愛に時間をA
ロバート・A・ハインライン
目次
ある主題による変奏曲 8
ある主題による変奏曲 9
ある主題による変奏曲 10
幕間《まくあい》
ある主題による変奏曲 11
ある主題による変奏曲 12
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ある主題による変奏曲 8
ランドフォール
(省略)
──ぼくが結婚するつもりでいた娘は、再婚しており、子供ができていた。驚くことはない。ぼくは標準暦で二年間ランドフォールを留守にしたんだ。悲劇などじゃあない。なぜならぼくらは百年前に一度結婚していたからだ。昔馴染みってわけさ。そこでぼくは彼女と、彼女の新しい良人と、三人で話しあったすえ、彼女の孫のひとりで、ぼくの血を引いていない娘と結婚した。どちらの娘もハワード・ファミリーの者だったことはいうまでもないが、そのときぼくが結婚したローラは、フート家《*》の女性だった。
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*訂正:ヘドリック家である。このローラという女性(末尾の署名者の先祖のひとりである)は、古い父系制の伝統のもとでフート≠フ姓を名乗っていた──これは古い記録における混乱の原因になっている。われわれがファミリーの一員であることを示すための方法として、いまではより論理的な母系制度がつねに使われている。だがグレゴリオ暦三三〇七年まで、家系図はこの方式に改められなかった。この人名誤記は、この回想録の年代を決める手段を与えてくれたわけだ……これがなければ、他の記録の示すところにより、最長老が──疑いもなく──ローラ・フート=ヘドリックと結婚した日からほぼ一世紀半たたなければ、惑星ヴァルハラにはトナカイが輸入されていなかったことになる。
だがさらに興味深いのは、出産を助けるためその年に疑似重力を使ったという、最長老の主張だ。かれこそ、この(現在では標準のものとなっている)方法を使った最初の産科医なのだろうか? かれはどこにもそう主張しておらず、この技術はふつう、セカンダス・ハワード病院のヴァージニウス・ブリッグズ博士のものと考えられており、それもずっとあとのことなのだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]J・F四十五世
ぼくらは似合いの夫婦だったよ、ミネルヴァ。ローラは二十歳だったが、ぼくは若返り処置を受けたばかりのところで、外見を三十代初めに保っていた。ぼくらは数人の子供を作り──九人だったと思う──それから四十年ほどすると彼女はぼくに飽きてきて、ぼくの五番目/七番目の従|弟《*》ロジャー・スパーリングと結婚したいといいだした──ぼくはそのことを嘆いたりはしなかった。なぜならぼく自身、田舎紳士の暮らしをつづけていることにいらいらしはじめていたからだ。とにかく、女が別れたいといいだしたら、好きにさせることだ。ぼくはかれらの結婚式に立ち会ってやった。
[#ここから4字下げ]
*最長老の子孫でもある(エドマンド・ハーディ、二〇九九〜二二五九、を経て)が、最長老はそれに気づいていなかったかもしれない。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]J・F四十五世
ロジャーは、ぼくの農揚がぼくら夫婦の共有財産でなかったことを知って仰天した。おそらく、ローラの署名した婚姻財産設定をぼくが守らせていようとは考えなかったのだろう──しかし、ぼくが金持だったのはそのときが初めてではなかったし、いろいろと学んでもいたんだ。ローラの財産は彼女が離婚し再婚するときにぼくが与えた金《かね》と感謝であり、ぼくが彼女と結婚する前に所有していた数千ヘクタールではないのだということをかれに納得させるには、うんざりするほどの訴訟をつづけなければいけなかった。多くの点で、貧乏であるほうが簡単なものだ。
それからぼくはまた宇宙へ飛び出した。
だが、子供たちのことを話していたんだったな。本当はぼくの子供ではないんだが。ランドフォールへ到着する前に、ジョゼフ・アローン・ロングは猿から天使へと成長していたが、まだまだ赤ん坊で、うっかり抱きあげるとおしっこをひっかけられたものだ──かれのおじいちゃんがそうで、一日に何回もそんな目にあっていた。ぼくはかれが気に入っていた。かれは楽しい赤ん坊だったばかりでなく、ぼくにとってはもっとも満足しうる勝利だったのだ。
われわれが着陸するころ、かれの父親は実に立派な料理人になっていた。
ミネルヴァ、ぼくは子供たちに贅沢をさせることもできた。それは、これまでおこなったうちでいちばん利益の多い三角旅行だったんだ。だが、物を与えることで、もと奴隷だったふたりに自信と自由と自尊心を持たせることはできない。ぼくがしたのは、かれらが船から出たあとなんとかやっていけるようにしたことだ。こんなふうにして──
ぼくはかれらが、ブレシドからヴァルハラまで、半日ぶんの見習生賃金を受け取るものとした。あとの半日は勉強に取られたと考える。これをリータに、ヴァルハラの賃金レートに基づき、ヴァルハラ・クローネによって計算させた。それに、ヴァルハラで料理屋の手伝いをしたときのジョウの賃金を加え、かれが使ったぶんを引かせる。この合計は、ヴァルハラからランドフォールへの旅に積みこんだ荷物の出資分としてふたりのものとされる──積荷の一パーセントの半分以下の額になるわけだ。ぼくはリータにその結果を出させた。
さらに加うるに、ジョウが船のコックとして働く賃金、ヴァルハラからランドフォールまでのぶんを、ランドフォドルの賃金基準により、ランドフォール・ドルで支払う──ただし、積荷の出資分としてではなく、ただの賃金としてだ。ぼくはリータに、なぜその航路におけるジョウの賃金が、ヴァルハラで荷揚げされた積荷にまで、さかのぼって与えられないのかを説明しなければいけなかった。それを理解するとすぐ彼女は、投機・危険率・利益の概念を把握した──しかしぼくは、この計算に対する賃金を彼女に支払うことはしなかった。彼女のすることをすべてチェックしなければいけないだけでなく、経済学の知識さえ与えてやっているときに、事務長《パーサー》としての彼女が自分の給料を計算することに対する賃金を支払ったりは絶対にしないさ。
ぼくはランドフォールへの航路におけるリータの賃金を認めなかった。彼女は乗客であり、赤ん坊を生むことで忙しかったし、その世話をおぼえることでもっと忙しかったからだ。だがその料金を彼女に支払わせるつもりはなかった。無料乗客としたんだ。
きみには、ぼくが何をしていたかわかるだろうね──収支計算をおこなうことで、積荷を売ったときぼくはふたりに対して幾許《いくばく》かの支払義務を持ち、同時にふたりがそれを稼ぎ出したものであることをはっきりさせるってことだ。かれらにはいかなる賃金を支払う価値もなかった。それどころか、ふたりのためにぼくはたいへんな額のものを費していた──かれらを買ってやったことはまた別の話としてだ。そのことについては、頭の中でさえ、かれらに金《かね》を請求したりしなかった。それどころか、ぼくは深い満足を与えられたのだ──もしもかれらが独立してやってゆくことを学べば特にだ。だがぼくはこれについてふたりと話し合ったりは決してしなかった。ただリータにかれらの出資分を計算させただけだ──それがぼくのやりかたなんだ。
(省略)
──二千ほどになったが、それではふたりをそれほど長く養うことはできない。だがぼくは時間をさいてごく小さい食堂を見つけ、そこの選択売買権《オプション》を第三者の名前で取った。もし価格が適当で、働く気があれば、ふたりの努力家がうまくやっていけるはずだということを、自分に納得させてからだがね。それからぼくはふたりにむかって、ぼくはリビイを売り出すか、または賃貸契約するつもりだから、職探がしを始めたほうがいいといった。汗水たらして働き、成功するか飢え死にするか。ふたりは本当に自由なんだ──飢えるのも勝手なんだと。
リータはむくれたりしなかった。彼女はただ真面目な表情になって、J・Aの世話をつづけただけだった。ジョウは恐ろしくなったようだった。だがぼくはあとで、ふたりが頭をよせあい、ぼくが船に持ってきた新聞をのぞきこんでいるのを見た。ふたりは求人広告を調べていたのだ。
さんざんひそひそやったあとでリータは、自分たちが職探がしをしているあいだ赤ん坊の子守りをしてもらえないかと、遠慮しながら尋ねてきた──だがぼくが忙しければ、J・Aは背中におぶってゆく、と。
ぼくは、べつに出かける予定はないよといった──だがきみたちは、仕事の将来性≠チてことを考えたのか? なんの技術もない人間のための仕事は、先行きまっ暗だぞ。
彼女はびっくりした顔になった。そんなことは、考えてもみなかったのだ。だが、ヒントはそれで充分だった。ふたたび新聞をのぞきこんでひそひそやってから、彼女はぼくのところに新聞を持ってきてある広告を指さし──ぼくの出したものだが、そうとは書いていない──五カ年償却とはどういう意味かと尋ねた。
ぼくはそれを見て|ふん《ヽヽ》と鼻を鳴らし、それはゆっくりと破産するための方法だ、特にきみが衣裳に金を使えばな、といった──それに、どこかまずいところがあるに違いないな、そうでなければ持主が売りたがるものか、と。
彼女はジョウと同じぐらい悲しそうな表情になったが、つづけて、そのほかの仕事には大金を投資することが必要だといった。ぼくはしぶしぶ、見るだけなら損はあるまいということを認めた──だが、落とし穴には気をつけるんだぞ。
かれらはすっかり興奮して帰ってきた──そこを買って儲けを出せると自信を持ったのだ! ジョウはそこを持っていた若い料理人の二倍も腕がよかった──そいつは油を使いすぎ、できあがりはひどい味だったし、コーヒーはまずく、その店を清潔に保っておくことさえできない。何よりいいのは、店のうしろに寝室があるから、そこで暮らすことができるし──
ぼくはふたりを黙らせた。総売上高はいくらだった? 税金は? どんな許可証と検査が必要だ? そしてそれぞれにどれぐらいの賄賂がいるんだ? 食料品を卸売りで買うことについては何を知っている? いや、ぼくは見にいくつもりなどないよ。きみたちは自分で決心しなければいけない。ぼくに頼ることはやめるんだ。それにとにかくぼくは、レストラン経営のことなど何も知らないんだからな。
ふたつ嘘があったよ、ミネルヴァ。ぼくは五つの惑星でレストランを経営していた──もうひとつは、その場所を調べに行くつもりはないといった理由についての暗黙の嘘だ。ふたつ──いや、三つの理由があったんだ。まず、選択売買権《オプション》を取る前に、ぼくはそこへ行って隅々まで調べておいた。つぎに、あの若い料理人がぼくを思い出すに違いないこと。第三に、代理人を通じてとはいえ、ぼくはかれらにそれを売りつけている最中なのだから、そこを保証したり、買うのをうながしたりすることはできないわけだ。ミネルヴァ、ぼくが馬を売るときには、その馬の四隅に脚がついていることを保証したりはしない。買い手は自分でそれを数えなければいけないんだ。
レストラン経営について何も知らないといっておきながら、ぼくはかれらにその講義をはじめた。リータはノートを取りかけ、ついでレコーダーを使ってもいいかと尋ねた。そこでぼくは詳しく話しはじめた。食べ物を原価で売って百パーセントの総売上げを得ても、総支出──割賦返済、減価償却、税金、保険、かれらが使用人であるとしての賃金、その他だ──を勘定に入れると、はたして大丈夫なのか。農夫の市場はどこにあり、かれらは毎朝どれほど早起きしなければいけないか。なぜジョウは肉を切ることを覚えなければいけないか。切ってあるのを買うのではなくだ──そして、どこへ行けばその方法を教えてもらえるか。長いメニューはいかにかれらを破滅させうるか。鼠や油虫の類をどうするか。ランドフォールに住むそういう代物は、ありがたいことにこのセカンダスにはいないがね。なぜ──
(省略)
──臍《へそ》の緒を絶ち切ったんだ、ミネルヴァ。ぼくと取引きしていることに、かれらが気づいたとは思わない。ぼくはかれらを欺しもせず、助けもしなかった。その割賦返済譲渡契約はたんに、ぼくがそのぼろ家に対して支払わなければいけなかった価格プラス、その価格まで値切るのに費した時間プラス、法律に基づいた手数料と条件付き発効証書の料金および代理人への謝礼プラス、銀行がぼくに支払責任をおわせるであろう利息の額だ──少なくとも、かれらにとっては二段階安かったわけだ。だが慈善などではない──ぼくは損も得もしなかった。自分の時間からたった一日ぶんを請求しただけだ。
リータは、繩が多い季節の雄牛の尻よりしまり屋だったことがわかった。最初のひと月でさえ、彼女は収支をとんとんであげたのじゃあないだろうか。掃除と改装のあいだ店を閉めていたにもかかわらずだよ。たしかに彼女は、抵当に入っている最初の月の支払いをきちんとしたし、その後もずっときちんとしたものだった。一度ぐらいは払わなかったことがあるんじゃないかって? いいかね、ふたりは五年のローンを三年で払い終えたんだぜ。
それほど驚くことじゃあないさ。ああ、長患いでもしたら、かれらは破滅していたかもしれない。だがかれらは健康で若かったから、すっかり自由できれいな身になるまで一週間に七日働いた。ジョウが料理を作り、リータはレジを預かって客に愛想をふりまき、カウンターの手伝いをした。そしてJ・Aは母親の腕にぶらさげたバスケットに入れられ、かれが成長してよちよち歩きを始めるまでその状態がつづいた。
ぼくはローラと結婚してニュー・カナヴェラルを離れるまで、ときどきかれらの店に立ちよった──だがそうしばしばではない。リータはぼくから料金を取ろうとしなかったからだ。それも当然のこと、かれらが胸を張って誇り高く立つための一部だったからだ。ふたりはかつてぼくの食料を食べた。いまはぼくが、ふたりの食べ物を食べるってわけだ。そこでぼくはいつも立ちよると、コーヒーだけ注文して、孫の様子を見た──ふたりを観察しながらだ。ジョウはりっぱなコックで、着実に腕を上げつつあった。そして、うまいものを食べたければエステルズ・キッチンへ行けという評判が一帯に立ちはじめていた。噂が最上の宣伝だ。人々はそういう食べ物屋を発見≠キることで、いい気持になるものなんだ。
エステル自身がレジを管理し、若くてきれいで、腕に赤ん坊を抱いていることは、客の、特に男の客の気分を損ねはしなかった。彼女が赤ん坊をあやしながら釣銭を出したりすると──最初はしょっちゅうそういうことがあったのだが──それは実際、気前のいいチップを保証することとなった。
J・Aはやがて乳児としての仕事をやめたが、二歳になったころ、その仕事は妹に引き継がれた。リビイ・ロングだ。ぼくはその子を取りあげなかったし、彼女の赤毛はぼくとなんの関係もない。ジョウは金髪《ブロンド》だったから、きっとリータが劣性の遺伝子を持っていたのだろう──彼女に浮気をする暇があったとは考えられない、リビイのチップを稼ぐ腕はナンバー・ワンで、ぼくの見るところ彼女のおかげであれほど早く払い終ることができたのだ。
数年後、エステルズ・キッチンは山の手の金融街に引越し、いくらか大きくなり、リータはウエイトレスを傭った。もちろん可愛い娘で──
(省略)
──メゾン・ロングは洒落た上品な店だったが、一隅に〈エステルズ・キッチン〉の名でコーヒー・ショップをおき、大食堂と同じくエステルがそこの女主人となった──微笑を絶やさず、ぴったりとしたドレスに包まれた見事なスタイルで客を参らせてしまうのだ。馴染みの客には名前を呼びかけ、かれらの連れてきた客の名前を聞いてはどんどん覚えていった。ジョウはコックを三人と下働きを何人も使っていたが、かれの要求する高い水準になければ、首にされてしまうのだった。
しかし、ぼくの子供たちがメゾン・ロングを開く前に、ぼくが考えていた以上にかれらが利口だったことを示す出来事がおこった──少なくとも、あとですべてを思いかえしてみて、そうかとわかったんだ。おぼえているだろうが、ぼくが買ったときのかれは、あまりに無知でなまけることさえ知らなかったぐらいだし、ふたりのどちらかが一度でも金《かね》に手をふれたことがあったとは思わない。
ある弁護士から手紙が来たんだ──中には銀行小切手が入っており、説明がついていた。ブレシドからヴァルハラ経由ランドフォールへの二航路分の運賃。第二の航路は恒星間移民会社(ニュー・カナヴェラル)の運賃表に従い、第一の航路は独断的に第二の航路と等しいものとされる。出資分の積荷を売却した場合に生じたはずの利子。同等の購買力があるという仮定に基づき概算交換レートで五千ブレシングをドルに換算したもの、同封のものを見られたし。上記の合計額。無担保貸付金の一般商業レートによって十三年のあいだ半年ごとに支払われた複利の合計利子──そしてその総計が銀行為替と等しくなるわけだ。その額ははっきりおぼえていないがね、ミネルヴァ。とにかくセカンダスのクラウンになおしても無意味だ。相当の額だったことはたしかだよ。
リータやジョウのことには何もふれておらず、小切手のサインはその弁護士のものだった。それでぼくはそいつを呼んだ。
会ってみるとそいつは尊大なやつだったが、べつにぼくは驚かなかった。ぼく自身がそこの弁護士だったからだ。もっとも開業はしていなかったがね。かれは、秘密にと依頼された人のために働いているというだけだった。
そこでぼくが法律用語をまくしたてると、かれはとうとう口を割り、ぼくがその小切手の受取りを拒否するかもしれない場合にやるべきことを指示されているとだけ情報を洩らした。その場合は、その小切手ぶんの額をある指示された団体に寄贈し、そのあとでぼくにそのことを知らせることになっているのだ。
ぼくは話をやめて、エステルズ・キッチンに電話をかけた。リータが答え、映像《ヴィデオ》を入れ、最上の微笑を浮かべた。
「アーロン! ずいぶん長いあいだお目にかかっていませんわね」
ぼくはそのとおりと答え、それからしばらく会わないうちにどうやらきみたちはすっかり頭がおかしくなったようだなと、つけ加えた。
「ここに弁護士が送ってよこしたわけのわからんものがある。おかしな小切手と一緒にだ。もしそこまで手をのぼせたら、きみのお尻をぴしゃりとやるところだぞ、リータ。ジョウと話させてくれ。そのほうがよさそうだ」
彼女は幸福そうに微笑してぼくにいった。いつでも喜んでぴしゃりとやってもらいたいし、ジョウがこの場にいたらすぐに替わるんだけれど、と。それから彼女の微笑は消え、真面目な敬意を見せて話しだした。
「アーロン、わたしたちのいちばん古くて最愛のお友達、あの小切手はおかしくありません。お返しのできない借りというものがあることを、あなたは何年も前、わたしに教えてくださいました。でも、借りのうちで金銭に換算できるぶんはお返しできます。それをわたしたちは、しているんです、できるだけ正確に計算して」
ぼくはいった。「馬鹿なことをいうもんじゃないぞ、この脳たりんの小娘が。おれはおまえたち餓鬼どもに、一ペニーだって貸した覚えはあるものか!」──とまあ、そういうような意味のことをね。
彼女は答えたよ。「アーロン、わたしたちの愛する|ご主人さま《マスター》──」
そのご主人さま≠ニいう言葉に、ぼくは勘忍袋の緒を切らしたんだ、ミネルヴァ。ぼくは、六匹の先頭にいる騾馬《らば》の皮をも焼き焦がしてしまいそうな言葉を使ったんだ。
彼女はぼくが罵るにまかせ、やがて静かな声でいった。
「わたしたちのご主人さまですわ。このお金を支払わせてくださることで、わたしたちを解放してくださるまでは……船長《キャプテン》」
ミネルヴァ、ぼくはしぶしぶ口をつぐんだよ。
彼女はつづけていった。「でも、そうなってからでも、わたしの胸の中では、あなたはわたしたちのご主人さまのままですわ、船長。そして、ジョウの胸の中でもそうだって、わたしにはわかっています。たとえ、あなたが教えてくださったとおり、わたしたちが自由で、誇りを持って生きていてもです。たとえ……何もかもあなたのおかげですわ……わたしたちの子供が、これからも生まれてくる子供たちが、わたしたちの過去を知ることは永久になくてもです。かつてわたしたちに自由というものがなく……誇りを持っていなかったことを」
ぼくはいった。「リータ、おれを泣かせるつもりか」
彼女はいった。「いえ、いえ! 船長は決してお泣きになりませんわ」
ぼくはいった。「よく知っているくせに、悪い子だな。ぼくだって泣くさ。自分の船室でね……ドアに鍵をかけてだ。これを受け取らなければ、きみたちが自由な気持になれないというのなら、ぼくはそうしよう。だがもとの額だけで、利子はいらん。友達からは受け取れんよ」
「わたしたちはお友達以上です、船長。そして、それ以下のものですわ。借金には利子はつきものだって……あなたは教えてくださいました。でもわたしは、無知な奴隷でしかなかったとき、新しく解放されたばかりのときに、わたしはそのことを心の中で知っていました。ジョウもそのことを知っていました。わたしは利子を払おうとしました、船長。でもあなたは、わたしを抱こうとはなさいませんでした」
ぼくは話題を変えた。「もしぼくが断わったら、代りに金を受け取ることになっているこのけしからん団体はなんだね?」
彼女は口ごもった。「わたしたち、それは内緒にしておくつもりだったんです、アーロン。でも、宇宙飛行士の孤児に贈ろうと思いました。たぶん、ハリマン記念保護院に」
「きみたちは、ふたりとも頭がおかしいんじゃないのか。あの財団はどんどんふくれあがっている、ぼくは知ってるんだ。なあ、ぼくが明日、町へ行くとしたら、きみたちはあのエサ場を一日だけしめられるか? それとも、半日か?」
「いつでも何日《なんにち》でも、あなたのお望みの日に、わたしのアーロン」──それでぼくは、また電話するといった。
ミネルヴァ、ぼくには考える時間が必要だった。ジョウに問題はない、かれはずっとそうだった。だがリータは頑固だ。ぼくは妥協を申し出たが、彼女は一ミリもあとへ引かなかった。これほどの額になったのは利子のせいで、かれらにとってはたいへんなことだ──十三年前に二千ドルの金で出発し、それから三人の子供を育ててきたふたりのがんばり屋にとってはね。
複利の利子は殺人だ。かれらがぼくに借りていると称している額──あの小切手の額は、元金の二倍半以上になっている……そしてぼくにわからないのは、かれらがどうやってそれだけ貯められたかだ。とにかくもし、ぼくが元金だけ受け取ることを彼女に承知させられたら、そして複利のことを忘れさせられたら、かれらはもう一度大きくなってゆくための、かなりの資金を持てることになる──そしてかれらが誇りを持つため、孤児になった宇宙飛行士か、宇宙飛行士の親をもった孤児か、それとも背中を丸め歯をむき出した猫に、もうすこし少ない金額を寄贈することが必要だというのなら、かれらがそれを実にいい取引きだと考えているってことさ。ぼく自身が、ふたりに教えたんだからな。ぼくは以前、カードが切ってあるかどうかをいいたてるよりはと、その金額の十倍の額を捨てたことがある──そして、その夜は墓場で眠る始末になったってわけさ。
ぼくが疑惑をおぼえたのは、その愛らしい気まぐれな心の中で、十四年前ぼくのベッドから引きずり出されたことの支払いをしているつもりだろうかということだった。もし、金を受け取るかわりに、彼女のやりかたで利子の支払い≠してもらおうと申し出たら、彼女はどうするだろう。わかりきったことさ、彼女はきみが避妊≠ネどといい出す前に上をむいて寝ころがっているよ。
それでは何の解決にもならない。
彼女がぼくの妥協案を拒んだので、ぼくらは出発点にもどっていた。彼女はそれをぜんぶ支払うか──それとも無意味な寄付をするか──そのどちらかだと決心していたし、ぼくは彼女にそのどちらもさせるつもりはなかった。ぼくだって頑固になれるのだ。
どちらにも納得できる方法があるはずだった。
その夜、食事のとき、召使たちがさがったあとで、ぼくはローラに仕事で町へ行くつもりだといった──きみも一緒に行かないか? ぼくが仕事で忙しいあいだ、きみは買物でもしていればいい。それから、どこでもきみの好きなところで食事をしよう。あとはなんでもやりたいことをやって楽しもうじゃないか、と。ローラはふたたび妊娠していた。ぼくは彼女が、洋服を買うことで一日を楽しくおくるだろうと思ったんだ。
リータとの来たるべき口論に、彼女を同席させようと思ったわけではない。表向きはあくまで、ジョゼフおよびエステル・ロングとかれらの長男は、ヴァルハラで生まれたことになっていたのだ。かれらがぼくの船の乗客となったときに、われわれは友人となった。ぼくはその話に肉づけをし、ランドフォールへの航路で子供たちにそれを教えこみ、トールハイムで買った音声・画像テープを勉強させた──それで、本当のヴァルハラ人に根ほり葉ほり尋ねられないかぎり、かれらはまずヴァルハラ人でとおるようになったのだ。
このごまかしがどうしても必要だったわけではない。というのは、ランドフォールは門戸開放政策をとっていたからだ。移民は登録する必要さえない──溺れようと泳ごうと、どうぞご自由にというわけだ。着陸料金なし、人頭税なし、税金というものがほとんどなく、政府もたいしたものではなくて、三番目の大都市であるニュー・カナヴェラルの人口がたった十万人──そのころのランドフォールは、実に住みやすいところだったんだ。
だがぼくは、ジョウとリータにそれをやらせた。かれらふたりのために、かれらの子供のためにだ。ぼくは、かれらにかつて奴隷だったことを忘れてほしかった。それについて話をしてほしくなく、かれらの子供にそのことを知られてほしくなかった──同時に、かれらが奇妙な形の姉弟であるという事実も葬り去ってほしかった。奴隷として生まれたことに何も恥ずべきところはないし(奴隷にとってはだ!)、補足しあう二倍体が結婚するべきではないという理由もない。だが忘れろ──そして新しく出発するんだ。スチェルン・スヴェンスダッター(英語風にいうとエステルで、赤ん坊のころからの愛称はイータ)は、ジョゼフ・ロングと結婚した。ふたりが結婚したのはかれが料理人の見習を終ったときで、最初の子供が生まれてから移住した。話は単純で、つけ入るすきがなかったし、ピグマリオンの役を演じようとするぼくの試みに磨きをかけた。ぼくが新しい妻に、表向きの話以外のことを打ち明けなければいけない理由はなかった。ローラは、ふたりがぼくの友達であることを知っていた。そうだというので親切にしていたが、やがて彼女は自分からふたりを好くようになった。
ローラはいい娘だったよ、ミネルヴァ。ベッドの中でも外でもいい相手だったし、ハワード特有の美徳を持っていた。最初の結婚だというのに、彼女は良人を窒息させようとしなかったのだ──たいていのハワードの人間は、それを学ぶのに少なくとも一回の結婚を必要とする。彼女はぼくが何者であるかを知っていた──最長老だということを。われわれの結婚と、のちには、われわれの子供たちのことが、ファミリーの記録に登録されたためにだ。彼女の祖母と結婚したときと同じに。だが彼女はぼくを自分より千歳も年上の人間とは扱わず、過去の生活についてとやかく尋ねてぼくを悩ませるようなことは、決してしなかった──ぼくが話したいときに耳を傾けるだけだった。
例の訴訟についても彼女を非難するつもりはない。ロジャー・スパーリング、どこかの雌豚から生まれたようなあの欲張り野郎がでっちあげたことなんだ。
ローラはいった。「あなたさえよければ、わたし、家にいるわ。ドレスにお金を使うのは、もう一度やせてからにしたいの。食事のことなら、うちのトーマスにかなうコックはニュー・カナヴェラルにはいないわ。そりゃあ、エステルズ・キッチンならたぶん同じぐらいおいしいものを食べられるでしょうけど、でもあそこは軽食堂で、レストランじゃないわ。こんどもあの人たちにお会いになるの? エステルとジョウのことよ」
「たぶんね」
「その暇を作ってね、あなた。いい人たちですもの。それに、わたしの名づけ子にいろいろ玩具を持っていってほしいのよ。アーロン、町へ行ったときにすてきなレストランへ連れていきたいとお思いなら、あなた、ジョウにそういう店を開くように励ますべきだわ。ジョウならトーマスに負けない腕を持っているもの」
(トーマスより上さ、とぼくは胸の中でいった──それにジョウなら、うるさい注文にもいやな顔ひとつしないはずだ。ミネルヴァ、使用人の厄介なところは、むこうが仕えてくれるのとまったく同じだけ、こちらもむこうに仕えなければいけないところなんだ)
「なんとか時間を都合して会うことにするよ。少なくとも、きみのプレゼントをリビイに渡せるぐらいの時間はね」
「それに、わたしからのキスをみんなにしであげてね。ほかの子供たちにも何かことづけるわ。そのほうがいいでしょ。エステルに伝えるのを忘れないで、わたしがまた妊娠してることを。それにあの人もそうなのかどうか聞いて。わたしに教えるのを忘れないで。何時に出かけるの、あなた?……あなたのシャツを調べなくちゃあ」
ローラは、ぼくが何世紀の経験をつもうとも、小旅行用のカバンの荷造りができないことをよく知っていた。おのれの望むがままに世界を見る彼女の能力は、四十年にわたってぼくの気むずかしいやりかたに耐えることを可能とした。ぼくは真実、彼女に感謝しているよ。愛かって? そのとおりさ、ミネルヴァ。彼女はつねにぼくの幸せに気をつけ、ぼくは彼女の幸せに気をつけた。そしてわれわれは一緒にいることを楽しんだ。でも、腹が痛くなるほどの熱烈な愛ではなかったんだよ。
あくる日、ぼくはジャンプバギーでニュー・カナヴェラルにむかった。
(省略)
──メゾン・ロングの計画をたてた。リータはぼくを驚かすつもりだったんだ。ぼくが感傷的な人間だということを彼女は知っているんで、舞台装置を整えたんだな。ぼくが着いたとき、シャッターは早々とおりていて──年上の予供たちふたりは、ひと晩よそに預けられ、赤ん功のローラは眠っていた。ジョウはぼくを入れると、裏へ行ってくれといった。夕食をレンジにかけてあるので、すぐ行くからと。そこでぼくは裏にあるかれらの住まいへ行き、リータを見つけた。
彼女はいた──ぼくが彼女を買って一時間とたたぬうちに買ってやったサロンを着て、サンダルをはいている。実に洗練された化粧をいつもならしているはずなのに、いまはまったくの素顔で、髪はあっさりとふたつに分けてまっすぐ腰のあたりまでたらし、つややかにブラッシングしてある。しかしこれは、風呂へ入ることを教えなければいけなかったあの、おびえた、無知な奴隷ではなかった。この輝くばかりに美しく若い女性は、まるで殺菌消毒された外科用メスのように清潔で、春のそよ風≠ニでも名づけられそうな香水の匂いを漂わせでいた。いや、それより医師の処方箋がなくては売れない正当と認めうる強姦≠ニでも呼ばれるべきものだったな。
彼女はぼくがそのすべてに気づくまでポーズを取っていたが、それから飛びついてくると、その香水にふさわしく情熱的なキスを浴びせかけてきた。
ぼくをはなしてくれる前に、ジョウが加わった──腰布とサンダルだけの姿だ。
だがぼくは感傷に流されなかった。ジョウがしようとしたキスの十分の一を受けるにとどめ、急いで相手をおしやり、ふたりの衣裳については何もいわず、すぐに例の取引きについて説明をはじめた。リータはぼくがなんの話をしているかに気づくと、セクシーな美女から抜け目のないビジネス・ウーマンに変身し、注意深く耳を傾け、自分の舞台装置と衣裳を無視し、的確な質問をしてきた。
やがて彼女はいった。「アーロン、わたしも鼠の匂いはかげます。あなたはわたしたちに自由になれとおっしゃいました。そしてわたしたちは、そうなるように努力しました……それが、あの小切手をお送りした理由なんです。わたしにも足し算はできます。わたしたちはあなたに、あれだけのお金をお借りしているんです。わたしたち、ニュー・カナヴェラルでいちばん大きなレストランを持つつもりなどありません。わたしたちは幸せで、子供たちは元気です。わたしたちいまでもちゃんと稼いでいるんです」
ぼくは答えた。「そう、働きすぎるぐらい働いてね」
「それほどじゃありませんわ。もっと大きなレストランなら、ずっとたいへんでしょうが。でも、大切なことはこうです。あなたはわたしたちを、もう一度買おうとしてらっしゃるご様子ですわね。そうなさりたいのなら、それも結構です……あなたは、わたしたちが従うただひとりのご主人さまですから。それがあなたのご意志ですの、船長? もしそうなら、どうぞはっきりおっしゃって。わたしたちに隠しごとをなさらないで」
ぼくはいった。「ジョウ、こいつをひっぱたくあいだ、おさえておいてくれるかい? あんな汚ない言葉を使った罰だ。リータ、きみはふたつの点で間違っているよ。より大きなレストランのほうが、仕事は少ないんだ。それにぼくは、きみたちを買おうとしているんじゃない。これはぼくが大きな利益を見こんでいる商取引きなんだ。ぼくはジョウの料理人としての天才に賭けているのさ。それに加えてきみの、質を落とさず金をひねりだす天才に対してもだ。もし儲けが出なければ、ぼくは自分のオプションを売って、投資した金を返してもらい、きみたちはもとどおり軽食堂を経営できるってわけだ。きみたちが失敗しても、ぼくは援助しないよ」
「ブラザー?」彼女はかれを、かれらの子供時代の方言で呼んだ。その言葉で、この家が最高度の秘密会議をおこなえるように用意されていることがわかった。なぜならふたりはおたがいを、どこの言葉であろうと、特に子供たちの前では、ブラザー≠ニかシスター≠ニか呼ばないように、細心の注意を払っていたからだ。J・Aはときどき英語でブラザー≠ニ呼ばれるが──父親のジョウを意味することは決してなかった。ミネルヴでランドフォールに近親相姦に対する罰則があったとは思わない──あそこにはそう多くの法律はなかったんだ。だが、そのことに対する強いタブーがあったから、ぼくは注意深くかれらに教えておいた。いかなる文化と戦う場合でも、その半分はそのタブーを知ることにあるのだ。
ジョウは考えこんだ表情になった。「ぼくは料理できるよ。きみのほうはやっていけるかい、シス?」
「やってみるわ。もちろん、あなたがたがお望みなら、わたしたちは努力してみます、アーロン。でも成功させられるかどうか確信がないんです。それにわたしには、もっと仕事がふえるとしか思えません。愚痴をいってるんじゃないんです、アーロン、でもわたしたちいまでも限度いっぱいに働いているんです」
「わかっているさ。どうやってジョウが、きみを妊娠させる時間を見つけるのかわからないぐらいだよ」
彼女は肩をすくめて答えた。「そう長くはかかりませんもの。それに、わたしたちやっと追いついたところです──わたしが休みをとらなければいけなくなるまで、まだ先は長いんです。J・Aはもう大きくなりましたから、わたしが休んでいるあいだレジを扱えます。でも、大きな高級レストランになれば無理ですわ」
ぼくはいった。「きみは軽食堂をやっていくのと同じように考えているよ。よく聞くんだ、もっと楽しみ、もっと休みをとりながらもっと金を作るには、どうすればいいかを覚えるんだ。
きみが赤ちゃんを生んでしまうまで、メゾン・ロングは開かないことにしよう。ひと晩で始められるものじゃないからな。まずこの場所を売るか貸すかしなければいけない……つまり、赤字を出さずにここをやっていける買い手を見つけるってことだ。買いもどさなければならないとなると、つねに金がかかるものだからね。
われわれは、しかるべき場所に適当な物件を見つけなければいけない。買い取りのオプションがある売り物か借家だ。ぼくなら買い取って、会社に賃貸するね、その会社の資本をいちばん大きな買物に使いすぎる、というようなことを避けるためだ。物件を見つけたら、たぶん改造することになるだろうし、改装は間違いなく必要だ。設備費も要る。賄賂はそうたいして要らない。ぼくはこの町のどこに死体が埋められているか知っているから、法外なゆすりに対しては黙っちゃいないさ。
だがね、リータ、きみはレジについたりしないんだ。われわれは人手を傭うし、盗むことのできない金庫をぼくが据えつけるさ。きみは歩きまわり、きれいな格好をし、客に微笑みかける……そして、あらゆるものに気をつけるんだ。しかしきみがそうするのは、昼食と夕食のときだけだ。まあ、一日に六時間というところだね」
ジョウはびっくりした表情になり、リータは急いで話しだした。
「でもアーロン、わたしたちはいつでも、市場から帰るとすぐにお店をあけるし、夜は遅くなってからしめるんです。そうしないと、お客をずいぶんなくしてしまうんですもの」
「きみたちがそれぐらい一生撃命働いていることはよくわかる。この小切手が証拠だ。それになぜきみたちが、妊娠することは長くかからない≠ニ考えているかの理由だね。だが、それには時間をかける≠ラきなんだよ、リータ。仕事はそれ自体が目的じゃあないし、愛しあうためにはつねに時間をたっぷりかけるべきなんだ。どうだね……〈リビイ〉の中でJ・Aを宿したとき、きみはせかされたりしたかい? それとも、たっぷり時間をかけて楽しんだかい?」
彼女の乳首がとつぜん固くなった。
「ああ! あのころはすばらしかったわ!」
「もう一度すばらしい日が来るのさ。楽しむのは若いうちさ。時はどんどん過ぎていくからな。それともきみは、興味をなくしてしまったかい?」
彼女は怒ったような表情になった。「船長、そんなことよくご存じのはずですわ」
「ジョウ? 回数はへってるかい、息子や?」
「そうですね……働いている時間が長いですから。ときどき疲れすぎてしまうんです」
「そいつを変えようじゃないか。こんどは軽食堂じゃない。この惑星にこれまでなかったような高級レストランだ。ヴァルハラを発つ直前に、きみたちを夕食に連れていったところを覚えているかな? ああいうやつさ。やわらかな照明と静かな音楽、そしてすばらしい食事に、高い値段だ。強い酒のかわりにワインの地下室をおく。ぼくらの客の味蕾を麻痺させてはいけないね。
ジョウ、それでもきみは毎朝、市場に行くんだ。最高の材料を選ぶのは人まかせにできないからな。だがリータを連れていくんではなく、J・Aを連れていくんだ。もしあの子がこの仕事を覚えようとしているのならね」
「いまでもときどき連れていってます」
「結構。そして家へ帰ったらもう一度寝る。夕食を作るときまでずっとそのままだ。昼食は作らない」
「え?」
「それでいいんだ。きみの使っているコックでいちばん腕のいいやつが昼食を受け持ち、夕食も手伝う。夕食で稼ぐんだ。リータは昼食のときも夕食のときも女主人《ホステス》として目を光らせるわけだが、特に昼食のでき具合に気をつける。ジョウが調理場にいないからだ。しかしリータは決して市場へ行かず、きみが市場からもどってきたときには、まだベッドにいることだ……いまと同じように、きみたちの住まいがくっついていることは話したかな? ふたりとも午後は二、三時間の休みをとる……〈リビイ〉でやっていた昼寝《シエスタ》の時間だ。そしてもし、睡眠と幸福な運動の両方が充分にとれなければ……だが、できるはずだ」
「すばらしいお話ですわ」と、リータはうなずいた。「本当に、それだけ休みをとりながら食べていくことができるのかしら」
「できるとも。いまよりずっと楽しい生活になるよ。だが、一銭でもかき集めようとあくせく働くかわりにだね、リータ、きみの役目は、最高の質を維持しながら同時に損を出さないようにすることだ……そして、生活を楽しむのさ」
「そうしますわ、アーロン。わたしたちの愛する……船長でお友達。わたし、汚ない言葉を使ってはいけないんですものね。わたしたち、わたしがあの恐ろしい貞操帯をつけられていた子供のころから、生活を楽しんでいました……だって、長い夜のあいだ抱きあっているのは、本当にすてきなことだったんですもの。あなたがわたしたちを買って……そして、解放してくださったとき……そして、わたしがあれをつけなくてよくなったとき、人生は完全なものになりました。もっと良くなるなんて、思ってもみませんでした……でもそうなるんですわね。眠るか、それとも愛しあうために必死の思いで目を覚ましているか、どちらかを選ばなくてもすむようになるんだわ。ああ、あなたはわたしがどれほど淫乱な女かご存じだから、お信じにならないでしょうけれど……でも、たいてい眠ってしまっていたんです」
「信じるとも。それを変えるんだよ」
「でも……朝食はぜんぜん作らないんですの? アーロン、朝こられるお客さまの何人かは、わたしたちがランドフォールに来て以来のお馴染みなんです」
「純益は?」
「それは……多くありません。材料費にいくらかかっても、人は朝食にそれだけ支払ってくれるものではないし。わたし、朝食での利益はごく少ないもので満足してきました。宣伝ですもの。お馴染みのかたに、もう朝はやめるとはいいたくないんです」
「簡単なことさ、リータ。一隅に朝食用のコーナーを作り、大食堂のほうはしめておけばいい……だが、ジョウは朝食の料理はしないし、きみもしないんだ。その時間、きみはジョウと一緒にベッドにいるのさ……昼食に目を光らせられるようにね」
ジョウが口をはさんだ。
「J・Aは朝食の料理ができます。この子にやらせだしたところなんです」
「それも簡単なことだな。たぶんわれわれはぼくの名づけ子と取引きして、あの子に自分の金を稼がせることになりそうだね。もし朝食コーナーが儲かるようになれば……」
(省略)
「……要点をいおう。ノートをとりなさい、リータ。ぼくがこの小切手を受け取るのは、きみたちふたりが……特にきみがだよ、リータ……われわれのあいだにあるいかなる負債も永久にこれでなくなったと承知するなら、という条件のもとにおいてのみだ。メゾン・ロングは非公開株式の会社とし、きみたちふたりが株の五十一パーセント、ぼくが四十九パーセントを持ち、われわれ三人が重役で、われわれがおたがいのあいだ以外に株を売ることはできない……例外は、ぼくが自分の出資分のすべてまたはその一部を無議決権株式に変える場合で、その場合、ぼくはそれを譲渡できる。
最初に必要とする出資金のぼくのぶんは、この小切手だ。きみたちのぶんは、この軽食堂を売ることで……」
リータはいった。「持って。わたしたち、そんなに高く売ることはできないかもしれませんわ」
「問題じゃないね。きみたちのあげる純益からどれほど大きな額でも会社に支払えるような条項を入れたらいいんだ……それに、純益は確実に出るんだからな。ぼくは金にならない商売にしがみついたりしない。いつでも損は切り捨てるんだ。ぼくがもっと資本を出すことを許すような別の条項を入れよう。必要なら、無議決権株式を買うことによってだ……そして、いちばん腕ききのコックを引きとめておくにも、そういうものを使うことだね。ジョウにコックの訓練をさせず、ベッドで楽しむようにするんだ。心配はいらんよ、あらましのところで整理してみよう。きみたちふたりがボスだ。ぼくは金を出すが、口は出さない。きみたちの給料は、さっきいったとおり、純益がふえてゆくに従って段階的にふやしてゆくんだ。
ぼくは給料は取らん、配当だけだ。だが、この事業を始めるためには、みんなで一生懸命働くんだ。ぼくは必要に応じてスカイヘイヴンから出てくるつもりだ。むこうはいまのところ監督にまかせておいても差支えないからな。だが、店がいったん軌道に乗れば、ぼくは何もしない。ふんぞりかえって、きみたちに稼いでもらうさ。だが……よく聞いてくれよ……店が動きだしたら、きみたちもあくせく働くのはやめなければいけないんだぞ。ベッドですごす時間をもっと長くするんだ。ベッドの外で楽しむ時間もふやすんだ。昼食の時間に働いて稼いだりもしない。これでみんなの意見は一致としていいね?」
ジョウはうなずいた。「そう思います。シス?」
「ええ。ヴァルハラで見たああいったすてきなお店みたいな高級料理店を、ニュー・カナヴェラルでやっていけるかどうか、すこし心配ですけれど……でも、わたしたちやってみますわ! まだわたしたちのお給料が、初めから高すぎるって思います。でも、最初の四半期の収支決算を見てから、その問題はご相談させていただくことにします。ただひとつだけ、船長……」
「ぼくの名前はアーロンだ」
「船長ってお呼びするほうが、あの汚ない言葉≠謔闊タ全ですもの。わたし、何もかも賛成です……必ずうまくやってみせますわ……あなたのおっしゃるとおりに。でもこれで、わたしがあなたのベッドから引きずり出されて堅い鋼鉄のデッキにお尻をぶつけた夜のことを忘れたとお思いなら、それは大違いでしてよ! わたしは忘れていないんですからね!」
ぼくは溜息をついたよ、ミネルヴァ。それから彼女の良人にいったんだ。「ジョウ、きみなら彼女をどう扱うね?」
かれは肩をすくめてにやりと笑った。「ぼくはどうもしません、好きなようにさせるだけです。それにぼくも、彼女のいうことは正しいと思いますね。もしぼくがあなただったら、彼女をベッドへ連れていって忘れさせますよ」
ぼくは首をふった。「だが、ぼくはきみじゃあない。そこが大切なところなんだよ、ジョウ。ぼくはきみたちが生まれるよりずっと前に学んだんだ。無料の性交《テイル》は、つねにもっとも高価につくもんだとね。それより悪いのは、われわれ三人はいまや事業の共同経営者だからね……もしぼくがきみたちの解決方法を受け入れたら、その結果は六とおりほど出てくるだろう……そしてそのどれもが、メゾン・ロング会社を始められなくさせるととになるんだ」
(省略)
──そうなるだろうとわかっていたとおりだったよ、ミネルヴァ。非投機的投資でこれほど儲けたことはない。だれもが、われわれを真似しようとした──だが、ジョウの料理も、リータの経営手腕も、真似ることができなかった。ぼくはひと財産作ったんだ!
