ある羊飼いの一生
W・H・ハドスン/水嶋正路訳
目 次
一章 ソールズベリ平原
二章 私の見るソールズベリ
三章 ウインタボーン・ビショップ
四章 草原の羊飼い
五章 子供の頃の思い出
六章 羊飼いアイザック・ボーカム
七章 シカ盗人
八章 羊飼いと密猟
九章 キツネを語る羊飼い
十章 草丘の鳥類
十一章 ホシムクドリと羊の鈴
十二章 羊飼いと聖書
十三章 ワイリー川の谷
十四章 牧羊犬の生活
十五章 ネコについて
十六章 ダヴトンのエラビイ家
十七章 昔のウィルトシァの日々
十八章 昔のウィルトシァの日々(つづき)
十九章 羊飼いの帰郷
二十章 村の色の黒い人たち
二十一章 牧羊犬
二十二章 博物学者としての羊飼い
二十三章 村の支配者
二十四章 アイザックの子供たち
二十五章 過去に生きる
訳者あとがき
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一章 ソールズベリ平原
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はじめのことば──ウィルトシァ州は観光客に人気がないこと──草丘地帯の光景──悪天候──鳥追い少年──軍用地になった影響──一世紀間の変化──鳥──昔のウィルトシァの羊──井戸のなかの羊の角──耕作による変化──草丘地帯の家ウサギの巣穴──耕作と家ウサギのために古墳が消滅すること。
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ウィルトシァ州は英国地図で見ると大きく見える。緑の大きな州に見えるが、いなかを歩きまわる人たちには、全然、人気のない州らしい。ともかく、この土地の出身者とか、住人とか、あるいは前にここのモールバラ市〔一五五一年創設の公立中等学校、また一八四三年創設の寄宿制の有名な私立中等学校モールバラ・カレッジというのがある〕にいったことがあって、若い頃の縁でここが好きになった人は別として、そうでもないのにウィルトシァ州が好きな人など、一人も私は思いつかない。この点、私自身も例外ではなく、私の体のなかには一種の適応性というか、草の生えているところなら、どこにでも落ち着けるような感覚があって、私もある意味では、ここの土地者である。また、五、六人の友人が集まって、今までに行った場所、あるいは、これから行こうとする場所について話し合っているのを聞いてみるがいい。いろんな州、町、教会、城、風景──とにかく、自分を引きつけ、満足させてくれるいろんなものについて、感想を話し合っているのを聞いてみるがいい。ウィルトシァ州など、まず話にも出てこないのが普通である。みんな「ある程度」のことは知っている。ソールズベリ大聖堂やストンヘンジ巨石群は見ている。こういうものは一生に一度は見ておかねばならない。しかし、それ以外となると、温泉地バスとか山国のウェイルズ、あるいは大多数の英国人が最も愛するサマセット、デボン、コーンウォルなどの西部地方に汽車でゆく途中に、車窓からウィルトシァの田舎景色を見たことがある、という程度にすぎない。これは無理もない話で、ウィルトシァには人目を引くものは何もないのである。とにかく、自然を何よりも愛するという人には何もない。山もなく海もなく、これから先を急ぐ西や北の土地に比較できるものは何もない。草丘地帯がある、と言う人がいるかもしれないが、なるほど、それはある。薄みどりの大波、また大波が凝固したような形になって汽車の窓いっぱいに流れるようにひろがっている草丘地帯がある。歩くだけでも充分な楽しみだという人には、この草丘地は天気のよいとき、歩いてゆくにはすばらしいところである。しかし、それだけでは不満だという人は、こんなところは問題にもしないだろう。草丘地が見たいのなら、ロンドンから一時間としないところに、もっと高く美しいサセックス山系がある。それにこのウィルトシァの草丘地帯の何もない、むき出しの景色に嫌悪をもよおす人もいる。そういう人はギルピン〔一五一七〜一五八三。バーナード・ギルピン。毎年僻地を説教して回った英国の牧師〕同様、装飾のない土地はお気に召さないのである。「白亜は何もかも台なしにする」とギルピンは言う。私や、白亜を愛する人間に言わせれば、ギルピンの趣味は間違った、バカげたものではあるが、しかし、この言葉は、たしかにこの土地の空漠、静寂に慣れない人たちの共通の感情を表わしている。
この草丘地を歩くという段になると、晴れた日は、ここではあまり多くはなかったという記憶がある。晴れた日が当てにされる季節でもそう多くはない。──たしかに、この一九〇九年という雨の多い、気分の悪い一年は、上天気の日などほとんどなかった。じつは、この白亜の草丘地帯で初めて私は英国の気候に反感をおぼえたのだが、こんな気持になったのは、この土地が初めてだった。なにしろ、屋外を愛する人間は、あらゆる天気を上天気と心得ていて、どんな天気でも、それぞれに独特の魅力を感じるのが普通である。秋分の強風の吹く十月の荒れた日に外に出て、身をねじ曲げている木々の間に咆える風の声を聞いたり、枯れ葉が疫病にかかった群衆のように黄や黒や赤に飛びちり、吹きつける突風に吹き送られて、一群、また一群と飛び去ってゆくのを眺めたり、あるいは嵐のように叩きつけてくる雨、それこそ雹のように叩きつけてくる雨を耳に聞き、目に見、体で感じるのは、なんという喜びだろうか。それからまた、静かな灰色の十一月の天候は、冬を控えた緊張と憂鬱のときだが、自然が不安を感じて息をひそめているような不思議な静寂感があって、これがまた、なんともいえぬ楽しみである。こういうふうに、一年じゅう、いつでも、どこの土地でも、どんな天候の時でも、屋外にはたのしみがある。ところが、このウィルトシァの白亜の草丘地は例外で、その荒涼たる丸裸の土地には、なんのたのしみもない。ここでは、風や、叩きつけてくる雨に人間に対する悪意が感じられて、こちらは惨めさに負けそうになる。ここでは、さびしさ、単調さ、孤独感を感じさせられる日が多く、雨が降っていない時でも、そんな気分になることがある。こういうわびしい時に、一人の鳥追いの少年に出会った面白い経験がある。
三月の寒さのきびしい日で、もう何日も寒風が吹いて、空は鋼のような、固い灰色だった。エブル川の流れに沿って私は自転車を走らせていたのだが、とうとうそれを降りて、急な長い坂を押して上がり、今度は高原のほこりっぽい道を走りだした。激しい向かい風が吹いていた。土地は全て耕されて、ひろびろと広がっている。灰色の巨大な畑が一つ一つ針金で仕切られて、果てしなく広がるという有様で、これ以上わびしい景色は想像するのもむつかしいと思った。その景色のなかに生きものが一つだけ見えた。人間だ。一人の人間が、ずっと左の方の大きな畑の真中に鉄砲らしいものを持って立っている。少年だな、と思ったとたん、むこうでも気がついたらしく、クルリと向きを変えて道の方へ全速力で走りだした。なにか話でもあるのだろうか。走る距離は四分の一マイルほどある。こちらに間に合うだろうかと思ったが、むこうは足が早かったし、こちらは向かい風を受けていたので、ちょうど少年が道に着いた時に、こちらもそこに着いた。道の柵の横にハアハアと息をはずませながら、ととのった顔を赤くほてらせて立っている。十二、三歳の子で、大柄なりっぱな体格をして、鳥追いの少年にしては、なかなかいい服を着ていた。たしかに鳥追い少年で、一挺の変わった、重そうな銃を持っていた。私は自転車を降りて、相手が話しだすのを待ったが、むこうは黙ったまま、満足そうな顔でニコニコしているだけだ。
「うん?」
とさそいをかけても、なにも答えずニコニコしている。
「なにか用があったのかね」
と、しびれを切らして聞くと、
「なにもないよ」
「しかし、こっちを見たとたんに一生懸命に走ってきたじゃないか」
「そうだよ」
「それなら、なんのために、そんなことをしたんだね。なんのために走ってきたの?」
「おじさんが通るのを見ようと思ったんだ」
ちょっと妙な話で、初め私はまごついたけれども、少し話をしてから別れた時には、かなり私は愉快な気分になっていた。重い銃を持って、畑のなかの長い距離を走ってきて、こちらの通るのを見物してくれるというのは、ちょっと珍しい、うれしい経験である。
しかし、これは、あの状況では妙な話でもなんでもなかった。あの灰色の、風の強い、わびしい風景のなかに何時間も立っていれば、きっと何日間も立っているような気分になったことだろう。とすれば、誰かが通りかかったとき、もっと近くで見ようと思って道まで走って出てくるのは、ちょっとした退屈しのぎ、ちょっとしたたのしい刺激になるし、ほんのしばらく人間仲間の感覚を味わうことにもなる、と考えると、あんな高地のわびしいところに一人きりでいる少年が少しかわいそうになってきた。が、そのうちに、いや、あの子は同じ年頃の子供たちより幸せなんだ。学校でつまらない本を懸命に読んでいる大抵の仲間よりましなことをしているんだと思いだした。農村地域には、もっとまともな教育制度、つまり一日のうちの一番いい時間の全部、子供たちを部屋のなかに閉じこめておくようなことはせず、外に出して、いろんなことを見たり聞いたり、やらせたりする制度が望ましい。そのほうが農村の子の将来にはるかに有益なんだから、と考えだしたのだった。この点、スクィアズ〔ディケンズの小説『ニコラス・ニクルビイ』の中に出てくる悪徳校長〕の方法のほうが賢明だった。ラング氏〔アンドリュー・ラング、一八八四〜一九一二。スコットランド生まれの詩人、翻訳家、民俗学者。ディケンズ全集の序文を書いている〕は、ペクスニフ〔ディケンズ作『マーチン・チャズルウィット』に出てくる偽善者〕のことを評して「永遠のよろこび」だと言っているが、これと同様、世間の人もスクィアズの教育法より、そのたのしい戯画像のほうに気をとられて、それを「永遠のよろこび」としている。しかし、ディケンズはロンドン人なので、教育問題にせよ、何にせよ、ロンドン人の観点でしか考えられなかったのである。しかし、教育方法自体としては、オクスフォード街の申し分ない服地屋の店員をつくり出したり、もっと上のほうにいって、法律事務所の有能そのものというべき事務員ガピイ氏〔ディケンズ作『荒涼館』に出てくる年季契約の事務員〕をつくり出したりする、このスクィアズの方法以上によい教育法が、英国の子供のために果たして考えられるだろうか。たしかに人間の内部には「大自然」の無意識の知性が働いていて、これが意識と逆の作用をする。十四歳になって子供がやっと学校から解放されると、やがてこの「大自然」が動きだして、子供が本式に働き始めたとたんに、これまで詰めこんできた無用の知識を外に押し出し、これまでの誤りを正してくれる。たしかに、そのとおりなのだが、それにしても、時間と精力と金のなんという浪費だろうか。
わが国の鈍感な知性がいつの日か目ざめて、地方人が都会人に対して「あなた方の子供の教育に関して、法律や制度をつくるのはけっこうだ。そのまま続けてください。あなた方の子供は、親と同じように家のなかで暮らすのだから、それでいい。しかし、わたしらは自分の子供たちのために別物を考えますよ。子供に強い筋肉をつけてくれる制度です。豚肉や羊肉を生産したり、イモやキャベツなど、みんなの食物を育てることを教えてくれる制度ですよ」と言い出す日のくるのを願うばかりである。
話を草丘地帯にもどそう。他所者は草丘地が空虚でさびしいのに怯えて近づかないのだが、ここに親しんで、ここを愛するようになった人たちは、空虚でさびしいからこそ魅力をおぼえるわけである。さびしいということで、もう一つの側面が思い浮かぶのだが、それは、朝早く日光が部屋に差しこんできて目をさまし、外を眺めると、青空がひろがっていて雲もない、あるいは、白雲が浮かんでいるというあの時の気分である。気のせいか、対照のせいか分からないけれども、前からいつも思っていることだが、この白亜の高地は下界とくらべて空気や水が清らかに澄んで、空の青さも深いが、そればかりでない。色彩や物音までが、他の場所とは比べものにならないほど純粋で、新鮮で、強烈である。コウリンタンポポ、ハンニチバナ、ミヤコグサなどの黄色。ヒメハギやクルマバソウの青、白、バラ色の無数のあざやかな斑点。それから緑の草の中に燃えるような大きな紫の花を咲かせているコビトアザミにもそれは見られるし、それから、あらゆる鳥の声にもそれは感じられ、キアオジ、ホオジロ、イワヒバリ、ミソサザイ、ノドジロムシクイの小さな歌声にも下界とは違うものがある。
だがいま私は、ここの草丘地を歩く楽しみについて書こうとしているのではない。それについては、南部草丘地帯を描いた『丘陵地の自然』という以前の著書のなかでいろいろと書いた。いま私が書こうとするのは南ウィルトシァ草丘地帯の、もしくはソールズベリ平原の、人間や、その他のものの生活についてである。ウィルトシァ州では私はこのあたりに最も引かれるのだが、草丘地ならば北のほうのモールバラ草丘地帯のほうがもっと大きいし、こちらのほうがウィールド地方から見た雄大なサセックス山系に似ているのに、と大抵の人は言うことだろう。しかし偶然、私は、それよりもっと南へきて、田舎村の人の性格や生活を知ったおかげで、ここが一番好ましい場所だと思ったのだった。
ソールズベリ平原自体は、はっきりと定義できるような地域ではなく、お好み次第で、広くも狭くも考えることができる。もし間を割る谷間などの入らぬ連続的平原ということなら、エイヴォン川とワイリー川とにはさまれた幅約十五マイル、長さもほぼ同じ位の地域になるはずだし、その中央にティルズヘッド村がくる。いろいろな谷が入ってもかまわないのならば、ソールズベリ市の南のダウンタンとトラード・ロイアルから北のピュージイの谷まで、さらに東はハンプシア州境から西はドーセットとサマセットの両州境まで、つまり東西南北二十五マイルないし三十マイルの地域になる。私が歩くのはこの大きいほうのソールズベリ平原で、ここにはエブル川、またはエベール川が流れ、ソールズベリ市やブロード・チョーク村などの「各チョーク村」近辺のオドストック村、クーム・ビセット村からドーセット州境に近い美しいアルヴディストン村にいたるまでの無数の趣き深い村々が入る。それからナダー川の流域から西のほうのミア村の上に立つホワイトシート山に至るまでの地域の、あのすべての村々が入る。この白亜の高地を一つの開いた手のひら、左の手のひらと考えてみるのがよい。手のひらのくぼみに入るソールズベリ市は手首に一番近い所に位置する。高地を割って通る五つの谷は五本の開いた指に相当し、小指に当たるバーン川の流域から順にエイヴォン川、ワイリー川、ナダー川、エブルの流域とつづくが、エブル川は、親指のように、下の方から入りこんできて、ソールズベリ市の下で主流とつながる。
この高地は、いまその大部分が過渡期にあり、かつては羊の飼育場だったのが、今は陸軍練兵場になっている。高地の芝地は滑らかで弾力があり、完全に手入れのできた芝生より歩きごこちがよいが、羊が去ると、弾力と滑らかさは消える。羊は地面ぎりぎりまで草を食べるので、各種の牧草類、クローバー類、その他無数の小さな雑草類──とにかく草丘地に生えるあらゆる植物には地面すれすれに這って、そこで花を咲かせる習性がついている。しかも、そのあらゆる種類の草一本一本が、あらゆる生きものに宿る無意識の知恵を働かして、自分の葉っぱと伸びかけた小枝とを、お互いに他の相手の下にもぐり込ませてこれを隠そうとつとめ、地面ぎりぎりまで食べる羊の口元から逃れようとする。しかし、なかには、花を咲かせ種を結ぶには、地面を這いながらも、どうしても高く茎を伸ばすことが必要なものもある。オオバコがその一例だが、開花期のオオバコを見るとこれが分かる。一本一本のオオバコが、いそがしく食物を求める羊の口からのがれようとして、地面すれすれに葉を伏せて生えているが、開花期がくると、いっぺんに真直な茎を高く伸ばして花を咲かせ、たちまち種を結ぶ。この時期の羊の群れを見ると、一頭が歩きまわって、花の咲いた穂を鋭く噛みきって、さっさと食べていき、二十秒に一ダース位の速度で平らげてゆく。だが羊の群れは草丘地全域を同時に食いまわるわけにはいかないし、無数のオオバコが一時に茎を伸ばすのだから、時間も足らないというわけで、羊の難からのがれるものも多い。その上、オオバコには多年性の深い根があるので、長い間一粒も種ができなくても命を保つことができる。この点、オオバコに限らず、高い花の茎を伸ばす必要のあるほかの草も同様である。やがて花の時期が終わり、種が熟したり散ったりして、枯れた茎が、密生した毛皮から毛が長く伸びたような恰好になって、あちこちに散らばって残っているが、芝地は以前と変わらない。ところが羊が来なくなると、これはまるで圧迫あるいは危険が去ったも同じで、オオバコは自由と自信をとりもどし、古い習慣を振りすてる。仲間をだし抜こうとして芽を出し、伸び上がり、できる限り露と雨と日光をわが物にしようとする。その結果、草ぼうぼうの草丘地となる。
軍隊に占領されたもう一つの結果は、「平原」の野生動物の消滅であるが、これはこの前の著書『英国を歩く』のストンヘンジの章で書いたから、ここで触れる必要はない。昔のままのソールズベリ平原を愛するものには、白いテントとかトタン兵舎の並ぶ軍用地を眺めたり、カーキ色の兵服を着た兵士たちが行進したり、教練を受けている様子を見たり、銃声を聞いたりすると、この土地も魅力がなくなった。ここの自然も消えてしまった、という感が深い。
一方、この土地の人間生活にも、それに対応した変化が起こっている。この変化を進歩とするか堕落とするかは、人の見方でどちらにでもなるが、大変化には違いない。だが私にすれば、これは草丘地で起こりはじめた変化、つまりかつての羊の土地が、もうそうではないという変化同様、考えるのも不愉快なのであって、この点、私と同意見の人はきっと多いことと思う。このためもう私は「平原」の陸軍省が所有している辺りの土地には出かけないようにして、白いテントの野営地の見えない、模擬戦の銃声の聞こえない、もっと南のほうに散策を限るようにしている。ソールズベリ平原のこのあたりは、この一千年来変らぬ姿を保っている。つまり、英国のどの土地よりも盛んに、ここで牧羊がはじまった当時そのままの姿をとどめているわけだが、それは今から千年以上は優にさかのぼることだろう。
しかしそうはいっても、ここにも変化はいろいろと起こった。とくに前世紀、もしくは十八世紀から前世紀にかけて大変化がいくつか起こった。土地の変化と野生および飼育動物の変化である。野生鳥類が消えていったことについては章を改めて書くが、なかでも一番りっぱな大型鳥は全滅の状態であり、とくに空高く飛ぶ鳥は今やこのひろびろとした全ウィルトシァの上空から完全に消滅してしまった。それから私はまた博物学者として、古いウィルトシァ種の羊が消えたことも悲しまずにはいられない。もうずいぶん前に姿を消したものだが、かってウィルトシァにはこの種の羊しか知られず、州全域にひろく飼育されていた。大型の羊で、上等のウールにおおわれた英国の羊としては、これ以上大きなものはなかったが、見かけという段になると、現代の草丘の羊とくらべて、たしかに見劣りがするし、また飼育業者あるいは改良家が不満とする点がいろいろ多かったといわれている。頭が大きくて不恰好で、鼻はまるくて、脚は太く長かった。腹には毛が生えず、オスにもメスにも角が生えていた。角はオスが生やしていても現代の英国南部の飼育家はきらう。それに、ふとらせるのがむつかしいときていた。しかし、古くから、むき出しの広々とした草丘地にいた種類なので、とぼしい食物、吹きさらしのむき出しの地形、放牧地までの長い道の往復というような条件には慣れていた。体は頑健で頭もよく、外見や性格は、私が子供のころに知っていた南米の草原の、古い、羊の原種に似ていた。この南米種は毛質が粗く腹部に毛がなく、丈が高くて頑健な品種だが、これは三世紀前にスペインの移民が連れてきた羊に大改良を加えたものである。とにかく、古いウィルトシァの羊にはそれなりの長所があって、十八世紀末にサウス・ダウン種が持ちこまれた時はこの新種には人気がなく、古い土着の羊が好まれ、農家はこれを失いたくなかった。ところが、けっきょく、消えていかざるをえなかったのは、後にサウス・ダウン種がまた新たなハンプシァ・ダウン種の登場のまえに消え去ったのと同じ運命だった。今では少なくとも南ウィルトシァでは、このハンプシァ・ダウン種が一般化している。
純粋の古いウィルトシァ種が一群だけこの土地に一八四〇年まで残っていたが、今ではもう完全に消滅して、そんな品種の噂さえ耳にしたことがないという羊飼いが多い。そう何日も前のことではないが、私はこの過去についての無知の奇妙な実例に出会った。エブル川のほとりのブロード・チョーク村の上にある高い草丘で、一人の羊飼いと私は話をしていたのである。この男は押出しのりっぱな、知的な男で、羊とか羊の番犬のことについて強い関心があった。彼が語るには、自分の犬は雑種であるが、母犬の筋からウェイルズの牧羊犬の血を引いている。親父はいつも、昔ウィルトシァで普通だったウェイルズ犬を使っていたけれど、あれはずいぶんいい犬だったのに、どうして、いなくなったのだろうと言うのだった。この話に誘われて、私は古い羊も消えていったのだというような話をしたわけだが、そんな羊のことは聞いたこともないと言うので、いろいろと特徴を説明してやったのである。
聞きおわると羊飼いは、これで何年か謎に思っていたことが分かったと言った。この草丘の今立っている所から近くに、一つの深いくぼ地がある。そのくぼ地の底に昔、羊に水をやるのに使っていた古井戸が一つある。脇から土の固まりが落ちて、そのまま何年位放ってあったのか誰にも分からない。五十年、いや百年位そのままだったのかもしれないが、何年か前に、自分の主人がこの古井戸をさらえようという気を起こした。底で仕事をするものの安全のために、まず井戸の内側の壁に板張りをしてから大変な労力をかけて井戸さらえをしたが、その時、底からずいぶんたくさんの雄羊の角が出てきて、これを引き上げたことがあった。どうして、こんなにたくさん角が集まったのか。雄羊は非常に少ないものだし、そう簡単に死ぬものでもないのに、何百本もある、と主人も使用人たちも不思議がったものだが、これで合点がいった。昔の羊はオスもメスも角があったということなら、これ位は簡単に集まったかもしれない、と言うのだった。
しかし、この百年間の変化の最大のものは、何といっても農業のために生じた草丘地の外見の変化だろう。七月、八月に黄金色にひろびろとひろがる穀物畑、とくに小麦畑は、見てたのしいものだが、耕された草丘というのはみにくい。それに、耕作されていない土地が、よそにまだたくさんあるのに、とくに穀物に適する水分の多い、粘土質のミドランド地方に、土地がまだたくさんあるのに、この古いりっぱな芝地、何世紀もかけてゆっくりと出来あがったこの芝地が羊の飼育場として永久に滅びてしまうというのは、純粋に経済的な点から見ても誤りだと私は思う。高い草丘地帯の芝地を崩してしまうと、破滅的な結果を生むことが多い。これまで、きっちりと目のつんだ固い芝地で守られていた薄い土壌が、風で吹きとばされたり、雨で流されたりして、手当てをしても追いつかず、年々地味が痩せてきて、ついには耕作する値打ちもなくなってしまうのである。それなら肥料としてクローバーを生やせばいい、と言う人がいるかもしれないが、やはり土地はどんどん悪化していく。それではというので、今度は、借地人や地主はここを家ウサギの飼育場に転用するかもしれないが、これは最もまずい方法である。第一、見た目にきたない──このひろびろと広がる草丘地が太い針金やウサギ網にかこい込まれて、生えるものといえば、かたい雑草やコケや地衣くらいで、ほかには何もなく、地面はいたるところ、だらしない小さなウサギたちに掘り起こされるという始末である。それでもしばらくは利益が上がる──「私一代くらいの間は役に立つだろう」と土地の持ち主は言うがけっきょく、土地は完全に荒廃するのである。
それから、古代の土塁、とくに土まんじゅう型の塚の破壊も悲しむべき事態であり、これは草丘地全域にわたって進行しているが、土地が耕作で掘り起こされる場所が最も破壊が急である。こんにちのわが国では、人類史についての関心が日毎に高まっている。もしこの興味がこの先きもつづいた場合、われわれの子孫は、今世紀後半の子孫に限ってみても、こんにちのこの信じられないような無頓着ぶりをなんと批評するだろうか。私たちのことをなんと責めるだろうか。これ以上言わないことにするが、今の人間にとって実に小さな問題が、将来の人間には重大な問題になるのではなかろうか。今後どうなるか、そんなことは知らないほうが安眠できる。子供たち、そのまた子供たちの軽蔑的な言葉を予想するのは快いことではなかろう。それに、こういう古代の記念物が農業のために消滅してゆくのを歎く権利はないのかもしれない。生者は死者より尊い。今の場合、私たちは涙も流さず、ほがらかな顔をして、昔の親類たちの遺骨をごく僅かずつ、日々のパンの中に入れて食べているわけだが、それは、、アルティミジァ女王〔紀元前四世紀小アジア、カリアの女王。夫が死ぬと世界七不思議の一つといわれる大墳墓をつくった。また夫の遺骨の灰をまぜた飲物をつくって飲んだという〕の例にならっているだけのことかもしれない。しかしそれにしても、土まんじゅう型の塚や先史時代の農家が残していった土の隆起線、その他不思議な塚や、くぼみなどたくさん残った、この古い、なめらかな芝地──一千年間羊が放牧されてきても、人間が山々の表面に偶然刻みつけたこういう象形文字が消えることもなかったこの芝地が、今になって鋤が入ってムザムザとえぐり起こされていくのを見ると、やはり衝撃を受けずにはいられない。
しかし破壊がすすんでいるのは耕作地だけではない。じつは、家ウサギも塚や土塁の破壊に活発な一役を買っているのである。家ウサギは、塚のなかへ穴を掘っていって、白亜や粘土をどんどん掘り出すが、これがすぐに雨に洗い流されてしまう。それだけですめばいいが、塚のなかへ何本もトンネルを通して、時にはこれをウサギ村にしてしまう。するとある日、農場主か猟場の番人がやってくる。彼らは考古学者ではないから、その穴のなかへ白イタチたちを追いこむが、そのうちの一匹が家ウサギを掴まえて、その血を腹いっぱいに吸いこみ、その横でねむりこんでしまう。すると猟場番人はツルハシとシャベルを使って、これを掘り出しにかかるのだが、このいやらしい小動物を回収する時に塚の半分は崩れてしまう。
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二章 私の見るソールズベリ
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村人のソールズベリ──牧草地から見る大聖堂──ウイルトンとオールド・セラムへの散歩道──尖塔と虹──オールド・セラムの魅力──荒廃──オールド・セラムからソールズベリを見る──レイランドの説明──ソールズベリと村人の心──市日──病院──子供の望みに教えられる──ふたたび通りにて──草丘地帯のアポロ。
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「平原」に住む者にはソールズベリ市は非常に重要な所、世界一、重要な所である。もっと大きなまち──たとえばロンドンに行ったことがあるとしても、「平原」の人には、それは夢か現実か区別のつかないゴダゴダと混乱した印象を残しているにすぎない。果てしなくつづく大通り。あたふたと何か用事があって必死に急いでいるように見えながら、じつは何もしていない無数の人間。迷路のようないろんな街路、砂漠のようにひろがる家々。そこには、はっきりした目的もなく、狂人のように現実と何のかかわりも持たない人たちが溢れている。野放しの狂人、しかもあまり多くて、世界じゅうの精神病院をもってしても収容しきれぬほどの狂人である。ところが、ソールズベリ市の印象は非常にはっきりしている。いろいろな名所、いろいろな感心するようなすばらしいもの、さまざまな人間──街や市場には何百人もいる──などが口で言えないほどたくさん集まっているが、それでも、そういうものは全部頭に入るし、その意味も分かる。あらゆる階級のあらゆる男女がここに集まるが、その目的が何か推察がつくし、理解もできる。それにまた、このにぎやかな街筋、市場、赤い家並、空高くそびえる尖塔はみな一つにまとまったもので、エイヴォン川やワイリー川のほとりの、あるいは「平原」の、小さな村々に住むものの生活から切り離すことのできない重要部分となっている。それから、あの高くそびえる大聖堂の尖塔、赤いまちの上に高々とそびえ立って、真先きに目につくあの尖塔は、構図全体に統一と特徴をあたえるものだが、だからといって、いろんな興味、活動に充ちたソールズベリ市全体にくらべて印象がより強いというわけでもない。
しかし、美しいといえば、英国の建築でこの尖塔ほど美しいものはない。これまで私は何度となく、遠くから近くから、またあらゆる角度から、これを見てきた。今でも、ソールズベリ市にきたり、市の近くにきたときは、かならずある地点へいって眺めてはたのしんでいる。がここでは、一番よい二つの見物場所について述べておこう。
いちばん尖塔に近い場所、これは画家の最も好む場所だが、それは牧草地である。川ぷちのここの牧草地から見るとき、大聖堂は遠すぎることも近すぎることもなく、画布に描くにしても、想像に描くにしても、程よいところにあり、大きな老木の木立にかこまれている。湿った緑の牧草地と川のほかには、間をへだてるものもない。雨の最も多い夏の終わりのある夕暮れのこと、雨がちょうどあがりかけた時に私はここへ散歩に出てきたのだが、ここはソールズベリ唯一の「散歩道」ではないにしても、最も感じのよい散歩道である。ほかに散歩道は二つある。一つは長い木陰の並木道で、ウイルトンに向かうもの、もう一つはオールド・セラムに通ずるものだが、今ではいずれも自動車道路になっていてブーブーと警笛を鳴らし、ホコリを舞いあげながら車が走っている。こういういやな物がそういう物だけの道路に押しやられる日のくるまでは、こういう道を歩く人間にはなんのたのしみもない。さて、散歩に出た夕方のこと、雨はやんだが、空はまだ荒れ模様で、大聖堂のうしろに一つの大きな黒雲があり、私のうしろの西のほうから、まだいくつも黒雲がのぼってくるという景色だった。そのとき、沈みかけた太陽が雲間から急に現れて、まわりの黒雲を貫く一筋のオレンジ色の炎を送り出したかと思うと、尖塔のうしろの大きな黒雲に一つの壮大な虹を投げかけた。すると、その雲を背景に巨大な尖塔が雨にぬれ、光に赤く染まった姿を見せたのだが、まるでそれは銀を含む石で出来た尖塔のようだった。人工物に「自然」がこんな美を添えたことはかってなかった。じつに見事な眺めであり、たぐい稀れな効果で、永年ソールズベリに親しんで、何度となくあらゆる天候の時にここを散歩してきた私だが、こんなものを見たのは初めてだった。だとすればコンスタブル〔一七七六〜一八三七、フランス印象主義の影響を受けた英国画家〕があの有名な絵を描きはじめたとき、この眺めを見たのは、なんと幸運だったことか。しかもああいう画題を試みたのはなんという勇気、なんという賢明さだったことか。画家たちから聞くところでは、いかに大天才でも狂人以外に、ああいう画題に挑戦するものはなかろうということである。たしかにコンスタブルのような天才にもあれを描ききることは不可能だったが、それでも、その失敗作に世人は賞賛を惜しまない。その点、ターナー〔一七七五〜一八五一。英国の風景画家〕の多くの失敗作が賞賛されるのと同様である。しかし「自然」にもどると、絵のことなどすっかり忘れてしまう。
今後は牧草地からの眺めは、私にはもう興味のないものになると思う。虹がかかっていればいいのに、という気が起こるだろうし、コンスタブルが見て、描こうとしたあの大尖塔は、あの時のすばらしい眺めの思い出のなかに残るだけで、二度と現実に見られることはないだろう。理由は異なるが、やはりこれと同様、今後オールド・セラムを何度訪れても、以前と同じ喜びの感じられることはもうあるまい。
オールド・セラムはソールズベリから一マイル半離れた丸い白亜の丘で、エイヴォン川のほとりにそびえている。高さ約三〇〇フィートの丸い丘が一つポツンとあるところは、古代の巨人たちを葬る大古墳の趣きがある。その丘の緑の急斜面を巨大な土塁や壕が同心円状に何重にもとり巻いているが、これは「平原」の人々のいう「昔の人」の築いたものである。ここの人たちは古代ブリトン人のことを指して「昔の人」というのであるが、どれくらい昔なのか。それがケルトの侵入者だったのか、新石器時代からここにいた真のブリトン人の土着民だったのかについては、現代の賢者である人類学者にも分かっていない。のちにここは、ローマ軍の最も重要な駐屯地の一つになったが、もっと時代がくだると、ノルマンの一つの大きな城ができて、また大聖堂都市にもなった。それが十三世紀の初めに古い教会がとりこわされて、新しい、もっとりっぱな、永久的な教会が緑の平原の、多くの流水の近くに建ったのである。古い教会と人々は消え、城は廃墟となったが、十五世紀まで城は残っていたという人もいる。それ以来この土地は歴史的追憶の場となり、荒れ野になった。自然は、ここを甘美な場所にしたのである。古い廃墟を埋める土は弾力のある芝地におおわれ、そこに色あざやかな白亜地帯の花々が宝石のように散りばめられている。塁壁や壕はイバラ、ニワトコ、ノバラ、トネリコの分厚いやぶに一面におおわれて、そこにツタ、ブリオリヤ、センニンソウがいっぱい絡まっているという景色である。一八三四年、夏の乾燥が、とくにひどかった結果、昔の大聖堂の土台が筋状になって地表に露出するということがあって、この時ちょっとした発掘が行なわれたが、こんな事件は五、六世紀間にこれ一度きりだった。しかし、今後はもう、ここも昔のままではないだろう。ソールズベリ大聖堂参事会長が、考古学会に、この地の発掘許可を出したからである。長いあいだ、よだれを流して狙ってきたこの古い美しい遺蹟の丘に、学者たちは今や、飢えたハイエナの一群のように襲いかかっているが、やがて緑の古い芝地を食いちぎり、穴を掘り下げて、古い石の遺構をひきずり出し、白日のもとにさらけ出すことであろう。丘の中に埋もれたものを引きずり出すには、丘の頂きの木々や灌木を取りのぞく必要があるので、どうしても周りの美しい雑木林も切り払うことになる、ということである。しかし当局者のこの致命的な愛想のよさ、誰にでも気に入ってもらおうとして愛想をふりまいて、こんな提案も拒むことができないこの弱気は、全く情けない。この丘を知り、その古い由緒や甘美な孤独の慰めをもとめて、あるいは、その頂きから聖なるまちの美しい景色を眺めようとして、この丘を訪れていた人たちにすれば、誰がこの当局者の弱腰に、情けない思いをせずにいられようか。
しかし、なぜ私がこの丘にくるのか、その点に話をもどそう。美しいものが失われるのを嘆くためではなかった──要するに、こんにちでは美しいものは保存できない。ソールズベリ一の美しいこの土地さえ、けっきょくは保存できない──それは、この丘からまちを眺めるためだった。ここから見えるのは、「牧草地」から見る大聖堂の眺めとは違い、ひろびろとした緑の草原地に周りをかこまれた、まち全体の景色である。ここから眺めるまちの姿は美しい。赤レンガ、赤タイルのまちが、周囲をかこまれた土地に低く置かれているが、まちの柔らかな、あざやかな緑が、その向こうの草丘地帯の淡い緑、その水辺の牧草地の永続的な湿性の緑と美しい対照を見せている。ソールズベリの周辺や市内には、じつは、流れの速い、澄んだ小川がたくさん走っているのだが、昔は今とくらべものにならないほど、市中の水路が多かったことは確かである。この点、レイランド〔ジョン・レイランド、一五〇六〜五二。英国最古の好古家〕の説明は引用の価値がある。
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ソールズベリ市には多くの美しい通りがあり、なかでも「本町通り」と「お城通り」が目立つ……新ソールズベリの、まあ言ってみれば全てのまち通りには、エイヴォン川から発する小さな流れや分流が走っている。まち自体と、その周辺地の多くは、低い平らな土地で、いわばウィルトシァの水の大部分を容れる鍋、もしくは受け皿というところである。
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この水べりの牧草地のなかに置かれた、大尖塔をもつ赤いまち、その周りを淡い緑の白亜の山々がとりかこんでいる景色を、私は内側の最も高い塁壁、もしくは土塁の上から眺めるわけである。時には、少し下へ降りて、芝地にのんびりとすわって、何時間もじっと目をやることもある。ここほど心地よい憩いの場所はほかにあるまい。とくにニワトコの実が熟して、やぶがその実で紫色に染まり、ホシムクドリが群れをなしてやってきて、これを食べながら、まわりで絶えず低い音楽的なさざめきを聞かせてくれる時は、これほど気持のよい場所はほかにないと思う。
だが、私は観光客の見るソールズベリ、つまり歴史、考古学、大聖堂への美的関心でいっぱいの観光客の見る「新しいソールズベリ」について書こうというのでなく、「平原」の住人の目に映るソールズベリについて書きたいのである。なにしろこのまちは「平原」の首府であり、周辺地域一円に遠く広く散在する村々、あまり多すぎて数えることもできない村々の心臓であり、頭部なのである。村人自身のまちであり、まちの地形が「ウィルトシァの水の大部分を容れる鍋、もしくは受け皿」だとすれば、それと全く同様、まち自体は、村人の労働生活の全成果を容れる受け皿であり、村人の考え、野心はみなここへ向かって流れてゆく。この土地の生まれでない人には、おそらくむつかしいと思うが、私には、村人と同じ気持になって、このまちを見るのはさほど困難なことではない。あのもっと大きなまち、あの強大な怪物のようなロンドンに暮らした経験があると、その有様がいつも頭のなかにすわりこんでいて、ほかの場所を見るとき、目の前に霧がかかったような気分になる。しかし私の目にはそんな霧はかかっていないし、ほかの全てを蔽いかくすような、巨大な、しつこい姿が頭のなかにすわっているわけでもない。人間を単なる一つの群衆、一つの集団と見る精神的習慣──つまり人間を一個の怪物のような巨大な生命体と見て、そのなかの個人を一個の細胞、一枚の薄片としか見ない、そんな習慣もない。ロンドンにいる時は、そういう気分に悩まされ、頭が混乱するが、それはあまりにも「すし詰め」になっているせいである。だがそこを離れると、そんな気分は完全に消えて、スッキリする。そんな気分が私の魂に浸透して、そういう色で魂が染めあげられているわけでもないし、そんなものを全然知らない人たち、土に生きる最も素朴な人びと、複雑な都会人から見ると別種の生物に見えるような人たちからも、私は切り離されてはいない。あらゆる場所で、その土地の人間と一体と感じること、これが私の幸福なのである。たとえば、私があしたソールズベリにいくと言うと、子供たちの目が輝いて、こちらのほうをこっそりとうかがいながら、あしたはぼくらにも何か起こりそうだぞ、とお互いにヒソヒソと囁いているのが聞こえる。早く発って、朝早く出かけた運送屋の荷車の何台かに追いつき、追いぬく。、荷台のそれぞれには小荷物類や、籠をもった女たちや、一人か二人の老人が乗っている。馭者のなかには顔見知りのものがいる。どんどん先へすすんで何台も運送屋に追いついては追いぬく。ジプシーとの混血の小柄な「何でも屋」の乗る馬車──気の荒い、足の早い小馬の引っぱる、汚い、ガタガタの二輪馬車も追いぬいてゆくが、みんな仕事とたのしみのために、平原全域の大市場、商業中心地、ありとあらゆるたのしみの場所であるソールズベリを目指している。こういう人たちと一つになっている、と感じること、これが私の幸福なのである。たしか私が最後にソールズベリへ遠出した時だった。雨のなかの十二マイルの道をやってきて、ある街角に立って、ズブぬれになって私の運送屋を待っていると、一人の男が急ぎの用があるらしく、そばに寄ってきて、「なあ、あんた。一分か二分、ちょっと人に会いに一走りいってくるで、わしの荷車をみていてくれんかな。ニワトリを乗せてるんだがな、もし誰かきて、鼻を突っこむもんがあったら、何の用じゃとちょっと聞いてくれよ。信用できん人間もいるからのう。すぐもどってくる」と言って、いってしまった。私はよろこんで荷車のニワトリの番をして、男が帰るまで待っていた。
仕事は仕事で、天気がよかろうが悪かろうが、怠けるわけにはいかないが、たのしみ付きの仕事の場合は、晴れた市日がよいのに決まっている。みんなが参加する唯一の大きなたのしみは、ただそこにいるということ、人ごみの中に入るということで、これで、みんながまるでお祭りのような、うれしそうな表情になる。そういう表情を見るだけで、ブドウ酒を飲んだように心が浮き立ってくる。なんとたくさんの人と動物だろう。運送屋の荷車が何列も何列も並んでいる。ボーン川、エイヴォン川、ワイリー川、ナダー川、エブル川のほとりの多くの村々、その他「平原」のあらゆるところから、それぞれ小人数ずつ運んできた荷車である。その上、汽車でまだ何百人とやってきて、フィシァトン通りを続々と切れ目もなく市場のほうへ急いでゆく。そして今や、市場のなんというにぎわいだろう。牛、羊、ブタがいっぱいだ。大声で叫ぶ競売人のまわりに大勢の人がつめかけている。リボンをつけた雑用馬、たてがみやしっぽを黄金色のワラで飾った重々しい荷馬などが、歩道にガンガンと大きな蹄の音を立てながら小走りに走らされている。それから、野菜、果物、魚、肉、ありとあらゆる食物が屋台にあふれ、その前で、腕に籠をかけた女たちが値切っている。穀物取引所はまるで大きな蜂の巣のようで、ワンワンと人声がひびき、乗馬服や馬車服にゲートルという姿の日焼けした顔の農場主たちが、あちこちに固まって、オート麦や大麦の袋に手を突っこんでいる。平原じゅうの農場主が集まったかと思われるほどである。あらゆるものが、よろこびを発散している。ここでは、人間のなかで最も元気のない、恋に苦しむ若者でさえ、元気をとりもどし、勇気が出てくる。かわいい顔をした女の子を見たとしたら、きょうは百人、いやもっと見たぞ。あのこは、かわいい娘が少ないと思ってるから、あんな扱いをして、一カ月に一回くらいしか、うれしい言葉をかけてくれないんだ。だけどソールズベリにきて見たらいい。
みんなが、この大変な人出──「平原」の住人にすれば大変である──の中では、これと同じ気持だといってよい。いわば、みなが同時に二つの場所にいるということである。つまり、みんなが、それぞれ心に家の姿を──遠い谷の小さな平和な村の様を描き、父や母や、いま学校にいっているか、遊んでいるか、それともちょうど昼食に帰ってきた子供たちのことを思い浮かべている──つまり、家のいろんな気づかいと用事と、ソールズベリでの用事とを同時に思っているわけである。売り買いの用事、友だちや親類を訪ねていったり、市場で会ったり、それに「病院」に病人を見舞う用事もある。けがをしたもの、病めるものの住むこの家は、市日にここに集まる大勢の人たちの心を離れることはなく、このまちと村々を引き寄せあい、固く結びつけて一つにする紐だといってよい。
フィシァトン通りのこの大きな感じのいい、暖い赤レンガの病院の建物は、通りからかなり奥まったところにあって、スギやブナの木立ちの後ろにその全景が見えるが、この病院は村人たちにとって非常に親しみ深いものである。「平原」の数百の村々の無数の家々で、また周辺一帯の地域で、「病院」というのは非常に深い意味をもつ言葉であり、またここは、悲しく、やさしい、美しい思い出の場所でもある。最初、「病院」という言葉を村人たちが口にする時のその口ぶりを聞いて、私は驚いたものだった。ロンドンの貧しい人を何人か知っていたので、その人たちの病院への態度に慣れてしまっていたのである。ロンドン人は、じつになれなれしく、ぞんざいに「病院」という言葉を使うが、それは食料品店や居酒屋同様、それが日常生活の必要になっているからである。しかし、病院からいろいろと恩恵を受けているのに、それに感謝する気持はロンドン人には全然ない。その点に触れようものなら、カッと腹を立てて、「病院はなんのためにあるんですか」と逆襲されるのが落ちで、私にはその経験がある。自分のために、あるいは家族のために、無料でやってもらったことを感謝するどころか、何か言い分があるとすれば、病院のアラ探しをして、なぜもっと早く、もっと完全に、直してくれなかったのか、と文句をつける。
しかし、この田舎まちの病院を見る「平原」の村人の目は違う。ずいぶん多くの村人が個人的にこの病院を知っているのはふしぎなくらいだが、しかし、考えてみれば、この英国一の健康地区でも、一生病気知らずで暮らすのは容易でないだろうし、それに誰でも、思わぬけがをするということもある。けがをしたり、病気になったりして若者が、その荒っぽい、つらい生活と貧しい田舎家から、まっすぐここへ運びこまれてくると、彼は驚きに打たれてあたりを見まわす──ひろびろとした清潔な、風通しのよい部屋、白い気持のよいベッド。医師たちの気くばり、手際のよさ、女たちのやさしい世話、さまざまな快適、贅沢な設備。しかも、すべて無料で、まるで神のような純粋の愛と同情から恵まれるように思える──何もかもがふしぎで、信じられないような気がする。けがは痛い。病気は苦しい。若者はずいぶん苦しむだろうが、しかし苦痛は強く堪えて、消えれば忘れてしまう。しかし、心のこもった親切は忘れられない。
だが、これはソールズベリにある、村人にとって非常に大切なもののほんの一つにすぎない。まだほかにもたくさんあるが、木に気をとられて森全体を見失いたくないので、いちいち挙げないことにする。ただ一つだけ、特別の理由があって述べておかねばならぬものがあるが、それは大聖堂である。市場から、街路から、遠方から、ソールズベリに通じるあらゆる道路から大聖堂が見えるが、村人たちには、その姿はごく親しいものである。大聖堂を目にしながら、その下にあるあらゆるものを見るわけである──いろんな親しい場所やもの、街路──「本通り」、「城通り」、「鶴通り」とその他たくさんの通りがあるが「果てなし通り」もある。この名を聞くと、あの命のロウソクの火が消えるまえのシドニー・スミス〔一七七〇〜一八四五。牧師で随筆家で頓知のある才人として有名だった人物〕の戯れの最後のきらめきが思い出される。それから「白鹿館」、「天使館」、「オールド・ジョージ館」、もっとつつましい「山羊館」、「緑の男館」、「ひつじの肩肉館」、その他多くの旅館がある。それから杉林の大きな赤い病院の建物。おとなや子供が橋の上にかたまって、下の急流に泳ぐマスを見おろしている光景。市場、そのにぎやかな人出。すべてが親しい眺め、親しい景色で、大聖堂の下に集まっている。燃えるような夏の日に、牧場に立つ一本の大木の周りに、羊が群れるように、集まっているのである。だが、大聖堂の内部は村人たちは知らない。村人たちがここに惹かれることがないのは、日頃の暮らしが忙しすぎて、美的感覚が発達せず、そこが固い殻におおわれているせいだろうが、いつも、また、いつまでも、そうだというわけではない。子供のこころにはそんな殻は生じていない。
市場の一つの屋台のまえに一人の子供と母親が立っている。十二歳位の平凡な顔立ちの女の子で、目が青く髪が明るい。腕も脚も細い。休日で遊びにきたにしては、ずいぶん服装が貧しい。母親のほうは少し肥っていて、とっておきの、しかし、ずいぶん着古した黒い服を着ている。茶色の麦わら帽もかぶっているが、形が崩れているところへ、リボンをチョコチョコとあしらったり、薄汚ない、すり切れた造花を二つ三つ付けたりしている。農業労働者の女房だろう。一週十四シリングで懸命に働いて家族を養っている農業労働者のおかみさんだろう。彼女自身も、その固い手、日焼けした、ほとんど皺のない顔に働き者のしるしを見せている。だが、ずいぶん陽気である。なにしろ、きょうはソールズベリの市日に出てきたのだ。お天気はいいし、財布には七シリング入っている──一シリングは往復の交通費、八ペンスほどは食事に使い、残りで家の必要品を買うという算段ではなかろうか。ところが、もっとたのしいことに、思いがけず友だちとバッタリ出くわしたのだった。二人の友だちは腕に籠をかけて、押し合う人混みの真中に立って、キンキンと大声を上げて猛烈な勢いでしゃべりまくっている。ところが女の子はそばに立って、母親の服に片手をかけ、興味のあるような、ないような顔で聞いているが、その熱心なおしゃべりが、ちょっとでも途切れると、母親の服をちょっと引っぱって、「かあさん!」と叫ぶ。母親はいらだたしげに、その手をはらい、きつい口調で、「なにさ、マーティ! うるさいね。ちょっとおしゃべりをさせてくれないかい」と言って、またしゃべりだす。するとまた、ちょっと引っぱって、「かあさん! 約束したじゃないの、かあさん」。それからまたしばらくして、「かあさん、今度、大聖堂に連れていくって約束したじゃないの」とやりだす。
ここまで聞いたのだから、もう少し聞いてみたいと思って、私はその女房に、なぜこの子は大聖堂にいきたがるのかと聞いてみた。すると女は上機嫌に笑って、「去年の冬、うちで話してるのを聞いてたんですよ。この子は、まだ一度もいってないもんで、『気にすることないよ、マーティ、今度ソールズベリにいく時に連れていってやるからね』と、わたしが言ったもんだから」
「それを忘れなかったんだね、この子は」
と相手の女が横から口を出すと、
「そうだよ、忘れないんだよ、マーティは」
「かあさんは、四回きたのに」
と女の子が言う。
「へえ、そうだったかねえ! けど、もう遅いよ──二時半だよ。四時に『山羊館』にいかないといけないし」
「もう、かあさんたら、約束したのに!」
「やれやれ、それじゃおいで。ほんとに困った子だよ。これがすまないと、もう、ほんとにうるさいんだから」と言って、母子はいってしまった。あの子の頭のなかを覗きこんで、占い師が水晶玉のなかを見るように、そのいろんな思いや感情をうかがうことができるなら、後についていって、きょうの結果を見たいところだった。しかし、自分の幼い頃のことを思い出して、漠然と想像してみることはできる──大聖堂のあの巨大な内部を見たとき、あの子は喜びと驚きの衝撃を受けることだろう。はるか奥のほうまで伸びる会衆席には、柱がまるで松やブナの高い幹のように立ち並んでいる。その突き当りに明るい仕切りがあり、目はこれを抜けて豪華な合唱隊席を通りぬけ、そのはるか向こうに、高く光り輝くステンド・グラスを見て、また改めて驚きと喜びに打たれる──あれは想像もできないあの世に向かって半開きになった窓なのか──この地上の聖堂は、まぼろしの門、それとも通路にすぎず、あれは天国の聖堂にむけて開こうとする窓なのか!
