彼女は張合いが抜けたのだろう。しかしまた、いっそう腹が立ってきたのも事実らしい――彼女の口ぶりからして、そんなふうに感じられた。そこでしばらく、マイルズのあとを尾《つ》けて、彼が仕事をしているのを確かめてから、きみのアパートへ行ったのだが、きみは部屋におらなんだ」
「それ、何時ごろでした?」スペードが訊いた。
「きみのアパートへ行った時刻か? 九時半から十時のあいだだ。最初はね」
「最初?」
「そうだ。それから三十分ほど、車を走りまわらせていて、もう一度、行ってみた。だから、二回目はだいたい十時半だろう。しかし、きみはまだ帰ってきていなかった。彼女はそのあと、下町へ車を走らせて、映画館で十二時すぎまで時間をつぶすことにした。その時刻なら、いくらきみでも帰宅するだろうと思ったからだ」
スペードは眉をひそめて、「じゃ、彼女、十時半に映画館にはいったのか」
「彼女はそういっておった――パウエル・ストリートにある、夜中の一時までやっておる小屋だ。彼女は家に帰りたくなかった。マイルズがもどってきたとき、顔を合わせたくなかったといっておった。マイルズはいつもそんなとき、ことにそれが真夜中だと、かっとなって手荒らな振舞いに出たらしい。そんなことから、彼女は閉館まで映画館におったのだ」ワイズの言葉はしだいにゆっくりしたものになって、目に皮肉な光があらわれてきた。「閉館までに、彼女はきみのアパートへひっ返す気持を失ったらしい。そんな時間に訪問したところで、喜んで迎えてくれるかどうか判らんからで、テート・レストランへ行って――エリス・ストリートにある深夜営業の店さ――何か腹に入れて、家へ帰った――もちろん、ひとりでだ」そしてワイズは椅子の背にもたれて、スペードの言葉を待った。
スペードの顔は無表情だった。彼は質問した。「あんたはその説明を信じているんですね?」
「きみは信じんのか?」ワイズは訊き返した。
「信じるにも信じないにも、それがあんたと彼女のあいだで、説明用に考え出したものでないとはいいきれないのでね」
ワイズは微笑して、「きみだって、見ず知らずの男のために、多額の小切手を現金に換えてはやらんだろう、サミー」といった。
「バスケットいっぱいの数量になればね。で、それがどうしたんです? マイルズは帰っていなかった。二時になっているのに――つまり、その時刻には、あの男、もう死んでいた」
「マイルズが帰ってきていないので」とワイズはつづけた。「彼女はまた新しく頭がかっかとしてきた。マイルズが家におらぬのは、帰ってきたものの、彼女の姿が見えないので、憤慨してまたとび出してしまったものと思いちがえたのだ。そこで彼女は、もう一度車をガレージからひき出して、きみのアパートへ出かけていった」
「ところが、おれもいなかった。マイルズの死体を見に行っていた。おれと彼女との両方が、回転木馬でぐるぐるまわっていたようなものだ。それからどうなったんです?」
「彼女は家へひっ返したが、夫はまだもどっていなかった。そして着替えをしておるところへ、きみの使いが、彼の死の知らせを持ってやってきた」
スペードはすぐには何もいわずに、タバコをていねいに巻きあげて、火をつけた。それからぽつんといった。「筋の通った説明で、いままでに判っている事実に合致している。いちおうそれで通用するだろうな」
ワイズの指がふたたび頭髪をかきむしって、いっそうはげしく、ふけを肩に撒き散らした。そして、探りを入れるような目でスペードの顔を見ながら、「しかし、きみはそれを信じないのか?」と訊いた。
スペードは唇のタバコを抜きとって、「信じるにも信じないにも、おれ自身は何も知っていないのでね」と答えた。
苦笑が弁護士の口をゆがめた。彼はうんざりしたように肩をすくめて、「まあ、いいだろう」といった。「わしが金にころんで、きみを裏切っておると思うのなら、もっと正直な弁護士を雇えばいい――きみの信用できる男をだ」
「そんな弁護士がいまどきいるものか」スペードは立ちあがって、あざけるようにワイズを見て、「気に障《さわ》りましたかね? こっちも考えが足りなかった。いまからでもおそくないから、もう少しあんたに敬意を払うべきかもしれないな。それにしても、おれの態度のどこが気に入らんのです? この部屋へはいったら、まずもって膝を曲げた敬礼をしろとでもいうんですかい?」
シド・ワイズはてれくさそうな笑いを洩らして、「まったくきみは、扱いにくい男だよ、サミー」といった。
スペードが事務所へもどると、エフィ・ペリンが事務室の中央に立っていて、茶色の目を心配そうに見開いて「何かあったんじゃないかしら」といきなりいった。
スペードは顔をこわばらせて、「何が、どこで?」と訊き返した。
「どうしたことか、あのひと、やって来ないのよ」
スペードは大股に二歩進み寄って、エフィ・ペリンの両肩をつかむと、「彼女はきみの家へ行かなかったのか?」と、怯えている女秘書に向かって、わめき立てた。
エフィは首を左右にふって、「いくら待っても来ないのよ。あなたに電話したくても、居どころが判らないので、ここへ来てみたんだわ」
スペードは彼女の肩から両手を離して、それをズボンのポケットに突っこみ、「またしても回転木馬か」と怒った大声でいうと、奥の個室に大股ではいっていった。そしてまた、もどってくると、「きみのママに電話して、彼女がまだ到着しないか確かめてくれ」と命令した。
エフィが電話をしているあいだ、スペードは部屋のなかを歩きまわっていた。電話をすませた女秘書は、「まだだって」と答えて、「あなた、彼女をちゃんとタクシーに乗せて、送り出したの?」と訊いた。
スペードの返事は興奮のあまり、言葉がはっきりしなかったが、たぶんイエスの意味なのだろう。
「だれかが、尾行してたのじゃない?」
スペードは歩きまわるのをやめて、両手を尻にあてがって、女秘書をじろっと見た。そして、怒ったような大声で、「尾行に気がつかぬようなおれだと思うのか。小学生同様の駆け出し探偵じゃないぞ。車に乗せる前に、じゅうぶん確かめておいた。さらに大事をとって、十ブロックほどいっしょに乗っていって、降りてからも、車が遠ざかるのを、なお六ブロックほど見張っていたのだ」
「でも――」
「でも、到着しないというのか。さっき聞いたよ、その言葉は。嘘を聞かされたと思ってるわけじゃない!」
エフィ・ペリンはたじろいで、「どうしたのよ、興奮しちゃって。それこそ、小学生同様の素人探偵みたいだわ」とたしなめた。
スペードは喉の奥にあらあらしい音を立てて、廊下へ通じるドアへ向かいながら、「ちょっと出かけてくる」といった。「下水溝を浚《さら》っても、彼女を捜し出してくるから、きみはおれがもどるまで、でなければ、おれの電話があるまで、この部屋を離れんでいてくれ。打てる手は打っておくとしよう」
スペードは出ていったが、エレベーターへの廊下を半分ほど行ったところで、ひっ返した。ドアを開くと、エフィ・ペリンは彼女の机を前に椅子についていた。彼はいった。「いまのおれの言葉、ちょっと荒らっぽかったが、気にしないでくれよ」
「あの程度のことで、あたしが気にするなんて考えるほうがどうかしているわ。ただ――」と彼女は、胸の前で両腕を交差させて、自分の肩に触れてみせながら、口もとをあいまいにゆがめ、「ただ、ここ二週間ぐらいはイヴニングを着られそうもない痕がついてしまったわ」といった。「あなたの乱暴なこと、いまはじまったわけじゃないけど」
スペードはおとなしく笑って、「まったくおれは乱暴な男だよ。これから気をつける」と、大げさなお辞儀をして、あらためて出ていった。
街角の駐車場に黄色タクシーが二台、客待ちをしていた。スペードが近寄ると、運転手ふたりが車の外で話しあっているところだった。スペードは彼らに、「きょうの昼ごろ、赤ら顔で金髪の運転手がここにいたが、いま、どこへ行った?」と質問した。
「客を乗せていったよ」運転手のひとりが答えた。
「ここへもどってくるのか?」
「そのはずでさ」
もうひとりの運転手が東の方向を顎でしゃくって、「ほら、もどってきたぜ」と知らせた。
スペードは街角まで歩いて行き、歩道に立って、赤ら顔の金髪運転手が車を駐めて降りてくるのを待った。スペードは彼に近づいて話しかけた。「おれは昼ごろ、女を連れて、きみの車に乗った。ストックトン・ストリートからサクラメントの通りを登って、ジョーンズ・ストリートでおれだけが降りた」
「そうでしたね」赤ら顔の男はいった。「おぼえていますよ」
「あのときおれは、その女を九番街まで送ってくれと頼んだ。ところが、きみは連れていかなかった。どこへ連れていったんだ?」
運転手は油のしみた手で頬をこすり、疑わしげにスペードを見て、「そんなことは知りませんよ」と答えた。
「心配しなくていいんだ」スペードは相手が安心するようにいって、名刺の一枚を手渡し、「気になるんなら、きみの会社までいっしょに乗って行って、責任者のオーケーをとってやるぜ」といった。
「それにはおよびませんよ。彼女を乗せて行った先は、フェリー・ビルディングでした」
「彼女ひとりを」
「ええ。もちろんでさ」
「途中、どこかへ寄らなかったか?」
「いいえ、どこにも。順序を追って話すと、こうなんでさ。あんたを下ろしてから、サクラメントの通りを登って、ポーク・ストリートまで来ると、あの女のひと、運転席とのさかいのガラスをたたいて、新聞を買いたいっていうんでさ。そこであっしが、街角で車を停めて、口笛で売り子を呼ぶと、彼女は新聞を買いました」
「何の新聞だった?」
「『コール』でしたよ。それから、サクラメントの通りをもっと登って、ヴァン・ネスの通りを突っ切ると、彼女、またガラスをたたいて、フェリー・ビルへ連れていけというんです」
「興奮するとか、変わった様子はなかったか?」
「なかったですな。あっしが見たかぎりでは」
「そして、フェリー・ビルに着いたら?」
「料金を払って、下りましたよ。それだけでさ」
「そこでだれか、彼女を待っていなかったか?」
「いたかもしれませんが、気がつきませんでしたね」
「彼女、どっちのほうへ行った?」
「ビルのなかでですか? そこまでは判りませんよ。たぶん階上へ――階段へ向かったんでしょう」
「新聞を持ってか?」
「そうなんでさ。料金を払うとき、腕にかかえていましたから」
「ピンクのページを外側に出していたか? それとも白いページ?」
「そこまではおぼえていませんね」
スペードは運転手に礼をいって、「タバコでも買ってくれ」と、一ドル銀貨を握らせた。
スペードは「コール」紙を一部買って、風を避けるために、近くの商業ビルのホールへはいっていった。
彼はすばやく第一面の見出しに目を走らせ、つづいて第二面、第三面と見出しを追っていった。第四面の『贋金《にせがね》づくりの容疑者つかまる』と、第五面の『追いつめられた青年、ピストル自殺をはかる』の見出しに、少しのあいだ目がとまった。第六面と第七面には、彼の興味を惹く記事がなかった。第八面の『強盗容疑の三少年、撃ちあいの末逮捕』という見出しが、またも彼の注意を惹いたが、そのあとは第三十五面まで、これといった記事がなかった。そのページには、天気予報、出入船、工業、金融、離婚、出生、結婚、死亡に関するニュースが並んでいた。彼は死亡者のリストに目を通してから、第三十六面と三十七面の経済記事をとばして、第三十八面と最後のページに移ったが、目にとまるようなものは何もなかった。彼はふっと息を吐いて、新聞紙を折りたたんでポケットに入れると、タバコを巻きはじめた。
五分間ほど、スペードはその商業ビルのホールで、渋面のままタバコをすっていたが、やがてストックトン・ストリートへ歩み出て、タクシーを呼びとめ、コロネット・アパートへ向かった。
ブリジッド・オショーニシーから預った鍵で、アパートの建物にはいり、つづいて彼女の部屋に通った。昨夜の彼女が着ていたブルーのガウンがベッドの裾のところにひっかけてあり、ブルーのストッキングとスリッパは寝室の床に投げ出してあった。化粧台の引出しのなかの多彩な色の宝石箱はからっぽで、化粧台の上に載っていた。スペードは眉をひそめてそれを見て、舌で唇を舐《な》めたあと、室内を歩きまわって観察をつづけたが、何にも手を触れることなく、コロネット・アパートを出ると、ふたたび下町にもどった。
彼の事務所のあるビルの入口で、さっきグトマンの部屋で別れた例の若者と出っくわした。若者は入口に立ちはだかって、スペードの道をさえぎり、「いっしょに来てくれ。ボスが会いたいそうだ」といった。
若者は両手を外套のポケットに突っこんでいた。ポケットは手の大きさ以上に膨らんでいた。
スペードはにやり笑って、からかうような口調でいった。「約束の五時二十五分より早くあらわれるとは思っていなかった。長く待たせたわけじゃないだろうな」
若者は目をあげて、スペードの口もとを見つめ、からだのどこかが痛いような緊張した声でいった。「なめた口をきくんじゃねえ。度がすぎると、へその穴に鉛のたまをたたきこむぞ」
スペードはくすくす笑って、「チンピラやくにかぎって、派手なたんかを切るというやつだな」と明るくいった。「さあ、出かけよう。いっしょに行ってやるぞ」
ふたりは肩を並べて、サッター・ストリートを登っていった。若者は両手をポケットに突っこんだままだった。ふたりとも無言で、一ブロックと少し歩いてから、スペードが気安い調子でいった。「おい、若いの、かっぱらい稼業から足を洗って、どれくらいになるんだ?」
若者は聞こえないふりをしていた。
「おまえは前に――?」スペードはまたいいかけたが、やめてしまった。彼の黄色っぽい目に、柔らかな光がさしはじめた。そして、二度と若者に話しかけなかった。
アレグザンドリア・ホテルにはいると、ふたりはエレベーターで十二階に昇って、廊下をグトマンの続き部屋へ向かった。廊下には人かげがなかった。
スペードはわざとゆっくり歩いて、グトマンの部屋の手前十五フィートほどのところで、若者よりはだいたい一フィート半ばかりうしろになった。彼は急に上体を横にして、若者の背後から、その肘の真下を両腕で抱えこんだ。そしてその両腕を押しだしたので、外套のポケットに突っこんだ若者の手が、外套を前方に持ちあげる格好になった。若者は懸命にもがくのだが、大男の強い腕力の前には無力同然だった。そこで足をうしろへ蹴上げたものの、スペードが股を広げているので、なんの効果もなくておわった。
スペードは若者のからだを床から持ちあげ、ひきつづきどすんと床に落とした。その衝撃音が、厚い絨毯の上にかすかにひびいた。と同時に、スペードの両手が相手の腰から離れて、手首をひっつかんだ。若者は歯を食いしばって、大きな手をふりほどこうとするのだが、どうあがいてみても力がおよばなかった。そのうちにスペードの手が、じりじりと自分の手の先に葡《は》い下りてきた。若者は大きく歯ぎしりをした。それがスペードの荒い息づかいと入りまじって、はっきりと聞きとれた瞬間、スペードが若者の手を握りしめた。
かなりのあいだ、ふたりは緊張したまま、動く様子もなかった。やがて、若者の腕がだらりと垂れた。スペードは相手を突き離して、一歩|退《さ》がった。スペードの両手が若者の外套のポケットから出てきたとき、それぞれの手に大型の自動拳銃が握られていた。
若者はスペードと向きあったが、顔が幽霊のように青ざめていた。両手を外套のポケットに突っこんだまま、スペードの胸もとを見つめ、ひと言も口をきかなかった。
スペードは二挺のピストルを自分のポケットにおさめ、あざけるような口調で、「さあ、行こう」といった。「これでおまえも、ボスに喜んでもらえるだろうよ」
ふたりはグトマンの部屋に行きついて、スペードがドアをノックした。
十三 皇帝への贈り物
グトマンがドアを開けた。肥った顔にうれしそうな笑みがこぼれていた。片手をさし出して、「やあ、よく来てくださった!」といった。「さあ、さあ、おはいりください。どうぞ、どうぞ」
スペードは握手をしてから、部屋に通った。若者もあとからはいってきた。肥った男がドアを閉めた。スペードはポケットから若者のピストル二挺をとり出して、グトマンの前にさし出し、「こんな若僧に、あぶない品を持ち歩かせるのは考えものだ。このチンピラ自身が怪我をするのがおちだ」といった。
肥った男は愉快そうに笑って、ピストルを受けとり、「おや、おや。こんな品がどうしたんです?」いいながらその視線を、スペードから若者に移した。
スペードは答えて、「ビッコの新聞売り子が、あのチンピラからこれを奪いとったので、とりもどしてやったのさ」といった。
顔面蒼白の若者は、グトマンの手からピストルを受けとって、ポケットに突っこんだ。口はきかなかった。
グトマンはもう一度笑って、「まったくあなたは」とスペードにいった。「お近づきになっただけの意味があるお方です。いや、ごりっぱなものだ。さあ、椅子におかけください。お帽子はお預りします」
若者は入口の右手にあるドアから出ていった。
肥った男はスペードを、テーブルのそばの緑色のビロード張りの椅子に着かせると、葉巻をむりやり押しつけて、火をつけてやった。それから、ウィスキーを炭酸水で割って、グラスのひとつをスペードの手に、そしてひとつを自分の手で持ち、スペードと向かいあった椅子についた。
「まずもって、お詫びを申させてもらいますが――」
「気にしなくていい」スペードがいった。「それより、黒い鳥の話を聞きたい」
肥った男は首を左方にかしげて、感嘆の目でスペードを眺め、「では、そうさせてもらいます」とうなずきながら、グラスにちょっと口をつけ、「これはおそらく、あなたのようなご職業で長年の経験を積まれた方でも、驚かずにはおられぬ話だと信じております」
スペードは素直にうなずいた。
肥った男は目をせばめて訊いた。「あなたはエルサレムの聖ヨハネ・ホスピタル騎士団〔十字軍将兵の傷病者治療のために、一〇四八年にエルサレムに創立された宗教騎士団。その後は本拠地を、キュプロス島、ロードス島、マルタ島、最後にはローマと、転々と移動する〕のことをどの程度ご存知ですかな。のちにはロードス騎士団その他いろいろな名で呼ばれた慈善団体ですが」
スペードは葉巻を左右にふって、「よくは知っていないが――たしか学校で、歴史の時間に教わった気がする――十字軍か何かのところで」
「ご明答です。では、その騎士団が一五二三年に、オスマン・トルコのスルタン、スレイマン一世〔在位一五二〇〜六六年。オスマン・トルコ帝国の最盛期をもたらす〕によって、ロードス島を追い出されたのをご存知ですかな?」
「知らないね」
「それで騎士団はクレタ島に移りました。一五三〇年までの七年間、彼らは隠忍していましたが、カール五世皇帝〔スペイン王、カルロス一世、一五一九年にはドイツ皇帝を、そして同年、神聖ローマ皇帝を称す〕に請願して――とグトマンはふとい指を三本突き出して、かぞえて見せながら――マルタ島とゴツォ島〔マルタ群島中のひとつ〕とトリポリ〔北フリカ、現在のリビア〕の三個所の領地をあたえられたのです」
「なるほど」
「しかし、それには次のような条件がついていました。すなわち、マルタ島がいぜんとしてスペイン国の支配下にあることを認め、騎士団が島を去るときは、ただちにそれがスペイン国に復帰するのを認めるしるしとして、毎年、皇帝に貢ぎ物を献上するという条件です。つまり、皇帝は騎士団に土地の使用権をあたえるだけで、ほかの者への譲渡も売却も許さぬというのです。そしてその貢ぎ物が、一羽の鷹だったのです」
「なるほど」
肥った男は、閉まった三つのドアを肩越しに見やってから、椅子を数インチほどスペードに近づけ、しわがれ声をさらに落として、「どの程度までご存知か知りませんが、当時の騎士団が所有しておった富力には、およそ現代人の想像を絶するものがあったのです」
スペードも応えて、「かなりの規模だと聞いたような記憶がある」といった。
グトマンはおおように笑って、「かなりの規模とは、だいぶ控え目な言い方ですな」と、ささやき声をいっそう低くし、いっそう喉にひびかせて、「彼らは財宝のなかに埋まっていたようなもので、あなたばかりでなく、われわれのだれにしても、その財宝のおびただしさは、とうてい想像がつきません。長年にわたって、サラセン人の都市を攻めたて、略奪をほしいままにしておったからで、彼らの掻き集めた財宝は――宝石、貴金属、絹、象牙のたぐいで、どれもみな東方の宝の精華というべきものばかりでした。それは歴史書が語っております。彼らにとっての聖戦とは、聖堂騎士団《テンプラーズ》の場合も同様ですが、目的はもっぱら戦利品獲得にあったのです。
さて、皇帝カール五世は彼らにマルタ島をあたえ、年貢《ねんぐ》として要求したのは、まったく形式的なもの、とるにも足らぬ鳥一羽でした。測り知れぬ巨富を抱く騎士団が感謝の気持を示す適当な方法はないものかと、頭をひねったのは当然のことではありませんか。彼らは考えぬきました。そして知恵をしぼったあげく、名案を思いつきました。最初の年の貢ぎ物に、とるに足らぬ生きた鳥でなくて、目もまばゆいばかりの黄金の鷹の、頭から脚の先までを宝石で――彼らの財宝箱から選《え》りすぐった宝石で飾った品を献上する案でした。忘れんでいただきますが、彼らの宝石庫には、アジア諸国から略奪してきた最上の宝石類を集積してあったのです」グトマンは低い声での説明を中断して、黒い、鋭い目でスペードの表情をさぐった。そしてスペードが平然としているのを見ると、「この話、どう考えますね」と訊いた。
「さあ、なんといったらいいか」
肥った男は満足そうにほほえんで、
「これは事実なんです。歴史上の事実でして――学校教科書やミスター・ウェルズの歴史書には出てこなくても、歴史上の事実であるのはまちがいありません」そして彼は上半身を乗り出し、「いまでもマルタ島には、十二世紀以来の騎士団の古記録が保存されております。原状が完全に維持されてるとはいえませんが、少なくとも三個所――と彼は、指を三本かかげて――この宝石をちりばめた黄金の鷹に関する記載が見受けられます。また、J・ドラヴィル・ル・ルーの『聖ヨハネ騎士団古記録』にも、これに言及しておる個所があります。いささか漠然とした嫌いがないではないが、この品を指しておるのにまちがいはないのです。それから、これは未刊の書物ですが――というのは、原稿の完成を待たずに著者が死亡したからで――パオリの『聖騎士団の起源と制度』の補遺には、いまあたしがお話しした事実が、きわめて明白に記載されております」
「そうなのか」スペードはうなずいた。
「そうなんですよ。そこで騎士団長のヴィーエ・ド・リラダン〔一四六四〜一五三四。フランス人。騎士団がロードス島からマルタ島へ移ったときの宗団長〕が、高さ一フィートの宝石をちりばめた黄金の鳥を、聖アンジュロの城でトルコ人の奴隷に作らせ、当時スペインにいたカール五世に送ることにしたのです。そして、コルミエだったかコルヴェールだったか、騎士団員のひとりのフランス人に命じて、ガリー船を用意させた」彼はまた声を低めて、ささやくように話しつづけた。「ところが、このガリー船はスペインに到着しなかった」と、唇を結んだまま、にやり笑って、「あなたはバルバロッサ――これは赤ひげという意味ですが――バルバロッサ・ハイレッディン〔若き日はエーゲ海の海賊、スレイマン大帝に招かれて、オスマン・トルコ海軍の提督となり、全地中海を制覇する〕のことを聞いておられましょうな。おや、ご存知ない? この男は十六世紀のオスマン・トルコの大提督として有名なんですが、当時はまだ海賊稼業で、アルジェを本拠にして地中海を荒らしまわっておったのです。この男が騎士団のガリー船を襲って、貢ぎ物の鳥を奪いとってしまった。鳥はアルジェに持ち去られたのです。これもまた歴史上の事実です。フランスの歴史家ピエール・ダンがアルジェからの手紙のひとつに書いております。その手紙に書いてあるところだと、鳥は百年あまり、アルジェにおいてあったが、こんどはフランシス・ヴァーニー卿の手で、いずこかへ運び去られた。この人物は十七世紀はじめのイギリスの貴族で、領地を売って国外へ出て、けっきょくはメッシーナ〔シチリア島の首都〕で死んだのだが、少しのあいだ、アルジェの海賊たちの仲間に加わっていたことがあるのです。この話はたぶん、事実じゃありますまい。だが、手紙の筆者のピエール・ダンはそれを信じていた。あたしにとっては、それでじゅうぶんなんです。
フランシス・ヴァーニー卿の夫人に、『十七世紀におけるヴァーニー家の回想録』という著書がありますが、鳥のことにはぜんぜん触れておりません。ええ、念のために、あたしも目を通してみたのです。触れてないところをみると、フランシス卿が一六一五年にメッシーナの病院で死んだとき、問題の鳥を所持しておらなんだのは、ほぼ確実といえるようです。卿はまったくの無一文で死んだのですから。だが、鳥がシチリア島に渡ったことは否定できない事実です。それは島内のだれかの手もとにあって、しばらくしてから、ヴィクトル・アマデウス二世〔一六六五〜一七三二。サヴォイ大公。一七一三年にシチリア島をフランスから奪い、これを一七二〇年にオーストリアに譲ってサルディニア王となる。一七三〇年に退位〕の手に帰しておるんです。彼が王位についたのが一七一三年だから、その少しあとということになりますな。王は退位後にシャンベリーで妃を迎えましたが、花嫁への贈り物のひとつに、シチリア島で入手した鳥を加えていたのです。この事実は、『ヴィットリオ・アマデオ二世の治世物語』の著者カルッティがはっきり述べているのです。
その後、アマデウスは王位への復辟《ふくへき》を企てて、イタリアのトリノへ進出したのですが、おそらく彼らは――アマデウス大公とその妃ですよ――この鳥も持っていったのでしょう。それはともかくとして、鳥の所有者はスペイン人に変わりました。一七三四年のナポリ攻略戦に参加した人物で、これがカルロス三世〔一七一六〜八八。スペイン王フェリペ五世の二子。シチリア大公。一七五九年にスペイン王を継承〕の宰相となったフロリダ・ブランカ伯ドン・ホセ・モニーノ・イ・レゾンドの父親にあたるのです。その後、少なくともカルロス王家の王位継承権戦争の終期まで、鳥がこの一家の手を離れた形跡は見られません。そして、一八四〇年ごろに、それがパリにあらわれました。当時のパリには、スペインを追われたドン・カルロス党の連中が充満しておったのです。おそらく彼ら亡命者の何者かが持ち出したのでしょうが、それがだれであったにせよ、この品の真価を知らなかったものと思われます。つまり、内乱のあいだのスペイン国内は治安がまったく乱れておったので、奪いとられぬ用心のために、黒エナメルか何かで黒々と塗りつぶされて、ちょっと見ただけでは、異様な黒い彫像としか受けとれぬ品に仕立てられていたはずです。
そしてこの状態のまま、およそ七十年間、パリの収集家や古物商のあいだを転々としておったわけで、ばかな話ですが、その黒い皮膚の下に、どんなにすばらしいものが隠されておるかに気づいた者はひとりもおらなんだのです」
肥った男は言葉を切って、にやり笑ってみせ、惜しいことにというように首をふってから、また話をつづけた。
「このうえもない貴重な品が七十年ものあいだ、いうなればサッカーのボールみたいに、パリの街なかを移動しておったのです。そして一九一一年にいたって、ギリシアの古物商でハーリラーオス・コンスタンティニデスという男が、場末の怪しげな古道具屋でこれを見出しました。ハーリラーオスはひどく目先のきく男で、その正体をたちどころに見抜いて、さっそく買いとりました。いくらエナメルが厚く塗ってあっても、この男の目と鼻からは、真価を隠しおおすことができなんだわけです。それからはこのハーリラーオスが彫像の歴史のほとんどを調べあげ、その正体を突きとめるのに成功したのです。あたしはそれを伝え聞くと、さっそくこの男に圧力を加えて、調べあげたかぎりのことをしゃべらせました。もっとも、あたし自身も調査して、いくつかの細《こま》かい部分を補充しましたがね。
ところがこのハーリラーオスという男、この掘出し物をすぐには金に換えようとしないのです。つまりこの品が、つぶしにしても莫大な価値があるばかりでなく、その故事来歴が明らかにされたら、価格は途方もなく釣りあがると承知しておったのです。おそらく彼の目算は、かつての騎士団の後裔団体に売りこむことにあったのでしょうな。たとえば、エルサレム聖ヨハネ・イギリス教団、プロシャ・ヨハネス教団、あるいは、イタリアもしくはドイツでマルタ教団と呼ばれておるものなど、どれもみな、とても裕福な宗教団体なんです」
グトマンはそこまでしゃべって、グラスをとりあげたが、からになっているのを見ると、自分のとスペードのグラスにウィスキーを満たそうと立ちあがって、サイフォンをいじりながら、「これで少しは、あたしの話が信じられるようになりましたか?」と訊いた。
「信じないとは、最初からいってはいないよ」
「そうでしたな」グトマンはにやにや笑って、「しかし、あなたの顔が、いささかその言葉を裏切っておりましたぞ」というと、ふたたび椅子に腰を下ろして、グラスを飲みほし、白いハンカチで口を拭き、またしゃべりだした。「ハーリラーオスは歴史研究をつづけているあいだに、エナメルを新しく塗り直したので、鳥は現在のような姿になりました。そして、彼がそれを入手してからちょうど一年後――さらにあたしが彼の口を割らせてから三カ月後に――たまたまロンドンで『タイムズ』紙を読んでいたところ、彼の住居に強盗が侵入して、彼を殺して行ったとの記事が目につきました。あたしはその翌日、パリに飛びました」そして彼は悲しげに首をふって、「鳥は失くなっていたのです。あたしは頭がおかしくなりました。鳥の正体を知っている者が、あたしと彼のほかにいるとは信じられません。彼があたし以外の者にもしゃべったとは考えられぬことです。おびただしい品が盗まれていました。あたしはそれで、強盗は鳥の正体を知らずに、ほかの獲物といっしょに持っていっただけと考えました。なぜって、これははっきりいえることですが、盗賊が鳥の真の価値を知っていたのなら、それ以外のものまで持ち出すわけがないからです――イギリス国王の戴冠式に使う宝石類なら別ですがね」
グトマンは両目を閉じて、何かの考えを楽しむかのように、満足げな微笑を洩らしていたが、やがて目を開いていった。「あれは十七年前のことでした。ということは、あの鳥の所在を突きとめるのに、十七年の歳月を必要としたわけです。あたしはそれをやりとげました。それほどあの品が欲しかった。あたしという男は、いったん思い立ったからには、あくまでも初志をつらぬくタイプで、簡単には諦めない性格なんです」彼の微笑が顔いっぱいにひろがっていった。「あたしは欲しいと思ったので、あれを見出しました。いまもあれが欲しい。だからかならず見出しますよ」彼はグラスを飲みほし、ふたたび口を拭って、ハンカチをポケットにもどした。「突きとめたところは、帝政ロシアの将軍でケミドフという男の家でした。場所はコンスタンチノープルの郊外です。将軍はもちろん、鳥の正体を知っていなくて、彼にとってのそれは、黒エナメルを厚く塗った彫像にすぎないのですが、身についたひねくれ根性から――ひねくれ根性は、ロシアの将軍の特徴みたいなもので――こちらが譲ってくれと申し出ると、彼は依怯地になって、いっこうに売る気配を見せんのです。たぶんあたしが熱心すぎたのが、作戦上まずかったのでしょう。話の切り出し方はそれほど下手だったとも思えんのですがね。とにかくそれで、あたしがとても欲しがっておるのをはっきりさせてしまったので、頭の鈍い軍人にしても、これは何かいわくがあるなと考えて、エナメルを剥がしてみる気持を起こすんじゃないかと、こんどはそれが心配になってきました。そこであたしは、ひきつづき何人かのさあ、なんといいますか――つまり、その、あたしの代理人を派遣したのです。この連中は首尾よくあの品を手に入れました。だが、あたしの手にははいりませんでした」彼は立ちあがって、からにした自分のグラスをテーブルへ運んで、「だが、あたしはかならず手に入れてみせます。さあ、あなたのグラスをどうぞ」
「すると、鳥の所有者は、あんたたちのだれでもなくて、ケミドフ将軍ということになる」とスペードがいった。
「所有者ですか」肥った男はおもしろそうに笑って、「理屈をいえば、スペイン王となりますよ。だが、所有権の問題は、そう単純に決定できるものではないのです――占有権なら別ですがね」彼はくすくす笑った。「要するに、あれだけの価値があって、あんなふうに人手を転々とした品は、それを手に入れた者の所有ですよ」