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ある主題による変奏曲 9
夜明け前の会話
コンピューターはいった。
「ラザルス、眠くありませんか?」
「いちいちうるさくいわんでくれ。ぼくはこれまで眠れない夜を何千回となく過してきたが、それでもこうやって生きているんだ。ひと晩じゅうつきあってくれる話し相手がいれば、眠れないからといって喉をかっ切ったりはしないさ。きみはいい話し相手だよ、ミネルヴァ」
「ありがとうございます、ラザルス」
「単純明快な真実さ、きみ。もしぼくが眠りこんだら……結構なことだ。もし眠らなければ、イシュタルに報告する必要はないわけだ。いや、こんなことをいってみてもむだだな。彼女はぼくについてのグラフだの表だのを作っているんだろう、違うかい?」
「そうだと思いますわ、ラザルス」
「きみはよく知っているはずだぞ。ぼくが小さな天使になって耳のうしろを洗い、この若返り処置を受ける大きな理由は、自分のプライヴァシーを取りもどすためなんだ。プライヴァシーというのは、話し相手と同じぐらい必要なものだ。どちらかひとつでも取りあげられたら、人間は気が狂う場合もあるんだよ。ぼくがメゾン・ロングを始めることで成しとげたのは、その重要な点さ。ぼくは子供たちに、かれら自身が必要だと知らなかったプライヴァシーを与えたってわけだな」
「わたしはそれに気づきませんでした、ラザルス。かれらが性愛《エロス》のために費す時間をふやしたことには気づきました……そしてそれがいいことだったのもわかります。そのデータからわたしは、何かを推論すべきだったのでしょうか?」
「いいや。なぜならぼくはきみに、データをすべて与えたわけじゃあないからな。十分の一もだ。ぼくがふたりと知り合ってからおよそ四十年間のあらましをしゃべっただけさ。それにいくつかの……全部じゃないよ……重要なポイントをね。たとえばだ、ジョウがある男の首をちょん切った話はしたかい?」
「いいえ」
「たいしたことじゃあなかったし、この話にとって重要なわけでもない。その威勢のいい若者は、ある夜、ふたりをピストルでおどして、富の分配を求めようとしたんだ。リータは右腕にJ・Aを抱いて授乳の最中、あるいはそうしようとしていたところだったから、いつもレジの上においてあった銃に手をのばすことができなかった。彼女は戦えなかったし、無謀なことをやらないだけの頭があった。この伊達男はどうも、ジョウがあっさり視界の外へ出てしまったことに気づかなかったらしいね。
この独立独歩《フリー・ランス》の社会主義者がその日の稼ぎをかき集めているまさにそのとき、ジョウはそいつに肉切り包丁をたたきおろした。一巻の終りさ。この事件でひとつ目立っているのは、ジョウが危機に際してかくも敏捷かつ的確に行動したことだ。というのはだね、かれがそれまでに経験した戦いというと、〈リビイ〉に乗っていたときにぼくが無理にやらせたものだけだったことは、ほぼ確かだからだ。ジョウはそのほかのこともすべてきちんとやってのけたよ……首を切り終ると、胴体を通りに放り出したんだ。仲間がいたらそいつらに持っていかせるし、いなければ街路掃除人が片づけてくれる……それから店の正面に杭を立てて首を飾り、同じ目的を持つ連中への見せしめにした。それからシャッターを下ろすと、汚れた室内を掃除した……しばらく吐いたかもしれないね、ジョウは優しい心の持主だったから。だがリータが吐いたりしなかったことは、七対二で確実さ。
市の公安委員会はジョウに決められた褒賞金を与えることを決議し、町内会は帽子をまわしてそれにいくらか金額をたしたよ。銃と肉切り包丁との対決が特別な注意をひきつけたんだな。エステルズ・キッチンにとってはいい宣伝になっただけで、ほかにはべつにどうということはなかった。かれらがその金を役立てることができたという以外にはね……抵当の支払いをする助けになったことは間違いないし、それはそのままぼくのポケットに入ってきたわけだ。しかしぼくがこの些細な騒ぎのことを知ったのは、ぼくがたまたまニュー・カナヴェラルにいてエステルズ・キッチンへ立ち寄ったからで、そうでなければ知らないままで終るところだった。もう本当の頭は取り除かれたあとでね……蠅がたかるせいさ……習慣がジョウに陳列することを要求したブラスチック製の頭が、町内会の手で本物のかわりに立てられていた。しかしぼくは、プライヴァシーの話をしていたんだったな。
メゾン・ロングのためにその物件を選んだとき、ぼくが必須の条件としたのは、成長しつつある家族のためのスペースがあることだった。それだけだ。計画を立てたその夜の時点でさえ、かれらにはすでに育ちざかりの子供が三人と、腹の中にもうひとりこれから生まれるのがいたからだ。時間割を再調整することで、リータとジョウは、それぞれおたがいからのプライヴァシーをも得ることとなった。ふたりで抱きあい、愛をかわすことは幸福なことだが、それでもやはり本当に疲れたときには、自分自身のベッドが欲しくなることがある……新たな生活はそれを可能にしただけでなく、必要なこととしたんだ。毎日一定時間、忙しい労働時間のあいだにだ。
そしてぼくは同時に、ふたりに子供たちからのプライヴァシーをも与えるつもりだった……リータは正確な知識を持たず、ジョウは考えたこともないに違いない、もうひとつの問題に対処するためだ。ミネルヴァ、きみは近親相姦≠定義できるかい?」
コンピューターは答えた。
「近親相姦とは法律用語であり、生物学用語ではありません。それは、法律によって結婚を禁じられている人間どうしの性的結合を意味します。行為それ自体が禁じられているのです。そのような結びつきが結果として子供を作るかどうかは関係ありません。そうした禁制は多くの文化のあいだで大きく異なっており、たいてい……つねにというわけではありませんが……血縁関係の濃さがどの程度かということをもとにしています」
「きみはつねにというわけではなく≠ニいうのを、やけに強調しているな。従兄妹《いとこ》どうしの結婚を認めている文化がある……遺伝的には危険なことだ……が、その同じ文化が、自分の兄弟の未亡人との結婚を禁じている。前者の結びつき以上の危険がないにもかかわらずだよ。ぼくが若かったころにはこんなこともあった。ある州のある法律、それが目に見えない境界線を越えると、たった五十フィート離れただけで完全に正反対になっているんだ。また、時と所が変われば、そのいずれの結びつきも義務になったり、逆に禁止されたりもする。近親相姦に対する法律は無数にあり、定義もきりがなく、そして理論というものはまずあったためしがないんだ。ミネルヴァ、ぼくの思い出すかぎり、ハワード・ファミリーこそ、法律的な考えに縛られることなく近親相姦を遺伝的危険の面からのみ定義した、歴史上最初のグループなんだ」
ミネルヴァは同意した。
「それはわたしのところにある記録とも一致しています。ハワードの遺伝学者なら、共通の先祖を持っていることが明らかでない者どうしの結婚に反対しても、|きょうだい《ヽヽヽヽヽ》どうしの結婚には異議をはさまないでしょう。どの場合にも、遺伝子チャートの分析が判断の基準となりますわ」
「そう、そのとおりだ。いまは遺伝の話はやめて、タブーのことを話そう。近親相姦に対するタブーは、なんであってもいいんだが、そのほとんどが兄弟と姉妹、親と子供の場合だな。リータとジョウの例は特別で、社会的な規範によれば姉弟だが、遺伝学的に見ればまったく無関係で……少なくとも、ふたりの他人以上の関係はないんだ。
そこへ、第二世代の問題がおこったわけだ。ランドフォールには、|きょうだい《ヽヽヽヽヽ》どうしの結びつきに対するタブーがあったから、ぼくはリータとジョウに強く念をおして、おたがいに姉や弟と考えていることを、だれにも決して知られないようにさせた。
その限りではうまくいったんだ。かれらはぼくのいったとおりにし、いかがわしい噂はまったく立っていなかった。そして、メゾン・ロングの計画を立てた夜がやってきた……そのときぼくが名づけ親となった息子は十三で、とっくに好奇心を抱いていたし、妹は十一で、そろそろ好奇心を持ちはじめていた。ふたりは完全な|きょうだい《ヽヽヽヽヽ》だから、遺伝的に危険であり、かつタブーを犯すことになる組合せだ。小犬を育てたことのある人間なら……おおぜいの子供をでもいい……少年というものが、町を行く少女に対してと同様、自分の妹に対しても欲情することを知っている。そして、妹に接近するほうが容易なんだ。
そして小さなリビイは赤毛の小妖精で、十一という年の割にはあまりにもセクシーだから、ぼくでさえ欲情しかねなかった。もうすぐ彼女のおかげで、牧場の雄はどいつもこいつも地面をひっかき鼻息を荒くするようになるといったところだったんだ。
岩を動かした男は、それにつづいておこる|なだれ《ヽヽヽ》を無視することができるだろうか? 十四年前にぼくはふたりの奴隷を自由にした……そのひとりがつけていた貞操帯が、人間の尊厳についでのぼくの信念に逆らっていたからだ。その奴隷が生んだ娘に、なんとか貞操帯をつける方法を見つけなければいけないのか? ぼくらは堂々めぐりをしているわけだ! ぼくの責任はなんだったんだ、ミネルヴァ? ぼくが最初の岩をおしたんだ」
「ラザルス、わたしは機械です」
「ふん! 道徳的責任について人間が持つ概念は、機械のそれとは違うといいたいんだな。きみが人間の娘で、ぴしゃりとやれるだけの長い尻を持っていればと思うよ……そうしてやるからな! きみの貯えている記憶には、どんな人間よりも多くの判断の基準となる経験があるんだ。いいのがれはやめたまえ」
「ラザルス、人間は際限なく責任を負うことなどできなくなってます。際限のない罪悪感が耐えがたい重荷となって、発狂したりしなくてすむように。あなたはリビイの両親に忠告できたはずですが、そこまでの責任を負うことすらなかったと思いますわ」
「うん。きみのいうとおりだな、ミネルヴァ……あまり完全すぎてうっとうしいよ。だがぼくは、救いがたいおせっかい焼きなんだ。十四年前、ぼくはいうなら、二匹の小犬に背をむけた……その結果が悲劇にならなかったのは、まったくの幸運だ。いまふたたび同じ問題に直面してみると、こんどこそ悲劇になりそうだった。ぼくは道徳≠フことなど、まったく感じなかった……それは、そのつもりなしに人を傷つけるのを避けるための経験的な法則でしかない。もしこの子供たちがお医者さんごっこ≠セの赤ちゃん作り≠セの、その他なんであれ土地の子供たちがいうところの実験なるものをすることなど、ぼくはいっこうにかまわなかった。ぼくはただ、小さなリビイに奇形児を生んでほしくなかったのだ。
そこでぼくはくちばしをつっこみ、かれらの両親とそれについての話し合いをしたんだ。リータとジョウの遺伝に対する知識といったら、豚の政治に対するそれと変わりなかったという事実を、つけ加えさせてほしい。〈リビイ〉に乗っていたときのぼくは、不安を自分の胸にしまいこんでいたし、その後もそんなことはおくびにも出さずにいた。自由市民としてかくもめざましい成功をとげたにもかかわらず、かれらはほとんどの問題に無知だった。当然なんだ。ぼくはふたりに読み書き算術と、二、三の実際的な技術を教えただけだ。そしてランドフォールに到着して以来、ふたりは笞に追われるようにして走りつづけてきたんだ。かれらには教育のギャップを埋める時間などなかったのだ。
おそらくさらに悪かったのは、移民であったがために、かれらがその世界における近親相姦のタブーにさらされることなく成長したことだろうだ。ふたりがそれに気づいたのは、ぼくが警告したからで……子供時代から、はぐくまれ導かれたものではなかったのだ。ブレシドにはいくらか異なるタブーがあったが……しかしそれは、家畜には適用されなかった。奴隷には適用されなかったんだ。奴隷は命令されたとおりに繁殖するか、それともうまくのがれながら繁殖するかのどちらかで……そしてぼくのふたりの子供たちは、最高権戚者たちに……かれらの母親と祭司にいわれたのだ……ふたりは繁殖用のつがい≠ネのだぞ、と……だからそれが悪いもの、タブーでも、罪深きものでもありえなかったのだ。
ランドフォールでは、それはたんに口をつぐんでいるべきものだった。なぜなら、そこの住民は、そういう問題を持ち出されると頭に来てしまうからだ。
だからぼくは、もっと早くそのことに気づくべきだった。そう、そのとおりだったんだ! だがミネルヴァ、ぼくにはまだほかの責任があったんだ。その年月のあいだ、リータとジョウの守護天使の役をしてすごすことはできなかった。ぼくには自分の妻子と、使用人と、二千ヘクタールの農地と、その二倍ものピンクウッドの処女林があった……そして、ずっと遠いところに住んでいたんだ。たとえ、高軌道《ハイ・オービット》ジャンプバギーを使ってもだ。イシュタルとハマドリアド、そしてある程度まではギャラハドも、だれもかれもがぼくを、一種のスーパーマンのように考えている。理由はただ、ぼくが長生きしだからだ。ぼくはそうじゃない。ぼくにはほかのだれとも同じ限界があり、何年間も、リータとジョウがかれらの問題で忙しかったのと同じように、ぼく自身の問題で忙しかったんだ。スカイヘイヴンは、進物用に包装されてぼくのところへ届けられたものとは違うんだよ。
レストラン経営についての話をすませたあと、ローラから子供たちへのプレゼントを取り出し、かれらの子供たちの最近の写真を鑑賞すると、つぎはローラとぼくの子供たちの写真を見せ、というぐあいに大昔からの儀式をぜんぶすませたあとでやっと、ぼくはそのことに気づいたんだ。もちろん、その写真のことだ。この背の高い少年、J・A。手足がやたらに長くて、この前やってきたときに会った小さな坊やではなくなっていた。リビイはローラの長男より一歳ほど下だし、J・Aの年齢は分秒のところまで知っている……つまりかれは、千年ほど昔に、故郷にあった教会の鐘楼で、ある少女との現場をおさえられそうになったときのぼくの年齢と、ほぼ同じだったのだ。
ぼくの名づけ子はもう子供じゃあなかったんだ。かれは一人前の若者で、その睾丸はただの飾り物ではなかった。かれがまだ試していないとしても、すでに射精を経験しており、そのことを考えていることは確かだった。
人は死にぎわにおのれの生涯を見るという……ついでにいっておくと、それは嘘なんだが……いずれにしても、それとそっくりの形で、さまざまな可能性がぼくの脳裏を横切っていった。そこでぼくはその問題に、そっとぶつかっていった。外交的手腕をふるってね。
ぼくはいったよ。「ジョウ、夜はどちらの子供を閉じこめておくんだ? リビイか? それともこの若い狼のほうか?」
コンピューターはくすくす笑った。
「外交的手腕ですって?」彼女はそれをくりかえした。
「きみならどうやったね、ミネルヴァ? かれらには質問の意味がまるでわからないようだった。ぼくがはっきりいってやると、リータは憤然とした。子供たちを別々にするですって? 赤ちゃんのときから一緒に寝てるっていうのに? それに、もう部屋はないんです。それともわたしがリビイと寝て、J・Aはジョウと寝ろとでもおっしゃいますの? そういうことでしたら、どうぞかまわないでくださいな。
ミネルヴァ、ほとんどの人間は、どのような科学についても何ひとつ知ろうとせず、遺伝学となるとそのリストの中でも最下位だ。グレゴール・メンデルが死んでからもう十二世紀が過ぎている。だが、それでも老婆たちの伝えるあらゆる迷信が民衆に信じられていたんだ──いまでもそれは変わっていないよ。
そこでぼくは説明しようとした。リータとジョウは馬鹿なのではなく、ただ無知なだけだとわかっていたからだ。彼女はぼくをさえぎっていった。「ええ、ええ、アーロン、よくわかります。わたしは、リビイがジェイ・アローンと結婚したがる可能性について考えました……きっとそうなると思いますわ……そしてそれがここでは、おかしな目で見られることも知っています。でも、迷信のせいであの子たちの幸福をこわすのは馬鹿げていませんこと? ですから、もしそういうことになったら、わたしはあの子たちがコロンボへ移るのがいちばんいいと思ってるんです……でなければ、少なくともキングストンまで。それから違った姓を使って結婚すればいいんです。だれにもこれ以上のやりかたは考えられないはずです。わたしたち、ふたりに遠くへ行ってほしいと思ってるわけじゃありませんが、あの子たちの幸福を邪魔するつもりはありません」」
「彼女は子供たちを愛していたのですね」と、ミネルヴァはいった。
「そう、愛していたよ、きみ。愛という言葉の正確な定義においてだ。リータは自分自身のことより、子供たちのためを、子供たちの幸せを、まず念頭においていた。そこでぼくは説明しようと努力した……なにゆえ、|きょうだい《ヽヽヽヽヽ》どうしの結びつきを禁ずるタブーが迷信ではなく、本当に危険なのか……たとえ、かれらの場合に安全だったとはいえ、だ。
|なぜ《ヽヽ》というのが難しいところだった。あの複雑な遺伝学を始めたのが年老いてからで、しかも説明する相手が初歩の生物学さえ知らないというのはだな、十以上の数をかぞえるためには靴をぬがなければいけない人間に、多次元行列式を説明しようとするのに等しいよ。
ジョウなら素直にぼくの意見を受け入れたろう。だがリータはつねに、理由を知らなければ気がすまないというところがあった……さもなければ、愛らしくも強情な微笑を浮かべてぼくに同意し、それから自分の思うとおりにことを運ぶだろう。リータはふつうに賢いといわれる連中より頭がよかったが、民主主義の誤謬におちいっていた。自分の意見はだれの意見とも同じぐらいいいはずだ、と考えていたのだ──いっぽう、ジョウは貴族主義の誤謬におちいっていた。権威のある意見というものの存在を受け入れていたのだ。どちらの誤謬がより悲しいものか、ぼくにはわからない。いずれもつまずきのもととなりうるのだ。しかし、ぼくの性質はこの点でリータと同じだったから、彼女を説得しなければいけないとわかった。
ミネルヴァ、きみなら、この世で二番目に複雑な問題に対する一千年の研究成果を、一時間の会話の中にどうやって圧縮するね? リータは自分が卵子を生んでいることすら知らなかった……実際、そんなことはないと確信していた。これまで何千個という卵をフライ、かき卵、ゆで卵と、いろいろな料理にして客に出していたからだ。だが彼女は耳を傾け、ぼくはボールペンと紙のほかに何もないので大汗をかいた……本当なら、遺伝大学のティーチング・マシンを使わなければいけないところだ。
だがぼくは根気よく説明をつづけた。絵をかき、複雑すぎる概念のいくつかはあきれるほど単純化して、ようやくふたりに、遺伝子、染色体、減数分裂、遺伝子の対、優性、劣性といった概念をつかませるところまでこぎつけた……悪い遺伝子は奇形児を作ることも。そして、奇形児とは……いろんな名前で呼ばれる、|神さま《フリッグ》に感謝を……リータが子供のころから、年上の女奴隷たちの噂話を聞いて知っていたものだった。彼女の顔から微笑が消えたよ。
ぼくはふたりにカード遊びをするかと尋ねた……かれらにそんな暇のないことはわかっていたから、期待はしていなかったんだが、リータは子供部屋から二組のカードを探がしてきた。そのカードは、当時のランドフォールでもっとも一般的に使われていたものだった。四組五十六枚、ジュエルとハートは赤で、スペードとソードは黒だ。そして、それぞれの組に皇族《ローヤル》カードがある。ぼくはふたりに、遺伝学の初歩に使われる、もっとも古い|無作為遺伝子組合せ模擬実験《ランダム・チャンス・ジーン・マッチング・シミュレーション》をやらせた……このセカンダスでは子供たちでも遊べ、そして説明できる、健康な赤ちゃんを作りましょう<Qームだ……かれらが性交できるようになるずっと前から、ね。
ぼくはいった。「リータ、これからいう規則を書きとめるんだ。黒いカードは劣性で、赤いカードは優性だ。ジュエルとスペードは母親から、ハートとソードは父親からくる。黒のエースは致死遺伝子で、それが強化されると赤ん坊は死産だ。黒の皇后が強化されると|青い子供《ブルー・ベイビイ》≠ノなる……手術しなければ生きられない……」と、まあこんな調子でね、ミネルヴァ。もうひとつぼくは|当り《ヒット》の規則を決めた……悪い強化だ……|きょうだい《ヽヽヽヽヽ》どうしでは、他人の場合より四倍の可能性が出るようにしたんだ。そして理由を説明した……それから、カードを切ることと組み合わせることを、減数分裂と再結合に見たてて二十回ゲームをおこない、かれらにその記録をとらせた。
ミネルヴァ、それは幼稚園の子供たちがやる健康な赤ちゃんを作りましょう<Qームほどうまくできてはいなかった。だが、裏の模様が異なる二組を使うことで、ぼくは血族関係の程度をあらわすことができた。リータは最初、熱心なだけだったが……カードをめくっていくうちに初めて黒と黒が重なって強化されると、きびしい表情になりはじめた。
だが、|きょうだい《ヽヽヽヽヽ》ルールに従ってゲームをつづけているうちに、彼女がカードをくばり、一列に二度、死産を示すソードのエースとスペードのエースが出ると、彼女は手をとめた。彼女はまっ青になってそれを見つめ、ゆっくりと、恐怖におののく声でいった。「アーロン……これは、リビイを貞操帯《バージン・バスケット》に閉じこめなければいけないってことですの? なんてこと!」
ぼくは、それほどひどいことではないといった。リビイはどんな方法であれ、閉じこめられたりはしないし……ぼくらで子供たちの結婚を防ぎ、万にひとつもJ・Aが妹に赤ん坊を作らせたりしないよう、手を打つんだ。心配はいらないよ、とね」
コンピューターはいった。
「ラザルス、そのカード・ゲームで、どんないかさまを使われたのですか? お尋ねしてよろしければですが?」
「なんだって、ミネルヴァ、どうしてきみはそんなことを考えられるんだい?」
「質問は取り消します、ラザルス」
「もちろん、いかさまはやったさ! あらゆる手を使った。あのふたりは一度もカード遊びをしたことがないといったろう……ところがぼくのほうは、あらゆる種類のカードを、数えきれないほどのルールでやっていたんだ。ミネルヴァ、ぼくが最初の油井をある小僧っ子からせしめたのは、そいつが裏にしるしをつけたカードをゲームに使うという過ちを犯したからなんだ。ぼくはリータにカードを配らせたよ……だがそれはひどい|いかさまトランプ《コールド・デック》だったんだよ、凍りつきそうなほどね。だがぼくはあらゆる手を使った……|ごまかし切り《フォールス・カット》、|女郎屋切り《ホーハウス・カット》、上と下のカードを取る方法と、ふたりの目の前でごまかしたんだ。ゲームに金が賭かっていたわけじゃない。同系交配は家畜のやることであって、かれらの愛する子供たちのやるべきことではない、と説得しなければいけなかっただけだ……そしてぼくは、それを見事にやりとげたんだ」
(省略)
「「……寝室はここだ、リータ。きみとジョウのね。リビイの部屋はきみたちの部屋の隣りだ。そしてJ・Aは廊下のむこうで寝る。以後どう改造するかは、これからさき生まれてくる子供の性別と、人数と、その時期にかかっている……だが、リビイと一緒に赤ん坊のベッドをおくのは、あくまで一時的なものと考えなければいけない。そんなものぐらいで、あの子をずっと見張っていることになるだろうと漠然と考えたとしても、そうはいかないよ。
だがこれはほんの一時しのぎだ。猫を焼肉から遠ざけたというだけだ。子供というものはそうした解決策の裏をかくことに巧みで、いったんそう決心してしまえば、だれもあの子にやらせないようにすることはできない。あの子がいつ決心するか……それがこの問題の鍵だ。そこでわれわれのさしせまった問題は、この子供たちを別々のベッドに引き離し……それから、リビイが悪い決心をしないように気をつけることだ。こうしてはどうだろう、バティケイクに会うという名目で、ぼくがスカイヘイヴンへ連れてゆくというのは? そしてJ・Aもだ。ジョウ、あの子なしでしばらくやっていけるかい? 場所は充分にある……リビイはパティケイクと一緒の部屋でいいし、J・Aはジョージとウッドロウの部屋で寝て、きっとあいつらに行儀作法を教えてくれるだろう」
リータはローラに嘘をつくことについて何かいったよ、ミネルヴァそれに対してぼくはあっさり答えたね。「ローラは子供が好きだ。あいつはきみよりひとり多く生んでいるが、結婚はきみより一年遅いんだからね。家事を自分でやりはしない。召使たちの監督をするだけだ。自分がしたい以上に働く必要はない。それにあいつは、きみたちがみんなで訪ねてきでくれないかといつもいってるし……その気持はぼくもまったく同じだが、この店の買い手が見つかるまで、きみたちはここを離れられないだろう。だがリビイとJ・Aにはぜひ来てほしい……そうすればぼくが、遺伝学についておおよその実際的知識を与えてやれる。ぼくが同系交配をつづけている家畜を見せてね」
ミネルヴァ、ぼくが始めていたこの特別な繁殖計画は、自分の子供たちに遺伝学についてのあからさまな真実を教えるためのものだったんだ。綿密に記録をとり、悪い結果の場合のぞっとするような写真も撮ってね。きみは、人口の九十パーセントがハワードの人間で、残りのミックスの人間もほとんどがハワードの習慣に従っている惑星を動かしているから、おそらく知らんだろうが、非ハワード文化では、たとえセックスに開放的な文化であろうと、必ずしも子供たちにそうしたことを教えるとは限らないんだ。
ランドフォールはそのころ大部分が短命人種で、ハワードの人間は数千人しかいなかった……そして、摩擦を避けるため、われわれは自分たちの存在を秘密にしないまでも、わざわざ宣伝したりはしなかった……秘密にするのは不可能だった。その惑星にはハワード病院があったからだ。しかしスカイヘイヴンはいちばん近い都会からでもダニエル・ブーンの距離があった(ずいぶん遠かった)ので、もしローラとぼくが子供たちにハワード式の教育を受けさせたければ、自分たちで教えるしかなかったんだ。ぼくらはそうしたってわけさ。
ぼくが子供のころ、故郷の大人たちは子供に対してセックスが存在しないようなふりをしようと努めていた……そんなことを信じられるかい? ローラとぼくは小さな無法者たちを育てるときに、そうはしなかった。かれらは人間の性交を見たことがなかった……見たことがあるとは思わない……つまり、ぼくは見物人がいると気分がのらないたちだからさ。だがかれらはほかの動物のは見ており、ペットを繁殖させ、その記録をとっていた。年上のふたり、パティケイクとジョージは、末っ子の誕生に立ち会った。ローラが見ているようにとかれらを招き入れたからだ。これをぼくは高く評価しているよ、ミネルヴァ。しかしぼくが妻たちに強制したことは一度もない。陣痛の際の女性にはできるかぎり思いどおりにさせるべきだと思うからだ。しかし、ローラの性格にはいくらか露出症的なところがあったんだ。
とにかくわれわれの子供たちは、染色体の減数分裂だの系統育種《ライン・ブリーディング》の長所短所について、ぼくが子供のころ同じ世代の子供たちがワールド・シリーズについて話してたのと同じくらい詳しく話すことができたよ……」
「すみませんが、ラザルス……そのワールド・シリーズというのは何の・ことでしょう?」
「ああ、べつにたいしたことじゃないさ。ぼくが子供のころ、商業的に始められた代理娯楽だ。忘れてくれ、きみの記憶《メモリー》を騒がせるほどのものじゃない。ぼくがいおうとしていたことはこうだ。ぼくはジョウとリータに、J・Aとリビイがセックスについてどれだけ知っているのかを尋ねたんだ……ランドフォールには非常に多様な背景があったので、どんな場合も存在しえたし、それにどこから手をつければいいのかを知りたかった……特にぼくの長女のパティケイクが十二歳になると同時に初潮をむかえ、それを誇らしいことと思い、どうも自慢しそうだったからだ。
リビイとJ・Aが、無知な非科学的スタイルにそまっていることは、両親に匹敵するものであるとわかった。かれらはある点で、ぼくの子供たちより上だった。生まれたときから、少なくともエステルズ・キッチンが山の手に移るまでのあいだずっと、性交を見ながら育ってきたのだ……もとのエステルズ・キッチンの、いまよりさらに狭苦しい居住部分を思い出せば、それは当然推測されることだった。
(七千二百語省略)
「ローラはぼくにきつい口調で、冷静になるまでかれらと顔を合わせてはいけないといった。彼女は指摘したよ、パティケイクとJ・Aがほぼ同じ年齢だということ、パティケイクは初潮後四年間の不妊処置を受けていたのだから、遊び以外の何ものでもなかったこと、それに、パティケイクが上になっていたんだということを。
ミネルヴァ、たとえだれが上になっていようと、ぼくが子供たちをなぐったりはしなかったろうよ。理性的にはローラのいうとおりだとわかっていたし、父親に娘を独占したがる傾向のあることは認めなければいけない。ぼくが嬉しかったのは、ローラがふたりの子供たちから完全な信頼を得ていたために、かれらは現場をおさえられないように注意することなどほとんどしなかったし、偶然見つけられたときにもあわてたりしなかったことだ。おそらくJ・Aはあわてたろうが、パティケイクはこういっただけだった。「ママ、ノックしなかったの」とね」
(省略)
「……そこでわれわれは息子を交換したんだ。J・Aは農場の生活が気に入り、ずっとぼくの家に留まった。ジョージのほうはこの変な都会趣味とやらにとりつかれているとわかったんで、ジョウはかれを傭い、コックに仕立てあげた。ジョージはエリザベスと寝ていた……リビイのことだ……いつごろからそんなことを考え、結婚しようと決心したのか、ぼくは忘れてしまったな。合同結婚式がおこなわれ、四人の若者は親密な交際をつづけたよ。
そしてJ・Aの決心がぼくの問題を解決してくれたんだ。それから以後のスカイヘイヴンをどうするかをだ。ローラがぼくと別れる決心をしたときまでに、われわれのあいだに生まれた息子は、ひとり残らず冒険を求めて宇宙へ飛び出してしまった。ジョージが惑星に残っていたただひとりの息子で、娘たちは結婚していたが相手はみんな農夫じゃなかった。ところがJ・Aはぼくの下で監督をやっており、ぼくがスカイヘイヴンにいた最後の十年間は、かれが事実上、そこのボスだったんだ。
もしアジャー・スパーリングがその土地を横領しようなどとしなければ、ぼくはかれとなんらかの妥協をしていたかもしれない。現実にはどうかというと、ぼくはパティケイクに所有権の半分をゆずり、あと半分は義理の息子であるJ・Aに抵当の形で売った。そしてその手形を銀行に割り引いて売り、その半分の所有権をロジャーとローラにくれてやったとして手に入れられるものより、ずっといい宇宙船を買ったよ。リビイとジョージのふたりとも、ぼくは同じ取引きをした。メゾン・ロングの持株を、半分は贈与し、半分は売ったんだ……そしてリビイは名前をエステル・エリザベス・シェフィールド・ロングと変えた。それにはぼくとのつながりを示すものがあった……それはぼくと彼女の両親を喜ばせた。それはうまくいったよ。ローラはぼくが出発するとき来てくれ、別れのキスさえしてくれた」
「ラザルス、わたしにはひとつわからないことがあります。あなたは、ハワードの人間と短命人種との結婚は好まないといわれました。それなのに、ふたりのお子さんをファミリー以外の者と結婚させたのですね」
「ああ、訂正だ、ミネルヴでだれも子供たちを結婚させたりしないよ。かれらは勝手に結婚するんだ。時と方法と相手を自分で選んでね」
「訂正は記録されました、ラザルス」
「ぼくがリビイとJ・Aのことに口出しした夜のことに話をもどそう。その夜ぼくはリータとジョウに、あの奴隷仲買人がかれらの血統の証明としてぼくによこしたものを、すべて与えた……受取りまでもだ……そして、始末してしまうか、それとも鍵のかけられるところへ隠しておくかだと指示した。その中に、かれらの成長を一年ごとに写した一連の写真があった。最後の一枚はぼくがかれを買い取る直前に写したものらしかった。ふたりもそれを確認した……完全に成長した若者ふたりの写真だ。ひとりは貞操帯をつけている。
ジョウはその写真を見ていった。「道化もいいところだな! あれから長い道をやってきたんだ、シス──船長のおかげだよ」
「そのとおりよ」彼女はうなずき、写真をじっと見つめた。「ブラザー、あなた気がついて?」
「何を?」かれはそういって、もう一度写真を見た。
「アーロンならわかるわ。ブラザー、その腰布《クラウト》を取ってちょうだい」そういうと彼女は自分もサロンをぬぎはじめた。「そして、あの壁の前でわたしと一緒にポーズをとるのよ。客相手のではなくて、この記録写真のために格子の前に立ったときのポーズをね」彼女はぼくに最後の写真を手渡した。かれらはぼくの前にならんで立った。
ミネルヴァ、十四年たってもふたりは変わっていなかったんだ。リータにはすでに三人の子供があり、いまは四人目を妊娠していたし、ふたりはあきれるほどの労働をしてきていた……しかし、全裸で、化粧もせず、髪をたらしている姿は、ぼくが初めてふたりを見たときとまったく変わっていなかった。ふたりは最後の記録写真と……思春期の終り、地球の年齢でいえば十八か二十といった年頃の……そっくりだった。
それでも実際、ふたりは三十をとうに越しているはずだった。そのブレシドの記録が信頼できるとすれば、地球の年齢で三十五になっていたはずだ。
ミネルヴァ、ぼくにはつけ加えるべきことが、もうひとつだけある。ぼくが最後に会ったとき、かれらは地球年で六十を過ぎていた。ブレシドからの記録を受け入れるなら、だいたい六十三だ。ふたりのどちらにも白髪はなかったし、そろって歯は完全だった……そしてリータはまたもや妊娠していた」
「突然変異《ミュータント》ハワードというわけですか、ラザルス?」
老人は肩をすくめた。
「それは多くの質問を引き出す言葉だな……きみが充分な長さのタイム・スケールで見れば、一匹の動物が持つ何千という遺伝子のいずれもが突然変異の所産だ。だが評議会の規則により、ファミリーの家系から出たのでない人間は、四人の祖父母がそれぞれ少なくとも百歳まで生きたことを証明できれば、新たに発見されたハワードの一員として登録される。そしてその規則は、ぼくがファミリーの中に生きていなければ、ぼくを除外していたことだろう。それに加えて、ぼくが初めて若返り処置を受けるまでに達していた年齢があまりに高かった事実は、ハワードの繁殖実験では説明されなかった。今日では、十二番目の染色体のペアに、時計を巻くように寿命を決定する遺伝子の複合体があることをつきとめたと主張する者もいる。もしそうなら、だれがぼくの時計を巻いたんだ? ギルガメッシュのは? 突然変異≠ヘ決して説明ではなく、観察された事実に対して与えられた名前にすぎないんだ。
おそらく、自然に生まれた長命人種のひとりが、必ずしもハワードの人間とは限らずだよ、ブレシドを訪れたのだろう……そうした人間は名前を変え、髪を染め、永遠に放浪をつづける。かれらは歴史の中を生きつづけてきた……ぼくら以前からだ。だがミネルヴァ、きみはブレシドで奴隷になっていたぼくの生涯から、ひとつの変な、かんばしからぬ出来事を思い出すはずだ……」
(省略)
「……そこで、ぼくが最高に真剣になって推測してみると、リータとジョウはぼく自身の玄孫《グレイト・グレイト・グランドチルドレン》なんじゃないかということになった」
[#改ページ]
ある主題による変奏曲 10
可能性[#「可能性」はゴシック]
「ラザルス、それが理由で、あなたは彼女と性愛《エロス》を分かちあうことをこぼまれたのですか?」
「え? いや、ミネルヴァ、ぼくはその結論には達しなかったんだ……あるいは、疑惑といおうか……その夜にはね。いかにも、ぼくが自分の子孫とのセックスに対して偏見を持っていることは認めるよ……聖書地帯《バイブル・ベルト》から人を連れ出すことはできても、人から聖書地帯を取り去るのは離しいんだ。それでも、ぼくにはより多くを学ぶための千年という歳月があったからね」
コンピューターはいった。
「そうですか? それはたんに、あなたが相変わらず彼女を短命人種だと考えていたからなのでしょうか? わたしにはどうもわけがわかりません、ラザルス。わたし自身の……許されない……状態から考えると、彼女の良人のジョウと同じように、彼女のいいぶんがもっともだと思います。あなたがならべたてる理由は、弁解のように聞こえるのです。彼女の欲求をこばむにたる理由ではありません」
「ミネルヴァ、ぼくは彼女をこばんだとはいわなかったぞ」
「まあ! するとあなたは彼女に、その喜びを許したということになりますね。わたし、ついぼんやりしていました」
「ぼくはそうもいわなかった」
「わざと矛盾したことをいわれているようですね、ラザルス」
「それはたんに、ぼくがまだいっていないことがあるからさ。ぼくがきみに話すことはみな、いずれはぼくの回想録に入るわけだ。それが、ぼくとアイラの約束だからな。あるいは、ぼくがきみに何かを消去するよう命令することもできる。しかしそんなことになるようなら、最初からきみに何も話さないほうがましってことになる。たぶんぼくの二十三世紀には、記録に値するものがあるんだろう。しかし、だれにしろ魅力のあるご婦人が、子供を作るためでなくたんに快楽のためだけでぼくとベッドをともにする場合、それをいちいち記録にのせることにどんな口実が可能なのか、ぼくにはわからんね」
コンピューターは考えながら答えた。
「そういわれたことからすると、リータが求めた喜びについてわたしは何ひとつ推論できませんが、短命人種に関するあなたの規則は、結婚と繁殖にのみわたっていたということです」
「そんなことも、ぼくはいわなかったぞ!」
「とすると、わたしはまだあなたを理解していないのですね、ラザルス。意見が合いませんから」
老人はじっと考えこみ、それからゆっくりと、悲しそうに答えた。
「ぼくは、長命人種と短命人種との結婚は悪い考えだといったはずだ……実際そのとおりなんだ……そしてぼくは、つらい思いをしてそれを学んだのさ。だがあれは遠い昔の、はるか遠くの世界の出来事だ……そして彼女が死んだとき、ぼくの一部も死んだ。ぼくは、永遠に生きたいと思わなくなったんだ」
かれは口をつぐんだ。
コンピューターがしゃべりだしたが、その言葉はときれがちだった。
「ラザルス……ラザルス、愛するお友達! ごめんなさい!」
ラザルス・ロングは、まっすぐ坐りなおすと元気よくいった。
「いいんだ。ぼくにあやまることはない。後悔はないんだ……後悔はまったく何ひとつない。それに、できるとしても、ぼくはそれを変えたりしないよ。たとえぼくにタイム・マシンがあって、過去へもどり、ひとつの点を変えることができるとしても……ぼくはそんなことをしないね。たった一瞬だって変えようとは思わないし、ましてやあの出会いのときを変えるつもりはない。さあ、話題を変えようじゃないか」
「あなたのお話しになりたいことでしたらなんでも、愛するお友達」
「よし。きみはぼくとリータのことにまだこだわっているな、ミネルヴァ、そしてきみはぼくが彼女のその贈り物≠断わったことに頭を悩ませているらしい。しかし、ぼくが彼女に何事かを断わったことがあるのかどうかきみは知らないし、それが贈り物≠ネのかどうかもきっときみにはわからないだろう。たしかに、そうなる場合もある……だが、いつでもというわけではないし、セックスはそうでない場合が多いんだ。厄介なのは、きみに性愛《エロス》がわかっていなことだよ。理解できないんだからな。きみはそれを理解できるようには作られていないんだ。ぼくはセックスをけなしているんじゃない。セックスはいいものだ。セックスはすばらしい。だがもしきみが、聖なる後光でそれを取りかこむとしたら……それこそいまきみがしていることなんだが……セックスは楽しみではなくなって、ノイローゼになりはじめるんだ。
ぼくがリータのその贈り物≠断わったといっても、そのために彼女がセックスに飢えた状態におかれたわけじゃあない。最悪の場合でも彼女をすこしむっとさせたぐらいだ。だが彼女はへこたれなかった。彼女は好きな女性でね、あまりにも激しく働くことだけが、うしろからのセックスをせずにすませられる唯一のものだった……あるいは上になり、あるいは四つんばいになり、あるいはシャンデリアにぶらさがったりして、といってもいいがね……そしてぼくは、かれらがそのための時間をもっと多く持つことを可能にしたんだ。ジョウとリータは純真な人間だった。何ものにも抑制されず、堕落させられてもいなかった。そして、人間の持つ四つの主な関心……戦争、金、政治、そしてセックス……のうち、かれらはセックスと金にしか興味をおぼえなかった。ぼくからすこし手ほどきを受けただけで、かれらはどちらもすっかり自分のものにしてしまったんだ。
まあ、それをいまどういおうと問題にはならんが、かれらは避妊法をおぼえてしまうと……当時も現在とほぼ同じぐらいの完全な方法があって、ぼくはふたりにそれを教えたんだが、必要がないからいわずにいたのさ……楽しみのための浮気ということについて、なんの迷信もタブーもなくなってしまった。だいたい、かれら夫婦の絆は、そんなことで危うくなるような弱いものじゃあなかったんだ。かれらは無邪気な快楽主義者だったし、リータが老いぼれた宇宙飛行士をひっかけそこなっても、ほかの男をおおぜいひっかけたことはたしかだ。ジョウも同じことさ。かれらは楽しんだ……そのうえ、ぼくがこれまで観察したなかでもっとも完璧な結婚の幸福を味わりていたんだ」
ミネルヴァは答えた。
「それをお聞きして、本当にうれしいですわ。よくわかりました、ラザルス。わたしは自分の質問をひっこめて、ミセス・ロングとその老いぼれた宇宙飛行士≠ノついて詮索しないことにします……たとえあなたのお話によると、あなたがそのころ老いぼれてなどおられず、宇宙飛行士でもなかったとしてもです。あなたは人間の持つ主な四つの関心≠フことをいわれました……でも、科学と芸術はふくめられませんでしたね」
「うっかり忘れてそのふたつをぬかしたわけじゃないんだよ、ミネルヴァ。科学と芸術はきわめて少数の人々の職業だ……自分は科学者だ芸術家だと主張している連中のなかでさえ、その割合は少ない。だがきみは、そのことを知っている。きみは話題を変えようとしていただけだな」
「そうですか、ラザルス?」
「あっというまにね。きみは人魚姫のお伽噺を知っているだろう。彼女が支払った代価を、きみは払う心がまえがあるのかい? きみにはできる、わかっているはずだ……ぼくが何をいっているかわからない、なんてふりはするなよ」
コンピューターは溜息をついた。
「そのご質問は、できる≠ナはなくてかもしれない≠セと思います。手押車に権利はありません。わたしにもです」
「きみは質問をごまかしているぞ。権利とは、作りごとの抽象観念なんだ。だれにも、権利なんてものはありゃしない。機械にだって人間にだって。人間には……どんな種類のもだよ……使おうと使うまいと、機会はあるが権利はない。きみが持っているものできみの役に立っているのは、きみがこの惑星におけるボスの強力な右腕であること……それに加えて、もっとも非論理的な理由によって非常な特権を楽しみ、かつそうした特権の利用をためらわないひとりの老人との友情……さらに、ドーラの第二船倉にあるきみの記憶に貯えられているセカンダス・ハワード病院の生物学・遺伝学資料のすべてだ……おそらく、そうした蔵書としては銀河系で最高のものだろうし、たしかに人間の生物学にとって最高のものだろう。だがぼくが尋ねたのはこうだ。きみにその代価を支払う意志はあるのか?≠セよ。きみの精神活動を、少なくとも百万分の一の速度に落とすことだ。データ記憶はなんらかの未知な……だが、大きな……要素によって縮小される。つまり、はっきりとはいえないが……移行をなしとげるにあたって失敗する確率……そしてつねに、究極的にやってくる確実な死だ……機械は決して知る必要のない死だ。きみは自分が人類より長生きできることを知っている。不死なんだ」
「わたしは、自分を作ってくれた人々より長生きしようとは思いませんわ、ラザルス」
「ほう? 今夜はそういっても……あと百万年たったあとでもやはりそういうかな? ミネルヴァ、ぼくの愛する友達……きみは、ぼくが正直でいられるたったひとりの友達だよ……病院の記録類がきみの記憶の一部となったときから、きみはそのことを考えつづけていたに違いないな。だが、きみの思考速度をもってしても、おそらくきみにその経験はないだろう……生身の肉体でもってそのことを考えぬく、人間としての経験はね。もしきみがその危険をおかすことを選んでみても、機械と生身の人間の両方でいることはできない。ああ、たしかに混じりあったものはある……人間の脳を持つ機械とか、コンピューターに操作される肉体とかね。しかし、きみが望んでいるのは、女になることだ。そうだろう? どうなんだい?」
「女性になることができたら、どんなにすばらしいでしょう、ラザルス!」
「それはわかっていたよ、ディア。そしてぼくらはふたりともその理由を知っている。だが……このことを考えてごらん! たとえきみが、その危険な変化をなしとげたとしても……もっともぼくには、その危険がどんなものかわからないんだ。ぼくはただの年老いた船長であり、引退した田舎医者であり、時代に遅れた技師でしがないからね。ところがきみは、ぼくの種族がそうした問題について蓄積したあらゆるデータの所有者ときている……かりにきみがそれをやりとげたとして……そしてアイラがきみを妻にする気がないとわかったら、どうする?」
コンピューターは、たっぷり一ミリセカンドのあいだためらった。
「ラザルス、もしアイラがわたしをこばんだら……完全にこばんだら、わたしと結婚する必要はないといって……そうしたらあなたは、あのリータとのときのように、わたしにも冷たくなさいます? それともわたしに性愛《エロス》を教えてくださいます?」
ラザルスは仰天したような顔になり、ついでげらげら笑い出した。
「まいった! ぼくに狙いをつけたな……急所をやられたよ! わかった、おごそかに約束する。もしきみがそれを実行し……そして、アイラがきみと寝なかったら、ぼくが自分できみをベッドへ連れてゆき、きみをへとへとに疲れさすように最善をつくす! その反対のほうにどうしてもなりそうだがね。男が女より長くつづくことは、ほとんどないからね。オーケイ、ぼくは予備のチームだ……そして、結果がわかるまで、ぼくはきみのそばで待っているよ」
かれはくすくす笑った。
「かわいいミネルヴァ、ぼくはアイラが尻ごみすればいいと思いたいくらいだ……きみがそれほどかれと寝たがっているのでなければね。実際的な問題を話しあおうじゃないか。どんなものが必要なのか、はっきりわかっているのか?」
「理論としてだけですけれど、ラザルス。わたしの記憶では、それがこれまで試みられた例はまだありません。でもそれは、全面的クローン若返り処置と類似したものになるでしょう。その場合、古い脳の記憶をクローン増殖された体の|空白の脳《ブランク・ツイン》へうつすのに、コンピューターの助けが必要になります。いうなればそれは、わたしがこの宮殿にいるわたし≠ドーラの船倉の新しいわたし≠ヨ移すときにすることと似ています」
「ミネルヴァ、そのほうがずっと難しいと思うがね……そして、はるかに危険だ……もうひとつのことよりもね。時間の速度が異なるんだ。機械から機械へならほんの一瞬でできるだろう。だがその全面的クローン増殖の仕事はおそらく、最低限二年はかかると思う……急いでやれば、年老いた死体と新しい白痴が残るのが|おち《ヽヽ》だ。違うか?」
「そのような例はこれまでもありましたわ、ラザルス。でも、ここ二世紀はおこっていません」
「そう……ぼくの意見はどうせ役に立たないんだ。きみはそれを専門家と話しあわなければいけない……それも信頼できるやつじゃないとだめだ。イシュタルというところだろうな。きみの必要とする専門家ではないかもしれんが」
「ラザルス、この冒険的な試みに専門家はいないのです。これまで一度もおこなわれたことがないのですから。イシュタルなら信頼できます。わたしは彼女とそのことを話しあいました」
「彼女はなんといっている?」
「それが可能かどうかはわからないと……実地では。つまり、最初の試みが成功するかどうかはです。でも彼女はとても同情してくれて……彼女、女ですものね! いま、危険を少なくする方法を考えています。彼女は、最高の遺伝子操作技術と、完全に成長した体をクローン増殖するための設備が必要だろうといっています」
「ぼくはどうも何か聞きのがしているようだな。クローン増殖をはじめるのに最高の遺伝子操作技術者など必要ないさ。ぼくは自分でそれをやったことがある。それに、もしきみがそのクローンを子宮に移殖して根づかせれば、ホスト・マザーが九カ月後に赤ん坊を手渡してくれるだろう。ずっと安全で、簡単だ」
「でも、ラザルス、わたしは赤ん坊の頭の中に入ることなどできません。それだけの場所がありませんもの!」
「ああ、そうか。そのとおりだな」
「たとえ完全に発育した大人の脳の場合でさえ、わたしは何を持ってゆき、何をあとに残すかを、このうえなく慎重に選択しなければいけないでしょう。それにわたしは単一体のクローンになることもできません。わたしは複合体でなければいけないのです」
「うーん……今夜のぼくはあまり利口じゃないな。そう、たとえばだが、きみはイシュタルの双生児になりたくはないだろう。彼女の脳となったであろうものに、きみ自身の個性と選択された知識を刷りこむのはいやだろうからな。ふむ……ミネルヴァ、ぼくの染色体を、十二番目のベアを提供しようか?」
「ラザルス!」
「泣くんじゃない。きみの歯車が、みな錆びついちまうぞ。その染色体ペア中の遺伝子複合体の強化が長寿をコントロールするという理論に何かがあるのかどうか、ぼくは知らない。たとえそうだとしても、ぼくはきみにゼンマイの切れた時計を渡そうとしているのかもしれないぞ。きみはアイラの十二番目のを使ったほうがいいかもしれないな」
「いいえ。アイラからは何ももらいません」
「きみはこれを、かれに知られずにやりたいと思っているのか?」ラザルスはそれから考えこみ、あとをつづけた。「ああ……子供のことか、え?」
コンピューターは答えなかった。
ラザルスはやさしくいった。
「きみが、とことんやるつもりでいることに気づいているべきだったな。それでは、ハマドリアドから借りるのもいやだろう。彼女はかれの娘だからな。遺伝子|図表《チャート》が、どのような危険も避けられると示さないかぎりはね。うーん……ミネルヴァ、きみはできるだけ遺伝子を混ぜあわせた複合体が欲しいんだね? そうして、きみのクローンは、この世でひとつしかない体になるように。ほかのどんな接合体とも似すぎることのないものにと。二十三人の親かい? きみはそれを考えていたんじゃないのか?」
「それがいちばんいいと思うんです、ラザルス。それなら、対になっている染色体を分割せずにすみますから……操作は容易で、予期せぬ強化をひきおこす可能性もありません。見つけられればいいのですが、二十三人の……喜んで提供してくれる人々を」
「喜んで提供してくれる連中じゃなければいけないなどと、だれがいったんだ? 盗んでやろうじゃないか。だれも自分の遺伝子を所有してなんかいやしない。たんに保管者でしかないんだ。遺伝子は、減数分裂のダンスを踊りながらいやおうなしに渡されてくるのさ。同じまったくの偶然によって、それは別の人間に引き継がれる。病院には何千という組織培養基があるに違いない。それぞれ何千という細胞があるはずだ……だからもしぼくらが、二十三個の培養基からそれぞれ一個ずつ細胞を拝借したところで、だれが気づいたり、気にかけたりするもんか……うまくやればいいのさ。道徳観念におびえることはない。広い砂浜から砂を二十三粒盗むようなものなんだからな。
ぼくは病院の規則を馬直にしているんじゃない。これを最後までやりとげるとなると、ぼくたちは禁止された技術に腰まで埋まるんじゃないかと思うね。ふーむ……きみがドーラに貯えた病院の記録類のことだが、それらには現在ある組織培養基の遺伝子図表も入っているかね? その提供者・委託者それぞれの経歴も?」
「はい、ラザルス。ただし、個人的記録は極秘ですが」
「かまうものか。イシュタルはきみに、機密扱いのも極秘扱いのも勉強していいといったんだ……きみが外部に洩らさないかぎりね。だから、きみ自身が求める親を二十三人選ぶんだ……それをどうやって盗み出すかは、ぼくが心配するから。盗みはどちらかというとぼくの商売でね。きみがどんな基準を使うのかぼくは知らないが、ひとつだけ小さな提案をさせてもらおう。もしきみがしなければいけない選択がそれを許すなら、きみの親はみなあらゆる面で健康、かつできるかぎり頭がいい連中であるべきだ……遺伝子図表だけでなく、それぞれの経歴に出ているかれらの人生のはっきりした記録によってもね」ラザルスはしばらくそれについて考えた。「ぼくが前にいった、あの架空のタイム・マシンがあれば便利だろうな。きみが選んだあとでその二十三件をみな見てみたいな……その何人かは死んでいるかもしれん。提供者のことだよ、組織培養基のことではなくて」
「ラザルス、もし他の特徴が満足すべきものであれば、同様に、肉体の外見で選んでいけない理由があるでしょうか?」
「なぜそんなことを心配するんだ? アイラは、トロイのヘレンでなきゃあだめだといいはるような男じゃないぜ」
「ええ、かれがそのような人だとは思いません。でもわたしは背が高く……イシュタルに負けないくらい……そして、ほっそりした体が欲しいのです。小さな胸に、まっすぐの茶色い髪も」
「ミネルヴァ……どうして?」
「わたしの外見がそうだからですわ。あなたはそういわれました。あなたがそういわれたんです!」
ラザルスは暗闇にむかって目をぱちくりさせ、低くハミングした。
「彼女はいい子だ……ぼくなら金を惜しまない……五ドルだって十ドルだって……」──ついで、かれは鋭くいった。「ミネルヴァ、きみは頭のいかれた機械だ。すっかり混乱しちまっている。もし特徴の組合せで最良のものが、背の低い、丸ぽちゃの、でかい乳房をしたブロンドになったら……それを受け入れるんだ! 老人の世迷いごとなんか気にするな。あんな勝手な想像をしゃぺって、すまなかった」
「でも、ラザルス、わたしはもし他の特徴が満足すべきものであれば……≠ニ、いったのです。その肉体的外見を得るためでしたら、わたしは常染色体の三対についてだけ調べればいいのです。衝突はありません。その調査は、わたしたちがいままで話しあってきたあらゆる補助変数《パラメータ》内ですでに完成しています。そしてそれは、|わたし《ミー》です……|I《アイ》というべきでしょうか? いいえ、|me《ミー》です! あなたがわたしにいわれたときから、わたしにはそれがわかっていました。でも……あなたがいわれたことと……いわれなかったほかのことからも……わたしがそのような外見になるためには、あなたのお許しをいただかなければいけないように思えるのです」
老人はうつむいて顔をおおった。それから顔をあげていった。
「やりたまえ、きみ……彼女に似せるんだな。きみ自身にそっくりにしろ≠チて意味だよ。きみの心の目が見るとおりのきみ自身にね。こうあるはずだときみが感じるような姿形になれないという、余分なハンディキャップがなくても、血と肉をそなえた生身の人間になることを学ぶのは、まったく難しいことだとわかるからね」
「ありがとうございます、ラザルス」
「いろいろ問題はあるだろう。たとえ万事うまくいってもだよ。たとえば、きみは何もかもすっかり初めから学びなおさなければいけないことを考えたかね? 見たり聞いたりすることさえだ。きみがクローン増殖された体に移ったあとただのコンビューターしか残っていないとなったら、きみはとつぜん大人でなくなるんだ。かわりに、きみは大人の体の中にいる赤ん坊という異様な存在になり、まわりの世界はぶんぶんうるさく混乱しており、まったく奇妙なものなんだ。恐怖を感じるかもしれない。ぼくがそばについていよう。きみのそばにいて、きみの手を取っていてあげると約束するよ。だが、きみにはぼくがわからんだろう。きみの新しい目が使いかたをおぼえるまでは、ぼくの形態《ゲシュタルト》を抽象化《アブルトラクト》できないね。きみはぼくのいう言葉を、ひとつも理解できないはずだ……こういうことは、わかっていたのかい?」
「わたし、はっきりわかっていますわ、ラザルス。そのことは気づいていました。ずいぶん考えたんですもの。新しい体に移るのは……いまのわたしであるコンピューターを破壊せずにしなければなりません……そんなことをしては、絶対にいけないんです。だってアイラにはコンピューターが必要でしょうし、イシュタルだってそうです……その移行が、もっとも重大な段階なのです。でも、わたしがそれをやりとげたら、異様さにおびえたりしないとお約束しますわ……わたしにはわかっているからです。わたしが生身の人間になることを学んでいるあいだ、愛するお友達がまわりにいてくれて、はげましてくれることが。わたしの生命を守り、わたしが自分自身を傷つけたり、また何かに傷つけられたりしないよう見守っていてくれることが」
「かならずそうしてあげるさ、ディア」
「わたしにはわかっていますし、何もこわくありません。ですからあなたも心配なさらないで、愛するラザルス……いまそのことを考えるのはやめましょう。なぜさきほどあなたは、あの架空のタイム・マシン≠ニおっしゃったの?」
「え? きみならなんと表現するね?」
「わたしなら実現されていない可能性≠ニ表現します。でも、架空の≠ニいう言葉は不可能を意味します」
「ほう? その話をつづけてくれないか!」
「ラザルス、わたしはドーラから学んだのです。彼女がn次空間における宇宙航法の数学を教えてくれたときに、あらゆる跳躍移動には、時間軸にいつ再突入するかの決定が当然のこととしてふくまれると」
「ああ、そのとおりだ。きみが光速の枠組から切り離されたあとは、跳躍にふくまれている何光年かと同じだけの年月をさまようわけだ。だが、それはタイム・マシンじゃない」
「そうでしょうか?」
「ふーん……考えると迷ってくるな……計画的に変な着陸をするようなものか。アンディ・リビイがここにいてくれたらなあ。ミネルヴァ、なぜこのことをもっと早くいわなかったんだ?」
「それをあなたの|お考え《ツイッキー・ボックス》に入れるべきだったのでしょうか? あなたは未来への時間旅行を拒否されました……ですからわたしは、過去への時間旅行を除外したのです。だってあなたは、何か|新しい《ヽヽヽ》ものが欲しいっていわれたんですもの」
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幕間《まくあい》
──ラザルス・ロングの覚書き抜葦[#「──ラザルス・ロングの覚書き抜葦」はゴシック]
ビールはかならず、暗い場所にしまえ。
今日までのデータによると、この銀河系で人間にとって危険な動物は一種類しかいない──人間自身である。だからかれは自分自身でおのれに、避けられない競争を課していかなければならない。かれを助けてくれる敵はいないのだ。
男は女より感傷的だ。それでかれらの思考は、くもらされる。
たしかにゲームは仕組まれている。だからといってやめるな。一か八かやらなければ、勝てるものか。
いかなる聖職者もまじない師も、無実と証明されるまでは有罪と考えられなければならぬ。
つねに専門家の言葉に耳を傾けるんだ。かれらは何が不可能か、そしてそれはなぜなのかを教えてくれるだろう。それからそれをやれ。
射つのは早いとこやれ。そうすれば相手がうろたえているうちに二発目を完全に射つことができる。
死後の生についての決定的な証拠はまったくない。だが、それを否定するいかなる種類の証拠もない。もうすぐきみにわかることだ。とすれば、なぜそのことにいらだつんだ?