こういう幼い頃の経験の教育的価値は正しく理解されているとはいえない。教育的価値という重くるしい言葉を使うのは、それが適切だからとか、ほかにもっとよい言葉がないからというのではなく、みなが使っていて、みなが理解している言葉だからである。あまり感心できた話ではないが、時々、村の小学校児童が学校ぐるみの団体見学でバタバタと大聖堂にやってきて、バタバタと引き上げてゆくことがあるが、これは正しい方法ではない。児童の精神は児童集団の精神ではないからである。しかし農村にもっとよい、もっと賢い教育制度が導入されて、本を読むことだけを第一としたり、毎日子供を六、七時間とじこめて、一番大事なことの学習を妨むようなことがなくなった時には、おそらく学校の先生は、村の女にむかってこう言うだろう。「あした、あるいは来週の火曜に、ソールズベリにいかれるそうだけど、そのとき、ジェイニーか、ダンちゃんか、ピーターを連れていってください。そして一時間ほど大聖堂の芝生に一人にしておいて、塔の周りを飛ぶコクマルガラスを眺めたり、中を覗いたりさせておいて、その間に買物にいってください」。 大聖堂から出て、病院を見て、それから、いろいろな店やいろんな飲食店から出てきて、明るく日の射すにぎやかな人出のなかに出てきたところで、もう少し足をとめて、最後の情景を眺めてみることにしよう。
八月の、ある暑い、きらめくように晴れた昼すぎのこと、すばらしい上天気にさそわれて、ソールズベリは、これまで私の見たこともないような盛んな人出だった。しかも、この日ほど人がよくしゃべり、陽気で、生気に充ちて見えたことはなかった。運送屋の荷車が歩道横に一列につづいて、ちょうど居酒屋が三軒ひっつくようにして並んでいる、にぎやかなところに私が立っていると、二十二、三の若者が一人やってきた。灰色の服を着て、鉄鋲を打った分厚い深靴をはき、茶色のゲートルを巻いている。羊飼いである。ソフト・フエルト帽を粋にあみだにかぶって、前のめりになるような、肩で風を切るような、草丘地の男特有の恰好で、とくに、まちに遊びにきた時のその独特の恰好でやってくる。たしかに遊びにきたわけで、ビールを一杯か二杯(いや三杯)やって、すこぶるの上機嫌である。いい声で、たのしそうに歌いながら勢いよく歩いてくる。人が立ちどまって振り向いて目をまるくして見送っていても一向に平気。連れがあとから追ってきて、とまってくれ、待ってくれ、もっとゆっくり歩いてくれ、としきりに声をかけているのに馬耳東風である。あとから追ってくるものが七人いる。肥った中年の女のうしろに白髪の老女、二人の娘、一番うしろから来るのはまだ若い女房で、小さな男の子の手を引いていた。肥った女が赤い顔をして笑いながら、「ああ、デイヴ、お願いだよ、止まっとくれ。そんなに急いでどこにいくのさ──みんな、ついていけないんだよ、わかんないのかい?」と声をかけているのに、若者は止まろうとも、耳をかそうともしない。きょうは彼の外出日、ソールズベリでのすばらしい日、めったにない日で、ご機嫌なのである。すると女はほかのものを振りかえって、「だめだよ、待ってくれないよ。あんな子、見たことあるかい!」と大声で笑いだし、汗を流して、またあとを追うのだった。
しかし、この事件もあの若者のあの容姿がなかったならば、ここに記すほどのことはなかったと思う。完璧な、たくましい体格、驚くべき美貌だった。完全無欠の男性美の見本として古代ギリシア彫刻家が後世のために遺していった彫刻か、と思われるほどの美男だった。これは私だけの感想だったとは思えない。あのとき、通りに立ちどまり、振り返って見送っていた人たちも私と同じ気持だったと思う。ちょうどそのとき、例の一軒の居酒屋のまえに、かなりの数のジプシーの一団が小さな荷車を連らねて乗りつけてきていて、大騒ぎが起こり、みんなが大きな声を上げて、ワイワイと言いあらそっていた。おそらく盗んできた二、三羽のアヒルか、一枚の羊の皮か、それとも五、六羽のウサギを売りはらって、その金の分け前のことで揉めていたのだろう。ともかくひどく興奮して、互いにこわい顔をしてにらみ合い、カンカンに腹を立てて跳ねまわっているのも一人、二人いて、それを面白がって見物人が集まっていた。ところが例の若者が歌いながら通りかかると、みんなが振りむいて、目を丸くして見送っている。若者が近づいてきたとき、私はその道の真中に立って、まっすぐに彼の目をのぞきこんだ──灰色の実に美しい目だった。ところが、私を見ようともしないのである。その目は動物の視線をとらえようとする時のように、私の目のなかを突き抜けて、向こうのほうを見つめ、相変らず明るく歌いながらいってしまい、そのあとを、連れのものがゾロゾロと追っていくのだった。
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三章 ウインタボーン・ビショップ
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気に入った村──辺鄙な土地柄──村の様子──生け垣の果実──夏枯れ川──人間的興味──故郷の感じ──人間と自然との調和──ウサギが掘り出した人骨──変わりない自然そのままの土地。
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いろんな川にはさまれた、広い、なにもない、ガランとした地域にわびしく起伏する草丘──その草丘の間にスッポリと隠れるようにして、互いに遠くへだてられながら数少ない村々が点在しているが、そのなかで、私が最も愛するのはウインタボーン・ビショップ村である。これらの村をすべて私はごく親しく知っているが、おそらく人に言わせると、ウインタボーン・ビショップ村が一番魅力にとぼしいということになるだろう。夏はどこよりも木陰にとぼしく、冬はこの高地のどこよりもわびしい風にさらされて、四方八方から寒風が吹きこんでくる。森のない広い谷、というか、くぼ地の高いところに位置していて、少し離れたところに、草丘の坂がいくつもあるという村なので、冬になると、この辺りでは、まずここほど寒いところはない。その上、一番近いと言っていいのか、一番ゆきやすいまちがソールズベリで、これが二十マイル先きであるから、不便で住みにくい点でも一番だということも付け加えておいてよい。しかも、この大都会にゆく唯一の交通手段が荷車屋の車で、これが一週一度の市日に十四時間かけていくのだから疲れる。自然、このたのしい都会を見るのも、せいぜい年に一回という人が多いし、五年か六年にたった一回という人もいる位である。
さて村自体だが、そのたった一本の、かなり曲がりくねった村通り、というか一本の道路へ降りてゆくと、その両側に高さ五、六フィートの緑の土手があり、ここに何軒かの田舎家があり、たいていが道路に面して立っている。本式の家──この繁栄の時代に家と呼ぶにふさわしいような家──は一軒もない。三軒の小さな農場主の家のほかに、かなり貧相な牧師館があるけれども、こういうものが田舎家よりりっぱと言えるかどうかは、かなり疑問がある。牧師は気の毒に非常に貧乏である。村の真中に村でいちばん木陰の濃い緑の墓地に囲まれた教会があるが、これに寄りそうようにして、互いにくっつき合うような恰好で数軒の田舎家が立ち、そこから二十ヤードほど離れてまた数軒、そこから四、五十ヤード向こうにまた数軒というふうに田舎家がかたまっている。みな小さな古いもので、表の石板に十七世紀の日付を刻んだものが数軒あるが、日付けのないものも同じように古めかしい。藁ぶきもあり、瓦ぶきもあるが、どれといって、とくに魅力的なものは一軒もない。ツル植物、もしくはツタ、バラ、センニンソウ、スイカズラなどの緑の掛け飾りを付けたものなどは一軒もないし、ハリエニシダのような、売れはしないが、華やかな、しかし、いかにもなつかしい田舎家の庭の花々──ほうぼうの川ぞいの村々の多くに見られる花々、とくに後の章で書くワイリーの谷の村々に見られる花々などは、ほとんど咲いていない。
樹木はさっきも言ったように少ない。が、教会墓地は木陰が深いから、古いブナの木立ちや、大きく枝を張った一本のイチイの木の下で一休みすることはできる。温かさ、明るさがほしい時は、墓石にすわって日なたぼっこもできる。道路ぞいに、あるいは道路近くに生えている木々は、ほとんどがトネリコかブナで、松が一、二本まざっている。みな古いが大木ではない。それから、小さな、というより矮性のイチイ、ヒイラギ、クロイチゴなどの木がある。果樹はほとんどない。二、三本から五本くらいのリンゴの木、あるいはスモモの木を果樹園と称しているくらいだから、子供たちは気の毒なものである。とはいっても、夏の暮れから秋にかけて生け垣には実がなる。生け垣は村の両側に道路と九十度の角度をなして草丘のほうへ伸びている。手入れもされない長い生け垣だが、真紅のサンザシやセンニンソウが美しいし、キイチゴ、ニワトコの実、リンボクの実、ナットなどがたくさんなる。ナットは小さなヤマネ〔リスとネズミの中間動物〕のつつましい必要を千倍も上回るほどなる。
ウインタボーン・ビショップ村の不利な点に話をもどすと、最後に指摘すべきは、ここには水がない。とにかく水が最も必要な夏に水がない。村にとって水は恵みであり喜びである。年じゅう水が流れていることは永遠の喜びである。ネザー・ストウィ、ウインズフォード、バートン・オンザ・ウオータなど、わが国の誰知らぬものもない多くの幸福な村々の三つあげてみるだけでも、そこには年じゅう水の流れの絶えることがない。こういう村にきて、日中きらめき泡だちながら突走る急流を眺め、夜中しぶきを散らしてザワめく水音に耳をすますと、年じゅう水の流れのない村なんかに誰が住んでやるものか、という気持に誰でもなってくる。ところがこの不幸な、乾燥した高地の村には夏枯れ川〔ウインタボーン〕しかなく、それが村の名の由来をなしている。ウインタボーンというのは姓のようなもので、ウィルトシァ、ドーセットシァ、サマセットシァ、ハンプシァ各州の何十という村々に共通に付いている。ウインタボーン・ビショップ村では、通りの片側の土手伝いに川床が走っている。秋や初冬に雨が豊かに降ると、白亜質の草丘地の地下に隠れたほうぼうの水溜まりが満水になり、外に溢れ出して、乾燥した川床を満たし、時には村通り全体が一本の急流になって、村の子供らが大よろこびすることがある。水遊びをするにも泥水の水溜まりもない、どこかの高地の農場に生まれ育ったアヒルが大よろこびするように、子供らは大はしゃぎである。雨の季節中は村の女たちは門先に水があるので、何度でも外に出て、桶を水につけることできる。春が来ても、まだ水はたのしげに流れ、いかにも、いつまでも流れているような顔をしている。美しい緑の、水好きの植物や雑草が道端に芽を吹き、生いしげり、ヒレハリソウ、ミズワスレナグサの花の見られることもある。深いくぼ地には、ところどころ池が出来ていることもあり、そのまわりに背の高い草が生えて、ウマノアシガタが一面に白い花を咲かせ、水底からイチゴツナギが伸びて、水面にふさふさと緑の髪の毛をひろげている。それよりまだいいのは、やがて仲間をはぐれた数羽のバンが、その水溜まりにやってくることがある──つやのある小麦色にサッと白の筋が入り、クチバシが目もさめるような真紅や黄色という変わった鳥である。しかし、もし青色に光るカワセミでも来るようなことがあると、それこそ村じゅうが大変な騒ぎになる。みんなの注目を浴びて気の毒に、この鳥は片時も落ち着けない。こういう時期は、子供には幸福な時だし、いそがしい主婦には有り難い時である。料理、洗濯、掃除の水に不自由することはないし、レンガの床に桶に何杯でも水を流すことができる。ところが、速い澄んだ流れの水嵩が減ってきたかな、と思うか思わないうちに、完全に水が消えてしまう。また女たちは井戸にもどり、バケツをおろし、巻上げ機の柄をフウフウいいながら回して、水を汲み上げることになる。かわいい緑の湿った植物、美しい草などはたちまちひからび、乾上がった水路には道路のほこりや藁くず、ごみくずなどがたまり、やがて、ギシギシや、かわいげのないイラクサなど、子供がさわるとひどい目にあう夏草がしげって、川筋は見えなくなってしまう。
なにか思い出や、なにか、ひそかな関心事でもないかぎり、この夏枯れ川を見た以上、こんな村に住みたいという気を起こす人がいようとは私には考えられない。ここを見たいという気になる人さえ私は想像できない。とにかく、この村には、およそ人を引きつけるなんの魅力もない上に、どこの道路からも離れ、どこの土地からも遠い。私はソールズベリ平原の非常にたくさんの村を知っていたし、まだ知らぬ他の村々も訪ね歩いていたのだが、この村を訪ねてみる気は毛頭なかった。「平原」には、というよりウィルトシァ全域には、これほど外部から訪ねる人のない村もほかにないのではないか。ところが偶然、私は一人の老人に出会ったのである。この老人の生活をこれから先の章で物語るのだが、彼は生まれ故郷を離れていて、自分の過去の生活、昔の知り合いの生活のほかに何ひとつ語ることを持たなかった。生まれ故郷ウインタボーン・ビショップ村にかかわりのないことは何ひとつ頭のなかにはなかったといってよい。ところがその逸話や思い出話に非常におもしろいものが多かったので、私は、いつのまにか、それを手帖に書きとめる習慣が付いてしまい、そのあげくが老人が永年のあいだ多くのことを見たり感じたりしながら、その素朴な仕事をして暮らしていたその土地にまで、引きつけられる結果になったのだった。その土地には見るものは何もない。人を普通引きつけるようなものは何もない。あるとすれば人間的興味だけだということは分かっていたが、それで充分だった。で私は何ということもない好奇心から、つまり老羊飼いの話で頭のなかに出来上がった想像図と、現実とがどれほど一致するか、それを見とどけようとして出かけていったのである。老羊飼いの故郷だというただひとつの理由、しかし、この理由だけで、この村が気に入る素地は充分あったといってよい。老人の話を聞いてこんな気持が起こらなかったならば、長くこの村にとどまる気にはならなかったと思う。ところがじつは、長らく滞在することになったわけで、それ一度だけでなく、それから、もういっぺん訪ねて、ますます気に入ってきたのだった。なぜ気に入るのかと私は考えてみた。老人の昔の思い出への興味だけでは説明がつかない。ここが索漠としていること──美しい景色とか森、水、シカ園など、あるいはチューダ王朝期〔一四八五年からエリザベス女王の逝った一六〇三年までの王朝〕の初めからその終わりのエリザベズ女王時代、それに次ぐジェイムズ一世時代〔一六〇三〜二五〕、それぞれの時代の芸術品をたくさん所蔵している、りっぱな美しい古い邸宅とか、古い記念物、歴史的由緒──つまり一つの土地の魅力を成すようなものが、全くここには欠けているという、その空漠感からきているのだろうか。ここには、そんなものは何もない。あるのはただ、広々とした、むなしいひろがりばかりで、そこに、つつましい田舎の人──農場主、羊飼い、農業労働者──がごくまばらに散らばって、ごく粗末な家に住んでいるだけである。英国には古い記念物、堂々とした建築、興味ぶかいいろいろな物、美しい景色などの富がいっぱいある。いっぱいすぎるといっていい。道を曲がるごとに、一マイルゆくごとに、そういうものを当てにして、あたりに目をやる習慣がついてしまうほどである。
ところがウインタボーン・ビショップにきてみると、ここには、まちの人間を引き出すようなものがないので私はホッとしたのだった。広い空虚な土地で、見るものといえばハリエニシダの茂み以外に何もない。草丘にのぼり、もう少し高くのぼって、たくさんある土まんじゅう型の塚の一つの頂きに立つと、はるか彼方に村の眺めがある。わずかな木立ちの間に隠れるようにして、灰色や赤茶色の低い田舎家が何軒かある。それに、小さな教会の四角の石の塔が見えるが、距離が遠いので、これも一本の里程標ぐらいにしか見えない。この空虚な眺めは心にも体にもいい、と私は思った。ここなら長い時間かけて、ブラブラと歩きまわったり、芝地にすわったり、ねころんだりして何も考えずにいられる。いや、ひとつのことだけを考えていられる──つまり、何も考えずにいると、気が安まるということだけを考えていられる、と思った。
しかし違う。じつはそうではない。ここへ引きつけられるのは、そんなことだけではない。自然と孤独、のびのびとした広い大地と大空に立ちもどった時に感じる安堵感だけではない、といつもひそかに心に語りかけるものがあった。しかし、それが何かということは何度か繰り返しここを訪ねてきて、ようやく分かったのである。毎回、ソールズベリを後にして、あの丘の長い道を歩きだすと、たのしい気分になる。雨が降る時も、むし暑い時も寒い時も、風がまともに吹きつけて白亜のほこりが目に飛びこんでくる時も、この愉快な気分は決して消えない。料金取立門を後にして最後の二マイル半から三マイルの脇道を歩きだした時から、まだ大分先きがあるのに、目はもう目的地を見ようとして熱心に前方を望む。そしてついに最後の低い草丘の頂きにのぼると、やっと待ち望んだ景色がひらける──谷のような広いくぼ地のなかに一列に、樹木がつづく景色が遠くのほうに青緑色に見え、その樹木の間に家々の赤色や灰色が散っている。そしてこの景色を見ると、いつも浮き立つような感じ、故郷に帰るような感じが起こってくる。
じつは、これだった。草丘と起伏する草原という地形の違いはあっても、この空漠とした土地の有様は、私の知っているこの国のどの土地よりも私の幼い日の故郷に似ていたのだった。違いはたくさんある。しかし、その違いで、この故郷の感じが消えることはない。心をとらえるのは相似点であり、土地の霊である。憂鬱な、あるいは荒涼とした、砂漠ではなくて、とにかく、まばらにでも人が住んでいる土地、目立たぬ仕事をして、目立たぬ住まいに暮らす素朴な人たちが住んでいる土地、そういう土地の相似点、霊が私の心をとらえるのである。それから、この広々とした緑の土地──人が生き、労働しているしるしがあり、羊や牛が近く遠くに望まれるこの土地からくる決定的な感覚というのは、人間はこの大地の他所者ではないという感覚である。つまり、人間はこの大地に生きていながら、ここから気持が離れ、大地を憎み、大地に害をなしている侵入者、侵略者ではなくて、他の動物同様「大自然」の子であり、「大自然」の太陽、雨、風と親しみながら他の動物同様、「大自然」の空のもとで糧をもとめているのだという実感である。
もしどこかの見栄っぱりがやってきて、この異様に静かな土地にぎょうぎょうしい大きな家でも建てるようなことをしていたら、そういう感覚──人間と自然との調和、一体感──はとうてい起こらなかったことだろう。自然がその心を語りかけてくる表情──景色の美しさなどよりはるかに意味深いこの表情が、英国のなんと多くの土地から消え去ってしまったことか。ウィルトシァのこの静かな地点には、古くから人が住んできたわけだが、どれほど古くからか、ということは昔の未開人がここに遺していった土まんじゅう型の塚々が語っているし、またそれらの塚は、いろんな文化段階の人類がどれほど長く大地を損なうことなく、ここに生存できるか、ということをも告げている。
ある午後のこと、ビショップ草丘を歩いていると、百ヤード、あるいはもう少し先きに、家ウサギが新しい巣穴をつくりはじめて、ずいぶん土を掘り起こしているのが目に入った。どんな白亜を、あるいは土を、こんなに深く掘っているのかと近くに寄ってみると、人間の大腿骨が一本と助骨が一、二本出ていた。赤味がかった白色になっているのをみると、赤土と白亜との固い混合層に埋もれていたものである。明くる日、またいってみると、また二、三本出ていた。それから毎日、いくたびに骨の数がふえて、とうとう一体分の人骨が出てきたのではないかと思ったが、見たいと思っていた頭蓋骨はなかった。それから骨が消えた。猟場の番人が人骨だと気がついて焼きすてるか、安全な場所へ移すかの処置をとったのである。村の警官があれを見るか、噂でも聞きつけるかすれば、騒ぎたてて、地方検死官に報告しようとでも考えたところではないか。そういうことが時々あって、サクソン人、デーン人、あるいは古代ブリトン人の遺骨が検死官のきびしい検分を受けることがある。しかし、ウィルトシァの白亜の丘陵地は、どこもかしこも人骨だらけなのである。誰か大物が、たとえばサー・リチャード・コルト・ホア〔一七五八〜一八三八。ウィルトシァに生まれ、同地に没した考古学者、地誌学者〕のようなウィルトシァの塚を三百七十九基発掘した人とか、ピット・リヴァーズ将軍〔一八二七〜一九〇〇。人類学者、考古学者、陸軍中将、考古学会副会長〕のような人が、人骨を掘り起こした時は誰も気にするものはないが、正式の発掘許可をとっていないウサギが人骨をたくさん発掘したりすると、調査の要ありということになる。
だがこの地点──ひろびろとした緑のなかに、遥かに遠く、小さく、村の姿を眺めるこの草丘──にこんなに長い間横たわっていて、ついに陽のもとにさらけ出されたあの骨の主というのは誰だったのか、何者だったのか。どれほど昔、この土地に──このウィンタボーン・ビショップに生きていた人なのか。あそこには塚が二つあった。ウサギが掘っていた地点からちょっと距離があったから、骨の主は、それらの塚の時代の人ではなかったのかもしれない。しかし、それでもやはり、ずっと昔、数百年前、ひょっとすると一千年前、いやそれよりもっと前に埋葬された人だった、ということも考えられる。偶然あそこには水の浸食を防ぐ一つの坂があった。それに遺骨は、細かく目のつんだ、一度も掘り起こされた跡形のない芝地におおわれていたが、あそこの土は、永久に骨が崩れずに残るような土質だった。
あのとき、私は思ったのだった。もしこの長い年月のあと、あの人骨の主が生き返って、もう一度あの草丘の上に立って景色を見わたすようなことがあっても、ほとんど景色の変化に気がつくことはないだろう。驚くような変化には何ひとつ気がつかないはずだ、と思ったのである。はるかに遠く、大きなくぼ地の真中に、ごく小さく見えるあの村自体も目新しい眺めではないだろう。おそらくあそこに、歴史の初めから、いやそれより前から、あった村である。なぜなら、夏枯れ川が低い丘陵地から流れ出すあの地点こそは、人間がごく自然に住みつく場所と考えられるからである。大邸宅、大建築も見えず、吐き出される白い蒸気も大地を黒く長く這う汽車も見えず、ほかにまた何の変わったものも見えない。死の眠りに落ちるまえに知っていたとおりの眺めだろう。丘陵の斜面には、ハリエニシダ、クロイチゴ、シダのやぶがあり、広くひろがる土地の遠くのほうに羊たちや牛たちが草を食べ、ほうぼうのくぼ地には青黒い木立ちがあり、一襞、また一襞と低い草丘がつづいて、遥かおぼろげな地平線まで連なるという、昔と変らぬ景色が見られることだろう。
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四章 草原の羊飼い
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ケイレブ・ボーカム──老羊飼いの故郷愛──羊飼い生活五十年──ボーカムの風変わりな様子──タヒバリの話──ケイレブ・ボーカムの父親──父と子──感謝する狩猟家とアイザック・ボーカムの年金──老夫婦の一方が亡くなると連れもすぐ亡くなること──村の墓地で──農業労働者の墓石とその物語。
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私がはじめて南ウィルトシァ草丘地帯の羊飼いケイレブ・ボーカムに会ったのは、もう数年前だが、あのとき、もうケイレブは老人で、体が弱って、仕事も無理になっていた。会った場所は老人の生まれ故郷から少し離れたところだった。知り合って長い時がたち、午後や夕方に何度も話しこんで、羊飼い生活のいろんな逸話を聞いたあげく、やっと、私は自分の目で老人の昔の家を見に出かけたのだった。それが前に説明したウインタボーン・ビショップ村で、いってみて、気に入った。だが、すでに言ったとおり、もしケイレブを知ることがなくて、その生活や仲間の村人の生活などについて、いろいろと話を聞くことがなかったならば、まず絶対にこの村を訪ねることはなかったと思う。
ケイレブの思い出の一つにジョンという老羊飼いの話があった。ケイレブは、幼い時にこの羊飼いを知ったのだが、そのときジョンは七十八歳で、もう六十年間切れ目なしに、この村の農場で働いていたという。この年になってもまだ羊飼い頭をつとめて、その後まだ七年間それをつとめたが、ついに農場主が農業をやめ、農場も同時に手放すことになった。この農場主は、昔、この農場とジョンを同時に引き継いで仕事をはじめた人だが、年をとって仕事が無理になってきたので、隣の教区にある故郷の村に帰って、晩年を送ろうという気になったのだった。ここに何軒かの借家を持っていたのである。ところが、その農場を引き継ぐことになった新しい農場主が、自分の使用人を連れてきたので、この老羊飼いジョンはどうなるか、という問題が起こった。それに八十五という年では、もう草丘で羊番をするのはむずかしい。羊の子供の世話も無理だ、と元の主人は考えて、これから移ってゆく先の村で何かジョンのために仕事を見つけてやろうとした。ところが見つからない。そこでついに、自分が引退する村で一軒の田舎家を無料で提供しよう。それに、この先ずっと一週十二シリング出そうと申し出た。当時にすれば、これはずいぶん気前のよい話なのに、ジョン老人は断ったのである。「だんな、わしは生まれた村にいようと思うよ。暮らしがむずかしけりゃ、教区のお世話になるより仕方がない。世話してくれようと、くれまいと、ここにいて、ここを動く気はないよ。生まれたとこだからな、ここは」
と老人は突張ねて、頑として動かない、というわけで、元の主人もやむなく老人をこの村に置いてゆくより仕方がなかったが、その前に充分なことをしてやったというのである。
この話をする口ぶりに、ケイレブがこの事件をどう受けとめているかがはっきり表われていた。ジョン老人の気持を理解し、心から強く共鳴しているのだった。ジョン老人は半世紀以上前に死んだ。というよりウィンタボーン・ビショップ村の教会──十八世紀中頃という遠い昔、ちいさな子供の頃に墓石の間で遊んでいた教会──の古い灰色の塔の下で、緑におおわれて安らかに眠っている。しかし、ジョン老人は、早くから女房や子供に先立たれ、自分のこと以外に何も考える必要がなかったから、どこで死のうと好き勝手にできたのだが、この自分は、そうはいかなかったというのである。
羊飼いの仕事や生まれた家を愛する気持は、自分もジョン老人に劣らず熱烈だが、老人ほど自由な身ではなく、けっきょくは生まれ故郷の草丘をあとにして別の土地に移り、余生を送ることになった。もう二度と故郷を見ることはあるまい、というのだった。
子供の時分、冬、長いあいだ雨にぬれたり、寒いめをしたために、カゼを引いて、これがもとでリューマチ熱が出て、腿の具合がわるくなり、けっきょく、片脚全体がおかしくなって、びっこになってしまった。こういうわるい条件はあったが、五十年近く羊飼いとして働き、その間に息子や娘も大きくなり、結婚し、家を出ていった。みんな、かなり遠いところへいったので、年をとってから、また夫婦二人きりになった。ところが家内が体が丈夫で、積極的な質なので、少し離れたところに口を見つけてきて、ちょっとした仕事をやりたいと言い出した。こちらは、そんな途方もない冒険をやるのに羊飼いをやめるのはまっぴらだ、とはねつけたものの、丘の上のさびしい番小屋、村のなかの寒い、からっぽの田舎家で一年と少し暮らすうちに、とうとう、この最愛の土地から気がすすまぬながらも離れる気になり、自分としては人生最大の旅に出て、四十五マイルの旅路をへて妻のところへきて、新しい家の仕事を手伝うことになったのだという。その数年後に、ここで私は彼に出会ったというわけだが、そのときケイレブは七十二歳だった。ところが体の具合がわるくなってきたとかで、かなり年より老けて見えた。父親もウィルトシァ草丘で羊飼いをして八十六歳まで生きたし、母親も八十四歳まで長生きした。二人ともほとんど最後まで元気で働いていたのに、どうして、わしは、こんなに早く仕事ができなくなるのか。おかしい。頭も心もまだ若いし、まだ働きたいのに、というのだった。
最初に出会ってから今で九年になるが、あの頃よりほんとうに健康になっているので、じゅうぶん父親の年まではもつ、と私は思う。
はじめて会ったとき、その変わった風貌に私は驚いたが、その後は、その目の表情に強く打たれたものだった。背丈がひどく高くて、骨太で、痩せて猫背という具合で、やぼったくて、奇怪といってもいいくらいだった。ちぢんで短かくなった脚を杖を頼りに痛々しく引きずるようにして歩く。細長い顔、高い額、高い鼻、長い顎、喉頸にまで生えている粗い灰色のほおひげ。こういうところを見ていると、まるで山羊のようだが、目と耳がよけいにその感じを強めていた。頭の両側に大きな耳が張り出していて、耳たぶの先が妙に曲がっているのか、巻いているのかのせいで、角度によっては耳がとんがって見える。目は薄茶色で、すばらしく澄んでいるが、それよりも人間の目でないようなところが目立った──じっとこちらを見る小鹿の目。家の表と裏にあいている窓を通りぬけて、その向こうの景色を見つめているような目だった。戸外で初めて会って、招かれたわけでもないのに家のなかに入って、炉端に腰をおろしたとき、この目で見られて、私は最初少しドギマギした。年老いた女房は、いそがしげに動きながら、あれこれと話しかけて、私がじゃまになっていることを、出来るだけ気にさわらぬよう、遠回しに伝えようとする。実際的な農村女の感覚からすれば、私が家に入ってくる理由がないのである。「あの人は、わたしらには他人、わたしらも、あの人には他人」という調子のしゃべり方である。ところがケイレブは黙りこんだままで、その澄んだ目には、べつに迷惑とか嬉しいという表情もない。ただ生まれつきの野生の鋭さを見せているだけである。だが、丘の羊飼いには元来、他の人間とくらべて社会的身分感覚というものは薄い。ちょっとしたきっかけで消えてしまうことがある。今の場合がそうだった。台所に一羽のカナリアが籠に入ってぶらさがっていたが、これがきっかけで、自由な鳥と囚われの鳥という話題が出てきたのである。この小さな黄色い鳥が好きだけれど、こうして鳥籠に入れられているのを見ても、べつにかわいそうだとは思わない。もともと籠のなかで生まれた鳥だから。しかし、野生の鳥をつかまえて、これを飼うのはものの分からない連中だと思う、と私は話した。これが偶然ケイレブの意見と一致したのである。彼は野生の小鳥に珍しいほどやさしい気持をもっていて、ここで子供の頃のおもしろい事件を思い出して、その話をしてくれたのだった。ある夏の日、父親の羊の群れをあずけられて番をしていると、村の二人の少年が草丘を歩きまわっていて、そばに寄ってきて芝地にすわりこんだのだという。一人が一羽のタヒバリを持っていた。つかまえたばかりで、どちらが持ち主か、ということで激しい口げんかをしていた。聞いていると、事情はこういうことだったらしい。一人が巣を見つけて、鳥をつかまえたいという気を起こした。するともう一方の少年が、よしぼくがつかまえてやる、と言いだした。そこで、少し離れたところにすわって二人が待っていると、親鳥がもどってきてタマゴの上にすわりこんだ。そこで一人の少年が、さっきのところへもどり、巣にソロソロと近づいて、五、六フィート足らずのところへきた時に帽子を投げると、うまく鳥の上にかぶさった。ところが、つかまえてしまうと、渡すのはいやだという。すわって言い合いをするうちに、だんだん激しくなってきて、今にも、なぐり合いがはじまりそうになったが、けっきょく、なぐり合いをやって勝ったほうがもらうということになった。それで、五、六フィート離れた芝地の上に鳥を帽子で伏せておいて、さて、二人の少年は上着をぬぎ、シャツの腕まくりをして、にらみ合い、今にもなぐり合いをはじめるという段になって、ケイレブがヒョイと杖をのばして、帽子をひっくり返したというのである。パッと鳥は逃げてしまった。
鳥に逃げられて、けんかの理由のなくなった二人の子は、憤懣をケイレブにぶつけたいところだが、その足元にすわっている犬を見ると、勇気が出てこない。けっきょくは、バカとか、いまに見てろとか、おどかしたり、悪態をついたりするだけで、上着を着ていってしまったという。
このタヒバリのかわいい話は、ケイレブの半世紀にわたる羊飼い生活の、子供の頃の話の最初のもので、その後、次々といろんな思い出話が、彼の家の台所の火のそばにすわりこんで、秋や冬の夕方、何度も話し込んでいる時に出てきたのだった。私には古い思い出話が最も興味深かったけれども、それは、六十年、いやもっと昔、まだ土地が野性的で、もっとりっぱな野生動物がいた頃の話が聞けたからだが、それより面白かったのはケイレブの父親のアイザック・ボウカムの思い出話だった。この人の時代は十九世紀初期にさかのぼる。ケイレブは父親に尊敬、というより崇拝に近い気持を抱いていて、八十歳を越した父親の様子を好んで語ったものである。姿勢がよくて身長は六フィート・二インチ。均整がとれて、いつも顔にきれいにかみそりを当てていた。顔は赤みがかって、目は黒く澄み、髪は銀色だった。年をとってからは、昔の年金受給者の制服を着ていたという。やわらかくて幅の広い白いフェルト帽、分厚い編上げ靴、茶色の革ゲートル、灰色の長オーバーという服装だが、このオーバーには赤い襟と真鍮ボタンが付いていたそうだ。
ケイレブの話によると、この父親は肉体的にも精神的にも非常に優秀な人間だったことは間違いなさそうである。一八〇〇年に生まれて、子供の時に羊飼いとなり六十歳になったが、賃金は週七シリングから一ペンスもあがらず、現物支給も何もなかったのは、父親の持ち家に生まれ、父が亡くなった後、その家を相続したからだという。こんなりっぱな男が、大農場の羊飼い頭として一個所で五十年近く働きながら、一八六〇年までそんな賃金しかもらえなかったとは信じられないような話である。大きくなってくると、息子たちまでが、賃金を上げるように頼んでみたら、と言い出したが、父は頑として聞かない。これまで週七シリングちゃんともらってきた。少ない金だが、それでも母さんがりっぱな野良着を作って余分にかせいでくれるおかげで、みんなまともに暮らしてきた。その上、お前らもみんな、自分でかせいでいるではないか、という調子である。ところがその頃、ケイレブは結婚して、ビショップ村の古い農場から離れる決心をしたのだった。少し離れたウォーミンスターに、もっといい口があって、話がかかってきたのである。住まいに田舎家を一軒提供するし、賃金は週九シリング出す。それから犬の食料として大麦一袋出すという条件だった。その頃、羊飼いは自前で牧羊犬を飼うことになっていたが、週六シリングないし八シリングの賃金では、これはバカにならない出費だった。ところがケイレブは父親の気に入りの息子で、この子の姿が見えなくなるのは、老人にすれば、がまん出来ない。しかし、やめておけと言っても聞かないので、ついに父親は腹を立てて、高い賃金と犬の餌がほしくてウォーミンスターへいくのなら、親子の縁を切ると言いだした。羊飼いには子供に残していく金など一文もないのだが、これはケイレブにすれば大問題だった。だがそれでもケイレブは家を出た。父親を愛し、尊敬していたけれども、若い妻がいて逆の方向へ引っぱったからである。しかし数年後に帰ってみると、父の心も柔らいでいて、よろこんで家に迎え入れてくれた。
留守ちゅうのウィンタボーン・ビショップのつつましい田舎家では大事件が起こっていたのである。アイザック老人は、もう草丘の羊飼い生活をやめて、村の自分の田舎家でじつにのんびりと暮らしていたのだった。どうしてそういうことになったかというと、こうである。
丘陵地帯の羊飼いは、ケイレブによれば、ほとんどが密猟の達人だということである。妻と腹をすかせた五、六人の子供、それに、犬までが加わった家族を週七シリングほどで養うのだから、それもじつはふしぎな話ではない。しかしアイザック老人は例外だった。獣も鳥もいっさい密猟しないし、自分が羊番をしている土地では他人にも出来るかぎり密猟させなかったという。ケイレブやその兄弟たちは、子供の時に、あるいは、もう少し大きくなってから羊飼いをやりだしたのだが、その初めの頃、家ウサギを時々つかまえることがあった。自分でつかまえなくても、犬が勝手につかまえて殺すことがあった。しかし、いずれにしても、そのウサギを家に持ってかえることは父親の手前できなかった。さて、猟場の持ち主だったある中年すぎの紳士が、たまたま熱心な狩猟家だった。ところがこの人が、数年間つづいて、草丘地の一地点と、その他の自分の土地との間に、猟の獲物の点で、ずいぶん差があることに気がついた。猟場の番人の説明でも、家ウサギ、野ウサギ、シャコが非常に多い草丘はアイザック・ボーカムが羊を飼っている場所だとしか分からない。ある秋の日、この紳士が獲物の多いこの草丘で銃猟をしていると、野良着を着た一人の大男が杖を持って、身動きもせずたたずんで、こちらを眺めている。すると、あれが羊飼いのボーカムだと猟場番が言う。老紳士はポケットから金を出して、「この半クラウンをあの男にやってくれ。それから、きょうは愉快な猟ができたと、お礼を言ってくれ」と猟場番に言った。ところが金を渡しても紳士はまだその場を動かない。まだお礼が足らないと考えていたらしく、けっきょく、立ち去る前に大声で「ボーカム、それだけじゃないよ、そのうちに、もっとお礼をするからな」と声をかけた。
「そのうちにもっと」というお礼がくるまでアイザックは長く待つことはなかった。お礼といっても、野ウサギ一羽かキジ一つがい位だろうと考えていたが、じつは、そうではなかった。あの狩猟好きの紳士は偶然、ある古い慈善団体の役員だった。ビショップ教区の六人の老人資格者を選んでこれを扶養するという古くからある慈善団体の役員だった。最近その六人のうちの一人が亡くなって、その補欠にボーカムをこの紳士が推薦してくれたのである。貴殿がその空席につくことが決まったので、ソールズベリに御足労願いたいという手紙がとどいたとき、アイザックは仰天した。なるほど六十歳になって、一人前になった息子が三人あるが、まだまだ自分を老人とは思っていない。病気など一日もしたことはないし、どこかが痛いと思ったおぼえもないし、近所では体力、ねばり強さの点で有名である。ところが今、週八シリングの賃金があり、自分の家がある上に、年金受給者の諸手当のほかに制服まで支給され、さらにその上、永年働いてきた村の農場主の家で用事をする手間賃として一日一シリングの日当が出るという具合で、非常に結構な身分になり、これが二十六年つづいたのだった。そして一八八六年、老妻が病気になって亡くなると、にわかに老人も衰えて、その年も終わらぬうちに間もなく後を追った。昔から仲のよい夫婦だったから、一人では生きられなかったのだと近所では噂したということである。
この章はこれでまとまりがついたので、これ以上書き加えるつもりはなかったのだが、じつは、ある理由があって、ぜひもう少し書いてみたいと思う。ある理由というのは、読者が聞かれたとき、きっと納得していただけると思う。老人夫婦の場合、一方が亡くなると、それだけで他方もすぐ亡くなるという不思議な現象について書いてみたいのである。人間は命に執着するのが本能であって、まともな人間であれば、年をとればとるほど赤ん坊のように衝動的に命にしがみつく。したがって一般人〔われわれの知人〕の間では、夫婦の一方が死ぬと、もう一方もすぐ死ぬというのは、奇妙な、まれなことだが、農村地帯の労働者階級では、これがごく普通なのである。村落地域でこういう例があまり多いので、私は驚いたのだったが、考えてみれば、驚くことでも何でもない。農場で働く労働者は、子供の時から死ぬまで周期的な同じ行動を繰り返している。季節の移り変わりにつれて仕事も変化するが、それも一年の季節変化に応じて行動や習性を変える動物とさして変わらない。三月、八月、十二月とめぐるにつれて、大気、土、動物などにいろんな変化が起こるが、そういうことは昔からつづいてきたもので、それをどう受けとめるか、そんなことは分かりきっている。羊のお産の時期、毛の刈り取り時期、根菜や穀物の季節、畑にクワを入れたり、乾草を作ったり、収穫することなど、みんな昔から馴れ親しんだ仕事ばかりである。生活といっても実に単純で、他の階級の人や、まちの労働者こそ、家庭や日常の仕事以外に、いろんな興味や気晴らしがあるが、そんなものの一切ない素朴な生活である。が、ついでに言っておくと、これはまた最も健康な生き方であり、農業労働者こそ、ある人たちが信じるように英国一の幸福者ではないにしても、まず英国一の健康者だとはいえるだろう。
変化なしに行なう単純な活動、本能のような習慣、毎日毎日、陽に照らされ雨風に打たれながらする激しい労働、一週一度の休みと休息はとるが、ほかに慰めはとぼしく贅沢など全然ないという、こういう生活が夫婦を固く結びつけることになるわけだが、こういう暮らしが長くつづけばつづくほど、結びつきは固くなり、ほどけにくくなる道理である。共に老いてゆく。古い友だちや仲間は死ぬか、遠くへ去った。子供らは結婚して家を離れ、自分の家族のことに気をとられて、郷里の老人のことなど思い出しもしない。世間にもほとんど問題にされなくなった。が、こちらはそんなことは知らない。老夫婦はいつもいっしょで、同じ思い出を大事にし、同じ懐しい昔のことを語り合い、死んだ友だちや仲間や、家を離れて疎遠になった子供たちも、まだ昔と変わらず胸のなかに生きつづけている。老人夫婦には現在より過去のほうに意味があり、これが生きることに尽きぬ関心をあたえてくれる、というのも二人で同じ過去を生きてきたからである。だが一方が亡くなる。老いた妻はお茶の用意をして、いつもの癖で何気なく戸口に近づいて外に目をやるが、疲れた夫が帰ってきて、いつもの場所に坐ることは、もうない。帰ってきたら話そうと、一日じゅう待っていたおしゃべりを聞いてくれることもない。疲れた労働者が夕方、体を引きずるようにして家に帰ってくる。しかし、待ちかまえていたようにしてお茶を出してくれ、こちらが飲むのを見ながら、おしゃべりをしてくる老妻はもういない。そのとき、彼はにわかに自分の身の上を実感する。世間から、そして仲間からすっかり離れてしまったのだ。みなどこへいったのか。今まで、いつも連れ合いがいっしょで、いつも調子を合わしてくれたから、こちらも人生に触れて、人生は変わらない、変わり得ないように思っていたが、連れ合いが去ると共に、あらゆる人生のきずな、あらゆる人間の情愛はおろか、その古い甘い幻想まで消えてしまった。今や砂漠のような世間に一人とり残されて、わびしさが身にしみる。こうして、病気の気配もない、これから十年でも、二十年でも長もちしそうな、まだ頑丈な男が、さびしさと孤独に耐えられずに逝ったという例がこれまで無数にあったのである。
前にも言ったように、こういう例は普通であるが、記録には残されていない。とはいっても、念入りに探せば、教会の登録簿のなかから拾いだすことはできる。しかし教会墓地では、農業労働者の墓は緑の塚にすぎないので、そこにその証拠は見出せない。しかし時には、農業労働者でも墓石をつくってもらうことがある。昨年八月、たまたま、ひとつの、そういう墓石を目にする機会があり、そこにアイザック・ボーカム夫婦に似た例が記されていた。
この教会墓地は、本書に書いた丘陵地帯の、もっとも辺鄙で美しい村々のなかの、ある村の墓地である。教会は古く、美しくて、いろんな面で興味深いものがあったが、墓地のほうも、なかなか興味をそそるものがあり、緑の美しい場所に木陰が落ちて、大変な数の墓所や墓石があった。多くは十七、八世紀のもので、今は絶えて久しい家の名が記されていた。
ある日の午後のこと、この墓地で一時間をすごそうと思って出かけてゆくと、労働者の服を着た一人の老人が一つの墓の上にすわって休んでいた。で、私もすわって話をはじめた。聞けば七十九歳で、仕事をするのも無理になったので教区から週三シリングもらっているそうだが、耳が非常に遠くて、こちらは話をするのに疲れた。そこで教会の扉が開いているのをよいことに、話をやめて中に入った。前に何度かここへきたとき、鍵を受けとるのにずいぶん苦労したので、いま扉が開いているのを見て意外でもあり、うれしくもあった。入ってみると、一人の老婆が席のほこりを払っていた。この老婆を相手におしゃべりをしていると、やがて、さっきの老労働者が、ドスドスと鉄鋲を打った重い靴を踏みならしながら、赤茶けた古い帽子もとらずに入ってきた。そしてこの教会掃除婦に向かって大声でわめきだしたのである。ズボンを直してもらおうと思って渡したのに、まだ出来ないのか。あれが要るんだ、と大声で言う。二人が言い争っているのを放っておいて私は外に出て、墓の碑文を調べだした。じつに読みにくいものもある。やがて、老人が出てきて向こうへいってしまうと、老婆も出てきて、私のところへ寄ってきて、「こまったじいさんだよ! 耳が遠くてね、大きな声を出さんと自分の声も聞こえんのさ。こっちも、大きな声を出さにゃならんし──それが古ズボンの話なんだからね、ほんとにもう!」
「要るんでしょうが、そのズボンが。直してやると約束したんでしょう? それなら怒る理由もちょっとはあったわけだ」
「いいや、それはちがうよ。女の子が持ってきたんで、『置いときなよ。ひまな時にやっとくから』と言ったんだよ。あんなに、急いでるなんて知らなかったからね。知るわけがないじゃないか。うるさいじいさんだよ、ほんとうに!」
といっているうちに老婆はポケットから眼鏡をとり出して、それを掛けると、地面に両膝をついて、墓石の片側に刻んだ文字にこびりついている茶色の古い枯れたコケをせっせと落としはじめたのである。
「ここに何と書いてあるか、知りたくてさ」
「ふーん、それじゃ眼鏡をかけたんだから読めるわけだ」
「字が読めないのさ、わたしゃ。七十六歳、老人だよ。小さいとき、うちが貧乏で学校なんかいけなかった。お針仕事をするのに眼鏡を買ったのさ。これをかけて、これを、ほじくり出して、字が見えるようにして、読んでほしかったのさ。さあ、読んで聞かしとくれ」
こんなに遠慮なく話しかけてくる老婆に私はだんだん興味をおぼえてきた。体の弱そうな、小さな老婆である。色あせた、古い、とろんとした服を着ているが、ずいぶんやせているようだ。おとなしい、辛抱づよい表情で、声にも顔同様、疲れとあきらめが出ていた。
「しかし、昔からここにいるんだったら、この墓に書いてあることは知ってるはずなのに」
「それが知らないんだよ。誰も読んでくれるものもなかったし、自分では字が読めないものね。でもね、あんたの読むのを聞きたいんだよ」
それは、百年以上前にこの世を去ったアッシュという人について記した長い碑文だった。人柄は高潔で寛大、良き夫であり、良き父であり、良き友人であり、貧者には慈悲深かった、とある碑文の下に詩文が数行あったが、わざわざコケを落としてくれたのに、これは、ほとんど読めないような状態になっていた。
老婆はじっと興味深そうに聞いて、
「こんなことは初めて聞いたね。そんな名前は知らなかった。この石は子供の時から見てたけど。いつもこの上にのぼったもんだった。もう一つ読んどくれよ」
もう一つ、それからもう五つ、六つと読んでゆくうちに、これは知っている、という墓が出てきた。この墓の言葉は一つ残らず知っているという。こんなやさしい、いい女の人はいなかった。今から五十年以上昔、わたしが結婚して、まだ若かった頃、ああ、この人は、なんて親切にしてくれたことだろう。せめて、この人が生きていてくれたら、あの災難に見舞われたとき、あんなつらい目に会うこともなかったのに、という。
「災難て、どんなことだったの?」
「うちの人が死んだんだよ。いい人だった。藁ぶき職人でね、藁山から落ちて、背骨にけがをして死んでしまったよ、かわいそうに。わたしと五人の子供を残してね」
とここまで言うと、パッと驚くほど明るい顔になって、また墓の言葉を読んでほしいという。
読んでゆくうちに、ある墓のところで、
「それゃ、違うよ。この教区にランパードなんて人は、いなかったよ、そりゃ確かだよ」
「そりゃ、お婆さんが知らないんだ。たしかに、いたんだよ。そうでなかったら、この石にこんなに深く刻んであるわけがない」
「いいや、ランパードなんていなかった。わたしゃ、一生ここに暮らしてきたけど、そんな名前、一度も聞いたことないよ」
「しかしね、お婆さん、あんたが生まれる前、ここには人が暮らしてたんだよ。ずっと昔だよ、このランパードが死んだのは。一七一四年没すとある。お婆さんはまだ七十六だと言ったね。すると一八三五年生まれということだ。そうすると、このランパードが死んだのは、それより百二十一年前ということになるか」
「へえ、昔だね! それじゃ、ずいぶん古いんだね、この石は。それに教会も。昔ここはローマ・カトリック教会だったって聞いたことがあるけど、それはほんとうかねえ?」
「そりゃほんとだよ。古い教会は、みんなそうだった。人間も昔はみんなカトリック教徒だった。ところがある王様が出てきて、ローマ法王とけんかして、これからは王様だけでなくて、自分の国の法王にもなると決めたんだ。それから司祭や修道僧を全部追い出して、その土地や教会を取り上げて、そこへ自分の家来を据えたというわけ。これがヘンリー八世だよ」
「その王様と奥さんたちのことはちょっと聞いたことがあるね。でもね、ランパードのことを一度も聞かなかったなんて、ほんとうにふしぎだ」
「いやふしぎでもなんでもない。昔はこのあたりで普通の名前だったから方々の墓地に何十と見つかるよ。だけど今の村にランパードという人はいないだろうね。せいぜい百年ほど前までは、このあたりで普通だったけれど、もうすっかり絶えたという名前がいくつかあるんだよ。なんなら、そういうのを十か二十、言ってみようかね。変わった、おもしろいのがあるよ」
「聞かしてもらいたいねえ」
「えーと、そうだな。ソア、ピジー、ジー、エヴリイ、ポトル、キドル、トゥーマー、シャーゴールド、それから──」
老婆はここでさえぎって、いま言ったうち三つは知っている。あそこに一つある、と言って、二十フィートほど向こうに立っている一つの墓石を指さした。
「そうかね。ちょっと、じゃましないで──まだもっとあるんだから。メイドメント、マーチモント、ヴェルヴィン、バーピット、ウィンザー、ライドアウト、カラーン」
このうち、ライドアウトしか老婆は知らなかった。
それから、さっき老婆が指さした墓石に近づいてみると、それはジョン・トゥーマーと、その妻レベッカの墓だった。妻は一八七七年三月、七十二歳で没し、夫は同年七月、七十五歳で逝ったとある。
「知ってるんだね、この夫婦は?」
「知ってるよ。二人とも、この土地の者だった」
「それなら、この夫婦の話を聞かしてほしいな」
「なんにも話すことなんかないけどね。亭主はただの労働者で、一生、同じ農場で働いてたよ」
「この墓は誰が立てたの? 子供?」
「いいや。子供はみんな貧乏で、遠くに暮らしてるもんね。ここにいた貴婦人だったと思うけど。親切にしてやってね、ジョンじいさんを埋めた時に、やってきて、ここに立ってたねえ」
「それから?」
「もう何もないと言ったろ。労働者だった。女房が死ぬと死んだよ」
「それから?」
「それからって、もう何もないよ。わたしゃこの夫婦のことはよく知ってる。むこうのあの小さな藁ぶきの田舎家、あそこに住んでたんだよ、今はミラードの家だけどね」
「その夫婦は同じ時に病気になったの?」
「いいや。亭主はそりゃ元気で、女房が死ぬまでまだ働いてた。ところが、女房が死ぬと、おかしな具合になってね。夕方、うちに帰ってきて呼ぶんだよ。『かあちゃん、かあちゃん、どこにいるね』って呼んでるのが聞こえたもんさ。『かあちゃん、二階か? 寝るまえに、降りてきて、ちょっとチーズとパンでも食わんか?』なんて言ってたけど、それから、すぐに死んだよ」
「何も話すことなんかないって言ってたくせに!」
「そうだよ、何もありゃしないさ。あたしらの仲間、農場の労働者だったのさ」
私は、それからいくらかの金をこの老婆に与えた。すると彼女はこれを受けとって、左足を引き、膝を曲げ、ちょっと体を下げる、あの貴人に対する礼をしたのである。私は面くらった。今まで互いに親しく、のびのびと、言いたいことを言い合い、対等にしてきたのである。ところが、それだけではなかった。老婆は墓地の門まで私を見送ってきて、私がさっき出した僅かばかりの贈り物を手のひらにのせて差し出し、あわれな声で、
「だんなさま、わたしがこれを欲しがってると思ってたんですかい? そんなこと思ってもいなかったし、欲しいという気もなかったのに」
私はこの老婆のことを一言でも書こうという気持はなかった。ところがあの日以来、頭に憑いて離れない。老婆のことと、話に出たジョン・トゥーマー老人のことがとり憑いて離れない。それで、ここに書けば頭から離せるかもしれないと、ふと思いついたのである。
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五章 子供の頃の思い出
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少年羊飼い──アイザックとその子供たち──少年時代の羊飼い生活──二匹の牧羊犬──マムシ殺しのジャック──マムシの上にすわる──ラフと羊業者──ソールズベリ行きの馬車──子羊に乳を飲ませる牧羊犬。
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ケイレブの羊飼い生活は、子供の時にはじまった。とにかく最初の経験は、その時代だった。父親も羊飼いだったという老羊飼いにたくさん会って、自分は、すいぶん早くから羊飼いをしている。十歳か十二歳位からしている、とよく聞かされたものだが、ケイレブの記憶では、初めて父親の羊の番をしたのは僅か六つの時だったという。はじめてのすばらしい経験で、あまり生き生きとした強い印象を受けたので、八十歳を越した今でも、きのう起こったことのように、しみじみとした調子で語るのだった。
農場の収穫時だった。畑で、刈りとり上手の父親アイザックの手が必要だった。ところがその間、羊たちの番をしてくれるものがいない。子供もいない。それで、刈りとりをする一方で、羊にも目を配れるように、父親は、草丘の、畑に接したところへ、羊の群れを連れ降ろしてきた。ここは父親の「自由地」、つまり、自分の羊を飼うことが認められている場所だった。それから、自分の小さな男の子、つまりケイレブを羊の群れのところに連れてきて、さあ、今からおまえが番をするんだぞ、と言い渡した。羊をにがしてはいかんぞ。しかし、マムシを踏むと困るから、ハリエニシダのなかを走りまわってはいかん。ところが、そのうちに羊たちがハリエニシダの茂みの中へ散りだした。その姿が消えたとたん、ケイレブは、もう永久に羊たちが迷い子になってしまった、いや早く探さないと迷子になると思って、マムシにおびえながら茂みの中を走りまわらずにはいられない。羊を見失う、マムシが恐いという二つの心配で、ずっと泣きどおしだったという。しかし、時々父親が仕事の手を休めて様子を見にくると、もう涙は消えて、ずいぶん元気が出てきて、大丈夫かと聞かれると、大丈夫だと答える。
そのうちに父親がきて、刈りとり畑へ連れていってくれた時はホッとしたという。連れていってくれるといっても、なにも抱いてくれるわけではない。いつもの調子で大股でスタスタとゆく後ろから、ちいさな子が走って追いかけていくのである。時々つまづいて、転んでは、また立ち上がって走る。そのうちに、畑にいた女の一人が声をかけて、
「アイザックよ、はずかしくないのかね、そんな調子で歩いてさ、ちいさいのに、待ってやんなよ。たった七つじゃないかね、かわいそうに」
「たったの六つよ」
アイザックは誇らしそうに答えて、大きく声を上げて笑った。
やわらかくする、やさしくする、ということはないが、アイザックは大の子供好きだったということである。夕方早くうちに帰ったりすると、周りに子供を集めて話をしたり、若い頃おぼえた歌や民謡を歌ったりしてくれた──「下の村で」、「エリザベス女王の御代」、「鍛冶屋」、「緑のガウン」、「夜明け」その他たくさん教えてくれたが、ケイレブはけっきょく、それらを全部そらでおぼえて、大きくなってから自分でもよく歌ったという。
本格的にケイレブが羊飼いの手伝いをはじめたのは九歳位の時だった。夏のことで、毎日、羊の群れが草丘に出される時期で、乾草つくり、それがすむと、取り入れや他の仕事というふうに、父親アイザックの手が必要とされる忙しい時だった。この時期のケイレブのいちばんよい思い出は、母親と二匹の牧羊犬のことだった。最初はジャック、次はラフという犬だが、どちらも珍しい性質をしていた。ジャックは、父の大の気に入りで、「すごくいいやつじゃ」と言っていたという。毛は短かいほうで、この点、昔ウィルトシァに普通だった牧羊犬に似ているが、灰色に黒の斑点の散った普通の色ではなく真黒だった。この犬は、マムシをひどく憎んで、見つけると必ず殺さずにおかなかった。が、危険な敵だということも知っていて、マムシを見かけたとたんに、毛が逆立って、しばらく体がまひしたように立ちすくんで、歯をかみ鳴らしながら、にらみつけている。そして猫のように飛びかかって、口にくわえて、パッと向こうに放り投げ、これを繰りかえしてマムシを殺す。すると、アイザックがそれをハリエニシダの茂みの下に引っぱりこんでおいて、仕事が終わると、これを家に持ち帰って、木戸の上に掛けておく。農場主もジャック同様、マムシ嫌いなので、一匹殺すごとに、駄賃としてアイザックに六ペンスくれるのだった。
ある日、ケイレブが兄の一人といっしょに草丘に出て羊の群れの番をしていた。いつものように芝地の上に盤を持ち出して将棋をさしたり、なぞなぞ遊びをしたりしていると、いきなり、そこへ母親が姿を現わした。子供たちが羊の番に草丘に出されたとき、子供たちが何をしているのか見ようとして、草丘まで出てくる習慣が母親にはあったが、そういうとき、母は生け垣の横伝いに、あるいはハリエニシダの茂み伝いに身を隠して、近づいてきて、いきなりパッと現われては子供らをおどろかしたものだった。このとき、子供たちが遊んでいたちょうどその場所に、一株の、太い、低いハリエニシダの茂みがあった。ビッシリと厚く茂っているうえに、椅子にして使えるほど、上が平らな面になっている。そこへ母親は肩掛けを外して、たたんで置き、やれ一休みと、腰をかけたのだった。「今でも目に見える。上張りを着て、脚絆をつけて、男みたいな大きな帽子をかぶってな。これがいつもの恰好じゃった」。だが、すぐパッと立ちあがって、下にヘビがいると叫んで、肩掛けをはぎとった。するとたしかに、茂みの平たい面の真中からマムシが首を出して、舌をペロペロさせている。これを見るや、牧羊犬のジャックはパッと茂みに跳びかかり、鼻面をグイグイそのなかへ押し込んでいって、マムシの胴をくわえて引きずり出し、ポーンと向こうへ放り出した。そして追いかけていって、また噛みついて放り出す、といういつもの手順でとどめをさした。
ラフという犬は、灰色の毛のモジャモジャと生えた、しっぽの短かい大型のメス犬で、頸に白い環が入っていたという。かしこい、どんな仕事でもこなす犬だが、元は羊の群れが道路をゆく時に、これを誘導する訓練を受けた道路犬だった。この犬についてのケイレブの話の一つは、この専門の誘導技術の話だった。
ある日、ケイレブと弟の一人が草丘に出て羊の番をしていた。下に有料道路が通っていて、それへ向かって草丘が坂になっている場所で、村まで一マイル半の距離があった。この有料道路を羊の大群が通りかかったのである。男が二人、犬が二匹つきそっている。ブリトフォードの羊市へ向かっていくのだが、時間に遅れていた。父のアイザックも羊の群れを連れて夜明け方に出てゆき、その留守に子供たちで羊番をしていたのだった。草丘で自分たちの羊は静かに草を食べている。それじゃ、下へ降りて見物しよう、ということになって二人の子供が道路脇に降りて来ると、羊の大群についている二匹の犬は、もう疲労で動けない。おかげで二人の男はひどく難儀している。男の一人が、こちらといっしょにいるラフをじっと見つめて、この犬は働くかと聞く。「ああ、働くよ」とケイレブ少年は誇らしく答え、ラフに声をかけて、道路やその両側の芝地の上をノロノロと進む羊の群れを指さした。ラフは了解した。
ラフは、様子を見ていて、専門的な目で情勢をのみこんでいたのである。そこで指図を受けるや、ダッと駆けだしていき、はじめはこっち、それから向こうと、道路の両側をいったりきたりして、たちまち八百頭もいる全群を道路に連れもどし、ちゃんと歩かせるようにした。
「ほほう、道路犬だな、これは。おまえさんらが草丘で使うより道路のほうに向いてるぞ。売ってくれよ」
と男が言う。
「だめだよ、売れないよ」
「いいかい、ぼうや。一ポンド金貨一枚だ。それに、この若い犬も付けるぜ。ちょっと仕込むとよくなるぜ、こいつは」
「だめだよう」
相手のしつこさにケイレブは閉口した。
「そんならどうだ。もう少し、いっしょにきてくれないか」
それは、いいよというわけで、四分の一マイルほどついてゆくと、急に前からソールズベリ行きの馬車が現われて近づいてきた。この新しい問題を小さな主人に示されると、ラフは、パッと跳び出して、大声でほえながら、羊の群れの中に飛びこんでいき、ながながと伸びる群れを端から端まで道路の左右に追い散らしてしまった。おかげで、きれいに空いた道路を、一分の遅れもなしに馬車は走っていった。そのあと、すぐまたラフは、群れを道路に連れもどした。
すると、またさっきの男が金貨を出して、少年の手に握らせようとする。
「だめだよう。とうちゃんに何て言われるか」
ケイレブはもう半泣きである。
「何も言うもんかい。かえってほめてくれるぜ」
しかし何か言うと、ケイレブは思った。今まで何度か鞭でたたかれたことを思い出して、背中のあたりがムズムズしてくる。
「だめだよう、いけないよう」
と言うのがもう精いっぱいだ。すると羊業者は、笑い声を残していってしまった。
父が帰ってきたとき、この話をすると、父は声を上げて笑い、ラフはいずれ売ろうと思っているのだと言った。ラフが母親に非常になついていたので、時々こんなことを言って、母をからかったのだろう。母はユーモアの感覚がないので、本気にして椅子から立ち上がり、真顔で、そんなことをしたら、もう二度と草丘へ出かけて子供の様子を見てやらないと言うのだった。
ある日、子供らが有料道路の近くで羊の番をしているところへ母親がきて、道路から二、三ヤードほどの芝地にすわりこんで縫物をはじめた。ところが、しばらくすると、変な風体の大きな男がスタスタと道路をやってきた。シャツ姿で、はだしで、縁なしの大きな麦わら帽子をかぶっている。この変な男が近づいてくるのを、ラフはうさんくさそうな顔をして見ていたが、やがて女主人のそばに寄って、その横にすわりこんだ。男は近づいてきて、みんなから三、四ヤードほど離れたところに腰をおろした。するとラフは険悪な表情になり、サッと半身を起こして、前足を女主人の膝の上にのせ、低いうなり声を出しはじめた。
「その犬、かむかね、、奥さん」
と男が言うと
「かむわよ。もっと近づいたら危いかもね」
二人の兄弟は、ハリエニシダのやぶを鉈鎌で刈って、タキギの束をつくっていたのだが、今や、この男が「かあちゃんに悪いことをする」ようなことになったらどうするか、とヒソヒソ声で相談していて、ラフが相手の脚に噛みついたら、すぐこちらも頭を鉈鎌で襲うということになった。だが、そんなことをする必要はなかった。男はラフのすごい形相におそれをなして、早々に立ち去ったのである。
ケイレブは、もう一つラフの身に起こった奇妙な事件をおぼえていた。ラフがあるとき、子犬を四、五匹生んだことがあった。ところがラフが番をしないとどうにもならない、というので、ほとんど一日じゅう雌羊の群れの番をさせられていたことがあった。ちょうどその頃、ケイレブたちは、母羊に死なれた一匹の子羊を育てていて、これを群れの中に入れて、日中は乳の出る雌羊をつかまえて、これに乳を飲ませていた。子羊は、子犬みたいにケイレブのあとについてトコトコ走っていたが、ある日のこと、おなかがすいて乳が飲みたいと子羊が鳴いたとき、偶然ラフがそばにすわっているのを見て、ラフの乳でもいけるのではないか、とふとケイレブは思いついた。そこで試してみると、子羊はすぐなついて、しっぽを振って元気よく鼻面を押しこんでゆく。ラフはおとなしく辛抱している、というわけで、けっきょく、子羊は牧羊犬を養母として、毎日、数回乳を飲ましてもらうことになって、見ているものは、みな大そう感心したということである。
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六章 羊飼いアイザック・ボーカム
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りっぱな羊飼い──けんか好きの村の鍛冶屋──石炭屋オールド・ジョウ──その大力の話──ロバがイチイの毒にあたること──羊なき羊飼い──羊飼いのシカ狩り。
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ケイレブの古い思い出話で私に最も興味深かったのは父親の話だった。それは、父親のりっぱな人柄と、話が非常に古くて、前世紀の初期にはじまる点に興味を持ったからである。
この父親は、たしかに肉体的にも精神的にも、まったく申し分のない人間だったようである。ケイレブの考えでは、道徳面ではたしかに最高の人間だったが、体力の面では相手になる男が二人いたということである。一人はジャーヴィスという村の鍛冶屋で、ものすごく胸の大きな、腕のごつい男で、アイザックの親友の一人だった。ずいぶんきげんのよい男だが、酒が入っている時は例外で、そういう時は誰とでも、見さかいなしに、けんかをしたという。しかも、よく飲んだ。
ある日の午後、この男が、村の旅館でひどく酔っぱらって、あちらにフラフラ、こちらにフラフラと道じゅうにひろがるような恰好で帰ってゆく途中、大男の羊飼いのアイザックが、後ろから、しらふで来るのが目に入った。とたんに、この羊飼いアイザックにうらみがある。どうにも、こうにも腹のおさまらぬ話で、今ここで決着をつけぬことには承知できないという考えが、酔っぱらってゴチャゴチャになった頭に浮かんできた。そこでジャーヴィスは、アイザックの前に立ちはだかって、さあこい、なぐり合いだ、と挑戦した。が、相手はニコニコしているだけで何も言わない。
「さあ、やるぞ」
ともういっぺん言って、上着を脱ごうとするが手がすべる。やっと脱いで、もう一度つめ寄ったが、相変らずアイザックはニコニコしているだけだ。そこでジャーヴィスは、チョッキを脱ぎ、シャツまで脱いで上半身はだかになり、身に付けているのは靴とズボンだけという格好で、もう一度つめ寄っていって、得意の構えをとった。するとアイザックは、やっと、
「おまえとけんかなんかしたくねえ。おまえを家に連れてかえってやるのがええ、と考えとるだよ」
と言うなり、ダッと跳びこんできて、ジャーヴィスの腰に片腕をまわし、もう一方の腕で両脚を巻いて、ひょいと大男を肩にかつぎ上げて、相手がもがき、わめくのもかまわず、家まで運んでいった。戸口には女房が心配で青ざめて待っていた。アイザックは、かついだまま中へ入っていって、床にドスンとおろし、「さあ、主人のお帰りだよ」と女房に声をかけて、お茶を飲みに家に帰っていったということである。
もう一人の力持ちというのはオールド・ジョウという石炭屋だった。ソールズベリ平原のどこの村でも有名な男だったという。この有名な男の話を初めて聞かしてくれたのはケイレブだが、その巨人のような体、大きな声、ソールズベリ平原という広い世界のすみずみまで歩きまわるその生活には、子供心にも強い印象を受けたということだった。のちに私が七十五歳から九十歳、あるいはそれ以上の多くの老人と知り合って話をしたとき、このオールド・ジョウの記憶が、エイヴォン川上流からドーセット州の境にかけて、かなり多くの村々で、いまだに鮮やかに残っていることを知った。だが、はっきり記憶しているのは、こういう老人連だけだから、こういう老人が亡くなった時はオールド・ジョウとそのロバたちの話も消え失せてしまうだろう。
当時は、一八四〇年頃まで、農業労働者や羊飼いの田舎家では泥炭を燃やすのが普通で、泥炭の値段は、荷車いっぱい分が原価四シリング六ペンスほどだった。荷車いっぱい分というのは、私が冬一カ月のあいだ暖をとるのに必要な量である。ところがたいていはニューフォレストの森から運ばれてくるので、かなりの距離があるため、「平原」の村々までの運送料が一荷分につき五シリングから六シリングかかった。一週七シリングあるいは八シリングの賃金の当時の農業労働者が、どうしてこんな値段で燃料を買い、ライ麦のパンを焼き、暖をとることができたのか不思議である。ところがこの点、アイザックが、ほかの村人たちとくらべて、ずいぶん楽をしていたのは、農場の主人が──生涯ただ一人の農場主のために働いた──毎年、泥炭の運搬用に荷車一台を馭者付きで使わせてくれたからだという。荷車いっぱい分の泥炭と、さらにもう一台分のタキギと、草丘の「自由地」からとってきたハリエニシダを足せば一年分の燃料としては充分だった。石炭は当時、村々の鍛冶屋だけが使っていたもので、これは袋に詰めて、小馬やロバの背に積んで運んできた。この商売をしていたもののなかで最も有名なのがオールド・ジョウだった。八頭のロバ、それもオモガイにジャラジャラ鳴る鈴を付け、それぞれ粉炭を二袋ずつ積んだ八頭のロバを連れて、オールド・ジョウは定期的に方々の村に現われる。身長が六フィート三インチほどある。非常に胸の大きな巨人であり、いつも広ぶちの帽子をかぶり、青黒い野良着を着て、ひざまでの青い毛糸の靴下をはいている。ロバたちのうしろを非常に長い杖をもって歩いて、時々、大声でロバをどなりつけ、遅れるのがいると、時々、その杖を振り上げて背をバシッとたたく。この調子で、「平原」の端から端まで、村から村へと渡り歩いて粉炭を売りさばき、鍛冶屋がとっておいてくれた屑鉄をロバに積んでゆくのだが、こういう商いの巡回を四十年ちかくつづけるうちに、この地方では誰ひとり知らぬものもないおなじみの人物になったのだった。
この男の大力ぶりについては、今もいくつか話が伝わっているが、その一つは、ここに記しておく値打ちがある。オールド・ジョウは体が鉄のように頑健で、自分でも苛酷な生活をしていたので、ロバにもきびしかったが餌は充分食わせる必要があった。しかし、これをしばしば他人の費用でやったというのである。ある晩のこと、ワイリー川畔のある村で、ちょうど刈りとり頃になった牧草地のなかへ、オールド・ジョウが例の八頭のロバを入れて、それがバレるという事件があった。農場主はひどく腹を立てて、ロバを村の囲い場のなかへ入れ、錠をおろしたのだが、朝になってみると、オールド・ジョウと共に、ロバたちの姿が消えていたというのである。村中のものが、どういうふうにして逃げたのかと驚いたのも道理で、囲い場の周りの石壁は高さ四フィート半あったし、鉄門には錠がおりていた。ところが、オールド・ジョウは、ロバたちを持ち上げて、石壁の向側におろし、これらに荷物を積んで、誰も目をさまさぬうちに逃走したというわけだった。
