ヤロスラフ・ハーシェク/辻恒彦訳
良き兵士シュベイク(上)
目 次
第一部 後方にて
一 愚直兵士シュベイクの欧洲大戦参加
二 警察署における愚直兵士シュベイク
三 裁判医の前におけるシュベイク
四 精神病院から放り出される
五 サルム街の警察分署におけるシュベイク
六 泥棒の群れを突破して再び我家に帰る
七 シュベイクの出陣
八 詐病兵としてのシュベイク
九 陸軍監獄におけるシュベイク
一〇 従軍牧師の従卒
十一 従軍牧師と共にミサを挙行する
十二 宗教上の論争
十三 シュベイク引導を渡す
十四 シュベイク身売りさる
十五 内地での生活にひと区切り
第一部 「後方にて」へのあとがき
第二部 前線へ
一 列車内におけるシュベイクの失策
二 シュベイクのブードワイス進軍
三 キラリヒーダにおけるシュベイクの経験
……シュベイクは対露戦の前線に立ったばかりでない、人間の心の戦線に立ったのだ。そして他の人々がみんな非人間として振舞ったのに反し、彼だけは人間で通してきたのである。
……世界各国のシュベイク、万歳
マンフレット・ゲー
偉大なる時代には偉大なる人物が要《い》る。ナポレオンのように名声をうたわれたり、歴史に記されたりしてはいないが、世に認められぬ地味な英雄というものがある。この種の人々の性格を分析するならば、アレクサンドロス大王ほどの名声ある英雄でさえ影が薄くなるかもしれない。今日諸君はチェコスロバキアの首府プラハの町で、一人のけち臭い男を見かけるであろうが、この偉大なる新時代の歴史上において、そもそも自分はいかに重大なる役割を演じたるかという事さえこの男は知らない。ただ地道に自己の道を歩んで、他人に厄介をかけることもなければ、また自分に会見を申し込んでくる新聞雑誌の記者から厄介をかけられることもない。諸君、彼に名前を聞いて見給え。何のかざりもなく答えるだろう――「わしゃシュベイクと申すものでさ……」
ところが、この静かな、へりくだった、けち臭い男こそは、実に、かつてはオーストリア帝国の治下にあったボヘミア王国の全住民のうわさにのぼり、またこの王国が共和国となった今日、なおその評判の失せない、あの勇敢豪胆剛毅なる兵士シュベイクその人なのである。
この勇敢なる兵士シュベイクが大好きな私は、世界大戦中における彼の冒険を執筆しつつこう確信する――諸君は誰でもこの控えめな、世に認められていない英雄に共鳴するであろう。我等のシュベイクは、あのヘロストラテスとかいう馬鹿者のやったように、新聞や教科書にのっけてもらいたさにエフェソスの神殿に火をつけるというような事はしなかったのだ。
序文はこれで沢山。 著者
第一部 後方にて
一 愚直兵士シュベイクの欧洲大戦参加
「旦那様。フェルジナントがぶち殺されただよ」
兵隊に取られていたが、軍医の委員会から低能なりと申し渡されて数年前除隊となり、その後はお化けのようなみにくい犬をいい加減に|ごまかし《ヽヽヽヽ》ては売って、その日の生計を立てているシュベイクは、この商売の外に、リウマチを持っていて、召使いのミュラー婆さんが今こう話しかけたときも、ちょうどオポーデルドク(リウマチの民間薬)を膝小僧にすりこんでいたところだった。
「どこのフェルジナントがだ、ミュラー婆さん?」と、シュベイクは膝をこする手を休めないできいた。「フェルジナントったって二人あるからな。一人は薬屋プルーシャさんとこの召使いをしているフェルジナントで、|こいつ《ヽヽヽ》いつだったか間違えて毛染め薬を一瓶飲んでしまったことがある。もう一人はフェルジナント・ココーシュカって奴だが、何でも犬の糞をかき集めるのが商売だったっけ」
「旦那様、冗談はよすべえ。フェルジナント皇太子様だよ、あの肥った優しい皇太子様だよ」
「そいつあ大変だ」と、シュベイクは叫んだ。「えれえ事をやらかしたものだ。してどこでそんな目におあいなすったんだい、皇太子様は」
「サラエボで、ピストルで射たれなすっただ、旦那様。妃様《ひいさま》を連れて自動車でそこへお出でなすっただ」
「それ見な、ミュラー婆さん、自動車だ。あんな方々は自動車に乗れるんだ、そしてまさか自動車旅行で不幸な目にあおうなんて夢にも思わなかったろうて。だが場所が悪いや、サラエボだもの。知ってるかい、ミュラー婆さん? サラエボってのはボスニアにあるんだよ、こりゃ|てっきり《ヽヽヽヽ》トルコ人の仕業に違えねえ。いったい俺らこのボスニアだのヘルツェゴビナだのって所を取らなきゃよかったんだ。そうだろう、婆さん。じゃ皇太子様ももう神様のふところで休みってわけだな。長くお苦しみだったのかい」
「直ぐおなくなりなすっただ、旦那様。ピストルってやつは冗談じゃねえからのう」
「ところが、どんなにしたって弾丸の飛びださねえピストルもあるんだぜ。だが皇太子を射とうってえんだから上等なのを買ったにちげえねえ。それからピストルをぶっ放した男は立派な服装をしてたにちげえねえぜ。なんしろ皇太子様を射ち殺すってのは生易しい仕事じゃねえからな。密猟者が山番人を射つのたあ、ちとわけがちがう。第一におそばに近づくことからして問題だ、まさか|ぼろ《ヽヽ》じゃ近寄れめえ。お巡査《まわり》に怪しまれねえためにゃシルクハットもかぶらなきゃなんねえからなあ」
「奴らどっさりいてやったってえだよ、旦那様」
「そりゃ決りきってらあね、ミュラー婆さん」――膝の按摩を終って、シュベイクは言った。「三人寄れば文珠《もんじゅ》の知慧って諺にもあるとおりだ。一人や二人で出かせる仕事じゃねえ。ところで俺らの皇帝様もこれからは気をつけなくちゃなるめえ。フェルジナントよりゃ、ずっと敵が多いんだからな。皇太子のほかにやられた人があるのかい」
「新聞で見ると、皇太子様は篩《ふるい》みたいになったとよ。弾丸がみんな当ったってえだから」
「そうだ、そいつあ恐ろしく速く飛びだすんだからな。わしもそんなブローニング銃を買いてえものだよ。見たところ玩具《おもちゃ》のようだが、肥っておられようが痩せておられようが皇太子の二十人くらいは二分間と経たねえうちに射ち殺せるんだからなあ。ミュラー婆さんだから打明けて言うが、痩せた皇太子様よりゃ肥った皇太子様の方にゃうまく当るぜ。ポルトガルの王様が射たれたことをおぼえているかい。あの王様もやっぱり肥っておられた。そりゃもちろん、王様だもの痩せてるはずはねえんだが。じゃわしゃこれから酒屋の『さかずき』へ行ってくるぜ」
『さかずき』には、一人の客がぽつねんと坐っていた。それは私服警官のブレートシュナイダーであった。主人のパリーベクは茶碗を洗っていて、ブレートシュナイダーが真面目な話をしむけるが、いっこう受け合わない。
パリーベクは|げひん《ヽヽヽ》なので有名である、二言目には糞だの尻《けつ》だのと言う。それでいてなかなかの読書家で、ヴィクトル・ユゴーのどの作品はどうのって、自信をもって人に教える。
「申し分のない夏だね」と、ブレートシュナイダーが真面目な話を持ちかけようとする。
「何もかも糞みてえですよ」パリーベクは、茶碗をたなに片付けながら言った。
「なんでもサラエボじゃ素晴しいことがあったってね」どうせろくな返事はしないだろうとは思いながらもブレートシュナイダーは、また話しかけた。
「どこのサラエボですかい。ヌースレの葡萄酒屋ですかね。あすこじゃつかみ合いの無《ね》えって日がありませんや。ご存知でしょうが、ヌースレでさあ」
「ボスニアのサラエボだよ。大将。フェルジナント皇太子が射たれたんだ。どう思うかね、君は」
「わしゃそんなものに口を突っこむことは嫌いでしてな。そんなものあ糞食らえでさ」と、丁寧に言いながら、パリーベクはパイプに火をつけた。「きょう日《び》そんなものに口を突っこんでた日にゃ命にかかわりまさあね。わしゃ商売人ですから、お客が来てビールを注文すりゃ、注《つ》いであげるまででさ。だがやれサラエボだの、政治だの、皇太子様だのって、こちとらにゃ何でもありませんや、たかだかパンクラッツ〔プラハ近郊にある大刑務所〕のお世話になるだけですからな」
「いつかここに皇帝陛下のご真影《しんえい》がかかってたっけね」とブレートシュナイダーは、しばらくだまっていた後、また話しかけた。「ちょうどあすこだ、いま鏡のかかっているところに」
「おっしゃる通りです」と、パリーベクが答えた。「あすこにかかってたんですが、蝿の畜生、糞をひっかけおったもんですから、おろしましたよ。ご真影に蝿の糞がついてるのを見つけられると不愉快なことが持ちあがらないとも限りませんからな。真っ平ですよ。そんな事《こた》あ」
「そりゃそうとサラエボって所はひどい所らしいね、大将」
この隠険な真向からの質問に対し、パリーベクは大いに用心してかかった。
「ボスニアって所は今ちょうどひどく暑い頃でしてな。陸軍にいたんですが、中尉殿の頭に氷をあてなきゃなんねえって騒ぎでさあ」
「何連隊にいたんだね」
「そんなつまらねえことあ、もうすっかり忘れっちまいましたよ、そんな糞みてえなことに|くよくよ《ヽヽヽヽ》しねえ主義でしてな、またそんなことを根掘り葉掘りきくのからして嫌いでさあ」と、パリーベクはそっけなく答えた。「あまりききたがるとろくな目にあいませんからな」
私服警官のブレートシュナイダーも流石《さすが》にだまりこんでしまった。そしてシュベイクが次のような文句をつけて黒ビールを注文しながらはいって来たとき、やっと救われたと言ったような顔をした。
「今日はウィーンでも喪章をつけるんだからな」
いい鳥が飛びこんだぞと言わんばかりにブレートシュナイダーの眼は晴ればれと輝いた――
「コノーピシュト〔狙撃された皇太子の居城のあるところ〕には黒い旗が十本立ってますよ」
「十二本のはずだがなあ」と、シュベイクは一口ぐっと飲みほしてから言った。
「どうして十二本だとおっしゃるのですか」と、ブレートシュナイダーが問うた。
「一ダースてえと、勘定の工合がいいし、割安に買えるからね」
「サラエボの事件は」と、ブレートシュナイダーがしばらくとぎれていた話をついだ。「セルビア人の仕業だってね」
「そりゃあんた大変な見当違いですぜ」と、シュベイク。「トルコ人の仕業ですよ、ボスニアとヘルツェゴビナを取られた意趣《いしゅ》晴らしですよ」
それからシュベイクは、バルカン半島におけるオーストリアの対外政策についての自己の意見を述べたてた。トルコは一九一二年セルビア、ブルガリア、ギリシアを相手に戦争をして負けた。トルコはオーストリアが味方になってくれるだろうと、当てにしていたのがはずれたので、今度フェルジナントを射ち殺した……というのである。
「お前さんトルコ人が好きかい」と、シュベイクはパリーベクに向って言った。「お前この異教の犬が好きか、まさかそうじゃあるめえ」
「お客なら誰だって同じだよ」と、パリーベクが言った。「たといトルコ人であろうともな。俺らのように商売を持ってる人間にゃ政治ってものあねえんだ。勘定さえ払ってくれりゃ、しゃべろうと何をしようとお客の勝手次第。というのが俺の憲法なのさ。フェルジナント様をやっつけたのが、トルコ人だろうとセルビア人だろうとカトリック教徒だろうと回教徒だろうと、無政府主義者だろうと社会主義者だろうと、この俺にとっちゃどうでもいいんだ」
「そりゃそうだろう、大将」と、ブレートシュナイダーが言った。「だけど、こいつはオーストリアにとって大きな損だという事にゃ異論があるまいね」
「損害だってことあ争えないよ」と、シュベイクが横から口をいれた。「しかも|えれえ《ヽヽヽ》損害さ。そこいらの野郎を取っつかまえてフェルジナントの代りをさすってわけにゃいかねえからな。だが欲を言や、あれゃもっと肥ってた方がよかったんだがなあ」
「とおっしゃると?」と、プレートシュナイダーがきいた。
「どう言うつもりかって」と、シュベイクは愉快そうに答えた。「なあに、てえしたわけでもねえんだが――あれ以上肥っていたら、こんなひでえ目にあわねえ先に、心臓麻痺でとっくにあの世へ行かれたろうからさ」
シュベイクは、ぐっと一息飲みほして、またしゃべりつづけた――
「皇帝陛下がこのままだまってしまわれるとでも思っちゃ、あんた大間違いですぜ。トルコとの戦争はおっ始まるに決まってる。そしてセルビアとロシアは俺らの味方をする。何しろこりゃどえれえ騒ぎになるぜ」
「トルコと戦争になりゃドイツが後ろからかかってくるかもしれねえ」とシュベイクは、オーストリアの未来について何もかも解っているかのように、その単純極まる顔に昂奮の色を浮かべながら語りつづけるのであった。
「ドイツとトルコは仲がいいからなあ。だけど俺らフランスと同盟するよ。そうなりゃうまくいくぞ。何しろ戦争がおっ始まるんだ、それだけ言っときゃよかろう」
このときブレートシュナイダーが起《た》ち上った、そしていかめしく言った――
「君はまたそれ以上言っちゃならないのだ。ちょっと外へ出てもらおう、話したいことがあるから」
外へ出たシュベイクは驚いた、今までの飲み友達が鷲〔オーストリアの秘密警察の徽章〕を見せながら捕縛して直ぐさま警察署へ連行すると告げたからである。
シュベイクは懸命に弁解を試みた。が、ブレートシュナイダーの言うところでは、シュベイクは多くの犯罪を構成する行為をなした、大逆罪もその中の一つである。
両人はまもなく酒屋に戻ってきた。そしてシュベイクはパリーベクに言った――
「ビール五杯とソーセージつきのパンを一つもらったよ。スリボービッツをもう一つくれねえか、そしたら俺《おら》あ出かけなくちゃなんねえだ、俺あふんじばられたもの」
ブレートシュナイダーはパリーベクに鷲の徽章を示した、そしてパリーベクの顔をしばらく眺めたのちきいた――
「君は家内があるか」
「へえ」
「君の留守中ここの商売をやってゆけるか」
「へえ」
「じゃ万事好都合だ」と、ブレートシュナイダーは愉快そうに言った。「細君を呼んできてここのものをすっかり引渡すがよい、夕刻君を連れにくるからな」
「ですが、またどうして私が」と、パリーベクは嘆息をもらしながら言った。「だって私ゃあんなに用心していたじゃありませんか」
ブレートシュナイダーはからからと打ち笑って勝ちほこったやうに言った――
「君は、陛下の上に蝿が糞をしたと言ったじゃないか。勿体なくも陛下のことなんぞ|てんで《ヽヽヽ》頭においとらんのじゃろう」
シュベイクは私服警官に同行されて『さかづき』を出た。往来まで来たとき、シュベイクは親しげに微笑みながら私服警官にきくのであった――
「人道を避けて通りましょうか」
「どうしてだ」
「捕縛された身分ですからねえ、もう人道を通る権利はないと思いますが」
警察署の玄関の中に入ったとき、ジュベイクは言った――
「時間のたつのは早いものですなあ。あんたちょいちょい『さかずき』へお出かけですかい?」
こういう愉快な調子で、我が勇敢なる兵士シュベイクは、かの欧州大戦に関係することとなったのである。
二 警察署における愚直兵士シュベイク
サラエボの暗殺事件に引懸って犠牲となった人々で、警察署はいっぱいだった。沢山ある監房のうちの一つに放り込まれたシュベイクは、そこにいた六人の人々になぜ引張られて来たのか問うてみた。
テーブルのわきに坐っていた五人は、いずれも同じような返事をした――
「サラエボ事件のために!」――「フェルジナントのことで!」――「太公様の暗殺で!」――「フェルジナントのことで!」――「皇太子様がサラエボで暗殺されたっていうわけで!」
五人の組と離れてひとり隅っこの板敷の上に坐っていた中年の男だけは別な事情であった。ホーリッツという所の百姓に対する強盗殺人未遂の廉《かど》でここへ来ているのであるから、他の連中といっしょになってサラエボの嫌疑を受けては困ると言うのであった。
サラエボ事件にひっかかった五人のうち四人までは、酒場か、でなければカフェで災難にあったのである。一人の例外というのは、ひどく肥った紳士で、これは自宅で捕まった。眼鏡をかけていたが、眼を泣きはらしていた。暗殺のあった二日前に『ブレイシュカ』という酒場で二人のセルビアの工学生に酒代を払ってやったという事を、ケッテン小路の『モンマルトル』で探偵のブリッスに――このときも彼はこの探偵の酒代を払ってやった――酔払ってしゃべってしまったからであった。
取り調べの際「私は紙問屋です」と言ってみたが「それは無罪の証拠にはならん」と突き放された。
背の低い紳士は歴史の先生で、飲みにいっていた酒場の主人に向って色んな暗殺の歴史を説明していた。
「暗殺の思想の単純なることは、正にコロンブスの卵のごとしである」
という言葉でもって、あらゆる暗殺人の心理解剖を結んだその瞬間に、彼は捕縛されたのである。
他の三人も随分くだらない理由で引張られたのであるが、そのうち一人、恐ろしさの余り髪や髯が逆立ちしてまるでムクイヌのような顔をしている男の場合は、こうである。
この男はあるレストランに唯一人でいたのだが、フェルジナント暗殺の新聞さえ読んでいなかった。そこへ紳士のようなのがやってきて彼の向い側に席をとり、いきなりきくのであった。
「あの事をお読みになりましたか」
「いいえ」
「あの事について何かご存知でしょう」
「いいえ」
「何が問題かご承知でしょうね」
「いいえ、私は何も知りませんよ」
「だっで興味はお持ちでしょう」
「何に興味を持っているか、自分でも解らないのです。葉巻を吸う、ビールを二三杯飲む、夕食をする、というくらいで、新聞も読まないのです。新聞ってのは出鱈目を書きますからね。くだらぬことに昂奮する必要はありません」
「それじゃサラエボの暗殺にも興味を持たれないとおっしゃるのですね」
「プラハのだろうが、ウィーンのだろうが、サラエボのだろうが、またロンドンのだろうが、暗殺ってものにゃいっこう興味を持ちませんね。警察や裁判所のかかわってることですよ、それは。方々でよく誰かが誰かを殺すってことはありますが、だいたいその殺される方が間抜ているからですよ」
ここまで物語った彼は「わしゃ無罪だ、わしにゃ罪がない」と言って、後は話さないでただ「わしゃ無罪だ、わしにゃ罪がない」を五分ごとに大声でくりかえすばかりであった。
みんなの話を聴き終ったシュベイクは慰めの言葉を言った――
「あんたがたは今、てえしたことにゃなるめえとおっしゃられたが、そりゃ聞違いですぜ。皇太子様を射ち殺す奴が飛び出す時節だもの、警察へ引張られたくらいで驚くにも当りませんや。わしが兵隊にいたときなんぞ、中隊が半分まで営倉に放りこまれた事が何度もありましたからなあ。軍隊だけじゃなく裁判だってそうでさ。おぼえてますが、生れたばかりの双児を殺したというので罪を申し渡された女がありましたよ。女の児を一人しか生まなかったのだから双児を殺せるはずはないと、女は最後まで誓って述べたんだが、矢張り二重殺人という判決がおりた。何しろ裁判の手にかかっちゃ、もう百年目でさ。だがそれも止むをえないんでがしょう。誰もかもが罪を受けてもよいような悪漢というわけじゃねえだろうが、この節どうして|まとも《ヽヽヽ》な人間と悪漢との区別がつけられると思う? 殊にフェルジナントが|やっつけられた《ヽヽヽヽヽヽ》今はよお。こんな話がある。矢張りわしが兵隊にいたときのことだが、大尉殿の飼い犬が練兵場の後ろの森の中で射ち殺されていた。隊の者全部が早速呼び出されてならばされた。そして番号をつけさせて、十番目ごとのものは前に出ろと言うのだ。わしもその中にはいり、気を付けの姿勢を取らされて瞬き一つできなかった。大尉は俺らのまわりを歩きながらどなる――『やい野郎ども、畜生、ろくでなし、追剥。できることなら貴様らを一人残らず、犬の仇だ、叩きのめしてやりたい、飴《あめ》ん棒みたいに打ち伸してやりたい、射ち殺してやりたい、煮殺してやりたいんだ。俺がだまって見逃すとでも思っちゃ大間違いだぞ。貴様らみんなに十日間の営倉を申しつけてやる』――どうです、あのときあ高《たか》が一匹の犬だったんだが、今度は皇太子様ですぜ」
「わしゃ無罪だ、わしにゃ罪がない」とムクイヌのような男が、また繰り返した。
「イエス・キリストだって罪がなかったぜ」と、シュベイクが言った。「それでも磔刑《たっけい》にされたじゃねえか。いつの世だって罪のねえ人間の方が、かえって貧乏くじを引くものさ。だまって勤めろ!――軍隊で俺らの聞かされた通りだ。それが一番いいんだよ」
板敷の上に横になったかと思うとシュベイクはすぐすやすやと眠ってしまった。
そのうちに新しい客が二人入って来た。一人はボスニア人で、もう一人は『さかずき』の主人パリーベクだった。シュベイクのいるのに気づいた彼は、揺り起こして、悲嘆に充ちた声で叫んだ――
「とうとうわしもここへやって来たよ」
シュベイクは嬉しそうに握手しながら言った――
「よく来たな、全く嬉しいよ。お前を連れに来るぞ、とおっしゃったとき、あの旦那は約束を守るに違《ちげ》えねえと俺あ思ったんだ。だがこんなに時間を守るたあ確かにいいことだな」
パリーベクは例によって口汚く色々とののしっていたが、シュベイクは再び眠ってしまった。が今度は長くはなかった。訊問に呼び出されたからである。彼はその単純な顔をにこにこさせながち、次のような挨拶で訊問室に入っていった――
「ええ今晩は、みなさん」
返事の代りにシュベイクは脇腹をうんとこづかれて、テーブルの前に突き出された。テーブルの向うには冷酷な官吏|面《づら》をした男が坐ていた。そして血に飢えた残忍な獣のようにシュベイクをじろっとみて言った――
「馬鹿げた真似は止せ」
「どうにも仕様がないですよ」と、シュベイクは真顔になって言った。「低能のため除隊されたんです。陸軍の特別委員会から白痴だと申し渡されたんです。私は官許の白痴であります」
殺人強盗のような顔をした男は歯をぎりぎり食いしばった――
「お前の構成せる数々の犯罪をもって見れば、お前の五官は立派にそろっているという事が確かだぞ」
彼は色んな犯罪をシュベイクにずらりとならべてきかせた。大逆罪をもって始まり、皇帝および皇族に対する不敬罪をもって終る。中でも光っているのが、フェルジナント皇太子暗殺の是認で、そこからまた一本の枝が出て新しい犯罪が幾つも繁っているその中で輝いているのが、煽動罪だ、多勢の人の出入りする場所でなされたからである。
「どうだ、これで文句があるか」と、残忍な獣のような面をした男が、ほがらかに言った。
「そりゃ|ちと《ヽヽ》多すぎますな」と、シュベイクは無邪気に答えた。「過ぎたるは及ばざりけり」
「それ見ろ解っているじゃないか」
「私は何でも解っております、厳格でなくちゃならんと、でないと何もできない。私がまだ軍隊にいたときのことでしたが……」
「黙れ!」と、シュベイクはどなりつけられた。「こちらからきかないことをしゃべるんじゃない。――お前は誰と交際している?」
「私の召使いとであります」
「当地の政界の間に知合いはないか」
「ありますとも、旦那、ナロードニー・ボリーチカ、つまりチュビーチカ〔チェコで一番よく読まれている新聞の綽名〕ですな、あれを買って読むことにしています」
「出ていけ!」と、獣のような顔をした男がどなりつけた。
「じゃ旦那、お休み」と、シュベイクは、この室から連れ出されしなに言った。
「訊問じゃなくて挑発じゃ。がみがみどなりつけておいて、おしまいに出ていけと来やがる」監房に帰ったシュベイクは仲間の者に報告した。
それから彼は昔の刑罰と今の監獄について一席弁じ、丁度それが終ったとき、監視人が監房の戸を開けて呼んだ――
「シュベイク、支度をしろ、訊問にゆくんだ」
「支度はできていますよ、訊問にゆくことにゃ反対しませんが。そりゃ何かの間違いじゃないでしょうかね。わしゃいま訊問室から放り出されてきたばっかりですからな。ここに居らっしやる方々は今晩まだ一度も呼ばれないのに、このわしばかりが引続き二度も出かけちゃ、気を悪くしませんか。わしゃ嫉《ねた》まれますよ」
「出てくるんだ、おしゃべりは止せ」――シュベイクの紳士的な通告に対する答えであった。
訊問室には例の殺人強盗のような男がいて、いきなりきいた――
「全てを承認するか?」
シュベイクは人のよさそうな青い眼でこの冷酷な男をじっと見つめながら、やわらかく言った――
「旦那が私に承認して貰いたいってえなら、承認しますよ。何でもないことですからな。だけど『シュベイク承認しちゃいかんぞ』とおっしゃるなら、八つざきされたって頑張りますぜ」
署名するようにとペンを渡されたシュベイクは、ブレートシュナイダーの作成した調書に、次のように書き足した――
右に挙げられし小生に対する告訴はことごとく事実に基づくものにございます。
ヨセフ・シュベイク
「もっと何かへ署名してあげましょうか。それとも今晩は失礼して明日の朝また参るとしましょうか」
「明日の朝は有罪の宣告を受けにゆくんだ」
「何時ですか、旦那? 寝すごすと大変ですからな」
「出ていけ!」と、またシュベイクはどなられた。
シュベイクが監房へ帰って来ると、仲間の者は彼を捕えて色んな質問を浴びせかけた。シュベイクはあっさりと答えた――
「俺《おら》あフェルジナント太公を叩き殺してやったんだ、と白状しちゃったところだよ」
驚いた六人の仲間は、虱《しらみ》のたかった毛布の下に小さくなってしまった。ただボスニア人だけは、『ドーブロ・ドシュリ』と訳の解らないことを言った。
シュベイクは板敷の上に横になりながち言った。「目覚し時計が無いたあ弱ったなあ」
だが、目覚し時計の必要はなかった。シュベイクはちゃんと起こされて、六時きっかり因人護送車で地方裁判所に送られた。
三 裁判医の前におけるシュベイク
条理、すなわち物の筋道というものが影をひそめて、条項、即ち法律第何条第何項が威張りちらすのが裁判所である。この条項がここでは勝手な振舞いをして、何者をも容赦せぬ。
と言っても、お米の中にヒエがまじっているように、例外というのがあって、幸いにもシュベイクを取調べた裁判官は、馬鹿げた法律を真面目くさって解釈する部類ではなかった。
「まあ掛け給え」と、そのお人よしの裁判官が言った。「君がシュベイクさんですね」
「それに違いないと思いますが。親父もおふくろもシュベイクって名前だったんですからな。私ゃ自分の名前をごまかして、あんたにご迷惑を掛けることあできませんよ」
「だが君は|えらい《ヽヽヽ》ことをやりましたね。良心に思いあたることは沢山あるでしょう」
「わしゃいつだって沢山良心を持っていますさ」とシュベイクは親しげに微笑みながら言った。「旦那よりゃ沢山持ってるかも知れませんぜ」
「君の署名した調書を見て言ったんだがね」と、裁判官もシュベイクに劣らず親しげな調子で言った。「警察で拷問のようなことを受けなかったかね」
「とんでもない、わしが署名しましょうかと聞くと、しろと言ったからしたんでさ。間違いっこなしですよ」
「シュベイクさん、君は少しも異状がないと思いますか」
「|少しも《ヽヽヽ》とあ言えませんな、旦那。リウマチを患っていますので、オポーデルドクを塗っていますよ」
裁判官はまた親しげに微笑んだ――「君を裁判医に診察させたいと思うんだが、差し支えないかね」
「旦那方がわっしのために余計な時間をつぶされたって、わしゃ別に何ともないが、淋病にかかってやしねえかって、もう警察の先生から診てもらって来たんですから」
「だがもう一度しっかり診察してもらおうじゃないか。ところで今一つきいてみたいんだが――調書で見ると、今にも戦争が始まるって事を大勢の人に話したそうだね」
「そうとも、旦那、もう直ぐおっ始まりますぜ」
「それはそうと、君はときどき何か発作のようなものに襲われはしないかね」
「ときどきじゃありませんがね、たった一度カール広場で自動車に襲われそうになったことがありましたよ。だがそれももう何年も前のことでさ」
取調べはこれで終った。裁判所の監房へ連れてこられたシュベイクは隣りの人に向って言った――「フェルジナント皇太子様の暗殺事件で裁判医がわしを診察するんだぜ」
そこで色々と裁判医の悪口が出た。一人の男の話、
「裁判医なんて阿呆だよ。こないだのことだが、何かの拍子で俺んとこの芝生から骸骨が出てきたんだ。裁判医の野郎の曰く、この骸骨は今から四十年前に何か玄翁《げんのう》のような鈍器でなぐられたものだ。いいかい俺あ当年とって三十八だ、その証拠に戸籍謄本だの身元証明書だのを見せてやったのに拘留を食らったんだ」
「物事は何でもいい方にとってやるのが本当だと思う」と、シュベイクが言った。「人間だもの、誰だって思い違いがあるさ、こんな事があった――ヌースレにいたときのこと、ある晩おそく一ぱい気嫌で家へ帰ろうとボーチチュ河の橋の上を通りかかったときだ。棍棒を持った男がわしに近づいていきなり頭をガーンとなぐりつけた。ぶっ倒れたのを見るとその男はあかりをつけて言った――『こりゃ人違いだぞ』自分の思い違いにひどく憤慨したその男は、またしたたかわしの背中をなぐりつけたものだ。墓へ入るまで思い違いをするというのが、人間の生れつきなんだ。だから学者だろうが、何も知らない馬鹿だろうが同じことよ。大臣だって間違いをやらかすんだからなあ」
裁判医の方では協議が始まった。そして結局、シュベイクの精神状態を根本的にしらべることに一決した。次の問答が即ちシュベイクに課せられたメンタルテストだ。
「ラジウムと鉛とはどっちが重いか?」
「さあ、秤にかけてみたことがありませんでな」とシュベイクは例の通りお人好しな微笑を見せながら答えた。
「世界には端があると思うかね」
「第一その世界の端ってのを見なくちゃ」とシュベイクは平然と答えた。「だけど今日明日のうちに見られないに決まってますよ」
「君は地球の直径が測れるかね」
「そんなこたあ答えたかありませんよ。今度はわっしの方から旦那方に謎をかけますぜ。四階建ての家があって、どの階にも窓が八つある。屋根の上には破風と煙突が二つずつある。それからどの階にも借家人が二人ずつ。さあ旦那方、この家の門番のばあさんは、いつ死んだのか当てて見なされ」
裁判医は意味深長な顔を見合せた、がそれにもかまわず一人がきいた。
「太平洋の一番深い所はどのくらいあるか知ってるか?」
「知りませんな。だけどモルダウ河のイシェラーデル岩の下よりずっと深いにちがいないと思う」
「これで沢山だろう」と、この精神鑑定委員会の会長が言った。
「旦那方、どうもご苦労さんでした」と、シュベイクは畏《かしこま》って言った。「わしもこれで沢山です」
裁判医の委員会は、シュベイクを明白なる白痴なりと断定し、次のごとき動議を提出した。
一、ヨセフ・シュベイクに対する取調べはこれを中止すること。二、ヨセフ・シュベイクを精神病院に送り診断せしむること、彼の精神状態が近隣に対しいかなる程度まで危険なるかを確定せんがためなり。
こういう決議がなされている間に、監房へ帰ったシュベイクは仲間の者に報告していた――「奴らフェルジナントのことなんか問題にもしねえで、俺に馬鹿げたことばかりきいて遊んでいやがる。そしてその揚げ句、奴らも俺ももう沢山だと言って別れてきたのさ」
「俺あ誰も信用しねえ」と、骸骨を掘り出した男が言った。「みんな泥棒の一味だよ」
「あたりめえさ、誰もが他人を善人だと思って気を許していた日にゃ、すぐ叩き殺されちまうからな」と言って、シュベイクは藁蒲団の上にごろりと横になった。
四 精神病院から放り出される
「気狂いは精神病院に入れられると怒るが、わしにゃどうもわけが解らん。あんな気楽な所はどこを探したってねえじゃないか。真裸になって土の上をはおうと、虎狼のように吠えようと、狂いまわろうと噛みつこうと、勝手次第だ。あんな真似を往来でやってご覧《ろう》じろ、人はびっくりしてしまうぞ、ところがあそこじゃそれが当り前のことなんだ。社会主義者でさえ夢にも考えないような自由がある。神様だ、聖母マリアだ、法王だ、イギリスの国王だ、などと自称しているのがいる。近々子供をうむから命名式にはぜひ来てくれと会う人ごとに頼んでいる紳士もいる。それから俳優、政治家、画家その他いろんなのがいる。大学教授も二三人いた。そのうちの一人は、地球の内部にはもっと大きな地球があるということを、俺にくわしく説明してくれたっけ。
何しろあすこじゃ誰でも口に出まかせのことをしゃべれるだからなあ、まるで議会そっくりさ。天国の生活だよ。どなろうと、吠えようと、泣こうと、溜息をつこうと、飛ぼうと、四つんばいになろうと、|ちんちんまごまご《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》しようと、踊ろうと、朝から晩まで土の上にしゃがんでいようと、壁によじのぼろうと、好き勝手だ。しかしなかには無口な気狂いもいる。ひっきりなしに鼻糞をほじくっていて、一日に一度だけ『今ちょうど電気を発見したぞ』としか口をきかない発明家などはその部類だ。とにかく、結構なところさ、精神病院でくらした二三日というものは、わしの一生のうちでも一番楽しいときだったよ」
これがシュベイクの精神病院観である。それも道理で、入院の初めからして思いがけないものだった。先ず、彼は服をぬがせられて立派な寝衣をきせられ、風呂に案内された。それも総て護衛付きだから素晴しい。二人の番人が親切にもシュベイクの両腕を持っていてくれ、一人はユダヤの逸話をして喜ばしてくれた。風呂の入れ方も至れりつくせりだった。お気に召しましたか、お気に召しましたか、と問われたので、カール橋の銭湯よりゃよっぽどよい、とシュベイクは答えた。「これで爪を切ってもらい、髪を鋏で切ってもらえりゃ申し分なしですが」と、にこにこしながら丁寧につけ加えた。
この望みもかなえられた。こうして輝くばかりに磨いてもらったのち、麻布にくるまって寝室へ運ばれ、寝かされて毛布を掛けてもらった。
シュベイクは今日でもなお、そのときのことを嬉しそうに話すのである――「わしを抱っこしていってくれたんだぜ。いやもうあんな嬉しいことったら無かったよ」
眠るようにと頼まれたので、シュベイクは安らかに眠った。何時間かの後、起こされて眼をさますと、ミルクと白パンを持って来てくれてあった。番人の一人がシュベイクの両手を持っていてくれる間に、も一人は小さく切った白パンをミルクに浸して口の中に入れてくれた、まるで鵞鳥に団子をやるようだ。食べさせ終ると、二人はシュベイクの両腕を自分らの腕に組んで、便所に連れてゆき、小便と大便をするようにと頼むのであった。
シュベイクはこのときの嬉しかったことを今でも話すのであるが、これだけは彼の言葉通りに記すことはできないから、次の言葉だけ伝えて置こう――
「わしがやっている間、番人の一人は腕を掴まえててくれたんだよ」
それからまた寝かされ、また起こされて、今度は診察室に案内された。丸裸で二人の医者の前に立たされたシュベイクは、徴兵検査に合格した光栄ある日のことをおもい出した。そして思わず口をすべらした――
「合格」
「何ですって」と、一人の医者が問うた。「五歩前へ歩いて、五歩後ろへさがってごらん」シュベイクは十歩あるいた。
「五歩お歩きと言ったじゃありませんか」
「四歩や五歩ぐらい多くたって少なくったってかまやしませんや」
医者はシュベイクの膝や瞳孔を診察したのち、机の方へいって二人で何やらラテン語で話し合った。「貴方は歌が歌えますか」と、一人がシュベイクにきいた。「何か一つ唄を聴かせていただきたいものですね」
「おやすいご用で。実は声もわるいし、節まわしもまずいんですが、旦那方のおなぐさみになるとすりゃ、一つやって見ますかな」
そこでシュベイクは歌い出した。
「椅子にもたれし若僧は
深き想いに沈みこむ
悲しき涙 二筋に
頬を伝いて流れけり。
先あ忘れちまいました。なんなら別なのをやりましょうか。
ああなどて 今日は悲しき
わが胸の かくも苦しき
見はるかす 星の明りよ
彼方にぞ われの喜び
こいつも先を知らないんで」と、シュベイクは悲しそうに言った。
「だけど民謡なら幾つも歌えますぜ、『ウインジッシュグレーツ将軍は』だとか、『助け給え、神様よ』だとか、『ヤーローメルシュに行ったとき』だとか、『ようこそお出でなされたな』ってのなら」
二人の医者は互いに顔を見合わせた、そして一人がきいた――「貴方はこれまでに精神状態を診断してもらったことがありますか」
「しかも陸軍で」と、シュベイクは大威張りで答えた。「軍医殿から明白なる白痴なりと宣告を受けていまさ」
「お前は詐病《さびょう》兵だな」と、別の医者がどなりつけるように言った。
「憚《はばか》りながら詐病兵じゃありませんぜ。正真正銘の白痴です。嘘だと思うなら、ブードワイスの第九一連隊か、カロリーネンタールの補充兵司令部へ問い合せてみなされ」
年とった方の医者がシュベイクをゆびさしながら番人に言いつけた――「この男に服を返してやって三等室に連れてゆけ」
シュベイクは丁寧にお辞儀をしながら、おそるおそる戸の方へ後すざりして行った。なぜそんな馬鹿な真似をするんだ、と番人が問うたのに対し、シュベイクは答えた――「わしゃ服を着ていないから裸です。お尻を見せて旦那方から無礼な奴だとか、|げす《ヽヽ》な野郎だとか思われたかありませんからな」
服を返してやれとの命令を受けた瞬間から、番人のシュベイクに対する態度はがらりと変わってしまった。シュベイクは番人から服を着かえろと命ぜられ、三等室に放りこまれた。そこで彼は二三日を過ごしたのであったが、その間に医者は『精神薄弱を装う詐病兵』という鑑定をつけた。しかるにシュベイクを昼食前に退院させたので、ちょっとした騒動が持ちあがった。
いくら精神病院でも、昼飯を食わせないで放りだすとはひどい、というのがシュベイクの主張だった。
門番は監視人を呼びにいった、監視人は有無を言わさずシュベイクをサルム街の警察分署へ引張っていってしまったので、この騒動には|けり《ヽヽ》がついた。
五 サルム街の警察分署におけるシュベイク
精神病院における幸福にひきかえ、サルム街の警察分署に突き出されたシュベイクはいきなり隔離室に放り込まれた。
隔離室には一人の憂鬱そうな男が、気の抜けたようになって、板の腰掛けに坐っていた。
「今日は、旦那」と、シュベイクはこの憂鬱そうな男の傍《そば》に腰を下しながら言った。「ちょいと伺いますが、いま何時頃でしょうか」
「時計はわしの主人じゃありません」と、その男は素気なく答えた。
「ここはそう悪くもねえぞ」シュベイクは構わずに会話を続けた。「腰掛けの板にゃ鉋《かんな》がかかってるじゃありませんか」
いかめしい顔をしたその男は何とも返事をせずに、立ち上ってこの狭い部屋の中の戸口と腰掛けの間をいそがしそうに往来し始めた。何かひどく急いで救わなければならないものがあるようであり、マラソン競走に勝とうとしているようであった。その間、シュベイクは面白そうに壁の落書きを眺めていた。
やがて男は立ち止り、もとの場所へぐったりと腰を下して、両手で頭を抱え込んだ。と思うと急にどなるのであった――「出してくれ!」
「いやいや、出しちゃくれまい」と、彼は独り言を言った。「決して出しちゃくれまい。俺はもう今朝の六時からここにいるんだ」
彼は急に話し相手が欲しくなってきたとみえて、シュベイクの方に向きなおってきいた。
「皮帯をお持ち合せじゃないでしょうか、自決するつもりですが」
「お安いご用でさあ」と、シュベイクは早速皮帯を外しながら言った。「隔離室の中で皮帯を使って縊死《いし》するところあ、未だ拝見したことがありませんでな」
「困ったことには」と、彼は続けて言った。「うまくひっかけるものが無いようですなあ。あの窓の引き手じゃもちますまい。仕方がないから、エマウスの修道僧がやったように、腰掛けにひっかけてしゃがんで縊《や》るんですなあ。自殺する人間はわしゃ大好きなんだ、さあ、それじゃ一つ勇んで仕事にかかりましょうぜ」
シュベイクから皮帯をつきつけられた男は、じっとその皮帯を見つめていたが、手に取るや隅っこの方へ放り出してしまった。そして黒く汚れた手で涙をこすりながらおいおい泣き出すのであった――「わしにゃ子供があるんだ、酔払って醜態をやらかしたためここに引張られたんだ。おおふびんな家内。役所へ出たら皆の者が何と言うだろう? わしにゃ子供があるんだ、酔払って醜態をやらかしたためここに引張られたんだ」というようなことをひっきりなしにしゃべった。
「首をつるのが嫌なら、おかけなせえ、あとは成行きに任すのですな」とシュベイクはなぐさめた。「あんたがお役人さんで、妻や子供があるとすりゃ、たしかに困ったものですわい。お察ししますよ」
「自分で何をやったかさっぱり解らないのですからね。部長さんの誕生日に葡萄酒屋へ招かれましてな、そこを振出しに梯子《はしご》飲みが始まったのです。ええと、一軒、二軒、三軒、四軒、五軒、六軒、七軒、八軒、九軒」
「旦那、勘定なら、お手伝いしましょうか」と、シュベイクがきいた。「忘れもしませんがわしゃ一晩に二十八軒飲みまわったことがありますでな。だけど気をつけましてね、どこでもビール三本以上飲まないことにしましたよ」
「で要するにですな」と、上官の誕生日を素晴しく祝ったこの可哀想な部下は、言葉を続けた。「いろんな酒屋を一ダースばかり飲みまわったとき、部長さんが見えなくなったです、犬みたいに縄でしばって引きずっていたのですがな。みんな大騒ぎで方々へ探しに出かけたと思って下さい、ところが探しに出かけた連中が一人残らず酔払ってしまいましてな、わしもどこかの徹夜営業カフェに腰をすえてしまったものでさ。上品なカフェでしたが、わしゃリキュールを瓶のままラッパ飲みをしたのまではおぼえている。先のこたあ全然記憶にないのです。この分署へ連れてきた警官から、わしがひどく酔払って醜態をやったということをきかされ、初めて知ったというような訳です。大理石のテーブルをこわしたり、隣りの人のコーヒーの中に唾を吐いたり、そりゃ随分乱暴狼藉の限りをつくしたらしいですな。ところが、ところが、わしゃ自分の家族の身の上のことばかり案じている真面目な教養ある人間です。道にはずれたことなど決してしない者ですが……」
「先程あんたは大理石のテーブルをこわしたとおっしゃったが、それにや骨が折れましたかい」と、シュベイクは反対に問うのであった。「それとも一撃のもとにこわしちまいましたかね」
「一撃のもとに」と、その教養ある紳士が答えた。
「それじゃもうすっかりお終いでさあ」と、シュベイクは憂鬱そうに言った。「テーブルのこわし方を前もって盛んに練習してあったという証拠になりますからな。それから、あんたが唾を吐きこんだとおっしゃったそのコーヒーはリキュール入りでしたか」
相手の返事を待たないで、シュベイクは明白な断案を下した――
「リキュール入りだとすりゃ、いよいよもって|えれえ《ヽヽヽ》ことになりますぜ。リキュール入りの方が高いんです。裁判所じゃ一から十まで金高でいくんですからな」
「裁判所――」と、その家庭における善良なる父は蚊の泣くような声で言った。
「あんたの家じゃ、あんたが拘留されてるのご存知なんですか」と、シュベイクはきいた。「それとも新聞に出るまで待ってるのですかい?」
「この事が新聞に出るとおっしゃるんですか?」と、この上官の誕生日に犠性となった男は、真心からきくのであった。
「そりゃ決まりきってまさあね」と、シュベイクは率直に答えた。相手の前で何か包みかくすというようなことは、彼の性質としてできないことであったから。「それどころか、あんたの一件なら誰でも喜んで読みますぜ。わっしも好きでしてな、酔払いとその暴行ってな記事を読むのが。いつだったか、あるお葬式でわしがある男の横面を一つ食らわしてやった、その男もだまってやしねえ、わしに返報ときた。とどのつまり二人とも拘留を食ってやっと仲直りした――その記事がちゃんと夕刊に出てるじゃねえか。それからまた、どこかの評議員がカフェ『しかばね』で皿を二枚こわしたことがある。そのくらいなら大目に見てやったろう、とでも思いなさるかい。どう致しまして、翌日の新聞にゃもう出てるんです。ですからこうなすっちゃいかがなもんでしょう。あんたは早速ここから新聞社へ正誤訂正を申し込むんですな、小生に関する記事は事実に相違いたしております、小生と同姓同名の者は小生ではなく、また小生の親戚でもありません、って工合に」
「あんた寒いんですかい」と、その教養ある紳士のがたがたふるえているのを見て、シュベイクは同情して言った。「めっきり寒くなりましたでな」
教養ある紳士はついにめそめそと泣き出した――「わしゃ何てことをやらかしたんだ。取り返しのつかぬ悪評をこうむったじゃないか」
「全くですな」と、シュベイクは持ち前の正直さで言った。「何しろ新聞にのっちゃ百年目でさ、悪評はあんたの一生涯つきまといますよ。だけど悪評を持った人間の方が、好評の人間より十倍も多い世の中ですからな、悪評なんててえしたことじゃありませんや」
廊下に足音が聞え、鍵の音ががちゃがちゃ鳴り、戸が開くと、警官がシュベイクを呼んだ。
「失礼ですが」と、シュベイクは義侠心を出して言った。「わしゃやっと十二時にここへ来たんですが、この方は朝の六時からいるんですよ。わしゃたいして急ぎませんから」
警官はだまってシュベイクを廊下に引張り出し、警部室に連れていった。
「君がそのシュベイクなんだね」と、お人よしらしい肥った警部がきいた。「どうしてこんな所へ来たんだい?」
「すこぶる簡単なんでさ」と、シュベイク。「昼飯も食わさねえで精神病院からおっぽり出すたあ、承知できねえ、って言ってると、巡査さんがわしをここへ連れて来たんでさ」
「ねえ君」と、警部は親切そうに言った。 「この分署でがみがみ言い合ってたって始まらないじゃないか。君を本署の方へ送ろうと思うが、どうだろう?」
「おすきなように」と、シュベイクは満足そうに答えた。「夕方に警察署へゆくなんて、ちょいと乙な散歩ですな」
ドイツ文字で「拘留人控え帳」と書いた厚い本を抱えた警官に伴われて、シュベイクはゲルステン街とカール広場の角のところを歩いていた。そしてブレンテ街の角まで来ると、そこに張り出されたポスターに集まっている大勢の人間にぶっつかった。
「ありゃ皇帝陛下の宣戦布告なんだよ」と、警官がシュベイクに教えた。
「わしが前もってちゃんと言っておいたことでさ。だけど精神病院にいる人々は未だ何にも知らないんですぜ、真っ先に知らさなくちゃならない筋合なんですがな」
「そりゃどういうわけだい?」と警官がきいた。
「あすこにゃ将校殿が沢山いなさるから」と、シュベイクは説明した。それからまた別な群集のいる所へ来たとき、シュベイクは突然叫んだ――
「フランツ・ヨセフ皇帝万才! この戦争は俺らの勝ちだぞ!」
昂奮せる群衆の中の誰かが、怒ってシュベイクの帽子を鼻の上まで押しつけた、そして人々が馳せ集まる中を、わが勇敢なる兵士シュベイクは再び警察署の門をくぐったのである。
「諸君、くりかえし言うが、この戦争はきっと我々の勝利ですぞ!」と、ぞろぞろ後を追ってきた群集に対し、シュベイクは別れの挨拶を述べた。
六 泥棒の群れを突破して再び我家に帰る
「また我々のところへ来られたとは、どうも気の毒です」と、いやに親切そうな調子で、訊問の係官が言った。「貴方をここへ拘留して置くのは、我々にとって決していい気持じゃないです。また本官一個の意見ではあるが、貴方の罪はさほど大きくないと考えるのです。貴方の頭の働きようじゃ誰かから誘惑でもされない限り、こんな真似はとてもできる筈がないからです。シュベイクさん、いったい貴方は誰から誘惑されてこんな馬鹿げたことをやったのです?」
「はばかりながら、わっしゃ馬鹿げたことなんぞした覚えはございません」
「これでも馬鹿げたことじゃないとおっしゃるのですな、シュベイクさん」と、取ってつけたような親しみをもって係官が言った。「貴方をここへおつれ申した警官の報告によれば、街角で宣戦布告のポスターを見ている群集に向い、貴方は『フランツ・ヨセフ皇帝万歳、この戦争は俺らの勝ちだぞ!』と叫んで、アジをとばしたそうですね」
「わしゃ不忠な臣民になりたかなかったんです」と、シュベイクはそのいかにも善良な眼で訊問官の顔をじっと見つめながら言った。「宣戦布告を読みながら、誰一人喜ばしい顔をしていないのを見て、わしは実に憤慨したです。どこを風が吹くかってな顔をしとるじゃありませんか。わしゃこれでも元は第九一連隊の兵卒です。だまって見るにしのびんので、ああ叫んだんでさ。あんただって、わっしの身になってみなせえ、同じようなことをやりますぜ」
「そりゃ貴方が興奮なすったってことは本官にも解りますがね」と、ぺしゃんこにやっつけられた係官は、無邪気な小羊のようなシュベイクから正面に見られるのが堪えられなくて、眼をそらしながら言った。「他の場合ならば兎も角、貴方は警官に引かれている身分じゃありませんか。折角の愛国的な言葉も、群集には真面目にとれないで、かえって皮肉に聞えますからな」
「警官に引張られてゆくってことは」と、シュベイクは答えた。「人生のうちでも重大な瞬間です。それにも拘らず、君のためまた国のためを忘れない、というような人間が、どうして悪い人間でしょうかね」
