宇宙の戦士
ロバート・A・ハインライン
[#ここから4字下げ]
さあこい、モンキー野郎ども!
人間一度は死ぬもんだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──一九一八年、戦場における無名下士官の言葉
おれはいつだって降下の前になると、あの震《ふる》えがやってくる。もちろん注射も予防催眠も受けてはいるが、そうかといって本当におれが恐怖をおぼえなくてすむというわけではない。艦に乗っている精神病医は、おれが眠っているあいだに脳波をしらべ、馬鹿げた質問をし、そのあとで、それは恐怖でもなんでもない、ただ、はやりたった競《けい》馬《ば》馬《うま》が出走の前に震えているみたいなもんだと言う。
本当にそうなのかどうか、おれにはわからない。おれは競馬馬になったことなどないんだから。だが事実、おれはそのたびに、心底《しんそこ》からこわくなるんだ。
降下三十分前〈ロジャー・ヤング〉の降下室に集合すると、小隊長はとっくりとおれたちを調べた。かれは臨時小隊長だった。というのは、ラスチャック少尉がこの前の降下で戦死されたからだ。かれの本当の階級は小隊軍曹、ジェラル軍曹だ。ジェリーは、プロキシマ系・イスカンダー星出身のフィン・トルコ人で、どこかそのへんのサラリーマンみたいな、色の浅黒い小男だが、おれは一度こいつのすごいところを見たことがある。やつは、背伸びをしなければ手のとどかないほど大きい乱暴者の兵隊ふたりをひっつかみ、そいつらの頭をココナツみたいに鉢合わせさせ、倒れるふたりから、すかさず飛びのいたもんだ。
非番のときのかれは悪くない──下士官としてはだ。かれに面とむかってジェリーと呼びかけたっていいんだ。もちろん新兵ではだめだが、少なくとも戦闘降下をやったことがあるものなら、だれでもだ。
だがいま、ジェリーは勤務中だ。おれたちはみな自分の武装を調べ──おい、きさまたち、自分の命にかかわることなんだぞ、という調子だ──小隊軍曹代理はおれたちの点呼をとったあと、もう一度注意ぶかく調べ、そのあとをこんどはジェリーが、その何物をも見逃さない眼玉で、じろじろとおれたちを調べなおした。かれはおれの前にいる男のところでとまり、そいつのベルトのボタンをおして、健康状態を示すメーターを見た。
「出ろ」
「でも軍曹、ただの風邪なんです。軍医は……」
ジェリーはそれをさえぎり、鋭い声で言った。
「なにが、でも軍曹だ! 軍医は自分で降下するわけじゃない……おまえもだ。一度半も熱があるくせになにをぬかす。降下直前に、おまえとくだらん話をしている暇はないんだ。出ろ!」
ジェンキンスは、がっかりして、いまいましそうに、おれたちからはなれた。おれのほうも胸糞が悪かった。というのは、少尉がこの前の降下で戦死したあと、みんな順ぐりに上がっていったから、今日の降下となると、おれが第二分隊の分隊長補佐をやるという破目になっていたんだ。それなのにいま分隊に穴がひとつあき、それを埋める方法はないときた。こいつはうまくない。だれかが窮地におちこみ助けを呼んでみたところで、助けにきてくれる者はだれもいないということを意味しているんだ。
ジェリーは、そのほかだれも、ふるい落とさなかった。やがてかれはおれたちの前に進みでると、おれたちをながめまわし、悲しそうに首をふってうなった。
「なんというモンキー野郎どもばかりだ! きさまらがみなこの降下であの世行きにでもなれば、はじめっからやり直しで、少尉どのが欲しがっておられたようなまともな兵隊がそろうかもしれん。だがだめだろう……ちかごろ入ってくるようなやつではな」
かれはとつぜん胸をはるとわめきだした。
「よくおぼえておくんだぞ、このモンキー野郎ども。きさまたちひとりひとりに、政府は五十万ドル以上もの金をかけているんだ……兵器、被服、弾薬、装備、訓練、それにきさまたちが腹いっぱい食いやがるぶんまで含めるとな。そこへ、きさまたち正味の値打ち三十セントを加えると、こいつは相当な金額だ」
ジェリーはおれたちをにらみつけた。
「だから、きっと返納するんだぞ! きさまらは死んじまってもいいが、きさまらが着ているその最新流行服《ファンシィ・スーツ》をなくすわけにはいかないんだ。おれは、こんな代物《しろもの》を着た英雄なんかひとりも欲しくない。少尉どのだってそうだろう。きさまたちにはするべき仕事がある。きさまらは降下し、それをやりとげ、集合音がよく聞こえるように耳の穴をかっぽじっておき、敏速に全員が引湯《ひきあげ》地点へ面《つら》をそろえるんだ。わかったか?」
かれはまたにらみつけた。
「きさまたちは、この作戦を知っているはずだ。しかし、なかには催眠暗示もかからんようなやつもいるだろうから、おれがもう一度説明しておく。おまえらは、二千メートルの間隔をあけて、ふたつの散兵線をつくるように降下させられる。地面に着いたらすぐ、遮蔽物《しゃへいぶつ》を見つけるあいだにきさまらの位置を知らせるんだ。両隣りの戦友の位置と距離もだぞ。それだけでもう十秒は無駄になっちまうだろう。だから、両側衛が降りてくるまで、手あたりしだいにぶちこわせ」
ジェリーはおれのことを言っているんだ──おれは分隊長補佐として、隣りにはだれもいない最左翼に降りるんだから。おれは震えはじめた。
「両側衛が降りてきたら、列を正し、間隔を等しくするんだ! それまでやっていたことをやめ、それだけをやれ。十二秒だ。それから、偶数番号も奇数番号も、分隊長補佐の命令により、蛙飛びで前進する」
かれはおれをにらんだ。
「あやしいもんだが、これをちゃんとやり終えられたら、集合音によって両側衛が連絡をとる……それで引き揚げだ。質問は?」
質問はなかった。そんなものが、あったためしはない。ジェリーはつづけた。
「もうひとこと……こんどのはただの奇襲で、戦争というほどのもんじゃない。火力と恐怖をぶちまけてやるデモンストレーションだ。おれたちの使命は敵に思い知らせることにある……やつらの都市を壊滅させることはできるが、やらないだけだとな。大爆撃をやられたら最後、たいへんなことになるとさとらせるんだ。捕虜はつかまえるな。やむを得ない場合のほかは殺すな。だが、おれたちの降下する地域は全部、完全に破壊する。おまえたちろくでなしのひとりといえども、爆弾を使い残してもどってきたりするな。わかったか?」
かれは時計をちらりと見た。
「〈ラスチャック愚連隊《ラフネックス》〉は、頑張りのきくことで評判だ。少尉どのはなくなられるとき、きさまらをこれからもずっと見守っている、そのことをきさまらに伝えておけと、おれに言われた……きさまたちが小隊の名を輝かせることを期待しておられるんだ!」
ジェリーは、第一分隊長ミリアッチオ軍曹のほうを見た。
「従軍牧師に五分間だ」
何人かが列からはなれてミリアッチオの前へゆき、ひざまずいた──イスラム教徒、キリスト教徒、グノーシス教徒、ユダヤ教徒、信心している宗教はなんだっていい。戦闘降下の前に言葉をかけてほしいもののために、かれは存在しているんだ。
昔の軍隊では、従軍牧師がほかの連中といっしょに戦ったりしない規則になっていたということを聞いたことがあるが、そんなことがいったいどうしてできたものか、わけがわからない。つまり、自分ではやりたくないことに、従軍牧師が祝福をあたえたりできたのだろうか、という意味だ。いずれにしても、機動歩兵では、全員が降下し全員が戦闘する──牧師もコックも書記も、全員だ。おれたちが発射管を出たが最後、あとにもうラスチャック愚連隊員は残っていないのだ──もちろんジェンキンスを除いての話だが、それはやつの罪ではない。
おれは行かなかった。そんなことをしようもんなら、だれかに震えているのをさとられるだろうと、いつも心配だったんだ。それに従軍牧師はその場所からだって、そばにいるのと同じようにおれを祝福できるはずだからだ。だがやつは、最後の敗残兵が立ち上がると、おれのところへやってきて、ほかの者に聞こえぬように、自分のヘルメットをおれのに押しつけて低い声で言った。
「ジョニー、おまえが下士官として降下するのは、これが最初だったな」
「ええ」
おれは、本当の下士官じゃなかった。ジェリーが本当の士官ではなかったのと同じだ。
「これだけを憶えておけ、ジョニー。手柄を立てようなどと思うな。自分のすることはわかっているな。それだけをやるんだ。勲章をもらおうなんて思うなよ」
「え、ありがとう、牧師さん。そんなことはやりません」
やつは静かに何事かおれの知らない言葉でつけ加え、おれの肩をたたくと、自分の分隊へ急いでもどった。
「気をつけ!」
ジェリーは叫び、おれたち全部は、ぱっと不動の姿勢を取った。
「左舷分隊、右舷分隊にわかれ……降下用意!」
「分隊! カプセル位置につけ!」
四班と五班の連中がカプセルに入って発射管の方へ移動していくあいだ待っていると、いよいよおれのカプセルが左舷のトラックに現われ、おれはそれに乗りこんだ。トロイの木馬に乗りこんだ大昔の連中も同じように震えたのだろうか? それとも、これはおれだけなのだろうか? ジェリーはみんなが充填《じゅうてん》されるのを調べ、おれのときは自分で充填してくれた。そうしながらかれは、おれにかがみこんで言った。
「へまをするなよ、ジョニー。こいつはただの訓練みたいなもんだぞ」
頭の上が閉められ、おれはひとりぼっちになった。〈ただの訓練みたいなもんだぞ〉か! だが、おれはどうしようもないほど震えはじめた。
それから、おれのイヤホーンに、中央発射管に入っているジェリーの声が聞こえてきた。
「ブリッジへ!〈ラスチャック愚連隊〉……降下用意よろし!」
「十七秒前よ、少尉!」
艦長が朗らかなコントラルトの声で答えるのが聞こえ、おれは彼女がジェリーのことを〈少尉〉と呼んだことに腹を立てた。少尉どのは戦死されたんだし、そのうちジェリーが任官するかも知れないが……まだおれたちは〈ラスチャック愚連隊〉のままなんだ。彼女はつけ加えた。
「がんばってね、みなさん!」
「ありがとう、艦長」
「用意しろ! あと五秒だ」
おれは身体じゅうベルトでくくられていた──腹も額も両足も。だがおれはそれまでよりもひどく、震えはじめた。
発射されたあとのほうが、まだましだ。それまでは、加速のためまるでミイラみたいにぐるぐる巻きにされ、ろくに呼吸もできないまま、まっくら闇に坐ったきりだ──それに、できもしないことだが、たとえヘルメットをはずすことができたとしても、おのれが入れられているカプセルのなかには窒素しか入っていないとわかっているんだ──また、そのカプセルは、とにもかくにも発射管にすっぽりと入れられており、発射される前に船がぶつかりでもしようもんなら、お祈りなどわめく暇もあらばこそ、身動きひとつできないまま、情けない格好で即死するだけだと知りながらなんだ。
例の震えがやってくるのは、この暗闇のなかでの、いつ終わるともしれない待機のせいだ──みんな、おれのことを忘れちまったんじゃないか? 艦はもう弾丸にやられ、こわれちまって、ぐるぐるまわりをやらかしているのじゃないか? そのうちおれも、身動きできないまま窒息して、艦と同じ運命をたどるのではなかろうか? それとも、衝突軌道《クラッシュ・オービット》に入ってそれなりの運命となるのか、それとも、落下途中で焼き殺されるのか?
やがて、艦が減速するショックが身体につたわり、おれの震えはとまった。8Gか、ひょっとしたら10Gぐらいか。女のパイロットが操縦するとなると、宇宙船というものは、まったく乗り心地が悪くなる。ベルトで締めつけられたところは、どこもかしこも打撲傷になるものと覚悟しておくことだ。わかっている、わかっている、男より女のほうが腕のいいパイロットになるってことぐらいは、おれも知っている。女のほうが反射動作がはやく、加速重力に耐える力も強い。惑星へ侵入するときも脱出するときも男より敏速だから、船の連中だけでなく乗せてもらうおれたちのほうだって、やられる危険はそれだけ少なくなる。しかし、だからといって、もとの体重の十倍もの重さで背骨をおしつけられるのは愉快なことではない。
だが、デラドリア艦長の、腕が確かなことは認めないわけにはいかない。ひとたび減速が終わると〈ロジャー・ヤング〉はもう、びりっとも動かなくなった。すかさず彼女の命令する声が聞こえた。
「中央発射管……発射」
つづけざまにふたつ、ジェリーと小隊軍曹代理が発進するショックがあった──間髪を入れずに、つぎの命令がひびく。
「左右両舷発射管……連続発射!」
残りのおれたちも発射されはじめた。
ドスン! おれのカプセルが、ひとつぶんだけ前へはじきだされる。ドスン! またひとつ──まるで昔の自動小銃の薬室へ弾丸がおくりこまれるような具合だ。そう、まさにそのとおりだ。ただ、銃身に相当するのは兵員輸送宇宙艦にとりつけられた発射管で、弾丸に相当するのは完全武装した歩兵をやっとひとり入れられる大きさのカプセルだというだけの違いだ。
ドスン! おれは三番めに出るのに慣れていた。はやばやと出るわけだ。ところがこんどはテイルエンド・チャーリー、つまり三個班ぜんぶ出たあとでおれの番だ。カプセルは毎秒一個ずつ発射されているのだが、それでも待つ時間は長い。おれはドスンという音をかぞえようとした。ドスン! 十二、ドスン! 十三、ドスン! 十四……音がちょっと変わっていたから、たぶんジェンキンスの乗るはずだったカラッポのやつだろう。ドスン!………
そして、ガチャン! おれの番だ。おれのカプセルは発射管のなかへたたきこまれる……ズズ・ズ・ズーン! 艦長の制動減速など恋人同士のさすりあいぐらいに感じさせるような爆発のショック。
そしてとつぜんの無。
まったくなんにもなしの無だ。音もなく、圧力もなく、重力もない。闇黒のなかをただよう……自由落下。まだ見たこともない惑星の地表めがけて無重力で大気圏外を、おそらくは三十マイルにもわたって落ちてゆく。だがおれはもう、震えてはいない。神経にこたえるのは発射前の待機なのだ。ひとたび発射されてしまえば、もう苦痛はない──たとえ何かが具合悪くいったところで、自分が死ぬのだなということは、ほとんど気づく暇もないほど迅速におこるだろうからだ。
発射直後にカプセルが旋回し動揺するのを感じた。それから、自分の体重がみな背中へまわってしまったような気分で確実に下へ下へと落下してゆく……カプセルが稀薄な大気圏上層部における最大速度にちかづくにつれて、重力はみるみるうちに回復しはじめ、やがて目的の星における重力だと教えられていた0・87Gをとりもどした。本当に芸術家的手腕のパイロットなら──おれたちの艦長はまさにそのひとりだった──カプセルの発射速度を、目的の惑星のその高度における自転速度とうまく相殺するように、艦の進入や減速をやってくれるのだ。
中身をつんだカプセルは重い。そいつらはほとんど吹き流されることなく上層大気の高く薄い風のなかを突っ切ってゆく──だがそのいっぽう、小隊は降下途中で分散し、発射時の完全な編隊の型をすこし乱すことになっている。下手糞なパイロットは、この事態をことさらに悪化させてしまう。射ち出した連中をやたらとあちらこちらにばらまいてしまい、そのため集合地点にまとまることがむずかしくなるばかりか、任務の遂行さえおぼつかなくなってしまうのだ。機動歩兵というものは、だれかほかのやつらの手で、うまく働き場所に運んでもらってはじめて、戦闘をおこなうことができるのだ。ある意味では、パイロットはおれたちと同じぐらい重要な存在なのだ。
おれのカプセルが大気圏に突入したときの反動の柔らかさから、艦長はおれたちを、ほとんど方向のブレなく、文句のつけようもないほど見事に降下させてくれたことがわかった。おれはうれしくなった──というのは、編隊がくずれずに着陸できて時間をむだにしなくてすむだけでなく、手際よく降下させてくれるパイロットは、引き揚げのときにも、手違いなく正確に艦を発着させてくれるものだからだ。
第一外殻が燃えはじめ、まずその一部が──というのはカプセルがぐらついたからだが──剥離した。それから残りが分離してカプセルはまた垂直になった。第二外殻の振動制御装置が働きはじめたが、乗り心地はますます悪くなった……制御装置が少しずつ焼失してゆき、第二外殻が粉々になってゆくにつれ、乗り心地はさらに悪くなった。しかしカプセル降下兵がどうにか生きながらえて軍人恩給をもらう身分になれるのは、こうしてカプセルが外側から順番に剥離して落下速度をゆるめてくれるだけでなく、空一面に飛散した破片が敵のレーダーを擾乱し、どれが人間のはいっているカプセルなのか、爆弾なのか、それとも外殻の破片なのか、わからなくしてくれるおかげだ。それは弾道計算機をノイローゼにするほどのものであり──事実、そうしてしまうのだ。
そのうえ、艦はおれたちが降下するすぐあとから、たくさんの擬似カプセルをばらまく。外殻が剥離するなどという面倒なことがないので、本物のカプセルよりもはやく落下する擬似カプセルだ。そいつらはおれたちの下に達すると爆発して〈窓〉を射出するし、自動偵察装置や多方向ロケット、そのほかいろいろなことをしはじめ、地上の敵をいっそう混乱させる。