一度オールド・ジョウが大変な災難に会ったことがあった。夜おそく、ロバたちを連れてある村に到着したところ、その教会墓地に、たまたまロバの餌におあつらへ向きの草が生えていたので、人が寝静まっているのを幸い、そこへロバたちを入れ、自分も墓石の間に体を伸ばして寝たというのである。墓場を恐がるほど神経質でもないし、そんな想像力もない。それに、疲れていたのでグッスリねむった。空が白んできて、目がさめる。さて、牧師さんのところの草を失敬したことを誰にも見られぬうちにロバを外に出そうかと思って、あたりに目をやってみたが、一頭のロバも見えない。立ち上がってみると、ロバたちは逃げたのではなく、みんな周りの墓石の間に倒れて完全に死んでいた。教会墓地は物騒な場所で、腹のすいた動物を入れるのは禁物だということを忘れていたのだった。ロバは墓地に繁っていたイチイの木の芽を食べて、その毒に当たったのだった。
だがやがて、オールド・ジョウはこの打撃から立ち直って、新しいロバに入れ替えて、また巡回商売を永年つづけたということである。
ケイレブの父のアイザック・ボーカムに話をもどそう。前にも見たように、アイザックの生まれは一八〇〇年で、少年の時に羊飼いをはじめて以後、同じ農園で五十五年間羊飼いとして働いた。羊の世話だけを一生考えて、頭をいっぱいにしていたわけだが、これが、どれほど彼に大事なことだったか、それは、しばらく仕事がなくなったとき、どういう精神状態になったかを語る次の逸話を見れば分かる。農場主が羊の群れを売ったので、世話をする羊がいなくなり、アイザックはミカエル祭〔九月二九日〕から聖燭祭〔二月二日〕まで仕事がなくなってしまった。聖燭祭には新しい群れが農場にくることになっていた。アイザックにすれば、これは、長い期間で、押しつけられた休暇が、なんとも退屈でやりきれない。その退屈しきっている亭主を、家で女房がもてあました。日に四十度もアイザックは帽子を投げすて、すわりこんで、もう家の炉端でのんびり暮らそうと肚をすえるのだが、そのとたんに、ボヤボヤせずに働きたいという気が起こってきて、またパッと立ち上がって、外へとび出していくのだった。ある曇った暗い夕方、農場から使いの男がやってきて、戸口から首を突っこんで、
「アイザックよ、羊が農場にきたぞ。メスが二百だと。三日したらもう百くるんだとよ。主人が用があるといっとるぞ」
というなり、いってしまった。
アイザックはサッと立ち上がると、部屋の隅の杖も持たず、帽子もかぶらずに飛び出していった。女房がうしろから声をかけても返事がないので、子供に帽子を持たせて追わせたが、小さな男の子はすぐにもどってきて、とても追いつけないと言う。
三、四時間して帰ってきたアイザックは、髪を汗でベトベトにぬらし、顔を輝かせながら腰をおろし、フーッと大きなよろこびの溜息をついて、
「メスが二百じゃ、それにもう百くるんだと。おまえ、どう思う?」
「やれ、やれ、うれしいのはけっこうだけどね、おまえさん、わたしゃ、ほっといておくれ」
ところが、このアイザックの生活や人柄について、いろいろと聞いたあとで、じつは若い時に父が一種の密猟を盛んにやった時期がある、と聞かされて私は衝撃を受けたものだった。密猟というのは昔の英国人には魅力のあるすばらしいスポーツだったが、前世紀初めの二十五年間にほとんど消えた。アイザックはシカをとったのである。シカの密猟は、一八三四年頃まではウィルトシァのこの地域では普通の犯罪だったが、いま聞くと不思議な話を聞くような気がする。
その頃、ウインタボーン・ビショップから二、三マイル離れたある地所に、シカの大群が飼育されていたのだった。それでたびたびシカが境界を出て、一頭、あるいは数頭群れになって丘陵地をうろつくことがあった。境界を出たシカの姿を発見すると、村人のある連中が作戦を立てる。斥候を送り出して、シカばかりか、番人たちの動きも監視するのである。天気の具合も大事だし、月の状態も見ておかねばならない。密猟にはある程度、明かるさが必要である。そういう条件が好都合で、番人たちが家に帰ったことを見とどけた上で密猟隊は夜のシカ狩りに出発する。しかし、これは危険なスポーツである。というのは番人のほうでもシカが外に出たことを知っていて、密猟者に対する何かの対抗策を立ててくるからである。とくに意地のわるい対抗策が一つあったが、これは朝の三時か四時頃に番小屋を出て、村のどこか近くに待伏せをしていて、密猟隊の帰りを襲うという手だった。
アイザックは、村のグウタラものや酒場にいつも出入りしている連中とは全然交わらなかったので、こういう密猟隊の連中とはまったく無関係だった。アイザックのシカ狩りは、普通の密猟者がベッドに入って寝ているような、月も出ない、猟には不向きな闇夜の単独行だった。みんながベッドに入ったあと、こっそりと抜け出す。あるいは、羊の様子を見てくるという顔をして出ていく。うまくいけば、朝の一時か二時頃にシカを一頭かついでもどってくる。そして、いっしょに暮らしている母親〔これはアイザックがまだ結婚前の若い頃のことで一八二〇年頃の話である〕に手伝ってもらって、すばやくシカの皮をはぎ、肉を切り分け、それをどこか秘密の場所に隠し、首と皮と臓物を土のなかに深く埋めてしまう。そして朝がくると、いつものようにアイザックは外に出て羊の番をしており、バラ色のほおや澄んだ正直そうな目には、罪や疲労の影もないという具合である。
こんな話をケイレブから聞かされて、私はほんとうにびっくりしたが、こんな話を作り出したり、大げさな話を仕立てるなどという芸当は、ケイレブには出来ないということは、分かりきったことである。それに前にも見たように、アイザックは並の人間ではなかった──肉体的にはウィルトシァ草丘地域のアレグザンダー・セルカーク〔一六七六〜一七二一。スコットランドの船乗り。太平洋の無人島で五年間一人で生活する。『ロビンソン・クルーソー』のモデル〕だった。その上、彼には一匹の犬がいて、手助けをしたわけだが、これが、アイザックが並の羊飼いでなかったのと同様、走る速力と体力の点で並はずれた牧羊犬だった。さんざん質問したすえ、やっとのことで、ケイレブは父親の昔のシカ狩りの話をする気になり、最初の一頭をどういうふうに仕止めたか、そのくわしい話を聞かせてくれたのだった。雪におおわれた草丘を真冬の強い北風が吹く非常に寒い夕方のことだった。羊の飼育場に二頭のシカがきているのにアイザックは気づいたのである。ウィルトシァのあのあたりには一つの有名な古代遺蹟がある。土を積み上げて造った小山のような、一つの巨大な壁の前に、一つの深いくぼみ、というか深い壕のようなものが走っている遺蹟である。この古墳、もしくは壁のいちばん風当たりのきつい場所が草丘の頂上になっていて、、この頂上の雪が風にきれいに吹きとばされて、下から出てきた短かい芝地をシカたちは食べていたのである。食べながら尾根から動かないので、その姿が空に影絵のようになって、ずいぶん遠くからはっきり見えたのだという。
アイザックはこれを見ながら考えこんだ。あの二頭のシカは今、境界を出ている以上、誰の持ちものでもない。だとすると、捕えて、殺して、食べても罪にはならない──今は大変な食糧不足の時だ。もう何十日も大麦パンばかり食べている。日によっては大麦粉のダンゴを食べて満足してきたが、シカを見たら肉が食べたくてたまらなくなってきた。よし、捕まえて食ってやろう。
家に帰り、貧しい夕食を食べる。そしてあたりが暗くなるのを待って、また犬を連れて外へ出た。見れば、まだ二頭のシカは小山の上で草を食べている。ハリエニシダの茂みをいくつも伝いながらこっそりと進み、アイザックは、星空を背に黒い線を描く小山のところに達した。なおも進むうちに、やがて首を垂れて草を食べる黒い二頭の姿が見えてきた。それを見とどけた上で、もう一度、もと来た道を引き返し、ある程度の距離をもどってから、壕のなかへ降り、また壁の下をこっそりとシカのほうへもどってきた。こちらに気がついたら、シカは、まっすぐにその棲家の森へ向かうだろうから、この近くを通るはずだ。六十ヤード足らずのところに近づいたとき、やっとシカは気がついて、壁を跳びおり、壕を飛びこえて一目散に走りだした。が、二頭が互いにほとんど反対方向に走ってゆく。一頭だけが森に向かった。これに、アイザックは犬を放った。弓から飛びだした矢のように犬は跳びだし、そのあとをアイザックが追い、こんなに走ったことはないと思うほど走りに走った。追いつ追われつする犬とシカの姿がしばらく雪の上に見えていたが、すぐに闇が降りてきて、坂の下へ駆け降りる姿は消えた。ところが三十秒もしないうちに、坂の下へ駆けくだる長く引くなき声が聞こえてきた。苦しむシカの声である。シカの前脚の一方に犬がとりついて、ひづめの少し上に食らいつき、雪の上でもがき合っているところへアイザックが駆けつけて、とびかかり、喉にナイフを突き刺して、その声をとめた。仕止めると、それを肩にかついで、有料道路や道路、小道などをいっさい避けて、畑を歩き、林を抜けて家の裏まで帰ってきた。ここには扉はないが窓がある。その窓をコンコンとたたくと母親があけてくれる。ものも言わずにアイザックは獲物を中へ入れ、それから表てにまわっていった。
これが最初のシカ狩りの話である。ほかのシカ狩りがどういうふうにして行なわれたのか、それは私は知らないが、できれば聞きたかった。有名な狩猟家たちが、爆発性の弾を射ちこんで、一度に何頭も象を殺戮するというような話を何十と書いて、読者大衆をよろこばし、おどろかしたつもりでいるが、私には、このウィルトシァの羊飼いのシカ狩りのほうが興味がある。
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七章 シカ盗人
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ソールズベリ平原でのシカ盗み──番人頭ハーバット──赤ん坊の奇妙な話──ファウンドという姓──村の大工ジョン・バーター──番人をどういうふうに出し抜いたか──密猟計画──なぐり合い──番人頭と大工──大工が息子を隠すこと──逮捕──バーターの息子たちが村を棄てること。
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このほかにも、ケイレブが両親から聞いたシカ狩りの思い出話があったが、そのうちで、いちばん記録に価いするのは保護区または猟場の番人頭の話で、この番人頭が、二人の男と、ものすごい殴り合いをしたという話である。二人の男というのは、のちにアイザックの女房になった娘の二人の兄のことである。
ここで説明しておく必要があると思うが、以前クランボーン猟場の所有者〔当時はリヴァーズ卿だったが〕は、自分の土地外のかなりの広範囲にわたって、シカを所有し、これを保護し、狩猟する権利があると主張していたのだった。こういう権利はウィルトシァ側ではクランボーン猟場から南ウィルトシァ草丘地域をおおってソールズベリに及んでいたが、ほぼ三十マイルの幅をもつこの全域を六つないし八つの受け持ち区、もしくは巡回区に分け、それぞれに番人小屋を置いていた。こういう状態が一八三四年までつづいたが、この年、議会立法によって猟場特権は剥奪された。
今から語る事件の起こったのは一八一五年か、その二、三年後であろうが、例の区域の一つの境界がスリーダウンズ・プレイス〔三つの草丘の場所〕という地点にあった。ここはウィンタボーン・ビショップから二マイル半離れた場所である。ここは草丘に囲まれた一つのくぼ地に広い森がひろがっている場所で、その森に入ったばかりのところに当時一軒の大きな石の家があった。この家は建ってから数百年は経っているという噂があったものだが、もう大分前にとりこわされて、今はない。ロルストン・ハウスと呼ばれる家で、ここに猟場の番人頭夫婦が二人の手下といっしょに住んでいたのである。番人頭夫婦には子供がなかった。番人頭というのは、ズングリとした、非常に色の黒い、中年もので、力が強く、用心ぶかく、密猟者を「えらく憎んで」いじめる一方、密猟者からも恐れられ憎まれていた。ハーバットという男だった。
ある朝、ハーバットが表ての扉のかんぬきをはずして外に出ようとすると、なかなか扉があかない。扉の取手に何かずいぶん重い物がとりつけてあって取手が回らないのである。やっとあけてみると、それは籠というか箱みたいなもので、その中に、まるまるとした、栄養のよい、かわいい男の赤ん坊が産衣にすっぽり包まれて眠っていた。そして、産衣に紙切れがピンでとめてあって、そこに、こんなことが書いてあった。
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なかへいれ、ぼくをだいじにしておくれ。
このいえが、ぼくのとうさんすんでいる。
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ハーバットはこれを読み、文法の間違いを見てもニコリともせず、それどころか、ひどく驚いた様子で紙切れを持って、ボーッとそれを見ながら立っていた。そこへ女房が出てきたのである。「これ、なに?」と女房は叫んで、紙切れ、夫、籠のなかに眠る赤ん坊と目を移していたが、いきなり大声を上げると、赤ん坊に跳びついて、抱き上げ、胸に押し当てた。そして涙を浮かべながら愛撫し、愛の言葉を浴びせはじめた。一言も問いつめるでなく、嫉妬の苦い言葉を投げつけるでもない。今まで子供が出来なかった女、愛し、育て、あがめるように大事にする子供が生めなかった女が、子供を授かったよろこびに、そんなものはすっかり吸い取られ、消えてしまったのだった。いま子供が出来た。どういうわけで出来たか、そんなことは、どうでもよかったのである。二、三日後に赤ん坊は村の教会で洗礼を受けて、モーゼズ・ファウンド〔『見つけられたモーゼ』という意味。エジプト王がイスラエル人の男の子はすべて生まれた時に殺せと命じたので、モーゼは篭に入れられて棄てられたが、エジプト王の娘がナイルの葦の間でこれを見つけて養子として育てたという〕という変った名前が付けられた。
変な名前だと私が言うと、ケイレブは少し驚いて、そうは思わない。ぴったりの名だと思うと言う。親の分からない子にファウンドという姓が付けられた例は、ほかにも知っている。ひとりファウンドという名の男で、少年の時ソールズベリにいって、働いて、金をためて、けっきょく大金持ちの大物になったのがいる。おかしい名前でも何でもない、と言うのだった。
モーゼズ・ファウンドの話を、ケイレブは年老いた母親から聞いたのだった。母がこの話を記憶していたのには理由があるのだ、とケイレブは意味ありげに言った。母親自身もウィンタボーンの出で、このモーゼズの二、三年後の生まれだった。父親はジョン・バーターという大工で、藁ぶきの古い家に住んでいたが、この家は今でもあり、私もよく知っている。ジョンには男の子が五人あった。それから何年かおいて娘がひとり出来たが、これが大きくなってアイザックの女房になったわけである。この娘が小さかった頃、兄弟たちは、みんなおとなになっているか、ほとんどおとなだった。モーゼズも若者に生長していて、「父親と瓜二つ」といわれていたが、父親とは番人頭のことである。
この頃、村の血気盛んなもののなかに、シカが森を出て草丘をうろつく時だけ、シカ狩りをするのでは不満だと言って、森まで進出していってシカをとる連中が出てきた。ある夜、一つの密猟計画にしたがって、最も大胆な連中の一人が番人の家の近くに忍んでいった。そして番人たちが家のなかに入り、家の明かりが消えたのを見とどけた上で、方々の扉をネジ釘と板切れで、外から釘づけにしてしまったが、中のものは全然気がつかない。それから、この男は約束の場所で仲間と落ち合い、そして狩りがはじまったのである。その最中、一頭のシカが番人の家まで追われてきて、その前の芝生で引き倒されて殺された。
家のなかでは大騒動だった。大部隊が森を占拠したのだ。手向かうのは危い、と手下たちは不安がったが、ハーバットは、まるで檻のなかの野獣みたいに狂いたって、わめき咆えながら、方々の扉を力をふりしぼってあけようとするが、あかない。ついに一つの窓をたたき割り、銃を片手に跳びだし、あとにつづけと声をかけながら森のなかへ突っぱしったが、あとの祭りだった。狩りは終わって、密猟者たちは二、三頭の獲物をかついで逃げたあとだった。
だが番人頭は二度と同じ手でやられることはなかった。それからまもなく復讐をとげたのである。また新しい密猟計画ができた。今度は大工のジョン・バーターの五人息子のうちの二人が入り、ほかに四人が加わった。一人はウィンタボーン・ビショップ村の鍛冶屋で、これが大将格。それに、ある近くの村からきた有名な羊毛狩り職人親子と、若い農業労働者が一人という顔ぶれだった。
番人頭が荒れているから危い、ということはよく分かっているので、もし捕まった時は、お互いに最後まで見すてないこと、という固い約束を交わした。ところが捕まってしまった。番人のほうは四人いたのである。
いざ密猟がはじまったとたんに、仲間のいちばん切れもので事実上の指揮者だった鍛冶屋が、銃の台尻で頭を一つなぐられて気絶してしまった。これを見たとたんに職人親子は逃げだしてしまい、農業労働者も逃げてしまった。二人の兄弟だけが残されたが、この二人は頑として抵抗をやめない。降参しないと射つぞ、と番人頭が雄ウシのような声で咆えても、射つなら射てと受け流し、四人を相手になぐり合ううちに、けっきょく兄弟は分かれ分かれになってしまった。そのうちに弟のほうがイバラの茂みの中へ追いつめられた。こうなれば逃げられないぞ、と敵は思ったが、負けずぎらいで山猫みたいにすばしこくて頑健なこの若者は、なぐられ、なぐり返しながら、やっと敵から身を振り切った。それからまだ二、三百ヤードほど、森のいちばん暗いところを、なぐり合いながら走るうちに、とうとう番人たちは、この男の姿を見失ってしまった。それで、残る一人を相手にしているハーバットとモーゼズを助けにもどっていった。追手を逃れると、弟は森を出て村に帰っていったが、父の田舎家に姿を見せた時は真夜中を大分すぎていた。泥まみれ血まみれ、帽子もなく、服はボロボロ、顔も体も、打ち傷と切り傷だらけという、あわれな恰好だったという。
老いた父親は、帰ってこない兄のことをひどく心配して、明くる朝、なぐり合いのあった場所を見にいったが、すぐに見つかった。芝地が踏み荒らされ、木の枝が折れて、まるで何十人のものが戦った跡のようだ。それから帽子が落ちていた。長男のものだ。すぐ先に、長男の服の片袖が落ちていた。気がつくと、そこらのイバラの茂みに布の切れ端がいっぱいひっかかっている。もう少し先へゆくと一つの血だまりがあった。「殺されたな! 殺したんだな、せがれを、ああ!」。老人は絶望の叫びを上げると、まっすぐにロルストン・ハウスへ調べに出かけた。すると番人頭のハーバット本人が、足を引きずりながら出てきた。片方に靴をはき、もう一方の脚は包帯でグルグル回きにし、一方の腕を吊り、頭にも包帯を巻いている。息子は生きている。無事に家のなかにいる。あとでソールズベリへ連れてゆく。「服がボロボロになっとるから、すぐもどって、着替えを持ってきてやんな。警官が身柄を引き取りにくるまでにな」と言う。
「おまえが破いたんだ。着替えは、おまえが出すんだな」
と老人は憤然としてやり返す。
「なるほどな。だがちょっとまて。もうちょっと言うことがあるんだ。いいか、一、二年して監獄から出てきた時に、せがれに言ってくれよな。出てきて、こちらに足が向くようなことがあったら、わしが五シリング祝儀を出すとな。それから、飲みたいだけビールを飲ましてやるとな。あんな手強い奴は初めてだったからなァ!」
息子をずいぶんほめられたのだが、老人は不安になり、
「一、二年とは、どういうことじゃ?」
「一、二年というとこが、まず相当だろうということだな」
と番人頭はニヤリとする。
「いいか、うちのせがれが一対一でやっとったら、おまえなんか、これですまなかったんだぞ!」
番人頭は満足そうにニヤニヤしながら、
「さあ、帰んな。息子に会いたけりゃ、ソールズベリの監獄で会える。それから、おまえさんの家にゃ、新しい錠前が要ることになるぜ。そいつもソールズベリで買えるよな──村には鍛冶屋がおらんもんな。それから、せがれは一人ではなかったぞ──そいつは、ちゃんと知っとるだろう」
「そんなこと知らんわい」
とやり返して老人は家に向かって歩きだしたが、心は重かった。今まで、もう一人のせがれのほうは、森の暗がりで分からなかったろうと思っていた。だが、それがだめだとなると、一人でも助けるにはどうすればいいか。逃げるにしても、あの体では無理だ。部屋の中を歩くことも出来ない。坐るにも横になるにも、うなり声を上げずにはいられない。家の中に隠して、あとは見つからないようお祈りでもするより仕方がない。家は村の真中にあって、土地はほとんどない。だが、屋根裏部屋の片端に、一つの板張りの小さな穴、というか小部屋があった。あそこに入れたら助かるかもしれん、と考えて、老人はこの小部屋にベッドを一つ入れた。ここに傷だらけの息子は横になって、数日間うっとうしい暗い穴倉生活を送るはめになった。
ところが一週間ほどした時に、傷が直りかけてきたので、外の明かりでも見て、ちょっといい空気でも吸おうと思って穴部屋から這い出し、せまい階段を一階まで降りてきたのだった。そして下にいる時に、ふと小さな格子窓から外をのぞいてしまった。のぞいて、すぐ首を引っこめ、あとで父親に、「モーゼズに見られたらしいよ。窓のところにいたら、あいつが通りかかって、ひょいと目を上げてこの頭を見やがった。このグルグル巻きの頭だろ。おれだと分かったらしいよ」
それからは、もう怯えてビクビクして待つより仕様がなかったが、明くる朝、非常に早い時刻に家の扉を大きくたたくものがあった。老人があけてみると、警官が二人の番人を連れて立っている。
「あんたの息子を逮捕する」
と警官が言う。
老人は、黙ってうしろへ下がると、壁に掛けてあった銃をおろして、「逮捕状があるなら入ってもええが、なけれゃ、一歩でも入ってみろ。頭をブッとばしてやるわ」
三人はちょっとためらっていたが、やがて黙って引きさがった。それから、いっしょに相談したあと、警官は二人の番人を見張りに残して、最寄りの治安判事のところへ出かけていった。その見張りの一人がモーゼズ・ファウンドだった。その日も遅くなってから逮捕状を持って警官がもどってきて、中に入り、隠れていた息子はすぐに見つかって、連れていかれてしまった。これが息子にとって家の見おさめになったのである。おさない妹はワアワア泣くし、老いた父親は、どうしようもない怒りと悲しみに青ざめて震えていたという。
その一、二カ月後に裁判があり、二人の兄弟は共に六カ月の禁固刑を受けたが、ついに二人とも二度と家に帰ってくることはなかった。刑期がすんで釈放されると二人は、人手不足で賃金のよいウリッジへいってしまったのである。そのうちに、この兄弟からくる便りにさそわれて、残りの三人兄弟も一人、また一人とウリッジへ出ていって、五人息子が大の自慢だった老いた父親は、けっきょく、おさない娘一人しか手元に残らないという気の毒なことになった。この娘が、のちにアイザックの妻になる運命になっていた。
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八章 羊飼いと密猟
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密猟について──農場主、羊飼い、犬──狩りをしない牧羊犬──タカからシャコを奪うこと──ガージ親子──シャコの密猟──羊飼いがウサギを奪われること──羊飼いギャザグッドの知恵──草丘で野ウサギのワナを仕掛けること──杖で野ウサギを捕ること。
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父親の指導からやっと脱して、羊飼い助手として事実上独立すると、ケイレブはもう、父の厳しい例に従うことはやめて、食用に適した野生動物がたまたま前に出てきたりすると、ちょっと、こちらから手出しまでして、これを捕ったということである。
この点、わが国の法律が、農村の人の胸の内に書かれた道徳法と合致していないことは明らかである。農村の人の考えでは、外を歩いているとき、ケガをしたシャコを見かけるとか、そういう鳥がたまたま手に入った時は、それは自然権によって、こちらのものになるわけで、遠慮なしに捕って食べるなり、処分したりする。家ウサギの場合は非常に自由で、イタチに追われて難儀しているウサギを待つようなことはしない──イタチは、そんなに多いものではないからである。野ウサギも、見つけたらすぐ捕ってしまうが、ただこの場合、人目につかないよう非常に用心しなければならない。法律のことは知っているし、世間体をはばかる、信心ぶかい人間なら、悪事と見えるようなことは努めて避けたいからである。家ウサギ、野ウサギ、ケガをしたシャコを捕ることは、本格的な密猟とは全く別物だと農村の人は考えている。しかし、上の階級のものはそうは思っていないし、法律もそんな区別はしていないという点も、農村の人は心得ている。苛酷な、勝手な、不自然な法律で、上の者が自分らのために自分で作ったきまりだが、表面的には、これに従っている体裁をとらなければならない、という心得もある。そういうわけで、羊飼いや農業労働者の中でも非常に人間としてりっぱな人たちが、向こうから転がりこんできた野生動物なら、どんなものでも平気でもらってしまうのに、本格的密猟者に対しては、猟番と同様、これを激しく憎悪するという現象が見られる。村の密猟者は、普通、グウタラな放蕩者である。だから、まじめで勤勉で正直な羊飼いや労働者や荷馬車屋は、こういう連中といっしょにされることを嫌う。しかし、厳格な法規の目から見ると、本格的密猟者も、ほんの時たま、ウサギや、ケガをしたシャコを捕る人間も区別はない。したがって、他の点では、どんなに開放的で正直な人間でも、この一点においては、ある程度のゴマカシをするのはやむを得ないということになる。次にあげる話は、その一つの例だが、これはこの章のために集めておいた材料をまとめた後で、ある友人の老羊飼いと話をしていて、つい聞いたばかりの話である。
この羊飼いは、五十年このかた羊飼いをしてきて、これから先き、まだきっと十年はもちそうな、りっぱな体の老人である。今までに知った羊飼いの中でも、こんなに羊に詳しく、羊のあらゆる病気について知識の深い人にはお目にかかったことがない。その意味で、ケイレブのいう「よい羊飼い」であるが、そればかりか、信仰心がじつに深くて、「神と共に歩む」という表現がピッタリとくる人物である。ドーセット州境のある大農場で羊飼い頭を勤めていたとき、使っていた自分の牧羊犬の話だといって聞かせてくれたのが、この話である。この農場の主人は、野ウサギを犬で捕る猟を人生最大のたのしみにしていたそうだが、その土地に野ウサギがずいぶん繁殖していて、使用人たちに、これを神聖視して、手を触れぬよう求めていたということである。これは彼にすれば当然のことだろう。ある日のこと、この主人が羊飼いのところにやってきて、おまえの犬がウサギ狩りをしているのを見たものがあるぞ、と文句を言った。
羊飼いは憤然として、そんなことを言ったのは誰ですかと聞いた。
「そんなことはいい。ほんとうか?」
「うそでさ。わしの犬は、ウサギも何も取りやしませんや。そんなことを言った奴は、自分でウサギを取るから、人になすりつけようとしてるんだ、そうにきまってまさア」
「そうかもしれん」
と農場主は答えたが、納得した様子はなかった。
ところが、ちょうどそのとき、一匹の野ウサギが現われて、畑の上をまっすぐに近づいてきたのである。こちらがじっとしているせいか、それとも、こちらの匂いがしないせいか、どんどん寄ってくる。時々立ちどまって一分ほど坐っているかと思うと、また動きだすという具合で、とうとう、じっとしているこちらから四十ヤード足らずのところまでやってきた。農場主は野ウサギを見つめる一方、こちらの足元にすわって、これまたウサギを見つめている犬の様子にも気を配っている。「いいか、犬には一言も言わないでくれ。自分の目で見たいから」と農場主は注文をつける。言われたとおり羊飼いは一言もいわない。野ウサギは近づいてきて、数秒間、目の前にすわっていたと思うと、またヒョコヒョコと遠ざかっていって、見えなくなってしまった。その間、牧羊犬はピクリとも動かなかった。「なるほど、分かった」と農場主は大満足である。「噂はウソだった。自分の目で見たからな。嘘を言った男には、これから気をつけることにしよう」。
けっきょくのところ、その農場主には牧羊犬のことも、羊飼いのことも全然分かっていなかったのだと、私は批評した。「あのウサギを捕まえろ、ボブ、とか何とか、その犬の名前は知らないけど、そう命令したら、どうなったかね」と質問すると、
「そりゃ、捕まえたさね。だが、わしが行けと言うまでは動きはせんな」
と羊飼いは、いたずらっぽく目を光らせる。
要するに、野ウサギを捕っても、誰の財産を取ったことにもならない、と羊飼いは考えているわけで、後難を恐れて、やむをえずウソをついても、それはウソだとは思っていない、ということである。
この点、私も同意見だと分かると、彼は昔、使っていたという優秀な牧羊犬のことを話してくれたが、この犬は優秀なことは優秀だったが、どうしても野ウサギを捕らないので、仕方なしに手放したということだった。
犬を仕込む時は、すべきことと、してはならぬことの区別を教えこむ。すべきことを教える時は、愛撫しながら、言葉やさしく、感情をこめて説得するような調子で教える。が、してはならぬことを教える時は、激しく叱りつけ、何度もきつくなぐりつけて教え込む。こうして犬は、家ウサギや野ウサギを捕ると、ひどい目に会わされることを知り、相当な苦しみを経て、しかるべき時間をかけて、犬としての最も強い本能を抑制するようになる。人工的良心を獲得するわけである。だが、この教育が終わった時点で、じつはまだ完全に教育が終ったわけではないことを犬は学ばねばならない。つまり、叩き込まれた最もつらい教育の一つを、一部分忘れることを要求される。つまり、主人に命令された時は、野ウサギでも、家ウサギでも捕らねばならないのである。これは人間と犬との間の一つの契約である。こうして、犬が守ると誓った一つの法が出来あがるわけだが、法をつくった人間は法を超えた存在で、適当と判断した時は、それを破れと命令できるわけである。犬は、普通、こういうことをじつによく呑み込むし、また、主人に許される範囲を越えて自由に行動することもよくある。完全に訓練のできた犬は、先の羊飼いの話にもあったように、命令を受けなければ絶対に動かない。ところが他方、手放したほうの犬は、かわいそうに、この点が呑みこめず、家ウサギを捕れと命令されたとき、脚の間にしっぽを入れて、まごついたような目で主人を見るだけだったという。「やったら、叩かれるようなことを、どうして命令するのか?」というわけで、複雑すぎて、どうしていいのかわからなかったのだろう。
しばらくつき合って、親友になってから、やっとケイレブはこういう事をざっくばらんに話すようになり、自分がやった、ちょっとした密猟の話を、弁解や説明を一切ぬきにして話してくれるようになった。
ある日、一羽のハイタカが、矢のように降りてきて、地面を走っているシャコに飛びかかり、地面の上でもがき合っているのを見たという。そこは牧草畑で、ケイレブはそのとき、その隣りの牧草畑のなかを歩いていた。この二つの畑の間を一つづきの、ボウボウと伸びた大きな生け垣がさえぎっている。ところが、この生け垣を抜けようにも隙間がない。そのうちに、タカは激しくあばれるシャコをつかんで飛びあがり、生け垣を越えて、こちらへ飛んできたかと見ると、地面に降り、またドタバタとやりだした。ケイレブが駆けよると、タカは獲物を残して飛んでいってしまった。見れば、シャコは両の脇腹に鋭い爪跡が食いこんで、もう飛べないが、まだ死んではいない。ケイレブはその息の根をとめて、これをポケットに入れ、家に持って帰って食べたが、じつにうまかったという。
まったく罪のないこの密猟の話からすすんで、ケイレブは、あるとき、ずるい悪党の密猟者、言ってみれば、ハイタカのような奴から、その獲物を巻きあげたという話をしてくれた。
ウインタボーン・ビショップ村にガージ親子というのがいた。父親と息子の二人で、親子そろっての常習的密猟者で、ケイレブは大きらいだったそうである。ところが密猟者というだけでなく、本物の悪党、つまり居酒屋に出入りして働かず、悪事を働くことを恥とも思わない本物の悪党にまだ輪をかけたような連中だった。つまり、この親子は偽善者だったというのである。人前では、まじめな正直者をよそおっている。そして近所のものから少し身を離すような態度を保っているが、他人の欠点と見ると猛烈な攻撃に出てくる。
ある日曜の朝、ケイレブが村からちょっと離れた所に囲ってある羊の群れのところに行こうとして、草丘のふもとの生け垣伝いに歩いていると、少し先きで一発の銃声が鳴った。一、二分するとまた一発鳴った。これで大いに好奇心を覚えて、銃声の方角をよく注意して見ていると、やがて一人の男がこちらへやってきた。長い野良着を着たガージおやじである。村のほうへゆうゆうと歩いてくるのだが、こちらに気がつくと、すぐ生け垣の隙間を抜けて、別の方角へそれていった。きっとあの長い野良着の下に銃を二つにバラして隠しているのだ、と思ってケイレブが歩いていくと、一つのオート麦畑に出てきた。出来のわるい畑で、刈り取りが半分しかすんでいない。ところが、ここに餌をあさりにくるシャコを射とうとして、ガージおやじが隠れ場を作っていたことが分かった。藁掛けが五つ六つ並んでいて、そのそばに藁が少し置いてある。こういうものの陰に隠れてシャコを待伏せしていたのだ。射った鳥の羽が散らばっている。奴は日曜の朝のスポーツをすませて、家に帰ろうとしていたのだ。たまたま、きょうは帰りがちょっと遅れたのだろう。
ケイレブはそのまま、羊の囲いのところへ歩いていったが、途中、連れていた犬が一羽の死んだシャコを見つけた。生け垣にひっかかっていた。ここまで飛んできて落ちたものらしく、羽根に新しい血がついている。ケイレブはこれをポケットに入れて、草丘で羊たちといっしょにいる間じゅう、持ち歩いていた。ところが、その日の午後遅く、向こうの畑の真中で、二羽のカササギが何かを突っついているのが見えた。何だろうと思って、そばにいってみると、これがまたシャコだ。ガージおやじが朝、射って逃げられた鳥だ。カササギに見つかった時は、もう死んでいたらしく、手に持ってみると冷たい。首のあたりが食い破られて、胸元まで開いている。ケイレブはこれもポケットに入れた。それからしばらくしてケイレブは腰をおろして、これを調べて、この傷口をつくろってみようと思った。いつも帽子の内側に糸を通した針を入れていたのだが、これできれいに傷口を縫い、羽根を元通りにそろえると傷跡は全く見えなくなった。こうして、その日の夕方、この二羽の鳥を村のある男のところへ持ちこんだのである。動物の骨や、ボロ布や、そういうものを集めて生活を立てている男だが、鳥を片手に持って、差し上げて重さをはかり、注意ぶかく調べてから、よく肥った、よい鳥だと言って、ニシリングで買いとってくれたという。
こういう男は、ほとんど、どこの村にでもいるが、「何でも屋」と称して、子馬で引く二輪馬車を所有している。飲み屋を経営していることもある。小さな村落社会の有用な一員であり、まあ、腐肉掃除を受け持つカラス人間というところだろう。
ニシリングはじつにありがたかったが、それよりも、あの偽善者の老密猟者の獲物をせしめてやったことが愉快だったという。ケイレブには彼を憎むもっともな理由があったのである。羊飼いのなかには、家ウサギを捕る許可を農場主からもらっているものがいるが、ケイレブもその一人だった。ところが、掛けておいたワナがたびたび破られた。これはきっと、こちらの動きを見ている誰か非常にずるい奴がいて、ウサギがかかると、それを盗んでいくのだと考えていたのだった。ある夕方、一つのカブラ畑に五つのワナを仕掛けて、明くる朝、夜明け直前に、濃い霧のなかを出かけて行って見ると、ワナは一つ残らずこわされていた。腹を立てて、誰がこんなことをするのか、と不審に思いながら歩きだすと、急に霧が晴れて、二人の男が草丘の上を急いで遠ざかってゆくのが見えた。かなり離れていたが、もうかなり明かるかったので、それがガージ親子だということは分かった。親子はすぐに坂の下へ消えた。ケイレブは、こういう卑劣なやりかたでウサギを取られて腹が立ったが、犯人が分かったことはうれしかった。だが、どういう手を打てばいいか分からない。
明くる日、ケイレブが草丘で羊番をしていると、近くに、もう一人の羊飼いがいて、羊番をしている。よく知った男で、物静かだが大変な物知りのジョウゼフ・ギャザグッドという老人だった。家ウサギを捕るのが上手という評判なので、ケイレブはこの老人に近づいて、ガージ親子にやられたことを話し、どうすればいいだろうかと聞いてみた。
すると老人は快く話を聞いてくれ、すぐに方法を教えてくれた。生け垣やカブラ畑にワナを掛けるのはもうやめるがいい。そとの、見わたしのきく草丘にワナを仕掛けることだ。そんな場所なら、誰も家ウサギを捕りに出てくるものはないし、ウサギのワナが見つかることもない。それから、ワナはこういうふうにして掛ける。先ず、靴のかかとで地面を引っかいて、芝地の下から新しい土が出てくるようにする。出てきたら、そこへ家ウサギの匂いを少しつけて、ワナを仕掛ける。新しい土と家ウサギの匂いが混じり合って、それに釣られて家ウサギが寄ってくるわけだが、そいつがワナを掛けた場所にきて、土をひっかくと、ワナがちゃんと仕掛けてある限り、必ずひっかかる、というのだった。
言われたとおりケイレブは、一つのワナを仕掛けて試してみた。すると明くる朝、一羽の家ウサギがかかっていた。その夕方、もう一度、仕掛けてみると、またかかった。それで、もう一度、また一度という具合に五晩つづけて仕掛けて、毎朝、成功した。これはいいことを教わった。なるほど家ウサギの物知りだわい、とケイレブは納得すると同時に、ガージ親子の裏をかいてやったことが大いに愉快だった。
だが、羊飼いギャザグッド老人は、家ウサギだけでなく、野ウサギのこともよく知っていて、何ひとつ遮るものもない草丘の上で、これを捕まえた。どうして、そんなことが出来たのか。それは、野ウサギの好物が、リンボクの小枝だということを知っていたからだという。よく伸びた頑丈なリンボクの木の幹を一本、あるいは小枝のついたリンボクの若木を一本とってきて、これを大きな牧草地の真中、もしくは開けた草丘の上にしっかりと突き立てる。それから、鋼鉄製のワナにヒモを付けて、このヒモをリンボクの棒に結びつけ、棒とワナとの間を一、二フィート離しておく。ワナは枯れ葉や草、または苔をかぶせて隠しておく。すると、野ウサギが、リンボクの匂いに引きつけられて寄ってきて、小枝をかじりながら、その周りをまわっているうちに、ワナにかかるという具合である。
この方法は試したことはないが、きっと、うまくいくと思うとケイレブは言っていた。もう一人、野ウサギを捕るのが上手だという羊飼いの話が出たが、この人は、持っている杖がいやに長いので、みんなに笑われていた。槍か、物干し竿ほど長くて、普通の二倍はあったという。ところが、これには使いみちがあった。この羊飼いは、草丘のいろんな所に野ウサギの巣穴を作ったのである。じつにうまく出来ていて、通りすがりの目には、絶対に人間が作ったものとは見えない。当然、野ウサギもこの人工の巣穴を利用した。羊飼いは羊番をしながら、こういう巣穴を巡回して、二、三十ヤード離れたところを、犬を従えながら見回ってゆく。巣穴に野ウサギがうずくまっているのを見ると、羊飼いは犬に一言かける。すると直ちに犬は立ち止まって、じっと身動きもしなくなる。一方、羊飼いはそのまま先きへ歩いてゆくが、円状に進んで、だんだん野ウサギに近づいていく。野ウサギは犬にじっと目を注いだままで、人間には気がつかない。そのうちに例の長い杖を振り上げて、うしろからオバカサンの野ウサギの頭をガツンとやる。その勢いが足らず、野ウサギが気絶もせず、くたばりもしない時は、巣穴から何ヤードも逃げないうちに犬が追いついて捕まえるという寸法である。
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九章 キツネを語る羊飼い
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キツネにワナを仕掛ける羊飼い──猟場番人とキツネ──キツネとイタチ──猟場番人の油断──キジとキツネ──ケイレブ、キツネを殺す──キツネ狩りをする牧羊犬──キツネの二種類──家ウサギが小ギツネと遊ぶこと──キツネ撃退法──キツネは遊び好き──キツネ狩りは羊にとって危険だということ。
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ケイレブの話によると、友だちの羊飼いギャザグッド老人はキツネ狩りの名人で、野ウサギの場合同様、独特の方法を用いたという。ケイレブによると、キツネはどんなに人目につく場所でも、灰の山と見ると、必ず近寄ってゆく習性があるが、ギャザグッド老人の方法は、これを応用したものだった。灰のなかに鋼鉄製のワナを隠しておいて、これを高さ三フィートほどの一本の棒にしっかりと結びつけ、その棒を灰のなかにしっかりと突き立てる。そして棒のてっぺんに一枚の匂いの強いチーズを結びつけておく。すると灰山と強いチーズの匂いにたまらずキツネが寄ってくる。ワナにかかったキツネは殺して、土の中に埋め、誰にも言わずに秘密にしておく。キツネを殺すのは、その略奪から損害を受けないようにするためで、キツネは放っておくと、ガージ親子のように、せっかくワナで捕まえたこちらのウサギを夜、盗んでいくのである。
キツネを殺すからといって、ケイレブは決してギャザグッド老人を非難することはなかった。かえって、見つかったら要注意人物になったのにといって、その勇気に感心していた。しかし勇気というより、それは頭のよさ、あるいは狡猾というものではなかったろうか。見つかると老人は思っていなかったし、事実一度も見つかったことはなかったという。ケイレブにそんな話を聞かせたのも安心していたからである。キツネ狩りに関係する人間から疑いをかけられたことも一度もなかったし、猟場番人などは、その点、ほとんど問題にならなかった。猟場番人の手伝いをしていたからである。じつは猟場番人ほどキツネを憎んでいるものもない。農場主は、キツネ狩りのため畑に損害を蒙った時は補償金を受けるし、養鶏場の女房は、キツネに鶏を盗られると、狩猟会から損料がもらえる。しかし、猟場番人は、猟鳥獣を保護するように要求されている反面、猟鳥獣の大敵であるキツネを大目に見るよう要求されている。だから、キツネに関しては、猟場番人の気持には矛盾がある。私は以前からそれを面白がって見ているわけだが、今では永年の練習の結果、この微妙な点を話題に持ち出して、猟場番を居心地の悪い気分に追い込み、混乱におとしいれることが出来るようになった。野生動物の研究者が、キツネに関して全然悪意のない質問をして、猟場番の頭が混乱してしまうことがあるが、キツネを隠れ場から追い出すにはどうすればいいか、という質問もその一つである。それから、ウサギがイタチに追われて悲鳴を上げると、それを聞いて、キツネがイタチの獲物を取りあげるというのは本当か、という質問もある。こう聞かれると猟場番は、「たぶんほんとうだ。いや、そうは思わない。なぜかというと、キツネは夜、行動するが、イタチは昼間、動くからだ」と答えるだろう。だがこの質問で猟場番が困っているのは分かる。ある猟場番がうっかりして、「それは確かだ。私はイタチに追われるウサギの声をまねして、キツネをいつでもおびき寄せられるよ」と答えたことがあった。なぜキツネをおびき寄せるのか、その点は言わなかった。
猟場番が、その時うっかりしていた、と言うのは、その地所では、キツネが保護されているという体裁が保たれているのに、実際は猟番たちの手で、キツネが計画的に殺されているという現実があったからである。キジ飼育熱のために、地主や農場主と農村の庶民との間が離れてゆくという大変な悪影響が出ているのに、衰えるどころか、キジ飼育熱はますます高まってゆくようである。この調子でいくと、キツネ狩猟家とキジ飼育家の間の利害対立がいよいよ鋭くなってきて、ゆきつくところ、キツネ猟は廃止に追い込まれることにまちがいない。田園を愛し、古来の田園スポーツを愛する人々、現在流行しているキジ猟を全然スポーツとしない人々にすれば憂鬱なことである。一シーズンに二回か三回のキジの大銃猟会を催して、その時、一羽「一ギニー」もするとかいうりっぱなキジが何百羽も仕止められるという話だが、そういうたいそうな銃猟会を催す大飼育家が、田舎の人々に非常に有り難がられていると思うのは地主たちの錯覚である。キジ猟のおかげで田舎には現金が落ちるし、仕事のほとんどない十月、十一月に村の貧しいものが仕事にありつくのだ、とキジ飼育家やその弁護者は言うが、それは実情を知らないものの言うことである。なるほど村の貧乏人の何人かは、大銃猟会の勢子に雇われて、一日一シリングかそこらの金にありつく。農業労働者も仕事の行き帰りに、時々、キジの巣を見つけて、猟番に知らせ、ちょっとした駄賃をもらうことがある。「いつも目をあけて」絶えず猟番の役に立つ心がけを見せていれば、日曜のご馳走に、時たま、ウサギ一羽位は恵んでもらえるだろう。
だが昔、村人は、いつでも地所や森に自由に出入りする権利を持っていたわけで、この権利は、どんなに圧迫のひどい時代でも失ったことはなかった。ところが、今や、その自由が取り上げられた見返りとして、わずかな手間賃をもらう、ウサギを恵んでもらうというのではお粗末すぎる。今では、猟番が頑張っていて、村人をこばむ。以前も猟番はそこにいたし、昔から、いたことはいたのだが、キジはまだ禁制の鳥ではなかった。また、芝地を歩こうが、森の中でタキギを五、六本拾おうが、そんなことを問題にするものもなかった。ところが現在では、そこに猟番がいて、道にもどれといわれるし、時には、こちらが道路上にいるのに、生け垣越しに何を覗いているんだ、と咎められることもある。この調子でやられると、村人はコソコソとおとなしく立ち去る。こちらは、生活費を稼ぐ貧しい農業労働者で、地主や借地人の手先のごきげんを損じるわけにはいかないのである。憤懣を口にしようにも、うまくしゃべれない。しかし、侮辱された、不当な扱いを受けた、という思いに腹の中は煮えくり返る。こちらは魂まで農奴ではないのだ、というわけで、扇動家、社会主義者、その他、地主と見れば片っぱしからこれを非難する連中の言説に耳を傾けるという結果になる。今や、これらの挑発家は田園地方を縦横に走りまわっていて、どんな辺鄙な村々でも、その有蓋トラックの姿が見えないというところはない。この連中の旋風のような激しい言葉は、次代の農業労働者の胸に染みこんでゆくわけである。
キツネと猟場番の話にもどることにしよう。
ほかにも、キツネを保護しているという体裁を棄てて、地主が銃猟一本にしぼり、キジの飼育だけをしているという地所がいくつもある。世間もそのことは知っている。私がよく知っているウィルトシァのある大きな地所では、猟場番がキツネは容赦しないと公言していて、村人もみなそれを知っているので、キツネを見かけると、それを注進して、ほうびに家ウサギを一羽もらうことを当てにしている。こういうことは地主もちゃんと承知しているはずで、猟場番は主人の意向に沿っているにすぎないのだが、それでも地主は、キツネ狩猟団体に会費を納めているし、狩りの勢揃い会には、時々、顔も出している。キツネ狩猟団体の会員は口をそろえて、この地主を非難するが、声をひそめてそうしなければならない。キツネを迫害しているという噂をひろげると、一つの破壊的な効果ががあるからである。ケイレブもキツネがきらいだったが、殺すほどではなかった。若いとき、一匹殺したことがあるが、それは事故で、意識的にしたことではなかった。
ある日、一つの生け垣に、小さな隙間があいているのに気がついた。野ウサギが作ったか、使っている穴である。それなら、その野ウサギを捕まえてやろうという気になって、ケイレブはその隙間のそばに、一つのワナを仕掛け、それを木の根っこにしっかりと結びつけ、枯れ葉を上にかぶせて隠した。明くる朝、出かけていって見ると、何もかかっていない。ところが、生け垣の手前の溝に足をかけたとたん、いきなり一匹の大きな雄ギツネが、激しいうなり声を上げて跳びかかろうとした。見れば、後脚の一方がワナにかかっている。キツネは、今まで土手のすぐ下の枯れ葉のなかに身をひそめていたのである。野ウサギを当てにしていたのに、キツネが出てきて襲われたので、思わずカッとして、ケイレブは持っていた重い杖でその頭を一発なぐった。ところが、はずみで一発なぐっただけなのに、キツネは死んでしまった。わるいことをした。これから先き、どういうことになるかと考えながら、ケイレブはキツネをワナから外して、その生け垣の隙間から数ヤード離れた枯れ葉の下に、その死骸を完全に隠し、それから仕事に出かけていった。そしてその日、一人の農業労働者が草丘に出てきた機会に、彼にこの事件を打ち明けたのである。この労働者は、小柄な、物静かな老人で、考えぶかいところがある友人だったが、話を聞くと「まかしておきな」と言って、村へ帰っていった。その日の午後、草丘の頂きに立って村のほうを見おろしているケイレブの目に、ずっと遠くのほうから、あの老人が草丘に出てくるのが見えた。そのうちに、背に一つの袋を負い、片手に一本のシャベルを持っているのが見えた。草丘の中程までのぼって来ると、袋をおろし、深い穴を掘りにかかる。この穴の中へキツネの死骸を入れ、土を投げ入れて、念入りに踏みつけた上で、注意ぶかく芝地を元どおりに置き、それからシャベルを担いで帰っていった。ケイレブはホッとした。キツネは村から遠い草丘に埋められた。これでもう、キツネ殺しの件が知られる心配はない。
それからも、野ウサギのために仕掛けたワナにキツネがかかるということが何度かあったが、そのたびに、うまく逃がしてやった、と言って、次のような話をしてくれた。その頃ケイレブが飼っていたのはモンクという犬で、あのジャックがマムシを憎んだのと同様、キツネが大嫌いで、キツネと見ると、いつも猛烈な勢いで追いかけた。ある朝、生け垣の隙間に仕掛けたワナを調べにいくと、一匹のキツネがかかっていた。こちらを見ると、このキツネ、歯をむき出し、跳び上がり、必死に戦う構えを見せる。これを見ると、モンクのほうもいきり立って、抑えるのが大変である。杖でなぐるぞ、と脅しつけると、やっと引きさがって、主人の厄介な仕事を見まもっている。厄介な仕事というのは、その「すげえ歯」に噛まれないようにして、うまく鉄のワナを開けるという作業である。何度か失敗して、やっと杖の先きをワナの取っ手にかけ、これをグッと押し下げて、ワナの歯をゆるめることが出来た。キツネは脚を引き抜くと、生け垣ぞいに矢のように走って、近くの雑木林のなかへ逃げこもうとする。その後を追ってモンクが飛び出す。もどれ、と命令しても聞くものではない。キツネと犬は、ほとんど同時に林のなかへ消えた。キャンキャンと鳴く声、バリバリと下生へのなかを走る音がだんだん小さくなり、やがて消えた。それから、たっぷり二十分ほどすると、モンクが帰ってきた。いやに嬉しそうな顔をしているのを見ると、うまく追いついて、殺してきたらしい。
このモンクについては、別の章で悲しい話をしなければならない。
キツネの話になると、いつもケイレブが言っていたことだが、村の近くには二種類のキツネがいたそうである。一つは小型で、色は真赤。もう一つは、もっと大型で、もっと明るい色だが、少し灰色がかっていたという。草丘のキツネは、低地のキツネと、大きさや色が違うのかもしれない。ケイレブの話だが、ある年のこと、草丘に囲まれた深いくぼ地で、二匹のメスギツネが子供を生んだ。ところが、この二匹のお産の場所が非常に接近していたので、子ギツネが歩きだす頃になると、両方の子ギツネが混ざり合って遊んだ。ところが親のほうが互いに種類の違うキツネだったので、その特徴が子供たちにも出ていたという。
この近所同士の子ギツネたちが、いっしょになって遊ぶのを見るのが楽しみで、ケイレブは毎夕、そこへ出かけては、一時間以上も見物していたが、そのうちに、ある事実を目撃したという。しかし、自分の目でくわしく動物観察をしたことのない人、したがって、野生動物はすべて敵を知っていて、これを恐れる本能を受けついでいるのだという、あの作り話をいまだに信じている人は、この話を受け入れないだろう。子ギツネが遊んでいたこの場所には、じつは、家ウサギもたくさん棲んでいた。ケイレブが観察していると、親ギツネがあたりにいなくなると、家ウサギの子供たちが出てきて、小ギツネたちと平気でいっしょになって遊びだす。こんなことは聞いたこともないので、驚いたケイレブが主人に報告すると、主人もある月夜に出てきて、二人でいっしょに坐り込んで、長い間、見物していたという。ウサギの子供たちとキツネの子供たちが、互いに追いかけごっこをして、グルグル回っている。ウサギのほうは、追いかけられている途中、急に立ち止まって、クルリと向き直り、キツネの上をポンと跳びこえる。
ここの家ウサギは借地人の所有だったので、農場主はこの眺めを充分たのしむと、キツネの巣穴に少量の爆薬を仕掛けるといういつもの方法で、キツネを退治することにした。四匹の親ギツネに、九匹の子ギツネを連れて棲みこまれては迷惑だったのである。爆薬を爆発させた翌日は、キツネたちの姿は消えていた。
バークシァ州で、一度、私は珍しい人物に出会った。野生動物に興味があり、観察をつづけたために、その習性について豊かな知識が身についたという知的な猟場番だった。夕食後の雑談が夜中すぎまでつづいたことがあって、そのとき、動物が、ふしぎな、異常な、その習性に反する行動さえ見せることがあるという話が出た。猟場番はその例として、一匹のキツネの話をした。このキツネは、たくさんの家ウサギがいるある森のはしに、巣穴をつくっていたという。ある夕方のこと、この森のはしの木々の間に立って猟場番がウサギたちを見ていた。家ウサギがたくさん出てきて、草を食べたり、緑の芝地に転がったりしている。するとそこへ、トコトコと一匹のキツネが通りかかったが、ウサギどもは振り向きもしない。すると急にキツネが立ち止まって、一匹のウサギめがけて、すっ飛んできた。ウサギは二、三ヤード逃げると、急に振り返って、キツネを追いもどす。今度はキツネが逃げだして、また振り返って追いかける、ということを五、六回繰り返していた。キツネにはウサギを掴まえて殺す気持は全くなく、遊びのつもりだったことは明らかで、ウサギのほうも同じ気持でこれに応じて、全く恐れていなかった点ははっきりしていたという。
キツネが敵と遊ぶという話を最近もう一つ耳にしたが、ある紳士が自分の家の近くの森を、フォックステリヤを連れて夕方散歩していた時だという。帰ろうとして森から出てくると、四十ヤードほど後ろから一匹のキツネがついてくる。こちらが止まると、キツネも止まって、犬をじっと見ている。犬は無関心らしかったが、「ゆけ!」と命令されると、追いかけていって、森の端までキツネを追いもどした。ところが、ここまでくると、キツネはクルリと向き直って、今度は犬を追いかけ、主人のそばまで追いもどし、また坐りこんで、じつに、のんびりと構えている。それからまた犬が追いかける、ということを数度繰り返して、紳士は家に帰ったが、やはりキツネは後からついてきた。中に入って門をしめても、まだキツネは道路に坐っている。もういっぺん遊ぶつもりで、こちらが出てくるのを待っているような様子だった。
この話で私は自分の一つの経験を思い出したのだが、それはキングス・コプス──つまり、エクスベリ近辺のニューフォレスト国立公園にあるカシとマツの大森林で出会った事件である。日が暮れて暗くなりかけてきた頃、森のなかを歩いていると、地面か地面の少し上のほうから、泣くような低い声が聞こえた。二、三十ヤード先きである。長耳ミミズクの子が腹をすかせて鳴いているような声だ。用心ぶかく、そちらへ向かって進みだすと、こちらが進むのに合わせて逃げていくのだろうか、その声はさがってゆく。ところが、こちらが進みだした直後に、右手四十ヤードほど先きでギャッーと一声、びっくりするような大きな悲鳴が上がった。キツネの声だ、と思ったとたん、また左のほうから別のキツネの悲鳴が聞こえた。それからずっと、二匹のキツネが、左右に同じ距離を保ってお伴をしてくるのか、それとも、つけてきて、三十秒ばかりの間隔で互いに悲鳴を交わしている。そのうちに、鳥の弱っているような例の声も止んだので、私は方向を変え、いちばんの近道をとって森から出たのだが、出るまでキツネたちは離れなかった。どうしてキツネが、こんなことをしたのか分からないが、おそらく遊んでいたのではなかろうか。
もう一つ、キツネたちが遊ぶおもしろい話を聞かせてくれたのは、バークシャ州のビーコン山近くのインクペンという小さな村に住む紳士だった。その話によると、事件の起こったのはかなり昔で、当時、これを文章にして、『フィールド誌』〔一八五三年創刊の農業関係週刊誌〕に投稿したそうである。自分の所の猟場番が「おもしろいものを見せる」といって、ある日、森のなかのある場所へ連れていってくれたという。四匹のキツネの子が生まれた場所で、その近くに、ゆるい、長い緑の坂があった。ところが、この坂の上の、端から少しひっこんだところに、三つの丸いカブラが芝地に転がっていた。「こんなものが、どうしてここにあると思いますか?」と言って、猟場番が説明を始めたところでは、これは遠くのカブラ畑から、親ギツネが、子ギツネたちのおもちゃ用にと運んできたものに違いないのだという。夕方、子ギツネたちを何度も見かけるので、主人にも見てほしいのだという。そこで夕方、二人でまた出かけてきて、近くのやぶのなかに隠れて待っていた。すると、子ギツネたちが出てきて、例のカブラを転がしたり、それに跳びかかったり、上に乗って転がったりしはじめた。そのうちに、一つのカブラが坂の上から転げ落ちてゆくと、子ギツネどもはそれを追いかけて、ずっと下まで降りていく。そして充分これを相手にじゃれ遊ぶと、また上にもどって、また別のカブラを相手に遊びだすが、これもまたゴロゴロと転がり落ちる。すると三つめを相手に、同じようにして遊ぶのだった。ところが、毎朝、三つのカブラはちゃんと坂の上にもどっている。それを見ると、たしかに親ギツネが元どおりの所に置いて、子供たちの遊びの用意を整えているのに違いないのだ、と猟場番は説明するのだった。
ケイレブは、ギャザグッド老人ほどウサギに熱心ではなかったが、キツネを嫌う理由が他に一つあった。雌羊の妊娠中はキツネが非常に危険なのだという。狩りで追われて、キツネが羊の群れの中に跳びこんでこないまでも、近くにくるだけでも危険だという。あるとき、狩りで追われた一匹のキツネが、妊娠している雌羊たちのなかにまぎれこんで、隠れようとしたことがあった。そこへ猟犬たちが飛びこんできたので、羊たちは、かわいそうにおびえて、気が狂ったようになった。そのために、早産の小羊がたくさん出たばかりか、虚弱体質の子羊が多くなった上に、親羊のなかにも健康を害したものがたくさん出た。おかげでその年は、子羊のお産の金が全然入らなかったそうである。その頃は、雌羊の数を越す子羊一匹について一シリング〔今では二シリング六ペンス出すことが多いが〕しかもらえなかったので、ここから入る収入は普通三ポンド、ないし六ポンドだったという。
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十章 草丘の鳥類
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大きなノガン──イシチドリ──大タカ──ワタリガラス──犬が腐肉をあさったこと──ワタリガラスの戦い──ウィルトシァにおけるワタリガラスの繁殖場所──タゲリ──ヤドリギツグミ──カササギとコキジバト──猟場番とカササギ──ミヤマガラスと農場主──ホシムクドリは羊飼いのお気に入りだということ──ハイタカと「茶色ツグミ」
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英国の他の多くの土地同様、ウィルトシァ州から、その最も興味ある鳥類が消えてからもう久しい。ウィルトシァ州には、かつて英国最大の鳥であるノガンが棲んでいた。これは黄金色のオジロワシとか、「ラッパのような声」をもつ「巨大ツル」よりまだ大きな鳥だった。しかし、今は、その姿は消えて、思い出のなかに残るだけというより、地名になって残っているにすぎない。「ノガン旅館」というのは今では旅館ではなく地名だが、これは現在ソールズベリ平原で模擬戦をしている何千という兵士たちにはなじみの土地である。また、州境いの最南端に一つの村があって、ここにトラピスト修道院があるが、これは昔、「ノガン農場」と呼ばれた所で、今でも老人連はそう呼んでいる。ケイレブは、父のアイザックからこの大型鳥の話を聞いていただけだが、じつは、ケイレブの若い頃、この鳥はまだ南ウィルトシァではお目にかかれたのである。
イシチドリ。これは翼が長くて、黄色い目の大きな、声の荒々しい英国の小ガンのことで、今でも耕作されていない草丘地によくやってくるが、残念ながら数は減っていく。英国の鳥のタマゴを採集しようとする個人蒐集家が相変らず熱心だからである。こういう蒐集家の標本箱をいっぱいにするために、貧しい羊飼いや農業労働者が雇われて探しまわるので、この鳥の巣が十に一つもその目を逃れられるかどうか、あやしいものである。ウインタボーン・ビショップの火打石の多いある地点に、一、二年前まで一つがいのイシチドリがよく姿を見せていた。そこから、二、三マイル離れたあたりにも一九〇九年の夏、つがいの姿をみかけた場所がいくつかあるのだが、いずれの場所にもタマゴはなかった。
大型のタカ類とかワタリガラスは、以前ウィルトシァ州のどこの林や森にでもいたが、今では猟場番の手で全滅してしまったことは言うまでもない。この州最大の森林でも、今ではマグソダカより大型のタカの避難所にはならないのが実情である。サバナク森林は広いので、コンドルくらいは隠れられると思う人がいるかもしれないが、じつは、そうではない。二、三年まえ、ここに一羽のノスリが現われたことがある──ただの平凡なノスリである。ところが、あたり一帯の全住民が興奮で気が狂ったようになり、銃を持ったものが一人残らず駆けつけて猟に加わったために、二、三日間バンバン狙い射ちにされたあげく、あわれ、射ち落されてしまったという。
フォントヒル・アベイでも似たような話を聞いた。どこから来たのか分からないが、一羽の非常に大きなタカが迷いこんできたという。ずいぶん大きくて、背中が青色、胸は白。その胸に黒い筋が何本も入っていた。黄色の激しい目付きをした「おっそろしく」狂暴な面構えだったという。猟場番の全員と他に五、六人の銃をもったものが猛烈に追い回した結果、誰かが射ったタマに当たって、タカは致命傷を受けたが、落ちたと思われる所に見つからない。それから二週間して、一人の老羊飼いがそれを見つけたが、この羊飼いから私はこの話を聞いたのである。見つけた時はもう剥製にできるような状態ではなかったが、その説明によれば、これはオオタカだったに違いないと思う。
これに比較すると、ワタリガラスのほうはもっと長く生きのびて、ケイレブの子供の頃、つまり今から七十年くらい前には、たくさんのワタリガラスがいたそうである。彼の説明によると、その頃は多かったけれど、その後、何だか急に減ったというのだが、この点に、私は大いに興味をそそられた。
前にも書いたことだが、リヴァーズ卿がクランボーン猟場からソールズベリにかけてのウィルトシァの広い地域で、シカの所有権と狩猟権を有していた頃、アイザック・ボーカムのような正直者までが飢えに駆られて、森から出てきたシカをとったとか、腹をすかせながらも勇気のある村人が、シカの密猟をやったとかいう話があるが、その頃、ウィンタボーン・ビショップから何マイルか離れた所で、たくさんの犬が飼われていたそうである。シカ狩りの猟犬で、猟場番たちが非常に原始的なやり方で、これを飼っていたという。こき使って、くたびれた老馬を何頭か買いこんできて、これを殺して、犬の餌にしていたというのである。森の奥で一頭の馬を殺すと、その皮をはぎとって、あとは猟犬どもが食べるにまかせる。犬たちはジャッカルのように肉を食いちぎり、けんかをしながら、むさぼり食う。だが、ほんの一部分食ったところで肉は腐りだす。すると、一マイルほど向こうで、また一頭殺して、皮をはぎ、犬どもは新しい肉にありつく。こういうぐあいにして、方々にたくさんの腐肉が散らばると、それに釣られて、たくさんのワタリガラスが集まってくる。一ヵ所に数十羽も寄ってくるほどである。ところが、のちになって、この辺りのシカ猟が衰えて、犬を馬肉で養うこともなくなると、ワタリガラスの数も年々減ってきて、ケイレブが九つか十の時には、ワタリガラスの大群の話も昔話になっていたそうである。しかし、それでもまだ、ケイレブは、かなり多数見た記憶があるし、これは「死をかぎつける鳥」だと昔から言われているとか、この鳥が羊たちの上を飛びまわってカアカア鳴く時は、羊が一頭病気になっていて、やがて死ぬ確かな知らせなのだとか、とさかんに言うのだった。
このカラスに関するケイレブの思い出話を一つ、ここに記しておくのもよかろう。子供の頃に見たことで、非常に強い印象を刻みつけられたのである。ある日、一人の兄といっしょにケイレブが草丘に出ていると、カアカアという聞きなれた声がした。見ると、遠くのほうの空で、三羽の鳥がけんかをしている。二羽がいっしょになって一羽を追いかけ、二羽が交互に舞い上がって、上から一羽に襲いかかり、たたこうとしている。かなり高い所から降りてきて、見ているこちらの真上四、五十フィートばかりの所まで降りてきたが、その猛烈な勢い、その激流のような大きな羽音、しゃがれた深いガアガアという声、野蛮な咆えるような叫び声には、もうびっくりした。それから三羽は上がりはじめたが、追われていたのが、今度は敵たちの上に出ようとする。そうはさせるものか、と相手の二羽が互いにそれより高くのぼって、上から攻撃しようとするという具合で、三羽がグングン高くのぼってゆくうちに、咆えるような声もだんだん遠くなってゆく。二人の少年は、その姿を見失うまいとして、地面にあお向けになり、じっと上空を見つめていると、三羽の姿はとうとう「チビっこい」クロウタドリくらいの大きさになって、最後には消えてしまった。しかし、こちらはまだそのままの姿勢で、姿の消えた空の一点に、じっと目をこらしていた。そのうちに、初め一つの黒点が現われ、それから二番目の黒点が見えて、二羽の鳥が急速に地面に近づいてくる。音も立てずに急降下してきて、とうとう降り立ったのは、少年たちのいる所からせいぜい二百ヤード位の草丘の上だった。追われていたやつは、たしかに追撃をうまく振り切って逃げおおせたわけだが、おそらく逃げたのは、追っていた二羽の子供だったのだろう。ワタリガラスは子供が成長したとき、これを近所から追い出し、追い出せない時は殺す習性がある。
馬の腐肉のおかげで、ウィルトシァのこの辺りにワタリガラスが寄ってきたという点には疑問はない。しかし、その頃まで、つまり一八三〇年頃まで、この州に、多くのワタリガラスの有名な繁殖場所があったことも事実である。A・C・スミス師が『ウィルトシァの鳥類』という著書のなかで、二十三の繁殖場所を挙げているが、そのうちの九つまでがソールズベリ平原にあるとしている。だが、この本の出版の年の一八八七年には、その二十三のうちの僅か三つ、つまり、サウス・ティドワス、ウィルトン・パーク、コンプトン・チェンバリンのコンプトン・パークだけが現実に繁殖場所として残っていたにすぎない。しかし、A・C・スミス師が耳にしたこともない、古くからの繁殖場所が他にもいろいろあったわけで、その一つがグレイト・リッジの森だった。これは、ワイリー川の谷を見おろす森で、ここに三十五年、ないし四十年ほど前までワタリガラスが棲みついていた。この土地で、ワタリガラスのことを記憶しているたくさんの老人に私は会って話を聞いたが、それによると、カラスたちが棲んでいたのは一本のカシの大木で、六十年ばかり前、これが切り倒されたあとは、そこから遠くない別の木に移って巣を作っていたという。私のロンドンの友人で、生まれがこのグレイト・リッジの森の近くという人がいるが、この人の記憶では、子供のころ、ワタリガラスは近所でごく普通に見かけたという。この人の思い出に、その辺りの不運な農場主の話があった。毎年、毎年、羊が病気になって、たくさん死に、破産の瀬戸際まで追いつめられるのだった。そこで働いている老羊飼いが、まじめな顔で、首を振りながら、「ふしぎでもないのじゃ。主人は一羽のワタリガラスを射ったからのう」と言っていたそうである。
ウィンタボーン・ビショップのごく近くには、このカラスの繁殖場所はひとつもなかったそうで、ケイレブは巣の噂も聞かなかったと言っていたが、英国では決して育たないとされている、ある鳥の巣を一度見たことがあるという。その頃、ケイレブは小さな子供だったが、ある日、一人の老羊飼いが村から出かけようとして、こちらに目をとめて、声をかけてきた。「おまえさんは鳥が好きな子じゃったな。いっしょにくるなら、誰も見たこともないようなものを見せてやるがな」。好奇心でいっぱいになって、ついていくと、草丘地を出て森に入り、今まできたこともない場所にやってきた。ワラビ、ヒースがあり、カバの木、イバラの木々があたりに生えている。ひとつのカバの木立ちに用心ぶかく寄ってゆくと、十フィートほど上に、大きな一つの鳥の巣があって、そこから、大きな、ツグミみたいな鳥が飛びだして、近くの木にとまった、と思うと、またそこへ、その連れ合いが飛んできてとまった。あれは、ノハラツグミという鳥で、大きさはヤドリギツグミと変わらないが、色は違うと老羊飼は説明してくれた。冬になると、どこか知らないが遠くの北のほうから群れになって英国に飛んでくるが、繁殖期を待たないで、いつも飛んでいってしまう。子育てをしているのを見たのは、これがはじめてだが、これを見たものは他にいないはずだ、と老人は語ったという。
この老人は鳥に関しては大した物知りで、どんな鳥でも知っていたが、その話をすることはめったになかった。ただ自分の楽しみのために観察して、いろいろと知っていたのだ、とケイレブは語った。
ウィンタボーン・ビショップ教区も含めて、このあたりの草丘地域に特徴的に見られる鳥といえば、タゲリ、カササギ、コキジバト、ヤドリギツグミ、ホシムクドリである。タゲリは草丘のどこにでもいるが、今後、ソールズベリ平原の全軍用地から追い立てられてゆくことは避けられないだろう。ヤドリギツグミは繁殖期を終わって夏になると、よく目につくようになる。小さな群れをつくって草丘にやってくるが、冬になると寒さに追い立てられて低地の森に移ってゆく。