重ねてやりこめられた係官は、ぐうの音も出ず、ただシュベイクを見つめるばかりだった。シュベイクは相変らず、無邪気な柔いひかえめな興味のある眼を以て、それに答えた。
「手の付けようのねえ野郎だな、お前は」と、係官は全く手の付けようが無くなって言った。「まあ今度だけは大目に見てやろう。だが二度とここへ来るようなことがあったら、今度はすぐウラージンの軍法会議へまわすから、そう思え。解ったか」
出し抜けにシュベイクは係員のそばへゆき、その手に接吻して言った――
「まことに有難うございました。もし犬のご入用でもございましたら、わっしんとこへおいで下さいまし、わしゃ犬の商売をやっておりますでな」
こうしてシュベイクは再び自由な身となって、我家へ帰ることとなった。しかし真直にではなく、先ず『さかずき』へ舵を曲げた。
居酒屋の中は、まるで墓のようにひっそりしていた。二三人の客はいるにはいたが、みんな陰気くさかった。パリーベクの内儀《おかみ》が、カウンターのうしろにいて、ぼんやりとビール出しの栓を見ていた。
「よう、わしゃもう帰って来たよ」と、シュベイクは陰気に呼びかけた。「ビールを一杯もらおうぜ。パリーベクさんはどこだい。先生ももう帰ったかね」
パリーベクの内儀は返事もできずに、おいおい泣き出した。それから一語一語特別な調子をつけながら、やっとこれだけ言うことができた――
「うちの――良人《おっと》は――十――年――申し渡されただ――一週間――前に」
「それ見な」と、シュベイクが言った。「もう七日間済ましたじゃねえか」
「うちの良人は、あんなに気をつけたに」と、お内儀は泣き泣き言った。「自分で不忠なこたあしねえ、って言いはってたんだがね」
「用心は智慧の母だ」と、シュベイクは、パリーベクの内儀が持ってきたビールの泡の上に、その涙が落ちて小さな穴となっているのを見ながら、言った。「この節あ、誰でも用心をしなくちゃ」
シュベイクの話が、ちょっと戦争のことにふれたのを聞いていた二三人の客は、あわてて勘定をすませ、こそこそと逃げ出した。パリーベクの内儀と二人きりになったシュベイクは言った――
「何の罪もない人間に、十年の宣告たあ、わしゃ思いもよらなかったよ。罪もないのに五年の宣告をされたって話は聞いたことがある。だけど、十年たあ、ちと多過ぎる」
「宣告をうけて廊下に引かれてゆくとき、うちの良人は、気狂いのようになって、叫んだよ――『思想の自由、万歳!』ってね」
「ブレートシュナイダーさんは、もう来なくなったかい」
「二三度見えたが、あの人が来ると、他の客は急にサッカーの話をしだす。もっとも一人だけひっかけられたがね」
「あんなのにひっかかっちゃ百年目だよ」と、シュベイクは言った。「ときにウイスキーを一杯おくれ」シュベイクが二杯目のウイスキーをついでもらったとき、うわさの本人、私服警官のブレートシュナイダーがはいってきた。そしてじろりと素早く見まわしたのち、シュベイクのテーブルに腰をかけビールを注文して、シュベイクが何か言い出すか、と待っていた。
シュベイクは新聞架から何だか解らない新聞を取って、裏面の広告欄を見ながら、こんなことを言った――
「うむ、そうか。ストラシュコフ五番地のチンペラって男が、付近に鉄道や学校のある田畑十三枚付きの農場を売り物に出しとるぞ」
「あなたが農場に興味をお持ちとは、実に妙ですな、シュベイクさん」と、ブレートシュナイダーは待ちきれないで、話しかけた。
「ああ、あんたでしたか」と、シュベイクは彼に握手を、求めながら言った。「ちょっと思いだせなかったもんですからな、わしゃどうもおぼえが悪うて。おぼえ違いかもしれませんが、この前おあいしたのは、たしか警察署の訊問室でしたな? あれからどうしていますか、ここへもちょいちょい来られますか」
「今日は貴方に用事があって来たんですがね、警察本部できいたんですが、貴方は犬をお売りになるそうですね。上等のピンシャーかラットラーがほしいんですが」
「警察犬は、いかがでござんしょう。何でも嗅ぎ出して、すぐ犯罪に結びつけてしまうような奴は?」
「ピンシャーが欲しいんです」と、ブレートシュナイダーは静かに言った。「噛みつかないようなピンシャーが」
「じゃ歯無しのピンシャーをお望みなんですな。心当りがありますよ。たしかデイビッツの酒屋の主人が持ってましたっけ」
「それじゃラットラーにしましょう」と、警察本部からの命令のお蔭で犬の種類の|いろは《ヽヽヽ》程度がわかりかけたブレートシュナイダーはあわてて言った。
だがこの警察本部からの命令というのは、明瞭なものだった。すなわち、シュベイクが犬の売買をやっている根拠をさぐり出せ、犬を買い入れる資本がどこから出るかをかぎ出せ、という命令をブレートシュナイダーが受けたのであった。
「ラットラーにも大きいのや小さいのがありましてな。五匹いっしょに膝の上にのっけられるほど小さいのがありますよ。是非それになさい」
「そりゃ持ってこいですな。ところでいくらしますかな、そんなのは?」
「大きさによりますよ。ラットラーは子牛とちがって、小さいほど高いんですからな」
「じゃ、こうしましょう、番犬になるような大きいのをもらいましょう」と、特高課に割当てられた機密費を使いすぎるのを恐れて、ブレートシュナイダーは安い方に決めた。
「よろしい。大きい方を五十クローネで売りましょう、もっと大きいのなら三十五クローネですが。ところで、若い犬ですか、年とった奴ですか。また牡ですか、それとも牝にしますか」
「何だっていいんです」と少しややこしくなってきたので、ブレートシュナイダーは言った。「じゃ明朝七時にいただきに参りますよ。それでいいですな」
「よろしい、取りに来なさい」と、シュベイクは無愛想に答えた。「だけどこの際、是非三十クローネだけ前金をもらっときたいんですが」
「お安いご用です」と、ブレートシュナイダーは金を払いながら言った。「ところで、勘定は私がもつから葡萄酒をクウォーターボトルずつ飲もうじゃありませんか」
二人が各四本目のクウォーターボトルを飲み終ったとき、ブレートシュナイダーは、そろそろと遠まわしにお役目に取りかかった。だがシュベイクは言った――
「わしゃ二度と酒屋じゃ政治の話なんかせん。いったい政治なんて、ありゃ子供の遊びごとじゃ」
が、そのくらいのことで引っこむブレートシュナイダーではなかった。五本目のクウォーターボトルを空けたとき自分は無政府主義者だ、などと言いだした。シュベイクは言った――
「いつぞや一人の無政府主義者にレオンベルガーを百クローネで売ったことがあったっけ。なしくずしだったが、最後に受取る分が、まだそのままになってるんだ」
六本目のクウォーターボトルをほしてしまったとき、ブレートシュナイダーは、やれ革命がどうの、動員がどうの、と語りだしたが、シュベイクは全然相手にならないで言った――
「内儀さんが泣いていますぜ」
「なぜ泣くんだい、内儀さん」と、ブレートシュナイダーがきいた。「三月とたたないうちに我軍の勝利だ。そうなりゃ大赦令が出て、お前さんの旦那ももどってくる。そのときゃここで一つ大いに飲もうぜ」
「それとも」と、またシュベイクの方に向きなおって言った。「君は、我々の勝利だとは思わぬかね」
「何度同じことばかり言ってんだい。勝たないでどうしよう。終りだ。わしゃもう帰らなきゃ」
シュベイクは家に帰った、おどろいたのは、ミュラー婆さんである。
「旦那様、二三年もしなきゃ帰られねえと思ってましただよ」と、これも持ち前の正直さで言った。「お留守中に、気の毒な男を泊めてやることにしましただ。それから三度も家探しがありましてな、旦那様は抜け目がねえで証拠を残さねえもんだから骨折り損だった、ってその人達が言ってましただよ」
ミュラー婆さんの言う気の毒な男とは、ある徹夜営業カフェの門番で、女といっしょにシュベイクの寝台の中で、気持よさそうに眠っていた。
シュベイクから揺り起こされた門番先生は、ねぼけて、この家の主人がもどって来て、自分に出ていってもらおうと言っているのを了解するまでには、かなり時間がかかった。
夕方の八時まで寝るんだ、と頑張っていたが、シュベイクから叩きだすぞと言われて、カフェの門番先生は、しぶしぶ服を着ながら言った――わしゃこの婆さんに寝台代として一日二クローネずつ払う代りに、カフェから女を連れてきてもいいことになってたんだのに……おい、マルシェーノ、起きろ!」
男は出かける頃には、もう気嫌をなおして、自分の勤めている所は『ミモザ』という、女だけしか出入りしない上品な徹夜営業カフェだから、お暇の節は是非お遊びに、とお世辞を述べた。が、女の方は――
「こん畜生、おぼえてやがれ!」と捨て科白《ぜりふ》を残していった。
この闖入《ちんにゅう》者の出ていったあと、シュベイクはミュラー婆さんと勘定しようと思った。が婆さんは影も形も見せない。その代りに、鉛筆で書いた金釘文字の遺書があった。主人に無断で寝台を貸したおわびらしい――
「おゆるし下さい、だんなさま、もうこの世ではおめにかかれません。窓から身投げいたします」
「嘘ついてやがらあ」と、シュベイクは言って、婆さんのもどるのを待っていた。
一時間とたたないうちに、可哀想にミュラー婆さんは、台所からこっそりと入って来た。その当惑した顔付を見ると、シュベイクからなぐさめの一言もかけてもらいたい様子だ。
「窓から身投げしたいなら、居間の窓からやってもらおう、俺が開けといてやったからな。台所の窓から飛ぶのはおすすめできん、庭へ落ちて薔薇を折って見ろ、弁償させられるぞ。居間の窓からなら、うまくいきゃ、往来へ落ちて首がおれてしまう。ただし下手をすりゃ、肋骨と手足が折れて、病院代を支払うのがおちだ」
ミュラー婆さんは、わっと泣きだした。それからそっと居間へいって窓をしめてかえり、シュベイクに言った。――「風がはいりますでな、旦那様のリウマチにいけないと思いまして」
ミュラー婆さんは、例に似ず家の中をきちんと片付けはじめた。そしてシュベイクに留守中におこった色んなことを話した。家宅捜索に来た役人が飼い犬にかまれたこと、シュベイクが外国から金をもらってやしないかなどときいたりしたこと、それから婆さんが一人では寂しかろうと言ってカフェの門番を世話してくれたこと、などを話した。
「役人にゃ俺あもうこりごりだ」と、シュベイクは溜息をつきながら言った。「婆さん、見てろよ、今に嫌というほど奴ら俺んとこへ犬を買いに来るから」
大戦後オーストリア帝国は没落して、その治下にあったボヘミア王国もチェコスロバキア共和国となったが、その際もとの警察帳簿をしらべた方々が、特高課の機密費の項目中に、次のような符牒のあったのを正しく解釈したかどうか、著者は知らない。B―四〇K、F―五〇K、L―八〇K、D―九〇K等々。
このB、F、L、Dなどという文字は、それぞれ四〇、五〇、八〇、九〇クローネでもってチェコの大衆を帝政派の連中に売った人々の名前の頭文字だろう。とでも思ってたとすれば、そりゃ大間違いだ、Bはベルンハルジナー、Fはフォックステリヤ、Lはレオンベルガー、Dはドッゲ《ブルドッグ》の意味で、このうちブルドッグを除いては、いずれもブレートシュナイダーがシュベイクから買って警察本部へ持ちこんだ犬の種類である。しかしこれらの犬は、シュベイクがこの私服警官に約束したような純血な種類では決してなくて、どれもこれもひどい化け物のようなものだった。ブルドッグは探偵のコロウスが買ったものであるが、このコロウスもブレートシュナイダー同様、政治問題を持ちかけながら、結局シュベイクからまたぞろひどい雑種をつかまされたものであった。
有名なる私服警官、ブレートシュナイダーの一生はここで終る。すなわち、彼はシュベイクからこんな化け物のような犬をつかまされること七匹に及んだ。そして彼は犬を奥の部屋へ押しこんでおいて、ある日自分があとかたもなく食われてしまうまで、犬に何も食わさなかったのである。
この忠実なる私服警官は、国庫のため自己の埋葬費を緊縮するほど実直であった。
後日シュベイクがこの悲劇的な出来事を耳にしたときこう言った――
「骨まで食われてしまったって話だが、地獄じゃあの男を裁判所に引張りだすのに、どうして元通りの身体に組立てるつもりなんだろうなあ」
七 シュベイクの出陣
ロシア軍にたいするガリシア方面の南部戦線。そのいずれにおいてもオーストリア軍の旗色がわるくなったとき、オーストリア帝国の陸軍省はシュベイクの存在を思いだした。
一週間以内にシュッツェンゼルにおいて医師の診断を受くべし、との通知があったのは、シュベイクが、またリウマチを起こして床についていたときである。
「ミュラー婆さん」と、シュベイクは、台所でコーヒーをわかしている婆さんを、静かに呼んだ。「ミュラー婆さんちょっと来てくれないかね」
婆さんがシュベイクの寝台のわきへ来たとき、シュベイクは相変らず静かな声で言った――「そこへお坐り」
ミュラー婆さんが腰をかけたのを見てシュベイクはやおら身を起こして告げた――「わしは軍隊にはいるぞ!」
「南無阿弥陀仏」と、婆さんが叫んだ。「そんな所へいって何をなさるだ?」
「戦うのじゃ」と、シュべイクは墓場のような声で答えた。「我がオーストリアの旗色はすこぶる悪い。このままでいけば、我が国はどんな目にあわんともしれん、だからわしを召集したのじゃ」
「だって旦那様、身動きもできんじゃないかね」
「そんなこたあかまわん、わしゃ乳母車にのって出陣する。お前あの角の菓子屋を知っとるだろう、だいぶ前のことだが、意地悪の跛《びっこ》の爺さんをのせて外へ連れだすのに使った乳母車があすこにあるんじゃ。ミュラー婆さん、お前はわしをそれに乗せて徴募署へ連れてゆくのだぞ。泣くんじゃない、心配せんでコーヒーをわかせ」
ミュラー婆さんが眼を泣きはらし胸をどきどきさせながら、コーヒーをこしらえている間、寝台の中ではシュベイクが歌をうたった――
ウィジッシュグレーツ将軍は
日の出と共に号令だ――
ホップ、ホップ、ホップ!
声をからして号令だ――
弓矢八幡加護あれと
ホップ、ホップ、ホップ!
ミュラー婆さんは、コーヒーのことなど忘れてしまって、全身をぶるぶる震わせながら、シュベイクのこのすさまじい軍歌をぽかんと聞いていた――
ここは名だたるソルフェリノ
ホップ、ホップ、ホップ!
忠勇無比の八連隊
褒美はうんとこさ持っとるぞ
ホップ、ホップ、ホップ!
「旦那様、後生だから」という声が台所からきこえた。が、シュベイクはとうとうその軍歌をおしまいまで歌った――
褒美とご馳走もらえるぞ
しっかりやれやれ八連隊
そりゃホップ、ホップ、ホップ!
ミュラー婆さんは転がるように表へ飛び出して医者を迎えにいった。一時間ほどたって医者を連れて帰って来てみると、シュベイクはもう気持よさそうに眠っていた。
医者はその後二日引続き診察に来たが、シュベイクが医者の言い付け通りじっと寝ていないばかりでなく与えられた薬も飲まないということをミュラー婆さんから聞かされて、こんな患者のとこへは二度と再び来ない、とぷんぷん怒って帰ってしまった。
徴募署へ出頭しなければならない日がいよいよ迫った。兵卒帽、入営祝いの花束、乳母車、松葉杖〔これもさいわい同じ菓子屋がとってあったので乳母車と共に借りることにした〕などは、この数日来シュベイクの身の上を案じて泣いてばかりいたのでげっそり痩せてしまったミュラー婆さんが、駈けずり廻って間に合せた。
かくて、ある日〔この日は後世に語り伝えるべきだ〕プラハ市の街頭において、人をして感泣せしむるような忠君愛国の場が、展開されたのであった。
一人の婆さんが、乳母車を押してゆく。その中にはぴかぴかに磨いた徽章のある兵卒帽をかぶった男が乗っていて、松葉杖で合図をしている。彼の上衣には入営祝いの花束が輝いている。
この男は、絶えず松葉杖をふりまわしながら、プラハの街上に向って叫ぶのであった――
「ベルグラード〔セルビアの首府〕をめざして、ベラグードをめざして!」
シュベイクのこの悲壮なる出陣を見んものと、人々は集まってきた。エンツェル広場へさしかかった頃には、数百名という人間が彼の車を取巻いていた。けれどもワッサー街の角で、この群集は騎馬巡査から追いちらされた。
この光景に関し、翌朝の『ブラージュスケ・ウルシェドニ・ノービヌイ』紙〔プラハ市役所から発行の新聞〕は、次のような記事を掲げた――
「|不具者の愛国心《ヽヽヽヽヽヽヽ》――現今のごとき国家多難の秋《とき》に当り、我ら赤子《せきし》がいかに老皇帝陛下のために忠誠であるか、という最もよき実例を、昨日の午後プラハの大通を通行せる人々は、親しく目撃した筈である。即ちムウティウス・スカエボラが、手の焼かれるたるをも意とせず、戦場に自分を担がせていったという昔のギリシア・ローマ時代もかくもや、と思われるような印衆を与えつつ、この崇高なる感情は老母によって引かれてゆく病人運搬車に乗った一不具者が、みごとに現わしたのであった。この忠良なる陛下の赤子は、その不具を意とせず、陛下のため一身を捧げんとの真心から、自ら志願して徴募に赴いたのである。『ベルグラードを占領しろ!』という彼の叫びが、プラハの街々に生き生きとした反響のあったところを見れば、この事実は、いかにプラハの市民が祖国および皇室に対して熱愛を有するかを示す好適例であらねばならぬ」
『プラハ日報』も『ボヘミア』紙も、大体右と同じような記事をかかげた。
この三つの新聞の記事を読んだからとて、ボヘミアの国中から忠良なる臣民がただ一人とてあらわれたわけでなかった、と同様に、徴募署の係官達もこの記事には動かされなかった。
中でも特に反対したのは陸軍医監バウツェであった。
彼は軍隊、戦線、砲弾、榴霰弾を免れようとする凡ゆる試みを、すっぱ抜くことのできる峻厳な人間であった。
「チェコ国民は一人残らず仮病つかいの一味だ」と言った彼の言葉は、あまねく知られている。
彼は十週間徴募署に勤務していたが、十一万人の徴募者の中から十万九千九百九十九人の仮病つかいをよりだした。その幸福なる十一万人目の男も、「退れ!」と彼からどなりつけられたとき、心臓麻痺で倒れなかったとすれば、やはり仮病つかいの中に入れられたにちがいない。
「この仮病つかいを片付けろ!」と、彼が死んだのを確めて、バウツェが言った。
この寸亳《すんごう》も仮借するところなき軍医監の前に、丸裸に松葉杖をついて恥しそうな恰好をしたシュベイクが立たされたのである。
「この男は白痴のため除隊となっております」と、特務曹長は帳簿をのぞきながら言った。
「その他にどこが悪いんだ?」と、バウツェがシュベイクに訊いた。
「申し上げます、私はリウマチ病であります、しかし陛下のためには身を八つざきにされても勤めるであります」と、シュベイクは謙譲に答えた。「私の膝は腫れあがっているのであります」
バウツェは、勇敢なる兵士シュベイクを恐ろしい眼付でにらみつけて、どなった――「貴様は詐病兵だ!」そして特務曹長の方に向い、鉄のような静けさをもって言った――「だからこいつを監禁しろ!」剣をつけた銃を持つ二人の兵士に引かれてシュベイクは師団の監獄に送られた。
松葉杖をついて歩いていたシュベイクの驚いたことにはリウマチが急に消えてなくなり始めたのである。
ミュラー婆さんは、乳母車といっしょに橋の上で待っているのだったが、シュベイクが銃剣を持った兵士に護送されてゆくのを見ると、わっとばかりに泣きだし、乳母車なんかそこへ置き放しにしたまま、家へ帰ってしまった。
八 詐病兵としてのシュベイク
肺病、リウマチ、挫骨、腎臓病、チブス、糖尿病、肺炎、その他の色んな病気にかかる兵卒は、詐病兵として次に示す五つの拷問を通過しなければならなかった。
一、徹底的な節食。三日間朝夕の二度だけ茶を一杯だけ飲まし、且《か》つその中にアスピリンを入れて汗をかかすこと。
二、戦争というものは蜜をねぶるような甘いものでないという事を知らしめるために、キニーネをなめさすこと。
三、毎日二度ずつ温水をもって胃袋の洗浄を行うこと。
四、石鹸水およびグリセリンを用いて浣腸をやること。
五、冷水に浸した布で身体を包むこと。
中には勇敢な人間もいて、この五つの門を立派にくぐり、結局あの粗末な棺に入れられて陸軍共同墓地に葬られた者もある。だが、大抵は卑怯な人間で、せいぜい第四の浣腸まで来るともう病気はなおったから次の行軍に加って塹壕へ帰りますと、弱音をはく。
シュベイクの放りこまれた陸軍監獄内の病院はこんな卑怯な連中のいる所だった。近眼だという男、耳がまるで聞えないという男、冷い布を巻きつけられて死にかかっている肺病の男などがいた。
隣の男からどこが悪いのかときかれて、シュベイクは答えた――「わしゃリウマチじゃ」すると皆の者は、きゃっきゃっと笑った。死にかかっている肺病の男さえも。「リウマチなんかでここへ来るもんじゃねえ」と、肥った男がシュベイクに真面目に注意した。
「リウマチなんかここじゃ疣眼《うおのめ》と同じくらいにしか見られねえぜ。俺なんか貧血症だ、胃袋が半分しかねえし、肋骨が五本足りねえんだのに、誰も俺の言うことを本当にしねえ」
「一番ながく頑張ったのは」と、一方の足が三寸三分短いと言っている男が話した。「狂犬にかまれたからってここへ来てた奴だよ。他人にかみついたり、吠えかかるところなんざ、なかなか堂にいったものだったが、泡を吹くことだけはどうしてもできなかった。俺らこの男のためにできるだけ手伝ってやったものだ。あと一時間で回診というとき、奴が痙攣をおこし、柴色になるまでくすぐってやった。だがどうしても口のまわりに泡が出てこない。それが奴の運のつきさ。ある朝、軍医が回診にきたとき、ひょろひょろになってしまった身体を寝台の上に起こして言った――『申し上げます、軍医殿、私にかみついた犬は、どうも狂犬じゃなかったようであります』軍医は変な眼付きでじろじろとのぞきこんだ、すると奴さん、ぶるぶると身体じゅうふるわせながら続けて言った――『申し上げます、軍医殿、私は犬なんかにかまれなかったであります。自分で自分の手をかんだのであります』――」
「一番いいのは」と、も一人の詐病兵が言った。「気狂いになることだ。気狂いの真似で、もう三週間以上頑張ってる男を、俺あ知っとる。俺も宗教気狂いになってやろうかな、と思ってたんだが、結局十五クローネの資本《もとで》をかけて胃癌にしたよ」
「手前なんざ安い資本《もとで》だ」と、その隣りにいる痩せこけた男が言った。「俺あこれで二百クローネ以上使っとる。毒と名のつくものなら何一つ飲まねえものはねえんだぞ。昇汞《しょうこう》も飲んだ、水銀ガスも吸った、砒素も食った、モルヒネも飲んだ、ストリキニーネも飲んだ、燐と硫黄を硫酸に溶いて飲んだ。俺の肝臓、肺臓、腎臓、胆嚢、脳髄、心臓、胃腸、なにもかも散々だ。俺の病気は一体何て名前か知ってる奴は一人もいやしねえ」
「秘訣を教えてやろうか」と、入口のあたりにいる誰かが言った。「腕の皮膚の下へ石油を注射するんだ。俺の従兄はそれで巧いことやりゃがったんだ、肘のところから切り落されて、今じゃ除隊になってるからなあ」
「そうだろうとも」と、シュベイクは言った。「陛下のためにはどんなことでも辛抱するんだ。胃袋を洗うのも、浣腸をするのも、みんな陛下のためだ。だが、俺らの連隊にいた頃あ、もっとひどかったぜ。疲れた奴や病気にかかった奴は、たたんでしばられてさ、穴の中へ放りこまれたもんだ。あるとき本当のチブスにかかったのがいた。縄でぐるぐるしばられたその兵卒は、真赤な詐病兵だというわけで、軍医から腹をけとばされた。ところが、そのことが議会の問題となり、新聞にも出た。連隊じゃ早速その新聞を読むことを禁止し、所持品検査ときた。貧乏くじをひくのはいつも俺に決っとるんだが、そのときも、その新聞を持ってたのは連隊中で俺一人きりさ。連隊長と軍医の前に引張り出されて、犬、畜生、社会主義者などとどなられた揚げ句、二カ月ばかり重営倉だの何だのを食わされた。さて、営倉を終えてきてみて驚いた。
連隊長は官報を読むことさえ禁じ、酒保ではソーセージをつつむのにも新聞を使わないという有様だったのに、このことがあってからというものは、兵卒の間に読書熱が急に高まり、俺らの連隊は一番物識りになってしまった。新聞という新聞を、どこかから手に入れてきて読むようになり、連隊長を当てこすった唄まで作って歌うようになった。その後、分列式のあった際、十一中隊の連中が申し合わせ誰一人として連隊長に敬礼しねえんだ。連隊長も負けちゃいねえ、何度もやりなおさした。しかし列が何度連隊長の前を通過しても誰一人頭を右に向けねえじゃないか。『今に見ろ!』ってな捨て科白をのこして連隊長はひきさがった。それっきり奴の姿は見えない。兵卒はもちろん、士官まで喜んだな。そのうちに新しい連隊長が見えた。何でも、もとの連隊長は、第十一中隊は叛逆せり、と陛下に上奏したため、療養所にいれられたんだとさ」
午後の回診時間が近づいた。
軍医グリュンスタインが、容態簿を持った看護下士をつれて、寝台から寝台へと――
「マクーナ?」
「はッ!」
「浣腸だ、それからアスピリンを飲ませ!――ボコールニ?」
「はッ!」
「胃の洗浄、そしてキニーネだ!――コワルシク?」
「はッ!」
「浣腸とアスピリン!――コカートコ?」
「はッ!」
「胃の洗浄、キニーネ!」という工合で、何の容赦もなく、機械的に、あっさりと片付けてゆく。
「シュベイク?」
「はッ!」
軍医は、この新米者をじろじろ見た。
「なに? リウマチだと? それゃ大変な病気だ。大戦が勃発していざ出征というときにリウマチにかかるなんて、まったく偶然というものだ。とても苦しいだろうな」
「申し上げます、とても苦しいであります」
「膝が痛むだろう?」
「申し上げます、左様であります」
「朝まで眠れないほど痛むだろう、そうだろう! リウマチは、非常に危険な、痛みのひどい、難病だからな」と、軍医は言って、看護下士に向い「君、こう書け――シュベイク、徹底的節食、一日二回ずつの胃の洗浄、一日一回ずつの浣腸。君、手のすき次第、こいつの胃袋をさらって浣腸してやれ、それもうんとやるんだぞ、奴のリウマチがびっくりして逃げ出すくらいにな」
そこで軍医は皆の者に向って一場の演説を試みるのであった――
「貴様らはことごとく詐病兵だ。そのつもりで俺は貴様らを取扱うんだ。貴様らと同じような奴を何百人、何千人となく取扱ってきて知っとるじゃが、貴様らには、軍人の魂以外に何一つ、欠けた所はない。戦友が砲火の中をくぐっているのに、貴様はここで寝台の上に寝ころび、病人の食事をもらい、そして戦争の終るのを待とうという寸法だ。ところが、そううまくは問屋のほうでおろさねえ。これから二十年経った後にも、貴様らが今ここで俺から受ける手当のことを夢に見ると、大きな声を上げるくらいだぞ」
「申し上げます、軍医殿」と、窓の近くにある寝台から小さな声が聞えた。「私はもうすっかり快《よ》くなりましたであります、私の百日咳が治ったいうことが、昨夜のうちに解ったのであります」
「貴様の名前は?」
「コワルシク」
「よし」
他の詐病兵とは違ってシュベイクだけは勇敢に、与えられた分量を完全に済ました。「かかる浣腸にこそオーストリア帝国の運命はかかっているのだ、我慢しろ、勝利は我らのものだ」――と念じながら。
翌日の回診のとき軍医はシュベイクの感想をきいた。
シュベイクは、大変結構な企てだ、と答えた。
そのご褒美に、昨日と同じ手当の外に、なおアスピリンにキニーネをどっさり交ぜたものを水にとかして一息に飲ませられた。ソクラテスは毒の入った杯をほしたそうだが、シュベイクがキニーネを飲んだときほど、悠揚迫らざる態度は示せなかったろう。
シュベイクは拷問を全部通過して、いよいよ濡れタオルを巻きつけられることとなった。その感想をきかれた彼の答えが振っている――
「申し上げます、軍医殿、プールか海の中につかっているような気持であります」
「リウマチはまだ抜けないか』
「申し上げます、軍医殿。いよいよもって快《よ》くならないであります」
シュベイクは、更に別な拷問にかけられることとなった。
丁度この頃のことである。『ボヘミア』紙に出た記事を読んで、その忠勇なる不具者を探しだして、これをなぐさめようと決心した篤志《とくし》家が現われた。ボッツェンハイム男爵未亡人がそれである。警察本部に問い合わせて、その不具者がシュベイクであるということがわかると、彼女は男女の従者を引連れて、ウラージン陸軍病院へわざわざやって来られた。
その行列こそ堂々たるものであった。病院の会計主任をやっている主計曹長さえも加っていた。よくあることだが、戦線に出ないで自分の懐ばかり肥やしていたこの主計曹長は、青くなっていた。が、もっと青い顔をしていたのはグリュンスタイン軍医である。「将軍未亡人」と肩書のついた男爵未人の小さな名刺が、彼の眼の前に始終ちらついて離れなかった。この「将軍」という言葉に結びつく総てのもの、即ち手蔓、庇護、嘆願、戦線へ転任、その他いろんな恐ろしいことが、彼の頭の中を掻きみだした。
「これがシュベイクでございます」と、彼は強いて平静を装いながら申し上げた。「非常に忍耐力のある男でございます」
ボッツェンハイム男爵夫人はシュベイクの寝台のかたわらに寄せられた椅子に腰をかけ、片言だらけのチェコ語で話しかけた――
「チェコの兵隊、勇しい兵隊、片輪兵隊、勇しい兵隊、あたし、チェコのオーストリア人大好きあります」
剃刀を当てないシュベイクのざらざらする頬を撫でながら、ドイツ語とチェコ語をちゃんぽんに話し続けた。
「何もかも新聞で拝見いたしましたのよ、少しばかりですが、お見舞いを持参いたしましたから、チェコの兵隊、勇しい兵隊。これヨハン、こちらへお出で!」
いかめしい髭面の従僕が、恐ろしく大きい籠を引きずってきた。その中から男爵夫人の取りだした見舞品を挙げてみよう――
鶏の丸焼が十二。リキュールが二本、葡萄酒が三本。葉巻が三箱。『現帝のご日常』と題する書物が一冊。チョコレート一箱。歯ブラシ一本。爪掃除道具入りの箱が一つ、ビスケット一箱(これには、オーストリアの国歌がチェコ訳と共に記されていた)、最後に白いヒヤシンスの花一鉢。
この贈り物を、シュイベクのわきの寝台の上にならべてしまったとき、ボッツェンハイム男爵夫人は、涙の湧きでるのをおさえることができなかった。何も食わせられないで胃袋の空っぽになっている詐病兵は涎《よだれ》のたれるのを禁ずることができなかった。寝台の上に坐っているシュベイクを支えていた男爵夫人の待女も、もらい泣きをした。まるで教会堂の中のように、しんとして静かだった。と突然シュベイクが両手を合せながら言った。
「天にまします我らの神よ、なんじのみ名はたたえられよ、なんじのみ国われらに来れ。いや奥様、失礼しました、間違いました、こう言う心算だったんでさ――天にいます父よ、なんじの慈善心のお蔭で我らを楽しましむるこの贈り物を、我らに賜れ、アーメン」
こう言い終ると、彼は鶏の丸焼を取って、むしゃむしゃと食い始めた、もちろんグリュンスタイン軍医は眼をまわしながら見ていた。
「まあ、何ておいしそうなんでしょう」と、男爵夫人は感心して軍医に囁いた。「もう丈夫になって、戦線へ出られるでしょう。丁度いい所へ参りまして、あたしは本当に嬉しいわ」
グリュンスタイン軍医が、男爵夫人を送りに行って、まだ戻って来ないうちに、シュベイクは大急ぎで鶏の丸焼を分配した。軍医が帰って来たときには、骨ばかり積み重ねられていた。リキュールも、葡萄酒も空っぽになっており、チョコレートもビスケットも胃袋の中に蔵《おさ》まっていた。それどころか、爪掃除の道具箱に入っていた爪磨き水を飲んでしまった男もあり、歯ブラシに添えてあった練り歯磨をかじった男さえあった。
「貴様らに」と、軍医はこの有様を見てまたもや戦闘の身構えをしながらどなった。「もう少し頭があるなら、こんな馬鹿な真似はできないはずだ。跡方もなく|ぱくついて《ヽヽヽヽヽ》しまやがって、何が重病人だ? 貴様らは急に大食いをして胃カタルでも起こしゃしないかと思っとるだろう、ところが、そいつは大間違いだぞ。貴様らの胃が消化を開始しない前に、貴様らの胃袋を底の底まで掃除してやる、子々孫々に語り伝えてよいほど、うんとさらってやる。さあ始めろ!」
順番がシュベイクに廻って来たとき、グリュンスタイン軍医は、じろじろと顔をのぞきながらきいた。
「貴様、あの男爵夫人を知っているのか?」
「ありゃ私の継母でさ、まだ小さかった私を追い出したんですが、今また私を見つけたんで……」
そこで軍医は簡単に言った――「じゃシュベイクにはおまけに浣腸をもう一つやってやれ」
歓楽ののち哀愁深しで、その晩は、みんな特にへこたれてしまった。
翌日、委員会の軍医が数名見えた。この連中にかかっちゃ、大抵の詐病兵はどんどん戦線に送り返されてしまう。彼らは寝台を順々に廻りながら、ただ「舌を見せろ!」と言うだけだった。
シュベイクは、顔が馬鹿げたしかめ面となり眼が閉じるほど、うんと舌を出して見せた。
「申し上げます、軍医監殿、私の舌はこれ以上長くないのであります」
シュベイクと委員との間に、二三の面白い問答があった。軍医に自分の舌をかくすと思われちゃ嫌だから、こんな説明を加えたのだ、というのがシュベイクの意見だった。
シュベイクに関する委員会の軍医連の意見は、ひどくまちまちであった。ある者は「足りない奴」だと言い、ある者は反対に「軍隊を煽動する道化者」だと主張した。
シュベイクは、無邪気な子供だけにしかない神様のような静けさをもって、委員連の顔をじっと眺めていた。
「やい畜生、貴様は一体何を考えてるんだ?」と、委員長が彼に近づいて言った。
「申し上げます、私は何も考えていないであります」
「こん畜生!」と、委員の一人がサーベルをがちゃつかせながら叫んだ。「何も考えていないんだと? やい、シャムの象、なぜ貴様は何も考えないんだ?」
「申し上げます、軍隊では兵卒に禁じているから、考えないのであります。私が九一連隊にいたころ大尉殿がいつもおっしゃったであります――『兵卒は自分で考えるもんじゃない。上官の方で考えてやる。自分で考えるとろくな……』」
「黙れ!」と、委員長が怒ってどなりつけた。「貴様は本当の白痴だと人が信じてくれるものと思っとるだろう。だが貴様は白痴じゃないぞ、シュベイク、貴様は何でも心得ている抜け目のない奴だ、ろくでなしだぞ、道化者だ、破落戸《ごろつき》だ、わかったか――」
「申し上げます、わかったであります」
「黙れと言ったじゃないか、聞えなかったのか」
「申し上げます、黙れとおっしゃったのは、聞えたであります」
「ちえッ、聞えたら黙っとるんじゃ。黙れと命じたら、静かにしとるもんだという事はよく解っとるじゃろう」
「申し上げます、静かにしとるもんだという事は解っとるであります」
軍医連は黙って互いに顔を見合わせた、そして特務曹長を呼びつけた――
「そこにいる奴を」と、委員長はシュベイクを指しながら言った。「事務所へ連れて行って待たせて置け。こいつは魚のようにぴんぴんしていやがる。どこ一つ悪い所もないのに仮病をつかってそのうえ勝手な熱を吹いとる。こら、シュベイク、貴様、陸軍監獄にぶちこんで、戦争というものは冗談ごとじゃないってことを見せてやるから、そう思え」
シュベイクが特務曹長に引張られて行ったあと、病院では委員会の回診がすんだ。七十人の詐病兵のうち助かったのは二人きり。一人は榴弾で脚を一本もがれた男で、も一人は本当に骨疽をわずらってる男だった。肺病で今にも息を引取りそうな三人の男さえ「役に立つ」と診断された。
委員長の軍医監は、一場の演説をやった。その演説には、色んな悪口が交ぜられていたが、内容は貧弱であった――みんな人間の屑だ、畜生にも劣る奴だ、ただし、陛下のため勇敢に戦うならば、人間の社会に帰ることができて、詐病兵をやったことも赦してもらえる――というような意味だった。けれども彼自身それを――すなわちみんなが無事で再び人間の社会に帰って来ると信じていなかった。みんなの前途には大きなおとし穴が待ちかまえているという事を彼は知っていたから。
九 陸軍監獄におけるシュベイク
戦争に出たくない人間の最後の避難所は、陸軍監獄である。砲兵の補充兵のなかに一人の数学者がいた。人殺しの射撃がいやだったので、陸軍監獄に入る方がましだと思い、ある中尉の時計をぬすんだ。これはよほど熟慮した上のことであった。さすがの戦争も、彼に悲壮の念をおこさず、また感激をも与えなかったのだ。敵のうちにもやはり自分と同じような人間がいる。それにもかかわらずおたがいに大砲をぶっ放したり、手榴弾をもって相手を殺すということは、馬鹿げきったことに思われたのだ。
陸軍監獄には色んな種類の人間がいる。窃盗や詐欺のかどではいったもの、このなかには理想主義者と非理想主義者の二種がある。さっき言った数学者などは理想主義の部で、戦線または後衛にあって会計をごまかしつつ私腹をこやした主計将校などは非理想主義者の部だ、その他、上官の命令に服しなかったもの、叛逆を企てて未遂に終ったもの、脱営をやりそこなったもの、政治上の意見を持つもの等々。
国家の権力は、私服警官網に反比例する、と言っても大きい誤りではなかろう。政治警察の密偵が色んな組合やその他の団体にもぐり込んでいる度合が強ければ強いほど、その国家の権力は危険である、弱い、という証拠である。大戦中、オーストリア帝国では、あらゆる軍隊のなかへスパイを放っていた。これらのスパイは、戦友として一つ床に眠り、一つ鍋の飯をわけて食べていた。
ウラージンの陸軍監獄が満員だとて、何の不思議もなかろうじゃないか。この陸軍監獄からモートル練兵場へ通ずる道がある。「狙え射て!」をやられるために、何人この道を引張られていったか解らない。でなくとも、この陸軍監獄には典獄スラウィクと、リンハルト大尉と、ルシェバ曹長という三位一体があって、完全にその職務を遂行した。密室監禁で彼らのためになぶり殺しにされた兵卒の数は挙げきれまい。
勇敢なる兵士シュベイクは、この恐ろしい典獄スラウィクの前に引張られた。
「俺らの手は、娘っこの手たあ違うぞ。俺らの手の中にはいった以上……」と言って、スラウィクは筋骨隆々たる拳をシュベイクの鼻のさきに突き付けた――
「嗅いでみろ、やい!」
シュベイクは嗅いでから言った――
「そんな拳固で鼻面を見舞われたくはありませんね、墓地のような匂いがしますぜ」
この悠揚迫らざる物の言い方は、典獄の気に入った。
「こら」と、彼はシュベイクの横腹に一つ拳固を食らわせながら、「真っ直に立て、煙草があったらここへ置いてけ、金もこっちへ寄こせ、持っとると盗まれるぞ。もう他にない? 嘘をつくんじゃねえぞ」
「こいつどこへ放りこみましょうか」とルシェバ曹長がきいた。
「十六号へ放りこもう。リンハルト大尉殿が『厳重に監視すべし』と書かれてるじゃないか。もし服従しなかったり逃げようとしたらだ、密室に監禁して肋骨を一本残らず折ってしまうまでさ。抵抗や逃走は、自殺と同じだぞ」
シュベイクは股引一つにされて、十六号の室につれてゆかれた。そこには矢張り股引一つの男が二十人いた。いずれも「厳重に監視すべし」組である。股引一つじゃ逃げ出したって直ぐ見つかるからだ。
せめて、股引がいますこし綺麗で、鉄の格子がはまっていなかったとすれば、ちょっと見たところ、どこか浴場の脱衣場のような印象を受けたでもあろうに。
ルシェバ曹長は、シュベイクを「室長」に引渡した。
「室長」と言われる鬚もじゃの男は、壁にかかっていた紙片にシュベイクの名を書きつけて言った――
「明日はここに|えれえ《ヽヽヽ》お祭りがあるぞ。礼拝堂へお説教をききにゆくんだ。俺ら股引組は演壇の真下に立たされる。また一騒ぎだろうて」
どこの刑務所でもそうだが、陸軍監獄でも説教は囚人からおおもてである。理由は簡単だ、陸軍監獄の退屈まぎらしにもってこいだからである。神に近づくことなどはどうでもよい、廊下や中庭へ出る途中で葉巻や巻煙草の吸殻を見つけることが問題なのである。神様なんて痰壼の中かどこかの道端にはかなく転がっている一片の燃えさしよりもつまらないのだ。
それからここの説教そのものが、まるで寄席のようだ。従軍牧師オットー・カッツの説教ときたらまったく素敵である。
牧師オットー・カッツはユダヤ人だ。有名な大僧正コーンだってユダヤ人だったから、これは、別に珍しいことでもない。珍しいのは彼の来歴だ、カッツ商会が美事に破産して、商科大学を卒業後一年志願で入隊していた息子のオットーには一文の相続も残らなかった。オットー・カッツは止むをえず陸軍で出世しようと決心した。しかし彼はそれ以前に素晴しいことを思いついたのであった。彼は洗礼をうけた。すなわちキリストにすがって立身しようとしたのである。
士官候補の試験も立派にとおって、この新しいキリスト教徒オットー・カッツは軍隊に残ることとなった。初めのうちは万事がうまくいきそうに思われた。陸軍大学にはいる試験を受けようとさえしたくらいである。
しかるにある日彼はへべれけに酔払って修道院へ行った。そしてサーベルを捨てて僧衣をまとうたのである。僧職授与式がすむと、彼は自分の部隊にかえって、従軍牧師に任命してもらった。そこで彼は馬を買い求めてプラハの街を乗りまわし、自分の部隊の将校連の宴会にはきっと顔を出して愉快に騒いだ。
彼の家の前では、よく債権者が口汚く罵《ののし》っていることがある。彼はまた怪しい女を引張りこむこともある。それから彼はカードが大好きで、いんちきをやるという評判だったが、今まで誰一人それを見破ったものはなかった。
彼は説教をするのに、前もって用意するというようなことはなかった。これが彼の前任者たちとことなるところで、かれらは陸軍監獄の囚人を演壇の上から改心さすことができるものだと信じていたらしい。だがそれはただ彼らの欠伸をもよおさしめるに過ぎなかった。これに反しオットー・カッツが説教をするとみんながわいわい喜ぶのであった。
「十六号室」が股引一つで礼拝堂にはいってくる光景は素敵なものであった。たとえ礼拝堂だからとて、彼らに服を着せることは非常な危険であったからである。
さて、二十名の白い股引をはいた天使が、演壇の真下に立ちならんだ。そのうちの二三人は、途中で拾った葉煙草の吸殻を口のなかに入れてもぐもぐさせている。もちろんポケットがないのでどこへもかくせないからだ。
この行儀の悪い天使のぐるりに、彼らほど危険でない囚人がならんで、面白おかしそうに眺めていた。そのうちに牧師が、拍車をならしながら、演壇にのぼって来た。
「気を付け」と、彼は叫んだ。「お祈りだ、俺の言う通りにやれ! こらッ、後ろの方にいる奴、手で鼻をかむってことがあるか、ここは神殿じゃないか。言うことをきかんと監禁さすぞ。野郎ども、我らの神よ、をもう忘れたんだろうな? さあ、やって見よう――それ見ろ、俺の言った通りだ、貴様らはもうちゃんと忘れとるじゃないか。貴様らにゃ神様も糞もいらねえ、うまいものをたらふく食らって寝ころんで鼻糞をほじくってりゃいいんだろう――どうだ?」
彼は演壇から二十人の股引をはいた天使を見おろした。彼らは他の連中同様、盛んに遊んでいた。
「こいつあ面白れえや」と、シュベイクは隣りに立っている男にささやいた。
「なあに、面白れえなあ、これからだよ」と、その男が答えた。「先生今日もまたうんと飲んでやがらあ」
牧師はまったくいいご機嫌だった。絶えず演壇からふらふらと前へのめって、今にもころげ落ちそうであった。
「野郎ども、何か歌え」と、彼は叫んだ。「新しい唄を教えてやろうか? よし、じゃ俺について歌え
誰よりも可愛いのは
私の好きなあのむすめ。
でも独りでは通わない、
あのむすめの愛に縋《すが》ろうと
みんな通うのを知っている
さて、わしのむすめたあ誰だろう
清い尊いマリア様……
貴様らのような馬鹿野郎どもにゃおぼえられめえ。貴様らをみんな銃殺することにゃ、俺あ大賛成なんだ。やい俺の言うことが解るか、眼を高くはるかなる空にむけよ、然らば勝利は汝らのものとなり、平和は汝らの魂のうちにくだらんだ、こん畜生。ちょっと、その後ろの方ではあはあ言って鼻息している奴、止してくれ、てめえ馬じゃあるめえし、ここは厩《うまや》じゃねえんだ。気をつけてくんな、いいか。ところで、どこまで話したっけなあ? ああそうそう、魂の平和ってところだった、その通り、こら、無頼漢どもよく聴け、俺は貴様らのために朝も夜も祈っている――神様よ、どうぞこの畜生どもの冷たい心に暖いお心をお注ぎになって深き罪を清め給え、永遠に愛し給え――と、思ったら大間違いだぞ 貴様らのような虫けら以下の奴を、誰が極楽へ案内してやるものか! こらこら股引組、貴様らよく聴いちょるか」
「申し上げます、聴いちょるであります」
「ただ聴いちょるだけじゃいかん。神様のご慈悲にも限りというものがある。そりゃ神様は非常にお情け深いに違いない、けれども上品な人々にたいしてだ。法律や命令を屁とも思わねえような人間社会の屑にたいしちゃ、いくら神様でもかまってくれねえぞ。貴様らはお祈り一つできねえじゃないか、礼拝堂を芝居小屋か映画館とでも考えて騒ぎにくるんだ、貴様らのような馬鹿野郎どもを楽しますために、俺が説教するのだ、というふうに考えちゃ大見当はずれだぞ。貴様らに独房監禁を申しつけてやる。いや必ず申しつけてみせる。貴様らに何を聴かせたって無駄だ、時間を無益につぶすだけだ。たとい元帥閣下や大僧正猊下がお見えになろうとも、貴様らを改心させて神様にむけることはできまい。だけどな、こうは言っても、俺あ決して貴様らを悪く思っちゃいねえってことを、今に貴様らは思いだすだろう」
二十人の股引組の中から、すすり泣きをする声が高くきこえた。シュベイクが泣きだしたのである。
「この男に見ならはなくちゃいかん」と、牧師は、拳で眼をこすっているシュベイクをさしながら、語りつづけた。「彼は何をしとるか? 泣いているのだ。泣くな、泣くんじゃない、お前はいま泣いとる、けれども部屋にかえってみろ、元の木阿弥《もくあみ》となってしまう。真人間になるにゃ、もっともっと神様のことを考えなくちゃならん。しかし、貴様らも見るとおり、改心しようとして泣きだした人間がここにいる、ところが他の連中はどうだ? 改心しようなどとは微塵も考えてやしない。そらそら、そこにおる奴、何か口のなかでもぐもぐやってるな、貴様の両親は反芻《はんすう》動物なのか? それから、そら、そこにおる奴、神殿の中でシャツの虱をとるってことがあるか! かゆいなら部屋にいるときしっかりかくんじゃ」
牧師は、演壇からおりて、僧侶控え室にはいっていった。彼についていった典獄は、やがて礼拝堂に戻ってきて、二十人の股引組の中からシュベイクだけをつれて、また僧侶控え室にはいっていった。
牧師は、気持よさそうにテーブルの上に腰をかけて、煙草を巻いていたが、シュベイクが典獄につれられてはいってくるや、テーブルからとびおりて、シュベイクの肩をゆすりながらどなった――
「やい畜生、白状しろ、貴様は人騒がせをして楽しむために泣いたんだろう」
「申し上げます、従軍牧師殿」と、のるかそるか、シュベイクは真面目な調子で答えた。「おっしゃる通りであります。貴方があれほど求めていられる悔い改めた罪人が一人も見あたらないので、貴方を喜ばしてあげるため泣いてみせたんであります」
「なかなか面白い奴じゃ」と、牧師は、じろじろシュベイクの顔をみつめたのち、ふたたびテーブルの上に腰をおろし、顔色をやわらげながらいった「お前は何連隊じゃ?」彼はまたあくびをしはじめた。
「申し上げます、私は九一連隊のものですが、そうでもないのであります。一体自分はどうなっているんだが、自分にも見当が付かんであります」
「どうしてここへ監禁されてるんだ?」と、牧師は相変らずあくびをしながらきいた。
「申し上げます、そいつもいっこう解らんのであります。わしという男は、いつも貧乏くじばかり引く性《たち》でしてな。何事でも善い方にばかり解釈するのに、結果は決まったように一番悪い方に向いてゆく、丁度あすこにいる殉教者と同じでさ」
牧師は、頭の上にかかっている聖フランシスの憂鬱な額を見ながら、笑った――
「まったく面白い男じゃ、陪席判事に問いあわしておこう。だが今日はこれ以上話しておれん。早くミサをすまさなくちゃ。まわれ右! 退れ!」
シュベイクが股引組のところへもどってくると、牧師に何と言ったんだ、と皆が珍らしそうに訊いたに対し、シュベイクは、木で鼻をくくるような返事をした――
「あいつ酔払ってやがるんだ」
従軍牧師オットー・カッツの新しい仕事、神聖なるミサ供養も、なみいる囚人たちの非常なる注意と共鳴とのもとに行われた。股引組の一人は言った――牧師はきっと聖餅《せいへい》器を手から落すぞ、もし落さなかったら俺のもらうパンを手前にやろう、その代わり落したら横面を二つなぐらせてくれ。そして彼はこの賭に勝ったのである。
牧師は、声も悪く節まわしもまずかった。そのうめくような、きしるような声は、礼拝堂の丸天井に響いて、まるで豚小屋にいるようだった。
「奴は今日はまったく酔払ってやがる」と、神壇の前にいる連中が面白そうに言った。「どこか女のとこで飲んできたにちげえねえ」