そのあいだに艦のほうは、小隊指揮官の指向性ビーコンをしっかりロックする。そして、レーダーの雑音など無視して降下兵たちを追尾し、これからの戦闘に備えての着地点を計算してくれる。
第二外殻が剥離してしまうと、第三外殻は自動的におれの第一落下傘をひらいてくれた。そう長もちしなかったが、そいつはもともと長もちさせるためのものではないのだ。数Gの強いショックがひとつ──それで、おれとそいつは別々の道をたどりはじめた。第二落下傘はちょっとばかり長くもち、第三落下傘はかなりのあいだもった。そのころになるとカプセルのなかはひどく暑くなっていたので、おれは着陸のことを考えはじめた。
カプセルについている最後の落下傘が飛んでいってしまい、第三外殻が剥離してしまうと、もうおれのまわりは、強化防護服《パワード・スーツ》とプラスチックの殻《エッグ》だけになってしまった。おれは、まだそいつのなかに縛りつけられており、身動きできないが、どこへどうやって着陸するかを決めなければいけない。両腕を動かさずに、といっても動かせなかったのだが、おれは近接距離計のスイッチを入れて、ヘルメットの内側前額部にとりつけてある鏡にきらめいた数値を読みとった。
一・八マイル──おれの好みより、ちょっと低すぎる。とりわけ相捧のいない現在はだ。最後の殻はどんどん落下してゆく。もうこれ以上、なかにとどまっていても何の役にもたたない。しかもその表面温度は、まだしばらくのあいだ、そいつが自動的にひらきそうもないことを示していた──それでおれは、もういっぽうの親指でスイッチを入れ、こいつとおさらばすることにした。
最初の電荷でストラップはぜんぶ切れた。つぎのがプラスチックの殻を八つの破片にして、おれのからだから吹き飛ばした──つぎの瞬間、おれは外に──空中にいた。この眼でまわりを見ることができるのだ! 具合のいいことには、八つに割れた破片は、近接距離計のデータを通す小部分を除いて、ぜんぶ金属のメッキがしてあり、防護服を着ている人間とまったく同じ反射をする。レーダーのオペレーターは、そいつが生身の人間だろうと電子頭脳であろうと、いまや、おれと、おれのまわりに飛びちったガラクタとの区別がつかなくなって往生しているはずだ。しかも、それがひとつじゃない──おれの上にも、両側にも、下にも、数マイルの空間にわたって数千個の数になっているのだ。こういった降下が地上の敵軍をいかに混乱させるものであるかを、地上において肉眼とレーダーの両方でよく認識させておくことも、機動歩兵訓練の一項目である──というのは、まっ裸でこんなところになげだされると、だれだっていやな気分になるからだ。あっさりと恐慌をおこして、あわてて落下傘をひらいてしまい、すわりこんだカモみたいになってしまうか──カモは本当にすわりこむだろうか? すわりこむとしたら、なぜだろう──さもなければ、落下傘をひらき忘れて、かかとの骨や背骨やら頭蓋骨やらをへし折ってしまう結果になるのだ。
さて、おれは身体を伸ばし、筋肉のよじれを直して周囲を見まわした……それからもう一度、身体をふたつに祈り曲げスワン・ダイブのような格好で顔を下にし、身体をまっすぐにすると、よく下を見た。下界は予定どおり夜だったが、赤外線暗視鏡のおかげで、眼がなれてくるにつれ、地形をかなりよくつかむことができた。おれのすぐ下には、都市を斜めに横切る河が流れており、ほかの地面にくらべて温度が高いせいか、鮮やかに光りながら、ぐんぐんと迫ってくる。どちら側の岸に降りようとかまわないが、河のなかだけはごめんだ。そんなことにでもなったら、行動がぐんと遅れてしまう。
おれの右、ほぼ同じぐらいの高度で、ぱっと光が閃いた。下にいる非友好的な原住民が、おれの殼《エッグ》の破片を焼いたのだろう。そこでおれはすぐ、最初の落下傘を射ち出した。なろうことなら、極至近距離で目標を追っている敵のレーダー・スクリーンから逃げようと思ったのだ。おれはショックにそなえ、うまくそれを乗りきり、それから二十秒ほど漂ってから落下傘をひらいた──おれのまわりのものとスピードが違ってくることで、敵の注意がおれに集中するのを避けるためだ。
これがうまくいったらしい。おれはやられなかった。
六百フィートの高度で、おれはつぎの落下傘を射ち出した……ほんの一瞬、おれの身体は河のなかへ落ちるのかと思ったが、うまい具合に百フィートほど流され、河岸にある平たい屋根をした倉庫かなんかの上にくるとわかった……おれは落下傘を切り、強化防護服《パワード・スーツ》の跳躍ジェットを使って、その屋根の上に、ちょっとはずみはしたが、まあまあうまい具合に降り立った。着陸するとすぐおれは、ジェラル軍曹のビーコンを探した。
おれは、河の反対側へ降りてしまったことに気づいた。ヘルメットの内側にあるコンパス・リングに見えているジェリーの〈星〉は、本来あるべきはずのところから、はるか南にはずれている──おれの位置が北すぎるのだ。おれは屋上を河岸めがけてかけ出しながら、おれのとなりにいる班長の距離方角を計り、位置すべきところから一マイルも離れているとわかった。
「エース! 列につけ!」
おれはそう叫ぶなり、爆弾を背後へ投げ、建物を飛びおりて河をわたった。エースは、おれが予想したとおりの行動をした──エースはおれが言ったとおりの位置につくべきなのに、自分の班を見捨てたくなかったのだ。といって、おれの命令を馬鹿にしているわけではないが。
おれのうしろでさっきの倉庫が爆発し、まだ河の上にいるおれに爆風がまともに吹きつけてきた。予定では、爆発する前に向こう岸にたどりつき、建物のかげに入ってしまうはずだったのだ。おかげで、ジャイロはおろかおれまでひっくりかえされてしまうところだった。あの爆弾は、十五秒後に爆発するようにセットしておいたのに……いや、そうしなかったのかな? おれはとつぜん、自分がひどく興奮していることに気がついた。こいつは、ひとたび地上に降りた時には、もっとも警戒しなければいけないことだ。「訓練みたいなもんだぞ」というのが、ジェリーの忠告だった。あわてず、正確にやるんだ。たとえ、半秒やそこら余分にかかってもな。
対岸に着くなりおれは、もう一度エースの位置を確かめ、班を整えろとくりかえした。答はなかったが、やつはすでに実行していた。おれはそのままにしておいた。エースがちゃんと任務をやっているかぎり、やつのふてくされた態度はがまんしてやってもいい──いまのところはだ。だが艦へもどったら、そしてジェリーがおれを分隊長補佐のままでおいてくれるのならだが、おれたちはどこか邪魔の入らないところで、どちらがボスなのか決めなければいけないんだ。やつは正規の伍長であり、おれはただ期限つきで伍長勤務を命じられているにすぎないが、ともかくもやつはおれの下になっているのだし、こんな状況でなめられたりしてはたまらない。永久にというわけではないが。
しかし、いまはそんなことを考えている暇などない。河を飛びこえているあいだに、おれはすばらしい目標をひとつ見つけており、ほかのやつらに眼をつけられないうちに手をつけておきたかった──丘の上にある、公共建造物らしいものの一群だ。ひょっとすると寺院か……いや、宮殿か。そいつらは、おれたちの掃討区域から数マイル外側にあったが、少なくとも半数の弾薬は掃討区域外へばらまけというのが奇襲作戦の定跡だ。そうすると、敵のやつらは、こちらが実際にどこにいるのかわからなくて混乱しつづけるものだからだ。それはともかくとして、動きつづけることだ。なんでも手っとりばやく実行することだ。いつだって、数は敵のほうがはるかに多い。わが身を救うものは、不意討ちとスピードなのだ。
エースの位置をしらべ、隊列を整えろという二回目の命令をだすあいだに、おれはもう、ロケット弾|発射筒《ランチャー》に弾丸をつめていた。ジェリーの声が全員回路でボリュームいっぱいにひびいた。
「小隊! 蛙飛び! 前へ!」
おれのボス、ジョンソン軍曹がこだまするようにどなる。
「蛙飛び! 奇数番号! 進め!」
おかげで二十秒ほど、おれの心配ごとは消えた。そこでおれは、そばの建物に飛びあがり、発射筒を肩にあげ、目標をきめ、第一引金を引いてロケットに目標を見させる──つづいて第二引金を引き、ロケット弾を弾道にのせると、地上に飛びおりた。
「第二分隊、偶数番号!」
おれは叫び……心のなかで数をかぞえ、それから命令した。
「進め!」
おれ自身も自分の命令に従った。おれは建物のつぎの列を飛び越え、空中にいるあいだに、河に面した第一列の建物に火焔放射を浴びせた。木造だったらしく、どうも火のつきやすい時期でもあったようだ──それに運がいいことに、何軒かの倉庫には油脂製品か爆発物まで入れてあったらしい。おれの背負った|Y型発射器《ワイ・ラック》は、二個の小型高性能爆弾を左右両側二百ヤードにむけて発射したが、そいつらがどうなったかは見きわめなかった。ちょうどそのとき、最初のロケット弾が──いっぺんでも見たことがあるやつなら、決して見まちがうことのない原子爆発の閃光とともに──目標にぶちあたったからだ。そいつはもちろん、臨界量以下で使えるようにタンパーと内破圧搾装置《インプロージョン・スキーズ》をつけた公称威力二キロトン以下の小型爆弾にすぎなかった──といったところで、それより大きな爆発のときに心中したいなんていうやつもいないだろう。そいつは、くだんの丘のてっぺんをきれいに吹きとばし、市内の全員を防空壕にかくれさせるのに充分な威力を持っていた。もっと都合のいいことは、このへんに住んでいるやつのうちでたまたま戸外にいて、こっちのほうを見ていたやつは、これから二時間、ほかのものはなにも──つまり、おれの姿も──見えなくなっているだろうということだ。例の閃光は、おれの眼を、いや、おれたちのうちのだれの眼をもくらませたりはしない。おれたちの顔を覆っている金魚鉢には鉛が厚く塗ってあるし、眼のところには暗視鏡がつけてあるのだ──それにもし、へまをして生《なま》のままそちらを向いていたとしても、顔を伏せ、その閃光を防護服のほうに引き受けさせるように訓練されてもいるのだ。
だから、おれはちょっと眼をつぶっただけで、すぐ眼をひらいたとたん、まっすぐ前の建物から原住民がひとりとびだしてきた。相手はおれを見た。おれも相手を見た、そいつは何かを持ちあげた──武器らしい──ジェリーが叫んだ。
「奇数番号、前へ!」
そいつとふざけている暇はない。本当ならいまごろ到着していなければいけない地点まで、まだ五百ヤードも離れているんだ。左手にはまだ携帯火焔放射器《ハンド・フレーマー》を持っていたから、それで相手をこんがりとトーストにしてやり、秒をかぞえはじめながら、そいつの出てきた建物を飛びこえた。携帯火焔放射器というやつはもともと放火用なんだが、白兵戦では格好の対人兵器にもなる。そうまで狙いをつける必要がないんだから。
追いつかなくてはという心配と興奮のせいか、おれの蛙飛びはちょっと高すぎたし距離も長すぎた。ジャンプ・ギアを最大に使いたいのは、いつもついてまわる誘惑だ──だが、そんなことはするな! 何秒か空中にぶらさがっていることになり、実にねらいやすい的になるだけのことだ。前進の方法は、建物に出くわすたびにそいつをすれすれに飛びこすに限る。建物は、ほんのすれすれのところで飛びこえ、下にいるあいだは遮蔽物として最大限に利用する──そして、一、二秒以上は決して滞空せず、敵の目標として身をさらさないことだ。常に居場所を変えろ。移動しつづけるのだ。
こんどのばかりは、おれのヘマだった──建物一列ぶんを飛び越すには大きすぎ、そのむこうの列を飛び越すには小さすぎた。気がついてみると、おれは建物の屋根へ降りるところだったんだ。ところがそこは、もう一発超小型原爆ロケット弾を発射するために三秒間とどまっていられるような平らな場所じゃなかった。その屋根ときたら、パイプやら支柱やらがごちゃごちゃした金物《かなもの》のジャングルだ──工場か、化学研究所といったものなのだろう。着陸する場所はまったくない。もっとまずいことは、そこに原住民が六人ばかりいたことだ。この奇妙な連中は人間そっくりで、身長八、九フィート。おれたちよりずっと痩せていて体温が高い。衣類というものはまったく身につけず、赤外線暗視鏡で見ると、まるでネオンサインみたいにくっきりしている。昼間に肉眼で見るともっと変な連中だが、戦う相手としてはクモどもよりまだましだ──ああいうクモみたいなやつらには、まったくゾクゾクさせられる。
あいつらが三十秒前にもそこへあがっていてくれたのなら、おれの原爆ロケット弾の閃光のおかげで、おれを見ることなんかできないはずだ。だがおれにそんな確信は持てなかったし、やつらと取っ組みあいはしたくなかった。こんどの襲撃はそういった種類のものではないのだ。それでおれはもう一度ジャンプし、からだが空中にあるあいだに、十秒間火焔散弾《テン・セコンズ・ファイア・ピル》をひとつかみばらまいて、その連中をあわてさせておき、着地するなり、またつぎの跳躍にうつりながら叫んだ。
「第二分隊、偶数番号……前へ!」
おれはそのまま距離をちぢめるために前進しつづけ、飛びあがるたびにロケット弾をぶちこむだけの値打ちがあるものを見つけようとした。小型原爆ロケット弾はあと三発のこっており、それを持って帰るつもりはさらさらなかった。だがおれは、いやしくも原子兵器を使うからには、それだけの値打ちがあるものを仕止めなければいけないということを、たたきこまれていた──こんな代物の携帯を許されたのはまだ二度目でしかないんだ。
いまのところ、おれはこの都市の浄水場を見つけようとしていた。こいつに直撃弾を一発ぶちあてれば、都市全体が住めなくなり、直接にはだれひとり殺さなくても、むりやり疎開させることになる──面倒くさいが、おれたちのこんどの降下作戦そのものがそんな調子なんだ。おれが催眠学習させられた地図によると、そこはいまおれがいるところから約三マイル上流にあるはずなのだ。
だがさっぱり見つけられない。たぶん、ジャンプが低すぎるのだろう。おれはもっと高く飛びあがってみたい誘惑にかられたが、ミリアッチオが勲章をもらおうなどと思うなよと言ったことを思いだし、どこまでも教えられたとおりにしていることにした。おれは背中の|Y型発射器《ワイ・ラック》をオートマチックにセットし、着地するたびに小型爆弾を二個ずつ飛ばした。そのあいだも、なんでもかでも手あたりしだいに火をつけ、浄水場かそれともほかの値打ちのある目標を見つけだそうとした。
さて、手頃な距離のところに何かがあった──浄水場か何かわからないが、とにかく大きいものだ。そこでおれは近くにあったいちばん背の高い建物の上へ飛びのり、狙いを定めて発射した。飛びおりたとたんジェリーの声が聞こえた。
「ジョニー! レッド! 両翼をまるめはじめろ」
おれはその命令を復唱し、レッドが復唱する声を聞き、レッドにおれの位置がはっきりわかるようにビーコンを点滅《てんめつ》信号に切りかえ、やつの点滅信号の距離と方向を確かめながら叫んでいた。
「第二分隊! 円陣隊形にうつれ! 班長は報告しろ!」
四班と五班は「了解」と答え、エースのやつは「もうやってるよ……そっちは気合いを入れて走れ」とぬかしやがった。
レッドのビーコンから判断すると、右翼はおれのほぼまっすぐ前で、十五マイルはたっぷり離れたところにいるらしい。畜生! エースの言うとおりだ。おれは気合いを入れて走らないと、その距離をちぢめるのがまにあわないかもしれないんだ──ところがおれはまだ二百ポンドからの弾薬やらいろんな厄介物を身につけており、こいつらを使いきる時間も見つけなければいけないときているんだ。おれたちは、V型隊形で着陸した。ジェリーがVの字の底で、レッドとおれが両枝の先端だ。これから、それを引揚集結地点をまん中にした円にしていかなければいけない……ということは、レッドとおれがそれぞれほかの者より広い区域を走り、したがってそれ相当の戦果をあげてみせなければいけないということだ。
円陣にうつりはじめると少なくとも蛙跳び前進は終わりだ。おれは数をかぞえるのをやめて、スピードだけに専念できた。もうどこにいても安全なところはなくなってきた。たとえ敏速に動きまわってもだ。おれたちは奇襲という大きな有利性をもって作戦を開始し、射たれもせずに着陸した。少なくとも降下のときにはだれもやられなかったと思う。それから、この星のやつらがおれたちを射とうとしても──とにかく、やつらがおれたちを見つけることができたとしての話だが──やつら同士で殺しあう可能性が大きかったのに、おれたちのほうとくると、味方をやっつける心配はまったくなく、思う存分、やつらのあいだをあばれまわってきたのだ。おれはなにもゲーム理論の専門家ではないが、おれたちがつぎにどこにいるかを予言するのにまにあわせられるように、現在のおれたちの行動を分析できるようなコンピュータなどどこにもないだろうと思う。
