すばらしい新世界
オールダス・ハックスリー/高畠文夫訳
目 次
すばらしい新世界
解説
訳者あとがき
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理想国《ユートピア》は、これまでとうてい信じられなかったほど、たやすく実現しそうにみえる。それで、見方を変えれば、われわれはまことに困った問題に直面している。つまり、理想国《ユートピア》の窮極的な実現をどうして避けるか、ということだ。……理想国は、本当に実現するかもしれない。われわれの生活は、たしかに理想国に向かって進んでいるのだ。そして、おそらく新しい世紀が始まる。その世紀になれば、知識人や、教養ある階級の人々が、理想国の実現を避け、理想国ほど「完全」ではなく、もっと自由で、理想国にはほど遠いような社会へ立ち帰るための方法について、深く考えるようになるだろう。
――ニコラ・ベルジャーエフ(ニコライ・アレクサンドロヴィッチ。一八七四〜一九四八。ロシアの哲学者・神学者。ベルリンに亡命し、次いでパリに移った。神秘主義的傾向をもった宗教的実存主義者)
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第一章
たった三十四階のちぢこまったような灰色のビル。正面玄関の上に、「中央ロンドン人工孵化・条件反射教育センター」の表札。そして、ワッペン型の表示板の中には、世界国家の「共有・同一・安定」という標語。
一階のだだっ広い部屋は北に向いている。ガラス窓の外は真夏で、部屋そのものも熱帯の暑さだ。それなのに、何となく寒々としている。荒々しい感じのうすい光がギラギラさし込んで、誰か実験衣を着た職員か、鳥肌《とりはだ》の立った青白い学者先生でもいそうなものだがね、とばかり、しきりに捜しまわってみる。だが、そこいらあたりで目にふれるものは、ガラス器具と、ニッケル器具と、実験室用の白衣だけだ。寒々とした雰囲気《ふんいき》と雰囲気が、互いに競い合っている。職員の上っ張りは白い。手には、死体のような青白い色のゴム手袋をはめている。光線はまるで凍りついたようにどんより曇っていて、今にも幽霊でも出て来そうだ。ただ、顕微鏡の黄色い鏡筒が光を反射しているところだけは、光が少し強くて明るい。そして、そのピカピカの鏡筒の上に幾重《いくえ》にも重なったバター色のすじをつけながら、作業台のずっと下までとどいている。
「そして、ここが」とドアを開きながら所長が言う。「受精室です」
人工孵化・条件反射教育センター所長が部屋にはいって来たとたん、器具の上にかがみ込んでいた三百人の受精係りたちは、一心不乱に専念するため、いきなり、ほとんど息も立てないように静まりかえった。聞こえるものは、ただ、われを忘れてもらす独《ひと》り言《ごと》の鼻息と口笛だけである。
新たに配属された、まだうら若い駆け出しの紅顔の研究生の一団が、おずおず、というよりはむしろ、こわごわと所長のおしりにくっついている。ひとりひとりがノートを持っていて、この大先生が何かおっしゃるたびに、死にもの狂いにそれをノートに書きなぐるのだった。大先生じきじきの御伝授とは。まさに願ってもないしあわせだ。新入り研究生をつれて、自分でいろいろな部門を案内してまわってやるのが、中央ロンドン人工孵化・条件反射教育センター所長の主義なのだ。
「ただ、みなさんに、一般的な概念をのみこんでいただくためなのです」というのが彼の口癖である。というのは、もし彼らが、自分の仕事をうまくやっていかねばならないものとすると、もちろん、ある一種の一般的概念を身につける必要があるからだ――とはいっても、彼らが、善良で幸福な社会の一員たらんとすれば、なるべく最小限の一般概念をもつに越したことはない。それというのも、御承知のように、「特殊」こそ、美徳や幸福にとって有益なものであるが、「一般」は、知的な見地からみれば、必要悪だからだ。社会の基幹《バックボーン》を構成しているのは、哲学者たちなどではなくて、糸鋸《いとのこ》引き職工や切手収集家たちなのだ。
「明日からは」と、所長は、多少おどかすように、しかもやさしく微笑してつけ加える。「実地の仕事にとり組んでもらいます。一般概論などにかかずらわっている暇はありませんからね。しかし、それまでは……」
それまでは、ありがたきしあわせ、というわけだ。何しろ大先生じきじきのお言葉を、そのままノートにとれるのだから。研究生たちは、まるで気ちがいのように書きまくる。
少し痩《や》せぎすだが、スラリと背が高く、姿勢のよい所長が、部屋のまん中へ出ていった。あごが長く、歯が大きく、こころもち反《そ》っ歯《ぱ》だが、しゃべっていないときは、ふっくらとした、への字形の赤い唇《くちびる》が、ぴったりとそれをおおっている。年配なのか、それとも若いのか? 三十歳か? 五十歳か? それとも五十五歳か? どうともいえない。それに、どうせ、そんな疑問は起こりっこなかった。フォード(ヘンリー・フォード。一八六三〜一九四七。アメリカの自動車製作者)紀元六百三十二年という、安定したこの時代になって、人に年齢《とし》をきいてみよう、なんて気持ちにはならないのだ。
「最初をはじめましょう」と所長が言うと、熱心組の研究生が、すかさず、ノートに、「最初をはじめる」と書きつける。「これらは」と彼は手を振って教える。「孵化器です」そして、絶縁ドアをあけて、番号札をつけた試験管がズラリと並んでいる棚《たな》が幾列にも連なっているのを、研究生たちにみせてやる。「卵子の今週の配給分で、保存温度は」と彼は説明する。「血液の温度です。それに対して、男性の精子のほうは」と、ここで彼はもう一つのドアをあける。「三十七度ではなくて、三十五度に保存しなければなりません。完全な血液の温度ですと生殖能力を喪失してしまいます」去勢していない雄羊でも、発熱帯でくるむと、仔羊を生まなくなる。
相変わらず孵化器によりかかりながら、彼は、現代式受精法の簡単な説明を与える。その間、鉛筆が、読みにくい字を書きなぐりながらページの上を忙しく走っていく。もちろん、話は最初の外科的処置からはじまる「社会の安寧《あんねい》のために、自発的にこの手術を受けた場合には、給料六か月分に相当する額のボーナスが支給されることはいうまでもありませんが」と前置きし、切除された卵巣を生かしておいて、活発に発育させつづけるための技術にも多少ふれながら、話をつづける。話題は、最適温度、塩分、粘度へと移り、分離して成熟した卵子を保存する液のことにも及んだ。やがて、受けもち研究生たちを作業台まで連れてゆき、いろいろな処置法を実地見学させた――この液体を試験管から吸い上げる方法、吸い上げた液を、一滴ずつ、特に暖められた顕微鏡スライドの上にたらす方法、その液中の卵子を、異常の有無を確かめてから、数を計算して、多孔性の容器に移す方法(ここで、彼は研究生たちを案内して、その操作を観察させた)、この容器を、自由に泳ぎまわっている精子を含んだ暖かい溶液《ブイヨン》にひたす方法――彼の力説するところによれば、この溶液《ブイヨン》中には、最小限にみて、一立方センチメートル当たり十万という精子が集中しているという。それから十分後に容器を液から取りだし、中身を再び検査する方法、卵子が受精していない場合には、もう一度ひたし、さらに必要ならばもう一度ひたす方法、受精卵子を孵化器へもどす方法等々……そして、アルファーならびにベーター階級の人々の卵子は、確実にびんにつめられるまでは、そのまま孵化器の中に保存されるのに対して、ガンマー、デルタ、イプシロンなどの各階級の人々の卵子は、わずか三十六時間で再び取りだされ、ボカノフスキー処理を施されることになるのだ。
「ボカノフスキー処理法」と所長がくりかえすと、研究生たちは、小さなノートに書いたその言葉にアンダーラインを引いた。
一個の卵子→一人の胎児→一人の成人……正常。しかし、ボカノフスキー処理を受けた卵子は、発芽し、増殖し、分裂する。八ないし九十六の芽となり、一つ一つの芽が完全な形の胎児となり、その一人一人の胎児が、一人前の大きさの成人となるのだ。以前には、たった一人しか人間を生みだせなかったのに対して、今では、九十六人の人間を生みだすことができるのである。なんとすばらしい進歩だろう。
「本質的にみれば」と、所長は結論する。「ボカノフスキー処理法は、発育の連続的な阻止より成り立っています。正常な発達を阻止すると、全く矛盾しているようですが、卵子は発芽することによって、これに反応するのです」
発芽による反応。鉛筆が忙しく走る。
彼がさし示す。一つの棚にぎっしりつまった試験管が、きわめてゆっくり動いているベルトにのって、大きな金属製の箱の中へはいっていくと、いれちがいにもう一つの棚にぎっしりつまった試験管が出てくる。機械がかすかにうなっている。試験管がそこを通過するのに八分かかる、と彼が説明する。八分間というのは、硬いエックス線に卵子が耐えられるほぼ最大限なのだ。少数は死亡する、が、残りのうち、最も反応の弱いものは二つに分裂するが、ほとんどのものが四つの芽を出す。八つ出すものもある。これらすべてが孵化器に返され、そこで芽が発育しはじめる。それから二日後に、急速に冷却され、さらにいっそう冷却される。こうして発育を阻止するのだ。二つ、四つ、八つ、というふうに、今度は芽が発芽する。そして、発芽後、致死寸前までアルコールに密閉される。その結果、再び発芽するが、この発芽が終わると――発芽したものからまた発芽し、そこから更にまた別の発芽をする、といったぐあいなのだが――それ以後は――これ以上阻止をつづけるとふつう致命的となるので――平穏な発育にまかせておく。この時までに、すでに、もとの卵子は、たしかに、八ないし九十六の胎児となりつつあるのだ――疑いもなく、自然に対する驚嘆すべき改良だ。一卵性双生児――卵子が偶然に分裂することもある、といった昔の胎生時代における、けちくさい双生児や三つ児とはちがって、実際、一度に何ダース、何十とかを単位にした双児《ふたご》なのだ。
「何十も」と所長はくりかえし、まるでお祝儀《しゅうぎ》でもくばるように、両腕をふりまわす。「何十も」
ところが、研究生の一人が、それが何の役に立つのですか、と愚問を発した。
「君!」所長はくるりと彼の方にむき直る。「わかりませんか? わかりませんかねえ?」彼は片手をあげた。表情は厳粛そのものだ。「ボカノフスキー処理法こそは、社会安定化のための有力な手段の一つなのですよ!」
社会安定化のための有力な手段。
一群の同一の卵子から生まれた標準的な男女たち。小工場には、すべて、ボカノフスキー処理を受けた同一の卵子から生まれた人員が配置される。
「九十六人の一卵性双生児が、九十六台の同一の機械を運転するのですよ!」その声は、感激のためほとんどふるえている。「諸君は、今、自分たちがどのような段階にいるのか、よく御存じのはずです。有史以来はじめての事なのです」彼は、世界国家の標語《モットー》である「共有・同一・安定」を引き合いに出した。偉大な言葉だ。「もしわれわれが、無限にボカノフスキー処理を実施できれば、すべての問題は解決するのですが」
標準化されたガンマー階級、一定不変のデルタ階級、均一化されたイプシロン階級によって解決されるはずなのだ。幾百万もの一卵性双生児たちによって。大量生産の原理が、ついに生物学に適応されるに至ったのだ。
「しかし、残念なことに」と所長は首を横にふる。「われわれは、ボカノフスキー処理を、無限に実施することはできないのです」
九十六が限度で、平均七十二が上々というところらしい。同一の卵巣に、同一の男性精子をかけ合わせて、できるだけ多くの一卵性双生児の群を作りだすこと――それが(残念ながら次善でしかないのだが)、現在なしうる最善なのだ。そして、それでさえむずかしいのだ。
「というのは、自然においては、二百の卵子が成熟状態に達するのに、三十年かかります。ところが、われわれの任務は、今、ここで、この瞬間に人口を安定化することであるからです。四分の一世紀にわたって、双生児をチビチビ生みだしていったって――それがいったい何の役に立つでしょうか?」
何の役にも立たないのは明らかである。しかし、ポズナップ法は、この成熟の過程を著しく促進してくれるようになった。この方法によれば、二年以内に、少なくとも百五十の成熟卵が確保できるようになったのだ。それを受精させ、ボカノフスキー処理を施す――ということは、つまり、七十二倍にふやすわけだ――そうすれば、同じ年から完全に二年以内に、百五十組の一卵性双生児から、平均してほぼ一万一千人の兄弟・姉妹が生まれてくるのだ。
「しかも、特別な場合ですが、一個の卵子から、一万五千をうわまわる成人を生みだすことができるという場合さえあるのです」
このとき、たまたま通りかかった金髪の、血色のよい青年を手招きしながら、「フォスター君」と彼は声をかける。声をかけられた紅顔の青年が歩みよってきた。「単一の卵巣の最高記録を教えてくれませんかね?」
「当センターでは一万六千十二です」フォスター君は、スラスラと答える。彼は早口で、いきいきした青い目の持ち主だが、どうやら数字を引用するのが嬉《うれ》しくてたまらないらしい。「一卵性双生児の百八十九組につき、一万六千十二です。しかし、もちろん熱帯地方のセンターの中には」と彼はなめらかに言葉をつづける。「もっとずっとよい成績をあげているところもあります。シンガポールでは一万六千五百をうわまわる数字がよく出ていますしモンバサ(アフリカのイギリス領ケニアにある港。人口八万五千)あたりでは、現に一万七千の目標点に達しています。しかし、あそこの場合には、ほかではみられない強みがあるのです。黒人の卵巣が、脳下垂体に対してどんな反応をするかは御存じでしょう! ヨーロッパ人の卵巣を扱いなれている場合には、全く驚異です。でも」彼はにっこりしながらつけ加える。(しかし、目には負けじ魂を光らせ、挑戦的にあごをしゃくり上げる)「でも、何とかして打ち負かしてやりたいです。ぼくは、目下、すばらしいデルタ・マイナスの卵巣ととりくんでいます。まだほんの十八か月たったばかりです。びんから出されたものと胎児状態のものとを合わせますと、もうすでに一万二千七百人以上の嬰児《えいじ》が生まれています。しかも、まだ衰えをみせません。そのうちには打ち負かしてやりますよ」
「その意気、その意気!」と叫んで、所長がフォスター君の肩をたたく。「さあ、いっしょに来て、その専門的な知識の恩恵を、この人たちに披露してやってくれたまえ」
フォスター君はつつしみ深い微笑を浮かべた。「お安い御用です」一同は歩いていく。
びんづめ室の内部《なか》では、すべてが気持ちのよいざわめきをたてて、整然と動いている。適当な大きさに切られた、新鮮な雌豚の腹膜《ふくまく》の薄い切れはしが、地階の「臓器貯蔵倉庫」から、小さなリフトにのってサッとせり上がってくる。ヒューッ、カチリ! とびらがパッとひらく。びん列作業員は、ただ、片手をのばしてその切れはしをとり、びんにさしこみ、平らにのばせばよいのだ。つめ終わったびんが、はてしないベルトにのって、手のとどかないところへ行ってしまうかしまわないうちに、ヒューッ、カチリ! もう、次の切れはしが深いところからせり上がってきている。まるで、ゆっくり動くベルトにのった、その果てしない行列の、次の順番にはいるのを、早く早くと待ちこがれているようだ。
びん列作業員の次には、卵子插入係員が立っている。びんの行列が進んでいく。卵子が、試験管から、もう一だん大きな容《い》れもの、つまり、びんの中へ一つずつ移される。びんの中の腹膜の切れはしに、手ぎわよく切りこみが作られ、桑実胚が一しずく、そこへ落とされ、塩水が注《そそ》ぎこまれる……とみるまに、もうびんは通り過ぎている。お次はレッテル係員の番である。遺伝、受精期日、ボカノフスキー集団《グループ》の類別番号――詳細が試験管からびんへ転記される。もう無名ではなく、チャンと命名され、身元を確認されて、びんの行列はゆっくりと進んでいく。壁の穴を通りぬけて、ゆっくりと「社会階級予定室」の中へはいっていく。
「八十八立方メートルにも達するカード索引ですよ」一行が部屋にはいったとたん、フォスター君が嬉しそうに言う。
「関係資料が、全部おさめられています」と所長がつけ加える。
「毎朝新たな資料が加えられます」
「そして毎日の午後には整合されます」
「その資料をもとにして、計算を行ないます」
「これこれの特質をもった、これこれだけの人たちを」とフォスター君が言う。
「これこれの数だけ配置する、というふうに」
「任意の一定時における最も適当な出びん率も」
「予測できない損耗は、ただちに補充します」
「ただちに、ですよ」とフォスター君はくりかえす。
「この間の日本の震災のあとで、ぼくがどれだけ超過勤務をやらねばならなかったか、それこそ、聞いてびっくりですよ!」彼は気さくに笑いながら首を横にふる。
「社会階級予定係員は、受精係員に数値を報告します」
「すると、受精係員が、予定係員に、要求するだけの胎児を与えます」
「そして、びんがここへ送られ、社会階級が前もってこまかく定められるのです」
「それがすむと、胎児貯蔵庫へ送られます」
「これから、その貯蔵庫の方へ行きましょう」
そして、ドアを開き、フォスター君は、階段を降りて地下室へ案内する。
温度は相変わらず熱帯だ。一同は、深まっていく夕やみの中へ降りていく。二つのドアと二つの曲がり角のある廊下のおかげで、地下室は、昼の光がぜったいに侵入しないように保護されている。
「胎児ってものは写真のフィルムみたいなものなんですよ」とフォスター君が二番目のドアを押しあけながら、おどけたように言う。「あてても大丈夫なのは赤色光だけです」
そして、事実、研究生が、そのとき彼のあとにつづいてはいっていったむし暑い暗やみは、夏の午後目をつむったときに感じられる暗さのように、目に感じられる深紅色だった。ずっと遠くまで幾列にも並び、幾段にも重なったびんのふくらんだ横腹は、無数の紅玉色《ルビーいろ》のために光っている。そして、その紅玉色の中に、目が紫色で、まぎれもない狼瘡《ろうそう》(皮膚および粘膜の結核性疾患で、真皮に肉芽腫性結節を形成する)の徴候のみえる男女たちが、ぼんやりとした赤い幻のようにうごめいていた。機械のうなりや軋《きし》りが、かすかに空気をふるわせている。
「みなさんに少し数字を教えてあげてくれたまえ、フォスター君」と、しゃべるのにあきた所長が言った。
フォスター君は大喜びで、待っていましたとばかり、早速ちょっぴり数字を並べはじめる。
長さ二百二十メートル、幅二百メートル、高さ十メートル。彼は上を指さす。まるでひよこが水をのむように、研究生たちは、あおむいてはるかな天井を見上げる。
棚《ラック》が三階になっている。一階は平面で、二階、三階は回廊《ギャラリー》だ。
棚《ラック》を支えているくもの巣状の鉄骨が、重なり重なって四方八方にのびており、先の方は暗やみの中に消えている。彼らの近くでは、三人の赤い幽霊のような人かげが、エスカレーターから忙しくかご巻きびんをおろしている。
階級予定室から下ってくるエスカレーターだ。
十五ある棚《ラック》のどれにも、びんを一つずつ置くことができる。そして、どの棚《ラック》も、見えないけれども、時速三十三センチ三分の一で動くコンベアなのである。一日八メートルの割合で進んで二百六十七日かかる。全部で二千百三十六メートルの行程だ。一階の地下室を一巡し、二階を一巡する。そして三階を半分まわり、二百六十七日目の朝、出びん室で白日のもとへ出る。独立存在――というわけだ。
「しかし、そこへいくまでの間に」とフォスター君は結論する。「ぼくたちが、ずいぶんたくさんの処置をやってのけるってわけです。そりゃもうほんとにたくさんのことをやりますよ」彼の微笑は、万事心得ているといわないばかりに、自信満々だ。
「その意気込みでなくちゃ」と所長がもう一度ほめあげる。「さあ、一まわりしましょう。この人たちに、全部話してあげてくれたまえよ、フォスター君」
フォスター君は順序をふんで話をする。
腹膜のベッドの上で成長していく胎児の話だ。胎児に与える滋養豊富な合成血液を一同になめさせる。胎盤分泌物や甲状腺ホルモンで刺激を与えねばならない理由を説明する。卵巣黄体のエキスの話をする。零から二千四十メートルまで、十二メートルごとに胎児が自動的に注ぎかけられることになっている、そのエキスの噴流を一同に見せる。その行程《コース》の最後の九十六メートルの間に、しだいに量を増しながら服用させられる脳下垂体液のことを語る。百十二メートルの段階で、どのびんにもとりつけられる人工母胎循環器のことを述べ、合成血液の貯蔵装置や、その血液を胎盤へ循環させ、人工肺や老廃物濾過装置を通過させる遠心ポンプを見せる。胎児には、貧血しやすい厄介な傾向があること、そのために、豚の胃のエキスや子馬の胎児の肝臓を多量に摂取させる必要があること、などにふれる。
八メートルごとに区切ったうちの最後の二メートルの間じゅう、すべての胎児をいっせいにゆすぶって、運動にならすための簡単な機械をみせる。いわゆる「出びん時外傷」の重大性をほのめかし、びん詰め胎児に適当な訓練を施すことによって、その危険なショックを最小限にくい止めようとして講じられるいろいろな予防措置を数えたてる。二百メートル近くで行なわれる性別検査のことも話す。性別分類法の説明をする――男性にはTの字、女性には丸じるし、無生殖機能のものには、白地に黒の?をつけるのだ。
「というのは、もちろん」とフォスター君が言う。「きわめて多くの場合、受精能力は単に厄介なだけだからです。千二百に一つの割で受精能力があればいい――実際の話、われわれの目的を達成するにはそれで十分なのです。しかし、われわれとしては十二分な選択をしたい。そして、もちろん、安全性のゆとりはたっぷり残しておかねばなりません。そこで、われわれは、女性胎児のうちの三十パーセントものものに、正常な発育を許しているのです。あとのものは、残りのコースの間じゅう、二十四メートルごとに男性の性ホルモンを摂取させます。その結果、それらは、無生殖機能胎児としてびんから出ます――体格上は全く正常ですが(「ただ」と彼はことわらないわけにはいかなかった。「あごひげが生えやすい、という、ほんのそれこそごくかすかな傾向があるにはありますが」)、不妊です。保証付き不妊とでもいいましょうか。これによって、私たちはついに」とフォスター君はしめくくる。「自然のたんなる奴隷的模倣の領域を離れて、人間の発明にかかる、はるかに大きな興味のある世界へ到達したのであります」
彼は大満足で両手をこすり合わせる。もちろん、彼らは、ただ、胎児を孵化させるだけで満足しているわけではない、それぐらいのことなら、牝牛にだってできるのだから。
「私たちは、また、社会的階級を前もって定め、条件反射教育を施します。私たちは、飼育した嬰児たちを、びんから世の中へ送りだしてやります。社会的人間として、アルファ階級、あるいはイプシロン階級の人員として、また、未来の下水|清掃夫《せいそうふ》として、あるいはまた、未来の……」彼は「未来の世界大統領」と言いかけたのだが、思い直して、その代わりに「未来の人工孵化・条件反射教育センター所長」と言葉をつづけた。
所長は、このお世辞をきいて、にっこりしながらうなずく。
一同は、今、第十一号|棚《ラック》の三百二十メートルあたりを進んでいる。ベーター・マイナス階級出身の若い機械工が一人、ドライバーとスパナで、通り過ぎていくびんの合成血液ポンプを忙しく調節している。彼がナットをしめていくにつれて、モーターの唸《うな》りが少しずつ太く低くなっていく。ぐいぐいとしめていく……最後の一しめをしてから、回転計をちらと見て、一丁あがりだ。彼はびん列に沿って二歩下がると、次のポンプに同じような処置をはじめる。
「一分間の回転数をおとしますと」と、フォスター君が説明する。「合成血液の循環速度がおちてきます。すると、血液の肺を通過する時間の間隔が長くなり、胎児に与えられる酸素の量が減少します。胎児を標準以下に保っておくには、酸素の量を不足させるのが一番です」彼はまた両手をこすり合わせる。
「でも、なぜ胎児を標準以下に保っておく必要があるのですか?」と、あるすなおな研究生がきいた。
「やれやれ!」長い沈黙を破って所長が口をひらいた。「イプシロン階級の胎児には、イプシロン的遺伝子だけではなくて、イプシロン的環境をも与えねばならないのです。これぐらいのことがピンときませんかねえ?」
どうやら、この研究生にはそれがピンとこなかったらしい。彼はすっかりうろたえてしまう。
「社会的階級が低ければ低いほど」と、フォスター君が言う。「与える酸素の量を少なくするのです」酸素不足の影響が一番早く現われる器官は大脳である。その次は骨格である。正常量の七十パーセントに制限すると、こびとが生まれる。七十パーセント以下に下げると、目のない奇形児ができる。
「そんな奇形児は何の役にも立ちません」と、フォスター君がしめくくった。
それに対して(彼の声が、自信と熱気をおびてくる)、もし成熟に達するまでの期間を短縮する技術を発見することができれば、それは、いかに輝かしい勝利であり、社会に対していかに大きな貢献となるであろうか!
「馬の場合を考えてみてください」
一同は馬の場合を考える。馬なら六歳で成熟だ。象なら十歳。ところが人間となると、十三歳でも性的にはまだ未熟で、二十歳でやっと完全な成熟に達する。もちろん、そのために、遅まきの発育の成果ともいうべき人間の知性が恵まれはするのだが。
「しかし、イプシロン階級の場合には」と、フォスター君はごくあたりまえといった口ぶりで言う。「人間の知性なんかいりません」
今までだっていらなかったから、もったこともなかったのだ。しかし、イプシロン階級の人の知能は、十歳で成熟に達するが、その肉体は十八歳になって、やっと労働できるようになるのだ。よけいで、無駄で、長すぎる未熟期間だ。もしこの肉体的発育を、たとえば牝牛と同じ程度までスピードアップできれば、社会にとって、どんなに大きな節約となることだろうか!
「どんなに大きな!」と、研究生たちがつぶやいた。フォスター君の情熱がうつったのだ。
少し専門的な方面に立ち入って、彼は、人間の発育を著しく遅らせる、内分泌腺の異常整合について述べ、その異常整合を解明するため、胎児の突然変異という仮説を立てる。この胎児の突然変異の影響を打ち消すことができないだろうか? イプシロン階級の人々の胎児を、何か適当な技術によって、犬や牝牛の正常状態まで回帰させることができないだろうか? それがまさに問題である。しかも、それはほとんど解決されたようなものなのだ。
モンバサにおいて、ピルキントンが、性的には四歳で成熟し、六歳半で完全な成人となる人間を生みだした。まさに科学の勝利だ。しかし、社会的には何の役にも立たない。六歳の男女といえば、知能的にはあまりにも幼稚すぎてイプシロン階級の仕事にさえつくことができないからなのだ。しかも、この方法は、すべてか無か式のものだ。つまり、全然変えることができないか、すべてを変えてしまうのか、のいずれかなのだ。二十歳の成人と六歳の成人との間で理想的な妥協点を見いだすため、今も努力がつづけられている。現段階では、まだ成功をおさめてはいないのだ。フォスター君はため息をついて、首を横にふった。
一行は、深紅色のたそがれの中を、あちらこちらと歩きまわって、第九号|棚《ラック》の百七十メートル近くへやって来た。この地点から先は、第九号|棚《ラック》には囲いが作られる。したがって棚《ラック》のびんは、残りの道のりの間は、一種のトンネルの中を進んでいくわけである。このトンネルのあちこちには、幅二ないし三メートルの窓があいている。
「対暑熱条件反射教育なのです」とフォスター君が言う。
暑いトンネルと涼しいトンネルとが交互につづいている。冷涼さには、強いエックス線という形の不快さが結びついている。したがって、びんを出るころには、すでに、これらの胎児たちに、寒冷に対する恐怖心が植えつけられている。彼らは、熱帯地方へ移住して、鉱夫や、アセテート絹織工や、鋼鉄工などになる予定なのだ。このあとで、彼らの頭脳が肉体の判断に服従するようにしつけられるはずである。「彼らが暑いところで快調に働けるような条件反射教育を授けてやるのです」と、フォスター君が言葉を結んだ。「二階にいるぼくの同僚たちが、彼らに、暑さを好きになるような教育をします」
「そして、それこそ」と所長がもったいぶって口をはさんだ。「それこそ、幸福と美徳の秘訣なのです――自分の務めを好きになるということが。いっさいの条件反射教育の目的とするものが、それなのです。つまり、人々に、逃《のが》れられない自分の社会的運命が気に入るようにしてやるということなのです」
二つのトンネルの間の切れ目で、一人の看護婦が、細長い注射器で、通りすぎていくびんのゼラチン状の中身に、手ぎわよく注射している。研究生と引率者たちは、しばらく、だまって彼女の操作を観察していた。
「やあ、レーニナ」やっと彼女が注射器を抜き、からだをまっすぐにのばしたとき、フォスター君が声をかけた。
その若い女は、びっくりしてふりむいた。狼瘡にかかっていて、目こそ紫色だが、たいした美貌《びぼう》の持ち主であることはよくわかる。
「あら、ヘンリー!」彼女はまっ赤《か》になりながらも、彼にむかってにっこりする――そのとたんに、真珠の歯並みがこぼれる。
「ほんとにチャーミングだ」とつぶやいて、所長が彼女の肩を二つ三つ、ポン、ポンとたたく。そのお返しに、彼女のほうは敬意をこめたほほえみを彼にむける。
「何をやっているのですか?」すっかり職業口調にかえって、フォスター君が尋ねる。
「あら、いつものチフスと眠り病よ」
「熱帯労働者は、百五十メートルのところから予防接種を受けはじめることになっています」と、フォスター君が研究生たちに説明する。「この段階では胎児にはまだえらがあります。私たちは、これらのいわば魚たちに、将来、人間の疾病《しっぺい》にかからないような免疫性を与えてやるのです」それから、レーニナの方をふりむきながら、「今日《きょう》の午後、五時十分前に屋上で」と彼は言った。「いつものように」
「チャーミングだねえ」と、もう一ぺんほめてから、彼女の肩を最後にたたくと、所長は、ほかの連中のあとを追った。
第十号|棚《ラック》の上には、次の時代の化学工場労働者になる胎児たちがずらりと並んで、鉛、苛性ソーダ、タール、塩素に対する耐容度の訓練を受けている。将来、ロケット操縦士となるべき、一組二百五十人の胎児の群れの第一陣が、今ちょうど、第三号|棚《ラック》の千百メートルの標点を通過中だ。特殊装置によって、その容器は絶えず回転運動をつづけている。「彼らの平衡感覚を発達させるためなのです」とフォスター君が説明する。「空中でロケットの外に出て修理をするのは、なまやさしい仕事ではありませんからね。これらの胎児が直立の姿勢になっているとき、合成血液の循環を弱めるので、彼らは半ば飢餓状態となりますが、その代わり、彼らがさか立ちの姿勢になったときには、その循環を二倍にします。すると、彼らは、さかさまになりさえすれば、幸福感を味わうようになるのです。実際、この連中は、さか立ちしているときだけ、本当に幸福なのです」
「さあ、今度は」と、フォスター君は言葉をつづける。「アルファ・プラス階級の知識人に対する、大へん興味ある条件反射教育を御覧に入れましょう。第五号|棚《ラック》に、大きな群れが一ついるのです。ああ、二階のバルコニーですよ」と、彼は、一階の方へ降りかけた二人の研究生にむかって声をかける。
「今、九百メートルのところをまわっています」と、彼は説明する。「胎児にしっぽがなくなるまでは、本当の意味で、有効な知的条件反射教育はできません。さあ、ついてきてください」
しかし、所長は自分の時計を見た。「三時十分前だ」と言う。「残念だが、知識階級の胎児を見学している暇はないようだね。幼児たちが午睡を終えないうちに、育児室へ上がらなくちゃいけないから」
フォスター君はがっかりする。「せめて、出びんだけでも、ちょっとのぞいていただきたいのですが」と、せがむように頼む。
「いいだろう、それじゃ」と、所長は、いかにも恩にきせたように言った。「ちょっとのぞくぐらいなら」
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第二章
フォスター君は出びん室に残された。所長と研究生たちは、ちかくのエレベーターで六階まで上がっていった。
「幼児保育室・新パヴロフ式条件反射教育室」の標札がかかっている。
所長がドアをあけた。一同は大きなガランとした部屋へはいった。大へん明るく日当たりがよい。南側の壁全部が一つの窓になっているからだ。制服の白いビスコース・リンネルのジャケットとスラックスに身を固めた六人の保母が、消毒用の白い帽子をかぶって、ばらのいっぱいはいった大鉢《ボール》を、床の上へズラリと一列に並べている。ばらがぎっしりとはいっている大鉢《ボール》だ。開ききって絹のようにすべすべした幾千枚もの花びらは、まるで、数え切れないくらい大ぜいの小さな知天使《ケルビム》のほっぺたのようだ。だが、その明るい光の中で見ると、うすもも色のヨーロッパ人種のケルビムだけではない。てかてかした中国人やメキシコ人のケルビム、天国のトランペットをあまり吹きすぎたために卒中を起こしかけているケルビム、はては、死後の白さを思わせる大理石色のために、まるで死人のように青ざめたケルビムまでもいる、といったあんばいだ。
所長がはいってきたとたん、六人の保母はかたくなって、いっせいに気をつけの姿勢をとった。
「本を並べたまえ」彼はそっけなく命令する。
保母たちは、黙って彼の命令に従う。ばらの大鉢《ボール》の間に、本がキチンと並べられる――育児用四つ折り版の絵本がズラリと並んで、どれも、心をひきつけるような、はでな色どりの動物や、魚や、鳥の絵のページがあけてある。
「次、子供たちをつれてきたまえ」
保母たちはいそいで部屋から出ていったが、一、二分すると、めいめいが、一種の丈《たけ》の高い食器運搬車のようなものを押しながら帰ってきた。その車には、金網張りの棚が四つついていて、その上に、それぞれ八か月の赤ん坊がのせてある。どの赤ん坊も、みな、きっちり同じで(同一のボカノフスキー・グループのものであることは明らかだ)、どれにも(階級がデルタなので)カーキー色の服が着せてある。
「子供を床におろしたまえ」
赤ん坊たちがおろされる。
「次、花と本が見えるような向きに変えたまえ」
向きを変えられると、赤ん坊たちはすぐにピタリと静まり、そのつやつやしたばらの花束や、白いページに描かれた、はでなけばけばしい絵に向かってソロリソロリとはいだす。赤ん坊たちが近づくと、しばらく雲にかくれていた太陽が、顔を出した。すると、内部《なか》から突然情熱がもえ上がるように、ばらがパッともえたった。絵本のキラキラ光るページにも、まるで、新しい深い意味がみちみちてきたようだ。はっていく赤ん坊の行列から、かすかな興奮の金切り声と、のどを鳴らす音と、歓喜の身ぶるいが起こった。
所長は、すっかり御満悦で両手をこすり合わせる。「なんとすばらしい!」と彼は言う。「まるで打ち合わせてあったみたいだ」
一番早くはってきた赤ん坊たちは、もう目ざすところまでやって来ている。そして、オロオロと小さな手をのばしながら、そのもえたった色のばらにさわってしっかりつかむと、やにわに花びらをひきむしり、絵本の色刷りのページをもみくちゃにする。所長は、赤ん坊たちが、一人残らず大喜びでこのいたずらをやらかすのを、じっと待っている。頃合《ころあ》いになると、「注意して観察したまえ」と命令する。と同時に、片手をあげて合図をする。
すると、部屋の向こうの隅《すみ》の配電盤のそばに立っている主任保母が、小さなレバーを押しさげる。
ものすごい爆発音が起こる。かん高いサイレンが鳴りわたり、刻々とそのかん高さをましていく。警報ベルが、気違いのようにひびきわたる。
赤ん坊たちはびっくり仰天して金切り声をあげ、その顔が恐怖にゆがむ。
「それでは次に」と所長がわめく(というのは、音が耳もつぶれそうなほどであるからだ)。「次に、微電流ショックによるしつけ込み課程へ進みます」
彼がふたたび片手で合図をすると、主任が第二のレバーをさげる。赤ん坊たちの金切り声の調子が突然変わる。何か自暴自棄で、ほとんど気でもふれたような、鋭いひきつった悲鳴となった。その小さなからだがけいれんし、こわばる。手足は、まるで、見えないワイヤーにでも引っぱられているみたいに、ピクピクと動く。
「床のあの部分だけは、くまなく電流を通ずることができるようにしてあります」と、所長がどなり声で説明する。「だが、もうこれで終わります」そして、主任に合図する。
爆発音がやみ、警報ベルが鳴りやむ。サイレンのかん高い音の調子が、しだいに低くなっていったかと思うと、やがて沈黙する。こわばってけいれんしていた赤ん坊たちのからだがグッタリと弛緩《しかん》し、気のふれた子供の泣きじゃくりやわめき声にきこえていたものが、ふたたび、ふつうの恐怖に襲われたときの、幅の広い正常なわめき声にもどる。
「花と本をもう一度やりたまえ」
保母たちは命令どおりにする。しかし、ばらの花を近づけると、いや、その極彩色の仔猫《こねこ》ちゃんやこけこっこやめえめえ黒羊の絵を見ただけで、赤ん坊たちは怖《こわ》がってしりごみをする。彼らのわめき声が、急にグッと大きくなるのだった。
「よく見なさい」すっかり得意になって所長が命令する。「よくよく見るのですよ」
絵本と耳ざわりな音、花と電流ショック――幼児たちの心の中では、すでに、この組合わせが矛盾しないように結びついている。したがって、これと全く同じか、もしくは同じような教課を二百回くりかえすと、この組合わせが、絶対ときほぐすことができないようにかたく結びつくはずである。人間が結びつけたものは、自然の力などでは切り離すことができっこない、というわけだ。
「あの赤ん坊たちは、書物や花に対して、心理学のいわゆる『本能的な』嫌悪《けんお》を身につけながら成長していきます。絶対変化しないように固定されてしまった反射作用を身につけながら。あの子たちは、生涯、書物や植物にわずらわされることはなくなるのです」所長は保母たちの方にむき直る。「子供たちをもう一度つれていきたまえ」
まだわめきつづけているカーキー色の服の赤ん坊たちは、また例の車にのせられて出ていく。あとには、すっぱいミルクの匂いと、心からほっとするような静けさがただよう。
研究生の一人が手をあげて質問する。「下層階級の人たちに、本など読んで社会の時間を浪費させるわけにはいかない。また、彼らに読書をさせると、せっかく定着して習性化した反射作用のどれかを、不都合にも、失わせる原因となるようなことを読む危険性が常にある。そこまではよくわかるのですが、でも……そのう、どうして花がいけないのかわかりません。なぜ、わざわざデルタ階級の人たちが、心理学的に花が嫌いになるようにするのですか?」
所長が根気よく説明してやる。幼児たちが、ばらの花を見て金切り声をあげるようにしつけられているのは、高度経済政策に立脚しているのである。今からそう昔のことでもないが(一世紀かそこいらの前には)ガンマー階級、デルタ階級の人々はもとより、イプシロン階級の人たちでさえ、花を――特に花や、野性の自然一般が好きになるように条件反射教育を授けたのだった。その狙いは、それらの人たちに、機会あるごとに田園へ行きたいという気持ちを起こさせ、それによって、いや応なしに交通機関を消費させることであったのだ。
「それで、彼らは交通機関を消費しませんでしたか?」と、質問した研究生がきいた。
「そりゃあ、ずいぶん消費しましたがね」と所長が答えた。「でも、それだけのことだったのです」
彼の指摘するところによると、さくら草と景色には、一つの大きな欠点がある。その欠点は、どちらも無料《ただ》で手にはいる、ということである。いくら自然愛好の念を養成してみても、工場がどれ一つ忙しくなるわけでもない。ともかく、下層階級の間での自然愛好の念を廃止する、という決定がなされた。自然愛好の念の方は廃止されたが、交通機関を消費する傾向の方は、そのまま残しておかれたのだ。というのは、下層階級の人たちがたとえいやがっても、相変わらず田舎《いなか》へ行くようにさしむけておくことが、絶対に必要だったからだ。同じく交通機関を消費するにしても、ただ、さくら草や景色が好きだから、というだけではなく、経済的見地からみて、もっと健全な理由を見いだすことこそ、まさに問題であった。なっとくのいく理由がうまく見つかった。
「大衆が田園を嫌いになるような条件反射教育が行なわれています」と所長がしめくくるように言う。「しかし、同時に、田園スポーツは何によらず好きになるような条件反射教育も行なわれています。一方、あらゆる田園スポーツは、精巧な器械を使用しなければ成り立たないようにしむけます。そうしますと、大衆は、交通機関はもちろん、工業製品をも消費するようになります。あの電流ショックも、このようなわけで使っているのです」
「わかりました」と言うと、例の研究生はすっかり感心して、それっきり黙ってしまった。
しばらく沈黙が流れた。やがて、所長が咳《せき》ばらいをしてから、「むかし」と口をきった。「わが主フォードがまだ生きておられたころ、ルーベン・ラビノーヴィッチという小さな少年が住んでいました。ルーベンは、ポーランド語を話す両親の息子《むすこ》でした」とここまで来て、所長はちょっと話をやめてきいた。「ポーランド語って何のことだか知っていますかね?」
「死語です」
「フランス語やドイツ語と同じです」出しゃばって自分の学のあるところをみせびらかしたいらしく、もう一人の研究生がつけ加える。
「それじゃ『親』というのは?」と所長がきく。
みんながきまり悪そうに黙りこんだ。赤面するのも何人かいた。その連中は、猥談《わいだん》と純粋科学との間に、重要ではあるが、しばしばきわめて微妙な一線を画すことを、まだ知らなかったのだ。しかし、とうとう一人の研究生が勇気を出して手をあげた。
「むかし、人類は……」と彼は言いよどんだ。頬にサッと血が上る。「そのう、いつも胎生でした」
「そのとおりです」所長は、わが意を得たとばかりにうなずく。
「そして、赤ん坊がびんから出ると……」
「『生まれると』でしょう」とすかさず訂正の声がかかる。
「はい、そうなると彼らは両親になります――そのう、彼らというのは、もちろん赤ん坊のほうではありません、もう片方の側です」かわいそうに、この研究生は、どぎまぎして途方にくれてしまう。
「要するに」と所長がまとめる。「両親というのは父と母のことです」本当は科学であるところの猥談が、目をふせて黙りこんでいる研究生たちの中に、ビンビンとひびきわたる。「母というのです」彼は大声でくりかえしながら、科学を少年たちの頭の中にたたきこむ。そして、椅子《いす》にふんぞりかえりながら、「こういったことは」と、重々しい口調で切りだす。「不愉快な事実です。たしかにそうです。しかし、そういう目で見れば、歴史的事実というものは、たいてい不愉快な事実です」
彼はルーベン少年の話にもどる――ある晩、そのルーベン少年の部屋で、彼の父と母が(何といやらしい言葉!)ついうっかりして、ラジオをかけっ放しにしておいたのでした。
(「というのは、御承知のように、下品な胎生生殖の行なわれたそのころ、子供たちは国立条件反射教育センターではなく、常に両親によって育てられたからなのです」)
ところが、このルーベン少年の眠っている間に、突然ロンドンの放送番組がはいりはじめました。そして、そのあくる朝、彼の両親《ヽヽ》が大へん驚いたことには、(研究生たちの中で度胸のある連中は、互いに顔をみあわせてニヤニヤする)ルーベン少年は目がさめると、一風変わったその昔の作家(作品が、今のわれわれにまで伝えられることを許されたごくわずかな作家の一人ですが)ジョージ・バーナード・ショーの長い講演を、一字一句もまちがえずに暗誦したのです。信頼できる伝説によれば、ショーは、何でもそのとき自分の天才的才能について講演していたのだそうです。もちろん、その内容はルーベン少年には全くチンプンカンプンでしたので、彼はただ目をパチクリしたり、クスクス笑ったりするだけでした。それで、これは、てっきり、にわかに息子の気がふれたのだ、と感ちがいしたその両親は医者を呼びました。運のいいことに、その医者は英語のわかる人でしたので、その講演がゆうべショーが放送したものであることに気がつき、少年の睡眠中に起こったことの意味がわかりました。それで、医学新聞に投書してこの事件を報告しました。
「このようにして、睡眠教育法、すなわちヒプノピィディアが発見されたのであります」所長は感銘を与えるかのように、しばらく間をおいた。
原理が発見されはしたものの、その原理を有効に応用できるに至るまでには、長い長い年月をついやさねばならなかったのだった。
「ルーベン少年の事件は、わが主フォードの最初のT型車(フォードが一九〇九年にはじめて完成した安価で能率の良い自動車)が市販されてから、わずか二十三年後のことでした」(ここで所長は、自分の腹の上にTの字を切ったので、研究生一同もうやうやしくそれにならった)
「それにもかかわらず」
研究生たちは、狂気のように書きまくる。「睡眠教育法《ヒプノピィディア》 最初の正式使用、フォード紀元二百十四年。それ以前には、なぜ使用されなかったのか? 二つの理由による。(一)……」
「これら初期の実験関係者が」と所長が言う。「進むべき方向をまちがえたからです。睡眠教育法《ヒプノピィディア》を、知的教育の手段とすることができる、と考えたからです。……」
(小さな少年が一人、からだを右向きにして眠っている。右腕が突き出て、右手がベッドのふちからダラリと下がっている。そばに箱が一つあって、その横についている丸格子《まるごうし》から、静かな声が話しかける。
「ナイル川は、アフリカで一番長く、世界じゅうのすべての川の中では二番目に長い川です。長さこそミシシッピ=ミズーリ川に及びませんが、流域の長さにかけては、世界一で、その長さは緯度にして三十五度分に相当する……」
あくる朝、朝食のときに、「トムちゃん」と誰かがきく。「アフリカで一番長い川はどれか知ってる?」その男の児は、知らない、と首を横にふる。「だって、ほら、ナイル川は……っていうのおぼえてるだろ?」
「ナイルガワハ、アフリカデイチバンナガク、セカイジュウノスベテノカワノナカデハ二バンメニナガイカワデス……」という言葉が少年の口からスラスラ出てくる。「……ニオヨビマセンガ……」
「よしよし、それじゃね、アフリカで一番長い川はどれなの?」
ポカンとした顔で「ぼく、知らないよ」
「でも、ナイル川は……だよ、トムちゃん」
「ナイルガワハ、アフリカデイチバンナガク、セカイジュウノスベテノカワノナカデハ二バンメニナガイ……」
「それじゃ、一番長い川はどれ?」
トムちゃんはワッと泣きだす。「知らないってば」坊やはただ泣きわめくばかりである)
所長が説明する、その泣きわめく声が、もっとも初期の研究者たちを失望させた。そして、その実験は放棄された。睡眠中の幼児に、ナイル川の長さを教える試みは、それで打ち切りとなった。これは全く賢明だった。何のことを言っているのかわからない限り、学問というものはおぼえることができないからだ。
「そうではなくて、ただ道徳教育への応用からはじまっていたのだったらなあ、と思います」ドアの方へ歩きながら所長が言う。研究生たちは、歩いているときも、エレベーターに乗っているときも、ぶっつづけで必死に書きまくりながら、そのあとについていく。「いかなる場合においても、絶対に理性的であってはいけない道徳教育から、ね」
「静かに、静かに」一同が十五階に出ると、ラウドスピーカーがささやく。「静かに、静かに」足もとのどの廊下からも、一定の間隔をおいて、らっぱ型拡声器が根気よくくりかえす。研究生たちばかりか、所長自身までもが、ひとりでにつま先で歩きだした。もちろん、彼らはみなアルファ階級の一員である。しかし、たとえアルファ階級でも、条件反射教育はみっちりとたたきこまれているのだ。「静かに、静かに」十五階の空気全部が、「静かに」というその至上命令のために、シュウシュウと鳴っているみたいだった。
つまさき歩きで五十ヤードほど進んできて、とあるドアの前まで来ると、所長がそっとドアをあけた。一行が戸口をはいると、内部《なか》は鎧戸《シャッター》をおろした薄ぐらい共同寝室である。壁にむいて、八十の小児用ベッドがズラリと並んでいる。きこえるのは、規則正しい、軽い呼吸の音と、ごくかすかな遠くのささやきに似た、たえまないつぶやき声だけである。
一行がはいっていくと、保母が立ち上がり、所長の前まで来て、気をつけ、の姿勢をとった。
「今日の午後の授業は何かね?」と彼がきく。
「最初の四十分は、『性《セックス》の手ほどき』をやりました」と彼女が答える。「しかし、今は『階級意識初歩』のほうへスイッチを切りかえてあります」
所長は、ベッドの長い列のそばをゆっくりと歩いていく。ばら色の顔をした八十人の幼い男の児と女の児が、眠りのためにからだの緊張をすっかりゆるめ、かすかな寝息を立てながら、眠りこけている。どの枕の下からも、ささやくような声がきこえる。所長は立ち止まり、小さなベッドの一つにのしかかるようにしながら、一心に耳をかたむける。
「『階級意識初歩』なのだね? ラウドスピーカーで、もう少し音量をあげてくりかえさせよう」
部屋のはしの壁から、ラウドスピーカーが一つ突き出ている。所長は、ツカツカとそこへ歩み寄ると、スイッチを押した。
「……はみんな、緑色の洋服を着ています」やさしいがきわめてはっきりした声で、文章の途中からきこえてくる。「そして、デルタの子供たちはカーキー色の洋服を着ています。ああ、いやだ、デルタの子供たちなんかと遊びたくありません。そして、イプシロンの子供たちとなるともっとひどいのです。大へん頭が悪くて、字を読むことも書くこともできません。おまけに黒い洋服を着ています。黒なんて、ほんとに汚《きたな》らしい色です。わたしはベーターの子供で、ほんとに嬉しいです」
しばらくと切れる。が、やがてまた声がきこえだす。
「アルファの子供たちは灰色の洋服を着ています。あの児たちは、わたしたちよりもっと一生懸命に勉強します。だって、あの児たちは大へん利口だからです。わたしはベーターの子供で、ほんとにとても嬉しいです。だって、わたしはあんなに勉強しなくてもいいからです。それに、わたしたちは、ガンマーやデルタの子供たちよりずっとえらいのです。ガンマーの子供たちはばかです。あの児たちはみんな、緑色の洋服を着ています。そして、デルタの子供たちはカーキー色の洋服を着ています。ああ、いやだ、デルタの子供たちなんかと遊びたくありません。そして、イプシロンの子供たちとなると、もっとひどいのです。大へん頭が悪くて、字を読むことも書くこともでき……」
所長がスイッチを切った。声が消える。ただ、残響に似たかすかな声が相変わらず枕の下からささやきつづけているだけだ。
「目をさます前に、あれをもう四、五十回くりかえしてきかせます。それから木曜日にも、日曜日にも、またくりかえします。百二十回あて一週間に三度、それを三十か月間続けます。それがすむと、もっと上級課程へ進むのです」
ばらと電流ショック、デルタ階級のカーキー色の洋服とアギ(イラン地方産のおおういきょうの樹液からとった臭気の強い薬品。鎮静剤・駆虫剤)の匂い――子供たちがまだ口もきけないうちに、これらが、絶対ときほぐすことができないように結びつけられるのだ。しかし、言葉を用いない条件反射教育は、きめが荒くて大ざっぱだ。比較的微妙な相違をおぼえこませることもできなければ、比較的複雑な行動過程を教えこむこともできない。それをやるためには、言葉を、それも理性のない言葉を、使用しなければならぬ。一言でいえば、睡眠教育法《ヒプノピィディア》だ。
「これこそ、あらゆる時を通じて、最も偉大な道徳化と社会化の力です」
研究生たちは、ここぞとばかり小さなノートに書きとめる。何しろ、大先生じきじきの御伝授なのだから。
所長がまたスイッチを入れる。
「……は、大へん利口だからです」やさしいが、しつこいねこなで声がふたたび話しかける。「わたしはベーターの子供で、ほんとにとても嬉しいです。だって……」
たとえてみれば、水の滴《しずく》ともいえそうだが(もっとも、水は確かに一番堅いみかげ石にでも穴をあけることができるけれども)それよりはむしろ、とけた封ろうの滴だ。したたり落ちた先の岩にくっつき、それをおおい、それととけ合い、しまいには、その岩全部が一つの真紅《しんく》のかたまりとなってしまうような滴だ。
「このようにして、ついに、子供の心がすなわちこれらの暗示そのものとなり、これらの暗示を総計したものが、とりもなおさず、子供の心そのものとなるわけです。それは、何も子供の心と限ったわけではありません。大人の心でもあります――一生涯を通じての。判断したり、ほしがったり、ものを決定したりする心――それは、こうした暗示から成り立っているのであります。さて、これらの暗示は、実に、すべて|われわれ《ヽヽヽヽ》が与える暗示なのであります!」所長は得意のあまり、ほとんど絶叫する。「国家から授けられる暗示なのであります」彼は近くのテーブルをドンとたたく。「したがいまして、結論といたしまして……」
さわがしい声に彼はふりむく。
「ああ、わが主フォードよ!」彼の声の調子はガラリと変わる。「わたしとしたことが、つい調子に乗りすぎて、子供たちを起こしてしまいました」
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第三章
外の庭では、今、遊び時間だ。あたたかい六月の日ざしのもとで、裸になった六、七百人の小さな男の児と女の児が、かん高い叫び声をあげながら芝生の上を駆けまわったり、ボール遊びをしたり、花の咲いたかん木の間に、二、三人ずつ、だまってしゃがみこんだりしている。ばらは花ざかりだ。やぶの中では、二羽のナイチンゲールが独《ひと》りごとをもらしており、ぼだいじゅの木立の間では、かっこう鳥が今ちょうど調子はずれの鳴き声に変わるところだ。空気は蜜蜂の羽音やヘリコプターの爆音でウトウトしたくなるほどだ。
所長と研究生たちは、しばらく遠心式《セントリーフューガル》バンブル・パピー競技を見学しながら立っていた。二十人の子供たちが、クローム鋼《スチール》の塔をまん中にして丸く輪になって集まっている。ボールが、塔のてっぺんの台の上にのっかるように投げ上げられたかとみるまに、塔の内部《なか》へころがり込み、目ざましい速さで回転している円板の上へ落ちて、円筒形のケースにあけてあるたくさんの穴のどれかから外へはじきだされる。そのボールをつかまえるのだ。
「ほんとにおかしなことだねえ」一同が立ち去りかけたとき、所長が考え込むように言った。「わが主フォード様の時代になっても、ほとんどの競技に使うものは、といえば、せいぜいボールが一、二個と若干の棒切れと、まあ一はりのネットぐらいとは、考えてみればおかしなことだ。消費を増加するのに何の役にも立たない、手のこんだ競技を人々にやらせておくなんて、思っただけでもばかげているねえ。まさに狂気の沙汰《さた》だ。今日では、新しい競技は何によらず、少なくとも現在行なわれている最も複雑な競技と同じだけの道具を必要とする、ということがはっきりするまでは、大統領たちの承認が得られないようになっている」所長は言葉を切った。
「あれはかわいいちびちゃんたちだね」と、彼は指さしながら言う。
みると、丈の高い地中海ヒースの茂みの間の、入りくんだ小さな草原で、七つぐらいの小さな男の児とそれより一つ年上かと思われる小さな女の児が、真剣そのもののような顔で、ちょうど発見に没頭している科学者のように、初歩的遊戯をやっているところだ。
「かわいい、ほんとにかわいいなあ!」と、所長は感にたえないようにくりかえす。
「かわいいですね」と研究生たちはうやうやしく同意する。しかし、研究生たちの微笑には、ちょっぴり先輩ぶった気取りがこもっている。彼ら自身が、この子供っぽい遊戯をついこの間までやっていたので、今それを見ると、何だかちょっと軽蔑《けいべつ》してみたいような気持ちに駆られるのだ。かわいいって? そんなこと言ったって、たかが子供が二人でふざけているだけじゃないか。ただそれだけのことさ。ほんのちびっこたちがね。
「わたしはいつも思うのだが」と所長が相変わらず感傷的な調子で続けようとしたそのとたん、大きな泣き声が起こって話がフッツリと切れる。
近くのかん木の茂みから、保母が一人、小さな男の児の手を引いて現われたのだ。男の児は歩きながらワアワア泣きわめいている。その後ろから、心配そうな顔をした小さな女の児がチョコチョコついてくる。
「どうしたのかね?」と所長がきく。
保母は肩をすくめる。「たいしたことではありませんが」と彼女は答える。「ただこの坊やは、ふつうの性《セックス》のお遊戯の仲間にはいるのが、ちょっといやなようなのですわ。今もワーッと泣きだしましたので……」
「ほんとよ」心配そうな顔をしたその女の児が口を挟む。「あたし、この児になんにもおいたしようとしたんじゃないのよ。ほんとよ」
「そうですとも、あなたはいい子ちゃんだったわよ、ねえ」と保母は慰めるように言う。「ですから」と所長の方へ向き直りながら言葉を続ける。「この坊やを、今から心理学部副部長先生のところへ連れていこうと思います。何か異常なところでもないのかちょっと調べていただきます」
「よろしい」と所長が言う。「連れていきなさい。あんたはここにいるんだよ、お嬢ちゃん」保母が、まだわめき続けている男の児を連れて立ち去ったので、彼が言葉をつけ加える。
「あんたのお名前は?」
「あたし、ポリー・トロツキーよ」
「ほほう、なかなかすてきなお名前だね」と所長が言う。「さあ、あっちへ行って誰かほかの坊やを捜していっしょにお遊び」
女の児は、急いで藪《やぶ》の中へ駆けていったかと思うと、見えなくなった。
「ほんとにかわいい児だ」とその後ろ姿を見送りながら所長が感心する。それから、研究生たちの方に向き直って、「今からお話しすることは」と切りだす。「信じられない気がするかもしれない。しかし、そんなことを言えば、君たちは歴史になれていないのだから、過去のたいていの事実はどうしても本当だとは思えないだろう」
彼は驚くべき事実を暴露する。わが主フォード様の時代にはいらないさきのことだが、きわめて長い間、そして、フォード紀元にはいってからも数十年間は、子供たちの間の性的遊戯は変態的であると見なされたのだ。(ドッと爆笑が起こる)しかも、たんに変態的と見なされたばかりではない、実際に不道徳でさえあったのだ(ちがう!)、そしてそのため厳《きび》しく禁止されたのだ。
信じられない、といった驚きの色が研究生たちの顔に現われる。かわいそうに、小さい子供たちは楽しく遊ぶことも許されなかったのだって? ほんとうだろうか。
「若い人たちでさえ」と所長が言葉を続ける。「諸君のような若い人たちでさえも……」
「まさか!」
「こっそりおこなわれた、ほんのちょっとした自己色情《オート・エロチズム》(自分の肉体をもてあそぶことによって、性的快感を得る行為)や同性愛は別だが――全く何も許されなかったのだ」
「何にもですか?」
「そう、たいていはだめだ。二十歳以上になるまではね」
「二十歳ですって?」研究生たちは、どうしても信じられないらしく、いっせいに大きな声でおうむ返しにくりかえす。
「そう、二十歳だ」と所長もくりかえす。「だから、さっき、信じられない気がするだろうが、と断わったのだ」
「それで、どうなったのですか?」と研究生たちがきく。「その結果はどうだったのですか?」
「その結果は恐るべきものだった」驚いたことに、太いよく響く声がだしぬけに話にわり込んでくる。
一同は振りむいた。すると、そのささやかな群れのはしの方に見知らぬ男が一人立っている――中背で髪が黒く、鼻はかぎ鼻で、唇はふっくらとして赤く、黒々とした目はまるで刺すように鋭い。「恐るべきものだった」とその男はもう一度くりかえす。
所長は、そのとき、ちょうどいいぐあいに庭のあちこちに置いてあるスチールとゴムのベンチの一つに腰をおろしていたが、その見知らぬ男を見ると、いきなりとび立って両手を広げ、すっかり歯を見せて顔じゅうにあふれるばかりの微笑《ほほえみ》を浮かべながら、駆けよった。
「大統領閣下! 全く思いもかけませんのに、ようこそおいでくださいました! 諸君、何を考えているんだ? このお方は大統領閣下だ。このお方こそ、恐れ多くもムスタファ・モンド閣下だ」
センター内の四千の部屋の四千の電気時計が、まるで申し合わせたように四時を打った。肉体をもたない人のような声が拡声器から呼びかける。
「第一昼間組、勤務終了。第二昼間組、交替。第一昼間組、勤務……」
更衣室へ上がる途中のエレベーターの中で、ヘンリー・フォスターと階級予定部副部長の二人は、心理学部のバーナード・マルクスに、まるであてつけたように背をむけている。とかくの評判のあるこの男を避けているのだ。
胎児貯蔵室の内部《なか》では、機械のかすかな唸りと騒音が、相変わらず真紅の空気をかきたてている。勤務の終わった作業員が職場を離れ、入れちがいに次の番の者がすぐ職場につく。狼瘡色の顔が、もう一人の狼瘡色の顔と交替する。しかし、コンベアーだけは休みもせず、未来の男女たちをのせて、堂々とゆっくり歩みを続けている。
レーニナ・クラウンは、活発な足どりでドアの方へ歩いていく。
ムスタファ・モンド閣下だ! 挨拶《あいさつ》をする研究生たちの目玉は、今にも頭からとびだしそうだ。ムスタファ・モンド! 西欧駐在大統領だ! 十人の世界大統領の一人だ……その大統領が所長と並んでベンチに腰をおろした。さては、しばらくここにいらっしゃるおつもりなのだ。ここにいられて、そうだ、そして、本当にみんなに話をされるおつもりなのだ……この大人物がじきじきに、だ。それこそ、フォード様じきじきの御託宣だ。
小えび色の肌をした子供が二人、近くの茂みから姿を現わし、しばらく驚きの目をみはって一同をみつめていたが、やがて、茂みの間の遊戯にもどっていった。
「諸君はみなおぼえていることと思うが」と、大統領は例の強く深みのある声で話しだす。「わが主フォード様の、あの美しい霊感にみちたお言葉、『歴史はでたらめである』を、おそらくみんながおぼえているであろう。歴史は」と彼はおもむろにくりかえす。「でたらめである」
彼は手を振りまわす。それはまるで目に見えない羽ぼうきで小さなごみをはき清めているみたいだ。そのごみは、たちまちハラッパ(インダス文明の遺跡)となり、カルデアのアー(バビロニア南部にあった古代カルデアの都市)となった。くもの巣らしいものもはらったな、と思ったら、それはテーベ(古代ギリシアの都市国家)と、バビロン(ユーフラテス川に沿ったバビロニア帝国の古都)と、クノッソス(クレタ島の廃都。ミノス文明の中心地)と、ミケーネ(ギリシア南東部アルゴリスの古都。太古の青銅器時代文明の中心地)だった。サッと一はき、続いて一はき――オデュッセウス(古代ギリシアのホメロス作『オデュッセイア』に出てくる知勇兼備のギリシアの大将)はどこだ? ヨブ(ヘブライの族長で、神を信ずることが厚く、あらゆる苦難に耐えた。その忍苦の生活は、旧約聖書のヨブ記に述べられている)は? ジュピター(ローマ神話に出てくる、神々の王で、天の支配者である最高の神。ギリシア神話のゼウスに当たる)は? 釈迦牟尼《しゃかむに》(釈迦は、もと古代インドの種族の名称。釈尊はこの種族に生まれ、悟りを開いて聖者となったので、釈迦牟尼となった)は? イエスは? サッと一はき、そら――アテネも、ローマも、エルサレムも、古代エジプト王国も――そんな名前の古くさいちりあくたは、あとかたもなく消えうせてしまった。またサッと一はき、そら――昔、イタリアがあったあとはもうからっぽだ。サッと一はき、そら、大伽藍《だいがらん》が消えた。サッと一はき、また一はき、そら、リア王(シェイクスピア作の四大悲劇の一つ)が消えた。そら、パスカル(フランスの哲学者)の思想も消えた。サッと一はき、そら、キリスト受難曲が消えた。サッと一はき、そら、鎮魂曲が消えた。サッと一はき、そら、交響曲も消えた。サッと一はき、そら……
「ヘンリー、今晩、触感映画《フイーリー》に行かないか?」と階級予定部副部長が声をかける。「アルハンブラ館の今度の出しものは傑作だという話だぜ。熊の毛皮の敷物の上でラブシーンがあるんだ。何でもすばらしいそうだ。熊の毛を一本一本模造してあってね。触《さわ》り心地満点だそうだよ」
「そういうわけで、諸君には歴史を教えないことになっているのだ」と大統領が言っている。「しかし、今はもう教えてもよいときだから……」
所長が心配そうに彼をみつめる。大統領の書斎の金庫に、昔の禁書が隠してある、という奇怪なうわさがたっているのだ。聖書とか、詩集とか――フォード様のほかは誰も知らないものが。
ムスタファ・モンドは、所長の心配そうなまなざしを目でおさえる。その赤い唇のはしが、皮肉そうにピクピク動く。
「大丈夫だよ、所長」と少し小ばかにしたような口調だ。「べつに、この連中を堕落させたりなんかしないからね」
所長は途方にくれて、ただオロオロするばかりだ。
おれは軽蔑されているな、という気がしたときは、こちらも軽蔑した顔をしてやるに限る。バーナード・マルクスの顔の微笑にも、軽蔑の色が浮かんでいる。ふふん、熊の毛を一本一本だって、くだらん!
「きっと行くよ」とヘンリー・フォスターが約束する。
ムスタファ・モンドは前へ乗りだし、研究生たちに向かって指を振る。「ちょっと想像してみたまえ」と彼は言う。その声は、一同の横隔膜に、奇妙なゾクッとするようなわななきを与える。「自分をお腹《なか》の中で育ててくれた母親がいる、というのはどのような気持ちなのか、ちょっと想像してみたまえ」
またあのいやらしい言葉だ。しかし、今度は誰も笑いたいなどとは夢にも思わない。
「『家族といっしょに暮らす』というのは、いったいどういうことなのか、想像してみたまえ」
一同は想像を逞《たくま》しくしてみるが、どうもさっぱりピンとこないらしい。
「それから『家庭』とはどんなものか、知っているかね?」
研究生たちは首を振るばかりだ。
レーニナ・クラウンは、うす暗い深紅色の地下室の職場から、十八階までエレベーターで一気に駆け上がる。エレベーターを出ると右に曲がり、長い廊下を歩いていく。「女子更衣室」と書いたドアをあけて、腕と胸と下着の入り乱れている、耳もつぶれそうな喧騒《さわがしさ》の中へとび込む。ほとばしり出るお湯が、百台の浴槽の中へザアザア流れ込んだり、ゴボゴボ流れ出たりしている。八十台の振動式真空マッサージ機が、ゴトン、ゴトン、シューッと音をたてながら、八十人のすばらしい美人の、日に焼けて引きしまった肉体を、いっせいにもみほぐしたり吸い込んだりしている。誰も彼もありったけの声をはりあげながらしゃべっている。合成音楽演奏機が、スーパーコルネットの独奏を流している。
「あら、ファニイ」レーニナは、となりに洋服かけやロッカーをもっている若い女に声をかける。
ファニイは「びん詰室」勤務だが、その姓は彼女と同じクラウンだ。しかし、何しろ世界二十億の住民の間に、名前がわずか一万種類しかないのだから、そんな偶然の一致は、べつだん驚くほどのこともないのだ。
レーニナはファスナーを引っぱる――まずジャケットのファスナーを引き下げ、スラックスの二つのファスナーは、両手で同じにグイと引きおろす。次に下着のファスナーを引き下げてぬぐ。靴とストッキングははいたまま、浴室の方へ歩いていく。
家庭、家庭――それは、二つ三つの息のつまりそうな小っぽけな部屋の集まりで、そこには男が一人と、周期的に子供を産む女が一人と、ベチャクチャしゃべるいろいろな年格好《としかっこう》の男の児や女の児の群れがひしめいているのだ。空気の流通も悪く、場所のゆとりもない。消毒されてない牢獄《ろうごく》で、それこそ暗黒と疾病と悪臭の巣窟である。
(大統領の説明があまりにも真に迫っていたので、特に神経質な研究生の一人は、その話をきいただけでまっ青《さお》になり、今にも嘔吐《もど》しそうになった)
レーニナは浴槽から出て、タオルでからだをふいてかわかしてから、壁にさし込みになった長いしなやかなチューブをつかんでその筒口を自分の胸もとにあてがい、まるで自殺でもはかるみたいに引き金を下にグイと引く。すると、温風がプーッと吹きだし、きわめて細かいタルカン・パウダーを彼女の全身に振りかける。洗面台の上に、八種類のそれぞれ異なった香水とオー・デ・コロンの出る小さなコックがついている。彼女は左から三番目のコックをひねって、シープル(油と樹脂などの非アルコール性混合物。香水に用いる)をからだじゅうにペタペタぬりたくってから、靴とストッキングを手にもって、振動式真空マッサージ機がどれか一つ空《あ》いていないか見にいく。
そして、家庭というものは、物質的に汚《きたな》らしいだけではなく、精神的にも汚らしい。精神的にみれば、ギュウギュウづめの生活の摩擦で熱くなり、感情が鼻もちならぬ悪臭を放っている、いわば兎《うさぎ》の穴か、こやしの山だ。家族グループの一人一人の間に、なんという息づまるような親密さ、なんという危険で、気ちがいじみた、みだらな関係があるのだろう! 母親は、気でも狂ったように、自分の子供たちをかわいがる(|自分の生んだ子供たちを《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、だ)……まるで、親猫が仔猫をかわいがるように。だが、この猫は口のきける猫だ。「いい子ちゃん、いい子ちゃん」と、くりかえしくりかえししゃべれる猫だ。「いい子ちゃん、おお、よしよし、わたしの胸のこのちっちゃなおてて、おなかのすいたかわい子ちゃん、チュウチュウとオッパイをのんでくれると、どういっていいかわからないくらい、せつないみたいに嬉しいわ! あら、いい子ちゃん、とうとうおねんねしてしまったのね。いい子ちゃんたら、お口のへりに白いオッパイのあぶくをつけたままで、おねんねしたのね。いい子ちゃんはおねんね……」
「そうだとも」ムスタファ・モンドはうなずきながら言う。「いや、ゾッとするほうがあたりまえなのだ」
「今夜は誰といっしょに行くの?」レーニナは、振動式真空マッサージからの帰りに、まるで、内部《なか》から光を放っている真珠のようにうすもも色に輝きながらたずねる。
「誰とも行かないわ」
レーニナはびっくりして眉《まゆ》をつり上げる。
「あたし、近ごろ、なんとなく気分がすぐれないのよ」と、ファニイが説明する。「ウェルズ博士《せんせい》は妊娠《にんしん》代用薬をのんでみたら、っておっしゃるんだけど」
「でも、あんたはまだ十九歳でしょう。第一回妊娠代用薬は、二十一歳になるまでは、のまなきゃならない義務はないのよ」
「そりゃわかってるわ。でも、人によりけりで、早くはじめればはじめるほどいい場合だってあるらしいのよ。ウェルズ博士《せんせい》のお話では、あたしみたいに黒髪《ブルーネット》で骨盤の広い女は、十七歳で第一回をはじめたほうがよかったんだって。そうなると、あたし、二年早すぎるどころか、たしかに二年遅れてるってわけよ」彼女は自分のロッカーの戸をあけて、上の棚にズラリと並んでいる箱とレッテルをはった薬びんを指さす。
「卵巣|黄体《おうたい》シロップ」とレーニナは、レッテルの文字を声に出して読む。「卵巣製剤《オーヴァリン》(鮮度保証付)……フォード紀元六百三十二年八月一日以降服用禁止。乳腺エキス……一日三回、毎食前少量の水にて服用。胎盤製剤《プラセンテイン》……五cc宛、三日目ごとに静脈注射……うっ!」レーニナは身震いする。「ああ、あたし、静脈注射だけはまっぴらだわ、ねえ?」
「そうよ。でも、からだにいいっていうんだから……」ファニイは、特別ものわかりのいい娘《こ》なのだ。
わが主フォード様は――いや、わが主フロイト様(オーストリアの医師、精神分析学の開祖)は(なんだかわからないが、心理学上の問題を述べるときには、彼はいつもこうとなえるのだ)――わが主フロイト様は、家族生活に伴う恐るべき危険をはじめて明らかにした方である。世界じゅうに父親がウヨウヨしていた――そのため、世界は苦難にみちみちていた。母親もウヨウヨしていた――そのため、加虐性色情狂《サディズム》から純潔に至るまでの、ありとあらゆる倒錯にみちみちていた。兄弟、姉妹、叔伯父母たちもウヨウヨしていた――そのため、狂気や自殺にみちみちていた。
「しかもなお、ニューギニア海岸沖合の群島のうち、サモアの野蛮人たちの間では……」
咲き乱れたハイビスカスの花の間で、入り混じりながらころげまわっている男の児や女の児のはだかのからだに、熱帯の太陽があたたかい蜜のように降りそそいでいる。やしの葉で屋根を葺《ふ》いた二十軒のどの家にも、家庭がある。トロブリアンド諸島(ニューギニアの東方、ソロモン海にある一群のさんご島)の原住民たちの間では、妊娠は先祖の霊のなせるわざとなっていて、父親などというものは、誰もいまだかつてきいたことがない。
「両極端は」と大統領が言う。「一致する。一致するようにされているという、ごくあたりまえの理由によって、だ」
「ウェルズ博士《せんせい》はおっしゃるのよ、今から三か月間妊娠代用薬をのむと、三、四年はみちがえるほど健康になれるって」
「へーえ、それほんとかしら」とレーニナが言う。「でもね、ファニイ、あんた、まさか今から三か月間ちっとも……しないって、そりゃ本気なの」
「いいえ、ちがうわ。ほんの一、二週間の間だけよ。あたし、今晩はクラブへ行って、ミュージカル・ブリッジをしてすごすつもりなの。あんたは外出?」
レーニナはうなずく。
「誰と?」
「ヘンリー・フォスターよ」
「またあの人と?」ファニイの人のよいちょっとお月さまのような顔に、顔にも似合わない、苦痛と非難のこもった驚きの色が浮かぶ。「あんた、まだヘンリー・フォスターと出歩くっていうの?」
父親と母親、兄弟と姉妹。しかもその上に、夫、妻、恋人がいる。一夫一婦制、恋愛事件《ロマンス》もある。
「諸君は、おそらくこういったものの実態を知らないだろうが」とムスタファ・モンドが言う。
彼らは首を横に振る。
家族、一夫一婦制、恋愛事件《ロマンス》。どこへ行っても排他主義があり、どこへ行っても利害の集中と、衝動やエネルギーをせまい溝《みぞ》へ流しこまねばならない束縛がある。
「しかし、すべての人はほかのすべての人のものなのだ」と彼は睡眠教育法《ヒプノピィディア》の諺《ことわざ》を引用しながら、話をしめくくる。研究生たちは、暗やみの中で六万二千回以上もくりかえしたたきこまれたために、たんなる真実以上の、全く疑問の余地もない自明な公理として認めるようになったこの言葉に、力強く同意しながらうなずく。
「でもね、結局のところ」とレーニナが口をとがらしている。「あたし、ヘンリーとおつき合いするようになってから、まだほんの四か月くらいよ」
「ほんの四か月くらいだって! おっしゃるわね。そしておまけに」と、きめつけるように指さしながら、ファニイはたたみかける。「その間じゅう、ヘンリーのほかは誰ともおつき合いしなかったんでしょう、ええ?」
レーニナは恥ずかしさでまっ赤になったが、目つきも声の調子も相変わらず喧嘩ごしだ。「ええ、そうですとも」ほとんどかみつくような返事だ。「だって、なぜおつき合いしなきゃいけないのか、さっぱりわかんないわ」
「まあ、あきれた、この女《ひと》ったら、なぜおつき合いしなきゃいけないのか、さっぱりわかんないんですって」まるで、レーニナの左肩の後ろに誰か見えない聴《き》き手でもいるみたいに、ファニイはそちらに向かってくりかえす。それから、ガラリと調子を変えて、「まじめな話だけど」と切りだす。「あんた、ほんとに自重したほうがいいと思うわ。こんなふうに一人の男の人といつまでも関係を続けるのは、それこそひどくいけないやり方なのよ。これが四十とか、せめて三十五ぐらいの年ごろなら、ひどくいけないってこともないでしょうけど。でも、あんたはまだ若いんですもの、ねえレーニナ! だめよ、ほんとにいけないわ。それに、激しすぎるのや長びくのは所長さんが大反対よ、わかってるでしょう。ほかのどの男の人ともおつき合いしないで、ヘンリー・フォスターとだけ四か月も――ああ、所長さんに知れたら、それこそ所長さん、カンカンよ……」
「管《パイプ》の中で圧力をかけた水のことを考えてみたまえ」一同はそれを考える。「ひとたびそれに穴をあけると」と大統領が言う。「なんとすさまじい勢いで水が噴き出ることか!」
彼は二十回も穴をあける。すると、ちっぽけな噴水が二十本もチョロチョロ噴きだす。
「いい子ちゃん、いい子ちゃん……!」
「お母ちゃん!」とかく狂気というものは伝染しやすいのだ。
「ねえおまえ、ぼくのたった一人の、かけがえのない大事な大事な……」
母親、一夫一婦制、恋愛事件《ロマンス》。噴水が高くふき上がり、そのほとばしる流れが猛烈に泡立つ。その衝動には、はけ口がたった一つしかないのだ。ねえおまえ、と、いい子ちゃん、だ。近代以前の人々が気ちがいじみていて、道徳をふみはずし、悲惨だったのは、むしろあたりまえだ。彼らがものごとを気楽に考えることも、正気にかえることも、道徳を正しく守ることも、幸福になることも、すべて世界が許さなかったのだ。母親やら、恋人やら、守らせるための条件反射教育の前提のない禁止令やら、誘惑やら、孤独なときの自責の念やら、ありとあらゆる病気やら、はてしのない自己孤立の苦痛やら、不安やら、貧困やらのために――彼らは、いやおうなしに強烈な感情にとらわれるに至ったのだ。そして、強烈な感情にとらわれれば(しかも、もっとぐあいの悪いことに、孤独なとき、途方にくれた孤独なとき、そうなれば)、彼らはどうして心の安定を得ることができようか?