「だったら、現在ではミス・オショーニシーのものとなるが」
「いや、彼女はあたしの代理人として所持しているだけです」
「ほう」スペードは皮肉な調子で応じた。
グトマンは手にしたウィスキーのボトルの栓を見つめて、「現在、彼女があれを所持しておるのは確かなんでしょうな?」
「まあね」
「どこにあるんです」
「はっきりとは知らんよ」
肥った男はボトルをテーブルにどすんとおいて、「だが、さっきは知っているといったじゃないですか」と、文句をいった。
スペードはすました顔で手をふって、「おれがいったのは、そのときがきたら、どこへ行けば手に入るかを心得ているという意味だった」
グトマンの顔のピンク色の球根が、いっそううれしそうに重なりあって、「では、やはり、知っておられるわけですな?」と確かめた。
「そうなんだ」
「それ、どこです?」
スペードはにやり笑って、「そのことなら、こっちに任せておいて大丈夫。おれだって、時が来るのを待っているんだから」
「いつなんです?」
「こっちの用意がととのったときさ」
肥った男は口をすぼめてほほえんだが、やはり不安を隠しおおせない様子で、「で、スペードさん、ミス・オショーニシーはいま、どこにいるんです?」と訊いた。
「おれの手で、安全な場所に匿《かくま》ってある」
グトマンは素直にうなずいて、「その点はあなたを信用しましょう」といい、「ではこれから、取引条件の話合いにはいることにしますが、その前にお訊きしておきたいことがあります。鷹を渡していただけるのは、いつごろになるのでしょうか? いつになったら、引渡し作業を開始してくださるんです?」
「二、三日のうちだな」
肥った男はうなずいて、「けっこうです。では、これから――いや、その前に栄養物をとっておく必要がありますな」と、テーブルに向き直り、ウィスキーをグラスに注ぎ、炭酸水を加え、グラスのひとつをスペードの肘もとにおくと、ひとつを高くかかげていった。「公正な取引と、われわれ両者にとっての大きな利益のために、乾杯といきましょう」
ふたりはグラスに口をつけた。肥った男が腰を下ろすと、スペードが質問した。「あんたのいう公正な取引とは、どんなことかね?」
グトマンはグラスを光線に透かして好ましげに眺めてから、いっきに飲みほすと、つぎのようにしゃべりだした。
「あたしには提案がふたつあります。両者とも公正なもので、どちらを選ぶかはあなたのご自由です。ひとつの案は、鷹の引渡しと同時に二万五千ドルさしあげて、残額の二万五千ドルは、あたしがニューヨークに到着しだいお支払いする。もうひとつの案は、あたしがこの鷹で入手する金額の四分の一、つまり二十五パーセントをあなたに提供する。お判りですかな。ほとんど即金で五万ドルか、二、三カ月のうちに、それよりもはるかに莫大な金額を受けとられるかのいずれかです」
スペードもまたグラスをあけてから訊いた。「はるかに莫大な金額というと?」
「莫大なものです」肥った男は同じ言葉を繰り返した。「莫大すぎて、数字ではいいあらわせぬくらいです。十万ドル――二十五万ドル――最小限度の数字をあげたところで、信じてはいただけぬと思いますよ」
「いいから、いってみるさ。信じる信じないは、こっちの勝手だ」
肥った男は唇を鳴らしてから、声を低めていった。「では、五十万といっておきましょうか」
スペードは目を鋭くして、「すると、あんたはそれを二百万と踏んでいるんだな」
グトマンはほがらかに笑って、「お言葉を拝借しますと、いくらに踏もうと、こちらの勝手でしてね」といった。
スペードはグラスをからにして、テーブルの上においた。つづいて葉巻を口にくわえたが、手にとって眺めてからくわえ直した。イエロー・グレーの目がやや病的な色に染まって、「途方もない金額だ」とつぶやいた。
肥った男もうなずいて、「たしかに途方もない金額です」と、上半身を乗り出し、スペードの膝をたたいた。「しかもこれが文字どおりの最低値なんです――評価ちがいなら、ハーリラーオス・コンスタティニデスは大ばか者ということになりますが――彼はそんな男じゃありません」
スペードは葉巻を口からぬきとって、さも不味《まず》そうに眺めてから、灰落しのスタンドにおいた。そして目を閉じ、また開けたが、目の濁りがさらに濃くなっていた。「最低値か――で、最高値だと……?」最後の言葉をいうとき、ちょっと舌がもつれた。
「最高に見積った場合ですか?」グトマンはグラスを持たぬ手を、たなごころを上にしてさし出して、「それはやめておきます。頭がおかしいと思われたくないのでね。じつのところ、あたしにも見当がつきかねます。考えるたびに上まわっていくとでもいっておきましょうか」
スペードは、ややもすれば垂れ下がる下唇をひきあげようとして、もどかしげに頭をふった。一瞬、恐怖の光が目のうちを鋭く走ったが――濃さを増しつつある病的な色にかき消された。彼は両手を椅子の腕について、からだを支えながら立ちあがり、もう一度頭をふってから、よろめき気味に一歩踏み出した。そして、うつろな笑い声をあげ、「やられたか」と、つぶやくようにいった。
グトマンはすばやく立ちあがって、椅子をうしろへ押しやった。顔の球根がゆれて、脂ぎったピンク色の顔に、両の目が暗い穴のように光った。
スペードは首を左右にふって、濁った目をドアに向け、焦点も定まらぬままに、不確かな足を一歩踏み出した。
肥った男が鋭い声で、「ウィルマー!」と呼んだ。
ドアが開いて、若者がはいってきた。
スペードは三歩目を踏み出した。顔が灰色に変わって、顎の筋肉が耳の下で、腫瘍のように脹れあがっている。四歩目からあとは脚がまっすぐ伸びなくなり、濁った目はまぶたにおおわれた。それでも彼は五歩目を踏み出した。
若者が近づいて、スペードのすぐそばに立った。スペードとドアを結ぶ線から少しそれて、やや前方の位置だった。若者は右手を上着の内側、心臓の上のあたりへ入れて、唇を咬みしめた。
スペードは六歩目を試みた。
その足先に、若者が前方から足を突き出した。スペードは躓《つまず》いて、顔から床に倒れた。若者は右手を上着の内側に突っこんだまま、スペードを見下ろしていた。そして、スペードが立ちあがろうとすると、右足を大きくうしろへ引いて、スペードのこめかみを蹴った。スペードは横にころがって、もう一度立ちあがろうとはしたものの、深い眠りに落ちていった。
十四 ラ・パロマ号
朝の六時をちょっとすぎたころ、スペードはエレベーターを降りて、廊下のかどを曲がり、彼の事務所近くまでたどりついた。見ると、入口のドアの曇りガラスを透して、いまだに室内に電灯がともったままなのだ。彼はぎょっとして、唇を咬みしめ、廊下に視線を走らせてから、すばやい足どりで、しかし、足音を忍ばせながら、ドアに突き進んだ。
彼はノブに手をかけ、音を立てぬように気をつかって、ひねってみたが、まわらなかった。鍵がかかっている。ノブを押さえたまま、左手に持ちかえ、右手でポケットの鍵束を、鍵と鍵とがぶつかって鳴らぬように注意してとり出した。そして、ドアの鍵を選り出し、ほかの鍵はひとまとめにたなごころのなかに握り、事務所用の鍵を鍵穴にさし入れた。音はしなかった。足の指のつけ根に力を入れてからだのバランスをとり、肺臓いっぱいに息を吸いこみ、ドアを開けて、なかに通った。
エフィ・ペリンが机の上に両腕を投げ出し、それに頭を載せて眠りこんでいた。自分の外套を着て、その上からスペードの外套のひとつをケープのように羽織っていた。
スペードは笑いだしたくなるのを押し殺し、息を吐き出すと、うしろ手に入口のドアを閉めて、奥のドアへ向かった。個室はからだった。ふたたび彼女のそばに歩みより、その肩に手をおいた。
彼女は身動きをして、ねむそうな顔をあげ、まぶたをパチパチさせた。そして急にからだを起こして、目を大きく見開いた。彼女はスペードを見ると、にっこりほほえみ、椅子の背にもたれて、指で目をこすった。「やっと帰ってきたわね」といった。「いま、何時なの?」
「六時だ。こんなところで、何をしている?」
彼女は身震いをして、スペードの外套をさらにきつく巻きつけ、あくびをした。「だってあなた、帰ってくるか電話をするまで、この部屋を離れるなといったじゃないの」
「おや、おや。それで待っていたのか。燃える甲板に踏みとどまる勇敢な女水兵みたいだな」
「そんなつもりじゃなかったけど――」彼女はいいかけて立ちあがった。スペードの外套が椅子の上にすべり落ちた。そして、帽子の下にのぞいているスペードのこめかみに目を見張り、「まあ! その頭! どうしたの?」と叫んだ。
彼の右のこめかみは、どすぐろく膨れあがっていた。
「ころんだのか、一発食らったのか、おれにもはっきりしないのだ。大した傷ではないと思うが、痛みはひどい」と、指でそっと触れかけたが、けっきょくやめて、渋面を苦笑に変え、説明をはじめた。「人を訪問して、一服盛られて、十二時間後に気がついたら、その男の部屋の床に伸びていたのさ」
彼女は手を伸ばして、彼の頭の帽子をとりのけ、「ひどい傷よ」といった。「医者を呼んだほうがいいわ。こんな頭で、歩きまわれるものじゃないわ」
「見かけほどひどい怪我じゃない。頭痛はするけど、それだって、麻薬のせいと思っていいだろう」スペードは部屋のすみにある洗面台に歩みよって、ハンカチを水で濡らしながら、「おれが出ていったあと、何かあったか?」と訊いた。
「ミス・オショーニシーは見つかったの、サム?」
「まだだ。おれが出かけてから、どんなことがあった?」
「地方検事局から電話があったわ。地方検事が会いたいんですって」
「地方検事自身がか?」
「そうよ。そんなふうに聞きとれたわ。それから、グトマンさんの使いだという若い男があらわれて――ミスター・グトマンはお申し出どおり、五時半以前にお会いする用意がある、といってたわ」
スペードは水道栓をとめ、ハンカチをしぼって、それをこめかみにあてながら、洗面台からもどってきた。「それは知っている。その若僧と、このビルの階下で出会ったのだ。そしてグトマンに会いにいって、話しているあいだに、こんな目にあった」
「その男が、きのう電話をかけてよこしたGなの?」
「そうだ」
「それがどうしてこんなことに――?」
スペードは女秘書の顔を見つめていたが、説明することで自分自身の考えを整理するかのようにしゃべりだした。
「彼はある品を欲しがっていて、おれの力を借りれば、それを入手できると考えた。そこでおれは条件をつけた。五時半までにおれとの話をつけないと、ぜったい入手させないぞとだ。それから――ええと――そう、そう、そうだった――おれが、もう二、三日待てといったら、麻薬を盛られたのだ。だが、やつがそれでおれを殺すつもりだったとは考えられない。十時間か十二時間もしたら、おれが目をさますものと知ってたはずだ。そうだとすると、なぜあんなまねをしたかの答えは、おれが気を失って、邪魔立てする力のないあいだに、自分たちだけで、問題の品を入手できると信じていたことになる」そして、顔をしかめて考えて、「やつらの思惑がはずれてくれたらいいのだが」といった。目の焦点が徐々に定まってきて、「例のオショーニシーから何か連絡の言葉はなかったのか?」と訊いた。
女秘書は首をふって、ノーと答え、あらためて質問した。「この問題、彼女と関係があるの?」
「そうらしい」
「Gが欲しがっている品が、彼女のものってこと?」
「彼女でなければ、スペイン王のものだ。ところで、エフィ、きみにはたしか、どこかの大学で歴史を教えている叔父さんがいたね?」
「いとこよ。それがどうかしたの?」
「そのいとこに、四世紀昔の歴史上の秘密を話してやるとしたら、ここ当分のあいだ、世間に発表しないでいてくれるだろうか?」
「大丈夫よ。信用できる男だもの」
「それはありがたい。では、鉛筆とノートを用意してくれ」
彼女は鉛筆とノートを用意して、椅子に腰を下ろした。スペードはもう一度ハンカチを冷たい水で濡らして、こめかみに押しあて、彼女の前に突っ立ち、鷹の物語の口述筆記を開始した。グトマンの口から聞いたとおりに、カール五世が騎士団の請願に勅許をあたえたことからはじめて、スペイン内乱の末期にカルロス党の亡命者がフランス国内になだれこむと同時に、黒エナメル塗りの鳥がパリに持ちこまれたところまで語った。グトマンがあげた著書の題名や著者名にはとまどったが、それでもどうにか、似た発音の名前でごまかすことができ、そのほかの物語の部分は、熟練したインタビュー記者の正確さで、グトマンの話を反復して語りおえた。
彼の口述が終わると、女秘書はノートを閉じて、笑みのこぼれる上気した顔をあげて、「ずいぶんスリルのある話じゃないの」といった。
「ああ、ばかばかしいくらいスリルがある。では、それをきみのいとこに読ませて、この話をどう考えるかを訊いてきてくれ。これに少しでも関係のありそうな事実に出会ったことがあるか。つまり、これが事実に近い話か、ありうる程度のことか、それともまるっきりのナンセンスなのか、意見を聞いてきてもらいたいのだ。調べるのに時間がほしいというのなら、それもオーケーだが、さしあたっていま、いちおうの判断を知っておきたい。それから、この問題は秘密厳守だと、忘れずにいってくれ」
「いいわ。すぐ行ってくるわ」彼女はいった。「そのあいだにあなたは、その頭を医者に診てもらうのよ」
「そうときまったら、とりあえず食事をとろう」
「食事はバークレー大学でするからいいわ。それより、テッドがこの話をどう考えるか、それが早く知りたくて」
「では、そうしてくれ」スペードがいった。「ただし、テッドが笑いだしても、べそをかくんじゃないぜ」
スペードはパレス・ホテルでゆっくり朝食をとりながら、二種類の朝刊紙に目を通したあと、アパートにもどって、髭を剃り、入浴をすませ、こめかみの傷を氷で冷やし、新しい服に着替えた。
それから、コロネット・アパートのブリジッド・オショーニシーの部屋へ行ってみたが、だれの姿も見られず、室内の様子もこの前きたときと少しも変わっていなかった。
彼はつぎに、アレグザンドリア・ホテルへ向かったが、グトマンは留守だし、その続き部屋に泊まっている連中も全員が外出していた。ホテルで聞いたところだと、同室者の顔ぶれは、グトマンの秘書のウィルマー・クックと、グトマンの娘のリーア、これは茶色の目をした金髪の少女で、小柄ではあるが美人だとの話だった。この一行は十日以前にニューヨークから到着して、いまだに引き払っていないという。
スペードはその足で、ベルヴィディア・ホテルへまわった。ホテル付きの探偵がビュフェで食事をしていた。
「おはよう、サム。その椅子で、卵でも食べていけよ」そして彼は、スペードのこめかみをしげしげと見て、「どうしたんだ? ひどくやられたじゃないか!」といった。
「おれは食事をすませた」スペードはいいながら、椅子に腰かけて、「こいつは見かけほどひどい傷じゃない」とこめかみの傷を説明してから、「わがカイロ氏のその後の様子はどうなんだ?」と訊いた。
「さよう、あんたが出ていってから、三十分もしないうちに外出して、それっきりだ。ぜんぜん姿を見かけない。ゆうべもやはり、帰ってこなかったよ」
「ご乱行の気味だな」
「あんなタイプの男が大都会にひとりでいたら、どうしてもそうなる。ところで、サム、その傷はだれにやられたんだ?」
「カイロじゃないよ」スペードはルークのトーストにかぶせてある銀製の小さな丸蓋をじっと見つめながら、「彼が外出しているあいだに、部屋をちょっとのぞかせてもらえないだろうか?」と申し入れた。
「いいとも。おれはいつだって、あんたのためなら協力を惜しまない気持なんだ」そしてルークは、コーヒーを押しやり、テーブルに両肘をついて、スペードの顔をじろじろ眺め、「だが、おれのひがみか知らないが、あんたはおれに、ほんとうのことを打ち明けてくれないみたいだ。あの男はいったい何なんだ? おれに隠すことはあるまい。これでもおれは、根性のいい人間なんだぜ」
スペードは銀の丸蓋を見ていた目をあげた。その目は澄んで、明るかった。「きみがいい人間なのは知っている。だから、何も隠してはいない。率直に、事実をしゃべっている。おれは実際に、あの男のための仕事をしているのだが、彼の友人のうちに、どうかと思われるのが何人かいて、おれは彼まで、ちょっと警戒しだしたのさ」
「きのう追い出した若僧も、そのひとりってことか」
「そうなんだ、ルーク。彼もそのひとりだ」
「で、マイルズをやっつけたのも、やつの仲間か?」
スペードは首をふって、「マイルズはサーズビーが殺した」といった。
「で、サーズビーを殺したのは?」
スペードはほほえんで、「それは秘密の話だが、おれということになっている。警察の連中にいわせるとだ」
ルークはうなり声をあげて、立ちあがり、「いい度胸をしているな、サム。じゃ、いっしょに来てくれ。部屋を見せるから」
ふたりはフロントのデスクに立ち寄って、カイロがもどってきたら、電話で知らせるように手配してから、カイロの部屋へ向かった。ベッドに少しの乱れも見えていないが、屑籠いっぱいの紙切れ、不揃いに下ろしたブラインド、バス・ルームに使用したタオルが二枚投げ捨ててあることからして、けさはまだルーム・メードが来ていないのが明らかだった。
カイロの荷物は、トランク、手提げカバン、ボストンバッグがそれぞれ一個ずつで、バス・ルームの棚には、各種の化粧品――パウダー、クリーム、軟膏、香水、ローション、ヘアトニックなどの箱、罐、壷、壜のたぐいを並べ、衣裳戸棚のなかに、服が二着と外套が一着、その下には、きちんと木型をはめた靴が三足おいてあった。
手提げカバンとボストンバッグは鍵がかかっていなかった。スペードが室内の調査を行なっているあいだに、ルークがトランクの鍵をはずした。
ふたりはトランクのなかを見下ろし、スペードが、「これまでのところは、何も見当たらぬ」といった。
トランクのなかにも、彼らの興味を惹くものはなかった。
「何か狙っている品があるのか?」ルークがトランクに元どおり鍵をかけながら訊いた。
「いや、べつに。彼はコンスタンチノープルから来たことになっているので、その証拠を見たかっただけだ。そうでない証拠も見当たらんようだが」
「何を商売にしてる男だ?」
スペードは首をふって、「それも知りたいことのひとつだ」といい、部屋を横切って、屑籠に近づき、「こいつが最後の狙いだぞ」と、なかをのぞきこんだ。
スペードは屑籠から新聞紙をひっぱり出した。それが前日の「コール」紙だと知ると、目をかがやかした。三行広告欄のページを上にして折りたたんであった。彼はそれをひろげて、入念に目を通したが、注意を惹くものは何もなかった。
つづいてそれを裏返しにして、なかに折りたたんだページを見た。金融、船舶、天気予報、出産、結婚、離婚、死亡の記事で埋まっていた。右下欄の隅の、下から二段目の部分が、二インチと少し破りとってあった。
そのすぐ上のところに、『本日の入港船』とした小見出しがあり、つぎの記事が読みとれた。
午前〇・二〇――カパック号、アストリアより
午前五・〇五――ヘレン・P・ドルー号グリーンウッドより
午前五・〇六――アルバラド号、バンドンより
破りとられたのはつぎの行からだが、≪シドニーより≫との文字がかろうじて読みとれた。
スペードは「コール」紙をデスクの上において、もう一度屑籠をのぞきこんだ。小さな包装紙、紐の切れはし、靴下の商標が二つ、靴下半ダースの服装品店の領収書、そして屑籠のいちばん下から、小さく丸めた新聞紙の切れはしが出てきた。
彼はそれをひろげて、デスクの上でしわを伸ばし、「コール」紙の破れた個所にあてがってみた。左右の部分はぴったり合うが、切れはしの上部と≪シドニーより≫とある行のあいだが、半インチほど欠けている。それだけのスペースなら、六、七隻の入港船名が列記してあるはずだ。彼は紙面を裏返してみたが、欠けている個所は証券会社の広告の片隅で、格別の意味はなさそうだった。
ルークが彼の肩越しにのぞきこんで、「それがどうかしたのかい?」と訊いた。
「このダンナ、船に興味をお持ちのようだ」
「持っちゃいけないという法律はないぜ」スペードが破られたページとしわくちゃな切れはしとをいっしょに上着のポケットに入れるのを見て、ルークはいった。「で、あんたの調査はこれで終わりか?」
「ああ、終わった。助かったよ、ルーク。くれぐれも礼をいう。やつが帰ってきたら、電話を頼むぜ」
「心得てるよ」
スペードは「コール」紙の営業所へ行って、前日発行のを一部買って、出入港船舶案内欄のページを開いて、カイロの屑寵から持ち出してきたものと突き合わせてみた。欠如した部分は、つぎのような記事だった。
午前五・一七――タヒチ号、シドニーよりパペエラ経由
午前六・〇五――アドミラル・ピープルズ号、アストリアより
午前八・〇五――ラ・パロマ号、ホンコンより
午前八・〇七――カドピーク号、サン・ペドロより
午前八・一七――シルヴェラード号、サン・ペドロより
午前九・三〇――デイジー・グレー号、シアトルより
スペードはこのリストをていねいに読んで、読みおえると、ホンコンとある文字の下に爪で痕をつけ、ポケットナイフで入港船リストを切り抜いて、残りはカイロの新聞といっしょに屑籠に押しこんで、彼の事務所へもどった。
デスクにつくと、電話帳で番号を調べて、交換台を呼び出した。
「カーニーの一四〇一番を……もしもし、ラ・パロマ号は何番波止場です? ええ、きのうの朝、香港《ホンコン》から入港したはずですが」その質問を二回繰り返して、「ありがとう」といった。
つぎに、受話器のフックを親指で押し、すぐに離して、「ダヴンポートの二〇二〇番……ああ、捜査課へつないでくれ……ポルハウス部長刑事はいますか?……お願いします……やあ、トムか。サム・スペードだ……ああ、そうだ。きのうの午後、きみをさんざん探したんだ……いいとも、昼の食事をいっしょにしよう……大丈夫、出られるね?」
彼は受話器を耳にあてがったまま、フックをもう一度、親指で押して離し、「ダヴンポートの〇一七〇番を……もしもし、こちらはサミュエル・スペードです。昨日、うちの秘書が聞いたのですが、ブライアン氏からお電話があって、お会いになりたいとのことでした。ご都合は何時がよろしいか、お訊きねがえませんか?……そうです。スペードです。S・p・a・d・eで」長い間《ま》があってから、「はい……二時三十分? 判りました。どうもありがとう」
彼は四つめのダイヤルをまわして、いった。「もしもし、サムだ。シドにつないでくれ……やあ、シド――サムです。きょうの二時半、地方検事に会う約束をしたんです。四時前後に、ここかあそこに電話してくれませんか。
おれが無事かどうかを確かめてもらえばいいんで……なに、土曜日の午後のゴルフ? 冗談じゃない。おれを留置場に入れさせないのが、あんたの仕事ですぜ……頼みますよ、シド」
彼は電話機を押しやって、あくびをし、伸びをし、こめかみの傷に触れてから、時計を見て、タバコを巻いて火をつけた。ねむそうな顔でタバコをすっていると、エフィ・ペリンがもどってきた。
エフィ・ペリンはにこにこ顔で、目をかがやかし、頬を赤らめていた。「テッドがいったわ、ありうることだって」彼女は報告した。「可能性は大ありだそうよ。自分はこの分野の専門家じゃないけど、人名や年代は正確で、少なくともあなたのあげた古文書とその著者の名はまるっきりのでたらめじゃないって。彼、とても興奮していたわ」
「そいつはすばらしい。夢中になりすぎて、インチキが見破れなかったのでなければだが」
「大丈夫よ。テッドはそんな男じゃないわ。あれでも、こういうことにかけては、りっぱな学者なのよ」
「これは失礼。ペリン一家はりっぱな人物揃いだった」スペードがいった。「きみと、きみの鼻の頭にくっついている煤《すす》を含めてだよ」
「テッドはペリン家じゃないわ。クリスティ家の男よ」そして、ヴァニティ・ケースの鏡に鼻を映して、「これ、きっとあの火事の煤がくっついたんだわ」と、ハンカチのはしでその媒を拭きとった。
「すると、ペリン、クリスティ両家の熱狂ぶりが、バークレー大学に火事を起こしたのか?」
彼女はピンク色のパフで鼻の頭をたたきながら、しかめっっらをして見せて、「帰ってくる途中、船火事に出あったのよ。燃えている船を桟橋から引き離そうとしている最中で、その煙があたしの乗った連絡船にまともに吹きつけてきたんだわ」
スペードは両手で椅子の腕をつかんで、「燃えている船の名前が見えたか?」と訊いた。
「見えたわ。ラ・パロマって船よ。なぜ、そんなこと、訊くの?」
スペードは口惜しそうな顔をして、「なぜだか、おれに判るものか!」といった。
十五 半気違いぞろい
スペードとポルハウス部長刑事は、ステーツ・ホーフ・ブラウの、大男のジョンが受持ちのテーブルで、酢漬けの豚の足を食べていた。
ポルハウスは軟膏色のゼリー状の部分をフォークの上でバランスをとり、皿から口へ運びながら、「なあ、サム、このあいだの晩のことは忘れろよ」といった。「悪いのはもちろん、彼のほうだ。だけど、きみもちょっと高飛車に出すぎたな。あれじゃだれだって頭にくるぜ」
スペードはじろり警察官の顔を見て、「おれに会いたがっていたのは、そんなことがいいたかったからか?」
ポルハウスはうなずいて、フォークに載せたゼリー状のものを口にほうりこみ、うなずきの力を殺《そ》ごうとするように、「だいたいね」といった。
「ダンディにいいつかったのか?」
ポルハウスは不愉快げに口をゆがめた。「彼がそんなことをするわけがないじゃないか。きみに負けない意地っぱりの男だ」
スペードはほほえんで、首をふり、「そうでもないんだぜ、トム」といった。「自分でそう思いこんでいるだけさ」
トムは顔をしかめて、豚の足をナイフでたたき切った。「きみももう少し、おとなになれんものか」とたしなめて、「文句をいうことはない。痛めつけられたわけじゃなし、勝ったのはきみのほうだ。いつまでも根に持っていると、けっきょく損をするのはきみということになる」
スペードは皿の上にナイフとフォークをきちんと揃えておいて、皿の左右に両手をのせた。微笑のあたたかみが消えていた。「この街のおまわりたちは、夜どおしとび歩いて、おれの商売の邪魔をしているんだ。これ以上の損をさせられることがあるものか。おまわりなんか気にするおれと思わんでくれ」
ポルハウスの赤ら顔がいっそう赤くなった。「おい、おい、サム。気をつけて口をきいてくれよ。おれもそのおまわりのひとりなんだ」
スペードはナイフとフォークをとりあげて、また食べはじめた。ポルハウスも食べた。
ややあって、スペードが訊いた。「港内の船火事を見たか?」
「煙だけは見た。そんなことより、サム。分別心を出してくれ。ダンディは自分の非を認めている。いいかげんに仲直りしたらどうだ?」
「するとなにか? おれのほうから顔を出して、この顎があんたの拳骨を傷つけはしませんかって、訊けというのか?」
ポルハウスは乱暴な手付きで、豚の足を断ち切った。
スペードがいった。「フィル・アーチャーがまた新しく、密告にあらわれたんじゃないのか?」
「もうやめろよ、サム。ダンディは最初から、マイルズを撃ったのがきみだとは考えていなかった。だが、彼としては、手がかりをひとつずつ確かめてかかる以外に方法がない。きみが彼の立場だったら、やはり同じことをしたはずだ」
「そんなものかね」スペードの目に底意地の悪い光が走った。「だが、おれが殺《や》ったんじゃないのが、どうして彼に判った? きみも彼同様に判ったのなら、その理由を聞かせてくれ。それともきみは、おれが殺《や》ったと思っているのか?」
ポルハウスの赤ら顔がまたしても赤くなって、「マイルズを殺《や》ったのはサーズビーだよ」
「きみがそう思ってるだけだ」
「いや、彼が射ったんだ。あのウェブリー拳銃は彼のもので、マイルズのからだから出てきた銃弾は、あの拳銃から発射されている」
「たしかか?」スペードは念を押した。
「絶対確実だ」警察官は答えた。「証人をひとりつかまえた。サーズビーが泊まっていたホテルのボーイだが、この少年があの日の朝、彼の部屋でウェブリー拳銃を見かけている。まだ見たことのないタイプなんで、とくべつ注意を惹いたそうだ。おれもこんどの事件で、はじめてお目にかかった。きみがいうように、いまでは製造していないのなら、そこらにざらにころがっているわけじゃなし、あれがサーズビーのものでないとしたら、彼自身のはどこへ消えてしまったんだ? マイルズのからだから出てきた銃弾が、あの拳銃のものなのはまちがいないのだぜ」そして、パンをちぎって口へもっていきかけたが、その手をひっこめて、「きみはあのタイプのものを見たことがあるといったが、いつ、どこで見た?」と質問してから、あらためて口へ押しこんだ。
「戦前のことだ。見たのはイギリスでだ」
「そうだろう。この国じゃないはずだ」
スペードはうなずいて、「となると、おれが殺《や》ったのは、サーズビーひとりという結論になるな」といった。
ポルハウスは椅子のなかでからだをもじもじさせ、顔がさらに赤く、脂ぎってきた。「頼むよ、サム。この件はいいかげんに忘れてくれ」彼はしきりと訴えた。「もうすんだことだ。きみ自身、じゅうぶん心得ているはずだが、すんだことをいつまでもぐずぐずいってたのじゃ、探偵商売は成り立つまい。もっとも、きみだったら、あんなに強引なやり方で口を割らせはしなかっただろうが」
「おい、おい、トム。おれは口なんか割らないぞ――やつがそれを狙って、成功しなかっただけのことだ」
ポルハウスはなおもぶつぶついって、残りの豚の足を突っつきだした。
スペードがいった。「まあ、いい。あれはあれでもう終わったことだと、きみも知ってるし、おれも知っている。だが、ダンディはどう思っているんだ?」
「彼だって、すんだことだと思っているよ」
「何が理由で、あの男、目がさめたんだ?」
「いいかね、サム。さっきからいってるように、ダンディは最初から、きみがやったと本気で考えていたわけじゃない。彼はただ――」いいかけたが、スペードの厭味な笑いを見て、いそいで話題を変え、「サーズビーの犯罪記録をとり寄せてみたよ」といった。
「ほう、そうか。で、どんな男だ?」
ポルハウスの小さいながら鋭い茶色の目が、スペードの顔をじっと見た。スペードは苛立つように、大声でいった。「話してくれてもいいだろう。おれは何も知らないんだぞ。きみたち抜け目のない連中が考えることの半分もだ!」
「おれたちだって、大して知ってるわけじゃない」ポルハウスは愚痴をいった。「おれたちに判ったところでは、最初やつはセントルイスのギャングだった。あの土地で、なんども挙げられたが、イーガンの身内だったので、あまり長いあいだは食らいこまずにすんだ。その後、どういうわけだか知らないが、セントルイスからニューヨークへ場所換えをして、そこで賭場荒らしをやって挙げられた。自分の情婦《おんな》に密告されたんだが、一年ほどつとめたところで、ファロンのおかげで娑婆に出られた。その二年あと、こんどはイリノイ州のジョリエトで、情婦《おんな》と――これは前のとはちがった女だが――喧嘩して、ピストルの柄でぶんなぐったことから、少しのあいだ食らいこんだ。だが、その後はディクシー・モナハンの身内になったので、挙げられたにしても、じきに出てこられた。当時のディクシーといえば、シカゴの博奕打ち仲間じゃ、ギリシア小僧のニックに並ぶ大物だったのだ。サーズビーはディクシーのボディ・ガードをつとめていた。ところがこのディクシー、博奕の金が払えんとか払う気がないとかで、博奕打ち仲間といざこざを起こして、土地を売った。そして、サーズビーもいっしょに姿を消した――ちょうどいまから二年前、ニューポート・ビーチ〔カリフォルニア州南部の行楽地〕のボート・クラブが閉鎖を食らったころのことだ。あの事件にディクシーが一枚咬んでいたかどうかは知らんが、とにかく、ディクシーなりサーズビーなりが姿を見せたのは、あれ以来これがはじめてのことなんだ」
「ディクシーも姿を見せたのか?」
ポルハウスは首をふって、「いや、そうじゃない」と、否定したが、その小さな目をふたたび鋭くして、「きみが見かけたとか、だれか見たやつを知っているのなら、話がちがってくるが」と、さぐりを入れるような言葉をつけ加えた。
スペードは椅子の背にもたれて、シガレットを巻きはじめ、「おれは見かけていないよ」とおだやかな口調でいった。「この話はおれには、みんな初耳なんだ」
「そういうと思っていた」ポルハウスがいってのけた。
