ヤロスラフ・ハーシェク/辻恒彦訳
良き兵士シュベイク(下)
目 次
四 新しき悩み
五 ブルックからゾーカルへ
第三部 赫々《かくかく》たる潰走《かいそう》(一)
一 ハンガリーを斜めに
二 見習い士官ビーグラーの夢
三 ブダペスト市で
四 ハトワンからギリシアの国境へ
五 前へ進め
第四部 赫々たる潰走(二)
一 シュベイク、ロシア捕虜兵となる
二 引導
三 シュベイク原隊に戻る
四 新しき悩み
連隊長シュレーダー大佐は、心配のあまり眼をくぼませているルーカッシュ中尉の真蒼な顔を、心地よげに眺めた。中尉はきまりが悪いので、連隊長の顔を見ることができず、何か研究しているような風に壁に張ってあった陣営の配置図をぬすみ見していた。
「君はもう知っちょるじゃろうが」と、連隊長は机の上にある新聞の記事に眼をやって言った。
「君の従卒シュベイクが捕縛されて十中八九もう師団の軍法会議にまわされておるぞ」
「はッ、連隊長殿」
「しかしじゃ」と、連隊長は中尉の真蒼な顔を楽しみながら、「それで事件が落着したというわけじゃもちろんない。師団司令部の方から今度の事件に関するいろんな材料がこのとおり来とるじゃ。この新聞の記事を一つ読んできかせてくれ」
そう言って彼はルーカッシュ中尉に、青鉛筆をいれた二三の新聞を渡した。中尉は「蜂蜜は砂糖よりもはるかに滋養に富み且つ消化しやすし」といった読本にある文章を子供に読んでやるような単調な調子で読み始めた――
「吾人の未来に対する保証はどこにありや?」
「それは『ペスト・ロイド』紙じゃな?」と連隊長がきいた。
「はッ、連隊長殿」と、ルーカッシュ中尉は答えて、読みつづけた。「そもそも戦争に際しては帝国国民の全層の協同を要すること言《げん》をまたず。帝国の安全を期する以上、各民族相互に支持せざるべからず、吾人の未来に対する保証は実に各民族が自発的に相尊敬する点に存するなり。しかるに何ぞや、この国難の秋《とき》に当りてもなお些々《ささ》たる地方的愛郷心に駆られし徒輩あり、その不遜なる行動によりて帝国内の全民族の一致団結を害せんとす、かかる現象に対し、即ちチェコ連隊におけるこの種の分子に対し、軍法会議が断然たる処置に出でざるべからざることは、吾人の既に再三注意せしところなり。デブレスチンにおける歩兵第××連隊の暴行に関しては本紙のつとに注意せしところにして、ペストの国会はこれに就いて討論し宣告を与え、その後該連隊の連隊旗は戦線において〔以下その筋によりて抹消〕……チェコ兵を駆ってかかる非道の行為をなさしめしは何人なるぞ〔以下その筋によりて抹消〕……外来人が吾人の故郷マジャールにおいて僣越きわまる振舞いをなせる一例は、ライタ河沿岸のマジャールの要塞キラリヒーダにて最近勃発せし事件が最も雄弁に物語るものなり。同地の商人ギウラ・カコーヌイ氏を襲撃し虐待せし兵士はいかなる民族に属せりや。この暴行を徹底的に調査するは官憲の義務なるは論をまたず、吾人は更にその背後にあってこの類例なき犯罪をなすに到らしめるルーカッシュ中尉の役割を、あえて軍司令部に問わんと欲するものなり。親愛なる『ペスト・ロイド』の読者諸君、本事件に関し本紙は最善の努力を尽して豊富なる報道を行い、もって諸君の期待に背かざらんとす。最後に臨み、ペストの国会が本事件を討議し、ハンガリー王国を通過して戦線に赴くチェコ兵がこの光栄ある聖ステファン王国をあたかも己が租借地なるがごとく見なせる従来の弊害を一掃せんことを切に望む」
「誰じゃ、その記事に署名しとるのは?」
「主筆、代議士ベラ・パラーパスです、連隊長殿」
「そいつは評判の畜生じゃよ。『ペスト・ロイド』紙より先に『ベスチ・ヒルラプ』紙にこんな記事が出とるんじゃが、今度はソプローンの新聞『ソプローヌイ・ナープロ』マジャール語記事を官庁で翻訳したやつを読んでくれ」
『ソプローヌイ・ナープロ』紙の記事はすこぶる激越な調子で書かれていた。チェコ兵が新聞社に押しかけてきて、記者を地面にたたきつけ、その腹の上を靴で踏みつけた、そこで彼が苦痛のあまり悲鳴をあげたのを誰かが速記した、かのような筆致である。ルーカッシュ中尉に関してはこんなことが書いてあった――
「……官憲は全力を挙げて調査に努めおれるも、吾人の甚だ怪しむところは、本事件の張本人たるチェコの偏狭愛国主義者ルーカッシュ中尉がなんら罰せらるることなく今なお平然としてその『鸚鵡《おうむ》連隊』の徽章を付け陣営内に起居せることなり。キラリヒーダ区選出の代議士ゲーツァ・サバーニウ氏は彼の不法を国会において質問する由なり」
「まだ他にも二つ三つの新聞が書いちょるんじゃが、似たりよったりじゃから止そう。結局政治問題じゃでのう、我々オーストリア人は、ドイツ系にしろチェコ系にしろ、このマジャール人なんか君……吾輩の言おうとすることが解るじゃろう。政治問題をはなれた『コモル毎夕新聞』の記事の方が、面白かろう、君が昼食中のカコーヌイ夫人をその夫の眼の前で暴行せんとした、サーベルをもって夫を威嚇し夫人には猿轡《さるぐつわ》をはめた、というようなことを書いちょる。これが君に関する最近の報道じゃ」
連隊長は笑った。そしてまたつづけて言った――「官憲はじゅうぶんにその義務を遂行しちゃおらん。当地方の新聞にする予備検閲もやっぱりマジャール人の手におさめられとる。じゃからこの豚みたいなマジャールの記者が、我が軍の将校を気まま勝手に侮辱するのじゃ。我が軍の断然たる抗議、すなわち師団軍法会議の電報により、初めてペスト検事局が出動して、本事件の記事をかかげた新聞の編集者をことごとく逮捕することになったのじゃ。一番ひどい目にあうのは、『コモル毎夕新聞』の記者じゃろうて。ところで、君に対する訊問は、師団軍法会議から吾輩に一任されちょる、一件書類もいっしょにとどいとるわけじゃ。このシュベイクって野郎さえいなけりゃ、何もかもすらすらと運んだのじゃが。こいつといっしょにつかまった工兵、ボジーチュカとかいう男が、君からカコーヌイ夫人にあてた手紙を持ってたのじゃ。訊問の際シュベイクは何でも、その手紙は君の書いたもんじゃなくて、自分が書いたのじゃと頑張ったらしい。そこでその手紙を書き取らせようとしたら、シュベイクの奴その手紙をまるめて食ってしまったのじゃ。で、止むなく当連隊事務室から師団軍法会議へ君の作った報告書を送り、それとシュベイクの手跡とを比較した、その結果がこれじゃ」
連隊長は一件書類をひろげて次の箇所をルーカッシュ中尉に示した――「被告シュベイクは、一夜のうちに筆記を忘失せりとの理由をもって、口授せる文章を書くことを拒みたり」
「君のシュベイクまたあの工兵の軍法会議における陳述は、まったく出鱈目なものじゃと吾輩は思っとる。両人は、もともと冗談半分にやったことを誤解され、かつ先方から先に手だしをしたので軍人の面目をたもつために自己防衛をやったのじゃ、と申しとる。取調べたところによると、シュベイクという奴なかなか横着者らしい。それはそれとして、ともかく吾輩は、連隊長として、師団軍法会議の名において、当地の新聞に掲載せられたこんな侮辱的な記事をことごとく正誤訂正せしめるよう取りはからっといたじゃ。吾輩にゃこのマジャールのろくでなしどもよりチェコの兵隊の方が可愛いからのう。マジャール兵とチェコ兵との衝突は、これまでにもたびたびあったことじゃ。ベルグラード付近の戦線で我が軍に砲撃を加えたことさえある」
連隊長はそう言って唾をはいた――
「これで君にも解ったろうが、要するに、君の恋の冒険が、まんまと奴らに利用されたというわけじゃ」
ルーカッシュ中尉は、きまり悪そうに咳ばらいした。
「ところでルーカッシュ中尉」と、連隊長は、急になれなれしく、「打ちあけてもらいたいのう。君はカコーヌイ夫人と何度いっしょに寝たのじゃ?」
連隊長シュレーダー大佐、今日はなかなかのご機嫌である。
「文通を始めたばかり、などとは言わさんぜ。吾輩がちょうど君の年頃にエルラウへ三週間ばかり測地の実習にいったことがある、その間ずっとマジャール女と寝ること以外に何もしなかったものじゃ。毎日相手を取りかえてな。小さな娘っこ、独りもの、年増、細君、手あたり次第やりまくったというわけで、実習が済んで連隊へ帰ったときは、腰をまげることもできなかったくらいじゃ。いやマジャールの女はなかなか達者なものじゃ、吾輩を一晩中まんじりさせなかったのもあったよ」
連隊長は中尉の肩を打ちとけた調子でたたき、「白っぱくれても駄目じゃ。弁解はせん方がいい、吾輩がちゃんと判断しちょる。君が、その夫人とじゃな、その関係しちょるところへご亭主がはいってきて、またあの馬鹿なシュベイクが……」
「しかし、君、あのシュベイクって奴は、いっぷう変った男じゃのう、君の手紙を食ってしまったところなどはどうじゃ。何か使いみちのある奴じゃが、惜しいものじゃ。しかし大いに吾輩の気にいったわい。是非この事件についてあの男を取調べることは中止させなくちゃならん。それから、君じゃが、新聞でああいう風にあばかれたからにゃ、当地に滞在するのはつまらんことじゃ。一週間のうちにロシアの戦線に向って出発する中隊がある、君は十一中隊の最古参将校じゃ、中隊長としていっしょに出かけてもらいたい。旅団の方でも準備はもうできとる、主計曹長にそう言って、シュベイクの代わりに誰かほかの従卒を探さしたらどうじゃ」
ルーカッシュ中尉は感謝の色を顔にうかべながら連隊長の顔を見た、連隊長はつづけて言った――「シュベイクは中隊付き伝令として君に付属させよう」
連隊長は起ちあがった、そしてまた顔色を失ってきた中尉に手を差しのべながら言った――
「これですっかり片づいた。無事を祈るじゃ。ひとつ東部戦線で勲功をたてて貰いたい。また会えるような場合があったら、今度は我々の会へも顔をだしてくれ、ブードワイス時代のように逃げないでのう」
ルーカッシュ中尉は、自分の部屋にもどるまで、ずうっと繰りかえした――
「中隊長、中隊付き伝令、中隊長、中隊付き伝令」
するとどこからともなくシュベイクの姿が眼の前にありありと現れてくるのであった。
主計曹長ワニエークはルーカッシュ中尉からシュベイクの代わりに新しく従卒を探すよう命ぜられたとき、こう言った――「中尉殿、貴方はあのシュベイクでご満足のことと思っておりましたが」
連隊長がシュベイクを十一中隊付き伝令に任命したということを聞かされた主計曹長は、思わず大きな声で叫んだ――「助け給え、助け給え!」
こちらは師団軍法会議付属の留置場。鉄柵のはまったこの建物のなかでは、規定通り朝の七時に起き、藁蒲団を片づけると、長椅子に腰をおろす。戦線からまわされた連中は、虱をさがすか、いろんな経験談の物語に花をさかせるのであった。
シュベイクと老工兵ボジーチュカは、いろんな隊から来た兵士といっしょに、入口に近い長椅子にかけていた。この留置場のなかには、ずいぶん毛色の変った連中がいた――神の教えを守りとおして銃を投げだしたマジャール人、諷刺的な即興詩を作るのが得意で、それが災してここへ来た小学校教員、伯母を殺しても何をしても常に無罪で放免されてきた男。
シュベイクが司会者といったような形になって、話はますます|はずんで《ヽヽヽヽ》いった。そのとき、廊下に足音がきこえ、「人員増加」と番兵が呼んだ。
「ヘッ、また増えるな」と、シュベイクは喜んだ。「巻煙草の吸殻を拾ってくりゃいいがなあ」
入口の戸があいた、突きいれられて現れましたは、ブードワイスでシュベイクと営倉を共にし、どこかの出征中隊の炊事番に任ぜられた一年志願兵であった。
「今日は!」と、はいりしなに彼は言った、すぐそれを受けてシュベイクが、「これは、ようこそ」
一年志願兵は嬉しそうにシュベイクの顔をじっと見たのち、持ってきた毛布を床の上に置き、チェコ組の腰掛けにすわった。それからゲートルをといてその襞《ひだ》の間にうまく匿してあった巻煙草を取りだしみんなに分配した。さらに彼は長靴のなかからマッチ箱の摩擦面とマッチの軸を二三本取りだした。
彼は火をつけ、注意深く巻煙草に吸いつけ、火をみんなにまわしたのち、平然として言った――「叛逆罪で告訴されたよ」
「何でもないさ」と、シュベイクは慰めるように言った。「余興だよ」
「もちろん」と、一年志願兵。「軍法会議ばかりひらいて、それで勝利が得られるなら、爆弾も毒ガスも要らねえや。是が非でも俺を相手取って訴訟をおこすというなら、おこしてみるがいい。訴訟をおこせば、結局戦況が有利に展開するとでも思ってるんだろうか」
「お前どういう工合に叛逆したんだい」と、ボジーチュカが志願兵に同情を寄せながらきいた。
「守衛本部の便所掃除を断ったからだよ。それで連隊長の前に突きだされ、頭からがみがみどなられたんだ――貴様のような奴を載せてる地球が回転をやめないってのが不思議なくらいだ、とか、末は将校ともなりうる一年志願兵が上官の気持を悪くするような態度にしか出ないとは何じゃ、とか。俺はこう返事してやったよ――地球の回転というものは私のような一年志願兵がいたっていなくったって中止するものじゃありません、自然の法則というものは一年志願兵の権利より強いものです。また私が使いもしない便所を私に掃除しろと命ずる権利がどこにあるんです、とな。それからついでに言ってやった――地球が私のような男を載っけているのが不思議だとおっしゃられたが、そいつは少々変ですな、だって私がいたからって地震がおこるというわけじゃあるまいし、とな。連隊長殿は始終歯をがたがた言わせながら俺の言うことを聞いていたが――
『貴様あの便所を掃除する気か、しない気か』
『申し上げます、掃除しないであります』
『掃除しろ、志願兵!』
『申し上げます、掃除しないであります』
『いや、どうあっても掃除しろ、一つだけじゃない百の便所を掃除しろ!』
『申し上げます、百はおろか、一つも掃除しないであります』
『掃除しろ』『しない』でしばらく押し問答をやったが、連隊長はこう出てきた――『いいか、叛逆罪で師団軍法会議へまわすぞ。今度の戦争で、一年志願兵はまだ一人も銃殺されてやしないとでも思っちょるのか。セルビアの戦線で、十中隊のを二人絞首刑に、九中隊のを一人銃殺しとるぞ。絞首刑にされた二人というのは、シャーバッツでセルビア人の女とその子供を、突き殺せと命ぜられたのを拒んだからじゃ、また銃殺された奴は、脚が腫《は》れておまけに土踏まずがないから進軍に参加しようとしなかったのじゃ。どうじゃ、これでも貴様はあの便所を掃除するか、しないか?』
『申し上げます、掃除しないであります』 連隊長は俺の顔をじっと見ながら言った――『おい、貴様はスラブびいきじゃないか?』
『申し上げます、違うであります』
そこで俺は連隊長の前をさがらされ、叛逆罪で告訴されたってことを聴かされたのさ」
一年志願兵が、叛逆罪構成の|いわれ《ヽヽヽ》を語りおわると、シュベイクはその善後策について提議した。一年志願兵がその提案は駄目だと言ったところへ看守が現れた――
「歩兵シュベイクと工兵ボジーチュカ、軍事裁判宮殿のところへ!」
二人は腰をあげた、ボジーチュカはシュベイクに向って――「また訊問だとよ、毎日のようにやりがる癖に、まだ結末がつかねえんでやがらあ。ぶつなり|のめす《ヽヽヽ》なり早く片づけてくれりゃいいんだに。朝から晩までこんな所へごろごろさせやがって、おまけにマジャールの畜生めがうろつきやがって……」
訊問室へゆく途中、二人は、いったいいつになったら、裁判らしい裁判が開かれるんだろうと話しあった。
「毎日毎日訊問ときやがる」と、ボジーチュカはひとりぷんぷん憤慨した。「何を書いてんだか知らねえが、紙がもったいねえや。それからここの食事ときたらどうじゃ。スープを食えってのかい。食うものがあると思や、腐りかかった馬鈴薯に菜っ葉だ。畜生、こんな馬鹿げた世界大戦なんか、俺あ今までにお目にかかったこともねえや! 世界大戦って言や、もっともっと素晴しいものかと思ってきたのに」
「俺あちっとも不服がねえや、まだ現役にいた頃、ソルペーラって堅パン野郎が、軍隊じゃ誰でも自己の義務を心得とらんといかん、と言っていきなり横面をなぐりやがった、その言い草がいいや。癪にさわるなら今言ったことをようく覚えとけ、だとよ。それから、もうあの世へいったがクワイザーって中尉も言った――兵士は牛馬と同じだ、精神なんてものを少しも働かしちゃいかん、国家から当てがわれたものを黙って飲んで食って上官の命ずるとおりに身体を動かしてりゃいいんだ」
工兵ボジーチュカは考えこんだ、そしてしばらく黙っていたが――
「おい、裁判官の前へ出たらしっかりやるんだぞ、この前の訊問のとき申しのべたとおりを繰りかえせ、マジャールの畜生どもが三人も寄ってたかって俺をやっつけようとしたんだって言うんだぞ。責任は二人でわけることにしたんだからな」
「心配するな、ボジーチュカ」と、シュベイクはなぐさめた。「気を落ちつけろ、師団軍法会議が何だ? 屁の河童《かっぱ》じゃないか」
二人は第八室にみちびかれ軍事裁判官ルツラーの前に立たせられた。彼の向っていた長い机の上には、書類が山と積みかさなっており、飲みさしの茶碗が法律書の上に載っており、|まがい《ヽヽヽ》の象牙製の十字架があった。その十字架にはりつけられたキリストは、塵にまみれて迷惑そうに十字架の台の上に置かれた灰や吸殻を眺めていた。
裁判官ルツラーは、煙草を吸いながら、将校集会所から借りてきた本をめくっているところだった。それはエス・クラウス女史の著で『性的道徳の発達史に関する研究』という意味ありげな標題の本であった。
裁判官は、学者クラウス女史がベルリンの北停車場の便所で発見した男子および女子の性的器官の素朴な図と、それに相応した唄を一心不乱に見ていた。だから二人のはいって来たのにも気がつかなかったのである。
ボジーチュカが、エヘンと一つ咳ばらいした。裁判官は「何だ?」と言ったきり、見向きもしないで、本をめくり、素朴な図に見入るのであった。
「申し上げます、裁判官殿」と、シュベイクが答えた。「同僚ボジーチュカが風邪を引いて咳をしたのであります」
そこでシュベイクとボジーチュカに眼を転じた裁判官ルツラーは|てれかくし《ヽヽヽヽヽ》に強いて厳格な顔をしようとつとめた。
「やっと来たな」と、彼は書類をまぜくり返しながら、「九時に来いと言って置いたんだのに、もうかれこれ十一時じゃないか」
「お前のその姿勢は何だ?」と、ボジーチュカに向い、「休め、とこっちから言わないさきに、そんなだらしのない恰好をする奴があるか」
「申し上げます、裁判官殿」と、またシュベイク。「こいつはリウマチなんであります」
「貴様は黙ってろ。こちらからききもしないのに答えるんじゃない。今までにもう三度も取調べたんじゃが、いつものらりくらりと要領を得んことおびただしい。このいそがしい際にやりきれたもんじゃない」そう言いながら彼は、書類の中から『シュベイクとボジーチュカ』と書いた分を取りだした。「貴様らはこんな馬鹿さわぎをやりやがって、いつまでもここにごろごろして戦場に出るのを少しでものばそうという了見なんだろう。
だがそうは問屋がおろさぬぞ。貴様ら二人にたいする取調べは打ち切りとなった。各自所属の隊へ帰って、そこで適当な処分を受け、それから出征中隊にくわわって戦線におもむくのじゃ。ここに放免状があるから持ってゆけ、以後気をつけて馬鹿な真似は二度とするじゃないぞ」
「申し上げます、裁判官殿」と、シュベイク。「貴方のお言葉は肝に銘じたであります、心の底から厚く感謝する次第であります。これが軍隊でなけりゃ、貴方は金のような方だとお世辞の一つも申し上げるところなんですが。また私ども両人は、この事件でいろいろと貴方にご厄介を掛けたのをお詫びしたいであります。私どもは正直なところ貴方のご厄介になるほどの価値のない人間ですからなあ」
「うるせえな、出てうせろったら!」と、裁判官はシュベイクにどなりつけた。「連隊長殿のお声がかりがなかったら、貴様らはどんな目にあってたか知れやしなかったんだぞ」
もどってきた二人の話を聞いた一年志願兵は、大きな声でどなるように言った――
「では、いよいよ出征か。ツーリスト・ビューローの団体旅行だと思いや間違いがねえ。旅行の用意は参謀本部の方でちゃんとやってくれるんだ。ガリシア見物旅行に参加しないか、と招待を受けたってわけさ。喜び勇んで出かけるがいい、ガリシアのあの塹壕ばかりの風景もなかなか|おつ《ヽヽ》なものだぞ。故郷のつもりでせいぜい可愛がってやりな。ただしょっちゅうロシアの方を真直ぐににらんで、愉快に空へ向けてどんどん弾丸を打っぱなしてしまうことさ」
昼食が済んでシュベイクとボジーチュカが事務所に出かける前、虱の唄の作家である気の毒な小学教員は、二人をかたわらに呼んで、非常な秘密でもあるかのように言った――
「ロシア側にいくようなことがあったら、忘れずに直ぐこう言うんだぞ――ズドラウストウイテ、ルスキイエ・ブラーチャ、ムイ・ブラーチャ・チェコ、ムイ・ニエト・アウストリイチ(今日は勇敢なロシアの兵隊さん、俺あ勇敢なチェコ兵だ、オーストリア兵じゃねえんだぜ)」
裁判官の前に出るときは、ひどくしょげていた老工兵も、もとのボジーチュカとなって元気を見せた。出がけに彼は、軍隊の勤務をこばんだというマジャール人を足げにして――「こん畜生、何とか言ってみろ、口を引きさいてくれるから」と、マジャール人にたいする憤慨を一時に爆発させた。「おいシュベイク、俺あ罰を受けなんだのが癪で癪でしょうがねえんだ。マジャール人なんか相手にするのが馬鹿だって、みんなが俺らを笑ってるようじゃねえか。俺あライオンみてえに奴らを打ちのめしてやったんだのに。これじゃ俺の腕っぷしの強さが認められねえってわけじゃねえか。糞面白くもねえ」
「大人気ねえな、止せやい」と、シュベイクはお人よしに言った。「だって師団軍法会議で公式に俺らを立派な人間だと認めてくれたんじゃないか、それを喜ばないなんて、俺にゃお前の気がしれねえよ。訊問の際、俺あ色々言いぬけをした、確かに嘘もついたよ。しかしバス弁護士が訴訟を依頼に来る人に言ったように、嘘も方便、嘘も義務じゃからな」
「俺だってさ、不面目なことでもやらかしたのなら、白状しねえが」と、勇猛なボジーチュカが言った。「あの裁判官の野郎、あっさりとこうきいてみろ――お前暴れたのか? そうすりゃ俺あこう言ってやら――はッ、暴れたであります。お前だれかをひどい目にあわせたか? 確かにあわせたであります、裁判官殿。その際だれかに怪我させなかったか? もちろんさせたであります、裁判官殿。なのに、俺らが無罪の宣告をされたのがいけねえんだ。折角あのマジャールの奴らをひどい目にあわせてやったのが、何にもならねえじゃねえか。あのときの俺の武者振りは現にお前も見ていたとおりだ、それが無罪じゃ、まるで『貴様が暴れたって? 顔でも洗って出なおせ』って言うようなものじゃ。戦争がすんで軍隊と縁が切れてみろ、もう一度ここへやって来て、この俺が暴れることができるかできねえか、得心のいくまで見せてやるから。このマジャールの畜生、犬、豚どもが地下室のなかに逃げこんでしまうほど、素晴しい暴れようをご覧にいれるぞ」
事務所での用件はいやにあっさりと片づいた。二人は別々の隊に帰されることになったので、いよいよ別れを告げなければならなかった。
「戦争がすんだら」と、シュベイクは言った。
「俺んとこへたずねて来いよ、毎晩六時からナボイシュチ街の『さかずき』にいるからな」
「たずねていくとも」と、ボジーチュカが答えた。「そこにゃ喧嘩があるかい?」
「毎日何かしらあるぜ、なけりゃ俺らで仕掛けるまでのことさ」
二人は離れた。そしてすでに二三歩遠ざかったとき、老工兵ボジーチュカがシュベイクに――「だけど、俺がくるまでに、人並みの暮らしのできるようになっとけよ」
「きっと来るんだぞ、戦争がすんだらな」
二人はずっと遠ざかった。そしてしばらくたつと第二営舎の角からまたボジーチュカの声がきこえてきた――
「シュベイク、シュベイク、『さかずき』じゃどんなビールを飲ますんだい?」
するとシュベイクの声が反響のようにひびいた――「ポポウイッツァだよ」
「俺あまたスミホーバかと思った」と、ボジーチュカが遠くからどなった。
「別嬪もいるぜ!」と、シュベイクがさけんだ。
「じゃ終戦後、夜の六時にな!」
「六時半にしてくれ、俺あ途中で暇どるかもしれんから」
するとまた今度ははるか遠くからボジーチュカの声がきこえてきた――「六時にこられないのか?」
「じゃ六時にいくよ」という声がボジーチュカの耳までとどいた。
かくて勇敢なる兵士シュベイクは老工兵ボジーチュカと別れたのであった。「人間は別れにのぞんで『再会を期す』と言うものである」
五 ブルックからゾーカルへ
ルーカッシュ中尉は、いらいらしながら十一中隊の事務室の中を歩きまわっていた。事務室とはいうものの、営舎の廊下を板でしきって机一つと椅子一つをおいた暗い穴にすぎなかった。
彼の前には、この中隊の大蔵大臣ともいうべきワニエーク主計曹長が立っており、入口の戸のところに鍾馗《しょうき》のような鬚をはやした肥った歩兵バロウンが立っている。
「君はまったく素晴しい従卒を見つけてくれたものだね」と、ルーカッシュ中尉がワニエーク主計曹長に言った。
「この思いがけないお志には心からお礼を申すよ。来た日さっそく、将校炊事場へ昼飯を取りにやったら、この畜生、途中で半分たいらげちまいやがったんだ」
「こぼしたんであります」と、堂々たる巨人は言い訳した。
「よし、こぼしたことにしとこう。だがスープやソースならこぼせもしようが、ビフテキをどうしてこぼせるんだ、虫眼鏡で探さなきゃ見えないほどしか持って来なかったじゃないか。それから渦巻きパンはどうした?」
「そいつは……」
「うそつけ! 貴様が食ってしまったんだ」
中尉のこの声の厳しさには、さすがの巨人も二三歩たじろいだくらいである。
「俺は炊事場できいて来たんだ。このほかにまだ肉団子や胡瓜《きゅうり》付きの牛肉があったはずだ。それをどこへやった。持ってくる途中で落した、ちょうどそこへ犬がやってきて食ってしまった、と貴様は言うんだろう。自分の腹のなかへ詰めこんでおきやがって、この畜生め、豚め。よくも白々しくうそをついたな、証拠人がいるんぞ、証拠人が、ここにいるワニエーク主計曹長が窓から見ていて俺に知らせたのを貴様は知らないんだろう、畜生め」
「君も君だ」と、攻撃の鋭鋒をワニエーク主計曹長に転じた。「畜生め、探すにも事を欠いて、もっとほかにありそうなものだが」
「申し上げます、中尉殿。私どもの出征中隊の中ではこのバロウンがいちばん真面目らしかったんであります。もっともまだ銃の持ち方も呑みこんでいないような間抜けで、ついこの前の演習にももう少しで隣りにいた男の眼を空弾で射ちぬくところだったんですが、しかしこんな勤務ぐらいはできるだろうと私は思ったのであります」
「そして主人の昼食を全部たいらげてしまうだろうとね。自分の分だけじゃ足りないもののように。貴様はひもじいんじゃないか?」
「申し上げます、中尉殿。私は腹が空《す》きどおしであります。パンを残した奴があると私は巻煙草と取り換えるんでありますが、それでもまだ足りないんであります。生れつきであります。時には満腹した、もう胃袋へははいらない、と思うことがありますが、そう思うか思わないかのうちに、もうお腹がごろごろ鳴りだすんであります。釘を呑みこんでおきゃ一番いいがなあ、と思うくらいであります。申し上げます、中尉殿。ご慈悲と思召して二人前食べさせていただきたいであります。肉じゃなくても結構です、馬鈴薯と団子にソースが少々あれば沢山です、どうせお残りが……」
「もういい、貴様の厚かましい言い分はじゅうぶんにきいた。君、ワニエーク主計曹長、この野郎みたいに厚かましい兵士は今までにあったと思うかね? 俺の昼飯をたいらげときながら、その上二人前よこせときやがる! こら、バロウン、今に|めにもの《ヽヽヽヽ》見せてくれるからそう思え」
「君、ワニエーク主計曹長。こいつをウィーダーホーファー伍長のところへ引っぱっていって、炊事場のそばの中庭に、しばりつけるように言ってくれ。今夜はシチューだが、鍋のなかで煮えているところを見せつけるんだ。みんなに分配するところも見せつけるんだ。ソーセージ屋の店先で鼻をくんくん言わせる牝犬みたいに涎《よだれ》をうんとたらさせろ。それから炊事場にこいつの分は残しとかんでよいと言ってくれ」
「承知致しました。中尉殿。おいバロウン、来い」
やがてワニエーク主計曹長が帰ってきてバロウンを縛りつけた旨を告げたとき、ルーカッシュ中尉は言った――「君も知ってるだろうが、俺はこんな事をするのは元来きらいなんだ、しかしこの際やむをえなかったというわけは、第一に卑劣な奴をそばにおくのがきらいだし、次にかかる手段によって中隊全体にたいし道徳的および心理的に大いに効果をあたえようというにあるのだ。本隊が一両日中に前線におもむくということがわかって以来、士卒の振舞いはまったく言語道断の放埒に流れておる」
「一昨日の夜間演習の際もだ」と、中尉は顔をくもらせ声をおとしてつづけた。「第一小隊はまず無難だった。俺がついていたからな。前哨に出した第二小隊の恰好ときたら、まるで遠足帰りの小学生じゃないか。陣営まで聞えるほど大きな声でうたったりどなったりするというさわぎだ。右翼で森の方面を偵察にやった第三小隊は、俺らから十間以上も離れた所にいたのに、こっちから煙草を吸ってるのが見える、闇のなかでさかんに火がちらちらするのだ。これが今すぐ出征しようという十一中隊なんだぜ。俺は引受けるには引受けたがだ、これじゃどうにも手のつけようがありゃしない。いったいこいつらは実戦にのぞんでどうするつもりなんだろう?」
「そんな事で頭をいためられたって仕様がありませんよ」と、ワニエーク主計曹長はルーカッシュ中尉をなだめた。「私は経験がありますが、どの出征中隊も似たようなものです。一等ひどかったのは第七中隊でしたよ、中隊長もろとも捕虜となってしまったんですからね。私はちょうど、偶然にも連隊列車へ中隊のリキュールと葡萄酒を取りにいってたものですからのがれたという次第ですが」
「中尉殿」と、彼は打ちとけた眼付で中尉を見ながらつづけた。「ザーグナー大尉が我々の出征大隊の隊長になるって噂《うわさ》をご存知ですか。何でも最古参将校である中尉殿が大隊長になられるはずだったのを、師団の方で急にザーグナー大尉に任命したってことですよ」
ルーカッシュ中尉は、じっと砂を見つめたまま、何とも言わず、巻煙草に火をつけた。彼はこの事を承知していたし、たしかに不公平な仕打ちだと思っていたのだ。ザーグナー大尉は今までに二度も彼を飛びこえて昇進している。けれども彼はただこう言っただけであった――「ザーグナー大尉が何だ……」
「戦争の当初モンテネグロで敵の機関銃隊に向って真正面から進んでいって大隊を全滅させたような人だもの、私だってあまり愉快じゃありませんよ。今度も大隊を全滅さすか自分が中佐になるか、我々にとっちゃすこぶる迷惑な一六勝負をやるそうです。連隊本部付きのへーダナー曹長の話では、中尉殿とザーグナー大尉とは犬と猿の仲なので、十一中隊がいちばんひどい戦闘に向けられるだろう、ってことですよ。ザーグナー大尉の|へま《ヽヽ》戦術ときたら……」
「ザーグナー大尉のことあ、もう止してくれ、君から聞かされなくたって百も承知だ。それよりも君はまた何だろう、突撃や激戦があったら、偶然にも連隊列車へリキュールか葡萄酒を取りにいくことだろう。君が途方もない大酒飲みだってことを俺は人から注意されているんだ、君のその赤い鼻を見りゃ、すぐにもわかることだが」
「中尉殿、これはカルパチアの戦場以来のことですよ。運ばれる食事はつめたくなっている、塹壕の雪はとけない、火をたくわけにはいかん、というのでやっとリキュールのお蔭で持ちこたえたものです。あすこにいたものは誰でもリキュールの|せい《ヽヽ》で鼻が赤くなったんです」
「今はもう冬も過ぎたようだね」と、中尉は嫌味たっぷりに言った。
「中尉殿、リキュールは四季にかかわらず戦場ではなくてはならぬものです、葡萄酒もまさにそのとおりです。一杯ひっかけると、何ですな、いい気持になるですな。矢でも鉄砲でもこい、といったような感じで……どこの畜生だ、また戸をたたくのは? 戸のところに『叩くな』と書いてあるのが読めんか? はいれ!」
ルーカッシュ中尉は椅子に掛けたまま身体を入口の方にまわした。戸がゆっくりと静かにあく、同様に静かにこの十一中隊の事務室へ勇敢なる兵士シュベイクがはいってきた。
入口で挙手の敬礼をしているシュベイクの顔は、無限の満足と無憂そのものであった。オーストリア歩兵の粗末な軍服をきたギリシアの何とかいう泥棒の神様、それがこのときのシュベイクであった。
シュベイクの柔和な眼差しに抱擁され接吻されたルーカッシュ中尉は、一瞬間両眼をとじた。
「申し上げます、中尉殿。また帰ったであります」
小学生が学校から帰って「ただ今!」と言うのと同じような、少しのわざとらしさもない挨拶であった。シュベイクは、静かになかへはいってワニエーク主計曹長に向い、人なつこい微笑をうかべながら、外套のポケットから書類を取りだして渡した――「申し上げます、主計曹長殿。連隊事務室で作ってくれたこの書類を渡すのであります。給料の前借りのことであります」
「テーブルの上においとけ」と、ワニエーク主計曹長はぶっきら棒に答えた。人を食ったようなシュベイクの態度に憤慨したらしい。ルーカッシュ中尉は溜息をもらしながらワニエーク主計曹長に言った――「君、済まないがちょっとこの場をはずしてくれないか」
ワニエークは事務所を出たが、戸のそとに立って、二人がどんな話をするか立ち聞きをした。最初は何もきこえなかった、中尉もシュベイクも黙っていたからである。二人は長いことおたがいの顔を穴のあくほど眺めた。
ルーカッシュ中尉は、催眠術にかけようとするかのように、あるいは、牝鶏に向って今にも乗りかかろうと身がまえている牡鶏のように、シュベイクを眺めた。しかるにシュベイクの方は、例のように、うるおいのあるやわらかな眼付きで中尉を見た――「またいっしょになったね、もうどんなことがあっても離れられないよ」と言いたそうに。
中尉の方からなかなか口をきろうとしないので、シュベイクの眼差しは、「何とか言えよ、ね、黙ってちゃ詰らないじゃないか!」と催促するような表情を見せた。
中尉はこの気まずい沈黙を、皮肉たっぷりな次の言葉でもって破った――「よく来てくれたな、シュベイク。わざわざ訪ねてくれてありがとう。これがお客さんならなあ」
しかしこの数日来鬱積したルーカッシュ中尉の怒りは、皮肉の一つや二つで消えさるはずがなかった。中尉は、いきなり拳固でもってテーブルをたたいた。そのいきおいにテーブルの上のインキ壺が跳びあがって『給料表』の上にインキが散った。
同時に中尉はおどりあがってシュベイクの鼻のすぐ先まで近より、どなりつけた――「こん畜生!」それから狭い事務所のうちをあちこちと歩きだし、シュベイクの前へ来るごとに唾をはきかけた。
「申し上げます、中尉殿」と、中尉が歩きまわるのをいつまでたってもやめず、テーブルにちかよるごとに紙をむしり、それをまるめて部屋の隅へ投げるのを見て、シュベイクが言った。「ご命令の手紙はちゃんと先方へ渡したであります。運よくカコーヌイ夫人にも会いましたが、あれはなかなか別嬪ですな、泣いてるところを見たんですが……」
ルーカッシュ中尉は長椅子の上に腰をおろし、しわがれ声でさけんだ――「いつになったら貴様との腐れ縁が切れるんだ、おいシュベイク」
シュベイクは、中尉のこの言葉がてんで耳にはいらなかったかのように、つづけた――「それから少々ばかり不愉快なことがおこりましたが、わしゃすっかり我が身に引きうけたであります。しかしあの手紙をわしが書いたとは信じないので、訊問のさい呑んでしまいましたよ。証拠を残さないようにと思いましたでな。しかしまあどうにかわしの無罪なこともあきらかになり、師団軍法会議では取調べを中止したのであります。連隊長も二言三言がみがみ言っただけで、わしを中尉殿の伝令に任命してくれ、出征中隊の件で貴方にすぐ来るようにと、そう言ってくれとのことでありました。もう半時間以上前のことですが、途中いろいろと用件に手違いがあって遅れたのであります」
半時間あまり前に連隊長のもとに行かねばならなかった、ということを聞いた中尉は、いそいで身支度をととのえながら言った――「帰る早々、またへまをやりおったな、シュベイク」
中尉の言いかたがあまり情けなさそうな絶望的な様子だったので、中尉がころげるように戸のそとへ飛びだしてゆくのを見送りながらシュベイクはなぐさめた――「あれは、いや連隊長殿は、どうせ暇なんだもの、少しぐらい待たせたって」
中尉が出かけると間もなくワニエーク主計曹長がはいってきた。
シュベイクは椅子に腰をおろし、小さいストーブに石炭をくべてあおいだ。ストーブは煙を立てていやな臭いを部屋中に充満させた。シュベイクは、ワニエーク主計曹長が足で戸をあけシュベイクに出てゆけと言っているのもかまわず、話をしつづけた。
「主計曹長殿」と、シュベイクは真面目くさって言った。「はばかりながら貴方のご命令には従えませんよ、わしはもっと上からの指図に従ってるんですからな」
「すなわち、わしゃこの中尉の伝令でさ」と、彼は付けくわえた。「これは連隊長シュレーダー大佐殿のとりなしで、なるほど、わしゃ以前ルーカッシュ中尉の従卒であったに違いないが、持って生れた智恵のお蔭で、伝令に昇進したんでさ。わしとルーカッシュ中尉はもう古い馴染ですからな、いったいあんたは軍隊にはいらない前は何だったんです?」
主計曹長は、シュベイクのこの慣れ慣れしい言葉づかいには面食らった。兵士の前で威張り散らしていた彼も、自分の威厳をたもつことを忘れて、まるでシュベイクの部下のように答えた――
「薬種屋だ、クラルウプの薬種屋ワニエークだ」
「わしも薬種屋で見習をやったことがあるよ。プラハのベルクシュタインにあるココーシュカって人のところでね。この男はずいぶん変った奴でしたよ。地下室でわしがうっかりガソリンに火をつけたことがある。先生そのために火傷したもんだからわしを追いだし、そのうえ薬種商同業組合にわしを雇うなって通知を出したもんだから、とうとうわしはこの馬鹿なガソリン一缶のお蔭で薬種屋になりそこねたってわけですよ。あんたは料理用の香味を調合できますかね?」
ワニエークは首を横にふった。
そこでシュベイクは長々と、例の逸話まじりに料理用香味の調合の話をしているところへ電話がかかってきた。
ワニエーク主計曹長は飛びつくようにして受話器を取ったが、聴きおわるとそれを不平そうにそばへ置いた――「連隊事務室へ行かなくちゃならん。こんなにだしぬけにさ、いやだなあ」
シュベイクはひとりになった。するとまもなく電話のベルが鳴った。
シュベイクがきいた――「ワニエーク? 連隊事務室へいきましたよ。電話をきいてるのは誰かって? 第十一出征中隊の伝令です。そちらは誰? 十二マルシュカ〔出征中隊〕の伝令だって? やあ相棒! 俺の名前? シュベイク。そしてお前は? ブラウン。じゃお前は、カロリーネンタールのウーファー小路にいる帽子屋のブラウンと親戚じゃないのかい? なに、知らない?――俺も知らねえんだが、いつか電車の窓からその看板を見かけたことがあるんだ。何か変ったことがないかって? 何も知らねえ――いつ出発なんだい?」
「出発なんて話はまだ耳にしねえな。どこへ行くんだろう?」
「馬鹿だな、お前は。前線へ行くに決まってるじゃねえか」
「そんなことあ聞かねえぜ」
「立派な伝令もあったもんだ。じゃ何だね、お前んとこの少尉は……」
「俺んとこは中尉……」
「どっちだって同じじゃねえか、じゃそのお前んとこの中尉は、連隊長んとこへ相談に行かなかったかい?」
「呼ばれたよ」
「それ見ろ、俺らんとこのも行ったし、十三中隊も行ったんだぜ。お前んとこの中隊は何人あるんだ?」
「知らねえ」
「馬鹿だなあ〔向うの電話で話してる男がそばの者に言ってるのがきこえる――『おいフランツ、も一つの受話器で聴いて見ろよ、十一中隊には何て馬鹿な伝令がいるんだろう』〕――おいおい、居眠りでもしてんじゃねえのか? 同僚がきいてんじゃねえか、返事ぐらいしろよ。お前んとこの主計曹長は缶詰を取りにいけって言わなかったかい? そんな話はちっともなかったって? 馬鹿、間抜け。そんなことあ知ったことじゃねえって?〔笑い声がきこえる〕お前どうかしてるな。何か聞いたらこっちへ電話をかけてくれよ。おい、お前はどこの者だ?」
「プラハ」
「そんならもっと利巧なはずじゃが――それからまだあるぞ! お前んとこの主計曹長はいつ事務室へいった?」
「ちょっと前に電話がかかったよ」
「この野郎、そんなら、そうとなぜさっき言わねえんだ。俺んとこのも今しがた出かけたんだ、それじゃ何かあるんだぜ。輜重《しちょう》隊と話したかい?」
「いや」
「おやおや、それでもお前はプラハの者だって? お前まるで何にも知らねえじゃねえか。いったい朝から今まで何をぼやぼやしてるんだ?」
「たった一時間前に師団軍法会議から戻ってきたばっかりだ」
「こいつあ面白え。おい、明日と言わずに今日俺あ、お前んとこへ遊びにいくぞ。ベルを二度鳴らして電話をきってくれ」
シュベイクは煙草に火をつけようとした、そこへまた電話がかかってきた――「もう電話は沢山だよ」と、シュベイクは思った。「お前らと無駄話をして遊んでおれるかい!」
しかし電話はひっきりなしに鳴った、シュベイクはとうとう根負けして受話器を耳にあてると、いきなりどなりつけられた――
「おい、誰だ?」
「こちらは十一中隊の伝令シュベイク」返事の声で向うはルーカッシュ中尉であることがわかった――
「お前達はそこで何をしてるんだ? ワニエークはどこにいる? 電話口へ呼んでくれ!」
「申し上げます、中尉殿。さきほど電話がかかったであります」
「おいシュベイク、お前と無駄話をしている暇はないんだぞ。軍隊の電話での話は、昼食に人を呼ぶとき電話で話すおしゃべりとは違うんだ。電話の話は簡単明瞭にやらんといかん。電話じゃ『申し上げます、中尉殿』は抜きにするんだ。俺はこうきいてるんだ――ワニエークを手許に持っているか? すぐ電話口に出ろと言ってくれ!」
「手許に持っていないであります、申し上げます、中尉殿。ちょっと前にこの事務所から出ていったであります、まだ十五分とたたないであります、連隊事務室へ呼ばれたであります」
「あとでひどい目にあわせてやるぞ、シュベイク。どうして貴様はもっとかいつまんで話せないんだ? さあ、これから俺の言うことをはっきり聞くんだぞ、電話じゃしゃがれ声のようにしか聞えないなんて後で言いぬけしないようにな! お前はこれからすぐ出かけて営舎へゆき、誰か軍曹を、フックスでもいい、探しだして、すぐ十人ばかり連れて倉庫へ缶詰を取りにいくように言ってくれ。軍曹のやることを、お前もう一度繰りかえして言ってみろ」
「十人ばかり連れて缶詰を取りに倉庫へ行け」
「初めて|まとも《ヽヽヽ》なことが言えたな。そのあいだに俺の方から連隊事務所へ電話をかけて、ワニエークに倉庫へいって缶詰を受取るように言っとく。そのうちにワニエークが営舎の方へ来たら、何もかも打っちゃっといて駈け足で倉庫へいくように言ってくれ、終り」
フックス軍曹はもちろん、その他の士卒を探しだすまでにずいぶん時間がかかった。みんな炊事場にいたのであった、骨にくっついた肉をしゃぶりながらしばりつけられたバロウンを見て喜んでいた。一人の男は肋骨の肉を一片持ってきてバロウンの口のなかへねじこんでやった。手の自由の利かないこの巨人は、森の精のような恐ろしい形相をしながら歯と歯茎をたくみにあやつって骨にくっついた肉を丁寧にしゃぶるのであった。
「フックス軍曹はどれだ?」と、やっと見つけたシュべイクがきいた。
自分を探しているのがただの兵士と知るや、軍曹フックスは返事する値打ちもないと思ったので黙っていた。
「こらッ、いつまで俺にきかせようってんだ? フックス軍曹はどこにいるんだってのに?」
フックスは、精一杯の威厳を示しながら現れた、そして口を極めてシュベイクをののしった――「『軍曹はどこだ!』なんて言い方があるか、『申し上げます、軍曹殿はどこでありますか』と言うんだ。『申し上げます』を忘れるような奴は、引っぱたくからそう思え!」
「そうがみがみ言わないで」と、シュベイクは悠揚迫らざる態度で言った。「これからすぐ営舎へゆき、兵士を十人連れて駈け足で倉庫におもむき缶詰を取って来るんです」
フックス軍曹は「なに?」としか言えなかったくらい、びっくりしたのである。
「『なに?』なんて言ってる場合じゃない。わしは第十一中隊の伝令じゃ、ちょっと前にルーカッシュ中尉殿と電話で打ちあわせたんだ。『駈け足で十人を連れて倉庫へ』との話だった。フックス軍曹殿、出かけるのがいやなら、すぐこれからわしは電話をかける」
「電話での話は、とルーカッシュ中尉殿がたった今言われたばかりじゃ、簡単明瞭にやらんといかん。軍隊では、ことに戦時には、遅延は犯罪じゃ、もしフックス軍曹がすぐ出かけなかったら、すぐ俺に電話をかけてくれ、フックスを処罰してやるから。フックス軍曹なんか死んだって屁とも思うものか。というようなわけですからな、あんたはルーカッシュ中尉殿がどんな人間だかをご存知かね?」
シュベイクは意気揚々とその場にいあわせた兵士を眺めた。一同は、彼の態度に度胆を抜かれていた。
フックス軍曹は何やら訳の解らぬことをぶつぶつ言いながら小走りに去った。シュベイクがそのうしろから叫んだ――「じゃ中尉殿に電話してもいいね、手配はすっかりととのったって?」
「すぐ十人連れて倉庫へ行きます」と、軍曹フックスは営舎の方から答えた。|あっけ《ヽヽヽ》に取られている一同には何とも言わないで、シュベイクはそこを立ちさった。
「さあいよいよ始まりか」と、ブラージェク伍長が言った。「出勤だぜ」
十一中隊の事務所に帰ってきたシュベイクには、パイプをくわえる暇がなかった。また電話がかかったのだ。またルーカッシュ中尉だった――
「どこをうろつきまわってるんだ、シュベイク。三度も電話をかけるのに誰も出ないじゃないか。フックス軍曹は見つかったか?」
「はッ、中尉殿。まず『何っ?』と来ましたよ、そこで私が電話での話は簡単明瞭でなくちゃいかんと言ってやりましたら、やっと」
「無駄話は止してくれ――ワニエークはまだ戻らないか?」
「まだであります、中尉殿」
「そうがんがんどなるなよ、耳が痛いじゃないか。このワニエークの畜生がどこにおるか知らないか?」
「知らないであります、中尉殿。このワニエークの畜生がどこにおるか」
「酒保《しゅほ》にいるらしいんだ。お前ひとつ行って奴にすぐ倉庫へゆけと言ってくれ。それから、まだ何か言うことがあったっけ。そうだ、ブラージェク伍長を探して、バロウンの縄をといて俺のところへ寄こすように言ってくれ。受話器をかけろ!」
シュベイクはまずブラージェク伍長を見つけて、バロウンの縄をとけとのルーカッシュ中尉の命令を伝えた。
シュベイクは酒保へゆくまでの途中を、バロウンといっしょに歩いた。バロウンは彼を救済者のように思って、家からとどく慰問品を分けてやろうと約束した。
「俺らんとこじゃ、今ちょうど牛や豚を殺すときじゃよ」と、バロウンは憂鬱な調子で言った。お前どっちが好きだい? 血いりのソーセージとはいらないのと? きっと今晩俺は家へ手紙を出すよ。俺の豚は百五十キロくらいあるだろうなあ。家にいた頃は、俺あ自分でソーセージを作って、腹のはち切れるほどつめこんだものだぜ。去年の豚は百六十キロもあったっけ」
「いやまったく見事な豚だったよ」と、彼は別れぎわにシュベイクの手をかたく握りながら付けくわえた。
「馬鈴薯ばかり食わしてそだてたものだが、びっくりするほど肥っていたぜ。ハムもうんとこさできたし、肉は肉で結構なご馳走になったし、その上にうまいビール、何一つ不足のない生活じゃった。それがどうじゃ、戦争のお蔭で台無しさ」
バロウンは深い溜息をもらして、連隊事務室の方へ向った。シュベイクは高くそびえた菩提樹の並木路をとおって酒保へおもむいた。
ワニエーク主計曹長は、いいご機嫌で知合いの本部付き曹長を相手に、戦争前エナメルやセメントでいくら儲けたというような話をしていた。
しかし相手の本部付き曹長は、もう金の勘定なんかできなかった。その日の午後、パルドウピッツの地主がやってきてここにいる息子のことを頼んで|しこたま《ヽヽヽヽ》彼に袖の下を使い、町でうんとご馳走したのであった。
だから彼はワニエーク主計曹長のエナメルの話に適当な返答をあたえるどころか、自分が何を言ってるのかいっこう解らないくらいだった。
「主計曹長殿」と、シュベイクはワニエークに近づいて丁寧に告げた。「すぐ倉庫へ行ってください、フックス軍曹が十人連れて向うで待っております、缶詰を受けとるんだそうです。駈け足でいってください。中尉殿は二度も電話をかけたであります」
ワニエークは大きな声で笑いだした――
「人を馬鹿にするんじゃない! 何をそんなにいそぐんだ、ゆっくりしろ、いい子じゃからな。ルーカッシュ中尉殿もまだ経験が足りねえ、あれば駈け足だなんて人さわがせをするはずがねえからなあ。この俺も連隊本部で命令を受けてきとるんじゃ――明日出発だから、すぐ支度をしろ、とな。ところで俺が何をしたと思う――ここへ一杯やりにきて、腰を落ちつけてさ、成り行きにまかせとるというわけじゃ。倉庫のことなら中尉殿よりも俺様の方がようく心得とる。倉庫に缶詰があるなんて、連隊長殿の空想さ、連隊の倉庫に缶詰の貯えなんてあったためしはなし、ときどき旅団の方から送って寄こしたり、仲のよい他の連隊から融通してもらってるんだ。連隊長殿が将校連に何と言われようが、そりゃご勝手じゃ、しかしそう|せく《ヽヽ》のだけは止せよ! うちの中隊の奴らが行ってみろ、倉庫係から気でも違ったのかと言われるのが落ちじゃて。缶詰を持って出かけた出征中隊なんて今までに一つもありゃしねえぜ」
「打っちゃっとけ」と、ワニエークはつづけて言った。「打っちゃっとくのがいちばんいいんだ。明日出発だ、と今日連隊本部で言ったって、誰が本当にするもんか。列車なしに行けるかい? 停車場には空いた車輌が一輌だってありゃしねえんだぜ。この前の出征中隊のときもそうさ。二日も停車場でぼんやり立って待ってたという始末だからな。また列車は動き出したが、行先が解らねえ、連隊長からして見当がつかねえって言うんだ。ハンガリーじゅうを乗りまわして、到るところで師団の参謀部と電話の打ちあわせだ。結局ドウルカって所へ当てがってもらったは良かったが、そこで全滅したので新たに編成して出なおしといったようなわけだった。だからさ、何もいそぐこたあねえってことよ。どうじゃ、お前もここへ尻を落ちつけて……」
「そういうわけにはいきません」と、堪えがたい自己欺瞞をしながら、勇敢なる兵士シュベイクはことわった。「事務所へ帰らなくちゃ、誰から電話がかかるかもわからないから」
「行くなら行ってもいいぜ。しかしよく覚えとくがいい、世のなかに糞真面目な伝令ほどいやなものはねえってことをな」
しかしシュベイクはもう戸のそとへ飛びだして、中隊の事務所へといそいでいた。
ワニエーク主計曹長は、ぼんやりと本部付き曹長を眺めた。曹長は半ば目をとじたまま相変らずとりとめのないことをしゃべっていた。
ワニエークは退屈のあまり行進曲のようなものを口ずさみはじめた、ちょうどそこへ、将校炊事卒のユウライダがはいってきて、倒れるように椅子の上へ腰をおろした。
「実はね、今日」と、彼は呂律《ろれつ》のまわらぬ舌でしゃべりだした。「コニャックを受取れって命令が来たんだがね、籠《かご》編みの壜《びん》にはリキュールが一杯はいっていて空っぽのがねえもんだから、乾《ほ》さなきゃなんねえって事になったのさ、待ってましたとばかり、炊事場の連中、いや実に飲んだものだね。連隊長殿は一足おくれたため一杯も飲めなかったから、今オムレツをこしらえてやっとるところさ。とても大騒ぎだったぜ」
ユウライダというのは、戦争前『生と死の謎』と題する心霊方面の雑誌を発行していた男で、戦争が始まるとともにこの連隊の将校賄い方になったものだが、古代インドの『黙示の叡知』の問題などを考えこんで、よく肉をこがすことがある。
連隊長はこのユウライダがご自慢だった――どこの連隊の将校賄い方を探したって、生と死の謎を見通すような心霊主義者の炊事卒がいようか。コモルン付近で重傷を負って死に瀕したドウフェク少佐が絶えずユウライダの名を呼んだほど、そんなに立派なシチューを料理できる者がいようか。
「ねえ君」と、しばらくたって彼は主計曹長に向って静かに言った。その際うっかり手を振りまわしたので、テーブルの上にあったコップがみんなひっくり返ってしまった。
「あらゆる現象、形体および事物は実体のないものだよ」と、この炊事卒は憂鬱に言った。「形体は無実体だ、そして無実体が形体だ。無実体は形体と別なものでなく、形体は無実体と別なものでないのだ。無実体なるもの、すなわち形体であり、形体なるもの、すなわち無実体である」
炊事兵――心霊主義者は、黙ってしまった。手で頭をささえながら、酒でべとべとにぬれたテーブルの上をじっと見つめるのであった。
本部付き曹長は、思いだしたように、何かしら頭も尻尾もないようなことをしゃべった。
ワニエーク主計曹長が、ずっと遅くなってから、十一中隊の事務所に帰ると、電話のそばにシュベイクがいた。
「形体は無実体だ。そして無実体が形体だ」と、吐きだすように言って、ワニエークは服をぬがずに長椅子の上にころび、すぐ寝いってしまった。
シュベイクは電話のかたわらにすわり通しであった。二時間ほど前にルーカッシュ中尉から電話がかかって、まだ連隊長のもとで会議中だということを知らせてきたが、電話を離れてもよいとは言わなかったからである。
またフックス軍曹からも電話があった――ずいぶん長い間ワニエーク主計曹長の来るのを待っているが、いっこう姿を見せないばかりか、倉庫には鍵がかかっていて誰ひとりいない。
シュベイクはときどき受話器を耳にあてて楽しんだ――この受話器は、ちょうど軍隊に採用されたばかりの何とかいう新式のもので、他所《よそ》で話していることがかなりはっきりと聞こえるという長所があった。
輜重《しちょう》隊と砲兵隊がたがいに悪口の言いあいをやったり、工兵が、軍事郵便局をどなりつけたり、砲兵の射撃場から機関銃隊に小言を言ったりするのが聞こえた。
こうしてシュベイクは相変らず電話のかたわらにすわっていた。
連隊長のもとにおける会議は長びいた。
連隊長は、すこぶるありきたりの新戦術の話をしたり、戦況を報告したり、かと思えば、兵士の政治思想を語ったり、またツェッペリン飛行船の話に飛んだりして、いつ終るのか見当がつかなかったので、欠伸をかみころしていた将校連は、この馬鹿|爺《じじい》め、いつになったら止すつもりなんだ、と言いあわしたようにみんな心の中で思っていた。
ちょうどそこへ旅団から連隊長に出頭するようにと電話がかかったので、将校連は、やれ助かったとばかりに集会所におもむいた。
シュベイクは電話のかたわらにすわって、こくりこくりと居眠りをしていたとき、ベルがけたたましく鳴っておこされた。
「もしもし」という声が聞こえた。「こちらは連隊本部」
「もしもし、こちらは第十一出征中隊の事務所」
「電話をきらないで、鉛筆を持って書き取ってくれ。いいか――第十一出征中隊……」
このとき急に混線して先方の言っていることがさっぱり解らなくなった。十二中隊や十三中隊からの話が混じってきて、シュベイクは極度にまごついたが、結局連隊本部からどなりつけられて――
「第十一出征中隊……」
「中隊長、書いたか、繰りかえしてみろ」
「中隊長!」
「会議は明日――いいか、繰りかえしてみろ」
「会議は明日」
「九時に――署名。馬鹿野郎、貴様署名って何だか知っとるか? 名前ってことだ。繰りかえしてみろ」
「九時に――署名。馬鹿野郎、貴様署名って何だか知っとるか? 名前ってことだ」
「馬鹿、間抜け! いいか、署名――連隊長シュレーダー大佐だ、阿呆、書いたか?」
「連隊長シュレーダー大佐だ、阿呆」
「そいつあ、よかった。だが、誰だ、いま書き取ったのは?」
「俺」
「ちえッ、その俺ってのが誰だ?」
「シュベイクだ、まだ何かほかに?」
「ありがてえことにゃ、これでおしまいさ。だが貴様はとてつもねえ間抜け野郎だなあ。何か変ったことがあるかい?」
「何にも。旧態依然たりさ」
「それで安心じゃろ、ええ?」
「いつ出発だか知ってるかい?」
「どうして俺らに解るものか、連隊長だって知りゃしねえんだぜ。あばよ。しっかり鼾でもかきな。お前んとこにゃ蚤がいるかい?」
事実シュベイクは電話のかたわらにすわったまま眠ってしまった、幸いなことには受話器をかけるのを忘れて、はずしっぱなしにして置いたため、安眠を妨害されずにすんだ。しかし、チブスの予防注射を受けていない者は明朝正午まで出頭すべしとの電話も、とうとう第十一中隊へは通じなかった。
ルーカッシュ中尉が将校集会所から帰宅してみると、この夜ふけにバロウンは中尉のアルコール湯沸かし器に小さな器《うつわ》をのせてせっせとソーセージを煮ているところだった。
「あの、私は、その……」と、バロウンはどもりどもり言った。「申し上げます、その……」
ルーカッシュは彼をじっと眺めた。この瞬間、彼にはバロウンが独りの大きな子供に見え、無邪気な動物だと思われた。そして彼をしばりつけさせたことが急に気の毒になってきた。
「いいから煮ろよ、なバロウン」と、サーベルをはずしながら言った。「明日からパンをもう一人前もらってやるからな」
ルーカッシュ中尉は机の前にすわり、憂鬱な気分にひたりながら伯母にあてて感傷的な手紙を書き出した――
「なつかしい伯母様!