「もちろん、何がなんでもあの人を諦めなきゃいけないっていうんじゃないの。ときどきは誰かほかの人ともおつき合いしなさいっていうの、ただそれだけよ。あの人のほうは、チャンとほかの女《ひと》とおつき合いしてるんでしょう?」
レーニナはそうだと言う。
「そうにきまってるわ。ヘンリー・フォスターはどうみたって申し分のない紳士《ゼントルマン》だもの――ぜったいにへたなことなどしないわよ。それにね、所長さんの思惑《おもわく》ってこともあるでしょう。どんなにやかまし屋かあんただって……」
うなずきながら、「実は今日のお昼すぎにね、あたし肩をたたかれたのよ」とレーニナはうちあける。
「それごらんなさい!」ファニイはしたり顔で言う。「所長さんの考え方ってものが、それでわかったでしょう。コチンコチンの保守派よ」
「安定だ」と大統領が言う。「まず安定だ。社会的安定なくして文明はない。そして、個人の安定なくして社会的安定はありえないのだ」彼の声は、まさに喨々《りょうりょう》と鳴りひびくトランペットだ。ききほれている研究生たちは、しだいに気分が大きくなり、熱くなってくる。
機械がまわる、まわる。そして、まわり続けなければならない――永遠に。止まれば死だ。十億の人間が、地球のうわ皮をわれ先にとかすめ取り合った。運命の車輪がまわりはじめた。百五十年後には、人口は二十億となった。仮にすべての車輪が止まったとする。百五十週後にふたたびただの十億となる。千の千倍のそのまた千倍の男女たちが餓死したのだ。
車輪は絶えずまわり続けなければならないが、世話をする者がいないとまわることができない。車輪の世話をする人間、心棒にはまってまわる車輪のように調子の乱れない人間、境遇に満足して安定している気の確かな人間、従順な人間がいなければならぬ。
叫び声……いい子ちゃん、お母ちゃん、たった一人のかけがえのないおまえ。呻き声……わたしの罪よ、恐るべき神よ、苦痛の叫び、熱狂したつぶやき、老齢や貧困の嘆きの声――こんな人間たちに、どうして車輪の世話ができようか? そして、もしこの連中にできないとなれば……千の千倍のそのまた千倍の男女の死体を埋葬することも火葬にすることも、きわめてむずかしくなるであろう。
「それでね、つまり」なだめすかすようなファニイの調子だ。「ヘンリーのほかに一人か二人の男とおつき合いをしたって、べつだん辛《つら》いことも気にさわることもないんじゃないかしら。で、あんたは、もうほんのちょっぴりおつき合いをひろげたほうがいいんだから……」
「安定だ」と大統領は主張する。「安定だ。安定こそ、最初にして最後の要求だ。これからいっさいのものが生まれるのだ」
手を振って彼は庭や、条件反射教育センターの巨大なビルや、やぶでコソコソ何かしたり芝生の上を駆けまわったりしているはだかの子供たちを指さす。
レーニナは首を横に振る。「なぜだかわかんないけど」と彼女は考えこむように言う。「あたし、近ごろいろいろな人とおつき合いをするの、あまり気が進まないのよ。そんなときがあるんだわ。あんたはどうだった? ファニイ」
ファニイは、そうね、よくわかるわというようにうなずいた。「でも、おつき合いしてみようと一生懸命にやってみなくちゃいけないわ」と彼女はもったいぶって言う。「正しい行ないをしなくちゃいけないんだ、とね。つまるところ、すべての人は他のすべての人のものなんですもの」
「そうね、すべての人は他のすべての人のものなのね」とレーニナはゆっくりくりかえし、ため息をつきながらしばらく黙り込む。それから、ファニイの手をつかんで、ちょっとギュッと握りしめる。「おっしゃるとおりだわ。ファニイ。いつものことよ。あたし、一生懸命やってみるわ」
せき止められた衝動はあふれ出る。そして、そのあふれ出たものが感情となり、情熱となり、狂気とさえなる。あふれたものが何になるかは、流れの勢いと、せきの高さと強さによってきまる。せき止められない流れは、定められた水路を通ってよどみなく流れていき、おだやかな幸福にたどりつく。胎児は空腹だ。夜も昼も、合成血液循環ポンプが、一分間八百回転でたえず運転を続ける。びんから出された幼児が泣きわめく。すると、保母が外分泌液のびんをもってすぐに駆けつける。感情というものは、欲求とその充足との間の時間的間隔の中に潜在する。その時間的間隔を短縮せよ。過去の不必要な障害をすべて打破せよ。
「諸君はなんというしあわせな人たちなのだろう!」と大統領が言う。「諸君の生活に感情の重荷を与えないために――つまり、諸君を、およそ感情と名のつくものからできうる限り保護するために、万全の措置が講ぜられているのだ」
「フォードは安ピカ自動車におわします」と所長はとなえる。「すべて世はこともなし」
「レーニナ・クラウンだって!」ヘンリー・フォスターは、ズボンのファスナーを引き上げながら、階級予定部副部長の質問をおうむ返しにくりかえす。「ああ、あの娘《こ》はとてもいい娘《こ》だよ。びっくりするほど弾《はず》みがいいんだ。君がまだつき合ったことがないなんて、おどろいたよ」
「おれもどうしてだかわからないんだ」と副部長が言う。「きっとつき合ってみるよ。チャンスがありしだい」
更衣室の廊下の向かい側にいたバーナード・マルクスが、二人の話を立ち聞きしてまっさおになる。
「それに、ほんと言うとね」とレーニナは言う。「あたしだって、毎日ヘンリーのほかは誰ともおつき合いしないでいるのが、ちょっぴりたいくつになってきたのよ」彼女は左のストッキングをはいた。「あんた、バーナード・マルクスって人知ってる?」みせかけだと一目でわかる、さりげない口調で彼女がきく。
ファニイはびっくりした顔をする。「あんた、まさか……?」
「どうして? だって、バーナードはアルファ・プラスでしょう。おまけに、いっしょにどこかの野蛮人保護地区へ行かないかって、あたしを誘ってくれたのよ。あたし、今まで一ぺん見たいと思っていたところなの」
「でも、あの人ね、とかくの評判がたってるでしょう」
「評判なんて、あたしの知ったことじゃないわよ」
「何でも障害ゴルフが大嫌いなんだっていう噂《うわさ》よ」
「一にも噂、二にも噂ね」とレーニナがからかう。
「それにね、あの人ったらたいてい一人ぽっちでいるでしょう――一人ぽっちでね」ファニイの声は恐ろしそうだ。
「だって、あたしといっしょにいれば、べつに一人ぽっちってわけじゃないでしょう。そりゃそうと、なぜ、みんながあの人のことをあんなに悪く言うのかしら? あたしは、ずいぶんいい人だと思うんだけど」彼女は心の中でニンマリする。あの人ったら、ほんとにはにかみ屋だわ、まるでばかみたい! ずいぶんオドオドしているんだもの――あたしが世界大統領で、自分はガンマー・マイナスの機械の番人とでも思っているのかしら。
「君たち自身のこれまでの生活をよく考えてみたまえ」とムスタファ・モンドが言う。「君たちの中で、誰か今までに克服できないような障害に出くわした者があるかね?」
出くわしたことはありません、というかわりに、一同はただ黙っている。
「君たちの中で、誰か今までに欲求の自覚とその充足との間に、どうしても長い時間的間隔を経験しなければならなかった者がいるかね?」
「あのう」と一人の研究生が口をひらいたが、モジモジしている。
「大きな声ではっきり言いたまえ」と所長がたしなめる。「大統領閣下をお待たせしてはいけない」
「ぼくは以前に、好きだった女の子がつき合ってくれるまで四週間近くも待たされたことがあります」
「それで、そのために君は強い感情を経験しただろうね?」
「そりゃもう、ゾッとするほどです!」
「まさにそのとおり、ゾッとするほどなのだ」と大統領が言う。「われわれの祖先は、全くおろかで先が見通せなかったので、最初の改革者たちが現われ、彼らをそのような恐るべき感情から救おうとしたときにも、彼らは、てんで改革者の言うことを取り上げようともしなかったのだ」
「彼女のことを、まるで肉のひと切れか何かのつもりでしゃべっていやがる」とバーナードは歯ぎしりする。「こちらでひと口、あちらでもひと口か。羊の肉じゃあるまいし。彼女を羊の肉だと見そこなっていやがるな。よく考えて、今週お返事しますわ、と言っていたんだがな。ああ、フォード様、フォード様、フォード様」彼は二人のそばへとんでいって、横つらをはりとばしてやりたいような衝動に駆られる――胸のすくほど何回も何回も。「うん、ほんとに忠告するけど、ぜひあの娘《こ》とやってみるんだな」とヘンリー・フォスターがけしかけている。
「体外発生を取り上げてみよう。プフィッツナーとカワグチが体外発生法を苦心のすえ全面的に完成した。しかし、政府がそれに注目しただろうか? 否《ノー》、だ。キリスト教というものがあったのだ。それで、女性は相変わらず、いやおうなしに胎生を続けなければならなかったのだ」
「あの人、ずいぶん、ぶおとこじゃない!」とファニイが言う。
「でも、あたし、どっちかといえばあんな顔が好きだわ」
「それに、ずいぶん|小さい《ヽヽヽ》でしょう」とファニイは顔をしかめる。小柄ということは、それこそほんとにいやらしい下層階級的特徴なのだ。「あら、それだってちょっとした魅力よ」とレーニナが言う。「かわいがってみたい気になるじゃない。ほら、ちょうど猫やなんかみたいに」
ファニイはドキッとする。「なんでもね、あの人がまだびんの中にいたころ、誰かが間違いをやったらしいのよ――てっきりガンマーだと感ちがいして、合成血液の中へアルコールを入れてしまったんだって。それで、あんなふうに背がのびなかったらしいの」
「ばかおっしゃい!」レーニナはムッとする。
「睡眠教育法《ヒプノピィディア》は、実際、イギリスでは禁止された。自由主義というものがあったのだ。それで、議会(これがどんなものかは御承知のことと思うが)が、睡眠教育法反対法案を通過させたのだ。そのときの記録が今も残っている。人民の自由というものについて、演説が行なわれた。無能になり悲惨におちいる自由。四角な穴を丸いままで通り抜ける自由だ」
「だけどね、君の誘いなら二つ返事でうんと言うぜ、ぜったいに。きっとだ」ヘンリーは、副部長の肩をポンとたたく。「何といったって、すべての人は他のすべての人のものなんだからね」
四年連続、一週に三晩、百回ずつの反復だな、とバーナード・マルクスは考える。彼は睡眠教育法の専門家なのだ。六万二千四百回くりかえすと、真理が一つでき上がるってわけか。ばかどもめ!
「また階級《カースト》制度も同じだった。たえず提案され、たえず否定された。民主主義というものがあったのだ。まるで、人間が物理化学的に平等である、というだけではもの足りないみたいに」
「そうね、あたし、あの人の誘いを受けるつもりよってことしかいえないわ」
バーナードは二人をひどく憎む。しかし、相手は二人で、背が高く力も強いのだ。
「九年戦争が、フォード紀元百四十一年にはじまった」
「たとえ、あの人の合成血液にアルコールがまざったっていう噂が、仮に本当だとしてもね、ぜったいに」
「ホスゲン(窒息性毒ガスに用いる)、クロロピクリン(殺虫・殺菌剤・催涙窒息性毒ガスとして使用する)、ヨード酢酸エチル(催涙作用を起こす中程度の毒ガス)、ジフェニル・シアン・アルシン(強烈な刺激性毒ガス)、クロルギ酸トリクロメチル(中毒性毒ガス)、硫化ジクロル・エチル(持続性糜爛性ガス。イペリットともいう)、青酸はいうまでもない」
「その噂だけど、あたし、とても信じられないのよ」レーニナは、とどめを刺すように言い放つ。
「散開隊形で進攻する一万四千機の飛行機の爆音。しかし、クルフュルステンダムや、第|八区《アロンディスマン》では、脾脱疽《ひだっそ》爆弾の炸裂《さくれつ》はまあせいぜい紙袋をふくらませてポンとたたき破るぐらいの音だった」
「だって、あたし、野蛮人保護地区を見たくてたまらないんですもの」
T・N・T火薬+イソシアン水銀=さて、結果は? 地面に途方もなく大きな穴が一つあく。石の建物の破片、粘液のまじった肉片の塊《かたま》り、まだ深靴をはいたままの片足などが空中を飛んできたかと見るまに、ドサッと天人花《ジェラニウム》の花壇のまん中に落ちた――真紅の天人花《ジェラニウム》だ。その夏のまことにすばらしい見ものだった!
「あんたには、もう匙《さじ》を投げたわよ、レーニナ、好きなようになさい」
「ロシア軍の対上水道細菌戦術は特に巧妙だった」
ファニイとレーニナは、背をむけ合ったまま、黙りこくって着替えを続ける。
「九年戦争、経済的大破局。世界的統制か、それとも破滅か、そのどちらかを選ばねばならなかったのだ。安定か、それとも……」
「ファニイ・クラウンもいい娘《こ》だよ」と副部長が言う。
保育室では階級意識初歩の授業が終わって、未来の需要を未来の工業製品生産高に適合させている声がきこえる。「空を飛ぶのが大好き」と声がささやく。「空を飛ぶのが大好き。新しい洋服が大好き。新しい……」
「自由主義は、もちろん、脾脱疽のために死滅した。がしかし、武力では何もすることができないのだ」
「レーニナと比べたら、まあそんなに弾《はず》みはよくないな。いやあ、あれほどはよくないよ」
「でも、古い洋服はゾッとする」とささやき声があきもしないで続けている。「古い洋服はいつも捨てます。つくろうよりは捨てなさい。つくろうよりは捨てなさい。つくろうよりは……」
「政治というものは座業だ。ぶんなぐることではない。頭脳《あたま》とお尻で政治をするのだ。げんこは禁物。たとえば、昔は消費強制制度なるものがあった」
「さあ、あたしはこれでいいわ」とレーニナが声をかける。しかし、ファニイは顔をそむけたまま黙っている。「仲直りしましょうよ、ねえファニイ」
「男も女も子供もみんな、一年間に一定額を消費するように強制された。工業振興のためだ。その唯一の結果は……」
「つくろうよりは捨てなさい。つくろいは貧困の源泉《もと》。つくろいは……」
「そのうちにいつか」とファニイは無気味に力をこめて言う。「あんたは、きっとひどい目に会うわ」
「大規模な良心的反対運動。何も消費するな。自然にかえれ」
「空を飛ぶのが大好き。空を飛ぶのが大好き」
「文化にかえれ。そうだ、本当の文化に。すわって読書をしていれば、たいした消費をせずにすむ」
「これでおかしくないかしら?」とレーニナがきく。彼女のジャケットは深緑色のアセテート・クロースで、袖口《そでぐち》と襟《えり》には、緑色のビスコースの毛皮がついている。
「八百人の簡素生活主義者が、ゴルダ―ズ・グリーン(ロンドン北部の文化的地区)で機銃掃射された」
「つくろうよりは捨てなさい。つくろうよりは捨てなさい」
緑色のコールテンのショート・パンツ、ビスコース・ウールのストッキングは膝下《ひざした》で折りかえしてある。
「その後、あの有名な大英博物館の大虐殺が起こった。二千人の文化愛好者が、硫化ジクロル・エチルガスで殺されたのだ」
緑と白の縞《しま》もようの騎手帽《ジョッキー・キャップ》が、レーニナの目のあたりに陰をつくっている。はいている靴は、明るい緑色でピカピカに磨きたててある。
「ついに」とムスタファ・モンドが言う。「大統領たちも、武力は全く無益であることに気がついた。きき目は遅いが、はるかに確実な、体外発生、新パヴロフ式条件反射教育法、睡眠教育法といった方法こそ……」
そして、彼女は、腰のまわりに、銀かざりのついた緑色の人造モロッコ皮の避妊薬帯《カートリッジ・ベルト》をしめている。その帯《ベルト》は、正規配給分の避妊薬でふくらんでいる。(避妊薬を支給されるのは、レーニナが生殖機能を喪失していないからだ)
「プフィツナーとカワグチの発見がついに利用されることになったのだ。胎生生殖に反対する強力な宣伝運動が……」
「すばらしいわ!」とファニイは有頂天《うちょうてん》になって叫ぶ。レーニナの魅力を前にしては、いつまでも逆らっていることなどできなかったのだ。「それにしても、なんてすてきな避妊薬携帯《マルサス》ベルト(トマス・ロバート・マルサス。一七六六―一八三四。イギリスの経済学者。著書「人口論」の中で、人口増殖の阻止を説いた)なんでしょう!」
「それに引き続いて、過去抹殺運動が展開され、博物館の閉鎖、歴史的記念物(さいわいにも、九年戦争の間にそのほとんどが破壊されてしまっていたが)の爆破等が行なわれ、フォード紀元百五十年前に刊行されたすべての書物の発禁をみた」
「あたしも、ぜったいにそんなベルトを手に入れなくちゃ」とファニイが言う。
「たとえば、ピラミッドと呼ばれるものがいくつかあったのだ」
「あたしの古い専売特許の黒い避妊薬帯《カートリッジ・ベルト》など……」
「それに、シェイクスピアという名前の人物がいた。諸君は、もちろん、そんな連中のことなどきいたこともないだろう」
「ほんとに恥さらしだわ――あたしのあの避妊薬帯ったら」
「そういったところが、真に科学的な教育のすぐれた点なのだ」
「つくろいは貧困の源泉《もと》。つくろいは貧困の……」
「わが主フォード様の最初のT型車の登場をもって……」
「あたし、これをもう三か月近くも使っているのよ」
「新時代発足の日と定められたのだ」
「つくろうよりは捨てなさい。つくろうよりは捨てなさい……」
「先にも述べたように、キリスト教と呼ばれるものがあった」
「つくろうよりは捨てなさい」
「過少消費の道徳と哲学は……」
「新しい洋服が好き。新しい洋服が好き。新しい洋服が……」
「生産が少な過ぎた時代には、ぜったいに欠くことのできないものだった。が、機械と空中窒素固定化の時代ともなれば――むしろ、れっきとした、社会に対する犯罪となるのだ」
「これね、ヘンリー・フォスターがあたしにくれたのよ」
「十字架はどれも頭をちょん切られてT字型になったのだ。また、神と呼ばれるものもあった」
「これ、正真正銘の人造モロッコ皮よ」
「現在、われわれは世界国家を構成している。そして、フォード祝祭日、共有賛歌祭典、団結礼拝がある」
「フォード様、なんと憎らしい奴《やつ》らでしょう!」とバーナード・マルクスは考えている。
「天国と呼ばれるものがあった。しかし、それにもかかわらず、人々は多量のアルコーールを常用していたのだ」
「まるで肉みたいに、まるでそれだけの量の肉かなんかみたいに」
「魂と呼ばれるもの、不死と呼ばれるものなどがあった」
「それをどこで手に入れたの、ってヘンリーに聞いてちょうだいよ」
「それでも、人々はモルヒネやコカインを常用していたのだ」
「しかも、もっと始末が悪いことに、彼女が自分自身のことを肉だと思っているのだ」
「フォード紀元百七十八年、二千名の薬学者と生化学者に研究助成金が支給された」
「奴《やっこ》さん、憂鬱《ゆううつ》な顔をしているね」と副部長が、バーナード・マルクスを指さしながら言う。
「六年後に市販用生産に移された、その完全な薬剤が」
「ひとつ、ちょっかいをかけてみようよ」
「のむと、幸福感にみたされ、睡眠をもよおし、心地よい幻覚に襲われる、といったきき目をもっている」
「憂鬱屋のマルクス君、憂鬱屋君」肩をたたかれた彼は、びっくりして顔をあげる。あの人でなしのヘンリー・フォスターだ。「君は、どうしてもソーマを一グラムのまなくちゃいけないな」
「キリスト教とアルコールの長所はすべて備えていて、そのくせ、両者の短所は何一つもっていないのだ」
「フォード様、こんな奴はぶち殺してやりたいです!」しかし、口に出しては、ただ、こう言うだけだ。「いや、けっこうだよ」そう言って、さしだされた錠剤の容器を払いのける。
「いつでも好きなときに、休暇をとって現実逃避をやることだよ、そして、頭痛や神話さえも、きれいさっぱり洗い落として帰ってくるんだな」
「さあ、のめよ」とヘンリー・フォスターがしつこくすすめる。「のめったら」
「安定が事実上確保されたのだ」
「ソーマ一立方センチは、十の憂鬱を治す」と、副部長はおなじみの睡眠教育法《ヒプノピィディア》の格言を引用する。
「残っているのはただ一つ、老齢の征服だけだ」
「こん畜生、こん畜生!」とバーナード・マルクスが叫ぶ。
「いやはや、これはこれは」
「性腺ホルモン、若い血液の輸血、マグネシウム塩類……」
「一つのグラムは、一つの畜生《ダム》にまさることをお忘れなく」二人は笑いながら出ていく。
「老齢に伴う、すべての好ましくない生理学的特徴が撲滅された。そして、それとともに、もちろん……」
「あの人に、そのマルサス・ベルトのことをきいてくれるの、忘れないでね」とファニイが念をおす。
「それとともに、老人というもののもつ、すべての精神的特徴も消滅した。性格は、全生涯を通じて一定不変のものとなったのだ」
「……日暮れまでに、障害ゴルフを二まわりやらなきゃいけないのよ。あたし、ヘリコプターで飛ばなくちゃ」
「働き、遊ぶのだ――六十歳になっても、われわれの能力や好みは十七歳のときのままだ。みじめだった昔の時代の老人たちは、自分の勤めをやめて引退し、宗教にうつつをぬかし、本を読んだり、考えごとをしたりして暇をつぶしていたのだった――|考えごと《ヽヽヽヽ》を、だ!」
「まぬけの豚どもめ!」とバーナード・マルクスは、エレベーターへ行く廊下を歩きながらつぶやいている。
「今では――これこそ、まさに進歩というべきだが――老人でも働き、性の交わりをする。老人にも暇はない。娯楽《たのしみ》をやめる暇もなければ、すわってものを考えている暇もない――また、たとえ何かのはずみで、娯楽《たのしみ》という堅い物質に、あいにく暇という裂け目がポッカリ口をあけたとしても、ソーマが、さわやかなソーマが、ちゃんと待っていてくれる。半休日《はんドン》の日には半グラム、週末には一グラム、壮麗な東洋旅行には二グラム、月世界の永遠の暗やみを味わうには三グラム。そこから帰って、ハッと気がついたときには、もういつの間にやら、裂け目の向こう側の、毎日の仕事と娯楽《たのしみ》という堅い大地の上へ無事に着いている。そして、触感映画《フィーリー》から触感映画《フィーリー》へ、はずみのよい女から女へととびまわっているのだ。電磁式《エレクトロ・マグネチック》ゴルフ・コースからコースへと……」
「ちっちゃな女の児、あっちへ行きなさい」と所長が怒ってどなる。「ちっちゃな男の児もあっちへ行くんだ! 大統領閣下はお忙しいのだ、わからんのか? どこかほかのところへ行って性遊戯《エロチック・プレイ》をしなさい」
「小さな子供のことだからおお目に見てやりたまえ」と大統領が言う。
かすかな機械の唸りとともに、ゆっくり、堂々と、一時間に三十三センチの速さでコンベヤーが進んでいく。真紅の暗やみの中で、数え切れないルビー色の光がキラキラ輝いている。
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第四章
エレベーターは「アルファ更衣室」から出て来た男たちで満員だったが、レーニナがはいっていくと、大ぜいの人たちが親しみをこめてうなずきかけたり、ほほえみかけたりして迎えてくれる。彼女は人づき合いのよい娘《こ》で、この男たちのほとんど全部と、いつか一度くらいは一夜を共に過ごしたことがあったからだ。
彼女は挨拶に答えながら、好ましい青年《ひと》たちだわ、と思う。ほんとに魅力的な青年《ひと》たちだわ! でも、と彼女は考える。ジョージ・エゼルの耳があんなにばかでっかくなければいいのに(ひょっとすると、三百二十八メートルあたりで副甲状腺ホルモンをほんのちょっぴりとり過ぎたのじゃないかしら?)それから、ベニト・フーヴァーをながめていると、あの人、はだかになったときいくらなんでもあんまり毛深か過ぎるわ、などとそんなことがひとりでに頭に浮かんでくるのだった。
彼女が、ベニトの黒い縮れ毛を思いだしてちょっと憂鬱になった目で振りかえってみると、すみっこに、バーナード・マルクスの小柄な瘠《や》せたからだと陰気な顔が見えた。
「バーナード!」彼女はそばへ歩みよった。「あんたを捜していたのよ」彼女の声は、上がっていくエレベーターの唸《うな》りの中でひときわはっきりとひびく。ほかの連中はふしぎそうに振りかえる。「あのニューメキシコ行きのことでお話がしたかったの」ベニト・フーヴァーがびっくりして口をポカンとあけているのが横目に見える。ポカンと口なんかあけているのが彼女にはやりきれないのだ。「もう一ぺんいっしょに連れてってちょうだいって頼まないもんだから、きっとびっくりしてるんだわ!」と彼女は心の中で独《ひと》りごとを言う。それから、大きな声で一だんとやさしく「七月になったら一週間ほど、ぜひあなたといっしょに出かけたいのよ」と続ける。(とにかく彼女は、ヘンリーと特に親しい間柄ではないことを、公然と証明しているのだ。たとえ次の相手がバーナードであっても、ファニイは喜ぶはずなのだ)「つまりね」レーニナは、一番魅力的で意味あり気な微笑を彼に向ける。「もし、あなたに、まだあたしとおつき合いしたいっていう気があれば、のことだけど」
バーナードの青白い顔がサッと赤くなる。「いったいどうしてなのかしら?」彼女は驚いてふしぎがるが、同時に、自分の魅力に対してこんな変てこな敬意を表してくれたことに心を打たれる。
「その問題は、どこかよそで話し合ったほうがよくはないかと思うんだが」と彼は、ひどくきまり悪そうな顔をして、どもりながら言う。
「まるで、あたしに何かショッキングなことでも言われたみたいだわ」とレーニナは思う。「仮に、あたしがあなたのお母さんは誰なのとか何かきいて――いやらしい冗談を言ったって、まさかこんなにうろたえたりはしないでしょうね」
「何も、こんな、あたりに人の大ぜいいるところで……」彼はすっかりドギマギして今にも息がつまりそうだ。
レーニナは、すなおにあどけなく笑う。「ほんとにおかしな人ね!」という言葉がつい口に出る。本気でおかしいと思っているのだ。「少なくとも一週間前に予告してくれなきゃだめよ」彼女は声の調子をかえる。「ブルー・パシィフィック・ロケットに乗るんでしょう? あれは、チャーリング・T(ロンドンの中央部、ストランド街の西端にある繁華な広場がチャーリング・クロスであるが、ここでは、そのクロスをTともじったのである)タワーから発《た》つのかしら? それとも、ハムステッド(ロンドン北西部の住宅地域)だったかしら?」
バーナードがまだ返事をしないうちに、エレベーターはピタリと止まった。
「屋上です!」とかん高い声が呼びたてる。
エレベーター運転係はサルに似た小柄な男で、イプシロン・マイナス・半低脳《セミ・モロン》階級の黒いチュニックを着ている。
「屋上です!」
彼が乱暴に扉をあける。午後の日光の暖かな輝きにびっくりして、彼は目をパチクリする。
「ああ、屋上ですよ!」有頂天《うちょうてん》な声で彼はくりかえす。まるで、暗い死の昏睡《こんすい》からいきなり目がさめて喜びいさんでいるみたいだ。「屋上です!」
彼は、まるで何かを待ちこがれていた犬のように、すっかり夢中になって、ニコニコしながらお客の顔を見上げる。お客たちは、互いに談笑しながら陽光の中へ出ていく。エレベーター運転係はその後ろ姿を見送っている。
「屋上だね?」彼は、とても信じられない、といった調子でもう一度くりかえす。
そのときベルが鳴り、エレベーターの天井のラウドスピーカーが、ごくおだやかなしかも恐ろしく高びしゃな調子で命令を伝える。
「降りよ」とそのスピーカーが言う。「降りよ、十八階。降りよ。降りよ。十八階。降りよ。降りよ。降り……」
エレベーター係はバタンとドアをしめると、ボタンを押して、すぐさまブーンと唸っている井戸のようなうす暗がりの中へ降りていく。彼がいつも昏睡状態で暮らしているうす暗がりだ。
屋上はポカポカと暖かく明るい。夏の昼下がりの空気は、飛び交《か》うヘリコプターの爆音で眠気をそそる。頭上の晴れ渡った大空の五、六マイルあたりを、目にも止まらない速さで疾走するロケット機のひときわ深い爆音は、まるでさわやかな空気を愛撫《あいぶ》しているようだ。バーナード・マルクスは深呼吸を一つした。そして大空を見上げ、青い地平線を見まわしてから、最後にレーニナの顔に目をおろした。
「きれいですねえ!」彼の声はちょっと震えている。
ほんとにそうだわ、といった顔で、レーニナは彼に向かってニッコリする。「障害ゴルフにはほんとに絶好の日よりだわねえ」彼女はうっとりしながら答える。「さあ、あたし、そろそろヘリコプターで飛ばなくちゃいけないのよ、バーナード。ヘンリーったら待たせるとすぐ怒るから。例の日取りのこと、早めに知らせてちょうだいね」と言って、彼女は手を振りながら、広い陸《ろく》屋根を横切って格納庫の方へ走っていく。バーナードは、遠ざかっていく白いストッキングのチラチラする動きと、活発に何回となく屈伸する日焼けした膝と、暗緑色のジャケットの下の、ピッタリとからだに合ったコールテンのショート・パンツのひときわやわらかな揺らめきを、じっと見つめている。その顔に苦痛の色が浮かんでいる。
「ほんとにかわいいねえ」すぐ後ろで陽気な大声がきこえる。
バーナードは驚いて振りむく。ベニト・フーヴァーの丸っこい赤ら顔が、彼に向かってくったくもなくほほえみかけているのだ――明らかに、心からの親しみをこめたほほえみである。ベニトは有名なお人よしだ。何でも人の噂《うわさ》によると、この男は今までソーマに指一本触れないでやってくることができたらしい。ほかの連中なら、休暇でも取らないことには治まらない悪意や不機嫌にも、そもそも彼は、ただの一度も取りつかれたことがなかったのだ。ベニトにとって、現実はいつも陽気で楽しいものなのだ。
「はずみのほうも断然だしね、ほんとに!」それから調子を変えて、「でもね」と彼は続ける。「君はずいぶん憂鬱そうだなあ! ぜひソーマを一グラムのまなくちゃいけないな」ズボンの右ポケットに手をつっこんで、ベニトは薬びんを取りだす。「一立方センチは十の憂鬱を治すよ……でも、おいおい!」
バーナードが、いきなりクルリと向きをかえて逃げていってしまったのだ。
ベニトはじっとその後ろ姿を見守っている。「奴さん、いったいぜんたいどうしたというんだろう?」とふしぎがる。そして、首をかしげながら、あのかわいそうな男の合成血液にアルコールがはいったという噂は、きっと本当にちがいないと思い込む。「どうも頭をやられたようだな」
彼はソーマのびんをしまい込み、性ホルモン・チューインガムの包みを取りだすと、その一つを頬につめ込んで、クチャクチャかみながらゆっくりと格納庫の方へ歩いていく。
ヘンリー・フォスターは、もうとっくに自分のヘリコプターを格納庫から引っぱりだしていて、レーニナが着いたときには、チャンと操縦席にすわって待っているところだった。
「四分遅刻」彼女がそばへ乗り込んだとき、彼はただそれだけ言った。彼はエンジンをかけ、ヘリコプターのプロペラの伝導装置《ギヤ》をかける。すると、ヘリコプターは大空に向かって垂直急上昇する。ヘンリーがアクセルをふかすと、はじめはスズメバチの唸りだった爆音が、ジガバチの唸りとなり、それが更に蚊の唸りへ、とかん高くなっていく。速度計を見ると、機が分速一キロメートルの全速力で上昇しているのがわかる。ロンドン市街が足もとでみるみる小さくなっていく。数分もたつと、テーブル形の屋根のある巨大なビルも、せいぜい、緑の公園や庭園からニョキニョキ生えた、幾何学的なマッシュルームの畑ぐらいになってしまう。そのマッシュルームのまん中に、軸がほっそりとひときわ高く、すんなりとしたキノコのようなチャーリング・T・タワーが、キラキラしたコンクリートの円盤を空に向かってさし上げている。
巨人の競技者のおぼろげな胴体像《トルソー》のように、まるまると太ったとてつもなく大きな雲が、いくつか二人の頭上の青空にだらりと下がっている。その雲の一つのどこからか、突然、小さな真紅の昆虫が唸りながら急降下してくる。
「あれはレッド・ロケットだ」とヘンリーが言う。「今ニューヨークから着いたんだよ」そして、自分の時計を見ながら「七分遅れている」とつけ加え、首をかしげる。「この大西洋便だよ――こいつは、実際めちゃくちゃに延着しやがるなあ」
彼はアクセルから足を離す。頭上のプロペラの爆音の調子が、オクターブ半だけ下がり、さっきとは反対にジガバチからスズメバチ、それからマルハナバチ、コフキコガネ、クワガタムシへとしだいに低くなっていく。ヘリコプターの急上昇がググッと弱まったかと思うと、次の瞬間、機は大空にピタリと静止する。ヘンリーがレバーを押すと、カチッと手ごたえがある。機の前部プロペラが回転しはじめる。はじめは遅いがしだいに速さを増し、やがて二人の目の前の霧の渦巻《うずま》きとなる。矢のような水平飛行によって起こる風が、支柱に当たってしだいにかん高い声をたてはじめる。ヘンリーはじっと回転計を見つめている。指針が千二百の目もりを示すと、プロペラのギヤをはずす。機体には十分な前進の惰性《はずみ》がついているので、そのままの高度で水平飛行を続ける。
レーニナは両足の間の床の窓から下を見おろす。ヘリコプターは、今、中央ロンドンと第一環状郊外圏との境界となっている幅六キロの緑地帯上空を飛行中だ。遠近法によって丈がグッと縮まった小さな人かげが、緑地帯の上で、うじ虫のようにうごめいているのが見える。林立するバンブル・パピーの塔が、木立《こだち》の間にキラキラ光っている。シェパーズ・ブッシュ(ロンドン西郊外)の近くでは、二千人のベーター・マイナスの男女混合複合組《ミックスト・ダブルズ》が、リーマン(ドイツの数学者、非ユークリッド幾何学の創始者)平面式テニスをやっている。ノッチングヒルからウィルズデンに至る幹線道路の両側に沿って、エスカレーター・ファイヴズ(ハンドボールに似た球戯)のコートが二列に並んでいる。イーリング(ロンドンの西郊外)・スタジアムでは、今、デルタの運動会と共有賛歌祭典が行なわれている最中だ。
「カーキーってほんとにいやな色だわねえ」とレーニナは睡眠教育《ヒプノピィディア》によってしこまれた、彼女の階級の偏見を口にする。
ハウンズロー触感映画撮影所《フィーリー・スタジオ》のビルの群れが、七・五ヘクタールの地域にわたって存在している。その近くでは、黒とカーキー色の労働者の群れが、一生懸命に、「西大通り」の路面再陶化舗装作業をやっている。彼らが上空を通過したとき、巨大な移動式溶鉱炉の一つの引き出し口があいているところだった。溶けた鉱石が、目もくらむような白熱光の流れとなって、道路いちめんにあふれている。石綿《アスベスト》ローラーが行ったり来たりしている。絶縁|撒水車《さんすいしゃ》の後部から、蒸気がもうもうと白い雲のように立ち上っている。
ブレントフォード(ミドルセックス州の小都市)のテレビ会社の工場は、まるで小さな町だ。
「今、きっと交替時間なんだわ」とレーニナが言う。
アリマキとアリのように、草色の洋服のガンマーの娘たちや黒い洋服の半低脳《セミ・モロン》の連中が、工場の入口にむらがったり、モノレールに乗るために行列を作って並んだりしている。くわの実色のベーター・マイナスの人々が、群集の中へ出たりはいったりしている。本館ビルの屋上は、発着するヘリコプターでにぎわっている。
「ああ」とレーニナが言う。「あたし、ガンマーに生まれてこなくてほんとによかったわ」
十分後に二人はストーク・ポージズ(バッキンガムシャーの小さな村)に着いて、もう障害ゴルフの第一ラウンドをはじめている。
誰か仲間と目が合うと、あわてて目をそらしながら、大ていはうつむいたままで、バーナードは屋上を急ぎ足に歩いていく。まるで追われている者のようだ。しかし、相手が想像以上に激しい敵意を燃やしているため、顔を合わせると、自分がいっそう強く罪を意識し、いっそう深い孤独感に襲われるので、絶対に顔を合わすまい、と心にきめているそのような敵に追いかけられているようだ。
「あのベニト・フーヴァーっていやな奴だ!」しかし、あの男は善意そのものなのだ。とはいっても、見方によれば、それだから、かえっていっそう始末が悪いことにもなる。善意をもってくれているのに、その行為をみると、悪意をもっている連中とちっともえらぶところがない、という場合がある。あのレーニナでさえおれを苦しめているのだ。何とかして彼女に話を切りだしたいと思って、矢もたてもたまらなくなったり、また、そんな勇気などとうてい出てきそうもないと諦めてみたり、クヨクヨと積んだりくずしたりしながら過ごした数週間を彼は思い出した。けんもほろろに肘《ひじ》鉄砲をくわされて、大恥をかくかもしれないという危険を覚悟の上で、一かばちか当たってみるべきだろうか? しかし、万一承諾してくれたらどんなに大きな喜びだろうか! そうだ、もう彼女は「いいわ」と言ってくれたのだ。それなのに、やっぱりみじめな気持ちなのだ――彼女がこんな午後は障害ゴルフに絶好だと思っていることや、ヘンリー・フォスターのそばへ走っていったことや、二人だけの全く秘密の問題を人まえで話したがらないといって、彼女が自分を変人扱いしていることなどを思うと、彼はみじめな気持ちになるのだった。要するに、彼女が健康で道徳的にまともなイギリス人娘らしくふるまうだけで、何か風変わりでとっぴな挙に出てくれないためにみじめなのだ。
彼は自分の格納庫のドアをあけ、そこいらにぶらぶらしているデルタ・マイナスの従業員二人を大声で呼び、彼のヘリコプターを屋上へ押しだすように言いつける。格納庫職員は同一のボカノフスキー・グループの人間なので、この二人も双生児で、全く同じように小柄で色が黒く不快な感じである。バーナードは、自分の優越にあまり自信のもてない人間らしく、鋭いというよりむしろ傲慢《ごうまん》な、きいているほうでむかっ腹が立ってくるような口調で命令する。低い階級の連中を相手にするのは、バーナードにとって一番やりきれない経験なのだ。というのは、いったい何が原因なのかわからないが(そして、彼の合成血液にアルコールがまざったとかいう世間の噂は、きっと本当なのだろう――とかく事故は起こるものだから)、バーナードの体格はガンマーの標準とあまりちがわないからである。彼の身長はアルファの標準より八センチも低く、体つきもほっそりしている。低い階級の連中に接触するたびに、彼は自分の肉体的欠陥を意識して、みじめな気になるのだ。「おれはどうしたっておれだ、だから生まれてこなけりゃよかったのだ」彼の自意識は、鋭敏で困るのだ。彼は、デルタの人間の顔を上から見おろす場合は良いのだが、同じ高さで横からながめるときには、いつもきまってひけめを感ずるのである。この男は、おれの階級のほかの者に向かうときと同じだけの敬意をもっておれに接しているだろうか? この疑惑が彼につきまとって離れない。そして、それもそのはずだ。ガンマーにせよ、デルタにせよ、イプシロンにせよ、社会的に優れた人は体躯もがっしりとして大きい、といった条件反射教育をある程度受けているからである。大きい人は偉い、という睡眠教育的先入観を少しももっていない者は、実際問題としては一人もいない、といってよい。そういうわけで、彼は、女に申し込みをすれば嘲《あざけ》られ、男の同僚からはたちの悪いいたずらをけしかけられる、という憂《う》き目をみているのだった。嘲られれば、のけ者にされたような気になり、のけ者にされたような気になれば、ついのけ者らしい行為に出るようになる。それがかえって人々の反感を買い、彼の肉体的欠陥に由来する侮蔑《ぶべつ》や敵意をいっそう強める。そうなると、いきおい、彼の疎外感・孤独感もいっそうつのる、というぐあいだ。軽蔑されはしないだろうか、という慢性的な不安のために、同じ階級の者は避ける、低い階級の者には、極端に威丈高《いたけだか》な態度をとるようになったのだった。彼は、ヘンリー・フォスターや、ベニト・フーヴァーを、どんなに痛切にうらやんだことか! どなりつけなくても、イプシロン階級の人間がチャンと命令をきいてくれ、自分の地位を意識しないで、まるで水に泳ぐ魚のように階級制度の中をスイスイと動きまわっていられる人たち――自分自身のことも、自分が暮らしているありがたい快適な世界のこともちっとも気にならないで、すっかりのびのびとしていられる人たちを。
のろのろと(彼にはそう見えたのだ)、しぶしぶ、二人の従業員は彼のヘリコプターを屋上へ押しだした。「早くしろ!」とバーナードはいらいらしてどなる。従業員の一人がジロリと彼を見た。あの間の抜けた灰色の目に浮かんでいたのは、一種の下品なあざけりだったのだろうか?「早くしろ!」彼は一だんと大きな声でまたどなる。その声は、きしんで耳ざわりだ。
彼はヘリコプターに乗り込み、一分後には南へ、河に向かって飛んでいる。
フリート街《ストリート》(新聞業の中心)の六十階建てのビルの一つに、各種の宣伝局と感情操作科大学が同居している。地階と下層の階には、ロンドンの三大新聞――上層階級むけの「ジ・アワリー・レディオ」紙と、薄緑色の「ガンマー・ギャゼット」紙と、カーキー色用紙にもっぱら単音節の言葉だけを用いて発行する「ザ・デルタ・ミラー」紙の印刷所と本社がある。その上には、それぞれテレビ、触感映画《フィーリー》、合成音楽・音声などの宣伝局がある――二十二階までだ。更にその上には研究所と防音室があり、そこでは、サウンド・トラック製作者や、合成音楽作曲家たちが繊細な仕事に取り組んでいる。一番上の方の十八階は、感情操作科大学の校舎となっている。
バーナードは宣伝局ビルの屋上に着陸して、ヘリコプターから降りた。
「下のヘルムホルツ・ワトソン氏に電話して」と彼はガンマー・プラスの守衛に言いつける。「バーナード・マルクスが屋上でお待ちしています、と伝えてくれ」
彼は腰をおろして煙草《たばこ》に火をつける。
ことづてが伝えられたときヘルムホルツ・ワトソンは書きものをしていた。
「すぐ参りますと伝えてくれ」と言って、彼は受話器をかける。それから女秘書の方に向いて、「あとは任せるから、よろしく頼むよ」と、同じ事務的でそっけない調子で続ける。そして、こぼれるような彼女の笑顔には目もくれず、立ち上がり、ツカツカとドアの方へ歩いていく。
彼は、胸が厚く肩幅の広い、大柄でガッチリした体格の男だ。しかも、動作はキビキビしていて、ばねのように軽快だ。丈夫な円柱のような頸《くび》の上に、端麗な頭がのっている。髪は黒く、波うっていて、目鼻立ちはクッキリと彫りが深い。アクの強すぎる嫌いはあるが、とにかく美男子で、彼の女秘書が飽きもせずに賞めたたえているとおり、頭のてっぺんから足のつま先まで、まさにアルファ・プラスの典型だ。職業は、といえば、感情操作科大学創作学部の講師で、教職の合い間に、感情操作技師をも兼ねている。「ジ・アワリー・レディオ紙」の定期寄稿家だが、触感映画《フィーリー》の脚本《シナリオ》も書き、スローガンや睡眠教育用詩句の制作にかけてもたいした才能の持ち主である。
「できる男」というのが、彼の上司の人たちの評価だ。「ひょっとすると」(といって、彼らはいつも首をかしげ、意味ありげに声をひそめるのだ)「ちょっとでき|すぎる《ヽヽヽ》のかもしれんな」
たしかにちょっとできすぎるのだ。彼らの言うとおりだった。ヘルムホルツ・ワトソンは、才能がありすぎるため、バーナード・マルクスが肉体的欠陥のために感じているのと似たようなひけめを感じているのだった。骨組がきゃしゃで筋肉が薄弱であるため、バーナードは同僚から孤立している。そして、このように孤立していると感ずることが、今日の一般的標準からみると知能過多ということになり、その知能過多が原因となって、彼の孤立化はいっそうひどくなるのだった。一方、ヘルムホルツの場合には、自分が全く孤独であるという気がして、どうにもたまらなくなるその原因は、彼のあり余る才能なのだ。二人の共通点は何かといえば、それは、どちらも自分はほかに類のない人間である、と自覚している点である。しかし、肉体的な欠陥をもつバーナードが生涯孤独感に悩み続けてきたのに引きかえ、ヘルムホルツ・ワトソンが自分の才能過多に気がついて、周囲の人とのちがいを意識しだしたのは、つい最近のことだった。エスカレーター式スカッシュ・テニスの選手で、飽くことを知らぬ恋の探求者(噂によれば、四年足らずの間に何でも六百四十人ものちがった女と関係したという)でもある。この委員会の立役者兼社交家ナンバー・ワンが、突如として、スポーツも女も共有活動も、自分にとっては、ただつまらないものだ、ということを悟ったのだ。実をいえば、心の奥底で何かほかのものに興味をもつようになったのだ。しかし、それは何か? 何であるのか? それこそ、バーナードがわざわざ彼と議論するためにやって来た問題なのだ――もっとも、いつでもまくしたてるのはもっぱらヘルムホルツのほうだから、もう一度彼がまくしたてるのを聞きに来た、というほうがあたっているのかもしれない。
彼がエレベーターを出たとたん、合成音声宣伝局のきれいなオフィス・ガールが三人待ちかまえていた。
「あら、ヘルムホルツさん、ねえ、お願い、あたしたちのエクスムア(サマセットシャーとデヴォンシャーにわたる高原地方)遠足夕食会《ピクニック・サパー》にいらしてちょうだいな」三人は、涙を流さないばかりに彼にすがりつく。
彼は首を振って、三人を押しわける。「だめだ、だめだ」
「ほかの男の方は、誰もお招きしませんから」
しかし、この願ってもない約束を切りだされても、ヘルムホルツは顔色ひとつ変えない。「だめだ」と彼はくりかえす。「おれは忙しいんだ」こう言い捨てて、彼はキッとした顔で歩いていく。女の子たちがそのあとを追いかける。彼がバーナードのヘリコプターに乗り込み、ドアをバタンとしめると、さすがの女の子たちもやっと追っかけるのを諦めた。そして、口々に恨みごとを浴びせる。
「しょうのない女どもだ!」ヘリコプターが空に舞い上がると、彼は叫ぶ。「ほんとにしようのない連中だ!」と、顔をしかめながら首を振る。「ほんとにひどすぎるね」とバーナードは口先では適当に調子を合わせるが、そう言いながらも、内心ヘルムホルツみたいに、何の抵抗もなくあんなに大勢の女の子と関係がもてたらなあ、と感心する。と、突然、彼は自慢してみたくてたまらなくなる。「今度、レーニナ・クラウンをニューメキシコへ連れていくことになったよ」彼はできるだけさりげなく言う。
「そうかい?」ヘルムホルツは、さっぱり興味がないといった調子だ。それからしばらく黙っていたが、やがて「この一、二週間」と言葉を続ける。「おれは委員会も女の子のほうもいっさいやめているんだ。そのことで、大学じゃいやはや大へんな騒ぎなんだ、君には見当もつかないだろうがね。でも、騒ぐだけのことはあるな。その効果は……」とここで彼はためらう。「いや、変なんだ、ほんとに変てこなんだ」
肉体的欠陥が一種の意識過剰を引き起こすことがある。しかし、どうやらその逆の場合もありそうだ。つまり、意識過剰が、これという目的もなしに、外界に対して進んで目をつぶり、耳をとざすといった自発的孤独や、意識的に性交を避けるといった禁欲主義を引き起こす場合だ。
この短い空中旅行の残りの間は、二人とも口をつぐんだままだった。到着して、バーナードの部屋の空気ソファーに気持ちよくからだをのばすと、ヘルムホルツがふたたびしゃべりだした。
大へんゆっくりした口調で話しながら「君は、これまでに」ときく。「自分の中に、出してもらえるチャンスをひたすら待ちこがれている何かがある、というふうな気がしたことはないかい? 今は使っていない余分な力とでもいうのか――ほら、タービンを通らないで、すっかり滝になって流れ落ちる水の流れみたいなものさ」彼は、さぐるようにバーナードの顔を見つめる。
「事情が変わったとき感じるようないろいろな感情だろ?」
ヘルムホルツは首を振る。「ちょっとちがうな。おれが考えているのはね、時々とりつかれる奇妙な感情のことなんだ。おれには、言わなくちゃならない大事なことがあり、また、それを言うだけの力もある、という気持ちだよ――ただ、その正体がつかめないので、せっかくの力が使えないんだ。何かちがった書き方があるか……でなけりゃ、書くための、何かもっとちがったたねがあれば……」ここで彼は黙り込んだ。が、やがて、「ね」とやっと口を開いた。「おれは文句作りがまあまあできるほうだ――ほら、それこそ針の上にでもすわったみたいに、君たちをいきなりとび上がらせるような言葉をね。それは、睡眠教育で耳にたこができるほどきかされたことを述べていても、そのことを、すっかり新鮮で魅力的なものに感じさせるような言葉なんだ。でも、それだけじゃどうも物足りない気がするんだよ。文句がすばらしいというだけではね。その文句を使って作り上げるものもやっぱりすばらしくなくちゃうそだよ」
「そんなことを言ったって、君の書くものはすばらしいぜ、ヘルムホルツ君」
「そりゃ、あれはあれなりにね」とヘルムホルツは肩をすくめてみせる。「でも、あんまりパッとしないぜ。とにかく大騒ぎするほどのものじゃないよ。おれはね、何かもっと大事なことがやれそうな気がするんだがなあ。そう、そして、もっと強烈で、もっと激しいことって言ったらいいのかな。しかし、それは何だろう? 言わなきゃならんもっと大事なことって、いったい何があるんだろう? 書くときまっているたねについて、どうやったら激しくなれるというんだろう? 言葉ってものは、うまく使いさえすりゃ、エックス線ぐらいのききめがあるんだ――何でもかんでも透過する。読めば、心を刺し通すんだ。これだよ、おれが学生たちに教えてやろうと思っていることの一つは――心を刺し通す方法ってやつだな。それにしても、共有賛歌とか、香腺の一番新しい改善とかの論文で心を刺し通されて、それがいったい何の役に立つんだろう? それに、だ、そんなものをたねにして書いて、だよ――いいかい、それこそ一番強いエックス線みたいにね――本当に心を刺し通すような文句が作れるかってんだ。だいたい無をたねにしてものが言えるかい? せんじつめれば、そんなところだろ。おれは、やってやりまくって……」
「シィーッ」だしぬけにバーナードが制して、用心したまえというように指を上げる。二人で耳をすませる。「誰かドアの外にいるような気がするんだ」と彼はささやく。
ヘルムホルツはツと立ち上がり、ぬき足さし足で部屋を横切ると、やにわにドアをバタンと引きあける。もちろん誰もいない。
「失敬、失敬」バーナードは、気まりが悪くいたたまれない気がして、穴があったらはいりたいような顔をする。「おれは、どうも近ごろちょっと神経衰弱気味なんだよ。よく疑われるもんだから、こっちも疑りっぽくなってね」
彼は手で目をぬぐいながら、フッとため息をついた。泣くような声だ。そして、言いわけがましくクドクドと並べたてる。「近ごろ、どんなに我慢しなくちゃいけないことが多いか、君にわかってもらえたらなあ」彼はほとんど涙声で訴える――すると、自分をかわいそうだと思う感情がグッとこみ上げてくる。まるで、突然噴きだした噴水のようだ。「ほんとにわかってもらえたらなあ!」
ヘルムホルツは、少し不愉快になりながらもぐちを聞いている。「バーナードってかわいそうな奴だな」と、心の中で独りごとを言う。しかし、同時に、友だちのことがちょっと恥ずかしくなる。そして、バーナードって男に、もう少しプライドがあればなあ、と思う。
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第五章
八時になると、もう日が暮れかかる。ストーク・ポージズ・クラブハウスの塔のラウドスピーカーが、人間ばなれのしたテノールでコースの閉鎖を放送しはじめる。レーニナとヘンリーは、ゲームをやめてクラブへ戻る。「内・外分泌物|独占企業合同体《トラスト》」の敷地《グランド》から、幾千頭もの牛の鳴き声がきこえてくる。この牛たちは、ホルモンやミルクを分泌して、ファーナム・ロイヤルの大工場むけの原料を供給しているのだ。
ヘリコプターの絶え間ない爆音が、たそがれの空にみちみちている。二分半ごとにベルとかん高い号笛がひびいて、下層階級のゴルファーたちを、それぞれのコースからロンドンまで運ぶ軽便モノレールのどれかの発車を告げる。
レーニナとヘンリーは自家用ヘリコプターで帰途につく。高度八百フィートでヘンリーがプロペラの回転を落とすと、機は二人を乗せたまま、暮れていく景色の上に一、二分間停止する。バーナム・ビーチズの森が、大きな闇《やみ》の池となって、明るい岸辺のような西空の方へひろがっている。地平線のあたりでは、深紅の夕焼けの名残りが、上の方へいくにつれて、まずオレンジ色、次に黄色、それから青白い水色がかった緑色へとしだいに薄れている。北の方に目を移すと、木立の上や向こうに、内・外分泌物精製工場が、その二十階の窓という窓からさし出る強烈な電光でギラギラ輝いている。その下にゴルフ・クラブの建物――つまり、下層階級用の巨大な共同宿舎があり、境界壁の向こう側には、アルファならびにベーター階級の会員専用の小宿舎がある。モノレール駅への通路は、ありのようにむらがっている下層階級の人々でまっ黒だ。ガラス張りのかまぼこ屋根の下から、灯《あか》りをつけたモノレール列車が屋外へ飛びだしていく。暗い平野を南東に進むその進行を追っていくうちに、彼らの目はいつしか死体焼却場の堂々たるビルに引きつけられる。夜間飛行の安全のために、四本の高い煙突は投光照明され、その先端には、深紅の危険信号が取りつけてある。このビルが一つの陸標になっているのだ。
「なぜ煙突のまわりにあんなバルコニーみたいなものがくっついてるの?」とレーニナがきく。
「燐《りん》の再生のためだ」と、ヘンリーがそっけなく説明する。「ガスが煙突を上っていくうちに、四種類の処理を受ける。昔は、人を火葬にするたびに、燐酸は回収されずにすっかり逃げていた。今では、九十八パーセント以上が回収されている。成人死体一体につき、一・五キロ以上の割合だ。イギリスの年間当たりの燐の生産高四百トンの大部分を占めている」ヘンリーは、まるで一人でやってのけたみたいに、手ばなしでその成果をほめたたえ、大得意でしゃべる。「死んだあとまでも、ずっとこんなふうに世の中の役に立つことができるんだ、と思うと愉快だよ。植物をすくすく育ててやるんだから」
一方、レーニナは目をそらし、まっすぐにモノレール駅を見おろしている。「ほんとね」と彼女は相槌《あいづち》を打つ。「でも、アルファやベーターも、あそこのあのいやらしい、ちっぽけなガンマーやデルタやイプシロンたちも、同じだけの植物しか育てることができないなんて変だわ」
「人間ってものは、物理化学的にみれば、みんな等しいのだ」とヘンリーがもったいぶって言う。「それに、イプシロンだって、なくてはならない務めを果たしているんだよ」
「イプシロンだって……」レーニナは、突然、まだ幼い学校の生徒だったころ、真夜中に目がさめて、眠っている間じゅういつもきこえていたささやき声に、はじめて気がついたときのことを思いだした。あの月の光や、ずらりと並んだ小さなベッドが、ふたたび目の前に浮かび上がり、あのやわらかなやわらかな声がまたきこえてくる。(毎晩毎晩くりかえしきかされたあの言葉は、チャンと頭に残っているし、実際、忘れようにも忘れることができないのだ)「すべての人は、ほかのすべての人のために働きます。誰一人いなくても、私たちは暮らしていけません。イプシロンだって役に立つのです。イプシロンがいないと暮らしていけません。すべての人は、ほかのすべての人のために働きます。誰一人いなくても、私たちは暮らして……」
レーニナは、生まれてはじめて受けたあの恐怖と驚きのショックを思いだした。彼女がもの思いにふけっていたのは、夢うつつのときだったが、やがて、あの果てしないくりかえしのおかげでしだいに心が静まってきて、ゆったりと落ち着いてきたかと思うと、眠りがひそかに忍び寄ってくるのだった……。
「イプシロンだって、イプシロンなんかに生まれついてほんとにいやだ、なんて思わないわねえ」と彼女は大きな声で言う。
「もちろんだよ。そんなこと思うもんか。ほかの階級に生まれついたらどんな気がするか知らないんだもの。われわれは、むろんいやだな。だけど、そりゃあ、受けた条件反射教育だってちがうしね。それに第一ちがった遺伝をもって生まれてきてるんだから」
「あたし、イプシロンに生まれてこなくてほんとによかった」レーニナはきっぱりと言う。
「いや、もしイプシロンに生まれつけば」とヘンリーが言う。「イプシロンの条件反射教育を受けるわけだから、やはりベーターやアルファに生まれつかなかったことを嬉しく思うよ、同じことさ」彼は前進用プロペラのギヤを入れ、ヘリコプターの機首をロンドンの方角に向ける。後ろの西空では、深紅とオレンジ色の夕焼けはほとんど消えて、もり上がった黒雲が、天の頂《いただき》に向かってはい上がっていた。ヘリコプターが火葬場の上を飛び越えたとき、煙突からまっすぐ立ち上る熱気の柱のために、機体がグッと上へ押し上げられたが、通過したとたん、向こうの冷たい下降気流の中へ飛び込んだので、今度はストンと落ちた。
「ずいぶんひどいスイッチバックね!」レーニナは愉快そうに笑う。
しかし、ヘンリーの口調は一瞬憂鬱になる。「あのスイッチバックが何を意味するのか知ってるかい?」と彼がきく。「誰かが、いよいよ完全に消滅してしまう、ということなんだよ。一ふきの熱いガスとなって噴き上がってしまうんだ。もとは誰だったのか――男か女か、アルファなのかイプシロンなのか、それがわかればおかしなもんだろうな……」彼はフッとため息をつく。それから、ガラリと調子を変え、陽気な声で、「ともかく」としめくくる。「ぜったいに信じていいことが一つあるんだ。それは、誰であっても、生きているうちは幸福だっていうことだよ。誰でも、今が幸福なんだ」
「そうね、誰でも今が幸福なのね」とレーニナもおうむ返しにくりかえす。これは、二人とも十二年間、毎晩百五十回ずつくりかえしきかされた言葉なのだ。
ウェストミンスターにある四十階建てのヘンリーのアパートの屋上に着陸すると、二人は下の食堂まで直行する。そこで、愉快に談笑している人たちにまじって、すばらしい夕食を共にする。ソーマが、コーヒーに添えて出される。レーニナは、半グラムの錠剤を二個、ヘンリーは三個のむ。九時二十分すぎに、二人は大通りを横切って、最近開店したばかりのウェストミンスター・アベイ・キャバレーへ出かける。ほとんど雲はないが、月もない星夜だ。しかし、レーニナもヘンリーも、運よくこのどことなく気のめいるような情景には気がつかない。電光の空中広告《スカイ・サイン》が、外の暗さをうまくさえぎっている。「カルヴィン・ストープスとその十六人のセクソフォニスト」装いも新しいそのウェストミンスター・アベイ・キャバレーの正面からは、巨大な文字が、さあいらっしゃいとでもいうようにギラギラ輝いている。「ロンドンにおける最高の嗅覚《きゅうかく》・色彩オルガン。最新合成音楽全般」
内部《なか》へはいる。空気はむし暑く、|竜 涎 香《りゅうぜんこう》 や白檀《びゃくだん》の香りで何だか息がつまりそうだ。ホールの丸天井の上に、色彩オルガンが、今、熱帯の夕焼け空を描きだしている。十六人のセクソフォニストたちが、なつかしの愛唱歌《メロディー》「世界じゅうに、なつかしきわがびんにまさるものはあらじ」を演奏している。四百組の男女《カップル》が、ピカピカの床の上でファイブ・ステップを踊りまわっている。レーニナとヘンリーは、すぐに四百一番目のカップルとなった。セクソフォンが、美しい声で鳴く月夜の猫のように、物悲しい調べをかなでるかと思うと、まるでしばしの死が訪れるかのように、アルトとテノールでうめき悲しむのだった。その震える合奏は、豊かな和声を含みながらしだいに大きくなり、やがてクライマックスへと高まっていく――そして、ついに、指揮者が手を一振りすると、天上音楽《エーテル・ミュージック》の終局の、耳も突ん裂く調べが、奔流のようにとどろき渡り、ただの人間にすぎない演奏者たちは、今にも吹き飛ばされてしまいそうになる。さながら変イ長調の雷鳴だ。やがて、それは、ほとんど完全な静寂と暗黒の中で、しだいに弱まる漸次弱奏音《ディミニュエンド》となり、四分の一音程から、かすかなささやきに似た属和音となり、(四分の五リズムが、その下にまだ打ち続けている)それが、暗黒の数秒間、強烈な期待感をはらみながら長く尾を引いている。そして、ついにその期待感がみたされる。突如、はじけるように日の出が訪れ、それと同時に、例の十六人がいきなり歌いだす。
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わがびんよ、われ永久《とわ》に憧《あこが》るるは汝《なれ》!
わがびんよ、などてか、われ汝《なれ》より
生まれ出でし?
汝《なれ》の内部《なか》、空は青く、
天気常にうららかなり。
そは、
世界じゅうに、なつかしきわがびんに
まさるものあらざればなり。
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ウェストミンスター寺院《アベイ》の内部《なか》をクルクルとまわっている四百組の男女《カップル》といっしょにファイブ・ステップを踏みながら、レーニナとヘンリーは、まだ別世界で踊り続けるのだった――これこそ、暖かで、豊かな色彩と、無限の友愛とに恵まれた世界、「ソーマの休日」なのだ。誰もかれも、なんと親切で、なんと美しく、なんとほれぼれするほどおもしろいのだろうか! 「わがびんよ、われ永遠《とわ》に憧るるは汝《なれ》!……」しかし、レーニナもヘンリーも、憧れたものがもう与えられているのだ……彼らは、今、ここでそのびんの内部《なか》にいるのだ――うららかなお天気と永遠の青空に恵まれながら安全に。やがて、疲れ切った例の十六人がセクソフォンを横たえ、合成音楽演奏機が、スローマルサス・ブルースの一番新しい曲を演奏しはじめると、二人は、まるで、びんの中の合成血液の大海原《おおうなばら》の波にのってかすかに揺れる双児《ふたご》の胎児のような気分になった。
「おやすみなさい、みなさん。おやすみなさい、みなさん」ラウド・スピーカーが、やさしい音楽的に洗練された調子で命令をやわらげながら語りかける。「おやすみなさい、みなさん……」
レーニナとヘンリーも、ほかの人たちといっしょにすなおに寺院《アベイ》から出た。気のめいるような星は、もう空のはるかかなたまで行ってしまった。そして、仕切り幕のような空中広告《スカイ・サイン》はもうほとんど消えてしまっていたが、この若い二人は夜ふけも忘れて、相変わらず幸福にひたっていた。
キャバレーが閉まる半時間前に飲んだ二回目のソーマのききめによって、現実の世界と彼らの心との間に、水ももらさぬ仕切りができていたのだった。びんの中にいるときの気分で街路を横切り、そのままの気分で、二十八階にあるヘンリーの部屋までエレベータで昇る。しかし、びんの中にいるときの気分のまま、一グラムずつ二回もソーマを飲んでいたのだが、レーニナは、規定によって定められたあらゆる避妊措置を講ずるのを忘れない。数年間のきびしい睡眠教育と、十二歳から十七歳にかけての週三回のマルサス式訓練のおかげで、こうした措置をすることが、またたきと同じく、ひとりでに身についてしまって、やめることのできない習性となっているのだった。
「ああ、これを見たら思いだしたわ」浴室から帰って来て彼女が言った。「あなたがくださった、あのすてきな緑色の人造モロッコ皮のカートリッジ・ベルトね、あれ、どこにあったの? ファニイ・クラウンが知りたがってるのよ」
隔週の木曜日は、バーナードの団結礼拝日である。アフロディティアム(規約第二条にもとづいて、ヘルムホルツが最近その会員に選ばれていた)で早めの夕食をすませてから、彼は友人と別れ、屋上のタクシー・ヘリコプターに手を上げて乗り込み、運転手に、フォードソン共有賛歌大会堂まで行くように言いつける。ヘリコプターは二、三百メートル上昇して、針路を東にとったが、機首をめぐらしたとき、バーナードの眼前に巨大な美しい大会堂が現われた。白い人造カララ大理石造りの三百二十メートルの大殿堂が投光照明されて、ラドゲート・ヒルの上に雪のように白銀色に輝いている。そのヘリコプター発着場の四すみには、それぞれ、巨大なT字架が、夜空に深紅色に光っており、二十四の大きな黄金色《きんいろ》のトランペットの口から、厳かな合成音楽が朗々とひびいている。
「しまった。遅刻だな」大会堂の大時計『ビッグ・ヘンリー』(ヘンリー・フォード版の「ビッグ・ベン」)がはじめて見えてきたとき、バーナードは独りごとを言った。案の定、彼がタクシー・ヘリコプターに料金を払っていると、『ビッグ・ヘンリー』が時報を打った。「フォード」と黄金色《きんいろ》のトランペットの全部から、ものすごく大きな低音《バス》が流れだした。「フォード、フォード、フォード……」と九回くりかえす。バーナードは、エレベーターに向かって突進する。
フォード・デー祝祭やそのほかの集団的共有賛歌祭典の開催される大講堂は、そのビルの一階にある。その上の階には、各階百室ずつ合計七千室あり、団結集団《ソリダリティ・グループ》が隔週ごとの礼拝に利用している。バーナードは三十三階まで降り、廊下をセカセカ歩いていき、三千二百十号室の前まで来ると、はいるかはいるまいかと一瞬ためらう。が、やがて勇気をふるい起こし、ドアをあけて内部《なか》へはいる。
ありがたや、フォード様、一番びりではなかった。丸テーブルのまわりに並んでいる十二の椅子のうち、三つがまだ空《あ》いている。彼はできるだけ目立たないようにもよりの椅子にすべり込むと、もっと遅れた連中がはいってくるたびに、早速顔をしかめてやろうと待ちかまえる。
「今日の午後は何をしていらしたの?」と左手にすわっている若い女が彼の方へむき直って声をかける。「障害、それとも電磁式《エレクトロ・マグネチック》のほう?」
バーナードは、その女の顔を見て(フォード様! 人もあろうに、モーガナ・ロスチャイルドだったとは)赤面しながら、どちらもしなかったんだよ、と白状しないわけにはいかない。モーガナはびっくりしてマジマジと彼の顔を見る。気まずい沈黙が続く。
やがて彼女はプイとそっぽをむき、左手のもっとハイカラな男に話しかける。
「団結礼拝の絶好のすべりだしだよ、ふん」とバーナードはみじめな気がする。そして、またしてもみんなと打ちとけそこねるのじゃないかな、とはや心配になってくる。ああ、あわてて手近かな椅子にすべり込んだりしないで、落ちついてゆっくりあたりを見まわしさえすりゃよかったのになあ! そうすりゃ、フィフィ・ブラッドローとジョアーナ・ディーゼルの間にすわることだってできたのに。それをしないで、盲めっぽうに飛んでいってモーガナの隣へ腰をおろしてしまったのだ。人もあろうに、モーガナとはなあ! ほんとにまあ! 彼女のあの黒い二つの眉毛ったら――というよりは、むしろ、あの一つの眉毛ったら――だって、鼻の上でくっついていて一つになっちまっているんだからな。あれまあ! 彼の右手にクララ・ディターディングがすわっている。いや、たしかにクララの眉毛はくっついていない。だけど、あの娘《こ》はほんとにちょっとはずみがよすぎるみたいだな。それに比べりゃ、フィフィやジョアーナは全く申し分ないな。よく肥えているし、金髪だし、大柄すぎるわけでもないし……しかも、今、その二人の間にすわったのは、あのがさつ野郎のトム・カワグチときている。
一番遅れて来たのはサロジーニー・エンゲルスだった。
「遅刻だね」グループの議長が厳しい口調で言う。「これからは遅れないようにしたまえ」
サロジーニー・エンゲルスは、言い訳をしてから、ジム・ボカノフスキーとハーバート・バクーニンとの間へすべり込む。やがて、グループの全員がそろい、団結の円陣《サークル》が一分《いちぶ》のすきもなくでき上がる。テーブルのまわりに男、女、男というふうに、ずっと代わりばんこに並んで丸い輪を作る。一つになる心の用意をした十二人が、寄り集まり、とけ合い、それぞれ異なった十二の個性を失って、より大きな一つとなるのを待ちかまえている。
議長が立ち上がり、Tの字を切ってから、合成音楽のスイッチを入れて、根気のよい柔らかなドラムの音と、楽器の合奏――といっても擬似管楽器と、超絃楽器だが――を流しはじめる。その合奏は、団結賛美歌第一番の、短い、耳にこびりついて離れないあのメロディーを、くりかえしくりかえし高らかに演奏し続ける。何回も何回もだ――鼓動するリズムをきいているのは、耳ではない。横隔膜だ。くりかえされるそのメロディーの、あるいは嘆くような、あるいは鳴りひびくような調べは、頭ではなくて、同情心にせつせつとしてしみわたる。
議長は、もう一度Tの字を切ってから腰をおろす。礼拝がはじまった。奉納されたソーマの錠剤が、テーブルのまん中に置かれる。ストロベリー・アイスクリーム・ソーマのはいった回し飲み用の杯が、手から手へとまわされ、人々は、「自己滅却のために乾杯」というお題目をとなえながら、十二回もガブガブ飲む。それから、合成音楽オーケストラの伴奏で団結賛美歌第一番がはじまる。
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フォードよ、われらは十二人、ああ、われらを一つになしたまえ、
社会の大河のしずくのごとく。
ああ、われらを共に駆けさせたまえ、
汝の輝ける|安ピカ自動車《フリッヴァー》のごとく。
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熱烈な歌詞が十二回くりかえされる。それから杯がまたまわされる。「偉大なるもののために乾杯」というのが、今度のお題目だ。一同が飲みほす。音楽があきもせずに演奏を続ける。ドラムがひびく。泣き叫ぶような、また、とどろきわたるようなメロディーが、うっとりと和《やわ》らいだ憐《あわ》れみの心に、しっかりとこびりつく。団結賛美歌第二番がはじまる。
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来たれ、偉大なるものよ、社会の友よ、
十二人を滅却して一となさしめたまえ!
われら、死をこい願う、そは、われら死するときこそ、
さらに大いなるわれらの生命《いのち》のはじめなればなり。
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今度も十二回の反復がある。もうソーマのききめが出はじめている。みんなの目は輝き、頬は紅潮し、すべての同胞に対する、心の中の慈悲の光は、幸福なやさしい微笑《ほほえみ》となってすべての顔に現われている。バーナードでさえ、心が少しほぐれてきたような気になる。モーガナ・ロスチャイルドが振りむいてほほえみかけたとき、彼は彼なりに、一生けんめいほほえみ返したくらいだった。でも、あの眉毛、あのくっつき合って一つになった眉毛が――やれやれ、あれがやっぱりあそこにくっついている。何とか気にかけまいとするのだが、どうも気になってしかたがない。心のほぐれ方がまだ十分ではないのだ。もし、フィフィとジョアーナの間にすわっていたら、おそらく……三度目の杯がまわされる。「御到来の近きを祝して乾杯」と、たまたま杯をまわす音頭取りの順番に当たっていたモーガナ・ロスチャイルドが言った。その声は大きく、歓喜にみちている。彼女は飲んで、その杯をバーナードにまわした。「御到来の近きを祝して乾杯」と、彼は、その到来が迫っているのだ、と本気で信じこもうとしながらくりかえす。しかし、あのくっつき合った眉毛が、気にかかってしかたがない。だから、御到来は、少なくとも彼については、ひどく遠い先のことだった。彼は飲んで、その杯をクララ・ディターディングにまわした。「また失敗しそうだな」彼は心の中で独りごとを言う。「きっとそうだ」それでも、彼はムキになって明るくほほえみかけようとする。
杯が一まわりする。議長が手を上げて合図をする。突如として、団結賛美歌第三番の合唱がはじまる。
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偉大なるものの、到来したもうさまを感知せよ!
歓喜せよ、そして歓喜の中に死滅せよ!
ドラムの調べの中に消えうせよ!
そは、われ、汝《なれ》にして、汝《なれ》、われなればなり!