牧師は、これでたぶん三度目だろう、またアメリカ原住民の鬨《とき》の声のようなミサの歌をどなった。それからまた神壇にそなえた神酒の盃をのぞいて見たが、もう一滴も残っていなかったので、にがにがしそうな顔をしながら、こちらを向いた――
「さあ、手前らもう帰ってもいいぞ。もうお終りだ。やい野郎ども、神様の前で、聖母マリア、イエス・キリスト、父なる神を代表するこの俺の前で、貴様らは何ということをやるのじゃ。げらげら、くすくす、笑ったり、咳払いしてみたり、足ぶみをしたり。この前、地獄の話をしてやったが、もう一つこの世にも地獄があるんだぞ、あの世へ行かずにすんでも、この世の地獄へぶちこんでしまうから、そう思え。退れ!」
従軍牧師は、僧侶控え室にはいって、神酒をなみなみと注がせて飲み、中庭につないでおいた馬に乗せてもらったが、シュベイクのことを思いだして、また馬からおり、判事ベルニスの事務室へやっていった。
予審判事ベルニスは、社交界の人間だった。素敵な踊り手で、道徳上はまったくのゼロ。しかも、このウラージンの軍法会議の仕事は、全然手につかなかった。書類など乱雑にほうりっぱなしなので、被告の名前がいれちがうことなど珍らしくなかった。脱営兵を窃盗罪に、泥棒を脱営罪に判決したことさえあった。
「やあ」と、従軍牧師は彼に手をさしのべながら言った。「どうだね、景気は?」
「お蔭でどうにか」
「相変らずカードをやっているかい?」
「カードじゃ元も子もなくしちゃったよ。こないだ禿頭のマカオ大佐とやって、あん畜生にすっかり敗けたんだ。だけどな、可愛い娘ができたよ。ところで、神父さんご自身はどうだい?」
「下男がほしいんだ。この前にいた奴は、俺の勘定で毎日酒屋に入りびたりとくるし、その前にいた奴は、朝から晩までお祈りと来ている。どっちも出征大隊へぶちこんじゃったよ。今、説教をやっているとき見つけたんだがね、その男は人騒がせをしようと思って泣きだしたんだ。こんな男を俺はほしいんだ。シュベイクって名で、十六号にいるそうだ、なぜ監禁されているのか、ここからもらっていくという工合にならないものか、知りたいんだがな」
判事は抽出しを開けて、シュベイクに関する書類を探したが、例によって見あたらなかった。
「リンハルト大尉のところにあるんだろう。どうして俺ん所じゃ何もかも無くなってしまうんだろうな。リンハルトのところへ廻したのかもしれん。ちょっとまってくれ、電話をかけてみるから――もしもし、大尉殿ですか、こちらは判事ベルニス中尉です、ちょっとお尋ね致したいんですが、そちらにシュベイクとか何とかいう男の書類がいっていないでしょうか――何ですって、シュベイクなら私のところになくちゃならんですって? どうも不思議ですな――私が受取ったんですって?――その書類は貴方のところにごろごろしてたと思うのですが、こんな物の言い方をするのをお許し下さい――ええ? 貴方のところには何一つごろごろしていないんですって?――もしもし、もしもし」
判事ベルニスは、机の前に腰をおろして、予審事務の乱雑さをぶづぶつ言った。彼とリンハルト大尉はだいぶ以前から仲がわるかった。リンハルトの書類が、ベルニスの所へまぎれ込むと、ベルニスは誰も見つけだせない所へしまい、リンハルトもやっぱり同じようなことをするので、まるでお互いに書類のなくしっこをやってるようなものだった。
「じゃそのシュベイクって奴は、俺んとこからなくなっちゃったんだ」と、判事ベルニスが言った。
「ここへ呼んで、何も白状しないようだったら、出獄さして君のところへやろう、連隊の方は君自身でよろしくやっといてくれ」
従軍牧師が帰った後、判事はシュベイクを呼んで来させた。
「さあ、どうじゃ、シュベイク。どちらに決めたんだ?――すすんで白状するか、それとも君に不利なような調書をこちらで作りあげるまで待つか。ここは普通の裁判所とは違う。軍法会議だ、要するに軍法会議だ。厳しい正しい刑罰からのがれる道は一つしかない、白状するだけだ」
こういった調べ方をやるのが、ベルニス判事の手だ。書類が無いんだから他に仕方がない。
「何も白状しないと言うんだな」と、ベルニス判事は、シュベイクが墓のように黙っているのを見て、言った。「どういう訳でここへ来たか、それも言わないんだな? しかし、君のためだから忠告するがね、白状したほうがいいぜ。取調べが楽になり、罪が軽くなるからな。これだけは普通の裁判所とまったく同じなんだ」
「申し上げます」と、シュベイクはお人よしな声で言った。「私は棄て児でして、この陸軍監獄へ拾われて来たんであります」
「そりゃどういうことだね?」
「申し上げます、すこぶる簡単に説明できるんであります。私の住んでおりまする小路にコーレンマンという男があります、その男の三つになるまったく無邪気な男の児が、ある日よちよち歩き出してワインベルグからリーベンまでいったんであります。そこの歩道に坐っているのをお巡りさんが発見したんであります。その子供は分署へ連れてゆかれて拘留を食ったんであります。何にも知らないその子供が。私もそれと似たりよったりであります、私も拾われ児であります」
シュベイクの我関せずといったような無邪気きわまる顔をじっと見ていると、ベルニス判事はかえってむしゃくしゃして来て、部屋の中を無闇に歩き廻るのであった。が、結局また机の傍に立ちどまってきいた――
「いいか、こんど会ったら、それこそ百年目だと思えよ――おい、この男をつれてゆけ!」
シュベイクが十六号へつれてゆかれた後、ベルニス判事は典獄のスラウィクを呼びつけた。
「追って判決をくだすまで、シュベイクを従軍牧師カッツ殿に預けておく。放免状を作成し、二人の護衛兵を付けて従軍牧師殿まで届けろ!」
「中尉殿、鎖につないで連れて行きましょうか」
判事は拳固で机の上を叩いた――
「馬鹿野郎。放免状を作成してと、はっきり言ったじゃないか」
翌朝の八時に、シュベイクは、また事務室に呼ばれた。
「事務室の入口の左に痰壺があるよ。そこへよく巻煙草の吹殼を投げこむからな」と、囚人の一人がシュベイクに教えてくれた。「それから二階にも一つあるぜ。九時にならなきや誰も廊下を通らないからな、さがしてみろよ。何かしらあるから」
しかるにシュベイクは彼らの期待を裏切った。彼はふたたび十六号室にもどって来なかったのである。十九の股引は、膝を突きあわせて、いろんな想像をたくましくした。
中でも一番想像力の強い、|そばかす《ヽヽヽヽ》だらけの後備の兵卒が、言いふらした――シュベイクって男は中隊長を射殺したかどでここへ来ていたのだとよ、それで今日モートルの練兵場で死刑を受けるため連れてゆかれたのさ。
一〇 従軍牧師の従卒
その一
シュベイクを従軍牧師のもとに護送するように命じられた二人の兵卒の名誉ある同伴のもとに、彼の珍妙なる行動が、またもや始まるのである。
彼の同伴者は、お互いに補いあってやっと一人前といった二人の男であった。一方が長く痩せておれば、一方は短くて肥っており、長い方の兵卒の右が跛《びっこ》だと、短い方の兵卒の左が跛だった。彼ら二人は、真面目くさって、車道を歩いた。そしてときどきシュベイクを横目でみた。シュベイクは二人の間を歩かされて、会う人ごとに挨拶をしていた。シュベイクの服は、帽子といっしょに陸軍監獄にいる間に紛失してしまったので、彼は、古い軍服をもらった。しかるにその軍服たるや、シュベイクよりは首から上だけ大きい、しかもビール樽のような奴が着ていたものらしい。
ズボンも、それに相応して、脚が三本くらいはいりそうだった。胸の上まで来るほど長いそのズボンには、長々と無限の襞《ひだ》があって、物見高い人々の眼をひくに充分だった。肘のところにつぎはぎをした尨大《ぼうだい》なる上衣は、油の汚点だらけできたなく、案山子《かかし》にきせた上衣のように、ばたばたひるがえっていた。兵卒帽も大きくて、耳がそっくりかくれていた。
道を通る人々が大きな声で笑うのに対し、シュベイクは、柔和な、暖い微笑と、お人よしな眼付きをもって答えた。
こういう恰好で、彼らは、カロリーネンタールにある牧師の宅へむかって、行進するのであった。「お前の故郷はどこだい?」と、肥っちょの方から初めて口をきいた。
「プラハ」
「俺らの手から逃げ出すつもりかい?」
|のっぽ《ヽヽヽ》が口を入れた。そもそも、背の低い肥っちょというものは概してお人よしの楽天家で、痩せた|のっぽ《ヽヽヽ》というものは反対に悲観論者であるということは、すこぶる注目すべき現象である。
だからこそ、この|のっぽ《ヽヽヽ》が肥っちょに向って言ったのだ――
「逃げられることなら、逃げたかろうよ」
「だってなぜ逃げたいんだ? 陸軍監獄を出してもらったんだもの、自由な身も同然じゃないか。俺あ従軍牧師殿に渡す小包を持っとる」
「その小包の中にゃ何が入っとるじゃ?」
「そりゃ知らねえ」
「それみろ、手前知らねえ癖にしゃべってやがる」
カール橋を渡ってしまうまで、三人ともだまりこくっていた。カール小路で、また肥っちょがシュベイクに話しかけた――
「なぜ俺らがお前を従軍牧師の所へ連れてゆくか、知ってるかい?」
「懺悔をしにさ」と、シュベイクは平然と答えた。「あした、俺あ首をつるされるだ。死刑の前にゃ懺悔をやることになっている、それが精神的慰安っていう奴さ」
「だがどういう訳でお前は」と、|のっぽ《ヽヽヽ》が用心ぶかそうにきいた。|肥っちょ《ヽヽヽヽ》は気の毒そうにシュベイクを眺めていた。
二人とも田舎の職人で、連れあいや子があった。
「どういう訳でだか俺あ知らねえ」と、シュベイクはお人よしな微笑を見せながら答えた。「まるで解らねえんだ。運命って奴なんだろうな」
「お前、悪い星に生まれ合わせたんだろう」と、肥っちょは、物識り顔に同情しながら言った。
「何もしねえのに」と、|のっぽ《ヽヽヽ》が疑い深そうに言った。「何もしねえのに、首をつるすって法はねえぜ。何かきっと事情があるにちげえねえ」
「戦争中でなけりゃな」と、シュベイクが言った。「何とか理由もあろうが、戦争となりゃ人間の命なんか屁とも思われねえんだ。戦線でたおれるか、内地にいて首を縊《くく》られるかだ。どっちみち同じことさ」
シュベイクの話をきいた二人は、他人事とは思えなかった。
「お前煙草が吸いたかろうなあ」と、肥っちょは言った。「奴らお前に……」彼はこう言おうとしたのであった――『奴らお前に、お前の首をつるす前に、煙草を吸わせるかどうか解らねえから』けれどもこの際そんな事を言ってシュベイクを悲しませるのは、余り気がきかなさすぎるので、中途で止した。
三人は煙草を吸った、それからシュベイクの引率者は、自分達の家族のことや、鼻糞ほどの畑のことや、一頭の牛のことなどを話してきかせた。
「喉が乾いた」と、シュベイクが言った。|のっぽ《ヽヽヽ》と肥っちょが眼を見合あせた。
「どっかでビールを一杯飲もう」と、肥っちょは、のっぽが同意するように水を向けながら言った。
「どこか目立たないようなところでな」
「『クークリーク』へ行こう」と、シュベイクが提案した。「お前らその銃剣を板場へ預けとけ、心配するこたあねえ」
「あすこじゃバイオリンと手風琴をやっとるぞ」と、シュベイクはつづけて言った。「それから街の女も出入りするし、議会へ入れないような色んな立派な人間が出入りするんだぜ」
|のっぽ《ヽヽヽ》と肥っちょは今一度に眼を見合わせた、そして|のっぽ《ヽヽヽ》が言った――「じゃ行こうや、カロリーネンタールは、まだ遠いんだからな」
シュベイクの言った通り、『クークリーク』では、当世流行の小唄に合して、バイオリンと手風琴で盛んにやっていた。
てかてかに油をつけた頭の、|にやけた《ヽヽヽヽ》若い男の膝の上にすわっている女が、しゃがれ声で唄を歌っていた。
あるテーブルのかたわらでは酔払った鰯《いわし》売りが眠っていた、ときどき目をさましては「そりゃ無理です」と言ったかと思うと、また眠ってしまった。球突き台の向うにある鏡の下に女が三人いて、列車の車掌らしい男に「ちょいと、お若い方、ベルモットを一杯おごって下さいな」と言った。
シュベイクとその同伴者は、面白そうにこの有様を眺めた。
シュベイクは、以前のことを思い出した。が、彼の同伴者にはすべてが初めてのことだった。だんだん気にいってきた。すっかり気に入ったのは肥っちょだった。一体、この種の人間は、楽天主義のほかに非常に享楽主義にかたむくものである。|のっぽ《ヽヽヽ》もしばらく自己と戦っていたが、その悲観主義を失うと共に、次第にその慎みをも失ってしまった。
「俺あ|ちょっくら《ヽヽヽヽヽ》踊るべえ」と、五杯目のビールを乾したのち彼は言った。
肥っちょのわきには、女が坐っていて、猥褻なことばかり言っていた。肥っちょはすこぶる享楽的な気分になった。
シュベイクは飲んだ。|のっぽ《ヽヽヽ》は踊りおわると、女をつれてテーブルへもどってきた。それから彼らはひっきりなしに、歌ったり、踊ったり、飲んだり、わきの女にふざけたりした。
午後一人の兵卒がそこへ入ってきて、彼らのテーブルに近寄り、五クローネで脚か腕に石油注射をしてやろうと言った〔病院にはいれる手段としてかなり有効なものである。ただ石油の臭気のため|ばれる《ヽヽヽ》こともある。ガソリンの方は、早く消滅するだけに、よかった。後には、エーテルをガソリンにまぜたものを注射し、その後さらに他の完全な方法を案出するに到った――著者註〕。この石油注射をやってもらうと、少くとも二カ月間は横になっていなければならず、もしその傷口に唾液をつけていれば、ことによると一年間も寝ていなければならず、軍隊から放免されねばならないことになる。
頭の工合がすっかり変になってしまった|のっぽ《ヽヽヽ》は、便所の中でその兵卒から脚の皮膚のしたに石油を注射してもらった。
夕方になったので、シュベイクの方から、従軍牧師の所へ行こうと言い出した。もうろれつのまわらなくなった肥っちょは、も少し待てと言った。|のっぽ《ヽヽヽ》も同じ意見だった。しかしシュベイクはもうここが嫌になっていたので、独りで出かけるぞ、と嚇かした。結局、途中でまたどこかへ立寄るという条件のもとに、三人は『クークリーク』を出た。
ある小さいカフェに立寄った。そこでもっと楽しむために、肥っちょは懐中時計を売って金にかえた。
ここを出た頃から、シュベイクは二人を両腕に抱えて引張らねばならなかった。これは並大抵の仕事ではない。二人ともすぐ膝ががくりと折れそうになるし、酒屋やカフェを見る毎にはいっていこうとする。肥っちょは牧師に渡すべき小包をすんでのことで落すような始末だったので、シュベイクは自分で持ってやらねばならなかった。
また彼は、将校や下士に見つからないように絶えず気をくばらなければならなかった。人間業では到底できそうにもない骨折りをしたのち、やっとケーニッヒ街にある従軍牧師の宅の門前までゆきついた。
シュベイクは、二人の銃に剣をつけてやり、彼らに案内される代わりに、脇腹をこづぎながら彼らを家のなかに押しこんでやった。
中から一人の兵卒が出てきた。家の中では大きな話し声と瓶やコップのきしる音が聞えた。
「従軍――牧師殿、申し上げ――ます」と|のっぽ《ヽヽヽ》がやっとのことで言うことができた。「小包――と――人間を――持って――きた――であります」
出迎えた兵卒は唾をはいた。そして小包を受取って中へはいっていった。三人はかなり待たされた。そこへ従軍牧師が転げこむように現れた。上衣も着ず、手に葉巻を持っていた。「もう来たのか」と、彼はシュベイクに言った。「もう連れられて来たんだな。おい――マッチを持ってないか?」
「申し上げます、従軍牧師殿、持たないであります」
「ええっと――どうしてマッチを持たないんだ? 火をつけてあげるために、兵卒たるものはマッチを持っとらんといかん。マッチを持たないような兵卒は――何だったっけな?」
「申し上げます、マッチなしの兵卒であります」と、シュベイクは答えた。
「よく言った、マッチなしの兵卒だ、だから誰にも火をつけてあげることはできん。よし、これで第一がすんだ、こんどは第二だ。お前の足は臭くないか」
「申し上げます、臭くないであります」
「よし第二はそれですみ。次は第三だ。お前ブランデーを飲むか」
「申し上げます、ブランは飲まんであります。リキュールなら飲むであります」
「よし、この兵卒を見てやれ。フェルトフーベル中尉の従卒で、今日だけ借りたんだが、こいつあからっきし飲めねえ。禁――禁――禁酒主義なんだ。だから出征大隊に入れて戦線へ送っちまうんだ。こんな人間にゃ、俺あ用がねえ。こいつあ従卒じゃねえ、牛だ。牛みたいに水ばかり飲んでぶうぶう唸ってやがる」
「貴様は下戸党じゃ」と、彼はその兵卒にむかって言った。「恥しらずめ。横っ面の二つ三つ打《ぶ》たれてもいいんだぞ」
次に従軍牧師は、シュベイクを連れてきた二人の兵卒に眼を向けた。二人は、真直に立っていようと努力するがふらふらと揺れて倒れそうになるので、やっと銃につかまっている。
「貴様ら、よっ――よっ払ってるな。勤務中に酔払うとはもっての外だ、禁――禁錮を申しつけてやる。シュベイク、こいつらから銃を取上げて台所に引張っていけ、そして週番が受取りに来るまで番をしろ。俺あ直ぐ連隊へ電話をか――か――か――ける」
『戦争中は状況が刻々に変る』と言ったナポレオンの言葉は、ここでも完全に立証されたわけである。
今朝は「付け剣」をした二人が彼を引張っていたのだが、やがて二人は彼から引張られ、とどのつまり彼から張り番されねばならなくなった。
最初二人はこの状況の変化に気付かなかった。しかるに台所にすわらせられて、付け剣の銃を持ったシュベイクが入口に立っているのを見るにおよんで、やっと様子がわかってきた。
「何か飲みてえなあ」と、背の低い楽天主義者が言った。しかるに|のっぽ《ヽヽヽ》はふたたび悲観論におそわれ、何もかもシュベイクのせいだといって口ぎたなく彼を罵るのであった。
シュベイクは黙って戸のところをゆききしていた。
「馬鹿を見たのは俺らだよ」と|のっぽ《ヽヽヽ》が言った。二人にいい加減しゃべらしたのちシュベイクは告げた――
「手前らこれで解ったろう、軍隊という所は蜜をなめるように甘いものじゃねえってことがな。俺あ義務をはたすだけさ。俺だって今のお前たちと丁度同じようにやられたんだ。俺あ運の神様に見離されなかったというだけのことさ」
|のっぽ《ヽヽヽ》は千鳥足で戸のところまでいった。「帰してくれよ」と、シュベイクに向って言った。「おい仲間、冗談は止せよ」
「逃げるなら逃げて見ろ。俺あ張り番しなくちゃなんねえんだ。こうなりゃ手前ら赤の他人だぞ」
そこへ牧師が入ってきた――「どうしても連隊へ電話が通じない、今度だけは大目に見てやるから帰れ。だがな、気――気を付けて勤務中に酔払うんじゃねえぞ。出ていけ!」」
その二
シュベイクが従軍牧師オットー・カッツの従卒となってから、すでに二日間になるが、この間にただ一度しか主人の顔を見なかった。三日目に、ヘルミッヒ中尉の従卒がやってきて、牧師を連れに来るようにと、シュベイクに告げた。
途中、ヘルミッヒ中尉の従卒の話したところによれば――従軍牧師は中尉と喧嘩してピアノをこわしてしまった。そして正体もなく酔払って自分の家へ帰らないと言っている。中尉のほうも酔払っていて牧師を廊下へ放りだした。牧師は玄関の土間の上に坐って居眠りしている、とのことである。
現場へ到着したシュベイクは、従軍牧師の肩をゆさぶった。何やらぶつぶつ言って眼をすこし開けたとき、シュベイクは挙手の礼をして言った――「申し上げます、従軍牧師殿、私であります」
「何かご用ですか」
「申し上げます、従軍牧師殿、貴方をお迎えにまいったであります」
「私を迎えに来なすった――ところで、私達はどこへ行きますかな」
「貴方のお家《うち》へであります、従軍牧師殿」
「なぜ私の家へ行かなくちゃならないんです、だってここは私の家じゃありませんか」
「申し上げます、従軍牧師殿、貴方はよその家の廊下にいるであります」
「どうしてそんなところへやって来たんでしょう」
「申し上げます、貴方は訪問をされたのであります」
「訪――訪問なんか、私はしなかった。――それは――貴方の――お考えちがいでしょう」
シュベイクは牧師を抱きおこして、壁に立てかけた。牧師は、こちらの壁から向うの壁へよろめいていったかと思うと「倒れる」と言いながら、シュベイクの上にころがりかかった。シュベイクはやっと牧師を壁におしつけることができたので、牧師はこの新しい位置でふたたび居眠りを始めるのであった。
シュベイクは彼を起こした。
「どうなさろうってんです?」と、牧師は、壁からすべり落ちて地上に坐ろうともがきながら言った。「いったい貴方は誰方ですか」
「申し上げます」と、シュベイクは、また牧師を壁に押しつけながら、答えた。「従軍牧師殿、私は貴方の従卒であります」
「私にゃ従卒なんかない。私は従軍牧師じゃない」
「私は豚です」と、彼は『酔払いの正直』をもって付け加えた。「放してくれたまえ、君、僕あ君を知らんよ」
牧師は玄関の戸にしがみついて放そうとしなかった。じれったくなったシュベイクは、『申し上げます』を省いて、まったく遠慮のない言葉づかいをし始めた。
「放せったら」と、彼はどなった。「でなきゃ一つお見舞い申すぞ。黙って家へ帰りゃいいんだ」
従軍牧師は戸を放してシュベイクに倒れかかった――
「じゃ君、どこかへ行こう、だが『シューハ』へはいかないよ、借金があるんだから」
シュベイクは牧師をひきずるようにして往来まで連れだした。
「何だろう、あの人は」と、往来でこの二人を見物していた人々の誰かが言った。
「これですかい、こりゃ私の兄弟ですよ」と、シュベイクは答えた。「休暇を貰って私の所へ訪ねて来たんですがな、死んだものと思いこんでた私が生きていたので、嬉しさのあまり飲みすごしたってわけです」
辻馬車の溜りのある所までくると、シュベイクは従軍牧師を壁にもたせかけておいて、御者と交渉を始めた。
一人の御者が言った――この方ならよく識っとる。一度乗せたことがあるが、二度とふたたび乗せない。
「わしの車を反吐《へど》だらけにしたんだ」と、彼はむきだしに言った。「おまけに車代も払やしねえ。自分の家を忘れっちまって、二時間あまり走らせやがったんだ。一週間たって、俺あその間に三度も出かけたんだが、五クローネぼっち寄こしただけさ」
長い交渉の末、やっと一人の御者が車を出してくれることになった。
シュベイクが従軍牧師のところへもどってみると、また眠っていた。彼の固い黒の中折れ帽〔彼は大抵背広を着ていたから〕が盗まれてしまっていた。シュベイクは、御者の手をかりて、どうやら彼を馬車の中に押しこむことができた。
牧師は、口から出まかせに、色んなことをしゃべった。かと思うと、また急に黙りこくってしまったりした。しゃべったことには、出鱈目もあったが、本当のこともあった、例えば、乗馬靴と鞭と鞍の代をまだ払っていないとか、二三年前に淋病をわずらって過酸化マンガンで癒《なお》したとか。
シュベイクを女と思ってか、従軍牧師はズボンのボタンをはずして怪《け》しからん振舞いにおよぼうとした。また走っている馬車から飛び出そうとしたり、腰掛けをこわそうとしたりした。その度ごとに、彼はシュベイクから脇腹をこづかれるのであった。
馬車は家の前に止まったけれど、彼をおろすのは容易でなかった。
「ここはまだ目的地じゃないよ」と彼は大声をあげるのであった。「救けてくれ! 誘拐だ! 俺あもっと先までゆくんだ!」
彼は、まったく文字通り、馬車の中から引きずりだされた、煮た栄螺《さざえ》を殼から引きだすように。
それから彼は家のなかにひきずられていって、袋でも放るように長椅子の上に投げ出された。彼は、自分が注文したんじゃないから自動車代は払わないと頑張った。自動車じゃなくて馬車だということを彼に呑込ますのに、十五分以上かかった。
それでも従軍牧師は、うんと言わなかった――「君達は僕をごまかそうってんだろう。僕ら歩いて来たんじゃないか」
と、突然、彼は急に太っ腹になって、御者の前に財布を投げ出して、言った――「みんな取っとけ、払ってやるよ。一クロイツェルくらいどうだっていいさ」
三十六クロイツェルくらいどうだっていいさ、と彼は言うべきであった。それ以上その財布にはいっていなかったんだから。
もう一文も持っていないと言う牧師をつかまえて、御者は厳重な身体検査をやった。チョッキの中から五クローネ玉が一つ出てきた。御者は、口ぎたなく罵りながら帰ってしまった。
牧師はなかなか眠ろうとしないで、これからピアノを弾くんだ、踊りを習いにいくんだ、魚を焼くんだ、と色んな計画をならべた。また、ありもしない妹をシュベイクのお嫁さんにやろうと言ったり、寝台に運んでいけと言ったりしていたが、結局、自分を豚と同じ程度の価値ある人間だと認めてくれと言いながら眠ってしまった。
その三
翌朝シュベイクが、従軍牧師の部屋へはいっていって見ると、彼は長椅子の上に横になったまま、一生懸命に考えこんでいた――ズボンが革の長椅子にくっつくほども水をぶっかけられるなんて、どうしたことだろう。
「申し上げます、従軍牧師殿」と、シュベイクは言った。「貴方がご自身で昨夜――」
それだけ言えば充分であった。牧師は、自分が寝小便をしたのだと気がついたとき、ひどく狼狽した。
「思い出せないな」と、彼は言った。「どうして俺は寝台からこの長椅子へ来たんだろう?」
「貴方は初めっから寝台になんかいやしなかったんであります、帰宅すると直ぐ貴方を長椅子の上に寝かせたんで、それっきり動かないんであります」
「それでは俺は、何をやらかしたのかい? 俺は酔払ってたんじゃなかろうか?」
「たとえようのないほど! 正体なしにであります。少々たわ言も申されたであります。お脱ぎになって体を拭かれたがよろしかろうと思うであります」
「何だか、誰かに酷《ひど》くぶたれたような工合だぞ。それから喉がかわく。俺はきのう、つかみあいでもしたんじゃないか」
「それほどでもなかったであります、従軍牧師殿。何か飲みたいってのは、きのう飲みたかったつづきであります」
従軍牧師はまったく申し分のない二日酔いにやられて、ひどく意気消沈の姿であった。
「せめて本物の胡桃《くるみ》ブランデーでもあったらなあ」と、彼は溜息をつきながら言った。 「胃袋の調子も良くなるだろうに。シュナーブル大尉の持ってるようなあんな胡桃ブランデーがあったらなあ」
彼は、ポケットを探って、財布の中をのぞいた。
「天にも地にも三十六クロイツェルしきゃ持たねえ。この長椅子を売ったら、どうだろう。家主にゃ、誰かに貸してやったとか、誰かにぬすまれたとか言っとくさ。いや、そりゃ止そう、長椅子を売るのは。お前に一つご足労願って、シュナーブル大尉から百クローネ借りて来てもらおう。やっこさん一昨日カードで儲けとるんじゃ。そこで巧く借りられなかったら、マーラー中尉のところへ行け。ここでも駄目なら、フィッシャー大尉のところへ行ってみろ。馬の飼料に払う金を飲んでしまったから、ご融通願います、と言うんだ。こいつも駄目なら、仕方がない、ピアノを売っちまおう。後はなるようになるだろう。まあ行って来てくれ、何とでもお前の思案に委すから巧くやってくれ。だが、決して手ぶらで帰るじゃねえぞ、でないとお前を戦線へ送っちまうから。それからついでにシュナーブル大尉に、胡桃ブランデーをどこで買うのかきいて、二本買って来るんだぞ」
シュベイクは、この使命を立派にはたした。彼の単純さと正直な顔付には、誰一人として疑うものは無かった――彼の言うことは本当だ、と誰でもが頭から信じたのである。
栄誉|赫々《かくかく》としてこの遠征から帰ってきた彼が、三百クローネの金を耳をそろえてならべたとき、従軍牧師〔彼はその間に身体を洗い服を着がえていた〕はひどくびっくりした。
「面倒だから一度に貰って来たであります」と、シュベイクは言った。「でないと、明日も明後日もまた金の心配をしなきゃなりませんからな。みんな簡単にいきましたよ。ただシュナーブル大尉の前では膝をついて拝み倒しましたがね。ありゃ獣みたいな奴ですな。それでも、私が、扶助料を払わなくちゃなりませんので――と言うと」
「扶助料?」と、牧師は仰天して言った。
「へえ、扶助料でさ、牧師さん、関係した女にやる示談金でさあね。何か思案しろって事でしたが、これより他にいい思いつきがありませんでしたでな。私の近所に一人の靴屋があるんですが、こいつ五人の女に関係して扶助料を取られたと思いなされ、酷く困って首でも縊《くく》ろうかとしたんですが、どうにか巧く借りだしたんでさ。そりゃ大変お困りだろうってわけで、誰も疑う人はありませんからな。ところで、私あ訊かれましたよ。どんな女だ? とても綺麗な、まだ十六にもならない蕾ですぜ、と言ってやりました。するとその娘の番地宛名を寄こせときたものです」
「シュベイク、お前大変な事をやってくれたな」と、牧師は吐きだすように言って、部屋の中を歩きまわった。それから頭を抱えて、「恐しく頭痛がする」
「そこで私あ同じ路地に住んでる聾《つんぼ》の婆さんの宛名をあげときました」と、シュベイクは説明した。「私は徹底的に遂行しようと思ったのであります、命令は命令でありますから。それから、玄関にピアノを引取りに来ている者があります。公設質屋へ運んでもらおうと思って、私が頼んだんであります。ピアノが無くなると、この部屋は広々とするし、お金がふえるであります。四五日は屈託なしに過ごせるであります。家主がピアノはと訊いたら、鍵《けん》が壊れたので工場へ修繕にやったと言っときましょう。それから、長椅子の買い手も見つけたであります。古道具商をやってる私の知合いの者ですが、お昼からやって参りましょう。この節は革の長椅子はいい値で売れますぜ」
「ほかには何もしなかったろうな、シュベイク?」と、従軍牧師は、両手でしっかりと頭を抱えながら当惑してきいた。
「申し上げます。従軍牧師殿、胡桃ブランデーを二本でなしに五本買ってきたであります。たくわえが少し要るからであります。ところで、ピアノの一件を片付けに行ってよろしいでありますか、でないと公設質屋の門限に間にあわなくなるであります」
シュベイクが公設質屋から帰って来てみると、牧師は、すでに胡桃ブランデーを一本あけて、お昼に食ったカツレツは生焼けだったと小言を言っているところだった。
牧師は、また酔払った。三本目の胡桃ブランデーをからにしたとき、古道具商が長椅子を買いに来た。長椅子は二束三文に売りとばされた。
その後、従軍牧師とシュベイクは、仲よく話しながら、もう一本あけた。二人の話は夜まで続いた。しかし牧師は、また昨夜と同じような状態におちいって、結局シュベイクから靴と服をぬがされて、寝台のなか押しこまれた。
その四
シュベイクが自分の住居にいる召使いのミュラー婆さんをたずねたのも、この頃であった。行って見ると、ミュラー婆さんの従姉がいて、泣きながら話すのであった――ミュラー婆さんは、シュベイクが徴募に出頭したその日の晩のうちに捕縛された、婆さんは軍法会議に突きだされたが何も罪になるような証拠があがらないので、今でもスタインホーフの合同収容所にとじこめられている。
ミュラー婆さんは、そこから手紙を寄こしてあった。シュベイクは、この前代の遺物を手にとって読んだ――
「なつかしいアニンカ! ここは大へんけっこうなところじゃ、みんなぶじでいる。わしのとなりの女はべッドに|しみ《ヽヽ》を××したよ、それからここにはくろい××もある。そのほかには何もかわったことがないよ。
たべものはたっぷりある、スープの上にはじゃがいも××つまめるよ。シュベイク様はもう××たそうじゃが、なんとかしてあの方のよこになっておられるところをさがし出しておくれ、せんそうがすんだら|はか《ヽヽ》をたててあげたいから。おまえに言うのをわすれたが、ものおきのくらいすみに、こいぬが一ぴきはこにいれてあるよ。もうだいぶながいこと、わしが××のためつれだされてからずっとなにもくわずにいるのじゃ。いまごろしらしてもはじまるまいけど、あのこいぬももうかみ様の××でやすんでることじゃろとおもうよ」
手紙じゅう「検閲済」の赤判が、べたべたと押してあった。
「その通り仔犬はもう死んでましただ」と、ミュラー婆さんの従姉はすすり泣きしながら告げた。「それから旦那様のお住居もすっかり変ってしまいましてな。裁縫屋さんに貸したもんで、婦人用の客間になりましただ、あちらにもこちらにも流行服の絵がかかっていて、窓ぶちには草花がありますだよ」
ミュラー婆さんの従姉は、まだどぎまぎしていた。ひっきりなしにすすり泣きしたり悲しんだりしたが、結局、シュベイクが軍隊から逃走してきたら自分にも迷惑がかかるのだと怖がったのであった。お終いには、まるで落ぶれた詐偽師とでも話しているような態度をとった。
「こいつあ面白え」と、シュベイクは言った。「とても気にいったぞ。ケイル婆さん、お前さんはもう知っとるんじゃな、お前さんの言うとおり俺あ逃げだしてきたんじゃ。だがここへ来るまでにゃ、番兵と曹長を十五人叩き殺さなきゃならなかったんだぞ。だけど、誰にもしゃべるんじゃねえぜ」
それからシュベイクは、自分をいれてくれない自分の家を去りぎわに、言い残した――
「ケイル婆さん、わしの洗濯物の中には、カラーとシャツの胸当てが二つ三つあるから、なくさないようにしてくれ。箪笥のなかに蛾のはいらないように気を付けてくれ、洋服を喰われると困るからな。それからわしの寝台で寝る娘さんに、よろしく言ってくれ……」
シュベイクは『さかずき』に出かけた。パリーベクの内儀《おかみ》は、彼の入って来たのを見たが、脱営して来たんだろうから一杯も飲ませないと言った。
「わしの亭主は」と、また徽《かび》の生えた話を蒸し返した。「あんなに用心してたのに、まだ監獄に坐らされている。そして本当の無頼漢が大手を振って歩いたり、軍隊から逃げだして来たりするんだ。ついこの前の週にも捜索に来てたよ」
「わしらはお前さんよりゃ用心深いんだ」と、彼女は言った。「だのに不幸な目にあっている。お前さんみたいに運のいい人間は、そうたんとあるもんじゃない」
この話をきいていた中年の紳士が、つかつかとシュベイクのところにやって来て、言うのであった。「どうか外へ出て待っていてくださらんか、貴方と話さねばならないことがあるんです」
パリーベクの内儀の話から、シュベイクをてっきり脱営兵と思いこんでいるこの紳士は、往来に出て来て、シュベイクに話すのであった。それによると、彼の息子も脱営してきて今ではヨセフスタット付近のヤセーナにいる祖母さんのもとにかくれている。
シュベイクは、脱営兵じゃないと、弁明大いに努めたが、その紳士は、きき入れないで、無理矢理にシュベイクの手に十クローネを一個握らすのであった。
「まあ当分の|たし《ヽヽ》に使ってくれたまえ」と、彼はシュペイクを街角の葡萄酒屋に連れこみながら言った。「同情しますよ、わしを怖がるにおよびませんよ」
シュベイクの帰りは随分おそかったが、従軍牧師はまだ帰っていなかった。
夜明け近くになってやっと帰って来た彼は、シュベイクをおこして言った――「明朝、従軍、従軍ミサをやりにゆくんだよ。リキュール入りコーヒーをわかしてくれ。いやグロッグ酒の方××がいいな」
十一 従軍牧師と共にミサを挙行する
その一
人間を殺す準備は、いつも、神とか、その他たんに人間の頭の中で|でっ《ヽヽ》ちあげたにすぎない何か高等なものの名において、行われるものである。
古代のフェニキア人は、捕虜の首をかききる前に、盛大なる神事を勤めたものである――二、三千年後の時代の人々が、戦争に出て敵を火と剣で皆殺しにする前に、そうするのとまったく同じように。
ギニアやポリネシアの食人種は、その捕虜、または宣教師、旅行家、種々な商事会社のブローカーもしくはたんに好奇心から出かけて来る人といったような無用な人間どもを食う前に、種々様々な宗教上の風習を行って、まず神々に犠牲として供する。彼ら食人種の文化はまだ法衣を纏うまでには到っていないので、彼らはその股を美しい鳥の羽でかざる。
神聖なる宗教裁判所は、その犠牲となった人々を焼き、殺す前に、盛大をきわめる神事を勤め、合唱隊付きの神々しい大ミサを挙げたものだ。
罪人を死刑に処する際には、きまって僧侶のようなものが立ちあって、そのためにかえって罪人を悩ますのである。
プロシアでは、牧師が罪人を手斧のもとにみちびき、オーストリアではカトリックの僧侶が絞首台に案内し、フランスではギロチン台に、アメリカ合衆国ではやっぱり僧侶が罪人を電気椅子に連れてゆき、スペインでは巧妙な絞首装置のある長椅子に、それから以前のロシアでは鬚もじゃのギリシア正教僧侶が革命家をあの世へ案内した――例を挙げれば限りがあるまい。
こんな場合、彼らは、いつも十字架を持ってゆく、こう言おうと思っているかのように「お前なんか、ただ首を断たれたり、絞め殺されたり、千五百ボルトの電流を通じられたりするだけじゃないか、キリストの悩み苦しんだことに比べれば何でもないぞ」
世界大戦という大仕掛けな屠殺台も、やっぱりこの僧侶の祝福を欠かすわけにはいかなかった。各国の軍隊の従軍牧師は、自分達にパンを与えるがわの人々が勝利を得るようにと祈祷して、従軍ミサを挙げたのである。
後世において「聖者」と呼ばれるようになったあの盗賊アダルベルトが、一方の手には剣を一方の手には十字架を持って、バルチック海沿岸のスラブ人を絶滅するのに助力した時代と比べて、現在はちっとも変っていやしない。
全ヨーロッパの人間は、まるで羊のように屠所《としょ》におもむいた。そこの屠殺人たる皇帝、国王、その他の君主や将軍とならんで、いろんな宗派の僧侶がこれを案内した。そしてこの僧侶どもは祝福を与え、まちがった誓いを立てさせた――「海ゆかば水づく屍《かばね》、山ゆかば草むす屍」云々。
従軍ミサは、常に二度挙行された。一度は、戦線へ配置されるため出発する前、二度目は戦いの、すなわち血なまぐさい殺戮の前に。
その二
シュベイクは、従軍牧師の命により、グロッグ酒を作ったが、十八世紀の海賊でさえこれを飲めば満足するにちがいないほどの出来栄えであった。
「お前どこでこんなにうまく作ることを覚えたんだい?」と、従軍牧師オットー・カッツは、ひどく感心しながらきくのであった。
「五、六年前まだ流浪していた頃、ブレーメンでおちぶれた船乗りから習ったんであります。グロッグ酒は、それを飲んどきさえすりゃ、たとえ海に落ちこんでもラマンチエの海峡を泳ぎきれるくらい強いんじゃないといかん。薄いグロッグ酒を飲んだんじゃ、生れたばかりの仔犬のように溺れてしまうって、その船乗りが言ってたであります」
「こんなグロッグ酒を一杯引っかけときゃ、なあシュベイク、ミサもうまく挙げられようってものよ。従軍ミサは、陸軍監獄のミサたあ、ちと訳がちがう。冗談半分でできる代物じゃねえ。だが、軍用神壇はあるし……折りたたみのできるポケット版ってやつがさ」
「おや大変だぞ、シュベイク」と、従軍牧師は急に頭を抱えた。「俺ら馬鹿なことをしてしまった。その軍用神壇をどこへ蔵《しま》っといたと思う? 売っ払ってしまったあの長椅子のなかだぜ」
「そりゃ、とんだ災難ですな。早くグロッグ酒を飲んでしまって、その軍用神壇を探しにいきましょう、そいつがなくっちゃ、ミサはできないと、私は思うでありますがな」
「まったくこの軍用神壇だけが足りないのだ。他のものはもうすっかり用意ができとる」
「さあ出かけましょう。もう夜も明けたようであります。私は軍服を着て、グロッグ酒をもう一杯引っかけるであります」
古道具商へいって見ると、主人は臟品《ぞうひん》を買ったという廉《かど》で拘引されて留守で、細君が出てきた。問題の長椅子は、ウルショウィッツの小学校の先生に売却したとのことであった。グロッグ酒の加減でいい気持になった従軍牧師は、この古道具商の内儀さんの頬をつねったり顎をくすぐったりした。
ウルショウィッツの先生というのは、型の通り温厚篤実な信心ぶかい老人であった。彼がこの長椅子を買ったとき、何か眼に見えない心の声が囁いた――「その長椅子の抽出しのなかに何がはいっているかみよ」また夢に見た天使か何かが彼に命令した――「長椅子の抽出しをあけよ」
この神の声に従って、長椅子の抽出しをあけて、その中から折りたたみのできる小さい神壇を見出したときの、彼の驚きはいかばかりであったろう。長椅子の前にひざまずいて、彼は長く長く心の底からお祈りをし、神を讃美したのであった。そしてこれはウルショウィッツの教会に奉納せよとの神意にちがいないと思った。
「こっちが困るね」と、この小学校の先生の話を聴いていた従軍牧師が言った。「自分のものでもないものは、警察へ届けるべきであって、そんな馬の骨だか牛の骨だか解らないような教会へ納めるもんじゃない」
「お前さんはその奇蹟のお蔭で」と、シュベイクが付け加えて言った。「うるさい目に遇いますぜ。お前さんは長椅子を買ったんだが、神壇は買わなかったはずだ、それは軍隊の財産なんだよ。そんな神のおぼしめしは、高いものにつきますぜ」
先生は、身体じゅうぶるぶるふるえだした、まだ寝ていたところをおこされた彼は、このときいそいで服を着たのであったが、歯ががたがたと鳴った――
「私は、私は決して悪い気でやったのではございません。神様のおぼしめしに従いまして私共のまずしい教会をかざることができると思ったのでございます、はい」
「軍隊の財産を使ってだな、もちろん」と、シュベイクはきびしく鋭く言った。
可哀想にこの年とった先生は、まったく狼狽してしまって、弁解どころではなかった。できるだけ早く服を着て、ウルショウィッツの教会へいって、事件を片付けようとあせった。
片や民間、片や軍隊という二人の神の代表者が、会見する段取りとなった。この悶着は、結局、市民と兵隊との悶着であった。ウルショウィッツの僧侶と従軍牧師オットー・カッツは、さかんに言いあらそった。
結局、従軍牧師は、次のような一札を入れて、問題の神壇を取りもどすことができた――
「偶然の機会によりウルショウィッツの教会の手にいりし神壇一個、正に領収致しました。
従軍牧師 オットー・カッツ」
神壇なんて言うと人聞きはいいが、この神壇たるや、大変なしろものなのである。三位一体のつもりであろう、三つの部分にわかれた絵が、すこぶる奇々怪々をきわめている。そこにえがかれたもの、神様や天使だとは、義理にも思えない。
ミサのあるごとに、この神壇が持ちだされるのであったが、兵隊は、いつもこの判じ絵を解こうと試みた。ありゃサハラ沙漠の風景だろう、などと言うものさえあった。
それでも、この神壇には「聖母マリア、我らをゆるしたまえ」と書かれてあった。
うまく辻馬車を見つけた従軍牧師とシュベイクは、この神壇を持って(実は、シュベイクが御者のわきに坐り、牧師は坐席に腰をかけ神壇の上に両足をのせて)練兵場へ着いたときは、もうミサの用意はすっかりできていて、出征大隊はもうだいぶ前からしびれをきらして待っていた。
ところが、従軍牧師は大変な忘れ物をした。ミサ男を連れてくるのを忘れたのである。
「ご心配ご無用であります、従軍牧師殿」と、シュベイクは言った。「そいつも私がやってのけるであります」
「お前が、ミサの手伝いができるって!」
「一度もやったことはないであります。だが物は|ためし《ヽヽヽ》であります。今は戦争中であります、戦争となると、以前は夢にも考えなかったことをやるものであります。『エト・クム・スピリトゥトォ』を『ドミヌス・ボビスクム』にくっつけるくらいのことあ、お茶のこさいさいです。また猫がお粥《かゆ》のぐるりを廻るように貴方の廻りを歩くのも大してむずかしいことじゃありますまい。それから貴方の手を洗ったり、葡萄酒をついだりすることも」
「よし。だが水をつがないでくれ、二度目のにも葡萄酒をついでくれ。右へいけ、左へいけ、という場合には合図をするからな。一度口笛をふくと右、二度だと左だ。なにしろ、ミサなんてものは馬鹿げたお祭り騒ぎだから。お前は声がふるえるようなことはないか」
「私は天下に何一つとして怖いものがないであります、従軍牧師殿、ミサの手伝いなんか屁とも思わんであります」
なるほど、従軍牧師の言った通り「なにしろ、馬鹿げたお祭り騒ぎ」であった。
何もかも、さっさと片付いた。牧師の話もすこぶる簡単だった――
「兵士諸君! 我々が今日ここに集まったのは他でもありません、戦場に向って出発するに際し、神様が我々に勝利を与えられ、我々を無事にまもられるよう神様にお祈りせんがためであります。私は長く諸君のご静聴をわずらわそうとは思いません、ただ諸君の万福を祈っておきます」
従軍ミサというのは、戦場における戦術と同様の法則のもとにおかれるが故に、従軍ミサなのである。すなわち、昔の三十年戦争のような場合には、従軍ミサも長いのが普通であったが、近代の戦術では軍隊の動作がすべて敏速を第一とする、したがって従軍ミサも敏速第一なのである。
で、このミサも十分間で終った。神壇の近くにいた者は、ミサ中に牧師がちょいちょい口笛を吹くのを不思議に思った。シュベイクは、鋭敏にこの合図に従った。あるいは神壇の右側に、あるいは左側にいって、その言うことは「エト・クム・スピリトゥトォ」一点張りであった。
その恰好は、丁度インディアンの踊りのようであった。けれどもそれは良い印衆あたえた。というのは、埃だらけの殺風景な練兵場における退屈しのぎにもってこいだったから。兵卒はもちろん、将校の中にも無駄話するものもあれば、煙草を吸うものもあるという工合で、万事が和気|藹々《あいあい》のうちにおわった。
家に帰ったとき、突然シュベイクがきいた――
「申し上げます、従軍牧師殿、ミサ男というものは、聖餐をさずける人々と同じ宗派でなければならないでありますか」
「もちろん、そうでなきゃミサは無効だよ」
「それじゃ、従軍牧師殿、大変な|しくじり《ヽヽヽヽ》をやらかしたであります。私はどの宗派にも関係がないのであります。また|へま《ヽヽ》をやらかしたであります」
従軍牧師は、穴のあくほどシュベイクの顔を見つめた、そしてしばらく黙っていたが、彼の肩をたたきながら言った――「ミサ酒の残りを飲んじまえ、そしてまた教会の門をくぐるようになったんだと、自分で思っときゃいいさ」
十二 宗教上の論争
その後シュベイクは、しばらくの間、ずっと家にとじこもって留守番をしていた。従軍牧師カッツは、勤務と飲酒にいそがしくて、めったに家へはかえらなかった。たまにかえれば、きっと屋上を散歩する交尾期の牡猫のように、よごれてきたなかった。
ある晩のこと、その日戦線におもむく工兵大隊の従軍ミサをおえて、カッツとシュベイクが丁度家にかえっていたところへ、一人の従軍牧師がたずねて来た。この従軍牧師は、なにかの間違いから、その日のミサをオットー・カッツと二人で挙行するように命ぜられていたのを、カッツから断られたのであった――非常にこりかたまった信心家で、こんなのといっしょにやったんでは堪ったものではない、とカッツが考えて、敬遠したわけである。
この従軍牧師は、少しびっこをひいていた。彼が、前に問答示教師をやっていた頃、生徒の一人が三位一体をうたぐったという理由で、その生徒の横面をはりとばしたことがある。憤慨したその生徒の父は、仕返しとして彼をひどい目にあわせたその結果が、すなわち彼のびっことなったのである。
「どうもおかしいですな、貴方のお宅にはイエス様の十字架にかかられた像がないようですが。一体貴方はどこで祈祷書をお読みになるのです? 貴方のお部屋の壁には、聖者の像がただの一枚もかかっていませんな? あの寝台の上にかかってるは何です?」
カッツは笑った――
「あれですか。あれは『ゆあみするスザンナ』で、そのしたの裸体の女は私の古馴染なんです。その右にあるのは、日本の浮世絵で、ゲイシャとサムライとの間の性的行動を表現したものです。祈祷書は台所においてありますよ。おいシュベイク、あの本を持ってきて第三頁をあけてくれ」
シュベイクは台所へいった。つづけざまに三度葡萄酒の栓をぬく音が聞えてきた。
「これは薄口のミサ用の葡萄酒ですよ、君」と、カッツが言った。「リースリングという上等の種類です。ちょっとモーゼルのような味がしますよ」
「私は飲みません」と、その信心深い牧師は固く辞退するのであった。「私は貴方の良心に訴えようと思って参上したのです」
「喉がかわきますよ、まあ一杯やりたまえ、それからご意見を拝聴としよう。僕はいたって円満な人間で、他人の意見だからとて退けるようなことはしませんからな」
信心深い牧師は勧めらるるままに、一口二口飲んだが、それだけで、もう彼の眼は、少しどろんとしてきた。なにか言いたそうだが、言えないらしかった。頭がぐらぐらしているらしい。
「君、ちょっと」とカッツは言った。「頭をあげたまえよ、そんなに悲しそうな恰好は止したまえよ、もうじき絞首台にのせられるという人間みたいじゃないか。僕はこんな話を聞いたぜ、君が、肉食法度の金曜日に、どこかの料理屋でトンカツを食ったんだってね、食ってしまったあとで木曜日と取違えていたことに気付いた君はあわてて便所へ駆けこみ、指を喉に突込んで食ったものを吐きだしたってえじゃねえか。おい、もう一杯やれよ、そうそう、どうだい、気持がよくなったろう?」
