緑の館
W・H・ハドスン/守屋陽一訳
目 次
緑の館
訳者あとがき
[#改ページ]
緑の館――熱帯林のロマンス
プロローグ
この仕事の完成のために、思ったより多くの時間をついやしてしまったのは、きわめて遺憾《いかん》なことだ。アベル氏に関する一切の真相を、二、三か月のうちに発表するつもりだと、ジョージタウンの新聞に書き送ってからすでに数か月、実際一年以上になる。彼の最も親しい友人の書いたものであるから、人々の期待も決して少くはなかったであろう。そこで私は、ともかくも、この発表が約束された本が現れるまでには、新聞の論議も止むだろうと考えていた。しかし事実はそうではなかった。ギアナから遠くはなれた所にいる私は、毎週、地方新聞にどれほど多くの推測の記事がのせられたかに気付かなかった。そしてそれらの記事のあるものは、アベル氏の友人にとって、胸の痛むものであったにちがいない。本通りにある、あのなつかしい家の、誰もその存在に気付かなかった薄暗い部屋、そこにある家具といっては、黒檀《こくたん》の小卓一つ。その上には、表面に、花と葉と茨《いばら》の装飾がつけられ、その間を一匹の装飾の蛇が身をうねらせながら巻きついている、一つの遺骨つぼが置いてある。そしてそのつぼには、誰一人、理解したり、正しい解釈をあたえたりすることのできぬ、七字の短い言葉が彫りつけられている。――そして最後に、しさいありげなこの遺骨の配置――これらが、一人の人間の生涯の、まだ語られていない一章に関する空想を刺激《しげき》したのだ。今度こそ、もう空想をめぐらすことなど終りにしてしまいたい。しかし、このような、この上なく激しい好奇心がそそられたのも、きわめて当然のことなのだ。それは、すべての人が認め、すべての人の心をひきつけた、あの独特な、名状しがたい魅力によるためばかりでなく、彼が沈黙を守っていた、荒野における滞在という秘められた一章のためでもあった。彼が、彼自身に深い影響を及ぼし、この人生行路を変えてしまった、異常な経験に出あったことは、彼と親しかった人々は、漠然と気付いていた。しかしその真相は、私一人にだけ知らされていたのである。ここで私は、できるだけ簡潔に、彼に対する深い友情と、限りない親しさがどのようにして生じたかを語るべきだと思う。
一八八七年、ある官庁に就任するために、ジョージタウンについた時、アベル氏はすでにその土地の古い居住者であり、資産家であり、社交界での人気者だった。しかし彼は、外国人、すなわち植民地の居住者たちが、常に不倶戴天《ふぐたいてん》の敵とみなしてきた、国境に住む、荒っぽい民族の一つである、ヴェネズエラ人だった。彼は今から約十二年前、人里はなれた奥地から、ジョージタウンにやってきた、彼は、南米大陸の大部分をただ一人徒歩で旅行し、この海岸にやってきた、そして最初人々の間に現れた時には、懐中《かいちゅう》に一文の金もなく、ぼろをまとい、熱病や、種々の難儀《なんぎ》のために、骨と皮ばかりに憔悴《しょうすい》し、長い間太陽と風にさらされて、顔の焼けた、若い外国人だった。これは私が人からきいた話である。友もなく英語の知識にも乏しかった彼にとっては、生活とは苦しい闘いにすぎなかったろう。しかし彼は、ともかくも何とか生き抜いて日々を送っていたが、やがてカラカスから文書がとどいて、かつてとりあげられていた多額の財産が、ふたたび彼のものになる旨を報じた。彼はまた、共和国の政治に加わるために、故国に戻るよう招かれた。しかしアベル氏は、まだ若かったにもかかわらず、政治上の情熱や野望、否、故国に対する愛情さえ、明らかに失っていたのだ。ともかくも、彼は現在彼のいる所に、とどまることを決心した。自分の敵が、自分の最上の友であった、彼は微笑しながらそういったものだ。そして彼は、財産の使い始めの一つとして、後に私にとって、自分の家のようなものになった、本通りにある例の家を買ったのであった。
ここで私は、この友人の完全な名前が、アベル・ゲベセ・デ・アルヘンソラであることをいっておかなければならない。彼は、ジョージタウンにいたはじめの頃は、ただ洗礼名だけでよばれていたが、後になってからは、ただ「アベル氏」として知られることを望んでいた。
彼と知りあいになってみると、このようなイギリスの植民地で、ヴェネズエラ人である彼が、尊敬や愛情をかちえているのも当然だという気がしてきた。あらゆる人々が彼を知り、彼に好意を持っていた。その原因は魅力的な容姿、優しい性質、女性に対する態度にあった。そして彼の女性に対する態度は、女性を喜ばせながらも、他の男性のしっとをひき起さなかった。――若くてあいらしく、気の変りやすい女房を持った、年老いて短気な農場主にさえも――。また、幼い子供や、あらゆる野生の動物や、自然や、普通の物質上の利益とか、まったく営利的な社会の利害関係とは、まったく関係のない一切のものに対する愛情が、彼の人気の原因だった。彼以外の人々の興味をひくもの、――政治や、スポーツや、水晶のねだん――それらは、彼の考えとは、何のかかわりもないものだった。そして人々は、しばらくの間、そういう俗事を充分にやり、事務所や、クラブの部屋や、商社などで、大あらしのように思う存分吹きまくったあげく、気分の転換を求める時は、アベル氏の方に向きを変えて、彼の世界――自然や精神の世界――の話をしてもらうことに、一種の気晴らしを見出すのだった。
ジョージタウンにアベル氏のような人がいることは、よいことだと誰もが感じていた。私も、彼がいてほんとうによかったとすぐに気がついた。私は、こんなところで、私の趣味――私の生活の主な情熱と喜びの対象であった詩に対する愛好――を分ちあう人に出会おうとは、全然期待していなかった。しかし私は、私と趣味を分ちあうことのできる人を、アベル氏の中に見出したのである。スペインの文学によって育てられ、英文学に関しては、まだ十年か十二年ばかり読んできたにすぎない彼が、私自身と同じくらい、英国の現代詩に精通していて、私と同じような激しい愛好者であったことは、私を驚かせた。この感情が、私たちを一つのものに結びつけ、私たち二人――神経質なオリーヴ色の皮膚《ひふ》をした熱帯地方のスペイン系アメリカ人と、寒い北国の、青い眼をした粘液質のイギリス人――を精神の上において一つのものにし、兄弟以上にしたのであった。私たちは、多くの昼間の時間を共にすごして、「話をして太陽を疲れさせ」た。そして数え切れないほど多くの貴重な夜を、私がほとんど毎日のように訪れた、あの静かな家ですごしたのだった。私は、このような幸福を前もって予期してはいなかった。また彼もしばしばいっていたが、予期してはいなかったのだ。このように彼と親しくなってみると、彼の秘められた過去に関する漠然とした想像、すなわち、何か異常な経験が、彼に深い影響をあたえ、その人生行路を変えてしまったにちがいないという想像は、少しも減少しようとはせず、かえって、その強さを増し、しばしば私の心に浮かぶようになった。私たちが、とりとめのない話をしている時、土民とか、土民の中で暮したり旅行したりしていた間に、彼が得た土民の性格や言葉に関する知識とかに話がふれると、かならず見ている者の眼に痛々しく映るばかりの変化が、彼に現れるのだった。彼の話を、かぎりなく魅力のあるものにしているすべて――活溌な、好奇心に充《み》ちた心、機智、微《かす》かな憂《うれ》いの影を帯びた陽気な心――は、その姿を消して行くようだった。その表情さえも変り、険《けわ》しく、かたいものになるのだった。そしてまるで本でも読んでいるかのように、感情のない、機械的な調子で、事実だけをのべるのだった。このようなことに気づくことは、私にとってまったく悲しいことだった。しかし私は、そういう感情を少しも表わそうとはしなかった。そしてもし、あのついにやってきて、数年来の親しい友情を、たとえしばらくの間とはいえ、淋《さび》しく中断してしまった口論がなかったならば、それを口にすることは、おそらくなかったであろう。私はからだの調子がわるくなった。するとアベルは、そのことをひどく心配したばかりでなく、まるで私が病気になったことによって、彼をいやがらせてでもいるかのように、いらいらして、もし私がその気になれば、病気などなおってしまうのだとさえいうのだった。私はその言葉を真面目《まじめ》にはとらなかったが、ある朝、事務所に訪ねてきて、私のことを非難したので、私は、すっかり怒ってしまった。彼は、怠惰と刺激物をとったことが、私の不健康の原因だといった。彼はあざけるようにそういうのだった。彼は、別に大して意味はないといっていたが、その感情をまったくかくすことはできなかった。彼の非難に感情を害した私は、たとえ冗談《じょうだん》であっても、私に向ってそんな風に口をきく権利はないのだと、うっかり口をすべらせてしまった。すると彼は、真剣になって、そうだ自分は、私たちの友情による権利という、至上の権利を持っているのだといい出した。また、このようなことについて、何もいわずにいるのは、本当の友人ではないともいった。私はあわてて、私にとって、私たちの間の友情とは、あなたが思っているほど完全でも、申し分のないものでもないといい返した。私はさらに、友情の条件の一つは、互いに相手のことを知らなくてはならない、あなたは私の全経歴と考えとを、本でも読むように充分に知っているが、あなたの経歴は、私にとっては、とじて留め金をかけた書物のようなものだとつけ加えた。
彼の顔は、暗くなった。そしてしばらくじっとだまって考えたあと、立ち上ると、冷やかな別れのあいさつを残したまま、立ち去って行った。いつもする習慣になっていた握手をする気配《けはい》もなく。
彼が立ち去ったあと、私は大きな損失を感じ、大きな災難がふりかかってきたように思った。しかし、彼の非難の真実性を認めれば認めるほど、ますます、彼の歯に衣をきせぬ非難が気にかかるのだった。そしてその夜、眼をさましたまま、ベッドに横になりながら、私は自分のした残酷な反駁《はんばく》を後悔し、彼にゆるしを求めて、私たちの今後の関係について一任することに決心した。ところが、彼は私より先に、次の朝手紙をよこし、私のゆるしを求める一方、その晩、正餐《せいさん》を共にしようと招いてきたのだ。
私たち二人の他には、誰もいなかった。そして正餐の間も、そのあとベランダで煙草をふかしたり、ブラックコーヒーをすすったりしている間も、私たちはひどくもの静かで、ほとんど厳粛といってもいいほどだったので、給仕をしていた、白い服の二人の召使たち――暗褐色《あんかっしょく》の顔をした鋭い眼つきの年老いたインド人の執事と、ほとんど濃紺《のうこん》の皮膚を持った、若いギアナ黒人――は、何度も、主人の顔を盗み見たほどだった。彼らは、主人が友人と食事を共にしている時、もっと愛想のいいのに慣れていたのだ。しかし私にとって、彼の態度の変化は意外なものではなかった。彼をみた時から、前に私のいった、とじて留め金をかけた本を彼がひらこうと決心したこと、彼の話をする時が今やってきたことを推測したからである。
今僕たちは、二人共冷静になり、互いに傷つけあったことを後悔しているので、ああいうことの起きたことも遺憾だとは思っていない。僕は君の非難に価《あたい》した。今まで何度となく、野蛮人のいるところで行った旅行や冒険の一切を君に話したいと思ってきた。しかし僕にそれをさせなかった理由の一つは、そうすることによって、僕たちの友情に不幸な影響を及ぼしはしないかという恐れであった。僕たちの友情は貴重なものだった。そして僕は、何を犠牲にしようとも、それを保っておきたいと願ったのだ。しかし今僕はもはやそのことを考えるべきではない。僕の考えなければならないことは、どのようにしてそれを話すかということだけだ。僕は、二十三の時のことから話を始める。僕はまだ若かったが、政治の激しい争いの中にまきこまれ、その結果自分自身の自由と、おそらくは生命をも守るために、亡命しなければならない厄介なはめに落ち入った。
ある人は、国家というものは、それぞれ、ふさわしい政体を持っているといっているが、ヴェネズエラもたしかに、それにふさわしい政体を持っている。そしてまたそれが最も似合っているのだ。僕たちはそれを共和政体と呼んでいる。そう呼ぶのは実際は、共和政体ではないという理由と、事物というものは、すべて名前を持たなければならないという理由による。そしてよい名前、あるいは立派な名前を持っているということ、それは大変|都合《つごう》のいいことだ。――特に金でも借りたいと思う時には。五十万平方マイルの面積に、まばらにちらばった、無学な小百姓《こびゃくしょう》、混血児、土人がその大半を占めているヴェネズエラ人が、もし社会の福利のためにのみ熱心な、教育のある聡明な人間であるなら、彼らも、ほんとうの共和政体を持つことができるだろう。しかし彼らは、共和政体の代りに、革命によってきたえられた徒党を持っていた。しかし、それが、この国の、物質上の状態と、国民の気質に調和した、実によい政体だったのだ。ところで君の国の上流階級に相当する教養のある人々は、非常にその数が少いので、その属している政党の重要な人物と血族関係または姻戚《いんせき》関係のないものは、ほとんどいないというありさまだ。このことによって僕たちが、政権を持っている政党――すなわちそれは他の党派の人々のことだが――に対する陰謀《いんぼう》とか反乱を、単なる自然の理法とみなすのになれているということが、いかに容易であり、ほとんどさけがたいことであるのがわかるだろう。失敗に終った場合、その反乱は処罰されるが、不道徳であるとはみなされていない。それどころか、僕たちの中の、最高の知性と高潔さとを備えた人々が、そのような事件に指導的地位を占めて参加することもあるのである。このような状態が、本質的によいかわるいか、あるいは、ある情況の下においてはわるく、別の情況の下においては、その不可避であるがためにわるくないか、僕にはそれを決定することはできない。そしてこのような退屈な前口上をのべるのも、ただ、次のようなことを理解してほしいと願っているのに他ならないからである。すなわち潔白な性格を持ち、職業軍人ではなく、政治上の名声を得ようという野心もなく、あの国の人間としては、資産家の部類に入り、社交界には人気があり、社交上の楽しみや、書籍や、自然を愛好している一人の青年であるこの僕が、自分で信じていたように、最も高尚な動機にかられて、友人や親類により、きわめて簡単に、時の政府を打倒し、さらに立派な人々――すなわち僕たちの党の人々――をおき変えようという目的の陰謀に引きこまれたことを。
僕たちの冒険は、当局がその事件をかぎつけ、ひどくあわててしまったために、失敗に終った。その時、僕たちの指導者たちは、たまたま国内の方に散らばったり、国外にいたりしたので、その時カラカスにいた性急《せっかち》な二、三人の人が、逮捕されるのを恐れたのであろう、早まった襲撃を敢行《かんこう》したのだ。その結果、大統領は、街路で襲撃され、負傷した。襲撃者たちは、逮捕され、そのうちの何人かは、翌日銃殺された。そのしらせがとどいた時、僕は、首府から遠くはなれた所にいた。僕の滞在していたのは、サラサから約十五乃至二十マイルはなれた、ガリコ州のケブラダ・ホンダ河岸にある、友人の所有地だった。陸軍の士官であったその友人は、その陰謀の指導者であった。また僕もまた、陸軍大臣にひどく憎まれてきた男の一人息子だったので、生命を救うためには、二人共逃亡することが必要になった。このような情況のもとにあったので、僕たちは、ゆるされることを期待するわけにはいかなかったからだ。まだ若いという理由によってさえも。
最初、僕たちは、海岸に脱出しようと決心した。しかし、ラ・ガイラあるいは、北部にある他の海港への旅行は、非常な危険を伴うように思われたので、反対の道をとって、オリノコ河に出、アンゴスチュラに向って流れを下ることにした。さて、この比較的安全な安息地――ともかくも差当りは安全な――に到着した時、僕は、この国を立ち去ろうという考えを、立ち去ろうと試みようとする考えを変えたのである。地図にのっていない無数の川と、人跡の絶えた森林を持った、オリノコ河の南にある広漠《こうばく》とした、ほとんど未踏《みとう》のわが国土、それは、僕が子供の日から特別の関心を抱いていた場所だった。また、古代の習慣と性格とを持ちつづけていて、ヨーロッパ人との接触によって純粋なものを失っていない、野蛮な住民たちにも興味があった。この原始の荒野を訪れることは、僕が心の中に抱きつづけてきた夢に他ならなかった。そしてこのような冒険に対しては、幾分か準備をしてきたのである。僕は、ヴェネズエラの北部の諸州に住むインディアンの方言を一つならず修得していたのだった。そして、オリノコ河の南側にやってきて、自分の自由になる時間がいくらでもある今、僕はその望みをはたす決心をしたのだ。僕の友人は、海岸に向って出発したが、僕は、種々の準備と、蛮人との取引きのために奥地に旅行したことのある人々から見聞をあさることにとりかかった。ついに僕は、ふたたび流れをさかのぼり、ギアナ西部の奥地と、コロンビアとブラジルに接するアマゾン地域に入りこみ、大体六か月以内にアンゴスチュラに戻ることにした。ギアナ官憲は、カラカスの政治的動乱には、ほとんど関心を持っていなかったので、半ば独立した、住民の大半は蛮人であるこの地域にいるかぎり、逮捕される心配はなかったのである。
この避難所である都市を立ち去ったあと、ギアナですごした五、六か月の間は、適度に冒険好きな心を満足させるにことかかぬ程度に色々なことが起った。アンゴスチュラの親切な官吏が、僕に旅券を作ってくれたが、その旅券には(読む人はほとんどなかろうが)、僕の奥地訪問の目的は、土人とその地方の植物に関する資料と、その他国家の利益となる知識を集めることにある、と記入してあった。そしてさらに当局には、僕に保護をあたえ、仕事の遂行を援助するようにと懇請《こんせい》してあった。
僕は、オリノコ河をさかのぼりながら、時折右岸の近くにある小さなキリスト教徒の開拓地や、インディアンの部落に遠征を試みた。このように旅行をつづけ、多くのものを見聞しながら、三か月ばかりの後に僕はメタ河についた。この間中、僕は日記をつけては楽しんだ。それは、僕自身が経験した冒険と、未開及び半未開の土地と住民とに関する印象の記録だった。そしてその日記がだんだんにふえてくるにつれて、後日カラカスに戻った時、それが社会に対して有益で興味深いものであることがわかり、僕に名声をもたらすであろうという考えが、頭を占め始めた。そしてその考えは楽しい、大きな刺激となったので、僕は前よりもいっそう事物を綿密《めんみつ》に観察し、表現にも心をくばるようになった。しかしその本は、世間に出る運命を持ってはいなかったのである。
メタ河の河口から、僕はさらに旅をつづけて行った。僕は、あの大河ガヴィアレが他のいくつもの河と一緒に、オリノコ河に注ぐアタハポの開拓地を訪れようと思っていたのだ。しかし僕は、そこまで行くことができなかった。僕は、マナプリという小さな開拓地で、低熱病にかかってしまったのである。そしてここで、僕の放浪の最初の半年は終ったのだった。そのことについては、もうこれ以上のべる必要はあるまい。
低熱病にかかるのに、マナプリほど悲惨《ひさん》なところを想像することは困難である。その開拓地は、ほとんどみすぼらしい小屋があるだけで、泥でできた二、三の大きな建物――編み枝に泥を一面に塗《ぬ》った、しゅろの葉で屋根をふいたものだが――があるだけだった。そして、ガアガア鳴く無数の蛙《かえる》と、蚊《か》の大群の発生地である水と、沼と、森林に取りかこまれていた。まったく健康な人にとってさえ、このような場所に住むことは、耐えがたいものであったろう。ここに集っている住民は、八、九十人ばかりだったが、その大半は、小さな未開地の取引所でよく見られる堕落《だらく》したインディアンだった。ギアナの蛮人たちは、大酒のみではあるが、僕たちのいうよっぱらいとは、わけがちがう。彼らの醗酵《はっこう》酒は、アルコール分がきわめて少いので、よっぱらうには、非常に多量を飲まなければならない。しかし、開拓地においては、もっと強い白人の毒物を好むので、その結果、マナプリのような小さなところでさえ、偉大なアメリカ悲劇の幕切れを、舞台でやるように演ずるのを見ることができる。むろん、別の、そしておそらくいっそう大きな悲劇がそのあとに続いているのだが。病気の間中、僕の考えは、まったく悲観的だった。時々、半日も、ほとんど小止みなく雨がふりつづいている時、僕は何とかして少しばかり外に這《は》い出したいと思った。しかし、僕は、ほとんど力を出すことさえできないのだった。僕はほとんど生きたいという気持さえ失い、たまに到着するカラカスからの消息にさえ、まったく興味を失うようになった。しかし、二か月目の終り頃には、少しからだの具合もよくなり、生きることや、世間に対する興味が回復してきたので、日記を取出し、マナプリ滞在に関する簡単な記事を書いてみようと思いついた。僕は、その日記を安全に保存しておこうと思って、小さな樅《もみもみ》の箱に入れておいた。その箱を、この目的のためにくれたのは、みんなからドン・パンタと呼ばれている、パンタレオンという名前の、この開拓地に古くから住んでいるヴェネズエラ人の商人だった。彼は、半ダースのインディアンの妻を自分の家に公然と住まわせている男で、不正直と貪慾《どんよく》とで有名だったが、僕には親切であった。その箱は、しゅろの葉で屋根をふいた、僕の住んでいるみすぼらしい小屋のすみに、置いてあった。しかし取り出してみると、雨滴《うてき》がその上にしたたり落ちて、例の原稿が、水にふやけたパルプの状態になっているのに気がついた。僕は呪《のろ》いの言葉をあげながら、それを床の上に投げつけ、うめきながらベッドに身を投げかけた。
そんな沈んだ気持でいる時、僕は、パンタにみつかってしまった。彼は、いつ何時《なんどき》現れるかわからない習慣になっていたのである。心配そうにたずねる彼に答えて、僕は、土間にあるパルプのかたまりを指さした。彼はそれを足でひっくり返してみたが、その正体を知ると、突然大声で笑い出し、外へそれをけり出してしまった。雨のために這い込んできた得体《えたい》の知れない爬虫類《はちゅうるい》かと思っていたと彼はいった。彼は、僕が原稿を台無しにしてしまったことを後悔しているのを見て、驚いた様子をした。あんなものは、事実の記録にすぎない、もし出不精な人間が読む本でも書きたいのなら、実際の経験よりも、もっとずっと面白《おもしろ》い作り話をいくらでも容易に作り上げることができるだろう、そう彼は叫ぶのだった。彼がいうところによると、彼は一つのことを提案しにきたのである。彼は、この土地に二十年も住んできて、この土地の気候に慣れている、しかしもし僕に生きたいという望みがあるならば、これ以上ここにとどまっていることはよくない、僕は、どこか他の地方――広々とした乾燥している山岳地方――にすぐ行かなければならない。そして彼は結論を下した。「そこにいれば、キニーネが必要な時には、南西から吹いてくる風をかげばいいのだ。そうすれば、森からくる新鮮なキニーネをからだの中に吸い込むことができるだろう」そして僕が、今のからだの状態では、マナプリを立ちさることが不可能だと、力なくいった時、彼はさらに言葉をつづけて、今この開拓地には、少人数のインディアンの一隊がきている、彼らは、取引きのためばかりではなく、彼ら自身の種族の一人、すなわち二、三年前、父親から買った彼の妻を訪ねにきているのだといった。「わしは、あの女にかけた金を今日まで後悔したことがない」彼はいうのだった。「あの女は、よい妻だ。全然やきもちを焼かないからな」彼は、他の妻全部を、ののしりながらつけ加えた。これらのインディアンたちは、はるばるクエネベタ山脈からやってきたもので、マキリタリ族に属している、僕のために彼らを仲間にひき入れることは、彼パンタもだが、彼の善良な妻の方が、もっとよくやってくれるだろう、そして適当な報酬《ほうしゅう》をやれば、ゆっくりと気楽に、彼らの国につれて行ってくれるだろう、そしてそこで僕は満足のいく取扱いを受け、健康も取り戻すことができるだろう、そう彼はいうのだった。
この提案は、よく考えてみると、非常によい結果を及ぼすように思われたので、僕は喜んで同意した。そしてそればかりではなく、次の日には、床から出て歩けるようになり、いくらか元気も出てきて、旅行の準備にもとりかかれるようになった。
八日ばかりたった後、僕は寛大な友人、パンタに別れを告げた。彼は何度もあった今となっては、彼は僕にとって、ひきさくためではなく、死から救うために、とびかかってきた残忍なけだものと思われるのだった。何故なら、残忍なけだものや、邪悪な男でさえも、時にはやさしい、慈悲心に富む衝動にかられ、そうしている間は、ちょうどいっそう気高い力に従順に従っているかのように、彼らの天性に反する行動を行うのを、僕たちは知っているからだ。僕の衰弱した健康状態で旅行をすることは、絶え間のない苦痛だった。またインディアンたちにも、大変な根気を要求することになった。しかし、彼らは僕を見捨てようとはしなかった。そしてついに、約六十五リーグと思われる全道程を、終えることになった。そして旅行の終る頃には、実際出発した頃にくらべると、僕のからだはあらゆる点で丈夫になっていた。そしてそのあと、全快までは、回復の速度も迅速《じんそく》だった。はるか彼方にあるアンデス山脈にあるキナの木から吹いてくる微風は、医療的効果はともかく、たしかに元気づける力を持っていた。そして、インディアンの部落の上にある丘の斜面を散歩したり、さらにあとになってその頂上に登ることができた時、荒涼としたクェネベタ山脈から眺められる世界は、奇妙に心をさわやかにし、快適な気分をあたえるような広大さと、さまざまな風景の壮観を持っていた。
僕は、マキリタリ族と一緒に、二、三週間をすごした。そしてふたたび健康になったという快い感じは、しばらくの間、僕を幸福にした。しかし、そんな感じは、回復期がすぎてしまえば、めったにあとに残るものではない。ふたたびからだの具合がよくなってくると、じっとしてはいられない気持が、僕のなかで活動し始めた。この部落の中の、未開な生活の単調さが、堪えがたいものになってきた。長い無気力の時期がすぎてその反動がやってきた。僕は、ただ活動を、冒険を望むのだった。――たとえ、どのように危険なものであったとしても。また僕は、まだ見たこともない景色や、人の顔や、まだきいたこともない方言を求めるのだった。ついに僕は、カシキアレ河まで行くことを思いついた。そこには、二、三の小さな開拓地があるだろう、そしておそらくそこの官憲の助けを借りて、リオ・ネグロ河に達することができるだろう。その時、僕の心には、その河にそってアマゾンに出、そこからパーラを通って大西洋岸に下ろうという考えがあったのだ。
クェネベタ連山を後に、僕は二人のインディアンを案内人兼旅行同伴者として、出発した。しかし彼ら二人の旅行は、僕が目的とする河に達する、半分のところで終るのだった。そこで彼らは、オリノコ河に注ぐクヌクマナ川の一支流である、チュナパイ河のほとりに住む親しい蛮人に僕のことを委せたのだった。ここで僕は、南西に向って旅行するインディアンの一団に加わる機会がやってくるまで待っている他はなかった。何故なら、この時までに、マナプリから持ってきた装身具やキャラコから成る僅かな資本を全部消費してしまった結果、もはや人をやとうことができなかったからである。おそらくここで、僕の所有物についてのべておく方がよかろう。ここしばらくの間、足を保護するためには、サンダルしかはいたことがなかった。僕の衣服は、ただ一揃《ひとそろ》いの服と、ネルのシャツだけだったが、僕はしばしばこのシャツを洗濯《せんたく》したので、それを乾かしている間は、シャツなしでいなければならなかった。しかし運よく僕は、すばらしいブルーの毛織物のマントを持っていた。それは丈夫で立派なもので、アンゴスチュラにいる友人がくれたものだった。彼は、それをくれた時、僕自身よりも長持ちしそうだといっていたが、その予言は、どうやら本当になってきそうだった。それは、夜には、からだを包むものとして役に立ったが、雨の降る冷い日に旅行する時、暖かく、快適にすごすには、これほど立派な衣服は見当らなかった。僕は、幅《はば》の広い皮のベルトに、連発ピストルと、金属製の弾薬《だんやく》箱とを持っていた。また丈夫な鹿の角《つの》の柄《え》のついた、刃渡《はわた》り九インチばかりの刃の厚い見事な猟刀《りょうとう》も持っていた。そして、マントのポケットには、美しい銀のほくち箱と、マッチ箱――これらは、ふたたびこの物語の中で言及されることになっているが――、その他いくつかのこまごましたものを持っていた。僕は、それらが使えなくなるまで持っていようと決心した。
チュナパイ河のほとりで、退屈な待機の日々をすごしていた間、この部落に住んでいるインディアンから、有望な話を耳にして、前に計画しておいたリオ・ネグロ河への旅行をやめることにした。そこにいるインディアンたちは、ギアナ蛮人のほとんど全部と同様、首飾りをつけていたが、そのうちの一人が、他の者とはちがった首飾りを持っているのに気がついた。それを見て僕の好奇心は、激しく動いた。それは、大人の親指の爪と同じくらいの大きさの、不規則な形をした十三の金の板金からできていて、繊維《せんい》でつながれていた。僕は、それをよくみせてもらった。それは、まぎれもない純金で、蛮人たちの手で、平らに打ち延ばされたものだった。色々きいてみると、パラウアリのインディアンから手に入れたということだった。そしてパラウアリというのは、オリノコ河の西の方にある、山の多い地方だと彼らはつけたした。その地方に住んでいる者は、男でも女でも、このような首飾りを持っていると彼らはうけあうのだった。このうわさは、僕を非常に興奮させ、黄金の夢をみたり、どうしたら、文明人どもに知られていない、その富んだ地域に達することができるかを考えたりして、夜も昼も落着いていることができなかった。僕は、つれて行ってくれと説きつけてみたが、インディアンたちは、真剣な顔をして、頭をふるのだった。オリノコ河でさえ、ここからは遠くはなれている、ましてパラウアリへ行くにはそれからさらに十日、おそらく十五日もかかるのだ、しかもそれは、彼らの知らない地方であり、親類も全然ない、それが彼らのいい分だった。
しかし、種々の困難や遅延にもかかわらず、また苦労や、危険な冒険がないわけではなかったが、ついに僕は、オリノコ河の上流に到着し、河を渡ることに成功した。僕は、生命を自分自身の手に委ねて、未知の困難な土地をやっとのことで西に向って進んで行った。いつなんどき、わずかな持ち物のために、勝手に殺されてしまうかも知れないインディアンの部落を次から次へと通りながら。ギアナ蛮人をほめるのには骨が折れる。しかし彼らに関して次のことだけはいっておかなければならない。彼らは、この長い旅行の間、僕が彼らの手中にあった時、僕に何の害もあたえなかったのみならず、彼らの部落で僕に泊める場所をあたえ、空腹の時には、食物をあたえ、何一つ返礼ができないにもかかわらず、旅行の途中の僕を助けてくれたのだ。しかし彼らの性質の中に、親切とか、文明人に見出されるような人情のある、情深い天性とかがあると早合点《はやがてん》してはならない。そんなものからは、はるかに遠いのだ。僕は今、そして幸いなことには、今のべたように彼らの手中にあった時でさえ、彼らが、けだものの知恵よりもはるかに発達した、狡猾《こうかつ》な、あるいはいやしい知恵を持っている猛獣であると考えていたのである。彼らの持っている唯一のモラルといっては、同じ一族とか、同じ種族の他の一員の権利に対する尊重だけであった。これがないならば、どのような野蛮な社会であっても、結合を保っているわけにはいかないのである。それならば、僕はどのようにして、害も受けることなく、自由に暮したり旅行したりすることができたのだろうか。稀《まれ》にしか、否まったくといっていいくらい白人の姿を見ることのできぬ地方の、新来者に対しては親和感も、親切心も持っていない種族の間で。何故なら僕は、彼らのことを充分に知りつくしていたからである。幸に役に立ったこの知識、熟練によってほとんど直観といってもいいくらいまで発達していた、新しい方言を習得する、卓越した能力、そういうものがもしなかったとしたら、マキリタリ族に別れを告げた後、うまくやって行けなかったにちがいない。実際、九死に一生を得たような、危い目にも、二、三回はぶつかったのである。
さて、本題に戻るとしよう。僕はついにあの名高いパラウアリの山々を見た。しかし、それらが、結局は単なる丘、しかもあまり高くない丘にすぎなかったので、非常に驚いた。しかし、そのことは、僕を失望させはしなかった。景色の上からいって、堂々としていないという事実は、むしろそこに、豊富な黄金のあることを立証しているかのようだったから。もしそうでないならば、クヌクマナのような遠隔の地に住んでいる人々に、この山の名前と、その宝のことが、知れ渡っているはずがあるだろうか?
しかし、そこには黄金はなかった。僕は、全長約七リーグに及ぶ全山脈を探索し、いくつもの部落を訪れてみた。そしてインディアンたちに、色々と質問を試みてみた。しかし彼らは、黄金の首飾りはおろか、どのような形の黄金をも持っていなかったのだ。また、彼らのいうところによると、パラウアリはもちろんのこと、彼らの知っている限りでは、黄金があるといううわさのある土地はまったくない様子だった。
今や望みはないと知りながら、黄金を探す話をした最後の部落は、その山脈の西端から一リーグばかりはなれた、森と平原《サヴァンナ》と、数多くの早い流れのある、高く起伏した土地の真中にあった。それらの急流の一つ、クリカイと呼ばれている川に近い、まばらに生えた木々の間に、その部落はあったのである。それは、全部で十八人の部落民が、狩《かり》に出かけない大半の時をすごす、一棟の大きな建物と、それに付属している、少し小さい二つの建物から成っていた。ルニという名の酋長《しゅうちょう》は、五十ぐらいで、口数が少く、恰幅《かっぷく》のよい、幾分威厳を持った蛮人だった。彼は元来、むっつりした性質の男であるのか、白人が侵入してきたのをあまり喜んでいないのかのどちらかだった。そこで僕は、しばらくの間、彼の歓心を買おうとはしなかった。そんなことをしてみたところで、結局何になるというのだ。長い間、大変役に立ってきた、軽便な仮面さえ、今では邪魔なものになってきたのだ。僕は、そんなものを投げ捨てて、本来の僕自身になりたかった。そして蛮人の主人のように不愛想でいたかった。もし彼が悪意のある目的を持っているならば、そのままにほっておこう、そしてできるだけひどいことをさせてみるのだ。何故なら、失敗というものは最初直面する時、あまりにも陰鬱《いんうつ》な、嫌悪《けんお》の念を起させるものなので、それからあと、どんなことが起ったとしても、さらに悲惨な状態におち入ることはあり得ないからである。もうどのような不安もないのだ。僕は何週間もの間、あらゆる部落、あらゆる岩の裂け目、あらゆるざわめく谷川で、今度の旅行の目的である、輝いた金色の粉を、目を皿のようにして探しつづけてきた。そして今、僕の持っていた一切の美しい夢――一切の喜びと生きる力――は、真昼の平原《サヴァンナ》における単なる蜃気楼《しんきろう》のように消え去ってしまったのだ。
それは、この土地における、自暴自棄におち入っていたある日のことだった。雨がひどく降っていたので、僕は一日中家の中で坐っていた。自分自身の憂鬱《ゆううつ》な考えにふけりながら、自分の席で、いねむりをするふりをしては、夢の中の影が、人影のように坐ったり動きまわったりする他の人々を、半ばとじた目のすき間から眺めていたのだ。僕は彼らのことには、まったく無頓着《むとんじゃく》であった。やがて僕にさし出されるかも知れない食物のためにさえ、彼らに親しげな様子をしてみせることは、気が進まなかった。
夕方近くなって雨が止んだ。僕は立ち上ると、少しばかり外に出、近くにある小川までいった。僕は、とある石の上に腰を下ろし、サンダルを脱ぎすてると、流れている冷い水で傷のある足を洗った。空の西半分は、ふたたび青さを取り戻していた。そしてその青さは、雨のあとに見られる、あの柔らかな明るい青であった。しかし木の葉はまだ雨滴でキラキラと輝いていた。そしてぬれている木の幹は、深く茂った一団の緑の葉の下で、ほとんど黒い色にみえた。その光景の、類《たぐ》い稀《まれ》なすばらしさは、僕の心を動かし、元気づけた。東の方の、ずっとうしろの方には、パラウアリの山々があり、同じ高さにある太陽の光を一面に浴びながら、東の方に退いて行く灰色の雨雲を背景にして、奇妙な壮観を呈しながら、ぼうっと浮出していた。今新らしく目にしたこの山の神秘な美しさは、かつてこの同じ山が、どれほど僕を疲れさせ、傷つけ、あざけったかを忘れさせるくらいであった。東の方は、南にも北にも広々とした森林がひろがっていたが、西の方には、それとは異った風景が、目に入ってきた。小川と、それをふちどっている細長い緑の草原、そして小川の土手のそばにまばらに生えている、二、三本の矮小《わいしょう》な木々、そういうものの彼方には、褐色《かっしょく》をした、平原《サヴァンナ》がひろがり、岩石から成る長く低い尾根にまで達していた。そしてその向うには、大きな丘――むしろ山といってもいいものだったが――がただ一つそびえ立っていた。その山は、円錐形《えんすいけい》をしていて、ほとんど頂上まで森林におおわれていた。それは、イタイオア山で、この地方における主要な境界標であった。太陽が、平原《サヴァンナ》の彼方の尾根に沈むと、西の空は一面に優美なバラ色に変った。それはまるで、どこか遠くの方から風によって吹き流されてきたあげく、宙に浮いているバラ色の煙のようだった。――この薄い、キラキラ光るヴェールをすかして、彼方にひろがる青い霊妙《れいみょう》な空が見えた。頭の上を、黄鳥類の一種が、群を作って飛びすぎて行く。その群は、次から次へとつづき、澄んだ鈴の音のようにさえずりながら、ねぐらに向って飛ぶのだった。これらの音楽的な鳴声の滴下《てきか》には、何か霊妙なものがあって、新鮮な天国の水と、地上の水とをまぜ合わせるために、水たまりの中に落ちる雨のしずくのように、僕の心に落下してくるのだった。
疑いもなく、僕の心の中にある山の中のにごった小さな湖に、神聖なしずくが落ちてきたのだ。飛びすぎて行った鳥たちから、すでに地平線の下に沈んでしまった、あの深紅色の円盤から、暗くなって行く山々、果てしのない空のバラ色と青色とから、一切の目に見える世界から。僕は自分自身が浄化《じょうか》されるのを感じ、自然の持つ秘められた清浄さと、霊性に対する不思議な知覚と理解――僕たちのすべてが、達しようと思っている、はかることのできないくらい遠くにある目的地への予知、天国の雨がふりそそいで、一切の汚れを洗いきよめるにちがいない時への予知――を得たのである。今僕の見出した思いがけない平和は、僕にとって、あれほど見つかりそうで見つからなかった金色の金属よりも、限りなく大きな価値を持っているように思われた。今僕は、あのような異常な感銘、あのような神聖な悟《さと》りを体験した、この人里離れた、平和な美しい土地にとどまり、しばらくの間休息をとりたいと願うのであった。
これが、僕のギアナに滞在していた第二期の終りであった。第一期とは、故国のみならず、ヨーロッパにおいてさえも、名声をはせる著作の夢で頭が一ぱいになっていた時期であり、第二期とは、莫大な富を手に入れようという夢――アロンソ・ピサロの時代から、無数の人々の心をひきつけてきた地方の、昔からある黄金の夢――を抱いて、クェネベタ山脈を立ち去ってからあとのことである。しかしここにとどまるためには、ルニの機嫌《きげん》をとらなければならない。そして彼は、あそこにある家の中で、憂鬱そうに眉をひそめながら、物もいわずに坐っているのだ。彼は、どんなお世辞をいってみたところで、言葉で説得できる人のようには思えなかった。そこで、手許に残っているたった一つの貴重な装身具――浮き彫のしてある銀のほくち箱も、手放す時が明らかにきたのである。
僕は、ルニの家に戻って、冷厳な主人のちょうど向い側にある、炉火《ろび》のそばの丸太の上に腰を下ろした。ルニは、煙草《たばこ》をふかしていたが、僕がさっき外に出てからあと、少しも身動きした形跡がないようだった。僕は巻煙草を一本巻いてから、火打石と鋼鉄とが、二本の小さな銀のくさりでとりつけられている、さっきのほくち箱を取り出した。彼は僕の行為を珍らしそうにみつめていたが、眼を少しばかり輝やかせた。彼は、無言のまま、僕の足もとにある炉の火の、赤くおこっている石炭を指さした。僕はしかし頭をふって、鋼鉄を打ち、光り輝く火花をとばして、それをほくちに吹きつけ、煙草に火をつけた。それが終ると、ほくち箱をポケットに戻す代りに、マントのボタン穴にくさりを通して、装身具として胸の上にぶらぶらとさせておいた。そして煙草を吸い終ると、改まったせきばらいをして、じっとルニをみつめた。彼の方は、僕のいうことに耳を傾ける準備ができていることを示すために、わずかにからだを動かした。
僕の話は、長くて少くとも三十分の間はつづいた。それは、静まりかえった沈黙の中において行われた。僕の話は主としてギアナにおける放浪のことで占められていた。それは、僕の訪れたすべての場所、僕の出あった種族、家長あるいは酋長の名前を並べただけのものだったので、言葉をとぎらさずに話をつづけることができ、まだ慣れていない方言に関する無知をかくすことができた。ギアナの蛮人たちは、人の価値を耐久力によって判断する。鳥をみつめながら、一時間も二時間もじっと青銅の彫像のように立っていること、半日もじっと坐っているか、横になっているかすること、往々自分から加えた苦痛をひるまずに耐え忍ぶこと、話をする時には、息をつくために休んだり、一語でも口ごもったりしないで、ほとばしる流れのように、のべつにしゃべり立てること、そういうことができることが、ひとかどの人物、対等の人物、尊敬し、親しくするに足る人物である証拠なのだ。僕が本当にいいたかったことは、このほとんど無意味な演説の結末の二、三語につきていた。僕は、到る所でインディアンの友人だったし、他の部落や家族の酋長や家長と一しょに生活してきた、だから同じようにパラウアリでも、友人になり一緒に生活することを望んでいる、そして他の部落のインディアンたちから取扱われてきたように、外国人、または白人としてではなく、友人として、兄弟として、インディアンとして取扱われたい、僕はそういうのだった。
僕は話を終えた。すると部屋の中には、長い間たくさんの肺の中にためられていた息が、突然吐き出されたかのような、かすかなざわめきが起った。一方ルニは、依然として身動き一つせず、低いつぶやきをもらしていた。そこで僕は立ち上って、マントから銀の装身具をはずすと、彼にそれをおくった。彼は、それを受け取った。インディアンのことをよく知らない人なら、それはあまり愛想のいいやり方だとは思わなかったろう。しかし僕は、彼に好い印象をあたえたことを確信していたので満足した。しばらくして彼は、その箱を隣りに坐っている男に手渡した。その男はよくみてから、次の男にまわし、そんな風にひとまわりしてから、ふたたびルニのところに帰ってきた。その時彼は酒を求めた。たまたまその家には、カッセリ酒がたくわえられていた。おそらく女たちは、ここ二、三日の間それを作るのに忙しかったにちがいないが、これほど早く飲まれてしまうことになろうとは、夢にも思わなかっただろう。大きなかめが一つ持出された。ルニは、威儀《いぎ》を正して、最初の一ぱいをぐっと一息に飲みほした。僕もそれにならい、他のインディアンたちもそれにつづいた。次の女たちも飲んだ。男が三杯飲むとすれば、女は一杯の割だった。しかしルニと僕が、一番多く飲んだ。何故なら僕たちは、そこで主要な人物としての地位を保っていたからだ。やがてだんだんと舌がゆるみ始めてきた。その甘口の酒の中には、少ししかアルコールが含まれていなかったが、それでも、僕たちの頭に影響をあたえ始めたのだ。僕は、肉や酒をいくらでもつめこむことのできる、一ポットル入りのびんのような形をした彼らの胃を持ってはいなかったが、この重要な機会に、主人の軽蔑《けいべつ》を受けることのないように――くちばしで六滴の水を品よくついばんで満足してしまう小鳥と比較されないように決心した。どこまで飲めるか彼と競争してやろう、そして必要があれば、意識がなくなるまでよっぱらってやろうと思った。とうとう僕はほとんど足で立つことができなくなった。しかし、さんざんきたえ上げた老蛮人も、この時までにはすっかりよっていた。「ぶどう酒には、真理がある」と昔の人はいっているが、この原理は、ぶどう酒がなくて、唯甘口のカッセリ酒しかないところにも適用しているのだ。自分は以前、一人の白人を知っていた、しかしその男は、よくない人間だったので、白人は誰でも悪いというようになってしまった、ちょうど、ダビドがもっと大ざっぱに、すべての人間はうそつきであるといっていたように、そう彼は僕に告げた。しかし今彼はそれがまちがっていたこと、僕が善良な人間であることを知ったといった。彼の親しさは、よっているために、いっそう深くなった。彼は、円錐形《えんすいけい》をしたアルマジロの尾をくり抜いて作った、木のせんのついているみなれない小さなほくち箱を僕にくれた。僕が彼にやってしまったものの代りに、使ってくれというのである。彼はまた、草で作ったハンモックをくれた。そして気が向いた時には、いつでも横になることができるように、その場でそれをつらせてくれた。彼は僕のために何でもしてくれた。そしてついに、いくたびも杯を重ねて、三番目か四番目のかめが持ち出された頃、彼は悪意のこもった、物騒な秘密を打明けた。彼は涙を流すのだった。――「涙を知らぬ男」は、ギアナの森林には死んでいないのである。その涙は、ずっと以前、裏切りによって殺された人、すなわちマナガの父である、トリピカに殺された彼の父に対する涙であった。そして、そのマナガは今でもまだ生きているのだ。しかし、彼とその一族のものは、このルニに気をつけた方がいい、自分はもと、彼らの血を流してやったし、彼らの肉を狐《きつね》やはげたかのえさにしてやったのだ。パラウアリから二日のところにある、ウリタイの五つの山に、マナガとその一族が住んでいる間は、気を休めはしない。こんな風に、昔からの敵のことを話しているうちに、彼はすっかり逆上してしまい、胸を打ったり歯ぎしりしたりするのだった。そしてついに、ぐいと槍《やり》をつかむと、その先を土間深く突きさし、ねじるようにして抜き取ると、また幾度も地面に突きさしては、マナガ以下、男であろうと、女であろうと、子供であろうと、出あうところの誰れ彼れを問わず刺し殺すまねをしてみせた。やがて彼は、ふらふらと戸口の外によろめき出ると、勢いよく槍をふりまわし始めた。そして北西の方をみつめながら、前からおどしてきたように、やってきて、一族を殺し、家を焼いてみろと、マナガに向って大声で叫んだ。
「くるがいい! マナガくるがいい!」僕も彼のあとからよろめき出ると大声をあげた。「僕は、あんたの友だちだ、あんたの兄弟だ。僕は槍も矢も持っていないが、こいつを持っている。――こいつを!」そこで僕は、連発ピストルを取り出すと、勢いよくそれをふりまわした。「マナガはどこにいる?」僕は言葉をつづけた。「ウリタイの山はどこにある?」すると彼は南西の空に低く光っている星を指さした。「では」僕は叫んだ。「炉の火のそばで、一族に取りかこまれているマナガにこの弾丸をくらわしてやろう。そして彼を倒し、地面に血を流させてやる!」こう叫ぶと、僕は彼が指さした方角に、ピストルを発射した。突然するどい恐怖の叫びが、女や子供の口からもれた。一方ルニは、激しい喜びと、感嘆の感情にかられ、僕の方に向きなおると、僕を抱擁《ほうよう》した。それは、僕が、裸《はだか》の男の蛮人から受けた最初の同時に最後の抱擁だった。そしてたとえ、好き嫌いをいっている場合ではなかったにしても、汗にぬれた彼のからだに抱きしめられたことは、決して快い経験とはいえなかった。
この感情の激発が起ったあとも、多くのカッセリ酒の杯《さかずき》が重ねられたが、ついにそれ以上同席していることを我慢することができず、僕はよろめきながら、ハンモックに向って歩いて行った。そして中に入ることができないでいると、ルニは、親切にも、僕を助けにやってきた。ところがその結果僕たちは、二人共倒れてしまい、一しょに床の上にころがってしまった。結局僕は、他の蛮人に助け起され、揺《ゆ》れるベッドの中にほうり込まれた。僕は直ちに、夢一つ見ない深い眠りに落ち入り、翌朝太陽が昇るまで眠りつづけていた。
幸なことに、カッセリ酒を作るには、ひどく手間がかかる。何故なら、酒を作る女たちは、まず材料〔カサヴァパン〕を奥歯《おくば》でかんで、どろどろにしたものを作らなければならない。そしてそれがすむと、水でうすめて醗酵《はっこう》させるために水おけにためておくのである。それらのいそいそと働く奴隷《どれい》たちの勤勉は非常なものであったが、たとえどのように熱心に働いてみたところで、たくさん酒を飲みたいという主人たちの気持をたまにしか満足させることができなかった。そんなわけで、僕の参加した祝宴《しゅくえん》は、非常に多くの根気のよい咀嚼《そしゃく》と沈黙の醗酵との結果であり、長い間かかって生長した植物の精巧な花だといっていいのである。
僕は今、不愉快な気持と自己嫌悪の苦しみを犠牲にして、この一族の一人としての地位を確立したのだから、パラウアリではこれ以上苦労しないで、気の向いた時には、狩や釣《つり》の遠征に加わり、それ以外の時は、仲間からはなれて、この人跡稀な場所で、原始のままの自然を相手に、気の向くままの生活を楽しみ、怠け者の平穏《へいおん》無事な生活を送ろうと考えた。
この僕たちの小さな部落には、ルニの他に、彼の従兄弟《いとこ》と思われる二人の初老の男がいて、めいめい妻と、すでに成人した子供を持っていた。他の家族は、ルニの甥《おい》のピアケと、その弟とクアーコ――彼についてはあとで色々とのべることになるだろう――そして妹のオアラヴァから成っていた。ピアケには、妻と二人の子供があり、クアーコはまだ独身で十九か二十ぐらいだった。オアラヴァは、三人のうちで一番年下だった。最後に――おそらく最初にのべるべきであったろうが――ルニの母親でクラクラという老人のことをいっておかなければならない。彼女の名前は、多分鳥の鳴声からとったものであろう。この地方では、近い親類からさえも、本当の名前で呼ばれることはめったに、いやまったくないといっていいのだ。本当の名前とは、大事にとっておかなければならない秘密のものなのである。クラクラは、両親が、生れた時につけた名前を知っている唯一の人であったろう。彼女は非常に高齢で、太陽に焼けた古いなめし皮のような褐色の皮膚《ひふ》を持っている、やせた女だった。彼女の顔には、一面に無数のしわが刻み込まれ、その長く粗《あら》くてかたい髪の毛は、すっかり白くなっていた。しかし彼女は、非常に活溌で、この部落のどの女よりもたくさんの仕事をしているようだった。そして一日の労役が終り、もう誰も仕事を止めてしまった時、クラクラの夜の仕事が始まるのであった。彼女の仕事とは、他のすべての者に話をきかせ、ともかくも男たち全部を眠らせることだった。彼女は、ちょうど自動調節の機械のようなものだった。そして夜がきて戸がしめられ、夜の火がたかれて、男たちがみんなハンモックに入ってしまうと、きまって彼女は活動を開始し、耳を傾けている最後の一人がぐっすりと眠り込んでしまうまで、この上もなく果てしのない話をつづけるのだった。そして夜が更《ふ》けて、誰かが、鼻あらしや鼻音をたてて目をさますと、彼女はふたたび活動を始めて、さっき話し終えた所から、新らしく話を始めるのだった。
クラクラばあさんは、夜も昼も、この上なく僕を楽しませてくれた。炉の火のそばに坐っている梟《ふくろう》のような彼女の顔をみつめていると、めったに退屈することがなかったのである。彼女は燃料をたやして炉の火を弱くさせることを好まず、よくにえているかどうか、絶えず深なべの様子をのぞいてみたり、自分の周囲にいる人の動静をうかがい、ひよこが道に迷ったり、子供がいうことをきかなかったりすると、すぐ助けたり、とび出したりできる態勢を整えていた。
別にわざわざしてくれたわけではなかったが、彼女はこのように僕を楽しませてくれたので、僕の方でも返礼に何か彼女を楽しませることをしてやるのが当然だと考えた。ある日僕は、ナイフで木の刀を作りながら、古い歌の一節を、口笛で吹いたり、歌ったりしていた。突然その時、僕はこのばあさんが非常に喜んで、こっそりと含み笑いをもらし、うなずきながら手で拍子《ひょうし》をとっているのをみつけた。明らかに彼女は、原住民の歌よりもすぐれた音楽を味わう能力を持っていたのだ。そこで僕は直《ただ》ちにここしばらく刀を作ることを中止し、ギターの製造にとりかかった。この仕事には、多くの労力を要したが、思ったより上手にでき上った。材木を適当なうすさにし、次にそれを曲げ、木のくぎと樹液《ガム》でしっかりととめ、腕やフレットやキー、そして最後に腸線《ちょうせん》の弦《げん》――別の弦は、手に入れる望みがまったくなかったので――をつけるために、二、三日の間、忙しい日を送った。でき上ってみると、それはほとんど調子を合わせることのできないような、粗末な楽器だった。しかし、それでもその弦をかきならし、陽気な曲をひいたり、ひきながら歌ったりしてみると、それが大成功であるのを知った。まるで古代スペインで作られた、まったく申し分のないギターを持っているかのように、自分自身の演奏《えんそう》に満足した。僕はまたむやみにギターをかきならしながら、土間をとびまわり、足も、ひき手の手と同じように、機敏《きびん》でなければならない、最も陽気な白人の踊りを教えた。僕がこのようなことをしている時、彼らはいつも至極真面目《まじめ》な顔をして眺めているので、実際彼らのやり方に慣れていない者だったら、気をくじかれてしまったろう。彼らは、あたかも僕をじっとみつめている、うつろな一群の青銅の彫像であった。しかし僕は、彼らの内部に住んでいる生き物が、僕が歌を歌ったり、むやみにギターをかきならしたり、旋回舞踏《せんかいぶとう》をやったりした時、満足しているのを知っていた。しかしクラクラは例外だった。彼女は、笑い声のつもりで、くゎっくゎっともきいきいともつかない音をたて、幾度も僕をはげますのだった。彼女はふたたび子供の頃に帰っていたのだ。ともかくも彼女は、その感情のない仮面を落していたのだ。ギアナの若い蛮人たちは、十二の頃から、年上の者にならって、その仮面をつけ始め、一生の間、それをかぶったままでいるか、ひどくよっぱらった時だけ、それをとってしまうかするのである。子供たちもまた、大体において、大人の前にいるために、自分たちの感情を押えようとしていたが、それでも公然と自分たちの喜びをあらわしていた。そして僕は、彼らにとって大変な人気者になったのである。
やがて僕は、ふたたび木の刀を作る仕事に戻り、子供たちにフェンシングを教えた。そして時には、彼らの刀を叩き落し、殺してしまうのがどれほど容易であるかを示すために、一番大きな子供たちの二、三人にいちどきにかかってこいと命じるのだった。この練習は、クアーコの興味をそそった。彼は、他の者ほどもったいぶらず、他の者よりも、少しばかり多く好奇心と親切とを持っていたので、僕と一番親しくなった。クアーコとフェンシングをやるのは、とても面白かった。姿勢を正し、手に刀を持って身がまえるや否や、彼は僕の教えたことをすっかり忘れ、自己流の野蛮なやり方で攻撃してくるので、僕に刀を十二ヤードも遠くにとばされ、身動きができなくなるくらいまで打たれて、口をあけたまま、驚いて自分の刀の行方をみつめるのだった。
別に不愉快なこともなく三週間がすぎ去った。ある日のこと、僕の頭には、一つの考えが浮んできた。この部落と小川の西の方には幾分不毛の平原《サヴァンナ》がひろがっていたが、それは前にもいったように、長く低い岩石の尾根に終っていた。僕はその平原《サヴァンナ》を一人で横切ってみようと思ったのである。この部落から見ると、その方向には、何一つ心をひきつけるようなものはなかった。しかし僕は、あの孤立した大きな丘、あるいは山といってもいいイタイオア山と、そのはるか彼方《かなた》にある、雲のような山の頂を、もっとよく見たいと思ったのだ。小川からは、地面は徐々に高くなり、目的とする尾根の一番高い所は、出発点から約二マイルの距離だった。そしてその出発点とは、ひからびた毛のような草の茂みが散在している以外には、何も生えていない、乾燥《かんそう》した褐色の平原《サヴァンナ》だった。
頂上について、その向う側を見ると、不毛の地面が、たった一マイル四分の一ばかりひろがっているだけで、その先は、森林になっているのを発見し、予想していたのとちがって、かえって嬉《うれ》しくなった。その森林というのは、長方形をした一種のくぼ地にあって、五乃至六平方マイルに渡る、人目によくつく小さな場所だった。それは、北はイタイオア山のふもとからひろがり、南は岩だらけの低い丘陵《きゅうりょう》に終っていた。その森林のあるくぼ地から、細長い森が、たこの足のようにさまざまな方向に走り、その一対は、イタイオア山のふもとを取りかこみ、他のもっと幅の広い帯は、南側にある丘の尾根と直角に流れている谷に沿ってひろがっていて、それから先は見ることができなかった。はるか彼方には、西と南と北に、遠い山々が姿を現していたが、規則正しい山脈ではなく、群をなしているか、孤立するかしていて、地平線に重なった、藍色《あいいろ》の雲のようだった。
これほど自分の住んでいる近くに、このような森のあるのをみつけたことを喜び、また一方何故インディアンがそこに僕をつれて行かなかったのか、あるいは、自分自身でも出かけなかったかをいぶかしく思いながら、自分一人で心も軽く、森を探検《たんけん》するために出発した。ただ、獲物《えもの》をとる適当な武器を持っていなかったのが残念だった。岩だらけのほとんど植物の生《は》えていない斜面は、ずっと下りだったので、平原《サヴァンナ》の上の方にある尾根からあとは、歩くのも楽だった。森のこちら側は、非常に広々としていて、生えている植物といっては、大部分、岩の多い土壌《どじょう》に生えている矮小な木々であり、所々に、豌豆《えんどう》の形をした黄色い花をつけている刺《とげ》の多い灌木《かんぼく》がちらばっている程度だった。やがて僕は、前よりも木の繁っている森にやってきた。そこでは、木々が前よりも背が高く、種類が豊富だった。この地帯を抜けると、さっき森の入口にあったような、細長い不毛の土地が現れ、地面からは岩が突然つき出して、刺のある黄色い花をつけた灌木以外には、何も生えていなかった。この不毛な細長い土地は、北と南に向って相当ひろがり、その幅は五十乃至百ヤードであったが、そこを通りすぎると、森はふたたび密生し始め、木は大きくなり、所々に下ばえが茂り合って、眺望《ちょうぼう》がきかなくなり、進んで行くのが困難になってきた。
僕は、この天然の楽園で、数時間をすごした。この森は、今まで幾度もギアナで入り込んだことのある、広大で陰気な森林よりもずっと気持がよかったのだ。何故ならこの森では、木は堂々としてはいないが、その種類はずっと豊富だった。僕の歩いた限りでは、どこにも木の下の暗いところはなかった。そして到る所で、数多くの美しい寄生植物が、光と大気の優《やさ》しい力を証拠立てていた。木々の最も大きい所でさえ、日光は、木の葉の群によって、口ではいい現せないような金色に和《やわ》らげられながら、射し込み、その柔らかな薄明りと淡い青灰色の影で、広々とした下の方の空間を充《み》たしていた。あおむけに横になりながら僕はじっと上を見上げた。僕は立ち止ってふたたび散歩する気にはなれなかった。何という天井《てんじょう》が僕の頭の上にひろがっていることだろう! 僕は今、それを天井と呼ぼう。貧困に落ち入っていた詩人たちが、時々この言葉で、果てしのない霊妙な空を描写《びょうしゃ》するように。しかしそれは、形と色を変化させて、さらに高い空に浮んでいる雲と同じように、天井のような重苦しいものでもなければ、高くかけり行く心のさまたげとなるものでもなかった。それはまさに、堪え難い真昼の光りを和らげている葉の群なのであった。僕の今みつめている、葉から成る夢幻の世界は、何と高い所にあるように思われることだろう! 周知のように、自然は、長い柱廊《ちゅうろう》が距離の幻覚《げんかく》を生じさせることを、最初に建築家に教えた。しかし光りをしめ出している天井は、今のべた効果を生じさせないのである。ここでは自然は、その軽やかな緑の天井、日の光に充ちた雲、幾重にも重なっている雲のために、近づきがたい感じをあたえる。そして最も高い雲は、眼のとどかぬところにあるが、日の光は、しみ込むように下に射し込んで、広々とした下方の空間――そこは、幾つもの部屋がつづいている感じであり、その部屋は、それぞれ独特な光と影を伴っているのだが――を明るく照らしている。今僕のいるはるか上方――それは外見ほど遠くはないのだが――にある部屋、あるいは空間のおだやかな薄暗がりは、さらに上の方にある葉の群のすき間から射し込んでくる金色をした光の矢に貫かれ、その光の矢は、それがふれる一切のもの――突き出た葉や、あごひげに似た地衣のかたまりや、うねうねとした網のような灌木《かんぼく》――に不思議な美しさをあたえているのである。そして人の目には、何ものにも支えられていないようにみえるこの最も広々とした空間の、最も広々とした部分に、銀色に輝く糸のもつれ――それは大きな木ぐもの巣なのだが――を、先刻の光の矢が、はっきりと示している。外見上は遠くにあるように見えながら、はっきりと肉眼で見ることのできるこれらの糸は、次のことを僕に思い起させるのだった。人間である芸術家が、平面的な距離感を得るには、ただ規則的な間隔をあけ、柱やアーチを繰返《くりかえ》し単調に並べることによってのみ可能なのだ。そして、少しでもこの秩序《ちつじょ》に背反する時は、たちまちその効果を失うのである。しかし自然は、手あたり次第に、その効果を作り出す。そして、実にさまざまな装飾《そうしょく》によって美しい幻覚を強めているようだ。すなわち木と木を、大蛇のようなつる植物でからませ、このような巨大な網から、かぼそい蜘蛛《くも》の巣、飛びすぎて行く昆虫《こんちゅう》の翅《はね》の起す風にふるえる、髪の毛のようなひげ根に至る種々のものを並べて見せるのである。
このように何もしないで、今まで述べてきたような空想にふけりながら、蛮人にしろ文明人にしろ、そばに人間のいないことを喜びながら、僕は時をすごしたのだった。別に耳ざわりにもならない声をあげてさわいでいる猿《さる》共の声に耳を傾けたり、のんびりした日々の仕事に従事しているのをみたりしているには、一人きりでいる方がよかったのだ。このように華美な熱帯の自然、神秘に充ちた緑の雲や、空中にかかっている幻覚のような空間には、言葉にしても容貌《ようぼう》にしても、動作にしても、その猿共がよく調和していたのだ。地上はるかに高く、彼ら自身の天国への途中で、風変りな生活を送っている、ベラベラしゃべる薬売りのような天使たち。
僕は、その日の朝、ふだん一週間の散歩で見るよりもたくさんの猿たちを見た。僕は、またその他の動物も見た。特に僕は、二頭のアツコウリのことをおぼえている。そのアツコウリは、僕に驚かされて二、三ヤード走り去ったが、不意に立ち止って、一体味方なのか敵なのかわからないとでもいうように、じっと僕をみつめた。鳥たちもまた不思議にその数が多かった。僕はこの場所こそ、今までに見た最も豊富な猟場であると考えたが、部落のインディアンたちが、ここにやってくる気配がないのは、ずい分奇妙なことに思われた。
その日の午後、部落に戻ると、その日の散歩について、熱心に話をした。しかし、僕の興味をひいたことについては一言もふれず、ギアナのインディアンの興味をひくことだけを話したのだ。――インディアンたちは、動物の肉を非常に欲しがっていたが、自然はそれをあたえることをおしんでいるので、充分に手に入れることが非常にむずかしかったのである。しかし驚いたことには、彼らは頭をふって、僕のいうことに当惑の表情を示すのだった。最後に主人は、僕が行った森は、危険な場所であり、狩に行くとひどい目にあうと告げ、二度ともうあそこには行くなという忠告で話を終えた。
蛮人たちの表情と、この老人のあいまいな言葉から、彼らの森に対する恐怖が迷信的なものであることがわかってきた。もし危険な生き物――虎《とら》とかカムーディとか、孤立している人喰い人種とかが――そこにいるならば、彼らははっきりそのことをいうにちがいない。しかし僕が、色々と質問して答えるように迫っても、彼らはただ「何かよくないもの」がそこにいて、生命を大事にするインディアンなら、危険を冒《おか》して行こうとはしないために、動物がたくさんいるのだと繰返すばかりだった。そこで僕は、もっとはっきりしたことを教えないなら、是が非でもまた出かけて行って、彼らの恐れている危険に身をさらしてやろうと答えた。
僕の向うみずな勇気――彼らは、そうみていたのだが――は、彼らを驚かせた。しかし彼らはすでに、彼らの迷信が僕に何の影響もあたえず、ちょうど子供を面白がらせるために考え出す物語でもきくように、彼らの話をきいているのに気がつき始めていた。そこでしばらくは、それ以上僕に思いとどまらせようと試みなかった。
翌日僕は、よくないうわさをきいたあの森にふたたび出かけて行った。今や、あの森は、新らしい、そして前よりもいっそう強い魅力《みりょく》を持つようになってきた。――それは、未知であり、神秘的であるものの持つ魅力であった。それにもかかわらず、僕はインディアンから受けた警告を忘れることができず、最初のうちは、疑い深く用意|周到《しゅうとう》になった。彼らは、生活の大半を森の中ですごすのであるから、僕たちにとって自分の生れた町の通りと同じように親しみを感じているはずだ。このことを考えてみる時、蛮人たちが、まるでいろいろな怪談が頭にこびりついている神経質な子供が、暗い部屋を恐がるように、すべての森に対して迷信的な恐怖を抱き、明るい光のあふれた昼間でさえも同じ様に怖れているのは、ほとんど信じられないことのように思われる。しかし、暗い部屋の中の子供のように、彼らも一人でいる時だけ森を怖れるのである。こういうわけで、狩に出かける時は、いつも二人以上集団で出かけるのだった。それでは、これほど心をそそる獲物《えもの》を差出している、この特別な森を何故訪れようとはしないのか? この疑問は、少からず僕の心を悩《なや》ました。しかし同時に僕は、そういう自分の気持を恥ずかしく思い、それと戦うのだった。ついに僕は、この前あれほど長い間休息していた、あの人目につかない場所に出かけた。そこで僕は、昨日見なかった新らしいものを見、奇妙な経験をしたのである。大きな木のかげになっている地面に腰を下ろしていると、鋭い叫びのまじった、大あらしの襲来《しゅうらい》するような混乱した騒音がきこえてきた。その物音はだんだんと近づき、ついに、さまざまな種類の多数の鳥――その大半は小さいものだったが――が木々の間に、群をなして姿を現した。木の幹や大きな枝の上を走り廻わるものもあれば、葉の群の間をすっと飛ぶものもあったが、多くのものは、翼《つばさ》を休めることなく、あちこちを飛び廻わったり、投げ矢のように飛んだりしていた。どの鳥も、せっせと昆虫を探したり、追いかけたりしていたが、同時に次々とその場所を変えて行った。そしてまたたく間に、僕の近くにある木々を調べ終り、遠くの方に飛び去って行った。僕は、今見ただけでは満足せず、見失なわないように、とび起きてそのあとを急いで追いかけて行った。インディアンたちがいっていたことに対する警戒と記憶とは、すっかり僕の頭から消え去っていた。それほど、この鳥の大軍に対する僕の興味は大きかったのだ。しかし彼らは、休みなく移動して行ったので、たちまち僕はあとにとり残されてしまった。そしてついに、地面を這う巨大な網のような、灌木とかつる草とか大木の根とかがもつれ合い、突破することのできない所にぶつかって、急いで進んでいた僕の足も止まってしまったのだ。この葉の茂った迷路の真中で、もとの場所に戻る前に少し頭を冷しておこうと、僕は突き出した根の上に腰を下ろした。あの移り動いて行くひどいざわめき、混乱した騒ぎのあとで、あたりにただよっている森の中の静けさは、この上もない深さを持っているようだった。ところが腰を下ろしてから、いくらもたたないうちに、絶妙な鳥の鳴き声のような低い旋律《せんりつ》が、あたりの静けさを破った。それは、驚くほど純粋であり、表情に富んでいて、今まで耳にしたどの音楽にも似ていなかった。その旋律は、僕が腰を下ろしている所から、二、三ヤードしかはなれていない幅の広いつる草の密集した茂みの中からきこえてくるようだった。この緑のかくれ家に目を注ぎながら、僕は息を止め、もう一度その旋律が繰返されるのを待った。今まで、このように美しい旋律をきいた文明人があったろうか。おそらく、ないにちがいない。もしあったなら、これほどすばらしい旋律の名声は、ずっと前に世間に広く伝わっていたはずである。僕は、あの有名なオルガン鳥、あるいはフルート鳥と呼ばれている、リアレーホのことを考え、これをきいた人の受ける、さまざまな感動について、思いをめぐらした。ある人にとっては、その声は、美しい神秘的な楽器の響きのようであり、ある人にとっては、非常に美しい声を持った、快活な子供の歌のようだった。僕はギアナの森林で、激しい喜びをおぼえながら、何度となく、リアレーホの鳴声をきいたり、その声に耳をすましたりしたことがある。しかし今耳にした歌声、あるいは歌詞は、それとまったく性質のちがうものだった。それは、さらにいっそう純粋であり、いっそう表情に富むものであり、いっそう柔らかみを帯びたものだった。――そしてその声は、あまりにも低いので、四十ヤード離れたこの場所では、ほとんどききとることができないほどだった。しかしそれの持つ最も大きな魅力は、それが人間の声に似ていることだった。――それは、ほとんど天使の声といえるような、純粋さと明るさとを持っていた。感覚を緊張させながらそこに坐っていた時のもどかしさ、ふたたびその声を耳にすることができなかった時の深い失望、それはまさに想像を絶するものであった! ついに僕は、不本意ながら腰を上げ、もときた道をゆっくりとひき返した。ところが、三十ヤードばかり行った時、ふたたびあの美しい声が僕のすぐ背後できこえた。僕はすばやくふりかえって、じっと立ったままその声を待った。たしかにあの同じ声だ、しかし同じ歌ではない。――また同じ歌詞でもない。音調は、前とは異なり、前よりもいっそう興奮した調子を帯《お》び、いっそう複雑さとあわただしさを持ったものだった。その声をきいていると、血が心臓に向って突進してくるようだった。僕の神経は、奇妙なみしらぬ歓喜のためにうずき、この美しい声によって生じた激しい喜びは、その声の持つ神秘な感じのために、いっそうその強さを増すのであった。いくらもしないうちに、僕はふたたびその声をきいた。しかしそれは、決してあわただしいものではなくて、柔らかみを帯びた、さえずるような声であり、最初にきこえたものよりもさらに低く、限りない優しさと美しさに充ち、だんだんと低くききとりにくいものになり、ついにはまったくきこえなくなった。そしてその声は、一ダースの言葉から成る文章を復誦するのに要する時間つづいたのである。それは、その声の主の、僕に対する別れの言葉のようであった。僕はなおも、その声の繰り返されるのを待っていたが、空《むな》しかった。そして出発点に戻ってからあとも、ふたたびその声をきこうとして、一時間以上も腰を下ろしていたのだった!