スペードはにやにやしながら、「で、サーズビーのこの情報は、どこから入手したんだ?」と訊いた。
「ある部分は記録に載っている。そのほかの部分は――その、なんだよ――あっちこっちから掻き集めたのさ」
「たとえば、カイロからか?」こんどはスペードの目が、さぐりの光を示していた。
ポルハウスはコーヒーのカップを下において、首をふり、「そんなことはないさ。あの男はきみの脅しがきいて、何ひとつしゃべらなかった」
スペードは笑いだした。「きみやダンディみたいな腕っこき刑事がふたりも揃って、男おんな同様なあいつを一晩じゅう搾りあげたのに、口を割らなかったというのか?」
「なに、一晩じゅうだと?」ポルハウスが聞きとがめて、「おれたちの質問は、せいぜい二時間ぐらいだった。いくから責めてもむだと見て、帰らせた」
スペードはもう一度笑って、時計を見てから、ジョンに目配せして、勘定書を持ってこさせた。そして、釣銭を待つあいだに、ポルハウスにいった。「きょうの午後、おれは地方検事と会うことになっている」
「呼ばれたのか?」
「そうだ」
ポルハウスは椅子をうしろに押しやって、立ちあがった。ビア樽のような腹をした長身の大男で、がっしりしたからだつきが、どこか鈍重な感じだった。彼はいった。「おれがこの話をしたこと、ダンディには内緒なんだぜ」
耳の突き出たひょろ長い青年が、スペードを地方検事の部屋へ導いた。スペードは朗らかな笑顔で部屋にはいり、「やあ、ブライアンさん!」と、朗らかな声で挨拶した。
地方検事ブライアンは腰をあげて、デスク越しに片手をさし出した。彼は中肉中背の金髪男で、年配は四十五、六か。攻撃的な目に黒リボンのついた鼻眼鏡をかけ、雄弁家らしい大ぶりの口とえくぼの目立つ大きな顎の持ち主だった。「やあ、しばらくだったな、スペード君!」と応じたが、底力のある、よく透る声だった。
ふたりは握手を交わして、椅子についた。
地方検事が、デスクの上に四つ並んだ真珠色のボタンのひとつを押すと、ドアが開いて、ひょろ長い青年がはいってきた。地方検事は、「トマス君とヒーリーに来るようにいってくれ」と命じてから、椅子の背に身をもたせて、愛想のよい口調でスペードに、「きみと警察とのあいだが、このところうまくいっていないようだな」といった。
スペードは右手の指で、問題じゃないというような動作を示し、「大したことじゃありませんよ」とかるくいった。「ダンディがひとりで興奮してるだけです」
ドアが開いて、男がふたりはいってきた。そのひとりにスペードが、「やあ、トマス!」と声をかけた。これは日焼けのした、ずんぐりした三十男で、服装も頭髪もいっこうにかまわぬ格好だった。ソバカスだらけの手でスペードの肩をたたいて、「景気はどうだい?」と声をかけ、そばの椅子に腰を下ろした。もうひとりはもっと若くて、特徴のない男だった。ほかの連中とは少し離れた椅子にかけて、膝の上に速記用のノートをひろげ、緑色の鉛筆をかまえた。
スペードはその青年の様子をちらっと見て、くすっと笑い、ブライアン地方検事にいった。「いよいよ尋問開始ですか。『これからしゃべる一語一語は、法廷で不利益な証言として援用されることがある』というやつですね」
地方検事は苦笑して、「ここでしゃべることは、みんなそうなのさ」と応じてから、鼻眼鏡をはずし、ちょっとそれを眺め、また鼻の上においた。そして、その眼鏡ごしにスペードの顔を見ながら、「サーズビーを殺したのはだれだね?」と質問を開始した。
スペードは答えた。「知りませんね」
ブライアン地方検事は眼鏡の黒リボンを親指とほかの指とでこすりながら、心得顔でいった。「知ってはおるまいが、きみのことだから、きみのすばらしい推理能力なら、見当がつくのじゃないかな」
「つくでしょうが、その気になりませんよ」
地方検事は眉を釣りあげた。
「やってみる気になれんのです」スペードは繰り返した。平然とした顔つきで、「ぼくの推理能力がすばらしいのか貧弱なのか知らないが、幸か不幸かぼくのおふくろは、子どもの育て方を知っていましてね。地方検事、検事補、速記者の前で、いい気になってしゃべるようなばかな男には育てなかったんです」
「隠すことがないのなら、しゃべってみてもいいだろうに」
「だれにだって」とスペードはやんわり反駁した。「隠しておきたいことがあるものです」
「で、きみの場合は――?」
「たとえば、ぼくの推理ですよ」
地方検事はデスクに目を落としたが、すぐに視線をスペードに向け、鼻の上の眼鏡の位置を直すと、「速記者がいないほうがいいのなら、退席させるぜ。速記者を呼んだのは、便宜上のことにすぎぬのだから」
「速記者なんかちっとも気にしていませんよ」とスペードは答えた。「しゃべったことはなんでも書きとめてもらってけっこう。署名の用意もありますぜ」
「署名してもらおうなど考えてはおらぬよ」ブライアン地方検事は確言して、「だからこれを正規の尋問と受けとってほしくない。警察にはいちおうの意見があるらしいが、われわれはそれを信じておるわけではない。地方検事側としては、まったく白紙の状態なのだ」
「白紙ですか?」
「そうだ」
スペードは息を吐いて、脚を組み、「それを聞いて、うれしくなりましたよ」といいながら、ポケットのタバコと巻き紙をさぐって、「しかし、あなたにもご意見がおありでしょう?」といった。
ブライアンは椅子から身を乗り出した。目が眼鏡と同じ硬質の光を放っている。「アーチャーがサーズビーを尾行していたのがだれの依頼によるものなのかを話してくれたら、サーズビーを殺したやつの名前をいってもいい」
スペードは笑った。短いが、嘲るような笑いで、「あんたもやはり、ダンディと同じ勘ちがいをしていますぜ」といった。
「誤解しないでくれよ、スペード」ブライアンはデスクを指の関節でたたいて、「きみの依頼人がサーズビーを殺したとか、殺させたとかいってるのじゃない。その依頼人がだれなのか、あるいは、だれだったのかが判れば、サーズビー殺しの犯人もすぐ判るといってるだけだ」
スペードはタバコに火をつけ、それを唇から離し、肺のなかの煙をそっくり吐き出してから、怪訝《けげん》そうな表情で、「どういう意味なのか、はっきりしませんね」といった。
「ほう、判らんかね。では、こういったらどうだね。ディクシー・モナハンはどこにいるんだ?」
スペードの顔から不審げな表情が消えなかった。「言い方が変わっても同じことですよ。やっぱりはっきりしませんね」
地方検事は眼鏡をはずし、力をこめるようにそれをふって、「サーズビーはモナハンのボディ・ガードをつとめていた。モナハンがシカゴから姿を消さねはならなくなったとき、彼もいっしょにいなくなった。モナハンが土地を売ったのは、二十万ドルにもおよぶ博奕の負けが払えなかったからだが、踏み倒された相手がだれなのかは――まだいまのところ――判っていないのだ」地方検事はふたたび眼鏡をかけて、にやり笑っていった。「しかし、踏み倒して逃げた博奕打ちとそのボディ・ガードが、相手方に見つかったら、どんな運命をたどるかは、われわれにもじゅうぶん判っている。前例もあることなんだ」
スペードは唇を舐め、歯をむき出して、無気味な笑いを見せた。眉をひそめ、目をぎらぎらさせ、首筋の血管をカラーの縁からはみ出るほど膨らませたうえで、低いしわがれた声で突っかかるようにいった。「だからぼくがどうしたというんです? 相手方に頼まれて殺したとでも――でなければ、見つけ出してやって、彼らの手で殺させたとでも?」
「ちがう、ちがう!」地方検事は否定した。「きみは誤解しておる」
「誤解であってほしいですよ」とスペードがいった。
そばからトマス検事補が口を出して、「地方検事の言葉はそんな意味じゃない」といった。
「だったら、どんな意味だね?」
ブライアンは手をふって、「その意味はただ、きみがそれを知らずに、事件に巻きこまれたかもしれぬということだ。そうだとすると――」
「判りましたよ」スペードは冷笑するような口ぶりで、「あなたはぼくを、悪党だとは考えぬが、間抜けな男と見ておられる」
「ばかなことをいわんでくれ」ブライアンはいっそう力をこめて、「たとえば、こういうことが考えられる。だれかがきみの事務所を訪問して、モナハンがこのサンフランシスコに逃げこんだと思える理由を並べて、彼の捜査を依頼する。そのさい、その男はまったくの作り話を聞かせたのかもしれない。話をでっちあげるのは、彼らの常套手段だからな。あるいはまた、詳しい事情には触れずに、借金を踏み倒して逃げた男をつかまえたいといっただけかもしれぬ。いずれにせよ、きみにはその依頼の背後にひそむ意図が判るわけがない。これがただの捜査仕事でないことまではだ。要するに、こういった状況のもとで、きみはきみの仕事については責任を負う必要がないのだ。ただし――」と彼は、強調するために声を低め、一語一語をはっきり区切って、「殺人犯人の正体、または逮捕の手掛りになる情報を知りながら、それを隠匿するときは、共犯の罪に問われるのを忘れんでほしい」
地方検事の説明のあいだに、スペードの顔から怒りの表情が徐々に消えて、「あんたの言葉の意味は、それだけのことですか」といったときは、声が平静なものにもどっていた。
「そうだ、それだけのことだ」
「判りましたよ。それなら腹も立たぬが、しかし、その考えは見当ちがいですぜ」
「証明してみたまえ」
スペードは首をふって、「いまはまだ証明の段階でないが、経過だけなら話せますよ」
「聞こうじゃないか」
「ディクシー・モナハンのことでは、だれの依頼も受けていません」
ブライアンとトマスが目を見合わせた。ブライアンは視線をスペードにもどして、「というのは、彼のボディ・ガードのサーズビーについて、だれかから何かの仕事を依頼されたことを認めるのだね?」
「そうなんです。以前はモナハンのボディ・ガードをやっていたサーズビーのことで」
「以前だと?」
「ええ、以前ですよ」
「すると、サーズビーはすでにモナハンと手を切っていたというのか? きみはそれをはっきりいえるのか?」
スペードは手を伸ばして、デスクの上の灰皿にタバコの吸殻を落として、無造作な口調でしゃべりだした。「はっきりいえるのは、あの依頼人はモナハンなんかに、仕事を依頼にきたときはもちろん、過去においてもなんの関心も持っていなかったことです。ただ、こういうことは聞きました。モナハンを東洋へ連れ出したのはサーズビーだが、その後あちらで手を切ったということをね」
そこでまた、地方検事と検事補が目を見合わせた。
トマス検事補は事務的な口調で、つぎのようにいったが、内心の興奮を隠しきれなかった。「となると、またひとつ新しい見方が出てきたわけだ。落ち目になったモナハンを見捨てた理由で、サーズビーはモナハンの仲間に殺されたという見方だ」
「土地を売った博奕打ちに仲間なんかいるものですか」スペードがいった。
「これで新しい線がふたつあらわれた」ブライアンは椅子の背にもたれて、数秒のあいだ天井をふり仰いでいたが、すばやく姿勢を正した。雄弁家で鳴らした彼の顔が生き生きとかがやいている。「けっきょく、推理の線が三つに絞られる。第一の線――サーズビーを殺したのは、モナハンに賭け金をごまかされたシカゴの博奕打ちの一味。彼らはサーズビーがモナハンを見捨てたのを知らず、あるいは知っていてもその話を信用しないで、彼がモナハンの子分だっただけの理由で、でなければ、モナハンに近づくには彼が邪魔だというだけのことで殺したとの見方が成り立つ。そうだな、もうひとつ付け加えておくと、モナハンの隠れ家を教えろと責められて、拒絶したからかもしれない。第二の線は、モナハンの仲間に殺されたとの見方。さらに第三のは、似たようなものだが、サーズビーがいったんモナハンを敵側に売り渡したあと、その敵たちとごたごたを起こして殺された」
「で、第四の線は」と、スペードがにやにやしながら、口を入れて、「サーズビーは老衰で死んだというやつでしょう。だけど、あんたたちはいったいまじめなんですか?」
ふたりの男はスペードの顔を見つめたが、どちらも口をきかなかった。スペードは笑顔をふたりに交互に向けて、嘲りとあわれみの入りまじった態度で首をふり「あんたがたの頭には、アーノルド・ロススティーン〔ニューヨークの大賭博師。一九二八年、ホテルの一室で賭博中、賭け金の支払いを拒否して射殺される。犯人不明〕のことがこびりついているのだな」といった。
ブライアン地方検事は左手の甲を右のたなごころにたたきつけて、「以上の三つの線のどれかに、この事件の解決がひそんでいる」といった。その声には力強さがはっきりあらわれていた。右手をきつく握りしめ、人差し指だけを突き出して、その拳を高くかかげ、徐々に下ろしてきて、スペードの胸と水平になったところでぴたっと止めていった。「そしてきみの情報さえ入手できれは、三つの線のどれがそれだかが判明するのだ」
スペードは気乗り薄の口調で、「そんなものですかね」と応じた。憂鬱そうな顔つきだった。下唇に指を触れ、その指を眺め、それから、その指で、首筋を掻いた。じりじりするように額にしわをよせて、鼻からふとい息を吹き出すと、不機嫌そうな声で、「ぼくの情報が、あんたの気に入るとは思えませんね、ブライアンさん」といった。「あんたたちの役には立ちそうにない。せっかく作りあげた博徒復讐|譚《たん》の筋書がぶちこわしになってしまいますぜ」
ブライアンは坐り直して、肩をいからした。あらあらしくはないが、きびしい声で、「それを判断するのは裁判官の役目で、サミュエル・スペード氏は判事でなかった。そして、この捜査方針が正しいか誤っているかはまだ不明だが、とにかくわたしは地方検事なんだ」
スペードは犬歯をむき出して、「きょうの会談は、非公式なものだと思っていたが、ちがいましたか」といった。
「わたしは一日二十四時間、法を守るのを任務とする立場にある」とブライアン地方検事がいった。「公式、非公式を問わず、きみが犯罪の証拠を握っているのを知りながら、その不提出を黙認するのは許されない。もちろん例外の場合はあるが――」と意味ありげにうなずいて、「それは憲法上の理由のあるときにかぎられる」
「というのは、ぼく自身に訴追の危険が生じる場合ですか?」スペードが訊いた。声は平静で、むしろおもしろがっているようでもあったが、顔の表情は真剣だった。「だが、ぼくにはもっと有効な理由があるんです。ぼくみたいな商売の人間にはもっと重宝な、と言い直してもよろしい。つまり、ぼくの依頼人には、ある程度は自分の秘密を守る権利があたえられている。大陪審や検死審にひっぱり出されたら、しゃべらぬわけにもいきますまいが、まだいまのところ、そのどちらの法廷からも召喚令状が出てはいないので、そのときがくるまでは、だれになんといわれようが、依頼人の私事を吹聴する気持にはなれませんよ。それにまた、あんたがたと警察とが、先夜のふたつの殺人事件に関係ありと見て、ぼくを追いまわしているのも判っている。もっともこれは、こんどが初めてではなくて、以前にも迷惑をこうむったことがあるので、このトラブルから抜け出すには、犯人たちをひっくくって、突き出す以外に方法がないと考えている。そして彼らをひっくくって、突き出すための唯一の道は、地方検事局や警察から遠ざかっていることだ。なぜって、あんたがたや警察の連中は、この事件の性質をまったく誤解して、見当ちがいの捜査方針をとっているからです」彼は立ちあがって、速記者を肩越しに見て、話しかけた。「いまのおれの言葉、書きとれたかね? それともしゃべり方が速すぎたかな」
速記者はびっくりしたような目でスペードを見て、「いいえ、大丈夫です。ちゃんと書きとりました」と答えた。
「ほう、そうか。よくやってくれた」といってから、スペードはブライアン地方検事にふり向いて、「公務妨害の理由で、公安委員会にぼくの営業許可の取消しを要請したいんなら、遠慮なくやってもらいますよ。以前にもあんたはそれをやって、いい笑いものになるだけで終わりましたっけね」
「ちょっと待ってくれ。わたしは何も――」
ブライアンがいいかけたが、スペードはきっぱりいってのけた。「これがあんたのいう非公式な会談なら、これくらいで打ち切らせてもらいますよ。あんたにも警察にも、話して聞かすことは何もないし、頭のおかしな市のお役人たちと、これ以上やりあう気持になれないんでね。この顔をまた見たくなったら、逮捕令状なり召喚令状なりを出したらいいでしょう。そのときは弁護士同伴で出頭しますよ」そして帽子を頭に載せて、「たぶんこんどは、検死審でお会いするんでしょうな」といい捨てると、大股に部屋を出ていった。
十六 第三の殺人
スペードはサッター・ホテルへ行って、アレグザンドリア・ホテルへ電話した。グトマンはいなかった。彼の一行は全員が出はらっていたのだ。スペードはつづいて、ベルヴィディア・ホテルへ電話したが、カイロもやはり不在で、その日はぜんぜん姿を見かけぬとのことだった。
スペードは事務所にもどった。
外側の事務室に、派手な服装をして色の浅ぐろい、脂ぎった顔の男が待っていた。エフィ・ペリンがその男をさして、「この方がお会いになりたいのだそうです、ミスター・スペード」といった。
スペードは微笑を浮かべて会釈をして、奥の個室のドアを開き、「おはいりください」といった。そして、彼のあとから個室にはいるに先立って、「例の件のニュースがはいったか?」とエフィ・ペリンに訊いた。
「なかったわ」
色の浅ぐろい男は、マーケット・ストリートの映画館主だった。会計係のひとりとドアマンが共謀して、入場料をごまかしているようだという。スペードはせきたてるようにして話を聞きとり、調査を引き受け、五十ドルを請求して受けとり、三十分とたたぬうちに依頼者を送り出した。
興行師が出ていって、廊下に面したドアが閉まると、エフィ・ペリンが奥の個室にはいってきた。彼女は心配そうに日焼けのした顔を曇らせて、「彼女、まだ見つからないの?」と質問した。
スペードは首をふって、指の先でかるく、傷ついたこめかみをさすった。
「傷はどうなの?」
「大丈夫だが、頭がひどく痛むよ」
彼女は彼の背後にまわって、彼の手を下ろさせ、そのこめかみをほっそりした指でさすってやった。スペードは椅子の背ごしに頭を彼女の胸にもたせかけて、「きみは天使だよ」といった。
彼女は頭を前にかがめて、彼の顔をのぞきこみ、「サム、早く見つけ出してほしいわ。もう一日以上になるので、あのひと――」
スペードは身動きをして、エフィの言葉をさえぎり、「そうしなければならぬ義務があるわけじゃないが、このいまいましい頭を少し休ませてくれたら、捜しに行ってくるよ」
「かわいそうな頭」彼女はつぶやいて、そのあと少しのあいだ、無言でこめかみをさすりつづけていたが、突然、訊いた。「彼女のいるところ、判っているの? 心当たりでもあるの?」
そのとき電話のベルが鳴った。スペードが受話器をとりあげていった。「もしもし……ああ、シド、無事にすみましたよ。ありがとう……いや……むろん彼、気障《きざ》な文句を並べ立てたが、こっちも負けずにいい返した……あの男、この事件をやくざの喧嘩か何かだと、夢みたいなことを考えている……キスをして別れるというわけにはいかなかった。タンカをきって引き揚げてきたんで、この後始末はあんたに任せます……そうです、そうです。じゃ、また」彼は受話器をおくと、ふたたび椅子の背にもたれかかった。
エフィ・ペリンが背後から彼の横手に出てきて、「あのひとがどこにいるのか、心当たりがあるの?」と、さっきの質問を繰り返した。
「いまいるところはべつとして、きのう、どこへ行ったのかは知っている」と彼はうるさそうな口調で答えた。
「それ、どこなの?」エフィは興奮してきた。
「きみが燃えているのを見た船だ」
彼女は茶色の目を白目《しろめ》ばかりになるほど見開いて、「じゃ、あなた、あそこへ行ってみたのね」といったが、それは質問ではなかった。
「いや、行きはしないよ」スペードが答えた。
「サム――」エフィは腹が立ったように大声を出した。「だったら、あのひと――」
「あの女は自分で出かけていったんだ」スペードは不機嫌そうな声でいった。「連れていかれたわけじゃない。あの船が入港したのを知って、きみの家へ行くのをとりやめ、あの船へ向かった。おれにどうすることもできやしない。いいかね、エフィ。おれは依頼者のあとを追いまわして、仕事をさせてもらえませんかとか、頭を下げて歩くような男じゃないんだぜ」
「だけど、サム、あの船が燃えているって、知らせてあげたじゃないの!」
「あのときは正午で、昼飯をポルハウスといっしょに食う約束があったし、そのすぐあとには、ブライアンと会うことになっていた」
エフィは彼を睨みつけるようにして、「サム・スペード!」といった。「あなたってひとは、自分の都合しだいで、この世でいちばん卑劣な人間に成り下がれるのね。あのひとが、あなたに打ち明けないで何かをしたというだけで、危険が彼女にせまっているのを知りながら、こんなところに坐りこんで動こうともしない。そのあいだにあのひとは――」
スペードの顔に血の気が射した。そしてかたくなに言い張った。「あの女には、自分の身を守るぐらいの力はある。助けが必要になって、助けてもらう気になれば、どこへ行けば助けてもらえるかも心得ている」
「いやがらせだわ!」エフィは叫んだ。「みんな、あなたのいやがらせよ。あのひとがあなたに話さないで、自分ひとりの考えで行動したのを根に持って、腹を立てているのね。仕方がないじゃないの。あなただって、彼女に隠しだてをしなかったわけじゃなし、全面的に信頼しろといったって、無理なはなしよ」
スペードは、「もうたくさんだ」といった。
彼のはげしい語調に、彼女の興奮した目にちらっと不安の色が浮かんだが、頭をぐっとあげると、その色は消えていた。口をひき緊めて、「サム、いますぐあなたが行ってくれないのなら、あたしが行くわ。警察のひとたちといっしょに……」彼女の声は震え、途切れがちに、そしてかぼそく、泣き声になって、「ねえ、サム! 行って!」と訴えた。
スペードは口小言をいいながらも立ちあがって、「仕様がないな。ここできみにぎゃあぎゃあいわれているより、出かけたほうが頭が休まる」と、時計を見て、「きみは事務所を閉めて、帰っていいぜ」といった。
「あたし、帰らないわ。あなたがもどってくるまで、ここで待っているわ」
スペードはいった。「好きなようにするさ」そして帽子をかぶったが、顔をしかめ、また帽子をぬいで手に持ち、部屋を出ていった。
その一時間半後の五時二十分すぎに、スペードがもどってきた。明るい表情だった。部屋にはいるなり、「あいかわらず気むずかしい顔をしているな、エフィ」といった。
「あたしが?」
「そうだ、きみがだ」彼はエフィ・ペリンの鼻の先を指で押してから、両手を彼女の肘の下にあてがって、かるがると持ちあげ、顎にキスをした。そして床に下ろして、「おれがいないあいだに、何かあったか?」と訊いた。
「ルーク――たしかそんな名前だったわ――ベルヴィディア・ホテルのひとが電話で、カイロがもどってきたって教えてくれたわ。三十分ほど前のことよ」
スペードは口をぎゅっと結んで、くるりふり向くと、ドアへ歩きだした。
「彼女を見つけてくれたの?」エフィが背後に声をかけた。
「その件は、もどってきてから話す」スペードは立ちどまりもしないで答えると、いそいで事務所を出ていった。
事務所を出て十分後には、スペードを乗せたタクシーがベルヴィディア・ホテルに到着した。ホテルの探偵が首をふりふり、苦笑しながらスペードを迎えて、「十五分おそかったな」といった。「きみの鳥は飛び立ってしまったよ」
スペードは不運を呪った。
「支払いをすませ――荷物を持って、出ていった」ルークがいった。そして、チョッキのポケットからぼろぼろの手帳をとり出して、親指を舐《な》めてページをめくり、開いたところをスペードにさし出して、「これが彼を運んだタクシーのナンバーだ。きみのために写しとっておいた」といった。
「そいつは助かる」スペードはそのナンバーを封筒の裏に書き写して、「郵便物の転送先は?」と訊いた。
「それはいわなかった。大きなスーツケースを提《さ》げて帰ってくると、いきなり部屋へ行って、荷物を詰めて降りてきた。支払いをすませ、タクシーを呼んで、行ってしまったんだ。行く先を運転手にいっておったが、ほかの者には聞こえなかった」
「例のトランクはどうした」
ルークは口をぽかんとあけて、「おっと、しまった!」といった。「忘れてたよ。いっしょにきてくれ」
ふたりはカイロの部屋へ行った。トランクはおいたままだった。蓋はしまっているが、鍵をかけてなかった。開いてみると、からだった。
ルークがいった。「なんてこった!」
スペードは何もいわなかった。
スペードは事務所にもどった。エフィ・ペリンが結果を問いたげに、彼の顔を見上げた。
「逃がしてしまったよ」スペードは愚痴のようにいって、個室へはいっていった。
エフィもあとからついてきた。スペードは椅子にかけて、タバコを巻きはじめた。エフィは彼の前のデスクに臀を載せ、スペードの椅子のすみに靴の先をおいて、「ミス・オショーニシーはどうなったのよ?」といった。
「彼女もまた、とり逃がした」彼は答えた。「だが、あそこへ行ってたことは確かだ」
「ラ・パロマ号船に?」
「≪号≫と≪船≫をくっつけるのはくどすぎるぜ」
「学校教師みたいな細かいことをいわないでよ。まじめに話して、サム!」
スペードはタバコに火をつけて、ライターをポケットにしまいこむと、彼女の脚をかるくたたいて、「そうだ。ラ・パロマ号にだ」と語りだした。「彼女はきのうの正午少しすぎ、あの船へ行ったのだ」と、眉を寄せ、「つまりそれは、フェリー・ビルの前でタクシーを下りると、その足でまっすぐ船へ向かったことになる。ほんのふたつか三つ先の桟橋だからね。船長は船にいなかった。ジャコビという名の船長だが、彼女は名指しでたずねていった。船長は用事で山手まで出かけていた。ということは、彼女の訪問を――少なくともその時間には――予期していなかったわけだ。彼女は四時まで船長の帰船を待って、その後ふたりは夕食の時間まで、船長室で話しあい、食事もいっしょにとった」
スペードはタバコを深く吸いこみ、煙を吐き出し、顔を横に向けて、唇についた黄色いタバコを吹きとばしてから、ふたたび話を進めた。
「食事がすんだところで、ジャコビ船長は三名の訪問客を迎えた。ひとりはグトマンで、ひとりはカイロ、そしてもうひとりは、きのう、きみにグトマンの言伝《ことづけ》を届けた若僧だ。この三人がブリジッドがまだいるあいだにやってきて、以上の五人は船長室で長いこと話しあっていた。どんな内容の話合いかは、船員たちに聞いてみたが要領を得なかった。だが、そのうちに言い争いになった様子で、十一時ごろに船長室で銃声がとどろいた。当直の船員がとんで行くと、船長が部屋の外に待ちかまえていて、心配するようなことじゃないと追い返した。実際、船長室の壁のすみに新しい弾痕が残っていた。だが、かなり高い位置なんで、人間に当たった銃弾ではなさそうだ。おれに判ったかぎりでは、銃声はその一発だけだったようだ。もっとも、おれに判ったかぎりといっても、その程度のことで、詳しい様子は不明なんだ」
スペードは顔をしかめて、またタバコの煙を大きく吸いこみ、話をつづけた。
「そうこうするうちに、夜中の十二時ごろ、彼ら全員が――船長と四人の訪問客がだ――みんな揃って、船を下りていった。五人ともちゃんと歩いていて、怪我人はなかったらしい。以上のことを当直の船員から聞き出した。まだほかにも、昨夜は税関の役人が調査にきていたんだが、この連中はまだつかまえられない。話はだいたいこんなところで、船長はあれ以来帰船していない。きょうの正午に、船主の代理人と打合せの予定だったが、その約束も守らなかったし、火事が起きたのを知らせたくても、居どころの見当もつかない始末だ」
「で、あの火事は?」エフィが訊いた。
スペードは肩をすくめて、「判らんね。けさおそく、後部船艙が火を噴いているのを発見したのだが、燃えだしたのは、きのうのうちらしい。無事に消しとめはしたが、被害は大きい。もっとも、その点はだれもしゃべりたがらない。船長がもどってきていないからだ」
そのとき、廊下に面したドアの開く音がしたので、スペードは口をつぐみ、エフィ・ペリンはデスクからとび降りた。彼女が事務室とのさかいのドアを開けにいくより早く、ひとりの男がはいってきた。
「スペード君はおられるか?」男が訊いた。
それを聞くと、スペードは思わず坐り直して、椅子のなかで身構えをした。しわがれ声が苦痛にかすれて、喉の奥で鳴るごぼごぼいう音に掻き消されて聞きとれなかった。
エフィ・ペリンが怯えて、男の前からとびのいた。
彼は戸口に突っ立ったままだった。かぶっている帽子がドアの上がまちに押しつぶされている。七フィートにちかい長身に、鞘《さや》のように細長く仕立てた黒い外套を着て、ボタンを喉もとから膝まできちんとかけているので、痩躯《そうく》がいっそうきわだって見える。骨ばった肩を突き出して、日焼けの痕の濃いごつごつした顔が歳月のしわを深く刻み、湿った砂のような色を見せ、そして頬から顎にかけて汗にぐっしょり濡れていた。目は暗く血走り、垂れ気味の下まぶたの裏にのぞくピンク色の粘膜が狂人めいた印象をあたえ、黒い袖口から突き出ている黄ばんだ皮膚の手が、胸の左側に細紐でくくった茶色の紙包みをしっかり抱きしめている――楕円形をした、アメリカン・フットボールのボールよりやや大きめのものだった。
長身の男は戸口に突っ立ったままで、スペードの姿が目にはいった様子もなかった。「あのう――」といいかけたが、喉の奥のごぼごぼいう音で、あとの言葉はかき消された。そして、左手で抱えた楕円形の紙包みの上に右手をあてがったと見たとたん、直立した姿勢なりに、枯木のようにうつぶせに倒れかかった。手はふたつとも紙包みを抱えたままで、それを伸ばして身を支えようともしないのだった。
スペードは木彫りの面のような無表情の顔で、椅子からすばやくとび出すと、倒れかかる男を抱きとめた。その瞬間、男の口が開いて、血が少しとび散った。黄色の紙包みも男の手を離れて、床をころがり、デスクの脚にぶつかってとまった。そして同時に、男の膝が曲がり、腰がくだけ、鞘のような外套に包まれた痩せた長身がぐったり、スペードの腕にもたれかかってきたので、スペードは支えきれなくなった。
スペードは相手をそっと床に下ろして、左側を下に横たえさせた。男の目が暗く血走っているのに変わりはないが、狂気じみた光はすでになく、大きく見開かれたままで動かなかった。口は血を吐いたときの形に開いたままだが、もはや血の流れ出る様子もなくて、横たえられた床と同じに微動もしなかった。
スペードは、「ドアに鍵を!」といった。
エフィ・ペリンが歯をがちがち鳴らしながら、廊下に向かうドアに鍵をかけているあいだ、スペードは痩せた男を仰向けにして、その横に膝をつき、手を外套のなかにさし入れた。その手をぬき出してみると、血に染まっていた。
血まみれの手を見ても、スペードの表情は少しも変わらなかった。その手をどこにも触れさせぬように高くかかげたまま、もう一方の手でポケットからライターをとり出した。そしてライターの火を燃えあがらせ、その炎を痩せた男の目に近づけたが、どちらの目も、まぶた、眼球、虹彩、瞳孔、すべて凍りついたように動かなかった。
スペードはライターの火を消して、ポケットにしまうと、膝をついたまま死人の横側に移動して、汚れていないほうの手で、筒のような外套のボタンをはずし、前をひろげた。外套の内側は血に濡れて、その下の青い上着が血だらけだった。胸の上で交差しているダブルの上着のラベルのすぐ下に、血に濡れてけばだった穴がいくつかあいていた。
スペードは立ちあがって、事務室の洗面台へ向かった。
顔蒼ざめたエフィ・ペリンががたがた震えながら、片手でドアのノブを握り、背中をドアのガラスに押しつけることで、かろうじてからだを支えていたが、「あのひと――あの――?」と小さな声で訊いた。
「そうだ。胸を撃ちこまれて、長い距離を歩けるものでない。ひょっとしたら、あの男――ああ! もう少し生きていて、何かいってくれたら事情が判ったのに――」彼は渋面をエフィに向け、もう一度手を洗って、タオルをとりあげ、「いいか、エフィ、気をしっかり持っていてくれよ。こんなときに、吐き気がするなんていいだされたら、どうしようもないからな」そしてタオルを投げ出すと、指で頭髪をひっかいて、「とにかく、あの紙包みを調べてみよう」といった。