この辺りにはヒイラギ、クロイチゴ、カバの茂みが数百エーカーにわたって草丘にひろがっているが、ここは、いわゆるヤマカササギの大繁殖地になっているので、昼から散歩に出ると、少なくとも二十羽位はいつでも目に入る。それからここは、コキジバトの大都会でもあり、夏は一日中、クルクルという低い声が聞こえる。他にもう一つ、ごく普通に聞かれるのはカササギの声で、低いペチャクチャというおしゃべりの声と、独唱の歌声である。これは詠唱というか、呼び声みたいなもので、一羽が百回も繰り返す。しかし、コキジバトが、こんな場所で、棒切れで小さな台のような巣をつくって、そこで、一つがいでも白いタマゴをかえしたり、かえった肌の青い、産毛の黄色い、目立つヒナを、一つがいでも育てたりできるのは不思議である。
猟場番たちの話では、秋も終わるころ、猟鳥に害をなすこういうカササギが一マイル離れた谷の森のねぐらに帰る時をねらって、これに仕返しをするのだそうである。日暮れ時に、カササギたちがいつも森のなかへすべりこむ、ある一地点があるが、ここで待伏せをする。ある猟場番の話では、一人の友人の助けを借りて、一晩だけで三十羽射ち落としたという。
ウィンタボーン・ビショップ草丘やウィンタボーン村の周りでは、カササギは迫害されてはいない。これはきっとカササギ殺しの専門家の猟場番たちが、この土地では元気をなくしたためである。これは奇妙な、なかなかおもしろい話である。前にも見たとおり、ウィンタボーン辺りには在郷の地主がひとりもいない。借地農である農場主が土地の家ウサギの持ち主である。猟鳥はというと、遠方あるいは外国に住んでいる荘園主と称する人が、猟場を人に貸す、いや、貸すことになっている。ところが村人は、この荘園主の顔も見たことがない。農場主の上に位置する人間について知っていることといえば、昔は村じゅうの人間が草丘にある種の権利をもっていて、エニシダを刈りとったり、牛、小馬、ロバ、あるいは五、六頭の羊、ヤギなどを飼ったりすることができたのに、今では何の権利もないということ位である。だが、いつ、なぜ、そういうことになったか、という段になると村人は誰も知らない。猟場を、だれか他所者に貸せるように猟鳥を保護しようとして、遠方から猟場番たちが差し向けられてくる。だが、こういう猟場番と村人の間には何の交わりもない。なくて当たり前である。交わりどころか、村人は、猟鳥の巣と見ればかたっぱしから、念入りにつぶしてしまうので、誰かが銃猟をしようにも猟鳥が少なすぎて、けっきょく、猟場は来る年も、来る年も借り手がつかないのである。
こういう不安定な事情で大いに得をしているのは、美しいしっぽを持つ白黒の鳥、つまりカササギで、村の近くの道路わきの木々に、イバラだらけの大型の巣をかけて繁殖する。
このあたりの草丘に見られる大きな鳥といえば、英国のよその土地同様、ミヤマガラスだけであるが、せめてこの鳥だけでも、親切に残してくれてありがとう、と私たちは、この緑の大地とそこに生きるあらゆる生物の持ち主である神々に、心つつましく感謝しようではないか。ノスリ、トンビ、ワタリガラス、オオタカ、その他多くの消え去った大きなりっぱな鳥たちと比べると、りっぱな鳥でもないが、ミヤマガラスがここにいるというのは、なかなかのことである。このカラスには、いろいろ有害な習性があって、排斥する土地もあるのに、ここらの耕作された草丘地でたくさん見られるのは、ちょっと妙なのであるが、ここでは、大地主はもちろん、ここの農場主、いや多くの農場主までが、この鳥に好意を持っているように見える。私の知っているソールズベリ平原最大のミヤマガラスの巣は、ひとつの農場屋敷にあるが、これは農場主の持ち家で、耕地は約九〇〇エーカーある。最近では鳥追い少年を雇って作物を守ることもできないので、ミヤマガラスは圧迫されているのではなかろうか。
ある日のこと、ウエスト・ノイルの近くで私は、ひとつの耕作された畑の上に、ミヤマガラスが大群を成して、忙しく動いている場面に出くわした。ここには鳥追いの少年こそいなかったが、鳥を追っぱらうためのあらゆる手段が講じてあった。二十羽ほどのカラスの射殺死体が、畑のあちこちに立てた棒からぶらさがっているし、帽子をかぶって、木銃を抱えた、藁とボロ布れのカカシが恐ろしい顔をして三つ立っていた。ところが、カラスどもは逃げない。ひとつのカカシの足元に七羽もかたまって地面を突っついている。何をしているのか、と畑のなかに踏みこんでみたら、カラスノエンドウがまいてあって、芽を吹き出したばかりのその種を掘り起こしているのだった。
それから三カ月後に、そこから近いミア草丘で、またミヤマガラスを見かけた。だいぶ前に刈りとった麦束の山が、雨にぬれたので、中に入れずに、そのまま置いてあるのを食べているのだ。四十ないし五十エーカーの大きな畑の横を歩いてゆくと、私の頭上をカラスたちはゆうゆうと飛びこえて、刈り束の山の上に降り立ち、カアカアと大声を上げる。黄金色の一つ一つの麦束山の上に青黒い大きな姿がのっている。ひとつの山に三、四羽から六、七羽ずつ固まり、生き生きと動いている。また地面を歩きまわって、麦粒をひろっているのもいる。また、折から陽が射して、向こうの空が青くなったのを見て喜び、仲間の上を飛びまわっているのもいる。全く壮観である。声高らかに、幸福そうにカアカアと叫びながら、幸運をこれほど大っぴらに喜んでいる鳥の有様を見たのは初めてだった。「カアカア」というより、ホッホウ、なんという収穫、なんという豊かさだ。こんなけっこうな八月、九月が今まであったか! 夜も朝も雨、また雨だった。それが、陽が射して、風が吹いてきて、おかげで、ぼくらの羽根は乾いてうれしいことだが、まだ麦束を乾かすには足りない。おかげで麦束山はまだ畑に置きっ放しだ。こんなけっこうなことはない、という調子である。
だが、最も普通に見かける鳥、今まで挙げた鳥を全部いっしょにしても、それよりも、まだはるかに多い鳥はホシムクドリである。これはケイレブのお気に入りの鳥だが、じつはお気に入りなのはケイレブだけでなく、草丘の羊飼い全員だというのは、この鳥が牧場の羊と絶えず接触があるためだ、と私は思う。四月、もしくは五月から十一月までの長い日々を草丘で孤独に暮らす羊飼いには、犬や、羊や、群れを成すホシムクドリは仲間なのである。しかも、これはなんという賢い鳥だろう。敵、味方をちゃんと心得ている。タカが近くにいる時のその動きほど見事なものはない、とケイレブはよく話していた。マグソダカの場合は、ほとんど無視するが、ハイタカが来たと見るや、いっせいに物凄い速力で一番近くにいる羊の群れのところへ飛んでいって、バラバラと石の雨のように羊たちの間に落ちて、サッと身を隠してしまう。ハイタカが飛び去って、姿が見えなくなるまで、草を食べる羊たちの脚の間に隠れている。
ハイタカにやられるのは、ほとんど子供のホシムクドリで、繁殖期がすぎて、夏の間、親鳥から離れて群れになっているところを襲われる。
ハイタカの行動する草丘地域で死んでいるホシムクドリを調べてみると、ほとんどが若鳥で、昔の博物学者が「茶色ツグミ」と呼んでいる鳥である。体には傷はないが、首がないので、ハイタカにやられたのだと分かる。クチバシを切り落として、首をまるごと呑みこむわけで、クチバシは死骸の横に落ちているのが普通である。繁殖期がすぎて、ホシムクドリが多くなると、ハイタカは美食家になるというわけである。
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十一章 ホシムクドリと羊の鈴
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ホシムクドリの歌声──本物の声と借り物──羊の鈴のまね──羊飼い、鈴を語る──実用を離れた楽しみの鈴──羊番をする犬──羊飼いが羊を呼ぶ──バスのリチャード・ウォーナー──コーンウォルの農夫が大声で羊を呼ぶこと──羊飼いの大きな歌声。
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ホシムクドリと羊が親しい関係にあるということで思い出したが、この鳥の歌声を聞いているとき、よく私が考えることがある。今、私はこの章をソールズベリ平原の、ある小さな村で書いているのだが、時は一九〇九年、九月中旬である。戸口を出た所に、古いニワトコの茂みがいくつか集まっていて、熟した実の房がいっぱい下がっている。それを食べようとしてホシムクドリが集まってきて、終日絶えまのない混合曲で部屋を充たす。これがこの鳥の歌い方である。屋根瓦の上に立って、翼を伏せ、体を小きざみにふるわせ、クチバシを開け、上に向けて本格的に歌う時も、ごちそうの果実を食べながら、おしゃべりをしたり、歌ったりのついでに、ちょっと喉を湿すため、ニワトコの実をのみこむ時も、この歌い方である。寒さがあまりひどくない限り、雨が降ろうと、天気がよかろうと、一年じゅう、毎日、この音楽は絶えることがない。あらゆる歌鳥のなかで、おそらく最もよく歌うのがこのムクドリだが、きまった歌というのはないと言ってよい。ホシムクドリに共通の、そして、この鳥独自の音もしくは音声は、七つ、八つから、せいぜい十二、三というところではなかろうか。その音声のひとつは澄んだ柔らかい美しい音で、軽い抑揚がある。もうひとつ、キスのような音があるが、これは二、三回、あるいはもっと繰り返すこともあり、ポンポンとたたくように聞こえる。それから、もうひとつ、シュッーと長くひっぱる鋭い歯擦音のようで同時に金属的な音がある。これを牛乳をしぼって、ブリキ缶のなかへ注ぐような音だと言った人があるが、じつにうまい形容である。その他に、小さな、いろんな音がある。ツグミのような良い声でチュウチュウとゆっくり繰り返すかと思うと、時々、急速調になり、そのうちにブツブツと泡を吹くような音になる。それから、固い音を出すこともあるが、これはおそらく上下のクチバシを打ち合わせる音だろう。しかし、これはコウノトリが出す固い大きな音とは全く違う。コウノトリはかわいそうに、声をもたぬ鳥であって、その巨大なクチバシを、昔の警報用のガラガラのように使うようになったのである。さて、ホシムクドリのこういう音声は、次々とつづけさまに発せられるのではなく、間隔があるが、その間隔のあいだに、一羽一羽がそれぞれ、さまざまな音声を出す。ところが、これは切りがないほど種類が豊富で、どうも物まねとしか思えない。実際、ホシムクドリは英国一の物まね上手の鳥であり、他の鳥、たとえば、クロウタドリの音声や音節、時には歌全体まで再現してみせることがよくある。だが、耳を澄ましてよく聞くと、物まねだと分かる。ずいぶん上手にまねている時でも、聞いていて楽しいというより、面白いという感じで、この点、マネシツグミとは違う。しょせん、ホシムクドリの平凡な喉では、デヴィドスンの適切な形容にもあるように、クロウタドリの「オーボエのような」澄んだ美しい音色は出せないということである。ホシムクドリの歌声は、奇妙に抑えたような調子で、かなり遠い所でクロウタドリが歌っているような効果を出す。その他いろんな音、呼び声、歌などをまねる時も同じことで、本物の声とは電話で聞く声ほどの差がある。だが、この鳥がいちばん上手にまねるのは、大体、粗い金属音で、その混合曲には、調子のととのった、チリンチリン、チャランチャランという金属板を叩くような小さな音がいろいろと変化して聞こえる。聞いているうちに、これはおそらく、この鳥が餌場でしょっちゅう聞いている羊の鈴のまねではないかと、私は何度か思ったのであるが、だからといって、一羽一羽が直接に鈴の音をまねているのだと考える必要はない。そこはマネシツグミの場合と同じで、ホシムクドリはきっと互いにまねをしているに違いないし、若鳥たちにしても、べつに牧場の羊の群れのところに直接出かけなくても、親鳥から簡単にある程度は学べるわけである。
羊の鈴は、鉄板か銅版を小さなハンマーでコツコツと打つような、おさえた音を出すもので、ホシムクドリの音域に充分入るから、まねは簡単にできるし、それだけに、この鳥にとってはとくに魅力があるのだと思われる。
だが、話題を移して、羊飼い自身は、鈴のことをどう考えているのか、どう感じているのか。なぜ羊に鈴を付けるのか。
羊飼いは鈴を重要と考えている。伝説や田園詩はべつとして、現実の羊飼いは、笛も吹かず、楽器の演奏もせず、めったに歌もうたわず、歌の代用に口笛を吹くこともない。だが音楽は好きだから、それを羊の鈴で聞くのだが、それは量が多いほどよい。「鈴はいくつくらい付けてるのかね。ずいぶん多いようだけど」と、オールド・セラムの近くで羊番をしていたひとりの羊飼いに聞くと、「ちょうど四十さ。八十はほしいね」ということだった。普通は二十五から三十くらいだが、それは費用の問題にすぎない。鈴でも何でも、羊飼いにはその余裕はほとんどない。もうひとりの羊飼いは、三十しかないが、もっとふやす気でいる、ということだった。鈴の音を聞くと羊飼いは気が晴れる。鈴といっても単調な音ではなく、大小、肉の厚さ薄さで、出す音もさまざまあり、いちばん小さな鈴のチリンチリンという鋭い音から、大型の銅の鈴のガランゴロンというよく響く音まで、音域は広い。その上、鈴の振れ方にも種類があり、羊がうつ向いて草を食べる時はおだやかだが、歩いたり、走ったりする時の振れ方は早い。羊が首を振ると、チリチリ、コロコロと小さくはじけるような音を発し、みないっしょになって一種の粗い和音になる。これは離れて聞くと、自然の奏でる音楽のようで、田園風景とよく調和する点、風笛とか教会の鐘の鐘楽に似ている。
実用面では、ほとんど何の効用もない。この点を質問すると、鈴の音で、いま群れがどこにいるか、どちらに向かっているかが分かる、などと答えることがあるが、じつは、そんなことではない、という点は自分でも心得ている。知らない人に、単純な真実をおそれずに平気で話す羊飼いならば、べつに鈴など聞こえなくても、羊が今どこにいるか、どの方角で草を食べているか位は分かると言うだろう。目がいいから、その程度は見えるわけである。鈴は、ただ羊飼いのなぐさめ、もしくは楽しみのためにある。羊も鈴の音が好きなのかもしれない──好きなのだと羊飼いは信じている。四、五日前のことだが、ある羊飼いがこんなことを言っていた。「羊たちと草丘にいるとさびしいもんだ。雨のふってる寒い時なんか、ひどいもんだよ。一日じゅう、人っ子ひとり見えんしな。日によると、遠くのほうにも誰ひとり見えんよ──話し相手なんて、とんでもねえ。鈴を聞くと、さびしさがまぎれるのさ。そのためのもんよ。だから、多けりゃ多いほどいいっていうことさ。鈴はわしらの相棒だ」。
天気のよい日でも、羊飼いには話相手はめったにない。だから誰か、ひま人が寄ってきて、パイプを吹かしながら話しかけたりしてくると、その日は長く記憶に残って、それが、いろんな事件を思い出す頼りになる。「あの他所者が草丘に出てきて、わしに話しかけたのは、ありゃ何日だったわい」という具合である。
九月のある日、私はミア草丘をぶらぶらと歩いていた。ミア草丘とは、ひろびろとした高地の平野、もしくは台地で、ホワイト・シート山という名で知られる山の一部だが、ここは南ウィルトシァにある羊牧場のなかでも、とくにひろい、さびしい景色である。ぶらぶらといくうちに、三つの羊の群れの横を通ったが、群れのそれぞれが、多くの鈴を付けていたばかりか、それぞれが、はっきり異なる音、もしくは効果を出していたのは、たしかに、各群れの鈴の大きさと、その数の違いによるものだった。これなら羊飼いは、暗夜でも、いや目隠しをされて草丘に連れ出されても、自分の群れだと分かるだろう。最後の群れの所で面白いことが起こった。この群れには羊飼いが付いていなかった。どこを見まわしても、その姿がない。ただ一匹の犬が番をしているだけだ。だが犬は地面のくぼみに身を伏せて、どうやら眠っているらしい。その横に、一本の杖と一つの袋が置いてある。私は声をかけたのだが、犬はただ頭を上げて、こちらを見るだけで、また両足の上に鼻面をおろしてしまう。もし主人がそこにいれば、犬は声をかけられたら、跳ね起きてこちらに寄ってきただろう。ぼくは今、仕事ちゅうだ──ぼくだけで見張番をしているんだ──だから話しかけるのは困る、と犬は言っていたのだろう。少し先きへ私が歩いていくと、羊飼いが、別の犬を連れて、草丘をまっすぐに降りてきた。羊の所にやってくるのだ。立ち止まって見ていると、あのくぼみの所からまだ百ヤード以上あるのに、主人についていた犬が矢のように走りだした。すると、留守番役の犬がパッと跳ね起きて、出むかえに走り出していって、出会ったところで共に立ち止まると、まるで会話でもするように、しっぽを振っている。そこへ近づいてきた羊飼いが足をとめて、ひとつの奇妙な叫び声を上げはじめた。二音から成る、ちょっと音楽的な叫びである。すると、ちょっと離れていた羊たちが、とたんに草を食べるのを止めて、振り向いて、いっせいにこちらへ走りだし、三十ヤード足らずの所までくると、止まって、いっしょに固まったまま、羊飼いの顔を見上げている。すると羊飼いは、またさっきとは違う叫び声を上げて、クルリと向き直って歩きだした。その後ろを、二匹の犬と羊の群れがピッタリとついてゆく。暮れ方だったから、草丘の麓の、半マイルほど先きの、野原の囲いの中に入れようとしていたのだろう。
変わったものを見たと思ったので、さっそく、ある羊飼いと話をした機会に持ち出してみると、
「ああ、それは何でもない。羊の群れの後ろに、もう一匹、犬がいたにきまってる」
「それが違うんだよ。どちらの犬も主人の横についていて、群れはその後ろだった」
「うーん、わしの羊たちだって、それ位はするよ。何かいいものがある、囲いのなかに何かいいものがあると分かれば、やるよ。羊らはなかなか抜け目がないからな」
他にも二、三人の羊飼いに話してみたが、受けとり方は、これとほとんど変わりなかった。羊飼いが自分の声だけで群れの統制をとるという話が気に入らなかったらしい。話の受けとり方から見て、私が見たのは異常なことだったのだ、という確信を得た。
この短かい一章を終わる前に、ウィルトシァの羊飼いとその羊たちの話を離れて、コーンウォルでは人が牛に向かって歌うということを書いた珍しい一節を引用しておく。バスのリチャード・ウォーナーがコーンウォルについて書いた著書から引いたものだが、この人は、かつての有名人で、地誌、その他の著書が多い。今日では、こういう著書はほとんど忘れ去られたが、かつては非常に有名で、十八世紀中頃から十九世紀中頃まで、じつに評判が高かった。とにかく亡くなったのは一八五七年、九十四歳の時である。だが初めは名が出ず、中年近くなっても金が出来ないので、教会に入り、ほうぼうの牧師を勤めたが、そのうちの二、三は兼職だった。これは当時の悪習に従ったということである。その地誌学的な著書には、ウェイルズ、サマセット、デヴォンを『歩く記』、多くの土地を『歩く記』が含まれているが、普通は駅馬車とか馬に乗って出向いたのである。記憶に価するようなことは何も書いていないけれど、さっき触れた点だけは例外ではなかろうか。以下がその文章である。
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コーンウォルに入るや、この土地の農業のひとつの風習に触れて、たのしい思いを味わったが、じつに風変わりなものだと思った。ここの農場主は、耕作、その他の農作業に、この土地のりっぱな牛を活用して、その体力を有効に用いているが(リチャード・ウォーナー師は退屈なことを書くが、しんぼうして先きへ進むことにしよう)これは賢明なことと言わねばならない。農耕夫は、畦づたいに、このがまん強い奴隷を追いつつ、たえず言葉をかけては、これを元気づけ、ほめ、こちらが喜んでいる気持を伝える。このはげましは一種の節回しをもって行なわれるが、これにはじつに快い抑揚があり、これが方々から風に乗って運ばれてくる時は、耳にも心にも非常な快感をおぼえる。音調の種類は少なく、素朴で、澄みとおった美しい声に乗って聞こえてくるが、その声には田園社会の人が、その労働の友に当然感じる優しい愛情が表われている。田園社会では、家畜に生活を依存している意識が強いため、喜んで人は家畜とたがいに愛情を分かち合い、保護し合って、生活の安定をはかろうとするのである。この野趣ある旋律に触れて、深く心を打たれたことを私は告白する。この旋律によって、同じく死すべき運命にある素朴な動物仲間と人間との結びつきが強められるように思えたし、また暴力の世界と、敵意と怒りの満ちわたる時代に慈愛の現われ出るさまを見て、心の慰められるのを感じた。また、永遠の真理を告げるかずかずの予言にある天国、あの天国のような協調の日々が到来して、人間がついに偏見と激情から解放され、その本性である温和な慈愛にみちた感受性を養うことを幸福と感じ、動物界もその支配者である人間の美徳に感化されて、温順と愛情のうちに柔らぎ、狼までが……
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というふうに次々と文句がつづいて、ついにこの文章全体が釣竿ほどの長さになる。だが、バカバカしいところ別として、ウォーナー師の言うことは信じられるのだろうか。魅力的な情景だから、「節回し」とか「野趣ある旋律」のことをもっと知りたいように思う。私がこの一節に興味を感じたのは、以前ウェイルズに足を運んだとき、英国で、ここほど家畜を粗末に扱うところはないように思ったからだった。RSPCA〔英国動物保護協会〕のことは、ウェイルズではほとんど知られていないし、また、この土地の羊飼いとか羊業者の羊の扱いを見れば、ウィルトシァの私の友人の羊飼いたちはどう言うだろうか、と度々思ったほどである。ウォーナー師の観察を確認できるような印刷物はまったく見当たらない。また、一生この土地で過ごしてきた古老連に聞いても、そんな習慣はお目にかかったこともないし、昔あったという噂も聞かないという。ウォーナー師の『コーンウォルを歩く記』は一八〇八年となっている。
おそらくウォーナー師は実際に見た場面を記録したのであって、農耕夫が牛に向かって歌っているのを見て、それが土地の習慣だと早合点したのだと思う。声のよい男が、その声をひびかせるのを好む場合、牛とか馬、羊などに向かって歌うのは、どこの土地でも珍しいことではない。『丘陵地の自然』という私の以前の著書で、ひとりの牛飼いが西サセックスのトロットン近くの荒れ野で、よい声で歌っていた、ということを書いた記憶がある。このウィルトシァでも、チタンの森の上のさびしい広々とした草丘で、ひとりの羊飼いが羊の群れを追いながら、ろうろうたる声を張り上げて歌っているのを、はるか遠くに聞いて、たのしい思いをしたおぼえがある。あの羊飼いは、一マイル離れていてもとどく、恐るべき声量をもった草丘の大歌手だった。
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十二章 羊飼いと聖書
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宝探しのダヌル・バードン──羊飼いの聖書にたいする気持──田園生活の影響──アイザックの子供時代──ワイリー川畔の村。
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羊飼いケイレブの幼い頃の思い出のひとつに、ダヌル・バードンの話があった。これは父のアイザックが羊飼い頭をしていた農場の労働者だった。ケイレブの記憶ははっきりしていて、これは非常に重々しい、教区一の無口な男だったという。いつも隠された宝物のことばかり考えていて、ひまを見つけては宝探しをしていた。日曜の朝や仕事の終わった夕方には、シャベルかツルハシを担いで草丘に出かけ、「見つからない物」をもとめて、果てしない探索を続けていた。草丘の大きな土まんじゅう型の塚のいくつかに目をつけて、これに奥行六フィートから十フィートほど横穴を掘ったこともあるが、何も報われるものは出てこなかった。ある日、ケイレブを草丘のある場所に連れていってくれたことがある。周囲六フィートから七フィートくらいの丸いくぼみが芝地に付いている所である。こういう洗面器のようなくぼみにバードンは前から目をつけていて、これはひょっとすると、遠い昔、宝物を埋めた目じるしかもしれないと思っていたのだった。先ずバードンは、くぼみの周りの芝地に切れ目を入れ、用心ぶかくこれを外してから、くぼみを掘りだした。すると下から火打石の厚い層が出てきた。この火打石を片づけると、その下から灰と焦げた木の切れ端が出てきただけで、あとは何も出てこない。バードンは押し黙ったまま、灰、木片、土、火打石と、元どおりにすっかり埋めなおし、その上をしっかり踏み固め、それから芝地を注意ぶかく置き直した。それがすむと、シャベルに寄りかかって、五、六分間、黙って、そこを見つめていたかと思うと、
「ケイレブよ、お前は知っとるな、聖書にいけにえを焼くということがあるだろうが。ここがそれだと、わしは思うな。聖書のなかの人たちは、ここへのぼってきて、『白いノガンの丘』でいけにえを焼いたんだな。ここが、そのいけにえの火の場所だろう」
それからシャベルを担いで、バードンは家に帰りだした。ケイレブも後ろについて帰ってきたが、「わしはちびっこい子供だし、向こうはおじいさんだから、何も言わなんだが、それは違うってことは、ちゃんと分かっとったよ。聖書の人間はイギリスの人間じゃない。だからウィルトシァの『白いノガンの丘』でいけにえを捧げるわけがなかろうが」とケイレブは注釈を加えた。
これはケイレブのつまらない自慢でも何でもなかった。ケイレブを初めその兄弟たちは、小さい時に文字を習い、聖書を唯一の本として、夕方、家で読んでいたばかりか、日中、草丘に出て羊番をしている時にも読んだものだという。聖書の物語全体を隅から隅までケイレブが知りつくしているのには驚かされたが、しかしまた、あれほど知力にすぐれた男が、一生の間、聖書一冊を読みながら、その粗いウィルトシァ風の言葉づかいが全然変化しなかったのもふしぎである。信心ぶかい田舎の老人たちは、聖書を歴史的、文学的立場からみる「高等批評」のことなど何も知らずに、文字どおり、これを神の言葉と受けとっているが、そういう気持は一応別にしても、旧約聖書には、とくに草丘で孤独に羊番をするものの心に深く訴えるものがある。今でも鮮やかに覚えているが、私は少年時代と青年時代とを通じて、まったく純粋の牧畜地域の、未開の非常に素朴な人たちの間で暮らしていたのだが、あの頃、旧約聖書の古い物語の多くが、じつによく分かり、生き生きと心に語りかけてきたものだった。遠い異境の、はるか昔のあの異民族でも、故郷で私が交わった人たちでも、暮しぶり、物の見方、素朴な風習、天国への生き生きとした信仰などの点では、ほとんど変わるところがなかった。故郷のあの国は、今はすっかり変わって文明開化し、ヨーロッパの水準に引き上げられたが、私がおぼえているのは、ヨーロッパ文明に染む前の、二百年間以上続いてきたあの国の有様である。若い時に私が知った人たちは、十七世紀スペインの移民の子孫で、草原生活にとけこみ、ヨーロッパの都市的伝統や思考様式を簡単に脱ぎすてた人たちだった。彼らの人生哲学、理想、道徳はその生活条件から生まれたもので、われわれヨーロッパ人のものとはかけ離れたものだった。ところが、その生活条件には聖書に見られる古代人の生活条件に似かよったところがあった。言葉づかいまでが聖書の語法にいかにも似ていたし、人間も、すぐれた人物の場合は、神に近く生きたとされる古代人、つまり、この人工的時代に生きる現代人よりはるかに自然に密着していた古代人に、似たところがあった。大地主であるばかりか、羊や山羊の大群の所有者であり、地方の裕福な実力者であるこういう長老のなかには、自分の名前すら書けない文盲もいたけれども、人品いやしからぬ堂々たる「原住民」もいて、こういう人たちを見ていると、アブラハムやイサク、ヤコブやエソウ、ヨセフやその兄弟たちを思い出したものだし、時には、ハープのかわりにギターを持つ、熱烈な賛美歌作者ダビデを思わせるような人物までいた。
一年中、日曜がくるたびに、何千という教会で聖書が読み上げられているが、そういう聖書の中の物語は、聞く者にとってほとんど無意味にひとしいといって間違いない。羊や山羊や何人かの妻を持つ聖書のなかの老人たち、その老人たちの神を語る言葉は、現代人の思考範囲から完全にハミ出していて、まったく新石器時代の人間か、異星の住民のように現代人から遠く、信じることも想像することもできない。いわば、神話の英雄や古代の巨人のたぐいにひとしい。教会で旧約聖書の物語のなかの人間のことを読むのは古い習慣であって、本気になって今日の人間がそんな話を聞いているわけではない。
私自身も、若い頃の自分の思い出が単なる空想だったような気がして、その現実性が信じられないような気持になりかけていたが、都会の現代人の間に何年間も立ち交じったあと、たまたま草丘の羊飼いたちと出会ってみると、こんな人口の多い、超文明国の英国にも、古代の精神がかなり生き残っていることに気がついたのだった。ケイレブや、多少ともケイレブと似たところのある十二、三人の老人連と交わっていると、まるで古代の人間の中にいるような気がしてきたのだった。時には昔、南米の草原で牛飼いをしていた老人たち、頭のにぶい、まじめな老人たちとそっくりなのがいて、「やあ、この人はティオ・イシドロにそっくりだ」とか、「三本ポプラ荘のドン・パスクヮルに似てる」とか、「いつも群れのなかに三匹の黒羊を入れていたマルコスを思い出すなあ」などと思わずにはいられなかった。つまり、ケイレブたちを見ていると、昔の現実の知り合いを思い出したのと全く同じように、聖書の老人たち、つまりアブラハムやヤコブやその他の人のことが思い出されたのである。
つまり、こういう古い聖書の物語が草丘地域の羊飼いたちにとって現実性と意味を持っているということ、だが、そういう意味や現実性は現代人にはもう失われた、ということを私はここで言いたいのである。さらに、こういう古代の人物像のなかに羊飼いたちは自分たちの顔を見ているわけで、聖書のなかの、ああいう、いろいろなふしぎな事件も、ほんの何年か前、そう遠くない土地で起こったことのように受けとめているのだという点、そこを指摘したいわけである。
ある日のこと、私はケイレブに質問した。あんたは聖書、とくにその古い部分をよく知っている。私が草丘地で会ったどの羊飼いよりもよく知っているが、それはどうしてか。すると、これがきっかけで、父親アイザックの少年時代の話が出てきた。おとなになってから母親が聞かしてくれた話だそうだが、アイザックはひとり子だったという。だが、その父親というのは羊飼いではなかった。ところが、これが、かなりひどい男だったらしい。根っからの悪人ではないが、それでも相当くだらない人間だったという。なまけものの遊び人だが、拳闘がなかなかうまかったので、スポーツ好きの連中のすすめで職業拳闘家になった。当時、こういうことはよくあった。本人にすれば、こんなけっこうな身分はない。ほとんどいつも、方々を回って過ごしては、稼いだ金はほとんど全部飲んでしまう。おかげで、放ったらかしの女房は、家や畑で懸命に働いて、自分と一人息子の口を養っているという有様だった。ところがやがて、ある日のこと、ひとりの貧しい他所者が仕事を求めて村にやってきて、ある小さな農場で、非常に安い賃金で雇われることになった。というのは、本人が農場仕事の経験は全くないと告白したからだった。ところで、この男が見つけた村一番の安い下宿先きが、この貧しい女の田舎家だったというわけである。そのうちに、男があまりにも貧しく、孤独で、無口で、暗いので、アイザックの母は気の毒になり、この人は昔、身分のある人だったのだと思いだした。言葉づかい、手、習慣などにそれが表われている。たしかにこの人は紳士に違いない。それからまた、態度や声や言葉の調子、信心の様子などから見て、この人は牧師だったらしい。それが何か面倒事か不幸があって、その職を棄て、すべての知人から離れて、労働者になって暮らす気になったのだ、と考えた。
そうするうちにある日のこと、この男がアイザックのことで母親に話を持ち出してきた。これまでこの子を見てきたが、こんなりっぱな、頭のいい子が、文字も知らずに大きくなるのはまったく残念だという。母親はこれを聞いて、私も残念だけれど、どうしようもないのです。あるお婆さんが村で学校を開いているけれど、お金を出す程のことは教えてくれないし、うちには、そのお金もありません、と答えた。すると、それでは私が教えてあげようというので、よろこんで母親は承諾したのだった。そして、その日から毎晩二時間ずつ教わって、おかげでアイザックは楽に字が読めるようになった。読めるようになると今度は、二人でいっしょに聖書を初めから終わりまで読みとおしたという。その時、男は何でも説明してくれた。とくに旧約聖書の歴史のところは、じつに分かりやすい、すばらしい説明で、遠い東の国々、民族、習慣のことなど、じつにくわしく知っていて、おとぎ話を聞くよりよっぽど面白かった。最後に男は、自分の持っていた聖書をアイザックに渡して、毎日、草丘に出かける時にこれをポケットに入れていきなさい。そして腰をおろした時に出して読むんだよ、と言ってくれた。その頃、アイザックはもう十歳で、羊飼い少年として雇われて、毎日大喜びで働いていた、というのは羊飼いになるのが夢だったのである。
そうこうするうちに、ある日のこと、男は僅かばかりの持ち物を一つの包みにまとめ、それを一本の棒にひっかけて肩にかつぎ、別れを告げると、どこへともなく去り、二度と帰ってくることはなかった。おかげで、その悲しい身の上は、ついに分からなかったという。
アイザック少年は、言われたとおりに聖書を読みつづけた。そして自分に子供が出来るようになると、その子らにも、自分が小さい時からしてきたとおりにさせたという。おかげで、ケイレブは草丘に出かける時は、かならず聖書を持っていったし、聖書を読まずに過ごした日は一日もないということである。
私は今まで、老羊飼いケイレブと話を重ねて、そこで出てきたいろんな事件や観察を各章に織り込んできたが、それらは大部分、老人の若い頃の話だった。つまり結婚して小さな子供が三人できて、ウォーミンスターに移住する前の話だった。ところが、ケイレブがウォーミンスターにきてみると、そこは外国のような所で、家や友や慣れ親しんだ環境から遠く離れて、新しい景色、新しい顔ばかりだった。ところが数年ここで暮らすうちに、いろいろと面白い思い出ができたという。そこで、以下の章で、そのいくつかを紹介してみようと思う。
前にウィンタボーン・ビショップのことを説明したとき、ただ老人の生まれ故郷を見たいばかりに最初私はそこへ出かけたのだ、と書いたが、のちにダヴトンを訪れたのも、同じことで、老人が一時そこに住んでいたという以外に理由はなかった。いってみると、そこは、谷間のたくさんの美しい村々のなかでも、とくに魅力的な村だった。ケイレブが昔すんでいた田舎家も探し当てた。なるほど、自然を愛する、瞑想的な、静かな人間ならば、これ以上の家はないと思えるような住まいだった。藁ぶきの小さな田舎家で、いかにも古びている。不便で住みにくそうな家だが、他の家々から遠ざかった最も景色のよい所に立っている。近くにニレやブナの老木があり、緑の牧草地がまわりを囲み、すぐ近くに古い教会が見える。豊かに茂るスゲ、ショウブ、アシに縁どられて、澄んだ川がすぐ近くを流れている。
このワイリー川の谷になじむにつれて、私はここが非常に気に入ってきたので、次の章で、じっくりと、ここのことを書いてみたい。
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十三章 ワイリー川の谷
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ウォーミンスター──ワイリー川の谷──村を数える──失われた教会──村々の特徴──ティザリントン教会──犬の話──ラヴェル卿──教会内の記念物──荘園屋敷──ヌック──田舎家──黄色いマンネングサ──田舎家の庭──キンセンカ──アキノキリンソウ──水辺の野花──適切な表現を求めて。
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ワイリー川という美しい名を持つ小さな川は、水源からソールズベリまで、せいぜい二十マイルほどしかない。ウィルトンでナダー川に合流したのち、ソールズベリでエイヴォン川に注いでいる。その水源、もしくは水源近くにウォーミンスターがあるが、これはべつに、取り立ててどうと言うこともない小さなまちである。だが名前はウィルトシァのどのまちよりもりっぱである。トロウブリッジ、ディヴァイジズ、モールバラ、ソールズベリという名前を聞いても、これほどの印象は感銘ない。チペナム、メルクシャム、ミア、カーン、コーシャムにいたっては、村同然のどうと言うこともない町々である。ところが、じつは、ウォーミンスターというりっぱな名前を持つこのまちには何の由緒もない──人の精神的地図のなかに何の位置も占めていない。とにかく、ウォーミンスターと聞いても、何も思い浮かぶものがない。名前だけがこのまちの誇りなのである。けっきょく、この名前は、ワイリー川水源に注ぐ三本の小さな流れのひとつ、ウアー川の畔にある修道院のことを意味しているだけなのかもしれない。ケイレブ・ボーカムはこのウォーミンスターに住んだことはなく、ここから数マイル、ワイリー川をくだったダヴトンという小さな村にいたのだが、いつもウォーミンスターに移ったとか、ウォーミンスターに暮らしていた、とかいう言い方をしていた。が、これは不思議なことではなかった。
ワイリー川の谷は緑である。両側の、高い、なめらかな草丘が浅緑なので、谷の緑が目にしみるほど鮮やかである。谷幅は半マイルから一マイル。その緑の平らな牧草地のなかを、水晶のように澄んだ流れが、一匹の銀色のヘビのようにキラめきながらうねり進んで、やがて木々の間に隠れる。ブナ、トネリコ、ニレなどの大きな日陰樹が非常に多いので、見る地点によっては、谷全体がひとつの連続した森──木陰の連続に見えるほどで、そのために方々の村の姿が見えない。場所によっては完全に隠れてしまって、方々の丘の上から見おろしても村の気配すらなく、まるでここは無人の谷かと思われる所もある。だが普通は、たしかに人の住む気配はある。二、三の田舎家の赤や黄の屋根や、半分隠れたような教会の灰色の塔、一筋の青い煙などがたしかに見える。しかし、村そのものを見ようと思うと、草丘から降りて、近くに寄ってみないことには見えない──いや、その場合でも、村の数を全部かぞえることはむつかしい。私は歩いたり自転車に乗ったりして、この谷を五、六度行ったり来たりしたが、村の数をかぞえて、二度と同じだったことはなかった。教会のない小部落を除くと、この谷には二十以上の村があることは確かだが、正確には二十五から三十というところだろう。正確な数は、いろんな本や地図を調べれば分かるが、私はそうはしたくない。いつか数える、いや数えようと努力する楽しみをとっておくために、このままにしておきたい、とは思うものの、果してうまくいくかどうか怪しいものである。いつだったか、緑の牧草地の真中に、古風な、趣きのある、小さな美しい教会がポツンと一つ立っている景色を見かけたことがあった。あたりには一軒の人家も見えず、草を食べる牛一頭の姿もなく、まったくさびしい教会だった。川向こうの教会なので、私はわざわざ一マイル半さかのぼって橋を渡り、それからもう一度引き返してきたのだが、教会は見当らなかった。しかし、あれは決してまぼろしではなかった。その後二度見かけたからである。だがやはり川向こうに見ただけで、いつか、かならず探しにいこうと思っている。あの教会には、彫刻や真鍮記念碑や、雄弁で悲しい碑文、その他、古い悲劇や、今は絶えた土地の名家について語るいろんな記念物が保存されているかもしれない。
こんもりとした葉陰に美しい文物が隠されているという感じ──おそらくこれが、ワイリー川の谷の主な魅力のひとつであろう。だが、村々の趣きも、また一つの魅力である。二十マイルほどの間に二十五から二十八くらいの村があるわけだが、歩いてみた印象では、こういう小さな村々は非常に少なくて、ずいぶん、まばらな感じがする。村々自体も小さいばかりか、静かで古びた、今ではほとんど時代おくれになった昔風のもので、木立ちや花咲く土手、あるいは草を食べる牛を眺める時のような、フワリと柔らかく心をつつみこむ雰囲気がある。教会もそれにふさわしく、ほとんどが古く小さく、美しいもので、墓地の木陰に隠れるようにして立っているが、神話や伝説の昔にさかのぼる由緒ゆたかなものが多い。しかし、すべての教会がそうかというと、そうでもなく、ムキ出しの、何もない、わびしい小さな教会も僅かだがある。そういう一つの教会のことを書いてみようと思うが、この教会は古いのに、なんの記念物もなく、墓地もない。ティザリントンという小さな、田舎っぽい村の教会である。この村の一方の側にはコドフォード・セント・ピーター村があり、反対側にはサットン・ヴェニー村、ノートン・バヴァント村がある。さて、このティザリントン村の教会だが、見るものといっては、内部の裸の壁くらいしかないのに、ここに入るのに教会事務員から鍵を借り出さねばならなかった。この事務員は八十歳で、もうほとんど目が見えないという。当人は靴屋だというが、目が悪いので、靴の直しも、作りも、もう出来ないのだそうだ。子供の頃、体が弱くて病気ばかりしていたので、外に出て働くのは無理と考えて、地主の土地管理人をしていた父親が、靴作りを習わせたのだという。「今でも覚えとるが、この教会では四半期に一度の礼拝しかない時代もあったよ」と老人は語ったが、おかしなことに犬の話は出なかった。「エッ、犬の話はしなかったのかね?」と村のものは、口をそろえて言ったものである。じつは、この教会には、これ以外の話はなかったのである。
今から百年ほど前のことだが、四半期に一度というその礼拝が終わったとき、一匹の犬が行方不明になるという事件があった。ティザリントン村のケイスという農場主の若い奥さんの飼っていた小さなテリヤだった。かわいがっていたので、奥さんは悲しがったが、しばらくすると、すっかり忘れてしまった。ところが三カ月後、教会の錆びた錠に鍵をさし込んで、また扉をあけ放つと、そこに犬がいた。「生ける骸骨」のようになって、外の明かりに目がくらんで、ぼんやりとしていたが、それでもまだ歩けた。教会の中の壁の湿気をなめて、なんとか命をつないでいたらしい。四方の壁は湿気でボトボトにぬれて、分厚いコケが生えていたそうである。私はもう一度、教会事務員の所へいって聞きただしてみたが、犬は助け出されたあと、間もなく死んだそうである。ケイス夫人からそう聞いたという。夫人は、その頃、お婆さんになっていたが、いつでも快く、あわれな犬の話を聞かせてくれたそうである。
飢えた犬が、生きた骸骨のような姿で、湿気だらけ、カビだらけの教会のなかから出てくるという光景を想像してみると、すっかり時代は変わったという感が深い。その頃、英国教会は、まだ寝返りも打たず、グッスリとベッドで安眠していた時代で、コドフォード村の牧師は、一マイル向こうのティザリントン村の人たちには三カ月一度の礼拝で充分だと、のんびり構えていたということだろう。
この犬の話も面白いが、じつは最後のラヴェル卿の話もこれに劣らず面白いと私は思った。ティザリントン村の近くにアプトン・ラヴェルという小さな村がある。ラヴェル卿はこの村にあった自分の屋敷に自分を監禁したのだった。敵に命を狙われて、難を避け、身を隠したのだが、あまり上手に隠れたため、その後二度と再び姿を見せなくなった。数百年後、崩れた屋敷跡を発掘したとき、ひとつの秘密の部屋が発見されて、椅子にすわった一体の人骨が出てきた。椅子の前のテーブルには、チリになって崩れようとする何冊かの本と書類があったということである。
ワイリー流域の小さな村々にあったこういう奇怪なロマンチックな事件を集めれば、一冊の本ができるだろうし、こういう事件には普通の人を強く引きつけてやまぬ魅力がある。だが、それらの事件はみな、当時の重要人物、つまり、武人、政治家、古い高貴な血を引く地主などに関するものばかりである。最も身分の低い、卑しいものでも、織物業者や大商人のたぐいで、大財産を築いて、自分のためには大邸宅を建て、老人貧者のためには救貧院を建てて、亡くなってのちは教会に記念物が置かれるという人々だった。しかし、貧しい田舎家に住んだ人々、この土地に根をおろして樹木のように同じ場所を動かずに生き、死んでいったこの谷の真の住民たちの思い出は、何ひとつ残っていない。分かっているのは、彼らが生きて労働していたということ、そして、年に三、四人、一世紀にして三、四百人が亡くなり、木陰におおわれた小さな教会墓地に葬られて、それぞれが、一つの緑の土饅頭の下に埋められたということだけである。しかし、時がたつうちに、こういう塚も崩れて平らになり、亡骸は土に帰り、同じ場所に次の世代、そのまた次の世代と埋められて、次々と忘れられていった。しかし私は、思い出を残していった谷間のお偉方よりも、こういう貧しい、忘れられた人たちの歴史を知りたいと思う。
そんな気持のせいかもしれないが、私はこの谷の方々の荘園屋敷にはほとんど興味がなかった。屋敷はたくさんあって、廃屋になったものや、いろいろと転用されたもの、あるいは、いまだに贅沢と美と文化を誇っているものもある。こういう所には、堂々とした部屋、豪華な壁掛け、絵画、書籍、写本、金器、銀器、陶器、ガラス器、高価な骨董、甲冑、象牙、シカの角、トラ皮、オオタカの剥製、クジャクの羽などが所蔵されている。なかには数百年前の建築もあり、村から離れて、美しい森の敷地のなかに隠れるようにして立っているものもある。こういうふうに、外界の侵入を拒んで、聖なる孤立を守っているのと全く同様、その中の生活も、この土地の真の生活とは無関係というか、異質なものがある。こういう屋敷と田舎家の住民との関係は、たとえていえば、千八百年ほど昔のローマ人の別荘と原住民との関係に当たる、と言えば、まさかと思う人もいるだろう。しかし、屋敷にも田舎家にも親しく出入りして偏見のない私の目から見れば、両者のへだたりは、じつに大きい。
私が最も興味をそそられた荘園屋敷はヌック村の屋敷だと聞けば、この谷間をよく知っている読者ならば、おそらく笑いだすだろう。ヌック村というのはヘイツベリー村とアプトン・ラヴェル村の中間にある一寒村である。ここの教会は、灰色の荒壁の、塔もない、古びた小さな建物で、ティザリントンの教会よりまだわびしく見えるのではなかろうか。ここに入る鍵を借りようとして歩きまわるうちに、ある風格のあるおじいさんを煩わせたのだったが、この人がまた、大きな白いヒゲが絵に画いたような八十翁だった。藁ぶき職人だったが、運わるくケガをして働けなくなり、教区のお世話になっているのだそうだ。教会の鍵は荘園屋敷にあるという。妙な所にあるものだな、と思っていってみると、これがまた妙な屋敷で驚いた。教会の近くに立った、教会そっくりの建築で、屋根に小さな十字架がないという点だけが教会と違うというわけで、この目じるしがなければ、どちらが教会だか、さっぱり分からない。はじめ、ある修道僧の住居だったのが、宗教改革の時に、ある欲張りの地主の手に落ちて、その住まいになり、それがのちに農場屋敷になったものに違いない。ところが今は全く手入れされず、よごれ放題、荒れ放題。ボウボウたる雑草に囲まれて立っている家の壁は方々がひび割れして、今にも崩れ落ちそうな恰好である。ここを借りて住んでいるのは、週給十二シリングの貧しい農業労働者の夫婦と、その小さな八人の子供たちだった。家賃は週十ペンス──こんな安い値で借りられる荘園屋敷は英国じゅう探しても他になかろうが、労働者が荘園屋敷を借りている例はそう珍しいものでもない。
だが、この土地の本当の田舎家を見よう。庶民の素朴な住まいが、こんなに魅力的な所は英国には少ないと思う。現代的な箱型の、赤レンガの、スレート屋根の田舎家が、全国に流行して見苦しい眺めを見せているが、それと比べると、ここの田舎家はたしかに中が暗いし、生活の便もわるい。しかし、不快感がない──見た目にここちよいのである。近代住宅より小さく、雨風や陽にさらされて色が変わり、たくさんの素朴な草木に彩られて、自然とひとつの調和を成している。周りの樹木や川、牧草地、横手の草丘の斜面、上の空、雲などとの関連のなかに立っているように見える。そして、最もたのしい特徴は、これらの田舎家が花のなかに、花につつまれて、花を衣裳のようにまとって立っている点である。バラ、ツル、ツタ、センニンソウの花々である。田舎家はほとんどが藁ぶきだが、タイル屋根もある。しかし、タイルの濃い赤黒い色が地衣やコケのために、くすんだり変色したりしている。こういうタイル屋根にも夏には花が咲く。黄色いマンネングサの花で、屋根一面に咲く。ドアの上の低い屋根からほほえみかける、パッと明るい花々で、どんなに貧しい、役に立たない人でも、どんな悪い事をしてきた人間でも、いかにも、うれしそうな表情で迎えてくれる花である。この花の表情を見ていると、土地の言葉でこの花が「こんなにひどく酔ったことはないけれど、あなた、よく帰ってきてくれたわね」と呼ばれているのも合点がいく。
しかし、私がいちばんいいと思うのは、田舎家の庭の花々である。田舎家の周りに群がって、寄りそうような恰好で咲いている花々、いわば田舎家が足を踏みこんでいる花々である。みんなが知っていて、いつまでも忘れられない花々、昔ながらの素朴な田舎家の庭花で、あまり古いので人の魂にまで染みこんだような花々である。大きな屋敷の庭園や、何でもかんでも生えている庭園業者の庭は私はきらいだが、そういう花々──香りのよいナデシコ、セキチク、クローヴの香りのするカーネイション、壁の花(一名ニオイアラセイトウ)、豊かに咲くニチニチソウ、美女ナデシコソウ、ヒエンソウ、霧の中の恋(一名クロタネソウ)、恋人は血を流して横たわる(一名アキザキフクジュソウ)、お婆さんの寝帽(一名トリカブト)、木戸の所で、ジョン、キスして(一名パンジー)などは大好きである。それから、あたり一面に最も豊かに咲く花の中の花キンセンカは一番すばらしい。
まちに生まれ、まちに育った人がこのキンセンカをどう見ているのか、私は知らない。まちの人とは交際して、ずいぶん共に時間をすごしたのだが、どうも私にはよく分からない。この地球上で、どうも興味のもてない生き物がまちの人間である。どこか人口過剰になった太陽系の一惑星があって、それが何らかの方法を発見して、その過剰の数百万をわが地球上に送り出してきたのである。青白い顔をして、せわしなく足を動かし、落ち着きなく熱心に頭を働かしている人種である。方々の混雑した巨大キャンプに隔離生活をしているところは、食べ物を探しに外へ出ることもせぬ木アリに似ている。ひとつのキャンプに、なんと六百万も押し合い、へし合いして住んでいる! 私はこれまで、方々のこういうキャンプに永年暮らしてきたのだが、いつまでたっても囚人、もしくは追放者の感じが消えず、重荷を負っている意識があり、その無数の群衆、その多岐にわたる関心、その理想、哲学、芸術、娯楽などに全然何の興味も湧かなかった。だとすれば、この香りの強い、よく見かけるオレンジ色のキンセンカを彼らがどう思おうが、どうということがあろうか。私には、この花は何か途方もなく遠い所にある非常に美しいものの雰囲気、というか感覚、感じがする──何かの事件か、どこかの場所か、それとも夢なのだろうか、とにかく、はっきりした姿は何も残さず、この感じ、他とは異なる、消えることのないこの感じ、「キンセンカ」という名前でしか表わせぬこの感じ、だけを残していったものを想うわけである。
しかし、私の目はこの花から、いっしょに咲いている他の花々へとさまよう。さっき名前を挙げた多くの花や、もっと背の高い花々である。ずいぶん背が高くて、素朴な田舎家の壁にくっつきながら咲いて、軒へ半分ほど伸び上がったもの、なかには完全に軒にとどいたものもある。タチアオイ、シャクヤク、金粉を内にもつ、透きとおるような真白な白ユリ、それから普通に見られるヒマワリだが、こういう花々にも、さっき言った魔法的性質が幾分あることが、私には感じられる。
こういう背の高い花々を見ていると思い出すのだが、古くから英国に帰化している宵待草もまた普通の、ごくたのしい田舎家の庭花である。それからまた、ここワイリー川畔には、もうひとつ、同じく西のほうから渡ってきて、急速に英国人に親しまれていく花があるが、それはアキノキリンソウである。黄色の大きな羽毛のような房状の花が豪勢な美しさを見せている。しかし、その房状の花を黄色というのは当たらない。緑の地に黄金色の微小な花をコッテリとまぶしたもので、英国にはこんな花は他にない。これから一つの野花として、ここに根づくと思うとうれしい。
村が谷の低い所にあって、田舎家が川の近くにある所でも、いろいろと野花が咲いているが、これらはほとんど庭花に匹敵する美しさである。小さな黄色の花の咲くキンミズヒキ、象牙色や薄紫の花の咲くヒレハリソウ、紫や黄のトラノヲ、宝石に似たミズワスレナグサなどだが、こういう野花が、アシ、スゲ、その他の水草とまざり合って、イモ畑、キャベツ畑の縁飾り、もしくは縁状花壇となって、流れとの境を成している。
さてこれで、花のことは全部書いたし、その他風景を構成するいろいろな点も、例を挙げてくわしく語ったところで思いついたのだが、ワイリー川自体については、まだまともな説明をして、その特徴を語ったわけではない。花のことを考えるうちに草丘を見失うように、細かい点に関わるうちに全体的効果を忘れてしまう。そこでもう一度、この章を終わる前に、この小さな川の魅力の秘密を探ってみようと思う。
ウィルトシァ、ハンプシァ、ドーセットシァには、他にもいくつか白亜地帯を流れる小川がある──みな水晶のように澄んだ急流で、川床の石の間にしっかり根づいて浮かぶイチゴツナギと夏中たわむれながら、なだらかな草丘地域を流れてゆく清流である。流域には、緑の村の古い小さな教会や、花に埋もれる美しい藁ぶきの田舎家が見られるが、しかし、どうもワイリー川とは印象が違う。エイヴォン川は美しいが、しかし、ワイリー川とは違う。イチン川も、テスト川も違う。どこが違うのか。どこにワイリー川独特の魅力があるのかと本式に考えはじめて、自分の心のなかの感じを分析にかかって、やっとその魅力の秘密──といっても私にとっての秘密であって、他人はどう思うか分からない──に思い当たった。私が思い当たったその秘密というのは、ここの流域には白亜地帯の他の川の流域に見られる興味ある要素が全部集中している、というか、ひとつの限られた空間に全部含まれているために、一度にそれが目に入って、心に一つの混合的な効果が生じるという点にある。それは流域がせまいのと、両側から高い草丘地がまじかに迫っているためで、場所によっては、草丘のなめらかな面に刻まれた土まんじゅう型の塚や未耕作の長い土うね、もしくは段々坂道、あるいは草丘の頂きに載った巨大な緑の土塁などの古代記念物がすぐそこに見えることがある。だから、この高い草丘の芝地に立って、ヒバリが甲高い声で青空に歌っていても、人は先史時代の死者たちと共にあるわけで、陽のなかで目にこそ見えなくても、あの無数の霊の群衆のなかに立ち交じることになる。だから、草を食べながら進む羊の群も、それについてゆく羊飼いも、自分では気がつかないけれども、霊の群れのなかを歩いていることになる。あの高い草丘から見おろすと、こんにちの生活が目に入る──目に映る個々の生活としてはじつに短かいものだとしても、それは下に流れる銀色の急流同様、時代から時代へと永久につづいて絶えることがない。見おろしているうちに、遠くに、昼を告げる鐘の音が聞こえる。どこかに隠れて見えぬ小さな教会の塔の正午の鐘である。それにすぐ引きつづいて、学校から解放されたばかりの子供たちのワーッという自由と喜びの多くの叫びが運ばれてくる。こういう物音にふと現実に呼びもどされ、それに引かれるようにして下へ降りてきて、ひとつの墓の上に腰をおろして一休みか、日向ぼっこをする。墓石は一面に苔蒸して、二百年前の碑文もほとんど読みとれない。ここは草の生えた、花の咲く教会墓地で、この小さな村の共有緑地兼遊び場になっている。生者も死者も、ここでは親しく日常のおつき合いをしているわけである。ここは、死者たちが遠くへ去って、心から消え、過去が切り離されたまちとは違う。木陰の墓地であまり長く日向ぼっこをして、ほてった体を冷やそうとして、小さな教会の建物のなかへ入っていくと、まずほとんどの場合、祭壇から遠くない薄暗い片隅に、昔の人の石像が横たわっているのが目に入る。甲冑姿の騎士像である。十字軍の騎士だろうが、脚を重ねた恰好で薄暗い光のなかに薄暗く仰臥して、ステンド・グラスから差す色つきの光を顔に受けている。村人たちが礼拝に集まるこの小さな教会は、じつに古いもので、サクソンの教会の礎石の上にノルマンの教会の礎石が重なったものだが、それ以前は、ここには古代のある神の社か、ローマ人の別荘でもあったのかもしれない。この谷ではサクソン以前の礎石が見つかったり、長い間地下に埋もれていても、なお美しいモザイクの床が出てきたりするからである。
しかし、こういうこと──はるか昔の時代や出来事は、この谷間を歩いているとき、あるいは草丘の上から谷間を見おろしているとき、心は意識しておらず、もっぱら目に映る自然だけにとらわれている。墓石にすわって、周りのいろんな生の物音に耳をすまし、花、ハチ、チョウの姿を眺め、男や女、あるいは子供が近道をしてこの教会墓地を通りぬけてゆくさまに目を置く。時には彼らと一言、二言交わす。また、すぐそこの水辺に寄って、カワヒメマスの小さな群れを眺める。水晶のような水のなかから空中のハエを狙っている魚群で、その微妙な色合いの銀灰色のウロコがはっきり見える。また、ヤナギとかハンの木の上で、絶えず音楽的なおしゃべりや合唱をしているアオカワセミの一家に聞き入ったりする。こういうとき、私の心は確かにそういう自然界にとらわれている。しかし、もしこの谷間に親しんで、そのいたる所にあり、その景色の一部を成している過去の暮らしのしるしや、古代の記念物を見て興味を感じ、深く感銘したことのある人ならば、その印象の一部、あるいは全部が、心の無意識の深層のなかに残って、ここの風景にひとつの感情的な意味が加り、そのために、他所にはないほど深く心が動かされることになる。これが、この小さな谷間の特別の魅力なのだと私は思う。
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十四章 牧羊犬の生活
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ウォッチ──溜池にかようウォッチ──デイヴィッドとその犬のモンク──ウォッチがデイヴィッドの手助けをすること──ケイレブの新しい主人がケイレブの犬に文句をつけること──ウォッチとクイナ──ウォッチが家ウサギやテンジクネズミと遊ぶこと──カラス追いのナンス婆さん──失くしたメガネ──衰えるウォッチ──動物の白髪──灰色のモグラ──ウォッチの最後の日々──昔の牧羊犬を語る羊飼い。
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ケイレブから聞いた多くの牧羊犬の話のなかで、いちばん興味深かったのはウォッチという犬の話ではなかったか、と思う。これはケイレブがウォーミンスターに移り住む前の三年間、ウィンタボーン・ビショップで飼っていた犬である。これほど「クリスチャン」のような犬、つまり理性的な犬は見たことがないとケイレブは言っていた。ところが、この犬は非常に活発だったので、暑い気候の時はずいぶん苦労していたという。ところが、草丘に出ている時は、水といえば、「自由地」、つまり、ケイレブが自分の羊を飼うことを許されている草丘地の一部から、四分の一マイルほど離れた所に、溜池が一つしかなかった。ウォッチは喉が乾いて、がまんできなくなると、主人のところに走ってきて、その足元に立ち、主人の顔を見上げながら、嘆願の低い鳴き声を上げた。
「何の用だね、ウォッチ──水が飲みたいのか、ひと泳ぎしたいのか?」
とケイレブが言うと、ウォッチは両耳をピンと立てて、また半泣きの声を出す。
「よし、池へいってこい」
と言われると、ダッと全速力で突っ走っていって一度も止まらず、そのまま池のなかへ飛びこんで、何度もグルグルと泳ぎ回りながら、首を突っこんでは水を飲んでいた。
池の横に一つの大きな砂岩があったが、水浴びからあがってくると、必ずウォッチはこの岩に跳び上がり、四つ足をグッと引き寄せるようにしてグルグルと回っては、岩の上からあたりの様子を見渡した上で、また全速力で仕事に駆けもどってくるのだった。
もう一つ、ウィンタボーン・ビショップ時代に関係する逸話があったが、これは少し痛ましい話で、モンクという犬の死に少し関わりがある。モンクのことは、キツネをとる牧羊犬として前に書いたことがある。この犬はケイレブがはじめ使っていて、ウォッチを手に入れてから、弟のデイヴィッドにゆずったものである。弟は当時、同じ農場で羊飼い助手をしていた。
ある朝、一つの野原でケイレブが雌羊の番をしているところへ、二つ三つ向こうの野原で子羊の群れの番をしていた弟がやってきた。見ると、ずいぶん様子が変だ──ひどくあわてた顔をしている。
「何でここへきたんだね──何かあったのか?」
「何もない」
「それなら、モンクはどうした?」
「死んだ」
「死んだ! どうして死んだ?」
「おれが殺した。言うことを聞かんので、腹が立って、杖を振り上げて、ガツンと頭を一発やったら、死んじまった」
「殺したのか! 殺しといて、ここへやってきて、何でもないというのか! そんなことを言いにきて、それがまともな言い方か? 何を考えてるんだ! 子羊たちをどうする気だ?」
「今、見に帰るよ。犬なしでやるさ。アブラナ畑に羊たちを入れたら、うまくいくと思うんだ」
「何だ! アブラナ畑に入れるだと? 犬の助けなしでか? うまくいくもんか。しかし、主人に迷惑をかけるわけにいかんぞ。このウォッチを連れていけ──、今朝は、おれ一人でやるから」
「いらんよ。犬なんかおらんほうが、うまくやれる」
と弟は言って、サッサと歩きだした。自分の落ち度だと分かっているので、腹を立てて、人間も犬も、手伝いは要らんと頑張ったわけである。
ケイレブは後ろから声をかけて、
「犬の手伝いが要らんというなら、それでもいいが、子羊たちを苦しめてはいかんぞ。いいか、おれの言うとおりやるんだ。アブラナ畑のなかに十分以上入れたらダメだぞ。十分たったら、追い出して、二十分から半時間待たしとけよ。それから、また十分入れて、また二十分出すんだ。それがすんだら、また入れてやって、静かに食わせればいい、それで危険は無い。いいか、おれの言うとおりにしないと、食い過ぎるやつがたくさん出てくるぞ」
デイヴィッドは耳を澄まして聞いていたが、聞き終わると一言も言わずに行ってしまった。だが、ケイレブはやはり心配でたまらない。犬の助けなしに、腹のへった羊の群をどうやってアブラナ畑から出すのだろう。やっぱり、ウォッチを助けに送ろう。いや、送ろうとしてみよう、というわけで、デイヴィッドがいってから三十分後にケイレブは犬を呼んで、その方向を指さし、こう叫んだ。
「デイヴに助けがいる──デイヴのところへいくんだ」
ウォッチはこちらの顔を見て、じっと聞いていたが、パッと駆けだして五十ヤードほど全速力で走ってから止まり、振り返って、自分の行動に間違いがないことを確かめようとする。「デイヴのとこへいくんだ」ともう一度叫ぶと、またパッとウォッチは駆け出した。畑の端の非常に高い木戸のところに着くと、その上を飛び越えようとして、初め一度跳び上がったが失敗し、それから二、三度よじ登ろうとして、また失敗して、ずり落ちた。だがそのうちに、なんとか、分厚い生け垣をうまくもぐり抜けて見えなくなった。
その夕方帰ってきた時のデイヴの気分は変わっていて、ウォッチのおかげで大変なところを助かったと語った。羊たちが気違いみたいにアブラナを食うので、ウォッチがいてくれなかったら、とても一人では畑から出せなかったと言う。このことがあってから数日間、ウォッチは二人の主人に仕えていた。先ず、ケイレブが自分の雌羊の群れのところへ連れていって、しばらくすると、「ゆけ──デイヴにお前の助けが要る」と命じると、ダッとウォッチはもう一人の主人の羊の群れのところへ走っていった。
ケイレブがダヴトンの新しい農場に就職したとき、そこの主人のエラビイ氏は、しばらくケイレブのことを鋭い目で観察していたが、やがて、自分の人選に誤りのなかったことを納得した。普通、問い合わせの手順を踏むのだが、それもせず、人と話していた時の偶然のうわさだけを頼りに、二十マイル離れた土地から羊飼い頭を雇い入れたのだったが、この人選は成功だった。しかし、人間には充分以上に満足していたものの、犬のほうには疑いを残して、「あんたのその犬は、きっと羊を傷つけると思うなあ」と言い、もっと動きの穏やかな犬に替えたほうがいい、とまで言い出す。この犬はひどい興奮性だし、動きも激しすぎる──あんな荒っぽいやり方で、羊を追いかけて掴まえるというのでは、歯で羊に傷をつけないはずがない、と言うのである。
「この犬は、今まで一度だって羊を噛んだことはないですよ」とケイレブは説明した。ウォッチは大げさに羊を噛むような恰好をして見せるだけで、じつは傷をつけるようなことは全然しない。噛んだり、傷つけたりすることは、じつは、この犬は大きらいなのだ、とけっきょく、主人を納得させた。
夏の暮れのある日のこと、麦の刈りとりがすんで、まだ納屋に収められず、そのままになっている畑の端で、ケイレブが羊の群れといっしょに、激しく降りつづく雨のなかに立っていると、主人が近づいてくるのが見えた。ところが、主人はごく軽い夏服を着て、麦わら帽子をかぶっているだけで、カサも何も持たず、土砂降りのなかで濡れネズミになっている。「きょうはどうしたんだ? こんな雨に麦わら帽だけで、雨具もなしに出てくるなんて、おそろしくあわててるな」とケイレブは思った。
主人のエラビイ氏はじつは、この頃、心に悩みを感じると、羊飼い頭のケイレブのところへ出てきて、長話をする癖になっていた。だが、心の奥にある秘密の悩みを語るわけでもなく、ただ、羊のこと、その他、普通の四方山話をするだけで、そういう話をすると気分がおさまる様子だった。ところが、この癖に他のものも気がついて、「きょうは何か具合がわるいな──羊飼い頭のとこへ主人がでかけたぞ」と農場では噂していたという。
垣根の横で、僅かに雨を避けて立っているケイレブのところへ近づくと、主人はすぐに、あれこれと、とりとめのない話をはじめた。薄い服に水が通り、麦わら帽子を通して雨水が顔に筋になって流れているのに全くに平気で、まるで雨に気がつかないような様子である。ところがそのうちに、犬の動きに興味を持ったらしい。あちこちに積み上げた麦束山の間を、雨にぬれながらウォッチが走りまわって遊んでいる。やがて、「口に何をくわえてるのかね?」と言い出した。
「こっちへこい、ウォッチ」
と呼ばれて、やってきた犬の前にかがみこんで、ケイレブが、その口にくわえたものを外してみると、それは一羽のクイナだった。一つの麦束山の中に隠れていたのを、傷をつけずに捕まえたのだった。
「ほう、生きてるぞ──傷もついてない!」
と農場主は小鳥を両手に持って調べている。
「まだ、生き物を傷つけたことはないですよ」
いろんなものを捕まえるけれど、遊びで捕まえるだけで、絶対に傷を負わせず、捕まえても、必ずまた放してやる。畑でハツカネズミ狩りをするが、捕まえると、ネコみたいに遊んで、放り出しては、また追いかけて捕まえるということをするが、最後には、いつも逃がしてやる。家ウサギの場合も同じようにして遊ぶが、捕まえたウサギを取り上げて調べてみても、全然傷はつけていないのだ、とケイレブは説明した。
それはすばらしいことだ。そんな話は初めて聞いた、と農場主は感心し、またあれこれとウォッチのことを話しているうちに、雨のなかを、薄い服と麦わら帽という恰好で出てきた悩みごとは忘れてしまい、明るい気分で帰っていったという。
ウォッチが家ウサギを捕まえた時は、大抵、ケイレブのところへ運んできて、「でかい野ネズミを捕まえたけれど、ちょっと始末に困っているんです──御主人なら何とかなるでしょう?」とばかりに、ケイレブに引き渡していたのだろうが、この農場主との雨のなかの雑談では、おそらく、ケイレブはそれを言い忘れたのだろう。
他にも、ケイレブはこの牧羊犬の面白い性質について、いろいろと聞かしてくれた。ケイレブが新しい就職先に落ち着いて、数カ月たった頃、弟のデイヴィッドもワイリーの谷間にやってきた。エラビイ氏の農場の隣の農場に羊飼いの口が見つかったのである。デイヴィッドが住んだ田舎家は、村の少しはずれで、土地が少しあり、きれいな芝生、というか、緑地が付いていた。弟は動物を飼うのが大好きで、小鳥たちを籠に入れたり、家ウサギやテンジクネズミを何匹か檻に入れたりして飼っていたが、テンジクネズミがよく馴れていたので、しばしば、これを芝生に放しては、互いに遊びたわむれるのを見物して、たのしんでいたという。はじめて、これを見たとき、ウォッチがひどく興味を持って、そばに寄ろうとした。絶対に危害は加えないから、とケイレブにさんざん言われて、やっとデイヴィッドは、ある日のこと、檻からテンジクネズミたちを出して、犬の目の前の芝生に置いた。はじめ、ネズミたちはちょっと怯えていたが、たちまち、この犬は敵ではなく、遊び友だちだと気がついた。ウォッチは芝生の上のテンジクネズミの間をゴロゴロと転げまわり、グルグルと追っかけまわし、時々、捕まえては、いじめるような恰好をする。テンジクネズミのほうもこれをひどくおもしろがっている様子だった。
「十五年飼ってたが、一度だってウォッチは、生き物を殺したり、ケガをさせたりすることはなかったな。ちびっこいネズミ一匹だってそうだったな。何かを掴まえても、いつもそれは遊びじゃった」
ウォッチはまた、この頃、この農場に雇われていた一人の老婆の話にも出てきた。この老婆はウォーミンスター救貧院にしばらく世話になっているうちに、昔、自分が働いていた御屋敷のお嬢さんが、大分前に結婚して、今、近くのダヴトン農場の奥様になっていることを聞き込んだのだった。そこで、許可をもらって、ナンス婆さんは救貧院を出て、トボトボとダヴトン農場まで歩いてきて、何か暮らしの立つ仕事をさせてほしい、と願い出た。何も仕事がなければ、また帰ってウォーミンスター救貧院で命を終わるより仕方がない、と言ったそうである。非常に風の強い、寒い日のことだったという。エラビイ夫人は昔のことを思い出して、気の毒になり、家の奥の夫のところにいって、かわいそうな身寄りのないお婆さんだから、何か農場の仕事を世話してやってほしいと熱心に頼みこんだ。エラビイ氏は困った。今でも一人の老婆を世話していて、袋のつくろいとか、何とか、ちょっとした仕事をさせているのに、この上、もう一人お婆さんを入れても、してもらう仕事がない。困り果てて、エラビイ氏は部屋に入っていって、しげしげとナンス婆さんを見ながら、何とか妻をよろこばせる方法はないものかと思案していたが、やっと「お婆さん、カラスを追っぱらう仕事はできるかね」と聞いた。他には何も思いつかなかったのである。「できますともな──わたしにや、うってつけの仕事ですじゃ!」「よし、それじゃ、カブラ畑へ行って、そこの番をしてもらおうか。ミヤマガラス共がカブラを気に入ってね。まあ、そうバタバタしないでも、追っぱらうことは出来るだろうよ」