しかしついに太陽が西に傾き、余儀《よぎ》なく僕はその森を去ったが、その前に僕はすでに決心していたのだった。明日の朝、ふたたびここに戻ってきて、今日これほど恍惚《こうこつ》とした経験を味わった場所をかならず探してみようと。しかし前にのべた森の中の不毛地帯を横切り、矮小な木々と灌木とが、平原《サヴァンナ》との境界のあたりで次第に少くなって行く、ひらけた森の入口にくるほんの少し前、僕はふたたびあの神秘に充ちた旋律を耳にした。ああ、その時の何という歓喜、何という驚き! それは、すぐ近くの灌木の林からきこえてくるようであった。しかしこの時すでに、僕は、この森の中の声が、腹話術のようなものであるという結論に達していた。そのために、僕はその声の出てくる正確な方向を決定することができなかったのだ。しかし今僕は一つのことを確信していた。それは、その歌手が、ずっと僕のあとをつけてきたらしいということだった。幾度も、僕はそこに立ち止ったまま、その声に耳を傾けた。その声は、ほとんどききとれない位、弱々しく、明らかにずっと遠くの方からきこえてくるかと思うと、突然二、三ヤードもはなれていない所から、はっきりと澄んだ調子でひびくのであった。まるで小さな内気なものが、突然|大胆《だいたん》になったかのように。しかし遠くであろうと近くであろうと、その歌手は、依然としてその姿を見せなかった。そしてついに、人の心をじらせるような旋律は、まったく止んでしまったのである。
僕は、次に森に出かけた時も、その後数回にわたって森を訪れた時にも、別に失望を味わいはしなかった。そしてその結果、そのききなれない美しい声が、同じ一つのものから出ているという考えが正しいとすれば、まだその姿を現すことをこばんでいて、鳥だか他の生き物だかわからないが、絶えず僕の様子《ようす》を見張っていて、僕の行く先についてくるらしいことがわかってきた。しかし、この考えは、ただ僕の好奇心をいっそう強いものにしたにすぎなかった。僕は絶えずこのことについて考えつづけ、ついに、インディアンの一人を森につれて行けば、その神秘を説明してくれるに相違ないから、誘《さそ》ってみるのが一番いいという結論に達した。ここに住んでいる自然児たちは、いつも僕の所持品を手に入れたがっていたが、彼らと一しょに滞在《たいざい》している間、どうにか手許においておくことのできた貴重品の一つは、ばねであくようになっている、美しい形をした金属製の小さなマッチ箱だった。僕はクアーコが、誰よりも、このつまらないものをほしくてたまらない様子――インディアンたちは、誰もほしそうな様子でそれをみていたのだが、そのために僕までそれに価値があるもののように思われてきていたのだ――で見ていたのを思い出し、その箱をやるという条件で、僕のよく行く気に入りの場所に、一緒に行くよう彼を買収しようと試みたのだ。ところがこの若い勇敢な狩人《かりうど》は、何度もその申出をことわった。しかしことわるたびに、その箱をくれるなら、何かほかのことをしてやろうとか、ほかのものをやろうとかいうのだった。そこで僕はついに、最初に僕と一緒に行った者にそれをやるつもりだといったところ、彼は誰か他の者が、そのほうびを手に入れるに足る勇気を示しはしないかと気づかって、とうとう勇気をふるい起し、翌日僕が散歩に出かけるのを見ると、突然一緒に行くといい出した。ところが彼は、狡猾《こうかつ》にも、行く前にその箱を手に入れようとしたのだ。しかし、かわいそうに! 彼のわる知恵は大したものではなかったのである。僕は、これから行こうとしている森には、今まで見たこともない植物や鳥が多いが、その名前や、それに関する一切のことを知りたいのだ、そして必要なことがわかったら、この箱はおまえのものになる、しかしそれまではやるわけには行かない、そう彼に向っていった。
ついに僕たちは出発した。彼はいつものように吹矢の筒《つつ》を持って出かけた。あの道具を持って行けば、小さな毒を塗《ぬ》った矢にあたって倒されるよりも、もっと多くの獲物が得られるだろう、そう僕は想像した。しかし森についてみると、彼はそわそわして落着かない様子だった。そして何といってみても、それ以上彼を奥の方に行かせることができなかった。すっかり開けた明るい所でさえも、彼は絶えず灌木の茂みや、影になったところを凝視《ぎょうし》し、何か恐ろしい生き物が待ち伏せてはいないかと思っているようだった。そしてもし彼の恐怖がまったく迷信から生じたものであり、毎日歩きなれた場所に危険な動物がいるはずがないという充分な確信を持っていなかったら、このような彼の行為は、僕自身をも不安にさせたであろう。僕の計画は、何気ない様子でぶらぶらと歩き廻りながら、時々珍らしい木とか灌木とかつる草とかを指さしたり、遠くにいる鳥の鳴声に注意を向けたりしてその名前をきいているうちに、あの神秘的な声がきこえてきたら、彼に説明してもらおうというものだった。しかし二時間以上も歩き廻わったが、普通の鳥の声以外には何一つ耳に入らなかった。そしてこの間ずっと、彼は僕から一ヤードも離れようとはせず、何一つ捕えようともしなかった。とうとう僕たちは、森のはずれに近い、ひらけた場所の、とある木の下に腰を下ろした。彼は腰を下ろすのがひどくいやな様子であった。彼は前よりもいっそう気持が落着かないようで、一切の物音にじっと耳をすませながら、絶えずあたりを見まわしていた、この恵まれた場所には、動物の数が多く、特に鳥がたくさんいたので、色々な物音がきこえてきた。僕はその鳴声のいくつかについて彼に質問してみた。あたりには、雄鶏《おんどり》の鳴き声のように、僕の知っているものがいくつかあった。――おうむの叫びや、巨嘴鳥の叫び、遠くにきこえる、マムやドウラカラの嘆《なげ》くような鳴声、木から木へと渡って行く大きな木のぼり鳥がたてる、かん高い人間の笑い声に似た叫び、美飾鳥のすばやい呼子のような鳴き声、小人の叩く金属のドラムのような、こそこそと隠れている八色つぐみの奇妙な律動的なぞっとするような声、またこれらの声にまじって、それほどよく知らない鳥の声もきこえていた。その中で、一つの声は、木の梢《こずえ》からきこえてきた。それは、葉群の間を絶え間なくさまよう、二、三秒置きに繰返される低い鳴声であった。そして、あまりにも弱々しく、悲しげで、神秘的な感じに充ちていたので、死んだ鳥の落着かない幽霊《ゆうれい》から、きこえてくるようであった。しかし、それは幽霊ではなかった。彼はただ、あれは「小さな鳥だ」というだけだった。――おそらく名前を持つには、あまりにも小さなものであったのだろう。また近くにある木の葉群から、りんりんというような短く鋭い二、三の声がきこえてきた。それはちょうど、小さなマンドリンを無造作《むぞうさ》に二、三弦かきならしたようだった。彼は、それが木の中に住んでいる、小さな緑色をした蛙の声だといった。このようにして、この無知なインディアンは――このようなつまらない質問に多分いらいらしたのだろうが――この幽静な森の中で僕の心が作り上げた美しい空想をはらいのけてしまったのだ。僕は今まで幾度となくこのりんりんという美しい音に耳を傾けながら、ここには、妖精《ようせい》のような叙情《じょじょう》詩人猿の群がよく集ってくるだろう、そしてもし僕に充分敏感な眼があるならば、いつかこの吟遊詩人《ぎんゆうしじん》が、おそらく緑色のシャツを着て、どこかの揺れている高い大枝の上に足を組み、頭から黄色いリボンでつるしたマンドリンを無造作にひきながら腰を下ろしているのを見つけることができるだろう、と考えていたのだ。
やがて、一羽の鳥が、その大きな尾を扇《おおぎ》のような形にひろげて低く迅速《じんそく》にとびながらやってくると、三十ヤードとはなれていない、むき出しになった大枝に翼をやすめた。それは、大きな鳩《はと》ぐらいの大きさで、一面に栗赤色をした、胴体の長い鳥だった。その身ぶりから判断すると、非常な好奇心を持っているようだった。その鳥は、突然からだを左右に動かしては、最初は片方の眼で、次にはもう一方の眼で僕たちを見ながら、その長い尾を規則正しく上下に動かしていたからだ。
「クアーコ、みろよ」僕はささやいた。「君がやっつけるのにちょうどいいのがいる」
しかし彼は、なおも僕に気を許そうとはせず、ただ頭をふっているだけだった。
「では、その吹矢の筒を借してくれ」僕は、それを受取るために手を差出すと、笑いながらそういってみた。しかし彼は、それを渡そうとはしなかった。もし僕が何かを射れば、矢が無駄になるだけだと知っていたのだろう。
ところが、僕があまりしつこくいうので、ついに彼は、口を僕に近づけ、盗み聞きされるのを怖れるかのように、半ばささやくような声でいうのだった。「俺は、ここで殺すことはできない。もし鳥を射ると、デイデイの娘が手で矢をとって、俺に投げ返してくる」彼は、そういうと、心臓のちょうど上のあたりを手でさわってみた。
ふたたび僕は笑った。やはりクアーコは、それほど悪い道連れではなかったのだ――彼は全然想像力を持っていないわけではなかったのだ、僕は少しおかしくなって、心の中でそんなことを思うのだった。しかし笑ってはみたものの、彼のいった言葉は僕の興味をひき起した。僕の興味をひいたあの声を、インディアンたちもまたきいていたのだ。そして僕同様彼らにとっても、深い神秘に他ならなかったのだ、彼らの知っている生き物の中で、それに似たものは一つもないので、迷信深い彼らは、到る所の森や小川や山に住む、おびただしい悪霊《あくりょう》や半人の怪物の一つだと思い込んでいたのである。そしてそれに対する怖れから、森に近づこうとはしないのだ。この場合、僕の連れの言葉から判断すると、幾分迷信の形を変えて、恐るべきデイデイの娘といったものを考え出したのだ。そして、彼らの持つ熟練した鋭い眼でさえ、この軽やかにとび廻わる、美しい声を持った森の生き物を見つけることができないとすれば、僕の探索は、あまり成功の見込がないのではないか、そう僕は思うのだった。
そこで僕は、彼に質問を始めてみたが、彼は前よりもいっそう無口になり、いっそうおびえているようだった。そして僕が話しかけようとするたびに、あわてて驚いたそぶりを示し、僕にだまるようにいうと、目をみひらいてあたりを見廻わしつづけるのだった。突然彼は、恐ろしい恐怖に耐えられないかのようにとび上り、あらんかぎりの速さで走り出した。彼の恐怖は、僕にも伝染した。そこで僕もとび上り、できるだけ早く彼のあとを追ってみたが、彼は必死になって走っているので、追いつくことができなかった。そして四十ヤードも行かないうちに、地面に這っているつる草に足をとられて、地面にばったりと倒れてしまった。この突発的な激しいショックのため、僕は一時ほとんど気を失うばかりだったが、とび起きてあたりを見廻わしてみると、言語に絶した怪物――キュルピタか何か――がその場で僕を殺してむさぼり食うために突進してくる様子もなかったので、自分の臆病《おくびょう》を恥ずかしく思い始めた。そしてついに向きを変え、たった今立ち退いた場所に戻って、ふたたび腰を下ろした。僕は、あのあわれむべきインディアンから伝染した恐怖からすっかり抜け出したことを自分自身に証明するために、うたを口ずさもうと試みさえした。しかしこのような場合、直ちに平静に戻ることは不可能である。そして漠然とした疑惑の念が、しばらくの間僕の心を悩ましつづけた。遠くにきこえる鳥の鳴声に耳を傾けながら、三十分ばかり腰を下ろしていた後に、僕はさっきまで持っていた自信をとり戻し始め、さらに森の奥に入り込もうという気さえ起した。ところが、突然僕は驚いてとび上った。それほど突然、そして前にきいたことがないほど近くで、あの神秘な旋律が高くなりひびいたのだ。まぎれもなくその声は、以前きいたと同じ生き物から発せられたにちがいなかった。しかし今日は、その性質がちがっていた。それは、いつもよりずっとあわただしく、ずっととぎれが少くなり、いつもの優しさはそのかげをひそめ、風の精が、その弱々しい吐息《といき》を、その音節や言葉の中に吹き込んでいるように思われる、低いささやきのような調子に一度も沈むことがなかったのだ。今その声は高く、あわただしく、とぎれずにつづいているだけではなかった。それは依然として美しい調子を持っていたが、また鋭い調子、ちょうど恨《うら》んでいるような鋭いひびきを含んでいて、きく人に痛々しくひびくのだった。
知能を持った人間でないものが、立腹して僕に話しかけている、僕はすっかりそういう気持になってしまったので、さっきまで感じていた恐怖がふたたび僕の心に戻ってきた。そこで僕は立ち上り、森から逃れ出ようと、急いで歩き始めた。するとその声は、なおも激しく僕を叱《しか》りつづけ、僕と一緒に動いてくるように思われるので、僕も足を速めないわけには行かなかった。そして僕が突然走り出そうとした時、ふたたびその声の性質が変った。その声はとぎれ始め、長短二種類の沈黙の合間を生じた。そしてその合間が終ると、前よりもいっそう低く柔らかな音がひびくのだった。以前持っていた、甘美なフルートのような性質が、前よりも多くなってきた。そして話しかける口調を連想させる、この柔らか味を帯びた調子は、もうその声が怒ることを止め、おだやかな気持で僕に話しかけ、僕の抱く不当な恐怖を捨てるよう説得し、一緒に森の中にとどまってくれるよう懇願《こんがん》しているようであった。この肉体を持たぬ声は、奇妙なものであり、その神秘さの故に、幾分不愉快な感じをいつもあたえるのだったが、今それが、純粋な親しい気持から発せられているのを疑うことはできないようだった。ふたたび平静な気持になってみると、その声に耳を傾けることに、新らしい喜びを感じ始めてきた。そしてさっき経験した恐怖があまりにもまだ生々《なまなま》しく、またその声がどうやらものわかりがよさそうなので、いっそうその喜びは大きかったのである。三度僕は同じ場所に腰を下ろしたが、しばらくの間、その声は時々僕に話しかけ、僕がそこにいることに、満足と喜びを表わしているようだった。しかし少したつと、その声は、親しげな調子を失うことなく、ふたたび変り始めた。それは遠くの方に去って行き、またかなり遠くの方から戻ってくるようだった。時々それは、新らしい声をもって僕に近づいてきたが、それはあたかも命令か懇願のようだった。あの声は、僕についてこいとさそっているのだろうか、僕は自分自身に向ってたずねるのだった。もしあの声について行ったなら、どのような喜ばしい発見か、どのような恐ろしい危険にぶつかるであろうか? 僕の好奇心は、あの生き物――今僕は鳥ではなく生き物と呼んでいた――が僕に好意を持っているという信念を持って、一切の臆病に打ち勝ったのだ。そこで僕は立ち止り、行先も定めず森の奥の方に向って歩いた。まもなく僕は、あの生き物が僕がついて行くことを望んでいるのを確信するようになった。今その声には、新らしい喜びの調子があり、歩いて行くにつれ、絶えず僕のそばを離れず、時には、あわれなおびえ切ったクアーコのように、まわりの影になった場所をじっとみつめなければならないほど、僕のすぐそばまで近づいてきたからである。
この時、僕はまた新らしい空想を抱き始めた。僕はそれを空想または幻想と考えようと決心した。何か足の早い生き物が、僕の近くの地面を歩いているようだった。また時折、僕はさらさらいうかすかな軽い足音を耳にした。そして木の葉やしだや地面の近くまでたれ下っているつる草の糸のような茎《くき》の中で、何ものかが通りすぎてそれにふれ、それをふるわせているような動きに気がついた。また一度か二度、それほど遠くない暗がりの中で、灰色をした形のはっきりしないものが動いているのを、ちらりと目にさえしたようだった。
この徘徊《はいかい》するいたずら好きな生き物に導かれて、巨大な樹が生え、地面が黒くしめっていて、ほとんど下生えの生えていない場所にやってきた。そしてあの声はここできこえなくなった。しばらくの間、根気よく待って耳を傾けていた後、僕は軽い不安に襲われてあたりを見廻わし始めた。まだ日没までには、二時間ほどあった。しかしこの場所だけは、巨大な木の陰になっているために、いつも薄暗かった。その上妙にひっそりとしずまり返り、耳に入るものといっては、はるか彼方からひびいてくる、二、三の鳥の叫び声だけだった。僕は、あの声を、ある程度まで理解し得たとひそかに信じていた。あの声の突然みせた怒りは、臆病にもインディアンのまねをして逃げ出したためであったことは明らかだった。しかしやがてあの声が、親しさを取戻し、僕に戻ってくる気にならせたのである。そして最後に、あとについてくるように望んだのだ。その影の多い、ひっそりと静まりかえった場所に僕を導き、話しかけたり案内したりすることを止めてしまったのだから、そこが目的の場所であることは明らかだった。そして僕がここに連れてこられたのは、この原始のままの、人跡稀なかくれ家で、何か驚天動地《きょうてんどうち》の驚くべき事件に出あうためなのだ、そう考えないわけにはいかなかった。
あたりの沈黙は、相変らずつづいていたので、僕は今いったようなことを長々と考えていたのである。僕は、不安がほとんど耐えられないくらいになるまで、息を殺して前方をみつめたり、じっと耳をすましたりしていた。しかしついにあまりにもその不安が耐えがたいものになったので、僕は向きを変え、森のはずれに戻ろうと考え、歩き出そうとした。その時だった。すぐ近くで、銀の鈴のように、はっきりとあの声がふたたびなりひびいた。ほんの一瞬ではあったが――僕の動作に応じて、わずか二、三語にすぎなかったが。そしてふたたびあたりの物音は絶えた。
あたかも命令に従っているように、前と同じ不安にさらされたまま、ふたたび僕はじっと立っていた。そして実際に変化が起ったのか、単なる僕の想像にすぎないのか、はっきりわからなかったが、あたりの沈黙は、刻一刻深くなり、暗さはいっそう増して行くのだった。想像から生じた恐怖が僕に襲いかかってきた。美しい姿や声に誘惑され、破滅《はめつ》におち入った男の昔ばなしが、突然恐ろしい意味を帯び始めた。僕は、インディアンの信仰のあるもの、特にぶかっこうな、人間を食う怪物に関する信仰を思い出した。その怪物は、人間の声――時には、道に迷って困っている女の声――をまねたり、ききなれない美しい旋律を歌ったりして犠牲となるものを暗い森の中におびき入れるといわれている。僕は、あたりを見廻わすことさえ恐ろしくなってきた。足指が逆の方を向いている巨大な足を持ち、大きな緑色のきばを出して、恐ろしいうなり声を出す怪物が、そっと僕の方に忍び寄ってくるのが見えはしないか。このような原始のままの、人里離れた所で、このような馬鹿げた空想に捉《とら》われていることは、実に厄介《やっかい》なことだった。そういうことが、単に野蛮人の心が作り上げたものであり、単なる想像にすぎないと知りながら、それらの影響からのがれることができないのは、いまいましいことだった。しかしたとえそのような超自然的なものが存在しないとしても、この森の中には、もっと実際にいる可能性のある怪物がいて、そういう怪物に対しては、連発ピストルも豆鉄砲と同様のききめしかないのだから、単独でしかも大した武器も持たずに、出あえば、恐ろしいことになる。もろい小さな枝のように、とぐろを巻いて僕の骨をしめつけ、こなごなにしてしまう巨大なカムーディが、近くのものかげにひそんでいて、黒ずんだ地面によく似ている、その黒ずんだ色のために眼に見えないにもかかわらず、こっそりと僕の方に近づいてきているかも知れない。またアメリカ豹《ひょう》か黒|虎《とら》が、茂みか木の幹に身をかくしながらこっそり忍び寄って不意にとびかかろうとしているかも知れない。あるいはさらに悪い事態を予想すれば、あの足の早い、最も恐ろしい猟豹の群がこの道に突然現れるかも知れないのだ。この森に住むどのような生き物も、猟豹の姿を見れば、肝《きも》をつぶすような驚きの悲鳴をあげて逃げるのである。さもなければ、その進路の前で動けなくなり、あっという間に、ずたずたにひきさかれ、むさぼり食われてしまうのだ。
その時だった。頭の上の葉群の中で、さらさらというかすかな音がきこえたので、はっとして上の方をみつめた。和らげられた日の淡い光が、木々の葉を通してもれてくる、はるか上の方で、黒檀《こくたん》のように黒く、大きな赤いあごひげをつけた、人間そっくりの奇怪な顔が、じっと僕の方を見下ろしている。しかし一瞬の後、もうその姿は見えなかった。それは、一匹の大きなアラグアトすなわちほえ猿にすぎなかったのだが、僕はすっかり勇気を失っていたので、それが単なる猿以上のものだという考えを追い払うことができずにいた。僕はふたたび動いた。そして僕が足を動かすや否や、ふたたびあの声が、はっきりと鋭く、命令的な調子でなりひびいた。もはやその意味を疑うことは不可能だった。その声は、じっと立って待機し、耳をすまし、あたりを見守っていることを命じているのだ! それは、「耳をすませ! そこを動くな!」と叫んでいた。その他に意味のとりようがなかった。僕は耐えがたい不安を感じていたが、逃げることはできなかった。何かひどく恐ろしいことがこれから起ろうとしている、僕を殺すためか、僕をしばっている魔力《まりょく》をとくために、僕はそう確信するのであった。
このようにじっと地面に立っている僕の額からは、大きな汗のしずくがわいてきた。その時突然一つの叫び声が、僕のすぐそばできこえた。それは最初のうちは美しく澄《す》んでいたが、最後には次第に高くなり、非常に高く鋭いこの世のものとは思われない悲鳴に近くなってきたので、血管の血が凍《こお》るような気がし、絶望の叫びが天に向って僕の唇からもれるのだった。そしてその長い悲鳴が消えないうちに、力強い雷鳴《らいめい》のような声の合唱《がっしょう》が、突然僕のまわりに起った。この恐ろしいあらしのようなひびきに包まれて、僕は一枚の木の葉のように打ちふるえるのだった。そして、木々の葉は、強い風に吹かれているように激しくふるえ、地面さえも足の下で揺れ動くようだった。その時の僕の感じは何ともいえないぞっとするものだった。僕は、耳がきこえなくなったように感じた。そしてもし奇跡的に、頭の上の枝の上で、口をひらき、喉と胸をふくらませてほえている一匹の大きなアラグアトを偶然目にしなかったら、僕はおそらく発狂してしまったことだろう。
これほど僕をおびえさせたのは、単なるほえ猿の合唱にすぎなかったのだ! しかし僕の抱いた極端な恐怖も、このような事情のもとにあっては、別に不思議なことではない。何故なら、この種あかしに導いた一切のもの、暗がりや沈黙や、不安の時期や、興奮した想像力などが、この上もなく激しい興奮と期待に僕の心を高揚《こうよう》したのだ。たしかに僕の推測には、あやまりはなかったのである。あの目に見えない案内者は、ある目的のために僕をこの場所につれてきたのだ。そしてその目的とは、生れて始めて、たとえようもない声の力を存分に味わうことができるように、アラグアトの会合のただ中に僕をおくことにあったのだ。僕は今までもその声をきいたことはあったが、いつも離れた場所からだった。ここでは、何十匹おそらく何百――この森に住むアラグアト全部であろう――という数のアラグアトが僕のすぐそばに集ってきていたのだ。そしてもしこの動物――イギリスでは「howler」と誤って呼ばれているが――が、アメリカの荒野にその声をひびかせた最も強大な獅子《しし》をしのぐ声で、ほえ立てるといったら、このように一しょになってほえている声の猛烈な力と、恐ろしい性質とを辛うじて想像することができるだろう。
この猿のほえる声の合唱会は、三、四分の間つづいた後終りを告げたが、僕はさらに少しの間、そのあたりをぶらぶらしていた。しかしもうあの声もきこえる様子がないので、森のはずれに戻り、部落に向って帰って行った。
ふたたび森の暗がりのすっかり外に――あの明るく、さえぎるもののない日光に照された外に――出てしまうまで、今起ったことを理路整然と考えてみることはできなかった。明るい太陽に照されているこの森の外では、事物は、ありのままに見え、想像は、種を見破られ、笑われている奇術師のように、急速にその姿を消してしまう。帰途、僕は今し方立去った場所をふりかえってみるために、草木の少い尾根の途中で休息した。その時すでに、さっきの冒険は、幾分|滑稽《こっけい》なものに思われ始めてきた。あの一切の、何事かの前ぶれに似た情況、今まできいたこともなく、想像することもできない、古今の伝説、一切の悲劇を凌駕《りょうが》している、何ものかに対する神秘な序曲、それは最後に、ほえ猿のコンサートとなって終ったのだ! たしかにそのコンサートは堂々としたものだった。実際驚くべき性質のものだった。しかしそれにしても――僕はとある岩の上に坐り、思う存分笑うのだった。
太陽は、森の後に沈み、その大きな赤い円盤は依然として一番高い木々の葉の間にその姿を現していた。そして葉の群の上の方の部分は、緑の炎《ほのお》のような明るい緑色で、ふるえている、燃えるような光の粉を投げ出していた。しかし下の方は、まったく暗い影になっていた。
この風景をみつめていると、僕の心は晴れ晴れとしてくるのだった。さっき通過した奇妙な経験を考えること――無事にそれから抜け出したこと、僕の弱点をみたものが誰一人いなかったこと、しかもあの神秘が今もなお存在していて僕の心をひきつけていること、そういうことを考えること――は、何と楽しいことであったろう。あの結末は今となってみれば、たしかに滑稽なものに見えるであろう、しかし、一切のものの原因である、あの声そのものは、前よりもいっそう驚嘆すべきものに思えたのだ、あれは知能を持った生き物の声なのだ、僕はそういう確信に達した。そして、しばらくの間でもそれが超自然的な存在であると認めるには、あまりにも唯物的な考えを持っている僕ではあったが、前にクアーコのいっていたデイデイの娘の話にもっと深い意味があるのではないかと思うようになった。インディアンたちが、あの神秘な声について多くのことを知っており、それに対して強い恐怖を感じているのはたしかだった。しかし彼らは、僕たちとは生活習慣のちがう蛮人であり、どのように親しくなろうとも、自分たちよりすぐれている人種に対しては、常に幾分疑惑の念から生ずる、いやしい狡猾《こうかつ》さを、言葉や行為の背後にかくしているのだ。白人にとって精神的に蛮人と同じ程度になることは不可能ではないが、蛮人が白人に対しては子供のように完全に率直《そっちょく》になることはできないのである。どんなことでも、一緒に住んでいる外国人が、興味を示し始めると、蛮人はそれについて何もいわなくなってしまう。そして彼らの沈黙は、たやすく考えついたうそや、故意によそおった愚鈍《ぐどん》さの下に姿をかくし、外国人が知りたがれば知りたがるほど、常に深いものになってくるのである。僕があの森に対して異常な興味を持っていることは、彼らの目には明らかなので、そのことをもっとくわしく知るために、彼らの知識をさらけ出させることは、期待しにくいことだった。そこで僕は、デイデイの娘についてクアーコがいったことを次のように想像してみた。すなわち、鳥に矢を吹けば、彼女がそれを投げ返すといったりしたのは、興奮したために、不用意にももらした真実の言葉なのだ。だから、色々とたずねたり、たずねないまでも、ひどく興味を持っていることを彼らに知らしてしまったのでは、何の得るところもないだろう。僕には恐ろしいものは何一つない。僕は、自分一人でやった調査によって、この問題をかなり明らかにしてきたのだ。あれは、ひどくいたずらで移り気な生き物の声なのだ。そしてその生き物は、野育ちできまぐれではあるが、それ以上悪質なものではない。あの声が僕に好意を持っているのはたしかなことだ。そして同時にインディアンたちには、好意を持っていないらしい。何故なら、今日もクアーコが逃走をしたあとだけにしか、あの声はきこえなかったではないか。そしておそらくあの時、僕に対して怒っていたようにみえたのも、蛮人と一緒にいたからにちがいない。
今日の出来事について、今のべたようなことを考えながら、僕は、僕の接待者の家に戻ってきた。そして親切な一人の女が、家族の深鍋《ふかなべ》の中に、僕も指をつっこむように、身ぶりでさそってくれたので、僕もインディアンたちの間に腰を下ろし、とろ火でにた鳥や魚の肉を鍋から食べて元気をつけた。
クアーコは、ハンモックにねそべって、煙草を吸っていたようだった。本は読んでいなかったらしいが。僕が家の中に入って行くと、彼は、僕が生きていて、何の害も受けず、落着いた顔をしているのを見て、驚いたらしく、頭を上げてじっと僕をみつめた。僕は彼の顔に笑顔を投げかけたが、彼は幾分当惑したらしく、ふたたび頭を下ろしてしまった。僕は少ししてから、金属製のマッチ箱を取り出すと、彼の胸のあたりに投げてやった。彼はそれをがっちりと受けとめると驚いて起き上り、ひどく驚いた様子で僕をみつめた。彼は、自分の手に入れた幸運をほとんど信ずることができなかったのだ。彼は僕たちの間の契約を実行することができなかったので、ほしくて仕方がなかったほうびをもらうことをあきらめていたのだ。そこで彼は床の上にとび下りると、誇らしげにその箱をみなに示した。彼は喜びのあまり、いつもつけている無表情な様子をなくしてしまっていた。一方他のものは、みな彼のまわりに集り、前に何回もそれを見たことがあったにもかかわらず、自分自身の手にとってもう一度それを嘆賞《たんしょう》しようと試みた。しかしその箱は、今クアーコのもので、外国人のものではなかったのだ。それ故、前よりもいっそう自分たちのものに近づいたわけであり、金属の光沢《こうたく》は増し、前とはちがった風に見え、もっと美しくなっているにちがいなかった。そして、そのふたの上に、ほうろうで象眼《ぞうがん》してあるすばらしい雄鶏《おんどり》――それは、おそらくパリで作られたものだが、ギアナでインディアンたちに愛玩《あいがん》されている雄鶏と少しもちがいがない。そして僕たソが、喉をならす猫や、レモン色のカナリヤを殺して食べることを思いつかないと同様、インディアンたちも雄鶏を殺して食べようとは考えてもみないのである。――は、その深紅のとさかや肉垂、頸のところにある細長い赤い羽毛、濃緑色の弓形をした尾の羽毛をつけて、前よりもいっそう際立《きわだ》って雄々しく、雄鶏らしく見えていたにちがいない。しかしクアーコは、その箱が嘆賞され、賞賛されるのは、大歓迎であったが、自分の手からもって行かれるのは、気が進まなかったのだ。そこで彼は、尊大にいうのだった、その箱は、彼らがいじくるためのものではない、それはずっとクアーコのものなのだ、彼――彼は何と勇敢な男であろう!――は、それを僕と一緒に、あの気味の悪い森に行くことによって手に入れたのだ、そしてその森の中に彼ら――彼らは何と臆病で、劣っているのであろう!――は今まで敢て足をふみ入れようとしなかったのだ。僕は今彼のいった言葉をいちいち翻訳《ほんやく》しているわけではない。しかし今いったことが、僕のはっきりわかった点であった。そして僕はおかしくて仕方がなかったのだ。
インディアンたちの興奮がおさまった後、ずっと威厳のある落着きを示していたルニは、遠まわしの言葉を二、三のべたが、それは明らかに、あの悪名の高い森で、僕が見たり聞いたりしたことをかぎ出そうという目的によるものであった。僕は、何気ない風を装って、次のように答えた。僕は、非常にたくさんの鳥と猿を見た、――猿たちは非常になれていたので、もし吹矢の筒を持っていたら、一匹ぐらいは手に入れることができただろう、しかし僕は、今までに一度もその武器を射る練習をしたことはなかったのである。
大して耳新らしいことではなかったが、猿がたくさんいて、なれているという話は彼らの興味をそそった。しかし生れつきこの土地の風俗習慣になじみのうすい僕――裸でもなければ、褐色の皮膚も持たず、目つきも鋭くなく、梟のように音を立てずに歩くことのできない――でさえ、間近で見ることができた時、何とあの猿どもはなれていたことだろう! 僕の話に対して、ルニはただ自分たちは、あそこに狩をしに行くことはできないのだというばかりだった。さらに彼は何も恐ろしいものはないのかとたずねた。
「何もない」僕は無造作《むぞうさ》な返事をした。「あんたの恐れているものは、白人には害をあたえないのだ。そして僕にとっては、これと同じようなものなのだ」そういいながら、僕は、薪《たきぎ》の白い灰を少しばかり手にとって、息で吹きとばしてみせた。「また他の害をあたえるものに対しては、これを持っている」僕は、連発ピストルにさわりながらつけ加えた。あのアラグアトの事件の直後としては、ひどく勇敢ないい草だった。僕も心の中では赤面していたのだが。
しかし彼は頭をふった。そして、そんなものは、あの敵に対しては、たよりにならない武器であり、――実際本当のことであったが――シチュー鍋に入れる鳥や猿をとることはむずかしいというのだった。
翌朝、仲好くなったクアーコは、吹矢の筒をもって、一緒に出かけようと僕をさそった。僕は同意したが、多少の懸念《けねん》もあった。僕は、彼が迷信的な恐怖を克服《こくふく》し、その森に獲物がたくさんいるという僕の話に刺激されて、一緒に森に行こうとしているのだと思っていた。僕は昨日の経験から、これから先は、一人で森に行く方がいいという気持になっていた。しかし僕は、その若者を実際以上に買っていたのだった。彼には、もう一度あの恐ろしい未知のものに立ち向おうという気は、まったくなかったのである。僕たちは、あの森とは別の方向に進み、何時間も森の中を歩き廻ったが、そこには鳥の数が少く、いるのはずっと小さな種類ばかりだった。やがて僕の案内者は、吹矢の筒の使い方を僕に教えようと申出て、二度、僕を驚かせた。これが、彼にやった箱の返礼であったのだ。僕は快く同意した。そして携帯《けいたい》に不便な、その長い武器を手に持って、クアーコの音のしない動作、用心深い態度をみならいながら、僕の生れた人工的な社会状態に対する知識は何もなく、自分自身の腕前と毒のついた小さな一巻きの投げ矢だけを頼りにしている、単純なギアナ蛮人になったつもりでいようと考えた。僕は意思の努力によって、今までの経験と知識をすっかり自分からしめ出し――あるいはその大半をできるかぎり――コロンブスより前の、はるかな遠い昔、これらの森を歩き廻っていた、今はない代々の祖先のことだけを考えてみた。そして、こんな空想によって生ずる喜びが、大人気《おとなげ》のないものであったとしても、一日が早くたつ助けにはなった。クアーコは、絶えず僕のそばについて手を藉したり、忠告をしたりしていた。僕は、長い筒から多くの矢を吹いたが、一匹の鳥も射とめることができなかった。僕が何を射とめたか、それは神様だけが知っている。僕のとばした矢は、全然見当はずれの方向にとんで行ってしまい、どこへ行ったのかわからなかった。ただその中の二、三本だけは、目の鋭いクアーコが、とんで行った先を見ていて、どうにか取戻すことができた。その日の僕たちの狩猟の成果は、二羽の鳥――これを射とめたのは、僕ではなくて、クアーコだった。――と一匹の小さなオポッサムだった。そのオポッサムは、高い木の上の古い巣の中でからだを丸めていたのだが、不注意にも、蛇のような尾を巣のわきからぶらさげていたので、クアーコの鋭い目に見つけ出されてしまったのだ。僕が無駄に使った矢の数は、彼にとっては相当の損害であったはずだが、彼は別に困った顔もみせず、何もいおうとはしなかった。
翌日になって驚いたことには、彼は自分から二度目のけいこをしてやろうと申し出た。そこで僕たちはふたたび出かけた。今度彼は、矢の大束を用意していた。しかし――頭のいい男だ!――その矢には毒が塗《ぬ》っていなかったのである。そんなわけで、今度は無駄にしても、大したことはなかったのだ。この日僕は少し上達したと思う。いずれにしても、僕の教師は、近いうちに鳥を射とめることができるようになる、と僕に向っていった。それをきいて僕は苦笑をもらした。そして、小さな男よりも大きな鳥を二十ヤード以内にすえておけば、何とか矢をかすめてみせるといってやった。
この言葉は、まったく予期していなかった大きな効果を生んだ。彼は急に歩みをとめ、じっと僕をみつめると、歯をむき出して笑い始めた。そしてついに突然どっと大きな笑い声をあげた。それは、ほえ猿の動作の巧妙な模倣《もほう》であった。そして彼は、ものすごい勢いで裸の腿《もも》をたたき始めた。やがてわれに返ると、彼は、小さな女でも、小さな男と同じことではないかとたずねたが、僕から肯定《こうてい》の答えを得ると、ふたたび途方もない笑い声を爆発《ばくはつ》させた。彼が、こんな気分でいる間、笑わせるのはたやすいことだと考えて、さらにいくつかの冗談《じょうだん》をいってみたが、効果はあがらなかった。その冗談は、効果こそ弱かったが、さっきあのようにとてつもなく笑わせた冗談と同じように面白いものだったのだが。僕にとって、彼がいつもとちがった風にふるまうのを見るのは面白いことだったのである。しかしあとから僕のいった冗談は、全然効果がなかった。――二度とうまい具合に壷《つぼ》にはめることができなかったのである――彼はただ、ぼんやりと僕をみつめ、いのししのように――不満そうに――鼻をならして歩きつづけた。しかしなお、時々、僕がものすごく大きな鳥を射つといったのを思い出し、そのすばらしい冗談からは簡単に面白さがなくなるものではないとでもいうように、ふたたび笑いころげるのであった。
三日目、ふたたび僕たちは、鳥を射つ練習をしに出かけた――殺さないまでも驚かすために。ところが正午になる前、もっと多くの獲物に出あう見込のある遠くの場所に、彼が出かけたいというので、僕は彼と別れて、部落に戻ってきた。もはや吹矢の筒の練習も、もの珍らしいものではなくなったので、一日中つづけるのも気が進まなかったし、毎日やるのもいやになっていた。その上、僕は長い間行かなかった「僕の森」――僕は、あの森をそう呼ぶようになっていた――を訪れたくて仕方がなかった。僕は、森に行って、あの神秘な旋律をききたいと思ったのだ。僕はすでに、あの旋律を愛し、一日でもそれを耳にしない時には、もの足りない気持を感じ始めたのであった。
ルニの家で、あわただしい食事をすませた後、僕は楽しい予想に胸をふくらませながら森に出かけた。そこは、僕にとって何と楽しい場所だったことだろう! 僕をひきつけたあの神秘のために、他のどんな森にもまして、原始のままの美しさと、芳香《ほうこう》と、美しい旋律とを持つようになってしまったのだ! その森は僕のものであった。疑いもなく、そして完全に。――地球上の地面のある部分が人間の所有であり得るならば、あの場所は、僕のものだということができる――あの中にある全産物と共にすべて僕のものなのだ。あの貴重な木材、果実、そして匂いのよい樹液《ガム》、僕はそういうものを決して売買させることはないだろう。あそこに住む野獣たちを虐待《ぎゃくたい》させはしないだろう。また嫉妬《しっと》深い蛮人に、僕の所有権に関して口を出させたり、自分たちの狩猟場の一部だといわせたりはしないだろう。平原《サヴァンナ》を横切りながら、僕はそんなことを空想していた。しかし隆起した高台にやってきて、もう一度僕の新らしい所有地を見下ろした時、その空想は、僕の心臓にまで突きささってくるような痛烈な感情に変化し、激しい苦痛のようなものになって、突然目に涙があふれてきた。あたりには、誰一人いなかったので、自分自身と、僕を見下ろしている広々とした空から、僕の感情をかくす必要はなかった。――何の束縛《そくばく》も受けず、どんな因襲にもわずらわされないことは、孤独のあたえる最も甘美なものである。――そこで僕はひざまずき、石だらけの大地に接吻《せっぷん》するのだった。そして眼を空に投げかけ、これほど大きな喜びを見出したこの原始のままの森、この緑の館をあたえ給うたことを、創造主に深く感謝するのだった。
このような感情の緊張に元気づけられながら、正午を少しすぎた頃、僕はいつもの森に到着した。しかしあの美しい声は、期待していた親しげな歓迎《かんげい》を、僕にあたえなかった。また、姿の見えない友人の声を少しも耳にすることができなかった。ともかくもいつもきこえてくる、鳥に似たさえずるような声では。しかしその日、僕はちょっとした思いがけない奇妙な事件に遭遇《そうぐう》したのである。僕はまったく異常で神秘的な声をきいたのであった。そして散歩している時、絶えず僕のあとについてきた、あの姿の見えない歌手を、この声によって連想したのだった。
それは雲一つない、美しく晴れた、風のある日だった。僕は、森のはずれに近い、幾分ひらけた場所にいたが、そこでは微風が感じられるのであった。僕は、大きな枝の下の方に腰を下ろして休んだ。その枝は、折れてはいたが、木の幹からすっかり離れてはいないので、その先端の小枝を地面にひきずっていた。僕の坐っているすぐ目の前には、幅の広い光沢のある円い葉に包まれた、背の低い横に広がった植物が生えていた。その上の方の葉は、まるく、かたくて、高さがまったく同じなので、ほとんど同じ高さに並べられた、小さな壇《だん》か、まるいテーブルのように見えた。そしてその葉の間から、すらりとした枯れている茎が、一フィートばかりの高さに突き出していた。そしてその先の小枝からは、破れた蜘蛛《くも》の巣がぶらさがっていた。一枚のごく小さな枯葉が、そのほどけた蜘蛛の糸の一つにひっかかっていて、小さなしかしはっきりした影を、下の方の葉の台の上に投げかけていた。この枯葉が、空気の動きによって、ふるえたり揺れたりするたびに、黒い小さな点が、下の方の葉の、あざやかな緑の葉の上で、ふるえたり、すばやくとんだりしていた。それは、ほとんど絶え間なしに動いていて、めったに静止しなかった。僕は腰を下ろし、今自分の見ているものが、何であるのかほとんど考えようともせず、その葉と、小さな踊っている影とを見下ろしていたが、ひらたいからだと、短いあしを持った一匹の小さな蜘蛛が、葉の表に用心深く這い出てくるのに気がついた。僕がまず第一に注意を向けたのは、黒いビロードのような縞《しま》のある、淡赤色のからだだった。それは、あまりにも美しかった。やがて僕は、この蜘蛛が、巣をかけようとしている巣作り蜘蛛ではなく、姿をかくして忍び寄り、最後に突然とびかかって獲物をとらえる、猫のような、さまよい歩く狩人であるのに気がついた。その蜘蛛が、動いている影にひきつけられたのだ。その結果、蜘蛛は、葉の上を走るようにとびまわり、葉から葉へととんで行く蝿《はえ》だと誤って思い込んでしまったのである。今、この想像上の蝿を計略《けいりゃく》にかけてやろうと、蜘蛛の方では不思議な大演習を始めた。そしてこの蝿も、この特別の場合にふさわしいように、特別具合よくでき上っていたのだ。何故なら、かつてどのような昆虫も、このようなおかしな風に動いたりするはずがなかったから。影がとび過ぎるたびに、蜘蛛もまたすばやく同じ方向に走って行った。葉の下にかくれて、獲物を驚かさずに近寄ろうと、絶え間のない試みをつづけながら。やがて影が、小さな円を描いてぐるぐる廻り始めると、蜘蛛の方でも、新しい戦略上の運動を始めようとする。僕は、この珍らしい光景に、すっかり興味を奪われてしまった。僕は、蜘蛛に機会をあたえるために、その影が一、二瞬じっと静止することを願い始めていた。そしてついにその願いはかなえられたのだ。その影は、ほとんど動作を停止した。蜘蛛は、自分も動かないように装いながら、影の方に進んで行った。だんだんとそばに忍び寄るにつれて、この小さな縞《しま》の入ったからだが、興奮のあまり、ふるえているのを見ることさえできるようであった。ついに最後の場面がやってきた。矢のように、すばやくまっすぐに、蝿に似た影に向って蜘蛛は突進し、明らかに、きばとつめで獲物を捕えようと試みながらぐるぐるとのたうち廻るのだった。そして自分の下に何も居ないことがわかると、前半身を垂直に上げ、自分を惑《まど》わした蝿を探すために、あたりを見廻しているようだった。しかし、その動作は、単なる驚きを現すものにすぎなかったのだろう。この時、今まで抑《おさ》えてきた笑いにはけ口をあたえて、思う存分大声で笑おうとしていたのだが、その瞬間、すぐうしろで、まるで僕の肩ごしに、この光景を見守っていて、その結末に僕自身と同じくらい面白がっている人間の口からもれたような、快活な笑いの、澄んだトレモロが僕の耳に入ってきた。僕は驚いて立ち上った。そして急いであたりを見廻わした。しかし生き物の姿は、何一つ、このあたりには見えなかった。しかし僕の眼は、ある一点に吸い寄せられた。目の前にある、ぼさぼさした葉のかたまりが、たった今、誰かがそこを押し分けて進んだあとのように、かき乱されたが、一瞬の後、どの葉も以前の静けさに戻っていたのである。しかし僕には、微かな風が吹いて、その葉を揺り動かしたのだとは思えなかった。僕には、すぐそばで、本当の人間が笑ったのか、他の生き物が、人間の笑い声をそっくりまねたとしか思えなかったので、何か生き物が見つかるのではないかと思いながら、あたりの地面を注意深く探してみたのである。しかし僕は、何も見つけることができず、垂れ下った枝の上にある、自分自身の席に戻って行った。そしてかなり長い間、そこに腰を下ろしていた。最初はただ耳を澄ましているだけだったが、やがて、あの美しいトレモロのような笑い声の神秘について、深く考え込むのだった。そして最後に、僕自身も、あの影を追っていた蜘蛛のように、なにものかにあざむかれ、実際は、何も声がきこえないのに声をきいたように思ったのではなかったかと疑い始めた。
翌日、僕はふたたび森に出かけた。二、三時間ぶらぶら歩いていたが、その間何の声もきこえなかったので、すでに知っている場所に何度も行ってみるのは無駄であると考え、南の方に足を向けて、もっと深く繁った森に入って行ったが、その森には、下ばえが密生していて、進むことがむずかしかった。しかし道に迷う心配はなかった。太陽はまだ高かったし、僕の方向に対する感覚は、いつも正確だったので、出発点に戻ることは不可能ではなかったからだ。
その方向に向って僕は三十分以上も断乎《だんこ》として歩みを進めた。しかし僕が保とうとしている進路から、絶えずあちこちにそれてしまうのだった。そしてついに前よりはひらけた場所にやってきた。このあたりは、岩石の多い性質の土地だったので、木々は前よりも、小さくなり、その数も少くなっていた。そして地面は、幾分急な勾配《こうばい》を作って、下の方に傾いていた。あたりはじめじめしていて、苔《こけ》とか羊歯《しだ》とか、つる草とか背の低い灌木とかが、繁っていた。一面にあざやかな緑であった。灌木と、背の高い羊歯の葉のために、前方は、いくらも見通すことができなかった。しかし、間もなく、低い間断のないもの音がひびいてきた。さらに、二、三十ヤード進んで行くと、それが、流れて行く水のごぼごぼいっている音だということがわかってきた。水があることがわかると、僕は、喉《のど》がかわき、炎暑《えんしょ》のために手のひらが、ひりひり痛んでいるのに気がついた。冷たい水を飲もうと僕は足を速めた。その時突然、流れたり、ごぼごぼいったりする低い水の音の他に、また別の音が入ってきた。――それは、鳥のさえずるような音、あるいは、そういう音の連続であった。そんな音であるにもかかわらず、その音は僕をはっとさせた。――鳥のさえずるような音は、それ程多くの意味を持つようになってしまったのだ――僕は立ち上って、じっと耳を傾けた。その音は、それきり止んでしまった。そこでついに、この神秘な歌手を驚かせないように、用心に用心を重ねて、這うようにして進んで行くと、根のあたりに、羽毛のような灌木の葉がたくさん茂っている、一本のグリーンハートの所にやってきた。目をやると、その木の前は、前よりもいっそう地面がひらけていて、空からは太陽の光が、さんさんとふりそそぎ、さっきから探していた川が、今いる所から二十ヤードばかり離れている、そのひらけた場所に流れていた。川の水は、まだ僕の目からは見えなかったが。しかしそこには、また別の新らしいものがあった。僕はこの目で見たのである。それを見た瞬間、用心深く進んでいた僕は歩みを止めた。僕は、立ち止ったまま、全身を眼のようにして、それをみつめた。それを驚かして立ち去らせてはいけないと、ほとんど息さえ殺しながら。
それは疑いもなく、一人の人間であった。――小さな木の根の近くにある、羊歯《しだ》や草の間の苔《こけ》の上に、その身を横えている、一人の少女の姿があった。一方の腕は、頭を支えるために頸のうしろに廻し、もう一方の腕は、前の方にのばしていた。その手は、もう少しで手のとどく、ぶらさがった小枝の上に止っている、小さな茶色の鳥の方に、さしのべられていた。彼女は、その鳥とたわむれているようだった。おそらく手におびき寄せようとして遊んでいたにちがいない。その鳥は、その手にひどくそそのかされているようだった。何故なら、その鳥は、絶えずあちこちをとび廻ったり、急にあちこちと向きを変えたり、翼や尾を急にふったりしながら、常に彼女の指に下りそうに見えたから。僕のいる所から、彼女をはっきり見るのは、不可能であった。しかし僕は動こうとはしなかった。彼女の背丈は、四フィート、六・七インチよりも低く、からだつきは、ほっそりとしていて、小さな華奢《きゃしゃ》な手足を持っていた。彼女は、はだしで、身につけているものといっては、軽いシュミーズのような形をした着物だけだった。その着物は、彼女の膝《ひざ》の下まである、灰白色のもので、絹でできているような、かすかな光沢があった。彼女の髪の毛は、驚くべきものであった。それは、一面にほどけて、豊かであり、波打ちそしてちぢれているようだった。それは、肩と腕に雲のようにたれかかっていた。髪の毛の色は、黒いように見えたが、その正確な色を決定するのはむずかしかった。そして同じように、その皮膚の色も、褐色とも白色ともいえなかった。彼女は、実際、僕のすぐ近くにいたにもかかわらず、幾分ぼんやりした遠いところにいるような、はっきりしないものが、彼女の姿にはあったのだ。しかし全体からみると、緑がかった灰色といってよかった。ほどなくその色は、緑の葉を通して、彼女の上にふりそそぐ日の光のためだと判明した。何故なら、一度、一瞬のことであったが、彼女が、指を鳥の方にのばそうと、背のびした時、何物にもさえぎられない一筋の日の光が、彼女の髪の毛と腕に落ち、一瞬、腕は、真珠のような白さになり、髪の毛は、その光がふれた所だけ、不思議な光沢《こうたく》と、虹色のひらめきを帯びたからである。
そういう彼女の姿を三秒と眺めないうちに、彼女の前にいた鳥は、鋭いキーキーいう小さな叫びをあげながら、驚いてとび上り、彼方にとび去って行った。その時だった。彼女は、ふりかえり、明るい葉の幕《まく》を通して、僕の方を見た。しかしこのように突然、僕の姿が目に入ったにもかかわらず、彼女は、鳥のように驚いた風を見せなかった。ただ眼をじっとみひらき、驚きの表情をたたえながら、じっと僕の顔をみつめたままだった。やがて気がつかないくらいゆっくりと――形と場所を変えて行くが、目には動いているようには見えない、移動する薄い霧《きり》のように、ゆっくりとした、なめらかなものであったので、僕は、実際動いているのに気がつかなかったのだ――彼女は膝《ひざ》を立て、足を立てて立ち上り、だんだんに退いて行った。顔はなおも僕の方に向けたまま、眼は僕の眼をじっとみつめながら。ついに彼女は、その姿を消した。緑の草木の中に消えさって行ったかのように。木の葉が、彼女が今いたちょうどその場所を占めていた。――はりえんじゅの羽毛のような葉、水草の茎と、幅の広い矢の形をした草、しおれている下をむいた羊歯の葉、それらの葉は、静止したままだった。そして誰かがそこを通るためにさわって行ったとは思えなかった。彼女は、立ち去った。しかし僕は、身動きもせず、最後に彼女の姿を見た場所をじっとみつめたまま、ほとんどからだが折りまがるくらいまで身をかがめているのだった。僕の心は、時に鋭く、時ににぶく感じられる感覚にとりつかれた奇妙な状態にあった。僕の心に残っている映像は、あまりにもあざやかなので、彼女はまだ今でも僕の目の前に実在しているようであった。しかし彼女は、そこにはいなかった。さっきもいたのではなかった。彼女は、夢であり幻影にすぎなかったのだ、あのような人間は、存在してはいない、この粗野な世の中には、存在することができないのだ。しかし僕は、彼女がそこにいたことを知っていた。――人間の想像力とは、あれほど絶妙な人間の姿を心に浮べるには、あまりにも力弱いことを。
ともかくも僕は、この心の中の映像だけで満足しなければならなかった。その場所に、なお二、三時間の間とどまっていたが、ふたたび彼女の姿を見ることはできなかったし、ききなれた美しい声をきくこともできなかったから。僕は今、この野育ちの孤独な少女こそ、森の中で、あれほどしばしば僕のあとをつけていた神秘な歌手に他ならないと確信したのだった。しかしついに、もう時間もおそくなってきたので、小川の水を飲んでから、不承々々、のろのろした足どりで森を出て、家に帰って行った。
翌日の朝早く、僕は楽しい予想に胸をふくらませながら森に戻った。そして木々の間にかなり入って行くと、すぐ低いさえずるような声が、僕の耳に入ってきた。それは、昨日羊歯の間で、少女の姿を見た直前にきいたのと同じようなものだった。これほど早く! 元気づけられて、僕は考えた。そして今日もまた、不意に彼女をみつけることができればよいがと思いながら、あたりを調べてみようと、用心深く歩みを進めた。しかし何一つ眼に入ってくるものはなかった。そこで、今きいたものは、いつもの声とはちがうのではないかという疑いが、頭をもたげ始め、とある岩の上に腰を下ろして休もうとした時、ふたたびその声がひびいてきた。前と同じように低く柔らかく、しかし僕のすぐ間近で、はっきりと。その場所では、それからあとは、もう何一つ耳にすることはできなかったが、一時間の後、他の場所で、同じ神秘な声が傍できこえた。その日森の中にいる間中、僕は幾度も同じようなもてなしを受けた。しかし何も目に入るものはなく、声の調子には、少しの変化も生じなかった。やっと太陽が沈む頃になって、僕は深い失望を感じながら、探すことをあきらめたのだった。その時、僕の心には、今日、この捕えがたい生き物がこんな風にふるまうのは、森の奥の一番秘密な隠れ場の一つで、僕にみつけられたことを立腹しているためであり、このようにして僕に仕返しをするのを、彼女は喜んでいるのだという考えが浮んできた。
翌日も、やはり同じだった。彼女は、そこにいて、明らかに僕のあとについてくるのだが、常にその姿を見せなかった。そして、もう一度私を見つけたらどお? といどんでいるような、昨日と同じばかにしたような調子にも、変りがなかった。とうとう僕は、いらいらし始め、しばらくの間、この森を訪れることを止して、彼女に仕返しを試みようと決心した。僕の方で無関心を装おうならば、彼女の方もこれからはもっと大胆になるだろうという希望を抱きながら。
翌日、新らしい決心を堅く守ろうと心に決めて、僕は、クアーコと他の二人のインディアンと一緒に、遠くの方に出かけた。そこでは、カシューの木の実が熟していて、たくさんの鳥がそれに集まるだろうという話だったのだ。しかし、その木の実は、まだ青いことがわかり、その実を摘《つ》み集めることもできず、鳥もほとんど射殺することができなかった。一緒に帰途につきながら、クアーコは、ずっと僕のそばを離れなかったが、やがて自分一人だけおくれて、僕と肩を並べ、吹矢がうまくなったとほめ始めた。その日もいつものように、吹いただけ全部無駄にしてしまったのだが。
「すぐ当るようになる」彼はいった。「小さな女と同じくらいの大きさの鳥にな」ふたたび彼は、あの以前いった冗談を思い出して、途方もない笑いを爆発させた。そしてついに、非常に打解けてきたあげく、僕専用の吹矢の筒と、たくさんの矢を近いうちにやろうといい出した。彼は、矢は自分が作り、筒は、信頼のできる眼を持っている叔父のオタウインキが作ってくれるだろうといった。僕はそれを冗談だと思ったが、彼は、真面目な顔をして、今の話は本気なのだと請合《うけあ》うのだった。
翌朝、クアーコは、僕が評判の悪い森に行くつもりかとたずね、否定の答えをきくと、驚いた風な様子で、意外にも、ありありと失望の表情をうかべた。そして以前、あれほど熱心に行くなと忠告していた場所に、今日彼は、しきりに行けとすすめさえした。しかしついに僕が行こうとしないのがわかったので、別の森に僕をつれて行った。やがて彼は、またあの同じ話題に戻って、なぜあの森に行こうとしないのかわからない、あの森がこわくなり出したのかとたずねるのだった。
「いや、恐ろしくはない」僕は答えた。「僕は、あの森のことは全部知りつくしてしまったので、もうあきてしまったのだ」僕は、あの森の中で、一切のもの――鳥も獣も――を見てしまったし、珍らしい音は全部きいてしまったのだといった。
「そうか、きいたのか」万事心得ているかのように、彼はうなずきながら口を切った。「だが、あんたはまだ妙なものを見てはいないな。あんたの眼はまだよく見えないようだな」
僕は、軽蔑したような笑いを浮べ、一人の不思議な若い少女を含む、森の中の一切の不思議なものを見たのだと答えた。そして、次にその少女の容貌のことに話を進め、白人が若い少女を見て驚かされると思っているのかとたずねて話を終えた。
僕の言葉をきいて彼は驚いた。そして非常に喜んだ様子で、昨日よりももっと慣々しく寛大になり、間もなく僕は彼らの中で最も重要な人物となり、大いに名前をあげることになるだろうというのだった。僕は、彼のいったことを一笑に付そうとしたが、彼は、それが気に入らないらしく、ひどく真面目な顔をして、やがて僕のものになるという、まだでき上っていない吹矢の筒について話しつづけた。――彼のいっているのをきいていると、まるで、何か重大なこと、大きな土地をくれるとか、オリノコ河の北にある、州知事の地位をあたえるとかいうような口ぶりなのだ。そしてさらに、たくさんの矢と一緒に、吹矢の筒をくれるという約束よりも、もっと驚嘆すべき話を持出した。それは、彼の妹で、オアラヴァという名前の、十六ぐらいになる少女のことだった。彼女は、内気で口数が少く、おとなしい眼をした、幾分やせている、きたない少女だった。彼女は醜《みにく》くはなかったが、人好きがするとも思えなかった。この荒野に住む、銅色の皮膚をした小さな売春婦を、僕と結婚さしてやろうといっているのだ! 彼を誘導訊問《ゆうどうじんもん》にかけたくてたまらず、笑いたいのを何とか抑えて、彼にたずねてみた。彼は、まだ若造で、自分の妻を買う資格もないのに、何の権限で、無造作に自分の妹を処分できるのかと。彼はしかし別にやっかいなことはない、ルニは同意するだろうし、オタウインキやピアケやその他の親類たちも別にどうこういうはずはない、また最後に少くとも、この地方の結婚の風習に従って、オアラヴァ自身も、僕のように立派な求婚者に対しては、自分自身のみならず、かつらや、使いふるしたいちじくの葉の下着や、アツコウリの歯の首飾りや、その他一切のものを喜んであたえるであろう、といった。そして最後に、将来の見込をいっそう誘惑的なものにするために、普通は、一人前の男であることを証明し、結婚という罪を清める状態に入るのにふさわしくするため、自発的に拷問《ごうもん》を受けるのだが、僕にはその必要がないだろうとつけ加えた。僕は、あまり彼が思いやりが深すぎるといい、できるだけ真面目な顔付をして、その拷問とは、どんなものなのかとたずねてみた。「あんたのような勇敢な人には、拷問はいらない」彼は寛大に答えた。しかし、クアーコは、将来自分の仲間に、してやろうと思っている拷問の形式を心の中で決めていたのだ。大きな袋を準備し、その中に火蟻《ひあり》を入れる、「このくらい多く」彼は、身をかがめて、両手にさらさらした砂を一ぱいつかむと、勝ち誇《ほこ》ったように叫んだ。そして袋に、その蟻をつめ込み、自分も裸かのままその中に入り込み、頸のところでしっかり結ぶ。このようにして、無数の有毒な針に刺される地獄《じごく》のような苦痛を、うめき声ももらさず、平然とした顔付で我慢することができるのを、一切の見物人に示そうというのである。しかし、この哀れな若者には、独創性が足りなかった。何故なら、このような拷問の仕方は、ギアナ族の間で行われている、最もありふれた苦行の形式のうちの一つだったから。しかし、このような話をしている時、突然現れた驚くべき活気のある話し方、いつもの無表情な顔を生き生きとさせている残忍な喜び、そういうものは、突然の嫌悪と恐怖の感情を僕の体内にひき起した。しかし、敵ではなく、自分たちにあたえる拷問の予想に喜びをおぼえるとは、何という奇妙な裏返しにされた残忍さであろう! そして彼らは、他人に対しては、やさしく温順なのである! いや僕は、彼らの柔和なことを信じることができなかった。それは、単に表面だけのものであり、彼らの蛮人の残忍な本能を呼びさます事件の起らない時だけである。僕は今いった一切のことを笑うことができたであろう。しかし、クアーコの顔に浮ぶ、勝ち誇った表情をみると、もうこの話題がいやになり、それ以上そのことについて話をする気が起らなくなった。
しかし、クアーコはなおも話しつづけた。――この男は、大ていいつもは、いわばフォークで、口から言葉を取り出さなければならないくらい、無口だったのだ。しかし今彼はなおも同じ話題について、話しつづけるのだった。そして彼は、この部落の者で、僕が拷問を受けるのを見たいものは、一人もいないだろうといった。さらに彼ら全部に対して僕のできることをした後――ある大きな禍《わざわい》から彼らを助け出した後――それ以上のことをやらそうとは思わないだろうというのだった。
僕は彼に今いったことをよく説明しろといった。何故なら今、彼のいったすべてのことによって、彼がある非常に重要なことに近づきつつあるのが、明らかになり始めたからである。彼が僕に、吹矢の筒や売買できる処女の娘を、まったく利害関係の伴わない動機から、僕に差出していると想像したのは、いうまでもなく完全な誤りであったのだ。
僕のいったことに対する答えとして、いつかは、小さな女と同じくらいの鳥に矢をあてることができるだろうという、まだ忘れていない冗談に戻って行った。ことの起りは、すべてその冗談にあったのである。そして彼は、もう少し練習してうまくなったら、僕が森の中で見た神秘的な少女が、的としてちょうどよい大きさではないか、とたずねた。それが、彼らのために僕のなすべき大仕事だったのだ。――あの、美しい野生の鳥の声を持つ、神秘的で内気な少女が、毒のついた矢で殺すように要求された邪悪なものだったのだ! 今彼が、何度も僕にあの森に行けというのは、だんだんに彼女の生息地と習性に精通し、彼女の持っている内気と疑惑とを取り除き、射そこなう恐れのない適当な時に、致命的な矢をねらい打たせたいと思っているのに他ならないのだ! いつか行われるであろう拷問を楽しみに待ちながら、ほくそ笑んでいた時、彼が僕の心にめざめさした嫌悪も、今、僕の経験したものにくらべれば、弱々しく一時的な感情にすぎなかったのである。僕は突然、激しい怒りにかられて、彼を攻撃しようとした。一瞬のうちに、僕の手にあった吹矢の筒は、彼の頭の上でこなごなになったことであろう。しかし、僕の方を向いた時の彼の驚いた顔を見て、僕はためらい、今いった取り返しのつかない軽率な行為を犯すのを抑えたのだった。僕は、辛うじて歯ぎしりをし、ほとんど抑えることのできない憎悪と激怒に打ち勝とうと、苦闘することができただけだった。しかし、ついに僕は、吹矢の筒を投げとばし、彼に拾うように命じた。そしてギアナの全蛮人の姉妹を妻に差出すとしても、ふたたびそんな筒にさわりはしないぞといい放った。
彼は、驚いて無言のまま、じっと僕を眺めつづけていた。やがて僕も思慮分別を取戻し、彼に懐いている激しい憎悪は、できるだけかくしておくのが、最上の策であると思いついた。そこで僕は、僕が矢を何か――鳥でも人間でも――にあてることができると思っているのかと、幾分冷笑的に彼にたずねた。「絶対にそんなことはない」僕は、僕の感情に幾分吐け口をあたえるために、ほとんどどなるようにいうのだった。そしてさらに連発ピストルを引き抜くと、次のように叫ぶのであった。「これが、白人の使う武器だ。これで人を殺すのだ。――自分を殺したり、害を加えようとするものを――だが、このピストルまたは、他のどんな武器ででも、潔白な若い少女を殺したりはしないぞ」
こう僕がどなったあと、しばらく僕たちは、無言のまま歩いて行った。しかしやがてクアーコが口を切り、僕が森の中で見て、少しも怖れを感じていない生き物は、潔白な若い少女ではなくて、邪悪なデイデイの娘なのだ、そして、あの少女が森に住んでいる間は、狩に行くこともできないし、他の森の中でさえ、絶えず彼女に出あうことを恐れていなければならないのだ、というのだった。彼と話をするのは、嫌でたまらないので、僕は何もいわずに歩いて行った。そして部落の近くの小川についた時、着ているものをかなぐり捨て、他のものに出あう前に、怒りをさましておこうと、水の中にとび込んだ
その夜、目をさましたまま横になりながら、あの森の少女のことを考え、彼女の移り気な挙動が、ほとんどききめのなかったことを、彼女に対して、充分知らしたのだから、あの最愛の緑の館から、これ以上遠ざかり、自分自身に苦しみをあたえている必要はないと思い到った。そこで、翌日、午前中数時間にわたってつづいた豪雨《ごうう》が止んだあと、いつもの森を訪れようと、正午近く出発した。頭の上の空は、ふたたび青さを取り戻していたが、どんよりとした蒸し暑い大気は、微動だにせず、はるかな西の地平線の上には、暗青色の雲のかたまりが積み重なり、やがてその日のうちに、ふたたび豪雨が襲ってくる気配のあることを物語っていた。しかし僕の心は、あの森のニンフと出あうことができると思い、非常に興奮していたので、この不吉な前兆にも心をとめようとはしなかった。
僕は、第一の細長い森を通り、それにつづく石の多い不毛地帯に出た。その時だった。すぐそばの地面の上に、一筋の光り輝くものが見えるではないか。それは、草木のない地面に横わっている一匹の蛇であった。それに気がつかないで、前へ進んでいたら、おそらくその上を踏んでいるか、危険なくらいそばに近寄っていたことだろう。よく観察してみると、それは、美しく珍奇であると同様、かまれればかならず死んでしまうという毒性のために有名な、小さな毒蛇であることがわかってきた。それは、長さ約三フィートばかりの、ひどくほっそりした蛇だった。その地色は、あざやかな朱色《しゅいろ》だったが、幅の広い漆黒《しっこく》の環が、等《ひと》しい間隔をおいて、そのからだを巻き、その各々の環、あるいは帯は、その中央で狭い黄色い筋によって分けられていた。つり合いのとれたこの模様《もよう》と、あざやかな対照的色彩は、もしそのきらきらした、とぐろ巻きの中に、生命のきらめきがなかったならば、奇抜な芸術家によって作られた、人造の蛇のように見えたことだろう。そして二、三ヤードはなれた所に立ってこの蛇をみつめた時、僕の方をじっとみつめているような眼は生きている宝石であり、その危険な矢の型をした頭からは、光った舌が絶え間なくちらちらとふるえるのだった。
「蛇君、僕は君を心から賞賛《しょうさん》する」僕はいった、心の中でいうのだった。「だが、軍事専門家たちはいっている、敵あるいは、敵になりそうなものを、背後に残しておくのは危険なことだと。そんなことをするのは、ろくでもない戦術家か、天才にちがいない。だが僕は、そのどちらでもないのだ」
そこで僕は、二、三歩後に退き、手ぐらいの大きさの石をみつけて拾い上げた、そして、危険そうにみえる頭を粉砕する目的で、その石を投げつけた。しかし石は、目標の少し横の方の岩にぶつかり、柔らかかったので、こなごなに砕けてしまった。それを見て蛇は怒り出し、たちまち頭を上げて、僕の方に向って、すばやくすべるように突進してきた。ふたたび僕は後退したが、今度はあまりゆっくりしているわけには行かなかった。そしてまた石をみつけると、それを高くふりあげて、投げつけようとしたが、その瞬間、近くに生えている灌木の中から、鋭い、ひびき渡るような叫びがきこえ、その叫びとほとんど同時に、あの森の少女がとび出してきた。あの影の深い森の中で、ぼんやりとその姿を見た時のように、捕えがたい内気なおもかげはまったく去り、正午の太陽を全身にさんさんと浴びながら、大胆に僕の注意をよびさましたのである。この太陽の光を浴びた、彼女の血色の光り輝くばかりの豊かさは、他にくらべるものがないようであった。このように彼女を見ていると、道で敏活な毒蛇の姿をみるとかならず生ずる憎悪と恐怖の感情は、ことごとく、一瞬のうちに僕の心から姿を消した。迅速《じんそく》に、落着きをたたえ、波のうねるような歩き方で僕の方、というよりは蛇の方に、進んできた時、僕は、このキラキラと光り輝くものに、驚愕《きょうがく》と感嘆の念以外には、何も感じなかった。そして蛇は今、彼女が近づいてくるにつれて、次第にその速度をおとしていたので、僕と彼女との中間にいたのである。彼女が、以前とは一変して、このように突然怖ろしく大胆になった理由は、実にはっきりしていた。彼女は、灌木の中にある隠れ場から、前と同じように、ばかにしたような声で、散々に森の中をひっぱりまわして困らしてやろうと考え、僕の近寄ってくるのを見守っていたのだが、ちょうどその時、僕が蛇を襲おうとしたので、怒りを爆発させたのである。次々にほとばしり出るひびき渡るような声、はっきりとききとれぬ、未知の言葉のひびき、その迅速な挙動、とりわけみひらかれた、きらめく眼とまっかにほてった顔、そういうものを見れば、彼女の感情がどのようなものであるかを誤解することは不可能であった。僕は、その時受けた印象を描写するため、それに使う言葉か形容を探していたが、waspish いや avispada の方がいいと思いついた。――これらは、字義通りには、同じ意味のスペイン語であるが、正確にいえば全然同じ意味ということはできない。そしてまた軽蔑する時には使わないのである。――しかし、少し考えたあと、適当とは思われなくなってきたので、両方とも捨ててしまった。しかし、おそらく例にとるには一番適当なので、いらいらした、すずめ蜂《ばち》のイメージを使うことにしよう。僕が今まで百回も見てきたように、怒って僕の方に向って進んでくる、大きな熱帯のすずめ蜂のイメージを。そのすずめ蜂は、正確にいうと、とんでくるのではなくて、すばやく動いてくるといった方がいい。キラキラ輝く翅《はね》をひらいて震動させながら、怒ったような大きなうなり声をたて、地面を半ば走り、半ばとぶといったように。それは、鋭いが優雅な感じのする線、光沢のある表面、さまざまな華麗《かれい》な色、そういう点においては、他の活発な動物の大部分よりもはるかに美しいのだ。そして、その蜂の激しい怒りは、いかにもそういうものにふさわしく、いっそう多くの栄誉を、つけ加えているようにみえるのである。
彼女の不思議な美しさと激怒に、あっけにとられていた僕は、彼女が僕から五ヤードばかりの所にきてとまるまで、前進してくる蛇のことをすっかり忘れてしまっていた。ところが、彼女の素足のそばに、それがいるのを見た時、激しい戦慄《せんりつ》が僕の心をかすめすぎた。蛇はもう進もうとはしなかったが、襲いかかろうとでもするように頭をもたげていた。しかし、やがて怒気もおさまったらしく、もたげていた頭を幾分左右にふりながら、だんだんと下の方におろして行って、ついに少女の素足の甲の上に、横になった。身動きもせず横わっている毒蛇は、彼女の足から落ちた、きらびやかな色をした絹の靴下どめのようだった。彼女は明らかに少しもその蛇を怖れてはいなかった。また彼女が、どこの国にもいるといわれている特別な人間の一人で、最も激しい毒を持っている怒りやすい爬虫類《はちゅうるい》さえも、しずめることのできる催眠力《さいみんりょく》を持っていることも明らかであった。
僕の向けている眼の方向を追いながら、彼女もまた下の方に眼を向けていたが、その足を動かそうとはしなかった。やがて彼女は、ふたたび叫びをあげた。その叫びは、なお大きく鋭かったが、怒りはあまり多く含まれていなかった。
「心配する必要はありません。その蛇に害をあたえたりはしませんよ」僕は、インディアンの言葉でいった。
しかし彼女は、僕の言葉には心をとめず、前よりもいっそう腹立たしげに話しつづけた。
僕は頭をふって、彼女の話している言葉がわからないのだと答えた。そして手まねで、その動物には、もう害はあたえないから大丈夫だという意味のことを、彼女にわからせようと試みた。すると彼女は憤然として、僕の手の中にある石を指さした。僕は、その石のことは、すっかり忘れていたのだ。ただちに僕は、それを投げ捨てた。するとたちまちある変化が起った。怒りはたちまちその姿を消し、微笑のような優しい輝きが、彼女の顔を照すのだった。
僕は、もう一度、インディアンの言葉で話しかけながら、彼女の方に進んで行った。しかし、彼女は明らかに僕の言葉がわからないらしく、立ったまま、足もとに横わっている蛇と僕とをかわるがわる眺めていた。ふたたび僕は、身ぶりと手まねに頼った。僕は、まず蛇を指さし、次に僕の投げすてた石を指さし、これから先彼女のためなら、一切の有毒な爬虫類とも友人になろう、だがそういう動物に対すると同様、僕にも親切な気持を持ってほしい、ということを伝えるために、全力をつくした。彼女に、僕のいったことがわかったかどうかは知らないが、彼女は、もはや隠れ場に戻るそぶりは見せず、無言のままじっと僕をみつめていたが、そのまなざしには、ついにこのように突然、僕と顔を合わせることができた喜びを、たたえているように思われた。これを見て、僕の心は喜びにふるえた。そしてだんだんに彼女の方に近寄って行き、ついに彼女の傍に立った。この上もない激しい喜びで、彼女の顔をみつめながら。その顔は、今まで僕が眼で見たり、頭に描いたりしたどの女の顔よりも愛らしくみえた。
しかし君、君には、おそらく彼女がどのくらい美しかったかよくわかってはいないだろう。ああ、僕たちは言葉を持っている、しかしそれは、もっとありふれた、もっと粗雑なものを描くのに用いるものなのだ。あの一切《いっさい》の絶妙な細部、一切の微妙な光と影、すみやかに移り変る色と表情、そういうものを描く手段は何一つない。そして見なれないもの、きなれないものは、単なる描写によっては、決して美しくみえないというのが、本当のところではないだろうか? 何故なら、その描写の中にある最も珍奇なものは、あまりにも人の注意をひきすぎ、必要以上に目立ってしまい、未知の珍らしいものの効果を除き去ったところのもの――すなわち、色々な部分の完全なつり合いとか、全体の調和とかを見落すことになるからである。たとえば、北の方に住んでいる人の青い眼は、暑い地方に住む黒い眼の人々に、最初説明された時には、少しも美しくなく、かえって奇怪なものにさえ思われたであろう。何故なら、彼らは、このはじめてきく青い眼を、想像力によってあざやかに心に描くことはできるにちがいないが、その眼とよく調和し、眼に伴っている皮膚とか髪の毛の色を、同じあざやかさで心に描くことはできないからである。
そういうわけだから、僕が言葉で描かなければならない描写よりも、実際の少女から受けた感じの方を価値あるものとして考えてもらいたい。僕は、初めてこの類《たぐ》い稀な美しいものを親しく眺めた時、喜びにふるえながら心の中で叫ぶのだった。「おお、実に多くのタイプと、それぞれのタイプに属している無数の一人々々の人間を創り給うた創造主は、何故世の中に、このようなものをたった一人しかあたえ給わなかったのか?」
この考えが、心に浮ぶか浮ばないうちに、そんな考えは、まったく信じ難いものなのだと思って、捨て去ってしまったのだ。いや、この絶妙な人間は、この大陸のほとんど人の知らない片隅に、何千代もの間、生存しつづけてきたが、今はおそらく、小さなものになり、衰えてしまった独特な一種族の一人であったにちがいない。
彼女のからだつきと眼鼻だちは、異常なほど華奢であった。しかし、最も僕の心をひいたのは、彼女の肌の色だった。それは、どんな人間のものとも異ったものだった。彼女の肌の色を描写することは困難に近い。それほど激しく、それは気分の変化によって変ったからである。――その気分というのは、色々と変りやすく、現れてはすぐ消えるような、つかの間のものだった――また太陽がそれにふれる角度や、強弱によって。
木の下では、離れた所から見ると、幾分つやのない白か、淡い灰色のようにみえた。強い太陽の光のそばで見ると、それは白くはなく、地のバラ色を僅かに示す半透明な雪花|石膏《せっこう》の色だった。そして光線が直接にあたっている部分は、ちょうど強い炉《ろ》の火の前に指をかざした時のように、明るく輝いてみえた。しかし影になった部分は、いっそうつやのない白となり、地の色も、つやのないバラ色がかった紫《むらさき》から、つやのない青に変るのだった。彼女の眼の色は、肌の色と完全に調和していた。最初、怒りのために生き生きとした時その眼は、炎のようだった。今|虹彩《こうさい》は、時々、花に見られるような沈んだ色、特に柔らかなあるいは鈍い、弱々しい赤だった。しかし、この微妙な色が、みとめられるのは、それを綿密《めんみつ》に見る時だけだった。時に灰色の眼に見られるように、瞳《ひとみ》は大きく、長く黒く影をなす密生したまつげは、眼全体を黒っぽくみせていた。だが、あざやかな緑の葉を持った、光と太陽にさらされた赤い花を思いうかべてはいけない。眼の奥にあるしめり気で、うるみながら輝いている、半ばかくされたような虹彩――それは明るく美しい心が現れているためにいっそう美しくなっているのだが――の色を思い浮べさえすればよいのである。すべての色の中で最も変化しやすいのは、その髪の毛の色だった。これは、その髪の毛が非常に細かく、光沢に富んでいるのみならず、弾力があって、頭から両肩、背中に羊毛のようにしどけなく垂れかかっていることに原因があったといっていい。いっそうほつれている外側の髪の毛から成る、表面のキラキラした髪の毛のかたまりは、このように稀有《けう》な、このように変化に富んだ美しさを持つ顔に、いかにもふさわしい象眼であり、王冠であった。陰になった所で、綿密にしらべてみると、全般的には、灰色であり、所によってはもっと濃くなって紫がかっていた。しかし陰になった所で見てさえ、ほつれた軽い髪の毛からできている後光は、いっそう濃い色合いの部分を、綿毛のような青白さでかすませているのであった。二、三ヤード離れた所から見ると、その後光は、髪全体に、ぼんやりしたかすんだような感じをあたえていた。太陽の輝いている所ではその色は、いっそう変化した。黒かったかと思うと、真黒といってもいいほど黒くなり、時には、ほつれた部分が、光沢のある鳥の羽毛にみられるような玉虫色をちらつかせる、明るく変りやすい色になるのだった。太陽がさんさんとその頭にふりそそぐ時、近くで見ると、それは時に、真昼の雲のように白く見えた。あまりにも変りやすく、雲のような色を持ち軽やかであったので、他のどんな人間の髪の毛も――たとえそれが、淡いまたは赤みがかった最も美しい金色を帯びていようとも――彼女の髪の毛にくらべれば、重苦しく、くすんだ、生気を欠いているもののように思われるのだった。
しかし形とか色とか、魅惑的な変りやすさよりも、もっと僕の心をひいたのは、彼女の聡明な表情だった。そしてそれは同時に、上記のものを補うものであった。彼女の顔には、何でも見え、何でもきこえる機敏な表情があったのだ。その機敏さは、特に、平静で何の恐怖も抱かぬ野獣にみられるものだった。しかし人間にはめったにみられないものであり、特に理知的で学問好きな人間には絶対みられないものだった。彼女はしかし、森に住む、野育ちの孤独な少女だった。そして、僕が話しかけた言葉も理解できなかったのである。このような少女が、同じような状況の下に生存している野獣よりもすぐれた、内的乃至は精神的な生活を持っているはずがあろうか? しかし彼女の顔をみつめていると、彼女の持つ理知を疑うことはできないのだ。僕たちにあっては、実際存在せず、また存在する可能性もない、相反する性質の結合を彼女は持っていたのが、それがたとえ珍奇なものであったとしても、主要な魅力として彼女を僕にひきつけたのである。なぜ、創造主は、今までこのようなことをしなかったのであろう――なぜ他のすべての人間においては、精神の輝きが、野獣の持つ美しい身体上の輝きをくもらすのであろうか? 誰も求めたり、見出すことを望んでいなかったものがここにあったこと、すなわち野生の生活の輝きを通して、僕たちに共通な浄化された精神的な光が輝いていたこと、もうそういうことはこのぐらいにしておこう。
立ったまま、明るく生き生きした彼女の顔を眺めて眼を楽しませている間に、今のべたような考えが、すばやく僕の心を横切ったのである。一方彼女の方も、僕の眼をじっとみつめていた。そしてそのまなざしには、怖れを伴わぬ好奇心ばかりでなく、偶然出あったことを喜んでいる様子が現れていた。この親しげな様子は、あまりにも疑いようのないものだったので、僕は、勇気のわき上ってくるのを感じ、彼女の腕を僕の手にとり、同時に少し彼女の方に近寄って行った。その瞬間、すばやい、はっとした表情が彼女の眼をかすめた。彼女はちらりと下に眼をおとし、ふたたび顔を上げて僕を見た。彼女の唇はふるえ、かすかにひらかれて、辛うじてききとれるくらいに低い、悲しげな音をつぶやいた。
彼女が驚いて、僕の手から逃げ出そうとしているのではないかと考え、とりわけまだいくらもたたないうちに、ふたたび彼女の姿を見失ってしまうのではないかという怖れから、そっと腕を、彼女のほっそりしたからだに廻して彼女をひきとめようとし、同時に僕自身のからだのつり合いを保つために、片足を動かした。その瞬間、かすかな打撃と、鋭い焼けるような感じが僕の足に走ったような気がした。それはあまりにも突然で、あまりにも激しかったので、僕は腕を下ろし、苦痛の叫びをあげ、一、二歩後に退いた。しかし彼女は、僕が腕を放した時も、身動き一つしなかった。彼女の眼は、僕の動作を追っていた。しかしやがて彼女は足もとに目をやった。僕は、彼女の眼の行先を追った。今まですっかり忘れていたあの蛇を、そこに見た時の僕の戦慄、それを想像してみてほしい。あの鋭い痛みさえ、それのいることを僕の思い出させはしなかったのだ! そこにその蛇は横わり、尾は彼女の足首の一つに巻きつけていたが、頭は、一フィートばかりの高さに上げて、ゆっくりと左右にゆすっていた。一方、二またに分れた敏捷《びんしょう》な舌を絶えずちらつかせていた。その時――まさにその時――僕は今何が起ったのかをはっきりと知ったのだ。そして同時に、彼女の顔に浮んだ突然の驚きの表情、彼女の口からもれたつぶやくような声、はっとして下をみた彼女のまなざし、そういうことの一切の理由を了解したのである。彼女の示した恐怖は、すべて僕の無事を望むことから生じたのだ。彼女は僕に警告したのだ! 少しおそすぎた! 少しおそすぎた! 足を動かした時に、僕は蛇を踏《ふ》んだか、さわったかしたのだ。そして蛇は僕の足首の真上をかんだのだ。たちまち僕は、僕のおち入った立場の恐ろしさを悟った。「僕は死ななければならないのだ! 死ななければならない! ああ、困ったことだ、何とかして助かる方法はないだろうか?」僕は心の中で叫ぶのだった。
彼女は、なおも同じ場所に身動きもせず立っていた。彼女の眼は、僕から蛇へとさまよっていった。だんだんに、揺れ動いている蛇の頭は低くなり、彼女の足首からとぐろをとき始めた。それから少し頭を上げてゆっくりと動き始めた。そしてだんだんに速度を増し、最後には、するするとすべるように視界からその姿を消した。ああ、蛇は行ってしまった!――しかしその毒液は、僕の血の中に残ったのである――ああ、呪うべき爬虫類!