それにもかかわらず、ここの防衛軍も、統率がよくとれているかいないかは別として、ともかく反撃をはじめた。おれのからだをかすめた至近弾が二発ほど爆発し、おかげで防護服のなかにいても、おれの歯はガタガタ鳴った。さらに一度は、何やらわけのわからぬ光線でひとなでされると、髪が逆立ち、尺骨を打たれたときのように、一瞬からだが半ば麻痺してしまった──肘だけでなく全身がだ。もし強化服を跳躍させるのがほんのすこしおくれたら、そこから逃げ出すこともできなかっただろう。
こんな目にあうと、思わず立ちどまってなぜ軍隊になんか入ったんだろうと考えてしまうものだ──ただ、このときのおれは、忙しくて立ちどまってなんかいられなかった。めくらめっぼう二回つづけて建物を飛びこえてみると、おれはやつらのまん中へ着陸した──あわてて四方八方火焔放射しながら、すぐまたジャンプする。
しゃにむにつっ走って、おれは味方とのあいだを半分ほどほぼ四マイルを最短時問でちぢめた。しかしそのため、まぐれあたり以上の戦果はあげられなかった。おれの|Y型発射器《ワイ・ラック》は、二回ほど前の跳躍のときに空になっており、中庭のようなところに着地していることに気づいた。おれはちょっと止まって予備の高性能爆弾を装填しながら、エースの位置を確かめる──原爆ロケット弾の最後の二発を使うには、左翼分隊に入りこみすぎているらしい。おれは近くにあった建物のうちでいちばん背の高いやつのてっぺんへ跳躍した。
肉眼でもだいぶよく見えるほど明るくなりかかっていた。おれは、赤外線暗視鏡を額へはねあげ、肉眼ですばやくあたりを見まわし、背後になにかぶっぱなしてやる物はないかと探した。なんでもいい、選り好みをしている時間はないのだ。
やつらの宇宙空港の方角にあたる地平線に何かがあった──管制塔か、それとも恒星間宇宙船か。
ほとんど同じ方向の半分ほどの距離に、ぜんぜん見当のつかない巨大な建造物があった。宇宙空港までの距離はたいへんなものだったが、おれは原爆ロケットによくそいつを見させ、「見つけろよ、坊や!」と言うなりぶっとし──つぎの最後の一発をたたきこむと、近いほうの目標めがけて送りだし、すぐに跳躍にうつった。
その建物はおれが離れた直後に直撃弾をくらった。〈痩せっぽちども〉がおれがいるのを見つけて建物ごとぶっとばそうとしたのか、それとも味方のだれかが花火をてんで無雑作に使いやがったのかだ。どちらにしたところで、もうこんなところから跳躍するのはごめんだ。たとえすれすれにでも飛ぶのはいやだ。おれはつぎの建物ふたつは、飛びこすかわりに、中をまかり通ることにした。そこでおれは地面へ着くなり背中の重い火焔放射器をひっつかみ、赤外線暗視鏡を両眼におろすなり、真正面の壁に切断光線《ナイフ・ビーム》を全力照射した。壁の一部はくずれ落ち、おれは飛びこんでいった。
そして、それよりもすばやく飛び出してきた。
おのれのぶち割ったものが何だったのか、おれにはわからない。教会での集まりか──骨皮野郎の安宿か──それとも、やつらの防衛司令部だったのかもしれない。わかっていることはただひとつ、おれが一生のあいだに見たいと思う数以上の〈痩せっぽちども〉がいっぱいいる非常に大きな部屋だったということだけだ。
たぶん教会なんかじゃあるまい。というのは、飛び出しかけたおれに、そのなかから射ってきたやつがいたからだ──弾丸はおれの強化服にあたってはねかえり、おかげで耳はガーンと鳴り、ちょっぴりよろめいたが、べつに怪我はなかった。それでも、訪問したのにお土産をおかずにサヨナラしてはいけないということを、思い出させてくれた。おれはベルトに手をやって、最初にさわったものをひっつかむと下手投げにころがした──そいつはキーキー鳴りはじめた。基礎訓練でいつも教えるとおり、直ちに建設的なことを何でもいいからするほうが、何時間もたってから最善の方法を考えつくよりはましなのだ。
まったくの偶然ながら、おれは正しいことをやっていた。そいつは特別製の爆弾で、効果的な使い道が見つかったときにだけ使うという指示とともに、こんどの作戦にあたって各人一個ずつ支給されたものなのだ。投げるときに聞こえたキーキーという音は、ここの原住民の言葉でその爆弾が叫んでいる音で、翻訳すればざっとこんなところだそうだ。「おれは三十秒爆弾だぜ! 三十秒爆弾だぜ! 二十九! 二十八! 二十七!………」
これはやつらの神経を参らせるためのものだった。たぶん利き目はあったのだろう。確かにおれの神経は参った。人間を射ち殺すほうがましだ。おれは数え終わるまで待ちはしなかった。やつらがそれまでに走り出せるだけの窓や出口はあるのだろうかと考えながら、おれは跳躍した。
跳躍のてっぺんで、おれはレッドの点滅信号の位置を知り、地面へおりたときエースの位置を知った。おれはまた遅れかかっている──いそがなくてはいかん。
だが三分後に、おれたちは隙《すき》間《ま》をつめていた。おれの左翼半マイルにレッドがいた。やつはそのことをジェリーに報告していたのだ。ジェリーがほっとした声で小隊全員にどなる声が聞こえた。
「円は閉じたが、ビーコンはまだ降りておらん。ゆっくり前進し、まわりをぶっつぶせ。もうちょっと痛めつけてやるんだ……だが、めいめいの両隣りにいるやつに気をつけろ。戦友を痛めつけるな。今までのところは、まず上出来だ……それにケチをつけるな。小隊! 分隊ごとに点呼!」
おれにも、いい仕事をやったと思われた。町のほとんどは燃えあがっており、あたりはもう全く明るくなっていたが、赤外線暗視鏡より肉眼のほうがいいかどうかは決めかねた。それほど煙がひどかったのだ。
おれたちの分隊長であるジョンソンが叫んだ。
「第二分隊、報告しろ!」
おれはおうむがえしに言った。
「四、五、六班……番号」
新型コム・ユニットについている安全回路は、たしかに物事をスピードアップする。ジェリーは、隊員のだれにでも、あるいは分隊長たちにだけでも話しかけられる。分隊長は自分の部下全員に話しかけることができるが、下士官だけに話しかけることもできる。こうして一秒を争っとき、小隊は二倍の速さで点呼をとることができるのだ。おれは四班が報告するのを聞きながら、弾薬の残りをしらべ、町角から頭をつきだした〈痩せっぽちども〉めがけて爆弾を一個ころがしてやった。
四班は報告するのにちょっともたついていたが、班長はやっとジェンキンスのことを思いだした。五班はソロバンをはじくようにパキパキ報告したので、おれの気分は良くなりはじめた……だが点呼はエースの班の四番でとぎれちまった。おれはどなった。
「エース、馬鹿《ディズィ》はどこだ?」
やつはどなりかえした。
「だまれ……六番!」
「六!」
と、スミスが答えた。
「七!」
エースは報告した。
「六班、フロレス行方不明。班長は探しにいく」
おれはジョンソンに報告した。
「ひとりいません。六班のフロレス」
「行方不明か戦死か?」
「わかりません。班長と分隊長補佐は採しに列からはなれます」
「ジョニー、エースにまかせろ」
だが、そんな声は聞こえなかったから、おれは答えなかった。やつはジェリーに報告し、ジェリーが悪態をつくのが聞こえた。言っとくが、なにもおれは勲章がもらいたくて突進したんしゃない──つかまえてくるのは分隊長補佐の仕事なんだ。分隊長補佐ってのは、刺身のつま、最後に到着するもの、消耗品なんだ。分隊長連中にはほかにする仕事がある。もうはっきりわかったことだろうが、分隊長補佐というものは、分隊長が生きているかぎり不必要なものなんだ。
まさにこのとき、おれはまったく消耗品のような、もう消耗されてしまったような感じを味わっていた。というのは、この宇宙でもっとも甘ったるい音が聞こえてきたからだ。撤退用小宇宙船が着陸するというビーコンが集合音をひびかせはじめたのだ。このビーコンはロボット・ロケットで、撤退用小宇宙艇が着陸する前に発射され、地面につきささるとすぐあの優しい音楽を放送しはじめる小さなスパイクだ。その上へ撤退用小宇宙艇は自動的に三分たつと着陸する。そのそばに全員いたほうがいいんだ。というのはこのバスときたら待ってくれないし、つぎのやつは来てくれたりしないからである。
だがだれだって、相棒の機動歩兵を見捨てては行けない、そいつかまだ生きている可能性があるときは──〈ラスチャック愚連隊〉ではそうだ。機動歩兵ならどこの隊だってそうだ。なんとしてでも見つけるのだ。
ジェリーの命令が聞こえていた。
「どたまをあげろ、みんな! 撤退地点に集合! いそげ!」
そしてビーコンは甘い声を流していた。
とこしえに栄光みつる歩兵よ、
その名を輝かしめよ
ロジャー・ヤングの名を
おれはそちらへ向かいたかった、くらいつきたいほどだった。
だがおれはそうするかわりに反対のほうへ向かい、エースのビーコンに接近しながら、爆弾《ボム》や火焔散弾《ファイア・ピル》の残り、そのほか何であろうとおれの目方を軽くしてくれるものは使っていった。
「エース! やつのビーコンはつかんだか?」
「おう。帰れ、能なし!」
「もう眼で見える。やつはどこだ?」
「おれのまん前、四分の一マイルほどだ。帰れ! やつはおれのもんだ」
おれは答えなかった。おれは左へ斜めにつっきり、やつがいるとエースの言ったあたりへすっ飛んでいった。
するとエースはやつのそばに立ちはだかっており、〈痩せっぽちども〉がふたりほど黒焦げになっており、ほかに大勢逃げていくところだった。おれはエースのそばへ着陸した。
「やつを強化服から出そう……もうボートが降りてくるぞ!」
「傷がひどすぎる!」
おれは見た、そしてそのとおりだとわかった──なんと強化服に穴があいており、そこから血が流れ出ている。おれはまごついた。負傷者を救けるにはそいつを強化服から出さなければいけない……すると両腕にかかえあげるだけでいい……それで飛び離れればいいんだ。裸にすれば使っただけの弾薬ほどの重さもないんだ。
「どうしよう?」
エースはむっつり答えた。
「運ぼう。ベルトの左をつかめ」
かれは右がわをつかみ、おれたちはフロレスを立たせた。
「ロックをおろせ! いいか……一、二の三で飛ぶぞ……一……二!」
おれたちはジャンプした。そう遠くまではいけなかった。ひとりだけでは、やつを地面から離すこともできない。パワード・スーツはあまりにも重すぎるんだ。だがふたりでやれば、できるんだ。
おれたちは飛んだ──飛んだ──何度も飛んだ。エースが拍子をとり、おれたちふたりは着地するたびにフロレスをささえた。やつのジャイロはこわれちまっているらしい。
ビーコンの音がはたととまった。撤退用小宇宙船が着陸したんだ──着陸するのが見えた──そして、それはあまりにも遠すぎた。小隊軍曹代理の号令が聞こえていた。
「続いて、乗船用意!」
するとジェリーがどなった。
「その命令待て!」
おれたちはやっと空地に出た。尾部を下に小宇宙艇が立っているのが見え、離陸を警告する咆哮を発しているのが聞こえていた──そのまわりの地面に小隊はまだおり、警戒態勢の円陣をとり、作りあげた遮蔽物のうしろにへばりついている。
ジェリーがどなった。
「続いて、乗りこむ……始め!」
おれたちはまだまだ遠く離れている! 第一分隊からみんなが離れ、小宇宙艇に走りこむにつれ、警戒円陣がちぢまっていくのが見えた。
すると、ひとりがその円から離れておれたちのほうへやってきた。指揮官服だけにできる猛烈なスピードだ。
ジェリーは、おれたちがまだ空中にいるあいだに着き、フロレスの|Y型発射器《ワイ・ラック》をつかみ、おれたちに力をあわせた。
三度の跳躍でおれたちは小宇宙艇に着いた。ほかの連中はみな乗りこんでしまっていたが、ドアはまだあいていた。おれたちがフロレスをかつぎ入れてドアを閉めていると、操縦士は、おれたちのためにランデブーができなくなったわ、もうみんなおしまいよ、と金切声をあげた。だがジェリーはぜんぜん相手にしなかった。おれたちはフロレスを寝かせ、そのそばに伏せた。噴射のショックがおそってきたとき、ジェリーは自分自身にむかって報告していた。
「全員います。少尉どの。三名負傷していますが……全員います!」
これだけはデラドリア大尉のために言っておこう。彼女以上の操縦士はいないだろう。撤退用小宇宙艇が軌道でランデブーするのは、正確に計算されてのことだ。おれには、どうやるのかさっぱりわからないが、とにかくそうなのであり、それを変えることはできない。不可能なことなのだ。
だが彼女だけはやってみせた。彼女はスコープで小宇宙艇が時間どおりに噴射できないとわかると、すぐにブレーキをかけ、またスピードをあげた──そして、こちらの艇と動きをあわせ、おれたちを収容したのだ、それを計算する時間がなかったから、眼と勘だけでだ。もし全能の神が星々のコースを保つのに助手を必要とするようなことがあったら、おれはだれが良いかを教えてあげたい。
フロレスは上昇の途中に死んだ。
[#改ページ]
[#ここから4字下げ]
まったくこわくてたまんねえ
おいら逃げだし止《と》まらなかった
ふりむきもせずに一目散《いちもくさん》
家さかえるとお母の部屋さ
米人馬鹿者《ヤンキー・ドードル》はりきらねえか
米人馬鹿者《ヤンキー・ドードル》お洒落だろうが
楽隊《がくたい》とステップに気いつけろ
そいで女の子はちょろいもの
[#ここで字下げ終わり]
おれは心底から入隊したかったわけじゃない。
それも機動歩兵だなんて、とんでもないことだ! そんなことになるぐらいなら、公共広場で十ぺんも鞭でぶったたかれ、親《おや》父《じ》に、誇り高い家名に傷をつけたなんていわれるようなことをしたほうがましだと思っていた。
そう、たしかにおれがハイスクールの最高学年も終わりになったころ、地球連邦軍《フェデラル・サービス》に志願しようかすまいか考えているんだなどと親父に言ったことはある。十八回目の誕生日がせまってくれば、どんな男の子だってそうじゃないかな──しかもおれの誕生日は、卒業する同じ週にくるんだ。もちろん、ほとんどのやつは、そんなことを考えてみるだけだ。ちょっぴりとそんな夢を楽しんでみるだけで、やがてはほかのことをするようになる──大学へ進んだり、職についたり、ほかに何かしら始めてしまうのだ。おれだって御多《ごた》分《ぶん》に洩れずそうなっていたはずなんだ……もしおれの親友が本気で入隊するなんぞと考えてさえいなければだ。
カールとおれは高校時代、何をやるんだっていっしょだった──女の子にモーションをかけるのも、ダブル・デートをするのも。討論会でも組んでやったし、カールの家に作った私設研究室《ホーム・ラボ》で電子をつつきまわしてみるのもいっしょだった。おれはわれながら電子理論には弱かったが、ハンダづけのほうとなるとうまいものだったんだ。カールが脳味噌をしぼり、おれはやつの言うとおりに実行したというわけだ。おもしろかった。おれたちふたりでやることは何によらずおもしろかった。カールの家はおれの親父ほど金持ちじゃなかったが、そんなことはおれたちふたりのあいだでは問題にならなかった。おれが十四歳の誕生日に親父はロールスのヘリコプターを買ってくれたが、これはおれとカールが共有しているのと同じことだった。そんなわけで、カールの家の地下室にある研究室は、おれのものでもあったわけだ。
だからカールがストレートに大学へ進まないで、まず軍隊づとめをしてくるつもりだと言ったとき、おれだって考えてしまった。やつはまるっきり本気で言っていた。それが当然のことであり、正しくて、決まりきったことだと思っているようだった。
だから、おれだって入隊するよと言ったんだ。するとやつは、おかしな顔をしておれを見たもんだ。
「きみの親父さんが許すもんか」
「なぜ? とめられるわけはないじゃないか」
もちろん、そんなことができるはずはない。法律上、それはだれにとっても、初めて完全に自由の自分だけの意志で決められることなんだ(そしてたぶん最後のだが)。男でも女でも十八歳の誕生日がくると、だれだって志願できるし、だれもその問題についてとやかく文句をつけることはできないんだ。
「いまにわかるさ」
と、カールは話題を変えてしまった。
そこでおれはためしに、この話をなにげなく親父にもちだしてみた。親父は新聞と葉巻をそばへおくと、おれをまじまじと見つめた。
「おまえ、どうかしているんじゃないか?」
「そんなことはないよ」
と、おれがつぶやくと、親父は溜息をついて言いだした。
「まあいい、どうもそんなふうに聞こえたが……だが、そんなことを言いだされるんじゃないかと思ってはいたよ。男の子が大きくなっていく途中では、かならずそんな時期がくるもんだ。わしはおまえがよちよち歩きをはじめたときのこと、もう赤ん坊じゃなくなったときのことを、はっきり憶えているよ……正直いっておまえはしばらくのあいだ、手のつけられない腕白坊主だった。おまえはママが大事にしていた明《ミン》の花瓶をこわした……わざとだよ、そのことははっきりしていた……だがおまえは小さすぎて、花瓶が値打ちものだなんてわかっちゃいなかった。そこでおまえは手をピシャリとやられただけだった。それからおまえが、わしの葉巻をくすねて、ひどく気分が悪くなった日のことも憶えているよ。ママとわしは、おまえがその晩ぜんぜん食べられなかったことはわかっていたが、意識してそれを注意するのは避けたんだ。そしてわしは今日までそのことは黙っていた……男の子というものには、そういうことをいちいちやってみて、自分自身で悪徳というものは引き合わないんだと覚らせるようにしたんだ。わしらはおまえが思春期にさしかかり、女の子というものは違っている……そして素晴らしいものだということに気がつきだすのも見守ってきたんだよ」