ただ今、中隊を引率して戦線におもむく用意をしろとの命令を受取ったところです。到るところ激戦で我軍の損害ははなはだしいありさまですから、あるいはこれが私から伯母様に送る最後の手紙となるかも知れません。ですから『再会を期す』と書いてこの手紙を結ぶのは私にはできにくいことです、最後の『ご機嫌よう』を送るほうが適当なようです」
(あとは明朝書くことにしよう)と、思いながら中尉は寝床にはいった。
中尉の寝いったのを見とどけたバロウンは、油虫のように家中を探して食物のありかを求めた。中尉の鞄をあけて、チョコレートをかじりかけたが、中尉が眠りながら身体をぴくっと動かしたので、びっくりしてかじりかけのチョコレートを鞄の中に押しこんで身をすくめた。
それから彼は中尉の書きかけた手紙をそっとのぞいた。ことに最後の「ご機嫌よう」という所を読んだときいたく心を動かされた。
彼は入口に置いてあった藁蒲団の上に横になり、家のことや屠殺用の小刀のことなどを思いながら眠りに落ちた。夢――
いろんなソーセージがあらわれた。それから野戦炊事場から肉をぬすんだのが見つかって戦地軍法会議にまわされ、ブルックの陣営の並木路にある一本の菩提樹に首をつるされた自分の姿を見た。
翌朝早く眼をさましたシュベイクは、ちょうど今電話で話し終ったかのように、機械的に受話器をかけ、陽気に歌をうたいながら事務所の中を朝の散歩ときた。調子づいてあまり大きな声を出したため、ワニエーク主計曹長が眼をさまして時間をきいた。
「今しがたラッパが鳴ったところです」
「じゃ朝食のあとで起きよう」と、相変らず落ちつきはらったワニエーク。「どうせ今日もまた作日の缶詰のように一日中せきたてられるんだから……」
ワニエークは大きな欠伸をして、昨夜帰って来てから長くしゃべったかどうかきいた。
「なあにほんの少々何だかわけの解らねえことをね」と、シュベイク。「姿がどうのこうのってひっきりなしにしゃべってましたっけ――姿は姿じゃねえ、姿でねえものが姿であるもので、この姿がまた姿でねえものだ。だがそのうちに鋸《のこぎり》をひくような鼾《いびき》をかきだしましたよ」
「この哲学ってやつをやりだすと」と、シュベイクはつづけて言った。「人間ももうおしまいですな。ツァートカというガス工夫がありましたがね、朝ガス灯をけして夕方またつけるまで暇なもんだから、あんたが言ったようなことばかりしゃべっていましたっけ、|さいころ《ヽヽヽヽ》は角《かく》だ。だからさいころはカント派だってなことを繰りかえし繰りかえしね。うそじゃない、わしがこの耳でちゃんと聴いたんだから――立小便したのを酔っぱらいのお巡査《まわり》に見つかり、交番と間違えてガス会社の詰所へ引っぱられていったときのことですからな。それから、これはあとで人から聞いたんだが、このツァートカって男、あるとき哲学に耽《ふけ》りだし、ガス燈を消すのを忘れて三日三晩つけっぱなしにしといたってことですよ」
「哲学の悪いって例はまだまだある」と、シュベイクは更につづけた。「いつぞや七五連隊から転任してきたブリューアー少佐とかいうのがあった。毎月一度ずつ俺らを方形に立たせて、上官というものについてお説教をしたもんだ――やい、兵士ども、よく聴け、将校というものはそれ自体最も完全なる創造物なんだぞ、貴様らが百匹束になってきたって将校一人の頭しかないんだ。将校は必然的創造物であるが、貴様ら兵士は偶然的創造物たるにすぎん。もちろん貴様らごときものでも存在はできる。しかし存在せざるべからずということは無いんだ。いざ戦争となれば、貴様らでも陛下のために戦争することがあろう、結構なことではある。けれども貴様らが何人戦死したって何でもないが、将校が先に戦死してみろ、そのとき貴様らはいかに将校を頼っていたかということが解るだろう。将校は存在しなくちゃならん、しかし貴様らの存在は元来将校殿からの借り物にすぎんのじゃ。貴様らにとっては将校は一つの道徳律だ。貴様ら兵士どもに解ろうと解るまいと、そんなことは問題にならん。貴様らはただ黙って将校殿の命令に従い、充分に義務を果たさなくちゃならんのだ。
ある日のこと、こういった哲学の研究が済んだ後、ブリューアー少佐は、方形に並んだ俺らのぐるりをまわって片っぱしからきくのだった――『夜おそく帰った場合、どんな感じがするか?』
一度も遅く帰ったことはないであります、だの、遅すぎたときは胃の工合が調子よくありません、だのって、誰も彼もとんちんかんなことばかり答えた。こんな奴はもちろん罰をくらうにきまっている。俺あ前もって考えといて、順番がきたとき、ゆっくり答えたもんだ――『申し上げます、少佐殿。夜おそく帰ると、常に何らかの不安、恐怖および良心の呵責を感ずるであります。しかるに、時間どおり帰営すると、何らかの幸福なる安心、内的の満足を得るのであります』
みんながどっと笑った。少佐はどなりつけた――『何をほざいてやがるんだ、この野郎、貴様の得るのは|せいぜい《ヽヽヽヽ》南京虫じゃ。人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!』
お蔭で俺あ禁足をくらったよ」
「軍隊って所はそんなものさ」と、主計曹長はのっそり立ちあがりながら言った。「何と答えようと何をしようと勝手とはいうものの、頭の上には始終台風が待ちもうけとるものと覚悟しなくちゃ。でないと規律はたもてっこないからな」
電話がかかってきた。ワニエーク主計曹長が電話口にでて、ルーカッシュ中尉と渡りあった――
「缶詰なんて一つもありゃしませんよ、中尉殿。倉庫にあるなんて、そりゃ経理部の夢でしょう。私が酒保にヘばりついて何にもかまわなかったって? 誰がそんなことを言いました? あの心霊主義炊事卒が? たしかに私は酒保で一杯やりました。しかし、中尉殿、あの心霊主義者も昨日の缶詰事件のことをひどく悪口していましたぜ。どう致しまして、中尉殿、わたしゃちっとも酔っぱらってなんかいませんよ。シュベイクは何をしてるかって? いますよ、呼びましょうか?」
「シュベイク、電話」と、ワニエークは言って、声をおとして付けくわえた。「昨夜俺が帰ってきた模様をきかれたら、何も変ったことがなかったと言うんだぞ」
「シュベイクです、申し上げます、中尉殿。はッ? 缶詰のことはワニエークの言ったとおりかって? そのとおりです、缶詰は影も見せんであります。何か変ったこと? もちろん、ありますとも、中尉殿。時刻は昨夜の九時。|じらす《ヽヽヽ》なって? 物は順序とか言いましてな。電話がかかったんです、中尉殿、書き取れって言うから書き取りましたがね――電話を聞いてるのは誰だ? 書いたか、繰りかえして見ろ、ってなことをね。結局ですか? 結局その会議です、明朝九時にまた連隊長のもとに集まれってんでさ。昨夜すぐ中尉殿をおこそうかと思ったんですが、考えなおしたであります」
そんな馬鹿げたことでおこしちゃいかん、考えなおしたのは当り前だ、と中尉から言われて、シュベイクは電話口から引きさがった。
シュベイクに代わってまた受話器を耳にあてたワニエークに、中尉から――
「ワニエーク、俺に別の従卒を探してくれ。あのバロウンの畜生め、昨夜のうちに俺のチョコレートをみんな食ってしまやがったんだ。またしばりつけようかって? 衛生隊の方へまわすことにしたよ。象みたいな野郎だから負傷兵を戦場から運ぶのによかろうじゃないか。今すぐそちらへやるから連隊本部へ連れてってくれ。それはそうと、俺らもうじき出発だろうか?」
「いそぐことはありませんよ、中尉殿、九中隊のときは四日間まごつかされたし、八中隊のときだってやっぱりそうでさ。十中隊のときはいくらか良くって割合早く出発したが、さてどこへ行くのか解らないでハンガリーの国中をうろついたことがありましたっけ」
「うむ、そうかも知れん、今度もどうやらそんなことになりそうだ。ときに、従卒を探してくれ、忘れないでな、それから誰も外出ささないでくれ。酒保へは? 食後一時間だけ許す――シュベイクを呼んでくれ!……シュベイクか? お前は電話を離れないようにするんだぞ」
「申し上げます、中尉殿。私はまだ朝のコーヒーも飲んでいないであります」
「じゃコーヒーを持ってきて事務所の電話のかたわらにすわってろ。伝令って何か、お前知っとるか?」
「走りまわる奴であります、中尉殿」
「じゃ俺が呼んだらすぐ間にあうように用意しているんだぞ。ワニエークにもう一度そう言ってくれ、俺に従卒を探してくれるように。おいシュベイク、おいおい、どこへ行っちまうんだ?」
「ここです、中尉殿、今ちょうどコーヒーがとどいたところであります」
「シュベイク、おい、おい!」
「聞いていますよ、中尉殿。だけどコーヒーが冷たくなるじゃありませんか」
「従卒の善し悪しはお前よく心得てるはずだから、ワニエークの探してくる男をよくしらべて俺に報告してくれ。もう受話器をかけてもいいぞ」
ワニエークは、『インキ』と書いた瓶からリキュールを牛乳なしのコーヒーのなかにいれてすすりながら、シュベイクに言った――「俺らの中尉はなんで電話でどなるんだろう。お前と話してることが、全部もらさずきこえたぜ。シュベイク、お前は中尉殿とよっぽど深い仲らしいな」
「ずいぶんいろんなことをいっしょにやりましたよ。二三度仲を引きさかれようとしたこともあったが、またいっしょになったってわけでさ」
出征軍の将校連を集めた連隊長シュレーダー大佐は、便所の掃除をこばんで大佐から反叛罪として師団軍法会議に送られたマーレク一年志願兵の事件をまず語り出した。
マーレク志願兵は昨夜師団軍法会議から送りかえされて「守衛本部」にいれられ、そこに監禁されることとなった。同時に師団軍法会議から山と積んだ書類がまわされた。それによると、この事件は反逆罪を構成しないが、たしかに「服従背反」に該当する。そしてこの軍隊的服従にそむいた罪は戦争の終結するまで執行猶予とする、というのであった。
事件はもう一つある、と連隊長はつづけて言った。すなわち、マーレク志願兵といっしょに守衛本部へ連れてこられたテベーレスという|にせ《ヽヽ》曹長の一件である。この男は最近アグラムの衛戌病院からまわされて来たもので、銀製大戦功章と一年志願兵の徽章と金星を三つ持っていた。彼の言うところによると、第六出征大隊にぞくしていたが、セルビアで激戦のさい自分一人だけ生きのこった、というのである。取調べた結果、第六大隊にはたしかにテベーレスという男がいたが、一年志願兵ではなく、また銀製大戦功章ももらっていない、ということがあきらかになった。曹長に任命されていたかどうかという点は、同大隊が一人のこらず戦死しているのでたしかめることはできない。テベーレスは師団軍法会議で、こう弁解している――
銀製大戦功章を賜《たま》うという内約はたしかにしてもらった、だから病院にいるときボスニア人から買ったのだ。また一年志願兵の徽章は、よっぱらったとき自分で縫いつけたもので、その後ずっとよっぱらってばかりいたのでそのままになっていたのだ。
連隊長はこの二つの事件をまず報告にとどめ、例によって戦線の概況から説きはじめた。彼のすわっているテーブルの上には、戦況の見取図がひろげられていた。虫ピンのついた小さい旗を立てて、戦況を示すようになっているのだが、その小さい旗が散らかってテーブルの下に落ちていた。
こういう訳だ――連隊本部の書記の飼っている牝猫が、昨夜この戦況見取図の上に糞をたれ、それを埋めようとして、小さい旗をたおし、敵味方の容赦なく軍隊をよごしてしまってしまったのであった。
連隊長シュレーダー大佐は、ひどい近眼である。
将校連は、異常なる興味をもって、シュレーダー大佐の指先がこの糞に近づくのを見まもった。
「諸君、ここからゾーカルに向って」と、連隊長が予言者のような口振りで言いながら持っていった人さし指は、牝猫が戦況見取図を立体的に現わそうとして作った小さい山のなかに突っこんだ。
「連隊長殿」と、ザーグナー大尉が一同に代わって丁寧に告げた。「それは猫の糞のようであります」
連隊長は見る見る顔の色をかえて突きあたりの部屋に飛びこんでいった。そこから、すさまじい罵詈の言葉がきこえてきた、この猫の糞をみんななめてしまえ、とどなっているのも|はっきり《ヽヽヽヽ》きこえた。
猿のように真赤な顔をして戻ってきた連隊長はすこぶる簡単に言った――「将校諸君、追って命令および訓示の出るまで、じゅうぶんに準備をととのえて待ってもらいたい」
お蔭で会議はあっさり終った。その代わりマーレク一年志願兵とテベーレス|にせ《ヽヽ》曹長の運命は、しばらく未決定ということになった。
出発するんだろうか、それともしないんだろうか? 相変らずはっきりしない。シュベイクは方々の中隊へ電話をかけて問いあわせて見たが、楽観説、悲観説こもごもというありさまであった。実弾射撃の演習がすんでから出発するそうだとの第十二中隊の楽観説にたいし、第十三中隊ではもう停車場には軍用列車の用意ができているそうだとの悲観説を伝えるのであった。
この間にも、ひっきりなしに種々な電話が連隊本部からかかってきて、シュベイクはそれを書きとるのに忙しいくらいだった。しかしシュベイクとワニエークは、この電話の用件を適宜に――すなわち「馬鹿げている、破いてしまえ」「急ぐことはない、打っちゃっとけ」という処理をして、ルーカッシュ中尉の耳をわずらわさなかった。
「ときに」と、シュベイクは従卒の出たついでにワニエークにきいた。「中尉殿の従卒は見つかりましたかな?」
「お前も頭が良かねえぜ。何も急ぐことぁねえ、その上、中尉殿も今にバロウンに慣れるよ、そりゃときどき中尉殿のものを食っちまうかもしれないさ、しかし前線へ出りゃ食おうたって何一つないことが多いんだ。物事は急ぐもんじゃねえ」
尻のあたたまる暇もないほどうるさく電話がかかってくるので、合議の上、二人は受話器をはずしてしまい、愉快な物語に興じていた。一方ルーカッシュ中尉は、自分の部屋で、連隊本部から受取ったばかりの暗号を説明書と首っ引で研究していた。この数字で表わした暗号の秘密命令は、出征大隊がガリシアの国境に向って進むべき方向を示しているものらしい――
7217―1238―475―2121―35=ウィーゼルブルク
8922―375―7282=ラープ
4432―1238―7217―35―8922―35=コーモルン
7282―9299―310―375―7881―298―475―7979=ブダペスト
この暗号に首をひねりながら、ルーカッシュ中尉は溜息をもらした――「畜生、こんなものが解けるものかい!」
第三部 赫々《かくかく》たる潰走《かいそう》(一)
一 ハンガリーを斜めに
人間四十二に対する馬八の割合で、車輌に詰めこまれる瞬間が、ついにやってきた。もちろん、馬の方が楽に旅行できた、立ったまま眠れるのだから。だが、どっちにしても同じことである――どうせこの軍用列車は人間の群れをガリシア方面の屠殺場に運ぶのだ。
しかし、いよいよ列車が動き出したとき、みんなほっとしたような気持になった。今日か明日かそれとも明後日になってから立つのか解らないという、何となく|そわそわ《ヽヽヽヽ》した胸苦しい不安につつまれていたのが、いくらか決まりがついたからである。今にも刑吏が自分を呼びだしに来やしないかとびくびくして待っている死刑囚のような気持でいた者にも、列車が動きだすと、苦しむのも今しばらくだという一種の諦めが生ずるのであった。
すぐ戦線に向って出発すると言い出してからいよいよ列車に乗りこむまでには、かなりの時日があった。ワニエーク主計曹長がシュベイクに、いそぐことあねえと言ったのも全くだった。またあれほどたびたびやかましく言われていた缶詰も、ワニエークの言ったとおり、頭の中だけにあるもので、ついに影さえ見せなかった。その代わり従軍ミサが行われた。缶詰のないときは〔この前出発した出征大隊もそうだった〕従軍ミサがあり、缶詰があると、ミサは省かれる。
そこで今度もシチューの缶詰の代わりに従軍牧師長イーブルが現れて、セルビアとロシアの西方面に向かう一個大隊を一度に祝福したのであった。「忠勇なる兵士とラデツキー将軍」と題する一場の講話を試みたのだ。彼は、「親愛なる戦士諸君、諸君もまたこの忠勇なる兵士のごとき麗しき最期を遂げられんことを私は祈って止まない次第であります」と、結んだ。
「なかなかためになる面白え話だった」と、シュベイクは列車の中で従軍牧師長の講話を思い出しながらワニエークに言った。「よく気をつけて聴いといたから、戦争が済んだら『さかずき』へいってみんなに話してやろう。だが、あの牧師長は何て底抜けの馬鹿なんだろうなあ」
おなじ車輌のなかの向う側には将校賄い方の心霊主義的炊事卒がいて、しきりに何か書いていた。そのうしろに、ルーカッシュ中尉の従卒、髯もじゃの巨人バロウンと、十一中隊に配属された電話手ホドウンスキーが坐っていた。
バロウンは、軍用パンを口の中でもぐもぐさせながら、こみあっていたので幹部専用車に乗りこむことができず、ルーカッシュ中尉の所へいけなかった理由をくどくどとホドウンスキーに説明した。「いい加減にしろやい、くだらねえ泣き言を並べるのは。でないと射ち殺しちまうぞ!」と、相手の憤慨するのも構わずバロウンはつづけた――
「……人いじめもこれくらいにして貰えてえな。オーチッツで演習のあったときもそうだ、喉がかわく、腹はすく、それに行進行進だ。あんまりひでえから、大隊副官が来たときどなってやったよ――
『水とパンをよこせ!』ってな。馬の首を俺の方にまわした副官は、これが本当の戦争なら、すぐ射殺するところだが、演習のことだから営倉で我慢しといてやろうとぬかしやがった。が、有難えことにゃ、本部へ報告に引きかえす途中、馬から落ちて首を折っちまいやがったんで、営倉にもならずに助かったってわけさ」
そう言ってバロウンは深い溜息をもらしたはずみに、パンの片が喉につまった。やっと我にかえった彼は保管していた中尉の二つのルックサックを恨めしそうに眺めながら――
「しこたま持ってるよ、将校殿は。肝臓《レバー》の缶詰だのサラミソーセージだのって。思っただけでも涎《よだれ》が出ら」
「どこかでうめえ昼飯のご馳走ぐらいくれたって良さそうなものだ」と、電話手のホドウンスキーも、バロウンの話に釣りこまれて言った。「戦争の始まった当座は、どこの駅でも俺らはご馳走にありついたものだが。クロアチアのエッセークでは、二人の紳士が、兎の照り焼を大きな鍋にいれて俺らの車輌の中へ持ちこんで来てくれたが、持ちきれねえで頭から浴びたことがあったっけ。マチェイカって伍長などは、食いすぎて腹が|はちきれ《ヽヽヽヽ》そうになったので、その上に板をのせて踏みつけてやったら、上からも下からも発散してやっと楽になったくらいだ。ハンガリーをとおったときも、駅ごとで鶏の丸焼を窓から投げこんでくれたっけ。カポスファルバって所では、マジャール人が、豚を丸のまま焼いたのを幾つも車輌のなかへ放りこんだことがあって、それを頭にぶつけられた俺らの仲間の一人が、怒ってその寄付人を線路の向うまで追っかけたって、嘘のような話もあったよ。それから……」
誰もこの話を聴いていなかった。心霊主義的炊事卒は、相変らず、自分の留守中に神秘主義的雑誌を発刊している細君に宛て手紙を書くのに余念がなく、バロウンはいい気持になって居眠りを始めていた。電話手は仕方なしに、カードで夫婦合わせをやっているシュベイクとワニエークのそばにやってきて、差し出口をきき始めた。
「余計な差し出口をきくくらいなら」と、シュベイクは、それでも丁寧に言った。「煙草に火でもつけておくれよ。二人でやる夫婦合わせは、戦争よりも重大な事件だぜ。――畜生、俺としたことが、何てへまをやったんだ! 王を棄てないで、もう少し持ってりゃ良かったのに、今ごろ女王が来やがって、ちえッ、いまいましい!」
カードをやりだすと上下の区別はない、「そんな馬鹿げた札の打ち方があるものか。俺んとこにゃダイヤの無いってことが解ってる癖に、ダイヤの八を棄てるもんだよ。クラブのジャックなんか出すもんだから、この」と、シュベイクは、そのときあらたに仲間に加わった電話手を意味しながら、「天下一の阿呆が勝ったじゃねえか」
「何言ってやがるんでえ、この野郎」と、ワニエークも負けていない。「ダイヤを棄てなきゃ、こちとらのご都合が悪かったんだ。ダイヤを棄てりゃ、これ見ろ、スペードとクラブのちゃきちゃきだけが残るんだ。手前こそ馬鹿じゃねえか」
「馬鹿」と、シュベイクは微笑みながらやり返した。「それほどいい手なら、真正面から押しきったらいいじゃねえか、宝の持ちぐされなんかしねえで」
「誰だい、今度札を配るのは?」
「余計な口出しをしねえで」と、このとき細君への手紙を書き終ってカードを見物しながらときどき傍《そば》から口をきいていた心霊主義者の炊事卒に向って、ワニエークが言った。
「いつか酒保で聞かせてくれた輪廻《りんね》のことでも話せよ」
「輪廻のことなら」と、シュベイクは、話を横合いから奪った。「俺あもう知っとるよ。だいぶ前のことだが、いったい俺は今度生れ変ったら何になるんだろう、何とかして今から解らねえものかな、と考えついたもんだから、早速プラハの職業組合の図書室へ出かけたと思え。そのときの俺の身なりがあまり汚くてズボンのお尻に穴が幾つもあいてたもんだから、係の奴、冬服を盗みに来たとでも思ったんだろう、いれてくれねえんだ。仕方がねえ、一帳羅に着がえて、今度は市立の図書館へいった。そこで輪廻のことを書いた本を借りて読んだが――むかしインドに王様があった、何の因果か知らねえが、死後その魂は豚に移ったんだ。ところが屠殺されたので、今度は猿になった。猿の次が犬、そして犬から大臣になったとさ。軍隊じゃ兵士は、やれブタだの頓馬だのって畜生の名前でどなりちらされるが、何千年か前は有名な将軍だったかも知れねえぜ。もっとも戦争となりゃ輪廻なんて、ちっとも珍らしかねえばかりか、すこぶるつまらねえことさ。なぜだって? 例えばだな、俺らが電話手だの炊事卒だの伝令だのになる以前、もう何度生れ変ったのか数え切れねえくらいだもの――榴散弾がひゅうッとやって来て身体を粉に砕いてしまう。魂はふわりふわりと飛んで砲兵隊の馬に移る。ところがまた別の榴散弾がやって来てこの馬を殺す。と、すぐ魂は輜重隊の牛へ引越しと来る。シチューを作るためにその牛は叩き殺されて、その魂が今度はそうだな、一人の電話手に移る、そして電話手から……」
「こりゃ驚いた」と、電話手は、侮辱されたのを憤慨した様子で言った。「人もあろうに俺がそんな馬鹿話の種になろうなんて」
「プラハに私立探偵事務所を持っている人でホドウンスキーってのがあるが」と、シュベイクは無邪気にきいた。「あんたはその親戚じゃねえのかい? わしゃ私立探偵ってものが大好きでな。前に、おなじ隊にステンドラーという私立探偵がいた。いやに尖った頭の持ち主で、『尖った頭もずいぶん見たが、こんな頭は夢にも思ったことがねえ』って、俺らの曹長がしじゅう言ってたほどだ。野外演習のときなど、この私立探偵を五百歩ほど前に立たせて置いて、曹長は俺らに号令をかけたものだ――『三角頭の方向!』後で曹長は言った。『ステンドラー、お前の頭じゃ外に使い途がねえや、軍隊にゃ似合わねえ代物だからな』」
列車はイーゼルブルク駅にとまった。しかし、もう日が暮れていたので、車輌のそとへ出ることは許されなかった。
列車が再び動き出したとき、どこかの車輌から大きな声がきこえてきた。茫々たるハンガリー平原の上に蔽い来たる静かなる夜に向って、物思いにたえなかったベルクライヘンスタイン地方出身らしい一人の兵士が、耳ががんがん鳴るほどのドラ声で歌っているのだ――
働きて疲れし者に
安らけき眠りの来たれ!
陽静かに傾きゆけば
いざ憩え真面目なる手よ
暁の空白むまで
安らけく眠れ今宵を!