信心深い牧師は、やっと気持を取り直すや、ささやくような声で言った――「宗教なるものは、合理的な熟慮であります。そもそも神聖なる三位一体の存在を信ぜざるものは……」
「シュベイク!」と、カッツは彼の言葉をさえぎった。
「従軍牧師殿にコニャックをもう一杯|注《つ》いであげろ、頭の工合がお悪いようだから」
信心深い牧師は眼の玉がぐるぐるまわるような気がした、そしてもう一杯コニャックを飲んでようやく気がしずまった。彼は、眼をしばたきながら、カッツにきいた――「貴方は処女マリアのけがれざる受胎を信じようとはなさらないのですな、またピアリスト派のもとに保存されているバプテスマのヨハネの拇指《おやゆび》の本物であるということを。いったい貴方は神を信じていますか? そうでないとすれば、どうして貴方は牧師などになっているのです?」
「なあに、君」と、カッツは彼の肩をたたきながら答えた。「パンのためさ。戦場へ死にゆく兵士に神の祝福を与えてりゃ、国家から充分な給料がもらえるんだもの。楽な職業だよ。存在してもいない者の代理をつとめて、神の役割さえやるのだ。たとえひざまずいて願っても、俺が嫌なら金輪際そいつの罪は赦してやらねえ。もっともそんな|しおらしい《ヽヽヽヽヽ》奴はまずいないがね」
「私は神様が好きで好きで」と、信心深い牧師は、とうとうすすり泣きをはじめながら言った。「好きで堪らんのです。どうか葡萄酒を少し下さいな」
元気づいた彼は、瓶ががちゃりと音を立てたほど、拳でテーブルをたたいた――「神はなにか崇高なものです、なにかこの世のほかのものです。これは誰がなんと言おうとも、私は信じて疑いません。それから私は聖ヨセフも好きです。聖者といえば誰でも、聖セラピオンにいたるまで好きです。しかしセラピオンという名前は嫌な名前ですな」
「改名願いを出せばいいに」と、シュベイクが脇から口を入れた。
「聖ルウジラも好きです、聖ベルンハルトも好きです」と、以前の問答示教師はしゃべりつづけた。「聖ベルンハルトは、聖地ゴットハルトで多くの巡礼を救けました。首にコニャックの瓶をぶらさげて雪の中に悩む人々を探したのであります」
この辺から、彼の話は、次第に方向転換を始めた。そしてとり止めもないことをしゃべるのであった――「私あ無邪気な子供が好きです、あの子達の金曜日は十二月二十八日です。ヘロデスは嫌いです――牝鶏が眠ると、新しい卵が食べられません」
出しぬけに、彼は大きな声で笑いだした、そして歌いだすのであった――「聖なる神よ、聖なる、強き」
かと思うと、また急に中止して、カッツに向い、立ちあがりながら鋭くきくのであった――「八月の十五日は、『聖母マリア昇天』の金曜日だということを、貴方は知らないでしょう?」
話はどんどん進行し、盛んに酒の瓶が取りかえられた、そしてときどきカッツが言った――「やい、白状しろ、貴様は神を信じないだろう、白状しないと、酒をついでやらないぞ」
初期キリスト教徒迫害の時代が再来したか、と思われた。もと問答示教師をやっていたこの従軍牧師はローマの闘技場における殉教者の唄を歌った、そしてほえたてるのであった――「私あ神を信じます、私あ神にそむきません。貴方が酒をつがないと言うならよろしい、要りません。自分で取りよせて飲みます」
結局、彼は寝床にかつぎこまれた。眠りこむ前に、彼は右手をあげて誓いを立てながら言った――「私は父なる神を信じます、神の子キリストを信じます、聖なる魂を信じます。祈祷書を持って来て下さい」
シュベイクは、寝台のかたわらの机の上にあった本を彼の手に持たせてやった。信心深い従軍牧師は、ボッカチオの「デカメロン」を手に持ったまま、すやすやと眠るのであった。
十三 シュベイク引導を渡す
従軍牧師オットー・カッツは、兵営からよこした廻状を前において、ひどく憂鬱そうな顔付をしていた。彼はもう一度読みかえしてみた。が、やっぱり、明朝カール広場の陸軍病院へ行って重傷者に引導を与うべし〔カトリック教では信者が死にひんした場合、最後の聖餐をさずけ、塗油式をあげる〕と記されてあった。
「なあシュベイク、何て馬鹿げたことだ。プラハには俺ひとりきゃ従軍牧師がいねえってわけでもあるめえに、なぜ、あのこないだここへ泊った牧師にやらさねえんだろう? この俺にカール広場へいって引導を渡せだとよ。最後の塗油式のやりかたなんて、俺あすっかり忘れちゃってらあね」
「それじゃぜひ問答示教書を一冊買ってこなくちゃならんであります、従軍牧師殿、その中に出ていましょう。問答示教書ってやつは、坊主の便覧といったものですからな」
シュベイクの買ってきた問答示教書をくりひろげながら、従軍牧師が言った。
「あった、あった。最後の塗油式は牧師のみこれを行うことを得《う》、而《しこう》して僧正によりて祓《はら》い清められたる油に限り使用すべし、だとさ。解ったか、シュベイク。お前じゃ引導を渡すことはできねえんだぞ。そこで、その僧正により祓い清められたる油が要るんだ。ここに十クローネあるから一瓶買ってきてくれ。陸軍の経理部にゃそんな油はなかろう」
シュベイクは、僧正によりて祓い清められたる油を探しにでかけた。が、それは、秦の始皇帝の命を受けた徐福《じょふく》が不老不死の薬を求めるよりも、もっとやっかいな仕事であった。
彼は荒物屋を虱つぶしに探した、そして「すみませんが、僧正の祓い清めた油を一瓶下さい」と言うや否や、ある店ではどっと噴きだし、ある店では、そこにいた人々が吃驚して店台の蔭に頭をひっこめてしまうのであった。それでもシュベイクは、いたって真面目な態度であった。
そこで彼は、薬屋を尋ねてその幸運をつかもうと決心した。最初はいっていった薬屋では、薬局の助手が彼を表へ突きだした。次の薬屋では、非常救護所に電話をかけた。三軒目の薬屋で、やっと油はランゲン小路のポーラク商店にきっとありましょう、と教えてくれた。
このポーラク商店という油屋は、全く抜け目のない店であった。どんなむずかしい種類の油を買いにいっても、手ぶらで帰らせるということはなかった。客はいい加減なものをつかまされるんだが、結局それでいて、殊にそんなむずかしいものに限って、苦情なしに通るのであった。
そこヘシュベイクがいって、十クローネで僧正の祓い清めた油を下さい、と言うと、番頭はすぐさま小僧に伝えた――「おい、これ、お客様に胡麻油の三号を百グラム差し上げな」
小僧は瓶を紙につつみながら、いかにも商人らしく言った――「これは飛切り上等の品でございます、手前どもでは、油のほかに、刷毛《はけ》、ラック、ワニスその他色々取り揃えてございますから、ご用の節は是非どうぞご用命を願います。精々ご勉強申し上げます」
ポーラク商店から帰ってきたシュベイクは胡麻油の瓶を従軍牧師の前にさしだしながら、意気揚々と言った――「さあ油がととのいましたであります。胡麻油三号飛切り上等の品、これだけあれば、一個大隊全体に塗りつけてやることができるであります」
「俺はちょっとカフェへいってくるからな、シュベイク、もし誰か見えたら、待たしといてくれ」
半時間ばかりの後、棒のように真直な姿勢をした眼のぎろぎろと光る白髪まじりの紳士がたずねてきた。
彼の言葉は、鋭く、ぶっきら棒で、きびしかった――
「家かね? なに、カフェへ行ったって? 俺に待っておれと? よし、明日の朝まででも待ってやろう。カフェへ行く金はあっても借金を払う金はない。それでも牧師か、畜生!」
そう言って、彼は台所の中で、べっと唾をはいた。
「こんな所でそうやたらに唾をはいて貰いますまい!」と、その見なれない紳士を興味深そうに眺めていたシュベイクが言った。
「もういっぺんはいてやるわい、見ろよ、それ」と、そのいかめしい顔付をした紳士は、片意地になって、また床のうえに唾をはいた。
「少しは恥を知るがよい。これでも軍隊の僧侶だと言うのか、不面目きわまる!」
「貴方が教育のある方なら」と、シュベイクは注意を与えた。「他所《よそ》の家の中で唾をはくのは止したがいいでしょう。それとも貴方は、今は戦争中だからどんなことやってもさしつかえないとでも、お思いですかい? いますこし言葉と態度をつつしみなさるがよい、まるで悪たれ小僧みたいじゃないか!」
いかめしい顔付の紳士は、激昂のあまり身体をぶるぶる震わせながらどなった――「この俺が教育のない人間なら、それがどうしたというんだ、俺は何じゃ、さあ言って見ろ――」
「土百姓《どびゃくしょう》だよ。あたりかまわず唾をはくんだもの。床のうえに唾すべからず、という貼り紙が方々にしてあるが、何のためにそんな必要があるのか、俺あ常々不思議に思ってたんだ――ところが今やっと解ったよ、ありゃお前さんのためにわざわざ貼ってあるんだ、お前さんはどこへいってもよほど顔が知られていると見えるね」
いかめしい顔付の紳士は、顔の色をかえて、シュベイク及び従軍牧師に対するありったけの悪口を一生懸命にならべたてた。
「それで全部かね」と、にくらしいほど落ち着いて、シュベイクが言った。「それとも、なにかもっと付け加えるつもりかい、階段のしたまで蹴飛ばされないうちに」
相手が返答しないのを見て、シュベイクは、戸を開き、そのいかめしい顔付の紳士を往来の方に向け、国際選手権出場資格を持っているサッカー・チームの最も優れた選手でさえ驚くほどの一蹴りを、この紳士のお尻にくらわした。
「上品な方を訪問するときは、上品な振舞いをするものだ、以後気をつけろ」いかめしい顔付の紳士は、窓のしたを長く往来して従軍牧師の帰りを待った。シュベイクは窓をあけて、彼を眺めていた。
やっと従軍牧師が帰ってきた。彼は客を連れて家にはいり、向いあって坐った。
シュベイクは何とも言わずに、たん壼を持ってきて客の前に置くのであった。
「お前はなんということをするんだ、シュベイク」
「申し上げます、従軍牧師殿、ここにお見えの方が、床のうえに唾をはいた件で、お留守中すでに少々不愉快なことがあったのであります」
「お前はあっちへさがっとれ」
シュベイクは挙手の敬礼をした。
「申し上げます、従軍牧師殿、私はさがっとるであります」
彼は台所へいった、その間に客間では面白い会話が始まった。
「貴方は、たしか、約手の金を取り立てにいらっしたんでしょうな? ところが私は百クローネしか持っていないのに、貴方は額面通り千クローネを受取れるものとお思いで」
「それじゃ貴方は――」と、客はどもりながら言った。
「そうです、ですから私は」と従軍牧師は答えた。
客の顔は、またもや物凄いものとなった。
「貴方そりゃ詐欺というものです」と、彼は立ちあがりながら言った。
「そう恐らないで、落ち着いて下さい」
「そりゃ詐欺というものです!」と客はなかなか聴き入れないでどなった。「貴方は私の信用を悪用したのです」
「もし、貴方、場所をおかえなすったらいかがです、ここの空気は蒸せていますからな」
「シュベイク!」と、台所の彼を呼んだ。「お客様は外の清々《すがすが》しい空気を吸いたいとおっしゃってるよ」
「申し上げます、従軍牧師殿」と台所から返事が響いてきた。「私はもう先程この方を放り出したであります」
「繰り返せ!」と、命令が下った。そしてこの命令は、すぐさま敏捷果敢に遂行された。
「よかったですな」と、玄関からもどって来たシュベイクが言った。「騒ぎが大きくならないうちに片づけることができました」
「牧師を尊敬しない奴は、みんなひどい目にあうのさ」と、従軍牧師は言って、気持よさそうに笑った。「あの言葉の美しい聖ヨハネが言っとる――『牧師を敬まう者は、即ちキリストを敬まうなり、牧師に謙譲なる者は、即ちイエス・キリストに謙譲なる者なり』――さあ、明日はひと仕事だから、今晩はうんとご馳走をこしらえてくれ」
広い世の中には、不撓不屈の人間があるものだ。従軍牧師の家からすでに二度も放りだされた人などは、この部類に属する。ちょうど夕飯がしまおうとしたとき、呼鈴を鳴らす者があった。戸を開けにいったシュベイクは、しばらくして帰ってきて告げた――「またやって来ましたよ。湯殿へ押しこめて置きました、ゆっくり夕飯をいただきたいですからなあ」
「そりゃいかん、シュベイク。お客様は神様、という諺がある。こちらへお通ししろ、食事中の話し相手になってもらおう」
シュベイクは、この憂鬱な眼付をした不撓不屈の人間をつれてきた。
「まあお掛けなさい」と、従軍牧師は親切に言った。「もうすぐ夕飯をしまうところです。羊肉と鮭を食べたところで、これからオムレツです。金を貸してくれる人さえありゃ、私どもは結構な身分なんですがなあ」
「私は冗談にここへ来たんじゃないんですがね」と、憂鬱な紳士は言った。「私は今日ここへもう三度も来ているんです。すっかり片づけていただきたいものです」
「どうぞご遠慮なしに話してください、ご満足のいくまでお話しください、私どもは食事を続けますからね。食事をしてたってお話の邪魔にはならないと思いますが。おいシュベイク、運んでこいよ」
「ご承知の通り、今は戦争中です。あの金は戦前にお貸し申したもので、戦争でさえなけりゃ私だってそうせきたてるのじゃありませんが、私には苦い経験がいくつもありましてなあ」
そう言って、彼はポケットから手帳を取りだし、また言葉をつづけた――「ヤナータ中尉は、私から七百クローネを借りたまま戦死。露軍の捕虜となっているプラーシェク少尉は、二千クローネ私から借りています。やっぱり二千クローネ私から借りていたウィヒテルレ大尉は、部下の兵士から殺されました。セルビアで捕虜になったマーシェク中尉が千五百クローネ。その他、まだ沢山あるんです。猛烈に頑固にやっていかないと、私は今に破産してしまやしないかと心配しているんですが、ご推察くださるでしょうな。貴方は戦線にいらっしゃるわけでないから、危険はない、とおっしゃられるかも知れませんが、これをご覧下さい」
彼は、そう言いながら、手帳を従軍牧師の鼻のさきに突きつけた――「ブリュン市の従軍牧師マチアスですが、私から千八百クローネも借金があるのにコレラで死にかかっている人間に引導を渡しにいって、それが伝染して、この一週間ほど前に死んだんです」
「でも、その人の義務だったんですからね」と従軍牧師は言った。「私も明日引導を渡しに行くんです」
「しかも同じようにコレラ病室へでさあ」とシュベイクが註をいれた。「自分を犠牲に供するとはどんなものか、いっしょに出かけてご覧になったらどうです?」
「従軍牧師さん」と、不撓不屈が言った。 「ご覧の通り、私は実に困っているんです。私の債務者を残らずあの世へやるための戦争をしているんでしょうか?」
「貴方を徴集して、戦場へひっぱりだすまで、戦争は止まないでしょうな」とシュベイクはふたたび註を入れた。「そうなりゃ、わっしどもはミサを挙げて、最初の榴弾が貴方を八つざきにするようにと神様に祈ってあげますぜ」
「もし、貴方、これは真面目な話なんですよ」と、不撓不屈が従軍牧師に向って言った。「早く話を片づけたいと思いますから、貴方の召使いがこの事件に喙《くちばし》をいれないようにしてもらいたいですな」
「すみませんが、従軍牧師殿、貴方の事件に喙をいれちゃいかん、と本当に貴方からご命令なさるならばともかく、でなきゃ、私は貴方の利益をまもりますよ。それは兵卒として当然なすべきことですからな」
「シュベイク、俺あもうあきあきしてきたよ」と、従軍牧師は、客のいるのをまるでかまわないかのように、言った。「この人はなにか逸話のようなものでも話して俺らを愉快に楽ませてくれるものと思ってたんだ。明日は重大な、神聖なお勤めがあるという今晩だ、斎戒沐浴しようと思ってるのに、千二百クローネぽっちのはしたがねのことで耳のけがれるようなくだらぬことばかりしゃべっている。おいシュベイク、お前からその人に言ってやれ――『従軍牧師殿は一文も支払わない』って」シュベイクは、その通りを客の耳にどなりこんで、主人の命令をはたした。
だが、不撓不屈の人間は、泰然と坐りつづけた。
「払ってもらえない間は、一歩たりともここを動きませんぞ」と、不撓不屈は頑強に言いはなった。
従軍牧師はたちあがった、そして窓のところへいって言った――「シュベイク、この場はお前にあずけるよ。お前の好きなように始末してくれ」
「さあ来給え」と、シュベイクは、このこのましからぬ客の肩を掴みながら言った。「三度目の正直ってやつを見せてしんぜよう」
かくて彼はその役目を物の見事にやってのけた。従軍牧師は窓をたたいて葬送行進曲を奏した。
翌朝、従軍牧師オットー・カッツとその従卒シュベイクが、カール広場の病院へでかけて見ると、最後の塗油式をも受けずに、二人の重病人は、その前夜すでに息を引きとっていた。よぼよぼの少佐と銀行の支配人をやっていた予備少尉であったが、毒ガスにやられたと見えて、死顔が真黒になっていて眼もあてられなかった。
従軍牧師は事務室へいって、油代および車代の勘定を交渉した。百五〇クローネ支払ってもらいたいと請求した。
そこで病院長と彼の間に激しい論争がおきた。従軍牧師は何度もテーブルを拳でたたきながら主張した――「引導はタダで渡せるとでも思うのですかい? 竜騎兵の将校が、馬を種馬所に連れてゆくよう命ぜられた場合でも、日当がもらえるじゃありませんか。あの二人が最後の塗油式を受けずに死んだのは、私としては実に残念です。引導を渡せたら、もう五十クローネも余計にもらえたんですからな」
シュベイクは、僧正の祓い清めた神聖なる油の瓶を捧げ持ったまま、門衛室で待っていた。
この油の瓶は、よほど兵士たちの興味をひいたらしい。銃や剣を磨くのに良かろうな、と言うものもあった。今でも神を信じている田舎出の若い兵士は言った――「そんな勿体ねえこと言うもんじゃねえぞ。俺らキリスト教徒らしく信心せにゃいけねえだ」
年配の予備兵は、この青二才をみながら言った――「へっ、有難え信心だ、榴霰弾が飛んできて手前の頭を砕いてもれぇてえってな。俺らうまくだまされてるんだぞ。いつだったか何とかいうカトリック中央党の代議士が俺らの隊へやってきたことがある。この世に行きわたる神の平和って演題で、いかに神様が戦争をお嫌いであって、俺らがみんな平和に暮らし兄弟のように睦《むつま》じくすることを望んでいられるか、と話してくれたもんだ。ところがどうだ、今度の戦争がおっぱじまってからというものは、どこの教会へいっても、戦争の勝利のために祈ってるじゃねえか、そして神様は、戦争を指図している参謀総長と同じものになってしまっとるじゃねえか。ここの陸軍病院からも、ずいぶんお葬式が出たのを俺あ見とる。また切りとられた脚や腕がここから車に積みこまれて運びだされるのもな」
「それから兵士は裸のまま埋められるんだぞ」と、別の兵士が言った。「そいつの着てた軍服は、また他の生きた兵士が着るんだ、そいつが斃れるとまた別なのがその軍服を着るって工合にな」
先程の若い兵士は、深い吐息をもらした。俺の命も短いものだ、なぜこんな馬鹿げた時世に生まれあわせたものだろう、屠殺場に引かれてゆく牛と同じじゃないか。一体どうしてこんなことになるんだろう?
小学校の先生である一人の兵士が、この若い兵士の心の中を読んだかのように、言った――「学者の中には、戦争は太陽の黒点の結果としておこる現象だ、といった者がある。黒点が現れるや否や、必ず何か怖しいことがおこる。カルタゴ征服は……」
「そんな学問は止せやい」と、隅っこの方から伍長が言った。「部屋に帰った方がいいぜ、今日はお前の当番じゃねえか。その太陽の上の黒点とか何とかいうものが、俺らに何のかかわりがあるんだ? 二十あったって三十あったっていいや、俺あ一つも買わねえんだから」
「太陽の黒点ってやつは、まったく大きな意味があるんだぜ」とシュベイクが喙《くちばし》をいれた。「以前そんな黒点の現れたことがある、ちょうどその日に俺あヌースレの『バンツェート』でひどく引っぱたかれたもんだ。それからというものは、家を出る前にかならず新聞をのぞいて、太陽の黒点が現れやしないかな、と探すことにしとる。もし現れでもしようものなら、南無阿弥陀仏、どこへも出かけないんだ。お蔭で今まで無事に生きとるってわけさ」
一方、従軍牧師は、事務室で「兵士宗教教育婦人協会」の貴婦人につかまって、愚にもつかぬおしゃべりを聴かされていた。この協会は「愛国婦人会」などと一つ穴のむじなで、その会員というのは大抵いい年をした、見ただけでも胸の悪くなるような|しろもの《ヽヽヽヽ》だった。朝から晩まで陸軍病院のなかをうろつきまわって、傷病兵に聖像をわけあたえるのである。もらった傷病兵は、もちろんそれを糞壺の中に投げこんだ。
この貴婦人連は偉大なる抱負を持っていた。神の限りなき御意によって、兵士の傷病をいやし、ふたたび戦線へ出られるようにするか、でなければ、すなわち兵士が傷病でたおれても永遠の平和をあたえよう、というのだ。しかるに、何という恩知らずの兵士たちであろう。彼らは彼女たちが来ると舌をだし、聞えよがしに、案山子だの天国の山羊だのと悪たれるのであった。
「何という怖しいことでございましょう、従軍牧師さま、国民の性根《しょうね》は腐っているんでございますのよ」
「おい、シュベイク帰ろうぜ!」と、おしゃべり女の話にしびれをきらした従軍牧師は、門衛室に向ってどなった。
帰り途、従軍牧師はシュベイクに言った――「金輪際あんな所へ引導を渡しにいくものか。あの世で迷児になっちゃいけないと思い救済してやろうという魂を、あすこじゃ金ではかりやがる。主計将校がうようよするほどいるんだ、畜生みたいな奴らが」
シュベイクが、まだ「祓い清められた」油の瓶を持っているのを見たとき、彼は顔を曇らせた――「そいつを俺とお前の長靴に塗るのが一番よかろう」
「錠前にも塗っとこうと思ってるであります」とシュベイクはつけくわえた。「貴方が夜遅くお帰りになるとき、いやにギーギー鳴りやがるからであります」
十四 シュベイク身売りさる
その一
シュベイクの幸福も、そう長くは続かなかった。無情なる運命は、彼と従軍牧師との仲のよい関係を引き裂くこととなったのである。もしこのときまでこの従軍牧師が話せる人間だったとすれば、今度彼のやったことはその話せる仮面をはぎとったことになる。
従軍牧師オットー・カッツは、シュベイクをルーカッシュ中尉に身売りしてしまったのだ、あるいは、カードで彼を負けてしまった、と言った方がいいかも知れない。昔のロシアでは、こういう工合にして奴隷を売ったものだ。
ルーカッシュ中尉の宅で「二十一」をやっていた従軍牧師は、ありったけの持ち金をすってしまった揚げ句、こう言ったのである――「俺の従卒にいくら貸してくれる? 偉大なる馬鹿で、その上に興味津々たる恰好ときている、まあ超特製ってほうだな。こんな従卒はどこを探したってありゃしないぜ」
「百クローネ貸そう。明後日までに返済できなかったら、その珍種を俺んとこへ寄こしてくれ。俺あ今いる従卒を持てあましとるんじゃ。朝から晩まで溜息ばかりついてやがって、自分の家へ手紙ばかり書いてる、そして手当り次第に物をぬすむんだ。随分ぶんなぐってやったがいっこう利き目がない。前歯が二三本折れたほどなんだが、それでも改心しねえんだ」
「じゃ話は決まった」と従軍牧師は軽卒にも言ってしまった。「明後日百クローネを返すかシュベイクを渡すかだ」
この百クローネも負けてしまった彼は、すごすごと家へ帰るのであった。明後日までに百クローネをつくる目当てのなかった彼は、さすがに感傷的な気持にならざるを得なかった――どうしてあの間の抜けたお人よしな眼を見ることができようか? まったく合わす顔がないというものだ。
「なあシュベイク」と、家にもどった彼は言った。「今日は大変なことがもちあがったんだよ。カードをやったんだがね、おそろしく運がむかないで……あっさり言や、持ち金をすっかり失くしちまったのさ」
そこまでいった彼は、しばらく黙った――「そればかりか、おしまいにはお前まで失くしちまったんだ。つまりお前を抵当に百クローネ借りたんだ、その金を明後日までに返さないとお前はもう俺のものじゃなくて、ルーカッシュ中尉のものとなる。まことに申し訳ない次第だが………」
「ちょうど百クローネ持っていますが」と、シュベイクは言った。「貴方にお貸ししましょう」
「じゃ、そうしてもらおう」と、従軍牧師はやっと人心地になった。「早速ルーカッシュのところへ持っていこう。本当にお前とは別れたかないんだから」
従軍牧師がまた顔を出したのを見て、ルーカッシュはひどく驚いた。
「借金を返しに来たよ」と従軍牧師は、勝利の確信にみちて四辺《あたり》を見まわした。「一つ仲間に入れてもらおう」
よくよく運がなかったと見えて、従軍牧師は、シュベイクから出た身代金の百クローネをも|すって《ヽヽヽ》しまった。
「どうしても駄目だ、シュベイク」と、彼は家に帰ると入口へ迎えにでたシュベイクに言った。「全力をつくしたんだが、運命は俺より強かった。お前とお前から借りた百クローネをお添え物として負けてしまったよ。いよいよお前とも別れなくちゃならないんだ」
「悪い札の出るときは、とめどの無いもので」と、シュベイクは、自分の身売りされたことを怒りも悲しみもしないといった風に、平気で言った。「しかし余り札の善すぎるのも、考えものでしてな。こんなことがありましたっけ……」と、彼は偶然なことからカードで莫大な金を儲けて嬉しさの余り発狂したという男の話を、長々と語り出した。
「博奕《ばくち》の運なんて、そんなものでさ」と、彼は長い物語をむすんだ。それから彼はグロッグ酒を作りその夜おそくまで二人で飲んだ。寝台に担ぎこまれた従軍牧師は、ボロボロと涙を流して泣いた。
「僕あ君を売ったんだ、どうか打つなり蹴るなり君の思う存分にしてくれ、僕あ黙って受けるよ。あんな畜生に君を渡してしまったんだ。俺という人間はいったい何だ?」
そして泣きはらした顔を枕のなかにうずめながら、低い声で言った――「性格のない下劣漢さ」そう言ったかと思うと、まるで水のなかに投げこまれたように、ねいってしまった。
翌朝、従軍牧師は、例に似ず早起きして、シュベイクから見られるのを恥しそうに、家を出た。そして夜おそく、一人の肥った歩兵を連れて帰ってきた。
「教えてやってくれないか、シュベイク」と、彼はシュベイクの視線を避けながら言った。「この男に家のなかの様子を、それからグロッグ酒の作り方をね。明朝はルーカッシュ中尉の所へいっておくれよ」
その夜、シュベイクとその後継人とは、グロッグ酒を作って愉快にすごした。明け方になると、この肥った歩兵は、腰をとられてしまって、いろんな国の国歌をでたらめに寄せ集めて、うなるように独りで歌っていた。
「それで俺も安心したよ」と、シュベイクが言った。
「それだけの腕がありゃ、この従軍牧師のところでも勤まるというものじゃ」
かくて、その日の午前、ルーカッシュ中尉は、勇敢なる兵士シュベイクのお人よしな正直な顔を見ることができたのである。そのときのシュベイクの言葉が面白い――
「申し上げます、中尉殿、私がシュベイクであります、従軍牧師殿がカードで負けてしまったそのシュベイクであります」
その二
そもそも従卒の制度なるものは、随分と古い昔からあるものだ。マケドニアのアレクサンドロス大王がすでに従卒を持っていたらしい。しかし、封建制時代に騎士の雇い兵が従卒の役割をやったということは、たしかである。ドンキホーテのサンチョパンザはいかん? 従卒史がいまだ著されていないとは、不思議なことである。アルマヴィラ大侯は、トレド籠城の際に自分の従卒を塩も付けずに食ったということを、回想のなかに自ら書いているが、もし従卒史があれば、この間の消息はもっとあきらかになるであろうに。
シュワーベンの古い兵法書のなかに、従卒に関することがちょっと出ている。古代の従卒は、敬虔で道徳的で、真理を愛し、謙遜で、勇猛果敢で、正直で、勤勉であったらしい。一言で言えば、人間の模範だったのだ。しかるに近代の従卒ときたら、嘘をつく、怠けるというのが通例で、古代のとはまるで反対だ。自分の主人の生活を苦しいものとせんがため、ありとあらゆる奸計を案出する狡猾な奴隷である。
一九一二年のことだが、グラーツにこんな裁判があった。ある大尉がその従卒を虐待し、ついに足蹴にして殺したという事件である。この大尉がこんな事をやったのはやっと二度目だからというわけで、そのときは無罪となった。こんな方々の眼で見ると、従卒の命なんか三文の値打ちもないのだ。従卒などは一個の物に過ぎない。大抵の場合、拳固の稽古台であり、奴隷であり、何でも言いつける下女である。こういう奴隷のような境遇にある以上、彼ら従卒が狡《ずる》くなり横着になるのも、あながち不思議ではあるまい。
しかし従卒だって苛《いじ》められてばかりいるのではない。中にはお気にいりとなっているものもある。そんなのがいると、その隊中が戦々兢々たる有様だ。誰も彼も、この従卒に袖の下をつかおうと努める。休暇をもらうのも進級も、彼の手心ひとつなんだから。
戦争となると、従卒はますます増長する。たとえば彼は絶えず野戦炊事場に出入りし、まるで料理屋にはいって献立表を前においたときのように、色んな命令をする。
「ロースが欲しい」と、彼は炊事卒に言う。「昨日はオックス・テイルだったな。それから――と、スープの中へ肝臓を一片いれてくれ。俺あ脾臓がきらいだってことぁ貴様知っとるだろ」
しかし、もっとも素晴しいのは、恐慌に際した彼の狼狽加減である。陣地の砲撃となると、彼はどきもを抜かしてしまう。砲撃のつづいている間、彼は自分及び主人の荷物をかかえて一番安全な援護の下にはいり、榴弾に見つからないようにと頭を毛布の中に突っこむ。そして、自分の主人がどうぞ負傷するようにと念ずるほかに何の願望もない、主人が負傷すればいっしょにずっと後方の兵站《へいたん》、または内地へ行けるからだ。
また彼ほど退却の好きなのもいない。いざ退却となると、たとえ頭の上で榴霰弾がはじけていようが、もう夢中だ、荷物をかかえて列車の停っている司令部まで突っぱしる。そこから列車に乗れない場合は、病人運搬車を利用する。だがそれも手にはいらないで徒歩で行かねばならぬときは、まったく魂の抜けた人間だ。主人の荷物は塹濠のなかに投げこみ、自分のものだけ持ってゆく。
将校が巧く逃れて、従卒だけが捕虜となるような場合、彼は主人の荷物もいっしょに持って捕虜となることを決して忘れない。もちろん、それが自分のものとなるからである。
私は捕虜となった一人の従卒を見たことがある。彼は他の連中と一緒に四月からずっとキエフ市の向うにあるダルニクまで|てく《ヽヽ》った。この男は、自分の背嚢および捕虜をまぬがれた主人の背嚢のほかに、いろんな大きさの手提げ鞄を五つ、毛布二枚、座蒲団一枚を持ち、さらに何かの包みを一つ頭の上にゆわえつけていた。それでもまだ、コサック人に鞄を二個ぬすまれたんだと言って不平をならべた。
こんな大変な荷物を引きずってウクライナ中を歩いたこの人間を、私はどうしても忘れることができないであろう。彼はまさに生きた運送車だった、どうしてあの長《なが》の道中を歩けたものか、私には説明がつかない。この男は、結局、タシュケントの捕虜収容所でパラチブスにかかり、自分の荷物の上で息をひきとった。
今日では、従卒たちは、わが共和国中に散らばって、自分の功名談に花を咲かせている。ゾーカル、ドウブノ、ニッシュ、ピアーヴェを自分ひとりで奪取したかのように言っている。奴らは誰一人としてナポレオンのような英雄でないものはない。
奴らは、たいてい、反動主義者で、隊中の憎まれ者であった。密告するのも多くは奴らで、他人が縛られているのを見物するのが奴らにとっては特別な喜びだったのだ。
その三
ルーカッシュ中尉は、要するに模範的な将校であった。上官をおそれず、部下をいたわること厚かった。演習のときなど、露天に寝かさないで穀倉に泊らし、また自分の僅かな給料からビールを買って飲ますという風だった。
彼は部下をどなりつけた、これは争えない事実である。けれども罵《ののし》るというようなことはなかった。「いいかね、俺は君を罰するのは実にいやなんだ」と、いったような調子であった。「だが俺にはどうも他に手段がない。軍隊の活動および勇敢は、一に規律によって存するのだから、規律のない軍隊は風に揺れている葦のようなものだ。上衣のボタンが一つ落ちていたくらいで罰せられるということょは、君には理解できないかもしれない、きわめて些細なことだから。そうだ、きわめて些細なことに違いない。しかしだ、問題は一個のボタンじゃなくて規律に慣れねばならないという点にある。今日君がそのボタンを縫いつけないで、怠けたとする、明日になれば銃の分解や掃除すら面倒になるであろう、明後日はどこかの酒屋へ剣を置き忘れてくる、そしてとどのつまり歩哨に立ちながら居眠りをするようになる。それも元も質《ただ》せばたった一つのボタンを縫いつけなかったというだけだ。だから俺がいま君を罰するのは、もっと大きい罰を防がんがためである。君に五日間の禁足を申し渡すが、その間パンを食い水を飲むごとに、ようく考えてみるんだぞ、罰は復讐じゃなくって、罰せられたる兵卒の改善を目的とする教育手段だということを」
彼はとうのむかし大尉になっているはずなんだが、上官に対してすこしもおべっかをつかわず正直に公然たる態度を採ったがため、かえって『万年』中尉となっているのである。
彼は部下に対しては厳格であると同時に思いやりもあったが、従卒に対してはまるで別人かと思われるほどであった。彼は従卒を親の仇《かたき》のように憎悪した。なぜか、理由は簡単であった――どうした星のめぐりあわせか、いまだかつて人間らしい従卒を持ったことがなかったのだ。来る奴も来る奴も、ひどいろくでなしばかりだった。彼はあらゆる手段――もちろん、撲りもし蹴りもした――に訴えて、彼らを教育しようと試みたが、すべては無駄であった。かくて彼は、従卒というものは全生物のうち最も下等なる種類である、と見なすにいたった。
このルーカッシュ中尉は、非常に動物が好きだった。ハルツ産のカナリヤ、アンゴラ猫、ピンシャー〔愛玩用の猟犬〕などを飼っていた。今までいた従卒たちは、この動物をいじめることによって、彼に復讐した。カナリヤに餌をやらないで殺してしまい、猫の片眼をつぶしてしまい、犬は打《ぶ》たれ通しだった。シュベイクの前にいた従卒のごときは、遂にこの犬をわざわざ遠方の皮剥ぎ人の所まで引っぱってゆき自腹を切って十クローネも払い、あっさりと殺さしてしまった。散歩に出たとき逃げだしたであります、と彼がルーカッシュ中尉に報告するや、その翌日彼は戦線におもむく用意をさせられた。
シュベイクを部屋に通したルーカッシュ中尉は言った――「従軍牧師カッツ殿の推薦で来てもらうことになったんだが、しっかり働いてあの方にも迷惑のかからないようにしてほしい。俺は今までに十人以上従卒を持ったが、一人として尻の暖まった奴はなかった。注意しておくが、俺は厳格だぞ、卑劣なことをやったり嘘をついたりすれば猛烈に罰する。常に本当のことを言い、俺の命令は二つ返事で遂行してもらいたい。火の中に飛びこめ、と俺が言えば、たとえ飛びこむ気がなくとも、飛びこまなくちゃならん。おい、お前はどこを見とる?」
シュベイクは、面白そうに、壁にかかっているカナリヤの籠を見ていたが、中尉の方にそのお人よしの眼をむけ、人なつこい調子で答えた――「申し上げます、中尉殿、あすこに綺麗なカナリヤがいるのであります」
中尉はきびしくどなりつけてやろうと思ったが、軍隊式に不動の姿勢をとって無邪気な顔付で自分を見つめているシュベイクを見ると、それもできなかった――「従軍牧師殿は、お前を途方もない馬鹿だと言われたが、どうもその言葉に間違いはなさそうだな」
「申し上げます、中尉殿、従軍牧師殿の言われたことはたしかに間違いなしであります。私は白痴のため現役を免ぜられたのであります。そのとき白痴のため連隊を出たのは二人あったであります、私とそれからもう一人は大尉殿であります。この大尉は――呼びすてで失礼ですが――外出しますときっと、左手の指を左の鼻の穴に、右手の指を右の穴に突っこんだであります。そして練兵となると、いつも私どもを集めて、こう言ったであります――『おい、みんな、えーっと、知っちょるか、えーっと、今日は水曜だぞ、明日は木曜じゃろうからな、えっと』」
ルーカッシュ中尉は、何と言ってよいか言葉を見いだすことができないで、ただ肩をすぼめるだけだった。
彼は、シュベイクの前を行きつ戻りつ歩いた。その度毎にシュベイクは、その強度に無邪気な顔を「かしら右!」したり「かしら左!」するのであった。中尉は、シュベイクの今言った馬鹿な大尉の話とは何の連絡もないことを、敷物を見つめながらつぶやくように言った――
「俺んとこじゃ、秩序正しくそして清潔に保ってもらわなくちゃならん。また嘘をついちゃいかん。俺は正直が好きだ、嘘を憎む、嘘をつくと容赦なく罰するんだ、解ったか?」
「申し上げます、中尉殿、解ったであります。嘘をつくほど悪いことはないであります。他人をごまかし始めると、その人間はもうおしまいであります。ビルグラムの向うの村に、マーレクとかいう先生がありまして……」と、シュベイクは、長い例を引っぱって正直の価値を述べたてるのであった。
ルーカッシュ中尉は、もうさっきから椅子に腰をおろしていたが、シュベイクの長靴を見つめながら考えた――
「おやおや、俺だって、よくこんな馬鹿げた話を聴かせていたんだぞ、話しかたが違うだけじゃないか」
だからと言って、弱みを見せるわけにはいかなかった。シュベイクの話がおわるのを待って、彼はこの家におけるシュベイクの仕事をこまごまと言いきかせた。そして家の中でおこった事は誰にも知らせちゃならんと付けくわえた。
「ここへはご婦人が訪ねてくる」と彼は説明した。「翌日俺の勤務がない場合は、泊ってゆかれることもある。そんなとき、呼鈴を鳴らしたら、寝室ヘコーヒーを持って来るんだぞ、解ったか」
「申し上げます、解ったであります。だけど、中尉殿、私が出しぬけに貴方の寝室へはいってゆくと、女の方は嫌な気持をしないでしょうか。いつか私が姐さんを連れこんで寝室の中で仲よく話していた所へ、家の婆さんがコーヒーを持ってはいって来たものであります。姐さんはおったまげて、そのコーヒーを私の背中にあびせたであります。ご婦人の寝ていられる場合は、どう取りはからっていいか、ちゃんと心得ているであります」
「よろしい、シュベイク、ご婦人に対しては、普通以上の調子をとっていかなくちゃならんからのう」と、中尉はご機嫌をなおして言った。
ルーカッシュ中尉にとっては、女は、兵営とカードとの間にある暇をふさぐ必需品であった。彼には、ほとんど無数と言ってよいほど多くの女があって、入れ代り立ち代り彼を訪ねて、この家の中を飾ってゆくのであった。寝室から台所にいたるまで、この家にはいった人は誰でも、すぐ女の注意の行きとどいているのに気づくであろう。ここへ来る女は、たいてい物持ちの夫人であった。
「今日は勤務があるから出掛ける」と、彼は出しなにシュベイクに言った。「帰りは遅くなるから、万事に気をつけて、家の中をよく片づけておいてくれ」
中尉の出かけたあとシュベイクは、これ以上よく片づかないというほど家の中を片づけた、そして夜おそく中尉が帰ったとき、こう報告することができた――
「申し上げます、中尉殿、すっかり整頓したであります。ただ猫のやつが馬鹿なことをやってカナリヤを食ってしまったであります」
「ど、どうして?」と、中尉はどなりつけた。
「申し上げます、中尉殿こうであります。猫というやつはカナリヤが嫌いだということを私は知っとるであります。そこで私は、猫とカナリヤを仲直りさそう。もし猫が何かやらかすような場合には一生涯忘れない程ひっぱたいてやろう、と思ったであります、カナリヤを籠から出して猫にかがします。するとこの畜生め、私がちょっと油断した間に、カナリヤの頭を噛みきったであります。こんなひどいことをするとは思いがけなかったであります。そしてさも旨そうに羽根一枚残さず食ってしまい。嬉しそうに喉をごろごろ鳴らしたであります。私は猫をうんと叱ったであります。しかし貴方が帰るまで処分を見あわせたであります。こん畜生、どうしてくれたものでありますか」
こう話す間も、シュベイクは、その一点の邪気もない眼で中尉の顔をまっすぐに見ていたので、さすがの中尉も、最初決めていた残酷な考えを放棄せざるを得なかった、彼は椅子に腰をかけてきいた。
「シュベイク、お前本当にそれほど馬鹿なのか」――
「申し上げます、中尉殿」と、シュベイクは真面目になって言った。「そうであります!――子供のときから私は|へま《ヽヽ》ばかりやっとるであります。いつも良いことをしようと思ってやったことが、きっと自分や周囲の人の迷惑となる結果になるのであります。中尉殿、猫を殺してよいとのご命令があればドアで押しつぶすであります。猫って奴はなかなか手ごわいやつで、こうでもしなくちゃ他に仕方がないであります」
それから彼は、猫の殺し方について微細にわたり説明した。それによって動物に対する彼の専門家的知識があかるみに出たので、中尉はさっきの怒りも忘れてしまってきいた――
「お前、動物の取り扱い方を知ってるのかい? 動物が好きなのかい?」
「一番好きなのは犬であります」と、シュベイクは言った。「売ればぼろい儲けになりますからな、私は正直にやるので、当ったんです。酷《ひど》い野良犬を、血統の正しい犬だと言って売りつけるんです。と言えば変に聞えますが、そもそも世間にゃ純粋な犬なんてほとんど無いんだし、お客の方では何でもかでも純粋だと言ってもらわなくちゃ承知しないんですからな。もし犬が人間のように口が利けたにしても、『吾輩は由緒正しい畜生である』と言える奴は、まずありますまい」
中尉は、シュベイクが犬の知識を持っているのを大いに喜んだ――「俺も犬が大好きでな。お前の考えじゃ、どの種類の犬が一番いいんだ? もちろん、引っぱって歩く相手としてだがね。前にピンシャーを飼ってたんだが……」
「ピンシャーは可愛い犬ですな。監獄から出て来たばかりの男のように、口の囲りに太い鬚がもじゃもじゃ生えるところは、ちょっと人ずきがしないようですが。なかなか悧巧な奴ですよ。私の知ってる……」
ルーカッシュ中尉は、柱時計を見て、シュベイクの話をさえぎった――
「もう遅いよ。今晩はゆっくり寝とかなくちゃ、明日はまた勤務だから。お前は一日中ピンシャーを探しまわってくれ」
そう言い残して、彼は寝室へいった。シュベイクは、台所の長椅子の上に寝ころんで、中尉が兵営から持ってきた新聞を読んだ。
「何だと」と、シュベイクは独り言を言った。「カイゼルがトルコの皇帝に功一級の戦時勲章を贈呈したんだと? 俺なんざ銀製の小戦功章ももらってやしねえのに」
それから彼は何か考えこんでいた、かと思うと突然ボールのように飛びあがった――「すんでのことで忘れるとこだったぞ……」
シュベイクは、中尉の寝室にはいって、もうぐっすり寝こんでいた彼を揺りおこして言った――
「申し上げます、中尉殿、猫に対する命令をまだ受けていないであります」
寝呆けた中尉は、半ば夢のなかで寝返りを打ってつぶやくように言った――「営倉三日間!」そしてまた眠ってしまった。
そっと寝室を出たシュベイクは、可哀相な猫を長椅子の下から引っぱり出して、宣告するのであった――「三日間の営倉を申し付ける、退れ!」
アンゴラ猫は、ふたたび長椅子の下にはいこんでいった。
その四
シュベイクが、ピンシャーを探しに出かけようとしていたところへ、若い婦人が玄関の呼鈴を鳴らしてルーカッシュ中尉に会いたいと言った。彼女のかたわらには、大きい鞄が二つおいてあった。
「お留守です」と、シュベイクは無愛想に言ったが、その若い婦人は、つかつかと玄関に入ってきて、シュベイクに向って絶対的に命令するのであった――「この鞄を居間へ運びなさい!」
「中尉殿のお許しなしにはできません」
「お前さんどうかしてるのね」と、若い婦人は大きな声で言った。「わたし。中尉さんのとこへ訪ねて来たのよ」
「そんなことぁ、わしゃいっこう知らねえ、中尉殿は勤務中で、お帰りは夜になる、そしてわしゃピンシャーを探しにいけと言いつけられとるんでさ、鞄のことやご婦人のことなんざ、ちっとも耳にしてやしねえ。いま家に鍵を掛けますからな、すみませんが、どうかお帰り下さい。貴方を疑うってわけじゃねえが、なんしろ留守中はなんでもわっしの責任ですからな。中尉殿の命令がなくっちゃ、わっしの兄弟が来たってこの家へは一歩もいれません。というような訳で、お気の毒ですが、そう涙なんかおだしにならないで、さあ、この場はおとなしくお引き取りを願います、軍隊にゃ秩序がなくちゃならんですからな」
若い婦人は、いくらか落ち着いて、名刺を取りだし鉛筆で二三行書きこみ、素敵な封筒のなかにそれをいれて、さっきの元気もどこへやら、頼むように言った――「これを中尉さんにお渡し下さいな、わたしここでご返事をお待ちしていますから。この五クローネは貴方のお電車賃に」
「駄目、駄目、そんなことをしたって、そんな金は引っこめときなさるがよかろう。返事が欲しいなら、わっしといっしょに兵営までいってそこで待っていなさるがいい。だが、ここで待つってことは、どうあってもいけません」
シュベイクはこう言って、鞄を玄関のそとに運び、鍵をがちゃがちゃ鳴らしながら、意味深長に言った――「閉めますよ!」
兵営への途中、その若い婦人は、何とかしてシュベイクに話しかけようとした――「きっとそれをお渡しくださること?」
「もちろん、いったん引きうけたからにゃ」
「中尉さんにお会いできましょうか」
「そいつぁどうだか」
「どこにいらっしゃるでしょう」
「わしにゃ解りませんなあ」
話はちょっとそこでとぎれた。
「貴方その手紙を失くさないこと?」
「今のところまだ失くしちゃいません」
「では必ず中尉さんにお渡しくださいますわね」
「そうです」
「あの方はいらっしゃるでしょうか」
「そいつぁ解らねえって、もう言ったじゃありませんか。人間というものは、どうしてそう同じことを繰りかえし聞きたがるものかなあ」
これで遂に話の糸も切れてしまった。二人は兵営に着くまで一口もきかなかった。
シュベイクは、ここで待っていてくれと若い婦人を門のところに立たせ、自分はそこにいた兵卒をつかまえて、戦争の話をし始めるのであった。どこで聞いたんだか見たんだか、シュベイクは、滔々《とうとう》と戦況を述べたてた、そしてとうとうそこにあった腰掛けに腰をおろしてしまった。
もうしゃべる種も尽きてしまったほど充分に話した後、シュベイクはやっと腰をあげ、泣き出さんばかりに困っている若い婦人の存在を思いだし、すぐ帰ってくるから今しばらく待ってくれと言い残して事務室へ入っていった。
ルーカッシュ中尉は、今まで銀行の出納係をやっていた予備少尉に、塹壕術を教えているところだった。予備少尉にはそれがどうしても呑みこめないで弱っていたところだったので、シュベイクがそこへはいってきたときは、まったく蘇生の思いをした。
「申し上げます、中尉殿」と、シュベイクは言った。「どこかのご婦人がこの手紙を中尉殿にお渡しくださいとのことであります、そしてご返事を待っているであります」
しかしその手紙に書いてあったことは、中尉に少しも良い印象を与えなかった――
「恋しいハインリッヒ、わたしは夫から追っかけられているのよ。ぜひ二三日貴方のところへおいてくださいな。貴方の従卒は実にひどい奴です。わたしくやしいわ。貴方のカチイより」
ルーカッシュ中尉は溜息をもらした、そしてシュベイクを誰もいない離れ部屋に連れてゆき、戸に鍵をかけて、その室の中をしばらく歩きまわった。それからシュベイクの前に立ちどまり――「あのご婦人は、お前をひどい奴だと書いているが、お前はいったい何をしたんだ?」
「何もしゃしませんよ、申し上げます、中尉殿、私は失礼な振舞いはしなかったであります。いきなり泊りこもうって言うもんですから、貴方のご命令なしにはいかんと言っていれなかったであります。そればかりか、鞄を二つも持って、まるで自分の家へ帰ってきたような有様であります」
中尉はふたたび深い溜息をもらした、シュベイクもその通り真似て溜息をもらした。
「何をする?」と中尉はおどかすようにどなりつけた。
「申し上げます、中尉殿、ご胸中お察し致しますであります。二年前のことですが、ボイテヒ小路に住んでいた壁紙屋のところへどこかの女がやって来ましてな、どうあっても帰らないんです、とうとうガス心中をしてけりがつきましたが、一時は大騒ぎでしたよ。いや女というものは厄介なものですなあ。お察し致しますよ」
「厄介な事になった」と、中尉は生れて初めて本当のことを言った。ウィッチンガウ町のミークコ夫人というのが、年に四度プラハへ買い物に出てくるのであったが、そのたびごとにルーカッシュ中尉のところで三日間泊ることになっていた。その夫人が今日にも見える。おまけに、一カ月後に技師と結婚式を挙げることになっている娘が、ルーカッシュ中尉に駈け落ちしてくれと明後日やってくることになっているのだ。そこへ今また夫から追っかけられている女が来ている!