親父はまた溜息をついた。
「すべては普通の段階をへたわけだ。そして最後のやつは、思春期のちょうど終わりというと、男の子が軍隊に入って格好のいい制服を着てみようと決めることだな。あるいは、恋をしているときめこむ。その恋は、世のなかのいかなる男性もこれまで経験したことのないものだと信じこみ、すぐに結婚してしまわなければいけないと決心する。あるいはその両方だな」
親父は陰気な笑いを浮かべた。
「わしの場合はその両方だった。だがわしはうまくふたつとも乗り切り、馬鹿なことをして一生を台無しにするようなことはせずにすんだ」
「だってお父さん、ぼくは、一生を捧にふったりはしませんよ。ほんの一期だけなんです。職業軍人になるんじゃないんだよ」
「この話はなかったことにしようじゃないか。お聞き、おまえがこれからするべきことを言わせてくれ……おまえのほうから言いだしたんだからな。まず第一に、この百年以上ものあいだ、わしたちの一家は政治とは全く関係せず、自分の畑だけを耕してきたんだ……おまえがこの立派な記録を破らなければいけない理由なんかどこにもありやしない。おそらくこれは、おまえの高校にいる男の影響だな……なんという名前だったっけ? わしの言っている男のことはわかるだろう?」
親父の言っているのは〈歴史と道徳哲学〉の教師のことだ──もちろん、退役軍人の。
「デュボア先生でしょう」
「ふーん、馬鹿げた名前だ……名は体を現わしているわけだな。まちがいなく外国人だ。学校を新兵の募集場にするのは法律に反いたことにきまっている。わしからちょっときつい手紙を書いてやろう……納税者にもそれぐらいの権利はあるんだ!」
「でもお父さん。先生はそんなこと何もしないよ! 先生は……」
おれはどう説明していいものやらわからなくなって、口ごもってしまった。デュボア先生は薄汚くて高慢ちきで、おれたちのうちだれひとり、入隊を志願できるほどましなやつはいないといった口のききかたをするのだった。おれは先生が嫌いだった。
「ええと、あの先生はどちらかというと、入隊なんかごめんだと思わせるほうなんだよ」
「ふーん! おまえは豚をひっぱりまわすにはどうすればいいか知っているか? まあいい。おまえは卒業したら、ハーバードヘ行って経営学を勉強する。わかっているな。そのあとソルボンヌヘうつる。そして、ほうぼう旅行をするかたわら、小売店の連中にも会い、ほかの土地では事業がどんなふうにおこなわれているかを知るんだ。それから家へ帰って仕事をはじめる。はじめは下っぱの仕事だ。倉庫係とか何かのな。ただ形式を整えるためだ……だがおまえは、ひと息つくまもなく重役になる。わしだってもう若くないんだからな。おまえが一日でもはやく仕事をやってくれるようになれば、それだけ好都合なんだ。そして、実力と意志がそなわりしだい、おまえがボスになる。さあ! この段取りをどう思う? おまえの一生のうち二年間をむだにするのとくらべてどうだい?」
おれはなにも言わなかった。耳新しいニュースなんかまったくなかった。おれだってそれぐらいのことは考えていたんだ。親父は立ちあがるとおれの肩に両手をおいた。
「わしはなにひとつわかっちゃいないんだなんて思わないでくれ。わしにだってわかるよ。だが現実を見つめるんだ。もし戦争でもおこっているのなら、わしだってまっさきにおまえを送りだすだろうし……事業を戦時態勢に変えるよ。だが戦争なんてありやしない。神様のおかげで戦争なんかもうおこりやしないんだ。人類は大人になり戦争なんか克服したんだ。この惑星はいまや平和で幸福であり、ほかの惑星ともうまく友好関係を結んでいる。それなのにこの地球連邦軍とは何事だね? まったくの寄生虫じゃないか。納税者にしがみついて生きておりまったく孤立した役に立たない組織だ。兵隊にでもならなければ職にありつけない落伍者の連中を何年間かみんなの金で食べさせ、そいつらの一生をめちゃめちゃにしてしまうという無駄遣いの最たるもんだ。おまえはそんなことがしたいのか?」
「カールは落伍者なんかじゃありませんよ!」
「ごめんよ。いい青年だけれども……指導を誤ったんだな」
親父は顔をしかめ、それから笑顔になった。
「なあ、わしはしばらく黙っておいて、おまえをおどろかしてやるつもりだった……卒業祝いだよ。だが、おまえのそのつまらん考えをもっとあっさり捨てられるように、いまから話しておくことにしよう。といっても、おまえが何をやらかすか心配しているわけじゃないよ。おまえがもっとちっちゃいときから、わしは、おまえが心の底では、しっかりしているんだということを信じているからね。いったい何だかわかるかい?」
「え、わからない」
親父はにやりと笑った。
「火星旅行だよ」
おれは、ひどくびっくりした顔つきをしたにちがいない。
「うわあ、お父さん、まさかと思ってたよ……」
「おどろかせるつもりだったと言ったが、そのとおりになったな。おまえぐらいの年ごろには宇宙旅行となると夢中だからな、といってわしはいっぺんでこりごりだったが、しかしおまえにはちょうどいい時期だ……ひとりきりで旅行するってことはな。そのことは言ったっけ? そして自分でよく体験してみるんだ……おまえが責任のある年になってからだと月世界で一週間くらすのもたいへんだろうからな」
親父は書類をとりあげた。
「いや、お礼はいらないよ。さあ行った、わしはまだ書類を読み終わっていないんでな……今晩お客が何人かくるんだ、ちょっとのあいだだがね。仕事だ」
おれは走りだした。親父はそれでかたがついたと思っているらしかったし、おれだってそう思った。火星! しかも、おれひとりでだ! だがおれは、このことをカールに話さなかった。おれが親父の賄賂に負けたと感じられるだろうと、ちょっぴり考えたからだ。ああ、たぶんそうだったのだろう。はっきり言うかわりに、おれは、親父とは考えがちがっているようだとカールに話しただけだった。
カールは答えた。
「ああ、うちだって同じことだった。だが、ぼくの人生なんだからね」
おれは、このことを〈歴史と道徳哲学〉の最後の授業のときに考えた。この課目はほかの学科とはちがって、クラスの全員が取らなくてはいけないのだが、試験にパスする必要はないのだ──そしてデュボア先生は、おれたちが理解しようとしなかろうと、まったく気にしないという様子だった。先生はいちいちおれたちの名前を呼ぶなんて七面倒なことはせず、切株《きりかぶ》のような左腕で生徒をさすだけで、鋭い質問を浴びせかけてくるのだった。それから議論が始まるのだ。
しかし、その最後の日、先生はおれたちが何を学びとったのか見つけ出そうとしているようだった。
ひとりの女生徒がぶっきらぽうにデュボア先生に答えていた。
「母は、何事も暴力では解決しないと言いました」
デュボア先生はその女生徒を冷やかに見た。
「なるほど……カルタゴの指導者たちがそれを知ったら、さぞかし喜ぶことだろう。なぜきみのお母さんはその連中に話してやらなかったんだ? それにきみだって、なぜそうしなかったんだ?」
ふたりの議論は続いていたんだが──とにかく試験がないんだから、もうデュボア先生にへつらうこともない。その女生徒は金切声をあげた。
「先生はわたしをからかっていられるんですわ! カルタゴが亡ぼされたことくらい、だれだって知っています!」
先生はむっつりと言った。
「きみはそれに気づいていないようじゃないか……知っているのなら、なぜきみは暴力が、実に徹底的にかれらの運命を決したと言わなかったんだ? わたしはきみを、個人的にからかっているのではない。その言い訳しようもないほど馬鹿げた考えかたを軽蔑しているまでだ……そうするのを習慣にしているんでね。だれであろうと暴力は何事も解決しない≠ニいうような、歴史的にまちがっており……道徳にも反する教訓にしがみついている人間に対しては、ナポレオン・ボナパルトとウェリントン公爵の亡霊たちを呼びだして討論させてみたらいいと忠言したいね。ヒットラーの幽霊を審判にすればいい。審査委員は絶滅したドードー鳥、オオウミガラス、リョコウバトにしたらどうかな。暴力、むきだしの力は、歴史におけるほかのどの要素にくらべても、より多くの事件を解決しているのだ。この反対の意見は、それらの事件の最悪状態における希望的観測にしかすぎないのだ。この根本的事実を忘れた種族は、人命と自由という高価な代償を払わされてきたんだぞ」
デュボア先生は溜息をついた。
「くる年もくる年も、どのクラスも……わたしにとっては、またまた失敗だった。子供を知識に導くことはできるが、考えさせることはできないのだ」
先生はとつぜん腕の切株でおれをさした。
「おい。軍人と一般市民とのあいだに、もし倫理的な違いがあるとすれば、それは何だ?」
おれは気をつけて答えた。
「その違いは……市民道徳にあります。軍人は、自分が属している政治的集団の安全に対して個人的な責任があることを認め、それを防衛し、もし必要とあればその防衛に命を投げだします。でも、一般の市民はそうはしません」
デュボア先生は腹立たしげに言った。
「まさに教科書どおりだな……しかしきみは、それがわかっているのか? そのとおりだと信じているのかい?」
「え、わかりません、先生」
「もちろん、わかるはずはない! ここにいるだれも、市民道徳なんてものはわかっておらんだろう。そいつがやってきて、鼻っさきで吠えはじめても、わからんだろうな!」
先生はちらっと時計を見た。
「これで終わりだ、すっかり終わった。このつぎは、もっと楽しい状態で会いたいもんだ。解散」
そのすぐあとで卒業式、三日あとにおれの誕生日、一週間とたたないうちにカールの誕生日と続いた──だがおれはまだ、入隊しないつもりだとはカールに言っていなかった。おれに入隊するつもりなんかないだろうとカールが思っていたらしいのはたしかだが、おれたちは近所迷惑なことを大声で言いあったりはしないことにしていたんだ。おれはただ、カールの誕生日のあくる日に会おうと約束し、あいつについて新兵募集事務所へ行ったのだ。
すると、世界連邦ビルの階段で、同級生のカルメンシータ・イバニェスにばったり出会った。彼女は性がふたつにわかれている人類という種族のなかでも相当な美人のほうだった。カルメンは別におれのガール・フレンドというわけではなかった──彼女はだれのガール・フレンドでもなかったんだ。彼女は同じ男の子とつづけてデートをするようなことは決してしなかったし、おれたちみんなと同じようにわけへだてなく愛想よくつきあった。だがおれはカルメンをよく知っていた。というのは彼女はよくやってきて、おれたちのプールを使ったからだ。というのはうちのプールがオリンピックに使えるほどの大きさだったからだ──くるたびにつれてくる男の子はちがっていたし、たったひとりのときもあった。そのひとりのときというのは、おれのお袋が頼んだからだったが──お袋は彼女のことを「いい影響をあたえる人」と言っていた。まさに、そのとおりだったのだ。
カルメンはおれたちを見つけると、えくぼを浮かべて立ちどまった。
「ヘイ、ぼくたち!」
おれは答えた。
「これはこれは、どうしてまたここへ?」
「わからないの? 今日は、わたしの誕生日よ」
「へえ? おめでとう!」
「それで志願にきたってわけ」
「ひえ……」
カールもおれと同じぐらいおどろいていたらしかった。だがカルメンシータはそんな娘なんだ。彼女は決して人の噂話なんかしなかったし、自分のことをぺちゃくちゃしゃべったりもしなかった。
おれはたずねてみた。
「ふざけているんじゃないだろうね?」
「なぜわたしがふざけなけりゃいけないの? わたしは宇宙船のパイロットになるのよ……少なくとも試してみるつもりよ……」
「きみなら、なれないわけはないな」
カールはすぐにそう言った。かれの言うとおりだ──いまになってみると、ほんとにそのとおりだったとよくわかる。カルメンは小柄で、きびきびしており、健康そのもので、完全な反射神経を持っている──彼女だったらすごい急降下だって楽にやりこなしてしまうだろうし、そのうえ数学が得意ときている。おれのほうはというと、代数がCという心細さで、実用幾何はやっとB。彼女は学校で教えるあらゆる数学の課目をとっていたうえに、高等数学のほうまで特別授業をうけていた。しかしおれは、それが何を目的としてなのかなどと考えてみたことはなかった。実のところ、彼女は飾り物みたいにきれいだったので、とても実用品だなどとは考えられなかったんだ。
カールは言った。
「ぼくたち……いや、ぼくも入隊しようと思ってきたんだ」
「ぼくもだよ……ふたりともなんだ」
おれもそう言った。いやべつに、おれは決心したわけじゃない。口が勝手にそうしゃべっちまったんだ。
「あら、すてき!」
「それに、ぼくも、パイロットを志願してみるつもりなんだ」
おれはきっぱりとそうつけ加えた。
カルメンは笑わなかった。彼女は非常に真面目な声で答えた。
「まあ、なんてすてきなんでしょ! ひょっとしたら、わたしたち、訓練中に会うかもしれないわね。そうなってほしいわ」
カールは口をはさんだ。
「衝突コースでかい? パイロットにはまずいやりかただぜ」
「馬鹿なこと言わないでよ、カール。もちろん地上でよ。あなたもパイロットになるつもりなの?」
カールは答えた。
「ぼく? ぼくはトラックの運転手じゃないよ。わかってるだろ──星空の技術研究部隊だな、もしとってさえくれたらね。電子工学専門だ」
「トラックの運転手ですって! あんたなんか冥王星へでも送られて凍ってしまえばいいのよ。うそよ……幸運を祈るわ! さあ、入らない?」
新兵募集事務所は円形広間の手すりにかこまれたなかだった。サーカス団員みたいに金ピカの第一礼服をきた艦隊軍曹がデスクにいた。その胸には勲章の略綬リボンがついていたが、おれにはなんのことやら判らなかった。そいつの右腕はほとんど根元からなくなっているので、上衣は袖なしに仕立ててあった──しかも、近づいてみると両足ともないのがわかった。
だがそいつは、そのことをまったく気にしている様子はなかった。
「おはようございます。入隊したいのですが」
カールにつづいて、おれも言った。
「ぼくもです」
軍曹はおれたちを無視し、椅子に腰をおろしたまま、ぎごちなく頭をあげた。
「おはよう、お嬢さん。なにか御用でしょうか?」
「わたしも入隊したいんですの」
軍曹はにっこり笑った。
「そりゃえらい! 二〇一号室へ行ってロハス少佐におたずねください。彼女が指示をしてくれますから」
こいつはカルメンを上から下までじろじろ見てからたずねた。
「パイロットですか?」
「できればですけど」
「うってつけでしょう。まあ、ミス・ロハスに会ってみてください」
カルメンが軍曹に礼を言い、おれたちにあとでと言って立ち去ると、こいつはおれたちのほうにむきなおり、彼女に見せた愛嬌笑いはどこへいったものやら、くそおもしろくもないといった顔つきで、おれたちをじろじろ見つめた。
「それで? 労働使役大隊が希望か?」
「とんでもない! パイロットになりたいんです」
軍曹はちょっとおれをにらみつけ、だまって視線をうつした。
「おまえは?」
カールは真面目に答えた。
「ぼくは技術研究部隊を志望したいんです。とくに電子工学です。合格率も高いと聞いていますから」
艦隊軍曹は冷やかに言った。
「試験に受かりさえすればな……だが準備と能力の両方を持っていないことにはとってくれないぜ。おいおまえたち、おれがなぜこんなところに坐らされているかわかるか?」
おれには、なんのことやらさっぱりわからなかった。
カールはたずねた。
「なんのためです?」
「政府はだな、おまえらが入隊しようがしまいが、豚にやる残飯のバケツほども気にしちゃいないからだ! 志願が流行みたいになって、一部の連中どころか……どいつもこいつも一期だけ軍隊づとめをして市民権をとり、襟に勲章のリボンをぶらさげて退役軍人《ベテラン》でございって面をしたがりやがる……実際の戦闘をこれっぽっちも見たこともないやつだ。しかしだな、おまえらがどうしても入隊したがり、おれがやめろと言ってもだめなものなら、おまえたちをとるほかないわけだ。つまり憲法で保障された権利だからな。こいつには、だれにかぎらず、男でも女でもこの世に生まれた以上は、兵役につき市民権を取得する権利があると書いてある……だがおれたちはあまりにも大勢の志願者どもを入隊させてしまい、栄光ある炊事兵にもさせられないことがわかって、ほとほとこまりぬいているという現状なんだ。志願者のすべてが本当の軍人になれるわけじゃない。またそんなに大勢は必要ないし、そのほとんどが軍人として第一級の素質を持っているとはかぎらない。おまえは軍人になるのに、なにが大切かわかっているか?」