「止せやい、そんな情けねえ歌は!」と、誰かがこのセンチメンタルな歌手に怒鳴りつけたので黙ってしまった。
しかし、真面目な歌手は、日がもうとっぷり暮れたのに、なかなか憩おうとはしなかった。シュベイクの車輌の中でも、石油ランプの薄暗い光のもとで、相変らずカードがつづけられた。
「一杯やって景気をつけようぜ」とのワニエークの提議は、大喝采のうちに容れられ、戦争のことなど忘れてしまったらしい皆の面上には、血みどろの戦場へ向かう列車の中ではなくプラハのカフェ内のカードテーブルにでも向っているような満足さが現れていた。
「いいか、キングを打つぞ、さあ切ってみろ」
ここでキングをエースでもって打ちとっている間に、戦線の方では、王様が互いにその臣民をもって打ち合っているのである。
出征大隊の将校連の乗っている幹部専用車では、列車が動き出してからしばらくの間、馬鹿に静かであった。将校連の多くは「父の罪」と題したルートウィヒ・ガンクホーファーの小説を手にして申しあわせたように、皆んな百六十一頁を読み耽っていた。大隊長ザーグナー大尉も、窓のそばに立ったまま、同じ本を手にして矢張り百六十一頁をあけていた。
百六十一頁と睨めっこしながら、将校連はじっと考えた――連隊長シュレーダー大佐は完全に気が狂っちまったんじゃなかろうか。ずっと以前から変ではあったが、こう急に来る様子もなかったのに、列車がいよいよ出発するというとき、大佐は一同を最後の会議に召集し、各自にガンクホーファーの小説『父の罪』を一冊ずつ分けてくれたのであった。
「諸君」と、彼はいやに秘密そうな顔付をして言った。「第百六十一頁を決して忘れないようにしてくれたまえ!」
将校連は、今その頁を開いて、一体どういう事が書かれてあるのか、一生懸命に知ろうと努めているのだ。この頁では、マルタとかいう女が現れて、机の引出しから台本のようなものを取り出し、観客はこの劇の主人公に同情しなくちゃいけないという考えをのべる。同じ頁には、アルバートという男も出てきて、何とかして面白おかしく話そうと絶えず努める。しかし前の筋と切り離して読む者には酷《ひど》く馬鹿けて見えるので、ルーカッシュ中尉のごときは、憤慨のあまり、巻煙草のパイプを噛み切ったくらいだ。
「あの爺もいよいよお終《しま》いだ」と、みんな心のうちで言った。「もう本省の方へ廻されるだろうよ」
さっきから窓の傍で、どういう工合に百六十一頁の意味について講話すべきか、ということで頭を捻《ひね》っていたザーグナー大尉は、やっと腹案をまとめたと見えて、皆のいる前へ戻って来た。
「諸君」と、この列車に乗り込むまでは「同僚」としか呼びかけなかったザーグナー大尉は、老連隊長と同じ口調で呼びかけ、昨夕連隊長からルートウィヒ・ガンクホーファーの『父の罪』第百六十一頁に関して訓令を受けた、ということを語り出した。
「諸君」と、彼は得々としてつづけた。「これは、戦場における急報の新式暗号に関する、極秘に属する報告なんである」
「大尉殿、用意はできました」と、ビーグラーという見習い士官が、さっそく手帳と鉛筆を取りだしてひどく勤勉な口調で言った。
将校達はこの馬鹿者を見つめた。この見習い士官は、糞真面目な点で一年志願兵仲間でも評判だった。祖先の話をしたとき、その家紋がコウノトリの羽根に魚の尾びれだと言ったことから『魚の尾びれ』という綽名を頂載している。猛烈な勉強家で、学科をのみこむのはもちろん、進んで戦術や戦略の歴史に関する書物までも漁り、その事を話し始めると、みんなが足踏みするか掴み出すまで、いつまでもしゃべりつづけるくらいであった。
「おい、見習い士官」と、ザーグナー大尉は言った。「発言を許されないうちは、黙っているんだ。書き取るのは君の勝手だが、もしもその手帳を失くしでもしたら、いいか、軍法会議だぞ」
「申し上げます、大尉殿。万一何かの拍子でこの手帳を紛失いたしましても、私の書いたことを判読できる者は一人もおりません。私は速記するのでありまして、しかも英語式速記術を応用したものでありますから、誰も私の略体が読めないのであります」
何を生意気な、とばかりみんな彼を蔑《さげす》んだように眺めた。ザーグナー大尉も、|うるせえ《ヽヽヽヽ》と手で払いのけるようにしながら、講話をつづけた――
「さて今も述べたように、これは戦場における急報の新式暗号なんである。なぜ諸君が、ルートウィヒ・ガンクホーファーの小説『父の罪』の第百六十一頁を読めとすすめられたのであるか、恐らく諸君には不可解であろう。これが即ち、諸君、このたび我々の配属させられた軍団の参謀本部から発せられたる新訓令に基づいて効力を生ずるに到りし新暗号の鍵なんである。諸君も既に承知のとおり、戦場において重要なる報告をなす場合には、種々の暗号を用いる。我々の使用せんとする最新式暗号は、増補暗号法なんである。これによって、先週連隊本部から諸君に手交された暗号およびその解き方の手引きが、明らかになることと思う」
「アルブレヒト太公式」と、熱心家の見習い士官ビーグラーが独り言のように呟いた。「8822-R、グローンフェルト法を採用」
「この新しい式は至って簡単である」と、大尉の声が車輌いっぱいに響いた。「吾輩は、連隊長殿の手からじかに、説明書と共に第二巻をも受取っているんである」
「例えば『海抜二二八の地点より機関銃を左に向け発砲すべし』という命令を受取るとしよう。しからば、諸君、我々はこの急報を次のように受取るんである――『事件――共に――私達を――その――私達は――上を――見る――の中に――約束した――マルタ――私達は――それを――私達は――感謝――恐らく――官吏――終り――私達が――約束した――その――私達は――その――改善された――約束した――真に――私達は――思う――考え――全然――支配する――それを――声――恐らく――私達は――最後の』かくのごとく、なんら余計なる組合せを要せず、すこぶる簡単なんである。参謀本部から電話で大隊へ、大隊から電話で中隊へ。この暗号急報を受取った中隊長は、ただちに次のごとくこれを解く。先ず『父の罪』を手に取り、百六十一頁を開き、向い合った頁すなわち百六十頁にある『事件』という言葉を探すんである。さあ、諸君、探して見給え。あるね、百六十頁の上から順に数えて、五十二番目の言葉が、それだ。そこで、向い合った頁即ち今度は百六十一頁の上から五十二番目の言葉を探してみる、するとその言葉は『か』という文字で始まっている。暗号急報の第二語は『共に』だ、そこで百六十頁を探すと七番目に出ている。そして百六十一頁の七番目の言葉は『い』で始まる。次に『私達を』は、諸君、注意して見てくれ給え、八十八番目にある。これは次の頁の『ば』となり、更に『その』は『つ』となる。かくて我々は、既に『海抜』という言葉を解き得たんである。同様の方法で我々は容易に、この暗号急報が『海抜二二八の地点より機関銃を左に向け発砲すべし』という命令であることを解き得る。諸君、何と明確ではないか、しかもこの鍵、すなわちルートウィヒ・ガンクホーファーの『父の罪』なくしては、絶対に解けないんである」
一同は、黙ったまま両方の頁を見つめ、もじもじしながら考えこんだ。しばらくのあいだ沈黙がつづいたが、見習い士官ビーグラーは突然心配そうに叫んだ――「申し上げます、大尉殿。大変です、違うんであります」
見習い士官の言ったとおり、百六十頁と百六十一頁をいくら照し合わしてもザーグナー大尉の説明したような文句が出てこなかった。
「諸君」と、大尉は少しうろたえて吃《ども》りながら言った。「どうしたというんだ? 吾輩の『父の罪』にはあって、諸君のにはない?」
「大尉殿、失礼ですが」と、またビーグラー。「ルートウィヒ・ガンクホーファーの小説は上下二巻あるんじゃないでしょうか? 私達のは第一巻で、貴方のは第二巻です。ですから、貴方の百六十頁及び百六十一頁が私たちのに合わないのは、火を見るよりも明らかです。私たちので解くと、急報の第一語は『海抜』ではなくて『乾草』となりますが!」
ビーグラーという奴も案外馬鹿にできんわい、と皆の者はひそかに思った。
「こりゃ確かに何かの手違いじゃ、察するに、連隊長殿は諸君に第一巻の方を取りよせたものだろう」
見習い士官ビーグラーは、へん、どんなものだ、と言わんばかりに一同を見まわした。ドウプ少将は、ルーカッシュ中尉に、『魚の尾びれ』がザーグナーを|ぺしゃんこ《ヽヽヽヽ》にやっつけたぜ、と嬉しそうにささやいた。
「どうもおかしい」と、非常に不愉快な沈黙がつづいたのを破ろうとしてザーグナー大尉が言った。「しかし旅団本部にもずいぶん間抜け野郎がいるもんだな」
この機に自分の博識を示そうとしたビーグラーは、なかなか追及の手をゆるめなかった――「失礼ですが、軍隊の暗号の鍵と言えば、非常に秘密なものであります、それが旅団の事務室あたりから出るはずはないと思います。私の存じておりまする暗号は、サルディニア及びサボイの戦争、セバストポリにおける英仏戦争、支那の義和団の暴動、最近では日露戦争に使用されたものであります。この式は更に……」
「そんな暗号なんか糞食らえだ」と、ザーグナー大尉は、軽蔑と不興をありありと顔に現わして言った。「とにかく、吾輩がただいま説明したところの暗号は、ただに最良の方式の一つたるのみならず、また何人も企及し得ざるものである。いかに優れたる敵の密偵といえども、この暗号を解くことは不可能である。これは全然新式のものである、先例なきものである」
見習い士官ビーグラーは、意味ありげな咳払いをした――
「大尉殿、ケーリックホーフの著した軍隊用暗号に関する本をご存知でございましょうか。この本は『軍隊専門辞書』書店の発行にかかるもので、誰の手にも入ります。私が今お話し申し上げようと致しました方法も、この本に詳しく出ているのであります。この方法の発明者は、ナポレオン一世の下でサクソニア軍に勤めていたキルヒナー大佐であります。大尉殿、『キルヒナー式暗号|語彙《ごい》』というのが、すなわちこれです。急報の用語は、必ず相対する頁の上で、鍵によって解かれるのであります。この方法は、フライスナー中尉の『軍用暗号便覧』によって完成されましたが、この本も、ウィーンの『陸軍大学』出版所へ注文すれば、いつでも手にいります。ちょっとお待ち下さい……」そう言って彼は、手提げ鞄の中から、いま話した本を取りだし、「フライスナーも同じ例を引いています、どうぞお手に取ってご覧下さい。私達がいま聴いたのと全く同じ例です――
急報――海抜二二八の地点より機関銃を左に向け発砲すべし。
その鍵――ルートウィヒ・ガンクホーファー『父の罪』第二巻。
その先をご覧ください――暗号――事件、共に、私達を、その、私達は、上を、見る、の中に、約束した、マルタ、云々。私達がたったいま聴いたばかりのと全然同一であります」
これには誰も文句のつけようがなかった。
先ほどからルーカッシュ中尉の様子が変である、と傍の者が気づいたほど、中尉は内心ひどく昂奮しているらしかった。唇を噛んで、何か言おうとしていたが、結局、最初言おうと思っていたこととはぜんぜん別なことを話し出した。
「これは、そうまじめ腐って詮議立てするほどの事でもないよ」と、彼は妙に狼狽して言った。「暗号の二つや三つは、ブルックの陣営にいた頃から使用している。戦線へ着けば、また新しい式が出されることだろう。けれども暗号を解いている暇なんか、恐らく無かろうと思うんだ。何しろ実際的な価値のないものだね」
ザーグナー大尉は、すこぶる渋々ながら、うなずいた――「実際においては、少くとも吾輩がセルビアの戦場において経験したところでは、暗号を解いている暇のある者は一人もなかった。塹濠に拠《よ》る持久戦となれば、もちろん、話は別であるが。それから、暗号が変る、ということも事実だ」
ザーグナー大尉は総退却を試みたのである。問題を別な方向へそらした。
「やがて」と、窓の外を眺めながら、「ラープに到着するだろう、諸君! ハンガリー風シチューを百五十グラムずつ分けてやるぞ、それから休憩は三十分間。糧秣倉庫は第六号を開ける、配給監督は見習い士官ビーグラー」
一同は「それ見ろ、青二才め、そううめえことばかりねえぞ」と言わんばかりの眼付きをして、ビーグラーを眺めた。
しかし勤勉そのもののような見習い士官は、早速鞄の中から紙と定規をとりだし、線を引いて各中隊を更に各小隊にわかち、いあわせた中隊長に各兵員の現在数の記入を求めた。中隊長は一人として自分の中隊の兵員数を覚えている者がなかった。手帳を出して調べたが、いい加減な数を記入するほかなかった。
ザーグナー大尉は、所在なさに『父の罪』を読みかけていたが、列車がラープ駅に着いたとき、本を閉じながら言った――「このガンクホーファーも、そう棄てたものじゃないよ」
ルーカッシュ中尉は、真先に幹部専用車から飛び出して、シュベイクの乗っている車輌の方へ急ぐのであった。
「シュベイク、ちょっと来てくれ、説明してもらいたいことがあるんだ」
「おやすいご用で、中尉殿」
ルーカッシュ中尉は、シュベイクを外へ連れだしたが、シュベイクに向けた彼の眼付きには、何か疑っているところがあった。
ひどく味噌をつけた先刻のザーグナー大尉の講話中、ルーカッシュ中尉は、絶えず探偵のような頭を働かせていたのであった。出発の少し前シュベイクが、「中尉殿、行軍の途中で読むようにと将校殿宛に書物が届いています。連隊本部から持って来たのであります」と電話したからである。
だから中尉は、線路の向う側まで行ったとき、いきなり訊いた――「おいシュベイク、あのとき本がどうだとかこうだとか言ってたが、一体どうなったんだ?」
「申し上げます、中尉殿。あれには混みいったわけがあるんですが、私が詳しく説明しようとすると中尉殿はいつでも直ぐ昂奮してがみがみどなりつけるんで……。あのときも中尉殿は私の横面を殴ろうとしましたっけな、私の渡した戦時公債に関する書類を引きさいて、私が、昔は戦争というと、住民は住まいの窓一つに対していくら、鷙鳥一羽に対しいくらの税を納めねばならなかったという事が、ある本に出ていたということを話しましたら……」
「この際そんなことから始めてたんじゃ、らちがあかない」と、ルーカッシュ中尉はシュベイクの話をさえぎったが、なにぶん事は軍事機密に属するので、おしゃべり屋のシュベイクには真正面から打ちあけてかかるわけにもいかなかった。「お前、ガンクホーファーを知ってるかね?」
「何です、それは?」と、シュベイクは面白そうに問いかえした。
「ドイツの作家じゃないか、馬鹿!」
「それじゃ、中尉殿、知りませんや。わしゃドイツの作家にゃ一人も面識がありませんや。チェコの作家なら一人だけ識ってますがね。ラジスラウス・ハエークって『動物世界』の主筆ですよ。わしゃこの作家に酷《ひど》い野良犬を血統の正しいスピッツだと言って売りつけたことがありましたが……」
「おい、おい、そんなことを訊いてやせんぞ。お前が俺に話していた本が、ガンクホーファーのじゃなかったかって聞いてるんじゃ。さあ、その本はどうなった?」と、中尉は怒りだした。
「あれですかい、わしが連隊本部から大隊に運んだ本ですかい? 本を取りに来いって電話がかかったんです、ところが誰もいない、みんな酒保へ押しかけたに違いないんです。戦線に出てしまえば二度と再び酒保へ行けるかどうか解りませんからなあ。つまり、みんな酒保へいってしまってどこにも誰もいない、電話を取次ぐ者がいないって始末でさ。電話手のホドウンスキーが来るまで電話の傍にいろって中尉殿がおっしゃられたもんですから、わしゃちょうどそこにいたんでさ。戦時には敏速が第一という事は常々承知していますので、今から直ぐその本を取りにいきます、と返事して置いて、連隊本部へ出かけましたがね、どっさりあったもんだから持ってくるのに随分骨が折れましたよ。『これが第一巻で、これが第二巻。どちらの巻から読むかは、大隊の方で知ってるはずだ』って、その本を受取るとき連隊本部の主計曹長が繰りかえし言いましたっけ。わしゃこれでもドイツ語の少しくらいは読めるんでね、この『父の罪』って小説を見ましたが、なるほど、第一巻と第二巻から成っておる。しかし、ユダヤ人じゃあるめえし、ヘブライ語みたいにお尻から読むわけはねえ、第二巻を読んでから第一巻に移るなんて臍の緒切って以来一度も耳にしたことがありませんからな、変なことを言うもんだと不思議に思ったんでさ。だが念のため、中尉殿が将校集会所から帰られたとき『この節、軍隊じゃ何でも逆なんでしょうか、本を読むにも順序を逆に、第二巻を先ず読むんでしょうか?』って尋ねたら、中尉殿は『酔払いの馬鹿者め、貴様はお祈りのお終いの≪アーメン≫を先に言って、次に≪天に在します我等の父よ≫って言うのか? ≪アーメン≫が後にくるのは解りきった話じゃないか』とどなられたんでさ」
「気分でも悪いんですか、中尉殿」と、シュベイクは、ルーカッシュ中尉が真青な顔をして倒れそうになったのを見て言った。
「何でもない、もういいんだ。さあ、次を話せ、次を」と、中尉は、青い顔に絶望の色を浮かべながら言った。
「私もやはり」と、あたりに人気のない線路の上で、シュベイクの声がやわらかく響いた。「中尉殿と同じ意見だったんです。ずっと以前のことですが、ロスツア・ザンドルという人の書いた|ちゃんばら《ヽヽヽヽヽ》小説を買って読んだことがあります、本屋に第一巻がなかったもんですから第二巻から始めたところ、こんな肩の凝らない義賊ものでも第一巻から読まないと筋が通りませんな。だから、どの巻から読み始めるかは大隊の方で承知じゃ、と連隊本部でわざわざ聞かされたとき、わしゃおかしくて噴きだしたくなったくらいでさ。しかし、将校殿というものは一体あまり読書をしないもんで、ことに激戦の最中には……」
「止してくれ、馬鹿なことを言うのは」と、中尉は吐息をついた。
「あのときわしゃ電話で伺ったんですよ、二巻ともお持ちになりますかって。そうしたら中尉殿は、今と同じように、止してくれ、馬鹿なことを言うのは、本を二冊も持っていけるもんか、と言われましたっけ。だが、わしは念をいれて、ワニエーク主計曹長にも相談しましたよ。ワニエークの話じゃ、本なんか読んでる暇があるもんか、逃げよう逃げようと待ちかまえてんだもの、だいいち従卒の方で大砲の者がきこえると直ぐ荷物を軽くするために小説のようなものは放りだしてしまあ、ってことでした。そこで改めて、中尉殿の意見を伺ったところ、馬鹿げたこともいい加減にしないと|びんた《ヽヽヽ》をくらわすぞ、と言われたので、いよいよ決心して第一巻だけ大隊本部へ持ち帰り、第二巻は連隊の倉庫へ置いときましたよ。もっとも、この第二巻の方も、将校殿が第一巻を読み終ると引換えに渡す心算だったんですが、急に出発の命令が下って、第二巻はとうとう倉庫の中に蔵《しま》いこまれたままになったんでさ。あすこには、中尉殿、あの倉庫の中には、色んなものが納まってますぜ、例えば……」
「シュベイク、お前はね」と、中尉は深い溜息を漏しながら言った。「お前自身のやったことが、どんな結果をひきおこしたか、てんで知らないのだ。もしそれが解れば――いや、いや、解っちゃならない――もしこの本のことが話に出るようなことがあっても、俺がお前に電話で話したことを、金輪際しゃべるんじゃないぞ。第一巻と第二巻がどうなったんだ、というような話が出ても、決して耳をかすな。お前は何も知らない、何も思い出さないことだ……」
ルーカッシュ中尉は熱に浮かされたような声で言った。彼がちょっと黙った瞬間を利用して、シュベイクは無邪気に訊いた――「申し上げます、中尉殿。恐れ入りますが、なぜ私が恐ろしいことをやらかしたのか、そのわけを話してくれませんか。人間というものは過ちを犯すうちに色々と学ぶところがある、とのことですが、ダネーク工場のアダーメクという鋳物工が間違って塩酸をのんだとき……」
「馬鹿!」と、中尉はシュベイクに引例を終りまで言わせないでどなった。「お前に説明なんかしてやらん。車輌へ帰って、バロウンに――ブダペストに着いたら、白パンとそれから鞄の底の方に入れてある錫箔《すずはく》で包んだ肝臓《レバー》パイとを幹部専用車まで持って来い、と言え」
「はッ!」と、言ったシュベイクは、自分のやった事の結果を知ることができないとは不思議だな、と首をひねりながら、ゆるゆると自分の車輌へ足を運んだ。
ルーカッシュ中尉は、線路の上をあちこち歩きながら考えた――「なぜ俺は、あの畜生をひっぱたかないで、まるで仲間と話すような口のききかたをしたんだろう! いまいましい!」
シュベイクからルーカッシュ中尉の命令を伝えられた巨人バロウンは、黒猩々のように長い両手をぶらりと垂らし、背中を曲げたまま、かなり長い間この恰好をつづけていた。
「そんなものあ無《ね》え」と、彼は泥だらけの床の上を見つめながら、情けない小さな声で言った。
「そんなものあ無《ね》え」と、くりかえし言った。「たしか出発の前に包んでいれた――と思うんだが――腐ってやしねえか、嗅いでみた……」
「そして味をみた」と、とうとう本音を吐いてしまった。
「手前その錫箔ぐるみ食っちまったんだろう」と、ワニエーク主計曹長がとどめを刺した。
居合せた心霊主義の炊事卒やシュベイクも、それ相当にこの憐れなる巨人をからかわずには置かなかった。
巨人は、悲しそうに一同を見渡した。
「俺が口ぞえしてやったお蔭で」と、ワニエークが言った。「貴様はルーカッシュ中尉の従卒として残ることができたんだぞ。看護卒にされて、戦場で負傷者をかつがされるところだったんだ。看護卒って楽な仕事じゃねえ、ドウルカの戦いのとき、鉄条網の前で弾丸をくらって負傷した旗手を担ぎにいった看護卒が次々に三組とも頭を射たれて斃れたことがある、四番目の組がやっと担ぎ出して、救護所まで帰ってきたが、そのときには旗手はもう息が絶えてたっけ」
バロウンは、我慢しきれなくなって、おいおいと声を立てて泣きだした。
「なんだ女々しい、恥かしかねえのか」と、シュベイクがバロウンをたしなめた。「兵士たるものが……」
「だって俺あ戦争するために生れて来たんじゃねえんだもの」と、巨人は嘆くのであった。「きちんとした暮らしをしているものを、否応なしに引っぱりだしておいて食い物も|ろく《ヽヽ》に寄こさねえ。そうじゃねえか? 亡くなった俺の親爺を見ろ、プロチーインの料理屋で、一度にソーセージを三十本とパンを二斤食って賭けに勝ったんだぞ。俺も賭けをして、鷲鳥を四羽と野菜付きの肉団子を二皿食ってしまったこともある。家にいりゃ思う存分食えるものを……」
「お前はその大食のお蔭で、縛りつけられたこともあるじゃねえか、それにも懲りず、今度は第一線へやって欲しいんだな」と、シュベイクが口をいれた。「俺がルーカッシュ中尉殿の従卒をやってたときのことと比べて見るがいい。何もかも俺に任せっきりだ。俺が中尉殿のものを食ってしまうだろうなんて夢にも心配しなかったんだからな。『俺は少しありゃいいんだ、後はお前のいいように片づけろ』といった調子さ。プラハにいた頃は、よく近所の料理屋へ昼食をとりにやらされたものだが、分量が少ないような気がするときは、なけなしの自分の財布をはたいて二人前買った――途中でつまみ食いでもしたと思われちゃ癪だからな。ある日、中尉殿の友達のシェーバ中尉殿が昼時にひょっこり訪ねてきたことがある。例によって俺がルーカッシュ中尉には内証で自腹を切って二人前買ってきた野菜詰の鳩の丸煮を、ルーカッシュ中尉殿と分けて食べたシェーバ中尉殿が言った――『これが一人前だって? 世界中の品書を探したって、一人前で大きな鳩の丸煮なんかあるものか。本当のことを言えよ、二人前だろう?』ルーカッシュ中尉殿は俺に向って『だって一人前しか金を渡さなかったろう?』と、きいたので、その通りですと答えてやった。するとルーカッシュ中尉殿は友達に向って『それ見ろ、一人前じゃないか。これで今日なんざ少ない方だぜ』。シェーバ中尉殿は、早速その翌日、昼食を俺の近所の料理屋へとりにやった。従卒が持って帰った鶏の挽き肉はどうだ、生後二カ月の赤ん坊に食べさす分量、せいぜい二|匙《さじ》くらいしかないじゃないか。可哀想に、従卒はつまみ食いの冤罪《めんざい》を着せられ、横面をぶん殴られた上、俺のことを引合いに出して散々油を絞られた。翌日の昼、またその料理屋へやられた従卒は、俺のことを問いただし、一部始終をシェーバ中尉殿に告げ、それがまたルーカッシュ中尉殿の耳にはいった。ある晩、俺が新聞を読んでいるところへ、帰宅した中尉殿は、つかつかとやってきて、顔色を変え――『さあ言え、何度二人前払ったんだ? 貴様の馬鹿なことはあらかじめ覚悟の上だが、まさかこれほどまでとは思わなかった。何て大それた真似をして俺に恥をかかせたんだ。先ず貴様を射ち殺し、俺も後から死ぬから、そう思え!』てな調子で、ひどく叱りつけたものだ。『中尉殿』と俺は言ってやったよ。『私が初めて貴方のところへ参ったとき、貴方は何とおっしゃいました? 従卒って奴は、どれもこれも、泥棒同様の下劣な性根を持ったのばかりじゃ。もし私が、料理屋から少ししか持って来なかったら、やはり私も性根の腐った奴だと思われましょう』」
「ああ、堪らねえ!」と、バロウンは小さな声で言って、ルーカッシュ中尉の鞄の方へ身体をかがめ、海老のように後ずさりした。
「……すると中尉殿はポケットじゅうに手を突っこんで探し始めたが、一文も出て来なかったので、チョッキから銀時計を取り出した。ひどく感激したらしい。『給料を貰ったら返すから、俺の借金がいくらになっているか勘定しといてくれ。――この時計はほんの志だ、とっといてくれ。だが以後決して馬鹿な真似はしてくれるな』その後、ひどく困ったことがあって、俺あその時計を質屋へ持っていかなくちゃならねえってことになったがな……」
「おい、バロウン、お前そこで何を|こそこそ《ヽヽヽヽ》やってんだ?」と、このときワニエーク主計曹長が言った。返事の代わりに、哀れな巨人は、喉をつまらせて咳をしだした。ルーカッシュ中尉の鞄を開け、残っていた白パンをことごとく頬張っていたのである。
セルビアの戦線へ送られるドイツ兵を乗せた列車が、この駅を通過した。ウィーンで受けた送別の感激がまだ冷めないと見え、ひっきりなしに勇壮な軍歌をどなり、カイゼル髭の伍長が、窓の外へ両足をぶらりと垂れてその軍歌の拍子を取っていた――
恨み重なるセルビアに
眼にもの見せんと………
と歌った瞬間、拍子をとっていた伍長は、身体のバランスを失って車輌の窓から飛び出し、運悪くちょうどそこにあった転轍挺《てんてつてい》に猛烈な勢いで腹をぶっつけ、田楽刺しに垂れさがった。列車は、別な軍歌の余韻を残しながら、過ぎ去ってしまった――
気高き勇士ラデツキー
帝の敵を破らんと………
九一連隊の出征大隊の兵隊達は、たちまちこの珍妙な田楽刺しの周囲に集まった。もちろんこの物見高い連中のうちに混じっていた勇敢なる兵士シュベイクは、わざわざ向う側まで廻って眺めながら、物識り顔に言った――
「念入りに突き刺したものだなあ、腸がズボンの中まではいってるぜ」このときシュベイクの背後で、厳しい声がきこえた――
「貴様らここで何をしてるんだ?」
シュベイクは振りかえって敬礼した。そこには見習い士官ビーグラーが立っていた。
「申し上げます、見習い士官殿。死人を見ているんであります」
「そして貴様は何て煽動を飛ばしてるんだ?いったい何の用事があってここにいるんだ?」
「申し上げます、見習い士官殿」と、シュベイクは悠々たる余裕を見せながら言った。「私は煽動を飛ばした覚えなんかちっともないであります」
見習い士官の後ろにいた二三人の兵士が、くすくす笑いかけたとき、ワニエーク主計曹長が現れて、見習い士官の前に立った――
「見習い士官殿、中尉殿が様子を見て来いと伝令シュベイクをここへ寄こしたんであります。私はいま幹部専用車にいたんですが、大隊長殿が貴方を探しておられるであります」
ワニエークの言葉が終ると間もなく、乗車用意の合図が鳴ったので、悲壮な死人を残したまま、みんな車輌のなかへ帰っていった。
シュベイクと並んで歩きながら、ワニエークが注意した――「おい、シュベイク、人の大勢集まってる場所では、うっかりしたことを言うんじゃねえよ。どんなひどい目にあうか知れやしねえからな。あれがドイツの伍長だから良かったようなものの」
「わしゃ別に何も言いやしねえよ、ただ、あの伍長は念入りに突き刺したものだ、腸がズボンの中まではいっているで……いっそのこと……」
「もう止せったらその話は」そう言ってワニエークは唾を吐いた。
「どっちにしたって同じさ」と、シュベイクはなかなか黙らなかった。「ここでだろうと向うでだろうと、陛下のために腸をさらけだす段にゃ変りがねえや。結局義務を尽したんだもの……いっそのこと……」
「見ろよ、シュベイク、あれを」と、ワニエークは、シュベイクの注意を転換させた。「大隊付き伝令のマトウシツの奴が威張りくさって幹部専用車の方へ歩いていく恰好を! 線路につまずいて転げないのが不思議じゃねえか」
幹部専用車では、ザーグナー大尉が、食料の配給や田楽刺し事件のことなどにとやかくの難癖をつけてビーグラー見習い士官をいじめていた。もちろん暗号問題の腹いせである。そこへ、駅長のもとに電報が来ていないか見にいった大隊付き伝令マトウシツが、一通の電報を持ってとびこんで来た。電報は旅団から発せられたものであったが、暗号を使わずに「速やかに炊事を終え、ゾーカルに向け前進」とあった。ザーグナー大尉は考えこんで首をひねった。
「申し上げます」と、マトウシツがいった。「停車場司令官が是非お話したいと言っとるであります。もう一通電報が来とるであります」
そこで、停車場司令官とザーグナー大尉との間に、極めて秘密な会談が行われた。暗号を使用しないこの突拍子もない電報は、たしかに旅団長から打ったもので、フォン・ヘルベルト少将の署名にも間違いはなかった。
「お互いの間だけですが、大尉殿」と、この駅の司令官が、いかにも秘密そうな顔付をして言った。「実は貴方の師団から秘密電報がはいってるんですがね、旅団長が発狂したんです、何でもさっきお渡ししたと同じ電報を方々へ十通ばかり打ったらしいんですな。暗号を使用しない電報は問題にするなと師団の方から命令が来ているんですから、もちろんあの電報は引きさいてしまっていいわけですが、本官としてはともかくお渡しすることだけはして置かなければならなかったんです」
ザーグナー大尉が、発車間際に幹部専用車に帰って見ると、他の将校連から離れてビーグラー見習い士官は独りで書きかけの原稿をめくっていた。
この『魚の尾びれ』を持った男は、戦争で勲功を立てんとするのみならず、また作家として世に現れようとしていたのだ。まだ単に標題しか付けていないが、彼の作家的野心はすこぶる雄大なものになるらしい――
『世界大戦における戦士の性格――戦争を始めしは誰ぞ?――オーストリア・ハンガリー帝国の政策と世界大戦の発生――戦争観――戦争の効用――戦争勃発に関する通俗的講話――戦争政策的考察――スラブの帝国主義と世界大戦――世界大戦史に関する文献――戦時におけるオーストリア・ハンガリー帝国治下の諸民族――我が出征の記録――勝利者はいずれぞ?――激戦に際し――鉄石旅団――余の蒐集せし戦争書翰――我が出征大隊の英雄伝――戦地における兵卒のための便覧――闘争の日と勝利の日――戦地にて余が経験せしこと――塹壕にて――ある将校は語る――敵の飛行機と我が歩兵――戦いの後――祖国の忠実なる赤子、我が砲兵隊――かくて世界が悪魔に充ちし時――防禦戦争と攻撃戦争――鉄と血――勝利か死か――捕虜となれる我軍の勇士』
ザーグナー大尉が、この原稿を読んで、これはいったい何だ? と訊いたとき、ビーグラーは、感奮の色を顔に浮かべながら答えた――
「申し上げます、大尉殿。各標題が一冊ずつの書物になるんであります。戦死した場合、これらの書を私の記念として残したいのであります。その例はドイツの大学教授ウード・クラフトであります。彼は一八七〇年に生れまして、このたびの世界大戦に出征を志願し、八月二十二日アンロイにおいて戦死しましたが、『陛下のための死への自己教育』という書を著しております」
「君の勉強ぶりには全く感心のほかない」と、ザーグナー大尉は皮肉に言いながら、「そのポケットにはいっている手帳もついでに見せたまえ」
「全くつまらぬものですが、大尉殿」と、見習い士官は顔を赤らめた。「ご覧下さいますか?」
この手帳には、次のような標題が記されてあった――
オーストリア・ハンガリー軍の著名なる戦闘の様式
歴史的研究により帝国将校アドルフ・ビーグラーの蒐集せるもの
傍註ならびに解説も同じく帝国将校アドルフ・ビーグラー
ビーグラーの作成したこの様式というのは、簡単きわまるものであった。一六三四年九月六日のネルドリンゲンの戦いから始まって、一八七八年八月十九日のサラエボ攻略に到る、幾多の戦いを取り扱ったものであるが、いずれもきまったように、白と黒の方形を用いて敵軍と味方を区別し、各々左翼と右翼があり戦闘行動は矢の方向をもって示されている。ネルドリンゲンの戦いも、二百数十年後のサラエボの戦いも、全然同じような軍の配置で、今まさに開始せんとするサッカー試合の選手の配置と同じであった。
だから、直ぐこの事に気づいたザーグナー大尉も訊いたのだ――「ビーグラー見習い士官、君はサッカーをやるのかね?」
ビーグラーが真赤になって、今にも泣き出しそうな顔をしているのには目もくれず、大尉は、その手帳をめくりながらいちいちの戦いについて辛辣な批評、というよりも揶揄《やゆ》を試みた。
「寸暇を利用して戦術の研究をやるというのは」と、大尉は手帳を見習い士官に返しながら言った。「まことに殊勝な心掛けじゃ。ただ、君のは子供たちが兵隊ごっこをやっているようで、自分を大将だと言って威張っているのと同じだ。それから君はいつの間に帝国将校アドルラ・ビーグラーに昇級したんだね? この調子で昇級すりゃ、列車がブダペストに着かないうちに、君は元帥になるだろうな。――アドルフ・ビーグラーだって! 人を馬鹿にするない! 貴様は将校じゃねえ、ただの見習い士官じゃねえか。下士に毛の生えたようなものじゃ、将校になるのはまだほど遠いんだぞ」
「おい、ルーカッシュ」と、ザーグナー大尉はルーカッシュ中尉に話しかけた。「ビーグラーが将校になったんだとよ、戦場へ着いたら真先に小隊を率いさせて鉄条網を断《き》らせようぜ」
席をはずしたビーグラー見習い士官は、夢遊病者のように便所の戸を開けて中へはいった。朝早くから腹が痛んで頭痛もするのであった。ズボンをずらして、いきんだ――その間にも涙が頬を伝って流れるのを禁ずることができなかった。『オーストリア・ハンガリー軍の著名なる戦闘の様式、帝国将校アドルフ・ビーグラー編纂ならびに註解』と書いた手帳の紙を引きさいて、尻をぬぐった彼は、その紙が走りゆく列車の便所口から線路の上に落ちたのを見とどけ、相変らず痛む腹をおさえながら、自分の席に帰った。旗手のプレシュナーが、カードで勝ったコニャックの瓶を提げてはいって来たとき、ビーグラーはウード・クラフト教授の『陛下のための死への自己教育』に読みふけっていた。
列車がまだブダペストに着かない先に、見習い士官ビーグラーは、ひどく酔払って、窓の外へ半身を出して絶えず叫んでいた――「元気でやっつけろ!」神の名において、元気でやっつけろ!」
ザーグナー大尉の命令によって、大隊付き伝令マトウシツが、ビーグラーをやっと腰掛けの上に寝かせることができた。この腰掛けの上で見習い士官ビーグラーは、こんな夢を見たのである。
二 見習い士官ビーグラーの夢
彼は少佐だった。最高名誉章たる鉄十字を持っていた。そして部下の旅団を検閲に行くところであった。自分にも解らないのだが、いつまで経っても彼は少佐だった。旅団に命令を与える地位だのに……『少』の下に『将』が付くべきを、どこでどう間違えたのか、いつまでも『佐』がくっついて離れないのだ。
上官たる自分に対して、ザーグナー大尉が、鉄条網を切りにやるぞと言って嚇かしたことが、おかしくてならなかった。もちろん、ザーグナー大尉ならびにルーカッシュ中尉は、とっくの昔に他の旅団、他の師団、いや他の軍団に転任させられていた。また噂によれば、ザーグナーとルーカッシュの二人は、退却に際してどこかの沼のなかに落ちこんで見苦しい最期を遂げたという。
戦線における自分の旅団を検閲するため、自動車を飛ばしていたとき、やっと何もかもはっきりしてきた。考えて見れば、自分は参謀本部から派遣されたのではないか。
彼の乗った自動車は、敵の塹濠に沿った道を、ぐんぐんと敵陣に向って進んでいく。
「おい、しっかりしろよ」と、彼は運転手にどなりつけた。「車をどこへやるつもりだい? あれは敵陣じゃないか」
運転手は落着き払って答えた――「将軍殿、道らしい道と言えばこれより他にないんです。横道を通ってた日にゃ、タイヤが何本あったって堪りませんや」
眼の前に榴散弾が破裂し、三十八インチ砲や四十二インチ砲が、すぐ傍に穴をうがった。
「いったいどこへいくんだ?」
「今に解りますよ」と、運転手。「道がずっとこのとおりなら、ともかくお目出度うでさ」
突然自動車が停った。
「ここが分かれ路です」と、運転手が言った。「どっちへ行っても敵の陣地ですが、私としては、タイヤの痛まないように、いい方の道をとおりますよ――国庫に属すこの自動車の責任は私に在るんですからね」
爆発音、耳をつんざくような爆発音がしたかと思うと、急に星が車輪のように大きく見えだした。銀河がクリームのように濃くなってきた。
彼は、運転手の脇にすわって、宇宙の中をふわりふわりと飛んだ。さきほど四十二インチ砲が破裂したとき――あの爆発音がそれだったのだ――鋏で切ったように自動車の後部がどこかへ持っていかれ、勇敢な前部だけが残ったのである。彼はそのさい、運よく運転手台に跳ね飛ばされたのであった。
「これからどこヘハンドルを向けるんだい?」
「天へ飛行するんですがね、将軍殿、彗星をうまく交わさなくちゃ。こいつは四十二インチ砲よりも厄介な代物ですよ」
「もう火星の上へ出ましたぜ」と、しばらくの後、運転手が言った。「もうすぐ天の門へ着きます。済みませんが、降りて下さいませんか。軍人がうようよしていて、とても車では通れないんです」
「誰かを轢《ひ》いちまえ」と、彼は運転手にどなりつけた。「そうすりゃ避けるだろうて」
彼は、自動車から身体を半分乗りだして、どなった。「気をつけろ、馬鹿野郎ども。将軍のお通りだのに、『頭右ッ』をせんという法があるか!」
運転手は静かにこれをなだめた――「将軍殿。そいつあご無理でしょう。奴らはたいてい頭を引きちぎられてるんですからね」
ビーグラー将軍は、そう言われて、やっと気づいた――この天の門に押しかけた人々は、種々様々な廃兵だったのだ。彼らは戦争で身体のどこかを失っていた。その失った部分、すなわち頭とか腕とか脚とかを『ルックサック』にいれて持っていた。ぼろぼろの外套を着てやはり天の門に押しかけていた一人の砲兵のごときは、腹から下を両脚ぐるみ背嚢の中にたたんでいれていたし、また、ある後備兵の背嚢の中には、お尻が半分だけはいっているのが見えた。
天の門をくぐるには合言葉が必要だった。『神と皇帝のために』と言えば良いのだということに、ビーグラー将軍はすぐ気づいた。
自動車は天国にはいった。練兵場を横ぎるとき、そこで、大勢の新兵天使が『ハレルヤ』の練習をやっているのを見た。伍長天使が、一人の無器用な新兵天使の腹に真正面から拳固を食らわしてどなりつけた――「もっと口を大きく開けんか、豚め! そんな『ハレルヤ』って言い方があるもんか! 貴様団子でも頬張っているのか? 貴様みたいな頓馬をこの天国へいれるなんて、いったいどこの間抜け野郎の仕業だろう。もう一遍やってみろ――ハレルヤ」
自動車は通りすぎた。うしろの方から、天使新兵たちが、びくびくしながら喘ぎ喘ぎ『ハーレールーヤー』と吠えているのが聞こえた。
やがて大きい建物が現れた。その建物の上には左右に飛行機が一つずつ置いてあって、真中の恐ろしく大きい布には太々と『神の大本営』と記されてあった。
憲兵の制服を着けた二人の天使が現れて、ビーグラー将軍を自動車から引きずりだし、首筋をつかんで二階ヘ連れていった。
「神様の前だ、きちんとしろ」――部屋の入口の前でビーグラー将軍は、叱りつけられた上、なかへ突きいれられた。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世、ヴィクトル・ダンクルス将軍などの写真が幾つもかかっている部屋の真中に、神様が立っておられた。
「見習い士官ビーグラー」と、神様は一語一語力をこめて言われた。「わしに見覚えがあろうのう? 昔のザーグナー大尉じゃ」
ビーグラーは目をまるくした。
「見習い士官ビーグラー。いかなる権利あって、お前は少将と自称するのじゃ? いやさ、いかなる権利あって、参謀本部の自動車を乗りまわすのじゃ?」
「申し上げます……」
「黙れ、見習い士官、神様のお話し中じゃ」
「申し上げます」と、ビーグラーはまた顎をぱくぱくさせた。
「よし、どうあっても黙らんというのじゃな?」と、神様は戸を開けて呼ばれた。
「天使二人、こちらへ参れ」
左の羽根に銃をかけた二人の天使がはいってきた。見ると、驚いたことには、マトウシツとバーツァではないか。
神様の口から声が響いた――「こやつを糞壼に投げこめ」
見習い士官ビーグラーは、何かひどく臭い所へ落ちた……
眠っている見習い士官ビーグラーの向い側では、大隊付き伝令マトウシツとザーグナー大尉の従卒バーツァが、相変らず『六十六』をやっていた。
「あん畜生、棒鱈《ぼうだら》の腐ったのみてえに、いやに臭えじゃねえか」と、バーツァは、眠っているビーグラーが身体を変に曲げるのを面白そうに眺めながら言った。「野郎、ズボンをべとべとに汚してるに違えねえ」
「うっちゃっとけよ」と、マトウシツ。「着換えをさしてやろうってわけじゃあるめえし。要らぬ心配なんかしねえで、早く札を配りな」
ブダペストの上空が、ぽっと明るく見えてきた。ドナウ河の上を探照燈が、あちこち閃いている。
見習い士官ビーグラーは、ますます身体を妙に曲げながら、夢路をたどりつづけた。今度の夢では、彼はオーストリア王位継承戦争に当り、リンツ市を防禦したのであった。
リンツ市は、ナポレオン一世の竜騎兵に包囲され、市内は一大病室と化して病人は到るところに腹を抱えて苦しんでいた。彼、すなわちリンツ市防禦司令官ビーグラーは、やはり痛む腹を押さえながらも、フランス軍の使者に申しわたした――「帰りて貴下の皇帝に告げられよ。余は決して降服せざるべしと」
ビーグラー司令官は、急に腹痛を忘れたかのように、馬に打ちまたがって市を出て猛然とフランス軍に突撃を試みようとした――そこへ、ルーカッシュ中尉が現れ、フランス竜騎兵の太刀を浴びてビーグラーすなわちリンツの守護者の身代りとなった。
ルーカッシュ中尉は、次のように叫びながら、彼の足下に打ち伏して息を引きとった――「閣下のお命はわれわれごとき無能なる一中尉の命よりもはるかに尊いのですぞ」
リンツ守護者は、いたく感動しながら中尉から離れようとした刹那、流れ弾が飛んできて、尻の肉に当った。
ビーグラーは機械的にズボンの尻のところに手をやった――何だか|ぬるっと《ヽヽヽヽ》したものが手にさわった「救護隊! 救護隊!」と、叫びながら、彼は落馬した……
腰掛けから転がり落ちた見習い士官ビーグラーを、バーツァとマトウシツが抱きおこして、また元どおりに寝かした。
マトウシツはザーグナー大尉の許におもむいて委細を報告し、さらにつけくわえて言った――「コニャックの|せい《ヽヽ》じゃありません。どうもコレラらしいんであります。ビーグラー見習い士官は到るところで生水を飲みましたから。現にイーゼルベルクで」
「いくらコレラだってそう早く来るもんじゃないよ、マトウシツ。だが、隣りの室にドクトルがいるから、ともかく看てやってくれと頼んでおけ」
『戦争ドクトル』と呼ばれているドクトル・ウェルファーは、これまた頗《すこぶ》るつきの変物であった。方々の医科大学や病院で研究を修了したにも拘らず、ドクトルの称号を取ろうとしなかった。ただし理由は極めて簡単である。金持の伯父が遺言して、医学生フリードリッヒ・ウェルファーにドクトルとなるまでは年々一定の給費をする、ということを決めてあったからである。そしてこの給費の方が、彼が病院の助手として受ける給料の四倍も多かったのだ。かくて、万年医学生ウェルファーは、同人雑誌を出したり、幾つかのなかなか優れた詩集を出版したり、また漫画雑誌『シンプリチシムス』に寄稿したりして、研究をつづけていた。そこへ戦争がおこって、何もかも台無しとなった。というわけはこうだ。
『笑う唄』『縄暖簾と科学』『寓話と放物線』などを著した詩人も、なみの人間と同じように召集された。陸軍省に勤めていた彼の伯父の遺産相続人の運動が効を奏して、彼は『戦争ドクトル』試験というものを否応なしに受けさせられることとなった。筆記試験であったが、彼はどの答案にも判で押したように「俺の尻を舐めろ」と書きいれた。
三日の後、ドクトル試験をパスしたという通知があった。『縄暖簾と科学』の著者は歯ぎしりしてくやしがったが、もう後の祭であった。かくて止むなく軍医として勤めることになったのである。