蛇の去って行く姿を見送っていた僕の眼は、ふたたび彼女の顔に戻って行った。そして今彼女の顔は、苦悩のために、不思議な曇《くも》りを帯びていた。彼女の眼は、僕の眼の前の地面をみつめていた。そして二つのてのひらを押しつけ、指をにぎったり、ひらいたりしていた。今彼女の様子は何と変ってしまったのであろう。あの光り輝いていた顔は、あまりにも青ざめ、生気を失っていたのだ! しかし僕たちが出あったことによって起った、悲劇的な結末が、苦痛によって彼女の心を刺し貫いたためばかりではなかった。西の空にあったあの雲は、今ではすっかり大きなものとなり、その巨大な大きな雲の不気味なかたまりは、空の半ばをおおって、太陽の光りを消し、巨大な暗い影を地上に落していたからである。
この突然襲ってきた薄暗がり、山々にこだましながら次第に近づいてくる雷鳴の長いとどろき、そういうものは、僕の苦悩と絶望とをいっそうつのらせるばかりだった。この様な時に死ぬことの恐ろしさは、いいあらわしがたいもののようにみえた。人生の一切を愛すべきものにしていた思い出が、僕の心を深く刺し貫いた――自然が僕に対してあたえた一切のもの、知力と感覚が享受し得る一切の喜び、心に抱いていたさまざまの望み――そういう一切のものが、電光の鋭いひらめきによるかのように、さっとその姿をあらわした。これら一切のものの中で、最も僕の心をかきむしったのは、この人跡稀な森の中で見出した美しい少女に、今、永遠の別れを告げなければならないことだった。――この光り輝くデイデイの娘――たった今、僕は、彼女のはにかみをうばい去ったばかりなのに――また、呪うべき死の暗闇に去り行かねばならず、彼女の生活の神秘について何一つ知ることができないことだった! このように考えて行くと、僕はまったく気力を失い、足はふるえ、大きな汗の滴が顔に浮んだ。僕は、すでに、あの毒液が、僕の血管の中で、迅速な致命的な活動を始めたことを知るのだった。
ふらふらした足どりで、僕は一、二ヤードはなれた石に向って進んだ。そしてその上に腰を下ろした。その時、一つの希望が僕の頭に浮んだ。これほど自然と親しい関係を持っているこの少女は、僕を救うことができる、何か解毒剤《げどくざい》のようなものを知っているのではないか。足にさわったり、他の手まねをしながら、僕はふたたび、インディアンの言葉で彼女に話しかけた。
「あの蛇が、僕をかんだのです」僕はいった。「どうしたらいいのでしょう。生命の助かる木の葉とか根はないでしょうか。助けて下さい!僕を助けて下さい」僕は絶望のあまり叫んだ。
言葉は通じなかったかも知れないが、手まねの方は彼女に通じたようだった。しかし彼女は答えなかった。彼女は依然としてじっと立ったままだった。そして指を巻きつけてはほどきして、じっと僕をみつめるのであった。限りない悲しみと同情とをたたえながら。
ああ! 彼女に哀願することも空《むな》しかったのだ。彼女は、何が起ったかを知っていた。そしてその結果何が起るかも。彼女は僕を憐《あわれ》んだ、しかし僕を助ける力は持たなかったのだ。その時、僕には、次の考えが浮んできた。蛇の毒が、からだに廻らないうちに、インディアンの部落につくことができれば、何か助かる方法があるかもしれないと。ああ、僕はなぜこんなに長くぐずぐずしていたのだろう、これほど多くの貴重な時間を無駄にして! 大きな雨の粒が、落ちてきた。あたりの暗さは増し、雷鳴は、ほとんど間断なくつづいた。苦悩の叫びをあげて、はっとして立ち上り、部落に向って走り出そうとしたその時、目もくらむような稲妻がひらめいて、一瞬僕は立ち止った。稲妻の光が消えると、僕は少女に向って、最後のまなざしを投げた。彼女の顔は、死人のように青ざめ、その髪の毛は、闇よりももっと黒かった。彼女はこちらを向くと、僕に向って腕を伸ばし、嘆くような低い叫びをあげた。「さようなら、これが最後だ!」僕はささやいた。そしてふたたび彼女から向きを変えると、発狂した人間のように、森の中に突き進んで行った。そして頭が混乱していたので、方向をまちがえたにちがいない。何故なら少しすれば、森のはずれのひらけた場所につき、平原《サヴァンナ》に出るはずであるのに、刻一刻、だんだんに木々の間に入りこんで行ったからである。僕は、途方にくれたまま、じっと立っていた。しかし、僕が正しい方向に向って出発したという確信をはらいのけることはできなかった。僕はついに百ヤードばかり前進しつづけ、もしひらけた場所に出なかったならば、引き返して、後に戻ろうと決心した。しかしこのことは、決して容易なことではなかった。間もなく僕は密生した下ばえの中で、困難に陥ってしまった。そのため僕の狼狽《ろうばい》はその極に達し、ついにこの森で初めて完全に道に迷ってしまったと絶望的に自ら認めないわけには行かなくなった。そしてまた、何という恐ろしいあたりの状況! 時々、電光のひらめきが、森の奥に、あざやかな青い閃光を投げかけたが、それはただ、雲一つない真昼でさえも、進んで行くのが困難な場所に迷い込んでしまったことを示すのに役立つだけであった。しかも、その電光の光も僅か一瞬の間つづくだけで、そのあとには、ふたたび濃《こ》い闇《やみ》に戻るのだった。僕は、ただ盲目的に突進することができただけであった。そして一歩毎に、打ち傷や切り傷を受け、幾度も倒れてはもがきながら起き上り、ふたたび道を進めた。今倒れた木や枝にのぼって、地面よりも高くなったかと思うと、次には、水たまりあるいは急流の中に腰まで落込んでしまうありさまであった。
絶望的な――気狂いじみた一切の僕の努力もまったく絶望的なものに見えた。そして立ち止るたびごとに、僕は疲れ果ててたたずみ、呼吸するためにあえぐのだった。激しく動悸《どうき》を打っている心臓は、ほとんど僕を窒息《ちっそく》させるばかりであり、かまれた足の絶え間のない鈍い不快な痛みは、もう僕の生きている時間があといくらもないこと――最初手間どっていたために、助かるべき唯一の機会をみすみすのがしてしまったこと――を思い出させるのに役立つだけだった。
この暗い密林を、苦悶しながら進む間に、どのくらい時間がたったか、僕にはよくわからなかった。多分二時間か三時間にすぎなかったろう。しかし僕にとっては、長々とつづく数年の苦悶《くもん》に匹敵《ひってき》するように思えたのだ。しかし突然、僕は深く繁った下ばえから抜け出して平坦な地面を歩いているのに気がついた。しかし、あたりは、前よりもいっそう暗かった。最も暗い夜よりもさらに暗いといってよかった。そしてついに、稲妻が、頭の上にある、葉の群の厚い天井を通して閃光をひらめかせた時、僕が今みなれない場所にいるのに気がついた。ここでは、木々は非常に大きくなり、まばらに間隔をおいて生えていた。そして進行を妨げる下ばえは、まったく見あたらなかった。ここで一息ついた後、僕はふたたび走り始めた。そしてしばらくすると、さっきの大きな木の生えている地帯も通り越し、小さな木々と灌木とが生えているいっそうひらけた場所にいるのに気がついた。そこで、しばらくの間は、とうとう森のはずれにやってきたのだという望みを抱いたが、その望みも空しいことがわかってきた。もう一度僕は、密生した下ばえの間を押し分けて進まなければならなかったのである。そしてついに、ひらけた斜面に出て、厚い雲のとばりを通してひらめく光によって、周囲を少しばかり先まで、もう一度見ることができた。その斜面の頂上に向って、重い足どりで歩いていたが、やがて彼方にひらけた平原《サヴァンナ》があるのに気がついた。そしてしばらくの間は、森林をすっかり抜け出したことを喜んでいた。しかし、さらに二、三歩進むと、僕は、ある斜面の端、五十フィートばかりの深さのある断崖《だんがい》に立っているのに気がついた。僕は以前、そんな斜面を見たことがなかった。そこで僕は、森の正しい側に出たのではないのを知った。しかし僕のただ一つの望みは、木の生えている所からまったく抜け出して、部落を探すことだった。そこで僕は、その斜面をつたって、下りの道を探し始めた。しかし下りられそうな場所はみつからなかった。やがて僕は、灌木の深い茂みによって足を止められてしまった。後に戻ろうと思っていると、その断崖の下の方から生えている、一本の高いほっそりした木があるのに気がついた。その緑の梢は、僕の足の下、二ヤードばかりのところにあったので、それをつたって行けば脱出できそうに思われた。もし落ちてからだがつぶれてしまうとしても、長い間、いっそう激しい苦しみを味いながら死ぬことからは、逃れられるだろうという考えで、自分自身をはげましながら、僕は、下の方にひろがる雲のような葉の群の中に落ちて行った。必死になって小枝につかまりながら、一瞬の間、僕は、自分自身のからだが、ささえられたのを感じた。しかし僕のからだの重みによって枝は次から次へと折れて行き、あっという間に空中に落下したことだけをおぼろげながらおぼえていたが、それからあとは完全に意識を失ってしまった。
意識がよみがえってくると、僕は最初、傷を受け、身動きができない状態で、どこかに横わっているのだ、そして今は夜であって、ほとんど絶え間なくひらめいている、あざやかな稲妻を見て、盲目にならないように、眼をしっかり閉じている必要があると、漠然と感じていた。からだ中けがをして、ずきずき痛んでいたが、暖かく乾いていた。――確かに乾いていたのだ。目にまぶしく感じられるのは、稲妻ではなくて炉の火の光だった。僕はやがて、少しずつあたりの様子に気がつき始めた。炉の火は、僕の横になっているところから二、三フィートはなれた、土間の上で燃えていた。その前の丸太の上には、一人の人間が坐るか、うずくまるかしていた。それは一人の老人で、あごを胸の上にのせ、そろえた膝の前で、手をにぎっていた。額と鼻のごく一部だけが、僕の眼に映った。ごわごわした、ちぢれていない、半白の髪の毛と、濃褐色の皮膚から、僕は彼がインディアンだと考えた。僕は、大きな小屋の中にいたが、その小屋は、端の方になると床から二フィート以内の高さまで屋根が傾斜していた。その小屋には、ハンモックもなければ、弓も槍も毛皮も――僕の横になっている下にさえ――なかった。そして僕は、むぎわらのむしろの上に横になっていたのである。外では、なおも嵐が荒れ狂っていた。雨はしぶきをあげて降りそそいでいた。時々、遠くで雷鳴がとどろいている。風もまた強かった。僕は、風が、木々の間をざわめかせながら吹きすぎる音に耳を傾けた。時々一陣の風が、小屋の中に吹き込んで、老人の足もとにある、白い灰を吹き上げ、燃えている黄色い炎を旗のようにふるわせている。僕は今、一切のことを思い出した。嵐が起ったこと、あの野生の少女、蛇にかまれたこと、森から抜け出そうとした必死の努力、そして最後におぼえている斜面からの跳躍《ちょうやく》を。毒のある歯、あるいはその後起った恐ろしい落下、そういうもののために死ななかったことは、僕にとって奇蹟《きせき》に等しかった。そして、この原始のままの人跡稀な場所において、恐ろしい嵐と暗闇の中で、人事不省のまま横たわっているところを、一人の同胞によって見つけ出されたのだ。――たしかにその男は蛮人ではあったが、この場合はやはり善きサマリア人であったといっていい。そして彼が、僕を死から救ってくれたのだ。僕は、からだ中傷だらけであったので、痛みが起るのを恐れて、動こうとはしなかった。僕は頭が割れるように痛んだ。しかしこういったことも、あのような冒険、あのような危険のあとでは、取るに足りない不快にすぎなかった。僕は、あの毒のある蛇にかまれた傷がなおったか、なおりつつあるかのどちらかであるのを感じた。僕は生きることができ、決して死なないであろう――生きて故国に戻ることができる――と感じるのだった。この考えは、僕の心に、あふれるばかりに充ち、眼には、感謝と幸福の涙が浮んできた。
このような時、人間というものは、優しい気持になるものだ。そして、そのありあまる幸福の余分のうちのいくらかを、喜んで仲間にあたえ、喜ばせようとするものだ。僕の前にいる、この年老いた男、それはおそらく僕を助けてくれたのであろうが、その男が、激しい興味と同情を僕の心によびさました。彼は、年をとり、ぼろぼろの着物をきていて、ひどく貧しそうであり、膝をそろえて、そこに坐り、その大きな茶色の足が、そばにあるまきの白い灰との対照によって、ほとんど黒くみえる時、あまりにも孤独で、沈んでみえたのである! あの男に何をしてやることができるだろう? あの男を元気づけるために、インディアンの言葉で何をいうことができるだろう? インディアンの言葉には、親切な感情をあらわす言葉は、ほとんどないといっていいのであるが。別にいい言葉もみつからなかったので、とうとう僕は、突然大声で叫んだ。「煙草を吸いなさいよ。おじいさん! なぜ煙草を吸わないんです? 煙草はいいものですよ」
彼は、ひどく驚いたらしく、僕の方をふりむくと、じっと僕をみつめた。その時、僕は、彼が、純粋なインディアンではないのを知った。彼の皮膚は、古い革のように茶色かったが、あごひげも、口ひげもつけていたからである。その老人の顔は、奇妙な顔だった。それは、若さと老齢とが戦っている戦場のような顔だった。その額にはしわはなかったが、ただその中央には、二本のすじが全長にわたって走り、額を二つの地帯に分けていた。弓形をしたまゆはインクのように黒く、小さな黒い眼は、野生の食肉動物の眼のように、狡猾《こうかつ》で、キラキラと輝いていた。顔のこの部分では、若さが、その勢力をしめていた。特に、若く生き生きとしてみえる眼の中では。しかし下の方に行くと、老齢が勝ちをしめていた。皮膚は到る所、しわを書き散らしたようであり、口ひげとあごひげは、共にあざみの冠毛のように白くなっていた。
「ははあ、死んだ男が生き返ったぞ!」彼は、くすくす笑いながら叫んだ。今いったのは、インディアンの言葉でだったが、今度は、スペイン語でつけ加えた。「旦那《だんな》、あなたの一番よく知っている言葉をお使いなさい。もしあなたがヴェネズエラ人でないなら、わしのことを梟《ふくろう》と呼びなさい」
「ではじいさん、あんたは?」僕はいった。
「わしの思ったとおりだ! あのね旦那、わしが何であるかは、あしの顔にはっきり書いてある。まさかわしを異教徒とまちがえるはずはないでしょう! わしは、アフリカの黒人かイギリス人かもしれないが、インディアンではない! だが、あんたは、さっき、親切にもわしに、煙草をすすめて下さったな。どうして、きざみ煙草を持たない貧乏なものに、煙草が吸えますかな?」
「きざみ煙草がないんだって――このギアナに!」
「そのことがあんたに信じられますか? だが旦那、わしを非難しないで下さい。もしある晩、やってきて、今にも刈りとれるばかりに熟していたわしの作物を荒らしてしまった獣が、代りに、西洋かぼちゃや、さつまいもを持って行ったなら、まだあいつの身のためになったでしょうよ。もし呪いに効《きき》めがあるとしたらの話だが。それに煙草は、発育がおそくてね――たった一日で成長してしまうような、たちの悪い雑草とはわけがちがう。森の中の他の木の葉はどちらかといえばだな、わしは吸うことは吸うが、本当の煙草を吸うときのように肺を楽しませるわけには行かない」
「僕のきざみ煙草入れに、一ぱい入っているはずです」僕はいった。「僕のマントの中にあると思う、もしなくしていなければね」
「そんなはずはない!」彼は叫んだ。「おい、孫娘、リマ、他のものと一しょに、きざみ煙草入れもあったのかい? わしにおくれ」
その時僕は、初めてその小屋の中に、他の人間がいるのに気がついた。それは、ほっそりとした若い少女で、炉の火の反対側の壁によりかかっていたのだが、影になっているので、幾分かくれて見えなかったのだ。彼女は、ケースに入っている連発ピストルや、猟刀のついている皮のベルト、その他僕がポケットに入れていた二、三の物を、膝の上にのせていた。きざみ煙草入れを取り出すと、彼女はそれを老人に手渡した。すると老人は、異常な熱心さで、それをつかみ取った。
「じきに、返すよ、リマ」彼はいった。「まず、巻煙草を一本分もらおう。またあとでも、もらうが」
このことから、この老人が、すでに、僕の所有物に貪慾な眼を投げかけていたことや、この孫娘が、僕のために、それを管理していたことは、想像にかたくなかった。しかし、この無口で、生真面目な少女が、どうやってそれを老人の眼から守っていたか、それは一つの謎《なぞ》といってよかった。何故なら、そういう疑いを起させるほど、彼は熱心に煙草を吸っていたからである。彼はまずその煙を勢いよく肺の中に吸いこむ。そして十秒から十五秒肺の中にためておき、そのあとで口と鼻から、ふたたび、もうもうとした青い煙を噴出させるのである。彼の顔は、眼に見えておだやかになった。そしてだんだんに愛想よく饒舌《じょうぜつ》になり、どうしてこの人里離れた場所にいるようになったのかとたずねるのだった。僕は、この隣りの部落に住んでいる、ルニというインディアンのところにいるのだといった。
「だが、旦那」彼はいった。「失礼かも知れないが、あんたのようなヴェネズエラ人の立派な若い人が、あの悪魔の子供たちと一しょに住んでいるとはどうしたわけですか?」
「では、あんたは、近所の部落の者が嫌なのですか?」
「わしは、あいつらのことをよく知っているんです。――どうやって好きになれるでしょうかね?」彼は、この時までに、二番目、三番目の煙草を巻いていた。僕は、彼が、必要以上に多量のきざみ煙草を指でとり、とるたびごとに、その残りを、ぼろの着物の、秘密な入れ場所に、はこび込んでいるのに、気がつかないわけにはいかなかった。
「あんなやつらを愛するなんて、旦那! あいつらは、異教徒ですよ。だから善良なキリスト信者だったら憎まなければならぬのです。あいつらは泥棒ですよ――あいつらはあんたの見ている前で盗みをやる、それほどあいつらは恥を知らないのだ。また人も殺す。喜んで、この頭の上のわらぶき屋根を燃やし、わしと一緒にこの孤独な生活を送っている孫娘を殺すでしょうよ。もし勇気さえあればね。だがあいつらは、みんなまったくの臆病者です。わしに近寄ることを怖れている――この森に入ってくることさえ怖れている。あんたは、やつらが何を怖れているかをきいたら、笑うでしょう――子供だって、それをきけば、笑うでしょう!」
「では、何を恐れているのですか?」僕はいうのだった。何故なら、彼の言葉は、僕の興味をひどくそそったからである。
「そうだね、旦那、あんたは信じるだろうか? あいつらは、この子供が怖いんですよ。――わしの孫娘がね、ほら、あんたの前に坐っている、あの十七回の夏を迎えた無邪気な娘、公教要理をおぼえていて、神の創り給うた最も小さいもの――あまりに小さいので馬鹿にされている一匹の蝿さえも――にも害をあたえようとしない、キリスト教徒をね。だが旦那、あんたが、この大あらしの夜、外でおきざりにされる代りに、ここで無事に身を寄せていることができるのも、あの子のやさしい心のおかげなんですよ」
「彼女の――あの少女の?」驚いて僕は答えた。
「じいさん、わけを知らして下さい。僕はどうやって救われたのか知らないのだから」
「旦那、あんたは今日、不注意のために毒蛇にかまれたのです」
「そうだ、その通りです。なぜあんたが知っているのかはわからないが。だが、僕は、なぜ死ななかったのか――では、その毒がまわらないように何かしてくれたんですか?」
「何にもしませんよ。かまれたあと、あれだけ時間がたってからでは、手の下しようもないですからな。人里離れた場所で、蛇にかまれれば、あとは神の摂理《せつり》にまかせるだけだ。生きるのも死ぬのも神の摂理次第ですよ。どうしようもありませんな。だが、森で蛇にかまれた時、わしの孫娘が一緒にいたのをおぼえておいでだろうな?」
「少女がいたことはいましたがね――僕が以前森の中を歩いていた時、その姿を見たり、声をきいたりした不思議な少女がね。だが、この娘さんではない――絶対にこの娘さんではない!」
「他にそんな少女はいませんよ」念入りに、もう一本の巻草を巻きながら、彼はいった。
「そんなはずはない!」僕は答えた。
「もしこの子がそこにいなかったら、旦那、あんたはひどい目にあったはずだ。だって、あんたは、かまれたあと、森の中の一番深い所に突進して行き、発狂でもしたかのように、ぐるぐる廻わっていたのだ。そんなことを何時間していたかは、神だけが知っている。しかしこの子は、あんたのそばを離れなかった。いつもあんたのすぐそばにいたのだ。――あんたは手で、この子にさわれたかもしれない。そして、とうとうあんたを見守っていた善い天使が、走り廻っているのを止めさせようと思って、あんたの理性をすっかりなくさせて、断崖の上からとび下りさせ、意識を失わせたのです。あんたが地面に落ちたすぐあと、この子もあんたのそばにいたのです。――どうやってこの子が下におりたかはきかないで下さい! この子は、あんたを崖によりかからせ、わしを呼びに来ました。運よく、あんたの落ちた所は、この小屋のそば――この小屋の戸口から五百ヤードと離れていない――でしてね。わしとしては、喜んで、この子の手伝いをして、あんたを助けたのです。わしは崖から落ちてきたのがインディアンではないのを知っていましたからな。この子は、あの種族が好きでないし、やつらもここにはやってきませんからな。だが、厄介《やっかい》な仕事でしたよ。旦那、あんたは重かったしね。わしたち二人がかりではこびこんだような仕末です」
老人が話をしている間も、例の少女は、最初僕が見た時と同じように、眼を落し、手を膝の上に組みながら、気のりのしない様子で腰を下ろしていた。僕から蛇を守り、その激怒を静めた、森の中でのあの光り輝く姿を思い出すと、老人のいった言葉を信じるのは困難なことであり、疑念は完全に去りはしなかった。
「リマ――それがあなたの名前ですか?」僕はいった。「ここにきて、僕の前に立ってくれませんか? もっとよくあなたを見たいのです」
「はい、旦那さま」彼女は素直に答えた。彼女は膝の上の物を片づけると、立ち上った。そして老人のうしろを通り、僕の前に立った。彼女の眼は、なおも地面の方に向けられていた。――謙遜《けんそん》そのものの姿だ。
彼女は、あの森の少女の姿をしていた。しかし今、彼女は、粗末な色のあせた木綿の着物をきて、雲のように解けていた髪の毛は、二つのお下げに編《あ》まれて、背中にたれ下っていた。顔は、前見た時と同じ繊細《せんさい》な線を持っていたが、あの光り輝く生気や、変りやすい色や表情は、あとかたもなかった。だまったまま、はずかしそうに、力なく僕の前に立っている彼女の顔をみつめていると、前に見た彼女自身の映像が、まざまざと僕の心によみがえってきて、そのようなきわだった対照から生じた驚きは、僕の心を去ろうとはしなかった。
君は、はちどりを観察したことがあるだろうか? 花の間を、空中舞踏をしながら、動きまわるはちどりを。――見る角度によって、その色彩の変る、生きている虹色の宝石を――向きを変える時、その輝く頸と、頸のところにある、斑紋《はんもん》を持った羽毛が、どのように日光に光るかを――ふりそそぐ日の光は、緑から金へ、さらに炎の色というように、眼に見える火花となり、やがて無色になるが、また次々に他の色が現れる。この絶妙な姿態、この変化に富んだ光彩、この迅速な動作と、空中における休止、そのような点において、はちどりは、一切の描写をあざける妖精《ようせい》のように美しい鳥なのである。また君は、この妖精のような鳥が、霧のかかったような翼と、扇のような尾をたたんで、日陰にある小枝に、突然とまったところを、見たことがあるか? そういう時、あの虹色の光彩は消え、鳥かごの中にものうげにとまっている、くすんだ羽毛をした、小さなありふれた鳥のようにみえるのだ。この少女にも、同じように、極端な相違があった。森の中で見た時と、この炉火の光で、天井のけぶってみえる小屋の中で見る時とでは。
しばらくの間、彼女をみつめてから、僕は口を切った。「リマ、あなたの体つきは華奢だが、力も相当あるにちがいない。少し僕を起してくれませんか?」
彼女は、片膝をつくと、両腕を僕のからだにまわし、僕を坐らせてくれた。
「ありがとう、リマ――あ、痛い!」僕はうめいた。「僕のからだの骨で、折れてないのはあるだろうか?」
「折れてる骨なんかありませんよ」
もうもうとした煙草の煙を吐き出しながら、老人は叫んだ。「わしは、よくしらべましたよ――足も腕も肋骨《ろっこつ》も。もっとも旦那、これには理由があるんです。あんたの落ち込んだ、とげのある灌木が、石のある地面に倒れないようにしてくれたのですよ。だがあんたは打ち傷だらけだった。打ち傷で黒くなっているくらいでしたよ。あんたの皮膚の上の、とげによるかき傷は、本の上に書かれた字よりも多かったですな」
「長いとげが、僕の脳味噌につきささっているかも知れない」僕はいった。「ところで、頭が痛むようだ。額にさわってみてくれませんか?リマ、あつくて乾いてるでしょうか?」
彼女は、僕が頼んだ通りにした。その小さな冷い手で、そっと僕の額にさわりながら。「いいえ、旦那様、あつくはありません。暖かくてしめっています」彼女はいうのだった。
「それはよかった!」僕はいった。「かわいそうなリマ! あなたは、あの恐ろしいあらしの間中、森の中で僕のあとをついてきてくれたんですね! ああ! もしこの傷だらけの手を上げることができたら、あなたの手をとって接吻してあげられるのに。色々僕のためにつくしてくれたことに対して、感謝の意をあらわすためにね。生命が助かったのは、あなたのおかげだ。やさしいリマ、――そんな親切に、何を御礼したらいいだろう?」
老人は、面白そうにくすくす笑った。しかし少女は、眼も上げなければ、口もきかなかった。
「ね、話してごらんなさい」僕はいった。「僕はまだよくわからないのです。僕が殺そうとした時、あの蛇の生命を救ったのは、本当にあなただったのですか? 足もとに蛇を横たえさせて、森の中で僕のそばに立っていたのは、あなただったのでしょうか?」
「はい、旦那さま」彼女のおだやかな声が、きこえた。
「それから、いつか、森の中で、地面に横たわりながら、小鳥と遊んでいた少女を見たことがあるが、あの少女はあなただったのでしょうか?」
「はい、旦那さま」
「それから、木の間をぬって、呼びかけながら僕のあとを追い、僕には姿を見られないように、いつも姿をかくしていたのはあなたでしたか?」
「はい、旦那さま」
「おお、それは不思議なことだ!」僕は叫んだ。ここで、老人はふたたびくすくす笑った。
「だが、娘さん、僕は次のことをききたいのです」僕はつづけた。「あなたはスペイン語は全然使わなかった。あなたの使っていた言葉は、美しい調子を持っていたが、あれは何の言葉ですか?」
彼女は、僕の顔に、内気な一べつを投げかけた。そして僕の質問に当惑しているようだったが、返事はしなかった。
「旦那」老人はいった。「そういう質問に答えさせるのは、おゆるし願いたいですな。この子は返事をするのが嫌なわけではないのです。自分でいうようで何ですが、この子は、従順で、素直ですからな。だがわしがいう返事以上のことは、期待できないでしょう。人間であろうと鳥であろうと、あらゆる生き物は、神があたえ給うた声を持っていて、ある声は美しく、ある声は美しくないだけの話です。そういうわけですよ。旦那」
「なるほど」僕は心の中で思うのだった。「当分はこの問題はしまっておこう。だが、もし僕が生きのびて死ななかったなら、あんたの簡単すぎる説明では、長い間満足できないだろう」
「リマ」僕はいった。「あなたはくたびれているはずだ。つい気づかずに、こんなに長く立たせておいてわるかったな」
彼女の顔は、少し明るくなった。そして、身をかがめると、低い声で答えるのだった。「私、疲れてはいませんわ。旦那さま、今食物をとってまいります」
彼女は、急いで炉の方に立ち去ったが、やがて、あぶった西洋かぼちゃとさつまいもを、土器に入れて、戻ってきた。そして僕の傍にひざまずくと、小さな木のスプーンで、器用に食べさせてくれた。僕は、肉や、インディアンの好物である香辛料がないことを、悲観したりしなかったし、これらの野菜に、塩の味がしないことにも気付かなかった。それほど僕は、給仕している彼女の華奢な美しい顔を眺めることに、満足を感じていたのである。彼女のはく息のかぐわしい絶妙な匂いは、最も美味な食物よりも、僕の心を楽しませた。彼女がスプーンを僕の口に持ち上げるたびに、一瞬彼女の眼をのぞくことは、僕の喜びであった。その眼は、今、紫色の中にある一筋の真紅色の光を見ようと、グラスを上げてみる時の、ぶどう酒のように黒ずんでいた。しかし彼女は、無口で、おとなしい窮屈《きゅうくつ》そうな態度を、一瞬も捨てようとはしなかった。そして、あの神秘的な言葉で、しんらつな非難を次々と浴せかけ、生気に充ちた怒りを爆発させた彼女を思い出した時、彼女の持つ多様性、二重人格に、驚きと感嘆のために我を忘れるほどであった。充分に食べ終ると、彼女は、すばやく立ち去っていった。そしてむぎわらのむしろをあげると、その向うにある自分の寝床にその姿を消した。その寝床と僕のいる所とは、仕切によって分けられていたのであった。
老人の寝る所は、その部屋の反対側にある、木の簡易寝台、あるいは台だった。しかし彼は、別にねるのを急ぐ様子はなく、リマが立ち去ったあとも、燃えている炎に新らしいまきをくべたり、巻煙草に火をつけたりした。この時までに彼が何本煙草を吸ったか、神さまだけが御存知だ。彼は、口数がひどくなくなり、僕にみせるために、二匹の犬をそばに呼んだ。僕はその時まで、部屋の中に犬がいるのに気がつかなかったが。僕は二匹の犬の名前――スシオとゴロソ〔「どろんこ」と「がっつき」〕――をきいておかしくなった。二匹共、むっつりした、もじゃもじゃした黄色い毛を持った犬だった。彼らは、僕の気に入らなかったが、彼の話によると、普通の犬の持つあらゆる美点を持っている様だった。そして彼は、なおも犬の話をつづけていたが、僕の方は、ねむり込んでしまった。
翌朝になったが、僕は、からだがこわばって、痛むので、動くことができなかった。やっとその翌日になって、外に這《は》い出し、木かげに坐ることができるようになった。老主人であるヌフロは、僕の世話をさせるために少女を残して、犬と一緒に出かけて行った。一日に、二回か三回、彼女は食物や飲物の給仕をするために現れたが、この小屋で最初彼女を見た夜と同じように、依然として口数が少く、遠慮がちな様子だった。
午後おそくなって、ヌフロは戻ってきた。しかしどこに行っていたかは、いわなかった。そのあとすぐ、いつものような生真面目な様子をして、リマがふたたび現れた。彼女は、色あせた木綿の着物をきていて、豊かな髪の毛は、二本の長いお下げに編まれていた。僕は、いっそう好奇心をそそられ、彼女の生活の神秘を底の底まで知りつくそうと決心した。彼女は、言葉数が少かったが、ヌフロが戻ってきた今、僕はききたいだけ話をきくことができた。彼は色々なことについて話をした。しかし僕がききたいと思っていることだけは何も話さなかった。彼の気に入りの話題は、世界の神聖な政治――「神の政治」と、その明白な不完全さ、言葉をかえていえば、時々、そっとしのび込む、さまざまな悪弊《あくへい》についてであった。この老人は、敬虔《けいけん》な男ではあったが、僕の国の、彼のような階級の多くの人々と同じように、神の政治における権力者、上は天国の王であるキリストから、下はカレンダーの中に名の出てくる、最も小さな聖人に至るまで、無遠慮にこきおろすのが大好きなようだった。
「旦那、こういうことは」彼はいうのだった。「どうもうまく処理されているようには思えませんな。たとえば、わしの境遇《きょうぐう》を考えてごらんなさい。わしなどは、自分の罪のためにこのかわいそうな孫娘と一しょに、こんな荒地に住まなければならないありさまなんですよ――」
「あの子は、あんたの孫娘ではないね!」僕は突然口を入れた。彼を驚かして白状させようと思いながら。
しかし、彼は、ゆっくりと答えた。「旦那、この世の中で、確実にわかることは、何もないんですよ。ほんとうに確実にわかってることはね。あんたはいつか結婚するでしょう。そしてあんたの妻はやがて息子を生むでしょう。――その息子は、あんたの財産を相続し、あんたの名を子孫に伝えるでしょう。だが旦那、この世の中では、その男が、確実にあんたの息子かどうか知ることはできないのですよ」
「話をつづけてほしいね」僕は、少々|威厳《いげん》を保ちながらいった。
「ここで、わしたちは」彼はつづけた。「こんな土地に住むことを強いられ、異教徒の侵入から相応に保護してもらえないのです。旦那、これこそ、捨てておけない悪弊ですよ。そして、ふさわしい謙遜をもって、神が、政務をまったく怠るようになり、その威信をすっかり失っていることを指摘するのは、真の信仰を持った、全能の神の忠実な臣下である者のなすべきことだと思いますね。旦那、その原因は何だか知っていますかね。偏愛ですな。わしらの知ってるところでは、至高の者とは、どこにでもいて、この世で起る小さなごたごた――顧《かえり》みる価値のまったくないこと――に注意を払っていることはできないのです。だから、ヴェネズエラの大統領か、ブラジルの皇帝のように、政務を遂行し、各々の地域を監視する人物――お望みならば天使――を任命すべきですよ。そして、このギアナの国には、ふさわしい人物が任命されていないのは明らかです。あらゆる悪事は行われ、その救済策はないのです。キリスト教徒も、異教徒同様、少しも神を尊重してはいないのです。ところで旦那、オリノコ河のそばの町で、わしは、聖堂の上の、石でできた、大天使聖ミカエルの像を見たことがある。その像は、人間の二倍の大きさで、わにのような形をした、こうもりのような翼と、蛇のような頭と頸《くび》を持った怪物を、片足でふみつけているんです。聖ミカエルは、槍でこの怪物をつきさしている。この地方を治めるために送ってほしいのは、このような人物ですよ。確固決然とした、手首に力のある人物ですな。だが、このような男――聖ミカエル――は、その宮殿をうろついて、任命を待ちながら、親指をひねくり廻わしているのに、一方では、もっと愚鈍な男――神よ、こういうのをおゆるし下さい――おそらくわいろも恥ずかしがらない連中が、この州を治めるために派遣《はけん》されているらしいですな」
彼は、一時間の間、このようなことを繰り返し話すのだった。これは、彼がその孤独な生活において、しょっ中、沈思熟考していた高尚な主題であった。そして彼は、自分の不平を訴え、自分の見解を詳述《しょうじゅつ》することのできる好機会を喜んでいた。最初、ふたたびスペイン語を耳にできるのは、純粋な喜びであった。そしてこの老人は、読み書きを知らないにもかかわらず、よく話すことができた。しかし、こんなことは、僕の国においては、ありふれたことだといっていい。僕の国では、小百姓でも、のみこみが速く、詩的感情を豊かに持っているので、しばしば、それが、知識の不足を補っているのである。彼の意見はまた僕の興味をひいた。別に目あたらしいものではなかったが、しかし、しばらくすると、僕は、それにききあきてしまった。それでも依然として僕は、彼の話に耳を傾けた。僕は、あいづちを打ち、充分に話をさせようとした。最後には、一身上の話になり、彼の経歴やリマの素姓《すじょう》に関する話をきけるのではないかと常に望みながら。しかしその望みは、空しかった。どのように狡猾にそそのかしてみても、僕にその話をあかす言葉は、ひとことももらそうとはしないのだった。
「それならそれでいい」僕は考えた。「だが、もしあんたが狡猾なら、僕もまた狡猾になろう――そして根気よくなろう。『待てば海路の日和あり』だからな」
彼は、僕を急いで追い出そうと思ってはいないらしかった。それどころか、インディアンと一緒にいるよりは、この小屋にいた方が安全であると相当はっきりいい、同時に、肉が出せないのをあやまるのだった。
「だが、なぜ、肉を食べないのですか? この森ほど動物がたくさんいて、なれている所は見たことがないのに」
彼が返事もできない前に、リマが泉から汲んできた水差しを持って、入ってきた。彼は僕にちらりと目をやって、彼女の前で、そんな話題を論じてはいけないということを示すために、指を上げてみせた。だが、彼女が部屋を去るや否や、彼はその話題に戻ってきた。
「旦那」彼はいうのだった。「あんたは、蛇の奇異な事件を忘れたんですか? では、知っておいてもらいましょう、わしの孫娘は、もしわしが生き物に手をあげでもしたら、これから一日でも一緒に住もうとはしないでしょう。わしらにとっては、旦那、毎日が断食日ですよ――魚も食べられないね。わしらの食っているのは、とうもろこし、西洋かぼちゃ、カサヴァ、いも類、それで充分です。そして、あの子は、地面に作ったこのような野菜類さえ、この家の中では、ほとんど食べないのです。あの子は、野生の漿果《しょうか》や樹液《ガム》の方が好きで、口にあうようです。森の中を散歩しながら、あちこちでそういうものをとっているのですが。そして、旦那、わしにはあの子がかわいいので、どれほど食べたいと思っても、動物の血を流したり、肉を食べたりしないのです」
僕は、いぶかるような微笑を浮べて、彼をみつめた。
「では、あんたの犬は?」
「犬だって? 旦那、あいつらは、はなぐまが道を横切ったって、立止まりも、ふりむきもしませんな――はなぐまは、匂いの強い動物ですが。人間が肉を食わなければ、犬も食いませんよ。こういう意見のゆき渡っていないヴェネズエラでさえ草を食っている犬を見た事がないのですか? だが、肉がない時には――肉が禁じられている時には――このかしこい動物は、野菜を食うのに慣れるんですな」
僕は、そんなことはうそだ、――それはよい政策ではない――と口にうまく出せなかったので、ききながすことにした。「たしかにその通りでしょうな」僕はいった。「支那には、肉は食べないが、米でふとらせておいて、飼い主に食われてしまう犬のいるのをきいたことがある。僕は、あんたの犬を一匹でも食いたいとは思いませんな」
彼は、しなさだめでもするように、犬どもを眺めてから答えた。「たしかに、あいつらはやせている」
「僕は、やせていることより、くさいにおいのことを考えていたのです」僕は答えた。「あの犬が近くにくると、花の匂いはしないで、肉を食っている犬に似たにおいがする。たとえ、カラカスの客間にいたとしても、ひどく敏感な僕の鼻は、そんなにおいをかいだら、気持がわるくなってしまう。そんなにおいは、牧場から戻ってきた牛の芳香とはちがうな」
「どんな動物でも」彼は答えるのだった。「その種類独特のにおいを発するもんだ」これは議論の余地のない事実で、返事のしようがなかった。
楽に歩ける程度に、手足の自由が充分回復したので、僕は森に散歩に行った。リマが一緒にきてくれるかも知れない、外へ出て、木々の間に行ったならば、家の中でよそおっていたわざとらしい、窮屈な感じや内気さをかなぐりすてるだろう、そんな望みを抱きながら。
期待していた通り、その希望は、かなえられた。彼女が一緒にきたのは、いつも僕のそばの、声のとどく所にいるためであった。そして彼女の動作も、僕の望んだ通りのびのびとしていて屈託《くったく》がなかった。だが、この変化によって、得をしたことは、ほとんどないといってよかった。彼女はふたたび、最初、あのとりとめのない美しい声を通じて知った、気をもませる、捕捉しがたい、神秘的な生き物に戻っていた。ただ前とちがうところといっては、あの調子のよい、不明瞭《ふめいりょう》な声が、前よりは姿をひそめたこと、彼女自身の姿を僕に見せることをもはや怖れていないことの二つであった。しばらくの間は、こんなことだけでも、僕は充分に幸福だった。今までにこんな美しいものを見たことはなかったし、何度見ても、その美しさの魅力がこれほど失われないものもなかったからだ。
しかし、彼女を、そばにとどめておくとか、いつも見えるところに置いておくことは不可能であることがわかるのだった。彼女は、風のように自由だった。蝶《ちょう》のように自由だった。気まぐれな意志によって来ては、また去り、一時間に、十二回も姿を消してしまうのだった。僕のそばを落着いて歩かせたり、腰を下ろして、話をさせたりすることは、突然視界にとびこんできて、二、三秒の間、目の前でじっと空中に停止し、次の瞬間には、稲妻のようにふたたび姿を消してしまう、火のような性質をもった、小さなはちどりをならすのと同じように、不可能のようだった。
ついに、僕は、彼女が一番楽しがるのは、森の中で、彼女から離れて、彼女のあとを追うことであり、鳥のような野性を持っているにもかかわらず、容易に動かされやすい、やさしい人間の心を持っているのを確信し、ちょっとした罪のない計略によって、彼女をもっとそばに近寄せようと決心した。朝、森に出かけると、用もないのに、数回彼女を呼んだ。そして、からだの痛みに苦しんでいるのか、悲嘆のために気が沈んでいるかのように、気力のない風をよそおい始めた。ついに、地面が乾いていて、さらさらした黄色い砂が一面に散らばっている場所の一本の木の下に、好都合なむき出しの根を見つけ、腰を下ろして、これ以上先に行くことを拒んだ。何故なら、彼女は、いつも僕の先にたってどんどん行きたがり、僕が立止まるたびに、戻ってきたり、あの神秘的な言葉で、叱ったり、勇気づけたりするのが常だったから。彼女が試みた、ちょっとした愛らしい術策も一切ききめがなかった。頬《ほお》を手で支えながら、僕はなおも坐ったままだった。黄色い砂のちらばっている、足もとの地面をみつめながら、日の光があたる時、その小さな粒子が、ダイヤモンドの粉のようにキラキラと光るのを眺めるのだった。こんな風にして、一時間あまりがすぎた。その間、僕は心の中で、次のようにいいながら、自分自身をはげましつづけるのだった。「今こそ、僕たち二人の間の決戦だ。男の持つべき最も不屈で強固な意志が、勝利を得なければならない。もし、この一戦に勝つことができれば、これから先は、前よりもいっそう楽になるであろう。僕が知ろうと心に決めたことをさぐり出すのが楽になるだろう。あの少女にいわせなければならない。あの老人は、手に負えないからな」
一方、彼女は、きては去り、去ってはまたきたりしていたが、とうとう、僕が動きそうもないのに気がつくと、近づいてきて、僕の傍に立った。ちらりと眼をやると、彼女の顔は、幾分心配そうな表情――心配と好奇心の入りまじった――を浮べていた。
「リマ、ここにいらっしゃい」僕はいうのだった。「しばらく僕と一緒にいてほしいんだ――今あなたのあとをついて行くことができないから」
彼女は、ためらいながら、一、二歩歩いてきた。しかしそこでまたじっと立ち止って動こうとはしなかった。しかしついに、ゆっくりと気のすすまない足どりで、僕の一ヤード以内のところまで進んできた。そこで僕は今まで腰かけていた根から立ち上り、彼女の顔をもっとよく見ようとした。でこぼこした樹皮に手をつきながら。
「リマ」僕は、低い、やさしい調子でいうのだった。「しばらく僕とここにいて、僕に話をしてくれない? 君の言葉ではなくて、僕の言葉で。僕にわかるようにね。僕が話したら、よくきいていて、答えてほしいんだ」
彼女の唇は、動いたが、声にはならなかった。彼女は、妙に不安な様子で、ほどけた髪の毛を後にふりはらうと、小さなつま先で、足もとにある、キラキラした砂をいじくっていたが、用心深いまなざしを一、二度僕の顔にちらりと投げかけるのだった。
「リマ、僕に返事をしないね」僕はなおもいいはった。「『はい』といってくれないの?」
「はい」
「君のおじいさんは、犬をつれて出かける時、どこへ行って一日をすごす?」
彼女は、かすかに頭をふったが、答えようとはしなかった。
「リマ、君にお母さんはないの? お母さんのことをおぼえているかい?」
「私のお母さん! 私のお母さん!」彼女は、低い声で叫んだ。しかし突然、驚くほど快活になって。いっそう近く身をかがめながら、いいつづけた。「ああ、お母さんは、死んだんです。お母さんのからだは、今地面の下にあって、ちりになっているんです。これみたいな」そういうと彼女は、足で、さらさらした砂を動かした。「お母さんの霊魂《れいこん》は、お星さまや天使たちのいる、あの上の方にいるのです。おじいさんの話ではね。だけど、そんなことが、私にとっては何になるというのでしょう。私はここにいるんです。――そうじゃない? 私はこんな風にお母さんにも話します。見たものはみんな示して、何もかも話してあげるんです。昼間――森の中では、私たちは一緒です。そして夜、ベッドに横になる時、腕を胸の上に組み合わせます。――こんな風にしてね。私はいいます。『お母さん、お母さん、あなたは今、私の腕の中にいるの。さあ、一緒にねむりましょう』時々私はいいます。『私が何度も話をするのに、なぜ答えて下さらないの?』お母さん――お母さん――お母さん!」
最後になって、彼女の叫びは突然、悲しげに高まり、やがて低い声に変り、ついには、同じ言葉を低い声でささやくのだった。
「ああ、リマ、かわいそうに! 君のお母さんは、死んでいて、君に話しかけることができない――君の話をきくこともできないのだ! 僕に、話してごらん、リマ。僕は生きていて、返事をすることができる」
しかし今、彼女の心から突然散り、一瞬の間、その神秘な心の奥底――あのように子供っぽい空想と、あのように激しい感情――をかいまみさせたあの雲が、ふたたびたれこめてきたのだった。僕の言葉は、何の返答ももたらさなかった。ただ、心配そうな、さっきの表情が、彼女の顔に浮ぶだけであった。
「まだ、黙っているの?」僕はいった。「では、リマ、お母さんの話をしてくれない? いつかお母さんと会えると思う?」
「ええ、私が死んだ時にね。神父さまがそうおっしゃってたわ」
「神父さまだって?」
「ええ、ヴォアでね――ヴォアって御存知? お母さんは、そこで私の小さい時、亡くなったのよ。――それはとっても遠いの! そして、川のそばには、十三軒の家があるの――こっち側だけね。そしてこのもう一方の側には――木、また木ばかりよ」
これは重要なことだ、そう僕は考えた。これをたどって行けば、僕の知りたいことがわかるだろう。そこで僕は、彼女のいった開拓地について、もっと話してくれとせがんだ。僕はその土地のことをまだきいたことがなかったので。
「もう全部話して上げたはずよ」今いった、半ダースばかりの言葉で、その問題はいいつくしたのが、僕にわからないのに驚いて、彼女は答えた。
主張を変えなければならなくなったので、僕は、思い切っていってみた。「御絵の前にひざまずいてる時、マリアさまに何をお願いしているの? おじいさんは、君の小さな部屋に、御絵があるっていってたけど」
「まあ、知ってらしたの!」憤りのようなものを含みながら、彼女は突然答えた。「あそこには、何でもあるわ――あそこには」自分の小屋に向って手をふりながら。「この森の中にいると、みんななくなってしまうの――こんな風にね」そういうと、すばやく身をかがめて手のひらに、黄色い砂を少しばかりのせると、指の間から、さらさらと下にこぼしてみせた。
このようにして、彼女は、家の外にいると、そしてあの御絵の見えない所にくると、教えられたことを、すっかり忘れてしまう、と説明した。しばらくして、彼女はつけ加えた。「ここには、お母さんだけがいるの――いつも私と一緒に」
「ああ、かわいそうに、リマ!」僕はいうのだった。「母親もなく、一人きりで、ただあの老いた祖父と一しょに! おじいさんは、もう年とっている。――おじいさんが死に、お母さんのいる星の国に飛んで行ってしまったあと、君はどうするつもり?」
彼女は、不審そうに、僕をみつめていたが、やがて、低い声で答えた。「ここに、あなたがいるわ」
「だけど、僕が行ってしまったら?」
彼女は答えなかった。しかし、彼女を苦しめているようにみえる話題に、いつまでも拘泥《こうでい》しているのは嫌なので、僕は話を進めて行った。「たしかに、僕は今ここにいる。だが、君は、僕と一緒にいて、打ちとけて僕と話をしない!君と一緒にいるとしても、君はいつでも同じことなのか? 家の中にいる時は、なぜいつもあんなに口をきかないの? なぜ、年とったおじいさんをよそよそしく扱うの? 一人で森の中にいる時は、なぜ、あんなに家の中にいる時とちがうの――なぜ、あんなに鳥のように生き生きとしているの? リマ、僕に話してくれ! 僕とあの年寄りのおじいさんと同じこと? 僕が話しかけるのがいやなの?」
彼女は、僕の言葉をきいて、妙に不安になったようにみえた。「まあ、あなたはおじいさんとは、ちがうわ」彼女は、突然答えた。「あの人は、一日中、炉の火のそばの丸太の上に腰を下ろしているわ――まる一日中ね。ゴロソとスシオは、そのそばにねそべってるわ――そして眠り通し。ああ、あなたを森の中で見た時、私は、あなたのあとをついていったわ、そして何度も何度も話したわ。だけどあなたは返事をして下さらなかった。私が呼んだ時、なぜ来て下さらなかったの? 私のところへ!」それから僕の声をまねて、「リマ、リマ! ここにおいで! これをおし! こうおいい! リマ! リマ! そんなのいやよ、いやだわ。――これは、あなたじゃないわ」こういって彼女は僕の口を指し、しばらくして、自分のいったことの意味が、はっきりしないのではないかと気づかってでもいるように、突然、指で僕の唇にさわった。「なぜ、返事をしないの? 話しなさい。何かいってよ。こんなふうに!」幾分僕の方に向きなおり、ちらりと僕をみたが、その眼は突然、変化を生じたようだった。今まで曇っていた表情は、いいようのない優しさに変った。そして唇からは、最初彼女に僕をひきつけた、あの神秘的な声が連続して起った。それは、速く、低く、鳥の声のようだった。しかしなお、鳥の声よりも、はるかに高く、はるかに人の心にしみ入るものを持っていたのだ。ああ、この美しい、空しく消えて行く記号の中に、何という感情、何という空想が、僕の心には新らしいものに感じられる、何という奇妙ないいまわしが含まれていたことか! 僕にはその意味がわからなかった。――彼女が呼んでいた時も彼女の所に行かなかった。またその心に応ずることもできなかった。僕にとってそれは、常にききとりにくい音であった。おだやかな、気高い音楽のように、僕を感動させはしたが。それは、普通の言葉よりも多くのものを、人の心にあたえる、言葉のない国語というようなものだった。
この神秘的な話は、だんだん低くなって、小さな鳥が、一本の木の一番上の大枝に群がっている葉の雲から降りてくる時の、かすかな鳴声に似た、さらさらという音になって行った。同時に、眼からはさっきの新らしい光が、消え去り、彼女は失望したように、半ば顔をそむけるのだった。
「リマ」ついに僕は口を切った。彼女を説得できるかもしれぬ新らしい言葉が浮んできたからである。「僕が、ここにいないのは本当だ」彼女がしたように、自分の唇にさわりながら。「そして、僕の言葉に意味がないのも本当だ。だが、僕の眼の中をのぞいてごらん。君は、そこに僕を見るだろう――一切のものを、僕の心の中にある一切のものを」
「おお、私、そこに何が見えるか知ってるわ!」即座に彼女は答えた。
「何を見るというの? 話してごらん」
「あなたの眼のまん中には、小さな黒いたまがあるわ。私、その中に、このぐらいの大きさの私を見るの」彼女は、小指のつめの八分の一ばかりを、区切ってみせた。「この森には、一つの池があるわ。私は、見下ろして、そこに私が映っているのを見るの。そこで見た方がいいわ。だって、ちょうど私と同じ大きさなんだもん。――小さな、小さな繩みたいに、小さく黒くはないわ」幾分軽蔑するように、こういったあと、彼女は、僕のそばから離れて、太陽の輝いている所に出た。そして、半ば僕の方をふりむき、まず僕の顔を、次に、上の方に眼をやると、そこに何かあるのに気付かせようと、手をあげた。
はるか上の方の、最も高い木々の梢と同じくらいのところに、一頭の大きな青い蝶が、ひろびろとした空間を、ゆっくりと横切っていた。やがてその蝶は、木々を越えて飛んで行ってしまった。そこで彼女はもう一度、僕の方にふり返り、小さなさざなみのような声をあげて笑った。――こんな笑い声は、僕の始めてきいたものだった。そして呼んだ。「きてごらんなさい、きてごらんなさい!」
そこで僕は喜んで彼女と行くことにした。そして、それから二時間の間、僕たちは、一緒に森の中をぶらぶら歩いたが、実際には、彼女のいうままについて行ったのである。遠くはなれてしまうことはなかったが、彼女は大てい巧みに僕の眼のとどかない所に姿を消してしまったのだから。彼女は今、明らかに、快活な、浮き浮きした気分にいたのだ。彼女の呼ぶ声がきこえるので、深く茂った灌木を綿密にしらべたり、木のうしろをのぞいたりしていると、さざなみのような彼女の笑い声が、他の場所からひびいてくる。そういうことが何度もあった。ついに、どこか森の中央のあたりで、彼女は、一本の巨大なモラの木に僕を導いた。その木は、ほとんど孤立して立っていて、下ばえのまったく生えていない広い場所を、その陰でおおっていた。この場所で、突然彼女は、僕の傍から姿を消した。そこで僕は、しばらくの間、耳をすましたり、注意を払ったりしていたが、無駄だったので、その巨大な幹の傍に腰を下ろして、彼女を待った。いくらもしないうちに、すぐ近くと思われる所から、低い、さえずるような声がきこえてきた。
「リマ! リマ!」僕が呼ぶと、直ちに僕の呼び声は、こだまのように繰り返された。何度も僕は呼び声をあげた。なおも、僕の言葉はとぶように戻ってきた。僕には、それが、こだまであるのかどうか、判断がつきかねた。やがて、僕は呼ぶのをやめた。しばらくたつと、低い、さえずるような声が、ふたたび繰り返された。そこで僕は、リマが、どこかこの近くにいるのを知った。
「リマ、今、どこにいるの?」僕は呼んでみた。
「リマ、今、どこにいるの?」答えが戻ってきた。
「君は、この木のうしろにいるな」
「君は、この木のうしろにいるな」
「リマ、つかまえるぞ」すると今度は、僕の言葉を繰り返す代りに、彼女の返事がきこえてきた。「よしてよ」
僕は、とび起きて、木のうしろの方に走って行った。たしかに彼女がいると思ったのだ。その木は、周囲が三十五乃至四十フィートばかりあった。そこで二、三回廻ったあとで、方向を変え、逆の方に向ってみた。しかし、彼女の影さえみることができなかったので、僕はついにふたたび腰を下ろすことにした。
「リマ、リマ!」ところが、腰を下ろすや否や、僕をまねた声が耳に入った。「リマ、今どこにいるの? つかまえるぞ、リマ! リマはつかまったかい?」
「いや、僕は彼女をつかまえなかった。今、リマはいないのだ。彼女は、虹のように、消えてしまった。――太陽にきらめくつゆのしずくのように。彼女は、どこかに行ってしまった。僕は眠ることにする」そういって僕は、木の下に、大の字なりにからだをのばして、二、三分の間、じっと静かにしていた。その時、かすかな、さらさらという音が、きこえたので、僕は、彼女の姿を求めて、けんめいにあたりを見廻した。しかし、その音は、頭の上であり、頭の上の巨大な葉の天がいから、僕の上に落ち始めた、木の葉の大なだれのために起ったものだった。
「ああ、小さなくもざる――小さな緑色の木蛇――そこにいるんだな!」しかし、緑色と銅色をした木の葉の、ぼんやりした掛け布のかかっている、巨大な空中の宮殿には、彼女の姿は見出せなかった。だが、どうやって彼女はあそこまで行くことができたのだろう? この巨大な幹では、猿でものぼれないだろう。僕が見ることのできる、水平にひろがった枝から地平にたれ下っているつる草は、一つも見あたらなかった。しかし次第に目を遠くに移していくと、片方にある、最も長い下の方の枝が、隣りにある木の比較的短い大枝のところに達して、からみあっているのに気が付いた。上の方をみつめていると、彼女のたてる低い、さざなみのような笑いがきこえてきた。そしてむき出しになっている水平な枝の上を、まっすぐに立ったまま走っている彼女の姿が見えた。僕の心臓は、恐怖のあまり止まってしまったようだった。彼女は、地面から五、六十フィートのところにいたからである。しかし次の瞬間、群がる葉の雲の中に姿を消し、十分ばかりも姿を見せなかったが、突然、モラの木の幹をまわって、もう一度、僕の傍に現れた。彼女の顔には晴れやかな、満足そうな表情が浮んでいて、疲労も不安の影もなかった。
僕は、彼女の手をつかんだ。それは華奢《きゃしゃ》な、形のよい小さな手で、ビロードのように柔らかく、暖かかった。――それは本当の人間の手だった。僕が手をにぎっている今だけは、まったく彼女も人間らしかった。人をばかにする森の精でもなければ、デイデイの娘でもなかった。
「僕が手をにぎってるのは好き? リマ」
「ええ」彼女は、関心がない様子で答えた。
「これは僕かい?」
「ええ」今度は、この完全なからだの一部にさわっていることが、小さな満足であるかのように。このように彼女のそばにいるので、僕は、いつも彼女が森の中できている、軽いキラキラした着物を調べることができた。それは、さわってみると、柔らかく繻子《しゅす》のようで、縫《ぬ》い目も、伏せ縫いもないようであった。そして全部一つづきになっていて、いも虫のまゆのようだった。僕が肩のあたりにさわって、綿密にしらべている間、彼女は、ばかにしたような笑いを眼に浮べて、僕の方をちらりと見るのだった。
「これは絹?」僕はたずねた。しかし彼女が何もいわないので、言葉をつづけた。「リマ、この着物はどこで手に入れたの? 君が、一人で作ったの? いってごらん」
彼女は、言葉では、答えなかった。しかし僕の問いに答えて、その顔には、新らしい表情が浮んできた。彼女の表情には、もはや、落着かぬものも、変りやすいものも、なかった。今や彼女は、雪花石膏でできた彫像のように、固定した表情を帯びていた。頭にある、一本のつややかな髪の毛さえ、ふるえたりはしなかった。彼女の眼は、大きくみひらかれ、前の方をじっとみつめていた。その眼の中をのぞき込んでみると、何かを見ているようではあったが、僕をみているようには思われなかった。それは、澄んで、キラキラと輝いている、鳥の眼のようだった。それは、不思議な鏡のように、眼に見える一切のものは映すのだが、僕たちの顔だけは映そうとせず、完全な一つの絵を作り上げている、単なる無数のささやかな細部の一つとして、僕たちを見ている鳥の眼のようだった。突然、彼女は、閃光《せんこう》のように、すばやく手を差出したので、僕は、この意外な動作に思わずはっとした。彼女は、急いで手をひっこませて、僕の前に指をあげてみせた。指の先には、ピンの先の大たい二倍ぐらいの大きさをした、きわめて小さな小ぐもが、長さ三、四インチの、ほとんど目に見えない細い糸でつるされているのだった。
「みてごらんなさい!」彼女は、晴れやかな一瞥《いちべつ》を、僕の顔に投げかけながら、叫ぶのだった。
彼女が捕えた、この小さな蜘蛛《くも》は、自由の身になりたがり、地面に向って、どんどん降りて行ったが、地面に達するまでには到らなかった。彼女は肩を幾分前へかがめながら、指先で蜘蛛にさわるのだった。さわるかさわらぬくらい軽く、しかし休むことなく。その指の動かし方は、翅《はね》をばたばたさせている蛾のように敏捷だった。一方、蜘蛛の方は、なおも糸を繰《く》り出しては、多少上ったり下ったりしながらも、ぶらさがりつづけ、地面からほぼ同じ距離を保っていた。少したってから、彼女は叫んだ。「落ちなさい。小さな蜘蛛」彼女の指の動きは止り、この小さな捕虜《ほりょ》は、下に落ちた。そして、かげになった所に姿を消した。
「見てくれないの?」彼女は、肩を指さしながら、いうのだった。その指で、着物にさわった場所には、まるい輝いた斑点《はんてん》があって、ちょうど、布の上に銀貨を置いたようだった。ところが、指で、それにさわってみると、地の織物の一部分としか思えなかった。ただ、灰色の地色にくらべると、いっそう白く、いっそう輝いてみえたが、それは、作られたばかりの蜘蛛の糸の新鮮さによるものだった。
そんなわけで、今行った一切の奇妙な愛らしい動作における無意識的な敏捷さと、器用さは、本能的なものと思われたが、それは、単に小さな小ぐもの細い宙に浮いている糸から、どうやって着物を作るかを示すのが目的であったのだ!