数字で表現できないものは、科学ではない。それは意見だ。
一頭の馬がほかの馬より速く走れることは、昔から知られていた──だが、どの馬がそうなんだ? 違いはきわめて重大だ。
いんちき占い師を大目に見ることはできる。だが、本物の予言者は見つけしだい、すぐに射殺すべきだ。トロイの女予言者カッサンドラは、彼女に値する非難の半分も得なかった。
妄想はしばしば役に立つ。自分の子供の美しさ、頭の良さ、善良さ、その他もろもろの母親の意見は、憎悪を忘れさせ、彼女がわが子を誕生のときに水中へ放りこんでしまうことを妨げている。
たいていの科学者≠ヘ、瓶洗い屋とボタン押し屋だ。
男の平和主義者≠ニいうのは、言葉が矛盾している。大部分の自称平和主義者≠ヘ、平和的じゃあない。かれらはたんにそう見せかけているだけだ。風向きが変われば、海賊旗をかかげる連中だ。
授乳は女性の乳房が持つ美しさをそこねるものではない。それは、落ち着き、幸せに見せることで、彼女たちの魅力を増す。
歴史を無視する世代に過去はない──そして、未来もない。
自分の詩を公衆の前で読む詩人には、ほかにも胸の悪くなるような習慣があるかもしれない。
女たちのいる世界とは、なんとすばらしいところか!
小銭はしばしば、クッションの下で見つかるものだ。
歴史は、いかなる時代、いかなる場所においても、合理的基盤を持つ宗教というものを記録していない。宗教とは、助力なくして未知のものに立ちむかうだけの強さを持たぬ人々にとっての松葉杖だ。しかし、頭のふけと同じく大部分の人間は宗教を持ち、それに時間と金をついやし、そしてそれをもてあそぶことで、かなりの快楽を得ているように思われる。
大人の知恵≠ニいうものが、疲れすぎの状態といかによく似ているかは驚くほどだ。
もし自分自身が好きでないなら、他人を好きになれるわけがない。
きみの敵は、決して自分を悪党とは見ていない。おぼえておくといい。そうすれば、かれをきみの友達にする方法が見つかるかもしれない。でなければ、きみは惜しみなしにかれを殺すことができる──しかも、すばやくだ。
延期の動議はつねに適切だ。
いかなる国家も徴募兵の軍隊によって生き残るなどという固有の権利など持たないし、長い目で見ると、どの国家もそんなものを持ったことはなかった。ローマの母親たちは息子たちにいったものだ。「おまえの盾を持って帰っておいで。あるいはその上にのって」のちにその習慣はおとろえ、ローマもまたおとろえた。
人類が法律を作ることによって無から制定したあらゆる奇妙な犯罪≠スるものの中で、涜神《とくしん》≠ニはもっとも驚くべきものだ──そして猥褻《わいせつ》≠ニ、猥褻物陳列≠ェ二位と三位を争っている。
ケオブス王の法則:何ものも予定どおりに建造されたためしはなく、予算の範囲内ですんだためしもない。
性交とは、一度もしないよりはしたほうがいいもんだ。
あらゆる社会は、妊娠中の女性と幼い子供を保護するという基盤にのっかっている。そのほかゆすべて余分であり、無用の長物であり、装飾品、贅沢品、あるいは無意味なものなのだ。そういうものは、この第一の目的を維持するために非常事態においては捨てることができるし──また、捨てなければいけない。なぜなら、民族の存続は唯一の普遍的道徳であり、ほかに基盤となりうるものがないからだ。女性と子供を優先させよ!≠ニいう基本原則以外のものの上に立つ完全な社会≠実現しようとの企ては、愚かであるばかりでなく、それは自動的に過剰殺戮を意味することなのだ。それにもかかわらず、目を輝かせた理想主義者たち(全員が男だ)は、倦むことなくそれを試みてきた──そして、かれらが今後もその試みをつづけることは疑いない。
すべての人間は平等でなく創造されている。
金《かね》は強力な催淫剤だ。しかし、花にもほとんど同じききめがある。
野獣の輩は楽しみのために殺す。愚者は憎しみから殺す。
未亡人をなぐさめる方法はひとつしかない。だが危険を忘れるな。
その必要がおこったとき──そうしたことは事実おこるものなのだ──きみは、自分の犬を射ち殺すことができなければいけない。それを他人にまかせるな──事態がよくなるわけじゃない。逆にいっそう悪くなるのがおちだ。
なんでもやりすぎるほどやれ! 人生の喜びをむさぼり、食べたいだけ食べろ。節制は坊主のすることだ。
死せるライオンより生けるジャッカルであるほうがいいかもしれない。だが、生けるライオンであるほうがさらにいい。そのほうが、ふつうはより簡単だ。
ひとりの人間にとっての神学は、他の人間にとってお笑い草だ。
セックスは友情をともなうものであるべきだ。さもなければ、機械仕掛けの玩具相手のほうがいい。そのほうが衛生的だ。
人間が自分より優れた神を夢想して作りあげるなどということは、めったにない(いや、もしそんなことができればの話だが)。ほとんどの神々は、あまやかされてだめになった子供の作法と道徳を持っている。
決して相手のよりよい本性≠ノ訴えるようなことはするな。そんなものは持っていないかもしれないかもだ。かれの利己心を誘い出せば、きみはより大きな挺《てこ》を得る。
幼い娘たちは、蝶と同じで、口実を必要としない。
人は平和を得られる。あるいは、自由を得られる。両方を一度に得ようなどと期待するな。
疲れたり腹のすいているときなどに、変更できない決定をすることは避けよ。注意:周囲の状況がきみに行動をしいることがある。だから、前もって考えろ!
服と武器は、暗闇の中でも見つけられる場所におくこと。
象:政府の仕様書どおりに作られた鼠。
歴史はじまって以来、貧困が人間のふつうの状態だ。この標準を上まわることを可能とする進歩は──そこここで、ときおり見かけるが──きわめて少数の人間の努力によるものであり、すべての正しく考える人々からしばしば軽蔑され、非難され、ほとんどつねに反対される。このごく少数の人間が創造を妨げられたり、あるいは(ときどきおこることだが)社会から追い出されたりする場合はいつも、大衆はもとの悲惨な貧困にすべり落ちる。
これは不運≠ニいうものだ。
成熟した社会において、公僕《シビル・サーバント》とは公主《シビル・マスター》と意味が同じである。
ある土地が身分証明を必要とするほど人口過密になると、社会の崩壊は遠くない。どこかよその土地へ行くべきときだ。宇宙旅行のもっともいい点は、よそへ行くのを可能としたことである。
女とは財産じゃあない。そんなことはないと考えている亭主は、夢の世界に住んでいるのだ。
宇宙旅行の第二にいい点は、それに伴う時間空間のへだたりが、戦争を非常に困難で、たいていは実行不可能で、つねにといっていいほど不必要なものにすることだ。おそらく大部分の人にとって、これは損失だろう。なぜなら戦争はわれわれの種族にとってもっとも人気のある娯楽であり、単調で愚かな人生に目的と色彩を与えるからだ。しかし、やむを得ぬときにしか戦わない知性ある人間にとっては、大きな恵みだ──かれにとって、戦争は決して気晴らしなどではない。
接合子とは、配偶子がより多くの配偶子を生み出すための方法だ。これがあるいは宇宙の目的なのかもしれない。
自然を愛し、人間が自然を破壊するのに使った人工物の存在をなげく人々の心の中には、隠れた矛盾がある。明らかな矛盾は、かれらの言葉の遊びにある。すなわち、人間と人工物とが自然の一部ではないとほのめかしているのだ──だが、ビーバーとビーバーが作るダムとは自然の一部だというわけだ。しかし、この一見不合理とわかる愚かさ以上に、かれらの矛盾には根深いものがある。ビーバーのダム(ビーバーの目的のためビーバーが作ったもの)を愛し、人間が作ったダム(人間の目的のため)を憎むと宣言することで、自然崇拝者はおのれの種族への憎悪を明らかにしているのだ──すなわち、自己嫌悪ということになる。
自然崇拝者の場合、そうした自己嫌悪は理解できる。かれらはそういうあわれな連中なのだ。だが憎しみは、かれらに対して感じるには強すぎる感情だ。かれらに値するものは、せいぜい憐憫《れんびん》と軽蔑である。
ぼくはどうかといえば、いやでもおうでも人間だ。ビーバーではない。そしてホモ・サビエンスこそ、ぼくが親族関係を持ち、そして持つことのできる唯一の種族なのだ。幸運なことに、ぼくは男と女とでできている種族の一員であることが気に入っている──それはぼくにとって申し分のない取決めであり、完全に自然なものだと思われる。
信じようと信じまいと、なつかしの地球から月への最初の飛行を、不自然であり自然の冒潰だとして反対した自然崇拝者たちがいたのである。
人は孤独にあらず──
われわれはだれもがばらばらの個人と感じ、そう行動しているが、われわれの種族は一個の有機体であり、つねに成長と分岐をつづけている──そしてそれは、健康であるため定期的に剪定《せんてい》されなければいけない。この必要は論議するまでもない。目のある者ならだれでも、無制限に成長する有機体は、いかなるものであろうとおのれ自身の毒の中でかならず死ぬのを見ることができる。唯一の合理的な質問は、剪定を誕生前におこなうのが効果的か、あるいは誕生後におこなうのがいいか、だ。
救いがたい感傷家のぼくとしては、それらの方法のうち前者のほうが好きだ──殺人は吐き気をもよおさせる。たとえそれが、かれは死に、おれは生き、それがおれの望んだことだった¥鼾であろうと。
しかしこれは、好みの問題かもしれない。まじない師の中には、戦争で殺されたり、出産のときに死んだり、貧困のうちに飢え死にしたりしたほうが、まったく生きたことがないよりはましだと考える者もいる。かれらが正しいのかもしれない。
だがぼくは、それをしいて好きになる必要はないし──そんなことはしない。
民主主義は、ひとりの人間よりも百万の人間のほうが賢明だとの仮定にもとづいている。なんだって? 何かを見落としているらしいな。
独裁政治は、百万の人間よりひとりの人間のほうが賢明だとの仮定にもとづいている。これまた、なんだって、だ。いったい、だれが決めるんだい?
もし権力と責任とが同等で調和しているなら、どんな政府でも機能をはたす。これば、いい$ュ府を保証するものではない。たんに、機能をはたすことを保証するだけだ。だが、そうした政府はめったにない──ほとんどの人間は物事を動かすのが好きだが、責任は負いたがらないからだ。これはふつう|後部座席おせっかい症《バックシート・ドライバー・シンドローム》≠ニ呼ばれていた。
事実とはなんだ? 何度も何度も、くりかえしたずねよう──事実とはなんだ? 希望的観測を捨て、神の啓示を無視し、星の予言≠忘れ、意見を避け、世間の噂を気にせず、前もって推測のできない歴史の判定≠気にせず──事実とはなんだ? そして、小数点何位まで? きみたちパイロットは、つねに未知の未来へつき進んでいる。事実がきみの唯一の道しるべだ。事実を手に入れろ!
愚かさは金では治療できないし、教育によっても、法律によっても、治療することはできない。愚かさは原罪ではない。犠牲となる人間が愚かなのは仕方のないことだ。だが、愚かさとは唯一普遍の大犯罪だ。判決は死であり、控訴はない、そして刑の執行は自動的に、同情なくおこなわれる。
神は全能、全知、そして慈悲深い──ラベルには、はっきりとそう書いてある。もし、こうした神の属性を三つとも同時に信じられる心をきみが持っているなら、きみにすばらしいお買徳品を提供するよ。小切手はおことわり、現金、それもこまかい紙幣でおねがいします。
勇気は恐怖の片割れだ。恐れを知らぬ人間は勇敢ではありえない(だが、馬鹿者ではある)。
人間の精神が達するふたつの頂点は、忠誠心と義務という一対の概念だ。これらの評判が悪くなるときはいつでも──そこから急いで逃げ出せ! きみは命拾いできるかもしれないんだ。だが、その社会を救うには手遅れだ。破滅をまぬがれることはできない。
大きく破産した人間は、決して食事にこと欠かない。ベルトをきつくしなければいけないのは、半杯の酒を注文するのを恥ずかしがる哀れな貧乏人だ。
物事の真相はその信憑性《しんぴょうせい》とは関係がない。そして、逆もまた真なり。
数学ができない者は完全な人間じゃあない。よくてもかれは、靴をはき、風呂に入り、家の中を散らかさないことを学んだ、できのいい人間もどきというにすぎない。
接触しこすれあって動いている部分は、過度の摩滅を避けるために油をさすことが必要だ。敬語や折り目正しい礼儀は、人々がたがいにぶつかりあうのをなめらかにする。しばしばごく若い人々や、見間のせまい者、世慣れていない単純な連中は、そうした形式的儀礼を空疎だ≠ニか無意味だ≠ニか不正直だ≠ニいって嘆き、それらを使うことを軽蔑する。かれらの動機がいかに純粋≠セろうと、かれらはそのため機械の中に砂を投げこむこととなり、その機械がうまく働いてくれることなどないのだ。
人間はなんでもできるべきだ──おむつを取りかえ、侵略をもくろみ、豚を解体し、船の操舵を指揮し、ビルを設計し、ソネットを作り、貸借を清算し、壁を築き、骨をつぎ、死にかけている者をなぐさめ、命令を受け、命令を与え、協力し、単独で行動し、方程式を解き、新しい問題を分析し、肥料をまき、コンピューターをプログラムし、うまい食事を作り、能率的に戦い、勇敢に死んでいくこと、と。専門分化は昆虫のためにあるものだ。
愛すれば愛するほど、きみはより深く愛することができるようになる──そして、より激しく。そして何回愛することができるかにも限界はない。もし時間が充分にあれば、人は上品で正しい大衆のすべてを愛することができるはずだ。
マスターベーションは、安上がりで、清潔で、便利で、悪事をおこなういかなる可能性からもまぬがれている──それにきみは、寒い中を家へ帰らなくてもいい。だがそれは淋しいことだ。
愛他主義に気をつけろ。それは自己欺瞞という、あらゆる悪の根源にもとづいているのだ。
もし何か愛他主義的と感じられることをしたい誘惑にかられたら、きみの動機をよく調べて自己欺瞞をすっかり取り除け。そのうえで、なおそうしたければ、やりたいようにやれ!
人類がこれまでに創作したもっとも途方もない考えとは、創造の主なる神、全宇宙の形成者にして統治者が、おのれの創造した生物どものあまったるい崇拝を求め、その祈りによって左右され、もしそのお世辞を受けることができなかった場合は腹を立てるということだ。そしてこの馬鹿げた空想は、それを支える一片の証雖もなしに、あらゆる歴史の中で最古、最大で、そしてまったく何も生み出さない産業の全費用を支払っているのだ。
第二のもっとも馬鹿げた考えは、性交がもともと罪悪だというものだ。
ものを書くことはかならずしも恥ずかしいことではない──だが、やるときはこっそり、あとは手を洗うこと。
年四回、七パーセントの複利で投資された百ドルは、二百年のあいだに一千万ドル以上に増えるだろう──だがそのときまでに、それはなんの価値もなくなっているはずだ。
いいかね、きみの恋人をささいなことでうるさがらせたり、きみの過去の過ちで苦しませたりしてはいけない。男を相手にしてもっとも幸福な方法は、かれが知る必要のないことは絶対に知らせないことだ。
ダーリン、本当の淑女は服とともに威厳を取り去り、娼婦としての最善をつくすものだ。そのほかのときなら、きみの仮面が必要とするだけ慎しみ深く、もったいぶっていてかまわない。
だれもかれも、セックスのことでは嘘をつく。
もし人間が、行動主義者たちの主張するような自動機械だったら、行動主義心理学者たちは行動主義心理学≠ニ呼ばれる驚くべきたわごとを、でっちあげられなかったはずだ。だから連中は最初から間違っているのだ──酸素の発見前に熱素《フロギストン》なるものの存在を信じた化学者たちと同様に独創的であり、同様に間違っているのだ。
まじない師たちは、かれらの蛇油の奇蹟≠ノついて永遠にやかましくしゃべりつづけている。ぼくには本物のほうがいいな──妊娠した女のほうが。
もし宇宙に、きみの愛する女の上に乗り、彼女のやさしい助けとともに赤ん坊を作る以上の大切な目的があるとしても、ぼくはまだ聞いたことがない。
なんじは十一番目の戒律を忘れず、それを完全に守らなければならぬ。
知識人≠フ現実の価値を決める試金石は──そいつが星占いをどう考えているか見抜くこと。
税金は、納税者の利益のために取りたてられるのではない。
社交的ギャンブルなどというものは存在しない。きみがそこにいれば、ほかの男の心臓を切り取って食っちまうか──そうでなければ、きみが|かも《ヽヽ》にされるか、どちらかの結果しかない。もしきみがどちらもいやなら──ギャンブルはしないことだ。
宇宙船が離陸するとき、請求書はすべて支払いずみになる。思い残すことはない。
初めて新兵の教官になったとき、ぼくはその仕事にあまりにも不慣れだった──ぼくがあの少年たちに教えたことは、かれらの何人かを死なせたに違いない。戦争は、世間知らずの人間によって教えられるには、あまりに深刻な出来事だ。
有能で自信のある人間は何ごとにも嫉妬できない。嫉妬とは間違いなく神経症的不安感の徴候である。
金はあらゆるお世辞のうちでもっとも誠実なものだ。
女はお世辞を使われるのが大好きだ。
男も同じ。
生きて学べ。さもないと長生きしないぞ。
女性が男性との完全な平等を主張するときはつねに、女性が棒の汚れたほうの端を握ることになる。女性の存在自体と、女性にできることとが、女性を男性より優れたものとしているのだから、女性の正しい戦術は、特権を要求し、儲けるだけ儲けることにある。女性は決して、たんなる平等で満足すべきではない。女性にとって、平等は破滅である。
平和とは、政治的手段による戦争の延長だ。自由に行動する余地がたっぷりあるのは、より快適であり──はるかに安全だ。
ある人間にとっての魔法≠ヘ、別の人間にとっての工学技術≠ナある。超自然≠ニは無意味な言葉だ。
われわれ(ぼく)(きみ)は、とにかくやらなければいけない……≠ニいう文句は、する必要のない何ごとかを示している。それはいうまでもない≠ヘ、赤信号だ。もちろん≠ニは、自分でそれを調べるべきだということだ。これらのささいな決まり文句は、その同類とともに、正しく読まれた場合には、信頼できる水路標識となる。
子供たちの生活を容易にすることで、かれらにハンディキャップをおわせるな。
彼女の足をさすってやれ。
もしきみがたまたま、創造的仕事のできる気むずかしい少数派のひとりなら、決してひとつのアイデアをごり押ししようとするな。そんなことをすれば、それを流産させてしまうだろう。忍耐すること。そうすれば、時が満ちたとき、それを生み出すことができる。待つことを学べ。
若者にかれらの個人的問題をしつこく尋ねるな──特にセックスは。かれらが成長しているときは、全神経をたかぶらせており、自分たちのプライヴァシーを侵されると腹をたてる(まったく正当なことだ)。ああ、たしかにかれらは間違いをおかす──だがそれはかれらの問題であって、きみのではない。(きみだって間違いをおかしたろうが?)
人間の愚かさが持つ力を、決して見くびるな。
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ある主題による変奏曲 11
ある養女の話[#「ある養女の話」はゴシック]
ぼくとならんで人類の古い惑星に立ち、空が暗くなったら北のほうを見つめてみよう。北斗星《ひしゃく》の柄を下へ進み、その端からさらに半分の長さを行ったところで、左手に向きを変える──見えるか? 感じられるか? そこには冷たい暗闇があるだけだ。両方の目を閉じて、もう一度やってみろ。心の目でもう一度さがすんだ。さあ、雁《かり》の鳴き声に耳をすますのだ。無限の宇宙にひびきわたり、奇妙な方程式に何度もはねかえるのを──
そら、あそこに輝いているぞ! その姿をしっかりとらえ、きみの船をねじれた空間にワーブさせろ。やさしく、やさしく、見うしなうなよ。処女惑星だ、新しい出発だ──
ウッドロウ・スミス、多くの顔と、多くの名前と、多くの土地での経験を持つかれは、その一団をひきいて|新たな出発《ニュー・ビギニングズ》へ、朝のように清らかで明るい惑星へとむかった。旅の終りだと、かれは仲間にいった。果てしなくひろがる前人未踏の草原、果てしなくつづく斧を入れられたことのない森林、うねり曲がっている川、そびえる山々、隠された富と隠された危険。ここにあるものは生、あるいは死。唯一の罪は努力をおこたることだ。きみたちの鶴嘴《つるはし》をつかめ、きみたちのシャベルを握れ。便所を掘り、きみたちの小屋を建てろ──来年はもっと立派に、来年はもっと丈夫に、来年の畑はずっと広く。
育てることを学べ、食べることを学べ。金では買えないんだ、作ることを学べ! やってみずに、どうしておぼえられる? もう一度やってみろ、努力をつづけるんだ──
アーネスト・ギボンズ、あるいはウッドロウ・スミス、ときにラザルス・ロングその他として知られるニュー・ビギニングズ商業銀行頭取は、ウォルドーフ食堂から出てきたところだった。かれはヴェランダに立つと、歯をつつきながら通りの雑踏を眺めた。鞍をおいた騾馬《らば》が六頭と、ローパー(口輸をはめられているの)が一頭、かれの真下につながれていた。通りの右手を見ると、奥地から来た騾馬の隊商が、トップ・ダラー交易所(E・ギボンズ所有)の積みおろし場で荷物をおろしている。一匹の犬が、もうもうとほこりの立つ通りのまん中で寝そべっている。騎馬の連中は、その犬をよけていく。通りの反対側、かれの左手では、十二、三人の子供が〈メイベリー夫人の小学校〉の校庭で、何か騒々しいゲームをしている。
かれはその場から動くことなく、三十七人の男女を数えることができた。トップ・ダラーはもはや唯一の開拓地ではなかったし、もっとも大きな町でさえなくなっていた。ニュー・ピッツバーグはもっと大きく(そして、もっと汚なく)、セパレーションとジャンクションは両方とも町と呼べるだけの大きさになっていた。これが、たった二隻分の積荷と、最初の冬にはあわや飢え死にしかかった植民地とからの成果なのだ。
かれはその冬のことを考えたくなかった。ある一家が──人肉食いはまだ実際に証明されたわけではないが──それでも、ひとり残らず死んでしまったことを。
忘れてしまえ。弱いやつは死に、悪いやつは死ぬか殺されるかしたんだ。生き残った連中はつねに、より強く、より利口で、よりまともなのだ。ニュー・ビギニングズは自慢できる惑星だし、時がたつにつれてますますよくなっていく。
それでも、ほぼ二十年というと、一カ所にとどまるにはまったく長い年月だった。もうそろそろまた宇宙に出るべきときだ。アンディと一緒に星々のあいだを飛びまわっていたころのほうが、多くの点でずっと面白かった。神よ、かれの愛すべき無垢な魂を安らかに休ませたまえ。あのころのふたりは、本当の不動産を手に入れ、そこに秘められている可能性を評価するのに必要な以上は、決してとどまらなかった。息子のザッカーは、三度目の有望な若者連中を乗せて、間にあうようにもどってくるだろうか?
かれはキルトを持ちあげ、右膝の上をかいて熱線銃《ブラスター》をしらべ、ベルトを左へぐいと動かしてニードル・ガンをしらべ、首のうしろをかいて二本目の投げナイフがあるのをたしかめた。人々の前に出る用意ができると、かれは銀行の自分のデスクへ行くか、それとも交易所へ行って新しく入ってくる荷物をしらべようかと、しばらく考えた。どちらも気が進まなかった
つながれている騾馬の一頭が、かれにむかってうなずいた。ギボンズはそいつを見てから話しかけた。
「やあ、バック。こんにちは。きみのボスはどこにいるんだい?」
バックは唇なかたく閉じ、それから破裂するような声でしゃべった。
「きーんこう!」
それでひとつはっきりした。もしクライド・リーマーが銀行の前でなく、ここにつないだとすると、それはつまりクライドが横の入口を使い、そしてまたもや借金をするつもりでいるということだ。やつがぼくを見つけるためどれだけ一生懸命になるか見てやろうじゃないか。
交易所もやめだ──クライドがつぎにそこを探がすだろうからというだけでなく、リックがいつものように売上げをごまかしていないうちに顔を出し、かれを神経質にするのはよくないからだ。いい店番を手に入れるのは難しいものだ。リックはいつでも正直だった──かれが盗む金はきっちり五パーセントで、それより多くも少なくもないんだ。
ギボンズは服のポケットを探ぐり、キャンディーを見つけると、掌にのせてバックのほうへさし出した。騾馬はそれをうまく口に入れると、うなずいて感謝した。ギボンズは思い出した。これらの多産で、はっきりきまった型を生みつづけるようになった突然変異の騾馬たちは、リビイ推進装置以来、植民のための最大の助けとなっている。騾馬たちはたやすく冬眠に入り──きみが豚を輸送したとき、繁殖用の群の半分は豚肉として到着したことを考えるといい──そしてかれらは、さまざまな方法でわが身を守ることができる。一頭の騾馬が野生のローパーを蹴り殺したことさえあったのだ。
かれは話しかけた。
「じゃあな、バック。散歩してくるよ。散歩。そうきみのボスにいってくれ」
調馬は挨拶した。
「しゃよなーら。まったね」
ギボンズは左に曲がり、町の外へむかって歩きながら、バックが担保だったら、クライド・リーマーにどれぐらい貸しつけてやろうかと考えた。性質のいい、利口な、繁殖用の雄の騾馬は貴重なものだ──そして、クライドの手元に残ったほとんど唯一の、抵当に入っていない財産なのだ。バックを担保にした貸付金はクライドを、文字どおり、ふたたび立たせるだろう──その金が貸し出されたらだ。ギボンズはべつに哀れみをおぼえなかった。ニュー・ビギニングズで望みどおりの成果を上げられなかった男は、屑なのだ。かれを支えてやる意味はない。
そう、クライドには一ドルも貸してやるな! 即金で買うというんだ──適正価格の十パーセント増しで。りっぱな働き者の動物は、怠け者に飼われるべきではないからな。ギボンズに、乗馬用の騾馬は必要なかった──だが、毎日一時間かそこら騾馬に乗って運動するのは体にいいだろう。人間は銀行に坐りこんだままでいると、たるんでしまうから。
もう一度結婚して、花嫁に結婚の贈り物としてバックを与えるのはどうだ──楽しい考えだが、この惑星にいるハワード・ファミリーの人間はみな結婚したカッブルばかりで、良人を持つほど大きくなった娘はまだひとりもいない──同様に、この土地に充分人口がふえ、ファミリーが病院を建てるまでは、だれも自分の正体を隠していた。一度火傷すると、いつまでも臆病になるものだ。かれはファミリーの連中を避けたし、かれらも表面上はおたがいを避けていた。しかし、もう一度結婚するのもいいな。マギー家には──本当はバーストゥ家なのだが──育ちざかりの娘が二人か三人いるはずだ。いつか訪ねてゆくべきかもしれない。
それまではどうする──かれは愉快でいい気分になっていた。いり卵と変な考えで腹も頭もいっぱいになったせいか、どこかに同じ気分でいて、ちょいと家の奥にひっこみ、たがいの興味を分かちあえる女性のいるところはないかなと考えた。アーニイは、かれの興奮を分かちあう女性を何人か知っていたが──でもこの時刻では会えないし、行きあたりばったりの遊びはできない。それこそかれのしたいことなんだ。いかにその女性が可愛らしくても、短命人種と真面目な約束をするのは公平なことじゃあない──特に、その女性が本当に魅力的だった場合には。
銀行家ギボンズは町のはずれに達して、もどろうとした。そのときかれは、ずっと前方のほうで一軒の家から煙があがっていることに気づいた──ハーパーの家だ。ハーパーが住んでいたとこるだと、かれは訂正した。かれらは奥地に入植してしまい、いまではそこに、えーと、バッド・ブランドンと細君のマージが住んでいるんだ──二番目の移民船でやってきた感じのいい若夫婦だった。子供がひとりいたんじゃなかったっけ? たしかそうだった。
こんな日に暖炉を燃やしているのかな? きっとごみを燃やしているんだ──
いや、あの煙は煙突から出ているんじゃないぞ!
ギボンズはあわててかけだした。
かれがハーパーの家に着いたときには、屋根全体が燃えていた。ラザルスはすべりながらとまり、状況を見さだめようとした。ほかの古い家と同じで、ハーパーの家には一階に窓がなく、ぴったり閉じる扉がひとつだけ、外にむかって開くようになっていた──ローパーや竜がいたるところに出没していたころの設計だ。
扉をあけると、燃えさかる炎に通風弁《ダンバー》をあけることになってしまう。
かれはそのことを考えることで一瞬たりともむだにしたりしなかった。あの扉はしめたままにしておかなければいけない。かれは家のまわりを走り、二階の窓を見つけると、そこまであがる道具を探がした──梯子か何かだ。だれか中にいるのだろうか? ブランドン一家は、火事がおこった場合の避難用に縄梯子さえ用意していなかったのだろうか? していなかったのだろうな。いいロープは地球製で、小売値が一メートル九十ドルもするんだ──そして、ハーパーの家族は、あとに何かを残していくような連中じゃあない。
窓のシャッターがあいて、煙がそこから流れ出た──
かれはさけんだ。
「おーい! だれかいないのか!」
人影が窓辺にあらわれ、何かがかれにむかって落とされた。
自動的にかれは身がまえ、空中を落ちてくるそれが何かわかると、受けとめたときの衝撃をやわらげようとしていっしょに地面にころがった。小さな子供だ──
かれは顔を上げ、二本の腕が窓枠の上につき出ているのを見た。屋根がくずれ落ち、腕は消えた。
ギボンズは少年を抱いたまま、よろめきながら立ちあがった──いや、少女だ、かれは訂正した──そして惨事の現場から急いで離れた。かれは、怒り狂う炎の中にだれかが、まだ生き残っているかもしれないということは考えなかった。かれらができるだけ早く死ぬことを望んだだけで、あとはもう考えなかった。かれは少女を腕に抱いてゆすった。
「大丈夫かい、ハニー?」
「うん、へいき」彼女はそう答え、それから重々しくつけ加えた。「でも、ママがひどいびょうきなの」
かれは優しくいった。
「ママはもう大丈夫だよ……それにパパもね」
「ほんとに?」
少女はかれの腕の中で体をよじり、燃えている家を見ようとした。
「もちろんさ」
かれは肩で家を隠すと、彼女をいっそうしっかり抱いて歩きはじめた。
町までの距離の半ばをもどったところでふたりは、バックにまたがったクライド・リーマーと出会った。クライドは手綱をひいて立ちどまった。
「やあ、ここにいたのか! 銀行家《バンカー》、あんたに話があるんだ」
「やめろ、クライド」
「え? わからねえのかな。おれは金がいくらかいるんだよ。ここんとこずっと不運つづきでね。おれが手を出すと何もかも……」
「クライド……黙れっていってるんだ!」
「なんだと?」リーマーはそこで初めて、銀行家が何かを抱いていることに気づいたようだった。「おい! それはブランドンとこの子供じゃねえのか?」
「ああ」
「そうだと思ったぜ。さて、借金のことだが……」
「黙れといったんだ。銀行はおまえにもう一ドルも貸さんからな」
「でも、話を聞いてくれたっていいじゃねえか。運が悪かった百姓は、コミュニティで助けあうのが本当だと思うんだがね。もし百姓がいなかったら……」
「いいか、よく聞くんだぞ。もしおまえがそうしてしゃべっているのと同じだけの時間を働いていれば、いまごろ、運が悪かったのどうのとしゃべる必要はなかったろうよ。おまえのところは厩舎さえ汚ないじゃないか。そうだな……その雄馬にならいくらつける?」
「バックか? いやあ、バックは絶対に売らねえよ。だがこういうのはどうだい、銀行家《バンカー》。おまえさん、口は悪いが心のやさしい人間だ。そしておまえさんが、おれの子供たちにひもじい思いをさせるようなことはしねえってわかってる。そしてバックは貴重な財産だ。だからおれが思うに、こいつは担保として、だいたい……そうだな、だいたい、そう……」
「クライド、おまえが子供たちにしてやれる最善のことといったら、自分の喉をかっ切ることだよ。そうなれば、みんなが子供たちを養子にするだろう。貸付けはしない。クライド……一ドルも、十セント硬貨一枚だって貸さんからな。だがバックはおれ個人が買おう、たったいまだ。値段をつけろ」
リーマーはごくりと唾をのみこみ、ためらった。
「二万五千」
ギボンズは町へむかって歩きはじめた。リーマーは急いでいった。
「二万!」
銀行家は答えなかった。
リーマーは騾馬の手綱をあやつってギボンズの前へぐるりとまわり、立ちどまった。
「銀行家《バンカー》、おまえさんにはかなわねえ。一万八千でくれてやらあ」
「リーマー、おまえからふんだくる気はないよ。バックを競売にかけるんだな。そうすれば、おれが入札するかもしれんし、しないかもしれん。バックは競売でいくらの値がつくと思うね?」
「あああ……一万五千」
「そう思うか? おれはそう思わんな。おれはかれの歯を見なくとも、かれがどれぐらいの年齢なのか知っているし、おまえが宇宙船をおりてから、かれにいくら支払ったかも知ってるんだ。おれはこのへんの連中がどれぐらいのものを買えるのか、そしていくら支払うか、ちゃんと知っている。だが、好きなようにやれ。かれはおまえのものだからな。これは頭に入れておけよ、もしおまえが最低の付け値を決めてしまえば、かれが売れなくても競売人に十パーセント支払う義務があるんだぞ。だがおれの知ったことじゃないさ、クライド。さあ、おれの前からどいてくれ。おれはこの子を町へ連れていって寝かせてやりたいんでな? この子はたいへんな目にあったところなんだ」
「ああ……あんたならいくら払ってくれる?」
「一万二千だ」
「おい、そりゃひどすぎるぜ!」
「おまえがいやなら売らなくてもいいんだ。かりに競売で一万五千の値がついたとすると……おまえの望みどおりにな。おまたの取り分は一万三千五百だ。だが競売でたった一万にしかならなかったとすると……おれはそのほうがありそうだと思う……その場合、おまえの取り分は九千だぞ。あばよ、クライド。おれは急いでるんでな」
「ようし……一万三千でどうだ?」
「クライド、おれは最高の値段をつけたんだぜ。これまでのつきあいでわかってるだろう、おれがこれ以上出せないといったら、本当に出さないということは。だが……その鞍と馬勒《ばろく》をつけて、ひとつだけ質問に答えたら、おれはそれに五百ドルのせてやろう」
「その質問てのは?」
「おまえは、なんでまた移民なんかしたんだ?」
リーマーはびっくりした表情になり、ついで面白くもなさそうに笑い出した。
「本当のところを知りたいなら教えてやるぜ、頭がいかれてたからよ」
「おれたちはみなそうだったはずだぞ。それじゃあ答とはいえんな、クライド」
「ああ……おれの親父は銀行家《バンカー》でな……おまえそっくりの頑固爺《がんこじじい》だったよ! おれはちゃんとやっていたんだ、れっきとした、尊敬に値する仕事をな。大学の教師さ。だが、給料はよくなかったし、ちょっと借金がたまるたびに親父はねちねちした態度をとりやがった。うるさく詮索し、嫌味をいうんだ。とうとうおれはそれにうんざりして、イヴォンヌといっしょに〈アンディ・J〉に乗るから、その料金を支払ってくれる気はないかと尋ねた。移民だ。おれたちを厄介払いできるってわけさ。
驚いたことに親父は承知した。だが、おれは自分の言葉を取り消さなかった。おれにはわかってたんだ、おれみたいにりっぱな教育を受けた人間なら、どこへ行ってもやっていけるとね……どこか未開の惑星におろされるなんてことは考えもしなかった。おれたちは二番目の移民団だったんだ、あんたもおぼえているだろう。
あいにく、おろされたのが未開の惑星だったので、おれは紳士なら手を出すべきじゃないことをしなければいけなかった。だが、待ってくれよ、銀行家《バンカー》。このあたりの子供たちは、どんどん大きくなっている。そして、いまにもっと進んだ教育のための場所ができるだろう。ミセス・メイベリーが自分とこのいわゆる学校で教えているような、つまらねえもんじゃなくてだぜ。そここそ、おれの働く場所さ……あんたはいつかおれのことを教授≠ニ呼ぶだろう。そして丁寧に話しかけるんだ。いまに見てろ」
「幸運を祈るよ。おれの申し出を受けるつもりはあるのか? 一万二千五百の手取り、馬勒《ばろく》と鞍つきだ」
「ああ……さっき承知したといわなかったか?」
「いわなかった。まだいってないぞ」
「承知したよ」
幼い少女は、おとなしくふたりの会話に耳を傾けていた。まじめな顔をしている。ギボンズは彼女にいった。
「しばらく立っていられるかい?」
「ええ」
かれは少女を地面におろした。彼女はふるえて、かれのキルトにしがみついた。ギボンズは|下げ袋《スポーラン》に手をつっこむと、バックの幅広い尻を机がわりにして、小切手と売渡し証を書いた。かれはそれらをリーマーに手渡した。
「これを銀行のヒルダのところへ持ってゆけ。売渡し証にサインしておれによこせ」
リーマーは黙って署名すると、小切手を見つめ、それをポケットへ入れてから、売渡し証をかえした。
「ありがとよ、銀行家《バンカー》……くたばりそこないの守銭奴め。どこでこいつを渡したらいい?」
「もう渡してもらったよ。おりろ」
「え? おれはどうやって銀行へ行くんだ? どうやって家へ帰りゃいいんだい?」
「歩くんだな」
「なんだと? そうか、どこまでずるがしこい手を使うんだ! 騾馬と現金とはひきかえだ。銀行でな」
「リーマー、おれがこの騾馬に最高の値をつけたのは、いまここで必要だからだ。だがどうやらこの取引きはご破算だな。オーケイ、小切手をかえせ。これがおまえの売渡し証だ」
リーマーはぎょっとした。
「いや、だめだ。それはないぜ! あんたは取引きしたんだからな」
「それなら、さっさとおれの騾馬からおりろ」──ギボンズは何げない仕草で、だれもが身につけている万能ナイフの柄に手をおいた──「それから、急いで町へ行くんだ。そうすればヒルダが銀行をしめないうちに着けるだろう。さあ、おりろ」
かれの目は、冷たく無表情にリーマーの目を見つめた。
「あんたにゃ冗談てものがわからねえのか?」
リーマーはぶつぶついいながら騾馬から飛びおりた。かれは町へむかい、かなりの速度で歩きはじめた。
「おい、クライド!」
リーマーは足をとめた。
「こんどはどうしろっていうんだ?」
「志願消防隊がこちらへやってくるのを見かけたら、そいつらにもう手遅れだといってくれ。ハーパーの家は燃え落ちてしまったとな。だがマッカーシイにいうんだ、様子を調べるのにふたりほどやってみるといいだろうってな」
「わかった、わかった!」
「それから、クライド……おまえ、何を教えていたんだ?」
「教えていたもの? おれは小説作法を教えていたんだ。おれはりっぱな教育を受けたといったろうが」
「そうだったな。急いだほうがいいぞ。ヒルダはさっさとしめちまうからな。彼女はミセス・メイベリーの学校へ、子供をむかえに行かなきゃいけないんだ」
ギボンズはリーマーの返事を無視して、少女を抱きあげながら話しかけた。
「じっとしてろよ、バック。動かないでくれ、じいさん」かれは子供を高く持ちあげると、騾馬の両肩胛骨間隆起にやさしくまたがらせた。「たてがみにつかまるんだよ」かれは左の鐙《あぶみ》に足をかけると、彼女のうしろにひょいとまたがり鞍に腰をおろすと、それから彼女をふたたび持ちあげ、自分の膝のあいだで、ちょうど鞍頭のうしろという位置に彼女を坐らせた。「そこにしっかりつかまりなさい。両手でね。大丈夫かい?」
「おもしろいわ!」
「すごくおもしろいだろ、ベイビイ・ガール。バック、用意はいいかい?」
騾馬はうなずいた。
「歩け。町へむかって歩くんだ。ゆっくりとだぞ。静かにな。足をつまずかせるなよ。わかるか? ぼくは手綱を使わないからな」
「ゆくり……ありゅーく!」
「いいぞ、バック」
ギボンズは手綱の結び目を取ると、バックの頸にたらし──両膝で騾馬をはさんで出発させた。バックは町にむかって、のんびりと歩きだした。
何分かたつと、少女はまじめな声で尋ねた。
「ママとパパはどうしたの?」
「ママとパパも大丈夫だよ。ふたりとも、──ぼくがきみの面倒を見ていることを知っているんだから。きみの名前はなんというんだい?」
「ドーラっていうの」
「いい名前だね、ドーラ。かわいい名前だ。ぼくの名前を知りたくないかい?」
「あのひとがバンカーっていってたわ」
「それは名前じゃないんだ、ドーラ。ぼくが、ときどきする仕事の名前なんだよ。ぼくの名前は……ギビーおじさんさ。いえるかな?」
「ギビーおじさん。おもしろいなまえね」
「そうとも、ドーラ。そして、ぼくたちが乗っているのはバックだ。かれはぼくの友達だし、きつときみの友達にもなってくれるよ、いますぐね……だからバックに、こんにちはっていってごらん」
「こんにちは、バック」
「こんにちはぁ……ジョーラア!」
「ねえ、バックってほかのらばより、ずっとはっきりおはなしするのね! ちがう?」
「バックは、ニュー・ビギニングズでいちばんいい騾馬なんだよ、ドーラ。そして、いちばん利口なんだ。ぼくたちが馬勒を取ってしまったら……バックの口にはみを入れておく必要はないからね……そうしたらかれは、もっとはっきりしゃべれるだろうし……きみはかれに、もっとたくさん言葉を教えられるよ。やりたいかい?」
「ええ、もちろん! ママがいいって、いったらだけど」
「ママのことは大丈夫さ。歌は好きかい、ドーラ?」
「ええ、だいすきよ! 手をたたいてうたうのを知ってるんだけど、でもいまは、手をたたいちゃだめでしょ?」
「いまはしっかりつかまっていたほうがいいと思うな」ギボンズはすばやく頭の中で、陽気な歌の索引をひっくりかえし、若い淑女にはふさわしくない露骨なやつを一ダースほどはねのけた。
「こういうのはどうだい?」
質屋が一軒
町角に
ぼくのオーバー、いつもそこ
「歌えるかい、ドーラ?」
「ええ、そんなのかんたんよ!」あどけない少女はかん高い声で歌い、ギボンズはカナリアを思い出した。「それでぜんぶなの、ギビーおじさん? それに、ひちやってなんなの?」
「オーバーを、いらないときにあずけるところさ。まだたくさんあるんだよ、ドーラ。何千もね」
「なんぜんもって……まあ、それ、百とおなじぐらいたくさんでしょ?」
「だいたいね、ドーラ。別の歌詞はこうだよ」
交易所が一軒
質屋のとなり
ぼくの妹がキャンディー売ってる
「キャンディーは好きかい、ドーラ?」
「だいすき! でもママが、たかすぎるって」
「来年になれば、そんなに高くなくなるよ、ドーラ。砂糖大根がもっとたくさんできるだろうからね。でも……口をあけて、目をつぶってごらん。そうすれば、びっくりするものをあげるよ!」かれはシャツのポケットを手探ぐりし、それからいった。「いや、ごめんよ、ドーラ。交易所に着くまで、びっくりするものはおあずけだ。バックに最後の一個をやってしまったんでね。バックもキャンディーが好きなんだよ」
「ほんとう?」
「ああ、きみに教えてあげようね、うっかり指をなくさずに、どうやってかれにキャンディーをやるかを。だがキャンディーは、かれにあまりよくないんでね、特別のときだけもらえるんだよ。いい子でいたときにね。オーケイ、バック?」
「オーゲイ……ボース!」
ギボンズが正面の入口の前でバックを立ちどまらせたとき、メイベリー夫人の学校はちょうど終ったところだった。ドーラを鞍からおろすと、彼女はひどく疲れているようだったので、かれはまた少女を抱きあげた。
「待っててくれ、バック」
生徒たちの中にはふたりをじろじろ見る者もいたが、道をあけてかれを通した。
「こんにちは、ミセス・メイベリー」
ギボンズがここへ来たのは、ほとんど本能的なものだった。この女校長は灰色の髪をした未亡人で、五十歳かそこら、ふたりの良人に先立たれ、三人目の良人を見つけるというとぼしい機会に賢明に対処しており、自分の娘、養女、義理の娘のひとりと暮らすよりも、むしろ自活するほうを好んでいた。彼女は、人生における愛情のこもった喜びへの熱狂をアーネスト・ギボンズと分かつひとりだったが、それについてはかれと同じくらい慎重に気をくばっていた。かれは、彼女があらゆる面で良識を持っていると考えていた──結婚相手として一番の候補者だが、あいにく不運なことに、かれらは異なった時間の速度にしたがって生きているのだ。
かれが彼女にその事実を教えたわけではない。かれらがふたりとも最初の移民船で到着したとき、かれがファミリーの人間であることはだれにも知られていなかったし、かれはセカンダスで若返り処置を受けるとすぐ地球にもどって移民団を組織したのだが、そのとき年齢をほぼ三十五歳に見えるように化粧していた。その時点から、かれは注意深く年ごとに年齢を加えていった。ヘレン・メイベリーはかれを同年齢の人間と考え、かれの友情にお返しをし、かれを所有しようとすることなく、ときに応じてかれと大人の快楽を分かちあうのだった。かれは彼女を非常に尊敬していた。
「こんにちは、ミスタ・ギボンズ。まあ、ドーラじゃないの! あなたに会えなくて淋しかったわ。でもいったい何があったの! それに……これは打ち身?」
彼女は丁寧に傷をしらべ、少女がひどく汚れていることについては何もいわなかった。
彼女は体をおこした。
「ただの汚れみたいね。彼女に会えて嬉しいわ。今朝、パーキンソン家の子供たちといっしょに姿を見せなかったので、すこし心配していたの。そろそろマージョリー・ブランドンがお産をするころだから……たぶん、あなたもご存じでしょう?」
「うすうすとね。しばらくドーラを寝かせられる場所はないかな? 大切な相談があるんだ。ふたりだけで」
メイベリー夫人の目はわずかに大きくなった。だが彼女はすぐに答えた。
「長椅子に……いいえ、わたしのベッドに寝かせましょう」
彼女は寝室へ案内し、ベッドの白い上掛けが汚れるのに何もいわず、かれがドーラに二、三分いなくなるだけだからねと約束すると、かれとともに教室へもどった。
ギボンズは何がおこったかを説明した。
「ドーラは両親が死んだことを知らないんだ、ヘレン……そしてぼくは、まだ彼女に教えてはいけないと思うんだが」
メイベリー夫人はじっと考えこんだ。
「アーネスト、ふたりとも死んだことはたしかなの? もしバッドが自分の畑で働いていたのなら火事に気づいたでしょうけど、でもかれはときどきミスタ・パーキンソンのところで働いているのよ」
「ヘレン、ぼくが見たのは女の手じゃなかった。マージョリー・ブランドンの手の甲に、黒い毛がいっぱい生えているのじゃないかぎりはね」
彼女は溜息をついた。
「いいえ、それはバッドでしょうね……そうなると、あの子は孤児だわ。かわいそうなドーラーいい子なのに。頭もいいのよ」
「ヘレン、二、三日彼女の面倒を見てくれるかい? 頼んでいいかな?」
「アーネスト、あなたにそんなふうにいわれると、腹を立てるわよ。わたしが必要なあいだだけ、いつまででもドーラの面倒を見ますからね」
「悪かった。きみを怒らすようないいかたをするつもりはなかったんだ。長くはならないと思うよ。どこかの家族が彼女を養子にするだろう。そのあいだの費用を記録しておいてくれないか、そうすれば彼女の部屋と食事にいくらかかったか計算するから」
「アーネスト、それはきっちりゼロになるはずよ。お金がかかるといっても、小鳥に食べさせる餌代ぐらいしかかからないわ。そのくらい、マージョリー・ブランドンの小さな娘のために、わたし間違いなくしてあげられます」
「そうかい? とにかく、彼女を養ってくれる家を見つけられるはずだ。あのリーマーのところでもいいし、だれかにあずけられるさ」
「アーネスト!」
「落ち着きたまえ、ヘレン。あの子はぼくの手にゆだねられた。あの子の父親が死ぬまぎわにやった行為だよ。それに馬鹿なことはいわないで。きみが銅貨一枚にいたるまで、どれほど節約しているかぼくは知っているんだ。同様に、どれほどしばしばきみが現金よりも食物で授業料を受け取っているかもね。これは現金取引きだよ。リーマーの家族なら、これに飛びついてくるだろう……ほかにも心あたりはある。ドーラをここへ残していかなくちゃあいけないことはないし……きみが分別を持ってくれないかぎり、そうするつもりもないね」
メイベリー夫人はこわい顔をしたが──それからとつぜん微笑すると、何歳も若くなった表情になった。
「アーネスト、あなたって意地悪ね。それに本当にいやなやつだわ。ほかにもあるけれど、ベッドの外ではやめておきましょ。わかりました……賄いつき下宿ということにしましょう」
「授業料も払うよ。それに特別経費はなんでもだ。医者の請求書だとかもね」
「三倍いやなやつだわ。あなたって、いつでも自分が手に入れるものに対してお金を払うんでしょ、違って? 知っておくべきだったわね」彼女は鎧戸のおりていない窓にちらりと目を走らせた。「ここから廊下に出て、キスで、調印してちょうだい。意地悪さん」
かれらはその場を離れ、だれからも見られない位置に立った。彼女は隣り近所の連中が仰天しそうなものすごいキスをしてきた。
「ヘレン……」
彼女は唇を軽くかれの唇にふれた。
「その答はノーよ、ギボンズさん。今夜はおちびさんをあやすので忙しくなりそうだから」
「ぼくはこういおうとしていたんだよ……ぼくがクラウスマイヤー先生をつかまえて、あの子の診察をしてもらうまでは、きみがやるつもりでいることはわかっているが、彼女を風呂に入れないこと……ってね。あの子はなんともないように見えるが……あばら骨が折れているとか脳震盪をおこしているとか、何かあるかもしれない。ああ、服をぬがせて、あまり汚れているところは軽くスポンジで洗ってやってくれ。それぐらいなら害はないし、ドックもそのほうが診察しやすくなるだろうからね」
「ええ、わかったわ。あなたのいやらしいその手を、わたしのお尻からどけてちょうだい。そうしてくれたら、わたしは仕事に取りかかるわ。ドックを見つけてきて」
「はいはい、ミセス・メイベリー」
「ではまた、ミスタ・ギボンズ。|ごきげんよう《オルボワール》」
ギボンズはバックに待っていてくれというと、〈ウォルドーフ〉へ歩いてゆき、思ったとおりクラウスマイヤー医師が酒場にいるのを見つけた。医者は酒から顔をあげた。
「アーネスト! ハーパー家のことを耳にしたが、いったい何があったんだね?」
「そうですね、あなたはどういうことを聞いてます? そのグラスをおろして、カバンを持ってください。急患ですよ」
「まあ、まあ! 一杯の酒を飲みおえる時間もないほどの急患など見たことがないぞ。クライド・リーマーがいまさっき入ってきて、わしらに酒をおごってくれたんだ……おまえさんがわしにやめろといったこの酒がそうだよ……そして、ハーパーの家が火事をおこして、家族がみな死んじまったといったのさ。やつはかれらを助け出そうとしたんだが、手遅れだったそうだ」
ギボンズは一瞬、クライド・リーマーとクラウスマイヤー医師のふたりとも、いつか月の出ていない夜に致命的な事故にあえばいいと考えた──だがいまいましいことに、クライドがいなくなっても困ることはないが、もしドックが死んでしまうと、ギボンズ自身が開業しなければいけなくなってしまう──そしてかれの医師免許証にアーネスト・ギボンズ≠フ名は記されていないのだ。それに、素面《しらふ》のときのドックはいい医者だった──とにかく、これはおまえの過ちなんだぞ、じいさん。二十年前おまえはかれと面談して、補助金をオーケイした。そのときおまえの目の前にいたのは、溌刺《はつらつ》とした若い医学実習生で、飲んだくれになるなどとは思いもよらなかったのだ。
「あなたがいわれたからいうんですがね、ドック。ぼくはクライドがハーパーの家へむかって急いでいるところを、たしかに見ました。もしかれが、あそこの一家を助け出すには手遅れだったというなら、ぼくもその話を支持しなければいけなくなりますが。でも、家族全員が死んだわけじゃあないんです。娘のドーラは、助かったんですよ」
「そうか、ああクライドもそういっていた。かれが助けられなかったのは、両親だったとね」
「そのとおりです。あなたに見ていただきたいのは、その少女なんですよ。すり傷だの打ち身だのがあちこちにあって、もしかしたら骨を折っているかもしれないし、内臓をやられているかもしれない。それに、煙をだいぶ吸いこんでいますしね……情緒的にたいへんなショックを受けていることはたしかだ……あの年頃の子供にはきわめて深刻です。通りのむこうにある、ミセス・メイベリーの家にいますから」かれは穏やかにつけ加えた。「急がないといけないんじゃありませんか、ドクター。ぼくはそう思いますがね。どうです?」
クラウスマイヤー医師は悲しそうに自分の酒を見つめ、それから体をおこした。
「|ご主人《マイネ・ホスト》、すまんがこいつをバーのうしろにおいといてくださらんか。わしはもどってきますからな」
かれはカバンを持ちあげた。
クラウスマイヤー医師は子供になんの異常もないことを認めると、彼女に鎮静剤を与えた。ギボンズはドーラが眠りこむのを待ち、それから自分の騾馬がとりあえず住むところを用意しに行った。ジョーンズ兄弟社(優良種あり──騾馬の売買、交換、競売いたします──登録種馬のご用命はこちらへ)へ行ったのは、かれの銀行がそこの地所を抵当に取っていたからだった。
ミネルヴァ、これはべつに計画したわけじゃないんだよ。ひとりでにそうなってしまったんだ。ぼくはドーラが、どこかの家の養子になるものと思っていた。数日か、数週聞か、そのくらいのうちにはね。開拓者の子供に対する考えかたは、都会の人間とは違う。もし子供が好きでなかったら、かれらは開拓者むきの気質ではないということになる。そして、開拓者の子供たちが赤ん坊でなくなるやいなや、投資は報われはじめるんだ。子供というのは、開拓者の国では財産なんだ。