将校連は、彼のことを『戦争ドクトル』と呼んで、事ごとに軽んずるという風を見せた。今も、ザーグナー大尉とルーカッシュ中尉が話しているところへ、「戦争ドクトル」ウェルファーが通りかかったのであるが、二人は見向きもしないで話をつづけた。
『戦争ドクトル』は、構わず微笑を浮かべながら話しかけた――「戦術史の研究で名を挙げたり、年と共に昇進してゆこうとするのは結構だが、お母さんから送ってよこしたお菓子を一箱もぺろりと平げてしまうのは考えものですな。私に白状したところによると、見習い士官ビーグラーは、ブルック出発以来クリーム菓子を三十箱も食って、停車ごとに湯をがぶがぶ飲んだと言うんです。シラーの詩を思いだしましたね『誰ぞ……』」
「ドクトル」と、ザーグナー大尉が相手の言葉をさえぎった。「シラーなんか問題じゃないんです。一体ビーグラーはどうしたというんです?」
『戦争ドクトル』は笑った。
「もらしたんですよ。コレラでもなければ、赤痢でもない、要するに尻からもらしたというだけでさあね。コニャックの呑みすぎってこともあるが、コニャックのいかんに拘らず、もらしたんでしょうな。何しろクリーム菓子を三十箱も食ったってんだから――ありゃまだ子供ですよ」
「じゃ大したことでもないんだね。だけど困ったものだなあ――こんな事が隊内にいいふらされた日にゃ」
ルーカッシュ中尉はたちあがってザーグナー大尉に言った――「そんな小隊長は真平ですな」
「なあに、どうにでもなりますよ」と、ウェルファーは相変らず微笑を浮かべながら言った。「あの見習い士官を病院へ入れようじゃありませんか――赤痢だという診断書を作りますよ、ひどい赤痢だってね。隔離するんですな」ウェルファーは相変らず気味の悪い微笑を浮かべながら――「寝糞をたれた見習い士官というよりは、赤痢にかかった見習い士官という方が、どれほど人聞きがいいか知れませんぜ」
可哀想に、こういうわけで見習い士官ビーグラーは、ブダペストの衛戌病院に運ばれることなり、その偉大なる夢も、隔離病室内に閉ざされてしまった。また彼の汚したズボンも、世界大戦の混雑にまぎれて、どこかへ失くなってしまった。
運の悪いときは仕様のないもので、赤痢病室が満員だったので、コレラ病室へいれられることとなった。
マジャール人の一等軍医がやって来て、ビーグラーの熱をとった。「三十七度!」コレラで熱の急に降《くだ》るのは最も危険な徴候なのだ。それにこの病人はもう無感覚ではないか。
事実、ビーグラー見習い士官は少しも昂奮を示さなかった。心の中では皇帝陛下のために苦しむのだと絶えず思いながらも、彼は常になく静かだった。
「コレラの末期だ」と、一等軍医は考えた。「苦悶の徴候、極度の衰弱、もう外界に対する感覚を失っている、意識が不明瞭となっている。死の痙攣のうちで微笑んでいるのだ」
もう一度熱を計ろうとして、今度は肛門に体温計が挿入されたが、ビーグラーは平然として身動き一つしなかった。殉教者のように微笑を浮かべていたのである。
「コレラで」と、一等軍医は考えた。「次第に死に近づくときの徴候だ、いわゆる退嬰《たいえい》的容態……」
診察の前に入浴させられて、丸裸のまま寝台に運ばれた見習い士官ビーグラーは、寒くって歯をがたがた言わせていた。身体じゅう一面に鳥肌が生じた。
「あれを見ろ」と、一等軍医は傍の看護下士をかえりみてマジャール語で言った。「非常な悪寒だ、四肢が冷たくなるのだ。これでお終いさ」
ビーグラーの方に身体を屈《かし》げて、ドイツ語で訊いた――「どうかね?」
「た、た、たい、へん……い、いい、です」と、ビーグラーは歯をがたがた言わせながら答えた。「毛、毛、毛布を……」
「意識、半ば明瞭、半ば不明瞭」と、一等軍医はマジャール語で言った。「唇と爪が黒くなってしまうはずなんだがなあ……爪と唇が黒くならないでコレラで斃れるのは、これで三度目だ」
「毛、毛、毛、毛布……を……」
「いま言ってるのが最後の言葉なんだよ」と、一等軍医はマジャール語で看護下士に告げた。
「明日コッホ少佐といっしよに埋葬しよう。いまに意識が失くなるよ。あれの関係書類は事務室にあるだろうね?」
「あるはずですが」と、看護下士は、一見習い士官の生死などには超然とした様子で答えた。
「毛、毛、毛、毛布……を……」と、見習い士官ビーグラーは、遠ざかりゆく二人の後から歯をがたがた言わせながら叫んだ。
病室には寝台が十六あったが、塞がっているのは五つだった。白布で蔽われているのが、二時間前に死んだコッホ少佐である。
見習い士官ビーグラーは身体を起こした。そして生れて始めて、皇帝陛下のためにコレラで死にゆく人々を見た――四人のうち二人はまさに死のうとするところだったから。窒息して眼を白黒させているうちに顔色が青くなってきた、そしてどこの言葉で何を言っているんだか解らないような事を口にしたが、それは言葉というよりは寧ろ圧しつけられた声の喘《あえ》ぎ呻《うめ》く音であった。
「どうもおかしいな」と、しばらく経ってからやってきた一等軍医は、毛布にくるまって休んでいたビーグラーに向って言った。「君はもう恢復期にはいっている、明日タルノフにある予備病院へ廻すことにしよう。君はコレラ保菌者だ――ということが一目で解るほど我々の医術は進歩しているんだ。君は何だったね。第九一連隊の……」
「第十三出征大隊」と、看護下士がビーグラー見習い士官に代わって答えた。「第十一中隊」
「君、じゃ書いてくれ」と、一等軍医が言った。「第九一連隊第十三出征大隊第十一中隊見習い士官ビーグラーを経過監視のためタルノフのコレラ病舎に送る。コレラ菌の保有者……」
かくて、わが熱狂的闘士ビーグラー見習い士官も、ついに化してコレラ保菌者となったのである。
三 ブダペスト市で
ブダペストの軍用停車場で、大隊付き伝令マトウシツが、大隊長ザーグナー大尉に、発狂したため療養所へやられたあの哀れな旅団長から打った電報を持ってきた。これもやはり暗号を用いず、前の駅で受取ったと同じ文句「速やかに炊事を終えゾーカルに向け前進」とあり、更に「輜重《しちょう》隊は東部方面の隊に加入。偵察勤務は中止。第十三出征大隊はブウク河に架橋すべし。委細は新聞にあり」とつけくわえてあった。
ザーグナー大尉は、停車場司令官のもとへ急いだ。小柄な肥った将校が、にこにこしながら彼を迎えた――
「やったもんだね、君んとこの旅団長は、馬鹿げてるんだが、しかし師団の方からはまだ何の指令も来ていないから、ともかくお渡ししたんだ。昨日も七五連隊の第十四出征大隊宛に妙な電報が来ていたっけ」
「少佐殿」と、ザーグナー大尉は停車場司令官に言った。「連隊の命令によりますと、我々はゲデレー方面に向うのですが、当停車場でエメンタール・チーズを百五十グラムずつ受取ることになっております」
「さあ」と、司令官は相変らず微笑しながら言った。「ボヘミアの連隊に対する命令は受けていないがね」
「我々の出発はいつでしょう?」
「君の隊の前に、ガリシアへゆく重砲兵の列車がある。一時間のうちに出発させるんだが、第三線路に病院列車があって、これが重砲兵列車の二十五分後に出発する。第十二線路の弾薬列車がこの病院列車から十分後に出発し、君の列車は更にこの弾薬列車に二十分遅れて出ることになっている」
停車場司令官は、またにこにこしながらつけくわえた――「もっとも、変更がないとすればだよ」
「失礼ですが、少佐殿、ボヘミアの連隊にエメンタール・チーズを配給せよという命令がどうして来ないんでしょう、承《うけたまわ》りたいのですが?」
「そりゃ、説明の限りじゃないよ」と、司令官は絶えず微笑しながら答えた。
「ちぇッ、ひでえ目にあったぞ」と、ザーグナー大尉は司令官室に退きながら考えた。「こんなことなら、チーズを取りにいけってルーカッシュ中尉に命令するんじゃなかった」
これより先、ルーカッシュ中尉は、ザーグナー大尉の命により、停車場の倉庫ヘエメンタール・チーズを貰いに出かけようとした所へ、シュベイクがバロウンを連れて、ひょっこり姿を現した。
バロウンは、全身ぶるぶると震えている。
「申し上げます、中尉殿」と、シュベイクは持ち前の円転滑脱さで言った。「極めて重大なる事件であります。どこか人のいない所で片づけたいのですが、いつぞや私の仲間のシュバチーナって奴が、結婚立会い人になって教会の中にいたんですが、その、急に……」
「どうしたってんだ? シュベイク」と、中尉はシュベイクの話をさえぎりながら言った。「じゃちょっと向うまでいこう」
バロウンはあとから、相変らず身震いしながら付いていった。
「実はこうなんです、中尉殿、貴方がバロウンに肝臓《レバー》パイと白パンを持って来いと命令なさいましたな?」と、シュベイクは言って、こんどはバロウンの方を振り返りながら、「確かにそうだろう? おい。ところが、この命令は残念ながら実行できなかったんです。というのは、私がその肝臓パイを食って……食ってしまったんです」
シュベイクはこの言葉に吃驚しているバロウンに黙ってろというような合図をして、「肝臓パイは腐りやすいと思ったもんですからね。新聞でもたびたび見ましたが、肝臓パイの腐ったのを食って、一家全員が死んだという例が……」
大きな身体をぶるぶる震わしていたバロウンが、脇の方へいったかと思うと、指を口の中に突っこんで短い間隔を置きながら、さかんにやり始めた。
「どうしたんだ、バロウン」
「わ、わたし、ゲエ、中、中尉殿、ゲエ、|げろ《ヽヽ》をやっとるであります」と、バロウンは、この短い間隔を利用して答えた。「わ、わたしが、食っちまった、ゲエ、んです。ひ、ひとりで、み、みんな、ゲエ」可哀想に、バロウンの口から、パイをつつんでいた錫箔《すずはく》まで出てきた。
「ご覧の通りであります、中尉殿。実は私が罪を引き受けようとしたんですが、この馬鹿野郎、ご覧の通り裏切ったんであります。この男、なかなか正直者なんですが、委託されたものを何でも食っちまうという玉に瑕《きず》があるんです。私の知った男に、やはりこれでちょうど同じなのがありましたっけ。銀行に勤めていましたが、あるときよその銀行へ金を出しにいって千クローネ多く貰ったのをその場で返したほどの律義者でした。ところが、燻製の魚を買いにやると、帰る途中で半分は食ってしまう。ソーセージだとナイフを出してきり取って食い、その穴へ絆創膏を詰めるという始末でさ。その絆創膏一つ買う金でソーセージが五つも買えるだから、我々どもにゃちょっと見当が付きませんな」
ルーカッシュ中尉は、ほっと深い息をしただけで立ち去るのであった。歩きながら彼は変なことを考えた――兵士が将校の肝臓パイを食っちまうようじゃ、こんどの戦争はオーストリアの負けじゃぞ。
「バロウン、心配するなよ」と、シュベイクはバロウンをなぐさめた。「これからいっしょに市へいって中尉殿に何か当地名産のソーセージでも買って来てやろうや」
汽車に乗りおくれたら、とバロウンが心配して躊躇しているうちに、乗車用意のラッパが鳴ったので、シュベイクの提案はおじゃんとなった。エメンタール・チーズを受取りにいった連中は、チーズの代わりに、マッチを一箱ずつと戦争墓地委員会発行の西ガリシアにおける兵卒共同墓地の絵葉書を一枚ずつ貰って帰ってきた。
幹部専用車では、将校連がザーグナー大尉を中心に、昂奮の色を浮かべて協議中であった。ザーグナー大尉は、旅団参謀部から発した長文の秘密電報を手にしていた。一九一五年五月二十三日、イタリアがオーストリア・ハンガリーに対して宣戦したのである。
ブルックに屯営していた頃も、イタリアの態度についてはしばしば議論があった。しかし、あの馬鹿な見習い士官ビーグラーがある晩マカロニに手をつけないで傍へ押しやり、「これはヴェローナの城門に迫ったとき、うんと食べることにしましょう」と予言したことが、かくも早く実現しようとは、誰も予期しなかったところである。
こういう事情のもとに、ザーグナー大尉は全員乗車用意のラッパを鳴らさしたのであった。
全員を集めたザーグナー大尉は、いやに大きな声で旅団からの電報を読みあげた。その電報は、口をきわめてイタリアの裏切り行為を罵倒し、最後を次のような文句で結んであった――「神の加護により連戦連勝、やがてイタリア平原に我が軍の姿を現さんことを我らは確信す。我らは勝たんとす、勝たざるべからず、しかして確かに勝つべし!」
読み終ると、恒例により「万才!」の三唱があって、兵卒たちは――幾らかがっかりして――また列車にもぐりこんだ。エメンタール・チーズ百五十グラムの代わりに、彼らはイタリアとの戦争を頂戴したのだ。
シュベイク、ワニエーク主計曹長、ホドウンスキー電信手、バロウン、ユウライダ炊事卒などの乗りこんでいた車輌では、イタリアの参戦について面白い議論が戦わされた。
「何しろ敵がまた一つ殖えたんだ」と、シュベイクは議論を実際的方面に導いた。「弾薬を緊縮しなくちゃなるめえよ」
「俺あ心配でならねえ」と、バロウンの方は更に実際的であった。「イタリアのお蔭で食事の分量が減りやしねえかなあ」
ワニエーク主計曹長は、ひどく考えこんでいたが真面目な顔をして言った――「弾薬も食事も緊縮だろうて、これで俺らの勝利もいささか先が遠くなったからなあ」
「それじゃやっぱり主計曹長殿も」と、バロウンは心配そうに訊いた。「イタリアとの戦争のお蔭で食事の分量が減るだろうとおっしゃるんですな?」
「知れたことよ!」と、ワニエークは答えた。
「南無阿弥陀仏」と、バロウンは思わず大きな声を出して、両手で頭をかかえ、隅っこの方へいって、がっかりしたように腰をおろした。
停車以来もう二時間以上経ったのに、列車は一向に動きそうにない。イタリア方面に向うことになったんだとよ、などと伝えるものがあった。
そのうちに防疫隊がやって来て、全員を降車させ、車輌の中にリゾールをいっぱい撒いていった。べつだん悪疫が流行しているというわけでもないんだが、お上の命令だから仕方がない、お蔭で余り沢山もない軍用パンと米俵が台無しになってしまった。
この防疫が済んで全員が列車に乗込むと間もなく、一人の老将軍が輸送検閲にやって来た。全員はまた外に出て整列だ。
「ひでえ老耄《おいぼれ》だなあ、棺桶へ片足突っこんでるじゃねえか!」と、シュベイグは傍のワニエーク主計曹長にささやいた。
ザーグナー大尉に伴われた老将軍は、一人の若い兵士の前に立ちどまって、生れはどこだ、何才だ、時計を持っているか、などと訊くのであった。その兵士は時計を持っていた、しかしもう一つ貰えるかもしれねえと思ったので無いと答えた。老将軍は、少し抜けたような微笑を洩らしながら「結構じゃ、結構じゃ」と言った。さらに老将軍は時計を貰いそこねた兵士の隣りに立っていた伍長に向って、家内は達者かね、と訊いた。
「申し上げます」とその伍長はどなるように答えた。「私はまだ独身なんであります!」老将軍は、また、張り合いのない微笑を浮かべながら「結構じゃ、結構じゃ」
老将軍はザーグナー大尉に対して所望があった。すなわち一列横隊に列んだ全員に「一・二、一・二」と番号を呼ばせるのである。その童顔をにこつかせながら、老骨将軍はこれをいとも満足げに打ちながめた。
この老将軍は「一・二、一・二」と呼ばせるのが大好きだった。自分の家に雇っている二人の男を並ばせて、毎日「一・二、一・二」と言わせて独り悦に入るという始末であった。
オーストリア帝国には、こんな|てあい《ヽヽヽ》の将軍が、ずいぶんといたものである。
検閲は無事に済んだ。そこへ、出発はなお三時間延びる旨《むね》の電報がはいったので、全員は停車場の中をうろつくことになった。兵士の中には、通りがかりの人に巻煙草を無心するものさえあった。華やかなりし出征の感激は、ついに物もらいにまで低下してしまったのである。
ザーグナー大尉の許へは『勇士慰問協会』の代表が訪れて、贈り物を届けたいと申しでた。今にもあの世へ行きそうな二人の婆さんが、どこかの製糖会社が広告用に作った口中香料を二十箱持って来たのである。忠義なる製糖会社は、その箱のレッテルに『皇帝、神、祖国のために』と印刷することを忘れなかったのはもちろんである。
各箱には『仁丹』のようなものが八十粒ずつはいっていた。これを全員に分配すれば、三名につき五粒ずつに当る、この口中香料のほかに、二人の婆さんは、ブダペストの大僧正ゲーツァの編纂した祈祷書を持ってきた。
「神よ、なんじの銃剣を敵の腹深く突きさし給え。限りなく正しき神よ。大砲の火を敵将の頭上に向け給え。慈悲深き神よ、敵をその血の中に窒息せしめ給え!」といったような文句のほか、この祈祷書にはありとあらゆる罵言がつらねられてあった。
『勇士慰問協会』の代表が、兵士の列の前をとおりすぎるときに、頬を撫でてもらう光栄に浴したのが、ブードワイス出身のシーメクという男であった。代表が去ったあとで、シーメクは友達に語った――
「何てあつかましい糞婆だろう! 胸糞の悪い。人の頬なんか触りゃがって。せめて女の匂いでもすりゃ我慢の仕様もあろうが、ありゃいってえ何てえ代物なんだ!」
とかくするうち三時間経ったので、一同はふたたび乗車した、するとまた大尉付き伝令マトウシツが停車場司令官からの通知を持って来た――もう三時間滞在しろ、というのである。そこでまた一同は車輌から出されることになった。
もうじき発車というとき、ドウプという予備少尉が、昂奮の色を顔に浮かべながら、幹部専用車にはいってきて、シュベイクを監禁して貰いたいとザーグナー大尉に要求した。このドウプ少尉というのは、中学校の先生で、かちかちの国粋主義者であった。兵士をつかまえては、中学の洟垂れ小僧に対すると同じように、説教めいた文句をいう癖があった。またビーグラー見習い士官のいなくなった後は、独りで知ったかぶりな口をきくので、将校連から内々すこぶる嫌がられているという人物だった。
――ドウプ少尉が巡回をやっていると停車場の建物の向うで、そこの壁に貼られた戦時公債のポスターをシュベイクが面白そうに眺めているのだった。そのポスターには、オーストリア兵がコサック人を壁に押しつけている絵が描かれてあった。
ドウプ少尉は、後ろからシュベイクの肩をたたいて、その絵に対する感想を訊いた。
「申し上げます、少尉殿。この絵は馬鹿げとるであります。今までにずいぶん馬鹿げたポスターも見ましたが、これほど酷《ひど》いのは初めてであります」
「どこが気にいらないんだ」
「銃の取扱いがなっちょらんであります。こんなに銃剣で壁を突くと折れるにきまっとるです。その上、突くのは無駄であるばかりでなく、罰せられますよ。なぜって、このロシア人は両手を挙げて降参しとるじゃありませんか。降参したからにゃ捕虜でさあね、捕虜に対しては酷いことはできない、捕虜となりゃ人間ですからねえ」
国粋主義の中学教師は、早速その石頭を働かして、シュベイクの思想調査に向けた――「それじゃお前はこのロシア人が可愛想だというんだね?」
「私にゃ二人とも可愛想ですよ、少尉殿。ロシア人は腹を抉《えぐ》られているし、兵隊の方は、そのために営倉を食いますからねえ。見たところ、これは石壁のようですが、これじゃ銃剣が折れるにきまってまさ、鋼《はがね》ってやつは案外もろいもんですからなあ」
何の屈託も無さそうな――上官を眼中に置かないような――シュべイクの顔をつらつら眺めていたドウプ少尉は立腹して訊いた――「お前はわしを知っとるか?」
「知っとるであります、少尉殿」
少尉は眼を丸くして、どんと足踏みした。「嘘言え、貴様は吾輩を知っとらん!」
「知っていますよ、だって我々の大隊の少尉殿じゃありませんか」
「知っとらん!」と、ドウプ少尉はどなりつけた。「貴様は吾輩の良い半面を知っとるかもしれん。しかし吾輩は怖いんだぞ、吾輩にかかっちゃ誰でも泣かされるということを知っとらんじゃろ。これでも貴様は吾輩を知っとると言うのか!」
「知っとるであります、少尉殿」
「うんにゃ、どうあっても貴様は吾輩を知っとらん。馬鹿者め。貴様は兄弟があるか」
「申し上げます、少尉殿。一人あります」
どこを風が吹くかといったようなシュベイクの顔を見ると、ドウプ少尉はますますいらいらするのであった――
「じゃ貴様の兄弟も貴様同様畜生みたいな奴だろう。職業は何だ」
「中学の教師であります、少尉殿。軍隊では将校試験にも及第したであります」
ドウプ少尉は、憤怒の余り、物が言えなかった。泰然自若たるシュベイクを穴のあくほど見つめていたが、ただ「退れ!」と一言言ったきり、ともかくその場は物別れとなったのである。
二人は各自相手のことを考えながら歩いた。馬鹿な将校にもずいぶんお目にかかったが、あんな将校は確かに珍種だよ、とシュベイクは考えた――一方、珍種の方では、上官に口答えするような不遜の兵士は軍規を保つ上から厳重に処分しなくちゃいかん、と決心して、いま、大隊長ザーグナー大尉に要求を持ちだしたのである。
「そんな要求なら」と、日頃予備将校を心よく思っていないザーグナー大尉は、このドウプ少尉が特に嫌いだったので、この機を利用して油をしぼった。「報告書の形式によって提出して貰いたい。さらにシュベイクの一身上に関する件は、順序としてルーカッシュ中尉の手を経、中尉が必要と認める場合は、その中隊内において、また場合によっては大隊として、適当なる訊問を開くことになる。このくらいのことは、君ともあろう者が先刻承知のはずだろう」
ルーカッシュ中尉は、シュベイクを取調べるという点に対しては何ら異議を申したてなかった。ただ、シュベイクの兄弟が中学の教師であり、且つ予備将校であるということは事実だと付けくわえた。
ドウプ少尉の決心はぐらつき出した。処分と言っても、別にむつかしい意味ではなかったのだ、とか、シュベイクは自分の言ったことを完全に了解しなかったので、あんな不遜な態度を示すような工合になったのではあるまいかと自分に思われるようなことになったのだろう、とか、しどろもどろな言い訳をした揚げ句、要するにこうした事になったのは明らかにシュベイクの頭の足りない|せい《ヽヽ》だと、へんなところへ結論してしまった。同時に、シュベイクに対する処分も、うやむやに終ってしまった。
大隊の事務室を倉庫にあてられた車輌では、大隊付き主計曹長バウタンシュルが二人の書記と、大隊の全員に贈られた口中香料を山分けした。しかしこんなことは、ことに戦時にあっては、|ざら《ヽヽ》にあることで、特に取りたてて言う方が大人気ないかもしれない。
列車の出発は、さらに四時間遅れることになった。ハトワン方面行きの線路が、負傷兵列車で塞っているから、というのである。この報告は、色んな流言蜚語を生んだ――ヤーグル付近で傷病兵を満載した病院列車が弾薬列車と衝突したそうだ。ペスト市から救援列車が出発したそうだ。想像もなかなか念入りになって――二百名の死傷者があったそうだ、衝突の原因は計画的のもので、傷病兵の糧食をごまかしていたのが|ばれ《ヽヽ》たため、それを匿す目的からだったそうだ……
幹部専用車では、ザーグナー大尉が、大隊の将校連を集めて報告をやった――実際ヤーグルは傷病兵でいっぱいらしい、したがって同地で本隊の受取るべき糧食は皆無らしい、軍用パン一本も缶詰一個も無いそうだ。しかしパンおよび缶詰の代わりに、九日分の給料として一名につき六クローネ七二ヘラーの支払いをすべしとの命令を受けた、ただし、これも旅団から金が届いたらばという条件付きである。大隊としては現在はほとんど無一文なのだから。
「連隊の仕打ちは余りと言えば余りだ」と、ルーカッシュ中尉は憤慨した。「何て酷い目にあわせるんだろう」
オルフ旗手とルーカッシュ中尉は内々で、こんなことを話しあった――連隊長シュレーダー大佐は、この三週間の間にウィーンの銀行へ一万六千クローネも送金している。
ルーカッシュ中尉とオルフ旗手が突きとめたのは、ほんの一例に過ぎないのであって、軍隊におけるかかる泥棒は枚挙にいとまがないくらいだ。上は将軍より、下は主計曹長にいたる無数の泥棒が、さかんに私腹を肥やしている。
戦争は、泥棒にも勇敢なれと要求する。
管理に当る連中は、ねぎらうように互いの顔を眺める、その眼付は――「仲よくやろうぜ、兄弟、俺らは確かに盗んだり、ごまかしたりするさ。だけど『流れに逆らうな』って格言もある通り、止むをえないんだからなあ。お前が盗まないにしても、誰かほかの奴が盗むに決まっている、その上、しこたま掻きこめるだけは掻きこんだんだから盗まねえんだろうなどと言われて、かえって損をするんだもの」と言っているようだ。
列車へは、また一人の検閲将軍がやって来た。ザーグナー大尉がいそいで現状報告をやろうとするのをとめて、その将軍は言った――「君の輸送のやり方はよろしくない。みんなまだ起きとるじゃないか。輸送中は、営舎にいるときと同様、九時にはちゃんと就寝せんといかん」
「九時前に全員を便所にやる」と、将軍は無愛想に言葉をつづけた。「でないと夜中に線路を汚すことになるじゃ。さっそくラッパを鳴らさせて全員を便所にやり就寝させろ。巡回して眠っとらん奴は、びしびし罰する。ええと、それから、夕食は六時に配るじゃ」
「夕食は六時に配るじゃ」と将軍は繰りかえして、自分の時計を見た、針は十一時を過ぐること十分のところを指していた。「八時半にラッパ、大小便をすまさせて、半時間後に就寝、輸送中は特に、睡眠が大切じゃ。車輌の中に充分場所が無ければ、交代に寝かせろ。全隊の三分一を、九時から十二時まで充分に眠らせる、その他の者は立って見ているのじゃ。次の三分の一は、十二時から明方の三時まで、最後の三分の一は、三時から六時まで、という工合に順番に充分なる睡眠をとるのじゃ。不充分なる睡眠は行軍に差しつかえるぞ」
「これが君の大隊かね?」と、眠そうな全員を巡視しながら将軍はザーグナー大尉に言った。「これは欠伸《あくび》大隊じゃないか。九時には就寝させんといかん」
将軍が第十一中隊の列の前へ立ちどまったとき、左翼に立っていたシュベイクは、手を口に当てて顔いっぱいに大きな欠伸をやった。
「ボヘミア人かドイツ人か?」と、将軍はシュベイクに訊いた。
「申し上げます、少将閣下。ボヘミア人であります」
「よし、貴様は牛みたいな奴じゃな。もう便所へいって来たか?」
「申し上げます、少将閣下。まだであります」
「なぜほかの奴といっしょにいかなんだのじゃ」
「申し上げます、少将閣下。ピゼーグで演習をやった時のことであります、隊の者が休憩中に麦畑へはいって糞をたれたとき、ワッハトル連隊長殿は、兵卒たるものが大便や小便のことばかり考えとるようじゃいかん、常に戦闘ということを頭に置かんといかん、と申されました。さらに申し上げますが、私どもは便所へいっていったい何をしますか。出すものが一つもないであります。食事が少しも貰えないのでお腹が空っぽであります。便所へいったところで何一つ出すものが無いであります!」
シュベイクのこの簡単な言葉は、現状を極めて明白に説明した。言い終ったシュベイクの人なつこい眼に打ちまもられた将軍は、できるだけの尽力をしてやろうと約束した。
「みんなをまた車輌の中へ返してやれ」と、将軍はザーグナー大尉に言った。「どうして夕食ができなかったのじゃ? この駅では必ず夕食を出すことになっとるはずじゃに。輸送中の兵隊に食事をとらせることを忘れるとは、もっての外じゃ。責任の一半は停車場司令官にもある。ひとつ事務室へいって見よう」
しかし駅の事務室としても、夕食を出さなかった理由が充分あった――命令が猫の眼のように変るのである。ときどき食事の用意をして予定の輸送隊の来るのを待っている、すると病院列車がはいって来て、より上からの命令を見せる、仕方がないからその方へ食事をまわしてしまう、といった工合に。
将軍は頭を縦に振りながら言った――これでも以前よりは秩序立って来たのだ、戦争の始まった頃ときたら、もっともっと酷かった。物事はそう一度に良くなるものではない。経験と実際というものが大切なんだ、だから戦争が長引くに従って、万事秩序立って来るだろう。
大隊の将校連は、将軍のお伴をして駅の食堂にはいった。ビフテキを頬張りながら将軍閣下は、また排便のことを話した。将軍の意見によれば、オーストリア帝国の興亡は一にも二にも兵卒の排便にかかって存するのである。八時半に便所へいって九時に就寝する軍隊の前には、いかなる敵といえども、怖れをなして縮み上がるであろう。
ザーグナー大尉を初めとして大隊の将校連は、将軍閣下が葡萄酒を飲みビフテキを食べるのを、じっと眺めていた。食事を終えた将軍は、上等の葉巻に火をつけ、悠々とくゆらしながら天井を見つめ、さてこの大隊の将校連にどんな教訓を与えてやったものだろうかと考えた。
「諸君の大隊の精神は健全じゃ」と、将軍は不意に言い出した。「ことに、わしと話したあの男は、正直な見上げた兵士じゃ。あの男なら最後の血の一滴が無くなるまで戦うじゃろうて」
それから将軍は葉巻をくゆらしつづけた。しばらくたって食堂の柱時計を見た彼は、やおら身をおこし、検閲用列車の寝台車まで一同にお伴を命ずるのであった。
後に残った停車場司令官は吐息をついた。将軍は、自分が勝手に注文したビフテキと葡萄酒の代を支払うことなんか眼中に置かなかったのである。司令官はまた自腹を切らねばならなかった。この種の検閲が毎日のようにあった。ところが、将軍連はもっと酷いことをやっていた。例えば、この駅の隠居線にひきこまれている秣《まぐさ》を積んだ二台の貨車だ。これを御用商人レーベンスタインに払い下げ、国庫は更にこの秣をこの御用商人から買い上げたが、貨車は相変らず隠居線に置かれている。また御用商人レーベンスタインに払い下げるつもりだろう。
その代わり、ブダペスト駅へ検閲に来る将軍連は、一人の例外もなく、言うのであった――あの駅の司令官はなかなか|おつ《ヽヽ》なものを食わせるよ。
夜が明けた。起床ラッパが鳴ると、例の将軍がやって来て、兵卒の排便状態を親しく視察すると言い出した。その案内役を買って出たのがドウプ少尉であった。
便所といっても、ただ土をほりかえしただけの二筋の長い溝で、それに粗末な囲いをしてあるに過ぎない。一中隊が二つに分れ、長々とこの溝の上に跨《またが》っている光景は、まさに南国へ帰らんとして電線の上に休んでいる燕の群れであった。ただし、ズボンをずらしているので膝小僧がむき出しになっており、皮ベルトを外して首に懸けて――命令一下直ちに絞首せんとするかのごとき恰好でいる様は、あまり体裁のいいものではなかった。
左の端で誰かの小説を引きさいたのを読みながら催していたシュベイクが、ひょっと顔をあげると、入口のところに副官とドウプ少尉を従えた昨夜の将軍が立っているではないか。
シュベイクは四辺《あたり》を見まわした、みんなは静かに無心に|いき《ヽヽ》んでいる。
慌てて小説の紙片を利用したシュベイクは――ズボンを下にずらし、首には皮ベルトを掛けたまま――バネ仕掛けのように跳びあがってどなった「垂れ方止め! 起て! 気を付け! 頭右!」そして挙手の敬礼をやった。
ズボンを膝のところまでずらし、皮ベルトを首にかけた二列の一隊は、シュベイクの号令とともに直ちに排泄作業を中止して起立した。
将軍は嬉しそうに相好《そうごう》を崩しながら言った――「休め! 排便をつづけ!」
しかしシュベイクだけは相変らず敬礼しつづけていた。一方からは恐しい顔をしたドウプ少尉が、一方からはにこにこした将軍が近よって来たからである。
「お前だな、昨夜の男は」と、将軍はシュベイクの奇妙な恰好を見ながら言った。
「申し上げます、少将閣下」と、先程からはらはらしていたドウプ少尉が息せききって答えた。「この男は足りないんであります、有名な馬鹿なんであります」
「何を言う?」と、将軍は急に顔色を変えてどなりつけた。「全くその反対じゃないか。上官がお見えになっとるのに誰も知らん顔をしちょる、この男が号令したことは、君がやるべき筈のものじゃないか! 君こそ馬鹿じゃ!」
「お前、尻を拭いたか!」と、将軍はシュベイクに訊いた。
「申し上げます、少将閣下。万事異状なしであります」
「そんならズボンを穿いたがよかろう、それから『気を付け!』をするのじゃ」
将軍が『気を付け!』と言った声が幾らか高かったので、近くで排便していた連中は、また起立し始めた。
将軍はにこにこしながら言った――「いいのじゃ、いいのじゃ、お前らに言っちょるんじゃない。つづけてやれ、やれ」
ズボンを穿き終ったシュベイクの腹を指で押しながら、将軍はドウプ少尉に向って言った――「君、記しておけ――戦線到着と共に直ちにこの男を昇進せしむること、功績のあり次第銅製戦功章を授与すること。解ったか、解ったらよし、退れ!」
将軍のいなくなったのち、シュベイクもそこを去ろうとしたとき、ドウプ少尉は彼をつかまえて昨日と同じことを繰りかえした――「貴様は吾輩を知っとるか? まだ知っとらん! 知っとるのは良い半面だけじゃ、吾輩の悪い半面を知って見ろ、今にべそをかくぞ!」
「何て馬鹿な将校がこの世にいるものだろう」と、考えながら幹部専用車の傍を通りかかったシュベイクは、ルーカッシュ中尉に呼びとめられた。そして停車場かその近所で何か美味《うま》いものを買って来るようにと、十クローネ渡された。バロウンをやっちゃ途中で食われてしまうから、と中尉は付けくわえた。
シュベイクがご馳走を仕入れに出かけてから、もう一時間にもなる。ルーカッシュ中尉は気が気でなかった。その後半時間ほど経って、中尉が外を見ていると、異様なる一隊が、停車場司令官室を出て、幹部専用車へ向ってやって来るではないか。
先頭に立っているのが、シュベイク――初期キリスト教の殉敬者が死刑執行場へ引かれてゆく時のように、厳粛な顔をして。
彼の両側にはハンガリー国防兵が一人ずつ銃剣を付けて護衛し、更に隊長らしいのがこれを率いていた。またシュベイクの後ろを、びっくりして悲鳴を挙げている牝鶏を抱えた襞《ひだ》のある赤いスカートを穿いた女と、一方の眼を赤く脹らしたハンガリー風の長靴を穿いた男とが付いて歩いていた。
この珍妙な一行は、幹部専用車によじ上ろうとしたが、眼を脹らした男だけは下で待ってろと隊長からマジャール語でどなられた。
ルーカッシュ中尉は、この隊長から渡された書類を、色を失いながら読んだ――
「歩兵第九一連隊第十一中隊長殿、歩卒ヨセフ・シュベイク〔当人の申し立てによれば貴中隊の伝令〕を、掠奪罪の廉《かど》をもってここに引渡すにつき、厳重なるご処分を願い上げたし。
理由――右のヨセフ・シュベイクなる歩卒は当停車場管轄内のイサタールツァ町におけるイストワン夫妻に属する鶏を盗まんとし、これを止めんとせしイストワンの左眼を殴打せり。急を聴きて来たれる巡邏兵により捕えられ、鶏は所有主に返還せられしものとす。 週番勤務士官 署名」
シュベイク引渡しに対する受取りに署名するとき、ルーカッシュ中尉の膝はがたがた震えた。中尉がその受取り証に日付を記すのを忘れたのを傍から見ていたシュベイク――「申し上げます、中尉殿。今日は二十四日であります。昨日は五月二十三日で、すなわちイタリアが宣戦を布告した日であります。どこへいってもイタリアの参戦の話で持ちきりであります」
二人のハンガリー国防兵とその隊長は立ち去った。後に残ったイストワン夫妻は、ひっきりなしに車輌の中へよじのぼろうとした。
「中尉殿、もう五クローネあればこの牝鶏が買えるんですがなあ。こういうわけなんでさ――この野郎十五クローネ欲しいってんですがな、もっとも、そのうちの十クローネは殴られた眼の治療代だとぬかしやがるんでさ」と、シュベイクは講談師のような調子で語り出した。「だけど考えてみなせえ、こんな|ろく《ヽヽ》でもねえ眼に十クローネたあ、もってえねえ話でさね」
「おい、こっちへ来い」と、シュベイクは眼を脹らした男を呼んで、「それから、婆さん、お前はそこで待ってろ」
男は車輌の中へはいって来た。シュベイクは、これに十クローネ握らして――「五クローネは牝鶏、五クローネは眼じゃ。おとなしくしろよ、ここは幹部専用車じゃからな。さあ鶏を寄こせ!」
びっくりして眼をぱちくりさせている男から牝鶏をひったくったシュベイクは、早速その首を捻じり、呆気にとられている男をそとへ突きだした。
「ご覧の通り、中尉殿」と、シュベイクはルーカッシュ中尉に向って、「細工はりゅうりゅうって奴でさ。もちろんこんな人騒がせをしなきゃ、なおいいんですがね。さあ、ひとつバロウンに手伝わして、ルーマニアまで匂うような美味い鶏《とり》スープを料理しましょうぜ」
中尉はもう我慢しきれなかった、シュベイクの持っている哀れな牝鶏を叩きおとして言った――「お前は忘れたな、戦時に無抵抗の住民を掠奪した場合、どんな目にあうか」
「名誉ある銃殺であります」と、シュベイクは誇らかに答えた。
「不面目きわまる絞首じゃ、掠奪の口火を切った奴は絞首じゃ、やい、破落戸《ごろつき》、悪漢。貴様はもう宣誓を忘れたんだな」
どうしてです? と言ったような顔をしながらシュベイクは言った――「申し上げます、宣誓は決して忘れんであります。申し上げます、中尉殿。私は貴い太子様方やフランツ・ヨセフ一世様に華々しく誓いを立てたであります――陛下の将軍に、いや将軍ばかりでなくすべて上官に対し従順であり、尊敬し、いかなる命令にも従い、たとえ火の中、水の中……」
シュベイクは牝鶏を捨いあげ、気を付けの姿勢で中尉を見ながらつづけた――「……でも、勇ましく元気に戦い、味方を棄てて敵に内通するというようなことはせず、勇敢なる軍人として軍律を忠実に守るであります。ところで、この牝鶏は、申し上げます、中尉殿。盗んだのじゃありません。もちろん掠奪したんじゃありません。宣誓に従ってやましいことはしないであります」
「こん畜生まだ離さねえというのか」と、中尉は手に持っていた書類で牝鶏を持ったシュベイクの手を打った。「見ろ、この書類を――掠奪罪の廉により歩卒シュベイクを引渡し――とはっきり書いてあるじゃないか。それに貴様は、やい、掠奪兵、山犬……八つ裂きにしてもなおあきたらぬ畜生じゃ……何という大それた事を貴様はやらかしたんじゃ」
「申し上げます、何でもないんであります、先方の思いちがい、いや相互の意思疎通を欠いたんであります。実は……」
と、シュベイクは牝鶏事件の経緯を語り始めた――「ご命令によりまして、何か美味いものをと探しに出かけたんですが、停車場の向うには馬肉のソーセージとロバの肉しか売っていないんです。こんな物を食ってたんじゃ戦争はできっこない、何か素晴らしいご馳走をと思って、考えついたのが鶏スープであります。はあ、鶏スープであります。そこで先ず玉葱《たまねぎ》とマカロニを買いました。このとおり、こちらのポケットにはいっているのが玉葱で、こちらのはマカロニです、塩と胡椒は事務室にゆけばある。無いのは鶏だけですな。そこで停車場のずっと向うにあるイサタールツァって、こいつは小っぽけな村でさ、そこへ出かけたんです。あちらこちら駆けめぐった揚げ句、やっとある家の後ろで鶏が沢山散歩しとるのを見つけたんでさ。その中の一番大きそうな、重そうなのを選《よ》って――どうです、中尉殿。この脂の乗ったところを触ってご覧なせえ。これまでにするにゃ余程いいもので飼わんと駄目ですぜ。そこでみんなの見ている前で、公々然とですな、脚を掴まえて、チェコ語とドイツ語でこの鶏は誰のだいって聞いたんです。もちろんその人から買うつもりでね。すると、夫婦らしいのが飛びだして来たかと思うと、先ずマジャール語でどなりつけて置きやがって、今度はドイツ語で私を鶏泥棒だとぬかしやがるんでさ。盗んだんじゃねえ買うつもりだってことを説明してやろうとしたとき、私がその脚を掴まえていた鶏が急に羽ばたきをして、その男の鼻の上へとまろうとしたんです。何と勘違いしたものか、その男は私が鶏でその男の鼻を殴ったと喚《わめ》きたてるんでさ、女の方は女の方で金切り声を挙げるという騒ぎ。そこへ、何も知らないどこかの馬鹿野郎の呼んできたハンガリー国防兵がやって来て、私を引致すると言うから、それなら停車場司令官の所へいってぜひ曲直を裁いてもらおう直ぐに解ることだから、と私は言ってやったんです。ところが司令部にいた少尉殿は、お天気のせいか頗るご機嫌ななめで、頭から私の言い分にはてんで耳をかさずに、ここへ引張って来たというようなわけなんでさ」
「シュベイク」と、しばらくたってルーカッシュ中尉が言った。「お前はよく何か事が起これば、きっと、やれ『思い違い』だったの『誤解』だったのと言うにきまってる。だが、よく覚えておけよ、お前は碌《ろく》な死に目にあわねえってことをな、みんなが方陣を作っている中で絞首だぞ、解ったか」
「申し上げます、中尉殿。解ったであります。方陣あるいは所謂《いわゆる》密集大隊と申しまするは、四個中隊、例外的には三個または五個中隊から成っております。ところで、中尉殿、この牝鶏で作るスープを、濃くするために、もっとマカロニをいれたものでしょうか」
「シュベイク! その牝鶏を抱えてどこへなりと消えて無くなりゃがれ! でなきやその牝鶏で貴様の頭をどやしつけるぞ。馬鹿者め!」
「はッ! けれども三つ葉と人参は手にはいらなかったであります。馬鈴……」
……薯、とまで行かないうちに、シュベイクの身体は牝鶏といっしょに幹部専用車の外へすっ飛んだ。ルーカッシュ中尉は、大きいコップにコニャックをなみなみと注《つ》いで、ぐっと一息に飲むのであった。
放り出されたシュベイクは、車輌の窓の外から敬礼し、そして姿を消した。
牝鶏を持ってひょっこり現われたシュベイクを見たとき、もちろんみんな度胆を抜かれた。ルーカッシュ中尉から貰ったんだと言っても、誰一人信用する者はなかった――「どこで盗んで来たんだ? 俺にも教えろ」とか「死んでたから中尉殿がくれたんだろう」とか言った。しかし、文句を付けながらも、バロウンを始め、電信手ホドウンスキー、心霊主義炊事卒ユーライタなどが、せっせと料理の手伝いをやり出した。
むしった羽毛が車輌の外へちらかっているのを見つけたのがドウプ少尉であった。
「誰だ、鶏の毛をむしっとるのは出て来い!」という声に応じて現れ出でたるは、天下泰平といったようなシュベイクの顔である。
「何だ、これは!」と、少尉は地上に落ちていた鶏の頭を拾いあげながらどなった。
「申し上げます、それは牝鶏の頭であります。少尉殿、これは多産鶏でありまして、年に二百六十個も産むという素晴らしいやつであります。まあ、見てやって下さい。何て大きな卵の倉を持っていたか」と言いながらシュベイクは、ドウプ少尉の鼻の先へ鶏の肝臓を突きつけた。
ドウプは唾を吐いた、そして黙って行ってしまったが、すぐ引きかえして――
「この鶏は誰のために料理するのじゃ?」
「申し上げます、少尉殿。私たちのためであります。ご覧なせえ、この脂の乗り工合ときたら、どうです!」
ドウプ少尉は行ってしまった――「覚えてやがれ、畜生」とつぶやきながら。
ちょっとした隙にバロウンが背嚢の中へ何か隠したのをシュベイクが見つけた。
「おいバロウン」と、シュベイクはいかめしい調子で言った。「貴様その鶏の肉をどうするつもりなんだ? みんな、見ろよ。この野郎、ふてえことしゃがる。腿の肉を盗みやがって、後でこっそり食おうってんだ。バロウン、貴様承知だろうな――軍隊で、ことに戦時においてだ、同僚の持ち物を盗んだ場合、どんな処罪を受けるかってことは。さしあたり、俺が鍛えてやるから、そう思え、さあ、そとへ出ろ」
可愛想にバロウンは、大きな図体を車輌のそとへ運んだ。そしてシュベイクは車輌の中からこれに号令をかけるのであった――「気を付け! 休め! 気を付け! 頭右」
「今度は関節運動じゃ。右向け右! 畜生、そんな右向け右があるか! 元へ! 右向け右! 左向け左! 斜め右! 馬鹿! そんなやり方があるか! 元へ! 斜め左! 左向け左! 元へ返れ! 伏せ! 坐れ! 伏せ! 立て! 坐れ! 立て! 坐れ! 立て! 坐れ! 立て! 休め」
「どうじゃ、バロウン、身のためにいいじゃろう、少なくとも消化が良くなるじゃろう」
バロウンの周囲に集まってきた連中は、わっとばかりに喚声をあげた。
「済まないが、開けてくれんか、この次は行進じゃから。いいか、バロウン、元へをやらないで済むよう、気をつけてやってくれ。吾輩は徒らに部下を苛《いじ》めることは好まんのじゃ、さあ、いいか。方向は停車場! 前へ進め! 小隊止まれ! やい、止まれと言ったら止まらんか! 命令に従わんと営倉だぞ。歩調縮め! 歩調伸ばせ! 歩調換え! 歩調抜け! ちえッ、この間抜けめ、歩調抜け!ったら、その場にとまって踵だけ動かすんじゃねえか」
周囲には少なくとも二個中隊ぐらい集まって見物していた。汗でだくだくになったバロウンは、ただシュベイクの号令に従って夢中に動いていた。シュベイクの号令はつづいた。
「どうした、どうした?」と、驚いて駆けつけたのがドウプ少尉である。
「申し上げます、少尉殿」とシュベイク。「せっかく教わった教練を忘れたり大切な時間を無駄に過ごしたりしてはもったいないので、ちょいと練兵をやっとるであります」
「お前そこから降りろ。もう我慢ならん。大隊長殿の前へ突きだすから、そう思え!」