中尉は、首をたれて考えこんでいたが、ついに机に向い、こう書いた――
「いとしいカチイよ! 勤務は九時まで。十時に帰る。わしの家を自分の家だと思って遠慮なくいてくれ。召使いのシュベイクには、お前の満足のいくよう勤めろと命じておいた。お前のハインリッヒより」
「この手紙を」と、中尉は言った。「あのご婦人に渡してくれ、あの方をいんぎんに且つ気転をきかして持てなすことを命令する。百クローネお前に預けておくから、あの方が食事の注文などをなすった場合、これで支払っておけ、それから葡萄酒を三本とメンフィス〔上等な煙草〕を一箱買え。そうだ、今のところそれだけで良かろう。もういってもよい、だけど繰りかえし言っとくが、あの方の眼付きでその心中をさとるくらいにしなくちゃならんぞ」
もうシュベイクにも会えないだろうと思っていた若い婦人は、いま彼が手紙を持って現れたのを見て意外な感に打たれたくらいであった。
彼は挙手の礼をした、そして彼女に手紙を渡して言った――「中尉殿のご命令により、奥様、私は貴方を、いんぎんに且つ気転をきかしてもてなさねばなりません、そして貴方の眼付きで貴方の心中を悟るくらいにしなくちゃなりません。私は貴方に餌をやり、またお望みのものを買ってあげねばなりまん。そのために中尉殿から百クローネもらいました、けれどもその中から葡萄酒を三本とメンフィスを一箱買わねばなりません」
手紙を見た彼女は元気を恢復した。早速辻馬車をやとわせて、シュベイクに馭者とならんで馭者台に坐れと命じた。
家に着くと彼女は完全に主婦の役割を演ずるのであった。敷物をはたかせる、蜘蛛の巣を取らせる、カーテンをはずして洗わせる、家中の硝子窓をみがかせる、家具の置き場所をかえさせる、といった風で、シュベイクは汗を流して働かされた。
それが済むと、シュベイクは昼食の注文と、葡萄酒の買い入れに出かけさせられた。帰ってみると、彼女は、膚《はだ》の透いて見えるような朝着に着がえて、ひどく誘惑的な感じを与えた。
昼食に、彼女は葡萄酒を一本空けてしまい、メンフィスを何本も吹かして、寝床の中にはいった。その間にシュベイクは、台所で軍用パンを甘口のブランデーの中にたっぷり浸してお腹をこしらえていた。
「シュベイク!」と、寝室から呼ぶ声が聞えた。「シュベイク?」
シュベイクが戸を開けると、若い婦人はすこぶる挑発的な姿態で横になっていた。
「ずっとお入り!」寝台にちかづくシュベイクのずんぐりした身体と太そうな股を、彼女は一種独特な微笑を浮かべながらつくづくと眺めるのであった。
すべてを蔽い隠していた柔い布を跳《は》ねめくりながら、彼女は厳しく命令した――「靴とズボン下を脱ぎ!……をお見せ!」
かくて、ルーカッシュ中尉が兵営から帰ってきたとき、シュベイクは次のやうに報告することができたのである――
「申し上げます、中尉殿、私は奥様のお望みをことごとく満たし、ご命令通り正直にお勧めいたしましたであります」
「そりゃどうも有難う、シュベイク」と、中尉は言った「望みが多かったかね」
「六つばかり」と、シュベイクは答えた。「旅の疲れが出てまるで打ちのめされたようにお寝み中です。私は、あの方の眼付きで心中をお察し申し、どんなことでもしてあげたであります」
その五
夫の許から逃げだして今ここで主婦の役をやっているこの婦人のことでは、中尉もシュベイクも頭をなやました。
「一番いいのは」と、シュベイクは、彼女が外出した留守中、中尉に提案した。「あの女の夫に電報を打って、ここにいるから引き取りに来いと言ってやるのですな。他にはどうも解決の途がないようであります」
「その夫というのは非常に物解りのいい人なんだ、ホップの卸売り商人だがね。ぜひ会って話すことにしよう」
彼の打った電報は、怖しく簡潔で実質的であった――
「貴下の奥様の目下の居所は」――それにルーカッシュ中尉の住所が記されただけである。
カチイ夫人は、夫が血相を変えて飛びこんで来たのを見たとき、ひどく吃驚《びっくり》した。
しかし、カチイ夫人がこんな際にのぞんでも心の平静を失わず――「これがわたしの夫、こちらはルーカッシュ中尉さん」と二人を紹介したので、彼はよほど安心したらしい。
「まあお掛け下さい」と、ルーカッシュ中尉はすすめながら、ポケットから巻煙草入れを取りだして――「いかがです」
物解りのいいホップ商人は、静かに煙草を一本抜きとり、煙を吹きだしながら、悠揚迫らざる態度で言った――
「もうじき戦線へお出かけですか」
「九一連隊へ転任を願ってるんですがね。この一年、志願兵の教育をやっているんですが、それが終ると直ぐ実現するだろうと思います」
「戦争のお蔭で、ホップの商売は大打撃を受けましてな。でも戦争もそう長くは続きますまい」とホップ商人は、自分の妻と中尉を代るがわるみながら言った。
「我軍の戦況は非常にいいです。もう今日では、中欧同盟側〔ドイツ・オーストリア軍〕の勝利に終るということを疑う者は一人もありますまい。フランス、イギリス、ロシアは、花崗岩のようなオーストリア、トルコ、ドイツに向っては問題じゃありませんよ、ちょっと、ここをご覧ください」
ルーカッシュ中尉は、ホップ商人の肩をそっとつかんで、壁にかかっている戦況図の前に連れてゆき、こまごまと説明するのであった――「……という様子ですから、戦争は案外早く終るかもしれません」
話がかなり長い間とぎれて、三人は気まずい思いで黙っていた。中尉は、この苦しい状態を打破するため口をきった――
「いつお着きになりました?」
「今朝早く」
「そりゃいい都合でした、午後から夜にかけて私は勤務があるので家をあけますからね。それでここは一日中からっぽといってもよい訳ですから、奥様のご滞在を願ったのです。昔の知合いという関係から………」
ホップ商人は咳払いをした――「カチイはまったく変り者でしてね。いやこの度は色々とご親切にお世話くださいまして誠に有難うございました。私は旅行しておりましてな、帰って見ますと家はからっぽ、カチイがどこかへいってしまったんです」
なるべく色を顔にだすまいと努めながら、彼は指で妻をおどかし、無理に作った微笑を浮かべながら彼女にきいた――「わしが旅行中なら、お前も旅行していいとでも思ったんだろうな? お前はもちろん考え及ばなかったろうが……」
話が面倒になりそうだったので、中尉は、この物解りのいいホップ商人をふたたび戦況図の前に連れていって――「非常に興味ある状況をお話し申すのを忘れていましたが……」と、専門的な説明をやり始めた。
説明をきき終って、もとの席に帰ったホップ商人は言った――「今度の戦争のため海外におけるホップの販路を失いましたよ。今ではイタリアだけへ輸出しておりますが、そのイタリアなんだが………」
「イタリアは厳正中立を守りましょう」と中尉は彼をなぐさめた。
「イタリアが中立を守るって事からしておかしいですな。だってイタリアはオーストリアとの間およびドイツとの間に三国同盟をむすんでるじゃありませんか。そもそも何のための同盟です?」と、ホップと妻と戦争が、一度に彼の頭にのぼって来たのである。「イタリアはフランスおよびセルビアに向って宣戦するものだとばかり思っていました。そうなりゃ、戦争はもう終ってたはずですがな、ホップは倉庫のなかで腐りかけてるんです。国内の需要は少いし、輸出はほとんど皆無と来ている。いったいイタリアはなぜ一九一二年に三国同盟の期限を延長したんです? イタリアの外務大臣サン・ジュリアノ候は何をしてるんです? 戦前と現在の私の販売高を貴方は知っていますか」
昂奮のあまり彼はそれ以上言うことができなかった。そして妻のかたわらにいって告げた――「おいカチイ、お前はわしといっしょに直ぐ家へ帰るんだ。支度をなさい」
彼女が着換えにいったとき、彼は声を落して中尉に言った――「あれがこんな事をやるのは初めてじゃないんですよ。昨年も駈け落ちして、アグラムでやっと押さえたことがあるんです。もっとも私はそのついでにアグラム市の麦酒会社ヘホップを六百袋売却する契約をして来ましたが」
彼は、引き続き自分の商売の不景気なことを具体的に語り始めた。そして「このままでいくと破産のほかない、子供のないのがせめてもの幸せだ」と結んだ。
絶望的な彼が黙りこんでしまったところへ、旅の用意をすませたカチイ夫人が現れて言っだ――「わたしの鞄はどうする?」
「後で誰かに取りに来させよう」と、ともかく事件が無事に解決して喜ばしかったホップ商人は満足そうに言った。「お前これから買い物でもするつもりなら早く出かけないと間にあわないぜ。汽車は二時二十分だから」
二人が立去った後、中尉が寝室へ帰って見ると、洗面台の上に四百クローネと紙片がおいてあった。その紙片には次のようなことが書いてあった――
「中尉さん! 貴方は、よくもわたしをこの阿呆に、わたしの夫に、第一流の馬鹿者にお引き渡しになりましたわね、その際貴方はわたしに宿を貸したのだとおっしゃいました。ここにおきました四百クローネ以上はご出費なさらなかったと思いますから、どうかこの金を貴方の召使いと二人でおわけ下さい」
中尉のために犬を探しに朝から出かけていたシュベイクは、昼頃に帰ってきた。
「シュベイク、喜べ、あのご婦人はもういないぞ。旦那が連れていったのだ。お前の骨折りに対するお礼にと四百クローネをおいていかれたが、その金はもともと旦那のものだから、礼状を出さんといかん。俺の言う通りに書き取れ」
シュベイクは、中尉の言う通りに書き取った――
「謹啓。当市ご訪問中小生の致せしご奉公に対し、ご夫人より四百クローネご恵贈に預り厚くお礼申し上げます。小生がご夫人のために致せし事は総て衷心より喜んでなせし儀につき、この金額を受納致すことは不可能であります。折角のお志を無にするは甚だ失礼ながらここにお返し……」
「おい、次を書かんか、シュベイク。何をお前はそんなに身体を捻じ曲げてるんだ? えーっと、どこまで言ったっけな」
「ここにお返し……」と、シュベイクはいかにも悲しそうに声をふるわせながら言った。
「よし――ご返送申し上げます。ご夫人へもなにとぞよろしくお伝え願い上げます。ルーカッシュ中尉従卒ヨセフ・シュベイク。それでいいだろう?」
「申し上げます、中尉殿、日付が落ちとるであります」
「一九一四年十二月二十日。と、そこで封筒に宛名を書いて、この四百クローネを送ってやれ。宛名はこれだ」
シュベイクが郵便局へ出かけようとしたのを――「おいちょっと」と、中尉は呼び止めた。「探しにいった犬はどうしたい?」
「心当りがあるんですよ、素晴しいのがね。ところがなかなか手にはいりそうもないんです。しかし明日はたいてい連れて来られるだろうと思います」
その六
大都市には、犬を盗むことを専門にして暮らしている特種な泥棒がいる。狆《ちん》やテリヤの小さいのになると、外套のポケットの中はもちろん、貴婦人方の手套の間にさえいれられる。そのなかにいたはずの一寸法師がいつの間にか盗まれている。郊外の別荘を番している獰猛《どうもう》なブルドッグでさえ、夜のうちにどこかへ持っていかれてしまう。警察犬が探偵の鼻の先で盗まれるくらいだもの。用心深い諸君は、紐につないで散歩なさるであろうが、その紐が切れたな、と気づかれた瞬間、諸君の犬とともに泥棒は跡方もなく消え失せている。
往来で見かける犬の約五十パーセントは、二三度ずつ主人を取りかえている。諸君は、仔犬のころ盗まれた自分の犬をそれとも知らず二三年後に金を出して買うことがしばしばあるのだ。
こういう訳だから、犬の方でも、いつ盗まれやしないかと、びくびくものだ。往来へ出てうんちをするときが一番危険である。だからどの犬でも、うんちをしながら四方八方に眼をくばっているのではないか。
犬を盗むにも幾つかの方法がある。スリ式にじかにやる方法、おびき出す方法などがそれだ。犬は忠実なる動物なり、というのは、教科書や博物学の上だけのことである。どんな忠実な犬でも、ソーセージを嗅《か》がしてごろうじろ。一緒に歩いている主人を忘れて、廻れ右をし、涎を垂らし尾を振りながら、ソーセージの持ち主を追うであろう。
ある小さいビヤホールの中の薄暗い片隅に、二人の男が背中をこちらに向けて坐っていた。一人は兵士であった。二人は額を突きあわして何か秘密そうにささやいていた。
「毎朝八時に」と、一人のほうが兵士に言った。「女中がそれを連れてハウリチェク広場から公園へいく角のところへ来るのだ。ところが、そいつなかなか手におえない奴で、思いきり喰いつくんだ。撫でてやろうなんて、思いも寄らねえ」
彼は、更に身体をのり出して兵士の耳にささやいた。「ソーセージも食わねえんだよ」
「焼いたのでも?」と、兵士がきいた。
「焼いたのでも!」
「じゃ、あん畜生、いったい何を食うんだろう?」
「そいつが解らねえんだ。犬でも大僧正みたいに贅沢に慣れた奴があるからなあ。実はその女中にきいてみたんだが、駄目だった。俺の顔を迂散臭そうに、じろじろと見て『この犬が何を食おうと、貴方にゃどうだっていいじゃないの?』ときたもんだ、ちっともシャンじゃねえ、猿みたいな女だが、お前なら兵隊だから、安心して話すだろうよ」
「本当にピンシャーかい? うちの中尉はピンシャーでなくちゃいやだと言うんだから」
「正真正銘まじりけなしのピンシャーだ、お前がシュベイクで俺がブラーニクっていうのと同じ程度にたしかなものだ。何を食うかきいてくりゃいいんだ、きっと物にしてみせるからな」
このブラーニクというシュベイクの友人は、というよりも仲間は、犬泥棒専門業であった。彼は必ず血統の正しい犬を盗むことにしていた。盗んだ犬は、商売人や素人にさばいた。彼は、うっかり往来を歩けなかった。いつどこから犬が――彼のため主人を取りかえられたのを怨んで復讐心に燃えている犬が――飛びだして噛みつくかもしれないから。
翌朝の八時、ハウリチェク広場と公園の角を、勇敢なる兵士シュベイクが、ぶらついていた。彼はピンシャーを連れた女中の来るのを待っているのであった。やっと、一匹の、口のまわりに髯のもじゃもじゃ生えた悧巧そうな眼をした犬が、彼の傍を気持よさそうに駈けていった。往来では、雀が馬の糞をほじくって朝飯にしている、犬はその雀を目がけていたのだ。
その犬を口笛で呼びながら、問題の女中が、細い鎖と派手な鞭をもって、やってきた。
「姐《ねえ》さん、ちょっとお尋ねするがの、ジズコフへはどう行ったらよろしいかね」と、シュベイクが話しかけた。
彼女は立ちどまって、彼をじろじろと眺めた。しかしシュベイクのお人よしな顔は、彼女に、この兵隊さんは本当にジズコフへ行こうとしてるんだな、と思わせた。彼女は顔色をやわらげて、ジズコフへの道順を説明した。
「わしゃついこないだプラハへまわされたもんでな」と、シュベイクは言った。「土地の者じゃねえで。あんたもプラハの人じゃあるめえの?」
「あたしヴォードニャンから来てるの」
「そうだか、それじゃお互いにそう遠かねえ、わしゃプロチービンの者じゃ」
これはシュベイクの出鱈目であった。いつか演習で一度行ったことがあるだけだが、彼の気転は、この女中との間にうまくお国話の花を咲かし、彼女の疑惑をすっかり解いてしまって、いよいよ本能寺の近くまで漕ぎつけた――
「いま話した老人も犬を飼ってるがな、あすこで雀を追っかけてるあの犬のようなのを。立派な犬だよ」
「あれは家《うち》の犬よ」と、シュベイクの新しい知合いは、わなとも知らずに自慢そうに言った。「あたし大佐さんとこに勤めてるの、貴方大佐さんをご存知でしょう?」
「立派な物解りのいい方だ。わっしの住んでいるブードワイスにもそんな大佐がいるよ」
「うちの主人は、そりゃ厳しい方で、こないだも……」
「そうか、あれがあんたの犬かね」と、シュベイクは相手の話をさえぎった。「わしゃ犬が好きでな」
シュベイクはしばらく黙った、それから出しぬけに口を開いた――「犬にも食物の好き嫌いがあって、どの犬でも何でも食うってことあねえものだ」
「うちのフォックスはそりゃ贅沢家で、餅の皮をむくって方なのよ」
「何が一番好きかね?」
「肝臓《レバー》、煮たレバー」
「仔牛の、それとも豚のレバー?」
「どっちだって同じよ」と、彼女はシュベイクの最後の質問を洒落のできそこないとでも思ったんだろう、彼を見ながら面白そうに笑った。
それからしばらくシュベイクは彼女といっしょに話しながら歩いた。彼女は、朝の八時と夕方の六時に犬を散歩に連れてくること、新聞に求婚広告を出していたある錠前師から八百クローネまきあげられたこと、プラハの人間には信用がおけない、田舎の人と結婚できないくらいなら一生独身で暮らすつもりでいること、などを彼に話した。
シュベイクは、夕方の六時に会おうと約束して、彼女に大きい希望をいだかせながら、その足で友人のブラーニクのところへいった。
「じゃ牡牛のレバーをご馳走してやろう」と、ブラーニクは言った。「明日その犬をちゃんと持っていってやるよ」
ブラーニクは約束を守った。
二人は、盗んできた犬の系統書を出鱈目に作り上げた、それによると父犬は一九一二年のベルリンにおける優秀犬品評会で一等賞を得、母犬はニュールンベルクの優良犬協会の金牌を得ている。名前も、以前のに似かよったのをと、マックスと呼ぶことにした。
「ところで、お礼はいくらだい?」と、シュベイクは帰ろうとしたブラーニクにきいた。
「そんな水臭くせえことあ止そうや、シュベイク。古い仲間じゃねえか、ことにお前はいま軍隊にいるんだし。また犬が入用だったら、俺んとこへ来いよ、じゃ、あばよ」
シュベイクは、肉屋からレバーを半ポンド買ってきて、可哀想な犬のために煮てやった。連れて来られた当座は、ひどく暴れていたが、疲れたせいもあろう、シュベイクから「マックス、ここへお出で?」と呼ばれれば、尾を振るようにさえなった。シュベイクは、マックスを膝の上にのせて撫でてやった。マックスは、シュベイクの手をなめながら、利巧そうな眼付きで彼を見つめた――「どうにも仕様がねえ、俺あひどい目にあった」と言いたげに。
シュベイクは、マックスを撫でてやりながら、やさしい声で話した――「むかしむかし一匹の犬があったとさ。フォックスという名で、ある大佐のとこに飼われていた。ある日、その家の女中がその犬を散歩に連れていった。するとそこへ一人の男がやってきて、そのフォックスを盗んでいってしまった。フォックスは、今度はある中尉の手に渡り、マックスと名を付けられたんだとさ」
「マックス、お手! そうそう、お前が勇敢で従順なら、俺らいいお友達になるんだぜ。でなきゃ軍隊というものは決して蜜のように甘いものじゃねえって事を、思い知らしてやるぞ」
マックスはシュベイクの膝から飛びおりて快活に彼のぐるりをはねまわりだした。その夜、ルーカッシュ中尉が兵営から帰ってくるまでに、シュベイクとマックスは、一番いいお友達になっていた。
シュベイクは、マックスをじっと見ているうちに、哲学者の考えるようなことを考えた――「大きな眼で見りゃ、そもそも兵士なんてものも、やはりその家庭から盗み出されたんだ」
マックスを見た中尉の喜びは非常なものであった。どこから買っていくらだったか、との問いに対し、シュベイクは、落ち着きはらって、ちょうど入営した友達から贈り物にもらったのだ、と答えた。
「よし」と、中尉はマックスにからかいながらシュベイクに言った。「先ずお前に五十クローネお礼として上げよう」
「そいつぁ戴くわけにゃ参りません」
「シュベイク」と、中尉はきびしく言った。「お前がここへ来たとき俺がそう言っといたじゃないか、俺の言葉に従わにゃならんと。五十クローネ取っとけと俺が言や、お前は黙ってそれを取って飲んじまわんけりゃならんのだ。お前どうするつもりだい、この五十クローネで?」
「申し上げます、中尉殿、ご命令通り飲んじまうであります」
一方、犬を盗まれた大佐は、怖しく怒った。その泥棒が見つかったら、早速軍法会議に突きだして銃殺にする、絞首する、二十年間の懲役にする、粉々にたたき殺すのだ、とどなり散らしている。
十五 内地での生活にひと区切り
フリードリッヒ・クラウス大佐は、偉大なる馬鹿であった。何か話すとき、きっと解りきった事を引っぱり出す癖があった。
「……書物だな、諸君。書物って何だか知ってるか? いろんな形に断《た》った多くの紙に印刷し、綴じあわして膠《にかわ》でかためたものだ。そうだ諸君、膠って何か知っているかね? 膠とは粘着剤である」
往来を歩いている将校連も遠方から彼を見かけると、うまく身をかわすことにした。引っつかまえると、歩道と車道の区別を、くどくど説明されねばならなかったからである。
演習になると彼の無能は遺憾なく発揮された。打ちあわせた時間通りに目的地に達することなど一度もなかった。自分の連隊を縦隊のまま敵の機関銃隊に向って進ませたくらいはまだしも、数年前の大演習の際のごとき、彼の連隊はどこかへ姿を消し、飛んでもない方面に現われ、大演習も終って他の連隊がすべて帰還したのに、彼と彼の連隊はさらに二、三日間うろついていた。そこでこの迷子連隊を探すために捜索隊が派遣されたくらいである。
こんな大馬鹿にもかかわらず、比較的早く昇進したのは、まったく不思議である。が、彼の背後には勢力ある人物、たとえば羽振りのきく大将があったのである。こんなひきのお蔭で、彼は色んな勲章をもらえた。それを、ほこらかにぶらさげて、我こそはといったような顔であった。
彼は右耳が半分しかない。若い頃、フリードリッヒ・クラウスはあきれた馬鹿野郎だと本当のことを言われたので、決闘を申しこみ、その際、断《た》ち落されたのである。
一年志願兵の学科を終えて帰宅したルーカッシュ中尉は、マックスを連れて散歩に出かけた。
「中尉殿」と、シュベイクは念をいれて注意した。「犬に気をつけてください。元いた所が恋しくなって逃げだすかもしれないであります。それから、ハウリチェク広場へは連れていきなさるな。あすこには悪い犬がうろついていて、すぐ噛みつきますからな」
中尉とマックスは往来に出た、中尉はお濠《ほり》の方を見ながら歩いた。ヘレン小路の角で、ある婦人と会う約束がしてあったのだ。しかし彼は、勤務のことで頭がいっぱいだった。明日は一年志願兵にどんな講話をしてやろうか?
そのとき、突然「止れ!」というきびしい声がきこえた。
それと同時に、犬は紐を勢いよく引っ張って、そのきびしい「止れ!」を命じた男の方へ嬉しそうに飛びかかろうとした。
ルーカッシュ中尉の前には、クラウス大佐が立っていた。中尉は敬礼して、お見それ申してすみませんとあやまった。
クラウス大佐は、敬礼というものに絶大の価値をおいていた。
「軍人たるものは、敬礼に魂をぶちこまんけりゃいかん!」と言うのが彼の、口癖だった。
彼にとっては「見それる」と言う事は言い訳にならなかった。「軍人たるものは、もし上官が人ごみの中にいるなら、それを選り分けてでも敬礼するという義務をはたさなくちゃならん。上官が戦場で斃れている場合は、その死骸に向って敬礼すべし。敬礼を怠るような奴は、人間なみに扱わないから、そう思え」
「ルーカッシュ中尉」と、クラウス大佐は気味の悪い声で言った。「上官にたいし礼を失してもよいというような事にいつからなった? また、士官諸君は盗犬を連れて散歩するような癖がいつからついたんだ? そうだ、盗んできた犬を連れてだ」
「大佐殿、この犬は……」と、中尉は弁明しようとした。
「吾輩のだ」と、大佐はきびしくさえぎって言った。「吾輩のフォックスだ」
そのフォックスだかマックスだかは、元の主人を思いだして、新しい主人を古|草鞋《わらじ》のように捨ててしまった。中尉の持っている紐を引っ張って大佐に飛びかかるのであった。
「盗んできた犬を連れて散歩する、将校の体面をけがすものとは思わないのか? なに、知らなかった? 素性もたださんで犬を買うという将校があるものか」と、大佐は、フォックス・マックスをなぜながら、中尉にどなりつけた。「盗んできた馬に乗っていて、それで君はよいと思うのか。『ボヘミア』と『日報』の広告欄に『尋ね犬、ピンシャー種行方不明』と出ていたのを、君は読まなかったのか。自分の上官が新聞に出した広告さえ読まないんだな」
(この老いぼれの馬鹿野郎め、横面を二つ三つ張りとばしてやるんだがなあ)と、ルーカッシュ中尉は猩々《しょうじょう》を想わせるような大佐の頬髯を見つめながら、心の中で言った。
大佐と別れたルーカッシュ中尉は、会う約束の婦人のことなどかまわないで、真直ぐに家へ急いだ。
「このシュベイクって奴をどう始末したものだろう」と考えながら。
「よし、たたき殺してやるんだ!」と、電車に乗ったとき、彼は独り言を言った。
一方、勇敢なる兵士シュベイクは、兵営からの伝令とさかんに話をしていた。この伝令はルーカッシュ中尉の署名をもらいに兵営から書類を持って来て、中尉の帰りを待っているのであった。
シュベイクは、この使いに来た兵士にコーヒーをご馳走した。二人は、オーストリアは今度の戦争に負けるぜ、と解りきったもののように話し合った。裁判所なら売国罪と決定しそうな言葉を、二人は盛んに使った。
「皇帝陛下はたりねえんだ」と、兵営から来た兵卒が確信をもって言った。「まるっきりたりねえんだ。いま戦争だって事も知るめえよ。宣戦布告のご署名だって、ありゃごまかしものさ。陛下のお耳にゃ何もはいらねえんだし、だいいち陛下は何も考えることができねえんだもの」
「そうよ、ありゃもうおしまいだよ」と、シュベイクは物識り顔に付けくわえた。「まるで赤ん坊だよ。ついこないだも酒屋で話してるのを聞いたんだがな、陛下には乳母が二人付いていて毎日三度ずつおっぱいを呑ますんだとさ」
二人の話は、方々へとんだ。もっとはずむところだったが、あいにくルーカッシュ中尉が帰って来たので、残念ながらとぎれた。
怒りに燃える眼でシュベイクを睨みつけながら、中尉は書類に署名し、兵士がそれを持って帰ると、シュベイクに居間へ来いと、目くばせした。
中尉の両眼からは、怖ろしい閃きが射していた。彼は椅子に腰をおろし、シュベイクを眺めながら、どういう工合にしてこの虐殺を遂行したものだろうか、と熟考した。
「さしあたり奴の横面を二つ三つぶん殴ってやろう」と、中尉は考えた。「それから鼻柱をたたきおり、耳を引きちぎってやるんだ。それからの順序は、ひとりでにできてくるだろうて」
彼の前に立っているシュベイクは、その無邪気なお人よしな眼で、悪びれもせずいかにも善良そうに彼をまともにみていた。シュベイクは、この嵐の前の静けさを、次の言葉でもってやぶった――「申し上げます、中尉殿。猫が靴クリームを食って、くたばってしまったであります。死骸は地下室へ投げこんだであります。もちろん隣の地下室であります。あんな勇敢な、そして綺麗なアンゴラ猫は二度とお手にはいりますまいな」
「こん畜生、どうしてくれよう?」中尉の頭はこんがらがって来た。「まあなんて間抜けた面《つら》をしてやがるんだろう」
すべてが無事太平でなにか変った事が起きているにしてもやはり無事太平だ、といったような顔をしたシュベイクが、相変らず善良無邪気な眼で中尉を見ているのだった。
ルーカッシュ中尉はバネ仕掛けのように飛び上った。けれども、予定の計画を棄てて、シュベイクをぶん殴る代わりに、彼の鼻の先で拳固を振りまわしながらどなった――
「貴様よくも犬を盗んだな、シュベイク!」
「申し上げます、中尉殿。いっこうそんなおぼえはないであります。貴方は今日の午後マックスを連れて散歩に出かけられたではありませんか。どうして私が盗むことができるでありますか。貴方が犬を連れず帰られたとき、私は直ぐ、こいつぁおかしいぞ、なにか変ったことがあったに違いない、と気づいたであります。ブレンテン小路にクーネッシュという袋物屋がありましてな、犬を連れて出るのはよいが連れてもどったためしなしという男なんでさ、たいていはどこかの酒屋へ置きわすれるんですが、また誰かに盗まれたり、誰かが借りていって返さなかったり……」
「シュベイク、馬鹿、畜生、黙れ! 貴様は、すれっからしのやくざ者か、でなきゃ、治療の仕様のない阿呆かの、どちらかだ。だがこの俺様をちょろまかすわけにはいかないぞ! 貴様あの犬をどこから持ってきた? あれは連隊長の犬だぞ。偶然出あって、持っていってしまわれたぞ。それがどういう怖しい始末になるか、貴様にゃ解るまい。さあ、白状しろ。貴様盗んだのか、盗んだのじゃないか!」
「申し上げます、中尉殿。盗まなかったであります」
「盗んできた犬だってことも知らなかったのか」
「申し上げます、中尉殿。知っとったであります」
「な、な、なんだと? ここな畜生め、豚め、牛め、貴様を射ち殺すからそう思え。貴様はそれほどまで馬鹿なのか」
「申し上げます、それほどまで馬鹿なのであります、中尉殿」
「なぜ貴様は盗んだ犬を連れて来たんだ、この俺の家へいれたんだ!」
「中尉殿を喜ばせてあげたいと思ったのであります」
そう言ってシュベイクは、いかにもお人よしらしくやわらかに中尉の顔をじっとみた。中尉は腰をおろして嘆息した――
「なぜ神様はこんな畜生をよこして私を苦しめられるのだろう?」
なにもかも諦めてしまったルーカッシュ中尉は、がっかりしてしまった、シュベイクの横面を殴るどころか煙草を吸う元気さえなかった。
その夜、中尉はこんな夢を見た――シュベイクは今度は皇太子殿下の馬を盗んできて、中尉がそれに乗っていたのが、不幸にも観兵式の際にバレた。この夢で眼をさました中尉は、胸が苦しくてなかなか眠れなかった。あけがたになって、やっとうつうつしたかと思うと、戸を叩く音がして、また眼をさまさせられた。シュベイクの間抜け顔が現れて――「何時に起こすでありますか」ときくのであった。
中尉は寝台の中から吐き出すように言った――「出て失せろ、畜生。こりゃ全くたまらん!」
そのうちに中尉も起きたので、シュベイクは朝食を彼の室に運んだ。そして言った――「申し上げます、中尉殿。お望みとあらば、また別の犬をお世話するであります」
「シュベイク、俺あ貴様を軍法会議に突きだそうと思ったんだぞ」と、中尉は溜息をつきながら言った。「だが、貴様のその途方もない馬鹿面じゃ無罪とくるだろうからな。まあ、その面を鏡に写して見ろよ。どうだ、本当のことを言え、シュベイク! その面がお気に召したか」
「申し上げます、中尉殿。気にいりませんであります。この鏡で見ると、何だかこう歪んでいるようで変であります」
中尉の前を引きさがったシュベイクが、台所を片付けながら、大きな声で軍歌を歌っているのが聞えて来た。
「いいご機嫌でいやがらあ、あん畜生」と、中尉はひとりごとを言って、ペッと唾をはいた。
そこへまたシュベイクが現れて告げた――「申し上げます、中尉殿。兵営から使いであります、連隊長殿がちょっと中尉殿をお召しであります」それから声を落して付けくわえた。「たぶんあの犬の一件ですぜ」
玄関で、伝令が用向きを告げようとしたとき、中尉は「もう解っとる」と、元気のない声で言った。そしてシュベイクを怖い眼で睨みながら出ていった。
連隊長クラウス大佐は苦虫を噛みつぶしたような顔をして肘掛け椅子に坐っていた。
「二年ほど前のことだが、君はブードワイスの九一連隊へ転勤を志願したことがあったね? 君、ブードワイスってどこだか知っとるか? モルダウ河、そうだ、モルダウ河のほとりにあって、大きい町、気持のいい町だ。たしか波止場があったな。君、波止場って何だか知っとるか? 水面の上まで建てられた壁じゃ」
大佐はそこでちょっと黙った。それからインキ壺のなかを見て、話を別のほうへ持っていった――「吾輩の犬は、君んとこにいる間にすっかり胃をこわしちまったじゃ。何も食いたがらない。冬だのに蝿がインキ壺にはまるなんて、珍らしいことじゃ、不規律じゃないか」
(老耄《おいぼれ》、早く言いたいことを言っちまえ)と、中尉は腹の中で言った。
大佐は立ちあがって二三度事務室のなかを、ゆききした。「君の処分については、よく考えてみたんじゃ、何とかしてこんなことを再び繰り返すことのないようにとな。で、君が九一連隊へ転勤を望んでいるということを思いだした。ちょうど九一連隊には将校が足りない、セルビアでみんなやられた。いま出征大隊を編成してるところじゃから、三日のうちに向うへ行ってもらいたい。いや、べつにお礼にはおよばん」
有難くはないにしても、ともかく判決の下ったルーカッシュ中尉はよほど気がせいせいした。帰宅した彼は、意味深長にシュベイクにきいた――「シュベイク、お前、出征大隊って何か知っとるかね?」
「申し上げます中尉殿。マルシュバタリヨンというのはマルシュバチャクのことであります」
「よし、お前をその出征大隊に連れていってやる。だが、戦線へいったら、ここでやったような馬鹿な真似をやるんじゃないぞ。嬉しいか」
「申し上げます、中尉殿。たいへん嬉しいであります。私達二人が皇帝陛下のためもろともに戦死するたぁ、素晴らしいであります……」
第一部 「後方にて」へのあとがき
『二等兵シュベイク』第一部「後方にて」の完結に引きつづき、すぐ第二部「前線へ」および第三部「赫々たる潰走」が現れるという事を報告したい。ここでも第一部におけると同様、兵隊および民衆は、実際にあったとおりのことを話し、振舞うであろう。
書き直したり文をつけ足したりすることはこのうえない虚偽だと思う。作り事でないもの、自然的なものを非難するのは、必ず豚のような奴か、すれっからしの下司《げす》野郎に決っている。
また荒っぽい言葉づかいを非難するような奴は卑怯者だ、実際の生活をみれば度胆を抜かれるんだから。こんな弱々しい人間こそ、文化および人格にとって非常な害物である。
酒屋の亭主パリーベクに、ラウドーバ夫人やグート博士やファストローバ夫人〔いずれもチェコの作家〕のようなお上品な言葉を使えといったって、それは無理な注文というものだ。こんなお方々は、できることならチェコスロバキア共和国全体を一つの立派な社交広間として、燕尾服を着、白い手袋をはめて歩きまわり、上品な社交礼儀を教えたいと望んでおられる〔もちろん、こんな仮面をかぶって社交家どもは悪徳と淫乱に憂身をやつそうというのだ〕。
ついでに記しておくが、パリーベクの亭主は未だ生きている。戦争中ずっと監獄にいたが、そこから釈放されてきても、相変らず昔どおりの乱暴な口のききかたをしている。この本の中に自分のことが出ているのを読んで、訪ねてきてくれたくらいだ。彼は最初の数号〔『二等兵シュベイク』は、最初薄いパンフレットとして出版された〕を二十冊以上も買って知人に配った。本書の宣伝のため尽してくれたわけである。
私が彼のことを下品なので有名だ、と書いたのを見て、彼は本当に喜んだ。そして私に言った――「俺あ思った通りのことを、ずばりと口汚く言うんだ。今までもそうだったし、これからもそうだ。お上品ぶった馬鹿野郎のお給仕なんざ真平だ。今じゃ俺も有名になったよ」
自然と流露する彼の簡単な正直な言葉の中には、不知不識の間に、ビザンチニズムすなわち長いものには巻かれよ主義に対する、チェコ人の反感が現れている。皇帝および上品な言葉づかいに対するこの軽蔑は、持って生れた根強いものだ。
オットー・カッツもやはり生きている。戦争後は牧師を辞めるし、教会からも縁を切って、今では北ボヘミアの青銅品や漆器を製造する会社で外交員みたいなことをやっている。
いつか長い手紙を寄こして、片を付けてやるぞ、と嚇して来た。私は彼を訪問して、万事円満に納まった。夜中の二時になると先生もう自分の足で立てなくなってしまった、それでも相変らず説教をやって言った――「やい、野郎ども、俺あオットー・カッツだぞ、従軍牧師だぞ」
今はあの世にいるブレートシュナイダー型、すなわち旧オーストリア帝国における特高刑事型の人間は、共和国となった今日でも、相変らず無数にうろつき廻っている。彼らは、誰かが話していることに、ひどく興味をもって耳をそばだてる。
私の目的が、この書の中で達せられたかどうか、自分には解らない。ある兵士がその相手に向って「貴様はあのシュベイクみたいな馬鹿だ」と罵っているのを聞いたことがあるが、それで見ると、どうも私の目的は達せられなかったらしい。けれども、『シュベイク』という単語が「罵詈雑言集」中の新語となったとすれば、それだけチェコ語を豊富ならしめたという点で私は満足せねばなるまい。
ヤロスラフ・ハーシェク
第二部 前線へ
一 列車内におけるシュベイクの失策
プラハ――ブードワイス間の急行列車二等室の、ある車室に、三人の客が乗っていた。ルーカッシュ中尉、それと向いあってかなりの年配の見事に禿げた紳士、そして戸口に謙遜して立っているシュベイク。
列車がプラハを出てから、ずうっとシュベイクは中尉からどなられどおしであった。事のおこりは大したことではない、シュベイクの預かっていた中尉のトランクが足りないというだけのことだ。
「トランクが一つ盗まれたって?」と中尉はシュベイクを責めた。「口で言う段にゃ何でもないさ、馬鹿野郎め!」
「申し上げます、中尉殿。本当に盗まれたんであります。停車場って所はいつも怪しい奴がいるもので、どうも貴方のトランクがひどくそんな連中の気にいったものらしいんですな。私が貴方のトランクに異状なしと報告に行ったわずかな隙を利用しやがって、その野郎、お気に召したトランクを持っていってしまったんであります」それからシュベイクは特に力をいれて言った。「停車場ではよく物の盗まれるもので、これから先も盗まれることでしょうな。どうにも仕様がないであります」
「そのトランクの中味ですか?」と、シュベイクは、この事件には毛ほどの興味も感じないと見えて、『新自由新聞』を読みつづけている禿げ頭の紳士から眼をはなさずに、中尉の問いに答えた。「結局何もはいってやしませんよ。居間にあった鏡と、玄関にあった帽子掛けだけですが、どちらも家主のものですから、考えてみりゃ、わっしらの損にゃならないってわけでさ」
中尉がこわい顔をしたので、シュベイクは丁寧な調子で言葉をつづけた――「申し上げます。中尉殿。トランクの盗まれることを初めから知ってたんじゃないし、戦争から帰ったら鏡と帽子掛けは返してやると家主に言っといたのであります。敵の国には鏡や帽子掛けは沢山ありますから、家主との間に厄介も起きますまいであります。どこか敵の町を占領したら、早速……」
「もう止せ」と、中尉は立ちあがってどなった。「ブードワイスへ着くまで何も聞きたくない。向うへ着いたら話をきめよう。知ってるかシュベイク、お前を監獄にいれるんだぞ」
「申し上げます、中尉殿。知らないであります」とシュベイクはおとなしく言った。「貴方はそのことについてまだ何とも言って下さらないのであります」
中尉は思わず歯を食いしばって、溜息をもらすばかりであった。それからマントにはいっていた『ボヘミア』を取りだして、地中海におけるドイツ潜航艇『E』号の活躍や、残忍なほど強烈な爆烈弾の発明などに関する報道のうえに眼をやった。
シュベイクは、さっきから禿げ頭の紳士を見ていたが、とうとう口を切ってきいた――「旦那、だしぬけで失礼ですが、貴方は『スラビア』銀行の頭取さんのプールクラーベクさんじゃありませんか」
禿げ頭の紳士が返事しないので、シュベイクは中尉に向って言った――
「申し上げます、新聞で見たんでありますが、通例人間の頭には平均して六万本ないし七万本の毛があるそうで、髪の黒い人は早く薄くなるとのことですな」
彼は更に容赦なく言葉をつづけた――「それから『シュビルク』カフェで、お医者さんから聞いたんですが、抜け毛ってものは産褥の際、気持を昂奮させると起こるんだそうですな」
そのときだ、禿げ頭の紳士は飛びあがってシュベイクに向い、どなりつけた――「出てうせろ、この畜生!」
シュベイクを廊下に突きだしておいて車室へ帰ってきた紳士は、自己紹介をやって、いささかルーカッシュ中尉の度胆をぬいた。