僕が、驚きと感嘆をあらわす前に、彼女はふたたび、突然はっとさせるような叫びを上げた。
「ごらんなさい!」
非常に小さな影のように見えるものが、薄暗い線のように、濃い光沢のあるモラの葉群をさっと横切り、さらに向うの、一段と明るい緑の葉群に向ってとび去って行った。彼女は、手をふって、すばやい曲線を描いてとんで行くまねをしていたが、やがて手を下におろして、叫んだ。「行っちゃったわ――ああ、ちっちゃいのが!」
「あれは何だった?」僕は、たずねた。おそらく、鳥か、鳥に似た蛾か、蜂だったのだろうが。
「みてなかったの? 『僕の眼をみろ』なんていってたくせに!」
「ああ、小さなりすのサカウインキ、あなたはあのことを僕に思い出させる!」そういうと僕は、彼女の腰に腕をまわして、幾分彼女をひき寄せた。「さあ、僕の眼の中をのぞいてごらん。僕がめくらかどうかをみるために。そして、小さな、小さな蝿のような、リマの姿のほかには、何もないかどうかも」
彼女は、頭をふって、少しからかうような笑いをうかべたが、僕の腕から逃れようとはしなかった。
「いつも、自分の思う通りにしてもらいたいの、リマ、『きて』っていう時は森の中で君のあとを追ったり、君をつかまえるために、木のまわりを追いかけたり、葉っぱを投げつけられるために横になったり、君の嬉しい時に、嬉しがったり、そういう風にしてほしいのかい?」
「ええ、そうよ」
「では、契約を結ぼう。僕は、君を喜ばすことは何でもするし、君も僕を喜ばすことは何でもしなきゃならない」
「何だかいってごらんなさいよ」
「ちょっとしたことさ、リマ――木のまわりで君を追いかけるほどむずかしいことじゃない。ただ、僕のそばで、立つか坐るかして、僕と話をしてくれれば、それだけで僕は幸福になる。まず、僕をアベルという名前で呼ばなくてはだめだ」
「それがあなたの名前? そんなのほんとの名前じゃないわ! アベル、アベル――それ何の意味? 別に意味なんかないじゃないの。私、あなたをいろんな名前で――二十も、三十もの――呼んだのよ。それなのに、返事してくれなかった」
「呼んだって? だけど、最愛なるお嬢さん、人間てものは、一つしか名前がないんだ。――その一つの名前で呼ばれるんだ。たとえば、君の名前は、リマだろ、そうじゃない?」
「リマ! リマだけなの――あなたにとっては? 朝でも、晩でも……今この場所でも、もう少ししたら、どこに行くことでしょう?……夜、眼をさまして、暗い暗い時でも、あなたには、私が全然同じに見えるのね。リマだけだって――ああ、何ておかしいんでしょう!」
「じゃ、他に何ていうの? 君のおじいさんのヌフロもリマって呼んでるよ」
「ヌフロですって?」彼女は、自分自身に向って問いかけるようにいうのだった。「二頭の犬をつれて、森のどこかにいるおじいさんのこと?」それから突然すねるように「それなのに、あなたに話をしろというなんて!」
「ああ、リマ、君に何ていったらいいんだい?おきき――」
「いや、いや」彼女は叫んだ。そして急いでふりむいて、僕の話を止めさせようと、僕の口に指をあてた。すると彼女の眼には、突然面白そうな表情が輝いた。「あなたは、私の話しをきくのよ。私のいうことをみんなするのよ。そしてあなたが、自分の眼で自分を楽しますには、どうしたらいいのかいうのよ――私に、めくらでないあなたの眼をみせてごらんなさい」
彼女は、いっそう顔を僕の方に向けると、幾分頭をのけぞらせて、一方にかしげ、僕が彼女に望んだ通り、僕の目の中をまじまじと眺めた。しばらくすると彼女は、遠くにある木々の方に、ちらりと目をやった。僕はその神聖な眼を見て、何か特定のものを見ているのではないのを知った。一切のたえず変る彼女の表情――好奇心が強く、気むずかしく、不安げな、内気な、いたずらっぽい――は、今そのおだやかな顔から消え去り、その表情は、霊的なものになり、奇妙な、あまりにも美しい光にあふれていた。何か新らしい幸福か希望が、彼女の心にふれたかのように。
ささやきにまで声をひくめながら、僕はいうのだった。「リマ、僕の眼の中に何が見えた?いってごらん!」
彼女は、それに答えて、何か調子の美しい、発音不明瞭な声をつぶやいていたが、やがて、ちらりと、もの問いたげな眼を僕に投げかけた。しかし、それも一瞬の間のことだった。やがてその美しい眼は、ふたたび伏せられたまつげの下に、かくれてしまった。
「おきき、リマ」僕はいった。「さっき、僕たちの見たのは、はちどりじゃなかった? 君は、ちょうどその鳥に似ている。一瞬の間は、黒っぽく、影の影のようだ――とび去った小さな鳥よ! しかしたちまちのうちに、陽光の中にじっと立つ。その目もあやな美しさ!――君は、あのはちどりよりも千倍も美しい。おきき、リマ、君は、森の中にいる、あらゆる美しいものに似ている。――花や鳥や蝶や、緑の葉や羊歯《しだ》の葉や、高い木々にいる、小さな絹のような毛を持った猿のようだ。君をみつめていると、今いった一切のものを――いやその千倍も多くのものを見るようだ。だって僕は、リマ自身を見てるんだから。また、僕のわからない言葉で話をしている、リマの声をきいていると、葉の間をささやくように吹きすぎる風や、ごぼごぼと流れて行く水や、花の中にいるはちや、はるか彼方にある木々のかげで鳴いている、オルガン鳥をきいているようだ。僕は、それら全部を、そしてそれ以上のものをきいている。だって僕のきいているのは、リマの声なんだもん。僕のいうことがわかる? 君に話をしているのは、僕なのかい?――僕が、君に返事をしたのだろうか?――君のところにきたのだろうか?」
彼女は、ふたたび僕にちらりと眼を投げた。その唇はふるえ、その眼は、人に告げられぬ悩みのために曇っていた。「そうよ」彼女は、ささやくように答えた。しかしそのあとで「ちがうわ、あなたじゃないわ」そしてしばらくして、疑わしそうに「あなたなの?」
しかし彼女は、僕の返事を待ってはいなかった。一瞬の後、モラの木を廻って立去っていた。そして、どんなに呼んでみても、ふたたび戻ろうとはしなかった。
森の中のモラの木の下で、リマとすごした、あの日の午後は、この上もなく楽しいものだったので、それからも彼女と一緒に散歩をしたり、話をしたりしたいと願うのだった。しかしこの、変りやすい小さな魔女は、僕のために、非常な驚きを用意していた。彼女の持っていた一切の、自然のままの野生的な快活さは、不思議にも彼女から消え去った。僕が木かげを歩いていると、やはり彼女はそこにいたが、陽気で、きまぐれな彼女は、もういなかった。かつて僕とかくれんぼをしていた、天使のように輝かしい、子供のように無邪気で優しい、猿のようにすばしこい彼女は。彼女は今、内気で、口数の少い従者にすぎなかった。たまにしかその姿を現さず、その姿を現した時でさえ、かつて羊歯《しだ》の間に、その身を横たえ、僕にみつめられながら、薄い霧のように姿を消した、あの神秘的な少女のようにみえるのだった。また呼びかけてみても、以前のように返事をしようとはせず、ただ、僕を見捨ててはいないのを保証するかのように、僕の前に姿を現すのであった。しかし、それもつかの間、彼女の黒っぽい影のような姿は、ふたたび、木々の間に消えさってしまうのである。彼女がだんだんに僕を信用し始め、僕と話をするのに慣れてきたら、彼女の経歴をきき出すことができるかも知れないという希望は、棄て去らなければならなかった。ともかくも、当分の間は。結局、僕は、ヌフロからきくか、知らないままでいるより他仕方がなかったのだ。この老人は、毎日、犬をつれて、一日の大部分を外ですごすのであった。彼が、この探検からもち帰るものは、僕の見たところでは、わずかばかりの堅果と、木の実と、巻煙草に使う薄い木の皮だけで、たまには、その他に、夜、小屋の中で、香の代りに使う、一つかみのハイマ樹液《ガム》を持ち帰る程度だった。三日間、リマの不可解な内気を取り除こうと、空しい試みをしたあとで、しばらくの間、彼女の祖父の方に、全注意を集中して、できれば、彼がどこに行って、どのように時間をすごしているのかを見出そうと決心した。
リマの代りに、ヌフロとすることになっている、新らしいかくれんぼは、その翌日始められた。彼は狡猾であった。僕も負けてはいなかった。僕は、外へ出ると、灌木の間に姿をかくして、小屋を監視し出した。しかし老人よりは鋭いリマの眼から、逃れられるかどうかは、心もとなかった。だが心配には及ばなかった。彼女は、この老人とは仲がよくなかったので、僕の計画を失敗させるようなことをするはずがなかった。僕がその隠れ場で、いくらも待たないうちに、彼は、二頭の犬をつれて、小屋を出た。しかし戸口から、いくらも行かないうちに、彼は、丸太の上に腰を下ろした。しばらくの間、彼は煙草を吸っていたが、やがて立ち上り、用心深くあたりを見廻した後、木々の間をこっそりと立ち去って行った。僕は、彼が、森の南の方にある、岩の多い低い山の方に行こうとしているのを知った。森は、その方向には、大して遠くまでひろがってはいないのを知っていたので、森のはずれに行けば、彼の姿を見ることができるだろうと考え、灌木を出て、彼の先に行って待伏せるために、木々の間をできるだけ早く走って行った。森が、非常にひらけている所にやってくると、不毛な平原が、四分の一マイルばかりひろがっていて、山々と森とをへだてているのを見出した。しばらくすると、犬をすぐあとにしたがえて、木々の間を、急ぎ足で歩いてくる、彼の姿が現れた。しかし、ひらけた平原の方には、足を向けようとしなかった。森のはじにつくと、方向を変え、なおも、木々の間に身をかくしながら、西に向って進んで行くようだった。そして五分ばかり彼が進んだ後、僕は、木から下りて追跡に移った。もう一度僕は、木々の間に彼の姿を見たので、二十分ばかりも見失うまいとその姿を追って行った。やがて彼は、山々の奥深くひろがっている、広い密林にやってきた。ここで突然彼の姿は見えなくなった。なおも彼に追いつこうと思いながら、僕はどんどん歩みを進めた。しかし、しばらくの間、下ばえをかきわけて苦闘しているうちに、ますますその森を前進することが困難になって行くのを知り、とうとう、彼のことはあきらめてしまった。東へ進路を転じて、木の茂った谷が、直角に立ち割っている山々の一つ、けわしい、でこぼこした山のふもとに到達するために、僕は、森を出ようと考えた。あの老人を見失った森林地帯を見るためには、その山にのぼるのがいいと思ったからだ。そして、少し歩いて行くと、上にのぼれそうな場所を見つけた。その山の頂上は、まわりよりも三百フィートばかり高くそびえていて、そこにつくまでには、大して時間がかからなかった。頂上は、かなり見晴しがよかった。今、はるかに眼をやると、例の森林地帯は、山々を貫いて南へひろがり、広々とした大森林につづいていた。「もしあれが、あんたの目的地なら」僕は考えた。「古ぎつねめ、あんたの秘密は、僕に知られる心配はないというわけだ」
時間は、まだ早かった。山の頂には、微風が吹いていたが、疲れたあとの僕には、涼しく、快かった。森の中をよじ登ったため、少し疲労をおぼえたので、この場所に二、三時間いようと決心し、快適な休息所をみつけようと、あたりを見廻した。僕はまもなく、直立した岩の西側に、かげになっている所を見つけ出した。そこでは、地衣のベッドの上に、楽々とよりかかることができたのである。この休息場で、岩に肩をもたせかけ、腰を下ろしながら、今日一人で森の中にいる、リマのことを頭に思い浮べる時、僕は苦しい気持に襲われるのだった。彼女がいないのは、何と淋しいことだろう、彼女もまた、僕のいないのを淋しく思っていてくれるだろうか、そうだといいのだが、そんなことを考えているうちに、僕は、眠りに落ちてしまった。
眼をさましてみると、すでに正午はすぎ、太陽は、僕の真上で輝いていた。僕は立ち上ると、もう一度下の方を眺めた。すると下の方の森林地帯の中央あたりから、小さな白い煙のうずまきが立ちのぼっているのに気がついた。僕はただちに、ヌフロが、あの場所で、たき火をしているのだろうと推測し、彼の隠れ家を不意に襲ってやろうと考えた。山の麓《ふもと》までおりてきた時、もう煙は見えなかったが、煙の出ていた場所は、頂上にいる時に充分しらべ、森の端にある、大きな林を、出発点としてとりのけておいたので、別に困るようなことはなかった。そして三十分ばかり探した後、老人の隠れ家を見つけることができた。まず僕は、木々の間から煙のもれているのを認め、次に木の小枝としゅろの葉で作った、粗末な小さい小屋を見た。用心深く近寄りながら、すき間からのぞいてみると、老いたヌフロは、火の上で、何かの肉をくん製にするためにいぶし、同時に、石炭の上で、何かの骨をあぶっていた。彼は、はなぐまを捕えていたのだ――はなぐまは、長い口と、長い環の形をした尾のある、飼猫の雄よりも少しばかり大きな動物である。ちょうど犬のうちの一頭が、その頭をかじっているところだった。そして、床の上には、ちらかっている古い骨や、くずにまじって、尾と足がほうり出されてあった。こっそりと廻り込み、突然僕は、その小屋の入口に姿を現した。たちまち犬は立上ってうなり、ヌフロも、手にナイフを持ってとび上った。
「ははあ、御老人」僕は笑いながら叫んだ。「これがあなたのいう菜食ですな。そして草を食う犬という奴ですな!」
彼は、狼狽しながら、疑惑の眼を向けた。しかし、僕が、このあたりに生えている珍らしい青い花を探しに、あの山にのぼっていると、煙が見えたので、その原因を見つけようとしていたら、ここに出てしまったのだと説明すると、ふたたび僕を信用し始めたらしく、一緒に焼肉を食わないかとさそってくれた。
僕は空腹だったし、ふたたび肉の食べられるのも、わるくはなかったのである。そんな状態であったにもかかわらず、僕は、少しむかむかしながら、その肉を食べた。その肉は、味がわるく、いやなくさみがあったからだ。また、同時に、邪悪な顔をした犬共が、この動物の頭と足を、残忍にかじっているのも、不愉快なことだった。
「御承知の通り」肉のあぶらを口ひげからふきとりながら、この年老いた偽善者は、いうのだった。「こんなことも、孫娘の気を悪くしないようにと思って、仕方なくしているのです。旦那、もうおわかりかと思いますが、わしの孫娘はおかしな子でしてね――」
「それをきいて思い出したが」僕は、彼の話をさえぎった。「あのお嬢さんの経歴を話してもらえませんか。あんたのいう通り、あのお嬢さんは、変っていますね。僕たちとはちがう言葉や能力を持っているようですな。僕たちとは、人種がちがうんじゃありませんか」
「いや、いや、あの子の能力は別にちがうわけじゃありません。ただ敏感なだけですよ。ある者には、他のものよりも多くあたえるのが、全能の方のお気に召すらしいですな。手の五本の指だって、全部同じじゃありませんよ。ギターを手にして、ひくことのできる男もいるでしょう。それなのにわしは――」
「そんなことはみんなわかっている」僕はふたたび口をはさんだ。「だが、あのお嬢さんの素姓は、経歴は――それが、僕のききたいことなんだ」
「旦那、わしが今話そうと思っていたのは、実はそのことなんですよ。かわいそうに、あの子は、あの子の列聖された母親から、わしの手にのこされたのです。その母親というのは、わしの娘で、若くて死にましたがな。あの子が、神父さんに、字や公教要理をおそわった、あの子の故郷というのは、不健康な土地でした。暑くて、雨が多くて――いつも雨ばかりでしたよ――人間よりは、蛙が住むのにいい所でした。とうとう、山の中の空気の乾いた所に住むのが、あの子にいいと考えて――あの子は、顔色がわるく、ひよわでしたからな――、この地方につれてきたのです。旦那、このことに対して、わしがあの子にしてやったすべてのことに対して、この世で報酬《ほうしゅう》を求めようとは思いません。ただ、わしの娘のいる天国に入れてもらいたいですな。入口ではなく、完全に中にね。そうでしょう、旦那。だって、結局、その行政に多少の欠陥はあっても、わしらが裁判してもらうのは、天国の当局なんですからな。打明けていって、今いったことが、わしの孫娘の素姓に関する話の全部です」
「ああ、それでわかった」僕は答えた。「あんたの話で、なぜあの子が、野生の鳥を手に呼ぶことができたり、毒蛇にはだしでさわっても、何ともないわけがわかったよ」
「たしかに、おっしゃる通りですよ」年老いた偽善者はいった。「森の中で一人ぽっちで暮しているので、遊ぶにも、友だちになるにも、自然のもの以外にはないのです。そしてわしのきいた所によれば、野生の動物というものは、親切にしてくれるものを知ってるようですな」
「あんたは、あの子の友だちを、ひどい目に合わせているんだな」僕はそういうと足で、はなぐまの長い尾を遠くけとばし、彼の食事に加わったのを後悔するのだった。
「旦那、わしらが、神の創《つく》り給うた通りのものであることをよく考えてみなくてはいけませんよ。これら一切のものが作られた時」全創造物を示そうと、腕をひろげながら、彼はいいつづけた。
「この創造に関係された方は、小鳥たちの食物として、種とか、小さな木の実とか、花の蜜とかをおあたえになった。だが、わしたちは、小鳥のような上品な食慾を持っているのではありません。神があたえ給うた、もっとたくましい胃《い》ぶくろが、しきりに肉を求めているのです。おわかりですか! だが、あんた、こんな話は、リマには絶対に内緒ですよ!」
僕は嘲笑した。「リマは、あの小さな妖精は、あんたが肉を食べていることは何も知らないと信じているような子供だと、僕のことを思っているのですか? リマは、森の中のどこにでもいるのです。そして、自分自身は姿をかくして、どんなものでも見ているのです。僕が、蛇に向って、手をふりあげた時でさえ」
「だが、旦那、少し出すぎるようですが、あんたは少しいいすぎては、いませんか、あの子は、ここにやってこないし、そんなわけで、わしが肉を食べているのを見ることはできないのです。彼女が勢力を持ち、歌をうたっているあの森では、彼女の家であり、庭であるあの森では、あざやかな翅を持つ小さな蝶までも含む、さまざまな生物の女主人に彼女がなっているあの森では、旦那、猟《りょう》をしようとは思いません。また、わしの犬も、そこでは動物を追おうとはしないのです。わしがいいたいのは、もし動物が足にぶつかってきたとしても、やつらは鼻を上の方に向けて、見ないで通って行くことですよ。何故なら、あの森には、一つの法律があるからです。リマが押しつけている法律がね。だがあの森の外には、またちがう法律があるのですよ」
「今の話をきいてほっとしました」僕は答えた。「リマが近くにいて、僕たちが、犬と一緒に、犬のように、肉を食べているのを、姿をかくしてのぞきこんでいはしないかと、ひどく心配していた所です」
彼は、いつもの、敏捷《びんしょう》で狡猾な眼差しを、ちらりと僕に投げかけた。
「ああ、旦那、あんたもそう思ってたのですか? わしらと一緒に暮し出してから、まだ少ししかたっていないのに。では、考えてほしいですな。樹液や、小さな果実や、すずめ蜂が花から作った少しばかりの蜜で、自分のからだを養うことができず、あの子の機嫌をそこねないために、こんな遠い所までやってきて、ひそかに肉を食べなければならないことが、一体どんなものかをね」
たしかに、それは辛いことだった。しかし別に同情は感じなかった。しかしひそかに僕は彼に対する怒りさえ感じていた。彼は、いかにも明けっぴろげなふりをしているが、実は、何も話してくれないではないか。また僕は、彼と一緒にあの変にくさみのある肉を食ったことから、自分自身に対しても嫌悪を感じていたのだ。しかし、とぼけておくことが必要だった。そこであたりさわりのない話を少しして、彼の歓待に感謝した後、一人でくん製作りをつづけている彼を残して、立ち去った。
小屋に戻る途中、ヌフロのいやなにおいのする小屋と食事のあとが、まだ僕にしみ込んでいるのではないかと思い、横道にそれ、森の中の小川が、広くなって、深いふちをかたちづくっている所にやってきて、水の中にとび込んだ。からだを微風で乾し、ふったり、たたいたりして、徹底的にきている着物を清めたあと、森の中に、ひらけて、かげになっている場所を見つけたので、家に戻る前に、夕方がくるのを待とうと、草の上に身を投げ出した。夕方までには、新鮮な、暖い空気が、僕のからだを清めるであろう。しかしまだ僕にしたリマの仕打ちを充分に罰《ばっ》しているとは思えなかった。彼女は、僕の無事であることを望んでいるだろう。森の中をくまなく探しさえしたかも知れない。三日の間、僕にみじめな思いをさせたあとでは、一日ぐらい苦しませるのでは足りないだろう。そして彼女とつき合わなくても、僕が生きて行けると知ったなら、前よりも気ままに僕を扱わなくなるであろう。
暖い地面にからだを休め、こんなことを考えながら、僕は、葉の群をじっと見上げていた。葉の群は、下の方のかげになっている所では、若草のような緑で、上の方は、キラキラした太陽を受けて輝いていた。あたりは、つぶやくような、昆虫の生活の音でみたされていた。あらゆる動作、あらゆる言葉、あらゆる考えは、すべてリマに対する感情にその源を持っていた。そうだ、僕は、自分自身に向ってたずね始めた。僕にとって、リマはそれほど大事なものなのか? その問いに答えることはやさしかった。かつてこれほど絶妙なものが作られたことはなかったから。自然の中に散り散りに見出される、切はなされ、断片的なものになっている、一切の美と旋律と、優雅な動作とは、彼女の中に集中され、調和して結びついているのだ。彼女は、何と変化に富み、何と輝かしく、何と神聖なのであろう? 新らしい優雅と魅力とを、時々刻々見出すことによって、驚嘆し、絶えず賞賛すべき、人間なのだ。このことに加えて、彼女の素姓にまつわる、魅惑的な神秘があって、僕の興味をよびさまし、絶えずそれを活発なものにしつづけていたのだ。
以上のことが、自分自身に発した問いに対する容易にできる答えであった。しかし僕は、さらに別の答え――今いったものよりももっと強力な理由――のあることを知っていた。そしてもはや、それを押し戻したり、その光り輝く顔を、単なる知的好奇心という、鈍い鉛《なまり》のような仮面の下にかくしておくことはできなかった。僕は彼女を愛していたのであった。それは、今まで誰に対しても抱いたことがなく、これからも他の人間には抱くことのできないような愛情だった。それは、彼女自身の光輝と強烈さの幾分かを吸収した情熱を伴っていて、以前抱いた情熱――それは誰でも知っている感情であり、古臭く、手あかにまみれ、考えただけでも退屈を感じさせるようなもの――もそれとくらべる時には、光沢のないありふれたものになるのであった。
このような想いから、僕は、夕べの鳥のかなしげな長い鳴き声によって、よびさまされた。――その鳥は、このあたりの森に普通な、よたかであった。驚いたことには、太陽は沈み、夕闇はすでに森をおおっていた。僕は驚いて立ち上り、家に向って足を速めた。リマのことを思いながら。たまらなく彼女にあいたかったのだ。ところが、僕の知っている狭い小道を歩きながら家の近くにきた時、突然、ばったりと彼女に出あった。明らかに彼女は、僕の近づく足音をきいていたのだ。もしこれが前の日ならば彼女は、小道から逃れて、僕が通ってもかくれて出てこなかったであろう。しかし今日彼女は、僕を迎えるために、とび出してきた。僕を抱きしめるかのように両手をひろげ、晴れやかな、いそいそと出迎えるような微笑を浮べて、唇をひらき、眼を喜びに輝かせながら、とんでいる鳥のように、すばやい気楽な足どりで、やってくる彼女を見た時、僕の心は驚きにうたれた。
僕は彼女を迎えるためにとび出していった。ところが、彼女の手にさわるや否や、彼女の顔色は変った。僕がさわって、その暖い血が冷されでもしたかのように、ふるえながらしりごみした。二、三歩立ち去りながら、彼女は眼を伏せて立っていた。昨日と同じく青ざめて、悲しげに、僕は、今現れた変化と、明らかに感じている悲しみの原因を話してくれるように、懇願してみたが、無駄だった。彼女の唇は、何かいおうとでもするように、ふるえていたが、何も答えはしなかった。そして僕が近寄ろうとすると、ただいっそうしりごみをするだけであった。ついに彼女は、その小道からわきにそれて、薄暗い葉群の中に姿を消した。
僕は、ただ一人歩きつづけた。そして年老いたヌフロが狩から戻ってくるまで、しばらくの間、外で腰を下ろしていた。彼が家の中に入り、炉の火をたきつけた時、リマは姿を現した。だがいつもと同じように口もきかず、打ちとけなかった。
翌日、リマはなおも、同じ不可解な気分のままだった。そこで僕は、僕の敗北を強く感じたので、もう一度彼女から姿をかくし、どういう効果が現れるか、ためしてみようと試みた。そして今度は、前よりももっと長い間姿を消そうと決心したのである。
翌朝僕は、年老いたヌフロのように、少女がいなくなるまで待って、ひそかに小屋を去り、いっそう深い森の灌木の中に、こっそりと入って行った。そしてついにこのかげになった地域を去り、もといた宿に向って、平原を横切り始めた。驚いたことには、部落についてみると、誰もいなかった。最初、あの評判のわるい森の中で、僕が行方不明になったために、周章狼狽《しゅうしょうろうばい》して、この家を見捨てたのかも知れないと考えたが、あたりをみまわしてみると、どこか近所の部落を定期的に訪問に行っただけなのだという推定に達した。このあたりのインディアンたちが、近所に出かける時には、ひどく大々的にするのである。彼らは、たくわえてある一切の食料、料理の道具、武器、ハンモック、愛玩動物さえも持って、一人のこらず出かけるのである。運よく、今度の場合は、何から何まで持って行ってしまったわけではなかった。僕のハンモックは残っていた。また、小さな鍋が一つ、いくらかのカサヴァパン、さつまいも、二、三本のとうもろこしもあった。僕は、万一僕が戻ってきた時のために、これらのものを残していったのだと推定した。また、炉の灰の下にうずめてある丸太が、まだ火が消えていないところをみると、彼らが行ってから、まだいくらもたっていないらしかった。さて、彼らが家をあけることは、普通かなり長期間にわたっていたので、僕が自分で適当と思うだけの間、大して食料もなく、この大きな何もない納屋《なや》のような家を独占することになるのは明白であった。しかしこの予想も、僕の心をかき乱すことはできなかった。僕は音楽を楽しもうと考えた。そこで僕のギターをさがしたが、みつからなかった。インディアンたちが、それで友だちを喜ばすために、持って行ってしまったのだ。この二、三日、ひまをみつけて、古い歌詞に合うような単純な旋律を頭の中で作っていた。そして今、楽器の助けをかりずに、僕自身に向って静かに歌い始めた。
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月夜よりもさらに明るく
たったひとり
お前はこの世に生れおちた
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歌い終ると、僕は火を起し、食事のために、一本のとうもろこしをあぶった。この乾いた、かたい穀粒《こくつぶ》を、苦労してぼりぼりかみながら、僕は、このように丈夫な奥歯をあたえられたことを、神に感謝するのであった。とうとう僕は、自分のハンモックを、もとの片隅につるし、僕の好きな斜めの姿勢で横になり、手を頭のうしろで組んで、片ひざを立て、もう一方の足をぶらさげた。僕は、とりとめもない考えにふけった。僕は幸福であった。聡明な男や、美しい女とつき合い、色々な本をよんで、楽しい日々を送ることに慣れていたものが、このような所で、これほど完全な満足を味うとは、何と不思議なことだろう! 僕は少しうぬぼれながら考えるのだった。しかし僕は、あまりはやく、自分自身に祝詞をのべすぎた。あたりにただよう、深い静けさは、ついに僕の心を苦しめ始めた。それは森の静けさとはちがったものだった。森では、野生の鳥たちを相手にすることができる、また彼らの鳴き声は、発音が不明瞭であるにせよ、何かしら意味のようなものを含んでいて、一人でいる人間に、喜びをあたえることができる。緑の木の葉や、灯心草を見ても、風に揺れて生ずるかすかなささやきをきく時も、そういうものには、何か心に通じあうものがある。だが、泥の壁や、土焼きの鍋《なべ》では、どうやって交際したらいいかわからない。淋しさがあまりにもつのってきたので、リマをおいてきたことをくやみ、自分のした秘密な行動を後悔し始めるのだった。僕がこのように、ハンモックの中でぼんやりねころんでいる今でさえ、彼女は、僕を探して森の中を探し廻り、僕の足音に耳を澄まし、何か不慮《ふりょ》の出来事に出あって、誰も助ける人がいないのではないかと、思っているのではないか、こんな風に彼女のことを考えて行くことは、一言も予告せずに、そっと抜け出して彼女を苦しめたことを考えて行くことは、苦しい事だった。僕は土間にとびおりると、家から外にとび出し、小川に下りて行った。まだここにいる方がよかった。もう一番暑い時刻はすぎ、西に傾いた太陽は、大きく赤く見え、午後のもやのために光を失っているようだった。
僕は、澄んだ水から一、二ヤードもはなれていない、一つの石の上に腰を下ろした。今自然の眺めと、暖い生き生きとした空気と日光とが、僕の心に影響をあたえ、現在の状勢に落着いて、否、希望さえ持って直面できるようにしたのである。その状勢とは次のようなものであった。この荒地こそ僕の永住の地になるべきだという考えが、二、二日前から現れ始め、今ここで確固としたものになったのである。アメリカの小さなパリといわれているカラカス、古い世界の悪と、無益な政治的情熱と、打ちつづく空しい歓楽を持ったカラカス、そこへ戻るという考えは、今、耐え難いものになった。僕は変った。そしてこの変化――それは、あまりにも大きく、あまりにも完全なものであったが――は、以前の不自然な生活が、僕のより深いより真実の性質と調和することのできる、本当の生活でなかったし、またあり得ない証拠であった。僕は、僕自身をあざむいていたのだ、君はそういうであろう。僕自身がしばしば自分自身でいってきたように。僕が、自分をあざむいてきたかこなかったか。この問題は、ここで論議するには、あまりにも長い時間を要する。だが今、僕はあの暑い、空気の汚れた舞踏室《ぶとうしつ》を去ったことを感じた。そして天国の朝の空気が、僕を高め活気づけることを、呼吸するにも快《こころよ》いことを感じたのだ。僕は、愛する友人や親類を持っていた。しかし僕は、彼らのことを忘れることができたのだ。かつて僕の心をはなれなかった壮麗《そうれい》な夢を忘れることができたように。僕は、一人の女を愛していた。そして彼女の方でも、僕を愛していてくれたにちがいない。その女をも、僕は忘れることができたのだ。文明と、その人工的な生活の娘である彼女は、この様な感情を味うことはできなかったし、僕のように自然に戻ることもできなかったのだ。何故なら、女性というものは、ちょっとしたことでは、男性よりも、よく順応できるが、彼女たちが永久にすて去った、人生の究極のものに立ちかえるといった、いっそう大きな順応にはかけているのである。彼女は、長い遅々とした数か月の間僕を待っているであろう、のびのびになってしまった希望にあきあきしてしまうだろう。そしてもはや僕の姿を見ることがないために、僕のいないことを嘆き悲しむだろう。しかしついに、時の立つにつれて、その傷もいえるであろう。そして、あの、もとの場所で、もとのやり方のまま、ふたたび愛情と幸福を見出すであろう、僕たち二人にとってその方がいいのだ。ずっといいのだ。
腰をおろしたまま、ひどく悲しげに、しかし別に力は落さず、過去と現在と未来についてこのように思いをめぐらしている時、突然、半リーグはなれている葉の茂った、山の頂上からカンパネロのはるかな、澄み切った、なりひびく鳴声が、静かな、暖いあたりの空気にのって、ひびいてきた。そのなりひびく鳴き声は、ふたたび、きこえ、さらに時をおいて幾度も繰り返された。そしてその声をきいている時、奇妙な感じを抱かせるのだった。それほどその声は、鐘《かね》のひびきに似ていた。キリスト教の拝礼を連想させる、大きな遠くまでひろがって行くひびきのようだった。しかしやはり、普通の鐘とは異っていた。その鐘は、地面から掘り出された、がさつな金属でできたものではなく、肉眼で見ることもできなければ、手でさわることもできない、空間にただよっている空気のように軽く、容易にとらえがたい材料から作られた鐘――何ものにもささえられず――青い果てしのない空と、汚れのない純潔な自然と、華々しい太陽の輝きに調和してなりひびき、塔や鐘楼《しょうろう》から波のように伝ってくる鐘のひびきよりも、神秘的な、いっそう気高い伝言を人の魂につたえる、生命を持った鐘なのだ。
おお、つばめとか鳩とか尾長きつつきとか、ナイチンゲールのように、神聖な種族に属する神秘的な、ベル・バードよ! 残酷な蛮人と、残酷な白人――一方は食物として、他方は科学を進歩させるために、おまえを殺すのだが――が絶滅してしまっても、なお生き続けるがいい。僕たちのあとをつぎ、それから先一千年ではなく、永遠に、この地上の所有者となる、汚れのない浄化された種族に、おまえの伝言をつたえるために。そして、僕のように鈍く汚れた心にさえも、お前は、このように気高いことを話すことができ、非人格的な、一切を包含《ほうがん》する者があって、その者は僕の中に生き、僕もまたその者の中に生き、僕の肉体はその者の肉体であり、僕の霊魂は、その者の霊魂であるという認識を僕にもたらしてくれることができるのであるから、浄化された僕たちの相続者にとっては、おまえの声は、どれほど貴重なものとなるであろう!
鳥の声はすでに止んだ。しかし僕は、なお、前と同じ崇高な気分にひたっていた。そして、夢幻の世界をさまよっている人間のように、前方にある、小川の向う側の、矮小《わいしょう》な木々が、まばらに生えている、ひらけた森の中を、じっとみつめていた。その時、突然、視野の中に、僕の方に向って動いてくる異様な人かげが現れた。僕は驚き、幾分はっとして、不意に立ち上った。しかしすぐ僕には、それがクラクラばあさんだとわかった。彼女は、乾いた木の小枝の大束《おおたば》を背中に背負い、その重さのために、ほとんど体が折れまがるくらいまで身をかがめて、家に向ってやってきたのだが、まだ僕のいることには気がつかないようだった。ゆっくりと彼女は、小川の方に下りてきた。それから注意深く、川に並べてあるとび石を渡った。やっと十ヤードばかりのところにきた時、この老婆は、行手に、だまったまま身動きもせずに坐っている、僕の姿を認めた。驚愕《きょうがく》と恐怖の鋭い叫び声をあげて、からだを後にそらし、小枝の束を地面に落し、僕から背を向けて走り出そうとした。ともかくもそうするのが、彼女の意志であったように思われる。何故なら彼女のからだは前方に投げ出され、頭と腕とは、全速力を出している人間のように活動していたが、足は、動かなくなり、同じ場所に根をはったようになった。僕は突然笑い声をあげた。それをきいて、彼女は頸《くび》を曲げ、しわだらけの褐色をした顔を肩ごしに僕の方に向けているようだった。これを見て僕はもう一度笑った。そこで彼女はもう一度からだを後にそらし、僕をよくみるために、ふりむいた。
「ごらん、クラクラ」僕は叫んだ。「僕が生きている人間で、幽霊ではないのが見えないのかい? 僕は、誰も残っていないで、僕の相手になったり、僕に食物をくれたりする人間はいないものと思っていた。だが、何故あんたは、他の者と一緒に行かなかったのかい?」
「ああ、まあ!」彼女は、あわれっぽい声で答えた。そして慎重《しんちょう》にまた向きを変え、淑女《しゅくじょ》とはほど遠い恰好《かっこう》で、尻のあたりを勢よく叩きながら、大声を上げた。「ここがいたいんだよ!」
彼女はなおも、僕の方に背中をむけたままの姿勢でいたので、僕はもう一度笑い、彼女の説明を求めた。
彼女は、ゆっくりと、向きを変え、用心深く僕の方に向って進んだ。ずっと僕の方をみつめながら。ついに、まだ疑いの目で僕を見ながら、他の者はみんな遠くの村を訪ねに行き、彼女も一緒に出かけたのだが、少しばかり行くと、腰のあたりが痛みに襲われ、それがあまりに突然で激しかったので、即座に動けなくなってしまった、と物語った。そしてその動けなくなったところを説明するために、よせばいいのに、自分でばったりと地面に倒れてみせた。しかし彼女は、地面にさわるや否や、ふたたびはっとして立ち上った。まるでいらくさの上に腰を下ろしたように、梟《ふくろう》に似た顔に驚きの表情を浮べながら。
「私らは、あんたが死んだと思っていた」彼女は、まだ僕が本当は幽霊なのかも知れないと思いながらいうのだった。
「いや、まだ生きていますよ」僕はいった。「では、あんたが腰が痛くて倒れたために、あとにおいて行かれたんですね! 別に、心配はいりませんよ、クラクラ。今は僕たち二人だけですね。一緒に愉快にやろうじゃありませんか」
この時すでに彼女は、恐怖から自分を取り戻し、僕の帰ってきたことを、大変喜び始めた。そして、僕に食わせる肉のないのを嘆くのであった。彼女は、しきりに僕の冒険と長く家をあけた理由についてききたがった。僕は、デイデイの娘については、クアーコと同じように、彼女もまったく残酷で、恨みを抱いていることを充分によく知っていたので、ともかくも、本当のことについては、彼女の好奇心を満足させてやりたいとは思わなかった。しかし、何かいっておく必要があった。そして、異教徒に対していったうそは、記録に残されないというスペインの古い考え方で意を強くし、僕は、一匹の毒蛇にかまれた、そのあと、森の中で恐ろしい雷雨にあって驚かされたが、夜になったので、そこを抜け出すことができなくなった、翌日、蛇にかまれたものは死ぬということを思い出し、僕の死にざまを友人たちにみせて悲しがらせたくなかったので、歌をうたったり、巻煙草を吸ったりして、楽しみながら、森の中のその場所に坐ったままとどまっていることの方を選んだ、五、六日がすぎてみると、少しも死ぬ様子がないのがわかり、空腹をおぼえ始めてきたので、立ち上って、戻ってきたのだと話してやった。
クラクラ婆さんは、ひどく真面目くさった顔つきで、しきりに頭をふったり、うなずいたりしながら自分自身に向ってつぶやいていたが、ついに、どんなものも僕を殺そうとはしないし、殺すこともできないと意見をのべた。だが、僕の話を信じたかどうかは、彼女だけが知っていることである。
僕は、年老いた蛮人の女主人と共に、楽しい夕べをすごした。彼女は、自分の病気のことは、すっかり忘れてしまったかのようで、さびしい一人の生活に、相手ができたことを喜んだ。彼女は愛想がよくて話好きだった。そして、他の者がいて、物体ぶっていなければならない時よりも、ずっと多く笑うのであった。
僕たちは、炉《ろ》のそばに腰を下ろし、手許にある食物を料理しながら、話したり、煙草を吸ったりした。やがて僕は、僕の作った旋律《せんりつ》に合わせて、スペイン語の歌を彼女に歌ってやった。
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月よりもさらに明るく
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すると彼女は、返礼に、かん高い声で、蛮風な歌をうたった。そこで僕は、最後にさっと立ち上って、彼女のために、ポルカとマズルカとワルツを踊った。身ぶりに合わせて歌ったり、口笛《くちぶえ》を吹いたりしながら。
その晩、一度ならず、彼女は、重要な問題を持ち出した。彼女は、僕がインディアンたちと一緒に住み、鳥をうったり、魚を捕えたりすることをおぼえ、また妻君ももらわなければならないというのだった。それから彼女はいつも、孫娘のオアラヴァのことを話すのだった。彼女の肉体的な魅力は、別にかくしてあったわけではないから、説明する必要はないが、その長所については、いっておくのが適当であるというのである。その話題に彼女がふれようとするたびに、僕は話をさえぎって、もし僕が結婚するとするならば、彼女こそ僕の妻になるべき人であると明言した。すると彼女は、もう年とっていて、女として役に立つ時期はすでにすぎてしまっているというのだった。カサヴァパンを作ったり、自分のぜいぜいいう古いふいごで、火を吹いて起したり、夜、男たちに話をきかせて眠らせたりすることも、もうあまり長い間することはできないだろうというのだった。しかし僕は、彼女は、若いし美しい、僕たちの子孫は、森に住む鳥たちよりも、おびただしい数になるであろうといい張った。僕は、近くのやぶの中でとけい草が満開になっているのを知っていたので、そのやぶに出かけ、茎と葉をつけたまま、二、三のすばらしい真紅の花を摘みとって、家の中に持って入り、この老婦人の頭に花環を編《あ》んでやった。そこで僕は、悲鳴をあげたり、もがいたりする彼女をひっぱり起し、彼女と一緒に部屋の反対側のすみまで、荒っぽいワルツを踊って、また炉のそばの彼女の席に戻ってきた。息を切らし、歯をむき出して笑いながら、彼女がそこに腰を下ろした時、僕はその前にひざまずき、その場にふさわしい情熱的な身ぶりで、コロンブスがまだ海を渡る前、メナによって作られた古い優美な詩句をもう一度、読みあげた。
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月よりもさらに明るく
たったひとり
お前はこの世に生れおちた
争う者のない優しさをもって
ゆりかごにいた幼い日から
お前の美しさはあまりにも名高く
幸運のあたえてくれた優雅な気配を
お前は身につけていたのだった
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いつも、他人のことばかり考えていた! 老いたクラクラ、彼女は、詩の意味も、僕の激しい幸福の秘密も知らなかった。老いた半白の梟のような頭に、深紅のとけい草の花をのせ、煙ですすけた壁やたるきを背景にして、炉火の光にほてりながら坐っていた彼女の姿を思い浮べる時、何とあの古いつきることのない悲しみが、ふたたびよみがえってくることだろう!
このようにして、僕たちは、充分に楽しい夜を送った。やがて僕たちは一晩中、火がなくならないように、堅木のまきを、新らしく入れ、それぞれのハンモックに入ったが、まだ眠ることはできなかった。この老婦人は、ふたたび仕事にとりかかられるのが、嬉しくもあり自慢でもあった。そして話をして僕を眠らせるという敬虔《けいけん》な仕事にとりかかった。しかし僕は時々、どんどん話をすすめるよう、大声で彼女をはげましてはいたが、彼女の話している昔話について行こうとはしなかった。彼女は、それらの話を、子供の頃、もうずっと前に死んでしまった、白髪の祖母たちから、きいたのであった。しかし僕の頭は、色々と考えをめぐらすのに忙しかった。かつて愛していた、今は遠いヴェネズエラにいる女、彼女は泣きながら僕を待ち、のびのびになっている望みに疲れはてている。リマは今、何をしているのだろう? 眼をさまして森の神秘な夜の物音に耳を傾けているのだろうか?――僕の戻ってくる足音に、耳を傾けているのだろうか。
翌朝になると、数日の間、リマのところへは行かないで置こうという決心が、ゆらぎ始めた。そして夕方になる前に、もはや抑えることのできなくなった恋情は、彼女をおいてきた時、不親切にはしなかったか、彼女が、不安な気持に襲われているのではないかという考えが加わってきて、僕にとって耐え難いものとなってきたので、僕は早速戻ろうとした。僕の行動を、うさんくさそうに見守っていた老婆は、僕が家を出ようとすると、僕のあとを追ってとび出してきた。そして、あらしがもうすぐくるかも知れない、遠くまで行くには時間がおそすぎるし、夜は、色々、危険が多い、と叫んだ。僕は、どんな危険でも大丈夫だということを彼女に思い出させ、笑いながら手をふって別れを告げた。クラクラは、僕が、災害に出あうことを大して心配しているわけではない、僕は考えた、たとえどのように知能の低い彼女に対してでも、土で焼いた孤独な鍋では、心のようなものを持っているとはいえないし、大昔の伝説を話して眠らせるわけにもいかないだろう。
いつもの尾根についてみると、僕は、老婆のいっていたことが本当になってきたのを知った。今や不気味な変化が、自然に襲いかかり始めていたからだ。にぶい灰色の雲が、空の西の半分を完全におおっていた。また森の彼方の低い空は、インクのように黒く、その黒い空の中に、太陽は消え去っていた。もう戻るにはおそすぎた。あまりにも長い間、リマと会っていなかったので、雨にあってもあわなくても、夜にならないうちに、ヌフロの小屋につきたいとばかり願うのだった。
しばらくの間、僕の前にひろがっている、暗い不気味な光景に心をうばわれて、尾根の上に、じっと立ったままでいた。――一様ににぶい緑の細長い列、他の木々よりも高く、所々に羽毛のような冠《かんむり》をもたげている、ほっそりしたしゅろ、それは、身じろぎもせず立ちながら、せまりくる暗黒に対して奇妙な安堵《あんど》をたたえていた。そこで僕は、あらしが突然、襲いかかってくる前に、充分に道を進めておこうと思い、下り坂を利用して、ふたたび走り始めた。僕が森に近づいた時、青白い一筋の稲妻がひらめき、目に見える一切の空をおおった。やがて長い間隔《かんかく》をおいて、遠い雷鳴のとどろきがそのあとにつづいた。それは、数秒の間つづき、太く低い鼓動をつづけながら消えて行った。それは、まるで自然自身が、この上もない苦悩と自暴自棄のため、地面にうつぶせになり、その巨大な心臓が、はっきりきこえるように動悸《どうき》を打ち、その鼓動《こどう》で、世界をゆり動かしているかのようだった。もはや雷鳴は起らなかったが、今や大つぶの雨が激しくふりそそいできた。その雨滴は、暗い風のない空を、まっすぐに落ちてきた。三十秒もしないうちに、僕はずぶぬれになってしまった。しかし、しばらくの間、雨は、便宜《べんぎ》を提供したように思われた。ふりそそぐ雨の明るさが、あたりの暗さを和らげ、あたりを暗黒から、前よりは明るい灰色に変えたからである。しかしこのあたりの暗黒を和らげた雨のあかりも、長くはつづかなかった。森の中を二十分も進まないうちに、第二の、そして前よりもいっそう深い闇が、地上におちてきた。それに伴い雨もいっそう激しさを増してきた。太陽は、すでに明らかに沈んでいた。そして空全体は、一つの厚い雲におおわれていた。暗さがましてくるにつれて、いっそういらいらしてきた僕は、もっと南の方に足を向けた。森のはじに近づき、もっと開けた所を歩きつづけようと思ったのだ。おそらく僕は、道をそれ、まちがった道に曲る前に、頭が混乱していたのだろう。何故なら、森は歩くのが容易になる代りに、進むにつれて、ますます深くなり、歩くのが困難になってきたからだ。いくらもたたないうちに、あたりが、あまりにも暗くなってきたので、五フィート以上先のものが、見分けられなくなってしまった。あてもなく手探りで進むうちに、僕は、深く茂った下ばえにひっかかってしまった。そして通り抜けようと試みながら、少しの間、苦闘したり、つまずいたりして進んだが、その努力も空しく、ついに進むことができなくなり、完全に絶望してしまった。方向はいっさいわからなくなった。僕は、深い暗闇の中に埋もれてしまったのだ。――夜と雲と雨と、しずくのしたたる葉群の暗闇、ひどくもつれたなわのような灌木とつる草のまきついた枝の網目。僕は苦闘しながら、草木のもつれのまっただなかにある、くぼみ、あるいはちょうど穴のようなものの中に入って行った。そこで僕は、背をのばして立つことができ、何にもさわらずに、どちらにでも向きを変えることができた。しかし、手をのばすと、つる草や灌木にさわるのだった。この場所から動くことは、愚かなことのように思われた。だが、どう猛な猛獣の輝く眼以外には、光るものを見ることのできない、この恐ろしい闇の中で、雨のためにからだが冷え、びしょぬれの地面の上に立ったまま、ずっとそこにいることは、何と恐ろしいことであったろう。しかし、危険、激しい肉体上の不愉快、このような状態で、一晩中すごさなければならないと予想することの苦悩、そういうものよりも、リマの抱いている不安と、不注意にも、何もいわずに彼女のところを出てきてしまったことから生ずる苦痛を考えることの方が、はるかにはげしく、僕の心をひきさくのだった。
心の中で、そのような苦痛にさいなまれていたちょうどその時、すぐそばで、彼女の低い、さえずるような調子の声をきいて、はっと驚いた。ききまちがうはずはなかった。たとえ森が、動物の動くもの音や、美しい鳥の鳴声でみちている時でも、彼女の声は、ただちに他の音や声からはっきりと区別することができたであろう。その声は、あの恐ろしい暗闇の中で、何と神秘的に、何と限りない優しさを持ってひびいてきたことだろう!――あれほど調子が美しく、あれほど絶妙に調子が整えられ、あれほどもの悲しい声、しかしその声は、突然名状しがたい喜びで、僕の心を刺し貫いたのである。
「リマ! リマ」僕は叫んだ。「もう一回話してくれ。そこにいるのは君なのかい? ここにおいで」
ふたたび、あの低いさえずるような声、あるいは、その声の連続がきこえてきた。そしてその声は、二、三ヤード先からきこえてくるようであった。僕は、彼女がスペイン語で答えないことで不安を感じはしなかった。彼女はいつも幾分気のすすまない風にスペイン語を話していたし、それも僕のそばにいる時だけだったから。そして、少しはなれた所から僕を呼ぶ場合には、彼女は、本能的に、彼女自身の神秘的な言葉で答えるのが常であった。そして鳥が、鳥に向って呼びかけるように、僕に向って呼びかけるのだった。僕は彼女が、あとについてこいとさそっているのを知っていた。しかし僕は、動くことをこばんだ。
「リマ」僕はふたたび叫んだ。「僕のところにきてくれ。僕はどう歩いていいのかわからないし、君が僕のそばにきて、君の手にさわってみなければ、動くことができないから」
答えはなかった。しばらくして僕は、はっとしてふたたび彼女に向って叫んでみた。
その時だった。僕のすぐそばで、彼女の低いふるえるような声が答えた。「私、ここにいるの」
僕は、手をのばした。すると何か柔らかい、ぬれたものにさわった。それが彼女の胸であった。さらに手を上の方に動かして行くと、今はたれさがり、水のしたたっている彼女の髪の毛にさわった。彼女は、ふるえていた。雨が、彼女のからだを冷え上らせたのであろう。
「リマ――かわいそうに! なんて君はぬれているんだろう! こんな所であうなんてほんとうに不思議だね! かわいいリマ、いってごらん、どうやって僕をみつけ出したか」
「私、待っていたの――見張っていたのよ――一日中。私、あなたが平原《サヴァンナ》を横切ってくるのを見てたわ。そして少しあとから森の中じゅうついて歩いてたの」
「僕は君にとても不親切だった! ああ、僕の守護の天使、僕の闇の中の光よ、君を苦しめたりしてほんとに悪い僕だった! ね、かわいい子、もう一度帰ってきて一緒に住んでほしい?」
彼女は、返事をしなかった。そこで、僕は、指を彼女の腕にすべらせ、彼女の手をにぎった。その手は熱かった。それは、熱病にかかっている者の手のようだった。僕は、その手を唇まであげて、彼女を僕の方にひき寄せようとした。ところが彼女は、僕の腕をすり抜けて、僕の足もとに行った。僕は彼女がそこでひざまずき、頭を低くたれているのを感じた。僕は、身をかがめて、彼女のからだに腕を廻し、ひきよせながら立ち上らせた。僕は、胸を押しつけて彼女を抱いたが、彼女の心臓の鼓動《こどう》は、激しく僕のからだにつたわってきた。僕は多くの愛情をこめた言葉で、口をきくようにたのんでみたが、彼女はただ、「きて――こっちにきてよ」と答えるだけだった。そういいながら彼女はふたたび僕の腕から身をすり抜け、僕の手をにぎりながら、灌木の間を分けて、僕を導いて行った。
やがて、僕たちは、空地といってもいいような、ひらけた道にやってきた。そこは、あまり暗くはなかった。彼女は、僕の手をはなして、僕の前を急いで歩き始めた。そして、僕が、彼女の、黒っぽい影のような姿をみとめることができるくらいの間隔を、常にあけながら、自分でよく知っている、自然にできた道や、空地に入って行くために、しばしば身をひるがえしてかけ込むのだった。このようにして僕たちは、ほとんど最後まで進んで行った。僕たちは一語も言葉をかわさなかった。ふりしきる雨は、今も絶え間なく降っていたが、僕たちは、その音にすっかり慣れてしまったので、もはや耳につかなくなっていた。ただ僕たちの耳に入ってくるのは、流れ行く無数の小川のさまざまな物音だけであった。いっそうひらけた場所にやってきた時、突然、一筋の明るい光が、僕たちの前に現れた。それは、ヌフロの小屋の半ば開いた戸口からもれているのであった。彼女はふりむくと「今どこにいるか、わかってるわね」とだけいって、どんどん急ぎ足で行ってしまった。懸命になって追いつこうとしている僕を残したまま。
十一
翌朝早く、僕が起きてみると、天候は、すっかり回復していた。空には、雲は一つもなく、大気がまったく水蒸気を含まない時にのみ見られるような、純粋な色と、無限の距離とを持っているようにみえた。太陽はまだ上ってはいなかった。しかし、年老いたヌフロは、すでに灰の中で、四つんばいになっていた。彼は、炎《ほのお》に身をさらしながら、残り火を吹いていたのである。やがて、リマが現れたが、ただすばやい軽い足どりで、部屋の中を通りすぎて行っただけだった。彼女は、一言も口をきかず、僕の顔に一瞥《いちべつ》をあたえることもしないで、戸口から出て行ったのである。老人は、しばらく戸口の方をみつめていたが、やがてふりむいて、前の晩の冒険について、色々と熱心にきき始めた。そこで僕は、森の中で道に迷い、もつれた下ばえから脱出することができなかった時、どのようにして彼女が僕を見つけ出したかを物語った。
彼は、膝《ひざ》の上に手をこすりつけて、くすくすと笑った。
「旦那《だんな》、あんたにとっては幸福なことだ」彼はいった。「わしの孫娘がそんなに親切な眼であんたをみていることは。もしそうでなかったら、朝になる前に、あんたは死んでいたかも知れない。一たび彼女が、あんたのそばにいるならば、太陽も月もちょうちんも不要になってしまう。最も暗い夜でさえも、砂漠《さばく》の中を正しく導いてくれるといわれている、あの小さな道具も不要なのだ。――こんなもののあることを信じさせてやりたいものだ!」
「そうだ、僕にとっては、幸福だった」僕は答えた。「あのかわいそうな子を、あんなあらしにあわせたのは、まったく僕の過ちからでしてね。すっかり後悔していますよ」
「おお、旦那」彼は、上機嫌で叫んだ。「そんなことを苦にしなさるな。雨や風や、暑いひざしを、わしらは避けようとするが、あの子にとっては、何でもないのです。あの子は、風邪《かぜ》もひかないし、悪寒《おかん》のあるなしにかかわらず、熱病にもかかったことがないのです」
少し話をした後、彼はそっと出て行ったが、彼のために、見て見ぬふりをしていた。そして僕自身も、リマに出あって、話をするよう説き伏せるために、散歩に出かけた。
僕の探索《たんさく》は、不成功に終った。彼女の華奢《きゃしゃ》な影に似た姿を、木々の間でひとめも見ることはできなかったし、あの美しい声を出す唇から、僕を喜ばす一つの音もきくことはできなかった。正午になると、僕は家に戻ってきた。そして僕のための食事の用意ができているのを見つけ、僕のいない間に、彼女が小屋に戻ってきたこと、まだ僕の必用品を忘れてはいないことを知った。「この御礼を君にいった方がいいだろうか?」僕はいうのだった。「僕はもっと高尚な天性を維持するために、天国の甘露《かんろ》を求めている。それなのに君は、ゆでたさつまいもと、太陽で乾かしてある焼いた西洋かぼちゃと、少量のあぶったとうもろこしをくれるのだ! リマ! リマ! 僕の森の妖精《ようせい》、僕を助けてくれた優しいものよ、なぜ君は僕を怖れているのだ? 君の心の中で、愛が、嫌悪と戦っているのか? 君の澄んだ気高い眼が、僕の中にあるいっそう卑《いや》しい要素を見分けて、それを嫌っているのか?あるいは、まちがった想像力のために、僕を非常に邪悪な、腹黒い男だと思っているのか? だが、君が心の平和を求めても、もうおそいのだ。甘美な恋の病気にかかってしまったあとでは」
しかし、僕の言葉に答えるべき彼女は、そこにはいなかった。そこで僕はふたたび外に出て、小屋から程遠からぬ、老樹の根の上に、ものうげに腰を下ろした。僕は、そこで充分一時間は腰を下ろしていたが、突然、リマが僕のそばに姿を現した。彼女は、身をかがめて、僕の手にさわった。しかし、僕の顔には、眼を向けなかった。「一緒にきて」彼女はいった。そして向き直ると、足速やに、森の北端に向って進んで行った。彼女は、僕があとについてくるのが当然のことと思っているらしく、一度も後をふりむかず、足速やに歩いて、決して立ち止ろうとはしなかった。しかし僕は、喜んでそれに従った。僕は、はっとして立ち上り、すばやく彼女のあとを追った。彼女は、自分のよく知っている通りやすい道を通って僕を導いていった。そして下ばえをさけるために、何度も急に角度を変えたのであった。彼女は、話しかけも、立ち止りもしなかった。とうとう僕たちは、深い森から出てイタイオア山の麓《ふもと》にやってきた。イタイオア山の麓に出たのは、僕にとってこれがはじめてのことだった。彼女は、少しの間後をふりむき、その山頂に向って手を振っていたが、時を移さずのぼり始めた。ここもまた、彼女にとっては、まったくなじみの場所らしかった。下から見ると、その斜面は、ひどくけわしそうだった。――巨大な鋸《のこぎり》の歯のような岩が激しく入り乱れ、その間に木々や、灌木や、つる草のもつれたのが入りまじっていた。しかし幾度も急に曲る彼女のあとをついて行くと、実にたやすく登ることができた。もっとも、急いで歩いたので、ひどく疲れはしたが。その山は、円錐形であったが、頂上は、平らだった、そこは、長楕円形《ちょうだえんけい》または、西洋なしのような形をしたほとんど平らな地面だった。そして柔らかな、くずれやすい砂岩から成り、それよりはかたい石のかたまりや、角の丸いかたまりがあたりにちらばっていた。そこには、草も木もなく、灰色をした山地衣と、枯れたようにみえる二、三の矮小《わいしょう》な灌木があるだけだった。
ここで、リマは、僕に呼吸を回復させる時間をあたえているとでもいうように、僕から二、三ヤードはなれた所に、しばらくの間、じっと立ったままだった。当然のことながら、僕は喜んで、休息するために、とある石の上に腰を下ろした。やがて彼女は、約二エーカーばかりある平らな場所の中央に、ゆっくりと歩いてきた。僕は立ち上って、彼女のあとにつづき、大きな岩のかたまりによじのぼって、僕の目の前にひろがっている、広々とした眺めに見とれ始めた。それは、風のない、晴れた日であった。頭の上の大空には、二、三の白い雲が浮んで、下にひろがっている、荒々しい起伏した山野に、移動する影を投げいる。そして、森林や沼地や平原《サヴァンナ》は、地図の上の灰色、緑色、黄色のように、その異った色によってのみ、はっきりと区別されるのだった。はるか彼方の、弧《こ》を描く地平線は、ところどころ、山によって中断されていたが、近くの山々は、すべて、足もとに見下ろすことができた。
しばらくの間、あたりをすっかり眺めたあと、のっていた石の上からとび下り、その石によりかかったまま、たたずんで彼女を見つめた。そして彼女の話すのを待った。彼女には(彼女にとって)知らせたい非常に重要なことがあり、ヌフロではない信頼すべき友人が、どうしてもすぐ入用なので、僕に対するはにかみをふりすててしまったのだということを僕は確信していたのである。そこで僕は、彼女が好きな風に、話を始めさせようと決心していたのだ。しばらくの間、彼女はだまったままだった。そして顔をそむけていた。しかし彼女のちょっとした動作や、指をにぎったり、ひらいたりするやり方によって、彼女の心には、心配ごとがあり、色々な思い出が去来しているのがわかるのだった。突然、半ば僕の方を向きながら、彼女は熱心にせきこんで話し出した。
「これが、どのくらい大きいか」彼女は、眼に入るいっさいの大地を手で示しながらいうのだった。「あなた知っている? ごらんなさい!」彼女は、そういって、西の山々を指さした。「あれは、ヴァハナ山脈よ――ほら、一つ、二つ、三つ――一番高いのが――私、あなたにあの山の名を教えてあげるわ――ヴァハナ・チャーラ、チュミ、アラノア。あの水のある所が見える? あれは、河でね、ガアイペーロっていうの。あの河は、イナルナっていう名の山々から流れてくるのよ、その山々は、あそこの、南の方に見えるわ――ずっと遠くの」このようにして、彼女は、眼のとどくかぎりの山々と河を片はしから全部指さし、名前をつけていった。やがて突然彼女は、手を下ろして、腰のあたりにあて、言葉をつづけるのだった。「これで、おしまい。だってもうこれ以上は見えないんだもん。だけど世界ってものは、これよりもっと大きいわね。他の山や、他の河があるわ。あなたにいったことなかった? ヴォア河の畔《ほとり》にある、ヴォアのことを。そこで私は生れたの。そこでお母さんは死んだわ。そこで私は、神父さまにおそわったのよ。もう何年も何年も前のこと。そこのことを全部あなたは見ることはできないわ。だって、とても遠くに――とても遠くにあるんだもん」僕は、彼女の無邪気さを笑いはしなかった。また微笑を浮べもしなかったし、浮べる気も起らなかった。僕は、彼女の憂《うれ》いの影を帯びた顔――それは、表情の変りやすい顔だったが、どのように変った時も憂いの色は去らなかった――をみつめながら、ただ憐《あわ》れみの気持だけを感じるのだった。そして、その気持は、あまりにも激しいものだったので、苦痛に近くさえ思われるのだった。僕はまだ、彼女が何を知らせ、何を見つけたいのか、よくわからなかったが、彼女が答えを待っているので、僕は返事をした。「世界というものは、とても大きいのだよ、リマ、だからどこか一つの場所からは、そのごく一部分しか見ることができないのだ。これをみてごらん」そこで僕は、登ってくるのに使ってきた一本の棒切れで、円周六、七インチの円を、柔らかい石の上に描いた。そしてその中央に、小さな石をおいた。「これが今僕たちの立っている山だ」僕は、その小石にさわりながら、言葉をつづけた。「そして、この小石を取りまいている線が、今この山頂から見える全部の範囲にあたる。わかるかい? 僕の今書いた線が、青い地平線にあたるのだよ。そしてその向うのものは、何も見ることができないのだ。そしてこの小さな円周の外には、僕たちの今いるイタイオア山の平たい頂上全部があるが、それがちょうど、全世界にあたるんだ。考えてごらん。この場所から僕たちの見ることのできるものが、全世界のうちのどれほど小さな一部分にすぎないかを!」
「では、あなたはみんなそれを知ってるの?」彼女は、興奮しながらいった。「世界中を知ってるの?」そして手で、石でできた、平たく狭いこの山頂を指すのだった。
「全部の山も、全部の河も、全部の森も――世界中の全部の民族も?」
「それは不可能だよ、リマ、考えてごらん。それはとても大きいんだ」
「そんなこと大したことじゃないわ。さあ、一緒に行きましょう。――私たち二人とおじいさんとで。世界中を見にね。全部の山と森を見にね。そして全部の民族を知るためにね」
「君は今自分が何をいってるのかわかっていないんだ、リマ。君はいうことができるよ、『さあ、太陽に出かけましょう、そしてそこにある全部のものを見つけましょう』とね。それと同じことなんだよ」
「自分で何をいってるのか、わかっていないのは、あなただわ」彼女は、キラキラ光る眼で一瞬の間、僕の眼をじっとみながらいい返した。「私たちは、太陽にとんで行くための、鳥みたいな翼なんか持ってやしないわ。だけど、私が、地面の上を歩いたり、走ったりできないっていうの? 私が泳げないっていうの? 私が、どんな山でものぼれないっていうの?」
「そうさ、君にはできないね。君は、地球が全部、君の見ているこの小さな部分と同じようなものだと思っている。だが全然同じものじゃない。君が泳いでわたることのできない大きな河や、君がのぼれない山もあるし、君が入り込むことのできない森――そこは暗くて、危険な動物が住んでいるのだ――もある。全世界というものは、とても大きいのだよ。だから君が今見ているこの全空間も、それにくらべれば、単なる点にすぎないのだ」
彼女は、興奮して、耳を傾けていた。「まあ、あなたは、それを全部知ってるの?」彼女は、奇妙に晴れやかな表情で叫んだが、やがて、半ば僕から顔をそむけて、突然不機嫌になってつけ加えた。「だけど、あなたは、全世界のことは何も知らないっていってたわ。――それがあんまり大きいからって! そんな矛盾《むじゅん》したことをいう人と話したって、何にもならないじゃない?」
僕は、別に自分のいっていることが矛盾してはいないこと、彼女が正しく僕の言葉を解釈しなかったことを説明した。僕は、全世界の、さまざまな国々の主な特徴のいくらか――たとえば、最も大きな山脈や、河や、都市――を知っているといった。また、これはごくわずかであったが、蛮人のいくつかの種族についての話もした。彼女は、僕の話を、もどかしそうに聞いていたので、僕は、急いで話をしなければならず、ひどく大ざっぱにいうことを余儀《よぎ》なくされた。そして話を簡単にするために、今僕たちのいる大陸で、全世界をあらわすことにした。それ以上言及することは、無駄なことにみえたし、彼女の熱心さが、それ以外のことをいうのを許さなかったのだ。
「あなたの知ってることを全部いって」彼女は、僕が話し終えるや否や、口を切った。
「あそこには、何があるの――あそこには――あそこには?」色々な方角を指さしながら彼女はいった。「河や森――そんなものは、私には意味ないわ。部落とか、種族とか人種とか、いろんなところのを。話してよ。だって私、それを全部知っとかなきゃなんないんだもん」
「リマ、だけど話すと長くかかるよ」
「あなたの話し方がおそいからよ。まだ太陽はあんなに高いのよ! 話して、話してちょうだい! あそこには、何があるの?」北の方を指さしながら彼女はいった。
「あの辺は全部」東から西へ手を動かしながら僕はいった。「ギアナだよ。そしてそこは、とても大きいので、こっちの方角でも、あっちの方角でも、何か月も旅行しても、その終りをみることは、できないんだ。いくつもいくつも河を越え、またその間にあるいくつもの森を越え、またその先の森や河をいくつも越えても、だめなんだ。そして、未開な蛮人や、いくつもの民族や種族――ガヒボ、アガリコト、アヤノ、マコ、ピアロラ、キリキリポ、トパリト――まだ百も名前をあげてみようか? 無駄なことだね、リマ。彼らは、みんな蛮人だ。そして森の中に広く散在して、生活している。弓と矢と吹矢の筒《つつ》で狩をしながら。それでは、よく考えてごらん、ギアナがどのくらい大きいかを!」
「ギアナ――ギアナですって! そんなのが、みんなギアナだってことを私が知らないと思うの? だけど、その先は、その先は、そしてその先は? ギアナには終りがないっていうの?」
「いや、終りはあるよ。北の方は、オリノコ河で終っている。オリノコ河は、巨大な河で、巨大な山脈から流れ出ているが、その巨大な山脈とくらべるならば、イタイオアは、僕たちが今腰を下ろして休んでいる、この地面の上の一つの石のようなものだ。君は、ギアナが、僕の国であるヴェネズエラの、ほんの一部分、せいぜい半分にすぎないことを知っておくべきだね。みてごらん」僕は、手を肩に廻して、背中の中央にさわりながら言葉をつづけた。「ここに、僕のからだを等分している背骨のうねがある。このように大きなオリノコ河が、ヴェネズエラを分けているのだ。その一方が、全部ギアナで、もう一方には、クマナ、マツリン、バルセロナ、ボリバール、ガリコ、アピュレその他多くの諸国あるいは諸州なのだ」僕は、それから、僕の国の北半分をかけ足で説明し、そこには、巨大な平野があり、その一部では家畜の群が、他の一部では、コーヒーや、米や砂糖きびの農園が一面に存在することを話した。そしてさらにこの国の主要の都市の話もして、最後に、アメリカにおける花やかで富裕な小さなパリといわれている、カラカスのことにもふれた。ここまできくと、彼女は、疲れてきたようだった。しかし僕が話を止めるとすぐ、そして僕が乾いた唇を充分にしめすことが、できない前に、彼女は、カラカス――全ヴェネズエラの向うの方は何か教えてくれと要求した。
「大洋さ――そして水、水、水」僕は答えた。
「そこには、人間はいないわ――水の中には。ただ魚だけよ」彼女はいった。そして突然、言葉をつづけるのだった。「なぜ、だまってるの――では、ヴェネズエラが全世界?」
僕が自分でやり始めたこの仕事は、まだ、ほんの始まりにすぎないように思われた。どうやって話を進めて行こうかと考えながら、僕は、今僕たちの立っているこの平らたい場所を一わたり見わたした。すると、片はしは幅がひろく、もう一方のはしは、とがっているといってもいい、この不規則な形をしたこの平たい場所が、大たい、南アメリカ大陸に似ているという考えが頭に浮んだ。
「リマ、みてごらん」僕は話を始めた。「僕たちは、この小さな石、すなわちイタイオアにいるとする。そしてこの円周が僕たちの見える範囲だ。――その向うは見ることができない。だが今、その向うも見えると想像してみよう――この平らたい山頂全部――すなわちそれが全世界にあたるのだが――が見えると想像してみよう。いいかい? さあ、世界中のすべての国と、主要な山と河と都市の話をするから、よくきいていてくれよ」
僕の今選んだ計画は、さんざん歩き廻らねばならず、また石を動かしたり置いたり、境界線や他の線を描いたりする厄介《やっかい》な仕事を含んでいた。だが、それは楽しい仕事だった。何故なら、リマは、いつも僕のそばからはなれず、あちこちと僕のあとについて廻り、僕のいうすべてのことを、黙ったまま、しかし興味深そうにきいていたからである。僕は、この平らたい山頂の幅の広い方のはしに、ヴェネズエラを区別した。そして長い線をひいて、オリノコ河がどんな具合にその国を分割しているかを示し、さらにそこに流れ込んでくる、もっと大きな河のいくつかをしるした。僕はまた、石を置いて、カラカスと他の大きな都市の位置もしるした。僕は、僕たちが、ヨーロッパ人のように、大きな都市を作らなくてもすんだことを喜んだ。何故なら石を持ち上げるのは重いのを痛感していたからだ。それから西の方にあるコロンビア、エクアドルに移った。それから更に、ボリヴィア、ペルー、チリー、そして、南の方に行って、寒く乾燥《かんそう》した、荒涼《こうりょう》として人跡稀な土地であるパタゴニアで終った。そしてそちら側を進みながら海岸ぞいの都市にもしるしをつけて行った。その先は陸地が終って、太平洋が始まり、果てしのない水がつづくのである。
この時、突然霊感にかられて、コルディレーラ山脈を説明した。――その世界にまたがるほど長い、巨大なくさりのような山脈、チチカカの塩水湖、テーベよりもさらに古い、ティアウアナコの廃墟《はいきょ》にある、寒い荒れ果てたパラモのことを。僕はまた、その地方の主な都市の話をした。――そのようなからだに、現れて、ひどく人目に立つ、炎症《えんしょう》を起したり、うんだりしている小さな吹出物のような都市を。皮肉ではなく、その地方に住んでいる人々からは、壮麗なもの、壮大なものと呼ばれているキトー。それは、あまりにも高いところにあるので、空のすぐそばにあるように思われる。そして「キトーから空へ」ということわざさえあるのだ。しかしその荘厳な歴史、その王や征服者、偉大なアイマール・カパク、ウァスカール、悲惨なアタウアパについては、ひとこともいわなかった。そして、世界の中心の上に、陸地と大洋と、陰鬱な暴風雨と、コンドルの飛翔《ひしょう》の上に、そびえて、万年雪におおわれている、その山頂については、どのように多くの言葉も、何と不充分なものにすぎなかったろう。その怒りの低いうめき声を、二百リーグの彼方までひびかせる、焔を吐くコトパクシ。そしてチムボラソ、アンテイサナ、サラタ、イリマニ、アコンカグアを説明した。――それらは、山の名前であるが、それらをゆらぐことのない花崗岩《かこうがん》の王座にしている、無慈悲なパチャカマクとヴィラコーチヤの神々の名前と同じように、僕たちの心を動かすのである。そして最後に、僕は、クスコを彼女に示してやった。それは、太陽の都市とよばれ、地球上で、人間の住む最も高い場所にあったのである。
僕は、このように崇高な題目のために、恍惚《こうこつ》として我を忘れた。そして、あらさがしをするきき手のいないことを思い出し、空想をほしいままにして、その間は、何か未知の思想や感情が、彼女の質問をさそい出しはしないかということを忘れていた。僕が山のことについて話をしている間、彼女は、熱心に僕の言葉に耳を傾け、歩いて行く僕のすぐそばについてきた。彼女の表情は、晴れ晴れとして、からだは、興奮のあまりふるえているのだった。
しかしまだ、アンデスの東にある、想像もできないほど大きな所が説明されないで残っていた。いくつもの河があった。――何というたくさんの河であろう!――海――陸地のない、無限の大海原《おおうなばら》――に似た緑の平原――その向うの森林地帯。アマゾンの森林は、ただ考えてみただけでも、僕の意気を沮喪《そそう》させた。もし彼女を突然はこび去って、チムボラソの高い頂上においたならば、一万平方マイルの地域を眺めることができるであろう。そのくらいの高さのところからみると、それほど視野は広大なものとなるのである。そしておそらく彼女は、その想像の力によって、その地域一面を、とぎれなくつづく森林でおおうことができよう。しかし、その地域さえ、広大な全地域――広さにおいて全ヨーロッパのものと等しい森林地帯――の中におくと、何と小さな一部にすぎないのだろう! いっさいのすばらしさ、いっさいの優美さ、いっさいの気高さがそこにある。しかし、僕たちには見ることができないのだ。心に描くこともできないのだ――もうよそう! 遠い未来において、現在、この地球上で勢力を持っているいっさいの民族と、彼らのあらわしている文明が、古いティアウアナコの石像を彫刻した人々のように、まったく死滅する時に、僕たちのように、まっすぐな姿勢をした、無数の人間、新らたに生れ出る民族が居住するにちがいない、この広大な舞台――神々がかつて目撃したものとはまったく異っている戯曲《ぎきょく》のために準備された、このしゅろの舞台――から僕は急いで去って行った。そしてそれから、大きな波のとどろきに耳を傾けながら、大西洋沿岸にそって、ゆっくりと彼女を導いて行き、海岸の都市を一目見るために、所々立ち止るのであった。
僕たちの大先祖であるノアが、彼の息子に、この地上を分配して以来、これほど堂々とした地理学の講演が行われたことはなかったろう。話し終えると、僕は腰を下ろした。奮闘したあまりくたびれてしまったのだ。僕は額の汗をふいた。しかし僕は、この大仕事が終ってほっとし、自分で、世界中を見に行くという希望が、無益なことを彼女に納得《なっとく》させたことに満足した。
彼女の興奮も今では、すでに消え去っていた。彼女は、僕から少しはなれた所に立っていた。彼女は、眼を伏せ、何か考え込んでいるようだった。ついに彼女は、僕に近づいていった。あちこちと手を動かしながら。「あそこの山々の向うは何なの? こっちの都市の向うは――この世界の向うは?」
「水さ、ただの水だよ。さっきいわなかった?」僕は、大胆に答えた。僕はもちろん、パナマ地峡は、海の下に沈めてしまっていたのだ。
「水ですって! ずっと全部?」彼女は、さらにたずねた。
「そうさ」
「水なの、その向うには、何にもないの? ただ水だけ――いつまでも水だけ?」
僕は、これ以上、このようなひどい嘘《うそ》に固執《こしつ》しつづけることはできなかった。彼女は、あまりにも聡明であったし、僕は、あまりにも深く彼女を愛していた。そこで僕は立ち上り、彼方にある山々と、孤立した峯々《みねみね》を指さした。
「あの山の頂をごらん」僕はいった。「この世界もまた同じようなものだ――僕たちの今たっている世界も。この世界のまわりの到る所を流れている広い水の向うには、そして大きなボートにのって何か月もかかる程遠い彼方に、いくつもの島がある。そのうちのあるものは、小さいが、あるものは、この世界と同じくらい大きい。しかし、リマ、その島は、あまりにも遠く、あまりにも到達しがたいので、その島のことを話したり、考えたりするのは、無意味なことなのだ。その島は、僕たちにとっては、とんで行くことのできない、太陽や月や星のようなものなのだ。だから、もう僕のそばに腰を下ろして休んだ方がいい。だって君は、もう一切のことを知ってしまったのだから」
彼女は、困ったようなまなざしで、ちらりと僕を眺めた。
「私、なんにも知りはしないわ。あなたなんて何にも話してくれないんだもん。山とか河とか森なんて意味ないって私いわなかった? 世界中の全部の人種のことを話してよ。ごらんなさい。あそこには、クスコがあるわ。世界中で、他の類のないような都市がね。――あなたそういってたんじゃない? だけど、あそこに住んでいる人たちのことは何にもいってないわ。あの人たちも、世界の他の人たちとちがってるの?」
「リマ、僕のきく一つの質問に、君の方が先きに返事をしてくれれば、僕の方も話してやる」
彼女は、少し近寄ってきた。そしてききたくてたまらない様子だったが、口をひらこうとはしなかった。
「僕に返事をすると約束しなさい」僕は、いいはった。そしてそれでも彼女が、だまっているので、僕はつけ加えた。「じゃ、君にきくのはよそうか?」
「いってよ」彼女は、ささやいた。
「なぜ君は、クスコの人たちのことを知りたがるの?」
彼女は、僕にちらりと眼を向けたが、すぐ顔をそむけた。しばらくの間、彼女は立ったままためらっていた。しかしやがていっそう僕に近寄ると、僕の肩にさわりながら、柔らかにいうのだった。
「あっちを向いてて、私の方はみないで」
僕は、彼女のいう通りにした。そしてあまりにも彼女のそばに身をかがめたので、僕は彼女の暖い息が、僕の頸にかかるのを感じた。彼女はささやいた。「クスコにいる人たちは、私に似てる? そこの人たちは、私のいうことがわかる? あなたのわからないっていうことが。あなた知ってる?」
彼女の声のふるえは、心の動揺をあらわしていた。そして彼女の言葉は、僕をイタイオア山の頂上につれてきたり、全世界に住んでいるあらゆる種類の民族を訪ねて、彼らのことを知ってみたいということの、真の目的を暴露《ばくろ》しているのだ、そう僕は想像した。彼女は、僕を知って以来、自分が他の者とはちがう、孤立した存在であることに、気がつき始めたのだ。そして同時に、すべての人間が自分と似ていないとはかぎらないし、自分の神秘的な言葉を理解して、自分の考えと感情に入り込んでこられないこともあるまいと、夢想し始めたにちがいないのである。
「リマ、その質問には返事できるな」僕はいった。「ああ、かわいそうに、そこには君に似た人は誰もいないんだ。――一人も、ただの一人もいないんだ。そこにいる全部の人――司祭も、軍人も、商人も、職人も、白人も、黒人も、北米土人も、混血人も、そして男も女も、年寄も若者も、金持も貧乏人も、醜い者も、美しい者も――の中で、誰一人、君の話す美しい言葉を理解するものはいないだろう」
彼女は、ひとこともいわなかった。僕は、すばやくあたりを見廻した。そしてからだの前で指をにぎり、眼を伏せて、すっかり落胆してしまった様子《ようす》で、歩み去って行く彼女の姿に気がついた。僕は、はっとしてとび上り、急いで彼女のあとを追った。「ちょっとおきき!」僕は、そういって、彼女のそばにやってきた。「君は、君の言葉のわかる、君のような人が、他にいるのを知ってるのかい?」
「まあ、私が知らないっていう気! 知ってるわ。お母さんが、私におっしゃったもん。あなたが、おなくなりになった時、私はまだ小さかった。だけど、おお、お母さん、なぜもっと話して下さらなかったの?」
「だけど、どこに?」
「まあ、もし知ってたら、私がその人たちのとこに行ってるとは思わないの?――知らないから、あなたにきくのよ」
「ヌフロは知ってるのかい?」
彼女は、頭をふり、落胆した様子で歩いて行った。
「だけど、彼にきいたことはあるの?」僕は、さらにたずねた。
「たずねたことがないって! 一回だけぐらいじゃないわ――百回だけぐらいでもないわ」
突然、彼女は、歩みを止めた。「ごらんなさい」彼女はいうのだった。「今、私たちは、まだギアナに立ってるわ。あそこは、ブラジルね、そしてコルディレーラ山脈の方のあの高い所、あそこは、まだ人に知られていないのよ。あそこにも人は住んでるでしょうね。さあ、あそこに行って、私のお母さんと同じ人種の人をさがしましょう。おじいさんと一緒に。だけど犬はいやだわ。犬は、動物をおどかしたり、毒矢で私たちを殺そうとしている残忍な人たちに、吠えたてて私たちを売り渡すからよ」
「ああ、リマ、君にはわからないのかい? あそこは、とても遠いんだ。それに君のおじいさんは、かわいそうだけど、どこかの見知らない森で、疲労と空腹と老齢のために死んでしまうかも知れないんだよ」
「あの人は死んじゃうかしら――あの年寄りのおじいさんは? そうしたら、森の中のしゅろの葉を上にのせておけばいいわよ。そこに残しとけばいいのよ。だってもう死んじゃえば、おじいさんではないはずよ。もう一度|塵《ちり》に帰らなければいけないただの死体じゃないの。あの人は、遠くに行っちゃうわ――お星さまのいる遠くの方に。私たちは死なないで、どんどん、どんどん行っちゃうの」
こうした議論をつづけて行くことは、無意味なことだった。僕は、だまったまま、今きいたことを考えていた――その大部分が、不完全にしか知られていず、非常に多くの地域が白人によって未だ探検されていない、あの広大な緑の世界、そのどこかに、彼女に似た人種がいるということを。もしそのことが本当ならば、旅行者の耳に、そのような人種のうわさがとどいていないのは、奇妙なことだ。しかしここに、リマ自身が、そのような人種の存在する生きた証拠として、僕のすぐそばにいるのである。ヌフロは、今までいっていた以上のことを知っているにちがいない。今までのべてきたように、僕は、正々堂々とした手段で、彼からその秘密を知ることに失敗していたし、拷問台《ごうもんだい》や、ねじで親指をしめつける拷問器による、きたないやり方に訴えて、彼からその秘密もうばいとることもできなかった。インディアンにとっては、彼女は、単なる迷信的恐怖の対象――デイデイの娘――にすぎず、その素姓も何一つ知られてはいなかったのだ。そして彼女はといえば、かわいそうに、子供の時母親からきいた二、三の言葉をぼんやりとおぼえているだけで、しかもその言葉も多分正しく理解しているわけではなかったのである。
このような考えが、僕の心を通りすぎている間、リマは、だまって僕のそばに立っていた。おそらく、自分のいった最後の言葉に対する答えを待ちながら。やがて彼女は、身をかがめると、小さな石を拾いあげ、三、四ヤード向うに放った。
「どこにおちたかわかる?」彼女は、僕の方をふりむきながら叫んだ。「あれは、ギアナの国境の上よ――そうじゃない? まずあそこに行きましょうよ」
「リマ、僕を困らすのはおよしよ! 僕たちは、あそこには行けないんだ。あそこは、ほとんど知られていない、全然未開の荒地なんだ。地図の上の空白なんだよ」
「地図ですって?――私のわからない言葉を使わないで」
僕は、ごく簡単に、僕の言葉の意味を説明した。しかしもっと簡単な説明で充分だったのだ。それほど彼女の理解は早かったから。
「もし、そこが空白なら」彼女は、直ちに返事をした。「私たちを妨げるものは何もないじゃない。――私たちの泳いで渡れない河もないし、キトーのある山脈みたいに、大きな山脈もないじゃない」
「だが、リマ、僕はたまたま、インディアンの老人たちからきいて知っているのだが、あそこは、他のどんな所よりも、近づきにくい所なんだ。そこには、河が一つある。そして地図にはのっていないが、あの恐ろしく大きなオリノコ河や、アマゾン河よりも、渡りにくいものらしい。その河の流域には、マラリヤの発生する果てしのない湿地があり、深い森林におおわれ、獰猛《どうもう》な、毒をもった動物が一ぱいいるので、インディアンでさえも、あえてそこに近づこうとはしないのだ。そして河につかない前に、河と同じ名を持つけわしい山脈がある――君の小石がちょうど落ちたところだが――リオラマ山脈といってね」
この名前が、僕の唇からもれるや否や、稲妻のようにすばやい変化が、彼女の表情に現れた。そしていっさいの疑惑、いっさいの不安、いっさいの不機嫌、いっさいの希望、いっさいの落胆、そしてそれらの絶えず変化する種々の段階が、影のように、互いに追いかけながら消え去って行った。彼女は、今彼女の心の中にひらめいた、新らしい強力な感情に燃え、みなぎっているようだった。
「リオラマ! リオラマ!」彼女は、ひどく早口で繰り返した。そして、その声は、あまりにも鋭かったので、頭の中でなりひびくほどであった。「そこが、私の探してた所よ! そこで、私のお母さんは、見つけ出されたのよ――そこにはお母さんや私と同じ人種の人がいるのよ! だから私は、リオラマって名がついたの――それが私の名前よ!」
「リマ!」彼女の言葉に驚いて、僕は答えた。
「ちがう、ちがう、――リオラマよ。私が幼児の時、神父さまから洗礼を受けて、リオラマという名をいただいたの――私のお母さんの見つかった所の。だけど、それは、いうのに長すぎるから、リマと呼んでたのよ」
突然彼女は、口をつぐんだが、やがてひびき渡るような声で叫んだ。
「そしてあの人は、始めから全部このことを知ってたのよ――あの老人は――あの人は、リオラマが近くにあるのを知ってたんだわ――小石が落ちたついそこに――私たちは、そこに行けるわ!」
このように話しながら、手を上げて指さし、家の方にからだを向けた。彼女の様子のすべては、かつて僕が蛇にかまれて、最初に彼女とあった時のことを思い出させた。くすんだ赤い虹彩は、火のように輝き、きめの細かい、柔い肌は、情熱的なバラ色に燃え上り、からだは、激しい心の動揺のためにふるえ、そのために、ほどけた豊かな髪の毛は、風に吹かれたように揺れ動くのだった。
「裏切者! 裏切者!」なおも家の方をみつめながら、彼女は、せっかちな激しい怒りにみちた身ぶりで叫んだ。「あんたは全部知ってたのね。何年も私をだましていたのね。このリマにさえ。あんた自身の唇で、うそをついていたのね。ああ、恐ろしいことだわ、こんな恥ずべきことが、今までギアナにあったでしょうか? さあ、私のあとについていらっしゃい。私たちは、すぐリオラマに行きましょう」彼女は、僕があとについてくるかどうかも、見ようとはしないで、急いで立ち去って行った。そして、二分もたたないうちに、平らな山頂のはしからその姿を消した。
「リマ! リマ! 戻って僕のいうことをおきき! ああ、気がちがったんだね! 戻っておいで? 戻っておいで!」
しかし彼女は、戻ろうとも、立止まろうとも、耳を傾けようともしなかった。僕は、彼女のあとをみつめていたが、彼女は、岩だらけの斜面を、柔らかな足の裏と、絶対にあやまちを犯さぬ本能とを持った、敏活な野生の生き物のようにとびおりて行った。そして、いくらもしないうちに、下の方の断崖や木々の間から姿を消した。
「ヌフロじいさん」彼の小屋の方をみやりながら僕はいった。「あんたは、老いた骨に、刺すような痛みを感じないのかい? あんたの頭に、襲いかかろうとしている、あらしを予告している痛みを?」
それから僕は、腰を下ろして、考えに耽《ふけ》った。
十二
山を下って行く性急《せっかち》な鳥のような彼女について行くことは、不可能なことだったろう。また最後の場面で、年老いたヌフロの狼狽《ろうばい》を見るのも気がすすまなかった。彼らの争いは、彼ら自身で解決させた方がいい。その間、僕は、この二、三週間のあいだ、築きあげてきた、僕の考えの組織の中に、今新らしく知った事実を、どうあてはめたらいいかを知るために、その事実を頭の中で思いめぐらそうとした。しかしまもなく、もう時間がおそくなっていること、太陽が二時間以内に沈むであろうことに気がついた。そこで僕は、山を下り始めた。だが、何か所かの打ち傷と、たくさんのひっかき傷を作らないわけにはいかなった。ちょろちょろ水の流れている黒い岩に唇をつけて、冷たい水を一のみしたあと、僕は家に向って歩き始めた。道に迷わないように、森の西のはずれを離れないようにしながら。山の麓からヌフロの小屋に向って半分ばかり行った時、太陽が沈んだ。向ってはるか左側の方に、突然、ほけ猿の夕暮のさわぎが起ったが、三、四分するうちに止んでしまった。そのあとにつづく沈黙は、遠くにある木々の間のねぐらに帰ろうとしている鳥の鋭い叫びや、すぐそばできこえる、小鳥や蛙や昆虫の多数のかすかな音で時々破られるのだった。西の空は、今や琥珀色《こはくいろ》の炎のように燃え立ち、この果てしのない、遠く光り輝く空を背景に、近くにある枝や群った木の葉は、黒々としてみえるのだった。しかし、左手にある葉は、まだ、一様に暗緑色に見えた。まもなく夜は、一切の色をおおい、とびまわる、びわはごろもの光の他はまったくの闇になってしまうであろう。そしてこのびわはごろもは、鬼火のように、視力と方向感を混乱させてしまうので、人影の少い所を日が暮れてから歩く者にとっては、ありがたくない存在なのだ。
だんだんと不安が増してきたので、僕はどんどん道を急いだ。その時、突然、二、三ヤード前方の灌木の間から、低いうなり声がきこえてきたので、僕は、足を止めた。たちまち、二匹の犬、スシオとゴロソが猛烈にほえながら、かくれていた場所からとび出してきた。しかしすぐに僕であることを認め、こそこそと引き返して行った。恐怖が去ってほっとしながら僕は、しばらくの間歩きつづけた。その時、犬はいつも大ていヌフロのそばから離れていたことがないので、彼も、どこかこの辺にいるにちがいないという考えが浮んできた。そこで、僕はあとに戻って、犬が出て来た場所に向った。そこでしばらくの間待っていると、ぼんやりした黄色いものの姿が僕の眼に入った。けだものの頭が僕の方をみながら立ち上ったのだ。それは、ひろがってはいるが枯れて、しなびた灌木《かんぼく》の横の地面の上に横わっていたのだった。その灌木には、一本の匍匐植物《ほふくしょくぶつ》がはびこっていて、テーブルの上にかけられた綴織《つづれおり》のように、灌木の広い平らな梢を、完全におおっていた。その末端にあるほっそりした茎と葉は、幅の広いふち飾りのように、灌木のはしから突き出していた。しかしこのふち飾りは、地面に達してはいなかった。そして、その灌木の、暗い奥の方には、もう一頭の犬の姿がみえた。しばらくの間じっとみつめていると、そこにはまた、黒い横になったものの姿があるのに気がついた。これはヌフロにちがいない、そう僕は考えた。
「そこで何をしてるんです。おじいさん?」僕は叫んだ。「リマはどこに行ったのです――あの子を見ませんでしたか? 出ておいでなさい」
そこで彼は、からだを動かし、四つんばいになりながら、ゆっくりと這い出してきた。そしてついに、枯れた小枝や葉から脱け出して、立ち上り、僕の目の前に立った。彼は、異様に興奮した顔付だった。こけと枯葉がくっついている、白いあごひげは、すっかり乱れ、眼は、梟のようにこちらをみつめていた。また口は開いたり閉じたりし、歯は、怒ったいのししのように、がちがちとぶつかりあっていた。しばらくの間、ものもいわず、狂ったように僕をにらみつけた後、彼は、突然どなり始めた。「カラカスの野郎、きさまに最初にあった日は呪《のろ》われろ。きさまをかんで、十分に毒の力を発揮し、きさまを殺すことができなかった蛇は呪われろ! ちきしょう! きさまは、リマと話をしていたイタイオアから戻ってきたところだな。子をなくした危険な虎をあざけるために、その穴に戻ってきたのだな。ばか者め、もしわしの犬に食われたくないなら、別の方を歩いていればよかったのにな」
この怒り狂った言葉は、少しも僕をびっくりさせなかったし、大して驚かしさえしなかった。この老人は今まで常にいんぎんで礼儀正しかったのだが。彼の攻撃は、まったく無意識的に行われたものだとは思えなかった。激しく興奮した様子や、激しい話し方にもかかわらず、前もって下げいこした役を演じているようにしかみえなかった。僕は、ただ腹が立っただけだった。そこで前に歩み出て、彼の胸をしたたかげんこでなぐりつけてやった。「言葉に気をつけろ、おいぼれめ」僕はいった。「えらい人に話しかけているのを忘れるな」
「わしに何をいう気だ」彼は、断乎とした態度で、かん高いきれぎれな叫びをあげた。「ここがカラカスの舗道だと思っているのか? きさまを保護する巡査はいないぞ。この荒地には二人の他には誰もいないんだぞ。ここでは、名前も肩書も役にはたたねえ。男と男の一騎打ちだ」
「老人と若者のな」僕は答えた。「俺《おれ》は若いために、きさまよりすぐれているのだ。きさまは、俺に喉をしめつけられて、その不遜《ふそん》さをたたき出してもらいたいのか」
「何だと、俺を暴力で脅迫《きょうはく》する気か?」彼はこう叫ぶと、とびかかろうと身がまえた。「わしが助けて、宿と食事をあたえ息子同様にしてやったきさまが! わしの平和の破壊者め、まだわしを傷つけ足りないというのか? きさまは、わしの孫娘を、わしの心から盗みやがった。いろんな作り話ナ、あの子を狂わせてな。わしの子を、わしの天使を、リマを、わしの救い主を! きさまは、きさまの、うそをつく舌で、わしの孫娘を、わしを苦しめる悪魔に変えてしまったのだぞ! そしてきさまは、それだけで満足せず、わしの疲れ弱ったからだをぶんなぐって、きさまの悪事のとどめをさそうっていうんだな! もう何もかも最後だ! わしのいのちもとりたければとれ! もうそんなものは一文の値打ちもないんだからな。もう生きるのもいやになった!」こういうと、彼は、さっとひざまずき、ぼろぼろになった古い外套《がいとう》を、ぴりりと裂いて、裸の胸をさし出した。
「射つがいい! 射つがいい!」彼は叫んだ。「もし武器を持っていないなら、わしのナイフを使え、そしてこのいたましい胸に突っ込んで、わしのいのちをとるがいい!」こういって、ナイフをさやから引き抜くと、それを僕の足もとにたたきつけた。
このようなすべての行為は、ただ僕の怒りと軽蔑をそそるのに役立っただけだった。しかし、僕がまだ返事をしないうちに、少しはなれた所に、僕たちの方に向って進んでくる、影のようなものが眼に入った。――それは、灰色をした形のはっきりしないもので、木々の間を低くとんでいる、大きな梟《ふくろう》のように、敏捷《びんしょう》に音もなくすべり込んできた。それはリマであった。そして僕がその姿を見るか見ないうちに、彼女はもう僕たちの所にいた。彼女は、ヌフロの前に立っていた。彼女の全身は、激情のためにふるえ、その大きくみひらかれた眼は、あたりの薄暗がりの中で、光り輝いているようだった。
「あんたは、ここにいたのね!」彼女は、耳にいたましくきこえるばかりの、例のせっかちな、なりひびくような声で叫んだ。「あんたは、私から逃げ出そうとしたのね! この森で、私の眼から、姿をかくそうなんて? なさけないわね! 私にとって、あんたが入用だということがわかってないの?――まだあんたの役目がすんでいないのがわからないの? とげのある小枝で、リオラマまでむち打たれ、あごひげをつかんで、そこまで引きずって行かれたいの?」
彼は、ひざまずいて、やせこけた手で、外套をひらいたまま、口をあけてぼんやり彼女をみつめていた。「リマ! リマ! わしをあわれんでくれ!」彼は、あわれっぽく叫んだ。「ああ、おまえ、わしは、リオラマまで行くことはできないのだ。そこは、遠すぎる――あんまり遠すぎる。それにわしは年をとっているから死んでしまうだろう。ああ、リマ、わしが死ぬところを助けてやった婦人の娘、わしをあわれんでくれないのか? わしは死ぬよ、死ぬにきまってるよ!」
「死ぬんですって! リオラマに行く道を教えないうちは、だめよ。私が、自分の眼で、リオラマを見たら、死んでもいいわ。そしたら、あんたの死を喜んであげるわ。あんたが殺して、食べた全部の動物の子供も、孫もいとこも友だちも、あんたが死んだことをきいたら喜ぶと思うわ。だって、あんたは、ここ何年もうそをついて私をだましてきたんですもの――私さえも――だから生きてる値打ちはないわ! さあ、リオラマに行きましょう。今すぐ立ちなさい、私の命令よ!」
立ち上る代りに、彼は突然手をのばして、地面からナイフをひったくった。「では、わしに死んでほしいというんだな」彼は叫んだ。「わしが死んだら喜ぶというんだな。では見ているがいい。おまえの眼の前で死んでみせる。リマ、わしは、今自分の手でこのナイフを心臓につきさして、死のうとしているのだ!」
このようにいいながら、彼は、ナイフを頭の上に、悲しげにふり上げたが、僕は、動こうとはしなかった。僕は、彼が自分の手で、生命を絶とうというつもりはなく、まだ芝居をつづけているのを確信していたのである。しかし、リマは、このようなことがわからなかったので、それを別の意味にとった。
「まあ、あんたは自殺する気なのね!」彼女は叫んだ。「まあ、悪党、あんたが死後どうなるか知るまでおまち。全部のことを私のお母さんに、いいつけるわ。私のいう言葉をきいてから自殺なさい」
今や彼女もまたひざまずき、指を組み合わせた両手を上げ、憤《いきどお》ったキラキラ光る眼で、木々の梢《こずえ》の向うにのぞいている薄暗い青い空をじっとみつめ、澄んだ、ふるえるような調子で、早口に話し始めるのだった。彼女は、天国にいる彼女の母親に向って祈るのであった。ヌフロはといえば、口をぼんやりとあけ、眼を彼女に据えたまま、ナイフをつかんでいる手を、からだのわきに下ろして、心をうばわれたかのように耳を傾けていた。僕もまた、最大の驚嘆と嘆賞とをもって、耳を傾けた。何故なら今まで彼女は、僕に対して内気で、口数が少なかったのに、今は、あたかも僕のいるのを忘れてしまったかのように、大声で、心の奥底の秘密を話していたのだから。
「おお、お母さん、お母さん、私のいうことをよくきいて。あなたの最愛の子供であるリマのいうことを」彼女はいい始めた。「ここ何年もの間、おじいさん――ヌフロ――あなたをみつけた年寄り――は、邪悪にも私をだましつづけてきました。かつてあなたがおいでになり、今もあなたの一族がいるというリオラマの話を今まで何度もいったのに、何一つ教えてはくれません。ある時は、それは途方もない、遠くにある広大な荒地の中にあり、大きな木の幹よりももっと大きな蛇や、邪悪な霊や、いっさいの外国人は殺してしまう蛮人がたくさんいるのだといいました。またある時には、この世の中にはそんな所は存在しないと断言しました。それは、インディアンからきいた話だ、そんなうそを私に、あなたの子供であるリマにいうのです。おお、お母さん、そんな不正なことをお信じになれるのですか?