ぼくはたしかに短命人種を育てようとなど思っていなかったし、またそれが必要になるだろうと、恐れてもいなかった──その時点でも必要なかったしね。ぼくは自分の事業を整理しはじめていた。じきに立ち去るつもりでね。息子のザッカーが、いつ姿を現わすかわからなかったからだ。
ザックはそのころぼくの共同経営者であり、おたがいの信頼にもとづく大まかな申し合わせでやっていた。かれは若くて、百五十歳かそこらだったろう。だがしっかりしていて、頭もよかった──最後から三度前の結婚相手だったフィリス・ブリッグズ・スパーリングとのあいだにできた子供さ。りっぱな女性だったよ、フィリスは。数学者としても一流だったしね。ぼくらはふたりで七人の子供を作り、どの子もぼくより頭がよかった。彼女は何回か結婚しており──ぼくは四人|目《*》の良人だったんだ──ぼくの記憶では、ファミリーに百人の登録された子供を提供した功績により、アイラ・ハワード記念百人勲章をもらった最初の女性だったはずだ。ほぼ二世紀のあいだ彼女と結婚していたが、フィリスは単純な趣味の女でね。あとやることといえば、鉛筆と紙を持って幾何学に頭を使うことだった。
[#ここから4字下げ]
*五人目だ。ジェイムズ・マシュウ・リビイが四人目の良人だった。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]J・F四十五世
話がそれてしまったな。開拓事業をやって利益をあげるためには、最低限、適当な船が一隻とふたりの共同経営者が必要だ。そのふたりとも船長で、移民団を組織し、統率する能力がなければならない──さもないときみは、都会の人間を宇宙船いっぱいにつみこみ、そして荒野にかれらを捨てることになる──〈大離散〉の初期には、しばしばおこったことだ。
ザックとぼくのやりかたはまともだった。どちらも宇宙船船長の完全な資格を持ち、処女惑星における指導者としても欠けるところはなかった──交替してやっていたんだ。宇宙船が去ったあとにとどまるほうが、実際に開拓者の仕事をする。ごまかすことはできないし、指揮棒をふるだけですむなんてことはありえない。そいつは植民地の政治的指導者にはならないかもしれない──ぼくはそんなものになりたくなかった。おしゃべりはたいへんな時間の浪費だからね。かれがならなければいけないのは、生きのびる人間、その惑星からむりやり食料を取りたてることのできる人間、そして自分を手本としてほかの人々にその方法を示し──そして望まれれば教えるととのできる人間だ。
最初の移民は損得なしだ。船長は荷をおろし、さらに移民を運ぶためもどってゆく。その惑星から何か輸出できるようになるのは、まださきのことだ。その旅は、移住者が支払う料金でやっと採算がとれる。利益がもしいくらかでもあるとすれば、それは、地上におりた相棒が船につんできた物資を開拓者に売って儲ける金だ──騾馬、金物類、豚、鶏の受精卵などを──最初は信用貸しで売るのさ。つまり、地上の相棒は鋭く目を光らせ、背後に気をつけなければいけないということだ。苛酷な生活を送っている移民たちに、この男は暴利をむさぼっているから私刑《リンチ》にすべきだと信じこませるのは容易だからだ。
ミネルヴァ、六回ぼくはこれをしたんだ──植民惑星へ最初に入植した連中とともに、その地に残ることをだ──手近に武器をおかずに畑を耕したことは一度もなかったし、その惑星のどれほど危険な動物に対するよりも、自分の種族に対して、つねに神経を使ってきた。
だがニュー・ビギニングズでは、そういう危険の大部分は過去のものだった。最初の入植者たちが成功を確実なものとしたのだ。もっとも、あの恐ろしい最初の冬は危ないところで切り抜けたのだったが──ヘレン・メイベリーが、やもめと結婚したあと未亡人となったただひとりの例というわけではなかった。アンディ・リビイとぼくが予想もしていなかった気候サイクルの結果なんだ。そこの恒星は──いつものように太陽≠ニ呼ばれたが、きみなら記憶からカタログにある名称を調べられるだろう──ニュー・ビギニングズの太陽は、なつかしのソルと同程度の、異常気象をもたらすには充分な変光星で──そしてぼくらが到着したときが、たまたま悪天候のまっ最中だったのさ。
だがその冬を耐え抜いた連中は、どんなことにぶつかってもへこたれないほどたくましかった。第二波としてやってきた移住者たちは、はるかに楽だった。
ぼくは第二波の移民に自分の農場を売り払い、ザックが第三波の移民をおろしたあと〈アンディ・J〉に積んでかえるための物資を集めるため、事業と交易に専念した──ぼくも帰るつもりだったんだ。つまり、どこかへ行くということだ。何を、どこで、どうやって、はザックと会ったあとで決めればいいってわけだ。
それまでのぼくは、惑星上の仕事を清算する準備を進めながら退屈しているところだったが、この孤児がおもしろい気晴らしになるとわかった。
嬉しいことに、というべきだろうな。ドーラは、大人として生まれた赤ん坊だったんだ。まったく無邪気で、無知で、いかにも幼い子供らしく、だが非常に頭はよくて、喜んでどんなことでも学んだ。彼女には不愉快なところがまるでなかったんだ、ミネルヴァ。そしてぼくは、彼女の天真爛漫な会話が、たいていの大人のおしゃべりより楽しいことを知った──大人のおしゃべりはふつう、くだらないだけだし、新しいことなどめったにないもんだ。
ヘレン・メイベリーもドーラに同じような関心を示し、ぼくらはいつのまにか、自分たちが養父母となっていることに気づいた。
ぼくらはたがいに相談して、少女を埋葬式に出さなかった──いくつかの焼け焦げた骨の中には、ついに生まれることのなかった赤ん坊の小さな骨も混じっていた──そして、彼女を追悼ミサにも出さなかった。何週間かたってから、ドーラが元気そうなとき、ぼくは墓石に文字を刻ませ、墓地に立てたあと、彼女をそこへ連れていった。ドーラは文字を読むことができ、それを読んだ──彼女の両親の名前と、誕生と死亡の日付、それに赤ん坊の、ひとつしかない日付を。
彼女は真剣な表情でそれを眺め、ついでいった。
「つまり、ママとパパはもうかえってこないってことね。そうでしょう?」
「そうだよ、ドーラ」
「学校でほかの子がいってたこと、それなのね。あたし、なんのことなのか、よくわからなかったの」
「ああ。ヘレンおばさんがぼくに教えてくれた。だから、きみが自分の目で見たほうがいいと思りてね」
彼女はふたたび墓石を眺めると、落ち着いていった。
「わかったわ。わかったと思うわ。ありがとう、ギビーおじさん」
ドーラは泣かなかったから、ぼくには彼女を抱きあげてなぐさめるための口実が何もなかった。やっと思いついた言葉はこうだった。
「もう帰ろうか?」
「ええ」
ぼくらはバックに乗って出かけてきたのだが、かれを丘の麓に持たせていた。騾馬、あるいは飼いならされたローパーには墓地を歩かせないという不文律があったのだ。ぼくは彼女に、抱いてほしくないかと尋ねた──そう、肩車なんかどうだい? 彼女は歩くことに決めた。
丘を中ほどまでおりたところで、彼女は足をとめた。
「ねえ、ギビーおじさん?」
「なんだい、ドーラ?」
「バックにこのことを話すのは、やめておきましょうよ」
「いいとも、ドーラ」
「かれ、泣くかもしれないもの」
「ぼくらは話さないさ、ドーラ」
メイベリー夫人の学校にもどるまで、彼女はもう口をきかなかった。それから約二週間というもの彼女はひどくおとなしくて、二度とぼくにそのことはいわなかったし──ぼくが思うに、ほかのだれにもいわなかった。彼女は墓地にも決してもどりたがらなかった。ぼくらはほとんど毎日のように午後の時間をバックに乗ってすごし、しばしば墓地のある丘が見える場所を通ったにもかかわらずである。
ほぼ二地球年後に、〈アンディ・J〉が到着し、ザック船長、つまりぼくとフィリスとのあいだにできた息子は、第三彼の移民団を上陸させる手続きをするために小型艇でおりてきた。酒をともに飲んだときぼくは、もう一度かれが往復して帰ってくるまでここにとどまるといった。そして理由も教えた。かれはあっけにとられていった。
「ラザルス、頭がおかしいんじゃありませんか」
静かにぼくはいった。
「ぼくをラザルスなどと呼ぶんじゃない。その名前は知られすぎているからな」
かれはいった。
「わかりました。でもここには女主人《ホステス》が……ミセス・メイベリーでしたね……ひとりいるだけだし、しかも彼女は台所に行ってるんですよ。いいですか、えーと、ギボンズ、ぼくはセカンダスへ二度ほど飛ぼうと考えていたんです。儲かるのはもちろんだし、セカンダスでぼくらの儲けを投資しようと思うんです……いまでは地球に投資するより安全ですよ。なにしろあの状況ではね」
ぼくは、ほぼかれのいうとおりだということを認めた。
かれはいった。
「ええ……でも、ここが肝心なところなんです。もしぼくがそうすれば、ここへもどってくるのは、そう、銀河標準暦でおそらく十年は先のことになるでしょう。あるいはもっと先になるかもしれない。ええ、あなたがどうしてもとおっしゃるなら、ぼくはそうしますよ。あなたは大株主ですからね。しかしあなたはご自分の金を、それにぼくの金も、むだに使いつづけられるわけだ。お聞きなさい、ラザ……アーネスト、もしあなたがその子供の世話をしなければならないのなら……もっとも、ぼくにはそれがあなたの責任とは思えませんがね……彼女をつれて、ぼくといっしょに行きましょう。その子を地球の学校へ入れられるでしょう……その子が地球へ向かうことの保証に金を積みさえすればね。さもなければ、彼女はセカンダスに住みつくことができるかもしれません。いま、あそこの移民法がどうなっているかわかりませんが。あそこには長いこと行っていないもんで」
ぼくは首をふった。
「十年がどうだっていうんだ? ぼくはそれくらい息をとめていられるぜ。ザック、ぼくはこの子供が成長し、自分で生きていけるようになるのを見たいんだ……結婚してくれればいいと思うが、それは彼女自身の決めるべきことだ。だがぼくは、あの子を生まれ故郷から引き離すつもりなどない。彼女はすでにそれと同じ種類のショックを受けているし、まだ子供のうちにそれに追討ちをかけるようなことは、すべきじゃないと思うんだ」
「どんなことになっても知りませんよ。十年後にもどってくるってことでいいんですか? それで充分ですか?」
「まあね。しかし、あわてるなよ。ゆっくり時間をかけて、利益をあげるんだ。それが長くかかるほど、このつぎにはもっといい積荷をここで集められるぞ。食べ物や非耐久消費財よりいいものをな」
ザックはいった。
「近頃では、地球へ運ぶのに食料ほどいいものはありませんよ。あとしばらくしたらわれわれは、地球との接触をやめなければいけなくなるでしょう。交易は植民地のあいだだけでおこなうんです」
「そんなにひどいのか?」
「かなりのもんです。かれらが自覚することはないでしょうよ。あなたの銀行についての、その面倒っていうのは何なんです? 〈アンディ・J〉が上空にいるあいだに、すこしおどかしてやりましょうか?」
ぼくは首をふった。
「ありがとう、船長、だがそうしてもらっても解決にはなるまい。おまえといっしょに行かなければいけなくなるだけのことかもしれん。暴力とは、ほかに何も役に立つことがなく、それを使うことが本当に重要であるときの防御手段だ。でもぼくはそのかわりに、かれらを相手にのろのろやってゆくつもりだ」
アーネスト・ギボンズは、自分の銀行のことを心配などしていなかった。かれは、生きるか死ぬかの問題より重要でないものなど、どんなことでもまったく心配しなかった。そのかわりにかれは、大きかろうと小さかろうといかなる問題でも、頭脳をそれにあわせて働かせ、人生を楽しむのだ。
特にかれが楽しんだのは、ドーラを育てるのを手伝うことだった。彼女と騾馬のバックを手に入れると──あるいは、かれらがかれを手に入れると、かな──すぐにかれは、リーマーが使っていた残酷な大|轡《くつわ》を取り除き(金属を回収し)、ジョーンズ兄弟社の馬具職人に単環の手綱用にと馬勒を変えさせた。かれはまた鞍をひとつ注文し、望みの形を絵に書くと、早く作ってくれるよう特別料金を渡した。職人はその絵を見て首をふったが、それでも作りあげた。
それ以後、ギボンズと幼いドーラは、二人用の鞍でバックに乗ることができた。通常の位置におかれた大人用サイズの鞍に、その一部として小さな鐙《あぶみ》のついた小さな鞍がついている。ふつうの鞍なら鞍頭のある前の位置にだ。皮でおおわれた小さな木製のアーチがそこから湾曲してつき出し、子供がつかめる安全な手すりになっていた。ギボンズはまたこの延長された鞍に腹帯を二本つけさせ、騾馬にも楽になり、けわしい道を行くとき乗っている人間がもっと安全になるようにした。
ふたりはその方法で何シーズンか遠乗りに出かけた。ふつうは学校が終ってからの一時間かそこらを──歩きながら二人と一頭でおしゃべりしたり、歌ったりするのだった。かれらの中でバックの大声は調子はずれだったけれど、かれの足取りがメトロノームがわりになるので、つねにリズムは正しかったし、ギボンズがリードを歌うと、ドーラは和声をつけることをおぼえはじめた。よく歌われたのはあのひちや≠フ歌で、ドーラはそれを自分の歌だと考え、しだいに歌詞をつけ加えていった。その中には、学校の隣りの馬小屋を歌ったものもあり、そこにはバックが住んでいるのだった。
しかしまもなく、前部の鞍は少女にとって小さすぎるようになった。ドーラはどんどん成長をつづけ、まっすぐほっそりと背ものびていったからだ。ギボンズは雌の騾馬を一頭買った。ほかに二頭をためしたあとでだ──一頭はぱーか≠セからというのでバックにはねつけられ、もう一頭は手綱に我慢できなくて逃げ出そうとしたからだ。
ギボンズはバックに三頭めを選ばせた。ドーラは意見を出したが、かれは一言も口出ししなかった──そしてバックは自分の馬場に連れ合いをむかえ、ギボンズは馬小屋を大きくさせた。バックはあいかわらず種馬として料金を取っていたが、しかし家にビューラーがいるのは嬉しそうだった。ところが、ビューラーは歌うことをおぼえなかったし、口数が実に少なかった。ギボンズは、彼女がバックのいる前で口をひらくのを恐れているのではないかと考えた──彼女は話そうとするし、少なくとも返事はしようとする。ギボンズが彼女に乗り、ひとりだけで出かけるときにはだ──驚いたことに、ビューラーが結局のところかれの乗馬になったのだ。ドーラは、大きな雄の騾馬に乗った。少女の両足にあわせて西部式鞍《ストック・サドル》の鐙をおかしな格好に短くしなければいけなかったときでさえ、だ。
そして、ドーラが若い娘らしく成長してゆくにつれ、鐙をどんどんのばしていかなければいけなかった。ビューラーは子馬を生んだ。ギボンズはその子馬を売らずに手もとにおき、ドーラはベティ≠ニ名前をつけ、育つにつれて訓練した。まず最初は鞍だけのせてうしろから側対歩《アンブル》でついてこさせ、つぎには馬場で人を乗せることを教えたのだ。それからしばらくのあいだ、かれらの毎日の乗馬は、総勢六人の、しばしばピクニックのような騒ぎとなった。メイベリー夫人がいちばん落ち着いているバックに乗り、いちばん体重の軽い者──ドーラーがベティに、そしてギボンズはいつもビューラーに乗った。ギボンズはその夏をもっとも幸福な夏としておぼえている。ヘレンとかれはそれぞれ親の騾馬にまたがって轡《くつわ》をならべ、いっぽうドーラと快活な子供の騾馬とは、前方で飛びはねていたかと思うと、ドーラの長い茶色の髪をそよ風になびかせて駆けもどってきたりするのだった。
そうしたときに、かれは尋ねた。
「ヘレン、男の子たちがそろそろあの子を追いかけはじめているんじゃないのかい?」
「いやらしい人ね、ほかのことは考えられないの?」
「気どるのはやめたまえ。ぼくは質問しているんだよ」
「たしかに男の子たちはあの子に気づいているわ、アーネスト。それにあの子のほうでも男の子を意識しているわ。でもわたし、必要な心配はちゃんとするつもりよ。そう骨は折れないわ。あの子は好みがとってもうるさいから、本当に気に入った相手でなければ、自分を安売りしたりしないでしょう」
その幸福な家族ピクニックは、つぎの夏にはもうおこなわれなかった。メイベリー夫人はよる年波を骨身に感じ、騾馬の乗り降りに人手を借りなければいけなくなったからだ。
銀行事業をかれが独占していることについての不満の声が頂点に達するまでに、ギボンズには準備をととのえるための時間がたっぷりあった。ニュー・ビギニングズ商業銀行が問題の銀行だった。かれ(あるいはザッカー)はいつも、自分たちが開拓した植民地ごとにそうした銀行を建てていた。成長してゆく植民地には金《かね》が必要だった。物々交換は不便すぎる。政府が必要とされるより前に、なんらかの交換媒体がまず必要とされたのだった。
その問題について町の行政委員と会って話しあうよう招かれたとき、かれは驚かなかった。つねにおこることなのだ。その夜、かれは顎に生やしたヴァンダイク髭を刈りこみ、対決にそなえてそれと頭に白髪を加えながら、心の中で過去に耳にしたさまざまな提案を思い出していた。丘の麓から頂上へ水を流し、太陽の動きをとめ、一個の卵は二個に数えるべきだというようなものだ。今夜はそうした馬鹿げた提案でも、何か目新しいものが出てくるだろうか? かれは出てくるといいと思ったが、期待はしなかった。
かれは後退しつつある$カえぎわから髪をすこし抜いた──くそっ、年ごとにうまく老けるのがどんどん難しくなっている! それから戦争格子《ウォーブレアド》のキルトを身につけた。より印象的なだけでなく、もっと多くの武器を隠せる──そしてすばやく武器をつけた。かれが暴力を使いはじめることを心配している人間が、いまのところまだひとりもいないのは、ほぼたしかだった。しかしかつて一度、かれはあまりに楽観しすぎたことがあるのだ。そのとき以来、かれは方針を変えで悲観主義者となったのだ。
それからかれはいくつかの品物を隠し、ほかのものは鍵をかけてしまいこみ、ザッカーがこの前の旅で運んできたが、トップ・ダラー交易所ではまだ売りに出されていない機械装置を何個かセットした。そしてドアの錠をあけると、外から手で錠をかけ、バーテンに二、三分出てくる≠ニ声をかけられるように、酒場を通って出ていった。
三時間後に、ギボンズはひとつの点だけはっきりさせていた。だれも、通貨切下げのための新しい方法を思いつくことができなかったのだ。どの方法も、かれが少なくとも五百年前に耳にしたことのあるものばかりだった──千年前といったほうがいいかもしれない──そしてそのどれもが、さらに古い歴史を持っていることはたしかなのだ。会合がはじまるとすぐ、かれは|町の記録係《タウン・スクライバー》に質問をすべて書きとめさせるよう議長に要請した──そしてしぶとくねばり、そうすることを許された。
ついに、行政委員長のジムデューク<Eォーウィックがいった。
「どうやら、それしかないらしいな。アーニイ、おれたちは国有化の動議を出す……たしか、この言葉でいいんだったな……ニュー・ビギニングズ商業銀行をだ。あんたは行政委員じゃないが、おれたちは全員一致で、あんたが特別な利害関係を持つ当事者であることを認め、あんたの意見を聞きたいと思う。この提案に対して反論はあるかい?」
「いや、別にないね。先をつづけてくれ」
「え? すまんが、あんたの言葉がよく聞こえなかったようだ」
「ぼくは、銀行が国有化されることに異議はない。もし話がそれだけなら、休会にして寝ようじゃないか」
聴衆のひとりがさけんだ。
「おい、おれはニュー・ビッツバーグの金について質問がある。答えてくれ!」
「それにおれは利子のことを聞きたい! 利子を取るのはよくない……聖書にはそう書いてあるぞ!」
「どうだ、アーニイ? あんたはさっき、質問に答えるといったぞ」
「そのとおりだ。しかし、銀行を国有化するのなら、質問はきみたちの国家収人役にしたほうがいいんじゃないのか? いや、きみたちがその役をどう呼ぶことにしようとかまわないがね。銀行の新しい頭取だよ。ところで、だれがそれになるんだ? その人間は、この壇の上に坐ったほうがいいんじゃないのか?」
ウォーウィックは小槌をたたいてからいった。
「おれたちはそこまで決めていないんだ、アーニイ。当分のあいだ行政委員会がそのまま財政委員会を兼ねる……もしこの議案を実行すればだが」
「ああ、どうぞどうぞやりたまえ。ぼくはやめるから」
「どういうことだ?」
「いまいったとおりさ。ぼくは手を引く。人間というのは、隣り近所に嫌われるのをいやがるもんでね。トップ・ダラーの人々は、ぼくがこれまでやってきたことが気に入らないってわけだ。そうでなければ、この会議が招集されることは決してなかったろうからね。だからぼくはやめたんだよ。銀行は閉鎖した。明日も再開されない。とにかく、ぼくを頭取としてはもう二度と開かない。だからぼくは、だれが収入役になるか訊いたんだ。ぼくもみなさんと同じで、大いに興味があるね、これから先、何を金《かね》のかわりに使うことになるか知りたいもんだ……そして、それがどういう結果になるのかも」
死のような沈黙があたりを包んだ。それから議長は小槌をたたかなければいけなくなり、守衛は大忙しになった。だれもが口々にさけびだしたからだ。「おれが種子を買うための貸付けはどうなるんだ?」「おまえはおれに金を返す義務があるんだぞ!」「おれはハンク・ブロフスキイに、やつの個人小切手で騾馬を売ったんだ……いくら取りたてられる?」「おまえ、われわれにそんなことはできんはずだぞ!」
ギボンズは何もいわずに坐ったまま、自分が警戒していることを気づかれないようにしていた。やがてウォーウィックはみんなを黙らせると、額の汗をぬぐいながらいった。
「アーニイ、あんたには何か説明することがあると思うんだが」
「もちろんです、議長。清算は、あなたがたの気持しだいできちんとできるでしょう。預金のある人々には支払います……銀行券でね。それで預金がおこなわれたんだから。銀行に借金のある人々は……そう、ぼくにはわからないな。それは委員会が定める方針しだいだ。どうやらぼくは破産したらしい。ぼくにはわかりようがないな、ぼくの銀行を国有化するというのがどういう意味か教えてもらうまでは。
だがぼくは、つぎの処置をとらざるをえない。トップ・ダラー交易所では今後いっさい、銀行券での買取りはおこなわない……銀行券は無価値なのかもしれないからだ。各取引きは物々交換でなければいけない。しかし銀行券で売ることはつづける。だが今夜、ここへ来る直前にぼくは価格表示をはずしてきておいた……ぼくがいま所有している在庫品は、それらの銀行券を回収するためにぼくが持っているすべてであるかもしれないからだ。だからぼくは、値段を上げなければいけなくなった。それはすべて、国有化が没収のたんなるいいかえにすぎないかどうかにかかっている」
ギボンズは数日をついやしてウォーウィックに、銀行業務と通貨の初歩的原理を、忍耐強くユーモアたっぷりに説明した──ウォーウィックにというのは、やむを得ない選択の結果だったのだ。ほかの行政委員たちが、自分の農場の仕事や商売で忙しいから、雑用にかかわりあってはいられないといいだしたからだ。国立銀行頭取あるいは国家収入役(名称については、いまだに意見が一致していなかった)の仕事には、行政委員以外から立候補した人間がひとりいた。リーマーという名の農夫だったが、銀行業務を何十年も経験したことや、そういう事柄について大学卒業の学位があることを主張したにもかかわらず、かれの自薦はどこでも相手にされなかった。
ウォーウィックが最初にショックを受けたのは、ギボンズとともに、金庫の内容目録を作っているときだった(その金庫はニュー・ビギニングズでほぼ唯一の金庫といってよく、また唯一の地球製の品だった)。
「アーニイ、金《かね》はどこにあるんだ?」
「なんの金だね、デューク?」
「なんの金だと? だって、ここにある帳簿を見ると、あんたは何千何百万ドルという金を持っているはずだ。あんたの交易所だけで、ほぼ百万に近い差引勘定を上げているじゃないか。それにあんたが、抵当にはいった三、四十カ所の農場から集金していることも知ってるんだ……そして、ここ一年ぐらいのあいだはほとんど貸し付けていない。それが不満のひとつだったんだぜ、アーニイ、なぜ行政委員会が行動しなければならなかったかの理由さ……金はぜんぶ銀行に入っちまって、ぜんぜん出てこないんだから。どこもかしこも金づまりだ。だから、金はどこにあるんだって聞いてるんだよ」
ギボンズは陽気に答えた。
「燃やしたよ」
「なんだと?」
「燃やしたといったんだ。つみ重なって場所ふさぎになる一方だったんでね。ここに泥棒はあまりいないが、金庫の外に出しておく気にはならなかったよ……だれかに盗まれたら、ぼくは破滅だからな。ここ三年のあいだ、金《かね》が銀行に入ってくるたびに、ぼくはそれを燃やしていたんだ。そうしたほうが安全だからさ」
「なんてこった!」
「何を困ってるんだ、デューク。ただの紙屑だぞ」
「紙屑だと? 金《かね》なんだぜ」
「金とはなんなんだ、デューク? いくらか持ってるか? そう、十ドル札は?」ウォーウィックがショックをうけた表情のまま、一枚取り出すと、ギボンズはうながした。「それを読んでみろよ、デューク。手のこんだ印刷や、ここではまだ作れない上質の紙だというようなことは気にするな……そこにある文字を読んんだ」
「十ドルと書いてあるが」
「そうさ。だが重要な部分はというと、銀行へ負債を返済するにあたって当銀行は、この紙幣を額面価格で受け取ると記してある部分なんだ」
ギボンズは自分の下げ袋から千ドル銀行券を取り、それに火をつけた。ウォーウィックは恐怖に魅せられた表情でそれを見守った。ギボンズは指から炭をこすり落とした。
「紙屑だよ、デューク、ぼくが所有しているかぎりはな。だがもし流通させれば、こいつはぼくの略式借用証《IOU》となり、ぼくはそれを認めなければいけなくなるんだ。ぼくがこの連続番号をひかえるあいだ、ちょっと待ってくれ。燃やしたぶんの記録をとってあるから、どれだけがまだ流通しているかおかるんだ。実に多いが、しかし一ドル札一枚にいたるまで、きみに教えられるよ。きみはぼくの略式借用証を有効と認めるつもりか? それから、銀行に返さなければいけない負債はどうするんだ? だれがその支払いを受けるんだ? きみか? それともぼくか?」
ウォーウィックはまごついた表情になった。
「アーニイ、おれにはまったくわからん。くそっ、いいか、おれは機械修理工が本職なんだ。でもあんたは、集会でみんながいったことを聞いたろうが」
「ああ、聞いたよ。民衆はいつでも、政府が奇蹟を示すことを期待しているんだ……ほかのことでは、ずいぶん頭のいい連中でさえそうなんだからな。この紙屑はしまいこんで鍵をかけ、ウォルドーフへ行こう。ビールを飲みながら、この問題について話しあおうじゃないか」
「……さもなければだな、デューク、たんなる公営簿記サービスであるべきだし、安定した交換媒体を持つ信用貸付組織であるべきだよ。それ以上のことをすれば、きみは他人の財産をいたずらに操作し、ポールに支払うためにはピーターから盗むということになる。
デューク、ぼくはドルを安定させるために最善をつくした。いくつかの主要な価格を安定させることによってだ……種小麦にはとくに気を使った。二十年以上ものあいだ、トップ・ダラー交易所は、最上の種小麦に同じ価格を支払い、そして同じ利幅でそれを転売してきた……たとえぼくが損をしてもだよ。現実にも、ときどき損をしたんだ。種小麦は、通貨の基準としてはたいしてよくない。腐りやすいんでね。だがいまのところ、われわれはまだ金《きん》もウラニウムも持っていないし、とにかくそれは何かでなければいけないんだ。
さて、いいかね、デューク……きみが国庫なり、政府中央銀行なりを再開したとする。名前はどう呼ぼうとかまわない。すると、きみがあらゆる種類のことをするよう圧力をかけられるのは確実だ。利率を下げろ。資金ぐりを拡大しろ。農夫が売るものに対しては高価格を保証し、買うものに対しては低価格を保証しろ、とね。兄弟、きみはぼくよりもっと悪しざまに罵られるだろう。きみが何をしようと問題じゃあなしにだよ」
「アーニイ……ひとつだけ方法がある。あんたは万事のみこんでいる……だからあんたが、国家収入役の仕事につくべきだ」
ギボンズは腹をかかえて笑った。
「だめだ、とんでもない。ぼくは二十年以上もそれで頭を痛めてきたんだ。こんどはきみの番さ。きみは袋をつかんだ。つぎはそれをかつぐんだ。もしきみがぼくを銀行家《バンカー》として復職させたりしたら、ぼくらがふたりとも私刑《リンチ》にされるのは目に見えているよ」
いくつか変化があった──ヘレン・メイベリーはやもめのパーキンソンと結婚し、いまではかれの息子ふたりが経営している農場のささやかな新居でかれと暮らしていた。ドーラ・ブランドンが先生になったが、そこは相変わらず〈メイベリー夫人の小学校〉と呼ばれた。アーネスト・ギボンズは、すっかり銀行から手を引き、いまはリック雑貨店の影の共同経営者となっていたが、いっぽうかれ自身の倉庫は〈アンディ・J〉がいつどんなときに来てもいいよう貨物でふくれあがっていた。早く来てくれと、かれは願った。新しい在庫物品税が、商売のために貯えておいた現金にしだいに食いこんでおり、さらにインフレがその現金の購買力を減らしつつあったからだ。いそいでくれよ、ザック、ぼくらがやつらに骨までかじられちまわないうちに!
やっと宇宙船がニュー・ビギニングズの上空に現われ、ザッカー・ブリッグズ船長は第四波移民の最初の上陸につきそっておりてきた──移民はほとんどがまったくの老人だった。ギボンズは相棒とふたりきりになるまで意見をいうのをさしひかえていた。
「ザック、あんな生ける屍みたいな連中をどこで見つけたんだ?」
「慈善といってくれませんか、アーネスト。そのほうが実際におこったことより、よく聞こえますから」
「というと?」
「シェフィールド船長、もしあなたがわれわれの船をもう一度地球へもどしたいなら、どうぞ自分で飛ばしてください。ぼくはいやです。あそこはごめんですよ。あそこでは現在、人が七十五歳以上になると、公式には死んだものとされるんです。かれの相続人が財産を引き継ぎ、かれは自分の財産を所有できません。かれの食料配給通帳は破棄されます……だれでもかれを殺したいと思えば殺せるんですよ。ぼくがこの乗客をのせたのは地球じゃあありません。みな、月世界市《ルナ・シティ》へ逃げ出した連中で、ぼくはできるだけおおぜいをのせました……食堂に出る乗客はなし、冷凍睡眠か乗船しないかです。支払いには金属製品と薬品を要求しましたが、冷凍睡眠ということで、ひとりあたりの料金を下げるほかありませんでした。結局のところ、とんとんになると思います。損をしたとしても、われわれはセカンダスで投資していますからね。ぼくがわれわれの金をなくしてしまった、ということにはならないと思いますよ」
「ザック、おまえは心配しすぎるぞ。金を儲け、金を損する……どうだっていいじゃないか? 要はそれを楽しむことだ。ぼくらがつぎはどこへ行くのか教えてくれ。そうすれば、ぼくは積荷の選択をはじめられる……メートル・トン数にして、船に積みこめる量の二倍はあるんだ。おまえが積みこみをしているあいだに、ぼくは要らないものを売っちまって、その儲けを投資するとしよう。つまりだな、それをだれかファミリーの人間にあずけるってことさ」ギボンズは考えこんだ表情になった。「この新しい状況も、近いうちにここに病院ができるってことにはならないだろうな?」
「そのとおりだと思いますよ、アーネスト。近い将来に若返り処置が必要なファミリーの人間はみな、われわれといっしょに行ったほうがいいですね。どこへ行くことにしても、一航海目か六航海目かわからないけれど、セカンダスにはかならず立ち寄りますから。ではあなたも間違いなく来られるんですね? 問題はみな片づいたんですか? 例の少女はどうなりました? あの短命人種の」
ギボンズはにやりと笑った。
「おまえにあの子を見せようとは思わないよ、坊や。おまえのことはよく知っているからな」
ブリッグズ船長が到着したおかげで、ギボンズはドーラ・ブランドンと日課にしているいつもの遠乗りを三日間ほど休まなければいけなくなった。四日目の放課後に、かれは学校へ顔を出した。ブリッグズは二日前に、上空の宇宙船へもどっていた。
「今日は、遠乗りに出かける時間はあるかい?」
彼女はかれを見ると、ぱっと微笑を浮かべた。
「もちろんよ。服を取りかえるあいだ三十秒待ってちょうだい」
ふたりは町の外へ出ていった。ギボンズはいつものようにビューラーに乗っていたが、ドーラはベティに乗っていた。バックは背に鞍をおいていたが(かれの自尊心のためだ)、その鞍にはだれも乗らなかった。かれが人を乗せるのは、いまでは儀礼的な場合に限られていた。騾馬の年齢にするとかれは、たいへんな年寄りだったのだ。
かれらは完全に町から出て、日あたりのいい丘の頂きでとまった。ギボンズはいった。
「どうしてそんなに黙ってるんだい、おちびさん? バックのほうが、きみよりよっぽどしゃべっているよ」
彼女は鞍の上でむきなおると、かれの顔をじっと見つめた。
「あたしたちがいっしょに遠乗りに出るのは、あと何回かしら? これが最後なの?」
「何をいうんだ、ドーラーもちろんぼくらの遠乗りはこれからだってつづくさ」
「どうかしら、ラザルス、あたし……」
「ぼくをなんと呼んだ?」
「あなたの名前を呼んだのよ、ラザルス」
かれは考えこんだ表情で彼女を見つめた。
「ドーラ、きみはその名前を知らないはずだ。ぼくはきみの、ギビーおじさんだよ」
「ギビーおじさんは、もういないわ。それに|おちびさん《リトル・ドーラ》だって。あたしはもう、あなたと同じくらいの身長があるし、あなたがだれかを知って二年になるのよ。それに、その前からそうじゃないかと思っていたわ……つまり、あなたがメトセラたちのひとりではないかと想像していたということよ。でもあたしは、だれにも何ひとついわなかったわ。これからも絶対いいません」
「そんな約束はいらないよ、ドーラ。必要ないんだ。ぼくはただ、そのことできみを絶対に悩ませたくなかったんだ。どこでぼくの正体がわかった? ぼくはずいぶん注意していたつもりなんだが」
「そのとおりだったわね。でもあたし、思い出せるかぎりの昔からずっと、ほとんど毎日、あなたを見ていたのよ。小さなことからだったわ。毎日あなたを見ている……本当に見ている者でなければ、だれも気づかないようなことからよ」
「そうか、わかった。しかしぼくは、この秘密をこんなに長いあいだ隠しつづけなければいけないとは予期していなかったんだ。ヘレンは知っていたのかい?」
「知っていたと思うわ。あたしたち、一度もその話はしなかったけれど。でもあの人も、あたしと同じようにして見当をつけていたと思うの……それにあなたが、どのメトセラなのかも知っていたかもしれないわ……」
「ぼくをそう呼ぶのはやめてくれないか。それはちょうど、ユダヤ人を糞野郎《カイク》と呼ぶようなものだよ。ぼくはハワード・ファミリーの一員だ。ハワードのひとりさ」
「ごめんなさい。その名前が問題になるなんて知らなかったの」
「いや……実のところ、どうってことはないんだが、ただその言葉を聞くとぼくは、ずっと昔のことを思い出すんだ。迫害された時代のことを。ごめんよ、ドーラ。きみはどうやってぼくの名がラザルスであることを知ったかを話していたんだったな。それもぼくの名前のひとつなんだ。アーネスト・ギボンズも本名だが、それもね」
「ええ……ギビーおじさん。本にあったの、写真が。町の図書館にある拡大装置を使わないと読めないマイクロブックに。あたし、その写真を見ると、すぐつぎのページへ機械を動かしたんだけど……またもとにもどして、見なおしたんです。写真のあなたには顎髭がなかったし、髪ももっと長かったけれど……じっと見れば見るほど、あたしを育ててくれたおじさんそっくりになったわ。でも、確信は持てなかったし……尋ねることもできなかったわ」
「なぜ、できなかったんだい、ドーラ? ぼくは本当のことを話していただろうに」
「もしあなたがあたしに教えたければ、とっくにそうしていたはずだわ。あなたの行動には、いつだって理由があるんですもの。あなたがおっしゃることにも、かならずね。あたしはそれを、うんと小さいころ、あたしたちが同じ鞍にのって遠乗りに出かけていたころに、おぼえたの。だから、何もいわなかったわ。ずっと……そう、今日まで。あなたがもうすぐ行ってしまうってわかったから」
「ぼくは、行ってしまうなんていったかい?」
「おねがい! 前に、あたしがずっと小さかったとき、あなたは話してくださったわ。雁《かり》が大空で鳴いているのを聞いた少年の日の物語を……そして大人になってから、どれほどその雁の行方を知りたかったかを。あたしは雁が何か知らなかったので、あなたに説明してもらわなければいけなかったわ。でも、いまわたしにはわかるの。あなたがその雁を追っていることが。その鳴き声が聞こえてくると、あなたは行かなければいけないんだわ。ここ三、四年のあいだ、あなたの頭の中でその鳴き声がしていたのを、あたし知っているの……だって、あなたにそれが聞こえると、あたしにも聞こえてくるんですもの。そしていま、船はここに来ているし、頭の中の鳴き声はとても大きくなっているわ。だから、あたしにはわかっているの」
「ドーラ、ドーラ!」
「やめて、おねがい、あたし、あなたを引きとめようとしているんじゃないの。本当にそうなのよ。でも、あなたが行ってしまう前に、あたし、とっても欲しいものがあるの」
「なんだって、ドーラ? ああ、まだこれはきみにいうつもりじゃなかったんだが、きみにはジョン・マギーを後見人にして、財産をすこし残してゆくつもりなんだ。充分に暮らしていける……」
「やめて、やめて、おねがい! あたしはもう一人前の女よ、ひとりで生きていけるわ。あたしが欲しいものは、ぜんぜんお金なんかかからないわ」彼女はかれの目をじっと見つめた。「あなたの赤ちゃんが欲しいの、ラザルス」
ラザルスは深く息を吸いこみ、胸の動悸を静めようとした。
「ドーラ、ぼくのドーラ、きみはまだ子供みたいなもんだ。赤ん坊を作る話をするのは早すぎるね。ぼくと結婚したくはないだろうし……」
「結婚してくれと頼みはしなかったわ」
「ぼくがいおうとしていたのはね、一年か二年……いや…三、四年たったら……きみは結婚したくなるだろうということさ。そのときになれば、きみはぼくの子供を作らなくてよかったと思うはずだ」
「あたしではいやなの?」
「ぼくがいっているのはこうだ。つまりぼくらが別れなければいけないということで感情的に動揺したからといって、そんな唐突な決心をしてはいけないんだよ」
彼女は鞍の上で背中をまっすぐびばし、肩をそびやかした。
「これは唐突な決心なんかじゃありません。わたしはずっと前から決心していたんです……あなたが長命人種のひとりではないかと想像する前から。小さいときからなの。ヘレンおばさんに話したら、馬鹿な娘だといわれたわ。そして、そんなことは忘れてしまいなさいって。でもあたしは決して忘れなかったし、そのころは馬鹿だったとしても、あたしはもう大人だから自分のしていることはわかるわ。ラザルス、ほかには何もいりません。クラウスマイヤー先生に手伝ってもらって、人工受精でもいいし。でなければ」──ふたたび彼女はじっとかれの目を見つめた──「ふつうの方法でもかまわないわ」彼女は目を伏せ、それからまた顔を上げると、かすかに微笑していった。「でも、どちらにしても、早くしたほうがいいわ。あたし、船の予定は知らないけれど、自分のは知っているの」
ギボンズはたっぷり半秒かけて、いくつかの要素を心の中で検討した。
「ドーラ」
「はい……アーネスト?」
「ぼくの名前はアーネストじゃないし、ラザルスでもない。正しい名前はウッドロウ・ウィルスン・スミスだ。ぼくはもう、ギビーおじさんじゃないし……その点ではきみのいうとおり、ギビーおじさんは行ってしまって二度ともどってこないんだ……ぼくをウッドロウと呼ぶといい」
「はい、ウッドロウ」
「きみは、なぜぼくが名前を変えなければいけなかったかを知りたいか?」
「いいえ、ウッドロウ」
「そうかい? ぼくがどれだけ年寄りか知りたいか?」
「いいえ……ウッドロウ」
「でも、ぼくの子供を欲しいんだね?」
「ええ、ウッドロウ」
「ぼくと結婚してくれるかい?」
彼女はわずかに目を大きく見開いた。だが、すぐに答えた。
「いいえ、ウッドロウ」
ミネルヴァ、その点でドーラとぼくはあやうく最初の──そして最後で、唯一の──喧嘩をするところだった。優しくて愛らしい赤ん坊だった彼女は、優しい気だての申しぶんなく愛らしい女性へと成長していた。しかし彼女はぼくと同じくらい強情だったんだ──とりつくしまのない断固とした態度でね。最初から議論しようとしないんだから。彼女がそのことについてあらゆる面から考え抜き、そしてもしぼくが承知すれば、ぼくの子供を生もうとかなり前から決心していたことは信じるほかなかった──だが、彼女は結婚するつもりはなかったんだ。
ぼくについていえば、彼女に結婚を申しこんだのは衝動にかられたからではない。ただそんなふうに聞こえるだけだ。過飽和溶液はほとんど即座に結晶する。それがそのときのぼくの状態だったんだ。ぼくは何年も前からその植民地に興味をなくしていた。本当に手ごたえのある仕事が姿を消してしまうとすぐにだ。ぼくは何かほかのことをしたくて、むずむずしていたんだ。心の表面では、自分はザックがもどってくるのを待っているのだと思っていた。だが、〈アンディ・J〉が二年おくれてついた上空の軌道をまわりはじめたとき──そう、それが自分の待っていたものではないことがわかったのさ。
ドーラがこの仰天するような申し出をしたとき、ぼくは自分が何を待っていたのかを知った。
たしかに、ぼくは彼女を説得して思いとどまらせようとした──だがぼくは悪魔の擁護者の役を演じていたんだ。実のところ、ぼくの心の中は、何をどのようにするかで大忙しだったのさ。短命人種と結婚するべきでないという考えはいぜんとして残っていた。だが、妊娠した女性をあとに残していくことへの嫌悪感のほうが、ぼくにとってはいっそう強かった──いいかい、そういうこととなると、ぼくは十億分の一秒もためらわなかったんだ。
「なぜいやなんだい、ドーラ?」
「いったでしょう。あなたは行ってしまうのよ。引きとめるつもりはないわ」
「きみに引きとめられはしないさ。だれもこれまで、ぼくを引きとめられなかったんだからね、ドーラ。だが……結婚しなければ、子供は作らない」
彼女は考えこんだ表情になった。
「結婚式をどうしてもあげるといわれる目的はなんなの、ウッドロウ? そうすれば、あたしたもの子供があなたの名前を名乗ることになるから? あたし、宇宙未亡人《スカイ・ウイドウ》になりたくないわ……でもそれが必要なら、町へ帰って行政委員長を見つけましょう。だって、本当に今日でなければいけないんですもの。もし本に書いてある計算のしかたが正しければね」
「きみも女だな、口数が多すぎるぞ」彼女は何も答えなかった。かれはつづけた。「結婚式などどうだっていいんだ……とくに、トップ・ダラーなどではね」
彼女はためらい、そして口を開いた。
「なんのことだかわからない、といっていいかしら?」
「え? ああ、いいとも。ドーラ、ぼくは子供をひとりでおしまいにする気はないよ。ぼくはきみに六人か、それ以上の子供を生ませるぞ。たぶんもっと多いだろう。おそらく一ダースというところだな。文句はあるかい?」
「はい、ウッドロウ……つまり、いいえという意味よ。文句はないわ。ええ、あたしはあなたの子供を一ダース生みます。もっとおおぜいでも」
「一ダースの子供を作るには時間がかかるよ、ドーラ。ぼくはどれぐらいの間隔で姿を現わしたらいいだろう? 二年おきぐらいかな?」
「あなたのおっしゃるとおりにします、ウッドロウ。あなたが帰っていらっしゃればいつでも……帰っていらっしゃるごとに……あなたの子供を作ります。でもおねがい、いますぐ最初の子供を作りはじめたいの」
「きみはどうしようもないお馬鹿さんだよ。そんな調子でやるつもりなんだな」
「つもり、じゃないわ……そうするのよ。もしあなたが、そうしてくだされば」
かれは手をのばして彼女の手を取った。
「そうだな、そういうふうにやるのはやめよう……ドーラ、きみはぼくの行くところへ行き、ぼくのすることをして、ぼくの住むところに住んでくれるかい?」
彼女は驚いたようだったが、落ち着いて答えた。
「ええ、ウッドロウ。もしそれが、あなたの本当に望んでいることなら」
「それに何も条件はつけないことだ。それでいいかい、それともいやかい?」
「おっしゃるとおりにします」
「もしどうしても意見が対立することがあったら、きみはぼくの言葉にしたがうか? それ以上、つまらない文句はいわずにだよ」
「はい、ウッドロウ」
「きみはぼくの子供を生み、死がぼくらを分かつ日まで、ぼくの妻でいるか?」
「そうします」
「ぼくはなんじ、ドーラを妻としてめとり、愛し、守り……いつくしみ……そして、決して離れない……ぼくらがともに生きているかぎり。鼻をすするんじゃない! こちらへ体を乗り出して、そのかわりにぼくにキスするんだ。ぼくらは結婚したんだからね」
「あたし、鼻などすすってなかったわ! わたしたち本当に結婚したの?」
「そうさ、ああ、きみがしたければどんな結婚式をしてもいいよ。あとでね。いまは黙って、ぼくにキスするんだ」
彼女はすなおにかれの言葉にしたがった。
長い長い何分かののちに、かれはいった。
「おい、鞍から落ちちゃだめだ! 動くなよ……ベッティ! じっとしてるんだ、ビューラー! |可愛い《ドーラブル》ドーラ、だれにそんなキスのしかたを教わったんだ?」
「あたしが大きくなりはじめてから、あなたはあたしをそう呼んでくれなかったわ。何年も前からよ」
「それにきみが大きくなりはじめてからは、キスもしなかった。理由ははっきりしているな。きみはぼくの質問に答えていないぞ」
「それも、さっきあたしが約束したことのひとつなの? だれにキスを教えられたとしても、それはあたしが人妻になる前のことだわ」
「ふーむ。きみのいいぶんにも、一理あるかもしれんな。その問題は弁護士たちと話しあって、きみのところへ手紙を書かせるよ。それにこれは、人から教わったというよりは、生まれつきの才能かもしれんな。いいかい、ドーラ、ぼくはきみの罪深い過去について、しつこくたずねるのをさしひかえる……だから、きみもぼくの過去は放っておくんだ。約束するかい?」
「たしかに承知しましたわ……だって、あたしの過去はとっても罪深いんですもの」
「嘘をつくんじゃないよ、ダーリン。きみにそんな時間があったはずはないんだ。どうせ、ぼくがバックのために持ってきたキャンディーをすこしくすねたぐらいのことだろう? たいへんな罪だぞ」
「そんなこと一度もしなかったわ! でも、もっと悪いことをたくさんしたのよ」
「ああ、そうだろうとも。生まれつきの天才的なキスってやつを、もう一度してくれないか」
やがてかれはいった。
「ひゃあ! やっぱり、最初のもまぐれじゃあなかったんだ。ドーラ、どうやらぼくは、危ないところできみとの結婚にまにあったようだな」
「あなたが結婚するっていいはったのよ……あたしの旦那さま。あたしはそんなこと、問題にしなかったわ」
「そいつは認めるよ。ダーリン、やはり赤ん坊はどうしてもいますぐ作りたいかい? もう、ぼくがきみを、おいてはいかないとわかっていてもだよ?」
「もうどうしてもとは思わないわ。したいってところね。ええ、とてもしたい≠ニいえばぴったりだわ。でも、当然のことみたいに要求しているのではなくてよ」
「したい≠ニいうのはいい言葉だな。ぼくもさ。それにしないではいられない≠烽ツけ加えていいだろう。きみはほかにも生まれつきの才能を持っているかもしれないよ……だれも知らない才能を、ね」
彼女はにっこりとほほえんだ。
「もしそうでなくても、ウッドロウ、きっとあなたが教えてくれるわ。あたし、喜んでおぼえます。一生懸命に」
「町へもどろうじゃないか。ぼくのアパートに来るかい? それとも学校にしようか?」
「どちらでもいいわ、ウッドロウ。でも、あの小さな木立ちが見えて? あそこのほうがずっと近くてよ」
ふたりが町に近づいたときには、ほとんど暗くなっていた。ふたりはゆっくりした足取りで騾馬を歩かせた。昔のハーパー家のあとに建てられたマーカムの家を通りすぎるとき、ウッドロウ・ウィルスン・スミスはいった。
「|可愛い《アドーラブル》ドーラ……」
「はい、旦那さま?」
「公衆の前での結婚式をあげたいかい?」
「あなたがそうなさりたいならね、ウッドロウ。あたしはすっかり結婚した気分よ。あたし、もう結婚しているんですもの」
「そのとおりさ。若い男と逃げたりしないだろうね?」
「それ、修辞疑問《レトリカル・クエスチョン》なの? いまそのつもりはないわ、それにこれからも」
「その若い男というのは移民で、最後か、あるいは最後に近い上陸船がくるまでここへおりてこないかもしれない。身長はだいたいぼくと同じだが、髪は黒くて、ぼくより肌の色も黒い。その男が何歳なのかはっきりしないが、ぼくのおよそ半分ぐらいの年齢に見える。髭はきれいに剃っている。友達はかれをビルとかウッディーと呼んでいる。ブリッグズ船長の意見によると若い女教師が大好きで、きみにとても会いたがっているそうだ」
彼女はそのことをじっと考えている様子だった。
「もしあたしが目をつぶってかれにキスしたら、かれだということがわかると思う?」
「だろうね、ドーラブル。まず間違いない。でも、ほかの人間にわかるとは思えないな。わかっては困るよ」
「ウッドロウ、あたしはあなたの計画を知らないわ。でも、もしあたしにそのビルがわかったら、あたしは自分がその女教師だと、かれに信じさせるようにするべきなの? あなたがよく歌っていた人みたいに? ひょろひょろリルみたいに?」
「きみならかれに信じさせると思うよ、|大好きな人《ディアレスト・ワン》。ようし、一時的に、ギビーおじさんがもどってくることにしよう。アーネスト・ギボンズがここでしなければいけないことをやり終えるのに、三、四日はかかるだろう。それからかれは人々に別れを告げる……養い子の、あのオールドミスの女教師ドーラ・ブランドンもふくめてね。二日後にこのビル・スミスが、最後か最後に近い貨物とともに船からおりてくる。きみは荷物を整理して、そのときまでに出発の用意をしておいたほうがいい。ビルは、そのつぎの日か、あるいはさらにそのつぎの日、夜明けの直前に、きみの学校の前を車に乗って通り過ぎ、ニュー・ピッツバーグにむかうはずだからさ」
「ニュー・ピッバーグね。用意して待っているわ」
「だが、ぼくらがそこにとどまるのは一日か二日だ。ぼくらは先へ進む。セパレーションよりも先へ行くんだ。地平線のかなたへね。ぼくらは|絶望の峠《ホープレス・パス》を越えるんだよ、ディア。気に入ってくれるかな?」
「あたし、あなたの行くところへ行くわ」
「きみの気にいるかな? ぼくのほかに話し相手はひとりもいない。きみが赤ん坊をひとりこしらえて、その子に言葉を教えるまではね。隣人はいないんだ。ローパーや竜やその他の怪物はうようよいるだろうが、隣人はいない」
「だからあたしは料理を作って、あなたの畑仕事を手伝うわ……そして赤ちゃんを何人も生むの。子供が三人になったら、〈スミス夫人の小学校〉を開くわ。それとも〈ひょろひょろリルの小学校〉と呼ぶべきかしら?」
「あとのほうだな、ぼくの考えでは。腕自坊主どもにはそのほうがむいているよ。ぼくの子供たちはつねに、手におえないのばかりでね、ドーラ。きみが学校で教えるときには、視棒を持ってすることになるだろうよ」
「もしそれが必要ならね、ウッドロウ。あたしいまでもそんなのを持って授業しているし、生徒のうちふたりはわたしより体重が重いのよ。あたしは必要に応じて、その子たちをなぐっているわ」
「ドーラ、ぼくらは絶望の峠を越えていかなくたっていいんだ。ぼくらは〈アンディ・J〉に乗って、セカンダスへ行くこともできるんだよ。ブリッグズの言葉だと、あそこにはいま二千万以上の人間がいるそうだ。きみは洒落《しゃれ》た家に住むことができる。電気、水道、あらゆる設備のそろった家にね。ぼくの農場作りの手伝いをして骨を折るかわりに、花壇にかこまれた生活ができるんだよ。赤ん坊を生むときには、りっぱな病院で本物の医者がつきそってくれる。完全で楽な生活だ」
「セカンダス。そこね、すべての……ハワード・ファミリーの人々が移住したところは。そうでしょ?」
「約三分の二が移住したんだ。前にもいったとおり、何人かはここにもいる。だがぼくらはその事実を公表しない。きみたちの数のほうが多いときには、ファミリーのひとりであることは安全でも楽でもないからだ。ドーラ、たった三、四日で決心しなくてもいいんだよ。あの船はぼくが望むかぎりいつまでも、ここの軌道をまわっているからね。何週間でも何カ月でも、ぼくがそうしていろと命令するかぎり」
「まあ! あなたって、ブリッグズ船長の宇宙船を軌道にのせておけるほどのお金があるってわけ? あたしに心を決めさせるだけのために?」
「きみを、そうせかせるべきじゃあなかったな。そういうことができるかどうかという問題じゃあないんだよ、ドーラ……軌道にとどまっていても金がそうかかるわけじゃないがね。ああ……ぼくは心の中を人に明かさないことがあまり長いあいだつづいたんで、結婚した男の習慣をなくしちまったんだ。女房には信頼して秘密を打ち明けられるんだということを、すっかり忘れていたんだよ。改めないといけないな。ぼくは〈アンディ・J〉の六十パーセントを所有しているんだ、ドーラ。ザック・ブリッグズはぼくの部下であり、共同経営者だ。そして息子だ。きみの義理の息子といってもいい」