スペードは個室にもどって、死人の脚をまたいで、茶色の紙包みをとりあげた。その重さを感じとると、彼の目がかがやいた。それをデスクの上におき、ひっくり返して、紐の結び目を上にした。堅く結んであったので、ポケットナイフで紐を切りはじめた。
エフィはドアを離れて、死人に顔をそむけながら、スペードのそばに歩みより、デスクのすみに両手をついて、彼の動作を見守った。スペードの手が紐をほどいて、茶色の包み紙をとりのけにかかると、吐き気を抑えていた顔に興奮の色があらわれた。「例の物かしら?」と彼女が低い声でいった。
「もうすぐ判る」スペードはいいながら、ふとい指をせわしなく動かして、茶色の包み紙の下にあらわれた、三枚重ねのざらざらした灰色の紙をはがしにかかった。顔はこわばって無表情だが、目がきらめいていた。灰色の紙をとりのぞくと、カンナ屑を卵形にかためたものが出てきた。彼の指がカンナ屑をかき落とすと、そこにあらわれたのは、一フィートほどの高さの鳥の彫像だった。石炭のように漆黒にかがやき、その光輝はカンナ屑やおが屑にも妨げられていなかった。
スペードは声をあげて笑い、片手を鳥の上におき、大きくひろげた五本の指で、しっかり握りしめた。そしてもう一方の手をエフィの腰にまわして、そのからだをぎゅっとひき寄せ、「おれの天使、問題の品をとうとう手に入れたぞ」といった。
「痛いわ!」彼女がいった。「怪我をさせないでよ!」
スペードは彼女から手を離して、両手で黒い鳥を持ちあげ、こびりついているカンナ屑を払いのけた。それから、それを捧げたまま、一歩退がって、ほこりを吹きはらい、勝ち誇ったような目で、あらためて眺めやった。
エフィ・ペリンが恐怖の目で悲鳴をあげ、彼の足もとを指さした。
そこへ目をやると、一歩退がったとき、左足の靴の踵が死人の手に触れて、たなごころの肉を四分の一インチほど踏んづけていたのだ。スペードはいそいで足をひっこめた。
そのとき電話のベルが鳴った。
スペードはエフィをうながした。彼女はデスクに向き直って、受話器を耳にあてがった。「もし、もし……ええ、そうです……どなたですか?……ええ、そうですわ!」エフィは目を見開いて、「ええ……ええ……そのままお待ちになって……」そして急に、恐怖に怯えたように叫びだした。「もしもし! もしもし! もしもし!」受話器のフックをはげしく上下させて、「もしもし! もしもし!」と二回叫んだ。それからすすり泣きながら、そばに寄ってきているスペードを見て、「ミス・オショーニシーよ」と、興奮した声で叫んだ。「あなたの助けが要《い》るんだって! いま、アレグザンドリア・ホテルで――危険な目にあっているのよ。声で判るわ――恐ろしいことよ、サム!――話の途中で、何かあったようなの。早く、救けに行って、サム!」
スペードは鷹をデスクの上において、困ったように顔をしかめ、「それより先に、この男の始末をつけねばならぬよ」と、床に横たわる痩せた男の死体を親指でさした。
エフィは両の拳でスペードの胸をたたいて、叫びつづけた。「だめ、だめ!――早く救けに行かなくちゃ! 判るじゃないの、サム。この男は彼女の物を持って、あなたに渡しにきたのだわ。彼女に味方したばかりに殺されたのよ。こんどは彼女の番――早く行ってあげなくちゃ、あのひと、殺されちゃうわ!」
「判ったよ」スペードはエフィを押しのけ、デスクの上にかがみこみ、黒い鳥をもう一度カンナ屑のなかにもどし、紙でくるんだ。急いだので、前よりは大きな、不格好な包みになった。「おれが出て行ったら、すぐ警察に電話するんだ。起きたことをそのまま話す。ただし、人名はいっさい出すんじゃない。何も知らないで押しとおす。おれは電話で呼び出されて出ていったが、行く先はいわなかったといっておくがいい」そして、紐がもつれているのに苛立って、ぐっとひっぱり、紙包みをしばりはじめた。「もちろん、この品のことは警察に内緒だ。起きたことをありのままに話すが、この男が紙包みを持ってきたことだけはいうのじゃない」そして、下唇を咬んで、「もっとも、彼らがこの品のことで、きみを問い詰めにかからなければだよ。彼らが知っているようなら、隠しおおせるものではないが、そんなことはまずあるまい。だが、万が一知っていると思えたら、おれが包みを開けないで、そのまま持って出ていったと説明する」しゃべっているうちに、彼は紐を結び終えて、左腕に抱え、からだを起こした。「判ったろうな、おれの注意が。要するに、警察には起きたことをありのままに話すが、彼らがすでに知っていないかぎり、この品には触れないことだ。ただし訊かれたら、否定するんじゃない――きみのほうから進んでいいださないだけだ。それから、電話に出たのはおれで――きみじゃない。きみはまた、この男に関係のありそうな人間については何も知らない。この男がだれなのかはもちろん知らぬし、おれの仕事の内容は、おれが帰ってくるまで話すわけにいかないといっておけばいい。判ったね」
「ええ、判ったわ、サム。でも、だれなの、このひと?――あなた、知ってるの?」
彼は狼のように歯をむき出して笑い、「うーん」とうなって、「だが、見当はついている。たぶん、ラ・パロマ号のジャコビ船長だろう」彼は帽子をとりあげて、頭に載せた。死人をじっと見つめ、室内を見まわした。
「急いでね、サム」エフィが訴えた。
「判っている」スペードはうわの空でいった。「急ぐよ。警察の連中が来る前に、床のカンナ屑を片付けておいたほうがいいぜ。それから、シドに連絡しておく。いや、そうじゃない」と、顎をこすりながら考えて、「ここしばらくはシドまで乗り出させぬほうがよさそうだ。そのほうが実際らしく見える。警察の連中が来るまでは、ドアに鍵をかけておくんだぜ」そして、顎をこすっていた手でエフィの頬を撫でた。「きみはまったく、いい子だよ」といって、出て行った。
十七 土曜日の夜
スぺードは紙包みをかるがると小わきに抱えて、足早に裏通りや狭い路地を抜け、たえず周囲に目を配りながら、カーニー・ストリートからポスト・ストリートに出ると、走ってくるタクシーを呼びとめた。
タクシーが彼を五番街のピックウィック・ステージ・バスのターミナルに運んだ。スペードはそこの手荷物預り所に鳥の包みを預けた。預り証を切手を貼った封筒に入れて、『M・F・ホランド』という宛名とサンフランシスコ中央郵便局の私書箱番号を書き、封をして、郵便ポストに投げ入れた。それからターミナルを出て、新しいタクシーを呼びとめ、アレグザンドリア・ホテルへ向かった。
続き部屋一二号Cのドアをノックすると、二度目のノックで、ドアが開いた。開けたのは小柄な金髪少女で、光沢のある黄色のドレッシング・ガウンを着て、顔が青ざめ、うつろな表情で、両方の手がノブを握りしめることで、かろうじて身を支えている。あえぐような声で、「スペードさん?」と訊いた。
スペードはそうだと答えて、倒れそうになる少女をあわてて抱きとめた。
彼の腕のなかで、少女のからだが弓なりになり、頭をうしろに反らしたので、短い金髪が垂れ下がり、ほっそりした喉もとが、顎から胸にかけて緊張したカーブを描いた。
スペードは支えていた腕をすべらして少女の頭を持ちあげ、もうひとつの腕を膝の下にさし入れ、抱きあげようとしたが、少女はもがいてそれを拒み、動きのにぶった唇から、聞きとりにくい言葉を洩らした。「いや! ママ!」
スペードは少女を歩かせた。ドアを足で閉めてから、緑色の絨毯の上にふらふらする少女を支えて、壁から壁まで歩かせた。片腕を少女のかぼそいからだにまわして腕の下にさし入れ、もうひとつの手で彼女の別の腕をつかみ、のめりがちなからだを直立させ、左右に揺れるのを押さえて、たえず前方に進ませ、よろめく足に全身の重みをかけさせるように仕向けた。ふたりは部屋のなかを繰り返し往復した。少女が脚をもつらせてころびかけても、スペードは彼の足指に力をこめて、バランスを保ってやった。少女の顔はチョークのように青ざめ、目がうつろの状態だが、スペードはむっつりした表情で、油断のない視線を四方に走らせていた。
彼は単調な声で、少女にいった。「そう、そう。その調子で、左、右、左、右。その調子だ。ワン、ツー、スリー、フォー。ワン、ツー、スリー、フォー。さあ、ぐるっとまわって」彼は少女をゆさぶって、壁の前で向きを変えさせ、「もう一度だ。ワン、ツー、スリー、フォー。頸をあげて。その調子。いい子だ。左、右、左、右。さあ、もう一度、向きを変えて」と、またも彼女をゆすぶり、「うまい、うまい。歩く、歩く、歩く、歩く。ワン、ツー、スリー、フォー。さあ、ぐるりとまわって」前よりも強くゆすって、歩調を速めさせ、「それでいい。左、右、左、右。なるべく速く。ワン、ツー、スリー……」
少女はからだを震わせて、唾をごくんとのみこんだ。スペードは彼女の腕と横腹をさすってやり、耳へ口を近づけ、「いい調子だ。きみはよくやる。ワン、ツー、スリー、フォー。もっと速く、もっと速く、もっと速く。それでいい。ステップ、ステップ、ステップ。足をあげて、こんどは下ろして。その調子だ。さあ、向きを変えて。左、右、左、右……で、きみ、何をされたんだ? 薬を飲まされたんだろう? おれが飲まされたのと同じやつを?」
スペードのその言葉に、少女の鈍い金茶色の目の上でまぶたがぴくっと動いて、たどたどしい物言いで、「ええ、そうなの」と答えたようだが、語尾はかすれて聞きとれなかった。
ふたりはさらに歩きつづけた。いまは少女もおぼつかない足どりながら、スペードと歩調を合わせることができた。スペードは両手を使って、黄色い絹のガウンの上から彼女のからだをたたいたり、さすったりして、筋肉をほぐすことに努め、鋭い目をあたりに配りながらも、たえまなく話しかけるのをやめなかった。「左、右、左、右、左、右。ほら、そこでまわって。うまい、うまい。ワン、ツー、スリー、フォー。ワン、ツー、スリー、フォー。顎をあげて。その調子で。ワン、ツー……」
またも彼女のまぶたが一インチの何分の一か上がって、その下の目が弱々しく左右に動いた。
「いい調子だぞ」スペードの言葉は単調さが消えて、きびきびした声に変わっていた。「目を開いて! 大きく開けて――大きくだ!」と、彼女のからだを強くゆすぶった。
少女は逆らうようにうめいたが、まぶたは前より上がった。しかし、その下の目はまだ生気がない。スペードは彼女の頬を、立てつづけに五、六回たたいた。彼女がうめき声をあげて、平手打ちから逃れようとすると、彼の手がしっかり押さえて、さらに壁から壁へと歩かせた。
「足をとめるのじゃない」彼はあらあらしい声で命令してから、「きみはだれなんだ?」と質問した。
「リーア・グトマン」いぜんとして声がもつれるが、こんどは聞きとれた。
「娘さんだね?」
「ええ」語尾のかすれもなくなっていた。
「ブリジッドはどこにいる?」
少女はスペードの腕のなかで痙攣的に身をよじって、両手で彼の手につかみかかった。スペードはすばやく手をひっこめ、見ると、その手の甲に、一インチ半かそこらの細長いひっかき傷ができていた。
「なんだ、これは?」スペードはうめいて、彼女の両手を調べた。左手はからだったが、右手を無理に開かせると、三インチほどの長さの、頭に翡翠がついた鋼鉄ピンが握られていた。「なんだ、これは?」スペードは同じ言葉を繰り返して、とりあげた鋼鉄ピンを彼女の目の前に突きつけた。
少女はピンを見ると、しくしく泣きだして、ドレッシング・ガウンの前を開いた。さらにその下に着ているクリーム色のパジャマの上着をはだけて、左の乳の下を見せた。白い肌に、細い赤い線と小さな赤い点が縦横に刻まれていて、鋼鉄ピンでひっかき、突ついたのが明白だった。「あ、あなたが来るまで……眠らないでいようと……歩いたりして……きっと来るって……あのひとがいうので……長かったわ」少女はぐらり、よろめいた。
スペードは、彼女を抱く腕に力をこめて、「歩くんだ」といった。
少女はさからって、腕のなかでもう一度身をよじり、彼に顔を向けると、「もうだめ……眠っちゃうわ……あのひとを救けて……」
「ブリジッドのことか?」スペードは訊いた。
「そうよ……連れていかれたの……バー……バーリンゲイム……アンコの二十六……急いで……もうおそいかも……」彼女の頭が肩に垂れた。
スペードはその頭を押しあげて、「連れていったのはだれだ? きみのパパか?」
「ええ……ウィルマー……カイロ」彼女は身もだえして、まぶたを痙攣させたが、思うように開かなかった。「……殺されちゃうわ」頭がまた垂れた。スペードがまた押しあげた。
「ジャコビを撃ったのはだれだ?」
彼女にはその質問が聞こえなかったようだ。頭をもちあげ、目を開こうと、痛ましい努力をつづけて、「早く……あのひと……」と、つぶやくようにいった。
スペードは手荒く彼女のからだをゆすって、「医者が来るまで、眠るんじゃない」といった。
恐怖が少女の目を開かせ、少しのあいだ、彼女の顔をおおう雲を追いのけた。「だめ、もうだめ」彼女は舌をもつらせながらも叫んだ。「パパに……殺される……いわないで、パパには……パパは知らないの……あたしがしゃべったのを……あのひとを救けようとしたのを……いわないって、約束して…‥眠っちゃうわ……だいじょうぶよ……朝になったら……」
スペードはもう一度少女をゆすって、「ほんとに大丈夫か? 眠ればこの薬は覚めるのか?」
「ええ、そうなの」頭がまた垂れた。
「きみのベッドはどこにある?」
少女は手をあげようとしたが、いまの彼女にはその力がなく、指は絨毯をさすだけだった。疲れきった小児のため息とともに、ぐったりした彼女の全身がくずおれた。
少女が床に倒れ落ちるのを、スペードの両腕があやうく食いとめ、つづいてかるがると抱きあげると、胸にしっかり押しあてて、三つのドアのうち、いちばん近いのに向かって歩きだした。不自由な手でノブをひねり、足で蹴とばして開くと、なかの通路に歩み入った。それはバス・ルームから寝室に通じている。バス・ルームのドアは開いたままなので、のぞいてみると、からだった。少女のからだを寝室に運んだ。そこもまたからだった。しかし、目に触れた衣類と化粧台の上の品々からして、あきらかに男の部屋だった。
スペードは少女を抱いたまま、緑色の絨毯を敷いた部屋にもどって、反対側のドアを開けてみた。そこにもまた通路があって、やはりからのバス・ルームの前をすぎて、もうひとつの寝室に通じていた。こんどは調度品から見て、女性用の寝室であるのがまちがいなかった。彼はベッド・カバーをめくって、少女を横たえ、上履きをぬがせ、さらに彼女を少し持ちあげ、黄色のドレッシング・ガウンをぬがせると、頭の下に枕をあてがって、掛けぶとんをかけてやった。
それから、部屋のふたつの窓を開いて、それに背を向けて立ち、眠りこんでしまった少女を見つめた。寝息は重苦しいが、乱れてはいなかった。彼は顔をしかめ、唇をぎゅっと結んで、部屋のなかを見まわした。たそがれの色が濃くなって、室内は薄暗かった。彼は薄れゆく光のなかに五分間ほど立っていたが、分厚い撫で肩をひとゆすりすると、いそぎ足に続き部屋を歩み出た。外側のドアには鍵をかけないで……。
スペードはその足でパウエル・ストリートのパシフィック電話電信会社の支局へ行って、ダヴンポートの二〇二〇番を呼び出した。
「救急病院につないでくれたまえ……もしもし、救急病院ですか。アレグザンドリア・ホテルの一二号C室に麻薬を飲まされた少女がいます……ええ、そうです。至急、診に来てくれると助かるんですが……こちらはアレグザンドリア・ホテルのフーパーです」
受話器をおくと、スペードは笑い声を立てた。そしてつづいて、別のナンバーを呼び出した。「もしもし、フランクか。サム・スペードだよ……車を一台、借りたいんだ。運転手つきのやつだ。運転手は口の堅いのにかぎる……半島の先まで行ってほしい……二時間ぐらいの距離だろう……ああ、それでけっこう。エリス・ストリートのジョンの店で待っている。できるだけ早くだぜ」
彼はつぎに、もうひとつの番号――彼自身の事務所のナンバーを呼び出して、少しのあいだ受話器を耳にあてがったまま無言でいてから、受話器をフックにもどした。
つぎにジョンの食堂へ行って、ポーク・チョップとべークド・ポテトとトマトを注文し、大いそぎで食べ終わり、コーヒーを前にしてタバコをすっていると、格子縞の縁無し帽を斜めにかぶって、目が青く、元気そうな顔つきの、がっしりした体躯の若い男がはいってきて、彼のテーブルに近づいた。
「スペードさんですね? 車の準備ができました。ガソリンは満タンにしてあります。いつでも出かけられますぜ」
「そいつはありがたい」スペードはコーヒーを飲みほして、がっしりした若者といっしょに外へ出た。「バーリンゲイムのアンコを知ってるか? アヴェニューだか、ロードだか、ブールヴァードだか知らないが、とにかくアンコなんとかだ」
「知りませんな。だけど、行ってみたら判りますよ」
「じゃ、出かけよう」スペードは黒のキャディラック・セダンの助手席に乗りこんだ。「番地は二十六だ。急げるだけ急いでくれ。だが、いきなり玄関先に乗りつけるんじゃないぜ」
「判りましたよ」
五、六ブロックは無言で走ったが、運転手がしゃべりだした。「相棒のダンナが殺《や》られたそうですね、スペードさん」
「ああ、そうなんだ」
運転手は痛ましそうに、「ダンナがたのご商売も大へんですね、あたしなら、いやだ」
「まあ、そんなものだが、ハイヤーの運転手にしたって、未来|永劫《えいごう》生きられるものじゃあるまい」
「おっしゃるとおりで」がっしりした体躯の若者はうなずいたが、「それでもあたしは、やっぱりいやだな」といった。
それからのスペードは何を見るわけでもなく前方へ目をやったまま、運転手が話しかけるのを諦めるまで、イエスとかノーとか気のない返事以上のことはいわなかった。
バーリンゲイムの町にはいると、運転手はドラッグストアで、アンコ・アヴェニューへの道を聞いた。「偶数番地は右側のはずですから、二十六番地なら三軒目か四軒目の家でしょう」
スペードは「よし!」といって、車を降りた。「エンジンをかけっぱなしにしておいてくれ。いそいで逃げ出すことになるかもしれないからな」
彼は道路を横切って、向こう側に渡った。ずっと前方に、ぽつんとひとつ街灯がともっている。この街筋は両側とも、一ブロックのあいだを五、六軒の家が占めているにすぎないが、その窓々からのあたたかい光が夜の道路に点々とし、空高くかかる細い月は遠い街灯と同様に、冷たく力弱い光を放ち、向こう側の家の開け放した窓からのラジオの音がものうげなひびきを鳴らしていた。
角から二軒目の家の前で、スペードは足をとめた。垣根のわりにはりっぱすぎる門柱が立っていて、それに打ちつけた金属板が薄明かりを受けて、≪2≫と≪6≫の数字を浮きあがらせていた。そしてその番地板の上には真四角な白い厚紙が釘づけにしてある。顔を近づけると、『売・貸家』と読みとれた。二本の門柱のあいだには門扉がなかった。スペードはコンクリートの小径を踏んで家に近づき、ポーチのステップの下で立ちどまり、かなりのあいだ建物を眺めていた。なんの物音も聞こえてこない。家のなかは真っ暗で、玄関の扉にも、門柱と同じ厚紙が釘でとめてあった。
スペードは玄関扉の前に立って、耳を澄ましたが、屋内には物音がなかった。玄関扉のガラスを透して覗いてみても、目をさえぎるカーテンはないのに、なかが真っ暗なので何も見えなかった。彼は爪先立ちで、窓をひとつずつ覗いてまわった。それも玄関扉と同様、カーテンはないが、内部は暗闇だった。窓をふたつ押してみたが、鍵がかかっていた。玄関扉も同じだった。
彼はポーチから降りて、勝手を知らぬ暗い地所だけに慎重な足どりで、生い茂る雑草を踏んで建物をひとまわりしてみた。横手の窓はどれも高い位置にあって、地面からは手が届かなかった。裏口のドアはもちろん、そして窓のひとつは手の届く高さにあるのだが、これにも鍵がかかっていた。
スペードは門柱のところに引き返し、ライターの火を両手でかこって、『売・貸家』を照らしてみた。それには、サン・マテオ市の不動産業者の名前と所在地が印刷してあり、『鍵は三十一番地にあります』との一行が、青鉛筆で書きこんであった。
スペードはセダン車にもどって、運転手に、「懐中電灯を持っているか?」と訊いた。
「ありますとも」運転手は答えて、それを渡してよこしながら、いった。「なんなら、手伝いますぜ」
「そうしてもらうことになろうが」とスペードは車に乗りこみ、「それより先に、三十一番地へやってくれ。ライトをつけてもいいぜ」といった。
三十一番地は、そこからさらに少し進んだところの、道路の向こう側にある四角い灰色の家で、階下の窓に燈火がかがやいていた。スペードがポーチにのぼって、ベルを押すと、十四、五歳の黒い髪の少女がドアを開けた。スペードは頭を下げて、笑顔でいった。「二十六番地の空家の鍵を借りたいのだが」
「パパを呼んでくるわ」少女は家の奥にひっこんで、大声で、「パパ!」と呼んだ。
禿げ頭にふとい口髭の、赤ら顔で肥った男が、新聞を手にあらわれた。
スペードが繰り返していった。
「二十六番地の空家の鍵を拝借したいんです」
肥った男は怪訝そうな顔つきになった。「電気が切ってあるんで、夜じゃ何も見えませんぜ」
スペードはポケットをたたいて見せて、「懐中電灯を持っています」
肥った男はいっそう怪しむような表情で、落ち着きのない咳払いをしながら、手に持った新聞を握りつぶした。
スペードは営業用の名刺を見せて、すぐにポケットにもどすと、低い声で、「あの家にある品が隠してあると聞き込んだのでね」といった。
肥った男の顔と声が真剣なものに変わった。「ちょっとお待ちになって。あたしもいっしょに行きますよ」
男はすぐに、黒と赤の札のついた真鍮の鍵を手にもどってきた。車のそばを通りながらスペードが合図をしたので、運転手も仲間に加わった。
「最近、あの家を見にきた者がいますか?」と、スペードが訊いた。
「あたしの知るかぎりじゃいませんな」肥った男が鍵を手に先に立っていたが、そこで彼は、「はい、鍵はこれで」とスペードの手に押しつけ、うしろへ退がった。
スペードは鍵を使って玄関扉を押しあけた。なかは静寂と暗闇だった。スペードは懐中電灯を――ともさずに――左手に持って、屋内に踏み入った。若い運転手がすぐそのあとにつづき、少し離れて肥った男がついてきた。三人は家のなかをくまなく見てまわった。初めは用心しながら、そして怪しいものが何もいないと判ると、大胆な行動に移った。それは――まちがいなく――空家で、この数週間、人の出入りした形跡を示すものは何もなかった。
「ご苦労だった。これで終わりだよ」スペードはいいながら、アレグザンドリア・ホテルの前で車を降りた。ホテルにはいって、フロントのデスクに歩みよると、長身で謹直そうな顔をした若い黒人のクラークが、「こんばんは、スペードさん」と挨拶した。
「やあ、こんばんは」スペードは挨拶を返してから、若いクラークをデスクの端へひっぱっていって、「グトマン家の連中――一二号Cの客たちだよ――いま、部屋にいるかね?」と訊いた。
若い男は、「いいえ」と答えて、すばやく視線をスペードの顔に走らせた。そして、その顔をそむけ、少しもじもじしてから、もう一度スペードの顔を見て、「あのお部屋にからんで、おかしなことが起きたのです」としゃべりだした。「きょうの夕方、救急病院へ電話して、あのお部屋で娘さんが急病だと知らせた者がいるんです」
「で、救急車が来てみたら、病人はいなかった?」
「ええ、そのとおりで。部屋にはだれもいないんです。みなさん、夕方早くにお出かけになっていたのです」
スペードはいった。「よくあるやつだ。世間にはいたずら電話を道楽にしてるやつもいるのさ」
彼は電話ボックスにはいって、ナンバーを呼び出し、「もしもし……ペリン夫人ですか?……エフィはいますか?……ええ、呼んでください……お願いします。
やあ、おれの天使! いいニュースはないか?……ほう、それはよかった! もう少し待っていてくれ。二十分もしたら、そこへ行くから……大丈夫だ」
その三十分後、スペードは九番街にある煉瓦造りの二階家のベルを押していた。エフィ・ペリンがドアを開けた。
男の子のような顔が疲れを見せながらもほほえんでいた。
「いらっしゃい、所長さん。どうぞ、おはいりになって」と他人行儀にいってから、声を低めて、「ママが何かいっても、気にしないでね、サム。ママったら、すっかり興奮しちゃって」と注意した。
スペードはにやにやしながら、心得たというように、彼女の肩をかるくたたいた。
エフィは男の腕に両手をおいて、「ミス・オショーニシーは?」と訊いた。
「会えなかった」スペードは不機嫌に答えた。「一杯くわされたんだ。彼女の声にまちがいなかったか?」
「まちがいないわよ」
彼はいよいよ不快な顔になって、「ところが、芝居だった」
彼女はスペードを電灯の明るい居間に導き、ため息とともにソファのはしに腰を下ろした。そして、疲労の目立つ顔に微笑を浮かべて、彼を見上げた。
スペードはそのそばに腰かけて、「万事、無事に行ったのか? 紙包みのことには触れずにすんだか?」と訊いた。
「ええ、何もいわなかったわ。あなたにいわれたとおりにしゃべっていたら、あの電話が事件に関係しているにちがいない、だからサムが急いで出ていったんだって、あの連中、思いこんでしまったのよ」
「ダンディも来ていたのか?」
「いいえ。来たのはホフとオガー、それからあたしの知らない男が何人か。署長にも会ったわ」
「署に連れていかれたのか?」
「ええ、そうなの。もの凄い質問攻めだったわ。でも、それがみんな、通りいっぺんの質問ばかりなのよ」
スペードは手をこすりあわせて、「よくやった」と、賞めておいてから、眉をよせて、「そのかわり、やつら、おれと会うまでに、おれを攻め立てる材料をしこたま仕込んでおくだろう。あらぬことまで考え出してだ。どっちみちダンディはそういう男だ。それにブライアンも」彼は肩をゆすって、「警察の連中のほかに、だれか来なかったか?」と訊いた。
「来たわ」彼女は坐り直して、「あの若い男――グトマンの使いできた男が来ていたの。なかまでははいって来なかったけど、警察の人たちが調べているあいだ、ドアが開けっぱなしになっていたので、廊下に立っているのが見えてたわ」
「きみはあの若僧のことを、警察のやつらには何もいわなかったろうね?」
「ええ、もちろんいわないわ。あなたに注意されてたからよ。あたしは見て見ないふりをしていて、つぎに見たときは、いなかったわ」
スペードはにやにやしながらエフィを見て、「警察の連中が先にやってきたのが、きみにとっては幸運だったのさ」
「どういう意味なの?」
「あの若僧は悪党だ。毒薬よりも危険なやつだ。で、死んだ男はジャコビだったか?」
「そうよ」
スペードは彼女の両手を握って、立ちあがった。「おれは帰らなけりゃならん。きみはぐっすり眠ることだ。ひどく疲れているはずだからな」
エフィも立ちあがって、「サム、これはいったい――?」
スペードはそういう彼女の口を手で押さえて、「その話は月曜日までお預けだ」といった。「それよりおれには、ここを無事に抜け出るのが重大問題だ。きみのママにつかまって、彼女の可愛い小羊を泥まみれにしたと、こづきまわされないうちにだ」
スペードがアパートにもどったのは、十二時を少しすぎたころだった。彼が入口のドアに鍵をさし入れると、背後の歩道にせわしない靴音が聞こえた。鍵をそのままにしてふり返ると、ブリジッド・オショーニシーがステップを駆けのぼってきた。そして、スペードに両腕ですがりついて、あえぎあえぎ、「帰って来ないのかと思ってたわ!」といった。顔は憔悴してとり乱し、頭から足の先まで震えていた。
スペードは彼女を支えていないほうの手で鍵をまわし、ドアを開くと、彼女を抱きあげるようにして、なかへ引き入れ、「よほど待ったのか?」と訊いた。
「ええ」はげしいあえぎに、彼女は声も途切れがちに答えた。「向こうのビルの――入口で」
「大丈夫か?」彼は訊いた。「抱いて行ってやろうか?」
彼女は男の肩にもたせた首をふって、「大丈夫よ――どこか――坐れるところへ――行けたら」
ふたりはエレベーターで、スペードの部屋の階にのぼって、部屋にはいった。彼が鍵でドアを開けているのを、彼女はそのそばに立って、両手で胸を抑え、あえぎながら待っていた。彼は通路の電灯のスイッチをひねって、ドアを閉め、ふたたび彼女を抱きかかえるようにして、居間に連れていった。そして、居間のドアにあと一歩のところまで来たとき、居間の電灯がいきなりともった。
彼女は悲鳴をあげて、スペードにしがみついた。
居間のドアのすぐ内側に、肥った男のグトマンがふたりを迎えるように、愛想笑いを浮かべて立っていた。ふたりの背後のキチンから、若者ウィルマーが、その小さな手には大きすぎるくらいの黒い拳銃二挺を持って出てきた。カイロはバス・ルームからあらわれた。彼もまた拳銃を手にしている。
グトマンがいった。「ご覧のとおり、われわれ全員、顔を揃えています。さあ、なかへはいって、腰を落ち着け、ゆっくりくつろいで、話しあいましょう」
十八 いけにえの山羊
スペードは両腕でブリジッド・オショーニシーを抱きかかえたまま、彼女の頭越しにちらっと微笑を見せて、「いいとも。話し合おう」といった。
グトマンはよたよたした足どりで、ドアから三歩退がった。その顔面の球根がぶるんぶるんと揺れた。
スペードとブリジッドがいっしょに室内にはいると、そのあとに若者とカイロがつづいた。カイロは戸口に立ちどまったが、若者は拳銃の一挺を収《しま》って、スペードのすぐ背後に近づいた。
スペードは首をまわして、肩越しに若者を見下ろして、「あっちへ行ってろ。おれのからだに触るんじゃないぞ」といった。
「うるせえ! 黙って立ってろ」若者もいい返した。
スペードの小鼻が、息づかいにつれてぴくぴく動いたが、声は平静だった。「近寄るんじゃないぞ。きさまの指が、ちょっとでもおれに触れてみろ、そのガンを使う羽目になるぞ。話合いの終わらぬうちに、おれを撃っていいものか、きさまのボスに訊いてみろ」
「ほっておけ、ウィルマー」肥った男が制止した。そして、スペードにふり向き、おおような苦笑を見せて、「あなたはまったく片意地なお方ですな。では、椅子に落ち着きましょう」
スペードはいった。「おれは前にも、このチンピラが大嫌いだといっておいた」そしてプリジッド・オショーニシーを窓ぎわのソファへ導いて、ぴったりくっついて腰を下ろした。彼女は頭を彼の左肩にもたせかけ、彼は左の腕を彼女の両肩にまわした。いまは彼女の震えも、あえぎも止まっていた。グトマンとその仲間の出現で、彼女は動物的な動きと感情の自由を失って、生き物の意識はあるものの、植物のように無活動な存在に変わっていた。
グトマンはクッション付きの揺り椅子に腰を下ろし、カイロはテーブルのそばの椅子を選んだ。若者のウィルマーだけが突っ立ったまま、さっきカイロが立っていた戸口で、拳銃の一挺をわきにぶら下げ、反りかえったまつげの下から、スペードの動きを見張っていた。カイロは拳銃をそばのテーブルの上においた。
スペードは帽子をぬいで、ソファの反対側の端に投げやると、グトマンに厭味《いやみ》たっぷりの笑顔を向けた。ゆるんだ下唇と垂れ気味の上まぶたとが、Vの字なりの彼の顔立ちと結びついて、その笑顔を牧羊神のそれのように淫らがましいものに見せていた。「あんたの娘はきれいな顔をしているな。あれをピンなんかでひっかくのはもったいない」
グトマンはうわべだけにせよ、にこやかな笑顔を見せた。
戸口に立った若者が、拳銃を尻のあたりまで持ちあげて、一歩前に出た。室内の全員が彼を見た。ブリジッド・オショーニシーとジョエル・カイロは、それぞれちがった意味で彼へ目をやったが、おかしなことに、その目が非難の色を示しているのが同じだった。若者は顔を赤らめて、進み出た足をひっこめると、その脚をまっすぐ伸ばした。
そして、拳銃を持つ手を下ろして、前と同じ姿勢をとり、長いまつげに隠された目で、スペードの胸を見つめた。顔を赤らめたのもほんの一瞬で、もとの青白さにもどっていたが、つねに冷たくとり澄ましている彼にしては、少しの間でも興奮の様子を示したのが異常だった。
グトマンは愛想笑いを浮かべた顔をもう一度スペードに向けて、猫撫で声でいった。「お恥ずかしいことでしたが、あれがわれわれの目的に役立ったことはお認めねがいます」