「しかしそのうち、私たちの森にヴェネズエラから、一人の外国人、一人の白人の男の方がおいでになりました。それは、蛇にかまれた例のアベルという方です。ただ私はその名前では呼びません、他の名で呼びますが、そのことは前に申上げたことがありますわ。だけどあなたは、よくきいていらっしゃらなかったでしょうし、お耳にも入らなかったでしょう。だって、私は低い声でお話ししたし、今のようにひざまずいて、厳粛《げんしゅく》にお話ししなかったんですもの。ああ、お母さん、申上げておかなければなりませんわ。あなたが、お亡くなりになったあと、ヴォアの神父さまは、何度も私におっしゃってましたわ。あなたにでも、聖人にでもマリアさまにでも、お祈りをしようと思う時には、よくきいてわかって頂きたいと思うなら、教わった通りにいわなければならないと。だけどそれはとても変に思われたわ。だってあなたはそんな風には、おっしゃらなかったもの。だけど、あなたはその頃は、ヴォアに住んでいらしたけど、今は、天国にいらっしゃるんだから、多分あなたの方がよく御存知のはずよ。だからおお、お母さん、私のいうことをよくきいて下さい。そして私のいったことは一言もききのがさないで下さい。
「この白人の方が、私たちと一緒に、何日かをすごしたあと、一つの奇妙なことが私に起りました。そしてそのことが私を変えてしまったのです。だから、リマであることにはちがいはないのですが、以前のリマではなくなったのです。――それほど、それは奇妙なことでした。私は、何度も池に行っては、自分の姿をうつして、私が変ってしまったのかどうかのぞいてみたのです。しかし、少しも変ってはいませんでした。それは、まずその方の眼から私の眼に入ってきて、稲妻が、夕暮の空に浮ぶ雲をくまなく充たすように、私を充たすのです。それからあとは、眼からばかりではありませんでした。あの方を見る時はいつも私の中に入ってきました。たとえ少し離れたところから見た時でさえ。またあの方の声をきく時も、特に、あの方が手で私にさわった時、それは私の中に入ってくるのでした。あの方が見当らない時、ふたたびあの方の姿を見るまでは、私の心は落着かないのです。またあの方を見ていると、嬉しくて仕方がないのですが、怖れと心の乱れのために、あの方から姿をかくしてしまうのです。おお、お母さん、それは口でいえることではありませんでした。一度あの方は、私を腕の中に抱いて、そのことを無理に私にいわせようとしました。しかしあの方には私の気持がわからなかったのです。しかしそれはいっておく必要がありました。やがて、私は、それが私の一族の人にしかいうことのできないことだと思うようになりました。一族の人なら、私のいいたいこともわかってくれ、私に返答をあたえて、そのような時にはどうすればよいかを教えてくれたでしょうから。
「それから、お母さん、次には、このようなことが起りました。私は、おじいさんの所へ行って、リオラマにつれて行ってくれるよう、最初は、頼み、それから命令しました。しかし彼はどうしても私のいうことをきいてはくれないのです。私のいうことに注意さえ払わないのです。そして、私がそのことを話すたびに、立ち上り、急いで私のところを離れてしまうのです。また彼のあとを追いかけて行くと、筋の通らない、腹立たしそうな返事を投げつけるのです。リオラマに行ったのは、もうずっと前のことだから、どこにあったか忘れてしまったとか、そんな所は、この世の中にはないとか、同時にちがったことをいうのです。私には、そのどっちが本当で、どっちがうそなのかわかりません。そんなことなら、全然返事をしない方が、まだましです。こんなわけで、彼から助けを受けることはできませんでした。そしてこのように失敗してしまい、あの外国の方以外に、話しかける人がいないので、私は、あの方の所に行って、一緒に、私の一族を求めて、世界中を探しまわろうと決心したのです。これをきいて、お母さん、あなたは驚いておしまいになるでしょう。だって、あの方の前にいると、恐怖におそわれて、見えない所に姿をかくしてしまう私だったのですから。しかし私の望みは、あまりにも激しかったので、しばらくの間、私の怖れをまかしてしまったのです。そこで私は、あの方が一人で森の中に腰をおろしている時、あの方の所に行きました。その時、あの方は、私の姿がみえないので、悲しそうな様子をしていたのです。そして世界中の全部の国を教えてもらうために、イタイオアの山頂にあの方を案内しました。私はあの方の前にいると怖ろしさのためにふるえます。しかしそれは、インディアンや、残酷な人たちに感じるような恐怖とは別のものなのです。そのこともわかって下さらなくてはなりません。だってあの方は、よこしまな気持は少しもなく、美男子で、言葉も優しく、いつも私と一緒にいたいと思っていらっしゃるんですもの。だから、私が今まで見てきた男の人とは、全然ちがうのです。あなた一人だけを除いた、女の人全部と私がちがっているのとまったく同じに。おお、優しいお母さん。
「山の頂上で、あの方は、世界の全部の国々を、大きな山や、河や、平野や、森や、都市を、一つ一つ位置を示しながら名前をあげてくれました。そして種々の人種、白人のことも蛮人のことも教えてくれました。しかし私たちの一族のことについては、何一つ教えてくれなかったのです。またこの世界が終った向うには、水、また水のあることを教えてくれました。そして、コルディレーラ山脈の側にある、ギアナの国境の、人に知られていない所の話をした時、あの方が、リオラマの山々の名をあげたので、初めて、私の一族のいる場所がわかったのです。そこで私は、イタイオアの山の頂上にあの方を残して――あの方は私についてこないので――おじいさんの所にかけ戻り、うそをついたことを非難しました。彼は、私が一切のことを知ったのに気がつき、私のところから逃げ出して森の中に行ってしまったのです。そして今ふたたび、この森の中で、例の外国の方と話しているところを見つけたわけです。おお、お母さん、そして今、私につかまって、もはや逃げられないと悟《さと》ったので、私をリオラマにつれて行かないように、自殺しようとナイフを手にしているのです。今彼は、私があなたに話し終るのを待っているのです。死んだあとで彼がどうなるかを彼に知らせたいと思って。ですから、お母さん、よくきいて、私のいったことをなさって下さい。彼が自殺して、あなたのいらっしゃる所にやってきたならば、当然彼のうけるべき罰を脱がれないように、よく見ていて下さい。彼のやってくるのを充分に見張っていて下さい。彼は、実にわるがしこく、人をだますのが上手で、あなたの眼から、一生けんめい姿をかくそうとするでしょうから。もし彼が見つかったら――彼が年寄りで、皮膚はインディアンのように茶色く、白いあごひげを生やしています――、天使たちに、さし示して、いって下さい。『これが、リマにうそをついた悪い男のヌフロです』と。そして天使たちに彼をとらえて、とんで逃げ出すことができないように、彼の翼を火で焼くようにいいつけて下さい。それがすんだら、山の下の暗いほら穴に彼を押し込んで、百人の人でも取りのけられないような大きな石を、その口の上におかせ、永久に、一人きりで、その暗闇の中に置き去りにさせて下さい!」
話しが終ったので、彼女は、すばやく立ち上った。するとヌフロは、ナイフを落し、彼女の足もとに、平身低頭した。
「リマ、――娘よ、娘よ、それだけはゆるしてくれ!」彼は、恐怖のあまり、切れ切れになった声で叫んだ。彼は、手で彼女の足をつかもうとした。しかし彼女は、嫌悪《けんお》の表情で、彼から身を引いた。彼はなおも、傷を負ったとかげのように彼女のあとを這いつづけ、許してほしいとあさましく嘆願し、彼に敵意を持つように彼女が頼んだ婦人を死からすくってやったことを、彼女に思い出させ、命令されたことは何でもするし、彼女のためなら喜んで死ぬともいった。
それは、あわれな光景であった。そこで、僕は、彼女の傍に急いで行き、肩に手をかけて、許してやるように頼んでみた。
返答は、思ったより早くやってきた。彼女は、ふたたび彼の方にふりむくと、次のようにいうのだった。「ゆるしてあげるわ、おじいさん。さあ立ちなさい、そしてリオラマに私をつれて行きなさい」
彼は、身を起した。しかしそれは膝までであった。「だが、まだお前は、あのお方に、お話していない!」彼は、なお心配そうな様子だったが、ふだんの声を取戻していうのだった。そして親指を上にあげて動かした。「なあお前、わしは年寄りで、きっと、途中で死んでしまうだろう、そのことをよく考えてくれ。そんな時、わしの霊魂はどうなってしまうだろう? だってお前は今、あのお方に何もかもいってしまったから、そのことはいつまでもおぼえていられるにちがいない」
彼女は、しばらくの間、何もいわずに彼をみつめていたが、やがて少し離れた所まで歩いて行くと、ふたたびひざまずき、両手を上げて、すでに星のちらばっている青い空に眼を注いで祈るのであった。
「おお、お母さん、私のいうことをよくきいて下さい。私は、あなたに新らしく申上げることがあるからです。おじいさんは、自殺するのを止めて、私のゆるしを求めています。そして私のいうことをきくと約束しました。おお、お母さん、私は、彼をゆるしてやりました。彼は今、私をリオラマに、私たちの一族の所に、つれて行くそうです。そんなわけですから、お母さん、もし彼が、リオラマに行く途中で、死んだとしても、彼の不利になるようなことは何もしないで下さい。そして、最後に私がゆるしたことだけを思い出して、あなたのいらっしゃる所にきた時には、充分に歓迎してあげて下さい。それが、あなたの子供である、リマの望みなんですから」
この二度目の嘆願が終るや否や、彼女はふたたび立ち上って、彼と活発な議論を始めた。そして一刻も猶予《ゆうよ》せず、リオラマにつれて行くよう彼をせきたてるのだった。一方、老人は、今や恐怖から自分自身を取戻し、このように重大な事業は、多大の配慮《はいりょ》と準備が必要であると主張した。またこの旅行は、だいたい二十日を要し、食料を充分に用意して出発しないならば、半分も行かないうちに彼は、餓死してしまうだろう、そして、彼が死んでしまえば、前よりもいっそう具合の悪いことになるというのだった。彼は最後に、七、八日以内には出発できないと断定した。
しばらくの間、僕は興味深くこの議論に耳を傾けていたが、ついにふたたび老人の味方になって口をはさんだ。この、かわいそうな少女は、さっき嘆願した時に、はからずも、僕の持っている力を、僕にもらしてしまったのだが、その力を使うことは、快い経験だった。ふたたび僕は彼女の肩に手をかけて、このように長い旅行の準備に、七、八日かかるのは当然のことだと請《う》け合ってやった。彼女は、すぐさま僕の言葉に従った。そして、僕の顔に一瞥を投げかけると、老人のところに、僕を一人だけ残したまま、いっそう深い暗がりの中に、すばやく立ち去って行った。
もはや、まっくらになってしまった森を通って、一緒に小屋に戻る途中、僕は、リマと話している最中、最初どのようにしてリオラマの話が出てきたかを彼に説明してやった。すると彼も、事情を知って、自分の使った乱暴な言葉づかいをあやまるのだった。この個人的な問題もかたづいたので、彼は、これから行おうという長い旅行の話をした。そして多量のくん製の肉を用意して、ひとかさねのカサヴァパン、乾した西洋かぼちゃの細片、またそれと似たような罪のないちょっとした食料と一緒に、袋の中につめ込み、リマの鋭い眼と敏感な鼻から、隠匿《いんとく》するつもりなのだとひそかに僕に告げるのだった。最後に彼は、長いとりとめのないおしゃべりをした。僕はそれをききながら、リマの素姓か、リオラマにいる彼女の一族のことに話が進みはしないかと考えていたのだが、そうした期待も空しかった。彼は、彼女が、頭の中で奇想に苦しめられていること、しかし彼女は、天国の有力者、特に天国の人々の間では、非常に重要な人物になっている、彼女自身の母親に勢力を持っているので、彼女の望みに従うことは、賢明な政策であるということをいうだけで、それ以外の話はしようともしなかった。彼は、明らかに目くばせ(ただ暗かったので、僕はそれを見落してしまったのだが)をしながら、僕の方を向いて、天国の法廷に友人を持っていることは、すばらしいことだとつけ加えた。それを祝うかのように、一人で悦に入りながら彼は次のように話しつづけた。いっさいの社会のおきてに従い、時々教会を維持するために寄付したり、ミサに出たり、告解したり、罪の赦しを受けたりすることは、一般の人々には必要なことである。そのため、罪の赦しを受ける司祭も教会もない、このような荒地に行ったものは、霊魂を失う危険を持っているのだと。しかしヌフロ自身は、事情がちがっていた。彼は、死んだ時に、煉獄の火をのがれ、いっさいの罪のけがれを持ったまま、まっすぐ天国に行くこと――これは、きわめて稀なことだと彼はいうのだった――を期待していたのである。そして彼、ヌフロは、聖人ではなく、自分の犯した悪事の刑罰を逃れるために、ほんの若い時分に、はじめてこの荒地に住むようになったのであった。
この時僕は、罪深い人間にとって、天国などというものは、幾分住みにくい所となるのではないかと口をはさむ誘惑を抑えることができなかった。すると彼は、その点についてはよく考えてみたが、将来のことには、何一つ恐怖を抱いていない、また自分は、年をとっていて、天国から、この世のことを治めている人々の政治のやり方を観察していて、それによって、天国とはどのようなものかということが、はっきりわかっており、たとえ栄光に輝く人々がたくさんいるとしても、その中には、充分友だちになることができ、ちょっとした汚れのために、自分をわるく思ったりしない人にもあうことができるだろうと信じていると、上機嫌で答えるのだった。
死後、彼にとって色々と好都合にことがはこぶ能力を、リマが持っているという考えは、最初どのようにして彼の頭に浮んだのか、僕にはわからない。それはおそらく、彼女の強烈な個性と、激しい信仰とが、無知で迷信的な心に作用した影響とみてさしつかえないだろう。そして彼女が、天国にいる母親に嘆願している間、僕にはそれが少しも馬鹿げたことのように思われなかったのだ。とんで逃げることができないように、老人の翼を焼いてしまうことをきいた時でさえ、僕は嘲笑《ちょうしょう》する気にはならなかったのである。うっとりしたようなその顔、なりひびく情熱的な口調の中の、人の心に深くしみ込むような熱烈な確信、血を流すことを憎み、あらゆる生き物、その中の最もつまらないものにさえも非常に優しかった彼女が、自殺するならしてもいいが、うそばかりいっている霊魂が来世では、どのように彼女の復讐《ふくしゅう》を受けなければならないかを聞いてからにしろといった時のきらめくような冷笑、自分の心の最も深い秘密をもらしながら、自分の身に起ったさまざまの事実を物語った明瞭さ、――これらすべてのものは、僕に対して奇妙な説得力を持つのだった。彼女のいうことをきいていると、僕はもはや文明人でも、信仰のない者でもなくなったのである。僕の身近に感じられるように思われる超自然のものに、彼女自身きわめて近いのであった。僕の心の中に潜《ひそ》んでいる漠然とした感情が、活発に動き始め、頭の上の青い空に注がれている、神聖な光り輝く彼女のまなざしを追って行くと、彼女自身に似たもう一つのもの、地上にいる子供のとび上ってくる言葉をとらえようと、その青ざめた気高い顔を傾けている、栄光を受けたもう一人のリマを僕は見たように思うのだった。そして、あのようにばかげ切った妄想で盲目になっている心を現している、老人の話をきいている今でさえ、僕はまだあの祈りの奇妙な影響から完全に抜け出していないのだった。疑いもなく、それは単なる妄想であったろう。
彼女の母親は、ほんとうにあの空の上にいて、リマの声に耳を傾けているのではなかった。しかしなお、一種の神秘的な経路を経て、リマというものは、迷信深い年老いたヌフロにとってとまったく同じように僕にとっても、何かかけ離れた、神聖な存在となったのである。そしてこの感情は、僕の中にある恋心とまざりあい、それを純化し、高尚なものにし、限りなく甘美で高価なものにするのだった。
しばらくの間、僕たちは何もいわなかったが、やがて僕が口を切った。「おじいさん、あんたは、リマとした大議論の結果、彼女をリオラマにつれて行くことには同意したわけだが、僕を一緒につれて行くということは、あんたもリマもひとこともいわなかったな」
彼は、突然立ち止ると、じっと僕を見つめた。あたりはすっかり暗くなっていて、彼の顔を見ることはできなかったが、僕は彼の驚きを感じることができた。
「旦那!」彼は叫んだ。「わしらは、あんたがいなけりゃ行くことはできない。あんたはあの子の言葉をきかなかったのですか?――あの子がこのきちがいじみた旅行をしようというのも、あんたのためだといっていたのを。もしあんたが、旅行に行かないなら、旦那、わしらは、ここにとどまっていなければならない。だがそのことは、リマがどういうでしょうな?」
「それならいい、僕は行こう。だが一つの条件はつけてもらいたいな」
「それは何でしょう?」彼は、突然、口調を変えてたずねた。その口調は、彼がふたたび用心深くなったことを告げているようだった。
「それは、リマがどんな素姓《すじょう》の娘なのか、どうしてこの人里離れた場所で、あんたと一緒に住むようになったのか、彼女が、リオラマに訪ねて行きたい一族とは、どういうものなのか、を僕に話すということだ」
「ああ、旦那、それは長い、そして悲しい物語です。だが何もかもあんたにきかせてあげましょう。旦那、あんたはきく義務がありますよ。だってもうわしらの一員になったんですからな。そしてもはやわしがこの世からいなくなって、あの子を保護してやれなくなった時、あの子は、あんたのものです。そしてこの年老いたヌフロほど、あの子にいろいろなことがしてやれなくても、おそらくあの子はその方をずっと喜ぶでしょう。旦那、あんたは、肉など食って罪を犯すことなく、あの子のそばにいることが、できるでしょう。あんたは、類《たぐ》い稀《まれ》なすばらしい花をいつも自分のそばにおいて、楽しむことができますからな。だがそのはなしは、長くかかりますよ。だから、リオラマに行く途中で、全部お話しすることにしましょう。
わしらが長いみちのりを歩いている時、夜、炉のそばに腰を下ろした時、他に話すことといってはありませんからな」
「いや、いや、おじいさん、そんな風にのばしてもらっては困るよ。僕はたつ前にそれをきいておかなければならない」
しかし彼は、旅行までは、その話をとっておくつもりでいたのである。そしてさらに少しばかりいい争った後、この点において僕は譲歩した。
十三
その日の夜、炉の傍で、さっきまであれほどみじめな様子をしていたヌフロじいさんも、今は色々な空想をめぐらしては、楽しんでいるらしく、いつもよりも快活で饒舌《じょうぜつ》だった。彼は、ちょうどいい時にいうことをきいて、もう少しで受けるところだったきびしい罰をのがれた子供のようだった。しかしそんな彼の心とくらべても、僕の心の方がはるかに軽やかだった。やがてやってきた他の一つの夜を除いて、その日の夜は、今僕の人生の最も幸福な時として、僕の思い出の中に輝くのである。何故ならリマが、その甘美な秘密を僕に知らしたからだ。また彼女は、自分の味ったあの感情の意味がよくのみ込めていないので、ちょうど敵から逃げるように僕から逃げていたのだが、そのためかえって、そのことに対する僕の考えに純粋な喜びをつけ加えていたのである。
今夜、彼女は、いつものごとく、臆病なはつかねずみのように、自分自身の部屋に、こっそりと入ってしまわなかった。そしてその一晩の間、特別の恩典をあたえて、僕たちの所にとどまっていた。彼女は、炉から相当はなれた、部屋の暗い片すみに坐っていたのだが、そこは、始めて彼女の姿を室内に見出し、外にいる時とはすっかり変ってしまった彼女をいぶかしく思った、同じ部屋の片すみであった。
そのすみから、彼女は、炉の火の光りを一ぱいに浴びた僕の顔を見ることができた。しかし彼女の方は、かげになり、眼は、伏せられたまつげのためにおわれていたのである。この場所に坐りながら、自分のものである幸福を深く意識することは、ちょうど強い美味なぶどう酒を飲んでいるようなものだった。その影響もまた、ぶどう酒のようなもので、僕は空想力が自在になり、非常に雄弁になってきたので、年老いたヌフロは、何度も僕のことをほめそやし、あなたは詩人だ、それに全部|韻《いん》をつけてくれと叫ぶのだった。僕は、即興的に詩を作る技術――これは、僕たちの国においては、ヌフロのような階級のものが、ひどく賞賛する、言葉に韻をつけて調子よくする、下らないげいとうなのだが――を修得していなかったので、彼の所望をいれて彼を喜ばすことはできなかった。しかし、この夜、僕の感情は、最も鋭敏な詩人たちが、霊威を受けた時に用いた純粋な言葉によってしか、適当にいいあらわすことができなかったのである。そこで僕は、吟誦《ぎんしょう》を始めた。しかしそれは、現代の詩からではなかった。前世紀の詩からでも、さらに偉大な十七世紀の詩からでもなかった。僕は、もっと古いロマンスやバラッドに固執《こしつ》した。それらは、甘美な古い詩で、楽しげなものでも、悲しげなものでもなく、常に鳥の歌のように、自然でのびのびとしていて、非常にわかりやすいために、子供でさえも理解できるものであった。僕のおぼえているもの、あるいは吟誦したいロマンスの種がつきたのは、すでに夜おそくであった。リマは、それがすむまで、かげになったすみを出て、自分の寝室にこっそり行くようなことはしなかった。
僕は、彼らと一緒に行くことに心を決め、その点については、ヌフロを安心させておいた。リマ自身の口から、その依頼をききたくて仕方がなかったが、翌朝、ヌフロが犬をつれて、こっそり出かけて行ったあと、彼女と二人きりであう機会が訪れてきた。彼が出かけたあと、僕は、注意深くその家を見張りつづけた。見たいと思う鳥が灌木にかくれているので、その鳥が気づかないうちに、とび去ることのないようにその灌木を見張っている人のように。
やっと彼女は、その姿を現した。そして、行手に僕の姿をみとめると、ふたたび姿をかくそうとした。そして僕が話しかけた時は、昨日あれほど大胆だったにもかかわらず、いつもよりなおいっそう臆病になっているようだった。
「リマ」僕はいった。「君はある朝、木の下で、僕たちがはじめて一緒に話をした所をおぼえているかい? その時君は、君のお母さんの話をして、お母さんは死んでしまったと僕にいったね」
「ええ」
「僕はこれから、その場所に行って君を待っている、そこでもう一度、リオラマに行く旅行のことを君に話さなくてはならないんだ」しかし彼女がだまっているので、僕はつけ加えた。「あそこで僕とあう約束をしてくれる?」
彼女は、半ば顔をそむけて、頭をふった。
「リマ、僕たちの契約のことは忘れたの?」
「いいえ」彼女は答えた。そして突然、僕の方に寄ってくると、低い声でいうのだった。「あなたを喜ばせるために、あそこに行くわ。だからあなたも私のいう通りしてくれなきゃだめよ」
「リマ、何がしてほしいの?」
彼女は、いっそう僕に近づいた。「よくきいてて! 私の眼の中をのぞいたり、手で私にさわるのはよして」
「ね、リマ、君と話をしてる時は、君の手をにぎってなくちゃならないんだ」
「いやよ、いやよ、いやよ」彼女は、僕から身をひきながらささやいた。そこで僕は彼女のいう通りにする他はないと思い、しぶしぶ同意したのであった。
まもなく彼女は、約束の場所に現れた。そして、きれいな黄色い砂のある同じ場所で、以前と同じように僕の前に立った。彼女は、指を閉じたり開いたりしていたが、やはり何か心配なことがある様子だった。ただ今の心配は、その性質がちがうらしく、いつものよりいっそう大きいもののようであった。そしてそのために、ふだんよりいっそう臆病になり、無口になっているらしかった。
「リマ、君のおじいさんは、リオラマにつれてってくれるそうだね。僕も一緒に行ってほしいかい?」
「まあ、あなたは知らなかったの?」彼女はそう答えながら、僕の顔に、すばやい一瞥《いちべつ》を送った。
「僕にわかるはずがあるかい」
彼女の眼は、落着かない様子で、遠くをさまよっていた。「イタイオアの山の頂で、あなたは、私の知らないことをたくさん教えて下さったわ」彼女は、あいまいな様子で返事をしたが、それはおそらく、あれほど多くの地理学の知識を持っているにもかかわらず、彼女の心の最も深い所にある考えさえ、何一つ知らないのはおかしいということを、ほのめかすためであったのだろう。
「いってごらん、何故リオラマに行く必要があるのか」
「もういったじゃない。私の一族と話をするためよ」
「その人たちに何をいうの? いってごらん」
「あなたにはわからないことよ。話しようがないわ」
「スペイン語でいえば、僕にもわかるよ」
「ああ、そんなの話じゃないわ」
「ゆうべ、お母さんにはスペイン語で話してたじゃないか。お母さんに何もかも話したんじゃないか?」
「ちがうわ――あの時はいわないわ。私が全部いう時は、もっとちがった風に、低い声でいうわ――ひざまずいて、祈ったりなんかしないで。夜、森の中で、一人っきりでいる時、私は話すの。だけど大ていお母さんは私のいうことをきいてないと思うわ。お母さんは、この地上にはいないの。天国にいるのよ。――あんな遠くに! お母さんは返事なんかしてくれないわ。だけど一族の人に話せば、私に答えてくれるでしょう」
そして彼女は、それ以上何もいうことがないとでもいうように、顔をそむけた。
「リマ、君の話はそれだけ?――たったそれだけのこと?」僕は叫んだ。「おじいさんには色々話したのに、死んだお母さんにも色々と話したのに、僕にはこんな少ししか話さない!」
彼女は、ふたたびふりむいた。そして眼を伏せながら答えた。
「おじいさんは私をだましてたの。――私は、あの人にそのことをいったの。そしてお母さんにはお祈りしたのよ。だけど、私のいうことがわからないあなたに、何をいうことができるの? ただ、あなたは、あの老人や、私がヴォアで知っていた人たちとはちがっているわ。まるっきりちがっていて――それで同じだわ。あなたはあなた、私は私よ。どうしてなんでしょう――あなたにわかる?」
「わからないね、いや、わかってはいるけれど、いえないんだ。だけどもし君の一族をみつけたら、一体どうするつもり?――僕をおいてその人たちのところに行くの? ただ君を失うために、はるばるリオラマまで行かなくてはいけないのかい?」
「私のいる所に、あなたもいなくちゃいけないの」
「なぜ?」
「そこにかいてあるわ。私に見えないと思うの?」それが僕の顔に現われているのを示す、すばやい身ぶりをしながら、彼女は答えた。
「君は眼がいいね、リマ――鳥みたいに。僕の眼は、そんなによくない。もう一度、その美しい野生の眼をのぞかせてくれない? そうすれば、おそらく僕も、君が見たと同じくらいたくさんのものをその中に見るだろう」
「まあ、いやよ、いやよ、そんなことしないで!」彼女は、困ったようにささやいて、僕から身を離した。そして突然、まばゆいばかりに美しく顔を染めて叫ぶのだった。
「あの契約のことを忘れたの――あなたのした約束を?」
彼女の言葉をきいて、僕は自分自身を恥じた。そして返事をすることができなかった。しかしその恥しさも、美しい彼女のからだを腕で抱きしめ、彼女の顔に接吻の雨をふらせたいという激しい衝動《しょうどう》にくらべるならば、とるに足りない弱々しいものにすぎなかった。僕はそういう慾望を感じた自分に嫌悪をおぼえ、顔をそむけた。そして木の根に腰を下ろして、手で顔をおおった。
彼女は、さらに僕の方に近寄ってきた。僕は、指の間から、彼女の影を見ることができた。次いで彼女の顔と、もの思いに沈んだ、同情するような眼を、僕は見た。
「ゆるしてくれ、リマ」僕は、ふたたび、顔から手を下していった。「僕は、君を喜ばそうと思って、どんな時でも一生けんめいやってきた! ね、僕の顔に手でさわってくれないか――それだけでいいんだ。そうしたら一緒にリオラマに行くし、どんなことでも君のいう通りにする」
しばらくの間、彼女はためらっていたが、やがて僕から姿をかくそうとして、足早やにわきの方に歩いて行った。しかし僕は、彼女が僕をおき去りにしたのではなく、僕のすぐうしろに立っているのを知っていた。そこで一瞬僕は待った。すると彼女の指がそっと僕の皮膚《ひふ》にさわるのを感じた。そしてその指は、柔らかな翅《はね》をした蛾《が》が羽ばたいているかのように、僕の頬の上でふるえるのであった。やがて、かすかな、軽やかな彼女の指の感触は去っていった。そして彼女もまた蛾のように、僕の傍から消え去るのだった。
ただ、一人、森の中に残されて、僕の心は、幸福とはいえなかった。彼女の指先の、あの気をそそる、羽ばたくような感触は、僕にとって、話しかけてくる言葉のようであった。それは言葉よりも、いっそう雄弁《ゆうべん》だった。しかしそのあらわしている、甘美な信頼は、僕に完全な満足をあたえなかった。そこで僕は、なぜ、昨夜感じた喜びが、僕から去って行ったか――一切のことが、うまく行く形勢にある時に、なぜこのような新らしい悲しみに襲《おそ》われたのかと自問してみたが、それは結局、この二、三時間のあいだに、僕の慾望が著しく強いものになっているためだということに気がついた。それは、眠っている間さえその強さを増していたのであった。そしてもはや、単に僕の慾望の対象である彼女の精神的、肉体的魅力を頭に思い浮べるだけでは、未来においてそれを所有することを夢みるだけでは、満足がいかなくなったのである。
僕は、僕同様リマのためにも、旅行に出発する前の数日間を、長い間僕がいないのを心配しているにちがいないインディアンの友人のところで、すごすのが一番いいという結論に達した。そこで翌朝、三、四日したら戻ってくるという約束を残して、老人に別れを告げ、いつもよりも早く家を出ていたリマにあうことなく、出かけたのであった。森の外に出て、森の方をふりかえって見た時、僕は、ぽつんと一本生えている木の下で、僕をみつめながら立っているリマの姿をみとめた。彼女は、少しはなれて、明るい日かげで見る時は大ていいつもそうなのだが、ぼんやりとかすんだ緑がかった色にみえた。
「リマ!」彼女に話しかけようと、急いでひき返しながら、僕は叫んだ。しかし、僕が彼女の立っていた場所についた時には、もはや彼女の姿はなかった。僕は、しばらく待っていたが、彼女が近くにいることを示すものを、一つも見たり聞いたりできなかったので、自分の空想にだまされていたのだと、半ば考え、ふたたび歩きつづけて行った。
僕はふたたびインディアンの友人の家を見出し、僕に対する彼らの態度が、すっかり変っているのに気がついたが、少しも驚かなかった。僕は、そのことを予期していたのである。僕がどこにいて、誰と一緒に暮してきたかを、彼らが熟知しているにちがいないことを考えてみれば、そのような事も少しも不思議ではなかった。その日の朝、平原《サヴァンナ》を横切りながら、僕は、はじめて今自分が冒《おか》しつつある危険のことを、真面目に考え始めた。しかしこの考えは、単に新らしい状況に対する準備をするのに役立っただけだった。何故なら今、あとに戻って、リマの前に現れ、僕が時々約束を忘れかねないばかりでなく、決断力に乏しい優柔不断《ゆうじゅうふだん》な人間であることを証拠立てることは、一瞬の間といえども考えることができなかったからである。
僕は、歓迎はされなかったが、まったく平穏《へいおん》無事に迎えられたのであった。僕の長い不在に関しては、一つの問いも、一つの言葉も彼らの口からはもれなかった。ちょうど外国人が、彼らの知らない客が現れたようであった。そのため、実際の敵意は抱かれていないにしろ、疑いの目でみられたことは事実である。僕は、この変化に気がついていないふりをし、空腹を充たすために、すすめられもしないのに、深鍋の中に手を入れ、煙草を吸い、ハンモックの中で、むし暑い何時間かの間、うたたねをしてすごした。やがて僕は、ギターを探し出し、それをひきながら、その日の残りをすごした。僕はそれをひくのであった。そしてその絃《げん》にあまりにも静かに指先をふれたので、四ヤードしかはなれていない人にも、昆虫《こんちゅう》のかすかな翅音としかきこえなかったにちがいない、そして、この辛うじてききとれる程度の伴奏《ばんそう》に合わせて、僕は、同じ様な低い声で新らしい歌をつぶやいた。
夜がくると、一同は、家の中に集り、僕もふたたび食事をとった。そして、半ばとじた、けだもののような全部の眼が、ひそかに集っているのを感じながら、僕はもう一度例の楽器をとり上げ、騒々しく絃をかきならし、大声で歌うのであった。僕は、単純な古いスペインの曲をうたった。僕はその曲に、インディアン自身の言葉で歌詞をつけたのである。――僕の使ったインディアンの言葉は、日常使っているものばかりであったが、それでは、ありふれた感情しかあらわすことができなかった。その日の午後ずっとかかって、作詞し低い声で練習したものは、バラッドの一種であった。それは、飢餓《きが》の季節に、年のいかない子供たちをかかえて、ただ一人住んでいる、貧しいインディアンの、ごく簡単な物語だった。毎日毎日、彼は動物や鳥のなき声のしない森を歩き廻り、夕方になると数個のしなびた、すっぱい漿果《しょうか》だけを持って帰ってくる。やせて、眼だけの大きくなった妻は、なお何も料理するもののない炉の火の番をつづけている。子供たちは、食物を求めて泣き叫んでいる。そして日毎に、その骨は、はっきりと現れてくるのだ。奇蹟的な事も、驚嘆すべき事も何一つ起らぬまま、この実を結ばない季節は、地上から姿を消す。そして菜園はふたたび西洋かぼちゃや、とうもろこしや、カサヴァを実らせ、鳥は戻ってきて、その鳴き声で森をみたす。そこで、長い間の空腹は、みたされ、子供たちは、顔色がよくなり、日の照っている所で、笑いながら遊んでいる。そして妻君は、もはや、からの鍋に心を痛めることもなく、シルクグラスでハンモックを編《あ》んでは、青と緋《ひ》のこんごういんこの羽毛で飾りをつけている。そして、この新らしいハンモックの中で、インディアンは長い仕事の中休みをし、いつまでも葉巻を吸い続けている。
喜びの声高《こわだか》な調子で、最後にこの歌詞を結んだ時、暗い部屋の中で、思わず、長い嘆息がもれた。そしてこれは、彼らが、非常に興味を持って、僕の歌をきいていた証拠であった。これについては誰もひとこともいわなかったが、そして僕は依然《いぜん》として外国人であり、疑いを受けている身であることに変りはなかったが、この試みが成功であり、ここしばらくは、危険がさけられたのは疑いのないことであった。
僕は、自分のハンモックに行き眠ったが、着ているものはとらなかった。翌朝、僕は連発ピストルがなくなっているのに気がついた。それを入れてあったピストルの革袋は、ベルトからはずされていたのである。しかし、ナイフの方は、取去られてはいなかった。おそらく眠っている間、ハンモックの中の、僕のからだの下に置いてあったからだろう。僕が、きいてみると、ルニが、それを借りて森に狩に行ったが、夜にはかえすだろうというのである。僕は、それを善意に解釈したふりをしたが、内心は不安でならなかった。そして後になって――それはまだその日のうちだったが、――次のような結論に達したのだった。ルニは僕を殺害しようと思っていたのだが、例のインディアンの物語をきいたために、心がやわらぎ、僕の連発ピストルを手に入れることによって、今は僕を捕虜《ほりょ》にしておこうというつもりなのだと。続いて起った出来事は、いっそう僕の疑いを強めることになった。帰ってくると、ルニは、森に、鳥やけだものを探しに行ってきた、そして誰もつれずに行ったので、種々の危険――それは超自然的な危険のことだった――から身を守るために、僕の連発ピストルを持って行ったのだ、ところが不幸にも、動物を追いかけている間に、やぶの中に落してしまったのだと弁明した。そこで僕は、憤然として、彼は僕を友人として扱ってはいない、もし頼めば貸してやったろう、だが、無断で持っていった以上は、弁償《べんしょう》してもらわなくては困ると答えた。しばらくの間、彼はだまって考え込んでいたが、彼がそれを持っていった時、僕がぐっすり眠っていたからだといった。また、それは、なくなってしまったとはかぎらない、一緒に探しに行ける時に、落した場所につれて行こうとつけ加えた。
しかし、外見上彼は以前にもまして親しげな様子を示し、昨夜の歌をもう一度やってくれと頼みさえした。そこで、すべての人々の満足するまで、例の演奏を繰り返したのであった。しかし朝になっても、彼は、森に行こうとする気はないらしかった。家の中には、充分食料があるし、一日ぐらい、落した場所にころがしておいてもどうということはないというのだった。しかし翌日もまた同じ弁解だった。僕はなおも、彼に対する疑惑と、短気とをかくしつづけ、その夜も、それが三度目であったが、ふたたびバラッドを歌って、待っていた。やがて、僕は、約一リーグ半はなれた森に案内され、やぶの中で、なくなったピストルを探した。僕はほとんど見つかる望はないと思っていた。そして彼の方は、鳥の声にばかり気を取られ、何かいい出そうとすると、何度も、じっと横になっていろとか立っていろとかいうのだった。
このように一日を無駄にすごした結果、僕としては、できるだけ早くルニのところから、脱出すべきであると決心した。もっとも、彼を不具戴天《ふぐたいてん》の敵にし、猟刀《りょうとう》以外に大した武器も持たずに、リオラマに長い旅行をしなければならない危険を冒すことはわかってはいたが。また、家の外に出る時には、一人か二人のインディアンが僕のあとをつけ監視しているのに気がついた。気がついている様子は見せなかったが。この結果、充分慎重を期さなければならないことがわかった。翌日僕はもう一度、連発ピストルのことで、主人を非難し、巧みに憤慨した風をよそおい、もしピストルが出てこなかったら、弁償してもらわなければ困るといった。僕はさらに、僕の必要とする物品の目録さえ差出した。その目録には、一本の弓と何本かの矢、吹矢の筒一本と、二本の槍《やり》、さらに、ギアナの森林で、未開の人間として独立するための、一々あげる必要のない、他の種々のものが含まれていた。僕は、妻までその中に加えようとしたが、すでに一人差出されているので、必要であるとは思わなかった。彼は、僕の武器に対する評価に、少々驚いたようだったが、ふたたびピストルを探しに行くと約束した。ここで僕は、視力の鋭敏さを非常に信頼しているクアーコにきてもらいたいと頼んだ。彼は、同意して、探しに行く日を明後日と定めた。これは好都合だ、僕は考えた、明日彼らの嫌疑は薄らぎ、僕にとって好い機会がやってくるであろう。やがて僕は、粗末な楽器を取り上げ、古いスペインの歌をきかせてやった。
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あの深い悲しみの日から
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しかし、この種の音楽は、もう彼らの心をひきつけなかった。僕は、彼らのよく理解できるバラッドをやってくれと頼まれた。その歌が繰り返されるたびごとに、彼らの興味は高まってくるようであった。僕の心は不安な気持で一ぱいだった。しかし唇を動かし、梟のような眼をじっと僕に注いでいるクラクラばあさんを見ているのは、面白いものだった。僕の物語は、彼女が、きき手を眠らせるためだけに話していた昔話のように、驚嘆すべき事柄を含んではいなかった。おそらく彼女は今では、僕の物語の中にある、日常生活の粗末な、ありふれたカサヴァパンを非常に味のよいものにしているのが、旋律という不思議な蜂蜜《はちみつ》であったことに気がついていたのであろう。僕は、やがて彼女が、ギターをひくこと、それに合わせて歌うことを教えてくれといい出したら、喜んで応じようと思っていたし、遺言書の中には、彼女にギターをおくることを書き入れようと思っていた。何故なら、彼女は、その白髪と数えきれないしわにもかかわらず、今まで僕の出あったどの蛮人よりも、ポンセ・デ・レオンでさえ、みつけることのできなかった、永遠の若さをあたえる、泉の水を飲んでいたようにみえたからだ。おお、気の毒な老婆よ!