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一節また一節と歌い進んでいくにつれて、みんなの歌声が、しだいに強烈な感動でふるえだす。御到来が真近かに迫ったという感じは、まるで、大気中の電圧のようだ。議長が音楽のスイッチを切ると、最終節の最後の音とともに、完全な静寂が訪れる――電気的な活気にふるえ、ゾクッとするような緊張した期待感にみちた静寂だ。議長が片手をのばす。すると、突然、一つの声、ふつうの人よりもっと音楽的で、もっと豊かで、もっとあたたかで、もっと愛と憧れと憐れみにふるえているような、深みのある、強い声、ふしぎな、神秘的な、人間のものとも思われない声が、頭上から語りかける。きわめてゆっくりと、「おお、フォード様、フォード様、フォード様」と、その声はしだいに小さく、低くなっていく。温《あたた》かな感じが、きいている人々のみぞおちのあたりから、からだのすみずみにまで広がっていき、目にはジンワリと涙が浮かび上がる。心臓も、はらわたも、まるで独立の生命でももったみたいに、からだの中で動きだしたような気がする。「フォード様!」彼らは、今、消えつつあるのだ。「フォード様!」という叫びも、しだいに消えていくのだ。やがて、驚いたことに、突然、声の調子が変わる。「きけ!」という声が高らかにひびきわたる。「きけ!」一同は耳をすませる。しばらくすると、その声が低くなってささやきとなる。だが、どういうわけか、大きな叫び声よりもっとよく通るささやきなのだ。「偉大なるものの御足《みあし》が」そのささやきは語り続け、ふたたびくりかえす。「偉大なるものの御足が」そのささやきは今にも消え入りそうだ。「偉大なるものの御足が、階段を降りたもう」ふたたび静寂が訪れる。そして、期待感が一瞬ゆるんだかにみえるが、すぐにまた緊張し、ほとんどはり裂けんばかりに緊迫してくる。偉大なるものの御足――ああ、きこえる、きこえる、静かに階段を降りたもう御足音が、見えない階段を降りて一歩一歩近づきたもう御足音が。偉大なるものの御足だ。次の瞬間、突然、緊張が限界点に達する。目を見ひらき、口をあけたまま、モーガナ・ロスチャイルドがスックと立ち上がる。
「きこえます」と彼女は叫ぶ。「きこえますわ」
「こちらへいらっしゃるのよ」とサロジーニー・エンゲルスが叫ぶ。
「たしかにいらっしゃるわね、きこえるわ」フィフィ・ブラッドローとトム・カワグチも同時にスッと立ち上がる。
「ああ、ああ、ああ!」ジョアーナも、わけのわからない言葉でみんなに同意する。
「ほんとだ、いらっしゃる!」とジム・ボカノフスキーもわめく。
議長が前に身をかがめ、指でちょっとさわると、シンバルや吹奏・金管楽器の狂乱的合奏と、ドラムの熱狂的乱打とが、せきを切ったようにドッと起こる。
「ああ、おでましだ!」とクララ・ディターディングが金切り声をあげる。「アイ!」まるで、今、のどぶえでもかき切られているような声だ。
自分も何かしなければならないときだと思って、バーナードも跳び上がって叫ぶ。「きこえる、こちらへいらっしゃるんだ」しかし、それは嘘だ。彼には何もきこえないし、彼にとっては誰も来はしないのだ。音楽が鳴りひびき、興奮はしだいに高まってはいくのだが――誰も来はしないのだ。しかし、彼は腕を振りまわし、一番興奮している連中に負けずに絶叫する。そして、ほかの人たちが、活発に足をふみならしたり、こきざみにすり足をしたりしながら踊りはじめると、彼もすり足で踊りだす。
踊り手たちは丸い輪になってグルグル踊りまわる。一人一人が前の人のお尻に手をかけたままいっせいに叫び声をあげ、音楽のリズムに合わせて足をふみならしたり、前の人のお尻を両手でたたいて拍子をとったりする。十二組の手が、まるで一組の手のように拍子を打ち、十二のお尻が、まるで一つのお尻のようにドスンと鳴る。十二人がまるで一人だ。一人になりきっているのだ。「そら、御入来だ、そら、おでましだ」音楽が速くなるにつれて、足拍子も手拍子もしだいに速くなる。すると、突然、大きな合成|低音《バス》が、団結のあがないと、その窮極的な成就が迫ったことを、高らかに宣言する。これこそ、十二人即一体者の到来であり、偉大なるものの顕現なのだ。「ブカブカ、ドンドン」とその合成|低音《バス》が歌い、ドラムがドンドコ、ドンドコと熱狂した拍子を打ち続ける。
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ブカブカ、ドンドン、フォードとなぐさみ、
女にキスすりゃ、みんなが一つだ。
男も女も仲よく一つだ、
ブカブカ、ドンドン、うさばらし。
[#ここで字下げ終わり]
「ブカブカ、ドンドン」と踊り手たちも、その礼拝の折りかえし文句をまねして、「ブカブカ、ドンドン、フォードとなぐさみ、女にキスすりゃ……」と歌いだす。歌っているうちに、灯りがだんだん暗くなっていく――暗くなると同時に、しだいに暖かく、豊かになり、赤みを帯びていく。やがて、一同は、胎児貯蔵室のような深紅色のうす暗がりの中で踊り続ける。「ブカブカ、ドンドン……」血のように赤い、胎児期の暗やみの中で、踊り手たちは、あのリズムを打ちながら、グルグル、グルグルと丸い輪になって、しばらくは、ただ踊りに踊るのだ。「ブカブカ、ドンドン……」やがて、踊りの輪がゆれたかと思うと、切れて、バラバラとくずれ、テーブルとその惑星のような椅子とを――いくえにもいくえにも重なって――丸く取りまいているソファーの上へ倒れ込む。「ブカブカ、ドンドン……」その深い声が、やさしいささやきとなり、かすかな鳩の鳴き声と変わる。赤いうす暗がりの中で、今、うつむけになったり、あおむけになったりしてぶっ倒れている踊り手たちの上を、何か大きな黒鳩《ニグロ・ダヴ》が、やさしく飛びまわっているかのようだった。
彼らは屋上に立っている。「ビッグ・ヘンリー」がちょうど十一時を打ったところだ。夜は穏やかで暖かい。
「すばらしかったじゃない?」とフィフィ・ブラッドローが言う。「ただもうすばらしかったわね」彼女は、うっとりした顔でバーナードをみつめる。だが、それは、動揺のあとも、興奮のあともない恍惚《こうこつ》状態だった――というのは、興奮するということは、まだ満足していない証拠だからだ。彼女の恍惚状態は、完全さの極致に到達した場合に味わう、静かな恍惚状態だった。たんなる空虚な飽和や虚無の平静ではなく、生命のバランスのとれた、つまり、エネルギーの釣合いがとれて静止しているときの平静だった。豊かでいきいきとした平静なのだ。というのは、団結礼拝は奪いとるばかりではなく、与えもするからだ。補うために取り去るだけのことなのだ。彼女はみたされ、完全になり、たんなる自分以上のものとなったのだ。「すばらしかったと思わない?」彼女は、あの人間とも思われないような、キラキラ光るまなざしでバーナードの顔をのぞき込みながら、しつこくたたみかける。
「うん、そう思うよ」と彼は嘘をついて顔をそむける。彼女の上気した顔を見たとたんに気がとがめて、皮肉にも、自分の孤独を痛感したのだった。彼は、礼拝がはじまったときも今も、同じように孤独でみじめなのだ――いや、むしろ、みたされない空虚感と、活気のない飽和感とのために、いっそう孤独にさえなっていたのだ。ほかの連中が、偉大なるものにとけ込んで一つになっている最中にすら、彼だけは孤独で、あがないも果たせなかったのだ。モーガナに抱擁されているときでさえ、孤独だった――今まで経験したこともないほど孤独で、実際、どうしても自分自身から抜け出ることができなかったのだ。あの深紅色のうす暗がりから、ふだんの電光の輝きのもとへ出てきたけれども、ただ、自意識がいっそう強まって、激しい苦痛となっただけだった。彼は全くみじめな気がした。そして、(彼女のキラキラした目がとがめているようだが)おそらく彼自身が悪かったのだろう。「ほんとにすばらしかったね」と彼はくりかえしたが、彼の頭に浮かぶのは、ただ一つ、モーガナの眉毛のことばかりだった。
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第六章
変よ、とっても変わってるわ、変てこなのよ、これが、バーナード・マルクスに対するレーニナの評価だ。実際、ずいぶん変わっているので、あの約束をしてから数週間というものは、彼女は、休暇のニューメキシコ行きをこの際とりやめ、いっそベニト・フーヴァーといっしょに北極旅行に出かけようかしら、と迷いに迷ったのだった。ただ、そうなると、彼女が北極を知っているので厄介だった。つい昨年の夏、ジョージ・エゼルといっしょに行ってきたばかりである。しかも、もっと困るのは、北極がずいぶんしようのないところだとわかったことだった。何にもすることがないところへ、ホテルがまた、恐ろしく旧式ときているのだ――寝室には、テレビの設備などもちろんないし、嗅覚オルガンもない。あるのは、きわめてくだらない合成音楽だけで、エスカレーター・スカッシュ・テニスのコートの設備にしても、二百人以上の客に対して、せいぜい二十五組ほどあるだけだ。いやだわ、北極だけはもうこりごりだ、と彼女は思うのだった。おまけに、アメリカへは今まで一ぺんしか行ったことがないのである。しかも、そのときだって、ほんとにあっけないものだった。ニューヨークで、安上がりに週末《ウイークエンド》をすごしたというだけのことなのだ――あれは、ジャン・ジャック・ハビブラといっしょだったのだったかしら? それとも、ボカノフスキー・ジョーンズといっしょだったのだったかしら? さっぱり覚えがない。ともかく、そんなことはどうだっていい。もう一度ロケット機でアメリカの西部へ、それも、まる一週間行くことができるのかと思うと、彼女は胸がわくわくするのだった。おまけに、一週間のうちの少なくとも三日は、野蛮人保護地区ですごすことになるのだ。このセンターの職員のうちでも、野蛮人保護地区へはいったことがある人は、せいぜい五、六人だった。アルファ・プラスの心理学者の一員であるバーナードは、彼女の知っている、その少数の有資格者の一人なのだ。レーニナにとって、これはまたとないチャンスだった。とはいうものの、バーナードの変人ぶりもまた、全くなみはずれてひどいものだった。それで、彼女も、はたして今度のチャンスをものにしていいものかどうかためらい、思い切って、もう一ぺんあの爺《じじ》むさいこっけいなベニトといっしょに、北極へ出かけることにしようかしら、と本気で考えてみたくらいだった。少なくともベニトなら正常なのだ。ところが、バーナードときたら……
「合成血液の中にアルコールがまざったため」というのが、ファニイの説明だ。しかし、ある晩ヘンリーといっしょにベッドにいるとき、レーニナはすっかり心配になって、新しい恋人バーナードのことをいろいろ話し合ったのだったが、ヘンリーは哀れなバーナードを犀《さい》にたとえたのだった。
「犀には芸は仕込めないんだが」と、彼はいつもの簡潔な、キビキビした口調で説明する。「犀にそっくりっていう人もいないわけじゃない。そんな連中は、条件反射教育にまともな反応ができないんだね。哀れな連中さ! バーナードもそんな一人なんだな。ただ、いいあんばいに奴《やっこ》さん、仕事の腕はまあまあなんだ。あれで仕事の腕でもまずかったら、所長は、とうの昔に追っぱらっていたところだよ。でもね」と、彼は慰めるようにつけ加える。「あの男は、他人の害になるってことはまずないよ」
それは、たぶんそのとおりなのだろう。しかし、他人をかなりいらいらさせるのもまた事実だった。まず第一に、何事によらず人の見えないところでやりたがる、あの気違いじみた癖だ。ということは、実際問題として、何もしない、ということにもなるわけだ。というのは、そもそも、人の見えないところで|できる《ヽヽヽ》ようなことが、何かあるのか、という疑問が起こるからだ。(もちろん、寝るのは別だが、それさえ、いつもひとりぽっちというわけにはいかないのだ)ほんとに何かあるのだろうか? ほとんどない、といってもいい。二人が、はじめていっしょに外出した午後は、とりわけよいお天気だった。レーニナは、トーキー(イングランド南西部の避暑地)・カントリー・クラブでひと泳ぎしてから、オックスフォード会館《ユニオン》で夕食をとりましょうよ、と言った。ところが、バーナードのほうは、雑沓がひどすぎるからいやだ、というのだ。それじゃ、セント・アンドルーズ(スコットランドの有名なゴルフ場)で、電磁式《エレクトロ・マグネチック》ゴルフを一ラウンドやったら? それも、やっぱり「否《ノー》」なのだ。バーナードの考えによると、電磁式ゴルフなんてものは、時間のむだ使いにすぎないのだった。
「それじゃ、時間っていったい何のためにあるの?」さすがのレーニナも、少なからずびっくりして逆襲する。
どうやら、湖畔地方《レーク・ディストリクト》を散歩するためだよ、とでも言いたそうな口ぶりなのだ。それというのも、彼が、そのとき、現にそう言いだしたからだ。スキドウ山の頂上に着陸して、ヒースの生い茂った原野を二、三時間散歩したい、というのだ。「君と二人っきりでね、レーニナ」
「でもね、バーナード、あたしたちは、夜はずっと二人っきりになれるんじゃない?」
バーナードは赤くなって、目をそらす。「ぼくは、そのう、ただ二人っきりで話がしたいんだよ」と、彼は口ごもる。
「話がしたいんですって? でも、何の話をするの?」散歩したり、話しあったりなんて――そんなことで、せっかくの午後をつぶすなんて、ずいぶん変てこな暇つぶしもあったものだわ。
すったもんだのあげく、彼の大反対は押し切られて、彼女の言うとおり、空路アムステルダムへ、女子ヘビーウェート級レスリング選手権試合の準々決勝戦を見物に行くことに話がきまった。
「また人ごみの中か」と、彼は不平をこぼした。「珍しくもない」彼は、午後の間じゅうすねたように、むっつりと黙りこくっていた。レーニナの友人たちとは、(レスリングの試合の合い間に、アイスクリーム・ソーマのバーで、たびたび顔を合わせたのに)口をきこうともしなかったのだった。そして、気がくさくさしているくせに、彼女がどんなにしつこくすすめても、ロズベリー・サンデーの半グラムを、頑《がん》としてのもうとはしないのだ。「ぼくは、いっそこのままでいたいんだ」と彼は言い張る。「ふきげんなままのぼくでたくさんだ。いくら陽気になれても、他人になど、なりたくないよ」
「早めの一グラムは、ききめ九倍よ」と、睡眠教育の格言の結晶ともいうべき、すばらしい宝物を取りだしながら、レーニナが言う。
バーナードは、さしだされたグラスを、いらいらしながら払いのける。
「もう怒りっこなしよ」と彼女が言う。「ねえ、一立方センチは十の憂鬱《ゆううつ》を治してくれるのよ、いいこと?」
「おい、頼むからだまっていてくれよ!」と、彼は怒鳴る。
レーニナは肩をすくめる。「一つのグラムは、常に一つの畜生《ダム》にまさる」彼女は、もったいぶってこう宣言してから、サンデーを自分でのむ。
帰りにイギリス海峡を横断したとき、バーナードは、ヘリコプターのプロペラを止め、ねじプロペラだけをまわして、海面上百ヤード足らずのところに止まっていよう、としつこく言いだした。おりから天候は悪変し、南西の風が吹きはじめ、空には雲が垂れこめていた。
「見たまえ」と、彼は命令口調で言う。
「でも怖《こわ》いわ」レーニナは、窓から尻ごみしながら言う。彼女は、ひしひしと迫ってくる夜の空虚さや、足もとにもり上がっている、ところどころに泡をかんだ黒い波がしらや、とんでいく雲の切れまに見えかくれする、やつれて狂気のような青白い月の顔におびえたのだ。「ラジオを入れましょうよ、早く!」彼女は、計器板のダイアルつまみの方へ手をのばして、盲めっぽうにまわす。
「……汝《なれ》の内部《なか》、空は青く」と、十六人のトレモロの裏声が歌っている。「天気常に……」
やがて、一つしゃっくりをしたかと思うと、ラジオがプツンと切れる。バーナードがスイッチを切ったのだ。
「静かに海を見つめていたいんだよ」と彼が言う。「あんないやらしい音が、ガアガアがなりたてると、おちおち見ることもできないからね」
「でも、すてきな音楽だわ。それに、あたし、海なんか見たくないのよ」
「だけど、ぼくは見たいんだ」と彼は頑張る。「見ていると、ぼくはまるで……」彼は、自分の気持ちにぴったりした言葉を捜すみたいにためらう。「君にはわからないかもしれないけど、もっとほんとうの自分《ヽヽ》になったような気がするんだよ。まるっきりほかのものの一部となっちまうんじゃなくて、もっと自分らしくなるっていうのかな。社会という身体《からだ》のちっぽけな細胞の一つなんてもんじゃなくてね。君はそんな気持ちがしないかい、レーニナ?」
しかし、レーニナは泣いている。そして、ただ、「怖いわ、怖いわ」とくりかえすばかりだ。「社会という身体《からだ》の一部分になりたくないだなんて、どうしてそんな口がきけるの? なんだかんだ言ったって、結局のところ、すべての人は、ほかのすべての人のために働いてるんじゃない? あたしたち、誰がいなくなっても暮らしていけないでしょう。イプシロンだって……」
「そんなことぐらい、わかってるさ」バーナードは、いかにも軽蔑したように言う。「イプシロンだって役に立つって言いたいんだろ! ぼくだってそうさ。畜生、そうでなかったら、ほんとによかったのになあ!」
彼の悪態をきいて、レーニナはゾッとする。「まあ、バーナード!」彼女は、途方にくれて、つらそうな声でたしなめる。「どうして、そんなだいそれたことを?」
すっかり落ち着いた口調で「どうしてだって?」と、彼は考えこむようにくりかえす。「いや、ほんとうの問題は、だね、ぼくがそうなれないのは、どういうわけなのかっていうこと、いや、それよりはむしろ――そうなれないわけが、結局、自分でもよくわかっているんだから――もし、ぼくがそうなれたら、つまり、もし、ぼくがこの条件反射教育って奴の奴隷なんかにされなくて――自由だったら、いったいどんな気がするだろうか、っていうことなんだな」
「でもね、バーナード、あなた、とっても恐ろしいことを言ってるのよ」
「君は、自由になってみたいって思わないかい、レーニナ?」
「あたし、あなたの言ってることがわかんないのよ。あたしは自由よ。思いどおりに、いちばん楽しく暮らせるんですもの。今という時代は誰もしあわせよ」
彼は吹きだす。「そうそう、今という時代は誰もしあわせ、なんだったね。子供が五つになると、そいつが始まるんだから。でもね、レーニナ、何かもっとちがったふうなしあわせを、思いのままに味わってみたくないかね? たとえば、君自身のやり方でさ、他人のきめたやり方じゃなくて」
「あたしね、あなたの言ってることがわかんないの」と、彼女はくりかえす。それから、彼の方にむき直って、「ねえ、お願い、帰りましょうよ、バーナード」と、哀願する。「あたし、ここにいるの、とてもたまらないのよ」
「ぼくといっしょにいるのがいやなのかい?」
「からんじゃいやよ、バーナード。ただ、ここにいるのが恐ろしいのよ」
「ここだと、ぼくたちがもっと……もっといっしょになれそうな気がするんだよ――あるものは、ただ、海と月だけだ。あの人ごみの中にいるときよりも、いや、ぼくの部屋にいるときよりも、もっといっしょになっているんだよ。わかるかい?」
「あたし、何もわかんないわ」彼女は、まるで、わからないままで押し通そうと決心したかのように、きっぱり言う。「ちっともわかんない。でも、いちばんわかんないのは」彼女は、口調を変えて続ける。「あなたが、あんな恐ろしい考えにとっつかれたときに、なぜ|ソーマ《ヽヽヽ》をのまないのかしら、ってことなの。ソーマさえのめば、あんなことは全部忘れてしまうわ。そして、やりきれない気持ちになぞならないで、楽しくなれるのよ。ほんとに楽しくね」目には、途方にくれたような不安の色を浮かべながらも、彼女は、魅惑的なあだっぽい調子でこうくりかえし、にっこりしてみせる。
彼は黙って彼女を見つめる――彼の顔は、無表情で恐ろしく真剣だ――穴のあくほど彼女を見つめる。しばらくすると、レーニナは、どぎまぎして目をわきへそらす。彼女は、いらだったようなかすかな笑い声をたて、何か言うことがないかしら、と頭をひねるが、これという言葉も思い浮かばない。沈黙が続く。
とうとうバーナードが口を開く。疲れ切った小声だ。「よし、わかったよ」と彼は言う。「それじゃ帰ろう」そして、彼がアクセルをグッと踏むと、ヘリコプターは空に向かって、一直線に急上昇する。高度四千で彼はプロペラを始動させる。それから一、二分間二人は黙って飛行を続ける。やがて、だしぬけにバーナードが笑いだす。ちょっと変だわ、とレーニナは思う。だが、笑いはたしかに笑いなのだ。
「気分がよくなったの?」彼女は思い切ってきいてみる。
答える代わりに、彼は操縦桿《そうじゅうかん》から片手を放すと、腕をそっと彼女の後ろにまわして、乳房《バスト》をいじくりはじめる。
「やれやれ」と、彼女は心の中で言う。「どうやら立ち直ったらしいわ」
三十分後には、二人は彼の部屋に戻っている。バーナードは、ソーマ四錠を一息にグイとのみ、ラジオとテレビのスイッチを入れて、服を脱ぎはじめる。
「ねえ」あくる日の昼すぎ、二人が屋上で出会ったとき、レーニナは、思わせぶりなちゃめっ気をこめてきいた。「きのうはおもしろかったわね?」
バーナードはうなずく。二人はヘリコプターに乗りこむ。小さく一揺れしたかと思うと、機は離陸する。
「みんなが、あたしのことをとてもふっくらしてるって言うんだけど」レーニナは、自分の脚《あし》をそっとなでながら、考えこむように言う。
「そのとおりだよ」しかし、そういうバーナードの目には、苦痛の色が浮かぶ。「まさか食肉《にく》でもあるまいに」と、彼は内心思う。
彼女は少し心配そうに見上げる。「あたし、ふっくらしすぎてやしないわね?」
そんなことはないよ、とばかり、彼は首を横に振る。これは、いよいよ食肉《にく》の塊りのつもりなんだな。
「ねえ、あたし、快調でしょう?」相手はうなずく。「どこもかもね?」
「申し分なしだよ」と、彼は口に出して言う。だが、心の中では、「この女は自分でもそう思っているんだ。食肉《にく》だと思われても平気なんだ」
レーニナは、勝ち誇ったようににっこりする。しかし、得意になるのは、ちょっと早すぎた。
「でも、やっぱり」しばらく黙っていてから、彼が言葉を続ける。「ぼくは、何となく、もっとちがった結末になっていたらよかった、という気がするなあ」
「ちがった、ですって? あれとはちがった結末なんてあるのかしら?」
「いっしょに寝るという、あんな結末でなきゃよかったんだよ」と、彼が具体的に言う。
レーニナはびっくりする。
「はじめてのその日に、いきなりすぐ結末までいっちまうんじゃなくてさ」
「でも、それだったら、いったいどんな……?」
彼は何だかわけのわからない、危険なたわごとを、くどくどと並べはじめる。レーニナは、心の耳にふたをしようとやっきになるが、それでも、ときどき、これでもか、とばかり、片言が耳にはいってくる。「……ぼくの心の衝動を抑えるような効果を狙った」という彼の言葉が彼女の耳を打つ。その言葉が、彼女の心のばねにぶつかったようだ。
「今日の楽しみを、けっしてあすまで延ばさないこと」と、彼女は大まじめで言う。
「十四歳から十六歳六か月まで、一週二回ずつ、二百回の反復か」彼は、ポツリとそれだけ言う。気ちがいじみた愚にもつかないたわ言は、なおもだらだらと続く。「熱情って、いったいどんなもんだか知りたいんだ」彼の言葉が彼女の耳にはいる。「何かもっと強烈なものを経験してみたいんだ」
「個人が感動すると、共同社会は動揺する」と、レーニナが宣言する。
「なるほどね、でも、ちょっとぐらい動揺したっていいじゃないか?」
「バーナード!」
たしなめられても、バーナードは顔色ひとつ変えない。
「知能の面と、労働時間中は成人《おとな》で」と、彼はたたみかける。「感情と欲望の面では幼児ってわけか」
「わが主フォード、幼な児を愛し給えり」
彼女の御託宣には耳もかさず、「この間、突然のことだったんだが」と、バーナードは続ける。「ぼくは、四六時ちゅう成人《おとな》になっていられるかもしれないな、っていう気がしたんだよ」
「わからないわ」レーニナの口調は、きっぱりしている。
「君にはわからないだろうな。そう思ったから、きのう君といっしょに寝たんだよ――まるで幼児みたいにね――成人《おとな》のように待ったりなんかしないでさ」
「でも、楽しかったわよ」と、レーニナは頑張る。「そうでしょ?」
「ああ、そりゃもう、とっても楽しかったよ」と彼は答える。しかし、その声がいかにも沈んでいて、おまけに顔つきまでが、あまり悲しそうなので、レーニナは、さっきの勝ち誇った気分が、突然、すっかり消えてしまったような気がする。きっとこの人は、結局、あたしが太りすぎてると思ってるんだわ。
「だから、あたし、言ったでしょう」レーニナがやって来て、うちあけ話をしたとき、ファニイは、ただそれだけ言った。「あの人の合成血液に、アルコールがはいったせいなのよ」
「でもやっぱり」と、レーニナは食い下がる。「あたし、あの人が好きだわ。手がほんとにすてきなの。それに、肩の動き方ね――とっても魅力だわ」彼女はホッとため息をつく。「ただ、あんなに変てこでなけりゃいいんだけど」
バーナードは、所長室のドアの外にしばらく立ち止まると、深呼吸を一つして、肩を怒らせた。内部《なか》で出くわすにきまっている不快さや反対を押し切れるように、勇気を振い起こしたのだ。彼はノックして、その部屋にはいった。
「所長、許可証に署名をお願いします」彼は、できるだけ陽気な調子でそう言うと、書きもの机の上に書類をおいた。
所長は、にが虫をかみつぶしたような顔をして、彼をジロリと見た。しかし、書類の上端には、世界大統領事務局の公印が押してあり、ずっと下の方には、太い字で黒々とムスタファ・モンドの署名がある。手続きは万端整っている。所長には、とやかく言う権限はないのだ。彼は、鉛筆で自分の頭文字《イニシアル》を書く――ムスタファ・モンドの署名の下に、卑下したようなちっぽけな元気のない文字が二つ、チョコンと並んだ――べつだん文句もつけず、その代わり、愛想よく、元気で行ってきたまえ、とも言わないで、その書類を返そうとしたとたん、所長の目が、許可証の本文のどこかに止まった。
「ニューメキシコの野蛮人保護地区へ行くんだね?」と、彼がきく。その言葉の調子にも、バーナードを見上げるその顔にも、うろたえたような驚きがこもっている。
所長の驚きにびっくりして、バーナードはうなずく。沈黙が流れる。
所長は、椅子にふんぞりかえったまま、顔をしかめる。「あれは、今からどのくらい前のことだったかなあ?」というその言葉は、バーナードに向かってというより、むしろ、ひとりごとのような調子だった。「二十年ほど前だったかな。いや、かれこれもう二十五年近いな。私が、今の君ぐらいの年ごろだった……」彼は、フッとため息をついて、首を横に振る。
バーナードは、すっかりめんくらってしまう。所長のような、コチンコチンの保守派の、そつの無さすぎるのが、むしろ、きずといった、きちょうめん家が――こんなはしたない真似をしでかすなんて! 彼は、穴があったらはいりたいような、いっそ部屋から逃げだしたいような衝動に駆られる。といっても、彼は、べつに、人が遠い過去のことをしゃべるのは、本質的にまちがっている、と考えているわけではない。それをまちがっていると考えるのは、睡眠教育的偏見の一つだが、彼は、そんな偏見はきれいさっぱり捨ててしまった(と自負しているのだ)。彼が恥ずかしくていたたまれない気がしたのは、所長がよくないことだというくせに――そう言いながら、自分で、ついうっかりとそのよくないことをやっているのを見たことだった。心の中で、どんな衝動が動いたのだろうか? 落ち着かない気持ちのまま、バーナードは、所長の言葉にじっと耳を傾ける。
「わたしも君と同じ考えをもったことがある」と、所長が切りだした。「野蛮人たちを、一目見たい、とね。それで、ニューメキシコ行きの許可をもらい、夏季休暇の間じゅう、そこへ行っていたんだ。そのころつき合っていた女の子といっしょにね。その女の子は、たしかベーター・マイナスだった。(彼は目を閉じる)髪の毛は黄色だったな。ともかく、ふっくらとはずみのいい子だった。ほんとにはずみのいい子だった。今でもおぼえているくらいだからね。さて、わたしたちは、そこで、野蛮人たちを見学したり、馬で駆けまわったり、そのようなことをして過ごした。ところが――もう帰るまぎわの日になって――そのぎりぎりのときになって……そのう、女の子がいなくなってしまったのだ。わたしたちは、あのぞっとするような山々のどれかに、馬で登ろうとしたんだ。恐ろしく暑い、うっとうしい日だった。中食後、二人で昼寝をした。といって悪ければ、少なくともわたしは昼寝をした。彼女は、きっと、一人で散歩にでもでかけたのだろう。ともかく、わたしが目をさましたとき、彼女はいなかった。ところが、そのとき突然、今まで見たこともないような雷雨《あらし》がやってきたのだ。雨はどしゃ降りとなり、雷鳴がとどろき、稲妻がきらめいた。馬は手綱《たづな》をふり切って逃げてしまった。わたしは、馬をつかまえようとしてころび、膝にけがをしてほとんど歩けなくなってしまったのだ。それでもわたしは捜しまわり、大声で呼び、また捜しまわった。しかし、どこにも彼女の姿は見えなかった。それで、しまいには、わたしも、彼女はきっと一人で宿泊所へ帰ったにちがいないと思った。そこで、もと来た道を通って、渓谷《けいこく》をはい降りた。膝がずきんずきんと痛む。おまけに、ソーマはなくしてしまった。数時間もかかって、やっと宿泊所へたどりついたときには、もう真夜中すぎだった。ところが、彼女はそこにもいない。帰っていなかったのだ」所長がくりかえした。沈黙が流れた。「さて」と、彼がようやくまた言葉をついだ。「そのあくる日、捜索が行なわれた。が、依然として彼女の消息はつかめなかった。きっとどこかの小渓谷《ガリ》にでも落ちたか、山に住むライオンにでも食われてしまったのだろう。さっぱりゆくえがわからないのだ。ともかく恐ろしい事件だった。その事件のおかげで、あのころ、わたしはまるで気も狂いそうだった。だが、なにもあんなにまでこたえる必要はなかったのだ。というのは、詮じつめれば、誰にでも起こるようなそんな事故だったからだ。そして、いうまでもないことだが、社会という肉体を作り上げている細胞は変化しても、肉体そのものは変化しないで存続していくのだ」しかし、この睡眠教育的な慰めは、たいした効《き》き目もなさそうだった。首を振りながら、「今でも、ときどき、ほんとうにあのときの夢をみることがある」と、所長は小声で話し続ける。「ものすごい雷に目がさめてみると、彼女がいなくなっている夢や、木の下を、いつまでもいつまでも捜しまわっている夢をね」彼は、思い出にふけるかのように黙りこんだ。
「さぞ恐ろしいショックを受けられたのでしょうね」バーナードは、ほとんどうらやましそうな顔をする。
その声をきくと、所長は自分の立場にハッと気がつき、しまった、と思う。そのとたん、ちらりとバーナードの顔を見るが、ついと目をそらし、心の中で赤面する。しかし突然、うさんくさそうに彼を見すえ、威丈高《いたけだか》になって声を荒らげ、「誤解のないように断わっておくが」と切りだす。「わたしとその女の子との関係は、ちっともいかがわしいものではなかったのだ。感情的な関係でもないし、長びいた関係でもない。全く申し分がないほど健全で正常な関係だったのだ」彼は、バーナードに許可証を手渡した。「こんな愚にもつかない昔話をながながと君にきかせるなんて、わたしは、ほんとにどうかしている」名誉にもならない秘密をうちあけてしまった自分にいらいらして、彼は、バーナードに八つ当たりする。彼の目つきは悪意にみちている。「ときにマルクス君、この機会に君に御注意申し上げたいのだが」と、彼はおもむろに言葉を続ける。「勤務時間外の君の行動について、近ごろわたしが耳にするうわさは、どれもこれも好ましくないものばかりだ。こんなことをいえば、君は大きなお世話だ、というかもしれん。しかし、これは、大きなお世話だ、といってすまされるような問題ではないのだ。わたしは、センターの評判を落とさないようにしなければならない。センターの職員は、人にとやかく批判されるようなことのないように気をつけなければいけないのだ。特に、最上階級のものは。アルファの者は、感情を伴う行為が必ずしも幼児的でなくてもよいような条件反射教育を受けている。しかし、それだからこそ、かえってそうなるため、なおいっそうの努力が必要なのだ。むしろ、自分の好みなどは犠牲にしても、幼児的になることがアルファの者の義務なのだ。そういうわけで、わたしは、所長として、君に、当然の御注意を申し上げるのだ」
所長の声は、いまや全く正義感にあふれ、非個人的なものとなった憤りのために、ビンビンとあたりにひびき渡る――この憤りこそ、彼に対する、社会全体の不満のあらわれなのだ。「今後、もし君が、幼児的行為という正しい基準から、ちょっとでも逸脱しているという噂が、わたしの耳にはいりでもしたら、君に、どこか――ひょっとしたら、アイスランドあたりの――支部へ転勤してもらうようになると思うよ。それじゃ」それだけ言うと、所長は、椅子をグイとまわしてペンを取り上げ、何か書きものを始めた。
「あれだけ言っておけばこりるだろう」と、所長はひとりごとを言った。しかし、所長の見通しは甘かった。というのは、バーナードがドアを後ろ手にバタンとしめたとき、おれは、ただ一人で世間の慣習と戦っているのだ、という思いに胸は躍り、一個の人間としての自分の意義と重要性を、しびれるほどかみしめて、すっかり得意になっていたからである。迫害の恐れも、彼は平気だった。それは、彼の気勢をそぐどころか、彼をいっそうふるい立たせる強壮剤となったのだった。彼は、不幸に立ち向かい、それを打ち破るだけの勇気がわいてきて、アイスランド行きがなんだ、という気になった。しかも、そんな羽目におちいることになろうとは、かたときも本気で考えたことがなかったので、彼の自信は、まさに天を衝《つ》くばかりだった。これしきのことで、転勤などになるものか。アイスランド行きなど、ただのおどしにきまっている。すばらしく気のきいた、小気味のいいおどしだ。廊下を歩きながら、彼は文字どおり口笛を吹いた。
所長と会ったてんまつについて、その晩、彼がした話は、いかにも大げさなものだった。「そこでだね」と、彼はしめくくった。「ぼくは、はっきり言ってやったんだ、『底なしの過去まで落ちこんでみられることもいいでしょう』とね。それから、意気揚々と凱旋《がいせん》したってわけだよ。それで一巻の終わりさ」彼は、相手が、当然、わが意を得たり、とばかり激励し、賞賛してくれるものと思いこんで、期待に胸をおどらせながら、ヘルムホルツ・ワトソンを見つめた。しかし、そんな気配はちっともない。ヘルムホルツは、床に目を落としながら、黙ってすわっているだけだ。
彼はバーナードが好きだ。自分の重大問題を自由に話し合えるただ一人の友人であることは認めているし、その点はありがたいとも思っている。それはそのとおりなのだが、バーナードには、どうにも我慢できない癖があるのだ。たとえば、今の大げさな自慢話の癖だ。それと、この自慢が、みる間に変わっていく、あのなさけないほどの自己|憐憫《れんびん》の発作《ほっさ》だ。次は、事件が終わってから勇気が出たり、現場にいないと、全く驚くほどの冷静さを発揮したりする、あの癖だ。彼には、こういった点が、我慢がならないのだ――それこそ、ほんとにバーナードを好いているために、我慢ができないのだった。しばらくたった。ヘルムホルツは相変わらず床を見つめたままだ。すると、突然、バーナードは顔を赤くして、目をそらした。
旅行は全く平穏無事だった。ブルー・パシフィック・ロケットは、ニューオリンズでは二分半だけ早かったが、テキサスの上空で大竜巻《トルネード》に巻きこまれて四分遅れた。しかし、西径九十五度の地点で好都合な気流に乗ったので、定刻よりわずか四十秒遅れてサンタフェに到着することができた。
「六時間半の飛行に対して四十秒の延着だわ。まあまあね」と、レーニナがなっとくする。
彼らはその晩サンタフェに一泊した。ホテルはすばらしかった――たとえば、レーニナが去年の夏ひどい目にあった、あのぞっとするようなオーロラ・ボーラ・パレスにくらべると、それこそ比較にならないほど快適だった。各寝室には、液体空気、テレビ、振動式真空マッサージ機、ラジオ、熱いカフェイン水、温熱避妊薬、それに八種類のそれぞれ異なった香水の出る設備がある。二人がホールへ一歩足を踏み入れると、合成音楽演奏装置が演奏を続けていて、全く何から何まで至れり尽くせりだ。エレベーターの内部《なか》の掲示によると、ホテル専用のエスカレーター・スカッシュ・ラケットのコートが六十|面《めん》もあり、庭園では、障害式と電磁式の両方のゴルフができるらしい。
「ほんとに、ずいぶんすばらしいところらしいわねえ」と、レーニナが叫ぶ。「あたし、ずーっとここにいたいくらいよ。エスカレーター・スカッシュ・コートが六十面も……」
「保護地区には一つもないぜ」と、バーナードが予防線を張る。「香水はもちろん、テレビもないし、お湯さえないからね。どうも我慢できそうにもないと思ったら、ぼくが戻ってくるまでここにいたまえ」
レーニナは、すっかり気を悪くする。「あら、我慢できるわよ。ただ、そのう、あのう、進歩ってものは、ほんとにすばらしいものだから、だって、そうでしょ?……だから、ここはすばらしいっていっただけなのよ」
「十三歳から十七歳まで、週一回、五百回の反復か」と、バーナードは、まるでひとりごとのように、ものうい口調でボソッと言う。
「何ですって?」
「進歩ってものはすばらしいって言ったんだよ。君はそんな調子なんだから、ほんとに来てみたいという気になるまで、来なけりゃよかったんだな」
「だって、あたし、ほんとに来てみたいなって気になってるわよ」
「そんならいい」と、バーナードは言う。ほとんどおどしつけるような調子だ。
彼らの許可証には、保護地区区長のサインが必要だったので、二人は着いたあくる日、きちんと役所へ顔を出した。イプシロン・プラスの黒人の守衛が、バーナードの名刺を受け取ってはいっていったかと思ったとたん、二人は内部《なか》へ案内された。
区長は、金髪で短頭のアルファ・マイナスで、ズングリと背が低く、まん丸い赤ら顔で、肩幅が広い。睡眠教育の格言の暗誦にはうってつけの、朗々とした声の持ち主だ。彼は、見当はずれの知識と、ありがた迷惑な忠告の塊りである。いったん口を開いたとなると、それこそ、立て板に水を流すようにしゃべりまくる――まるでとどろきだ。
「……五十六万平方キロの土地が、四つの異なった小地区に区分され、各地区の周囲には、高圧電流を通した針金の柵が張りめぐらされています」
ちょうどこのとき、なぜだかわからないが、バーナードは、突然、自分の浴室のオー・デ・コロンの詮をあけっ放しにしてきたことを思いだした。
「……グランドキャニオン水力発電所より発電されています」
「帰るまで出しっ放しにしていたら、それこそおれは破産だな」バーナードの頭の中に、香水メーターの指針《はり》が、蟻《あり》のように根気よくグルグルまわり続けている情景が浮かんだ。「ヘルムホルツ・ワトソンにすぐ電話しなくちゃ」
「……五千キロメートル以上の柵に、六万ボルトの電流が通じています」
「まあ、ほんと?」レーニナは、区長の言うことがちっともわからないのだが、、彼の芝居がかった間《ま》のおき方につられて、つつましく感心してみせる。実は、区長がせきを切ったようにしゃべりだしたとき、彼女は、こっそりと半グラムのソーマをのみ込んだのだった。そのおかげで、彼の話には耳もかさず、何も考えていないくせに、いかにも一心にきき入っているような顔をして、大きな青い目をじっと区長の顔にすえながら、落ち着いてすわっていることができたのだ。
「柵に触れると即死です」と、区長がいかめしく宣言する。「したがいまして、野蛮人保護地区から逃げることはできません」
『逃げる』という言葉が、思わせぶりだ。「どうやら」と、バーナードは腰を浮かしながら言う。「おいとましなきゃいけない」小さな黒い指針《はり》がヒョコヒョコまわって、昆虫のように、少しずつ時間をかじり、彼のお金をかじり続ける。
「逃げることはできません」手を振って彼を椅子に押し戻しながら、区長はくりかえす。何しろ、許可証にまだ確認のサインをもらっていないので、バーナードとしても、区長の言いなりになっているよりしかたがないのだ。「保護地区内で生まれたものは――いいですかな、お嬢さん」レーニナを、いやらしい横目にかけながら、わざとらしく声をひそめて言葉を続ける。「いいですか、保護地区の内ではですな、今でも、子供が|生まれている《ヽヽヽヽヽヽ》、そう、ほんとに生まれているのですよ、胸がムカムカするような話ですがね……」(こんないやらしい話をもちだしたら、きっとレーニナはまっ赤《か》になるにちがいない、と彼は思いこんでいたのだった。ところが、彼女は、いかにもわかったようなふりをして、ただにっこりしながら、「まさか!」と言っただけなので、区長は、がっかりして、またしゃべりだす)「重ねて申しますが、保護地区の中で生まれたものは、保護地区の中で死ぬことに決まっているのです」
死ぬことに決まっている……毎分、一デシリットルのオー・デ・コロン。一時間なら六リットル。「もうそろそろ」と、バーナードは、また腰を上げかける。「私たちは……」
前の方へ乗りだしながら、区長は人さし指でテーブルをトンと叩く。「保護地区の中に、どれくらいの人間が住んでいるのか、という質問です。そこで、お答えします」――昂然《こうぜん》と胸を張って――「わかりません、これがお答えです。ただ、推測はできます」
「まさか!」
「まさか、じゃありません、ほんとですよ、お嬢さん」
二十四の六倍――いや、むしろ、三十六の六倍に近いな。バーナードは青くなり、我慢できなくなってブルブル震えだす。しかし、大演説は容赦なく続く。
「……約六万人のインディアン、ならびに白人との混血児……完全な野蛮人……区役所の監督官が時おり巡回しますが……そのほかは、文明世界との交流はいっさい遮断されています……唾棄《だき》すべき風俗習慣が、依然として温存されております……たとえば結婚ですな、これがどんなものか御存じでしょうな、お嬢さん、それに、家族……条件反射教育などは、もちろんないのですぞ……ぞっとするような迷信とか……キリスト教とか、トーテム崇拝とか、祖先崇拝など……ズーニー語や、スペイン語や、アサパスカ語のような死語……それに、ピューマや、ヤマアラシや、そのほかの狂暴な猛獣たち……伝染病……僧侶《そうりょ》……毒トカゲ……」
「まあ、ほんとかしら?」
二人はやっとのことで解放される。バーナードは、電話に突進する。早く、早く。しかし、ヘルムホルツ・ワトソンのところへつながるまでに三分近くもかかる。「もう野蛮人どもの中にいるようなもんだな」と、彼は泣き言をいう。「この能率の悪さ!」
「一グラムのみなさいったら」と、レーニナがすすめる。
彼は、てんで受けつけない。プンプンしているほうがまだましなのだ。やがて、ありがたいことに、どうにか電話がつながる。はい、こちらはヘルムホルツ・ワトソンです。バーナードは、彼に事の次第を説明する。よし、わかった。すぐに行って詮をしめてくるよ、うん、すぐにね。だけど、ついでだから言っておくんだが、きのうの夕方、所長がね、みんなの前で言っていたぜ……
「何だって? 所長がぼくの後任を捜しているって?」バーナードの声はつらそうだ。「それじゃ、本ぎまりなんだね? アイスランドっていったって? ほんとうかい? やれやれ! アイスランドとはね……」彼は受話器をかけて、レーニナのところへ戻る。まっ青で、すっかりシュンとした顔だ。
「どうかしたの?」
「どうかしたかって?」彼はドサッと椅子に倒れこむ。「ぼくはアイスランド行きなんだ」
これまでも、(ソーマなどのまないで、ただ自分の力だけに頼って)何か大きな試練とか、苦痛とか、迫害とかに立ち向かうのは、どんな気持ちだろうか、と、たびたび想像したことはあったし、苦難が早くくればよい、と、望んだことさえあったくらいだった。ほんのつい一週間前にも、所長の部屋で雄々しくも反抗し、一言の泣き言もいわないで、従容《しょうよう》として苦痛を耐え忍んでいる自分の姿を心に思い浮かべていたのだった。所長のおどしも、実は、かえって彼の勇気をふるい立たせ、彼を、ほんとの自分よりもっと偉くなったような気持ちにしてくれたのだった。しかし、今となってみるとよくわかるが、それも、結局、自分がそのおどしを、たいしたこともあるまい、と多寡《たか》をくくっていたためだったのだ。いざとなれば、所長なんかに、何ができるものか、と、甘くみていたのだ。しかし、今、そのおどしが、現実の重みをもって迫ってくると、さすがのバーナードも、ドキリとしたのだ。あの頭で考えた忍苦の生活も、口さきだけの勇気も、あとかたもなく、すっかり消えうせてしまった。
彼は、自分に腹が立った――おれってなんというばかな奴なんだろう!――だけど、所長も所長だ――またの機会を与えてくれないなんて、いくら何でもあんまりひどいじゃないか。今となっては、全く疑いの余地もないが、おれは、いつも、そのまたの機会をものにしようと待ちかまえていたのだ。それなのに、こともあろうにアイスランド、アイスランドとは……
レーニナはいいえと首を横に振る。「『だった』も『だろう』もまっぴらごめん」と彼女は格言を受け売りする。「一グラムのめば、『である』だけがあるばかり、よ」
とうとう彼女に説き伏せられて、彼はソーマ四錠をグッとのむ。五分たつと、根も果実《み》も消えうせ、ただ、『現在』という花だけがばら色に咲きほこる。守衛の伝言がとどく。区長の御命令により、保護地区看守の一人がヘリコプターでやって来て、ホテルの屋上でお待ちしております、と。二人はすぐに屋上へ上がる。ガンマー・グリーンの制服を着た|八分の一混血児《オクトルーン》(黒人の血を八分の一伝えている、黒人と白人の混血児)が敬礼してから、早速午前中の予定を暗誦しはじめる。
おもな原地民部落《プエブロ》を十あまり、上空から見学し、それからいったんマルペイスの谷間に着陸し、そこで中食にしていただきます。そこの宿泊所は快適であります。山上の原地民部落《プエブロ》では、ひょっとすると原地民の夏祭りが行なわれるかもしれません。というわけで、一晩泊まるには絶好の場所ということになります。
一行はヘリコプターに乗りこみ、出発する。十分後に、一行の乗った機は、文明圏と野蛮人地区の境界を越える。丘を登り、丘を下り、岩塩や砂の砂漠を越え、森をぬけ、紫色の深い大峡谷へ落ちこんだかと思うと、ごつごつした岩かどや、岩の峰や、平らなテーブル形の地卓《メーサ》を越えて、柵が、断ち切ることのできない直線となって、どこまでもどこまでも続いている。人間の意志の勝利を表わす幾何学的な象徴だ。そして、柵の根もとのあちこちに、モザイク模様のような白骨が散らばったり、黄褐色の大地に、まだ腐敗しきらない死体がくろぐろと残っているのは、鹿や、雄牛や、ピューマや、ヤマアラシや、コヨーテや、風にのってくる腐肉のにおいにおびき寄せられ、それこそ天罰てきめん、爆死をとげた貪欲《どんよく》なハゲワシなどが、死の電線に近づきすぎたあとだった。
「奴らは、こりるということがぜったいにないんですね」と、緑の制服の操縦士が、足もとの地上にある白骨を指さしながら言う。「いつまでたってもこのとおりですよ」とつけ加え、まるで自分自身が、感電死した動物に勝ったような顔をしながらにっこりする。
バーナードも、つりこまれてにっこりする。二グラムのソーマをのんだ後は、そんな冗談もおもしろくきけるのだった。にっこりしたかと思うと、彼は、ほとんどすぐ眠りに落ちた。そして、眠ったまま、タオースや、テシュキの上空を越え、ナンビーや、ピキュリスや、ポジョウキー上空を越え、シイアとコーキティの上を飛び、ラグ―ナと、アーコマと、「魔法のメーサ」の上空を通り、ズーニーと、シーポラと、オウホ・カリエーンテの上空を通過した。そして、やっと目がさめたとき、機はもうとっくに着陸していて、レーニナがスーツケースを小さな四角形の家の内部《なか》へ運びこんでおり、ガンマー・グリーンの制服の例の|八分の一混血児《オクトルーン》は、一人の若いインディアンとわけのわからない言葉で話しているところだった。
「マルペイスに着きました」バーナードが機上から降りると、操縦士が説明する。「これが宿泊所です。今日の午後、原地民部落《プエブロ》で踊りがあります。この男がそこまで御案内します」彼は、むっつりした一人の若いインディアンを指した。「きっとおもしろいですよ」と彼はにやにや笑う。「この連中のやることといったら、何から何までおもしろいです」こう言い捨てて、彼はヘリコプターに乗りこみ、エンジンをかける。「明日また参ります。それじゃ、いいですね」彼は、レーニナに向かって、安心させるようにつけ加える。「この連中はすっかり馴らされていますからね、危険なことなど、ちっともありませんよ。ガス爆弾の味を、いやというほど知っていますから、ぜったいにいたずらなどしません」相変わらずにやにやしながら、彼はヘリコプターのねじプロペラのギアを掛け、アクセルをふかして飛んでいってしまう。
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第七章
その地卓《メーサ》は、まるで、黄褐色の土の海峡で凪《なぎ》のために動けなくなり、どっかりすわりこんだ船のようだった。その海峡は、切り立った崖《がけ》と崖との間を縫い、谷を横切って、絶壁から絶壁へと傾斜していく一条の緑のすじとなってのびている――川と流域の平野だ。海峡のまん中に、見たところ、その海峡の一部となってすわりこんでいるその石の船のへさきに、はだか岩が幾何学的な格好《かっこう》にむきだしていて、そこに、マルペイスの原地民部落《プエブロ》がある。
上の階へ行くほど小さくなっていく丈の高い家が、幾つも幾つもつみ重なって青空にそびえている。まるで、踏みくずされたピラミッドだ。そのピラミッドの足もとに、低い建物が散在し、十文字に交差した壁が立っている。断崖《だんがい》の三方は、切り立った絶壁となって、垂直に平野へ落ちこんでいる。煙の柱が二すじ三すじ、風の無い空に向かってまっすぐに立ち上り、消えていく。
「変なところねえ」と、レーニナが言う。「ほんとに変だわ」これが、くさすときの彼女の口癖だ。「あたし、こんなとこ嫌《きら》いよ。それに、あの男も嫌いだわ」彼女は、二人を原地民部落《プエブロ》まで案内してくれることになっているインディアンの案内人《ガイド》を指さす。彼女の気持ちがどうも伝わるらしく、二人の先に立って歩いていく男の背中までが、敵意をこめた軽蔑の目でむっつりと睨《にら》んでいるような気がしてくる。
「おまけに」と彼女は声をひそめる。「この男、くさいわ」
バーナードは、べつに打ち消しもしない。一行は歩き続ける。
突然、あたりの空気が、まるで生きかえったように、震えだした。たゆみない血液の循環に合わせて震えだしたようだ。山の上のマルペイスで、ドラムが鳴っているのだ。一行の足が、ひとりでに、そのふしぎな鼓動に調子を合わせて動く。彼らは足を早める。歩いていくと、切り立った断崖の下へ着いた。巨大な船のような地卓《メーサ》の脇腹が、彼らの頭上にそびえている。ふなべりまで三百フィートだ。
「ヘリコプターをもってきたらよかったのに」無表情に目の前にそびえている岩の表面を、腹立たしそうに見上げながら、レーニナが言う。「歩くのなんかまっぴらだわ。それに、山のふもとに来ると、自分がひどくちっぽけな気がするんですものね」
一行は、しばらく地卓《メーサ》の陰を歩き、岩角をグルリとまわった。すると、流れに侵食された峡谷に、船の甲板昇降口のような坂道が現われた。一行は登っていった。峡谷の一方から他方へ、ジグザグに走るけわしい小径《こみち》である。ときどき、鼓動のようなドラムの音が、ほとんどきこえなくなってしまう。ところが次の瞬間、ついその角をまわったところで鳴っているようにきこえるのだった。
途中まで登ったとき、一羽の鷲《わし》が、一行のすぐそばを、かすめるように飛んでいった。羽ばたきの風が、顔にひやりと当たるほどの近さだ。岩の割れ目に、白骨がうず高く残っている。憂鬱になるくらい奇妙な情景だ。つれのインディアンのにおいは、ますますひどくなってくる。一行は、ついに、峡谷から日がいっぱいに降りそそいでいる日なたへ出た。地卓《メーサ》のてっぺんは、甲板のような平らな岩だった。
「チャーリングT塔《タワー》みたいね」これがレーニナの批評だ。しかし、見なれたもののおもかげをみつけて喜んだのも、つかの間だった。ピタピタというやわらかい足音に、二人は振りむいた。首からへそのあたりまですっぱだかで、黒褐色の肌に何本も白いすじをかき(「アスファルトのテニスコートみたいだったわ」と、レーニナは後になって説明したのだが)、顔には、まるで化けもののように赤と黒と黄土色《オーカー》の絵具をコテコテとぬりたくった二人のインディアンが、こちらへ走ってくるのだ。黒い髪を、狐の毛皮と赤いフランネルで結わえている。七面鳥の羽根のケープが肩さきにヒラヒラし、大きな羽根かざりの冠が、頭のまわりにでかでかとひろがっている。歩くたびに、銀の腕輪や、骨やトルコ玉のずしりと重い首飾りがチンチン、ジャラジャラと鳴った。彼らは黙って走ってくる。鹿皮のモカシン靴をはいているので走っても音がしない。一人は羽根のはたきを持っており、もう一人は、遠くから見ると、三、四本の太いロープの切れはしのように見えるものを両手に持っている。ロープのどれかが窮屈そうに曲がりくねっているのを見て、レーニナはハッと気がついた。蛇だ。
二人のインディアンはしだいに近づいてくる。その黒い目がジッと彼女をみつめる。しかし、彼女を認めたそぶりもみせない。いや、目にうつったのかどうかもわからない。だいたい、彼女がそこにいるのさえも、ほとんど気づいていないようだ。のたうっていた蛇が、ほかのものと同じく、まただらりとのびた。男たちは通りすぎる。
「いやねえ」と、レーニナが言う。「ほんとにいやだわ」
案内人《ガイド》が指示を受けるため、二人をその場に残して原地民部落《プエブロ》へ行っていた間、彼らはその入口に立っていたが、彼女は、部落の入口に待ちうけているものを見ると、もっといやになってきた。まず汚物、それにがらくたの山、ごみ、犬、ハエ、だ。がまんできない不快さのために、彼女は顔をしかめ、鼻にハンカチをあてがう。
「ほんとに、よくもこんな生活ができるもんだわ」とても信じられない、とばかり、彼女は怒りの声をあげる。(とても考えられないわ)
バーナードは、あきらめたように肩をすくめる。「ともかく」と、彼は口を開く。「何しろ、この連中は、今まで五、六千年の間このままの状態できているんだからね。だから、きっともうすっかり馴れっこになってるんだよ」
「だって、清潔は、フォードらしさに一番近いのよ」と、彼女は言い張る。
「そうさ、そして、文明は殺菌なり、だよ」基礎衛生学の睡眠教育第二課を、皮肉たっぷりな調子できめつけてから言葉を続ける。
「だが、おあいにくなことに、この連中は、わが主フォード様のことなどきいたこともないのでね。つまり、文明の洗礼を受けていないんだよ。だから、何にもならないのさ、いくら……」
「まあ!」彼女は彼の腕をつかむ。「あれはなに?」
ほとんどまるはだかのインディアンが一人、近くの家の二階のテラスから、ゆっくりと梯子《はしご》を降りてくるのだ――極度の老齢のためぶるぶるふるえるのを、用心しながら一段、一段降りてくる。深いしわがきざまれたその顔は、まるで黒曜石の面のようにまっ黒だ。歯のぬけた口もとは落ちくぼんでいる。唇の両はしとあごの両側に残っている少しばかりの長いごわごわした毛が、黒い皮膚の上に、ほとんど白く光っている。長くときほぐした髪が、灰色の房になって顔のまわりに垂れ下がっている。からだは曲がって、瘠せこけ、ほとんど肉が落ちて骨ばかりだ。思い切って足を出す前に、一段ごとに休みながら、ゆっくりゆっくり降りてくる。
「あの人、どうしたの?」と、レーニナがささやく。恐怖と驚きで目を丸くしている。
「どうもしやしないよ、ただ、年をとっているだけさ」バーナードは、できるだけさりげない顔で答える。実は、彼も驚いたのだが、わざと平気な顔をしているのだ。
「年をとっているんですって?」と彼女はくりかえす。「そんなことをいえば、所長さんだって年をとっているし、年をとっている人ってずいぶんたくさんいるけど、みんな、あんなふうじゃないわ」
「それはね、われわれの世界じゃ、あんなふうにはならないようにしてあるからなんだよ。病気にかからないようにしてあるんだ。人工的に、内分泌が青年時代と同じ均衡状態を維持するようにしてあるのさ。マグネシウムとカルシウムの比率が、三十歳のときの状態より低下しないように手が打ってあるんだ。つまり、若い血液を輸血してやるのだ。そして、新陳代謝を絶えず刺激し続ける。だから、もちろん彼らはあんなふうにはならないんだ。一つには」と彼はつけ加える。「ほとんどの人が、いわゆる老齢に達するずっと前に死んでしまう、ということもあるんだけどね。若さが、六十歳までほとんどそのまま持続する。そして、六十歳になると、ポックリ! それで終わりさ」
しかし、レーニナは彼の言葉に耳もかさない。例の老人をじっと見つめている。そろりそろりと彼は降りてくる。足が地面に着いた。振りかえる。深く落ちくぼんだ眼窩《がんか》の中で、目だけがまだ異様に輝いている。その目が、長い間ぼんやりと無表情に彼女を見つめている。まるで、彼女のいるのがちっとも目にはいらないみたいだ。やがて、老人は、腰を曲げたまま、びっこを引き引きゆっくりと二人の前を通り過ぎて、見えなくなってしまった。
「こわいわ」とレーニナはささやく。「ぞっとするわ。こんなところへ来なけりゃよかったのよ」彼女は、ポケットに手を入れてソーマを捜す――だが、いつになくついうっかりして、ソーマのびんを宿泊所に忘れてきたことに気がつく。バーナードのポケットにもはいっていない。
レーニナは、いやでもソーマの助けを借りないでマルペイスの恐怖に直面しなければならないはめとなった。いろいろな恐怖が、相ついで次から次へと、これでもかこれでもかとばかり迫ってくる。二人の若い女が、胸もとをはだけて赤ん坊に乳をのませているのを見て、彼女は赤面し、顔をそむける。今まで、こんないやらしい光景は見たこともなかったのだ。ところが、もっと始末が悪かったのは、母親が赤ん坊に乳をふくませている、この胸のむかむかするような情景を、バーナードが、気を利かして見て見ぬふりをするどころか、かえって、あからさまに批評しはじめたことだった。ソーマのききめがすっかりさめてしまったので、彼は、今朝《けさ》ホテルでみせた自分の気の弱さが恥ずかしくなり、よせばよいのに、ことさら強がり、変人ぶっているのだった。
「なんてすばらしい、親しみのこもった間柄なのだろう」と、彼はわざととんでもないことを言う。「それに、きっとずいぶん強烈な感情を引き起こすことだろうな! ぼくはよく思うんだよ、ぼくらは、母親ってものをもっていないために、何かが欠けているんじゃなかろうか、とね。君だって、母親になっていないために、案外何か欠けているのかもしれないよ、レーニナ。君が、自分の赤ん坊を抱いて、あそこにすわっている姿をちょっと想像してみたまえ……」
「やめて、バーナード! いやらしいことを言わないでちょうだい!」おりから、眼炎と皮膚病にかかっている老婆が一人通りかかったので、彼女は、その方に気をとられて、腹を立てるのを忘れてしまう。
「いきましょうよ」と彼女はせがむ。「こんなところはいやよ」
しかし、ちょうどこの時、案内人《ガイド》が帰ってきて、あとについて来るように手招きしながら、家々の間の狭い通りを先に立って歩きだした。一行は角を一つ曲がった。ごみの山の上に、犬の死骸が捨ててあり、甲状腺腫のある女が、小さな娘の髪のしらみをとってやっている。案内人は、とある梯子の下まで来ると立ち止まり、片手をまっすぐ上にあげ、それから、さっと水平に前へ突きだした。二人は、彼が手真似で言いつけたとおりにする――梯子を上り、上りつめたところにある戸口を通って、細長い部屋へはいった。部屋はうす暗く、たばこと、料理用の油と、着古して長い間|洗濯《せんたく》もしてない衣類の匂いがこもっている。その部屋の突き当たりに、もう一つ戸口があって、そこから日光がさし込み、すぐ間近かで打つドラムの音が大きくきこえる。
その戸口を出ると、そこは広いテラスになっていた。目の下には、高い家々に囲まれた村の広場があり、インディアンが大ぜいむらがっている。はなやかな色どりの毛布、黒い髪につけた羽根飾り、トルコ玉のきらめき、熱気でピカピカ光る黒い皮膚。レーニナは、またハンカチを鼻にあてる。広場のまん中の空地に、石とふみ固めた粘土とでできた二つの丸い舞台がある――それは、たしかに地下室の屋根だ。というのは、おのおのの舞台の中央にふたのない昇降口《ハッチ》があり、下の暗やみから上がってくる梯子がついているからだ。地下室で吹き鳴らすフルートの音が地上まできこえてきたが、ひっきりなしに容赦なく続くドラムの音にほとんどかき消されてしまった。
レーニナは、そのドラムの音が気に入った。目を閉じて、柔らかにくりかえされるその音にきき入っていると、しだいしだいに意識のすみずみにまでも十二分にしみこんできて、しまいには、世の中のいっさいのものが消えうせ、きこえるものは、ただ、深い音の鼓動だけとなった。うっとりとききほれているうちに、彼女は、団結礼拝日や、フォード・デー祝祭に演奏される合成音楽を思いだして、元気が出てきた。「ああ、ブカブカ・ドンドンってわけね」と彼女はつぶやく。ドラムが相変わらず同じリズムを打ち続けている。
突然、びっくりするような歌声がわき起こる――幾百人もの男声の、荒々しい金属的な斉唱だ。二、三の長い旋律と静寂。歌声がやんで、雷鳴のようなドラムの響き。やがて起こってくる、馬のいななきのようなかん高いソプラノは、女たちの応答だ。やがてまたドラムの響き。ふたたび、男たちの、男らしさを宣言する、あの深みのある荒々しい歌声。
奇怪だった――たしかに奇怪だった。第一、場所が奇怪だし、音楽も着ているものも、甲状腺腫も、皮膚病も、老人も、すべてがただ奇怪だった。だが、お祭りそのものには――取り立てていうほど奇怪なところはなかった。
「これを見てると、あたし、下層階級の共有賛歌祭典を思いだすわ」と、彼女はバーナードに言う。
しかし、そう言うか言わないうちに、彼女は、これが、あの何の害もない祭典とは似ても似つかぬものであることがわかってくる。というのは、例の丸い地下室から、突然、恐ろしい怪物の一団がどっとくりだしてきたからだ。とみるまに、人間とも思われないような気味の悪い面をかぶり、絵の具をぬりたくったその一団が、広場のまわりで、足をふみならしながら、びっこを引くような奇妙なダンスを、どたばたと踊りはじめたのだった。歌いながら、何べんも何べんもぐるぐると踊り続ける――そして、一まわりごとに少しずつ早くなっていく。それにつれて、ドラムの調子も変わって早くなり、熱病のとき、耳の中にきこえる鼓動のようになる。群衆は、踊り手たちに調子を合わせ、しだいに声をはりあげながら歌いはじめる。まず女の誰かが金切り声をあげたかと思うと、女たちが、次から次へと、まるで今にも殺されそうな金切り声を上げる。すると、突然、踊りの指導者《リーダー》がツッと列を離れ、広場のはずれにおいてある大きな木の櫃《ひつ》のそばへ駆けよると、ふたをあけて、黒い蛇を二すじ引っぱりだす。群衆の間から大喚声が起こり、残りの踊り手たちは、手を大きく広げたまま指導者《リーダー》の方へ駆けよる。彼は、一ばん先にやってきた者に、蛇をポイと投げてやり、櫃の内部《なか》へ手をつっこんで、次から次へと蛇をつかみだす。黒いのやら、褐色のやら、まだらのなど、いろいろさまざまだ――それを外へ投げだす。すると、今度はちがった調子の踊りが始まる。手に手に蛇をつかみ、膝やお尻を、まるで蛇のように柔らかくくねらせながら、一同はグルグルと踊りまわる。丸い丸い踊りの輪ができる。やがて、指導者《リーダー》が合図をすると、蛇が一匹ずつ広場のまん中へ投げだされる。一人の老人が地下室から上がってきて、その蛇の上に、|ひき割りとうもろこし粉《コーン・ミール》をふりかける。今度は、もう一方の昇降口《ハッチ》から一人の女が出てきて、蛇の上に、黒い壷の水をそそぎかける。やがて、老人が片手を上げる。すると、おどろいたことに、あたりが無気味にシンと静まりかえる。ドラムが鳴りやみ、まるで、生命の終わりがやってきたようだ。老人が、地下の世界へ降りていく二つの昇降口《ハッチ》の方を指さす。すると、片方の昇降口《ハッチ》から、色を塗った一羽の鷲の像が、目に見えない手で下から持ち上げられながら、おもむろに現われ、もう片方の昇降口《ハッチ》からは、十字架に釘づけにされた人の像が現われる。その二つの像は、まるで、ひとりで立ってあたりの情景をながめているかのように、現場に飾られる。老人がポンポンと手を叩く。白木綿の腰巻をつけたほかは、全身まっぱだかの十八歳ぐらいの少年が一人、群衆の中からツカツカと歩いてきたかと思うと、老人の前まで来て、両手を胸の上で組み合わせ、頭を下げる。老人は、その少年の頭の上で十字を切って立ち去る。少年は、のたうっている蛇の山のまわりをゆっくりと歩きはじめる。少年が一まわりし、二まわり目の半分近くまでやって来たとき、踊り手の中から、コヨーテの面をかぶり、手に皮を編んで作った鞭《むち》をもった背の高い一人の男が、少年のそばへ歩み寄る。少年は、男の近づいてくるのも気づかないふうに歩き続ける。コヨーテの男が手にした鞭を振り上げる。何かを待ちうける期待感にみちた長いひとときが過ぎる。やがて、急速な動きと、鞭の空《くう》を切る唸《うな》りと、肉に食い入る大きな鈍い音が起こる。少年の身体《からだ》が、こきざみに震える。が、声もたてずに、彼は相変わらずしっかりとした足どりで、ゆっくり歩き続ける。コヨーテの男は、これでもか、これでもかとばかり、容赦なく打ち続ける。そして、一打ちごとに、群衆の間から、まず喘《あえ》ぎが起こり、次に深いうめきが起こる。少年はなおも歩き続ける。二回、三回、四回と彼はまわって、すすり泣きはじめる。「お願い、やめて、やめさせて!」と、彼女は哀願する。しかし、鞭の雨は、情け容赦もなく少年の上にふりそそぐ。七回目をまわったときだ。にわかに少年がよろめき、やはり声ひとつたてないで、つんのめるようにうつぶせに倒れた。老人は、倒れた少年の上へかがみこむようにしながら、長い白い羽根で彼の背中に触れ、真紅《しんく》に染まったその羽根を、人々によく見せるためしばらくそのまま持っている。やがて、血に染まった羽根を三度、蛇の山の上で振りまわす。血のしずくが二、三滴したたり落ちる。と、突如として、ドラムが、ふたたび狂ったような急速な調子で鳴りだし、同時に大喚声があがる。踊り手たちは、蛇の山に駆けより、手に手に蛇をつかむと、広場からどこかへ走っていく。男も、女も、子供も、すべての群衆がそのあとに続いて走りだす。一分もたつと、広場はガラ空きになり、あとには、ただ、例の少年がさっきの場所に、うつぶせになったまま、身動きもしないで倒れているだけだ。老婆が三人、家々の一つから出てきて、どうにかこうにか彼を持ち上げ、家の内部《なか》へ運び込んだ。あの鷲と十字架は、しばらく、からになった原地民部落《プエブロ》の見張りをしていたが、やがて、見あきたかのように、ゆっくりと昇降口《ハッチ》を降りて、下界へ消えていった。
レーニナは、まだ泣きじゃくっている。「あんまりひどすぎるわ」と、彼女は何べんもくりかえす。バーナードがいろいろと慰めるのだが、さっぱりだめだ。「あんまりひどすぎるわ! あんなに血を流して!」彼女はブルブル震える。「ああ、ほんとにソーマを持ってくればよかった」
奥の部屋で足音がした。
レーニナは身動きもしない。両手に顔をうずめたまま、見ようともせずに離れてすわっている。バーナードだけが振りむいた。
そのときテラスへ出てきた青年は、とみれば、服装こそインディアンだが、編んだ髪の毛は小麦色で、目はうす青く、皮膚は褐色に焼けてはいるが、まさしく白人の皮膚だ。
「やあ、こんにちは」と、その見知らぬ青年が声をかける。くせはあるが申し分のない英語だ。「あなた方は文明人ですね? この保護地区の外からいらしたのですね?」
「君はいったい誰……?」バーナードは、びっくり仰天して問い返す。
青年は、フッとため息をついて、首を横に振る。「大へん不幸な男なのです」それから、彼は、広場のまん中のあとを指さしながら、「あのいまわしい場所が見えますか?」と、激情に震える声できく。
「一つのグラムは一つの畜生《ダム》にまさるのよ」レーニナは、両手で顔をおおったまま、機械的に言う。「ああ、ソーマがあったらいいんだけど!」
「ぼくがあそこにいればよかったんです」青年は言葉を続ける。「なぜぼくを犠牲《いけにえ》にしてくれなかったんだろう? ぼくなら十回ぐらい――いや、十二回ぐらい、いやいや十五回はまわってみせるな。パロウティワは、やっと七回まわっただけだったけど。ぼくにやらせたら、あれの二倍も血がとれるのに。それこそ、大海原を深紅《あかね》に染めてみせるのになあ(シェイクスピア、『マクベス』のせりふ)」彼は、大げさな身ぶりで両手をグッとひろげるが、すぐ絶望的にまたその手をおろす。「でも、ぜったいにだめだ。みんなは、ぼくの膚《はだ》の色が気に入らないんだもの。いつもこうなんだ。いつもね」目に涙が浮かんできたので、青年は恥ずかしくなって顔をそむける。
レーニナは、驚きのあまり、ソーマをおいてきたことを、忘れてしまう。彼女は、顔から手を放し、はじめてその見知らぬ青年を見やる。「あなた、ほんとに、自分があの鞭で打たれたかったっていうのね?」
相変わらず彼女から顔をそむけながら、青年は、そうだというふうな身振りをする。「プエブロのためなんです――雨を降らせて、トウモロコシを実らせるためなんです。それと、プーコンの神とイエスを喜ばせるためもあります。それから、ぼくが、悲鳴をあげないで苦痛を我慢できることを見せつけてやるためです。ああ、それから」その声に、新しい力強さがこもる。彼は、誇らしげに肩をそびやかし、挑《いど》むように傲然《ごうぜん》とあごをしゃくり上げながら、振りむく。「ぼくが男であることを見せてやるために……ああ!」
彼はあえぎ、ポカンと口をあけたまま黙り込む。彼は、今、生まれてはじめて、頬がチョコレート色でもなければ、犬のなめし皮の色もおびていない若い女の顔を見たのだった。栗色の髪にはパーマネント・ウェーブがかけてあり、顔つき(びっくりするほど変わっているなあ!)には、やさしい興味があふれている。レーニナは、彼にほほえみかけていたのだ。ほんとに美青年だわ、と彼女は思う。それに、ほんとにすばらしい身体をしてるわねえ。青年の顔にサッと血が上る。彼は目を伏せ、一瞬間だけ、そっと上目づかいに見ると、彼女は、まだにっこりしている。青年は、すっかり彼女の魅力に参ってしまい、目をそらさずにいられなくなって、広場の向かい側の何かを、一生懸命見つめているふりをする。
バーナードに横あいから質問されて、彼は、ハッとわれにかえる。君は誰ですか? どうやって? いつ? どこからやって来たのですか? 目をじっとバーナードの顔にすえながら(というのは、彼は、レーニナの笑顔を見たくて見たくてたまらなかったために、かえって、どうしても彼女と顔を合わせる勇気がなかったからなのだ)、青年は、自分の身の上をうちあけはじめる。リンダとぼくは――リンダってのは、ぼくの母なのですが(母という言葉をきいて、レーニナは不愉快そうに顔をしかめる)――この保護地区では、よそ者なのです。リンダは、いまからずっと前に、ぼくが生まれるもっと前に、ぼくの父に当たる男といっしょに、文明世界からここへやって来たのでした。(バーナードは耳をそばだてる)母は、むこうの北部の山地へ一人で散歩に出かけたのですが、けわしい崖から落ちて、頭にけがをしたのです。(「それから、それから」と、バーナードは興奮してせきたてる)マルペイスからやって来ていた狩人たちが、倒れている母をみつけて、プエブロまで運んできてくれました。ぼくの親爺《おやじ》ということになる男のことですが、リンダは、それ以来、一ぺんも会ったことがないのです。名前はトマキンというんです。(うん、それでつじつまが合う、所長の名前は「トマス」だからな)その男は、きっと母を置きざりにして、文明世界へ逃げていったにきまっています――ほんとに、人間とも思われない薄情な悪人だ。
「そういうわけで、ぼくはマルペイスで生まれたのです」と、彼は話をしめくくる。「マルペイスで」そう言いながら、彼は首を横に振る。
原地民部落《プエブロ》のはずれにある、そのちっぽけな家の不潔なことといったら、そりゃ、全くひどいものだ!