ドウプ少尉の報告をきいたザーグナー大尉は、兵卒泣かせで有名な十二中隊のナサークラ曹長を呼んでこさせ、シュベイクには銃を持たせて言った――「この男は大切な時間を無駄に過ごしたくないそうだから、一時間ばかり執銃体操をしてやってくれ。容赦なくがんがんやるんじゃぞ、息をもつがせずにな。つづけざまに号令しろ、いいか、退れ!」
やがて列車の後方から、ナサークラ曹長の鋭い号令が聞えてきた――「立て銃! 担《にな》え銃! 立て銃――担え銃!」
しばらく号令が止んだ。どうしたのかと見れば、シュベイクが悠揚迫らざる態度で呑気そうに話しているのであった――「そんなこたぁ六年前現役にいた頃すっかり習いましたよ。『立て銃!』と言や、銃を右腰の上にしっかりとくっつけ、銃床尾の先と足の爪先とが一直線になるようにする。もちろん右手はきちんと伸ばし、親指で銃身をおさえ他の指で銃床尾の前部を握るように、銃を支えるのであります。次に、『担え銃!』とあれば、銃の革条が軽く右肩の上に載るように……」
「おしゃべりはもう沢山!」と、ナサークラ曹長がどなりつけ、また号令が始まった。「気を付け! 付け剣! 取れ剣! 構え銃! 弾込め! 標的、幹部専用車! 距離二百歩――用意! 狙え! 射て! 元へ! 狙え! 射て! 狙え! 射て! 元へ! 照尺、普通! 薬包補填! 休め!」
曹長が巻煙草に火をつけている間に、シュベイクは銃の番号を調べていたが、半ば独り言のように言い出した――
「四二六八号! ぺーチュカ駅の十六番線にあった機関車と同じ番号だぞ。修繕のためにエルベ河のリサ駅へ入庫させることになってたんですがね。曹長殿、そいつがなかなか簡単には参らなかったんでさ。この機関車を運転してゆくことになった機関士というのが、数字の記憶のすこぶる悪い奴だったもんですからな、線路区長がこの男を自分の室に呼びつけて、さて言うには――『十六番線に四二六八号の機関車がある。お前は数字の記憶がすこぶる悪い、紙へ書いてやったところで、失くしてしまいやお終いだ、ひとつ数字の記憶術を伝授してやろう、よく聴いておけ。いいかね。リサ駅へ入庫させる機関車の番号は四二六八だ、いいかね。最初の数字は四、次が二、それで四二ということが解ったろう、すなわち|ににん《ヽヽヽ》が、解りきってらあね、四《し》だ。これを二で割る……という工合にすればまた四と二が並ぶだろう? さあ、その次だ。|にしん《ヽヽヽ》が八《はち》、だね! そこでよく憶えとくんだ、四二六八という番号の中にある八という数字は最後にあるということをな。これでもう、第一の数字が四で、次が二、最後が八ということが解った訳だ。残るところは、八の前に来る六という数字を何とか旨く憶えるんだが、こいつはすこぶる簡単だ、第一の数字が四、第二が二、四に二を足せば六。それ見ろ、これでしっかり憶えたろう。終りから二番目が六だ、こういう工合にやりゃ、どうしたって忘れっこなしさ。四二六八って番号はお前の頭にこびりついたろう。それとも、もっと簡単な方法で同じ結果を得ることもできる……」
曹長は、頭の中がぐらぐらして来た。煙草を吸うのを止めてどもりながら言った――「帽子脱げ!」
シュベイクは真面目くさってつづけた――「そこで線路区長は簡単な方法ってのを教え始めたもんでさ――『八から二引いて六。そら六という数を憶えたろう。六から二引いて四、そら、また四という数も憶えたろう。そこで四――六八まで解った訳だ。あとは二をその中へ嵌《は》めりゃいい、すなわち四――二――六――八。しかし掛け算割り算でいきゃ、もっと楽だぜ。いいかね、四二の二倍が八四。一年は十二カ月そこで八四から一二を引けば七二となり、更に十二カ月引けば六〇となる。即ち確実な六という数が出た訳だ、○はもちろん棄ててしまう。そこで四二――四六――八四という数字が得られたのだ、〇を棄ててしまったからには、ついでに二番目と三番目の四も棄ててしまう、そうすりゃ四二六八となって、お前がりサ駅へ入庫させる機関車の番号が出たわけだ。さっきも言ったように、割り算でいっても簡単だ。税率表によって係数を算出するんだね……』――曹長殿、どうかしましたか? 何なら、一斉射撃を始めましょうか? 用意! 狙え! 射て! おや、こいつぁ大変だ。曹長殿がいけねえや、日向でなんかやらかすんだもの。ひと走り担架を取りにいって来なくちゃ!」
軍医の診断によれば、曹長が卒倒したのは日射病か急性脳膜炎の結果だとのことである。
曹長がやっと意識を回復したとき、シュベイクは彼の傍へ行って――「じゃ話をお終いまでやりましょう。曹長殿、その機関士が機関車の番号を憶えこんだと思いますかね? どう致しまして、この機関士は三位一体説〔キリスト教で、父なる神、子なる神すなわちキリスト、および聖霊を一体の神なりとする主義〕を信じてたもんですから、一と三を間違えて、何もかも三倍しちゃったんでさ。で、結局機関車を探し出すことができず、その機関車は今でもぺーチュカ駅の十六番線にはいってまさ」
曹長は再び瞑目《めいもく》するのであった。
シュベイクが自分の車輌へ帰って見ると、バロウンは隅っこでぶるぶる震えていた。シュベイクの留守中に料理のできた牝鶏を、シュベイクの分までほとんど平げてしまったのである。
列車がいよいよ出発することになった少し前、いろんな兵種を載せた軍用列車が、この駅へはいって来た。戦線にある本隊へ行こうとする落伍兵や傷病恢復兵、および危険人物などであった。
この混合列車から、かつて便所の掃除を拒んだため叛逆罪に問われたが師団軍法会議で無罪をいいわたされた一年志願兵マーレクが降りて来た。営倉から営倉へと絶えず転々していた彼は、自己の所属すべき隊が解らなかったのである。で、彼は今、幹部専用車に現れ、大隊長に面会を求めた。
ザーグナー大尉は、一年志願兵マーレクの差し出した書類を眺めたとき、顔を曇らせた。それには「政治的危険人物! 注視を要す」と、極秘の注意書があったからである。しかし、運よく、あの排便将軍が特に念を押して言った言葉――『大隊史編纂者』を置かんといかんと言ったことを思いだした。
そこで、大尉は一年志願兵に向って、真《ま》人間となって今までの罪滅ぼしをしろというような意味のことを懇々《こんこん》と諭《さと》したのち、「本大隊の赫々たる戦績を永遠に伝えんがため、戦場における本大隊の経験を実録的に叙述」すべき役目を申しつけた。
「連隊の方へはこの旨を吾輩から打電して置こう」と、ザーグナー大尉は結んだ。「第十一中隊のワニエーク主計曹長が乗っている車輌が一番空いているはずだから、君はそこへ行くがよい。それから、ワニエーク主計曹長に直ぐ吾輩の許に出頭しろと伝えてくれ」
ワニエーク主計曹長が大隊長のところへ行ったあと、心霊主義炊事卒は居眠りをやり、ルーカッシュ中尉の最後の鰯缶詰をあけてしまったバロウンはぶるぶる震えていた。ただ駅のどこかでブランデーをひっかけてきた電話手ホドウンスキーだけが、感傷的な唄をうたうのであった。
ザーグナー大尉の命を受けて帰ったワニエークは、一年志願兵マーレクを傍に呼んで言った――「おい、お前、危険人物なんだぜ、だがこの節、危険人物なんててえしたことでもねえや、相場が下るほど|ざら《ヽヽ》にあるんだもの。ただ電話手ホドウンスキーのいる前じゃ余計なことをしゃべらねえでくれ」
その言葉が終るか終らないうちに、当のホドウンスキーは、ふらふらと立ちあがってワニエークに倒れかかって来た、そしてどなった――「なあ、お互いに仲よくやって、離れねえようにしようぜ。電話で聴いたことは、何もかもお前らにうちあけてやらあ。宣誓なんて、ヘッ、糞くらえだ!」
隅っこでこれを聞いていたバロウンは吃驚して、十字を切った、そして大きな声で祈るのであった――「聖母マリア様、この涙の谷の中で信仰と希望と熱意をもって貴方をお呼びするこの哀れな私の願いをどうぞお聞きとどけ下さいませ。おお、天の女王様、どうぞ私の一生涯お慈悲深き御手で私をお守り下さいませ」
慈悲深き処女マリアは、本当にバロウンの願いを聞き届けになった――しばらくしたのち、一年志願兵が、余り豊富でもなさそうな背嚢の中から鰯の缶詰を取り出して一つずつ配った。
バロウンはルーカッシュ中尉の鞄を開け、天から降ってきた鰯の缶詰をその中にいれて、ほっとしたような顔を見せた。
しかし他の連中が缶詰を開けて食べ始めるや、バロウンはすぐに誘惑に打ち負けた。いま蓋《ふた》したばかりの鞄をまた開いて、がつがつした飢えた犬のように鰯を呑みこんでしまった。
さすが慈悲ぶかいマリア様も呆れたものと見え、バロウンを置きざりになされた――バロウンが缶詰の底についていた汁を舐め終ったところへ、車のそとから大隊付き伝令マトウシツが呼んだのであった――「おい、バロウン、お前んとこの中尉が鰯を持って来いとよ」
「痛え目にあうぜ」と、ワニエーク主計。
「手ぶらで行くのは止したがいいぜ」と、シュベイク。「せめてこの空缶を五つ持っていってやれよ、なあバロウン」
蒼くなってまた震え出したバロウンの傍へつかつかと歩いていったシュベイク――「舌を出して見ろ!」
バロウンの出した舌をしげしげと打ち眺めていたシュベイクは、車の中にいた一同をふりかえって「こらバロウン、お前は人間を殺して食ったことがあるだろう? どうじゃ、さあ白状しろ!」
当惑したバロウンは手を合せて拝むようにしながら叫んだ――「苛めるのは止してくれよ、仲間じゃねえか」
「うんにゃそうはいかんぞ」と一年志願兵マーレクが言った。「お前を立派な軍人に教育したいからじゃ。よく聴け、ナポレオン戦争の頃、フランス軍に囲まれたマドリッド市の司令官は、司令官のような偉い人でもじゃ、飢《ひも》じさのため城を明けわたすのが嫌で、自分の副官を塩も付けずに食ってしまったんだぞ」
「それが本当の犠牲って奴さ」と、シュベイク。「塩を付けた副官の方が確かに美味かったろうな。……ところで、俺らの大隊の副官は何という名前だったけ、ねえ、主計曹長殿――チーグラー? あんな線香みたいな奴じゃ一中隊分の副食の|だし《ヽヽ》にもならねえや」
いよいよ十五分間のうちに出発するという命令がくだった。まさかこう急に出発はしまいと思っていたので(充分注意してはいたが)若干の兵卒は姿を見せなかった。列車が動き出したとき、十八名足りなかった、その中には例の第十二中隊のナサークラ曹長もはいっていた――列車がもうとっくに駅から見えなくなってしまったのに、曹長は、駅の後ろにあるアカシアの森の中で一人の淫売婦とさかんに言いあらそっていた――淫売婦は今しがた終えた仕事に対し五クローネ寄こせと言うのを、ナサークラ曹長は一クローネか、でなきゃ頬ぺたを一つお見舞い申すぞと言うのであった。双方の言い分は余りに開きが大きすぎた。結局はつかみあいとなって、女の金切り声を聞きつけた人々が駅から駈け出すというような騒ぎとなった。
四 ハトワンからギリシアの国境へ
サトラーリャウイヘリ駅の構内には、ありとあらゆる種類の兵隊を載せた列車が停っていた。飛行隊の列車もあった。赫々たる栄誉の名残りを止めながら修繕のために内地へ送還されるひどく破壊された飛行機や大砲を積んだ貨車を取りまいて、これから戦線に出ていこうという第九一連隊出征大隊の兵卒たちが、いろんな話をしていた。
そこへ現れたのが、例のドウプ少尉、報国神社へ児童を連れていった小学校の先生のような口調で、これはみんな戦利品だぞ、と説明した。少し離れた所では、シュベイクが何か説明している、ドウプ少尉は眼を光らせながら、そっとその方へ近よった。
とも知らないシュベイク――「これを戦利品だと見なそうと見なすまいとそりゃ各自の勝手さ。ちょいと見りゃ直ぐわかるように、そら、この砲架にオーストリア帝国砲兵師団って記してはあるが、物も見ようってもので、この大砲も一度ロシア軍の手に分捕られ、それを再び我軍が分捕ったとすりゃいっそう価値があるだろうよ。こんなのは普通の戦利品よりゃずっと値打ちがあるんだ、というのは……」
「というのは」と、ドウプ少尉が近づいて来るのをちらと見たシュベイクは、勿体ぶって言った。「敵軍の手に何一つ渡してはいけないからだ。ナポレオン戦争の頃の話だが、水筒を取られた兵卒が、その夜敵陣に忍びいって水筒を取りかえし、おまけに儲けものをしたってことがある。敵がその水筒の中ヘブランデーを詰めといたからさ、まさか取りかえしに来ようとは思わねえからなあ」
「おい、シュベイク、お前はあっちへ行け。二度と再びここへ来るんじゃねえぞ」
「はッ、少尉殿」と言ってシュベイクが退いた後、ドウプ少尉は、また|へま《ヽヽ》なことをやった――はっきりウィーン製と記してあったのに――
「このロシアの飛行機は」と、少尉は得々として説明するのであった。「レンベルク付近において我が軍が撃ち落したところのものである」そこへ通りかかったルーカッシュ中尉が付けくわえた――「そしてそのさい搭乗していた二人の飛行将校は焼け死んだものである」
中尉はほかに何とも言わず、ドウプ少尉って奴はなんて底なしの馬鹿野郎なんだろう、と思いながら去った。
二番目の車輌のうしろで彼はシュベイクに出くわしたが、何とかして避けたいと思った。シュベイクが自分に対して何かたくさん言いたいことがありそうな顔をしていたからである。
シュベイクはルーカッシュ中尉の方へまっすぐに歩いていって、「申し上げます、中隊付き伝令シュベイクが次のご命令を待っているのであります。申し上げます、中尉殿。自分は幹部専用車まで探してきたであります」
「おい、シュベイク」と、ルーカッシュ中尉は頭から撥ねつけるような憎々しげな調子で言った。「わしがお前のことを何といったか忘れやしまいな」
「申し上げます、中尉殿。自分はそういったようなことは忘れんであります。アイスナーという一年志願兵じゃないからであります。だしぬけで解らんかもしれませんが、つまり、まだ戦争の始まらんずっと前のことで、カロリーネンタールの兵営にいたころ、そこにフィードラー・フォン・ブーメランクとか何んとかいう大佐がおったであります」
ルーカッシュ中尉は、この『とかなんとか』に思わず噴き出したが、シュベイクは話をつづけた――「申し上げます、中尉殿。この大佐殿は、あなたの半分ぐらいしかありませんが、猿みたいに顔いちめんの|ひげもじゃ《ヽヽヽヽヽ》でして、怒ると背の高さの倍にも跳びあがるもんだから『ゴムマリじじい』って名をつけられていましたよ。ちょうどメイデーのときで、私たちもその準備をしていたところ、前の晩に私たちを営庭に集めて大演説をやったもんでさ――時と場合によっては、至高の命令により、社会主義の奴らを片っぱしから射ち殺さんければならんから、明日は一切外出を禁止し全員兵営にとどまるべし、本日休暇で外出し兵営に帰って来ないで明日まで飲みまわるような奴は、あきらかに叛逆罪をおかすということだ。一斎射撃をやらしたってこんな酔っぱらいの弾丸は誰にも当らず青空を射つにきまってるから。
この大演説をきいて部屋に帰って来たアイスナー一年志願兵が言うのには、『ゴムマリじじい』なかなかうまい思いつきじゃねえか。明日は誰も兵営にいれないってことは、だいたい間違いねえことだから、ぜんぜん帰ってこないのがいちばんだ。
そして、申し上げます、中尉殿、奴は紳士のようにその言葉を守ったんであります。ところがです、このフィードラー大佐って奴が、じつに下等な野郎でしてね、翌日になるとプラハの街をうろついて連隊の兵営から外出した部下のものを探しまわり、盛り場のどこかでうまくアイスナーに出くわしたもんだから飛びつくように近づいて――『ようし鍛えてやろう、うんと油を絞ってやるぞ!』。そして兵営へ引っぱって帰る途中ずうっと、聞くにたえない下劣な嚇し文句をならべ、貴様の名前は何というんだと、繰りかえしてきいた。『アイスナー? そんな名前なんか犬にでも食われろ。貴様を取っつかまえたとは有難い。貴様にメイデーってどんなものだか見せてやろう。アイスナーよ、貴様は監禁じゃ、見事な監禁をしてやるぞ!』。アイスナーとしちゃ、もうどうにでもなれ、という気持でさあ。ポルシッチュ通りにかかってローツワルシル・ホテルのところに来たとき、アイスナー先生、あるビルの玄関に飛びこみ、籠《かご》抜けの|どろん《ヽヽヽ》をきめてしまったもんだから、『ゴムマリじじい』の、アイスナーを重営倉にぶちこむという楽しみを台なしにしたんであります。奴を逃がしたことに酷《ひど》く興奮した大佐は、腹を立てすぎてこの犯人の名を忘れ、他の名と取りちがえてしまった。そして兵営に帰ったとき、低い営舎の天井に頭をぶっつけるほど跳びあがり始めた。その大隊の巡視をやっていた将校には、『じじい』が急に片言のチェコ語で『クッパーマン〔銅屋〕を監禁だ。クッパーマンを小っぴどく監禁だ。ブライアー〔鉛屋〕を監禁だ。ニッケルマン〔ニッケル屋〕を監禁だ!』と、わめき立てるのがなぜだか解らなかったんであります〔アイスナーは鉄屋の意〕。『じじい』は毎日うるさいほど、クッパーマン、ブライアー、ニッケルマンを取っつかまえたかと訊き、はては連隊じゅうの家さがしまでやらされたんであります。このように上官が部下の名を忘れると、まずこんなことになるんですが、部下には上官の名を忘れるなんて、絶対に許されないんであります。――中尉殿、話が少しばかり長すぎたでありますか」
「なあ、シュベイク」と、ルーカッシュ中尉は答えた。「お前の話をきけばきくほど、お前は上官をてんで問題にしていない風に思われてしょうがないんだが。兵士たるものは、上官については何年たっても、ただその良いところだけ話すようでなくちゃならんのだぜ」
ルーカッシュ中尉は機嫌をなおして|からかい《ヽヽヽヽ》はじめた。
「申し上げます、中尉殿」と、シュベイクはあやまるような調子で言った。「フィードラー大佐殿はとっくの昔に亡くなられました。しかし、中尉殿。お望みとあらばあの方のよかった点だけをうんと話してあげましょう。あの方はね、中尉殿。兵隊には生れつきの天使でしたよ。マルチン鵞鳥《がちょう》を貧しい人や飢えた者に分けてやった聖者マルチンそっくりの人でしたよ。営庭で出くわした兵隊には誰にでも自分の将校食を分けてやり、私たちがイモ団子であきあきしている時には豚肉のはいった豆料理を作ってくれたものです。特に演習となると、あの方はすばらしく親切でしたね。ウンタークラローイッツにいったとき、そこのビヤホールを自分の勘定で借りきれと命令したこともありましたっけ。またあの方の命名日や誕生日には、兎の肉にクリームをかけ白い小麦粉の団子をそえてくれたものですよ。私たち兵隊には、中尉殿、あの方は非常に親切でして、あるとき……」
ルーカッシュ中尉はシュベイクの横面を撫でるように叩いて友だち同志のような調子で言った。「もういいよ、わかったよ」
フウメーナ付近では、もう戦闘の跡がはっきり認められた。一時はロシア軍がこの辺まで押しよせて来たのである。山腹に作られた幼稚な塹壕、焼けた館――もっとも避難していた持ち主が帰って来たと見えて、もう間にあわせのバラックが建っていた。
この辺の住民は、言語上および宗教上、ロシア兵に近い。したがってロシア軍が退却した後、この辺の住民が、オーストリアの官辺から言語に絶した酷い目にあったという公然の秘密を、停車中のシュベイク達は一瞥《いちべつ》することができた。
ホームの上に、ハンガリー憲兵に引っぱられたロシア系ハンガリー人が大勢、手を縛られていた。この地方の正教僧や教師や百姓である。両手を背中でゆわえられ、二人ずついっしょにされていた。縛られると共に憲兵から打擲《ちょうちゃく》されたので、鼻を挫かれたり頭に瘤《こぶ》ができていたりした。
この様子を見ていた幹部専用車の連中も、さすがに、余り酷いや、ああまでしなくったって、と言いあっていたが、ドウプ少尉はサラエボの暗殺のことを考えるがいいと言って断然この意見に反対した。彼の意見によればマジャールの憲兵がフェルジナント大公及び大公妃の仇をフウメーナ駅で討っているわけだ。
余りに国粋的ドウプ少尉のおしゃべりを聞いていたルーカッシュ中尉は、急に胸が悪くなってきた。
「おいシュベイク」と、車のそとに出たルーカッシュ中尉はシュベイクを探しだして言った。「コニャックを一瓶欲しいんだがね。少し気分が悪いんだ」
「そいつあ空気の変ったせいでしょうな、申し上げます、中尉殿。コニャックで治るかどうか……しかしお望みとあらば探してきますがね、列車に乗り遅れることはないでしょうか」
二時間以内に発車するようなことはない、駅の直ぐうしろで|こっそり《ヽヽヽヽ》コニャックを売っている。ザーグナー大尉はマトウシツをやって十五クローネでなかなか上等のを一瓶買わした、ここに十五クローネあるから直ぐいって買って来てくれ、ただし俺のだとは誰にも言うな、コニャックは禁制だから、とルーカッシュ中尉はシュベイクに教えた。
「ご心配はご無用。うまくやってご覧にいれますよ。わしゃだいたい、しちゃいけねえってことをするのが好きな上に、どういうわけか、自分じゃ気づかないうちにいつのまにかしちゃいけねえってことをしている方ですからね。だいぶ以前のことでしたがな、カロリーネンタールの兵営で……」
「廻れ右――前へ――おおい!」
話を中途で挫かれたシュベイクが、本当にいいコニャックかどうか味を試して見なくちゃ、などと考えながらホームの向うをまわろうとした時、ばったりドウプ少尉に出くわした。
「貴様はなぜこの辺をうろついてるんだ? 貴様は俺を知っとるか」
「申し上げます、少尉殿。私は少尉殿の悪い半面を知りたくはないであります」
先手を打たれたドヴプ少尉は目を白黒させるばかりであった。しかしシュべイクは落ちつきはらって相変らず敬礼をしたまま――「申し上げます、少尉殿。私は少尉殿の善い半面だけ知りたいであります。でないと、この前も少尉殿のおっしゃられたように、べそをかかなくちゃならんからであります」
このあつかましさには、さすがのドウプ少尉もかえす言葉がなかった――「どこへなと失せやがれ、畜生! 勘定は後だ」と、言うのがやっとであった。
駅のうしろには、駄菓子をならべた店が何軒もあった。ちょっと見たところ、無邪気な子供相手商売らしいが、実はここがその酒類密売所なのだ。
そこへ現れたシュベイクは、まずボンボンを買ってポケットにいれた。するとその店の主人、こめかみのところにちぢれ毛のあるユダヤ人がシュベイクに囁くのであった――「兵隊さん、火酒もありますぜ」
取引きは迅速に行われた――奥の方へ案内されたシュベイクは、そのユダヤ人が開けてくれたコニャックを一口試し、これならというわけで代金を払った。瓶を上衣の中に隠し、なに食わぬ顔をして、シュベイクはそこを出た。
「やい、貴様はどこへ行ってきた?」
ホームへ急ごうとするシュベイクをさえぎったのは、ドウプ少尉であった。さきほどから、ホームの蔭に身を忍ばせて、シュベイクの挙動を見まもっていたものである。
「申し上げます、少尉殿。ボンボンを買いに行って来たんであります」そう言って、シュベイクはポケットに手を突っこみ、中から埃にまみれた汚らしいボンボンを一つかみ取り出した――「少尉殿さえよければ……食べてみましたが、そうまずかありませんよ」
「これは何じゃ、これは! 出して見ろ!」と、ドウプ少尉は、ふっくらと盛り上ったシュベイクのシャツを叩きながらどなった。
薄い黄金色の中味のはいった、おまけに「コニャック」と明々白々に記されたレッテル付きの瓶が、シュベイクの懐から現れた。
「申し上げます、少尉殿」と言うシュベイクの顔には、驚いた様子が微塵《みじん》もなかった。「コニャックの空瓶へ飲み水を汲んで来たんであります。昨夜のシチューでおそろしく喉が乾くんであります。ただし、あすこのポンプの水はご覧の通り、少々黄色いんですが、これは鉄分を含んでいるせいでしょうな。こんな水は衛生上、大いによろしいんであります」
数々の怨みを晴らす時節もいよいよ到来とばかり、ドウプ少尉は悪魔のように薄気味悪い微笑を浮かべながら言った――「そんなに喉が乾くなら、飲むが良かろう、うんとな。その瓶を一息に飲んじまえ!」
二口三口飲みゃ、へたばっちまうだろう。そうすりゃ「おい、その瓶を寄こせ、俺も喉が乾いとるんじゃ」と言ってやろう。このシュベイクの畜生、その時どんな顔をするだろうなあ、見物だぞ、そこで奴を懲戒裁判へ突きだしてやろう、それから……と、ドウプ少尉は、あらかじめ色んな想像をめぐらすのであった。
シュベイクは瓶の栓を抜いた、そして口に当てたかと思うと、ぐいぐいと喉にいれて行く。見る見るうちに瓶が空っぽになって行く。眉一つ動かしもしないで一瓶飲み乾してしまったシュベイクは空瓶を往来の向うにあった池の中へ投げこみ、べっと唾を吐いた。さて、石のように固くなってしまったドウプ少尉に向い、まるで炭酸水をコップに一杯飲んだというような顔をして言った――
「申し上げます、少尉殿。この水は全く鉄の味がするであります。モルダウ河のカミークって所で、ある宿の亭主が井戸の中へ蹄鉄の古いのを放りこんで、これは含鉄水でございと言って避暑客に飲ませたって話があります」
「この図々しい野郎め、今に見ろ! さあ、貴様が水を汲んで来たと言う井戸へ案内しろ!」
「すぐそこですよ、少尉殿。あの小屋の直ぐうしろです」
「先に立って行け、馬鹿野郎、ちゃんとした歩調を取れるかどうか俺が見てやる」
「どうも不思議だな」と、少尉は首をひねった。「あん畜生、平気の平左でいやがる」
こうなった以上、運を天に任せるばかりだ、と思いながらシュベイクは先に立って歩きだした。そこに井戸があったばかりか、ポンプも付いており、しかも汲み上げた水は黄色かった。
びっくりして近づいて来たユダヤ人に、シュベイクは落ちつきすまして言った――「コップを持って来てくれんか、少尉殿がこの鉄分を含んだ水を飲まれるそうだから」
コップになみなみと注いだ水をシュベイクからつきつけられたドウプ少尉は、ぷんと変な臭いのするのに気づいた。しかし抜き差しならぬ破目に陥った彼は、眼をつぶって飲み乾してしまったが、口の中いっぱいに、馬の小便や人糞の味がこびり付いて、たとえようもない不愉快な気持になった。|けげん《ヽヽヽ》な顔をしているユダヤ人に五クローネやった少尉は、シュベイクの方に向き直って――「何をぽかんt見てやがるんだ、きりきり舞い失せろ、こん畜生!」
しばらくたって幹部専用車に現われたシュベイクは意味ありげな眼付でルーカッシュ中尉をそとに呼び出し――
「申し上げます、中尉殿。五分間、せいぜい十分間とたたないうちに、私は酔いつぶれてしまうであります。自分の車輌の中でじっと寝ますから、少なくとも三時間は私を呼ばないように願います。万事うまく行ったんですが、ドウプ少尉殿に見つかり、何だと訊かれたので水だと答えたら、じゃ飲めと言うのでコニャックを一瓶ぐいと飲んじまったであります。中尉殿のご命令により何一つバレないで済み、万事円満にいったでありますが、申し上げます、中尉殿。私の腰はもう自由が利かなくなって来たであります。もっともこのくらいのことは従軍牧師カッツ殿のところにいたころ慣れっこになっておりますので……」
「退がれ、畜生め!」と、中尉はどなりつけたが、別に叱責するということはなかった。その代わり、ドウプ少尉に対する反感が従来の五割方高まった。
自分の車輌へ戻ったシュベイクは、そっと外套の上に横になったかと思うと猛烈な鼾をかき始めた。|げっぷ《ヽヽヽ》をするごとに噴出するガスは、たちまち車内に充満して、これを吸いこんだ心霊主義炊事卒ユーライタが叫ぶのであった――「南無阿弥陀仏、コニャックの匂いがするぞ!」
この異様な雰囲気につつまれた一同が、一年志願兵マーレクから第十三出征大隊戦績史〔大隊の歴史が旅団の歴史となり、さらに師団、軍団の歴史となり、ついに完全な戦争記録となって後世に伝わるのだ!〕を謹聴しているところへ、ぬっと首を出したのがドウプ少尉である。
「シュベイクはどこじゃ?」
「寝ていますよ、申し上げます、少尉殿」と、答えたのは一年志願兵。
「こら志願兵、坐ったまま答える奴があるか! 跳びあがってあいつを呼ぶんだ!」
「そうはいきませんよ、少尉殿。眠っているじゃありませんか」
「そんなら起こしゃいいじゃないか! それくらいのことに気づかないのがそもそもいかん。お前はまだ吾輩を知らんのじゃな――吾輩の何たるかを……」
一年志願兵はシュベイクをゆすりおこし始めた――「シュベイク、火事だぞ、起きろ、起きろ!」
「いつかオドコーレクの水車場が燃えたときゃ」と、シュベイクは寝返りを打ちながらつぶやいた。「イソーチャンあたりから消防が駈けつける騒ぎでな」
「へい、ご覧の通り」と、一年志願兵はドウプ少尉に言った。「起こしていますが、駄目なんであります」ドウプ少尉はむしゃくしゃしてきた。――「志願兵、お前は何という名前じゃ?……マーレク?……ああ、じゃお前があの、営倉へいりびたりの一年志願兵マーレクなんじゃな」
「その通りです、少尉殿。一年志願兵の課程を獄中で終えたようなもんですな。しかし無実の罪と解って、今じゃ大隊の歴史編纂係に任命されてるんです」
「それも永くはあるまいて」と、少尉は引っぱたかれたように頬を真赤にしてどなった。「吾輩が心配してやるぞ!」
「どうぞ。何なら裁判にかけてもらいたいですな」と、一年志願兵は|むき《ヽヽ》になって言った。
「冗談じゃねえぞ、やい、望みとあらば裁判にかけてやろう。いいか、お前はまだ吾輩の何たるを知らんじゃろうが、今に解れば|べそ《ヽヽ》をかくことになるぞ」
かんかんに怒ったドウプ少尉は、ここへ来た目的――シュベイクに「息を吹っかけてみろ!」と言って、いよいよ|とっちめて《ヽヽヽヽ》やる――も忘れ、さかんに小言を言いながら立ち去った。
半時間ほど経って再び彼がシュベイクの所へ現れたが、その時はもう手おくれであった――この間に一同に対しリキュール入りのコーヒーが給与され、シュベイクも起きていて、ドウプ少尉が自分を呼ぶ声に車輌のそとへ跳びだした。
「息を吹っかけてみろ!」
肺を絞るようにして吹きだしたシュベイクの息は、酒精工場から吹いてくる風のようだった。
「やい畜生、貴様は何の匂いがする!」
「申し上げます、少尉殿。リキュールの匂いがするのであります」
「それ見ろ」と、少尉は勝ちほこって言った。「とうとう|とっちめ《ヽヽヽヽ》られたろう、どうじゃ」
「そうであります、少尉殿」と、シュベイクはどこを風が吹くかと言ったような顔をして言った。「たった今、コーヒーが出たんでありますが、私はリキュールを先に飲んだんであります。しかしコーヒーを先に飲みリキュールはその後で飲まなくちゃあならんという新しい訓令ができておるとすれば、一つご勘弁を願います、以後気を付けるでありますから」
「半時間ほど前に吾輩が来たとき、貴様は雷のような鼾をかいていたが、あれはどうした! どうしても起きなかったじゃないか」
「申し上げます、少尉殿。昨夜私はずっと以前ベスプリム付近でやった演習のことを思いだして一睡もしなかったんであります……」と、シュベイクは、その演習の模様をながながと語りだした。
ドウプ少尉は何とも言わず、ただ首を横に振っただけで、途方に暮れて退却した。しかし直ぐまたひきかえして来て、シュベイクに言った――「覚えてやがれ、いまに|べそ《ヽヽ》をかかしてやるぞ!」
幹部専用車では、ザーグナー大尉は十二中隊の兵卒を訊問しているところであった。この哀れな兵卒は、塹濠生活の用心を今から始めようとして、駅にあった豚小屋のブリキ張りの戸を失敬して来たのである。驚いて眼をぱちくりさせながら、榴霰弾を防ぐために塹壕の中へ持ちこむつもりだったということを、しきりに弁解した。
シュベイクに対する満々たる鬱憤《うっぷん》を抱いてきたドウプ少尉は、可愛想にこの兵卒を取っつかまえて、堂々たる大説教をやり出した――いやしくも軍人たるものがその本分を忘れるとは、とりもなおさず祖国および大元帥たる陛下に対する義務を怠ることである。かくのごとく卑劣なる要素は根こそぎ絶滅することが必要である、そのためには厳重なる刑罰を課さなくちゃならん。
しかしこの馬鹿げたお説教は、すこぶる無味乾燥なものだったので、ザーグナー夫尉はかえって被告に同情するようになった。大尉はこの哀れな男の肩をたたきながら――「別に悪気でやったわけじゃあるまいから、今度だけは大目に見てやろう。その戸は元の場所に返すんだぞ、さあ早くあっちへ行け!」
ドウプ少尉は唇を噛んだ、そして頽廃せんとする本大隊の軍規を正す役割は、我が双肩にのみかかっているのだ、という確信をいよいよ深めるのであった。そこで彼はまた巡邏に出かけた。煙草吸うべからず、と、マジャール語及びドイツ語で記した倉庫の付近に一人の兵卒が坐って余念なく新聞を読んでいた。兵卒は、新聞に顔を埋めていたのでドウプ少尉の近づいたのを知らなかった。少尉は「気を付け!」とどなった。
生憎《あいにく》と、その兵卒はドイツ語の解らないマジャール男であった。ドウプ少尉はつかつかと近よって彼の肩をゆすぶった。マジャール兵は、起ちあがってぽかんと少尉の顔を見ていたが、敬礼をする必要もなしと認めたものか、読みかけた新聞をポケットに突っこんで、さっさと往来の方へ行ってしまった。
また|へま《ヽヽ》をやった少尉は、幹部専用車へ戻ると、ルーカッシュ中尉に向って話しかけ、自分の従卒クーネルトを引きあいに出して――「彼が従順かつ正直なのも結局私が規則を重んずるからです。将校は兵卒を教育しなくちゃならないという規律のしからしむるところです」と、結んだ。
(馬鹿野郎、何ておしゃべりをしてやがるんだ)と、ルーカッシュ中尉は心の中で言ったが、かかりあうとまた|うるさい《ヽヽヽヽ》ので、窓の方へあゆみより、独り言のように言った――「そうそう、今日は水曜だったっけ」
何か言いたくて仕様のなかったドウプ少尉は、今度はザーグナー大尉に向い、まるで同僚に対するような調子で話しかけた――「ちょっと、ザーグナー大尉、どう思いますかね……」
「失礼、ちょっと用事があるんで」と、ザーグナー大尉は言って、そとへ逃げだした。
フウメーナ駅を出ると、列車はカルパチア山脈に向って、勾配を這うように登ってゆく。谷に沿う線路の両側にある山腹には、榴弾の大きな穴が、あっちにもこっちにも開いていた。ある谷などは、巨人のような|もぐらもち《ヽヽヽヽヽ》の大軍が暴れたかと思われるように、全体に土が掘りかえされてあった。
風雨に打たれてぼろぼろになったオーストリア兵の軍服の引っかかった榴弾の穴の縁《ふち》。砲火で焼けた古い松の木の枝にぶらさがった義足いりの長靴。焼かれた小さな停車場の跡に建てられたバラックの壁に|べたべた《ヽヽヽヽ》と貼りつけた各国語のポスター「オーストリアの戦時公債に応募しましょう!」
ブルックを出発した当座、ひどく陽気だったベルクライヘンスタイン地方出身のドイツ兵の連中もこの荒涼たる風景には、しんじつ物悲しくなったとみえ、軍歌をうたう元気さえなくなってしまった――まったく、この辺に散らかっている帽子の持ち主も、出征の際は俺らと同じように陽気な唄をうたったものだろうが……
ループカ峠のある駅で、いよいよ昼食が配られることになった。徴発の命を受けたカイタームル少尉および大隊付き主計曹長その他二名の者は、半時間とたたないうちに、後脚をしばられた豚を三頭引っぱって来た。その後を追って|わいわい《ヽヽヽヽ》叫んでいるのは、この豚を徴発されたロシア系ハンガリー人の一家族である。
どうしてもこの豚は手ばなすことはできない、ことに、これぽっちの金じゃ問題にならん、と言って、豚の持ち主はザーグナー大尉に金を突きかえした。また内儀《おかみ》さんの方は、大尉の手へ――この辺の風習として、恭順の意を表すため――さかんに接吻するのであった。
「こいつは豚を十二頭も持っとるんです」と、カイタールム少尉は、職務的な口調で告げた。「師団司令部の命令第一二四二〇号により、規定どおりきちんと支払ったものであります。したがってこいつがとやかく苦情を申す余地はないんであります」
戦線付近には豚がうようよするほどいるとでも思っているらしいウィーンの連中が制定したのが、この師団司令部の命令第〜号であった。規定どおり支払われただけでは、やりきれたものじゃない。だから豚の持ち主は、泣く子と地頭以上とは承知しながらも大いに頑張ったのである。しかし自分の豚が断末魔の悲鳴を挙げているのが聞えてきたとき、事終りぬと観念したものか、一頭につきせめてあと二グルデンだけは戴きたいと折れてでた。
内儀さんと二人の娘は、埃だらけになるのもかまわず、ここを先途とばかり、ひざまずいて拝むのであった。しかし、このいわば屈辱的な条件さえも容《い》れられないと見てとった豚の持ち主は、みっともない真似はよせと女房や子供を叱りつけておいて、急に強硬な態度に出た。すなわち豚の徴発はご免こうむると言って拳を振りあげて威嚇しようとした。ザーグナー大尉の傍にいた兵卒が銃床で彼の脇腹にひと突きくらわした。豚も惜しいが命の方がより大切と、一家族は雲を霞と逃げ出してしまった。
ザーグナー大尉を初めとし、将校連中および主計曹長、書記、従卒などは、この三頭の豚の料理からいちばん美味しそうなところを、腹のはち切れるほど詰めこんだ。一般の兵卒には、小さな片が一つ、悪い星の年に生れあわした奴などは、小っぽけな皮が一枚もらえただけである。
ブルック出発以来、食事らしい食事を一度もしたことのない兵卒たちは、今度こそはと思った当てがはずれて全くがっかりした。
軍用列車の停車していた土手の下には、ロシア兵が退却に際し色んな物を遺棄してあった。茶瓶だの壺だの弾薬|盒《ごう》だのがころがっており、また血で黒くなったガーゼや包帯が、その辺にちらかっていた。この遺棄物を眺めている大勢の兵卒にまじってシュベイクがさかんに説明している。
食後の幹部専用車で一同から相手にされなかった余憤を満々と抱いたドウプ少尉が、その場へ近よって来た――
「どうしたんだ?」
「申し上げます、少尉殿」と、シュベイクは一同に代わって返事した。「見ているんであります」
「何を見てるんだ?」と、少尉はシュベイク一人にどなりつけた。
「申し上げます、少尉殿。土手の下の溝のなかを見ているんであります」
「誰の許可を得て見てるんだ?」
「申し上げます、少尉殿。ブルックにいる連隊長のシュレーダー大佐殿のお望みであります。別れに際し大佐殿は言われたであります――戦場において退却の跡を見るような場合があったら、いかに戦ったかという事をよく観察し、教訓を得なくちゃならん。さて、少尉殿、兵卒たるものは退却に際し何を棄てなくちゃならんか、ということを私どもこの溝のなかにおいて見るのであります。申し上げます、少尉殿。色んな余計なものを持ち歩くことのいかに馬鹿げたことであるかを、私どもは見るのであります、あまり色んな荷が多過ぎると、早く疲れるであります、敏活に戦うことができんであります」
いよいよシュベイクの奴を売国的宣伝の廉《かど》で軍法会議に突きだすことができそうだぞ、と思ったドウプ少尉はすかさずきいた――「それじゃ、何だなここにころがってるように、弾薬盒や銃剣を投げ棄てなくちゃならんと言うのだな?」
「おお、とんでもない、申し上げます、少尉殿」と、シュベイクは微笑みながら答えた。「あすこにころがってるブリキ製の尿瓶《しびん》をご覧になりませんか?」
なるほど、そこには壺の破片にまじって、ひどく錆びたエナメル塗りの尿瓶があった。これとシュベイクの顔を見くらべていたドウプ少尉は、なろうことならシュベイクを土手の下へ突きおとしてやりたかった。が、我慢して一同にどなりつけた――「野郎ども、何をぽかんと見てやがるんだ! 貴様らまだ吾輩を知っとらんな、いまに知ってみろ……!」
「おっと、お前は待て、シュベイク」と、一同と共に列車の方へ帰ろうとした彼を少尉は呼びとめた。
二人きりになった少尉は、何と言ってシュベイクの野郎を縮みあがらせたものだろうかと考えた。しかしシュベイクの方から口を切った――「申し上げます、少尉殿。せめてお天気なりとこの分でつづいてくれましたらなあ。昼間だってそう暑いというほどでもなし、夜は全くいい気持で……戦争をやるにゃ持ってこいの時節ですからなあ」
ドウプ少尉は短銃を取り出してシュベイクに突きつけた――「これは何だか貴様知っとるか」
「申し上げます、少尉殿。知っとるであります。ルーカッシュ中尉もやっぱり同じようなものを持っとるであります」
「知っとるなら気をつけろ、畜生め!」と、少尉はうんと威張って見せたのち、短銃を元に蔵《しま》いながら、「相変らず宣伝をやるようなことがあったら、いいか、息の根を止めてくれるぞ!」
このできそこないめ、どうしてとっちめてくれよう、と考えながらシュベイクが自分の車輌へ戻ってくると、頬を腫《は》らしてドウプの従卒クーネルトが泣いていた。聞いて見ると、シュベイクと交際するからという理由で少尉に引っぱたかれたのである。
「こんな時こそ」と、シュベイクは静かに言った。「訴えでるんだ。お前んとこの主人は余りにひどい。さあ、訴え出ろ、嫌だと言うなら、俺が貴様の横面をぶんなぐるぞ。カロリーネンタールの兵営でこんなことがあった――たしかハウスナーって少尉だ、従卒を殴る、蹴る、とうとうその従卒が気が変になってしまって、訴えでたものだ。ところが気が変になってるもんだから、|とんちんかん《ヽヽヽヽヽヽ》なことをしゃべったんだな。そこで少尉は、従卒がいつ何日に殴られたと申し立てるのは真赤な嘘で、その日は蹴っただけだということを立派に証拠立てたものだから、可愛想に、その従卒は、詐偽罪に問われ、かえって三週間の営倉をくらったよ」
「だがこんなこたぁ、全体から見りゃ大した問題じゃねえ」と、シュベイクはつづけた。「ホウビーチュカってお医者さんがよく言ってたのと同じことさ――病理学の研究室じゃ人間を解剖する場合、首を縊《くく》った奴でも毒を飲んだ奴でも、どっちにしたって同じことだとよ。そこで俺あお前といっしょに行くぞ。横面の一つ二つぐらい、なんて思ってると、軍隊じゃとんだことになるからな」
クーネルトはシュベイクの剣幕にすっかり呑まれてしまって、幹部専用車へ連れてゆかれた。
これを見たドウプ少尉は、窓から半身を出してどなりつけた――「何しに来やがったんだ? 畜生ども!」
「きちんとしろよ、おい」と、いましめながら、シュベイクはクーネルトを先に幹部専用車のなかに押しいれた。
「申し上げます、中尉殿。告訴事件であります」と言ったシュベイクの顔には、いつものお人よしな表情が微塵もなく、容易ならぬ事件の発生したことを予告するようなところがあった。
「馬鹿話は止せよ、シュベイク」と、ルーカッシュ中尉は、このただならぬ様子を見て、わざと茶化してかかった。「もう耳に|たこ《ヽヽ》のできるほど聞いとるんじゃからな」
「はばかりながら、私は貴方の中隊の伝令であります。貴方は第十一中隊の隊長であります。中隊付き伝令は中隊長の命令を受け伝えるばかりでなく、また報告をしなくちゃならん、とは貴方がブルックで私に教えたところであります、そこでです、申し上げます、中尉殿。貴方の部下のドウプ少尉は従卒を散々っぱら|こずき《ヽヽヽ》まわしたんであります。これは裁判沙汰にしなくちゃならんと考えるのであります」
「こいつぁなかなか面白い事件じゃ」と、さきほどから黙って聴いていたザーグナー大尉が言った。「シュベイク、お前どうしてこのクーネルトを引っぱって来たのじゃ?」
「申し上げます、大隊長殿。すべて裁判にかけなくちゃならんであります。この男は馬鹿な奴で、ドウプ少尉殿から引っぱたかれたのに自分ひとりでは告訴することもできんのであります。申し上げます、大尉殿。この野郎の膝ががたがた震えとるところを一つ見てやって貰いたいであります、とりしらべを受けるのが怖くて生きた心地がないんであります」
クーネルトを前へつきだしながらシュベイクが言った――「おい、そんなにぶるぶる震えるなよ、風に吹かれる枯れススキじゃあるめえし」
「いったいどうしたんだ」とザーグナー大尉から訊かれたクーネルトは、全身を震わしながら、少尉殿に聞いて下さい、少尉殿から殴られたことなんてちっともないであります、と言うだけがやっとだった。さらに、相変らず全身を震わしながら、この事件はなにもかもシュベイクの造りごとだとまで言った。
クーネルトの醜態にいらいらしていたドウプ少尉は、つかつかと彼の前に現れてどなりつけた――「この野郎、もっと引っぱたいて欲しいと言うのか!」
これで事件ははっきりした。そこでザーグナー大尉はドウプ少尉に向ってあっさり告げた――「クーネルトは本日より大隊付き炊事卒に任命する、新しい従卒については、ワニエーク主計曹長と相談するがよかろう」
ドウプ少尉は敬礼した。そしてそこを退出するさいに眼の敵《かたき》たるシュベイクだけに言った――「今に貴様は首を吊るされるぞ、俺の首を賭けてもいい」
シチュー鍋の掃除を買ってでたバロウンは、炊事車の中でせっせと大きな鍋の底をパンで拭《ぬぐ》っていた。列車が動きだした途端、平衡神経のにぶい彼は、頭を真直ぐに鍋のなかへ突っこみ、両足をばたばたさせるのだった。さぞ苦しかろうと、はたから見た者には思われようが、当人はすぐこの不自然な状況に慣れてしまった。そしてしばらくすると鍋の底の方から彼の声が響いてきた――「済まねえが、パンを一片投げとくれよ、まだソースがうんと残ってんだから」