その翌日には、僕がリマの所を去ってから六日目で、僕にとってきわめて不安な一日であった。そこで僕は、前にやった滑稽《こっけい》な木刀の試合をして、子供たちと遊んだり、ギターを無造作《むぞうさ》に、そうぞうしくかきならしたりして、その不安な感情をかくそうと努めた。一日のうちで最も暑く、たまたま家の中にいる者は、全部ハンモックの中にねそべっている午後、水あびをしに行こうと、クアーコを小川にさそった。彼は、行きたくないといった。――僕はそのことをあてにしていたのだ。――そして、僕のよく行くそのふちで水あびをするなと熱心に忠告した。そこには小さな人食魚が、出没して、きっと僕に襲いかかるにちがいないというのである。僕は、彼のくだらない話を笑いとばして、マントを手にとると、元気よく口笛を吹きながら、勢いよく外に出て行った。彼は、僕がいつも、水から上ってくる時、太陽と、針を持っているぶよから身を護るために、頭と肩にマントをかぶっているのを知っていたので、別に疑おうとはせず、あとをつけてこようともしなかった。そのふちは、この家から歩いて約十分のところにあった。僕は胸を高鳴らせながら、そこについた。そして流れの浅くなっている一方の端にまわって行って、しばらく休むために腰を下ろし、手のひらに冷い水をしゃくって、二、三度飲んだ。やがて僕は立ち上って、小川を横切ると、走り始めた。僕は、岸の近くに生えている、低い木々の間をずっと走りつづけて、平原《サヴァンナ》を横切ってしばらくの間のびている、乾いたみぞについた。その進路に従って行けば、走る距離は、相当長くなるが、近道を行くよりは、眼につくことが少なく、危険もいっそう少なかったのである。僕は最初、あまり速度を出しすぎ、まもなく、体力を消耗させ、暑い太陽にあたり、激しく興奮したために、すっかり疲れ果ててしまった。僕の逃走が気づかれなかったといい切ることはできなかった。身の軽いインディアンたちは、すでに僕のすぐうしろにきていて、致命的な投げ槍を僕の背中に投げつけようとしているかも知れない、そう僕は想像した。激しい怒りと絶望のあまり、むせび泣きながら、僕は、その水のない川床にうつ伏せに倒れた。二、三分の間、僕はこのように疲れ果て、男らしさを失った状態をつづけていた。そして僕の心臓の動悸《どうき》があまりにも激しいので、僕のからだ全体は、ふるえるほどであった。もし敵が襲ってきて、殺す気になったら、僕は自分を護るために、手をあげることもできなかったであろう。しかし数分がすぎたが、敵はその姿を現さなかった。僕は立ち上り、今度は、速足で進んで行った。そして僕の姿をかくしていた小川の川床が終った時、その南側に、あちこちと散らばっている、ひからびた矮小な灌木の間を身をかがめながら進んだ。這ったり、走ったり、時々休んだりふり返ったりするために立ち止ったりして、僕はついに、その南の端にある、境界になっている尾根に到着した。それからあとは下りだったので比較的楽であった。今や、あの喜ばしい緑の森は、その全貌をあらわし、刻一刻、胸の希望は、大きくなっていった。僕の膝のふるえはとまり、僕はふたたびかけつづけた。僕を喜んで迎えてくれるあのものかげに近づき、その中に姿を没するまで、僕はほとんど立ち止らなかった。
十四
ああ、リマの住んでいる森に、僕は、ふたたび戻ってきた、あれほど不安に充ちた一日のあとで、西に傾く太陽のひざしのいまだにあつく、緑の森のかげが、これほど心地よい時に! 涼しさと、安全感とは、広々とした平原《サヴァンナ》で味わった熱狂と興奮とをしずめるようだった。僕はゆっくりと歩いて行った。そしてしばしば、足をとどめて、鳥の鳴声に耳を傾けたり、昆虫の珍種や、木かげで星のように輝いている、珍らしい寄生植物に驚嘆の眼をみはるのだった。不思議に喜ばしい気持が僕の心に起ってきた。太陽を浴びて外で遊んでいる時、何かを見て、はっと驚き、母親のところに逃げ帰り、頬を手で撫《な》でてもらって、そのぞっとした気持を忘れる、そんな子供に自分をたとえてみた。このように自分で感じたことをのべてみて、僕は少し恥しい気持になり、自分自身を嘲笑したい気持になった。それにもかかわらず、この気持は、この上もなく快いものだった。その瞬間、僕は、母親と自然という二つのものが、同一のまったく同じものであるように思われた。僕は、その最南端にある、森のいっそうひらけた所を、ずっと進んでいたので、沈んで行く太陽の赤い炎を、高い所にある、湿気を帯びた濃い緑の葉群の間に、時々見ることができた。その炎にふれる一つ一つのものは、何と新らしく驚嘆すべき美観を得ているのであろう! 葉の群がまばらになり、ほっそりとした、なわのような灌木と苔が、枯れた大枝から切れたなわのようにたれ下っている、高い一点に、あの美観をあたえる光を浴びながら、一羽の鳥が羽ばたいているのに気がついた。そこで僕は、じっと立ち止りながら、その鳥のおどけた仕草をみつめていた。その鳥は、頭を下向きにし、翼と尾をひらきながら、細い小枝にすがりついていたが、やがて、からだをしゃんとのばし、波のような線を描いて、軽やかにとび廻り、だんだんと下の方に降りていった。ほどなく、二十フィートの高さまで、舞上がり、小枝にとまると、ふたたびゆれるように、軽やかにとびまわっては、地上に向って降りて行った。その鳥は、つやのある羽毛を持った鳥の一種で、活発に羽を振り動かしながら、あちこちととび廻る時、光線にあたって、時々ガラスか、みがき上げた金属のようにきらめくのであった。突然、同じ種類のもう一羽の鳥が、その鳥のところに下ってきた。その鳥は、まるで空から降りてきたようであり、落下する石のように、まっすぐに敏捷《びんしょう》に降りてきたのである。すると最初の鳥は、今やってきた鳥に出あうために、とび上って行った。そしてしばらくの間、おたがいに敏捷な旋回を行ったのち、かん高い叫びをあげながら、森の中を一緒に逃れ去って行ったが、その姿はまたたく間に見えなくなってしまった。そして歓喜によったその鳴き声は、繰り返されるたびに、次第にかすかになって行くのだった。
僕は、彼らのその翼を羨ましくは思わなかった。その瞬間、僕は、足の下の大地を不動のものとも、どっしりしたものとも感じなかったし、引力にしばられているとも思わなかった。浮んでいる、かすかな雲、果てしのない青い空さえ、僕、あるいは僕の歩いている大地ほど、軽やかにも自由にも思われなかった。ちらちらと木々の間に見えかくれする、右手の低い岩だらけの山々は、今むらのない光りを浴びて、青く優美に見えた。しかしその山々も、動いている大地の雲の上の、大波のような突起にすぎなかった。数え切れない種類の木々――巨大なモラ、セクロピア、グリーンハート、灌木、羊歯《しだ》、たれさがった何種ものつる植物、ほっそりした幹の上に、つりあいのとれた羽毛のような葉を、のせている背の高いしゅろ――これらすべてのものは、僕が立ち、僕をのせて太陽の近くまでただよって行く、浮んでいる雲の表面をおおっている、夢幻的なおぼろげな縫取りにすぎなかった。
このように歩きながら、僕が目的の場所についた時には、赤い夕暮の炎は、木々の梢から消え、太陽は沈み、森は、影に包まれていた。僕は、戸口の方から家に近づいたわけではなかったのに、どうしたものか、家の中の者は、僕のいることに気がついて、大急ぎで外に出てきた。リマが先頭に立ち、ヌフロがそのあとに従って、腕をふり、何ごとかを叫んでいるようだった。しかし近づいて行くにつれて、リマは、老人よりあとになり、僕をみつめたまま、身動きもせずたたずんでいた。顔はあおざめ、激しい興奮をあらわしながら。種々のことを雄弁に語っているようにみえる彼女の表情から僕はほとんど眼をはなすことができなかった。僕は、その表情のうちに、安堵《あんど》と喜びが、驚きと当惑に似たものと入りまじっているのを見たような気がした。彼女はおそらく僕が、不意打ちをくらわせたこと、森の中で長い間、僕を見張っていたのに、そのあとで、家にいる時に、彼女の目をかすめて森を通ってやってきたこと、のために、機嫌を悪くしたのだろう。
「お目にかかれて幸いですな!」老人は、荒々しく笑いながら叫ぶのだった。
「リマにもう一度会えて嬉しく思います」僕は答えた。「長い間留守にしてましたな」
「長い――おっしゃる通りですよ」ヌフロは答えた。「わしらは、あんたのことはあきらめていましたよ。あんたは、リオラマに旅行するという考えに驚いて、わしらを捨てて行ってしまったと、わしらはいってたところです」
「私たちがいってたですって!」リマは、青白い顔を、突然紅潮させながら叫んだ。「私は、そんな風にいわなかったわ」
「そうか、わかった――わかった!」彼は、手をふりながら上機嫌でいうのだった。「お前はいってたな。あの人は、危険におちいっている。あの人は、心ならずもくることを止められているのだと。今あの人はここにおいでだ。――本人の口からきくことにしよう」
「リマのいう通りです」僕はいった。「ああ、ヌフロじいさん、あんたは、長い間生きていて、経験も豊富にちがいない。だが洞察力――肉眼よりももっとよく見える、心の眼の方はそれほどでもないようだな」
「その通りだ。その方の眼は駄目ですよ――あんたのいわれる意味はわかっています」彼は答えた。そして片手で空の方を指しながらつけ加えた。「あんたのいわれる知識は、あそこからくる」
リマは、かわるがわる二人を見くらべながら、興味深い面持《おももち》で、耳を傾けていた。「何ですって!」突然彼女は、黙ってはいられないといった様子で口を切った。「おじいさん、あなたは、――危険がある時も――雨がやむだろうという時も――風が吹くだろうという時も――どんなことでもお母さんが、私におっしゃると思っているのですか? 夜も、横になったまま眼をさまして、私がたずねては、じっと耳をすましていないといえるでしょうか? お母さんは、いつも何にもおっしゃいませんわ。星みたいにね」
やがて彼女は、僕の方を指さしながら、話を終えた。
「この人は、とてもいろんなことを知ってるわ! 誰がこの人に話すのでしょう?」
「だが、はっきり区別しなくてはな、リマ。お前は、小さいこと大きなこととをはっきり区別しない」彼は、尊大な調子で答えた。「わしらは、たくさんのことを知っている。だが、そんなものは、額のある人間なら誰でもおぼえられるものだ。だが、あの青空からやってくる知識は、そんなものではない。――それは、もっと重要で、超自然的なものだ。そうではありませんかな、旦那?」彼は、僕の共鳴を求めるように、話を終えた。
「では、僕にきめろというわけだね」リマに向って、僕はいった。
彼女の顔は、僕の方を向いていたが、僕の視線に出あうのをこばみ、また口もきかなかった。何もいわなかったが、納得《なっとく》がいってはいないようだった。彼女はまだ、疑っていたのだ。そして僕の口調の中に、疑惑《ぎわく》を深めるなにものかを感じ取っていたのである。
年老いたヌフロには、彼女の表情がわかったらしかった。「リマ、わしをごらん」彼は、居ずまいを正しながらいった。「わしは年をとっている。そしてこの方は若い。――わしが一番よく知っているとは思わないか? わしがいって、それをきめたのだ」
なおも納得のいかない表情で、彼女は、何ごとかを期待するように、僕の方に顔を向けた。
「僕がきめるのかい?」僕は繰り返した。
「あなたでなかったら、誰がするの?」ついに彼女は口を切った。その声は、ささやきと区別できないくらい低かった。しかし、その口調には、あたかも彼女が長い話をし、しかも僕に強制されてしたかのような、非難の調子があった。
「では、僕は次のようにきめよう」僕はいった。「僕たちの一人一人は、あらゆる種類の動物――小鳥とか昆虫とか、あらゆる種類の植物さえ――のように、何か独特のものがあたえられている――芳香とか、美しい声とか、特別の直覚とか、技術とか、知識とか、他のものの持っていないものを。そして、リマには、鋭敏な頭脳とか、遠くにあるものをいいあてる力とかがあたえられている。それは彼女自身のものなのだ。ちょうど敏捷さと、優雅さと、華麗《かれい》な色が、はちどりのものであるようにね。だから彼女には、青空に住んでいる人に、教えてもらう必要はないのだよ」
老人は、まゆをひそめ、頭をふった。一方彼女の方は、その華奢《きゃしゃ》な唇にちらりと微笑のようなものを浮べて、すばやい、はにかんだような一瞥を僕に投げかけたあと、きびすを返してふたたび家の中に入って行った。
彼女が、立ち去って行く時のまなざしから、僕は、彼女が、僕のいったことを理解したこと、僕の言葉が、ある程度まで彼女に安堵をあたえたことを確信した。彼女は、超自然のものを信ずる気持は深かったが、方法さえあれば喜んでそれから脱したいように見えた。家の中で着ている木綿のガウンや窮屈《きゅうくつ》そうな態度と同じように。この信仰と、木綿《もめん》の洋服とは、明らかにヴォアの植民地における、幼い頃の教育の痕跡《こんせき》であった。
ヌフロじいさんは、不思議にも、言葉以上によくやっていた。旅行のおくれる理由を捏造《ねつぞう》する代りに、――僕はそういう場合を想像していたのだが――彼は、旅行の準備は、ほとんど完全にできていて、出発するために僕の戻ってくるのを待っていただけなのだと告げたのである。
まもなく、リマは、いつものように僕たちのところから寝室に立ち去っていた。やがて、炉の火の傍で話しながら、インディアンに抑留《よくりゅう》されていたことや、自分では、大変重大なことに考えている、連発ピストルをなくしたことの説明をした。
「あんたは、ピストルをなくしたことを、何とも思っていないようだが」彼が、ひどく冷然とそれをきいていたのに気がついて、僕は口を切った。「襲撃された時、どうやって防禦《ぼうぎょ》したらいいかわからないね」
「襲撃される心配はありませんな」彼は答えた。「それに、あんたが、連発ピストルを一丁持っていようが、連発ピストルや、剣のついた騎銃をいくつもっていようが、連発ピストルを持っていなかろうが――全然何も持っていなかろうが――結果的には同じことだと思いますよ。その理由は簡単です。あの子に仕えているかぎり、わしらは、天国から守られているのです。旦那、天使たちがわしらを昼も夜も保護していてくれるのですよ。ですから食料を手に入れる以外に、武器の必要などはありませんな」
「では、なぜ、天使たちは、食物もついでにくれないのだろう?」僕はいった。
「いや、いや、それはまた話がちがう」彼は答えた。「それは、小さないやしいことで、一切の生き物に共通な必需品《ひつじゅひん》ですからな。どうやってそれをみたすかは、どんなものでも知っていますよ。天使に、蚊《か》の大群を、追いはらってもらったり、からだについている、だにをとってもらったりするわけにはいかないでしょう。そうですとも、旦那、あんたは、持って生れた天賦《てんぷ》の才能の話をして、リマに、彼女はあるがままの彼女に他ならず、彼女の知っていることは、まさに知っている通りのことなのだということを信じさせようとされる。はちどりや、特有の芳香を持つ植物のように、彼女もそのように造られたという理由でな。旦那、それはまちがいですよ。そういっては何ですが、そんな作り話を、あの子の頭につめ込むのは、よくないことですな」
僕は、微笑をうかべながらいった。「あの子の方こそ、あんたの信じていることを疑ってるようだが」
「だが、旦那、あんたは、リマのような無知な少女から何を期待できるというのですか? あの子は、何にも知りませんよ。知っていてもごく僅かですよ。あの子は、道理になんか従うものですか。花や鳥や蝶《ちょう》や、つまらないものを追って走りまわってばかりいないで、髪の毛を編んで、うちの中にじっとおとなしくしていて、お祈りをしたり、公教要理を読んだりしてさえいれば、もっとわしら二人のためになるのですがね」
「どういう風にためになるのかい? おじいさん」
「そうですな。もしあの子が、彼女を取巻いている人たち――わしのいうのは、あの子の聖人になっている母親のところからくる人たちのことですが――と交際を深めていって、母親のいうことは何でも進んでしているなら、明らかにもっとわしらを、ここで安全に暮させることができるのです。たとえば、ルニと彼の一族がいますが、もし天然痘《てんねんとう》か、他の熱病を簡単にやつらの所に送って、絶滅させることができるなら、わしらに、絶えざる危険を感じさせるくらい近いところに、住まわせてなどおくものですか」
「では、そんなことをあんたの孫娘に持出したことがあるのかい?」
彼は、驚いた様子をしてみせ、こんな質問をされては困るというようだった。
「そうですよ。何度もしましたな。旦那」彼はいった。「もしその話をしなかったら、わしは、みさげ果てたキリスト信者だったでしょう。だが、わしがその話をすると、ちらりとわしをみるだけで、すぐ行ってしまうのです。そしてその日は一日中、姿を見せません。その次にあの子にあった時は、答えることも拒《こば》むのです。――無知のためとはいいながら、あの子は、それほどひねくれた、それほど愚かな子なのですよ。あんたが自分でもみられたように、あの子は、目的も定めず一日中とび廻っているあざやかな翅《はね》をした小さなはえのように、一番大事なことにかけては、分別も、関心も持っていないのです」
十五
翌日、僕たちは、はやばやと仕事を始めた。ヌフロは、すでに菜園でとれた農作物の大部分を、すでに取り入れて乾かし、隠匿《いんとく》場所に運んでいた。彼は、留守にしている間、うろつき廻っている蛮人の一隊が、この家にやってきて、持ち出しされるようなものは、一切残しておかないことにきめていたのである。彼は、近くに住んでいる蛮人どものくる気づかいはないと思っていた。彼のいうには、彼とリマが、森から出かけることを知るはずはないのである。粒だけをとったとうもろこし、豆類、日光で乾かした西洋かぼちゃの細片、そんなもので一ぱいになっている、二、三の大きな土製のつぼが、まだかたづけがすんでいなかった。これらのいれものの一つを取り上げ、もう一つのを持って、あとについてきてくれというと、彼は、森の中に出かけていった。僕たちは、五、六百ヤード行った所で、森の西側のはずれに近い、非常に急な斜面を下りて行った。その一番下についてから、その斜面の下を少しばかり進んで行くと、僕は、蛇にかまれたあとの、あらしの夜、死にもの狂いでとびおりたがけの下に、ふたたびきているのに気がついた。ヌフロは、この場所に、近づくにつれて用心深く秘密を守ろうとする様子を示し、先頭に立って、そっと静かに、灌木の間を忍び足で歩いて行ったが、その様子は、かくれた巣に卵を産みに行こうとする、かしこい年老いた雌鳥《めすどり》のようであった。そしてここに彼の巣、彼の最も秘密にしている宝庫があったのである。僕たちの運命が今やつながれているにもかかわらず、おそらく彼は、僕に対してさえ、それを知らせるのに、激しい心の中の闘いを味わっていたにちがいない。その斜面の下の部分は、岩でできていた。そしてそこには、地面から十乃至十二フィートばかりの所の、しかも下からは容易に到達できる所に、自然にできた穴があって、持ち運ぶことのできる一切の彼の所有物を入れるのに充分な広さがあった。ここに、彼は、こういう食料の他に、すでに、多量のたばこの葉、粗末な武器、料理の道具、種々のなわやむしろ、その他のものをたくわえていた。僕たちは、さらに、二、三回、残っているつぼを運んだ。そしてそれがすむと、その口――それは幸いにも小さかったが――を砂岩の厚板で整え、そのすき間に土を塗り、僕たちのやった仕事の一切の形跡をかくすため、苔を一面にのせた。
僕たちは、長い昼寝をして元気をつけたが、夕方近くヌフロは、他の、物をかくしてある場所から、二つの袋を持ち出してきた。その一つは約二十ポンドの重さがあり、くん製の肉や、照明用の獣脂と樹液《ガム》、その他二、三のちょっとしたものが入っていた。この袋が老人の持って行く荷物だった。そして、いった穀物《こくもつ》や、なまの豆類の入った、もう少し小さな袋は、僕の持って行く分であった。
老人は、まるで、姿をかくしたスパイが、あたりをとりまいているかのように、一つ一つの動作に周到《しゅうとう》をきわめ、日没一時間後まで出発をのばした。それから森の西側のふちに沿って進み、イタイオアを右手にすぎ、星あかりだけをたよりに、でこぼこした歩きにくい地面を進んだ後、明け方少し前に、細い月の上るのを見た。僕たちは最初、北東をさして進んだ。しかし今は進路は真東であった。僕たちの前には、見わたすかぎり、広々とした乾燥している平原《サヴァンナ》と、まばらないくつもの、小さな森がひろがっていた。その最初の夜、歩いている時、僕はうんざりしてしまったし、また最初の昼間、待っている時も、うんざりしてしまった。僕たちは、日かげで、長い暑い何時間かの間、小さな針のあるぶよに、うるさくなやまされて坐っていたからである。しかし、それにつづくいくつかの昼と夜は、もっとわるかった。天候は、わるくなってきた上、きびしい暑さが襲ってきて、しばしば豪雨にみまわれたからだった。そして僕たちのなめた一切の恐ろしい不快なものを帳消しにする、僕の求めていた一つの代償《だいしょう》さえ、僕にはあたえられなかった。僕に対して、リマは、今、彼女の故郷ともいえる森の中で、いっさいの灌木や幹や、もつれたつる草や羊歯《しだ》の葉が、彼女を僕の眼からかくそうという陰謀《いんぼう》に加わっていた、あの野生の日々と同じものになってきてしまった。たしかに、時々昼間、彼女は姿を現していたし、二、三語彼女に話しかけることのできる位の距離までやってくることもあった。しかし親しげに並んで歩けるというようなものではなかった。僕たちはたしかに旅の同伴者であった。しかし時々お互いの声をきいたり、お互いの姿を見たりできる程度に遠くはなれながら、同じ方向に別々にとんで行く鳥のような同伴者にすぎなかった。砂漠の中の旅人は、時々、一羽の鳥と一しょに行く。そして鳥の方は、いっそう自由に動きまわり、しばしば一リーグも彼をあとにおきざりにするので、旅人は鳥がいなくなったと思う。しかし鳥は戻ってきてふたたびその姿を現す。何故ならその鳥は、決して、地面をのろのろと骨折って進む旅人を見失ったわけでも忘れたわけでもないからだ。リマは、それと同じような、わがままな移り気なやり方で、僕たちについてきたのである。ヌフロから、一言、または合図があると、彼女は、とるべき方向を知るのであった。僕たちがその近くを通りすぎなければならない遠い森、さらに遠くの山でも同じことだった。彼女は、どんどんと急いで行き、僕たちの眼から見えなくなった。そして、途中に森のある時には、その森を探検《たんけん》に出かけ、日かげで休息し、自分の食物を探すのであった。それなのに、休んだり、野宿したりする時は、いつも、僕たちの前方にいるのだった。
インディアンの部落も旅行の途中見ることができたが、いつも避けて通っていた。そして同様に、もしインディアンたちが少しはなれた所を旅行したり、野宿したりしているのが見えると、進路を変えるか、姿をかくすかして、相手の眼をかすめるのだった。ただ一度だけ、出発してから二日目に、僕たちは、見知らぬ人と話をしなければならぬはめにおちいった。僕たちは、ある山をまわろうとしていた。すると突然、反対の方向に向って旅をしている、三人の人間に、ばったりと出あったのである。――それは二人の男と一人の女であった。そしてどうした風のふきまわしからか、その時偶然リマも僕たちと一しょにいたのであった。僕たちはしばらくの間、立ったままで、これらの人々と話をした。彼らは、僕たちの出現に明らかに驚いているらしく、一体僕たちが誰なのかを知りたがった。しかし彼らのうちの一人であるかのように、その言葉を上手に話すことのできるヌフロは、本当の答えをするには、あまりにも狡猾《こうかつ》だった。彼らは、チャニ――それは僕たちの前方の、旅程三日のところにある河の名前であった。――にいる親類のところに行って、パラウアリの向う、旅程二日のところにある、バイラバイラの自分の村に、今戻るところだと話した。彼らと別れたあとで、ヌフロは、その日の間中、ひどく心配しているようだった。あの蛮人たちは、おそらく、パラウアリのどこかの部落で休むだろう、すると彼らは、僕たちのことをいろいろと話すにちがいない、そして結局、僕たちがイタイオアを去ったということが、仲の悪い隣人であるルニに知られるようになる、そう彼はいうのだった。
この長い退屈な旅行中に起った他の出来事については、別に話す必要はないだろう。むしあつい何時間かの間、リマがどうやら声のきこえない所にいる時、影を作っている木の下に腰を下ろしながら、あるいは、毎夜、火の傍で、老人は、少しずつ、そしてよく脱線しながら――それは主として宗教上の話についてであったが――リマの素姓にまつわる不思議な物語を話すのだった。
大体、十七年ばかり前――ヌフロには、時間をはかる確実な方法がなかったのである。――彼は、すでに老年に達しかけていた時、今僕たちの旅行しているギアナのこのあたりで、一種の放浪生活を送っている、九人からなる一団の一人であった。彼より若かった他の者は、みな、等しく、ヴェネズエラの法律に背いた犯罪者であり、逃亡中の犯人だった。ヌフロはそのギャングの一団のリーダーであった。彼は、たまたま、文明の外で、今までの生活の大半を送り、種々のインディアンの言葉を話すことができ、ギアナのこのあたりをよく知っていたからである。しかし彼自身の説明によると、彼らとは、そりが合わなかったということだ。彼らは、大胆で、命知らずで、この頃までに、自分の犯した犯罪によって、邪悪な慾望をなおいっそう強烈なものにしていたのである。一方彼の方は、次第に情慾が弱くなり、過去に犯した多くの悪事を思い出し、幼い頃に教わったいっさいの真理を強く確信するようになり、――もし宗教的でなかったら、ヌフロは取るに足りない男であった――、その頃では、だんだんに臆病になり、神と仲直りをすることだけを願うようになった。この気質の相違のために、彼は仲間に対して、気むずかしく、けんか好きになった。そしてもし彼が彼らにとってこれほど有用でなかったら、彼らは、少しも後悔せずに彼を殺していただろうと、彼はいうのであった。彼らの得意なやり方は、孤立した小さな開拓地の近くをうろつき、見張りをつづけ、男の住民の大半がいない時をみはからって、襲いかかり、目的をとげることだった。さて、このような襲撃の一つがすんだ直後、彼らが掠奪《りゃくだつ》してきた一人の女が、彼らにとって重荷になり、河の中のアメリカ鰐に投げ与えられるという事件が起った。しかしその女は、水辺に引きずり下ろされた時、眼を空の方にあげ、自分を殺すものに復讐《ふくしゅう》をあたえてほしいと、神に向って大声で叫んだ。ヌフロは、この邪悪な行為には加わらなかったと断言した。しかしその女が臨終《りんじゅう》の時行った神への懇願は、彼の心を苦しめた。彼は、それが審問に付《ふ》され、結局神が、復讐を行うことを任命し――それは、もちろん例によっておくれてではあろうが。――「交友をいえば、その人となりがわかる」という古い諺《ことわざ》に基づいて行われるに相違なく、罪のある者と一緒に、無罪の者(すなわち彼自身)も罰せられるであろうということを怖れていたのである。しかしこのように、霊魂上の利害関係について心配している一方、彼はまだ仲間と手を切る覚悟ができていなかった。彼は、妥協するのが一番だと考え、ここしばらくの間、キリスト教徒の開拓地を襲うことは危険であるということを仲間にうまく説得した。そしてその間は、インディアンに目をつければ、さほどの利益は得られないにしても、多少の快楽は見つけることができるだろうというのである。異教徒というものは、生れながらに神の敵であるから、キリスト教徒の一団にとっては好都合な獲物《えもの》ということになる、そうヌフロはいうのであった。かいつまんで話せば、ヌフロのひきいるキリスト教のギャング団は、いくつかの冒険に成功したあと、敗北にあい、団員が九人から五人に減ったのであった。敵から逃れて、誰も住んでいないリオラマに難をさけ、そこで二、三週間の間、豊富な鳥やけだものの肉と、野生の果実で、生きることができるのに気がついたのである。
ある日の正午、頂上から、向うの方を眺めようと、リオラマ山脈の南の端にある山に登っていた時、ヌフロと彼の仲間は、一つの洞窟《どうくつ》をみつけた。そしてそれが乾燥《かんそう》していて、動物がいる様子もなく、床が平らなのがわかったので、彼らは、ただちに、そこをしばらく自分たちの住み家にしようと決心した。燃料にするまきや水は、すぐそばにみつかりそうだったし、また一両日前に殺したばくのくん製が充分にあったので、しばらくの間、これほど居心地のいいかくれ家に休む余裕があったのである。その洞窟から少しはなれた所で、食事のために、肉の薄片を焼こうと、岩の上に火を起した。そしてこのような仕事に従事している時、突然、部下の一人が驚きの叫びをあげたので、ヌフロが眼を上げてみると、近くに立って、大きくみひらかれた眼に驚きと怖れの表情をたたえながら、彼らをみつめている、実にすばらしい容貌の女が眼に映った。彼女が身につけている一枚の軽い着物は、絹のようで、大きな山の頂のように白かった。しかしその白さというのは、沈んで行く夕日に照されて、さまざまに変る絶妙な火のような色を帯びた雪の白さであった。彼女の黒い髪の毛は、中からその顔がのぞいている、雲のようだった。また彼女の頭は、御絵の中にある聖人の後光に似たものに包まれていたが、さらに一段と美しかった。何故ならヌフロの言葉を借りると、御絵は、御絵にすぎず、この方は、本ものであるからもっとすばらしいのである。彼女をみると、ヌフロは、ひざまずいて、十字を切った。驚きに充ち、実に不思議な光輝に輝いていたので、彼のみつめることができなかった彼女の眼は、ずっと彼の上にばかりそそがれ、他の者の上にはそそがれなかった。そして彼は、彼女が、神と仲たがいをしてもっぱら悪事ばかり働いている人間とつきあっているために、地獄《じごく》に落ちる危険にひんしている一個の霊魂を救うためにやってきたのだと感じるのだった。
しかし、この時、彼の仲間は、驚きからさめて、とびかかっていったので、このこうごうしい女は、消え去ってしまった。彼女の立っていたすぐうしろ、すなわち彼らの所から十二ヤードもはなれていない所には、山の中の巨大な割れ目があって、その鋸歯状《きょしじょう》のけわしい斜面は、とげの多い灌木で、おおわれていた。部下たちは、今やあの女は、あっちの方に逃げたと大声で叫びながら、彼女のあとを追ってめちゃくちゃに走っていった。
ヌフロは、彼らのあとから、お前たちの見たのは聖人で、もし邪悪な考えでも持とうものなら、何か恐ろしいことがふりかかってくるぞと彼らのうしろから大声で叫んだが、彼らは、彼の言葉をあざ笑い、まもなく声のとどかない遠くに降りていってしまった。一方彼は、恐怖にふるえながら、彼らの所に現れ、あのように奇妙なまなざしで彼をみつめていた女に、他の者共の罪のために、自分が罰をうけないようにと、祈りつづけていた。
やがて部下たちは、失望して不機嫌になって戻ってきた。彼らは、例の女を見つけることができなかったのである。そして多分ヌフロのいましめの言葉のために、すぐ追跡をあきらめたものらしかった。ともかくも彼らは、不安であった。そしてその洞窟を放棄することにきめたのである。彼らは、ただちに、その夜、その山からかなり離れた所で野宿するために、その場所を立ち去った。しかし彼らは、満足しなかった。彼らは、今や恐怖からさめていたが、邪悪な慾情の興奮からはさめていなかった。そしてついに色々と意見をいいあった後、ヌフロの臆病のおかげで獲物をとりにがしたのだという結論に達した。そしてヌフロが彼らをいましめると、彼らは、カレンダーの中の聖人という聖人を冒涜《ぼうとく》し、彼を暴力で脅迫《きょうはく》しようとさえした。このような不信心者とこれ以上一緒にいることを怖れて、彼は、彼らが眠るまで待ち、それから用心深く立ち上って、食料の大部分を勝手に持出し、リーダーを失ったあと、彼らができるだけ早く死んでしまうことを熱心に望みながら、脱出したのである。
今や自分一人になり、自由に行動できるようになって、ヌフロは、非常に苦しんだ。何故なら、彼の心は、極度の恐怖にみまわれているのに、なおあの山に戻って行って、彼に現れ、彼の残忍な仲間に追い払われた、あの神聖な人をふたたび探すよう、しきりにせきたてられるのを感じたからである。もし彼がそういう内部の声に従うならば、彼は救われるのだ。もしさからえば、彼には、望みがなくなるのだ。そして、あのアメリカわにに女を投げあたえた人間共と一緒に、永遠に亡びる他はないのだ。ついに翌日、なおも怖れと身ぶるいが、おさまらなかったが、彼は、戻って行って、前日、ばくの肉を焼きながら坐っていた石の上に腰を下ろした。彼は待っていたが、空しかった。そしてついに、彼が今まで従ってきた内部の声が、あの女が彼の仲間から逃れて行った谷のような裂け目に下りて、そこで彼女をさがすようにせきたて始めた。そこで彼は立ち上り、用心深くゆっくりと、でこぼこした鋸歯状の岩をよじ上り、とげの多い灌木とつる草が、一面に生《お》い茂っている間を進んで行った。その裂け目の底には、澄んだ、速い流れが、岩の川床を、泡《あわ》とざわめきをたてながら走っていた。そしてそこにつかないうちに、まだ二十ヤードもあろうと思われる場所で、彼は、灌木の中に、低いうめき声をきき、はっと驚いた。彼はその原因を探していると、あのすばらしい女――彼は、自分の救世主といっていたが――を見つけたのである。彼女は今立ってもいなかったし、立つこともできなかった。そして、でこぼこした石の間に、半ば身をもたせかけていたが、でこぼこした斜面を、無てっぽうに逃走した時、くじいた一方の足は、岩の間に動けなくなって、はさまっていた。このような苦しい姿勢で、彼女は、昨日《きのう》の正午から、身動きもできずとじこめられていたのであった。彼女は、今、愕然《がくぜん》として声も出さず、やってきた男をみつめていた。一方彼の方は、地面にひれ伏したまま、彼女のゆるしをこい、彼女の望みを知らせてくれと、頼むのだった。しかし彼女は答えなかった。そしてついに、彼女に動く力がないのに気がつき、聖人であろうと、崇拝すべき人の一人であろうと、地上にいる間は、彼女も人間であり、災難をふせぐことは、できないのだという結論に達した。そして彼は、彼女にふりかかった災難は、彼をためすために、おそらく、天国の有力者によって、特別に企《くわだ》てられたものだと考えた。非常な骨折をし、彼女にも少なからぬ苦痛をあたえたあとで、彼は、彼女をその姿勢から救い出すことに成功した。そして、その傷ついた足が、半ば押しつぶされ、青くはれ上っているのに、気がついて、腕で彼女を抱き上げ、流れのところに運んでやった。そこで、幅の広い緑の葉で、茶碗を作り、彼女に水を差出すと、彼女は、いそいそとそれを飲んだ。彼はまた、彼女の傷ついた足を、冷い流れの中で洗ってやり、新鮮な水草の葉で包帯《ほうたい》をしてやるのだった。最後に彼は、苔《こけ》と乾いた草で、柔らかなベッドを作ってやり、彼女をその上にねかせた。その夜彼は、彼女を見張って時をすごし、あてている葉が、炎症《えんしょう》のために、乾いてしおれてしまうので、彼女の足に、新らしいぬれた葉を、時々あててやるのだった。
このように、彼が色々とつくした結果、彼女が彼に抱いていた恐怖は、だんだんに消え去って行った。そして翌日、彼女が力を取り戻したように見えた時、彼は身ぶりで、雨がふった時に保護してくれる、さらに上の方の洞窟に移ろうと申し出た。彼女は、彼の申し出を理解したようだった。そして彼の腕に抱き上げられ、その裂け目の頂まで、色々苦労した後、はこばれていった。その洞窟の中に、彼は、ふたたび彼女の休む場所を作ってやり、熱心に彼女を介抱《かいほう》した。彼は、床の上で火を起し、夜も昼も燃やしつづけた。そして彼女に飲み水と、足の傷のための新らしい木の葉をあたえるのだった。彼のできることでしていないことは、もうほとんどなかった。焼いたばくの肉の、最も上等な脂身《あぶらみ》のところを、彼女に差出したが、彼女は顔をそむけて、嫌悪の表情を示した。水にひたした少量のカサヴァパンを彼女は食べた。だが好きではないらしかった。その後彼女が餓死しないようにと、彼は、野生の果実や、食べられる球根や樹液を探し始めた。そしてこの荒地に一緒に滞在していた間中、ずっと彼女は、この僅かな食料で生命をつないでいた。その女は、一生治らないびっこになっていたが、助けをかりずにびっこをひきながら歩くことができるところまで回復した。そして彼女は、毎日、山の岩と木の間に出て、一日の何時間かをすごしていた。ヌフロは最初、彼女が自分のところから去って行くのではないかと心配したが、やがて、そのような考えを、彼女は抱いていないという確信を持つに至った。しかし彼女は、非常に不幸であった。彼はよく彼女が、岩の上に坐って、何か人に告げることのできない悲嘆に沈んでいるように、頭をたれ、半ばとじた眼から、大粒の涙が流れおちているのを見たのである。
最初から、彼は、近いうちに彼女が母親になるらしいという考えを抱いていた――その考えは、彼が仕えて、救いを得る特権をあたえられている、この神聖な人の性質に関する想像とはあまりよく一致しなかったが、今彼はその真実さを確信していて、彼女のそういう状態の中で、絶えず彼女を苦しめている悲しみと不安の原因を見出したように思った。少しは話の通じる、身ぶりによる無言の言葉によって、この山々から非常に遠くはなれた所に、彼女のような人々、女や母親がいて、親切に看護してくれるということを彼女に知らせた。彼のいったことが通じた時、彼女は、喜び、その遠い所に彼と一緒に行くことを辞せぬ様子だった。そこで彼らは、その岩だらけの隠れ家とリオラマの山々をはるかあとに残すことになった。しかし数日の間、平原をゆっくりと旅行している時、彼女は時々、びっこをひく足を休めて、とめどもない涙を流しながら、青い山頂をふりむいてみつめるのであった。
幸運にも、彼の足を向けた、同名の河のほとりにある、ヴォアの部落は、リオラマに最も近い、キリスト教徒の植民地であり、彼にはなじみの場所であった。彼は以前、そこに住んだことがあったのである。そして都合《つごう》のいいことには、そこに住んでいる人々は、彼の最も悪辣《あくらつ》な犯罪、あるいは、彼自身の狡猾《こうかつ》ないい方をすれば、彼と一緒に働いていた部下のした犯罪について何一つ知っていなかったのであった。
何週間も旅行をした後、ヌフロはついに、彼のつれと一緒にヴォアについたが、そこの人々の驚きと好奇心は非常なものであった。しかし彼は、驚いて眺めている下賎《げせん》な群集には本当のことをいおうとはしなかったし、そのごく一部さえもらそうとはしなかった。彼らに対しては単に巧妙な嘘《うそ》をついていたのである。ただ司祭《しさい》に対してだけは、一切のことを物語るのであった。彼女を救い出し、保護するために、自分のしてきた一切のことを詳《くわ》しく述べたのである。そしてその一切は、この聖職者によって是認《ぜにん》されたのだった。司祭はまず、彼女がキリスト教ではないといけないと思い、その女に洗礼《せんれい》を授けようとした。ヌフロの名誉《めいよ》のためにいっておくが、彼は、この儀式に異議をとなえたのであった。彼女は、聖人である証拠に、後光を持っていたが、それでも聖人でないというのか、司祭に洗礼を授けられる必要があるというのかといって議論したのである。その司祭は――彼は、意地《いじ》の悪い喜びから、ちょっとくすくすと笑ってつけ加えた。――よくよっぱらい、トランプでは不正をやり、かならず勝つようにと、自分の闘鶏《とうけい》のひずめに毒を塗っているのではないかと、時々疑われていたのであった! 疑いもなく、司祭には色々な欠点があった。しかし彼にしても慈愛の心を持たないわけではなかった。この不幸な外国人が、ヴォアに滞在していた、まる七年の間、彼は、力の及ぶかぎり彼女の生活を快適なものにしようと、全力をあげていたのである。ヴォアについて数週間後、彼女は女の子を生んだ。司祭は、母親の発見された不思議な物語の記念に、リオラマと名づけようと主張した。
リマの母親は、スペイン語も、インディアンの言葉もおぼえることができなかった。そして彼女の唇からもれる神秘的で音楽的な声が、誰にも理解されないのに気がつくと、その声を出すのを止めたのであった。それ以来、彼女と一緒住んでいる人の間では一言も口をきかなくなったのである。嫌悪《けんお》か恐怖を感じているためであろうか、彼女は、部落の人々をさけていた。だがヌフロと司祭だけは別だった。彼女も彼らの親切な気持を理解し、感謝しているようだった。このように、この部落における彼女の生活は、口をきかぬ悲しげなものであったが、ただ自分の子供に対する時だけは別だった。雨のふっていない日はいつでも、彼女は、幼い子供の手をとって、いたましげに、びっこをひきながら森の中に、入って行くのだった。そしてそこの地面の上に腰を下ろしながら、この二人の者は、おたがいに一定の時間の間、その不思議な言葉で、親しげに話しあうのが常であった。
ついに彼女は、一週ごとに、一日ごとに、眼に見えて青ざめ、弱々しくなっていった。やがて彼女は、もはや森の中に出かけることができなくなり、うっとうしい暑い部屋の中で、あえぎながら、坐ったり横になったりして、自分を解放してくれる死を待つのであった。同時にいつも体がよわそうにみえていた幼いリマは、同情したためであるかのように、衰《おとろ》え始め、いっそう影のようにみえてきた。そのため彼女は、母親よりも先に死んでしまうのではないかと思われた。彼女の母親のところへ、死はゆっくりとやってきた。しかしついにあまりにも近くにやってきたように見えたので、ヌフロと司祭は、共に彼女の傍にいて、臨終《りんじゅう》のくるのを待った。その時だった。幼いリマは、幼児の時からスペイン語を話すことをおぼえていたので、彼女にささやきかける母親の言葉をきくと、ベッドのところから立ち上り、臨終の母親の心に浮んでいることを、多少の困難を感じながらいいあらわそうとし始めた。この子は、この暑い湿気のある場所では生きて行くことができない、だが山と、もっと涼しい空気のある遠い所につれて行けば、ふたたび元気を取戻し、丈夫になるだろう、そう母親はいっていたのだ。
この言葉をきいて、年老いたヌフロは、この子供を決して死なせるようなことはしないと言明した。山と乾燥《かんそう》した平原と、木のまばらな森とがある、遠い、パラウアリに、自分自身で彼女をつれて行こう、そしてリオラマで、彼女の母親を看護《かんご》したと同じように、彼女を世話し、看護してやろうといったのである。
リマによってこの話の要旨が、臨終の母親につたえられると、母親は突然、もう何日も長いこと起き上ったことのないベッドからからだを起して、床の上にまっすぐに立ったが、そのやせ衰えた顔は、喜びで輝いていた。これを見てヌフロは、神から遣《つかわ》された天使が、彼女のためにやってきたのを知って、倒れないように、彼女に腕を差し出した。しかし彼が、彼女を支えていた時、すでに、あの突然浮んだ光輝は、彼女の顔から消え去っていた。そして、その顔は、燃えつきた灰のような、つやのない白さを帯びているのだった。低い美しい調子で何ごとかをささやきながら、彼女の霊魂《れいこん》は、とび去ったのである。
ふたたびヌフロは、放浪者となった。もっとも今度は、からだの弱いリマが道づれだった。この神聖な子供は、神聖な母親から、取りなす者の地位をうけついだのだ。おそらくヌフロの迷信がうつってしまった司祭は、手ぶらでヴォアを、去らせようとはしなかった。そしてこれから先長い間に必要な品の一切と、歓待とを、インディアンから手に入れるのに充分なキャラコを、老人にあたえたのである。
彼らは、とうとう無事にパラウアリにつき、しばらくの間、そこにある部落の一つで暮した。しかしリマは、すべての蛮人に対して、本能的な嫌悪を抱いていた。そしてその感情は、おそらく彼女の母親からうけついだものであったにちがいない。何故なら、母親の持っていたこの感情は、かつてインディアンの言葉を学ぶのをこばんだ、ヴォアにきてまだ間もない頃に、すでに現れていたからである。そしてこのためにヌフロは、結局そこを立ち去り、インディアンから離れて、イタイオアのそばにある森の中に住む気になったのであった。彼は、そこで家と菜園を自分で作った。しかしインディアンたちは、ひきつづき彼と親しく、しばしば彼を訪ねてきた。しかしリマが大きくなり、僕の見出したあの神秘的な森の少女に成長した時、彼らは、嫌疑を抱き始め、最後には、危険な敵意を持って遇するようになった。かわいそうに、彼女は、彼らを憎悪するようになった。彼らは絶えず、彼女の友だちである、愛する動物と仲が悪かったからである。彼女は、彼らが、小さな毒《どく》を塗《ぬ》った矢を彼女に向けようと思っていることは知らなかったので、少しも彼らを怖れなかった。そこで彼女は、絶えず森の中にいて、彼らの企《くわだ》てをくじいていた。そして動物たちも、彼女と同盟を結んで、彼女の発する警告の音調をききわけるらしく、危険が近づくと姿をかくすか、逃げ出すのであった。ついに彼らの憎悪と恐怖は、非常なものになってきたので、彼らは、彼女を殺そうと決心した。そしてある日、充分に計画をねったあと、森に行って、二人ずつ森の中にひろがって行った。この二人組は、一緒にはいないで、四、五十ヤードの間隔を置き、動き廻ったり、じっとかくれていたのである。これは彼女を取り逃さないためであった。吹矢の筒《つつ》で身をかためた二人の蛮人が、部落に最も近い森のはずれのあたりにいたが、そのうちの一人は、とある木の葉群の中に、何か動いているものがあるのに気がつき、その敵を一目見ようと、すばやく用心しながらその方に向って走って行った。そして彼が彼女の姿を見たのは明らかだった。彼女は、そこにいて、彼と彼の仲間を見ていたからである。そこで彼は矢を彼女に吹きかけた。しかし吹矢を吹いているちょうどその時、彼自身、心臓のすぐ上に投げ矢がぐさりと深くささった。彼は、致命的な矢のあごの先を身に受けたまま、しばらくの間走って、彼の仲間に出あった。この仲間は、彼を少女とまちがえ、矢を投げたのである。傷を負った男は、倒れて死にかけていたが、木の中に坐っていた例の少女に吹矢を吹いたが、彼女は、手でその矢をつかみ、すぐさま、非常な力と正確さで投げ返してきたので、心臓の真上にささった、と語った。彼は、それらいっさいのことを自分の眼で見たのだといったので、誤って彼を殺してしまった彼の友人は、彼の話を信じ、その話を他の者にも繰返した。リマは、一人のインディアンが、もう一人のインディアンに矢を投げるのを見ていた。そして彼女がそのことを話した時、彼女の祖父はそれが偶然の出来事だと説明したが、矢が投げられた理由には、思いあたることがあった。
その日から、インディアンたちは、もはや森で狩をしなくなった。そしてついにある日のこと、ヌフロは、知り合いでないインディアンにあい、少し話をしたが、矢に関する奇妙な話をきいたのであった。吹矢で殺すことのできなかった神秘的な少女は、ある老人と、その心を奪ったデイデイの子供であり、デイデイは、彼女の配偶者《はいぐうしゃ》にあきて、自分の川の中に戻ってしまい、あとに残った彼女の半人間の子供が、森の中で、悪意のあるわるふざけをしているのだ、というのが、その話の内容だった。
さて、以上のべてきたのは、ヌフロの物語った話であるが、ひどく長たらしいヌフロ流に、のべたわけではない。しかし僕が、彼の話に心を動かされなかったと思ってはいけない。――彼の自分本位な動機にもかかわらず、僕は、彼の行為に讃辞をおくったのであった。
十六
僕たちは、十八日間、リオラマへ旅行をつづけたが、最後の二日間は、僕たちを口でいいあらわせないようなみじめな状態におとしいれた、絶え間のない雨のために、ほとんど前進することができなかった。幸いにも、一匹の大きなありくいを犬が見つけ出して、ヌフロがうまく殺したので、すばらしい、体力のつく肉を充分手に入れることができた。僕たちは、ついにリオラマ山脈の中にきていて、リマは明らかに、大きな期待を持っているらしく、僕たちのそばを離れようとはしなかった。僕は、何一つ期待してはいなかった。その理由はそのうち述べるつもりである。僕は、僕たちにふりかかる唯一の重大なことが、餓死《がし》に他《ほか》ならないことを確信していた。最後の日の午後、僕たちは、非常に長い山の麓《ふもと》のへりを通ったが、その山の南端には、頭をもたげてうずくまっている長いからだの上に、石のスフィンクスの頭をのせたような、巨大な岩のかたまりがのっていた。そしてその最も高い所は、あたりの高さよりも千フィートばかり高くなっていた。時間もおそく、雨もふたたび激しくふり出していたが、老人は、なおも苦労しながら進んでいった。いつもなら日没前の何時間かは、たき木を集めたり、寝る場所を作ったりすることに使っていたのだが。ついに山頂のほとんど下のあたりにやってきた時、彼はのぼり始めた。あたりは勾配《こうばい》もゆるやかで、生えている植物も主として、岩の裂《さ》け目に根づいている、矮小《わいしょう》なとげのある木々で、ほとんど僕たちの進行を妨《さまた》げることはなかった。しかしヌフロは、斜めに進み、上るのが困難だとでもいうように、たびたび立止っては一息きつき、あたりを見まわすのだった。やがて僕たちは、山腹にある深い峡谷《きょうこく》のような裂け目にやってきた。その裂け目は、僕たちのいる所より上では、だんだんと奥深く、狭くなっていたが、下の方に行くにつれて幅《はば》をひろげ、渓谷《けいこく》のようになっていた。そのきりたった斜面は、僕たちの見下ろした所では、密生したとげのある植物が一面に生《お》い茂り、底の方からは、かくれている流れのかすかな音がひびいてきた。この渓谷のはじに沿《そ》って、ヌフロは、苦労しながら上り始めた。そしてついに、僕たちを山腹の上にある、石の台地につれ出した。ここで彼は、立ち止り、僕たちの方をふりむくと、眼に、満足したような悪意をうかべて僕たちを見た。そして、ここが僕たちの旅行の最終地であるといった。彼は、この荒れはてた山腹を見れば、十八日の間なめてきたいっさいの不愉快なことは償《つぐな》われるだろうと請け合うのだった。
僕は、そういう彼の言葉を、無関心にきいていた。僕はすでに彼自身から詳しい話をきていたので、この場所のことはわかっていたのである。そして僕は、すでに見ようと思っていたいっさいのもの――大きな荒れはてた丘――を今見たのであった。しかしリマは、驚きと苦痛のために、ぼんやりとした表情を浮べていた彼女は、一体何を期待していたのであろう?「お母さんがあんたのところに現れたのはここ?」彼女は突然叫んだ。「この場所が――これが!
これが!」そして彼女はつけ加えた。「あんたがお母さんを介抱した洞窟は――その洞窟はどこにあるの?」
「あそこだよ」彼は、台地の向うを指さした。その台地は、一部分矮小な木々と灌木におおわれ、つきあたりは、ほとんど垂直《すいちょく》な、四十フィートばかりの岩の壁で終っていた。
僕たちは、その絶壁のところに行ってみたが、ヌフロによって二、三本のもつれた灌木が切り取られるまでは、洞窟の姿も見ることはできなかった。そしてそのうしろに姿を現したのは、高さは、普通の家の戸口の約半分、間口は、約二倍ある穴であった。
次にすることは、たいまつを作ることだった。そしてその光で、僕たちは、手探りで道を見つけ、内部を探検した。その洞窟は、奥行きが約五十フィートあって、だんだんに狭くなり、一番奥の所では、単なる穴になっていることがわかった。しかし手前の方の部分は、長方形の部屋のようになっていて、非常に天井《てんじょう》が高く、床は乾燥していた。たいまつを燃やしたまま、僕たちは、一晩中使うのに充分なまきを手に入れるために、灌木を切り始めた。ヌフロは、盛んにたき火を燃やすことが、ひどく好きだった。盛んにたき火を燃やすことと、脂肪《しぼう》の多い肉を食うこと(肉は、悪臭が強ければ強いほど彼の気にいっていた)が、彼にとって望み得る最もありがたいものだったのだ。陽気に燃える炎をみつめていると、僕の気分も新らしくなるのだった。僕は、雨の中で熱心に働きつづけた。しかしだんだんに雨は、激しくなり、ついには、先も見えないほどのどしゃぶりとなった。僕が最後の荷物をひきずり込んできた時、すでにヌフロは、充分火を燃やしていて、実に気前よくまきをつみ重ねていた。「今夜は、家が焼けてしまう心配はありませんな」彼は、くすくす笑いながらいうのだった。――彼は、長い間、そのくすくす笑いを止めようとはしなかった。
充分に食事をとり、一、二本の巻煙草を吸ったあと、慣れない暖かさと、乾燥と、たき火の光のために、僕たちは、ねむくなってきた。おそらく僕は、しばらくの間うとうとしていたのだろう。がやがて、僕は、はっとして眼をさました。リマの姿が見えない。老人は、眠っているようだった。なおも炉《ろ》の火のすぐそばで、坐ったままの姿勢をしていたが。僕は立ち上ると、急いで外に出た。雨を防ぐために、軽くマントをはおりながら。しかし洞窟から外に出て、驚いたことには、乾いた、さわやかな風が顔に感じられ、満月の光り輝く白い光に照されて、荒涼とした荒地が、目の前に、何リーグもひろがっていたのである! 雨は、ずっと前に止んでいたようだった。ただ二、三の薄い白い雲が、広々とした青い空を、とぶように動いていった。それは、歓迎すべき変化であった。しかし驚きと喜びの衝撃がすぎるかすぎないうちに、僕は、リマが僕から去ってしまったのではないかという、狂うような恐怖に襲われたのである。下の方を見たが、彼女の姿はなかった。僕は、とげのある木の生えた場所から抜け出そうと、例の狭い台地のはずれまで走って行って、その頂に眼を転じた。すると、少しばかり上の方に、じっと立ったまま、上の方をみつめている彼女の姿が眼に入った。僕は急いで彼女の傍に進んで行った。そして近くまで行った時、彼女に向って呼びかけた。しかし彼女は、僕の方を見るために、半ばふりむいただけで、答えようとはしなかった。
「リマ」僕はいった。「なぜこんな所にきたんだ? こんな夜中に、山に登ろうと本気で考えているのか?」
「そうよ――どうして、わるいの?」一、二歩僕の方に近寄りながら、彼女は答えた。
「リマ――ね、リマ、僕のいうことをきいてくれない?」
「今ですって? まあ、いやだわ――なぜ、そんなことをいい出すの? 旅に出る前に、森の中であなたのいうことはきいたじゃない。そしてあなたは、私の好きなようにするって約束したじゃない。ごらんなさい。雨は止んで、月が明るく輝いているわ。なぜ私は待ってなければいけないの? あの頂上に行けば、私の一族の国が見えると思うわ。私たち今、そばまできてるんじゃない?」
「おお、リマ、君は何が見えると思ってるの?僕のいうことをおきき、きかなきゃだめだよ。だって僕が一番よく知ってるんだから。あの山の上から、君の見るのは、ぼんやりとひろがっている、果てしのない荒地、山と森、また山と森だけなんだ。そこで、君は何年もさまようことだろう、さもなければ、最後に飢《う》えか熱病のために死んでしまうか、何か猛獣《もうじゅう》か野蛮人に殺されてしまうにちがいない。だが、リマ、君は決して、決して、決して君の一族を見つけることはできないだろう。もうそんな一族は、この地上には、いないんだからね。君の見てきたのは、平原の蜃気楼《しんきろう》が作り上げた、実在しない水なんだ。暑いギラギラした太陽が輝いている時のね。もし、そんなもののあとについて行くなら、乾き切った唇を、一滴の冷い水でもうるおすことができずに、最後には倒れて死んでしまうのだ。そして、リマ、君の望み――はるばるリオラマまで君をつれてきたその望み――は、もし、それを棄ててしまわなければ、人を破滅に導いてしまう、蜃気楼か、まどわしにすぎないんだ」
彼女は、ふりむくと、キラリと輝く眼を僕に向けた。「あなたが一番よく知ってるですって!」彼女は叫んだ。「あなたが一番よく知っていて、私にそういうのね! 今まで、あなたは、私にうそなんかいわなかったわ。それなのに、なぜ、私にそんなことをいうの? この、リオラマにちなんだ名を持っているこの私に? 私も、あなたのいってる本当にはない水なの――神聖なリマでも、すてきなリマでもなくて? 私のお母さんには、お母さんはなかったの? お母さんのお母さんも? 私はおぼえてるわ。ヴォアで、死ぬ前のお母さんのことを。そしてこの手は本当の手よ――あなたのと同じに。あなたのにぎりたがってた手よ。だけど今私に話しかけているのは、あの人じゃないわ――イタイオアの山の上で、世界全部を教えてくれた人じゃないわ。ああ、あなたは、盗んできたマントを着てるのよ。ただ年寄りの白髪のまじったあごひげをおき忘れてきただけだわ! 洞窟に戻って、それでも探してらっしゃい。そして一族を探しに行くために、私を一人にしとい|て頂戴《ちょうだい》!」
僕が森で蛇を殺そうとしているのを止めたあの日のように、イタイオアで一緒にいたあと、ヌフロに出あった時のように、ふたたび彼女は、一変し、激しい怒りにみなぎっているようだった。――美しい人間のすずめ蜂、その口から出る一語一語が、針なのである。
「リマ」僕は叫んだ。「僕にそんなことをいうのは残酷で不当だよ。僕が君をだましたりしたことがないのを知っているなら、少し信用してくれてもいいと思うな。君は妄想《もうそう》でも――蜃気楼でもない。君は、リマなんだ。この世の中でかけがえのないリマなんだ。僕は君ほど誠実で純粋になることはできない。しかしうそをいって君をだますくらいなら、この岩の上に倒れて死んでしまい、君と、僕たちの上に輝いている、美しい光を永遠に失ってしまった方がいい」
情熱のこもった僕の言葉をきくと、彼女は蒼白《そうはく》になり、手をにぎりしめた。「私は何をいったのかしら? 私は何をいったのかしら?」苦悩に充ちた低い声で、こういうと、突然彼女は、僕に近寄ってきた。そして低いむせび泣くような叫びをあげながら、僕の足もとに身を投げかけた。夜、小屋の近くの森の中で、路に迷っていた僕の姿を見つけ出した時のように、優しい悲しげな調子をこめて、自分自身の神秘的な言葉を口走るのだった。しかし僕が彼女を腕に抱こうとすると、彼女はすばやく立ち上り、僕から少し身を離した。
「ああ、そんなことないわ。あなたが一番よく知ってるなんて、そんなはずないわ!」ふたたび彼女はいい始めた。「だけど、あなたが私をだまそうとしなかったのは、わかってる。それに今、まちがってあなたを非難してしまったんだから、あなたをつれずに、あそこへ行くことはできないわ」――その頂上を指さしながら――「私、じっと立っていて、あなたのいおうとする事は全部きくわ」
「リマ、君のおじいさんが、君の経歴《けいれき》を僕に話してくれたのは知ってるだろ。――彼がどうやって君のお母さんをここでみつけて、君の生れたヴォアにつれて行ったかを。だが、君のお母さんの一族については、彼は何にも知らないんだ。だから彼は、今これ以上君をつれて行くことはできないんだ」
「まあ、あなたは、そう思ってるの! あの人が今そういっているから。だけどあの人は、ここ何年も私をだましてきたのよ。あの人が前にうそをついてたとすれば、まだうそをいうかも知れないわよ。前にリオラマなんて知らないっていってたように、今度は、私の一族なんて知らないってね」
「リマ、おじいさんは、うそもいえば、ほんとのこともいうんだ。その区別はつくさ、彼は最後に、本当のことをいって、僕たちをここにつれてきたが、これ以上案内することはできないんだよ」
「そうでしょうよ。私は一人で行かなければならないわ」
「リマ、そんなことはだめだ。君の行く所には、僕たちも行かなければならないんだからね。君の方が、僕たちを案内して、僕たちはあとについて行くんだ。たとえ死に終らないとしても、僕たちの探索《たんさく》が、失望に終ることを信じながらね」
「そんなことを信じながら、それでもついてくるんですって! ああ、だめよ! なぜあてもないのに、あの人はここまで私の案内をするのを承諾《しょうだく》したの?」
「君は、おじいさんに無理に行かせたのを忘れたの? 君は、彼が信じていることを知っているだろ。彼は年を取って、昔やった悪事を思い出し、死んだあとのことが怖《こわ》くなっているんだ。そして君と、君のお母さんの取りなしによってのみ、霊魂の破滅から救われるとかたく信じているんだ。だからリマ、考えてごらん。君をこれ以上怒らせて、自分のただ一つの望みを奪われてしまうことを考えると、ことわることができなかったんだ」
僕の言葉は、彼女の心を苦しめたようだった。しかしすぐに彼女は、ふたたび元気を取戻したらしく、口を切った。「もし私の一族がいるものなら、なぜ失望したり、死んだりしなければならないの。あの人は知らないのよ。だけど、お母さんは、ここへきて、あの人にあったのよ。――そうじゃない? 一族の人々は、ここにはいないけど、多分そう遠くない所にいるわ。さあ、一緒に頂上に行って、下にある荒地を見下ろしましょうよ。――山と森、またその先の山と森をね。きっとそこのどこかよ! あなたはいってたわ。私に遠い所にあるものを知る力があるってね。だから、どの山か、どの森か、私にわかるんじゃない?」
「ああ! わからないよ、リマ。君の遠くのものを見る力にも、限度があるよ。そしてもしそうした能力が、君の思っているように大きなものであったとしても、何の役にも立たないだろうよ。だって、そのかげに君の一族が住んでいる山も森もないんだから」
しばらくの間、彼女は何もいわなかった。しかし彼女の眼と、にぎりしめた指は、そわそわしていて、彼女の動揺を現していた。彼女は、自分の心の最も深い所で、僕の主張に反対する議論を探しているかのようだった。やがて、幾分非難の調子を含みながら、低い、ほとんど落胆《らくたん》したような声で、彼女はいった。「私たちは、もう一度戻るために、ここまできたっていうの? あなたは、ヌフロみたいに、私の取りなしがいるわけじゃないんでしょ。それなのにあなたもまたきたのね」
「君のいる所には、僕はいなければならない――君は自分でいってたじゃない。それに僕も、出かけた時には、君の一族がみつかるという望みを少しは持っていたんだ。だがヌフロから話をきいて、今は、前よりももっとよく知るようになったんだよ。今僕には、君に望みが無駄なものだということがわかったんだ」
「なぜ? なぜなの? お母さんはここで見つけられたんじゃないの――私のお母さんは? じゃ、私の一族の人たちはどこにいるの?」
「そうだ、君のお母さんは、ここで、たった一人みつかったんだ。君は今、お母さんが死ぬ前に君にいってたことを全部思い出してみなければいけない。お母さんは、君に、一族の人々のことを話したことがあるかい? 彼らがまだ生きていて、いつか喜んで君を迎え入れるというようなことを話していたかい?」
「いってないわ。なぜそのことを私にいわなかったのかしら? あなたにはわかってるの? 私にそのわけをいえる?」
「その理由を推測することはできる。リマ。それはとても悲しいことなんだ――話すのがむずかしいくらいね。洞窟の中でヌフロが介抱し、喜んで彼女を崇拝し、望んでいるいっさいのことをしてやり、手まねで彼女と話した時、彼女は、自分の一族のもとに戻る望みを示さなかったのだ。そして、見知らぬ人々、ヌフロのような他人の中で暮さなければならない遠い場所につれて行こうと、彼女にわかるような方法で申出た時、彼女は、進んでその申出を承諾し、ヴォアまでの痛々しい長い旅行をしたのだよ。リマ、君だったらそんな風にしただろうか? ふたたび戻ることも、うわさをきくことも、話しかけることもできない遠い所に、最愛の人々を残して行っただろうか? そうだ、君にはできなかったろう。同じように彼女もそうしようとはしなかった。もし一族の人々が生きていたならば。そして、彼女は知っていたのだ。自分が一人生き残ったことを、何か大きな災難がふりかかってきて、彼らがほろびてしまったのを。彼女の一族は、多分、その人数が少なかったのだ。そして四方を敵の種族に取かこまれたが何一つ武器はなく、戦いもしなかった。彼らは、孤立した場所に住んでいたので、ほろびずに生きながらえていたのだ。それはおそらく四方を、ひどく高い山々と、入り込むことのできない森と沼地によって守られている、どこかの深い谷間だったにちがいない。しかしついに残忍な蛮人どもが、そのかくれ家に押し入り、彼らを追いつめて、二、三の逃亡者を除く全員を滅ぼしてしまったのだ。そしてその二、三の逃亡者は、君のお母さんのように単独で脱出し、どこか遠くにある人里離れた場所に、逃れ去ったのだ」
彼女の顔に浮んでいる、不安そうな表情は、僕の話もきいているうちに、だんだんと深くなり、苦悶《くもん》と絶望のようなものにまで達したのであった。やがて僕が話し終える直前、彼女は、突然手を頭に上げて、低いむせび泣くような叫びをあげた。もしすばやく僕の腕で抱き止めなかったなら、彼女は岩の上に倒れていたであろう。ふたたび僕の腕の中に――僕の胸にもたれて、彼女のふさわしい場所に! しかし今、いっさいの光り輝く生命は、彼女のからだから立ち去ったように見えた。彼女の頭は、僕の肩の上にもたれかかっていた。彼女は、低くあえぐようにむせびなきながら時々かすかにからだをふるわせていたが、それ以外には身動き一つしなかった。しかしまもなく、そのむせび泣きも止み、眼もとじて、顔は、動かず、死人のように蒼白になってきたので、僕は、恐ろしい不安を心に抱きながら、彼女を洞窟まではこび下ろした。
十七
彼女をかつぎながら、ふたたび洞窟に入って行くと、ヌフロは起き直って、眼に驚愕《きょうがく》の表情を浮べながら、じっと僕をみつめた。僕は、自分のマントを地面に投げて、リマをその上にねかせ、今まで起ったことを簡単に話した。
ヌフロは、彼女をしらべるために、近寄ってきた。そして彼女の胸に手を置いた。[死んでいる!――この子は死んでいる!]彼は叫んだ。
僕自身の不安は、彼の言葉をきいて、理窟に合わない怒りに変った。「馬鹿なことをいうな! この子はただ気絶しているだけだ」僕は答えた。「水を持ってきてくれ、早く!」
しかし水を吹きかけても、彼女の意識《いしき》は回復しなかった。そしてその白い、みじろぎもしない顔をみつめていると、僕の不安は深まって行った。ああ、なぜ僕は、深く考えることもなく、僕の空想したあのように悲しい悲劇的な物語を、彼女に話してしまったのだろう? ああ! あまりにもくすりがききすぎてしまった、彼女のむなしい望みを殺すと同時に、彼女自身までも殺してしまったのだ。
老人は、彼女の上に身をかがめて、ふたたび口を切った。
「そうだ、この子はまだ死んではいないと思いますが、旦那、死んでいないにしても、死にかけていますな」
僕はこの言葉をきいて、あやうく彼を打ち倒してしまうところだった。
「では、この子は僕の腕の中で死ぬのだ」僕は荒々しく老人をわきに押しのけ、マントに包んだまま、彼女を抱き上げて叫ぶのだった。
そして、片腕に、彼女の頭をいこわせ、いいようのない苦しい気持で、不思議に青白い彼女の顔をみつめながら、彼女を抱いている間、僕は、彼女を僕に返してくれるよう、神に向って気ちがいのように祈るのだった。僕がこのようにしている間、ヌフロは彼女の前にひざまずき、頭を垂れて、嘆願するように手をにぎりしめながら、話し始めた。
「リマ、孫娘よ!」彼は祈るのであった。そのふるえている声は、心の動揺を物語っていた。「まだ死なないでくれ。お前は死んではいけない――本当に死んではだめだ――わしがお前にいうことをきくまでは。わしは別に言葉で答えてくれといってはいない。お前は口で返事することはできないだろう。わしは無理をいっているのではない。ただ、わしの話が終ったら、何か合図をしてほしい。――ため息をついても、まぶたを動かしても、唇をぴくぴくさせるのでも――口の片はしをほんの少しでいいのだ――いいのだ。それ以上のことはしないでもいい。だがお前がきいたということをしらせてくれ。そうすればわしは満足だ。ずっと長い間、わしがお前の保護者だったことをおぼえていてほしい。またお前のために、この長い旅行をしたことも。そしてお前の聖人になったお母さんに、死ぬ前、ヴォアでつくしてあげたすべてのことも。お前のお母さんは今マリアさまのおそばにいる最も偉い聖人のうちの一人になり、恩寵《おんちょう》を得たいと思うならば、ひとこともいわないうちにそれを手に入れることができるのだ。また最後にはわしがお前の望みに従って、無事にリオラマまでつれてきてやったことも忘れないでくれ。たしかにわしは、お前を小さなことでだましてきた。だが、そんなことは、お前にとって大したことではない。わしがお前に持っている当然の権利のことを考えてみれば、そんなことは、小さな、取りたてていう必要のないことだからだ。リマ、お前の手に、わしはいっさいのものをゆだねる。お前のした約束と、わしのしてやった世話をあてにしながら。だが、ひとことだけ注意をつけ加えておきたい。お前がこれから入ろうとしている所の荘厳《そうごん》さ、新らしい光景と色彩、叫び声、楽器のひびき、ラッパの吹奏《すいそう》、このようなものを忘れないようにしなさい。また聖人や天使にかこまれたとしても、自分自身を卑下《ひげ》したり、恥しく思ってはいけない。何故なら、お前がその人に劣っているわけではないからだ。人のうわさでは、太陽のように輝いている、キラキラした衣裳を身につけているのを見て、最初は、そう思えないかも知れないが。わしは、お前の指をひもで結べとたのむわけには行かないが。わしはただお前の記憶力に頼っている。お前の記憶は、いつもよかったし、ごくちょっとしたことでもよくおぼえていたからな。そしてもし、お前の望みをいうようにいわれた時には――お前はきっとそういわれるにちがいないが――、何よりも先に、お前のおじいさんのことを、そしてお前と、天使のようなお前のお母さんに対する当然の権利のことをいうのをおぼえておいてくれ。お母さんにもわしからよろしくといっておいてくれ」
このような嘆願の間――もしこんな場合でなかったら、僕は笑い出してしまったろうが、今はただ僕の心をいらだたせるだけであった。――かすかな変化が、死んだようにみえる少女に現れて、僕に望みを抱かせるのだった。僕の手の中にある、彼女の小さな手は、氷のように冷たくはなかった。かすかな赤味がその顔にさしているわけではなかったが、その青白さからは、死人の持つ蝋《ろう》のような感じは消え去っていた。今は、かたく結ばれていた唇も、少しほころび、今にも開こうとしているかのようであった。僕は、彼女の胸の上に指の先をあて、かすかな胸の鼓動《こどう》が感じられるように思った。そしてついに、彼女の心臓が本当に鼓動しているのだと、確信するようになった。
僕は、老人に眼をやった。彼は、依然として、前の方に身をかがめながら、彼女の合図を熱心に待ちかまえているのだった。彼のいやしい俗《ぞく》な利己主義に対する、僕の怒りと嫌悪はすでに消え去っていた。「おじいさん、神に感謝しようではありませんか」僕はそういったが、喜びの涙が、僕の声を半ばつまらせていた。「この子は生きています――発作《ほっさ》から息を吹き返したようです」
彼は、身をひくとひざまずき、頭を垂れて、神に対する感謝の祈をつぶやいた。
僕たちは、一緒にそれから半時間の間、ずっと彼女の顔を見守っていた。僕はまだ彼女を腕に抱いていたが、このあいらしい荷物にうんざりすることはなかった。僕は、彼女が蘇生《そせい》しつつあるという、さらにたしかな徴候《ちょうこう》を待っていたのであった。彼女は今、最後には死に至る、深い、死者のような眠りに落ちた者のようだった。しかし、一時間前に見た彼女の顔を思い出してみると、回復への経過は、奇妙に遅々《ちち》としたものではありながら、たしかなものであるという確信を抱くに至った。この死から生に至る経過は、あまりにもおそい、あまりにもゆるやかなものであったので、僕たちの心配は、ほとんど止む時がなかったが、やがて、その唇がほとんどひらきかけ、もはや白さを失い、青白い透明な皮膚の下に、かすかな青味がかったバラ色が見え始めたのに気がついた。ついに、いっさいの危険は去ったが、回復がなかなかはかどらないのを見て、年老いたヌフロは、ふたたび炉辺にひき返すと、砂地の床にからだをのばし、またたくまに、深い眠りにおちてしまった。
もし、赤く燃えている燃えさしと、踊《おど》っている炎の強烈な光に照されて、僕の前に彼が横たわっていなかったとしても、リマと一緒にいる僕は、別により孤独な気持を感じはしなかったろう。――人里離れた山の中の、陰気な丸天井に光りと影が躍っている、この人目につかない洞窟の中で。この深い沈黙と孤独の中で、じっとながめつづけた神秘的な魅力を持つ、みじろぎもしない彼女の顔と、無意識のうちに現れた生命の力は、僕の心に、不思議な感情をよびさますのだったが、それを口でいいあらわすことは、不可能に近かった。
以前、クエネベタ山脈の森林におおわれた、でこぼこの岩の間をよじ登っていた時、新しい、またその後も見ることのできなかった、たった一本の白い花に出くわした。僕は、それを長い間、みつめていた後、先に進んで行ったが、その完全な花の姿が、なかなか心から消えようとしないので、まだしおれていないことを望みながら、翌日もまた出かけて行った。しかし花には、何の変化もなかった。そして今度は、前よりももっと長い間、それを眺め、他のいっさいの花をはるかにひきはなしているような、その驚くべき美しい形に感嘆したのである。それは厚い花びらを持っていた。そして最初僕には、それが、神聖な霊感をうけた芸術家が、未知の高価な石を彫って作った造花のように思われた。それは、大きなオレンジくらいの大きさで、牛乳よりももっと白く、透明ではなかったが、表面に水晶《すいしょう》のような光沢《こうたく》があった。次の日僕は、ふたたび出かけたが、まだしおれていないという望みをほとんど持つことはできなかった。しかし、その花は、たった今開いたばかりのように新鮮だった。その後、僕はしばしば出かけた。時には数日の間隔をおくこともあったが、ほんの僅かの変化も現れず、そのはっきりとした絶妙な線は、少しの明確さを失うことなく、最初に見た時と同じような純潔さと光沢を保っていた。なぜ――僕はしばしばたずねるのだった。――この神秘的な森の花は、他の花のように、しおれたり枯《か》れたりしないのだろうか? まもなく、最初うけた造花の印象は、僕の心から去った。それは、まさしく、花であった。他の花と同じように、生命と生長とを持っていたのだ。ただあのような卓越した美しさを持っているので、異った種類の生命を持っていたにすぎなかったのである。それは、無意識のものであったが、より高いものであった。そしておそらく永遠に死ぬことのないものであったのだろう。僕が最後にそれを眺めた時、それはまだ花をひらいていた。風も雨も日光も、その神聖な純潔さに汚れや、色をつけたりすることはできないのだ。花を見てもあまり感心したりしない野蛮なインディアンも、この花を見れば、顔をおおいかくしてひき返すことだろう。また、森の中を、ものすごい勢いでつき進んで行く、草を食う動物も、この花の奇妙な美しさにうたれて、わきにそれ、害を加えることなしに進んで行くであろう。あとになって、インディアンたちに、この花の話をすると、その花は、ハタと呼ばれているというのだった。また彼らは、その花に対して、ある迷信――奇妙な信仰――を抱《いだ》いていることもわかった。彼らは、ハタの花は、この世にただ一つしか存在しない、それは、一か所で月の輝いている間だけしか、花を咲かせない、月が空から消えると、そのハタは、その場所から姿を消し、どこか他の場所、時には、どこか遠くはなれた森でふたたび花を開くのだ、というのだった。また彼らは、ハタの花を森の中でみつけた者は、あらゆる敵を征服し、あらゆる望みをとげることができ、さらに、他の人々よりも、ずっと長く生きのびることができるといった。しかし今僕がのべたように、こうしたことは全部、あとになってからきいたので、僕のこの花に対する半迷信的な感情は、僕の心の中で、独自の成長をとげたのである。このような感情は、僕が彼女の顔をみつめている間に、僕の心に浮んだのであった。この間、彼女の顔は、少しも動かず、意識も持っていないようだったが、しかし生命、このような純潔で、卓越《たくえつ》した美しさに似合うような気高い生命を持っていた。僕はほとんど信じることができた。あの森の花のように、このような状態と顔容《かんばせ》のまま、彼女の顔が永遠に保たれて行くことを。このように変わることなく保たれながら、おそらくそれ自身の不滅性を、まわりにあるすべてのものにあたえるのであろう。――腕の中に彼女を抱き、黒い、絹のような豊かな髪の毛の中にのぞいている青ざめた顔をじっとみつめている僕に対して。薄暗い、岩の壁の上に、うつろいやすい光を投げかけている、踊っている炎に対して。また、床の上にからだをのばし、永遠にさめることのないような眠りにおちている、年老いたヌフロと、二匹の黄色い犬に対して。
この感情は、あまりにもしっかりと僕の心を占めてしまったので、しばらくの間、腕に抱いているリマのからだと同じように、僕自身も身動きできないほどだった。僕はただ、僕の見守っている顔に現れる変化、いっそうはっきりした蘇生のきざしを注意することによって、ようやくその力から脱れたのである。今までは、血色のきざしといえるかいえないくらいのものだった、かすかな血色も、今は目だって濃《こ》さを増してきた。まぶたは、水晶のように澄んだ眼のきらめきを示すばかりにひらき、唇もまたかすかにひらいた。
やがて僕は、彼女の呼吸をたしかめてみようと、ずっと低く身をかがめて行ったが、その唇の美しさとあいらしさに、さからうことができなくなり、僕の唇をその上に重ねてみた。しかし一度その甘美さと芳香を味ってしまうと、一度でよすことはできなくなり、幾度も繰り返し接吻《せっぷん》をつづけるのだった。彼女には意識がなかった。――どうして彼女に、僕の愛撫《あいぶ》からのがれることができただろう? しかし僕の心には疑いが浮んだ。そこで僕は、顔をひいて、もう一度じっとその顔をみつめた。奇妙な新らしい輝きが、顔一面にひろがっていた。それはただ、赤く燃えているたき火の光が、彼女の皮膚に投げかけていた、偽《いつわ》りの血色すぎなかったのだろうか?僕は、手をひらいて彼女の顔をおおってみた。彼女の顔からは、本当に青白さは去り、その頬の上にあるバラ色の炎は、彼女の生命の一部であった。彼女の光沢《こうたく》のある眼は、半ばひらかれ、僕の眼をじっとみつめていた。ああ、たしかに彼女の意識は戻ってきたのだ! それでは、彼女は、あの盗まれた接吻に気づいていたのか? 今もう一度接吻をしたら、しりごみしてしまうだろうか? ふるえながら、僕は身をかがめて、ふたたび、彼女の唇に唇を重ねた。軽く、しかしためらいながら。そしてまた一度。僕は身をひいて彼女の顔をみつめた。そのバラ色の炎は、前よりもいっそうあざやかであり、眼は前よりもさらにみひらかれて、僕の眼の中をみつめていた。そのみひらかれた、意識を持った眼でみつめられていると、とうとう僕たちの間に横たわっていた影が消えて、僕たち二人が完全な愛情と信頼で結ばれ、言葉はもはや無意味なものになったことを知るのだった。そして僕が口を切った時、僕は、決しかね、ためらっていたのだ。何故なら、この沈黙の数瞬におけるいいようのない幸福は、あまりにも完全なものに思えたので、口をひらいて話をすることは、ただそれを損《そこな》うもののように思われたからである。
「僕の愛、僕の生命、僕のかわいいリマ、あの暗い夜――リマ、あの夜のことをおぼえているかい?――あの森で、僕の胸にしっかりと抱きしめた時よりも、君は今僕をよく理解している、僕にはそれがわかっているんだ。今夜、山の上で僕がしたように、率直《そっちょく》に君に話したこと――今まで君を支《ささ》え、こんなに家から遠くまでつれてきた希望をこわしてしまったこと――は、どのくらい激しい苦痛をもって僕の心を貫《つらぬ》いただろう! しかし今その苦悶も去った。あの影は、今僕をみつめているこの美しい眼から消えたのだ。それは、僕を愛しているからなのかい、愛とは何かを知り、またどれほど僕が愛しているかを知り、このようなことについて、他の生きている者に話しかける必要がなくなったことを知ったためなのかい? そのことを僕に話し、僕にみせるだけで充分なのかい、リマ? 君が僕から恐怖のためにしりごみした時、最初それはなんと奇妙に思われたことだろう! だが、あとになって、大声でお母さんに祈りながら、君の心のいっさいの秘密を打明けた時、僕はそのことを理解した。このように人里離れた、孤立した森の生活では、君は、まだ愛というものをきいてはいなかった。それの人間の心に及ぼす力とか、その限りない甘美さとかについて、何もきいてはいなかったのだ。しかし、それがついに君のところにやってきた時、それは、まだきいたこともない、不可解なものであり、君の心を不安と動揺とで充《み》たしたのだ。そのため君は、それを怖れ、それをもたらした原因であるものから姿をかくそうとした。星とか、僕たちがさっき山の上で見た青白い月の光とかの他には、何の光もない夜がつづいたならば、そのような恐怖のふるえは残っていたことだろう。だがついに夜は明け、奇妙な、今まできいたことのないバラ色と深紅色の炎が、東の空に燃え上り、来るべき太陽を予告したのだ。それは、夜が君に示したどのようなものよりも、美しく見えるだろう。しかし君はまだふるえている。君の心臓は、その見なれない光景を見て、激しく鼓動している。君は、その意味を君に告《つ》げることのできる人々の所にとんで行きたいだろう。そしてそれが甘美なことを予言しようとしまいと、それは実際にやってくるのだ。今いったことが、君が一族を見つけ出したいと思って、彼らをさがしにリオラマまでやってきた理由なのだ。彼らが決してみつからないと知った時――僕が残酷にも君に話した時――、君は、君の心の中にある奇妙な感情が、永遠に秘密のままになってしまうと想像し、自分は一人きりだという考えに耐《た》えることができなかったのだ。もしこんなにすぐ気絶しなかったら、今君にいわなければならないことを君にいっていただろうに。彼らは、もうほろびてしまったのだ。リマ、――君の一族はね。――だが、今僕は、君と一緒にいる。そして君の感じていることを知っている。君がどんな言葉でそれをいいあらわしたらいいかわからないとしても。どうして言葉なんか必要なんだ? それは、君の眼の中で輝いている。君の顔に炎のように燃えているのだ。僕は、君の手にそれを感じることができる。君は、また僕の顔に、それを見てはいないかい?――僕が君に対して感じていることいっさいを、僕を幸福にしている愛を。だって、リマ、これが愛なんだ。生命の花であり旋律《せんりつ》なのだ。僕たち二人の心を一つのものにする、甘美なもの、甘美な奇蹟なのだ」
ちょうど、そこによりかかっているのが楽しいように、なおも僕の腕によりかかり、僕の顔をじっと眺めている時、僕のいう一語一語を彼女が理解しているのは明らかであった。やがて、疑いが不安のあとを残すことなく、僕はふたたび身をかがめて、僕の唇を、彼女の唇に重ねた。僕は、もう一度、身をひいて、どちらの喜びが最も大きいか――彼女の優美な口に接吻するのと、彼女の顔をみつめているのと――、ほとんどわからないでいる時、彼女は、すぐさま僕の頸《くび》に腕を巻きつけ、姿勢を直して、僕の膝の上に坐るのだった。
「アベル――私は今あなたをアベルと呼びましょうか――そしていつも?」彼女は、なおも僕の頸に腕を巻きつけたままいうのだった。「ああ、なぜあなたは私をリオラマまでくるようにさせたの? 私はききたかったの! そしてあそこに眠っているおじいさんは、私がくるようにさせたんだわ。あんな人は、どうでもいいわ。だけどあなたは――あなたは私の経歴をきいていて、ここにくることが全然無意味だと知ってたのに! だけど、私の知りたいと思っていたすべてのことは、そこ、あなたのなかにあったのよ。ああ、今は、なんと楽しいのでしょう!だけどほんの少し前は、苦しかった! 私が、あの山の上に立っていた時、あなたが私に話して、あなたが一番よく知っていることがわかってた時、私はそういうことがわからないように努《つと》めたのよ。とうとう私は、もうそういうふうに努めることができなくなったわ。だって私の一族の人々は、お母さんと同じように、みんな死んでしまったんですもの。私は、平原《サヴァンナ》にある、実際にはない水を追いかけていたんだわ。『私を死なせて』そう私はいったわ。だってその苦しみをがまんすることができなかったんですもの。そしてあとになって、この洞窟の中で、私は眠っている人のようだったわ。そして眼がさめた時も本当に眼がさめたのではなかったの。ちょうど朝のように、光が私にうるさくあたってくるのよ。私の眼をあけてそれを見させようと。まだよ、親しい光、もう少しよ、じっと横になっているのはとてもいい気持だわ。だけどその光は、私から離れようとはしなかった。なおもうるさくつきまとっていたの。キラキラ光る小さな緑色のはえのように。とうとう、あんまりうるさくつきまとうので、私はまぶたをほんの少しひらいたの。朝ではなかったわ。それはたき火の火だった。そして私はあなたの腕の中にいて、私の小さなベッドにいたのではなかった。あなたの眼は、私の眼をじっと見ていたわ。だけど、私の方があなたの眼をよく見ることができたわ。それからあとのことは、何もかもおぼえているわ。一度あなたが、私に僕の眼を見てごらんといったことも。私、それはたくさんのことをおぼえているわ。――ああ、それはたくさんのことを!」
「リマ、どのくらいたくさんのことをおぼえているの?」
「きいてよ、アベル、あなたは乾いた苔《こけ》の上に横になって、まっすぐに木を見上げ、千の葉っぱを数えたことがある?」
「ないね、そんなことはできないよ。数えるには多すぎる。君は千てどのくらいだか知ってるの?」
「まあ、私が知らないっていうの! はちどりが私の顔のそばをとび、蜜蜂のようにぶんぶんいいながら、じっと空中に止っていて、それからとんでいってしまう時、その短い間に、私は、その頸に生えている小さなまるいあざやかな羽毛を百数えることができるわ。でもそれは、たった百よ。千はもっと多いわ。その十倍よ。上をみあげながら、私は千の葉を数えるの。そして数えるのを止めるわ。だって、その最初の千のうしろには、さらに千のかたまりがいくつもあるからよ。千のかたまりがむらがってるわ。だから数えられないの。あなたの腕に横たわりながら、あなたの顔を見上げている時も同じだったわ。私、おぼえてることを全部、勘定《かんじょう》することはできなかったの。あの森の中で、あなたがいらした時のことも、またその前のことも。そしてずっと前、ヴォアにいた時、お母さんと一緒だった子供の時のことも」
「リマ、おぼえているうちのどれかを話してくれ」
「ええ、一つ――今は一つだけよ。私がヴォアにいた子供の頃、お母さんは、ひどいびっこだった。そのことは知ってるわね。家のある所からはなれて、森の中に、ゆっくりと歩いて行く時、いつもお母さんは、木の下に腰を下ろし、私は、遊びながら、走りまわっていたわ。そしてお母さんの所に戻ってくると、いつもお母さんの顔は、青ざめて悲しそうだった。お母さんは泣いていたのよ。それは、私のきた足音がきこえないように、かくれながら、そっと戻ってきた時のことだったわ。『ああ、お母さん、なぜ泣いたりしてんの? びっこの足が痛むの?』ある日の事だった。お母さんは、私を腕に抱いて、なぜ泣いたりするのか、本当のわけを教えてくれたわ」
彼女は、話しを止めた。そして眼に、奇妙な、見たこともないような光を浮べながら僕をみつめた。
「なぜ、お母さんは泣いてたの?」
「おお、アベル、あなたは今、とうとう理解できるのよ!」こういって唇を僕の耳に近づけると、彼女は、柔らかな、美しい音をささやき始めたが、僕にはその意味が全然わからなかった。やがて彼女は、頭を引くと、ふたたび僕をみつめた。彼女の眼は涙で輝いていた。そして唇を半ば開いて、優しい、思いに沈んだ微笑を浮べていた。
ああ、かわいそうに! あんなにいろいろ僕がいってきかせたのに、あれほど色々なことが起ったのに、なお彼女は、僕が彼女の言葉を理解するにちがいないという以前の妄想《もうそう》に戻っていたのだ。僕はただ、悲しげに、無言のまま、彼女の表情に答えることができるだけだった。
彼女の顔は、失望のために曇ってきた。やがて彼女は、ふたたび口を切ったが、その調子には、何か嘆願するようなものがあった。「ねえ、私たちは、今離ればなれじゃないのよ。森の中に私がかくれてて、あなたがさがしてるんじゃなくて、一緒なのよ。同じことを話してるのよ。あなたの言葉で――あなたの言葉は、今は私の言葉よ。だけど、あなたがいらっしゃるまで、私は、何にも何にも知らなかったの。だって、話しをするのはおじいさんひとりなんだもん。毎日、ほんの二、三語、それも同じ言葉ばっかり。もしあなたの言葉が、私の言葉なら、私の言葉も、あなたの言葉でなければだめだわ。おお、私の言葉の方がいいと思わない?」
「ああ、いいよ、だけど、ああ、リマ、僕は、君と美しい言葉を理解するのを望むことができない。まして話すことはね。ただちゅうちゅうさえずっている鳥は、オルガン鳥のように歌うことはできないんだ」
むせび泣きながら、彼女は、僕の頸に顔をかくした。むせび泣く合間に、悲しげにささやきながら「どうしても――どうしてもだめ!」
このような喜びの瞬間に、このような激しい涙とこのような落胆の言葉は、何と奇妙《きみょう》に思われたことだろう!