というわけで、早速、ナンス婆さんは立ち上がり、仕事に出かけようとしたのだが、エラビイ氏はその恰好を見て、今日はひどく寒いから、もっと暖かくしていく必要があると言って、古いフェルト帽と、大きな毛織りのオーバーと、古い革ゲートルを渡してやった。こういう嵩張った物を身につけ、一本の細布で帽子をしっかりと頭に抑えつけ、一本のひもでオーバーの腰のところをしめるのを見とどけた上で、それでは、羊飼い頭のところにいって、ミヤマガラスが来て困っているカブラ畑を教えてもらうように、とエラビイ氏は言い渡した。ところが、お婆さんが出かけようとすると、また、呼びもどして、一挺の古い、サビだらけの銃を渡し、苦笑いしながら、「弾は入ってない。火薬と弾は使わせないようにしてるんだよ。しかし、銃口を向けたら、カラスはすぐ逃げていくだろう」と言った。
こういうふうに服装と武装をととのえた上で、お婆さんは出ていった。ケイレブは向こうから近づいてくるその姿を見て、その奇怪さに驚いたが、自分は誰で、何者かとお婆さんに説明され、カブラ畑はどこか教えてくれ、と言われた時は、いよいよもって驚いたということである。
それから二、三時間すると、エラビイ氏がやってきて、何食わぬ顔をして、このあたりで古いカカシを見かけなかったか、とたずねた。
「そうですな。お婆さんが男物のオーバーや何やを着て、古い鉄砲を持ってるのを見ました。どこへいったらいいか、教えときましたが」
「あの畑は老人にはちょっと寒いと思うんだがね。藁掛けを二つ持ってきて、それに藁を掛けて、風よけを作ってやってくれんかね」
というわけで、藁掛けをした、というか、藁屋根の付いた風よけに守られて、生け垣に身を寄せながら、ナンス婆さんはカブラ畑の番をして日々を送ったという。その後、他に仕事が見つかって、ケイレブの田舎家に下宿住まいをさせてもらい、家族の一員同様の暮らしをしたということである。大の子供好き、犬好きで、ウォッチがよくなついたが、羊番の仕事がない時は、ウォッチは畑にいるお婆さんのそばを一日中離れず、カラス追いを手伝っていたという。
ナンス婆さんには非常に大事にしている物が二つあった。一冊の本とメガネである。鼻にメガネをのせ、片手にその本を持って、日中、カブラ畑の中にすわりこみ、読むのが癖だった。それが「すげえ」いいメガネで、どんな老人の目にも合う。そうと知れると、村中の老人たちが重宝がって、ちょっとした細かい縫物をするとか、何か細かいものを見る時は、みんながこれを借りにくるのだった。ところが、ある日のこと、ナンス婆さんが非常に悩みながら畑から帰ってきた。メガネを失くした。きのうの晩、村の人にたしかに貸したと思うんだけど、誰だったか、すっかり忘れてしまったという。ところが、村では誰もメガネのことは知らない。メガネはどこへいったのか、とみんなは話し合い、ひどく残念がったという。ところが、それから一日か二日して、ケイレブがウォッチをすぐ後ろに従えて、カブラ畑のなかを通って家に帰ってきた。帰るとすぐ、ウォッチが前に回りこんできて、正面にすわり込み、主人の足元にメガネを置いたのである。それが紛失したというメガネだった。家から一マイル以上離れたカブラ畑のなかで見つけたものだが、いろんな人がこれを鼻にのせたり、手に持ったりしていたことを思い出して、これは大事な物なんだ──自分にではなくて、後脚で立って歩き回る、もっと大きな、えらい種類の犬にとって大切な物なんだ、と犬ながらに考えたのだろう。
犬の一生には必ず悲しい一章があるが、それは、その衰えを語る最後の章である。犬といっても牧羊犬の場合、とくに哀れをさそわれる。なにしろ、一生のあいだ、人間と最も親しい関係で生きてきて、自分に適した、というより、人間に見つけてもらった、唯一の有用な、必要な仕事を、力の限り、知恵の限りをつくして勤め、それこそ一生、毎日、主人のために仕えてきたのである。猟犬や愛玩犬などの寄生的な犬──つまり、「スポーツやたのしみのため」の犬も、たしかに牧羊犬と同様、分類的には「犬種」に属しているが、部類を異にしている。一方が職業的スポーツマンとか職業芸人、あるいはハイカラ人種、もしくは上流社交会人の類とすれば、他方は世間の労働を受け持って、人に衣食を給することを仕事にしている人種に相当する。犬のことを世間では、普通、人間の召使いとか、友だちとかいうけれども、厳密な意味でそういえるのは牧羊犬だけである。牧羊犬は羊番をする孤独な人間の忠実な召使いというだけではなく、羊飼いにとっては、人間の仲間と全く同じ意味を持っている。
激しい労働の長い一生が終わる大分前に、牧羊犬ウォッチは、かなり白い毛になっていたという。もともと、全身が真黒で、一点の白もなかった犬だが、特に頭に白いものが混じってきて、ついにほとんど真白な白髪頭になったという。
動物のなかには、たしかに人間同様、年をとると白い毛が混じってくるものがいる。十五歳になったウォッチは、人間でいうと六十五歳から七十歳になった勘定だった。大体、家で飼っている動物のほうが野生動物より白い毛になりやすいものだが、しかし、家で飼っているものでも、必ずしも年齢と共に白い毛になるとは限らない。しかし、野生動物の場合は、たいてい短命に終わるから、この点、あまり、はっきりしたことは分からないのが実情である。
この点について、ケイレブが一匹のモグラの面白い話を聞かしてくれた。ある日のこと、一つのイガマメ畑〔牧草の一種〕で奇妙なモグラ塚を発見したという。見たところ、どうもこのモグラは、他のものとは全然違う独特の動き方をしているらしい。盛り上がったモグラ塚が、一つ一つかなり離れている上に、ずいぶん大きくて、どれ一つを見ても盛り土が二斗升にいっぱいほどある。それにまた、こいつは、毎日、同じ掘り方をしていて、毎朝、巨大なモグラ塚が、幾筋も、新しく鎖状に、というか山脈状につながっている。トンネルも、それぞれ非常に深くて、地下二フィート以上のところを走っていることが、ワナを仕掛けた時に分かった。ケイレブはワナを仕掛けて、その深い穴を、また芝土で埋め直しておいたのだが、明くる日、その穴を掘ってみると、モグラがかかっていた。ところが、あまり大きいのでびっくりした。寸法を計ったわけではないが、とてもモグラには考えられないほどの図体だったというのである。それに、黒ではなくて灰色で、しかも頭の灰色の毛が非常に多くて、ほとんど白髪頭だった点は、老ウォッチと同じだった。おそらく非常に年をとっていて、並はずれたトンネル掘りの力があり、その体力と、普通のモグラより深いところで餌をとる習慣のおかげで、長生き出来たのではないか、というのがケイレブの意見だった。
ウォッチの話にもどることにしよう。
年をとるにつれて、ウォッチは耳と目がわるくなり、ついには、ほとんど目が見えず、普通の声では聞こえない耳になってしまった。それでも相変らず脚は丈夫だし、頭も衰えず、体は全く疲れることを知らない。疲れるどころか、いつでも熱心に働こうとする。目と耳が利かなくなったために、かえって他の面が前より鋭くなり、羊番の時に役立つという点では前とあまり変わらない。羊番のとき、編み垣を移して、新しい場所の用意をするまで、羊たちを囲い場の片隅に集めておくのだが、そういうとき、羊たちが散らばるのを防ぐのは、いつも老犬ウォッチの役目だった。目も見えず、耳も聞こえないのに不思議にも、羊が囲いから出ようとすると、たとえ、それが一頭でも分かるのだった。地面のかすかな振動を感じて、羊の動きや、その方向まで察するのだろうか。とにかく、ダッとウォッチは駆け出していって、羊を追いもどし、それから、群れの前をあっちへ、こっちへと走っては、みんなが落ち着くのを待つのだった。しかし、とうとう、その努力を見ているのも痛ましいという事態になってきた。羊たちが落ち着かず、しきりに囲いの中から出ようとする。ウォッチはその厄介さに腹が立ってきて、物凄い勢いで羊に突進していって、一方の編み垣に激しく衝突して転がる。痛さに悲鳴を上げながら立ち上がり、また向こうへ突進していっては、そこの編み垣にブチ当たって、また悲鳴を上げる。
こんなことを黙って見すごしているわけにはいかない。といっても、ウォッチのほうも仕事を取り上げられたのでは辛抱出来ない。家に置いておくと、絶えずヒーヒー、ウーウーと嘆いて、羊のところへ行かしてくれとせがむ。とうとうケイレブは、悲しみながらも、やむをえずウォッチに止めを刺したのだった。
牧羊犬の最後は、ほとんど例外なくこれである。どんなに仕事熱心で、忠実で、どんなに重んじられ、愛されたとしても、最後には、けっきょく、殺される運命である。ウォッチが生きて、主人によく仕えたその土地で、私はこの話をある羊飼いにした。草丘地にある小さな村、インバー村の主要農場、インバー・コートで、四十年以上、羊飼い頭を勤めてきたという老羊飼いである。私の話を聞いたあと、この老人が語るには、永年にわたる羊飼い生活のあいだじゅう、自分が使っていた犬は、一匹だって他人の手に渡ったことはないし、一匹、一匹、みんな生まれたばかりの小犬の時に手に入れて、自分の手で訓練してきた。それに、自分でも犬は昔から大好きだったが、いつでも最後は射殺せざるをえなかった。それも、年をとりすぎて、目や耳が衰えた犬が厄介だから、というのではなくて、年をとって衰えているのに、絶えず、昔と同じように羊番がしたいとせがむ。させても出来ないのに、させないと悲しがる。それがかわいそうで、見ていられないからだ、というのだった。
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十五章 ネコについて
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マスを捕るネコ──汽車にひかれるネコ──三匹のネコ──ネコの性質──有名なネズミ退治のネコ──ジップの物語と野生──サー・ヘンリ・ワイアットのネコ──シャコを捕るネコ──家ウサギを持ち込んでくるネコ──フォントヒル・ビショップのネコ──風変わりな農場主とその十一匹のネコ──ある女の子とその子ネコたち──ネコの運命的な弱み──逸話。
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羊飼いケイレブがダヴトンにいた頃の最も面白い思い出話の一つに、ネコの話があった。その頃飼っていて、みんながずいぶん感心していたネコだという。非常に大きな、美しいブチネコで、模様がクッキリとあざやかで、毛が厚く、いつも非常に栄養がよさそうに見えるのに、全く餌を欲しがることがなかった。性質はおだやかで、人なつっこく、家のなかに入ってきて人間の姿を見ると、必ずうれしそうな様子をして、一人一人のそばに寄ってきては、その脚に自分の体をこすりつけて、満足そうにゴロゴロと喉を鳴らしている。餌をやると、ほんの一口、二口食べるだけ、ミルクならば、スプーンに一杯ほどなめるだけで、あとは残してしまう。腹をすかしていることはなく、食物をもらうと、ただ礼儀上、匂いをかぐとか、味をみるというような様子だったという。大きくて、美しくて、おだやかで、人なつっこい性質をしているというので、村中のものが感心していたが、どこで、どんな物を食べているのか、それは誰にも全く分からなかった。誰一人として、このネコが、家の外で何かを捕ろうとしているのを見たものがない。このあたりのワイリーの谷には、ネコが獲物をもとめて狩りをする森もなかった。また、家の外でネコの姿を見て、小鳥たちが怯えて、腹を立てて、鳴きながら近くを飛び過ぎても、このネコは全く無関心で、振り向きもしない。ただ一つ、村人たちが注意していて気がついたのは、このネコには、当時敷設されたばかりの鉄道線路のところに出かけてゆく習慣があるという点だけだった。その頃、ウエストべりからソールズベリまで鉄道が敷かれて、それがケイレブの田舎家の近くを走っていたが、その線路のところへ出かけていって、一本の線路の上にすわりこみ、じっと長いあいだ、動かずに前方を見つめているところは、その長い、ギラギラと光る鉄の帯に目を置いているのが楽しい、というような様子だったという。
ケイレブの田舎家の裏にちょっとした荒れ地があり、これが川までつづいていたが、その岸から五、六ヤード手前のところに、一つの小さな古い崩れかけた納屋が立っていた。納屋と川との間はボウボウと雑草の生い茂る土地だったが、ある日ケイレブが、たまたま、ここを通りかかると、雑草のなかでネコが何かを食べていた──かなり大きな、捕ったばかりのマスだった! あたりを調べてみると、マスの頭、ヒレ、背骨の切れ端などが散らばっている。飼いネコになって以来、毎日、このネコが食べていたマスの残骸だったというわけである。しかし、そうと分かっても、それでケイレブ夫婦はネコを殺すということもせず、またこの発見を誰にも知らせずに観察していたところ、けっきょく、ネコは、毎日、ここへ捕ったマスを運んでくる習慣だということが分かった。だが、どういうふうにしてマスを捕るのか、それは、どうしても分からなかったという。
しかし、けっきょくのところ、このネコは悲劇的な最後を遂げた、と聞けばワイリー川の釣人たちは、みんな喜ぶことだろう。いつも坐りこんでいた線路の上のある場所でペシャンコにつぶれていたという。いつもの癖で線路の上にすわっているうちに、キラキラと光る、まっすぐな線路の眺めに吸いこまれてしまい、近づいてくる列車の音や振動を感じても、逃げきれなかったのだろう、と夫婦は考えたとそうである。ネコのような敏感な動物、危険と見ればすぐに逃げ出す動物が、どうしてこんな死に方をするのか、と夫婦は不思議がったが、いよいよ不思議なことに、その後すぐにまた、村のもう一匹のネコが同じように線路上でひき殺されるという事件があった。あまり長い間、じっと、光る線路を見つめていると、きっと脳に一種の催眠効果が起こって、逃げる力が奪われるのだろう、と夫婦は思ったという。
奇妙な偶然だが、私が今、この一章も含めて、この本の原稿の一部を書いている村の旅館にネコが三匹いる。ところが、この三匹は、まるきり種の異なる動物のように、それぞれ外見や習慣が全く違う。一匹はケイレブの話に出てくるダヴトン時代のネコに非常に似ている。三匹とも野良ネコで、飢えていたのを、心やさしいこの旅館の女将が家に入れて、愛玩用に飼っているのである。三匹とも美しい。一匹は雄ネコで、ペルシャ猫の血を引いている。黒と茶の毛足が長く、目は黄金色である。子ネコのように遊び好きで、絶えず動きまわって、家の誰かれといっしょに散歩に出るのが大好きである。ネコも人間も誰も相手になってくれない時は、庭に出て、こっそりとハエに忍び寄ったり、ブナの木の下にあお向けに寝ころんで、両手で空中の何か目に見えないものを叩いているのか、捕まえようとしているのか──日光のなかのチリでも掴もうとしているのかもしれない。もう一匹は、大きな黒ネコで、頸に白い環が入り、鼻面も白いが、目は海のような緑色である。なまけもので、贅沢好きで、家のなかで一番気持のよいクッションを見つけては、そこに何時間でも丸くなって寝そべっている。三匹目はジップという堂々たる大ネコで、普通のネコの三分一くらいは大きい。──英国の山ネコ位の大きな、たくましい体格をしている。ブチ猫で、目は乳白色だが、光の具合によって、これが薄緑色に見えることがある。はじめてジップを見たとき、この変わった目の、野性的な、狂暴な表情に私はギョッとしかけたが、それが見かけだけではないことに、すぐに気がついた。こちらが目を向けると、必ずそのヒョウのような、もしくは山ネコのような激しい視線でじっとこちらを見つめてくる。こちらが目を向けたとたんに、身を低くし、耳を平らにして、まるで生命の危険を警戒するような表情で、こちらの動きの一つ一つを見つめている。こちらが近づいても、跳んで逃げ隠れすることが、なくなるまでには、何日もかかったし、二、三週間は絶対に体に触れさせてもくれなかった。
だが、このネコの生まれつきの野性的猜疑心は決して完全には消えなかった。数カ月たって、仲よしになり、信用を得て、その結果、山ネコ的に、条件的に、私の友情を受けいれてくれたと見えた時でも、時折、それが出てきた。このネコがある時、狩りをしていて、片方の前脚にケガをして、ビッコになった。その頃は寒い時節だったので、旅館の私の居間に入ってきて、痛む脚をかばいながら、動けない時期をしばらく、きげんよく、暖炉の敷物の上で休んでいたことがあった。ところが、負傷した脚に、とかした暖かいバターをすりこんでやると、らくになるらしかった。マッサージをしてバターを塗ってやると、十分か十五分の間、ベロベロその脚をなめては、時々ゴロゴロと気持よさそうに喉を鳴らしている。だが、こちらが何か急に動いたり、紙をカサカサ鳴らしたりすると、パッと私の足元のクッションから立ち上がり、矢のようにドアへ走っていって逃げようとする。ところが、ドアが閉まっているのを見ると、すわりこんで、飼いネコの感覚をとりもどし、また私の足元にもどってくる。
ところが、このネコは、子ネコの時分にこの家に入ってきたもので、すでに二、三年間家のなかで暮らし、大勢の人間も見ているし、他の二匹といっしょに、毎日、規則正しく餌をもらっているのである。だが、こういう性質のネコ、つまり、人間と生活を共にしてきたために表面的に少し慣れたとか、飼いネコ的な性質が少し付いたというところが全然ない、純粋の自然のままのネコ──こういうネコに出会うのは、それほど珍しいことではない。
このジップというネコほど、野ネズミ退治に執心しているネコには、私は今だかって、お目にかかったことがない。野ネズミ以外の動物をやっつけているところは見たこともない。ハツカネズミでさえ捕らない。といっても、おそらくハツカネズミの場合は、殺したその場で食ってしまうのだろうが、とにかく野ネズミだけを捕って、持ちこんでくる癖がある。一日も野ネズミをくわえていない日はないし、日によっては、夜中に二、三匹持ちこんでくることもあるから、一年では三、四百匹は下らないはずである。村中がジップの猟場なのである。
これが農村でどういう意味をもつか、それから、麦束山の置き場とか納屋などに、こういう見張り番が日夜出ていることが、農場主にとってどれほど有利か、その点を野ネズミの破壊力を知っている人は考えてほしい。持ち主が言うところでは、このネコはその体重と同重量の黄金の値打ちがあるということだが、私に言わせれば、それどころではない。大きな、重いネコだが、体重と同重量の純金貨でも、このネコが僅か一年間に救ってくれる小麦、その他の食料の価値を越えることはないだろう。
野ネズミを持ちこんでくる時はいつも、生きたまま運びこんできて、古い石だたみの中庭に放し、すこし相手にして遊んでから殺す。おとなのネズミだと、そのまま放っておくが、子ネズミの場合は、バリバリ食べてしまうか、他の二匹のネコにやってしまう。
ジップには少し変わった面白い話がある。この村は、昔からジプシーが好んで集まる所だが、以前、一隊のジプシーが去ったあとに、六匹の子ネコのきょうだいが残されていたことがあった。村人たちは処置に困った。「溺死させたらどうだ」「いや、それはむりだ。生まれてから五、六週間たってるから、そういうわけにはいかん」というわけで、ずいぶん悩んでいたが、たまたま、白イタチ〔ウサギとかネズミをとるのに用いる〕を飼っている男が現われて、それなら、白イタチのところに持っていって、その餌にしようと親切に申し出てくれた。こういうふうに問題が解決して、みんなは喜んだが、しかし考えてみれば、ちょっとイヤな解決法である。生きている小さな齧歯類を白イタチにやって、その温い血を吸わせるというのは、当たり前のことといえば、それまでだが、しかし、子ネコをピンク色の目の白イタチに投げあたえるのは感情的に抵抗がある。というのは、ネコのほうも肉食動物で、白イタチと比べて、はるかに美しく、はるかにかしこいからである。それに生物的等級から見ても、はるかに上位にある。だが、こういう考え方は村では支配的なものにはならず、けっきょく六匹の子ネコは持っていかれてしまった。ところが、この子ネコたちは、危険を察知したのだろうか、子ネコにしてはずいぶん元気な狂暴な連中で、抵抗し、ひっかきまわして、とうとう最も大きくて猛烈なのが二匹脱走に成功した。それからまもなくして、そのうちの一匹が旅館の敷地内で発見され、けっきょく、ここに住みついたというわけである。この旅館は難儀するすべての生き物の避難所だった。
ジプシーたちはネコを飼うのが好きで、彼らの飼っているネコは、ネズミ狩りの名手だと聞いたことがある。初耳なので、近所の何人かのジプシーに聞いてみたら、そのとおりだ──ネコは大好きだという。それにまた、ラーチャ犬〔密猟者がウサギ狩りに使う雑種の猟犬〕も大好きである。ネコをかわいがるのは、狩りの才能があって、非常に有利な愛玩動物だと考えるからだろう。しかし、狩りをするネコといっても、ネコたちの好みは、じつにさまざまで面白い。狩りの好みが全く同じというネコはめったにいない。「ネコは魚が大好きだが、足をぬらすのはこわい」という古いケルトの諺があり、同じ言葉が世界中にあるけれども、それでもマス漁の上手なネコがいることは、前に述べた。それにまた、ネズミ狩りだけをして、他には目もくれないネコのことも書いた。それから今、思い出したのだが、ハト狩りしかやらなかったというネコ、不滅の名声を持つネコの古い話もある。サー・ヘンリ・ワイアット〔イタリヤ詩のソネット形式を英国に輸入した有名な詩人外交官サー・トマス・ワイアット(一五〇三〜四二)の父親〕がリチャード三世のために、ロンドン塔に幽閉されていたことがあった。独房のなかで身を横たえるベッドもなく、命をつなぐ食物さえろくろくもらえないという残酷な扱いを受けていたが、ある冬の夜、寒さのために半死半生になっているところへ、一匹のネコが煙突を伝って降りてきた。非常に人なつっこいネコで、囚人の胸の上で丸くなり、一晩じゅう体を暖めてくれ、朝がくると、また煙突を伝って姿を消した。ところが、一羽のハトをくわえて再び現われて、それを囚人に渡し、また姿を消した。朝になり、看守がやってきて、支給される乏しい食物しか持ってくるわけにはいかないのだ、といつものように言訳をすると、サー・ヘンリは、「それでは私の渡すものなら料理してくれるか?」と聞いた。看守がそうすると約束したのは、囚人を気の毒に思っていたからで、ハトを渡されると、それを下ごしらえして、料理してくれたのだった。ネコは、それから毎日、ハトを持ちこんできた。看守は、これを神の奇蹟による贈り物と思い、毎日、料理して囚人に食べさせたので、あとで王が食物を一切与えてはならぬと命令したけれども、囚人は無事に生きていた。王は、食物もろくろくやらないのに、囚人が生きているのに焦れてきたが、かといって、首は刎ねたくない──自然死をさせたかったのである。ところが、けっきょく、サー・ヘンリのほうが暴君より長生きして、釈放されたというわけで、今日まで、ワイアット家にはこのネコの話が伝えられている。この物語は民話だとされているが、文字どおりの実話と受けとってわるい理由は少しもない。
狩りをする、もしくは、密猟をするネコのなかには、獲物を主人のところへ運んでくる癖のあるものがいるということは、よく知られた事実である。そういう例を私は何十、いや、何百と見てきた。南米にいた頃、近所に一人の老ガウチョ〔スペイン人とインデアンの混血のカウボーイ〕がいたが、この老人は夕食用に、家のネコが毎日、斑点入りのシギダチョウ──南米草原のシャコ──を捕ってくれるのだと自慢していた。英国ではシャコはそう多くないし、そう簡単に捕れるものでもないが、それでもシャコ捕りの上手なネコたちがいる。一度、私はサバナクの森〔オークとブナの美しい森。英国唯一の私有森林〕の森番の家にしばらく泊めてもらったことがあるが、そこに一匹の非常にりっぱな白ネコがいた。このネコは、シャコを捕って、家に運んできて、台所の床に置き、奥さんがこれを、日曜のご馳走用にしまいこむのを見とどけるまで、見張りをしている習慣があった。また、私のある女友だちから聞いた話だが、彼女が、夏の二、三カ月間、泊ることにしている農場屋敷に一匹のネコがいて、これがよくなついて、いつも家ウサギの子を彼女のところへ運んでくるそうである。頸の皮のところをしっかりくわえてくるが、全然傷はつけていない。これをやさしく両手でうけとめて、膝の上にのせ、それにハンカチか布をかぶせると、ニャンコちゃんは無事に受けとってもらったことに安心して出ていく。それを見とどけてから、こちらも立ち上がり、このあまりにも愛情こまやかなネコが、こういう贈り物を、喜こんでこちらが受けとっていると思うのは間違いだ、ということに気がついてほしい、と心から願いながら、家を出て、少し先きまで歩き、震えている子ウサギを放してやるのだという。ある日のこと、このネコが一匹のイタチをくわえて、トコトコと部屋のなかに入ってきて、こちらがすわっている椅子の横のカーペットにそれを置いた、かと思うと、すぐに向こうをむいて、あわてて出ていった。イタチは死んでいた。イタチというのは捕まえて、生きたまま容易に持ち運べるような動物ではない。ネコは他に気をとられる用事があって、いつものように贈り物をとり上げて、注意ぶかく膝の上にのせてくれるのを、見とどけるひまがなかったのだろう。
この種の事はごく普通に見られるのであって、要するに、ネコはある博物学者たちが言うほど非社会的な動物ではないということである。社交性という点では、たしかに、ゾウ、クジラ、ブタ、アザラシ、ウシ、サル、オオカミ、イヌ、その他頭脳の大きな社会性豊かな哺乳動物には劣るけれども、かといって、なにもネコは全く孤立して生きているのではない。他のネコや人間の友だちのことを考える能力はある。せいぜい人間は友だちであって、ネコのような動物は人間を主人とは思っていない。おそらく、後脚で立って歩きまわる非常に大きなネコ位にしか思っていないだろう。もう一つ、人間のために狩りをしたというネコの話を書いておかねばならないが、これはフォントヒル・ビショップ〔ここに有名な大奇人、大富豪、文人のウイリアム・ベクフォード〔一七六〇〜一八四四〕の有名なおとぎの宮殿フォントヒル・アベイの廃墟がある〕生まれの私の友だちで、非常な年寄りのお婆さんから聞いた話である。このお婆さんの思い出話のいくつかは「昔のウィルトシァの日々」という後の一章に出てくる。このお婆さんの幼い頃のことだが、母親が亡くなり、父親は体がわるくて働けず、非常に暮らしに困っていた頃、家に一匹のネコがいて、これがずいぶん一家を助けてくれたという。黒白の大きなネコで、ほとんど一日じゅう、フォントヒル・ビショップの森のなかで狩りをしていて、いつも食用に何か獲物を捕ってきてくれた。このネコが当時幼い女の子だったお婆さんになついて、持ちこんでくるものは、いつも彼女だけに渡し、他のものには絶対に渡さなかったそうである。ネコがつかまえた獲物を家に持ちこんでくる時は、いつもこうなのだと思う。食物を他のものと分けるということは、ネコの頭では考えられないのである。ハツカネズミや小鳥を捕ってきて、これを他のネコと分けるとか、いっしょに食べるとかいうことは、ネコはしないし、また出来ない。くれてやる場合は丸ごとやってしまう。人間には一人の人間だけにくれる。このネコが家ウサギを持ちこんできた時は、もしも台所に幼い弟とか、誰か他の人の姿が見えると、ウサギを取られるのを怖れて、どうしても中へ入ってこなかった。コソコソと去って、家の裏の草むらの中にそれを隠してから、またもどってきて、ニャンニャンと小さな声で鳴いて、小さな女主人にそれとなく知らせる。すると女の子は後について出てゆき、隠し場所まできてウサギをとりあげる。ネコはそれを見て満足する、という具合だった。
捕ってくるのは家ウサギと「ダイダパ」だったが、「ダイダパ」はお屋敷の敷地にある湖のほとりの、スゲの中にいるのを捕まえてきたのだという。お婆さんは、じつはバンのことを「ダイダパ」と呼んでいたのだが、この「ダイダパ」という鳥の名前を私が耳にしたのは、この時が初めてだった。しかし、これはおそらく、シェイクスピアにも見える英語の古語で、カイツブリ、もしくはカンムリカイツブリを意味する「ダイブダパ」から来たものだろう。鳥の獲物はバンだけではなく、シャコを持ちこんできたことも二、三度あった。サカナを捕ってきたことも一度あるが、それがマスだったか、そうでなかったかは分からない。ただ料理して食べたら、大変おいしかったことだけは覚えているという。
ある日のこと、外を見ていると、ネコが何か非常に大きなものをくわえて帰ってくる。何か自分の体より大きいものをつかまえたらしい。口にくわえて、頭をうんと高く構えて、ずいぶん苦労しながら獲物をズルズルと引きずってくる。野ウサギだった。女の子は駆け出していって、ネコの前にかがみこみ、それを受けとろうとしたが、ネコの放し方がちょっと早すぎた。というのは、ウサギは無傷だったのである。ポーンとウサギは跳んで逃げ、森のなかへ消えてしまった。女の子もネコもびっくりして、ガッカリしたという。
長い間、このネコは森を密猟する動物の普通の運命をうまく逃れていた。フォントヒル・ビショップの森は、こんにち厳しく禁猟が守られているが、当時は有名な地主ベクフォードの時代で、やはり厳しい禁猟区になっていた。ある日のこと、ネコが片脚を折って、ビッコを引きながら帰ってきた。鉄のワナに掛かったのを、誰か番人以外の人が見つけて、放してくれたのだろう。女の子は血を洗い流し、膝の上にのせて、骨をくっつけ、折れた脚を包帯で出来るだけうまく巻いてやった。すると、あまり日のかからないうちに、脚はなおり、なおると、すぐまたネコは森へ狩りに出かけて、家ウサギやダイダパを捕ってきてくれたという。
しかし、「ネコに九生あり」とはいえ、しょせん、寿命は尽きる。ネコは幼い女主人に奉仕して、惜し気もなくその命の全てを使い果たしたのだった。ともかく姿が消えたのである。ついに森番に殺されたのだろう、ということだった。
老羊飼いケイレブは、長い一生に、いろんな変人、奇人に出会い、その話をいろいろと聞かしてくれたが、その一つに、ウィンタボーン・ビショップ教区にいたという豪農の話があった。独身の老人で、(男にしては)異常なネコ好きで、いつも十一匹のネコを愛玩用に飼っていたが、どういうわけか、十一匹という数を固く守っていた。この農場主は馬に乗って草丘を行くのが好きで、そういうとき、いつも、仕着せを着た一人の馬丁をお伴に連れていたが、これが無愛想な老人だった。この老人は十一匹のネコの世話が仕事の一つになっていた。ちゃんとネコなりの決まった時刻に、ネコ用の食堂で食事をすることになっていて、わざわざネコのために作った、長い、低い食卓に、十一枚の皿を一列に並べて、そこから食べるのである。ネコたちそれぞれの場所と皿とが決まっていて、そこで食べるよう躾けられている。食卓の上にのぼることは禁じられていて、「まともな人間みたいに」両側のネコにけんかをしかけたり、じゃまをしたりしないようにして、食べるよう教えこまれている。それで、まず普通はネコたちは行儀がよかったが、一匹だけ例外がいた。大きな雄ネコで、これが非常に欲ばりな、意地わるな、横暴な性質を現わしてきた。食事となると、必ず平和を乱し、終わりは大混乱になり、フウフウ、ウーウーとみんながうなり出し、ひっかき合いのけんかになる。それで毎日、毎日、老馬丁は主人の前に出て、ながながと哀れっぽい調子でこのネコの行状を訴えたのだった。ところが主人は、このネコを追い出すことはおろか、何らの強硬手段をとることも許さない。やさしさと忍耐と厳しさをもって臨めば、この厄介ものも遂には改心するだろうと言う。しかし、けっきょく、主人もこのネコの度しがたい態度にうんざりしてきた。他の十匹までがそれに感染して、意地わるく、けんかっぽくなってきたのである。ある日のこと、とくにひどい話を聞かされて、主人はカッと腹を立て、弾を込めた銃を馬丁に渡して、今度、奴がひどいことをしたら、その場で射ち殺せ。それで厄介ものが片づくだけでなく、他の十匹への見せしめにもなると言い渡した。ところが、次の食事のとき、例によってゴロツキ猫が、またもやけんかを引き起こし、そのうちに、十一匹全部が食卓の上にのぼって、とっ組み合い、ひっかき合いの大騒動が始まった。馬丁が銃を掴んで騒ぎの真中へ散弾をブッ放したところ、三匹が死んでしまったが、騒ぎの原因のゴロツキはかすり傷も負わずに逃げてしまった。この大失敗に主人はカンカンになって怒り、即刻、馬丁にくびを言い渡したが、しかし、なにしろ老人だし、大事な召使いでもあったので、けっきょくは許してやった。そして、例のけんか好きのネコは始末して、新しいネコを四匹連れてきて欠員を埋め、平和をとりもどしたというのである。
さて、ここで、本章の初めに語った悲劇のネコの話にもどらなくてはならない。谷間を走る鉄道線路の上にすわって、けっきょく、汽車にひかれて死んだというダヴトン時代のケイレブのネコである。これはじつに妙な話である。あんなに用心ぶかくて、頭のしっかりした動物、他のどんな動物にもまして、むつかしい、危険な場から逃れる能力を持ったネコのような動物が、どうしてこんな最後を遂げたのだろうか。あのじつに奇妙な話を聞いたとき、線路の上で汽車にひき殺されたという単なる事実の背後には何かあるのではないか。エジプトのネコについて、ヘロドトス〔紀元前四八四? 〜四二五? ギリシャの歴史家。歴史の父といわれる〕が、火事が起こったとき、その火の中に飛びこんで死ぬ癖があると書いているが、それに似たような、何か不可解な弱点がネコにはあるのではないかと、あのとき、当然思ってもよさそうなものを、じつは、全然そんなことは思い浮かばず、ただ単に「奇妙な話」、つまり一匹のネコに起こった一つの事故と受けとって、それ以上は何も考えずに話の先きをつづけたのだった。ところが、その後、数カ月という長い日時がたったある日のこと、ふとした偶然で、私はあのとき、ネコの生活史における非常に興味ある重要な一発見に迫っていたことに気がついたのだった。
その話はこうである。ある日、私がソールズベリからヨーヴィルに通じる南西線のある駅のプラトフォームに立って、汽車を待っていると、プラトフォームの端の駅長室から、一匹の小さなかわいい子ネコが出てきたので、抱き上げた。すると、五つ位のちいちゃな女の子が出てきて、「わたしのネコよ」というので、二人でこの子ネコの話になった。かわいいネコだね、とほめられたのが嬉しくて、もう一匹いるから見せてあげる、と言って女の子は駅長室に駆けこんでいき、もう一匹の黒い子ネコを抱いて出てきた。
「これもかわいいね。だけど両方飼うのはダメって言われるでしょう? 多すぎるものね」
「そんなことないわ──二匹だけよ」
「お母さんネコを入れて、三匹でしょう」
「ううん、お母さんネコはいないの──線路で死んだの」
ここで私はケイレブのネコを思い出したのである。そこで、やがて駅長の姿を見かけたので、線路で死んだというネコのことを聞いてみた。
「ええ、そうです。しょっちゅう、ひかれるんですよ。一匹だって長いこと飼っておけません。線路を渡ろうとするのか、どういうことなのか、分かりませんが、赤帽が、こないだ、ネコのひかれるのを見てますから、聞いてみてください」
その赤帽に会って、話を聞いてみると、こうだった。ネコが一本の線路に両の前足をかけて立っているところへ急行列車がやってきた。二、三度名前を呼んだが動かない。とうとう大声を上げて叫んだが、ピクリとも動かず、迫ってくる汽車を呆然として見つめているうちに、頭をひかれて死んでしまったという。
この話を聞いたことがきっかけになって、私は他の村々の駅や、駅のない村々、それもワイリーの谷を走る鉄道近くの、それも転轍手のいる村々に出かけて聞きまわってみたのである。すると、ネコはじつによく鉄道でひかれているという。中には、線路の上で寝ていたか、すわっていた時にひかれて、つぶれたように見えるのもいる。頭がぼんやりして逃げられなかったのだ、という説明だった。
また、家ウサギがひかれていることもあるが、野ウサギのほうが多いということも聞いた。五つ六つ、野ウサギの死んだのを線路からひろって帰ったことがある、と言う人もいた。一度、野ウサギが汽車の前を走っていくのを見たが、野ウサギは、たいてい、汽車の前を走っていって、けっきょくは追いつかれて、ひき殺されるのだと思う、とこの人は言っていた。だが、いつもそうだというのではなくて、野ウサギがひかれるのを一度実際に見たことがあるが、この時は、線路の上にちゃんとすわっていて、近づいてくる汽車を見つめて動かず、そのままひき殺されてしまったという。
ネコにこの妙な弱点があるのは確かだと思う。自転車に乗っている人が、大通りの車の流れのなかで、あわてて取り乱すとか、迫ってくる汽車の速力を読みそこなって、線路を横ぎるのに失敗した、とかいうことではなくて、汽車が近づいてくるのを眺めているうちに、意志がまひするか、催眠術にかかってしまうかして、逃げられなくなるのである。
ところがイヌのほうは、ネコより精神の安定度が低く、劣っている点が多いのに、こういう弱点は全くない。汽車にひかれる場合は全く失敗が原因である。こういうことを聞き歩いている時に、あるウィルトシァの女の人が自分の飼い犬のフォクステリアの話をしてくれた。鉄道の一つの踏み切りを渡ったところ、遮断機が降りた。振り返ってみると、自分のイヌがまだ踏み切りの向こうにいて、何かの匂いを発見して、それに気をとられている。ちょうどそのとき、急行列車が近づいてきたので、思わずこちらが金切り声を上げると、イヌは踏み切りを渡ろうとして、ダッと駆けだしてきた。そこへ機関車が突っこんできた。イヌは見えなくなった。ところが列車が全部通過してしまうと、パッと線路の間から跳ね上がって、こちらへ飛んできた。全く無傷だった。列車が通りすぎるまで線路の間に身を伏せて、待っていたのである。
しかし線路でひかれて死んだネコがみんな、近づく列車を見て催眠術にかかっていたとか、呆然としていたわけでもないことは事実である。たしかに、近づいてくる列車の前で線路の横断を試みて、失敗して死ぬのもいることはいる。とにかく、そういう例を目撃した人から話を聞いたことがある。村の労働者たちの小さな田舎家が何軒か、鉄道の近くに、小さく、ひとつに固まっている地点だが、ここで、毎年、数匹のネコがひかれて死ぬそうである。その話をしてくれた男が、一度、ネコが迫ってくる汽車の前を走って線路横断を試みて、失敗して死んだのを見たものだから、ネコはみんな、そういうふうにして死ぬのだと、このあたりの人は思っていた。
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十六章 ダヴトンのエラビイ家
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ダヴトン農場でのボーカム一家──新しい主人にケイレブが気に入られること──エラビイ夫人と羊飼いの女房──子供ない妻の熱情──「暴徒」の話──農場襲撃──終身流刑に処せられた男──詩篇第百九篇──エラビイ家の最後。
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ダヴトン農場時代を語るケイレブ夫婦のいつもの話し方は、この時代を、いかにも、人生の最重要期と考えていることが分かるような口ぶりだった。深い印象を受けていたわけである。生まれた村をはじめてあとにして、何十マイルの長旅の果てに、見知らぬよその土地の新しい主人に仕えるというのは、たしかに大事件である。とくに、家を出る若夫婦に腹を立てて、そんなことをするなら親子の縁を切るとまで言い出した老父を置いてゆくこと、これが何よりも強烈な印象を残したのだった。しかし、ダヴトン農場が老羊飼い夫婦の心に消えぬ思い出を残したことについては、それ以外にも、ある理由があった。ウォーミンスター時代のことについて、ケイレブ夫婦と何度も繰り返して話し合ったあと、今までに住んだどんな所よりも、ここが彼らにとって深い意味があるのは、ここの主人夫婦に特別の個人的感情を寄せていたためだ、と私は思ったのである。
それまでケイレブが仕えてきたのは、感じることも考えることも、使用人とほんの少ししか変わらないという主人たちだった。ほとんどが素朴な人々で、同じ教区に生まれ育った人たちであり、中には裸一貫から叩き上げた人もいて、自分の生活以外に何の興味も知識もなく、上の階級から分離している点は農業労働者とほとんど変わらないという人々だった。ところが、エラビイ家は、これとは別種、というか別格で、紳士階級ではないにしても、それに非常に近く、エラビイ氏はつねづね紳士たちとつき合っていた。何代も昔からつづいてきた農場主だが、土地は自分の土地だし、教養豊かで、ひろい旅行経験もあり、農場主にしては資産家とされていた。とにかく自家用馬車があり、自分の家の馬屋には乗用馬や狩猟馬も置いている。その上、この地方一番の優秀な羊飼育業者とされていた。住んでいる家もりっぱで、中にある絵や書物、見事な装飾品、調度品の類は、羊飼い夫婦の素朴な目には途方もなく贅沢なものに見えた。最初、その雰囲気にふれたとき、ケイレブ夫婦が少しドギマギしたのは、なるほど自分の価値を知り、「よき羊飼い」であることを誇りにしていたにしても、これまで仕えてきたのが、みんなある意味で、自分とほとんど同等の人間であり、たがいに相手のことが理解できたからだった。ところが、たちまちのうちに、この違和感は消えて、ひとりの人間として、個人的に、この新しい主人が、これまでのどの農場主よりも大事な人になってきた。主人と顔を合わす機会も頻繁にあり、向こうのほうからもつき合いを求めてくるようになった。そのうちに、前にも言ったように、遠くの草丘で羊番をしている時でも、向こうから、話をしに探しに出てくるような習慣になった。こうなると、農場の雇い人の誰よりも自分は重んじられている──主人のお気に入りなのだ、とケイレブも気付かないわけにはいかなかった。
ケイレブは前に牧羊犬ウォッチとクイナの話を持ち出したが、それが頭について離れず、私は最初の機会にそれを蒸し返して、どうして主人はそんな変な振舞いをしたのだろう──土砂降りの雨のなかを夏服と麦わら帽という格好で、一マイルも二マイルも歩いて出てきて、雨に打たれながら別に何の話題もないのに、おしゃべりなんかしたのだろう。どんな秘密の悩みがあったのか──経済状態がわるかったのか、それとも奥さんとの間がうまくいかなかったのか、と聞いてみたのである。すると、ケイレブは、いや、そんなことではない。エラビイ家の秘密の悩みは、そんなことではなかった。それは話せば長くなる、と言って、持ち前の他人の私生活についての強い遠慮癖から一般的なことを一言、二言いうだけで、やり過ごそうとした。
ところが、それを女房が横で聞いていて、女の癖で、こういう話題になると熱心になり、それでは承知しない。わたしが話す。あんたがやめておけと言っても、わたしが話す。主人夫婦はもう亡くなったんだから、聞きたいというのなら、聞かせてあげて、なんでわるい、ということになった。そこで、女房がしゃべりながら、亭主が時々、一言、二言はさみ、亭主が話を継ぐ時は、女房が横合いからさんざん口を出す、というふうにして話が出てきたわけだが、二人の話はずいぶん長かったので、ここでは手短かに語らなければならない。
ボーカム夫婦がダヴトン農場に落ち着いたとき、主人のエラビイ氏が羊飼いケイレブを気に入って、友人扱いにしたのと全く同様、エラビイ夫人のほうもケイレブの女房が気に入って、田舎家を頻繁に訪ねてくるようになったという。夫人は大柄でりっぱな、きりっとした、たいそう美しい人で、豊かな髪を巻き毛にして両肩に垂らすという当時の流行に従い、挙措振舞いにも気品のある人だったそうである。初めからボーカム一家に特別の興味を持ったらしく、こちらのほうも、農場の誰よりも目をかけられていることに気づかずにはいられなかった。当時、ボーカム夫婦には子供が三人あった。六つ、四つ、二つの子供で、非常に健康で、ほおはバラ色、目は黒く、明るい性質の、かわいい子供たちだった。夫人はずいぶん子供たちが気に入った様子で、いつも清潔にして、かわいい服を着せているといって母親を誉め、少ない給金でどうしてこんなことが出来るのだろう、といつも感心していたという。近くの田舎家に荷馬車の馭者夫婦が住んでいて、ここにも小さな子供が三人いたし、その隣りには土地管理人の田舎家があり、ここにも何人か子供がいたが、エラビイ夫人はこの二軒には決して出入りしなかった。いずれの家の子供たちも体がちょっと小さくて、弱そうで、あまり清潔でなかったし、荷馬車の馭者の女房がだらしない女だったせいもある、というのがケイレブ夫婦の推測だった。ある日のこと、エラビイ夫人が羊飼いの家を訪ねてきたのと入れ違いに、馭者の女房が出ていったことがあった。夫人は不機嫌そうな顔をしていたが、帰りがけに、お隣さんたちとあまり気安くつき合ったり、子供たちをあまり親しくさせないほうがいい。向こうの癖に染まると困るから、と言い残していった。それにまた、夫人は、馭者や土地管理人の家の子供らと野道ですれ違っても、一言もかけず、目にもとめないような様子だった。しかし、その子たちにも親切だったという。ケイレブの家に来る時は、ケーキとか、果物、菓子の大きな包みを子供たちのおみやげによく持ってきてくれたが、これを三つに分けて、一つをお宅の子供たちに、あとの二つを向こうの子供たちに渡してくれるように、といつも女房に言っていたという。エラビイ夫人はこの家の子供たち、とくに一番上のかわいい、バラ色のほおをした六つの男の子が気に入ってきたと見えて、訪ねてきた時はいつも、自分のそばに呼びよせて、母親と話をしている間じゅう、その子の片手を握っていたり、また、子供の片腕を出して、それをたのしそうにこすったり、指をひろげて子供の腕に回してみたり、また時には、こういうふうに愛撫しながら、顔をそむけて、涙のこぼれ落ちるのを隠そうとすることもあったという。
夫人には子供がなかったのである──夫婦が何よりも願う唯一の幸福に恵まれなかったのである。十年の結婚生活に六度、祈りが報いられたと思い、不安に怯えながらも喜んだことがあったけれども、いつも、ぬかよろこびで、いずれの場合も死産だった。「きっと、これからも変わらん。呪いだからな」と村人たちは噂したということである。
こんなに体のしっかりした、健康な、りっぱな風采の夫婦、しかも、こんなに子供をほしがっている夫婦が、どうしてこんなに運がわるいのか、と羊飼い夫婦は不思議がったが、村人たちは相変らず呪いのせいだと繰り返した。
ケイレブは腹が立って、「呪いとはなんのことだ。りっぱな夫婦になんで呪いがかかる?」と大声を上げて、杖をとり上げ、村人の噂話の座から離れたものだった。呪いとは何か、聞く気もなかったし、説明するといわれても聞きたくない、とはねつけていたけれど、けっきょく知らずにすますわけにいかなかったのは、これが全ての村人たちの固定観念になっていて、いつまでも締め出しておくことが出来なかったからである。「あのご夫婦を見ることだな。ちょっとお目にかかれんほど、りっぱな夫婦だろ。ところが子供がない。それに、ご主人の二人の弟というのはどうじゃ。二人とも大きな、たくましい、ガッシリと引きしまった体をした、りっぱな男だろが。二人ともりっぱな体の、健康な奥さんがある。ところが、どっちの夫婦にも一人の子供も出来ん。出来ても、みんな死産だろが。それに女きょうだいは結婚せずだ! これが呪いでなくて何だろう」と村の噂好きたちは語ったという。
一八三一年、労働力節約のために農業機械類が導入されて、英国全土にわたって貧しい農業労働者が激昂し、「暴徒」と化した。ちょうどその頃、エラビイ氏の父親が元気盛りだったが、呪いをかけられたのは、この人だという。その頃、小麦が高値で、農場主たちは大儲けしたものだが、農業労働者たちは週給僅か七シリングという惨めさだった。鎌で麦刈りをしていて、今、みんなに仕事があっても、食うや食わずなのに、この上、麦刈り機や、その他、新式農業機械類が使われだしたら、この先きどうなるか。そんなことを黙って見ていられるか、ということになって、農業労働者が全国いたる所で集団になって、機械類を破壊しよう。一致団結すれば、何も恐いものはないのだ、というわけで、全土にわたって、農民一揆、もしくは「暴徒」が起こったのである。
その頃、エラビイ家の主人は、教区一、豊かな、しかも進取の気性に富む農場主で、まっさきに新式機械類を採用したのだった。教区一、親切な、正しい人間とされ、その上、自分の農場の労働者たちからさえ慕われていることを知っていたので、まさか、この自分が襲われることはないと信じていた。しかし、そういうことがなくても、なにしろ血気盛んな人だったから、自分の決心を実行するのに躊躇したとは思えない。ところがある日、村人たちが集団になって、思いがけなくも、エラビイ家の方々の納屋を襲い、そこに置いてあった新しい脱穀機を打ちこわし始めた。急を聞いて、エラビイ氏は家から飛び出し、現場へ走ったが、その途中、群衆のなかから重い金槌を投げつけたものがあって、それが頭に当たり、エラビイ氏は倒れて気絶してしまった。
重傷を受けたわけではないが、意識をとりもどした時は、もう機械は完全に破壊されて、村人たちは家に引きあげたあとで、誰が指揮者だったのか、誰が金槌を投げたのか、さっぱり分からなかった。ところがそのうちに、警察の調べで、問題の金槌が村の靴屋の持ち物だと分かり、靴屋は逮捕され、殺そうとして負傷させたのだということで起訴された。そして、他の村々の多くの人たちと共に、ソールズベリ巡回裁判にかけられて、有罪とされ、終身流刑の宣告を受けた。ところが、このダヴトンの靴屋は、物静かで、おとなしいのが評判の若者で、最後まで無罪を主張して、なるほど、私はみんなといっしょに農場まで行ったが、金槌は持っていなかった。したがって、投げつけた覚えはない、と言い張った。
この靴屋が流刑になって村を去ってから二年たったある日のこと、エラビイ氏のもとにオーストラリアの消印のある一通の手紙がとどいた。あけて見ると、差し出し人の名も住所もない。ただ聖書から引いた弾劾文の長い一節が入っているだけで、他には何もない。エラビイ氏はこれを見て、ひどくに心が騒いだので、黙って手紙を焼きすてることが出来ず、かえって、それを手元に置いて、誰かれとなくその話をしたのだった。それで話を聞いたものはみな、自分の家の聖書を開いて、あわれな靴屋が、どんな気持でこれを書き送ってきたのか調べようとした。この文章が旧約聖書、詩篇第百九篇、もしくは、その大部分であることが分かったからである。詩篇第百九篇には次のようにある。
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その父らのよこしまは主の御心に記され、その母の罪は消えざるべし。
彼らはつねに主の前に置かれ、その名は地より断たるべし。
彼は人にあわれみを施すことを思わす、かえって、貧しき者、乏しき者、心の傷める者を殺さんとして攻めたりき。
かかる人は呪うことを好む。この故に、呪い、おのれにいたるべし。恵むことを楽しまず。この故に、恵み、おのれより遠ざかるべし。
かかる人は衣のごとく呪いを着る。この故に、呪い、水の如くにおのれの内に入り、油の如くにおのれの骨に入るべし。
願わくは呪いをおのれの着たる衣の如く、帯の如くなして、常に自らまとわんことを。
されど、おお、主なる神よ、なんじの御名のゆえもて、われをかえりみたまえ。なぜならば、われは貧しくして乏し。わが心、うちにて傷を受く。
わがゆくさまは夕日の影の如く、また、イナゴの如く吹き去らるるなり。
わが膝は断食によりてよろめき、わが肉はやせおとろう。
〔この訳は昭和二十八年発行の日本聖書教会『舊約聖書』の訳文を少し変えて使わせていただいた。〕
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この時から詩篇第百九篇は村人たちによく知られるようになって、これを暗記していないものは少ないという有様になった。あわれな靴屋が無実だったことを村人たちは疑わなかった。ハエ一匹殺すことも出来ないような若者だったことをよく知っていたのである。群衆が靴屋の店に押し入って、その勢いで靴屋も押し流されていったとき──誰も彼もみんなが加わっていた──誰かが金槌を見て、これで機械をこわそうと思い、持っていったのだ、と村人たちは考えた。エラビイ氏自身も心の奥で靴屋の無実を感じていた。だから法廷で一言弁護してやれば、疑わしきは罰せずの有利な扱いを受けて、釈放されたのだろうが、弁護してやらなかった。エラビイ氏は誰かに仕返しをしたかったのである。だから沈黙を守って、あわれな若者が犠牲になるがままにしてしまった。その後、エラビイ氏が亡くなり、その長男がダヴトン農場を継ぎ、やがて長男、次に次男、そして三男が結婚したけれども、どこにも子供はできなかった。いや、できても死産ばかりで、そのたびに村では例の詩篇第百九篇を開いては、「その子孫は絶え、次の世にその名は地より断たるべし」という言葉を読み、また繰り返し読んできたのである。たしかにエラビイ一家は呪われていると、村人たちは噂したという。
悲しいことに、そのとおりで、呪いは一家のものが、その呪いを信じる気持のなかにあったのであり、呪いを受けたという意識が女の心に及ぼす恐ろしい効果、そこに生じたわけである。それも全て、世界の向こう側から送られてきた一枚の紙切れを焼き棄てなかったという父親の致命的な過ちから発したのだった。「次の世」の不幸は全くここから起こったのであり、けっきょく、エラビイ家は絶えてしまった。エラビイ家の最後の一人が高齢でこの世を去ったとき、エラビイ姓を名乗るものは、ウィルトシァのこの辺りには、もう一人も残っていなかった。
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十七章 昔のウィルトシァの日々
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昔の思い出──まちとしてのヒンドン、村としてのヒンドン──「小羊旅館」とその鳥たち──ヒンドンの「暴徒」──盲目の密輸業者──下パートウッド農場のロウリング家──脱穀者でシカ盗人のリードが一財産を残すこと──仕事熱心──時の神──グロヴェリの森と農民の権利──グレイス・リードとペンブルック伯爵──老人の幻想──温泉地バスの椅子付きかご──貧しい人々のタキギ採り──猟鳥獣の保護。
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エラビイ家の話に出てきた若者、オーストラリア、もしくは、タスマニアに流刑になったあの不幸な若者の話がきっかけで、私は丘陵地の方々の老人たち、それも、八十年前のいろんな出来事を覚えている老人たちの何人かを訪ねてみようという気になった。そして、あの惨めな、記念すべき一八三〇年のことをまだ覚えていて、「暴徒」の所業を実際に目撃したという老人たちが、僅かだが、「まだここに生き残っている」ことを知った。その一人はフォントヒル・ビショップに住む私の友人で、今は九十四歳になるお婆さんだが、十代の頃に、「総勢千人」ともいわれる貧しい農業労働者たちが、棍棒、金槌、斧で武装して村にやってきて、脱穀機を打ちこわしていった有様を目撃したという。
もう一人、当時のことを覚えているお爺さんがいたが、この人は八十九歳なのに、体は非常にしっかりしていた。この人は、フォントヒル・ビショップから二、三マイル離れたヒンドン村の住人だったが、ここは小さな楽しい村である。緑の波打つ草丘に囲まれて、その向こうの丘々の頂きは大きな森におおわれているという、いかにも田園風の美しい村である。ここが、かつて重要な市場まちで、治安判事裁判所が置かれ、その上、議員二名を選出する国会選挙区だったとは、とても信じられない。当時、居酒屋だけでも十三軒あったというが、ウソのような話である。今は居酒屋は二軒だが、お茶やミネラルウォータを飲む今日のご時勢では、商売は振るわない。選挙区といっても当然、腐敗をきわめた小選挙区で、選挙前の四週間から六週間にかけては、ただでビールを振舞うのが普通の行事になっていたし、また、選挙権をもつ全ての世帯主は、目当ての候補者から二十ギニをもらうのを当てにしていた。今でも語り草に残っている話だが、当時、世帯主が非常に金に困ったとき、というから、例の十三軒の飲み屋に出入りして飲み過ぎたせいだろうが、そういう時は、誰かここの裕福な商人の所へ行って、次の選挙の際にもらえるはずの二十ギニを「担保」にして金を借りたそうである。しかし、しかるべき時がたって「選挙法改正法案」が通過したのちは、ここの栄光は消えた。のちに南西鉄道の線路がソールズベリからヨーヴィルまで通じて、ティスベリに駅が出来ると、ここは線路から数マイルはずれた所に置きざりになって、やがてまちは衰えて、今のような小さな村に成り下がったというわけである。しかし、今のような酒気の抜けた、清らかな村のほうが、昔のまちよりはるかによい。酒気はなくても、ここは、満ち足りた、楽しいといってもよいほどの村で、足を運んだ他所者に、じつに気持のよい友情を示してくれて、感謝と喜びの思い出が残るほどである。
昔の騒々しさと引き替えに今、どれほど、のどかな、静かな村になったか、それは次の小鳥の話で分かってもらえるはずである。一九〇九年の春と秋の数週間、私はこの村の「小羊旅館」を住まいにしていたが、この旅館はかつての繁栄時代の駅馬車の有名な駅舎だった。「小羊旅館」の村通りに面する壁にはツタが這っている。ここに三組のつがいの小鳥──ウタツグミ、まだらのセキレイ、ヒタキ──が巣をかけていたが、それがちょうど私の部屋の窓の上のところだった。親鳥たちが、巣作りをし、タマゴをかえし、ヒナに餌をやり、やがて子鳥らが飛ぶようになるまで世話をする有様を、私は見まもっていた。興味をもったのは私だけではない。村人たちも、おとなや子供を合わせて、時には十二、三人以上も集まってきて、半時間ほど立ちどまっては、親鳥が巣に餌を運ぶ有様を眺めていたものだった。飛ぶまでに最も時間のかかったのはヒタキで、六月十八日、私が旅館を発つ朝、部屋で朝食をしているところへ、スッと小さな一羽のヒタキが飛び込んできた。ネコ共に見つからぬうちに、捕まえて、ツタの上にもどしてやったが、ヒナはみんなで三羽いた。みんなタマゴからかえったその日から、私が見まもってきたヒナたちだった。それから二週間後、また宿にもどってくると、三羽は木や屋根の上にとまって、相変らず親鳥から餌をもらっていた。だが、お気に入りの止まり木は、宿の揺れる「小羊」の看板だった。親鳥がダッと突込んで、虫を捕えると、三羽の小鳥はまるでチョウのようにその周りに群れてくる。これが七月十八日までつづいたが、その後は、時々、腹をすかせた子鳥の声が聞こえても、親鳥が餌をやる眺めは見られなかった。
ヒタキが子鳥に、自分で虫を捕るよう教えこむのに一カ月かかるのならば、一年に一回しか子育てをしないのも不思議ではない。虫捕りは、ヒタキにすれば、長期間の練習を要するむつかしい技術である。しかし、ツバメとは何という違いだろうか。ツバメは数日で子ツバメを手放して、二度目の子育てにかかり、三度目のお産までするのである。
これら窓の上の三種の小鳥だけが旅館の鳥だったわけではない。庭や納屋、その他の離れ家に、スズメ、ツグミ、クロウタドリ、イワヒバリ、ミソサザイ、ホシムクドリ、ツバメが少なくとも二十つがいは棲みついていた。しかも、この旅館は村のちょうど真中に位置していて、旅館という場所柄からいっても、村中で最も出入りの多い、騒々しい場所だった。
八十九歳の私の老いたる友人に話をもどそう。彼がヒンドン小学校に通うほんの幼い少年の頃、暴徒がやってきたのだが、学校の窓から、その出現の有様を見たそうである。ちょうど市日だったという。ところが、その侵入者のために市は中止になり、販売用、展示用に持ち込まれていた農業機械類は叩きつぶされた。市場になっている広い町通りに、人間、牛、羊がもみくちゃになった大群衆が激しく沸き立ち、叫び声や機械を叩きこわす音がひびき、最後にドッと暴徒が草丘に溢れ出して、隣り村に向かって行く。その後ろから、自分も含めて小さな男の子たちがついていった有様が、今でも目の中に残っているという。
その頃は密貿易の盛んなずいぶん時代で、この州のあらゆるまちや非常に多くの村々に、密輸品のブドウ酒、火酒、その他、日用品の故買人や配達業者がいたが、海から遠く離れたこの州にしてこの有様だった。私の老いたる友人の思い出話のひとつに、この村、というより、当時のまちに住んでいた盲人の話があったが、この男は、この仕事の助手に使われていたそうである。赤ん坊の頃、揺り籠に入ってきた白イタチのために片目をつぶされ、それからまた六歳位の頃に、片手にフォークを握って部屋の中を走っていて、転んで、もう一方の目を突いて、つぶしてしまったという。ところが、両目を失っても、りっぱな働き手になり、垣根作りや刈り入れから、生け垣の手入れ、家畜の世話、馬車のさばき方まで、誰にも負けぬほど上手にやってのけた。この男の父親は小さな農場の持ち主で、荷馬車屋もしていたが、酒も飲まない、物静かな、働き者だったので、まさか密輸業者だとは近所でも誰一人疑うものはなかった。なにしろ、家や仕事を離れたことが全くない。時たま暗夜に、樽詰めのブランデーやラム酒の小さな委託荷物を受け取ることがあっても、堆肥の山の中や、豚小屋の床下の穴の中に注意深く隠してしまうからである。それから、今度はそれを、盲目の息子が、老いた母親もいっしょに荷馬車に乗せて、温泉地バスに運んでいって、前もって支払いのすんだ注文品の小包みを、十二、三軒から二十軒ほどの個人宅に配達する。こちらにブランデーを一ガロン、向こうにラム酒を二ガロンもしくは四ガロンという具合いに全部届けて、明くる日は、いろんな品物を積んで、またヒンドンに帰ってくる、という調子で、この小さな商売は数年間、うまく、おだやかにつづいた。その間、税務局の役人たちは、ぼんやりした顔付きの盲人が操る荷馬車と、それに乗る、大きなボンネットをかぶり、ショールで身を包んだ古風な老婆の姿を、鋭い鷲のような目で千回も見ながら、一度も疑いを起こしたことがなかった。ところが、あるとき、ちょっとした手違いがあって、一壷のブランデーが間違った所に届けられた。たまたま受け取ったのが正直な紳士だったので、正当な受取人を探し出そうという熱意から、近所を四方八方たずね回ったところをけっきょく、税務局に嗅ぎつけられてしまい、荷馬車でやってきた次の機会に、老婆と息子は捕まってしまった。治安判事による取り調べの結果、息子は盲目の理由で釈放になったけれども、密輸品の火酒類はもちろん、馬たちや馬車まで没収され、けっきょく、盲人はヒンドンまで歩いて帰るはめになったそうである。
もう一つの思い出は、下パートウッド農場の借地農場主ロウリングズ一家の話だった。この農場はヒンドンの近くにあって、さびしい陰気な屋敷が、いくつかの高い草丘に囲まれて、深いくぼみにスッポリと隠れるように立っている。七、八十年前のロウリングズ家の主人は変人だったという。その変な考えを現実に実行できたというのは、その頃の法律がきびしく、これを犯すものの処罰が恐ろしいものだったにしても、今日には無い一種の自由──自分の家でなら、自分が正しいと思うことを実行できる自由が、当時はあった、という証拠である。ロウリングズは子沢山で、家で亡くなったものや成人して世間に出たものがあったが、これが奇妙な名の子供らだった。フェイス(信仰)、ホープ(希望)、チャリティ(慈愛)という三人の娘たち、ジャスティス(正義)、モラリティ(道徳)、フォーティテュード(不屈の精神)という三人の男の子たちだった。さて、このロウリングズだが、どういう訳か、身内の亡骸を一番近くの村──モンクトン・デヴァレル村の教会墓地に葬るのはいやだ、と頑張っていた。葬式の時に教会の鐘を鳴らすのは断る、とロウリングズが言ったのに対して、鐘を鳴らさないような葬式はしない、と牧師がつっぱねたのが原因だという話である。それで、ロウリングズは亡骸を棺に収めて、これを自分の家の納屋に入れ、テーブルの上に載せて、ドアにしっかりと鍵をかけたという。その後、もう一人亡くなり、次いでまた一人亡くなって、けっきょく、三つの遺体が納屋に収められて数年が過ぎた。このことは、この地方では、みんなが知っていたのに、地方当局は何一つ手を打たなかったという。
私の老いたる友人の言うには、若い頃、よくロウリングズ農場に行くことがあって、行けば必ず、「死の家」と呼ばれるその納屋へコッソリと回っていって、ドアの割れめから薄暗い中を覗きこんだものだが、テーブルの上には三つの棺が並んでいたそうである。
だが、けっきょく、ロウリングズが農場をやめる少し前に、棺は消えたという。近所にあった白亜坑の一つに、夜中、老人が埋めたのだろうと噂されたが、その場所は今になっても、ついに分からないそうである。
古いウィルトシァの話をひとつ、ある八十七歳のお婆さんから聞いたが、彼女はウィルトシァ救貧院の世話になっていた人である。お婆さんはリードという農業労働者のことを生き生きと覚えていて、その話をしてくれたのだが、この男はソールズベリ近くの、エブル川畔の、オドストック村の住人だったという。無口な、きびしい男で、驚くような体力と忍耐力の持ち主だった。彼が最も好んだのはまさに、たいていの労働者がいやがった仕事で、「暴徒」の抵抗を押し切って、脱穀機が行きわたる前の、カラザオを打って脱穀をする仕事だったという。夜明けから日の暮れた後まで、薄暗い、ほこりっぽい納屋のなかで、立ったり、すわったりして、ドンドンと単調にカラザオを打ちつづけて、休みの時間もとらず、昼食もしない。食べるのはパン一枚と、塩一つまみだけで、塩がない時はパンも食べない。他の労働者がみんな仕事を終わってから一時間後に、上着を着て、トボトボと家族の待つ家へ帰っていったものだった。
この男がずいぶん年をとって、仕事が無理になってから、ある日のこと、何か用があって、うちに来たことがある、とお婆さんの話はつづいた。リード老人が戸口に立って待っているところへ、一人のちいさな男の子が駆け込んできて、バター付きのパンにサトウをのせてよ、と母親に頼んだ。すると、老人は、ギロリと少年をにらみつけ、持っていた大きな杖を振りながら、「わしの子だったら、サトウといっしょに、これも食わしてやるぞ」とどなりつけた。バター付きパンにサトウをのせるというのは、その頃の贅沢だが、それを憎む目付きがあまりに凄かったので、少年はワッと泣きだして、飛んで逃げたということである。
この老人に特に私が興味を持ったのは、彼がシカ盗人だったという点だが、これは当時では、ありふれた犯罪だった。羊を盗むと、当時は絞首刑になったが、シカ盗みは、それほどの重罪ではなく、普通、重労働というところですんだ。しかし、リードは一回も捕まったことがなかった。昼間は時間いっぱいまで働いて、暗くなってから、ひそかに草丘へ出かけて、朝の一、二時頃にシカを一頭、肩にかついでもどって来る。自分で食べるのではなく、ソールズベリでこれを売って、金に換えていたのだが、おそらく他の何人かの密猟者と組んでやった仕事だろう。一人でシカが捕れたとは、とても信じられない。
老人の死後、残った二人の娘に百ポンドずつ残されていることが分かった。家族を養い、自分も長い一生を最後まで、救貧院のお世話にならずにすんだばかりか、こんな大金まで残していったのには、みんなが驚いた。きびしい倹約家で、しかも一週間と病気をしたこともない。それにビールも飲まず、タバコも吸わなかったから、週給七、八シリングの中から毎週、二、三シリングの貯金は出来たことだろう。これを四十年間つづければ、遺産の二百ポンドを少し上回る位の金は出来たのだろう、とその程度の想像しか出来ない。
オドストック村のリード老人のような労働者、つまり、一つの特殊な仕事をとくに好むというだけでなく、まるで芸術家が、自分の芸術に寄せるような、やむにやまれぬ愛着を示す労働者というのは、じつは、そう珍しくはないのである。州境の向こうのドーセットシァに二、三の友人を訪ねたとき、この種の熱狂家が一人いたが、最近亡くなったのだと聞かされた。「もっと早く来れば会えたのに、残念だったな!」と言う。残念ながら、ほとんどいつもこうで、しばらく滞在するつもりで、どこかの村にやってきたとたんに、じつは、この村の最長老の、最も興味ある住人──昔の遺物が亡くなったばかりだ、と聞かされるのが普通である。
次の話の老人は、リード老人がカラザオを好んだように、草刈り鎌を使うのが大好きで、草刈りをする畑がないと、幸せになれなかったそうである。非常に背が高く、骸骨のようにやせて、骨を被う皮膚は古皮のような茶色。髪は薄くなって灰色だが、ヒゲは雪のように白くて非常に長かった。白いロバに跨って、村通りを全速力で飛ばしてゆく姿がいつも見られたが、大型の草刈り鎌を肩に担いで、帽子もかぶらず、茶色の古びたはだしの両足を、地面に引きずらないよう、ロバの脇腹に引き上げていたという。「時の神〔大鎌を持つ老人の姿で表わされる〕がきたよ」と村人たちは、その渾名を叫んで、戸口に走り出てきて、通りを駆け抜けてゆく、すばらしい老人の姿を見物しては、いつものことながら、大喜びしていたという。ロバの腹をけり、どなりつけながら、急がせてゆく。いつも大急ぎで、猛烈に、熱心に、仕事を求めていたわけだが、草刈りをやる畑が見つかると、熱心のあまり、家で寝ようともしない。たとえ、すぐ近くの畑でも、家で寝ずに、その畑の横の草の中に横になって、三時前、夜が明けたとたん、つまり、世間のものが、毎日の仕事にかかるたっぷり三時間前から働きだしたそうである。
カラザオに熱心なリード老人で、もう一人、リードという人を思い出した。これは二、三年前、九十四歳で亡くなったお婆さんである。このリード婆さんの名は、草丘地の一つの村で大切に語り継がれてゆくはずである。彼女はナダー川畔のバーフォード・スント・マーティン村の生まれだった。この村の他にもう一つ、ワイリー川畔のウィシュフォード村の村民も、グロヴェリの森に入って、各人が持ち帰れるだけのタキギを採取する入り会い権を有している。グロヴェリの森というのはウイルトン地所にある広大な森林である。ウィシュフォードの村民は、緑の木を採るが、バーフォードの村民は、枯れ木だけを採ることになっている。遠い昔のある時期に、バーフォードの村民は、枯れ木を採る権利に加えて、生長中の木を伐る権利と交換に年額五ポンドを受けとることになったのだが、この五ポンドは、いまなお地主が村に払っている。
ところで、グロヴェリの森から一マイルも離れていないこれら両村の村民が、こういう権利を持っていることで、近代の地主貴族たちが絶えず頭を悩ましてきたことは容易に理解されるだろう。なにしろ、猟鳥獣、とくにキジを厳しく保護することが、地主たちにとって宗教のような重要事になってきたからである。さて、今から半世紀、いや、もっと前、ペンブルック伯爵家の当主が、バーフォードの村民の枯れ木採取権には、これを証明する何らの証拠もないことが分かった、と思って喜ぶという事件があった。ただその頃の全国的慣習に従って、枯れ木採取が好意的に認められてきただけで、それ以上の何物でもないと考えて、即刻、伯爵は、村人が森で枯れ木を採ることを禁じる布告を出した。これは村にとって大損害だったが、村人たちは黙って従い、バーフォード・スント・マーティン村の男たちは、誰ひとりとして禁令を破ったり、不満の声を上げたりするものもなかった。ところがこの有様を見て、グレイス・リードという村の女が、権力者の伯爵に反抗することを思い立ち、他に村の女四人を伴って、大胆にも森に入り、枯れ木を採って帰ってきたのである。そこで、治安判事たちの前に呼び出され、罰金を申し渡されたが、その支払を拒んだため刑務所送りになった。ところがその翌日、この処置が誤りだったとして釈放になった。と同時に、調査の結果、バーフォードの村民が永年行使してきた枯れ木採取権は、たしかに村民の権利として存在することが明らかになった旨、女たちは報告を受けたのだった。