バロウンの曲芸は、列車が次の駅にとまるまでつづいた。見ると、この大きいシチュー鍋の底は鍍金《メッキ》したように光りかがやいていた。バロウンの言い草が面白い――「いや、どうも、お蔭様でな」と、心から感謝して、「わしゃ軍隊へはいって以来初めて幸運の神様に見舞われたよ」。腹がいっぱいになったバロウンには、急に戦争というものが何かしら懐しいものに思われてきた。脚を車輌のそとにぶらさげ、幸福そのものといったような顔をしている彼を、一同が色々とからかったが、彼は相手にもしなかった――「いまに解るよ、神様は俺らを見棄てはなさらねえってことがな」
ルウプカ峠をこえた列車は、ガリシア平原に向って矢のようにくだってゆく。この辺の村は散々に破壊されている。ある駅では赤十字列車が転覆していた。
「赤十字の列車を撃ってもいいのかい?」と、炊事卒ユウライダが顔の色を変えて訊いた。
「いけないさ、だが撃つことはできるよ」と、シュベイク。「逃げようとしたから止むなく射ち殺したんだ、などとよく言うように、この赤十字の列車も、夜で見えなかったからそれとは知らずに撃ったんだって言い訳がついとるぜ」
話題が赤十字そのものに移っていった。ユウライダはひどく憤慨しながら赤十字における泥棒を攻撃するのであった――「ブルックにいた頃、看護婦の賄いをやっていた炊事卒から聞いた話だがな、看護婦長なんてやつは方々から寄付される葡萄酒やチョコレートをごまかしてどれほど自分の家へ送ったか知れやしないとよ。もっとも他人のことばかり言えた柄じゃねえが……」
そう言って心霊主義炊事卒ユウライダは、自分の背嚢からコニャックを一瓶とりだした。
「これは」と、栓を抜きながら、「出発の前に将校賄い所から盗みだしたもので、飛切り上等のレッテル。いったい今の世の中は悪い事がいくらでもできるようになっている――ただし呑舟《どんしゅう》の魚〔大物〕ってのはなかなかつかまらねえが。葡萄酒やチョコレートは赤十字の看護婦長にごまかされるようになっており、将校賄い所のコニャックは炊事卒が盗みだすように、ちゃんと決まっているんだ」
「それからだな」とシュベイク。「俺らがそのコニャックを盗みだしたお前の共犯者になるってことも、ちゃんと決まってるとすりゃ、なお悪かねえぞ」
五 前へ進め
サノクへ着くと、そこには「鉄石旅団」の本部があったので〔九一連隊はこの旅団の管下であった〕、ザーグナー大尉は、大隊の宿舎のことについて指図を乞うため、さっそく出頭した。
「こいつぁ驚いた」と、旅団副官のタイルレ大尉が酔眼《すいがん》もうろうとして言った。「君の大隊が今日到着するなんて通知はいっこう受取っとらん。予定より二日も早く到着しとるじゃないか!」
ザーグナー大尉の方こそ驚いた――あんなにのろのろ、まるで蝸牛《かたつむり》が這うような調子でやって来たんだのに。
「どうもおかしいな」と、タイルレ大尉。「それはそうと君は現役かね、それとも予備?――現役? いや近頃は予備の間抜け野郎どもがずいぶんいてね、何もできないくせに利巧ぶりやがって始末におえねえんだ」
そう言ってタイルレ大尉は唾をはいた。それから親しげにザーグナー大尉の肩をたたきながら――「とにかく二日間ばかり当地へ滞在するんだな、ここは満更でもないぜ、天使のような娼婦もいるし……失礼、反吐《へど》をしにいってくるからね、これで今日は三度目なんだ」
便所から戻ってきた彼はザーグナー大尉に、工兵隊の連中といっしょに昨夜愉快に騒いだことを物語った。そこへちょうどその工兵隊大尉が千鳥足ではいってきて――
「やい豚、貴様何をしちょる? 貴様、昨夜は俺らの伯爵夫人をひどい目にあわしたぞ。たしか、あいつの股へ反吐をしおったぜ、貴様は」
「愉快だったな、昨夜は」と、タイルレ大尉。「どうだ今晩はひとつ飲みなおしといこうじゃないか」
三人がカフェにはいると「鉄石旅団」副官タイルレ大尉はさっそく酒と女を注文した。酒はきたが、女は一人も空いていなかった。ここはもちろんカフェとは名ばかりの曖昧屋だった。タイルレ大尉は酷《ひど》く憤慨して女将《おかみ》を呼びつけ、口ぎたなくののしった。ことに、自分の馴染のエリーという女はどこかの少尉を客にとっているということを聞いたとき、ますますご機嫌をななめにした。
このエリーという女の客が、誰あろう、ドウプ少尉であったから面白い。サノクに泊るということが決まったとき、ドウプ少尉は部下の兵卒一同を集めて一場の訓辞を与えたものである――ロシア軍は退却に際し到るところの女郎屋へ花柳病を置いていった、もちろんこれによって オーストリア兵に大なる被害を与えんがためである。兵卒は決してかかるいかがわしい場所へ足をふみいれてはならん、当地はすでにこの危険区域であるから、兵卒が命令を守っているかどうか吾輩が親しく見廻ってやる、引つつかまったが最後、野戦軍法会議に突きだすからそう思え。
そこでドウプ少尉は約束通りに監視に出かけた。そしてまず第一にはいったのがエリーという女のいたこのカフェである。そして彼はそこの二階の寝台の上ですこぶる愉快に監視を享楽した。
一方、ザーグナー大尉の組は解散となった――旅団長が一時間以上も副官を探していたのだが、やっと見つかって、その旨を伝えられたタイルレ大尉はいそいでカフェを去ったからである。
旅団長が副官を呼んだのは、今日到着した九一連隊のことに関してであった。ガリシアの東北方面に陣していたロシア軍が突然退却を開始したので、オーストリア軍の方では連絡上非常な混乱をきたした。かてて加えて色んな予備兵隊が後方からどしどしやって来る、その一例が九一連隊のあとを追ってサノクに到着したハノーバー師団のドイツ予備兵隊である。このドイツ予備兵隊の隊長というのは、見るからに嫌な顔をした大佐で、サノクに着くとすぐ、旅団長に対し、九一連隊の宿舎ときまっていた中学校の校舎を自分の隊の兵卒に、また「鉄石旅団」の本部となっているクラカウ銀行の建物を自分の隊の本部に引き渡すよう強硬に申しでた。
旅団長は師団本部と打ちあわせた結果、その夜のうちにサノクを去ってツーロワからサンボルにかけて陣することとなり、従って九一連隊の出征大隊もツーロワに向って出発することとなった。何しろ事が急なので、九一連隊の宿舎に当てられた中学校の校舎の中はごった返した。将校連は会議を開いたが、ドウプ少尉の姿が見えない。彼を捜索せよとの命令を受けたのがシュベイクである。
「申し上げます、中尉殿。何か書いたものを戴きたいであります。でないと、ご承知の通り、ドウプ少尉殿と私との間にはきっとややこしいことが持ちあがるからであります」
会議を開くにつき至急帰るべし、とルーカッシュ中尉が紙片に記している間、シュベイクはつづけて言った――
「いつもの通り、ご心配ご無用であります。少尉殿のおられる所は解っとるであります――少尉殿が野戦軍法会議に突きだす兵卒を引っつかまえるために、つまり少尉殿の『悪い半面』を見せるために出かけられた場所は、兵卒たちがみんなで跡をつけて突きとめといたであります」
いまドウプ少尉がさかんに監視を享楽しているこの種のカフェは、二つの部分から成りたっている。裏口には必ずドイツ語、ポーランド語、マジャール語、なんでもござれのやりて婆《ばばあ》がいて「ちょいと、旦那、おはいりよ、綺麗な娘がいますよ」と呼びこむ。
客が兵卒だと、取引きも簡単である――応接間といったような所に案内され、やりて婆の方で見計らっておいた女を呼ぶ、と女は下着のまま現れて、すぐお金を、とくる。やりて婆が受取って兵卒が銃剣を預ける、といった工合だ。
将校の場合は、待遇がちがう――奥の広間といったような所へ通され、酒肴《しゅこう》のうちに好きな女を選択する。それから二階へ案内されるのだ。ドウプ少尉は、こういった二階の一間で、「鉄石旅団」副官の色女エリーから――どこでも、そしていつでも見受ける手だが――悲劇的な半生の物語をしてもらっているところだった。これでも以前は、|れっき《ヽヽヽ》とした家に生まれペスト市の高等女学校で先生をしていたんだが、恋した男に死に別れてとうとうこんな所へ、とか何とか。
シュベイクは順序を踏んで裏口からはいった。下着のまま出てきて彼を物にしようとした女を突きはなしたので、その女は大声をあげた。その声に出て来た女将は、少尉殿なんて客はいない、と白々しい嘘をつき、はては金切り声を挙げるので、シュベイクはこれを突きのけて階段をあがろうとした。そこへ現れたこの家の主人、ポーランドの落ちぶれた貴族は、シュベイクの上着を引っつかんで、兵卒は階下だ、二階へ上っちゃいかん、とドイツ語でさけんだ。
女を買いに来たのではない、全軍隊の安危にかかわる少尉殿を探しに来たんだ、ということを注意したが、いっかな聞き入れそうにもないので、シュベイクはこの落ちぶれ貴族を階段の下へ突きおとしてしまった。さて捜索にとりかかったが、どの部屋もからっぽであった。一番奥の部屋の戸をたたいたとき、中からエリーの声で――
「駄目よ、はいっちゃ」
しかしすぐドウプ少尉が呂律の廻らぬ舌で――「はいれ!」と言った、兵営にいるつもりらしい。
シュベイクは戸を開けてはいった、そして全くだらしのない恰好をして長椅子に横たわっているドウプ少尉に、持って来た紙片を渡しながら――「申し上げます少尉殿。すぐ服をきて宿舎の方へいってください、重大なる会議が開かれるところであります」
少尉は紙片を受取ったが、何が書いてあるか|かいもく《ヽヽヽヽ》解らないらしい。すぐ引きさいて――「勘弁してくれって? 軍隊は学校と違うんだぞ――いいか――とうとう、貴――貴様を女――女郎屋でとっつかまえたんだ。も――もっと近よれ、びんたを食らわしてやるから――こら、マケドニアのフィリップ王がローマ人を破ったのは紀元何年だか知っとるか? 知らん――だろう、馬鹿者め」
こういった調子であったから、ドウプ少尉をどうにか納得させて宿舎まで連れかえるのは、シュベイクにとって容易なことではなかった。しかし、一方こういった調子であったればこそ、ドウプ少尉の目をかすめてそこにあった火酒の飲み残りをぐっと乾すぐらいは、シュベイクにとって容易であった。
会議室へころげるようにはいってきたドウプ少尉は、討論が終るまで首をさげたきり、ただ思いだしたように――「諸君、諸君の意見はもっともです、しかし僕は酔っとるです」と言うだけであった。
ルーカッシュ中尉は弱った。しかし何を言っても相手が酔っぱらっているので、ともかく別室へ連れさして従卒のクーネルトに介抱させることにした。クーネルトがはいってきた時は、少尉は人が変ったようにおとなしくなっていた。クーネルトの掌《てのひら》を見ながら未来の細君の名前を占ってやろうと言った。
「ええっと、君は何と言う名前だったっけね? 僕の上着のポケットから手帳と鉛筆を出してくれ。クーネルトと言うんだね、よし、じゃ十五分ほどしたら来てくれ、この紙片へ君の未来の細君の名前を書いてやるからな」
言い終るか終らないうちに、彼はもう高鼾をかきだした。が、またすぐ眼を醒して、手帳へ何か|なすり《ヽヽヽ》つけた。しかしすぐそれを引きさいて床の上へ放りだし、秘密そうに指を口元へやりながら――「まだできない、十五分たってから来い」
馬鹿正直なクーネルトは、十五分経つと本当にやって来た、ドウプ少尉は何と書いてやった?――「君の未来の細君の名前は――クーネルト夫人」
その後クーネルトはこの紙片をシュベイクに見せた。
「おいクーネルト、そいつあ家宝として蔵《しま》っとくがいいぜ」と、シュベイクが言った。「将校殿の書いた記録なんて、そうやすやすと手にはいるものじゃねえからな」
第十一中隊がルーカッシュ中尉指揮のもとにツーロワオルスカに向ってサノクを立ったのは五時半頃であった。
シュベイクは、背嚢をせおい銃をかついで、辛抱づよくルーカッシュ中尉の乗った馬と歩調をあわせて歩いた。そして中尉に話しかけるともなく、馬に話しかけるともなく、さきほど出発に際して旅団長の話した軍事郵便のことを話題にした〔出発に当たって何か一場の講話をやらないと気が済まない鉄石旅団長は、うまい話題もなかったので――というよりもすっかり種切れになっていたので――軍事郵便のことを話したのだ〕――
「さっきの講話はすてきでしたなあ、戦線にいて家から手紙をもらうなんて悪かありませんぜ。私なんざ、兵舎あてに、たった一度しか手紙をもらったことがないんでさ。そいつあ今でもちゃんと|とって《ヽヽヽ》置いてますがね………」
シュベイクはきたない革財布の中から油のしみだらけの手紙を取りだした。この時、ルーカッシュ中尉の馬が速足になったので、シュベイクはそれに歩調をあわせ、なかば駈けながらその手紙を読むのであった――
「やい下司野郎! 人殺しの悪漢! クルシシュ伍長が帰休でプラハへ帰って来て『コーカン』であたしと踊った。その時お前のことを話してくれた――お前は、ブードワイスの『青蛙』でどこの馬の骨とも解らないような女といっしょに踊っていて、このあたしのことなんぞすっかり忘れてしまっているという。あたしはお前を見限った、これが縁切り状だ。お前の昔のボベュナより。憶えてやがれ――伍長がブードワイスへ帰ったらお前をうんといじめてくれるように頼んどいたから、憶えてやがれ――お前が帰休で帰ってきても、もうあたしはこの娑婆にはおらんから」
「もちろん」と、シュベイクは相変らず馬に歩調をあわせながら言った。「わしが帰ってみると、女はまだ娑婆にいましたよ。しかも『コーカン』で二人の兵士を相手にふざけていたんで。一人の兵士ときたら女の下着のなかへ手をいれているというような始末。中尉殿、都会の踊り場などへ出入りしている女よりは田舎娘の方が正直のようですなあ。だいぶ前の話ですが、ムーニシュクへ演習に出かけたときのこと、カルラ・ベクロフという女と知合いになったんでさ。ある日二人で池の傍にゆき土手を腰をおろしたとき、沈みゆく太陽を眺めながら女に訊いてみたんでさ――『お前わしが好きかい?』って。申し上げます、中尉殿。黄昏の空気はいやに生温く、小鳥はあちらこちらでさえずっておりました、女は私の問いにたいし、恐しく大きな声で笑い出しながら言ったのであります――『好きだとも、お尻に挟まった藁|しべ《ヽヽ》みたいにな。お前さん本当に馬鹿だね』。考えてみりゃ、私は本当に馬鹿だったんであります。申し上げます、中尉殿。私たち二人はその池の傍へゆくまでに、人っ子ひとり見えないような畑の中、高く伸びた麦の中を通ったんでありますが、馬鹿な私はこの神に恵まれた機会を利用してその中に腰をおろせばよいものを、何ということでしょう、この百姓娘に向って、これは小麦であれが大麦、それからあれは燕麦だなんて説明したもんであります」
「シュベイク、お前なんの寝言を言っとる?」と、ルーカッシュ中尉は馬上から言って、馬に鞭を当てた。長い列車旅行に疲れた兵士たちは、久し振りの行軍に直ぐ参ってしまって、列がすっかりみだれたのを中尉は直しに行ったのである。
二輪の病院車に乗せられていたドウプ少尉は、がたがたゆられたので、すっかり眼をさましたらしい。しかしまだすっかりは酔いがさめていないと見えて、五百歩ばかり前方の路上に砂煙がまきあがってそのなかから兵士たちの姿が現れたのを車の窓から眺めた彼は、感激してさけんだ――「兵士諸君! 諸君の任務は重かつ大だ。行軍の前途には多大なる艱難辛苦がある。しかし、吾輩は諸君の忍耐と強固なる意志に信頼してやまないんである」
そこまでどなったドウプ少尉は、突然車の窓からさかんに反吐をやり出した。それが終ると、またけろりとして――「進め! 進め!」
その後しばらくして少尉は病院車からおりて自分の小隊に加わったが、まだ十分酔いが抜けていないと見え、ルーカッシュ中尉に向って言った――「お前まだ吾輩を知っとらん、だが吾輩の何たるかを知って見ろ……」
「君が、どんな事をやらかしたか、シュベイクにきいて見ろ」
そう言われると少からず不安な気持になった。少尉は早速バロウンを相手に何か話しているシュベイクの所へおもむいて、ちょっと聞きたいことがあるからこっちへ来てくれと言った。そして列からすこし離れると、心配そうな調子でシュベイクにたずねるのであった――「貴様ら吾輩のことをしゃべってたんじゃねえか?」
「決して、決して少尉殿。食べ物の話をしてたんであります」
「ルーカッシュ中尉の話によれば、吾輩が何かやらかしたとかやらかさなかったとかで、お前がそのことを詳しく知っとるそうだが」
シュベイクはひどく真面目くさって一語一語力をいれて言った。
「少尉殿は何もやらかさなかったであります。ただ女郎屋を訪問されただけでありまして、それも何かの間違いだったのであります。チーゲン広場にピンプラってブリキ職人がありましたが、この男は街のブリキの買いだしに出かけるとなかなか帰ってこない、きっと『シューバ』か、でなきゃ『ドボルシャク』かのどっちかに寄ってるのですな。これは、私が少尉殿を発見した所と同じようなアイマイ屋で、下がカフェで、二階には変な女がおるんであります。さて、出発前会議を開きまするに際し、少尉殿をお呼びに私がおもむきましたとき、少尉殿はあすこの家の二階で女のわきにおられましたが、暑苦しいところへもってきて火酒をおあがりになっておられたため、裸で長椅子の上に横になられ、私が誰だかもお解りにならなかったのであります。しかし少尉殿は何もやらかさなかったばかりか、『貴様は吾輩を知っとらん』とも言われなかったであります」
けれども、聴いていたドウプ少尉は、シュベイクが自分を侮辱しているのだと感じた。そこで、もうすっかり正気に立ちかえった彼はどなりつけた――「貴様はいまに吾輩の何たるかを知るじゃろう! いったいその姿勢は何じゃ?」
「申し上げます、少尉殿。私の姿勢はよろしくないであります、私は、申し上げます、踵をくっつけるのを忘れたであります。すぐ改めるであります」
一点非難の打ちどころのないシュベイクの不動の姿勢を見て、ドウプ少尉は何と文句をつけてよいか解らなかった。止むをえず――「気を付けろよ、このつぎはそのままに見逃さねえから」と言ったが、すぐまた例の文句をつぎ足した――「貴様はまだ吾輩を知っとらん、だが吾輩は貴様を知っとるぞ」
ツーロワオルスカに着いたドウプ少尉は、従卒のクーネルトに瓶に水をくんでこいと命じた。
瓶と水を手にいれるのは容易なわざではなかった。さんざん探しまわった揚げ句、やっとのことで牧師の宅から瓶を盗みだし、板を打ちつけて塞《ふさ》いであった井戸から水をくんで、それにいれた。水をくむためには板を二三枚破らねばならなかったくらい、その井戸は厳重に保護されていた――この水はチブス菌含有の疑いがあったから。
ドウプ少尉は息もつがせず、瓶の水を飲み乾してしまった、かくて彼は『良い豚は何でも食う』という諺を実証したわけである。
やっとたどりついたツーロワオルスカに泊るものだと思ったのが大間違い、疲れも休めず、その足で更に東南方に当るリスコイエッツに向い、そこで初めて夜営することとなった。
シュベイク、ワニエーク、ホドウンスキーおよびバロウンの四人が先発隊に選ばれて、夜営の準備に向った。夕闇につつまれた森の中をいそぐのは、ことに久し振りの行軍でへとへとになった四人にとって堪えられないほど苦しかった。
図体に似ず胆っ玉の小さなバロウンは、何だか気味が悪くなってきた――「おい仲間」と、彼は小さな声でささやくように言った。「俺ら犠牲ってやつにされたんだぜ」
「どうしてだい?」とシュベイクは反対にどなるように問いかえした。
「仲間、そうどなってくれるなよ」とバロウンはなお低い声で言った。「俺らもう先が短いぜ、この辺にゃ敵がいて、今にも俺らに射撃を始めるにきまってる。俺にゃ何もかもちゃんと解ってるんだ。俺らが設営隊だなんて、そりゃ嘘だよ、実は敵がこの辺にいるかいないか偵察にするための体《てい》のいい前哨隊なんだ。俺らはもう先が短いぜ」
「じゃ先頭に立てよ、バロウン」とシュベイク。「俺らお前の後ろにくっついていって、お前がばったりやられたら直ぐ『伏せ』をやるからな。お前だって兵士じゃねえか。兵士たるものが射たれるのを怖がるってことがあるか! 喜ぶのが本当じゃねえか、敵がお前を射てば射つほど、敵の弾薬の貯えがへるわけだろう、いいか、したがって敵の戦闘力が減るわけじゃ。そのうち敵の兵士も喜ぶってんだから、なお結構じゃねえか。なぜって? 馬鹿だな、重い弾薬|盒《ごう》が空っぽになりゃ逃げるに楽だろうじゃねえか」
バロウンは溜息をもらした――「家にいりゃ美味《うめ》えものも食えるんだのに」
「止せやい、食い物の話は!」と、シュベイクはどなりつけた。「陛下のために戦死しろよ。貴様軍隊で何と教わったんだ?」
「戦死もしようよ――せめて人間の食い物らしいものを当てがってくれりゃなあ」
「なんて食い意地の張った豚だろう。戦闘に出かける兵士には何も食わしちゃいかんって、俺らウンターグーツ大尉から聴かされてたものじゃ。『やい、野郎ども。腹いっぱい食って戦闘に出て弾丸に当ってみろ、お陀仏だぞ。スープだの軍用パンだのが流れだして炎症を起こすからじゃ。しかし腹が空っぽなら、弾丸の一つぐらい、屁ともねえ、蚊に刺されたも同様じゃ』」
「俺あ」とバロウン。「すぐ消化しちまうよ。何をいくら食ったって一時間と経たねえうちに腹が空っぽになっちまうんだ。魚の骨だろうが杏《あんず》の種だろうが、俺の腹の中へはいりゃ、すっかり溶けちまうんだからな。いつぞやわざと勘定してみたことがあるよ――杏の種を七十、丸のみにしちまってさ、物置の後ろへ垂れた糞の中から種を選りわけてみたのさ。いいか、七十のうち種の形をしたのは半分もなかったぜ」
あたりはもうすっかり暗くなってしまった。夜営の場所と決めた村にはいると、あちらからも、こちらからも一斉に犬が吠えだした。
「おい、引きかえそうじゃねえか?」と、食い物の話で折角元気づきかけていたバロウンは、また心配そうにささやいた。
「おいバロウン、引きかえしたけりゃ引きかえしてみな」と、シュベイク。「うしろから射ち殺してやるから」
犬はますます吠えた。「静かにしないか!――しッ、しッ」と、シュベイクがどなりつけるので、かえって犬は吠えるのであった。それが次の村、次の村へと伝わっていく。
「シュベイク、そうどなるなよ」と、ワニエークが注意した。「でないと、ガリシア全体の犬が吠えだすぜ」
なぜ犬がこうも吠えたか? 見知らぬ人間の近づいたのを恐がったからだろう、と思っちゃ、そりゃ間違いだ、犬は、自分達に結構なご馳走――人間の骨や馬の屍――を残していってくれるお客様の見えたのを喜んで、歓迎の辞を述べたのである。
突然、地から湧いたかと思われるように、四匹の野良犬がシュベイクに飛びついて嬉しそうに尾を振るのであった。シュベイクは真暗ななかで、まるで子供に話しかけるようにその野良犬の頭を撫でながら――「よう来た、いい児じゃ。骨と団子をうんとあげるよ。そして俺らはまた明日敵をめがけて進むのじゃ。よう来た、ご馳走をうんと食わしてやるよ」
この辺の住民は軍隊の徴発におびえきっている。シュベイクの一行が夜営の交渉にいった村長も、何とかかんとか文句をつけて夜営をことわろうとした――この村は打ちつづく徴発でもう何一つ残っていない、探せば出てくるのが、疥癬《かいせん》の虫とコレラの黴菌《ばいきん》ぐらいのものだ、隣の村は大きくて裕福だ、歩いても一時間足らずで行けるから、そこへ案内しよう、全くこの村には牛一頭もいない、子供が病気にかかっても隣り村まで牛乳を買いにいかなくちゃというような始末――と弁解しておるやさき、牛小屋からモーモーと啼くのが聞えて来た。
「この村でたった一頭しかない牛と言えば、いま皆さんがお聞きの通り、隣りのボイシクが飼っている病牛だけでございます」と、村長はしらじらしく言った。「この前の徴発に仔牛を持っていかれたので、それからというものは可哀想にこの牛は乳が出なくなったんでございます、おまけに危険な病気にかかっていまして、はい」
そう言いながら、彼はすばやく身支度をととのえて、シュベイクの一行をうながした――「隣り村までは一時間とかからないんでございます。森の中の近道を通れば半時間でも行けましょう。隣り村には大きな家もありますし、火酒もありますし。露助《ろすけ》をやっつけなさる立派なオーストリア帝国の兵隊さんが、なんでこんな虱と疥癬とコレラの巣のような所に泊る必要がございましょう、隣り村でごゆっくりとご休息なされませ。昨日もこの村ではコレラで三人くたばったんでございます……」
だまって聞いていたシュベイクは、このとき厳然たる態度で言った――「諸君、スウェーデン戦争の頃の話だが、兵士の夜営を拒絶したある村長は、たちどころに付近の木に首を吊るされたことがあるんである」
「村長」と、彼は村長に向き直って、「この近くに木のあるのはどこじゃ?」
村長にはその意味がのみ込めなかったらしい。今ちょうど枝も折れんばかりに実っているサクランボのことに気付き、あわてて言った――「果物のなっている木なんて、一本もないでございます、はい。家の前に槲《かしわ》の木が一本あるきりで、はい」
「よし」と、シュベイクはどこの国民にも解るような絞首の真似をして見せ、「じゃ貴様を貴様の家の前に吊るしてやろう。我々はこの村に夜営すべしとの命を受けたのであって、何とかいうその隣り村へじゃないんだ。貴様が我軍の戦術上の計画を変更するか、それともスウェーデン戦争のときのように、我々が貴様の首を吊るすか。諸君、グロス付近で演習をやったとき、こんなことがあった、すなわち……」
このとき、ワニエーク主計曹長がさえぎった――「シュベイク、その話はあとにしてくれ、おい、村長、早く警鐘でも鳴らして夜営の用意をしろ!」
村長はぶるぶる震えながら今までのは決して悪気で言ったことではない、こんな所でも我慢なさるならばできるだけのご便宜を計りましょうと、あやまるのであった。
ホドウンスキーが急にさけんだ――「さあ大変だ、バロウンが見えないぞ!」
そのときだ、台所との間の戸が開いて、ぬっとバロウンの顔が現われた――開闢以来こんな珍妙なオーストリア兵があったろうか、一面に真白で、その長い鬚の先からは、べっとりした白い雫《しずく》がたれている。
「台所へ忍びこんでな」と、白面の怪物はその唯一の赤い場所をもぐもぐさせた。「何か頬張ったんじゃ。辛くも甘くもない、パン粉のこねたやつじゃったよ」
驚いたことには、バロウンの腹は、今にも産気づきそうな妊婦のように、はち切れそうである。シュベイクはそこを突っつきながら訊いた――「これはどうしたというんじゃ? バロウン」
「胡瓜じゃ」と、バロウンは肩で息をつきながらやっと答えた。「塩漬けの胡瓜じゃ。大急ぎで三本だけ食つちゃったが、残りはみんな持ってきたよ」
そう言いながら彼は、上着の下から胡瓜を一本一本取り出して、みんなに分けてやった。ちょうどそこへ提灯を持ってやってきた村長が、この有様にびっくりしてさけんだ――
「南無阿弥陀仏、この前は露助から、こんどは自分の国の兵隊から徴発されるとは、何の因果じゃ!」
村長の案内で一同は夜営の場所を探しに出かけた。なぜだかバロウンのまわりに犬が集まって離れようとしない。
「どうして犬がお前の後ばかりくっつくんだい?」と、シュベイクが聞いた。
「いい人間の匂いがするからさ」と、バロウンはしばらく考えたのち答えた。その実、彼が台所で徴発した豚の脂肉をそっとポケットの中に忍ばせていたのを、犬がかぎつけたのであった。
砲火の洗礼こそ受けなかったが、この村の状態は悲惨なものであった。打ちつづく徴発で物資の欠乏しているところへ、家を焼かれた付近の村々の住民が寄り集まってきたので、小さな一軒の家に八つの家族が住んでいるという有様だった。
村はずれにある荒れはてた小さな酒精工場へ、中隊の約半分が泊ることとなり、残りは約十人ずつ金持の家に割りあてた。これらの金持は、他村の者をその広々とした屋敷に泊めず、口ではひどく困っているようなことを言いながらも、まだ色んなものを充分に隠匿していた。宿舎はどうにか決まったが、厄介なのは食糧品を探すことであった。豚を一匹見つけ出せと命じられたワニエーク主計曹長とパウリーチェク炊事卒は、村じゅう駆けめぐったが、どこへいっても同じような答えであった――露助がかたっぱしから徴発してしまったので、何一つ残っちゃいない。
両人は居酒屋をやっているユダヤ人を起こした。ユダヤ人はさかんに泣き言を並べながらも、骨と皮ばかりの生後百年も経ったかと思われるような牝牛を買い上げてくれとせがむのであった。彼は法外な値を吹っかけておいて、この今にもくたばりそうな牛を賞めちぎった――こんな立派な牛は、ガリシアはおろかオーストリア、ドイツ、いやヨーロッパ、いやいや全世界を鐘太鼓で探しても見つかるまい。そう言った後、涙をこぼしながら誓うのであった――これはエホバの神のご命令でこの世に現れたところの最も肥えた牝牛である。これは神様から授かった奇蹟じゃというわけで、遠方からの見物人が引きもきらず、また見物した人は誰でもこれはただの牛じゃない、水牛じゃと言うくらいである……。
いい加減ほめちぎったのち、急に両人の前にひざまずいて拝むのであった。「――この牝牛をお持ち下さらないなら、いっそこの哀れなユダヤ人を叩き殺してくださりませ」
泣きわめくという大騒ぎに、両人は厄介な代物をしょわされると知りながら、とうとう根負けしてこの骨と皮ばかりの牛を野戦炊事場へ引っぱってゆくことにした。受け取った金を懐にしまったのちユダヤ人は泣きながら愚痴のありったけをならべた――この牛を取られちゃ破滅じゃ、こんな立派な牛を二束三文に売りとばした自分は、好んで乞食になったも同様じゃ、なんて馬鹿な真似をしたものだろう。
両人がよぼよぼの牛を引っぱっていってしまうと同時に、彼の今までの悲嘆はたちまちに消えて、懐に手を当てながら我が家へと飛ぶように帰った。
「エルゼや」と、彼は細君の顎を撫でながら言った。「兵隊なんて馬鹿な者じゃ、それに引きかえ、お前のナータン〔ユダヤの予言者と同じ名〕の利巧さはどうじゃ」
エホバの神の創り給うたこの世界一の牝牛を料理するのは、これもまた世界一の難事であった。どうにか皮を剥がすと、すぐその下から骨が現れた。骨にしがみ付いてどうしても離れようとしない肉〔これでも肉と言えるならば〕を馬鈴薯といっしょに煮はじめたが、煮れば煮るほど肉は堅く骨にしがみつくばかりであった、ちょうど長い半世を役所の書類の中に埋もれて暮らして徽《かび》の生えた官吏のように。
中隊本部と炊事場の間を往復して連絡をとっていたシュベイクがルーカッシュ中尉に報告した――
「中尉殿。あの牛肉はガラスが切れるほど固いであります。バロウンといっしょに毒味をしたバウリチェクが前歯を折り、バロウンは臼歯を折ったという始末であります」
世界一の名牛は、佃煮にするより外に料理の仕様がなかった。したがってその夜の食事には間にあわず、翌朝になればどうにか食えるかもしれないという予想がついた。
忠勇なる第十一中隊の兵士達は、このリスコイエッツの牛肉を思いだすごとに、怒気すさまじく憤慨するのであった。もし、戦闘中にこれほどの怒気を示したならば、敵は戦わずして逃げだしたに違いない。
翌朝リスコイエッツからザンボルに向って出発することになったが、例の牛肉はいっこうに柔かくなりそうな感じがないので、野戦炊事車で運びながら煮ることにした。
ドウプ少尉の容態はまた悪くなったので病院車に乗せられた。弱ったのは従卒のクーネルトである。ひっきりなしに水をくんで来いと命じられるので、それだけでも充分に疲れた。
「誰を――なにを笑っちょる? 貴様らは」と、へとへとに衰弱しているくせに、ドウプ少尉は相変らず口やかましく車の中からどなった。「吾輩をからかうなんて飛んでもねえ――貴様らいまに吾輩の何たるかを知って見ろ」
シュベイクは、ルーカッシュ中尉の乗った馬に歩調をあわせながら、いっこう疲れた様子も見せず先ほどからしゃべりつづけている――
「中尉殿、もうお気づきでしょうが、みんなだらしがねえですなあ、まるで蝿みたいじゃありませんか。三十キロぽっちのものをしょって、うんうんうなっとるですからな、こんなときは、あの亡くなったブハーネク中尉殿みたいに訓話をやるのがいちばんいいんです――この中尉は、結婚に際し未来の舅《しゅうと》から結婚保証金をもらったんですが、その金を変な女にいれあげてしまい、また二度目の保証金を二度目の未来の舅からしぼったが、こいつも賭博で|すって《ヽヽヽ》しまって結婚するはずの女は二人とも棄ててかえりみないという始末。三度目の未来の舅から引きだした保証金は、馬を買うのに使ったんですが、その馬はアラビア種の牝でしたが、純粋なものでなく……」
ルーカッシュ中尉は馬から飛びおりた。
「シュベイク!」と、彼は威嚇するような口調で言った。「四度目の保証金の話をしてみろ、溝のなかへ投げこんじまうから!」
中尉はまた馬に乗った。シュベイクは真面目くさって話をつづけた――
「申し上げます、中尉殿。四度目の保証金の話は、しようにもできないであります――ブハーネク中尉殿は三度目の保証金を引き出したのち、短銃自殺をやったのであります」
「やっと済んだのか」と、ルーカッシュ中尉が言った。
「いや、これから本題にはいるので」シュベイクは語り始めた。「つまり結婚保証金を三度も三人の未来の舅から取って自殺してしまったブハーネク中尉殿が私たちに聞かせたような訓話をですな、我が軍の兵卒一同に聞かせなくちゃならんです。『やい野郎ども、よく聞け』と行軍の途中に休めをさせて置いて、からです、『貴様らのような、顔を見ただけで胸糞の悪くなるほど馬鹿な畜生どもにゃ、この地球上を行軍している意味が解るめえ。貴様らいちど太陽の上を行軍してみるがいいんだ――この地球という貧弱な惑星の上じゃ六十キロしか重みのないものでも、太陽の上へ行きゃ二百八十キロになるんだぞ、銃一挺持っただけで貴様ら|へとへと《ヽヽヽヽ》になって、追い廻された犬みたいに長い舌をだらりと出すに決まっとる』この中尉殿の訓話を聞いていた中には学校の先生をやっていた兵士がいたんです。『お話の途中で失礼ですが』と、その先生が口をいれました。『月の上では六十キロの体重の人間は僅か十三キロの重みしかありません。月の上の行軍はずっと楽だろうと思われます、背嚢がたった二キロにしかならないんであります』――『こん畜生』と、それを聞いた中尉殿がどなりました、『貴様|ぴんた《ヽヽヽ》を食らいてぇんだな、が、まあ安心するがいいや、普通の地球上的な|ぴんた《ヽヽヽ》で我慢してやるから。月の|ぴんた《ヽヽヽ》でも食ってみろ、アルプスあたりまでふっとんじまうぞ』。可愛想に学校の先生は、太陽の|ぴんた《ヽヽヽ》ほど重いやつを食ったうえ、六週間も営倉にぶちこまれたんでさ。しかもヘルニアを患っていたのに詐病だってわけで無理に平行棒をやらされ、とうとう病院で死んじまいましたっけ」
「今までにも度々言ったことだが」ルーカッシュ中尉が言った。「お前は、どうも変なふうに、つまり婉曲にだな、将校を侮辱する癖がある」
「どうしてです?」とシュベイク。「私はただ、以前軍隊では自ら求めて不幸に陥ったものがあるという話をしたつもりなんですが。あのときなんぞも、その中尉殿の鼻を折ろうとして出しゃばった先生が、中尉殿の頓智で地上的な|ぴんた《ヽヽヽ》をくらったとき、みんな喜びましたぜ、はらはらしたのが、やっと息をつけたんですからね。いったいこの頓智ってやつは重宝なもので、数年前のことですがプラハにエーノムって小鳥屋がありましてね、製本屋ピーレクの娘と交際を……」
ルーカッシュ中尉は、シュベイクの話に飽き飽きしたと見え、馬に拍車を当てながら言った――「独りで晩までしゃべってるがいい、そんな馬鹿げた話をよくも覚えていられるもんだなあ」
「中尉殿」と、シュベイクは駈けだした中尉の馬の後を追って走りながら言った。「話は途中ですが、お終いまで聴きたくないでありますか?」
中尉殿の馬はシュベイクに埃をあびせて走りさった。
旅団からの伝令が、十一中隊に対する命令を持って、馬を飛ばして来た。ザンボルに向う予定をフェルトスタインに変更せよ、ザンボルには既に二個連隊も宿営しているので、ルーカッシュ中尉の中隊を泊めることはまったく不可能である、というのである。
猫の眼のような予定の変更には慣れっこになっている中尉も、ちょっと困った。が、ぐずぐずしてはおれないので、取りあえずワニエーク主計曹長とシュベイクをつかわして、フェルトスタインに夜営所の用意をさせることにした。
「途中で面倒なことを引きおこさないでくれ、シュベイク」と、中尉は注意をあたえた。「住民の反感を買うようなことのないように気を付けるんだぞ」
「申し上げます、中尉殿。できるだけ気を付けるのであります。実は、今朝がた嫌な夢を見たんであります――私の住居の廊下に置いてあった盥《たらい》の水が夜どおし漏りまして、階下に住まっている人の天井をすっかりぬらしたので、朝っぱらから文句をもちこまれたんであります。中尉殿、夢は正夢とか申しまして、ちょうど同じようなことがカロリーネンタールの……」
「馬鹿話は止して、ワニエークといっしょに地図でも調べて早く道順を決めてくれ」
ワニエークといっしょに地図を研究してシュベイクは、いきれるような暑さのなかをフェルトスタインに向って出発した。戦死した兵士をほうりこんで、ろくに土もかけていない溝の中からは、鼻もちのならぬ臭いがしてきた。川沿いの森には砲兵隊の暴れた跡がはっきり残っている――焼棒杭《やけぼっくい》がぽつりぽつり立っているだけだった。
「プラハの近所とはちと様子が違うぜ』と、シュベイクが沈黙を破った。
「俺らんとこじゃ、もう穫《と》り入れ時だがなあ」と、ワニエーク主計曹長は憂鬱な合槌を打った。
「戦争が済みゃ、ここいら、いい穫り入れができるぜ」と、しばらくしてシュベイクが言った。「骨粉肥料を施さないでもいいんだ。ここいらの百姓はうめえことをしたっていうものよ、連隊全体が結構な肥料になってくれるんだもの。肥料と言いや、こんな話がある――カロリーネンタールの兵営にホループ中尉というのがいてね、教養上兵卒をののしらない、何でも科学的に処置するというんで、みんなから馬鹿だと思われているほど教養があったんだ。あるとき兵隊が、こんな屁っぴりパンは食えねえ、と中尉に申しでたことがある。ほかの将校だったらどうだ、こんなずうずうしさには仁王様のように怒るところだ。だがこの中尉はそうじゃない、顔色ひとつ変えない、誰にも豚だとか犬だとかどならない、びんたひとつ喰わなせない。部下一同を呼んでおだやかな調子でこう言っただけだ――『何よりも、兵士諸君、兵営は高級食料品店ではないという点を知っておいてもらいたい。高級食料品店なら酢漬の鰻《うなぎ》でも油漬の鰯《いわし》でもサンドイッチでも何でもあろうが。兵士は、与えられたものは何でも不平を言わずに食べるだけの教養があり、食べる物の品質をとやかく言わないように訓練されておらねばならん。もし戦争が起こったと考えてみよう。戦闘の後に諸君の埋められる土地にとっては、諸君が戦死する前にどんな種類の軍用パンを腹につめておこうと、ぜんぜん同じことなんである。大地は諸君をほぐして長靴といっしょに食ってしまうんだ。世界は少しも減少することがない、諸君から新しい麦が生長して新しい軍用パンとなる、そしてこの新しい兵士がまた諸君と同様に多分この軍用パンに不満であろう、不平をならべて出かけて誰かからお陀仏するまで営倉にぶちこまれることとなろう。以後注意して食物の不平など言わないようにしてもらいたい』。中尉殿の演説のお上品さが兵隊には物足りなかった。そこで中隊から私が代表に選ばれて、中隊の者はみんな中尉殿を好きだが、どならなくちゃ軍人じゃない、と言いにいくこととなった。私は中尉を私宅に訪問してお願いした、遠慮はすっかり棄ててカチカチの軍人になってもらいたい。兵隊は豚か犬だということを毎日思いださせるようなくせをつけておかぬと上官を尊敬しなくなるから、ということをね。中尉はなかなか聞きいれてくれないで、知性《インテリゲンヅ》について話し、今日では軍隊でも殴ったり蹴ったりなんかするものではないと言っていたが、私があんまりしつっこく|せがむ《ヽヽヽ》ものだから、ついに怒って私の横面をひっぱたき私を戸のそとへ突きだしたっけ」
かなり歩いたとき、急に立ちどまったシュベイクはあたりを見まわしながら言った――「右の方へ行って、それから左へ、それからまた右へ、次に左へ、つまり真直ぐに行くわけだ。しゃべってるうちに間違えたのかな。ここで道が分れているが、左へ行こうじゃないか」
岐路に立った場合は常に右へ――という諺にしたがって、右へ行こうとワニエーク主計曹長は主張した。
「わしの道は」と、シュベイク。「あんたのより楽ですぜ。わしゃワスレナグサの咲いている小川のほとりに沿って歩くから、あんたは陽のかっかと照りつけるとこを|てくる《ヽヽヽ》がよろしかろう。どうしたって間違えっこなし、と中尉殿がおっしゃったからにゃ、何も坂道を通って苦しむにも及ぶまいじゃないか。わしゃ草原を通って可愛い花を帽子に差したり、中尉殿に美しい花束をこさえてあげるんだ。すべての道はフェルトスタインに通ず、どうせじきまた会うんだから、ここで仲よく別れようぜ」
「お前、気でも狂ったんじゃねえか、おいシュベイク。地図にしたがえば、俺の言ったとおりここから右の方に、行かなくちゃ」
「地図ってやつがそもそも怪しいもんでな」と、シュベイクは小川の方へくだって行きながら言った。「ソーセージ屋のクルシエーネークを見なされ、ある晩『月曜』新聞付録のプラハ市の地図どおりに家へ帰ろうとしたんだが、飛んでもねえ畑の中へ迷いこんで倒れたってことがあるよ。あんたが強情を張るならここで別れましょうや。どっちが先にフェルトスタインに着くか、時計を見といてください。途中何か変事でも起こったら、空へ向けて発砲してくれりゃ、あんたの居所が解りますからな」
夕方近く、シュベイクはある池の傍へやって来た。そこで水を浴びていた一人のロシア捕虜の逃亡兵が、シュベイクの姿を見て、丸裸のままあわてて逃げだした。
しだれ柳の下に脱ぎすてられてあったロシア兵の制服、こいつをひとつ着てみたら、とシュベイクは好奇心を起こした。そこで彼は自分の制服を脱ぎ、森の後ろに宿営していた捕虜輸送隊から逃げだした哀れな裸ん坊のロシア捕虜の制服を着用に及んだ。そして水鏡に写る自分の姿を徹底的に拝見いたそう、というわけで、池の土手をあちらこちら歩いているところへ、このロシアの逃亡捕虜を探しにきた野戦憲兵隊の巡邏兵に見つけられた。
シュベイクの弁解はすべて無駄であった。マジャール人である巡邏兵は、シュベイクの言葉には耳をかさず、ヒルーワに引っぱっていって、プルゼミスル線路の改良工事に使役することになっているロシア捕虜輸送隊の中にぶちこんでしまった。
シュベイクが翌日になってやっと呑みこめたほど、ことは迅速に行われたのである。これについてシュベイクはロシア捕虜の一部が泊っている部屋の白壁に木片で次のように書き置いた――「設営中に誤って自国軍の捕虜となりし歩兵第九一連隊第十一中隊付き伝令、プラハ出身ヨセフ・シュベイクここに宿泊す」
第四部 赫々たる潰走(二)
一 シュベイク、ロシア捕虜兵となる
捕虜収容所から逃げだしたロシア兵の制服を、好奇心から着用におよんだシュベイクは、同じオーストリア・ハンガリー帝国には属するが言葉の通じないマジャール人の憲兵に見つかり、百方弁解に努めたが、てんで問題にされず、ヒルーワのロシア捕虜兵輸送隊の中にぶちこまれた。すてばちの絶叫を収容所の壁に木片で書き残したが、誰もそんなものには注意を払ってくれなかった。またロシア兵でないということを何度うったえても、「黙ってひっこんでろ、このロシア豚め!」と、どなりつけられて棒でひっぱたかれるのがおちであった。この場合に限ったことではなく、言葉の通じないロシア捕虜兵にたいするマジャール人の態度は、いつもこうであった。
幸いにも、シュベイクは東方諸民族の仲間いりをすることができた。この捕虜輸送隊には、タタール人、グルジア人、オセット人、チェルカッシュ人、モルダビア人、カルムーク人などがいた。しかし、不幸にも、言葉の解らないシュベイクは、誰とも話すことができなかった。
シュベイクをまじえたロシア捕虜兵は、ヒルーワからドブローミルへ引っぱっていかれ、そこからブルゼミスルを経てニランコーイッツに達する線路を修繕することになった。
一行三百名のこのロシア捕虜兵を一人一人登録するのは容易のわざでない。この登録の仕事にあたる軍曹は、ロシア話ができるというので現在東ガリシアで通訳をやっているのだが、この軍曹のロシア語の解るものはロシア捕虜の中に一人もいない。三週間あまり前に独露辞典と文法の本を注文しておいたのがまだ着かないので、ロシア語の代わりに以前の商売上多少ながら習ったことのあるスロバキア語をかたことまじりに話したのである。途方にくれた軍曹殿はどなった。「ドイツ語の話せる奴はおらんか!」
列から飛びだしたシュベイクが喜色満面、走って軍曹に近づくと、軍曹は俺について事務所へこいと目くばせした。
捕虜の氏名、来歴、所属などを記入する用紙の山のうしろにすわった軍曹とシュベイクとのあいだに面白いドイツ語の会話が始まった。