ごみやがらくた捨て場を一つへだてて、村と隣り合っている。飢えきった犬が二匹、戸口の残飯に鼻をつっこんで、クンクンとにおいをかいでいる。みるからにきたならしい。内部《なか》にはいると、うす暗がりの中で悪臭が鼻をつき、ハエがワンワン飛びまわっている。
「リンダ!」と、青年が呼びかける。
奥の部屋から、しわがれ気味の女の声がする。「今いくよ」
彼らは待った。床に置いてある鉢の中には、おそらく数回分と思われる食べ残しがはいっている。
ドアがあいた。でっぷり肥えた金髪のインディアンの女房が、しきいをまたいで出てきた。そして、ポカンと口をあけたまま、狐につままれたような顔で、見知らぬ二人をじっと見つめている。前歯が二本欠けているのを見て、レーニナは気分が悪くなる。おまけに残っている歯も、その色の悪さときたら……彼女はぞっとする。さっきの老人より、よっぽどひどいわ。こんなにぶくぶく肥えて。顔じゅうしわだらけ。たるんだ皮膚。しわ。紫がかったしみの出た、たるんだ頬。鼻に浮きだした赤い血管。充血した目。それに、その首すじときたら、――ああ、あの首すじ。頭にかぶっている毛布ときたら――ぼろぼろで何ともきたならしい。そして、茶色のサックコートまがいのチュニックの下にもり上がっている、その巨大な乳房と、今にもはち切れそうなお腹《なか》と、デンとしたお尻。ああ、さっきの老人よりよっぽどひどいわ! すると、だしぬけに、その女が、まるで堰《せき》を切ったようにしゃべりだし、両手をひろげていきなり彼女にとびつき――まあ、フォード様、お助けください! ぞっとして、今にも胸がムカムカしそうだわ――彼女を、自分の大きなお腹と胸に押しつけ、キスしはじめたのだ。おお、フォード様! よだれをたらしながらキスするなんて! それに、どうやら今まで入浴なんかしたこともないらしく、恐ろしくくさい。そして、デルタやイプシロンのびんに入れる、あのいやな薬のにおいがする。(ちがうわ。バーナードについていわれている噂《うわさ》など、うそにきまってる)きっとアルコールのにおいなんだわ。彼女は、できるだけすばやく、抱擁からむりやりにぬけだす。
泣きはらして、くしゃくしゃになった顔が目の前にある。女は泣いている。
「ねえ、あなた、うれしいわ」すすり泣きの合い間に、まるでほとばしるように言葉が流れだす。「この嬉しさがわかってもらえたら――ほんとに何年ぶりかしら! 文明人の顔だわ。そうね、それに文明人の服装だわ。あたし、ほんとのアセテート・シルクの切れっぱしにも、もう二度とお目にかかれないと思ってあきらめていたのよ」彼女は、レーニナのシャツの袖を指でいじくる。爪がまっ黒だ。「このすてきなビスコース・ビロードのショート・パンツにもね! あのね、あたし、昔の服を今でも持ってるのよ。着てきた洋服をね。ちゃんと箱の中にしまってあるの。あとで見せてあげるわ。もちろん、アセテートなんかすっかり穴だらけになっちゃってるけど。でも、ほんとにすてきな白の避妊薬帯《バンドリア》なのよ――そりゃあ、あんたの緑のモロッコ皮のもののほうが、もっとだんぜんすてきだけどね。もっとも、その避妊薬帯《バンドリア》ね、それがとても役に立ったってわけじゃないんだけれど」彼女の目に、また涙が浮かんでくる。「きっとジョンがお話ししてると思うの、あたしがどんなに苦しんだかは――飲もうにも、ソーマなんか、ただの一グラムもないんだもの。ポーペーが、メスカル酒(メスカルという一種のサボテンから採った甘味のある、アルカロイドを含んだ酒)をよく持ってきてくれたので、ときどきちょっと飲んだぐらいのものよ。ポーペーってのは、あたしの前から知り合ってる青年なの。でも、このメスカル酒ってのはね、あとになってとっても気分が悪くなるの。誰でもムカムカするわ。おまけに、あくる日になると、いつもきまって、恥ずかしいと思うあのいやな気持ちがいっそうひどくなるの。あたし、ほんとに恥ずかしかったわ。ちょっと考えてもみてちょうだい、ベータ―のあたしが――赤ん坊を生んだりなんかして。あたしの身にもなってみてちょうだいよ」(その言葉をきいただけで、レーニナはぞっとする)「でも、はっきり言っておくけど、そりゃ、なにもあたしのせいじゃないのよ。だって、あたし、マルサス式避妊訓練はぜんぶやったんだもの、どうしてあんなことになったのか、いまだにわかんないの――そうね、なんべんも訓練をやったのよ、一、二、三、四回ぐらい、あたし、いつもそうするの。だけど、やっぱりだめだったわ。それに、ここには、堕胎センターみたいなものは、もちろんないんだし。そりゃそうと、あれは、今も川下のチェルシーにあるんでしょう?」と、彼女がきく。レーニナはうなずく。「今でも火曜日と金曜日には投光照明してるんでしょう?」レーニナは、もう一度うなずく。「あれは、すばらしいピンクのガラスの塔だったわね!」哀れなリンダは、顔を上げ、うっとりと目をとじながら、ありありと頭に浮かんでくる心像《イメージ》に、じっと見入るのだった。「それに、テムズ川の夜景ね」彼女は、ささやくように言う。その堅くとじた瞼《まぶた》から、大粒の涙がじんわりとにじみ出てくる。「夕方、ストーク・ポージズからヘリコプターで帰ってくる。それから、熱いお湯につかって、振動式真空マッサージをかける……でも、しかたがないわ」彼女は、深いため息をもらし、首を横に振って、ふたたび目をひらく。一、二度鼻をすすってから、いきなり手鼻をかみ、その手をチュニックのスカートにこすりつける。「あら、ごめんなさい」レーニナが、まあ、いやだ、というように、思わず顔をしかめるのを見て、彼女は言いわけする。「こんなはしたないことをしてしまって。ごめんなさいね。でも、ハンカチなんかないんだもの、どうもしかたがないのよ。今でもおぼえているけど、なにもかもが不潔で、ばい菌のついてないものなんかひとつもないって知ったとき、いつも、ほんとにたまらない気がしたものだったわ。あたし、ここへ運ばれてきたとき、頭がひどく切れていたの。どんな手当てをしてもらっていたか、想像もつかないでしょう。ほんとに不潔なのよ。ただもう不潔なの。『文明は殺菌なり』でしょう、あたし、いつも言ってきかせてやったの。まるで、子供に教えてやるみたいに、『きれいな浴室《バス》と水洗トイレが見たけりゃ、ストレプトコックのお馬ちゃん、バンベリーTへ』(「木馬に乗って、バンベリーの十字架のところまで行きましょう」という言葉で始まる有名な子守唄をもじったもの)とね。でも、もちろん、ここの人たちにはピンとこないの。ピンとこないはずだわ。それで、しまいには、あたしのほうが馴れっこになっちまったらしいの。なんだかんだいったって、お湯さえ引いてないんでしょう、だから、ものを清潔にしておくことなんかできっこないのよ。ほら、あたしの着ているものね。このいまいましいウールったら、アセテートとはまるでちがうの。いつまでたっても破れないのよ。そして、破れたらつくろうことになっているの。でも、あたし、受精室に働いていたベーターだけど、誰も、あたしにつくろうなんてことを、それこそ一ぺんも教えてくれなかったわ。そんなこと、あたしの知ったことじゃないけど。それにね、今までなら、着ているものをつくろうなんて、いけないことだったでしょう。穴があいたら脱ぎ捨てて、新しいのを買いなさい、っていう調子だったんだもの。『つくろいは貧困のもと』よ。そうだわね? つくろいなんて反社会的だわ。だけど、ここへ来ると、まるっきり話がちがうの。まるで、気ちがいといっしょに暮らしてるようなもんだわ。この人たちは、することなすことが、ぜんぶ気ちがいじみてるのよ」
彼女はあたりを見まわす。ジョンとバーナードは、二人のそばを離れ、屋外《そと》のごみとがらくたの中を、あちこち歩きまわっている。ぜったいにきこえるはずもないのに、ないしょ話でもするように声をひそめ、レーニナが、身体《からだ》を固くして、尻ごみしているのにもおかまいなしで、ぐっと身をのりだす。あまり近いので、プーンと胎毒かなんかのいやなにおいが、彼女の頬のうぶ毛をなぶる。「たとえばね」と、彼女はしわがれ声でささやく。「ここの人たちどうしが、お互いに相手を見つける方法をみてごらん。それこそ気ちがいよ。ぜったいに気ちがいざただわ。すべての人は、他のすべての人のものにきまってるわ――そうでしょう? そうだわねえ?」レーニナの袖をグイと引っぱりながら、彼女はしつこく言い張る。レーニナは、顔をそむけたままうなずき、今までこらしていた息をフウッともらし、どうにかあまりくさくない息を吸い込む。「それがね、ここじゃ」と、相手は言葉を続ける。「自分は一人以上の人のものだなどと思ってるのは誰もいないのよ。だから、誰かをまともにあしらうと、ほかの人たちは、ふしだらだとか、反社会的だとか思うの。そして、憎まれてばかにされるのよ。いつだったかも、女の人たちが大ぜいやって来てね、その人たちの相手の男たちが、あたしのところへ出入りするといって、大騒ぎしたことがあったわ。ねえ、出入りしたってちっともかまわないわねえ? そう言ってやったもんだから、みんなであたしに飛びかかって……それは言わない、あんまりひどいから。とても言う元気がないわ」リンダは、両手で顔をおおい、身を震わせる。「それはそれは憎らしいのよ、ここの女の人たちったら。気ちがい、そうよ、まるで気ちがいだわ、おまけに残酷なの。もちろん、マルサス式訓練も、びんも、びんから出るってことも、そんなことは何にも知らないの。だから、年じゅういつも子供を生んでるの――まるで犬みたいだわ。ほんとにぞっとするわ。それなのに、思ってもみてちょうだい、このあたしが……ああ、フォード様、フォード様、フォード様! でも、ジョンは、あたしにとって大きな慰めだったの。あの子がいなかったら、あたし、何をしでかしていたかわかりゃしないわ。そりゃ、あの子は、誰か男の人がやって来て……ってきいたとたんに、いつもカッとなるんだけど。まだほんの小さな子供のころからそうなの。いつだったか(でも、この話は、あの子がだいぶ大きくなってからのことだったけれど)、あの子ったら、かわいそうにワイフシーワをもうちょっとで殺すところだったの――いや、あれはポーペーだったかしら?――それというのも、ただ、ときどきあたしとおつき合いをしたから、っていうだけなの。文明人なら、誰だってそうしなきゃいけないのよ、って、いくら言ってきかせてもわからないんだから、しかたがないの。気ちがいってものは、きっと伝染《うつ》るんだわね。ともかく、ジョンは、インディアンたちの気ちがいが伝染《うつ》ったらしいの。だって、あの子は、しょっちゅういっしょにいたんだから。インディアンたちは、いつもあの子につらく当たって、ほかの男の子と同じことは、ぜったいにさせてくれないんだけど。でも、考えようによったら、そのほうがありがたかったんだわ。だって、そうだったからこそ、あの子に、ちょっとした条件反射教育もしてやれたんだから。こんなところで条件反射教育を授けるなんて、どんなにむずかしいことだったか、あなたには見当もつかないでしょうけどね。知らないことがいっぱいあるし。だって、知るってことなど、あたしに関係ないことですものね。たとえば、『ヘリコプターってどうやって動くの?』とか、『誰が世界を作ったの?』なんて子供にきかれたら――問題は、そこなのよ、ベーターで、いつもただ受精室で働いているだけの女は、いったい、どう答えたらいいのかしら? あんたならどう答える?」
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第八章
屋外《そと》のごみと残飯の間を(あさりまわっている犬は四匹にふえていたが)、バーナードとジョンは、ぶらぶらとあちこち歩きまわっている。
「あまりむずかしくて、さっぱりわからないな」と、バーナードが言っている。「想像がつかないんだよ。ちがった世界へやって来たとでもいうのか、世紀が変わったとでもいえばいいのか。母親だの、このごみだの、それに神様だの、老齢だの、病気だの……」彼は首を横に振る。「かいもく見当もつかないんだ。もっと説明してくれなきゃ、ぜったいにわかりっこないな」
「なにを説明しろというんですか?」
「これだよ」彼はプエブロを指さす。「それに、あれもだ」それは、村はずれの小さな家だ。「何もかも。君の生活をぜんぶ、ね」
「でも、何を説明したらいいんですか?」
「はじめからだよ。つまり、君の思いだせる一ばん古いことからやってくれたまえ」
「思いだせる一ばん古いことからですって」ジョンは顔をしかめる。長い沈黙が続く。
大へん暑い日だった。母子《おやこ》は、トウモロコシの焼き餅と、あまつぶトウモロコシをどっさり食べた。リンダが言う。「ここに来て寝るのよ、坊や」二人は、大きなベッドで並んで横になる。「ね、歌ってちょうだいよう」とせがまれて、リンダが歌う。「ストレプトコックのお馬ちゃん、バンベリーTへ」と、「バンティング坊やちゃん、おねんねよ、もうすぐびんからバイバイね」を歌う。彼女の声は、だんだん小さくなっていく……
だしぬけに大きな音がする。彼はびっくりして目をさます。おどろいたことに、ぎょっとするような大男が一人、ベッドのそばに立っている。男は、リンダに向かって何かしゃべっており、リンダは笑っている。彼女は、あごのところまで毛布を引き上げるが、彼は、それをまた引きはがす。男は、黒い髪を二本のロープのように編み、青い石をちりばめた美しい銀の腕輪をしている。その腕輪が気に入った。腕輪は気に入ったが、やはり怖いので、リンダの身体のかげに顔をかくす。リンダが、彼の身体に手をのせてくれたので、少し安心する。彼にはよくわからない、あのいつもとちがう言葉で、彼女は、その男に言う。「ジョンがいるから、ここではだめよ」男は、彼をみつめ、それからふたたびリンダをみつめ、小さな声で二こと三こと言う。リンダは、ききいれないで、「だめよ」と言う。しかし、男は、ベッドの上にかぶさりながら、彼に近づく。大きな恐ろしい顔だ。編んだ黒い髪が毛布にふれる。「だめよ」と、リンダがもう一度はねつける。そして、彼は、自分を抱きしめている彼女の手に、いっそう力が加わるのを感ずる。「だめよ、だめだったら!」しかし、男は、彼の片腕をグイとつかむ。痛い。彼は悲鳴をあげる。男は、もう片方の手を出して、彼をかかえ上げる。リンダは、相変わらず「だめよ、だめよ」と言いながら、やっぱり彼を抱きしめている。男が、怒ってぶっきらぼうに何か言ったかと思うと、急に彼女の手がはなれる。「リンダ、リンダ」彼は、足をバタバタさせてもがく。だが、男は、ずっと向こうのドアのところまで彼をかかえていき、ドアをあけて、次の部屋のまん中に彼をおろすと、そのまま、またドアをしめて行ってしまう。彼は立ち上がり、ドアのそばへ走っていく。つま立ちをすると、どうにか大きな木の掛け金までとどく。掛け金をはずして押してみる。しかし、ドアはびくともしない。「リンダ」と、彼は大声をあげる。だが、返事がない。
彼は、うす暗い大きな部屋を思いだす。ひもを結びつけた大きな木製の道具が置いてあり、そのまわりに、大ぜいの女が立っている――毛布を織っているのよ、とリンダが言う。あたしが、あの人たちのお手伝いに行ってる間、ほかの子供たちといっしょに、隅っこにすわっておいで、とリンダが言いつける。彼は、小さな男の子たちと長い間遊ぶ。人々のしゃべり声が、不意に高くなる。そして、女たちが、リンダを押しだそうとする。リンダは泣いている。彼女はドアの方へ歩いていく。彼は、そのあとを追いかける。あの人たちは、なぜ怒るの、と彼がきく。「あたしが何かを破ったからなの」と彼女が言う。それから、彼女のほうも腹を立てる。「あんないやらしい毛布作りなんか、あたしが知ってるはずないじゃない?」とプリプリしながら言う。「いやらしい野蛮人ね」野蛮人ってなあに、と彼がきく。母子が家に帰ってくると、ポーペーが戸口で待っていて、いっしょに家へはいる。ポーペーは、水みたいなものがいっぱいはいった大きなひょうたんを持っている。しかし、それは、ただの水ではなくて、口が焼けるようにピリピリし、むせて咳の出る、くさい水だ。リンダが少しのみ、ポーペーも少しのむ。それをのんでから、リンダはひどく笑い、大声でしゃべりだす。やがて、彼女とポーペーは、ほかの部屋へ行く。ポーペーが帰ってから、彼はその部屋へ行く。リンダは寝ている。あまりぐっすり眠っているので、いくら呼んでも、リンダは目をさまさない。
ポーペーはよくやって来た。彼は、ひょうたんの中にはいっている水は、メスカル酒というものだ、と言う。しかし、リンダは、ソーマと呼ばなきゃいけない、ただ、ソーマとちがって、あとで気分が悪くなるけれど、という。彼はポーペーを憎んだ。いや、彼は、彼らぜんぶを憎んだ――彼らというのは、リンダのもとへ出入りする男たちぜんぶだ。ある日の昼すぎ、彼がほかの子供たちと遊んできたあとだった――今もおぼえているが、寒い日で、山々には雪がつもっていた――うちへ帰ってくると、寝室で、怒っている声がする。女の声で一人ではない。彼のわからない言葉で何か言っている。わからないが、恐ろしい言葉だということはわかる。突然、ガチャン! と、音がする。何かがひっくり返ったのだ。人々が、あわただしく動きまわっている物音がしたかと思うと、また、ガチャンと音がして、今度は、まるで、らばをひっぱたいているような音がした。ただ、らばほど骨ばった感じではない。すると、リンダが悲鳴をあげた。「ああ、やめて、やめて、やめてちょうだい!」と、彼女が叫んだ、彼は駆け込んだ。黒い毛布をまとった女が三人いる。リンダはベッドの上にいる。女の一人が彼女の手首をつかんでいる。もう一人の女は、彼女が蹴ることができないように、彼女の脚の上に、十の字になって横たわっている。三ばん目の女が、彼女を鞭《むち》で打っている。一度、二度、三度。打たれるたびに、リンダは悲鳴をあげる。彼は、泣きながら、女の毛布のへりをひっぱる。「おねがいだよう、かんにんしてよう」あいているほうの手で、その女は、彼を押しやる。またもや鞭が振りおろされ、リンダがまた悲鳴をあげる。彼は、鞭打っている女の大きな褐色の手を、両手でつかむと、やにわに、ありったけの力をこめてかみつく。その女は、金切り声をあげて、つかまれた手をふり放し、力まかせに彼をつきとばす。つきとばし方があまりひどいので、彼は、ばったり倒れる。床に倒れている彼を、女は三度も鞭打つ。今まで感じたこともないようなひどい痛みだ――まるで火のようだ。鞭がうなってまた打ちおろされた。しかし、こんどは悲鳴をあげたのはリンダだった。
「でも、あの人たちは、なぜあんなひどいことをするの、リンダ?」と、その晩彼がきいた。彼は泣いていた。背中の赤い鞭のあとが、まだひどくいたんだからだった。しかし、泣いているのは、傷あとがいたんだためだけではなかった。あの連中が、あまり残酷で卑劣だったからであり、自分がまだほんの子供で、彼らに対して、何ひとつ仕返しができなかったからだった。リンダも泣いていた。リンダにしても、もう大人になってはいたが、あの三人を相手にして戦うほど、大柄ではなかったのだ。彼女のほうからみても、あの仕打ちは、正々堂々としたものではなかった。「あの人たちは、なぜこんなひどいめにあわせるの、リンダ?」
「わかんないわ。わかるはずがないでしょ?」彼女が、うつぶせになって、枕に顔をうずめているので、言っていることはよくききとれない。「あの人たちは言うのよ、あの男たちは、自分たちの夫だって」彼女は言葉を続けるが、それは、彼に向かって話しかけている、というよりも、むしろ、自分の心の中にいる誰かと話し合っているようだった。彼にはわからない、長いおしゃべりだった。そして、そのあげく、彼女は、前よりいっそう大きな声をあげて泣きだした。
「ねえ、泣かないで、リンダ。泣いちゃいやだ」
彼は、自分の身体を彼女に押しつける。片手で、彼女の首に抱きつく。リンダは叫ぶ。「だめよ、気をつけてちょうだい。肩が痛いのよ! ああ、いた!」と言いながら、彼を荒々しくつき放す。つき放されたはずみに、彼は、頭をドンと壁にぶっつける。「ばかね、このちびは!」彼女は、かみつくように怒鳴る。やがて、だしぬけに、彼女は、彼を平手でピシャリとたたく。ピシャリ、ピシャリ……
「リンダ」と、彼は悲鳴をあげる。「お母さあん、ごめんなさあい!」
「あたしは、おまえのお母さんじゃないの。おまえのお母さんになど、なりたくもないのよ」
「でも、リンダ……ねえ!」彼女は、彼の頬を平手でピシャリと打つ。
「野蛮人になってしまったんだわ」と、彼女はわめく。「動物みたいに子供を産んだりなんかして……おまえがいなかったら、監督官のところへ行って、とっくにここから逃げだすことだってできたのに。赤ん坊がいちゃどうにもならないわ。赤ん坊を連れて逃げだすなんて、そんな恥さらしなことができるものですか」
彼女が、また自分をぶとうとしているのを見て、彼は、顔を打たれまいとして、腕を上げる。「ぶっちゃいやだよ、リンダ、かんにんしてよ」
「このちびすけ!」彼女は、彼の腕をはらいのける。彼の顔がむきだしになる。
「かんにんして、リンダ」彼は打たれる覚悟をきめて目をとじる。
しかし、彼女は打たない。しばらくたって、彼がまた目をあけてみると、彼女がじっと彼をみつめている。彼は、彼女にほほえみかける、すると、彼女は、いきなり彼を抱きしめ、何度も何度もキスする。
ときどき、リンダは、数日間もずっと寝たきりでいることがあった。彼女は床についたまま、ふさぎこんでいた。ふさぎこんでいないときには、ポーペーが持ってきたあの水をのんで、大笑いして眠るのだった。気分が悪くなるときもあった。彼の身体を洗ってくれるのをよく忘れたし、ひえたトウモロコシの焼き餅のほかには、何も食べるものがない、というときもあった。彼の髪の毛に、あの小さな動物がたかっているのを、はじめてみつけたとき、それこそ、彼女が何ともいえない金切り声をあげたのを、彼はおぼえている。
いちばん楽しかったのは、彼女が、あの「ほかの世界」のことを話してくれるときだった。「それじゃ、ほんとに、いつでも好きなときに飛んでいけるの?」
「もちろんよ」それから、彼女は、いつも、箱の中からきこえてくる美しい音楽だの、誰でもできる愉快なゲームだの、おいしい食べ物や飲み物だの、壁のボタンを押すとつく灯《あか》りだの、目で見ることができるだけではなくて、音をきいたり、手でさわったり、匂いをかいだりすることもできる映画だの、よい匂いが出てくるほかの箱だの、山のように高い、ピンクやグリーンや青色や銀色の建物だの、みんなしあわせで、悲しんだり、腹を立てたりするものは一人もいないことだの、すべての人は、ほかのすべての人のものであることだの、世界のあちら側で起こっていることを、見たり、きいたりすることができる箱だの、かわいい清潔なびんにはいっている赤ん坊のことだの――なにもかも清潔で、いやなにおいもしないし、汚れもついていないことだの――それから、人々が、けっして一人ぽっちではなく、いっしょに暮らしていて、ちょうどここのマルペイスの夏の踊りのときのように、とても楽しくてしあわせなこと、いや、それよりも、もっともっとしあわせなことだの、おまけに、そこでは毎日毎日がしあわせであることなどについて、いろいろと彼に話してくれるのだった……彼は、何時間もそんな話に耳を傾けていた。そして、彼やほかの子供たちが遊びすぎて疲れたときなど、プエブロの老人たちの誰かが、あのもう一つの言葉で、「世界を変化させた偉い人」のことや、「右手と左手との長い戦い」のことや、「夜の間に頭をひねって、たくさんの霧を作り、その霧で全世界を作ったアウォーナウィーラナ」のことや、「母なる大地と父なる大空」のことや、「戦争と運命との間に生まれた双生児《ふたご》、アーハイユータと、マーセイリマ」のことや、「イエスとプーコン神」のことや、「マリアと、自分自身をふたたび若返らせたエトセナートリヒ」のことや、「ラグーナの黒い石と、大鷲と、アーコマの聖母」のことなどを、よく話してくれるのだった。どれもふしぎな話だったが、それが、あのもう一つの言葉で語られ、十分わからなかっただけに、彼にとっては、いっそうふしぎな気がしたのだった。寝床についてからも、彼は、天国とロンドンのこと、アーコマの聖母と清潔なびんにはいってずらりと並んでいる赤ん坊のこと、空に昇っていくイエスとリンダのこと、偉大な人工孵化センター所長とアウォーナウィーラナのことなどを、つくづくと考えるのだった。
大ぜいの男たちが、リンダのもとへ出入りした。少年たちが、彼にうしろ指をさしはじめた。そして、あのもう一つのわからない言葉で、リンダは悪い女だ、と言った。彼にはわからない言葉で悪口を言った。わからないが、悪口であることは、何となく感じでわかった。ある日、少年たちは、リンダのことをあてつけた歌を、何度も何度も歌った。彼は、少年たちに石をぶっつけた。相手も石を投げ返した。とがった石が彼に当たって、頬が切れた。血がなかなか止まらなかった。彼は血だらけになった。
リンダは、彼に字の読み方を教えた。炭の切れっぱしで、彼女は壁に絵を描いた――すわっている動物や、びんにはいっている赤ん坊の絵だった。それから、彼女は文字を書いた。「ムシロノウエニ、ネコガイマス」「ビンノナカニ、アカチャンガイマス」彼は、早くすらすらと覚えた。彼女が壁に書いた言葉の読み方を、彼がぜんぶ覚えてしまうと、リンダは、大きな木の箱をあけて、一度もはいたことのない、あの奇妙な小さい赤いズボンの下から、うすっぺらな小さな本を一冊、引っぱりだした。前にも、よく見かけたことのある本だった。「もっと大きくなったら」と、そのとき、彼女は言っていたのだった。「これが読めるようになるわよ」そうだ、もうりっぱに読める大きさになったのだ。彼は得意だった。「あまりおもしろくはないかもしれないんだけど」と、彼女が言い訳をする。「でも、これしかないのよ」と言って、彼女はため息をつく。「あたしたちが、いつもロンドンで使っていた、あのすばらしい読書機《リーディング・マシン》を、見せてあげられたらねえ!」彼は、そのうすっぺらな本を読みはじめる。「胎児の化学的・細菌学的条件反射教育。胎児貯蔵室ベーター勤務員用実地指導要覧」この標題だけを読むのに、十五分もかかった。彼は、その本を床の上に投げだす。「こんなつまらない本はいやだ!」と言って、彼は泣きだす。
少年たちは、相変わらず、リンダのことをあてこすった、あのいやな歌をうたった。おまけに、時によると、ボロボロのひどい着物をきている、と言って、彼をあざ笑うこともあった。彼が着物を破いても、リンダは、それをどうやってつくろったらいいのかわからないのだった。「あの『ほかの世界』ではね」と、彼女は彼に言いきかせる。「着物に穴があくと、ポイと捨ててしまって、新しいのを買うのよ」「ボロっ子、ボロっ子やーい!」と、少年たちは、いつも彼をはやしたてるのだった。「でも、ぼくは字が読めるんだ」と、彼は自分に言いきかせた。「あいつらは、字も読めやしない。字を読むってどんなことかさえも知らないんだ」本を読みたい、と一心に思いつめるようになると、あざけられても、気にならないふりをしているのが、あまり苦にはならなくなった。彼は、リンダに、もっと読む本がほしい、とせがんだ。
ほかの少年たちが、うしろ指をさしたり、はやしたてたりすればするほど、彼はいっそう読書に打ちこんだ。まもなく彼は、あらゆる言葉が、ぜんぶすらすらと読めるようになった。一ばん長いものでも読むことができた。「でも、これはどういう意味なの?」と、彼はリンダにきいた。しかし、リンダが答えてくれても、それで意味がよくわかった、という気はしなかった。しかも、大ていの場合、彼女は返事に困ってしまうのだった。
「化学薬品ってなあに?」と、彼はよくきいた。
「それはね、マグネシウム塩だとか、デルタやイプシロンの人たちを、小柄で知恵遅れのままにおさえておくためのアルコールだとか、骨をつくる炭酸カルシウムだとか、そんなようなものよ」
「でも、化学薬品って、どうやって作るの、リンダ? どこから持ってくるの?」
「さあ、知らないわ。びんから出すんだけどね。びんがからになったら、薬品倉庫へ、もっととりにやるのよ。作るのは、薬品倉庫の人じゃないかしらねえ。ひょっとすると、倉庫から、工場へとりにやるのかもしれないわ。あたしは知らないのよ。一ぺんも化学薬品の係りになったことがないもんだから。あたしは、ずうっと胎児室の係りだったのよ」
ほかのどんなことをきいても、彼女の返事は、こんな調子だった。どうやら、リンダは何も知らないらしい。プエブロの老人のほうが、もっとはっきりした返事をしてくれるのだった。
「種子《たね》には、人間やすべての生きものの種子と、太陽の種子と、大地の種子と、大空の種子とがあるのじゃ――アウォーナウィーラナがな、そのいろいろな種子を、繁殖の霧で作ったのじゃ。さて、世界には四つの子宮《はら》があってな、アウォーナウィーラナは、その四つのうちの一ばん下の子宮《はら》に、その種子をまくのじゃ。そうすると、その種子が、だんだん大きくなっていくのじゃよ……」
ある日のこと、(あとになってからのジョンの推定によると、十二回目の誕生日のすぐあとだったにちがいないが)うちへ帰ると、寝室の床の上に、今まで見たこともない本がころがっているのが目にはいった。その本は、ぶ厚くて、ずいぶん古いものらしかった。とじ糸をネズミがかじったために、とじがゆるんで、しわくちゃになっているページもある。拾い上げて本の扉を見ると、「ウィリアム・シェイクスピア全集」とかいてある。
リンダは、ベッドに横になって、茶碗にはいった、あのいやなにおいのするメスカル酒を、チビリチビリとすすっている。「ポーペーが持ってきてくれたのよ」と彼女が言う。まるで人が変わったように、しわがれただみ声だった。「地下のかもしか礼拝場《キヴァ》にある大櫃《おおびつ》のどれかにはいっていたんだって。何百年も昔からあったようなんだけど。どうもそうらしいわ。だって、みるとばかばかしいことがいっぱい書いてあるんだもの。野蛮だわよ。でもね、あんたが、読み方のおけいこをするぶんには、もってこいだわ」彼女は、最後のいっぱいをのむと、茶碗をベッドのそばの床の上に置き、寝返りを打って、一、二度しゃっくりをしたかと思うと、そのまま眠ってしまった。
彼は、出まかせにその本を開いてみた。
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いや、脂に汚れたベッドで、プンと鼻をつくくさい汗にまみれ、
汚濁の中で煮えたちながら、みだらな豚と睦言《むつごと》をささやき、いちゃつきながら、
ただ生きているとは……(「ハムレット」第三幕第四場)
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奇妙な言葉が、朗々と彼の心に鳴りひびく。それは、まるで、雷鳴のおしゃべりか、(ドラムが口をきけるものとすれば)さながら、夏の踊りのドラムのおしゃべりのようにとどろいた。トウモロコシの取り入れ歌をうたう男の声のように、泣きたくなるほど、美しい、美しいひびきであった。ミーツィマ爺さんが、羽根飾りや、彫りものをした杖や、骨や石のかけらに、魔法のじゅもんをかけているようだった――キアスラ チルウ シロクウエ シロクウエ シロクウエ。キアイ シル シル ツィスル――だが、ミーツィマ爺さんのじゅもんより、はるかにすばらしかった。というのは、それは魔法以上の意味をもち、彼に向かって語りかけたからである。リンダについて、からの茶碗をベッドのそばの床の上に置いたまま、いびきをかいて眠り呆けているリンダについて、いや、リンダとポーペー、そうだ、リンダとポーペーの間柄にまつわる恐ろしくも美しい魔法を、半分しかわからなかったけれども、すばらしい調子で語りかけてくれたからだった。
ポーペーに対する彼の憎しみはしだいにつのった。「にっこりとほほえみを浮かべていても、案外、それが、悪い奴かもしれないのだ」(「ハムレット」第一幕第五場)。「薄情で、人を裏切る、残忍な好色漢かもしれないのだ」(「ハムレット」第二幕第二場)。これらの言葉は、正確にいうとどんな意味なのだろう? 彼には、半分しかわからない。しかし、その言葉の魔力は強烈で、彼の頭の中で鳴りひびいている。そして、どういうわけか、自分は、これまで、ほんとにポーペーを憎んだことはないような気がした。それというのも、どれだけ憎んでいるか、うまく言えなかったからだった。しかし、いまや、彼は、この言葉、つまり、ドラムのような、歌声のような、じゅもんのようなこの言葉を手に入れたのだ。この言葉と、その言葉の出どころともいうべき、ふしぎな、ふしぎな物語(彼には、それが何のことか、さっぱりわからなかったが、わからないなりに、まことに驚くべき話だった)――この言葉と物語は、ポーペーを憎む理由を彼に教えてくれ、彼の憎しみをいっそうなまなましいものにした。そればかりか、ポーペーそのものをさえ、いっそうなまなましい存在にしたのだった。
ある日、彼が遊んで帰ってくると、奥の部屋のドアがあいていて、リンダとポーペーが、ベッドでいっしょにぐっすり眠っているのがみえた――白いリンダのそばでは、ポーペーは、ほとんど黒く見えた。片方の腕で彼女の肩を抱き、もう片方の黒い手を、彼女の胸にのせている。彼の長い髪の毛の一ふさが、まるで、彼女を絞め殺そうとする黒い蛇のように、彼女ののどもとにとぐろを巻いている。ポーペーの持ってきたひょうたんと茶碗が、ベッドのそばの床の上においてあった。リンダはいびきをかいている。
彼は、自分の心臓が消えうせて、そこに、ポッカリ穴があいたような気がした。自分がからっぽになったのだ。からっぽになり、悪寒《おかん》が走り、胸がムカムカし、めまいがした。彼は、壁にもたれて、身体をささえた。薄情で、人を裏切る、残忍な好色漢……ドラムのように、トウモロコシの取り入れ歌をうたう男の声のように、じゅもんのように、その言葉は、彼の頭の中で、くりかえしくりかえし鳴りひびいた。悪寒が、突然、熱っぽさに変わった。にわかに血が上ったために、頬は燃えるように熱く、部屋がグルグルまわり、目の前がまっ暗になった。彼はギリギリと歯がみをした。「殺してやる、殺してやる、きっと殺してやるぞ」と、彼は言い続けるのだった。すると、突然、ほかの言葉が目を打った。
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彼奴《きゃつ》が酔いつぶれて眠りこんだときか、あるいは、怒り狂ったときか、
あるいは、道ならぬ恋の歓喜《よろこび》に痴《し》れて……(「ハムレット」第三幕第三場)
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じゅもんが、彼に加勢してくれる。じゅもんが、事情を説き明かし、彼に命令する。彼は、前の部屋へ引き返した。「彼奴が酔いつぶれて眠りこんだとき……」肉切りナイフが、炉の近くの床の上においてある。彼は、そのナイフをつまみ上げると、ぬき足さし足で、またドアのところへもどる。「彼奴が酔いつぶれて眠りこんだとき……彼はツツッと部屋へ走り込んで、いきなり突き刺した――やあ、血だ! ポーペーが、目をさまして起き上がろうとしたところを、また突き刺した。もう一度突き刺してやろうと、手を振り上げる。だが、いつのまにやら、手首をつかまれ、おさえられて――ちくしょう、ちくしょう!――ねじ上げられる。身動きもできない。しまった、失敗したか。すぐ近くに、ポーペーの小さな黒い目が、じっと彼の目を見すえている。彼は顔をそむける。ポーペーの左肩に二つ、突き傷ができている。「まあ、この血を見てちょうだい!」リンダは泣いている。「このひどい血!」彼女は、いつも、血を見るのはどうしてもがまんできないのだ。ポーペーは、もう片方の手を上げた――なぐられるな、と彼は思った。彼は、なぐられる覚悟をきめて、身を固くした。しかし、その手は、ただ、彼のあごの下にのびて、顔をグイと上に向かせただけだった。そのため、彼は、いやでも、またポーペーの目をまともに見なければならないはめとなった。長い間、何時間も何時間も。すると、突然――どうしてもがまんできなくなって――彼は、わっと泣きだした。ポーペーは、いきなり笑いだした。「行け」と、彼は、もう一つのインディアンの言葉でいった。「行け、小さな勇士、アハイユータ」彼は、涙を見られまいとして、ほかの部屋へ駆け込んだ。
「おまえも十五になったな」とミーツィマ爺さんが、インディアンの言葉でいう。「だから、粘土細工を教えてあげよう」
川の岸にしゃがみながら、二人はいっしょに粘土をこねる。
「まずはじめにな」しめった粘土をひとかたまり、両手でつかみながら、ミーツィマ爺さんが言う。「小さなお月様を作るんじゃ」そして、そのかたまりをぐっと押しつぶして円板を作る。それから、へリを上の方へ曲げる。すると、月が、底の浅い茶碗となった。
のろのろと不器用な手つきで、彼は、爺さんの巧みな手さばきの真似をする。
「お月様、それから茶碗、今度は蛇じゃ」ミーツィマ爺さんは、もうひとかたまりの粘土を伸ばして、長いやわらかい筒を作り、それを丸めて輪にしてから、茶碗のへりに押しつける。「もう一つ蛇じゃ。それから、もう一つ、さらにもう一つ」ミーツィマ爺さんは、ひとまわりずつ、壷の胴を作っていく。底が狭く、まん中がふくれていて、首のところがまた狭くなっている。老人は、押しつぶしたり、軽くたたいたり、なでたり、こすったりする。すると、とうとう、あのよく見なれたマルペイスの水さしの形ができあがる。ただ、ちがうのは、黒くなくて、白っぽいクリーム色で、さわるとまだやわらかいことだけだ。ミーツィマ老人の細工を、不器用にまねて作った、へたな彼の作品が、そのそばに並んでいる。二つの作品をじっとみつめていると、彼は思わず吹きだしだくなる。
「でも、今度は、もっとうまく作れるよ」と、彼が言う。そして、また粘土のひとかたまりをぬらしはじめる。
作ったり、形をととのえたりしていると、指がコツをのみこみ、指に力がついたような気がしてくる――これが、彼に、いうにいわれぬ喜びを与えた。「A、B、C、ビタミンD」彼は、粘土をこねながら、一人で歌う。「脂肪は肝臓に、鱈《たら》は海の中に」そして、ミーツィマ老人もまたうたう――熊狩りの歌を。二人は、一日じゅう粘土細工をし、彼は、一日じゅう、強烈な、われを忘れた喜びにみたされる。
「今度の冬にはな」と、ミーツィマ爺さんが言う。「弓の作り方を教えてやるぞ」
彼は、長い間うちの外に立っている。うちの内部《なか》の儀式がとうとう終わった。ドアがあいて、みんなが出てきた。コスコールが先頭で、右手をぐっと伸ばし、まるで貴重な宝石か何かを持っているように、かたく握りしめている。同じように握りこぶしをぐっと伸ばしながら、娘のキアキメがそのあとに続く。二人は、無言のまま歩いていく。そして、二人のあとから、やはり黙ったまま、兄弟や、姉妹や、従兄弟や、すべての人たちの行列が続く。
一行は、プエブロを出て、地卓《メーサ》を横切る。断崖のはしまで来ると、立ち止まり、早朝の朝日の方へ向く。コスコールが手を開く。一つかみのトウモロコシの粉が、そのてのひらに白く光っている。彼は、それに息を吹きかけ、二こと三ことおまじないを唱えてから、てのひらいっぱいの粉を、朝日に向かってぱっと投げる。キアキメも同じことをする。次に、キアキメの父親が前に進み出て、羽根飾りのついた祈祷《きとう》の杖をささげながら、長いお祈りをする。お祈りがすむと、さっきのトウモロコシの粉にならって、その杖を投げる。
「式は、とどこおりなく終わった」と、ミーツィマ老人が大声で宣言する。「二人は夫婦《めおと》になったのじゃ」
「やれやれ」と、帰りがけにリンダが言う。「こんなつまらないことに、ずいぶん大騒ぎをするわね、としか、あたしには言えないけど。文明世界だったらね、男の子が女の子を欲しくなったら、男の子は、ただ……あら、ジョン、どこへ行くの?」
彼は、母親の呼ぶのに耳もかさず、ずっと遠く、どこか一人だけになれるところまで走っていく。
式は、とどこおりなく終わった。ミーツィマ爺さんのこの言葉が、頭の中で、何べんも何べんもくりかえされる。終わった、終わった……彼は、何も言わず、遠く離れたところから、しかも熱烈に、必死になって、しかしあきらめながら、キアキメに恋していたのだ。だが、もう万事は終わってしまった。彼が十六歳のときのことだった。
満月の晩に、地下のかもしか礼拝場《キヴァ》で秘密がうちあけられ、密議が行なわれることになった。礼拝場《キヴァ》へ降りていくときは、まだ少年だが、そこから出てくるときは一人前の男なのだ。少年たちは、みんな、こわがりながら待ちこがれている。ついにその日がやって来た。太陽が沈んで月が上った。彼は、ほかの少年たちといっしょに出かけた。礼拝場《キヴァ》の入口に、男たちが黒々と立っている。梯子が、赤い灯《あか》りのついた深い底までとどいている。先頭の少年たちは、すでに梯子を下りはじめていた。突然、一人の男がツカツカと前に出て、彼の腕をつかみ、列の外へひっぱりだした。彼は、つかまれた腕をふり放し、すばやく、行列の間の自分の場所へもどった。今度は、その男は彼をなぐりつけ、彼の髪をひっぱった。「おまえはだめだ、この白い髪の奴め!」「雌犬の子伜《こせがれ》はだめだ」と、ほかの誰かが言った。少年たちは、どっと笑った。「あっちへ行け!」そして、彼が、まだ行列のへりにうろうろしているのを見ると、「あっちへ行け!」と、また男たちがどなった。男の一人が、しゃがんで、石を拾って投げつけた。「行け、行け、とっとと行っちまえ!」石つぶての雨が降りそそぐ。血を流しながら、彼は暗やみの中へ逃げこんだ。赤い灯りのついた礼拝場《キヴァ》から、歌声がきこえてくる。一ばん終わりの少年たちも、梯子を降りて行ってしまった。彼は全く一人ぽっちになった。
村はずれの、草も生えていない地卓《メーサ》の平原に、彼はただ一人、立っていた。岩は、月の光をあびて、風雨にさらされた白骨のようだった。足下の渓谷《たに》では、コヨーテが、月に向かって吠《ほ》えている。なぐられたあとはヒリヒリし、切れたところからは、まだ血が流れている。しかし、彼が泣いているのは、痛みのためではなかった。一人ぽっちになったためだった。この岩と月の光だけの、骸骨のような世界に、たった一人だけ追いだされたためだった。彼は、断崖のきわに腰をおろした。月は背中の方にある。彼は、黒い死の陰のような、地卓《メーサ》の黒い陰をのぞいた。一歩踏みだしさえすれば、ちょっと一飛びすれば……彼は、右手を月の光にかざした。手首の傷からは、まだ、血がじくじくと滲み出ている。何秒かごとに、血のしずくが、死のような光の中で、ほとんど色もかわらずにしたたり落ちた。ポタリ、ポタリ、ポタリ。明日《あす》、次の明日、またその次の明日……(「マクベス」第五幕第五場)
彼は、「時」と「死」と「神」を見いだしたのだった。
「一人ぽっち、いつも一人ぽっちなのです」と、青年が言う。その言葉は、バーナードの心の中に、うら悲しい反響を呼び起こした。一人ぽっち、一人ぽっち……「実は、ぼくもそうなんだよ」と、彼は、発作的に、自分の思いをうちあけたい衝動に駆られる。「ほんとの一人ぽっちだ」
「ほんとですか?」と、ジョンは、びっくりした顔をする。「ぼくは、また、あの『ほかの世界』では……と思っていたんです。あのう、リンダがいつも言うんですがね、あそこじゃ、一人ぽっちの人は誰もいないって」
バーナードは、気まり悪そうに赤い顔をする。「いや」と、彼は、顔をそむけたまま、口ごもるように言う。「ぼくは、ふつうの人とちょっとちがっているらしいんだよ。もしびんから出るとき、ちがったふうに……」
「ああ、それそれ、それなんですよ」と、青年はうなずく。「ふつうの人とちがっていれば、一人ぽっちでいるよりしようがありませんね。みんなでひどいめにあわせるんだから。ぼくはね、何から何まで、いっさい締めだしを食わされているんですよ、わかりますか? ほかの少年たちが、山へ一晩泊まりに出かけるようなときでも――ほら、自分の崇《あが》めなくちゃならない動物の夢をみなければならないときのことですけど――どうしても、ぼくをいっしょに連れてってくれないんです。秘密の秘の字も教えてくれないんです。だけど、ぼくは、自分一人でやりましたよ」と言って、彼はつけ加える。「五日間の断食をして、それから、夜、一人で、ほら、あそこの山へ出かけるんです」彼は、そちらを指さす。
バーナードは、よくやったね、というようににっこりする。「それで、君は何か夢をみたかい?」ときく。
相手はうなずく。「でも、それは言えません」彼は、しばらく黙っている。やがて、小声で、「まえに」と、彼は言葉を続ける。「ぼくは、誰もやらないことをやりましたよ。夏のまっ昼間、十字架につけられたイエスみたいに、両手を広げたまま、岩によりかかっていたんです」
「いったい何のために、そんなことをしたんだい?」
「十字架につけられるのは、どんな気持ちか知りたかったんです。日なたにつり下げられて……」
「でも、何のためなんだい?」
「何のため? そうだなあ……」と、彼はためらっている。「そうしなくちゃならないような気がするからです。もしイエスに我慢ができるものならね。それから、もし何かまちがったことをしでかしたのならね……それに、ぼくは不幸だからなんです。これがもう一つの理由です」
「不幸を治すにしちゃ、変てこな治し方だね」と、バーナードが言う。しかし、考え直してみると、結局、まんざら無意味でもないな、という結論になる。ソーマをのんだりするよりはましだな……
「しばらくすると、ぼくは気絶して」と、青年が言葉を続ける。「うつ伏せに倒れてしまいました。ぼくが、自分でつけたこの傷あとがわかるでしょう?」彼は、ふさふさした黄色い髪を、額からかき上げる。右のこめかみに、青白いしわのように、傷あとがあらわれる。
バーナードは、目をむけるが、すぐさま、小さく身ぶるいをして、目をそらす。身についた条件反射教育のために、かわいそうだ、と思うより先に、ひどく、気分が悪くなるのだった。病気やけがのことを言われるだけで、彼はぞっとする。ぞっとするばかりではない。胸が悪くなり何だかムカムカしてくるのだった。汚物とか、不具者とか、老齢などのことをきいても同じだ。彼は、急いで話題を変えた。
「君は、ぼくらといっしょにロンドンへ帰りたくないかね?」と、彼は、相手の気を引いてみる。彼は、その小さい家で、この野蛮人青年の「父親」は、きっとあいつだ、と気づいて以来、心ひそかに練りに練っていた戦略遂行の第一歩を、このようにして、踏みだしたのだ。
「どうかね」
青年の顔は、パッと輝く。「ほんとでしょうね?」
「もちろんさ。ただ、許可がいるけどね」
「リンダもいいでしょう?」
「そうだなあ……」彼は、ためらって、あやふやな返事をする。あのいやらしい女! いや、あれはだめだな。ただ、ただ……。みるからに、胸の悪くなる、あの女のいやらしさが、かえって、あとで大きな強みになるかもしれないな、という考えが、突然、バーナードの頭にひらめく。「そりゃ、もちろんだよ!」はじめのためらいを勘づかれないために、わざと大げさの親しみをこめながら、大きな声で言う。
青年は、深い息をする。「いよいよ実現するんだなあ――ぼくが一生涯|憧《あこが》れていたことが。あなたは、ミランダ(シェイクスピアの「あらし」に出てくる、若く美しい女主人公。プロスペロの娘)の言葉をおぼえていますか?」
「ミランダって誰のことだい?」
しかし、青年は、その質問が耳にはいらなかったらしい。「ああ、なんとすばらしい!」と、彼は叫ぶ、目が輝き、顔はいきいきと紅潮している。「ここには、りっぱな人たちが、なんとたくさん住んでいるのでしょうね! 人間って、なんと美しいのでしょう!」(「あらし」第五幕第一場)突然、その顔の赤らみが深まる。黒っぽい緑色のビスコースの服がよく似合い、肌は、若さと皮膚の栄養クリームでつやつやしていて、ふくよかに肥え、やさしくほほえんでいるあの天使《エンジェル》、レーニナのことを思いだしたのだ。彼の声がふるえる。「ああ、すばらしい新世界よ」(「あらし」第五幕第一場)と切りだしたが、突然、ふっつりと口をつぐむ。頬からさっと血がひいて、紙のようにまっさおになる。「あなたは、あの女《ひと》と結婚しているんでしょう?」
「ぼくがどうしたって?」
「結婚しているかっていうんですよ。ほら――永久にね。インディアンの言葉で、『永久に』っていうでしょう。ぜったいに破れないように」
「とんでもない、冗談じゃないよ!」と、バーナードは、思わず吹きだす。
ジョンも、つりこまれてにっこりするが、それは、もちろん、ちがった笑いだった――つまり、ただ嬉しさのあまり、笑ったのだった。
「ああ、すばらしい新世界よ」と、彼はくりかえす。「このような人たちの住んでいるすばらしい新世界よ。さあ、今からすぐに出発だ!」
「君は、ときどき、ずいぶん変てこなことを言いだす癖があるね」バーナードは、びっくりして、当惑顔でじっと青年をみつめながら、たしなめる。「それに、君のいうその新世界とやらを、ほんとに見るまで、何も言わないで黙っていたほうがいいんじゃないかね?」
[#改ページ]
第九章
レーニナは、今日一日、変てこなものや恐ろしいものをさんざん見せつけられたのだもの、まる一日の絶対休暇をとる方があたりまえだわ、という気がした。それで、宿泊所へ帰るとすぐに、半グラムのソーマを六錠のんで、床についた。そして、十分とはたたないうちに、永遠の月の世界へ出かけたのだった。ふたたび時間の世界へ帰るまでに、少なくとも十八時間はかかるはずだ。
一方、バーナードは、暗やみの中で横になったまま、目をあけてじっともの思いにふけっていた。ようやく寝入ったのは、真夜中もだいぶ過ぎてからだった。真夜中をだいぶ過ぎてはいたが、寝つかれなかったのは無駄ではなかった。というのは、ある計画を思いついたからである。
あくる朝、十時かっきりに、グリーンの制服の例の|八分の一混血児《オクトルーン》が、ヘリコプターから降りてきた。バーナードは、リュウゼツランの茂みの間で待っていた。
「クラウン嬢は、ソーマ休暇をとったんだよ」と、彼は説明した。「五時前には、まず、目がさめないな。とすると、七時間のゆとりがあることになる」
それだけのゆとりがあれば、サンタフェまで飛んで、必要な手続きをぜんぶすませ、彼女が目をさますずっと前に、またマルペイスに舞いもどってくることができるはずだ。
「彼女を、ひとりでここに置いていっても、ほんとに大丈夫かね?」
「大丈夫ですとも、ヘリコプターと同じですよ」と、|八分の一混血児《オクトルーン》が保証する。
二人は、ヘリコプターに乗り込んで、すぐに出発した。十時三十四分、サンタフェ郵便局の屋上に着陸。十時三十七分、ホワイト・ホール街《ストリート》(ロンドンの官庁街)の世界大統領事務局に電話連絡。十時三十九分、大統領第四個人秘書と通話。十時四十四分、第一秘書に対し、同一内容を反復。十時四十七分三十秒に、ムスタファ・モンド自身の深みのある、よく響く声が、彼の耳にきこえてくる。
「失礼でございますが」と、バーナードは口ごもりながら言う。「閣下は、きっと、この問題を、十分に科学的興味のあるものとお考え遊ばされることと存じまして……」
「そう、これは、十分に科学的興味のあるものと、考えられるね」と、深みのある声が答える。「その二人の人物を、いっしょにロンドンへ連れて帰りたまえ」
「御承知でもございましょうが、特別許可が必要かと存じますので……」
「必要な指令は」と、ムスタファ・モンドが言う。「ただちに、保護地区区長あてに発送させる。すぐに、保護地区事務局の方へ行きたまえ。それじゃ失敬。マルクス君」
沈黙が流れる。バーナードは、受話器を掛けると、屋上へ駆け上がる。
「保護地区事務局まで」と、彼は、ガンマー・グリーンの制服の例の混血児《オクトルーン》に言いつける。
十時五十四分、バーナードは区長と握手をしている。
「承知いたしました、マルクスさん、けっこうです」その朗々とした声には、尊敬の調子がこもっている。「つい先ほど、特別指令をいただきまして……」
「わかってるよ」と、バーナードは、相手の言葉をさえぎりながら言う。「ついさっき、閣下と電話でお話ししたから」うんざりしたようなその口調から察すると、どうやら、彼は、一週間毎日閣下と話をすることになっているらしい。彼は、ドサッと椅子にすわりこむ。「御苦労だが、必要な措置をぜんぶ、できるだけ早くとってくれたまえ。できるだけ早く、だ」と、彼は、もう一度、力をこめてくり返す。彼は、すごく楽しいのだ。
十一時三分、彼は、必要な書類をぜんぶポケットにおさめた。
「それじゃ」彼は、わざわざエレベーターの昇降口まで送ってくれた区長に向かって、おおような口調で言う。「失敬」
彼は、ホテルまで歩いていく。そして、入浴し、振動式真空マッサージをかけ、電気分解式ひげそり器をあててから、午前のニュースをきき、三十分ほどテレビを見て、ゆっくりと昼食をとった。そして、二時半に、例の混血児《オクトルーン》のヘリコプターで、マルペイスに帰ってきた。
あのインディアン青年が、宿泊所の外に立っている。
「バーナードさん」と、彼が呼ぶ。「バーナードさん!」返事がない。
鹿皮のモカシン靴をはいているので、彼は、音を立てないように階段を上がり、ドアをあけようとする。ドアには鍵がかかっている。
逃げられたんだ! しまった! 今までにない恐ろしいことが起こったのだ。あの女《ひと》は、あたしたちのところへやって来てちょうだいね、と誘っておいて、二人で逃げてしまったのだ。彼は、階段にすわりこみ、声をあげて泣きだした。
三十分ほどして、彼はふと思いついて、窓からのぞいてみた。まず最初に目にはいったのは、ふたにL・Cというイニシャルのついた緑色のスーツケースだった。彼の心の中に、歓喜が、火のように燃え上がった。彼は石を拾い上げた。割れたガラスの破片が、床の上でガチャンと鳴った。彼は、すぐさま部屋へ忍びこんだ。緑色のスーツケースをあけた。すると、突然、ふんわりと、レーニナの香水のにおいがして、肺のすみずみまで、彼女の精気でいっぱいになった。胸の鼓動は、まるで早鐘《はやがね》のようだ。一瞬、危うく失神しかける。それから、かがみこんで、貴重品箱にさわり、明るみへもちだして、調べてみる。レーニナの、ビスコース・ビロードの穿《は》き替え用ショート・パンツについているファスナーは、はじめは何だかわからなかったが、わかってくると、すっかり嬉しくなった。シューッ、またシューッ、シューッ、もう一度シューッ。彼は、有頂天《うちょうてん》になる。彼女の緑色のスリッパを見て、こんなきれいなものは、はじめてだ、と思った。ファスナー付き下着《コンビネーション》をひろげてみて、彼は赤くなり、あわててまた片づける。が、香水をしみこませたアセテートのハンカチにキスし、スカーフは首に巻いてみた。一つの箱をあけると、いいにおいのする粉が、パッとこぼれ出た。手が粉まみれになった。その手を、自分の胸や、肩や、はだかの腕になすりつける。ほんとにいいにおいだなあ! 彼は目をとじる。粉のついた腕に、頬をすりよせる。すべすべした皮膚に顔がふれ、じゃこうのかおりが鼻孔を打つ――まるで、彼女《あのひと》が、ほんとにそこにいるようだ。「レーニナ」と、彼はつぶやく。「レーニナ!」
物音に、彼はびくっとして、何か悪いことでもしていたみたいに振りかえる。かってにひっぱりだしたものを、もとのスーツケースにつめこんで、ふたをしめる。それから、また耳をすませ、あたりを見まわす。人かげも見えず、物音もしない。でも、たしかに物音がしたんだが――ため息のような、板のきしむような音だった。彼は、抜き足さし足で、ドアのそばへ歩み寄り、そっとあけてみた。すると、そこは広い踊り場になっている。踊り場の向かい側に、もう一つドアがあって、少しあいている。彼は、踊り場へ出ると、ドアを押して、内部《なか》をのぞいた。
その部屋の低いベッドに、ピンクのファスナー付ワンピース・パジャマを着たレーニナが、掛布《シーツ》をはねのけたまま、眠っている。|捲き毛《カール》にふかぶかと顔を埋めながら、ぐっすり眠りこんでいるその姿が、あまりにも美しく、そのピンクの足の指と、しかつめらしい寝顔が、いじらしいほど子供っぽく、そのしならかな手と、やわらかな手足を、すっかり安心して投げだしている様子が、あまりにもあどけないので、見守っている彼の目に、涙が浮かんでくる。
全く不必要なのに、ひどく用心しながら――というのは、ピストルでもぶっ放さない限り、レーニナを、指定の日時より早く、ソーマ休暇から呼び起こすことはできないからだが――彼は、部屋の内部《なか》にはいり、彼女のベッドのそばの床の上にひざまずく。じっとみつめ、両手を握りしめて、唇を動かす。「彼女《あのひと》の目」と、彼はつぶやく。
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彼女《あのひと》の目と、髪と、頬と、歩きぶりと声とだ。
君は、口さえひらけば、こうだ。ああ! 彼女の手、
あれと比べりゃ、どんな白いものでも、自分の黒さを恥ずかしがっているインクだし、
あの手にそっと握られるのと比べりゃ、
白鳥のひなの綿毛も、まだ剛《こわ》い、とね……(「トロイラスとクレシダ」第一幕第一場)
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蝿が一ぴき、彼女のまわりをブンブン飛びまわる。彼は、手で蝿を追いやる。「蝿なら」と、彼は思いだす。
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愛《いと》しいジュリエットの、すばらしいまっ白な手につかまって、
清らかな、汚れを知らぬ乙女のつつましさゆえに、
上と下とが、お互いにふれ合うのさえ恥ずかしがって赤くなっている、
彼女の唇から、永遠の祝福《めぐみ》をつかんで、そっと逃げていくこともできるのだ」(「ロミオとジュリエット」第三幕第三場)
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臆病なくせに、近よると危害を加えそうな小鳥をなでようとして、手を伸ばす人のように、彼は、ためらいがちに、ごくゆっくりと手をさしのべる。その手は、ふるえながら、彼女のしなやかな指のすぐ近くで、今にも触れそうになってとまる。思い切ってさわろうか? このいやしい手でさわって汚すのを覚悟で、いっそ思い切って……いや、とてもだめだ。この小鳥は、あまりにも危険だ。彼は、おずおずと手を引っこめる。この女《ひと》はなんと美しいのだ! なんと美しいのだろう!
やがて、彼は、突然、ハッとする。この女《ひと》の首のファスナーをつかんで、グイと長く引き下げさえすれば……と、いつのまにやら、ひとりでに想像をたくましくしていたのだった。彼は目をとじた。そして、水の中から上がってきた犬が、ブルッと耳をふりたてるように、首を横にふる。いやらしい想像だ! 彼は、自分で恥ずかしくなる。清らかな、汚れを知らぬ乙女のつつましさ……
空にブーンと音がする。また蝿めが、永遠の祝福《めぐみ》を盗みにきたな? それとも、スズメバチかな? 見まわすが何も見えない。ブーンという音は、しだいに大きくなる。鎧戸《よろいど》をしめてある窓の外からきこえるのだ。ヘリコプターだ! 彼は、あわてふためき、はうようにして立ち上がり、次の部屋へ駆けこみ、あけてある窓から飛び降りると、丈の高いリュウゼツランの間の道をいっさんに走って、ヘリコプターから降り立ったバーナード・マルクスを、やっと迎えに出ることができたのだった。
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第十章
ブルームズベリー(ロンドンの中心地区の一つで、知識人の住んだところ)本部の、四千の部屋にそれぞれかけてある四千の電気時計の針がどれもみな、二時二十七分をさしている。所長の大好きな呼び方によると、「この生涯の巣箱」は、今、ざわめきながら活動しているまっさいちゅうだ。すべての人が忙しく働き、あらゆるものが一糸乱れず整然と動いている。顕微鏡の下では、精虫が、その長い尾を激しく振りたてながら、頭から先に卵子の中へもぐり込んでいく。受精すると、ふくらんで、分裂する。ボカレフスキー処理を施されている場合は、発芽し、分裂して、おびただしい数のそれぞれ別個の胎児となる。「社会階級予定室」からは、エスカレーターが、ゴトン、ゴトンと地下室へ降りてくる。地下室の深紅色の暗やみの中では、胎児が、腹膜のクッションの上で、じっくりとあたためられ、合成血液やホルモンを十分に与えられながら、どんどん成長していく。あるいは、毒によって発育が抑制され、いじけたイプシロン的胎児となっていく。移動式|壜架《ラック》が、何週間もの間、胎児たちに、祖先と同じ発達段階を永遠にくりかえさせながら、ブーンとかすかな唸り声を立てて、目に見えないほど少しずつ、ガタゴト進んでいく。最後の出びん室につくと、びんから出たばかりの赤ん坊が、恐怖と驚きの第一声をあげるのだった。
地下二階では、発電機《ダイナモ》がビューンと回転し、エレベーターが昇ったり降りたりしている。十一階ぜんぶを占めている育児室では、今、哺乳の時間だ。注意深く分類された千八百人の赤ん坊が、千八百本の授乳びんから、低温殺菌処理された外分泌液を、いっせいに飲んでいる。その上の十階は共同寝室になっていて、そこでも、まだ小さくて昼寝をしなければならない男の児や女の児たちが、ほかの連中に負けないくらい忙しかった。彼らは、まだ意味がちっともわからないのに、衛生や社交性、階級意識やよちよち歩きの幼児の恋愛生活についての睡眠教育《ヒプノピィディア》に、無意識に耳を傾けていたからだ。これらの階の上も、やはり遊戯室で、ここでは、お天気が雨になったので、今、九百人の、もう少し大きくなった子供たちが、夢中になって、積木遊びや、粘土細工や、スリッパー捜しや、性《セックス》遊びをやっているところだ。
ガヤガヤ、ザワザワ! この巣箱は、忙しく、陽気にざわめいている。若い女の子たちは、試験管を握りながら、陽気にうたい、階級予定係員たちは、口笛を吹き吹き作業を続けている。出びん室では、からになったびんの上で、なんと愉快な冗談が交わされているのだろう! しかし、ヘンリー・フォスターを伴って受精室へはいってきた所長の顔は、しんけんそのもので、堅く、厳しい。
「公開の見せしめにする」と、彼が言っている。「この部屋がいい。ここは、センターじゅうで、上層階級の勤務者が一ばん多いからね。彼には、二時半にここへ出頭するように伝えてあるのだ」
「でも、彼は、よくできる男ですがねえ」と、ヘンリーは、心にもない寛大さを見せながら、口をさしはさむ。
「それは、わかっている。しかし、よくできればこそ、いっそうきびしくしなければならないのだ。知性が卓越していれば、それに見合うだけの道徳的責任が伴うのだ。人は、才能が大きければ大きいほど、わき道へそれる可能性も大きいのだ。大ぜいの者が堕落するよりは、一人の者が苦しみを受けるほうがまだましなのだよ。いいかね、フォスター君、今度の問題を冷静に考えてみたまえ。そうすれば、常軌を逸した行為ほど、憎むべき罪はないことがわかるはずだ。殺人といったって、たかが一人の個人を殺害するだけのことだ――それに、だ、結局のところ、個人とは、いったい何だろう?」大げさに手を振って、彼は、ずらりと並んでいる顕微鏡や、試験管や孵化器を指さす。「新しい個人など、いとも簡単に作ることができる――それも、ほしいだけ、いくらでも作れるんだ。ところが、常軌逸脱の行為は、単に一個人の生命をおびやかすだけではない。『社会』そのものを転覆させるのだ、いいかね、『社会』そのものを、だ」と、彼はくりかえす。「ああ、それはそうと、彼がやって来たよ」
バーナードは、部屋にはいると、並んでいる受精係員の列の間を、こちらに向かって歩いてくる。うわべだけは自信にみちたふりをしているが、内心はひどくびくびくしているのが、それとなくわかる。「こんにちは、所長」と、あいさつをした彼の声は、ばかに大きい。そのくせ、これはいけないと気がついて、「ここへやって来て、話をするように、との御指示をいただきましたので」と言うその声は、また、こっけいなほどやさしいキーキー声だ。
「そのとおりだよ、マルクス君」と、所長はものものしい口調で言う。「わたしは、たしかに、ここへ出頭するよう命令した。君は、たしか、ゆうべ、休暇を終えて帰ってきたのだったね」
「そうです」と、バーナードが答える。
「そう|ですう《ヽヽヽ》」と、所長は、蛇がはうように、わざと、すの音を長くひっぱって、彼の返事をくりかえした。それから、いきなり声を張り上げて、「みなさん」と、大声で呼びかける。「みなさん」
試験管を手にもった女の子の歌声も、顕微鏡係りの一心不乱の口笛も、はたとやむ。部屋じゅうがシーンと静まりかえり、みんながあたりを見まわす。
「みなさん」と、所長がもう一度声を張り上げる。「勤務中、じゃまをして、恐縮です。私といたしましては、つらいのでありますが、自分の義務を尽くさないわけにはまいりません。社会の安全と安定が、いまや、危険にさらされております。そうです。危険にさらされているのでありますぞ、みなさん。この男は」と、彼は、弾劾《だんがい》するようにバーナードを指さす。「みなさんの前に立っているこの男、社会から多大の恩恵を与えられているがゆえに、当然、社会に対して多大の貢献をなすべき、このアルファ・プラスの男、端的にいえば、このみなさんの同僚は――いあ、先を見越せば、むしろ、この|もと《ヽヽ》同僚と申すべきでしょうが――彼に寄せられている信頼を、卑劣にも裏切ったのであります。彼は、スポーツやソーマを軽蔑《けいべつ》し、言語道断な片よった性生活をいとなみ、わが主フォードのみ教えのままに、勤務時間外には、『幼な児のように無邪気に』(ここで、所長はTの字を切った)行動することを拒否して、自ら、社会の敵、いいですか、いっさいの秩序と安定の転覆者、ひいては、文明そのものに対する反逆者であることを暴露したのであります。右のような理由によりまして、わたしは、この男の解雇を提案いたしたいのであります。不行跡の理由によりまして、彼が、当センターで占めている地位から追放し、処罰が、もっとも社会に有益となるよう、人口の多い重要なセンターから、できうる限り離れた、最下層の支部へ転任させることを、ただちに要請いたしたいのであります。アイスランドならば、彼が、常軌を逸した言動によって、他人を惑わせるおそれは、ほとんどあるまい、と存じます」所長は、言葉を切った。それから、腕を組みながら、いかめしい顔で、バーナードの方に向き直る。「マルクス」と、彼が呼びかける。「君は、わたしが君に与えた判決を、すぐ施行してはいけない理由をあげることができるかね?」
「はい、できますとも」と、バーナードは、ばかに大きな声で答える。
少しびっくりしたが、相変わらずもったいぶって、「それでは、その理由をあげてみたまえ」と、所長が言いつける。
「おやすい御用です。でも、その理由は、廊下におります。ちょっとお待ち下さい」バーナードは、ドアのそばへ走っていって、ドアをさっとあける。「はいりたまえ」と、彼が言いつけると、その理由の根拠《よりどころ》とでもいうべき生き証拠がはいってきて姿を見せる。
みんなが、ハッと息をのむ。驚きと恐怖のひそひそ声が起こり、若い女の子の一人が、悲鳴をあげた。もっとよく見ようとして、椅子の上に立っていた誰かが、精虫のいっぱいはいった試験管を二本もひっくり返した。ひきしまった若い肉体と、くずれていない顔だちをもった人たちにまじると、むくんで、たるみができていて、それこそ、まるで、奇妙なぞっとするような中年の怪物にも見えるリンダが、くずれて色あせた顔に、あだっぽい微笑を浮かべ、からだをゆすってしなを作るつもりなのか、大きなお尻をふりふり部屋の内部《なか》へはいってきた。バーナードが、そばにつき添っている。
「ほら、あそこにいるよ」と、所長を指さしながら、彼が言う。
「あたしが、あの男を忘れるとでもお思いなの?」リンダが、むっとした顔で言う。それから、所長の方へ向き直りながら、「あたしには、もちろん、わかっていますよ。ねえ、トマキン、千人の人にまじっていたって、どこにいたって、あたしのほうは、ちゃんと見わけがつくんだわ。でも、あんたのほうは、たぶん、このあたしを忘れているだろうね? どう? あたしを覚えていないの? ねえ、トマキン? リンダよ」彼女は、小首をかしげ、相変わらずにっこりしたまま、じっと彼を見つめて立っている。しかし、その微笑も、嫌悪感を凝固させたような所長の顔を見ると、しだいに自信がなくなったように動揺し、とうとう消えてしまった。「あたしを覚えていないの、トマキン?」彼女は、ふるえ声でもう一度くりかえす。彼女の目には、不安の色が浮かび、ひどく苦しそうだ。むくんで、たるみのできたその顔が、奇妙にゆがんだかと思うと、それが、激しい苦悶《くもん》の表情に変わる。「トマキン!」彼女は両手をさしのべる。誰かがクスクス笑いだした。
「いったい、何のために」と、所長が言いだす。「この化け物のような……」
「トマキン!」彼女は、毛布をひきずったまま、駆け寄って、彼の首に抱きつき、その胸に顔を埋める。
こらえきれなくなった笑いが、ドッと起こる。
「……この化け物の悪質ないたずらは」と所長が叫ぶ。
顔をまっ赤にして、彼は、抱きついている女を振りほどこうともがく。彼女は、必死にしがみつく。「でも、あたしはリンダよ。リンダなのよ」彼女の声は、わきあがる笑い声にかき消されてしまう。「あんたが、あたしに、赤ん坊なんか生ませたのよ」彼女は、そのどよめきに負けまいとして、かん高い声をはりあげる。突然、あたりが無気味に静まりかえる。目のやり場に困って、人々は、気まり悪そうに目をキョロつかせる。所長が、不意にまっさおになり、もがくのをやめたかと思うと、女の手首をつかみ、その顔をじっと見つめたまま、おびえて立っている。
「そうよ、赤ん坊よ――そして、あたしが、その子の母親なのよ」彼女は、いどむように、そのみだらな言葉を、荒々しい静けさの中へ投げだす。そして、いきなり、つと彼から離れ、恥ずかしくてたまらないように、両手で顔をおおったまま、泣きじゃくる。「あたしが悪いんじゃないのよ、トマキン。あたし、いつもちゃんと訓練をやっていたんだもの、ねえ、そうでしょ? いつも……それなのに、どうしてあんな……どんなに恐ろしいことだか、もしあんたにわかっていたらねえ、トマキン……でも、あの子は、結局は、あたしにとって慰めだったの」ドアの方を振りむきながら、彼女は、「ジョン!」と呼ぶ。「ジョン!」
彼は、すぐにはいってくる。ドアのすぐそばで立ち止まり、あたりを見まわしてから、モカシン靴をはいたまま、音も立てないで、大またにさっさと部屋を横切って歩いてくると、所長の前にひざまずいて、澄んだ声で「お父上!」と言う。
その言葉、(というのは、「父」という言葉は、――赤ん坊を生むという行為のいやらしさ、道徳的な不正とは、少しかけ離れた何かを連想させるので――つまり、わいせつというよりは、ただの下品な言葉とみなされ、春画的というよりは、むしろ、糞便的なきたならしい下品さ、ということになるからであるが)そのこっけいで、下品な言葉が、どうにもやりきれないものとなっていた、その場の緊張をときほぐしたのだった。ドッと大笑いがわき起こり、ものすごい、ほとんどヒステリックな爆笑が、とめどもなく、あとからあとから起こった。お父上――しかも、そのお父さんが、ほかならぬ、所長その人だったとは! お父上! だって。ああ、フォード様、フォード様! こんな、おもしろすぎる話って、いったい、あるのでしょうか。ワッという歓声とどよめきが、またまたわき起こった。どの顔も、今にもあごがはずれてしまいそうで、目から涙を流している。精虫のはいった試験管が、また六本、ひっくりかえった。お父上! だって。
所長は、まっさおな顔をして、狂ったように目をすえたまま、どうにもならない屈辱にせめられながら、あたりをにらみまわしていた。
お父上! だって。静まりそうな気配をみせていた笑い声が、またもや、いっそう大きく爆発した。彼は、両手で耳をおさえて、部屋からとびだしていった。
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第十一章
受精室における、例の大騒ぎの後、ロンドンの上層階級の人々は、みんな、人工孵化・条件反射教育センター所長――というよりは、むしろ|もと《ヽヽ》所長というべきだ。それというのも、この哀れな人物は、あの騒ぎの直後に辞職し、二度とふたたびセンターへは足をふみ入れなかったからだが――の前にペタリとひざまずいて、所長を、「お父上」(このいたずらは、あまりにもうまくできすぎていて、本当とも思われないくらいだったが)と呼んだ、このおもしろい人物を、ひと目見ようとして、すっかり夢中になっていた。それとは反対に、リンダのほうは、さっぱり人気がなかった。つまり、リンダを見たいと思う者などは、ただの一人もいなかったのだった。
自分は母親である、というなんて――これは、笑いごとではすまされない、みだらなことだった。おまけに、彼女は、きっすいの野蛮人でも何でもなかった。ほかの人たちと同じように、びんから生まれ、条件反射教育も受けていた。ということになれば、ほんとうに風変わりな考えを持ち合わせているはずもなかった。最後に――そして、これこそ、人々が、かわいそうなリンダに会いたがらない、だんぜん、一ばん強い理由だったのだが――彼女の容貌《ようぼう》がまた容貌だった。ぶくぶく肥えて、若さがなくなってしまい、歯が悪くなり、顔にしみができている。ああ、あの姿(なんとまあ!)――ちょっと見ただけで、ムカムカする。いや、ほんとにムカムカしてくるのだ。というわけで、もっとも偉い人たちは、ぜったいに、リンダには会うまい、と堅く決心したのだった。
それにまた、リンダのほうも、格別、そんな人たちに会いたくはなかった。文明への復帰とは、彼女にとっては、ソーマへの復帰だった。またしても頭痛を引き起こしたり、嘔吐の発作に襲われたり、メスカル酒をのんだあとのように、何か、二度と顔を上げることができないほどあさましい、反社会的な罪でもおかしたような気持ちにおちいったりしないで、ベッドにはいったまま、毎日毎日、休暇を楽しむことができる、ということだった。ソーマには、あんな不愉快な副作用はちっともなかった。ソーマが与えてくれる休暇は、完璧だった。たとえ、あくる朝が不愉快だとしても、その不愉快さは、けっして本質的なものではなく、休暇の楽しさと比べて、それほど楽しくはない、というだけのことだった。それを防ぐには、ただ、休暇を継続させればそれでよいのだ。彼女は、ワイワイせがんで、しだいに多量のソーマを、しだいにひんぱんにむさぼるようになった。ショー博士も、はじめは反対した。しかし、そのうちには折れて、彼女に、好きなだけのソーマを与えるようになった。彼女は、じつに、一日に二十グラムものソーマを服用するようになった。
「これだけの量を、連続的に服用すれば、彼女の命は、あと一、二か月です」と、博士は、バーナードに、こっそりうちあけた。「いつかは呼吸中枢が麻痺する。呼吸作用が停止する。それで終わりです。しかし、それもまあ、しかたがないかもしれません。もし若返らせることができれば、もちろん、話は別ですが。でも、それは、できない相談なんですからね」
おどろいたことに、とみんなが思ったのだが(というのは、ソーマ休暇をとっているときだけは、リンダは一ばん人のじゃまにならなかったから)、ジョンが異議をとなえたのだった。
「でも、そんなにのませたら、母の寿命をちぢめることになりませんか?」
「見方によれば、そういうことにもなるね」と、ショー博士が認める。「しかし、見方を変えれば、ほんとうは引きのばしているともいえるのだ」青年は、その意味がわからないので、まじまじと博士の顔を見つめる。「ソーマを服用すれば、時間的には、二、三年命をちぢめる結果になるかもしれない」と、博士は言葉を続ける。「しかし、超時間的には、いかにばく大な、測り知れぬ命を与えられることになるか、考えてみたまえ。ソーマ休暇の一つ一つが、われわれの先祖たちの、いわゆる永遠のひとかけらに当たるのだ」
ジョンは、意味がわかりかけてくる。「永遠は、われわれの唇と目の中にあるのだ」(「アントニーとクレオパトラ」第一幕第三場)
「何だって?」
「いや、何でもないんです」
「もちろん」と、博士は言い続ける。「まともな職業についている人が、だしぬけにぷいと永遠へ出かけていくのは、そりゃ困るよ。でも、あのひとは、べつに、まともな職業についているわけでもないのだから……」
「それはそうでしょうけど」と、ジョンはなおも食い下がる。「でも、やっぱり正しいことだとは思えませんね」
博士は、肩をすくめる。「いや、君がだよ、四六時ちゅう、ぶっ通しで、気ちがいじみた金切り声をあげさせておくほうが、まだましだ、というのなら……」
すったもんだのあげく、ジョンは、しぶしぶ承知する。リンダに、求めるだけのソーマが与えられることになった。それ以来、彼女は、バーナードのアパートの三十七階の小さな一室にとじこもり、ラジオとテレビはいつもかけっ放し、パチョリ香油(インド産のしそ科の植物の葉から製した香油)の栓から、ポタリポタリとしずくをしたたらせたまま、すぐ手の届くところに、ソーマの錠剤をおいてもらって、寝たきりの暮らしをしているのだった――彼女は、ずっとこもりきりだった。だが、心がそこに止まっていたためしはなかった。いつも、ずっと遠く離れたところに行って、休暇をとり、保養していたのだ。それこそ、どこかほかの世界での休暇だった。そこでは、ラジオの音楽が、色彩感にあふれた音のハーモニーの迷路をくり広げていた。それは、刻々に変化していく、胸のときめくような錯綜した路《みち》だった。そして、その路は(あの、たとえようもなく美しい、避けることのできない紆余《うよ》曲折をたどりながら)、絶対的確信という、あの輝かしい中心部へと進んでいく。そこでは、テレビにうつる踊り手たちが、ある、いうにいわれぬ甘美な、全場面歌曲付きの触感映画《フィーリー》の演技者となっていた。そこでは、したたり落ちるパチョリが、かおり以上のものとなっていた――太陽であり、幾百万のセクソフォンであり、恋を語りかけるポーペーだった。いや、もっと激しく、比べることもできないほど強烈で、いつ果てるともわからない恋であった。
「いや、若返らせることはできないのです」と、ショー博士は、しめくくる。「でも、わたしは、人間における老衰の実例というものを、まのあたり見ることができる、このような機会に恵まれたことを、まことに嬉しく思っております。お招きくださって、ほんとにありがとう」博士は、心をこめてバーナードの手を握りしめた。
そうなると、人々が、みんなで追いまわすのは、ジョンのほうだった。そして、ジョンに会うためには、その公認の保護者であるバーナードに紹介を頼むというルートしかなかったので、バーナードは、今、生まれてはじめて、ただまともに、というだけではなく、重要人物として、もてはやされるようになった。彼の合成血液に、アルコールがまざっているなどと、かげ口をたたくものは、もう一人もいなくなったし、彼の風采《ふうさい》をあざけるものもなくなった。ヘンリー・フォスターは、わざわざ自分のほうから、親しみをみせたし、ベニト・フーヴァーは、性ホルモン・チューインガムの包みを六個もプレゼントしてくれた。階級予定部副部長に至っては、やって来て、いつでもいいから、ぜひ一度、バーナードの晩餐会に招待してくれるように、と、ほとんどあさましいぐらいの態度で頼みこむのだった。女たちは、どうか、といえば、それこそ、バーナードが、招いてもよい、というそぶりを見せさえすれば、自分の好きな女を、より取り見取りだった。
「あのね、今度の水曜日に、野蛮人《サーヴェジ》に会いに来ないかって、バーナードさんが誘ってくれたのよ」と、フィニイは、誇らしげに吹聴する。
「そりゃ、よかったわね」と、レーニナが言う。「それじゃ、あんた、今までバーナードさんのことを誤解していたのを、今度は認めなくちゃね。どう、あの人、ほんとにちょっとすてきな人だと思うでしょう?」
フィニイはうなずく。「それに、あたし、白状するけど」と、彼女が言う。「案外な人だってことがわかって、とても嬉しいのよ」
びん詰め部部長、社会階級予定部部長、三人の受精局副総裁代理、感情操作科大学の触感映画《フィーリー》科主任教授、ウェストミンスター共有賛歌大会堂首席司祭、ボカノフスキー局局長――バーナードの招待者名簿にのっている有名人は、数かぎりもなかった。
「おれはね、先週、六人の女の子をものにしたぜ」と、彼は、ヘルムホルツ・ワトソンにうちあける。「月曜に一人、火曜に二人、金曜にまた二人、土曜に一人だ。時間があるか、その気にさえなり、少なくとも、まだ十二人ぐらいいけそうだな。なにしろ、うずうずして……」
ヘルムホルツは、彼の自慢が気に入らないらしく、むっつりした顔で黙ってきいているので、バーナードは、むっとする。
「うらやましいんだろう」と、彼は言う。
ヘルムホルツは首を横に振る。「いや、ちょっと悲しい気がしたんだ、それだけのことさ」と答える。
バーナードは、かっと腹を立てる。彼は、心の中で、自分に言いきかせる、もう、二度とふたたび、ヘルムホルツなんかに言ってやるもんか。
数日が過ぎた。バーナードは、大成功にすっかりのぼせ上がった。それとともに、これまで、ずいぶん不満だった世間に対しても、(まるで、すぐれた麻痺剤をのんだように)うまく折れ合えるようになった。世間が、彼を重要人物と認めてくれる限り、社会の秩序は、正しかった。しかし、彼は、成功によって妥協はしたけれども、社会秩序を批判する特権は、放棄しようとはしなかった。というのは、批判をするという行為そのものが、彼の自尊心を高め、彼を一だんと偉くなったような気持ちにしてくれたからである。しかも、彼は、批判すべきことがある、と、心から信じていたのだった。(と同時に、彼は、成功者になり、好きな女の子を、片っぱしからものにしていくのは、ちっともいやではなかった)野蛮人《サーヴェジ》に会わせてもらいたいばかりに、近ごろ、彼のごきげんを取るようになった人々を前にして、バーナードは、辛辣な異端的見解をまくしたてるのだった。誰もみな、かしこまって耳を傾けてはいた。しかし、人々は、かげではこっそりと首を横に振るのだった。「あの青年は、いまに破滅するぞ」
その破滅がやって来るのに、やがては、自分たち自身が一役買って出るつもりでいるだけに、人々は、いっそう自信にみちた予言をするのだった。「もう一度うまくやろうと思ったら、第二の野蛮人《サーヴェジ》を見つけなくちゃならないが、そうは問屋がおろさないだろう」と、彼らは言った。しかし、ここ当分の間は、とにかく、第一の野蛮人が、たしかにいるのだ。だから、人々は彼に対してていねいだった。そして、彼らがていねいにあしらってくれるために、バーナードは、だんぜん偉くなったような気がした――偉くなると同時に、得意さのあまりふわふわし、空気より、もっと軽くなったような気持ちだった。
「空気より、もっと軽いんだよ」と、空を指さしながら、バーナードが説明する。
彼らの頭上の高い高い空に、気象観測所の係留気球が、日光を受けて薔薇色《ばらいろ》に輝いている。
「……当該|野蛮人《サーヴェジ》に、文明生活の全側面を見学させること……」これが、バーナードへの指示だった。
野蛮人は、今、文明生活の鳥瞰図《ちょうかんず》、つまり、チャーリング・T・タワーの屋上発着場からながめられる鳥瞰図を、見せてもらっているところだ。空港長と、駐在気象官が、案内役をつとめている。しかし、たいてい、しゃべっているのは、バーナードのほうだ。彼は、有頂天になって、少なくとも、巡視中の世界大統領ぐらいにはなったような気で、動きまわっている。空気より、もっと軽やかな心地がするのだ。
ボンベイ・グリーン・ロケットが、空から急降下してくる。乗客たちが降りる。カーキー色の制服を着た、全く同じ八人のドラヴィダ人(南インドやセイロンに住む種族)の双生児が、ケビンの八つの積荷窓からのぞいている――ボーイたちだ。
「時速千二百五十キロですよ」と、空港長が力説する。「どうですかね、野蛮人《サーヴェジ》さん?」
ジョンは、大へんすばらしいものだな、と思う。「でも」と、彼は言う。「エーリエルは、四十分で世界を一周することができるんですよ(エーリエルは「あらし」に出てくる空気の精)」
「野蛮人《サーヴェジ》は」と、バーナードは、ムスタファ・モンドあての報告書の中で書いた。「文明の発明物に対しては、意外なくらい、ほとんど驚嘆も畏敬の念も示しません。これは、一つには、明らかに、彼がこうした発明物について、自分の、そのう、は○に当たるリンダから、すでにきかされていたことによるのであります」
(ムスタファ・モンドは、顔をしかめる。「ばかな奴だ、『母』という言葉をまともに書くと、わたしが、気分を悪くする、とでも思っているのか?」)
「また一つには、彼の興味が、彼のいわゆる『霊魂』なるものに集中していることにもよるのであります。彼は、この霊魂をもって、物質的環境から独立した一個の実在と見なすことを固執いたしております。それに対し、私が、彼に指摘しようと努力いたしますように……」
大統領が、次の文をとばし、何かもっと具体的な、おもしろいことでも書いてないか、と、そのページをめくりかけたとたん、全くとほうもない言葉の並んでいるのが、ふと目にとまった。
「もっとも、私といたしましても」と、彼は読み進む。「文明化による無邪気さが、あまりにも安易すぎる、あるいは、彼の言葉によりますと、十分に高価であるとはいえない、と認める点におきまして、野蛮人《サーヴェジ》と意見を同じくせざるをえないのであります。そして、私は、できますれば、この機会に、大統領閣下の御注意を喚起いたしまして……」
ムスタファ・モンドの怒りは、ほとんどすぐに笑いと変わった。こいつめ、社会的秩序について、わたしに――人もあろうに、このわたしに――大まじめで、お説教をする気なんだな、と思っただけでも、あまりにも奇妙だった。この男は、気がふれたにちがいない。「これは、一度、こらしめてやらなくちゃいかんな」と、彼はひとりごとを言う。それから、頭を後ろへそらして、大きな声で笑った。ともかく、ここしばらくは、どうやらこらしめるのはとりやめらしい。
ここは、電気装置製造会社の一部門、ささやかな、ヘリコプター用照明器具製造工場である。技師長と、人的要素部部長とが(というのは、大統領からの回覧推薦状が、何しろ魔術的なききめをもっていたので)、屋上まで二人を出迎えた。一行は、下の工場へ降りる。
「各工程は」と、人的要素部部長が説明する。「できうる限り、単一のボカノフスキー・グループの人員によって、実施されます」
そして、事実、ほとんど鼻らしいもののない、色の黒い、短頭のデルタが、八十三人で、冷却|圧延《プレス》をやっている。四軸式で、コトコト音をたてる五十六台の旋盤を、五十六人のかぎ鼻で赤毛のガンマーが操作している。鋳物《いもの》工場では、耐熱条件反射教育を受けた、百七人のセネガル人のイプシロンが働いている。髪が砂色で、骨盤が狭く、いずれも、身長が一メートル六十九センチを、二十ミリとは下まわらない三十三人の、長頭のデルタの女たちが、ねじを切っている。組立て室では、二組のガンマー・プラスの小男たちが、今、発電機を組み立てているところだ。二つの低い作業台が互いに向き合っていて、その間を、個々の部品《パーツ》をのせたコンベヤーが、のろのろと動いている。四十七人の金髪頭《ブロンド》が、四十七人の褐色頭《ブラウン》と向かい合っている。四十七人のしし鼻が、四十七人のかぎ鼻と向かい合い、四十七人のひっこみあごが、四十七人の出っぱりあごと向かい合っている。完成した機械は、全く同じ姿で、栗色の|捲き毛《カール》をして、ガンマー・グリーンの制服を着た、十八人の女工によって検査され、三十四人の、足の短い、左利きのデルタ・マイナスの職工たちによって、木枠にはめられ、青い目をした、亜麻色の髪の、そばかすだらけの、イプシロン・半低脳《セミ・モロン》たち六十三人によって、待ちかまえているトラックや貨車に積み込まれる。「ああ、すばらしい新世界よ……」どうした記憶のいたずらか、野蛮人《サーヴェジ》は、ひとりでに、ミランダの言葉をくりかえすのだった。「このような人たちの住んでいる、すばらしい新世界よ」
「そして、はっきり申し上げますが」と、一行が工場を立ち去るとき、人的要素部部長が、しめくくるように言う。「労働争議など、ほとんど起こったこともありません。ここでは、いつも……」
しかし、突然、野蛮人《サーヴェジ》は、ツッと一行から離れ、シャクナゲの茂みの後ろへ駆け込んだかと思うと、まるで、この堅い大地が、エアポケットにはいったヘリコプターに一変したかのように、ひどく、ゲーゲー嘔吐《もど》しはじめた。
「野蛮人《サーヴェジ》は」と、バーナードは報告する。「ソーマの服用を拒否し、彼のは○に当たる女、リンダが、永遠に休暇をとり続けているために、著しく心を痛めているように見うけられます。彼のは○が老齢であり、その外貌《がいぼう》が、きわめて醜悪であるにもかかわらず、彼が、しばしば彼女を見舞い、彼女に深い愛情を寄せているらしく思われますのは、注目に値するかと存じます――これは、早期の条件反射教育の実施により、自然的衝動(今の場合は、不快なものに反発する、という衝動ですが)を修正し、ひいては、これを逆転させることさえ、不可能ではないという、興味深い実例かと存じます」
イートン(バッキンガム州にある、テムズ川左岸の町)で、一行は、上級校《アッパー・スクール》の屋上に着陸する。校庭の向かい側には、五十二階のラプトン塔《タワー》が、日光を受けて白く輝いている。その左手には、校舎があり、また、右手には、イートン共有賛歌大会堂の、鉄筋コンクリートと紫外線透過ガラスとでできた神々しい殿堂がそびえている。中庭のまん中には、古めかしくて趣のある、わが主フォードの、クローム・スチール像が立っている。
校長のガフニー博士と、女教頭のキート嬢が、ヘリコプターから降りた一行を迎えた。
「ここには、双生児《ふたご》がたくさんいますか?」と、一行が視察にまわりはじめたとき、野蛮人《サーヴェジ》が、ちょっと心配そうにきいた。
「いや、ひと組もいません」と、校長が答える。「わがイートン校は、もっぱら、上流階級の子女たちだけしか収容しないことになっています。一つの卵から、一人の成人と申しますが、そのような子弟ばかりです。したがいまして、いうまでもありませんが、教育が、それだけいっそうむずかしいのであります。しかし、彼らには、責任をもって、思いがけない緊急事態に対処することが要求されるわけでありますので、これもやむをえないことかと存じます」彼は、ため息をつく。
一方、バーナードのほうは、キート嬢にすっかりほれこんでしまう。「もし、月曜か、水曜か、金曜のどの晩かにお暇でしたら、おいでになりませんか」と、彼が誘う。親指で、ぐいと野蛮人《サーヴェジ》を指さしながら言う。「これ、おもしろいんですよ」バーナードは、つけ加える。「いっぷう変わってるんです」
キート嬢は、にっこりして、(この女《ひと》の微笑は、ほんとにチャーミングだな、と彼は思う)「どうもありがとう。どの晩かのパーティーに、喜んで寄せていただきますわ」と答える。校長が、ドアをあける。
そのアルファ・ダブル・プラスの教室に、五分間ほどいるうちに、ジョンは少しまごつく。
「相対性原理初歩って、いったい何ですか?」と、彼はひそひそ声でバーナードにたずねる。バーナードは説明してやろうか、とも思うが、やがて考え直し、どこかほかの教室へ行こう、と誘う。
ベーター・マイナスの地理教室へ行く廊下のドアの向こうで、張りのあるソプラノの声が、号令をかけている。「一、二、三、四」それから、うんざりしたような、いらいら声で、「もとへ」
「マルサス訓練なんですわ」と、女教頭が説明する。「もちろん、女の子は、ほとんどが妊娠機能喪失者です。あたし自身もそうなんですけど」彼女は、バーナードにほほえみかける。「でも、まだ不妊性になっていなくて、たえず訓練を受けなくちゃいけない子が、八百人ほどいるんですわ」
ベーター・マイナスの地理教室で、ジョンは、「野蛮人保護地区は、好ましくない気候的あるいは地理的条件、もしくは天然資源の貧困の理由により、費用を投じて文明化する価値のない地域である」ことを学ぶ。カチッ、と音がして、部屋が暗くなったかと思うと、突然、先生の頭上のスクリーンに、聖母マリアの前にひれ伏している、アーコマの贖罪者《しょくざいしゃ》たちの姿が映しだされた。彼らは、昔ジョンがきいたとおり、十字架のキリストの前や、プーコン神の鷲の像の前で、罪を告白しながら、泣きわめいているのだった。若いイートンの学生たちは、ドッと笑って、ほんとに歓声をあげた。贖罪者たちは、なおも泣き叫びながら立ち上がり、上半身の衣服を脱ぎ捨てると、結び目のある鞭《むち》で、ピシリ、ピシリと、自分自身を鞭打ちはじめる。笑い声は、二倍にも強まり、贖罪者たちの、増幅録音されたうめき声さえ、きこえないくらいになる。
「どうして笑ったりなんかするのですか?」と、野蛮人《サーヴェジ》は、めんくらって、つらそうな声できく。
「どうしてですって?」校長は、まだ笑いの止まらない、相好《そうごう》をくずした顔を、彼の方にむける。「どうしてですって? だって、あまりにもこっけいだからですよ」
映画上映中のうす暗がりの中で、バーナードは、これまでだったら、たとえまっ暗でも、とてもやる勇気の出なかったような芸当を、平気でやってのけた。近ごろ、自分が重要人物になっているのに気をよくしながら、彼は、女教頭の腰に腕をまわしたのだ。その腰は、しなやかに、なされるままになっている。一、二度、さっとキスを盗んで、あわよくば、やんわりつねってやろうと思ったやさき、鎧戸が、カチッと鳴ってまた開く。
「さあ、もう次へ参りましょう」と言いながら、キート嬢は、ドアの方へ歩いていく。
「そして、ここが」と、一足おくれて校長が言う。「睡眠教育管理室です」
何百台という合成音楽|演奏装置《ボックス》が、各共同寝室に一台ずつの割で、部屋の周囲の三方にある棚《たな》に並んでいる。小さく仕切られた、もう一方の棚の上には、各種の睡眠教育用課程を印刷した、紙製のサウンドトラックの|巻きもの《ロール》が置いてある。
「巻きテープを、ここへすべりこませて」、ガフニー博士の言葉をさえぎりながら、バーナードが説明する。「このスイッチを押したまえ、そうすれば……」
「いや、ちがいます。あちらのスイッチです」博士が、困って訂正する。
「それじゃ、そちらだ。そうすると、巻いてあるテープが、ほどけてくる。セレンの電池が、光の衝撃《インパルス》を音波に変え、それから……」
「それから、音がきこえてくるというわけです」と、ガフニー博士が、しめくくる。
「ここの学生たちは、シェイクスピアなんか読みますか?」学校図書館の前を通りすぎて、生化学実験室へ行く途中で、野蛮人《サーヴェジ》がきく。
「いいえ、全然読みませんわ」シェイクスピアときいただけで、女教頭は赤くなりながら答える。
「本校の図書館には」と、ガフニー博士が説明する。「辞書、参考書類だけしか備えつけてありません。もし本校の学生たちが、娯楽を必要といたします場合には、触感映画《フィーリー》に、それを求めることができるのであります。ひとりぽっちでやるような娯楽にふけることのないよう、極力指導いたしております」
五台のバスに分乗した少年少女たちが、歌をうたったり、黙って抱擁し合ったりしながら、一行を追い抜いて、陶化舗装した大通りを疾走していった。
「今、ちょうど」と、ガフニー博士が説明する。その間に、バーナードは、ひそひそ声で、例の女教頭と、今晩の約束をする。「スラウ火葬場から帰ってきたところです。対死条件反射教育は、生後十八か月から始まりますから。幼い子供は、みんな、臨終病院へ、毎週二日、午前だけ行くことになっています。そこには、もっともすばらしい玩具《がんぐ》が備えつけてあり、死亡者のある日には、チョコレートクリームが支給されます。それで、子供たちは、死というものを、ごくあたりまえのことと考えるようになるのです」
「ちょうど、ほかの生理作用といっしょですわ」と、女教頭は、専門家ぶって口をはさむ。
八時にサヴォイ《ホテルのこと》で、約束は万端整った。
ロンドンへの帰途、二人は、ブレントフォードのテレビ会社工場に立ち寄る。
「電話をかけに行ってくるから、すまないが、ここでちょっと待っていてくれないか?」と、バーナードが頼む。
野蛮人《サーヴェジ》は、あたりを見ながら待っている。第一昼間組の勤務が、今ちょうど終わったところだ。下層労働者の群れが、モノレール駅の前で行列をつくっている――七、八百人のガンマーや、デルタや、イプシロンの男女たちだが、その顔や背丈の種類は、まあ、せいぜい十二通りぐらいしかない。チケットを手に持った、その一人一人に、出札係りが、小さなボール紙の丸薬入れを押しだしてやる。長い毛虫のような男女の行列が、ゆっくりと前へ進んでいく。
「あの中には、何がはいっているんですか?」(「ベニスの商人」を思いだしながら)野蛮人《サーヴェジ》は、もどってきたバーナードにたずねる。
「今日のソーマの配給がはいっているのさ」バーナードは、ちょっと歯切れの悪い口調で答える。ベニト・フーバーのくれたチューインガムをかんでいるからだ。「勤務が終わったときもらうんだよ。半グラムの錠剤を四つね。土曜日には六つだ」
彼は、やさしくジョンの腕をとり、二人は、ヘリコプターまでもどる。
レーニナは、うたいながら更衣室へはいってくる。
「あんた、ずいぶん楽しそうね」と、ファニイが声をかける。
「そうねの」と、彼女は答える。シューッ! 「バーナードさんが、半時間ほど前に電話してくれてね」シューッ、シューッ! 彼女はショート・パンツを脱ぎ捨てる。「思いがけないお約束ができたので」シューッ!「あたしに、今晩、野蛮人《サーヴェジ》さんを触感映画《フィーリー》に連れてってやってくれないかって言うのよ。すぐヘリコプターで飛ばなくちゃ」彼女は、セカセカと浴室の方へ行ってしまう。
「運のいい女《ひと》だわ」立ち去るレーニナの後ろ姿を見送りながら、ファニイがひとりごとを言う。
その言葉には、うらやむようなひびきはちっともない。人のよいファニイは、ただ、事実をありのままに言っているだけなのだ。レーニナって、ほんとに運がいいんだわ。バーナードと二人で、野蛮人《サーヴェジ》のたいした評判を、しこたま分けてもらって、そのおかげで有名人になれるなんて、なんて運がいい。今、話題の焦点になっている、人気者の輝きを、どうってこともない身体《からだ》から反射させることができるなんて、ほんとに運がいいわ。|フォード女子青年会《Y・W・F・A》の幹事に、体験談の講演をたのまれたのじゃなかったかしら? アフロディティアム・クラブの年次晩餐会にも、たしか招待されたはずだし。フィーリー・トーン・ニュースにも、もうちゃんと出演して――世界中の何百万という人々の、目に見え、耳に聞こえ、手で触れることができるところへ、登場したのじゃなかったかしら?