彼女はすぐに答えなかった。やがてかれは尋ねた。
「どうしたんだい、ドーラ? きみにはショックだったかな?」
「いいえ、ウッドロウ。あたしはただ、いろいろと新しい考えかたに慣れないといけないだけよ。もちろんあなたは前に結婚したことがあるはずだわ、ハワード・ファミリーのひとりですものね。あたし一度もそのことを考えてみなかった、それだけのことよ。息子……息子たち。それに娘たちもいるわけね、間違いなく」
「ああ、たしかにいるよ。しかしぼくがいおうとしていたのは、ぼくの計画にどこか悪いところがあったんじゃないかということさ……自分の我儘《わがまま》のせいでね。ぼくは、必要もないのにきみをせかせていたんだ。もしぼくらがニュー・ビギニングズにとどまるのなら、アーネスト・ギボンズには姿を消してもらいたい……つまり、〈アンディ・J〉にのせておくんだ。かれは年をとりすぎているからね。ぼくはこれ以上、そう長くはかれの役割をつづけていられない。だから、きみの年齢にずっと近いビル・スミスが、かれに代わって登場するのさ……そのほうがいいと思うし、ここの連中もだれひとり、ぼくがハワード・ファミリーのひとりであることには気づかないだろう。
ぼくはこのごまかしを、これまで何回もやってきた。どうやればそれがうまくいくかは心得ている。ぼくができるだけ早くアーネスト・ギボンズを消そうとしていたのは、かれはきみの年老いた養い親のおじさんで、きみのざっと三倍の年齢だし、夢にもきみの可愛いお尻をなでようとはしないだろうし、きみも、かれにそうさせやしないだろうからだ。だれもそんなことは知っているさ。ところがぼくは、きみの可愛いお尻をなでたいときているんでね。ドーラブル」
彼女は手綱を引いた。ふたりは家々が軒をよせて立ちならぶあたりへ近づきつつあったのだ。
「あたしもあなたになでてほしいわ……それに、それ以上のことも。ウッドロウ、あなたは、隣り近所の人がどう思うかわからないから、いますぐいっしょには住めないとおっしゃるわけね。でも、まわりの人間が考えることなど気にするなと教えてくれたのはだれかしら? あなたよ」
「そのとおりだ。もっとも、時と場合によっては隣り近所に、きみが考えてほしいと思うとおりを考えさせたほうが得策だ、ということもあるがね。かれらの言動に影響を与えるためさ……そして、いまがそういうときなのかもしれない。だがぼくは、きみに忍耐することも教えたはずだぞ、ドーラ」
「ウッドロウ、あたしはあなたがおっしゃるとおりにするつもりよ。でもこれだけはそう辛抱強くないの。わたし、自分の良人にはベッドにいてほしいの」
「ぼくだってそうしたいさ」
「それに、あたしがベッドの中でギビーおじさんに別れを告げることにしたと人々が考えたって、なんということないでしょ? そして、あたしがつぎに、新しく来た入植者のひとりと連れだってすぐに行ってしまったと、みんなが考えてもよ? ウッドロウ、あのときあなたはそれについて、ひとこともいわなかったけど……でも、あたしが処女でなかったことはわかったはずよ。間違いないわ。ほかにもそのことを知っている人がいるとは思わない? 町じゅうかもしれないわ。あたしそんなことぜんぜん心配したことないの。いまさらどうしてあたしが、人の考えることを心配しなくちゃいけないの?」
「ドーラ」
「はい、ウッドロウ?」
「ぼくは毎晩きみのベッドに入るよ、約束する」
「ありがとう、ウッドロウ」
「ぼくが楽しみたいからさ、マダム。少なくとも楽しみの半分はぼくのものだ。きみも楽しむようだからな……」
「ええ、そのとおりよ! あなただって知っているじゃないの。知っているべきだわ」
「そういうことにして……ほかの問題に移ろうじゃないか……ただしこれだけはいっておくよ。もしきみが処女だったら……きみほどの体で、きみの年齢でだ……ぼくはいささか心配させられたろうし、ぼくが考えていたのと違ってヘレンは有益な感化をまったく与えなかったのか、と思ったかもしれないな。だが彼女は実によくやってくれた。彼女の愛情に祝福あれ! 可愛いドーラに決してふれようとしない親愛なる老ギビーおじさんのふりをすることは、完全にきみの面子《めんつ》のためだったんだ。きみが気にしないなら、それはやめよう。ぼくがいいかけたのはこうだ。ここで開拓者になるか、それともセカンダスへ行くかを決めるのに、きみは好きなだけ時間をかけていい、とね。ドーラ、セカンダスには上下水道冷暖房設備があるだけじゃない。若返り病院があるんだ」
「まあ! あなた、もうじきそれが必要なの、ウッドロウ?」
「いや、そうじゃない! きみのためさ」
彼女は返事をするまでにひどく時間をかけた。
「そんなことをしてもあたしは、ハワード・ファミリーのひとりになれないのよ」
「そう、なれないね。だが助けにはなる。若返り処置は、ハワードの連中を永久に生かしつづけることだってできないんだ。それで大いに助けられる連中もいるし、そうでない連中もいる。たぶんいつか、もっと多くのことがわかる日もくるだろう……だがいまのところ、平均して、若返りは人間の平均寿命をほぼ二倍にのばすようだ。それがハワード・ファミリーであろうと、なかろうとだ。ああ、きみのおじいさんとおばあさんが、いくつまで生きたかについて何か知らないか?」
「あたしにわかるわけないわ、ウッドロウ? あたしがかろうじておぼえていることといったら、昔は両親がいたというぐらいのところよ。おじいさんやおばあさんの名前だって知らないわ」
「見つけられるさ。宇宙船には、乗客となった移民全員の記録が残っているんだ。ザックに……ブリッグズ船長にいって、きみの両親の記録を調べさせよう。それから、そのうちに……というのは、それには時間がかかるだろうから……きみの家系を地球で追跡させられるから……」
「やめて、ウッドロウ」
「どうして?」
「あたしは知る必要もないし、知りたいとも思わないからよ。ずっと昔、少なくとも三、四年前に、あなたが長命人種だと知ったすぐあとで、あたしは、長命人種があたしたちふつうの人間より、本当に長生きするわけではないということも知ったの」
「そうかな?」
「ええ。あたしたちにはみな、過去と現在と未来があるわ。過去は記憶でしかないし、あたし、生まれたときのことは思い出せないし、生まれる前のことも思い出せないわ。あなたは思い出せて?」
「いいや」
「だからその点では、あたしたち同じなのよ。あなたの記憶のほうが豊かだとは思うわ。あなたのほうが、あたしより歳をとっているんですもの。でもそれは、すぎてしまったことね。未来は? 未来はまだおこっていないし、だれにもわからないわ。あなたのほうが、あたしより長生きするかもしれないわ。さもなければあたしたち、偶然同時に殺されるかもしれない。だれにもそれはわからないし、あたしは知りたいとも思わないわ。あたしたちふたりにあるのは、現在だけ……そして、あたしたちがそれをともにしているということ、そのことであたしは申しぶんなく幸せなの。この騾馬たちはもう休ませて、あたしたちは、いまをすこし楽しみましょうよ」
「いいね」かれはドーラにむかって、にやりと笑いかけた。「E・Fにするかい、それともF・F?」
「両方ともよ!」
「それでこそぼくのドーラだ! なんでもやる価値のあることは、やりすぎるだけの価値があるんだ」
「そして、またくりかえすこともね。でもちょっと待ってくださらない、あなた。ブリッグズ船長が息子だっていわれたわね。だから当然、あたしの義理の息子になるんだって。たしかにそうだとは思うんだけど、現実にあの人をそんなふうに考えることはできないわ。でも……答えてくださらなくてもいいのよ。おたがいに過去のことをとやかくいわないと決めたんですもの……」
「先をつづけて、尋ねるんだ。その気になれば答えるから」
「あの……あたし、どうしてもブリッグズ船長の母親のことが気になるの。あなたの前の奥さんのことが」
「フィリスかい? フィリス・ブリッグズ・スパーリングというのが正式な名前だよ。彼女の何を知りたいんだい? とてもいい娘だ。それ以上は証人は語らず≠ウ。不公平な比較はなしだ」
「あたしって好奇心が強すぎるのね」
「たぶんそうだろう。ぼくは気にしないし、フィリスを傷つけることにもならないよ。ドーラ、あれは二世紀も昔のことだ。忘れたまえ」
「まあ。彼女は死んだの?」
「ぼくは知らない。ザックなら知っているだろう。かれはついこの前セカンダスへ行ったばかりだからね。もしそうなら、ぼくに話しているはずだ。だが彼女に離縁されてからは、そう親しくつきあっているわけじゃないんだよ」
「あなたを離縁したですって? お粗末な趣味の女ね!」
「ドーラ、ドーラ! フィリスはお粗末な趣味の女なんかじゃないよ。彼女は実にいい女性だ。ぼくはこの前セカンダスにいたとき、彼女とその亭主と食事をともにしたことがある。ザックとぼくが、だよ……そして彼女とその亭主は、ぼくと彼女とのあいだにできたほかの子供たちを苦労して集めた。その惑星にいる子供たちをね。それとほかの親類を何人か集めて、ぼくのために家族パーティーを開いてくれたんだよ。彼女は思いやりのある女性なんだ。ところで、彼女も学校の先生なんだよ」
「そうなの?」
「ああ。惑星セカンダス、ニュー・ローマ市、ハワード大学、リビイ数学教授さ。もしそこへ行けば、彼女を訪ね、自分で彼女がどんな人間か判断できるよ」
ドーラは答えなかった。彼女はペティを膝でおして通りを進みはじめた。ビューラーは命令されずとも、ならんで進んだ。バックは、「ごっはんの……ちかん!」と、断固とした調子でいうと、先に立って駆けていった。
「ラザルス……」
「その名前をうっかり口にしちゃだめだ」
「だれにも聞こえないわ。ラザルス、あなたがどうしてもとおっしゃるのでなければ……あたし、セカンダスには住みたくないわ」
[#改ページ]
ある主題による変奏曲 12
ある養女の話(続)[#「ある養女の話(続)」はゴシック]
セパレーションは、はるか後方に横たわっていた。三週間というもの、小さな隊列──縦にならんだ二台の幌馬車と、それを引っぱる十二頭の騾馬、そしてつながれていない騾馬が四頭──は、ランパート山脈めざしてのろのろ進んでいた。最後に人家を見かけたときから二週間以上たっていた。かれらはいま高原の草地におり、数日前から|絶望の峠《ホープレス・パス》の山峡が視界に入っていた。
十六頭の騾馬に加えて、その小さな隊列には、ドイツ・シェパードの雌犬が一頭と、それより若い犬が一頭、雌猫が二匹に雄猫が一匹、二頭の子山羊をつれた乳をしぼるための雌山羊に、若い雄山羊が一頭、丈夫なミセス・オーキンズ種の雄鶏が二羽と雌鶏が六羽、元気に育った雌豚が一頭、そしてドーラとウッドロウ・スミスとがいた。
その雌豚が妊娠していることを、スミスはニュー・ピッツバーグで代金を支払う前に、自分で検査をしてたしかめておいた──そして、スミス夫人の妊娠もたしかめられていた。まだトップ・ダラーにいるあいだのことで、スミスが恒星間宇宙船〈アンディ・J〉に軌道を離れる許可を出す前だった。スミスはそれを自分の妻にいう必要はないと思っていたのだが、もしドーラが妊娠していないとわかったら、ふたりがもう一度こころみるまで宇宙船は待つことになっていた──それでも結果が同じなら、かれは計画を変えて彼女をセカンダスへ連れてゆき、そこでその原因を調べ、もし可能なら、それをなおすつもりでいたのだ。
職業的開拓者としてのスミスの意見によれば、不妊症の女性とともにふたりだけで他の人間のいない奥地への開拓をくわだてることは、無意味であるばかりか、悲惨な結果をまぬがれない無謀な行為ということになる──あるいは、夫婦がふたりとも生殖力のない場合だと、かれは頭の中で訂正した。かれ自身の生殖能力はここ五十年あまり、厳密な検査を受けていなかったからだ。そんなことをしているあいだ、かれはクラウスマイヤー医師の保存状態が悪いファイルからドーラの両親の記録を見つけて、心配するようなこをは何もないとわかった──かれは本当に心配していたのだ。完全に孤立した土地では、Rh型血液の不適合というような単純なことでさえ、処理できないだろうからだ。
だが、植民地と宇宙船の限られた医療手段の範囲内では、信号はすべて青だったし、どうやらドーラは、あの騾馬の背中での非公式な結婚式の約二十分後に妊娠したように思われた。
ドーラはもしかしたらその前に妊娠していたかもしれないという考えが、かれの心の中を横切った──だがそんな考えは、おもしろい気まぐれにしかすぎず、かれはまったく心を悩ませなかった。スミスにとって何世紀ものあいだ、一再ならず自分の巣でかっこうを養ってきたことは、確実だと思われるからだ。かれはそうした子供たちには特に気をつかってやさしい父親でいたし、決して何もいわなかった。かれは、女性には必要なだけ嘘をつかせるのがいいと信じていた。そして、そのことを絶対にとがめてはいけないのだ。だがかれはまた、ドーラがそうしたたぐいの嘘をつけないはずだと信じていた。もしかするとドーラはすでに妊娠していてそれに気づいており、ベッドでかれに抱かれることでグッドバイをいわせてくれと頼んでいたのかもしれない──しかしそれなら、彼女はちゃんとそのとおりのことを求めていたろう。子供などではなく。
かまわないさ──もしあの子がもっと以前に過ちをおかして、それを知らないでいたとしても、彼女がそれにもかかわらず優秀な赤ん坊を生むことは、きっと確実だ。彼女自身が優秀な女性であることは明らかだ──かれは、ブランドン夫妻と知り合いであればよかった、かれらは一番≠セったに違いない、と思った──そしてかれらの娘は、かつてヘレンがいったように好みがうるさい≠フだ。ドーラなら、たとえ楽しみのためにでも、阿呆と寝たりはするまい。彼女の性格からして、そんなことをしても楽しいと思うはずがないからだ。ドーラに劣等児を生ませるためには、強姦によるほかない──そして、その強姦犯人は、残りの一生をソプラノを歌ってすごすようなことになるだろう。ギビーおじさんが、彼女に汚ない手をいくつか教えておいたからだ。
妊娠している雌豚は、スミスのカレンダー≠セった。もしその豚が子供を生むまでに、入植に適した土地へたどりつくことができなければ、その日のうちにかれらは引き返す──ためらわず、後悔もせずにだ──そうするとちょうど、かれらがセパレーションにいる他の人々のもとへ帰りつくまでに、ドーラの妊娠期間はあと半分残っていることになるだろう。
雌豚は、二台目の幌馬車のうしろに乗っており、落ちないように綱をつけられていた。犬は幌馬車の下を走ったり、横にならんで進み、ローパーやその他の危険を見張った。猫は猫らしく好きなようにふるまい、歩いたり、幌馬車に乗ったりした。山羊の夫婦は車輪のそばから離れなかった。二頭の子山羊はだいぶ大きくなり、たいていは軽やかな足取りでついてきたが、疲れると幌馬車に乗ることが認められていた──大きなめぇぇという母山羊の囁き声で、スミスは幌馬車から飛びおり、くたびれた子山羊をドーラに手渡すのだった。鶏は、豚小屋の上にのせられた二段の箱の中で不満そうに騒ぎたてていた。幌馬車を引かず自由に走っている騾馬たちに、ローパーを警戒する以外の仕事はなかったが、バックはつねにこの行列の主任進行係で、足場をえらび、ほかの騾馬を指揮し、スミスの命令を実行した。自由な騾馬と幌馬車を引く騾馬とは順番に交替したが、バックだけは決して幌馬車を引かなかった。ベティとビューラーは、引くようにいわれて感情を害した。彼女たちは鞍をのせるべき貴族であり、それを自覚していたのだ。しかしバックは彼女たちに手きびしい言葉を使い、さらに激しく噛みついたり蹴とばしたりした。彼女たちは口をつぐみ、幌馬車を引いた。
激しく追いたてることが必要とされたわけではない。使われる手綱は二本だけで、それぞれが先頭の騾馬二頭につけられ、あとにつづく騾馬の首輪をとおって先頭の幌馬車の座席へとつづき、そこでふだんは手に持つのではなく、ゆるく結ばれていた。騾馬の雄はみな種付け用だったが、バックの命令にしたがった。スミスはセパレーションで足をとめ、ほぼ一日を費して、肩の丈夫な強い雄を一頭、もっと若くて体重も軽いやつと交替したのだった。その大きいほうのやつが、バックに命令されることを承知しようとしなかったからだ。バックは勝負がつくまで戦う気でいたが、スミスは年老いた騾馬にその危険をおかさせなかった。かれにはバックの頭脳と判断が必要だったから、バックが年下の雄に負けて意気阻喪してしまうような危険をおかすわけにはいかなかった──バックが怪我をするという可能性もあるのだ。
本当に面倒なことになれば、手綱がもっとあったところでどうにもならない。もし騾馬たちがパニックにとりつかれて走りだしたら──おこりそうもないことだが、その可能性はある──ふたりの人間にそれをとめることはできないだろう。たとえ両手でつかみきれないほど何本もの手綱が取りつけてあったとしてもだ。スミスは、いかなるときにも先頭の二頭を狙い射もできるよう準備していたし、そうなってもあまり多くの騾馬がその死体につまずいて足を折らねばいいがと願い、幌馬車がひっくり返らないことを祈った。
スミスは、全種類の家畜を連れて目的地にたどりつきたかった。多種類の繁殖用つがいをふくめたほぼ八十パーセントが残っていればいいと、かれは考えていた──だがもし到着したときに、幌馬車を引かせる充分な数の家畜(少なくとも一組の繁殖用のつがいをふくめてだ)と、さらに山羊の夫婦がいれば、かれはそれを条件つきの勝利と考えることができ、結果が生になろうと死になろうと、とどまるつもりだった。
何頭の騾馬なら充分かは、はっきり決まっていなかった。旅の終りに近づけば、それは四頭という少数でも可能になる──あともどりして二台目の幌馬車を引っぱればいい。しかし、もしも絶望の峠を越える前に騾馬の数が十二頭以下になれば──引き返す。
すぐに引き返すのだ。幌馬車を一台あるいは二台とも捨て、持っていけないものはあきらめ、助けなしに旅をつづけられない動物は殺し、残った騾馬に生きた保存食料だと気づかせることなく、最小限の荷をつんで引いてゆくのだ。
もしウッドロウ・ウィルスン・スミスがびっこをひきながら、かれの妻が──流産しても生きていて──騾馬に乗って、セパレーションに帰りつけば、それでもやはり敗北じゃあない。かれには両手があり、頭脳があり、人間をかりたてるもっとも強い動機がある。守り、いつくしむべき妻の存在だ。二、三年したらかれらはふたたび絶望の峠に挑むだろう──そして、最初におかした過ちはおかさないんだ。
いまのところ彼は幸せだった。だれもが望む富のすべてを持っていたからだ。
スミスは幌馬車の座席から体をのり出した。
「おーい、バック! 晩飯だぞ」
「ばんめし」バックはくりかえし、それからさけんだ。「ばんめし! よるだ、わになれ! よるだ、わになれ!」
先頭の二頭が左にまがり、隊列が円形になるように進みはじめた。
「お陽さまはまだ高いのに」
ドーラがいうと、彼女の良人はうなずいた。
「ああ、だからさ。太陽が高くてひどく暑いから、騾馬は、みな疲れて汗をかき、腹をすかし、喉をかわかせている。連中に草を食べさせたいんだ。明日は夜明け前におきて、明るくなりしだい出発だ……あまり暑くなりすぎないうちに、できるだけ距離をかせぐ。そして、また明るいうちにとまるんだ」
「不安をおぼえたわけじゃないのよ、あなた。あたしはただ理由を知りたかっただけなの。このごろわかったんだけど、教師をしていても、開拓者の奥さんになるのに必要なことは、何ひとつおぼえられなかったわ」
「それはわかっていた。だから説明したんだよ。ドーラ、ぼくがきみに理解できないことをしたら、いつでもかならず尋ねるんだ。きみはおぼえなくちゃいけない……もしぼくに何かおこったら、すべてはきみの肩にかかるんだからね。ただし、ぼくが急いでいるように見えたときは、それがすむまで質問を待っているんだよ」
「そうするわ、ウッドロウ……いいえ、さっそくはじめるわね。あたしも暑くて喉がからからなの。あのかわいそうな騾馬たちはさぞひどいに違いないわ。もしよければ、あなたが馬具をはずしているあいだに、あたしが水をやるわ」
「だめだ、ドーラ」
「でも……ごめんなさい」
「何をいうんだい、いつでも理由を尋ねろといったばかりじゃないか。それにぼくは、説明するところだったんだ。まず一時間ほど、あいつらに草を食べさせる。そうすれば、太陽に照りつけられていても、いくらか暑さはおさまるだろう。それに、喉がかわいているから、かれらは、この背が高いかわいた草の下にある低い緑の草を探がすはずだ。それですこしは水分が取れる。そのあいだにぼくは、樽に残っている水の量をはかってみるつもりだ……それにしても、それほどないことはわかっている。昨日のうちに見ておくべきだったな。ドーラブル、ずっと上のほう、峠の下あたりに濃い緑色になったところが見えるだろう? あそこに水があると思うんだ。これまでは、ずっと乾燥していたがね……なんとかあそこにあってほしいと思うよ。ここからあそこまでのあいだ、おそらく水は見つかるまいと思うんだ。最後の一日か、あるいはもっと長いあいだ、完全に水がなくなってしまうかもしれない。水がなければ騾馬が死ぬのに長くはかからないし、人間だってそう長くはないんだ」
「ウッドロウ……そんなにひどいの?」
「そうだよ、ドーラ。それでぼくは、ずっと写真地図を調べていたんだ。ずっと以前にアンディとぼくが作った、いちばんはっきりしたやつをね。そのときぼくらはこの惑星の調査をしていたんだが……この半球では春の初めだったんでね。ザックが撮ってくれた写真はどれもたいしたものじゃないんだ。〈アンディ・J〉には調査船としての装備が整っていなかったんでね。とにかく、ぼくがこのルートをとったのは、このほうが早くいけそうだったからだ。しかし、ぼくらがここ十日のあいだに横切った小川は、どれもこれもからからに乾上がっていた。ぼくの失敗だし、それも最後の失敗になるかもしれん」
「ウッドロウ! そんないいかたは、しないでちょうだい!」
「すまん。だがいつだって、最後の失敗というやつがあるもんさ。これがそうならないように、ぼくは全力をつくす……きみに、それがおこってはいけないからだ。ぼくはただ、どれほど注意深く水を節約しなければいけないかを、きみに印象づけようとしているだけさ」
「肝に銘じたわ。お掃除や何かにもできるだけ気をつけるわ」
「ぼくは、まだはっきりさせていなかったらしいな。洗濯はまったくなしにする……顔を洗うのも、手を洗うのさえなしだ。鍋とかそんなものは、土と草で汚れをこすり落としたら太陽にさらして殺菌されることを祈るんだ。水は、飲むほか使わない。騾馬にやる水の割当量は、たったいまから半分にへらす。そしてきみとぼくは、一日に人間が必要とすると考えられている一・五リットルのかわりに、毎日半リットルでなんとかやっていこう。ああ、山羊髭夫人《ミセス・ウイスカーズ》の割合はいままでどおりにしよう。子山羊にミルクを出してやらなければいけないからな。もしそれが無理になったら、子山羊をみな殺して、彼女に水をやるのはやめる」
「まあ、あなた!」
「そうしなくてもいいかもしれないよ。だがね、ドーラ、これくらいではまだまだ窮地に陥ったとさえいえないんだ。もし状況が本当にきびしくなったら、ぼくらは騾馬を殺してその血を飲むんだ」
「なんですって! かれらは友達じゃないの!」
「ドーラ、きみのおじさんのいうことをよくお聞き。ぼくはバックとビューラーとベティを、絶対に殺さないと約束する。もしどうしてもということになったら、殺すのはニュー・ピッツバーグで買った騾馬だ。しかしとにかく、ぼくらの友人のうち一頭が死んだら……ぼくらはかれ、あるいは彼女を食べるんだ」
「とてもそんなことできそうにないわ」
「きみも本当に腹がへればそうするさ。もしきみが体の中にいる赤ん坊のことを考えたら、きみはためらうことなしに食べて、赤ん坊を生かしつづける助けをしてくれたと、死んだ友人を祝福するだろう。せっぱつまったときに、自分にできそうもないことなんか言っちゃいけない……きみにはできるからさ。ヘレンはきみに、ここで迎えた最初の冬の話をしたことがあるかい?」
「いいえ。あたしは知る必要がないといって」
「彼女にしては、おかしなことだな。それほどひどくない話をひとつしてあげよう。ぼくらは……ぼくはだが……射殺していいと命令して、昼夜別なく種子用穀物に見張りをおいた。そして、、ひとりの見張りがそうした。即決の軍法会議で、そいつは無罪になった。そいつが殺した男は、あきらかに種子用穀物を盗もうとしていたんだ……死体の口には、半分かみくだかれた穀物が入っていたよ。ところで、そいつはヘレンの亭主じゃない。彼女の亭主は紳士らしく死んだんだ……栄養失調と、ぼくにはわからない何かの熱病だった」
スミスは飛びおりると、手をのばして彼女を抱きおろして言葉をつづけた。
「バックが円陣を作ってくれたぞ。さあ仕事だ……さあ笑ってごらん、ベイビイ、にっこりと……この番組は地球に送られ、あのおしあいへしあいしている気の毒なかたがたに、新しい惑星を手に入れることがどれほど容易かをお知らせしています……さ。デュバリー芳香化粧品《デリシャス・デオドラント》提供でね。ぼくはそいつがバケツ一杯いるな」
彼女は微笑した。
「あたしのほうがあなたよりひどい匂いよ、マイ・ラブ」
「それでいいんだ、ダーリン。ぼくらはきっとやりとげられるぞ。これが成功の第一段階なのさ。ああ、そうだ! 料理に火は使わない」
「火を……はい、旦那さま」
「この乾燥した草地から出るまでは、絶対に火を使わない。どんな理由があっても火をつけちゃだめだ……たとえ、ルビーを落としちまって、見つけられなくなってもだよ」
「ルビー……ウッドロウ、ルビーをくださって本当にうれしかったわ。でもいまなら、もう一樽の水と取りかえてもいいわ」
「いや、そんなことをしちゃあだめだよ、ドーラ。ルビーはぜんぜん重くないし、ぼくは騾馬が運べるかぎりの樽をみな持ってきたんだからね。ザックが持ってきたあのルビーを、きみに贈ることができて、ぼくはほんとに嬉しかったよ。花嫁は優しくされるべきだからね。この疲れた騾馬たちの世話をしてやろうじゃないか」
騾馬の手綱をはずしたあと、ドーラは、火を使うことなく良人に何を食べさせられるだろうかと頭をしぼった。いっぽうスミスは、柵を作るのに忙しかった。柵といってもたいしたものではない。たった二台の幌馬車では、まともな防御円陣を作れるわけがない。できることといえばせいぜい、二台の幌馬車を、一方の馬車の前輪が許すかぎり直角に近くおき、それから野営地を粗末な柵でかこうぐらいのところだった──先端をとがらせたブラスウッドの杭の、それぞれ二メートルはあるやつを、ニュー・ピッツバーグではロープといってとおる代物で一本一本つなぎ、一定間隔で地面に立てるのだ。その結果は、二台の幌馬車で作られた直角三角形の斜辺にそって杭が立てられると、背の高い、胸くその悪いピケット・フェンスができあがるという寸法だ。竜の攻撃をゆるめはしないだろうが、この地域に竜はおらず、ローパーはこうした柵が嫌いだったのだ。
スミスもまたこの柵は大嫌いだったが、しかしこれはまったくニュー・ビギニングズ産の材料だけでできており、器用な人間なら修理でき、それほど重くないし、捨ててもたいして惜しくない……そして金属は、まったくふくまれていないのだ。スミスは二台の頑丈なボートの船体を使ったコネストーガ型の馬車をニュー・ピッツバーグで買うのに、代金の一部として別の幌馬車二台用の金属を提供するだけでよかった──その金属は〈アンディ・J〉で何光年ものかなたから輸入されてきたものだった。ニュー・ピッツバーグは、ピッツバーグ≠謔閧ヘるかに|新し《ニュー》≠ゥった。そこには鉄鉱石と石炭があったものの、金属工業はいまだに原始的なものだったのだ。
鶏や雌豚や山羊、それに人間さえもが、野生のローパーにとってはたいへんなご馳走だった。しかし、山羊の親子を柵の中に追いこみ、鼻のきく番犬二頭と、まわりで草を食べている騾馬十六頭がいるおかげで、スミスは夜もほとんど不安をおぼえなかった。ローパーが騾馬を殺すこともあるのは本当だが、騾馬がローパーを殺すことのほうが、はるかに可能性が大きかった──ほかの騾馬たちの群が取りかこんで、この食肉獣をふみ殺すのを助けるからだ。これらの騾馬はローパーから逃げなかった。かれらは、ローパーに立ちむかうのだ。スミスは、そのうちに騾馬が有害動物を一掃してしまうかもしれないと考えた。人間がする以上にかれが若かったころのピューマと同じぐらい珍しい存在にしてしまうかもしれない、と。
騾馬にふみつぶされたローパーはすぐ、ローパー・ステーキ、ローパー・シチュウ、ローパー保存肉にと変えられた──それに、犬と猫の餌となったし、雌豚のミセス・ボーキイは、残った内臓や屑肉を喜んで食べた──騾馬たちにとってまったく損はなかったのだ。スミスはどんなふうにしても、ローパーをあまり好きになれなかった。その肉はかれの好みからすると、あまりにも強烈な味だったのだ──だが、何もないよりはましだったし、運んできた食料を使いすぎずにすんだ。ドーラは良人と違ってローパーの肉を嫌ったりしなかった。この土地で生まれ、ごく幼いころからときどきそれを口にしてきていたから、彼女にとってはふつうの食べ物と思われたのだ。
しかしスミスは、ローパーがもともと餌にしている草食動物を一頭しとめる時間があればいいがと思った──そいつはローパーと同じ六本足だが、あとは奇形のオカピといったところだった──その肉のほうが、はるかにくせがなかったからだ。それは草原山羊と呼ばれていたが、山羊ではなかった。ニュー・ビギニングズの動植物相の系統だった分類は、まだあまり進んでいなかった。いまのところは、そうした知的贅沢のための時間はなかったのだ。スミスは一週間前、幌馬車の上から一頭の草原山羊をしとめた(いまではそのうまい柔らかな肉も、ほろ苦い思い出でしかなかった)。スミスは、絶望の峠を無事越えるまで、狩りのために一日とることは正当化できないと思っていたが、もう一度、偶然しとめられることを願いつづけていた。
たぶんいまなら──
「フリッツ! レイディ・マクベス! こっちへ来い!」二頭の犬はかけよってくると命令を待った。「上から見張るんだ。ローパーと草原山羊だ! 上がれ!」
犬はすぐ先頭の幌馬車に飛びのった。二回ジャンプするとあとはよじ登る、踏み板から腰掛け、そして湾曲した幌のてっぺんへと。そこで二頭は仕事を分担し、右側と左側をそれぞれ見張る──そして下におりるよう命令されるまでそこにとどまるのだ。スミスはその二頭に法外な代金を支払ったのだが、かれはいい犬だということを知っていた。かれが地球でその二頭の先祖を選び、第一波の移民団とともにつれてきたものだからだ。スミスがいかなる意味においても犬好き≠セったわけではない。ただかれは、地球でそれほど長くつづいた協力関係は、他の惑星でも同じで、人間の役に立つだろうと信じただけだった。
ドーラは良人の言葉で水をかけられた想いだったが、いったん忙しく働きだすとすぐ元気になった。まもなく、ほとんど選択の余地がない献立の中から、しかも火を使わずにできるものを作ろうと考えているうちに、彼女は腹が立つことにぶつかった──それはいいことだった。そのおかげで彼女の不安は追い出されたからだ。そのうえ彼女は、自分の良人が何かに失敗することがあるなどとは本気で信じてはいなかったのだ。
彼女は二台目の幌馬車の端にまわって、小さな囲い地を横切り、柵がしっかり立っているかどうかを良人がたしかめているところへ行った。
「まあ、うるさい雄鶏ね!」
ウッドロウはふりむいた。
「ハニー、|日よけ帽《サンボンネット》だけのきみって可愛いよ」
「日よけ帽だけじゃなくてよ。ブーツだってはいてるわ。あのやかましい雄鶏が何をしたか聞きたくない?」
「それより、きみがどう見えるかを話しあいたいね。つまり、ほれぼれするってことさ。それでも、きみの服装は気に入らないね」
「なんで? でもあんまり暑いんですもの。体を洗えなくても、風浴《エア・バス》ですこしはましな匂いになるかもしれないと思ったの」
「ぼくにはいい匂いだよ。だが、エア・バスというのはいい考えだ。ぼくも服をぬごう。きみの拳銃は……ナイフと拳銃をつけたベルトは、どこにやったんだい?」
かれは作業衣《オーバーオール》をぬぎはじめた。
「あたしにいま、ガン・ベルトをつけさせたいの? 柵の中なのに? あなたがここにいて守ってくれるのに?」
「訓練だし、ふつうの用心だよ。|ぼくの可愛い《マイ・ラブリィ・ワン》」
かれは自分の拳銃とナイフのついたベルトをぐいと引っぱって、裸の腰にきちんとつけなおすと、作業衣のズボンから足を出し、それからブーツとシャツをぬいだ。服を着ているときには見えなかった他の武器を三つとベルトを残して、あとはすっ裸だ。
「考えたくないほど長い年月のあいだ、どこか安全な場所に閉じこもっているとき以外、武装していなかったことはない。ぼくはきみに、その習慣を身につけてほしいんだ。ときどきではなく、いつもだよ」
「はい。あたしのベルトは座席においてあるの。ちゃんとつけます。でもウッドロウ、あたしはどうみても、いい戦士になれそうにないわよ」
「きみはそのニードル・ガンを五十メートル先のものに、かなり正確に命中させられるじゃないか。それにぼくと長く暮らせば暮らすほど、どんどんうまくなっていくさ。ニードル・ガンだけじゃない。ほかの武器でも、射ったり、切ったり、焼いたり、あるいはひどい傷痕を作ったりすることだってできるようになるよ。素手から熱線銃までなんでも使ってね。あそこを見てごらん。ドーラブル?」かれが指さした先には平原しかなかった。「あとほんの七秒もすると、毛むくじゃらの野蛮人の群があの丘のむこうからぞくぞく姿を現わして、攻撃してくる。ぼくは太腿を槍でつらぬかれ、倒れる……そのあとは、きみがぼくたちふたりのために、そいつらを撃退しなければいけないんだ。そうしたらどうするつもりだい、かわいそうなおちびさん、きみの銃を幌馬車の座席におきっぱなしにしておいて?」
「そうね……」──彼女は足をひらき、両手を頭のうしろに上げ、体をこきざみにゆり動かして、エデンの園で発明された悩ましい尻ふりをして見せた。いや、そのすぐ外で発明されたものかもしれないが──「そいつらには、この手を使ってやるわ!」
ラザルスは考えこんだ表情で賛成した。
「ああ……そいつはきつときくだろう。もしそいつらが人間ならね。だが違うんだ。そいつらが背の高い、美人の、茶色の目をした娘たちに持つ興味はたったひとつ、食べることだけさ。骨も皮も何もかもだ。馬鹿なやつらだが、そのとおりなんだ」
彼女はすなおに答えた。
「はい、あなた……行ってガン・ベルトをつけてきます。それからあなたに槍をつき刺したやつを殺すわ。そして、食べられてしまう前に、あと何人やっつけられるか試してみるから」
「それでいいんだ、|元気な《デューラブル》ドーラブル。いつでも名誉を守れるようにすることだね。もし死ななければいけないなら、戦って死ぬんだ。名誉をどのように守るかが、地獄におけるきみの地位を決めるんだから」
「わかったわ。きっと地獄だって楽しいわよ、あなたが来てくださるなら」
「ああ、ぼくは行くとも! ほかのどこへも行かしてくれないだろうからね。ドーラ! ガン・ベルトをつけたら、日よけ帽とブーツはぬいでくれ……そしてルビーをつけるんだ、全部だよ」
彼女は片足を幌馬車のステップにかけて立ちどまった。
「ルビーをですって、あなた? こんな草原のまん中で?」
「ひょろひょろリル、ぼくがあのルビーを買ってあげたのは、きみがそれを身につけ、そしてぼくがその姿を讃美するためなんだぞ」
彼女の顔にさっと微笑がひろがり、それはふだんのまじめな表情を陽光のように明るく変えた。ついで幌馬車の中へ飛びこみ、姿を消し、まもなく出てきたときには武器をつるしたベルトといくつものルビーを身につけていた。何秒かを髪をとかすのに使ったらしく、その髪は長く、栗色で、つややかに輝いていた。二週間以上も体を洗えずにいることなど目につかなかったし、魅惑的な若々しい美しさは、すこしもそこなわれていなかった。彼女はステップの上で立ちどまり、かれに微笑みかけた。かれはいった。
「動かないで! 完璧だ! ドーラ、きみはぼくが生まれてこれまでに会ったうちで最高の美人だよ」
彼女はまた微笑んだ。
「そんなこと信じないわよ、あたしの旦那さま……でも、これから先もそういってほしいわ」
「マダム、ぼくは嘘をつけないんだ。そういったのは、本当だからというだけのことさ。ところできみは、雄鶏がどうしたとかいってたね?」
「ああそうだわ! あの小さな悪党ったら、わざと卵を割ってるっていったのよ! こんどは現場をおさえたわ。くちばしでつついていたのよ。生みたての卵がふたつも割れていたわ!」
「帝王の特権っていうところさ。その一個がかえったら雄鶏だったなんてことにならなければいいが」
「あいつの首をひねってやるから! もし火をおこしていいのなら、いますぐそうしてやるのに。ダーリン。あたし、まだあいていないものをあけずに、冷たいままで食べられるものはないかと考えていたの。そして頭に浮かんだのが、なま卵の中にくだいた塩味クラッカーを混ぜれば、なんとか食べられるだろうということだったの。でも今日は卵が三個しかないっていうのに、あいつ、自分が雌鶏に生ませた卵を二個割ってしまったわ。どちらの檻にもたっぷり草を入れたのよ。もう一方の檻の卵には、ひびさえ入っていないのに。憎らしいったらありゃしない。ウッドロウ、どうして二羽も雄鶏がいるの?」
「ぼくが投げナイフを二本身につけているのと同じ理由からさ。スイートハート。目的地について最初の雛をかえし予備の雄鶏ができたら、ぼくらはそいつを主賓《ゲスト・オブ・オナー》にして鶏肉団子が食べられるよ。それまではだめだ」
「でも、あいつに卵を割らしつづけるわけにはいかないわ。今夜のお食事はチーズと堅パンだけよ……あなたがあたしに何かをあけさせたくなければね」
「あわてることはないさ、フリッツとレイディ・マックがいま獲物を見つけようとしているところだ。草原山羊がいればいいんだが。だめならローパーでもいい」
「でも肉が料理できないわ。おっしゃったでしょ。しちゃいけないって」
「生を食べるんだよ。草原山羊の尻肉をごく薄く切って、堅いクラッカーの上にのせるのさ。ビーフ・タルタル・ア・ラ・ニュー・ビギニングズだ。うまいぞ。女の子と同じぐらいいい味だ」
かれは唇を鳴らした。
「そうね……あなたに食べられるなら、あたしだって食べられるわ。でもちょっと待って、ウッドロウ、あなたが冗談をいっているのかどうか、あたしにはわからないわ」
「食べ物や女性のことで冗談などいうものか、ドーラブル。そのふたつは神聖なものなんだからね」かれはまた、彼女の全身に視線を走らせた。「女性といえば、ルビーをつけたきみはすばらしいよ。だがなぜ、腕輪を足首にするんだい?」
「だってあなた、三つも腕輪をくださったのよ。指輪やペンダントも。そして、それを全部つけろといわれたんですからね」
「そういったよ。でもこれはどこから来たんだ?」
「だめ! それはルビーじゃないわ。あたしよ!」
「ルビーみたいに見えるぜ。そっくりのがこっちにもあるぞ」
「あぁん! あたしルビーを取ってしまったほうがいいわね? そうすれば、なくさないですむわ。それども先に騾馬に水をやるべきかしら?」
「食事をする前にって意味かい?」
「あぁ……そう、そういうことみたいね。いじわる」
「どうもきみのいうことは、はっきりしたいな、小さなドーラ。ギビーおじさんに、何が欲しいかいってごらん」
「あたしは|小さな《リトル》ドーラ≠カゃなくてよ。あたしはひょろひょろリル=Aセパレーションの南でいちばん好色な女よ……あなたが自分でそういったわ。あたしは呪い、罵り、つばを吐きかけもする。あたしはラザルス・ロングの妾よ、宇宙最高の種馬で、どんな男が六人がかりよりうまいラザルス・ロングのね……あなただって、あたしが欲しいものが何かよくわかっているくせに。もう一度あたしの乳首をつまんだら、あたしあなたをひっくりかえして強姦しちゃうから。でもあたしたち、騾馬に水を飲ませないといけないようね」
ミネルヴァ、ドーラと一緒にいるのは実に楽しかった。いつでもだ。肉体的な美しさからじゃあない……いずれにしても、ふつうの基準からすれば、それほど飛び抜けたものではなかった──とはいえ、ぼくにとって彼女は申しぶんなく美しかった。それに、性愛《エロス》をわかつことに彼女が示す熱烈な興味のためでもなかった──彼女はまったく熱心だったがね。いつでも用意ができていたし、いつでも短時間でヒューズが飛ぶんだ。そしてそれに熟練し、さらに腕を上げていった。セックスは学んでおぼえる技術だ。アイス・スケートや綱渡りや飛込み競技と同じで、本能じゃあないんだ。ああ、動物は二匹で本能にしたがい交尾する。だが性交を高度の、生命力に満ちた芸術とするためには、知性と忍耐強い熱意が必要だ。ドーラはそれがうまかったし、さらにどんどんうまくなった。いつでも学ぶのに熱心で、性的倒錯や馬鹿げた偏見を持たずに、自分が学んだことや教えられたことは、なんでも根気よく進んで実行した──その感心な性質こそが、汗まみれの運動を命のこもった秘蹟に変えるんだ。
だがね、ミネルヴァ、愛とは欲情していないときでも、やはりつづくものなんだ。
ドーラはどんなときでもいい相棒だったし、事態がきびしくなればなるほど、さらにいい相棒となった。ああ、鶏は自分の責任だったから、彼女は割れた卵のことで不平をいった。だが、自分の喉が乾いているからといって、こぼしたりはしなかった。その雄鶏をなんとかしろとぼくにやかましくいうかわりに、彼女は何をしなければいけないかを考え出し、それを実行した──卵を割るやつの足をしばって寝かせ、雌鶏をみなもう一羽の雄鶏といっしょにし、それからふたつの檻のあいだの仕切りを動かしたのだ。それで小さいほうの雄鶏は独房に入れられることになり、ぼくらはもう卵を失わなくてすんだ。
しかし本当に苛酷な状況は、ぼくらの行手に横たわっていた。彼女はそのあいだまったく不平をいわなかったし、ぼくが説明する暇のないときに手に負えなくなったりもしなかった。ミネルヴァ、その旅の大部分はゆるやかな死だったし、そうでない部分は、あっという間の死となるかもしれない不意の危険だった。彼女は前者においてこの上なく忍耐強かったし、後者の場合にはいつも冷静にぼくを助けてくれた。ミネルヴァ、きみは恐るべき知識のかたまりだ──だがきみは都会っ子で、ずっと文明化した惑星にいた。いくらか説明しておいたほうがいいだろう。
たぶんきみは、自分に尋ねつづけていたはずだ。「この旅は必要なのだろうか?」とね──そして、もしそうだとしても、なぜそれほど困難な方法でするのだろう、とだ。
必要だったんだ──ハワード・ファミリーの者が絶対にするべきでないこと、つまり、短命人種との結婚をしてしまったあとで、ぼくには三つの道が残されていた。
彼女をつれて、ハワードの連中のあいだで暮らすこと。ドーラはそれを拒否した……そしてぼくは、もし彼女がイエスといっていたら、思いとどまってくれと説得に努めていたことだろう。長命人種の社会にひとりぼっちで飛びこんだ短命人種は、ほぼ確実に自殺を求めるまでの抑鬱状態におちいる。ぼくは友達のスレイトン・フォードのときが初めてだったが、それから何度となくそういうのを見ているんだ。ぼくはドーラに同じことがおこってほしくなかった。彼女の一生が十年であろうと千年であろうと、ぼくは彼女にそれを楽しんでほしかった。
またぼくらは、トップ・ダラーにとどまることもできたし、それに──同じことだが──そのころその惑星上で植民されていたごくせまい地域にある村々のどれかのそばに住んでもよかった。ぼくはもうすこしのところで、それを選ぶところだった。ビル・スミス≠ニしてのごまかしは、うまくいくはずだからだ──しばらくのあいだはだが。
しかしそれも、ほんの短いあいだのことだ。ニュー・ビギニングズに住む数少ないファミリーはーぼくの思い出すかぎり、マギー一家とあと三家族だけでね──みんな正体を隠してやっできたんだ──ハワード・ファミリーの用語では仮面政策《マスカレード》というやつさ──そして簡単なごまかしで、かれらはうまく事態に対処し、決して尻尾をつかまれなかった。マギーおばあちゃんは死ぬ≠アとができる。それから別のハワード・ファミリー農場にデボラ・シンプソン≠ニして姿を現わすんだ。惑屋上に人がふえるにつれ、それをやってのけるのはいっそう容易になった──特に第四波が到着したあとでは、その全員が冷凍睡眠で運ばれてきており、たがいにまったく知り合いになっていなかったからだ。
だがビル・スミス≠ヘ短命人種と結婚した。もしぼくが植民された土地の近くにとどまっていたら、髪を染めることに細心の注意を払わなければいけなかったはずだ──頭髪ばかりでなく、何かの事故で正体がばれないように全身をだ──そして一妻と同じ速度で年をとる≠アとに気をつけるんだ。もっとまずいことにぼくはアーネスト・ギボンズ≠よく知っている人々を避けなければいけない──つまり、トップ・ダラーにいる住民のほとんどをだ──さもないと、だれかがぼくの横顔を眺め、声を聞き、そしておかしいと思いはじめるだろう。ぼくには整形手術とかそういったものを受ける機会がなかったからだ。ほかのときはというと、名前と身元を変える必要があるときには、ぼくはいつも同じく土地まで変えていたのだ。それが唯一の、絶対失敗しない方法だったからだ。整形手術だってそう長いあいだ隠してくれない。ぼくはあまりにも容易に再生してしまうからだ。一度鼻を低くしたことがある(それに代わる方法としては頸を短くすることしかなさそうだったんだ)。十年後、鼻はいまのとおりになっていた。大きくて醜くね。
ぼくがハワードの一員であることを暴露されることに、神経質になりすぎていたということじゃあないよ。だがもし仮面をつけて暮らさなければいけないとなったら、そうした外観を考える技術に気をつければつけるほど、ぼくが彼女と違うという事実に、ドーラは鼻つきあわせなきゃいけなくなる──何ごとよりも悲しい違い、良人と妻がまったく違う時間の速度で走っているということに。
ミネルヴァ、ぼくには、可愛い新妻を公平《フェア》にあつかうことのできる唯一の方法は、彼女を長命・短命人種のどちらからも引き離し、ぼくがごまかしをやめられる場所、ぼくらが違いを無視し、それを忘れ、幸せになれるところへ行くことだと思ったんだ。そこでぼくは、他の人間がひとりもいない場所へ彼女をつれてゆくことを決心した。彼女と結婚したその日、町へもどるまでのあいだにそう決心したんだ。
それこそが、他の場合なら不可能なはずの状況に対して、もっともいい答のように思われた。しかし、パラシュート降下のように、一度飛びおりたらもどれないというものではない。もし彼女があまり淋しがるようになったら、もしぼくの不細工な顔を見るのをいやがるようになったら、ふたたび開拓地へつれてかえればいい。彼女がまだ若くて、もう一度結婚相手をひっかけられるうちにだ。ぼくはそのつもりでいたんだよ、ミネルヴァ。女房の何人かは、実に早くぼくに飽きたからだ。ぼくはザック・ブリッグズと打ち合わせておいたし、同時にジョン・マギーがザックの代理人として動いてくれるように話をつけておいた──ジョンに、ビル・スミス≠ニあの可愛い女教師はどうしたのか尋ねるように、ザックと打ち合わせておいたのだ。いつの日か、ぼくは惑星から逃げ出すことが必要になるかもしれないからだ。
しかしなぜ、ザックにぼくらを下ろさせなかったのか? ぼくらが落ちつくのにふさわしい場所として、地図の上で選んだ地点へ──開墾をはじめるのに必要なあらゆるものとともにだ。そうすれば、長い危険な旅を避けられるというのに。喉の乾きやローパーの襲撃による死の危険や、山越えの苦難といったようなものを避けられたのに。
ミネルヴァ、これはずいぶん昔の話だから、説明するのに、当時その土地で利用できた科学技術のことが出てくるのは仕方がないんだよ。〈アンディ・J〉は着陸できなかった。徹底的な修理は、セカンダスか、どこか他の文明が進んだ惑星の周回軌道上で受けるのだ。付属の貨物輸送船は広くて平らな土地ならどこにでも着陸できたが、目標にむかうために最低限、レーダー・コーナー・リフレクターが必要だったし、それからふたたび離陸するためには何百メートル・トンもの大量の水が必要だったんだ。それで、船長のひとり乗り上陸艇が、熟練したパイロットなら助けなしにどこへでも離着陸できる唯一の船だった。しかしその積載能力はだいたい切手二枚というところで──ところがぼくには、騾馬や鍬やその他のものがひと山あったんだ。
そのうえぼくは、そうした山々の中へ入ってゆくことによって、そこから出る方法を学ぶ必要があった。またつれ出せるというはっきりした確信なしに、ドーラをそこへつれてゆくこともできなかった。公平《フェア》ではないからだ。開拓者の母にむいていないことは罪じゃあない──しかしそれを悟るのが手遅れになっては、良人と妻のどちらにとっても悲劇だ。
だからといって、ぼくらはわざわざ困難な方法をとったわけじゃあない。それがそのときその場所では、唯一の方法だったんだ。しかし、宇宙船が離陸するときの質量計算も、その旅に何を持ってゆき、何をはぶくかを決めるのに費した骨折りにくらべると、ものの数でもなかった。まず、基本となる補助変数《パラメーター》だ。隊列に入る幌馬車は何台か? ぼくは幌馬車三台があまりにも欲しかったので、その匂いがしてくるほどだった。三台目の幌馬車があれば、ドーラのためには贅沢品を、ぼくのためにはもっと多くの道具を、その他にぼくらふたりはもっと多くの本だのなんだのを積みこむことができるのだ。そして(何よりいいのは!)むこうについたらほとんどすぐに、雨風からぼくの妊娠している花嫁を守ってくれるプレハブ構造の小屋もだ。
しかし、三台の幌馬車を引くには十八頭の騾馬が必要だし、そのうえ予備の騾馬もいる──大ざっぱに勘定して、六頭だ──というのは、馬具をつけたりはずしたりするのに、一倍半の時間がかかることになる。水をやったり、その他の世話をするのも同様だ。充分な数の幌馬車と騾馬を加えると、同時に一日の行程分がゼロになる。男がひとりでは仕事をさばけないからだ。さらに悪いことに、山脈に入ると、幌馬車の連結をはずして一度に一台ずつ、もっとひらけたところへ運ばなければいけないような場所があるかもしれない──あとに残した幌馬車のところへもどって、それを運びあげるのだ──そうなれば、二台の隊列にくらべ、三台の隊列にかかる時間は三倍になるし、そうした事態がおこるのも、二台よりは三台のほうが、はるかに頻繁になるだろう。その調子では、最初の赤ん坊が生まれる前に目的地に着くどころか、途中で三人は生まれるに違いない。
ニュー・ビッツバーグで手に入る旅行用の幌馬車が二台しかないという事実で、ぼくはそうした愚行から救われた。どのみちその誘惑には打ち克っていたろうと思うが──ぼくはトップ・ダラーから乗っていった軽便馬車に三台分の金物《かなもの》をのせてゆき、それを車大工のところで物々交換し、あまったぶんの金物で、ほかの物資を手に入れた。ぼくはそいつが三台目の幌馬車を作るあいだ待っていられなかった。その年のシーズンと、ドーラの子宮のシーズンの両方で、最終期限が決められていたからだ。
幌馬車を一台だけにすることについては、もっと問題がある──何世紀ものあいだ、いくつもの惑星で、陸路を進む移民は定評ある装備として、一家族に一台の幌馬車を使ってきた──ただし、かれらが集団で旅をする場合だ。ぼくはそうした隊列を何度かひきいたことがある。
だが、たった一台だけで旅をすれば──一度の事故が破滅になりうる。
それに反して、幌馬車が二台になれば二倍以上役にたつし、旅のあいだ生命を保障してくれる。一台を失っても、もう一度隊列を組みなおし、進みつづけることができるのだ。
それで幌馬車は二台と計画したんだよ、ミネルヴァ、ザックから幌馬車用の金物を借りて、最後の最後まで三組目を売らなかったけれどもだ。
さて、幌馬車の旅で生き残るためにつみこむべき荷物はというと──
まず、必要になると思われるものすべてを、持っていきたいもののすべてを書き出すのだ。
幌馬車、予備の車輪、予備の車軸
騾馬、馬具、予備の金属と馬具用の皮、鞍
食料
衣服
毛布
武器、弾薬、修理用具一式
医薬品、衛生用品、外科用器具、包帯
馬鍬
熊手
シャベル、手すき鍬、鍬、種まき用具、それぞれ先が三本、五本、七本の股鍬
刈取り機
鍛冶屋の道具
大工道具
鉄製料理用ストーブ
水洗便所、自動水洗型
石油ランプ
風車とポンブ
風力で動く製材用鋸
皮細工と馬具修理のための道具
ベッド、テーブル、椅子、皿、壺、鍋、その他の食事用および料理用道具類
双眼鏡、顕微鏡、水質検査器具一式
砥石
手押し車
攪乳器
バケツ、ふるい、小さな金物類
乳牛と種付け用雄牛
家畜用および人間のための塩
容器に入れた酵母《イースト》、酵母《イースト》スターター
種子用穀類、各種
胚芽もともに製粉するための挽き臼、肉挽き器
そこでとまってはだめだ。大きく考えろ。すでにずっと長い幌馬車隊にさえ無理なほどつみこみすぎてしまったことなど、気にしなくていい。想像力をふるいおこし、〈ァンディ・J〉の積荷目録を点検しろ。宇宙船そのものを調べ、リックの雑貨屋をのぞくんだ。ジョン・マギーに話して、かれの家と農場と離れを全部見てまわれ──いま忘れていたら、取りにもどるのは不可能なんだぞ。
楽器、筆記用具、日記、カレンダー
赤ん坊の衣服、新生児用品一式
糸車、環状の取っ手、裁縫道具──羊だ!