おれは正直に答えた。
「わかりません」
「たいていのやつは、五体満足、両手両足がそろっていたら馬鹿でもトンマでも、兵隊になれると思っている。鉄砲玉にあたって死ぬだけなら、たぶんそれでたくさんだろう。あるいは、ジュリアス・シーザーの要求した兵隊なら、どうやらまにあったかもしれん。だがな、きょう日の兵隊はというと、ほかのどんな商売でもトップクラスとして通るほど、すごい技術を身につけた専門家なんだ。軍隊は馬鹿を相手にしている余裕はないというわけだな。そこで入隊をしつこく言いはる連中には……志願はするが、兵隊として持っていなければならんとおれたちが望むものを持ちあわせておらんやつには……できるだけ汚くてつらい、危険な仕事をあてがい、任期が終わらんうちにしっぽをまいて家へ逃げかえらせることを考えるか……少なくともそいつらが、そのあと一生のあいだ、あれだけの高い代価を払わなければ手に入れられなかったんだから市民権というものは値打ちのあるものなんだ、ということを忘れないように思い知らせてやるんだ。たとえば、いまさっきここにいた娘だ……パイロットになりたがっていたろ。うまくやってくれればいいが……おれたちはいつも優秀なパイロットを必要としているからな。不足しているんだ。あの娘は成功するかもしれん。だが、まかりまちがって南極海にでもやられてみろ、人工光線のほかなにひとつ見ないんで可愛いお眼々はまっ赤になり、きれいなお手々だって、辛い汚い仕事でひびわれガサガサになるってところだ」
おれは、いちばんまずくいっても、カルメンシータは宇宙監視部隊の電子計算器プログラマーってところだ、そのくらい数学の天才だぜと言ってやりたかった。だが軍曹は話しつづけていた。
「だからこそ、おまえたちをがっかりさせるために、おれはここへ派遣されているんだ。これを見ろ」
軍曹は椅子をぐるっとまわして、両足がないのをおれたちによく見えるようにした。
「いいか、おまえたちの運がよくて、月でトンネル掘りをやったり、あるいはほかになんの取《とり》柄《え》もないというんで、新しい病気の実験台として人間モルモットの役を仰せつかったりはしなかったと仮定する。そして、おまえたちをなんとか戦闘員に仕立てあげることができたとするんだ。さあ、おれのざまを見ろ……これがおまえたちのなれの果てかもしれないんだぞ。もし、おまえたちの両親が、まことに遺憾ながら御子息は、なんて電報をうけとらないとしてもだぞ……そうなるほうがよっぽど多いんだ。きょう日では……演習にしろ、実戦にしろ……負傷者なんてものはほとんどあり得ないんだ。少なくとも入隊したかぎりは棺桶になげこまれたと同じだ。おれは珍しい例外なんだぞ。おれは運が良かった……といってもおまえたちから見たら、ぜんぜんそうは思えんだろうが……」
軍曹はひと息いれてまた続けた。
「だからおまえたちも、家へ帰って、大学へ進むとか、保険のセールスマンになるとか、そんなものになったらどうだ? 兵役ってものは、子供のキャンプ遊びじゃないんだぞ。ほんものの軍隊なんだ。平和なときでさえ、荒っぽくて危険だし……もっとも理屈にあわんことをずばり絵にかいたような世界なんだ。ロマンチックな冒険なんかじゃない。どうだ?」
カールは答えた。
「ぼくは入隊したくてきたんです」
「ぼくもです」
「おまえたちは、好きな兵科を自分できめられないことを知っているんだろうな?」
カールは言った。
「自分の希望するものは言えるんだと思っていましたが」
「もちろんだ。ところが、きまったら最後そいつをやるってことになる。人事係士官がおまえのえらんだ兵科についてしらべ、まずその週に無器用なガラス吹き工を欲しいといってきているところがあるかどうかを当たってみる……なりたがっているものになって幸福になれるかどうかは知らんが、おまえの選んだ兵科でおまえをとるということになったとまあしてだな……ひょっとすると太平洋の底でかもしれんがね……士官はまずおまえに先天的能力がありその準備ができているかどうかテストする。二十ぺんに一ペんぐらいの割だが、すべてがあてはまるとその士官がしぶしぶ認めて、おまえはその兵科に入れるわけだ……入ったとしても、だれかたちの悪いやつが、全く種類のちがうことをやらせようと、おまえに派遣命令をだすかもしれん。ほかの十九へんの場合には、おまえの希望は入れられず、タイタンでやっている生存装置の実用テストにぴったりだというようなことになる……」
軍曹はとつぜん瞑想的になってつけ加えた。
「タイタンはひどく寒いところだ。なにしろ土星の第六衛星だからな。そのうえ、このテスト用の装備ってやつは、おどろくほどちょくちょく故障してしまいやがる。とにかく、実用テストをしなければいけない物は山ほどあるが……研究所は満足な回答を得たためしがないときているんだ」
カールはきっぱりと言った。
「ぼくは電子工学のほうをやる資格があります、欠員さえありましたら」
「そうか? おまえのほうは何だ、坊や?」
おれはためらった──だが、いまやっておかないと、おれはただ社長の息子であるというだけじゃないかと、一生のあいだ迷いつづけることになるかもしれないのだと、とつぜん気がついた。
「ぼくも入隊したいんです」
「ようし。そんなつもりじゃなかったなどと、あとからは言えないんだぞ。出生証明書を持ってきているか? 身分証明書は?」
十分後、まだ宣誓はしていないが、おれたちはいちばん上の階で、針でつかれたり剌されたり蛍光テストをされたりした。身体検査というものは、本人が病気でなければ病気にしてしまおうと医者が最善をつくすことじゃないかと思った。そして、その努力がむだになれば合格ってわけだ。
おれは医者のひとりに、身体検査ではねられる者は何パーセントぐらいなのかと尋ねた。すると医者はびっくりしたような顔をした。
「もちろん、だれもはねたりしないな。法律でそんなことは許されていないからね」
「へえ? ではちょっとうかがいますが、ドクター、この寒気のするお膳立てはなんのためなんですか?」
「そりゃあきみ、この目的はだね……」
医者は木槌でおれの膝小僧をひっぱたいたり叩いたりしながら言った。(おれも医者を蹴っとばしてやったが、そう強くではない)
「きみらは肉体的にどんな仕事ができるのかをしらべるためだよ。たとえきみが両眼ともみえなくて、車椅子に乗ってここへやってきて、それでも兵役につきたいと言いはるほどの全くの馬鹿でも、それなりに馬鹿げた仕事を連中は見つけるだろうな。たぶん、キャタピラについているケバを手さぐりで勘定するぐらいのことはできるからね。たったひとつはねられる方法は、きみが宣誓の文句さえわからない馬鹿だということを、精神科の医者に診断してもらうことだけだよ」
「へえ? ドクター、ところで先生が入隊したときには、もうお医者さんだったんですか? それとも、軍のほうで医者になるように決められて学校へ送られたんですか?」
この質問に、医者はショックをうけたらしい。
「わたしが? きみ、わたしはそれほど馬鹿に見えるかい? わたしはただ、ここにやとわれている民間人だよ」
「これは失礼しました、先生」
「べつに文句は言わないがね。しかし、軍隊の仕事というものは、腹の立つことばかりだよ。ほんとうさ。わたしは兵隊が出発して行くのを見るし、帰還してくるのも見る……帰ってこられたときはだがね。その連中がどうなったのか、わたしにはわかるんだ。何のために? 一セントくれるわけでもない全く名ばかりの政治的特権のためか? しかも連中のほとんどは、いずれにせよ、その特権を使いもしないんだ。さて、もしみんなが医者にすべてをまかせてくれさえしたらな……いや、そんなことはもういい。きみはわたしが本気で言っているのかどうかわからないが、とにかく反逆罪的なことをしゃべったと思うかもしれんからな。しかしきみ、もし十まで勘定できるくらい物わかりがいいのなら、それができるあいだに思い直してみたらどうだい。さ、この書類を持って徴募係軍曹のところへ行った……いいかい、わたしの言ったことを忘れなさんなよ」
おれは円形広間へもどった。カールはもうそこで待っていた。艦隊軍曹はおれの書類に眼をとおしてからむっつりと言った。
「頭のなかに大きな穴があいているのを別にすると……おまえたちは見たところ、癪にさわるほどの健康体だな。ちょっと待て、立会人を呼ぶから」
軍曹がボタンを押すと、女事務員がふたり入ってきた。ひとりは年寄りのがみがみ女みたいなやつだが、もうひとりはちょっと可愛かった。
軍曹は、おれたちの身体検査票、出生証明書、身分証明書を指さすと、あらたまった口調になって言いだした。
「自分はあなたがたふたりを、お願いしたいことがあって呼びました。あなたがたは、ひとりずつ、ここに提出されている書類を調べ、身もとと、その家族の状態を調べ、現在あなたがたの眼の前に立っているふたりのものであることを確認してほしいのであります」
ふたりの事務員は、つまらないきまりきった仕事だと言わんばかりにはじめた。そのとおりなのだ。それでもふたりは書類の全部をしつこく調べ、おれたちの指紋をとった──またもだ──それから、可愛いほうの女が、眼を宝石のようにキラキラさせて、その指紋を出生証明書のものと引きくらべた。サインも同じように調べた。おれは、自分がはたして本当のおれだろうかと、心細くなってきた。
艦隊軍曹はつけ加えた。
「入隊の宣誓をするのに、このふたりの現在の資格は完全であるとわかりましたか? わかりましたら、なぜかを言ってください」
年上のほうの女が言いはじめた。
「わかりました……ふたりの身体検査票には、正式の資格を持つ精神分析医の結論として、ふたりとも宣誓をおこなうのに正常な精神状態にあり、アルコール、麻薬、その他の身心を損なう薬品、あるいは催眠薬などの影響下にない旨を認めた証明書がついています」
「よろしい」
軍曹はおれたちのほうに向きなおった。
「おれのあとについて言え……わたくしは成年に達し、ここにわたくしの自由意志により……」
おれたちはおたがいに声をあわせた。
「わたくしは成年に達し、ここにわたくしの自由意志により……
……いっさいの強制、約束、およびなんらの勧誘によることなく、正当なる忠告と、この宣誓をなすについての意味と結果についての警告を受けたるのち……
……いまここに、地球連邦軍に入隊するものである。勤務年限は最低二年、ただし、軍の必要に応して延長されるものとする……」
おれはこの個所をくりかえしながら、ちょっとギョッとした。おれは、一期というのは二年だとばかり思っていたんだ。なにしろ人の話っていうのは、そういうものなんだ。だがこれではまるで、必要とあれば一生だってしばられることになってしまう!
「わたくしはここに、地球連邦憲章を地球上あるいは地球外のあらゆる敵から防衛し、地球上あるいは地球外を問わず、その領土の市民および合法的居住民の憲法にもとづく自由と権益を保護するため、合法的命令あるいは法律にもとづいて任命された上司によって与えられる合法的義務を遂行することを誓い……
……地球連邦軍最高司令官およびわたくしの上位におかれた全士官ならびに指定された人々のあらゆる合法的命令に服従し……
……合法的にわたくしの指揮下におかれた軍のあらゆる兵士および人員、あるいは人類以外の生物にも、これらの服従を要求し……
……現役全期間を終了して名誉ある除隊をし、あるいは全期間を終了したあと退役状態におかれたときは、神聖なる市民の裁判による評決によってその名誉を剥奪されることのないかぎり、わたくしの天寿を全うする日まで、崇高なる市民権に付与せられたるすべての義務・責任・特権を含め、そしてそれらにとらわれることなく、地球連邦市民としてなすべきすべての義務と責任を遂行し、その特権のすべてを享受します」
うえーっ! デュボア先生は、〈歴史と道徳哲学〉の授業でおれたちに入隊宣誓を分析したことがあり、その一節ずつを勉強させたものだ──だがそいつが、眼の前にぶざまなひとかたまりになってころがってくるまでは、こいつの大きさを真剣に感じることはない。それは、まるでインド神話のクリシュナ神をのせる山車《だし》のように、どっしりしていて、くいとめることのできない代物だ。
少なくともこれは、おれがもうふつうの市民ではないことを悟らせた。おれは意気消沈し、心は虚ろになってしまった。おれにはまだおれが何だったのかわからなかったが、おれが過去の自分でなくなってしまったことだけはわかっていた。
「神よ、守りたまえ!」
おれたちふたりは言い終わり、カールは十字を切り、かわいい女の子も十字を切った。
宣誓が終わると、またまたサインと指紋だった。おれたち五人ぜんぶがだ。カールとおれは平面カラー写真をあっちこっちととられ、それはおれたちの書類にうちこまれた。やっと軍曹は顔をあげた。
「なんてこった。昼飯の時間がとっくにすぎてやがる。飯の時間だぜ、若いの」
おれはぐっと息をのみこんだ。
「あの……軍曹?」
「え、なんだい言ってみろ」
「ここから家へ電報を打てますか? ぼくのことを……どういうことになったか知らせてやりたいんです」
「それよりいいことをさせてやるよ」
「はあ?」
軍曹は冷やかな微笑を浮かべた。
「おまえたちにいまから四十八時間、休暇をやる……もし帰ってこなかったら、どうなるか知ってるか?」
「あ……軍法会議ですか?」
「とんでもない。そんな大層なもんであるもんか。おまえの書類に、就役不能とスタンプがおされるだけのことだ。それでおまえは絶対に、いいか絶対にだぞ、二度と入隊しなおすチャンスはなくなってしまうんだ。つまり、これは冷却期間なんだ。この期間のうちに、本気でやってきたわけではなく、宣誓なんかしなければよかったと思うような、身体ばかりでっかくなった赤ん坊をふるいにかけるためなんだ。政府の金を節約できるし、そんな手合や両親が泣く力のほうも節約できるし……近所の連中だってとやかく噂をせんですむわけだ。おまえだって、なにも両親に言わなくたってかまわないんだぞ」
軍曹は片手をつっぱって椅子を机からはなした。
「では、明後日の正午にここでまた会おう。その気になったらな。そのときは身のまわりの品を持ってこいよ」
おもしろくもない休暇だった。親父はカンカンに腹を立て、おれに口もきかなくなった。お袋も床《とこ》についてしまった。おれがいよいよ出発するというとき──予定より一時間もはやくだ──コックと下男たちのほかは、だれも見送ってくれなかった。
おれは徴募係軍曹の前へ行った。敬礼したものかどうかと考えたが、どうやるのかわからなかったので、やめておくことにした。軍曹はおれを見あげた。
「やあ。これがおまえの書類だ。こいつを持って二〇一号室へ行け。そこにいる連中が、いろいろとテストをしてくれる。ノックしてから入れよ」
そして二日目、おれはパイロットに向いていないことがわかった。試験官たちがおれについてこまごま記入したうちのあるものは、つぎのとおりだった。
〈空間的関連性の直観的把握力不足……数学的能力不足……数学的基礎貧困……反射動作時間適正……視力良好〉
最後のふたつを入れてくれたんで、おれはほっとした。おれはやっと自分の指を勘定できるだけの男なんだと感じはじめていたんだ。
兵科決定係の士官は、おれがそのつぎに選びたい兵科を順番にリストに書かせた。そしておれは、これまでに聞いたこともないほどの最高にものすごい適性検査を、それからまだ四日間も受けさせられた。まったくの話が、何を試すつもりか知らないが、女の速記者が椅子の上でとびあがって、「へびーっ!」と金切声をあげたりするのだ。蛇なんかいやしない。毒にも薬にもならないプラスチックのホースが一本あるだけなのに。
筆記と口答試験も、そのほとんどが同じぐらい馬鹿らしいものだったが、試験官たちはよろこんでやっているようなので、おれもやってみたわけだ。おれがいちばん気をつけてやったのは、志願兵科のリストを作ったときだ。もちろんおれはトップに宇宙海軍の任務をならべた。(パイロットは別としてだ)動力室技術兵だろうが、炊事兵だろうが、おかまいなしだ。海軍ならどんな仕事だって、陸軍の仕事よりはましだ──おれは旅行したかったんだ。
そのつぎには、情報部隊をリストにのせた──スパイになれば、あっちこっち行ける。それにおれは、退屈なはずはないだろうと思ったんだ。おれは大間違いをしていたんだが、そんなことはどうだっていい。そのあといろいろと書いて長たらしいリストになってしまった。心理戦科、化学戦科、細菌戦科、戦闘生態学科(どんなものだか、おれには見当もつかなかったが、おもしろそうだったからだ)、兵站科《ロジスティック》(簡単なミスだ。おれは弁論部で論理《ロジック》を勉強したが、兵站《ロジスティック》はまったく違う意味だったのだ)、そのほかにも一ダースほどあった。そしていちばん下の空白に、おれはちょっとためらいながらK9部隊と機動歩兵と書きこんだ。