偉い人たちに、ちやほやされる、そのもてはやされ方も、彼女としては、まんざら悪い気のしないものだった。駐在世界大統領の第二秘書官が、晩餐と朝餐に彼女を招待した。ある週末は、最高裁判所長官とともに過ごし、また、ある週末は、キャンタベリー共有賛歌大会堂大主教と共に過ごした。内外分泌物会社社長からは、たえず電話がかかり、欧州銀行副総裁と、ドーヴィル(フランス北西部の避暑地)へ出かけたこともある。
「そりゃ、もちろん、すばらしいわ。でも、なんだか、ちょっと」と、彼女は、ファニイにうちあける。「あたし、ほかの人をだまして、何かを手に入れてるような気がするのよ。だってね、ほかの人たちの、いの一ばんに知りたいことっていうのが、もちろん、野蛮人《サーヴェジ》さんに恋を語るのはどんなふうかってことでしょう。ところが、あたしのほうは、そりゃ、わかりませんわ、としか言えないんだもの」彼女は、首を横に振る。「もちろん、たいていの人は、あたしが嘘をついている、と思ってるの。でも、嘘でも何でもないのよ。嘘がつけたら、どんなに嬉しいかわからないわ」彼女は、悲しそうにつけ加えて、ため息をもらす。「野蛮人《サーヴェジ》さんて、すごく男前《ハンサム》でしょう、そうじゃない?」
「でも、あの人は、あんたを好いているのじゃないの?」と、ファニイがきく。
「どうかすると、そんな気がするんだけど、また、どうかすると、そうじゃないって気もするのよ。あの人ったら、いつも、何とかしてあたしを避けようと、やっきになってるの。あたしが部屋へはいると、入れちがいに出ていくし、あたしには指一本、触れようともしないし、あたしに目もくれないのよ。でも、どうかしたはずみに、あたしが、ひょいと後ろを振り返ったりするとね、あの人が、あたしを、じっと見つめているのに、はっと気がつくことがあるのよ。そして、そんなときは――だって、男の人って、こちらを好きだなって思ってくれているときは、顔を見れば、ははん、とわかるでしょ」
そうね、とファニイも見当がつく。
「あたしね、そこんところが、どうもわかんないの」と、レーニナが言う。
彼女には、そこがわからないのだ。そして、ただ、わからなくてまごつくばかりではない。すっかりどぎまぎしてしまうのだ。
「それというのもね、ファニイ、あたしのほうが、あの人を好いているからなのよ」
彼を好きだと思う気持ちは、高まる一方だ。さあ、今晩こそ、絶好のチャンスだわ、と入浴をすませて、からだじゅうに香水を塗りたくりながら、彼女は思う。ペタ、ペタ、ぺタ――絶好のチャンスよ。彼女のうきうきした気分は、おのずからあふれ、歌となって、口をついて出てくるのだった。
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しびれちゃうまで抱いてよ、ねえ
気を失うまでキスしてちょうだい。
抱いてよ、ねえ、よりそうあなたのうさちゃんを。
恋もソーマも、どちらもすてき
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嗅覚オルガンは、心の浮き立つような植物狂想曲をたのしく演奏している――タチジャコウソウと、ラベンダーと、マンネンロウと、メボウキと、テンニンカと、シベリアカワラヨモギソウなどの、さざなみのような連続弾奏《アルペッジョ》。香料|鍵《キー》による大胆な転調が、ひとしきり続いたかと思うと、それが、竜涎香《りゅうぜんこう》と移る。やがて、白檀《びゃくだん》と、樟脳《しょうのう》と、ヒマラヤ杉と、刈ったばかりの乾草の香りをへて(ただし、時おり、不協和音が複雑微妙に入りまじる――腎臓《キドニー》プディングの香りが、ぷーんとただよってきたり、豚の糞のにおいが、ごくかすかにふんわりとにおってきたりというふうに)、この曲が始まったときの、あの単純な芳香性植物へと、ゆっくりもどっていく。タチジャコウソウの最後のひと吹きが消えると、満場の拍手|喝采《かっさい》が起こり、照明が明るくなる。剛性音楽演奏機の内部《なか》で、サウンドトラックのロールが、ほどけはじめる。今、あたりいちめんに、心地よいけだるさをただよわせているのは、超《スーパー》バイオリンと、超《スーパー》チェロと、代用オーボーの三重奏だ。それが、三、四十小節続いたかと思うと――やがて、この器楽を背景にして、人間の声をはるかに超越した声が、ふるえながらうたいだした。のどから出るかと思えば、頭のてっぺんから出るように変わり、そうかと思うと、フルートのようにうつろに変わり、やがて、次には、憧れるような和声をこめながら、その声は、楽音のぎりぎりまでいったガスパード・フォスターの記録的最低音から、歴史上のあらゆる歌手たちのうちで、ルクレチア・アジュガリが、ただ一人、それもたった一度だけ、耳を突ん裂くように鋭く発声することのできたあの一ばん高い「ド」の音より、ぐっと高い、コウモリの鳴き声のような顫音《トリル》へと、何の苦もなく上がっていく。
圧搾空気入りの一等席にふかぶかと身を沈めながら、レーニナと野蛮人《サーヴェジ》は鼻をひくひくさせ、耳を傾けている。今度は、目と皮膚のたのしみの番だ。
場内の照明が暗くなり、火のような文字が、暗やみの中で、まるで宙に浮いているように、実体的にくっきりと浮きだしている。「ヘリコプター上の三週間。全超肉声歌曲、合成会話付き、天然色、実体的触感映画《ステレオフィーリー》。同調式《シンクロナイズド》嗅覚オルガン伴奏付き」
「その椅子のひじ掛けについている、金属のつまみをつかむのよ」と、レーニナがささやく。「そうしないと、触感映画《フィーリー》の効果が、ちっとも味わえないわ」
野蛮人《サーヴェジ》は、言われたとおりにする。
そうこうしているうちに、あの火のような文字は消えてしまう。完全な暗黒が、十秒間続く。やがて、突如として、ほんとの人間の肉体とは比べものにならないほど立体的で、実物よりもっと実物らしく見える、まばゆいばかりのニグロの巨人と、短頭でベーター・プラスの若い金髪女の立体像が現われた。二人は、互いにしっかりと抱き合っている。
野蛮人《サーヴェジ》はびっくりする。ああ、唇に感じられるこの感覚! 彼は、口に手をあてる。すると、むずむずする感じが消える。手をおろして、もう一度、あの金属のつまみに触ると、またあの感じがしてくる。一方、嗅覚オルガンは、純粋なじゃこうの香りを発散している。サウンドトラックの超鳩《ちょうきゅう》が、息もたえだえに、「クウーウー」と鳴くと、一秒間にわずか三十二振動の、アフリカ黒人の低音《バス》よりもっと深みのある低音《バス》が、「アーアアー」と、それに答える。「ウーアー! ウーアー!」立体的な唇の映像と映像とが、ふたたび重なり合い、アルハンブラ劇場の六千人の観客の顔面色情帯が、ほとんどじっとしていられないような、けいれん的快感にうずいてくる。「ウウ……」
映画の筋《プロット》はきわめて単純だ。第一回目の「ウー」と「アー」の数分後、(あの有名な熊の毛皮の上で、二重唱がうたわれ、ちょっとした愛のたわむれが演じられる。そして、熊の毛が――全く、社会階級予定部副部長の言葉どおり――一本一本、はっきりと手ざわりで感じられる)例のニグロが、ヘリコプター事故にあい、まっ逆さまに墜落する。ゴツン! ああ、おでこが痛い! 観客は、いっせいに、「オウ」とか、「アイ」という叫びをあげる。
墜落の衝撃《ショック》で、ニグロの条件反射教育が、すっかりだめになってしまう。彼は、ベーターの金髪女を、自分だけのものにしたい、という病的な熱情にとりつかれる。彼女は、彼の言うことをきかない。彼は、しつこく自分の意志を通そうとする。その結果、争いが起こり、追跡がはじまり、競争者《ライバル》が襲われ、ついには、あっと驚くような誘拐事件となる。ベーターの金髪女は、空中へ奪い去られ、三週間のあいだ、いやおうなしに、そのニグロと二人だけで暮らす、という、ひどく反社会的な状態で、大空をさまよい続ける。冒険と、いろいろさまざまの空中大曲芸が、次から次へと演じられたあげく、ついに、三人のアルファの美青年が、首尾よく彼女を救いだす。ニグロは、成人再教育センターへ追いやられ、救いだされたベーターの金髪女は、その三人の勇士の共同の恋人となるところで、映画は、秩序整然、めでたしめでたしとなる。四人の男女は、しばらく劇の進行を離れ、超《スーパー》オーケストラの完全伴奏と、嗅覚オルガンによる、クチナシのかおりの伴奏とに合わせて、合成音楽四重唱をうたう。最後に、熊の毛皮がもう一度現われ、セクソフォンが高らかに鳴りひびくうちに、立体的なキス場面が、暗やみのなかに、おもむろに消えていき、最後の、電気がびりびり伝わるような感じも、まるで瀕死《ひんし》の蛾《が》の身ぶるいのように、唇の上で、しだいに弱々しく、しだいにかすかになっていって、しまいには、全く止まって動かなくなってしまう。
しかし、レーニナにとっては、蛾は完全に死んでしまったわけではなかった。灯《あか》りがついて、観客にもまれながら、エレベーターの方へゆっくりと歩いている間も、蛾の幻が、相変わらず唇のあたりに羽ばたき、肌の上に、不安と歓喜の入りまじった微妙なおののきを、あちこちと走らせるのだった。彼女の頬は紅潮し、目はうるんでキラキラ輝き、呼吸は深くなった。彼女は、野蛮人《サーヴェジ》の腕をつかむと、ぐったりしたその腕を、自分のわき腹へ押しつけた。彼は、欲情に襲われながら、しかも、まるでその欲情を恥じるかのように、苦しみにさいなまれた、まっ青な顔で、じっと彼女の顔を見おろす。ぼくには、とても、とても、この女《ひと》を……する資格などないのだ。二人の目が、一瞬、合った。ああ、彼女の目は、なんというすばらしい宝物を約束してくれているのだろう! あふれるばかりのばく大な熱情だ。彼は、あわてて目をそらし、つかまれている腕をふり放す。自分など、とうてい、彼女にふさわしくない、と思いこんでいる、彼の確信を、当の彼女が裏切って、もはや、そんな彼女ではなくなってしまうのではなかろうか、と、彼は、何となく不安になってきたのだ。
「あんなものは、見ないほうがいいと思いますよ」完璧な彼女が、これまで堕落したり、これからも堕落するかもしれないのは、けっしてレーニナ自身の責任ではなく、もっぱら周囲の環境が悪いからなのだ、と、悪いのを、いそいで環境のせいにしながら、彼は言う。
「あんなものってどんなもの?」
「こんな、いやらしい映画のようなものですよ」
「いやらしいって?」レーニナは、ほんとにびっくりする。「でも、あたし、すばらしかったと思うけど」
「低級です」と、彼は憤然とした調子で言う。「愚劣ですよ」
彼女は、首を横に振る。「あたし、あなたの言う意味がわかんないわ」この人ったら、どうして、こう変てこなことを言うのかしら? なぜ、わざわざ、ぶちこわしみたいなことを言うのかしら?
タクシー・ヘリコプターの内部《なか》では、彼は、ほとんど彼女を見さえしない。今まで、口に出したこともない強い誓いにしばられたような気になり、とっくの昔に通用しなくなった心の掟《おきて》に従いながら、彼は、顔をそむけたまま、黙ってすわっている。時おり、まるで、今にも切れそうなくらいにピーンと張った糸を、指ではじいたように、彼の全身が、突然、はっと驚いたように、神経質にふるえるのだった。
タクシー・ヘリコプターは、レーニナのアパートの屋上に着陸した。「とうとう、だわ」ヘリコプターから降りながら、彼女は、有頂天になって考える。とうとうだわ、――たとえ、今の今まで、彼がずいぶん変てこだった、としたって。照明灯《ランプ》の下に立ちながら、彼女は、自分の手鏡をのぞきこむ。とうとうだわ。そうよ、鼻がちょっとピカピカしてる。彼女は、パフを振って、ぱらぱらした白粉《おしろい》をはらい落とした。彼は、今ちょうどタクシーの運転手に料金を払っているところだ――そうね、それぐらいの暇はあるわ。「この人は、ずいぶんハンサムなんだもの。何もバーナードみたいに恥ずかしがることはないわ。でも、やっぱりねえ……ほかの男の人なら、もうとっくにやっちゃってるところだけど。まあ、いいわ。とうとうだから」と考えながら、彼女は、ピカピカした鼻をこする。小さな丸い手鏡に映った顔のかけらが、突然、彼女にほほえみかける。
「それじゃ、おやすみ」彼女の後ろから、息をつまらせたような声が呼びかける。レーニナは、くるりと振りむく。彼が、彼女をじっと見すえながら、タクシー・ヘリコプターの入口に立っている。どうやら、彼女が、鼻に白粉をはたいている間じゅう、じっと見つめて待っていたものらしい――しかし、いったい、何のためなんだろう? それとも、ためらいながら、心を決めようとしながら、その間じゅう、考えに考えていたのかもしれない――でも、どんな途方もないことを考えていたのか、彼女には想像もつかない。「おやすみ、レーニナ」と、彼はもう一度くりかえし、奇妙なふうに顔をゆがめて笑顔を作ろうとする。「だって、ジョン……あたし、てっきり、あなたが……ねえ、そうでしょ?」
彼は、タクシー・ヘリコプターのドアをしめ、身をかがめて、運転手に何か言った。ヘリコプターは、ピューッと空へ飛び上がった。
ヘリコプターの床の窓ごしに見おろすと、青白いランプの光に照らされたレーニナの青い顔が、あおむいているのが見える。口があいているところを見ると、呼んでいるのだ。上から見おろしているために、寸のつまった彼女の姿が、彼の前からぐんぐん遠ざかり、正方形の屋上が、みるみる縮まりながら、暗やみの中へ落ちていくようだ。
それから五分後、彼は、自分の部屋にもどっている。隠し場所から、ねずみのかじった例の本を取りだし、宗教的な敬虔《けいけん》さをこめながら、その汚れてしわくちゃになったページをめくり、「オセロー」を読みはじめる。オセローも、「ヘリコプター上の三週間」の主人公と似ている―たしか黒人《ニグロ》だったな、と彼は思いだす。
涙をふきながら、レーニナは、屋上を、エレベーターのほうへ歩いていく。二十七階まで降りる途中で、彼女は、ソーマのびんを引っぱりだす。一グラムでは、とてもだめだわ、と、彼女はきめる。これは一グラム以上の苦悩だもの。でも、もし二グラムものんだら、ひょっとすると、あすの定刻に目がさめないかもしれない。彼女は、一グラムと二グラムの中を取り、くぼませた左のてのひらへ、半グラムの錠剤を三個、振って出した。
[#改ページ]
第十二章
バーナードは、鍵のかかったドア越しに、怒鳴らねばならなかった。野蛮人《サーヴェジ》が、どうしても、ドアをあけようとはしないからだ。
「でも、もう、みんな揃って君を待ってるんだよ」
「かってに待たせておけばいいですよ」ドアの向こうから、こもったような声がする。
「だって、わかってるだろう、ジョン(ありったけの声をふりしぼって説得するのは、なんて骨が折れるんだろう!)、会ってやってくださいって、ぼくが、わざわざみんなを招いたんじゃないか」
「みんなに会いたいかねって、まっさきに、ぼくにきかなくちゃならないところじゃありませんか」
「そんなことを言ったって、君は、これまで、いつも先に出てきてくれたじゃないか、ジョン」
「それだからこそ、もういやになったんですよ」
「ちょっとぼくの顔を立てておくれよ」と、バーナードは、わめき声で、何とか、くどき落とそうとする。「ほんとに、お願いだから」
「だめです」
「本気かい?」
「本気です」
絶望的に、「それじゃ、ぼくはどうすればいいんだい?」と、バーナードは泣き言をいう。
「そんなこと、知るもんか!」いらいら声が、内部《なか》からわめく。
「でも、今晩は、キャンタベリー共有賛歌大会堂大主教がお見えなんだぜ」バーナードは、今にも泣きだしそうな声だ。
「アイ ヤー タクワ!」野蛮人《サーヴェジ》が、大主教に対する感じを、うまく言い表わすことができるのは、ズーニー語だけだ。「ハーニ!」と、彼は、あとから思いついてつけ加える。それから(恐ろしいほど荒々しい嘲《あざけ》りをこめながら)、「ソンス エーソ ツェーナ」そう言ってから、ポーペーがやったように、床に、ぺっと唾を吐いた。
押し問答のあげく、バーナードは小さくなってすごすご引き返し、しびれを切らしているお客たちに、野蛮人《サーヴェジ》は、今晩は出てまいりません、と報告しなければならないはめとなる。さあ、その知らせをきいたお客たちは、喧々囂々《けんけんごうごう》だ。異端的思想をもった、評判の悪い、こんなくだらない奴に、まんまと一ぱい食わされて、ちやほやしていたのかと思うと、腹が立ってたまらないのだ。社会的地位が高ければ高いほど、立腹もひどいのだった。
「わたしに、こんないたずらをしかけるとは」と、大主教は、くりかえし続ける。「人もあろうに、このわたしに対して、よくも!」
御婦人方はどうか、といえば、彼らは詐欺にひっかかって――つまり、妊娠びんの中へ、まちがってアルコールを入れられた、あの小男――ガンマー・マイナスぐらいの体格しかない男に、みごとにだまされて、わがものにされてしまったのだ、と思うと、これまた、腹が立ってたまらないのだった。侮辱だわ、と、彼女らが口に出して言っているうちに、その声がだんだん大きくなってくるのだった。イートン校の女教頭が、とりわけ痛烈だった。
レーニナだけが黙っていた。いつもにない憂鬱さに、その青い目を曇らせながら、彼女は、周囲の人たちとはちがった気持ちのために、みんなから離れ、隅《すみ》っこに、青い目をしてすわっていた。彼女は、不安と歓喜の入りまじった奇妙な気持ちでいっぱいになりながら、今夜のパーティーにやって来たのだった。「あとしばらくで」と、彼女は部屋にはいりしなに、ひとり言をつぶやいたのだった。「あの人に会えるんだわ。あの人に話しかけて、言うことになるのね、(というのは、彼女は、すっかり心を決めて来たのだったから)あなたが好きよ――これまでに会った誰よりもって。そうしたら、あの人は、きっと言うわ……」
いったい何て言うかしら? 彼女の頬に、サッと血が上る。
このあいだの晩の触感映画《フィーリー》のあと、あの人ったら、どうしてあんなに変てこだったのかしら? ずいぶん変てこだったわ。でも、あの人、ほんとは、あたしのことを、ぜったいに憎からず思ってるにちがいないわ。ぜったいにね……」
バーナードが、野蛮人《サーヴェジ》はパーティーに出てまいりません、と宣言したのは、ちょうどこの時だった。
レーニナは、突然、ふつうは、激情代用療法の始まったとき経験するような、あらゆる感じに襲われた――それは、恐ろしいばかりの虚無感と、息もつまりそうな不安と、吐き気だった。彼女は、心臓が止まってしまったような気がした。
「出てこないのは、きっと、あの人があたしを好いていない証拠なんだわ」と、彼女はひとりごとを言った。すると、この推測が、たちまち動かすことのできない確信となってきた。ジョンは、あたしが嫌いだから、来るのはいやだ、と言ったんだわ。あの人は、あたしを嫌って……
「ほんとに、あんまりですわねえ」と、イートンの女教頭が、火葬・燐再生所所長に向かって言っている。「まったく、あたし、思っただけでも……」
「そうですとも」と、ファニイ・クラウンの声がする。「あのアルコールの噂《うわさ》は、ぜったい本当にきまっていますわ。あたしの知り合いのある人が、あのころ胎児貯蔵室で働いていたある人と知り合いだったんです。その人が、あたしの知り合いにした話を、きいたその本人があたしにしてくれたんですけど……」
「いやあ、全くひどすぎますよ」と、ヘンリー・フォスターは、大主教に共鳴しながら言う。「おもしろい話がありましてね、うちの前の所長が、もうちょっとで、あの男をアイスランドへとばすところだったんですよ」
今まで、堅くふくらんだ気球のようだったバーナードの嬉しい自信は、交わされる言葉の一つ一つに突き刺されて、無数に傷がつき、その傷口から、さかんにガスがもれだしたようなていたらくとなった。彼は、まっ青になり、まるで気が狂ったように、みるもあさましいほどやきもきして、ちぐはぐな言い訳の言葉を口ごもり、この次には、きっと野蛮人《サーヴェジ》を出しますから、と請け合い、今晩のところは、どうか、お掛けくださいまして、カロチン・サンドイッチか、ビタミンA肉入りパイのひと切れなりとおつまみの上、合成シャンペンのグラスでもおあけください、とすすめながら、お客たちの間を動きまわっている。一同は、適当に食べたが、彼をあたまから無視してしまっていて、シャンペンをのみながら、彼に面と向かって無作法なことをしたり、まるで、彼がその場に居合わさないみたいに、無遠慮な大声で、彼の悪口を言い合ったりしている。
「さて、みなさん」と、キャンタベリー共有賛歌大会堂大主教が、フォード・デー祝祭の儀式をとりしきるときの、あの朗々とひびく美しい声でしゃべりだす。「さて、みなさん、もうそろそろおいとまの時刻ですから……」と、彼は立ちあがり、グラスをおくと、紫色のビスコースのチョッキについている食べこぼしを、したたか払い落として、ドアの方へ歩いていく。
バーナードは、とんでいって、彼を引きとめる。
「ほんとに、どうしてもお帰りにならねばいけないのでございましょうか、大主教さま?……まだ、時間ははようございます。ほんとに、楽しみにいたしておりましたのですから、どうかもっと……」
たしかに、そのとおりだった。お招きすれば、大主教さまは、きっといらっしゃるわ、とレーニナがそっと教えてくれたとき、どんな願いも叶《かな》えられる、と彼は楽しみにしたのだった。「あの方はね、ほんとに、ずいぶんおやさしい方なのよ」と言って、レーニナは、大主教が、司教管区の賛歌会堂でいっしょに過ごした週末の記念に、といってくれたT字型の小さな黄金《きん》のファスナー止め金具を、バーナードに見せてくれたのだった。「キャンタベリー共有賛歌大会堂大主教と、野蛮人氏《ミスター・サーヴェジ》に御紹介申し上げます」バーナードは、どの紹介状にも、大成功を、はっきりと書きたてておいた。それなのに、野蛮人《サーヴェジ》ときたら、時もあろうに、まさにその晩、自分の部屋に鍵をかけてとじこもり、「ハーニ!」とか、(バーナードは、ズーニー語がわからないので、まだしあわせだったが)「ソンス エーソ ツェーナ!」などと、怒鳴りたてているのだった。バーナードの全生涯のうちで、最も輝かしい瞬間となるはずのときが、一挙にして、最大の屈辱の瞬間となってしまったのだ。
「心から楽しみにいたしておりましたので……」彼は、途方に暮れて、哀願するような目で大主教を見上げながら、どもりどもりくりかえすのだった。
「いいですかな、お若い方」と、大主教は、重々しいきびしさのこもった大きな声で呼びかけた。一座は、水を打ったようにシーンと静まりかえる。「あなたに、ちょっと一言、ご忠告を申し上げたいのじゃ」彼は、バーナードに向かって、おもむろに指を振る。「あとの祭りにならない先にな、一言、御忠告を、じゃ」彼は、バーナードの頭の上で、Tの字を切ってから、振りむき「レーニナちゃんや」と、ガラリと声の調子を変え、猫なで声で呼びかける。「いっしょにおいで」
悪びれもせずにおとなしく、だが、にこりともしないで、(彼女は、自分に与えられた光栄にも、ちっとも気がつかなかったので)得意がるふうもみせず、レーニナは、大主教のあとについて部屋から出ていった。ほかのお客たちは、失礼にならないように、しばらくしてから、それに続いた。最後のお客が、ドアをバタンとしめた。バーナードは、ひとりぽっちになった。
気球のようにふくらんでいた自信がパンクして、すっかりしぼんでしまった彼は、椅子に倒れ込むと、両手で顔をおおって泣きだした。しかし、しばらくたってから気を取り直し、ソーマを四錠のんだ。
その上の階の自分の部屋で、野蛮人《サーヴェジ》が「ロミオとジュリエット」を読んでいる。
レーニナと大主教は、共有賛歌大会堂の屋上へ降りた。「急いで、お若い女《ひと》――あんたのことだよ、レーニナ」エレベーターの入口のところから、大主教が、じれったそうに呼ぶ。月をながめながら、しばらくぶらぶらしていたレーニナは、うつむくと、屋上を急ぎ足で横切って、彼のそばへやって来た。
「生物学新理論」――これが、ムスタファ・モンドの今読み終えたばかりの論文の題名だ。彼は、しばらく、考えこむように眉《まゆ》をひそめながらすわっていたが、やがて、ペンを取り上げると、そのとびらの上に書きこむ。「この著書の、目的の概念に対する数学的な取り扱いは、斬新で、きわめて独創性に富むが、異端的である。したがって、現在の社会秩序のもとでは、危険にして、社会転覆のおそれあるもの、と、認定せざるをえない。『出版禁止』」彼は、その言葉にアンダーラインを引く。「当該著者には監視をつけること。本人の、セント・ヘレナ海洋生物研究所への転勤も、一考の要あり」署名しながら、彼は、かわいそうだな、とは思う。たしかに、傑作なのだ。しかし、ひとたび、目的論的解釈というものを認めだしたら――いや、その結果がどうなるか、全くのところ、想像もつかない。上層階級の、あまり思想堅固とはいえない連中の条件反射教育を、一挙に台なしにしてしまうような思想だ――つまり、幸福こそが、最高善である、と信じきっている彼らの信仰をぐらつかせ、そのかわり、窮極的な目的は、どこかほかのところに、現在の人間世界を超えた、はるかかなたに存在する、と信じこませ、人生の目的は、幸福の維持ではなくて、意識のある強化・純粋化であり、知識のある種の拡張化である、という信仰を抱かせるようになる、そういった種類の思想なのだ。大統領は、つくづく考えてみる。ひょっとすると、この考えは正しいのかもしれぬ。しかし、現状のもとでは、認めるわけにはいかないのだ。彼は、もう一度、ペンを取り上げ、「出版禁止」の文字の下に、いちだんと太く濃いアンダーラインをもう一本引いてから、フッとため息をもらす。「もし、幸福などというものを、考えなくてもよいようになったらなあ」と、彼は思う。「どんなにおもしろいことになるだろうか!」
目を閉じて、歓喜に顔を輝かせ、虚空《こくう》を見つめながら、ジョンは小声で朗読を続ける。
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ああ、ろうそくの光も、彼女の美しさの前では、輝きを失ってしまう。
さながら、エチオピア黒人の耳を飾る、燦然《さんぜん》たる宝石のように、
彼女は、夜の頬に懸《かか》っているかのようだ。
あまりにもったいなくて、使うにも使えず、この世には、あまりにも貴すぎる美しさだ……(「ロミオとジュリエット」第一幕第五場)
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黄金《きん》のT字架が、レーニナの胸もとに輝いている。たわむれに、大主教はそれをつかみ、たわむれに、ぐいぐいと引っぱる。「あのう、あたくし」長い間だまりこくっていたレーニナが、いきなり言いだす。「ソーマを二グラムのみたいのですけど」
そのころには、バーナードは、もうぐっすり眠りこんで、自分だけの夢の楽園で、微笑していた。にこにこ、にこにこしているのだった。しかし、彼のベッドの上にある電気時計の分針は、三十秒ごとに、ほとんどききとれないようなカチッという音をたてては、情け容赦もなく進んでいく。カチッ、カチッ、カチッ、カチッ……やがて、朝がくる。バーナードは、時間と空間に縛られたみじめな世界へもどる。タクシーで、条件反射教育センターの職場に向かう彼の気分は、すっかりめいっている。成功の陶酔感は、あとかたもなく消えうせ、興奮が静まって、もとのままの自分にもどったのだ。この二、三週間の、一時的にもせよ、気球のようにうきうきしていた気分のあとでは、もとのままの自分が、これまでにないほど、周囲の環境よりも重苦しく感じられるのだった。
このペシャンコにしぼんでしまったバーナードに対して、野蛮人《サーヴェジ》は、意外な同情を示した。
「今のあなたは、なんだか、マルペイスにいたころのあなたみたいですよ」バーナードが、彼に泣き言をいったとき、彼は言うのだった。「あなたとぼくが、はじめていっしょにお話をしたときのことをおぼえていますか? あの小さな家の外でね。あなたは、あのときとそっくりだ」
「そりゃね、ぼくがまた不幸になったからだよ。そのせいさ」
「なるほど、でも、ぼくだったら、ここにあるような、こんな間違ったうその幸福をもらうくらいなら、むしろ、不幸でいますね」
「だから、そうしているんだよ」と、バーナードは、いや味たっぷりに言う。「わざわいのもとになってくれたのが、ほかならぬ君なんだからね。ぼくのパーティーへ顔を出すのは、ぜったいにいやだ、と意地を張って、お客をぜんぶぼくの敵にしてくれたんだからなあ!」
彼には、自分の言っていることが、愚にもつかない言いがかりであることは、ちゃんとわかっている。そして、ちょっとでも気に食わないことがあると、たちまち厄介な敵に変わってしまうような友だちなどは、三文の価値もないんだ、という、今の野蛮人《サーヴェジ》の言葉だって、全くそのとおりである、と内心では認めているし、しまいには、口に出して認めさえしたのだった。しかし、それはわかっており、そう認めてはいるものの、また、友人の支持と同情が、今となっては、自分の唯一の慰めであることは、じゅうじゅうわきまえていながら、ひねくれもののバーナードは、野蛮人《サーヴェジ》に対して、心からの愛情とともに、ひそかな恨みを抱き、彼に、ちょっと仕返しをしてやろう、とその計画を思いめぐらさずにはいられないのだった。共有賛歌大会堂大主教に恨みを抱いてみたところで、何の役にも立たない。びん詰部部長や、社会階級予定部副部長に仕返しをしてやろうと思っても、手も足も出ない。というわけで、バーナードの目からみれば、野蛮人《サーヴェジ》は、ほかの連中とは比べものにならないほど、犠牲者となるにふさわしい、まさに絶好の人物なのだった。何より、野蛮人《サーヴェジ》は、彼の手のとどく人物である、ということが大きな取り柄だ。友だちというものの主要な役目の一つは、われわれが、自分の敵に加えてやりたいと思っても、加えることのできない罰を、(比較的穏やかな象徴的な形で)受けてくれることである。
バーナードにとって、犠牲的となってくれるもう一人の友だちは、ヘルムホルツだった。羽振りのよかったころは、続ける価値がないとして、バーナードが顧みようともしなかったヘルムホルツとの友だちづき合いを、打ちひしがれたあと、彼がふたたび求めてきたとき、ヘルムホルツは、快くきき入れた。しかも、以前の喧嘩など、さらりと忘れてしまったかのように、恨みがましいことも、批判がましいことも、何ひとつ言わなかったのだった。バーナードは、この大らかな態度に感動はしたものの、同時にまた、この大らかさに恥ずかしい気もした――この大らかさが、ちっともソーマのせいによるものではなくて、もっぱら、ヘルムホルツの人柄のせいによるものであっただけに、それだけいっそう見上げたものであり、それだけにまた、一だんと恥ずかしい思いがしたのだった。何もかもさらりと水に流して許してくれたのは、日常ふだんのヘルムホルツで、ソーマ半グラム休暇をとっているヘルムホルツではなかった。バーナードは、順当に、ありがたくも思い(ふたたび友だちができたのは、大きな慰めだったから)、また、順当に、憤慨もしたのだった(大らかさがけしからん、といって、ヘルムホルツに仕返しをするのは、きっと愉快だろう)
喧嘩別れのあとで、はじめて会ったとき、バーナードは、自分がみじめな目にあった話をぶちまけ、彼に慰めてもらった。しかし、それから数日後、彼は、つらい目にあったのは、なにも自分だけではなかったのだ、と知って、驚き、痛いような羞恥の念に襲われたのだった。ヘルムホルツもまた、当局と衝突していたのだ。
「ちょっとした詩が、問題になったんだけどね」と、彼は説明する。「ぼくは、三回生に、上級感情操作科普通課程をやっていたんだよ。十二回の講義のうち、七回が詩論なんだ。正確にいえば、『道徳的宣伝および広告における詩の効用について』というんだがね。ぼくは、いつも、技術的な実例をふんだんに使って、講義を、図解式にやっていくことにしてるんだよ。それで、今度は、ひとつ、近ごろ書いたばかりの自作を、実例に使ってやろうと思いたったのさ。もちろん、狂気の沙汰《さた》なんだけど、やってみたくて、やってみたくて、どうにもがまんができなかったんだよ」と、彼は笑う。「学生たちが、どんな反応を示すか、興味があったし、それに」と、ちょっとまじめな顔で、つけ加える。「ちいっとばかり、自己宣伝とやらもやってみたくてね。連中の感情を操作してさ、ぼくが、この詩を書いたときの気分を味わわせてやろうとしたんだ、それが、なんと君!」と、彼は、また笑う。「いやはや、大へんな騒ぎになってね! 学長がぼくを呼びつけて、すぐ辞職していただかなくちゃ、とおどかすんだ。おかげで、ぼくは、札《ふだ》つきになっちゃったよ」
「ところで、その君の詩とやらは、どんなのだい?」と、バーナードがきく。
「孤独を歌ったものなんだよ」
バーナードの眉が、ぐっと上がる。
「なんなら、君に読んであげようか」と言って、ヘルムホルツは朗読しはじめる。
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きのうの委員会、
ばちはあるが、破れたドラム、
ロンドン市街の真夜中、
真空のなかにひびくフルート、
閉じた唇と、寝顔、
運転をやめてしまった、あらゆる機械、
群集のひしめいていたところは、
今、雑然として、音もなく静まりかえる……
すべての静寂は喜び、
また、泣き(声高く、あるいは、低く)
かつまた、しゃべる――しかし、その声は、
わたしの知らない声だ。
たとえば、スーザンの、
エゲリアの、
腕も、それぞれの胸も、
唇も、ああ、お尻も見えないあたりから、
おもむろに現われてくるひとつの姿、
それは誰の? さらに、あえてきく、いったい、何という、いともばかげた本質の?
存在はしないが、
それにもかかわらず、われわれが性交をいとなむ道具よりも、
もっとがっしりと、空虚な夜をみたしてくれるあの何か、
あれが、なぜ、こんなに汚《きたな》らしい気がするのか?
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ところで、これを学生たちの実例に使ったのさ。すると、連中は、ぼくのことを学長に告げ口したんだ」
「そりゃ、無理もないよ」と、バーナードが言う。「だって、君の詩は、連中の睡眠教育と、まっ向から衝突するんだもの。いいかい、学生たちはね、孤独はいけないってやつを、少なくとも二十五万回はたたき込まれてきてるんだからね」
「そりゃ、わかってるさ。でも、ぼくは、どんな効果が出るか、ためしてみたかったんだよ」
「なるほど、それなら、もうよくわかったじゃないか」
ヘルムホルツは、ただ、にっこりしただけだ。「ぼくはね」しばらく黙っていてから、彼が言いだす。「書くべきことが、いよいよわかりかけてきたような気がするんだ。自分の内部《なか》にもってるような気のする力――あの、特別な、かくれた力とでもいったらいいのかな――あれを、どうにか使うことができるようになりかけている、といった気がするんだ。何かが、ぼくの身に起こりかけてるような感じだな」ずいぶんひどい目にあっているのに、彼は、ほんとに幸福そうだな。と、バーナードは感心する。
ヘルムホルツと野蛮人《サーヴェジ》は、すぐに仲良しになった。あまりにも心からうちとけたので、バーナードは、激しい嫉妬《しっと》に、胸がうずくような気がしたくらいだった。この数週間というものは、彼はヘルムホルツのように、あんなにすぐさま、野蛮人《サーヴェジ》と意気投合したことは、一度もなかったのだった。二人の様子をじっと見つめ、二人の話に耳を傾けながら、彼は、どうかすると、この二人を近づけるんじゃなかったな、と、腹立たしい後悔の念に襲われることもあった。彼は、自分の嫉妬心を恥ずかしく思い、なるべくそんな気持ちに襲われないようにと、あるいは、進んで努力をしてみたり、あるいは、ソーマをのんでみたりした。しかし、そうした努力も、あまり役に立たなかった。また、ソーマ休暇にしても、休暇と休暇の間には、必然的に、時間的な間隔をおかないわけにはいかなかった。そんなわけで、あのいやな気持ちが、たえずよみがえってくるのだった。
三回目に野蛮人《サーヴェジ》に会ったとき、ヘルムホルツは、孤独をうたった例の詩を、朗読してきかせた。
「どんな気がするかね?」読み終わってから、彼がきいた。
野蛮人《サーヴェジ》は首を横に振り、返事のかわりに、「まあ、こちらのほうをきいてみてください」と言って、ねずみのかじったあの本をいつもしまっておく例の引き出しの鍵をあけて取りだすと、そのページを開き、読みはじめる。
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いと高らかな歌をさえずる鳥(不死鳥のこと)に、
ただ一本のアラビアの木の上で、
悲しみのトランペットを奏《かな》でる先触れをつとめさせよ……(シェイクスピア「不死鳥と雉鳩」)
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きいているヘルムホルツは、だんだん興奮してくる。「ただ一本のアラビアの木」のところで、彼はびっくりする。「汝《なんじ》金切り声の前触れ」というところでは、にわかに嬉しくなってにっこりする。「暴虐の翼をもった、あらゆる鳥ども」というところでは、血がサッと頬に上るが、「弔いの楽の音」というところにくると、彼はまっ青になり、今までにない感動でふるえだす。野蛮人《サーヴェジ》は読み続ける。
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固有の特性は、このようにしておびえ、
自我は、もはや自我でなくなり、
唯一の本質の二重の名前は、
二つとも呼べず、一つとも呼べず。
自らくじけた理性は、
分裂が合一化するのを認めた……(同上)
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「ブカブカ、ドンドン!」大きな耳ざわりな笑い声を立てながら、バーナードは朗読のじゃまをする。「なーんだ。ただの、団結礼拝賛美歌じゃないか」彼は、二人の友だちが、彼を愛する以上に、お互いどうしを愛し合っているので、その腹いせをしているのだ。
その後、彼らが二、三度顔を合わせたそのたびごとに、彼は、たびたび、このいやがらせをくりかえしたのだった。全く他愛もないいやがらせだったが、ヘルムホルツも野蛮人《サーヴェジ》も、気に入った珠玉の詩に、けちをつけて汚されるのを、ひどく苦にしたので、いやがらせのききめは、まさにてきめんだった。しまいには、さすがのヘルムホルツも、もう一ぺんじゃまをしてみろ、部屋の外へ蹴とばしてやるから、と、おどしつけたほどだった。ところが、まことに奇妙なことに、その次におこったいやがらせは、だんぜん、一ばんひどいものだったが、それをやってのけたのは、なんとヘルムホルツ自身だった。
野蛮人《サーヴェジ》は、「ロミオとジュリエット」を、大きな声で朗読している――(いつも、自分をロミオに、レーニナをジュリエットにみたてているので)激しい、ふるえるばかりの情熱をこめながら、朗読を続ける。ヘルムホルツは、恋人たちが、はじめて出会う場面には頭をひねりながらも、興味をもって耳を傾けている。果樹園の場は、その豊かな詩情によって、彼を喜ばせはしたが、表現されている感情は、彼をほほえませるのだった。たかが一人の女の子をわがものにするのに、そんな精神状態になるなんて――いささか、こっけいな感じがするのだ。しかし、その言葉を一つ一つ細かく取り上げてみると、なんとずばらしい、感情操作の具体例なのだろう!「それを作った男は、たいした奴だね」と、彼が舌を巻く。「そいつにかかったら、現代のトップクラスの宣伝技術家だって、全く顔色なしだよ」野蛮人《サーヴェジ》は、得意そうににっこりしながら、また読みだす。万事が、かなり順調に進行して、やがて、第三幕の最後の場にさしかかり、キャピュレット夫妻が、ジュリエットを責めたてて、むりやりにパリスと結婚させようとする。ヘルムホルツは、その場面の間じゅう、そわそわしていたが、ジュリエットに扮した野蛮人が、悲痛な声で、
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あの雲の中にも、わたしの悲しみの奥底を見通してくれる
あわれみはいないのかしら?
ああ、やさしいお母さま、どうか、あたしを見捨てないでくださいまし、
この結婚を、一か月、いいえ、せめて一週間なりと延ばしてくださいまし、
それもできませんようでしたら、
ティボルトが横たわっている、あの暗いお墓の中に、
新婚の寝台《ベッド》を作ってくださいまし……
[#ここで字下げ終わり]
と叫んだとき、ヘルムホルツは、どうにもがまんができなくなり、はじけたように、いきなり、ゲラゲラ笑いだした。
父親と母親(なんというエロ・グロ!)がぐるになって、いやがる娘を、男にむりやりに押しつけようとするなんて! それに、娘も娘だ、(ともかく、ここしばらくは)好きな人がほかにいるのです、ともいわないなんて! そのばかばかしいわいせつさを考えてみると、その状況は、たまらなくこっけいだった。彼は、こみ上げてくる笑いを、悲愴《ひそう》な努力で、やっと抑えていた。しかし、「やさしいお母さま」の個所(それも野蛮人《サーヴェジ》は、悲痛な声をふるわせたのだった)と、死んで横たわっているティボルトが、どうやら、火葬にもされないで、暗い墓の中で燐を無駄にしているらしい様子を述べた個所にさしかかると、もはや、どうにもこらえきれなくなった。彼は、さんざん笑いこけ、あまりにも笑いすぎて、しまいには、顔から涙を流しながら――なお、とめどもなく笑い続ける始末だった。野蛮人《サーヴェジ》は、無作法な奴だ、というように、まっ青な顔で、本の上のはしから、彼をじっとにらんでいたが、まだ、彼の笑いがやまないのを見て、むっとしながら、本をバタンと閉じて立ち上がり、こんな奴に読んでやるのは、本の汚れだ、とばかり、その本を引き出しにしまって、鍵をかけてしまった。
「だけどね」と、ヘルムホルツは、どうにか息をついで、言い訳ができるようになったとたんに、自分の言い分をきいてもらおうと、野蛮人《サーヴェジ》をなだめながら切りだす。「そんなふうな、こっけいで気ちがいじみた状況ってものが人間には必要なんだってことぐらいは、ぼくにだってよくわかっているんだ。ほかのことをたねにしたって、ほんとにすばらしいことは、とても書けっこないからね。でも、そいつは、どういうわけで、こんなすばらしい宣伝技術家になれたのかな? それは、だね、こいつが、気ちがいじみた、胸をしめつけられるような興奮のたねを、いやというほど、ふんだんに持っていたからなんだよ。そりゃあ、胸をかきむしられ、気が動転するようにならなくちゃいけないよ。でないと、ほんとにすばらしい、人の心を突き通す、まるでエックス線のような言葉なんか、作れっこないからな。それにしても、お父さま、お母さまとはね!」彼は首を横に振る。「お父さま、お母さまなんてきかされても、吹きださないで、ちゃんとしかつめらしい顔をしていろってのは、どだい無理な注文だぜ。それに、たかが男の子がだね、女の子を手に入れるとか入れないとかをたねにして、いったいカッカできるのかな?」(野蛮人《サーヴェジ》はぎくりとするが、ヘルムホルツは、考えこみながら床をみつめていたので、それには気がつかない)「いや、だめだな」フッとため息をもらしながら、彼はきっぱりとしめくくる。「それじゃ、だめだ。何かもっとちがった種類の狂気や、激烈さがいるんだ。でも、それは、何だ? 何だろうか? どこへ行ったら、見つけられるのかな?」彼は黙りこんでしまう。やがて、首を左右に振りながら、とうとう「わからない」と言う。「わからないな」
[#改ページ]
第十三章
ヘンリー・フォスターの姿が、胎児貯蔵室のうす暗がりの中から、ぼうっと現われてくる。「今晩、触感映画《フィーリー》に行かないか?」
レーニナは、黙って首を横に振る。
「誰かと出かけるのかい?」友だちの誰と誰が関係しているのか、とせんさくするのが、彼には興味があるのだ。「ベニトだろう?」と、きく。
彼女は、また首を横に振る。
ヘンリーは、その紫色の目に、ものうさがただよい、あの狼瘡《ろうそう》による目のかすみの下から、青白さがのぞいており、にこりともしないまっ赤《か》な唇のはしに、悲しみが浮かんでいるのを見てとった。
「気分がよくないんだろう、ええ?」ほとんど消滅してしまったが、ひょっとすると、まだ多少残っている伝染病のどれかに、かかっているのかもしれないな、と少し心配しながら、彼がきいた。
しかし、レーニナは、またしても、いいえと首を横に振る。
「ともかく、お医者に診《み》てもらいにいったようがいいよ」と、ヘンリーが言う。「一日一度の診察は、神経過敏を一掃《いっそう》する、だよ」彼女の肩をポンとたたいて、睡眠教育のことわざを、ことさら力説しながら、彼はつけ加える。「妊娠代用薬でも、のんでみたほうがいいのかもしれないよ」と、彼はすすめる。「でなかったら、超強力激情代用療法でもやってみるんだな。時によって、ほら、標準激情代用薬では、全然……」
「ああ、お願いだから」これまで、石のように黙りこくっていたレーニナが、いきなり怒鳴る。「やめて!」怒鳴ってから、彼女は、放置してあった胎児たちの方へ向き直る。
激情代用療法だなんて、とんでもないわ! もし、今にもなきだしそうになっていたのでなかったら、彼女は、きっと吹きだしていただろう。あたし自身の激情が、不足してるとでも思ってるのかしら! 彼女は、からの注射器に液を詰めながら、深いため息をもらす。「ジョン」と、彼女は、ひとりつぶやく。「ジョン……」やがて、「あら」と、彼女は首をかしげる。「あたし、この赤ん坊に、眠り病の予防接種をしたんだったかな、どうだったかしら?」彼女は、どうしても思いだせない。とどのつまり、二度注射する危険はさけることにきめて、彼女は、次のびんまで動く。
この瞬間から二十二年と八か月と四日後に、ムワンツァ・ムワンツァ(東部アフリカ、タンガニーカのビクトリア湖南岸にある港町)勤務の前途有望なアルファ・マイナスの一青年行政官が、眠り病で死ぬ、という悲劇のたねがまかれたのだった――これは、半世紀以上もの間における初めての病例となるはずだ。ため息をつきつき、レーニナは作業を続ける。
それから一時間後、更衣室で、ファニイが顔じゅうを口にして、やりこめている。「でもね、あんた自身が、そんな気持ちになってしまうなんて、だらしないわ。ほんとにだらしないわよ」と、彼女はくりかえす。「おまけに、原因が何よ? 男の人なんでしょ――それも、たった一人の」
「でも、あたし、その人がほしいのよ」
「男の人なんか、世間にわんさといるじゃない」
「だって、そんな男の人は、ほしくないもの」
「ためしてもみないくせに、どうしてわかるの?」
「とっくにためしてみたわよ」
「そんなこといって、いったい何人ためしたの?」さも軽蔑した、と言わないばかりに、ファニイは、肩をすくめながらきく。「一人、それとも二人?」
「何ダースもやってみたのよ。でも」と、首を横に振りながら、「だめなの」と、彼女はつけ加える。
「でも、頑張らなきゃだめよ」と、ファニイが、もったいぶった口調でけしかける。だが、そのけしかけのききめに対する自信のほどは、どうやら、かなりぐらついたらしい。
「頑張らなくちゃ何もできないじゃない」
「でも、それまでの間……」
「彼のことなど、忘れてしまいなさい」
「それができないのよ」
「それじゃ、ソーマをおのみなさいな」
「のんでるわ」
「それじゃ、もっとどんどんのみなさい」
「でもね、ソーマとソーマの合い間には、やっぱり好きだ、と思うでしょう。好きだって気持ちが、いつも頭にこびりついているのよ」
「わかったわ、そんなに思いつめてるのだったら」と、ファニイは、きっぱりと言う。「なぜ押しかけていって、彼をものにしないの。彼の思惑なんかへっちゃらよ」
「だって、あんたは、知らないから、そんなことが言えるんだわ、彼って、ほんとに、すごく変てこなのよ!」
「それなら、なおさら、こちらが強硬に出なくちゃいけないわ」
「つべこべ、口先で言うだけなら、ほんとに簡単だけど」
「もう泣き言はたくさんよ。行動に移るの」ファニイの声は、トランペットのように、喨々《りょうりょう》と鳴りわたる。まるで、ベーター・マイナスの青年に、夜間講話をしているY・W・F・Aの講師のようだ。「そう、行動に移るの――すぐに。ただちに実行にかかれ、よ」
「おどかさないでよ」と、レーニナが言う。
「さて、あんたは、つんのこんの言わないで、まず、ソーマを半グラムのめばいいの。ところで、あたしは、これから入浴にお出かけよ」彼女は、タオルを引きずりながら、スタスタ歩いていく。
呼び鈴が鳴る。野蛮人《サーヴェジ》は、今日の午後あたりヘルムホルツが来てくれないかな、と、じりじりしながら待ちこがれていたので(というのは、やっと、レーニナのことを、思い切ってヘルムホルツに打ちあける決心がついたので、もう一刻も待ちきれなかったのだった)、とび立って、ドアのそばへ走った。
「あなたが来てくれそうだな、って予感がしたんですよ、ヘルムホルツさん」と、彼はドアをあけながら叫ぶ。
ところが、あけてびっくり、なんと戸口には、白いアセテート・サテンのセーラー服を着て、白いベレー帽を、気取って左の耳の方へ傾けてかぶったレーニナが立っている。
「おお!」野蛮人《サーヴェジ》は、まるで、誰かにガンとぶんなぐられたような声を上げる。
ソーマ半グラムのおかげで、レーニナは、怖さも気まり悪さも、すっかり忘れてしまったのだ。「こんにちは、ジョン」彼女は、にっこりしながら挨拶すると、彼のそばをすり抜けて、ツカツカと部屋の内部《なか》へはいってくる。彼は、反射的にドアをしめて、彼女のあとからついてくる。レーニナは腰をおろす。長い沈黙が続く。
「あなた、あたしがやって来ても、あまり嬉しくないのね、ジョン」とうとう彼女が口を開く。
「嬉しくないって?」野蛮人《サーヴェジ》は、恨めしそうにじっと彼女を見つめたが、やがて、いきなり彼女の前にひざまづいて、レーニナの手をとり、うやうやしくキスする。「嬉しくないって? ああ、ぼくのこの気持ちが、わかってさえもらえたらなあ」と、ささやきながら、彼は思い切って目をあげて、彼女の顔を見る。「すばらしいレーニナ」と、彼は言葉を続ける。「この世の中の、どのような宝物にもまさる、まことにたぐい稀《まれ》な賞賛の的よ」(シェイクスピア「あらし」第三幕第一場)彼女は、甘ったるいほどのやさしさをこめながら、彼に向かってにっこりする。「ああ、全く完璧なあなたよ」(彼女は、口もとをほころばせながら、彼にもたれかかる)「全く完璧でたぐい稀なあなたよ」(ますます近くなる)「生命《いのち》あるあらゆるもののうちの、最高のものをえりすぐって作られているのだ」さらにいっそう近づく。野蛮人《サーヴェジ》は、だしぬけにスッと立ち上がる。「それだからこそ」顔をそむけながら、彼が言う。「まず最初に、何かしなくちゃいけないんだ……つまり、ぼくが、あなたにふさわしい男であることを示さなくちゃいけないんです。もっとも、十分その自信があるっていうんじゃないんですけど。でも、ともかく、ぜったいだめってわけじゃないことを示さなくちゃいけないんです。何かしなくちゃならない」
「なぜ、そんなふうに考えなくちゃいけないのかしら……」と、レーニナは言いかけるが、その言葉を途中で切ってしまう。その声には、いらいらした調子がこもっている。だって、そうでしょう、こちらが、せっかく口もとをほころばせながら、しなだれかかり、だんだんすり寄っていってあげてるのに――この気の利かないうすのろさんときたら、いきなりスッと立ち上がったりなんかして、すっかりはぐらかしちゃうんだものね――そうよ、いくら、半グラムのソーマが、あたしの血管の中を循環していたって、どうにも引っこみがつかなくて、まごまごしちゃうのは、むしろ、あたえりまえじゃない。
「マルペイスでは」と、野蛮人《サーヴェジ》がとっぴょうしもないことを、ぶつぶつ言いだす。「アメリカライオンの皮をとってきてやらなくちゃいけないんです――つまり、誰かと結婚しようと思ったら、その相手の女《ひと》にね。ライオンでなかったら、狼《おおかみ》の皮でもいいんだけど」
「こんなところに、ライオンなんかいないわよ」レーニナは、ほとんどかみつきそうなけんまくだ。
「それに、たとえいたって」と、急に、軽蔑のこもった腹立たしい口調で、野蛮人《サーヴェジ》がつけ加える。「きっと、ヘリコプターから、毒ガスか何かをまいて殺してしまうんだ。ぼくは、ぜったいにそんなことはしませんよ、レーニナ」彼は肩をそびやかしながら、勇気を出して、彼女をまともに見ると、何が何だかさっぱりわからないので、途方にくれている彼女のまなざしとかち合う。どぎまぎして、「ぼくは、どんなことでもします」彼は、ますますわけのわからないことを言いだす。「あなたのおっしゃることなら、どんなことだっていい。ほら――楽しみにだって、骨の折れるものは、いろいろある。しかし、その骨折りに対する喜びが、その苦労をつぐなってくれる(同上)、というでしょう。あれですよ、ぼくの今の気持ちは。なんなら、ぼく、床掃除《ゆかそうじ》をしたっていいですよ」
「でも、ここに真空掃除機があるんだもの」と、レーニナは、すっかりもてあまし気味だ。「そんなことをしなくたっていいわよ」
「そりゃ、もちろんそうです。ですけど、何か卑しい仕事に、雄々しく耐えぬくんです(同上)。ぼく、何かに雄々しく耐えぬいてみたいなあ。わかりませんか、ぼくの気持ちが?」
「だって、真空掃除機ってものがちゃんとあるんだから……」
「そのことを言ってるんじゃないんです」
「それに、イプシロン・判低脳《セミ・モロン》が掃除機を動かしてくれるんだし」と、彼女は言葉を続ける。「ねえ、ほんとに、どうしてなの?」
「どうしてって? ただ、あなたのためなんです。あなたのためなんですよ。ただ、示したいんですよ、ぼくが……」
「でも、いったいぜんたい、真空掃除機がライオンとどんな関係があるっていうの……」
「示すためなんですよ、どんなに深く……」
「それにね、ライオンと、あたしに会えて嬉しいこととだって、いったいどんな関係があるって……」彼女は、だんだんいらだってくる。
「ぼくが、どんなに深くあなたを愛してるか、をわかってもらうためなんですよ、レーニナ」彼は、ほとんど思いつめたような口調でうちあける。
突然、嬉しさがからだじゅうを駆けめぐった証拠に、レーニナの頬にサッと血が上る。「それ、本気なの、ジョン?」
「だけど、ぼく、ほんとは言いたくなかったんだ」苦悶《くもん》のあまり、両手を握りしめながら、野蛮人が叫ぶ。「その時がくるまではね……いいですか、レーニナ、マルペイスでは、人はみな結婚するんです」
「何をするんですって?」彼女の声に、だんだんかんしゃくがこもってくる。この人ったら、いったい何のことを言ってるのかしら?