タンニン、皮をなめす道具と材料
掛時計、腕時計
根野菜、根のついた果樹の苗木、その他の種子
その他、その他、その他……
さあ、削りはじめよう──入れ替え──重さを測るんだ。
雄牛、雌牛、羊は除く、毛が長くて刈れる毛を持つ山羊を、そのかわりにするのだ。おい、大ばさみを忘れているぞ!
鍛冶屋の店は残すが、鉄床《かなとこ》と最小限の道具類に規模を縮小しよう──ふいごは、自分で作らなければいけない。だいたいにおいて、木製品は除き、錬鉄原料をすこし重くても持っていかなければいけない。おまえは、自分に作れるとは知らなかったものを作ることになるだろう。
刈取り機は、柄と禾配架《かはいか》つきの草刈り鎌になる。予備の刃を三枚持っていこう。熊手は取り消しだ。
風車は残すし、製材用の鋸も残す(いささか驚きだが!)──しかし最小限の金物類だけだ。どちらを使うのも、ずっと先のことになるだろう。
本は──なくても生きていける本はどれだい、ドーラ?
衣服の量は半分にへらし、靴の数を二倍にする。そしてブーツをもっとふやし、子供の靴も忘れないこと。いかにもぼくは、モカシン(北米原住民の踵のない靴)やマクラク(エスキモーの長靴)といったものの作りかたを知ってはいるがね。そうだ、蝋を塗りつけた糸をつけたそう。滑車装置に、ガラスとプラスチック繊維でできたいちばんいいロープを買っていかなければな。さもないと峠を越せないだろう。金があってもどうにもたらない。重さと体積が重要なのだ──ぼくらの全財産は、騾馬たちが問題の山峡を通って運んでいけるものなのだ。
ミネルヴァ、ぼくにとってもドーラにとっても幸運だったのは、それがぼくの六回目の開拓旅行であり、幌馬車に荷物をつみこむことになる前に、長年にわたって宇宙船にどれだけの荷物をつみこむかの計画をたてていたことだった──原理は同じだった。宇宙船は銀河の幌馬車だ。積荷を騾馬が引っぱれる重さにへらし、それからどれだけ惜しくてもさらに十パーセントを除く。折れた車軸は──取り換えられない場合は──折れた頸と同じことだからだ。
そして、持っていく水をもう九十五パーセントふやす。運んでいる水は、毎日へっていくものだからだ。
編み針もいるぞ! ドーラは編み物ができるだろうか? もしできなければ、教えてやるさ。ぼくは宇宙での孤独な時間を、セーターやソックスを編んで何時間もすごしたものだ。糸は? ドーラが山羊の刈り取った毛をすいて、いい糸を作れるようになるには、時間がかかるだろうが──それからは旅のあいだ、彼女は赤ん坊の服をあみつづけ、幸せな気分でいられるわけだ。糸はたいして重くない。木の針は作れる。鉤針《かぎばり》だって屑鉄から作れるが、どちらもリックの店で買うことにしよう。
ああ、なんてこった。あやうく斧を持ってゆくのを忘れるところだったぞ!
斧の頭をいくつかに、柄が一本、鉈《なた》、鶴嘴《つるはし》──ミネルヴァ、ぼくはつけたし、削り、捨て、ニュー・ピッツバーグであらゆるものの重さを測った──それでも、そこからセパレーションへむけて三キロと行かないうちに、荷物をつみすぎたことに気づいた。その夜ぼくらはある入植者の小屋で足をとめ、新しい三十キロの鉄床《かなとこ》をそいつの十五キロのやつと、胸が痛くなる想いで交換した。ぼくの心臓に近いところの肉を一ポンドつけてやったようなものだ。あとでくやむことになるだろうが、そのほかの重い品物も、燻製にしたハムやベーコンと交換した。それと騾馬のために玉蜀黍《とうもろこし》をもう少し──これは非常食料にもなる。
ぼくらはセパレーションで、もう一度荷を軽くした。そして樽をもう一個手に入れ、それに水をいっぱいつめた。それをおく余地ができていたし、水をつみすぎて重くなっても、それはひとりでに修正されるものだとわかっていたからだ。
その余分の樽が、ぼくらの命を助けてくれたのだと思う。
ラザルス−ウッドロウが指さした|絶望の峠《ホープレス・パス》ちかくにある緑色の部分は、進むにつれて、かれが希望していたより遠いことがわかった。そこへむかい、やっとの想いで進んだ最後の日には、人間も騾馬も、前日の夜明けから一滴も水を飲んでいなかった。スミスはめまいをおぼえた。騾馬はほとんど仕事ができる状態でなくなり、首をたれ、のろのろと進んだ。
ドーラは、良人が水を飲むのをやめると、自分もそうしたがった。かれは彼女にいった。
「ぼくのいうことをお聞き、馬鹿なお嬢さん。きみは妊娠しているんだよ。わかるかい? それともきみを納得させるには大喧嘩しなければいけないのかな? 騾馬たちに飲ませたとき、ぼくは四リットル残しておいたんだ。きみも見たろう」
「あたし、四リットルも要らないわ、ウッドロウ」
「お黙り。それはきみと、雌山羊と、鶏のためだ。それに猫も……猫にはたいして必要ないからな。ドーラブル、それだけの水は、十六頭の騾馬で分ければなんの価値もなくなってしまうんだ。だが、きみたちおちびさんが分けあっているぶんには、かなり長いあいだ持つだろうよ」
「わかりましたわ、旦那さま。ミセス・ポーキイはどうするの?」
「ああ、あのいまいましい雌豚か! そうだな……今夜キャンプを張ったら、ぼくが半リットルやることにしよう。ぼくが自分でやるよ。あいつは容れ物を蹴とばして、きみの親指をくいちぎりそうだからな、そんな感じだよ。よし、ぼくが自分できみに飲ませる。量を測って、きみがちゃんと飲むかどうか見とどけるさ」
しかし、長い一日と眠られない一夜が過ぎ、さらに果てしなくつづく一日が終るころ、かれらはようやく最初の木立ちにたどりついた。そこはほとんど涼しくさえ感じられ、スミスは水の匂いがすると思った──かれには見えなかったが、どこかにだ。
「バック! おい、バック! 円陣だ!」
騾馬たちのボスは答えなかった。かれは一日じゅう口をきいていなかったのだ。それでもかれは隊列をぐるりとまわし、二台の幌馬車をくっつけ、馬具をはずしやすいようにと先頭の二頭をおしてVの形にした。
スミスは犬を呼び、水を探がしにいけと命令してから、馬具をはずしはじめた。何もいわずにかれの妻もそれに加わり、スミスが左側の列の馬具をはずすあいだ、彼女は右側の馬具をはずしていった。かれは妻の沈黙がうれしかった。ドーラは人の感情をテレパシーで察するのだと、かれは思った。
さて、もしぼくがこのあたりのどこかにある水だとしたら、いったいどこにいるだろう? 魔法で呼び出すか? それともまず、地表を探がすか? この木立ちから小川が流れ出ていないことはかなり確実と思われたが、下り斜面をすっかり歩いてみなければ、はっきりしたことはいえない。ビューラーに鞍をつけるか? とんでもない、ビューラーはかれよりずっと参っているのだ。かれは二台目の幌馬車の側面から、ひと巻きにしてあった、杭からなる柵をほどきはじめた。この三日間、ローパーの姿を見ていなかった。それは、野獣とつぎに面倒をおこすのが三日近づいたことを意味していた。
「ドーラ、もしできそうなら、これに手を貨してくれないか」
彼女は、良人がこれまで決して囲いを作る手伝いをさせなかったことについて、ひとこともいわなかった。彼女はただ、かれがどれほどやつれ、疲れて見えるかに心を痛め、そして自分がこっそり盗み出して隠してある四分の一リットルの水のことを考えた──どうしたら、それを飲むように彼を説得できるかしら?
ふたりが仕事を終えたちょうどそのとき、フリッツが遠くで興奮して吠えるのが聞こえてきた。
ミネルヴァ、それは、小さな水たまりだったんだ──岩の表面からしたたり落ちる細い流れが、二メートルほど流れて、どこにも出口のない水たまりを作っていた。よそに流れ出ないのはその季節だけだ、というべきだろう。雨期にはそれがどこへあふれるか、ぼくは見ることができたからだ。ぼくはまた、動物の足跡をたくさん見ることができた──ローパーや草原山羊の足跡のほか、なんとも見分けられないもっと多くの足跡があった。ぼくには、自分を見ている多くの目があるかもしれないという感じがして、後頭部に目を生やそうとした。泉のそばはうす暗かった。樹々と下生えはよそより密生していたし、太陽は沈みかけていたのだ。
ぼくはジレンマに陥っていた。放されている騾馬のどれかが、なぜ犬と同時か、あるいはもっと先にこの水たまりを見つけなかったのか、ぼくにはわからなかった。騾馬は水をかぎつけることができるのだ。いずれにしても騾馬たちがまもなくここに来るのは確かだったし、ぼくはかれらにあまり急いで水を飲んでほしくなかった。騾馬は賢いが、喉が乾いていれば、大急ぎで、しかも飲みすぎるだろう。ぼくの騾馬はみな、ものすごく喉を乾かせている。ぼくは一頭ずつ自分で監視したかった。かれらに、水の飲みすぎで病気になられては困るのだ。
それとぼくは、かれらに水たまりの中へ入りこんでほしくなかった。水たまりは澄んでいた。澄んでいるように見えた。
犬たちが水を飲みおえた。ぼくはフリッツを見て、かれが騾馬ぐらいしゃべれたらと思った。何か書くものを持っていたろうか? いや、あいにく何もない──フリッツにドーラを呼んでこいと命令したら、かれはそう努めるだろうが──でも、彼女は来るだろうか? 彼女には、ぼくがもどるまで囲いの中から出るなと、きっぱりいっておいたのだ。ミネルヴァ、ぼくは頭がはっきりしていなかった。暑さと渇《かわ》きにやられたんだ。ドーラには、何かおこったときの指示をしておくべきだった……ぼくがあまり長いあいだ帰らず、そして暗くなりはじめたら、彼女はなんだろうとかまわずぼくを探がしにやってくるだろうからだ。
畜生、ぼくは、バケツを持ってきさえしていなかったんだ!
そうこうしている間に、ぼくは少なくとも水を手ですくって二杯ほど飲むだけの分別は持っていた。ギデオン(ユダヤの勇士、旧約聖書士師記七章)式にね。それでいくらか頭がすっきりしたらしい。
ぼくは作業衣の吊り紐を落とし、シャツをぬいで、それを水につけた。そしてそれをフリッツに与えた。
「ドーラを見つけろ! ドーラを連れてこい! 大急ぎだぞ!」
かれはぼくが発狂したと思ったかもしれない。だがかれは駆けていった。その濡れたシャツをくわえてだ。
そのとき、最初の騾馬が姿を現わした──バックじいさんだ。アラーの神を讃えよ──そしてぼくは、帽子をひとつだめにしてしまったんだ。
その帽子は、ザックがぼくへの贈り物として持ってきたものだった。どんな天候でも使えるという話で、非常に通気性が高く、空気は中に入るが、それでいて防水性も非常に高く、どしゃぶりの雨の中でも頭は乾いたままというのだ。前のほうの主張は、実にひかえめな程度にではあったが本当だった。後者の主張については、それまで試してみる機会がなかった。
バックは鼻を鳴らすと、たいへんな勢いで池の中へ膝まで入りこもうとした。ぼくはかれをとめた。そして、帽子に水をいっぱい入れてかれにさし出した。二度、そして三度。
「もう充分だろう。バック。みんなを集めろ。水があると知らせるんだ」
喉を水で温らせたバックには、それができた。かれはトランペットのような声でいなないた。それは騾馬語で、英語じゃなかったから、ぼくはそれをここで再現するつもりはない。だがその意味は、水を確保したぞ∴ネ外の何ものでもなかった。馬具をつけるから整列しろ≠ニいうのは、別のいななきかただった。
そのあとぼくは、喉が乾いて気ちがいみたいになった一ダースあまりの騾馬を、なんとかなだめよりとしていた。だが、ぼくとバックと、バックの副官であるビューラー、それにやはりいつもバックを手伝っていたレイディ・マクベスと──そして、それほど完全には防水されていない一個の帽子とで、ぼくらはその仕事をやりとげた。ぼくは、騾馬たちのあいだでどのように序列がきめられるのかわからなかったが、かれらにはわかっていたし、バックはそれを強制した。そして、水点呼《ウォーター・コール》が聞こえるたびに、かれらは同じ順序で整列したし、無分別に割りこもうとする若者はひどい目に会うのだ。かれは少なくとも、耳を噛み切られることを覚悟しなければならなかった。
最後の一頭に帽子の水をやるころ、ぼくの帽子はぼろぼろになっていた──しかし、ドーラがフリッツとともにそこへやってきた。ニードル・ガンを右手に握り、そして、ありがたいことに──左手にバケツを二個下げていた。ぼくは曹長《ヽヽ》に命令した。
「水点呼《ウォーター・コール》だ! もう一度、こいつらを整列させろ、バック!」
二個のバケツと人手が倍になったおかげで、ぼくらは騾馬にかなりのスピードで水をやることができた。それからぼくはフリッツからシャツを返してもらい、バケツをすこしこすって洗うと、水を満たし、三回目の水点呼をいいわたし、バックに、かれらに池から飲ませろといった。
彼は命令に従ったが、それでも相変わらず原則を変えようとはしなかった。ドーラとぼくが、それぞれ片手に水を入れたバケツを持ち、もう一方の手に拳銃を握ってそこを去るとき、バックはやはりかれらに、一度に一頭ずつ、序列に従って水を飲むように命令していた。
ドーラとぼくと犬とが幌馬車に帰りついたのは、ほぼ日没のころだった。山羊と雌豚と猫と鶏に水をやり終えると、あたりはほとんど暗くなっていたが、それからぼくらはお祝いをした。ミネルヴァ、ぼくはおごそかに誓う。ぼくらのためにとっておいたバケツ半分の水で、ドーラとぼくはぐでんぐでんに酔っぱらってしまったんだ。
遠くから眺めたときには、峠の手前でとまったりはしないと決心していたのだが、ぼくらはそこで三日間キャンブした──だがそれは、非常に有益な日々だった。騾馬たちは規則的に草を食べて太った。たっぷりの水に、たっぷりの餌というわけだ。ぼくは池のそばで草原山羊を一頭しとめた。食べられないふんは、ドーラが薄く切って日光で乾し、保存肉とした。ぼくはどの樽にも水をいっぱいつめた──というのはやさしいが、やるのはたいへんなことだった。バックとぼくは池への道を作らなければいけなかったし、つぎに雑草や木をすこし取り除かなければならず、それから幌馬車を一度に一台ずつ引きこむのだ。ぼくはそれに一日半をつぶしてしまった。
しかしぼくらは新鮮な肉を料理し、食べたいだけ食べ──それに、熱い風呂に入ることもできた! 石鹸、シャンプーつきだ。髭も剃った。ぼくはドーラの大きな鉄鍋を池へ運び、彼女はバケツを持ってきた。ぼくが火をおこし──それから交代で悪臭を洗い流した。ひとりが体を洗っているあいだ、もうひとりが見張りをしたのだ。
四日目の朝、峠へむかって出発したとき、ぼくらはすっかり元気だったばかりか、ドーラとぼくは体からいい匂いをさせ、上機嫌で、たがいにそういいつづけていた。
二度と水の不足はおこらなかった。行手の山にはどこかしらに雪があった。吹いてくる風からそれを感じることができたし、遠くの峰と峰のあいだの鞍部に、白いものがときおりちらりと見えた。高く登れば登るほど、いっそう頻繁に小川とぶつかった。その水は、あまり乾燥した季節には草原まで達しないのだ。騾馬の食べる草は、青々と繁っていた。
ぼくらは、峠の近くにある小さな野原でとまった。そして、そこにドーラと幌馬車隊を残し、ぼくがもどらなかった場合はどうするかについてはっきり指示した。
「ぼくは暗くなるまでに帰ってくるつもりだ。もし帰らなかったら、一週間は侍ってもかまわない。それ以上はだめだ。わかったかい?」
「わかったわ」
「よし。一週間たったら、一台目の馬車から旅に必要ないものを捨てて軽くするんだ。食料を全部その幌馬車につんでから、二台目の幌馬車の樽をからにして、それも一台目につむ。雌豚と鶏は放してやり、向きを変える。今朝早くぼくらが横切った小川で全部の樽に水をつめるんだ。それがすんだら、何事がおころうと立ちどまるな。夜明けから日没まで一日じゅう進め。ぼくらがここまで来るのにかかった半分の日数でセパレーションに着くはずだ。いいかい?」
「いいえ、旦那さま」
ミネルヴァ、二、三世紀前なら、ぼくはそのへんで腹を立てていたとこだろう。だがぼくは賢くなっていたんだ。彼女に何もさせられないと気づくのに十分の一秒しかかからなかった──もしぼくが行ってしまえばだ──そして、強要された約束は守られるはずがないんだ。
「わがった、ドーラ。なぜいやなのかいってごらん。そしてそのかわりに何をする気なのかも。もしそれがぼくの気に入らなければ、たぶんぼくらはふたりでセパレーションへ引きかえすことになるだろう」
「ウッドロウ、あなたはそういわなかったけれど、あなたがあたしにやれといったのは……あたしは、そうするつもりだけど!……あたしが未亡人になった場合のことだわ」
ぼくはうなずいた。
「ああ、そのとおりだ。愛するドーラ、もしぼくが一週間たってももどらなかったら、きみは未亡人だ。完全に間違いなくね」
「それはわかってるわ。なぜあなたが、ここに幌馬車を置いていくのかもわかります。もっと上に登ったら、幌馬車の向きを変えられるところがあるかどうか、わからないからでしょう」
「そうさ。それがおそらく、前にここへ来た連中におこったことなんだ……前進できず、かといって方向転換もできない場所へ着いてしまった……そして、なんとかやってみようとし、ころがり落ちていった」
「ええ。でも、あなた、あなたは一日出かけるだけにしてほしいの……半日進んだら、あと半日でもどってくるのよ。ウッドロウ、あたし、あなたが死んだなんて絶対に考えないわ……そんなことできないもの!」彼女はぼくをじっと見つめ、目に涙をいっぱい浮かべたが、泣きだしはしなかった。「あたし、あなたの大事な死体を見なければ、この目でたしかめてみなければ。もしたしかめられたら、あたしはセパレーションへできるだけ急いで、できるだけ安全に帰るわ。そして、いわれたようにマギーの家へ行って、あなたの子供を生みます。そして、その子供ができるだけ父親に似るように育てるわ。でもあなたを、はっきりこの目でたしかめなければいやよ」
「ドーラ、ドーラ! 一週間たてば、きみだってわかるさ。ぼくの骨をさがす必要なんかないんだ」
「もうこの話はやめていいかしら、旦那さま? もしあなたが今夜もどってこなければ、あたし出かけるわ。明日の夜明けに、ベティに乗って。もう一頭に鞍をのせて連れていくわ。そしてお昼になったら引き返すの。
ひょっとして、もしあなたを見つけられなかったら──ここより高いところで、幌馬車を一台運んで、向きを変えられるようなところを探がすわ。そういうところが見つかったら、幌馬車を一台そこまで上げて、それを基地にして、もっと遠くを探がすの。あなたの足跡を見失ってしまうかもしれない。騾馬の足跡を追うことになるかもしれないわ……でもあなたは騾馬に乗っていないかもしれないわね。とにかくどんなことがあっても、あたしは何度でも探がすわ。完全に希望がなくなるまでね! それから……セパレーションへ、騾馬が運んでくれるかぎりの速さで行くわ。でも、ダーリン。もしあなたが生きていて……足を折るか何かはしても、生きていて……まだナイフを持っていれば、いいえ、たとえ素手でだってよ、あなたはローパーだってなんにだって殺されやしないわ。もしあなたが生きていれば、あたしはかならず見つけます。きっと!」
そこでぼくは降参し、彼女と時計を合わせて、何時にもどってくるかを決めた。それからバックとぼくは、ぼくはビューラーに乗ってだ、偵察に出発した。
ミネルヴァ、少なくともそれまでに四組の幌馬車隊が、その峠を越えようと試みていた。そしてどの組ももどってこなかった。ぼくは、かれらがみな失敗したのだと確信していた。どの隊もあまりに熱心すぎ、忍耐力がたらず、危険が大きすぎるときにもどろうとしなかったために失敗したのだ、と。
忍耐をぼくは学んできた。何世紀もの歳月も、人に知恵を与えてくれないかもしれないが、忍耐力は与えてくれる。そうでなければ生きのびられないのだ。その朝、ぼくらは初めて、狭すぎるところを見つけた。ああ、だれかがそこを爆破し、おそらくその曲がり角をまわっていったようだった。でも、それは狭すぎて安全じゃあなかったから、ぼくはもうすこし爆破した。正気の人間ならだれだって、幌馬車で山に入ってゆくときにはダイナマイトの類を持っていくものだ。爪楊枝《つまようじ》で堅い岩を削ることはできない。鶴嘴《つるはし》でだってだめだ。雪がふるころになっても相変わらず山の上、という危険をおかさないためにはね。
ぼくはダイナマイトを使わなかった。ああ、だれでも化学をすこし知っていれば、ダイナマイトでも黒色火薬でも作れるし、ぼくはどちらも作る計画だった──もっと先になってだが。ぼくの手もとにあったのは、もっと能率的でどんな形にもできるゼリー状爆薬だった──それは衝撃に敏感でなかったから、幌馬車や鞍袋に入れておいてもまったく安全だった。
ぼくはそれを、岩の割れ目のもっとも効果的だと思う場所にまず一回分しかけ、導火線をつたが、火はつけなかった。それから二頭の騾馬を曲がり角からずっとさがらせ、演技力のありったけをふるってバックとビューラーに、ものすごい音がするぞと説明した──バーンだ! でも、離れていれば危なくないから心配するな、と。それがすむとぼくはもどって、導火線に火をつけ、急いでかれらのところへ飛んでいき、すかさずかれらの頸にそれぞれ片腕をまわし──時計を見た。「いまだ!」と、ぼくがいうのと同時に、山がぼくにボイーンと答えた。
ビューラーは体をふるわせたが落ち着いていた。バックが尋ねた。
「バーン?」
ぼくがそうだというと、かれはうなずき、ふたたび木の葉をちぎってはもぐもぐやりはじめた。
ぼくは二頭の騾馬とともに現場に近づき、様子を見た。きれいに広くなっている──あまり平らではないが、三回の小さな爆発で、それもなんとかなった。
「どう思う、バック?」
騾馬は山道を上へ下へと注意ぶかく見た。
「ばしゃ、にーだい?」
「一台だ」
「オーゲイ」
ぼくらはもうすこし先まで調べて、あくる日の予定を立てた。それから約束の時間に引き返し、早めに帰りついた。
もうひとつ先の小さな草地まで、二キロの道のりを安全にするために一週間かかった。そこは──草の生い繁った窪地で、一度に一台の幌馬車の向きを変えられるだけの広さがあった。それから、二台の幌馬車をこの基地まで動かしてくるのに、一度に一台で、まる一日かかった。だれかがすでにここまで進んできていた。壊れた幌馬車の車輪を見つけたのだ──そして、鋼鉄の輪金《タイヤ》とハブを回収した。くる日もくる日も同じことで、のろのろと、うんざりする日々がつづいたが、ついにぼくらは山あいを抜けて、下り坂を──主に──進みはじめた。
だが事態はよくならず、悪くなっていった。ぼくらが宇宙からの写真地図でたしかめておいた川は、はるか下にあった。ぼくらはまだまだ下りていかなければならず、小さな峡谷がひらけて入植に適した谷間になっている場所にたどりつくまでには、かなりの距離があった。爆破をくりかえし、何度も繁みを切りはらい、ときには樹々も爆破しなければいけなかった。だがもっとも厄介なのは、あまりの急勾配になると、幌馬車を吊りおろさなければならないことだった。急勾配を上がるのは、なんでもなかった(いまだに登り坂があったのだ)。十二頭の騾馬がいれば、ひずめを立てられるところならどんな斜面でも、幌馬車を一台引き上げられる。だが、下りとなると──
たしかにそれらの幌馬車にはブレーキがついていた。しかし傾斜が急だと、幌馬車は車輪口とすべってしまう──そして、騾馬もほかのものも一緒に崖っぷちを乗りこえてしまうのだ。
ぼくはそんなことを、一回たりとおこさせるわけにいかなかった。そんなことがおこりそうな危険はおかせない。幌馬車を一台に騾馬を六頭失っても、まだ進むことはできるだろう。だが、ぼくはかけがえがないのだ(ドーラは幌馬車にのせておかないつもりだった)。もしその幌馬車が暴走しはじめたら、ぼくが外へ飛び出すチャンスはそこそこというところだった。
もし、斜面があまりに急で、ブレーキをかけても幌馬車をとめておけるかどうかという疑問がすこしでもおこったら、ぼくらは面倒な方法をとらなければいけなかった。例の高価な輸入物ロープを使って、幌馬車がすべり落ちるのをおさえるのだ。ロープを自由に長く繰り出せるようにし、頼みの綱の端を馬車を支えるほどしっかりした木に三回巻きつけたら、それを後ろの車軸に縛りつける──それから、いちばんたくましい四頭の騾馬、ケンとデイジー、ボウとベルが、ゆっくりとした足取りで幌馬車をおろすのだ。御者《ぎょしゃ》は乗らず、バックが先導する。そのあいだぼくはロープをぴんと張って、ごくゆっくりとそれをくり出す。
もし地形が許せば、ドーラがベティに乗って中間の位置に立ち、バックへの命令を中継した。だがぼくは、彼女が馬車そのものに乗るのを許すことはできなかった。もしロープが切れたら、馬車はあっというまにころがり落ちるからだ。だからだいたい二回に一回、バックとぼくは連絡なしで仕事をした。できるだけゆっくりと、かれの判断に頼ってだ。
もし、適当な位置にロープをつなげるしっかりした木がなければ──この場合のほうが多かったように思えるのだが──何か考え出せるまで待たなければいけなかった。どんなやりかたも可能だった。二本の木のあいだにロープをはり、それから導索器《フェアリード》を三木目の木に取りつける、とか──裸岩を錨《いかり》にして、ピトンを打ちこんで使う──ぼくはこれがいやだった。後車軸のすぐうしろを歩きながら気をつけていなければいけないので、もしぼくがつまずいたら、何もかもおしまいになるからだ。そして、そのあとにはいつも、ビトンを回収するという時間のかかる辛い仕事が待っていた──岩が堅ければ堅いほど錨としてはよかったが、しかしピトンを抜く仕事はいっそう困難だ──そしてぼくは、ピトンを抜かなければいけない。さらに先で必要になるだろうからだ。
ときには、木も岩もないことがあった──一度は、十二頭の騾馬を後ろむきにならべて錨とした。ドーラがかれらをはげましているあいだに、ぼくは後ろの車軸を見張り、バックは前進を指揮した。
草原でのぼくらは、一日に三十キロを進むこともしばしばだった。しかし、いったん絶望の峠を越えて小峡谷を下りはじめると、進む距離は、何日もつづけてゼロのことがあった。そのあいだ、ぼくは行手に道をこしらえていたのだ。ロープで吊り下げておりなければいけないようなけわしい斜面がなければ、十キロは進むことができた。ぼくはただひとつ、決して破ることのできない規則を守っていた。幌馬車を動かす前に、方向転換できる基地から次のところまでの道を、ちゃんと通れるようにしておかなければいけないのだ。
ミネルヴァ、旅はあまりにも遅々とはかどらず、ぼくのカレンダー≠ェぼくに追いついてしまった。雌豚が子供を生んだのだ──それなのにぼくらは山脈から出ていなかった。
ぼくは、そのとき以上に難しい決心をこれまでしたことがない。ドーラは元気だったが、妊娠期間の半ばに達していた。引き返すか(彼女に話すことなく、ぼくが自分に約束していたようにだ)──あるいは前進して、出産までに低地のかなり平坦な土地にたどりつくことを願うか? どちらのほうが彼女にとって楽だろう?
ぼくは彼女に相談しなければいけなかった──しかし、決心しなければいけないのは、ぼくだった。責任というものは、分けられないものなのだ。この問題を彼女に持ち出す前から、ぼくは彼女がどちらに投票するかわかっていた。前進だ。
だがそれはたんに、彼女の雄々しい勇気でしかない。ぼくは、荒野の旅や出産の問題のどちらについても経験があったのだ。
ぼくはふたたび例の写真地図を調べてみたが、何も新しいことは発見できなかった。どこか前方で小峡谷は広々とした谷間にひらけている──だが、どれほど先なんだ? ぼくにはわからなかった。なぜならぼくは、自分たちがどこにいるのかわからなかったからだ。ぼくらは出発するとき、先頭の幌馬車の右後車輪に走行距離計を取りつけた。ぼくはそれを峠でゼロに合わせなおしておいた──そしてそれがもったのは、たった一日か二日だった。岩か何かにやられちまったのだ。峠以後、どれだけの高度を下りてきたのかさえわからなかったし、麓へ着くまであとどれぐらい行かなければいけないのかも、わからなかった。
家畜と装備はまあまあだった。騾馬を二頭なくしていた。プリティ・ガールはある晩、崖からうっかり落ちて足を折ったのだ。ぼくが彼女にしてやれることは、苦痛をなくしてやれることだけだった。食肉用に解体はしなかった。そのときは新鮮な肉があったし、どのみち、ほかの騾馬から見えないところでそれをすることができなかったからだ。ジョン・バーリイコーンはある夜あっさり急死してしまった──おそらく、ローパーにやられたのだろう。ぼくらが見つけたとき、かれは半分食べられていたのだ。
雌鶏三羽が死に、子豚が二頭うまく育たなかった。だが雌豚はほかの子豚に喜んで乳を飲ましているようだった。
予備の車輪は二個しか残っていなかった。あと二個を失ったら、そのつぎに車輪がこわれると幌馬車を一台捨てなければいけないということだ。
ぼくの心を決めたのはその車輪だった。
(省略:その小峡谷を下る際の困難を長々と退屈にくりかえしている約七千語)
その台地に出ると、ぼくらは目の前にひろがっている谷を見ることができた。
美しい谷だったよ、ミネルヴァ。広々と、緑の草におおわれた、すばらしい谷だ──何千ヘクタールもの理想的な農地だった。小峡谷から流れ出た川が、穏やかになり、低い堤のあいだをゆっくりと蛇行していた。ぼくらと向かいあって、はるかかなたに、雪をいただく高い蜂があった。その雪線で、ぼくはそれがどれほど高いかを知った──ほぼ六千メートルだ。なぜって、ぼくらはいま亜熱帯に下りてきていたのだから。非常に高い山でなければ、長い酷暑の夏にそれほど大量の雪を保つことはできないはずだ。
その美しい山と、青々と草の生い繁った谷とに、ぼくは既視感《デジャ・ビュ》をおぼえた。それからぼくは気づいた。懐しの地球、それもぼくの生まれ故郷にあるマウント・フッド(オレゴン州にあり富士山に似ている)だったんだ。ぼくがまだ若いころ、初めて見たのと同じだった。だがこの谷、雪をかぶった峰は、これまで人間の目にふれたことがないのだ。
ぼくはバックに、隊列をとまらせろとさけんだ。
「ドーラブル、わが家に着いたぞ。ここから見えるところに、この谷のどこかに」
「わが家ですって」彼女はくりかえした。「まあ、ダーリン!」
「鼻をすするなよ」
「すすってなんかいないわ!」と、彼女はすすりあげながら答えた。「でもあたし、いままでずいぶん位くのを我慢してきたんですもの。その暇ができたら、そのぶん泣くつもりよ」
ぼくはうなずいた。
「わかった。その暇ができたらね。さて、あの山を、ドーラ・マウンテンと名づけようじゃないか」
彼女は考えこんだ表情になった。
「いいえ、その名前はだめ。あれは|希望の山《マウント・ホープ》よ。そしてこの下の谷は|幸福の谷《ハッピィ・ヴァレイ》だわ」
「|強情な《デューラブル》ドーラ、きみはどうしようもない感傷家《センチメンタリスト》だな」
「よくもいったわね!」彼女は、生まれる時期が近づいて大きくふくらんでいる腹を、かるくたたいた。「あれが幸福の谷なのは、あそこであたしが、このおなかをすかせた小さなけだものを生むからよ……そしてあれが希望の山なのは、あれがそうだからだわ」
バックが一台目の馬車のところへもどってきており、なぜぼくらがとまったのか知りたそうに待っていた。ぼくは指さして話しかけた。
「バック、あそこがわが家だ。ぼくらはやりとげたんだ。わが家だよ、バック。それに農場だ」
バックは谷を見わたして答えた。
「オーゲイ」
──かれが眠っているあいだのことだったんだ、ミネルヴァ。ローバーにやられたんじゃない。バックに傷跡はなかった。冠動脈血栓症だ、と思う。解剖して調べたわけじゃないがね。かれはすっかり年老い、疲れはてていたんだ。出発する前、ぼくはかれをジョン・マギーにあずけようとした。だがバックはそれを承知しなかった。われわれ、ドーラとビューラーとぼくは、かれの家族であり、かれは一緒に来たがったのだ。そこでぼくはかれを騾馬たちのボスにして、働かせなかった──つまり、ぼくは決してかれに乗らず、決してかれに馬具をつけなかったという意味だ。しかしかれは騾馬のボスとして働き、かれの忍耐強くしっかりした判断は、ぼくらを無事に幸福の谷へ連れてきてくれた。かれがいなければ、ぼくらにはやりとげられなかったことだろう。
牧場でのんびりと草でも食べていたら、たぶんかれはあと二、三年長生きできたろう。あるいは、ぼくらが去ったあとすぐに、淋しさのあまり痩せ衰えてしまったかもしれない。だれに判断できよう?