おれはさまざまな非戦闘補助部隊を書きこんだりするような面倒くさいことはしなかった。というのは戦闘部隊にとられないのなら、実験用動物として使われようが、それとも金星の地球化工事現場に労働者として送りこまれようが、かまやしなかったからだ。
宣誓が終わって一週間後、おれは兵科決定係のミスター・ヴァイスに呼ばれた。ミスター・ヴァイスは本当は退役した心理戦科少佐であり、いまは調達部で働いているのだが、少佐はふつうの背広を着こみ、ただのミスターと呼ぶように主張した。それなら、少佐といっても楽にくつろいでいられるというわけだ。少佐はおれの志願兵科リストと、テストの報告書をぜんぶ持っていた。それにおれの高校の内申書まで持っているのがわかった──おれはうれしくなった。というのは、おれの高校での成績はまずよかったからだ。おれは糞勉強家とマークされるようなことはない程度にかなりいい成績をとっていた。どの課目にも落第点をとったことはない。それ以外でも学校ではちょいとした大物だった。水泳チーム、弁論部、陸上競技部、クラスの会計係、毎年おこなわれる文学コンテストの銀賞、同窓会の議長というようなわけだ。そういう平均にそろった成績がみな内申書に書きこまれているのだ。
おれが部屋に入ってゆくと、ミスター・ヴァイスは顔をあげて言った。
「坐りたまえ、ジョニー」
それからまた内申書に眼をやり、しばらくして、それを置いて言った。
「きみは犬が好きか?」
「は? 好きですが」
「どんなふうに好きなんだ? きみのベッドでいっしょに寝るか? それでいま、きみの犬はどこにいるんだ?」
「いえ、いまは飼っていません。飼っていたときは……ぼくのベッドでは寝させませんでした。母が犬を家のなかに入れるのを許さなかったものですから」
「だが、こっそり入れてやったんじゃないのか?」
「ええと……」
おれは、お袋がいったん決めてしまったことに逆らおうものなら、お袋はそりゃ怒りはしないけれど、どれほど心を痛めるかということを説明しようかと思ったが、やめておくことにした。
「……いいえ」
「ふーん。ところで、ネオドッグを見たことはあるのか?」
「はい……一度だけあります。二年前にマックァーサー劇場でその一匹を展示したときです。動物愛護協会が文句を言ったそうですが」
「K9部隊にいるネオドックがどんなものだか教えてやろう。ネオドッグというのは、ただ人間の言葉をしゃべるだけの犬ではない」
「マックァーサー劇場で見ただけではわかりませんでした。ほんとにしゃべるんですか?」
「しゃべる。犬のアクセントに耳を馴らしさえしたらな。犬の口はもともと、b、m、p、vなどを発音する形がとれんから、その代わりをする音に馴れなきゃいかん……裂けた口蓋から出るハンディキャップのために、ちがう言葉のようだが。たとえどうであっても、やつらの話す言葉は、人間と同じようにはっきりしているんだ。ところで、ネオドッグは話をする犬じゃない。ぜんぜん犬なんかじゃなくて、犬族から人工的に変種をこしらえた共生体だ。ネオ、つまり訓練されたカレブ犬は、ふつうの犬の六倍は利口だ。いいか、うすら馬鹿の人間と同じくらいの知能なんだ……この比較はネオにとって公平なことじゃないんだが。人間のうすら馬鹿は欠陥人間だ。ところがネオは、かれら自身の仕事をさせておくかぎり安定した天才だ」
ミスター・ヴァイスはしかめっ面をした。
「ただし配偶者がいる場合はだよ。なにしろ、共生体だからな。これが難点だ。ふーむ……きみは若すぎるから結婚したことなんかあるはずはない。だが少なくとも、きみの両親の結婚生活は見ているわけだ。どうだい、カレブ犬と結婚することは考えられるかい?」
「えっ? いやだ、いやです。そんなことはできません!」
「K9部隊における犬人間《ドッグマン》と人間犬《マンドッグ》とのあいだの感情的交流は、たいていの結婚における感情的交流よりもはるかに緊密であり、ずっと重要なことでもある。もし主人が戦死すれば、われわれはネオドッグを殺す……すぐにだ! このかわいそうな動物にわれわれがしてやれることは、これしかないんだ。慈悲の殺害とでも言おうか。ところでもし、ネオドッグが死ねば……さあ、その主人を殺すのがいちばん手っとり早い解決法なんだが、さりとて人間を殺すわけにもいかん。そのかわりに、その人間を監禁し手当を加え、徐々に常態にもどすのだ」
ヴァイス少佐はペンをとりあげて、なにやらマークをつけた。
「自分の犬を、母の眼をごまかしてでもベッドにつれこめんような男をK9部隊に入れることはできん。だとすると、なにかほかに考えてみるか」
おれはそのときになってはじめて、この部隊に至るまでのリストのすべてから、すでにふるい落とされているにちがいないということに気がついた──そしていまや、K9まで失格してしまったのだ。おれはあまりおどろいたものだから、あやうく少佐のつぎの言葉を聞き洩らしてしまうところだった。ヴァイス少佐は無表情に、まるでだれかずっと以前に死んでしまったものとでも話しているように、瞑想的に話していた。
「わたしも昔、K9部隊でその片割れだったことがある。わたしのカレブ犬が死んだとき、わたしは六週間ものあいだ鎮静剤を打たれつづけ、それから常態に復帰させられて、ほかの任務につけられたんだ。ジョニー、きみのやってきたこの学課だが……なぜきみは、なにかほかに役に立つことを勉強しておかなかったんだ?」
「どういうことでしょうか?」
「いまからじゃ遅すぎる。まあいいさ。ところでと……きみの学校の〈歴史と道徳哲学〉の教師は、きみのことを高く買っとるようだな」
「ほんとですか? なんと言っているんです?」
おれはおどろき、ヴァイス少佐は微笑した。
「おまえは馬鹿なのではなく、ただ物知らずで、おまえのおかれた環境によって偏見を植えつけられているだけだとさ……わたしはあの人のことをよく知っているが、これはたいへんな褒《ほ》めかただぞ。あの男にしては」
おれには、褒《ほ》められたなどとはとれなかった! 畜生! あの石頭のおいぼれ野郎……
ヴァイス少佐はつづけた。
「それに、テレビ観賞にCマイナスをとる生徒がすべて悪いとは限らない。まあミスター・デュボアの推薦をこころよく受けてやろうじゃないか。どうだ、きみ、歩兵になりたいとは思わんか?」
おれは沈んだ気分だが、そうかといって本当に不幸なわけでもないといった気持ちで連邦ビルを出た。少なくともおれは兵隊なんだ。ポケットには、そのことを証明する書類だって入っている。おれはまぬけすぎ、なんの役にもたたぬと分類されたのではなかったのだ。
勤務時間が終わって何分かたっていた。建物のなかはがらんとしてしまい、夜間当直員とただなんとなく残っている人々がいるだけだった。おれは円形広間で、ちょうど帰ろうとしていた男にばったりぶつかった。どこか見覚えがあったが、はっきり思いだせなかった。
しかしその男は、おれと眼をあわせると、ぶっきらぼうに声をかけてきた。
「よう! おまえ、まだ出発していなかったのかい?」
それでやっとだれかわかった──おれたちに宣誓させた例の艦隊軍曹だったのだ。おれは、ぱっくり大きな口をあけていたことと思う。軍曹は私服を着こみ、ちゃんと両足で歩きまわり、そのうえ両手までそろっていたのだ。おれはもぐもぐつぶやいた。
「あ、こんばんは……軍曹」
軍曹は、おれの表情がはっきりわかったらしい。ちょっと自分の格好を見ると、にこにこしながら言った。
「楽にしろよ、坊や。勤務が終わったら、ぞっとする見世物なんか続けなくていいんだ……まっぴらだ。ところでおまえ、配属はまだ決まらんのか?」
「いま命令を受けたところです」
「どこだ?」
「機動歩兵です」
とたんに軍曹の顔が大きな笑顔に変わったかと思うと、大きな手をぐいとさしだした。
「おれもそうだ! 握手しよう、坊や! 軍はおまえを一人前の男に仕立てあげるぞ……それとも訓練で殺してしまうかだ。たぶん両方だな」
おれは疑いぶかそうな声をだした。
「いい兵科なんですか?」
「いい兵科ですかだと? 坊や、最高だよ。機動歩兵こそ軍隊なんだ。ほかの部隊はみな、ボタン押しか、教授連中で、おれたちに鋸をわたすだけさ。仕事をするのは、おれたちなんだ」
軍曹はもう一度両手をにぎりしめてつけ加えた。
「葉書をよこせよ……連邦ビル内、ホウ艦隊軍曹だ……それでとどくからな。元気でやれよ!」
かれはそう言うと、肩をはり、踵をならして歩き去った。
おれは自分の手を見つめた。軍曹が握手しようとのばした手は──つまりかれの右手は、本当の手ではなかったのだ。だがそれは本物の手のように感じられた。そしておれをきつくにぎりしめたのだ。おれは、動かせる義手義足があることは知っていたが、はじめてそれにぶつかってみると、おどろくべきものだったのである。
おれは新兵の配属がまだ決まらないあいだ、臨時に寝泊りするホテルヘもどった──おれたちはまだ軍服も着ておらず、日中は簡単な作業衣を着ており、勤務時間がすぎると自分の服に着かえていた。おれは、あくる朝早く出発することになっていたので、自分の部屋へ行って荷造りをはじめた──いろいろな私《し》物《ぶつ》を家に送り返すのだ。つまり、家族の写真と、演奏できる楽器があればそれと(おれはできなかったが)、それ以外は持っていくなとミスター・ヴァイスに注意されていたのだ。カールは望みどおり技術研究部隊に入る命令をもらって、すでに三日前に出発していた。おれもうれしかった。というのは、かれだって、おれたちの割り当てられていた宿泊所がじつにいまいましいものであることを、わかりすぎるほどわかっていたと思うからだ。カルメンも宇宙海軍士官候補生(見習)の階級で、すでに出発していた──みごとにパイロットヘの道をかちとったのだ──彼女ならりっぱに、やりとおせるだろう。
おれが荷造りをしていると、部屋づきの臨時ボーイが入ってきてたずねた。
「決まりましたか?」
「ああ」
「なんですか?」
「機動歩兵だ」
「ひゃあ、歩兵ですって? そいつは貧乏籤を引き当てましたね! お気の毒ですな、本当に」
おれは背筋をのばしてどなった。
「つべこべ言うな! 機動歩兵は陸軍でいちばんすばらしい部隊だ……これこそ本物の軍隊なんだ! ほかのくだらん部隊なんざあ、ただ鋸をおれたちにわたすだけだ……仕事はおれたちがやるんだぞ」
ボーイはにやにや笑った。
「いまにわかりますよ!」
「一発、その口をぶっとばされたいのか?」
[#改ページ]
[#ここから4字下げ]
かれは鉄の杖《つえ》もてこれを治め、土の器を砕《くだ》くが如くならん
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──ヨハネ黙示録・第二章二十七節
おれは二千人ほどの哀れな犠牲者たちといっしょに、北方高原にあるアーサー・キューリー・キャンプで基礎訓練を受けた──これが、文字どおりのキャンプだった。建物らしい格好のものといえば、装備をしまっておく倉庫があるだけなんだ。寝るのも食うのもテントのなかだった。おれたちはつまり、戸外で生活したのだ──それを〈生活〉と呼ぶことができればのことだが、そんなものではなかった。おれはあたたかい気候になれていたもんだから、まるでキャンプのすぐ北、五マイルぐらいのところに北極があって、だんだん近づいてくるのではないかと思うほどだった。疑いもなく、氷河時代にもどりつつあるのだ。
だが訓練をすれば身体は暖かくなった。その訓練がまた、うんざりするほどあった。
そこへ着いた最初の朝は、夜が明ける前にたたき起こされた。時間帯が変わったことに身体をあわせることがまた、すこぶる厄介だった。おれには、たったいましがた寝ついたばかりのように思えた。おれを夜の夜中にたたき起こすことを、まじめに考えているやつがいようとは信じられないことだった。
しかし、やつらはそのつもりだった。どこかのスピーカーが、死んだやつでさえ起こしてしまいそうなほど恐ろしい音量で軍隊打進曲をがなりたて、毛むくじゃらの気味悪い野郎が中隊の通路を、「みんなおきろーっ! 足を出せ! 走れ!」と、怒鳴って歩いた。おれがまた毛布をひっかぶったとたん、そいつはもどってきて、おれの寝床をひっくりかえし、おれを冷たい地面へたたき落としたのだ。
まったく非人間的なやりかただった。そいつは、おれが地面にぶつかったかどうか、見むきもしなかった。
十分後、ちょうど東の地平線から太陽が顔をのぞかせたとき、おれたちはアンダーシャツ、ズボンに靴という格好で、不揃いな列を作っていた。早朝訓練というやつだ。おれたちの前には、おそろしく大きな、肩幅の広い、いやな面《つら》がまえの男が、おれたちと同じいでたちで立っていた──ただおれたちと違うところは、見たところ安物の死体化粧でもしたような感じで、顎の剃りあとも青々しており、ズボンにはピシッと折目が入り、靴は鏡に使えるほどピカピカ光っていた。その態度はきびきびして抜け目がなく、そのくせゆったりと落ちつきはらっていた。睡眠なんか必要としない男のような印象を受けた──走行一万マイルの点検をしても、ちょっとほこりをはらうだけでいいというようなところだ。
そいつは咆えたてた。
「中隊、気をつけえ! おれはきさまたち訓練中隊の指揮官、ズイム軍曹である。きさまらがおれに口をきくときは、必ず敬礼し、軍曹どのと言え。おれのほかにも、教官の指揮棒を持っている者に対しては、だれであっても敬礼と|どの《ヽヽ》をつけるのを忘れるな」
かれは持っていたおどし棒で宙に円をかき、指揮棒なるものをみんなに見せた。おれは前の晩、入隊してきたときすぐ指揮棒を持った士官に気がついて、おれもそんなふうになりたいと思ったものだ。それほどスマートに見えたんだが、しかし、もうすっかり気が変わってしまった。
「……おまえたちを教えるのに士官の数が足りないからだ。おれたちがきさまらの相手になって訓練をしてやる。だれだ、くしゃみをしたやつは!」
だれも答えなかった。
「くしゃみをしたのは、だれか?」
だれかが答えた。
「自分がやりました」
「自分がやりました、なんだ?」
「自分がくしゃみをしたのであります」
「自分がくしゃみをしました、軍曹どの、と言うんだ。この馬鹿もん!」
「自分がくしゃみをしました、軍曹どの。寒いからであります、軍曹どの」
「ほう!」
ズイムは大股にくしゃみをした男のところへ歩いてゆき、おどし棒のさきについている金具を、そいつの鼻先一インチにつきだしてどなった。
「名前は?」
「ジェンキンス……であります、軍曹どの」
ズイムは、まるでその名前が汚らしく恥ずべきものであるかのように、くりかえした。
「きさまは夜間偵察のときにも水っぱなをたらしているからといって、くしゃみをする気か?」
「そんなことはしたくありません、軍曹どの」
「されてたまるか。ところで、きさまはいま寒いんだな。ふーん……おれたちで治してやろう」
かれは棒をのばした。
「むこうにある兵器庫が見えるか?」
おれが見ると、ただ茫々とした荒野のはるか彼方、ほとんど地平線のあたりと思われるようなところにポツンとそれらしい建物が見えた。
「列から出ろ。あれをまわってこい。駆け足だぞ、いいな。いそげ! ブロンスキー! この兵隊を走らせろ!」
「わかりました、軍曹」
四、五人いた指揮棒組のひとりがジェンキンスを追いかけ、すぐに追いついたとみると、棒でかれの尻をなぐりつけた。
ズイムはふりかえり、まだ気をつけをしたまま身ぶるいしているおれたちを見まわし、行ったり来たりしながら、おれたちをにらみつけて、ひどく不幸せそうな顔つきになった。そしてやっとおれたちの前へ進み出ると、首をふって言いだした。どうも自分に言いきかせているようだったが、それでもその声ははっきり聞こえてきた。
「考えてみれば、こんな目にあわされるのも、あたりまえらしい!」
軍曹はおれたちをにらみつけた。
「このモンキー野郎ども! いや、きさまらはモンキーまでもいかん。きさまらは、胸糞の悪い病気にかかったエテ公だ……洗濯板みたいな胸をしやがって、やせっぽちで、そのくせ食い意地のはった亡者野郎どもが! 生まれてこのかた、きさまらのような、母親に甘やかされてわがままいっぱいに育った餓鬼どもは、見たこともない……おいっ、そこの兵隊! 腹をひっこめろ! ちゃんと前を向け! おまえに言ってるんだぞ!」
おれのことを言われたのかどうかはっきりしなかったが、おれは思わず腹を引いた。軍曹はなおもえんえんと続け、おれは嵐のようなかれの言葉を聞いているうちに、いつとはなく鳥肌がたっていることを忘れはじめていた。
軍曹は決して、一度使った言葉をくりかえして言わなかったし、罰当たりな言葉も下劣な言葉も使わなかった。あとで知ったことだが、かれは特別な場合のために、言葉を節約しておくのだ。この場合は特別な場合ではなかったということだ。だがかれは、おれたちの健康、精神、道徳、遺伝のすべてにわたる欠点を、大げさに細部にわたって侮辱する言葉をならべたてた。