「貴様ユダヤ人だろう、どうだ! うそをついちゃいかん」首を横にふるシュベイクに向って通訳軍曹はつづけた。「ドイツ語の解る捕虜は、きまってユダヤ人だったぞ。貴様の名前は? シュベイク? そうれ見ろ、そんなユダヤ名前のくせになぜうそをつく。どこの生れだ? ああプラハか、知っとる、知っとる、ワルシャワの近所だ。二週間ほど前にもワルシャワ付近のプラハで生れたユダヤ人が二人ここにいたぞ。それから貴様の連隊は、何連隊? 九一だって?」
軍曹は便覧を手にとってめくりながら、「九一連隊はコーカサス地方のエリーワンで、幹部はチフリスにいる。どうじゃ、我が軍では何でも知っとるじゃろ」
変なことを言うなあ、と思っているシュベイクにはかまわず、軍曹殿はまじめくさってつづけた。――「俺はここじゃ大将なんだぞ。俺が何とか言や、誰でもふるえあがって|へえつくばる《ヽヽヽヽヽヽ》んじゃ。我が軍では貴様らとちがった規律が行われてるのじゃ。貴様らのツァー〔露帝〕は|ごろつき《ヽヽヽヽ》じゃが、俺んとこのツァーは頭がいいんだぞ。いま俺が見せてやるからな、我が軍ではどんなに規律が守られているかということが貴様に解るようにな」彼は隣室の戸を開けて呼んだ、「ハンス・レーフラ!」
「はい!」と返事をして現れたのは、不具者のようなこぶのある兵卒。この男はここで女中代わりの役をつとめている。
「ハンス・レーフラ」と、軍曹は命令した。「あすこにある俺のパイプを、犬が物をくわえて持ってくるように口にいれて、四つんばいになってこの机のぐるりを、俺がやめろと言うまで廻れ! 廻りながら吠えるんだ、パイプを口から落とさんようにしてな、もしおとしたら縛りあげるぞ!」
アルプスの山奥から出てきたこのこぶつきの男は、四つんばいになって吠えはじめた。
軍曹は勝ちほこったようにシュベイクを見ながら言った――「のう、俺の言った通りじゃろう。我が軍では、こんなに規律が守られとるんじゃ」
見世物が終ったときシュベイクは、かたことまじりのドイツ語で話しだした――主人の命ずることなら何でもやるという従順な従卒があった。主人のたれた糞をスプーンで食えと主人から言われたら食うか、ときかれたとき、その従卒は言った――「少尉殿が命令されるなら、命令に従って食べましょう。しかし、糞の中にかみの毛がはいってちゃいやです、毛のはいっている食い物はたまらなくいやで、それを見ると直ぐ気が遠くなるんです」
軍曹は笑った――「貴様たちユダヤ人はなかなか話がうまい、しかし軍紀のきびしさにかけちゃ貴様らには負けんぞ。そこで話を本筋に戻してじゃ、俺は貴様に捕虜輸送をまかそう。晩までに全捕虜の氏名を書きあげてくれ。食事の世話をすること、十人ずつの組にわけること、逃げないようにすること。もし一人でも逃げたら、貴様を銃殺じゃ!」
「軍曹殿、自分は話したいことがあります」
「取引きをするんじゃない、俺あ大嫌いじゃ。貴様おそろしく早くオーストリアの気風にそまったもんじゃな。――こっそりこの俺と話したい!――貴様ら捕虜ときたら、わけへだてなくしてやればやるほど、つけあがってくる。――すぐ出てうせろ、ここに紙と鉛筆があるから目録をつくってこい。まだ何か言いたいことが?」
「申し上げます、軍曹殿……」
「出てうせろ! 俺の仕事がどんなにあるか貴様解らんか!」軍曹の顔には、全く働きすぎた人間の表情が現れていた。
シュベイクは挙手の敬礼をした、そして捕虜のいるところへ歩きながら思った、何事も忍耐だ、陛下のための忍耐だ。
目録の作成は全くやっかいな仕事であった。シュベイクは今までに色んな経験をしてきたが、このタタールやグルジアやモルダビアの名前だけはどうしても頭にはいらなかった。「このタタール人のような」と、シュベイクは思った。「ムーハーレイ・アブドラフマーノフ――ベイムーラト・アッラハーリ――ジェレージェ・チェルデージェ――ダルラートバーレイ・ネウダガレーエフなんて名前がある、と言ったって誰も本当にすまいな」
このバブーラ・ハッレイエス君やヒュードジ・ムードジス君などの名前をやっとのことで書きあげたシュベイクは、自分が誤ってロシア捕虜兵の中にいれられたいきさつをもう一度軍曹に言明しようと決心して軍曹のところへやってきた。
コンツーショウカ酒のへばりついたひげのさきをぴんと立てた軍曹殿は、軍歌の調子にあわせて新聞の三行広告欄の文句を読んでいた。広告の文句が長すぎたり短かすぎたりする場合、軍曹は暴力をもって行進曲の拍子にあわそうとした、すなわち拳固で卓を叩いたり、靴でゆかを踏みつけたりして。
シュベイクはロシア兵とまちがえられるにいたった一くさりをこまごまと述べ終ったが、それは完全に徒労であった、シュベイクがロシア兵の水浴していた池のところへ来ないうちに、軍曹の方ではとっくに眠ってしまっていたからだ。
シュベイクは親しげに彼に近づいて肩をゆすった。ゆすっただけで軍曹は椅子から床の上にころげ落ちたが、そのまますやすやと眠りつづけた。
「ご無礼したであります、軍曹殿」と、シュベイクは言って、挙手の敬礼をしたのち事務所を去った。
自分はロシア兵ではなく、九一連隊十一中隊の伝令だ、ということを説明する機会にめぐまれないうちに、プルゼミスルに着き、その夕刻、砲弾で粉砕された要塞内の以前に砲兵隊の厩舎に使っていた建物の中にいれられた。そこの藁《わら》には、甘いものにたかった蟻のように、虱《しらみ》がうようよしていた。
ここで捕虜輸送はオルフ少佐の手に移された。捕虜はプルゼミスル要塞の修理に使われるのである。ロシア捕虜はかならず自分の持っている技術をごまかすものだ、とオルフ少佐はきめていた。「鉄道を敷設することができるか」という通訳による問いにたいし、どの捕虜も判で押したように「何も知りません、そのようなことは耳にしたこともありません、真正直に暮らしてきたんであります」と答えるに決まっていたからだ。
さて、このたびロシア捕虜の一隊が少佐およびその幕僚の前に整列したとき、少佐はまずドイツ語で、誰かドイツ語で話せる者はいないか、ときいた。
待ってましたとばかりシュベイクが少佐の前に飛びだしたのは、もちろんである。
喜びを包みきれない様子の少佐は、すぐシュベイクに技術者ではないかときいた。
「申し上げます、少佐殿」と、シュベイクは答えた。「自分は技術者でないでありますが、九一連隊十一中隊の伝令であります。自分は我が軍の捕虜となったんであります。こういうわけで、少佐殿……」
「何だと?」と、オルフ少佐はどなった。
「申し上げます、少佐殿、つまり……」
「チェコ人だな」と、オルフ少佐はどなりつづけた。「ロシア兵の制服に変装してるんだな」
「申し上げます、少佐殿、まったくその通りであります。少佐殿がすぐ自分の窮境を見ぬいてくださったので、自分はまったく嬉しいであります。今頃はもう自分たちの部隊がどこかで戦っているのに、自分だけがこの戦争中ぼやぼやしてるなんて。自分はもう一度はっきりと説明するであります、少佐殿」
「沢山だ」と、少佐は言って、二人の兵士を呼び、この男を警備本部に連れてゆけと命じた。
当時、チェコ連隊から脱走してロシア軍に投降するものが少からずあった。その後、投降連中がキエフなどで出くわして「貴様ここで何をしちょる?」と、きくと、愉快そうに笑いながら「陛下を裏切ったのさ」と、答えるのであった。
警備本部ヘシュベイクを連れていく途中、オルフ少佐と部下の大尉との間に、シュベイクの処罰について議論が戦わされた。
警備本部で訊問ののちただちに本部の裏で絞首すべきだ、との少佐の主張に反対し、大尉は、被告を逮捕し軍法会議で審理すべきだ、とした。もちろん被告は絞首刑に処すべきではあるが、軍法会議法の正当な道をふんでの上である、そうすれば、すなわち、詳しく調べれば、同様な犯罪がもっとあらわれてくるかもしれない。
オルフ少佐はがんとして譲歩しない。今までかくれていた彼の非人間性が、この脱走スパイを訊問ののちただちに自分の責任で絞首せしめるのだ、と主張した。戦争中は面倒な手続きをふむに及ばぬ、脱走してつかまった奴は片っぱしから絞首してよいのだ、脱走というような重大な罪をおかさなくとも、あやしげな奴を絞首してよい権利が大尉以上の将校にはあるのだ、と少佐は、絞首の法的根拠にはいささか自信を欠いたが、行きがかり上、自分の主張をまげなかった。
「あなたにはそんな権利はありません」と、大尉は興奮して叫んだ。「軍法会議の正常な判決により絞首すべきです」
「判決なしに絞首するんだ」と、少佐はがんばった。
ふたりの面白い議論を聞きながら歩かされていたシュベイクは、チロルかどこか山奥出の護送兵に話しかけた――「リーベンのある酒場でね、常連が集まっての議論だ――みんなが面白く話してるとかならず騒ぎだして邪魔をする帽子屋のワーシャクを、いつ外へほうりだしたものか、はいって来たらすぐつまみ出すのだ、と一人が言えば、奴がビールを注文して金を払って飲んでしまったときがよい、と、も一人が言う。いや、一踊り踊ってからにしろ、と三人目が言う。ところで、やっこさんどうなったと思う? その酒場へ姿を見せなかったとさ」
オルフ少佐は、結局、大尉の意見にしたがい、ちょっと手続きをふんで――これで『合法的』と言えるのだ――絞首にすることにした。
シュベイクは、オルフ少佐の書いた調書に署名したのち、護衛兵つきで陸軍司令部に連行された。この調書には、シュベイクはオーストリアの軍籍にありながら故意に、誰の強制も受けずにロシアの制服を着用し、ロシア軍が撤退したとき戦線の後方で憲兵に捕われたものである。とあった。
これは天地神明にちかってもよい事実だ。正直な人間としてシュベイクはなんら抗議すべきことがない。しかし、署名する前に、事情をもう少し詳しく説明しようとしたとき、少佐殿は頭からどなりつけた――「黙れ、そんなことを訊いちょるんじゃない! 事件はこれで明々白々じゃ」
シュベイクは少佐の一言一言に頭をさげながら言った――「申し上げます、自分は黙るであります、事件は明々白々じゃであります」
陸軍司令部に送られたシュベイクは、もと米倉と同時に鼠の寮となっていた穴の中にいれられた。床の上には米がいっぱい散らかっており、鼠はシュベイクの存在なんか無視して走りまわっている。シュベイクは藁布団を探して来たが、暗闇の中でよく見ると、早速その中に鼠の一家族が引越してきていた。シュベイクは入口の戸を叩いた。ポーランド人の伍長がやってきた。そこでシュベイクは頼んだ――藁布団の中の鼠をおしつぶすなら、取りも直さず軍の財産に損害をあたえることになる、軍の倉庫あるものはすべて国庫に属するのだ、だから別の部屋に代えてもらいたい。
このポーランド人にはシュベイクの言ったことがよく解らなかったらしい。侮辱されたとでも思ったか、何やらぶつぶつ言って拳固でシュベイクをおどかしながら去った。
その夜シュベイクは案外静かに過ごした。鼠は彼にたいし大した要求をしなかった。兵士の外套や帽子のはいっている隣りの倉庫で夜業にいそがしかったからである。
軍倉庫に国費支弁の猫〔しかしこいつは恩給をよこせとは言わぬ〕をいれることに経理部が気づいたのは、一年もたってからのことであった。
昔、と言ってもマリア・テレジア女帝の頃だが、戦争中にやはり猫を軍の倉庫にいれたことがある、経理部のおえらがたが自分たちが被服を横領したのを可哀想に鼠になすりつけようとして。
ところで、この『帝国』猫たちも、たいていの場合、その義務を果たさなかった。そこで、レオポルド皇帝の時代に、ポホルシェーレツの軍倉庫において六匹の猫が軍法会議の判決により絞首刑に処せられたことがある。この倉庫に勤務していた人々は、そのとき、腹を抱えて笑ったものだろう、と私は確信する。
朝、コーヒーといっしょに、ロシアの制服を着けた人間が、シュベイクのところにいれられた。
この男はポーランドなまりのチェコ語をしゃべった。こいつは軍で逆スパイをつとめる人間のくずの一人である。この男、はいって来ると、いきなり話しだした――
「自分の不注意から飛んだ目にあったよ。わしゃ二八連隊のもので、すぐロシア方で働くようになったが、馬鹿なことでつかまった。わしは第六キエフ師団に勤めていたが、お前はロシアのどこの連隊で働いていたんだい? 俺らロシアのどこかで会ったような気がするがなあ。キエフでチェコ人の知合いが沢山あったよ、みんなロシア軍に投降した連中さ。名前は今ちょっと思いだせねえが、お前誰かをおぼえてるだろうな、俺らの二八連隊からあちらにいっている誰とつきあっていたか聞かせてもらいたいんだが」
何とも返事をしないで、シュベイクは、そっと相手のひたいに手をあて、つぎに脈をとり、最後には小さいあかり窓のところに連れていって舌を出させた。この畜生、ちっともさからわずにシュベイクのなすがままにまかせた、反逆者仲間の何か一定の合図なんだろうと想像したからである。診察を終ってシュベイクは戸を強く叩いた。番人がやってきてなぜそんなに騒ぐのかと聞いたとき、シュベイクは、自分のところに連れてこられた男が発狂したからすぐ医者を呼んでもらいたい、とドイツ語とチェコ語でたのんだ。
が、無駄であった、その男は連れ出されないで、あいかわらずキエフの作り話をつづけている。シュベイクをキエフで確かに見たことがある。シュベイクがロシア兵といっしょに行進しているのを確かに見た、と言うのである。
「あんたは沼の水を飲んだに違いないんです」と、シュベイクは言った。「わしの町のチネーツケイの倅《せがれ》の場合とおなじですよ。この男、なかなかしっかりしてたんですが、あるとき旅行をしましてね、イタリアまでいったんでさ。それ以来、イタリアは沼の水ばっかりで紀念物なんて一つもないということばかり話すんです。この男、そこの沼水を飲んで熱病にかかったんですな、年に四回、昇天祭を始めとして祭日にかならず熱病の発作がおこる。すると、まるっきり見たことも聞いたこともない人をつかまえて、あなたを識っていますよとくる、ちょうどあんたとおなじですな。電車の中で誰にでも、やあしばらく、存じあげていますよ、ウィーンの停車場でお見かけしました、と話しかける。往来で出会う人は誰でも、ミラノの駅で見たことがあるか、でなければグラーツの議事堂地下室でいっしょに酒を飲んだことがある人々ばっかり。この男が沼水の熱病になったとき、料理屋にいたんだが、そこのお客さんの顔をみんなおぼえていましたぜ、ヴェネチアへ渡る汽船の中で見たことがあるんですとさ」
「私はキエフにいる貴方の仲間をみんな識っていますよ」と、逆スパイの手代はうむことなく繰りかえした。「あちらで貴方といっしょに、こんなに肥ったのや、こんなにやせたのがいたでしょう? 今ちょっと思いだせないんだが、何という名前だったか、どこの連隊の者だったか……」
「無駄なことはお止しなさいよ」と、シュベイクはなぐさめた。「ふとっちょややせっぽちの名前を一々おぼえておかないということは誰にでもありうることですよ。もちろんやせた人間をおぼえる方がやっかいでさ、世間にゃ、やせっぽちのほうが多いんですからな」
「おい仲間」と、『帝国』畜生は泣きだしそうな声で言った。「俺の言うことを茶化すなよ。お互いにおなじ運命が待ってんだぜ」
「兵隊にされるという運命にな」と、シュベイクは投げやり気味に言った。「おっ母《かあ》の腹を痛めたのも、軍のおしきせをもらうまでの苦労も、みんなそのためさ。陛下のため皇室のためには俺ら喜んでたおれるんだ。俺らの骨は無駄にくさってしまうことがないってことを知ってるから喜んで死ねるんだ。俺らの骨から砂糖工場でつかう骨炭を造るんだって、何年か前にチンマー少尉殿から聞かされたよ――『豚同様の野郎ども、無学文盲の雌豚、やくざでのろまの猿公《えてこう》。貴様あ戦場でくたばってみろ、その四つ脚の骨の一本一本から五百グラムの骨炭が、つまり一匹から前脚後脚合計で二キログラムの骨炭が採れるんじゃ。製糖工場では貴様らを使って砂糖を濾過するんじゃ、馬鹿野郎ども。貴様らのような奴でも、くたばりゃ子供のためになるということを、貴様らちっとも知るめえ。貴様らの餓鬼どもは貴様らの骨で造った砂糖をなめて育つんだぞ』わしゃ急に考えこんだ。すると少尉殿が何を考えこんどるかと訊いた。『申し上げます、将校殿の骨炭は自分達へっぽこ兵隊の骨炭よりはずっと高いにちがいないと考えとるであります』と答えたら、三日間の独房監禁ときたよ」
シュベイクの相棒は、戸を軽く叩いて、番人とこそこそやっていたが、番人は急ぎ足で事務室の方へ走っていった。
と間もなく本部の軍曹らしいのがシュベイクの相棒を連れさり、シュベイクはまた一人ぼっちにされた。去りぎわにこの犬は軍曹に向って大きな声で言った――「あれはキエフからの古い仲間ですよ」
翌朝シュベイクは法廷に呼びだされた。が、どんな種類の法廷だったのか、もう今日では思い出せない。しかし軍法会議ってものにはちがいない。しかも陪席としては将官があり、それから大佐と少佐と中尉に少尉、軍曹と歩兵らしいのもいた。もっともこの歩兵は他の連中の巻煙草に火をつけること以外に何もしなかったが。
訊問は簡単だった。
少佐はいくらかは興味を持ったらしくチェコ語で話した――「君は陛下を裏切ったね」
「とんでもない、いつでありますか?」と、シュベイクは叫んだ。「こんなにまで苦労して勤めてきた陛下を、我々の尊い生き神様を、この自分が裏切ったなんて?」
「芝居は止すがいい」と、少佐は言った。
「申し上げます。少佐殿、陛下を裏切るのは芝居でないであります。我々戦時下の国民は陛下に忠誠をちかったのであります、劇場で歌った通りこのちかいを、自分は一|赤子《せきし》として実行したであります」
「これこの通り、君の犯罪に関する証拠があがっている」と、言って少佐はぶあつい書類をさして見せた。
この証拠なるものの主な材料は、シュベイクのところにいれられていた男の提供したものだ。
「これでも白状しないんだね?」と、少佐は問うた。
「オーストリアの軍籍にありながらロシア兵の制服を自分の意思で着たという点を自認しているではないか。本官はもう一度訊くが、それをするのに何か強制を受けたのではないか」
「自分は強制を受けずにやったであります」
「自由意志で?」
「自由意志で」
「圧迫なしに?」
「圧迫なしに」
「君の状況は絶望的だ、解ったね」
「解っているであります。九一連隊では自分をずいぶん長く探しとるであります。しかしながら、少佐殿、他人の服を自由意思で取りかえる話をちょっと申し上げるであります。一九〇八年は七月のこと、プラハ市ランゲン小路の製本屋ボシェーテッヒが、ベロウン河の支流で、服を柳の木の間に脱いでおいて、水を浴びていたんであります。そこへ一人の紳士がやってきた、一言二言話しあっているうちに心やすくなり冗談口をきいたり水をかけ合ったりして夕方まで過ごしたんであります。お腹が空いたからと言って、くだんの紳士が一足さきに水から出たあと、ボシェーテッヒはしばらく水の中につかっていたが、さて柳の木の間へ服を着にいったところ、そこにあったのはひどいぼろ服と紙片――『私は長いこと迷いました、なすべきか、なさざるべきか、我々は水の中であんなに愉快に遊んだのですから、そこで私はひとりうらないをやりましたところ、なせ! と出ました。そこで私は貴方の服と私のぼろとを取りかえっこしました。ぼろとは言え、ご安心あって着用なさるがよろしい、一週間前にドブルシシュの役所で虱の駆除は済んでありますから。ただ今後は、水浴の相手に気をつけることであります。水の中では誰だって裸ですから国会議員様のように見えるが、実は殺人強盗であるかもしれません。誰といっしょに水浴していたのか、おそらく貴方でもご存知あるめぇだったのです。水浴場なるものは、このためにあるわけです。ちょうど夕刻ですが、水浴は今いちばん気持がよいのです。もう一度おはいりなさい、そして正気に返りなさい』
ボシェーテッヒさんは暗くなるまで待つよりほかに仕方がなかった。それからこのルンペン服を着てプラハの方向に歩きだした。県道をさけて畑路をとおったが、運わるく憲兵の巡視に出くわしたんであります。憲兵はこの浮浪人を捕えて翌日地方裁判所へ送ったが、これは怪しい者でも何でもない、プラハ市ランゲン小路十六番地の製本屋ヨセフ・ボシェーテッヒだってことは誰にでも解りまさ」
チェコ語のほとんど解らない書記は、被告シュベイクが同犯者の住所を述べたものと思い、それで問いなおした――「たしかにプラハ市ランゲン小路十六番地ヨセフ・ボシェーテッヒだね?」
「まだそこに住んでいるかどうか解りませんがね」と、シュベイクは答えた。「しかし一九〇八年のその頃はそこに住んでいましたよ。なかなか製本のうまい職人でしたが、時間がかかるのでね、まず読んでその内容に合うように製本しようというんです。もっと詳しいことをお話ししましょうかな? おぼえてますが、毎日『フレック』酒場にやってきて、製本を頼まれた書物の内容を話してくれましたっけ」
少佐が書記に近より何やら耳うちすると、書記はこの新しい反逆罪容疑者ボシェーテッヒの住所を書類から消してしまった。
かくて再びこの軍法会議の方式による珍妙な審理が、フィンク・フォン・フィンケンシュタイン将軍のもとに、続行された。
世の中にはマッチのラベルを集める癖があるように、軍法会議を開くのが、この将軍の癖であった。陪席判事なんて無用だ、宣告は自分でくだす、どんな奴でも三時間以内に絞首しなくちゃならん、と口癖のように言っていた。
毎日きまって碁将棋を一席やらなくちゃ済まぬという人があるように、この優秀なる将軍は、毎日一度は軍法会議を開いて自分が議長となり、非常なる真剣味と喜びをもって被告に挑戦するのであった。
絞首ということを、何か簡単なこと自然なこと、我々が三度の飯を食うくらいに、この将軍は考えていたのだ。「陛下の御名《みな》において本官は絞首刑に処す」と言うべきを、将軍は陛下を忘れてしまって、あっさり「本官は……」とやってのけることがしばしばあった。
しかも彼は絞首の喜劇的半面を感ずるときもあると見え、かつてこんな手紙をウィーンにいる妻に出したことがある――
「……数日前スパイの故をもって一教師に宣告を与えしとき、いかに面白き事であったか、貴女には想像も及ばないであろう。こちらには絞首に練達の士がおり、すでに充分なる経験を積んでおる。これはある軍曹にして絞首をスポーツの一種と心得ておる。この宣告の終りしとき我が天幕に来たり、教師をどこにて絞首すべきやと聞いたので、もよりの樹の下にて、と命令した。我々は草原地帯に在り、見渡す限り草以外になに一つ見えない場所である。しかしながら命令は絶対、そこで軍曹は教師に護衛兵を付し、樹を探し求むるために騎行にでた。夕刻になって彼らはようやく帰り着いた。しかもくだんの教師を引き連れておる。軍曹は再びこいつをどこで絞首すべきかと問うた。最寄りの樹の下と言ったはずだがと叱責したところ、彼は翌日再度試みんことを誓った。しかるに翌日に至り出頭せる軍曹は顔面蒼白、教師が早暁失踪せる旨を報告した。さすがの我も余りにおかしく番兵どもを全く不問に付せしめた。しかも、教師は自ら樹を探しに出かけたものであろうと洒落を飛ばしたくらいであった。このような次第なれば戦地にても決して退屈することなし。我が息子には、近々のうちに生けるロシア人を一匹、馬代わりに送るつもりだと伝えよ。
もう一つ面白い話を想い起こした。先日タバコ行商と称するユダヤ人をスパイの故をもって絞刑に処したが、数秒の後に綱索切断してユダヤ人は落下し直ちに意識を回復、我に対して叫んだ――『将軍閣下、私は家に帰らしてもらいます、貴方がたはもう私を絞首しました。法律によりますと、一つの事件で二度も絞首されるわけはありませんから』我は全く腹を抱えて笑い、このユダヤ人を放免した。最愛の妻よ、戦地にはなかなか面白きことが多い……」
フィンク将軍はプルゼミスル要塞の陸軍司令官となったので、前線にいた頃のような面白い芝居を打つ機会がそうたびたびはなかった。だから今度のシュベイク事件を非常に喜んで取りあげたのである。
シュベイクは虎の前に立たされたわけだ。この虎は長いテーブルの前にどっかとすわり巻煙草をしきりに吸いながら、シュベイクの供述を翻訳させてはうなずいている。
訊問係の少佐は、シュベイクがはたして九一連隊十一中隊の者であるかどうかを確かめるために旅団へ電報を打つことを提議した。将軍はこれに反対した。そんな手間をとっていたんでは迅速第一を旨とする軍法会議の精神が台無しとなる。被告はロシア兵の制服を着たと白状しているし、被告がキエフにいたことがあるという重要な証人の陳述もあることだ。すぐ判決の会議を開いて宣告をくだし刑の執行をしなくちゃならん、と主張した。
少佐はひとり、自分の意見を固執した――被告が果たして当人であるかどうかを確かめることが必要である、この事件は非常に政治的な意義があるからだ。当人だということが判れば、芋蔓《いもづる》式に投降仲間を挙げることができる。問題はこの被告一人だけではない、これはほんの糸口にすぎないのだ。
この糸口の説明が将軍の気にいった、糸口をたぐってゆけば次々と軍法会議が開けるからだ。そこで少佐の意見に賛成し、シュベイクが九一連隊に本当に属していたのか、いつロシア軍に投降したのか旅団の方へ照会することになり、シュベイクは、ひとまず陸軍監獄にいれられた。
軍法会議から帰ったフィンク将軍は、寝椅子に横たわって考えた、どうしてこの審理を早く片づけたものかと。迅速をもって鳴る俺の軍法会議が、返電を待っていたんでは駄目だ。おまけに引導式〔本書第一部の『シュベイク引導を渡す』の項参照〕で二時間も刑の執行がおくれる。
「どっちみち同じことだ」と、彼は考えた。「旅団からの返電が来ないうちに、つまり死刑の宣告をする前に、引導を渡しておいてやろう、絞首には決まってるんだから」
フィンク将軍は従軍牧師マルチーネクを呼びにやった。
従軍牧師マルチーネクは、今でも神様を信じている珍しい人間の一人であって、フィンク将軍の所に行くのは好きではなかった。将軍から強い酒をすすめられたり愚にもつかぬ下等な話をされるのは、この信心深い正直な牧師にとってたまらなかった。
「もう聞いたろうがね」と、将軍は嬉しそうに従軍牧師を迎えて言った。「軍法会議のことを。君の同国人を絞首するんじゃ」
『同国人』という言葉に、マルチーネク牧師は、悲しげに将軍の顔を見つめた。彼はモラビア出身で、チェコ人だと言われるのを日頃から苦にしていたからである。
「これは失礼」と将軍は言った。「忘れてたよ、君の同国人じゃなかった、チェコ人じゃ。脱走兵、反逆兵で、ロシア軍に勤めていたのを絞首するのじゃ。形式上の手続きをとっているんじゃが、そんなことはどうでもよい、電報が着きさえすりゃ直ぐ刑を執行するんじゃ。少しでも早く始末をつけるため、判決をくだす前に君から被告に引導を渡しておいてもらおうってわけさ」
将軍はベルを鳴らして召使いに命じた――
「昨日の蓄電池を二つ持ってこい」
大きなコップになみなみとついで彼は従軍牧師に言った――「ひとに引導を渡す前に、ちょっぴり自分のお腹へも引導を渡しとくんじゃ」
鉄格子のはまった窓から、知らぬが仏のシュベイクの歌がきこえてくる――
兵隊さんが大将だ
娘にもてる兵隊さん
宵越し金は使ゃせず
世の中のんきに暮らせるよ
タラララ、タララ、おいち、に、さん
二 引導
従軍牧師マルチーネクは、バレエの踊り子が舞台に出てくるように、ふわりふわりとシュベイクの監房へはいってきた。天にまします神への憧憬と一瓶の銘酒『グンポルズキルヒナ』が、このとき彼を羽毛のように軽くしたのである。シュベイクに近づくのが神様に近づくように思われた。
従軍牧師がはいったあと扉が閉められて二人きりとなった。牧師は折畳み寝台に腰をかけているシュベイクに向って感激の口調で言った。「いとしの息子よ、わしは従軍牧師マルチーネクじゃ」
シュベイクはたちあがり両手で牧師と握手して言った。「私は九一連隊十一中隊の伝令シュベイクと申す者であります。まあここへお掛けください。そしてなぜ従軍牧師殿をこんな所にぶちこんだのかお話しください。貴方は将校の身分じゃありませんか、将校監房があるはずじゃありませんか。それなのになぜこんな所へ、この寝台は虱だらけですよ」
「いや、いや、わしは監禁されたんじゃない、お前に引導を渡しに来たのじゃ」
と言って牧師は口をつぐんだ。ここまで来る途中、いろいろとうまい説教の筋書をねっておいたのに、結論を出してしまって弱った。どう続けて話そうかと考えていると、シュベイクが、煙草を持っていないかときく。
「わしゃ煙草は吸わぬ」と、威厳を示すように牧師は答えた。
「不思議ですなあ」と、シュベイクは言った。「私は従軍牧師をたくさん識ってますが、みんな酒精工場の煙突みたいに煙をはいていますよ。煙草を吸わぬ、酒を飲まぬ、という従軍牧師があるものですかねえ。たった一人例外がありましたがね、そいつ吸わぬ代わりに噛むんでして、教壇を唾だらけにしましたっけ――ときに貴方のお国はどちらで、従軍牧師殿」
「イーチンじゃ」と、帝国官吏マルチーネクは低い声で口ごもるように言った。
「それじゃ、従軍牧師殿、ローザ・ガンデスという女をご存知でしょうな。去年プラハ市プラットナー小路の葡萄酒屋にやとわれていたんですが、双子を生んだので、父であることを認めろという訴訟を一度に十八人の男に対して起こしたんです。双子のうち一人の眼が、片方は青で片方が茶、もう一人のは、片方が灰で片方が黒。この酒場に出入りして彼女と何かしら関係のあった男の中から、こんな眼の色をした四人を選んだのですな。双子のうちの一人はやはりそこに出入りしていた市会議員のようにびっこだし、もう一人は常連の代議士と同じく片方の足に指が六本あった……という工合に、この双子は十八人の男から一つずつ特徴をもらってたんですな。十八人とも酒場の密室か、でなければホテルでその女と関係しとるんです。結局、裁判所では、そんな混雑の中では父を見つけることはできん、と判決したので、女はとうとう酒場の持ち主、つまり自分の主人に責任を|なすりつけ《ヽヽヽヽヽ》、持ち主を訴えた。ところが、この男は手術の結果二八年以上も前から性交不能だということを証拠だてたんです。それで女は貴方のお国イーチンへおっ返されたんでさ。『ねえ、もしもの事があったら、どうしよう?』と、仕事がすんで帰ろうとする男に女が言えば、『心配するなよ、馬鹿だね、子供の面倒は俺が見てやらぁ』と、男は言うに決まってまさ。あの女も馬鹿だったんですね、双子の一人は代議士さんの子、もう一人は市会議員の子、あるいは誰だれの子と、兎も角二人だけに決めときゃ良かったんでさ。何月何日に誰とどこで寝たから何月何日に子供が生れたと証明すりゃ簡単ですからね。もっとも早産とか遅産とかがないとしてですが」
話が飛んでもないところにはいってしまったので、従軍牧師の引導のプランが滅茶苦茶になってしまった。さて、どうして本筋に戻して引導を渡そうか、と牧師は考えた。
「失礼ですが、従軍牧師殿。貴方はさっきから不動の姿勢でじっとすわっていて、話にはてんで実がはいらぬようですな。すぐ判りますぜ、豚箱にいれられるのが初めてなんでしょう」
「わしは」と、牧師は真面目くさって言った。「引導のために来たのじゃ」
「へえ、貴方でも引導が要るのですかねえ。私にゃ学問がないし、むつかしいこともしゃべれないから、貴方に引導を渡すことはできませんや。一度やってみたことはありますがね、どうも巧くいきませんでしたよ。まあここへおすわりなさい、何かお話ししましょう。私がオパートイッツァ小路に住んでいた頃、ホテルの門番をやっているファウスチンという友達がいたんです。正直で勤勉なよい男でしたよ。淫売女をよく識っていましてね、従軍牧師殿、夜どんな時間にでもホテルのこの男のところへいって「ファウスチンさん、女が欲しいんだが」と言ってご覧なさい。金髪か黒髪か、背の高いのか低いのか、やせたのか肥ったのか、ドイツ女かチェコ女か、それともユダヤ女か、未婚か後家か、それとも夫持ちか、女学校出かそうでないのか……と彼は良心的に訊きますよ」
シュベイクは親しげに従軍牧師にすり寄り、その腰を抱きながら話しつづけた――「そこでですな、牧師殿。貴方が『脚のすらりとした金髪が欲しいな、後家でインテリ臭くないのを』とおっしゃるとしましょうか、十分と経たないうち注文の女が戸籍謄本まで持って貴方の寝台にはいってくるんです」
従軍牧師は次第にいらいらしてきた。シュベイクはかまわず、母が子を抱くように牧師を自分の身体におしつけながら、つづけて言った――「ファウスチンさんが道徳とか信実をどんなに重んじていたか、貴方には解らないくらいですぜ。世話した女からびた一文だって取りゃしない、女どもが、うっかりして握らそうとしてご覧、奴さんどんなに興奮して怒鳴りちらすか見ものですぜ――『この雌豚め、貴様自分の身体を売り物にしゃがって、殺しても飽き足りないような罪を犯しながら、俺にギザ一枚寄こそうなんて。俺あ|やりて《ヽヽヽ》じゃねえんだぞ、この恥知らずの|ばいた《ヽヽヽ》め。貴様らが可哀想だからこそ世話してやっとるんじゃ、貴様らはもう堕落しきっとるが、通りすがりの人に恥をさらして巡査に取っつかまり、三日も警察の廊下を掃除させたくないからじゃ。少なくとも暖いところにいて、しかも貴様らが堕落しきっとるのを誰からも見られんようにしてやっとるんじゃ』。彼は客から金を貰うことは貰った、が、普通の淫売屋の亭主のやり方とはちがう。彼独特の税率がありましてね、青い眼の女は二十銭、黒眼は十五銭という工合に細かく分類し、請求書のように紙に書いて客に渡すんでさ。非常に格安な仲介料でしたよ。ところが、ある日の夕方、このファウスチンさん、えらく取りみだして私のところへやってきたものです。まるで市電の救助網のしたから引きだされ、しかもそのときは時計を盗まれたといったような様子で。最初は一口もしゃべらず、リキュールの瓶をポケットから取りだして飲み、私にも『飲め!』と言うんです。瓶を空っぽにするまで二人は何も話さなかったが、それから急に彼が言いだしたんです――『朋輩、どうか俺の願いをきいてくれ。表通りの窓を開けてくれ、俺が窓のところにすわるから、俺の足をつかんで三階からほうりだしてくれ。俺あこの世に何の望みもねえんだ、俺を極楽へやってくれる良い友達を見つけたことが、最後の慰めなんだ。俺が、この正直な俺が、ユダヤ人街の淫売屋の亭主みたいに仲介罪で告発されたんだ。俺を少しでもふびんだと思うなら、俺を三階からほうりだして、せめてもの慰めをしてくれ』。私は、それじゃ窓にのぼれと言って奴を往来に突き落してやりましたよ――そんなに驚きなさんな、従軍牧師殿」
シュベイクは従軍牧師を抱くようにして腰掛けの上に立った――「いいですか、牧師殿、こういう工合に彼を抱いて、すとんと落したんでさ」
シュベイクは、従軍牧師を高く差しあげてゆかの上に落した。胆《きも》をつぶした牧師が床から起き上がろうとすると、シュベイクは平然自若として語りつづけるのであった――「ねえ、従軍牧師殿、何ともないでしょう。彼、ファウスチンさんも何ともなかったんです。つまり、この三倍くらいの高さしかなかったんでさ。つまり、ファウスチンさんは完全に酔っぱらってたんで、私のオパトーイッシァ小路の家が一階で、一年前に私が住んでいたクルシェメーネッツ小路の家のように三階じゃないってことを、忘れていたんでさ」
腰掛けの上に立って腕を振りまわしているシュベイクを、牧師は、ゆかの上にころがったまま、あきれ返って見あげていた。
気ちがいを相手にしているのだ、という考えが従軍牧師に浮かんだ、そこで彼は「そうじゃ、三倍も高うはなかった」と言いながら、そろそろと扉の方へ後ずさりしていき、扉に達するや否や突然おそろしく大きな叫びと共に扉を叩きだしたので、誰かがやって来て扉を開いて連れだした。
従軍牧師が番兵にともなわれて盛んに身振り手振りをしながら営庭の向うに急いでゆくのを、鉄格子の窓から見ていたシュベイクは考えた――「可哀相、あの牧師さん気狂い部屋に連れてゆかれるんだろうなあ」
数分の後、従軍牧師はフィンク将軍のもとをおとずれた。
将軍のところでは、またもや大『会議』が始まっていた、この会議の主役は、二人の可愛い婦人と葡萄酒とリキュールである。
今朝の軍法会議の構成員が全部そろっている――煙草の火つけ役であったただの歩兵のぞいて。従軍牧師は、おとぎ話の幽霊のようにふわりふわりとはいってきた。何もしないのに横面をなぐられたのだと思ってる人間のように、興奮はしているが威厳をたもち、まっさおな顔をしていた。
最近この従軍牧師を好きになった将軍は、自分の寝椅子に引っぱり、呂律のまわらぬ声で訊いた――「どうしたと言うんじゃ、坊さん」
そのとき一人の婦人が面白がって巻煙草を牧師に投げつけた。「むずかしい顔をしてないで、一杯やれよ」と、言いながら、フィンク将軍は牧師に葡萄酒を大きな杯になみなみとついだ。牧師はその杯を手に取ろうとしないので、将軍はこれを牧師の口の中に流しこむのであった。
そこで初めて、引導を渡したときの被告の様子はどうだったかと訊かれた。従軍牧師は起ちあがっていかにも沈痛な声で答えた――「あの男、発狂したんです」
「そいつぁ、すばらしい引導式じゃったろう」と、将軍が笑うと、みなの者も、どっと笑いくずれた。二人の婦人はまた牧師に巻煙草を投げつけ始めた。
すこし飲みすぎた少佐は、テーブルのはしの肘掛け椅子でうとうとしていたが、この騒ぎに目をさまし、大きなコップにリキュールをつぎ、椅子を乗りこえて牧師のところへ行き、この煩悶せる神の召使いに乾杯を強要した。それから少佐は元の場所によろけながら戻り、また眠りつづけた。
この乾杯と同時に、従軍牧師は悪魔のわなに落ちたのである――卓上の酒瓶も、彼の方に向って脚を卓上に乗せている婦人の眼も、彼をつかもうとする悪魔の手であった。
それでも彼は眠りに落ちてしまう最後の瞬間まで、魂さえ清らかであれば良いのだ、こう苦しむのも自分が殉教者なればこそだ、と確信していた。
彼はぐっすり眠れず、へんな夢ばかり見た――一日中従軍牧師の仕事に追われ、夜になると、シュベイクからほうりだされたというファウスチンの代わりにホテルの門番を勤めた。方々から将軍のもとへ苦情が舞いこんだ――今度の門番は駄目だ、金髪の女を注文したのに黒髪のを寄こしたの、離婚したインテリ女が欲しいというのに無学な後家を世話しただのと。
三 シュベイク原隊に戻る
前日の午前シュベイクを審理するとき陪席判事として働いていた少佐が、その夜フィンク将軍のところで従軍牧師と乾杯してまた眠りつづけた当人である。
あの晩、少佐が、いつどうして将軍の家を出たのか、誰もしらないということは確かだ。みんないたのに、少佐のいなくなったのを気づいているものは一人もなかった。少佐はもう二時間も前からいないのに、将軍は、口ひげをひねり、間抜けた笑い声とともに叫んだ――「少佐、君の言うのは、もっともじゃ!」
翌朝、少佐を探したがどこにも見当らない。外套と剣は玄関の間にあったが、帽子だけは見つからない。家の中のどこか便所の中ででも眠ってるのではなかろうか、ということで、家中の便所を探したが見えない。少佐でなしに中尉が二階で見つかった、彼は便器の穴に口をつけたまま眠っていた。へどをはいているうちに急に眠くなったものだろう。
少佐は天狗にさらわれたように消えうせたのだ。
シュベイクのいれられている監房の鉄格子窓から中をのぞいて見る人があったとすれば、シュベイクがロシア兵外套にくるまって折畳み寝台に二人寝ており、その外套から長靴が二足はみ出ているのが見えたはずだ。
拍車のついたのが少佐の長靴で、拍車のないのがシュベイクのである。
ご両人は二匹の小猫のようにからみあって寝ている。シュベイクは腕を少佐の頭に差し出しているし、少佐はシュベイクの胴にしがみついていた。
これは摩訶不思議でも何でもない。少佐殿が職責を遂行したに過ぎないのだ。
読者諸君も次のような経験があるに違いないことと思う。誰かといっしょになり、徹夜して翌日の昼前まで飲む、と、突然諸君の飲み友達が頭をかかえる。そして飛びあがって叫ぶ――「しまった、八時に役所へ出なきゃならなかったんだ!」これが義務観念の発作というやつだ。
これに似た発作に少佐もおそわれたのだ。彼が肘掛け椅子で眼をさましたとき、一瞬シュベイクを訊問しなくちゃならん、と急に思いついたのである。この公務遂行の発作は、あまり突然かつ迅速にやってきたものだし、かつあまり急速かつ決定的に遂行されたので、少佐のいなくなるのを誰も気づかなかったのだ。
少佐が爆弾のような勢いで飛びこんだ監獄の衛兵所では、当直の軍曹が机によりかかって眠っているし、他の兵卒たちはいろんな恰好で白河夜船をこいでいた。
帽子を横っちょにかぶった少佐が物すごくののしりだしたので、みんなあくびを中途で噛みころしてしまった。そのくしゃくしゃになった顔は、少佐にはしかめっつらをした猿にしか見えなかった。少佐は拳固で机を叩き、まず軍曹に吠えついた――「間抜け野郎、こりゃ、耳に|たこ《ヽヽ》のできるほど言っちょるんじゃが、貴様の部下ときたら何て糞きたねえ奴ばかりそろえたんじゃ」つぎに、びっくりして突っ立っている兵卒に向って怒鳴った――「貴様ら、眠ってりゃ底抜けの馬鹿づらをしてやがる、起きりゃ起きてるで、めいめい大どんぶりに山盛のダイナマイトを平げましたってな面《つら》しちょるじゃねえか」
それから番兵の職務について内容豊富な長講一席をやり、終って、犯人を新たに訊問するのだからシュベイクのいる監房へすぐ連れてゆけと命じた。
こうして少佐がシュベイクのところへ来たときは、いわゆる「成熟期」にはいっていたのである。彼の最後の爆発は、監房の鍵を渡せということであった。さすがの軍曹も、自分の職責を思い出して、これだけはことわった。
「糞だらけの豚野郎め」と、癪にさわった少佐が怒鳴った。「その鍵を俺の手に渡してみろ、貴様らに思い知らしてやるんじゃが!」
「申し上げます」と、軍曹は答えた。「止むを得ず自分は、少佐殿を監房の中にいれるでありますが、同室の監禁者にたいして少佐殿を保護するために番兵をおいとくであります。ここからお出になりたいときは、戸を叩いていただきたいであります」
「馬鹿野郎、間抜け、阿呆、この俺が監禁者を怖がってるとでも思っちょるのか、俺が犯人をしらべるのに番兵をつけておくんだと? 畜生、早く俺を檻《おり》にいれて貴様らとっとと出てうせやがれ!」
戸の上のすき間からもれてくる石油ランプの弱い光では、さきほどから目をさまして直立不動の姿勢でこの訪問がいかが相成るか待っているシュベイクを、少佐には見わけるのが困難だった。
少佐に報告をするのが一番よい、と気づいたシュベイクは、張りきって叫んだ――「申し上げます、少佐殿。監禁された者一名、異状なしであります」
いったい全体なぜここへ来たのか、少佐は急に思い出せなかったので、こう言った――「休め! 監禁された者って、いったいどこにおるのじゃ」
「それが私なんで、申し上げます、少佐殿」と、シュベイクは、ほこらかに答えた。
ところが少佐は、この答えに注意しなかった。将軍の家で飲んだ葡萄酒やリキュールが彼の脳の中で最後のアルコール反応を呈し始めたからである。彼はいとも雄大なるあくびをした。帝国軍人でなかったらあごをはずしてしまったろう。彼はシュベイクの折畳み式寝台の上にくずれるように横たわり、屠殺される豚のような金切り声で
「ああ樅《もみ》の木よ、樅の木よ」と、『樅の木』の最初の二行を二三度、わけのわからぬ絶叫をまぜながら繰りかえし歌った。
それから小熊のように背中でまわり、すみっこで丸くなって鼾《いびき》をかき始めた。
「少佐殿」と、シュベイクは彼を起こそうとした。「申し上げます、虱にたかられるであります」だがそれは何にもならなかった。少佐は死んだように眠っている。
シュベイクは彼をやさしげに打ち眺めながら言った――
「じゃ、おやすみよ、赤鼻さん」そして自分の外套を掛けてやった。あとでシュベイクもそこへにじりこみ、こうして二人は翌朝まで、からみあっていたのである。
少佐捜索が頂点に達した九時頃、シュベイクは寝台からはい出して少佐殿を起こすべきだと考えた。二三回徹底的にゆさぶったうえ、ロシア外套をはぎとった、やっと少佐は寝台の上で起きあがり、ぼやっとシュベイクの顔を見ていたが、こりゃ一体どうしたことか謎を解いてくれと求める様子だった。
「申し上げます、少佐殿」と、シュベイクが言った。
「少佐殿がまだ生きておられるかどうかと、衛兵所からもう何回も見に来たであります。ふだん何時までお寝みか存じませんが、結局寝すごされてはいけないと思いましたので、勝手ながらいま起こしたであります。オウルシノーヴェッツの醸造場に毎朝六時まで寝る指物師がいたんです。ところが少しでも、例えば十五分間ですな、六時十五分まで寝すごしたとすれば、もうお昼まで寝てしまうんです。奴さんこの癖を止めないで、とうとうそこをお払い箱になったであります」
「貴様馬鹿だな、そうだろう?」と、片ことまじりのチェコ語で言った少佐の言葉には、いささかも疑惑の調子がなかった。なぜ自分がここへ来たのか、それには答えもしないで、首も足もないこのずんぐり野郎が、馬鹿なおしゃべりをしやがる。何もかもが彼には恐ろしく馬鹿げて見えた。昨夜ここへ来たことがあるような気がぼんやりとする、だがいったい何のために?