スペードの眉がびくっとひきつった。「なんに役立ったのか知らんが、おれは、鷹を手に入れたら、さっそくあんたと会うつもりでいた。現金払いのお客だから、当然のことだ。バーリンゲイムくんだりまで出かけて行ったのも、あんたと出会えるものと予期してのことだった。まさか、その三十分後に、おれを邪魔もの扱いして、こんな手を打つとは考えもしなかった。おれの先まわりをして、ジャコビをつかまえる狙いなんだろうが、そうは問屋がおろさんよ」
グトマンがくすくす笑った。その含み笑いは、満足感があふれているようだった。「やあ、スペードさん」と彼はいった。「いずれにせよ、ご希望どおり、われわれ全員が顔を合わせることになりました」
「さよう、さよう。これがおれの希望だった。で、いつ、頭金を支払って鷹を引き取るつもりかね?」
ブリジッド・オショーニシーがはっとした様子で、腰を浮かし、青い目を大きくみはってスペードを見た。彼は彼女の肩をうわの空でたたいただけで、目がグトマンに釘付けになっていた。グトマンの目は脂肪のふくらみのかげで、楽しげにまたたいていた。彼はいった。「そのことでしたら」といいながら、片手を上着の胸の内側にさし入れた。
カイロは両手を膝において、息をはずませながら、椅子のなかから上半身を乗り出した。黒い目がラッカーを塗ったようにきらめき、焦点を油断なく、スペードの顔からグトマンに、そしてグトマンの顔からスペードへと移動させていた。
グトマンはもう一度、「そのことでしたら」と繰り返し、胸の内ポケットから白い封筒をとり出した。十個の目が――若者の目だけは、長いまつげのかげに半ば隠されていたが――封筒にそそがれた。グトマンはぶよぶよした手で封筒をひっくり返し、何も書いてない表と裏をしばらくのあいだ眺めていた。封がしてなくて、垂れ蓋がなかへさしこんであった。首をあげて、にこやかにほほえみ、その封筒をスペードの膝へ投げやった。
封筒は分厚いものでなかったが、狙いどおりに飛ぶだけの重みがあった。スペードの胸の下のあたりにあたって、膝の上に落ちた。彼はゆっくり拾いあげ、女の肩から左腕をはずして、両方の手を使ってゆっくり開いた。封筒の中身は、しわのない、ビンとした、新しい千ドル紙幣だった。スペードはそれをとり出して、かぞえた。十枚あった。スペードは笑顔をあげて、おだやかな口調でいった。
「このあいだの話だと、もっと金額が大きかったが」
「そうでした」グトマンはうなずいて、「しかし、あれは話のうえのこと、これは現実のお金、この国の正真正銘の紙幣です。この一ドルのほうが、話のなかの十ドルよりも、もっとたくさんの品が買えますよ」そして顔の球根をゆるがして、声に出さない笑いを笑った。球根の揺れが鎮まると、まじめな口調に変わったが、本心までまじめであるとは保証のかぎりでなかった。「なにぶん、あの後になって、関係者が増えましたのでね」と、きらきら光る目と肥った顔でカイロをさし示し、「つまり、その、簡単にいうと、情況が変化したのです」
グトマンがしゃべっているあいだ、スペードは十枚の紙幣をきちんと揃えて、もとの封筒に入れ、垂れ蓋をなかへさしこんだ。そしていま、両腕を膝について、上半身を前こごみにし、封筒のはしを親指と人差し指でかるくつまみ、両脚のあいだにぶら下げた、彼の肥った男への返事は、「それはそうだ。そっちが手を組んだのは判っている。だが、鷹を持っているのはおれなんだぜ」と、無頓着そのものだった。
ジョエル・カイロが口を入れた。不格好な手で椅子の腕をつかみ、からだを乗り出して、例の甲高い細い声で、きちょうめんな言い方をした。「いまさらいうまでもないことですが、スペードさん。あなたはたしかに鷹を握っておられる。しかし、わたしたちはあなたを握っておるのですぞ」
スペードはにやり笑って、「おれはそんなことを気にしないことにしているんだ」というと、上体を起こし、封筒をソファの上において、グトマンに話しかけた。「謝礼金の件はあとまわしにして、最初に決めておかねばならぬ問題がある。おれたちには、|いけにえの山羊《スケープ・ゴート》が必要なんだ」
肥った男はその意味を理解しかねて、眉をひそめた。だが、彼が質問に移らぬうちに、スペードが説明をはじめた。
「警察は、犯人を必要としている。あの三つの殺人を犯した男を、だれだれだと確定しなければならぬ立場なのさ。だから、おれたちとしては――」
カイロが興奮した声をあげて、スペードの言葉をさえぎった。「ふたつですよ。スペードさん、殺人はふたつ――ただふたつだけで、あなたのお仲間を殺したのは、まちがいなくサーズビーです」
「なるほど。それなら、ふたつにしておこう」スペードは不機嫌な声でいった。「ふたつでも三つでも大したちがいはない。問題は、おれたちのおかれた立場からして、警察に餌をあてがってやることが――」
ここではじめて、グトマンが口を出した。自信ありげな微笑を浮かべ、おだやかな言い方ながら反駁《はんばく》を許さぬ気構えを見せて、
「スペードさん、これまでにあなたについて見たり聞いたりしたことから考えますと、これはわたしたちが頭を悩まさねばならぬ問題とは思えませんが、いかがでしょう? 警察の扱いは、あなたに任せておけばまちがいない。あなたとしても、わたしたちみたいな素人《しろうと》が手を貸すのを必要となさらぬはずです」
「そう考えているのなら」とスペードがいった。「いまの言葉と反対に、おれについては、ろくに見も聞きもしていないことになる」
「いいですかな、スペードさん。この段階になって、あなたの口から、おれは警察が怖いとか、彼らを扱う力なんかないとかいった言葉がとび出したところで、だれも信じはしませんよ」
スペードは喉と鼻を鳴らした。もう一度前こごみになり、両腕を膝におき、苛立つようにグトマンの言葉をさえぎって、「もちろんおれは、警察なんか怖くないし、彼らをどう扱ったらいいかを心得ている。だからこそ、これを言いだした。警察を操る要領は、すぐにとびついてくる餌をあてがってやることだ」
「なるほど。それもひとつの方法ですが、しかし――」
「何が、しかしだ!」スペードがいった。「方法はそれひとつしかない」興奮で赤く血の射した額の下で、両の目がぎらぎら熱を帯びて、こめかみの傷もレバーのような色になった。「おれはいいかげんなことをいってるのじゃない。いままでだってこの手を用いてきたし、これからも同じ方法で行くつもりだ。最高裁の連中を言い伏せねはならぬ場合もなんどかあったが、どうにかやってのけてきた。それというのも、いつか最後の審判の日が来るのを忘れたことがないからだ。忘れたことがないから、その日のための用意ができている。いよいよその日が来たら、いけにえの山羊を前に立たせて、警察本部に乗りこんでゆく。『さあ、あきめくらめ、犯人はこいつなんだ』といってだ。この手が使えるあいだは、どんな法律を持ち出されても、親指を鼻の頭にあてがい、ほかの四本の指をひらひらさせて見せられる。この事が使えなくなったときが、おれの商売の終わりの日だが、ありがたいことに、その日はまだやって来ていない。きょうがその日になるのはまっびらだ。おれのこの言葉に嘘はないんだぜ」
グトマンの目がまたたいて、その光沢にちらっと影が射したが、すぐにピンク色の球根がゆれて、得意然とした微笑で包み隠し、声にも不安の響きはなかった。
「たしかにけっこうなご方針です。いや、まったくで。もし、こんどもそれが実行できるのなら、わたしが真っ先に、ぜひその手でおねがいします、というところです。しかし、これはたまたま、その実行が不可能の場合なんです。どんなりっぱな方針にも例外を考慮しなけれはならぬときがあって、賢い人ほどそれを認めるのに躊躇しないのです。こんどの場合がまさにそれで、あえて言わせていただけば、あなたは例外を認めるかわりに、それにじゅうぶん見合うだけの報酬を入手なさるのです。もちろんそれは、いけにえの山羊を警察に引き渡して片をつけるより、少しは面倒なおもいをなさることになりましょうが、しかし――」と、彼は声をあげて笑い、両手をひろげて、「面倒なおもいといったところで、あなたはそんなものを苦になさるお方じゃない。どうしたらやってのけられるかを心得て、どんなことが起きようと、かならずそれを無事に切りぬけ、最後には報酬を手にほほえんでおられるにちがいありません」そして唇をすぼめ、片方の目を少しつぶってみせ、「あなたならまちがいなく、やってのけられますとも」と結んだ。
スペードの目の熱っぽさが消えていた。顔にも緊張の様子が失せて、気の抜けた感じがにじみ出ていた。「おれはいいかげんなことを言ってるんじゃない」声を低め、苛立つ気持を意識的に抑える口調で、「サンフランシスコはおれの街、これはおれの仕事だ。まちがいなくやってのけて見せる。だが、この仕事はだ。つぎの仕事は、そう調子よくいくともかぎらない。おれが欺《だま》しにかかったところで、やつらはひっかかってこないだろう。そこでおれも、残念ながらさっきの自慢をひっこめざるをえないのだ。癪《しゃく》にさわる話さ。そのころそっちは、ニューヨークか、コンスタンチノープルか、それともこんどはちがった土地か知らないが、どこかで、のうのうしていることだろうが、おれはここで探偵稼業をつづけなけりゃならんのだ」
「しかし、大丈夫ですよ」とグトマンがいった。「あなただったら――」
「いくらおれでも、そういつまでもつづけられるものじゃない」スペードははげしい語調でいった。「おれにはできぬし、やってみる気持もない。これ、本気でいってるんだぜ」そしてからだを起こして、坐り直した。ふたたび気の抜けた感じが消えて、明るい微笑が顔をかがやかし、説得するような力強い語調で、早口にしゃべりだした。「よく聞いてくれ、グトマン。この方法は、おれたち全員にとって、いちばんいいものなのだ。いまここで、いけにえの山羊を警察に引き渡さないと、彼らがおそかれ早かれ鷹《ファルコン》の情報をかぎつけるのは、十中の八九まちがいないことだ。そうなったら、かりにあんたたちが余所《よそ》の土地に移っていたにしても、やはり鷹を抱えて地下に潜らなければならなくなる。鷹を金に換えて、ひともうけしようなんて目算は、夢になってしまうのだ。しかし、いまここで、いけにえの山羊を引き渡せば、やつらはこの段階で手を引いてしまうはずだ」
「そこにやはり問題がありますな」グトマンが応えた。いまなお、その目にだけだが、不安の色がわずかながらあらわれていた。「彼らははたして手を引くでしょうか? そのいけにえの山羊なるものが、かえって新しい手掛かりになって、鷹についての情報を握られる結果になりはしないでしょうか? それよりも見方を変えて、現在のところ、彼らは手の打ちようがなくて静観している状態だから、われわれにとってのいちばんよい方法は、この状態をそのままつづけておくことだ、とは考えられんでしょうか?」
スペードの前額部の二またに分かれた静脈がふくれあがってきた。「ばかなことをいわんでくれ! それはこの問題をちっとも理解しない者のいうことだ」彼はそれでも、興奮を抑えた声でいった。「いいかね、グトマン。あの連中は眠っているわけじゃない。じっと辛抱して、チャンスをうかがっているだけだ。その点をよく理解してくれなくては困る。おれがこの事件に、頸までどっぷり漬《つか》っているのを、彼らはちゃんと承知している。いざというときに、おれに打つ手が残っているあいだは心配ないが、その手が失くなったら、どんなことになると思うのだ」スペードはそこでまた説教するような口調にもどって、「くどいようだが、グトマン、彼らにいけにえを引き渡すのは絶対に必要だ。それよりほかに、この窮地をぬけ出す方法はない。さあ、あの小僧っ子をくれてやろうじゃないか」そして彼は明るい笑顔で、顎を戸口に立っている若者へしゃくってみせて、「あの若僧が実際のところ、ふたりとも撃ち殺したのじゃないのか? サーズビーとジャコビをだよ。どっちみち、このいけにえの役はあいつにぴったりだ。必要な証拠を揃えて、彼らの手に引き渡そうじゃないか」
戸口に立っている若者は、口もとをひきつらせた。もっともそれは、かすかな徴笑だったのかもしれず、スペードの提案に、それ以上の反応を示す様子はなかった。ジョエル・カイロの浅黒い顔は、口をぽかんとあけ、黄色味を帯びた目を大きくみひらき、呆然としたままだった。口からは荒い息を吐き、女のような丸い胸をはげしく上下させて、スペードの顔を見つめていた。ブリジッド・オショーニシーはすでにスペードのそばから離れて、ソファの上でからだをよじることで、スペードの動きを目で追っているのだが、その顔には驚きと混乱の表情があらわれ、ヒステリックな笑い声をあげる寸前の状態だった。
グトマンはかなりのあいだ身動きひとつしないで、無表情をつづけていたが、やがて笑ってのけることに決めたものか、腹の底からの笑い声をあげ、それが長々と、光沢のある目に笑いが感染するまでつづいた。笑い声が止まると、彼はしゃべりだした。「驚き入りました。たしかにあなたは大した人物です!」そして、ポケットから白いハンカチをとり出して、その目を拭い、「こうしておられても、つぎの瞬間、何をいい出し、どんな行動をとられるか、まったく予測がつかない。それがかならず、呆然とさせられるものであることのほかはですな」
「何もおもしろがることでもないだろう」スペードは肥った男の笑い声に、腹を立てたでもなく動揺した様子もなく、かたくなではあるがいちおう理解力のある相手に言い聞かすような口ぶりでしゃべりつづけた。「これがおれたちの最上の賭けなんだ。あの小僧を警察の手に引き渡すことで、彼らはきっと――」
「しかし、スペードさん」と、グトマンは反対した。「ご理解いただきたいのですが、かりにあたしがその気になったにしても――いや、やめておきましょう。そんなことは考えるだけでもばかげています。あたしはあのウィルマーに、わが子同様の感情を抱いておるのです。それは実際のことで誇張ではありません。それにまた、かりにあたしがあなたの申し出に同意する気になったとして、警察に引き渡されたウィルマーが、鷹とわたしたち全員について、洗いざらいしゃべってしまわないと、だれが保証できるのでしょうか? それとも、彼の口を封じておく方法があるのでしょうか?」
スペードは唇をこわばらせた笑いを見せて、「彼の口を封じておく必要があるのなら」と、やんわりした口調でいった。「逮捕に抵抗したとの理由で、殺してしまうこともできる。だが、そこまでやってのけることもないだろう。しゃべりたいだけしゃべらせておけばいい。何をしゃべろうと、それをだれにも利用させるものか。その点はおれが引き受ける。やつらと話をつけるのは、なんの造作もないことだ」
グトマンの額のピンク色の肉のかたまりが動いて、渋面をかたちづくった。彼は首を垂れて、顎をカラーに押しつけていたが、ややあって、「どうやってです?」と訊いた。つづいて、突然、いたるところの肉の球根がはげしく揺れはじめ、たがいにぶつかりあったと見ていると、首をあげ、身をよじって、若者に目をやり、吠えたてるような大声で笑いだした。「おい、ウィルマー、これをどう思う? おまえだって、おかしいと思うだろう」
若者の目がまつげの下で、ハジカミ色の冷たい光を放った。そして、低いが、はっきりした声でいった。「ああ、とてもおかしい――あのばか野郎のいうことが」
スペードはブリジッド・オショーニシーに話しかけていた。「気分はどうだね? いくらかよくなったか?」
「ええ、もう大丈夫。でも――」そのあとの言葉を、二フィート離れた位置では聞きとれぬほど声を落として、「わたし、怖いわ」といった。
「怖がることはない」スペードは無造作にいってのけ、片手をグレーのストッキングをはいた彼女の膝の上において、「大したことになりっこないさ。何か飲むか?」といった。
「いいえ、いまはけっこう」そこでまた、声を落として、「でも、気をつけてね、サム」
スペードはうすら笑いを浮かべて、グトマンを見た。肥った男はさっきから、スペードの様子を眺めていた。おだやかな微笑を洩らすだけで、何もいわずにいたのだが、やっとまた、「どうやってです?」と、さっきの質問を繰り返した。
スペードには何を訊かれたのか判りかねて、「どうやってとは、何を?」と問いただした。
肥った男はもう一度高笑いをする必要を感じ、つづいて説明が必要と知って、「あなたがまじめなお気持で、この――さよう、この提案をですな――述べておられるのでしたら、終わりまでお聞きするのが、おたがいの礼儀というものでしょう。そこで質問したわけですが、ウィルマーが何をしゃべろうと、わたしたちに実害を及ぼさぬように話をつけるといわれたが」といってから、またも笑い声を聞かせたうえで、「どういう方法によるお考えなのでしょうか?」
スペードは首をふって、「聞いてくれなくてもいいんだ」と答えた。「おたがいかどうかは知らないが、おれには相手の礼儀なんぞを利用する気持はない。そのことにはこれ以上触れないでおいてもらいたい」
肥った男は額の球根を寄せ集めて、渋面をつくり、「まあ、まあ、お待ちください」と抗議をした。「訊くなとおっしゃられても当惑するだけです。あたしが笑ったのは、たしかに失礼でした。その点はくれぐれもお詫びいたします。しかし、ご提案を軽視したからの笑いではありません。たとえそれに不賛成であっても、あなたのご手腕に最大の敬意を払い、嘆賞を惜しまぬこのあたしが、ご提案を軽んじるなどありえぬことです。ただ、あたしには、ご提案が実行不可能なものに思えてならぬのです――あたしがウィルマーに、血と肉を分けた実の子同様の感情を抱いておる事実を除外してもですな――そこで、特別のご好意をもって、そしてまた、あたしの詫びをお認めねがえたしるしとして、話の先をお聞かせいただけたら、ありがたい仕合せなんですが」
「よくいってくれた。では、話そう」スペードがいった。「ブライアンは地方検事の見本みたいな男で、頭にあるのは報告書類に残る自分の成績だけなんだ。だから、決断しかねる事件に出あうと、なまじ起訴して失敗するよりも、捜査を打ち切ってしまうのが得策だと考える。彼がシロだと信じていながら、故意に犯人に仕立てあげた事実があるとはいわないが、犯行の証拠らしいものを掻き集め、起訴理由に持ちこめると見たが最後、犯人はこいつと決めこんで、それ以上の手間をかけようとはしない。したがって、主犯ひとりを公判廷に送りこむだけで満足して、主犯に劣らぬ共犯者が半ダースもいたにしても、これは放置して顧みない――この連中の有罪の立証にとりかかると、捜査が混乱してマイナスだからだ。
そういったわけで、いまここでおれたちが餌をあてがってやったら、彼はさっそく食いついて、鷹《ファルコン》のことなど知ろうとしないのだ。かりにあの小僧が鷹の件を持ち出したところで、すでにじゅうぶん満足しているブライアンは、事件を混乱させる狙いのでっちあげ話だと、無理にでも思いこもうとするだろう。それから先はおれに任せておいて大丈夫。ブライアンによく言っておく。関係者全部をひっくくるなどばかなことを考えだしたら、事件はこんがらがる一方で、陪審員の頭までが混乱することになる。だから、ここはあのチンピラひとりに絞っておくのが得策だ。有罪宣告に持ちこむぐらい造作ないことだと教えてやる」
グトマンは首を横にふり、おだやかな笑顔のうちに、やんわりと不同意の気持を示して、「だめでしょうな」といった。「あなたの狙いどおりにはいきますまい。この国の地方検事が、あなたのいうような連中ばかりだとしても、はっきりした証拠もないのに、サーズビーとジャコビのふたつの殺人事件を、ウィルマーひとりに結びつけて満足するとは思えませんよ」
「それは、地方検事がどんなものか知らない者の考え方だ」スペードは説得をつづけた。「サーズビーの件は簡単に成り立つ。彼はギャングで、あの若僧もおなじようなものだ。ブライアンは最初から博奕打ち仲間の線を追っている。だからこの線で納得させるのはわけないことだ。ところでだ! 裁判所があの若僧に絞首刑を宣告するのは一度だけだ。サーズビー殺しで死刑にしたやつを、ジャコビ殺しでまた公判にかけるわけがない。記録にそれを書き添えるだけで、片付けてしまうのさ。たぶんあいつは、両方の殺しにおなじガンを用いたんだろうから、銃弾はかならず合致する。そのことひとつで、やつがふたりとも殺《や》っつけたと、だれもが納得するんだよ」
「それはまあ、そうでしょうが、しかし――」とグトマンがいったが、すぐに言葉を切って、若者の顔を見た。
ウィルマーは戸口から進み出た。こわばった両脚を開いたままの格好で、グトマンとカイロのあいだ、だいたい部屋の中央まで歩みよると、そこで立ちどまって、腰から上を少し前こごみにし、両肩を正面に向けて突き出した。拳銃をあいかわらずからだの横にぶら下げているが、それを握りしめる指関節が青白く見え、もう一方の手は、小さな拳に固めて、反対側の横腹に押しつけていた。顔に少年らしさが残っているだけに、そこに浮かぶ白熱した憎悪と氷のように冷ややかな悪意が、不気味なほどの――非人間的とでもいうべきか――邪悪な感じをあたえていた。彼はスペードに、激情によるひきつった声でいった。「やい、てめえも立ちあがって、ガンをかまえたらどうなんだ!」
スペードは若者に笑顔を向けた。やんちゃ坊主をあしらうような――とまではいえぬにしても――この場の成行きをおもしろがっているのが明瞭だった。
若者がつづけていった。「度胸があったら、立ちあがって、ガンで勝負をつけてみろ。てめえの能書を我慢して聞いてやった。こんどはおれが言わせてもらうぞ」
スペードの笑顔のおもしろそうな様子がいよいよ深まって、グトマンにふり向くと、「とんだ西部のおあにいさんだ」といった。その声も微笑の顔同様に、このやりとりを楽しんでいるようだった。「だけど、取引がすんで、鷹がそっちの手に移らぬうちに、おれを撃ってはまずいぐらい教えておいたほうがいいんじゃないかな」
グトマンはほほえもうとしたが、思うように笑いが浮かんでこなくて、しみだらけの顔が渋面にゆがんだままだった。乾いた唇を乾いた舌で舐め、しゃべりだしはしたものの、声がしわがれ、砂のようにざらついて、わが子をさとす父親の口調とは遠く隔たったものだった。「待て、待て、ウィルマー」彼はいった。「そんなまねをするのじゃない。これはおまえが気にするような問題じゃない。おまえは――」
若者はスペードから目を離さずに、口のすみからむりに押し出すような声でいった。「だったら、この野郎を黙らせてくれ。あんなことをいわれたんじゃ、おれだっておとなしくしてはいられんよ。これ以上しゃべりつづけるんなら、横腹に風穴をあけてやる。だれがなんといったって、おれはこいつを撃ち殺してやるんだ!」
「待てといったら待たんか、ウィルマー」グトマンは若者を制止しておいてから、スペードに向き直った。顔も声も、ふたたび落ち着きをとりもどしていた。「最初に申しあげたように、あなたの計画は実際的でありません。その話はこれで打ち切りとしてもらいましょう」
スペードはふたりを交互に眺めやった。いまは彼の顔にも微笑が消えていた。表情そのものがなくなっているのだ。「言いたいことをいわせてもらうだけさ」彼はふたりにいった。
「それはそれでけっこうで」と、グトマンがいそいでいった。「そういうあなたを、あたしは感心していたのです。しかし、この問題については、はっきり言わせていただくと、まったく非実際的なご意見なので、これ以上話しあったところで、なんの意味もないことと考えます。それはあなたにもお判りのようにですが」
「いや、おれには判っていない」スペードはいった。「どこが無意味なんだ? その説明を聞かせてもらおう。といったところで、説明できるとも思わぬが」彼はグトマンにきびしい顔を見せて、「もっと率直に話しあおうじゃないか。おれは時間潰しにしゃべっているのじゃない。これはそっちの問題なんだぜ。それともこの話は、おれとこの小僧のあいだでつけたらいいのか? それならそれで、打つ手は承知しているぜ」
「いや、とんでもない」グトマンが答えた。「取引相手はあたしですから、このままおつづけください」
「では、つづけよう。第二の提案がある。第一のものほど良策じゃないが、何もしないよりはましのはずだ。聞く気があるかい?」
「もちろん、あります」
「カイロを引き渡すんだ」
カイロはあわてて、そばのテーブルから拳銃をとりあげた。
彼はそれを膝の上に、両手でしっかり握りしめた。その銃口はソファのはしからやや離れた床に向けられていた。顔がふたたび黄ばんで、スペードとグトマンとを交互に見る黒い目が光沢を失い、立体感のない平面的なものに変わっていた。
グトマンは聞かされた言葉が信じられないような顔つきで、「何をどうするんで?」と訊き直した。
「カイロを警察に引き渡すのだ」
グトマンは笑いだしそうな顔をしたが、けっきょく笑わなかった。そして大きな声で、「それはまた、意外な提案ですな!」と叫んだが、確信を欠いた口調だった。
「あの若僧を引き渡すほどいい案じゃない」スペードがいった。「カイロはギャングじゃないし、彼の持っているガンは、サーズビーとジャコビを撃ったのよりずっと小型だ。したがって、カイロを犯人に仕立てるのは骨が折れる。だが、警察にだれも引き渡さぬよりはましだろうよ」
カイロは憤慨して、甲高い叫びをあげた。「そんなに警察に引き渡す人間が必要なら、ミスター・スペードかミス・オショーニシーにしたらどうなんです? それでこのプランも成り立つでしょうに」
スペードはレヴァント人にほほえみかけ、平静な声で答えた。「きみたちは鷹が欲しい。その鷹はおれが握っている。いけにえの男も、おれが要求する報酬の一部なんだ。それから、ミス・オショーニシーのことだが」と、無感動な目を、当惑に青ざめている彼女の顔に向け、またカイロにもどし、肩を一インチほど上下させて、「彼女でもこの役割がつとまると、きみは実際に考えているのか? それならそれで、喜んで話合いに応じるぜ」
彼女は両手で喉を押さえて、頸を絞められたような叫びをあげ、スペードのそばから遠ざかった。
カイロは興奮のあまり、顔とからだをひきつらせて、わめき立てた。「あんたは判っていないのか? この部屋でピストルにかこまれて、何ひとつ主張できない身だってことを!」
スペードはせせら笑った。軽蔑しきった笑いだった。
グトマンが口を出した。強固な意志をやわらげて示そうとする口調で、「まあ、まあ、諸君。ことを荒らだてずに、もっと友好的に話し合うとしましょう」と、顔をスペードに向けて、「ミスター・カイロのいうことにも、一理あると思いますよ。あなたもそれを考慮に入れて――」
「いやなこった」スペードはその言葉を乱暴なくらいあっさりいってのけたので、声をはりあげたり、芝居のセリフめいたメリハリをつけるよりは、ずっしりした重みを感じさせた。「だいいち、おれを殺してしまって、鷹をどうやって手に入れるつもりなんだ? 鷹を渡してしまったあとなら知らず、おれは殺されっこないのを承知している。そのおれに脅しが利くと思うのは、頭がどうかしているんじゃないのか」
グトマンは首を左にかしげて、この問題を思案した。垂れたまぶたの下で目がまたたいていたが、やがてにこやかな顔つきにもどって答えた。「あなたのいわれるとおりで、殺したり殺すぞと脅すほかに、説得という方法がありますな」
「たしかにそうだ」スペードはうなずいて、「だがそれも、背後に死の脅威がひそんでいて、はじめて相手を屈伏させられる。そうでないことには、大して役に立つものじゃない。判るかね、おれのいう意味が? こっちの気に入らぬ方法を押しつけるのなら、おれはかならず抵抗する。こっちは鷹のおかげで殺されっこないのを承知しているんだから、要するにこれはそっちの問題だ。鷹をあきらめるか、おれを殺すかだな」
グトマンはくすくす笑いだして、「判りましたよ、おっしゃることの意味が」といった。「おっしゃるとおり、これはわれわれ両者によって、慎重な考慮を要するデリケートな問題です。とかく人間というものは、行動に熱中したとなると、利害関係を忘れてしまって、感情に押し流される傾向を避けがたいところがありますので」
スペードもまたおだやかな笑顔にもどって、「これがおれのいつもの手だ」といった。「相手に判ってもらえたら、それだけでおれの立場は強くなる。相手が興奮のあまり、損得の判断を無視して、おれを殺すみたいな無茶なまねをしなくなる、という意味なのさ」
グトマンは感じ入ったように、「いや、まったく、あなたというお方は大した人物です!」といった。
するとジョエル・カイロが急に椅子から立ちあがり、若者の背後をまわって、グトマンの椅子のうしろへ歩みよった。彼はその椅子に蔽いかぶさるようにして、自分の口と肥りた男の耳を、拳銃を持っていないほうの手でかこって、何ごとかをささやいた。グトマンは目を閉じて、注意深く聞いていた。
スペードはそれを見て、ブリジッド・オショーニシーににやり笑ってみせた。彼女もそれに応えて、唇にかすかな微笑を浮かべたが、目の真剣な色は変わらなかった。
ふたりは身動きもしないで、カイロとグトマンのささやきあう様子を見つめていた。それからスペードが若者にいった。「おい、若いの。あれを見たか? おまえの仲間ふたりが、おまえを売りに出す相談をしているんだぞ」
若者は何もいわなかった。膝の震えが、ズボンの上からでも見えはじめた。
スペードがグトマンに声をかけて、「ポケット版のチンピラやくざがふりまわすガンなんかにびくつかないほうがいいぜ」といった。
グトマンは閉じていた目を開き、カイロは耳打ちをやめて、肥った男の椅子のうしろに突っ立った。
スペードはいった。「このふたりからガンをとりあげるのは、すでに練習ずみだ。わけなくやってのけられるぜ。だいたいあの小僧は――」
そのとたん、激情に喉を詰まらせている若者が、腹の底から搾り出すような声で、「ようし、言ったな!」と叫ぶと、拳銃を胸の前にひきあげた。
グトマンが素早く肥った手を突き出して、若者の手首をつかみ、拳銃ごとひき下ろした。そしてそれと同時に、その肥ったからだが揺り椅子から立ちあがっていた。ジョエル・カイロも大いそぎで若者の反対側に駆けよって、そちら側の手にぶら下がった。ふたりがかりで押さえつけ、両腕をひき下ろそうとするので、若者の抵抗も力およばなかった。三者入りみだれてのもみあいと怒号のうちに、切れ切れの言葉だけが聞きとれた。若者のそれは、「は、放してくれ……ちくしょう……ぶっぱなすぞ!」グトマンは、「待てといったら待たんか、ウィルマー!」といくども繰り返し、カイロはカイロで、「やめるんだ、ウィルマー。むやみなことをしないでくれ!」と叫びつづけた。
スペードは木彫りの面さながらの無表情な顔に、夢でも見ているような目つきを変えずに、おもむろにソファから腰をあげると、もみあう三人に近づいていった。若者はのしかかってくる巨体の重量に抗しかねた様子で、もがくのをやめかけていたが、カイロはなおも若者の腕をつかんだまま、その少し斜め前に立って、何やらしきりに言いきかせている。スペードはカイロを静かに押しのけると、いきなり左の拳《こぶし》を若者の顎に叩きこんだ。両腕を押さえられている若者は、頭をうしろにのけぞらせ、打撃の力をまともに受けるのを避け、立ち向かう姿勢をとった。グトマンが驚いて、「そんな乱暴なことを――」と、必死にとめにかかったが、スペードは委細かまわず、こんどは右の拳で、二発目をぶちこんだ。
カイロが腕をつかんでいた手を離したので、若者はグトマンの太鼓腹の上にくずれ落ちた。カイロはスペードにとびかかって、両手のかたく曲げた指で、彼の顔をひっかいた。スペードはふとい息を吐いて、レヴァント人を突きとばしたが、彼はなおひるまず、ふたたびとびかかってきた。涙が目にあふれ、赤い唇が怒りに震え、何か叫ぼうとするらしいが、言葉にならなかった。
スペードは声をあげて笑い、「なかなかやるじゃないか!」というと、その頬に平手打ちを食わせた。カイロはテーブル前まですっとんだが、すぐに態勢を立て直して、三たびとびかかってきた。スペードは長い両腕を伸ばして、ひろげた両の手のひらを相手の顔にあてがい、その突進を阻《はば》んだ。カイロはその短い腕がスペードの顔に届かぬので、相手の腕をむやみやたらに叩いた。
「やめないか!」スペードはどなりつけた。「怪我をしないうちに、やめるんだ!」
「ちくしょう、卑怯者!」カイロは叫んで、やっとうしろへ退がった。
スペードは床の上に身をかがめて、まずカイロの拳銃を、つづいて若者のを拾いあげた。そしてからだを起こすと、二挺の拳銃を左手に持ち、人差し指を引き金にひっかけて、さかさまにぶら下げた。
グトマンは若者を揺り椅子に坐らせて、そのそばに立ち、心配そうな目で見下ろしていた。カイロは揺り椅子にいざり寄って、若者の力なく垂れた手の片方をさすりはじめた。