この女たちの行動のおかげで、以来この権利が問題にされたことはない。この章を書く数日前、バーフォードを訪ねた時に、問題の森の中から、運べる限りの枯れ木を、頭に載せたり、背に負ったりして、三人の女が降りてくるのを見かけたが、思えば、彼女らは危いところで、その権利を失うところだったのである。前代未聞の大胆な女たちの行動だったが、もしも、適切な時点で、あの行動に出る気迫を持った、田舎家の貧しい一人の女がいなかったならば、権利は絶対に取りもどせなかったことだろう。
グレイス・リードの孫たちが今、バーフォード村に暮らしているが、彼らの話を聞くと、彼女は長い人生の最後の最後まで、前世紀初めのいろんな古い出来事や人びとのことを、じつにはっきりと覚えていたそうである。その遠い昔を思い出すとき、古い情景や人々が生き生きと心に帰ってきて、まるで最近のことを話すように、自分より五十も若いものに向かって、「あんた、思い出さんのかね? 忘れるはずがなかろうが、村中でしゃべっとったのに!」という調子だったそうである。
こういうことは非常な高齢の老人たちによくある幻想で、ヒンドン村の、あの老人の友人にも、私は面白い経験をしたことがある。老人は一八三五年頃、温泉地バスに行ったといって、その初印象を聞かしてくれたが、一番驚いたのは、椅子付きかごだったという。なにしろ、こんな乗り物のことは聞いたこともなかったのに、このすばらしいまちでは、どの通りでも見かけた。「あんたもバスに行って、見とるから、それは知っとるだろう」と言うのである。
林や森で貧しい人たちがタキギを採ることについて、私の友人のあのフォントヒル・ビショップのお婆さんが言っていることだが、フォントヒルの森やグレイト・リッジの森に隣接する村々では、昔は、こういう所から好きなだけ枯れ木を採ることが許されていたそうである。お婆さん自身もグレイトリッジの森へはいつも行ったが、昔はもっと深い森で、原生林に近かったという。村からたっぷり二マイルあり、重いタキギの荷を運ぶには、ちょっと遠かったが、タキギを森の外に出してから、これを大きな樽のような形の束にしっかりとしばり上げたうえで、草丘のなめらかな、急な坂をゴロゴロと転がして帰ったから、それほどうめき声を上げ、汗を流さなくてもすんだという。大きな森で、あの頃はハシバミの木がいっぱいあり、実がずいぶん生ったので、七月中頃から九月にかけて、実を採りに、あたりから大勢の人がつめかけてきた。バスやブリストルからもやって来て、袋詰めにして、荷車に積み上げ、売り物用に持ち帰ったという。その後、狩猟のために森林保護がきびしく行なわれるようになると、家ウサギがひどく繁殖するがままになって、厳寒期にこれが、ハシバミの木に寄ってたかって皮をかじり取ったので、この森の最も有用で利益のあった木がほとんど全滅してしまった。ゴツゴツしたオークの木はほとんど価値がない。それからやがて、家ウサギのほかにもキジが厳重に保護されるようになって、けっきょく、タキギを採る人間は完全にしめ出された。今では、森中に、まるで原始林のように枯れ木や枯れ枝が散らばっている。病気のため、あるいは寿命が尽きて枯れた木、風で吹き倒されたり、折れたりして転がった木が、地面で腐るがままになって、これにツタやイバラがいっぱいにまといついている。ところが、このたくさんの枯れ木の中から、近所の貧しい人々は、湯をわかすための一本の木切れを取ることも許されない。キジをおどかしたり、家ウサギを取ってはいけないからだという。
このお婆さんの思い出をもう二つ、三つ、次の章で紹介するが、そういう話で、一八三〇年頃のこの地域の人々の暮し向きが分かるだろう。その頃、貧しい農業労働者たちは飢えと貧しさに追いつめられて、主人である農場主に反乱を起こしたのだが、農場主たちの方は、いたる所で草丘地を鋤で崩して、どんどん穀物の増産を計り、いよいよ肥えふとっていき、油ぎった地主たちにますます高い地代を払っていたのである。一方、草丘地を畑にするために実際の労働をやらされていた人間は、飢えを満たす食べ物もろくに無いという惨めさだった。
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十八章 昔のウィルトシァの日々(つづき)
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ウィルトシァのお婆さんの思い出──お婆さんの家──農場の仕事──おさない鳥追い少年──家のきりもり──農業労働者の反乱──失業中の村人──失業対策事業──大麦パンのゲーム──羊盗み──哀れな男の絞首刑──盗みの誘惑──羊を盗む羊飼い──エビニーザ・ガーリックの話──チタンの羊盗人──法と裁判官──「悪魔人間」による死刑判決──反抗する農業労働者の処罰──ソールズベリ裁判所での情景──検死──農場主たちの政策。
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前世紀の三十年代、農場主が非常に豊かで、地主が高い借地料を受けとっていた頃、農業労働者がどんなに貧しい、ひどい苦しみの生活を強いられていたか、それは、私の九十四歳の友人、ジョウンお婆さんの語った彼女自身の若い頃の話を聞けば、いくらかは推察がつく。
母親が十一人の子供の最後の男の子を生んで死んだとき、ジョウンは三歳だったという。その頃、小さなフォントヒル・アベイ村には、ある婦人の経営する学校があった。家が貧しくて、学校にいくどころではなかったのを、村にキング氏というりっぱな人がいて、この人がお金を出してくれたおかげで、学校にかよえたのだという。キング氏は、子供はみんな字を習わなくてはいけないという信念を持っていて、四つから八つの歳までジョウンのために授業料を出してくれたのだった。今、晩年になって、炉辺に坐って本を読むとき、この慰めを与えてくれたあの人、七、八十年前に亡くなったあのキング氏に心から感謝するのだ、とジョウンお婆さんは語った。
八歳を過ぎると、もう学校にいくわけにはいかなかった。上の子らが、もうみんな、世間に出て、乏しいながらも稼いで生活を立てていたからで、男の子たちは遠い農場にいき、女の子らは女中奉公に出たり、女房になったりしていた。ジョウンは母親の亡くなった家に残って、父親のために家を切りまわし、掃除、洗濯、炊事、つくろい物をするばかりか、小さな弟のために母親替りまでしなければならなかった。
父親は一週七シリングで働く農夫だったが、ジョウンの十歳のとき、扱いにくい二頭の牛だったか、若い牛だったかを使って畑を耕していて、ひどい事故に会った。牛の動きを止めようとして、ロープに絡まり、鋤で片脚をひどく骨折したのである。そのために六カ月間、家から出られなくなった。二、三マイル向こうに大きな農場を持つ裕福な農場主が教区の民生委員をしていて、この人が事情調査にやってきて、処置を決めたが、その処置は、また働けるようになるまで、怪我人は週三シリングを受けとることにする。怪我人の生活には、これでちょうど足りるから、幼い姉弟は働きに出なければならない、というものだった。嫁にいった娘の一人が田舎家の父の面倒を見に帰っていたので、これで、幼いきょうだいは働きに出られることになった。
民生委員は、自分の農場で二人の子供を使って、それぞれに二、三ペンス払い、食事もさせると言ってくれた。そこで、子供らは農場にかよい、毎夕、家に帰ってくることになった。これがジョウンの最初の勤め口で、以来ずっと、家の内外で労働生活をつづけてきたが、たいていは畑で働くことが多くて、こうして八十五過ぎまできた。七十五年間の重労働の暮らしをつづけたわけだが、そのうちに、すばらしい体力も衰えてきて、息子や娘たちも白髪になり、とうとう今、九十四歳になって、もうほとんど何もしなくなったのだという。
この最初の勤め先の農場主は、じつにきびしい人だった。「悪魔のターナー」という噂が近隣一帯にあったほどで、一般に農場主が農業労働者を踏みつけにしていたその頃でも、野蛮で横暴な性質が目立った。それに、妙に皮肉なユーモアがある点も目につき、誰か農業労働者が、運わるく逆鱗に触れたりすると、それに対する罰のなかに、これが出てきたという。この罰を受けるものは、どんなに苦しくても、恥ずかしくても、文句を言わずに辛抱しなければならない。それがいやなら、出ていって飢えるより仕方がなかった。ジョウンとその七歳の弟は、それから毎朝、五時に農場に間に合うように起きなければならなかった。雨、雪、寒さにおかまいなしに、とにかく五時に間に合わなければならない。「悪魔のターナー」のご機嫌を損じるくらいなら、どんな天気でもましだった。ジョウンは雑役として、家の内外で働かされた。寒い天気で、他に何もすることがない時は、畑に出ていって、火打ち石拾いをやらされたが、これは、小さな手がこごえて、一番こたえた。
「しかし、七つの弟に、そんな農場で、どんな仕事ができたのかね?」
と聞くと、ジョウンお婆さんは声を上げて笑いながら、幼い弟の農場第一日目の話をしてくれた。農場主は、初日は悪魔にしては、思いやりのあるところを見せて、弟にはとても楽な仕事をさせてくれたという。麦束の山から鳥を追っぱらう仕事である。「追っても、まだ、しつこくもどってくるようなら、捕まえるんだぞ」とむつかしいことを言いつけて、農場主はいってしまった。弟を最も悩ませたのはニワトリで、これは追っても、追っても、またもどってくる。そこで、けっきょく、少年は、ちょっとしたヒモを見つけてきて、これでいくつかの小さな輪を作り、これを何本かの棒切れに結びつけて、地面に並べた。それから、その地面のあたりをきれいにして、ここに少しばかり麦粒をまいて、「トリ」をおびきよせようとした。こうしてドロボウ・ニワトリを三羽捕まえて、農場主が昼に見回りにきた時に、突き出したというわけである。「これはトリとはちがう、ニワトリだ。ニワトリにはもうかまわずに、スズメとか小鳥とか、ミヤマガラス、小ガラスというような、麦わらを引っぱり出しに来る鳥を見張るんだ」と農場主は言ったそうである。
これが少年の仕事始めだった。その後は、麦束山の鳥追いから畑の鳥追い、その次は年齢に合った他のいろんな仕事をさせられて、ずいぶん苦労し、さんざん泣かされたという。いちばんつらかったのは、農場屋敷の中庭に出した椅子の上に、何時間もじっと立たされるという罰を受けることで、これは屋敷の窓々からまる見えで、こんな目に会わされたあとは、どんなにつらい、きつい仕事でもホッとしたということである。ジョウンのほうは、全然、この種の罰を受けたことはなかった。主人の気に入るように心がけて、一生懸命働いたからである。だが、彼女は頭のよい、元気のある子だったので、一生懸命働いても、仕事をふやされるだけで、他に何の効果もないと分かると、その不当に反発した。その結果、もう、我慢できないというところまで圧迫されると、ついに家に逃げもどって、もう農場へはいかないと頑張った。もどってみると、村にはかなり仕事があった。姉は夫のところにもどらねばならず、自然とジョウンがその後を受けて、父親の世話と家の切りもりをするばかりか、一家の生活費週三シリングに足すお金を稼ぐ必要まであった。
九カ月ばかりして父親は起き、また外に出て働きだした。というのは、ちょうどその頃、小麦が高値で、草丘地の大開墾が行なわれ、優秀な耕夫の需要があったのである。父親はケガをした脚がかなり短くなっていたので、鋤を使う時は、長いほうの足で畦みぞの中を歩き、短いほうで畦の上を歩いて、やっと平均をとるという有様だった。ところが数カ月間、こういうふうに大変な苦痛を味わい、衰えてくる体力をはげましながら懸命に働いているうちに、また事故に会い、また田舎家で寝込むことになり、この時から死ぬまで、もう二度と畑仕事ができなくなった。ジョウンは家で暮らし、幼い弟は家に帰って寝るというふうにして、こうして二人で働いて、一家三人を支えたのだという。
ジョウンお婆さんのこうした昔のちょっとした体験談や、彼女が聞かしてくれた当時の人々の暮らしの話、それから彼女に劣らぬ古い記憶を持つ老人や老婆がしてくれた物語を考え、それに加えて、当時の新聞を自分でも少し読んで、知識を補足してみると、なぜ当時、こういう農業労働者が反乱に立ち上がったのか、私には理解できる。永年にわたるドン底生活と組織的圧迫のために、元気をなくした、哀れな、貧しい農業奴隷たちが、苛酷な主人たちに反抗して、ついに立ち上がり、農業機械類を叩きつぶし、麦束山に放火し、家に押し入って、中の物をこわしたり、奪ったりしたその理由が私には理解できる。飢えかかった田舎の人間が集団になり、棒切れや斧で武装して起こしたこれらの行動は、必死の、狂気じみた冒険であり、たちまち鎮圧され、ウィリアム庶子王〔一〇二七〜八七。一〇六六年イギリスを征服し、王となったノルマンディー公ウィリアムのこと〕も満足するだろうと思われるような厳罰を加えられた。しかし、農業労働者は、かねてから圧迫のために憤激していたわけで、脱穀機の導入で、その堪忍袋の緒が、とうとう切れたということに過ぎなかった。脱穀機の導入は、地主が出来るだけ高い借地料を挙げようとし、借地農が労賃を出来るだけ低くおさえようとする、いわば地主と借地農とが共同で推しすすめる凶悪な制度のダメ押しの一撃だった。
これは労働者を狙いうちにしようとする地主と借地農との約束事だった。頑丈な男の賃金が一週最高、僅か七シリングに抑えられただけではなかった。ちなみに言っておくと、一週七シリングというのは農業労働者一家がボロを着て、飢えずにすむギリギリの額だったが〔実際はギリギリにも足らず、少し密猟をしたり、盗みをしないと暮らせなかったろう〕、そればかりか、小さな農場では、収穫がすむと、労働者をくびにして、きびしい冬の何カ月間、うまく暮らせ、と放り出すのが習慣になっていた。こうして普通、どこの村でも毎年、十二、三人から二十人以上の頑丈な男たちが、家族をかかえたまま放り出されたが、こういう男たちの他にもまだ、老人や病弱者、まだ働き口のない若者たちがいたわけである。こういう失業労働者の惨めさはドン底だった。森に入って、タキギの束を作り、村で売ろうとするが、これを買う余裕のあるものがいない。それで、夜は畑のあたりに忍んでいって、カブラを一つ、二つ盗んで、飢えをしのごうとする有様だった。
教区によっては、民生委員を兼ねた農場主が許可を受けて、こういう村の失業者──十月あるいは十一月にくびになり、冬が過ぎると、また必要になる失業者──に失業救済の仕事をさせる所があった。といっても、世間相場より低い賃金だったことはいうまでもない。畑の火打ち石を拾う仕事なのだが、週四シリングの賃金だった。その頃の農業労働者の主食は、パン種の入らない大麦パンで、そのパンが非常に固かったことについて、ウィンタボーン・ビショップの古老たちが聞かしてくれた面白い話がある。火打ち石拾いをして、長い、きつい一日を過ごしている最中、とくに凍るような寒い時に、ちよっとした気晴らしに、一種のボール遊びをやったというのである。男らは弁当を持って出かけるが、これが大麦パンもしくはケーキで、これを二つ、三つポケットに入れていく。昼になると、昼食のために一箇所に集まり、ひとつの非常に大きな輪になって地面にすわる。一人一人の間隔は十ヤードほどで、すわったところで、めいめいが大麦パンを出し、誰か相手の顔を目がけて投げつける。当たったり、外れたりで、二、三十分ほど大騒ぎ、大笑いをしてから、パンボールに付いた土や小石を取って、重いパンにかじりつき、懸命にグチャグチャ噛んで、のみくだす。
日が暮れると、家に帰って、また大麦パンの夕食を食べ、何か香りのある葉っぱ、もしくは草を入れて味をつけた湯を飲んで、これを流し込んでから、すぐにベッドにもぐり込む、というのも暖をとるにもタキギもなかったからである。
その頃、羊を盗むと、恐ろしい罰を受けたのに、これが最もありふれた犯罪だったのは不思議なことでもなかった。飢えのために人間が向こう見ずになっていたのである。ジョウン婆さんや他の老人たちの話では、その頃、男どもは妙に無関心で、自分が絞首刑になろうが、なるまいがどうでもいい、というような様子に見えたという。たしかに、絞首刑になったものは、それほど多くなく、裁判官は黒ビロードの帽子をかぶって絞首刑を宣告したあとで、ほとんどのものに情けをかけるようにとの勧告書を送ったものだが、当時の情けたるや、これが悪党の情けのようなもので、残酷きわまるものだった。絞首刑の替りに、終身流刑か流刑十四年、最も軽くて流刑七年だった。クラーク〔マーカス・A・ヒズロップ・クラーク、一八四六〜八一。イギリスの小説家。後にオーストラリアに移住してジャーナリストとなる〕の『寿命尽きるまで』という恐ろしい小説を読んだ人ならば、こういうウィルトシァの哀れな農業労働者たちが、オーストラリアやタスマニアに送られて、ほとんどの場合、妻子と完全に連絡を絶たれ、どんなに苦しい生活に耐えていたか、「ある程度は」知っているはずである。
ところで、実際に絞首刑になったものも何人かいた。女房と何人かの子供をかかえた若い男が、ソールズベリで絞首刑になったことがあるが、これがその男の孫たちだ、といってジョウン婆さんが、何人かの近所の人の名をあげたことがあった。お婆さんがこの事件をはっきり覚えていたのは、飢えで狂った男が、羊を一匹盗んで死刑になるのは、あまりにもひどいと思ったからだという。それにまた、その男の若い女房が刑場まで出かけていって、遺体をもらいさげ、家に持ち帰って、村の墓地にねんごろに葬ったことも忘れられないという。
羊を盗みたい誘惑が当時どんなに強いものだったか、それは今、このあたりの畑を歩き回ってみれば、誰にでも分かるだろう。羊たちが囲いの中に入れられて、夜番もつけずに放ってある。村からはるかに離れた遠い野原や草丘で、よくそれを見かける。どんなにひどい時代でも、羊に夜番を付ける習慣はなかったし、それが必要だと考える人もいなかった。だから、羊を盗むことはじつに簡単で、その例はいくらでも挙げられるが、二十年ほど前のごく新しい例が一つあるので、それを記しておこう。ある一人の羊飼いが羊の群れを連れて、方々の市へたびたび行かされていたが、この羊飼いがある晩、ウィルトンの市へ羊の群れを連れて行く途中、寄り道をして一つの羊囲いを開け、十九頭の羊を外に出したのだという。そして、市に着くや、この十九頭を知り合いの肉屋に売り、肉屋はこれらをロンドンに送ったそうである。ところが一つの群れから盗んだ数が多すぎて、たちまち感づかれ、ある偶然から犯人が分かって、羊飼いは捕まった。けっきょく、八カ月の重労働を申し渡されたが、その裁判の途中で、週給十四シリングのこの貧しい羊飼いが、ソールズベリのある銀行に、四百ポンドの預金を持っていたことが分かったという。
もう一つ、ずっと古い事件があるが、デイという名の農場主の話である。デイは、一人の羊飼いだか、羊業者だかを雇って、市や市場へ羊の群れを連れていかせる途中で、これに、他所の羊を盗ませていたという。数年間、この盗みは続いたが、けっきょくバレたのは、主人とその雇い人との間にけんかが起こって、その男が警察に通報したからで、デイは逮捕されて、ソールズベリのフィシャトン刑務所に留置された。その後、裁判のために、警官二人に伴なわれ、馬に乗せられて、ディヴァイジズに送られたが、途中、「ドルイド僧の首」という居酒屋で、休憩のために一行が馬を降りたとき、デイは警官の目をかすめ、鞍を置いた足の早い馬に跳び乗って、逃げてしまった。その後、デイは二度と「平原」にもどらず、完全に消息を絶ったという。
昔の羊泥棒の話にはユーモアの味のするものがある。私が以前よく泊ったある村で、エビニーザ・ガーリック〔ニンニクという意味〕という男の話を聞いたことがあるが、この男は、おそらくその姓にひっかけたのだろうが、「におい・すみれ」とみんなに呼ばれていたそうである。酒も飲まない、よく働く男で、みんなの手本になっていたが、一つ欠点があったというのは、一人の貧しい、評判のよくない飲み助の「ウロチョロ・ネズミ」という渾名の浮浪者と非常に親しかった点である。「におい・すみれ」は「ウロチョロ・ネズミ」にいつも小遣いをやっていたが、ある日のこと、「ウロチョロ・ネズミ」が小銭では不服だ。一シリングほしいと言い出して、けんかになった。どうしても一シリングほしい。それより少なくてはイヤだ、というのを断ると、あとをつけ回して、一シリングよこせ、と言っては、口汚くののしる。これには、みんなも呆れてしまった。さすがの「におい・すみれ」も遂に逆襲に出て、「くたばっちまえ!」とどなりつけた。これで、カッとなった「ウロチョロ・ネズミ」は、まっすぐ警察へ行って、自分の面倒を見てくれる人間を羊泥棒だと訴えたのだった。わしは今まで、「におい・すみれ」の召使いとして手伝いをしてきたが、このまえ、一匹の羊を盗んだ時は、このわしが皮と臓物を村通りの上手の端の、今は使われていない古井戸の中へ投げ込んで始末したのだという。そこで警官は、その古井戸へ縄と手鉤を持って出かけ、実際にそれを引き上げたのだった。警官は直ちに「ニンニク」を逮捕して治安判事の前に引き出し、判事はこれを裁判にかけた。訴追側には「ウロチョロ・ネズミ」の他に証人は一人もいない。判事は陪審に要点を説明するに当たって、ガーリックはまじめな、正直な、働き者として村でも通っている。こういう人間を「ウロチョロ・ネズミ」のごときアホな悪党のいいかげんな証言を基にして絞首刑にするのは、少し行き過ぎであろう、と論じた。陪審は釈放勧告を喜び、大いに驚きながらも、素直にそれを容れて、「無罪」を答申した。おかげで「におい・すみれ」は意気揚々としてソールズベリから引き上げ、村中のお祝いの言葉を浴びたのだったが、しかし、村人たちは、ひそかに目くばせを交しながら、ニヤニヤ笑っていたということである。
羊を盗んだという話をもう一つ紹介するが、これは発覚しなかった事件で、ついに裁判にはかからなかった。この話をしてくれたのは、中年の、ウォーミンスターの羊飼いで、彼はこれをチタンで羊飼いをしていた父親から聞いたという。チタンというのは、さびしい、辺鄙な村々の一つで、ソールズベリ平原の、エイヴォン川とワイリー川の間にはさまれた所にある。ところで父親は、これを犯人自身の口から聞いたのだった。犯人は誰かに話したくてたまらず、この羊飼いが親友で、無口で、安全な人間だと見込んで打ち明けたというわけだった。農業労働者で、シャーゴールドという男だったが、このシャーゴールドという名は十九世紀初期には、ウィルトシァでは、ごく普通の姓だったのに、今では消えていくようである。さてシャーゴールドは非常に大きな、たくましい男で、元気いっぱい、精力に満ちみちていたという。妻があり、ちいさな子供を五、六人かかえていた。真冬に近い時期で、シャーゴールドは失業中だった。収穫がすんで、農場をくびになったのである。ひどく寒い時節なのに、家には食べ物もタキギもない。
ところが十二月下旬のある夕方、一群の羊を連れて、一人の羊業者がチタン村に着いた。ティルズヘッドという数マイル向こうの村に羊たちを連れていくのだが、なんとか今夜中に着きたいので、誰かひとり手伝いがほしいと言う。偶然そこにシャーゴールドが居合わせて、それなら四ペンスの駄賃で引き受けよう、ということになった。出発した時は、もう暗くなりかけていた。羊たちには道路を歩かせ、羊業者は群れの先頭に立ち、シャーゴールドはしんがりについた。寒い、曇った晩で、今にも雪の来そうな気配。しかも、ひどく暗くて、一番うしろの羊たちの姿さえぼんやりして、ろくろく見えない。そのうちに、一匹盗みたいという誘惑が襲ってきた。簡単なことだ。おれのこの腕力なら、全然音も立てずに、アッという間に羊を一匹殺して、隠すくらいのことは出来る。あの男はずっと先きだから、勘づかれることはない。時々、羊に声をかけたり、叫んだりしているが、その声のひびきとか、牧羊犬が道路のあちら側、こちら側を突走って、群れを道路から出すまいとして吠える声で、距離の判断はつく。今、一頭の羊が手に入れば、自分も、腹を空かせた家のものも、どんなに助かるか、と思うと、もうたまらなくなってきて、いきなり、シャーゴールドは、持っていた重い太い杖を振り上げ、ガンと一頭の羊の頭をすごい力でなぐりつけた。羊は頭の骨が砕けて、いっぺんに倒れて死んでしまった。シャーゴールドは、大急ぎで、これを抱えて、数ヤード横へ突っ走り、ハリエニシダの茂みの中にこれを隠してから、群れのところへもどった。帰り道に持ってかえるつもりだったのである。
さて、一行は真夜中過ぎにティルズヘッドに着き、手間賃四ペンスをもらってシャーゴールドは帰路についた。はじめは足早に歩き、それから走りだしたが、羊の隠し場所にもどってきた時は、もう夜明けが近づいていた。重い荷物を負ってこのまま行けば、村の連中が起き出してきて、姿を見られるのではないか。こうなった上は、羊を隠しておいて、あしたの晩、取りにもどってくるよりほかない、というわけで、シャーゴールドは二、三百ヤード離れた一つの穴、もしくは、くぼみに羊を隠した。草丘のイバラのやぶやハリエニシダのやぶが生い茂った場所である。そして穴の上に枯れシダ、枯草をいっぱいかぶせておいてから家に帰った。ところがその午後、長いこと降りそうで降らなかった雪が、とうとう降りだした。雪が降っては羊を取りにいくのは危い。足跡でバレてしまう。雪がとけるまで、また待つより仕方がない。ところが雪は一晩じゅう降りつづいた。朝になっても、まだ止まない。これなら、きのうの晩、取りにいっても足跡はすぐに消えてしまって安全だったのに、と口惜しがったが、もう遅い。
けっきょく、また雪が止んで、雪どけの来るのを待つよりほかなかったが、なんとも苛立しいことだった、というのは、ひどい寒さが何日もつづいて、あたり一面、白一色の日が何日もつづいたからである。しかも、この飢えの日々の間、眠ったり、ウトウト居眠りしたりして時間を消すという、はかない慰めさえない。あの羊の死骸が、人に見つかりはしないか、という不安が絶えず頭について離れないからである。シャーゴールドは、もう自分はどうなってもいい、というような心の固くなった人間ではなかった。これは初めての犯罪だし、自分の命も惜しければ、妻や、食べ物を求めて泣いている子供たちもかわいい。しかも、その食べ物が、そこの草丘に置いてあるのに、それが取りにいけない。羊の肉の焼いたの、煮たの──いろんな羊のおいしい料理を考えると、情けなくて、気が狂いそうになる一方、自分の今の危険を考えると、居ても立ってもいられない。
二週間たっぷりたって、やっと雪どけが始まった。不安にふるえながら羊をとりに行ってみると、なんと、犬やキツネのためにバラバラにされ、肉は食いつくされたあとだったという。
村の老人連のこういう思い出話から転じて、当時の新聞記事を二、三引いてみることにしよう。
当時の法律では、今の話のように飢えに追いつめられてする盗みと、計画的な泥棒のする盗みとの区別はなかった。要するに、羊を盗むのは全て重罪であって、情けをかけよ、という裁判官の勧告のない限り、絞首刑と決まっていた。ところが、当時の「情け」がどんなものか、それは人の知るとおりである。ほとんど、どこの村にも生き残っている程度の年齢の人、そういう人の記憶に残るそう遠くない昔に、こんな野蛮な法律があったのは、こんにちから見ると、ほとんど信じられないような気がする。大多数の場合、「情け」をかけるように、と勧告が行なわれたけれども、しかし、その法律よりまだ恐ろしいのが、その運用に当たる裁判官の気質だった。全ての人間、したがって全ての専門職の人の中に善と悪が存在する。だが、たいていの人間の、いや全ての人間の、心の中には、また、暗黒の一点も存在するのであって、これが、どこまでも発達してきて、どんなに正しく賢い、道徳的な人間でも、「悪魔人間」に変わるということがある。「悪魔人間」とは聖堂参事会員ウィルバーフォースが、別の事で使った彼自身の造語である。古い新聞記事を読み、陪審への事件要点の説示とか判決文中で裁判官たちが使っている表現を読むと、当時の裁判官が恐るべき権限を持って、それを行使していたために、必然的に心の硬化現象を起こしていたばかりか、言葉の真の意味での残酷な人間になっていたということを信じないわけにはいかない。恐ろしい判決をくだすとき、彼らが快楽を感じていたという事実は、法律、道徳、宗教を守ることが必要だ、という意味の、高邁な紋切り型の文句を並べて隠そうとしても、その下にはっきりと透けて見えている。神の名をなれなれしく口にすることにかけては、非国教徒の秘密集会でわめき立てる説教者も顔負けするほどだし、また、「その犯罪の重大性」という言葉を、どこかの飢えかかった惨めな人間がパン一かたまりを盗んだとか、ろくろく着る物もない貧乏人が生け垣に掛けてあった古着一枚を盗った、というような事件にも必ず使って、強盗、放火、暴行、殺人などの事件とこれを全く区別していない。
しかし、当時、庶民がひどく困っていたわりには、本当に犯罪らしい犯罪が非常に少なかった点には驚かされる。また、当時、絞首刑、終身流刑あるいは長期流刑になったほとんどあらゆる「犯罪」が、こんにちならば、せいぜい二、三週間、あるいは二、三日間の禁固ですむ程度の軽犯罪だったという点にも驚かされる。その見本として、一八二五年四月の新聞に、パーク裁判官が裁判日程の忙しさについて触れた言葉が見えるが、彼が懸念しているのは、犯罪者の数(百七十人)よりむしろ、その告発された犯罪の性質であって、この場合、最も重大な犯罪というのが羊盗みだった。
一八二七年の春季ソールズベリ巡回裁判でもパーク裁判官は、裁判日程は繁忙であるが、主要事件の宣誓証言書を見ると、さほどの重大犯罪でないのがうれしい、と語っている。ところが、彼はこの巡回裁判で、二十八人に死刑を宣告していて、その中の一人は半クラウンを盗んだためにこの判決を受けたのだった。
この二十八人のうち三人を除いて、ほか全員が、けっきょく、執行猶予になったが、その三人の中の一人は十九歳の若者で、馬一頭を盗んだ廉で起訴され、裁判官の警告を無視して、自ら有罪を申し立てた。これが、生殺与奪の権を握る裁判官閣下の気に障った。判決を下すにあたって裁判官は、こんにち、馬盗みの犯罪が頻発している事情にかんがみ、見せしめを行なう必要があると、ながながと論じたあと、リード青年の犯罪の重大性は、これをもって、見せしめとするに充分なものがある。したがって本官は、被告に何ら慈悲の希望を与える意志はない。本人による有罪申し立てについては、最近、自ら有罪を認めれば、それを酌量されて厳罰を逃れることができると思い違いをしているものがあまりに多いため、本官としては、こういう事態を終息せしめる決意である。もしも被告が有罪を申し立てなかったならば、裁判ちゅうに、きっと何か情状酌量すべき事情が出てきて、命は助かったことであろう、と論じた。
ここではたしかに、裁判官服を着た「悪魔人間」が口をきいているのである。
もう一件、エドワード・ベイカーという十八歳の若者が、ハンカチ一枚を盗んだ罪で終身流刑になった記事が見えるが、彼にしても、有罪を申し立てれば、もっと、ひどいことになったかもしれない。
一八三〇年、春季ソールズベリ巡回裁判において、ゲイズリ裁判官が大陪審に向かって、これから扱う犯罪事件の中には重大な道徳的腐敗を見せているものは一件もない、と言っている。被告は百三十人を数えたが、この裁判官は被告二十九名に死刑、五名に終身流刑、五名に流刑十四年、十一名に流刑七年、残りのものにさまざまな期間の重労働刑を宣告している。
四季裁判所の判事たちも、これに劣らず厳しくて不快である。ソールズベリ代表の国会議員、その他の肩書を持つ土地の有力者が主席判事を勤めたある事件が新聞に見えているが、この事件では、その国会議員所有の長さ十フィートの板一枚を盗んだ廉で、モーゼズ・スヌークという不運な名を持つ男〔コソコソ歩くモーゼという意味〕が起訴され、流刑十四年の判決を受けている。おそらく値段一シリングか二シリング程度の板切れ一枚の所有者が、この判決を下したのである。
国法がこういうもので、それを運用する裁判官や治安判事、もしくは地主の性質がこういうものだった時代に、庶民が主人に反抗して立ち上がったのだから、その生活の惨めさがどんなものだったか、想像はつく。しかし、憤激の絶頂にあっても、反抗者たちは、でたらめなことは何もしていない。脱穀機を打ちこわし、麦束山を焼き、最も逆上した者のなかには、わずかばかりの家に押し入って、その内部を破壊したものもあったが、人を傷つけた事件は一件もない。しかし、絞首台、もしくは地球の裏側の流刑地が、自分らを待ちかまえていることは反抗者たちは知っていたのである。男のなかで最も辛抱強くて、最も従順な農業労働者のこの反抗の歴史が、これまで一冊の本にもなっていないのは残念である。地主や農場主の視点から見たものはあるが,それ以外に、この蜂起について触れたものは全然ない。しかし、当時のいろんな新聞に出た短い報告記事とか、まだ存命中の多くの生き証人たちの思い出話とか、その子供たち、そのまた子供たちの思い出話などが英国南部のいたるところにある多くの田舎家に保存されているから、もっと事実に近い、もっと人の心を打つ物語を書こうと思えば、その資料は豊富にある。
この反乱は成功の見込みがなく、たちまち鎮圧されたけれども、地主やその借地人たちを恐怖させるのには充分で、その他のいろんな暴動、とくにブリストルでの暴動と重なって、ひろく国中の人心に不安を引き起こした。一八三一年二月十四日、下院議会でパーシヴァル氏が提出した動議のなかに、この社会不安がちょっと面白い形で表われている。それは英国全土にわたる国民総断食の一日を定めるため、国王陛下に上奏文を提出しようという動議だった。現在わが国は、政治的、宗教的解体の状態にある。国家制度の各要素が刻々とゆるんでゆく。こういう時にこそ、こういう手段が要求されるのである。いまや、わが国の貧者と富者、雇い主と使用人との間には愛着も抑制もなく、謙譲の精神も相互信頼もなく、ただ恐怖と不信と嫌悪があるばかりだが、しかし、われわれの父親の時代には、神の御前での同胞愛と喜びしかなかった、とパーシヴァル氏は論じた。
しかし、議会は冷笑をもってこれを黙殺した。だが、議会の不安は、「特別委員会」の行なった裁判の量刑の中に明らかに表われている。「特別委員会」はソールズベリ、ウィンチェスター、その他のまちに出向いていって、留置中の哀れな男たちを裁いた。たしかに、その裁判官たちにとって、これは愉快な時だったのである。ソールズベリでは死刑判決を受けたもの三十四名、終身流刑のもの三十三名、流刑十四年のもの十名、その他となっている。
最後にひとつの場面を紹介しておくが、当時の新聞はこれには一言も触れていないけれども、これは実際に目撃して、はっきりと記憶している生き証人の口から私が聞いた話である。その証人は九十五歳の老婆で、ソールズベリ大聖堂の鐘の音が聞こえる距離にある村で、一生を過ごしてきた人である。
裁判が終わり、有罪となって刑の宣告を受けたものが裁判所から引き出され、また刑務所に送り返されようとする時だった。「平原」のいたる所から、ウィルトシァの各地から、被告たちの運命を知ろうとして、身内の女たちが来ていて、青ざめた顔に涙を流しながら、裁判所の門外に群がっている。そこへ、判決を受けた男たちが出てきて、熱心な目で探し、身内のものに気がつくと、大声をかけて、元気を出せと励ましている。「わしは絞首刑だよ。だがな、たぶん助命の勧告があるから、イライラせずに待ってくれよな」と言うものがある一方で、「そんなに泣くなよ、かあさん。ただの終身刑だよ」と言うものがある。また、「泣くなよ、おまえ。ただの十四年さ。命があって、またみんなに会えるかもしれんよ」と言うものもある、という具合で、泣いている女たちの前を一列になって男たちは通り過ぎ、フィシャトン刑務所へ向かっていった。この刑務所からポーツマス港やプリマス港で待つ輸送船に送り込まれ、人間貨物になって、はるか故郷を離れたあの地獄へ送り出されるのだった。犯罪者ではない。善良で勇敢な男たちである。この土地の農業労働者としてだけでなく、古くから最近のアフリカでの戦争に至るまで、世界各地の多くの激戦地で、その真価を示してきたウィルトシァの男たち、頑強で忍耐強く、ねばり強い階級のウィルトシァの男たちだった。
しかし、残された女たちこそ哀れだった。二度と息子に会う望みのない老いた母親、あるいは、長い苦しい歳月を万が一の望みにすがって待ち暮らし、
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夢みては
あの人帰る喜びに
身ふるわせて
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目をさますのだが、もうその顔は見えないという妻や、その子供たちこそ哀れだった。私の調べたところでは、ほんの僅か──五、六年に一人位しか帰ってこなかったようである。
法律が法律だから、この程度は人は覚悟していたのかもしれない。これが当り前だったのかもしれない。だが、それにしても醜悪なのは、財産上の損害を恐れ、貧しい農業労働者を圧迫する権力を失うことを恐れる連中の対応だった。彼らは不安に駆られて、訴追側の証人を雇うために多額の寄付金を寄せたのだった。農民の心に恐怖を叩きこむ必要があると考えたのである。密告謝礼金の匂いに釣られて、大勢のゴロツキが出てきて、二、三ポンドの金をもらって証言し、平気で誰の命でも売り飛ばしたものだが、こうして大勢の貧しいものが有罪になった事情は広く知られている。
昔の不幸な事件を語るこの章の終わりに、この点に関係する一つの事件をここで紹介するのがよいと思う。これは絞首刑宣告、あるいは流刑宣告を受けた人間のことではなくて、死者の検死と処置についての事件である。
前の章で私は、ヒンドン、フォントヒル、その他の村々に来た暴徒のことを書いたが、彼らは、ティスベリの近くのピット・ハウス屋敷で、ひとまず、足をとめて、ここの機械類を打ちこわした。このとき、騎馬義勇兵団の一隊が現場に現われたが、一足おそく、暴徒は脱穀機破壊の目的を果たしたあとだった。軍隊の出現を見るや、いわゆる反乱者たちは、急いで森のなかへ逃れたが、そのとき、一人の反乱者が命を落とした。近辺の方々の農場や村々から大勢の人がこの場に集まってきて、見物していたのだが、チルマークという近くの村からやって来たある農場主が、一人の猟場番の手から銃を引ったくって、これで反乱者の一人を射殺したのである。一八三一年一月二十七日、その検死が行なわれたところ、この男を射殺したのは義勇兵団の兵士であると証言するものが現われた。だが、事件発生は義勇兵団の現場到着の前だったことは、みんなが知っていたのである。この男は持っていた棒を振るって、一人の兵士を襲ったか、脅したかしたために、射たれたのだと証人は申し立てた。検死官はこれだけ聞けば充分で、検死陪審に「正当殺人」の評決を出すように指示し、陪審は素直にこれに従った。すると検死官は、「この評決によって、法の定めるところにより、当然、自殺者と同一の処置が行なわれることになる。したがって本官は、死者に対して埋葬許可を出すことはできないと感じる。遺族の悲嘆をさらに大きくすることは、いかにも苦痛ではあるが、職務上、法の命じるところは、あまりにも明白であって、処置の変更を認めることはできない」という決定を下した。
要するに検死官は、さきの裁判官らと全く同様、こういう騒ぎで損害を受けているのはお気の毒というわけで、紳士連中をかばうことに熱心だったということである。検死官にすぎないので、誰も絞首刑にすることはできないが、とにかく、自分の前に引き出されたこの死体を蹴りつけることはできる、ということだろう。検死官が同情すると言った「遺族」は、おそらく夜にまぎれて殺された男の遺体を持ち去り、どこかに埋葬したのだった。
こうして法は守られ、検死官の死体蹴りまで含めて全ての処置がすんだが、まだ、農場主たちの不安は消えず、今度はいろんな集会や座談会を催しては、農業労働者の問題を話し合った。反乱労働者の処罰は適切で申し分がなかったけれども、しかし、彼らの不満にもかなりの理由はあった。パンがこんなに高価になっては、一家をかかえた男が週給七シリングで暮らすのは不可能に近い。それならば給料を一シリング上げることにしようと、みんなの意見が一致した。ところが、労働者たちが教訓を深く肝に銘じて、前よりも従順になり、やがて農場主たちの不安もすっかり消えてしまうと、この一シリングは削られて、賃金はまた前に逆もどりした。つまり、働きものの、一家をかかえた、熟練の農業労働者は週七シリング、若い未婚の男女は、たとえ一人前の男に劣らぬ仕事をしても、四シリングから六シリングということになってしまった。
だがそれでも、もう二度と反乱は起こらなかった。
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十九章 羊飼いの帰郷
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ヤーンバラ城の羊市──ケイレブがダヴトンを去ってドーセットに入ること──不思議なことの起こる土地──ケイレブが懐郷病にかかり、ウィンタボーン・ビショップに帰ること──兄のジョウゼフが家を去ること──ジョウゼフとケイレブの元の主人との出会い──ジョウゼフがドーセットに落ち着き、そこへ妹のハンナが来ること──結婚して子供が出来る──老齢のジョウゼフ・ボーカム──衰えるハンナ。
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ケイレブのダヴトンでの羊飼い生活は、ちょっと急な終わり方をした。八月の末近くになって、十月五日の「お城」の羊市に連れてゆく羊たちのことをケイレブはそろそろ考えだしていた。ところが、主人は何も言い出さない。どうもおかしい。「お城」とはヤーンバラ城のことで、これはウォーミンスターとエイムズべリとの間の一つの高い丘陵の上の、先史時代の巨大な土塁に付いた名である。近くには村一つなく、家一軒ない。土塁といっても、一つの巨大な円型の城壁に円型の壕をめぐらせただけのもので、その内側で羊市が催されている。昔はこの地方有数の羊市だったが、この二、三十年来さびれてきて、今では取るに足らぬものになった。だが、ダヴトンでケイレブが羊飼いをしていた時分は、まだ盛んで、初めて、ケイレブがエラビイ家の羊飼い頭としてここに来た時は、かなりの重要人物として遇された。羊の群れを連れて出発する前、主人の指図をあおぐと、向こうに着いたら、監督役が適当な場所を指定してくれるということだった。エラビイ家は八十八年間、一年も欠かさずに「お城」のなかの同じ場所で、羊たちを見せて売ってきた。だから、仕事で市へ来るものは、エラビイ家の羊がどこにいるか知っていたし、その羊たちが、ここで一番上等のものだということも心得ていた、とケイレブは誇らしげに語った。
ある日、エラビイ氏がケイレブの所にやってきたので、十月の羊市のことを話に出すと、市に出す羊はなくなる、と言う。「羊がなくなる!」とケイレブが仰天して大声を出すと、じつは、家内を連れて、しばらく海外旅行に出ようと思っているのだ。ついては、うちの羊らをよい値段で、みんな引きとろうという人が、ちょうど出てきたので、その話を受けようと思っている。だから、八十八年間にこんなことは初めてだが、今年はお城の羊市にダヴトン農場の羊たちは出ないことになる。旅行から帰ってくれば、また羊らを買いもどそうと思うが、もし農場を離れて暮らすことが出来るものなら、もう二度と帰ってくることはないだろう──そうなれば農場は売る、ということだった。
ケイレブは重い心を抱いて家に帰って、この話を女房にした。女房も、エラビイ夫人を慕っていたから悲しがったけれども、すぐに、こちらを慰めにかかって、「ねえ、わるい話じゃないよ、これは。年が暮れるまで三カ月以上もあるじゃないか。その間、主人は必ずお給料は出してくださるんだから、わたしらはビショップへ帰って、働かずに、しばらく、次の仕事が見つかるまで待ってられるじゃないか。そしたら、あんたの父さんが、家を出てきたのを許してくれたかどうか、それも分かるしね」
というふうに、夫婦が自らを慰めて、家に帰ることを心待ちにしだした時に、主人がこんな話を持ち出してきた。私のある友人が──金持ちではないが、人間のいい友人が──いるのだが、この人が、あんたを羊飼い頭に熱心に雇いたがっている。給料も奮発する。いい田舎家も無料で貸すとも言っているが、どうするかという話だった。ボーカム夫婦にとって、ただ一つ具合がわるいのは、この話を受けると、故郷から、まだもっと遠くなるという点だった。先方の農場はウィルトシァの州境のすぐ近くは近くだが、ドーセットシァ州に入った所にあったのである。
しかし、けっきょくは話を受けることになり、羊飼い一家は、九月中旬までには、また異郷に移っていた。故郷やあらゆる親しいものから遠く離れて、まったくの異郷に移ったという感が深かったに違いない。というのは、それから四十年以上たった今でも、その口ぶりを聞いていると、まるで、普通の現代人が、ウガンダ〔アフリカの奥地〕、あるいは、フェゴ諸島〔南米南端近くにある〕、あるいは、アンダマン諸島〔ベンガル湾にある〕で一年暮らした思い出を語るような調子なのである。ケイレブにすれば、そこは一つの外国で、いろいろと珍しい習慣があり、いろいろと、じつに奇妙なものがある土地だった。いちばん奇妙なのが、働くことになった農場の近くにあった古い崩れた教会だった。屋根がないうえに、半分以上崩れていて、塔と共に立ち残った部分には古いツタが一面にからみついていた。建物自体は、円になった一つの巨大な土盛りと円状の巨大な壕との中心に立っているが、その円の外側に大きな土饅頭型の塚がいくつもあったそうである。ところで、この教会について、すばらしい話をケイレブは聞かしてくれた。この教会が衰え荒廃したのは、その塔にあった大鐘が、ある嵐の晩、不思議にも消えうせた後だという。鐘はじつは悪魔が盗んだのだということで、教会から数マイル離れた、小さな川のある場所に投げこんであったのが見つかったそうである。ところが、夏になり、川が浅くなると、川底の泥の中にこれが半分埋もれているのがはっきり見えた。そこで、王様のすべての馬や王様のすべての家来がやってきて、力を合わせて頑張るのだが、どうしても上がらない。悪魔のほうが強いからである。そこでけっきょく、何頭かの白い牛を集めてきて、その力で引っぱれば上がる、という一人の賢者の言葉に従って、さんざん探し回り、やっと白い牛たちを探してきた。そして、川底の鐘に太いひもを何本も結びつけ、牛たちを刺し棒で突き、掛け声で元気づけ、引っぱらせ、頑張らせると、やっと鐘は水から上がってきて、とうとう険しい崖のような岸の上まであがってきた。ところがこのとき、牛を励ましていた一人の男が、大喜びのあまり、「地獄の悪魔どもが、みんなかかっても、負けたんだ」と大声を上げた。そのとたんに、ひもが解けて、鐘はゴロゴロと転げ落ちていって、また川底の元の場所に沈んでしまい、今でもまだ、そこにあるのだそうである。一度、ケイレブは、この辺りに住むある男から、川底の泥の中に隠れかけた鐘を実際に見た、という話を聞いたそうである。
この伝説はドーセット州の歴史にはない。歴史には、はるかに散文的な説明がなされていて、鐘を持ち出した悪党たちの背後に悪魔の応援があったにしても、悪魔が直接関係したことにはなっていない。しかし、ウィルトシァを出て、この遠い見知らぬ土地へ踏みこんだとき、ここなら、どんなことが起こってもふしぎでない、とケイレブは思ったそうである。土や牧草地までがウィルトシァとは違う。泥までが変に靴にひっついてきて、気味がわるいほどだったという。きっとケイレブは懐郷病にかかっていたのだろう。というのは、その年の終わる一、二カ月前に、ケイレブは仕事をやめたいと主人に願い出たのだった。
農場主はがっかりした。はるばると遠くまで出かけて、よい羊飼いを見つけ、いつまでも働いてもらうつもりだったのに、たった一年でやめるという。何が望みなのか。何でも望みは聞くから、もう一年いてほしい、というのに、いや、私は故郷の家に帰ろうと思う。決心は変わらない、と頑張って、長い一年が終わると、ケイレブは故郷に引き上げていった。牧杖を持って先頭に立ち、山を越え、川を渡ってゆくケイレブの後ろから、家財道具や妻や子供たちを乗せた一台の荷馬車がついてゆく旅路だった。ところが故郷の家に帰って、老いた両親や身内のものといっしょになると、またケイレブは幸福な気分にもどった。すぐに羊飼い頭の就職口が見つかって、村に一軒の田舎家を提供されたのである。そこで、昔のなつかしい草丘で羊番をすることになり、何もかもが子供時代と同じさまにもどって、最後まで望みどおりになったのだという。
ところが、ケイレブの帰郷によって、ボーカム家ではいろんな変化や移動が起こった。その頃、家には兄のジョウゼフがいた。ケイレブより八つほど上なのに、まだ一人もので、この兄が家でうまくいっていなかった。変わりもので、ひどく無口な上に表情がひどく固くて、ニコリともしない。それで無神経な、頭のにぶい人間のように思われていたけれども、じつは、これが感受性の強い男で、雇い主がまともな扱いをしてくれないと思いこんで、勤めをやめてしまい、それで長い間、仕事もなしにブラブラしていたのだった。ところが、いろんな土地を放浪して、珍しい経験をしてきたというケイレブの話をずいぶん熱心に聞く。とくに遠いドーセット州での話になると、いやに注意深く聞いている。そして、弟が帰ってきてから一年ほどしたとき、ついに、これから、おれは故郷を永久に去って、どこか、もっとおれの仕事を認めてくれそうな遠い土地に行って、運試しをやってみる、と言い出した。どこへ行く気かと聞かれると、ケイレブが一年間、羊飼いを勤めて、重んじられたドーセット州のその辺りへ行って、口を探してみるという。
ところで、ジョウゼフは一人ものなので、家財道具は何もなかった。持ち物は一つの包みになってしまった。これを牧杖に結びつけ、肩に担ぎ、一匹の牧羊犬を従えて、ある朝早く、人生最大の冒険の旅についたのだった。ところがこのとき、ある偶然が起こった。世間ではこれを偶然というが、草丘の羊飼いは、古い信仰や伝説の中で育っているので、これを神の導きという。
ジョウゼフが昼頃、有料道路をトボトボと歩いていると、二輪馬車に乗って、一人の農場主が近づいてきた。そばまで来ると、馬車をとめ、ウィンタボーンまでどれ位あるかと聞くので、十四マイルほどだ。今朝、そこを発ってきた、と答えると、それならば、その村のケイレブ・ボーカムという男を知っているか。ケイレブは村で羊飼いをやっているのだろうか。じつは今、ケイレブを探しにいくところで、出来れば彼を説得して、ドーセット州へもどってもらおうと思っている。じつは、向こうで一年間、羊飼い頭として働いてもらったのだ、という。
そこで、ジョウゼフは、今、ケイレブはウィンタボーン村のある農場で、羊飼い頭をしていて、それに満足している。それに、あれは、よその土地より、生まれ故郷で暮らしたがる男なのだ、と答えた。
これを聞いて農場主がガッカリしたのを見て、ジョウゼフは付け加えた。
「ケイレブから聞いてると思うんだが、あんたはジョウゼフという兄のことを知ってるのじゃないかね。わたしがそのジョウゼフだが」
「エッ! ケイレブの兄さんか、あんたが! 今どこへいくのかね──新しい勤め先かね?」
「勤め先はないよ。これからドーセット州にいって探そうと思ってるがね」
「これは、ふしぎなことを聞くもんだ」
と農場主は大声を上げた。これからケイレブに会いにいくところだが、もしもドーセット州に帰る気がないとか、帰れない事情があるのなら、誰か他に村の人間を推薦してもらうつもりだった。じつは、わしは、うちの土地の羊飼いのやり方にはうんざりしている。ぜひ、ケイレブの村のものを雇いたい。羊のことがよく分かっていて、仕事がよく出来るから。
「ところで、どうだろう。あんたは羊飼いだろうが、わしの所で一年、働いてみる気はないか。その気があるなら、わしはもう先きへは行かない。お前さんを馬車に乗せて、すぐに連れて帰るが」
ジョウゼフは大喜びして、その申し出を受けた。たしかにこれは、神様のおぼしめしだ。人間のことを気にかけて、絶えず見守ってくださる神様が、故郷を棄てて、見も知らぬ異郷へ去ってゆく、この哀れなわしのことまで見ていて下さったのだ、とジョウゼフは心から有り難く思った。
主人と雇い主の間は非常にうまくいって、ジョウゼフは一度も勤め先を変える必要はなかった。年をとって主人が亡くなると、その息子が借地農として農場を継いだが、ジョウゼフはそのまま仕事を続けて、もう働けないという年になるまで勤めたということである。勤めの最初の年が暮れぬうちに、妹のハンナがビショップ村から出てきて、家事をみてくれることになった。が、けっきょく、二人とも結婚して、ジョウゼフは土地の若い女を女房にむかえ、ハンナは、一マイルばかり離れた所に農場を持つ、小さな農場主の奥さんになった。やがて、両方に子供が出来て、大きくなり、ジョウゼフの息子たちは、父親のあとを継いで羊飼いになり、ハンナの息子たちは農場の働き手になった。そして、その息子らの何人かもやがて結婚して、またその子供が出来た。
というのが、ジョウゼフとハンナの人生の大きな事件で、きょうだいのケイレブの口から私はポツリポツリと聞いたのである。ケイレブは、伝言で聞いたり、偶然噂を耳に入れたりして、彼らの暮らしを追ってきたのだが、直接には会っていないという。ジョウゼフは一度も故郷に帰ってこないし、ハンナのほうも帰ることはまれで、もう大分前から一度も顔を見せていないという。しかし、ケイレブはこの二人に深い愛情を持ちつづけ、いつも気にかけながら、便りを待ち暮らしているのだそうである。ジョウゼフはもう年をとって、体が弱り、息子の一人といっしょに暮らしているし、ハンナはハンナで、大分前に連れ合いを亡くして、体が衰えてきたのに、今だに農場を経営して、息子の一人と未婚の二人の娘が、これを助けているということである。ところが長い間、いずれの噂も聞かないのに、ケイレブは一度も手紙を出そうという気を起こしたことがない。向こうのほうも全然便りをしてこない。
そこで、ウィンタボーン・ビショップに滞在していて、近くケイレブの所を訪ねてみようと思っていたとき、ふと、私は、これからドーセット州に出かけていって、この二人のきょうだいを探し出して、ケイレブにその様子を知らせてやろうと、思いついたのだった。長い旅ではなかった。村に着くと、すぐにジョウゼフの息子が見つかった。風采のりっぱな男だった。その田舎家に案内してくれる。田舎家にやってくると、その女房が老羊飼いの部屋に通してくれた。見ればジョウゼフは大変な老人である。顔は灰色、両ほおは落ちくぼんでいる。ベッドに横になっているが、息をするのも苦しそうである。ところが、私がケイレブの話を始めると、目に喜びの光が差して、枕の上に体を起こしてきて、ケイレブのこと、その家族のことをいろいろと熱心に聞き、こちらは体が弱って、あまり動きまわれないが、まだまだ元気にしているし、子供たちもよく世話をしてくれる。こういうことを、どうかケイレブに知らせてくれ、と頼んだ。
それから、私は今度は若い妹の所へ廻っていった──年齢では二十年以上の開きがある──すると、ちょうど、農場屋敷の大きな古い炊事場で彼女は夕食の最中だった。とにかく、上座についていて、他にその一人の息子と一人の雇いの労働者、一人の雑役の少年、それから二人の未婚の娘が坐っていた。彼女自身は何も食べなかった。私も食卓に加わったが、この人といっしょにいるのは、嬉しいような、悲しいような気持だった。なにしろケイレブの妹である。年のわりに、ふしぎに若くて魅力がある。柔らかい黒い目が美しく、フサフサと豊かな髪にはほとんど白いものも見えない。声、物の言い方、物腰も魅力的だが、しかし、その顔には、見ていて、いたいたしいものがあった──長い苦しみの表情、眠れぬ夜のしるしである。ぼんやりと薄暗い遠い所──茫漠として果てしない景色、暗雲を置いた景色を、不安げに見つめているような目だった。
別れを告げるとき、私は胸に重いものを感じないわけにはいかなかった。それから一年と経たないうちに、ケイレブの所に彼女の死の知らせがとどいたが、べつに、私は意外とも思わなかった。
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二十章 村の色の黒い人たち
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この本の材料がどういうふうに集まったかということ──ハリネズミの狩人──色の黒い家族の歴史──ハリネズミを食べる人々──混血ジプシーと純血ジプシー──完全な健康──腐肉を食べること──神秘的な知識と能力──ウィルトシァの三種類の色の黒い人たち──もう一人の色の黒い男の話──リディの話──リディの羊番──馬との幸福な生活──失望で死ぬこと──リディの娘。
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この本の材料の大部分がどういうふうにして集まったか、それを考えて、時々、私はひとり笑いをしたものである。数年間、羊飼いケイレブと、時々顔を合わせて、話をした時の雑談から集まってきたのである。生まれ故郷の村で永年暮らし、その大部分を静かな草丘で送ってきたケイレブは、聞いておもしろい事件、というより、聞いたらおもしろいだろうと思われる事件を、いろいろと見てきた。そういう事件は、見た時は本人もおもしろいと思ったのだが、そのまま忘れてしまったのである。だが完全に忘れたのではなく、まだ思い出す可能性を残していたのだった。しかし、そういう事件について、直接、質問しても、何にもならないことが分かった。どんなことにせよ、ケイレブの頭のなかにある価値ある思い出というのは、こちらが質問した時は、出てこないのが普通で、いわば意識のすぐ下に眠っているのである。その上をケイレブは行ったり来たりしながら気がつかない。すぐ下にあるのに気がつかない。カケス、あるいはリスなどが、どこかにドングリを隠して、そのまま忘れてしまったようなものである。ところが、何かが起こると、ヒョイと思い出すことがある。だから、いちばんよい方法は、彼の知っているいろんな話を持ち出して雑談をしている最中に、何か聞く値打ちのある古い経験、あるいはちょっとした観察、事件などを彼が思い出したとき、それを書き留めておき、それからまた何か他の話が出てくるのを辛抱強く待つという方法しかなかった。じつにひまのかかる手だが、これは野生動物を相手にする時のいつもの方法に似ていないこともない。こちらはゆっくりと落ち着いているが、絶えず警戒心を働かせ、目、耳、頭を鋭敏にして待ちかまえている。これは一つの精神的習慣で、べつに何も起こらなくても、失望することはない。注意して待ちかまえているだけでも、つねに充分なたのしみである。何かが実際に起これば、それは贈り物だと思って、散歩の途中に偶然拾った貴重品のように、ありがたく受けとるだけである。
ケイレブの田舎家に立ち寄ったとき、それが冬で、ケイレブが暖炉のそばに坐っていれば、私もいっしょに坐りこんで、タバコを吹かしたものだった。おたがいに話をしたい気分の時は、私は、どこにいってきたとか、荒れ野や森、村、あるいは、どこそこで、こんなものを見たとか、聞いたとかという話を持ちかける。これは昔、ケイレブが経験した何かおもしろい事を思い出させるための誘い水である。
夏の終わりのある日曜の朝だった。例によって、ケイレブの田舎家を訪ねようと思って、森のなかを歩いていると、一人の村の男に出会った。農業労働者で、一人の小さな男の子を連れて、ハリネズミを捕っている。捕って殺したのを二匹、男の子が持っている。この肉が大好きだと男は言ったが、「ハリネズミ」を略して「ネズミ」と呼んでいた。肉がうまいから、ウサギと交換するのもいやだという。休日はいつも「ネズミ」を捕って過ごすが、犬は持っていないし、その必要もない。自分で捕るという。ではどうやって捕るかというと、先ず「ネズミ」の棲んでいそうな場所──これは普通、古い溝の横の分厚く茂った灌木のなかだが──を見つけて、そこへ、こちらの体を押しこんでいって、鉄鋲を打った重い靴で、根っこや、柔らかい土、枯れ葉などをドスドスと踏みつけながら歩き回る。そのうちに灌木の下に隠れている「ネズミ」の巣もしくは穴に踏みこむのだという。
この「ネズミ捕り」の男は、背の低い、顔の大きな男で、肌が茶色で髪が黒く、目は真黒だった。その日の夕方、ケイレブと話をした時に、私はこの男のことを話題にして、あれは農業労働者で、村に住んで、土地の、目の青い女を女房にしているが、おそらくジプシーの血を引いているのだろう、と言った。
すると、これがきっかけになって、ケイレブは、昔、ウィンタボーンにいたターゲットという一家を思い出した。四人兄弟と一人の女の子の家族だった。この家族を知ったのは、ケイレブが少年の頃だが、両親のことは覚えがない。「親はいないみたいだったな」と言う。男きょうだいは、みんな、ほんとうによく似ていて、背が低く、顔が大きく、目と髪が黒く、肌は茶色だった。四人ともなかなかの働きものだったのに、なぜか農場主たちは他の労働者と差別して、賃金を低くおさえ、二シリングから四シリングも普通の賃金をけずり、他のものがいやがってやらない仕事をやらせ、何かにつけて、無理強いをしていた。無理強いの利く相手だと、このあたりの雇い主はみんな知っていたわけだが、きょうだいの方もバカではない。だから、弱いものいじめをしたり、ののしったり、時間超過で毎日、強制的に働かせたりすると、時々、猛烈に怒りだして賃金も受けとらずに、プイとやめてしまったという。妹がどうなったのか、それは全然知らないが、男きょうだいのほうは四人とも誰一人結婚せず、いつも四人いっしょに暮らしていた。二人は村で死んだが、あとの二人は救貧院で終わりそうな様子だったという。
この四人兄弟には、いろいろと変わったところがあった。その一つは、ハリネズミを食べるのが大好きだった点だという。子供の頃からそうで、いつも四人連れだって遠出をしては、あちこちの生け垣や茂みのなかで、ハリネズミ捕りをしていたという。獲物が捕れると、どこか風の当たらない場所に小さな焚火を起こして、これをあぶり焼きにする。焼いている最中に、一人が近くの田舎家に出かけていって、ほんの少しでいいから塩をくださいと頼む。頼めば、たいていは、くれたそうである。
そのきょうだいも、きっとジプシーだったのだ。少なくとも、片親がきっとジプシーだったのだ、と私はケイレブの話に口をはさんだ。混血が起こって、その子供らが村で育てられた場合は、一生そこから出ずに暮らすことが多いが、それでも、ジプシーの血の方が優性で、村の生活に決して完全にとけこむことはない。村の定住生活より放浪の野生生活を好む気質や、野生の獣肉への嗜好が残っているし、また性格面でも、まず確実に不安定、落ち着きのなさがある。こういう性格の特徴を、彼らを普通雇う小農場主たちは知っていて、利用するわけである。農場仕事をするジプシーは、大柄で色白の男たちと同じ待遇を求めてはならない。こういう男たちは荷馬者用の馬とか牛に劣らないほど頑丈で、辛抱づよく、気分が変わらない上に、太陽自体のように安定しているからである。
ジプシーの要素は英国南部のほとんどの、といわないまでも、多くの村々に見られる。私は一つの広い、まとまりの悪い村を知っているが、ここではジプシー系の人間が優勢を占めているようである。じつに想像もできないほど、汚い、乱雑な村で、一軒一軒の周りがジプシーの野営地のようだ、というより、それよりまだひどく、ボロ布やごみ屑の散らばり方がひどい。しかし住民は、すべてのジプシー同様、見た目ほど貧乏ではなく、たいていの家に二輪馬車があり、これに乗って何十マイル四方を走り回っては、獣骨、ボロ布、空きびん、その他二、三ペンスで買えるものなら何でも、その他、ただで「拾える」ものなら何でもかき集めてくる。
ジプシーの血を多く引く人間ならば、まず、これが定住生活の耐えられる限度である。これなら値切ったり、盗んだりする本能が、ある程度は働く余地があるし、放浪癖も満足する。混血ジプシーの放浪癖はそれほど強くはないからである。しかし、真の純血のジプシーには、こんなのはお上品すぎるというか、退屈すぎて、がまんならない。昨年の九月、ある雨の降る夕方に、シュルートン近くの雑木林を歩き回って、鳥の観察をしていると、一人の若者に出会った。見れば、数日前、ソールズベリの近くで見かけた十二、三人のジプシー仲間の一人である。シャフツベリの近くのある村へいく途中で、そこで一、二週間暮らそうと思っているのだ、と連中は言っていた。それで、
「ここで何をしてるのかね」
と、この若者に聞くと、
イドミストンへいってきたのだが、朝から雨のなかを歩いているので、ずぶ濡れになった。濡れても、どうということはないし、疲れてもいないが、いま仲間が足を止めているワイリー川畔のある村へいくのに、まだ八マイル、草丘を歩かねばならないという。
もうみんな、シャフツベリにいったのかと思っていたのに、と答えると、
キッと鋭い目付きになって、
「ああ、そうか、前に会ったな、二週間前に会って、ちょっと話をしたんだったな。そうだ、そこへいってきたよ。ところが村に入れてくれないのさ。すぐに追い出されたよ。どこかに足を止めたいなら、定住して住所を決めることだ、なんて言うんだ。定住だってさ! 死んだほうがましだよ!」
これがジプシーの本音で、本物のジプシーは、ほとんどがこの気持である。しかし、この風土に住む人間が何んということを考えるのだろう。この一九〇九年は、冬が長く寒く、春は惨めにも、霜の降りる夜が六月中旬までつづいたと思うと、夏になってもまだ寒く、冷たい雨が降り、秋はまた、よく雨が降るという天候だった。ところが、こういう年にこそ、真のジプシーの精神と肉体がどんなものかがよく分かるというものである。ジプシーの場合、普通人と比べて、肉体と環境がはるかによく調和しているのである。普通の人間は自分たちで自らの生活条件をつくり、住む家を持っているだけでなく、あの性の悪い継母である「自然」、われわれを早死にさせようとして躍起になっている、あの継母から身を守ろうとして、衛生監督官、医者、細菌学者の大軍を抱えているが、そういう普通の人間と比べて、ジプシーは、はるかに環境に順応している。ひどい天候のつづいたこの一年間、何十人というジプシーに私は会ったり、話をしたり、訪ねていったりしたが、陰気な顔をしているものなど、一人も見かけなかった。警察に追われていても暗い顔をしたものなど一人もいない。カゼを引いたとか、骨が痛むとか、消化がわるいとか言うものもいなかった。
ジプシーがカゼを引くということで、いま思い出したのだが、それは彼らのユーモアの感覚である。ジプシーにはユーモアの感覚がある。家族に囲まれて安らかな気持でいる時は、この感覚を充分に発揮して愉快にやっているが、こちらが顔を出すと、楽しげな様子はサッと消えて、また元の敏感な、ずるい動物にもどり、コッソリと、しかし、強い視線でこちらをうかがう。こちらが立ち去ると、気持がゆるんで、またユーモアがもどってくる。ジプシーのユーモア感覚は、じつはある種の下等動物、とくにカラス科の鳥とか原始民族のユーモアに似ている。ただ、それがもっと発達していて、主として人を騙す喜び、人をやっつけて、それを非常に面白がる類のものである。
一九〇九年十一月末近くの非常に寒い日のつづいた時期だったが、朝の十時前、私は、野営地で知ったジプシーたちを訪ねたことがある。すると、男たちは出かけたあとで、女が何人か残っていた。若い一人の女房と、大きな女の子二人、それに子供が六、七人いた。ひどく寒いのに、寝具は夏と全く変わらず、五つ六つの藁束と古い敷物類が、半分開いたキャンバスの小屋や古布の小屋の中に見えたり、その壁に寄せてあったりする。ところがみんな非常に元気な様子で、子供のなかには固く凍った地面に裸足で立っているものもいる。みんな元気で、カゼも引いていないし、寒さなんか平気だ、と言うものだから、「草丘の、こんな高い吹きさらしの場所では、寒くて、ひどくこたえたものもいただろう、と思っていた。もしも子供がカゼにやられていたら、お見舞いに六ペンスあげるつもりだったが」と私が言うと、若い女房が、「まあ、そうかい。じつは私の六カ月になる赤ん坊が、かわいそうに、カゼで死にかけてるんだよ。とてもわるくて、私は心配でたまらないのさ」と言う。
それを合図に、大きな女の子の一人が、
「わるいんだよ、あの子は。どんなにわるいか見せたげる!」
と言って、一つの藁山のなかへもぐり込んで、引っぱり出してきたのが、大きな丸々とふとった赤ん坊だった。スヤスヤとねている。女の子は抱き上げて、どんなに具合がわるいか、見てやってくれと言う。すると、赤ん坊がゆっくりと目をあけて、陽に目をパチパチさせたが、全然声を出さない。泣き虫ではないということである。温い寝床から引っぱり出された猟犬の子、ふとった大きな子犬のようだった。
ジプシーがどんなに健康か、それはこの異人種を専門に研究している人にもほとんど分かっていない。異人種といっても、ジプシーはどんな英国人よりこの土地に深く根をおろしている。健康といっても、単に雨や寒さが平気ということではない。普通の人間ならば命取りになるような食物でも、食べて平気という、その犬のような力がすばらしい。これは気持のいい、というか、きれいな話題ではないから、例は一つしか挙げないが、胃の弱い読者は読まないほうがいいかもしれない。
これはチタン村のある老羊飼いから聞いた話だが、昔、村にジプシーの一家、というか一団が時々現われたそうである。現われるのは普通、羊のお産の時期で、その頃に、親しくしているジプシーの親分の一人がやってきて、何かもらえる物はないかと聞く。あるとき、この友だちが現われて、あれこれと雑談したあと、何かもらえる物はないかと言った。「きょうは何もない。羊のお産は二、三カ月前にすんで、何も残ってないな──死んだ子羊もない。犬にやるつもりで、羊膜を五、六枚、古小屋の梁に掛けといたが、うっかり忘れて、それが腐って、それからカラカラになったよ」
「それでけっこうだ。そいつをもらおう」
「おい、おい、よせよ。腐ってから何カ月もたってるんだぜ。あんな物を食ったら誰だって死ぬぞ。すっかりひからびて、古皮みたいに黒くなってるんだぞ」
「そんなことはいいよ──食い方をちゃんと知ってるんだ。塩をちょっと入れて、水に浸けて、それから煮ると、なかなかいけるのさ」
と言って、さっさと持っていってしまった。
十八世紀末から一八四〇年頃までのソールズベリ巡回裁判の記録を読んでいて、私が驚いたのは、羊やニワトリ、アヒル、その他何かを盗んだといって、裁判官の前に引き出され、けっきょく、絞首台や流刑地送りになった哀れな「犯罪者」たちが、ぞくぞくと出てくる中に、ジプシーの姿がめったに見えないという点である。しかし、ジプシーは、その頃も今と同様、たくさんいて、今と同様の無法な野性的な暮らしをして、国じゅうを駆けめぐり、村々のあたりをうろついては、何かかっぱらう物はないかと、目を光らせていたのである。ところが、盗みを働いて捕まるのは、ほとんどきまって貧しい、頭の鈍い、足ののろい農業労働者で、身軽で動きの早い、ずるいジプシーは、うまく逃れていた。一八二〇年の『ソールズベリ・ジャーナル』誌にこれに関する投書が出ているが、その筆者によれば、ジプシーは普通、その野営場所に一つの深い穴を掘って、そこに盗んだ羊を埋め、この上で焚火をするのだそうである。もし羊を盗まれたことに気がつかないとか、警察に盗難届けが出ない時は、やがて泥棒たちは、これを掘り起こして食べるわけだが、もし警察の調べがある場合は、事件が立ち消えになるまで待つのだという。