「俺は昨夜からここにいたんじゃな?」と、少佐は自信なげに問うた。
「そうであります、少佐殿のお話によりますと、少佐殿は自分を訊問に来られたんであります」
これで少佐も頭がはっきりしてきた。彼は自分自身をみつめていたが、次には何かを探すように自分のうしろを見まわした。
「ご心配は全然ご無用であります、少佐殿、そのままのお姿で来られたんであります。外套も剣もなしであります。帽子だけはかぶっていましたが、枕がわりに頭の下に敷こうとなさったから、取りあげてあすこへ置いといたであります。将校の礼帽と言いやシルクハットと同じでさ。シルクハットを枕に寝るのは、ロジェーニクのカルデーラツさんという人だけでしたね。料理屋でうつぶせになって寝たんですよ、シルクハットを枕にしましてね。おしつぶすようなことはないよ、と前もって言いましたが、どういう工合にやったものか一晩中シルクハットの上に頭の重みをほとんどかけないように浮かしていたんで、シルクハットには全然損害がなかった。損害がなかったどころか、ときどきシルクハットを引っくり返して自分の頭の髪でゆっくりとなでつけたもんだから、まるでブラシをかけたようにきれいになっていましたっけ」
シュベイクのしゃべるのを聞きながらぼんやり見ていた少佐も、やっと様子がのみこめたので、また繰りかえしこう言った――「貴様馬鹿だよ、そうだろう? 俺はここへ来たんじゃが、もう出てゆくぞ」立ちあがって扉のところへ行き、はげしく叩いた。
戸がまだ開けられない前に、彼はシュベイクに告げた――「貴様が貴様だという返電が来なかったら、貴様ぶらさがるんだぞ」
「有難うございます、少佐殿が自分のことを大変ご心配になってくださるのは存じあげておるであります。だけど、少佐殿。この折畳み寝台から多分お土産をお持ちかえりのことと思いますが、小さくって尻の赤いんだと雄にちがいありませんし、たった一匹しかいないで少佐殿のお腹に長い赤味の筋ができるくらいなら結構ですが、そうでないと夫婦そろいですから、こいつ鼠算以上にふえますでご用心しなくちゃならんであります」
「もう止してくれ!」と、シュベイクが戸を開けてくれたとき、少佐はしょんぼりと言った。
呼んでこさせた辻馬車に乗って自宅へかえる途中、少佐は考えた――あの犯人はA級の白痴にちがいないが、無邪気な畜生にすぎないんだろう。俺自身の問題となると、家へかえってすぐ自殺をするか、将軍のところから外套と剣を持って来さし、ひと風呂あびて一杯ひっかけ芝居を見にいくか、のどっちか一つだ。
家へ着く前に、彼は後者に決めた。
かえって見ると、ちょっとした不意の出来事が待っていた。ちょうどよい時にかえったのである――
廊下のところでフィンク将軍が、少佐の従卒の襟首をつかまえて怒鳴りつけている――「馬鹿野郎、少佐をどこへやった? 返答しろ、畜生!」
が、畜生は返答しなかった、顔が紫色になるほど将軍が強く首をしめていたからである。
この光景は少佐にとって、はなはだ面白い見ものである、だから彼は半びらきになった戸のところに立ったまま、自分の従卒の苦痛を見物していた。だいぶ以前からこの従卒は少佐の物をちょいちょいぬすむので、少佐はむかむしていたのである。
将軍は、あおくなった従卒の首をしめるのをちょっとゆるめてやった、それも、ポケットから電報を取りだすためで、取りだすとそれで従卒の口のあたりを叩き始めて叫んだ――
「少佐をどこへやったんだ、畜生、判事少佐はどこにいるんだ、畜生、貴様この公文電報を渡さなくちゃならんのだぞ!」
「ここにいます!」と、少佐は大きな声で答えた、判事少佐と電報という言葉の組合せが新しく彼に、ある程度の義務を想い起こさせたのである。
「おうかえりおったか!」と、叫んだ将軍の言葉には少なからぬ悪意がふくまれていたので、少佐は答えもせずにもじもじと突っ立ったままでいた。
将軍は少佐に部屋に来てくれと言った。そして机の前にすわったとき、従卒をなぐりつけてしわくちゃになった電報を机の上に叩きつけ悲しそうな声で言った――「読んでみろ、これがお前のやった仕事じゃ!」
少佐が電報を読んでいるあいだ、将軍は椅子から起ちあがり、部屋の中をせわしく走りまわって、椅子や床几《しょうぎ》を引っくり返しながらわめいた――「何といっても俺は奴を絞首するんじゃ!」
電文にはこうあった――
「第十一中隊の伝令、歩兵ヨセフ・シュベイクは、本月十六日ヒーロウ――フェルトスタイン間において設営隊として任務遂行中失踪せり。歩兵シュベイクは直ちにオヤリークツァの旅団司令部に送還せらるべし」
少佐は机のひきだしを開けて地図を出し、考えこんだ――フェルトスタインはプルゼミスルの南東五十キロのところにある。歩兵シュベイクなる者は前線から百五十キロもはなれた場所でどうしてロシア兵の制服を手にいれたんだろう。
少佐がこのことを将軍に告げ、シュベイクが電文によると数日前に行方不明になったという箇所を地図の上で示すと、将軍は雄牛のように咆えたてるのであった、軍法会議への希望が台なしになってしまいそうだったから。将軍は自身で電話を掛けて監獄につながせ、少佐の家にいる自分のところへ犯人シュベイクを引っぱって来いと命じた。
いったい全体フェルトスタインでどうしたというのか、ロシア兵の制服の|いわれ《ヽヽヽ》はどうなのか、と、引っぱり出されたシュベイクに将軍は説明を求めた。
シュベイクは残らず説明した。人間の不運について自身の身の上から実例を引きながら。なぜそれを法廷で訊問の際に話さなかったのか、と少佐に訊かれたので、シュベイクは答えた――誰ひとりとしてなぜロシア兵の制服を手にいれたのかと訊かなかったではないか、『自由意志で誰からも強制されずに敵の制服を着たんだということを白状するか』と訊かれるだけだった。これは事実に相違ないので『全くです――そうです――「たしかに」その通り――疑問なしに』と言うより外なかった。だからこそ、陛下を裏切ったという告訴に対しては憤慨して反対したのだ。
「あれは完全な白痴じゃぜ」と、将軍は少佐に言った。「誰が棄てたのか解りもしないロシア兵の制服を池の土手の上で着る、ロシア捕虜隊の列にはいる、馬鹿でなけりゃできる仕わざじゃない!」
「申し上げます、全く、自分は少し足りないんじゃないかなあ、と、我ながら気づくことが、ちょいちょいあるんであります、ことに夕方になりますと……」
「黙れ、頓馬」と少佐はシュベイクに言っておいて将軍に向いシュベイクをどう処置したものかと問うた。
「奴の旅団で絞首さすのじゃ」と、将軍は決定をくだした。
一時間ののち、シュベイクはオヤリークツァの旅団本部まで送ってくれる護衛兵にともなわれて停車場へ着いた。
シュベイクと同時に、つぎのような内容の文書が旅団あてに発送された――「電報第四六九号により第十一中隊の脱走兵たる歩兵ヨセフ・シュベイクを更に審理せんがため旅団本部に引き渡す」
四名からなるシュベイクの護衛兵自体が、人種の混乱であった。ポーランド人、マジャール人、ドイツ人、そしてチェコ人、このチェコ人が護衛兵の指揮にあたる上等兵であった。彼は同国人たる囚人に対しいやにいばりちらし、恐ろしくのしかかっていった。たとえばシュべイクが停車場で小便をしたいと言ったとき、旅団へ着くまで放尿しちゃならん、とこの上等兵は荒々しく突っぱねた。
「解りました」と、シュベイクは言った。「では、それを文書にしてもらいましょう、私の膀胱が破裂した場合、その責任が誰にあるかすぐ判るようにね。これは法規によることです、上等兵殿」
家畜番の下男だった上等兵は、膀胱の破裂と聞いておったまげた。そこでシュベイクは全護衛兵の案内のもとに堂々と駅の便所にはいったのである。いったいこの上等兵は、護衛の途中ずうっと、いかにも頑固な人間だとの印象をあたえ、明日は少なくとも軍団長の地位をさずかるのだといったような尊大ぶったふるまいをした。
列車がプルゼミスル――ヒーロウ線を走っているとき、シュベイクは上等兵に話しかけた――
「上等兵殿、貴方のお顔を拝見するごとに、トリエントに勤めていたボースバ上等兵を思い出すんです。ボースバが上等兵になった、つまり星が一つふえた。その日から身体の方もふえ始めたんでさ。まず頬がふくれだす、二日目には給与の服では間に合わないほど腹が出っぱりだした。いちばん困ったのは耳が長くのびだしたことだ。とうとう医務室へ連れていったが、軍医の言うには、へそが陰嚢までとどくほどに腹が膨れているから破裂しかねない。上等兵の命を救うためには局部を切ってすてるほかなかった、それでやっと痩《や》せるようになったんであります』
この瞬間から上等兵は黙ってしまった。シュベイクは何とかして彼を話の中に引っぱりこもうと試みた。お国はどこですか、と問うても、貴様に関係はない、と答えるだけだった。護衛兵に送られるのは今度が初めてというわけじゃないが、いつも仲よく話しあったものだと、話しかけてみた。
しかし上等兵は断じて沈黙を破らなかった。それでもシュベイクは話しつづけるのである――「上等兵殿は前世からの因縁で急に物が言えなくなったようですな。自分は多くの不幸な上等兵を知ってますが、貴方のような不幸な人間には――怒らないでくださいよ――まだ会ったことがありませんぜ。貴方の悩みを私に打ちあけてご覧なさい、何とかご相談に乗りましょう。いったい、護衛兵つきで送られる兵士は、送る護衛兵よりは必ず多くの経験を持ってるにきまってるんですからね。悩みを打ちあけるのがおいやなら、どうでしょう、上等兵殿、途中の退屈しのぎに何か、貴方の地方の景色でも話してくれませんか、池や川があるとか、お城のあとが残ってるとか、そうすればその城跡につたわる物語も出てくるでしょう」
「もうたくさんだ!」と、上等兵は叫んだ。
「それじゃ貴方は幸福な人間だ、たいていの人は、いくらでも欲しがって、もうたくさんとは言わないもんですぜ」
「お前は旅団へいってから立場をあきらかにすりゃええ、俺は貴様になんかかまっちゃいられねえ」と、言ったきり上等兵は固い沈黙のからに閉じこもってしまった。
この護送には面白いことがほとんどなかった。護衛のマジャール人はドイツ人と独特な方法で会話をやった。『|そうだ《ヤボール》』『|そして《ウント》』『何《ヴァス》』という単語しかドイツ語を知らない彼は、ドイツ人が何か説明すると、首をたてに振って『ヤボール』と言い、ドイツ人が口ごもると『ヴァス?』と言う、するとドイツ人はまた新たに語り始めるのであった。ポーランド人は貴族のように気取って誰の相手にもならず、ひとり楽しんでいる――右手の親指をはなはだたくみに使って床の上に鼻汁をかむ、つぎにこの床の上の粘液を銃床で憂鬱そうにこすりつける。最後によごれた銃床をズボンでていねいにふきとる。ふきとるとき絶えず「聖母マリア様」とつぶやいていた。シュベイクは、このポーランド人に、鼻汁を窓ガラスにかんで見事な絵をなすって描いた道路掃除人夫の話をしだしたが、ポーランド人は何の返事もしなかった。おしまいには護衛隊全員が黙りこんでしまった、まるで埋葬のおともをして故人のことを心から思いだしているように。
こうしている間に、旅団の方ではある程度根本的な変化があった。
旅団本部の司令官にゲルビッヒ大佐が任命されていた。本省で勢力のある知人を持つ彼は、痛風で脚が自由でないにかかわらず、退役になるどころか、よい地位と高い給料、おまけに戦時加俸をいろいろともらって、痛風の発作で馬鹿をしでかさない限りは一箇所にいつまでもとまっていることさえできた。どこかへ異動を命ぜられても、かならず進級となっていた。
将校連との昼の会食のときは痛風の話をするのが定例だった。汗をかいたように足の指がじめじめしているので綿でつつんでいるんだとか、それがすえた肉スープのようないやな臭気を発散するんだとか。しかしこの痛風さえなければ、大佐はなかなか愉快な人物で、下級将校とも親しく交際して、痛風にかからない以前に飲み食いしたうまい酒やご馳走の話などをするのであった。
シュベイクが旅団に送り戻されゲルビッヒ大佐の前に引っぱり出されたとき、ちょうどドウプ少尉が大佐の室にいあわせた。
シュベイクをちらと見た少尉は、フェルトスタインにおける失踪事件を知っていたので、すごい声で怒鳴りつけた――「やっぱり連れ戻されたな! 畜生となって逃げだす奴が多いが、戻ってくるともっと悪い猛獣になってやがる。貴様もそのうちの一匹じゃ」
シュベイクの失踪中の出来事であるが、ドウプ少尉は、ルーカッシュ中尉に自分の乗馬術の巧いところを見せようとして、乗った馬が谷へ跳びこみ、落馬した本人はもう駄目だと情けない音《ね》をあげた。だが大したこともなく今では背中や腹にヨードチンキをぬるだけの手当てで、まもなく原隊へ戻ることになっている。しかし、この馬術供覧で少しばかり脳震蕩をおこした彼が、シュベイクに怒鳴りつけるために神様を呼び出したり歌のような文句で言ったとて、読者よ、怪しまないでもらいたい。――「天なる父よ、われは請う、砲煙われを包めかし、閃光われに当れかし、いくさの指揮者、ああ神よ、この畜生を救えかし……やい、野郎、貴様今までどこにいたんじゃ? なんて制服を貴様着ちょるんじゃ?」
このとき、大佐の室には大勢の将校や下士官が集まっていた。そもそも大佐に、痛風の発作さえおこさなければ、なかなか『民主主義的』な人物だから、部下の将校や下士官が目の前でどんなことをしたって、例えば物をぬすもうと乱暴を働こうと決して怒るようなことはなかった。シュベイクが引っぱられて来たのを見て、大勢どやどやと大佐の室にはいって来ていたのである。
ドウプ少尉は相変らずあのお愛嬌の口癖でシュベイクと談判を続行中だ――「貴様はまだ我輩の何たるかを知っとらん、我輩の何たるかを知って見ろ、恐怖のあまりくたばっちまうぞ」
プルゼミスルの少佐から寄こした文書を、大佐は先刻から読んでいるが、どうも判然しない。この文書は少佐がまだ残っていた軽微なアルコール中毒の影響下で書いたものであったから。
にもかかわらずゲルビッヒ大佐は、昨日以来、例の不愉快な痛みがおこらず足の指も小羊のようにおとなしくなっているので、ご機嫌ななめならずであった。
「いったい君は何をしたのかね」と、大佐は愛想よくシュベイクに訊いた。胸にグキッときたドウプ少尉はシュベイクに代わって答えた。
「この男は、大佐殿」と、彼はシュベイクを前におした。「自分の恥ずべき行為をごまかすために白痴をよそおっているんであります。この男といっしょに着いた文書の内容はまだ存じませんが、こやつまた何か、しかも今回は大仕掛けにやらかしたものと思います。もし大佐殿がその文書の内容をちょっと拝見することをお許しくださるならば、この男をどう始末するかについて、まちがいのない訓令をいたすこともできようかと存じます」
そう言ってから今度はシュベイクの方に向きなおり、チェコ語で言った――「貴様俺の骨のずいまで吸いとろうというのじゃな?」
「その通り」と、シュベイクは、もったいぶって答えた。
「この調子なんです、大尉殿」と、ドウプ少尉はドイツ語でつづけた。「何を訊いても駄目なんです、この男とは話すこともできないんです。天網恢々《てんもうかいかい》疎にして漏らさず、ひとつ模範的な処罰をしなくちゃならんでしょう。失礼ですが、大佐殿ちょっと……」
ドウプ少尉は、例の少佐がプルゼミスルで書いた文書に食らいついたが、読みおわると、勝ちほこったようにシュベイクに怒鳴りつけた――「今度こそ貴様も年貢の納めどきだ。貴様、官給の制服をどこへやったんじゃ?」
「土手の上においといたんです、露助どもはこんなぼろ服を着てどんな気持でいるのか、ためしてみたときにね」と、シュベイクは答えた。「いったい何もかも一つのまちがいに過ぎんのであります」
このまちがいの結果どんな目にあったかをシュベイクはドウプ少尉に語り始めた。語りおわると少尉は彼にほえついた――
「今度こそは我輩の何たるかを知らせてくれるぞ。国庫に属する財物をなくすということは何だか知っちょるか、やい間抜け、戦争中に制服をなくしたらどうなるか知っちょるか?」
「申し上げます、少尉殿。知っちょるであります。兵卒が制服をなくしたら新しいのをもらわなくちゃならんであります」
「とんでもない」と、少尉は叫んだ。「馬鹿、畜生、この俺をからかうなんて、戦争が済んでも兵役をもう百年つとめさしてやるぞ」
今まで静かにきちんと机の向うにすわっていたゲルビッヒ大佐が、突然、物すごいしかめっつらをした。今まで平和だった踵《かかと》がやさしい静かな小羊から、痛風の発作によって急に咆吼する猛虎となったのである。大佐は手だけで合図をし、火刑に処された人間が出すような恐ろしい声で咆えたてた――「みんな出てうせろ、ピストルをよこせ!」
一同は心得たもので、すぐ室の外に飛びだした。シュベイクもいっしょに番兵から廊下に引っぱり出された。ドウプ少尉だけはいのこった、自分に都合のよさそうなこの機を利用して、シュベイクをおとしいれようと思ったので、しかめっつらをしている大佐に向って言った――
「失礼ですがご注意申し上げます、大佐殿。この男は……」
大佐はうなった、そしてインキつぼを少尉めがけて投げつけた。驚いた少尉は敬礼をし、「確かに、大佐殿」と、言って戸の外へ姿を消した。
それからしばらくのあいだ、大佐の室から咆吼と呻吟がきこえてきたが、結局静かになった。大佐の足指が急にまた小羊となった、通風の発作が過ぎさったのだ。大佐は呼鈴を呼らし、シュベイクをまた連れてこさせた。
「いったいお前はどうしたというんじゃ?」と、台風一過けろりとした大佐が訊いた。
シュベイクは親しげに大佐にほほえみかけながら彼の迷走《オデュッセイ》を逐一ものがたった後、自分は第十一中隊の伝令であるから自分がいなくなったら中隊はどうなるか解らぬとつけ加えた。
大佐も顔をほころばせた。そして次のような命令をあたえた――「シュベイクのためにレンベルク経由ツォルターネッツ駅までの兵士切符を作成のこと(同人の中隊は昨日同駅に到着の予定)、シュベイクに倉庫において新調の制服と、旅行中の食費として六コルナ八二ハレーシを手渡すこと」
駅へ行こうとして、新調のオーストリア制服を着たシュベイクが旅団本部を立ち去ろうとしたとき、ドウプ少尉はそこにいたのであるが、シュベイクが彼に対しきびしく軍隊式に出発の挨拶を告げ、かつルーカッシュ中尉へ何か伝言がないか、親切に問うたときは、少からず面食らった。
ドウプ少尉は、ただ一言「退れ!」と言う以外に何と言ってよいのか考えがつかなかった。そして遠ざかりいくシュベイクの後ろ姿を見送りながら、ひとりごとをつぶやいた――「貴様、今に我輩の何たるかを知るようになるぞ、畜生、おぼえておきやがれ……」
ツォルタネッツ駅にザーグナー大尉の全大隊が集合した。レンベルクを立つときどこかへ失踪した第十四中隊の『後衛』が欠けているだけだ。
この小さい町にはいったシュベイクは、あたりの様子で戦線に近いのだということを感じた。到るところに砲車や輜重《しちょう》車があり、どの民家からも方々の連隊の兵士が出入りしている。競技場に設けられたドイツ軍の炊事場にはビール樽がごろごろしている。ドイツ兵は夜はもちろん昼もジョッキでビールをたらふく飲めるのだ。このビール樽のあたりを、おかゆ腹のオーストリア兵が泥棒猫のようにうろつきまわっている。
すその長いガウンを引きずったユダヤ人の群れが戦場から追われて来たのであろう、硝煙の匂いをさせている。どこへいっても、ブーク河に沿うウツェズスコウ、ブースク及びグラーボウがもえているとの話だ。
大砲の轟きがはっきりときこえてくる。どこを見ても混乱そのもので、誰ひとりとして確実なことが解らない。ロシア軍はこれまでの退却を全線でくいとめ反撃に移ったのだ、というのも想像である。
野戦憲兵の歩哨は、ちぢみあがっているユダヤ人を流言蜚語のかどをもって引っきりなしにしょっぴいた。そしてこの不幸なユダヤ人達は残酷な目にあわされて追っぱらわれるのだ。
この蜂の巣をつついたような中ヘシュベイクが飛びこんだのである、そして自分の中隊を探しもとめた。
彼は駅で、駐屯司令部ともう少しでいざこざをおこすところだった。所属部隊を探す兵士のために設けられた案内所にいったところ、そこにいた伍長がはなはだ要領をえないことを言う、シュベイクの中隊がシュベイクを探していると言う。シュベイクは彼に言った。この小さな町のどこに九一連隊第十一中隊が宿営してるか、それさえ教えてもらいやいいんだ。
「自分にとってきわめて重要なことは」と、シュベイクは力をこめて言った。「どこに十一中隊がいるかを知ることです、自分はその中隊の伝令なんですから」
悪いことに隣の机に本部付きの軍曹がすわっていた。この軍曹は虎のように飛びあがってシュベイクにどなりつけた――「とんでもない畜生だ、伝令のくせに自分の中隊の所在を知らんのじゃと?」
シュベイクの答えも待たずに軍曹は事務室の中へ消え、しばらくののち、ソーセージ製造の大工場主みたいに堂々たる風采の、肥った中尉を連れて出てきた。
戦争中、原隊とはぐれたと言ってあちらこちらうろつきまわっている匪賊《ひぞく》化した兵士が多かった。駐屯司令部はこの種の兵士を捕らえるわなだったのである。
中尉が出てきたとき、軍曹は、「気をつけ!」とどなり、中尉はシュベイクに訊いた、「証明書を持っとるか」
シュベイクは証明書を差しだした。旅団本部からツォルターネッツの中隊へ行くシュベイクの行程の正当なことを認めた中尉は、その証明書をシュベイクに返し、そこにいた伍長に「案内してやれ」とやさしく言ってまた事務室へはいっていった。
中尉が事務室にはいって扉がしまると、軍曹はシュベイクの肩をつかみ、出口へ連れていって、つぎのような案内をした――「どこへなとうせやがれ、糞ったれめ!」これでまたシュベイクは途方にくれてしまった。誰か大隊の顔見識りにあえやしないかと思って小路をあちこち歩きまわったが無駄であった。
一か八か当って砕けろだ。通りかかりの大佐を呼びとめ、かたことまじりのドイツ語で訊いてみた。
「わしとはチェコ語で話していいよ」と、その大佐が言った。「わしもチェコ人じゃ。お前の大隊は線路の向うのクリモントウ村におる。お前の中隊の兵隊がここへ着くとすぐに市場で、ババリア人と喧嘩をおっぱじめたんで、この町へははいられんことになっとるんじゃ」
そこでシュベイクはクリモントウ村に向って歩きだした。
大佐はシュベイクを呼びかえし、ポケットから五コルナとりだして、煙草でも買えとシュベイクに与え、また親しげにさよならを言って別れた。「何て可愛い兵隊なんだろう」と大佐は心のなかで言った。
シュベイクは村への道を急ぎながらこの親切な大佐のことを考えた。十二年前のことだが、トリエントにハーバーマイアという大佐がいた。この大佐も兵隊にたいへん親切だったが、それが同性愛から出たものだということが、アーダ河の温泉場で士官候補生を強要しようとして服務律でおどかしつけたことからばれたのであった。
こんないやな思い出をしているうちにシュベイクは村に着いた。大隊本部を見つけるのも大した骨折りではなかった。細長い村だったが建物らしい建物と言えば不相応に大きい小学校一つがあったきりだったから。この純ウクライナ地方をポーランド化するためガリシア地方政庁が金をかけて建てたものである。
この学校は戦争中いろんな目にあった。ロシア軍の本部になったり、オーストリア軍の本部に変ったりした。レンベルク市の運命を決した大会戦のあいだずうっと、学校の雨天体操場は負傷兵の手術室となっていた。
校庭には、大口径の榴弾のうがった大きな漏斗状の穴があいている。その隅のふとい梨の木の枝に綱《ロープ》の切れっぱしが引っかかっている。ついこのあいだ、この地区のギリシア正教の牧師が絞首された記念である。ロシア軍がこの地方を占領していた頃に、その勝利のためミサを行ったという理由からであったが、当時この哀れな牧師はこの地方におらず、戦争には全く縁のないボホニア・ツァムウローワンという小さな温泉場へ湯治にいっていたのだった。
牧師の死後、その住宅は荒れるままにされていた。牧師さんの記念にと言わんばかりに、誰でも家具什器を持ち去ったのだ。不思議と台所だけは割合に物が無事に残っていた。そこで、この村を通過する部隊はこの台所を将校用炊事場とするのがならわしとなった。二階の広間は模様換えをして、一種の将校集会所となった。テーブルや椅子は付近の民家から徴発して。
シュベイクがやって来た日は、大隊の将校連がちょうど宴会をしようとしているところだった。割勘《わりかん》で豚を一匹買いこみ、炊事兵ユーライダが豚料理に腕を振るっている。それを取りまいているのは将校の従卒連で、二等主計曹長ワニエークが監督を演じてユーライダに何かと忠告をあたえていた。
みんながつがつした眼を見はっているが、なかでもすさまじいのは、あくこと知らぬバロウンである。
宣教師を、火刑台に載せて焼くと、あぶらがじりじりと出て何とも言えぬよい匂いがしてくる。それをじっと見つめている食人種が今のバロウンだ。牛乳を積んだ車をひいている犬のそばを、ソーセージ屋の小僧ができたてほやほやしたソーセージを籠にいれて通る。ソーセージが籠からぶらさがっている――口にはめられた籠と革紐さえなければ跳びついてやるんだがなあ、と思っている犬の気持がバロウンの気持だ。
バロウンはたまらなくなって泣きじゃくり、ついには声を立てて泣きだした。
「てめえ、なんで牡牛みたいにほえるんだよ?」と、炊事卒ユーライダがきいた。
「自分の家のことを思いだしたんだ」と、バロウンは泣きじゃくりながら答えた。「家にいたときゃ、よそへなんか何もやりゃしねえ、何だって自分ひとりで食おうと思ったし食っちまったものだ。あるとき、肝臓《レバー》のソーセージに血のソーセージを、腹いっぱいに詰めこんだもんだから、みんな俺の腹がはり裂けると思ったんだろう、草を食いすぎた小牛にするように俺を鞭でひっぱたいて中庭をぐるぐる走りまわらせたこともある。ユーライダさん、あなたの作っているそのソーセージの中味を一つかみ、食わしてもらえませんか。これじゃ、まるで拷問にかけられてるようなもんじゃ、ああたまらん」
バロウンは腰掛けからたちあがり、酔っぱらいのようにふらふらとテーブルに近よってソーセージの中味の方へ手をのばした。
そこにいあわせた者が総がかりで、やっとこの巨人が中味を手づかみにしようとするのをとめて、炊事場からおしだすことができたが、それでもバロウンが鍋の中にあった肝臓《レバー》ソーセージ用の腸を、やけくそにつかみだすのをさえぎるわけにはいかなかった。
下でこんな騒動をやっている頃、上では大隊の将校たちが全部集まり、下で作るご馳走を待ちながら一杯やっていた。酒らしい酒がなかったのでユダヤ商人から焼酎を手に入れたんだが、この焼酎たるや、玉葱の煎じ汁で色をつけた安物なのに、これを売りつけたユダヤ人は、祖父から父が譲りうけその父から自分が譲りうけたところの純フランス産のコニャックでござると、もったいをつけたものである。
「この野郎」と、そのときザーグナー大尉はユダヤ商人に言った。「ナポレオンといっしょにモスクワから逃げてきたフランス人から貴様の曽祖父がこの酒を買ったんだと言ってみろ、貴様の末っ子が家内中で一番の年寄りになるまで貴様を牢屋にぶちこんでおくぞ」
将校たちが一口飲むごとに、この商売気の多いユダヤ人の悪口を言いあっていた頃、シュベイクはもう大隊の事務室に腰をおろしていた。事務室にはマーレク一年志願兵のほか誰もいなかった。マーレクは、大隊史編集者として、大隊のツォルターネッツ滞在を利用し、近き将来かならず起こるにちがいない武勲赫々たる戦闘を、前もって記述しようとしているところだ。
さしあたりただ色んなスケッチを目論んでいたのだが、シュベイクのはいってきたときちょうど次のように書きおろしたところだった――「N村付近の戦闘に参加せる全勇士を心に浮かべるとき、我が第N大隊は最も輝かしき戦術的能力を発揮し、もってN区間における我が戦線を断然強固ならしむべき使命を持てる第N師団の勝利に寄与せること論をまたざるを認む」
「おい、どうじゃ」と、シュベイクは一年志願兵に言った。「おらあ、もう戻ってきたぞ」
「ちょっと嗅がしてくれ」と、マーレク一年志願兵は心から嬉しそうに言った。「うむ、貴様ほんとうに犯罪のにおいがしとる」
「いつもの通り、ちょっとした誤解だったのさ。ときに貴様なにしとるんじゃ?」
「ご覧の通り、我が帝国を救う英雄を紙の上ででっちあげてるんだがな、どこかぴったりといかん、いやなことばっかり頭に浮かんできてね。ときに、ザーグナー大尉がね、俺の以前の職業のほかに俺の異常な数学的才能を見出したってわけさ、それで俺が大隊の会計を監督することになったんだ。決算してみたところ全くの赤字でね、これを消すには、戦闘で負けたあと、いや勝ったあとでも同じだが、大隊の財産がロシア兵に盗まれたということにするほかないんだ。しかしな、どっちみち同じだ、勝手にしやがれだが、貴様はちっとも変らねえな」
「変らねえさ、変えてるひまなんかなかったんだもの。それどころか、すんでのことで銃殺にされるところだったんだぜ、がそいつは大したことじゃねえ、困ったのは十二日以来まだ一文もお給金をいただいちゃいねえってことさ」
「今ここじゃ渡せねえ、ズーカルまでいって戦闘ののち給金を支払うべしってことになっとるんで、節約しなくちゃならんのだ。このお祭りが二週間後に行われるとすりゃ、戦死兵は特別手当とも二四コルナ七二ハレーシずついただける勘定だ」
「ほかに何か変ったことはなかったかね?」
「まず我が大隊の後衛が行方不明になったこと、将校団が牧師館で豚祭りを挙行すること、それから兵隊が村中をうろつきまわって女どもにできる限りのふしだらを行なっていることぐらいさ。今朝のことだが、貴様の中隊の兵が七十になる婆さんを屋根裏に追いつめたというんで縛られたがね、ありゃ無罪だと思うよ、何歳までの女にやっちゃいかんとは書いちゃいねえからな」
「俺もそう思うよ、そんな婆さんだって梯子にのぼりゃ顔が見えやしねえからな。タボルで演習のあったとき、ちょうど同じようなことがあった。ある部隊が宿屋に泊ったんだ、ひとりの女が玄関の床を掃除しとるのをクラモータって男が近よってね、その女の――何と言ったらよいかなあ――スカートをなでたんだな。女は平気でいる、もう一度なでてみた、三度なでたあと、ある行動に及ぼうと決心した。女は悠々と掃除をつづけていたが、やがて真正面に向きなおって言った――『ようし、お前さんとやるべえ』女は七十をこえた梅干し婆だったが、このことを村中ふれまわって告げたものだ。――ときに今度はわしから訊くが、お前さんわしの留守中に営倉を食らわなかったかい?」
「どうもチャンスがなかったんでね」と、マーレクは済まんといったような調子で言った。「それよりか、お前に関することで知らしておくが、大隊ではお前に逮捕命令を出しているんだぜ」
「かまわん、当然のことだよ。長いこと俺の消息が解らなかったんだもの。逮捕命令を出すのは大隊の義務というものさ。大隊が早まったわけじゃない。将校連中がみんな牧師館で豚祭りをやってるって言ったね? 俺はそこへいって戻ってきたということを話してこなくちゃ。ルーカッシュ中尉殿はきっと俺のことを、たいへん心配してるにちがいないから」
この楽しさと喜びを
びっくりしないで見てくれよ
なんて立派な殿ごかと
びっくりしないで見てくれよ
こう歌いながらシュベイクは牧師館に向って歩調をとっていった。
牧師館で豚祭りをやっている将校連は四方山《よもやま》の話に花を咲かせていたが、このときちょうど旅団のこと、旅団本部の乱脈について話しているところだった。いあわせた旅団副官さえ旅団を非難して言った――「シュベイクのことで電報したんだのに、シュベイクは……」
「ハッ!」と、半開きの扉からシュベイクは答えて中にはいったのち、また繰りかえした。
「ハッ! 申し上げます、十一中隊伝令、歩兵シュベイクであります!」
ザーグナー大尉およびルーカッシュ中尉の唖然とした顔を見たとき、シュベイクは、先方から何も訊かないさきに叫んだ――「申し上げます、自分は陛下を裏切ったというんで銃殺にされるところだったのであります」
「とんでもない、シュベイク、お前なんてことをしゃべってるんだ!」と、まっさおになったルーカッシュ中尉は、すてばち気味に怒鳴った。
「申し上げます、こういうわけなんであります、中尉殿……」
そこでシュベイクは一部始終をこまかに語りはじめるのであった。
シュベイクの物語は微にいり細にわたり、不幸にあった池の堤の上にワスレナグサの花が咲いていたことまで話すので、将校連は目を皿のようにして彼を見つめた。また彼が迷走中に知ったタタール人の名前、例えばハリムーラバリベイとか、そのほかシュベイク発明の出たらめな名前ヴァリヴォラヴァーリヴェイ、マリムーラマリメイなどをずらりとならべたてたとき、ルーカッシュ中尉はたまらなくなって注意をあたえた――「ひっぱたくぞ、こん畜生、簡単に話せ、しかし前後の連絡のあるように!」
やっと結論に到達した――軍法会議の場面、少将および少佐の話をするとき、少将閣下の左眼は藪にらみで少佐殿の眼は青かったことまで言い忘れなかったばかりか――
「おつむはキラキラ電燈で」と、歌の文句さえ付けくわえた。
十二中隊長チンマーマン大尉は、きつい焼酎を飲んだ壼をシュベイクに投げつけた。
こんなことぐらいでビクともするシュベイクではない、引導わたしの一件および少佐と朝まで寝た話を、悠々とつづけた。さらに、大隊から自分を失踪者として引き渡すよう要求したときに彼の連れてゆかれた旅団のことを、極力もちあげて話した。最後に、旅団の高等法廷が彼にたいする嫌疑を一掃してくれた文書をザーグナー大尉の前にひろげながら言った――「失礼ながら申し上げます、ドウプ少尉は脳震盪で旅団におられましたが、皆さんによろしくとのことであります。お給金と煙草手当てをいただきたいであります」
ザーグナー大尉とルーカッシュ中尉は、どうしようかというような目くばせをしているところへ、扉が開いて肝臓《レバー》ソーセージのスープの湯気の立っているのが大きな容器で持ちこまれた。
これが、みんなここで待ちこがれているご馳走の皮切りなのである。
「こん畜生め」と、目の前のご馳走に気嫌をよくしたザーグナー大尉が言った。「豚祭りのおかげで貴様命びろいをしたんだぞ」
「シュベイク」と、ルーカッシュ中尉も付けくわえた。「今後何かやらかしたら、ひどい目にあうぞ」
「申し上げます、自分はひどい目にあうにちがいないであります。軍隊にはいった以上……」
「出てうせろ!」と、ザーグナー大尉は怒鳴りつけた。
シュベイクは姿を消した、そして炊事場へおりていった。おっぽり出されたバロウンは、もう帰ってきて、ルーカッシュ中尉の食事に給仕をしたいとユーライダ炊事卒に頼んでいるところだった。
「とんでもない」と、ユウライダは言った。「肝臓《レバー》ソーセージを貴様に運ばせてみろ、階段の途中ですっかりなくなっちまうよ」
炊事場の様子もだいぶん変ってきた。大隊および中隊の経理係が、ユウライダ炊事卒の作ったプランにより階級順にご馳走にあずかっている。大隊書記、中隊通信兵その他のものも、ほかに何かありつこうと思って、さびた洗面器にいれてもらった湯でうすめた肝臓ソーセージのスープをがつがつすすっている。
「いよう!」と、主計曹長ワニエークが、豚の前脚の骨をしゃぶりながらシュベイクに言った。「ちょっと前、マーレク一年志願兵がここへやってきて、貴様が戻ってきた、新しい服をきている、と言ってたがね。貴様は俺にやっかいな問題を持ちこんだのさ。というわけはな、貴様がどことかの池の土手に脱いどいた服が見つかったんだ、俺んとこじゃ貴様は溺れたものとして棒引きにしてある。ところが今度新しい服を着て帰ってきたとなりゃ、この二着の服で面倒くさいことになるんだ。この中隊に完全な服が一着ふえたってことだろう? それを被服調査報告に載せて旅団へ知らさなくちゃならん。そうすりゃ旅団の経理から検閲とくるにきまっている。こんなちっぽけなことに限ってわざわざ出かけてくるんだ。長靴が二千足盗まれたって、誰もうっちゃっとくくせに……」
「ところがだ、貴様の服が紛失しちまったんだ」と、ワニエークは、楊子代わりに使っていたマッチの軸で骨のずいをほじくり出しながら、情ない声でつづけた。「こんなちっぽけなことで検閲に来るにきまってるのさ。俺がカルパチア戦線にいたときの話だが、凍死した兵のはいている長靴をいためないように脱ぎとれという命令を守らなかったもんで、検閲がやってくることになった。大馬力で凍死兵から長靴をひっぱったよ、二つ三つ破れたが、一つは死ぬ前から裂けてたもんだ。経理部から大佐がやってきた、着いたとたんに、ロシア軍から一発、大佐の頭に命中、谷底へころがりこんでしまったので、俺ら助かったようなものの、でなきゃ、どんな目にあってたか知れねえ」
「その大佐の靴も脱ぎとったんですかい?」と、シュベイクは興味深く訊いた。
「うん」憂鬱そうにワニエークは答えた。「だけど誰がやったのか解らなかったんで、大佐の長靴は報告書に載せられなかったよ」
ユウライダ炊事卒が二階から戻ってくると、かまどのそばにバロウンがすわっているのを見た。しょんぼりとして瘠せほそった腹を投げやり気味に眺めている姿が、あまりみじめなのでユウライダはソーセージを少しめぐんでやった。
バロウンは眼に涙をたたえ、もらった小さなソーセージを食べながら、ひとりごとのように言った――「家にいたときゃ、豚を殺すと、まず大きな肉を平げて、それから鼻、心臓、耳、肝臓、腎臓、脾臓、舌、それから……肝臓ソーセージを六本、十本。丸々とした血ソーセージ、こいつどこからかぶりつこうか。何もかも舌の上でとろけてしまう。ああ、あの匂い……俺あ鉄砲玉じゃ死なねえけれど、ひもじさで参っちまうような気がしてならねえ」
夢物語をやっていたバロウンは、ふと立ちあがって、かまどのところへ突進し、ポケットからパンを一片とりだして、豚を焼いたときの肉汁のたまっている大鍋の中につけようとした。
急に同情心をなくしたユウライダは、バロウンの手を叩いた、パン片はずぶりと汁の中に跳びこんだ。このご馳走を鍋からつかみだす余裕をあたえず、ユウライダは、バロウンを戸の外に突きだしてしまった。
がっかりしたバロウンが、窓ごしに眺めていると、ユウライダは、肉汁で茶色になったパン片をフォークですくいあげ、その上に豚の焼肉を載せて、シュベイクにさしだしながら言った――
「おあがり、遠慮深いの」
「おやおや」と、バロウンは窓硝子の向うで嘆いた。「俺のパンが悪魔にさらわれたぞ」長い両腕をぶらりぶらりとさせながら、バロウンは、何かの餌にありつこうとして、村の方へのそりのそりと出かけていった。
ユウライダのこの情け深い贈り物に口をもごもごもさせながらシュベイクは言った――「俺あ自分の隊に戻れて、ほんとうに嬉しいよ」
パンからしたたる雫と油をあごから拭いながらつづけた――「俺がもっと長くどこかに引きとめられ、しかも戦争が何年も長びいたとしたら、この俺なしにお前たち、何をおっぱじめたか解ったものじゃねえぜ」
ワニエーク主計曹長は興味を持ったらしく――
「シュベイク、戦争は長びくというのかい?」
「十五年。解りきってるじゃないか、三十年戦争ってのがあったろう。当世の人間は半分ばかり気が短くなってるからな。それ、三十を割る二が十五さ」
「隊長の従卒が言ってたぜ」と、ユウライダが言った。「俺らがガリシアの国境を占領すると、もう前進しないでいい、ロシアは講和を申し込むだろう、とね」
「戦争ってそんなものじゃないよ」と、シュベイクはきびしく言った。「どうせ始めたからにゃ、がっちりとやらなくちゃ。モスクワとペテルスブルクに乗りこまないうちは、俺あ断じて講話の話なんかせん。世界大戦ともあろうものが、国境のあたりで小ぜりあいするなんて、馬鹿馬鹿しいや」
「それはそうとして」と、今日の豚祭りで精神の平衡を全く失ってしまったユウライダが口をいれた。「全人類は鯉《こい》から進化したものである。諸君、ダーウィンの進化説によれば……」
彼の考察は、このときはいってきたマーレク一年志願兵によって中断された。
「用心しろよ」と、マーレクは大きな声で言った。「ドウプ少尉が今さっき大隊本部に着いたんだ、糞ったれのビーグラー侯補生を連れてね」
「あいつときちゃ手がつけられんよ」と、マーレクは報告をつづけた。「ビーグラーといっしょに自動車からおりるとすぐ事務室へ飛びこんできやがった。俺がなぜここから出ていったのか知っとるかい、ひとねむりしようと思ったのさ。事務室の長椅子に長々と手足をのばして眠ろうとしたところへ、奴さんが飛びこんできたんだ。『気をつけ!』って、ビーグラー侯補生が怒鳴りやがった。ドウプ少尉は、俺を立たせて始めやがった――『どうじゃ、事務室で義務怠慢のところを不意におそわれて! 寝るのは就寝ラッパが鳴ってからじゃぞ』『兵営規律第五十六節第九条』と、ビーグラーが註をいれやがった。それからドウプ少尉は拳固でテーブルを叩きながら怒鳴った――『貴様らはこの俺が大隊から離れることを望んでいたんじゃろう。ただの脳震蕩だったということが解らんのじゃろう。ところが俺の頭蓋骨はこれっしきのことでは参りゃせんのじゃ』卓上の書表をめくっていたビーグラー候補生は、このとき、ひとりごとのように、『師団命令第二百八十号!』と、読みあげた。俺の頭は固いぞ、と言ったのを、ひやかしたものと勘違いした少尉は、上官にたいする不まじめな態度だとして、ビーグラーを責めたて、今、大隊長のもとへ彼を引っぱっていって苦情を申しこもうとするところさ」
話し終ると間もなく、ご両人は炊事場にやってきた。将校連の集まっている室へゆくには、どうしてもここを通らなくてはならなかった。
ドウプ少尉のやってくるのを見たシュベイクは怒鳴った――「全員起立、気をつけ!」少尉はシュベイクの鼻の先に近づいて吠えたてた――
「しめたぞ、今度こそ勘定をしてやるぞ! 第九一連隊の記念として貴様を剥製にしとくぞ」
「かしこまりましたであります、少尉殿」と、シュベイクは、ちょっと頭をさげた。「自分は本で読んだんでありますが、申し上げます、むかし大激戦があってスウェーデンの王様がその忠義な馬と共に戦死された。この二つの屍体は本国のスウェーデンに運ばれ、剥製となって今でもストックホルム博物館に立っているそうであります」
「野郎、貴様どこからそんな知識を得たんじゃ?」と、ドウプ少尉が怒鳴った。
「申し上げます、少尉殿。大学教授をやっている自分の兄弟からであります」
ドウプ少尉はシュベイクに背を向け、つばをはいて、ビーグラー候補生を食堂の方におしやった。
ビーグラー候補生は、蝿みたいだった。このところコレラ療養所を転々してきて、コレラ保菌者としての処置に慣れっこになったので、時と所をかまわず、ついズボンをよごすようになってしまった。結局、専門医の手にかかり糞尿検査の結果コレラ菌を認めずということになり、靴直しが破れ靴を縫い糸でつづり合せるように、タンニンで腸を固めてもらった。かげろうのように細くなったビーグラーが「前線勤務可能」として最寄りの陸軍司令部に送られるとき、彼は、たいへん気力がないことを話したが、その医者は笑いを浮かべながら言った――「なあに、君は金製勇敢章をもらえるよ。だって君は自分から進んで軍に志願したんじゃないか」
こういうわけで、ピーグラー候補生は、金製勇敢章を得んがために起ち上ったのである。
彼の固められた腸は、もう薄い流動物をズボンに射出するようなことはなかった。が、引っきりなしに催してくるのはまだ治らなかった。だから、最後の宿営地からドウプ少尉に出くわした旅団本部までの道は、ありとあらゆる便所の展示街道だったと言ってよい。駅の便所にあまり長くはいっていたので列車に乗りおくれたことも二三度あり、列車の中の便所にすわりこんでいたため乗換えをしそこなったことも二三度ある。
当時ドウプ少尉は、もう二三日旅団本部で保養することになっていた。ところが、シュベイクが大隊の方へ立っていった日に、本部付きの軍医の意見が変った。すなわち、軍医は、その日の午後に九一連隊の駐屯地の方へゆく病院自動車があるということを聞いたので、このいやな患者ドウプ少尉と一刻も早く別れる機会だと喜んだのである。
あの日シュベイクは旅団でビーグラー候補生に会わなかった。候補生は二時間あまり前から旅団将校用便所にすわり通しだったからである。
ビーグラー候補生はこんな臭いところでも決して時間を空費しなかったといってよい。彼は便所の中で、一六三四年九月六日のネルトリンゲンの戦いから一八七八年八月一九日のサラエボの戦いにいたるオーストリア・ハンガリー軍の有名なる戦いを繰りかえし暗記していたのだ。
ドウプ少尉とビーグラー候補生のめぐりあいはどう見ても愉快なことではなく、勤務上および勤務外における今後の両者の関係に苦々しさをもたらす原因となったことは否めない。そのめぐりあいというのがこうだ。
ドウプ少尉が便所の戸を開けようとするのが、これで四度目だ、怒った彼は大声で怒鳴った――
「中にはいっているのは誰だ?」
「第九一連隊N大隊十一中隊の候補生ビーグラー」と、おうへいな答えである。
「こちらは同じ中隊のドウプ少尉だ!」と、戸の外の競争者の自己紹介。
「すぐ済むであります、少尉殿!」
「待っとる!」
ドウプ少尉はいらいらして時計ばかり見つめている。かかる状態でまた十五分間戸の外に立っているには、どんなに努力と忍耐が要るか、誰も想像がつかないだろう。しかも更に五分、それからまた五分、戸を叩いても、蹴っても、また叩いても、絶えず同じ答え――
「すぐ済むであります、少尉殿!」
紙をもむ音がしたのでやれやれと思ったのもアダ、それから七分間もすぎたのにまだ戸が開かなかったとき、ドウプ少尉は身ぶるいをしはじめた。
ドウプ少尉は身ぶるいをしながら考えこんだ――旅団長に訴え出て、戸を爆破してビーグラー候補生を引きずりだす命令を何とかしてもらおうかしら。また、ビーグラーのこの態度は服従違反に該当するのではあるまいかとも考えついた。
更に五分間経過するうちに、ドウプ少尉は、戸の中で果すべき欲望がいつのまにか消えさっているのを、はっきり感じた。それなのに、いかなる主義によったものか、彼は便所の前にがんばり、足で戸をこつこつと叩きつづけた。叩くごとに戸の中からは、いつもきまって「もう一分間で済むであります、少尉殿」と言う声がきこえてきた。
やっとビーグラーが水を流す音がきこえ、それから間もなくご両所は面と面を向きあわせることになった。
「ビーグラー候補生」と、ドウプ少尉は雷をおとした。「我輩がお前と同じ目的でここへ来たのだということが解らんのか? お前が本部に着いたとき我輩のところへ届けて来なんだので我輩が来たのじゃ。規則を忘れたのか? 誰を優先的にするのか知っとるか?」
ビーグラー候補生には何が何やら見当が付かなかった。自分が何か悪いことをしたのかしら、上官との交際についての規則に触れるようなことをやったのかしら、と、しばらく思いめぐらした。こんな場合下級士官は上級将校に対しどうすべきだ、というようなことは、学校でも教わらなかった。
ひり終らなくとも戸の外へ飛びだし、片方の手でズボンをおさえ、片方の手で挙手の礼をすべきであろうか?
「さあ、返答はどうした、ビーグラー候補生!」
このとき、ビーグラー候補生は、すべてを説明する全く簡単な答えを思いついた――「少尉殿。旅団本部に着いたときは、少尉殿がここにいられることは存じなかったんであります。それから事務室で仕事を片づけるとすぐ便所へ来て、少尉殿が来られるまでここにいたんであります」
そう答えて、今度は元気な声で付けたした――
「ビーグラー候補生が、ドウプ少尉殿のもとに到着したであります」
「それ見ろ、重大なことじゃないか」と、ドウプ少尉はにがにがしく言った。「我輩の意見では、君が旅団本部に着いたときすぐ事務室で、君の大隊の将校が来てやしないかと訊いてみるべきじゃ。君のとった態度は大隊で判決してもらうこととしよう。我輩は自動車で立つ、君もいっしょだ。――異議の申し立ては許さん!」
ビーグラー候補生は、それでも、異議を申し立てた――直腸に激動をあたえてはいけない点を考慮して、旅団事務室では汽車による旅程を作ってくれたのだ。まったく、この種の病人に自動車が禁物であることは、子供にだって解るはずである。百八十キロもふっとばしたら、どんなことになるか。
ところで、自動車は走りだしたが、最初のうちは、自動車の振動も一向にビーグラーに影響を及ぼさなかったのはどうしたことだろう。
復讐計画がうまくゆかないので、ドウプ少尉はがっかりした。
出発に際してドウプ少尉は心の中でこう言ったのだ――「今にみろ、ビーグラー、途中で催してきやがったって、車はとめてやらんぞ」
こういう下心があったので、少尉は、軍の自動車というものは、その行程を正確に測ってあるので、ガソリンを無駄使いしちゃならないしどこへも停まるわけにはいかん、ということを、車がまだ静かに走っているとき、愉快そうに話した。
この意見にたいし、ビーグラー候補生は、自動車がどこかで何かを待っていてもガソリンを全然使いはしない、運転手はエンジンをとめとくのだから、と、まったくその通りの反対意見を述べた。
「自動車が」と、ドウプ少尉は頑強につづけた。「一定の時間内に一定の場所へ到着すべき場合、途中どこにも停車しちゃならん」
ビーグラー候補生は黙っていた。
こうして十五分間あまり走ったとき、ドウプ少尉は突然お腹がふくらんできたのを感じ、車を停めて下車し道のわきの溝にはいってズボンをずらし身軽になりたくなってきた。
百二十六キロまでは、豪傑のように頑張った、が、いよいよたまらなくなった少尉は、運転手のマントをむずとつかみ、耳に口をあてて叫んだ――「停れ!」
「ビーグラー候補生」とドウプ少尉は、大急ぎで道のわきの溝にとびこびながら親切に言った。「君もこの機会を利用せんかね」
「結構です、自分は自動車を無駄に停車させたくないのであります」
こうは言ったものの、ビーグラー候補生も実はぎりぎりのところだった。だから心の中では、ドウプ少尉に恥をかかすこの絶好のチャンスを逃がしてもよいから自分も一つやりたい、と思っていたのだ。
ツォルターネッツに着くまでに、ドウプ少尉は更に二度も車を停めた、そして最後の停車のあとで、憤慨しながらビーグラーに言った――「今日の昼食が悪かったんだ。大隊へ帰ったら早速旅団の方へ苦情を申し込むことにしなくちゃ。くさった酢漬キャベツに、食うにたえん豚肉。近頃の炊事卒のあつかましさときたら話にならん。我輩の何たるかをまだ知らん奴には、今に我輩の何たるかを知らしてやる」
「予備騎兵団の鋭将ノスティッツリーネック元帥が、『戦時には何が胃を害するか』という題の本を出しておられますが、それによると、戦時の辛苦過労のとき豚肉を食うのは感心しないとあります。そもそも行軍中は過度ということが禁物であります」
ドウプ少尉は、これにたいし何とも返事しなかった、が、心の中では――「畜生、貴様の学問の鼻は俺様がへし折ってくれるぞ」
少尉は、しばらく考えていたが、まったく馬鹿げた質問をもって報いた――「じゃ、ビーグラー候補生、階級から言えば君より上のある将校が過度なことをした、と言うんだね。つまり、我輩が食い過ぎたんだ、と君は言うつもりだったんだね。君の誠実には感謝する。きっと片は付けるから。いったい君は我輩の何たるかを知っとらんね、今に知ってみろ、このドウプ少尉を生涯忘れられんようになるから」
ビーグラー候補生はまた返事しなかった。それがまたドウプ少尉をじらしたのだろう。少尉は荒々しく言った――「貴様聞えないのか、ビーグラー候補生、上官の質問には答うべしと教わっとるはずじゃが」
「たしかに、そういう箇条はあります。しかし、私達相互の関係をまず分析する必要があります。自分の知っている限りでは、自分はまだどこにも所属していないのでありますから、直接少尉殿の服従下にあるとは言えないんであります。それはともかくとして、最も重要な点は、将校間において上官の質問に答うべしとあるのは勤務上の事柄についてのみであります。こうして私達二人が同じ車に乗っていても、これは決して軍隊的単位じゃありません。私達のあいだには勤務上の関係がないのです。少尉殿が食い過ぎたのだと自分が言うつもりだったかどうか、とのご質問に自分が答えるのは、絶対に勤務上のことではないのであります」
「それだけか?」と、ドウプ少尉はほえつくように言った「貴様、貴様は……」
「そうです」と、ビーグラー候補生はしっかりした声で言った。「少尉殿、私達二人のあいだにもちあがった事件は、将校名誉裁判にかけて決まるだろうということを忘れないで下さい」
憤慨のあまりドウプ少尉は失心しそうになった。彼には妙な癖がある、興奮すると平常よりも益々馬鹿げきったことをしゃべるのだ。
だから、このときも、ぶつぶつと口ごもるように言った――「貴様を軍法会議でさばくのじゃ」
ビーグラー候補生は、ドウプ少尉を完全に狼狽させるこの好機を逃がさず、わざと仲間同志の口のきき方で言った――「おい、君、冗談は止せよ」
ドウプ少尉は運転手に車を停めろと怒鳴りつけた。
「どっちか一人は歩くんだ」と、彼はどもりながら言った。
「僕は乗ってくからな」と、ビーグラー候補生は落着きすまして言った。「君は好きなようにしろよ」
こういう工合で、二人は別々の道をとって元の大隊の宿営地に向ったのであった。
ドウプ少尉とビーグラー候補生は、炊事場から二階の食堂へあがる階段の途中で、また口論を始めている。まだどこにも所属していない候補生に、各中隊の将校団にくばられた分け前の肝臓《レバー》ソーセージを要求する権利があるかどうか、という問題だ。炊事場の方では、もうみんな満腹して長椅子に寝そべり、煙草の煙をもうもうとさせながら、色んなおしゃべりをしている。
話題は、場所がら、料理のことだ。ユウライダ炊事卒、ワニエーク主計曹長、マーレク志願兵、それからシュベイクが、いずれ食べ物の話をさかんにやっていたが、酔いのまわってきた二階の将校連中の大声で邪魔されるのであった。
このがやがやした大声にまじってビーグラー候補生の絶叫がきこえてくる――「兵卒は、戦争の要求することを平時において既に知り、練兵場で教わったことを戦時に忘れちゃいかん」
それからドウプ少尉のぜいぜいいう声もきこえる――
「よろしいか、我輩が侮辱を受けるのはこれで三度目ですぞ」
ドウプ少尉がビーグラー候補生を連れて現れたとき、ききめ満点のユダヤ焼酎に酔っぱらった将校連は、テーブルを叩きながら大きな声をあげて迎えたのであった。
誰も彼もドウプ少尉の乗馬術をひやかした――「厩番がいなくちゃ始まらねえ!――臆病野郎!――おい、貴様何年西部でカウボーイをやってたんだい?――天晴れ馬術の名人!」
ザーグナー大尉は、さっそくドウプ少尉にこの凄い焼酎を大きいグラスに注いでやった。少尉はこわれかかった古椅子を引きよせて、「気の毒だが、食べ物はすっかり平らげちゃったよ」と、親切に言ってくれたルーカッシュ中尉のわきにすわった。
哀れな姿のビーグラー候補生は、服務律に従ってきちんと挨拶をするために食卓のぐるりをまわった。ザーグナー大尉には勤務上、その他の将校にも、なかには初対面の者もいたが、二三度くりかえし、「ビーグラー候補生、大隊本部に帰任したであります」と述べた。
なみなみと注がれたグラスを手にとったビーグラーは、そっと窓のそばに腰をおろし、教科書から得た自分の知識を示す好機が来ないものかと待っていた。
恐ろしいフーゼル油が頭にのぼってきたドウプ少尉は、指でテーブルを叩いていたが、だしぬけにザーグナー大尉に向って言った――
「地区部隊長とよく話しあったものですがね。愛国主義、義務遂行、克已、これが戦時におけるほんとの武器です。我が軍が近いうちに国境を越えるということを今日こそ忘れないのであります」
(注)ハーシェクの原稿はここで終る〔一九二三年一月三日死去、時に年四十〕。このハーシェクの未完稿は、カール・ヴァーニェクにより続けられ完結された。
◆良き兵士シュベイク(下)◆
ヤロスラフ・ハーシェク/辻恒彦訳
二〇〇六年一月二十五日 Ver1