スペードは若者の顎を指で触れてみて、「骨にひびがはいったわけじゃないが、ソファに寝かしたほうがいいかもしれないな」というと、右腕を若者の腋の下にさし入れ、背中にまわし、左の前腕を膝の下にあてがい、かるがると抱きあげると、ソファへ運んでいった。
ブリジッド・オショーニシーがいそいで席をあけたので、スペードはその場所に若者を横たえさせた。そして右手で若者の腹を叩いて、もう一挺の拳銃を探しあてると、とり出して、左手にぶら下げた二挺の拳銃といっしょにして、ソファに背を向けた。それより早く、カイロが若者の頭のそばに腰を下ろしていた。
スペードは手にした三挺の拳銃をがちゃがちゃいわせながら、満足そうな笑顔をグトマンに向けて、「ここにおれたちのいけにえの山羊がいるじゃないか」といった。
グトマンの顔は灰色で、目が曇っていた。彼はスペードから目をそらして、床を見つめたまま、何もいわなかった。
スペードがいった。「こんなばかなまねを、二度とするんじゃない。おまえはカイロに耳打ちをさせ、おれが殴りつけているあいだ、この若僧を押さえつけていた。どうやら、おれのいうことを笑いとばせんのが判ったようだな。そんなまねをしたら、自分で自分の頸を絞めるようなものだってことがだ」
グトマンは絨毯を踏む足を動かしただけで、何もいわなかった。
スペードはつづけていった。「言葉を換えると、おれの申し出にいますぐイエスというか、それともおれがおまえたち全員を鷹もろとも警察へ突き出すかの、ふたつにひとつだとの結論なんだ」
グトマンは顔をあげて、噛みあわせた歯のあいだからの低い声で、「それは断わります」といった。
「ほう、いやか」スペードがいった。「では、どうする?」
肥った男は吐息を洩らして、顔をしかめ、つらそうな声で、「ウィルマーをさしあげます」と答えた。
スペードはいった。「いい返事を聞かせてくれた」と。
十九 ロシア人の手
若者はソファの上に仰向けに横たわっていた。小づくりなからだが見たところ――息をしているのを除けば――死体そっくりだった。ジョエル・カイロはそのそばに腰かけて、彼に蔽いかぶさるようにして、頬や手首をさすり、額に垂れた髪をかきあげてやり、低い声で話しかけ、蒼ざめて動かぬ顔を心配そうにのぞきこんでいた。
ブリジッド・オショーニシーはテーブルと壁の中間に、一方の手をテーブルにつき、もう一方の手を胸にあてがい、下唇を噛みしめて立っていた。スペードの目が向いていないときは、彼の椅子を盗み見し、目を向けられると、すぐに視線をカイロと若者に移した。
グトマンの顔は、すでに困惑の表情が消えて、もとのバラ色をとりもどしつつあった。両手をズボンのポケットに突っこんで、スペードと向きあい、ただ漠然と相手を見つめていた。
スペードは手にいっぱいの拳銃三挺を、なんの意味もなくがちゃがちゃいわせていたが、カイロの丸めた背中へ顎をしゃくって、グトマンに「この男は大丈夫なんだろうな?」と確かめた。
「さあ、どうでしょうかね」肥った男は澄ました顔で答えた。「その点は万事、あなたにお任せしたつもりでおるのです」
スペードはにやり笑った。Vの字なりの顎の線がいっそうきわ立って、彼は大声で、「おい、カイロ!」と呼びかけた。
レヴァント人は浅ぐろい顔を肩越しにふり向けた。
スペードがいった。「その若僧、少しのあいだ、そのまま眠らせておけ。どうせ警察へ突き出すんだ。やつが目をさます前に、おれたちは細かな点を打ち合わせておかねばならぬ」
カイロは突っかかるように、「これだけひどい目にあわせておきながら、まだ、警察に突き出すようなことをしなければいけないのですか?」といった。
「いけないね」スペードがあっさり答えた。
カイロはソファを離れて、肥った男に近づいていった。
「お願いです、グトマンさん」と哀訴した。「これでもう、残酷なことは打ち切ってくれませんか。あなただって――」
スペードはその言葉をさえぎって、「すでに決定したことだ。いまさらとやかく言うことはないだろう。それより問題は、きみ自身のこんごの方針だ。おれたちの仲間にはいるか、それともこの仕事から手をひくのか、はっきり決めてもらおう」
グトマンは笑顔を保っているものの、どことなくわびしげで、彼なりに思い悩んでいるとも見えたが、それでもうなずいてみせて、「あたしだって、こんなことは好まんよ」と、レヴァント人にいった。「しかし、こんな羽目になっては、ほかに方法がない。いやも応もないのだよ」
スペードが返事を促した。「どうする気なんだ、カイロ? 仲間にはいるか、手をひくか?」
カイロは唇を舐め、ゆっくりスペードにふり向き、「ということは――」とごくり唾を呑みこんで、「あたしに――その――どちらにするかを、選ばせてくれるのですか?」
「そうだ、選ばせるよ」スペードは真剣な顔でいった。
「だが、断わっておくが、返事が手をひくほうだったら、おれとグトマンの手で、あのボーイ・フレンドもろとも警察に引き渡すから、その覚悟でいるんだな」
「それはしかし、スペードさん」と、グトマンが抗議をした。「話がだいぶちがうようで――」
「冗談じゃない! いまさらこの男に勝手な動きをされていいものか」スペードがいった。「仲間にはいるか、それがいやなら、死んでもらうかのどちらかだ。宙ぶらりんの状態にしておくわけにはいかんのだ」と、きびしい顔をグトマンに向け、苛立つような口調でつづけた。「おまえらだって、きょうはじめて盗みを働いたわけであるまい。それにしては呆れた甘ちゃんばかりだ! いったい、これからどうするつもりだ――ひざまずいて、お祈りでもするのか?」そして彼は渋面をカイロに向け、おい、「どうなんだ? どっちをとるんだ?」と返事を促した。
「これでは、選ばせてくれるんじゃない」カイロは諦めたように、細い肩をすくめて、「仲間にはいりますよ」と答えた。
「それでいい」スペードはうなずいてから、グトマンとブリジッド・オショーニシーに目を向けて、「椅子にかけてくれ」といった。
彼女は、ソファの上に無意識のまま横たわっている若者の足のそばに、こわごわ腰を下ろした。グトマンはクッション付きの揺り椅子に、カイロは肘かけ椅子にもどった。スペードはテーブルの角に腰かけ、ぶら下げていた三挺の拳銃を尻のそばにおいた。そして、腕の時計を見て、「ちょうど二時だ。夜が明けなくては、鷹を持って来ることもできんよ。八時までは待たねばならんのだから、打ち合せの時間はたっぷりあるわけだ」
グトマンは咳ばらいをして、「それ、どこにおいてあります?」と訊いたが、いそいでつけくわえた。「そんなことはどうでもいい。いまあたしの頭にあるのは、この取引がすむまでは、あたしたち関係者の全部がばらばらにならないで、顔を揃えておるべきだということです」そしてソファへ目をやり、さらにスペードを鋭く見て、「さっきの封筒は、あなたがお持ちですな?」と問いただした。
スペードは首を横にふって、ソファを見、さらに彼女を見て、目でほほえみながら、「ミス・オショーニシーが持っている」といった。
「ええ。わたしが持っているわ」と彼女は、手を上着の内側にあてがって、「さっき拾って……」
「それでいいんだ。しっかり持っていてくれよ」スペードはいってから、グトマンに話しかけた。「おれたちは離れ離れになることはない。鷹はおれが、ちゃんとこの部屋に持ってこさせる」
「それで安心しました」グトマンはネコが喉を鳴らすような声でいって、「では、スペードさん、一万ドルとウィルマーとの引換えに、鷹と一、二時間の余裕をいただけるのですな――それであたしたちは、あなたがウィルマーを官憲の手に引き渡すとき、このサンフラソシスコにいなくてもすむというわけで……?」
「あわてて身を隠さんでも大丈夫だ」スペードがいった。
「心配するようなことはない」
「それはそうでしょう。しかし、ウィルマーがここの地方検事の尋問を受けるとき、あたしたちはこの町を遠ざかっていたほうがより安全ですからな」
「じゃ、好きなようにするがいい」スペードは答えた。「それが希望なら、ウィルマーをまるまる一日、この部屋においておくこともできる」と彼は、タバコを巻きはじめて、「細かい点を訊いておきたい。彼はなぜサーズビーを撃ったんだね? それから、ジャコビを撃ったのは、なぜ、どこで、どうやってなんだ?」
グトマンは大まかな笑いを浮かべ、首をふりふり、猫撫で声で、「やあ、スペードさん、そこまでお訊きにならんでもいいでしょう。金とウィルマーをお渡しした。それでこの取引のあたしたちの役割を果たしたわけです」
「いや、聞かせてもらう」スペードはいって、ライターの火をタバコへ近づけながら、「おれはいけにえの山羊を要求して、あの若僧を受けとったが、あいつが確実に送検されて、はじめて身代りに役立ったといえる。それには確実に、真相を知らせてもらわねばならんじゃないか」彼は眉根をよせて、「なにもこの場に臨んで、泣き言《ごと》を並べていることはあるまい。あの若僧に言い逃れの道が残されているかぎり、みんな、安閑としているわけにいかないんだぜ」
グトマンはからだを乗り出して、スペードが尻を載せているテーブルの上の拳銃三挺を、肥った指でさし示し、「これだけの証拠があれば大丈夫でしょう」といった。「ふたりとも、この三挺のうちのどれかで撃たれたんです。警察の専門家なら、ふたりを殺した銃弾がどの拳銃からのものなのか、簡単に決定してみせます。それはあなたもご承知のはずで、げんにさきほど、あなた自身がそういわれた。つまり有罪の証拠はこれだけでじゅうぶんだと思うのです」
「それはまあそうだが」スペードはいちおう同意して、「だが、この事件にはだいぶ複雑なところがある。実際に起きたことを知っておかないと、話のつじつまが合わなくなる怖れがある」
カイロが目を大きく見張り、そこに熱をこめて、「おかしいじゃないですか。あんたはさっき、こんな仕事は簡単にやってのけられると、請合ったはずですぞ。あの自信を忘れてしまったんですか」そしてその浅ぐろい顔をグトマンに向けて、興奮した口ぶりでいった。「判ったでしょう、あたしの言葉の正しかったことが! こんなことになると思ったから、およしなさいといったので、あたしの考えは――」
「そっちのふたりがどう考えようと、ちっとも変わりはないんだ」スペードはずけずけいってのけた。「いまさらとやかくいうのは手おくれだ。さあ、聞こうじゃないか。彼はなぜサーズビーを殺したんだ?」
グトマンは腹の上に指を組みあわせ、椅子をゆすった。その顔の微笑も声も、あきらかに後悔の色を示していた。「あなたくらい扱いにくいお方はありませんな。まったく手を焼きます。あなたを一枚咬ませたのがこちらのミスで、最初から係わり合いを持たなければよかったと思えてきましたよ。いや、とんだ失敗でした!」
スペードは無造作に手をふって、「なあに、失敗なんてものじゃない。監獄入りをしなくてすんだし、鷹まで手にはいることになった。これ以上のことを望むことはないだろう」そしてタバコを横ぐわえにして、くわえたままでいった。「それはともかく、現在おかれた立場を考えたら、素直にしゃべったほうが得じゃないかな。で、彼はなぜサーズビーを殺した?」
グトマンは椅子をゆするのをやめて、「サーズビーは名高い殺し屋で、ミス・オショーニシーの相棒でした。そこで、ああいった手段であの男を殺してしまえば、彼女の動きを封じることができるし、ひょっとしたら彼女も、あたしたちとの張合いをやめるのが最上の道だと思い直すかもしれぬと考えたわけです。それにまた、あんな乱暴者の用心棒をとり除いてやるのも、彼女のためにはいいことで……いかがです、スペードさん、これだけ率直にしゃべれば、ご満足でしょう?」
「さよう、さよう。その調子で頼む。だけど、鷹があの男の手にあるとは考えなかったのか?」
グトマンが首を横にふったので、たるんだ頬の肉がゆらゆらゆれた。「考えませんでしたな、ちっとも」と答え、またしてもおおような微笑を見せ、「あたしたちはミス・オショーニシーの動きを、じゅうぶん把握していましたからな。もちろん、そのときはまだ、彼女が香港でジャコビ船長に鷹を預け、パロマ号で当地へ持ってくるように依頼し、自分たちはスピードの速い船で、ひと足先に到着しているとまでは知りませんでした。しかし、それでもなお、彼と彼女のふたりのうち、どちらが鷹の所在を知ってるかとなると、それは当然彼女であって、サーズビーではないと考えていたのです」
スペードはなるほどといったようにうなずいて、さらに訊いた。「あの男を殺《や》っつけるに先立って、話合いで解決する方法を試みはしなかったのか?」
「やりましたとも。試みてみました。あの晩あたし自身が話しあったのです。その二日前に、ウィルマーが彼の居どころを探し出し、それからはずっと、どこでミス・オショーニシーと落ちあうかを突きとめようと、尾行をつづけていたのです。しかし、サーズビーという男は、そういうことにかけては最高に悪賢くて、見張られてると知ってか知らずか、尻っぽをつかまえられるようなへまをやらんのです。そこであの晩、ウィルマーが彼のホテルへ行ってみたところ、外出中なので、外で帰りを待っていました。思うにサーズビーは、あなたの同僚の方を殺《や》っつけたあと、まっすぐホテルへもどってきたのでしょう。それはともかく、ウィルマーは彼を、あたしのところへ連れてきました。しかし、彼との話合いは不調に終わりました。彼はあくまでもミス・オショーニシーに忠実で、気持を動かす様子をまったく見せません。で、ウィルマーが、また彼をホテルまで尾けていって、ああいう手段をとったというわけです」
スペードは少し考えてから、「話の筋は通っている。では、ジャコビの死だ」といった。
グトマンは真剣な目でスペードを見つめてから、きっぱりいった。「ジャコビ船長の死は、ミス・オショーニシーに責任があるといってまちがいありません」
彼女が「あっ」と叫んで、手で口を押さえた。
スペードはあわて騒ぐことなく、重みのある声でいった。「責任問題を訊いてるんじゃない。起きた事実を話せばいいのだ」
グトマンは意地の悪い視線をスペードに送って、にやっと笑い、「たしかに、おっしゃるとおりです」といってから、語りだした。「ご承知のように、カイロはあの晩、あたしと連絡をとりました。正確には、あたしのほうで来てもらったのです。彼があの夜――すでに夜は明けていましたが――警察から釈放されると、あたしのホテルへ来てくれて、話合いの末、協力したほうがたがいに有利だとの認識に到達したのです」そして、笑顔をレヴァント人に向け、「カイロ君は判断力がすぐれていて、パロマ号に目をつけたのもこのひとです。あの日の朝刊でその入港を知ると、寄港でジャコビ船長とミス・オショーニシーが会ったとの噂を耳にしたのを思い出したのです。それはカイロがあの土地で、彼女の所在を探し出そうとしていたときのことで、そのときの彼は彼女がパロマ号でアメリカへもどるための打ち合せだと考えたのですが、そうでなかったのをあとで知ったようなわけです。しかし、新聞紙の入港案内を読むと、すぐに真相を察しとりました。彼女がジャコビに依頼して、鷹を運ばせていたことをです。もちろんジャコビは、運んでいる品がなんであるかを知っていませんでした。その点ミス・オショーニシーは、驚くほど用心深い婦人なんです」
彼は笑顔で彼女を見やり、揺り椅子を二回ゆすってから、話の先をつづけた。
「カイロ君とウィルマーとあたしの三人が、ジャコビ船長をパロマ号に訪問したところ、都合よくミス・オショーニシーも来合わせていました。そこでの会談は、いろいろな意味で話がもつれましたが、けっきょくのところ、夜中の十二時近くなって、ミス・オショーニシーにこちらの条件を承知させることができました。もっとも、あたしたちがそう信じこまされただけかもしれませんがね。それはともかく合意に到達したので、全員が船を下りて、あたしのホテルに向かいました。そこであたしがミス・オショーニシーに代金を支払い、鷹を受けとるはずだったのです。ところがスペードさん、あたしたち男どもは、彼女と互角に太刀打ちできるなど、うぬぼれにすぎぬのを知るべきでした。ホテルまでの途中で、彼女とジャコビ船長は鷹もろとも、あたしたちの指のあいだからまんまとすべりぬけてしまったのです」グトマンは朗らかな笑い声をあげて、「スペードさん、まんまと彼女にしてやられましたよ」とつけくわえた。
スペードは彼女を見た。彼女もまた、黒い目を大きくみはって、哀訴するように彼を見た。スペードはグトマンに訊いた。「船を離れるにあたって、火をつけておいたのか?」
「とんでもない。わざとやったのではありません」肥った男が答えた。「もっとも、その責任はあたしたちに――少なくともウィルマーに――あるのでしょう。あたしたちが船室で話しあっているあいだに、ウィルマーが鷹を見つけようと探しまわっていたので、おそらくマッチの不始末だと思いますよ」
「いいことを聞いた」スペードがいった。「何かの手違いからあの小僧をジャコビ殺しで送検に持ちこまねばならなくなったら、放火の罪も背負わせてやれるというものだ。それはそれとして、殺しのほうはどうなった?」
「あたしたちは、彼女と船長を見つけようと、一日じゅう市内を駆けまわって、やっと今日の午後おそくなってから、彼らの行くえを突きとめました。初めのうちは探し出せる自信もなくてミス・オショーニシーのアパートを発見してやれやれと思っただけでしたが、ドアに耳を押しあててみると、室内に彼らが動きまわっている気配がするのです。そこで、これならつかまえられると自信をとりもどして、ドアのベルを鳴らしました。彼女が、どなたです? と訊くので、名前をいうと――これはドア越しの会話なんですが――窓をあける音が聞こえました。
もちろん、あたしたちにはその意味が判りました。そこでウィルマーが大いそぎで階下へ駆け降り、非常梯子を押さえるために、建物の裏手へまわりました。そして、裏の路地に出たところで、鷹を抱えて走り出てきたジャコビ船長と出っくわしました。むずかしい情況でしたが、ウィルマーは彼なりに適切な処置をとりました。ジャコビを撃ったのです――一度ならず、二度三度と。しかし、ジャコビもなかなかのつわ者で、弾が当たっても、倒れもしなければ、鷹を落とす様子もありません。しかも、ふたりは接近しすぎているので、ウィルマーには相手の反撃を避ける余地もないのです。ジャコビはウィルマーを殴り倒して逃げ去りました。午後おそくといっても、まだ日が高いのです。ウィルマーが起きあがってみると、下の街路から巡回の警官が近寄ってくるのです。ウィルマーは追跡を諦めざるをえませんでした。そして、コロネット・アパートの隣の建物の裏手のドアがあいていたので、そこへとびこみ、表通りへ出て、どうやら無事にあたしたちと合涜できました――この騒ぎをだれにも見とがめられずにすんだのが、幸運だったというべきでしょう。
そのようなわけで、またしてもしくじりました。ミス・オショーニシーはジャコビを逃がした窓を閉めてから、ドアをあけて、カイロ君とあたしを部屋に通しました。それから――」と彼はいいかけた言葉を切って、そのときの模様を思い出してか、にやにや笑いながら話をつづけた。
「それからのあたしたちは、ふたりがかりで彼女を説得して――ええ、強制はいっさいしていませんから。誤解なさらんようにねがいます――そして彼女の口から、ジャコビが鷹をあなたの事務所へ持っていったのを聞き出しました。あれだけ多くの銃弾を受けていて、かりに途中で警官に出会わなくても、あなたの事務所まで生きてたどりつけるとは考えられぬことですが、しかし、彼をつかまえるのが、あたしたちに残された最後のチャンスです。そこでもう一度ミス・オショーニシーを説得して、ちょっとした手助けをしてもらいました。つまり、なんといいますか、ジャコビが到着する前に、あなたを事務所から連れ出してしまう狙いで、電話をかけてもらったのです。一方、ウィルマーに船長のあとを追わせました。しかし、運の悪いことに、この手配の決定とミス・オショーニシーの説得に手間どったばかりに――」
そのとき、ソファの上の若者が呻き声をあげて、寝返りを打った。目をあけたり閉じたり、何回となく繰り返しているのだ。ブリジッドはあわてて立ち上がって、テーブルと壁のあいだに場所を移した。
「――彼女に協力してもらうのは成功しましたが」とグトマンがいそいで話を結んだ。「あたしたちが到着する前に、鷹はあなたの手にはいってしまったのです」
若者は片足を床につけ、肘をついてからだを起こした。目を大きくひらいて、もう一方の足を下ろして、腰かけ直すと、あたりを見まわした。そして、視線がスペードを捉えると、当惑の表情が消えた。
カイロが肘かけ椅子を離れて、若者に近づいていった。若者の肩に腕をまわして、何か話しかけたが、若者はその腕を払いのけて、すばやく立ちあがった。もう一度室内を見まわしてから、視線をスペードに据えた。顔がこわばり、からだが小さく見えるほどひき締まったようだった。
スペードはテーブルのはしに腰かけて、両足をぶらぶらさせながら、「いいか、小僧」といった。「おれに近寄って、ふざけたまねをしたら、その顔を蹴っとばしてくれるぞ。余計な口を出さずに、そのソファにおとなしくしていたら、それだけ寿命が延びるっていうものだ」
若者はグトマンの顔を見た。
グトマンはやさしい笑顔を若者に向けて、「ウィルマー、おまえを失うのは、わしにとって、最大の悲しみだ。これまでおまえを、実の子以上に可愛がってきたのを思い出してほしい。それが、こんな羽目になってしまって……だけど、子どもは失くしても、また生まれてくることがあるが、マルタの鷹はこの世界に一つしかない品なのだ」
スペードが思わず笑いだした。
カイロは若者に近寄って、その耳もとに何かささやいた。若者はハシバミ色の冷たい目をグトマンの顔に向けたまま、ふたたびソファに腰を下ろした。レヴァント人も並んで腰かけた。
グトマンはため息をつき、やさしい笑顔はそのままに、スペードにふり向いて、「年の若い者に、このような複雑な情況判断は無理なことでしてね」といった。
カイロはまたも若者の肩に腕をかけて、しきりに何か話しかけていた。スペードはグトマンににやり笑って見せてから、ブリジッド・オショーニシーに声をかけた。「すまないが、キチンへ行って、何か腹へ入れる物を探してきてくれないか。コーヒーも飲みたいから、たっぷり頼む。本来はおれの役目だが、来客をほったらかしておくわけにいかんのでね」
「いいわ」彼女はいって、ドアへ向かって歩きだした。
グトマンが揺り椅子をゆするのをやめて、「ちょっとお待ちなさい」と、厚ぼったい手をかかげ、「あの封筒は、この部屋に残しておいたほうがいいでしょうな。あなたとしても、油のしみをつけたくないでしょうから」といった。
ブリジッド・オショーニシーは目でスペードの意向を確かめた。彼は無関心な口調で答えた。「それがいい。あれはまだ、彼のものだからな」
彼女は手を上着の内側にさし入れて、封筒をとり出し、スペードに手渡した。スペードはそれをグトマンの膝に投げやって、「失くなるのがそんなに心配なら、尻の下に敷いておくさ」といった。
「誤解なさっては困ります」グトマンがおだやかな口調で答えた。「そんなことを思ってもみませんが、取引はあくまでビジネスライクに行なわねばなりませんからね」いいながら彼は、封筒の垂れ蓋をひきあげ、なかの千ドル紙幣をとり出してかぞえていたが、くっくっと笑いだした。太鼓腹が大きく波打った。「その一例がこれでして、現在、ここにある紙幣は九枚だけです」と、肥った膝の上に並べてみせ、「あなたにお渡ししたときは、十枚あったのを覚えておいででしょう」彼の笑いは無遠慮で、勝利を楽しんでいるようだった。
スペードはブリジッド・オショーニシーを見て、「どうしたんだ?」と訊いた。
彼女は首を、力をこめて横にふったが、何もいわなかった。ただ、唇がわずか動いたのは、何かいおうとしたのだろう。顔は蒼ざめていた。
スペードは手をさし出し、肥った男がその上に紙幣を載せた。スペードがかぞえると、やはり千ドル紙幣は九枚しかなかった。彼はそれをグトマンに返して、立ちあがったが、表情はうつろに見えるほど平静だった。テーブルの上の三挺の拳銃をとりあげて、事務的な口調でいった。「おれは、これがどういうわけなのか知っておきたい。さあ、おれといっしょに」と、彼女の顔は見ないで「バス・ルームへ行こう」と促した。「ドアを開けたままにして、おれはこの部屋に顔を向けている。だから、きみたちは」と男たちに向かって、「この部屋から逃げ出すわけにいかぬのだ。この三階の窓からとび降りればともかく、外へ出るにはバス・ルームの前を通るしか道がないんだぜ」
「まさか!」とグトマンが抗議するようにいった。「なんのために逃げ出す必要があるのです? お言葉がいささかすぎるようですな、あたしたちにこの場を離れる気持のないことは、じゅうぶんお判りのはずですが」
「この調査がすめば、いろんなことが判るだろうよ」スペードは怒りを押しつけてしゃべっているが、断固とした決意がうかがわれた。「この小細工で、情況が一変した。おれはこの答えを突きとめねばならぬ。いや、長くはかからんよ」そして女の肘に手をかけていった。「さあ、いっしょにきてくれ」
バス・ルームにはいって、ブリジッド・オショーニシーもやっと口がきけるようになった。彼女はスペードの胸に両手を押しつけて、顔を彼の顔に近づけ、低い声で、「わたし、あのお札をとったりなんかしないわよ、サム」といった。
「とったとは思わんよ。だが、真実を知っておかねはならん。服を脱いでくれ」
「わたしのいうこと信じてくれないの?」
「信じないね、さあ、脱ぐんだ」
「いやよ」
「そうか。じゃ、あちらの部屋へもどろう。あの連中の手で脱がせるからな」
彼女は手を口にあてがって、一歩退がった。目をみひらいて、おびえの色をあらわしている。「そんなことまでするの?」彼女は指のあいだからいった。
「するとも」スペードは答えた。「あの金がどうなったかを知っておくのに、女のたしなみなんかにかまっちゃいられんのだ」
「わたしだって、そんなことを気にしているんじゃないわ」彼女はふたたびスペードに近より、両手を彼の胸に押しあて、「あなたの前なら、裸になったって平気よ。でも――判ってもらいたいわ――こんな疑いで服を脱がされるのがいやなの。むりやり脱がしたら、あなたは――あなたは大事なものをなくすことになるのよ」
彼は声を張りあげることもなく、「むずかしい理屈は判らんが、あの札《さつ》がどうなったかを知らずにはいられないんだ。さあ、脱いでくれ」
ブリジッドはまたたきもしない男のイエロー・グレーの目をみつめていたが、彼女自身の顔は赤くなって、また蒼くなった。そして、まっすぐからだを伸ばすと、服を脱ぎはじめた。スペードは浴槽の縁に腰を下ろして、彼女とあけ放したドアとを見張っていた。居間からはなんの物音も聞こえてこなかった。彼女は手早く、ためらうこともなく服を脱いで、つぎつぎと足もとの床に落としていった。素裸になると、衣類の山から一歩退がり、突っ立ったまま、スペードを見た。昂然たる態度で、恥ずかしがる様子も、反抗的なところもなかった。
スペードは三挺の拳銃を便器の蓋の上において、ドアのほうを向いたまま、衣類の山の前に片膝をついた。そしてそのひとつひとつを、目と指とで調べていった。千ドル紙幣は出て来なかった。調べおわると、両手で衣類を抱えて立ちあがり、彼女の前にさし出しながら、「ありがとうよ。これではっきりした」といった。
ブリジッドは衣類を受けとったが、何もいわなかった。
スペードは拳銃をとりあげて、彼女ひとりを残してバス・ルームのドアを閉め、居間へもどっていった。
グトマンが揺り椅子のなかから愛想笑いを浮かべた顔で、「見つかりましたか?」と訊いた。
カイロはソファに若者と並んで腰かけていたが、やはり結果を知りたい様子で、光のにぶい目をスペードに向けた。若者だけは顔をあげようともしなかった。肘を膝についた前こごみの姿勢で、頭を両手でかかえ、両足のあいだの床をみつめたままだった。
スペードはグトマンに答えて、「いや、見つからなかった。隠したのは、あんただな」といった。
肥った男はくすくす笑って、「ほう、あたしが隠した?」
「そうだ」スペードはいって、手の拳銃をがちゃがちゃ鳴らし、「あくまで|しら《ヽヽ》を切るんなら、身体検査をさせてもらうことになるぜ」
「ほう、身体検査を――?」
「隠したのを認めるか、身体検査を我慢するかのふたつにひとつだ。第三の道はないんだぜ」
グトマンはスペードのけわしい顔を見上げて、腹の底からの笑い声をあげた。「なるほどね。あなただったら、それくらいのことはやりかねない。たしかにやるでしょうよ。こう言ったからといって、気になさらんでもらいますが、あなたはまったく、意想外なことをなさるおひとですな」
「隠したのは、あんただ」スペードは繰り返していった。
「さようで、あたしが隠しました」肥った男はチョッキのポケットから、しわくちゃな紙幣を抜き出して、大きな膝の上で平らに伸ばし、上着のポケットからとり出した封筒の九枚の千ドル紙幣といっしょにした。「あたしはときどき、こういうつまらぬいたずらをしてみたくなるのです。そのような情況下におかれた相手が、どんな反応を示すかを見るのが楽しみでしてな。とにかくあなたは怖《お》めず臆《おく》せず、このテストをパスなさった。さすがはあなたです。正直なところ、これほど端的的確な方法で真実が究明されるとは考えていませんでした」
スペードは辛辣さのない冷笑を浮かべて、「こんな単純ないたずらは、あの小僧ぐらいの年頃の者が考え出すことだぜ」といった。
グトマンもくすくす笑った。
コートと帽子のほかは、元どおり身につけたブリジッド・オショーニシーがバス・ルームから顔を出した。居間に一足踏み入れたが、方向を変えてキチンへ行き、電灯をつけた。
ソファのカイロは若者ににじりよって、またしても耳もとでささやきだした。若者は煩《うるさ》そうに肩をゆすった。
スペードは手にした三挺のピストルを見、つづいてグトマンの顔へ目をやってから、部屋と入口のドアをつなぐ通路へ出ていった。そしてそこの戸棚の扉をあけ、拳銃をトランクの上に載せると、扉を閉めて、鍵をかけた。その鍵はズボンのポケットに突っこんで、キチンのドアへ向かった。
ブリジッド・オショーニシーがアルミ製のコーヒー沸しに湯をついでいるところだった。
「食べる物は見つかったかね?」スペードが訊いた。
「ええ」彼女は顔もあげずに、冷ややかな声で答えた。それから、コーヒー沸しをわきにおいて、ドアへ歩みよった。顔に赤く血が射していて、大きくみひらいた目がうるみ、咎め立てるように、「いくらわたしが相手でも、あんなひどいことをしなくてもよかったのに」と、やっと聞きとれるくらいの声でいった。
「おれの立場からして、ああするよりほかに仕様がなかったのさ」スペードはからだを折って、彼女の口にかるくキスをし、ふたたび居間にもどっていった。
グトマンはスペードにほほえみかけ、白い封筒をさし出して、「もう間もなく、あなたのものになるのです。受けとっておいていただきましょう」といった。
スペードは受けとらなかった。そのまま肘かけ椅子に腰を下ろして、「まだかなり時間がある。その金の目的については、話がまだ完全にはついていない。おれは一万以上のものをもらってもいいのじゃないかな」
グトマンがいった。「一万ドルは大金ですよ」
スペードがいった。「おれと同じことをいうね。だが、一万ドルがこの世界の金の全部じゃあるまいし」
「おっしゃるとおりで、それはあたしも認めますが、しかし、一万ドルからの大金を数日のうちに調達するのは無理なことで、あなたがこれを入手なさったみたいに簡単にはいかないのです」
「おれが簡単に手に入れたって?」スペードは肩をゆすって、「なるほど。そう思われるかもしれないが、これはおれのビジネスで、他人《はた》からとやかくいわれることはないんだ」
「たしかにさようで」肥った男は同意し、目を細めて、頭でキチンをさし示し、声を低めていった。「彼女と山分けなさるんですか?」
スペードは答えた。「それもまた、おれのビジネスで、そっちの知ったことじゃない」
「さよう、さよう。おっしゃるとおりで」肥った男はもう一度うなずき、「しかし――」とつづけたが、ちょっとためらってから、「それについては、ひと言忠告しておきたいことがあるんです」
「いってみてくれ」