たいした人違いでもなかったのだ。この禿げ頭の人物は『スラビア』銀行の頭取プールクラーベク氏ではなくて、フォン・シュワルツブルク少将であったにすぎない。私服でブードワイスの連隊を不意打ちの検閲におもむく途中であった。
このフォン・シュワルツブルク少将というのは、古今未曽有の恐るべき監督将官であった。検閲に際し何か不規律なことを見つけると、彼はその兵営の司令官とあっさり次のような会話をやるだけだった――
「君、ピストルを持ってるかね?」――「はッ、持っています」――「よし! 吾輩が君の立場にいたとすれば、あの不規律な男をどう処置するか心得てるんだがな。ここは兵営じゃなくて、まるで豚小屋じゃないか」
検閲旅行を終えても、誰一人射殺された者がないという事は、彼には物足りないらしかった。まったく取るに足らぬようなことを理由に、どしどし将校の転勤を命じ、ひどい所へ追いやる癖があった。
「この数年来気づいていることだが、将校連が部下のものとなれなれしい口をきいとる。ここにある種の民主主義的原理をひろめるという危険がひそむ。兵卒などというものは、絶えずこわがらしておき、上官の前でぶるぶる震えあがるほど恐れしめなくちゃならん、将校は部下を十歩以内には近づけないようにし、独りで熟考したり、いや、そもそも考えたりすることを許しちゃならん。以前は、兵卒は将校を火のようにこわがったものだが、今日では……」フォン・シュワルツブルク少将は、いい加減ルーカッシュ中尉の油をしぼったのち、こんな訓話を聞かせた。そしてまた新聞を手にとって、じっと読みふけるのであった。
ルーカッシュ中尉は、真青になって、車室を出た。いよいよシュベイクの始末をつけるときがきたと思った。
シュベイクは、廊下の窓によりかかって立っていた。その幸福そうな満足そうな顔付は、生後一カ月の赤ん坊が、腹一杯お乳を吸って、うとうと眠っている場合にのみ見られるものだ。
中尉は、シュベイクにあいた車室にはいれと目くばせした。シュベイクの後からはいった中尉は戸口に鍵をかけた。
「こらシュベイク、気が遠くなるほど貴様の横面をぶんなぐるときが、いよいよ来たぞ。貴様はなぜあの禿げ頭の紳士をひどい目にあわせたんだ? あの方は、フォン・シュワルツブルク将軍だということを知らないのか?」
中尉は振りあげようとした拳を引っこめざるを得なかった。シュベイクは、生れ落ちてから一度だって他人を侮辱しようなどとは思ったこともなく、また、頭に毛の一本もない少将があろうなどとは夢にも考えていなかったからである。彼は、これを極めて自然な言葉で、豊富な例を引いて説明した。
中尉は、何とも言うべき言葉がないので、シュベイクをにらみつけただけで、元の車室へ戻っていった。と、間もなく、戸口にシュベイクがその正直な顔をあらわした。
「申し上げます、中尉殿、あと五分でタポル駅に着くであります。何か食べるものを買うでありますか、四、五年前ここで大変うまい……」
中尉は、かんかんにおこった。とびあがり、廊下に向い突進して、シュベイクにどなりつけた――
「こら、よくきけ、貴様が顔を出さなければ出さないほど、俺は幸福なんだ。できることなら、永久に俺の眼の届かないような所へ消えてうせやがれ、畜生、馬鹿!」
「はッ、中尉殿」
シュベイクは敬礼して、軍隊式に廻れ右をし、廊下のはしにある車掌室に向つた。そしてそこにいた鉄道員に話しかけた。
鉄道員は、気乗りしないと見えて、いい加減な返事をしていたが、問題が『非常制動機』に及んだので、彼は説明することを義務と感じたらしく、シュベイクと共に、そこにあった『非常制動機』の前に立って言った――
「このハンドルを引けば列車がとまるというのは本当です。だが、見せかけだけで実際の役に立たないなんて言いふらす者がありますが、そりゃ嘘です。信号は各車輌および機関車と連結してありますからここをこう引けば……」
その際、二人の手は非常制動機のハンドルの上にあった。しかしどうして彼らがそのハンドルを引っぱって列車をとめるに至ったか、まったく解くことのできない謎である。
二人のうちのどちらがハンドルを引いたのか、どうしてもわからなかった。二人とも自己の無罪を主張した。
「駅長さんが裁いてくれますよ」と、車掌がこの場の|けり《ヽヽ》をつけた。「二十クローネの罰金ですぜ」
突然列車がとまったので、あわてて飛びだす客が沢山あった。一人の婦人なぞ、おったまげて旅行鞄を一つかかえ、線路の向うの畑の中へ走りこんでしまった。
「こりゃ二十クローネだけの値打ちがあるわい」と、シュベイクは正直に言った。「安すぎるくらいだ。いつだったか皇帝陛下がジイズコフへ行幸の際、フランク・シュノルという人が、車道の中にはいり、そこへひざまずいて陛下を拝もうとしたので、お召しの馬車はとまった。そのとき、この区域を警戒していた警官が泣きながらシュノルさんに言った――どうせ拝むならなぜもう一つ先の通りでやってくれなかった、あすこだと受持の区域が違うんだのに。そのシュノルさんは、馬車をとめただけで、監獄へぶちこまれたんだよ」
シュベイクのぐるりには大勢の人が集まっていた。車掌長がやってきて進路をあけようとしたとき、シュベイクは言った。
「さあ、もう発車したらどうです。延着しちゃ困りますぜ。平時ならともかく、今は戦争中ですからな。この汽車の中にも、少将だの、中尉だの従卒だのが乗っていらっしゃるんだ。ナポレオンはワーテルローの戦いで、たった五分おくれたため、彼の名誉をすっかり台無しにしてしまったじゃないか」
やがて列車は動きだした。シュベイクを取りまいていた弥次馬乗客も各自の席に帰り、あとには車掌とシュベイクだけが残った。
車掌は、シュベイクに二十クローネ出せ、もし出さなければタポル駅の駅長の前に突きだすから、と言った。
「結構」と、シュベイクは言った。「わしゃ教育のある人間と話すのが好きじゃ、タポルの駅長に会えるのは大変嬉しい」
そう言って、シュベイクは上衣のなかから長い煙管を出し、軍隊煙草の臭い煙をぷかぷかはきながらどこかの駅長の話をしだした。
列車はタポルの停車場にはいった。車掌同道で列車を出る前、シュベイクは先ずルーカッシュ中尉へ報告にいった――「申し上げます。中尉殿。私は駅長のところへ引っぱられていくであります」
中尉は返事しなかった。彼は、あらゆる物事を無感覚でとおそうと決心したのであった。シュベイクはもちろん、禿げ頭の少将も眼中になかった。列車がブードワイスに着けば、兵営へ出頭し、行軍大隊にはいって前線に出る。そして機会さえあれば殺されてこの見ぐるしい世の中、このシュベイクのような奴がうろついている世の中に|さよなら《ヽヽヽヽ》するのだ。
列車が動きだしたとき、中尉は窓からシュベイクがプラットホームに立って駅長とさかんに談じあっているのを見た。中尉はほっと溜息をついた。それは嘆きからではなくて、シュベイクがホームへ置き去りにされたので気分が軽くなったからである――向いあってすわっている禿げ頭少将でさえ、そう不愉快なお化けだとは思われなくなったくらいに。
列車はブードワイスに向ってどんどん近づいた。しかしタポル駅のホームでは、シュベイクを取りまいてどんどん人が集まった。
シュベイクはさかんに自己の無罪を主張した、一人の女が――「また兵隊さんをいじめてるわ」と言った。群集はこの意見に賛成した。群集のなかにいた一人の紳士が駅長に向い、たしかにこの兵士がやったんじゃないが、二十クローネの罰金は自分が支払ってやろう、と言った。
シュベイクに代って罰金を払ってくれた紳士は、シュベイクを三等の待合室の食堂へ連れていった。ビールをご馳走した上、シュベイクの軍隊手帳も切符も中尉が持っていってしまったので、切符代そのほかにと、五クローネをめぐんだ。
別れぎわに、その紳士はシュベイクにそっと言った――
「じゃ、兵隊さん、捕虜となってロシアへ行ったら、ツドルブルーノフで醸造業をやっているフューマンによろしく言っておくれ。書き取ったろうな。馬鹿正直にいつまでも戦線にいるのはお止し」
「その心配はご無用でさ」と、シュベイクが言った。「よその国をタダで見物するのは、面白いですからなあ」
シュベイクは、ひとり残って、この尊い慈善家からもらった五クローネでゆっくりとビールを飲んでいた。
普通列車の到着する時刻前になると、三等待合の食堂は、兵隊や普通の人でいっぱいになった。いろんな連隊、いろんな民族の兵士であったが、彼らは陸軍病院で、どうにか傷病をなおし、また新しい負傷や不具や苦痛を背負いこみに、ふたたび戦線へ出かけるところだ。もしふたたび陸軍病院に戻らないとすれば、机の上にお粗末な十字架を突きさしてもらうだけである。これから数年も経てば、東ガリシアの荒涼たる平原に矢鱈にあるこの十字架の上に被《かぶ》されている錆びきった徽章のついたオーストリア兵の帽子が、風や雨に、はたはたとゆれることであろう。その色あせた帽子の上に、ときおり年とったカラスがとまって、数年前のおいしかったご馳走を思いおこすことであろう――この辺は一帯に無限に広い食卓だった、その上には人間や馬の屍が山もりに並んでいたのだ。そして今ちょうど俺のとまっているような帽子の下には珍味中の珍味、人間の眼玉があったものだが。
この悲惨な兵士の中に、一人のマジャール人がいた。ハンガリー王のために戦線に出て、腕に弾丸をくらったのであった。やつれてひどく元気がなかった。
シュベイクには、マジャール語がわからなかったが、彼の身ぶりで大体推測することができた。家には小さい子供が三人あって何も食うものがない〔そのとき彼は眼をぬぐった〕。
「マジャールの兄弟」と、シュベイクは、三杯目のビールを彼にすすめながら言った。「いいから飲めよ、お礼なんかいらねえ、うんと飲め」
ブードワイス行の汽車は、何本も通りすぎた。が、切符代にともらった五クローネをマジャール人と自分のために飲んでしまったシュベイクは、このテーブルを離れたところでどうにも仕様がなかった。
「お前の手帳は?」と、巡閲官の曹長が銃剣を持った四人の兵士をしたがえてシュベイクのところにやって来て、へんなチェコ語できいた。「お前は、さっきからここにすわって、列車に乗ろうともせず飲んでばかりいるじゃないか!」
シュベイクは停車場|駐剳《ちゅうさつ》隊の番兵室へ引っぱられた。そのなかには、陸軍省から配布したいろんな石版刷りがあちらこちらにかかっていた。
正面にある一枚の絵が、先ずシュベイクの眼にとまった。その標題からみると、狙撃兵第二一連隊のハウンメル小隊長とパルハルトおよびブッフマイヤー両曹長がいかに部下を激励して陣地を死守したか、ということがえがかれているらしい。べつの壁にかかっている図には――「驃騎兵第五連隊ヤン・ダンコ小隊長、敵の砲兵陣地を偵察す」と標題がついてあった。
右側に、やや低く、|珍しき勇敢なる《ヽヽヽヽヽヽヽ》例というポスターがかかっていた。
この種のポスター、徴発されたドイツのジャーナリストたちが陸軍省の事務室のなかで兵士を鼓舞するために作ったものだが、兵士の方ではいっこう見むきもしなかった。またこんな勇敢なる例を集め書物として戦線に送ったものだが、兵士はこの書物の紙で刻み煙草をいれる箱をこしらえるか、でなければ、この『発明されたる』素晴しい勇敢なる兵士の模範の価値と精神にふさわしいように|もっと《ヽヽヽ》実用的な方面に使ったものだ。
曹長が、駐在隊長を探しにいった間に、シュベイクは、そのポスターを読んだ――
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輜重《しちょう》兵 ヨセフ・ボング
衛生隊の兵士は、隘路の中に用意せる傷病兵運搬車内に重傷兵を搬入し、而してこの運搬車を繃帯所に移送せり。この運搬車を発見せる露軍は、榴弾をこれに集中したり。輜重兵第三中隊ヨセフ・ボングの馬は、この榴弾の破片により斃るるに至れり。輜重兵ボングは嘆きて言えり、「ああ我が哀れなる駒よ、汝ついに起たず」と、その瞬間彼もまた榴弾の破片に見舞われぬ。されど彼は屈せず馬を外してこの重き車を安全なる避難所まで牽きゆき、更に引き返して斃れし馬より馬具を取らんとせり。露軍の砲撃は小止みなし。「射たば射て、呪われたる暴君よ。されど余はこの馬具をここに遺棄する能わず!」と呟き、ついに馬具を馬より外し、車を置けるところまで持ち来れり。彼の長時間にわたる不在を厳しく叱責せる看護兵に対し「余はかの馬具を遺棄するに忍びざりき。そは全く新品同様なり。かかる品を遺棄するは残念なりと余は思いぬ。我らはかかる品を過剰に持ちおらざればなり」と、この勇敢なる戦士は述べ、しかるのち繃帯所に至り、初めて自己の傷つける旨を告げたり。後日彼の中隊長は彼の腕を飾るに勇敢章を以てせり。
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読み終ったシュベイクは、番兵室のなかにいた後備兵に話しかけた――「大変結構な、勇敢なる例だな。こういう具合にやりゃ、俺らの軍隊にゃ新しい馬具ばかりあることになろうて」
そのうちに駐在隊長が見えて、シュベイクに対する訊問が始まった。
「貴様停車場で何しておった?」との問いにたいし、シュベイクは、ルーカッシュ中尉のトランク紛失の一件からはじめて、禿げ頭少将のこと、非常制動機の騒動まで、じゅんじゅんと説いていった。そして「中尉殿は私の手帳を持っていってしまったので、私はここで手帳なしにまるで孤児のように取り残されとるであります」と、結んだ。
シュベイクの顔付や話し振りでは、どう見ても生れつきの馬鹿としか思えなかった。それで駐在隊長も彼の言うことが嘘でないと信ぜざるをえなかった。それから次の質問にいった――「その急行の後に、いくつもブードワイス行の列車があったのに、どうして乗らなかったんだ?」
「申し上げます、少尉殿」と、シュベイクはお人よしな微笑をうかべながら答えた。「次の列車を待っている間に、ビールのコップを重ねていったのであります」
「こんな馬鹿は今まで見たことがないぞ」と、駐在隊長は思った。「なにもかも白状してしまいやがる。俺はここでもう何人調べたかもしれゃしないが、みんな嘘をついたのに、こいつ平気で――ビールのコップを重ねていったので列車に乗りおくれましたと、きやがる」
彼はこんな馬鹿を相手にしたんでは、いつまでたっても|らち《ヽヽ》があかないと思ったので、こうどなりつけた――
「こら、馬鹿、頓馬、出札口へいって切符を買い、ブードワイスへ行くんだ。ここいらでうろうろしていると脱営兵と同じように取り扱うぞ。さがれ!」
シュベイクは、動こうともせず、ひっきりなしに帽子のふちへ手をもってゆくばかりなので、隊長はまたどなりつけた――「出ていけ、貴様耳がないのか。さがれ! って言ったじゃないか。パラーネク伍長。この馬鹿野郎を出札口へ連れていって、ブードワイスまでの切符を買ってやれ!」
パラーネク伍長はじき引きかえしてきた。そして彼のうしろの半分ほど開いた戸の隙間から、シュベイクのお人よしな顔が、こちらをのぞいていた。
「またか、どうしたというんだ?」
「申し上げます、少尉殿」と、伍長は秘密そうにささやいた。「あの男は一文も持っていないのであります。私もであります。そして軍隊手帳も持っていませんから、無賃乗車券ももらえないであります」
駐在隊長は、この厄介な問題にたいして、たちまち名判決をくだした――
「じゃ 徒歩でいけと言え、おくれたんだから、向うの連隊で営倉なり何なり受けるがよかろ。ここじゃあんな奴にかまっちゃいられん」
事務室から出てきたパラーネク伍長は、シュベイクに言った――「どうしても駄目なんだよ、兄弟。気の毒だが、お前ブードワイスまで歩いていかなくちゃ――あすこの番兵室に軍隊パンが一本そっくりあるから、道中の用意に持ってけよ、な」
番兵室にいた後備兵達は、なけなしの財布からシュベイクのためにコーヒーをおごり、軍隊パンのほかに軍隊煙草を一個餞別にあたえた。それからしばらくたってシュベイクは、暗い夜のタポルの町を出発した。
しかるに、どうしたことか、勇敢なる兵士シュベイクは、ブードワイスのある南方に向わないで、どんどんと西の方に向って行進するではないか。
彼は、外套にくるまって、雪のつもった街道を歩いていく――モスクワ遠征から引きあげたナポレオンの近衛兵の最後の一人のように。ただことなる点は、シュベイクが愉快そうに歌をうたっているというだけだ。
その歌は、夜の静けさを破って雪の積った森にこだました。そしてあちこちの村では、犬がほえ始めるのであった。
歌にも飽きたので、シュベイクは道端に積んであった砕石の上に腰をおろし、煙管に煙草をつめて一服した。そして疲れもなおったので、また出かけた――新しい冒険、ブードワイス進軍に向って。
二 シュベイクのブードワイス進軍
大昔のこと、クセノフォンという将軍は、あの広い小アジアを駈けめぐったものだが、もちろん地図なんて気のきいたものの無かった頃のこととて、どこをどう通ったものか将軍自身にも解らなかった。また中世紀にはゴート人が全ヨーロッパを荒らしたものだが、彼らもやはりなんら地理に関する予備知識がなかった。
ローマ皇帝の軍隊も、地図なしにずいぶん遠方まで稼ぎに出かけている。同じ道を帰ると、獲物が少ないからというわけで、別の道を通ってローマに進軍し、矢張り成功した。『すべての道はローマに通ず』ってのは、このときから一般に言われているのだ。
と同様に、すべての道はブードワイスに通ず。ブードワイス付近の代わりにミュールハウゼン付近の村を見かけたが、この格言を固く信じている勇敢なる兵士シュベイクは、一路西に向って邁進《まいしん》するのみであった。いつかはブードワイスに到達するだろうと決めている勇敢なる兵士、ミュールハウゼンごときがどうして遮《さえぎ》ることができようぞ。
教会からの帰りらしい老婆《ばあ》さんが、クビエートフからウラーツへいく道をどんどん歩いていくシュベイクに話しかけた――「こんちわ、兵隊さん、お前さんどこさ行かっしゃるだ?」
「おや、老婆《ばあ》さんですかい」と、シュベイクは調子をあわせて答えた。「わしゃブードワイスの連隊さ戦争に行きますだ」
「そりゃ道が違いますだよ、お若いの」と、老婆《ばあ》さんはびっくりして言った、「飛んでもねえ、ウラーツの方さ行くとクラッタウさ出ますだ」
「クラッタウからでも」と、シュベイクは神妙に言った。「ブードワイスへ行けると思うんだがね。ちょうどいい散歩だよ」
シュベイクをてっきり脱営兵だと思いこんだ老婆《ばあ》さんは、彼に同情しながら言った。
「あすこの森でちょっくら待ってなされ、馬鈴薯の温けえの持ってきて上げるからな。お前さん、証明書持ってなさるかな、なに、持ってねえ? それじゃ危ねえだよ、ここいらにゃ憲兵が鵜の目鷹の目でうろついとるで、森のふちでも通ってラドミシュルの方さ行くだ。そこも昼間は危ねえが」そう言って老婆《ばあ》さんはラドミシュルに住んでいる兄弟の所をシュベイクに教えた。そこへ行ったらよろしく言っておくれ、そしてそこからブードワイスに行く道順をきくがよいと言った。
森の中でシュベイクは半時間以上も待った。老婆《ばあ》さんは馬鈴薯のスープをあたためて壺にいれ、それを座蒲団にくるんで持ってきた。また布のなかからパンとベーコンを取りだしてシュベイクのポケットに押しこんでくれた。それからシュベイクに十字架を切って、自分の孫も二人『あっち』へ行ってるのだと言った。
別れぎわに彼女は一クローネをシュベイクに握らし、ラドミシュルまではまだ遠いんだから途中でお酒でも飲んで元気をつけるようにと言った。
老婆《ばあ》さんの注意に従って、シュベイクはここから方向を東の方にとって、ラドミシュルに向った。また老婆さんの好意に従って、途中ある酒屋にたちよりブランデーを一本買いもとめた。
その酒屋でいっしょになった一人の年とった手風琴弾きが道連れに加わった。この手風琴弾きも、シュベイクを脱営兵だと思いこんで、いろんな注意をあたえてくれた。彼の娘はホラッドウィツにいて、その夫というのが脱営兵であった。
「うちの娘は、夫をもう二カ月間も厩《うまや》のなかにかくまっとるじゃ」と。彼はさかんにシュベイクを説きふせようと試みた。「悪いことあ言わねえ、お前さんもそこで戦争の終るまで隠れてちゃどうだ。二人でいっしょにいりゃ、厩のなかだってそう辛くもねえぜ」
シュベイクは、ていねいにことわった。好意を無にされた手風琴弾きは、非常に憤慨して、憲兵隊へ訴えてやるぞとおどかしながら、左の方の畑のなかへ駈けこんでいってしまった。
日が暮れてからラドミシュルにはいったシュベイクは、老婆《ばあ》さんの兄弟というのをたずねた。老婆《ばあ》さんからよろしくとの伝言をしたが、彼はにっこりともしなかった。昔風に律気な彼は、しきりにシュベイクに証明書を見せろと催促するのであった。
「畜生、それでもタポルからブードワイスの連隊へ行くんだと?」と、彼はシュベイクを暗闇のなかに突きだしながら言った。「まずホラッドウィツへ行って、次にビーゼクへ行く。畜生、世界一周旅行をやってやがらあ」
その夜、シュベイクはやたらに歩いて、どこかプーチム付近の畑のなかにあった稲むらを見つけた。藁を掻きわけて横になると、あたりに人声がするのであった――
「どこの連隊から来たんだい? どこへいくんだい?」
驚いたことには、シュベイクの横になったすぐかたわらに、一人でなく三人の男がいた。二人は歩兵第三五連隊のもので、一人は砲兵隊のものであった。二人の歩兵は一カ月ほど前、行軍大隊の編成にさきだって脱走し、砲兵は動員令のくだると同時に脱走したものであった。この稲むらは砲兵の持ち物で、夜はいつもここに泊ることにしているらしい。
三人とも戦争はあと二カ月を出でずして終るものと信じていた。そしてシュベイクも誘って自分達の仲間にいれようとした――「なあ九一連隊。なんならいっしょになろうぜ。中尉なんか見限っちめえよ」
「そう簡単にいかねえよ」と、シュベイクは答えて、藁のなかに深くもぐった。
翌朝眼をさますと、もう誰もそこにいなかった。足許にパンが一片置いてあった。誰かの――たぶんあの砲兵だろう――やさしい心遣いだった。
シュベイクは森の中を歩いた。そのとき出会った一人の浮浪人が、十年の知己のように、シュベイクに持っていたブランデーを一本飲ましてくれた。
「お前さん、その恰好じゃ目立っていけねえよ。この節あどこへいっても憲兵がうようよするほどいるからなあ。そしてその恰好じゃ乞食もできねえから、その帽子や軍服はユダヤ人に売っちまうんだ。外套は、もう大分古いな、それならいいよ。払い下げを着て歩いてる奴がよくあるから、そいつあ取っときな」
「ともかく、今夜は」と、浮浪人は、新しくできた相棒に、当面の計画を述べた。「ストラコニッツへ泊ろう。あすこの羊小屋に俺の知合いがいるんだ」
羊飼いの爺さんは、自分の爺さんがナポレオン戦争の頃、やはり脱営兵だったという因縁から、シュベイクを歓迎した。そしてその夜は囲炉裏をかこんで、昔話をしてきかせた。
シュベイクは、あたたかい馬鈴薯をうんとご馳走になって寝たが、夜中にそっと起き、身支度をととのえてそとへ出た。東の方から月がのぼった。彼は月の方向に向って歩きながら、また繰りかえして言った――「そうはいかねえ、俺あどうあってもブードワイスへいくんだ」
「前進、前進!」と勇敢なる兵士シュベイクは独り言を言った。「義務は重いぞ、呪われたるブードワイス、やはり俺あそこへ行かなくちゃならん」
お昼頃、一つの村が見えた。小さい岡の上に登って見渡した彼は首をひねるのであった――「まるで見当がつかなくなったぞ。この調子じゃ何年たってもブードワイスへ着きそうにない。一つきいてみよう」
村の中へはいったシュベイクは驚いた、標石に『プーチム』区と書いてあるではないか。
「こりゃ大変だ」シュベイクは吐息をついた。「じゃまたプーチムへ舞い戻ったんだな。おとといこの近所の稲むらで泊ったんじゃないか!」
が、もっと驚いたことには、一人の憲兵がひょっこりシュベイクの前にあらわれて、あっさりと「どこへ行くんだ」ときくのであった。
「ブードワイス連隊へ」
憲兵は皮肉たっぷりに笑った――「ブードワイス|から《ヽヽ》来たんじゃないか、お前はそのブードワイスを通り過ぎてきたんじゃないか」
プーチムの憲兵分隊長は、非常に気転がきくと同時に鋭いやり口でもって、この地方では有名だった。取調べに際し、ののしるというようなことをせず、無罪の者でさえ白状せざるを得ないというような遠廻しの訊問法をおこなった。
「やあ君、よく来たね」と、分隊長室に引っぱられて来たシュベイクを前において、分隊長は言った。
「まあ掛け給え、だいぶんくたびれているようじゃないか。これからどこへいくつもりだね?」
「なに、ブードワイスの連隊へ?」と、分隊長は皮肉に言った。「そりゃ君、まるで道が違うよ。君はブードワイスから来たんじゃないか。それが解らないと言うなら納得のいくように説明してあげよう。そらここにボヘミアの地図があるから」
憲兵分隊長は、地図を指しながら説明した。それによれば、この分隊長ばかりでなく誰でもシュベイクがブードワイスへ行くのではなくてブードワイスから来たのだと信ぜざるをえなかった。
しかしシュベイクは静かに落ちつきはらって言った――
「何とおっしゃっても私はブードワイスへ行くんです」これは、近世初期の大科学者ガリレオ・ガリレイが「それでも地球は動いている!」と言った以上であった。何となれば、ガリレイは怒気すさまじく言ったに違いないから。
「ちぇ、君、遠慮しないで言ってくれ。君はどこから出発して、その君のブードワイスへ行くつもりだい? 僕はわざと|君の《ヽヽ》と言うよ、従来の地図には載っていないような別のブードワイスがあるのかもしれないからね」
「タポルから出発しました」
「タポルで何をしていた?」
「ブードワイス行の列車を待ってました」
「なぜ列車でブードワイスへ行かなかった?」
「切符が無いもんでしたから」
「なぜ兵士としての君は、無料乗車券がもらえなかった?」
「軍隊手帳を持ちあわせていなかったもんですからね」
「これだよ」と、憲兵隊長はそばにいた憲兵一人に向って言った。「この男、見かけほどの馬鹿じゃないぜ、手際よくごまかし始めたよ」
分隊長は、シュベイクの最後の言葉、すなわち軍隊手帳のことを聞きもらしたかのように、問題を最初の方へもっていった。
「そうか、タポルから出発したというんだね。それで、どういう風に歩いたんだ?」
「ブードワイスの方に」
「君、地図で説明してくれないか、どういう風な道を通ったんだか」
「土地の名前なんか、いちいちおぼえていませんよ。一度このプーチムを通ったということだけは思い出しますがね」
いあわせた憲兵逮は、こいつ|うさん《ヽヽヽ》臭いぞといった風にたがいに顔を見あわせた。分隊長は引きつづききくのであった――
「タポルでは停車場におったんだね。何か所持品があるだろうね。ちょっと出して見せてくれないか」
厳重な身体検査の結果も煙管とマッチ以外に何もあらわれなかったので、分隊長はきいた――「どうして君は何も、まったく何も持たないのかね?」
「何も要らないんですから」
「ええい、じれったいな」と、分隊長は溜息をもらした。「君は一度プーチムに来たと言ったね。そのときここで何をした?」
「プーチムを通ってブードワイスへ行ったんです」
「それみなさい、君の言ってることは矛盾してるじゃないか。君は、さっきブードワイスへ行ったんだと言ったね。そして今は僕が説明した通り、君はブードワイスから来たと言ってるじゃないか」
「それじゃきっとぐるぐる廻ってたに違いない」
分隊長はふたたびそこにいた憲兵達と意味ありげに眼くばせした後、シュベイクにきいた――「タポルの駅で何をしていた?」
「兵隊と話しました」分隊長の眼はふたたびぎろりと光った。
「例えばどんな話をした?」
「どこの連隊だい? とか、どこへ行くんだい? とか」
「なるほど。それから、一箇連隊は何人あるか、とか、どういう風に編成されてるか、とかきいたろうね?」
「そんな事はききませんよ、とうの昔におぼえていますからな」
「じゃ君は、我が軍の編成については完全に知ってるんだね?」
「もちろんです、分隊長殿」
そこで、分隊長は、鼻たかだかと部下の憲兵達を眺めわたした後、取っときの切り札を出した――
「君、ロシア語ができるかね?」
「いいえ」
分隊長は、歩哨長を別室に呼び、自己の完全なる勝利に嬉しそうに手をもみながら言った――
「君、きいたろう? 奴さんロシア語を知らない、だとさ! こいつ一筋縄じゃいかねえぜ。何もかも白状したが、いちばん大事なところになると、知らねえときやがる。明日ビーゼクの憲兵区司令官殿のところへ引っぱっていこう。見たところひどく抜けたような顔をしているが、こんな奴こそ食えないんだ。ともかく、監禁しといてくれ、その間に僕は記録をとっておくから」
憲兵分隊長は、その日の夕方までかかって、にこにこしながら記録を書きあげた。そのなかには到るところ『軍事探偵の嫌疑』という言葉が見られた。
「あの男には」と、分隊長は歩哨を呼びつけて命じた。「非常な例外として、ご馳走をしてやれ。ありゃたしかに、将校だよ、参謀本部付きの将校に違いない。ロシアが上等兵のようなものをスパイに寄こすはずはないからな。料理屋から定食を取りよせてやれ、それからルムいりのお茶もとってやれ。だが、料理屋へは黙ってるんだぞ、ここに誰がいるなんて事をしゃべっちゃいかん、これは軍隊の機密だからな。そこで奴さん何をしてる?」
「煙草が欲しいと言ったのであります。番兵室で、まるで自分の家のように気楽そうにすわっておるであります」
「えれえもんだな」と、分隊長は感心して言った。「銃殺されると知りながらも、どこを風が吹くかといった態度なんだ。敵とはいえ、見上げたものじゃないか。そこだよ君。あすこまでいくには、鋼鉄のような神経がなくちゃならん、自己抑制、堅忍不抜、絶大なる熱情といったものがなくちゃできんことだ。我がオーストリア帝国にも、こんな熱情がありさえすりゃ……、いや、こんな話は止した方がよかろう。君、食事の注文に誰かをやってくれ、そしてその間にあの男をこちらへ呼んでくれないか」
両親は? ボヘミアは気にいったか? ブードワイスで何をするつもりだった? 憲兵分隊長はこんな事をシュベイクにきいて、彼をふたたび番兵室にかえした後、その得た答を次のように記録に記入した。――「チェコ語を完全に話し得るこの密偵嫌疑者は、ブードワイス市に到り、歩兵第九一連隊に潜入せんとせり」
分隊長は、この密偵嫌疑者に関し蒐集し得た材料にいま一度眼を通し、自分の訊問法の適確なる結果についていかにも満足そうな笑みをもらすのであった。それから彼は机の抽出しから憲兵本部司令官から「極秘!」として来ている訓令書を出して、よみかえしてみた――
「各憲兵分隊は、その管轄区域を通過する凡ゆる人物を厳重に監視すべし。東ガリシア方面における我が軍の移動により、ロシアはカルパチアの陣地を越え、我が帝国の領土内に入ることとなれり。従ってロシア軍密偵は、この戦線の移動と共に深く帝国の内地、特にシレジア及びモラビア地方に潜入し、また信ずべき報告によれば、多数のロシア軍密偵は既にボヘミア地方にも潜入の形跡あり。彼らの中には多数のチェコ系ロシア人あり、彼らはロシアの陸軍大学を卒業せるものにして、チェコ語に通暁するが故に、特に危険なる軍事密偵なりとす。何となれば、彼らはチェコの住民間に売国的プロパガンダを行い得る状態にあり、且つ確かに行いつつあればなり。凡ゆる疑わしき分子を留置すること、ことに兵営および軍用列車通過の停車場付近の警戒を厳重にすることを、憲兵本部の命令としてここに示達す。留置せしものに対してはとりあえず一応の取調べを行いたる上、これを上級法廷に引き渡すべし」
内務省が作成したこの種の訓令は、実におびただしい数にのぼった。各地の憲兵分隊では、これらの訓令を更に刷って配布しなければならなかったので、仕事は山ほどあった。
例えば、管轄区域における住民の思想を監視する件に関してはこんなのがあった――
住民間の日常の会話により、戦況報告が住民の思想に及ぼす影響を観察すること。
戦時公債および献金についての住民の態度を調査すること。
召集令を受けたる者、および受くべき者の間における意向を調査すること。
地方自治団体員および知識階級分子の間における気分を調査すること。
地方政党の状況、殊にその指導者の活動を観察すること。
各管轄区域内に送達せらるる新聞、雑誌およびパンフレット類を調査すること。
金品を給与して、住民の中より報告者を獲得すること。
こう言った訓令が、毎日のように各地の憲兵分隊にとどいた。オーストリア帝国の内務省は、臣民の忠誠の度合を、次の等級で表した――1a、1b、1c――2a、2b、2c――3a、3b、3c――4a、4b、4c 。この第四級の組は、最も危険なる分子すなわち売国奴を示すもので、「a」と組み合わさったものは絞首刑に処すべきもの、「b」と組み合わさったものは監禁すべきもの、「c」と組み合わさったものは監視を意味するのであった。凡そいささかなりとも人間らしい考えを持ち、かつ話すものは、憲兵分隊の帳簿のなかに、かかる符牒をもって記入されたのであった。
オーストリア帝国内務省の理想としては、あらゆる住民が何を考えているかを、右の符牒のうちに分類することにあったらしい。だから各地の憲兵隊が、この仕事だけでもまったくやり切れないほどあったことは、想像にかたくない。その上、毎日のように、あとからあとから訓令がとどくのである。プーチム駐在の憲兵分隊長も、郵便物の中に「郵税不要、公用文書」と捺印した封筒を見るたびに、胸をおしつけられるような気持がするのであった。そして夜中に眼をさまして、このことを考えると、戦争の終らない先に、自分が参ってしまうだろうと思わざるをえなかった。
そればかりでない、憲兵本部司令官から、毎日矢のような督促状が降ってくる――第七一二イヲヘ組第七二五四五号の照会書の返事をなぜ出さないか? 第八二二トヘホチ組第八八九七二号の指令の処置はまだそのままになっているがなぜか? 第一九二二ロネソ組第一二三四五号の訓令の結果はどうなったか?
しかしいちばん頭をなやましたのは、どうして住民の中から密告者を買収するかの問題であった。いろいろ考えぬいた揚げ句、「ベープカ・ホップ!」と呼ばれている、少なからず低能の男、年五、六円の手当てとわずかばかりの食物をもらって、組合の羊を番しているせむしの男を利用することにした。
この羊飼いを呼びつけて、憲兵分隊長がきいた――「おいべープカ。ブロハーツカの爺って誰だか知っているか?」
「メーー」
「こら、羊の啼き声なんかするんじゃない。我々の皇帝のことを皆がそう言っとるじゃから憶えとけ。我々のカイザーって誰だか知ってるか?」
「タイザー」
「そうだ、ベープカ。お前方々の家へいって我々のカイザーのことを畜生だとか言っとるのを聞いたら、すぐここへ駈けつけて来い、いいか。そうすりゃお前に五銭玉一つやろう。それから、今度の戦争はこっちの負けだ、など言ってるのを聞いたら、また駈けつけて来いよ。五銭玉をもう一つやるからな。だが、いいか、そんな事を聞いていながら、俺に告げなかったら、貴様を縛ってピーゼクへ引っぱっていくぞ。さあ、ホップ!」
べープカはひょこひょこ飛んで来た。彼に五銭玉白銅二つ与えた分隊長は、早速憲兵本部へ得々として報告を書いた、すでに一人の密告者を獲得したと。
翌日、プーチムの牧師が分隊長のところに見えて、いかにも秘密そうに告げるのであった――今朝のこと、村はずれで羊飼いのべープカ・ホップに出会ったところ、こんな事を言いましたよ、「牧師の旦那聞いてくんなせえ、憲兵隊の旦那がな、昨日わしにこう言っただよ――俺らのタイザーは畜生だ! 俺ら今度の戦争、負けだ。メーー。ホップ!」
早速捕えられたべープカは、その後ウラージンの法廷で、売国煽動罪、不敬罪その他の犯罪に該当する故をもって十二年の懲役に処せられたのである。
これ以来密告者を獲得することのできなかった憲兵分隊長は、頭の中で一人の密告者を|でっち《ヽヽヽ》上げ、それにいいかげんな名前を付けておかざるをえなかった、しかしこのため、彼の月給は五十クローネ増すこととなった。
そして彼は憲兵本部への回答には、常にこう書きこんだ――「当管轄区域における住民の気分――1a(忠誠度第一級)」
もちろん、内心はびくびくものであった、今日にも検閲が来やしないか、そして住民の本当の気分を探りはしないかと。彼はまた怖い夢ばかり見るのであった、その中に一つにこんなのがあった――絞首台にのぼらされた彼は、死際にもなお督促されるのであった、「こら憲兵分隊長、訓令第一三七九二エヒモセス組第一七八九六七八号の返事はどうした?」
しかし今度の捕物でじゃ――と憲兵分隊長は胸をわくわくさせながら考えた。今までの心配が帳消しになるばかりじゃない、うまくいきゃ昇給ものだぞ。
昇級、それは軍人および官吏の唯一最大の憧憬である。この憧憬をより大きく美しくしようと決心したプーチム区の憲兵分隊長は、この大切な事件の取調べをいっそう完全なものにする必要があった。
「どうでした、お食事は?」と、料理屋から取りよせた食事をすませて例により何一つ不満に思う点はないといったような顔をしたシュベイクが歩哨長に連れられてはいって来たのを、親切そうに迎えながら、分隊長がきいた。
「欲を言えば、野菜がもう少し沢山ついとると結構でしたがな。しかしなかなかいい肉ですな。そしてルムいりのお茶はまた格別ですな」
分隊長は、シュベイクの顔をじっと見たのち、本論にはいった――「ロシアって所は、ずいぶんお茶を飲むってことだが、本当かね? ルムもあるかね?」
「ルムは世界中どこへいってもありまさ」
(言いぬけようったって駄目だぞ!)と、分隊長は腹のなかで言った。(今頃気づいたって後の祭だ!)だがシュベイクに向っては打ちとけた調子で言った――「ロシアにも綺麗な娘さんがいるかね?」
「綺麗な娘さんは世界中どこへいったっていまさ」
(へえ、この狡い奴!)と、分隊長はまた腹のなかで言った。(今になって言いのがれようとするんだな)そしてこのとき取っときの巨砲を放った――
「九一連隊で何をするつもりだった?」
「いっしょに戦線に出るつもりだったのです」
分隊長は、いとも満足気にシュベイクを眺めて言った――「そいつぁ良かった。ロシアへ帰れる最良の方法だからのう」
そう言って分隊長は、シュベイクの顔色をうかがった。しかしそこには完全なる平静以外に何物も見いだすことができなかった。
(この男、眉一つ動かさねえぞ)と分隊長は内心大いに驚きながら考えた。(これが軍隊教育の賜物ってやつなんだろうな。もし俺がこんな場合にのぞんだとしたら、どうだろう。膝ががくがくふるえ出すぜ……)
分隊長は、なおいくつかの、彼独特の遠廻し式訊問法を行ったのち、シュベイクを退出させ、その結果により報告書をさらに完全なものとしていた、
「分隊長殿」と、そこへ歩哨長が現れて言った。「あの男が便所へゆきたいと言っとるであります」
「付け剣! いやちょっとここへ呼んでくれ」
「君便所へ行きたいんだって?」と分隊長はやさしそうにきいた。「その背後に何かもくろんでやしまいね?」
「背後では大便をもくろんどるだけです」と、シュベイクは答えた。
便所は、普通の木製の小屋であったが、もうかなりの年代ものであった。戸があきそうになるので、シュベイクは片手で戸をおさえながら用を果さねばならなかった。背面の窓から歩哨長が付け剣をしてのぞいている、汲み取り口から逃げだすかも知れないと万一をおもんぱかって、分隊長が命じたのであった。
分隊長の方はと見れば、七連発の短銃を持って、鷹のような目を光らせながら一心に戸をにらんでいた――もし遁走を試みるならば、どちらの脚を射ってやろう?