しかしおれは、侮辱されたような気にはならなかった。おれには、軍曹の言葉の言いまわしを研究するのが非常に面白くなってきたのである。おれは軍曹が弁論部に入っていたらよかったのにと思った。
ようやくかれはやめ、泣き出しそうになってから、苦々しそうに叫んだ。
「もうがまんできん……おれがこれから気合いを入れてやる……きさまらにくらべると、おれが六つのときに持っていた玩具の兵隊のほうが、ずっとましだった。ようし! きさまら虱《しらみ》野郎どものなかに、おれをはり倒せると思うものはおらんか? どうだ、これだけ雁首をそろえていて、ただのひとりも男はおらんのか? さあ言ってみろ!」
しばらくのあいだ、あたりはしーんと静まりかえった。おれもそのひとりだった。おれは軍曹がおれをはり倒せることはまちがいないと思った。
と、背の高いほうのはしから声があがった。
「ずぶんはやれると思いますだ……軍曹どん」
ズイムは嬉しそうな顔をした。
「よおし! おれの見えるところへ出てこい」
声の主の新兵は、のこのこ出てきた。大きな男だった。ズイム軍曹より少なくとも三インチは高く、肩幅も広かった。
「なんて名前だ、おまえは?」
「ブレッキンリッジであります。軍曹どん……二百十ポンドありますで、やせっぽちたあ言えねえでがす」
「喧嘩をするときは、なにが得意だ?」
「軍曹どんがくたばるだから、あんたが好きなやつでようがす」
「よおし、ルールなしだ。さあ、好きなときにかかってこい」
ズイムは指揮棒をわきに投げた。
戦いは始まった──と思ったときには終わっていた。新兵は右手で左の手首をつかんで尻餅をついていた。新兵はぐうとも言わなかった。
ズイムはかがみこんでたずねた。
「折れたか?」
「らしいで……軍曹どん」
「気の毒だったな。おまえがせかしたからだ。医務室のあるところは知っているか? まあいい……ジョーンズ! ブレッキンリッジを医務室へつれてゆけ」
ふたりが行くとき、軍曹はかれの肩をたたいて静かに言った。
「ひと月かそこらたったら、もう一度やろう。どうしてこうなったか教えてやるからな」
これは個人的な言葉のつもりなのだと思うが、それにしてもおれは、だんだんとちぢみあがりこわばっていった。眼の前六フィートかそこらのところで、ふたりはやったのだ。
ズイムはもとにもどって大声をはりあげた。
「よおし、この中隊にもひとりは男がいた。少なくともだ。おれはすこしだけだがましな気分になってきた。もうひとりぐらいおらんのか? ふたりぐらいおらんか? ふたりでかかってくれば、きさまらのようなイボ蛙でも、おれに勝てると思うやつはいないのか?」
かれはおれたちを右へ左へとにらみまわした。
「臆病な骨なしどもめ……おう! いたな、出てこい」
ふたりの新兵がいっしょに列から前へ出た。ふたりはひそひそ相談しあったのだろうと思うが、ずっと端の背の高いほうにならんでいたので、おれには聞こえなかったのだ。ズイムはそのふたりに笑いかけた。
「名をなのれ。おまえたちの遺族のためにだ」
「ハインリッヒです」
「ハインリッヒ、なんだ?」
「ハインリッヒであります、軍曹どの」
そいつは、もうひとりの新兵に早口で話しかけてから、丁寧につけ加えた。
「この男はまだ標準英語をうまく話せないのであります、軍曹どの」
もうひとりの男は、自分の名を言った。
「マイヤー、マイン・ヘル」
「そんなことはかまわん。ここへ着いたばかりの時には、英語を話せんやつは大勢いる……おれもそうだった。心配するなとマイヤーに言ってやれ。すぐにうまくなる。だが、これからおれたちがやることは、わかっているんだろうな」
マイヤーはすぐに答えた。
「ヤーヴォール」
「もちろんであります、軍曹どの。標準語は聞きとれるのですが、うまくしゃべることができないのであります」
「よしわかった。きさまらの顔の傷は、どこでこしらえたんだ? ハイデルベルグでか?」
「ナイン……いや、軍曹どの。ケーニヒスベルグであります」
「同じようなこった」
ズイムは、ブレッキンリッジと戦ったときすてた指揮棒をとりあげた。かれはそれをくるくるまわしてから言った。
「きさまらには、これが要るだろうな?」
ハインリッヒは用心しいしい答えた。
「それでは軍曹どのに不公平になります。よろしければ素手のほうが……」
「好きなようにしろ。いずれにしても、おまえらを赤ん坊あつかいにしてやるからな。ケーニヒスベルグといったな? ルールは?」
「三人でやるときにルールなんかないと思いますが、軍曹どの」
「おもしろい意見だな。よし、眼がえぐりだされたらアウトということに決めておこう。さあ用意はできたと戦友に言え。いつでもかかってこい」
ズイムは指揮棒をなげだし、だれかかそれをつかんだ。
「冗談でしょう、軍曹どの。自分らは眼をえぐりだしたりはしません」
「よし、眼はえぐりださないことにする。かかってこい!」
「といいますと?」
「さあこい、やるんだ。さもなければ列にもどれ」
さて、おれは、こういうぐあいに起こったことをはっきり見たと、確信をもっては言えない。おれはやがて後日、訓練でこのやりかたの一部を習うことにはなった。しかしこの場合、こうなったとおれが考えたことは、つぎのとおりだった。
つまり、ふたりはそれぞれ、おれたちの中隊指揮官の両側へ、はさみうちにする位置まで移動したが、まだ距離はおいていた。この位置からひとりで戦うためには、四つの基本的行動から選択しなければならぬ。自分の機動性を利用して行動し、ひとりのほうがふたりでやるよりもずっとすぐれた判断にもとづいて行動できるということだ──ズイム軍曹は、どんなに人数がいても、チームワークのうまくとれない連中は烏合の衆であって、ひとりに劣ると言っている。これは全く正しいことだ。例えば、まずひとりにフェイントをかけておいて、すばやくもうひとりに飛びかかり、そいつの膝の皿をぶち割るというようなことで行動不能にしておき──そのあとから、最初のひとりをゆうゆうと片づけることができるのだ。
だがズイムは相手に攻撃されるままにしておいた。マイヤーがまず最初に迫っていった。明らかにまず腹に一発くらわしてズイムを倒し、すぐにハインリッヒが上からたぶん軍靴で蹴ってゆくつもりらしい。こういうふうに戦いの火蓋は切られたと見えた。
だが、おれがこの眼で見たと思うのはこうだった。マイヤーはズイムの腹に一発をくらわせるほど近づいたりすることは全然できなかった。ズイムは旋風のようにかれのほうを向きながら、足を動かしてハインリッヒの腹を蹴上げ──同時に身体をかわし、空を切って泳いだマイヤーに猛烈な一撃をくわしたのだ。
ただおれにはっきりしていることは、戦いが始まったかと思うと、あっというまに、ふたりの少年は安らかに伸びてしまっていたということだ。ひとりはうつぶせ、もうひとりはあおむけになっていた。ズイムはふたりのそばに、呼吸も乱さずに立っていた。
「ジョーンズ! いないか、ジョーンズは行っちまったんだったな? マハマド! バケツを持ってこい。こいつらの眼の玉に水をぶちまけてやれ。だれか、おれの爪楊枝を知らんか?」
しばらくすると、ふたりは意識をとりもどし、びしょぬれになったまま列へもどった。ズイムはおれたちを見まわし、おだやかな声で質問した。
「ほかにはおらんか? それとも朝の訓練にかかるか?」
おれは、もうとうてい出ていく者はあるまいと思った。だが、左翼のほう──背の低い連中のなかから、ひとりが前にとびだしてまん中へ歩いていった。
ズイムはそいつを見おろした。
「きさま、ひとりか? それとも相捧がほしいか?」
「自分だけです、軍曹どの」
「好きなようにしろ。名前は?」
「スズミであります」
ズイムは眼を大きくひらいた。
「スズミ大佐となにか関係があるのか?」
「自分は、大佐の息子であることを誇りにしております、軍曹どの」
「ああそうか! きさま、黒帯か?」
「いえ、まだであります」
「よし、おまえにそれだけの資格があればうれしいな。さてスズミ、コンテスト・ルールを使ってやるか、それとも病院車を呼ぶほうにするか、どっちだ?」
「軍曹どのにおまかせします。意見を言わせていただくとすれば、コンテスト・ルールに従ったほうが慎重かと思いますが」
「きさまの言う意味はよくわからんが、まあいいだろう」
ズイムはそう言ってから、権威の象徴をわきにほうりだして、嘘じゃない、ふたりはうしろにさがると、むかいあい、頭をさげあったもんだ。
それからふたりは、やや前かがみになると、ときたま手をだしながら円を描いてぐるぐるまわった。まるで軍《しゃ》鶏《も》の喧嘩みたいだった。
とつぜんふたりはふれあった──とみるまに、小男は下になり、ズイム軍曹の大きな図体は、スズミの頭ごしに空を切って飛んでいった。だがズイム軍曹は、マイヤーがやったようにぶざまに墜落して息のつまるような声をだしたりはしなかった。スズミが立ちあがるのと同じぐらい早く、くるりと回転するなりすばやく両足で立ちあがり、おたがいに向かいあっていた。
「バンザイ!」
ズイムはそう叫んでにやりと笑った。
「アリガトウ!」
スズミも答えてにっこり笑いかえした。ふたりはまた息もつかさずつかみあった。おれはズイムがまた空中を飛ぶのかと思ったが、そうではなかった。ズイムはずるずるとすべるように入りこんだ。手足がからみあった。やがて身体の動きがにぶくなったかと思うと、ズイムはスズミの左足を右耳のところで締めつけていた。
スズミが地面を平手でたたいた。ズイムはすぐにはなしてやった。ふたりはまた向かいあって一礼した。
「もう一番ねがえますか、軍曹どの?」
「残念だが、訓練をしなくてはならん。またこんどにしよう。楽しみと……名誉のためにな。ところで、きさまに話しておくべきだったかも知れないが、きさまの父上がおれを教えてくださったのだ」
「自分もそう思っていました。ではまたいずれ……軍曹どの」
ズイムはスズミの肩をたたいた。
「列にもどれ。中隊、気をつけえ!」
それからおれたちは二十分ほど、柔軟体操にかかった。おかげで、それまでの震えあがるほどの寒さはどこかへ吹き飛んでしまい、汗がたらたら流れるほど暑くなった。ズイム軍曹みずから指揮し号令をかけ、おれたちとおなじことをやった。おれの見たかぎりでは、軍曹の具合はやりだす前とまったく同じだった。おれたちが終わったときにも、ズイムは荒い息づかいなんかしていなかった。その朝以後、かれは二度と体操を指揮したりはしなかった。おれたちはその後、夜明け前にズイムを見かけたことは二度となかった。なんといったって階級にはそれなりの特権があるものなんだ。だがとにかくかれは、その朝だけはやったのだ。その体操がすっかり終わり、おれたちがすっかり顎を出してしまうと、ズイムはおれたちを駆け足で食堂テントヘ連れていったが、そのあいだじゅう、怒鳴りどおしだった。
「もっとはやく走れ! 気合いをいれろ! もたもたするな!」
おれたちは、アーサー・キューリー・キャンプのなかでは、どこへ行くにも駆け足だった。おれには、キューリーってどんなやつなのか、ついにわからずじまいだったが、そいつはどう考えても陸上競技の選手だったにちがいあるまい。
ブレッキンリッジはすでに食堂テントに来ていた。こいつは肘からあて木をしており、親指と人さし指の先だけだしていた。
「ちょっと折れただけだよ……油断してたのがいけなかっただな。でも見ていなせえ……おれ、あいつをやっつけてやるだから」
おれは疑問を持った。スズミならどうかしれないが──この大きな猿みたいなやつでは無理だ。こいつは段違いに強い相手に敗れたのだということが、わかっていないのだ。おれは顔をあわせたしょっぱなからズイムが嫌いだった。だが、軍曹にはひとつの風格があった。
朝食はうまかった──なにからなにまでうまかった。どこかの全寮制の学校でときどきあるような、人生をみじめなものに感じさせる貧しい食卓といったものでは、まったくなかったのだ。両手でどしんと皿をおいてひっかきまわそうが、文句を言うやつなんかだれもいないのだ──これは良かった。なにしろ食事の時間というと、だれかにおれたちが苦しめられないたったひとつの時間なんだから。朝食の献立は、おれが家にいるとき食べていたような代物ではなかったし、民間人の給仕が、家庭の母親たちが見ようもんなら、まっ青になって部屋から出ていってしまいそうなほど荒っぽく、食べものをテーブルにくばってまわるのだ──だが、食事そのものは、熱くて、量が充分あって、こった料理ではなかったが、味もまあまあ良かった。おれはいつもの四倍は食べ、こってりとクリームと砂糖をいれたコーヒーで、その食べものを流しこんだ──鮫《さめ》だって皮をはがさないまま食べることができただろうと思う。
おれが二杯目のコーヒーにかかっていると、ブロンスキー伍長がジェンキンスをつれて入ってきた。ふたりはズイム軍曹がひとりで食事をしているところで一度たちどまり、それからジェンキンスはおれのそばの腰掛けへくずれ落ちるようにへばりこんだ。かれは精も根もつきはてたという有様で、息もたえだえだった。おれは声をかけてやった。
「ほら、コーヒーをついでやったぜ。飲めよ」
ジェンキンスは首をふった。
おれは言いはった。
「食べたほうがいいぜ……さあ、いり卵でも食べろよ……こいつなら流しこんででも入ってゆくよ」
「食べられるもんか、畜生、あの軍曹の畜生め……」
ジェンキンスはズイムのことを低い声でくさしだした。
「とにかく、いまおれのしたいことは、寝ころがって、朝飯なんか抜かすことだ。ところがブロンスキーが許さないんだ……それなら中隊長に会わなきゃいかんなんて言うもんだから、おれはあいつのところへ行って、病気だと言ってやったんだ。そしたらやつは、おれの頬っぺたにちょいとさわって、病気点呼は九時だとぬかしやがった。おれをテントヘ帰そうともしないんだ。畜生、あの野郎! いつか暗い夜にやっつけてやるからな。きっとやってやるぞ……」
おれはとにかくいり卵をスプーンでかれの口へ運んでやり、コーヒーを流しこんでやった。そのうちかれは食べはじめた。おれたちのほとんどがまだ食べているのに、ズイムはそこから出ていこうと立ちあがったかと思うと、おれたちのテーブルのそばへやってきて足をとめた。
「ジェンキンス」
「なんだい……はい、軍曹どの」
「病気点呼は九時だ、医者にかかれ」
ジェンキンスの顎の筋肉がぴくぴくとひきつった。かれはゆっくりと答えた。
「自分は薬は要らないであります……軍曹どの。自分は良くなります」
「九時だ、これは命令だぞ」
ズイムが去ってしまうと、ジェンキンスはまたぶつぶつ言いはじめた。最後にかれは、卵をゆっくりとかみながら、ちょっと大きな声をだした。
「いったいどんな母親があんな野郎を生みやがったんだろうな。やつのお袋を見たいもんだ。だいいち、お袋なんてものがあるのかな?」
それは修辞学的な質問だったが、ちゃんと返事がかえってきた。おれたちの長テーブルの端に教育係の伍長がひとりで飯を食べていた。かれは飯を終わり、煙草を吸い歯をほじくるのをいちどきにやっていた。この伍長は明らかに聞き耳を立てていたんだ。
「ジェンキンス……」
「は……伍長どの」
「おまえは、軍曹や曹長のことを知らんのか?」
「はい……だんだん知りつつあるところです」
「やつらにお袋なんてものはない。どの古年兵にでもたずねてみろ」
伍長は煙草の煙をおれたちに吹きつけた。
「やつらは分裂してふえてゆくんだ。バクテリアみたいなもんよ」
[#改ページ]
[#ここから4字下げ]
エホバ、ギデオンに言いたまいけるは、汝とともにある民はあまりに多ければ、我その手にミディアン人をわたさし。おそらくはイスラエル我にむかい自ら誇りて言わん。我わが手をもておのれを救えりと。されば民の耳に告示《ふれしめ》して言うべし。だれにてもおそれおののくものはギレアド山より帰り去るべしと。ここにおいて民のかえりしもの二万二千人あり。残りしものは一万人なりき。
エホバまたギデオンに言いたまいけるは、民なお多し、これを導きて水《み》際《ぎわ》にくだれ。我かしこにて汝のために彼らを試みん。おおよそ我が汝に告げてこの人は汝とともに行くべしと言わんものはすなわち汝とともに行くべし。またおおよそ我汝に告げてこの人は汝とともに行くべからずといわんものは、すなわち行くべからざるなり。ギデオン民を導きて水際にくだりしに、エホバこれに言いたまいけるは、おおよそ犬のなむるがごとくその舌もて水をなむるものは汝これをわけおくべし。またおおよそその膝を折りかがみて水を飲むものを然《しか》すべしと。手を口にあてて水をなめしものの数は三百人なり。余《ほか》の民はことごとくその膝を折りかがみて水を飲めり。エホバ、ギデオンに言いたまいけるは、我水をなめたる三百人の者をもて汝らを救い、ミディアン人を汝の手にわたさん。余《ほか》の民はおのおのその所に帰るべしと。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──旧約聖書・士師記第七章