しばらくの間、僕は、悲しげな沈黙をつづけていた。僕は初めて、そのようなものをさとることができる範囲内において、彼女の秘密な言葉を僕が理解できないということが、彼女にとってはどんな意味を持つかをさとった。――ただ彼女の敏活な思考と、鋭い感情だけが表されるこのより美しい言葉を。彼女は、僕の言葉で自分の考えを容易に、申し分なくのべることができるようだが、彼女にとっては、そんな言葉は、単に口ごもっていることのように思われるのが、僕にはよくわかった。そして僕が彼女にスペイン語で話すようにいった時、彼女はかつて僕にいったからだ。「あんなものは話しじゃないわ」彼女が、彼女の心を映《うつ》している、そのよりよい言葉で、僕と親しく話すことができないかぎり、彼女があれほど熱烈に望んでいる、心の完全な一致はあり得ないのだ。
やがて彼女は、だんだんに落着いてきたので、僕は、僕たち二人にとって慰《なぐさ》めになるようなものをいおうと努めた。「かわいいリマ」僕はいった。「僕に、君の使うような言葉で、君と話す望みのないのは、悲しむべきことだ。だが、僕たちの愛よりも偉大な愛を、僕たちは感じることはできないだろう。そして愛というものは、僕たちを幸福にする、口でいいあらわすことができないくらい幸福にする。このように悲しいことが一つぐらいあったとしても。そして多分、しばらくするうちに、君は、僕の言葉で、いいたいことを何でもいえるようになるだろう。君がさっきいったように、また君の言葉でもある僕の言葉で。僕たちが、あの最愛の森にふたたび帰って、僕たちが最初に話をした木の下で、姿をかくしたまま、僕に木の葉を投げ落し、小さな蜘蛛《くも》をつかまえて、どうやって自分の着物を作るかをやってみせてくれた、あの古いモラの下で、僕たちがもう一度話しあう時、君は、君自身の美しい言葉で僕に話しかけ、同じことを、僕の言葉でいおうとすればいい……。そして最後に、多分君は、そのことが思っているほど不可能なことではないのに気がつくだろう」
彼女は、泣きながら、ふたた微笑を浮べて、僕を見ると頭をかすかにふった。
「お母さんが死ぬ前、ヌフロや神父さんに、お母さんの望みを伝えることができたときいたことがあるけど、そのことを思い出してごらん。同じふうにして、なぜお母さんが泣いてたか、僕にいうことはできないかい?」
「私、あなたに話すことはできるわ。だけど本当にお話しするなんてもんじゃないのよ」
「わかったよ。君はありのままの事実を話すことはできる。そして僕は、幾分かのことを想像でつけたすことができる。しかし残りのことは、わからないままにしておくより他仕方がない。話してくれ、リマ」
彼女の顔には、困惑の表情が浮んだ。彼女は、眼をそらせて、薄暗い、たき火の光に照らされた洞窟を見廻していたが、やがて、ふたたび眼を僕の眼に戻した。
「ごらんなさい」彼女はいった。「おじいさんは、火のそばで横になって眠っているわ。私たちから、こんなに遠く――ああ、こんなに遠くね! 私たちが、この洞窟から外に出て、太陽のまちのある、大きな山々に向ってどんどん進み、ついに、大群衆の中に立つとするわね、その群衆は、私たちを眺めたり、私たちに話しかけたりする、だけど、その時も同じことね。群衆なんて木とか、岩とか、動物みたいなものね。――そんなに私たちから遠いのね! 彼らも私たちと一緒にいないし、私たちも、彼らと一緒にいないのね。だけど、私たちは、どこにいっても、二人っきりね。他の人とは別なのね。――私たち二人は。それが愛というものだわ。私今それがわかったの。だけど前は、わかっていなかった。だってお母さんのいってたことを忘れてたんだもの。なぜ泣くのってきいた時、お母さんが何ていってたか、私にいえると思う? ああ、いえないわ! ただこれだけ、お母さんと、もう一人の人は、いつも一つだった。そして他の人とは別だったと。それから何かが起ったわ――何かが! おお、アベル、あなたが、あの山の上で私にいってたのは、その何かじゃなかった? そしてもう一人の人は、永遠にいなくなってしまったの。そしてお母さんは、どこの森でもどこの山の中でも、たった一人だったわ。ああ、なぜ、私たちは、死んでしまったもののために泣くのでしょう? なぜ、すぐに忘れてしまって、ふたたび喜びを感じないのでしょう? 今、私には、あなたの気持がよくわかるわ、ああ、優しいお母さん。私が走り廻ったり、遊んだり、笑ったりしていた時、じっと坐ったまま泣いていたあなたの気持が! ああ、かわいそうなお母さん! ああ、何という苦しみ!」こういうと彼女は、僕の頸に顔をかくして、ふたたびむせび泣き始めた。
僕の眼にも、愛情と憐憫《れんびん》の涙が浮んだ。しかし、しばらくするうちに、優しい、慰めを含んだ言葉と、愛撫によって、彼女は、あの悲しい過去から現在に呼び戻された。やがて彼女は最初と同じように後にもたれかかった。彼女は頭を僕の折りたたんだマントの上にのせ、からだを、まわしている僕の腕と、僕たちのよりかかっている岩とに、もたせかけながら、優しい、確信に充ちた幸福感を浮べた、半ばとじた眼を、僕の眼に向けるのであった。――それは、雨のあとに輝く太陽のような、苦難を通り抜けたあとの喜びであり、霊妙な愛情によって幾分熱を帯びた、柔らかな、快いけだるさであった。
「リマ、いってごらん」彼女の方に身をかがめながら僕はいった。「森の中で、僕と一緒にいた、心の苦しかった日々、君には、幸福な瞬間はなかったのかい? 君の心の中にある何ものかが、君がまだ愛というものの意味を知らない前に、愛するということが甘美なものであることを、君に告げはしなかったかい?」
「ええ――一度だけ――おお、アベル、おぼえている? イタイオアから戻ってきたあとのあの夜を、。あなたは、炉の火のそばで、ずい分おそくまで話をしながら坐っていた。――私は、暗い所で、身動きもしないできいていたわ。一生けんめいにね。あなたは、炉の火のそばで、その光を顔に受けながら、それはたくさんの知らないことを話していたわ。あの時、私は幸福だった――ああ、何と幸福だったのでしょう!あの夜、外は暗い闇《やみ》で、雨がふっていた。私は、暗闇に生えていた植物だった。落ちてくる、私の葉の上に落ちてくる、甘い雨のしずくを感じていた。ああ、やがて朝になるのだ、太陽は、私のぬれた葉の上で輝くだろう、そう思うと、私の心は、幸福でふるえるほど嬉しかった。その時突然、稲妻がひらめいたわ、とても明るくね。私はこわくなってふるえ出し、もう一度あたりが暗くなることを願ったわ。それは、暗い所に坐っている私をあなたがみつめた時のことよ。私は、眼をすばやくそらすことも、あなたの眼を見ることもできず、怖れのためにふるえていたの」
「だけど、今はもうこわいこともない――影もない。今君は本当に幸福?」
「ああ、とても幸福よ! もし森に帰る道が、前よりも長く、十倍もあったとしても、頂上が雪で白くなった大きな山々や、大きな暗い森や、オリノコ河よりも広い河があったとしても、私はこわがらずに一人で行くでしょう。だって、あとからあなたがきて、森で、私と一緒になり、とうとう私と一緒に、いつまでもいてくれるんだもん」
「だけど、リマ、君一人で行かせるのではないんだよ。――もう君の孤独な日々は終ったのだ」
彼女は、いっそう大きく、その眼をみひらいた。そしてじっと僕の顔をみつめた。「アベル、一人で戻らなくてはならないの」彼女はいうのだった。
「朝にならないうちに、あなたと別れなければならないわ。二、三日、おじいさんと一緒に、ここに休んでから、私のあとを追っていらっしゃい」
僕は驚きながら、彼女の言葉をきいていた。「そんなことはだめだよ、リマ」僕は叫んだ。「僕と別に行かしてくれだって、――今君は僕のものなんだ――あんなに遠いところを。あんな未開の土地を通れば、道に迷って、一人で死んでしまうよ。ああ、そんなことは考えないでくれ!」
彼女は、僕の言葉に耳を傾けていた。その眼の中に、かすかな困惑を浮べて僕を眺め、しかし同時にかすかな微笑を浮べながら。彼女の小さな手は、僕の腕を這《は》い上り、僕の頬を愛撫した。そして彼女は、僕の顔を自分の顔の所まで引き下げ、唇と唇を重ねた。しかし、ふたたび彼女の眼をみつめた時、僕は、彼女が僕の望みに同意していないのを知った。「もう私には全部道はわかっているわ」彼女はいった。「山も河も、森も全部――どうして私が道に迷うことがあるというの? それに、私急いで帰らなきゃならないわ。一歩一歩、歩いては休み、休んでは歩き、お料理をしたり食べたり、たきぎを集めたり、寝る所を作ったりするために立止る、そんなにいろんなことをしながら行くことはできないわ! ああ、私は、半分の時間で帰るでしょう。だって私にはたくさんすることがあるんだもん」
「君が、何をしなければならないんだい?――僕たちが森で一緒になってから、何だってできるじゃないか」
返事をした時、かすかな嘲笑《ちょうしょう》に似たもののまじった晴れやかな微笑が、彼女の顔をかすめた。
「まあ、あなたにできないことがあるのを私にいわせるつもり? ごらんなさい、アベル」彼女は、そういって、今着ている軽やかな着物にさわってみた。最初の頃にくらべると、今ではかなり薄くなり、太陽と風と雨に長い間さらされて光沢《こうたく》もなくなっていたが。
僕は、彼女に強要することはできなかった。また説得させようとしたが無駄なようだった。しかし僕は、まだそれでやめはしなかった。説《と》き伏せるために僕の思いつくあらゆる議論をつづけていった。僕の話が終ると、彼女は腕を僕の頸のまわりに巻きつけ、もう一度、居ずまいを正した。
「おお、アベル、私は、どれほど幸福になるのでしょう!」彼女は、僕のいったことには、少しも注意を払わずにいうのだった。「私のことを考えてね。毎日毎日、森の中でたった一人でいる私のことを。私、あなたを待ってるわ。私、休まずに働いているわ。そしていうの。『早くきて、アベル。ゆっくりきなさい、アベル。まあ、アベル、何て長くかかるんでしょう! 仕事が終るまではこないで!』そして、仕事が終って、あなたがくるわ。あなたは私をみつけるでしょう。だけどすぐはみつけないわ。最初あなたは家の中を探すわ。それから森を。『リマ! リマ!』って呼びながら。するとリマは、木にかくれて、耳を澄ましているわ。あなたの腕に抱かれることを望みながら、あなたの唇に接吻することを夢みながら。――ああ、嬉しくて仕方がないのに、姿を見せるのは怖しいのよ。なぜかわかる? あの人は、あなたにいわなかった? 彼が最初彼女を見た時、彼女は彼の前に立っていた、まっ白な着物をきて――その着物は、太陽が沈みかけ、バラ色と深紅色の光を投げかけている時の、山頂に積っている雪のようなの。私もそんなふうよ。木々の間にかくれていうのよ。『私は、いつもとちがってるんじゃないかしら。リマのようではないのかしら?あの人は、私のことがわかるかしら?――同じように私を愛してくれるかしら?』ああ、私にはわかってるわ。あなたは、喜んで、私を愛し、私のことを美しいっていうわ。おききなさい!ほら」突然、顔を上げて、彼女は叫んだ。
洞窟の口から、それほど遠くはなれていない、灌木の間から、突然一匹の小さな鳥が、澄んだ、優しい調子で、さえずり始めた。そしてそれのあとを追うように、遠くの方で、他の何匹かの鳥が鳴き始めた。
「もうすぐ朝になるわ」彼女はそういうと、もう一度僕に腕をまわして、長い情熱的な抱擁《ほうよう》をあたえるのだった。そして僕の腕をそっとすり抜けると、眠っている老人に、すばやい一瞥《いちべつ》を投げかけながら、洞窟の外に出て行った。
しばらくの間、僕は坐ったままでいた。彼女が僕のところから去って行ったという実感がわいてはこなかったのだ。それほど突然、それほどすばやく、彼女は、僕の腕から抜け出して姿を消してしまったのである。やがて僕は、我に返って、驚いて立ち上り、彼女に追いつこうと願いながら外にとび出した。
まだ夜明けではなかった。しかし、山のうしろのどこかに浮んでいる、満月からのかすかな光があった。灌木の生えた台地のはしまで走って行き、その下の岩の多い斜面を探した。しかし彼女の姿は見あたらなかったので、僕は、声をあげて叫んだ。「リマ! リマ!」
鳥とは異った、低いさえずるような声が、ずっと下の影になった灌木の中からきこえてきた。僕はその方向に向って走りつづけたが、やがて立止ってふたたび彼女を呼んだ。あの甘美な声は、ふたたび繰り返されたが、今度はもっと下の方からだった。そしてその声もあまりにかすかなので、ほとんど僕の耳にききとれないほどだった。僕はさらに進んで行って何度も彼女を呼んでみたが、答えはなかった。僕は、彼女が、本当に一人で、長い旅に出てしまったのを知ったのであった。
十八
ついにヌフロは、眼をあけたが、その時僕は、さっきの空しい追跡からかえったばかりで、たき火のそばにただ一人、落胆《らくたん》しながら坐っていた。僕は前の日の骨の折れる苦しい旅と、徹夜から生じた疲労とねむさに苦しんだだけでなく、山腹で、ひどいもやにあって、ずぶぬれになってしまった。しかし僕の頭には休息のことは浮ばなかった。彼女は、僕のところから行ってしまった。そして僕はそれを止めさせることができなかったのだ。僕の腕から彼女を抜け出させ、たった一人、あの長い危険な旅行に行かせてしまったと考えることは、僕がそれに同意したかのような、耐えがたい気持をあたえるのだった。
ヌフロは最初、突然彼女が出かけたのをきいて驚いたようだった。しかし彼は、僕の心配を笑って、一度きた道なのだから、道に迷うはずはないと断言した。そして、インディアンはいつもかなり遠方から発見して、さけるようにしているから、害を受ける危険もないし、野獣も、蛇も、他の害を及ぼす生き物も、彼女に害を加えないだろう、また彼女の生命をささえるのに必要な少量の食料は、どこにでも見つけられるだろうし、その上、雨も暑気も彼女には何の影響もあたえないから、悪い天候によって旅行をさまたげられることもない、そう老人は断言したのであった。最後に彼は、彼女が僕のところから出て行ったのを喜んでいるようだった。リマが森にいれば、家も、耕《たがや》してある畑も、かくしてある食料品も、家具類も無事であるだろう、なぜなら、インディアンは、彼女のいる所には、敢《あえ》て近寄ろうとはしないからである、そう彼はいうのであった。彼の確信は、ふたたび僕を安心させた。そこで僕は、洞窟の中の砂地の床に身を投げ出して、深い眠りにおちていった。僕はずっと眠りつづけていたが、夕方になって眼をさまし、老人と一緒に食事をとると、ふたたび翌日まで眠りつづけた。
ヌフロは、なかなか出発しようとしなかった。彼は、乾燥した寝場所と、風に吹き散らされない火と、激しく音をたててふる雨がおちてこない、もの珍らしい楽な生活に心を奪われてしまった。さらに二日の間、彼は、帰りの旅行の出発に同意しようとはしなかった。そしてもし僕を説得することができたなら、僕たちのリオラマ滞在は、一週間もつづいたであろう。
出かける時は、よい天気であった。しかしまもなく空は曇り、それから二週間以上の間、雨のふる荒模様の日がつづいて、僕たちの進行を妨げたので、行きの旅行ではたった十八日しかかからなかったのに、帰りは二十三日もかかってしまったのである。この長い旅行の間、僕たちの出あった思いがけない事件、僕たちのなめた苦しみは、話す必要はない。雨のために僕たちはみじめだった。しかし僕たちは他のことよりも、空腹に苦しめられた。一度ならず、餓死の寸前《すんぜん》まで行った。二度僕たちは、インディアンの部落で食物を、こい求めなければならなかった。しかし何も代りにやるものがないので、ほんの僅かしかもらうことができなかった。つり針や、くぎや、キャラコがなくても、蛮人から手厚いもてなしを受けることができないとはいえない。しかし今度は、かつてパラウアリに行った最初の旅行の時、あれほど助けになった、無形の交換手段をとることができなかった。今僕は、弱りきってみる影もなく、狡猾さも失っていた。たしかに僕たちは、二匹の犬と交換に、カサヴァパンや穀物を手に入れることができたであろう。しかしそうしたら、もっと具合のわるいことになっていたにちがいない。しかしついに、犬どもは、時々獲物を捕えて、僕たちを救った。――開けた所で、アルマジロに不意打《ふいう》ちをくわせ、土の中にもぐりこまないうちに捕えたのだ。またイグワナとかオポッサムとかラバとかを、かくれている所まで、鋭い嗅覚《きゅうかく》であとをつけて捕えたのである。そういう時、ヌフロは、喜んで祝宴《しゅくえん》をはり、報酬《ほうしゅう》として犬どもに、皮や骨や内臓をやった。しかしとうとう犬のうちの一匹がびっこになり、ヌフロは、ひどく空腹だったので、びっこになったことを口実にそれを殺した。そのあわれな犬は、その犬なりに彼によくつくしたにもかかわらず、彼は、別に何の良心の呵責《かしゃく》もなく、その行為をしたのである。彼は、その肉を小さく切って、くん製にした。僕は、あまりの空腹に耐えられなくなって、彼と一緒に、胸のわるくなるような食物を食べた。僕たちはただ下品というくらいではない、獲物をとる役目をはたしてきた忠実な召使を食って生きている人喰人種ではないか、そう僕には思われてきた。「だが、それがどうしたというのだ?」僕は自分自身と議論した。「すべての肉は、けがれのあるものであろうとなかろうと、僕にとっては等しく憎むべきことなのだ。動物を殺すことにしても、人を殺すことの一種にすぎないではないか。しかし今僕は、幸福がくるために、その悪事を余儀《よぎ》なくしているのだ。ただ生きるために、今これをたべるのだ。――この憎むべき体力をつける食物が、僕をリマの所までつれて行くのだ。そしてそのあとでより純潔な、よりよい生活が約束されている」
ひとことも口をきかず、一リーグ一リーグと苦労して進んで行く時、毎夜、火の傍で無口のまま坐っている時、そんな時、僕はずっといろいろのことについて考えた。しかし僕がはっきりと縁を切ってしまった過去のことは、ほとんど心に浮んではこなかった。リマは、なお僕のあらゆる考えの源泉であり中心であった。僕のいっさいの思いは、彼女から起り、彼女に戻って行くのだった。考えること、望むこと、夢みること、これらが、苦痛と窮乏にみちた暗い昼と夜、僕を支えてくれたのである。空想は、僕に力をあたえてくれるパンであり、活気づけるぶどう酒だった。しかし何がヌフロの心を支えていたか僕にはわからない。おそらくそれは眠っているさなぎのようなもので、栄養などはいらなかったのだろう。いつの日か、天使の軍勢の大きな叫び声と、楽器のひびきによって、よみがえる、きらめく翼《つばさ》を持った映像が、彼の愚鈍《ぐどん》で粗野な性質の中に、安全に、かたく閉じこめられて眠っていたのだろう。
あのなつかしい、最愛の森よ、ふたたび。長い志願の流浪から、戦いにつかれて戻ってきたスイス人にとって、山の中の谷間にある、ふるさとの林は、この上もなく美しく見えるだろう。しかし、リマ、僕の花嫁《はなよめ》、僕の美しい少女の住んでいる森、地平線の上に浮ぶ青い雲、その上にそびえ立つ、円錐形《えんすいけい》をした黒いイタイオアの山、それらのものは、僕の渇望《かつぼう》している眼には、さらに美しく映ったのである! とうとう何と近くにきたことだろう――何と近くに! しかし、僕と森の間に横わる二、三リーグは、一歩一歩、ゆっくりと進んで行かなければならない――何とその距離は、はるかなものに思われたことだろう! いよいよ帰途につこうと、あのはるかに遠いリオラマにいた時でさえ、これほど、僕の恋人と遠く離れているとは感じなかったのだ。この気を狂わせるようなもどかしさは、わずかに残っている僕の体力に影響を及ぼし、僕に妨害《ぼうがい》を加えるのだった。僕は、走ることも、早く歩くことさえもできなかった。ゆっくりと、しかし落着いているヌフロは、心を焼きつくす炎を持っていなかったので、結局は、僕よりも早くなった。そして彼に追いつこうとすることだけが、僕にできるすべてであった。
いよいよ旅行も終りになると、彼は口をきかなくなり、用心深くなった。僕たちは、まず、森の南端にある低い山の連《つらな》りに、通じている木の生えている地帯に入って行った。一マイル以上の間、僕たちは、かげになっている所をあしどりも重く歩いて行ったが、やがて、みなれた場所、僕が歩いたり坐ったりしたことのある古い木々が眼につき始め、あと百ヤード前進すれば、しゅろの葉をふいた屋根の一端が見えることを知った。いっさいの衰弱《すいじゃく》は、たちまち吹きとび、激しい切望と喜びの低い叫びをあげながら、僕は先頭に立って突進して行った。しかし眼を皿にようにして、あの楽しい隠れ家を探したが、見つけることはできなかった。灌木や、つる草や、木々の一面の緑の中に、淡黄色の一片は、ついに姿を現さなかった。――ただ木々の向うには、また木々が、木々の上にはいっそう高い木々がそびえているだけだった。
しばらくの間、僕はそれがよくわからなかった。いや、きっとまちがえたにちがいない、家は、この場所ではなかったのだ、もう少し行けば見えてくるだろう。僕は、不確かなあしどりで、二、三歩前に進んだ。そしてふたたびじっと立ち止った。頭が、くらくらした。心臓は、苦悶のあまり、張り裂《さ》けそうだった。僕は、片手を胸に押しあてたまま、なおもじっと立っていた。その時、ヌフロが僕に追いついてきた。「どこですかね――あの家は?」僕は、口ごもりながら、手で指さした。彼も、すっかり落着きをなくしてしまったかのようだった。彼もまたふるえ始めた。彼は唇を動かしたが声にはならなかった。やがて彼は口を切った。「あいつらがやってきたんだ――あの地獄《じごく》のがきどもが、ここにやってきたんだ。そして何もかも焼きはらってしまったのだ!」
「リマ! リマはどうしたのだろう!」僕は叫んだ。しかし彼は、その問には答えず、どんどん歩いて行った。僕もそのあとに従った。
まもなく見つけることができたが、家は、すっかり焼けおちていた。一本の棒きれさえ残ってはいなかった。家の建っていたあとには、黒い灰の山が地面をおおっていた。――たったそれだけだった。あたりをみまわしてみたが、最近ここに人間のやってきた形跡をみることはできなかった。家の敷地のまわりにある、以前何も生えていなかった場所は、今、種々の草が一面に生い茂っていた。灰の山からみると、家がやけてから、少くとも一か月以上たっているようだった。リマの消息については、老人は、ひとこともふれることができなかった。彼は、この災難に、打ちのめされて、地面に坐ってしまった。ルニの一族が、ここにやってきたのだ、彼は、その事実を疑うことができなかった。そして彼らはふたたびやってくるであろう、彼はただ、彼らの手で殺されるのを待つより他はないのだ。リマが死んだ、彼女はこの世を去ってしまったという考えは、僕にとって耐えがたいものであった。そんなはずはない! 僕たちのいない間に、インディアンがやってきて、この家を焼き払ってしまったのはたしかだった。しかし彼女は、戻ってきたのだ。そしてインディアンたちは、ふたたび立ち去って、もはやこようとはしなかったのだ。彼女は、森のどこかにいるのだろう。おそらくあまり遠くない所に、僕たちの戻ってくるのを、もどかしく待ちながら。老人は、話をしている間、じっと僕をみつめていた。彼は、ぼんやりしてしまったらしく、返事をしなかった。そこでついに、なおも地面に坐ったままでいる彼を残して、僕は、リマを探しに森に出かけた。僕は、森の中を歩きながら、時々立ち止って、影になった空地や木々のまばらになった所をのぞきこんでは、じっと耳を澄ました。僕は、探し求めているリマの名を大声で、幾度も呼びたい衝動《しょうどう》にかられた。しかしそんなことをしては、何かかくされた危険を僕自身とおそらくは彼女にまで及ぼすのではないかと気づかって、僕は呼ぶことをさしひかえた。森には、奇妙な陰鬱さがただよい、その静けさを破る、遠くの鳥の鳴き声もめったにきこえなかった。このように、何もいわず、用心を重ねながら動き廻っているだけでは、この広い森の中で、どうして彼女を見つけることができるだろう、そう僕は自分に向ってたずねるのだった。ただ一つの希望は、彼女の方で僕をみつけることだった。彼女を探しに行く最も有望な場所は、僕たちが一緒に話をした、僕たち二人のよく知っている、行きつけの場所だという考えが頭に浮んだ。僕は、まず、あのモラの木のことを考えた。あそこは、彼女が僕から姿をくらました場所だ。僕は、そこでその木の方に僕の歩みを向けた。その木のあたりと、そのかげを作っている下で、僕は一時間以上もぶらぶらしていた。そしてついに、緑と深紅の葉から成る、大きな薄暗いかたまりに、眼を向けながら、静かに僕は、呼ぶのだった。「リマ、リマ。もし僕を見ていながら、君のかくれ場にかくれているのなら、お願いだから答えてくれ――お願いだからすぐ僕のところにおりてきてくれ!」しかし、リマは答えなかった。僕をからかうために、燃えるように赤い木の葉を投げつけもしなかった。ただ、はるか上の葉群の中で、風だけが、低い悲しげな言葉をささやくのだった。そこで僕は、向きを変え、手あたり次第に、もっと深いかげに向かってさまよって行った。
やがて僕は、長い、けたたましい野生の鳥の鳴き声に、驚かされた。それは、あたりの静けさの中では、異様に大きくひびいたのである。そしてあたりがふたたび静かになるや否や、あれは鳥の鳴声ではなかったのだという考えが頭に浮んできた。インディアンは、動物の声を巧みにまねる。しかし僕は経験によって、鳥の声が本物か、にせかを見分けることができた。しばらくの間、僕はじっと立ちながら、どうしたらいいものかと途方《とほう》にくれていたが、やがて、一段と用心深く、ほとんど息を殺し、眼をみひらきながら、影になった奥の方を見抜こうと、ふたたび動き始めた。突然、僕は、はっとしてとび上った。僕のすぐ眼の前の、木の深い影になった、突き出ている根もとに、一つのうす黒い、じっと静止した人かげが腰を下ろしていたからである。僕は、しばらくの間、じっと立ったまま、その人かげをみつめていたが、それが僕の方を見ていたかどうかはわからなかった。その時、いっさいの疑いは僕から消えた。その人かげは、立ち上ると、慎重《しんちょう》に僕の方に進んできたのである。――それは、手に吹矢の筒を持った、一人の裸体のインディアンであった。いっそう深いものかげから現れた時、僕は、それが僕の友人のクアーコの兄である、無愛想なピアケであることを知った。
この森の中で、彼にあったことは、僕にとって大きな衝撃《しょうげき》であった。しかしその時は、深く考えている余裕はなかった。僕はただ、彼及び彼の一族の感情を深く傷つけたこと、彼らは、おそらく僕を敵だとみなしているだろうから、僕を殺すことを大して何とも思っていないだろう、ということを思い出しただけだった。もはや、逃走しようと試みるにはおそかった。僕が、長い旅行と、多くの窮乏《きゅうぼう》とで疲れきっていたのに反し、彼は、あまりある体力に充ち、手に致命の武器を持って立っていたからである。
ただ、僕にすることのできるのは、平気な顔をして、親しげに彼にあいさつし、こっそりと、部落を去った行為を説明するために、まことしやかな話を作り上げることだけだった。
彼は今、じっと立ったまま、無言で僕をみつめていた。そしてちらりとあたりを見廻わすと、その辺にいるのは彼一人でないことがわかった。僕の右手の約四十ヤードの距離に、二人の薄黒い人かげが、深いものかげから、僕をじっとみつめているようだった。
「ピアケ」僕は、三、四歩前に進み出て叫んだ。
「戻ってきたな」彼は答えたが、じっと立ったままだった。「どこからだ?」
「リオラマ」
彼は、頭をふって、それはどこにあるのだとたずねた。
「太陽の沈む方に向って二十日《はつか》間の旅程だ」僕はいった。そして、彼がなおも黙っているので、さらにつけ加えた。「僕は、そこの山に、金がみつかるという話をきいたのだ。ある年寄が、僕にそういったのだ。そこで僕たちは、金を探しに行ったのだ」
「何がみつかった?」
「何にもみつからなかった」
「ああ!」
このようにして、僕たちの話は終ったかのようにみえた。しかし、いくらもたたないうちに、この蛮人どもが、リマについて何か知っているかどうかを知りたいという、はげしい望みが、僕に一つの質問を敢行《かんこう》させた。
「今、この森に住んでいるのか?」僕はたずねた。
彼は、頭をふった。そしてしばらくしてから口を切った。「動物を殺すためにきているのだ」
「今では、あんたも僕と同じだ」僕はすばやく答えた。「あんたは、何も怖れていないんだな」
彼は、疑い深そうに僕をみつめていたが、やがて、少し近寄ってきていうのだった。
「あんたは、なかなか勇敢だな。俺《おれ》だったら、武器も持たず、老人と二人だけで、二十日も旅行をしには行かなかったろうな。一体、どんな武器を持ってるんだ?」
僕は、彼が僕を怖れているのを知り、彼に害をあたえるようなものは持っていないことを、はっきりさせたいと思った。「ナイフの他には何もない」僕は、無頓着《むとんじゃく》な風を装っていながら答えた。そういうと僕は、マントをまくり上げ、彼自身の眼で見ることができるように、彼の前で、からだをまわしてみせた。「僕のピストルはみつかったかな?」僕はつけ加えていった。
彼は、頭をふった。しかし今では、前よりは疑う気持がうすらいだらしく、僕のそばに寄ってきた。「食い物はどうする? これからどこへ行くつもりだ?」彼はたずねた。
僕は、あつかましく答えた。「食い物だって! 僕は、飢え死にしかけている。僕は、女たちが、深鍋に肉を入れているかどうかを見に、あんたの部落に行って、ルニに今までの話を全部するつもりなのだ」
彼は、キラリと鋭い眼を向けた。おそらく彼は、僕の厚かましさに少々驚いたのだろう。自分も戻る所だから、一緒に行こうといった。今では、他の者も、手に、吹矢の筒を持って進んできて、僕たちに加わった。森を去って、僕たちは、平原《サヴァンナ》を横切り始めた。リマを見出す望みをかけていた、森のかげを去って、ふたたび平原を横切らなければならないのは、いまいましいことだった。しかし僕は、今無力であった。僕はふたたびとらわれの身となった。僕は、行方《ゆくえ》不明になって、ふたたびつれ戻された、まだ許されていない、おそらく決して許されることのない捕虜《ほりょ》だったのである。
ただ、狡猾な手段によってのみ、僕は助かる見込があるのだ。そしてヌフロ、あのあわれな老人は、彼の運のままに自分でやってみる他はないのだ。
幾度も、僕たちは、不毛の土地を歩いて行った。そして尾根によじのぼった時、僕は息をつくために立ち止らなければならなかった。そこで、この三日の間、肉は一きれも食べずに、昼も夜も旅行をつづけたので、疲れ切っているのだ、とピアケに説明した。これは誇張だったが、疲労と食料の欠乏よりは、むしろ心の苦悩によって生じた、歩いている間の衰弱《すいじゃく》を何とか説明しなければならなかったのである。
時々、僕は彼に話しかけ、部落の者の名を一々全部あげては、その安否をたずねるのだった。しかしついに、ただリマのことだけを念頭において、この森には、彼の一族以外の者が、きたり、住んだりしてはいないかとたずねてみた。
彼は、そんな者はいないといった。
「前は」僕はいった。「デイデイの娘だという、あんたたちみなの怖れていた少女がいたが、今でも一体いるのか?」
彼は、疑い深そうに僕を見て、頭をふった。僕は敢て、それ以上、彼に質問を強《し》いようとはしなかった。しかし、しばらくして彼は、はっきりというのだった。「あの娘は、もうあの森にはいないのだ」
僕は、彼のいうことを信じないわけにいかなかった。もしリマがあの森にいるなら、彼らは、あそこに行くはずはなかったろう。彼女は、あの森にはいないのだ。僕にわかったのはそれだけであった。では、彼女は、リオラマからの長い旅行の途中に、道に迷うか、死ぬかしてしまったのだろうか? あるいは、戻ってはきたが、残酷な敵の手中におちてしまったのだろうか? 僕の心は、打ち沈んでいた。しかし、もし、あの人間の姿をした悪魔《あくま》どもが、僕に話した以外のことを知っているなら、僕は自分の不安をかくして、生命を奪われないかぎりは、そのことを見つけ出すために辛抱《しんぼう》強く待っていなければならぬ、そう僕は、自分の心にいいきかせるのだった。そしてもし彼らが、僕の生命は奪わず、僕の生命とまざりあっているもう一つの神聖な生命を奪っていたとしたら、彼らのふところに、彼ら自身よりももっと恐ろしい悪魔を抱いていたということを、おそまきながら気づく時がやってくるであろう。
十九
僕が部落《ぶらく》に到着したことは、多少の興奮をひきおこした。しかしもはや僕は、友人あるいは家族の一人とみなされていないのは明らかだった。ルニは、いなかった。僕は、少からぬ不安を抱きながら、彼の戻ってくるのを待っていた。クアーコもまた遠くに行っていた。他の者は、大きな部屋の方々に立ったり坐ったりして、無言のまま僕をみつめていた。僕は注意など払わなかった。僕はただ、食物を求め、僕のハンモックを求めた。そしてそのハンモックをもとの場所にかけ、その上に横になると、居眠りを始めた。ルニは、夕暮に姿を現わした。僕は起き上って彼にあいさつした。しかし彼は、ひとこともいわず、自分のハンモックに行くまで、僕を無視して、むっつりとおしだまったまま、腰を下ろしていた。
次の日に、危機がやってきた。僕たちはふたたび、部屋の中に集められた。――どこかに遠征していてまだ戻ってこない、クアーコともう一人の者を除いた全部が集っていたのである。――そして半時間の間、一言も言葉を発する者はいなかった。何事かが待たれていたのだ。子供たちでさえ、奇妙にじっとしていた。時折、手飼《てが》いの鳥の一羽が、低い悲しげな鳴声をたてながら、開いている戸口から、中に迷い込んできたが、そのたびに、ふたたび外に追い出された。しかし物音は、何一つしなかった。とうとうルニは、自分の席で居ずまいを正すと、じっと僕に眼を注いだ。そして、せきばらいをして、長い熱弁をふるい始めた。それは、僕が今まできいて、よく知っている単調で、声高な話しぶりだったが、その話しぶりは、今が重大な時であることを示していた。このような熱弁をふるう時はいつでもそうであるように、同じ意見と表現とが、単調な烈しい主張をもって、うむことなく繰返し使われるのであった。ギアナの演説家は、どれほどいうことが少くても、感銘《かんめい》をあたえたいと思う時には、長々と話す。奇妙に思われるだろうが、僕は彼のいっていることを批判的にきいていた。彼の劣《おと》っている知力に軽蔑の気持を抱きながら。しかし僕は今、気が楽になっていた。このような演説をしたということから、彼の望みが、僕の生命を奪うことにはなく、もし、裏切りの嫌疑を晴らすことができれば、僕の生命を取ったりしないという確信が僕の心に生じたからである。
彼の話は、次のようなものであった。僕は白人であり、彼らはインディアンである。それにもかかわらず彼らは僕によい待遇《たいぐう》をあたえた。彼らは僕に食物をあたえ、雨風をしのぐ住居をあたえた。彼らは、非常に多くのことを、僕のためにしてきたのである。彼らは、僕に吹矢の筒の使い方を教え、僕のために、その一つを作ることを約束したが、返礼には、何一つ要求しなかった。彼らはまた、僕に、一人の妻をあたえる約束もした。しかし僕は、彼らをどのように取扱ったであろうか? 僕は、彼らを見捨てて、ひそかに遠くの方に行ってしまった。僕の目的に疑いを持たせながら。どうして彼らに、僕がなぜ行ったか、どこに行ったかを知ることができよう? 彼らは敵を持っている。マナガが、その名前だ。彼と彼の一族は、彼らを憎んでいる。マナガが彼らに禍《わざわい》のふりかかることを望んでいることを僕は知っている。また僕はマナガがどこにいるかも知っている。何故なら彼らがそれを僕に話したからだ。僕が突然彼らを去った時、彼らの頭に浮んだのはそのことであった。今僕は、彼らのところに帰ってきて、リオラマに行ってきたといっている。ルニは、リオラマがどこにあるのか知っている。まだ行ったことはないのだが。そこは、非常に遠隔の地だ。なぜ僕は、リオラマに行ったのか? あそこは、よくない土地だ。インディアンもいるが、数は少い。しかしパラウアリのインディアンのように、よいインディアンではない。そして白人を殺すという話だ。僕はそこに行ってきたのか? なぜ、そこに行ってきたのだ?
彼は、ついに話し終えた。今度は、僕の話す番になった。しかし彼は、僕に充分な時間をあたえてくれていたので、僕の返答はすでにでき上っていた。「あなたのいい分はきいた。あなたの言葉は、善い言葉だ。友人としての言葉だ。自分はこの白人の友人であると、あなたはいっている。あなたはさらにいっているのだ。彼は、自分の友人だろうか? 彼は、何もいわず、こっそりと立ち去って行った。なぜ、彼は、彼によい待遇をあたえた友人に何もいわずに行ってしまったのか? 彼は、自分の敵であるマナガの所にいったのではないか? 多分彼は、自分の敵の友人なのであろう。彼はどこに行っていたのだろう? 僕は今以上の問いに答えなければならない。僕の友人に対する誠実な言葉をもって。あなたは、インディアンであり、僕は白人である。だからあなたは、白人の抱いているいっさいの考えを知っているわけではない。それが僕のあなたに話したい事だ。白人の住む国には、二種類の人間がいる。その一つは、金持だ。彼らは、人間の望むいっさいのもの――すばらしいものの一ぱいある、石造りの家、すばらしい着物、すばらしい武器、すばらしい装身具《そうしんぐ》――を持っている。彼らは、馬も牛も羊も犬も――望んでいるいっさいのものを持っている。何故なら彼らは、黄金を持っているからである。白人は、黄金さえあれば、何でも買えるからだ。もう一種類の白人は、貧乏人だ。彼らは、黄金を持っていないので、買ったり、持ったりすることができない。彼らは、金持があたえるわずかの食料と、身を包むぼろとを得ようと、金持のために懸命《けんめい》に働かなければならない。寝る場所をあたえてくれれば、家の中でねることができるが、さもないと、雨のふる戸外で横にならなければならない。ここから百日かかる、僕自身の国で、僕はある偉い長官の息子だった。僕の父親は、たくさんの黄金を持っていて、死んだあと、それは僕のものになった。僕は金持だったのである。しかし僕には敵があった。マナガよりもっとたちのわる敵が。彼は金持であり、多くの部下を持っていたからである。そしてある戦で、彼の部下は、僕の方の部下に勝ち、彼は、僕の方の黄金といっさいの所有物を取って、僕を貧乏にしてしまった。インディアンは、敵を殺してしまうが、白人は黄金を取ってしまう。それは殺されるよりも、もっといやなことだ。そこで僕はいった。僕は今まで金持だった。しかし今は貧乏人である。そして誰か金持のために、犬のように働かなければならない。毎日の終りに、その金持の投げてくれる僅かな食料のために。だめだ、僕にそんなことはできない。僕は、インディアンの所に行って、一緒に住もう。そうすれば、僕が金持であるのを見てきた人々も、僕が、犬のように、主人のために働くのを見ないですむだろうし、大声で叫んであざけることもないだろう。何故なら、インディアンは、白人とはちがっているからである。彼らは、黄金を持ってはいない。彼らは、金持でも貧乏でもない。すべての人がまったく同じなのだ。一つの屋根が、彼らを雨と太陽からおおっている。誰も彼も、自分で作った武器を持っている。誰も彼もが、森で鳥を殺し、川で魚をつかまえている。女たちは肉を料理し、同じ一つの深鍋から、みんながそれを食べるのだ。だから僕も、インディアンになろう。そして森で狩をし、彼らと一緒に飲食いをしよう。そこで僕は、自分の国を去って、ここにやってきた。そしてあなた、ルニと一緒に暮し、良い待遇を受けたのだ。では、なぜ僕は立ち去ったのだろうか? 僕は今そのことをあなたに話さなければならない。ここにきてしばらくすると、僕は、あの森に出かけた。あなたは、邪悪な者、デイデイの娘がそこに住んでいるという理由で、僕が森に行くのを望まなかった。しかし僕は何も怖ろしくないので、行ってみたのだった。そこで僕は、一人の老人にあった。彼は、白人の言葉で、僕に話しかけたのである。彼は旅行をして、色々なものを見てきていた。そして一つの不思議なものの話をしてくれたのであった。彼は、リオラマのある山の上で、もちはこぶことのできる程度の、大きな黄金の塊《かたまり》を見たことがあると僕にいった。これをきいて僕はいったのである。『その黄金で、僕は自分の国に帰り、僕と僕の部下全部のために武器を買い、僕の敵と戦って、彼の全財産を奪い取り、彼が僕に対してしたような仕打ちを彼にもしてやることができる』そこで僕は、その老人に、リオラマに連れて行ってくれるように頼んだ。彼が同意したので、僕は、一言もいわずにここから立ち去ったが、それはひきとめられるといけないからであった。リオラマまでのみちのりは、遠かったが、僕は武器を持っていなかった。しかし僕は、何ものも怖れなかったのである。僕はいった。『戦わなければならない時は、戦えばいい。殺されなければならない時は、殺されればいい』しかし、リオラマについてみると、黄金はみあたらなかった。ただ黄色の石だけは、あったが、老人がそれを黄金とまちがえたのである。その石は黄色く、黄金のようであった。しかしそれでは何も買うことはできない。そこで僕はふたたび、パラウアリの友人のもとに戻ってきた。だからもしあなたが、まだ何もいわないで立ち去ったことを怒っているなら、次のようにいえばいい。『どこかほかに行って、新らしい友人を探すがいい。もはや私はあなたの友人ではないのだから』」
僕はこのように大胆に話を終えた。僕は、彼が僕に対して悪意のある陰謀《いんぼう》を抱いているということに気づいているのを知られたくなかったし、僕たちの争いが、非常に重大なものだと思っている風に、とられたくなかったからである。僕が話し終えた時、彼は、僕のいったことの是非《ぜひ》は表わさず、僕の話をきいたということだけを表わす、一つの声をあげただけだった。しかし僕は満足だった。彼の表情は、よくなってきた。前よりも狂暴さがうすれてきた。やがて彼は口を切りながら、口を奇妙にひきつらせていたが、それは、微笑に近いといえるものだった。「白人というものは、黄金を手に入れるためには、どんなことでもやるんだな、何も買えない黄色い石を見るために、あんたは二十日も歩いたんだな」彼が、この問題をこんな風にみてくれたのは幸なことだった。そういう見方は、彼のインディアン気質をよろこばせるもので、おそらく彼の持つ滑稽《こっけい》感にふれる所があったのだろう。
その時以来、過ぎたことは、過ぎたことだという考えが、暗々裏《あんあんり》に認められたようだった。そして、僕の生命をおびやかしていた危険な考えがうすれるにつれて、彼らが、かつて僕と一緒にいた時に見出した、もとの喜びが戻ってきたのを僕は知ることができた。しかし、彼らに対する僕の気持は変らなかった。リマに関する、険悪《けんあく》な恐ろしい疑いが、僕の心にある間は、変るはずはなかった。僕はふたたび彼らと打ちとけた話をした。以前の親しい関係が中絶しなかったかのように。僕が外に出るたびに、こっそりと僕を見張っているような場合でも、僕は、それを見ないふりをした。僕は、僕のいない間に、こわれてしまった、不細工なギターを修理する仕事にとりかかった。また僕は、快活な表情を示そうと努めた。しかし、たった一人でいる時、ハンモックの中に横になって、彼らの眼からかくれ、僕自身の心の中を自由にのぞき込む時、僕は、何か新らしい奇妙なものが、僕の生命の中に入ってくるのに気がついた。そしてこの険悪で、容赦《ようしゃ》しない、新らしい性質が、古い性質にとって変ったのに気づくのだった。そして、時々、僕の内部で燃え上るこの狂暴な怒りをかくすのは、困難であった。時々僕は、インディアンの一人に、虎のようにとびかかり、彼の喉《のど》を強くしめつけて、僕の知りたいと思っている秘密を彼の唇からしぼり出し、その頭を石にたたきつけたい衝動を感じた。しかし彼らは、多勢であった。そこで、もし彼らよりもすぐれた狡猾さで、彼らを出し抜きたいと思うならば、用心深く、忍耐強くする他はなかったのである。
この部落についてから三日後、クアーコは、仲間と一緒に戻ってきた。僕は、親しさを装いながら、彼を迎えた。しかし僕は、彼が戻ってきたのを、本心でも喜んでいたのである。もしインディアンが、リマのことについて何かを知っているならば、その中で、彼が一番、僕にそのことを話してくれる可能性があるように思えたからである。
クアーコは、何か重大なニュースを持ってきたようだった。彼は、そのことについて、ルニや他の者と議論していた。翌日、僕は、遠征の準備が行われつつあるのに気がついた。槍《やり》や弓や矢が用意されていたが、吹矢《ふきや》の筒《つつ》は、用意されていなかったので、僕は、今度の遠征が狩のためではないことを知った。そこまで様子を知り、さらにたった四人だけしか出かけないことがわかったので、僕は、クアーコをわきに呼び、一緒につれて行ってくれるようにたのんでみた。彼は、僕の申出を喜んだようだった。そしてただちに、ルニにそのことをつたえたが、ルニはしばらくの間考えたあとで、同意した。
やがて彼は、弓にさわりながらいうのだった。「あんたは、俺《おれ》たちの武器で戦うことはできない。もし敵に出くわした時、どうするつもりだ?」
僕は、微笑を浮べて、自分は逃げ出したりしないだろうと答えた。そして、彼の敵は、僕の敵であり、友人のために喜んで戦うということが僕の示したいすべてであるといった。
彼は、僕の言葉をきいて、喜んだが、それ以上何もいわず、武器もあたえようとはしなかった。しかし、次の日の朝、夜が明ける前に出発した時、僕は、彼が、腰に僕の連発ピストルをしっかりとくくりつけて、もっているのに気がついた。彼は、簡単な一枚の長上衣の下に、注意深くそれをかくしていたが、わずかに突き出してみえるので、その秘密は、もれてしまっていたのである。僕は、彼が、それをなくしたということを信じてはいなかった。そして、今彼がそれを持っているのは、もし敵に出あう、せっぱつまった場合に、僕の手に渡すためであるのをかたく信じていた。
僕たちは、部落を出て、北西の方に向って進んだ。そして正午前に、矮小な木々の林で、野営《やえい》し、太陽が低くなるまでそこにとどまっていた。それから、幾分不毛な場所を歩きつづけて行った。夜になると、僕たちはふたたび、わずか二、三インチの深さしかない小さな流れのそばで野営し、くん製の肉と、いったとうもろこしの食事をすませてから、翌日の明方まで眠る準備をした。
たき火のそばに腰を下ろしながら、クアーコの知っているにちがいないリマに関することを、きき出してやろうという、最初の試みをしようと心を決めた。他の者がしているように横になる代りに、僕は、なおも腰を下ろしていたので、僕の監視者であるクアーコもまた腰を下ろしたままだった。――疑いもなく、先に僕が横になることを待っていたのである。やがて僕は、彼の方に近寄って行き、他の者の注意をひかないように低い声で、彼に話し始めた。
「前、あんたは、オアラヴァを僕の妻にくれるといったことがあったな」僕は口を切った。「僕もいつか妻がほしくなるかも知れないからな」
彼は、同意を示すためにうなずいてみせた。そしてもったいぶった様子で、妻を持ちたいという望みは、すべての男に、共通なものだといった。
「だが、僕のところに、何が残っているだろうか?」僕は、意気消沈《いきしょうちん》したようにいって、両手をひろげてみせた。「僕のピストルは、なくなってしまったし、ほくち箱は、ルニにやってしまったし、雄鶏《おんどり》の絵が上についている、小さな箱はあんたにやってしまったし。僕は、まだ何も返礼にもらっていない――吹矢の筒さえも。それなのに、どうやって、女房を手に入れることができるだろう?」
彼は、他の者と同じように、頭の悪い蛮人であったので、彼らが熟達《じゅくたつ》している狡猾さや、表裏のある心など僕に、持つことができないと、信じるようになっていたのである。僕は、彼らができるように、緑の葉群の中で、鳴声も立てず、身動きもせずにとまっている緑のおうむをみわけることができなかった。また僕には、異常に鋭い彼らの視力もなかった。このようにして、うそをついてだましたり、外見をいつわったりする能力は、彼らにはあるが、僕にはない、そう彼らは思い込んでいたのである。そこで彼は、やすやすと僕のわなにかかった。僕が実際的な話題に戻ってきたことは、彼を喜ばせた。彼は、たとえ僕が貧乏でも、オアラヴァが僕の妻になるかも知れないという望みを僕に持つようにいった。妻を手に入れるには、かならずしも、物を持っている必要はない。ただ養って行けるだけでたくさんだ。僕にしても、いつかは、彼らの一人と同じように、動物を殺したり、魚を捕えたりすることができるようになるだろう。それに、ルニは、なにか他の理由で、僕を彼らと一緒に生活させているではないか。それなのに、僕を妻なしでおくはずはない。それに僕は、色々なことをすることができる。僕は歌うことも、楽器をひくこともできるのだ。それに勇気はあるし、何ものも怖れない。また子供たちに、フェンシングを教えることもできるのだ。
しかし彼は、彼と同じ年齢、同じ腕前の人間に、僕が何かを教えるとは、いわなかったのである。
僕は、彼があまり僕を賞《ほ》めすぎていること、彼らもまた同じように勇気があることを主張した。僕は、彼らが、デイデイの娘が住んでいた森に、毎日狩をしに行って、僕と同じくらいの勇気を示しているのではないかといった。
僕は、恐怖と身ぶるいを感じながら、この話題を持出した。しかし彼は、それを落着いて受けとった。彼は、頭をふった。そして不意に、最初森に狩に行った日の様子を話し始めた。彼の話は次のようなものだった。僕が、こっそりと姿を消してから、数日後、二人の男と一人の女が、親類を訪ねに、遠い所に出かけた帰りみち、この部落に立ち寄った。彼らのいうところでは、イタイオアから二日の旅程のところで、反対の方向に旅行している三人の人間にあったという。その三人というのは、二匹の黄色い犬をつれた、白いあごひげを生やした老人と、大きなマントをきた若い男と、妙な様子をした少女だったという。こんな風にして、僕が、老人とデイデイの娘と一緒に、森を去ったことは、彼らの耳に達したのであった。それは彼らにとって大きなニュースだった。何故なら彼らは、僕たちにふたたび森に戻ってくる意志があるとは信じなかったからである。そこで彼らは、ただちに森で狩を始め、毎日そこに出かけては、鳥や、猿や、他の動物を数多く殺した。
彼の言葉をきいていると、僕はひどく興奮してきた。しかし僕は、さらに多くのことを彼に話させたいと思っていたので、努めて平静を装い、大して興味のないそぶりを示した。
「やがて、僕たちは戻ってきた」僕は、ついにいった。「だが僕たち二人だけだ。それに一緒ではなかった。僕は、老人とは途中で別れ、少女は、リオラマで僕たちを残して立ち去った。彼女は、僕たちから去って、山の中に入って行った。――それがどこだかは誰にもわからない!」
「だが、その娘は帰ってきたぞ」彼は、眼に、悪魔のような満足のきらめきを宿しながら、答えた。
それをみて、僕の血管の血は、凍《こお》りついたようだった。
なおも本心をおしかくして、僕を気狂いにしてしまうことを、彼にいわせようとすることは、困難なことだった! 「いや、そんなはずはない」僕は、彼のいった言葉をよく考えてみたあとでいった。「彼女は、戻ってくることを怖れていた。彼女は、リオラマの向うの大きな山の中に身をかくすために、立ち去ったのだ。彼女が、戻ってきたはずはない」
「だが、あの娘は戻ってきたのだ!」ふたたび、眼にあの勝ち誇《ほこ》ったきらめきを浮べながら、彼は、いいはった。僕の手は、マントの下で、ナイフの柄《え》をつかんでいた。しかし、僕は、ナイフを引き抜いて、電光のようにすばやく、彼のいまわしい喉の中に、それをつきさしてやりたいという、はげしい、ほとんど気狂いじみた衝動を抑《おさ》えようと、懸命の努力を払った。
彼は言葉をつづけた。「あんたが戻ってくる七日前、俺たちは森で、あの娘を見た。俺たちは、いつも、待ちもうけたり、見張ったり、怖れたりしていた。そして狩に行く時には、三人か四人一緒になって行った。その日、俺と他の三人は、彼女を見た。それは、ひらけた場所で、木々は大きく、まばらに生えていた。俺たちは、驚いて立ち上り、逃げて行く娘を追いかけた。だが恐ろしくて、矢はうたなかった。すると、彼女は、たちまちのうちに、一本の小さな木にのぼった。それから、猿のように、その一番高い枝から、大きな木に移って行った。俺たちは、その木に彼女の姿を見ることができなかった。しかし、彼女は、その大きな木にいたのだ。近くには、他に木はなかったし逃げる方法もなかったから。俺たちのうち三人は、見張りをするために腰を下ろし、他の一人は、部落に戻って行った。しかし、彼はなかなか戻ってこなかったので、俺たちは、何か害を受けるのを怖れて、木から立ち去ろうとしていた。その時彼が戻ってきた。そして男も女も、子供も全部の者が一緒にやってきた。彼らは、斧《おの》とナイフを持ってきていた。その時ルニはいった。『あの娘にあてようと思って、木の中に矢を射るな。あの娘は矢をつかんで、投げ返してくるからな。俺たちは、木の中の娘を燃やしてしまわなくてはならない。火で燃やす以外に、あの娘を殺す方法はない』そこで俺たちは、上を見上げながら、木のまわりを廻ったが、何も見ることはできなかった。そこで誰かが、あの娘は、鳥のように木からとんで逃げたのだといった。しかしルニは、火を燃やしてみればわかると答えた。そこで俺たちは、小さな木を切り倒し、枝を切りとり、大きな幹のまわりにつみ重ねた。次に、少しはなれたさらに十本の小さな木を切り、次に、さらに遠くはなれた十本の木を切り、さらに何十本も切って行った。そしてそれらをまわりに次々とつみ重ね、ついにその切った木の山は、大きな木の幹から、このくらい遠い所まで達してしまった」こういって彼は、僕たちの坐っている所から四、五十ヤードはなれた灌木を指さした。
僕は、この話にじっと耳を傾けていたが、もはや耐え切れなくなってきた。汗《あせ》は、滝《たき》のように流れ、からだは、おこりの発作《ほっさ》が起っている人のようにふるえた。僕は、ガチガチならないように、歯をくいしばった。「水を飲まなければ」僕はそういって、彼の話の腰を折って、立ち上った。彼もまた立ち上ったが、僕のあとについてはこなかった。僕は、不確かな足どりで、十乃至十二ヤードはなれている川岸に進んで行った。僕は、腹ばいになりながら、澄み切った冷い水を長い間一息にのんだ。それから、しばらく顔を流れの中につけていた。全身をひやりとした感じが貫《つらぬ》き、汗でしめっている僕の皮膚をかわかした。そして、このぞっとするような話の結びの部分をきくために、僕のからだを緊張させた。僕は、ゆっくりと火のそばに戻って行った。そしてふたたび腰を下ろした。一方、彼もまた僕の傍のもとの場所に坐り直した。
「あんたは、その木を焼きはらったんだな」僕はいった。「早く話を終りにして、眠らせてくれ――もう眼が重くなった」
「そうだ。男たちが木を切って、はこび、女と子供が、森の中の乾いたものを集めて、腕にかかえて持ってきて、そのまわりにつみ重ねた。そして彼らは、笑ったり叫んだりしながら、四方からそれに火をつけた。『燃えろ、燃えろ、デイデイの娘!』ついに、大きな木の下の方の枝は、全部燃え出した。次には幹《みき》が燃え出した。しかし、その上はまだ緑で、何も見ることができなかった。炎は、恐ろしい音をたてて、上へ上へとのぼって行った。そしてついに、木の梢《こずえ》の緑の葉の間から、鳥のような、大きな叫び声がきこえてきた。『アベル! アベル!』その時、俺たちは、何かが落ちてくるのを見た。木の葉と煙と炎の間を、矢で射殺された、大きな白い鳥のように、それは下に落ちてきた。それは、地面に落ちた。下の炎の中に落ちて行った。それは、デイデイの娘だった。彼女は、炎の中にとび込んできた蛾《が》のように、燃えて灰《はい》になった。そしてそのことがあってから、誰も彼女の声をきいた者はいないし、姿を見た者もない」
彼が急いで話し、さっさと話しを終りにしたのは、僕にとって都合のいいことだった。彼が、すっかり話し終る時、すでに、僕は顔のまわりにマントを引きよせ、からだを伸《の》ばしていた。彼もまたすぐ僕にならって横になったろうと思われる。しかし僕は、その時、外界のものに対しては盲目《もうもく》であり、聾《つんぼ》であった。僕の心臓の鼓動《こどう》は、もはや激しく打ってはいなかった。それは、弱々しく不規則になり、だんだんと弱くなって行くようだった。僕はおぼえている。何ものかが殺到するような鈍い音が、耳の中で鳴っていたことを、息が苦しくなってあえいでいたことを、僕の生命が衰えて行くように思われたことを。これらの恐ろしい感じが過ぎ去った後、僕は、およそ半時間の間、安静を保っていた。この間、憎むべき悲劇の、最後の場面の光景は、だんだんに、はっきりしたあざやかな姿をとって心の中に映るようになり、ついには、実際に、それをみつめているような気持になって、火のしゅうしゅう、ぱちぱちという音、狂喜した蛮人たちの叫び、とりわけ、燃えさかる葉の群の間からきこえた「アベル! アベル!」という最後の鋭い叫び、それらのものが僕の耳に充満したのである。僕は、もはや耐えていることができず、ついに身を起した。僕は、二、三ヤード向うに横になっているクアーコに、ちらりと眼をやった。彼は、他の者と同じように、深く眠っているか、少くとも眠っているように見えた。彼はあおむけに横になっていた。そして彼の暗い、たき火の光に照らされた顔は、石の顔のように、静かで無意識であった。今こそ、逃げるのによい機会だ。――もし僕に逃げたい気持があるならば。そうだ、今僕は、切望していた知識を手に入れ、この不倶戴天《ふぐたいてん》の敵と一緒にいても、これ以上何ものも得る所はないのだ。そして今、僕にとって非常に幸なことには、彼らにつれられて、マナガの住んでいる、あの五つの山へ行く道を相当にきているのであった。マナガ、その名前は、僕がパラウアリに戻ってきた時以来、僕の心にしばしば浮んでいたのである。クアーコの静かな、石のような寝顔から眼を転じると、ただ一つ青白い星が輝いているのが、眼にとまった。それは、かつて僕がルニに敵はどこに住んでいるのかとたずねた時、北西の空低く指さしてみせた、あの星なのであった。その方向に向って、僕たちは、部落を出てから進みつづけていたのである。たしかに、もし一晩中歩いて行ったら、明日になるまでには、マナガの猟場《りょうば》につくことができるだろう。そして安全な身になった上で、僕の今まできいたこと、僕のなすべきことをよく考えてみることができるだろう。
僕は、そっと、数歩歩き去った。しかしその時、槍を手に持っていた方がいいと考え、引き返してきたが、その間にクアーコが動いているのに気がついて、はっと驚いた。彼は、前向きになり、その顔は、僕の方を向いていたのであった。彼の眼は、閉じられているようだった。しかし彼はただ眠っているふりをしているだけなのかも知れなかった。そこで僕は、敢て槍を拾い上げるために、戻ることはしなかった。一瞬ためらったあとで、僕はふたたび、進み始めた。そしてさらにもう一度ちらりとふり返ってみたが、彼は身動きをする様子がないので、用心深く小川を歩いて渡り、そっと足を忍ばせて二、三十ヤード歩いてから、走り始めた。時々僕は、一瞬、立ち止って耳を傾けた。やがて、急いで僕のあとを追ってくる足音のような、ぱたぱたいう音がきこえてきた。僕は、ただちに、クアーコは、ずっと眼をさましていて、僕の動作を見張り、今僕のあとを追いかけているのだという推断を下した。そこで僕は、全速力を出して走った。そのように走っていると、もの音をきき分けることができなかった。上にひろがっている空には、星が出ているが、非常に暗いので、クアーコは、僕を見失うだろう、それが僕の唯一の希望であった。もし彼が僕に追いついたら、僕はナイフ以外に武器を持っていないのだから、勝つ見込は少いだろう。その上彼は、追いかけてくる前に、他の者を起してきたのは明らかであり、彼らもすぐうしろに続いてきているにちがいない。このあたりには、灌木がないので、姿をかくしたり、やりすごしたりすることはできなかった。またほどなく、いっそう具合のわるいことには、土の性質がちがってきたのである。僕は、平らな粘土質《ねんどしつ》の地面を走っていたが、塩の凝華《ぎょうか》のために、あまりにも白くなっているので、その上を動いて行く黒っぽいものは、遠くの方からでも、人目によくつくのだった。ここで僕は、立止り、後をふりむいて、耳を澄ました。その時、足音が、はっきりときこえてきた。そして次の瞬間、手に槍をふり上げ、恐ろしい早さで進んでくる、ぼんやりしたインディアンの姿を認めた。僕がちょっとの間立ち止っているうちに、彼はすでに、ほとんど、槍を投げればとどく距離にまで達していたので、僕は、向きを変え、逃げるのを楽にするために、マントをぬぎすてて、ふたたび疾走《しっそう》を開始した。次に僕が、ふり返った時、彼はまだ視界の中に入っていたが、さほど近いわけではなかった。彼は、今や彼のものになるべき、僕のマントを拾い上げるために止っていたので、僅かに僕に歩が出てきた。僕は、どんどん逃げた。ところが、五十ヤードばかり走りつづけた時、一つの物が、とんできて、左腕の肩に近いあたりの肉をひきさいた。僕は、傷が大してひどくないことも、あとを追ってきた者が、どのくらい近くにいるかも知らないで、彼を迎えるために、死にものぐるいでふり返った。すると二十五ヤードとはなれていない所を、手に、何か光っているものを持って、僕の方に走ってくる人かげが眼に入った。それは、クアーコだった。彼は、槍で僕に傷を負《お》わせたあと、ナイフで僕を片づけてしまおうとしていたのである。ああ、そのような勝利のあとの、幸運な若い蛮人、その見事な青い毛織物を戦利品として身につけるなら、何という名声と幸福が、お前のものになるだろう! 電光のように迅速《じんそく》な変化が、僕のうちに起った。突然の歓喜が。僕は、傷を負っていた。しかし僕の右手は、まだ大丈夫だったし、彼と同じように立派なナイフもにぎっていた。そんなわけで、僕たちは、対等だといってよかった。僕は、落着きはらって彼を待ちうけた。いっさいの柔弱《にゅうじゃく》さ、悲嘆、絶望は消え去り、ただいまわしい彼の血を流してやりたいという、怒り狂ったすさまじい望みだけが残った。僕の頭はさえ、神経は、はがねのように強靭《きょうじん》になった。そして、笑いのようなものさえ浮べながら、以前細身の木刀で戦った、滑稽な試合のことを思い出した。ああ、あれは、単なるまねごとで、子供らしい遊びにすぎなかった。しかし今度のは、まじめな、生きるか死ぬかの勝負なのだ。一体白人なんて、卑怯《ひきょう》なとび道具をうばわれてしまえば、果断な蛮人と面と向って戦えるものだろうか? 昔ながらの原始的な武器で対等に渡り合えるものだろうか? かわいそうに、そんな妄想《もうそう》を抱いていると、ひどい目にあうぞ! 彼は、僕にとびかかってきたが、単なる獰猛《どうもう》な腕力と、胆力《たんりょく》だけでは、僕の熟練《じゅくれん》を前にして、ほとんど対等な試合を望むべくもなかった。たちまち彼は、僕の足もとに横たわり、その白い乾燥した平原の上に、生血を流していた。うつぶせに倒れている彼のからだから、身を転じて、僕は、血まみれのぬれたナイフを手に、さらに追いかけてくる者を迎えうとうと身をかまえた。僕はまだ、彼らが僕を追跡していて、すぐ間近にせまっているものと考えていたのである。もし彼らがあとをつけていないなら、――もしそれをなくす心配がなかったら、なぜ彼は、あのマントを拾い上げるために、身をかがめていたのであろうか? 僕は、彼らの槍を受けよう、堂々と彼らに立ち向って死のうと思って身を返したのである。僕にとっては、また死も怖ろしくはなかった。最初の攻撃者を殺した今、僕は、落着きはらって死ぬことができるだろう。だが、本当に彼は死んだのだろうか? 彼の唇から、うめき声のようなものがもれてきたので、僕は自問した。そこで僕は、すばやく身をかがめると、もう一度柄まで通るくらいに、そのうつぶせのからだにナイフを突きさした。彼の深い吐息《といき》がもれ、彼のからだがふるえ、血が新らたにほとばしり出た時、僕は、残忍な喜びをおぼえた。それでもなお、あわただしい足音は、僕の緊張した耳にきこえてはこなかったし、暗闇の中に、ぼんやりした人かげを見ることもできなかった。そこで僕は、彼が、彼らを眠ったままにしておいたのか、彼らが、正しい方向にあとを追ってこなかったのかどちらかだという結論に達した。マントを取り上げて、僕は歩きつづけようとした。その時、僕は、彼の投げた槍が、数ヤード先の落下した場所に横わっているのに気がつき、それもまた拾い上げ、ふたたび前進をつづけた。なおも目標にしている星の方に足を向けながら。
二十
クアーコと戦って勝ったことは、まるでぶどう酒を一のみしたような気持だった。そのため僕は、しばらくの間、失ったものや、傷から起る苦痛にも気がつかなかった。しかし満ち足りた快感と狂喜とは、いつまでもつづかなかった。引き裂かれたからだは、ずきずき痛んだ。僕は出血のために衰弱し、疲労感のために、元気を失っていた。その時もし敵が現れたら、彼らは簡単に僕を打ち負かしてしまったであろう。しかし彼らはやってこなかった。そこで僕はのろのろと苦しみながら歩きつづけた。そして何度も休息するために立止った。
しかし、幾分衰弱から立ち直り、追いつかれる心配がまったくなくなると、悲しみが、激しい勢いでよみがえり、心労は、ふたたび戻ってきて、僕の心をかき乱すのだった。
ああ! あの輝かしい存在、その神聖な光輝において、他に似るもののなかった者、その生長に長い時間を要した者、それは今、単なる枯葉、一つまみの塵《ちり》となり、永遠に姿を消し、忘れ去られようとしている。――ああ、無情なことだ! ああ、残酷《ざんこく》なことだ!