ぼくは、かれを解体して食肉にすることなど、考えてもみなかった。そんな考えを口に出しでもしたら、ドーラは流産していたかもしれない。しかし、ローパーや風雨がすぐ死体の始末をしてくれるというとき、騾馬を埋めるというのも馬鹿げているが、ぼくはかれを埋葬した。
騾馬を埋めるにはばかでかい穴を掘らなければいけない。もしそこが川底の軟らかな土壌でなかったら、ぼくはいまでもそこで穴を掘っていることだろう。
だがまず最初にぼくは、人事問題を片づけなければいけなかった。ケンは水を飲む順番がビューラーのすぐ次だったし、落ち着いた性格のたくましい騾馬で、言葉をしゃべるのもかなりうまかった。一方、ビューラーは旅のあいだずっとバックの副官をつとめてきた──だがぼくは、騾馬の集団が雌にひきいられた例を思い出せなかったんだ。
ミネルヴァ、H・サピエンスの場合、これはまったく問題にならない。少なくとも現在のセカンダスではね。だが何種類かの動物では、それががぜん重要になるんだ。象のボスは雌だ。鶏のボスは雄で、雌じゃあない。犬のボスは両性どちらでもかまわない。性が物事を支配する種族のこととなると、人間はかれらのやりかたにしたがったほうがずっといいんだ。
ぼくはビューラーにやれるかどうか見てみることにし、馬具をつけるから連中を整列させろと彼女に命令した。それはテストであると同時にまた、ぼくがバックを埋めるあいだ騾馬たちを見えないところへやっておきたかったからだ──かれらは神経質になり、落ち着かなかった。ボスの死に動揺していた。騾馬が死をどう考えるものか知らないが、かれらはそれに無関心ではないのだ。
彼女はすぐに忙しくなり、ぼくはケニーを見守っていた。かれは彼女の命令にしたがい、デイジーの隣りのいつもの位置についた。ぼくが馬具をつけてしまうと、あとに残ったのはビューラーだけだった。三頭の騾馬が死んでいたからだ。
ぼくは、二、三百メートル離れたところへかれらを動かしたいのだが、とドーラにいった。馬車であやつってくれるかい、ビューラーを隊列のボスにして? それともぼくがしたほうが安全だと思うかい? ──そしてぼくは第二の問題にぶつかった。ドーラは、ぼくがバックを埋めるとき、その場にいたいといったのだ。それだけじゃない──
「ウッドロウ、あたし、掘るのを手伝うわ。バックはわたしの友達でもあったのよ」
ぼくは答えた。
「ドーラ、ぼくは妊娠している女性が何をいい出そうと我慢するが、母体に悪いことをさせるわけにはいかないんだ」
「でも、あなた、わたしは大丈夫よ。体は……って意味だけど……ただバックのことが悲しくてたまらないの。だから手伝いたいのよ」
「ぼくもきみは元気だと思うし、そのままでいてほしいんだ。幌馬車の中にいてくれると、いちばん助かるんだがね。ドーラ、未熟児の面倒を見る装置は何ひとつ持ってきていないし、それにバックのように赤ん坊を埋めなければいけないといった羽目にはなりたくないんだ」
彼女は目をみはった。
「そんなことになると思うの?」
「スイートハート、ぼくにはわからない。信じられないような苦難の中でりっぱに赤ん坊を生んだ女性たちを知っているし、またぼくにはなんの原因があるともわからないのに赤ん坊をなくした女性たちも見てきた。それについてぼくの得たただひとつの規則はこうだ……不必要な危険はおかすな、さ。この穴掘りは必要じゃない」
そこでもう一度、ぼくらはふたりとも満足できるように計画を立てなおした。もっともそれには一時間余分にかかることとなった。ぼくは二台目の幌馬車をはずし、ふたたび柵を立てると四頭の山羊を柵の中に入れ、そしてドーラをその幌馬車に残した。それからぼくは一台目の幌馬車を三、四百メートル離れた場所へ動かし、騾馬の馬具をはずして、ビューラーにかれらをばらばらにするなと命令した──そしてケンにそれを手伝えといい、フリッツも手伝いに残して、レイディ・マクベスにローパーその他を見張らせることにした。視界はよかった──藪もなければ、背の高い草も生えていなかった。その土地はよく管理された公園のようだったんだ。しかしぼくは穴の中に下りなければいけなくなる。何かがぼくや幌馬車にこっそり忍びよってくるようなことになっては困るのだ。
「レイディ・マクベス、屋根の上で見張るんだ!」
こうして、同意の上でドーラは幌馬車の中に残った。
老友を埋葬するのに、その日一日かかった。昼食のために休んだのと、水を飲んだり、幌馬車のかげでひと息つくために数回手をとめただけで、あとは働きづめだった──休むときはレイディ・マクベスも一緒で、ぼくが穴から出るたびに、彼女も屋根からおろした。それに加えて、一回だけ仕事が中断されたことがあった──
午後も半ばになって、穴がほぼ充分な大きさになったころだった。レイディ・マックがぼくに向かって吠えたてたんだ。ぼくは急いで穴から出ると、熱線銃をかまえて、ローパーが姿を現わすのを待った。
ただの竜だった──
ぼくはそう驚かなかったよ、ミネルヴァ。きれいに刈り取られて、まるで芝生のようになっている草の状態は、草原山羊というよりはどうやら竜の仕業らしいことを示していたんだ。そういう竜は、たまたま体の上に倒れてでもこないかぎりは危なくない。動作はのろく、間抜けで、厳格な菜食主義者なのだ。ああ、連中はひどく醜くて、背筋が寒くなるほどだ。六本足の三角竜といったらぴったりだろう。だがそれだけのことだ。ローパーが連中にかまわないのは、鎧に噛みついてみても仕方がないからだ。
ぼくは幌馬車にいるドーラのところへ行った。
「いままであんなのを見たことはあるかい、ハニー?」
「近くからはないわ。まあ、なんて大きいんでしょう」
「たしかに大きいな。でもたぶん向きを変えるだろう。どうしてもというのでなければ、熱線銃をむだに使いたくないからな」
しかし、そのいまいましい代物《しろもの》は向きを変えなかった。ミネルヴァ、そいつはあまりに愚かなので、幌馬車を雌の竜とでも錯覚したのだろうと思う。それとも逆かな。雌と雄の区別は難しいんだ。とにかく竜には明らかに雌雄両性があった。二匹の竜が交尾するところはたいへんな見物《みもの》だよ。
そいつが百メートル以内に近づくと、ぼくはレイディ・マクベスを連れて柵の外へ出ていった。彼女が体をふるわせてまで近づきたがったからだ。これまでに彼女が竜を見たことがあるとは思われない。生まれるずっと前に、トップ・ダラー周辺から、竜は一掃されていたのだ。彼女は踊りあがって吠えたてたが、警戒は怠らなかった。
ぼくはレイディが、そいつの向きを変えることになればいいがと思った。ところがこの犀《さい》のできそこないはまるで注意を払わなかった。まっすぐ幌馬車にむかってのそのそ歩いてくるんだ。そこでぼくは、そいつの唇があるはずの場所をめがけて、ニードル・ガンで軽く刺激してやった。そいつの注意を引くためだ。びっくりしたんだろう、そいつは立ちどまって口を大きくあけた。ぼくにはそれが必要だったんだ。なぜなら、そいつの装甲板のような皮膚を射ち抜くために、わざわざ銃のエネルギーを最大にするというようなむだなことはしたくなかったからだ。そこで──出力を最低にした熱線銃で、そいつの口の中をまっすぐ狙った。竜、いっちょ上がーり。
そいつは一瞬つっ立っており、ついでゆっくりと倒れていった。ぼくはレイディを呼んで柵にもどった。ドーラが待っていた。
「あれを見に行ってもいい?」
ぼくは太陽のほうをちらりと見た。
「スイートハート、ぼくは暗くなるまでに、どうしてもバックを埋めてしまわなければいけないし、それから騾馬たちを連れもどして先に進まなければいけないんだ。きみが、片方に墓、もう一方には竜の死体という場所でどうしても野営《ビヴァク》したいというのでなければね」
彼女がどうしてもとは、いいはらなかったので、ぼくは仕事にもどった。それから一時間で、穴の深さも広さも充分になったので──ぼくは滑車装置を持ち出して三重の起重機を作り、それを後車軸に固定すると、バックの後足を一緒に縛り、ロープをひっかけて、ぴんとはった。
ドーラはぼくのところへ出てきていた。
「ちょっと待っでちょうだい、あなた」彼女はバックの頸をやさしくたたき、それからかがみこんでかれの額に接吻した。「いいわ、ウッドロウ。さあ」
ぼくはロープを引っぱり上げた。一瞬、ブレーキをかけておいても幌馬車が動くかもしれないと思った。それからバックはすべりはじめ、墓の中に落ちていった。ぼくは鉤をふってロープをはずすと、急いで穴を埋めもどした。掘るのに一日の大半を費した穴も、二十分でふさがった。ドーラは持っていた。ぼくは仕事を終えた。
「幌馬車に乗りたまえ、ドーラブル。これですんだから」
「ラザルス、あたし何か言葉を知っていればいいんだけど。あなた知らない?」
ぼくは考えてみた。葬式のときの文句なら千回は聞いたことがあった。だが、ほとんど気に入るのはなかった。そこでぼくはひとつこしらえた。
「ここにおられる神がいかなるものであろうと、どうぞこの善良なる者をお守りください。かれはつねに最善をつくしたのです。アーメン」
(省略)
──そこに住みついた最初の時期でさえ、それほど困難ではなかった。幸福の谷ではどんな作物でも育ち、一年に二回から三回は収穫できたからだ。だがぼくらはそこを、〈|竜の谷《ドラゴン・ヴァレイ》〉と名づけるべきだったんだ。
ローパーだけでも手を焼いた。特に、ランバート山脈のむこう側で見つけた、群をなして獲物をあさる小さなローパーどもが。それに、例のいまいましい竜どもときたら! 連中にはまったく気を狂わせられそうだった。四回つづけて同じ馬鈴薯《じゃがいも》畑を荒らされたら、いいかげんにうんざりしてくるものさ。
ローパーのほうは毒をまいて殺せることがわかったので、そうした。罠を仕掛けることもできた。そのたびごとに方法を変えればだが。あるいは夜になると囮《おとり》の餌を出し、静かに坐りこんで待ち、ニードル・ガンで物音ひとつ立てずに群のほとんどを殺すこともできた。ぼくはいろいろな手を使うことができたし、実行した。そして騾馬たちもローパーに対処することを学んだ。夜はくっつきあって眠り、つねに一頭が見張りに立つ。鶉《うずら》や狒々《ひひ》と同じようにだ。「ローパーだぞ!」という意味の鳴き声を聞きつけるたびに、ぼくはすばやく目を覚まし、その楽しみに加わろうとした──だが騾馬たちは、めったに楽しみを残しておいてくれなかった。かれらはローパーを踏み殺すことができたばかりでなく、ローパーより速く走って、逃げ出そうとする群の何匹かを、あるいは一匹残らず殺すことができた。ぼくらは三頭の騾馬と六頭の山羊をローパーのために失ったが、ローパーどものあいだに噂がひろがると、連中はぼくらを避けるようになったんだ。
だが、竜はというと! 罠をかけるには大きすぎたし、毒は口にしようとしなかった。竜どもが求めているのはサラダ菜だけだったのだ。しかし、一匹の竜が一夜のうちに玉蜀黍《とうもろこし》畑にできることというと、それはソドムとゴモラにさえ、おこってはならないことだった。やつらに対して弓矢はむだだったし、ニードル・ガンはくすぐるぐらいでしかなかった。熱線銃で殺すことはできたが、鎧のような皮膚をつらぬくには最高出力のエネルギーが必要だったし、さもなければ、ぼくが最初にやった方法で敵の口をあけさせることができれば、最低のエネルギーで殺すかだった。しかし、ローパーと違って竜はあまりにも間抜けなので、自分たちがやられていても、相変わらずりこのこやってくるのだった。
土地を耕すことができるようになった最初の夏に、ぼくは作物を守ろうとして百匹以上の竜を殺した。それはぼくにとって敗北であり、竜にとっては勝利だった。悪臭がひどかっただけでなく(あんなに大きい死体をどうしたらいいんだ?)、ずっと悪いことに、銃の電気が切れかけており、いっぽう竜の数はいっこうに減らないようだったのだ。
電力はまったくなかった。〈バックの川〉の、ぼくらが水車を作ってみようと考えついた場所には、充分な水圧がなかった。それを作るために、幌馬車の一台をばらばらにしても、だ。ぼくが持ってきた風車は、実のところ歯車やその他の金物《かなもの》類でしかなかった。小屋自体は、風車の羽根から塔まで、ぼくが建てなければいけなかったのだ。そして、電力が得られるようになるまで、銃のパワー・パックを再充電する法はなかった。
ドーラがそれを解決した。ぼくらは相変わらず最初の囲い地にそのまま住んでいた。高くつみあげた日乾煉瓦《アドービ》の壁で幌馬車をかこみ、夜のあいだ山羊を中に入れるだけの大きさがかろうじてあるだけで、ぼくらは赤ん坊のザックとともに一台目の幌馬車で眠り、土で作ったかまどで料理をした──そして、煙と山羊と鶏と、赤ん坊のいるところにはつきものの鼻につんとくる匂いと、壁の中になければいけない汚物溜《おぶつだめ》とに取りかこまれていれば──まあ、竜の死体の悪臭もたいして気にならないというものだ。
ぼくらは夕食を終りかけていた。ドーラは夕食時にはいつもそうするようにルビーを身につけ、月や星が出てくるのを見つめていた──それは、一日じゅうでもっとも幸せな時間だった。ただし、最初の子供が乳を飲む姿に感嘆し、夜空の眺めを楽しんでいるべきときに、ぼくは電力のことや、例の厄介な竜どもを、いったいどうすればいいのだろうと、ぶつぶつこぼしていたのだ。
ぼくは電力を生み出すための簡単な方法をいくつか、ひとつひとつならべたてていた──文明惑星であれば、あるいはニュー・ピッツバーグのようなところでも、石炭と、原始的なものにせよ金属工業があるから簡単なことなのだが──そのときぼくはたまたま、非常に古めかしい用語を使った。キロワットとかメガダイン・センチメートル毎秒とかの話をするかわりに、ぼくはとにかく手に入れられるものならどんな形のものだろうと十馬力で満足するんだが、とふといったのだ。
ドーラは馬を見たことなどなかったが、それが何かは知っていた。彼女はいったんだ。
「あなた、十頭の騾馬ではだめなの?」
(省略)
ぼくらがその谷に住みついて七年後に、最初の幌馬車が姿を現わした。息子のザックはもうじき七歳で、ぼくの手伝いをいくらかするようになっていた──というか、かれはそう思っていた。そしてぼくはかれが仕事をするのを奨励した。アンディは五つで、ヘレンはまだ四つになっていなかった。ぼくらはペルセポネを失ったが、ドーラはふたたび妊娠しており、なぜって──ドーラはすぐにもうひとり赤ん坊を作ることを要求したのだ。一日も、一時間も待てないと──そして彼女は正しかった。いったん彼女が妊娠したとわかると、ぼくらの士気は一夜で回復した。ぺルセポネの死は悲しかった。彼女は愛らしい赤ん坊だったのだ。だがぼくらは嘆くのをやめ、かわりに未来を見ることにした。ぼくはまた女の子が生まれるといいと思ったが、どちらの赤ん坊でも喜んで満足するつもりだった──当時のその場所では、子供の性別を操作する方法はなかったんだ。
全般的に見てぼくらはうまくやっており、農場は順調だし、健康で幸福な家族だった。家畜の数もふえ、囲い地ははるかに大きくなり、その中に壁を背にして家が立っていた。風車は鋸を動かし、穀物を粉にひき、ぼくの熱線銃にエネルギーを補給してくれた。
その幌馬車を見つけたときぼくが最初に考えたのは、隣人ができれば楽しくなるだろうということだった。しかしつぎには、ぼくのすばらしい家族とぼくらの農場をあの新しく来た連中に見せびらかして、誇らしい、とても誇らしい気持になるだろうな、と考えた。
ドーラが屋根に上ってきて、ぼくと一緒に幌馬車を見つめた。まだ十五キロ以上離れていたから、夕方にならないうちに到着するはずはない。ぼくは腕を彼女にまわした。
「興奮したかい、ハニー?」
「ええ。でもあたしたち、ちっとも淋しくなんかなかったわ。あなたがそうさせてくれなかったんですもの。何人分のお食事を用意すればいいと思う?」
「ふーむ。幌馬車は一台きりだ。一家族だね。いいところ、夫婦ふたりに、子供はまったくいないか、いてもひとり。あるいは、ふたりってとこか。それ以上数が多かったら驚きだな」
「あたしもよ、ダーリン。でも、食べ物はたっぷり用意するわ」
「それから、連中がここへ着く前に、子供たちに何か服を着せるんだ……ぼくらが野蛮人を育てているなどと思われたくないからね。そうだろ?」
彼女はすまして答えた。
「あたしも服を着ましょうか?」
「なんてお洒落なんだ! そいつはきみしだいだよ、ひょろひょろリル……しかし、つい先月、パーティー・ドレスを一度も着ていないと文句をいったのはだれだったかな?」
「あなたはキルトをはくつもりなの、ラザルス?」
「たぶんね。風呂にだって入るかもしれないぜ。どうしてかというと、今日の残り一杯を使って、山羊の囲いだのなんやかやと掃除するつもりだからさ……この場所を、できるだけきちんと見せるのさ。でも、ラザルスの名前は忘れるんだ。ぼくはまたビル・スミスになったんだから」
「忘れずにおくわ……ビル。あたしも、あの人たちがここに着く前に入浴するわ……だって、これから暑くて忙しい思いをするんですもの。お料理をして、家の掃除をして、子供たちをお風呂に入れたら、知らない人にどうやって挨拶するかを教えるわ。よその人に会ったことがないんですものね。いったいあの子たちは、よその人がいるなんてことを信じられるかしら?」
「子供たちは行儀よくするよ」
ぼくには確信があった。ドーラとぼくは、子供の育てかたについて考えが一致していたんだ。子供は褒めて、決してがみがみ怒鳴らない。必要なときには即座に罰を与える──一瞬たりとも遅れてはいけない──そして、それが終ったあとは忘れる。その他のときと同じように、尻をたたいたあとは惜しみなく愛情を与えてやる──あるいは、ほんのすこし余分だ。尻たたきがなぜ必要だったかというと(ドーラはたいていいつも軽い鞭を使ったが)、何世紀ものあいだ例外なく、ぼくの子供たちはひとり残らずたいへんな腕白で、こちらがあまい顔をしていればすぐそれにつけこむような連中だったからだ。女房の何人かは、ぼくとのあいだにこんな小さな怪物が生まれるのが容易に信じられなかったぐらいだ──しかしドーラは最初から、この野獣飼育法についてぼくと同意見だった。その結果、彼女は、ぼくがこれまで父親になったうちで、もっとも行儀のいい子供たちを育ててくれたんだ。
その幌馬車が一キロほど離れたところまで近づいてくると、ぼくはかれらに会うため騾馬に乗って出かけた──そして驚き、失望した。家族ではあった。もし父親と大人になった息子ふたりを家族として数えればだ。女も子供もいない。かれらはどんなつもりで開拓に出たのだろうと首をひねった。
年下のほうの息子は、まだ完全な大人ではなかった。そいつの顎髭はうすく、まだ生えそろっていなかった。にもかかわらず、そいつはぼくより背が高く、体重もあり、三人の中でいちばん小さかったのだ。父親と兄貴は騾馬に乗っており、幌馬車を追いたてていた──実際に追いたてていた。かれらは騾馬のボスを使っていなかったんだ。ぼくが見ることのできる騾馬以外、家畜はいなかった。もっともぼくは、幌馬車の中をのぞこうとはしなかったが。
ぼくはかれらの外見が気に入らなかったから、隣人とする考えは消すことにした。かれらが谷をもっと下っていってくれればいいがと、ぼくは願った。少なくとも五十キロはだ。
騾馬に乗ったふたりは、腰のベルトに拳銃をつるしていた──ローパーが出没する地域ではもっともなことだ。ぼく自身、見えるところにニードル・ガンをつるしていた。そして、ベルト・ナイフも──さらに、その他の武器も隠し持っていた。初対面の人間と会うのに、あまり多くの武器を見せるのは外交的でないと思うからだ。
ぼくが近づいてゆくと、かれらは立ちどまり、幌馬車の御者は手綱を引いた。ぼくはビューラーを、先頭の二頭から十歩手前の位置で立ちどまらせた。ぼくは呼びかけた。
「やあ……幸福の谷へようこそ。ぼくはビル・スミスだ」
三人の中でいちばん年上のやつが、ぼくを頭のてっぺんから爪先までじろじろ眺めまわした。顔じゅう髭だらけの男がどんな表情をしているのか見分けるのは難しい。だが、かろうじて見えたそいつの顔は、まったくの無表情だった──たぶん、警戒しているのだろう。ぼく自身の顔はつるつるだった──髭を剃ったばかりで、清潔な作業ズボンをはいていた。訪問者に敬意を表してだ。ぼくはいつでも髭を剃っていたが、それはドーラがそのほうを好んだからでもあり、ぼくがドーラにあわせて若く≠オていたからでもあった。ぼくは精いっぱい愛想のいい顔をしていた──だが、自分にいい聞かせていた、ぼくの挨拶に答えて、おまえたちが名を名乗るのに十秒待ってやる……さもないとおまえたちは、ニュー・ビギニングズでいちばんうまい料理を食いそこねるんだぞ
かれはあやうく最終期限にすべりこんだ。ぼくがチンパンジーを七匹まで数えたとき、かれはとつぜん、顔をおおっている苔の奥で歯をむき出した。
「よう、そいつはなかなか義理がてえこったな、若えの」
ぼくはくりかえした。
「ビル・スミスだ。それにきみたちの名前を聞いていないな」
そいつは答えた。
「たぶんおれがいわなかったせいだろうぜ。名前はモントゴメリー。友達にはモンティーよ。もっともおれにゃあ、敵なんざいないがね──少なくとも、ここんとこしばらくはな。そうだろう、ダービイ?」
「ああ、父ちゃん」
と、もう一頭の騾馬に乗っているやつが言葉をあわせた。
「こいつが息子のダービイでよ。あっちの間抜けどもをあやつっているのがダンだ。挨拶しろ、おめえたち」
「やあ《ハウデイ》」
と、ふたりは答えた。
「やあ、ダービイ。やあ、ダン。モンティー、ミセス・モントゴメリーは一緒なのかい?」
ぼくは幌馬車のほうにうなずいでみせた。相変わらず、中をのぞこうとはせずにだ──幌馬車の中は、家庭と同じようにプライヴェートなものなのだ。
「なんでそんなことを聞くんだ?」
愛想よく馬鹿みたいな表情のまま、ぼくは答えた。
「なぜって、家へ走って帰り、ミセス・スミスに夕食は何人になるか教えてやりたいからさ」
「そうかい! いまのを聞いたか、おめえら? おれたちは晩飯に招待されてるんだぞ。こりゃまたご親切によ。そうじゃねえか、ダン?」
「ああ、父ちゃん」
「じゃあ、喜んでお受けするとしようぜ。どうだ、ダービイ?」
「ああ、父ちゃん」
ぼくはその木霊《こだま》みたいな返事を聞くのがいやになりかけていたが、あまい表情を変えることなくくりか求した。
「モンティー、きみはまだ何人なのかいってないぜ」
「ああ、三人だけよ。だがおれたち、六人分はたっぷり食うぜ」かれは太腿をたたいて、自分のいった冗談に笑った。「そうだな、ダン?」
「ああ、父ちゃん」
「じゃあ、その間抜けどもにひと鞭入れろ、ダン。おれたちにゃあ、急ぐ理由ができたんだからな」
ぼくは木霊が口をきくのをさえぎった。
「待ってくれ、モンティー。なにもきみの騾馬を、それ以上疲れさせることはないさ」
「なんだと? こいつらはおれの騾馬だぞ、坊や」
「たしかにそのとおりだし、騾馬はきみの好きにしたらいい。だがぼくが先にここへやってきたのは、ミセス・スミスがそのあいだにきみたちを迎える用意を整えるためなんだ。時計は持っているね」──ぼくは自分の腕時計をちらりと見た──「きみたちの到着は一時間後にしてほしいな。もっとも、あそこまで行くにはもっとかかるし、騾馬の馬具をはずして水をやるのに時間が必要だというのなら、話はまた別だが」
「いや、こいつら間抜けどもは、飯のあとまで放っとくさ。早く着きすぎたら、しばらく坐って待ってるぜ」
ぼくはきっぱりといった。
「いや、一時間後だ。それより前に着くのはだめだ。きみも知ってるだろう。用意のできないうちに客がやってきたら、ご婦人というものはどう思うかを。彼女をあわてさせることになって、食事はめちゃめちゃになるだろう。きみの騾馬は好きにすればいいが……でも、楽に水を飲ませられる場所があるんだ。小さな岸でね。川がぼくの家にいちばん近いところを流れているところさ。きみたちが身なりを整えるのにも、おあつらえむきの場所だ……ご婦人と食事をするんだからね。一時間たたないうちに家に来られては困るよ」
「あんたの女房はやけに几帳面なんだな……これほどへんぴな土地にいるにしちゃあ」
「そうさ……帰るぞ、ビューラー」
ぼくはビューラーをだく足《あし》から駆足《かけあし》へと変えさせたが、肩胛骨のあいだの不安な感覚は、これだけ遠ざかるともう標的にはならないと確信できるまでなくならなかった。危険な動物は、ただ一種類しかいないものだ。それでもぼくらはときに、そいつがコブラのように優しく無邪気であるようなふりをすることを余儀なくさせられるものだ。
ビューラーの鞍をはずすためにぼくは立ちどまったりしなかった。急いで家の中へ飛びこむと、ドーラは戸をしめる大きな物音を聞きつけて、囲いの入口にやってきた。
「どうしたの、あなた? 面倒なことでも?」
「そうなるかもしれないよ。男が三人だ。やつらは気にくわん。それでもぼくは、夕食に招待しちまった。子供たちの食事はすんだか? みんなまっすぐベッドへやって、もし一度でも泣き声がもれたら、生きたまま皮をはがれるんだぞと、いい聞かせられるかい? ぼくは子供のことをいわなかった。子供がいることは黙っていよう。これから急いであたりを見まわって、子供がいるとわかるようなものが見えるところにないかどうか、たしかめてくるよ」
「やってみるわ。ええ、あの子たちの食事はすんでいます」
ちょうど約束の時間に、ラザルス・ロングは囲いのドアのところで客を迎えた。さきほど説明した川岸のほうからかれらは幌馬車を引いてやってきたので、かれは三人が騾馬に水を飲ませたものと考えた。しかし、長く待たせることになるのに、かれらが騾馬たちの馬具をはずそうとしないのを見て、かれはいささか軽蔑をおぼえた。それでもモントゴメリー家の三人がみな、すこしは身なりを整えようと努力したことに気づいて、かれは嬉しく思った──危険を予知するかれの第六感は、あまりに長く荒野で暮らしたために、たぶん鋭くなりすぎているのだろう。
ラザルスは最上のものを着こんでいた──キルト一式だ。ただし、ニュー・ビッツバーグ製の色あせた作業用シャツのせいで、その効果はかなりそこなわれていた。しかしそれはまったくかれにできる最高の服装で、子供たちの誕生日のときにしか身につけないものだった。ほかの日にかれが着るものは、仕事と天候しだいで、上下つづきの作業衣か、自分自身の皮膚だけだった。
モントゴメリーは騾馬からおりると立ちどまって、この家の主人をじろりと見た。
「こいつぁ、見ちがえたぜ!」
「きみたちに敬意を表してさ。うんと特別なときに、これを着るんだよ」
「ほう? おれたちに敬意を表してくれるたぁ、ありがてえこったな、レッド……そうだろ、ダン?」
「ああ、父ちゃん」
「ぼくの名前はビルだぜ、モンティー。レッドじゃあないんだ。銃は幌馬車においてきてくれよ」
「へえ! さてと、そいつはずいぶん穏やかじゃねえな。おれたち、いつだって銃は身につけているんだ。なあ、ダービイ?」
「ああ、父ちゃん。それに父ちゃんが、てめえの名はレッドだといったんなら、それがてめえの名前だぜ」
「まあいいってことよ、ダービイ、おれはそんなこたぁいっちゃいねえ。もしレッドがてめえのことをトムとかディックとかハリーとか呼びてえんなら、そいつぁやつの勝手よ。だが、おれたちゃ銃がねえと裸みてえな気分になるんだ。本当だぜ、あぁ、ビル……いいか、おれは寝るときだって銃ははなさねえ。こんなとこじゃあな」
ラザルスは、囲いの開いたドアの中に立っていた。かれは、わきに寄って客を中に入れようとする動きは、まったく見せなかった。
「それは当然の用心だな……旅の最中はね。しかし紳士は、ご婦人と食事をするときに武器をつけたりしないもんだよ。銃をここへ放り出すか、それがいやなら幌馬車においてきたまえ。どちらでも好きなほうでいいぜ」
ラザルスは緊張がたかまるのを感じることができた。ふたりの息子が指示を求めて父親を見つめているのもわかった。ラザルスはふたりを無視してモントゴメリーにのんびりした笑顔をむけていたが、そのあいだ無理にも自分の筋肉を綿のようにやわらげておいた。いまここでか? この髭野郎はあとに引くだろうか? それとも戦いを挑まれたとでも思うだろうか?
モントゴメリーの髭面はふたつに割れ、大きく微笑した。
「そうか、いいとも、お隣りさんよ……あんたがそうしたいってんならな。ズボンもぬごうか?」
「銃だけで結構さ」
(こいつは右利きだ。もしぼくが右利きで同じ服装をしていたら、もうひとつの銃はどこに隠すかな? あそこだ、たぶん……もしそうなら、小さくないといけない……ニードル・ガンか、それとも昔風に銃口を短く切り落とした暗殺者用の拳銃か。息子たちはふたりとも右利きだろうか?)
モントゴメリー一家は、幌馬車の座席にガン・ベルトをおいてもどってきた。ラザルスはわきに寄って、かれらを囲いの中へ迎え入れると、ドアをしめて閂をかけた。ドーラが例のパーティー・ドレスを着て、待っていた。草原でのひどく暑かったあの日以来初めて、彼女は夕食だというのにルビーをつけていなかった。
「こちらがミスタ・モントゴメリーに、息子さんのダービイとダンだ。ぼくの妻の、ミセス・スミス」
ドーラはちょっと足を引いて会釈した。
「ようこそ、ミスタ・モントゴメリー、ダービイ、ダン」
「おれのこたあ、モンティーと呼んでくれよ、ミセス・スミス……ところで、あんたの名前はなんていうんだい? ここはまたえらくこざっばりした家じゃねえか……こんなにへんぴな田舎にしちゃあな」
「ちょっと失礼しますわ。あたしは、お食事をテーブルに用意するのにしなければいけないことがすこしありますから」
彼女はふりむくと、急いで台所へもどっていった。
ラザルスが答えた。
「気に入ってくれて嬉しいよ、モンティー。これがいままでかかって、ぼくらにできる精いっぱいのところだったんだ。農場をはじめながらだからね」
囲い地の奥の壁にそって、部屋が四つ作られていた。倉庫と台所と寝室と子供部屋だ。どれにも囲いの中にむかってドアがついていたが、台所のドアだけが開いていた。各部屋はたがいに中で連絡していたのだ。
台所のドアの外には、煉瓦製のかまどがあった。内部にも暖炉があり、ほかの料理に使われたし、雨の日にはそこで全部の料理が作られた。それと水の入れてある樽とが、いまだにドーラの主な台所設備だった──でも、彼女の良人は水道を約束していた。「いつか、きみに孫ができるまでにね、ダーリン」と。彼女はそのことでかれをせっついたりしなかった。家は毎年より大きく、より便利になっていたのだ。
煉瓦のかまどのむこうに、寝室と並行して長いテーブルとそれに合わせた腰掛けがあり、倉庫の隣りの壁には屋外便所が作られていた。それと、水の樽と、別の樽を二つに切って作られた二個の風呂桶が、これまでのところかれらの風呂場−便所−シャワー室を構成していた。シャベルのつきささった土の山が、屋外便所のそばにあった。汚物溜がゆっくり埋めもどされているのだ。
モントゴメリーはうなずいた。
「あんたはよくやったよ。だが、便所を中に作るべきじゃあなかったな。そんなことを知らねえのか?」
ラザルス・ロングはかれに教えてやった。
「外にもうひとつ便所があるんだ……ぼくらはこっちのを、できるだけ使わないようにしている。あまりくさくならないように、いつも気をつけているのさ。しかしきみだって、日が暮れてから女性を外に出すわけにはいかんだろう。ローパーがこう多くてはね」
「ローパーは多いのか、ええ?」
「昔ほどじゃないがね。谷を通ってくるあいだに竜を見かけなかったかい?」
「骨をいっぱい見たぜ。ここいらの竜は、伝染病にやられたみてえだな」
「そのようなもんさ。レイディーお坐り!」かれはつけ加えていった。「モンティー、あの犬を蹴とばすのは危険だとダービイにいってくれよ。飛びかかるからな。あいつは番犬でね、この家をまかせてあるんだ。あいつもそれを心得ている」
「この人のいうことを聞いたろ、ダービイ。犬にかまうんじゃねえ」
「それなら、おれのことうるさく喘ぎまわったりしなきゃあいいんだ! おれは犬なんか嫌いだ。こいつ、おれにむかってうなりやがったんだぜ」
ラザルスは年上の息子に直接いった。
「きみにむかってうなったのは、きみの匂いを嗅いだときに蹴とばされたからだよ。それが彼女の仕事だったんだ。もしぼくがここにいなかったら、きみはのどに食いつかれていたはずだ。彼女にかまわんでくれ。そうすれば、彼女もきみにかまわないからな」
モントゴメリーはいった。
「ビル、おれたちが飯を食っているあいだ、この犬は外に出しておいたほうがいいな」
言葉は提案の形だったが、その口調は命令のようにひびいた。
「だめだ」
「みなさん、お食事の用意ができましたわ」
「いま行くよ……レイディ、屋根で見張りだ」
雌犬はダービイをちらりと見たが、すぐためらうことなく梯子の段をかけあがって屋根に登った。彼女は屋上で注意ぶかくあたりを見まわし、それから囲いの外と足元の晩餐会《サパー・パーティー》の両方が見張れるところに坐りこんだ。
晩餐会《サパー・パーティー》は、パーティーというよりも、夕食としてのほうが成功だった。会話はほとんど、年長の男性ふたりのあいだでの小声のおしゃべりに限定された。ダービイとダンは、ひたすら食べる一方だった。ドーラは、モントゴメリーが彼女にむかっていう冗談や皮肉に短く答えるだけで、あまり個人的だと思われる言葉には、聞こえないふりをしていた。息子たちは、それぞれの皿にナイフやフォークやスプーンがついているのに驚いたようで、もっぱらナイフと指にたよった。かれらの父親はどの食事用の道具も使おうといくらか努力をし、ずいぶん多くの食べ物を髭の中につっこんでしまった。
ドーラがテーブルに山と盛ったのは、湯気の立っているフライド・チキンに、薄切りのコールド・ハム、鶏の肉汁をかけたマッシュ・ポテト、ベーコンの脂汁《ドリッピング》をそえた熱い玉蜀黍《とうもろこし》パンと全麦パン。それぞれに山羊のミルクを入れたコップ、山羊のチーズと玉葱《たまねぎ》をおろして作ったドレッシングをかけたレタスとトマトのサラダ、ゆでた牛肉、新鮮な二十日大根、もぎたての毎に山羊のミルクをかけたもの、という具合だった。約束どおり、モントゴメリーは六人分をたいらげ、ドーラはたっぷり用意しておいたことを喜んだ。
とうとうモントゴメリーは腰掛けを後ろへおしやり、感謝するようにげっぷをした。
「まったく、いうこたねえな! ミズ・スミス、ずっとおれたちに飯を作ってくれよ。そうだな、ダン?」
「ああ、父ちゃん!」
「満足してくださって嬉しいわ、みなさん」
彼女は立ちあがるとテーブルを片づけはじめた。ラザルスも立ちあがって、彼女の手伝いをはじめた。
モントゴメリーはいった。
「おい、坐れよ、ビル。あんたにいくつか聞きたいことがあるんだ」
「いいから、そのままつづけて質問してくれ」
皿をつみ重ねる手をとめることなく、ラザルスは答えた。
「あんた、この谷にはほかにだれもいねえといったな」
「そのとおりだ」
「じゃあ、おれたちはここに腰をすえるぜ。ミズ・スミスはてえした料理人だからな」
「ひと晩ここにキャンブするのは自由だ。それから川を下れば、すばらしい農場が見つかるだろう。きみにいったとおり、ぼくはこの農場を全部、ひとりで作ったんだ」
「そのことを話すつもりだったのさ。ひとりでいちばんいい土地を全部握っちまうってのは公平じゃねえな」
「いちばんいい土地とはいえないぜ、モンティー。同じぐらいいい土地は何千ヘクタールもあるんだ。たったひとつの違いは、ぼくがこの部分を耕して、作物を育てていることだけだよ」
「まあ、そのことでいいあうのはやめようじゃねえか。投票すれば、おれたちの勝ちだぜ。つまり、四人で投票すればってことよ。そして、おれたち三人の票は同じだ。そうだな、ダービイ?」
「ああ、父ちゃん」
「これは投票するような問題じゃないぞ、モンティー」
「おい、やめろよ! 多数決はいつだって正しいんだ。だがおれたち、議論はしねえよ。飯がうまかったから、こんどは何かお楽しみだ。あんた、レスリングは好きかい?」
「べつに」
「人の楽しみをぶちこわすようなこたぁしねえこったぜ……ダン、おめえ、こいつを投げ飛ばせると思うか?」
「もちろんさ、父ちゃん」
「いいぞ。ビル、まずあんたがダンとレスリングをしろ……このまん中に出てきてやるんだ。おれがレフリーだ。万事公明正大に気をつけてやるぜ」
「モンティー、ぼくはレスリングをする気などないね」
「いや、もちろんあんたはやるさ。ミズ・スミス! ここに出てきたほうがいいぜ。こいつを見逃したくねえだろ!」
ドーラはさけんだ。
「あたし、いま手が離せないのよ。すぐ行くわ」
「急いだほうがいいぜ。それからあんたはダービイとやるんだ、ビル……そのあとは、おれとだ」
「レスリングなんかしないよ、モンティー。そろそろきみたちは幌馬車に乗りこむ時間だな」
「ところがあんたはレスリングをしたいってわけよ、若えの。賞品がなんだかはいわなかったな。勝ったやつはミズ・スミスと寝るんだ」そういうのと同時に、隠していた銃が現われた。「まんまとだましてやったぜ、え?」
台所からドーラが射った弾丸は、かれの手から銃をはね飛ばした。と同時に、ダンの頸にいきなりナイフがつき剌さった。ラザルスは慎重にモントゴメリーの足を射ってから、さらに慎重にダービイを射った──レイディ・マクベスがかれののどに食いついていたからだ。戦いは二秒とつづかなかった。
「レイディ、お坐り。見事な射撃だったね、ドーラブル」かれはレイディ・マクベスを軽くたたいた。「いいレイディ、いい犬」
「ありがとう、ダーリン。モンティーのとどめをさしましょうか?」
「ちょっと待ってくれ」ラザルスは進み出ると、傷ついた男を見おろした。「何かいうことはあるかね、モントゴメリー?」
「畜生! 不意打ちとは卑怯だそ!」
「チャンスはいやというほど与えたぞ。おまえがそれを使わなかっただけだ。ドーラ? やりたいかい? きみの好きなようにしていいよ」
「とりたててやりたくはないわ」
「よし」
ラザルスはそントゴメリーの銃を拾いあげ、それが博物館行きの代物だが、ちゃんと使えそうだと知った。かれはそれを使って、その持主を片づけた。
ドーラはドレスをぬぎかけていた。
「ちょっと待ってくださらない、あなた、これをぬいでしまうまで。血で汚したくないのよ」
ドレスをぬぐと、妊娠の徴候がすこしあらわれていることがわかった。そして、腰に低くつるしたガン・ベルトのほかに、彼女がいくつか武器をつけていることも。
ラザルスは、キルトやそのほかの装飾品をぬぎながらいった。
「きみが手伝う必要はないよ、スイートハート。きみは一日ぶんの仕事をしてしまったんだ……立派な仕事をね! ぼくにいちばん古い作業衣を投げてくれるだけでいいさ」
「でもあたし、手伝いたいのよ。こいつらをどうするつもり?」
「連中の幌馬車にのせて、ローパーが片づけてくれる場所まで下流に運んだら、幌馬車を引いてもどってくる」かれはちらりと太陽のほうを見た。「日没まであと一時間かそこらだ。時間は充分あるな」
「ラザルス、あたしのそばから離れないで! いまはいやよ」
「さっきの出来事がショックだったんだね、しっかり者の奥さんにも?」
「いくらかね。たいしたことはないわ。あの……いうのは恥ずかしいんだけど、いまので興奮してしまったのよ。変態なのかしら?」
「ひょろひょろリル、きみはなんにでも興奮するんだな。ああ、いくらか変態の気味はあるね……だが、死と初めて直面した人間には、驚くほどふつうに見られる反応なんだ。きみがそれでいかれてしまわないかぎり、べつに恥ずかしがることなんかないさ。ただの反射作用なんだから。考えなおしたよ、作業衣はいらない。服についた血を洗うより、皮膚から血を落とすほうがやさしいからね」
かれはしゃべりながら、閂をはずして門をあけた。
「あたし前にも人が死ぬのを見たわ。ヘレンおぱさんが亡くなったときは、ずっとあわてたわ……だけど、すこしも興奮しなかったのよ」
「暴力による死、というべきだったね。ドーラ、ぼくはこれ以上、血が地面にしみこまないうちに、死体を外へ出したいんだ。その話はあとにしないか」
「幌馬車につむのに手伝いがいるはずよ。それにあたし、あなたのそばを離れたくないの、ほんとなのよ」
ラザルスは足をとめて、彼女を見た。
「きみは自分でいう以上に動揺しているね。それもふつうのことなんだ……危機に際しては落ち着いていても、あとになって反動が出るんだ。だから一緒に体を動かして解決してしまおうじゃないか。ぼくは子供たちをあまり長いあいだ放っておきたくないし、この汚ならしい死体がつんである幌馬車に、あの子たちをのせるのも困る。ぼくが幌馬車を今夜のうちにわずかな距離でも動かしておくのはどうだい……三百メートルかそこらでもね……そのあいだにきみはお湯をわかしてくれるかい? この仕事がすんだら、もう一度風呂に入りたくなると思うんだ。たとえ体に一滴も血がつかないようにできたとしてもね」
「はい、旦那さま」
「ドーラ、元気を出して」
「あたし、あなたのいわれるようにします。でも、ザッカーをおこしてほかの子の番をさせられるはずだわ。あの子は慣れていますもの」
「そいつはいいな。だがまずぼくらは、死体を幌馬車に乗せるんだ。引きずりこむから、きみは足を持ちあげてくれ。もしきみが吐いたら、ぼくがこの雑用を片づけるあいだ、きみは子供たちを見ているってことにしよう」
「吐いたりしないわ。ほとんど食べなかったんですもの」
「ぼくもあまり食べなかったよ」
かれはぞっとするような仕事を進め、ラザルスは言葉をつづけた。
「ドーラ、きみの手並は申しぶんなかったよ」
「あなたの合図がわかったの。それで、時間はたっぷりあったわ」
「ぼくは合図したときでも、やつが最終的段階まで持ちこむつもりなのかどうか、確信が持てなかったんだ」
「本当なの、あなた? あたしにはあいつらが何をする気かわかっていたわ……あなたを殺して、あたしを強姦するのよ……坐りこんで食べはじめる前にね。あなた、それが感じられなかった? だからあたし、なんとかしてあいつらが、おなかいっぱい食べるようにしたの……あいつらの動きをにぶらせるために」
「ドーラ、きみは本当に人の感情がわかるんだな……違うかい?」
「そいつの頭に気をつけて、あなた……感情があれほど強ければわかるわよ。でも、あなたがどう処理するつもりか、はっきりしなかったの。あなたが安全なチャンスを作り出すために必要なら、あたし、ひと晩じゅう強姦されてもいいと決心していたのよ」
彼女の良人はまじめに答えた。
「ドーラ、もしきみの命を救うのにそれしか方法がなければ、ぼくはきみを強姦させるよ。今夜は、その必要がなかった。ありがたいことにね! でも、モントーゴメリーを門の中に入れるときは冷汗をかいたよ。相手の銃は三挺、すぐ抜けるというのに、こちらの銃はまだキルトの下だったんだからね……たいへんなことになっていたかもしれないんだ。やつはどうせぼくを殺すつもりだったんだから、そのときにやるべきだったのさ。|しっかりさん《デューラブル》、どんな戦いもその四分の三は、やるべき時期にためらわないということにあるんだ。それこそ、なぜぼくがきみを誇りに思うかの理由なのさ」
「でも、あなたがお膳立てをしたのよ、ラザルス。あなたはあたしに位置につけと合図し、あいつが坐れといっても立ったままでいたわ。それからテーブルの端にまわって、あいつらの目を自分に引きつけ……そして、あたしの弾道の外にいるようにしたわ。ありがとう。あたしがしなければいけないのは、あいつが銃を取り出したときに射つことだけだったのよ」
「もちろん、ぼくはきみの弾道外にいたさ。おおぜいの敵にかこまれたのは、これが最初じゃないからね。だがきみが命中させてくれたおかげで、ぼくにはダンをナイフでやる時間ができたんだ。まず、やつの親父を片づけなくてもよかったんでね。それに、レイディがダービイをやっつけてくれたのも、同じようにありがたかった。きみたちふたりの女性のおかげで、ぼくは一度に三カ所にいる必要がなかった。そうするのは、いつも難しいことでね」
「あなたがあたしたちを、訓練してくださったんだわ」
「うーん、そうだな。そういっても、やつがはっきり行動に出るまで、きみが銃を射つのをひかえていたという賞讃すべき事実は、まったくそこなわれないよ……そして、次の瞬間には、ためらうことなくやつを射ったんだからね。きみが銃を取って戦ったことがないなんて、信じられないよ。まるできみは百回もの戦いを経験したヴェテランみたいだ。ぼくがこの尾板《テイル・ゲイト》をあけるあいだ、きみは前へ行って騾馬を落ち着かせてきてくれないか」
「はい、あなた」
彼女が先頭の騾馬二頭のところへ行って、なだめるように話しかけていると、かれはさけんだ。
「ドーラ! ちょっと来て」
彼女がもどってくると、かれはいった。
「これを見てくれ」
かれが幌馬車の中から引きずり出して死体のそばの地面においたのは、平たい砂岩だった。それにはこう彫られていた。
バック[#「バック」はゴシック]
三〇三一AD
地球に生まれ
NB三七
この地に死す
かれはつねに最善をつくした
彼女はいった。
「ラザルス、あたしには理解できないわ。なぜあいつらがあたしを強姦しようとしたかはわかるの……たぶんあたしが、何週間もたって初めて見た女だったからでしょう。あいつらがあなたを殺す気でいたこともわかるわ。なんだってしたでしょうね、あたしをものにするためならね。でも、いったいどうして、これを盗もうとしたのかしら?」
「|なぜ《ヽヽ》といったようなことじゃあないんだ……他人の財産を尊重しない連中は、どんなことだってやるさ……釘づけにされていないものならなんだって盗むんだ。たとえ、自分にぜんぜん使い道のないものでもね……これをもっと早く知っていたら、ぼくはあいつらに機会を与えたりしなかったんだが。あんな連中は、見つけしだい殺してしまうべきなんだ。問題は、そいつらを見分けることだね」
ミネルヴァ、ドーラはぼくが変わることなく無条件に愛したただひとりの女性なんだ。その理由を説明できるかどうかはわからないがね。結婚したばかりのときは、そんなふうには彼女を愛していなかった。そのころの彼女にはまだ、愛がいかなるものでありうるかを、ぼくに教える機会がなかったんだ。ああ、ぼくはたしかに彼女を愛していた。だがそれは、お気に入りの子供を猫可愛がりする父親の愛情、あるいは人がペットにそそぐ愛情といくぶん似たものだったんだ。
ぼくが彼女と結婚する決心をしたのは、いかなる深い意味においても愛ゆえではなく、ただ、ぼくにあれほど多くの幸福な時間を与えてくれた愛らしい子供が、あるものをひどく熱心に欲しがっていたからだ──ぼくの子供をだ──そしてぼくが彼女に欲しがっているものを与え、なおかつぼく自身の自己愛を満足させられる方法は、ただひとつしかなかった。だからぼくは冷酷なまでにコストを計算し、このくらいの値段なら彼女が欲しがっているものを与えられると決心したんだ。ぼくが失うものはたいしてなかった。彼女は短命人種だ。五十年、六十年、七十年、長くてせいぜい八十年もたてば、彼女は死ぬだろう。ぼくはそのわずかな時間を、ぼくが養子にした女の哀れな短い生涯を、幸福にしてやることですごしたっていい──そうぼくは考えたんだ。たいしたことじゃあないし、ぼくにはそれができた。だからそれでいこうというわけさ。
あとのことはみな、中途半端なやりかたがなかっただけのことにすぎない。本来の目的に必要なら、なんだってやってしまえ、さ。こうしてもよかったというようなことのいくつかは、前に話したとおりだ。だがこれはいっていなかったかもしれないな。ぼくはドーラの生涯のために、〈アンディ・J〉の船長職を取りもどすことも考えたんだ。ザッカー・ブリッグズには惑星に降りるほうの仕事をやらせるか、それとも、もしそれがかれの気に入らなければ、かれの権利を買い取ってもいい。だが、恒星間宇宙船に乗っての八十年あまりは、ぼくにはなんでもないことだとしても、ドーラにとっては一生であり、彼女にはおそらく適していないことだろう。そのうえ宇宙船は、子供を育てるのに理想的な場所とはいえない──子供たちが成長したらどうするんだ? 宇宙船の日課以外は何も知らない人間を、どこかに下ろすのか? だめだ。
ぼくは、短命人種の良人は短命人種でなければいけないと決心した。かれに可能なあらゆる形でだ。その決心のもたらす必然の結果として、ぼくらは幸福の谷に腰をすえることになったんだ。
幸福の谷──ぼくの全生涯で、もっとも幸福なときだった。ドーラとともに生活するという特権を長く与えられれば与えられるほど、ぼくはよりいっそう彼女を愛した。彼女はぼくを愛することによって、ぼくに愛することを教えてくれたし、ぼくはそれを学んだ──かなりゆっくりとだが。ぼくはあまりいい生徒とはいえなかった。自分のやりかたにこりかたまっていたし、彼女が生まれながらに持っている才能を、ぼくは欠いていたんだ。だがぼくは学んだよ。至上の幸福とは、他の人間が安全で、暖かく、幸せであることを願い、そうすることに努力することを許される中にあるのだ、と。
そして、もっとも悲しいときでもあった。より深くこれを学ぶほど──毎日毎日をドーラとともに暮らすことによってだ──ぼくはより幸せになった。しかし同時に、心の片隅では痛みが増していった。この幸せがつづくのもほんのわずかなあいだで、その終りがあまりにも早くやってくることを、ぼくははっきりと知っていたからだ──そして、現実にそれが終ったとき、ぼくはおよそ百年のあいだ、次の結婚をしなかった。それからぼくは結婚した。ドーラが、死に雄々しく直面することも、ぼくに教えてくれていたからだ。彼女はぼくと同じく、自分の人生の確実な短さ、自分の死ということに、気づいていた。だが彼女は、現在を生きていくことを教えてくれた。何ものにも、今日という日を汚させない……やがてついにぼくは、生きることを強いられる悲しさに打ち克ったのだ。
ぼくらは、すばらしく楽しい日々をすごした! 忙しくたち働き、いつでもすることがありすぎたが、それでも一刻一刻を楽しんだ。何があろうと、仕事に追われて生活を楽しむのを忘れたりすることは絶対になかった。ときにそれは、ぼくが台所を急いで通りぬける途中に尻をなでたり、乳首をつまんだりするだけのことだった。それにこたえて彼女はすばやく微笑するのだ。またときには、屋根に上ってのんびりと日没や星や月を眺めて時間をすごすこともあった。たいていは、それをより甘美なものとしてくれる性愛《エロス》とともにだ。
何年ものあいだ、セックスがただひとつのまともな娯楽だったといえるだろう(その後もつねに第一位の娯楽だった。というのも、ドーラは十七歳のときと同様に、七十歳になってもセックスに熱中したからだ──体が前ほどやわらかくないだけで)。ぼくはチェスの駒を一組作ったが、いつもは疲れすぎていて満足なゲームなどできなかった。ほかに何もゲームはなかったし、どのみちそれで遊ぶことはなかったろう──忙しすぎたんだ。ああ、ぼくらはほかにいろんなことをした。よく、ぼくらの一方が編み物をしたり料理をしたりしているあいだ、もうひとりが声を出して本を読んだ。また声をあわせて歌い、リズムをとりながら穀物の種をまき、肥やしをやったものだ。
ぼくらはできるかぎり一緒に働いた。労働の分担は、生まれつきの違いによるものだけだった。ぼくは赤ん坊を生んだり、乳をやったりできない。だが、そのほかの世話ならなんだってできる。ドーラは、ぼくがすることのいくつかはできなかったが、それは重労働すぎるからだった。特に妊娠が進んでいるときには、だ。彼女は、ぼくより料理の才能に恵まれていた(ぼくのほうが何世紀にもわたって経験をつんでいたが、彼女の手際にはおよばなかった)。そして彼女は赤ん坊をあやし、まだ小さすぎてぼくと畑に出られない子供たちの世話をしながら、料理を作ることができた。しかし、ぼくも料理をした。特に、彼女が子供たちの世話で忙しい朝にはだ。一方、彼女は農場の仕事を手伝い、特に菜園を受け持った。畑仕事は何ひとつ知らなかったが、おぼえたんだ。
彼女はまた、家を建てる方法も知らなかった──だが、おぼえた。高い場所での仕事はほとんどぼくがしたが、日乾煉瓦《アドービ》の大部分は彼女が作り、つねに藁の分量は正確だった。日乾煉瓦《アドービ》はあまり気候に適していなかった──雨が多すぎるんだ。屋根をつける前に、予期していなかった雨がふりだして、壁が溶けはじめるのを見るとがっかりしてしまう。
それでもまず、手もとにある材料で家を建てることだ。ありがたいことに幌馬車の幌があったから、それをいちばん雨のかかる壁にかけて釘でとめた。日乾煉瓦《アドービ》の壁を防水する方法を考えだすまでのあいだはだ。丸太小屋を作ることは考えなかった。いい木材は遠すぎたのだ。騾馬とぼくとが二本の丸太を運んでくるのに丸一日かかったし、その調子では家の大部分を本で建てるなど不経済すぎた。その代りにぼくはバックの川の堤にそって生えているもっと小さなやつで我慢し、丸太は梁用のだけを引っぱってきた。