「永久に。二人が、永久にいっしょに暮らしていく約束をするんです」
「なんて恐ろしい考えでしょう!」レーニナは、ほんとにぞっとしたのだ。
「たとえ、美しい容姿がうつろっても、情熱が衰えるより先に、心が、いち早く若返るのです(「トロイラスとクレシダ」第三幕第二場)」
「何ですって?」
「シェイクスピアの中にも書いてある、あれと同じです。『すべての神聖な儀式が、尊い慣習《しきたり》のままに、とどこおりなく行なわれるのを待たないで、あなたが、乙女の帯の処女《おとめ》結びを断ち切ったりなさると……』(「あらし」第四幕第一場)」
「ねえ、ジョン、お願いだから、まともなことをしゃべってちょうだい。あなたの言うことは、全くちんぷんかんぷんよ。まず真空掃除機でしょう。そうかと思うと、今度は処女《おとめ》結びでしょう。あなたの話をきいてると、それこそ、気が変になっちゃうわ」彼女は、ピョンととび立つと、彼の心だけではなくて、彼のからだそのものまでも逃げだしたら大へん、と思ったらしく、彼の手首をつかんだ。「いいこと、あたしの質問に答えるのよ。あなた、ほんとにあたしが好きなの、それとも嫌いなの?」
しばらく沈黙が流れる。やがて、低い低い声で、「ぼくは、世界じゅうの何よりも、あなたを愛しています」と、彼が言う。
「だったら、いったい、なぜそう言ってくださらなかったのよ?」と彼女は怒鳴る。そして、いらだちのあまり、彼の手首にグイと爪を立てる。「そんなことは、おくびにも出さないで、やれ処女結びだの、やれ真空掃除機だのって、愚にもつかないたわ言を並べたてて、あたしに、何週間も何週間もみじめな思いをさせたりして」
彼女は、彼の手を離すと、怒って、自分のそばから振り放す。
「あたし、あなたがほんとに好きなの、だから」と、彼女は言う。「怒りたいのを、一生懸命にがまんしてるのよ」
やがて、だしぬけに、彼女の腕が彼の首にからみついたかと思うと、彼は、彼女の唇が、やわらかく自分の唇におしつけられるのを感ずる。ほんとにえもいわれぬほどやわらかく、あたたかく、まるで電気のようなので、「ヘリコプター上の三週間」で見た、あの抱擁が、ひとりでに彼の頭に浮かんでくる。ウー! ウー! 実体鏡的な金髪女と、ああ! 実物よりももっと真に迫ったあの黒人の姿。恐ろしい、恐ろしい、ほんとにぞっとする……彼はその抱擁からぬけだそうとするが、レーニナは、ぐいぐいとしめつけてくる。
「なぜ、そう言ってくれなかったの?」顔をぐっとひいて、彼の顔をのぞきこみながら、彼女がささやく。そのまなざしには、やさしい恨みがこもっている。
「まっ暗な野獣の穴と、申し分のない絶好の場所と(良心の声が、詩のようにとどろきわたる)、心の中の悪魔が、いかにしつこくそそのかそうとも、わたしの節操が、むざむざ溶けて、邪淫と化することはないのだ。けっして、けっしてありえないのだ!」(「あらし」第四幕第一場)
「このおばかさん!」と、彼女がわめく。「あたし、あなたがほしくて、ほしくてたまらないのよ。だから、もしあなたのほうも、あたしがほしいのなら、いったい、どうして……?」
「でも、レーニナ……」と、彼は、切り返す。すると、彼女は、すぐに抱きしめていた腕を放し、ついと彼のそばを離れたので、彼は、一瞬、ははあ、口に出さなかった気持ちをわかってくれたのだな、と思う。ところが、彼女が、特許の白いカートリッジ・ベルトをはずして椅子の背にそっとかけるのを見て、やっぱり、どうもわからなかったらしい、と不安になってくる。
「レーニナ!」と、彼は心配そうに声をかける。
彼女は、片手を首にまわして、垂直に長くぐいと引っぱる。すると、その白いセーラー型のブラウスが、裾《すそ》まで開く。疑惑が、あまりにも、あまりにも確実な事実となったのだ。「レーニナ、いったい何をしているんです?」
シューッ、シューッ! 彼女は返事もしない。そして、足踏みをしながら、お尻が丸くふくらんだスラックスをぬぎ捨てる。彼女のファスナー付|下着《コンビネーション》は、桜貝色だ。共有賛歌大会堂大主教のプレゼントの、あの黄金《きん》のT字型ペンダントが、胸に下がっている。
「というのは、袖なしブラウスの、すかしになった格子模様の間から、男の目を射る、あの乳房《バスト》は……」(「アテネのタイモン」第四幕第三場)歌うような、とどろくような、この魔術のような言葉のために、彼女は、いっそう危険で、いっそう魅惑的なものに見えてくる。やわらかい、やわらかいくせに、まるで、刺すようだ! 理性にキリキリ穴をあけ、決意を掘り返してくずしてしまうとは。「どんな強い誓いでも、燃えさかる獣欲に向かえば、火の中のわらしべ同然だ。もっと慎みたまえ、でなければ……」(「あらし」第四幕第一場)
シューッ! 丸くふくらんだ桜貝色の下着《コンビネーション》が、まるで、みごとにまっ二つに割ったりんごのように、ぱっと二つに裂ける。もがくように両方の腕をゆすり、まず右足をあげ、それから左足をあげると、下着《コンビネーション》は、生命がぬけて、まるでしぼんだように床の上に横たわる。
靴と沓下《ソックス》はまだぬがないで、白いベレー帽を、こいきにちょっと傾けたまま、彼女は、彼の方へ歩み寄る。「ねえ、ねえ! なぜ、さっきの言葉を、もっと早く言ってくれなかったの!」彼女は、両腕をさしのべる。
ところが、「いとしいレーニナ!」と言って、腕をさしのべるどころか、野蛮人《サーヴェジ》は、まるで、何か危険な動物が迫ってくるのを、追いはらおうとするかのように、手を振って彼女を追いやりながら、おびえてあとじさりする。そして、四歩あとじさりすると、彼は壁にぶつかってしまった。
「大好き!」と叫んで、レーニナは、彼の肩を両手でおさえると、自分のからだを彼におしつける。「あたしを抱いてよ」と、彼女は命令口調で言う。「しびれちゃうまで抱いてよ、ねえ」彼女のほうにも、自由自在に使える詩があるのだ。歌になったり、じゅもんになったり、ドラムを打ったりする言葉を知っているのだ。「ねえ、キスして」彼女は目を閉じると、言葉の語尾を落として、眠そうなささやき声で歌う。「気を失うまでキスしてちょうだい。抱いてよ、ねえ、よりそうあなたのうさちゃん……」
野蛮人《サーヴェジ》は、彼女の手首をつかんで、自分の肩をおさえているその手を引き離し、腕をいっぱいにのばして、荒々しく彼女を突き放したまま、そばへよせつけない。
「まあ、ひどいわ、ひどい……ああ!」彼女は、突然、口をつぐむ。恐怖のあまり苦痛を忘れたのだ。目を大きく見開いて、彼女は彼の顔を見た――いや、これは彼の顔じゃない。何か気ちがいじみた、わけのわからない激怒で青ざめ、ゆがみ、引きつっている。狂暴なほかの誰かの顔だ。ぞっとして、「いったい、どうしたの、ジョン?」と、彼女がささやく。彼は、返事もしないで、ただ、狂ったようなまなざしで、彼女の顔をにらんでいるだけだ。彼女の手首をつかんでいる、その手は、ぶるぶる震えている。その呼吸は深く、調子が乱れている。すると、突然、ほとんどきこえないくらいかすかで、無気味な彼の歯ぎしりがきこえる。「どうしたのよ?」彼女は、ほとんど金切り声をあげる。
すると、まるで、その叫び声で目がさめたかのように、彼は、彼女の肩をつかんでゆさぶる。「めす犬め!」と、彼は絶叫する。「めす犬め! この恥知らずの売女《ばいた》め!」
「まあ、やめて、やめえ、え、え、てえ」ゆすぶられて、奇妙な震え声で彼女はさからう。
「めす犬め!」
「ねえ、おねがあ、あ、い」
「きたならしいめす犬め!」
「一グラムは……にまさあ、あ、あ、る」と、彼女は言いかける。
野蛮人《サーヴェジ》が、ものすごい勢いで、突き飛ばしたので、彼女は、よろめいてばったり倒れる。「出ていけ」と、おどしつけるように、彼女のそばに立ちはだかって、彼が絶叫する。「とっとと消えうせろ、まごまごしてると、ぶち殺すぞ」彼は、手を握りしめてげんこを固める。
レーニナは、打たれまいと、腕を上げて顔をおおう。「ねえ、ジョン、おねがいだから、やめてよ……」
「いそげ、早くしろ!」
相変わらず片腕をあげたまま、おびえた目で彼の動作をひとつひとつ追いながら、彼女は立ち上がりかけたが、やっぱり腰をかがめて、頭をかばったまま、浴室へ突進する。
とっとと消えうせろ、とばかり、彼に一発食わされて、彼女があたふたと飛びだした、あのものすごい平手打ちの音は、まるで、ピストルのように前へ跳ね飛んだ。
浴室へ逃げ込んで、しっかり鍵をかけてしまうと、彼女は、やっとけがのことを考えてみるだけのゆとりができた。鏡に背を向けて立ちながら、首をねじむける。左肩ごしに振り返ってみると、真珠色の肌《はだ》に、さっきの平手打ちの痕《あと》が、赤くくっきりと見える。その傷あとを、そっとこすってみた。
外側のさっきの部屋では、野蛮人《サーヴェジ》が、あちこちと大またで歩きまわっている。魔法の言葉のドラムのようなとどろきと、音楽的な調べに拍子を合わせて行進しているようだ。「わしの目の前で、みそさざいもつるむし、黄金色《きんいろ》の蝿もいちゃついている」(「リア王」第四幕第六場)この言葉が、まるで気も狂いそうに、彼の耳の中でガンガン鳴りひびく。「におい猫だって、刈りたてのまぐさをたらふく詰めこんだ馬だって、あんなしたいほうだいな交尾《まじわり》はしないだろう。腰から上は女でも、腰から下はケンタウルスだ。帯から上が神のさずかりもの、そこから下は、すべて悪魔がくれたものだ。そこには、地獄もあれば、暗やみもある。硫黄《いおう》が燃えさかっていて、やけどしそうな、悪臭の立ちこめている、腐爛した坑《あな》もある、というわけだな。うっ、こりゃたまらんわい、ぺっ、ぺっ、ぺっ! おい、薬屋さん、気分直しだ、麝香《じゃこう》を一ポンドほど売ってくれい」(「リア王」第四幕第六場)
「ジョン!」浴室から、ごきげんをとるような小声が呼びかける。「ね、ジョンたら!」
「ええい、この悪草め、おまえのあまりの美しさと、香りのよさには、目も、鼻も痛くなるようだ(「オセロー」第四幕第二場)。この一ばん美しい書物は、その上に『売女《ばいた》』と書かれるために作られたのか?(同)天も、その前では、鼻をつまむのだ……(同)」
しかし、彼女の香りが、まだ、彼のまわりにただよっており、彼女のビロードのような肌ににおっていたあの粉が、彼の上着に白くこぼれていた。「この恥知らずの売女め、この恥知らずの売女め、この恥知らずの売女め」(同)情け容赦もないそのリズムが、くりかえしくりかえし、鳴りひびくのだった。「この恥知らずの……」
「ジョン、あたしの洋服をとってほしいんだけど?」
彼は、お尻が丸くふくらんだスラックスと、ブラウスと、ファスナー付|下着《コンビネーション》をつまみ上げる。
「あけろ!」彼は、怒鳴って、ドアを蹴る。
「いやよ、あけないわ」その声は、おびえてはいるが、けんか腰だ。
「ふん、それじゃ、どうやって渡せというんだ?」
「ドアの上の換気口《ベンチレーター》から押し込んでちょうだい」
彼は、いわれたとおりにしてから、ふたたび部屋の内部《なか》を、あちこちと、落ち着かなく歩きだした。「この恥知らずの売女め、この恥知らずの売女め。あの情欲の悪魔めが、まるまる太った尻と、むずむずするような指で……(「トロイラスとクレシダ」第五幕第二場)」
「ジョン」
彼は、返事もしない。「まるまる太った尻と、むずむずするような指で」
「ねえ、ジョン」
「何だ?」彼は、つっけんどんにきく。
「あたしの避妊薬携帯《マルサス》ベルトをとっていただけないかしら」
レーニナは、隣の部屋の足音に耳を傾け、彼は、いったい、いつまであんなふうに歩き続ける気なのかしら、といぶかしみながらすわっている。彼がアパートから出ていくまで待たなきゃいけないのかしら。いや、かなり時間がたって、彼の狂気が静まれば、浴室のドアをあけて、ベルトをとりに走っていっても、大丈夫かもしれないわ。
彼女が、心配しながら、とつおいつ思案にくれていると、突然、隣の部屋の電話のベルが、けたたましく鳴りひびいた。足音が、ハタとやんだ。野蛮人《サーヴェジ》が、誰かきこえない相手としゃべっている声がきこえる。
「もし、もし」
…………
「そうです」
…………
「名前を騙《かた》っていれば別ですが、たしかに正真正銘のぼくです」(シェイクスピア「十二夜」第一幕第五場)
…………
「そうです。そういったと思うんだけど、きこえませんでしたか? こちらは野蛮人《サーヴェジ》です」
…………
「何ですって? 誰が病気なんですか? そりゃ、もちろん、気にかかりますとも」
…………
「でも、重いんですか? ひどく悪いんですね? ぼく、すぐ行きますから」
…………
「もう自分の部屋にいないんですって? いったい、どこへ連れていったんですか?」
…………
「ああ、なんということだ! その所在地はどこですか?」
…………
「パーク・レーン三番地――そうですね? 三番地ですね? それじゃ、どうも」
レーニナは、ガチャリと受話器をかける音と、急いで出ていく足音をきいた。ドアがバタンとしまった。あとは静かになった。ほんとに、行ってしまったのだろうか?
細心の注意をはらいながら、彼女は、ドアを四分の一インチほどあけて、その隙間《すきま》からのぞいてみたが、人の気配もないので、勇気を出して、もう少し開き、頭をすっかり出してみた。それから、とうとう、ぬき足さし足で、さっきの部屋にはいり、心臓を激しくドキドキさせながら、しばらく、じっと耳をすませていた。やがて、正面のドアのところへ突進すると、ドアをあけてそっと外へ出て、ドアをバタンとしめてから、いっさんに駆けだした。彼女が、もう大丈夫だわ、と、ほっとした気持ちになりかけたのは、エレベーターに乗り込み、そのエレベーターが、いよいよ、ほんとにたて穴を下りはじめたときだった。
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第十四章
パーク・レーン臨終病院は、薄黄色のタイル張りの、六十階建ての塔だ。野蛮人《サーヴェジ》が、そのタクシー・ヘリコプターから降りたとたん、けばけばしい色どりの霊柩《れいきゅう》ヘリコプターの一隊が、屋上からブーンと舞い上がり、ハイド・パーク上空を横切り、西のスラウ火葬場目ざして、矢のように飛んでいった。エレベーターの入口で、守衛長に必要な指示をもらって、彼は、十八階の八十一号室(急性老衰病患者が収容されている病室である、と守衛長が説明した)まで降りた。
そこは、黄色いペンキ塗りの、日当たりのよい、大きな明るい部屋で、ベッドが二十床あるが、どれもふさがっている。リンダは、集団的に――つまり、ほかの人たちといっしょに、しかも、あらゆる近代的な設備に取り囲まれながら、臨終を迎えているのだった。陽気な合成音楽のメロディーが、たえず流れていて、部屋の雰囲気は活気があった。どのベッドの足もとにも、瀕死《ひんし》の病人の方に向けて、テレビが置いてある。テレビは、朝から晩まで、いつもかけっ放しだった。十五分ごとに、部屋に流れている香気が、自動的に変化するようになっている。「ここでは」と、野蛮人《サーヴェジ》の案内役を引き受けることになった看護婦が、ドアのところで説明する。「ここでは、きわめて快適な雰囲気――わかりやすく申しますと、まあ、一流ホテルと、触感映画《フィーリー》劇場との中間ぐらいの雰囲気を、作りだすようにしているのでございます」
「病人はどこです?」彼女のていねいな説明には、耳もかさず、野蛮人《サーヴェジ》が尋ねる。
看護婦は、むっとする。「ずいぶんお急ぎですこと」
「見込みがありますか?」と、彼がきく。
「と、おっしゃるのは、死なないか、という意味ですかしら?」(彼は、うなずく)「そりゃ、もちろん、見込みは全くございません。ここへ送られるということは、もう、とうてい……」彼の青い顔に浮かんだ苦悩の色に驚いて、彼女は、急に言葉を切る。「あら、いったい、どうなさいましたの?」と、彼女がきいた。このような態度をとる見舞い客が、珍しかったからだ。(といっても、べつに、見舞い客が多いわけでもなかったし、また、大ぜいおしかけてくるはずもなかったが)「御気分でも悪いのじゃありません?」
彼は、ちがうと首を振る。「あの女《ひと》は、ぼくの母なんです」と、彼は、ほとんどききとれないような声で言う。
看護婦は、ドキッとして、おびえた目で、彼をチラと一べつするが、あわてて目をそらす。そして、それこそ、のどもとからこめかみまで、まっ赤になった。
「あの女《ひと》のところへ連れていってください」野蛮人は、できるだけ平静な口調でたのむ。
まだ赤い顔をしながら、彼女は、病室の内部《なか》を案内する。彼らが歩いていくと、まだいきいきとしていて、ちっとも萎《しな》びていない顔が(というのは、老衰が、きわめて急速に進行するため、頬まで老《ふ》けさせるゆとりがなく――心臓と大脳だけを老化させたのだが)振りむいた。第二幼児期にある人たちの、うつろな無関心な目が、通り過ぎる彼らの姿を、じっと見送っている。野蛮人《サーヴェジ》は、彼らを見てぞっとする。
リンダは、ずらりと長く並んでいるベッドの列の一ばんはしの、壁ぎわのところに横たわっていた。重ねた枕にもたれながら、彼女は、リーマン平面式テニス南米選手権争奪決勝戦を見物していた。その実況は、ベッドの足もとにあるテレビの画面上に、縮小された無声《サイレント》の映像となって映っているのだった。きらきらした、四角なテレビのスクリーンの上を、小さな人かげが、まるで、水族館の魚のように、音もなくスイスイとあちこちを駆けまわっている――声はたてないが、興奮した、別世界の住民たちだ。
リンダは、ぼんやりと、何がなんだかわからないままに、微笑を浮かべながらながめている。その青白い、むくんだ顔には、低脳児のような満足の色が浮かんでいる。時おり、彼女の瞼《まぶた》が閉じて、ほんのしばらく、うとうとしているようにみえた。が、やがて、ちょっとぴくりとして、また目をさますのだった――目がさめると、水槽の中の道化役者のような、テニスの選手たちの動作に見入り、「しびれちゃうまで、抱いてよ、ねえ」を演奏している超音電気オルガンの音に耳を傾け、頭上の換気口《ベンチレーター》から吹き込んでくる、暖かいビジョザクラの香りを吸っているのだった――いや、目をさまして、見たり、きいたり、吸ったりする、というよりは、むしろ、その見たり、きいたり、吸ったりしたものが、彼女の血管の中を流れているソーマの作用によって、変質し、美化され、えもいえないふうに融合してできた幻想にひたりながら、子供のように満足して、ふたたび、あのくずれて色あせた微笑を浮かべているのだった。
「それじゃ、わたくしは、失礼しなくちゃなりません」と、看護婦が言う。「受持ちの組の子供たちが、もう、やって来ますので。それに、三号さんもみてあげなくちゃなりませんし」と、彼女は、病室の向こうの方を指さす。「いつ何どきともわからないんです。じゃ、どうぞ、ごゆっくり」彼女は、足ばやに立ち去る。
野蛮人《サーヴェジ》は、ベッドのそばに腰をおろした。
「リンダ」と、その手をとりながら、彼がささやいた。
自分の名を呼ばれて、彼女は振り向いた。彼に気がついたらしく、そのぼんやりした顔が、パッと輝きをおびる。彼の手をぎゅっと握りしめると、微笑し、唇を動かす。が、やがて、いきなり、首ががっくりと前に落ちる。眠っているのだ。彼は、彼女をじっと見守りながらすわっている――その衰えた肌の奥に、マルペイスで過ごした子供のころ、かぶさるように自分を見つめていた、あの若いいきいきとした顔のおもかげをさぐり、彼女の声や、身のこなしや、いっしょに暮らした日々の出来事のひとこまを、(目を閉じて)思い返しているのだった。「ストレプトコックのお馬ちゃん、バンベリーTへ……」彼女の歌声は、なんと美しかったのだろう! それに、あの子守歌は、魔法のじゅもんみたいに、なんと奇妙でふしぎな魅力をもっていたのだろう!
A、B、C、ビタミンD、
脂肪は肝臓に、鱈《たら》は海の中に。
その歌の文句と、この歌をくり返しくり返しうたってくれたリンダの声を思いだしていると、彼は、瞼の裏に、熱い涙がじわじわとわき上がってくるのを感じた。それから脳裏に浮かんでくるのは、読み方のおけいこだった、「ビンノナカニ、アカチャンガイマス。ムシロノウエニ、ネコガイマス」、それから、「胎児貯蔵室ベーター勤務員用初歩要覧」。それからまた、炉ばたや、夏なら、小さな家の屋上で過ごした長い夜、彼女は、彼に、保護地区の外にある、あの「ほかの世界」のいろいろな話をしてくれたのだった。そして、このなまなましい現実のロンドンを知り、これら本当の文明人の男女たちと実際に接触するようになってからも、彼は、あの美しい、美しい「ほかの世界」の思い出を、まるで、天国か、善と美の楽園のそれのように心得、こうした接触によって汚されることのないよう、そっくりそのまま、完全な形で胸に抱き続けてきたのだった。
突如として起こったかん高い叫び声に、彼は目を開き、あわてて涙をぬぐって振り向いた。寸分ちがわない姿格好の、八歳の男の双児《ふたご》の大群が、まるで、果てしない流れのように、ドッと病室へなだれ込んできたのだった――双児のあとに、また双児、そのまたあとに、また双児というふうに、あとからあとから、続々とつめかけてくる――文字どおり悪夢だ。その双児たちの顔が、また、全く同じ顔のくり返しだ――というのは、その大ぜいのなかに、顔の型が、ただ一つしかないからだ――顔じゅうが、おっぴろげた鼻の穴と、青白いぎょろ目で、狆《ちん》のように目をむいている。制服はカーキー色だ。どれもこれも、口をポカンとあけている。キャッキャッとさわぎ、ベチャクチャしゃべりながら、はいってくる。あれよあれよという間に、病室は、まるでうじ虫がたかったように、子供でいっぱいになった。彼らは、ベッドの間にむらがり、その上へよじ登ったり、その下へもぐったり、テレビをのぞき込んだり、患者に向かって、あかんべいをしたりしている。
リンダの異様な姿は、彼らをびっくりさせる、というよりは、むしろ、彼らをぎょっとさせる。子供たちの一団が、彼女のベッドのわきにたかって、まるで、動物が、突然、何か未知なものみ出くわしたように、きもをつぶしながら、低脳児らしい、好奇の目をみはるのだった。
「おや、あれ、あれ!」彼らは、おびえた小声で言う。「あの人は、いたい、どうなっちゃったんだ? どうして、あんなに、でぶっちょなんだろ?」
彼らは、今まで、こんな顔は一ぺんも見たことがなかったのだ――若々しくて、皮膚に張りのある顔と、細っそりとしてまっすぐなからだのほかは、今まで、見たこともなかったのだ。臨終を迎えてはいるものの、ここの六十代の女たちは、誰もかれも、まるで少女のような顔だちだった。そのような人たちと比べると、リンダは、まだ四十四歳ながら、皮膚がたるみ、輪郭のくずれた老齢の化け物のように見えたのだった。
「あの人、こわいね」ひそひそ声の言葉がきこえる。「あの歯を見てごらんよ!」
突然、ベッドの下から、狆のような顔をした双児のひとりが、ジョンのすわっている椅子と壁との間へ、ひょいと顔を出して、リンダの寝顔をのぞき込む。そして、
「あのね……」と、言いかける。が、言い終わらないうちに、金切り声が上がった。野蛮人《サーヴェジ》が、その子のえり首をひっつかんで、かるがると椅子の上へ持ち上げ、ほっぺたを、ピシャっと引っぱたいたのだった。子供は、泣きわめきながら逃げていった。
その悲鳴をききつけて、婦長が助けに駆けつける。
「あの児に、いったい何をなさったのですか?」彼女は、今にもかみつかんばかりのけんまくだ。「子供たちをぶんなぐると、承知しませんわよ」
「わかりました。それじゃ、子供たちがこのベッドに寄りつかないようにしてください」野蛮人《サーヴェジ》の声は、怒りにふるえている。「このきたならしいちびっ子どもは、ここで、いったい何をしているんですか? ほんとに、みっともないにもほどがある!」
「みっともないですって? そりゃ、いったい、どういう意味でしょう? この子供たちは、今、対死条件反射訓練中なんですよ。はっきり申し上げておきますけど」彼女は、居丈高になって、きめつけるように言う。「これ以上、子供たちの訓練のじゃまをなさると、守衛を呼んで、あなたを追いだしてもらいますからね」
野蛮人《サーヴェジ》は、スックと立ち上がり、婦長の方へ二、三歩歩み寄る。その動作と表情があまりものすごいので、婦長は、ぎょっとしてあとじさりする。彼は、必死の思いでやっと自制し、黙ってそっぽをむいたまま、ふたたび彼女のベッドのそばにすわり込む。
ほっとしたくせに、うすっぺらな威厳をみせながら、ちょっとキイキイ声で「特に御注意申し上げたんですから」と、その婦長が釘をさす。「おぼえておいてくださいね」そう言いながらも、彼女は、あまり物見高い双児たちを向こうへ連れていき、彼女の同僚のひとりが音頭《おんど》をとって、部屋のあちらのすみで、子供たちにやらせているジッパー捜し(スリッパー捜しをもじったものであろう)に仲間入りさせる。
「あんた、ひとっ走り行って、カフェイン水でも一ぱいのんできなさいな」と、婦長が、その看護婦に声をかける。権力をかさに着て、野蛮人《サーヴェジ》をしゃくりつけたおかげで、自信を取りもどし、気分がよくなったのだ。「さあ、みなさん!」と、彼女は声を張り上げる。
リンダは、もぞもぞ身動きしたかと思うと、一瞬目をあけて、あたりをぼんやり見まわしたが、やがて、また寝入った。彼女のそばにすわりながら、野蛮人《サーヴェジ》は、ついさっきの、あの気分になろうと、一生懸命になる。「A、B、C、ビタミンD」まるで、この歌の文句が、死者を生き返らせるじゅもんか何かのように、彼は、ひとりでくりかえしてみる。しかし、さっぱり効《き》き目がない。美しい思い出が、どうしてもよみがえってこないで、ただ、嫉妬や醜悪や悲惨だけが、いまわしくもよみがえってくるばかりだった。斬られた肩から血をしたたらせているポーペー。ぞっとするほど、あさましい格好で眠りこけているリンダ。ベッドのそばの床の上にこぼれたメスカル酒に、ブンブンたかっている蝿のむれ。彼女が通りかかると、口々に悪口を言う少年たち……ああ、いけない、だめだ! 彼は、目をつぶると、こうした思い出をきっぱり振り捨てようとして、首を横に振る。「A、B、C、ビタミンD……」彼女の膝の上に抱かれて、くりかえしくりかえし歌をききながらゆすぶられているうちに、眠りこんだあのころのことを、彼は、何とかして思いだそうと、やっきになるのだった。「A、B、C、ビタミンD、ビタミンD、ビタミンD……」
超音電気オルガンの音が、むせび泣くような漸強音《クレセンド》へと高まっていったかと思うと、突然、芳香循環装置によって、ビジョザクラの香りが、強烈なパチョリの香りに変わった。リンダは、身動きして目をさまし、うろたえたように、しばらく準決勝試合をじっと見つめていたが、やがて顔を上げると、新しい香気を一、二度かいで、急ににっこりする――それは、有頂天になっている子供の微笑《ほほえみ》だった。
「ポーペー!」と、つぶやきながら、彼女は目を閉じる。「ほんとにいいわ、ほんとに……」彼女は、フッとため息をつくと、がっくり、あおむけに枕にもたれかかる。
「でも、リンダ!」野蛮人《サーヴェジ》は、哀願するように言う。「ぼくが、わからないのか?」彼は、ほんとに一生懸命になって、できる限りのことはしてみたのだ。それなのに、彼女は、なぜ忘れさせてくれないのだろう? 彼は、彼女のぐったりした手を、ほとんど乱暴なくらいぎゅっと握りしめた。それは、まるで、このあさましい逸楽の夢から、この下劣な呪わしい記憶から、母をむりやりに呼び起こし――この現在へ、この現実へ、彼らの大きな恐怖の原因《もと》となっているものが、今にも起ころうとしているまさにそのために、崇高で、意義深く、絶望的に重大で、ぞっとするようなこの現在、恐るべきこの現実へ引きもどそうとするかのようだった。「ぼくがわからないのか、リンダ?」
彼は、彼女がそれに答えて、かすかな力をこめて握りかえしたような気がした。彼の目に涙が浮かんできた。彼女の上にかがみ込んで、彼はキスをした。
彼女の唇が動いた。「ポーペー!」と、彼女は、またつぶやく。それをきいて、彼は、まるで、糞尿《ふんにょう》を手桶《ておけ》一ぱい、顔にぶっかけられたような気がしたのだった。
彼の心の中に、突然、怒りがわき起こった。彼の悲しみの激情は、またもや進路をはばまれ、別のはけ口をもとめて、悲痛な憤怒の嵐《あらし》と変わった。
「でも、ぼくはジョンだよ!」と、彼は叫ぶ。「ジョンだよ!」そして、気も狂いそうな悲しみのあまり、ほんとに彼女の肩をつかんで、そのからだをゆすぶる。
リンダの目が弱々しく開き、彼を見て、彼であることがわかる。――「ジョン!」――しかし、彼女は、現実の彼の顔や、現実の乱暴な手を、想像の世界の――つまり、誰も知らない彼女の心の中の、パチョリ香や、超音電気オルガンに相当するものの間に置いて、また、夢の世界を構成している、美化された記憶や、奇妙に置き換えられた感覚の間に置いて、ながめているのだった。彼女は、彼が、息子のジョンであることはわかったのだが、自分がポーペーといっしょにソーマ休暇を過ごしていた。あのマルペイスの楽園へのちん入者か何かのような気がしたのだった。あたしがポーペーを好いているので、あの子は腹を立てたんだわ。ポーペーがあたしといっしょに寝ているので、あの子は、あたしをゆさぶったのよ――まるで、何かけしからんことでもしでかしているみたいに。文明人だって、全部が全部こんな真似をするわけではないんだ、と言わないばかりに。「すべての人は、ほかのすべての……」彼女の声が、突然、弱まり、ほとんどききとれないような、息切れしたしわがれ声となった。口がポカンとあいて、彼女は、肺に空気を吸い込もうと、死にもの狂いの努力をする。しかし、まるで、呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだ。彼女は、大声をあげようとする――だが、声がちっとも出ない。ただ、その見ひらいた目の恐怖の色が、彼女の苦痛が、どんなに恐ろしいものであるか、を物語っている。彼女の両手が、咽喉《のど》もとへのびたかと思うと、やがて、その手が空気をつかみ取ろうとする――もう吸い込むことができないので、彼女にとっては、なくなってしまった空気を。
野蛮人《サーヴェジ》は立ち上がって、彼女の上に身をかがめた。「どうしたんだ、リンダ? どうしたんだ?」哀願するような声だった。まるで、どうか安心させておくれ、と頼んでいるかのようだった。
彼をながめる彼女の顔には、いうにいわれぬ恐怖――恐怖であり、彼には非難と感じられるものが、みちみちていた。彼女は、ベッドの上で起き上がろうとしたが、また、あおむけに、枕の上に倒れかかった。その顔は、ぞっとするほどゆがみ、唇はまっ青だった。
野蛮人《サーヴェジ》は、振り向いて、病室の内部《なか》を突っ走った。
「早く、早く!」と、彼は叫んだ。「早く来てください!」
ジッパー捜しをやっている双児たちの輪のまん中に立っていた婦長が、振り返った。彼女の顔に、一瞬、驚きの色が浮かぶが、それが、たちまち、非難の色に変わる。「ギャア、ギャア騒がないで! 子供たちがいやがるじゃありませんか」眉をしかめながら、彼女がたしなめる。「子供たちの条件反射訓練が、すっかり台なしになるかも……まあ、何てことをなさるんですか?」彼が、双児たちの輪の中へ、無理に割り込んだのだ。「気をつけてくださらなくちゃ!」一人の子供が、金切り声をあげている。
「早く、早く!」彼は、婦長の袖をつかんで、後ろ手に彼女をひきずってくる。「早く来てください! 様子がおかしいんです。ぼくが殺してしまったんです」
二人が、病室のすみの現場へやって来たころには、リンダは、もう死んでいた。
野蛮人《サーヴェジ》は、まるで凍りついたように、しばらく無言で立っていたが、やがて、ベッドわきにひざまずくと、両手で顔をおおって、身も世もあらぬといったふうに、すすり泣くのだった。
婦長は、ベッドのそばにひざまずいている男の姿(お話にもならない醜態だわ!)を見たり、ジッパー捜しをやめて、病室の向こうのすみから、目をこらし、鼻をひくひくさせながら、第二十号ベッドのまわりで起こっている、恐ろしい場面を、じっと見つめている双児たち(かわいそうな子供たちだわ!)に目をやったりしながら、どうしたらよいかわからずに立っていた。彼をたしなめるほうがいいのだろうか? はしたない真似をやめて、しゃんとさせてやるほうがいいのだろうか? 場所柄をわきまえなさい、と注意してやるほうがいいのだろうか? このいたいけな、罪もない子供たちに、どんなに取り返しのつかない悪い影響を及ぼすことになるのか、知らせてやるべきなのだろうか? あんな、ぞっとするような悲鳴をあげて、子供たちみんなの、健全な対死条件反射訓練を、台なしにしてしまうなんて!――あれでは、まるで、死が恐ろしいものだ、と、いわないばかりだし、死に別れたら、それこそ、大騒ぎをしなければならないほど、かけがえのない人がいるんだ、と見せつけているようなものだわ! ひょっとすると、子供たちに、死というものに対する、きわめて不幸な考え方を植えつけて彼らを動転させ、その結果、彼らが、全く誤った、全く反社会的な挙に出るようになるかもしれないのだ。
彼女は、ツカツカと歩み寄って、彼の肩に手をかける。「はしたない真似はしないでくださいね」と、低い怒った声で言う。しかし、振り返ると、双児たちが、もう六人も立ち上がって、病室をこちらにやって来るのが見える。遊戯の輪がくずれかけている。次の瞬間には……いけない、危険があまりにも大き過ぎるわ。グループ全体の訓練が、六、七か月も逆もどりするかもしれないんだもの。彼女は、急いで、その危険にさらされている子供たちのところへもどる。
「さあ、チョコレート・エクレアのほしいのは、どなたでしょう?」彼女は、大きな、うきうきした声で呼びかける。
「ぼくだよう!」そのボカノフスキー・グループ全員が、声をそろえて、いっせいにかん高い声を張りあげた。第二十号ベッドの、さっきの騒ぎなど、すっかり忘れてしまっている。
「おお、神様、神様、神様、神様……」野蛮人《サーヴェジ》は、いつまでも、ひとり言のようにくりかえすのだった。胸いっぱいの悲しみと後悔に、すっかり取り乱した彼が、口にできる、たったひとつの意味のある言葉がそれだった。「神様!」彼は、声を出してささやいた。「神様……」
「あのひと、いったい、何て言ってるの?」彼のすぐそばで、超音電気オルガンのさえずるような音をつき抜けて、歯切れのよいかん高い声がする。
野蛮人《サーヴェジ》は、荒々しく立ち上がり、顔をおおっていた手をはなして、振り向く。右手に長いエクレアの切れはしをつかみ、その寸分ちがわない顔のいろいろなところに、どろどろのチョコレートをなすりつけた。カーキー色の制服を着た双児が五人、彼に向かって、狆のように目をぱちくりさせながら、一列に並んで立っている。
五人の目が、彼の目とかち合ったとたん、五人が、申し合わせたように、にやりとした。中のひとりが、手に持ったエクレアの切れはしで指さす。
「この女《ひと》死んじゃったの?」と、その子がきいた。
野蛮人《サーヴェジ》は、一瞬、黙ってその五人を見つめる。それから、何も言わずに立ち上がり、やはり無言のまま、ドアの方へゆっくりと歩いていく。
「あの女《ひと》死んじゃったの?」知りたがりやのその子が、彼のそばへちょこちょこ歩み寄りながら、またきいた。
野蛮人《サーヴェジ》は、その子を見おろしたが、やはり無言のまま、その子をわきへ押しのける。子供は床に倒れて、すぐにワアワア泣きだした。だが、野蛮人《サーヴェジ》は見むきもしない。
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第十五章
パーク・レーン臨終病院の下級職員は、百六十二名のデルタ階級の人々から構成されていて、それが二つのボカノフスキー・グループに分けられ、その各グループが、それぞれ、八十四名の赤毛の女性と、七十八名の黒髪長頭の男性とから成り立っている。一日の勤務時間が終わる午後六時になると、この二つのグループが病院の玄関に集合して、会計係長補佐から、その日の割り当て分のソーマの配給を受けるのだった。
野蛮人《サーヴェジ》は、エレベーターを降りると、彼らのまん中へはいり込んだ。しかし、彼の心はうわの空で――死と、深い悲しみと、後悔の念に取りつかれていた。自分が、今、何をしているのかにさえ気がつかず、彼は、ただ機械的に、群衆を肩で押しわけ押しわけ、進んでいく。
「押すのは誰だい? どこへ行こうというんだい?」
群衆の咽喉から、異口同音に、高・低、ただ二種類の声が、あるいはかん高く、あるいは低く、叫ぶ。オレンジ色の暈《かさ》をかぶったお月様を思わせる、そばかすのある、ひげのない顔と、くちばしの突き出た鳥の顔を思いだすような、二日分の無精ひげの生えた、やせこけた顔――ただ二種類の顔が、まるで続いた鏡の照り返しのように、怒って彼の方を振り向く。彼らの怒声と、わき腹をひどくこづかれた痛みに、彼は、ハッとわれに返る。そして、周囲の現実に気がつき、あたりを見まわして、目の前に見えるものがわかってくる――わかってくると同時に、昼となく夜となくくりかえされる、あの気も狂いそうな妄想《もうそう》、全くみわけもつかない、寸分ちがわぬ々人間が、うじゃうじゃたかっている、あの悪夢に対する、気のめいるような恐怖と嫌悪に襲われるのだった。双児、また、双児……あのときは、たくさんの双児が、まるで、うじ虫のように、きたならしく、リンダの死の神秘にたかっていたのだった。ところが、今度は、すっかり成長した、もっと大きなうじ虫どもが、もぞもぞはいながら、彼の深い悲しみと後悔の中へはいり込んできたのだ。彼は立ち止まり、途方にくれておびえた目であたりを見まわし、カーキー色の群衆をじっと見つめた。その群衆のまっただ中に、頭ひとつ分だけ丈の高い自分が立っている。「ここには、りっぱな人たちが、なんとたくさん住んでいるのでしょうね!」このうたうような言葉が、せせら笑うように、彼にからかいかける。「人間って、なんと美しいのでしょう! ああ、すばらしい新世界よ……」
「ソーマの配給でーす!」と、大きな声が呼びたてる。「きちんと並んでくださーい。さあ、早く」
ドアが開いて、テーブルと椅子が玄関へ持ちだされる。それは、黒い鉄の金庫をさげてはいってきた、陽気なアルファの青年の声だ。待ちこがれていた大人《おとな》の双児たちから、満足のざわめきが起こる。彼らは、野蛮人《サーヴェジ》のことなど、すっかり忘れてしまう。彼らの関心は、いまや、青年がテーブルの上に置いて、ふたをあけようとしている、黒い鉄の金庫に集中する。ふたが開いた。
「おお――おお!」まるで、花火でも見物しているみたいに、百六十二人全員が、いっせいに、声をあげる。
青年は、小さな丸薬ばこを、ひとつかみ取りだす。「それでは」と、彼が威張って言う。「とりにきてください。一度に一人ずつ。押し合わないで」
一度に一人ずつ、押し合わないで、双児の職員たちは、前へ進んでくる。最初は男が二人、次は女が一人、次はまた男が一人、その次は女が三人、その次は……
野蛮人《サーヴェジ》は、それをながめている。「ああ、すばらしい新世界よ、ああ、すばらしい新世界よ……」この歌うような言葉は、彼の心の中で、その調子を変えたようだ。この言葉は、苦痛に責められ、後悔にさいなまれている間じゅう、彼を嘲笑《ちょうしょう》し続け、どんなに、ぞっとするような冷笑のひびきによって、彼をあざけったことだろう! 悪魔のようにせせら笑いながら、この言葉は、下劣な不潔さで、ムカムカするような醜悪な悪夢を、これでもか、これでもか、とばかり、しつこくたたみかけるのだった。ところが、今、突如として、それが、武器を執って立ち上がれ、と高らかに呼びかけるらっぱのひびきと変わったのだ。「ああ、すばらしい新世界よ!」美《うる》わしくなれるのよ、悪夢でさえ、美しくけ高いものへと変化させることは、できないわけではないのよ、と、ミランダが宣言しているのだ。「ああ、すばらしい新世界よ!」この宣言こそ、ひとつの挑戦であり、至上命令であった。
「おい、そこの押し合いをやめたまえ!」会計係長補佐が、ひどく怒って怒鳴りつける。そして、金庫のふたをバタンとしめる。「よし、行儀よくするまで、配給は取りやめだ」
デルタたちは、ぶつぶつ言い、ちょっと互いに押し合うが、やがて静かになる。おどしがきいたのだ。ソーマを取り上げられるなんて――思っただけでも、ぞっとする。
「よろしい」と言って、青年は、また金庫のふたをあける。
リンダは奴隷だった。リンダは死んでしまった。しかし、ほかの人たちは、自由に生きていかねばならぬ。そして、世界を美しいものにしなければならないのだ。これこそ、まさに償いであり、義務なのだ。すると、突然、野蛮人《サーヴェジ》の心に、しなければならないことが、まぶしいほどはっきりとわかってきた。まるで、(鎧戸《よろいど》鎧戸《よろいど》が開いて、カーテンがあいたようなものだった。
「次」と、会計係長補佐が声をかける。
カーキー色の制服を着た、次の女が進み出た。
「やめたまえ!」と、野蛮人《サーヴェジ》が、大きなよくひびく声で呼びかける。「やめたまえ!」
彼は、人ごみをかきわけかきわけ、テーブルのそばへ進んでいった。デルタたちは、びっくりして、彼の顔をみつめる。
「これは、これは!」と、会計係長補佐が声をひそめる。「野蛮人《サーヴェジ》さんですか」彼は、びっくりする。
「みなさん、お願いします」と、野蛮人《サーヴェジ》がしんけんな調子で言う。「耳を貸してください……(シェイクスピア「ジューリアス・シーザー」第三幕第二場)」彼は、今まで大ぜいの前でしゃべった経験がないので、言いたいことをうまく発表するのは、ずいぶんむずかしいな、と思う。「そんな恐ろしい薬をのんではいけません。それは毒薬です。毒薬なんです」
「ねえ、野蛮人《サーヴェジ》さん」会計係長補佐が、なだめるように微笑しながら言う。「すみませんが、ぼくに……」
「からだだけではなくて、心までもだめにしてしまう毒なんです」
「そのとおりです。それはそうと、配給は続けてもいいでしょう? ねえ、お願いですから」危険で有名な動物でもなでるように、彼は、こわごわ、野蛮人《サーヴェジ》の腕をそっとなでる。「ちょっと配らせて……」
「ぜったいだめだ!」と、野蛮人《サーヴェジ》が叫ぶ。
「でも、ねえ、君……」
「ぜんぶ捨ててしまうんだ、そんな恐ろしい毒薬は」
「ぜんぶ捨ててしまうんだ」という言葉が、幾重にも重なった不可解の層を刺し通して、デルタたちの意識の急所に、ピリッと触れた。群衆の中から、怒りのささやき声が起こる。
「ぼくは、みなさんを自由にしてあげるために来たのです」と、野蛮人《サーヴェジ》は、双児の大人たちの方へ向き直りながら言う。「ぼくは……」
会計係長補佐は、もう、そんな演説などきいていない。玄関からこっそり抜け出て、電話帳の番号をくっている。
「自分の部屋にもいないんだね。アフロディーティアムにもいないし、センターにもいないし、大学にもいないんだよ。いったい、どこへ行っちまったのかな?」
ヘルムホルツは肩をすくめる。彼らは、野蛮人《サーヴェジ》が、いつもの待ち合わせ場所のどこかで待っているものと思って、勤めから帰って来たのだが、彼の姿は、どこにも見当たらないのだ。そして、これは困ったことだった。というのは、みんなで、ヘルムホルツの四人乗りのスポーティ・コプター(スポーツ用ヘリコプター)に乗って、ビアリッツ(フランス南西部、ビスケー湾に臨む町)までひと飛びするつもりだったからである。彼が早く帰ってきてくれないと、食事に遅れてしまう恐れがあるのだ。
「もう五分だけ待ってやろう」と、ヘルムホルツが言う。「それまでに帰ってこなけりゃ、しかたがないから……」
電話のベルが、けたたましく鳴りひびいて、彼の言葉を中断する。彼は、受話器を取り上げる。「もしもし、はい、そうです」それから、長い間相手の言葉をきいていたが、「やれやれ、何てことをしでかしやがるんだ!」と、ののしる。「すぐ行きます」
「どうしたんだ?」と、バーナードがきく。
「パーク・レーン病院に勤めている、ぼくの友だちからなんだよ」と、ヘルムホルツが言う。「野蛮人《サーヴェジ》が、あそこに行っているんだ。奴《やっこ》さん、気がふれたらしいぜ。ともかく、ぐずぐずしちゃいられない。君もいっしょに来てくれたまえ」
二人は、いっしょに、廊下をエレベーターの方へ走って行く。
「でも、君たちは、奴隷の身分でいたいのか?」二人が、パーク・レーン病院へ足を踏み入れた、ちょうどそのとき、野蛮人《サーヴェジ》はこう言っていた。その顔は紅潮し、その目は、情熱と義憤に燃えている。「君たちは、赤ん坊のままでいたいのか? そうだ、赤ん坊だ。ピイピイ泣いて、よだれをたらしているような(シェイクスピア「お気に召すまま」第二幕第七場)」と、彼はつけ加える、群衆の、まるで動物のような、ポカンとしたまぬけ面に、彼は、すっかり業《ごう》を煮やして、救いに来たはずの相手に、つい、侮辱的な言葉を浴びせてしまったのだった。しかし、この侮辱的な言葉も、厚い甲羅のような彼らの愚鈍さにぶつかっては、何の手ごたえもなく、全くの浴びせ損に終わってしまった。というのは、彼らは、目にどんよりした、ふきげんな怒りを浮かべながら、ぼんやりした顔で、彼を見つめているばかりだったからだ。「そうだ、よだれをたらしているんだ!」彼は、文字どおり、絶叫する。悲しみも、後悔も、憐憫《れんびん》も、義務も――それらすべてが忘れ去られ、いわば、この人間以下の化け物たちに対する、強烈などうすることもできない嫌悪の念の中に、吸収されてしまったのだ。「君たちは、自由に、そして、人間らしく、なりたくはないのか? 人間らしいというのは、どんなことか、また、自由というものは、どんなものか、さっぱりわからないのか?」激怒のあまり、彼は雄弁になり、言葉が、奔流となって、ドッとほとばしる。「どうだ?」と、彼はくりかえすが、誰ひとりとして、彼の質問に答える者はいない。「よろしい、それじゃ」と、彼は、きびしい口調で続ける。「教えてやる。君たちが望もうと望むまいと、ぼくが、君たちを自由の身にしてやる」そう言って、病院の中庭に向いた窓を押しあけると、彼は、ソーマの錠剤のはいった小さな丸薬ばこを、ひとつかみずつ、中庭へ投げだしはじめた。
カーキー色の群衆は、この乱暴な冒涜《ぼうとく》行為に驚き、おびえながら、一瞬、黙って石のように立ちすくむ。
「奴《やっこ》さん、気がふれちまったんだよ」目を大きく見張りながら、バーナードがささやく。「あれじゃ、殺されるぞ。あんなことを……」突然、群衆の中から、大きな叫びがあがったかと思うと、それが、怒涛《どとう》のうねりのような群衆の動きにのって、おどしつけるように、野蛮人《サーヴェジ》に向かって迫っていく。「フォード様、彼をお助けください!」と、叫んで、バーナードは、顔をそむける。
「フォードは、自ら助くる者を助く、だよ」といって、にっこり、それこそ、ほんとに歓喜のほほえみを浮かべながら、ヘルムホルツ・ワトソンは、群衆を押しのけて進んでいく。
「自由だ、自由だ!」と、叫びながら、野蛮人《サーヴェジ》は、片方の手で、ソーマを中庭へ投げだし続け、もう片方の手を振りまわしながら、襲いかかってくる、区別もつかない同じ顔を、つぎつぎにぶんなぐる。「自由だ!」すると、突然、ヘルムホルツが、そばに現われる――「やあ、ヘルムホルツさん!」――もうひとつ、ポカリ――「とうとう人間になりましたよ!」――そう叫びながらも、開いた窓から、ひとつかみ、ソーマを投げ捨てる。「そうです、人間だ! 人間なのだ!」と、わめいているうちに、ソーマは一つもなくなってしまった。彼は、金庫を持ち上げて、空っぽになった黒い底をみんなに見せる。「さあ、これで、みんなは自由になったんだ!」
デルタたちは、いっそう激しく荒れ狂い、わめきながら襲いかかる。
その衝突現場のへりの方でぐずぐずしながら、「あの二人は、もうだめだ」と言ったかと思うと、バーナードは、いきなり、衝動に駆られたように、二人を助けるために走りだす。が、思い直して立ち止まる。やがて、恥ずかしくなって、また歩きだす。それから、また思い直し、ただ、まごまごして、みじめな気持ちに襲われながら立っている――もし、助けに行かなければ、あの二人は殺されるかもしれない。だが、もし、助けに行けば、今度はおれのほうが殺されるかもしれないな、と――ちょうどそのとき、(ありがたや、フォード様!)大きな保護|眼鏡《めがね》と、豚の鼻のようなもののついたガス・マスクをつけた警官隊が、駆けつけた。
バーナードは、走っていって警官隊を迎える。彼は、両腕を振りまわす。これも行為だ。何かをやっていることになるのだ。彼は、「助けてくれ!」と、何回も叫ぶ。わざと、自分が助けているような錯覚にとらわれようとして、声をだんだん大きくする。「助けてくれ! 助けてくれ! 助けてくれぇ!」
警官たちは、彼をわきへ押しのけて、作業を続ける。噴霧器を、締め金で肩にかけた三人の警官が、もうもうとした、ソーマの濃い霧を、空中へまき散らす。ほかの二人は、携帯用合成音楽演奏機のまわりで、忙しく働いている。強力な麻酔剤入りの水鉄砲を構えた、ほかの四人の警官が、群衆の中へ押し入り、シューッ、シューッと発射しながら、暴れ方のひどい連中を、てきぱきと鎮圧していく。
「早く、早く!」と、バーナードがわめきたてる。「早くしないと、あの二人が殺されてしまう。あの二人が……あっ!」彼のおしゃべりがうるさくなった一人の警官が、彼に、水鉄砲を一発、シューッとお見舞いしたのだ。バーナードは、一、二秒、危っかしく、よろめきながら立っていたが、やがて、その脚は、骨も、腱も、筋肉も失って、ただのゼリーの棒のようになったかと思うと、しまいには、ゼリーでさえなくなり――とけて水になり、彼は、床の上へドサッと倒れた。
だしぬけに、合成音楽演奏機《ミュージック・ボックス》から、ひとつの声が流れだす。「理性の声」「友情の声」だ。サウンド・トラックの|巻きもの《ロール》がまわりだして、暴動鎮圧合成演説第二号(強度 中等)を、演奏しはじめる。架空の人間の胸の奥底から、じかに、「みなさん、みなさん!」と、語りかける。その声に、無限のやさしい恨みがこもっていて、あまりにもの悲しいので、ガス・マスクの奥の警官の目さえ、一瞬、涙にうるんだほどだった。「これは、いったい、どうしたことでしょう? なぜ、みなさんは、いっしょに楽しく、仲よくしないのですか? 楽しく、仲よく」と、その声がくりかえす。「なごやかに、なごやかに」その声が、震えたかと思うと、ささやきに変わり、一瞬、ふっつりと消える。「ああ、お願いだ、しあわせになってくださいよ」せつせつとした情熱をこめながら、例の声がまた始める。「ほんとに、お願いだ、仲よくしてくださいよ! どうか、お願いだ、仲よくして……」
二分たつと、その「声」とソーマの霧のききめが現われてくる。涙にくれながら、デルタたちは、お互いにキスし合い、抱き合う――六人もの双児の大人たちが、一度にかたまって抱き合うのだ。ヘルムホルツや、野蛮人《サーヴェジ》でさえ、今にも泣きだしそうだ。会計課から、新規配給分の丸薬ばこが持ちだされ、改めて、大急ぎで配給が行なわれる。そして、あの「声」が、愛情豊かなバリトンで、別れの言葉を告げると、それに調子を合わせながら、双児の群衆は、まるで胸も張り裂けるみたいに、オイオイ泣きながら、散らばっていく。「さようなら、いとしい、いとしいみなさん、フォード様が、お守りくださいますように! さようなら、いとしい、いとしいみなさん、フォード様が、お守りくださいますように! さようなら、いとしい、いとしい……」
デルタの最後の一人が立ち去ると、警官は、放送のスイッチを切る。天使のような「声」が消える。
「おとなしくお越しいただけましょうか?」と、巡査部長がきく。「それとも、麻酔薬を一発、お見舞いいたしますかね?」と、彼は威嚇《いかく》するように、水鉄砲のつつ先を向ける。
「いや、おとなしくついていくよ」野蛮人《サーヴェジ》が、切れた唇や、ひっかかれた首や、かみつかれた左手などを、かわるがわる、パタパタとたたきながら、答える。
血の止まらない鼻を、まだハンカチでおさえながら、ヘルムホルツも、そうだ、というようにうなずく。
ハッとわれに帰って、脚《あし》が動くようになったとたん、バーナードは、この隙《すき》とばかり、できるだけ目だたないように、ドアの方へ行きかかえる。
「おい、君」と、巡査部長が声をかけると、すかさず、ガス・マスクをかぶった一人の警官が、部屋を横切って走っていって、その青年の肩をおさえる。
バーナードは、ぼくに何の関係があるんだ、と、むっとした顔で振り向く。逃げるのかって? 逃げるなんて、とんでもない。「でも、いったい、ぼくに何の用があるんだい?」と、彼は部長に食ってかかる。「ぼくには、さっぱり心当たりがないぜ」
「だって、あなたは犯人の友人でしょう?」
「それは……」と言いかけて、バーナードはためらう。だめだ、万事休す。ぜったいに、そうじゃない、とは言えないからな。「それが、どうかしたのかね?」と、彼は開き直る。
「だから、来てください」と答えて、巡査部長は、戸口で待っているパトカーの方へ、先に立って歩いていく。
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第十六章
三人が通された部屋は、大統領の書斎だった。
「大統領閣下は、すぐお見えになります」ガンマーの執事は、そう言うと、彼らだけを残して立ち去った。
ヘルムホルツは、声を立てて笑う。
「こりゃ、まるでカフェイン水パーティーだな、裁判なんてもんじゃないよ」と言って、一ばん豪華な圧搾空気入り安楽椅子《アーム・チェア》に、ドサッと倒れ込む。「元気を出せよ、バーナード」友人の心配そうな青い顔をちらと見ながら、彼はつけ加える。しかし、バーナードは、どうしても元気が出ない。返事もせず、ヘルムホルツには目もくれないで、わざわざ部屋じゅうで一ばんすわり心地の悪い椅子を選び、そこへ行って腰をおろす。権力者の怒りを、少しでも和《やわ》らげられたら、というはかない望みの表われなのだ。
一方、野蛮人《サーヴェジ》は、気もそぞろだが、うわべだけはもの珍しそうに、書架の蔵書や、番号を打った整理棚のサウンド・トラック・ロールや、読書機《リーディング・マシーン》のボビン(巻き枠)などをのぞきながら、セカセカと部屋の内部《なか》を歩きまわっている。窓の下のテーブルの上には、しなやかな黒の合成皮装丁で、大きな金色のT字架の判を押した、分厚い本が一冊、置いてある。彼は取り上げて開いてみた。「フォード著、わが生涯と事業」その本は、フォード知識伝道協会によって、デトロイトで刊行されたものだった。何となくページをめくり、ここの一文、あそこの一節というふうに拾い読みをしながら、どうも、この本はおもしろくないな、という結論に達した、ちょうどそのとき、ドアが開いて、西欧駐在大統領が、活発な足どりで部屋にはいってきた。
ムスタファ・モンドは、三人全部とそれぞれ握手を交わした。が、話しかけた相手は、もっぱら野蛮人《サーヴェジ》だった。「ところで、君は、文明があまりお気に召さないようだね、野蛮人《サーヴェジ》君?」と、彼は言う。
野蛮人《サーヴェジ》は、彼を見つめた。野蛮人《サーヴェジ》は、今まで、嘘をついてやろう、怒鳴りつけてやろう、何を言われても、むっつりと黙って、相手にならずにいてやろう、と肚《はら》を決めていたのだったが、大統領が、みるからに、気さくな、ものわかりのよさそうな顔をしているのをみて安心したので、あけすけに、本当のことを言ってやろう、と思い直したのだった。「そうです」と、彼は首を横に振った。
バーナードは、ぎょっとして、おびえた顔をする。あんな言葉をきいて、大統領は、どう思われるだろう? 文明が嫌いだ、と――しかも、大っぴらに、人もあろうに、大統領に向かって公言するような男の友人だ、と烙印《らくいん》を押されるなんて――こんな恐ろしいことがあるだろうか。「でも、ジョン」と、彼は何か言いかける。が、ムスタファ・モンドにジロリとにらまれると、ちぢみあがって口をつぐむ。
「そりゃ、もちろん」と、野蛮人《サーヴェジ》は、認めながら、言葉を続ける。「とてもすばらしいものだって、いくつかあります。たとえば、空中に鳴りひびく、あの音楽などは、どれもこれも……」
「時には、数知れぬ弦楽の音《ね》が、わたしの耳もとにひびき、また時には、さまざまの歌声がきこえてくる(「あらし」第三幕第二場)」
野蛮人《サーヴェジ》の顔が、突然、喜びにパッと輝く。「あなたもお読みになったことがあるんですか?」ときく。「ぼくは、このイギリスじゅうに、あの本のことを知ってる人は、誰もいない、と思っていたんですよ」
「ほとんどないがね。わたしは、その数少ない中の一人なのだ。あれはね、禁書ということになっている。しかし、ここで法律を作るのはわたしなのだから、わたしは、また、その法律を犯すことだってできるのだ。何ら罰せられずにね、マルクス君」と、バーナードの方へ向き直りながら、彼はつけ加える。「だが、残念なるかな、君にはそれが許されないのだ」
バーナードは、さらにいっそう絶望的な苦悩に沈む。
「でも、あれは、なぜ禁書になっているのですか?」と、野蛮人《サーヴェジ》がきく。シェイクスピアを読んだことがある人とめぐり会った喜びに、彼は、一瞬、ほかのすべてのことを忘れてしまったのだ。
大統領は、肩をすくめる。「なぜか、といえば、古いからなのだ。それが何よりの理由だよ。ここでは、古いものは、何の役にも立たないからね」
「たとえ、それが、美しいものであっても、ですか?」
「美しい場合は、なおさらだ。美しいものは人をひきつける。われわれは、人々が、古いものにひきつけられるのを好ましいと思わない。われわれとしては、彼らに、新しいものが好きになってもらいたいのだ」
「でも、新しいものときたら、それこそ、あんまりばかげていて、ほんとにぞっとしますよ。ただヘリコプターが飛びまわって、人がキスしているのが、お客に感じられるような、あんな芝居なんか」と、彼は顔をしかめる。「山羊《やぎ》どもに、猿どもめ!」オセローの言葉でも借りないことには、侮蔑《ぶべつ》と憎悪を表わす適当な言葉がみつからないのだ。
「ともかく、おとなしい良い動物たちだがね」と、大統領は、つけ足すようにつぶやく。
「なぜ、あんなものはやめちまって、その代わりに、『オセロー』を見せてやらないんですか?」
「それは、今も言ったとおり、古いからだ。それにまた、人々には理解できないのだ」
そうだ、それは確かだ。彼は、ヘルムホルツが、「ロミオとジュリエット」の朗読をきいて、笑いこけたときのことを思いだした。「なるほど、それじゃ」と、しばらく間を置いて、彼が言う。「『オセロー』に似ていて、みんなが理解できるような、新しいものなら、いいわけですね」
「それそれ、われわれは、みんな、そいつを書きたい、と思ってるんだよ」長い沈黙を破って、ヘルムホルツが口をはさむ。
「そして、君たちに、ぜったい書けっこないのも、それだな」と、大統領が言う。「というのは、もし、本当に『オセロー』に似ていれば、どんなに新しくても、誰にも理解できないだろうし、それに、もし新しければ、ぜったいに、『オセロー』に似ているはずはないのだから」
「それは、どうしてですか?」
「そうですよ、どうしてですか?」と、ヘルムホルツもくりかえす。彼もまた、不快なその場の現実を忘れかけたのだ。心配と不安で青くなっていたバーナードだけは、それを忘れないでいたが、二人は、彼のことなど、あたまから無視していたのだ。「どうしてですか?」
「それは、われわれの住んでいる世界が、オセローの世界とはちがうからだ。鋼鉄がなければ、自動車は作れないだろう――それと同じで、社会的不安というものがなければ、悲劇は作れないのだ。今日、世界は安定している。人々は幸福だ。ほしいものは何でも手にはいるし、手に入れることのできないものは、誰もほしがらない。何不足なく暮らしている。安全だし、病気にもかからない。死ぬことも恐れない。しあわせなことに、激情や、老齢などといったものは、まるっきり知らない。父親や、母親にわずらわされることもなければ、妻子だの、恋人だの、強い感情のもとになるようなものは、何ひとつもたない。自分に要求されるより以外の行動は、実際上、できないような条件反射教育を受けている。それに、もし何かムシャクシャするようなことがあっても、ソーマがある。それを、だね、野蛮人《サーヴェジ》君、君は、自由のためだ、といって、窓から外へほうりだしたんだよ。『自由だ!』といってね」彼は笑う。「デルタたちに、自由とはどんなものか、わからせようとするとはね! おまけに、今度は、連中に、『オセロー』をわからせようというんだろう! いやはや、君もねえ!」
野蛮人《サーヴェジ》は、しばらく黙っている。「でも」と、彼は、なおもしつこく食い下がる。「『オセロー』は、すばらしいです。『オセロー』は、あんな触感映画《フィーリー》より、もっとすばらしいですよ」
「それは、もちろんそうだ」と、大統領も同意する。「しかし、いってみれば、それは、社会的安定というものを手に入れるために、われわれが払わねばならない代価なのだよ。幸福をとるか、それとも、昔、高級芸術と呼ばれていたものをとるか、二つに一つを選ばねばならないのだ。われわれは、高級芸術の方を犠牲にした。その代わり、触感映画《フィーリー》もあれば、嗅覚オルガンもある」
「でも、あんなものは、何の意味もありませんよ」
「いや、意味そのものなのだよ。観衆に、快感をしこたま味わわせるのだから」
「でも、あんなものは……あんなものは、白痴のたわ言(「マクベス」第五幕第五場)ですよ」
大統領は笑う。「君は、自分の友だちのワトソン君に対して、ずいぶんひどい言い方をするんだね。わが国の錚々《そうそう》たる感情操作技師たちの中の第一人者に対して、ね……」
「でも、彼の言うとおりなのだから、しかたないです」と、ヘルムホルツは、むっつりして言う。「あれは、たしかに、白痴のたわ言ですから。何も言うべきこともないのに書くんですから……」
「そのとおりだ。しかし、それだからこそ、きわめて大きな創作力が必要なのだ。ちょうど、最小限ぎりぎりの鋼鉄を使って、自動車を作るようなものだからね――つまり、ほんの純粋な感覚だけで、芸術作品を作り上げているのだ」
野蛮人《サーヴェジ》は、首を横に振る。「ぼくは、どれもこれも、ほんとにぞっとしますがね」
「それは、もちろん、そうだろう。不幸に対する過剰補償と比べてみた場合、現実の幸福というものは、いつでも、かなり醜悪に見えるから。それに、いうまでもないことだが、社会的安定というものは、社会的不安ほど、おおよそ、そんなにはなばなしいものじゃないからね。また、満足の状態には、運命との雄々しい戦いの魅力もなければ、誘惑との苦闘や、熱情とか疑惑によって起こる、致命的な破滅につきもののはなやかさもない。幸福は、けっして壮麗なものではないのだ」
「それは、そうでしょう」しばらく間をおいてから、野蛮人《サーヴェジ》が言う。「しかしですね、あの双児たちのような、全くあんなひどいところまで、徹底しなければならない必要性があるのですか?」彼は、組み立て台にむらがっていた、全く同じ小人たちの、あの長い列や、ブレントフォードのモノレール駅の入口に、長蛇の列を作っていた、あの双児の群れや、リンダの臨終の床のまわりにうごめいていた、あのうじ虫のような子供たちや、襲いかかってきた暴徒たちの、次から次へとくりかえされる同じ顔、顔、顔……果てしなく頭に浮かんでくる幻を、ぬぐい去ろうとするかのように、彼は、片方の手で目をこするのだった。彼は、包帯をした自分の左手をながめて、身震いした。「ほんとに、ぞっとする!」
「でも、あれが、どんなに役に立つことか! どうやら、ボカノフスキー・グループが、君のお気に召さないようだね。だけど、いいかね、あのボカノフスキー・グループこそ、いっさいのものを作り上げる基礎なのだよ。いわば、彼らは、国家というロケット機を、一定不変の軌道上に安定させておく回転機《ジャイロスコープ》なのだ」その深みのある声が、人の心をゆさぶるように、ビンビン震える。ジェスチュアたっぷりな手の動きが、いっさいの空間をさし示すかと思うと、今度は、不可抗力的な速度で突進するロケット機の姿を暗示する。ムスタファ・モンドの雄弁は、ほとんど、合成音楽の水準にまで達している。
「ぼくは、ふしぎでたまらないのですが」と、野蛮人《サーヴェジ》が言う。「あなたは、いったい、なぜあんなものを作らせるのですか――それも、あのびんの中から、どんなものでも好きなように作りだすことができるのに。人間を製造するときに、なぜ、全部をアルファ・ダブル・プラスにしないのですか?」
ムスタファ・モンドは、にっこりする。「それは、われわれは自滅したくないからだよ」と、彼が答える。「われわれは、幸福と社会的安定がよいものだ、という信念をもっている。アルファの社会を作れば、どうしたって不安定な、悲惨なものにならざるをえない。工場に、アルファの労働者を配置したと想像してみたまえ――つまり、遺伝的素質に恵まれ、(ある程度)自由選択と、責任をもつことができるような条件反射教育を受けた、互いに何の関係もない、独立した人間たちだよ。ちょっと想像してみたまえ!」と、彼はくりかえす。
野蛮人《サーヴェジ》は、言われたとおり、想像してみようとするが、あまりうまくいかない。
「まさに狂気の沙汰だ。アルファとしてびんから生まれ、アルファとしての条件反射教育を受けた人間が、イプシロン・半低脳《セミ・モロン》の仕事をしなければならなくなったら、それこそ、気が狂うだろう――気が狂うか、さもなければ、すべてをめちゃめちゃにしてしまうだろう。たしかに、アルファだって完全に社会化することは、できないわけではない――しかし、それをするには、どうしてもアルファの仕事をさせねばならないのだ。イプシロンの犠牲的な仕事をやらせることができるのは、イプシロンだけだ。それというのも、イプシロンにとっては、それが、ちっとも犠牲的な仕事にならないからだ。イプシロンの仕事は、もっとも抵抗の少ない系列のものなのだ。条件反射教育が、彼の走るべき軌道を、ちゃんと決めている。彼は、自分以外のものには、なろうにもなれないのだ。生まれる前から、もう運命がきまっている。びんから出たあとも、まだ、びんの中にいるようなものなのだ――幼児的・胎児的性向の定着化という、目に見えないびんの中に、ね。そんなことをいえば、もちろん、われわれのひとりひとりが」と、大統領は、考えこみながら、言葉を続ける。「一生、びんにはいったままで暮らしているようなものなのだ。しかし、もし、われわれが、たまたまアルファに生まれついたとすれば、われわれのびんのほうが、相対的にいって、ずいぶん大きくなっている。もし、われわれが、もっと狭い場所にとじこめられれば、われわれは、ひどく苦痛を感ずるだろう。上層階級という合成シャンペンを、下層階級用のびんに入れることはできないのだ。これは、理論的にも明らかなことだ。が、すでに、実地に証明ずみでもあるのだ。キプロス島での実験の結果は、それを遺憾《いかん》なく証明したのだ」
「キプロス島での実験って、何ですか?」と、野蛮人《サーヴェジ》がきく。
ムスタファ・モンドは微笑する。「そうだな、ひょっとしたら、びんの詰めかえの実験と呼んだほうがよいかもしれない。フォード暦四百七十三年に始まったのだった。大統領たちは、キプロス島の原住民をすべて一掃し、そのあとに、特別に選んだ二万二千人のアルファの一団を移住させたのだ。あらゆる農業施設と工業施設が与えられ、その運営が、彼ら自身の手に委ねられた。ところが、その結果は、すべての理論上の予測を、完全に裏書したのだ。土地は正しく利用されず、工場という工場では、ストライキが起こった。法律は無視され、命令は守られなかった。しばらく下級の仕事をわり当てられた人々は、こぞって、高級な仕事につこうとして、たえず陰謀を企て、高級な仕事についている人々は、しゃにむに、自分の地位にしがみつこうとして、これに対抗して陰謀を企てた。六年とはたたないうちに、彼らは、第一級の内乱を引き起こすというていたらくだった。二万二千人の住民中、一万九千人が殺されたが、生き残った連中が、世界大統領たちに、口をそろえて、もう一度統治してほしい、と嘆願した。そして、その嘆願はかなえられた。世界ではじめて、ただ一つの、アルファだけの社会は、このようにして終わりを告げたのだ」
野蛮人《サーヴェジ》は、深いため息をもらした。
「最適人口は」と、ムスタファ・モンドが言う。「氷山型になっている――つまり、九分の八がすいめんかに没しており、九分の一が水面上に出ている、というわけだ」
「それで、水面下に没している人たちは、しあわせなのですか?」
「水面上に出ている連中よりしあわせなのだ。たとえば、ここにいる君の友人たちなんかよりは、ずっとしあわせだよ」と、彼は指さす。
「あんなひどい仕事をさせられてもですか?」
「ひどいだって? 彼らは、ひどいなんて思っていやしない。それどころか、好ましい仕事だとさえ思っているのだ。軽くて、子供でもできるような簡単な仕事だからね。頭も筋肉も、ちっとも緊張させる必要はない。穏やかな適度の労働を七時間半やりさえすれば、そのあとは、ソーマの配給と、遊戯《ゲーム》と、性的乱交《フリー・セックス》と触感映画《フィーリー》とが保証されている。それ以上、何かほしいものがあるだろうか? そりゃ、なるほど」と、彼はつけ加える。「彼らは、労働時間の短縮を要求できるかもしれぬ。そして、もちろん、その要求はかなえてやれないわけではない。技術的にみれば、下層階級全員の労働時間を、一日三ないし、四時間にまで短縮するのは、いとも簡単な相談だ。しかしながら、労働時間を短縮したからといって、彼らが、少しでも今よりしあわせになるだろうか? だめだ、ぜったいにならない。これは、もう一世紀半も前に、すでに実験ずみなのだ。アイルランド全域にわたって、一日四時間労働制が実施されたことがある。さて、その結果はどうだったか? 社会的不安が起こり、ソーマの消費量が飛躍的に増加した、というただそれだけのことだった。その三時間半という余分の暇は、しあわせの源なんてものではなかったので、人々は、何とかして、そのあり余る暇からのがれたい、という気になったのだ。発明局には、労力節約措置計画が、山と積まれている。山とね」ムスタファ・モンドは、大げさなジェスチュアをする。「それなら、なぜ、その計画を実行に移さないのか? それは、労働者自身のためを思うからこそだ。もてあますほどの余暇で彼らを苦しめるのは、全く残酷きわまる話だ。農業についても、同じことがいえる。われわれさえ、その気になれば、食物のひとかけらに至るまでも、人口合成ができるのだ。しかし、そのようなことは、あえてやらない。人口の三分の一は、土地にしがみつかせておくほうがよいからだ。それは、農業についている人たち自身のためを思ってのことなのだ――つまり、土地から食物を生産するほうが、工場で製造するよりも、もっと長い時間がかかるからだ。そのうえに、社会の安定ということも考えなければならぬ。われわれは、変化を好まない。変化と名のつくものは、どれも、社会的安定に対する脅威となるからだ。そういうこともあって、われわれは、新機軸の実施に慎重なのだ。純粋科学の発見は、何によらず、破壊的可能性をはらんでいる。そのため、科学でさえ、どうかすると、潜在的な敵とみなさなければならない場合が出てくる。そうだ、科学でさえもね」
科学だって? 野蛮人《サーヴェジ》は、顔をしかめる。たしかに、その言葉を知ってはいる。しかし、その正確な意味は、ということになると、わからないのだ。シェイクスピアも、プエブロの老人たちも、科学の「か」の字も口にしたことはなかったし、リンダからきいた科学の話というのも、ほんの漠然としたヒントにすぎなかった。つまり、科学とは、ヘリコプターを作るとき使うものだ、とか、収穫舞踏会を人に嘲笑させるものだ、とか、しわが寄ったり歯が抜けたりするのを防ぐものだ、とかいった程度のことだった。彼は、必死になって、大統領の言葉の意味をつきとめようとした。
「そうだ」と、ムスタファ・モンドが言葉を続ける。「科学もまた、社会的安定のために犠牲になるひとつの品目なのだ。幸福と矛盾するのは、何も芸術ばかりではない。科学もそうだ。科学は、危険なしろものなのだ。われわれは、細心の注意を払って、科学を鎖につなぎ、かみつかれないように、口輪をはめておかねばならない」
「何ですって?」と、ヘルムホルツは、びっくり仰天して叫ぶ。「だって、われわれは、しょっちゅう、科学こそ万能だ、と唱えているじゃありませんか? 睡眠教育のきまり文句でしょ」
「十三歳から十七歳まで、毎週三回も」と、バーナードも口をはさむ。
「それに、大学でやっている、ありとあらゆる科学的宣伝だって……」
「それは、そうだ。だけど、それはどんな種類の科学かね?」と、ムスタファ・モンドは、皮肉たっぷりに問い返す。「君たちは、科学的訓練を全然受けたことがないのだから、判断できまい。わたしは、これでも、若いころはそこそこましな物理学者だった。ましであり過ぎたのだな――現代のあらゆる科学なんて、全く料理の本と同じで、誰も疑問をさしはさむことができないような、公認の調理理論があり、それには、コック長の特別のお許しがない限り、何もつけ加えることができないような献立表がついている、まあ、この程度のことがわかるぐらい、ましだったのだな。今でこそ、わたしは自分がコック長の立場だ。が、そのころは、詮索好きな、青二歳の皿洗いだった。わたしは、自分かってに、ささやかな料理を作りはじめた。型破りの非合法料理だな。はっきりいえば、真の科学のひとかけらとも言えるのだが」彼は黙り込んだ。
「それから、どうなりましたか?」と、ヘルムホルツ・ワトソンがきく。
大統領は、ため息をついた。「これから、君たち若い人の身にふりかかろうとしているのと、ほとんど同じことが起こった。わたしは、もうちょっとで、島送りになるところだった」
その言葉をきいて、バーナードは、まるで電気をかけられたように、ぶざまにひどく震えだした。「ぼくを島送りですって?」彼は飛び上がると、部屋を横切って走っていき、大統領の前に立ちながら、大げさな身ぶりをする。「ぼくは、大丈夫ですね。ぼくは、何にもしなかったんですから。したのは、この連中です。ぜったいに、この連中ですよ」彼は、きめつけるように、ヘルムホルツと野蛮人《サーヴェジ》を指さす。「ああ、どうか、ぼくをアイスランドへ送らないでください。これからは、自分のしなければならないことは、ちゃんといたします。もう一度だけ機会をお与えください。どうか、もう一度だけ」涙が流れだす。「ほんとです、この二人が悪いのです」と、彼は泣きじゃくる。「ですから、どうか、アイスランド送りだけは、お許しください。ああ、お願いです、大統領閣下、何とぞ……」彼は、みじめさで胸がいっぱいになって、いきなり、サッと大統領の前にひざまずく。ムスタファ・モンドは、彼を起《た》たせようとする。が、バーナードは、はいつくばったまま、頑として起とうとはしない。彼の口から、言葉の流れが、とめどもなく、ほとばしり出るばかりだ。ついに、大統領は、ベルを鳴らして第四秘書を呼ばねばならないはめとなった。
「男を三人呼んできて」と、彼は命令する。「マルクス君を寝室へ連れていきたまえ。ソーマの蒸気をたっぷりかがせてから、床につかせ、一人にしておくのだ」
第四秘書は、部屋から出ていったが、緑の制服を着た、双児の従僕を三人連れてもどってきた。バーナードは、相変わらずわめいたり、泣きじゃくったりしたまま、連れ去られる。
「まるで、これから、咽喉でもかっ切られそうなさわぎだね」ドアが閉まると、大統領がいう。「ところが、あの男に少しでも分別があれば、彼の罰が、実は褒美《ほうび》であることがわかるはずなのだ。彼は、島送りになることになっている。と、いうことは、世界じゅうで、一ばんおもしろい男女の群れに会える場所へ送られる、ということなのだ。その連中は、理由こそいろいろだが、ともかく自意識が強過ぎて、共同生活にむかない人たちなのだ。きまりきった考え方に飽き足らないで、自分独自の独立した考え方をもつようになった人たちばかりだ。要するに、個性をもった人はぜんぶだな。わたしは、君がうらやましいくらいだよ、ワトソン君」
ヘルムホルツは笑う。「それじゃ、なぜ、御自分で島へいらっしゃらないのですか?」