最近私が滞在していたある村で、ある労働者の話を聞いて分かったことが、ジプシーは面白いことに、今でもこの古い単純な方法を用いている。この労働者の話だが、夏の終わりのある朝、四時頃、二週間前にジプシーの一隊が野営していた地点に、二人のジプシーが、一頭の小馬で引く荷馬車に乗って来ているのを見て驚いたという。隠れて見ていると、以前、焚火をしていた場所に穴を掘っている。そして、そこから何か五つ六つ掘り出したが、遠くて、こちらは何だか分からない。それから、掘り出したものを馬車に積んで、蔽いを掛け、そのあとで穴を埋め直して、土をよく踏み固め、灰や燃えさしを元にもどしてから、馬車に乗り込んで走り去った。
人間は、たとえ放浪者でも、どこかに自分の宝物、あるいは持ち物を隠しておく場所が必要だが、ジプシーには地下室も屋根裏部屋も秘密の戸棚もない。では、その幌馬車はどうかというと、ここはおよそ一番あぶない場所で、こんな所には絶対に、貴重品や怪しい品物は置かない。ジプシーは絶えず動き回っているが、動いている時も、止まっている時も、いつも疑いの目で見られているからである。だから、土の中が物を隠すいちばん安全な場所で、とくに、ウィルトシァ草丘地域のような土地では、そうなる。だが他の土地では、岩場とか木のうろを使うこともある。カケスやカササギの習性、あるいは、食べたくなるまで骨を隠しておく犬の習性に似ている。田舎地方の警察は、まだジプシーのこの習性に気がついていないのかもしれない。頭の回転の早さ、身の動きの早さの点で、村の警官とジプシーとは、あまりにも対照的で面白いが、ジプシーをいたずらばかりする盗癖のあるカケスとするならば、これを監視する村の警官は、農家の庭先のニワトリ、あるいは食用ガモ、あるいは堂々たる七面鳥というところだろう。
話をもどそう。さっきの、土の中から何かを掘り出したジプシーの話だが、穴のなかに羊を隠しておいて、それを掘り出したとき、腐っていたとしても、平気でジプシーはそれを食べたことだろう。ハゲタカの群れが馬の腐肉をむさぼり食う場面を見て、ソーロー〔一八一七〜六二。アメリカの文人〕が、うれしがって書いている文章があるが、ソーローは野生動物のすばらしく健康な食欲と無限の生命力を見て、感激しているわけである。しかし、こういう食欲があり、腐った肉の毒に当たらないということならば、犬やハゲタカのような下等動物にかぎらず、グリーンランド人やアフリカの蛮人、その他、世界各地の多くの民族にも、そういう力はある。
ジプシーの野外の炉端にいっしょにすわって、グツグツと焚火の上で煮えるこの黒い鍋の中身は何だろう、と私は時々考えたことがある。おそらく変な肉がいろいろと入っているのだろう。失礼だから、そんなことは口には出さないが、想像はつく。おそらく南米のヴェネゼラの蛮人の焚火にかかる鍋みたいなものだろう。この南米の鍋には小さな毒矢で仕止めたいろんな獲物、あるいは、川でとったサカナなどが放りこんである。ただ、ジプシーの鍋料理で私が腹が立つのは、小さなヒナが入っていることである。ジプシーたちが、春、小さな鳥の巣を見つけて、その中にいる、まだ毛も生えぬヒナを取ろうとして、方々のやぶを叩き回っているのを見ると、腹が立つ。しかし、そんなことをいうと、あんたの好きなカササギやカケスだって、四月や五月に同じことをやっているぞ、とジプシーから逆襲を食うことだろう。
今まで説明したジプシーのこういう習慣は、道徳家や公衆衛生官には衝撃的で、胃の弱い人には嫌悪を催すものかもしれない。しかし、こういうジプシーの慣習の方が、、学生ジプシー的な熱狂家〔マシュー・アーノルド〔一八二二〜八八〕に「学生ジプシー」という詩がある。十七世紀の書にある、貧困のためオクスフォード大学をすて、ジプシーの群れに投じたという学生を賛美したもの〕が、ジプシーの中に読み込もうとするロマンチックな詩情よりも、私には愉快に思える。私の目から見れば、ジプシーは奇妙な習性を持つ、野生の、飼いならしにくい動物であり、したがって、博物学者として私は興味をそそられる。だが、そんなことを言うと、現象面にとらわれている博物学者だから、他の人の目に見える大事な点を、どうしても見落とすのだ、という反論が出てくるかもしれない。
ごく最近、あるジプシーと話をしていると、こんなことを彼が言った。
「あんた方は本に書いてあることを知ってるが、わしらは知らん。だが、こちらは、本に出てないことを、いろいろと知ってるよ。それがこちらの知識だ。これは、わしらだけのもんで、あんた方には絶対に分らんね」
うまく言ったものだが、その秘密の知識というか、その特殊な能力の性質については、このジプシーが思っているほど、私は無知ではなかったと思う。私の考えでは、それは狡猾さというか、人間の頭脳を持つ野生動物のわるがしこさに、ある微量のとらえ難い何物かが加わったものである。だが、その「何物か」というのも霊的なものではない。ジプシーにはそんなものはない。霊的なものは、社会的本能に根ざしていて、社会的本能の強い人の中に発達する。その「とらえ難い何物か」を分析しても、やはり、それは動物的わるがしこさに過ぎない。特別な、昇化された、わるがしこさである。ジプシーの全性質を吸収して咲いた一輪の名花であるが、しかし、そこには、何の神秘的なものも含まれていないことが分かるだろう。ジプシーは寄生生活者である。ところが自由な寄生生活者で、キツネやジャッカル同様、自由に生きられる。ところが、こういう寄生生活がなかなか有利なので、社会的人間との交わりのなかで、これを非常に長い間つづけているうちに、この生活が一つの本能、もしくは秘密の知識のようなものになったわけである。だがこれは、しょせん、相手の人柄、信じ易さの程度、その他の精神的弱点を見抜く一つのすばらしく鋭敏な眼力以上のものではないのである。
ジプシーが生活の永遠の喜びとしているのは、花咲く荒野を吹きわたる風というよりも、その無法生活のたのしさである。猟場番人、農場主、警官その他あらゆる人間と張り合って、相手みんなをやっつけること、蜂の巣のミツの上に蝶のように寄生して豊かに暮らし、蜂の怒りをうまく逃れること、そのたのしさである。
さて、長い脱線からもどって、村の黒い人たちに関するケイレブとの会話にもどらねばならない。ウィルトシァの方々の村々には、ジプシーの血が全く入っていないのに、目や髪の黒い人たちが住んでいる、と私は話をつづけた。私の理解する限りでは、ウィルトシァ草丘地域には、もともと、はっきりと大きく異なる三系統の黒い人種がいる。混血の度が、たしかに、かなり進んでいるので、この三系統のどれに属していると、はっきり見分けのつかない人も多いけれども、それでも三つの型は特定できる。その第一は、ジプシーで、これは背がかなり低く、肌が茶色、顔が大きくて、頬骨が高い。さっき話題にしていた連中と同じである。第二は、色白で目鼻のととのった人たちで、顔はかなり大きく、頭は丸い。目の青い最優秀の人間たちと比べて、肉体的、精神的にまったく引けをとらないが、これは多分、顔が大きくて黒いウィルセティ族の子孫だろう。ウィルセティ族というのは、アングル族、その他の部族たちが侵略してきた時に渡ってきて、ウィルトシァに植民し、その名を残した部族である。第三の系統は、他の二系統とは大きく異なって、体はいちばん小さく、頭は細型、顔は面長、もしくはタマゴ型だが、非常に色黒で、肌は茶色。性質は活発で、おこりっぽいという点で、他の二系統とは精神的に異なる。古代ブリトン族、もしくはイベリヤ族の特徴がこの系統には強く表われているようだ、というような話をした。
羊飼いケイレブは、そういうことはあまり知らないが、そういえば、昔、村に、その最後の型の人間に似た男がいた、と話しだした。タークという名の農業労働者で、男の子が五、六人あった。この子たちが大きくなった時に、最後にもう一人、男の子が出来た。最後というのは、この子が生まれた時に母親が亡くなったからだ。ところで、この末っ子が父親似で、小柄で、非常に色黒で、目もリンボク実のように青黒く、おそろしく元気者で、よく動いたという。
ターク自身はどうかというと、こんな元気で面白い男は初めて見た、とケイレブは語った。何かやってくれと頼まれると、アッというまに片づけてしまうが、かといって、勤勉でも倹約家でもないので、ターク一家はいつでも大変な貧乏暮らしだった。ところで、このタークだが、音楽の分かる男で、古い歌を歌っていたが、古い歌なら何でもかんでも知っていたらしい。他にもまだ、いろんな芸があり、古い何枚かの金属板で一対のシンバルを作って、これを持って踊りまわり、拍子をとって打ち鳴らしたり、頭や胸、両脚に打ち当てたりした。こういうシンバル・ダンスでは、驚くような勢いで旋回したり、跳ね回ったりする一方で、時々、逆立ちをしたり、元にもどったりという具合で、いつも村中の半分のものが出てきて、彼の田舎家の前に集まり、夏の夕方、よく見物したものだった。
ある午後、村の鍛冶屋が、自分の家の横にある一本の高いモミの木を見上げながら立っているところへ、このタークが通りかかった。「何を見てるんだね」とタークが声をかけると、鍛冶屋が一本の枝を指さした。いちばん低い枝だが、それでも下から四十フィートほどある。あの枝の元から三フィートほど先きのところにズアオアトリが巣をかけているのだが、それを、うちの小さいせがれが、どうしてもほしいと言うんだ。そこで、とってやると約束したのはいいが、長い梯子はないし、どうやって、とったらいいのか分からんので困ってる、という。するとタークは笑いだして、なんだ、そんなことか。よし、わしが取ってきてやろう。ビールを半ガロンおごってくれるなら、わしがこの木に脚から先きに登っていって、巣を取って、それを片手に握って降りてくる。この手は登る時も使わないし、降りる時も使わずに、頭から先きに降りてきて見せるという。
「それなら頼むよ。ビール半ガロンは引き受けた」
タークは木に走っていって、クルリとひっくり返って逆立ちになると、幹に両脚を巻きつけ、それから両腕を巻いて、そのまま逆立ちの恰好で枝の所まで登っていき、巣を取って片手に握ると、頭を下にして無事に降りてきた。
他にもタークの活発敏捷ぶりを物語るいろんな話が出たあとで、タークの一番下の男の子の話になった。この子はリディと呼ばれていたが、洗礼の時にどんな名前をもらったのか、それはよくは知らない。とにかくいつもリディと呼ばれていて、他の名前を知っているものは一人もいなかった、とケイレブは語った。
リディの小さい頃に、大きくなった兄たちはみんな家を去っていった。一人は兵士になって、インドに送られ、二度と帰って来なかった。他の二人の兄はアメリカに渡ったという噂だった。それからリディの十二歳の時に父親が死んで、一人でやっていくはめになったけれども、いつも、父親のビール好きで、貧乏暮らしをしてきたせいで、べつにひどく困るということもなかった。やがて、小さな農場でリディは働くことになった。ここは数頭の雌牛と二頭の馬を飼うほかに、去勢羊を買い込んできて、これを肥らせることを仕事にしている農場で、この去勢羊の世話がリディ少年の仕事になった。
リディはいつまでたっても「チビッ子」で、十二の時にも九つ位にしか見えなかったので、重労働は無理だった。ところが、とても気軽によく動く、おちびさんで、気立てもよく、非常に元気な、とても面白い子だったので、村中のものから好かれた。この子が妙なことをやって、ふざけるのを見て、村の男たちは笑ったが、とくに、鋤を引っぱる老馬に乗って畑から帰ってくるとき、馬の背に後ろむきに乗って、そのしっぽに向かって、ハイドー、ハイドーとやっているのを見せられては、大笑いしたものだという。父親に似て、人を笑わせる以外に能はあるまい、と男たちは噂していたが、女たちの方は、やさしい気持で見ていた。母親もなく、ひどく貧しい暮らしをしているのに、それでも、何とかやりくりして、いつも清潔な、さっぱりとした恰好をしていたからだという。貧しい服をたいそう大事にして、自分で洗濯したり、つくろったりしていた。それから、世話をしている羊のことにもずいぶん強い興味があって、草丘で羊番をしているケイレブの所へ毎日のようにやってきては、横にすわって、羊のことや、その世話の仕方について、いろいろと質問していた。大きな農場の羊飼い頭であるケイレブを、いちばんえらい人間、いちばん幸運な人と思いこんで、その人を自分の指導者、人生の教師、友人にしていることを非常な誇りにしていたのだという。
あるとき、農場主が羊市で、三、四十頭ほどの去勢羊を買い、連れて帰ってきたなかに、一頭の雌羊がまぎれ込んでいたことがあった──いつか子羊を生む雌羊である。リディはこの発見にひどく興奮して、ケイレブの所にやってきて、この話をし、主人はあの雌羊をよそへやってしまうと思う、と言って半泣きになっていた。主人には何の役にも立たない。だけど、ぼくは悲しい、と言う。そしてとうとう、勇気をふるい起こして、リディは主人の前に出て、どうぞ、あの羊をぼくに世話させてくださいと一生懸命に頼みこんだ。主人は笑い出したが、少年の気持にちょっと打たれて、けっきょくは許してやった。こうして、リディは村一番の幸福者になった。それからは、機会あるごとに、草丘のケイレブの所に出てきては、かわいい雌羊の話をしたり、いろいろと報告したりしていた。ところが、それから十九週か二十週たったある日のこと、羊番をしながらケイレブが草丘に立っていると、向こうのほうから叫び声が聞こえる。振り向いて見ると、リディが叫びながら、全速力で走ってくる。走りながら、大声で叫んで、何か大事件を知らせようとしているらしいが、何を言っているのか分からない。すぐ前にやってきても、何のことだか分からない。あまり興奮して舌がもつれて、はっきりしない。だが、よく聞いてみると、例の雌羊が子供を生んだ、ふたごを生んだのだという──丈夫な、とてもきれいなふたごなんだ。こんなすばらしいことは生まれて初めてだという。さてそれからのリディは、今まで以上に頻繁にケイレブの所にやってきては、大事な小羊の話をしたり、その世話の仕方について根ほり葉ほり、こまごまと質問したという。大体ケイレブは、そう笑う男ではなかったが、リディの熱中ぶりを思い出す時は、ちょっと声を出して笑わずにはいられなかったようである。しかし、この哀れな少年のその美しく晴れやかな一章は長つづきせず、例のふたごの子羊は大きくなると、よそへ売られてしまい、去勢羊たちもみんな売られていった。そうなると、リディの仕事もなくなって、何かほかに仕事を探さざるを得なくなった。
私はこの話に深い興味を感じて、このまま終わりにしたくなかったので、その後の暮らしはどうなったのかと聞いてみた。すると、全く何事もない暮らしだったという。リディにも何も変わった点はなかった。ただ、あらゆるもの、とくに動物たちに強烈な愛情を寄せたところが変わった点といえばいえる位で、最後まで何事も起こらない人生だった。リディが死んでからもう九年か十年になる。ところで次の勤めでは、初め荷馬車屋の下働きをして、次に助手になり、馬たちに、すべての愛情をそそいでいた。羊より馬のほうが気に入ったし、馬は肉屋のために世話をするわけではないので、リディとしても、苦しまずにかわいがることが出来たわけである。そのうちに、その馬への愛情と知識が広く評判になってきて、ある裕福な若い豪農の厩舎で働いてみる気はないか、という話がかかってきた。リディは喜んでその話を受けた。この豪農は大きな屋敷の主人で、狩猟家だった。さてリディは厩舎の下働きから始めて、だんだん出世して、けっきょく、馬丁になった。時々、故郷の村に姿を見せることがあった。家が二、三マイルしか離れていなかったからである。馬を運動に連れ出すとき、リディは、農場の少年の頃、ふざけたことをして村のものを笑わせた、あの昔の道を走るのが楽しみだったらしい。ところが、少年時代は帽子もかぶらず、はだしということもよくあったのに、今やすっかり変わって、さっぱりとした、身に合った黒服を着て、華やかな馬にまたがる馬丁になったのだった。
こうして三十年ほど勤めて、結婚もし、子供も三、四人出来て、非常に幸福に暮らしていたのだが、ある時、大きな災難がやって来た。主人が経済的大損失を蒙って、持ち馬全部を売りはらい、使用人もすべて解雇して、けっきょく、リディもやめることになったのである。この大異変、とくに、愛する馬たちを失う悲しみにリディは耐えられなかったらしく、憂鬱に沈みこんで、口もきかずに日々を送るようになり、やがて病気になった。みんなは驚いた。なにしろ元気盛りの年齢で、これまで、珍しいほどの元気者だったからである。それから、みんなを一層驚かせたことには、そのまま死んでしまったのである。何の病気だったのか、死因は何だったのか、とみんなに聞かれて、何の病気もなかった──ただ悲しみで心が傷んでいた以外に何もなかった。これが死因だった、と医者は答えたそうである。
この章の終わりに、この話を聞いた数カ月後、ふたたび老羊飼いケイレブを訪ねた時に起こった、一つのちょっとした事件のことを書いておこう。ある日曜の夕方、ケイレブといっしょにすわっていると、彼の女房が外を覗いて、「おや、テイラー夫人が子供たちを連れてやってきたよ」と言った。それからすぐ、そのテイラー夫人が赤ん坊を乗せた乳母車を押して現われたが、その後ろから二人の小さな女の子がついてきた。夫人はバラ色のほおをした、ふっくらとした小柄な、感じのいい人で、黒い髪、黒い目の、じつに表情の愛らしい人だった。三人の小さな、きれいな子供たちも母親似だった。夫人は半時間ばかり、たのしくおしゃべりをしてから、また村道を家へ帰っていった。テイラー夫人というのは誰なのか、と聞いてみると、ケイレブが答えるには、あの人は、ある意味では、わしらの昔のウィンタボーン・ビショップ村の人間だ。少なくとも、あの人の父親はそうだった。あの人はこの近くで農場を借りている男の女房になったのだが、小さな娘の頃、たがいに知っていた間柄だから、またここで近所づきあいが出来て、わしらは喜んでいる。「あの人は、前に話したリディの娘だよ」というのだった。
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二十一章 牧羊犬
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牧羊犬の訓練──羊飼いが子犬を買うこと──訓練──犬が働かないこと──犬がツバメを追いかけて、殺されること──ケイレブの後悔──牧羊犬ボブ──ボブがマムシに噛まれること──犬の感受性の働く時期──牧羊犬トランプ──トランプの放浪の日々──激しい飢え──羊を殺す犬──ロシヤの牧羊犬──ケイレブがトランプを手放すこと。
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ケイレブにとっては、犬をまともに訓練することが最大の重要問題だった。彼の説によれば、これから訓練する犬を正しく知るには、つまり、犬の特殊な適性、限界、性質、それに加えて彼の言う「ねじれ」──普通の言葉で言うと「癖」のことだが──そういう点を正確に掴むには、こちらに頭のかなりの鋭さが必要だが、それだけでは足らず、経験と、安定した気質と、同情心も少しは要るという。人間の男の子が、一人一人ちがうように、犬にもそれぞれ個性の違いがある。しかし、血統がまともで、こちらの躾けが正しければ、かならず、りっぱな牧羊犬に育つ。まともな訓練が出来ていないとか、その犬の長所が全部引き出されていない時は、それは訓練したものが「良き羊飼い」ではないということで、知性に欠けているか(頭がわるいというのがケイレブの言い方だった)、それとも、知識に欠けているか、あるいは忍耐、あるいは、ねばりに欠けているかの証拠だという。しかし、どんな優秀な羊飼いでも失敗することはあるし、その最大の失敗、しかも、まれでない失敗は、混血犬──テリヤとかリトリーバー〔獲物を回収するよう訓練された猟犬〕とか、その他、不適当な血の入った混血犬を持ってきて、これに長い時間と労力をかけて訓練することだという。この点について、他に何人かの羊飼いと話をしたが、ケイレブと完全に同意見なのは、大体、性格的に似た所があって、羊飼いの仕事を非常に大事に考え、あらゆる点に細心の注意をはらい、最善を尽くさねばならぬと考えている羊飼いたちだった。私が知っている最も優秀な羊飼いの一人で、今年六十になる、今まで草丘のある農場を一度も動かずに暮らしてきた人から聞いたのだが、この人は、今まで他人の訓練した犬は一度も使ったことがないし、これからも絶対に使わない、ということだった。ところが、普通の羊飼いになると、犬の血統などにあまり関心がないので、べつに、それを調べようという気もない。犬は訓練すれば、多少、別血統の血が入っていても、かなりよく働くようになる。けっきょく、どんな犬でも欠点はあるのだから、がまんするより仕方がない、とまで言い出す。こんなことを言う男は、ケイレブに言わせれば、「良き羊飼い」ではないということになろう。ケイレブの一番悲しい思い出の一つに、親犬のことをちゃんと調べずに買って、訓練したという犬の話があった。
村の一人の羊飼いが、遠い農場に勤めることになり、出発前に、五、六匹の子犬を片づけようとして、ケイレブに一匹買ってくれないか、と持ちかけてきたことがあった。ケイレブは断った。「わしの犬は、なるほど年をとってるが、今、子犬はほしくないし、これからも要らんよ」
ところが、一、二日すると、また羊飼いがやってきて、五匹のうちの一番いいのを一匹とってある──他の四匹は全部片づいた。「一番いい奴だぜ」と言う。「いらんよ。前にも言ったろうが、いらんのだよ。わしは。その金もない」
「いいや、金の心配はいらん。お前さん、鈴を持っとるだろうが。あの鈴の音がわしは気に入ってな、あれをくれたら、犬を渡すがな」
ということで、話がまとまり、一個の銅の鈴と、頸に白い環の入った、かわいい子犬とが交換された。この子犬の母親犬がよい牧羊犬だということはケイレブは知っていたが、父親犬のほうは全然調べなかった。
子犬を受けとったとき、これがトーリーという名だと聞かされたが、べつにそれを変えもしなかった。犬の名前をつけるのはむつかしい。適切で、しかも、人から笑われないような名前を考え出すのはむつかしい、とケイレブは言う。まともな名前はたくさん思いつく。ジャックとかウォッチとか、いくらでも、そういうものなら思いつくが、こういう名は、昔、飼っていた犬の思い出があり、その犬だけの名前だという気がして、他の犬には使えない。それでけっきょく、トーリーという名前もそのままにしておいたという。
トーリーを手に入れるには大した費用はかからなかったが、生後僅か二、三週間しかたっていなかったので、本格的な調教を始めるまでの満六カ月間、ケイレブは自費でこれを養う必要があった。調教はそれから三カ月ないし六カ月かかるのだった。犬は特別な元気者は別として、生まれて丸半年たたないと使いものにならない。羊は臆病な動物だが、バカではない。だから、猛烈な勢いでスッ飛んできて噛みつく、年季の入った、こわい老練の牧羊犬と未熟な新米犬との見分けは簡単につける。この点、ミヤマガラスが銃を持った人間とホウキを抱えた藁人形とをすぐに見分けるのと同じである。小犬と見ると、羊たちは急に向き直って襲いかかり、犬はしっぽを巻いて逃げてしまう。それに小犬はまた、自分の体力不相応に激しく働いて、体調を崩してしまい、その結果、臆病な牧羊犬になるが、羊飼いたちは、こういう犬を「心の傷ついた犬」と呼ぶ。
もう一つ注意すべきことがあるが、犬を訓練する時は、最初、老練の牧羊犬と組ませて働かす必要があるという点である。新米犬はあたりを走り回って、何かをしようという衝動があるが、何をしていいか分からないし、主人の身振りや命令も理解できない。したがって実地教育の必要があり、主人の身振りを実際に見、言葉を実地に聞いて老練犬がどういうふうに動くか、何をするかを注意して見る必要があるわけである。こういうふうにして、新米犬の頭のなかで、身振り、あるいは命令の言葉が自分の一つの行動と結びつく。しかし、実地教育もやりすぎてはいけない。やりすぎると、得るよりも失うほうが大きい──個人的責任感のようなものが失われる結果になる。つまり、権限を委任しようとする主人への責任感が失われるのである。権限を主人から直接受けとるかわりに、先輩犬から受けとることになって、これが、たちまち習性として固定してしまうのだが、この種の実地教育を三回ないし六回以上行なうと、まず小犬はダメになると言う羊飼いが多い。先輩犬の指導が必要になって、以後、いつも途方に暮れて、動きがあやふやになるそうである。
臆病な、もしくは、気おくれのする小犬は、二、三度、老犬と組ませるということをよくやるが、これにも危険が伴う。小犬の体力に無理がかかって、そのために「心に傷」を受け、以後どうしても立ち直れず、こうなると絶対によい牧羊犬にはならない。
トーリーのことに話をもどそう。適切な時期に訓練を受けて、物おぼえのよい、働く気充分の犬だということが分かった。それでやがてトーリーは、牧羊犬として役立つようになり、大いに用いられるようになった。先輩犬が年をとって急速に脚が衰え、耳が遠くなってきたので、なおさらだった。
ある日のこと、半分はクローバー、半分はアブラナという一つの野原に子羊たちを入れたことがあった。ところが、クローバーだけを食べさせようとするのに、これがトーリーには理解できない、というより、理解しようとしない。何度も何度も子羊たちをアブラナの所に行かせてしまうので、ケイレブはひどく腹が立って、牧杖をトーリーに投げつけた。トーリーは振り向いて、主人を一目見ると、非常におとなしく、こちらにやって来て、こちらの後ろにすわり込んだ。さてそれから、トーリーは言うことを聞かない。ケイレブが一生懸命なだめすかしても、どうにもならない。けっきょく、あきらめて、その日は一人で何とか仕事をすませた。
その夕方、羊たちを囲いに入れたあと、偶然、親しい一人の羊飼いに出会ったので、この話をすると、
「一週間、ひもにつないで、大事に扱ってやることだな。そうすりゃ、すっかり忘れて前と同じようになる。トムにそっくりだな。父親犬の気質を受け継いだんだよ」
「なんだって? トムの子だっていうのかね? そんなこととは知らなかった。トムには余計な血が入ってた──獲物回収犬の血が入ってたんだ」
「そうさ。みんなは知ってたよ。お前さんに聞かれたら教えてやったんだが。まあ、わしの言ったとおりにやってみな。ちゃんと元どおりになるさ」
というわけで、トーリーは家にひもでつながれ、大事に扱われ、やさしい言葉をかけられ、頭を撫でられたのだった。悪感情が残らないように、という心づかいであり、また、トーリーが賢い犬ならば、主人が杖を投げつけたのは、傷つけるためではなく、ただ、いたずらを叱るためだった、ということが理解できるように、という気づかいだった。
さて、ケイレブにとって忙しい一日がやってきた。ウィルトンの羊市に行く前に、羊たちの手入れをするという日である。仕事に当たるのは、ケイレブと少年助手と老いぼれた犬と、トーリーである。ところが、いざ仕事を始めると、トーリーが頑として働かない。
小羊たちの向きを変えるように命令すると、プイッとして歩いていって、二十ヤードほど向こうにすわり込んで、こちらを見ている。みんなが働きだすのを見れば、やがて機嫌を直すだろうと思い、ケイレブはしばらくの間、トーリーをそのままにして、頑張って働いていたが、老犬はいよいよ脚が重く、耳が遠くなってきた様子で、仕事がはかどらない。それで、時々、トーリーの所に近づいて、働いてくれるように声をかけるのだが、声をかけるたびに立ち上がって、主人のそばに寄ってくるのに、何かせよと命令されると、また、プイッと向こうへ行ってしまって、平気な顔をしてすわり込んで、こちらを見物している。だんだんケイレブは腹が立ってきたが、それをトーリーには見せないようにして、なおも当てにならない望みをつないでいた。ところが、妙なことが起こった。ツバメが一羽、地面スレスレに飛んできて、スーッとトーリーの鼻先をかすめたのである。すると、パッとトーリーは立ち上がって、すごい速力で走り出し、ツバメの後ろをスレスレに追いかけて野原を走っていく。そのうちにツバメは舞い上がって、向こうの生け垣を越えていった。たのしい追跡が終わると、トーリーはまた元の場所へもどって、すわりこみ、小羊たちを相手に一生懸命に働いている仲間たちを見物しだした。こうなってはもう、ケイレブもがまん出来なかった。ゆっくりとトーリーのそばに寄っていって、まだ頸に巻いてあった藁の首輪を掴んで、静かに生け垣の横に引っぱっていき、一つの茂みに結びつけ、それから、一本の太い棒切れを持ってもどって来て、ガンと一発頭をなぐりつけた。あまりひどくなぐったので、トーリーはキャンともいわずに倒れ、ピクピクと体をふるわせたかと思うと、脚を伸ばして、それきりで死んでしまった。ケイレブは、それから一抱えのシダをとってきて、トーリーの死骸にかぶせて、これを隠し、衝立ての所にもどって、助手の少年を家に帰した。それから、生け垣の横に自分のマントを拡げ、その上に横になって、頭を抱えこんでいた。
一時間後に農場主がやってきて、
「何をしてるのかね? 羊の手入れもせずに」
とあきれると、
ケイレブは片肘をついて身を起こし、子羊の手入れはしない──きょうは仕事はやめたと答えた。
「おい、おい、それは困るよ!」
ケイレブは、きょうは犬のことで腹が立って、腹立ちまぎれに犬を殺してしまったので、子羊の手入れはやらない。やらないと言ったら、やらない、と答える。
すると、農場主は怒りだして、あれは、なかなか鼻のきく犬だったんだ。生かしておけば、わしのウサギ捕りの役に立ったのにと言う。
「ご主人よ。あの犬はな、子犬の時に、わしが手に入れて、羊仕事に仕込んだもんだ。ウサギ捕りに仕込んだんじゃねえ。殺したからにゃ、もうウサギ捕りには役立たないよ」
ケイレブの気質をよく知っている農場主は、腹の虫をおさえて、もう一言も言わずに向こうへいってしまった。
だがその日、あとになって、ケイレブは、ある羊飼いの友人にひどく叱られた。なにも殺さなくてもよかったんだ。前から、この村の犬をほしがっている羊業者がいたから、簡単に売ってやれたんだ。売れば、苦労して育てた手間賃くらいはとれたのにという。だがケイレブは、訓練したわしのために働かないような犬が、他人のために働くはずがない。これからは二度と、血筋のまともでない犬は訓練しない、と答えた。
だが、そういうふうに理屈はつけたものの、やはり後悔の気持に悩まされたという。シダで犬の死骸をおおい、仕事をやめてしまった事件の日だけでなく、その後も一生、いやな気持が尾を引いて、この事件のことを口にする時は、その気持が強く表てに現われずにはいなかったのである。変な血が入っていないことを前もって確かめもせずに、子犬を連れてきて、何カ月という長い時をかけて仕込んだとは、われながら情けない。その上、生きている値打ちがない犬にしても、腹立ちまぎれに殺してしまったのだ。ああいうふうに、急にツバメを追いかけるなんてことをしなかったら、こちらも辛抱して、あとから何とか考えることも出来たのに、あんなふうに、鳥を追って走り出されては、もうがまん出来なかった。わしをからかおうとして、わざと、やってるなという気がした。汗水流して働いている主人に、どうだ、このすばらしい身の動きと速力を見ろ。ぼくの機嫌をそこねたばかりに、どんな損をしたか、これで思い知ったか、そういう気だな、という気持がしたのだという。
ケイレブはもう一つ失敗談を聞かしてくれたが、これにもずいぶん苦しんだそうである。若い頃に飼っていたボブという犬の話である。非常に小さな犬だが、頭の回転の早さで体力の不足を補っていた。しかも、ずいぶんの元気者で、羊飼いの良い召使いであり、また良い相棒だった。
ある夏の日の昼頃、ケイレブが野原の羊の群れの所にいこうとして、一つの生け垣の横を歩いていくと、土手に一本のヒイラギの老木が立っていて、その根元をボブが、何かうさんくさそうにクンクンとかいでいる。背は低いけれど、非常な老木で、ふとい幹の中が腐って空洞になっているのを、根元から茂みが伸び上がって、その空洞を隠している。そばに寄っていくと、ボブが顔を上げて、低い声で、悲しげにうなった。こういう声を主人に聞かせる時は、深い意味があるのだが、その意味が、いつでも主人に理解できるかというと、そうでもない。とにかく今、ケイレブには分からなかった。八月のことで銃猟が始まっていたから、これはてっきり、鉄砲玉で負傷した鳥が木の洞の中に隠れているんだと早合点して、ケイレブは「とってこい!」と命令した。ところが実は、ボブのうなり声は恐怖の声で、どうすればいいのか指図を求めていたのである。命令を受けて、ボブは、パッと突込んだが、すぐに後ずさりをして、キャンキャンと哀れな声を上げて、前の両脚で顔をこすりだした。驚いたケイレブは、パッと木の根方にしゃがみ込み、うろの中を覗いてみたが、何も見えない。ただ、カサカサとかすかな枯れ葉の音がするだけである。ボブはマムシに噛まれたのだった。えらい失敗をした。ボブはもう助からないかもしれない、と自分を激しく責め、非常に心配しながら、ケイレブはすぐに村にとって返した。村に着くと、母親がすぐに良人アイザックに事を知らせて、その指示をあおぐために草丘へと飛びだしていった。集まってきた村人たちは誰一人、手当ての方法を知らない。やむをえずケイレブは、じっと待つよりほかなかったが、その間、ボブは一方の前脚にしきりに顔をこすりつけては、痛みに体をヒクヒクさせながら悲鳴を上げている。すると、やがて、顔と頭との片側が腫れてきて、それが首筋からのどくびまでひろがってきた。やがて、アイザックが羊の群れを女房にまかせて、心配顔でやってきたのと同時に、近所のある村から一人の男が馬に乗って通りかかった。この男が馬から降りて、ケイレブに手を貸して、犬をおさえつけている一方で、アイザックがナイフを使って、腫れたところに幾筋か切れ目を入れて、少し血を出す。それがすむと、切れ目と腫れたところに油薬をすり込んだ。この薬の製法は秘密で、これは草丘のある村人の手製だった。小さな瓶一本を八ペンスで売っていたのである。アイザックはその効き目を信じて、いつも一瓶を田舎家の中のどこかに隠していたのだった。
ボブは数日たつと回復した。ところが、腫れていた箇所の毛がすっかり抜け落ちて、顔半分、頭半分が丸裸という恰好になってしまった。だが、また新しい毛が生えてきて、元どおりになった。元にもどれば、また元どおりの元気な利口者で、その後、長生きしたけれども、毒の一つの効果はどうしても消えず、響きのよい、よく通った声が、一変して、低い、しわがれ声になって、いつも「喉を痛めた犬」みたいな声で吠えていたそうである。
犬の訓練の話にもどることにしよう。いったん訓練を始めれば、最後まで持ち込まねばならない。訓練を始めるのは生後六カ月の時で、一歳になったとき、教育はほとんど完了していなければならない。一歳になった犬は元気があり、感受性が強く、非常に適応性に富んでいる上に、この時期の頭脳の働きは人間のそれに非常に近い。しかし、それがそのまま続く──この半年間に学んだものに、つぎつぎと新しい知識が折りあるごとに加わると考えるのは誤りである。一歳犬は、ほとんど、犬としての学習能力の最終点に達していて、人間のような受容能力はもうない。しかし、すでに学習したことは以後一生残るのだろう。しかし、学習したことを思い出すのだとは言いにくい。むしろそれは、いわゆる「引き継がれた理解力」もしくは「退化した知識」のようなものである。
こういうことは羊飼いにとって非常に重要なのであって、ある老羊飼い頭が、以前、私に、なぜ自分で訓練しなかった犬は、今まで一度も飼ったことがない。これからも飼わないと言ったのか、これで説明がつく。訓練の方法は人によってみな違い、全く同じ方法が用いられるということはあり得ない。だから、訓練した人の手から別の人に移った犬は、かならず少し途方に暮れるわけだが、これはやむを得ない。方法、声、身振り、人柄、何もかもが、すっかり違うのだから、新しい主人は、犬をよく研究し、こちらの方から、犬にある程度合わせていかねばならない。羊の飼い方が違う土地に移された場合、犬の混乱は、なおさら大きくなるが、ケイレブがその実例として聞かしてくれた話は、ここに記す値打ちがある。これはケイレブの語った犬の話のなかでも、とくに面白いと私は思った。
ケイレブは普通、犬は子犬の時に買ってきたものだが、時には、もう訓練ずみの犬を買わねばならぬこともあった。そういう犬は、普通の犬でも一、二ポンドかかった。これはケイレブにすれば大金だった。ところが一度だけ、訓練のすんだ一匹の老犬をただで手に入れたことがある。若い頃の話で、その頃、彼は故郷の村で羊飼い助手として働いていた。ある日のこと、西のほうで興行していたある大サーカス団が、動物たちを連れてソールズベリへ向かう途中、あしたの朝六時頃、村のそばを通るという噂がとどいた。有料道路は一マイルと少し離れていたので、ケイレブは五、六人の村の若者と連れ立って、朝の五時頃出てきて、森の横の木戸の上にすわって待っていた。やがて、馬たちや、馬に乗った男や女、ライオン、トラ、その他見たこともない、いろんな動物を乗せた豪華な大型馬車、そういう大型馬車が何台も入った長い行列が通りかかった。木戸の上にすわった若者たちは、感心したり、大喜びしたりした。行列が進んで、最後の大型馬車が道を曲がって姿を消すと、若者らは木戸を降りて、帰ろうとした。ところがそのとき、森のなかから、一匹の大きな、毛のモジャモジャした牧羊犬が出てきたのである。道路へ走ってくると、あわてた様子で左右にキョロ、キョロ目をやっている。きっと、さっきのサーカスの犬で、道草を食って、森のなかでウサギ狩りをしていたのだろうと思い、若者らは、大声でその犬に呼びかけ、行列が去った方角へ、しきりに腕を振った。ところが犬は、その意味が分からず、かえって怯えるだけで、振り返るなり、走ってまた森のなかへ逃げ込んでしまい、それきり見えなくなってしまった。
それから、二、三日して、ウィンタボーン・ビショップの近所の畑地に、見なれない犬が出るという噂が立った。少し離れた田舎家や農場に行き来する途中で、女子供たちが出会ったという。急にエニシダの茂みから現われて、ものすごい目でにらみつけたとか、高い生け垣の間の野道に出てきて、ちょっとの間、立ち止まって、こちらを見ていたかと思うと、恐がって逃げていってしまったとかいう噂だった。方々の羊飼いたちは羊のことを思って心配し、あたりはひどく興奮して、犬の噂でもちきりだったが、それから二、三日後に、ケイレブがこの犬に出会ったのである。仕事が終わって、大きな牧草畑の横を帰っていく途中だった。畑のなかで四、五人の女がアザミ狩りをしていたが、その一人の女の後ろを、一匹の犬がつけ回している。あれは、あの行列の時の犬だ、とケイレブはすぐに気がついた。女はひどく恐がって、「ケイレブ、こっちにきて追っぱらってよ、お願いだよ! すごい顔をして、恐いよ」と声をかけてきた。
「怖がることはないよ。噛みつきやせんよ。腹がへってるだけだ──ほら、骨が突き出してるだろうが。食い物をほしがってるんだ」
と答えてケイレブは少し寄っていき、「犬の頸を掴んで、おさえといてくれ」と声をかけながら、なおも近づいていった。こちらが近寄るのを見て、犬が逃げだすかもしれないという不安がある。しばらくすると、女が犬に声をかけたが、犬がそばに寄ってくるのを見ると、女は身を縮めるようにして、「だめだよう、掴めないよう──手を食いちぎられるよう。こんな恐い顔をしたの、見たこともないよう」と大声を上げる。
「腹がへってるんだ」とまたケイレブは答えて、ソロソロと非常に用心しながら寄っていったが、犬はじっと疑わしそうな目を離さず、何か危険と見れば、飛んで逃げそうな恰好をしている。それで、ケイレブはやさしく声をかけながら、寄っていき、立ち止まって腰をかがめて、ポンポンと両膝を叩いて、こっちへ来いと声をかけた。すると、やがて犬は、身をだんだん低く伏せるようにして近づいてきて、とうとう地面を這いだして、ケイレブの足元までくると、クルリとあお向けにひっくり返った。これは犬が、人間にせよ、犬にせよ、とにかく自分より強い者の前に出た時に、自分を低くして、相手の慈悲を願う一つの雄弁な動作である。
ケイレブはかがみ込み、頭を軽く叩いてやってから、頸をしっかりと掴んで引き起こし、もう一方の手で自分の革のバンドを外して、これを犬の頸に巻いて、引きひもの代用にした。それから、その引きひもの端を握って、「こい!」と声をかけ、犬を横にしたがえて家に帰ってきた。帰ると、バケツを一つ持ってきて、たっぷり二食分ぐらいのひき割り粉をこねる。犬はその手元を、片時も目を離さずに見つめているが、体をピクピクと震わせ、ヨダレをダラダラと流している。こね終わると、それを芝生の上にあけてやった。それから見た有様に、ケイレブはもう呆気にとられてしまったという。犬はひき割り粉の山に飛びかかっていって、むさぼり食ったわけだが、それは何か、どうもうな野獣でも捕まえて、これを狂気のように、引き裂こうとするような格好だったという。グルグル回り、ドタドタとよろけながら、窒息しかけたような唸り声や悲鳴を上げて、ガツガツと呑み込んでいる。みんな平らげてしまうと、芝生にまだひっついている僅かの濡れた粉まで食ってしまおうとして、芝生を食いちぎって、これを呑み込んでいる。
こんな激しい飢えを見たのは初めてだった。この数日間、食う物も食わずに近所をうろつき回って、どんなに苦しかったことだろう、とケイレブは見ているのも辛かったそうである。しかし、あたりには四六時中、羊がいたのである。何十頭という羊の群れが、村から離れた所に囲われて、夜間は放置されていたのである。こういう場合、古い狼や山犬の本能が出てきたことだろうと人は思うかもしれないが、そういう本能は、どうも完全に消えていたらしい、とケイレブレは語った。
純血種の牧羊犬は絶対に野生状態にもどることはないと私は信じている。夜、羊を殺したのが、どこかの牧羊犬だと突きとめられた場合でも、それは、獲物回収犬とか、野良犬とか、ウサギ犬(テリヤのことを羊飼いはこう呼ぶ)などの悪い血が入ったものに限られると私は信じている。私は子供の頃、南米の草原に暮らしていて、羊を食い殺す犬をザラに見かけたものだが、それはいつも野良犬だった。つまり、土地の普通の犬で、なめらかな毛並を持つ、ダルメシアン犬くらいの大きさの、赤毛、黒毛、もしくは白毛の犬だった。今でも覚えているが、羊を殺した犯人が、わが家の犬どもだと突きとめられた事件が一度あった──当時、うちには六、七匹いたのである。数マイル向こうの原住民の隣人が、ある朝、羊殺しの現場を目撃したのだった。隣人は投げ縄と鉄丸付きの飛び縄を持って、駿馬を飛ばして追跡したが、犬どもは逃げきった。ところが、追跡者は目がよかったので、薄明かりのなかに犬どもの特徴を見おぼえていて、やがて、その身元を突きとめたのである。そこでけっきょく、殺されたり、重傷を負わされたりした約三十頭分の羊の損料を私の父が払わされるはめになった。その後、一つの絞首台が作られて、わが家の番犬どもは絞首刑の恥をさらしたのだったが、ここ英国では犬は銃殺にする。しかし、昔ながらの絞首刑の国もまだあって、このほうが苦痛は少ないのではなかろうか。
話を本筋にもどそう。食べ物をもらったあの時から、例の迷い犬は、ケイレブの忠実な愛情深い奴隷となった。主人の顔や身振りを絶えず見守り、ちょっとでも声をかけると、すぐに飛び立って、命令に従うようになった。羊の群れに付けると、なかなか役に立つ牧羊犬だと分かったが、残念ながら、ウィルトシァ草丘地域で訓練を受けたものではなかった。他の学校で訓練された牧羊犬で、古い方法を棄てて、新しい方法に従うことがどうしても出来ず、目あたらしい仕事のやり方にまごついていることが一目でわかった。ところが、どういう地方、あるいは、どういう国で、どんな条件の中で育ったのかという段になると、さっぱり分からない。牧羊犬だとみんなは言うが、こんな牧羊犬は誰も見たことがない。ウィルトシァのものでも、ウェイルズのものでもない。サセックスのものでも、スコットランドのものでもない。これ以上は思いつくものがない。誰か羊飼いが、この犬の姿を見かけると、かならず興味を起こして立ち止まり、ケイレブに、「これは何んていう犬だね? こんなのは初めて見たな」と声をかけてくるのだった。
ところがある日のこと、村に新しい家を建てようとしている建築現場の横を、ケイレブが通りかかったことがあった。他所から職人が何人か来ていて、その一人が声をかけてきた。
「にいさんよ、その犬、どこで手に入れたね?」
「どうして、そんなこと聞くんだね?」
「その犬がどこから来たか、知ってるぜ。ロシヤの犬だよ。たしかだぜ。クリミヤに行ったとき、そういうのをたくさん見たよ。英国で見たのは初めてだがね」
ケイレブはこの話をすっかり信じる気になって、そんな遠い国の牧羊犬を手に入れて、少し得意になったが、また、これで新しい知識が付いたような気もしたそうである。ロシヤで大きな戦争があって、たくさんの人間が死んだという話はよく聞いていたが、今まで、ロシヤのことなど何ひとつ知らなかった。ところが、この職人の話で、初めて、ロシヤというのが大きな国で、山や、谷や、村があり、羊の群れや、牛の群れ、羊飼いや、牧羊犬もいて、ウィルトシァ草丘地域と全く変わりないということが実感されたというのである。例の犬にはトランプ〔放浪者の意味〕という名を付けてやったが、このトランプが身の上話を聞かせてくれたらいいのに、とケイレブは思ったそうである。
トランプは、草丘にも草丘での牧羊犬の仕事にも慣れていなかったけれども、ケイレブは最後まで使ってやりたかった。ところが、このトランプ、ウサギ狩りがどうにもならないほど好きだったので、それが出来なかった。仕事を怠けるのではないが、コッソリ抜け出すことが多すぎる。そこでけっきょく、ウサギ狩り用によい犬をほしがっていたある男が、十五シリング出そうと言った機会に、トランプを手放してしまった。新しい主人に連れられて、他所の土地へ去って以来、トランプの姿は二度と見たことがないという。
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二十二章 博物学者としての羊飼い
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全般的なこと──グレイト・リッジの森──ノロジカとの出会い──切株にすわる野ウサギ──猟場番の思い出──ジプシーと語る──ハリネズミの奇妙な話──記憶について語るジプシー──羊飼いの動物への感情──トガリネズミの話──ミミズクの話──猟場番という仕事の持つ影響──感情をもって眺めるものが最も深く記憶に残るということ。
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野生動物、というより、野生のものも、飼いならしたものを含めて、およそ動物全般についての興味ぶかい事実を、私は老羊飼いとの雑談を重ねて、集めてきたのだが、その量は大したものではないと、読者のなかには思う人もあるだろう。長い一生を戸外で過ごして、これだけしか人に見せるものがない、いや記憶に価いするものがないとすれば、それは、いささか貧弱な収穫ではないか、という文句が出るだろう。しかし、私に言わせれば、これはなかなか豊かな収穫である。博物学者ではない素人は、他のことに感覚や頭を向けているので、動物についての新しい興味ある事実に出会うことは非常にまれで、たとえ偶然そういうものを観察しても、すぐに忘れてしまうのが常である。だが、われわれのような実地の博物学者は、何か見たり聞いたりすると、忘れないようにそれを手帳に書きとめておくのであって、素人のそういう事情をいつも頭においているわけではない。最近、グレイト・リッジの森の近辺のヒンドン村に滞在していたとき、とくにそのことを痛感した。グレイト・リッジの森というのは、ワイリー川の谷を見おろす高い長い草丘の頂きにかぶさる巨大な森で、ほとんどが低木、もしくは矮性のオークから成っている。場所によっては、これがひどく密生しているが、また、まばらになって、不毛な、開けた、空き地のようになっている所もある。全域十二ないし十四平方マイル──いやもっとあるかもしれないが、原生林のような景観を見せている。森の近所には一軒の人家もなく、森のなかには僅かの猟場番を除けば一人の住人もない。私は何日間も森のなかで暮らしたが、人っ子ひとり見かけなかった。こんな野性的な淋しい場所が英国にあるのが嬉しく、ここなら、いろんな野生動物の生態が見られるだろうと、とくにここへ来て二日目にある経験をしただけに、楽しい期待に胸を満たされたのだった。二日目の経験とは、森のなかの一つの空き地に立っている時だった。一羽のキジが一声驚きの叫びを上げたかと思うと、おそらくその声に怯えたのだろうが、一頭のノロジカが飛び出してきたのである。オークとヒイラギの分厚い茂みの中に隠れていたのが怯えて飛び出したのだろうが、私のすぐそばを駆け抜けていったので、残り少ない大型野生動物のなかでも最も臆病者のその姿が、よく見えた。あのネズミ色の毛皮は、いつも日中、隠れて過ごす濃い木陰のなかでは見分けがつかないものだが、この時は明るい五月の陽の射す緑の空き地を駆け抜けていったので、その姿は実に美しく私の目に映じた。だが、このノロジカは一頭だけで、他に仲間はいなかった。この森への偶然の訪問者であり、この土地の森から森へとさまよう、ただ一頭の放浪者だった。私と出会う一カ月前にも一度姿を見せたことがあり、以来、その横腹に散弾をブチ込もうとして、猟場番たちが、銃を持って待ちかまえていたのである。
だがグレイト・リッジの森で、りっぱな大型動物にお目にかかったのは、これが最初で、最後だった。じつは、この森には、ウィルトシァの他のすべての森や林同様、キジの呪いがかかっているわけで、鳥ならば、ハイタカからチュウヒ、ノスリ、オオタカに至るまで、獣ならば、野ネズミを捕る小さなイタチからタヌキに至るまで、およそキジにとって有害とされる野生動物は、すべて皆殺しにすることになっている。ただ美しいというだけの動物、もしくは、その野性的なところがいいという動物も、全て、この中に含まれていて、当然、リスからノロジカに至るまで、皆殺しにされることになっている。
この果てしない森のなかで、絶えず目を配って歩き回りながら、非常に長い夏の一日を過ごしたことがあるが、そのとき、一匹の野ウサギが木の切り株の上に坐っている姿を見かけた。変わった収穫という点からいえば、これがその日の唯一の収穫だった。はじめ、ウサギは前方百ヤード以上あたりの所から飛び出して、まっすぐ向こうの方へ走っていったかと思うと、急にこちらを向いて走りだし、私の左側へ回りこんで、私がもと来た方角へ向かおうとする。立ち止まってじっと見ていると、地面を疾走するその姿は、ウサギというより、ぼんやりとした茶色の物体で、これが、茶色の木々の幹の後ろや間に現われたり、消えたり、また現われたりして、私の左側に半円を描いたかと思うと、急に見えなくなった。立ち止まったのだろうと思い、消えたあたりに双眼鏡を向けてみると、高さ三十インチほどの一本のオークの切り株の上に坐っている。苔むした丸い切り株で、直径十八インチほどあり、周りに茶色の枯れ葉が分厚く散りしいて、両側に何本かの矮性のオークのゴツゴツした茶色の幹が立っている。ウサギは両耳をピンと立て、横顔を見せてじっとすわり、片目で私のほうをうかがっているが、その恰好が台座の上に置いた彫刻のウサギのようで、実におもしろい。
こんな眺めは初めてなので、これは話をする値打ちがあると思い、夕方、帰る途中で立ち寄った番小屋の猟場番に、この話を持ち出したのだった。きょうは何も収穫がなくて、ウサギが切り株の上にすわっているのを見かけた位のみやげ話しかない、と私が言うと、「ほう、珍しいものを見たもんだな。わしは永年この森にいるが、そんなものは一度もお目にかかったことがない。だけど、考えてみると、ウサギのやりそうなことだな。森中、切り株だらけだから、切り株に飛びのって、遠くの木の間にいる人間か動物を偵察するくらいのことは、確かにやりそうだ。だが、わしはまだ見たことがない」と猟場番は答える。
それならば、きょう、いや、きのう、いや、これまでの三十年間の森の巡回生活ちゅうに、どんな記憶に価いするものを見てきたか、と私は質問した。これに対して猟場番は、それはたくさん、変わったことは見てきた。だが今、話をしようにも、何一つ思い出せないという。思い出すのはキジを育てて、守る仕事に関係したことばかりで、その他の動物たちについて気がついたことは、見た時はどんなに珍しいと思っても、重要なことではないので、すぐに忘れてしまうのだ、と言うのである。
この明くる日、私は一人のジプシーといっしょに草丘に出ていたのだが、そのとき、野生動物の話が出た。この男は中年の典型的なジプシーで、赤毛、あるいは明色の髪の混血ジプシーとは違って、アメリカ・インディアンのように色黒で、タカのような目付きをしていた。また、やせて、たくましく引きしまって鋭敏なところは、全くタカにそっくりで、飼い馴らされた文明の土地に生きる完全な野生人だった。このジプシーの足元にぴったりとついて離れない、やせた、ネズミ色のラーチャ犬も、いかにもラーチャ犬〔一種の混血の猟犬〕という風貌で、人間も犬も互いにぴったりと息の合った好一対だった。国じゅうをうろつき回って日を送っているが、健康は申し分ないし、家の中に住むことなんか、まっぴらだ。どんな家でも、とにかく中へ入ると、息がつまりそうになって、気分がわるくなる、というような話を聞いているうちに、私はうらやましくなってきた。鳥の翼をうらやましがるような気持になってきた。大邸宅に住む人間に対しても、こんな気持は起こらない。このジプシーの生活こそ、野生の、真の生活であり、これ以外に、生きがいのある生活はないように思えたのである。
野生動物のことを話し合っている時にハリネズミの話が出て、「わしらがハリネズミを大好きなことは知っとるだろうが、ウサギ以上に好きなんだよ」と言うので、「ほう、私もそうだがね」と答えた。じつは、ほんとにそうなのか、どうか、はっきりしないのだが、とにかくそう答えて、私は話をつづけた。
「ハリネズミの話が出たから言うんだがね、このハリネズミというのは、どこでも見かける奴だが、妙な癖がいくつかある。ところが、いろんな猟場番や他の連中にそれらを聞いても全然知らんし、自分で観察していても、さっぱり分からんところが考えてみると妙だ。ところが世間では、この小さな動物のことは何でもかんでも、もう分かったつもりでいる。百冊、いや五百冊くらいの本にハリネズミのことが出ている。この国に棲むいろんな動物のことを書いた本が一つあるが、これがえらい大きな本で、その三巻本は一人では持ちあがらんぐらい重いが、この本のなかに、ハリネズミのことで分かっていることが一切合財かき集めてある。ところが、私の知りたいことは出ておらんのだ。そこが知りたくて、わざわざ調べたが、出ておらん。じつは私のある友人が見たことなんだ。友人というのは博物学者でも狩猟家でもない。猟場番でもジプシーでもない。動物を観察するわけでもないし、その習性に興味のある男でもない。物書きでね、毎日、毎晩、物を書くのに忙しくて、本の中に埋もれて暮らしているが、この男が見たことだ。私の知る限りでは、博物学者も、猟場番も、見たことがないようなものを見た。ある月夜に、森のなかの小道を通って家に帰る途中だったそうだ。じつに変な物音が少し前のほうでするのに気がついた。低い口笛みたいな音で、非常に鋭い。コウモリかトガりネズミに似た声を持つ小鳥が、しきりにさえずっているような声だが、ただもう少し、柔らかい、感じのいい声だ。用心ぶかく近づいていくと、道の上に二匹のハリネズミがいたというんだ。向かい合って立って、鼻をくっつけ合わせていたというんだよ。立ち止まって眺めながら、その声を聞いていたが、もう少し近寄ろうとすると、跳んで逃げていったそうだ。
「これを聞いてから私は、十二、三人の猟場番にこんなものを見たことがあるか、と聞いてみたんだが、みんな見たことがないという。ハリネズミが、鳥かトガリネズミみたいな声で鳴くなんて、聞いたこともない。ただ、ワナに掛かったウサギみたいな悲鳴を上げるのは知ってるというが、お前さんはどうかね?」
「わしも、そんなもんは見たことがないな。わしが知ってるのは、夜、ハリネズミが初めて外に出た時に、口笛みたいな小さな声を出すというくらいのことだな。あれは一種の呼び声だと思うが」
「しかし、お前さんは、ハリネズミや他のいろんな動物のことで、いろいろと珍しいことを見てるだろう。それを聞かしてほしいもんだな」
それはまあ、昼でも夜でも、森やいろんな所で、考えてみれば、いろいろと変わったことは見てきたが、
「じつは、何かを見て、ほう、これは面白いと思っても、すっかり忘れてしまうんだよ。珍しいことを見ても、べつに、わしらは、それを大事なこととも思わんし、学者でもないから、本に書いてあることもさっぱり知らん。何かを見て、こんなことは見たこともない、聞いたこともない、と思っても、ひょっとすると他に見た人がいるかもしれんし、本の中に出てるのかもしれん、とまあ、そういうふうに考えるわけだ。だがなあ、忘れずに覚えておれば、いろいろと面白い話もできたんだがな」
ジプシーに言えるのは精々これ位で、また、これ以上言える人間は少ない。だが、ケイレブはその少ない人間の一人だった。それはなぜか。ケイレブの仕事場は、野原や草丘で、ここでは野生動物は、数、種類からいっても最も少なく、そういうものを観察する機会も、猟場番と比べると格段にとぼしい。それなのにどうしてか。おそらくそれは、野生動物に共感を寄せているため、動物たちの行動を眺めるとき、感情をこめて見てきたので、それだけ記憶に鮮明に刻みつけられた、ということではなかろうか。これまで飼ってきた多くの牧羊犬のことをどんなによく覚えているか、また、その犬たちのさまざまな性格がケイレブの話の中でいかに生き生きと描かれているか、それは今までに見てきた。しかし他方、今まで飼ってきた牧羊犬のことについて、何も話すことがないという羊飼いにも私は何人か会ったのである。こういう羊飼いたちは、犬のことを、生きている間は、せいぜい役に立つ召使いくらいにしか思わず、死ぬと忘れてしまう。ところがケイレブは、犬たちに忘れられない感情を寄せている、というか、思い出す時は亡くなった人を回想するような、やさしい気持を感じないではいられなかった。だがこの気持は、犬だけでなく、ある程度、動物全般に向けられていて、一番小さな、人から問題にもされないような、ちっぽけな動物にも及んでいた。ここに、ケイレブが語った非常に小さなトガリネズミという動物の話があるので記しておく。ケイレブはこれをハシリネズミと呼んでいた。
ある日、羊の群れと共に外に出ていると、急に激しい雨嵐になったので、すぐ近くにあった、手入れの悪い古い生け垣のなかに雨やどりをしたという。溝のなかに這い込むと、イバラや木イチゴの絡み合った下に、古い枯れ葉がいっぱいにたまっていた。土手に背中をもたせかけて、両脚をグッと突き出したとたん、足元からキッ、キッ、キッという小さな甲高い悲鳴が上がったので、ギョッとした。見れば、長靴の横の枯れ葉の上に、一匹のトガリネズミが立ち上がって、長細い鼻面を上に向け、口をいっぱいにあけて、力の限りに叫んでいる。そのちょうど上、二、三インチあたりのところに一羽の小さな茶色のチョウがヒラヒラと舞っていた。しばらくチョウは舞い、トガリネズミは悲鳴を上げつづけていたが、やがてチョウはスッと飛び去り、トガリネズミのほうは枯れ葉のなかに消えたという。
話し終わると、ケイレブは笑い声を上げたが〔これは彼にすれば珍しいことだった〕、「ハシリネズミは、小さなチョウがつかまえられんので、泣いとったんじゃよ」と言った。
しかし、これは間違いである。トガリネズミは土の中から出てきて、不意を襲われ、危険に頻した時は、身動きもせず、鋭い悲鳴を繰り返す特殊な習性があるわけで、ケイレブはこれを知らなかったのである。知っている人は少ない。ケイレブがすぐそばに足をおろしたために、トガリネズミは怯えて悲鳴を上げたのである、チョウもおそらく怯えて、同時に飛び上がったもので、そこにいたのは偶然だろう。もう一つ、鳥の話、長耳ミミズクのちょっとした話もしてくれたので、書いておく。
ある夏のことだが、ひどい日照りがつづいて、牧草地が乾上がり、カチカチに土が固まって、いつものように餌がとれなくなり、ミヤマガラスどもが、カブラ畑を襲ったことがあった。農場主がカブラ畑に何本も杭を打ち込んで、杭から杭へ何十本と木綿糸や麻糸を畑じゅうに張り渡したからよかったものの、そうでもしなければ、カブラはひどい被害を受けるところだった。ミヤマガラスはこれで畑に近づけなくなったわけである。ズアオアトリを小さな菜園の苗床から遠ざけたり、スズメを芝生や庭園のクロッカスに近づけないためにも同じ手を使う。ある日、ケイレブは、カブラ畑のずっと真中あたりに、茶色がかった灰色の奇妙なものを見た。見ていると、二、三フィート飛び上がっては、また落ちるという動作を繰り返しているのだが、この妙な動きが二、三分ごとに起こる。何だろうと近づいて見ると、それは一羽の長耳ミミズクだった。片足が一本の糸にひっかかり、その糸がたるんでいる。これなら、二、三フィート飛び上がれても、そのたびに引きもどされるわけだ。ずいぶんやせていて、糸を外して片手に持ってみると、ひどく軽い。きっとこの二、三日捕まっていたものに違いないが、よくもこの真夏の長い炎天下の数日を、燃えるように暑い畑の真中で生きのびてきたもだ。しかし、その羽根ぶりのりっぱなことといい、長く黒い耳毛の房の美しいことといい、死ぬまで決して消えぬ、その丸い、オレンジ色の目の火のような輝きの美しさといい、全く見事なものである。このミミズクをじっくりと眺めてから、先ずケイレブが考えたのは、これなら、りっぱな鳥の剥製を作って、ガラス・ケースに収めたいと思う人ならば、喜んで引きとってくれる、ということだった。しかし、ケイレブはミミズクを頭上に差し上げて、飛ばしてやった。ミミズクは十四、五フィート飛んで、カブラのなかへ降り、少し走ってから、またやっと飛び上がったが、それからすぐに力をとりもどして、畑の上を越え、向こうの木立ちの深い木陰のなかへ消えたということである。
こんな話をしているケイレブの声、態度、目の表情には言葉以上のものがあり、こういうちょっとした事件を、これほど長い間、記憶に刻みつけていた感情が表われていた。
猟場番はこういう感情を持つことはできない。仕事にとりかかった時は、これから生活を共にするいろんな野生動物に生き生きとした興味や共感まで持っていたとしても、そういう気持はたちまちのうちに、全部消えてしまう。猟場番の森のなかでの仕事は、殺すことであって、その反射的効果として当然、生きた動物──その生活や心への興味は消滅する。動物を見て、無意識に銃を構えるまえに、その動物の何か変わった動作、あるいは外見が記憶に残るとすれば、そのほうが不思議だろう。
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二十三章 村の支配者
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大物の道徳的影響──孤児のような村──村の支配者たち──イライジャ・レイヴン──変わった外見と性質──イライジャの家──フクロウ──二つの部屋──年と共に心の固くなるイライジャ──村のクラブとその勝手気ままな書記──小羊たちを殺虫液に浸してケイレブが病気になること──クラブへのケイレブの請求権が拒否されること──法廷でのイライジャ。
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草丘を歩き回っている時に、大地主とか、その他、豪勢で気前のいい人間の一人もいない村に行き当たると、私はいつもホッとする、というより、じつに嬉しい。こういう人間は村のあらゆる事、あらゆる人間の上に君臨して、その気になると、村の神様を演じるからである。と言っても、べつに、私はそういう人間に個人的反感を持っているわけではない──そういう人でも、完全に、とはいかなくても、充分に、人間的である場合もあるからである。
しかし、私が心から不愉快に思うのは、大物がそういうふうに、巨人のように小人のなかに立つと、周りの粗朴な人間に影響が及んで、その大物の好むと好まざるとにかかわらず、その投げかける大きな影のなかに、卑屈、偽善、寄生的根性という道徳的雑草が芽を吹いて茂りだすという事実である。一般的に言うと、大物はそういう道徳的雑草を好む。人間の常として、大物もまた凡人同様、広く人から尊敬されることを好むのである。しかし、尊敬されるといっても、周りに見える人の顔に、日々刻々に、その美しいしるしが見えなければ、どうして尊敬されていることが分かるだろうか。しかし、そういう大物の庇護など受けずに、一本立ちして、自分の運命を切り開くために、男らしい独立心をもって、きびしい条件、貧困、その他救われない数々の不当な苦しみを甘受するほうが、もっとよいのではないか。こう考えるために、私は初めてケイレブの故郷の村を訪ねたとき、そこに一人の金持ちも、大物もおらず、また金持ちでもない一人の牧師のほかに一人の紳士もいないのを知って喜んだのだった。そこは、いわばきびしい世間にひとり放り出されて、自活しようとして奮闘している孤児のような村だった。ここに住む老婆たちに、普通ならば、毛布や袋入りの石炭を恵んでくれる人間など、ひとりもいない。大きな農場主というのも一人もいない。趣味で農業をやる紳士など、もちろんいない。ほとんどが小さな農場主で、言葉づかいや外見など、雇っている農場労働者とほとんど区別がつかないという人もいた。
しかし、こういう辺鄙な小さな村々には、他人を抜いて成功者になり、一種の支配権を打ち立てた人間が見られるのが普通である。こういう成功者は、決して成功しない他の連中と比べて、概して、はるかに頭がいいのかというと、そんなこともない。大きな違いは、他のものと比べて、より強引で、欲張りで、自制心があるという点である。こういう性質は、けっきょくのところ効果を発揮するわけで、他の連中から、少し離れた所、少し高い所に位置を占めるようになり、権力の味を知ることになる。ところがこの味を知ると、山猫が初めて血の味を知った時のような効果がある。つまり、以後、自分の理想、はっきりした目標を持つようになるわけだが、目標とは人を支配すること、頂点に立つことである。こういう人間は、ケチで、金にきたなくて欲張りで、横暴で残酷なこともあって、近所づきあいをするには、じつに不愉快な場合がある。事実、一般に、そのとおりなので、みんなから憎まれ、軽蔑もされているのだが、また反面、こういう不快感と共に、他人の考えや感情を踏みにじって自分の道を進むその勇気に、疚しいながらも、尊敬したり、感心したりする気持も生じてくる。けっきょく、人間も動物の場合と同じで、どうしても、支配者がほしいのである。警官とか治安判事ではなく、また役所や政府というような、漠然とした、遠い所にある、非人間的なものでもなくて、猟犬群の先導犬、牛の群の先導牛のような、自分に似たもので、自分が知っていて、毎日、見たり、聞いたり、感じたり出来る支配者がほしいのである。見なれた服を着た現実の人間、オオカミかイヌのように、支配者の地位を戦いとった村の仲間がほしいわけである。
ウィンタボーン・ビショップにもこの種の人間が一人いた。たびたびケイレブの思い出話に出てきたのは、非常に強い印象を残したからだが、不愉快という点は別にして、印象の強さという点では、父親のアイザックとか、ダヴトンのエラビイ氏に劣らなかったようである。じつは、この男は、非常に強引な性格で、いろいろと妙な癖がある上に、容貌も少し奇怪なところがあったそうである。
名前までイライジャ・レイヴンという奇妙なものだった〔イライジャはイスラエル王エイハブに旱魃と飢饉を予言した預言者。その予言の後、ヨルダン川の東に隠れたが、神の命により、毎日、ワタリガラス(レイヴン)がパンと肉を運んできてくれたという。旧約、列王記(上)〕。ウィンタボーンの生まれで、レイヴン家の最後の末裔として、ずいぶん長生きしたが、村通りのちょうど真中あたりに父親ゆずりの小さな家があり、ここに住んでいた。大きさからいえば田舎家とほとんど変わらない、小さな、古風な、古い、藁ぶき屋根の木骨住宅で、裏手に納屋とか馬小屋などのいくつかの付属建物があり、小さな果樹園が一つと、十二、三エーカーの畑が一枚ついていた。ここにイライジャは一人の老人を相手に暮らしていて、この老人が炊事と家事を引き受けていた。だが、老人が亡くなると、一人暮らしになった。独身だったばかりか、家の中にいっさい女を入れなかったという。イライジャの考えていることはただ一つ、他人の弱みにつけ込んで、村の支配者になることだったそうである。小さいことから始めて、用心深く、つつましく、農業に手を出し、近所のあちこちに畑を一枚、牧草地を一枚、草丘地のかけらを一つというふうに手に入れ、そのほかに僅かの羊や牛を飼い、馬を売り買いしたり、育てたりしていた。雇う人間は、安い賃金ですむ連中で、仕事がなくて暇を持て余している貧しい農業労働者とか、前に書いたあのターゲット兄弟のような無理のきく連中とか、ジプシー連中だった。ジプシーは国じゅうを飛び回っていて、雇ってくれる農場で、気が向いた時に、一時気まぐれに働くという調子なので、普通の半分ほどの賃金ですむ。貧しい者がもし、病気や何かで急に金が必要な時は、イライジャの所にいけば、すぐに手に入った。といっても、貸したり、恵んだりしてくれたわけではない。こちらが持ち物を売るのである──馬でも、牛でも、牧羊犬でも、家具でも、とにかく何でも売れば金を払ってくれる。何も売るものがなければ、仕事をあてがって、労賃を出してくれた。とにかく、いつでも現金があって、出してくれるというのは大したことだった。亡くなった時は悲しむものもなかったけれども、数千ポンドの遺産が残って、これが遠い親戚のところに行ったが、あまり芳しくない名も残った。この名はウィンタボーン・ビショップばかりか、ソールズベリ平原の他の多くの村々にも、いまだに記憶されている。