「かりにあなたの彼女に渡す金額が――ええ、この一万ドルのうちのある部分が、彼女の手にはいるのは判っているんです――その分け前が彼女の期待する金額に達していないと、あたしの忠告がお役に立つはずです。で、その忠告とは――あの女にはお気をつけなさい、ということで」
スペードの目に、あざけるような光が走って、「危険な女か?」といった。
「ええ、危険な女です」肥った男が答えた。
スペードはにやり笑って、タバコを巻きはじめた。
カイロはさっきから、若者の耳にささやきつづけていたが、またしても腕を若者の両肩にまわした。すると、若者はその腕を押しのけて、ソファの上でレヴァント人に向き直った。顔に嫌悪と怒りの色がみなぎっていた。そして、小ぶりの手を拳に固めて、カイロの口に叩きつけた。カイロは女のような悲鳴をあげて、ソファのはしにひき退がり、ポケットから絹のハンカチをとり出して、口にあてがった。ハンカチに血がべっとりついた。彼はそれをもう一度口にあてがって、恨めしそうな目で若者を見た。「そばへ寄るんじゃねえ!」若者はどなっておいて、またしても頭を抱えこんだ。カイロのハンカチが、シープル香水の芳香を部屋いっぱいに発散した。
カイロの悲鳴にブリジッド・オショーニシーが、何ごとが起きたのかと、戸口からのぞきこんだ。スペードがうすら笑いを浮かべながら、親指でソファをさし示して、彼女にいった。「恋に喧嘩は付きものでね。ところで、腹に入れるほうのものはどうした?」
「もうすぐよ」彼女は答えて、キチンへもどっていった。
スペードはタバコに火をつけると、グトマンに話しかけた。「金についての打ち合せをしたいのだが」
「けっこうですな、喜んでいたしましょう」肥った男は答えた。「ただ、あらかじめいっておきますが、あの一万ドルが、あたしに調達できるぎりぎりのところでして」
スペードはタバコの煙を吐き出し、「二万ドルが妥当な金額だろう」
「できることならそうしたいのですが、あたしの力じゃ、一万ドルが掻き集められる限度なんです。嘘じゃありません。もちろん、それは第一回のお支払い分で、あとになったら――」
スペードは声をあげて笑って、「判っているよ。あとになったら、数百万ドルさしあげます、というのだろうが、おれのほうには、この第一回の支払いってやつが大切なんだ。どうだ一万五千で手を打ってもいいが」
グトマンは微笑の顔の眉をひそめて、首をふり、「スペードさん、あたしは紳士としての名誉にかけて、率直かつ正直なところを申しあげておるのです。いまのあたしには一万ドルがぎりぎりのところで、それ以上は一セントの金も調達できません」
「だが、最初はそんなにはっきりいわなかった」
グトマンは笑いだして、「では、いまここで、はっきり申しあげましょう」
スペードは憂鬱そうにいった。「あまりいい取引じゃないが、これ以上は無理だというのなら仕方がない――そいつを渡してくれ」
グトマンは彼に封筒を渡した。スペードが紙幣をかぞえて、ポケットに収めたところへ、ブリジッド・オショーニシーが盆を捧げてはいってきた。
若者は食べようとしなかった。カイロはコーヒーを一杯飲んだ。ブリジッドとグトマンとスペードは、彼女が用意したかき卵、ベーコン・トースト、マーマレードを食べ、コーヒーをそれぞれ二杯ずつ飲んだ。それから彼らは腰を落ちつけて、夜が明けるのを待った。
グトマンは葉巻をくゆらしながら、『アメリカの著名犯罪事件』を読みはじめ、興味を惹いたところがあると、くすくす笑ったり、その部分についての意見を述べたりした。カイロは口の傷をいたわり、ソファのはしで黙りこんでいた。若者はあいかわらず頭を抱えこんだままで、四時を少しすぎるまでその状態をつづけていたが、そのあとは両足をカイロに、顔は窓に向けて横になり、眠りに落ちていった。ブリジッド・オショーニシーは肘かけ椅子で、うとうとしたり、肥った男の読書感に聞き入ったり、スペードととりとめのない会話を交わしたりしていた。
スペードはタバコを巻いてはふかして、部屋のなかを歩きつづけているのだが、神経質にいらいらする様子はまったくなかった。ときには、ブリジッドのかけている椅子の腕とか、テーブルのすみとかに尻を載せ、ときには彼女の足もとの床に坐りこみ、そしてときには、背のまっすぐな椅子に腰を下ろした。彼にはねむ気が襲ってこないのか、元気で朗らか、活力にあふれていた。
五時半に、スペードはキチンへ行って、さらにコーヒーを沸かした。その三十分後に若者がもじもじしだして、目をさまし、からだを起こしてあくびをした。グトマンが腕の時計を見て、スペードに訊いた。「そろそろ持ってこれるのではないでしょうか?」
「あと一時間待ってほしい」
グトマンはうなずいて、読書にもどった。
七時に、スペードは電話機に歩みよって、エフィ・ペリンのナンバーを呼び出した。「もしもし。ペリン夫人ですか?……こちらはスペードですが、エフィを呼んでくれませんか?……ええ、そうです……おねがいします」彼は口笛で『エン・キューバ』の二節を低く吹いて待っていた。「やあ、おれの天使。寝ているのを起こして悪かったな……ああ、大丈夫だ。さっそく、動き出してくれ。中央郵便局のホランド名義の私書箱に、おれの手で宛名を書いた封筒がはいっている。封筒の中身は、ピックウィック・バス・ターミナルの手荷物預り所のチッキ札――きのう、きみとふたりでこしらえた紙包みを預けてあるのだ。その紙包みを受けとって、ここまで届けてほしい。いますぐやってくれるね?……そうだ、おれはアパートにいる……しっかりやってくれ……いそぐんだぜ……頼んだよ」
八時十分前に、アパートの玄関のベルが鳴った。スペードは送話器に歩みよって、自動錠をはずすボタンを押した。グトマンは本をおいて、ほほえみながら、立ちあがって、「お差し支えなければ、ごいっしょしたいのですが」といった。
「いいとも」スペードが応えた。
グトマンもいっしょに廊下に面したドアまでついていった。スペードがドアをあけた。やがてエレべーターの扉があいて、茶色の紙包みを抱えたエフィ・ペリンがあらわれた。彼女の少年めいた顔が明るくかがやいていた。足早に、駆けているような速さで歩みよって、グトマンにはチラッと目をくれただけで、スペードにほほえみかけながら、紙包みを手渡した。
彼はそれを受けとって、「ありがとうよ、エフィ。朝っぱらからたたき起こして悪かったな、だけどこれは――」
「あなたに朝早くたたき起こされたのは、これがはじめてじゃないわ」と彼女は笑いながら応えた。そして、スペードがなかへはいれといいそうもないのを見てとると、「ほかにご用は?」と訊いた。
スペードは首をふって、「ないよ。これだけだ」
エフィは、「じゃ、あとで」といって、エレベーターのほうへもどって行った。
スペードはドアを閉めて、紙包みを居間へ持っていった。グトマンは顔を紅潮させて、頬がふるえていた。スペードがそれをテーブルの上におくと、カイロとブリジッド・オショーニシーが歩みよった。全員が興奮した。若者も緊張で蒼ざめた顔でからだを起こしたが、反りかえったまつげの下からみなの動きをみつめるだけで、ソファを離れようとしなかった。
スペードはテーブルから一歩退がって、「ほら、これがお待ちかねの品だ」といった。
グトマンのふとい指がすばやく動いて、ひもと包み紙とおがくずをとり除けた。彼は両手で黒い鳥をしっかり持って、かすれたような声でいった。「長かった十七年間! やっとこれで――」両の目がうるんでいた。
カイロは赤い唇を舐めて、両手をもみあわせていた。ブリジッドは下唇を咬みしめている。彼女とカイロ、そしてグトマン、スペードと若者までがあらい息をついて、室内は空気が冷え冷えとよどみ、タバコの煙が重く立ちこめていた。
グトマンはふたたび鳥をテーブルの上におくと、ポケットを探しながら、「まちがいなくこの品ですが、念のために確かめておきましょう」といった。汗がまるい頬に光っていた。金製のポケット・ナイフをとり出し、痙攣する指で刃をひらいた。
カイロとブリジッドが、彼の左右にぴたっと寄り添って立った。スペードは少し離れて、若者とテーブル前に集まった三人を見張れる位置に陣取った。
グトマンは鳥をさかさにして、台座の縁をナイフで削った。黒いエナメルが小さくめくれて落ち、黒ずんだ金属の地肌があらわれた。そしてさらにナイフの刃の先端が金属に食いこんで、カープした薄片を切りとった。その薄片の裏側も、削りとられたあとの地肌も、灰色のにぶい光沢を示す鉛だった。
グトマンの息づかいがいっそうはげしくなって、歯のあいだでひゅうひゅう音を立てた。顔の血管がふくれあがって、真っ赤になった。彼は鳥をくるっとまわして、その頭にナイフの刃を入れた。刃が切りとったのは、やはり鉛だった。ナイフと鳥をテーブルの上に投げやって、グトマンはスペードに向き直り、「にせものだ」としわがれた声でいった。
スペードの顔は暗く曇っていた。ゆっくりうなずいたが、手のほうはすばやく動いて、ブリジッド・オショーニシーの手首をつかんでいた。ひき寄せて、もう一方の手で彼女の顎をつかみ、顔をぐいとあげさせ、「してやられたよ」と、その顔にどなりつけるようにいった。「これが|きみの《ヽヽヽ》いたずらなのか? なんのためにこんなまねをした? わけを話してみろ」
彼女は叫んだ。「ちがうわ、サム。ちがうわよ――これがケミドフのところから持ってきたものよ。誓っていうけれど――」
ジョエル・カイロがスペードとグトマンのあいだにはいりこんで、唾をとばしながら、甲高い声でしゃべりだした。「あいつなんだ! あいつのやったことだ! あのロシア人の仕業にちがいない! もっと早く知るべきだった! 出し抜いたつもりで、騙されていたんだ!」涙がレヴァント人の頬を流れ落ちて、彼は地団駄ふんで口惜しがった。「あんたがへまをやったからだ」とグトマンに噛みついて、「話にならぬばかなやり方だった。あんな高価で買いとろうとしたので、ロシア人はあれが貴重な品なのを察しとって、本物とそっくりの複製を作っておいたのだ。でなかったら、ああも簡単に盗み出せるわけがない! もちろん彼は、もう一度世界じゅうを探しまわらせる狙いで、わざわざ盗み出させて、あたしを追いはらったのだ! この阿呆! デブの間抜け野郎!」カイロは顔に両手をあてがって、声をあげて泣きだした。
グトマンも顎を落として、うつろな目をまたたいていた。しかし、しばらくすると身震いして――そのときは顔の球根の揺れも鎮まっていた――もとの陽気な肥満男に立ちもどった。「まあ、まあ、カイロ君」と、例によって人のよい男らしい口ぶりでいった。「そんなにがなり立てても意味のないことさ。だれだって、ときには過ちをしでかすものだ。口惜しいのはあたしも同じで、あらゆる意味で、これは大打撃だ。たしかにあのロシア人にしてやられた。その点は疑問の余地がない。しかし、これからどうしろというのだね。まさか、この部屋で泣きわめいて、仲間どうし罵りあっておれというのではあるまい。どうだね」――といったん言葉を切って、キューピーのような顔に微笑を浮かべ「もう一度いっしょに、コンスタンチノープルへもどるとするか?」
カイロは両手を顔から離した。目が腫れあがっている。「で、では、あんたはまた――?」と、どもりながらいったが、相手の意図が判ると、驚きで口がきけなくなった。
グトマンは分厚な手をかるく打ちあわせた。目がきらめいていた。明るい調子の声を喉の奥から出して、つぎのような言葉をしゃべりだした。
「十七年のあいだ、あたしはこの小さな品が欲しいばかりに、あらゆる努力を重ねてきた。これからまた、捜査にもう一年を費やさねばならぬにしても、それは時間的にはあとわずか――無言で唇だけを動かして計算をし――五年かそこらの追加にすぎないのだ」
レヴァント人は朗らかに笑って、「あたしもいっしょに行きますよ」と叫んだ。
スペードは突然、プリジッドの手を離して、部屋のなかを見まわした。若者がいなかった。スペードはドアへの通路へいそいだ。廊下に面したドアがあけっぱなしになっていた。スペードは腹だたしげに口を尖らせて、そこのドアを閉め、居間にもどったが、ドアにもたれて、グトマンとカイロを見た。とくにグトマンに、かなりのあいだにがにがしい顔を向けていたが、やがて、肥った男の猫撫で声をまねて、「驚き入った盗人《ぬすっと》ぞろいだな!」といった。
グトマンはくすくす笑って、「自慢にもなりませんが、それが事実のようですな」といった。「しかし、ちょっとした挫折に見舞われたにしても、あたしたちはまだ死んでもいませんし、この世の終わりがきたわけでもないのです」そして、背中にまわしていた左手をスペードの前にさし出して、ピンク色の肉が盛りあがったすべすべした手のひらを上に向け、「あの封筒をお返しいただきたいのですが」といった。
スペードは動かなかった。顔も無表情のままで、彼はいった。「おれは引き受けた仕事をやってのけた。頼まれた品はちゃんと引き渡した。結果が希望どおりにならなかったのは、そっちに運がなかったからで、おれのせいじゃない」
「まあ、まあ、スペードさん」グトマンは説得するようにいった。「この失敗は、ここにいる全部の者のものです。そのうちのひとりだけが損失をこうむるというのは理屈に合いません。ですから――」と彼は、こんどは背中の右手をさし出した。その手は小型拳銃を握っていた。金と銀と真珠母の象眼をほどこしたピストルだった。「簡単にいうと、あの一万ドルはあたしのものですから、お返しいただきたいのです」
スペードは顔の表情を変えなかった。肩をゆすって、ポケットから封筒をとり出し、グトマンの前にさし出そうとした。しかし、その手をひっこめ、封筒をひらいて、千ドル紙幣を一枚抜きとった。その紙幣をズボンのポケットに突っこむと、封筒の垂れ蓋をもとどおりにしてから、グトマンの前にさし出して、「これで日当と実費を支払ってもらったことになる」といった。
グトマンは少し間をおいてから、スペードをまねて肩をゆすり、封筒を受けとった。そして、彼はいった。「では、スペードさん、これであなたともお別れですな。もっとも――」と目のまわりの脂肪のかたまりにしわをよせて、「あなたにあたしたちといっしょにコンスタンチノープルまで遠征なさるお気持があれば、話が別ですがね。いかがです、そのお気持はありませんか? 率直にいいますと、参加していただきたいのです。あたしはあなたが好きになりました。機略縦横、すぐれた判断力の持ち主であられる。そのすぐれた判断力を信頼しておればこそ、あたしたちの小さな仕事の秘密を守ってくださるものと、安心してお別れの言葉を申しあげられるのです。そしてまた、あなたの状祝判断に誤りがないのを承知していますので、この数日のあいだに起きたいくつかの法律的トラブルが、こうした情勢のもとでは、あなたにも、そしてまたこの魅惑的なミス・オショーニシーにも、あたしたちとまったく同様かつ均等にふりかかるものであるのがお判りのことと信じております。あなたのように賢明なお方が、その点の認識に欠けるとは考えられぬことですからね」
「それはじゅうぶん心得ているよ」スペードが答えた。
「もちろん、そうでしょう。それから、こんな情勢になったからには、いけにえの山羊など提供しなくても、警察との問題はあなたの手で片付けていただけるものと理解しておりますが」
「よろしくやっておくよ」スペードが答えた。
「やっていただけるものと信じております。では、別れの言葉は短いのが最上だと聞きました。ごきげんよう」彼はもったいぶった身振りでお辞儀をして、「それから、オショーニシーさん、あなたもお仕合せに。こんどのことの記念に、あなたにはこの珍品《ララ・アヴィス》を残しておきます。テーブルの上の|珍しい鳥《ララ・アヴィス》を」
二十 かりに頸を絞められても
カスパー・グトマンとジョエル・カイロが出ていって、玄関のドアが閉まってから、まるまる五分のあいだ、スペードは身動きもしないで、あけ放したままの居間のドアのノブを見つめて立っていた。額にしわを深くよせ、その下の目が暗く、鼻の上に刻んだ二本の縦じわが赤らんでいた。唇を締りなく突き出していたが、やがてそれをVの字形にきつく結ぶと、電話機に歩みよった。ブリジッド・オショーニシーがテーブルのそばに立って、不安そうな目で彼の様子をうかがっているのだが、スペードは目をくれようともしなかった。
彼は電話機を棚からとり出したが、すぐにもとの位置にもどし、からだを屈めて、棚のすみにぶら下げてある電話帳を手にした。せわしなくページを繰って、探しているページを見出すと、指で行を追ってから、からだを起こして、棚の電話機をもう一度とり出した。彼はナンバーを呼んで、いった。
「もしもし、ポルハウス巡査部長はいますか?……じゃ、呼んでくれたまえ……こちら、サミュエル・スペード……」空間をみつめて、しばらく待ち、「やあ、トムか。知らせておきたいことがある……そうだ、たくさんあるんだ。まず第一に、サーズビーとジャコビを撃ったのは、ウィルマー・クックという名のチンピラやくざだ」と若者の人相をこと細かに述べて、「カスパー・グトマンという男の子分でね」と、こんどはグトマンの人相を説明した。「それから、きみがおれの部屋で顔を合わせたことのあるカイロも、彼らの仲間だ……そうだ、そうなんだ……グトマンはアレグザンドリア・ホテルに泊まっている。ひょっとすると、もう引き払ったかもしれないが――部屋は一二号のCだ。つい、いましがた、おれのアパートを出ていったばかりだが、高飛びをする気だから、手配は早いほうがいい。もっとも、いますぐ警察の手がまわるとは考えていないらしいが……それから、彼らの連れには、女の子がひとりいて――これはグトマンの娘だ」と、リーア・グトマンの姿かたちを説明したあと、つけくわえて、「で、あのチンピラやくざを相手にするときは、気をつけたほうがいいぜ。ガンを扱わしては、相当の腕前らしいんだ……ああ、そうなんだよ。それから、トム、証拠はきみのために、ちゃんと握っておいた。ここにあるピストルのうちの一挺が、犯行に使われたことはまちがいない……そうだ、そのとおりだ。急ぐことだ――うまくやれよ」
スペードはゆっくり受話器をフックにおいて、電話機を棚にもどした。そして唇を舐め、両手を眺めた。手のひらが汗で濡れていた。胸いっぱい、息を吸いこんだ。せばめたまぶたのあいだに、目がきらめいた。ふり返って、わずか三歩の大股で居間にはいった。
彼が急に近づいてきたので、ブリジッド・オショーニシーはびっくりして、小さくあえぎのような声を洩らした。奇妙にそれが笑い声に似ていた。
スペードは彼女にぴったりくっつくように、顔と顔を突きあわせて立った。骨太で肉の厚い長身、冷ややかな笑いを浮かべた顔に、顎と目がけわしかった。彼がいった。
「あいつら、つかまったら、おれたちのことまでしゃべってしまうだろう。いわばおれたちはダイナマイトの上に坐っているようなものだ。警察の質問にそなえるにしても、準備の時間はいくらもない。だから、洗いざらい話してくれ――大いそぎでだ。グトマンが、きみとカイロをコンスタンチノープルへ送ったのか?」
彼は彼女の肩に手をおいて、
「どうした、なぜ黙っている? この事件で、おれはきみに協力した。そのおれにしゃべろうとしないのは、どういうわけだ。さあ話してくれ。グトマンがきみをコンスタンチノープルへ行かせたんだろう?」
「ええ。彼に、行くようにいわれたの。あちらでジョエルに会って――手助けを頼んで、それからふたりで――」
「ちょっと待て。きみがカイロに手助けを頼んだのは、ケミドフの家から鷹を盗み出す仕事なんだな?」
「ええ、まあ――」
「グトマンのためにか?」
彼女はまたも返事をためらったが、スペードのすさまじい視線にもじもじして、ごくり唾をのんでから答えた。
「いいえ、そのときは気持が変わっていたの。わたしもジョエルも、わたしたちふたりだけの仕事にするつもりになっていたの」
「なるほど。で、それから?」
「それから、わたし、ジョエルに裏切られるのが心配になってきて、そのために――そのために、フロイド・サーズビーの協力を求めたのよ」
「そして彼がその役目を果たしたってわけか。で、それから?」
「鷹が手に入ったので、香港へ行ったわ」
「カイロもいっしょか? それとも、そのときはもう、彼と別行動をとっていたのか?」
「ええ、コンスタンチノープルにおき去りにしたわ、刑務所のなかに――彼、小切手か何かのことで逮捕されていたのよ」
「彼に足どめを食わす狙いで、きみが仕組んだ事件じゃないのか?」
彼女はきまり悪そうな顔でスペードを見て、小さな声で、「ええ」といった。
「まあ、いいだろう。それで、きみとサーズビーは鳥を持って香港へ行ったのだな?」
「そうなの。それから――わたし、サーズビーのことはあまりよく知らなくて――どこまで信頼していい男か判らないので、ジャコビ船長に会うことにしたの。あの船長のほうが信用できそうだし……それに、あのひとの船がサンフランシスコに向かうのを知っていたので、小荷物を一個運んでくれるように頼みこんだわけ――その小荷物が鷹なんだわ。つまり、わたし自身がそれを持って船に乗ったら、サーズビーはもともと信用がおけないし、ジョエルかだれか、グトマンの息のかかった男が乗りこんでこないともかぎらないから、そのほうが安全な方法と思ったのよ」
「なるほどね。そしてきみとサーズビーは、もっと船脚の速いので、先にこちらへ到着した。それからどうした?」
「それから――それから、グトマンのことが気になってきたの。あのひとは、どんな土地にも知合いが――連係のとれる男がいるのよ。わたしたちのやったことが、すぐにあのひとの耳にはいるのは確実で、わたしたちが香港からサンフランシスコ行きの船に乗ったことだって、とっくに知られているのじゃないかと、心配になってきたのよ。当時の彼はニューヨークにいたけれど、電報か何かでそれと知ったら、わたしたちの船が入港するまでに、このサンフランシスコにきている時間がじゅうぶんにあったの。そして実際に、彼は先まわりして、ここで待ちかまえていたわ。もっとも、入港したときのわたしは、そこまでのことは知らなかったけれど、彼の出現がこわいし、ジャコビ船長の船の入港を待っていなければならないし――わたし、居ても立ってもいられない気持だったわ。彼に見つかるのがこわいばかりでなく、サーズビーがあの男に買収される危険もあったのよ。あなたの事務所を訪ねて、サーズビーの見張りをおねがいしたのは、そこに理由があったのだわ」
「それは嘘だ」スペードはいった。「きみはすでに、サーズビーを完全にまるめこんでいた。あれは女に甘い男だった。彼の犯罪記録がそれを語っている――あの男の失敗には、みんな女が絡んでいる。ばかはなんど失敗を繰り返しても、ばかであることに変わりがない。たぶんきみは、あの男の過去まではくわしく知っていないだろうが、彼を骨抜きにしてしまったことは承知していたはずだ」
彼女は顔を赤らめて、おずおずとスペードを見た。
彼はつづけていった。「きみはジャコビの船が戦利品を持って到着する前に、あの男を片付けてしまうつもりだった。で、それに、どんな手を用いる計画だった?」
「わたしは――わたしは、彼がある賭博師といっしょに、アメリカの土地を売ることになった理由が、博奕打ち仲間のいざこざにあったのを知っていたの。くわしい内容は判らないけれど、いのちのやりとりになるようなことと察しがついたので、あの男も私立探偵の尾行に気づいたら、昔の敵に彼の帰国を知られたと思いこんで、いのち惜しさに逃げ出すだろうと考えたの。でも、まさか、あんなことになるなんて――」
「そしてきみは、尾《つ》けられているのを、彼に教えた」スペードは自信をもっていった。「マイルズは頭のいい男じゃないが、最初の晩から尾行を見破られるほどの間抜けじゃないんだ」
「ええ、わたしが教えたのよ。あの晩、彼とふたりで散歩に出たとき、アーチャーさんが尾《つ》けているのに気がついたふりをして、フロイドに耳打ちしておいたの」彼女は涙声になって、「でも、サム、わたしを信じて。フロイドがアーチャーさんを殺すなんて、考えもしなかったのよ。それを知っていたら、教えなんかしなかったわ。彼が復讐を恐れて、この街から逃げ出すものと思っただけで、撃ち殺すとまでは……」
スペードは口もとを微笑でゆがめたが、目は笑っていなかった。そして、いった。「彼がアーチャーを撃ち殺すとは思わなかった、か。なるほどね。きみのその考えはまちがっていなかった」
女は顔をあげた。驚きの色のみなぎる顔だった。
スペードはつづけていった。「サーズビーはマイルズを撃たなかった」
女の顔には、驚きに不信の表情がくわわった。
スペードがしゃべりだした。「マイルズは頭のいい男じゃない。だが、いいかね。あれだって探偵商売を長年やってきた経験者だ。尾行の相手に殺《や》られるとは考えられぬことさ。ガンは尻のポケットに突っこんだまま、外套のボタンもかけたままで、袋小路にのこのこはいっていくなんて、絶対にありえぬことだ。ばかはばかなりに、あいつもいちおうの私立探偵だ。あの横丁を見張るつもりなら、出口か入口かのどちらかを、ブッシュ・ストリートのトンネルの上に立っていればよかった。サーズビーが危険な男であるのは、きみがあらかじめ、おれとマイルズに注意してくれた。だから、マイルズはあんな袋小路に誘いこまれるはずがないし、おめおめ引きずりこまれるほどの弱虫じゃない。間が抜けてるところがあるにしても、それほどのばかじゃないのだ」
スペードは舌を唇の内側に匍《は》わせて、やさしい笑顔で女を見てから、言葉をつづけた。「だが、あの男は、きみがいっしょなら、あの横丁にもはいっていっただろう。ことに、そこに人かげがないのを知っていたらだ。きみはあいつの大事な依頼人だ。そのきみの指示なら、尾行を打ち切っていけない理由はないし、あるいは、きみがあとから追いかけてきて、いっしょに来てくれと、ひと言いったら、くっついていかないわけはないのだ。利口なほうじやないから、それくらいのことはやりかねない男だ。たぶん、きみのからだをじろじろ眺めまわして、舌なめずりをし、大きな口をあけてにやにや笑いながら、くっついていったにちがいない。そこできみは、あいつにぴったりより添って立った。暗がりのなかだから、万事きみの好きなようになる。そしてきみは、あの晩サーズビーから借りておいたピストルで、あいつのからだに風穴をあけることもできたってわけだ」
ブリジッド・オショーニシーはじりじりあとじさりをしはじめたが、テーブルのはしにぶつかって立ちどまり、恐怖の目でスペードをみつめ、大声に叫んだ。「やめて!――そんな話、わたしにしないで、サム! わたし、そんなこと、しないわよ! あなただって、知ってるはずだわ!」
スペードは腕の時計を見て、「いつ警察の連中がとびこんでくるか判ったものでない。おれたちはいま、ダイナマイトの上に坐っているのだ。早いところ、みんな、話してしまうんだ!」
彼女は手の甲を額にあてがって、「だけど、どうしてあなた、こんな恐ろしいことでわたしを責めるの?」
「そんなセリフをしゃべっている場合じゃない」スペードは苛立ちを抑えきれぬ様子で、声だけは小さく、「これは女学生の学芸会じゃないのだ。よく聞いてくれよ。おれたちふたりとも、絞首台の下に立たされているんだぜ」彼は彼女の手首をつかんで、まっすぐ自分の前に立たせ、「さっさとしゃべるんだ!」と繰り返した。
「わたし――あの、わたし――でも、どうしてあなた、知っているの? 彼が――舌なめずりして、わたしのからだを眺めていたことまで――?」
スペードはあらあらしい声で笑って、「おれはマイルズという男をよく知っているのだ。だが、そんなことはどうでもいい。きみはなんのために彼を撃った?」
彼女はスペードの指から自分の手首をふりもぎって、両手を彼の首にまわし、その首を引き下げた。ふたりの唇がふれあわんばかりになった。からだも膝から胸まで、ぴったりくっついた。スペードもまた、両腕を彼女のからだにまわして、しっかり抱きしめた。女はビロードのような光沢のある目をまつげの黒いまぶたで半ばおおい、はげしい動悸に震える声を抑えていった。「わたし、はじめは、あんなこと、するつもりじゃなかったの。ええ、ほんとうよ。いまいったようなこと、する気なんかなかったけれど、フロイドにこわがる様子が見えないので――」
スペードは彼女の肩を平手でひっぱたいて、「また嘘をいう。きみはマイルズとおれに、尾行はかならずふたりのうちのどちらかがやるようにと頼んだ。それは、尾行者がきみの知る男で、その相手もきみを知っていることが必要だったからだ。顔見知りの相手なら、きみのいうとおりについて来るものな。ガンはあの日――夜になってからかもしれないが――サーズビーのを借りておいた。アパートをあらかじめコロネット・ストリートに借りて、トランクその他の荷物を運び、ホテルには何も残してなかった。おれはきみの部屋を家探しして、部屋代の領収書を発見した。その日付は、きみがおれにアパートを借りたと話した日より、五日か六日前のものだった」
ブリジッドは無理して唾をのみこんでから、甘ったれた言い方で、「ええ、いまのは嘘よ、サム。わたし、フロイドがあんなでなかったら――わたし……やっぱりだめだわ。あなたの顔を見ながら、こんなこと、話せないわ。サム、こうさせてね」と、彼の頭を頬と頬がふれあう位置までひき下げ、耳に口をあてがって、ささやくような声でいった。「フロイドが簡単にはこわがらないのが判ったので、もうひとつの手を考えたの。もし彼が、だれかに尾《つ》けられているのを知ったら、ああいう男だから、きっと――ああ、やっぱりいえないわ、サム!」彼女は彼にしがみついて、すすり泣きをはじめた。
スペードはいった。「きみはこう考えたのだろう。フロイドは尾行者を反撃する。そして、ふたりのうち、どちらかが殺《や》られる。殺られたのがサーズビーなら、彼を追い払えるし、マイルズだったらフロイドは逮捕されて、きみはやはり、彼を追い払ったことになる。そうなんだろう?」
「そ、そんなところよ」
「そして、サーズビーには相手を反撃する気持なんかないのを知ったので、彼からガンを借りて、きみが自分でやってのけた。そうなんだな?」
「ええ――そのとおりではないけれど」
「だが、大たいそれでまちがいないはずだ。きみは最初から、この計画を用意していた。フロイドが殺人の罪で逮捕されるのを狙ってのことだ」
「わたし――わたしはただ、ジャコビ船長が鷹を持ってきてくれるまで、フロイドの拘留がつづいていてくれたらと――」
「そしてそのときのきみは、グトマンがこのサンフランシスコに到着していて、きみの行くえを追っているのを知らなかった。その気配でも勘づいていたら、用心棒を手放すようなまねはしなかっただろう。だが、サーズビーを殺《や》っつけてすぐに、グトマンがこの街に来ているのを知った。そこで新しい用心棒が必要になったので、またおれのところへもどってきた」
「ええ、それはまあ、そうだけれど――でも、サム――理由はそれだけじゃないのよ。わたしはいずれ、あなたのところへもどる気持だったわ。最初にあなたに会ったときから――」
スペードはやさしくいった。「うれしいことをいってくれるね。きみは運さえよければ、二十年かそこらで、サン・クエンティン刑務所を出て来れるだろう。そのときはおれを訪ねてくるがいい」
彼女は頬を彼の頬からひき離し、頭をうしろへ引いて、彼を見た。いわれた言葉の意味が理解しかねたらしい。
スペードの顔は蒼ざめていた。しかし、やさしくいった。「きみの頸に、このきれいな頸に、縛り首の縄がからみつかなくてすむように、神に祈っておくよ」そして、両手を上へすべらせて、女の喉を撫でさすった。
その瞬間、彼女はスペードの腕からぬけ出していた。テーブルのそばまで飛びのくと、うずくまって、両手で喉を押さえた。ひきつった顔に目がぎらぎらして、乾いた唇をあけたり閉じたりした。そして、かすれた声で、「あなたはまさか――」といいかけたが、あとの言葉がつづかなかった。
スペードの顔は、蒼ざめたうちに黄いろみが混ざっていた。口に微笑を含み、きらきら光る目のまわりにも、微笑のしわがよっていた。そして、やさしい声で、静かにいった。
「おれはきみを、警察の手に引き渡す考えだ。いのちまでは奪《と》られなくてすむと思う。二十年もしたら、娑婆に出てこられるという意味だ。きみはおれの天使だ。おれもその日を待っている」と咳ばらいをひとつして、「かりに頸を絞められても、おれはきみをいつまでも忘れないよ」
彼女は両手を頭から離して、まっすぐ立った。ひきつっていた顔に悩みの表情が消えて、目にわずか半信半疑の色が残っているだけだった。彼女はスペードにほほえみを返して、落ち着いた声でいった。