「それは、結局のところ、こちらのほうが、より気に入っているからだよ」と、大統領が答える。「わたしは、二つに一つを選べ、と言われた。自分の好きな純粋科学の研究を続けられる、島送りを選ぶか、ゆくゆくは、後任大統領になる途《みち》の開けた大統領会議の一員となるか、のどちらかをね。わたしは、こちらを選び、科学を捨てた」しばらく黙っていてから、「どうかすると」と彼はつけ加える。「いっそ科学をやっておけばよかったな、と思うことがあるよ。幸福というものは、ずいぶんきびしい御主人だ――とりわけ、他人の幸福ということになるとね。幸福というものを、無批判に受け入れられるような条件反射教育を受けていない人の場合には、真理なんかとは、比べものにならないほど、きびしいご主人だよ」彼は、ため息をついて、ふたたび黙り込んだが、やがて、少し元気な声で続ける。「ともかく、職務は職務だ。自分の好みの言いなりになるわけにはいかぬ。わたしは、真理に興味をもっている。科学も好きだ。しかし、真理というものは脅威であって、科学は、大衆にとって危険なものだ。恩恵も与えてはくれるが、危険でもある。科学は、われわれに、歴史上もっとも安定した均衡を与えてくれた。それと比べたら、中国の均衡状態など、どうしようもないほど不安定なものだ。原始女族長制時代だって、はたして現代ほど安定していたかどうか、疑わしい。もう一度いうが、これも、ひとえに科学のおかげだ。しかし、われわれは、科学のなしとげた偉業を、科学自身に破壊させたくはない。だからこそ、われわれは、科学的研究の領域を、細心の注意を払って制限するのだ――また、だからこそ、わたしは、すんでのところで、危うく島送りとなりかけたのだ。われわれとしては、目下の、もっとも身近な問題以外のものを、いっさい取り扱ってもらいたくないのだ。それ以外のすべての研究は、全力をあげて抑制しなければならぬ。いや、ほんとにおもしろいよ」しばらく間をおいてから、彼は、また口を開いた。「わが主フォード様の時代の人々が、科学の進歩について書いたものを読んでみたまえ。彼らは、どうも、科学というものは、ほかのすべてのものにはおかまいなしに、どんどん無限に発達させておきさえすればよい、と想像していたらしい。知識は、最高の善であり、真理は、卓越した美徳である、その他のすべてのものは、二次的で、従属的なものである、とね。実をいえば、その当時、すでに、思想が変化しかかっていたのだ。わが主フォード様御自身にしてからが、真理と美から、安楽と幸福へ、と重点を移すのに、ずいぶん貢献されたのだった。大量生産というものが、そのような変化を余儀なくしたのだ。今は、一般の人々の幸福というものが、社会という車輪を、たえず回転させていく原動力なのだ。真理や、美には、そういう力はない。そして、いうまでもないことだが、大衆が政権を握ったとき、常に問題になるのは、真理や美ではなくて、むしろ、幸福だった。しかし、そうはいっても、結局は、無制限の科学的研究が、なお許されていた。人々は、依然として、真理や美を、それこそ、最高善か何かのつもりで論じていたのだ。そして、こうした状態は、九年戦争のときまで、ずっと続いた。ところが、九年戦争を契機として、調子がガラリと変わってしまったのだ。脾脱疽《ひだっそ》爆弾が、あたりいちめんにポンポン炸裂しているのに、真理でござい、美でござい、知識でござい、といったところで、いったい、何の意味があるというのだろう? それが、科学の統制されだした、そもそもの始まりだった――つまり、九年戦争後だね。当時、人々は、食欲の統制さえ喜んで我慢した。平和な生活のためなら、どんなことでも我慢する、といったふうだった。それ以後、ずっと科学の統制が続いている。もちろん、これは、真理にとっては、あまり好ましいことだったとは言えまい。だが、幸福にとっては、きわめて好ましいことだったのだ。何によらず、無料《ただ》で手にはいるものはないのだからね。幸福だって、手に入れようとすれば、代価は支払わなければならぬ。君は、これから支払うのだよ、ワトソン君――それは、君が、たまたま、美にあまり興味をもちすぎたからだ。わたしは、真理にあまり興味をもちすぎた。だから、わたしも支払ったのだ」
「でも、あなた自身は、島へ行かなかったでしょう」と、長い間黙ってきいていた野蛮人《サーヴェジ》が、口をはさんだ。
大統領は微笑する。「それは、わたしが代価を支払ったからだよ。つまり、幸福に奉仕するという途を選んだことによって。もちろん、ほかの人々の幸福だよ――わたしのではなくて。いや、しあわせなことに」と、しばらくして、彼が言葉を続ける。「世界じゅうには、ずいぶんたくさん島がある。もしこんな島がなければ、どうしたらいいか、全く途方にくれてしまうだろう。ひょっとしたら、君たちみんなを、無痛処刑室へでも送り込まなければならないようになるかもしれないからね。それはそうと、ワトソン君、君は、熱帯の気候が好きかね? たとえば、マルケサス群島とか、サモア群島あたりはどうかな? それとも、もっとからだがピリッとするようなところがいいかね?」
ヘルムホルツは、圧搾空気入りの安楽椅子《アーム・チェア》から立ち上がる。そして、「ぼくは、徹底的にひどい気候のほうが、むしろ、ありがたいですね」と、答える。「もし、気候が悪ければ、きっと、もっとましなものが書けるだろう、と思います。たとえば、風や、暴風雨《あらし》が、さんざん吹き荒れて……」
大統領は、わが意を得たとばかり、うなずく。「その意気だよ、ワトソン君。君の意気ごみは、実際、見上げたものだよ。いや、おもてだって、こんなことは言えないけれどね」と、彼は、にっこりする。「フォークランド諸島あたりは、どうかね?」
「はい、けっこうです」と、ヘルムホルツは、答える。「それじゃ、これで失礼して、かわいそうなバーナードの奴がどうしているか、ちょっと行って見てきます」
[#改ページ]
第十七章
「芸術に科学――あなたは、自分の幸福のために、ずいぶん高価な犠牲をお払いになったのですね」と、二人きりになったとき、野蛮人《サーヴェジ》が言った。「ほかに、まだ何かありますか?」
「そうだな、もちろん、宗教もそうだよ」と、大統領が答える。「むかし神とか何とか呼ばれるものがあったね――『九年戦争』以前の話だが。だけど、ああ、そうだった。神のことなら、君のほうが、何もかも知っているんだったね」
「ええ、まあ……」と、野蛮人《サーヴェジ》は、ためらう。彼としては、孤独や、夜や、月光の下に青白く横たわっている地卓《メーサ》や、断崖や、陰のような暗黒にとび込もうとしたことや、死のことなどを言いたかったのだった。彼は、しゃべりたくてたまらなかった。しかし、言葉がひとつもないのだった。シェイクスピアの中にさえ、みつからなかった。
そうこうしているうちに、大統領は、ツカツカと部屋の向こう側へ行って、書棚の間の壁にはめこまれた、大きな金庫の鍵をはずした。どっしりとした扉が、ギーッと開いた。まっ暗な金庫の内部《なか》を、ガサゴソ捜しながら、「これはね」と言う。「わたしが、いつも、大きな興味をもっている問題なのだ」彼は、分厚い黒い本を引っぱりだす。「たとえば、これなんか、君は読んだことがないだろう」
野蛮人《サーヴェジ》は、それを手にとってみる。『新約・旧約聖書』彼は、その本のタイトル・ページを、声を出して読む。
「これもね」それは、小さな本で、表紙がとれている。
「『キリストにならいて』(十五世紀のキリスト教神学者、トマス・ア・ケンピスの著書)」
「これもね」と、彼は、また一冊を手渡す。
「『宗教的経験の諸相』ウィリアム・ジェイムズ(アメリカの哲学者)著」
「まだまだ、ほかにたくさんあるよ」自分の席にもどりながら、ムスタファ・モンドが言葉を続ける。「昔のワイセツ文書も、ぜんぶそろっている。神は金庫の内部《なか》に、フォードは書棚の上に、おわします、か」彼は、笑いながら、天下公認の自分の蔵書――書架にぎっしりつまった本と、整理棚にずらりと並んだ読書機《リーディング・マシン》のボビン(巻き枠)や、サウンド・トラックのロールを指さす。
「でも、もし神のことを御存知なら、なぜ、みんなに、教えておやりにならないのですか?」と、野蛮人《サーヴェジ》が、憤然としてきく。「なぜ、神のことを書いたこんな本を、みんなに与えておやりにならないのですか?」
「それはね、『オセロー』を与えないのと、全く同じ理由のためなのだ。古いからだよ。神といっても、この神は、何百年も昔の神なのだ。今の神じゃない」
「でも、神は変わらないでしょう」
「だが、人間のほうが変わるよ」
「人間のほうが変わったからって、何か事情がちがってきますか?」
「それは、もう、まるっきり大ちがいだね」と、ムスタファ・モンドが言う。そして、ふたたび立ち上がり、金庫のところへ歩いていく。「むかし、枢機卿《カーディナル》ニューマンという人がいた」と、彼が話しだす。「枢機卿《カーディナル》というのは」彼は、注釈をつけるように、声を高くする。「現代ふうにいえば、一種の共有賛歌大主教みたいなものだ」
「『わたしは、美しいミラノに生まれた、枢機卿《カーディナル》パンダルフ』(「ジョン王」第三幕第一場)そういえば、ぼくは、シェイクスピアの中で、読んだことがありますよ」
「そりゃ、もちろん、そうだろう。ところで、さっきの話だが、枢機卿《カーディナル》ニューマンという人がいた。そら、これがその人の書いた本だよ」と、彼は、その本を引っぱりだす。「そうだな、それを出したついでに、こちらも出しておこうか。これは、メーヌ・ド・ビランという人の書いた本だ。この人は哲学者だったんだがね。もっとも、哲学者といったって、君に通ずるかどうか」
「天と地の間にあるものすべてのものにまで、思いがゆきわたらないような人間(「ハムレット」第一幕第五場)のことでしょう」と、野蛮人《サーヴェジ》が待っていました、とばかり答える。
「そのとおり、この人物が空想したことのひとつを、これから、ちょっと君に読んであげるよ。だけど、その前に、この昔の共有賛歌大主教が、どういっているか、しばらくきいてごらん」彼は、本の紙切れをはさんであった個所を開いて、読みはじめる。「『われわれは、われわれ自身のものではない。それは、ちょうど、われわれの所有物が、われわれ自身のものではないと同じである。われわれが、われわれ自身を作ったのではないから、われわれは、自分自身に対して、最高の権威をもつことはできない。われわれが、自分自身の主人《あるじ》なのではない。われわれは、神の所有物である。問題をこのように見ることこそ、われわれの幸福ではなかろうか? われわれが、自分自身のものである、と考えることによって、多少とも幸福になり、多小とも慰めを得るであろうか? 若くて元気にあふれた人々は、ひょっとすると、そのような考えをもつかもしれない。このような人々は、何事によらず、自分たちの考えに従って、自分たちの思いどおりにする――誰にもたよらず――目の前にあるもの以外は、いっさい考慮せず、たえず感謝と祈りを捧げたり、自分の行為を、たえず他人の幸福に関連づけたりするという、わずらわしさからのがれるのは、偉大なことだ、と考えるかもしれぬ。しかし、時がたつにつれて、彼らもまた、すべての人々と同じように、独立は、人間のために作られたのではないこと――それは、不自然な状態であり――しばらくは、それでもよかろうが、われわれを、最後まで安全に導いていけるものではないことを、悟るであろう……』」ムスタファ・モンドは、そこで読むのをやめ、その本を下に置くと、次の本を取り上げてページをめくる。「たとえば、これをきいてみたまえ」と言って、深みのある声で、また読みはじめる。「『人間は年をとる。すると、自分自身の中に、年をとるにつれて現われてくる、あの無力感、倦怠感、不安感をおぼえるようになる。このような感じに襲われてくると、彼は、ただ調子が悪いのだ、と想像し、この苦しい状態は、何か特別な原因によるものだから、ちょうど病気が直るように、そのうちには直るだろう、と考えて、自分の心配をまぎらす。何とむなしい想像だろうか! この病気こそ、老齢であり、それは、まことに恐るべき病気である。年をとるにつれて、人が宗教におもむくようになるのは、死や死後に来るものに対する恐怖のせいである、といわれている。しかし、わたしは、自分自身の経験から、次のような確信を得た。すなわち、そうした恐怖や想像とは全く別個に、宗教的感情は、われわれが年をとるにつれて、しだいに発達してくる傾向がある。それが発達してくるのは、情熱が静まっていき、空想や感受性が、しだいに興奮しなくなり、また、興奮しにくくなっていくにつれて、われわれの理性の活動がしだいに平静になり、これまでかかずらわってきた映像《イメージ》や、欲望や、狂気によって曇らされることが、しだいに少なくなるためである。するとそこへ、神が、まるで雲間から出る太陽のように、現われるのである。ここにおいて、われわれの魂は、あらゆる光明の源泉を感じ、目で見、そちらへ向かう。自然に、必然的に向かうのである。というのは、いまや、感覚的な世界に、その生命と魅力を与えていたいっさいのものが、われわれからのがれはじめ、また、現象的存在が、もはや、内部や外部からの印象によって、支えられなくなってしまうので、われわれは、何か永続性のあるもの、けっしてわれわれを裏切らないもの――つまり、実在、絶対的な永遠の真理、にすがりつかずにはいられないような気持ちになるからである。そうだ、われわれは、どうしても、神に向かわずにはいられない。というのは、この宗教的感情は、その性質上、きわめて純粋なものであり、それを経験する魂にとって、きわめて快いものであって、われわれの、ほかのすべての損失を償ってくれるからである』」ムスタファ・モンドは、本を閉じて、椅子にもたれかかる。「天と地の間で、これらの哲学者たちが、空想したこともなかったことはたくさんあるが、そのひとつは、これだ」(と、彼は、手を振りまわす)「われわれ、つまり、現代世界だ。『人間は、若くて元気にあふれている間だけは、神にたよらずにすませることができる、しかし、そのようなひとり立ちは、けっして、人間を、最後まで安全に導いてはくれない』と。さて、われわれは、今では、最後の最後まで若くて元気にあふれている。となれば、その結果はどうなるか? 明らかに、われわれは、神からひとり立ちすることができる、ということになる。『宗教的感情は、われわれのすべての損失を、償ってくれる』という。しかし、われわれには、もう、償わねばならないような損失は、何もない。だから、宗教的感情なんかよけいだ。若々しい欲求が、けっして衰えないのに、なぜ、その代償を求めなければならないのか? 昔ながらのおろかな遊びを、最後の最後まで楽しみ続けることができるのに、なぜ、気晴らしの代償を求めなければならないのか? われわれが、心身ともに、いつまでも楽しく活動を続けているのに、いったい、どんな休息が必要だというのか? また、ソーマがあるのに、どんな慰安が必要だというのか? 社会が、秩序整然としているのに、不動のどんなものがいるというのか?」
「それじゃ、あなたは、神なんか存在しない、と思っていらっしゃるのですね?」
「いやいや、神は、確かに存在すると思うよ」
「それならば、なぜ……」
ムスタファ・モンドは、彼の言葉をさえぎる。「しかし、神は、その人その人によって、それぞれちがったふうに現われるのだ。近代以前には、神は、ああいった本に述べられているようなものとして、姿を現わしたのだった。ところが、今は……」
「今は、どんなふうに現われるのですか?」と、野蛮人《サーヴェジ》がきく。
「うん、神は、不在者として現われるのだ。つまり、まるで、そこにいないかのように、と言ったらいいのかな」
「それは、あなたのまちがいですよ」
「むしろ、文明のまちがいと言ってほしいな。神なんていうものは、機械や、科学的な医薬や、一般民衆の幸福などとは、相容れないものなんだよ。そこで、どちらかを選ばなければならないのだ。われわれの文明は、機械と、医薬と、幸福とを選んだ。だから、わたしは、こういう本を金庫にしまいこんだのだ。こんな本は、ワイセツ文書だよ。人々は、ぎょっとするよ、もし……」
野蛮人《サーヴェジ》が、その言葉を途中でさえぎる。「でも、神は存在する、と感ずるほうが自然じゃないでしょうか?」
「そんなことをきくのは、ズボンをファスナーで締めるのは、自然ですか、ときくようなものだよ」と、大統領が皮肉る。「君と話をしていたら、あの昔の連中のなかの、ブラドレー(イギリスの、新ヘーゲル学派の哲学者)というもう一人の人のことを思いだしたよ。この人はね、哲学とは、人が本能的に信ずることに対して、お粗末な理屈をみつけるものだ、というふうに定義したのだ。まるで、人は、何でもかんでも、本能によって信ずるものだ、と言わないばかりじゃないか! 人間が、何かを信ずるのは、だね、それを信ずるような条件反射教育を受けたればこそ、なのだ。人が、何かまちがった理由で信じていることについて、もうひとつ別のまちがった理由をみつけること――それが、哲学というものだ。人々は、神を信ずるような条件反射教育を受けたればこそ、神を信ずるのだ」
「しかし、そうかもしれませんが」と、野蛮人《サーヴェジ》は、なおも食い下がる。「誰でも、ひとりぽっちのときには――夜、全くひとりぽっちで、死のことなんか考えているときには、神を信ずるほうが自然ですけどねえ……」
「ところが、今どきは、人々がひとりぽっちでいるということは、ありえない」と、ムスタファ・モンドが言う。「われわれは、ひとりぽっちを嫌うようにしむけているし、彼らの生活が、いやしくも孤立することがほとんどないように手を打っているのだ」
野蛮人《サーヴェジ》は、憂鬱《ゆううつ》そうにうなずく。マルペイスにいたころは、プエブロの集団活動からのがれて、本当のひとりぽっちになることが、ぜったいにできないために、悩むのだった。
「『リア王』の中の、あの一節をおぼえていられますか?」と、やがて、野蛮人《サーヴェジ》がきいた。「『神々は正しい、われわれの不義の快楽を、われわれを罰する手段《てだて》になさるのだから。父上は、暗いいかがわしい所で、おまえを生ませられた。その天罰で、両眼を失われたのだ』(「リア王」第五幕第三場)すると、エドマンド(「リア王」の中に出てくる悪人)が答えます――いいですか、エドマンドは、負傷して、死にかけているんですよ――『ほんとに、おまえの言うとおりだ。因果《いんが》の車が、ぐるりとひと回りして、おれは、このざまだ』さあ、これをどう思われます? 物事をとりさばく神がいて、罰を与えたり、報酬を与えたりしているように思われませんか?」
「さあ、そう思えるのかね?」と、今度は、あべこべに大統領がきき返す。「妊娠機能喪失者《フリーマーティン》を相手に、いくら不義の快楽にふけったところで、べつだん、自分の息子《むすこ》の情婦に目玉をくり抜かれる心配などないんだ。『因果の車が、ぐるりとひと回りして、おれは、このざまだ』と。しかし、今ならエドマンドは、どうしているだろうか? さしずめ、圧搾空気入りの椅子に腰をおろして、女の子の腰に腕をまわし、性《セックス》ホルモン・チューインガムをかみかみ、触感映画《フィーリー》でも見ているだろう。神々は正しい。それはまちがいない。しかし、神々の掟といっても、結局のところは、社会を構成している人間によって指示されるのだし、天の摂理といったって、それは、人間を見ならうものなのだよ」
「はたしてそうでしょうか?」と野蛮人《サーヴェジ》がきく。「圧搾空気入り椅子に腰をおろしているエドマンドは、負傷し、血を流して死にかけているエドマンドと、全く同じだけ重い罪を受けているのではない、という確信がもてますか? 神々は正しいのです。神々は、われわれの不義の快楽を、われわれを堕落させる手段《てだて》になさるのではないでしょうか?」
「どのような地位から堕落させるのかね? 幸福で、勤勉で、商品を消費する市民としては、全く申し分がないんだがね。そりゃ、もちろん、もっとちがった規準にあてはめれば、まあ、彼は、堕落した、と言って言えないこともなかろう。だが、それは、あくまでも、一組の根本原理を固執した場合の話だ。遠心式《セントフューガル》バンブル・パピーの規則《ルール》で、電磁式《エレクトロ・マグネチック》ゴルフをするわけにはいかないからね」
「しかし、価値というものは、個人の意志できまるものではありません」と野蛮人《サーヴェジ》が言う。「価値評価する人が、どう評価しようと、その物が貴い場合に限って、価値が価値となり、権威をもつようになるのです。(「トロイラスとクレシダ」第二幕第二場」
「君、君」と、ムスタファ・モンドがたしなめる。「それは、ちょっと極端じゃないかね?」
「もしあなたが、自分で神のことをお考えになるようになれば、不義の快楽によって、自分を堕落させるなんて、とてもできなくなりますよ。ひとりでに、物事を辛抱強く我慢したり、物事を勇敢に実行したりなさるようになります。ぼくは、インディアンたちの間で、そんな例を見てきましたから」
「それは、たしかにそうだったろう」と、ムスタファ・モンドが言う。「しかし、そんなことを言ったって、われわれは、何もインディアンじゃない。文明人ともあろうものが、ひどく不愉快なことを我慢しなければならないような必要は、ちっともないのだ。それから、物事をやる場合はどうか、といえばだね――フォード様、思いつきなんてものが、人間の頭に浮かぶのを、お許しになりませんように。もし人間が、自分で好きかってに物事をやりだしたら、社会の秩序が、ぜんぶひっくり返ってしまうだろう」
「それじゃ、自制心なんかは、どうなりますか? あなたが、神を信じていらっしゃるのなら、当然、自制心というものもお考えになるでしょう」
「しかし、工業文明というものは、自制心など全く考えない場合に、はじめて成り立つのだ。衛生学と経済学とによって、いやおうなしに与えられる、ぎりぎりいっぱいまでの放縦、これこそ必要なのだ。でなければ、社会という車輪の回転が止まってしまう」
「純潔ってものぐらいは、当然守るべきものとお考えになるでしょうね!」その純潔という言葉を口にしたとき、ちょっと顔を赤らめながら、野蛮人《サーヴェジ》が言った。
「しかし、純潔は熱情を意味し、純潔は神経衰弱を意味する。そして、熱情と神経衰弱は、すなわち、不安定だ。そして、不安定は、とりも直さず、文明の終末を意味するのだ。文明を永続させるには、何としても、たくさんの不義の快楽が必要なのだよ」
「でも、神は、崇高で、優美で、壮烈な、いっさいのものの根拠ですよ。もしあなたが、神を信ずるのならば……」
「あのね、君」と、ムスタファ・モンドが言う。「文明というものにはね、崇高さも、壮烈さも、いっさい無用なんだよ。そんなものは、政治的貧困の象徴だ。現代のような、きちんと組織された社会では、誰にも、崇高になったり、壮烈になったりする機会など、ちっともないのだ。そのような機会が生まれるためには、社会状態が、全面的に不安定にならねばならぬ。戦争があったり、どちらに忠誠を尽くしたらいいのか迷ったり、誘惑に打ち克たねばならなかったり、戦ってやったり守ってやったりしなければならない愛情の対象があったりする場合――こういった場合には、明らかに、崇高さや、壮烈さも、多少は意味があるかもしれぬ。しかし、今日《こんにち》では、戦争などというものは、全くない。人が、特定のだれかを、あまり愛しすぎないよう、最大の考慮が払われている。忠誠を尽くす先がわからなくて迷う、といった事態も全く起こらない。条件反射教育のおかげで、人は、なすべきことをなさずにはいられない、というふうにしむけられている。しかも、そのなすべきことというのが、概して、きわめて快適で、また、たいていの自然衝動を、自由に発揮することが許されている、ときているので、実際上、打ち克たねばならないような誘惑など、ひとつもないのだ。それにもし万一、何か不幸なまわり合わせで、わけがわからずに、不愉快なことが起こったとしても、いつも、ちゃんとソーマがあって、その事実から逃避して、休息することができるようにしてくれる。また、いつもソーマが控えていて、怒りを和らげ、敵と和解させ、根気よく我慢できるようにしてくれるのだ。昔だったら、それこそ大へんな努力を払い、多年にわたる、厳《きび》しい修養を積んだあげく、やっとそれができたのだ。ところが、今はどうだろう、半グラムの錠剤を、二つか三つのみ込めば、それでもう、万事オーケーだ。今では、誰でも高潔になれる。少なくとも、自分の道徳心の半分ぐらいは、びんに入れて持ち歩くことができるようになっている。涙ぬきのキリスト教――ソーマとは、そういうものなのだよ」
「でも、涙は必要ですよ。あのオセローの言葉をおぼえていらっしゃいませんか? 『もし、あらしの後に、いつでもこのような凪《なぎ》が訪れてくれるものなら、風よ、どうか死んだ連中を呼び起こすほど吹き荒れてくれ』(「オセロー」第二幕第一場)とね。たしか、インディアンの老人の誰かでしたか、マツァキの娘の話をよくきかせてくれましたよ。その女の子と結婚したい若者は、毎朝、その子のうちの庭の手入れをしなければならないのです。なんでもないことみたいですけど、蝿やら、蚊やら、それも魔物みたいなのがいますからね。たいていの若者は、咬《か》まれたり、刺されたりに閉口して、ただもう我慢ができなかったのです。でも、最後まで我慢したのがいましてね――その若者が、結局、その女の子を手に入れましたよ」
「いや、おもしろい! だけど、文明国では」と、大統領が言う。「べつに、庭の手入れなんかしてやらなくても、女の子なぞ、いくらでも手に入るんだ。それに、第一、蝿もいないし、人を刺すような蚊もいない。蝿や蚊など、もう、とっくの昔に駆除してしまったのだ」
野蛮人《サーヴェジ》は、顔をしかめながら、うなずく。「駆除してしまったんですって。そうでしょうね。ほんとに、いかにもあなた方らしいやり方だ。不愉快なものは、我慢しようとはしないで、何でも片っぱしからなくしてしまうんですからね。残虐な運命の石つぶてや矢玉を、心の中でじっと我慢するのと、山のような困難に立ち向かい、これと戦って絶滅させるのとでは、どちらがりっぱな態度でしょうか?……(「ハムレット」第三幕第一場)いや、あなた方は、そのどちらもしようとはなさらない。我慢もしなければ、戦いもしない。ただ、石つぶてや矢玉をなくしてしまうだけだ。あまりにも安易すぎますよ」
彼は、にわかに黙り込んだ。母親のことを思いだしたのだ。三十七階の自分の部屋で、リンダは、合成音楽にきき入りながら、明るい光と、パチョリ香の愛撫《あいぶ》の海にただよっていたのだ――空間からも、時間からも、記憶の牢獄からも、また、習慣や、年をとってむくんだ肉体からも、ぬけだして、ただよっていたのだった。そして、あのトマキン、人工孵化・条件反射教育センターの|もと《ヽヽ》所長のトマキンは、相変わらず、休暇中だった――屈辱と苦痛をのがれ、あのような言葉も、嘲笑もきこえず、あのいやらしい顔も見えず、あのたるんだ、じっとりとした腕で、首を抱きすくめられる感じもしない世界、あの美しい世界で、今も休暇を楽しんでいるのだった……
「あなた方に必要なのは」と、野蛮人《サーヴェジ》が続ける。「涙をともなった改革の手段です。ここでは、何によらず、十分犠牲を払うってことがないんですから」
(「千二百五十万ドルだぜ」と、野蛮人《サーヴェジ》が前に、ヘンリー・フォスターに同じ話をしたとき、フォスターが口をとがらせたのだった。「いいかね、千二百五十万ドルだよ――条件反射教育センターの新築に、きっちりそれだけの犠牲が払われたんだぜ。それから一セントも切れてないんだ」)
「卵の殻《から》ほどのものを手に入れようとして、いつ死ぬかもしれない、はかない身を、運命や、死や、危険にさらす(「ハムレット」第四幕第四場)。こういうことには、何も意味がないのでしょうか?」彼は、ムスタファ・モンドを見上げながら尋ねる。「神のことは別問題としても――といっても、もちろん、神が、そういった行為の根拠になっているのでしょうけど。危険をおかしながら生きていくことに、何の意味もないのでしょうか?」
「いや、大ありだよ」と、大統領が答える。「人間というものは、男も女も、時々、副腎に刺激を受ける必要があるからね」
「何ですって?」と、野蛮人《サーヴェジ》は、めんくらって、きき返す。
「完全な健康体の、ひとつの条件だよ。それだから、われわれは、VPS療法を必ず受けるように、と、それを義務づけているんだ」
「VPSですって?」
「激情代用療法《ヴァイオレント・パッション・サロゲット》だよ。毎月一回、定期的に受けさせる。からだのあらゆる組織に、アドレナリンをゆきわたらせるのだ。これは、生理学上、恐怖や激怒と全く同じ効果をもっている。デズデモーナ(「オセロー」の女主人公)を殺害したり、オセローに殺害されたりする、あの強直性効果はすべてそなわっていて、しかも、不都合なことは、ひとつもないのだ」
「でも、ぼくは、不都合のほうが好きだな」
「われわれは、そうじゃない」と、大統領が言う。「われわれは、物事を愉快にやっていけるほうがいい」
「でも、ぼくは、その愉快が苦手なんです。ぼくは、神がほしい。詩がほしい。ほんとうの危険がほしいんです。ぼくは、自由がほしい。善良さがほしい。罪がほしいんです」
「つまり」と、ムスタファ・モンドが言う。「君は、不幸になる権利がほしい、というんだね」
「もう、何と言われてもいいです」と、野蛮人《サーヴェジ》が、喧嘩ごしで言う。「ぼくは、不幸になる権利がほしいんだ」
「年をとって醜くなり、陰萎《インポテント》になる権利はもちろん、梅毒や癌《がん》になる権利、食料不足に悩む権利、虱《しらみ》にたかられる権利、ありとあらゆる種類の、言うに言われぬ苦痛にさいなまれる権利までもほしい、というんだね」
長い沈黙が流れる。
「そうです。それがぜんぶほしいです」と、ついに野蛮人《サーヴェジ》が答える。
ムスタファ・モンドは肩をすくめる。「じゃ、かってにしたまえ」
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第十八章
ドアが少し開いていたので、二人ははいった。
「ジョン!」
浴室から、気持ちの悪い変な音がきこえる。
「どうかしたのかい?」と、ヘルムホルツが声をかける。
が、返事がない。不愉快な音が、二度くりかえされたかと思うと、静かになった。やがて、カチッと音がして、浴室のドアが開き、まっ青《さお》な顔をした野蛮人《サーヴェジ》が出てくる。
「おい」と、ヘルムホルツは、心配そうに叫ぶ。「顔色が悪いぜ、ジョン!」
「何か身体《からだ》に合わないものを食ったな?」と、バーナードがきく。
野蛮人《サーヴェジ》はうなずく。「文明を食ったんです」
「何だって?」
「文明に中毒したんです。ぼくは、汚れてしまったんだ。それから」と、彼は、声をひそめてつけ加える。「自分自身の邪悪さを食ったんです」
「わかったよ、でも、はっきり言うとどうなんだ?……だって、ほら、つい今、君がやったろう……」
「もう、すっきりしました」と、野蛮人《サーヴェジ》が言う。「からし湯を少しのんだんです」
二人は、びっくりして、彼の顔をみつめる。「わざと、そんなことをしたのかい?」と、バーナードがきく。
「インディアンは、いつも、こんなふうにして身体を浄《きよ》めるんです」彼は、腰をおろし、ため息をつきながら、額に手をあてる。「ぼくは、しばらく休みますよ」と、彼が言う。「ちょっと疲れたんだ」
「そうだろう、無理もないよ」と、ヘルムホルツが言う。しばらく黙っていたが、「実はね、ぼくたちは、お別れにやって来たんだ」と、彼は、調子を変えて言葉を続ける。「ぼくたちは、あすの朝、発《た》つんだよ」
「そうだよ、あす発つんだ」と、バーナードも相槌《あいづち》を打つ。野蛮人《サーヴェジ》は彼の顔に、これまでにない、きっぱりとした諦《あきら》めの色を見てとった。「ときにね、ジョン」と、彼は椅子にすわったまま、身体をのりだし、野蛮人《サーヴェジ》の膝に手をかけながら、言葉を続ける。「きのうは、ずいぶんはしたない真似をして、ほんとに申し訳なかった、とお詫びに来たんだよ」と、彼は顔を赤らめる。「ほんとに恥ずかしくて」と、とぎれとぎれの声で、なおも続けるのだった。「ほんとに……」
野蛮人《サーヴェジ》は、その言葉をさえぎり、彼の手をとって、やさしく握りしめる。
「ヘルムホルツ君が、ほんとによくめんどうをみてくれてね」と、しばらく間をおいて、バーナードが続ける。「彼がいてくれなかったら、今ごろ、ぼくは……」
「おい、もういいよ」と、ヘルムホルツがたしなめる。
みんな黙り込む。悲しかったけれど――いや、むしろ、悲しかったために、というのは、この悲しみこそ、お互いに対する愛情の象徴《しるし》だったから――この三人の青年は幸福だった。
「ぼくは、今朝《けさ》、大統領のところへ行って来たんで」と、やがて野蛮人《サーヴェジ》は口を開いた。
「何の用で?」
「あなた方といっしょに、ぼくも島送りにしていただけませんかって頼みに行ったんです」
「それで、どんな返事だった?」と、ヘルムホルツが勢いこんで尋ねる。
野蛮人《サーヴェジ》は、首を横に振る。「だめだっていうんです」
「なぜだめなんだい?」
「実験を続けたいからだって言うんですよ。ちくしょう」野蛮人《サーヴェジ》は、突然、カッとなって言葉をつけ加える。「もう実験なんかまっぴらだ。世界じゅうの大統領が、頭を並べたって、ぜったいにいやだ。ぼくも、あす、発ちますよ」
「だって、どこへ行くんだい?」と、二人は異口同音にきく。
野蛮人《サーヴェジ》は肩をすくめる。「どこかへ。どこだっていいですよ。ひとりっきりになれるところなら」
下り航空路は、ギルドフォードから、ウェイ川の谷間《ヴァレー》に沿ってゴダルミングに達し、それから、ミルフォード、ウィットレーを越えて、ヘーゼルミアまで進み、更に、ピーターズフィールドを通って、ポーツマスへと向かっている。上り航空路は、それと、ほぼ平行して、ウォープルズドン、トンガム、パットナム、エルステッド、グレイショットの上空を通っている。ホッグズ・バックとハインドヘッドの間に、上下線が、ほんの六、七キロしか離れていない地点がある。その間隔は、ほんとに短いので、うっかり飛んでいると、気がつかないくらいだ――特に夜間、ソーマを半グラムもよけいに飲んでいれば、ぜったいにわかりっこない。そのために、ちょくちょく事故が起こった。どれもひどい事故だった。そこで、上り空路を、二、三キロ西の方へ寄せることに決まったのだった。グレイショットとトンガムの間に、廃棄された四基の航空灯台が残っていて、ポーツマス―ロンドン間の旧航空路の名残《なご》りを示している。その上空は、物音ひとつせず、ひっそりしている。現在、ヘリコプターが、たえず爆音をひびかせながら、轟音《ごうおん》をとどろかせているのは、セルボーン、ボードン、ファーナムの上空だった。
野蛮人《サーヴェジ》が、自分の隠れ家《が》として選んだのは、パットナムとエルステッドの間の、丘のてっぺんに立っている、その古い航空燈台だった。この建物は、鉄筋コンクリートで、少しも傷んでいなかった――野蛮人《サーヴェジ》が、はじめて調べに行ったとき、ちょっと住み心地がよすぎるな、あまり文化的で、ちょっと贅沢《ぜいたく》すぎるな、と思ったくらいだった。そのかわり、自己鍛錬はいっそう厳しくできるし、自己浄化作用も、いっそう完全で徹底的にやれるのだから、と、自分に言いきかせて、彼は、自分の良心をなっとくさせた。その隠れ家に泊まった最初の晩は、わざと一睡もしなかった。彼は、ひざまずき、罪を犯したクローディアス(兄を殺して王位と王妃とを奪ったハムレットの叔父)が赦《ゆる》しを乞うた、あの天に向かって祈ったり、ズーニー語で、アウォーナウィーラナに向かって祈ったり、イエスやプーコン神に向かって祈ったり、自分自身の守護獣である鷲に向かって祈ったりしながら、時をすごしたのだった。時おり彼は、まるで十字架につけられたような格好《かっこう》に両腕をのばし、強まってくる痛みをじっと我慢しながら、長い間、そのままの姿勢をとり続けた。しまいには、その痛みが激しい苦痛となり、拷問にかけられたように、身体がふるえだすのだった。それでも、彼は、やっぱり、自ら求めて十字架についていた。そして、十字架についたまま、歯を食いしばりながら(その間にも、汗が顔からポタポタとしたたり落ちたが)「どうかお赦しください! どうかわたしを浄めてください! どうか、わたしが善良な人になれるよう、お力添えください!」と、何べんも何べんも唱え続けた。あげくの果てに、苦痛のあまり、今にも気を失いそうになるのだった。
朝がきたとき、彼は、どうやら自分に、この燈台に住む資格ができたような気がした。たいていの窓には、まだガラスがはまっていたし、高台からの見はらしは、まことにすばらしかったけれど、どうにか、そんな気になれたのだった。今さら、そんな気がしたのは、はじめ、燈台を選んだ理由が、同時にそっくりそのまま、どこかほかの場所へ移らねばならない理由にもなっていたからだった。彼が、ここに住むことに決めたのは、眺《なが》めがとてもすばらしく、この都合のよい高台に立つと、まるで、神の顕現を、まのあたり見る思いがしたからにほかならなかった。しかし、日々刻々、このすばらしい眺めを満喫できる自分は、いったい、何ほどの人間なのだ? 神の存在を、まのあたりながめながら暮らせる自分は、いったい、何ほどの人間なのだ? 自分にふさわしい住み家といえば、さしずめ、不潔な豚小屋か、どこかの行き止まりの地下穴ぐらいのものだ。長い徹夜苦行に、身体はこわばり、まだ痛みも残っていたが、それだけに、心の安らぎを感じながら、彼は塔の高台へ上り、やっと自分が住む権利を取りもどした、明るい夜明けの世界を見わたすのだった。北の方をながめると、視界は、ホッグズ・バックの長い白亜《はくあ》の尾根によって限られていたが、その尾根の東端の背後に、七つの高層ビルがそそり立っている。ギルドフォードの町だ。それをながめながら、野蛮人《サーヴェジ》は顔をしかめた。が、時がたつにつれて、それがあまり苦にならなくなってきた。というのは、夜になると、幾何学的な星座のようにはなやかに輝いたり、そうでなくても、投光照明《フラッド・ライト》を受けて、そのキラキラした指先を(イギリスじゅうで、今、野蛮人《サーヴェジ》だけしか、その意味がわからないような身振りで)、厳《おごそ》かに、測り知れぬ神秘な大空へ伸ばしたりしていたからである。
ホッグズ・バックと、燈台の立っている砂丘との谷間にあるパットナムは、ところどころに、穀物塔《サイロ》や、家禽飼育場や、小規模なビタミンD製造工場などが見える、ささやかな村である。燈台のもう一方の側は南向きで、土地が、ヒースの生い茂った長い下り斜面となって傾き、そのはずれは、鎖のようにつながった池につづいている。
その池の向こうには、森をはさんで、十四階建てのエルステッドの塔がそびえている。かすんだイギリスらしい大気の中に、ほのかに見えるハインドヘッドとセルボーンが、青いロマンチックなかなたへと、人の目を引きつける。しかし、野蛮人《サーヴェジ》をこの燈台へ引きつけたのは、何も遠くの眺めだけではなかった。近くの眺めも、遠景に劣らず、魅力的だった。森、ヒースや黄色いハリエニシダの生い茂った、ひろびろとした荒野、欧州アカマツの林、カバの木がおおいかぶさった水の面に、睡蓮が浮かび、汀《みぎわ》に藺草《いぐさ》の茂みのある、輝くたくさんの池――これらは、どれも美しく、アメリカの砂漠の無味乾燥を見なれた目には、まさに驚異だった。しかも、おまけに、この孤独だ! 人かげひとつ見かけない日が、幾日もすぎた。この燈台は、チャーリング・T・タワーから、空路、わずか十五分のところにあったが、ものさびしさにかけては、マルペイスの山々も、とうてい、このサリー州のヒースの荒野に及ばなかった。毎日、大ぜいの人がロンドンを離れたが、それは、ただ、電磁式ゴルフかテニスをするためであった。パットナムには、ゴルフ場は一つもなく、もよりのリーマン平面は、ギルドフォードにあるだけだった。ここで人を引きつけるものは、といえば、花と景色だけである。そんなわけで、何としてもやって来なければならないだけの理由は、全くないので、人は、ひとりも来なかったのだ。はじめの数日は、野蛮人《サーヴェジ》も、全くひとりぽっちで、誰にもじゃまされずに暮らした。
最初、イギリスへ着いたとき、身の回り用として受け取った金のほとんどを、ジョンは、今度の準備のためにつぎこんだ。ロンドンを発つ前に、彼は、人工ウールの毛布を四枚、ロープとひも、釘、膠《にかわ》、二、三の道具類、マッチ(もっとも、彼は、そのうちに、火起こし錐《きり》を作るつもりだった)、壷《つぼ》や鍋《なべ》を少々、種子の袋二ダース、小麦粉十キログラム等を買い整えた。
「いや、人工|澱粉《スターチ》も、屑綿《くずわた》代用粉もいらないんだ」と、彼は頑固に言い張った。「たとえ、天然のものより滋養に富んでいてもね」しかし、総合腺分泌物ビスケットや、ビタミン含有人造牛肉ということになると、彼も、店員の勧めを、むげに断わることができなかった。今も、その缶詰類をながめながら、彼は、自分の弱さをひどく後悔するのだった。いやらしい文明の食べ物め! 彼は、たとえ餓死しそうになっても、ぜったいに口にはすまい、と決心した。「そうすれば、連中に思い知らせてやれるだろう」と、彼は、仕返しでもするような気で、そう思った。それに、そうすれば、自分自身もきっと思い知るだろう。
彼は、自分の金を勘定した。残金はわずかだったが、それでも、何とか冬越しぐらいはできるはずだった。来春までには、畑から、そとの世界に厄介にならなくてもすむだけの収穫がある見込みだった。それまでのつなぎには、猟の獲物《えもの》にことかかないだろう。兎ならたくさん見かけたし、池には水鳥もいた。彼は、さっそく、弓と矢を作るのにとりかかった。燈台のすぐそばに、トネリコの林があったし、矢を作ろうと思えば、雑木林という雑木林は、どこも、みごとなほど、すんなりと伸びたハシバミの若木でいっぱいだった。彼は、まず、トネリコの若木を切り倒し、枝の出ていない幹を六フィートに切り、樹皮をはぎ、昔ミーツィマ爺さんが教えてくれたとおりに、その白い木を少しずつ削っていった。やがて、彼の背丈ぐらいで、厚みのあるまん中が堅く、細い両端がしなやかで、よくたわむ棒ができた。この作業は、彼にとって、ずいぶん楽しいものだった。何をするにも、ボタンを押すか、ハンドルを回すだけで、そのほかは何もすることのなかった、数週間にわたる、ロンドンでの怠惰な生活のあとだけに、このような熟練と辛抱のいる生活に打ち込むのは、ただ、無上の喜びだったのだ。
棒を少しずつ削りながら、格好の形に仕上げていく作業をほとんど終わりかけたとき、彼は、自分が歌をうたっているのに気がついて、はっとしたのだった――うたっているとは! それは、まるで、たまたま外から自分自身をながめてみたとき、突然、とんでもない自分の正体に気がついて、すっかり途方に暮れたようなものだった。彼は、悪いことでもしていたかのように、赤くなった。せんじつめれば、彼がここへやって来たのは、何もうたったり楽しんだりするためではなかったのだ。文明生活の汚れに、これ以上染まらないためであり、浄化され、更生するためだった。彼は、矢を削るのに熱中するあまり、自分が、かねがね、ぜったいに忘れまい、と心に誓っていたころ――哀れな母親のリンダや、その母親に対する自分自身の残酷なまでのつれない仕打ちや、彼女の死の神秘のまわりに、まるで、虱《しらみ》のようにうじゃうじゃたかり、そのために、彼自身の悲嘆と悔恨の原因となったばかりか、神々をさえも侮辱した、あの胸の悪くなるような双児たちのことなどを、すっかり忘れているのに気がついて、うろたえたのだ。かねてから、けっして忘れまい、と心に誓い、きっと償いをしてみせる、と、たえず心に誓っていたのだった。ところが、気がついてみれば、自分は、今、ここで、一心に弓作りに専念し、歌をうたいながらすわっているのだ、たしかに歌をうたいながら……
彼は部屋の内部《なか》へはいり、からしの箱を開き、お湯をわかすために、水のいれものを、火にかけた。
それから半時間ほどして、パットナムのボカノフスキー・グループのどれかに所属している、デルタ・マイナスの土地労働者が三人、たまたまエルステッドに向かってトラックで走っていたが、その途中、丘の上の廃棄した燈台の外に、上半身はだかの青年がひとり立っていて、結び玉のついたひもの鞭《むち》で、自分自身を打ちまくっているのを見かけて、びっくり仰天した。彼の背中には、水平にまっ赤《か》な縞ができていて、みみずばれからみみずばれまで、細い血のしずくがしたたり落ちている。トラックの運転手は、道端に車を止めて、ポカンと口をあけたまま、二人の仲間といっしょに、その異様な光景をじっと見つめていた。一つ、二つ、三つ――彼らは、その鞭打ちを数えた。八回目のあと、青年は、自分を鞭打つのをやめ、森のはずれへ走っていって、ひどく嘔吐《もど》した。嘔吐してしまうと、また鞭を取り上げて、自分を鞭打ちはじめた。九つ、十、十一、十二……
「おお、フォード様!」と運転手がささやく。そして、連れの双児たちも、同じ気持ちだった。
「やれやれ!」と、彼らも叫んだ。
それから三日たつと、死体に集まるはげ鷲のように、報道記者たちがやって来た。
生木のとろ火で乾燥させ固められて、弓はもうでき上がっていた。野蛮人《サーヴェジ》は、今度は、矢を作るのに忙しかった。三十本のハシバミの棒が削られ、乾《かわ》かされて、その先に鋭い釘がつけられ、ていねいに矢はずがつけられた。彼は、ある晩、パットナム家禽飼育場へこっそり忍び込んで、全部の矢につけるだけの羽根を、ちゃんと手に入れておいたのだった。いの一番に駆けつけた記者が、彼をみつけたときは、彼が、一生懸命に、矢に羽根をとりつけているところだった。その記者は、圧搾空気入りの靴のおかげで、足音もたてずに、彼の後ろに忍び寄った。
「やあ、野蛮人《サーヴェジ》さん、おはよう」と、彼は声をかけた。「ぼくは、『ジ・アワリー・レディオ』紙の代表ですよ」
まるで、蛇にでも咬みつかれたように、野蛮人が、びっくりして、パッと立ち上がった拍子《ひょうし》に、矢も、羽根も、にかわの壷も、ブラシも、あたりいちめんにとび散った。
「いや、これはどうも失礼」と、心から悪かったと思ったらしく、その記者が弁解する。「ぼくは、べつに、何も……」彼は、自分の帽子に手をかける――それは、無線受話器と送話器を入れてある、アルミニウム製のシルクハットだった。「帽子も脱がずに恐縮ですが、どうか悪しからず」と、彼は言い訳をする。「こいつは、ちょっと重いんですよ。ところで、さっきも申しましたが、ぼくは、『ジ・アワリー・レディオ』紙の代表……」
「ぼくに、何の用ですか?」と、顔をしかめながら、野蛮人《サーヴェジ》がきく。記者は、愛嬌たっぷりの笑顔をむける。
「いや、いうまでもないんですが、うちの読者の皆さんが、きっと、すごく興味をもって……」と言いながら、彼は、小首をかしげる。が、そのときの微笑ときたら、それこそ、ほとんどいやらしいほど甘ったるい。「何か、ほんのひと言いただけませんか、野蛮人《サーヴェジ》さん」そう言ったかと思うと、彼は、ひとしきり、芝居がかった大げさな身振りで、腰のまわりにバックルでとめている、携帯用電池につながった二本の針金をすばやくほどくと、その両端を、自分のアルミニウム帽の両側へ同時にさし込み、そのてっぺんのばねに触《さわ》った――そのとたんに、アンテナが、ポンと空中へ突き出る。つばの先端にある、もう一つのばねに触る――今度は、まるでびっくり箱のように、マイクロフォンがとびだして、彼の鼻先六インチのところに、ブランブランとたれ下がる。それから、受話器を、両方の耳の上まで引きおろし、帽子の左側のスイッチを押す――すると、内部《なか》から、かすかな蜂の唸《うな》りに似たブーンという音が聞こえてくる。次に、右手のつまみをまわす――すると、そのブーンが中断して、聴診器を耳にあてたときのような、ゼイゼイガアガアという音や、しゃっくりのようなヒックという音がきこえてくる。と思うと、突然、キーンとかん高い音が起こる。「もしもし」と、彼はマイクに向かって話しかける。「もしもし、もしもし……」だしぬけに、彼の帽子の内部《なか》でベルが鳴りだす。「ああ、エゼルだね? こちらはプリモ・メロンだ。そう、つかまえたよ。これから野蛮人《サーヴェジ》氏が、マイクで、ちょっとひと言話してくれるよ。そうですね、野蛮人《サーヴェジ》さん?」彼は、また、あの媚《こ》びるような微笑を浮かべながら、野蛮人《サーヴェジ》の顔を見上げる。「読者の皆さんに、あなたがここにいらっしゃったわけを、ちょっとお話ししてあげてください。あなたが、あんなに、全くあわただしく(切らずにおけよ、エゼル!)ロンドンを立ち去られた、その理由をね。それから、もちよん、あの鞭打ちのことも」(野蛮人《サーヴェジ》は、びっくりする。鞭打ちのことが、どうしてわかったんだろう?)「わたしたちは、あの鞭打ちのことを、知りたくて知りたくてたまらないんです。それから、文明ってものについての御意見も。『文明国の女の子を、どう思うか?』っていったふうなお話もね。ほんのひと言でけっこうです。ほんの……」
野蛮人《サーヴェジ》は、相手がまごつくほど、きっちり言われたとおりにした。たった五つの言葉を口にしただけで、それ以上は、ひとことも言わなかった――その五つの言葉とは、彼が以前に、キャンタベリー共有賛歌大会堂大主教を批評して、バーナードに向かって言ったのと全く同じ、あの五つの言葉だった。「ハーニ! ソンス エーソ ツェーナ!」それだけ言って、彼は記者の肩をつかむと、きりきり舞いをさせながら(その若い記者は、全くおあつらえむきに、どっさり着込んでいた)、狙いをつけると、おしゃべりフットボール選手そこのけの力と正確さで、とてつもなくものすごいひと蹴りを食らわせた。
それから、八分後には、「ジ・アワリー・レディオ」紙の新版が、ロンドンの街頭で発売されていた。「『ジ・アワリー・レディオ』紙記者、怪物|野蛮人《サーヴェジ》に尾骨を蹴られる」という見出しが、第一面についている。「サリー州の一大椿事」
「ロンドンでだって一大椿事《センセーション》だよ」と、その記者は、帰ってきて、その見出しを読んだとき思った。「しかも、おまけに、ほんとに痛い感覚《センセーション》だったよ」彼は、昼食のテーブルに向かって、こわごわ、そっと腰をおろすのだった。
近づくな、と言わないばかりに、尾骨を蹴られて、同業者が打撲傷を受けたのにもひるまず、「ニューヨーク・タイムズ」紙、「フランクフルト四次元連続体」紙、「ザ・フォーディアン・サイエンス・モニター」紙、「ザ・デルタ・ミラー」紙などを、それぞれ代表する各記者たちが、その日の午後、燈台を探訪し、乱暴さのいっそうひどくなったあしらいを受けたのだった。
安全な距離まで退却して、まだお尻をなでながら、「未開の馬鹿野郎!」と、「ザ・フォーディアン・サイエンス・モニター」紙の特派員が怒鳴った。「なぜ、ソーマをのまないんだ?」
「消えうせろ!」と、野蛮人《サーヴェジ》は拳固《げんこ》を振り上げる。
相手は、二、三歩下がってから、また向き直る。「ソーマを二グラムのみたまえ、そうすれば、残酷な気分なんか、けし飛んじゃうんだ」
「コハクワ イヤストキアイ!」その調子には、おどしつけるような嘲《あざけ》りがこもっている。
「苦痛など、気の迷いだったかな、と思うよ」
「ああ、そうかね?」と言って、野蛮人《サーヴェジ》は、太いハシバミの若枝をつかむと、こちらに向かって、大またに歩いてくる。
「ザ・フォーディアン・サイエンス・モニター」紙の特派員は、自分のヘリコプターめがけて突進する。
その後しばらくは、野蛮人《サーヴェジ》はじゃまされなかった。ただ、ヘリコプターが二、三機やって来ては、物見高く塔の周囲を飛びまわるだけだった。彼は、しつこく、一ばん近くまでやって来ている一機を狙って、矢を放った。その矢は、操縦室《ケビン》のアルミニウムの床をつらぬいた。かん高い悲鳴が起こったかと思うと、ヘリコプターは、発動機の過給機《スーパー・チャージャー》も壊れんばかりの全速力で、一直線に大空へ上昇した。この事件があってからは、たとえほかのヘリコプターがやって来ても、敬遠して一定の距離をおくようになった。そのうるさい爆音を気にもかけないで(彼は、自分を、羽の生えた害虫にたかられながら、びくともせず、じっと頑張っているマツァキの娘の求婚者たちの一人になぞらえたのだった)、野蛮人《サーヴェジ》は、自分の畑となるはずの地面を、掘り返し続けた。しばらくすると、その害虫たちもどうやら退屈してきたらしく、飛び去った。一回につき、引き続き数時間は頭上の空に機影がなく、雲雀《ひばり》の囀《さえず》りのほかは、全く静まりかえるのだった。
天候は息もつけないくらい暑く、空には雷鳴がとどろいていた。彼は、午前中はずっと耕作していたので、今は、床の上に長々と伸びて休んでいた。すると、突然、レーニナのことが頭に浮かび、それが、なまなましい現実となってよみがえってきた。「大好き!」と甘ったれかかり、「あたしを抱いてよ!」とせがみながら――靴とソックスだけの裸になって、香水の匂いをさせていた、あの姿態が、今にもさわれそうに、髣髴《ほうふつ》とよみがえってくるのだった。恥知らずの売女《ばいた》め! それにしても、ああ、ああ、抱きつかれたときの、あの乳房《バスト》の盛り上がり、あの口もと! 永遠は、われわれの唇と目の中にあるのだ(「アントニーとクレオパトラ」第一幕第三場)。レーニナ……いや、いや、いけない、断じて! 彼は、すっと立ち上がると、上半身は裸だったが、そのまま家の外へ駆けだした。荒野《ヒース》のはずれに、白い杜松《ねず》のむらがって生えている小さなやぶがあった。彼はそのやぶに身を投げ、自分の求めてやまぬ柔らかな肉体ではなしに、一抱えの緑色の棘《とげ》を抱きしめるのだった。無数の棘の先が、ちくちくと身体を刺した。彼は、あの両手を握りしめ、目には、いうにいわれぬ恐怖の色を浮かべながら、あえぎあえぎ黙り込んでいた、かわいそうなリンダのことを思いだそうとつとめた。ぜったいに忘れまい、と堅く心に誓ったリンダのことを。しかし、彼の心につきまとって離れないのは、やはりレーニナの姿だった。きっと忘れよう、と心にきめたレーニナだった。杜松の棘に刺されてひりひりしながらも、その苦痛にひるんだ肉体は、どうにもならないほどなまなましく、彼女を覚えているのだった。「大好き、大好きよ……だから、もしあなたのほうも、あたしがほしいのなら、いったい、どうして……」
新聞記者たちがやって来たとき、いつなんどきでも振りまわせるように、鞭がドアの釘にかけてある。気が狂ったように野蛮人《サーヴェジ》は家へ駆け込むと、鞭をつかんで、ビュウビュウ振りまわした。結び目だらけのひもが、彼の肌に食い込む。
「売女め! 売女め!」自分が、今、このように激しく鞭打っているのが、ほんとのレーニナ、白い肌の、あたたかい、よい香りのする、あのいまわしいレーニナであるかのように、彼は、一打ちごとに絶叫するのだった(そのくせ、自分ではちっとも気づかなかったが、これがレーニナであってくれたら、と、ああ、それこそ、どんなに熱狂的に願ったことか!)。「売女め!」やがて、絶望的な声で、「ああ、リンダ、許してください。神様、お許しください! ぼくは悪者だ。ぼくは悪党だ。ぼくは……ちがう、ちがう、この売女め、この売女め!」
三百メートルほど離れた森の中に、注意深く造られた隠れ場所《が》から、触感映画《フィーリー》制作株式会社の、最も腕の立つ大物カメラマン、ダーウィン・ボナパルトが、この成り行きを、一部始終じっと見守っていた。ついに忍耐と熟練は報いられたのだ。彼は、人工の樫《かし》の木の幹の中で三日間をすごし、マイクをハリエニシダのやぶに隠すやら、コードを柔らかい灰色の砂の中に埋めるやらして、三晩も、腹ばいになって、荒野《ヒース》をはいずりまわっていたのだった。全くやりきれない七十二時間だった。しかし、今まさに、偉大な瞬間がやってきたのだ――あの有名な、咆哮完全録音式|実体鏡《ステレオ・スコピック》的|触感映画《フィーリー》「ゴリラたちの結婚」撮影以来の、もっとも偉大な、そうだ、たしかにもっとも偉大な瞬間だな、と、機材の間を歩きまわりながら、ダーウィン・ボナパルトは、余裕しゃくしゃくとして、考えるのだった。
「すばらしい!」野蛮人《サーヴェジ》が、その驚くべき演技を始めたとき、彼はひとり言をいった。「すてきだ!」彼は、望遠カメラの狙いを、注意深くじっと向け続けている――その動きに、ぴたりと釘付けだ。狂乱の、ゆがんだ顔をクローズアップするために、急に倍率を上げる(みごとだ!)。三十秒間、スローモーションに切り替えてみる(うん、これはきっとすばらしい喜劇的効果だぞ、と思うと、彼は楽しくなってくる)。また、一方、フィルムのへりのサウンド・トラックに録音されていく、鞭打ちの音と、呻《うめ》き声と、荒々しい狂気の言葉にじっと耳を傾け、多少増幅して、その効果を試してみる(うん、こちらのほうが、断然いい)。訪れてきた静寂の瞬間に、かん高い雲雀の囀りがきこえてきたので、嬉しくなる。背中の血を十分にクローズアップすることができるように、野蛮人《サーヴェジ》が向きを変えてくれたらいいのにな、と思った――そのとたん、(なんという、驚くべき幸運か!)このおあつらえむきの人物が、くるりと向きを変えてくれたので、申し分のないクローズアップを撮《と》ることができた。
「うん、こいつぁ、傑作だ!」撮影が終わったとき、彼はひとりごとを言った。「正真正銘の傑作だ!」彼は、顔の汗をぬぐう。スタジオで触感効果《フィーリー》を入れたら、すばらしいものになるな。「まっこう鯨の恋愛生活」にも、ほとんどひけをとらないような傑作になる、とダーウィン・ボナパルトは思う――ということは、誓ってもいいが、これは、何としても大物だ、ということになるな!
それから十二日後に、映画「サリー州の野蛮人《サーヴェジ》」が封切られ、西部ヨーロッパのすべての一流|触感映画《フィーリー》劇場で、見られ、聞かれ、触られたのだった。
ダーウィン・ボナパルトの映画の反響は、すぐに現われ、しかも、ものすごかった。映画が封切られた晩のあくる日の午後になると、ジョンの田舎の独《ひと》り暮らしの静けさは、突如、頭上に乱舞しはじめた無数のヘリコプターの大群によって破られた。
彼は、庭の畑を掘り返していた――同時に、心の中をも掘り返して、もの思いのたねを、せっそと掘り起こしてみていた。死――彼は、もう一度|鍬《くわ》を打ち込み、もう一度、さらにもう一度打ち込んだ。すべての昨日という日は、ただばか者どもに、土に帰してしまう死への道を照らして案内しただけなのだ(「マクベス」第五幕第五場)。この言葉が、確信にみちて、雷鳴のようにとどろきわたった。彼は、また、鍬いっぱいの土をほうり上げた。なぜ、リンダは死んだのだろう? なぜ、しだいに人間以下になっていくままに放置され、ついに……彼は身ぶるいした。太陽が接吻《くちづけ》して、うじ虫をわかせるのにふさわしい腐肉(「ハムレット」第二幕第二場)となったのだろうか。彼は、鍬に片足をかけ、ものすごい勢いで、堅い土の中へ踏み入れた。神々にとっては、われわれは、まるで腕白小僧につかまった蜻蛉《とんぼ》だ。ただ、慰み半分にわれわれの命をとってしまわれるのだからな(「リア王」第四幕第一場)。また雷鳴がとどろく。自らの真実性を――いや、ともかく、真実にまさる真実性を、証明している言葉だ。しかも、その同じグロースター(リア王に同情して、目をえぐられる伯爵)が、その神々のことを、いつも憫《あわ》れみ深い神々と呼んでいる。さらにまた、汝の最上の休息は眠りで、汝は、しばしばこれをよび起こすくせに、たかだか、眠りにすぎない死を、あさましいほど恐れている(「しっぺ返し」第三幕第一場)たかだか、眠りだ。眠り。いや、ひょっとすると夢をみることかもしれぬ(「ハムレット」第三幕第一場)。彼の鍬が石にぶつかった。彼は、かがんでその石を拾い上げる。それは、その死の眠りの中には、いったい、どのような夢があるかと?(同)
頭上のブーンという爆音が、轟音《ごうおん》に変わったかと思うと、彼は、突然、陰になった。太陽と彼との間に、何かがはいり込んだのだ。彼は、びっくりして、堀り返すのも、もの思いもやめて、あおむいた。まぶしそうに、困った顔で見上げる。心は、まだ、真実以上に真実なあの別世界にさまよい、死と神の広大無辺な問題を、なお、一心不乱に思いつめているのだ。目を上げてみると、はるかの頭上に、ヘリコプターがむらがって飛びまわっているのが見える。それが蝗《いなご》のように飛んで来たかとみる間に、空に静止し、彼のまわりじゅうの荒野《ヒース》へ舞い降りた。そして、この巨大な蝗たちの腹から、一組ずつの男女のカップルが出て来た――男は、白の人造フランネルのズボンに、上の半分あいたメリヤスのセーター、女は(暑い日だったので)、下はアセテート・シャンタンのパンタロンかベルベットのショート・パンツに、上はスリーブレスという格好だ。しばらくすると、数十人が燈台をぐるりと取り巻いて輪を作り、ジロジロみつめたり、笑ったり、パチパチ写真を撮ったり、(まるで、猿にでもするように)ピーナッツや性《セックス》ホルモン・チューインガムの包みや、総合腺分泌物含有の小つぶバターを投げたりした。しかも、刻々に――というのは、ホッグズ・バックを横切って、いまやヘリコプターの流れがたえまなく押し寄せていたから――その人の数がふえていくのだった。まるで悪夢でもみているように、ダース単位が二十単位となり、それがさらに百単位となるというふうに、どんどんふえていくのだった。
野蛮人《サーヴェジ》は、隠れ家の方へ退き、追いつめられた動物のような格好で、燈台の壁へへばりついた。そして、まるで、分別も何もなくしてしまった人のように、おびえながら、ただ黙って、自分を取り巻いている人の顔を、ひとつひとつ睨《にら》みつけているばかりだった。
うまく狙いをつけて投げたチューインガムの包みが、ピシッと頬に当たり、彼は、ハッとして、茫然自失の状態から、もっとさし迫った現実に気がついた。ぎょっとするような痛みのショックだった――彼は、すっかり目がさめ、われにかえると、ひどく腹が立ってきた。
「あっちへ行け!」と、彼は怒鳴りつけた。
猿が口をきいたのだ。ドッとばかり笑い声と拍手が起こった。「いよう、われらの野蛮人《サーヴェジ》君! ばんざい、ばんざーい!」そして、ガヤガヤいう話し声にまじって、叫び声がきこえる。「鞭打ちだ、鞭打ちだ、鞭打ちをやれえ!」
けしかけられて、彼は、ドアの後ろの釘から、結び玉のついたひもの束をつかむと、そのうるさい連中に向かって振りまわした。
からかうような喝采《かっさい》の叫びが起こる。
ものすごいけんまくで、彼は、群衆に向かって駆けだした。女のひとりが、恐怖の悲鳴をあげる。見物人の列の、一ばん危険になったところが、ぐらっとくずれかけたが、やがて、また、かっちり固まって、ぐらつかなくなった。自分たちのほうが、圧倒的に大ぜいなのだ、と思うと、このやじ馬たちは、野蛮人《サーヴェジ》の思いもかけなかったような勇気がわいてきたのだった。野蛮人《サーヴェジ》は、びっくりして立ち止まり、あたりを見まわす。
「あなた方は、どうしてぼくをひとりぽっちにしておいてくれないのですか?」彼の怒りには、ほとんど悲しみの調子がこもっている。
「マグネシウム塩《えん》漬けアーモンドを、二つ三つ食べてみたまえ!」もし野蛮人《サーヴェジ》が攻撃すれば、まっ先にやられる立場にいる男が、声をかける。そして、紙包みをさしだす。「これは、ほんとにうまいんだぜ、君」と、彼は、相手の機嫌をとるような、ちょっと神経質な微笑を浮かべながら、つけ加える。「それにね、マグネシウム塩は、若さを保つのにいいんだ」
野蛮人《サーヴェジ》は、その申し出を、あたまから無視する。「ぼくに、いったい何の用があるんですか?」彼は、にやにやしている顔から顔へと視線を移しながらきく。「ぼくに、どうしろというんですか?」
「鞭打ちだ」と、大ぜいの声がガヤガヤ答える。「鞭打ちの芸だ。鞭打ちの芸を見せてくれえ」
すると、口をそろえ、ゆっくりとして重々しい調子で、「鞭打ち――を――見せろ」と、列の一ばん端にいる一団《グループ》が、シュプレヒコールをやりだした。「鞭打ち――を――見せろ」
ほかの集団《グループ》が、すぐそのシュプレヒコールを引き継ぎ、おうむのように、この文句を何回も何回もくりかえすのだった。そして、くりかえすたびに、その声がしだいに大きくなり、七、八回目には、とうとう、ほかの言葉は、全く聞こえなくなってしまった。「鞭打ち――を――見せろ」
みんなが、いっしょになって叫んでいる。そして、その声の大きさと、一糸乱れぬ声の一致と、リズミカルな協和感とに酔って、彼らのシュプレヒコールは、何時間でも――いや、ほとんど、永遠に続きそうにみえた。ところが、ほぼ二十五回ほどくりかえされたとき、驚いたことに、そのシュプレヒコールが、ふっつりと聞こえなくなった。ヘリコプターがもう一機、ホッグズ・バックを越えて飛んで来て、群衆のはるか上空に静止したかと思うと、やがて、見物人の列と燈台の空地の、野蛮人《サーヴェジ》が立っている、ほんの目と鼻の先へ、スーッと急降下して来たのだった。プロペラの唸りが、一瞬、喚声《かんせい》を圧倒したが、機が地上へ舞い降りてエンジンが止まると、「鞭打ち――を――見せろ、鞭打ち――を――見せろ」の大合唱が、相変わらず大きな、しつこい一本調子で、また聞こえてきた。
ヘリコプターのドアが開いて、まず、金髪で赤ら顔の青年が現われ、それに続いて、緑のベルベットのショート・パンツをはき、白いシャツを着て競馬帽《ジョッキー・キャップ》をかぶった若い女が出てきた。
その若い女を見ると、野蛮人《サーヴェジ》は、ぎょっとあとじさりして、まっ青になった。
若い女は、立ち止まって、彼にほほえみかけた――おどおどした、哀願するような、ほとんどあさましいばかりの微笑だ。数秒たった。彼女の唇が動いた。何か言っているのだ。しかし、これでもか、これでもかとたたみかける、やじ馬のシュプレヒコールにかき消されて、その声は聞こえない。
「鞭打ち――を――見せろ! 鞭打ち――を――見せろ!」
若い女は、両手で左の脇腹をおさえた。人形のように美しい、その桃色の顔に、なつかしいような、苦しいような、奇妙にちぐはぐな表情が浮かんだ。その青い瞳は、ひときわ大きく、明るく輝いたような気がした。すると、不意に、二つぶの涙が、その頬をすべり落ちた。きこえない声で、彼女は、また何か言ったが、やがて、すばやい熱情的な身ぶりで、野蛮人《サーヴェジ》に向かって両手をさし伸べながら、歩きだした。
「鞭打ち――を――見せろ! 鞭打ち――を……」
そのとき、突然、待ちにまった鞭打ちが始まった。
「売女《ばいた》め!」野蛮人《サーヴェジ》が、狂気のように、彼女にとびかかったのだ。「この雌いたち(「オセロー」第四幕第一場)め!」まるで、気ちがいのように、彼は、小さな結び玉のついた鞭で、彼女をなぐりつけたのだ。
怖くなって、彼女はくるりと身をひるがえして逃げだしたが、つまずいて、荒野《ヒース》の中に倒れてしまった。「ヘンリー、ヘンリー!」と、彼女は悲鳴をあげる。しかし、赤ら顔の彼女の連れは、君子危うきに近寄らず、とばかり、ちゃんとヘリコプターの後ろに隠れている。
ワーッと、興奮した喜びの声をあげながら、人の列がくずれ、魅力の磁気的中心へと、人波がどっと押し寄せる。苦痛というものは、すばらしく魅力的な恐怖なのだ。
「苦しめ、この色気ちがいめ、苦しむんだ!(「トロイラスとクレシダ」第五幕第二場)」逆上して、野蛮人《サーヴェジ》が、また、なぐりつける。
見物人たちは、まるで、かいば桶にむらがる豚のように、押し合いへし合いしながら、むさぼるように丸く集まってくる。
「ええい、この情欲め!」野蛮人《サーヴェジ》は、ギリギリと歯がみする。今度は、鞭が打ちおろされるのは、自分自身の肩先だ。「こいつを殺せ! こいつを殺せ!」
苦痛の恐怖に伴う魅力に引きつけられ、自己の内部からは、条件反射教育によって、きわめて根強く植えつけられた、あの協力の習慣と、一致や協調を求める欲望に駆り立てられて、見物人たちは、野蛮人《サーヴェジ》が、いうことをきかぬ自分の肉体や、足もとの荒野《ヒース》の中でもだえている、むっちりとした堕落の権化《ごんげ》に鞭を振りおろすにつれて、彼の狂気のような動作の真似をして、お互いになぐり合いを始めたのだった。
「こいつを殺せ、こいつを殺せ、こいつを殺せ……」と、野蛮人《サーヴェジ》は、なおも絶叫し続ける。
やがて、だしぬけに、誰かが「ブカブカ ドンドン」とうたいだすと、たちまち、みんながその折返《リフレイン》しを引き取り、うたいながら踊りはじめた。ブカブカ ドンドンと、八分の六拍子でお互いに調子をとりながら、何回も何回もぐるぐるまわる。ブカブカ ドンドン……
最後のヘリコプターが飛び去ったのは、真夜中すぎだった。ソーマのために、頭がぼうっとなり、長時間にわたる、狂気のような欲情の興奮のためにへとへとに疲れ果てて、野蛮人《サーヴェジ》は、荒野《ヒース》の中に寝込んでいた。目がさめたときには、日は、もうすでに高く上っていた。彼は、光を見て、何が何だかわからない、といった様子で、ふくろうのように目をパチクリしながら、しばらくそのまま横になっていた。が、やがて、突然、ハッと思いだしたのだった――いっさいのことを。
「ああ、神様、神様!」彼は、手で目をおおった。
その晩、ホッグズ・バックを越えて飛んできたヘリコプターの大群は、長さ十キロにも及ぶ黒い雲のようだった。それというのも、ゆうべの手拍子そろえてのばか騒ぎの記事が、あらゆる新聞に載ったからだった。
「野蛮人《サーヴェジ》さん!」一ばん早く着いた連中が、ヘリコプターから降りながら声をかけた。「野蛮人《サーヴェジ》さん!」
返事がなかった。
燈台のドアが少し開いている。彼らは、ドアを押しあけて、鎧戸をおろした薄暗がりの中へはいっていった。部屋の向こう側のアーチ形の廊下を通して、上の階へ上がっていく階段の上り口が見える。そのアーチ形のてっぺんの真下に、足が二本、ブランと下がっている。
「野蛮人《サーヴェジ》さん!」
二本の、のろい羅針盤の指針《はり》のように、ゆっくり、ごくゆっくりと、その足が右に向いたかと思うと、北、北東、東、南東、南、南南西へとまわっていく。やがて、止まった。が、二、三秒すると、相変わらずゆっくりと、左の方へもどりはじめる。南南西、南、南東、東……(完)
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はしがき
(この「はしがき」は、一九三一年の『すばらしい新世界』執筆より十五年たった、第二次世界大戦直後の一九四六年に、同作品戦後版刊行に際して、はじめてつけられたものである)
すべての道徳学者の一致した見解であるが、慢性的な後悔は、きわめて望ましくない感情である。まちがった行為をしたのなら、後悔して、できるだけの償いをすればよいのだ。そして、この次からは、もっとましな行為をするように、本気で努力したまえ。まちがった行為についてくよくよするのは、ぜったい禁物である。汚物の中をころがりまわるのは、汚れを落とす最上の策ではない。
芸術にも、それなりの道徳があり、この道徳律の大半は、ふつうの倫理学の法則と同じである。あるいは、すくなくとも似通っている。たとえば後悔の念だが、それは、わるい芸術の場合でも、まちがった行為の場合と同じく、望ましくない。欠点は捜しだしてつきとめ、できれば、将来は避けるようにしなければならぬ。二十年も昔の文学的な欠点を見つめ、そのような欠点のある作品に、つぎはぎ細工を施して、最初書かれた当時にすら到達しえなかった、完璧の状態にまでも高めようとする試み――はっきりいえば、青年時代の自分という、いわば別人が犯して、そのままにされていた芸術的な罪を償うために、中年期を費やしてしまうこと――これらすべてが、無駄で何の役にも立たないことは確かである。
というわけで、この新版『すばらしい新世界』を、あえて、旧版そのままにしておくことにした。芸術作品としてみた場合、この作品の欠点は小さくはないが、さりとて、それを直そうとすれば、書き直さなければならなくなる――そうなると、私も年を取り、人も変わってきているので、書き直しているうちに、たしかに、欠点も多少は取り除くだろうが、それだけに止まらず、案外、もともと備わっている長所までも削り取ってしまう結果になるかもしれない。というような懸念《けねん》から、私は、芸術的な後悔の念におぼれたい気持ちをおさえながら、いっそ、その長所も短所もそのままに、ということにして、何かほかのものを考えたい気がするのである。
しかし、そうは言っても、この物語のもつもっとも重大な欠点を指摘しておくのは、少なくとも無益ではないようにも思う。その欠点というのは、次のようなことだ。野蛮人《サーヴェジ》は、わずか二つに一つの生活、つまり、理想国《ユートピア》における狂気の生活か、いくつかの点に限っていえば、それよりは人間らしいけれども、ほかの点を考えるなら、それに負けず劣らず、奇妙で異常なインディアン部落における原始人の生活か、この二つのうちの、どちらかに甘んじる自由しか与えられていない。この本が書かれた当時は、一方の狂気と他方の狂気のどちらかを選ぶために、人間には自由意志というものが与えられている、といった考え方があり、私は、こうした考え方に興味をひかれ、全く妥当な考え方だ、とみなしたのだった。
しかし、劇的効果を高めるため、野蛮人《サーヴェジ》は、豊饒崇拝《ほうじょうすうはい》と、残酷なまでの自己虐待偏執癖とを、半分ずつこね合わせてできた宗教の信者たちの間で育ったにしては、実際、奇異な感じがするほど、たびたび、道理に叶った発言をするようにしてある。たしかに、彼はシェイクスピアの作品に明るいが、実際問題となると、それにしてもあの発言はね、と首をかしげたくなるほどである。だから、むろん、物語の結末のところでは、彼は、正常な精神状態をむりやり失わせられると、もちまえの自己虐待偏執癖が、ふたたび頭をもたげてきて、狂気のような自己虐待症におちいり、絶望的な自殺をとげるのである。ここで、童話の結び文句を借りて言えば、「そしてその後、かわいそうにも死んでしまいましたとさ。めでたし、めでたし」ということになる――そして、おもしろがってながめてきた、懐疑主義《ピローニック》的|耽美《たんび》主義者ともいうべき、この架空物語の作者自身も、やれやれ一安心、と安堵《あんど》の胸をなでおろすのである。
今の私には、精神正常というものがありえないことを論証したい気持ちなど、さらさらない。それどころか、精神正常は、もちろん成就できるものと信じているし、精神正常者の数がもっとふえてほしいものだ、という希望ももっていないわけではない。もっとも、精神正常はきわめて稀有《けう》な現象である、という事実に対しては、残念ながら確かにそうだ、という確信はもっているのだが。
最近、いくつかの書物の中でそのことを述べたり、とりわけ、精神正常や、精神正常を成就する手段について、気の確かな人たちが述べたものの選集を編集したりしたために、私は、ある著名な批評家に、君は、危機の時代における知識階級の悲しむべき失敗者の標本である、と言われたことがある。その含みは、おそらくその教授と彼の同僚たちが、楽天的な成功者の標本である、ということだったのだろう。人類の恩人ということにもなれば、それにふさわしい敬意と記念を受けるのが当然である。ひとつ、この教授とその一派の人たちのために、万神殿《パンテオン》を建立《こんりゅう》することにしたらどうだろう。この万神殿《パンテオン》は、ヨーロッパか日本の荒廃した都市のどこかの廃墟に建てるのがよい。その納骨堂の入口の上に、私は、六、七フィートの高さの文字で、簡単にこう刻みつけたい。「世界の教育者諸賢に捧ぐ。『もし君が、彼の記念碑を見たければ、あたりを見まわしたまえ』(十七世紀の有名な建築家クリストファ・レンについて、その息子が書いたもので、ロンドンのセントポール大寺院の北側入口の上に、ラテン語で書いてある)」と。
しかし、未来の問題へ帰ろう……今、仮に私がこの物語を書き変えるとしたら、私は、野蛮人《サーヴェジ》に、第三の選ぶべき道を与えたい。彼のジレンマの、理想国《ユートピア》という角《つの》と、原始生活という角との間には、精神正常という可能性――それは、『すばらしい新世界』からのがれ、保護地区の領域の中で生活している亡命者や逃亡者によって構成される、ひとつの共同社会という形で、すでにある程度具体化された可能性である――が存在するはずである。この共同社会では、経済は、地方分権的でヘンリー・ジョージ(アメリカの経済学者)流となり、政治は、クロポトキン(ロシアの無政府主義者)ふうで共同主義的となるであろう。科学や技術は、まるで人間のほうがそれらに適応させられ、その奴隷にされている(現代は、まさにそうであり、『すばらしい新世界』においては、その適応化と奴隷化は、さらに進んでいるけれども)といったふうにではなく、安息日と同じく、その両者は、人間のために作られたのである、といえるようなふうに、利用されることになるであろう。宗教は、人間の「窮極目的」の、自覚的で知的な探求、換言すれば、宇宙に遍《あまね》く内在する「道《タオ》」、もしくは「ロゴス」(究極の理念)、あるいは、超越的な「神」、もしくは「バラモン」(仏教における聖なるもの、というぐらいの意味か)についての、調和的認識となるであろう。そして、広く行なわれる人生哲学は、一種の「高等功利主義」となるであろう。そして、そこでは、「最大幸福」原理が、「窮極目的」原理に次ぐものとなるであろう――人生のあらゆる機会に、必ず問われ、答えられなければならない第一の問題は、「この思想、もしくは行為は、私と最大多数のほかの人たちが、人間の『窮極目的』を成就するのに、どれくらい貢献するか、あるいは、それをどれくらい妨害するか?」ということになるであろう。
原始人たちの間で育てられたのであるから、野蛮人《サーヴェジ》は(新版の中では)まず、自発的に協力しながら、精神正常の探求に取り組んでいる個人たちによって構成された社会の本質を、多少とも学ぶ機会を与えられるまでは、理想国《ユートピア》へは連れて来られない、ということにしたい。こうした修正を施せば、『すばらしい新世界』は、現状のままでは明らかに欠いている一種の芸術的(架空物語に対して、こんな大げさな言葉を用いる点は御了承いただきたいが)哲学的完璧性を備えたものとなるはずである。
しかし、『すばらしい新世界』は未来記である。そして、そもそも未来記というものは、その芸術的・哲学的特質がどうであろうと、そこに述べられている予言が、想像上いかにも実現しそうにみえる場合に限り、われわれの興味をひくことができるのである。現代史の斜面を、さらに十五年下った現在の有利な視点に立ってふり返ってみたとき、この予言がなんと実現しそうにみえることだろうか? この痛ましい十五年間に、一九三一年のこの予言を、あるいは確証し、あるいは無意味なものとするようないかなる事態が起こっただろうか?