しかるに、しかるに戸は静かにあくではないか、そしてさっぱりと心持よくなったらしいシュベイクが中から現れて、分隊長に言った――
「どうもお待ちどおさまでした」
「いや、どう致しまして」と、分隊長は心の中では次のように感心しながらも、なにげなく言った。「何て上品な、行儀のよい人間だろう。明日にも命がなくなるってことを知っておりながら、まあ何て面目を重んずることだろう! 最後の瞬間にいたるもなお礼節を忘れない! あっぱれ武人の亀鑑《きかん》というべきじゃ」
いつもなら酒屋へいくところだが、分隊長は大事をとってその夜は番兵室ですごすことに決めた。
「その代わり婆さんを夕食の注文にやろう、そしてビールは壺で運ばそうぜ。あの婆さんにも少し運動させなくちゃ」
まったく、この憲兵分隊で下働きをしていた婆さんは、その夜はなかなか運動をした。大きな壺をさげた彼女が、憲兵分隊と酒屋との間を何度往復したかしれない。夜中もずっと過ぎて、まず歩哨長が参ってしまった。制服のまま長椅子の上に倒れて大きな鼾《いびき》をかき始めた。
分隊長もかなりの酩酊の態《てい》であった。片手にシュベイクの首をだき、片手にコントウショウカ酒の瓶を持っていた。茶色の頬は涙でぬれており、髭にはコントウショウカ酒がねばりついていた。彼は呂律《ろれつ》のまわらぬ舌で同じことばかり繰りかえした――「さあ、どうだ。こんな、どろっとしたうめえコントウショウカはロシアにゃあるめえ? あるとかねえとか返事をしろ、そうすりゃ俺あ安心して眠れるんだ。さあ、男らしく白状しろ!」
「こんないい酒あねえよ」
分隊長はシュベイクのうえに乗りかかった。
「ありがてえ、貴様白状したな。そう来なくちゃ、訊問のときは」
彼はあぶない足取りで自分の寝台に近づいたが、また机の抽出しから報告書を取り出し、次のように新しい材料を書き足そうと試みた――
「本官はなお一言付加せんと欲す。すなわち第五十六条によりロシア産コントウショウカ酒は……」
そこまで書くと、しみができた。それを舌でなめた彼は、急に気狂いのように笑いながら、寝台の上に倒れ、死人のようにねむってしまった。
歩哨長の鼾があまり高いので、シュベイクは明け方に眼をさました。起きあがった彼は、歩哨長の身体をゆさぶり、鼾のしずまったのをたしかめて、また横になった。日が出てから、昨夜の運動のためやはり寝坊をした婆さんが、暖炉へ火をいれにやって来た。戸は開けっぱなしになっており、みんなまだ白河夜船だった。
婆さんは歩哨長とシュベイクをたたきおこした。そして歩哨長に向って言った――「その寝相は何じゃ、畜生でももっとええぞ」またシュベイクにも注意を与えた――「ご婦人の前じゃ、ズボンの皮帯ぐらい締めるがよかろ!」
寝ぼけた歩哨長を突きだすようにして分隊長を起こしにやった後、婆さんはシュベイクに向って愚痴をこぼすのであった――
「よくもこう飲んべえばかり揃ったもんじゃ。俺あここの下働きをしだしてからもう三年にもなるに、まだ一文も給金をもらわねえだ。催促すりゃ、分隊長の奴、きっと『黙れ、文句ぬかすと貴様をふんじばるぞ。貴様の伜《せがれ》が密猟者だってことあ、俺あちゃんと知っとるんだ。ホルツ家の領地を荒らしとるじゃないか』とぬかしやがる」婆さんは、そこで深い溜息をもらし、またつづけた。
「お前さんも、あの分隊長の奴にゃ気をつけなせえよ。表面はあの通りすべっこいが、どうしてなかなか食えねえ野郎だからな。人を引っつかめえてほうりこむなんざあ、屁とも思ってねえだ」
やっとのことで分隊長の眼をさまさした歩哨長は、とがめるように上官の顔をのぞきこみながら言った――「分隊長殿。昨夜はあの男に大変なことを話されたのであります」
彼は分隊長の耳許に口をもっていって小声で言った――
「分隊長殿はこう言われたのです。俺らチェコ人もロシア人も、同じスラブ民族じゃ。来週にはニコライ・ニコライエウィッチがモラビアに攻めてくる。そうなりゃオーストリアは持ちこたえられまい――だからお前は、今しばらく頑張って白状せず、コサック兵が押しよせて解放してくれるまで何とか辻褄をあわせてゆかなくちゃならん。昔のフス戦争のときのように百姓達が殻竿《からざお》をふりまわしながらウィーンへ押しかけるときが来るだろう。皇帝はあの年だから明日にもくたばるだろう。独帝ウィルヘルムは、ありゃ獣じゃ。といったようにとんでもない事をおしゃべりになったであります」
歩哨長は、分隊長から離れて、付けくわえた――「そこまではよくおぼえとるであります。最初はそう酔ぱらっちゃいなかったからであります。それからさきは私もぐでんぐでんに酔っちまって何にも頭に残っとらんであります」
分隊長は、歩哨長をじろりとみた。
「だが俺の方が今度は憶えとる。君は大きな声でどなったぜ――ロシア万歳! とな」
こうして両人は、長い間、おたがいの醜態を順次にぶちまけ合った。しかしこのさい妥協して二人だけの胸にしまって置くのが利口なやり口であることに気づいた。
「あの男が逃げ出さなかったということこそ」と、分隊長は当面の問題にはいった。「どんなに危険な海千山千の人物であるかということを証拠だてるものだ。法廷で昨夜のことをありのままに述べたてるだろうが、法廷というものは、そんなことを取りあげるものじゃない。それは被告の作りごとです、真赤な偽りですとこっちから言や、それっきりさ」
昨夜書きこもうとしてしみをこしらえたままに終った報告書に手をいれた分隊長は、もう一つシュベイクにきかねばならない事のあるのに気づいた。そこで彼はシュベイクを呼んできいた――
「君、写真を撮れるかね?」
「はあ」
「だが、なぜカメラを持っていないんだ?」
「無いですからなあ」
「もしあったら、写真を撮るだろうね?」
「当り前じゃありませんか」
この率直な答えには分隊長も弱った。二日酔いで痛む頭からは、次の質問しか考えだせなかった――
「停車場を撮影するのはむずかしいかね?」
「いちばん楽ですよ。ちっとも動かないでその場にじっとしとるですからな。『そう、怖い顔をしないで、堅くならないで』ってなことを言う必要もありませんからね」
この問答は、分隊長の報告書のなかに、次のような結果となって現れた――
「本官の遠廻し式訊問の結果、彼は撮影技能を有し、且つ最も好んで停車場を撮影する旨を告白に及べり、たまたまカメラを所持せざるは、どこかに隠匿せるに非ずやとの推測を起さしむるに過ぎず、云々」
彼は、二日がかりで苦心惨憺の結果できあがった報告書を始めから読みなおした。読みおわった彼は、かたわらに立たせて聴かせていた歩哨長に向い、鼻たかだかと言った――
「報告書というものは、こういう風に書かなくちゃ。細大もらさずといった工合にだね。訊問ってやつは、そう簡単なものじゃないよ、君。さあ、あの男をここへ連れて来たまえ」
「これからビーゼクの憲兵区司令部へ」と、分隊長はおごそかにシュベイクに申しわたした。
「歩哨長が君を連行する。規定によれば手錠をはめるべきであるが、君の人格に信頼して手錠は用いないことにする。また君に限って途中遁走を試みるようなことはなかろうと思うから」
人のよさそうなシュベイクの顔に心を動かされた分隊長は、こう付けくわえざるをえなかった――
「君、僕を恨まないでくれたまえ――さあ、歩哨長、この報告書を持って」
「それじゃご免こうむりましょう」と、シュベイクはおとなしく言った。「分隊長殿、どうもいろいろとお世話になりましたな、折りがあったら手紙を上げますよ、またこの辺を通るようなことでもあれば、きっとお寄りしますぜ」
ビーズクへのみちみち、歩哨長とシュベイクは仲よくよもやまの話をしながら、折から降ってきた雪の中を歩いた。
あまり寒いから少し景気を付けよう、という事に一決心した二人は、途中の酒屋にはいった。大いに景気の付いた歩哨長は、楽天的になって言った――「いそぐこたあねえ、ゆっくりしていこう。憲兵司令官は三時にならなきゃ昼食から帰らねえんだ、四時までに着きゃ結構だよ。今すぐ出かけたって、もう少しゆっくりしていったって、結局同じことさ、ビーゼクが逃げ出すってわけでもあるめえし」
歩哨長が、ビーゼクへ行こうと決心して、やっと腰をあげたときは、もう薄暗くなっていた。そのうえ雪がいよいよ降りしきってきたので、一寸さきも見えないくらいだった。歩哨長は「たえず鼻をビーゼクの方へ向けて」と言いつづけた。
三度目の声は、しかし道の上から聞えてこなかった。どこかうしろの方の深い溝か何かのなかからであった。銃を突っぱってやっと道の上へ登ってきた歩哨長が「滑《すべ》り台」だと笑いながら小さな声で独り言をいっているのをシュベイクは聞いた。そのうちにまた歩哨長の声が聞こえなくなった。ふたたび溝のなかにすべり落ちたのである。
滑り台遊びを五回繰りかえした後、やっとシュベイクに追いついた彼は、悲観しながら言った――「お前逃げようと思や、いつでも逃げられるなあ」
「ご心配ご無用、歩哨長殿。おたがいをつなぎ合わせとけば、いちばんいいんですがな。そうすりゃ誰も紛失しないで済みますよ。手錠をお持ちですかい?」
「憲兵たるものは、常に手錠を持っとらんといかん」と、歩哨長はシュベイクの廻りをよろめきながら特に力をこめて言った。「俺らの日々の糧《かて》じゃからな」
「さあ、つなぎ合わしましょうで」と、シュベイクは催促した。「やってご覧よ」
酔っぱらっていても、さすがは商売柄だけあって、歩哨長は物の見事にシュベイクの左手に手錠をはめ、一方のはしを自分の右手にはめた。
しかし彼らの千鳥足は必ずしも同一方向に運動しなかった。その度ごとに手錠は彼らの手に食いこむのであった。これじゃやりきれない、というので歩哨長は手錠をはずそうと試みた。そして長く試みたが、どちらもはずれなかったので、歩哨長は嘆息しながら言った――「俺ら永久に無条件合体をやったらしいぞ」
夕方もかなり遅くなって、二人はやっとのことでビーゼクの憲兵区司令部にたどりついた。入口の階段で歩哨長は、青くなってシュベイクに言った――
「さあ大変なことになったぞ。おい、俺らくっついて離れねえじゃないか」
憲兵区司令官の最初の言葉はこうであった――
「この醜態を見てくれ」と、彼は穴があればはいりたいような恰好をしている両人をゆびさしながら、部下の一人に言った。「憲兵ともあろうものが、犯人と手錠でつなぎ合わして来るなんて! 酔っぱらいやがって、正体もなく酔っぱらいやがって。君、その手錠をとってやってくれ」
「どうした?」と、司令官は右手が痛んで動かないので逆の挙手をしている歩哨長に向ってきいた。
「申し上げます、司令官殿。報告書を持ってきたのであります」
「貴様に関する報告書は法廷の方へ送っとく」と、彼は簡単に言ったのち、部下に向い「この野郎どもを豚箱へ放りこんどけ、明朝取り調べるから。それからその報告書は君が一応眼を通した上、俺の宅の方へとどけてくれ」
このビーゼク憲兵区司令官は、部下を追求する点では徹底的であり、官僚的事務の処理においては卓越している、という、要するにすこぶる役人型の人間であった。自己の監督下にある方々の憲兵分隊へはさかんに指令、警告、威嚇をあたえ、かつ不時の検閲をもって、分隊長連に寧日《ねいじつ》なからしめた。
上〔内務省警保局や陸軍省憲兵本部など〕からは、訓令その他の書類がどんどんやってきた。その中の一つには、ビーゼク憲兵区内出身の兵士達が、敵軍に内通した旨が記されてあった。彼は区内の住民の忠誠の度合をきびしく報告せしめた。
前戦では革命的な傾向がおいおい現れてきた。セルビア及びカルパチアの方面で、第二八連隊および第一一連隊は、武器を捨てて敵にくだった。内地においても反戦的傾向が、次第に濃厚となった。プラハ方面から来た兵隊がビーゼク駅を通過したことがある。その際、彼らは、ビーゼクの社交婦人連から贈られた巻煙草やチョコレートを汽車〔実は家畜輸送車輌〕の窓から投げかえした。
またある行軍大隊がビーゼクの街を通過した際、二、三人のユダヤ人が「わが軍万歳、セルビア人をやっつけろ!」と、どなった事がある。ユダヤ人は、その我が軍の兵隊から小っぴどくひっぱたかれたものだ。
しかし、各地の憲兵分隊からビーゼクの憲兵区司令官の手許にはいる報告は、申し合わせたかのように――反戦的煽動の様子まったくなし、住民の思想は穏健なり、忠誠の度合は第一級なり。要するにすべて安寧秩序を保ちつつあり、と記されてあった。
以前からもそうだったが、彼はいよいよ、管下の憲兵分隊の憲兵連を信用しなくなった。奴らはたいへんな怠け者だ、我利我利亡者だ、詐偽師だ、ブランデーとビールと葡萄酒以外に何も解らないのだ。そして給料が少ないものだから、賄賂で酒代をかせいでやがる。こうして奴らは我がオーストリア帝国をば、徐々にしかし確実に破滅させるのだ。我こそ傾きゆく祖国を守護する前衛だと、確信していた。
「よくもまあ馬鹿げたことをこれほど念入りに集めたものだ!」と、憲兵区司令官はプーチムの分隊長からの報告書を見ながら言った。「プーチムの分隊長ぐらい馬鹿な奴は、どこを探したって見当るもんじゃない。あの酔払いの歩哨長が交尾した犬のような恰好で連れてきた男は、ありゃ軍事密偵で何でもありゃしない。ざらにある脱営兵じゃないか。子供でも一目で解るようなことを、あの馬鹿野郎め見当を違えやがって、よくもごてごてと書いたものだ! プーチムの憲兵分隊長に明日早速出頭するように電報を打て! それからあの兵士をここへ呼べ!」
「何連隊から脱走したんだ?」と司令官のシュベイクにたいする最初の挨拶はこうであった。
「どこからも」
何の屈託もなさそうなシュベイクのおっとりした顔をじろじろ見ながら彼はきいた――「どうしてそんな軍服を着るようになったんだ?」
「どんな兵士でも、入営すると、軍服を支給されるのであります」と、シュベイクはやわらかい微笑を浮かべながら答えた。「私は第九一連隊のもので、連隊を脱けだしたどころか、その反対であります」
「どうして反対なんだ?」
「簡単な話であります。私は一生懸命自分の連隊へ行こうとばかり望んどるです、連隊中が私の到着を待ち設けているのに、何だか私は次第にブードワイスから遠ざかって行くように思われて、気が気じゃないんであります。プーチムの分隊長殿は私に地図まで見せてブードワイスは南の方にあると教えてくれたのでありますのに、南の方へやってくれないで北の方へ引っぱってこられたのであります」
「じゃ自分の連隊が見つからないと言うんだな? それを探しまわってたと言うんだな?」
シュベイクは、彼に最初からの|いきさつ《ヽヽヽヽ》を説明してきかせた。タポル及びブードワイスに行こうとした途中の地名をあげた――「ミュールハウゼン――クエートフーウラーツ――マレーシン――チッツオーワ――ゼードレツ――ホラッドウィツ――ラドミシュル――プーチムシュテークノ――ストラコーニツ――ウォーリン――チーハ――ヴォードニヤン――プロチーウィン、それからまたプーチム」
彼はこの運命との闘争を、非常なる感激をもって如実に物語った。降りかかる障害を物ともせず一意専心ブードワイスの連隊へ達せんとしたが、あらゆる努力も無駄に終った、ということを。「運が悪いんでさ」と、シュベイクは付けくわえた。「あの分隊長がいなけりゃ、こんなことにならなかったんであります。私の連隊はもちろん、名前さえもきかないで、何だか知らないがひどく変なものに感心するんであります。怪しいと思うなら私をブードワイスの連隊へ連れていって、私が正真正銘のシュベイクであるかどうかきいてみりゃいいんでさ、ねえ。昨日中に連隊へ帰ることができて私の軍務を果せているところだったのに、もったいないことをしたものであります」
ピーゼク憲兵区司令官は事務的であった、早速次のような手紙を書き取らした――
「ブードワイス歩兵第九一連隊司令部御中。 ヨセフ・シュベイクをご送付致します。同人は脱走の嫌疑をもってプーチム憲兵分隊の手に拘留されたる者なるも、その申し立てによれば貴連隊に赴くところの由。同人は背丈やや低く、ずんぐりしたる身体にて、顔および鼻は釣合を保ち、眼は青く、他にこれと言うほどの目印はなし。また同封して同人の賄い料勘定書をお届け致しますので、同人受取証と共にその金額をご送付ください」
ピーゼクからブードワイスまでシュベイクを護送した若い憲兵は、新米であった。逃げやしないか逃げやしないかと、おそろしく心配して、まばたき一つせずシュベイクを見つめどおしであった。「もし俺が便所へいきたくなったら、ああ、どうしたらよいだろう」という難問題を、列車がブードワイスへ着くまで彼は考えつづけた。
停車場から兵営へゆく途中でも、街角を曲ったり四辻を横ぎったりする毎に、彼はシュベイクに、憲兵は殊に護衛兵となっている場合は実弾を持っているものだと告げるのであった。
「申し上げます、中尉殿。帰って来たであります」と、事務室の机に向って余念なく働いていたルーカッシュ中尉の前に立たされたシュベイクは、晴やかな顔をして言った。
このときの様子を見ていた人の話によれば――ルーカッシュ中尉は、シュベイクのこの声を聞くやバッタのように飛びあがり、頭をかかえてあおむけに引っくりかえった。そこにいあわせた人のお蔭でやっと正気にかえったと見るや、ずっと挙手の敬礼をしつづけていたシュベイクは、もう一度告げた――「申し上げます、中尉殿。帰って来たであります」死人のような顔をした中尉は、ふるえる手で護衛して来た憲兵から書類を受取り、これに署名して、皆の者にしばらくこの室を出てくれ、と言った。
シュベイクのブードワイス進軍もここに終りを告げることとなった。もし官憲の干渉がなく、彼に運動の自由が与えられたとすれば、ひとりでもブードワイスへ達したに違いない。彼の精力と絶大の闘争欲とに照らし合わして見るに、この場合における官憲の干渉は、彼の両足の間に投げいれられた棒に過ぎなかったのである。
シュベイクとルーカッシュ中尉の両人は、じっとおたがいの眼を見つめた。
中尉の眼には何か|ぞっと《ヽヽヽ》したような、絶望したようなものが宿っていた。しかるにシュベイクは見失ったがふたたび見つかった恋人にでも対するように、中尉を優しく愛情をもって眺めるのであった。
事務室の中は、教会のように静まりかえっていた。
二人の間の長い沈黙を、中尉は鋭い皮肉をもって破った――「よく来たな、シュベイク。お前の逮捕状を出したところだ。もうお前のことで腹を立てないでもすむだろう。お前のような阿呆といっしょに暮らしたかと思えば……」
中尉は事務室のなかをぐるぐる歩きだした――「いやだ、いやだ、俺がなぜお前を射ち殺さなかったのか、今考えるとおかしなくらいだ。お前みたいな奴を射ち殺したところで、俺は何の罰も食わないのだ。そうしといたらこんな不快な目にもあわずにすんだものを。解ったか?」
「申し上げます、中尉殿。完全に解ったであります」
「また馬鹿なことをしゃべり始めたな、止さないと本当にやっつけるぞ。しかし今度という今度は、お前にも年貢の納めどきが来たというものだ」
中尉は机に向って腰をかけ、紙片に何か二、三行書き、事務室の前に立っていた番兵を呼んで、シュベイクを看守のところに連れてゆきこの紙片を渡せと命じた。
中庭に引かれていくシュベイクの後ろ姿をルーカッシュ中尉は見送った。看守が営倉と記した戸をあけ、シュベイクと共に戸のうしろに姿を消し、やがて看守だけが戸の外に現れて来たのを見たとき、中尉は喜びの色が顔に現れるのを禁ずることができなかった。
「やれ有難や」と、中尉は思わず声を出して言った。「とうとうはいったわい」
この兵営の「飢死の塔」の暗い室へ、シュベイクがはいっていくと、そこの藁《わら》蒲団の上に寝ころんでいた一人の肥った一年志願兵が、心から歓迎してくれた。
この一年志願兵は、営倉におけるただ一人のお客様で、二日前から無聊《ぶりょう》に苦しんでいたところだった。どうしていれられたんだ、というシュベイクの問いにたいし、なあにまったく詰らねえことで、と彼は答えた。人違いをしてある砲兵少尉をなぐった、実はなぐったのではなくて、帽子を突きおとしただけだ。ある夜のこと、ウンター・デン・ラウベンの広場に一人の砲兵少尉が立っていた。あきらかに淫売婦の通りかかるのを待っていたものだ。一年志願兵はその後ろ姿だけ見て、自分の友人だと思いこんだ。
「ちょうど同じような|ちび《ヽヽ》なんだからな」と、彼はシュベイクに話した。「で、俺はぬき足さし足で奴のうしろへ忍びよって帽子を突きおとしたんだ。人違いだった。その畜生、すぐ呼子を鳴らして巡邏《じゅんら》兵を呼び、俺をここへ放りこんだわけさ」
「俺も一杯気嫌だったし」と、一年志願兵は付けくわえた。「何しろ格闘を演じたんだもの、横面の二つ三つお見舞い申したかも知れねえ。しかしそいつあ問題じゃねえ、人違いをしたって事がいけねえんだからな」
この面白い一年志願兵は、古典哲学の研究をやっている男で、看守に関する自作の狂歌をシュベイクに聞かせたりした。また彼は、シュベイクのために、詳細にわたってこの連隊の内情、ひいては軍隊そのものの現状について、その夜遅くまで話して聞かせた。
「要するに」と、肥った一年志願兵は、毛布を引っかぶりながら言った。「軍隊は腐ったような臭いがしてるよ。酷《ひど》くふみつけられてぼんやりしている兵士達は、まだ目ざめちゃいない。たたきのめされて骨抜きにされ、戦場で弾丸に当っても、小さな声で、『阿母《おっかあ》……』と言うぐらいが関の山だ。参謀本部にだって英雄なんかいやしない、おるのは屠畜と屠殺者だけさ。だがお終いは暴動ときて、えらい騒ぎになるだろうよ。軍隊万々歳! おやすみ!」
彼はだまってしまった。がしばらくたつと毛布のしたで寝がえりを打ちながら、シュベイクにきいた――「もう寝たかい?」
「いや」と、二番目の長椅子のうえにいたシュベイクは答えた。「わしゃ考えとるんじゃ」
「どんなことを?」
「銀製戦功勲章のことをよ、ウラウラ小路の建具屋ムリーチュコって男がもらった銀製戦功勲章のことをよ。戦争が始まるとすぐ脚を一本榴弾でやられたんだ。今度の戦争じゃ連隊中で俺が先頭第一の廃兵だぞ、ってその戦功勲章をぶらさげて威張りちらしたもんだ。ある日のこと、このムリーチュコの奴、『アポロ』って酒屋へやってきて屠殺所の男たちと喧嘩をおっぱじめやがった、そしてその揚げ句、義足を引きちぎられてそれでもって頭をひっぱたかれたのさ。ところが、その義足を引きちぎった男はそれを本当の足だと思って、その場で昏倒してしまった。ムリーチュコは交番で義足を取りつけてはもらったが、このとき以来、ひどく銀製戦功勲章が癪《しゃく》にさわり、質屋へ持っていったところ、勲章もろとも身柄をおさえられてしまった。何でも憲兵に関する事件ばかりを取りあつかう名誉裁判所ってものがあるらしい。ムリーチュコの奴、その裁判所の判決で銀の勲章といっしょに義足まで没収されちまったのさ」
「どうも我が軍には」と、一年志願兵が、しばらく間を置いて言った。「戦闘精神が欠けてるようだ。どうだ、一つ砲手ヤブーレクの歌でもうたって、大いに士気を鼓舞しようじゃないか、だが、うんとどなるんだぜ、兵営内にいるみんなの耳にはいるようにどなるんだ。だから入口の戸のところに立ってやろうや」
やがて営倉の中から、廊下の硝子窓がびりびりゆれるほど大きな怒声が聞こえだした――
大砲のそばに くっついて
わき目もふらず弾こめる
大砲のそばに くっついて
わき目もふらず 弾こめる
大砲の弾が 飛んできて
両手をもいで 持っていった
それでも大砲に くっついて
わき目もふらず弾こめる
大砲のそばに くっついて
わき目もふらず弾こめる
中庭で足音と話し声のしているのが聞こえた。
「ありゃ看守だよ」と、一年志願兵が言った。「今日当番のペリカン少尉が看守と歩いてんだ。ペリカンは予備少尉で、『チェコ倶楽部』で俺あ知っとる。奴から煙草をもらおう。さあ、しっかりどなろうぜ」
そこでまた「大砲のそばにくっついて……」がひびいてきた。
戸があいた。この一年志願兵には一目置いていた看守も、当番将校といっしょなので、真赤になって叱った――
「ここは動物園じゃないぞ!」
「はばかりながら」と、一年志願兵は言った。「ここはルードルフィヌムの出店ですよ。囚人慰安のための演奏会とござい。第一曲目『戦争交響楽』がただいま終ったところであります」
「冗談は止せ」と、ペリカン少尉は、うわべだけきびしく言った。「九時になれば寝床にはいって静粛にしなくちゃならんことは知っとるだろう。貴様らの演奏は広場までも聞こえるぞ」
「申し上げます、少尉殿」と、一年志願兵は言った。
「私どもはじゅうぶんに練習するひまが無かったので、あるいは少しぐらいの調子はずれが……」
「この野郎は毎晩これをやるんです」と看守は、仇をうつはこの時とばかりペリカン少尉をけしかけた。「いったいにこの野郎は一年志願兵らしくもなく無作法きわまるんです」
「少尉殿、お願いです。私と貴方と二人きりで話したいのであります。看守を外で待たせておかれたいであります」
この願いがききとどけられると、一年志願兵は急に言葉づかいを変えた――
「さあ、フランツ。煙草をくれよ。なあんだ、『スポーツ』か。少尉殿の癖にこんな|けち《ヽヽ》なのしか持ってないのか? が、まあ有難く頂載しとくよ。マッチもあるかい?」
「ちえッ。『スポーツ』か」と、一年志願兵は少尉が出ていってしまうと、軽蔑したように繰りかえした。「いかに国難の際とは言え、もう少し上品な煙草を吸ったらよさそうなものだ。おい、君、遠慮しないで吸えよ。明日は『最後の審判』の日だぜ」
シュベイクと一年志願兵とが、営倉の中をじゅうぶん煙に巻いてから眠ってしまった頃、あるホテルで催された第九一連隊将校会は、宴まさに酣《たけなわ》であった。
シュレーダー連隊長は、足に負傷して〔じつは牛にふまれたのであったが〕セルビアの戦線から帰って来ていたクレーチュマン中尉の実戦談に耳をかたむけていた。その話が終ると、連隊長の向い側にすわっていたスピーロ大尉が、拳固でテーブルをたたきながら、何だかさっぱり訳の解らぬことをどなった、連隊長はにこにこしながらこれを眺めた。
スピーロ大尉のそばにいた一人の若い将校は、連隊長に自己の軍隊的厳格さを示そうと一生懸命になって、正体もなく酔っぱらった大尉に向って大きい声で話しかけた――「肺の悪い奴はどしどし前線へ送るんですなあ、病気のためにも良いし、また達者な者の代わりに病人が戦死する方が良いんですからなあ」
これを聞いていた連隊長は微笑をもらしたが、急に顔をくもらせてきいた――「ルーカッシュ中尉が姿を見せないとはおかしいのう。就任以来一度だってこの会に顔を出さんじゃないか」
「詩を作ってるんです」と、一年志願兵教育係のザーグナー大尉が皮肉な口振りで言った。「当地へ着くと早々、劇場で懇意になったシュライバー技師夫人に|あつく《ヽヽヽ》なっているんです」
連隊長は悲しそうに首をふった――「この節の将校の間にゃ、真の友情ってものがありゃせん。昔は将校集会所でも愉快に遊んだものじゃ。今でもおぼえちょるが、ダンクルとか言う中尉が、すっぱだかになって床のうえにころがり、鰊《にしん》のしっぽを自分の尻にはさんで人魚の真似をやったことがある。またシュライダーという中尉は、変な男で、耳を動かすことができたもんじゃ。|さかり《ヽヽヽ》のついた馬の啼き声なんか、じつに堂にいったもんじゃわい。それから忘れもせんが、スコーダイ大尉ってのがいた。俺らが所望すると言や、きっと集会所へ女を連れて来たもんじゃ。女は三人姉妹じゃったが、まるで犬のように芸をしこまれちょったよ。大尉はこの三人の女をテーブルのうえに載せ、拍手を取りながらだんだん服を脱がせていくんじゃ。それから長椅子の上で何をやりおったか、言わんでも解るじゃろうのう。大きな盥《たらい》に湯を入れて部屋のなかに持ちこみ、俺らは順番にこの娘たちといっしょに入浴させられて、写真を撮られたこともあったじゃ」
幸福の回想に微笑を浮かべていた連隊長も、「じゃが今日の将校ときたらどうじゃ。酒もろくすっぽ飲めんじゃないか。まだ十二時にもならんのに、もう五人も酔いつぶれちょる。俺ら二日二晩飲みとおしたこともあるぞ。今の将校は軍人の精神ちゅうものを持っちょらん、嘆かわしいことじゃ。いや世智がらい話ばかりしちょる。じゃないと思や、あのルーカッシュ中尉みたいに、詩ばかり作って会にも出おらんじゃないか」
連隊長殿には、この夜は、すこぶるご不興の態でご帰宅になった。翌朝寝床のなかで新聞を見たとき、むずかしい顔がますますむずかしくなった。我が軍がまたもや予定の転進〔退却〕をしたという報道が載っていたからである。
兵営の中庭では、連隊副官と当番将校と連隊事務係の曹長とが、シュベイクと一年志願兵をそこに立たせて、連隊長の来るのを待っていた。そこへ志願兵教育係のザーグナー大尉を連れ、昨夜来ご気嫌少からずななめな連隊長が現れた。神経をぴりぴりさせながら鞭で自分の長靴をたたいていた。
誰ひとり口をきくものもない墓場のような静けさのなかに立っているシュベイクと一年志願兵とのぐるりを、連隊長は黙ったまま何度もまわった。やっと彼は一年志願兵の前に立ちどまったとき、一年志願兵は名乗った――「一年志願兵」
「知っちょる」と、連隊長は簡単に言った。「一年志願兵の屑じゃ。貴様の職業は? 古典哲学の研究生? うむ、酔っぱらいのインテリじゃな」
「大尉」と、彼はザーグナー大尉に向って、「一年志願兵を全部ここへ連れてこい」
「その外套のざまは何じゃ」と、また一年志願兵に向きなおった。「しわくちゃじゃないか。まるで酒屋か女郎屋からの戻りみたいじゃ、これから吾輩がじかに教育してやるぞ」
ザーグナー大尉に引率された一年志願兵達がやって来て、連隊長と二名の被告を取りかこんで並んだ。
「この野郎の面を見てやれ」と、連隊長は鞭で一年志願兵を指しながら吐きだすように言った。
「これでも将来は連隊の幹部となって兵士を指導すべき志願兵か。こんな奴はどこへ兵士を指導しよると思う? 戦場じゃありゃせん。酒場じゃ、酒場から酒場へじゃ。このあつかましい野郎、一言の陳謝も述べようとしよらん。それでも古典哲学の研究生じゃと? まったく古典的なやり口じゃわい」
彼はこの最後の二言ばかりを特にゆっくりと言って、唾をはいた――「酔っぱらいやがって将校の帽子をたたきおとすような古典哲学者! 先方が砲兵隊の将校じゃったから良かったようなものの」
この言葉の中には、ブードワイスの砲兵隊にたいする歩兵隊のあらゆる憎悪が含まれていた。この同じ土地に駐在する砲兵と歩兵は、どこでもよくあることだが、伝統的に仲が悪かった。到るところで張りあって、仕返しを無限に繰りかえしていた。
「しかし」と、連隊長はつづけた。「みせしめとして厳罰に処せんけりゃならん。いったい軍隊にゃこんなインテリが多過ぎていかんのじゃ。おい、事務係!」
事務係の曹長は、書類と鉛筆をもって荘重な態度で連隊長に近づいた。
殺人犯人に対しまさに判決をあたえようとする瞬間の法廷のように、息を殺した静けさがあった。その静けさを破って、裁判官のようなおごそかな声で連隊長は申しわたした――「一年志願兵マーレクを二十一日間の重営倉に処す。しかして刑期満了後は炊事場にて芋の皮|剥《む》きをなすべし」連隊長は一年志願兵達に、もう退出してよいと言った。彼らは四列縦隊を作って出ていったが、その歩調が気にいらないとあって、連隊長はザーグナー大尉に今日の午後中庭で歩調の稽古をやらせろと命じた。
「歩調は雷のようにとどろかんといかん。おお、うっかり忘れるところじゃった。一年志願兵全部に五日間の営倉を申しつける。ここに立っちょる以前の同僚、この無頼漢マーレクのことを忘れんようにじゃ」
しかし当人、無頼漢マーレクは、シュベイクと並んで、いかにも満足そうな顔付をしていた。こんな結構な事があるものか、まるで棚からぼた餅というやつじゃ。炊事場で芋の皮をむいたり、団子をこねたり、肋骨の間の肉をけずったりする方が、胆玉をひやひやさせながら雨霰と降り来る敵の弾の中で「散れ! 付け剣!」なんてどなるよりは、どんなにましかしれやしない。
ザーグナー大尉が戻ってくると、連隊長はシュベイクの前に立ち、じっとその顔を観察した。シュベイクの顔および姿は、完全なる自信と無邪気を表徴していた。連隊長はこの観察の結果を、事務係の曹長に向ってきいた質問のなかにまとめた――「足らんのか?」
連隊長が見ていると、このお人よしな顔のなかで口が動いた――「申し上げます、連隊長殿。足らん」と、シュベイクは曹長の代わりに答えたのであった。
連隊長シュレーダーは副官に目くばせして、二人でわきの方へいった。それから曹長を呼んでシュベイクに関する記録をしらべた。
「ああそうか」と、連隊長は言った。「じゃこれがルーカッシュ中尉の従卒か、タポルで紛失したという。将校みずから従卒を教育せんけりゃいかんと思う。ルーカッシュ中尉が好んで馬鹿を求めたからにゃ、ひとりでいらいらするのが当り前じゃないか。どこへも顔を出さんのじゃから、暇は沢山あるはずじゃ」
連隊長はシュベイクに近づき、そのお人よしな顔を改めてつくづくと眺めながら言った――
「こら、低能。貴様は三日間の重営倉じゃ、それが済んだらルーカッシュ中尉のところへいくんじゃぞ」
かくてシュベイクは、また営倉内で例の一年志願兵といっしょになった。
一方、連隊長はルーカッシュ中尉を呼びつけて言った。――「一週間ほど前のことじゃが、君がこの連隊に着任したとき、今までの従卒がタポルの停車場で行方不明になったから新しい従卒が欲しいと願い出たね。しかし当人が帰りおったから……」
「連隊長殿……」と、ルーカッシュ中尉は哀願するように言った。
「吾輩はもう決心したんじゃ、三日間営倉にぶちこんで、出てきたらまた君のところへ向けるんじゃ……」
連隊の事務室からよろめくようにして出てきたルーカッシュ中尉は、まるで打ちくだかれたように悄気《しょげ》こんでいた。
シュベイクと一年志願兵とは、毎晩、軍歌や戦争讃美歌をどなりちらして例の愛国的示威運動をやり、営倉の看守をからかっていたが、ルーカッシュ中尉の方では、もう明後日、もう明日、もう今日……という風に、シュベイクのやって来るのを寿命をちぢめながら待っていた。
三 キラリヒーダにおけるシュベイクの経験
第九一連隊は、ライタ河に沿うブルックおよびキラリヒーダへ移ることとなった。
シュベイクがあと三時間で三日間の営倉を終え自由な身になるというとき、例の一年志願兵と共に守衛本部に引きだされ、兵士の護衛のもとに停車場に連れてゆかれた。
停車場の付近には、連隊の出発を見送ろうとしてブードワイスの住民が沢山集まって兵隊の来るのを待っていた。シュベイクはその人垣に向って「さようなら!」と呼びかけ帽子を振らずにはいられなかった。すると群集は一斉に「さようなら!」と叫び、それが次第にひろがって停車場の前にいた群集は「すぐ帰れるよ」と言いだした。
護衛兵を指揮していた伍長は、ひどく面くらって、シュベイクに黙れと言った。が、絶叫は雪崩のようにひろがった。憲兵が飛んできて人垣を引っこませ、護衛兵の道をあけた。しかし群集は絶えず「さようなら!」を叫び、帽子をとって振った。
停車場の前のホテルの窓からも、婦人達がハンカチを振りながら「万歳!」と金切り声をあげた。また群集のなかにも万歳を叫ぶものがあったが、この機を利用して「敵をやっつけろ!」と言った男は、引き倒されてふみつけられた。そして電波のように「じき帰れるよ!」という叫びがどんどんひろがっていった。
こうして彼らは停車場にはいり、すでに用意された列車の方に向っていった。さきほどからの群集のどよめきにすっかり逆上した軍楽隊の楽長は、まだ連隊の本部隊も着かないのに、すでにオーストリアの国歌『神よ護れ』を奏せんとした。折よくそこへ騎兵第七旅団の従軍牧師長である教父ラチーナが突然現れて、やっと秩序をたもつことができた。
話は簡単なのだ――この従軍牧師長ラチーナというのは、世にも稀な大食家で将校賄い方が恐れをなしている人物であるが、ブードワイス連隊が出発するという一日前にこの地にやって来て、偶然連隊内の宴会に列席したのであった。十人前食ったり飲んだりした彼は、まだじゅうぶんでないとみえて、賄い方へ行き、マヨネーズや団子をがつがつ食い、野良猫のように骨から肉を食いちぎり、おしまいにはリキュールを探して台所中をかきまわした。げっぷの出るほどリキュールを飲んだ彼は、その足ですぐその夜の送別会におもむき、ここでもその鯨飲をもって断然頭角をあらわした。翌朝、連隊の出発に際して、見送りの人垣のぐるりを見まわったのち、停車場にその勇姿を現したのであった。連隊の積みこみを指揮しに来ていた将校達は、こんな者につかまっちゃうるさいと思って駅長室にかくれてしまった。
「待った!」と、従軍牧師長は楽長が振りあげようとした指揮棒をもぎ取って言った。「まだ演《や》るんじゃない、わしが合図するまで待っておれ。じき戻ってくるから『休め』をしとれ」
彼は停車場のなかに姿を消し、護衛兵のあとをつけて「止まれ!」と大声でどなった。「どこへ行くんだ?」と、彼は伍長にきびしくきいた。
突然のことに伍長は呆然としたので、シュベイクが代わって答えた――「ブルックへ連れられていくんですが、何なら、従軍牧師殿、貴方もいっしょにいってもいいんであります」
「よかろう」と、教父ラチーナは言って、護衛兵に向きなおり、「誰じゃ、わしが行っちゃいかんと言うのは? 進め!」
従軍牧師長は囚人護送車〔軍用列車にはかならず囚人護送車が幹部乗用車のすぐうしろに連結されるものだ、自由な身の兵士が家畜輸送車に鮨詰にされるに反し、この車はゆったりしている〕の中にはいり、腰掛けのうえに横になった。親切なシュベイクは自分の外套をぬいで、教父ラチーナの頭からかぶせてやった。
教父ラチーナは、腰掛けのうえに長々と身体をのばして、しゃべり始めた――「キノコ入りのシチューはね君、キノコが多いほど美味《うま》いもんだぜ。しかしキノコは、まず玉葱《たまねぎ》で蒸し煮にしておかんといかん、それから第一に月桂樹の葉をいれ、そして玉葱は……」
「玉葱はもうさきほどお使いなされたであります」と、まごまごしている伍長ににらまれながら、一年志願兵は、酔払っているとは言えともかく、上官たる教父ラチーナに向って言った。
「まったく」と、シュベイク。「従軍牧師長殿のおっしゃる通りだ。玉葱の多いほど、うまい、パホメーリツにビールの中へ玉葱をいれる鋳造人がいたっけ。玉葱を食うと咽喉《のど》が乾くからってわけでな。ともかく玉葱ってものは重宝だよ」
教父ラチーナはなかば朦朧としながら小声で言った――「食物は何でも薬味が第一じゃ。どんな薬味をどんな分量にいれるかが問題さ。胡椒が過ぎてもいかん、唐辛《とうがらし》が過ぎてもいかん」
彼の言葉は次第ににぶく低くなっていった――「丁――香《じ》――が過ぎても、実《み》――辛《からし》が――過ぎ――て――も……」
終りまで話さないうちに寝こんでしまった彼は、鼾をかくのを止めたかと思うと、その間は鼻で笛を吹いた。
護衛の兵士達は、くすくす笑っていたが、伍長はわきめもふらず従軍牧師長を眺めた。
「こいつなかなか起きやしないで」と、シュベイクはしばらくたって言った。「ぐでんぐでんに酔払ってんだもの」
伍長は心配してシュベイクに黙っているようにと注意をあたえた、けれどもシュベイクは平気でつづけた――
「従軍牧師長といや大尉相当官さ。だが酔っぱらいには変りがねえ。俺あカッツって従軍牧師のとこで勤めたことがあるが、いやこれもひでえ呑み助だったよ。こいつの演《や》ったことったら、そこで寝とる先生なんぞの到底及びもつかんほどじゃ」
シュベイクは起《た》って教父ラチーナを壁にもたせかけ、この道にかけちゃ専門家だぞと言わんばかりの顔をしながら言った「うっちゃっときゃブルックへ着くまで鼾をかくぜ」
伍長はいよいよ心配になってきた――「このことを報告にいった方がいいだろうなあ?」
伍長は兵隊にはいるまでは作男をやっていたので、頭が悪くて粗暴で、いつも新兵を泣かせていた。彼の理想は恩給がつくまでこぎつけるという一事だった。
兵営を連れ出されるときからこの伍長をからかっていた一年志願兵は、ここでまた口をいれた――
「そいつぁ止したがいいでしょうな。貴方は護衛兵指揮官じゃないか、我々から一歩たりとも離れるわけにはいかん。また規定によれば、代わりの者がこない以上、護衛兵を一人でもここから外へだすわけにも参らん」
「しかるにまた規定によればですな」と、彼は悠々とつづけた。「囚人およびその護衛兵以外には何人《なんぴと》たりとも囚人護送車内に立ちいるべからず、となっている。貴方が、その越権の行為を糊塗せんとして従軍牧師長を進行中の列車からそっと投げだすということもできない。立ちいるべからざる人間を貴方がいれたという事実を目撃した証人がここにいるんですからな、伍長殿、こりゃたしかに貴方の首にかかわりますぜ」
伍長はどぎまぎしながら弁解した――「俺がいれたわけじゃない、従軍牧師長殿が自分でくわわって来たんだ。しかも上官だもの、ことわる訳にはいかなかったんだ」
「でもここでは貴方が一番の上官ですよ」と、一年志願兵は特に念をおして言った。またその言葉をシュベイクが補足した――「たとえ皇帝陛下がくわわろうとなさっても、貴方は許しちゃならなかったんですよ」
従軍牧師長は身体を動かした。
「鼾をかいてら」とシュベイクは従軍牧師長の容態がすこぶる良好なることをたしかめたのち言った。「どうあってもここを動かないぜ、弱ったなあ。俺のもと勤めてた従軍牧師なんかときたら、酔っぱらうとまるで何も覚えちゃいねえんだ。あるときなんざあ……」
そこでシュベイクは、従軍牧師オットー・カッツとの経験談を、こまかく面白く物語り出した。聞いていた人々は、いつのまに列車が動き出したか知らないほどだった。
後部の車輌からどなる声が聞えてきたとき初めて、シュベイクの物語が中断された。クルマウやベルクライスタイン地方出身のドイツ人のたくさんいる第十二中隊がどなったのだ――
「帰ってくりゃ、帰ってくりゃ、よお、お前のそばじゃ、よお」
また別の車輌からも、遠ざかりゆくブードワイスに向って、誰かが物狂わしい声でどなった――
「可愛いいお前はここで待つ。ホラールヨ、ホラールヨ、ホーロ!」
「おかしいですな」と、このたまらない唄がとぎれると、一年志願兵はまた伍長に立ちむかった。「どうしてここへ検視がまわって来ないんだろう。やはり規定通り停車場で列車指揮官にとどけて、こんな酔っぱらいの従軍牧師長なんかといっしょにならなきゃよかったんですなあ」
油をしぼられどおしの伍長は、何と言われても黙ってしまって、うしろの方へ飛んでいく電柱ばかり見ていた。
「一八七九年十一月二十一日に発布された規定によれば」と、一年志願兵は意地悪くも攻撃の手をゆるめなかった。「汽車で軍隊の囚人を護送する場合には、次のような条項を守らなくちゃいかん。第一――囚人護送車には格子をはめるべし。こいつは説明するまでもなくあきらかなことだし、ここも規定通りに実行されている。我々は申し分のない鉄格子のなかにいるんだから、こりゃまずよい。第二――一八七九年十一月二十一日発布の追加勅令によれば、各囚人護送車には便所を設くべし。もし無き場合は、有蓋の便器を備え、もって囚人および護衛兵の大小便を果さしむべし、となっている。ところがどうじゃ、ここには便所はもちろんのこと、便器さえないようですな……」
「窓からやっちまえ」と、伍長はまったく絶望的に言った。
「囚人は」と、シュベイクが口をいれた。「窓際に近づくべからずってこと、お忘れですな」
「第三――」と、一年志願兵はつづけた。「飲用水を備うべし。貴方はそれもいっこうお構いなしです。ついでに言っときますが、どこの駅で飯がいただけますかい? それもご存知じゃない。そんな点について何の命令も受けていないってことは、わしにゃちゃんと解ってましたよ」
「それご覧」と、シュベイク。「囚人を護送するってことあ遊び半分じゃいきませんな。俺らをただの兵隊と思われちゃ困る、自分で自分の世話をしなくともいいんだ。俺らお膳をすえてもらって箸《はし》を持たせてくれるまで待っとりゃいいんだ、規定と条項にあるんじゃから仕様がねえ、でないと規律と秩序がみだれるからな」
「それから」と、しばらくしてシュベイクは伍長を親しげに眺めながら言った。「十一時になったら、知らせておくれよ」
伍長は、なぜだ? と言うような顔付でシュベイクを見た。
「伍長殿、なぜ十一時になったら知らせなくちゃならんのだとききたいんでしょう? 十一時以後は、わしゃ家畜輸送車へいかなくちゃならんのですよ」と、シュベイクはいよいよ勝ちほこったような声でつづけた。「わしゃ三日間の営倉をくらったんだ。今日の十一時に満期となって自由な身にならなくちゃならん。十一時からわしゃもうここに用がない。兵士を必要以上に長く拘禁することはならん。軍隊では規律と秩序がたもたれんといかんですからなあ、伍長殿」
これにはさすがの伍長もいよいよ参って、しばらくのあいだ気が遠くなってしまった。やっと気を取りなおしたとき、書類を受け取らなかったから知らん、と言い訳した。
「伍長さん」と、一年志願兵が立ちかわった。「書類にゃ足がありませんからな、ひとりで司令官から護衛兵のところへやって来やしませんよ。マホメットは山に向って来いと呼んだが来ないもんだから自分で出かけていったというじゃないか。護衛兵の指揮官たる貴方が自身で書類を取りにいかなくちゃ、書類は山と同じで足がないんだもの。さあ、貴方はまた厄介な問題にぶつかりましたな。自由な身となっているものを、とどめとくということは絶対にならない。しかるに現行規定では囚人護送車を離れるということもならない。貴方がこの厄介な状態をどう切りぬけるんだか、まったくわしにも見当がつかないな。ぐずぐずすりゃするほど、いよいよ悪くなりますぞ。そら、もう十時半だ!」
一年志願兵は時計をポケットにしまって――「伍長殿がどうこの場を切りぬけられるのか、見ものですな」
「半時間たてば、わしゃ家畜輸送車のものじゃ」と、シュベイクは夢を見ているように繰りかえした。伍長はまったくまごついて手のほどこしようを知らなかった、そこでシュベイクに向って折れて出た――
「君さえ都合が悪くなけりゃ、家畜輸送車よりゃここの方がゆったりしていていいと思うんだが。どうだろう、ね……」
「ソースをもっと!」と叫んだ従軍牧師長の寝言で、伍長の哀願は中断された。
「ねんね、ねんね」と、シュベイクは上から落ちてきた外套の頭巾を従軍牧師長の頭のしたに敷いてやりながら、親切に言った。「たんとご馳走の夢をご覧」
一年志願兵は子守唄をうたい出した――
ねんねん坊やはねんねしな
母ちゃんのおそばでお守する
父ちゃん山越えポンメルへ
そのポンメルが焼けちゃった
すっかり悲観してしまった伍長は、もう何をされても腹を立てる元気さえなかった。囚人護送車内の完全な不規律を成るがままに放任して、自分は黙って窓外の景色を眺めるのであった。
「もう五、六年も前のことだが、プラハに」と、シュベイクが語り出した。伍長は、話題が自分からそれたらしいので、ほっと一息、重荷をおろしたというような顔をした。
「メステークという男がいたと思え。この男が人魚を発見して見世物に出しているというので、見にいったものだ。薄暗いなかに長椅子が一脚おいてあって、その上に一人の女が横になっている。尾のつもりだろう、両脚を緑色のガーゼで巻き、髪も緑色のぺンキで塗り、両手には厚紙製の鰭《ひれ》をくっつけた手袋をはめていた。十六歳未満の者は入場を禁止されたが、入場料を払った十六歳以上の見物人は、みんなその人魚のお尻が大きいと言ってほめた。そのお尻には『またお出で!』と書いてあった。その乳房ときたら、まったくなっていなかった。比目魚《ひらめ》をぶらさげたように、お臍の上までだらりとうねって垂れていた。七時になるとメステークはこのパノラマを閉めて言った――『人魚もう帰ってもいいよ』服を着がえた人魚は、十時頃にはタベル街に姿を現わし、通りすがりの男に向って誰彼の区別なく『ちょいと、色男、少し遊ばない?』と呼びかけていた。そのうち警察の旦那に見つかり、無鑑札だったもんだから、ほかの曖昧女といっしょに拘留されちまいやがった。お蔭でメステークの野郎も、商売あがったりってわけさ」
このとき、従軍牧師長は、長椅子の上からどすんと音をたてて落ちたが、床の上でそのまま眠りつづけた。伍長はぽかんと眺めていたが、しばらくの後、誰の力も借りずにこの酔っぱらいをまた長椅子の上にあげてやった。
「手を貸したっていいじゃないか」と、彼は護衛兵に向って言ったが、彼の威厳がすでに地に墜ちたことを認めている護衛兵たちは、黙って突ったったまま足一つ動かそうとする者もなかった。
「そのままにうっちゃっといて鼾をかかしときゃよかったんだのに」と、シュベイクが言った。「俺なんざあ従軍牧師に手をつけなかったよ。便所のなかで寝こんだのをそのままにしといたこともあるし、食器棚の上へ眼をさますまで打っちゃっといたこともあるし、よその家の盥のなかで寝かしたこともある。奴が鼾をかいた場所をあげた日にゃきりがねえぜ」
伍長は急に決意したものらしい、俺はここの大将だという事を示さんがために、乱暴な口のききかたで言った――「言わしときゃいい気になりやがって、この野郎、黙れ! 従卒って奴はまったく愚にもつかぬおしゃべりばかりするものだ。貴様は、まるで南京虫みたいな野郎だな」
「まったく、仰せの通りで、そして貴方は神様でいられますな、伍長殿! 万人の悲しみを一身に引きうけられる聖母様でいられますな」
「おお神様」と、一年志願兵は手をあわせながら叫んだ。「我らの心を愛もてみたし、すべての将校下士に対する憎しみの起こらないようにしてくださいませ。この車輪つきの穴倉にいる我らの集まりに祝福を垂れたまえ」
伍長の顔は、見る見る真赤になった――「こらッ、志願兵、いっさいものを言っちゃならん、俺が禁ずる!」
「貴方は何もできませんよ」と、一年志願兵はなだめるような調子で言った。「多くの種類の生物には知力を全然持たないものがある。貴方なぞは、なまじっか人間だとか伍長だとかいうような馬鹿げた名前を持たされないで、他の哺乳動物に生れて来た方がはるかに良かったんじゃないでしょうかな? 貴方から肩に光ってる星を取ってしまえば、貴方はゼロですよ。到る処の戦線でどしどし射ち殺されている連中と同じですよ。貴方の肩の星をもう一つ加えるとする、そうすりゃ貴方は軍曹ってものになるけれど、やっぱり貴方は一人前じゃありませんな。貴方の精神的水準はいよいよ低くなるばかりで、どこかの戦場で貴方のその文化的に不具な骨をさらすとしても、広いヨーロッパ中、誰一人としてそれを悼《いた》むものはありますまいて」
「貴、貴様は拘留だ」と、伍長は絶叫した。
一年志願兵は笑った――「私が悪口を言ったが故に、貴方は私を拘留しようとおっしゃるんですね。だとすれば、貴方は嘘をついている。貴方の精神的能力では侮辱とはどんなものか理解できるはずがないからです。それどころか、貴方には我々の会話そのものの意味からして全然解らない、何なら私の首をかけてもいいです。今私が、貴方は幼虫だ、と言いましょう。貴方は、次の駅に着かないうちに、いや次の電柱が過ぎ去らないうちに、もう忘れてしまうでしょう。私の言うことを聞いても、貴方にはそれをまとめるという能力さえ全然無いんです」
「その通り」と、シュベイクがいれかわった。「貴方の誤解を招くようなことは、一言だって誰も言やしませんよ。侮辱されたと感じた場合には、何でも自分に都合悪く見えるものでさ。こんなことがあった――『トンネル』ってカフェで、猩々の話をしていたと思いなされ。一人の水兵の話――『頭に髯の生えた猩々となると、毛深い人間となかなか区別がつかねえ。例えてみりゃ……そら、あすこのテーブルに掛けているあのお方のように』そこで我々は振りむいて、あご髯のある紳士を見た。するとその紳士は、つかつかと水兵に近づき横面を一つぶんなぐった。水兵も黙っちゃいねえ、ビール瓶でその紳士の頭を打った。あご髯の紳士はその場に倒れて、気を失ってしまった。この有様を見た水兵は、うまく引きあげた。あとへ残った我々こそ、何の罪もないのに、いい面の皮さ。紳士は我に返ると、巡邏兵を呼び、我々を交番に引っぱらせたんだ。『いや誰が何と言っても、こいつらは俺のことを猩々だとぬかしやがった。いや、言い訳はささねえ。この俺がこの耳でちゃんときいたんだ』といった工合で、ききいれない。交番の警部が言葉をやわらげて説きあかしてもやはり駄目。警部まで|ぐる《ヽヽ》になっとる、といきり立つ始末なんだ。そこで、伍長殿、こんなわけで、実にくだらぬ誤解から厄介な問題が持ちあがるものでね。またニシキヘビだと言われて、ひどく憤慨した人がありましたが、こんなことは別に侮辱するつもりなしによく口にするものなんですがなあ。例えば、今我々が貴方を鼠だと言ったとしましょう、それでも貴方は怒りますかな?」
伍長は恐ろしい声をあげた。このときの彼のどなりかたはちょっと真似のできないくらいだった。それがまた、猛烈な勢いで鼾をかいている従軍牧師長の鼻笛にまじって、まったく名状しがたい音楽となった。
どなり終ると、伍長はまた急に元気をなくした。腰掛けにすわると、血の気のなくなった表情の無い目で、遠方の森や山をじっと見るのであった。
一年志願兵とシュベイクは、この兵士泣かせの伍長に対する攻撃の手を、なかなかゆるめず、さかんにからかった。
伍長は、何と言われても、もう相手にしなかった。その横顔を眺めていた一年志願兵は、たしかどこかの彫刻展覧会で見覚えがあるぞ、と言った。
「失礼ですが、伍長さん、貴方彫刻家シュトウルサのモデルに立ったことがありませんか?」
伍長は志願兵の顔をじっと見つめて、悲しそうに言った。
「いや」
一年志願兵は、からかい疲れたのか、黙ってしまって長椅子の上に長々と身体をのばした。
護衛の兵士たちはカードをやっていた。シュベイクもそれにくわわった。
軍用列車は、ある駅にはいってとまった。ここで検閲将校が各車輌を調べるはずになっていた。
「さあ」と、一年志願兵は、意味深長に伍長を見ながらきびしく言った。「もう検閲が見えます」
そこへ検閲将校がはいってきた。
伍長は、囚人二名、護衛兵これこれ、他に異状なし、と報告した。検閲将校は書類とその報告とを引きくらべ、あたりを見まわした。
「あれは誰だ?」と、検閲将校は、長椅子の上にお尻をむき出して寝ている従軍牧師長をさして言った。
「申し上げます、少尉殿」と、伍長はどもった。「あれは、じつは、その……」
「じつは何だ。はっきり言え!」
「申し上げます、少尉殿」と、伍長の代わりにシュベイクが口をきいた。「うつむいて寝ていられるこの方はどこかの酔っぱらい従軍牧師長殿であります。この方は、私どもにくわわってこの車輌のなかにのたりこんだのでありますが、何を申すも、上官のことでありますから、おっぼり出すわけにはいかなかったのであります」
「護衛兵長、ともかく引っくり返せ。うつむいてたんじゃ誰だか判らん」
やっとのことで伍長は、従軍牧師長を引っくり返したが、そのさい目をさました彼は、自分の前に士官の立っているのを見て、「やあ、君か。何か変ったことがあるのかね? 夕食の用意はできた?」と言ったかと思うと、また目をとじて壁の方へぐるりと身体をねじった。
検閲将校はこれが昨日将校集会所で会った有名な大食漢であることを、ただちに認め、そっと吐息をもらした――
「その代わり」と、彼は伍長に向って言った。「貴様は営倉だぞ」
「申し上げます、少尉殿」と、立ち去ろうとした検閲将校を呼びとめてシュベイクが言った。「私の監禁は十一時までであります、十一時に満期となるからであります。もう十一時もとっくに過ぎたのでありますから、線路の上へ放りだしてもらうか、普通の兵士のいる豚車へいれてもらいたいであります、でなければルーカッシュ中尉のところへ」
「お前の名は?」と、検閲将校はまた書類を調べながらきいた。
「シュベイク・ヨセフと申します。少尉殿」
「ははあ、じゃお前があの有名なシュベイクなのか。お前の言うとおり、十一時には出られるんだが、ルーカッシュ中尉からの頼みにより、ブルックへ着くまでお前を出さんことにしとる、その方が安全ですくなくとも邪魔にならんでよいからな」
検閲将校がいってしまうと、伍長は毒づかずにはいられなかった――
「へん、どうじゃ、シュベイク、上告して味噌をつけたろう。可哀想だから止したものの、俺がたきつけりゃ、貴様らひどい目にあうところだったんだぞ」
「伍長さん」と、一年志願兵が言った。「おどかすのは止してもらいましょうぜ。焚きつけられるんだったらなぜ焚きつけなかったんです? 貴方の精神が、人なみに発達していると言えば、まずその点だけですからな」
「もう沢山!」と、伍長は跳びあがった。「貴様ら二人を刑事に引きわたしちまうぞ!」
「これはしたり、なぜです?」
「貴様の知ったことじゃない!」
「貴方の知ったことで」と、志願兵は微笑みながら言った。「私どもの知ったことでもあるのです。それよりも、貴方を営倉にいれると言ったことが、どう貴方にこたえたか、知りたいのですが。それで貴方は私どもに当りちらすんでしょうな」
「貴様らはじつに下劣な畜生だ!」
「ちょっとご注意までに申し上げますが、伍長殿」と、シュベイクが言った。「そんな罵詈雑言はおつつしみなさるがよかろ。わしがまだ現役にいた頃、シュライターという堅パン野郎がいた。こいつも恩給稼ぎに頑張っとる連中のひとりで、兵士いじめの標本ときていた。罵詈雑言の限りをつくしたのち、きっと『手前ら兵士じゃねえ、番人じゃ』と、こうだ。ある日のことあんまり癪にさわったんで、わしゃ中隊長のところへ申しでた。『貴様何の用じゃ?』と、中隊長。『申し上げます。中隊長殿。シュライター曹長殿を訴えるであります――私どもは陛下の兵士でありまして、番人じゃありません。皇帝陛下のために勤めるのでありまして、西瓜番じゃありません」『何だと、この毒虫め』と、中隊長。『きりきりうせやがれ。けがらわしい』そこでわしは大隊長の前へ連れていってくれと願った。
私どもは番人じゃなくて、陛下の兵士であります、と大隊長に説明すると、少佐殿はわしに二日間の営倉をくらわした。そこでわしは連隊長にあわしてもらいたいと言った。連隊長の大佐殿は、わしの言葉を聞くと、貴様は底抜けじゃ、貴様のような野郎は犬にでも食われろ、とどなりつけた。そこでわしはまた大佐殿に言った――『申し上げます、連隊長殿。旅団長殿にあって話したいであります』
これにはさすがの連隊長も驚いたとみえ、早速シュライター曹長を呼びつけ、なみいる将校連の前で、わしに番人だと言ったことを取消さしたじゃ。そこから帰る途中、営庭でわしに追いついて来た奴さん、今日からはお前の悪口は言わねえ、だが気をつけろよ、営倉へぶちこまれねえようにな、と来た。このときからわしは水ももらさぬ警戒をやったものだが、何にもならないこととなった。ある日倉庫の歩哨に立った。倉庫の壁へは歩哨が女の局部の図を描くか唄の文句を書くか、ともかく、落書きするものと相場はきまってる。わしにゃ何もいい考えが浮かばなかったんで、退屈まぎれに『堅パン野郎シュライターの馬鹿』と、その壁の落書きの下に書いてやった。ところが、この堅パン野郎の畜生め、犬のように後をつけやがって、これを見てたのだ。しかも、悪いことにゃ、わしの書いた上にあった落書きというのがいけねえ――『戦争へいくのはいやだ、戦争なんか糞くらえ』それが一九一二年のことで、プロハーツカ領事事件のセルビアへ出兵しようとしていたときだ。早速わしはテレージエンスタットの裁判所へ送られた。軍法会議の旦那方は、倉庫の壁のこの落書きを十五回も写真にとったり、またわしの手跡をしらべるために十回も『戦争へいくのはいやだ、戦争なんか糞くらえ』と書かし、十五回も『堅パン野郎シュライターの馬鹿』と書かした。おしまいには筆跡鑑定家がやって来て、わしにいろんなことを書かせた、『糞桶』『何糞』『糞船』『焼糞』『糞蝿』、糞って字が問題だったらしい。それでもまだ判定がつかなかったと見え、材料を全部ウィーンに送って、初めて最後の決定をみた。上の落書きは、わしの筆跡じゃない、しかし下のはわしのじゃ、という事がわかり、これはわしも認めた。倉庫の壁に落書きをしていた間、倉庫の番を怠ったという廉で、六週間の営倉をくらったよ」
「それ見ろ」と、伍長は満足そうに言った。「『壁に耳あり』ってそこじゃ、お前もよくよくの悪党じゃな。俺が裁判長殿なら六週間どころか六年間の宣告をしてやるところじゃったが」
「そんな事を言わないで」と、一年志願兵が言った。「ご自身の行末でも考えられたがよろしかろうて。さっき検閲将校が何とおっしゃった、貴方も営倉行きですぜ」
「伍長殿、たとへ営倉にいかれても」と、シュベイクが、親切な微笑を浮かべながら言った。「何かひどい目にあわせられても、決して理性を失いなさんな、昂奮しなさんな。昂奮すると健康を害する、今は戦争中だから特に健康に気をつけなくちゃならんですからな」
「近頃は絞首刑や銃殺がなかなか多いようですよ」と、護衛兵の一人が口をいれた。「政治方面の人間はどしどし監禁ですな。モラビア地方の新聞編集員も銃殺されました。わっしらの中隊長が言ったっけ、他の連中も追ってこのとおりに始末するんだって」
「何にだって際限というものがあるよ」と、一年志願兵は二重の意味を含めて言った。
「まったくだ」と、伍長。「編集員なんて奴はどしどしやっつけちまうがいいんだ。奴らは国民をおだてあげるばかりが能だからな。昨年俺がまだ上等兵だった頃、俺の下に編集員がいたが、この畜生、俺のことを軍隊の黴菌《ばいきん》としかぬかしやがらねえ。体操のときうんといじめてやった、すると奴だらだらと汗を流しやがって『私は人間だ、人間らしく尊重して下さい』と泣き言をならべたもんだ。また俺はこいつを雨あがりの水溜りのなかへ『伏せ』をさせてやった、あるときなどずぶぬれにさしてやったよ。泥のなかに寝かしてどぶ鼠のようになった奴の上に乗っかって『どうじゃ、編集員さん、軍隊の黴菌《ばいきん》と人間と、どっちが偉いかな?』って言ってやったこともある。あいつなんかまったくちゃきちゃきのインテリだったよ」
伍長はどうだと言わんばかりに一年志願兵を見ながらつづけた――「奴は知識があったばっかりに一年志願兵の権利もなくしちまったんだ、兵士虐待のことを新聞へ投書したもんだからな。だが考えて見ろ、教育があるくせに、銃の取り扱い方もおぼえようとせず、左向け左と言えばわざと頭を右にまわすような奴を、虐待しないでおけるものか。こいつは銃はどちらの肩にかつぐものか知らなかった、また行進ときたら、いやはや、まったくお話にもならねえ、ふらふらよちよち歩くという始末で、廻れ右前へ、と号令しても、奴さん平気の平左で、とことこと歩いていく、五、六歩も前進した頃、水道の栓でもねじるように、だらしなくぐるりと廻るんだ、左足からだろうと右足からだろうと奴にゃまったく同じことなんだからやりきれねえ」
そこまで言った伍長は、ベッと唾をはいた――「俺らの中隊長は、しょっちゅう奴にむかって言ってたっけ――貴様のような奴は、どうしても兵隊にゃなれねえ、軍用パンがもったいねえから、首でもくくったらどうだ、とな。重営倉と営倉をくらいどおしで、たまにそこから出るのは奴にとっちゃお正月かお盆だった。こんなときに奴が新聞へ兵士虐待の記事を書いたものらしい。ところがある日奴の行李を捜査すると、本が出てきた、本も本、軍備撤廃だの世界平和だのって本ばかりじゃねえか。とうとう陸軍監獄送りとなって、一年志願兵の資格をなくしたよ。だが考えて見りゃ、惜しいなあ、少尉になることができたんだもの」
伍長はじゅうぶんに述べ終ったのち、一年志願兵が何か文句を言えるかどうか、待っていた。そこヘシュベイクが口をいれた。
「それと同じようなこと、つまり、そんな兵士いじめをやったため、数年前第三五連隊でコニーチェクという男が、伍長を殺して自殺したことがあったぜ。『クウリエル』に載っていたんだがね。その伍長は全身三十箇所ばかり突きさされ、そのうち十箇所以上も致命傷だったって。兵士は伍長の死骸の上に腰をおろして、自分の咽喉を突いてたそうだ。またダルマチアでも、伍長が咽喉を掻き切られたって事件があったっけ。今だに謎となってるんだが、その下手人がどうしても解らねえ。また七五連隊のライマンとかいう伍長も……」
この痛快な話も、この所で、長椅子の上に寝ていた従軍牧師長ラチーナの大きな欠伸《あくび》のため中断された。
従軍牧師殿のおめざめはじつに堂々たるものであった。まず大きな屁をとばし、腹の底から|げっぷ《ヽヽヽ》をやり、鰐のような口をあいて欠伸をしたのだ。そこでやっと身体をおこして不審そうにきいた――
「いったいぜんたいここはどこじゃ?」
「申し上げます。従軍牧師長殿」と、伍長はしゃちこばって答えた。「囚人護送車のなかにおられるのであります」
けげんな顔をしてあたりを見まわしたが、従軍牧師には、なぜ自分が鉄格子のなかに居るのか、どうしても合点がいかなかった。
「誰の命令で、わしはこんな所に……」
「申し上げます、命令なしにであります」
従軍牧師長は立って、車輌のなかをあちこちと歩いた。そしてどうも解らない、というようなことをつぶやいた。
また腰をおろした彼はきいた――「一体この列車はどこへいくんだい?」
「申し上げます、ブルックへであります」
「なぜブルックへいくんだ?」
「申し上げます、私ども九一連隊は同地へ移るのであります」
従軍牧師長はまた首をひねり始めた。どうして俺はこんな車輌のなかにはいって来たんだろう。なぜブルックへ、しかも護衛兵付きで九一連隊といっしょにいくんだろう?