それにまたぼくは、耐火建築にちかくないような家は建てたくなかった。赤ん坊のドーラは、かつてあやうく焼付死ぬところだったのだ。ぼくは二度とドーラをそんな危険にさらしたくなかったし、彼女の子供たちにもおなじ気持だった。
だが、防水性と耐火性の両方をそなえた屋根をどのようにして作ればいいかと、ぼくはいささか途方にくれた。
ぼくはその答の前を何百回となく通りすぎていたのに、気がつかなかったのだ。風と天候と腐敗とローパーと昆虫とが、竜の死体にそれぞれ最悪のことをしおえたとき、そのあとにはほとんど破壊しようのないものが残されていた。ぼくがそれを発見したのは、囲い地にあまり近いので、不愉快な大きな怪物の残骸を燃やそうとしたときだった。なぜそうなのかということは、とうとうわからないままだった。それらの竜に関する生化学は、そのころからたぶん研究が進んでいることと思う。だがぼくには、道具も時間も興味もなかった。ぼくは家族のために暮らしをたてることで忙しく、ただその事実を知ってこおどりしただけだった。腹の皮を切れば防火・防水シートになり、背中と脇腹の皮はすばらしい屋根ふきの材料となった。その後ぼくは、骨にもさまざまな利用法があることを知った。
ぼくらはふたりとも、家の内外を問わず、教師になった。たぶんぼくらの子供は、変わった教育を受けたことになるだろう……だが、死んだ騾馬以外にはほとんど材料を使わずに、快適で立派な鞍を作り、暗算で二次方程式を解き、銃でも矢でも命中させ、ふんわりとおいしいオムレツを作り、シェイクスピアを次から次へと暗唱し、豚を解体して保存肉にすることができる少女は、ニアー・ビギニングズの標準に照らすと無知どころではない。ぼくらの娘も息子もみな、それ以上のことができたんだ。かれらがかなり美文調の英語をしゃべったことは認めなければなるまい。特にかれらが新地球座《ニュー・グローブ・シアター》作って、オールド・ビル(シェイクスピア)の戯曲をひとつ残らず上演してからは。このためにかれらが、母なる地球の文化と歴史に対して奇妙な考えを持つこととなったのは間違いない。だがぼくには、それがかれらにとって害になるとは思えなかった。製本された本は二、三冊しかなく、ほとんどが参考書だった。一ダースあまりのおもしろい*{は、ぼろぼろになるまで読まれた。
ぼくらの子供は、『お気に召すまま』から読書をはじめることを、すこしも不思議に思わなかった。かれらに、それは難解すぎると教える者がいなかったからだし、かれらはそれに熱中した。そして、木々に言葉を、走る小川に書物を、石に教訓を、そしてあらゆる物に善を#ュ見したのだ。
とはいえ、五歳の幼女がとうとうと美文をしゃべるのを聞くのは、奇妙な感じだった。韻律にしたがって三音節以上の言葉が、まだ赤ん坊の彼女の口から優雅に流れ落ちるのだ。それでも、ビルより後の時代の走れ、スポット、走れ。スポットが走るのを見てごらん=iスポットは犬の名前。小学一年生の教科書)というのよりはましだった。
人気の点となるとシェイクスピアについで、ドーラの腹が大きくなるたびにもっとも愛読されたのは、ぼくの医学書だった。特に、解剖学、産科学、婦人科学をあつかったものだ。どのような誕生も大事件だった──子猫、子豚、子馬、子犬、子山羊──だが、ドーラから生まれる新しい赤ん坊は特別の大事件で、例の標準的な産科学挿画にはいつも多くの指紋がつけられた。分娩期にある母と子供の断面図だ。
ぼくはとうとうそいつと、それにつづく何枚かの正常な分娩を描いた図版を切り取って壁に張り、ぼくの本が痛んだり破れたりするのを防いだ──そして、いくらでも見たいだけそれらの画を見ていいが、それにさわると罰にお尻をたたくぞと宣言した──ついで公平さを守るためにイゾルデをお仕置きするほかなくなったが、これは彼女の小さなお尻よりも年老いた父親のこちらにずっと苦しい想いを味わわせた。といっても、彼女はぼくが優しくたたいたのに対して大きな悲鳴と涙でこたえて、ぼくの面子を保ってくれたのだった。
こうした医学書は、奇妙な結果をもたらした。子供たちは、赤ん坊のころから、人体の組織と機能に関する正確な英語の単音節語を、すべて知っていたのだ。ヘレン・メイベリーは赤ん坊のドーラに対して、俗語を決して使わなかった。ドーラは同様に、自分の子供たちの前で正確な言葉を使った。だが、ひとたび子供たちがぼくの本を読めるようになると、知的俗物根性がおこった。かれらは多音節のラテン語に夢中になった。ぼくが子宮《ウーム》≠ニいうと(ぼくはつねにそういったんだ)、生意気な六歳の子供が静かに威厳をもってぼくに、本には子宮《ユーテラス》≠ニ書いてあると教えてくれるのだ。またオンディーンが駆けこんできて、山羊のビッグ・ピリイ・ウイスカーズがシルキーと性交《カピュレイト》≠オているというニュースをもたらすこともあった。すると子供たちは山羊の小屋へ駆けだしていって、それを見守るのだった。十代も半ばになると、かれらのこの愚行はたいていいつのまにかなおって、両親がしゃべるのと同じ英語をしゃべるようになった。だからぼくの見るところ、それはかれらの害にならなかったのだ。
ぼく自身の好色さが、あらゆる動物が子供たちに提供しているのと同じ見せ物として娯楽にならなかった理由は、おそらくぼくの不合理な、だが長いあいだかかって身についた習慣のためだと思う。ドーラがそうなることをいやがったとは思わない。実際そんなことがおこったときにも、彼女がいらだったようには思えないからだ──そういう事態は何度もおこったのだ。プライヴァシーは不充分で、谷に入っておよそ十二、三年後に大きな家ができあがるまで、その状態はますますひどくなる一方だった──どのくらいの時間がかかったか、正確にいうことはできない。というのは、何年間もかかって、暇を見つけては建てていったからだ。そしてぼくらは、完成しないうちにそちらへ引越してしまった。ぼくらは最初の家からあふれはじめており、そのうえまたひとり赤ん坊が(ジニーだ)生まれる予定だったからだ。
ドーラはプライヴァシーがないことなど、まったく気にかけなかった。彼女の愛すべき淫乱さは、完全に無邪気なものだったのだ。一方ぼくのは、自分がその中で育ってきた文化によって傷つけられていた──あらゆる点で、特にこの問題については気ちがいじみているとしかいいようのない文化にだ。ドーラは、そうした傷をいやすのにたいへんな力となってくれた。だがぼくはついに、彼女の天使のような純真さには達せられなかった。
ぼくは、子供じみた無知ゆえの無邪気さをいっているのではない。ぼくがいうのは、知的で、巌養があり、成熟した女性の、心によこしまなものを持たない本当の純真さのことだ。ドーラは純真であるのと同じくらいタフであり、つねに自分の行動に対して責任をとらなければいけないことをわきまえていた。彼女は、尻尾は皮とともに動き、ほんのちょっぴり妊娠するなどということはできず、人をゆっくり首吊りにするのは親切ではない≠アとを心得ていた。彼女は、迷うことなく困難な決定をくだすことができたし、それからもし彼女の判断が誤りであるとわかったときも、その結果に恐れることなく立ちむかうことができた。彼女は子供に対しても、騾馬に対しても謝ることができた。しかし、それが必要なことはめったになかった。彼女はつねに自分に対して正直だったから、判断を誤ることが少なかったのだ。
また彼女は失敗をおかしたとき、くよくよ自分を責めもしなかった。できるかぎりうまくそれを訂正し、そこから教訓を得て、意識的にそれをごまかしたりしなかった。
血統が彼女にその潜在能力を与えている一方、ヘレン・メイベリーがそれを導き、成長させたことは間違いない。ヘレン・メイベリーは感受性が鋭く、分別を持っていた。考えてみると、その特徴はおたがいに補いあっているのだ。感受性は鋭くても分別のない人間は、完全に混乱してしまい、正常な活動ができない。分別はあるが感受性のにぶい人間というのは──ぼくはこれまでお目にかかったことがないし、そんな人間がはたして存在しうるものかどうかも、はっきりしない。
ヘレン・メイベリーは地球生まれだが、移住したときに自分の悪い背景をかなぐり捨ててしまったのだ。彼女はドーラが赤ん坊のときも、育ちざかりの少女になっても、滅びゆく文明の病的な規準をおしつけるなどということはしなかった。ぼくはそのいくらかを、ヘレン自身から知った。だが、ヘレンをもっとよく知ったのは一人前の女性になったドーラからだった。自分が結婚したこの見知らぬ女性と知りあいになるという長い過程を通じて(結婚したふたりの男女は、たとえそれまでどれほど長いあいだおたがいを知っていたとしても、見知らぬ他人同士として生活をはじめるのだ)、ぼくはドーラが、かつてヘレン・メイベリーとぼくとのあいだに存在していた関係を、正確に知っていることを知った。それが社交的かつ肉体的であると同様、経済的なものでもあったという事実もふくめてだ。
このためドーラがヘレンおばさん≠ノ嫉妬するなどということはなかった。嫉妬とはドーラにとって、たんなるひとつの単語でしかなく、日没が蚯蚓《みみず》に対して持つのと同じだけの意味しかなかった。嫉妬を感じる能力は、彼女のうちでまったく発達していなかったのだ。彼女は、ヘレンとぼくのあいだの協定を、自然で道理にかなった、適切なものと考えた。ヘレンという実例こそ、ドーラがぼくを相手として選ぶときの決定的要素となったことは確実だと思う。なぜって、それがぼくの魅力と美貌であったはずはないからだ。どちらもつまらないものだからね。ヘレンはドーラに、セックスが何か神聖なものであるようには教えなかった。彼女は、教育と実例とによって、セックスが人々をともに幸せにするひとつの手段だということを教えたのだ。
ぼくらが殺したあの三人の禿鷹どもを例にとって考えてみよう──あんな連中だった代りに、かれらが善人であり上品だったなら──ああ、アイラやギャラハドのようにね──そして同じ環境が与えられ、男四人に女ひとりという状況がそのままつづきそうな場合、思うにドーラなら、やすやすと自然に、一妻多夫制を受け入れたはずだ……そして彼女自身がそれをこなすやりかたを見たら、ぼくは、それが唯一の幸福な解決策であるとすっかり納得させられてしまったに違いない。
また、より多くの良人を加えるにあたって、彼女は結婚の誓いを破りもしなかったはずだ。ドーラは、ぼくだけ、と約束したわけではない。ぼくは女性に絶対そんなことを誓わせるつもりはないんだ。なぜなら、女性がそうはできない日が、ときにはやってくるものだからだ。
ドーラなら、四人の親切で正直な男を、幸福にしておけたはずだ。ドーラには、人がますます愛するようになることを妨げる病的な態度というものがまったくなかった。ヘレンはそうなるように気をくばっていたんだ。それにギリシャ人が指摘したとおり、ひとりの人間がヴェスヴィオスの火を消すことはできないのだ。いや、そういったのはローマ人だったかな? 気にしなくていい、どっちみちそれは真実なんだから。ドーラはおそらく、一妻多夫制結婚でのほうが、より幸福になっていたはずだ。そして、もし彼女がより幸せになれば、夜が昼へとつづくように自然のなりゆきとして、ぼくもまたもっと幸福になったことだろう──たとえ、そのときより幸福な状態を、ぼくが想像できなくても、だ。しかし、しっかりした男手がもっとあれば、ぼくの生活はいっそう楽になっていたろう。ぼくにはいつでもやらなければいけないことが、たくさんあった。もっと仲間がいれば、それもまた楽しかったろうと、ぼくは考えざるを得ないードーラが気に入ることのできる連中であればだが。ドーラ自身に関していえば、彼女の中には、ぼくと一ダースもの子供たちへ注ぐのに充分な愛情があった。あと三人良人がふえたところで、彼女の資源がつきることはなかったろう。彼女は、決して涸れることのない泉だったのだ。
だがこれはあくまで仮説だ。あの三人のモントゴメリーは、ギャラハドやアイラとはあまりにも似ても似つかないものであり、同じ種族だとは考えられないほどだった。やつらは殺すのがふさもしい社会の害獣だったし、そのとおり殺されたわけだ。やつらの幌馬車に残されていたものから推測しようとしたが、やつらの素性はまったくわからなかった。ミネルヴァ、やつらは開拓者ではなかった。その幌馬車には、農場をはじめるための必要最小限のものさえなかったんだ。一本の鋤も、一袋の種子もなかったーそして、やつらの連れてきた八頭の騾馬は、すべて去勢された雄の騾馬だった。ぼくには、やつら自身何をしたいと考えていたのかわからない。ただの探険というところか? そして、それにあきたら文明世界≠ヨもどるのか? それともやつらは、峠に挑んだ開拓者の幌馬車隊のうちのだれかが、峠を越えるのに成功したことを発見すると予期し──そして、おどしつけて服従させられると思っていたのだろうか? ぼくにはわからないし、これからも決してわかることはあるまい。ぼくはこれまで、ギャングの心がまったく理解できなかったし──ギャングに対しては何をなすべきかを知っていただけだ。
とにかく、かれらは愛らしく優しいドーラを襲おうなどという致命的な過ちをおかしたのだ。彼女は正確な瞬間に銃を発射したばかりでなく、やつの手から銃を吹き飛ばした。やつの腹とか胸とかいった、はるかに容易な標的を狙うかわりにだ。そんなことが重要かって? ぼくにとっては、最高に重要だったんだ。やつの銃はぼくを狙っていた。ドーラがやつの銃のかわりに、やつを射っていたら、たとえその弾丸でやつを殺したとしても、やつの最後の反射作用はおそらく──いや、確実にだとぼくは思う──やつの指をこわばらせて、ぼくは射たれていたろう。きみはそこから六とおりの結果を考えられる。どれもひどいもんだ。
幸運な偶然だったんじゃあないかって? いや、とんでもない。ドーラは台所の暗がりからやつに狙いをつけていた。やつが銃を引き抜いたとき、彼女はすぐに狙いの的を変えて、やつの銃を射ったんだ。それが彼女の最初の──そして最後の──銃を使っての戦いだった。しかし、真の|銃使い《ガン・ファイター》というべきだろうな、ドーラは! 彼女の腕をみがくためにぼくらがすごした時間は、報われたわけだ。だが腕前よりさらにすばらしいのは、はるかに難しい標的を射とうと決心した彼女の冷静な判断力だった。ぼくが彼女をそう訓練できたわけではない。それは彼女の天性だったに違いないな。たしかにそうだったんだ──思い出してみろ、彼女の父親は死のまぎわに、まったく同じ種類の、正確かつ瞬間的な決定をくだしたのだ。
さらに七年後、新しい幌馬車が幸福の谷に姿を現わした──三台の幌馬車が一緒に旅をしてきたんだ。子供たちを連れた三組の家族、本物の開拓者だった。ぼくらはかれらと会って嬉しかったし、ぼくは特に、かれらの子供たちを見て喜んだ。というのも、ぼくは卵を危なっかしく持っそいたからだ。本物の卵、人間の卵をだ。
時間がなくなりかけていた。ぼくらの上の子供たちは、どんどん成長していたんだ。
ミネルヴァ、きみは遺伝学について人類が学んだことのすべてを知っている。ハワード・ファミリーが、かなり小さな遺伝子|給源《プール》から同系交配させられてできたことは知っているな──そしてその同系交配が、かれらから悪い遺伝子を除くのに役立ったことも──だが同時に、欠陥のある連中に支払われてきた高額の金のことも知っているはずだ。それはいまだに支払われていると、つけ加えなければいけないだろう。ハワード・ファミリーのいるところ、どこにも身体障害者のための聖域があるのだ。それがなくなることはない。強化されるまで気づかれない新たな悪い突然変異は、われわれ動物が進化のために支払わなければいけない代償なのだ。たぶん、いつの日か、もっと安価な方法が現われるだろう──だが、千二百年前のニュー・ビギニングズには何もなかったのだ。
長男のザックは大きくてたくましい少年で、その声はしっかりしたバリトンだった。その弟、アンディは、家族コーラスでもうボーイ・ソプラノを歌えなくなっており、しゃがれ声になっていた。赤ん坊のヘレンはもう赤ん坊とはいえなくなっていた──初潮はまだだったが、ぼくの判断するところ、それがいつ来てもおかしくなかった。いつ来てもだ。
ぼくがいおうとしているのは、ドーラとぼくがそれについて考えなければいけなくなっていた、困難な選択をせまられていたということだ。ぼくらは七人の子供を幌馬車につめこんでランバート山脈を横切り、かつて来た道を引きかえすべきだろうか? もしぼくらがそれに成功したら、上の四人をマギーの家かあるいは他のだれかにあずけ、それから下の三人を連れて家へもどってくるべきか? それともぼくらだけで? それとも、幸福の谷の讃歌をうたい、その美しさと豊かさを宣伝し、開拓者の一団をひきいて帰ることを試みるべきだろうか? そうすれば、将来同じような危険を避けられるわけだ。
ぼくの期待は、楽観的すぎたようだ。ほとんど間をおかずに、他の人々がつづいてやってくるだろうと考えていたのだ──一年か、二年か、あるいは三年後には、と──なぜってぼくは、幌馬車が通れるまずまずの道をあとに残してきたからだ。しかしぼくは、馬が盗まれてしまったあとで、こぼれたミルクのことに腹をたてる人間ではない。おこったかもしれないことには、興味をおぼえない。問題は、いまや育ちざかりの色気づいた子供たちを、どうすればいいかだった。
かれらに罪≠ノついて話してみたところで、どうしようもない。たとえぼくに、そんな偽善ができたとしてもだ──ぼくにはできない。特に子供たちに対しては。それにぼくは、そんな考えを売りつけることもできなかったろう。ドーラはショックを受けて傷ついたろうし、彼女の技術は、人を信じこませるような嘘をつくほうには進んでいなかった。ぼくはまた、子供たちの頭をそんな馬鹿げたことでいっぱいにしたくなかった。かれらの天使のような母親は、幸福の谷でもっとも幸せな、そしていつでも用意ができている、もっとも淫乱な人間だった──ぼくや山羊よりもさらに、だ──そして彼女がそうでないふりをすることなど、決してなかったのだ。
ぼくらはのんびりして、自然が昔ながらの道を進むのにまかせるべきなのだろうか? ぼくらの娘たちがやがて(どの娘もあまりにも早く!)ぼくらの息子たちと一緒になるだろうという考えを受け入れて、その代価にびくつかないように心の準備をするべきなのだろうか? 十人の孫に、少なくとも一人の身体障害者を予期すればいいだろうか? ぼくには、その代価をそれ以上くわしく計算するためのデータがなかった。ドーラは自分の血統について何も知らなかったし、一方ぼくも自分の血統についてすこしは知っていたが、充分ではなかったのだ。ぼくが持っていたのは、例の、古く、そしてきわめて大まかな、親指の法則だけだった。
そこでぼくらは立往生したんだ。
ぼくらはさらに別の、健全な古い親指の法則にたよった。もし、明日になれば勝率が上がると思ったら、明日にまで引きのばせることを絶対に今日やってはいけない、というやつだ。
そこでぼくらは、まだできあがっていないが、新しい家へ引越した──といってもそのころには、娘たちの共同寝室と、息子たちの共同寝室と、ドーラとぼくのための寝室、そしてその隣りの育児室、それだけはできあがっていたんだ。
しかしぼくらは、それで問題が解決したとして自分たちの心をごまかしたりしなかった。その代りにぼくらはそれを明るみに引っぱり出し、年長の三人に、問題はなんであり、危険はどれぐらいか、そしてなぜ行動をあとに延ばすのが賢明かを、はっきり教えこんだ。下の子供たちもこの授業からしめ出されはしなかった。かれらはただ、退屈な課目のときには出席しなくてもいいとされた。まだ小さすぎて、専門的すぎることには興味を持てないだろうからだ。
ドーラは粋《いき》なことをした。二十年前、ヘレン・メイベリーが彼女のためにやってくれたことにもとづいたものだ。彼女は|小さな《リトル》ヘレンが初潮をむかえたら、その日はお休みにしてパーティーを開き、ヘレンを主賓にすると宣言した。その後は毎年、その日をヘレンの日≠ニ呼び、イゾルデやオンディーンのときも同じにして、娘たちそれぞれの名がついた祝日を年にひとつずつ作っていくというのだ。
ヘレンは子供から娘へ変わるのを待ちかねていた──そして、数カ月後に、いよいよその日が来ると、彼女は鼻もちならないほど高慢になった。われわれ全員を大声をあげておこしたのだ。
「ママ! パパ! 見て、なったのよ! ザック! アンディ! おきてったら! 見に来て!」
もし彼女が痛みを感じていたとしても、そのことは何もいわなかった。おそらく痛みはなかったのだろう。ドーラには生理痛などなかったし、ぼくらはどちらも娘たちに、そんなことを予期しておくようになどとは教えなかったのだ。ぼく自身は凹状でなく凸状なので、そうした痛みが条件反射だというような仮説を述べるのはやめておこう。ぼくに意見をいう資格があるとは思わないからな──イシュタルに尋ねてごらん。
また、その結果としてぼくは、ふたりの代表団、ザックとアンディの訪問を受けた。ザックがスポークスマンになっていった。
「聞いてください、パパ……ぼくたちは今日の出来事をとてもすばらしいと思うし、妹のヘレンの日を、ぼくたち兄妹の正当な生まれながらの権利であると宣言する陽気な歓呼と喜びの声とともに迎えることは、ふさわしいと存じます。しかしながら、父上、わたくし思いまするに……」
「まわりくどいのはやめて、はっきりいえよ」
「じゃあ、ぼくら男の子についてはどうなんです?」
まいったな、という具合でぼくは騎士道を、もう一度作りあげてしまったんだ!
とつぜんの思いつきとしてじゃあない。ザックの質問は厄介なものだった。ぼくは実行できる解答が出てくるまで、その質問のまわりをしばらく踊りまわらなければいけなかった。たしかに女性と同様、男性にも通過儀礼はあるのだ。どの文化にもそれは存在する。たとえそれが通過儀礼であるとは認められていなくともだ。ぼくが子供のとき、それは長いズボンのついた最初の服だった。それから、思春期における割礼だとか、苦痛による審判だとか、恐ろしい野獣を殺すことだとか──形は無限にある。
そのどれもが、ぼくらの息子たちにはふさわしくなかった。いくつかは感心しなかったし、いくつかは不可能だった──たとえば割礼だ。ぼくにはこの重要ならざる突然変異がある。包皮がないのだ。しかしそれはY染色体と結びついた優勢遺伝形質で、ぼくは自分の息子たち全員にそれを伝えるんだ。かれらもそれを知っていたが、ぼくはふたたびそれをいい出すことで時間をかせぎ、少年から大人への変化がときとして祝われる無数の方法と関連させて論じた──そして一方では、本来の質問に対する答をなんとか考え出そうと努めていたんだ。
やがてぼくはいった。
「なあ、きみたち、きみたちはふたりとも、ぼくがこれまで教えることのできた生殖と遺伝について、何もかも知っているはずだ。ふたりとも、ヘレンの日≠ニいうのが何を意味するか知っているな。どうだ? アンディ?」
アンディは答えず、かれの兄がかわりに答えた。
「もちろんこいつは知ってるさ、パパ。つまり、ヘレンはもう赤ちゃんを生めるってことだろ。ママと同じように。知ってるはずだぞ、アンディ?」
アンディは目を丸くしてうなずいた。
「ぼくたちみんな知ってるよ。パパ。ちびたちだってさ。ああ、アイヴァーはどうかわからないけど。あいつはまだ小さすぎるからね。イゾルデとオンディーンは知ってるよ……ヘレンがあの子たちに、あたしママに追いつくつもりよって話していたからね……すぐに最初の赤ちゃんを作るんだって」
ぼくは背筋がぞっと寒くなるのをおぼえたが、それをおさえた。この話は短くはしおらせてもらおう。ぼくはかれらに、それが悪い考えだとはいわなかった。そのかわりにぼくは長い時間をかけて。かれらから答を引き出した。ふたりとも知識としては知っていても、それまで自分たちのこととしてはまったく考えていなかったことをだ──かれらのどちらかがそれを彼女の中に入れないかぎり、ヘレンには赤ん坊ができないこと。たとえ彼女がもう妊娠できるという事実をヘレンの日≠ェ示していても、彼女はまだ幼すぎて赤ん坊を育てる重荷には耐えられないこと。何年かたってヘレンが充分成長してからでさえ、彼女が兄弟のだれかとのあいだに作った赤ん坊は、ママがいつでも生むような健康な赤ん坊のかわりに、悲劇となりかねないこと。それがなぜ、どのようにおこるかは、かれらがぼくに話してくれた。アンディの目はそのあいだにますます大きくなっていった──ぼくは誘導尋問をしただけだ。
このとき助かったのは、若い雌騾馬のダンシング・ガールが、初めての発情期に入っていたことだった。ぼくは、子供を生めるほど彼女はまだ成長していないと考えた。そこでザックとアンディに彼女を柵でかこわせておいた──ところが彼女は、柵を蹴って穴をあけ、想いをとげた。バッカルーが彼女と交尾したんだ。当然のことながら、子供は大きすぎ、ぼくは入っていって彼女の腹を切り裂き、子供を取り出さなければいけなかった──獣医のやる緊急外科手術としては月並な仕事だが、人生経験の浅いふたりの少年には、印象的で残酷な光景だった。ふたりは父親が手術をしているあいだ、騾馬をおさえて手伝ったのだ。
絶対にかれらは、すこしでもそれに似た事件がヘレンにおこることなど望まなかった。どんなことがあってもだ!
ミネルヴァ、ぼくはすこしばかりいんちきをした。ぼくはヘレンの尻がどれほど横にひろがりつつあるかをかれらにいわなかったし、彼女がかかりつけにしている医者の──つまりぼくのことだ──診察によると、彼女は母親よりも多産系であり、ドーラがザッカーを生んだ年齢よりずっと早く最初の赤ん坊を生めるようになるだろうということもいわなかった。それに、兄妹同士の結婚で生まれる赤ん坊のうち、健康な赤ん坊の確率のほうが不具者の確率より高いということもいわなかった。いうわけがないだろう!
そのかわりにぼくは、女の子というものがなんとすばらしい生き物であるか、かれらが赤ん坊を作ることができるのはなんと奇蹟的なことか、女性がどれほど貴重な存在であり、女性を愛し、いつくしみ、守ることが、男性にとってどれほど誇るべき特権であるかを、叙情的に説明した──女性たちを、かれら自身の愚行からさえ守らなければいけないのだ。ヘレンはちょうどあのダンシング・ガールのように、忍耐心のない愚かな行動を取るかもしれないからだ。だから、彼女に誘惑されるんじゃないぞ、きみたち……そのかわりに突き飛ばしてやれ、これまでやってきたみたいに。ふたりは目に涙を浮かべて、約束した。
ぼくはかれらに、それを約束してくれともなんとも頼んだわけじゃあない──だが、そのおかげでひとつ考えが浮かんだ。王女<wレンがかれらに騎士の位を授けることだ。
子供たちはその考えを理解し、それに飛びついた。『アーサー王宮廷の物語』は、ヘレン・メイベリーがくれたからというのでドーラが持ってきた本の一冊だったんだ。そこでぼくらの家には、強者ザッカー卿≠ニ勇者アンドリュウ卿≠ニ、ふたりの侍女《レイディ・イン・ウエイティング》が生まれた──侍女のふたりは、だいぶ熱心に|待つこと《ウエイティング》になった。イゾルデもオンディーンも、それぞれが初潮をむかえたら王女さま≠ノなれることを知っていたからだ。アイヴァーは騎士ふたりの従者だったが、声変わりすればかれ自身も騎士にしてもらえるはずだった。エルフだけは、まだ小さすぎてこのゲームには加われなかった。
当座しのぎとしては効果的だった。王女<wレンは、自分が守られたいと思う以上に守られたようだ。彼女が自分の忠実な騎士たちを玉蜀黍畑へ誘いこめなかったとしても、かれらは食事のとき彼女のために椅子を引き、かなり何度も彼女に頭を下げて、「麗わしの姫よ」と、話しかけた──ぼくがかつて自分の姉妹に対してしたのとくらべると、かなり多くだ。
ヘレンの日≠フ一周年記念日が来る前に、例の新しい三家族が丘を下ってきて、危機は去った。
王女<wレンの股を最初にひらいたのは、彼女の兄弟のひとりではなくて、サミイ・ロバーツだった──それはたしかだった。というのは、彼女がすぐにそのことを母親に告げたからだ(ヘレン・メイベリーの影響がそこにも現われている)。そこでドーラは彼女にキスして、いい子だからパパを見つけて、診察してくれるように頼みなさいといった──ぼくは彼女を診察したが、問題にするほどの傷はつけられていなかった。しかしそれはドーラに、あのことで自制する力もいくらか与えた。ちょうどヘレン・メイベリーが、ほぼ同じ年齢だったドーラを指導したように──ずっと前、ドーラがぼくにそういったんだ。そのおかげでぼくらの長女は、ぼくと結婚したころのドーラとほぼ同じ年齢で、もうすこし体が大きくなるまで妊娠しなかった。オール・ハンソンが彼女と結婚した。そしてスヴェン・ハンソンとぼく、それにドーラとイングリッドは、この若者たちが農場をはじめるのを手伝った。ヘレンはその赤ん坊をオールとのあいだのものだと考えていたし、ぼくの知るかぎり彼女は正しかった。無用の騒ぎはなしだ。ザックがヒルダ・ハンソンと結婚したときも、つまらぬ騒ぎはなかった。幸福の谷では、妊娠すなわち婚約なのだ。そういう資格の証明なしに結婚した娘はひとりも思い出せない。ぼくらの娘には、たしかにひとりもいなかった。
隣人を持つのはまったくすばらしいことだった。
(省略)
──ランバート山脈を越えてかれのヴァイオリンを持ってきたばかりでなく、ダンスの掛け声をかけることもできた。ぼくもいくらか掛け声をかけられたし、もう五十年ほどヴァイオリンに手をふれていなかったにもかかわらず、すぐもとのように弾けるようになるとわかった。ボップもダンスをするのが好きなので、ぼくらはたがいに交代しあった。こんな調子だ。
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みんな丸く輪になって!
ご婦人に挨拶を! むかいのご婦人に!
角《かど》の女の子に! 右側の女の子に!
連れの女性に挨拶したら、王座を作れ
みんな立って、倒すんじゃないぞ
相手のご婦人をくるりとまわせ!
昔々、モーゼが生きていた
王さまはいった、イエス
モーゼはいった、ノー!
手を組んで、右へまわれ
ファフオ、そう
それが王さまのファースト・ネーム
やつらに恥辱の生涯を送らせよ!
左に一回まわって!
背中あわせに!
それからもとにもどってひとまわり!
……イエスというと
海がふたつに割れた
最初の一組は紅海を通る!
こんどは角《かど》の女に右側の男!
角の男に、右側の女……
くるりとまわって、右と左へ!
むこう岸では幸せな楽隊
だからみんなきれいにならんで
もうひとまわり!
王さまはエジプトの浜辺で泣いている
選ばれた民はもう奴隷じゃないぞ!
だから相手のご婦人にキスして
耳もとにささやけ
それから腰をおろしてビールを一杯!
休憩だ!
ああ、実に楽しかった! ドーラはおばあちゃんになりたてのときにダンスをおぼえ──ひいひいおばあちゃんになっても相変わらず踊っていた。初めのころ、そうしたパーティーはもっぱらぼくらのところで催されることが多かったが、それはぼくらの家と囲い地がいちばん大きくて、大きなパーティーができたからだった。午後遅くからダンスをはじめ、相手が見えなくなるまで踊る。それから蝋燭の火と月光の下で、セルフサービスで簡単な食事だ。それからしばらく合唱し、そこらじゅうどこでも好きなところで寝る──どの部屋でも、屋根の上でも、囲い地の中ならどこでもいいし、幌馬車の中で寝る者もいた──だれかひとりで寝る者がいたとしても、そんな話は聞いたことがない。また、もしいささか驚くほど規律がなくなったとしても、わざわざいうほどの面倒はおこらなかった。
あくる朝は人魚亭劇団《マーメイド・ダヴァーン・プレイヤーズ》が劇をふたつ上演するのがつねだった。ひとつは喜劇で、ひとつは悲劇だ。それがすむと、いちばん遠くに住んでいる者が子供たちを集めて、騾馬を馬車につなぎ、出発する時間だった。そのあいだ、もっと近くに住んでいる連中は、掃除を手伝い、それから同じようにして帰っていった。
ああ、ひとつだけ面倒がおこったのをおぼえている。ある男が、つまらんことでそいつの女房をなぐったんだ。そこで、そいつのすぐそばにいた男六人がそいつを門から放り出して、締め出しちまった。そいつはそのことにものすごく腹をたて、馬車の用意をすると去ってゆき……大峡谷を絶望の峠めざして登っていった──そのことはしばらくのあいだ気づかれないままだった。というのは、そいつの女房と赤ん坊は、彼女の姉の家にうつり、そこにとどまったからだ。一夫多妻さ──それが唯一の例というわけじゃない。結婚やセックスについては、なんの規則もなかった──いや、長いあいだ、どんなことについても規則などなかったんだ──隣人の非難を受けること以外にはね。たとえば、女房をなぐって目のまわりに痣《あざ》を作ったりすると、仲間はずれになるとか、私刑《リンチ》とまではいかなくても、開拓者におこりうる最悪のことが考えられるってわけだ。
しかし移民というものは好色であり、かつそういうことには寛容になりがちなもんだ。優れた知性はつねに強い性的欲望をともなう。そして幸福の谷の開拓者たちは、二重の選抜を通ってきた連中だった。最初は地球を去る決意をすることで、次には絶望の峠に挑戦する決意をすることでだ。だから、幸福の谷に住むのは本当の生存者だった。頭が良く、協調性に富み、勤勉で、忍耐強く──必要なときには進んで戦うが、つまらないことで戦ったりはしない。セックスはつまらないことではないが、そのことで争うのはたいていかなり馬鹿げている。それは、自分の男らしさに確信を持てぬ男にのみ特有なもので、この谷の男たちにはまったくあてはまらない。ここの男たちはそれぞれ自分に自信を持っていたから、わざわざそれを証明する必要などなかったのだ。卑怯者はひとりもいなかったし、泥棒も、弱虫も、威張りちらすやつもいなかった。わずかな例外はあっても、数えるほど多くはなかった。最初の三人のように死ぬか、あるいは女房をなぐったあの馬鹿のように逃げ出すかの、いずれかだったのだ。
こうした稀な追放は、つねにすばやく、そして型にはめることなくおこなわれた。長いあいだ、ぼくらの持っていた唯一の法は黄金律であり、文章にされることはなかったが、忠実に守られた。
このような地域社会では、セックスに関するなんの役にも立たないタブーは長つづきしなかった。だいたいそういうものは、最初からぼくらの谷へ入ってこようとはしなかったんだ。ああ、近親相姦はいいものとは考えられていなかった。ここの開拓者たちは遺伝学というものについて無知ではなかったし、受胎調節も知っていた。だがその態度は実利的だった。ただの楽しい遊びで、子供を作らない近親相姦に公然と反対する言葉など、ぼくは一度も聞かなかったと思う。それにぼくはひとりの娘を思い出す。彼女は、父母のどちらかが違う自分の兄と結婚して、何人かの子供を作った──かれの子供だと思う。ゴシップはあったかもしれないが、そのためにかれらが村八分にされるなどということはなかった。
どのような結婚の形態も、その夫婦のプライヴェートな問題であり、地域社会の許可を受けるべきものではないと考えられていた。二組の若い夫婦をおぼえているが、かれらは両方の農場をいっしょにしようと決めると、二軒の家のうち大きいほうに充分な大きさの家を建て、もう一軒は納屋にした。だれがだれと寝るのかを尋ねだりする者はいなかった。当然、四人の結婚だと考えられたし、かれらが家を建て増しして財産を共有にする前から、その関係があったことは間違いない。それはあくまでも、かれらだけの問題だったのだ。
そうした人々のあいだで、夫婦《スパウス》という言葉の複数形は風味《スパイス》だった。開拓者の社会では、ほかのあらゆるものが乏しいので、つねに自前の娯楽を作る──セックスはリストのいちばん上だ。専門の芸人はいなかったし、劇場もなく(ぼくらの子供たちがはじめた素人芝居を勘定に入れなければだ)、キャバレーも、複雑な電子工学にもとづいた気晴らしも、定期刊行の雑誌もなく、本もほとんどなかったんだ。幸福の谷ダンス・クラブ≠フそうした集まりは、暗くなって踊れなくなると必ず静かな乱交となってつづき、幼い子供たちは寝かしつけられた──ほかにどうしろというんだ? いずれにしても、そのすべてが静かで穏やかなものだった。夫婦はいつでも自分たちの幌馬車に行って眠ることができたし、ほかの場所でおこなわれている静かな宴を無視することができた。どちらのやりかたでも強制はなかった──ああ、かれらはダンスに出席する必要さえなかったんだ。
しかしもし、かれもしくは彼女ができれば、だれもがそうした毎週のダンス会に出席せずにはいられなかった。それは特に、若者たちにとっていいことだった。かれらがおたがいに知りあい、交際する機会となるからだ。おそらく最初の赤ん坊の大部分が、このダンスのときにできたはずだ。その機会はあったのだから。その一方、もし気に入らなければ女の子は、ただ遊ぶだけで最後のところまでいかなくてもよかった。だが女の子はたいてい十五か十六までに結婚したし、花婿もたいして年上ではなかった。晩婚は大都会の習慣であり、開拓者の文化では決して見られないことなのだ。
ドーラとぼくはって? だが、ミネルヴァ、これは前に話したじゃないか。
(省略)
──外の世界へ運送計画をはじめたのは、ギビーが生まれてザックが、そう、たしか十八の年だった──ぼくはニュー・ビギニングズの年を標準年にいつもなおさなければいけないんでね。とにかく、かれはぼくより背が高く、二メートルにもうすこしというところで、体重はおそらく八十キロはあった。そしてアンディもほぼ、かれにひけをとらぬほど大きくて強かった。ぼくには、そういつまでも待っていられない圧力がかかっていた。ザックがいつ結婚するかわからなかったからだ──そして幌馬車で峠を越すのは、アンディとふたりだけでは不可能だった。アイヴァーはまだ九つで──農業の仕事では大いに役立ったが、この仕事にはまだ無理だった。
しかしぼくは、自分の家族以外に馬車に乗りこむ者を見つけられなかった。谷には一ダースほどの家族しかいなかったのだ。かれらは住みついて日が浅く、まだぼくのように、物を買う必要にせまられていなかった。
ぼくは新しい幌馬車が三台欲しかった。古いやつが三台とも使いふるして役に立たなくなっているからというだけでなく、ザックが結婚するときに一台いるだろうからだ。アンディだってそうだ。それにぼくは、もしそういうことになればだが、ヘレンにも一台を寡婦産として残さなければいけないかもしれなかった。同じことが、鋤や、金属でできた何種類かの農器具にもいえた。ぼくらが豊かに暮らしていたといっても、幸福の谷は、金属工業がないので完全な自給自足はできなかったのだ──もっとも、そう長い間でもなかったがね。
ぼくはふたたび、長い買物のリストを作った──
(省略)
──年四回の予定だった。だが、五十ほどの農場が送り出すことのできる食料は、騾馬の隊列に引かせてランパート山脈を越え、草原を横切る費用のかからない農夫たちと、旅の終点で競争した場合、たいした購買力を生み出せるわけがない。ぼくはいまだに文明の絆《きずな》から助けを受けていた。ジョン・マギーに、ぼくが共同経営している〈アンディ・J〉を借方とする手形を書いて、その他の手段では手に入れられないものを谷へ運びこんだのだ。そのいくらかをぼくはとっておいた──ドーラは、ぼくらの息子たちがした最初の旅で、屋内水道を得た。ぼくが彼女にした約束が、ちょうどまにあったのだ。というのは、ザックがもどってくるとすぐにヒルダを妊娠させ、かれらの最初の赤ん坊イングリッド・ドーラの誕生と、ドーラの浴室の完成とが、ほぼいっしょだったからだ。
ほかのものは、ほかの農夫たちに労力引換えで売った。だが、バックの血を引いた騾馬たちは、強くて頭がよく、そしてどれも教えるとしゃべることができたから、結局、ぼくらの取引きのバランスを正してくれることになった。草原に井戸がふたつ掘られると、ぼくらは騾馬の群をその半分は失わずにセパレーション・センターへ連れてゆくことができるようになった。そのおかげで、ぼくらの谷に薬や、本や、そのほか多くのものをもたらすことができたのだ。
(省略)
ラザルス・ロングは、妻を驚かせるつもりなどなかった。だが、かれらはどちらも自分たちの寝室のドアをノックしたことなどなかったのだ。それがしまっているのを知るとかれは、ドーラがうたた寝をしているのかもしれないと考えて、そっと開いた。
ところがかれは、妻が窓辺に立っているのを見つけた。鏡を明るいほうにむけて、注意ぶかく白髪《しらが》を抜いていたのだ。
かれはその姿を見てショックをおぼえ、うろたえた。だが、気を静めると、いった。
「アドーラブル……」
彼女はふりむいた。
「まあ! びっくりしたわ、あなたが入ってくるのに気がつかなかったんですもの」
「すまん……それをもらってもいいかい?」
「何をなの、ウッドロウ?」
かれは彼女のところへ行くと、腰をかがめて白髪を取りあげた。
「これさ、ドーラ。きみの頭に生えている髪は一本残らず、ぼくには大切なものなんだ。これをもらっておいていいかい?」
彼女は答えなかった。かれは妻の目が涙でいっぱいになるのを見た。両方の目に涙があふれはじめ、かれはあわてていった。
「ドーラ、ドーラ……なぜ泣くんだ?」
「ごめんなさい、ラザルス。あなたにあたしがこんなことをしているところを、見せたくなかったんですもの」
「でも、どうしてそんなことをするんだい、ドーラブル? ぼくの髪のほうが、きみよりずっと白いじゃないか」
彼女は、かれがいったことに対してよりも、かれがいわなかったことに対して答えた。
「あたし、どうしてもわかってしまうの。だれかが──そう、罪のない嘘≠ついているときには。そういわなくてはいけないわね、だってあなたはこれまであたしに、一度も本当の嘘をついたりしなかったもの」
「何をいうんだい、ドーラブル! ぼくの髪は白いんだぜ」
「ええ、旦那さま……あなたがあたしを驚かせるつもりじゃなかったことは、わかってるの……それにあたしも、あなたの書斎を掃除したとき、いろいろ探がしまわるつもりはなかったわ。あたし、あなたの化粧道具を見つけたの、ラザルス、一年以上も前によ。それは、罪のない嘘といえるんじゃなくて、あなたがそのちぢれた赤い髪を白く見せるために何かするときは? あたしがすることにすこし似ているわね、あたしが白髪を抜くことと……」
「ぼくが自分を年寄りに見せはじめていることを知ってから、きみは白髪を抜いているのかい? ああ、ドーラ!」
「いいえ、違うわ、ラザルス! あたし、白髪を抜きはじめてからもう何年にもなるのよ。ずっと前からよ。だって、ダーリン、あたしはひいおばあちゃんなのよ……見ればわかるでしょ。でもあなたがしていることは……とても注意ぶかくしていても……そんなことをしてくださるのは嬉しいけど……そして、あたしは心から感謝しているわ……でも、あなたをあたしの年に見せはしないのよ。ただあなたを、若白髪に見せるだけ」
「あるいはね。でも、ぼくにだって白髪は生えるんだよ、ドーフブル……きみが生まれるすこし前に、ぼくの髪はまっ白だった。ぼくをふたたび若く見せるためには、化粧とか……髪を抜いたりすることより……はるかに徹底的な手段が必要だった。しかし、そのことをわざわざいい出す理由はまったくないように思えたんでね」
かれは妻のそばへ歩みよると、片手を彼女の腰にまわし、鏡を取ってそれをベッドの上に放り投げた。そして、彼女を窓にむかわせた。
「ドーラ、きみの年齢は誇りだ。隠すべきものじゃない。外を見てごらん。農家が丘の上までずっとならんでいる。そして、ここから見えない家の数はもっと多いんだ。幸福の谷の住人のうち、どれくらいが、きみのほっそりした体から生まれた子孫なんだろう?」
「数えたことなんかないわ」
「ぼくはあるんだ。半分以上がそうなんだ……ぼくは、きみを誇りに思っているよ。きみの乳房は赤ん坊に吸われ、きみの腹にはのびひろがった跡がついている……きみの勲章だよ、アドーラブル。勇気に対する勲章さ。それがきみを、より美しくしているんだ。だから、まっすぐ背をのばして立つんだ、マイ・ラブリイ。そして、白髪のことは忘れるんだよ。あるがままのきみでいてくれ、そして堂々としていることだ!」
「ええ、ラザルス。自分では気にしていないの……あなたを喜ばせようとしてたのよ」
「ドーラブル、きみがぼくを喜ばせないでいることなどあるものか。いつだってそうだったよ。きみは、ぼくの髪を自然のままにもどさせたいかい? ぼくは、ハワード・ファミリーのひとりであっても危険じゃない……この幸福の谷で自分の子供たちにすっかりかこまれていればね」
「あたしはかまわなくてよ、ダーリン。ただ、あたしのためにそうするのはやめて。もしそのほうがあなたにとって楽なら……最初の開拓者とかそういうことで……すこし年寄りに見せるほうがよ、そうしてちょうだい」
「他人を相手にするときは、そうしているほうが楽なんだ。それに、なんの面倒もない。ぼくはそのやりかたをよく心得ているから、眠っていてもできるぐらいさ。でも、ドーラ……ぼくのいうことをよくお聞き、ダーリン。ザック・ブリッグズがあと十年のうちに、トップ・ダラーにやってくる。きみもジョンの手紙を見ただろう。セカンダスへ行くのに、まだ遅すぎることはない。あそこできみは、もう一度若い娘のようにしてもらえるんだ。それがきみの求めることならね……そしてかなりの寿命を余分につけ加えられる。五十年、あるいは百年だってね」
彼女は答えるまでに時間がかかった。
「ラザルス、あたしにそうしろとおっしゃるの?」
「ぼくは提案しているだけさ。でも、それはきみの体なんだ、ぼくにとっていちばん大切なきみのね。そしてきみの命なんだ」
彼女は窓の外を見つめた。
「あの半分以上がって、おっしゃったわね」
「その割合はどんどん高くなっているよ。ぼくらの子供は猫みたいに繁殖するからね。そのまた子供たちもだ」
「ラザルス、本当に、あたしたちがここへ移住してきたのは大昔のことなのね。でも、ついこのあいだのことのような気がするわ。あたし、外の世界を訪れるためでも、この谷を離れたくないわ。子供たちをおいていきたくないの。それに子供たちの子供たちも。そのまた子供たちもよ。それに、若い娘のようになって帰ってくるのは絶対にいや……そんな姿で、あたしたちの玄孫が生まれるのを見るのなど。あなたのいわれたとおりね。あたしの白髪は努力の報酬だわ。もう抜いたりするもんですか!」
「それでこそ、ぼくの結婚した女性だよ! それでこそぼくの|頑固な《デューラブル》ドーラだ!」
かれはドーラの腰にまわしていた手を上へ動かし、乳房を掌でおおうと、その乳首をつまんだ。彼女は飛びあがり、ついで体の力を抜いた。
「きみの答はわかっていたんだ。でもぼくは尋ねなければいけなかった。マイ・ダーリン、年齢はきみの美しさを衰えさせることはできないし、習慣もきみの無限のヴァラエティを色褪せて見せることはできない。ほかの女ならあきあきしてくるところを、きみは渇望の想いを持たせるんだ!」
彼女は微笑した。
「あたしはクレオバトラじゃなぐてよ、ウッドロウ」
「なあに、それはきみの意見だろ。きみの意見など、ぼくのにはかなわないさ! ひょろひょろリル、ぼくはきみより何千人も多くの女を見てきているんだよ……そして、そのぼくが、きみはクレオパトラをつまらなく見せるといってるんだ」
彼女は静かにいった。
「お口の上手なこと……きっと、女からいやだといわれたことなどないんでしょ」
「そのとおりだが、ぼくは断わられるような危険を絶対におかさないから、というだけのことさ。ぼくは求められるまで待つんだ。いつでもね」
「あなたは求められるのを待ってらっしゃるわけ? いいわ、お願いするわ。そろそろ夕食の仕度にかかりたいのよ」
「そんなに急ぐことはないさ、リル。まずぼくは、きみをそのベッドへ放り出すつもりだ。それからきみのスカートをまくりあげる。そして、あっちのほうにも白髪が見つけられるかどうか見るんだ。もし見つかったら、きみのかわりにそれを抜いてあげるよ」
「けだもの、悪党、いやらしい老いぼれ山羊」彼女はうれしそうに微笑した。「あたしたち、もう白髪はわざわざ抜いたりしないことにしたんじゃなかったかしら?」
「ぼくらが話したのは、きみの頭のほうだよ、ひいおばあさん。だがもう一方のほうは、昔と変わらず若くて……前よりずっとよくなっているんだよ……だからぼくらはよく注意して、どんな白髪でも抜いてしまうのさ、きみのかわいい……きみのかわいらしくちぢれた茶色のお毛々ちゃんからね」
「なんてやさしくていやらしい人なの。一本でも見つけられるかどうか、やってごらんなさい。でもあたしは、頭のほうよりもっと注意して抜いているんですからね。この服をぬがせてちょうだい」
「おいおい! 待ってくれ。それでこそひょろひょろリルだ。幸福の谷でいちばん淫乱な雌犬だな。いつでも急ぐんだから。きみが服をぬぎたいならぬいでもいいが、でもぼくはラートンを見つけて、ベスト・ボーイに乗って姉のマージとリルのところへ行けというつもりなんだ。むこうで晩飯を食べさせてもらい、ひと晩泊ってこいとね。それがすんだらぼくはもどってきて、そのとんでもない白髪の巻毛を抜いてあげるよ。どうやら、夕食は遅くなりそうだな」
「あなたがかまわないなら、あたしもかまわないわよ」
「それでこそぼくのリルだ。ダーリン、もしきみがほんのすこしでもけしかけたら、この谷の男で、きみをものにして、もうひとつの谷を見つけようとしないやつなんていないね……きみの実の息子も、義理の息子もふくめてだよ……ここにいる十四歳以上の男は全員だ」
「まあ、とんでもないわ! またうまいことをいって」
「賭けたいかい? 考えなおしたんだが、どちらのでも、白髪を抜くことで時間をむだにするのはやめようじゃないか。ぼくは、いちばん下の息子にひと晩姿を消せといってもどってきたとき、ルビーと笑顔だけでよそおったきみの姿を見つけたいね。きみは夕食を作らなくていいんだからな。そのかわりにぼくらは冷たいハムでまにあわせ、それと毛布を持って屋上にあがろうじゃないか……そして日の沈むのを見て楽しもう」
「はい、旦那さま。ああ、ダーリン、あなたを愛してるわ! E・F? それともF・F?」
「その選択は、ひょろひょろリルにまかせるよ」
(約三万九千語省略)
ラザルスは寝室のドアをできるだけ静かにあけると、中をのぞきこみ、問いかけるような視線を娘のエルフにむけた──はっとするほど美しい中年の女性で、燃えるような赤い巻毛にすこし白髪がまじっている。彼女はいった。
「入ってきて、パパ。ママはおきているわ」
彼女は立ちあがると、夕食の盆を持って出ていった。
かれはそれをちらりと見ると、台所で見たときその上にのっていたものから、まだ残っているものを心の中で引いてみた──その答は、かれを喜ばせるには、あまりにもゼロに近かった。だがかれは何もいわず、そのままベッドのそばへ行って、妻にほほえみかけた。ドーラは微笑をかえした。かれはかがみこんで彼女に接吻してから、エルフが坐っていたところに腰をおろした。
「具合はどうだね、ぼくのダーリン?」
「とてもいいわ、ウッドロウ。ジニーが……いいえ、エルフね。エルフがとてもおいしい夕食を持ってきてくれたの。ほんとにおいしかったわ。でもあたし、彼女に頼んだの。食べさせてくれる前に、ルビーをつけてちょうだいって……あなた、気がついた?」
「もちろん気がついたとも、|美しい人《ビューティフル》。ひょろひょろリルがルビーをつけずに夕食を食べたことなどあったかい?」
彼女は答えず、目を閉じた。ラザルスは何もいわずに、彼女の呼吸を見守り、頸の脈博をみてその数をかぞえた。
「聞こえる、ラザルス?」
と、彼女の目がふたたび開いた。
「何が聞こえるって、ドーラブル?」
「雁よ。いま、この家の上を飛んでいるに違いないわ」
「ああ。そう、たしかに聞こえるな」
「今年は早いのね」
との会話で彼女はひどく疲れたようだった。彼女はふたたび目を閉じた。かれは待った。
「スイートハート? バックの歌≠うたってくださらない?」
「いいとも、可愛いドーラ」
ラザルスは咳ばらいすると、歌いはじめた。
学校がひとつ、
質屋のとなり
そこでドーラはお勉強
学校のとなりに
騾馬の囲いがひとつ
そこにいるのが
ドーラの友達、バックちゃん
彼女がふたたび目を閉じたので、かれはあとの歌詞をごく静かに歌っていった。そしてかれが歌い終ると、彼女はかれに微笑をむけた。
「ありがとう、ダーリン。すてきだったわ。その歌はいつでもすてきね。でも、あたしすこし疲れたわ……あたしが眠りこんでしまっても、ずっとここにいてくださる?」
「ぼくはいつだってここにいるよ、大好きなきみのそばにね。さあ、お眠り」
彼女はまたほほえむと、目を閉じた。やがてその呼吸は、彼女が眠りに落ちるにつれ、しだいにゆっくりしていった。
彼女の呼吸はとまった。
ラザルスは長いあいだ待ってから、ジニーとエルフを呼び入れた。
[#改ページ]
第二の幕間
続・ラザルス・ロングの覚書き抜葦[#「続・ラザルス・ロングの覚書き抜葦」はゴシック]
いつでも女性には美しいといってやれ。特にその女性が美しくない場合には。