ひとつの、きわめて大きい、明らかな予言上の誤りにすぐ気がつく。『すばらしい新世界』は、核分裂に全く触れていない。これは、実際問題としてはちょっと奇妙である。というのは、原子エネルギーの可能性は、この本の現われる以前から、すでに多年にわたって一般的話題となっていたからである。私の旧友、ロバート・ニコルズ(イギリスの詩人)などは、原子エネルギーをテーマにした好評の戯曲をさえ書いていたし、私自身にしても、一九二〇年代の後半に刊行したある小説(「恋愛対位法」か?)の中で、さりげなくこの問題に触れた記憶があるからだ。ということになると、今もいうように、フォード紀元七世紀のロケットやヘリコプターが、動力源として核エネルギーを使用していないのは、何としても不自然なような気がする。この見落としは、許せない性質のものかもしれぬ。
しかし、すくなくとも、その釈明はしようと思えば簡単だ。『すばらしい新世界』のテーマは、科学の進歩そのものというよりも、むしろ、個々の人間に影響を及ぼすものとしてみた科学の進歩であるからだ。物理学、化学、工学のめざましい進歩は、暗黙のうちに当然の事として受け取られている。特筆すべき唯一の科学の進歩は、生物学、生理学、心理学の将来における研究成果を人間に適用すること、これを必然的に伴うような進歩に限られている。生命の特質の根本的な変化は、ただ、生命を対象とする科学によってのみ、可能なのだ。物質を対象とする科学は、生命を破壊するか、生命の営みを恐ろしく複雑で不都合なものにする、といったふうになら適用することはできるけれども、それは、生物学者や心理学者によって手段として利用されない限り、生命それ自体の自然的形態や表現を変化させるのに、何ら役に立たない。原子エネルギーの解放は、人類の歴史に一大革命を画したが(われわれが、自らをこなごなに吹きとばして、歴史に終止符《ピリオド》でも打たない限り)終極的な、もっとも徹底した革命ではない。
このほんとうに革命らしい革命は、外部世界ではなく、人間存在の魂と肉体の内部においてこそ、成就することができるのである。現実に、ひとつの革命時代に生きていたので、サド侯爵が、自分に押された精神異常という烙印をもっともらしく説明するために、この革命理論を援用したのは、きわめて自然なことだった。ロベスピエールは、もっとも浅薄な種類の革命、すなわち、政治革命を成しとげた。バーベフ(フランスの革命家)は、さらに深くつっ込んで、経済革命を企図した。サドは、単なる政治・経済を超えた真に革命らしい革命――つまり、人間の肉体というものが、今後は万人の共有物となり、人間の精神から、すべての生得的な欠陥や、営々とした労苦によって獲得した伝統的文明のいっさいの禁制を取り除こうとする、いわば、ひとりひとりの男、女、子供の革命ともいうべきものの使徒をもって、自ら任じていた。サディズムと真に革命らしい革命との間に、もちろん、何ら避け難い必然的な連関があるわけではない。サドは精神異常者であり、多かれ少なかれ彼が意識していた革命の到達点は、全世界の混乱と破壊であった。『すばらしい新世界』の支配者たちは、(いわゆる絶対的な意味における)正気ではないのかもしれない。しかし、彼らはむろん狂人ではないし、彼らの目的とするところも、無秩序ではなく、社会的安定である。彼らが科学的手段を駆使して、窮極的で個人的な、真に革命らしい革命を達成するのも、ただ、この安定を成就するためにほかならない。
さて、話かわって、われわれは、終極一歩手前の革命ともいえるものの第一段階に到達した。第二段階は、われわれが、未来に関する予言を気にやむ必要のない原子力戦争かもしれない。しかし、われわれは、たとえ戦争の全面的停止とまではいかないにせよ、少なくとも、十八世紀におけるわれわれの祖先たちと同じ程度の理性をもって行動するぐらいの分別は、もち合わせている、と考えられないわけではない。実際、三十年戦争のあの想像を絶した恐怖に、みんながこりごりしたあげく、ヨーロッパの政治家や将軍たちは、百年以上もの間、自己の軍事力を破壊力の極限まで行使したい、といった誘惑、あるいは(ほとんどの戦争の場合)敵を全面的に抹殺するまで戦闘を続行したい、といった誘惑を、意識して抑制してきた。もちろん、彼らは、利益と名誉を追求して飽くことを知らぬ侵略者ではあったが、同時に、世界を、営業して十分な利潤を上げている企業体とみなし、いかなる犠牲を払っても、この企業体を損《そこ》なわずに維持していきたい、と堅く決心した保守主義者でもあった。
この三十年間に、そうした保守主義者はことごとく姿を消してしまい、残っているのは、ただ、右翼の国家主義的急進分子と左翼の国家主義的急進分子だけである。最後の保守政治家とみられる人は、第五代ランズダウン侯爵(イギリスの自由党政治家)であったが、彼が「タイムズ」紙にあてて、第一次世界大戦は、十八世紀のほとんどの戦争と同じく妥協によって終結させるべきである、という趣旨の手紙を書いたとき、かつては保守的であったこの新聞の編集主幹は、その手紙の掲載を拒否した。国家主義的急進分子がわが世の春を謳歌《おうか》し、われわれすべての周知の結果が起こった――つまり、ボルシェヴィズム、ファシズム、インフレ、不景気、ヨーロッパの破滅、それに、ほとんど全世界的な飢餓とが。
さらに、われわれは、われわれの祖先たちがマグデブルグ(三十年戦争によって完全に破壊された)から学びとったと同じだけのものを、ヒロシマから学びとることができる、と仮定すれば、真の平和とまではいかなくても、局地的な破壊をもたらす限定戦争だけしかおこなわれないような平和は、期待できるのかもしれない。これも仮定的観測であるが、その時期の間に、核エネルギーは工業上の用途に利用されることになるはずである。その結果は、全くわかりきっているが、その急速性と完全性とにかけて、いまだかつて先例のない経済的・社会的大変動の連続ということになる。人間生活の、すべての既存の様式が崩壊し、原子力という非人間的事実と対応するため、新たな様式が、急場の間に合わせとして作られねばならなくなるであろう。現代版プロクラスティーズ(古代ギリシアの強盗で、捕らえた人を鉄製のベッドに寝かせ、ベッドより長ければ余った部分を切り、ベッドより短ければ、引き伸ばしてベッドと同じ長さにしたという)、つまり核科学者が、人類の横たわるべきベッドを作ることになる。そして、もし人類がそれに合わないと――さあ、このベッドは、人類にとって実際、まことに寝心地の悪いものになるはずだ。
かなりの引き伸ばしや切りつめが行なわれなければならないのは必定である――それは、応用科学というものが、真に本格的な発達をとげはじめて以来行なわれ続けてきたのと同じ種類の引き伸ばしと切りつめだが、ただ、今度の場合は、その引き伸ばしや切りつめが、これまでと比べて、はるかにより徹底したものとなるのだ。こうした、無痛どころではない手術を指導するのは、高度に中央集権化した全体主義的政府ということになる。これは必然的事実だ。というのは、近い将来はどうも近い過去に似ているらしいのだが、その近い過去においては、急激な技術的変化が、大量生産経済の中と、おもに無産の大衆の間において起こり、常に、経済的・社会的混乱を引き起こす方向にむかっているからである。この混乱を処理するため、権力の集中化が行なわれ、政府の統制力が強化されてきた。
おそらく全世界の政府は、原子力利用の前段階においてすら、もちろんその完全さに程度の差はあるが、全体主義化するであろう。原子力利用とその後の段階において、全体主義化するという予測は、ほとんど確実なようだ。政府万能主義に向かう現在の趨勢《すうせい》を食い止めることができるのは、ただ一つ、地方分権化と自立を目ざす大規模な大衆運動のみである。だが、現時点においては、そうした運動の起こるきざしは全くみられない。
もちろん、新しい全体主義者が古い全体主義と似ていなければならないいわれは、少しもない。棍棒や、銃殺部隊や、人工飢饉や、集団投獄や、集団追放を手段とする政治は、単に非人道的であるばかりか(今どき、非人道的などを深く気に病む者はひとりもいないが)、明らかに非能率的である――そして、技術的進歩の時代においては、非能率は神に悖《もと》る罪悪なのだ。真に能率的な全体主義的国家とは、政治的|親分《ボス》より構成される全能の行政機関とそれに所属する大ぜいの管理者たちが、自らの隷属に甘んじているため、何ら強制を加えられる必要のない奴隷的民衆を管理するような国家である。民衆に、隷属を愛する気持ちを起こさせることは、現代の全体主義国家においては、宣伝省、新聞編集者、学校教師らに課せられた任務である。しかし、彼らの方法はまだ粗雑で非科学的だ。もし子供の教育を任せてくれるなら、その子が成人になったときの宗教観に責任をもってみせる、と言いきった昔のジェスイット派の自負は、希望的観測の所産であった。そして、現代の先生たちは、生徒の反射作用を条件づけることにかけて、ヴォルテール(フランスの啓蒙思想家)を教育したキリスト教の神父たちと比べて、おそらくはるかに未熟であろう。
宣伝というもののもっとも偉大な功業は、何かを実行するというよりも、むしろ、その実行をさし控えることによって達成されているのだ。真実はまことに偉大である。がしかし、現実的見地に立てば、真実について沈黙を守ることは、もっと偉大である。全体主義国家の宣伝家たちは、あることを言わないということ、換言すれば、大衆と、その国の政治的|親分《ボス》が望ましくないとみなす事実や議論との間に、チャーチル氏のいわゆる「鉄のカーテン」を降ろすことによって、もっとも雄弁な非難や、もっとも強力な論理的|反駁《はんばく》に訴えるよりも、はるかに効果的に世論を左右している。しかし、沈黙を守るだけでは十分でない。もし迫害や血の粛清や、その他の社会的摩擦の徴候《きざし》は回避しなければならないとすれば、宣伝の積極的側面は、その消極的側面と同じく、効果的にされなければならない。
将来におけるもっとも重要なマンハッタン計画(第二次世界大戦中に、アメリカが行なった原子力研究の秘密計画)は、政治家やその御用科学者たちが、「幸福問題」と呼ぶもの――民衆に、自らの隷属を愛する気持ちを起こさせる問題への、政府を巨大なスポンサーとする研究となるであろう。経済的安定がなければ、隷属状態への愛着は、おそらくぜったいに生まれてこないだろう。簡潔に述べる都合で、私は、仮に、全能の行政機関とそれに所属する管理者たちは、永久的安定の問題を解決するのに成功するであろう、ということにする。しかし、安定というものは、どうかすると、すぐに当然のことと考えられがちである。安定の達成は、単なる表面的な外部革命でしかない。隷属状態への愛着は、人間の精神と肉体の内部における、深い個人的革命の結果として生まれる場合以外は、植えつけることのできないものなのだ。
その革命を成就するために、われわれには、まず、次のような発明や発見が必要である。第一に、幼児に対する条件反射教育と、その後におけるスコポラミン(なす科植物の根から採るアルカロイド。催眠剤などに用いる)のような薬品の使用による――高度に改良された暗示の技術。第二に、政府の管理者たちが、社会・経済的階級社会内部において、ある一定の個人に、男女それぞれに応じた適当な地位をわり当てることができるようにしてくれる、人間の多様性に関する高度に発達した科学。(所を得ない不適任者は、ややもすれば社会機構に関する危険思想を抱き、自分の不平を他人に感染させたがる傾向がある)。第三に、(現実は、それがどんなに理想国《ユートピア》的なものであっても、人びとがかなりひんぱんに、そこから休暇をとる必要を感ずるようなものだから)アルコール代用品とか、その他の麻薬、ジンとかヘロインほど有害ではなく、しかも、より以上の快感を約束してくれるもの。そして、第四に、(ただし、これは長期計画で、その結果を成功に終わらせるためには、数代にわたる全体主義的管理が必要である)人的製品を標準化し、管理者の任務を円滑にしようとする意図のもとに計画された、ぜったいにまちがいっこない優生学的機構。
『すばらしい新世界』においては、この人的製品画一規格化は、不可能な極限ではないにせよ、空想のぎりぎりの極限まで推し進められている。技術ならびにイデオロギーの見地からみて、われわれは、まだ、びんの中で飼育される乳児や、ボカノフスキー処理による、半低脳児《セミ・モロン》の集団からは、はるかにほど遠い。しかし、フォード紀元六百年までに、これこれは起こりそうもない、と誰が予測できよう? それはそれとして、このより幸福となりより安定した世界のもつ、いくつかのほかの特徴――ソーマや、睡眠教育法《ヒプノピディア》にそれぞれ相当するものや、科学的階級制度――は、せいぜい三、四代先のこととなるであろう。また、フリー・セックスも、あまり遠くないことのような気がする。アメリカでは、離婚数と結婚数が等しくなっている都市も、すでに、いくつか出てきている。ここ数年もしたら、結婚許可証が、犬を取り替えるのも自由なら、一度に二頭以上の犬を飼うのも全く自由な、有効期間十二か月の犬の鑑札なみに売られることになるだろう。
政治的・経済的自由が縮小するにつれて、それを補う意味で、性的自由が大きくなりやすい。そして、独裁者は(砲弾の餌食《えじき》となる兵士や、無人地域・征服地域に植民するための人間の家族を必要とする場合は別として)、その自由を助長するほうが賢明である。この自由は、麻薬と映画とラジオの作用によって、白昼夢にふける自由とともに、統治下の人民たちに、彼らの運命ともいうべき隷属を甘受させるのに貢献するであろう。
諸般の事情を考慮してみると、どうも理想国《ユートピア》は、今からつい十五年前に想像した以上に、もっとずっと近づいているようである。ところで、私は理想国《ユートピア》を六百年先に設定したのだった。が、今日、どうみてもその恐怖が、一世紀とたたないうちに訪れて来そうな気がしてならない。もっとも、これは、それまでの間にわれわれが、自分自身を吹きとばしてこなごなにするようなことはしないならば、という前提に立っての話であるが。
実際のところ、われわれが地方分権化の道をえらび、応用科学を、人間を手段とするような目的としてではなく、自由な個人より成り立つひとつの民衆を生みだす手段として利用するのでなければ、われわれのとるべき道は、たったふたつしかない。原子爆弾の恐怖を根底とし、文明の破壊(あるいは、もし限定戦争なら、軍国主義的国家体制の永久化)をその結果とするような、国家主義的な、軍国化された多くの全体主義国家群か、さもなければ、急速な技術の進歩全般、とりわけ原子力革命の結果として起こった社会的混乱によって生みだされ、能率と安定の必要のために発達して、ゆくゆくは理想国《ユートピア》という福祉的独裁国家となっていくような、一つの超国家的全体主義国家となるか、いずれかである。金を払って、どちらでも好きなほうを選びたまえ。
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解説
オールダス・ハックスリーについて
〔知的名門〕
オールダス・レナード・ハックスリーは、一八九四年七月二十四日、英国サリー州ゴダルミングのチャーターハウス校という私立学校の近くの「レイラム」という家で、父レナード・ハックスリーと母ジュリア・フランシス・アーノルドの三男として生まれた。ハックスリー一族からは、著名な学者や文人が多数輩出している。まず父方をみると、ダーウィンの進化論を支持して、ウィルバフォース司教を向うにまわし、堂々の大論戦を展開した有名な生物学者トマス・ヘンリー・ハックスリーは彼の祖父に当り、父レナードは、『コーンヒル』誌の主筆で随筆家・詩人でもあり、その父トマス・ヘンリーの伝記も書いている。彼の兄のジュリアン・ソレル・ハックスリーは、現代英国の生物学界の重鎮で、錚々たる学究であるが、単なる学究というだけではなく、ユネスコの初代総長を勤めたこともある、政治的手腕の持ち主である。祖父に似て、多方面にわたる才能に恵まれ、文筆に長じ、専門分野における著述のほかに、哲学的・文明批評的な著作も多い。また、異母弟のアンドルー・フィールディング・ハックスリーは、一九六三年にノーベル医学賞を受けている。次に母方をみると、まず、ラグビー・パブリック・スクールの名校長として同校の改革をはかり、さらに全英国のパブリック・スクール制度をも革新して令名の高かった教育家トマス・アーノルド博士は、彼の曽祖父に当る。このトマス・アーノルド博士の長男が、十九世紀後半を代表する有名な詩人・批評家マシュー・アーノルドで、その弟のトマス・アーノルドが母の父である。従って、マシュー・アーノルドは母方の大伯父に当るわけである。祖父のトマス・アーノルドは、マシュー・アーノルドほど有名人ではないけれども、教育家であると同じに、ダブリンのカトリック大学や、セント・スティーヴンズ・グリーン大学で教授をも歴任した人である。さらに、『アミエルの日記』の名訳で知られる女流小説家で、社会事業家でもあるハンフリー・ウォード夫人は、母の姉であるから、彼にとっては伯母に当る。また、彼の母その人にしても、単なる家庭の主婦ではなく、プライア・フィールドに土地を求め、独特な気風をもった私立学校を創設し、これを名門校にしたて上げた高い識見と手腕も持ち主でもある。ついでに、母方の係累をもう少しみていくと、従姉妹《いとこ》ジャネット・ペンローズの夫君は、数年前に名著『英国社会史』を世に出して、令名いよいよ高い歴史家ジョージ・マコーレー・トレヴェリアンである。以上のように、彼の家柄は、英国きっての知的名門であるといえよう。そして、ほかの兄弟たちと同じように、彼の中にも、「十九世紀の生物学者中の最俊鋭」とその名を謳われた祖父トマス・ヘンリーの血と、偉大な文芸・社会批評家マシュー・アーノルドを筆頭とするアーノルド一族の血が、脈々と流れているのである。
〔幼年時代〕
幼いころのオールダスは、きゃしゃで心臓が弱く、二歳になってやっと歩き出したほど頭でっかちであったらしい。ごく幼いときに、もう「セント・ブルーノ」という近くの幼児学校へ上げられ、引き続き、母の経営する「プライア・フィールド」校へ転校し、九歳のときに、「ヒルサイド」予備校へ入学した。兄ジュリアンが、「私は、直観的に、オールダスには幼いころから、生まれつき、ほかの兄弟たちよりすぐれたところがあり、われわれとはちがった次元にいる、という気がした。それに気づいたのは、オールダスが五歳で、私が十二歳の予備学校の生徒だったころだが、その印象は、その後ずっと生涯変わらなかった」と述懐しているのをみてもわかるように、彼には、どことなくふつうの子供とちがったところがあったようだ。「ヒルサイド」予備校は、英国の上流階級の子弟の入るパブリック・スクールへの進学を目ざす予備学校のひとつだったが、彼はそこに五年間在学した。ここで受けた教育が、彼にどのような影響を与えたかについては明らかではないが、赤い縞のはいった黒い丸帽をかぶるこの「ヒルサイド」校のことが、後になって彼の小説の中へ何回も出てくるところをみれば、それなりの影響を与えたのだろう。
〔イートン校時代〕
一九〇八年九月、彼は医者になるため、生物学を専攻するつもりでイートン校に入学した。その直後、彼は母との死別という大きな不幸に見舞われた。母ジュリアは癌《がん》のため、夏の終りごろから病気がちであったが、秋が深まっていくにつれて病状が悪化し、ついに死亡したのだった。彼にとって、この母の死は、心にいつまでも消えない傷あとを残した最初の事件だったことはいうまでもないが、彼は、その時のもようを二番目の小説『道化おどり』(Antic Hay )の中で、殆どそのままの形で描いている。母の死後、ハックスリー一家は離散しなければならなくなり、オールダスも、伯母のハンフリー・ウォード夫人のもとに引き取られた。
それから二年後、彼が十六歳のとき、突然、まるで降ってわいたように第二の不幸が彼を襲った。それは、突発的な重い眼疾と、それによる一時的な失明だった。この病気のそもそもの原因が、いったい何だったのかはわからない。イートン校の実験室での爆発が原因だった、ともいわれているが、実際は、はじめちょっとした目の病気だと思っていたものが、診断の結果、点状角膜炎と判明した、というのが真相のようである。その後、数回の手術を受けたが、視力はいっこう回復せず、盲人同様の有様となったので、やむなくイートン校を中退した。にわか盲《めくら》となったオールダスは、たえず人に面倒をみてもらわなければならない身の上となったが、父のレナードはやもめ暮らしで、とても息子の面倒をみてやるどころではなかったため、あちこちの親戚を転々としたあげく、ハインドヘッドの遠縁の家へ落ち着くことになった。
イートン中退後、彼は盲人として新しい生活を始めるため、まずブレール式点字法を独習し、タイプの打ち方も自習した。また、ピアノを弾く練習もした。こうした盲人としての訓練は、彼にとって、何といっても辛い経験だった。しかし、不撓不屈の彼は、盲目という、ふつうの人なら、とうて耐えることができないような大きな不幸の中に、却って、いろいろな代償を見出したのだった。彼は書いている。「私は、この不幸のために、典型的なパブリック・スクール出身の英国紳士になることはできなかった。運命の摂理というものは、苛酷にみえながら、実は好意に満ちている場合があるものだ。また、一時的な盲目のために、私は医師として立つ希望をも諦めなければならなくなった。が、その点についても、今となっては却って有難かったと思っている。というのは、ジャーナリストをやっていたとき、過労で死にかけたことがあるので、それを思うと、もし医者というようなもっと激しい職業についていたなら、きっとからだをつぶしていたにちがいないからである」やがて、四回の手術と、十八か月の苦闘の末、ようやく病状好転のきざしがみえてきた。失明をまぬがれたのである。片方の眼(右眼?)は、明暗が識別できるというだけで、完全な盲目に近かったが、もう片方は、ほとんど正常な状態にまで回復したのだった。
〔オックスフォード大学時代〕
視力回復の一九一二年十月、彼は、オックスフォード大学のベイリオル学寮《カレッジ》に入学した。そして、二年後の一九一四年二月に、文学士学位普通第一次試験をパスした。しかし、母の死、一家の離散、失明、それが原因となったイートン校よりの退学という、相次ぐ不幸にもめげず、ついにオックスフォードへ入学し、ようやく進むべき進路のきまりかけたところへ、またしても最愛の次兄トレヴニン・ハックスリーの自殺という事件が起こった。この兄は、当時オックスフォードで大学院の研究に当っていたのだったが、母亡きあと、いちばんよく彼の面倒をみてくれ、彼の方でも、深い親愛の情を感じていただけに、その自殺によって彼の受けた精神的ショックは大きかった。こうした悲劇や、災難や、不幸の連続が、彼の人生観やもののみ方に影響を与えたことは充分考えられるところである。もともと生物学者である祖父トマス・ヘンリーの血を承けている以上、彼の考え方やもののみ方に、科学者を思わせる知性の冷たさが感じられるのは、むしろ当然のことではあろうけれども、その知性は、ひとつには、この少年時代から青年時代にかけて経験した幾多の苦難や辛酸のために、いっそう冷たくとぎすまされていったのではないだろうか。
この年の七月に第一次世界大戦が勃発し、多くの青年が戦争に駆り出されることとなった。オックスフォードの学生たちも、学業を捨てて、続々と戦場に赴いた。そして、あたら前途有為な幾多の若い生命が、むざんにも戦火の渦中に消えた。オールダスの周辺でも、親戚や友人が次々に出征していき、残っているのは、身体的欠陥があって兵役に就けないものか、外国からの留学生ぐらいのものであった。後には戦争反対を称《とな》え、熱烈な平和主義者となったオールダスも、このころは、積極的ではないにせよ国家危急存亡のときに当り、ただ、じっと手をつかねてはいられない、という気持から、軍務につこうとしたのだった。だが、もともと視力が貧弱である上に、体躯がまた、燈台のような、たぐいまれな長身ときているので、兵役には不適格とみなされ、結局、軍務につくことができなかったので、オックスフォードに留まり、それまでより、もっと厳しい批判的な探究態度で、精神の探究を始めた。しかし、興奮がさめ、戦争というものの実態がわかってくるにつれて、彼は戦争に対して批判的となり、次第に反戦的平和主義の方へ向きかけていた。
〔ガーシントン荘園〕
このころ、彼は、フィリップ・モレル夫妻が新しく買った、ガーシントン村の荘園邸宅に紹介された。ガーシントン村は、オックスフォードから数マイル離れた、険しい、こじんまりとした山の上にある村で、そこに、エリザベス朝の古い荘園があった。ここには、経済学者J・M・ケインズや、作家リットン・ストレイチー、バートランド・ラッセル、D・H・ロレンス、キャサリン・マンスフィールド、J・M・マリー、ヴァージニア・ウルフなど、英国の経済界・思想界・文壇の指導者といわれるような人たちが集まっていた。当時の英国の知性を代表するこれらの人たちは、いずれも戦争に反対だったので、ガーシントンは、いわば、反戦平和主義者たちの拠点であった。オールダスが、熱烈な平和主義者になったのは、もとより、彼の性格や思想傾向によるものであったことはいうまでもないが、ひとつには、ガーシントン・グループの影響も、あずかって力があったのではなかろうか。なお、このガーシントン荘園邸宅が、殆どそのまま、彼の長篇処女作『クローム・イエロー』の舞台となっている。ガーシントンについて、忘れてはならないことが二つある。そのひとつは、D・H・ロレンスと始めて知り合ったことであり、もうひとつは、彼が、ここで、後に彼の妻となったマリア・ニスとめぐり会ったことである。ハックスリーとロレンスという、性格も傾向も、全く正反対の極にある二人が、ロレンスの死ぬまで、長年にわたって家族ぐるみの親交を続けたことは有名な話であるが、両者の美しい親密な友情のそもそもの始まりは、このガーシントンの荘園邸宅であった。ガーシントン荘園邸宅が、反戦平和主義者の拠点となっていたことは既に述べたが、そこはまた、亡命者たちの避難所の役割をも果していた。マリアは、そうした亡命者のひとりであるベルギー人の実業家の娘であったが、オールダスは、ここで彼女と知り合ったのだった。彼は、はじめから、この十八歳のベルギー生まれの少女がすっかり気に入った。彼女が、ロンドンでフランス語を教えていたころも、よくデートし、二人の気持は次第に通い合うようになったが、当時彼は、まだ二十四歳で、就職先もきまっておらず、前途の見通しも立っていなかったので、このときには、二人の関係は、まだ結婚にまでは発展しなかった。
〔教師生活〕
一九一六年六月、オールダスは、オックスフォードを、英文学第一級の成績で卒業した。そして、いくつかの学校を転々とした後、母校イートン校の教師となり、戦争中は、ずっと教職についていたが、この教師生活は、彼にとってあまり快適なものではなく、むしろ、不愉快な思い出となったらしい。戦争直後の一九一八年の秋に、彼は、オックスフォード大学に職を求め、英文学者として立とうとしたことがあったが、これはうまくいかなかった。ただ、それは、彼が学者になるのに不適格だったというのではなく、戦後のオックスフォード大学が財政的に窮乏していて、とても新規に人を採用するようなゆとりがなかったためである。先にも述べたように、オールダスには、すでに、生涯を共にしようと決めた意中の女性マリア・ニスがいた。彼は、一日も早く結婚したかった。しかし、殆ど盲目に近い身である上に、時あたかも戦後で、復員してきて、血まなこになって職を求める人たちが、巷にあふれている時であったから、教職以外に思わしい就職口のある筈もなかった。
ところが、イートンでの教師生活がおもしろくないため、悶々とした日を送っていた彼のもとへ、全く思いがけず、「アシニーアム」誌の主筆J・M・マリーから、「アシニーアム」誌の編集部に入らないか、という勧誘があった。オールダスは即座に承諾し、それから数週間後に、マリアと結婚したのだった。
〔文筆生活に入る〕
「アシニーアム」誌の編集部では、数か月間、雑文や書評を書いていたが、やがて、匿名で、文学を論じたり、現代世界を批判したりする、軽い調子の定期連載評論「マージネーリア」を担当し始めた。ところが、まもなく、彼はマリーと衝突した。そして、「マージネーリア」を担当するかたわら、「ウェストミンスター・ギャゼット」紙の演劇批評を書くこととなった。そのため、彼は、一年間に約二百五十回も芝居見物に出かけた、という。後に、「ヴォーグ」誌の編集部員にもなったが、そのときなどは、年間平均、一週間に三冊の割合で書評を書き、時には広告原稿にまでも手を入れた。とにかく、このころの彼は、「プレイボーイ」誌、「ディダラス」誌、「ライフ」誌、「エンカウンター」誌など、ありとあらゆるものに、演劇批評、芸術批評、音楽批評、書評、雑文など、ありとあらゆる記事を書いている。結婚の翌年一九二〇年四月に、長男マシュー・ハックスリーが生まれた。目ざましい文筆活動で、多少金の貯えができると、彼は妻子と共に、イタリアへ渡り、フィレンツェや、フォルテ・デ・マルミや、シエナ、ローマなどを転々としながら、長篇、短篇の小説、評論、旅行記等の執筆に専念した。一九二五年九月、彼は妻と、インド、ビルマ、マレーシア、旧オランダ領ジャワ島、ホンコンから、アメリカ合衆国に至る、世界一周の途についた。この時、わが国をもちょっと訪れている。この旅行の結果、オックスフォード在学中から、かねがね感心を寄せていた東洋の神秘思想に、いっそう強い興味をもつようになった。
もともと英国の気候も、社会的雰囲気も好きでなかったハックスリー夫妻は、世界一周旅行より帰った一九二〇年代の後半は、英国を離れ、イタリアや南フランスに移り住み、主に小さな町で暮らし、安価に快適な生活を営みながら、人生というものを、上品で温和な思いやりの眼で眺め、好きなときに、好きなペースで、思いのままに思案にふけったのだった。この生活は十年以上も続いたが、彼らのただひとつの気がかりは、長男マシューのことだけだった。しかし、困ったときには互いに助け合うというのが、ハックスリー一族の、いわば、しきたりとなっていたので、マシューが、彼らの流浪生活に加わることができるようになるまで、親戚が代わり合って面倒をみてくれたのだった。一九二〇年代後半の放浪生活のうちで、特に注意すべきは、ハックスリーとD・H・ロレンスとの親交であり、数年にわたる親しい交わりの間に、ハックスリーは、ロレンスから、はかり知れぬ大きな思想的影響を受けた。そして、一九三〇年三月、南フランスのヴアンスで、彼は、この先輩、兼親友であるロレンスの死に立ち会ったのだった。ロレンスの死後、彼は、南フランスのサナリイへ転居し、一九三七年二月ごろまでここで暮らした。彼が、少なからず気に入って住みついていたイタリアから、フランスへ移るに至った、はっきりした理由はわからないが、ただ、当時のイタリアにおいては、ムッソリーニらのファシズム勢力が急速に台頭し、それと共に、国家体制が、次第に全体主義化していたことを思うと、彼のような考えの人には、住み難くなっていたのかもしれない。
その後、彼は、徐々にロレンスの影響を脱却して、次第に、神秘的色彩の濃い彼独特の思想を展開するに至るのであるが、その思想的転換期に書かれたのが、この『すばらしい新世界』である。彼の小説の中で、『すばらしい新世界』は断然有名であるが、それというのも、この物語は、わかりやすい話の筋をわかりやすく運んでいるからである。しかし、ひとつには、刊行当初、多くの公立図書館で禁書となったことがあり、それが却って人気を呼ぶ原因となったとも考えられる。この物語について、ある批評家は、「この物語の中で、ハックスリーは、最大多数の最大幸福の理想が、いろいろな方面において、水準の低下を来すことになるような民主主義社会で、必然的に起こってくるとして彼が憂慮している科学の悪用を、その論理的な帰結まで推し進めたのだった。赤ん坊がびんの中から生まれ、栓をひねりさえすれば、擬似的快楽『触感映画《フィーリー》』がふんだんにみられ、精神を操作するための実用的な定理がちゃんと用意されているような、無味乾燥で非人間的な『すばらしい新世界』が出現する、という洞察力は、驚くべきものであった。彼より以前にも、有能な予言者がいないわけではなかったが、ハックスリーは、予言実現のぎりぎりの瀬戸際まで生きていた、ごく少数の予言者たちのひとりだった。『すばらしい新世界』が書かれたほぼ三分の一世紀後、死の数か月前に、彼が『この本に述べられている概略は、今日、事実となっている。たとえば、薬品、社会の組織化、レジャーの問題など。恐怖という手段は能率が悪いから、科学的独裁性は、恐怖など利用しない。人心操作の方が、棍棒や強制収容所などよりましである』といった」と述べている。
なお、この物語については、改めて、くわしく述べることにする。
〔『すばらしい新世界』以後の文筆活動〕
『すばらしい新世界』が出た翌年に当る一九三三年、一月から五月にかけて、西インド諸島、ヴェネズエラ、グアテマラ、メキシコ、アメリカ合衆国への旅行に出かけた。一九三五年六月には、パリで開かれた文化擁護国際会議に出席している。当時ヨーロッパでは、ナチズム、ファシズムの台頭によって、国際情勢は次第に険悪化しつつあったが、この年の十月、独裁者ムッソリーニに率いられるファシスト・イタリアがエチオピアに侵入したため、その侵略行為に対する制裁措置が、ことに英国で盛んに論じられていた。一九三六年四月、彼は、パンフレット『現状をいかにすべきか』(What Are You Going to Do about It ?)を発表し、その中で、戦争を必要悪である、とみなす人たちを批判し、戦争は人間の意志によって阻止することができる、と断言し、平和の建設は、ひとりひとりの個人の心の問題であるから、平和を確立しようと思うならば、ひとりひとりの個人が、勇気や平和を冥想することが必要である、といった個人の精神修養を重んずる一種の倫理主義的平和論を説いた。この大胆で奇抜な提案が、S・スペンサーやデイ・ルイスらのいわゆるオーデン・グループの人たちから、痛烈な批判を受けたことは、周知の事実である。第二次大戦勃発前夜ともいうべき、あの緊迫した時代において、国際緊張打開策として、大まじめで倫理主義を提唱している彼の神経には、われわれもいささか驚かされるが、その提案の中には、今日のわれわれの眼からみて、卓見と評すべき意見もある。例えば、いわゆる「もてる国々」と「もたざる国々」とのあいだの緊張を解消するために、世界中の資源を一括管理し、各国の代表から成る委員会で討議の上、その配分法を決めたらよい、とする見解などは、簡単に無視することはできまい。
〔アメリカへ渡る〕
一九三七年四月上旬、ハックスリーは妻や息子と共に、サウサンプトン港から「ノルマンディー」号でアメリカに渡り、カリフォルニアにひとまず落ちついた。そして、南部、南西部の各地を旅行し、また、講演旅行にも出かけた。このころ、エドウィン・ハブルや、ジェラルド・ハード、女優のポーレット・ゴダード、演劇・映画俳優兼監督のチャーリー・チャップリンらと交わっている。ハックスリーの渡米の動機については、批評家の間で、いろいろな推測がなされているが、結局、はっきりしたことはわからない。しかし、彼の行なった行動への呼びかけともいうべき『現状をいかにすべきか』が殆ど反響を呼ばず、彼の主張が、事件におされてわきへ押しのけられつつあったことを思えば、今後は、こうした問題は主唱者や煽動家たちに任せ、自分は、そんなことに直接的なかかわり合いのない著作を続けたい、という気になり、ついては、正気の人なら絶望するより仕方のないヨーロッパをしばらく離れ、気楽にものがかけるアメリカへいってみようと決心したのは、むしろ、自然のなりゆきというべきだろう。そのほか、もう二度と戦争にはまきこまれたくない、というマリアの願望や、息子をアメリカの大学へ上げたいという親としての彼の希望、アメリカの気候は、視力のためによいだろう、という彼自身に対する希望的観測もからんでいたらしい。ただ、アメリカへ永住するつもりではなかったようである。
アメリカでは、M・G・M社のために、グレダ・ガルボ主演によるキューリー夫人の生涯を扱った映画の脚本や、ジェーン・オースチンの『高慢と偏見』の映画脚本、また少し後のことだが、ユニヴァーサル社のために、彼自身の短編『ジォコンダの微笑』の映画脚本などを書き、生活のためもあったのだろうが、映画関係の仕事を割合多く手がけている。オースチンの脚本を書く契約をしたとき、会社側のいう報酬があまりにも多かったため、彼の方がすっかり尻ごみし、断るといい出したのを、間に立った女流作家アニタ・ルース女史が百方説得し、その金を英国の親戚や友人に送ればいいからと納得させ、どうやら執筆を承諾させた、というエピソードがある。
一九三九年、長篇『多くの夏を経て』の執筆と前後して、かねてから悩んでいた視力低下が甚だしくなり、陽光の明るいカリフォルニアでさえ、読書に困難を感ずるようになったため、春ごろから、ベイツ治療法に従って眼の訓練を始めた。故W・H・ベイツ博士によって開発されたこの治療法は、目ざましい成功を収めてはいるが、眼の訓練によってそれが大幅に左右されるため、あまり正統的とはいえない方法であったが、ハックスリーは、ニューヨークのマーガレット・D・コルベット女史のもとで指導を受けた。その結果について、彼自身は、「私は眼鏡なしで読書することができるようになり、おまけに、緊張も疲労も感じなくなった。慢性化していた精神の緊張も、時どき起こる一時的な完全な消耗状態も、過去のこととなった。その上、二十五年以上もの間変化しなかった、あの角膜の曇りが消えそうな、はっきりした徴候がみられたのだった」と述べ、さらに五年後には、「視力は、眼鏡をかけ、まだ『ものを見る術』を教わっていなかったころの、ほぼ二倍に達した」といっている。ただし、この視力回復の原因が、果してベイツ治療法の効果だけによるものであったかどうかについては、オールダスの友人や身内の人たちは、今なお疑問視している。
第二次世界大戦中も、彼はずっと健筆をふるい、長篇、伝記、評論など、多方面にわたる著作を次々と刊行した。大戦の終わった一九四六年、『すばらしい新世界』に、自らの再評価ともいうべき『はしがき』をつけた。十月に、この作品の映画化の計画があったが、結局実現しなかった。一九四七年の秋ごろから、原爆戦争後の人類の醜悪な姿を暴露した架空未来小説『猿と本質』を書き始め、翌年二月に完成し、八月に刊行している。それから四年ほどたって、彼は、ビールス性の病気にかかり、右の眼が犯され、重い虹彩炎にかかった。その翌年の一九五二年一月、マリア夫人が乳|癌《がん》の手術を受けた。
一九五三年五月、彼は、精神病医ハンフリー・オズモンド博士の監督のもとに、メスカリンという一種の麻薬を試すため、自ら進んで実験台となった。彼が、かねてから神秘思想に関心を寄せ、特に宗教的法悦境や、恍惚状態に強い興味をもっていたことは事実であるが、ちょうど、『すばらしい新世界』の中で、いっさいを忘却し、夢我の境に赴くため、「ソーマ」が常用されているように、そうした境地を、化学的薬品によって人工的に体験しようとしたのだろうか。この実験の意図や意義については、いろいろな角度から論じられているが、ともかく、宗教的法悦の境地を、何とか薬品によって体験してみたい、という執念は、生涯彼につきまとっていたようだ。それが何より証拠に、『すばらしい新世界』と同じユートピア小説系列の最終作『島』(Island)の中でも、やはり「モクシャ」という薬品が登場し、宗教的エクスタシーを人為的に作り出すために常用されることになっているからである。なお、その実験に立ち会ったハンフリー・オズモンド博士は、「実験を決行することに、みんなの意見が一致した。私は眠れない一夜を過ごした。あくる朝、私は水をかきまわした。すると、銀白色のメスカリンの結晶が渦をまいて沈んでいき、ちょっと油のように、なめらかにとけていった。それをみつめながら、私は、量が充分かな、いや多過ぎるかな、などとくびをかしげた。あまり暑くなく、眼を刺戟するスモッグのひとかけらもない、さわやかなハリウッドの朝だった。しかし、私は不安だった。もしメスカリンが利かなかったら、オールダスもマリアも悲しむだろう。しかし、もし利き過ぎたら、どうなるか。量を半減した方がいいだろうか。道具立ては完全だった。オールダスは、申し分のない被験者のように思われた。マリアは、とても気が利くし、われわれの気持は、互いによく通じ合っていた。そして、意志の疎通は、良い経験を得るためには、極めて大切なことだった。しかし、私は、ひょっとすると、自分がオールダス・ハックスリーを発狂させた男になるかもしれない、という危惧の念で、ちょっと不安だった。だが、私の懸念は杞憂《きゆう》だった。この苦い薬は、むしろ、オールダスの期待ほど迅速には利かなかった。それは、徐々に、概念的な思考の古いさびを侵食していき、知覚の扉が清められた。そして、オールダスは、彼の巨大な理性的頭脳の干渉をあまり受けないで、事物を知覚したのだった。二時間半とはたたないうちに、私は、薬が作用しつつあるのを確認し、三時間後に、万事が順調に進む見通しがついた。オールダスとマリアは大喜びだった。私も、肩の荷を下ろしたように、ほっとすると同じに嬉しかった」といっている。
この後も、彼は、医師の立ち会いこそなかったが、同じような実験を何回か繰り返し、医師の立ち会いのもとで服用するのは、最も好ましくない、実験環境は、美的にすべきで、科学的にすべきではない、その体験を共にする仲間も、よくわかってくれる友人か、芸術家か、とにかく、あまり深い科学的素養をもたない人が望ましい、というのは、その体験の性質が、科学的なものではないから、という意味のことを述べている。また、一九五三年以降、彼は同じような意図で、幻覚剤《サイキデリック・マテリアル》の一種――ふつうLSDと呼ばれている――を、一年に一、二度のんでいる。
一九五五年二月、長篇『天才と女神』を執筆中にマリア夫人を乳|癌《がん》で失った。翌年三月十九日、彼は、イタリア人のヴァイオリニスト、ローラ・アーシュラと再婚した。再婚後数か月は、フリーダ・ロレンス夫人の言葉を借りれば、まるで、彼の中から「何かがはじけ出たよう」だった、という。ローラ夫人との第二の人生も軌道にのり、文筆活動も、ふたたび順調に進み出した。そして、再婚後三年目の一九五九年、『すばらしい新世界』の続篇ともいうべき評論『すばらしい新世界再訪』(Brave New World Revisited)を出版している。一九六一年五月、またしても、運命の試練が彼を襲った。ロサンゼルスの彼の家が、山火事のために全焼してしまったのだった。この火事のため、彼は、祖父から承けついだ『カンディード』の初版本や、四十通にのぼるD・H・ロレンスの手紙、その他知名人からの手紙、自分の作品の原稿、無数の注釈やメモやはんぱな思索や思いつき、という形で集積してあった、半世紀にわたる読書の結果、さらに、いろいろな人たちとの交友のかたみのかずかず、マリア夫人の日記までをも、すべて失った。「私自身の四分の三が消滅してしまった」と、彼は述懐した。しかし、外部に対しては、「私は、最後に、すべてのものを剥奪される少し前に、どうしたって、持っているものを、しっかり掴んでいるわけにはいかないのだ、ということを、はっきり自覚するつもりだ」と、諦めのよいところをみせいている。「たしかに辛い。辛いけれど、これが、無執着というものを教えてくれる。無執着の境地に到達した、と頭で考えるのはたやすいが、到達するには、実際的な裏付けが必要なのだ」と、悟りを開いたようなこともいっている。
火事に遭った後、ヨーロッパ、英国を訪れ、故郷のゴダルミングへも足を伸ばした。そして、これが、最後の故郷訪問となった。
ところが、これより先、一九六〇年ごろから、彼は舌|癌《がん》にかかっていた。そして、ラディウム照射によって、一度は完全に治ったのだったが、一九六二年ごろから、それが再発した。そして、七月、数年前にマリア夫人を診察した、友人のマックス・カトラー博士の執刀で、癌のできた頚部リンパ腺の切除手術を受けた。しかし、癌は、もうほかの腺へも転移していた。翌年三月、病躯をおして、彼は、妻ローラと共に、ローマで開催された「国際連合食糧・農業機構」の会議に出席し、教皇ヨハネス二十三世に拝謁した。その後、いったん帰米し、ふたたびラディウム照射治療を受け、八月には、ストックホルムで開かれた「世界芸術・科学アカデミー」の大会に列席し、その足で、最後に英国、イタリアを訪れた。
彼は、一九六三年十一月二十二日、ロサンゼルスで、喉頭癌のため、六十九歳で死去した。その日は、奇しくも、アメリカ合衆国第三十五代大統領ジョン・ケネディが凶弾に斃《たお》れた日であったため、大統領暗殺事件の方が世界の耳目を奪った格好となり、彼の死は、あまり世間の関心をひかなかった。彼の遺骸は、その日のうちに火葬に付された。葬儀は行なわれなかったが、ロンドン在住の彼の友人たちは、十二月十七日、追悼礼拝を行なったのだった。
『すばらしい新世界』について
〔D・H・ロレンスの影響からの脱却〕
「オールダス・ハックスリーについて」のところでも述べたように、『すばらしい新世界』は、作者の思想的転向を示す作品である、といわれている。そのみ方によれば、初期の長篇小説『クローム・イエロー』『道化おどり』『くだらぬ本』(Those Barren Leaves)『対位法』(Point Counter Point)などを書いた一九二〇年代において、彼は、現代の知性偏重や肉体軽視の道徳に反逆し、本能や肉体の重要性を主張したD・H・ロレンスの思想に共鳴し、その影響を強く受けていた。ところが、この作品あたりから、次第にロレンスの思想的影響を脱却し、彼独自の新しい思想を展開させていった、といわれている。つまり、『すばらしい新世界』は、作者ハックスリーの思想的転向の萌芽を示す、ということになる。
〔時代的背景との関連〕
また、『すばらしい新世界』は、一九三〇年前後の、次第にただならぬ様相を呈し始めた世界史の中において眺めるべき作品である、とか、とみに険悪なものとなりかけていた当時の世界情勢に対する、ハックスリーの対決の表明である、とかいうふうにいわれている。たしかに、『すばらしい新世界』の書かれた前後は、(厳密にいえば、おもに、この物語の書かれた直後になるが)第一次大戦の傷跡はようやく癒《い》えたが、世界には暗雲が低迷し、国際情勢が混沌たる外貌を呈し、第二次世界大戦の恐怖はまだ遠いが、何となく無気味な気運が、国際間に不吉な陰を投げ始めた時代であった。その限りにおいて、この物語を、そのような立場で眺めるのは、ひとつのみ方として、当然考えられてよい。もちろん、『すばらしい新世界』の構想をねるに当って、彼とても、険悪化していく当時の世界情勢の中で、次第に無気味な存在となって台頭してくるナチス・ドイツ・、ファシスト・イタリア、日本、それに社会主義ソビエトなどの諸国家の姿と、こうした諸国家が、(もしそのままの形で存続し続けるとしたら)到達する筈の未来像ともいうべきものに対して、無関心だったわけではないだろう。しかしながら、『すばらしい新世界』が世に出たのは一九三二年であるが、第二次世界大戦が起こったのは一九三九年である。従って、彼がこの作品の中で、直接的な対象として描いたのは、彼自身も述べているように、あくまでも、科学と、その申し子である機械・物質文明の異常な発達のために、人間が、自らのために開発した機械や物質の奴隷となりはて、すべての人間的品位と尊厳を喪失してしまう、恐るべき未来社会であった、ということであろう。それは、彼が、この物語に題をつけたとき、シェイクスピアの戯曲『あらし』の中の有名な句、「すばらしい新世界よ」を借りてきて、『あらし』の中の「すばらしい新世界」とは、およそ似ても似つかぬ恐るべき世界に、そのような揶揄的な題をつけていることからもうかがわれる。その点、自分の小説『一九八四年』(一九四九年刊)に、直接的な「一九四八年」という題をつけようとしたG・オーウェルの態度とは対蹠的である。
〔執筆の意図〕
この『すばらしい新世界』刊行の前年に当る一九三一年の八月二十四日、彼は、父レナード宛に次のような手紙を書いている。
「どうやら書き上げて、ほっとしている仕事というのは――ユートピアというもの(ともかく、われわれの規準でみた場合の)の、ぞっとするような恐ろしさを示し、びんの中における乳幼児の飼育といった、実現可能性の極めて濃厚な生物学的発明が、人間の思考や感情に及ぼす影響や(その結果、当然、家族というものが消滅し、家族関係が原因で起こる、いっさいのフロイド的|複合《コンプレックス》の解消をみることになります)、青年期の延長や、無害でしかも有効な、アルコール、コカイン、アヘンなどの代用品の発明――さらにまた、生誕時から、いや、生誕前から、すべての幼児に、パブロフ式の条件反射教育を授けるような社会改革のもたらす影響や、世界的平和、安全、安定などをも予告する、こっけいな、あるいは、少なくとも諷刺的な未来小説なのです……」
右の手紙の中で彼が述べている通り、彼は、この現代世界が、科学の異常な進歩・発展をただ拱手傍観し続けるならば、早晩出現するであろう、物質・機械万能主義の逆ユートピア社会を、諷刺的未来小説として、彼らしい、むしろ、つき放したような、しかもちょっとふざけた態度で、|こっけい《ヽヽヽヽ》に描いてみせようとしたのではないだろうか。実際、われわれ読者は、ヘンリー・フォードのT型車の採用された年(一九〇九年か?)をもって、新しい紀元元年と定めたり、「Y・W・C・A」を「Y・W・F・A」ともじったり、「ウェストミンスター大寺院《アベイ》」を「ウェストミンスター・アベイ・キャバレー」というダンス・ホールに化けさせたり、「キャンタベリー大司教」を、何と「キャンタベリー共有賛歌大会堂主席|歌手《ソングスター》」と呼んだり、管区の各教会を「歌謡場《シンガリー》」としたり、といった奇抜なもじりやあてこすりに、思わず吹き出してしまう。一言でいうなら、『すばらしい新世界』は、ハックスリーという、たぐいまれな博識の才人が、ひとつ、おもしろおかしく笑わせながら、みんなに警告を与えてやろう、という意図のもとに、そのありあまる奇想と機知を従横に駆使して書き上げた喜劇的未来記ということになろう。
もっとも、この半分冗談めかした、ふざけた態度は、その後著しく変化した。そして、その変化の最初の表われは、第二次世界大戦後、この物語の新版に作者みずからがつけた「はしがき」にみられる。その中で、彼は、この物語の執筆当時は、逆ユートピアまでまだ六百年ぐらいの時間的ゆとりがあると思っていたが、今となってみると、十五年前(つまり、執筆当時)予想していた以上に、そちらに近づいている。このテンポでいけば、一世紀とはたたないうちに逆ユートピアの実現をみるかもしれない、と真剣な態度で指摘している。さらに、それから十三年後の一九五九年に、従来の楽観的な観測を大幅に修正する意味で、『すばらしい新世界再訪』を発表した。その態度は、『すばらしい新世界』の場合とは、すっかり異なり、真剣そのものである。二十七年前は、まだまだ遠い未来のひとつの可能性として、ひょっとしたら、いまに、あのようなとんでもない世界が生まれてくるかもしれないな、というぐらいに、半ば冗談のつもりで、おもしろ半分に想像していた事態が、その後の文明の進歩をみていると、案外に早く実現しそうな様子である。人類の進んでいる方向をみていると、心配でたまらない。何としても、いまここで、警告しておかねば気がすまぬ、とでもいった調子で、「人口過剰」「量と質と道徳」「組織過剰」「民主主義における宣伝」「販売術」「洗脳」……等の項目に分けて書いている。そこには、勢いこんで、まともにたたみかけてくる、ハックスリーには珍しい熱っぽさと気負いとが、ひしひしと感じられる。ぐずぐずしてはいられない、手おくれにならない先に、取りあえずいっておかなくては、という焦りすら感じられる。その端的な表われは、『すばらしい新世界再訪』の方が、小説ではなくて、純然たる評論の形式をとっていることである。小説などという、まわりくどい形で表現しているような時ではない、ということかもしれない。
〔現代的興味〕
このように、評論『すばらしい新世界再訪』をも合わせ考えるならば、この小説は、現代に対する問題提起の書として受け止めるのが、より適切なのではなかろうか。
彼は、もっと未来のこととして、この物語の中で予言していることがらのいくつかは、すでに、われわれの身近な問題となっている。「試験管ベビー」の問題、高度経済成長によって生じた、大衆の余剰エネルギーのはけ口や余暇《レジャー》の処理、高度に発達した現代国家の行政機構や、その機構の管理者たちが、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌といった宣伝の武器や、暗示などの心理学的武器を縦横に駆使し、われわれが好むと好まざるとにかかわらず、われわれの肉体のみならず魂までも操作して、ひとつの方向へもっていこうとしている現実、世代の断絶、過密と過疎、人口の都市集中化と核家族化とによって起こる孤独な老人の福祉、医学的な実験方法として注意され始めているばかりか、すでに、幼児の語学早期教育の一環として取り上げられている睡眠教育法《ヒプノピィディア》、そればかりか、コンピューターによる全人口の背番号式登録など、ハックスリーが予言した通り、現代社会は、正しく、超高度管理社会に向って、確実に進んでいるのだ。『すばらしい新世界』の冒頭におけるニコラ・ベルジャーエフの言葉の通り、たしかに「……ユートピアは実現可能」であり、「生活は、その方向に向って進んでいる」のである。しかも、過去の何びとも夢想だにしなかったような速さで進んでいるのだ。それを思うと、怖いような気にさえなってくる。つぎに、私が興味をひかれたいくつかの問題について、少し書いておきたい。
(一) びんの中での人工授精と胎児の飼育
これは「試験管ベビー」という見出しのもとに、最近、特に新聞雑誌などでみかけるようになった問題である。例えば、一九七〇年三月二日付け朝日新聞の夕刊の「文化」欄で、医事評論家水野肇氏が、『「試験管ベビー」人体実験は行き過ぎ、問われる医学のあり方』という見出しのもとに、次のように述べておられる。
「英国の婦人科医、パトニック・スティプトーは、二月二十三日夜のBBC放送のテレビ番組で『年内にも第一号の〈試験管ベビー〉が誕生するだろう』と予言し、それを希望している北イングランドの三十四歳の主婦を紹介した、と先日の朝日新聞が伝えている。スティプトーの〈試験管ベビー〉の方法は婦人の子宮からとり出した卵子を精子といっしょにして特殊な培養基の中で受精させ、成熟の初期の段階が終ったところで、もとの子宮に植込んで、あとは、ふつうの妊娠と同じような経過をたどる予定にしてある。従って〈試験管ベビー〉というより、体外受精と呼ぶべきもので、これまでもアメリカのロックが六日間(一九四四年)イタリアのペトルッチが二十九日間(一九六一年)生かすことに成功している、云々」
このスティプトーの「試験管ベビー」の方法と、『すばらしい新世界』で行なわれている「人間の精子と卵子をそれぞれ別の試験管に保存しておき、必要に応じて、卵子の入った容器を精子の遊泳している溶液にひたして受精させ、それから、新鮮な牝豚の腹膜の薄い切れはしにそれをはめこんで云々」という方法とは、何とよく似ていることだろうか。もちろん、水野氏も指摘しておられるように、「いま行なわれている試験管内の実験は、単なる学問的興味の段階」に過ぎないものであって、それが、ただちに、人間の完全な体外受精につながるものではないにしても、「それらの積み重ねが、やがて人類そのものの存亡につながったり、倫理が変革を要求されたりする」ようには、絶対ならないとは、現在の科学の発達の状況から判断して、何びとも断言できないのである。そして、『すばらしい新世界』において、現に、これが、家族制度・家庭の解消、親子・夫婦関係の消滅という倫理の変革をもたらしていることは、われわれが、すでにみて来た通りである。
また、直接「試験管ベビー」のことではないが、それに関連した記事として、一九七〇年二月十五日付けの朝日新聞の朝刊が、「〈試験管ベビー〉進めば出産の人まかせ可能――英学者語る――」という見出しのもとに、次のような報道をしている。
「英バーミンガム大学の発生学担当講師、ジャック・コーエン博士は二十五日夜『いま英国で話題になっている〈試験管ベビー〉の実験技術を用いて、子供はほしいが自分で生みたくない女性や不妊症の女性が、他の女性に自分の子供を代わって生んでもらうことも、近いうちに可能になろう』と語った。
同博士のこの考えは、試験管ベビーに関する実験から発展して出てきたもので、受胎した女性が、自分で生みたくなければ、他の女性にその受精卵を移植して、出産してもらうことも簡単に出来るというもの。云々」
とにかく、ハックスリーが、『すばらしい新世界』の中で取り上げてから、わずか四十年足らずの間に、「試験管ベビー」の試みが、単にとっぴな思いつきではなくなっていることを思うと、今さらのように、科学の進歩の目ざましさと、ハックスリーの洞察力の確かさに、驚かずにはいられない。
(二) フリー・セックスの問題
「試験管ベビー」の実験が完全に実用化されるようになれば、女性は妊娠から解放されることになり、先にも述べたように、結婚とか一夫一婦制とか家庭などというものは解消されて、いわゆるフリー・セックス、つまり「性の解放」というものが行なわれることになる。そして、事実、『すばらしい新世界』において、完全なフリー・セックスが認められているのは、すでに御承知の通りである。この『すばらしい新世界』における「性の解放」を、新しい角度から眺めた、興味深い評論がある。それは、一九六九年十二月二十八日号の「朝日ジャーナル」に掲載された、『愛と性と秩序』と題する、京都大学助手井上俊氏の評論である。その評論の中で、井上氏は、現代の管理社会における、このような性の解放を、一種の「合理化」として受け止め、こうした「合理化」の過程が進むにつれて、性というものが本来もっている反秩序的エネルギーが弱まり、秩序にとって、それほど危険なものではなくなってくる。だからこそ、ある程度の拡散も、寛容に許容されるのである。この「合理化」は、基本的には、ブルジョア的、合理主義的、進歩主義の枠内にあり、管理社会の「秩序の要請」に合致するものである。従って、この種の「合理化」のゆきつくところは、結局のところ、ハックスリーの逆ユートピア『すばらしい新世界』にほかならないのではないだろうか、という意味の疑問を提起され、『すばらしい新世界』こそ、徹底した「合理化」を媒介として、欲望の完全な「解放」と完全な「管理」とが、同じに実現されている、空虚なパラダイスではないのか、と論じていられる。今日、われわれが性の問題を考える場合、「管理社会」と「その秩序の要請」というもの抜きで考えるわけにはいかないことは確かであるし、その秩序に抵触しない限りにおいて、性の解放が許容されているのも事実である。極言すれば、本来個人的レベルの問題であるべき性の問題さえもが、「高度管理社会」の「秩序の要請」に束縛され、その犠牲《いけにえ》とされているということであろうか。
(三) 科学的階級制度
遺伝的次元において、薬品により、誕生前に人間の運命を規定し、生誕後所属する社会的階級を予定し、将来就くべき職業に応じて、就職適性を、いろいろな科学的方法によって高めておく。しかも、このような過程を経て生まれて来た人びとに、生誕後も、自分の境遇と職業に喜びを見出すように、幼年時代から、睡眠教育をくりかえし、くりかえし授ける。このように教育された人たちが成長して社会の一員となると、自分の職業に喜びを見出し、自分の所属する階級にすっかり安住し、満足して生きていくことになる。支配階級に属するものは、生来、下層階級を支配し指導するようにしこまれているから、それを自己の当然の職務と考え、何のためらいもなく支配と指導を行う。一方下層階級のものは、やはり生来、隷属し支配され指導されるようにしこまれているから、隷属し支配され指導されることにすっかり満足し、自らが支配者階級にのし上がろうとか、これを倒して自分たちがこれにとって代ろうとかいった、危険な考えを起こさない。支配階級にせよ被支配階級にせよ、遺伝的段階ですでに自己の運命を最上のものと信じ、甘んじてそれに従うように、科学的に規定され、しかも、その信念を、生誕後、条件反射教育の反復によって第二の天性になるまで強化されているのだから、不平や不満のもちようがないわけである。こうした人びとの階層をピラミッド型に積み重ねていけば、理論的には、そこに、それこそ階級的対立も、それによる社会的不安も混乱も全く起こらない、安定して、平和な、ひとつの理想社会が出現する筈である(もっとも、そのような社会が果して住みよいか、住んでみてどういう気がするか、は、われわれがすでに眺めてきた通りだが)。この理想社会構想案は、何もハックスリーが、『すばらしい新世界』において、突如として展開した思想ではなく、それより十年も前に書いた長篇小説『クローム・イエロー』の中でも、スコーガン氏の口を借りて、「合理的国家」としてすでに披瀝している。
「合理的国家においては、人間は、眼の色や頭蓋骨の恰好によらないで、彼らの知性や気質の特徴に応じて、はっきりした三種類の階級に分たれる。今なら、殆ど超人的としか思われないほどまで熟練した洞察力をもった心理学検査官が、生まれてくるひとりひとりの幼児をテストして、適当な階級に類別することになるだろう。きちんと分類され、ラベルを貼られてから、幼児は、彼の属する階級の一員となるにふさわしい教育を授けられ、成人したあかつきには、その階級の人たちの履行することのできる職務を遂行するようにしむけられることになるだろう。……その三つの階級は、こうだ。指導的知識階級、信仰人階級、それに下層階級である。知識階級の中には、ものを考えることのできる人たちや、その時代の精神的束縛からの、ある程度の自由――悲しいかな、最高度の知性に恵まれた人びとの間でさえ、それは、本当に狭い範囲のものなのだが――を達成するための方法を心得ている人たちがはいることになる。実生活上の問題に関心を向けるようになった人たちの中から選出された知識人の一団が、この合理的国家の統治者となるであろう。彼らは、第二番目の階級に属する大ぜいの人びと――つまり、信仰人や、私にいわせれば、ものごとを情熱的に無批判に信じ、自己の信念や欲望に、進んで殉ずるような狂気の人たちを、自分たちの権力行使の手段として、利用することになる。これら狂気の人たちは、使いようによっては、利益にもなれば害にもなるような恐るべき可能性をもってはいるが、もはや、そのときどきの環境の変化に応じて、臨機応変の反応をすることは許されない……新しいタイプの信仰人は、全くそれと気づかないで、ある卓越した知性人たちの道具となるのだ……信仰人の主要な任務は、下層階級、つまり、知性を欠き、貴い情熱をも持ち合わせていない、あの幾百万の数え切れない大衆より成る、第三番目の大集団の感情を動かし、指導することである。下層階級の人たちの、何か特殊な努力が必要とされる場合、あるいは、団結のために、人間性があるひとつの情熱的な欲求、もしくは思想によってかき立てられ、統一される必要があると考えられた場合には、信仰人が、前もって、ある単純で納得のいく信条をしこたま詰めこんだ上、福音伝道の使命を帯びて派遣されることになるのだ……下層階級の人びとの養育に当っては、人間のもっている殆ど無限の被暗示性が、十二分に利用される。幼児期のごく初めから、下層階級の連中は、組織的に、労働と服従以外に幸福はあり得ない、という確信を与えられる。彼らは、自分たちが幸福であり、また、極めて重要な存在であり、彼らが行ういっさいのことは、崇高で意味をもっている、というふうに信じこませられる。下層階級の人びとにとっては、地球が宇宙の中心に復帰し、人間が、地球上で一ばん優れた地位を取りもどすことになる。……上司の命令に服従しながら、一日八時間の労働をし、自己の偉大さと意義と不滅を確信している彼らは、驚くほど幸福である。これまでのいかなる民族より幸福だ。彼らは、決して眼ざめることのない『薔薇色の陶酔境』で一生を送ることになるのだ」
これだけをみても、この「合理的国家」の構想が、殆どそっくりそのまま、『すばらしい新世界』の中に生かされていることがわかる。逆にいえば、『すばらしい新世界』は、この「合理的国家」という骨組に肉付けをしたもの、ということになる。「合理的国家」の三つの階級は、『すばらしい新世界』の中で、ほぼ対応するものを見出すことができる。すなわち、「指導的知識」階級は「アルファ・ダブル・プラス」階級、「信仰人」階級は「アルファ・プラス」階級と「アルファ・マイナス」階級、「下層」階級は、さしずめ「ガンマー」「デルタ」「イプシロン」などの各階級に相当することになるだろう。ただ「合理的国家」においては、特別な区別をしていなかった女性が、『すばらしい新世界』の中でみる限りは、上限が「ベーター」階級どまりのようである。「アルファ・ダブル・プラス」階級や「アルファ・プラス」階級に属する女性がいるのかもしれないが、物語から判断する限りでは、ひとりも見当たらないようである。これはどういうことなのだろう。女性というものは、総合的にみれば、せいぜい「ベーター」どまりである、という作者の女性観によるのだろうか。
さて「合理的国家」の構想の中にはみられなくて、『すばらしい新世界』にみられる、ひとつの新しい着想は、「アルファ」は「灰色《グレイ》」、「ベーター」は「緑色《グリーン》」、「ガンマー」は「茶褐色《カーキー》」、「イプシロン」は「黒色《ブラック》」といったぐあいに、各階級に、それぞれ所定の色が定められてある点である。各階級が、帽子、靴下に至るまで、自分の階級の色で統一することになっているのは、われわれがすでにみてきた通りである。
余談であるが、この階級とその色分けのアイディアについて、私は奇妙な経験をした。それは、昨年夏、万国博覧会を見学したときだった。会場内には、いろいろな従業員が働いていたが、その制服が、職種によって、実に鮮やかに色分けしてあった。コバルト色の「エスコート・ガイド」や「エキスポエンゼル」、真紅の「エキスポフラワー」、ベージュの「ガードマン」、グレイの作業員等……そうした色分けを眺めているうちに、私は、ふと『すばらしい新世界』のことを思い出してはっとした。もちろん、「人類の進歩と調和」という崇高な大理想をテーマにした万国博覧会の会場において、そのような逆ユートピアの幻想にとりつかれる私の方が変てこなことは重々わかってはいるのだが、色の種類によって職種を類分けするアイディアが、何だかあの『すばらしい新世界』の階級別色分けにそっくりのような気がして、ほんとにびっくりしたのだった。仮に、この「コバルト」や「真紅」の人たちが「アルファ」もしくは「ベーター」であり、冷房のきいた「オフィス」で、会場を掌握している人たちが「アルファ・プラス」であるとすれば、炎天のもとで、それこそ蟻の大群のようにうごめいていたわれわれ大衆は、いったい何に当るのだろうか。
(四) 睡眠教育について
人間が眠っている間に、その潜在意識に刺戟を与えて、無意識のうちに学習を行わせる、いわゆる睡眠教育《ヒプノピディア》は、果して可能であろうか。これが可能ならば、いろいろな意味で、極めて便利であるし、有益でもある。『すばらしい新世界』においては、この睡眠教育《ヒプノピディア》が当然の事として認められ、というよりは、むしろ、社会的な義務として、すべての個人に幼少時代より課されているのは、周知の通りである。この物語の中であまりにも巧妙に利用されているので、私は、全く荒唐無稽な作り事なのか、あるいは、多少とも実現の可能性のあるものなのか、その方面の専門家に、一度、意見をきいてみたいものだ、とかねがね思っていたが、たまたま、金沢大学医学部精神神経科で脳波関係の仕事をしている義弟の好意により、実際に睡眠教育《ヒプノピディア》の実験を行った研究報告と読むことができた。その研究は、『睡眠脳波と言語学習効果との関係について』と題する、「臨床脳波」第十一巻第六号(一九六九年)掲載の、大阪市立大学家政学部児童心理学科の谷嘉代子氏の研究報告である。谷氏は、その実験を、睡眠教育《ヒプノピディア》という名称ではなく、睡眠学習という名称で呼んでいられるが、その研究は、「脳波をモニターすることによって、睡眠と覚醒を明らかに区別しながら、学習材料を提示していく方法を用い、睡眠脳波像と学習効果との関係を追及する」といった純粋な専門的研究なので、門外漢である私には、もちろん、ごくおぼろげに輪郭がつかめた程度であった。しかし、睡眠教育というものが、まだ、ほんの実験的段階であって、『すばらしい新世界』で一般に行われているような段階にまでは、まだまだ距離があることはよくわかった。しかし、それにしても、ハックスリーが、今から四十年ちかく前に予言したことが、われわれの周囲で、たとえ単なる実験であるにもせよ、現実に行われているのを知って、私は、ただ感慨無量だった。
『すばらしい新世界』以後のSF、ユートピア小説について
最後に、『すばらしい新世界』以後、ハックスリーが世に送ったSF、ユートピア小説について、ちょっと触れておく。この物語の後に世に出たこの種の作品は二つあって、ひとつは、一九四九年に出た長篇小説『猿と本質』(Ape and Essence)、ひとつは、一九六二年に発表された『島』(Island)である。
前者は、第三次世界大戦(もちろん、架空の)後、北アメリカにビーリアルの支配する野獣的な原始社会が出来上がっている。プール博士を隊長とする探検隊の一行がそこを訪問する、ということから話が始まる。そこの司祭長の口を借りて、ハックスリーは現代文明を批判している。最後に、プール博士とこの世界の女ルーラとが、ビーリアルの社会を脱出し、新しい人生の第一歩を踏み出す。『すばらしい新世界』において、野蛮人《サーヴェジ》ジョンとレーニナは結ばれないで、ジョンは死んでいくが、『猿と本質』においては、プール博士とルーラは結ばれている。『すばらしい新世界』の時点では、希望を見出すことのできなかったハックスリーが、それから十数年後につけた「はしがき」の中で、ひとすじの光明ともいうべき「第三の道」を暗示しているのは、すでにわれわれがみてきた通りである。『猿と本質』の中のプール博士とルーラとの結合は、作者のそうした希望発見の象徴とみることができるかもしれない。なお、この作品は、原爆以後のユートピア小説としての意義があり、最近、脚色され、上演されている。
『島』は、彼の最後の長篇小説である、スマトラ島の付近にある「パラ」という架空の島が舞台となっている。しかし、舞台こそ『すばらしい新世界』とは異なるが、そこに述べられていた人工孵化や条件反射教育は、殆どそのままの形で、この物語の中にも踏襲されている。「パラ」においては、それらが、優良種のための中央銀行や、「善」の条件反射教育などとなっており、また『すばらしい新世界』における「ソーマ」は、ここでは、「モクシャ」となっている。ただ、『島』においては、『すばらしい新世界』に比べて、神秘思想が著しく濃厚である。が、それも、評論集『永世哲学』(一九四六年刊)にみられる思想の焼き直しという感が深い。いろいろな事件があり、最後に、陰謀団の武力攻撃によって、「パラ」のユートピアは一挙に崩壊する。この作品を、「現代」との苦闘に疲れた作者の象徴とみるむきもある。これは、結局のところ、ハックスリーが最後に到達した東洋的諦観の境地の象徴なのだろうか。
ハックスリーは、SF、ユートピア小説といったジャンルに案外興味をもち、自分がSF作家、ユートピア小説作家とみられるのに、あまり抵抗を感じなかったのかもしれない。それが何より証拠に、彼は存命中に、『すばらしい新世界』の「はしがき」と、その物語の中のほぼ一章を朗読して録音している。SF小説やユートピア小説は、今後もっと発展していく小説のジャンルだと思われるが、ハックスリー文学再評価の気運が高まりつつある今日、彼は、こうした角度からも、新たに再評価されてよい作家ではないだろうか。
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訳者あとがき
ハックスリーの『すばらしい新世界』を、私が、はじめて読んだのは、今から十年あまり前で、そのときは、SFというより、むしろ、彼の評論『すばらしい新世界再訪』を理解するための一環として読んだのだったが、読み始めてみると、なかなかおもしろく、夢中で読み終えた。しかし、たしかにおもしろかったが、変った小説だな、というぐらいの実感しか湧かなかった。ところが一昨年、角川書店の毛利定晴氏にこの作品の話をしていたとき、「それは、一種のSFですね」といわれ、はっとした。早速読みかえしてみて、われわれの周囲が、十年の間に、何と『すばらしい新世界』の方に向って進みつつあることだろう、と、改めて驚いたり、感心したりした。
訳にとりかかってみると、短い、簡潔な、どちらかといえば、そっけない文章が、楽しんで読み流しているときとは大ちがいで、なかなか日本語になりにくくて困った。中半以後に出てくるシェイクスピアの「ソネット」や「不死鳥《フェニックス》と雉鳩《きじばと》」などの引用にも、すっかり悩まされた。また、ハックスリーの死後、まだ日も浅いので、評伝ならびに作品の評価が、まだ決っていないようにも感じられた。しかし、すぐれたハックスリー関係の参考書に恵まれて、ともかくも拙訳を完成することができ、大へん嬉しい。特に参考にさせていただいた書名を挙げて、ここに、深い感謝の意を表します。
Ronald W. Clark:The Huxleys(Heinemann, 1968)
Julian Huxley(ed. by): Aldous Huxley 1894―1963 A Memorial Volume(Chatto & Windus,1966 )
『ハックスレイ研究』上田勤編、英宝社、一九五四
『ハックスリー』成田成寿著、研究社(「新英米文学評伝叢書」)一九五六
『ハックスリー』成田成寿著、研究社(「二十世紀英米文学案内」)一九六七
『文明の危機』―素晴しき新世界再訪―(Brave New World Revisited)朱牟田夏雄編、大阪教育図書株式会社、一九五九
『すばらしい新世界』松村達雄訳、早川書房(「世界SF全集10」)一九六八
なお、「はしがき」の内容について御指導いただいた立命館大学経済学部教授甲斐貞信先生、何かとお世話になった角川書店の毛利定晴氏にも、厚く御礼申し上げます。
出来る限りの参考書に当り、諸先生方から御指導をいただいて万全を期したつもりですが、わからないところ、はっきりしないところはもとより、思いがけぬ読みちがえも決して少くないことと思いますので、大方の御叱正を、心からお願い申し上げる次第です。(訳者)