イライジャは背が低く、肩幅が広く、頭が異常に大きくて、異常に大きな黒目だったという。一生に、一度も散髪をしたことがないという噂で、巻き毛の豊かな髪が肩まで伸びていたが、年をとって、そのフサフサした髪とヒゲが白くなると、まるで巨大な白フクロウのような姿になったそうである。村の母親たちは、子供らを叱るのに、「いうことを聞かないと、イライジャがお前をさらいに来るよ」とおどかしたそうである。本人もこれを知って、怒っていて、子供に目をとめるようなことは一度もなかったけれど、小さな子供に怯えた目付きで見られることは、ひどくいやがっていたという。村の人間から自分を隔離しようとして、家の前に、ヒイラギ、イチイなどの苗木を植え込み、これが成長して、分厚い常緑樹のしげみになり、ついには家全体がすっかり隠れた。ところが、彼の死後、これが刈り倒されて無くなった。私が初めて村を訪ねたとき、偶然、この家に下宿して、こんなに風雅な、古い、広い部屋に落ち着くのは初めてだ、と喜んだものだが、この時はもう、その木々は跡形もなかった。イライジャの名はケイレブから聞いて、ずっと前から知っていたが、今、自分がその家にいるのだとは知らず、この家の女主人に、家の由来を聞きたいと頼んで、初めて分かったというわけだった。女主人はここの土地者で、いたずら盛りの、恐いものしらずの小さな女の子だった頃、時々、表ての低い塀を乗り越えて、分厚いイチイのしげみの下にもぐり込み、戸口や窓の所にいるフクロウのような老人の姿を盗み見したそうである。
イライジャの家には、長い間、一対の白フクロウが棲みついていたが、老人は、それらにそっくりだったというわけである。白フクロウたちは老人の寝室の端にある小さな屋根裏部屋を占領し、藁ぶき屋根の軒下の一つの穴から出入りして、ここに安住し、ヒナを育てていた。常緑樹のうしろの家からフクロウたちが飛び立って、爪でネズミを掴んで飛び帰ってくる眺めが、夏の夕方には普通に見られたものだという。こういう季節になると、聞き分けのない子供をおどす文句も、「イライジャのフクロウがさらいに来るよ」というのに変わってきて、自然と、子供らは、フクロウとフクロウのような姿の老人とを頭の中で結びつけて、大きくなっていったものだという。
長い一人暮らしの間、老人は、他の部屋はクモの巣とホコリにまかせておいて、二部屋だけを占領していたというが、その二部屋が私の下宿部屋になったのは、奇妙な偶然だった。一つは居間にして私は使っていたが、これは天井がひどく低くて、まっすぐに立つと頭がつかえるほどだった。床はレンガ張りで、片側に大きな古い暖炉がある。天井はそんなに低くても、じつにひろびろとした、じつに居心地のよい部屋で、草丘を長時間ほっつき歩いて、時には雨にぬれて、寒くなって帰ってきた時など、暖炉の火のそばに坐って、ぬくもると、ほんとに居心地がよかった。夜になって、せまい、ねじれた、虫食いだらけの階段をのぼり、二つの厄介な、物騒な角を曲がって寝室にいく。ベッドに横になって、闇の中で目をあけて、格子窓の小さな灰色の四角を見つめ、外の雨風の音に耳を澄ましている。そのうちに、昔ここに、うす汚いフクロウのような老人が横になって、永年のあいだ闇の中で、やはりあの灰色の四角の格子窓を、毎夜ながめていたのだ、というようなことが思われてくる。人間の中にある何物かが、死後も地上に残って、昔の生活の場を訪れるというのならば、その何物かが、性格の強い人間の場合、とくに現われやすく、この世の人の目に映りやすいというのならば、それならば、今夜あたり、イライジャ・レイヴンの亡霊が出てくるかもしれない、とそんな気がしてくる。ところが、そのフクロウのような顔が、灰色のぼんやりとした光のなかに現われたことは決してなかったし、また、冷たい、この世のものならぬ息吹きが、私のほおに触れたことも、ついに一度もなかった。
イライジャは年をとっても、人間として、まともにはならなかった。年をとって、髪がいよいよ長く白くなり、ますますフクロウじみてくると共に、いよいよケチくさく、欲張りになり、周りのあらゆる人間を利用しようとして躍起になってきたという。農業労働者にせよ、羊飼いにせよ、農場手伝いの少年にせよ、老婆にせよ、とにかく彼に雇われた貧しい村人で、誰ひとりとして、ひどい目に会わされたと思わないものがないという有様だった。ドン底の貧乏人でも逃れられなかったそうである。もしも日当四ペンスで誰かを働かせても、イライジャは何かと理屈をつけては、その僅かの賃金の上前をハネたのだった。ところが同時に、世間によく思われたいという気持も彼にはあったのである。ところが、ついにその機会がやってきた。必ずしも、わしは自分のためにだけ生きているのではない。すすんで人助けをする気持もあるのだ、ということを世間に見せつける機会が訪れたのである。
ウィンタボーン・ビショップには、教区のほとんどの農場労働者の参加する一つの福祉団体、というか、クラブが古くからあって、会員が六、七十人ほどになっていた。会費は四季払いだが、規則はゆるやかで、会費納入が一、二週間遅れても、みんな大目に見てもらっていた。会員が病気になったとき、積立金から週給の半額を受けとるのだが、そのほかに年一回の会食があった。ある農業労働者が書記をしていたが、年をとって体が弱り、リューマチの手にペンを握るのもむつかしくなったので、会合が開かれて、対策を考えることになった。ところがこれが簡単には片づかない。簿記が出来て、無給の書記役を買って出るような会員はいないし、たとえいても、全会員がよく知っていて、これを信頼しているというような人間は一人もいない。イライジャ・レイヴンが助けに乗り出したのは、この時である。彼は重要人物、村の唯一の重要人物というので出席を許されていたのだが、このとき、彼が立ち上がって、私が書記を引き受けてもよいと申し出たのだった。みんなはひどく驚いたが、直ちにこの申し出を全員一致で受けることになって、今までの不愉快な感情は一掃されて、ここに生まれて初めてイライジャ・レイヴンは、村の有り難い、無欲な人間として賞賛の言葉を浴びる経験をしたわけである。
それからしばらくは非常に順調に運んだ。その二、三カ月後の年一回の恒例の会食の席で、イライジャは事務長として会計報告をして、クラブに二百ポンドの繰り越し金があることを示した。ところが、その後まもなく問題が起こってきた。クラブ書記の地位を利用して、イライジャが私利私欲を図っているとか、自分が気に入らぬ会員への意趣返しをしているとかいう噂が流れだしたのである。たとえば、四季日に誰かが会費を納めにやってくる。すると、イライジャは、この人が以前、自分のために働くのを断ったとか、何か今、けんかをしている、とかいうことを思い出す。それで、会費納入日が過ぎていたりすると、会費の受けとりを拒んで、もうあんたは会員資格を失ったのだと言い渡す。あるいはまた、前の会費をまだ納めていない人がやって来て、病気手当を請求したりすると、もしその人が彼のエンマ帳に載っている場合は、支払いを拒絶するという調子だった。ところがまもなく、ケイレブとの間に衝突が起こった。イライジャはケイレブには特に含むところがあって、この小さな事件が原因で、けっきょく、村のクラブは解散になってしまった。
この頃、ケイレブは村から一マイル半以上離れた「バートルの十字架」と呼ばれる大きな農場の羊飼い頭をしていた。八月のひどく暑い日のこと、ケイレブは殺虫液に子羊を浸して洗う仕事をすることになった。農場から小羊の群れを追い立てて、一つの高い草丘を越え、村の一マイル下にある小川の漬け洗い場まで降りてくるのは、ひどく骨の折れる道で、ケイレブは暑くなり、くたびれて、仕事をはじめた時は、もう汗だらけになっていた。肩まで両腕をむき出しにして、最初の一匹を抱き上げ、水槽の中に浸ける。洗い仕事の最中は、一滴でも薬液が口のなかに入らないように、いつも口を固く閉じているのだが、運わるく、このとき、助手の男が話しかけてきた。それで、答えないわけにいかなくなり、口を開けたとたん、抱えていた小羊がひどく暴れて、バシャッと液をはね返した。ケイレブは顔じゅうに薬液を浴び、口の中にまで液が入ってしまった。すぐに口から吐き出し、顔を洗ったものの、やがて気分がわるくなってきて、仕事がすむまでに二、三回坐りこんで休まねばならない始末だった。しかし、何とか頑張って最後までやりとおし、それから群れを連れて帰り、田舎家までもどってきたが、それきりでもう動けなくなった。農場主が見舞いにきた時は、高い熱が出て、顔と喉がひどく腫れ上がっていた。「わるそうだな。すぐ医者に見せんといかんよ」と農場主は言うが、医者の住む村まで五マイルある。医者にはとてもいけないとケイレブは答えた。「とてもわるくて──金をやるといわれたって、いけませんや」
それでは、と農場主自身が自分の馬に乗っていってくれて、やがて医者がやって来た。「体のなかに毒が入って、同時にカゼを引いたらしい」という診断だった。それから六週間、病気はつづき、それからケイレブはまた仕事にもどったが、まだひどく体がフラついた。やがて、機会を見つけて、イライジャの所へ病気手当を受けとりにいった。当時ケイレブの賃金は週十二シリングだったので、半分の週六シリングの六週間分が受けとれるはずだった。ところがイライジャは、払わない、と頑として拒む。会費の納入が数週間遅れたから、全ての権利を失ったのだという。病気で、家で寝ていて、金も無かったし、給料ももらえなかったのだと説明しても、どうしても聞いてくれない。重い心を抱いて、ケイレブが外に出てくると、事の成行を知ろうとして村人が三、四人、外の道路で待っていた。みんな以前、気ままな書記のために追い帰された経験のある連中である。ケイレブが話の模様を説明していると、イライジャが家から出てきて、表ての木戸の上に身を乗り出して、こちらの話を聞きはじめる。ケイレブは振り向いて、大声で、「イライジャ・レイヴンさん、これはひどいじゃないですかい! これまで三十年、わしは四季日ごとに金を入れてきて、五、六年前、一度病気をした時に、二週間分の金をもらったきりで、他に何も受けとっとらん。今度は六週間、病気をして、そのあいだ主人は一文も出してくれなんだ。医者の払いはあるし、生活の金はなし、どうすりゃいいんだね?」
イライジャは、しばらく黙って、にらみつけていたが、
「金は一文も払わんと中で言うたじゃろうが。言うたからには、その通りにするぞ。家で、中でと言うたじゃろうが。もういっぺん言うたろうか。中では絶対に払わんと言うたぞ──払わん、一文も払わんわい。しかしじゃ、もし、いつか家の外で会うようなことがあったら、払うてやるわ。さあ、帰れ」
と言われて実際、ケイレブはおとなしく帰ったそうである。トボトボと重い足どりで家に帰るうちに、腹立ちもおさまってきたという。以前、いろいろと腹の立つことがあって、それで、払いを遅らせて、仕返しをしているにしても、いずれ金は入ると考えたのだという。
それから一、二週間すぎたある日、村の中を歩いてゆくケイレブの目に、向こうからやってくるイライジャの姿が映った。これで金は入るぞと思い、互いに近づいた時に、「おはよう、レイヴンさん」と陽気に声をかけた。ところが相手は何も答えず、立ち止まりもせずに行ってしまう。ケイレブはガッカリして見送っていた。
けっきょく、金は入らないのか、という問題になって、方々の田舎家で相談が行なわれたが、そのうちに、みんなほど貧しくなくて、時折、ソールズベリに出かけていく一人の村人が、この問題を弁護士に相談してくると言い出した。イライジャは法律的にこんなことが出来るのか、自分で相談料を出して、聞いてくると言うのである。ところが、いざ相談してみると、出来るのだと言われて、びっくり仰天して帰ってきた。クラブは登記されていない。それに会員たち自身がイライジャを会長を選び出した以上、イライジャは勝手にできる──訴訟は成立しないのだ、と言われたという。ただし、家の外で出会ったときは払うといったことが事実であり、事実だと証明できれば、金を払わせることが出来る。もしこの事件を持ち出して、負けた時の経費の支払用として、五ポンドを保証してくれるなら、この事件を引き受けて、法廷に持ち出してもよい、と弁護士は言っていたという。
週十二シリングの賃金で医者への借金を払い、生活もしているケイレブが、保証金など一文も出せるわけはなかった。しかし、この弁護士の意見が、村の旅館や村じゅうの田舎家でさんざん話題にのぼるうちに、ケイレブの友人のなかから、保証金にしてくれと、いくらかずつ寄付するものが現れて、けっきょく五ポンドが集まり、これが弁護士の所に相談にいった男に渡された。
男は早速ケイレブを呼び寄せた。ケイレブは一日仕事を休んで、ある市日に荷馬車屋の車で、ソールズベリに出かけることになり、その結果、裁判事件になって、しかるべき日に法廷に持ち出された。イライジャのほうは二、三人の味方を連れて出廷していた。何か下心があって、味方のような顔をしたがっている小さな農場主連中である。それに、弁護士も一人ついていた。ケイレブは裁判など生まれて初めてで、裁判官の顔など見たこともなかったが、この時の裁判官はカツラを付けた、「おっそろしく」きびしい顔の老人だったそうである。こちらの弁護士が先ず口を切って、しゃべって、しゃべって、しゃべりまくったが、途中でイライジャの弁護士が口を出して、しきりにじゃまをする。そこで二人の口げんかになって、ガンガンとやり合うのだが、裁判官さんはプスッとも言わずに聞いている。ただ、だんだん不機嫌になってきて、いよいよ、「おっそろしい」恐い顔になってくる。それから、言い合いが、すっかりすんだように見えたんで、裁判のきまりも何もさっぱり知らんもんで、わしが立ち上がって、「裁判官さま、失礼でやすが、わしがしゃべってもかまいませんか?」と聞いたんじゃ、という。「裁判官さま」と言ったのか、「裁判官閣下」だったのか、あとになっては思い出せなかったが、そのどちらかだったことは確かだそうである。すると、「よろしいとも。そのために、あなたは、ここに来られたのです」と裁判官は答えた。そこで、ケイレブはイライジャとの面会と、家の外での話し合いの模様を説明した。
すると今度は、イライジャがポンと立ち上がって、大声で、
「閣下、閣下、ここにすわって、この男のいろんなウソを聞いているのは、なんと悲しいことでありましょうか!」
とわめいた。
「おすわりなさい! すわって、口を閉じていなさい。さもないと退廷を命じますぞ」
と裁判官が雷のような声でどなりつけた。
とたんにイライジャ側の弁護士がパッと立ち上がった。裁判官がこれを見て、「あなたもすわりなさい。本件において、どちらがウソつきなのか、あなたにも分かっているはずです。けしからん事件だ!」と言うと、それで裁判は終わりになってしまった。ケイレブは病気手当六週間分と諸経費と、その上に三ポンドほど受けとったが、これはイライジャに対する裁判所の勧告で、クラブ会員に分配されたクラブ資金の分け前だった。
こうして、ウィンタボーン・ビショップ・クラブは解散になり、以来、この村にはクラブはない。
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二十四章 アイザックの子供たち
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アイザック・ボーカムの子供たち──末の息子──ケイレブがウィルトンの羊市でデイヴィッドを探すこと──長女マーサ──その美貌──マーサと羊飼いイエラットとの結婚──イエラットという姓──エレン・イエラットの話──イエラット一家がサマセットに行くこと──マーサと荘園屋敷の夫人──マーサの旅──彼女の女主人の死──ウィンタボーン・ビショップへ帰ること──羊飼いイエラットの最後。
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ケイレブはきょうだいの真中に位置していたが、このきょうだいは、上に兄と姉の一人ずつ、下にも弟と妹の一人ずつという釣合いのとれた五人きょうだいだった。兄と妹のことは前にちょっと書いたから、この章では、姉と末の弟のことを書いて、アイザックの子供たちの話を完結させることにする。
弟というのは牧羊犬モンクを殺したあの怒りっぽい若い羊飼いで、のちにケイレブの後を追ってウォーミンスターに行ったあの男である。癇癪もちで「分別に欠ける」ところはあったが、ケイレブはこの弟が大好きで、年をとって羊飼いの生活をやめ、妻のあとについて新しい家に移った時も、大好きな弟から、こんなに離れたのが悲しくて、歎いていたそうである。それで、しばらくは、年に一度、何とか旅をして、会いに行ったというが、ウォーミンスター近くのその家に出かけたのではなく、ウィルトンに行ったのだった。毎年ここで九月十二日に大羊市が立つので、この時をねらって出かけたわけである。
先ず、田舎家から荷馬車屋の車に乗り、最寄りのまちまでいき、そこから汽車に乗って、一、二度乗り換えてソールズベリ経由でウィルトンへ向かったという。
私と知り合ってから、ケイレブが病気になり、これがなかなか直らず、二年以上動けなかった時期があるが、この間、しきりに彼は弟の話をして、会いたいと洩らしていた。どうして手紙を書かないのか、と私は思ったものだが、ケイレブはどうしても書かないし、向こうも書いてこない。こういう古い世代の人は手紙は書かないのである。便りもせずに、お互いに何年も過ぎるにまかせ、顔も見ぬあれこれの家族のものを思い、会いたいと願い、達者でいることを念じるのだが、手紙を書こうという気は全然起こさない。
長い病気がやっと直りかけて、ケイレブはもう一度、愛する弟に会いにウィルトンの羊市へいく決心をしたのだった。ウォーミンスターへはいけない、あそこは遠すぎる。こうして九月十二日、またウィルトンへ出てきて、弟がいつも羊たちを連れて出てくるあたりへ、痛む体を引きずるようにして、ゆっくりとやって来たのに、その姿が見えない。「早すぎたかな」と思い、おとなしく腰をおろして待っていたが、何時間たっても弟は現われない。そこで、立ち上がって、市のあちこちをウロウロ探しまわったが見つからない。また、坐っていた場所にもどってきて、二人の若い羊飼いを相手に、わしは、このあたりにいつも羊を連れてくる弟を待っているんだが、と話しかけた。すると、「その弟というのは何んて名前だね」と聞くので、デイヴィッドというんだがと答えると、二人の羊飼いは互いに目を見合わせて、だまりこんでしまったが、やがて一人が、「あんたは羊飼いのケイレブ・ボーカムかね」と聞く。そうだがと答えると、もう一人が、「きょうは会えないよ。わしらはダヴトンから来たもんだが、弟さんのことは知ってる。もう弟さんには会えないよ。二年前に死んだからな」と言った。
ケイレブはお礼を言って立ち上がり、だまってその場を立ち去り、その夜、田舎家にもどってきた。その夜はひどく疲れていて、食べもせず、おしゃべりもしなかった、とケイレブの女房は語った。何日たっても、隅にすわりこんで、じっと沈みこんでいるので、「わたしゃ、腹が立ってきてね。『きょうだいが死んで、そんなにへこたれる男なんて、見たこともないよ。まるきり、女房か息子に死なれたみたいじゃないか』と言ってやったんだけど、一言も答えなかったね」。その恐ろしい悲しみが薄れはじめて、また昔の村の生活の話が、たのしく出来るようになったのは、それから何週間という長い時間がたったあとだったという。
姉のマーサのことでは、もっとたくさん書くことがある。マーサは、この静かな草丘地域の人間にしては事件の多い人生を送った。また彼女は、美貌と活発な性格という点でも家族のなかで目立った存在だったという。マーサは故郷の村で少し前に亡くなった。私はその村で、八十歳を越した彼女に初めて会ったのだが、その歳になってもまだ美貌の名残りはあったし、魅力もまだ強く感じられた。八十歳を越えても、体の恰好がよく、背がかなり高く、目が黒く、大きい。形のよい顔は浅黒くすっきりとして、シワひとつないし、かつては黒かった髪の毛は白いものが混ざっていても、まだフサフサと豊かだった。立居振舞いも、じつに魅力的だった。二十五歳の時に、トマス・イエラットという名の羊飼いと結婚したという。ところでイエラットという姓だが、私はこんな姓は初めてで、草丘地域の村々をあれほどうろつき回っても一度もぶつかったことがなく、教会墓地でも一回もお目にかかったことがなかったので、ウィルトシァのどこにイエラット家があるのだろうか、と不思議に思ったものだった。ウィンタボーン・ビショップの未亡人マーサとその息子の他に、イエラット姓を名乗るものを知っている人など一人もいなかった──イエラットという家など、ほかに噂を耳にした人さえいないのだった。それで、この姓はごく最近出てきたものではないか、と私は考えはじめたのだったが、あるとき、草丘地域の古い教会を見学していた時に、そこの牧師が「妙な」名前があるからと言って、建物の外壁にはめこんだ銘板のところへ案内してくれた。見れば、そこにある名がイエラットで、年代は十七世紀とあった。牧師はこの銘板でしか、この名は見たことがないと言っていた。それならば、マーサの夫は何者だったのか? それは奇妙な話で、マーサに聞いても、絶対に話してはくれなかったと思うが、彼女の弟であるケイレブと、その妻から、私は次の話を聞いたのである。
マーサより一世代前、エブル川畔のバウア・チョーク村のある農場に、エレン・イエラットという娘が乳しぼり女として雇われていたという。この村の生まれではなかった。親や生まれた場所が分かっていたとしても、それはもう遠い昔に人の記憶から消えてしまったのである。きりょうよしの、気立てのよい娘で、主人夫婦もずいぶん気に入っていたので、二年ほど働いていた頃、彼女が妊娠していると分かった時は大変な衝撃だったという。ところがある日、もうひとり未婚の女で、この家の大事な召使いが、同じ状態だと分かった時は衝撃はいよいよ大きくなった。二人のあわれな女は、お互いに体のことを打ち明けて、他のものにはいっさい隠してきたのだが、もう隠せなくなった。それで互いに相談して、農場の奥様に打ち明けて、その結果を待とう、ということになった。
それでは男は誰なのか、というのが奥様の最初の質問だった。男は一人しかいない──羊飼いのロバート・クームである。農場住み込みの、頭のにぶい、無口な、ほとんどはっきり物も言えないような男で、薄黄色の髪の、丸い頭をした男である。あんな鈍感な頭のにぶい奴を夫にする女もいないだろう、と噂されている一人ものだった。しかし、羊飼いとしてはりっぱで、永年この農場で働いているし、しかも羊飼いは全く大変な仕事である。直ちに農場主は馬を引き出し、女どもを、こんな恥ずかしい厄介なめに会わせた、恥しらずのゴロツキと話をつけてやろうと、草丘へ出ていった。出てきてみると、羊飼いは芝地にすわって、パンとベイコンの弁当を食べていた。横に冷えた茶の入った缶が置いてある。農場主は馬を降り、そばへ寄っていって、ゴロツキめ、とどなりつけ、もう、これ以上言うことがないほど罵った上で、二人のうちどちらかを選んで、すぐに結婚して、ちゃんとした女にしてやるんだ。その気がないなら、とっとと農場から出ていけ、と命じた。
クームはだまりこんだまま、顔色も変えずに相変らずムシャムシャと食べ、時々、缶から茶を流しこんで、最後まで食べてしまうと、杖をつかんで立ち上がった。そして、「考えますわ」と言ったきりで、羊のほうへいってしまった。
農場主は薄バカめ、と毒づきながら馬に乗って帰ってきた。ところが夕方、羊の群れを囲い場に入れた後、クームが家に入ってきて、考えた結果、ジェーンを女房にすることに決めたと言う。ジェーンはエレンより大分年上で、きりょうもエレンより劣るけれど、村の生まれで、両親もここにいるし、みんなジェーンのことは知っている。それに昔から、ここで働いていて、農場でこれから先も必要だけど、エレンのほうは他所者だし、ただの乳しぼりだから、ジェーンほど値打ちはないと言うのだった。そこで、そういうことに落ち着いて、けっきょく棄てられたエレンは、手荷物をまとめて、出ていくようにと、明くる朝、言い渡された。
もう人目から隠せない体になって、しかも、世間に味方もいない、ただひとりの身で、どうすればいいのか。ここでエレンは、ウィンタボーン・ビショップに住むプール夫人というお婆さんのことを思い出したのだった。子供たちがもう大きくなって、家から独立していった人である。何カ月か前、この人がバウワー・チョーク村に滞在していたとき、私をずいぶん気に入ってくれて、別れぎわにキスをして、「エレンさん、わたしも若い頃、知らない人の中で暮らして、誰ひとり身内がなかったの。だから、どんな気持か分かるのよ」と言ってくれた。ただそれだけのことだけど、他には誰も知らない。あの人の所へいこう。そう決心して、エレンは乏しい持ち物を背負って、一度も行ったことのないウィンタボーン・ビショップに向かって出発した。草丘をいくつも越えてゆく長い道のりである。八月の暑い天気のなかをゆく遠い悲しい旅だった。ハリエニシダの暑い日陰で時々体を休めるが、あの人はろくに知らない人だから、たぶん、心を固くして、家のドアを閉めてしまうことだろう、と一日じゅう不安だった。ところが、プール夫人はやさしい人で、同情してくれ、その貧しい田舎家に避難所を提供してくれて、子供が生まれるまで、いろんな女のいやみを物ともせずに、エレンを置いてくれた。そしてエレンは避難所を見つけたこの村に、最後まで暮らしていた。自分の家こそなかったが、いつも誰か貧しい人の家の一部屋か二部屋を借りて、その男の子といっしょに暮らしていた。生活は苦しかったが、おだやかな暮らしで、今はみな亡くなった老人たちの記憶によれば、非常に口数の少ない、まじめな女だったという。生活のために一生懸命働いて、時には洗濯をすることもあったが、たいていはほうぼうの畑に出て、乾草作りや収穫をしたり、時には草とりをしたり、火打ち石を集めたり、また、草とり用の小さなスコップとか小鎌を使って牧草地のアザミとりをしていたという。働く時は、ひとりか、他の貧しい女たちといっしょだったが、男たちとは、決して親しくならなかった。村のどんなに鋭い女が見ても、この点、全然あやしいところはなかったそうである。そうでなくて、もし男たちと楽しくおしゃべりをしたり、声をかけられたとき、笑顔を見せたりしたら、生活はむずかしくなったことだろう。そんなことをしていたら、このガキは誰の子だ、とたびたび聞かれることにもなったろう。農場を追い出されて、世の中でひとりきりになり、まだ生まれない子供をかかえて、暑い八月の日中、不安に悶えながら草丘をいくつも越えてきたあの恐ろしい思い出が、魂に刻みつけられていたのだった。そのために性質まで変わり、男の前では血まで冷たく凍るような様子で、話しかけられても、「はい」とか「いいえ」とか答えるだけで、目は伏せたままだったという。これがみなの目にとまって、けっきょく、村中の女たちが味方になり、誰も過去の過ちに触れるものはなかった。そして、まだ若い身で彼女が亡くなった時も、女たちは深く悲しんで、残された小さな孤児の面倒を何かと見てやったのである。
この子はその時十一ほどで、父親に似て、頭の丸い、髪の薄黄色い丈夫な子だった。だが、性質は父親に似ず、あんなに鈍感でもなかった。とにかく、この子がおとなになって結婚したマーサは、老未亡人になってから私に語って、夫は一生に一度も、不親切なこと、不正なことをしたことがなかった、と言っていた。この子は長くつづいた羊飼いの家系の出で、羊飼いの仕事は本能に近いものだったらしい。ほんの幼い時分から、羊のふるえるような鳴き声や、羊が付けている銅の鈴の鈍い音、牧羊犬の鋭い鳴き声などに不思議に引かれるところがあった。たまたま、羊飼いが留守をすることがあって、その間、誰か少年の羊番が要る時などは、いつでも、この子がその役を買って出たものだった。そして、十五になったか、ならぬ頃に、けっきょく、羊飼い助手に雇われることになって、以後、一生羊飼いをしていたという。
彼がマーサと結婚したとき、村中のものがひどく驚いた。なるほど、誰もトミー・イエラットにケチをつけるものはいなかったが、疵があるという点は否定できなかった。しかし、マーサのほうは、村一番のいい娘で、結婚するなら、もっといい相手を選んだらいいのに、という気持が村のものにはあった。しかし、マーサは昔からトミーが好きで、年も同じなら、子供の時も遊び仲間だった。いっしょに大きくなるうちに、子供の仲良しの気持が愛に変わったのである。何年か二人が待ってトミーが田舎家を持ち、一週七シリングの賃金をもらうようになると、アイザックとその妻も承諾してくれて、二人は結婚した。それでも、村のなかで、そんな噂をされるのは気がわるい。そこで、少し離れた所から羊飼いの勤め口がかかってきた機会に、そこなら、自分の昔のことを知るものもいないから、というので、イエラットは非常に乗り気になり、妻もいっしょにいく気になったのが、赤ん坊が生まれてから一カ月ほどたった時だったという。
新しい勤め口というのはサマセットシァ州で、夫婦の生まれた村から、三十五ないし四十マイル離れた所にあった。イエラットは大きな地主屋敷農場の羊飼いとして、今までにないような、よい給金をもらい、よい田舎家ももらえることになっていた。いってみると、その田舎家、村全体、すぐ近くにある大きな私園に地主屋敷と、すべてが天国のようにすばらしくて、新しい環境にマーサは大喜びした。何よりもうれしかったのは、村人たちが気持よく歓迎してくれたことで、挨拶にやって来てはマーサの美貌と感じのよい親しみのある態度に、すっかり感心している様子である。そして、若い地主夫婦のこと、この夫婦が、どんなに、みんなのことに関心があって、いろいろとよくして下さるか、それで、どんなに、この地所のものから慕われているか、というような話を、村人たちは口々に熱心に語ったのである。
奇妙なことに、いま書いているこういう事件から五十年以上たった頃、たまたま私はこの地主と知り合いになったのである。その時、この人は八十を越えていた。ある小鳥の習性か何か、そういうちょっとした事で、この人が一通の手紙をくれたことが縁になって知り合ったわけだが、こういうふうにして、全国各地で知り合った人の数は数十人、いや数百人になるだろうか。じつにりっぱな人で、ある古い州の名家の当主であり、理想的な地主であり、また、毎年多くのキジを飼育した上で、これを殺戮するという、あの全く利己的な堕落したスポーツをやらない、数少ない大土地所有者の一人でもあった。
さて、訪ねてきた数人の新しい近所の人たちを、マーサがもてなして、赤ん坊を見せて、それから乳をふくませにかかると、みんながお互いに顔を見合わせて、笑い出し、一人がこんなことを言った。
「お屋敷の奥さまに会うまで、まあ、待ってみることだね──すぐに奥さまが、私の赤ん坊に乳をやってくれと言い出すよ」
それはどういうことか、と聞くと、お屋敷の奥さまにも赤ん坊がいるけれど、その子が弱い子なので乳母が要る。ところが、気に入った乳母が見つからないのだという。
マーサはカッと腹が立った。どんなにお金のある大きなお屋敷の奥さまだって、このかわいい赤ん坊を放っておいて、他人の子にお乳をやるように、私を誘惑できるなんて、そんなことを、皆さん、思ってらっしゃるの? そんなことは、私、絶対にお断りですよ。そんなことをきく位なら、ここを出てゆきます。でも、そんなこと信じられません──皆さん、私をからかって、おどかすつもりで言ってらっしゃるんでしょう! すると皆はまた笑って、目をキラキラさせて、ほおを赤く火照らせ、見事に張った胸を見せて立っているマーサを、感心して見ながら、
「まあ、今に分かりますよ。いまに奥さまがやってくるから」
と言うのだった。
そして、たしかに、すぐに奥さまはやってきたのである。この地所に住むものは、教会の行事に、いつもきちんと参加する。だから、最初の日曜の朝の礼拝には出たほうがいい、と言われたので、近所の人が見つけてくれた女の子に、赤ん坊の世話をしてもらうことにして、マーサは日曜の朝がくると、一番上等の服を着込んで、他の人たちと連れ立って教会に出かけた。礼拝が終わると、地主夫婦が最初に出てきて、教会の前の小道に立ち、親しい人たちと挨拶を交わしている。そこへ、みんなに囲まれるようにしてマーサが出てくると、奥さまが振り向いて、じっとマーサに目を置いたかと思うと、急にみんなから離れて、こちらに寄ってきて、マーサを呼び止めた。
「あなた、どなただったかしら? 初めて見るお顔だわね」
「そうでしょうとも、奥さま」とマーサは顔を赤らめて、左足を引き、ちょっと体をかがめる、貴人に対する礼をして、「お屋敷農場にまいりました新しい羊飼いの家内でございます──ほんの四、五日前にまいりました」
すると奥さまは、あなたのことは聞いています。ご自分の赤ん坊にお乳を飲ませていらっしゃるそうですね。ところで、少しお話したいことがあるので、今日の午後、屋敷に来てくださるように、と答えた。
若い母親は、きっといろいろと甘いことを言って話に乗せるつもりだろう。しっかりしなくては、と心を引きしめて、ビクビクしながら出かけていった。
そして、ここで、運命的な面会が行なわれたのだった。とうとう願っていた人を見つけました。私の大事な赤ん坊を死から救える、この世でたった一人の人が見つかりました。弱っていく赤ん坊、その小さな弱い命に大変な責任を負わされた、かわいそうな子なのです。あなたのその健康な、よく張った胸で、この子にお乳を飲ませて、そのあり余る、すばらしい命を少しこの子に分けてやってください。あなたのご自分の赤ちゃんは、大丈夫でしょう──どこにも悪い所はないし、「瓶」ででも何でも、元気に育つことでしょう。ですから、今から、うちに帰って、用意をして、それから屋敷に住み込んでくだされば、それでいいのです、と屋敷の奥さまは言った。
マーサは断った。ところが奥さまはニコニコするだけである。マーサは哀願し、泣きながら、絶対に、絶対に、自分の子を放っておくわけにはいきませんと断った。ところが、何の効果もない。マーサは腹が立ってきた。でも、向こうだって、腹が立ったら、出ていきなさい、と言い出して、それで事は終わりになるだろうと、思いついた。ところが、奥さまはどうしても腹を立てない。マーサが荒れると、いよいよおだやかになり、言葉つきも、やさしく、甘くなってくるが、それでも自分の意志は通そうとする。とうとう、かわいそうにマーサは耐えられなくなり、激しく動揺してお屋敷を飛び出してきた。夫に訴えて、その助けを借りて敵に対抗しようとしたのだった。ところが、トミーは奥さまの味方をする。若い妻は夫をにくみ、絶望して、こうなった上は赤ん坊を抱いて、ここから逃げ出そうと覚悟したとき、突然一台の馬車が田舎家の前に現われて、奥さまが、弱い赤ん坊を抱いた乳母を従えて、入ってきた。一度だけでも、この子にお乳を飲ませてもらうように頼もうと思ってきた、と奥さまは非常におだやかに、ほとんど哀願せんばかりに言う。この頼みにマーサは気をよくして喜び、赤ん坊を抱きとって、あやし、それから、その美しい胸でお乳を飲ませてやった。ほんとうの母親のような、非常にやさしい仕草で乳を飲ませ終わると、訪問者は急にワッと泣き出して、マーサに抱きついてきて、キスをして、また哀願を始めた。とうとう抵抗できなくなって、けっきょく、マーサは折れ、お屋敷に住みこんで、日に一度、うちに帰ってきて、自分の子に乳を飲ませるという条件で話がついたのである。
病弱な赤ん坊を無事に育て上げたあとでも、マーサとお屋敷の人たちとの繋がりは、それで終わりになるということはなかった。マーサにはもう子供が出来なかったので、二度と乳母を勤めるわけにはいかなかったが、お屋敷の奥方はマーサが気に入って、彼女をいつもそばに置きたがった。そのうちに三人目の子供が生まれて、健康を損ねた奥方が、海外転地を医者に命じられると、マーサを連れて出かけ、まる一年間を大陸で過ごし、フランスとイタリアで暮らした。それから英国にもどってきたが、やはり奥方の健康は衰える一方で、また旅に出かけたのだが、この時もマーサを連れていった。今度の旅先きは、インドその他のいろんな遠い異国で、「聖地」にもいった。しかし、旅を重ねても、金を使っても、いろんな名医が手をつくし、愛情を捧げる夫がやさしく気を配っても、効果がなく、奥方は帰ってきて、けっきょく亡くなった。それで、マーサも夫と子供の所へもどってきて、それからは、二度と離れて暮らすことはなかった。
屋敷は閉じられて何年もそのままになっていた。地主は、決して地主としての義務、自分の土地の愛する人々、イギリスのどんな地主もめったに経験できないほどの愛情を寄せてくれる土地の人々に対する義務から逃げるような人ではなかった。それでも悲しみが大きすぎて、その強い体力、精神力をもってしても耐えることが出来ず、もう二度と立ち直れないのではないかと、長い間、友人たちは心配していた。が、時がたつうちに傷は癒えて、十年後に再婚し、また屋敷にもどってきて九十歳近くまで暮らしていた。しかし、これより大分前に、イエラット一家は、故郷の村に引き上げていた。私がこの前マーサに会ったのは、彼女の八十二歳の時だが、そのとき、マーサは夫トミーの最後の様子を次のように語った。
トミーは七十八の年まで羊飼いをつづけたそうである。ある日曜、昼少し過ぎにトミーが帰ってきた。その頃、マーサは流行性感冒にかかって具合がわるかったという。トミーは帰ってきて、杖を片づけると、
「仕事は終わったよ」
と言った。
「きょうは早かったのね。でも、子供に羊番をさせておいたんだね?」
「きょうの仕事がすんだ、ということとはちがうよ。これきりで終わった──もうこれから、羊は見ないということだよ」
「何を言ってるの、お前さん? 具合がわるいのかい──どうかしたのかい?」
「いや、わるくない。体の調子は申し分ないが、仕事は終わった」
と言うきりで、それ以上は、どうしても言わない。
マーサは心配になって、じっと見つめたが、べつにどこもおかしい所は見えない。食欲もあれば、パイプも吸い、機嫌もいい。
ところが三日後、朝、服を着る時に、靴下をはくのにちょっと手間どっているので、手伝おうとすると、トミーは笑い声を上げて、
「おかしなこともあるもんだ! あんたは病気で、わしは元気にしてるのに、手伝ってもらって靴下をはくとはな!」
と言って、また笑った。
その日、昼の食事の後で、いっぱい飲みたい、ビールをいっぱいやりたい、と言う。だが、家にビールがなかったので、お茶ではいけないか、とマーサが聞くと、
「おお、そうか、いいとも、いいとも」
と言うので、お茶を飲ませた。
お茶を飲んだあと、トミーは足載せ台をとって、それをマーサの足元に置き、そこに腰をおろして、マーサの膝を枕がわりにして頭をのせた。そして、そのままの恰好で、長い間、あまりじっとして動かないので、とうとうマーサがかがみ込んで、顔にさわって調べてみると、息が絶えていた。
これが、エレンの息子トミー・イエラットの最後だった。マーサによると、お乳を飲んで、母親の胸に眠る赤ん坊のように、亡くなったということである。
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二十五章 過去に生きる
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夕方の雑談──羊囲いの作り方について──編み垣を作ること──悪魔のはらわた──牧羊犬の性質──意地わる犬サリー──さらわれて、また帰ってきたダイク──迷った犬がもどってきた不思議な話──遊び好きなバジャー──バジャーが鶏の番をすること──怪談──土曜の夜話──牧師たち──騒々しい宗教──自分の仕事を愛する羊飼い──マーク・ディックと目を回している羊──むすび。
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夕方から雑談を始めて、それが夜遅くまでつづくということを何度も重ねているうちに、野生動物の話を最も好んで私が聞くことに、ケイレブは気がついた。ところが、そうと分かっても、というより、それをいつも心にとめているわけではないから、ほとんど必ずと言ってよいほど、相変らず羊の話にもどってしまう。羊のことになると、ケイレブはいくら話しても飽きないのだった。眠っていても忘れず、夢に見るのも羊のことばかりだという。群れと共にいて、囲いの編み垣を移したり、群れの後ろについて、草丘へ出ていく夢だという。病気の時とか、寝苦しい夜に見る夢は、いつも羊の群れで何か手こずっている場面で、群れが言うことを聞かないとか、犬が即座に動いてくれなければ、どうにもならない時に、その犬が、命令を理解してくれないとか、命令を聞こうとしないとかの夢だという。羊のことは、ケイレブには重要問題なのだった。何よりも重要で、羊飼いの生活や仕事の細かい細かい所、それこそすみからすみの細かい所まで、聞く人の耳に入れないでは気がすまない。ケイレブの語った「羊囲いの編み垣の作り方の心得」を集めれば、一冊の本が出来たことだろう。そして、その題に引かれて、誰か農場主がその本を買ったとしても、題にふさわしい内容だと分かって、損をしたとは思わないだろう。だが、そのヤギのような顔の、澄んだ目に見つめられていると、話を聞くものは、居眠りはおろか、気をそらすことさえ出来なかった。しかし、どんなに無味乾燥な彼の話の中にも、簡単に見逃すわけにはいかない、小さなキラリと光る所が、いくつもあった。
羊囲い用の編み垣が古くなったり、こわれた場合、普通、草丘地の羊飼いは、生け垣からビジワインドをとってきて、その木のような、長い茎で修理するのだ、とケイレブは説明した。「ビジワインド」とはどういう植物かと聞くと、野生のヒルガオ、もしくは「旅人の喜び」の説明をする。ところがケイレブは、こういう名前は知らず、昔から、「ビジワインド」とか、「悪魔のはらわた」とか呼んでいたらしい。「ビジワインド」とは、「バタフライ」〔蝶〕のことを「フラタバイ」と言ったり、「ドラゴンフライ」〔トンボ〕を「フラゴンドライ」と呼んだりするように、「ウィジバインド」の字がひっくり返ったものかもしれない、と私は気がついたのだった。「ウィジバインド」というのは、ありふれたヒルガオのことで、この土地のたくさんある呼び名のひとつである。「リリバインド」というのもある。道わきの生け垣を飾るこの花に、「旅人の喜び」という美しい名前を付けたのは、古い植物学者ジェラード〔ジョン・ジェラード、一五四六〜一六一二。英国の医者、植物学者〕だが、「悪魔のはらわた」などという名前を聞いたら、彼は何と言ったことだろうか。
ケイレブの話では、ビショップ教区に、この植物が妙に好きな老農場主がいて、これが葉を出したあと、もし自分の畑の生け垣から、羊飼いが一本でもこれを引き抜こうものなら、ひどく腹を立てて、「おい、ちょっと、『悪魔のはらわた』にさわるなよ。さわったら農場から追い出すぞ」と、どなりつけていたそうである。羊飼いたちは、その仕返しに、「悪魔のはらわたじいさん」というイヤなあだ名を付けたので、この辺りでは、この名で通っていたという。
羊や何か羊に関係した話になると、まず普通、牧羊犬の話が出てきたものである──これまでに知ったか、飼ったかした犬で、いつでも人間同様、独特の性質や癖を持った犬の話だった。よい犬もいたし、わるい犬もいた。よくも、わるくもないのもいた。本当にわるい犬は珍しいが、一方、かなりいい犬でも、どこかに癖、欠点、もしくは弱点のある場合がある。たとえば、サリーという切り尾の犬がいたが、これは今まで飼った犬のなかで一番いいものの中に入るが、気配りを要する犬だった。何か主人から納得のいかない扱いを受けると、それをひどく根に持つ。あまり突っけんどんな物の言い方をするとか、ちょっとウサギ穴の匂いをかごうとして道を外れたからといって、咎めたりすると、それを根に持って、羊が何か言うことを聞かないような時に、これに噛みついたりする。それがわるいといって罰したりすると、よけいに困ったことになる。これに対する方法はただ一つ、理性ある動物として扱うことで、決して犬として──単なる奴隷として話しかけないことだった。
ダイクというのも忘れられない犬だという。これはマシュー・ティットという老羊飼いの犬だったが、この人は、ケイレブがウォーミンスターで働いていた農場の隣りの農場の羊飼い頭をしていた老人だという。マット老夫婦は村はずれの田舎家で、二人きりの暮らしをしていた。子供らが大分前にみんな大きくなって、家から離れたためである。ところが二人きりでは、あまりさびしいので、そのダイクという犬を、まるで子供のようにかわいがっていた。ダイクはとてもいい犬で、充分その資格があったという。ある年のこと、主人のいいつけで、マット老人は小羊たちを連れてワイヒルへ出かけた。これはアンドーバーの近くの小さな村で、毎年十月、ここで大羊市がある。三十マイル以上も離れた村だが、マットは、老人とはいえ、まだ体は頑丈で、主人の信頼も厚かった。ところが、マットは悲しみながら、この旅から帰ってきた。ダイクが行方不明になった。ワイヒルで夜中姿を消したという。老いた女房は、息子を失ったように、声を上げて泣き、それから何十日間も、重い心を抱いて夫婦が暮らす日がつづいた。
ちょうどそれから一年たったある夜のこと、下の居間の窓ガラスを大きく何度も叩く物音に女房が目をさました。「マット、マット」と女房は亭主を激しく揺すぶって、「起きておくれよ、ダイクがもどってきたんだよ!」「何を言っとるんじゃ」と老羊飼いは不機嫌にうなった。「横になって、寝た、寝た──夢でも見たんじゃろう」「夢じゃないよ。ダイクだよ──あの叩き方で分かるんだよ」と女房は大声で叫んで、立ち上がり、窓を開けて、グッと頭を突き出してみた。すると、たしかにダイクが、壁に寄りかかって立ち上がり、こちらの顔を見上げながら、一方の前足で下の窓ガラスを叩いていた。
そこでマットもベッドから跳ね起きて、二人いっしょに階段を降り、扉の留め金を外し、犬を抱きしめて喜んだのだった。それから、その夜は餌をやったり、愛撫したり、あれやこれやと質問を浴びせたりして過ごしたが、もちろん、こういう質問には、ダイクは老夫婦の手をなめたり、シッポを振ったりして答えることしか出来なかった。
どうやら、羊市でダイクは、あの「何でも屋」と呼ばれる小男の無法者どもの仲間に盗まれたらしかった。早足で走る小馬に、小型の二輪車を引かせて、国中を走り回るあの連中である。何かにくるまれて、声が聞こえないようにされて車に放り込まれた上、何十マイルも離れた所へ運ばれていって、どこかの羊飼いに売り飛ばされ、方向感覚を失ったらしい。ところが、知らない人に丸一年仕えたあと、またワイヒル羊市に羊といっしょに連れてこられて、そこで場所の記憶がよみがえって、前の主人の家に帰る道を思い出し、脱走して、三十マイルの長い道を、ウォーミンスターまで旅して、もどってきたものらしかった
ダイクの話で思い出したが、エイヴォン川畔に住むある羊飼いから聞いた話がある。これも、迷った犬をとりもどしたというもので、ダイクの話に劣らぬよい話である。犬が行方不明になってから、一年以上たったある日のこと、羊飼いが群を連れて、草丘に立ち、下のほうを眺めていた。下の有料道路の一マイルほど先きから、二人の羊業者が羊の群れを連れてやってくる。やがて、犬たちのうちの一匹の鳴く声が聞こえ、そんなに離れているのに、あれは自分の犬だと気がついた。「たしかにわしの犬だ。あの声でこちらが分かるのなら、向こうでも、わしの口笛が分かるだろう」と考えて、羊飼いは二本の指を口の中に入れて、力いっぱい鋭く長く吹き鳴らして、その結果を待った。するとまもなく一匹の犬が、ずいぶん先きのほうからグングン近づいてくる。たしかに自分の犬で、前の主人に会えた喜びで、気違いみたいになっていたという。
不幸な偶然で、長いあいだ裂かれていた二人の友が、こんなに遠くから互いの声に気が付いて、再会を果たしたというような話が、かつてあったろうか。
犬が脱走したことに羊業者が気が付いたか、どうか、分からなかったが、とにかく、べつに犬を追ってもこず、こちらの方も向こうへいって、この犬を手に入れたいきさつを聞きただすこともしなかった。帰ってきただけで、もう充分だったという。
おそらくこの場合、犬は前の家の近くに連れてこられて、それと気が付いたのだろうが、今は他人に使われている身で、永年の間に染みこんだ習慣と訓練のために逃げ出すことができない。ところが、昔の聞きなれた命令の口笛の音が耳に入ったとき、もうこれに逆らうことが出来なくなったのだろう。
それから〔ケイレブの思い出話のつづきだが〕バジャーという犬がいたが、これはある農場主の飼い犬で、数年間、ケイレブのそばで働いていた。これこそ今までに使った最上の切り尾の牧羊犬で、これ以上のものは見たことがないという。この犬が他の犬と違うところは、その活発な性質と絶えまない動きだったという。羊の群れが静かに草を食べていて、何時間もほとんど仕事がない時は、他の犬なら必ず身を伏せて眠ってしまうところだが、バジャーはそうはせず、そこらの、なだらかな坂の所へいって、ゴロゴロと転がって遊んでいる。下まで転がると、また駆け上がり、またゴロゴロ転がり、まるで子供みたいにひとりで遊んでいる。そうでない時は、チョウを追いかけたり、草丘の上を走り回って大きな火打ち石を探す。見つかると、それを一つ一つ運んできて主人の足元に置く恰好が、いかにも、これは値打ち物だといわんばかりで、その遊びをずいぶん楽しんでいる様子である。この犬の遊びや、ふざけた仕草には、毎日、笑わされたものだ、とケイレブは語った。
年をとると、バジャーは目や耳がわるくなった。だが、ほとんど目が見えず、すぐ近くでどならないと、命令の声も聞こえないほど耳が遠くなっても、非常にかしこくて、働く気も充分なので、まだ羊番に使われていた。ところが遂に年をとり過ぎて、処分する時がやってきた。だが、飼い主の農場主は、どうしても射殺することを承知せず、けっきょく、農場屋敷に置くことになった。ところが老犬バジャーは、老犬扱いされることを拒み、羊番を禁じられると、今度はニワトリ番をはじめた。朝になると、トリたちを囲い場へ追い出して、それを一群にかためて、何時間でもその周りをグルグルと回っている。メンドリがどこか秘密の場所でタマゴを生もうとして、コッソリ抜け出そうとすると、猛烈な勢いで追いもどす。こうなってくると、見逃すわけにもいかず、かといって、ヒモでしばりつけておくのもかわいそうだ、というので、けっきょく、射殺せざるをえなかった。
こういう牧羊犬の思い出話が、ケイレブの話のなかで、いつ聞いても一番面白かったのは、羊は別として、牧羊犬こそが、彼が最も深く愛して、最もよく知っていた動物だからである。しかし、ムキ出しの草丘に囲まれた、あの小さな孤島のような村に暮らしてきた人間にしては、ケイレブの人生経験はかなり豊かで、あの世からの訪問者の思い出まであった。その話をケイレブ自身の言葉で語らせてみよう。
「幽霊みたいなものがおるとは思わん、そんなものは見たこともない、と言うもんは多い。わしは、そんな話を聞いても、信ずるとも、信じんとも言わんのじゃ。べつに、そこにおって、自分の目で見たわけでもないからな。わしは自分の目で見たものしか分からん。だが、あれが幽霊じゃったか、そうでなかったか、それは何とも言えん。ある夜更けのことじゃった。羊の所から帰る途中で、十一時近くになっとって、えらい静かな晩じゃった。ところが月が明るうて、まるであたりは昼間みたいだったわな。村の端の近くの踏み石のとこまでやってきた。踏み石とみんなは言うとったが、一つの木戸があって、道路がある所じゃが、その道路のすぐ脇に、大きな白い石が四つある。それが踏み石じゃ。村から、向こう側の林と草丘へ行く時に、この石の上を踏んで、流れを渡るんじゃ。冬には、ここに小さな川が流れとったが、夏になると、水が乾上がったもんじゃ。ところが、あれは夏の時分で、水は無かった。ところが、その踏み石の所へ来たら、二人の女の姿が見えよる。二人とも、背が高うて、黒い服を着て、大きな帽子をかぶっちょる。あの頃の女の普通の帽子じゃよ。ところが、この二人の女、えろう、くっつくようにして、向き合うて立っとるもんじゃから、今にも帽子のてっぺんが、ひっつきそうなんじゃ。こんな遅い時間に、外に出とるのは、どこのおなごじゃろうか、とそう思うたが、オヤッと気がついた。ダークのおかみさんじゃ。村の上手におるダークのおかみさんに、向こうの林の横に住んじょる、猟場番をやっとる息子のガージの嫁さんじゃ。なるほど、分かったわい、とわしは、そのとき、思うた。息子の嫁が村の姑の所に会いにきて、それから、嫁が帰るのを、姑がちょっと送って出てきて、踏み石の所までやってきて、そこで、別れぎわに、ちょっと最後の立ち話をやっとるんじゃな、とそう思うたんじゃ。ところが、横を通ったとき、何の話し声もせんのじゃ。そして、横を通り過ぎたとたんに、わしは思うた──こりゃ、わしは何んてアホなんじゃ! あのおふくろさん、一年前に死んどるぞ。葬式のとき、わしは教会墓地に行って、埋められるとこを見たわい。いったい、何を考えとるのか、お前は、とそう思うて、立ち止まって、振り向いて、もういっぺん見たら、さっきのままじゃ。一年前に死んだおふくろさんと、林の横の息子の嫁とが、帽子をくっつけるみたいな恰好で、じっと立っちょる。ところが何の声も聞こえん。棒杭みたいに立っとるだけじゃ。そしたら、何やら分からんが、ゾーッと血がえろう冷えてきて、背筋が寒うなってきよった。わしは恐うなって、振り向いて、走ったわいな。それやもう、あんなえらい勢いで走ったことはない、と思うほど走ったわいな。一度も止らんと、家までスッ飛んでかえったもんじゃ」
これは怪談としては、まずい話ではない。しかし、実際に、この世のものでないものを見た、もしくは見たと信じている人々の語る怪談には、出来のわるい話はめったにないものである。そういう怪談の最大の魅力は、種類が無限に豊富な点である。本物の怪談、もしくは実話怪談には、全く同じものは決して二つとして無い。この点が小説家の作り話とは違うところである。
しかし、相変らず、主な話はいつも羊のことだった。
「わしはいつでも、ほんとうに羊が好きじゃった」とケイレブは語った。「羊飼いは日曜も働くんで、それががまん出来ん、と言うもんもおった。だが、わしはいつも答えたもんじゃ。『誰かがやらんならんのじゃ。冬には食い物を食わし、夏には水を飲ませて、面倒を見てやらんならんのじゃ。それなら、わしがそれをやって、わるいはずがない、とな』」
ある日曜の午後のことだった。遠くに教会の鐘の音が聞こえたのがきっかけで、次のような話になった。昔、久しぶりで、故郷の村の教会の、日曜の朝の礼拝に出たことがあったが、その時、牧師さんが、本当の信仰ということについて、一つのお説教をしたそうである。教会に出てくるだけでは、信仰は深くならない。外の草丘には、教会の中など、めったに見たこともないけれども、まじめで、心正しくて、一生、毎日、神と共に歩んでいる羊飼いたちがいる、と牧師は話したという。そのとおりだということを知っていたので、この説教が心に染みた、とケイレブは語った。
そこで私は聞いてみたのである。あんたは今、病気だが、教区の牧師さんは何もかまってくれない。ところが非国教派の牧師は、私の見てきたところでは、たびたびやってきて、話をしてくれるようだ。どうだね、国教派から非国教派にかわる気はないのかね、と聞いてみたのである。すると、ケイレブは首を横に振って、それは絶対にしないと言う。非国教派の牧師はよい人たちだ、とみんなは言うとる。「国教派の牧師よりよい人たちだ、と言うもんもおる。だがな、今まで知った非国教派の牧師さんらは、みんな──わしの所へ話にくる人だが──みんな国教派の悪口をいうんじゃ。これは本当の信仰とは違う。聖書の教えは、これとは違いますぞ」
ケイレブにはさほど幅広い人生経験があったわけではないので、知らなかったのも無理はないが、ケイレブの指摘するような欠点の全然ない非国教派の牧師もいることは、ほとんどの人が知っているとおりである。だが、純粋の農村地域の小さな村々には、器量の小さい人間もいるわけで、非国教派の牧師が教区牧師の悪口を言うのを耳にする機会はたしかによくある。教区牧師に何か欠点があって、それがよく人に知れている場合、あるいは、何かちょっとした失敗をした場合、相手方は、じつに露骨に、じつに意地わるく、笑いものにする傾向がある。
こんな話をしていたあの日曜の午後は、ほんとうにしずかな、おだやかな日和だった。そのうちに、開いた窓から音楽の調べが流れ込んできた。二マイルほど離れた隣り村の中を行進する救世軍のブラス・バンドの音楽だった。二人で耳を澄ましていると、ケイレブがこんなことを言った。
「どういうわけか、どうしてもわしは、あの救世軍の人たちとは気持がしっくりいかなんだ。世のため、人のため、大いにやってきたと、言うもんは多いし、それをウソとも思わんのじゃが、どうも、何と言うかな、『ソーオン』が大きすぎるんじゃな。『ソーオン』〔騒音〕じゃよ。お分かりかな?」
私は一度、大パーカー博士〔ジョウゼフ・パーカー。一八三〇〜一九〇二。プロテスタント会衆派の神学者、大説教者〕が「想像力」という言葉を口にするのを聞いたことがある。博士はこれを、「ソーゾーリョーク」というふうに大音声で発音して、大建築の内部がその響きでいっぱいになり、まるで、これが宇宙最大のもののように聞こえたものだった。私の経験では、あれが博士の最高の弁説だったと思う。しかし、老羊飼いケイレブが、長い間だまり込んで、肺いっぱいに空気を吸い込んでから、「ソーオン」という物凄い言葉を吐き出し、それを長く、耳障りに引っぱって、その聞きづらい感じを出そうとしたとき、あれはパーカー博士の「ソーゾーリョーク」よりまだ迫力があったと思う。
彼の言うことがよく分かった、ということをはっきりさせようと思って、私は次のように話した。あんたは草丘地の羊飼いとして、これまで静かな雰囲気、騒音のない世界に暮らしてきたから、その一生の習慣のおかげで、静けさを愛する人間になったわけだ。しかし、救世軍は、それとはまるきり違う世界、イースト・ロンドンに生まれた──ホコリだらけの、にぎやかな、ゴタゴタと混雑した町通りに生まれたものだ。ここでは夜明けに目をさましたとたん、それこそ地獄の門が開くような物凄い物音が聞こえて、長い奮闘の日々が始まり、数えきれないほどの耳障りな騒音に囲まれて人は生活していくわけだ。そのうちに、こちらのほうも、その騒々しさが習慣になって、何か仲間たちに言いたいことがあるとき──サバ一匹、キャベツ一個、牛乳一パイントというような、ごく小さなものから、新聞とか、本とか、絵とか、宗教とかいうものまで──何かを売るとか、助言するとか、すすめるとかいう時には、通行人ひとり、ひとりに向かって、大声でわめきちらし、どなりつけないと気がすまなくなってしまうのだ。ところが、人間の声だけではまだ不充分というので、鐘や銅鑼、シンバルやラッパ、太鼓まで持ち出してきて、注意を引きつけようということになる。
というぐあいに、私がむきになって説明するのをケイレブはまじめに聞いていたが、やがて、そういうことは、あまりよく分からんが、なるほど草丘地域は非常に静かな所で、わしはその静けさが大好きなんじゃ、と答えた。「五十年間、草丘や野原で、夜昼なしに、一週間、七日間、わしは毎日、毎日暮らしてきた。一週、七日、毎日働いて、十シリングから十二シリング、多くて十三シリングという給金ではつまらん暮らしじゃ、とそう言われてきたもんじゃ。だが、わしは、そんなふうに考えたこともない。わしは、その暮らしが気に入って、いつでも一生懸命に働いたもんじゃ。つまり、それを誇りにしとったんじゃよ。仕事をやめて出ていく時は、かならず残ってくれと言われた。出ていく時は、何かわしに気にくわんことがあって、それでやめたんじゃった。犬や何や、動物がいじめられてるのを見ると、どうしても、わしは辛抱できんじゃった。それから、言葉づかいのわるいのも辛抱できんじゃった。羊や犬相手に、主人がひどい言葉でわめいたりすると、どうしても辛抱できん──一週一ポンドの給金をもろうてもいやじゃった。仕事は好きじゃし、羊のことをいろいろ勉強するのも好きじゃったが、本に書いてあることを勉強するのとは違う。本なんて一冊も持っとらなんだ。自分の勘で勉強するんじゃ、お分かりかな?
「わしの若い頃、あるずいぶん年寄りの羊飼いが農場におったが、四十年以上、そこで働いとって、マーク・ディックという名前じゃった。この人から聞いた話じゃが、若い頃、群れを羊囲いの中に入れようとした時に、一頭、目を回しとるのがおったそうじゃ。子どもの雌羊で、これが、いつでもグル、グル、グルと回っとる。囲い場の木戸の所にやってきても、どうしても中に入らんと、いつまでたってもグル、グル回っとる。とうとう、こちらも腹が立ってきて、杖を振り上げて、ガツンと一発、頭をなぐったそうな。そしたら、ドタンとひっくり返ったんで、死んだのかと思うた。ところが、少ししたら、ポンと立ち上がって、トコトコと囲い場の中へ入っていった。その時から、まともになったそうな。明くる日、主人にこの話をしたら、主人は笑いだして、『ほう、そうか。それで、これから、また、目を回したのが出てきた時は、どうするか分かったわけだな』と言ったそうじゃ。それからまた何日かして、また一匹、目を回しとるのが出てきた。そこで、主人の言うたことを思い出して、杖を振り上げて、ガンと一発、頭に見舞うてやったら、ドスンと倒れて、死んでしもうたというんじゃな。今度は、ほんとに殺してしもうたわけじゃ。で、主人に言いにいったら、『一匹は直して、一匹は殺した。もうこれからは、直そうなんて気は起こさんことだ』と言われたそうな。
「それからしばらくたって、今度はわしの羊の中に目を回しとるのが一匹出てきたんじゃ。ディックじいさんの言うたことをずっと考えとったから、この羊を捕まえて、どこがおかしいのか調べてみた。羊が病気をすると、いつでも、一生懸命調べたもんでな。すると、頭の後ろのところにコブが一つあった。柔らかなボールみたいなもんで、クルミの実よりは大きかった。ナイフを持ってきて、こいつを切って開けてみたら、水がドッサリ出てきよった。それが、きれいな水なんじゃ。それから放してやったら、まっすぐに走るようになって、直ったんじゃ。それから他にも何匹か、目を回しとる羊をナイフで直してやったもんじゃが、直らんのもおった。こういうのにはコブはなかった。目を回すのは、頭がおかしうなっとるのか、何か他に具合のわるい所があるのか、それは分からなんだ」
この静かな日曜の午後の雑談では、いろいろと高級な話題も出たのだが、この午後も、けっきょく、おしまいは、相変らず、お気に入りの羊や、草丘での羊飼い生活の話に帰らずには気がすまなかったらしい。今やケイレブは、その最愛の故郷を遠く離れて、体の不自由な老人として仰臥する身である。二度と再び、草丘に羊の群れを追うことはなく、愛してやまぬいろんな物音──ふるえるような多くの羊の鳴き声、多くの鈴の音、キビキビとひびき渡る牧羊犬の鳴き声──を耳にすることもあるまい。しかし、彼の心はやはりそこにあって、心の中に昔のさまざまな情景が生き生きと繰り広げられていたわけである。これに比べれば、まちに住んで読書をする人間の心に浮かぶ過去の姿など、淡いものでしかない。「今でも目に見えるのじゃ」というのが、何か昔話をする時のケイレブのお気に入りの文句だった。目に急に光が射すというか、目に微笑のようなものが浮かんだ時は、これは何か昔のことを思い出したな、と分かるのだった。消え去った昔に知った農場主、あるいは羊飼い──父親か、ジョン老人か、マーク・ディックか、リディか、それとも、真剣に宝探しをしていたダヌル・バードンか、とにかく誰か昔の知り合いの、ちょっと変わった、あるいは、面白い癖を思い出したんだな、とこちらは察するのだった。
日曜の長い雑談が終わったあと、われわれは、しばらく黙りこんでいたが、やがてまたケイレブの言った言葉が私の心に染みた。
「もう一度、生きたいなんてことは、わしは言わん。そんな気を起こすのは罪深いことじゃ。人間は与えられたものを受けとるほかないのじゃ。だがな、もしも、もういっぺん生きよ、好きな仕事を選べ、ということになったら、わしはもういっぺん、あのウィルトシァの草丘地で、一生、羊飼いをしたいもんじゃな」(おわり)
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訳者あとがき
ウィリアム・ヘンリ・ハドスン〔William Henry Hudson〕〔一八四一〜一九二二〕は、南米アルゼンチンの首府ブエノスアイレス近くの一寒村キルメスに生まれている。当時ブエノスアイレスは、まだ、羊の群れや牛の群れの点在する、果てしない草原に囲まれた小さな町だったというから、キルメスがどんな村だったか、想像はつく。父親は、ニューイングランド生まれだが、病気療養の意味もあって妻と共にアルゼンチンに移住してきて、羊農場を経営していたのであった。母は、ピルグリム・ファーザーズの子孫だった。わがウィリアムは、六人の子どもの三番目の男子だった。父方の祖父が英国デヴォンシァ州からの移民だったので、ウィリアムは、自分のことを「英国人」と考えていたという。
六歳のときから草原を小馬に乗って走り回ることを許された丈夫な子どもだったが、それより前から、鳥が大好きで、毎日、一日中、鳥を探し、見つめて暮らす習慣だったという。アルゼンチンは特に鳥類が多いので有名である。正規の学校教育は受けていない。家の近くに学校は全くなかったし、適当な家庭教師は求めても得られなかった。十五歳のときブエノスアイレスに行ったおりにチフスにかかり、それが直らないうちにリューマチ熱にやられて心臓を痛めた。医者は、活動生活は無理だと宣告し、大人になるまで生きられないと予言した。このためにウィリアムは読書に専念するようになったらしいが、この時期に読んだダーウィンの『種の起源』、ホワイトの『セルボーンの博物誌』が一生に決定的影響を及ぼしたのだという。猛烈な読書生活だったため、二十一歳前に失明の危機もあったという。しかし、この間に体調は回復し、身長は伸び、肩幅のひろい筋力すぐれた大男になった。それから数年間かけて南米各地を放浪して、アルゼンチン、パタゴニア、ウルグワイで野生動物を研究したのだったが、そのためにハドスンは、この頃すでに博物学者になっていたのだった。
両親が亡くなり、二十九歳のときに「英国にもどり」、以後一生、英国を離れなかった。永年ロンドンで孤独な貧乏生活を続けていたが、一八七六年、暮らしていた下宿の経営者エミリ・ウィングレイヴと結婚した。夫人は十五歳年上で、以前、二流どころのオペラ歌手で、歌の先生をしたこともあったという。結婚後も下宿経営はうまくいかず、夫婦は極度の貧乏生活を強いられ、ハドスンは夫人の歌に慰められながら、読書と執筆に没頭していたといわれる。こうして英国にきてから十六年目の一八八五年、最初の小説『深紅の国』〔The purple land that England lost〕を発表したが、その七年後に出版された『ラ・プラタの博物学者』〔The Naturalist in La Plata〕によって、やっと名が知られるようになったのであった。しかし、この頃には、「鳥類保護協会」のために多くの文章を書いていて、この方面ではハドスンは有名人だった。この頃から少しずつ収入もふえはじめ、夫婦は休日を楽しむようになってきたが、それは春や秋の田園への徒歩旅行だった。またこの頃、ハドスンはよく自転車に乗っていたというが、この当時、英国には自転車熱があったのである。一九〇〇年に英国に帰化する。こののちハドスンは一人で英国各地の愛する土地を訪ねているが、『ある羊飼いの一生』〔A Shepherd's Life,1910〕はこの頃の作品である。
ハドスンの才能を評価し、激励し、援助した人として注目すべきは、出版社顧問だったエドワード・ガーネット〔一八六八〜一九三六〕であろう。たびたびハドスンがガーネット家を訪ねてきた思い出を、当時十歳位だった息子で、後の小説家デイヴィッド・ガーネット〔一八九二〜一九八一〕が語っているが、デイヴィッドの母親のコンスタンス〔一八六二〜一九四六〕もロシア小説の有名な翻訳家であり、彼女からも影響を受けたことをハドスンは語っている。またハドスンは、当時、友人として、ジョウゼフ・コンラッド〔一八五七〜一九二四〕、ジョージ・ギッシング〔一八五七〜一九〇三〕、ジョン・ゴールズワージィ〔一八六八〜一九三三〕、ノーマン・ダグラス〔一八六八〜一九五二〕、ヒレヤ・ベロック〔一八七〇〜一九五二〕とも親交があったとされるのは興味をそそる点である。
ハドスンは、幼い子どもの頃の環境もあって田園の自然への強烈な愛情を持っているが、それは後のロンドンでの生活の圧力もあって、いよいよ強められて、彼の生の活力源となったのであろう。ハドスンの文学の魅力はまさにここにあるのだと思われる。そういう点で、わが国にもかなりの数の愛読者がいるようで、かなりの翻訳書が出ている。『ラ・プラタの博物学者』〔岩波文庫〕〔The Naturalist in La Plata,1918〕、『はるかな国、遠い昔』〔岩波文庫〕〔Far Away and Long Ago,1918〕、『緑の館』〔岩波文庫〕〔The Green Mansions,1904〕、『鳥たちをめぐる冒険』〔講談社〕〔Adventures among Birds,1913〕、『鳥と人間』〔講談社〕〔Birds and Man,1901〕、『エル・オムブ』〔金星堂〕〔El Ombu and Other South American Stories,1902〕などが私の知る限りでは出ている。
さてここに記した『ある羊飼いの一生』は、一九一〇年、ハドスン七十歳の作品である。『オクスフォード英文学の友』〔The Oxford Companion to English Literature〕の第三版と第五版を見ると、ハドスンの最も注目すべき作品として、『ある羊飼いの一生』と『緑の館』が挙げられている。
私事に触れることが許されるならば、私がこの作品に初めて触れたのは、法学部の学生だった頃で、生き方に迷い悩んでいた時期だった。あまり頼りにならない辞書を頼りに、分からないたくさんの個所につまづき倒れながら、毎日、少しずつ読み進んでいた記憶があるが、まるで傷ついた犬になったような気分だった。冬の日溜まりに、人目を避けて、傷をなめながら、それの癒えるのを待っている犬の姿に自分を重ねていたのは、この本に描かれた牧羊犬たちの影響だったと思う。鳥、犬、羊などにまるきり無縁な法律学生だったのに、そういう生き物の話に接しているうちに、かすかに、極くかすかに、生気が体内に入り、温かくなってくるのを感じたのは、結局、自分が自然の土に近づけられたということだろう。生命は土から発し、土に帰る。山川、草木、鳥獣と共に土に密着して生きるとき、体内に生気の入るのを意識すると同時に、やがて土に憩うべき安らぎを感じるのは自然であり、ハドスンの尽きぬ魅力はここにあるのだと思われる。二十二、三歳のとき初めて読んで以来、『はるかな国、遠い昔』と共に忘れられなかった作品であって、その後、数十年を経た一九八七年に帝塚山学院大学英文学科の学会誌『ランテルナ』に、分冊の形で翻訳を出すことが出来たのであった。ところが今度、思いがけなくも、大和田伸氏のご好意をいただいて、「グーテンベルク21社」から電子ブックとして、まとまった形で世に出る機会を与えられた。この機会に、もう一度初めから丹念に読み返し改訳することが出来たのは、訳者として稀れな幸運であり、学生時代の宿願を果たした思いで幸福に満たされる。
なお、訳文中の注はすべて訳者が入れたもので、原文には注は全くないことをお断りしておく。
底本は、A Shepherd's Life by W.H.Hudson〔Everyman's Library,1949〕
二〇〇四年四月二〇日
〔訳者略歴〕
水嶋正路(みずしま・まさみち) 一九三一年京都府に生まれる。大阪市立大学法学部および文学部卒。大阪市立大学文学研究科博士課程修了。京都女子大学、大阪市立大学を経て現在、帝塚山学院大学名誉教授。訳書にJ・コンラッド『西欧の眼のもとに』〔思潮社〕、『ローレンス短編集』〔共訳・太陽社〕、H・G・ウェルズ『解放された世界』『神々のような人びと』その他がある。