「やめてね、サム。冗談にもそんなことをいわないで。びっくりするじゃないの! わたし、あなたが本気でそんなことを考えてるのかと思ったわ――だって、あなたって、信じられないような無茶なことを、平気でやってのけるひとですもの――」そして、言葉を切って、顔を突き出し、スペードの目のなかをみつめた。しかし、彼女の頬と口のまわりの肉がふたたび震えだして、目に恐怖の色がもどってきた。「どうしたの――? サム!」彼女はまた両手を喉にあてがって、その場に坐りこんだ。
スペードは声をあげて笑った。黄いろみを帯びた白い顔が汗に濡れて、微笑を浮かべてはいるものの、声があらあらしく変わっていた。喉にからんだような声で、彼はいった。
「し、しっかりしてくれよ。どっちみち、きみの逮捕はまぬがれない。あいつらがつかまって、泥を吐いたら、きみかおれか、ふたりのうちのどちらかがこの犯罪の責任をとらねばならぬ。おれの場合は絞首刑が決定的だが、きみだったら、いずれは生きて娑婆にもどれるんだ。判ったね?」
「でも――でも、サム。あなたの手で警察に引き渡されるなんて! そんなこと、あなたにはできないはずよ。わたしたち、ただの仲でないじゃないの」
「できないことがあるものか」
彼女は震えながら、息を深く吸いこんで、「だったら、あなた、わたしをおもちゃにしていたの? 愛しているみたいに見せかけて――ワナにかけるつもりだったの? ほんとうは――ちっとも――好きじゃなかったのね。そうよ、愛してなんか、いなかったんだわ!」
「いや、愛していると思う」スペードがいった。「だが、それがどうだというんだ?」彼は微笑を消すまいとするのだが、顔の筋肉がうねのように硬直していた。「おれはサーズビーじゃない。ジャコビでもない。きみのために、道化役を演じる気はないんだ」
「ひどいわ! ひどすぎるわ!」彼女は叫び立てた。涙が頬を流れた。「恥ずかしくないの、そんなことをいって? 軽蔑されるわよ。でも、いまの言葉、嘘なんでしょう? あなたにいえる言葉じゃないもの」
「いえない言葉じゃない。きみはおれの質問を封じるために、おれのベッドにはいってきた。きのうはグトマンのために、おれをにせ電話でおびき出した。そして夜には、やつらといっしょにここまで来ていたくせに、外でおれを待ち受けて、いっしょに部屋へはいった。そして、おれがワナにかかったのを知ると、きみはわざとおれにしがみついた――あれじゃ、おれがガンを持ってたにしても、ひき抜けるものじゃなし、闘おうにも闘えなかった。それから、やつらが高飛びするのにきみを連れていかなかったのは、グトマンは頭の働く男だから、きみが信頼できぬ女なのを承知していたからだ。だから彼は、きみの利用を、必要な短い期間だけにとどめておいた。それにまた、おれがきみに惚れて、道化役を演じるものと睨んでいたこともある。おれがきみの逮捕を恐れて口をつぐんでおれば、グトマンの名前も警察に知られなくてすむからだ」
ブリジッド・オショーニシーは涙をふり払って、一歩彼に近寄り、正面からその目をとらえて立った。誇りの高さを忘れぬ態度だった。「あなたはわたしは嘘つきだといったわね」彼女はいった。「そのくせ、自分こそ嘘をついてるじゃないの。わたしがあなたを愛しているのを知らなかったなんていわせないわ。たしかにわたし、いろいろなことをやったけれど、あなたへの愛は見せかけじゃなかったのよ」
スペードは突然、ひょこっとお辞儀をしてみせた。目が血走ってきたが、微笑を定着させ、汗に濡れた黄いろっぽい顔の表情に変化はなかった。「知っていたといってもいいだろう」彼はいった。「だから、どうだというのだ? きみを信頼しろというのか? サーズビーに――おれの前の情夫《おとこ》のサーズビーに――あんな小細工をやってのけたきみを信頼する? そのサーズビーを裏切る手段に、なんの恨みもないマイルズを、ハエか何かを叩きつぶすみたいに撃ち殺して、平気な顔をしているきみと知りながら、信頼しろというのか。無理なはなしさ。きみに裏切られた男は、グトマン、カイロ、サーズビー――おれが知ってるだけでも三人いる。おれにしたところで、きみと知りあってからこちら、たった三十分間も、正直な態度で接してもらえなかった。そんなきみを信頼する? いやだね、断わるよ。たとえ、できても、そんな気になれない。どういう理由で、信頼しなければならんのだ?」
彼女の目は、彼を見上げたまま、みじんもゆるがなかった。かすれた声もしっかりしていて、つぎのように答えた。「理由を聞きたいの? そうだわね。あなたがほんとうのところ、わたしを愛してなんかいなくて、ただ慰みものにしていただけなのなら、返事のしようがないわ。そして、ほんとうは愛していたとしたら、返事なんか要《い》らないのじゃない?」
スペードの眼球に血が射して、長いあいだつづけていた微笑の顔が、恐ろしいほどの渋面に変わった。彼はもう一度咳ばらいをして、「このさい演説は無意味だよ」と、彼女の肩に片手をおいた。その手が震え、ぴくぴく動いた。「だれがおれを愛そうと、おれには関係ないことだ。おれはきみのための道化役をつとめたくない。サーズビーやほかのだれかれが歩いたのと同じ道を、おれもまたたどるのはいやだと思うだけだ。きみはマイルズを殺した。だからその責任をとる。たぶんおれは、あの連中を無事に逃がし、警察の目を遠ざけておくことで、きみを助けることもできただろう。だが、いまはそれも手遅れだ。こうなっては、おれにもきみを助けるのが不可能だ。また、かりにできたにしても、そんな気持はない」
彼女は肩におかれた彼の手に、彼女自身の手を重ねて、「だったら、助けてくれなくてもいいわ」と小さな声でいった。「でも、邪魔をしないでね。このまま逃がしてもらいたいのよ」
「それはだめだ」彼はいいきった。「間もなく警察の連中がやってきて、おれがきみを引き渡さなかったら、おれ自身の破滅となる。ほかのやつらの道連れにされないためには、これしか方法がないのだ」
「わたしのために、考えなおしてもらいたいわ」
「きみのために、ばかな役割をつとめたくない」
「そんなこと、いわないで。お願いだわ」彼女は肩の上から彼の手をとって、それを自分の顔に押しつけ、「どうして、サム、こんなひどいことを、わたしにしなけりゃならないの? アーチャーはあなたにとって、それほど大事なひとではなかったはずよ」
「マイルズは――」とスペードがしわがれ声でいった。「いやなやつだった。共同事務所を開いて、一週間とたたないうちに、おれにはそれが判った。契約期間の一年がすぎると同時に、彼と手を切る考えだった。きみが彼を殺したので、おれはむしろ、やれやれと思ったくらいさ」
「それだのに、どうして――?」
スペードは彼女に握られている手をひっこめた。もはや、微笑も渋面も消えていた。汗に濡れた黄いろみを帯びた顔がこわばり、深いしわを刻んでいる。狂ったように燃えた目で、彼はいった。
「こんなやりとりには、なんの意味もない。おれのいうこと、聞いてくれ。きみには理解できないことかもしれないが、とにかくもう一度、いってみる。それでだめなら、諦めてもいい。いいかね。おれたち男というものは、自分の仲間が殺されたら、黙ってほっておくわけにいかんことになっているのだ。その仲間の男を、どう考えていたかは問題じゃない。しかもおれの場合は、たまたま商売が探偵だ。同じ事務所の人間が殺されたのに、その犯人を野放しにしておいたら、世間の笑いものになる。うちの事務所の恥だけでなく、探偵稼業の人間全部のつら汚《よご》しだ。つぎは第三の理由だが、おれは知ってのとおり探偵だ。その探偵が、せっかく犯人を追いつめたのに、そいつを逃がしてやれといわれたら、はい、そうですかと承知するだろうか。犬にウサギをつかまえさせて、逃がせと命令するようなものじゃないか。むろん承知する者が絶無だとはいわない。ときにはそのような事実もあった。だが、それはやはり自然なことじゃない。こんどの場合、きみを逃がしてやれる唯一の方法は、グトマンとカイロとあの若者を逃げのびさせることだったが、それはしかし――」
「あなた、どうしてもっと真剣になってくれないの? その程度の理由で、わたしがおとなしく逮捕されると考えているの? こっちはいのちがかかっているのに――」
「おれの話を最後まで聞いて、そのうえで意見をいってくれ。つぎは第四の理由。いくらきみを逃がしてやりたくても、そうしたら最後、おれ自身があの連中といっしょに、絞首台行きとなるのを免れない。それを避けるのは、絶対に不可能なんだ。理由はまだある。はっきりいって、おれはきみが信頼できない。いまここできみを逃がして、あとをなんとかつくろっておいたら、おれはきみに弱味を握られたことになる。きみは好きなときに、おれの弱味を利用できる。これで理由が五つ並んだが、六番目のやつは、おれもまたきみの弱味を握っているわけだから、いつなんどき、おれのからだに風穴をあけようという考えが、きみの頭に浮かばないともかぎらんことだ。それから第七に、百にひとつでもきみの頭に、スペードはけっこう甘い男だとの考えが浮かびはしないかと思うと、おれはたまらなく腹が立ってくる。そして第八には――いや、もうじゅうぶんだ。この全部が、秤《はかり》の一方にかかっている。たぶん、そのうちのいくつかは、とるに足らぬものだろうが、それについてはいま、議論してみる気持はない。だが、理由がこんなにたくさんあるのを忘れんでくれ。で、秤のもう一方には、何がのるんだ? おれたちに判っているのは、きみがおれを愛しているらしい、そして、おれもきみを愛しているのじゃないか、といったことにすぎないんだぜ」
「自分のことじゃないの」女はささやくような声でいった。「わたしを愛しているのかいないのか、判らないはずがないわ」
「いや、判らんね。きみみたいなきれいな女に、惚れて夢中になるのは簡単なことだ」彼は飢えた男のように、ブリジッドの髪の毛から足の先まで見上げ見下ろし、その目を彼女の目に向けて、「だが、それがけっきょくどういう意味なのかとなると、さっぱり判らぬ。だれか判るやつがいるだろうか? たとえば、おれがきみに惚れたとする。それにどんな意味がある? 一カ月後には、熱がさめているかもしれないんだ。おれには経験がある――長くつづいても一カ月かそこらだ。それから、どうなる? おれは阿呆の役割を演じていたと考えだす。そしてそのあげく、警察にあげられる結果になったら、それこそ本物の道化役者だったわけだ。また、おれがきみを警察に引き渡すとしたら、おれだってとても悲しいよ――眠れない夜ばかりがつづくだろう――だが、それもいつかは過ぎ去ったことになるはずだ。判るかい?」と、彼は彼女の両肩をつかみ、のけぞらせて、その上におおいかぶさるような姿勢をとって、「こんな言葉が、きみにとってはなんの意味もないというのなら、聞かなかったことにしておいてくれ。ただ、最後にひと言、いっておきたい。おれがきみを愛そうとしないのは、おれの全身が、結果なんかいっさい忘れて、ただひたすら、きみという女を愛したいと叫びつづけているからだ。それからもうひとつ――これはいうだけでも癪にさわるが――きみはほかの男たちのときと同様に、おれの愛情を計算に入れていた」彼は両手を彼女の肩から離して、両わきにだらりと垂らした。
女は両手で男の頬をはさんで、顔を自分の顔にひきよせた。「わたしの顔を見て! ほんとうのことをいって! あの鷹が本物で、あなたにも分け前のお金がはいったら、わたしをこんな目にあわせたかしら?」
「いまさらそんなことをいいだして、なんになる? おれは世間から見られているほどの悪党じゃない。もっとも、そういった評判が商売上役立ったことはたしかだ――割りのいい仕事が舞いこむし、敵方を扱うのが楽になる」
彼女は彼をみつめて、何もいわなかった。
スペードは両肩を少しゆすって、「多額の報酬も、秤のもう一方の側にのせるだけの価値があったしな」といった。
彼女は顔を彼に近づけた。ひらきかげんの唇を少し突き出して、小さな声でいった。「わたしを愛しているのなら、秤の一方に、ほかのものはのっていなくてもいいはずだわ」
スペードは歯をくいしばって、そのあいだからいった。
「おれはきみのために、ばかな役割を演じたくないだけだ」
彼女は徐々に、唇を男の口に押しつけながら、両腕を彼のからだにまわして、彼の腕に抱かれていった。そして、しっかり抱かれたとき、ドアのベルが鳴った。
スペードは片方の腕でブリジッド・オショーニシーを抱きかかえたまま、廊下に面したドアをあけた。ダンディ警部補とトム・ポルハウス部長刑事が、刑事をふたり従えて立っていた。
スペードがいった。「やあ、トム。つかまえたか?」
ポルハウスがいった。「つかまえたよ」
「そいつはよかった。さあ、はいってくれ。ここにもひとり、引き渡すのがいる」と、スペードはプリジッドを前に押しやった。「マイルズを殺《や》ったのは、この女だ。それから、証拠をいくつかつかんでおいた――若者のピストル二挺にカイロのが一挺、この事件をひき起こした黒い鷹の像、それから、おれが買収されたことになっている千ドル紙幣一枚だ」そして彼はダンディ警部補に向き直って、からだを前に乗り出し、警部補の顔をのぞきこんでいたが、いきなり笑いだした。「おい、トム。きみの遊び友達はどうかしちゃったのか? 失恋したみたいな顔をしているぞ」そして、もう一度笑って、「グトマンから話を聞いて、とうとうおれの尻っぽをつかまえたと思ったにちがいないな」といった。
「やめろよ、サム」トムが弱ったような口ぶりでいった。
「おれたちはそんなこと、考えてもいないんだ」
「彼が考えないわけがあるものか」スペードはさもおもしろそうにつづけた。「舌なめずりして、わが家までご到来になった。もっとも、きみのほうには、グトマンをあやつっていたのはこのスペードだぐらい、察しとるだけの頭があるだろうが」
「やめろというのに」トムはもう一度、スペードの言葉を制して、警部補の気持を気にして顔をうかがいながら、「とにかく、おれたちが事件の説明を聞いたのはカイロの口からで、グトマンは死んでしまった。おれたちが彼らの部屋に踏みこんだのは、あの小僧がグトマンを撃ち殺したばかりのところだった」
スペードはうなずいて、「彼は当然、それを予想しておくべきだったな」といった。
月曜日の朝の九時を少しすぎたとき、スペードが事務所にはいって行くと、エフィ・ペリンが読みかけの新聞をおいて、あわててスペードの椅子から立ちあがった。
「おはよう、おれの天使」スペードがいった。
「このこと――この新聞記事――ほんとなの?」彼女が訊いた。
「ほんとうですな、マダム」スペードは答えながら、帽子をデスクの上に投げ出して、いままで彼女がかけていた椅子に腰を下ろした。顔色は冴えないが、顔つきがきりっとひきしまり、まだいくらか充血気味な目も明るかった。
女秘書は茶色の目を、けさはとくべつ大きくみひらいて、口もとをおかしなふうにゆがめ、スペードのそばに突っ立ったまま、無言で彼を見下ろしていた。
スペードは顔をあげてにやにやしながら、からかうような口調で、「きみの自慢の女の直感というやつも、だいたいこんなものなんだな」といった。
女秘書の声には、顔の表情と同様に、おかしな響きがあった。「あなたなのね、サム。あのひとをあんなふうに処置したのは?」
スペードはうなずいて、「きみのサムは探偵だ」鋭い視線を彼女に向けて、腕を彼女の腰にまわし、手で臀に触れながら、「あの女はマイルズを殺した」といった。「とてもあっさり、こんなぐあいにだ」と、あいているほうの手の指を鳴らした。
エフィは自分が傷つけられたように、スペードの腕からとびのいた。「いやよ。さわらないで!」と、切れ切れの声でいった。「判っているわ――あなたの処置の正しいことは。それでいいのよ。だけど、いまはあたしにさわらないで――少なくとも、いまは!」
スペードの顔が、カラーの色のように蒼ざめた。
廊下に面したドアのノブががたがたいった。エフィ・ペリンはあわててふり向いて、外の事務室へ出ていった。さかいのドアを閉めたものの、すぐにまたもどってきて、もう一度、ドアを閉めた。
彼女は小さな声で、「アイヴァが来たわ」と単調にいった。
スペードはデスクに目を落としたまま、よく見ていないと判らぬ程度にうなずいて、「いいだろう」と応えると、ちょっと身震いしてから、「通してくれ」といった。(完)
解説
ハードボイルド派推理作家の第一人者として知られるダシール・ハメット Dashiell Hammett は、一八九四年にアメリカのメリーランド州の農家に生まれた。貧しい家庭に育ち、十四歳のとき、ボルティモア工芸高校に入学したが、父親の病気のため中退。以後、正規の教育を受ける機会はなく、鉄道の雑役夫、新聞売り、港湾労働者などの職を転々としたのち、一九一二年ピンカートン探偵社ボルティモア支局の私立探偵となった。
第一次大戦にアメリカが参戦すると、志願し、陸軍救護自動車隊に配属(軍曹)。結核にかかり病院生活を送る。終戦後除隊し、ふたたびピンカートン社に復帰(サンフランシスコ支局)。
一九二一年に入院時代の看護婦ドーランと結婚したが、まもなく別居、酒に溺れ、喀血に苦しみながら、探偵時代の経険を生かして、パルプ雑誌に小説を寄稿しはじめる。
一九二九年、最初の長編『血の収穫』を出版。労働争議終結後、ギャングの私有物と化した鉱山町の粛正に乗りだした|名無し探偵《コンチネンタル・オプ》の物語は、荒々しい暴力場面、同時代のへミングウェイと比肩する非情で乾いた文体、生き生きとした会話などから、ハードボイルド作家として有名となる。
同じ探偵コンチネンタル・オプを主人公とする『デイン家の呪い』(一九二九)、私立探偵サム・スペードを主人公とする『マルタの鷹』(一九三〇)、作者自身もっとも愛着を覚える賭博師ボーモントものの『ガラスの鐘』(一九三一)、夫婦探偵ニック&ノーラが活躍する『影なき男』(一九三四)などの作品をつぎつぎに発表。
ハメットの創作期間は、約十年と短く、三〇年代以降は、映画界で働いたが、フィッツジェラルドほかのハリウッドライター同様、目立った作品は残していない。
第二次大戦にも志願し、アリューシャン列島に配属される。軍隊新聞の編集に従事し、兵隊からパパと呼ばれて伝説的人物となる。ハメットは戦前から左翼思想の持ち主だったが、冷戦時代の赤狩りに巻きこまれて投獄され、晩年は不遇だった。女流劇作家リリアン・ヘルマンとの三十年にわたる親密な関係は、彼女の自伝三部作『未完成の女』『眠れない時代』などで、ハメットの死後明らかにされている。
ハメットの最高傑作と目される『マルタの鷹』は、探偵小説史の里程石とされ、一九三四年には、文学双書のモダン・ライブラリーにも収録された。サンフランシスコの私立探偵スペードを主人公とする本書は、中世騎士団からスペイン皇帝への貢物である金無垢の鷹《ファルコン》像の行方をめぐって展開される現代ピカレスクであるが、「すべてに絶望し、金と愛を求める現代人の寓話」(ロス・マクドナルド)の性格を帯びている。
編中の失踪人フリットクラフトの逸話や鷹像の抱く寓意性などは、当時のアメリカ社会に流れる(幻滅感)をよく象徴しているが、戯曲を思わせる緊迫した作品構成、スリリングな会話など、今日もなおハードボイルドの名作と呼ばれるにふさわしいポテンシャル・パワーを秘めている。
作中人物の善悪を超越した性格、人生観もユニークであり、なかでもスペード探偵像はレイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドなど後続作家の主人公探偵たちに大きな影響を与えている。またジョン・ヒューストン監督により(原作の会話を最大限に生かした)映画『マルタの鷹』(一九四一)は、ボガートの好演もあり、私立探偵映画の規範とみなされている。
「スペードは|夢想の男《ドリーム・マン》」(ハメット)であるが、アメリカ西部開拓時代における拳銃使いの末裔である私立探偵の現代的性格と生き方を表現した典型として、私立探偵小説のみか、冒険小説にもその影響は大きい。
『マルタの鷹』の時代と背景
ひたすら――わたしは炭焼きのラム・チョップを口に運んでいる。厚さ五センチの肉から肋骨《リブ》をはずしながら、確かにうまいけれども、少し高いな、いやこの店を発見して、予想通りの料理にぶつかっただけでもありがたいと思わなくっちゃ……とひそかに反芻《はんすう》する。
サンフランシスコのエリス通り六十三番地にあるジョンズ・グリル――いささか愚かしく思いながら、約半世紀の昔に小説の主人公が、せわしなく胃の腑におさめていた料理を楽しむ。
むろん――その主人公とはサム・スペード。サンフランシスコ大地震の二年後から、代替りはしたが、ずっとここで営業されつづけてきたジョンズ・グリルの献立表《メニュー》には、「サム・スペードのチョップス」がうたわれているのだ。
一九二〇年代サンフランシスコのオファレル地区は――特に北のサター街から南のマカリスター街、東のブキャナン街から西のピアス街にかこまれる中心地は、ユダヤ人の優勢な街区であったからこそ――盛り場としてのダウンタウンを誇っていた。
ホワイト料理店、シンドラー料理店などユダヤ料理の店、ボストン・ランチ(軽食堂)、ザ・ワゴン(ハンバーガー・サンドイッチのうまい店)などのなかに、ジョンズ・グリルもあって繁昌していた。
禁酒法時代のサンフランシスコで、酒と女に溺れながらパルプ雑誌に非情な私立探偵オプの物語を書きつづけていた元ピンカートン探偵社の調査員《オプ》は、商売柄サンフランシスコの街にくわしく、当然うまいものを食わせる店にも通じていた。
ハメットの興味深い点は、実在する街を背景とする作品の場合、登場する料理店、ホテル、事務所、アパートメント・ハウスなどの番地はほとんど書かずに存在する街路名だけしか挙げないことである。ホテルにいたっては仮名を用いている。『マルタの鷹』のグトマンの宿泊するホテル、セント・マークはセント・フランシスとマーク・ホプキンズを合成し、カイロの宿舎ベルヴェディアはベルヴューをモデルにした。
ところが、料理店となると、そのほとんどは実名を使用している。淡青色のゼリーをフォークの先にのせながら「悪いのは、もちろん警部補のほうさ、だがなあ、あんたの態度だって似たようなもんだぜ」と忠告するポルハウス部長刑事と「警察に気がねして探偵商売がつとまるかい」と切り返すスペードの間には、ステーツ・ホフ・ブラウの店の酢漬け豚足の皿がある。この店はマーケット街から四番街へ一ブロックほど下ったところに当時はあった。
短編『スペードという男』(一九三二)でスペードは、秘書ペリンとジュリアスの城で夕食をとる。テレグラフ・ヒルのすぐ下にある城めいた外観の木造料理店。グリニッチ通り三〇三。コイト・タワーが建築中(一九三三年完成)で、当時のジュリアスの城はかなり高級な料理店だった。
電話帳のイエロー・ページで調べてからこのコンチネンタル料理の店に出かけたのだが、さすがというべきか、商売が下手と嘆くべきか、給仕もレジ係も、店が小説に登場していることを知らないばかりか、ハメットの『マルタの鷹』すら「わかった、ハンフリー・ボガートの映画だね」と答えるしまつ。
サンフランシスコでもこうなんだから! とジャパンから西海岸ミステリー散歩に出かけてきた自分が、とんだ閑人に思えてくる。
ジョンズ・グリルなら、献立表の一面に幻想作家フリッツ・ライバーのスペード讃歌をのせ、二階を「マルタの鷹記念宴会の間」として、映画「マルタの鷹」のスチール写真、ハメット著作本、ジョー・ゴアズの『小説ダシール・ハメット』などで飾り立てるのだ。英語の下手なメキシコ人のマダムから英語のできないわたしが苦労しつつ、壁面を埋める写真などの説明を受けている図は、いささかいただけないが、それでもこっちは、なにがなしに楽しい。
一九七七年に「ハメットのサンフランシスコ」なる二泊三日のツアーが開催され、セント・フランシスを宿舎とし、このジョンズ・グリルで夕食会が開かれ、『ハメット事件簿』の著者で元私立探偵のゴアズが一席ぶったときけば楽しいし、その後、ゴアズとピンカートン探偵社サンフランシスコ支局のジャック・キャプランが、ダシール・ハメット協会を設立し、本部をジョンズ・グリルの「マルタの鷹記念宴会の間」に置いたと知れば、いっそうハードボイルド好きにはうれしい。
このように――サンフランシスコの街を歩きながら、ハメットやサム・スペード、オプの足跡をたどることは、現在でも可能なのだ。一九二一年、太っちょの喜劇役者ロスコー・アーバックルが女優暴行致死罪で裁判にかけられた事件がある。新聞記者の罠にはまったことが判明し、無罪となるのだが、この事件に関係したのが探偵ハメッ卜であり、犯罪舞台が先ほど名前のあがったセント・フランシス・ホテルなのである。
また、ハメットの住んだモンロー通り二〇、エディー通り六二〇、ハイド街一三〇九、ポスト街八九一……などが、今どうなっているか、その気になれば確かめることもできる。
カリフォルニア大学バークリー校までマルタの原像の由来をたずねに出かけた秘書ペリンは、マーケット街の突きあたりにあるフェリー・ビルからフェリー・ボートに乗る――昔日の面影は失われているが、オフィス・ビルとなったマーリー・ビルは残っているし、カー・フェリーこそないが、観光客相手のフェリー・ボートがティブロン、サウサリトなどに向けて出航している。
アーチャーが殺害されたバーリット小路の入口には、それを示す銘板が打ちつけられている。
だが――現代の読者が『マルタの鷹』を読んでも判然としないことがいくつもある。当時の風俗・習慣・言語などが時代の推移によって色あせてしまい、読みとることが不可能になってしまったからである。
たとえば、グトマンの用心棒であるウィルマーに、スペードが「ボームス法のおかげでニューヨークから流れてきたんだな?」とからかう場面。この宇野利泰訳ではじめて訳註がつけられたが、ボームス法とは一九二六年、ケーレブ・H・ボームスが制定したニューヨーク州法の一つで、常習犯罪者を取り締まるため、累犯のたびに刑が重くなる仕組みになっている。このためにニューヨークの犯罪者が他都市に流れていったという。
一九二八年に殺されたニューヨークの大物賭博師アーノルド・ロスティーン。自ら賭博場を幾つか経営し、不動産業を営み、厩舎も持ち、競馬の勝馬に十四万ドルを賭け、ダイス一振りに十万ドルを投じたと伝えられる人物である。また一九一九年のシンシナティ・レッズ対シカゴ・ホワイト・ソックスのワールド・シリーズ八百長事件――つまりブラック・ソックス事件の裏で動いたと噂された人物でもある。そのロスティーンが、実はルススティーンと発音すると、本書で知っておどろく読者もいるはずである。
一九四一年、青年監督ジョン・ヒューストンが『マルタの鷹』を映画化したとき、腐心したのは、いかに小説中の科白《せりふ》を生かすか、ということだった。ハメットの会話文がいかに作中人物にふさわしいものであったかの証左の一つである。アメリカとアメリカ国語を理解しないイギリス作家キングズリー・エイミスは、「すべて安上がりに作ったテレビ・ショーの会話に出てくるようなことば」とスペードの信条・行動・態度を一蹴しているが、なるほどエイミスのパズル小説を読むかぎり、江戸川乱歩のごとくハメットを理解できなかったのも無理もない。エイミスにとって、探偵小説は何よりも形式と規範が優先する小説であった。
一九二〇年代は第一次世界大戦のおかげで、ようやくアメリカ文化がヨーロッパ文化に認識を改めさせることができるようになった時代である。それがハンバーガー文化であれ、野卑なアメリカ語であれ、ともかく植民地文化とは異なるアメリカ文化が確固として存在することをヨーロッパは、アメリカの富の偉大さと同時に覚らされたのである。アンドレ・ジッドのハメットの文体礼讃(それがメインストリーム作家へミングウェイと抱き合わせのものにせよ)は探偵小説におけるアメリカ文化の認識でもあった。
ハメットの『マルタの鷹』における功績は思わぬところにある。
「ハードボイルド小説とはなにか?――非情で簡潔な文体に与えられた小説を指すのか、非情な主人公の活躍する小説を指すのか、それともこの二つの異なった要素を充足させる小説一般を指すのだろうか?……だが、ミステリーの世界にかぎっていえば、次のことが観察できるのではないだろうか? かつてシャーロック・ホームズは、ピストルの弾丸を居間の壁にぶちこみVR(ヴィクトリア女王治世)を言祝《ことほ》いだ。なぜなら、ホームズはなによりもまず臣民《サブジェクト》であったからである。国家への忠誠心は、おのれの信条より上位に置かれていたのだ。ハメットがしがない私立探偵サミュエル・スペードに課した意識――それは市民《シチズン》としてのありかただった。おのれの信条を第一とし、友誼を重んじ、仕事を愛した私立探偵にとって、警察当局の権威がなにほどのものでもなかったことは当然の帰結である」(『ハードボイルドの探偵たち』序文)
以前発表した文章の引用だが、主人公の意識が臣民意識から市民意識へ変わったことが、基本的に重要な点である。虚構のアメリカ私立探偵たちは、西部の拳銃使いにその源を発している。法のとどかぬ地域社会にあって、国家権力は拳銃使いにとって生活上対立することはあっても、味方には決してなり得なかった。信用できるのは小さな地域社会(これは自警団に直結する)とおのれの信条などである。
ハメット以前の探偵小説と作中の探偵たちがヨーロッパの影響下にあり、有閑階級に属していることを考えれば、ハメットが遅ればせの小革命(小説の主人公の意識・行動が個人主義に律せられている)をやってのけたことが理解できるだろう。
一九二〇年代は、女性史からみてフラッパー時代とも呼ばれることがある。女性意識に目覚め、肌色のストッキングを膝まであらわにし、口紅を塗ることを覚え、性の解放を望んだ若い都会女性たちである。職業婦人(タイピストは最先端を行く女性)も、そのなかにかなり含まれよう。
だが、大勢はまだ未婚女性の純潔を清教徒的に守っていた時代である。人前での大ぴらなキスは、認められて習慣化されていない。
第一次大戦後、淳朴で禁欲的なアメリカの風俗・習慣が若者たちの手でくだかれつづけてきたとはいえ、まだまだ彼らの所業は眉をひそめて見られがちだったのである。
元ピンカートン探偵社の調査員ハメットは、人生の暗い部分を八年間みつめてきた。一種の戦争ともいえる鉱山・鉄道業界の労働争議では、資本家側に組みこまれて、スト破りもしたし、犯罪者追求にさいしても、敏腕をふるってきた――当然実証主義に徹しなければ、生きのびることはできなかった。裏切り、虚偽、罠などが調査員の行く手に待ちかまえていた。ハメットの小説世界が、旧来の甘美な感動を読者に与えないとしても、「それが現実の社会」であり、好悪・美醜・善悪の観念はハメットの世界では重きをおかれなかった。
『マルタの鷹』におけるサム・スペードが、「……モデルはいない。私と同じ釜の飯を食った探偵たちの多くがかくありたいと願った男、少なからぬ数の探偵たちが時にうぬぼれてそうあり得たと思いこんだ男、という意味で、スペードは|夢想の男《ドリーム・マン》」(『マルタの鷹』序文)とロマンティックな存在である一方、その存在すら、登場人物たちと拮抗すべくタフにならざるを得なかった。
ベッドを共にすることが、結婚を意味する時代に、また探偵が社会倫理に忠実であることを要求されていた時代に、愛して寝た女を警察に突きだしたスペードの所業は、当時の読者にとってショックであった。
現代でこそ、ホモ探偵を売りものにする作家も登場しているが、当時、勧善懲悪の探偵小説に男性同性愛者を登場させることは、まさに離れ技ともいうべきものであったことも現代の読者にとって、もっとも想像ができぬ問題であろう。『マルタの鷹』を風俗小説としてみる場合、これまで触れた項目は風化した瑣末事として片隅に追いやることも可能だが、ハメット・ファンの目には、それらの一つ一つが魅力的に映ってしまうのだ。
ホームズ物語におけるバリン・グールドの『註釈シャーロック・ホームズ』には及ぶべくもないが、せめてマイクル・ハリスンの『シャーロック・ホームズの足跡』ほどの写真・図版を収録する『註釈「マルタの鷹」』を、いつかものにしたいと、今、ひそかにわたしは目論んでいる。(各務三郎)
◆マルタの鷹◆
ダシール・ハメット/宇野利泰訳
二〇〇五年一月二十五日 Ver1