しかし僕は、前からそういういっさいを知っていた。――あらゆる反抗も無益な、この自然の、必然の法則を。しばしばその法則を思い出すたびに、僕は、いいようのない憂鬱《ゆううつ》に心がみたされるのであった。しかし今、それは、あらゆる残酷さを超《こ》えた、残酷なものとして僕の眼に映ったのである。
この恐ろしい自然のいとなみの中に、その姿を現わすのは、決してその手先である自然ではない切り裂いて皮膚から血を流させるあの鋭い剣ではないのだ。それは、その剣をあやつっている手、未だその姿をみた者のない、未だ誰も知っている者のないもの、あるいは、人なのである。
「最愛の者よ、お前は、最後に、あの耐えがたい熱のなかで、あの極度の苦悶の瞬間に、大声で呼びかけなかったところの、あの神が、星と同じように何をいっても耳を傾《かたむ》けず、何の援助もあたえないものだということを知ったのか? お前が、大声で呼びかけたのは、この僕に対してだった。しかしお前の、あわれな、力弱い同胞は、お前を救うために、そこにはいなかったのだ。またそれができないにしても、お前と一緒に炎の中に身を投げ、神を憎みながら一緒に死ぬこともできなかったのだ」
このように、耐えがたい苦痛を味いながら、僕は大声で話した。この人里離れた場所にただ一人、暗い夜の中に血を流して行く逃亡者の僕は、星を見上げては、僕を作った神をのろい、この忌むべき生命の贈物を、取り戻してくれと、神に向って呼びかけるのだった。
しかし僕の哲学からいうならば、それは何と無益なことであったろう! 僕の持ついっさいの悲痛、いっさいの憎悪、いっさいの反抗は、屈従的《くつじゅうてき》な崇拝者《すうはいしゃ》の嘆願《たんがん》と等しく、むなしく、無益で、完全な徒労《とろう》にすぎなかったのである。一枚の木の葉のささやき、一匹の昆虫《こんちゅう》の翼のかすかな羽音にすぎなかったのだ。あれほど甘美で神秘的な旋律のきこえる所に僕を導いてくれたことに対して、ひざまずいて感謝した時のように、僕があらゆるものの上に君臨《くんりん》する神を愛そうが、今のように、憎み、さからおうが、それは、――愛も憎悪も、善も悪も――すべて彼に源《みなもと》があるのだ。
しかし僕は知っている。――僕はその時すでに知っていたのだ。僕の哲学が、ある一つの点において、誤っていたことを、それが完全な真理ではなかったことを、僕の叫びが神にとどくか、とどかないまでもその近くにまで達しないだけではなく、かえって僕自身を傷つけていたことを。ちょうど、不当な運命のために、気の狂った囚人《しゅうじん》が、独房の石の壁をたたきつづけ、打傷《うちきず》だらけになって後にしりぞき、床に血を流しているように、僕は、故意に、自分の心を傷つけていた。そして僕は、自分で作った傷が、決してなおらないことを知っていたのである。
その夜のこと、僕の人生の最も陰鬱な時期の発端《ほったん》について、僕はもうこれ以上いわないだろう。そしてこの後に起った出来事についても急いで通りすぎるだろう。
朝になってみると、僕は、あのインディアンと戦った場所から、もう何マイルもきていて、平原《サヴァンナ》や、まばらな林のある、起伏《きふく》の多い地方にいるのに気がついた。僕は、長い間歩いてきたので、ほとんど疲れはてていた。そしてもうすぐ食物を手に入れることができなければ、僕の立場はまったく絶望的なものになると感じた。僕は、苦労したあげく、高さ三百フィートばかりの山の上に何とかのぼって行き、あたりを見渡した。そしてその山が、五つの連山のうちの一つであるのに気がつき、これがウリタイの五つの山であること、マナガのいる部落の近くにやってきていることに気が付いた。その山を下りると、僕は、いっそう高い次の山に向って進んで行った。しかしまだその山につかないうちに、山を分っている、狭い谷間の小川にやってきた。川を渡る場所を探しながら、その川岸に沿って進んで行くと、目の前に、僕の探していた部落の全貌《ぜんぼう》が現れた。近づいて行くと、あわただしく動き廻っている人々の姿が見られた。ゆっくりと苦しそうに歩きながら、僕がそこにつくまでには、すでに七、八人の男が、部落の前に立っていた。何人かは手に槍を持ち、女と子供はそのうしろに立っていたが、どの顔も、珍《めず》らしそうにじっと僕をみつめていた。近づいて行きながら、僕は、幾分弱々しい声で、マナガにあいたいのだと叫んだ。すると、一人の白髪まじりの男が、手に槍を持ったまま前に進み出て、自分がマナガであると答え、何故自分を探しにきたのかとたずねた。そこで僕は、今までの話の一部分を話した。しかしそれは、僕がルニに、生かしておけないような深い恨《うら》みを抱いていて、今彼の一族のうちの一人を殺し、彼のところから逃れてきたということを伝えるには充分であった。
僕は、家の中に案内され、食物をあたえられた。そして傷をしらべて、手当を受け、横になって眠ることを許された。一方、マナガは、彼の一族のうちの数人をつれ、僕がクアーコと戦った現場に向って、急いで出発した。それは、僕の話をたしかめるためだけではなく、一つには、ルニに出会えるかも知れないという見込みがあったからである。僕が次に彼にあったのは翌日の朝だったが、その時、彼は、僕が追いつかれた場所というのはみつかったが、クアーコの死体は、ルニの仲間によって、すでに発見され、パラウアリにはこばれて行ったと告《つ》げた。彼は、しばらくの間、そのあとをつけて行ったが、ルニが、はじめてこのように遠くまでやってきたのは、たださぐるのが目的であったということに、納得《なっとく》がいったらしかった。
僕がこの部落に到着し、奇妙な報《し》らせをもってきたということは、部落を大きな動揺の中に投げ込んだのである。その時以来、マナガが、彼の旧敵から、いつ何時、不意に襲撃《しゅうげき》されるかも知れないという、絶えざる不安を抱いて暮らしているらしいのは、明らかなことだった。このことは、僕に大きな満足をあたえた。この感情を持ちつづけ、さらに、彼の敵のひそかに抱いている残忍なもくろみを、絶えずほのめかしつづけ、ついに恐怖と激怒の入りまじった狂乱にまでいらだたせてしまうことが、僕の目的であった。彼は、疑い深く、幾分|獰猛《どうもう》な性質だったので、ある日、突然、もしかすると僕が、彼を手先に使おうと望んでいるだけなのではないかという疑いを起し、このみじめな状態におちいってしまった直接の原因は僕にあると、くってかかってきた。しかし僕は、奇妙に大胆で、危険に無頓着であった。そこでただマナガの激怒を嘲笑し、僕は、マナガのことなど怖れてはいない、ルニは、僕にとってもマナガにとっても不倶戴天の敵であるが、ルニの怖れているのは、マナガではなくて僕である、ルニは、僕がどこに逃れたかよく知っているが、僕が、この部落にいるかぎりは、敢て襲撃を企《くわだ》てることはしないだろう、彼は、僕の出発するのを待っているのだ、と彼に向って傲然《ごうぜん》といい放った。「マナガ、僕を殺してみろ」僕は、立ったまま、彼に面と向かい、胸をたたきながら叫ぶのだった。「殺してみろ。そうすればルニは、不意にあんたを襲撃して、あんたたちをみな殺しにするにちがいない。彼は、早晩、そうしてやろうと決心しているのだからな」
この話が終ると、彼は、一言もいわず、ぐっと僕をにらみつけ、突然の激怒のために、つかみ取って持っていた槍を、たたきつけ、家から大またに森に向って歩いて行った。しかし、まもなく彼はふたたび戻ってくると、もといた自分の席について、夜のように陰気な顔をしたまま、僕のいった言葉を反芻《はんすう》しているようだった。
僕の人生における、この暗い、かくれた一時期――道徳上の狂乱の一時期――を思い出すのは、心の痛むことである。だが僕は、この狂乱を口実にして、意識するにせよ、しないにせよ、自分自身をも他の人をもあざむく、偽善者にはなりたくないのだ。その時にしても、僕の精神は、この上なく明晰《めいせき》だった。過去も現在も僕には、明瞭《めいりょう》であった。そして未来は、そのいずれにもまして、明瞭に見えていたのである。僕には、自分の行為の限界もはっきり見えていたし、その効果についても推測することができた。そして善悪の観念――個人の責任の観念――は、僕の人生の他の時期にくらべても、さらにいっそうはっきりしていたのだ。激しい恋情のために盲目になっていたというのであろうか? あるいは恋情にかられていたといえるかも知れない。しかし盲目になっていたということはあり得なかった。自然の背後にあると信じられている、未知の存在――人格的なものであろうとなかろうと――に対する狂暴な反抗のあとには、反動すなわち服従も、その姿を現わさなかったのである。僕の反抗は、なおもつづいた。僕は、神を憎んだ。僕は、自然という鏡に、うつることによって、僕たちに、その姿を現わす神をまねて、自分の憎悪《ぞうお》を示したかった。神は、僕に、善なる資質――善悪の観念や、甘美な人間性――をあたえたのであろうか? 神が、僕の内部で育てようとした、美しい神聖な花を、僕は、残忍にふみにじりたかった。その美しさと、芳香《ほうこう》と優美さを永遠に滅《ほろ》ぼしてしまいたかった。邪悪なもの、残酷なもの、僕の天性に反するもので、僕の罪によらないものは何一つない。しかし今、僕は自分の罪を誇りに思う。この考えは、数日の間の一時の気まぐれではなかった。僕は、約二か月の間、マナガの部落に滞在《たいざい》して、心にかたく決めた、最も残虐《ざんぎゃく》な冒険に、インディアンを加入させようと、全力を尽《つく》したが、決してそのことを止めようとも思わなかったし、後悔もしていなかった。
最後に僕は成功した。もし成功しなかったら、不思議であっただろう。その身の毛もよだつような詳細《しょうさい》を語る必要はあるまい。マナガは、彼の敵を待ってはいなかった。そして、日没後一時間に、ルニの部落を不意に襲撃したのである。もし僕の精神が、その二か月の間、錯乱《さくらん》していたとしても、暗雲のようなものが僕の上にかかり、悪魔の力が僕をひきずっていたとしても、その身の毛もよだつような企てが成就《じょうじゅ》した時、一瞬の間、暗雲や錯乱は消え去り、その束縛《そくばく》はときはなたれたのである。突然、あたかも奇跡によるように、僕の心にそのような変化を起したのは、殺された場所に横たわっている、一人の老女の姿であった。あかあかと燃えている家の火炎が、彼女のどんよりとみひらかれた眼と、血にまみれた白髪を照らしていたのである。彼らは、ついに全部死んだ。年寄りも、若者も、リマが逃げ込んだ大きな緑の木のまわりに火をつけ、炎のまわりを踊りながら、「燃えろ! 燃えろ!」と叫んでいた全部の者が。
あのうつぶせになった老女の姿にふと眼がとまった瞬間、僕は立ち上り、じっと立ったまま、からだをふるわせた。突然、心臓にさしこみを感じて、思いがけず死の到来を知った人のように。しばらくの後、僕は、その大きな火明りの環《わ》から、こっそりと抜け出して、彼方にある、濃い闇の中に入って行った。僕は、本能的に平原《サヴァンナ》を横切って、ふたたびあの森――僕の森――に向っていた。僕は、騒音と炎から逃れ去り、木々の黒い影の中に入るまでは、一度も立止ったりしなかった。森の奥の、さらに深い闇の中には、敢て入る気にはならなかった。そこで僕は、森のはずれに立ち止り、その夜一人で何をしていたのかと自分自身に問いかけるのだった。僕は、腰を下ろして、手で顔をおおった。単に夜と森のかげによってかくされているよりも、さらに効果的にかくすことができるかのように。何という恐ろしいことが――考えただけでも、僕の心を驚かせる、何という災難が、僕の身にふりかかってきたのであろう。感情の激変、いいようのない恐怖、良心の呵責、それらはすべて、僕に耐えることのできる以上のものであった。僕は苦悶の叫びをあげて、突然はね起きた。もし僕に実行する能力があったなら、その瞬間をのがれるために自殺していたことであろう。しかし自然は、かならずしも、まったく残酷であるとはかぎらない。この場合も、僕を助けにきた。僕は、意識を失い、早朝の光が、東に現れるまで、我に返らなかった。やがて僕は、自分が、ぬれた草――それはさっきまでふっていた雨でぬれていたのであるが――の上に横になっているのに気がついた。僕は、肉体的苦痛があまりにも激しいので、昨日の夜目撃した光景について、いろいろと考えているわけにはいかなかった。自然は、この点においてもふたたび慈悲《じひ》深かった。僕は、ただ、もしインディアンたちが、まだこの近くにいて、この森にやってくる場合に備《そな》え、身をかくす必要のあることに気がついた。僕は、ゆっくりと苦しみながら、森の中に這って行った。僕は、そこで数時間の間、腰を下ろしていたが、半ば知覚を失ったような状態にあったので、ほとんど何も考えなかった。正午に、太陽は輝き始め、森を乾かした。僕は、空腹を感じなかった。ただ、からだの痛みがどことなく感じられ、もしこの隠れ場をはなれたら、誰か人間に出くわすかも知れないという怖れがあったのである。この怖れのために、夕暮になるまで、動き出すことができなかった。やがて、夕暮になったので、這《は》い出して、夜をすごすために、森のはずれに向って進んだ。その暗い何時間かの間、僕は眠ったかどうかよくわからない。昼も夜も、僕の状態は同じように思われた。僕はただ精神的にも、肉体的にも、ひどくみじめな感じを、ぼんやりと経験していたにすぎない。そして事物をはっきりと、あるいは少しでもつづけて考えることは不可能であった。意志が眠っている夢の中に於けるように、僕が主役を演じてきたいくつもの場面が、現れては去り、去っては現れた。まず悪魔のような巧妙さと執拗《しつよう》さを持って、マナガの心を動かそうとしている場面が現れる。すると次には、森の中で、身動きもせず立ちながら、あの甘美な神秘的な旋律に耳を傾けている場面になる。そして次には、年老いたクラクラの、みひらかれたどんよりした眼と、血にまみれた白髪を、あっけにとられてみつめている自分の姿が現れる。すると突然場面が変って、リオラマの洞窟の中で、じっと動かないリマの顔に、生気と血色が徐々に戻ってくるのを、やさしく見守っている自分の姿になる。
ふたたび朝になった時、僕は、非常に力が弱っていたので、ついには気絶して、飢えのために死んでしまうのではないかという、漠然《ばくぜん》とした恐怖に襲われ、食物を求めるために起き上って出かけたのであった。僕は、ゆっくりと進んで行った。僕の眼は、かすんでよく見えなかったが、少量の食物――小さな、食用になる根、葉柄、漿果《しょうか》、凝結《ぎょうけつ》した樹液《ガム》――はどこを探したらいいのか、よく知っていたので、このように豊かな森の中で、僕の空腹を充たす食物をみつけることができなかったら、むしろおかしなことだったろう。見つけることのできたものは僅かなものにすぎなかったが、その日の分としては充分だった。ここでふたたび自然は、僕に対して慈悲深かった。食物をかくしている葉の間を、懸命になって探していると、ものを考えているひまなどはなかったからである。思いがけない少量の食物がみつかるたびに、僕は、つかのまの喜びを味った。そしてだんだんに探して行くにつれて、足どりも次第にしっかりしてきて、目もかすまなくなってきた。僕は、だんだんに自分自身を忘れて、熱心になり、当面の必要品以外のことは、感じも考えもしない野獣のようになってきた。そしてついに疲れ果て、暗くなって多忙な彷徨《ほうこう》が終るや否や、眠りにおちこみ、次の朝になるまで眼がさめなかった。
僕の空腹は、今や極限《きょくげん》に達した。一つがいの小さな鳥が、嘆き悲しむような鳴声をあげながら、僕のまわりをいつまでも、うむことなくとび廻ったり、嘴《くちばし》を大きくひらいて、翼を興奮したようにふるわせてとまったりしていたが、それを見て僕は、今が鳥の産卵期《さんらんき》であるのを思い出した。またリマが、小鳥の巣の見つけ方を教えてくれたことも思い出した。彼女が、小鳥の卵を見つけるのはただそれを見て楽しむためであった。しかし、僕にとってそれは今、食物になるのである。白あるいは青、あるいは赤い斑点《はんてん》のついた殻《から》の中の、透明な黄色い液体《えきたい》が、僕の生きながらえる助けとなるのだ。いっさいの鳥の声に耳を傾け、いっさいの翼《つばさ》を持つ生き物の動作を見守りながら、一日中僕は探しまわり、樹液《ガム》や果実のほかに、主として小鳥のものではあったが、卵の入っている二十以上の巣《す》を見つけ出した。この骨折りは、非常なものであり、身に負ったかすり傷の数も多かったが、僕はその成果に充分満足した。
二、三日たったある日、僕は、ハイマ樹液《ガム》を多量に見つけたので、懸命《けんめい》になって、それを木から採取《さいしゅ》し始めた。それは、大して使いものになるわけではなかったが、それのあたえる、明るい光が強く頭にこびりついていたので、何げなく全部採取したのであった。この樹液《ガム》を手に入れて以来、ふたたび夜が、僕のまわりに迫《せま》ってくる時、僕の心には、燈火《とうか》とたき火に対するいいようのない恋しさが芽生《めば》えたのである。暗闇《くらやみ》は、もはや、前以上にたえがたいものになってきた。僕には、生れつき燈火を持っている螢《ほたる》が羨《うらやま》しかった。そこで夕闇の中を走りまわり、その二、三頭を捕えては、その冷い、断続的な閃光《せんこう》を楽しむために、僕の二つの手のひらの上にのせるのだった。翌日僕は、乾燥《かんそう》した木をすりあわせるという原始的な方法で、火を起してみようと、二、三時間の間試みたのであったが、うまくいかなかった。僕は、多くの時間を失い、いつもよりも激しい空腹に悩まされるという結果に終った。しかし、あらゆるものの中に、火は存在していたのである。ナイフで、かたい木を、たたき切る時でさえ、火花は散った。ただ、この驚くべき、熱と光をあたえる火花をとらえておくことさえできたら! すると突然、ある新らしい大真理でも発見したかのように、鋼鉄《こうてつ》の猟刀《りょうとう》と火打石を打ちつけたら、火が得られるのではないかという考えが頭に浮んだ。ただちに僕は、乾いた苔《こけ》や、枯れた木や、野生の綿《わた》の木で、ほくちを用意する仕事にとりかかった。まもなく、望んでいた火を起こすことができたので、乾いた木や、まだ緑の葉をつけている生木を、その上につみ上げて、火を盛んに燃やそうとした。そこで僕は、火をどんどん燃やしながら、一晩中そのそばで起きていた。火ができたために、倒れた木の幹の腐った場所でみつけた、巨大な白い甲虫《こうちゅう》の幼虫を焼くこともできた。この大きな甲虫の幼虫は、以前には、見ただけでも胸がわるくなったものだが、今、僕にとっては、空腹を充たしてくれる、実に美味な食物であったので、野生の、森の食物の中では、僕はそれしかさがさなくなった。
長い間、別にはっきりした理由がなかったにもかかわらず、僕は焼けおちたヌフロの小屋の跡《あと》には近寄ることをさけていた。しかし僕はついに行ってみた。そしてまずどこかに蛇でも潜《ひそ》んでいはしないかと怖れるかのように、生《お》い茂った草むらを用心深くのぞき込みながら、僕と深いつながりを持っていたこの場所を廻ってみるのだった。やがて僕は、焼跡の黒い堆積《たいせき》から少し離れた所に、一つの骸骨《がいこつ》がころがっているのに気がついた。僕は、それがヌフロのものであることを知った。彼のからだがまだ盛んに活動していた頃、彼は、アルマジロを捕える名人であった。そして蛮人に殺され死体となってしまった今、奇妙な腐肉を食う動物に、その肉をむさぼり食われて、まぎれもない復讐《ふくしゅう》を受けていたのである。
多くの思い出に充ちたこの場所に、ひとたび戻ってきてみると、僕はふたたび立ち去ることができなかった。森林における僕の生活が、つづいているかぎり、ここに隠れ家を作らなければならない。そしてここに住む以上は、あのいたいたしい骸骨を、地面にころがしておくわけにはいかなかった。僕は苦労して、それを埋葬《まいそう》する穴を掘った。その場所にひろがり始めている、幅《はば》の広い葉を持ったつる植物を、切ったり、傷つけたりしないように注意を払いながら。穴の中に骸骨を入れ、土をかぶせたあと、僕は、その植物の長いひきずっている茎《くき》を、その塚の上に、引っぱってきて、つたわせた。
「ぐっすりお休みなさい。おじいさん」仕事が終った時、僕はいうのだった。非難も賞賛《しょうさん》も含まないこの短い言葉は、年老いたヌフロが、僕から得た埋葬式のすべてであった。
やがて僕は、あの老人が、リオラマに旅立つ前、僕の助力を借りて、食料をかくした場所を訪れた。そしてそれが、インディアンによって発見されていなかったのを見出して喜んだ。たばこの葉、じゃがいも、西洋かぼちゃ、カサヴァパン、料理道具の他に、僕は、一挺《いっちょう》の斧《おの》をみつけた。――これは、大した掘り出し物だった。それさえあれば、小さなしゅろや、竹を切り倒して、自分で小屋を作ることができるのである。
食物の補充《ほじゅう》ができたので、種々のことをする時間が生じた。まず第一に生活の状態を整えなければならない。そうすれば、多分、以前の境遇《きょうぐう》をだんだんに改善して行くことができるだろう。――まず必需品《ひつじゅひん》を取りそろえ、次に贅沢品《ぜいたくひん》に移ればいいのだ。思索《しさく》と行動が一つになった、健康で、みのりの多い生活を送り、最後には、平和な黙想の老年時代をすごせばいいのだ。
僕は、灰《はい》とがらくたを取り片づけ、リマの独立した部屋の跡を、僕の家をたてる場所にきめた。家は小さいものにしたかった。五日すると、その家は完成した。そして、火をおこした後、苔と木の葉でできた、乾燥したベッドに長々と手足をのばしたが、その時の気持は、ほとんど勝ち誇《ほこ》った気持といってもいいものだった。激しい雨がふって、螢の火を消し、風が吹き荒れ、巨大な雷鳴がとどろき、稲妻が、耐《た》えがたい光を地面にはためかせ、ぬれた葉の中に住んでいる、あわれな猿どもをおびえさせようとも、乾燥したしゅろの葉でふいた屋根の下で、乾燥したベッドに横たわり、燃え輝いている火と親しくつきあい、かつての敵である暗闇から保護してもらっている今の僕は、ほとんど気をとめることはないだろう。
この小屋の中での最初の眠りからさめた僕は、すっかり元気をとり戻した。僕はもはや、残酷《ざんこく》な空腹にかりたてられて、雨のふる森の中に入って行く必要もなくなった。以前から願っていた、労働からの休息、思索のための暇《ひま》な時がやってきたのだ。毎夜リマが、幻《まぼろし》の母親を腕に抱きしめ、幻の耳に、この上もなく愛情のこもった言葉をささやきながら、横になっていたあの場所で、今僕もまた、横わり、腕の中にリマを、幻のリマを抱きしめていたのだ。雨風をしのぐ場所もなく、ふたたび火を見出してもいなかったかつての夜にくらべて、今は何というちがいであろう! どのようにして僕は、それに耐えてきたのであろう? 無数の異様な物のかげに充《み》ち充ちている、森の夜のあやしい不気味《ぶきみ》な暗がり。暗く静まりかえってはいるが、時々、その中には、何ものかの動くのが見られるのだ。黒ずんだ、ぼんやりした、異様なものが。――おそらくそれは、梟《ふくろう》か、こうもりか、大きな翅《はね》をした蛾《が》か、よたかのたぐいであろう、僕は、これらの森の夜のもの音に、耳を澄さないわけにはいかなかった。それらのもの音は、昼間のもの音と同じように、多くの種類があった。しかし、最もかすかな木ずれの音や、最も低い鳥のさえずりに始り、太くて低いうなり声や、けたたましい鳴声にいたるまで、一切の昼間のもの音が、それぞれ何かの類似点を持っているのにひきかえ、夜のもの音には、その調子の中に、何か神秘的《しんぴてき》で非現実的なもの、夜独特のものがあったのである。それらは、死んだ動物の亡霊《ぼうれい》から出た、不気味なもの音であった。それらは、かわるがわる現れる、多数の異ったもの音であったが、その意味する所は、常に一つだった。僕は、その意味をとらえようと努めてみた。しかし、それは徒労《とろう》であった。その意味をとらえることができるのは、ただ僕たちの中で眠っている能力、うつらうつらとまどろみ、今まさに目ざめようとしている能力だけであったろう!
今は、暗黒と神秘とは、まったく閉め出されていた。僕は今、喜びに代って位置をしめるもの、喜び以上のものを得たのであった。眠りも忘却《ぼうきゃく》も望まず、いつかはついにやってきて、僕の幻を追いのけてしまうに相違ない日の光を心の中で憎みながら、目ざめたまま横たわっているのは、悲しみに充ちた歓喜《かんき》だった。僕は今ふたたびリマと一緒にいる。――僕は、失ったリマを取戻したのだ。――彼女は、ついに僕のものになったのだ! もはや、かつての、苦しい疑惑は去ったのだ。――「あなたはあなた、私は私――一体なぜなの?」――この疑問は、発せられたのだった。並びながら落下する二粒の雨のように、僕たち二人の魂が、抗《こう》しがたい力によって、またたくまにひきつけられた時に。何故なら今、僕たち二人は、たがいに、ふれあい、別々な二つのものではなく、分離することのできない一つのしずくになったからだ。僕たちは、もはや変化することのない結晶に達し、時間によって崩壊《ほうかい》されず、死の一撃によって粉砕《ふんさい》されず、錬金術《れんきんじゅつ》によって分解されることがないのである。
この確乎《かっこ》とした消えることのない幻と、奇妙な炎の言葉で、僕に話しかける、踊っている輝かしい火の他にも、僕の仲間はあった。寝る前に、戸口をしっかりとしめておくのが、僕の習慣だった。悲しみは、おそらく僕の血を冷やしてしまったのであろう。僕はその頃、暑さよりも寒さに、苦しめられることの方が多かった。そこで火は、一晩中、僕にとって実にありがたいものだった。僕はまた、とんだり、這《は》ったりしてやってくる小さな夜の放浪者どもを、何とかしてしめ出したいものだと思った。しかし彼らを完全にしめ出してしまうことは、不可能であることがわかった。目に見えないたくさんのすき間から、家の中に入ってくるものもあれば、昼間のうちに入ってきて、夜になるまで、身をかくしているものもあったから。一匹の巨大な、毛深い蜘蛛《くも》の一種が、小屋の屋根の下の薄暗いすみに、避難所をみつけ、くる日もくる日も一日中そこに、じっと身動きもしないでいるのだった。しかし日が暮れると、かならずどこかに姿を消した。――どんな残忍《ざんにん》きわまる用事のためにでかけて行くのか誰にわかるものか! その蜘蛛の色は、枯葉のような濃い黄色で、野生のねこを思わせる、黒と灰色の縞模様《しまもよう》がついていた。それは、あまりに大きいので、ひらたく円いからだから四方八方にのびた、毛深い大きなひろがった足は、人間の開いた手をおおうほどであった。それで、その蜘蛛の姿を、僕の小さな家の中で見つけ出すことは、簡単なことだった。夜になると僕の眼は、しばしば、その蜘蛛の陣取《じんど》っているすみに、さまよって行ったが、その奇妙な毛深い姿にはぶつかることがなかった。しかし日の光が輝き始めると、かならず戻ってくるのだった。それは、僕をなやました。しかし今、リマのために、僕は、空腹にでもならないかぎり、生き物を殺すことはできなかった。僕はしかし、それに傷《きず》を負わせてやろうと考えた。――その足の一本を切り取ってやるのだ。何本もあるのだから一本ぐらいなくなっても大して不自由ではないだろう。そうしてやれば、このように不愛想な扱いを受ける所から立ち去って、ふたたび戻ってはこないだろう。しかし僕には、そうする勇気が、なかった。あの蜘蛛は、夜ひそかに戻ってきて、その長い、曲った針を喉《のど》につきさし、僕の血の中に、熱病や精神|錯乱《さくらん》やペストの毒を流し込むかも知れない。そこで僕は、蜘蛛には、干渉《かんしょう》することをやめ、僕の思っていることが知られなければよいがと思いながら、こっそりと、恐る恐る彼の方を眺めるのだった。このように僕と蜘蛛とは、おたがいに親しみの持てないまま暮しつづけた。この蜘蛛にくらべれば、まだ親しみが持てるが、それでもなお、気持のよくないのは、大きな這ったり走ったりする昆虫――こおろぎや、甲虫や、その他のものであった。それらは、恰好《かっこう》もよく、黒くてつやがあり、自分の力で動く頭のよい馬車のように、床のあちこちを走り廻った。そして僕が見えるのか、あるいは何か神秘的な方法で僕のいるのがわかるのか、その動かない眼をじっと僕の方に注ぐのだった。そのしなやかな触角《しょっかく》は、空気を分析する精巧《せいこう》な器具のように、上下に振り動かされるのであった。むかでとか、やすでとかが、また無数に入ってきたが、僕は、歓迎《かんげい》する気持にはなれなかった。僕はその毒を怖れはしなかったが、見るのは、うんざりした。何故なら、それらは、生きている物のようには見えず、蛇とかうなぎとか細長い魚とかの脊椎骨《せきついこつ》が、死んで乾燥し、何か自然の手品によって壁や床の上を、機械的に動かされているように思えたからである。僕は、しなやかな緑の二本の小枝で、それらをつまみ上げ、外の暗闇の中に、ほうり出すのがうまくなった。
ある晩のこと、一頭の蛾が、羽ばたきながら部屋の中にとび込んできて、火のそばに坐っている僕の手の上にとまった。僕は息を殺してじっとその蛾をみつめた。前翅は、淡灰色で、濃淡がついていたが、それは、あたかも、古代の秘教か伝説の、最も美しい文字を一面に書き散らしたようであった。しかしまるみを帯びた後翅は、あざやかな琥珀《こはく》のような黄色で、木の葉のような、赤と紫《むらさき》の翅脈《しみゃく》が走っていた。このように、あまりにも洗練された美しさを持つ、この蛾を見ていると、僕は、突然、喜びの衝動《しょうどう》にかられるのだった。蛾は、たちまちとび上り、円を描いてとび廻っていたが、ついに、火の真上にあたる、しゅろをふいた天井にとまった。僕は、火の熱のために、まもなくそこからとび立つだろうと思っていた。そして立ち上って、戸口をひらき、ふたたび自分自身の、涼しく暗い花の咲いている世界に、とんで行くことができるようにしてやった。そこで僕は、ひらいた戸口の傍に立つと、蛾の方にふり向いて話しかけた。「おお、うすい色の美しい翅を持った夜の放浪者、とんで行くがいい。そしてリマが昔よく行った場所を訪れ、影になった茂みの奥のどこかで、もし彼女に出あったなら、僕の伝言を伝えてくれ。――」僕がここまでいった時、そのかよわい生き物は、つかまっていた脚をゆるめて、一度として羽ばたくことなく、下の白く燃えた炎の中に、すばやく垂直に、吸いこまれた。あっと叫ぶと、僕は、とぶようにして走り寄った。そして突然の怖ろしい感情に、全身のふるえるのをおぼえながら、立ったまま、じっと火の中をみつめた。ああ、リマも、このようにして、落ちたのだ。――あの高い木の梢《こずえ》から――燃えさかる炎の中に、美しい肉体も、輝かしい心も、一瞬のうちに焼かれ亡びたのだ! おお、残酷な自然よ!
炎の中で、死に絶えた一頭の蛾、ききとれないほどの、かすかなもの音、夜にみた一つの夢、森の夕闇の中を、霧《きり》のようにさまようぼんやりとした、似たものの姿、それらのものが、不意に生々《なまなま》しい記憶と、以前の苦悩をよびさまし、しばらくの間、今までつづいた穏やかな日々を、かき乱した。そのあらしのあとには、穏やかな日々がきた。しかし僕の健康は損なわれ、食慾は衰え、睡眠《すいみん》もほとんどとれず、やせて、からだが弱ってきた。僕はあの森にある、暗い、鏡のように穏やかな池に下りて行った。それは、僕のひとみの小さな鏡よりはましであるが、もはやリマがその姿を映すことのない池であった。しかし僕が池の面をのぞき込んだ時、身にぼろをまとい、黒いもつれた髪の毛を、肩の上にたらし、太陽に焼けてカサカサになった、死人のような皮膚《ひふ》から顔の骨をつき出し、おちくぼんだ眼には、狂気の光を宿している、やつれ果てた男の姿が映った。
この水に映った影を見て、僕は異様な不安に襲われた。ある責《せ》めさいなむ声が、僕の耳もとでささやいた。「そうだ。お前はたしかに気狂いになりかけている。やがてお前は、森の中を泣きわめきながら走り廻って、最後には倒れて死んでしまうだろう。だれもお前をみつけて、お前の骨を埋めてくれる者は、あるまい。年老いたヌフロは、先に死んだので、その点では幸運だった」
「でたらめなことをいうな!」僕は、突然、怒りにかられていい返した。「僕の能力が今ほど鋭敏《えいびん》になったことはない。僕の眼をかすめて、一つの果実も熟することはできない。もし小鳥が、その嘴に、羽毛やわらをくわえて、投げ矢のようにとんで行くとしても、僕はそれに気がつくだろう。そして最後に巣を見つけられずにすんだなら、それは幸運な鳥だといっていいだろう。森の中で生れた蛮人でさえ、それ以上のことができるであろうか? 彼が飢《う》える時でさえ、僕は食物を見つけるのだ!」
「ああ、そうか、そんなことは、ちっとも驚くにあたらない」その声は答えるのだった。「寒い国からやってきた外国人は、一番暑い時でも、他の気候を知らないインディアンにくらべて苦しまない。しかしその結果をみるがいい。外国人は死ぬが、汗をかき、息苦しくて、あえいでいたインディアンは、生き残るのだ。このようにいっさいの人間との交渉を絶っている、智能の低い蛮人は、最後まで、自分の能力を保っているが、お前のいっそうすぐれた頭脳《ずのう》は、お前を破滅に導くのだ」
一本の木から僕は、長くて、さきのまるい刺《とげ》を切ったが、それは鯨《くじら》のひげのように、丈夫で黒かった。僕は、焼いて一列の穴をあけた細長い木片に、その刺をさしこみ、櫛《くし》を作った。そして、僕の風采《ふうさい》を整えるために、長いもつれた髪の毛をすいてみた。
「お前の髪の毛が、もつれているからではない」またあの声が主張した。「お前の眼のせいだ。お前の眼は、あまりにも狂気じみて異様なので、もう気狂いになりかかっているのがよくわかる。いくらでも好きなだけ髪の毛に櫛を入れて整えるがいい。また、お前のうしろの灌木からたれさがっている、星の形をした深紅色の花で作った花冠をかぶってもいい。――クラクラばあさんにかぶせてやったように――だが、気狂いじみた顔つきは、今と少しも変わらないのだ」
もはや答えることができなかったので、僕は、怒りと絶望にかられて、あのいまいましい声の予言が本当であることを証拠だてるような行為をしたのであった。僕は、一つの石を取り上げると、そこに映った映像を粉々にするために、池の水に向って、力一ぱい投げつけた。その映像が、僕の本当の姿ではなく、誰か悪意を持っている敵が、僕を嘲笑するために、上ぐすりをかけた粘土《ねんど》か、あるいはほかの材料で、狡猾にも作りあげた、にせものであるかのように。
二十一
小屋が建ってから、多くの日々がすぎた。――何日たったか僕にはわからない。――僕は、棒《ぼう》切れにしるしをつけたり、なわに結び目をつけたりしていなかったから。しかし森の中をぶらぶら歩いている時、決してあの火が燃えさかった、見る影もない灰の堆積《たいせき》を見たことはなかった。僕はまた、それを探そうともしなかった。それどころではない、僕は決してそれを見たいとは思わなかった。そして偶然に出くわすことを怖れて、もとの歩き慣れた小道ばかりを歩いた。しかしついに、ある夜、リマの怖ろしい最後のことを考えていると、突然、僕があの白い平原《サヴァンナ》に血を流した、憎むべき蛮人は、あの最もあわれな物語を話す時でさえ、生れつきのうそをついていたのではないかという考えが頭に浮んできた。もしそうだったら――もし僕の質問を満足させるために、彼女の死についていつわりの話を用意していたとしたら、リマは、まだ生きているかも知れない。おそらく道に迷って、日夜危険にさらされ、どこか遠い所をさまよっているが、帰り道がみつからないのだろう。しかしまだ生きているのだ! 生きているのだ! 彼女の心は、僕にふたたびあいたいという望みに燃え上っている。果てしのない森の下ばえの中を、用心深く縫うようにして通っているのだ。そしていつもの巧みなかくれ方で、あらゆる人間の眼から姿をかくしているのだ。遠くの山の形を調べて、最後には、みなれた陸標を認め、ふたたび、以前いた森に戻る道をみつけるだろう。僕がこのように、とりとめのない思いにふけって、ここに坐っている今でさえ、彼女は、この森のどこかに――僕のそばのどこかに――いるかも知れないのだ。しかしもう長い間森にいなかったので、不安にみたされて、朝日の光が現れるまで、かくれて待っているのかも知れない。
僕は、はっとして立ち上った。そしてふるえる手で、火を新らたにつぎたし、迎えるための輝く火の光を、森に向って流れ出させるために、戸口をあけた。しかしリマは、もっと多くのことをしたのだ。あの無慈悲《むじひ》なあらしの中を、暗黒の森の中に入って行き、僕をみつけて自分の小屋につれて行ってくれたのだ。僕には、そんなこともできないのか! 急いで僕は、森の暗がりの中に出かけて行った。このように僕の心臓を激しく高鳴らせるのは、かならず単なる期待以上のものであるにちがいない! もし彼女が生きていて、僕の近くにいないなら、どうしてこのような感じが、奇妙な唐突《とうとつ》さと、抗しがたい力を持って、僕の心をとらえることができるだろう? 本当に僕たちはふたたび会えるのだろうか? お前の神聖な眼の中をふたたびみつめ、――ついにふたたびお前を腕に抱くことができるのだ! 僕は、こんなに変ってしまった――こんなに前とちがってしまった! しかし、かつての日の愛は、なお僕の心に残っている。お前のいなかった間に起ったことは、何一つお前にいいはしないだろう。ただのひとことも。一切のことは、今忘れ去らなければならぬ。――苦しみも、狂気も、犯罪も、後悔も! もはやふたたびお前を苦しめるものは何一つあるまい。毎日、お前をいやがらせていたヌフロも。もう彼は死んでしまったのだから。彼は殺されたのだが、そのことはお前にはいうまい。僕はもう、あのあわれな罪深い老人の骨を、見苦しくないように埋葬してしまったのだから。僕たちは今、森の中で、二人きりなのだ。――僕たちの森の中で! 甘美な、かつての日はふたたび戻ってきたのだ。お前もきっとそう思っているにちがいないし、僕もまた同じ思いなのだから。
まもなく僕のものになるであろう喜びに心を奪われて、僕は、このように、僕自身に向って語りかけた。僕は、時折、じっと立ち止り、呼び声をあげて森に反響させた。「リマ! リマ!」繰返し繰り返し僕は呼んだ。そして答えを待った。しかし僕の耳に入ってくるのは、ただききなれた夜のもの音だけだった。――昆虫の声と、鳥の鳴声と、鈴《すず》のような雨蛙《あまがえる》と、下の方からは、ほとんどきこえないような、かすかな風のそよぎによって動いている、梢の葉群の、低いささやき。僕は、露《つゆ》で、ずぶぬれになり、暗闇の中に倒れたり、岩やいばらや、ざらざらした枝にぶつかったりして、打傷をつけたり、出血したりしたが、まったく痛みを感じなかった。やがて、興奮も次第にさめてきた。僕は、あまり叫んだために声がかれ、疲れのため、もう少しで倒れそうになった。もう望みは、絶えていた。ついに僕は、自分の小屋に這うようにして戻り、草のベッドに身を投げると、重苦しい、みじめな、意気消沈《いきしょうちん》した、深い眠りにおちて入った。
しかし、翌日になると、僕はふたたび外に出かけた。森の中をよく探そうと決心して。もしクアーコが僕に話した、大がかりなたき火の跡が存在しないならば、彼が僕にうそをついていたので、リマはまだ生きていると信じる可能性がまだあると思われたからだ。僕は一日中探したが、何もみつからなかった。しかし森の中は、広く、それを徹底的に探すには、数日を要するのであった。
三日目に、僕は、その悲惨な場所をみつけ、もはやふたたび、生きているリマを見ることができないこと、僕の最後の望みもまったくむなしいものにすぎなかったことを知ったのである。このことに、あやまりのあるはずはなかった。クアーコが僕にいっていたような、ひらけた場所があって、大きな木が、まばらに生えていた。一本の木が、枯れたまま立っていて、火のために黒くこげていた。そしてまわりには、倒れた、黒こげの木の幹と灰から成る、直径六、七十ヤードの巨大な堆積があった。ここかしこには、貧弱な草木が、灰の間に、芽をふき出し、どこにでもある、小さな葉をしたつる草が、その淡緑色の刺繍《ししゅう》を、黒こげになった幹の上に、はわせ始めていた。僕は、五十フィート以上もある環になった控《ひか》え壁でかこまれている、葬式《そうしき》に使われた、巨大な木を長い間みつめていた。その木は、船の帆柱《ほばしら》のようにまっすぐに立っていて、梢までは地上から百五十フィートばかりもあった。何という高いところから彼女は下に落ちたのであろう。毒矢にあたって死んだ、白い鳥のように、燃えている木の葉と煙の中を、下の燃えさかる炎の海の中に、すばやく、垂直に落下したのだ! 羽毛のような葉や、つる草の刺繍が生えはじめてはいるが、今は見る影もない灰の堆積を、ふたたび、どよめき踊る炎に変え、あのすでに死んだ蛮人たち、男や女や子供――僕がかつて一緒に遊んだ幼い子供さえも――をふたたびここに呼び戻し、「燃えろ! 燃えろ!」とわめかせながら僕のまわりを廻らせること、それは何という残酷な想像であろう。ああ、いけない、こののろわしい場所を、彼女の最後の休息場としてしまってはならないのだ! もし火が、彼女を、あの美しい華奢《きゃしゃ》な肉体と同じく骨までも焼きつくして、かよわい白い翅《はね》をした蛾のように、最も美しい灰となり、無数の幹や葉の灰と分ちがたくまじってしまっていないならば、残っているものはどんなものであろうとも、どこかほかへ肌身はなさずたずさえて、最後には、僕の灰と一緒に埋めなければならない。
全部の堆積をふるいわけて調べようと決心し、僕はさっそく仕事にとりかかった。もし彼女が、中央の最も高い枝にのぼり、そこからまっすぐに落ちたのなら、彼女が炎の中に落ちた地点は、その根本から大して遠い所ではないだろう。そこでまず僕は、幹のところまで道を作り、夕暮になるまでに、木のまわり三、四ヤードばかりを探してみたが、骸骨《がいこつ》のようなものは何一つ見つからなかった。しかし、翌日の正午頃、骸骨《がいこつ》かどうかはわからないにしても、ともかく比較的大きな骨をみつけた。それは、激しい熱を受けているために、非常にもろくなっていたので、手で扱っているうちに、こなごなになってしまうかと思われた。しかし僕は注意深く――何と注意深く!――これらの最後の神聖な遺骨を救い出した。今リマのものとしては、これが残っているすべてなのだ!――一つ一つの白い破片を拾い上げるたびに、僕はそれに接吻《せっぷん》し、僕の古いすり切れたマントをひろげて、その中にいっさいの骨を集めたのであった。その全部を、最も小さいものに至るまで取り戻した時、僕は、それを宝物のように家に持って帰った。
また一つのあらしが、僕の心を揺《ゆ》り動かした。しかしやがて穏やかな日々がやってきた。その穏やかな日々は、最初のものにくらべると、いっそう完全であり、いっそう永続的なもののようであった。しかしそれは、無気力から生じた穏かさではなかった。今僕の頭は、前よりも活溌に働いていた。その結果やがて、手でする仕事を考え出した。このような蛮人の住む土地の森の中には、隠遁者《いんとんしゃ》や、仲間からの逃亡者は、いたであろうが、このような性質の仕事をしていたのは、僕だけであったにちがいない。僕が救い出してきた焼けた骨は、以前ヌフロが穀物や他の食料品を入れるために使っていた半焼けの土製の大きな粗雑な恰好をしたかめの中におさめられた。そのつぼは、灰色をしたものだった。僕は、もっと恰好のよい、骨を入れるつぼを作ろうと考えたが、ヌフロがそのつぼを作るのに使っていた特別上質な粘土がどこにあるのかわからないので、粘土のことはあきらめたのであった。そこで、僕は、今あるつぼの表面を装飾《そうしょく》する仕事にとりかかった。僕は毎日、この芸術的な仕事に、一日の一部をあてた。表面が、とげの多い茎《くき》や、葉のそりかえった、ひきずっているつる植物や、からまった巻きひげや、たれさがっている蕾《つぼみ》や花の模様でおおわれた時、僕は、それに色を塗《ぬ》った。紫と黒だけが使うことのできるすべてであった。それは、濃い色をした漿果《しょうか》の汁からとったものだった。色や陰や線が満足をあたえない時、僕は、それを消しとって、ふたたび最初からやり直すのであった。このようなことが、あまりにしばしば行われたので、僕の仕事は、なかなか完成しなかった。僕は、昔の彫刻家《ちょうこくか》たちの、誇りを秘めた控え目な、精神にならい、このつぼの上に「アベルはまだ製作しつつあるところだ」と刻《きざ》み込めばよかったのであろう。何故なら、僕の理想は、彼らと似たものであったが、僕の技術のなし得たすべては、単なる不完全な模倣《もほう》――未熟《みじゅく》なスケッチにすぎないのではなかったか? かめの下の方には、一匹のくすんだ色の蛇を巻きつけさせ、そのからだには、不規則な黒い斑点、あるいはしみを連続して描いた。もし誰かが、ものずきにもこの斑点を、調べてみたなら、その一つ一つは、手荒く描かれた文字であって、適当に分けてみれば、次のような言葉になるのに気がついたであろう。
[#ここから1字下げ]
お前はいないのだ 神も そして僕も
[#ここで字下げ終わり]
この言葉は、そのみなれない乱れた姿のために、昔の忘れられた詩人によって歌われた、乱れた、否、気狂いじみたものとさえいえると、思う人もあるであろう。あるいは、何世紀も前に、焼けつきて灰にまでなった恋情を持っていた、ある恋に身を焼く遍歴騎士《へんれききし》の盾《たて》に記された題銘《だいめい》であったかも知れない。しかし果てしのない薄明りに包まれた、広漠たる石の平原にただ一人住んでいる僕にとっては、乱れたものとも、狂気じみたものとも思えなかった。この平原には、何一つ動きも、もの音もなく、いっさいのもの、木も羊歯《しだ》も草さえも、石にすぎないのだ。この平原で、僕は何千年もの間、坐りつづけてきたのだ。石の指で、足を抱き、膝《ひざ》の上に顔をのせながら、身動き一つせず、いずまいを正しながら。そこでまた僕は、きたるべき何千年もの間、身動き一つせず坐りつづけるであろう。――彼女のいない世界には、もはや僕はいないのだ。また神もないのだ。
日々はすぎて行った。他の人々にとって、それらは一団となって週や月になる。しかし僕にとって、それらは、単なる日々にすぎなかった。――土曜も日曜も月曜もない、名のない日々にすぎなかったのだ。すでにすぎ去った日々は多く、その合計は、あまりにも大きかったので、以前のいっさいの生活、この孤独な時よりも前に生きたいっさいの年月は、今、無限の彼方にある、小さな島のように思われるのだった。この名前のない日々の、果てしのない、荒涼とした荒地のただなかにおいては、ほとんど識別《しきべつ》できないような。
僕の食料品の貯《たくわ》えは、もうずっと以前に、すっかり食べつくしてしまったので、豆類や、とうもろこしや、西洋かぼちゃや、赤いもや、さつまいもの味を忘れてしまっていた。ヌフロのたがやしていた畑は、インディアンによってすっかり荒されていて、一本の茎、一本の根も残されてはいなかったのである。また僕は、自分の悲しみをくよくよ考える、感傷家や、自分の芸術のことだけを考えている芸術家のように、倹約《けんやく》しようという気持は少しも持ちあわせていなかったので、食料の一部分を地面にまくためにとりのけてはおかず、種にする分までも食べつくしてしまったのであった。今残っているのは、ただ野生の食物だけであったが、その数は、きわめて少く、それさえ、みつけるには、方々を探し廻らねばならず、傷も多く受けなければならなかった。鳥は、僕に向って、けたたましい叫び声をあげ、僕を叱りつけた。枝は僕に傷を負わせ、とげは僕に、かき傷を作った。さらにもっと具合のわるいものは、ぶよよりも小さい、すずめ蜂《ばち》のようなものの、怒った大群だった。ぶんぶんうなれ! 刺したければさすがいい! 蛇の歯さえ、僕を殺すことができなかったのだ。ましてお前の激しい毒液が少しばかり入ったところでどうということはない。そういって僕は、幼虫と蜜《みつ》を略奪《りゃくだつ》するのだった。それらが、僕の白パンであり、赤ブドウ酒であった! かつて僕の心は、知識を渇望《かつぼう》していた。見事に表現された、立派な思想に喜びを感じてきた。僕は、それらを書物の中に、丹念《たんねん》に探したのであった。しかし今、この卑《いや》しい食慾のために、このような熱心さを持って幼虫や蜜を探し、この小さな生き物と恥ずべき戦を演じているのだ!
大きな獲物は、どうもうまくとれなかった。夜、何時間も目をさまして考え出し、昼間何時間もかかって作り上げたわなを、鳥も動物も軽蔑《けいべつ》するのだった。一度、高い木の上に、猿の群を見たので、長い間そのあとについて行きながら見守っていた。万一、不思議な、まだきいたことのないような不慮《ふりょ》の出来事によって、そのうちの一匹が、地上に落ち、けがをして、自分の自由にすることができれば、何という立派な食事にありつくことができるだろうと思いながら。しかし、あり得ないようなことは何一つ起らず、僕は肉にありつくことはできなかった。たまたま、巣の中で殺されていた、一匹の羽の生えたばかりのひなと、一匹のとかげと、葉群の中で、緑色のからだをしているにもかかわらず、見つけられた小さな雨蛙以外に、何の肉を僕は食べたであろう? 僕は、この小さな緑の吟遊《ぎんゆう》楽人を石炭の上で焼くのだった。それがどうしていけないのだろう? 音楽のわかる耳を持つものがいないなら、そのマンドリンをならし、軽快なシンバルを打って生きていても仕方がないではないか。一度僕は、今までとはちがって奇妙な種類の肉をたべた。しかし飢《う》えた胃《い》は、吐き気を起そうともしなかった。僕は、林間の小道で行手にとぐろを巻いている一匹の蛇をみつけた。僕は長い棒で武装し、蛇を昼寝から起こし、情容赦《なさけようしゃ》もなく殺した。僕の心から激怒を取り去り、その邪悪な生命を救うリマは、そこにいなかった。これは、光り輝く色をした、すずめ蜂のような輪のある、ほっそりした先に行くに従ってからだの細くなる、小さな毒蛇ではなかった。それは、太く鈍重で、うろこは不気味に輝き、黒いしみがついていた。また幅の広い、平らたい残忍な頭についている眼は、石または氷のようで、青白く、犠牲者《ぎせいしゃ》の血管の中の血を凍《こお》らせ、石に刻《ほ》り込まれた眼をみひらいている生き物のように、身動きできなくさせてしまう冷さを持っているのだ。そして鋭い、さけがたい一撃を加えようと待ちかまえているのだ。――最後にあまりにも迅速《じんそく》に、或いはあまりにもゆっくりとやってくるのだ。「おお、いまわしい平らたい頭、氷のような冷い人間のような、悪魔のような眼をした奴、まふたつに切って投げとばしてやろう!」僕は、まちがいなく遠くの方に、それを投げとばした。しかし家に帰るみちすがら、僕は一つの妄想《もうそう》に苦しめられた。あの蛇は、どこかの黒いしめった土の上に落ちたかも知れない。密生した茨《いばら》のもつれや、無数の葉のかげの間から、あの白い、まぶたのない生き生きした眼で、なおも僕のあとを追っているかも知れないのだ。そして森の中であちこちと歩き廻っている時、いつも僕のあとを追っているかも知れないのだ。そしてそれに何の不思議があろう? この恐ろしい人里離れた場所で、僕たちは、僕とこの蛇とは、悪食《あくじき》という点に関しては、あらゆる動物の中で最も名高く、特に選ばれて呪《のろ》われているただ二つのものではなかったろうか? 蛇は僕をかまなかった。それなのに僕――信義にかけた同類を食う者!――は、蛇を殺したのだ。この呪《のろ》わるべき妄想は、消え去ることなく、僕の心のあらゆる裂け目に徐々にくいこんで行った。夜、その切断された頭は、だんだんに大きくなって行き、最後には巨大なものになって、その恐ろしいまぶたのない白い眼は、二つの満月の大きさにまで大きくなった。「人殺し! 人殺し!」その眼はいうのであった。「最初、お前は、自分の同類の人間を殺した。それは大して罪ではない。しかし俺たちの敵である神は、その姿をかたどって人間を作ったのだ。神はお前を呪うぞ。俺たちは、同じように見えてもちがったものなのだ。――お前も俺も、人殺しなのだ! お前も俺もな!」
僕は、他のことを考え、その考えを弱めて、その暴虐《ぼうぎゃく》な妄想からのがれようと試みた。「飢えた、血の気のない頭は」僕はいった。「奇妙な考えを抱くものだ」僕は、あの黒く鈍重《どんじゅう》なからだを、手の中で調べ始めた。僕は、その青黒い粗雑なしみのあるうろこのついた表面にも、虹色の美しいきらめきがあるのに気がついた。僕は、詩的な気分になっていうのだった。「激しい西風が、とんで行く灰色の雲にかかった虹を吹きちぎり、地上にまきちらした時、その破片が疑いもなくこの爬虫類《はちゅうるい》の上に落ちて、この柔らかな神々《こうごう》しい色をあたえたのだろう。このように自然は、その子供のすべてを愛していて、多かれ少なかれ、それぞれに美しさをあたえている。ただ僕だけは、憎むべきまま子にすぎないので、どんな美しさも、どんな魅力もあたえられてはいないのだ。しかし待てよ。僕は誤解してはいないだろうか? あの一切のものよりも美しかったリマは、僕を深く愛してはいなかったか? 彼女は、僕が美しいといってはいなかったか?」
「ああ、その通りだ。だがそれも、遠い昔のことだった」池の傍で僕が、もつれた髪の毛に櫛を入れていた時、僕をあざけった声が話しかけた。「お前の眼からのぞいているお前の心が、今のように呪われたものでなかった、遠い昔のことだ。今もしリマがその眼を見たら、とび上って驚くだろう。今彼女は、この気狂いじみた眼つきから、恐怖のあまり逃げ去るだろう」
おお、意地のわるい声よ。この叉《ふたまた》に分かれた、斑点だらけの食物に、大して感じていない食慾をこの上損なわなくてはならないのか? 昼間はお前に、夜はリマに――一体どうしたらいいのだ――どうしたらいいのだ?
もはや今では、一日が終りになっても、眠りと夢は訪《おとず》れなかった。僕は眼をさましたまま、幻だけを見るのだった。夜ごとに、僕は、乾燥したベッドから、ヌフロの姿を見るのだった。彼は、以前と同じく前かがみの姿勢で坐っている。大きな茶色の足を、白い灰のすぐそばにおいて、ものもいわず、あわれっぽい様子で坐っている。僕は彼に憐《あわれ》みを感じた。彼には色々世話になった。しかし彼がそこにいることは、耐えがたい気持だった。それよりは、眼をとじていた方が、はるかによかった。何故なら眼をとじる時、リマの腕は僕の頸に巻きつけられたから。光沢《こうたく》のある彼女の髪の毛が僕の顔にふれ、その花のようにかぐわしい呼吸が、僕の呼吸とまじりあったから。彼女の顔は、何と光り輝いていたことであろう! こうしてかたく眼をとじていても、僕はそれをありありと見ることができた。下に輝かしいバラ色がすけてみえる半透明な皮膚、その黒いまつげの下で、紫色のぶどう酒のように暗く、気高く、情熱的な、つやのある眼。ここで僕は、眼をみひらくのだった。僕の腕のなかにリマはいない! しかしあの火の所から少し戻った所、ついさっきまで、年老いたヌフロが、思いに沈んで坐っていた所の少し先に、リマが、青ざめた、いいようのない悲しげな顔付で、じっと立っているのだった。外の暗闇からやってきて、僕に話しかけようと立っていながら、なぜ彼女は、その悲しげな眼を、一度として僕の方にあげようとはしないのか?
「アベル、そこに立っているものを信じてはいけないわ。それはただ、あなたの頭の考え出した幻にすぎないのよ。あなたがよくおぼえている、かつての私の姿にすぎないわ。だから私がくれば、その影は消え去って、何もあとに残らないのよ。あれは、いけないわ。あれを求めてはいけないの。いつか私は、あなたの眼の中をのぞくのを嫌がっていたわね。だけどあとになって、リオラマの洞窟の中で、長い間みつめていたわ。その時私は幸福だった。――口でいいようがないほど幸福だった! しかし今――ああ、あなたには、自分の求めているものがわかっていないの。私の眼に宿《やど》っている悲しみがわかっていないのよ。もし一度それを見たら、その悲しみのために、あなたは死んでしまうでしょう。あなたは生きなくてはいけないわ。だけど私は、辛抱《しんぼう》強く待っています。やがて最後には一緒になって、おたがいに、いつわりのない姿を眺めるのよ。何ものも、私たちをひきはなすものはなくなるわ。だけど、それを急いで望んではいけないわ。死が、あなたの苦しみを柔らげてくれると思ってはいけないわ。死のうと思うのも駄目よ。禁欲も、善行も、祈りも、そんなことをしても誰も見ている人はいないし、聞いている人もいないのよ。そんなものは、何にもならないわ。また取りなしというものもないのよ。あの頃、私は、それを知らなかった。だけどあなたにはわかっていたのね。あなたの生命は、あなた自身のものよ。あなたは救われることもなければ、裁《さば》かれることもないわ。男らしくふるまわなくてはだめよ。あなたのしたことを元通りにすることはできないわ。神さまにだって。――神さまは、何もいわないでしょう。また私もね。あなたにはできないのよ。アベル、できないの。あなたのしたことは、もうすんでしまったことだわ。そして、あなたは自分のしたことのために罰《ばつ》と悲しみを受けるでしょう。――だけどそれはあなたと私のものよ。あなたと私の。あなたと私の」
しかし、これもまた、一つの幻であり、心に浮ぶリマに他ならなかった。絶えず変る後悔と狂気の暗澹《あんたん》たる空想が作るものの一つに他ならなかったのだ。彼女の口から出た悲しい話も、すべて僕自身の頭の中で作られたものであるにすぎない。僕は、そのことに気づかぬほど、頭が狂ってはいなかった。それは、単なる妄想であり幻であるにすぎなかった。しかし現実よりももっと生々しかった。僕の犯した罪や、空しい後悔、来るべき死と同じように。最も残酷だった彼女の敵よりも、僕の方がはるかに彼女に対して残酷だったことを告《つ》げたのは、戻ってきたリマ自身だった。彼女の敵は、単に彼女のからだを火で苦しめ、死に到らしめたにすぎなかった。しかし僕は、この影を彼女の上に投げかけたのだ。――あらゆる悲しみを超《こ》えた、死よりも暗く、柔らげることのできない、永遠に変らない悲しみを。
だんだんに、苦痛もなく衰えて、一日ごとにからだが弱くなり、感覚もにぶってきて、最後には、さめぬ眠りにおちてしまうことができたら! しかし、そんなことのあり得るはずはなかった。なお頭は、熱を持ち、昼間は、嘲《あざ》けるような声が、夜は、さまざまの幻が、僕の心をおそうのだった。そしてついに、近いうちにこの森を立ち去らないならば、死が、何か恐ろしい形で自分に襲いかかってくるだろうと、信ずるようになった。しかし今の僕の虚弱《きょじゃく》な健康の状態で、しかも食物のたくわえが何一つないのに、パラウアリの近くから脱出することは、不可能なことだった。出発してしばらくの間は、ルニと同じ種族のインディアンたちの住む部落はさけて行かなければならない。彼らは、僕が一度は客になりながら後には、不倶戴天《ふぐたいてん》の敵となった白人だと気づくにちがいない。僕は待たなければならなかった。弱ったからだと乱れた心を持ちながら、荒々しい自然から、僅《わず》かな食物を奪いとるために、苦心しなければならなかった。
ある日僕は、つる植物や羊歯の深い茂みの中に、埋れたように倒れている、一本の古い木を見つけた。その木は、ほとんどあるいはまったく腐っていてナイフをさしこむと、その柄《え》まで入った。たしかにこの中には、甲虫の幼虫がいるにちがいない。――あの巨大な白い甲虫の幼虫が。それは今僕の常食中の重要な一つとなっていた。翌日、僕は、斧と、一束のくさびを持って、その幹を立ち割るために、その場所に戻って行った。ところが、その作業を始めるか始めないうちに、二、三ヤードはなれている枯木の下にかくれていた一匹の動物が、僕の斧《おの》の音に驚いて、とび出すというよりは、むしろのたうちまわった。それは、ずんぐりした、まるい頭と短い足を持った動物で、かなり大きな猫と同じくらいの大きさをし、厚い緑茶色の皮をつけていた。あたりの地面は、一面につる植物におおわれ、羊歯や、灌木や古い枯枝がからまりあっていた。このような入りまじったもつれの中で、その動物は、大変な勢いで、もがいたり、ひきむしったりしていたが、実際には、ほとんど進むことができなかった。突然、これは、なまけものだ、という考えが頭にひらめいた。――それは、普通にいる動物ではあるが、地面の上にはめったにみられないのである。――しかしこの時は、近くに避難する木がなかったのだ。この発見の喜びは、あまりにも大きかったので、僕はからだの力が抜け、しばらくの間は、ふるえながら、ほとんど呼吸もできないありさまで立っていた。しかしただちに、元気を取戻して、急いでそれを追って行き、そのまるい頭に斧で一撃を加えて気絶させた。
「かわいそうななまけもの!」僕は、その動物を見下ろして、立ったまま、いうのだった。「かわいそうな年寄りのなまけものめ! まるで、その枝を愛してでもいるかのように、抱きしめながら、木の上で、ぐっすりと眠っているのを、もしリマが見つけたならば、その小さな手で、お前のまるい、人間のような頭をなで、お前の眼をさました眠そうな眼に、驚きの表情が浮んでいるのを、おかしがって笑いながら、お前のつめがのびすぎているのを優しく叱っただろうに。なまけもの、お前の死の復讐は、ただちに行われるだろう! おおこの森から、――この神聖な場所から――お前のかたきは立ち去るのだ。動物を殺しても人殺しだとはいわれない所にね!」
今、この森を立ち去ることができるのに、充分な食料が手に入ったと僕は考えた。すばらしい獲物だ! 一匹の、はぐれてさまよっている騾馬《らば》が、森の中にぶらぶらとやってきて、僕をみつけ、僕はまたその騾馬をみつけたようなものだった。今僕は、自分で騾馬になり、忍耐強く、遠いみちのりに耐え、素足がひずめのように固くなるまで歩いて行くのだ。そして僕の背中に、まぐさの束があるならば、太陽にやけた平原《サヴァンナ》の、乾いた、味気ない草も食べる必要がないだろう。
その夜と、翌日の朝の一部分は、生木のくすぶった火で、その肉を、保存するためにくん製にしたり、それを入れる粗末な袋を作ったりしてすごした。僕はすでに旅行に出かける決心をしていたからだ。どうしたら、大事なリマの遺骨を安全にはこぶことができるか、それについて僕は色々と考え、いろいろと心をわずらわせた。あれほど愛情と悲しみを込めて装飾をほどこした粘土のつぼは、もって行くのに、あまりにも大きく重すぎるので、残して行かなければならなかった。とうとう僕は、その遺骨を軽い袋に入れた。そして途中であう人々の疑惑をさけるために、遺骨の上に、根や球根をつめこんだ。もし人にきかれたような場合には、これには、白人の医者によく知られている薬が入っていて、キリスト教徒の住む植民地についた時、白人の医者に売って、その金で着物を買い、新らしい生活を始めるのだというつもりだった。
明日の朝は、この多くの思い出に充ちた森に別れを告げるはずであった。僕は、東の方に向って旅をするだろう。山や河や森のある未開の蛮地を通って。そこを十二マイル進むことは、ヨーロッパの百マイルを行くようなものだ。しかしそこは、外国人に対して好意を持っている種族の住む地方であった。そして多分運がよければ、最も容易な道筋を知っている、東に向って旅行しているインディアンの一隊に出あうだろう。また時には、あわれみ深い航行者もいるのだから、そういう人にあうことができれば、木の皮の寝床に一緒に寝かせてくれるだろうし、何リーグもの間、疲れることなく渡って行くこともできるだろう。そしてついに、英領ギアナかオランダ領ギアナを貫流する大きな河に出ることができるだろう。このようにして、時にはおそく、時には迅速に、おそらく食物は少く、骨折と苦しみは多く、暑い太陽にさらされ、あらしにも出あうであろうが、ついには大西洋岸のキリスト教徒の住む町につくことができるだろう。
その日の夕方、準備をすっかり終えた後、僕は、保存には向かないなまけものの残りの部分で夕食をとった。石炭の上で、あぶら肉を焼き、頭と骨をゆでて薄いスープを作った。そのスープをのんだあとで、僕は、飢えた肉食動物のように、骨をかじり、骨髄《こつずい》をしゃぶるのだった。
床の上にちらばっている、断片に目をやりながら、僕は年老いたヌフロのことを思い出した。そして彼が、秘密の隠れ家で、悪臭を放つ、はなぐまのごちそうにありついている所を、不意に襲った時のことが、ありありと脳裏《のうり》によみがえった。「ヌフロじいさん」僕はいった。「今黄色い花をちりばめた、緑のかけぶとんの下で、あんたは、何とおだやかに眠っていることだろう! おじいさん、それが狸《たぬき》ねいりではないのはわかっているよ。かつての神聖な場所で、このように肉のごちそうを食べるという、奇異な行為に対する疑いが、小さな蛾のように、あんたのかびくさいうつろな頭蓋骨《ずがいこつ》の中に、とびこんでいったら、あんたはすぐ、例の鼻を突き出して、もう一度、焼いたあぶら身の匂いをかごうとするだろうな」
その時、僕は笑いたいような気持になった。それは笑いにまではならなかったが、奇妙に僕の心を動かした。それは子供の時以来経験したことのなかった、なじみ深いがまた始めて味ったような一種の衝動であった。老人に就寝のあいさつをしたあと、僕はわらの中にころげ込み、動物のようにぐっすりと眠った。その夜は、妄想《もうそう》も幻も訪れなかった。切断された蛇の頭の、あのまぶたのない執念《しゅうねん》深い白い眼も、ついに土になってしまったのだ。突然の夢の中のきらめきが、クラクラばあさんの、しわのある死顔と白い、血にまみれた髪の毛を照らし出しもしなかった。ヌフロじいさんは、緑のかけぶとんの下で、じっと眠っていたし、悲しげな花嫁の幽霊が、僕のところにやってきて、永遠につづく生命のことを考えさせて、僕の気をくじかせもしなかった。
しかし夜が明けた時、起き上り、実在していたリマと、幻のリマと度々語りあったこの場所から永遠に立ち去るのが、辛くなってきた。空には、一片の雲もなかったが、森は、雨がふったようにぬれていた。それはただ、露がひどくおりただけのことであったが、朝の光に照らされて、葉の群は青白く、霜のように白くみえた。しかし僕が森の中を歩いて行くにつれて、日の光は強くなり、ささやくような風の音が起ってきた。すばやく蒸発《じょうはつ》して行く湿気は、羽毛のような羊歯や、草や、生い茂ったくさむらの上に咲いた花のようだった。しかしさらに高い所にある葉の群は、うすい虹色《にじいろ》のもやのようだった。――木々の上にある後光のようだった。自然の持つ常に変らぬ美と新鮮さは、ふたたび一切のものの上に戻っていた。深い悲しみと、ぞっとするような恋情が、僕の眼をくもらせなかった朝、喜びとあこがれを抱いて、あれほどしばしば眺めた頃と同じく。そして今歩きながら、僕は最後の別れの言葉をささやいたが、眼は、あふれ出る涙でふたたび曇るのだった。
二十二
そのほとんど見込みのない海岸への旅行が半分も終らないうちに、僕は病気になってしまった。――その病気は、あまりにもひどいので、僕を見る人は、僕の旅行がもはや終りになったと想像したであろう。僕もそのことが心配だった。何日もの間、僕は、最も深い落胆《らくたん》に沈みつづけていた。しかしやがて、幸福な瞬間がやってきた。僕は、あの蛇にかまれたあと、もう死が間近かまで迫ってきて、さけることができないように思われた時のことを思い出した。僕は、助けを求めて森の中を気狂いのように走り廻り、あらしと暗闇の中に、何時間も道に迷ってさまよったあげく、ついに、その気ちがいじみた努力によってか、死を逃れることができたのだ。この思い出は、あらたな、死にもの狂いの勇気をあたえて、僕を元気づけるのに役立った。熱病にかかって世話になったインディアンの部落に別れを告げて、ふたたび、明らかに見込みのない冒険に出発した。実際、僕の病弱なからだの状態では、誰の眼にも、見込みがないように思われたのだ。僕の足は、歩くたびにふるえた。暑い太陽と激しい雨は、僕の病的に敏感になった皮膚にとっては、炎か、刺すような氷かと思われた。
何日もの間、僕の苦しみはあまりにも激しかったので、以前あれほど逃れたいと思っていたあの森の、より温和な煉獄《れんごく》に戻りたいと幾度も願うのだった。しかし僕が地図の上にある、僕の歩いてきたあとをたどろうとすると、とぎれているところが出てくるのである。地図にのっている河や山の名前が、どうしても思い出せない所があるのだ。その中の名前の二、三は、僕の苦しい夢の中ででもきいたように思われるのだが。あの病気にかかっている間にうけた野山の印象は、くもっているか、半ばうわごとを伴った夜の妄想とまじっている、絶え間のない苦しい不安によって、激しい潤色《じゅんしょく》と誇張とを帯《お》びているので、僕にとっては、その地方が地上の地獄としか思えなかった。僕はそこで、想像し得る一切の障害物と戦った。汗を流したり、こごえたりして、誰もしたことのないような苦労をなめながら進んだのである。暑さと寒さ、寒さと暑さ、そしてその中間はなかった。水晶のような水、幅の広いしめった木の葉におおわれた緑のかげ、そよそよ吹きわたるさわやかな風のある夜――それらのものは、僕にただ寒気を感じさせるだけで、元気づけはしなかった。そこには、美しいものも楽しいものもなかった。そこでは、イタしゅろも、マウンティングローリも、ぶらさがった花をつけて、森の夕暮を星のように飾っている、夢のような着生植物も、いっさいの優美さと美しさを失っていた。そこでは、天地のあらゆる輝かしい色彩も、僕の視力をくらませ、僕の頭を焼く容赦《ようしゃ》のない太陽と同じことだった。たしかに僕は、土人たちから援助を受けた。さもなかったら、どうやって旅行をつづけて行けたかわからない。しかしその時期におけるぼんやりした僕の心の中には、絶えず、敵意を持った蛮人どもにつきまとわれている絵が現れていたのである。彼らは、暗い森の中を通りすぎる幽霊のようなものだった。彼らは僕を取りかこみ、いっさいの逃げ道をたつので、僕はついに、彼らのかこみを破り、彼らの手をのがれて、どこかの広い、草木のない平原《サヴァンナ》に逃走する。しかし彼らの、かん高い追跡《ついせき》の叫び声は、僕の背後にきこえ、彼らの毒矢の痛みをからだに感じるのだ。
これは、僕の乱れた心に浮んだ後悔のしわざか、絶えず耳のそばで、かん高いうなり声をあげ、小さな火のような針で、僕を刺す、毒を持った昆虫の大群のためであったにちがいない。
幻の蛮人どもに追跡され、幻の矢に刺されたのみならず、インディアンの想像力が作り出したものもまた、自然にあるものと同じように、僕の眼には現実性を帯びてきたのである。森の守護者と思われている、超人的な、人を喰う怪物に、僕は苦しめられていた。暗い、ひっそりとした場所で、その怪物は、僕を待ち伏せている。僕ののろのろした、不確かな足音をきくと、怪物は突然、僕の目の前に現れ、木の中にいるひげの生えたアラグアトのような叫びをあげる。僕は立ったまま、からだがしびれて、血管の血が凝結《ぎょうけつ》してしまう。やがてその毛深い巨大な腕が僕を抱きかかえ、僕の皮膚の上に、不潔な暑い息がかかってくる。怪物は、大きな緑色の歯で、その怖ろしい空腹を充たそうと、僕の肝臓《かんぞう》をむしり取る。ああ、しかし、彼は僕に害を加えることができない! どんな猛獣《もうじゅう》であろうとも、どんな冷血の毒を持つ動物であろうとも、あの怖ろしい魔獣《まじゅう》のキュルピタでさえも、いやしくもリマと一緒に森の中に住んでいた者なら、彼女を愛し、尊敬しているので、僕の持っている、悲しい荷物、リマの遺骨が、僕を救う護符《ごふ》になっていたのだ。そこであの半人の怪物も、僕を去っていく。そして、あまりにも荒々しい悲しげな叫び声をあげながら、いっそう深くいっそう暗い森の中に急いで去って行くので、僕の抱いていた恐怖は、たちまち深い悲しみに変り、僕もまた初めてリマのために嘆き悲しむのであった。この世から消え去った、神秘な、想像を絶するような、いっさいの優雅《ゆうが》さ、美しさ、喜びの思い出が、このように突然、このような激しい苦痛を伴って僕の心を襲ったので、僕は、地面にうつぶせに倒れ、血の滴のような涙を流して泣くのであった。
この未開野蛮なギアナの奥地にあるこの地域は、想像上の怪物や幻の群がいなくても、自然の障害物や、苦痛や、飢や、のどのかわきや、果てしのない倦怠《けんたい》のために充分に怖ろしい場所だったが、一体どこにあるのかよくわかっているわけではない。また僕の進路からはずれて、どのくらい遠くまで北か南にさまよったかも推測することができない。ただ僕の知っているのは、「失望の泥沼」のような沼地、その中に入り組んだ不毛の湿った平原《サヴァンナ》、決して通りぬけられそうにない、果てしなくひろがっているようにみえる森林、とがった岩のまわりで泡立ち、もろい樹皮のカヌーなど水中に沈めて、こなごなにうちくだいてしまいそうな、地獄の河のように黒く怖ろしい、数多くの河、苦心してまわったり、越えたりしなければならない名もないいくつもの山、そういうものだけである。僕は、この心が曇っている時期に、ロライマ山を見たのかも知れない。僕は、ぼんやりとおぼえている。行手をさえぎっているようにみえる、はるかにひろがった巨大な壁――途方もない高さにそびえている、岩のがけを。僕は月の光でみたのだが、その頂上からは、巨大な曲りくねったなわのような白い霧《きり》がかかっていた。それはまるで、その山の守護者であるカムデイが、向うみずな闖入者《ちんにゅうしゃ》をおどかして追い払うために、巨大な岩の台の上から、一リーグもある奇怪な蛇のように、そのとぐろをたらしているかのようであった。
その奇怪な月の光にてらされたカムデイは、僕をなやました多くの蛇の幻の一つにすぎなかった。それらの蛇全部よりも、もっと怖ろしいもう一匹の蛇がいて、何日もの間、僕につきまとっていてはなれなかった。太陽が頭の上でだんだんに暑くなり、道が、ひらけた平原《サヴァンナ》のある地域にさしかかると、僕の傍の地面を動き、常に僕と並んで進むものがあった。それは、一、二フィートの長さをした小さな蛇であった。いや、そんな小さな蛇ではない。五、六ヤードもある巨大な蛇の頭についている、まがりくねった模様のようなものが、いつも故意に僕のそばについてくるのだ。雲が太陽をおおったり、さわやかな微風が吹きはじめると、その怖ろしい頭の輪郭《りんかく》は、次第に色あせ、はっきりした模様は、地面のまだらの中にとけ込んでしまうのだった。しかし太陽が高くなってだんだんに暑さとまぶしさを加え始めてくると、このものすごい蛇の頭は、だんだんに、はっきりと見え始め、きらめくうろこや、対称的な斑点は、あざやかな姿を現わすのだった。僕は、それにつまずいたり、さわったりしないように注意深く歩いた。僕が背後をふりかえると、その大きなとぐろは、ずっと平原《サヴァンナ》を横切って、その尾がどこにあるのか見当がつかなかった。高い丘の頂上からふりむいてみると、始めて僕は、その蛇が、何リーグも何リーグも、森をくぐり、河を渡り、広い平原や谷や山を越えてひろがり、ついには、果てしない青い彼方にその姿を消しているのを見ることができた。
いつどのようにして、その怪物が、僕から去って行ったか――おそらく冷い雨に洗い流されたのであろうが――僕にはわからない。多分、ただその姿を変えて、何か新しい形のものになったにちがいない。その長いとぐろは、出会ったことがあるように思われる、青ざめた顔をした人々の果てしのない行列の群に変ってしまったのだろう。このように迂回《うかい》しつつさまよっているうちに、僕は、未だ知られていない大きな湖、ホワイトレエイクの岸にもつき、荒野の中の、神秘的な都市、マノアの光り輝く長い街路を通っていたにちがいない。僕は今、大きな祝祭でもあるためか、華《はな》やかに着かざった人々が、はじからはじまで広い往来を埋めつくし、みじめな旅行者を通すために、片側によって、奇妙なぼろを身につけ、奇妙な荷物を背負い、熱と飢えのためにやつれ果てた姿に、じっと眼をそそいでいたのをまのあたり見ているようだ。
償《つぐな》うことのできない罪に呪われ、しかしなおある大きな目的のために生きつづけている、新らしいアハシュエルスなのだ。
しかしアハシュエルスは、死のくることを祈り、それを迎えるために走って行った。それなのに僕は、僅かな力をふりしぼって、死に戦を挑《いど》んだのだ。時々影が消え去り、安堵《あんど》の気持をあたえる時、僕は常に、あと少し生きながらえさせてくれるよう、死に向って祈った。しかし影がふたたび暗くなり、希望が、深い闇の中にその姿を消すように見えた時、僕は死を呪い、その力に戦いを挑むのだった。
その間中、僕の意志が、勝利を得て、望んでいる目的地に到着することができるまで、僕の疲れ病んだからだに、この偉大な敵を近づけないようにできるということを信じつづけてきた。もし目的地についたならば、戦うことを止めて、死の思うままにさせてやろう、そう僕は考えていたのだ。僕にふれるあらゆるものを腐敗させ、何か新らしいいまわしい性格をつけ加える、あの熱による空想がなかったならば、この信念には、慰めというものがあったであろう。何故ならまもなく、意志が勝を占めるというこの確信は、何か奇怪なものになり、奇怪な妄想を生むに到ったのである。中でも最も始末にわるい妄想は、実際には何ら苦痛を感ぜず、ただ体と心に、名状しがたい疲れをおぼえ、足がしびれて、乾いた暑い岩の上を歩いているのか、ねば土の上を歩いているのか自分でもはっきりわからない時に、僕のからだはすでに死んでいる――多分何日も――のだが、征服されることのない意思が、その死んだからだを動かしているのだと思い込んでいるものであった。
僕の生命を救ったのが、樹皮の中の樹皮と呼ばれるものよりも効力があり、医者よりもかしこい意志であったのか、あるいは意志が休止している時でさえ、自然がそれを用いて、人間の衰弱を助けるという、薬の効果によったのか、僕にはわからない。しかし、僕が、だんだんに精神的にも肉体的にも回復し、ついに、かなりよくなって、海岸に到着したのは、たしかなことである。しかし、ぼろをきて、半ば餓死しかけ、一文の金もなく、ジョージタウンの街路を始めて歩いた時、僕の心は、なお暗く沈んだ状態にあった。
しかし、僕のからだが生きているだけでなく、きわめて強靭《きょうじん》な体質を持っていることに気がついたずっとあと、すっかり健康を取り戻した時でも、僕の旅行のあの最も暗い時期に生じた、自分は死ななければならないという考えは、僕の心につきまとっていて離れなかった。僕は、大ていのものが生き抜けなかったであろうものを通り越して生きてきた。僕の人生の残された目的を達するためにのみ生きてきた。今、その目的は達せられたのだ。この神聖な遺骨は、あのように限りない労苦と、あのように大きな危険のあげく、無事にここまで運ばれ、いつか僕が、この世を去る時には、僕の骨とまぜ合わせられるのである。もうこの世の中には、僕の心をひく何ものもなく、そのものういくさりで、僕をしばりつける何ものもないのだ。しかしこの間近に迫った死の予想も、やがて色あせ、人生への愛着がふたたび戻ってきた。そして人生は、その永遠の新鮮さと美しさを取り戻した。ただリマの遺骨に関する感情だけは、色あせも変りもせず、以前と同じように今もその強さを保っている。そんなものは、病的だという人があるかも知れない。もし望むなら迷信的だといってもいい。しかし明らかに、その感情は存在しているのだ。それは、あらゆる場合に、常に考慮さるべき、最も強力な僕の行為の動機であった。――そして人生観というものも、それにふさわしく作られるのである。あるいは、それを象徴《しょうちょう》と考えてもいい。それは、象徴化されたものと一つのものになるかも知れないのだから。あの森の中での最も暗かった日々、彼女――心に浮ぶリマ――は僕の訪問者であった。そして彼女の言葉は、僕の絶望の反映に他ならなかった。しかし、その時でさえ、僕はまったく希望を失っていたわけではない。彼女のいっていたように、神自身さえ、僕のしたことを元通りにすることはできないのだ。また彼女はいっていた。もし僕が自分で自身をゆるすならば、神は何ごともいわないだろう、そして彼女自身もまた。その考えは、今日でも僕の哲学である。祈りも、禁欲も、善行も――それらは何の役にも立たないのだ。また取りなしというものもない。そして自ら犯した罪のゆるしは、自分の霊魂の他には、天国にも地上にも存在しないのである。それにもかかわらず、おのおのの霊魂が、自分自身でみつけることのできる、一つの道がある。――どのように反抗的な霊魂でも、どのように罪深く、悔恨《かいこん》のために責めさいなまれている霊魂でも。僕の歩いてきたのは、その道であった。そして自分で、自分をゆるしながら、僕は知ったのだ。もしふたたび彼女が戻ってきて、僕の前に現われるとしたら――この目の前に彼女の遺骨はあるのだが――あのきよらかな彼女の眼は、もはや僕の眼の中をのぞくのを拒《こば》むことはないであろう。何故なら、僕の生きているかぎり消え去ることなく、僕の眼をとざしていたように思われた、あの悲しみの影は、もはや僕の眼には残っていないのだから。
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訳者あとがき
これは、W・H・ハドスンの代表作の一つである、Green Mansions(1904)の翻訳です。
手短かに云うならば、この小説は、神秘な熱帯林の中に咲き、そして亡びた哀切な恋物語といっていいのです。
自国の政争に巻き込まれ、逃亡することを余儀なくされた青年アベルは、人跡稀なギアナの森の中で、神秘的な少女リマを見出します。二人は、たがいにひきあうものを感じるのですが、それを充分に相手に伝えるすべを知りません。何故ならば彼等は、青年と少女であって、同じ人間とはいいながら、男性と女性という異なる種類に属しているからです。愛しあう青年と少女の心の相違は、ここに明瞭に描かれて、人間の持つ究極の姿の生々しい一端を、よむ人に示すのです。
たがいに愛情という苦しいものを胸の中に抱きながら、この二人の恋人たちは、近づいては遠のき、はなれてはまた近づくのですが、そういう彼等にも、やがて二つの心の溶けあう日が訪れます。自分たちの住む森をはるかにはなれた、リオラマという山の洞窟で。少女は青年のとめるのもきかず、楽しい未来の、二人で築く家庭の希望に胸をときめかせながら、一人さきに、自分の森に戻って行きます。しかし、かねてから彼女を憎悪していた土人たちによって、大きな木の上で火あぶりにあうのです。恐らく幸福の最も近づいていた時に、彼女は焼け死ぬのです。はばたき一つすることなく、すばやく垂直に、白い炎の中に落下する、弱々しい小さな蛾のように。
アベルは、やがて、土人たちに焼き払われ、草のぼうぼうに茂っている、かつて少女の住んでいた小屋のあとに、家を建て、再び生活を始めます。
そして、一切のものの亡びつくしたあとの、不思議に穏やかな日々、吹く風よりも更にうつろに、一つの言葉が、彼の心を横切るのです。
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お前はいないのだ 神も そして僕も
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この小説は、あまりにも巧みに構成された恋物語であるという他はありません。これは決して、単なる神秘的で仮空な物語ではないのです。人はあまりにも、身近な、自分自身の恋の似姿を、ここに見出すでしょう。少女リマとは、決して半鳥半人の、仮空の少女ではありません。彼女は、明らかにあるがままの一少女であり、女性のもつ一切の特質を充分に備えた、あまりにも女らしい女にすぎないのです。
テキストには Dent の The Works of W. H. Hudson を使用しました。また、原文には多少つじつまの合わない点もあるのですが、ここでは、それを推定によって訂正することなく、忠実に訳出する方針を採りました。
なお、この小説の中に現れる、スペイン語については、東和映画企画部、山崎剛太郎氏の御教示によるところが多く、記して謝意を述べたいと思います。
[#地付き]一九五九年四月のある木曜日(訳者)