そろそろ酔いがさめてきたらしい。一年志願兵をつかまえて次のようなことをきいた――
「君は訳のわかる人間だ、包みかくさず本当のことを言ってくれ、どうして俺がここへ来たんだ?」
「おやすいご用で」と、一年志願兵はなれなれしい調子で言った。「今朝の乗込みのさい停車場で我々に加わったんです、だいぶ酔っていられたようでしたな」
伍長は志願兵をむずかしい顔をしてにらみつけていた。
「貴方はこの車輌のなかにのたりこんだんでさ」と、一年志願兵は伍長にはかまわずつづけた。「それっきりでさ。この長椅子の上に横になられたんで、ここにいるシュベイクが自分の外套をぬいで貴方の頭の下に敷いてあげたんですよ。それからさっきの停車場で検閲将校がやって来て、貴方を発見し、書き取っていきましたっけ。お蔭でこの伍長は営倉行きってなことになったんです」
「そうか、そうか。じゃ次の駅で幹部車輌へ移らなくちゃならん。君知らないか、もう昼食の用意はできたろうか?」
「申し上げます、従軍牧師長殿」と、伍長が言った。「昼食はウィーンへ着いてからでないと戴けないであります」
「君がわしの頭の下へ外套を敷いてくれたんだってね」と、従軍牧師長は、シュベイクに向って言った。「どうも有難う」
「お礼にゃ及びませんよ。当り前のことをやったまでですからな。上官が板の上に頭をつけて寝ている、枕を作ってやるのが兵士として当然なすべきことじゃありませんか。わしゃ従軍牧師オットー・カッツの従卒をしていましたからな、こんなことにゃ経験を積んでおりますよ。ありゃなかなか陽気な男でしたよ、親切でな」
従軍牧師長は二日酔いのせいか、急にデモクラシーになって、巻煙草を一本取り出して、シュベイクにすすめながら――「吸え、パッパとやってくれ」
「貴様は」と、伍長に向って、「大いに営倉へいけ、心配するな、俺がすぐ救いだしてやるから」
「貴様は」と、シュベイクに向い、「俺が連れていく。俺んとこへ来い、楽に暮らさせてやるぞ」
彼はまた急に気が大きくなった、一年志願兵にはチョコレートを買ってやろう、護衛兵の連中にはリキュールを飲ましてやろう、伍長を騎兵第七旅団の写真班に転任させてやろう、みんなを救ってやろう、いつまでも忘れないでいてやろう、と言った。
ポケットから巻煙草を取り出して、今度はシュベイクだけでなく、みんなにわけてやった。そして言った――
「お前達は、みんな良い人間らしい。俺は顔が広いから、俺によりかかってりゃ大船に乗ったつもりでおれ。見たところ、お前達は神様を愛する善良な人間らしいが…」
「どうしてお前に」と、シュベイクに向い、「神様は罰をくだされたんだ?」
「のっぴきならぬ事情から連隊へ帰るのがおくれたため」と、シュベイクは信心深そうに答えた。「神様が連隊裁判の手を通じて私を罰せられたのであります」
「神様は無限の慈悲じゃ、誰を罰すべきかを心得ておられる、それによってその先見の明と全能の力を示されるのじゃ。それから、お前はどうした、一年志願兵は?」
「慈悲無限の神様が私にリウマチの罪を課せられたまい、また私があまりにわがまま勝手のことをしたためであります。刑を終えますと、炊事場にやられることになっております」
「神のなしたまうこと、すべて善し」と、教父は台所の話が出たので感激して言った。「炊事場からでも出世できるものじゃ。炊事場こそ、教養ある者がいなくちゃならん。ただ料理すりゃいいというわけにゃいかん、いかなる愛をもって材料の配合をなすか、といったような事なんだからな。ソースを例にとってみよう。玉葱ソースを作るにしても、教養ある人間なら、いろんな野菜を使い、それをまずバターで蒸し焼にし、それからいろんな香味を適宜にくわえるんだ。ところが、ざらにある下品な料理人ときたら、いきなり玉葱を煮て、真黒になったヘットを放りこむという工合だ。君は将校の賄い方になるといいな」
従軍牧師長は、しばらく黙ったが、今度は旧約および新約聖書に出てくる台所の問題に及び、当時は祭祀《さいし》その他の場合にご馳走をすることに注意したというようなことを話した。ご馳走の話で陽気になってきた彼は、みんなに向って何か歌え、と言い出した。シュベイクは、例により後先の考えもなく、早速やりだした――
娘さん街へお出かけじゃ
腰ふって、しゃなしゃなと
葡萄酒樽抱えて牧師さん
後を追う、ひょこひょこと
しかし従軍牧師長は怒らなかった。
「葡萄酒樽なんて欲は言わんよ、せめてリキュールがちょっぴりあったらなあ」と、彼は上気嫌で言った。「娘さんもいなくったっていいや、女は魔物じゃからのう」
伍長は、外套のなかからリキュールのはいったポケット瓶をそっと取りだした。
「申し上げます、従軍牧師長殿」と、彼はおそるおそる小さな声で言った。「まことに失礼ではありますが」
「どうして、どうして」と、教父は思いがけない進物に顔をかがやかせながら嬉しそうに言った。「無事の旅行を祈って一献捧げるとしよう」
(こりゃ大変なことをしたぞ)と、伍長は心のなかで溜息をもらしながら言った、従軍牧師長は一息で瓶を半分ほど乾してしまったのであった。
「やい、やい」と、従軍牧師長は微笑みながら言った、そして一年志願兵に向って意味深い目くばせをしながら、「畜生うめえことをしてやがる、なんて言ってんじゃないかい? そんなことを言うと神様に罰せられますぞ」
彼はふたたびその平べったい瓶を口にあてがい、それからシュベイクに渡しながら強制的に命じた――「乾しちまえ!」
「戦争とあらば、やむをえんです」シュベイクはからっぽになった瓶を伍長に渡しながらいかにも善良そうに言った。伍長は、精神に欠陥ある人にのみ見られうるような眼を奇妙にぱちくりさせるばかりであった。
「そこで、わしはウィーンまで少々鼾をかくからな」と、従軍牧師長。「ウィーンへ着いたらすぐ起こしておくれ」
「それからお前」と、シュベイクに向って、「お前はね、将校の賄い方へいって、昼食をもらってきてくれ。従軍牧師長ラチーナ殿の分じゃ、と言え、しっかりやって二人前取ってくるんだぞ。それから、台所から葡萄酒を一本持ってきてくれ、またリキュールを注《つ》いでもらう器を持っていけ」
教父ラチーナは、ポケットに手を突っこんで掻きまわした。
「おい」と、伍長に向って、「こまかい金がないからな、一グルデン貸しとくれ。よし、さあこれをお前にやろう! 何といったっけ、お前は?」
「シュベイク」
「さあ駄賃に一グルデン取らせるぞ、シュベイク――いいか、シュベイク、用事をすっかりうまく果たしたら、もう一グルデンくれてやるぞ――それから巻煙草と葉巻をもらって来てくれ。チョコレートがあったら、二人前ふんだくって来い。缶詰があったら、燻製の舌《タン》か鵞鳥の肝臓《レバー》を取って来い。エメンタール産のチーズなら真中のところを、ハンガリー風のサラミなら、やっぱり端でなく真中の汁のたっぷりありそうな所を寄こすよう気をつけて見ていなくちゃならんぞ」
従軍牧師長は、うつむいて長々と身体をのばしたかと思うと、間もなく眠ってしまった。
「貴方は」と、一年志願兵は、従軍牧師長が鼾をかき出したのを見て、伍長に言った。「この拾い児に満足でしょうな。案外いい児じゃないか」
「もう寝いっとるですな、伍長殿」と、シュベイク。「瓶の口からちゅうちゅう吸うんですからなあ」
伍長は、しばらくのあいだ内心で大いに闘争していたが、急にあらゆる屈従心を失ってひややかに言った――
「御しやすい奴じゃ」
「こまかい金がないと言や」と、シュベイクが話し出した。「デイウィッツのムリーチュコって左官を思い出すよ。この男、借金で首がまわらなくなり、詐欺で監獄へ送られるまで、長いあいだこまかい金を持っていなかった。大きい金は飲んだり食ったりしてしまうし、こまかい金は一文も持ち合わせがねえ」
「七五連隊にあったことだがね」と、護衛兵の一人が言った。「戦争の始まらねえ前、ある大尉が連隊の金をすっかり遊興に使ってしまって隊を退くことになったが、戦争が始まると、また舞いもどってきて大尉でございとすましてやがる。また服地をどっさりごまかしてこさえた金で散財をしやがった曹長が、今では参謀付きだ。それに兵士はどうだ、ついこないだもセルビアで一人銃殺されたんだ、三日分の缶詰を一度に食ってしまったからだとよ」
「そんなこたあ、どうだっていい」と、伍長が言った。「だが、チップに使うからといって貧しい伍長から二グルデン借りたってことは本当だよ」
「さあ、その金を返してやろう」と、シュベイクが言った。「あんたの懐を痛めてまでお金持になりたかねえからな。もう一グルデンもらったら、そいつも返してあげるよ。わいわい泣き出されると困るから。上官から酒代を借りられるなんて、有難いはずだがなあ。あんたはよっぽど利己主義だよ」
「パンツを汚すほどひでえ目にあわして欲しいんだな」と、伍長は抵抗した。「やい、従卒、尻《けつ》しゃぶりめ!」
「戦闘のある毎に、汚す奴が随分あるんだってね」と、また護衛兵の一人が口をいれた。「ついこのあいだブードワイスで負傷兵から聞いた話なんだが、前進中つづけざまに三度汚したってんだ。最初は、塹壕を出て鉄条網の前の陣地にはいのぼったとき、次は、鉄条網を切断し始めたとき、三度目は、これはとうとう大きいやつを出してしまったんだが、ロシア兵が銃剣を持って『ウラアー』と叫びながら殺到して来たときだったそうな。そこでみんなもとの塹壕の中に逃げこんだが、誰一人として汚してねえ者はいなかったって。また、前進のさい榴霰弾のため頭を半分だけまるで切り取ったように引きちぎられて死んだ男が、塹壕のふちに足をだらりとぶらさげていた。最後の瞬間にやったと見えて、臭いやつがズボンから靴の上を通って血といっしょに塹壕のなかに流れこんでいた。そして引きちぎられた頭の半分が脳味噌といっしょにちょうどその中にころがっていたとさ。いやまったく奇妙なことがあるもんだねえ」
「戦闘のとき、気分が悪くなるってこたあ、たびたびあるよ」と、シュベイク。「プラハの『見晴し亭』で病みあがりの兵隊から聞いたんだが、要塞に向って突貫をやったところ、雲つくような大男のロシア兵が現われたんだそうな、ずぶりと銃剣を突込んだと思え、するとその雲助め、どっさり鼻汁をたらしおった。これを見ると、急に胸が悪くなって、救護所におもむかざるをえなかった。救護所ではこの男をコレラだと診断した。そこでブダペスト市のコレラ病院に送られたが、とうとうそこで本当のコレラをうつされたとよ」
「そいつ、なみの兵士だったのかい? それとも伍長だった?」と、きいたのは一年志願兵。
「伍長さ」と、シュベイクは落ちついて答えた。
「一年志願兵だってそんな目にあわんとは言えめえよ」と、伍長はそっと言ったが、内心では、(どうだ、これにゃ貴様も一本参ったろう)と言わんばかりに一年志願兵を見やった。
しかし一年志願兵は、黙って長椅子の上に身体をよこたえた。
列車は次第にウィーンに近づいた。ウィーンの周囲には鉄条網が張られ堡塁《ほうるい》が築かれているのが、窓から見えた。ある種の憂鬱な感じが、みんなの心をとざしてしまった。
ベルクライスタイン地方の山のなかから出てきた連中は「帰ってくりゃ、帰ってくりゃ、よお、お前のそばじゃ、よお」とどなりつづけていたが、このウィーンをめぐって張られた鉄条網を眺めると、急に元気をなくして黙ってしまった。
「何もかもきちんとしてらあ」と、シュベイクは窓ごしに塹壕を見ながら言った。「何もかもまったくきちんとしてらあ。だけど、ウィーンの人は郊外散歩のとき気をつけなくちゃ、ズボンを引きさくぜ」
「ウィーンってところは、そもそも大切な都会だからな」と、シュベイクはつづけた。「シェーンブルン動物園だけでも、ずいぶん沢山の野獣がおるぜ。五六年前わしゃウィーンにいたことがあるが、猿を見るのが好きでな、よく見にいったもんだ。しかしあの動物園は宮城の近くだもんで、よく皇族方がとおられる。そんなときにゃ警戒線が張られて誰もはいれないんだ。ちょうどそのとき、わしゃ同じ隊の仕立て屋あがりの奴といっしょにいたが、この仕立て屋の奴どうしても猿を見るんだといってきかないもんだから、とうとう警察へ引っぱられたことがあったっけ」
「宮城のなかも見たかい?」と、伍長がきいた。
「とても立派なところだよ」と、シュベイク。「ただし、見てきたって男から聞いた話だがな。なかでもいちばん立派なのは、番兵だ。身の丈は六尺六寸くらいねえといけねえ、六尺六寸ありゃ番小屋を一つずつもらえるんだ、それから、あすこにゃ皇女がうようよするほどいるんだとよ」
列車はある駅にとまった。そこで食事が配給され、盛大な歓迎会が催された。しかし、その歓迎会も戦争当初とは比べものにならなかった。あの頃は、どこの駅でも、戦線におもむく兵隊はたらふく食えたものだが。
ウィーンに着くと、オーストリア赤十字社の社員が三名、ウィーンの婦人や女子青年で作っている何とかいう戦争後援会の会員二名、ウィーン市当局および軍司令部の公式代表者が一名、ブードワイス連隊を迎えた。
彼らの顔には、倦怠の様子がありありと見えていた。
それも道理、兵隊を積んだ列車が、昼夜の区別なくウィーンの各停車場を発着したが、その都度、この種の団体は停車場に顔を出さねばならなかったからである。日のたつにつれて、最初は感激をもって迎え送っていたものも、欠伸に変ってしまったのだ。
家畜輸送車のなかからは、兵士たちが、絞首台に引かれていく人々の持つような絶望の顔付をして、そとを眺めた。
貴婦人連は彼らに近づいて、『勝て、復讐せよ!』とか『神よ、イギリスを罰し給え』とか『オーストリア人には祖国あり、祖国を愛し、祖国のために戦う』といったようなことを書いた菓子をくばった。
各中隊は停車場に設けられた野戦炊事場におもむき、食事を受け取るべし、との命令がくだった。
シュベイクは、将校炊事場に行き、従軍牧師長の命令をじゅうぶんに果たした。食事をどっさり持って囚人護衛車へ帰ろうと、線路を横切ったとき、ばったりルーカッシュ中尉に出くわした。中尉は、線路と線路の間を行きつ戻りつしながら、将校炊事場で何か自分の食うものが残るだろうと待っていたのだ。
彼の現状はまさに不愉快であった。彼はさしあたりキルシュナー中尉と共同で一人の従卒を持っていたが、この従卒は自分の主人のことばかりかまって、ルーカッシュ中尉のことになると完全にサボるのであった。
「シュベイク、お前それを誰に持っていくんだ?」と、ルーカッシュ中尉は、シュベイクが将校炊事場から持ち出して外套にくるんだ山なす食料をしたに置いたのを見て、きいた。
シュベイクは、瞬間ひどく驚いた、けれどもすぐまた気を落ちつけて、顔をかがやかせながら静かに答えた――
「申し上げます、中尉殿。貴方に持っていくんであります。貴方の車室がどこだか解らんし、また私が貴方のところへ行くのを列車指揮官が反対しやしないかと思ったので。あの列車指揮官って奴は豚みたいな奴ですなあ」
ルーカッシュ中尉は、どうしてだ? というような顔付をしてシュベイクを見た。シュベイクはお人よしにざっくばらんに話しつづけた――「あいつは本当に豚ですよ、中尉殿。あいつが検閲に見えたときわしゃこう言ったんです、もう十一時も過ぎて処罰も満期になったから豚車かルーカッシュ中尉のところへやってくれってね。すると畜生、貴様はここにいろ、ルーカッシュ中尉殿の足手まといになって人さわがせをやっちゃいかんから、とぬかすじゃありませんか」
シュベイクは殉教者のような顔付をした。「まるでわしが貴方の邪魔ばかりするんだとでも思いやがって」
ルーカッシュ中尉は溜息をもらした。
「いつだってわしゃ」と、シュベイクはつづけて言った。「何か気のきいたことを何かよいことをと心がけて貴方のためにやってるんですぜ、それがみじめな結果に終ったところで、わしゃ責任がないんですからなあ」
「そんなに泣かんでもいいよ、シュベイク」と、中尉はやさしい声で言った。「できるだけ骨を折ってお前がまた俺のところへ来られるように取りはからってやるからな」
「申し上げます、中尉殿。わしゃ泣きやしません。ただ、わしら二人ぐらい不幸な人間はこの世にまたとおるものじゃないと思うと、急に悲しくなるんでさ。昔からこれほど他人のためを思ってやっておるのに、まあ何てひどい運のめぐり合わせなんでしょう」
「そう昂奮しないで、気を落ちつけて、シュベイク」
「申し上げます。中尉殿。貴方が上官でなけりゃ、どうしたって昂奮せずにおられん、気を落ちつけられねえ、と言いたいんですが、貴方の命令に従って、もうまったく落ちつきましたと言わなければなりませんであります」
ライタ河に沿うブルックの陣営は静かな夜に包まれていた。兵士たちが営倉のなかで寒さにふるえていたのに、将校の方では営舎をあたためすぎて窓をあけっぱなしていた。
ブルックの町の方では、国立肉類缶詰工場の燈火がかがやいている。この工場では昼夜兼行でいろんな屑を精製していた。これが風上になっていたので、陣営の方へ動物の腱や蹄《ひづめ》や骨などの鼻持ちのならぬ臭気をもたらした。これらのものは缶詰スープの材料にされるのであった。
以前戦争の始まらない頃、兵士の撮影を専門としていた写真屋の、今は誰も住んでいないアトリエから、下の方のライタ河の谷にあたって『クークールーツコルベン』という女郎屋の赤い電燈が見えた。
ここは将校専門で、兵士や一年志願兵の出入りするのは『ローゼンハウス』といって、この女郎屋の青い電燈もやはりあのアトリエから見えた。
女郎屋の出入りにも、かくのごとく階級別があった。これより後の話だが、戦争も永びいて将校が前線に出るのを嫌うようになったので、前線へ移動女郎屋、所謂『プッフ』を置くことになったが、これもやはり階級別となっていて、将校プッフ、下士プッフ、兵卒プッフという風にわかれていた。
ライタ河をはさんだ二つの町、ブルックとキラリヒーダは、将兵相手のカフェやレストランで煌々とかがやき、絃歌が絶えなかった。土地の者は、官吏に至るまで、自分の妻や娘をこんなカフェやレストランに出入りさせていたので、ブルックとキラリヒーダの町は、さながら一大女郎屋であった。
駐屯所の将校営舎の一室で、シュベイクは、夕方町の劇場に出かけてまだ帰ってこないルーカッシュ中尉の帰りを待っていた。彼は、蒲団を払った中尉の寝台に腰を掛け、それに向いあったテーブルの上にウェンツル少佐の従卒が腰を掛けていた。ウェンツルとルーカッシュの部屋は同じ廊下にあったのだ。
ウェンツル少佐の従卒、ミクーラーチェクは足をぶらぶらさせながら口ぎたなくののしった――「うちの爺め、いい年をしゃがって、よっぴてどこをうろついてやがるんだろう。部屋の鍵なりと置いてきゃ、寝ころんで飲んでやるんだのに、俺らの部屋にゃ葡萄酒がうんとあるんだぞ」
「奴しこたま盗んだんだよ」と、シュベイクは、部屋のなかでパイプでスパスパやるのを中尉から禁じられているため、中尉の巻煙草を気持よさそうに吹かしながら言った。「お前知っとるだろうが、葡萄酒の出所は」
「俺あ奴がいけって所へいくんだ」と、ミクーラーチェクは声をおとして言った。「奴あちょっと何だか書いてくれる、と俺あもう病人のためにってわけで葡萄酒をかかえこんで来るのさ」
「連隊の金庫を盗んでこい、って奴が言ったらどうだ、お前それでもやるかい? お前、蔭じゃ奴の悪口を言ってるが、前へ出るとがたがたふるえるじゃねえか」
ミクーラーチェクは、その小さな眼をぱちくりさせながら言った――「そいつあちょっくら考えさせてくれよ」
「考えさせてくれ? この青二才め!」と、シュベイクはどなりかかったが、急に黙ってしまった。ルーカッシュ中尉が、ちょうど戸を開けてはいって来たからである。中尉殿はすこぶる上気嫌らしかった。帽子を逆にかぶっているのがそのしるしだ。
ミクーラーチェクは、ひどく驚いた。テーブルから跳びおりるのも忘れて、すわったまま挙手の敬礼をした。帽子をかぶっていないということも忘れて。
「申し上げます、中尉殿。万事変りがないであります」と、シュベイクは規定どおりの軍隊式な厳格な態度で告げたが、これも口に巻煙草をくわえたままであった。
中尉は、しかし、気づかなかったらしい。眼の玉を飛びださせて中尉の一挙一動を見ながら相変らずテーブルの上にすわったまま敬礼しているミクーラーチェクの方へ、まっすぐに歩みよった。
「ルーカッシュ中尉」と、いささか怪しい足取りでミクーラーチェクに歩みよった彼は言った。
「そして君は?」
ミクーラーチェクは黙っていた。中尉は帽子を彼の前に持ってきて腰をおろし、テーブルに腰を掛けている彼を見あげたのち言った――「シュベイク、行李のなかからピストルを出してくれ」
シュベイクが行李の中を探している間、ミクーラーチェクは、ただ呆気に取られて中尉を見つめていた。もし自分がテーブルの上に掛けているということに気づいたならば、もっと、おったまげたであろう、彼の足が中尉の膝にさわっていたのだから。
「こらッ、名前は何というんだってのに、やい」と、中尉はどなった。
しかしミクーラーチェクは頑張ってなかなか口をきこうとしなかった。あとで彼の話したところによると、中尉が不意にはいって来たので彼は一種の麻痺をおこしたのであった。テーブルからとびおりようとしたができなかった、返事しようと思ったがやはり駄目だった、敬礼している手をおろそうとしたが、それもできなかったのだ。
「申し上げます、中尉殿」と、シュベイクが言った。「ピストルには弾がはいっていないであります」
「じゃ、弾丸をこめろ!」
「申し上げます、中尉殿。弾丸が一発もないであります。そしてそこにある物をテーブルから射ち落すことはちょっとできないと思うのであります、申し上げますが、この物はミクーラーチェクで、ウェンツル少佐殿の従卒であります。この物は将校殿に会うと必ず舌が動かなくなる癖を持っとるであります」
シュベイクは唾をはいた、彼の言葉の調子から、またミクーラーチェクを物品扱いにする事情から推しても、彼がこのウェンツル少佐の従卒の卑屈と非軍隊的態度とを軽蔑しきっているということがありありと見えた。
「ご免こうむって」と、シュベイクはつづけた。「私に奴を嗅《か》がしてください」
シュベイクは、とめどなく馬鹿面をして中尉を見つめているミクーラーチェクをテーブルから引きおろして床の上に立たせ、そのズボンを嗅ぐのであった。
「まだです。だが今にやりますよ。放りだしましょうか?」
「放りだしてくれ、シュベイク」
シュベイクは、ぶるぶる震えているミクーラーチェクを廊下に引きだし、部屋の戸をしめて言った。「この馬鹿野郎め、みろ、俺が貴様の生命を救ってやったんだぞ。そのお礼として、ウェンツル少佐が帰ってこないうちに、そっと俺に葡萄酒を一本持って来い――なあんて冗談はよそう。しかし本当に俺あ貴様の生命を救ってやったんぞ。俺の中尉が酔っぱらったときた日にゃ、俺でねえとおさまりが付かねえんだからな」
「俺あ……」
「屁だよ、貴様は」と、シュベイクは鼻のさきであしらった。「閾《しきい》の上にでもすわって、貴様の少佐が帰るまで待ってろ」
「遅かったね、何してたんだ?」と、ルーカッシュ中尉はシュベイクが部屋に戻ってきたのを迎えた。「ちょっと話したいことがあるんだ。またそんな不動の姿勢で立つのは止してくれ――すわれよ。シュベイク。それから黙って俺の言うことをきくんだぞ、いいか。キラリヒーダのソプロヌイ・ウートカってどこにあるか知ってるか? 止せったら、その『申し上げます、中尉殿』は! 知らなきゃ、あっさりと知りません、それでいいんだ。忘れんように何か紙片にでも書いとけ『ソプロヌイ・ウートカ十六番地』この番地に鉄商がある、鉄商って何だか知ってるか? 止せったら、その申し上げます、は。知ってますとか、それでいいんだったら。よし、知ってるか、よし。その店は、カコーヌイとかいうマジャール人のものなんだ。マジャール人って何だか知ってるか? そらまた、知ってるとか知らないとか、でいいんだぞ。知ってる? よし。その店の二階に住居がある、解ったろう、解らなきゃ、営倉だぞ。書いたか、その男の名前はカコーヌイっていうのを? よし、じゃ明朝十時頃そこへこの手紙を持っていってカコーヌイ氏に渡してくれ」
中尉は、内ポケットから宛名も何も書いてない封筒を取りだし、欠伸をしながらシュベイクに渡した。
「非常に重大な用件だからな、シュベイク。用心はしすぎるってことはない、だから宛名を書かなかったんだ。
この手紙を先方へ確実に渡すことをお前にまかせるからな、全責任をもってやってくれ。それから、ここの奥さんはエテールカって名前だ、その封筒に『エテールカ・カコーヌイ夫人様』と書いてくれ。いいか、この手紙はどんなことがあっても内密に渡し、返事をもらってくるんだぞ。返事を待っているってことは手紙のなかに書いとる。何だって?」
「返事をよこさなかったら、どうするでありますか?」
「わしがどうあっても返事を戴きたいと言っている、と奥さんに言うんだ」と、言いながらも中尉はまた大きな口をあけて欠伸をした。「わしゃもう寝るぞ、今日はひどく飲んだんで、身体が綿のようになっとる」
中尉はこんなに遅くならないうちに帰るはずだった。キラリヒーダのマジャール人の劇場ヘユダヤの女優連の小歌劇を見にでかけたのだが、こんなに遅くなった第一の理由は、この女優連が舞踏で脚を高く蹴上げ、しかも肉色ズボン下はおろかズロースさえはいていなかったからだ。将校連を更にひきつけるために、彼女らは、タタール人の女のやるように、あの毛をすっかり剃りおとしていた。それは二階以上にいた観客には何にもならなかったが、平土間に陣取った砲兵隊の将校達は野戦用望遠鏡を持ち出してこの絶景をじゅうぶんに味わうことができた。
ルーカッシュ中尉は、しかし、この興味津々たる猥行を楽しめなかった。彼の借りた賃貸オペラグラスのレンズがゆがんでいたため、太股らしくもない何だかぶらぶらゆれている紫色の平面のようなものしか見えなかったからだ。
第一幕が終ったとき、彼は舞台よりも一人の婦人にひきつけられた。その婦人というのは、同伴の中年の紳士を携帯品預り所に引っぱるように連れだして、お付きあいにしてもこんな穢《けがらわ》しいものを見るのはいやです、すぐ帰りましょうと言っていた。彼女はかなり大きな声でドイツ語を使って言ったが、同伴の紳士はマジャール語で答えた――「まったくそうだよ。帰ろう、帰るのはわしも賛成じゃ、まったく悪趣味の沙汰じゃからのう」
「胸が悪くなるわ」と、彼女は、紳士が夜会外套を着ているとき、憤慨の面持で言った。昂奮でいくらかうるんだ黒目がちの大きい眼は、その美しい姿によくつりあっていた。彼女はその場にいあわせたルーカッシュ中尉を見つめながら、また強く繰りかえした――「胸が悪くなるわ、まったく!」短い恋愛小説には、これだけでじゅうぶんであった。
預り所の女からきいたところによれば、これはカコーヌイ夫妻で、ソプローヌイ・ウートカ十六番地で鉄商をしているとのことであった。「奥さんはエテールカと申しましてね、二階でいっしょにお暮らしですよ」と、女はまるで|やりて《ヽヽヽ》の婆《ばばあ》のような精確さをもって報じた。「ソプローンでお生れのドイツのかたで、旦那はマジャール人です――当地は何もかもごっちゃに混じっていましてね」
ルーカッシュ中尉も、劇場を出た。まずある大きいカフェでうんと飲み、いい機嫌で、今度は小さいカフェのなかの別室にはいって、丸裸になりましょうかと言いよったルーマニア女を追いはらい、ペンと紙を取りよせ、コニャックをちびりちびりやりながら、先程からどうしても念頭をはなれない夫人に手紙を書きだした。
この手紙は、ルーカッシュ中尉が今までに何遍となく書いたうちの最大傑作であった。内容は、結局――今までに沢山の婦人と知合いになったことがあるが、貴方ほど私の人生観にぴったりと合った人生観を持たれた方は初めてだ。それに反し貴女の夫は何という利己主義者でしょう、自己の下劣な趣味を満足させるためあんな物を観に貴女を連れていく。貴女とお会いして静かに純粋芸術について物語りたいものです。私もやがて戦場の露と消える身だが、貴女が昨夜私に与えられたような思い出を、私も貴女にお残ししたいと望んでいます……というようなことであった。中尉は、彼女のふっくらした乳房のあたりを思いだしたり、あんな男といっしょにいるなんてと怒ったり、当地のホテルじゃ人の口がうるさいからちょっと休暇をもらってウィーンにでも連れださなくちゃ、などと考えながら書いたのである。
署名してペンをおいた彼は、コニャックを飲みほし、更にもう一本注文して、杯をかさねながら、彼は自分の書いた手紙を読みかえした。そして、最後の数行にいたるや、ついに感きわまって落涙せんばかりになった。
ルーカッシュ中尉がシュベイクに渡した重大なる用件の手紙は、こういう事情のもとに生れたものである。
翌朝シュベイクが中尉をおこしたのは九時であった――
「申し上げます、中尉殿、もう寝すごされたのであります、私もあの手紙を持ってキラリヒーダへ行かなくちゃならんであります。七時に起こしたんであります、それから七時半に、それからまた隊が練兵に出かけた八時に起こしたんでありますが、貴方は寝がえりを打っただけであります。中尉殿……おおい、中尉殿……」
ルーカッシュ中尉は、何かつぶやきながら、また寝がえりを打とうとしたが、今度はシュベイクの方でそうはさせなかった、容赦なく中尉をゆさぶって耳許へどなりつけた――「中尉殿、あの手紙を持ってキラリヒーダへ出かけますよ」
中尉は欠伸した――「あの手紙? ああそうか、あの手紙か、ありゃ内密な用件だ、いいか、俺達二人だけの秘密じゃからな。退場!……」
中尉は、シュベイクに剥ぎとられた蒲団を引っかぶって、また眠りつづけた。
ソプロヌイ・ウートカ十六番地を探すのは、そうむずかしいことではなかったのであるが、シュベイクは途中で偶然にも以前プラハの『ナ・ボイーシュチ』という酒場にいたことのある工兵ボジーチュカに出くわしたため、古馴染の間柄の常として、もちろん二人は一杯飲みにブルックの『赤い小羊』という酒場にはいったのであった。
「お前いってえどこへいくんだ?」と、まず一杯飲んで、やっとボジーチュカがきいた。
「そいつあ内証だ」と、シュベイク。「だがお前にゃ、昔からの仲間じゃ、打ちあけてやろう」
そこで彼は一部始終を微細にわたって話した。ボジーチュカは、そんな事ならいっしょにその手紙をとどけにいこう、どうしても打っちゃっとくわけにはいかんと言いだした。
二人は一別以来の話を愉快に語りあって、『赤い小羊』を出たのは、もう十二時過ぎだった。ソプロヌイ・ウートカ十六番地に着くまで、面白い有益な話がつづいた。
「お前ここで待っていてくれよ。俺あ二階へ飛びあがって手紙をわたし、返事をもらってすぐもどってくるからな」
「お前を打っちゃっとけって?」と、ボジーチュカは眼をぱちくりさせながら言った。「お前はまだマジャール人を知らねえんだ、何度でも繰りかえして言うよ。この辺はよっぽど用心しねえとマジャールの畜生どもからひでえ目にあうぞ。俺あそのマジャール人を一つ|どやし《ヽヽヽ》つけてやろう……」
「おい、ボジーチュカ」と、シュベイクは真面目になって言った。「今はマジャール人なんかどうだっていいんだ、大事なのはその細君なんだ。さっきも言ったとおり、事情が事情だから、なるべく内密に、穏便にやらんといかん。お前も、その首を縦に振って、まったくだって賛成したじゃねえか。それに今となって急にお前は腕づくでもいっしょに二階へあがって行こうなんて」
「お前まだ俺の気質を呑みこんでいねえな」と、工兵ボジーチュカもやはり非常に真面目になって答えた。「俺がいったん付いていくと言ったからには、どんなことがあろうと引っこまねえぞ。二人でいった方が、安全に決まっとるじゃねえか」
「そこだよ、ボジーチュカ。ビシェーラートのネクラン小路ってのをお前知ってるだろう? あすこにボボールネクって錠前屋の仕事場があった。このボボールネクは正直な男だったが、ある日淫売買いの帰りに、自分の家へ泊めてやろうと一人の遊び仲間を連れてきた。それで女房と大立ちまわりさ。それからというものはずいぶん長いあいだ床についていたが、頭の傷の繃帯を取りかえるごとに、女房は言ったものだ――『それ見な、二人連れでさえなけりゃ、ひと騒動ぐらいで済んで、お前さんの頭に天秤をぶっつけないでも良かったんだのに』その後ボボールネクが、どうやら口をきけるようになったとき、こう言った――『お前の言う通りだ、この次からは誰も連れて来やせんよ』どうじゃ、二人だって安全とは限らねえぜ」
「このマジャールの奴が」と、ボジーチュカは躍起となった。「俺らの頭に何かぶっつけるとまではいかねえと思うが、俺あいきなり奴の首筋をとっつかまえて、榴散弾のように二階から階段のしたへ投げとばしてやるよ。マジャール人に向っちゃ、てきぱきやらんといかん。でねえと、飛んだ馬鹿を見るぞ」
「おい、ボジーチュカ、お前そう飲んでもいねえんだぞ、俺の方が二本余計に飲んどるんじゃ。よく考えてくれ、事をあらだてちゃ困るんだからな。問題はあまっこ一匹じゃ」
「シュベイク、俺あそのあまっこも張りたおしてやるんだ。俺にかかっちゃ何もかも同じじゃ、お前はまだこのボジーチュカ様を知らねえな。何しろマジャール人は一筋縄じゃいかねえってことをおぼえとけ。お前も久しぶりにあっていながら、しかもこんな場合に俺をむざむざと突っぱなすようなことは、まさかできめえだろう」
「それ程までに言うなら、仕様がねえ、いっしょに来い。だが、うるせえことの持ちあがらねえように、気をつけてくれよ」
「心配は無用じゃ」と、階段をあがりかけたときボジーチュカが声をおとして言った。「張りとばしてやるんだから……」
彼は更に低い声で付けくわえた――「おい、見ろよ、このマジャールの野郎はそうやすやすと俺らの注文に乗っちゃくれんからな」
シュベイクは、入口に立って呼鈴を鳴らした。勇気りんりんたるボジーチュカは大きい声で言った――「なあに、一、二の三で、畜生めもう階段のしたまでふっ飛んじまうよ」
戸があいて出てきたのは女中であった。どんな用事かとマジャール語できいた。
「ちんぷんかんぷん」と、ボジーチュカは軽蔑しきったような調子で言って、「姐《ねえ》さん、チェコ語を覚えときな」と、チェコ語で付けくわえた。
「貴方ドイツ語わかります?」と、シュベイクがドイツ語できいた。
「ちょっぴり」
「それでは奥さんに、私が会って話したいと言ってください、ある旦那からの手紙を持ってきたと言ってください」
二人は玄関のなかにはいって戸をしめた。やがてスプーンや皿をがちゃがちゃさせる音のする部屋から女中が現れてシュベイクに言った。
「奥さん言います、奥さん暇ない、用事あるなら、わたしに渡す、そしてわたしに言うよろしい」
「それじゃ」と、シュベイクは改まって、「奥さんに手紙です、だけどそっと渡す」
彼はルーカッシュ中尉の手紙を取りだした。
「私」と、シュベイクは指で自分を示しながら。「ここで返事待つある」
「お前なぜすわらねえんだ?」と、もう勝手に椅子に腰をすえたボジーチュカがきいた。「そこに安楽椅子があるじゃねえか。お前そうやって乞食みたいに立ってるつもりか? マジャール人に遠慮なんかするな。見ろよ、今にひと騒動持ちあがるから、しかし俺あうんと引っぱたいてやるぞ」
「そりゃそうと」と、しばらくたって彼は言った。「お前はどこでドイツ語を習ったんだい?」
「ひとりでに」と、シュベイクが答えたあと、またしばらく静かだった。
やがて、女中が手紙を持っていった部屋から、さわがしい音とわめく声がきこえてきた。誰かが何か重いものを床の上に投げつけた、それからコップや皿が飛びちって砕ける様子が手に取るようにきこえた。
戸がさっと開いた。首にナフキンを巻いた中年の男が玄関の間へ飛びこんできて、今わたした手紙を振りまわすのであった。
「何ちゅうことじゃ」と、昂奮した紳士はまず老工兵ボジーチュカに立ち向った。「どこじゃ、どこじゃ、この手紙を持ってきた畜生めは?」
「静かにしろよ」ボジーチュカは、やおら腰をあげながら言った。「そんなにがみがみどなるのは止せ、でないと放りだしちまうぞ。手紙は誰が持ってきたか知りたいなら、ここにいる俺の仲間にきくがよい。だけど言っとくが、丁寧な言葉づかいをしろ、でなきゃ一二三で廊下の外へ叩きだすから」
そこでナフキンを首に巻きつけた紳士は、シュベイクに向い、いろんなつまらぬこと、今ちょうど昼食中だなどということを滔々とまくしたてた。
「貴方昼飯していること、私達聞いたあります」と、シュベイクは変なドイツ語で言って、更にチェコ語で付けくわえた。「お食事のところをお邪魔いたしましてどうも済みませんでしたな」
「しっかりやれ、頭なんかさげるな」とボジーチュカが励ました。
紳士は頭をかかえて、さかんに悪口を言ったり不平をならべたりした――俺も予備少尉だ、喜んで御国のために勤めたいんだが、腎臓病でそれもできない。以前は将校でも、他人の家庭の平和をみだすような放埒なことはしなかったものだ。この手紙は陸軍省へ送る。新聞にも公開する」
「もし」と、シュベイクはもったいぶって言った。「その手紙はこのわしが書いたんで、中尉の手じゃないんですよ。その署名、その名前は出鱈目です。わしゃ貴方の奥さんがすっかり気に入っちゃったんです。貴方の奥さんに|ぞっこん《ヽヽヽヽ》惚れこんでるんでさ」
昂奮せる紳士は、落ちつきすまして立っているシュベイクに向って飛びかかろうとした。先程から紳士の一挙一動を注意深く見ていた老工兵ボジーチュカは、彼を小股にかけ、手紙を奪い取って自分のポケットにおさめた。紳士が、今度はボジーチュカにつかみかかろうとしたとき、ボジーチュカは彼を小脇にかかえて入口のところまで行き、片手で戸をあけた。と思うと、もう何かが階段をころがっていく音がきこえるのであった。それはまるで、童話のなかの悪魔が人間をさらっていくように、一瞬のうちに行われた。
昂奮せる紳士があとへ残したのは、首に巻きつけてあったナフキンだけであった。シュベイクはそれを拾いあげ、五分程前にカコーヌイ氏が勢いよく飛びだしてきた部屋、そして今、女の泣き声のきこえてくる部屋の戸を丁寧にたたいた。
「ナフキンを持って参りました」とシュベイクは、長椅子の上で泣いている夫人にやさしく話しかけた。「ふみつけるかも知れませんからね。さよなら」
彼は靴の踵をきちっとそろえ、挙手の礼をして廊下に出た。階段の上にも、なんら格闘の跡はとどめていなかった。ただ門のところにカラーの裂けたのが落ちていた。
その代わり、往来ではひと騒動があった。突然往来へ転がり出て伸びてしまったカコーヌイ氏を向いの人が見つけて、息を吹きかえさせようと頭から水を掛けるという大騒ぎ。老工兵ボジーチュカはと見れば、往来の真中にライオンのように突ったち、同国人に味方しようと集まってきた数名のハンガリアの歩兵や驃騎兵を向うにまわして、寄らば斬るぞ、ではなく、銃剣のベルトを振りまわして巧みに防戦これ努めていた。しかし彼も一人ではなかった、通りかかったいろんな連隊のチェコ兵が数名、彼の味方となって戦った。
後日シュベイクの陳述によると、どうして彼がこの喧嘩の仲間入りをしたのか、また――彼は銃剣をつけていなかったので――びっくりして見物していた人のステッキがどうして彼の手にはいったのか、自分ではまったくわからないとのことである。
街上の立ちまわりはかなり長く続いたが、結局『非常警備係』が出動して、みんなを取り押さえた。
シュベイクは、非常警備指揮官から証拠品と言い渡されたステッキを持って、ボジーチュカと並んで歩いた。
彼は平和にみちた顔付をして歩いた、ステッキを銃のように肩にかついで。
老工兵ボジーチュカは、途中ずうっと一言も口をきかなかった。守衛本部の中へはいったとき初めて彼はシュベイクに向って憂鬱に言った――『それ見ろ、俺の言った通りじゃねえか、お前はまだマジャール人を知らねえと言っただろ』
◆良き兵士シュベイク(上)◆
ヤロスラフ・ハーシェク/辻恒彦訳
二〇〇六年一月二十五日 Ver1