おれたちがそこへ着いてから二週間たつと、やつらはおれたちから寝台までとりあげた。くわしく言えば、寝台をたたむことを心もとなく思いながら、四マイルも運んで、倉庫にしまいこんだのだ。だがそのころには、それだってもう大したことではなくなっていた。地面はずっと温かく柔らかく感じられるようになっていた──ことに、夜中の非常呼集が鳴って外へ狩り出され、ごそごそ飛び出していって兵隊ごっこをする時にはだ。これが一週間に三度ぐらいあった。しかしおれは、この訓練用の非常呼集が終わると、またすぐにぐっすり眠ってしまうことができるようになっていた。おれはどこであろうと、いつだって──坐ったままでも、立ったままでも、列を作って行軍をしながらでも、眠ることを覚えた。とにかくおれは、夜の点呼のときに直立不動の姿勢のままで寝ることだってできたのだ。おれは眼を覚まずことなしに音楽をたのしみ──号令がかかったときだけ、ぱっと眼を覚ますのだった。
キャンプ・キューリーで、おれはひとつ重大な発見をした。すなわち、幸福とは充分な睡眠をとることができるということだ。これだけで、ほかにはなにもないのだ。おれがこれまで知っている贅沢な生活をしている不幸な連中は、睡眠薬を飲む。だが機動歩兵にとっては、そんな必要などまったくない。カプセル降下兵に寝棚とそのなかにもぐりこめるだけの暇を与えてみるがいい──まるで、リンゴの実のなかにもぐりこんだ芯喰い虫みたいに大喜びして、いっぺんに眠りこんでしまうだろう。
規則のうえでは、たっぷり八時間の睡眠時間と、夕食後一時間半の自由時間が決められていた。ところが事実は、夜間の睡眠時間といっても、非常呼集あり、不寝番あり、野外行進あり、神のごとき上官の気まぐれありだ。そして夜の自由時間たるや、つまらない失敗で新兵教育係にしぼられるか、臨時勤務で台なしにされるか、さもなければ、装具の手入れ、身のまわりのこと、靴みがきに洗濯、散髪のやりっこなどでつぶされてしまう。おれたちのなかには腕のいい理髪師もいたが、なにしろビリヤードの球みたいな坊主頭しか許されていなかったし、これならだれだってできたのだ──そのほかの下士官たちの命令する無数の雑用は言わずもがなである。
たとえば朝の点呼のとき、「入浴ずみっ!」と答えることもならった。これは、起床ラッパが鳴ったときから、少なくとも一度はシャワーを浴びたということなのだ。嘘をついて、うまくごまかすこともできたが(おれも二、三回嘘をついた)、おれたちの中隊に薄汚れた顔をして、どうみてもシャワーを浴びたとは思われないのに、ごまかそうとしたやつがいた。こいつは、教育係の伍長がおれたちにいろいろと指図しているあいだじゅう、仲間の兵隊に、固い床用ブラシと床用石鹸で、ごしごし身体をこすられたのだ。
もし夕食後にとりたてて急ぎの用がなければ、手紙を書いてもいいし、そこいらをうろついたり、ダベったり、下士官たちにいやというほどある知能と道徳感の欠如をこきおろしたり、またなにより楽しいことは、われらが種族のうちの女性について語りあうことだってできるのだ(といっても、女性などという生物は、ただの一人も存在しないものであり、それは燃えあがらんばかりの妄想によって生まれた神話なのだと、おれたちは確認するようになっていた──おれたちの中隊にいたある兵隊は、連隊司令部に行ったとき、女の子を見たと言い張ったが、こいつは即座に、大嘘つきの大ぼら吹きということにされてしまったものだ)。あるいはカードをやることだってできる。おれはひどい目にあって、インサイド・ストレートをねらうもんじゃないということを知った。それからというもの、カードをやってはいないが。
さもなければ、二十分間をまるまる自由にできるのなら、眠ることだってできる。これは実に、極めて好ましい考えだ。おれたちはまったくのところ、数週間分の睡眠不足がたまっていたんだ。
おれがこう言うと、いかにも新兵教育は、必要以上にきびしすぎる印象を与えるかもしれない。だがそれは違う。
新兵の教育は、可能なるかぎりにきびしくされており、それが目的なのだ。
それは、みんなを苦しませるだけのために、無分別な間抜けどもが、まったく意味のない計算されたサディズムや悪魔的な楽しみを得ようとするものだ、というのがおれたちすべての新兵の固い信念だった。
本当はそうではなかった。それは病的な嗜虐性を満足させるだけの残虐行為にしては、あまりにも計画的であり、知的であり、効果的に非情に編成されていた。それは、外科手術のように冷酷に按配されていたのである。
もちろん、教育係のうちのある者はたしかに楽しんでやっていたようにも見受けられたのだが、かれらが本当にそのつもりでやったのかどうかはわからない──そして、心理作戦科の士官たちは、教育係を選びだすにあたって、威張りたがりやはどんなやつであろうと取り除くようにしたのだということが、おれにはいまになってやっとわかる。かれらは、新兵にとってあらゆる物事をできるかぎり難しくできる技術と能力を持った熟練した献身的な教育係を探し求めたのだ。威張りちらすだけのやつは例外なく大馬鹿であり、当然感情的でありすぎ、そいつ自身の楽しみにはそのうちあきあきしてしまい、効果をあげられなくなってしまうものなのだ。
といっても、いまだに威張りちらすやつが教育係のなかにいるかもしれない。外科医のなかには(下手なやつとは限っていない)切開手術をして、手術につきものの血を見るのを楽しむやつがいるということを聞いたことがあるようにだ。
事実、そのとおりだった。つまりこれも、外科手術なのだ。この手術の第一の目的は、機動歩兵になるにしては軟弱すぎる子供っぽい新兵を取り除き、部隊からほうり出すことにあった。それも、たいへんな数で、おれも危うく追いはらわれてしまうところだった。最初の六週間で、おれたちの中隊は小隊ぐらいの大きさに縮んでしまった。新兵のうちの何人かは、べつにひがむことなく落とされ、もし希望するなら、非戦闘部隊に移って任期を務めあげることが許された。そのほかは、素行不良、任務不履行、身体虚弱などの理由で除隊命令を受けた。
ふつうには、その兵隊が出てゆくのを見、そいつが自分からそのことをおれたちに言わないかぎり、なぜ去ってゆくのかわからない。しかし、そのうちの何人かはすっかりうんざりしてしまって、大声で言いふらし、市民権獲得のチャンスを永久に失って除隊するのだ。なかには、特に年をとった兵隊たちだが、たとえどう頑張ってみても、ただ身体がついていけない連中もいる。おれもひとり憶えている。カルーザースといって、気のいい年寄りだった──三十五歳ぐらいではなかったろうか。カルーザースは弱々しい声で──不公平だぞ! おれはもどってくるからな──と叫びながら、担架にのせられて運び去られた。
これはちょっと悲しい事件だった。おれたちはカルーザースが好きだったし、やつのほうだってなんとかやりぬこうと努力していたのだ──だからおれたちは眼をそらし、やつには二度と会えないだろうと考えた。かれが身体虚弱で除隊になり、平服を着ることになるのは間違いなかった。ところが、ずっとあとになって、おれはかれに会ったのだ。身体虚弱の理由の場合は断ってもいいので、カルーザースは除隊を拒否し、とどのつまり三等コックになって軍隊輸送宇宙艦に乗り込んでいたのだ。かれはおれのことをおぼえていて、古い昔のことをしきりと話したがった。父のようなキャンプ・キューリーの出身であることを誇りに思っていると、ハーバードのアクセントで──ふつうの海軍の兵隊より少しはましに感じているとも言った。そうだ、たしかにそうだろう。
しかし、脂肪の部分を迅速に切り離し、まったく物になりそうもない新兵を教育したりすることでの政府のむだな費用を節約する目的よりも、なおいっそう重要なことがあった。つまり、丈夫な、決断力のある、規律正しく、熟練をつみ、鍛えぬかれた、戦闘降下のために充分な準備のできた機動歩兵でなければ、絶対にカプセルに入れないということを、人間になし得る限り確実にしておくことこそ究極の目的だったのである。
しかし新兵教育キャンプは、必要以上にきびしすぎたのではないだろうか?
これに対しておれに言えることは、これだけである。つまり、このつぎおれが戦闘降下をしなければならぬとしたら、おれの両翼にはキャンプ・キューリー出身の兵隊か、あるいはシベリアにある同程度のところで訓練を受けてきた兵隊といっしょになりたいということだ。さもなければ、おれはカプセルに乗り込むことを拒否するつもりだ。
しかしそのころには、屑《くず》みたいなたちの悪い無意味なことばかりだと、たしかにおれも考えた。とるに足らぬことをひとつ──おれたちがそのキャンプにいたある日、ずっと着てきたくたびれた服に追加して、閲兵分列行進用にえび茶色の通常軍服が支給された。(一種軍装と礼式軍服が支給されたのはずっとあとだった)おれは上衣をひっつかんで被服倉庫へもどしにゆき、被服係の軍曹に文句をつけた。たったひとりきりの被服係軍曹でもあり、物腰がどちらかといえば父親のようだったので、おれはなかば民間人のように感じていたんだ──まだそのころには、胸についている略綬リボンをどう見分けるのか知らなかったのだ。知っていようもんなら、おれがそう気安く話しかけたりすることは、とてもできないことだった。
「軍曹どの、この上衣は大きすぎるんです。中隊長どのがテントにちょうどいいぞと言っています」
軍曹は上衣にさわりもせずにおれを見つめた。
「本当かい?」
「そうです。ぴったりしたやつが欲しいんです」
軍曹はぜんぜん身動きひとつしなかった。
「ちょいとばかり賢くしてやろうか、坊や。軍隊にはサイズはふたつしかないんだ……大きすぎるか、小さすぎるかだ」
「でも中隊長どのが……」
「もっともだな」
「どうすればいいでしょうか?」
「ああ、いいことを教えてやろう! うん、ちょうどいいものがある。今日、はいったところだ。ふーむ……おれだったらどうするかな。これが針だ、それに糸までつけてやろう。鋏なんかいらんぞ。剃刀《かみそり》の刃でたくさんだ。さて、腰のまわりをいっぱいにつめろ。だが布は残しておくんだぞ。肩のほうを大きくするときのためにな。あとで必要になるぞ」
おれの仕立てに対して、ズイム軍曹が言ったことはこれだけだった。
「おまえ、それよりはもっとましな格好にできるはずだぞ。二時間の超過勤務だ」
こんなわけでおれは、つぎの閲兵までには、それよりましなのを作りあげた。
最初の六週間はとにかく強化訓練とつるしあげだけで、明けても暮れても教練と行軍ばかりだった。そして、弱い連中がどんどん落伍して家へ帰るか、どこかへ行ってしまうと、残ったおれたちは、十時間に五十マイルを歩けるまでになっていた──あまり歩かない人のために参考までに言うと、相当いい馬にしても顎を出す距離なんだ。休息をとるのだって、停止するのではなく、歩調を変えることでやるんだ。ゆっくり行進、早足行進、そして駆け足だ。ときによると、その距離をぜんぶ進み、野宿《ピバーク》し、携帯口糧を食べ、寝袋で寝て、あくる日帰ってくるのだった。
ある日のこと、おれたちはふつうの行軍に出発した。寝袋もかついでおらず、携帯口糧も持っていなかった。昼食のために小休止する気配もなかったが、おれはそうおどろきもしなかった。というのは、食堂テントから、くすねた砂糖やら堅パンやらを忍ばせてくるぐらいの知恵は働かせていたからだ。だが午後になっても行軍は続けられ、ますますキャンプから離れてゆくので、おれもいささか気をもみはじめた。だがおれは、もう間抜けな質問などするものでないということを知っていた。
おれたちは日没すこし前に停止した。三個中隊で出発したんだが、そのときにはちょっと減っていた。おれたちはそれから、大隊編成の閲兵分列行進を楽隊ぬきでやってから、歩哨をたてて解散した。おれはすぐ教育係のブロンスキー伍長をさがしまわった。というのは、ほかの連中にくらべると、ブロンスキーはいくぶん話しかけやすいところがあったのと──それにおれだって、ちょっと責任のようなものを感じていたからだ。おれはそのとき、仮の伍長にならされていた。といっても新兵のつけている階級章などなんの意味もないもので──せいぜい自分の班がなにかへまをしたときに、自分が代表になってしぼられるぐらいが関の山なのだ。ズイム軍曹は初め年長の者をみな臨時の下士官勤務につけたのだが、二日ほど前におれたちの班長代理が落伍して病院送りになってしまい、おれがその階級章を引き継ぐことになったのだ。
「ブロンスキー伍長どの、教えていただけませんか? いつになったら食事になるのでありますか?」
おれがそうたずねると、伍長はにやりと笑った。
「おれはクラッカーを二個持っとる。半分わけてやろうか?」
「は? いえ、結構であります。伍長どの。食事はぬきでありますか?」
クラッカーならおれだって二個よりもっとたくさん持っていた。要領がよくなっていたんだ。
「なんとも命令を受けておらんよ。それにヘリコプターが近づいてくる様子もないしな。坊や、もしおれがおまえだったら、班のやつらを集めて、どうしたらいいか相談するがな。石をぶつけて兎《うさぎ》の一匹もとれるやつが、ひとりぐらいいるかも知れんぞ」
「はい、伍長どの。しかし……それはそうと、一晩じゅうここにいるんでしょうか? 自分たちは寝袋を持ってきていないんでありますが」
伍長はぴくりと眉を動かし、ちょっと考えたようだった。
「寝袋がないだと! こいつはオドロキだな。うーん……おまえは、吹雪のなかで羊が身体をよせあっているのを見たことがあるか?」
「ありません、伍長どの」
「やってみるんだな。羊は凍死しやしないぜ。おまえたちだって、死なずにすむかもしれん。それとも、みんなといっしょにいるのがいやなら、ひと晩じゅう、ほっつき歩いていりゃあいいんだ。歩哨線のなかを歩きまわっているかぎり、だれも邪魔はしないだろうよ。動きまわっていれば凍らないからな。だが、明日になってちょっとバテることは請け合いだ」
かれはまたニヤリと笑い、おれは敬礼して自分の班にもどった。おれたちは食べものを出しあい同じように分けた──だがおれのは、はじめに持っていた量より少なくなった。というのは、なにひとつ食べものをくすねてこなかった馬鹿やら、行軍の途中で持っていたものをぜんぶ食べてしまったやつがいたからだ。だが、二、三個のクラッカーと乾アンズは、胃袋が出す非常警報を静めるのにすごくきいた。
羊の真似のほうも、まあまあうまくいった。おれたちは三班からなる分隊のみんなでやったのだ。しかし、よくよくの場合でなければこの睡眠法は推薦《すいせん》しかねる。外側になると身体の半分が凍りつき、なんとかして中へもぐりこもうとする。まん中にいればいたで、温かいことはたしかだが、まわりのやつらが肘や足で蹴とばしてきやがるし、くさい寝息を吹きかけてくる。ひと晩じゅう、あっちへごろごろ、こっちへごろごろ、液体のなかでは微粒子が振動するっていうブラウン運動みたいなもんだ。眼が覚めているわけでもなく、ぐうぐう眠りこけているわけでもないというようなことが続くんだ。というわけで、この夜は百年も続くかと長く感じられた。
ようやく東の空が白くなったかと思うと、たちまちお馴染みのおきろ! いそげ!≠ェかかった。かさなりあった連中のうち出っぱっている尻は指揮棒のお見舞いを受け──それから気合いを入れるための早朝体操が始まった。おれは死体になっているみたいで、足まで手を届かせるにはどうすればいいかわからず、ひどく痛かった。二十分たって道を歩きだしたときは、ひどく年をとってしまったような気分だった。だがズイム軍曹はぜんぜんバテた様子などなく、この悪党はどうしてやったものかわからないが、髭まであたっていたのだ。
おれたちが行進しているうちに、朝日が背中を温めはじめ、ズイムはおれたちに軍歌を歌わせた。まず古い歌からだった。「楽しき連隊」「弾薬車」「モンテズマの家」──それからおれたちの隊歌「カプセル降下兵ポルカ」で速足《はやあし》から駆け足に移った。ズイム軍曹はひどいどら声で歌などといえるもんじゃあなかった。ただガアガア大声をだしているだけなんだ。だが、ブレッキンリッジが正しい音程でしっかりと歌えたので、ズイム軍曹のものすごい調子っぱずれの歌が聞こえていたにもかかわらず、ほかのおれたちも歌いつづけることができたのだ。それでおれたちみんなの意気はあがり、針鼠みたいに武装したような気分になったのだ。
だが、五十マイルを行進してもどってきたときには、もう士気どころじゃなくなっていた。まったく長い夜だった。終わりがないように思えた一日だった──とどめの分列行進のとき、ズイムはおれたちの格好がなっちゃいないとがみがみ文句をつけ、何人かはつまみだされ、行軍が終わってから分列行進を始めるために整列しなおすまで、まるまる九分間もあったのに、髭を剃ってこなかったといって、こっぴどくとっちめられたのだ。その晩、また何人かの新兵が除隊願を出したし、おれだって、いっそのことと思ったが、あの馬鹿げた臨時の階級章の手前と、まだ本当に癇癪玉が破裂するところまでは行ってなかったので、見合わせてしまったのだ。
その夜、二時間の非常呼集がかけられた。
それにしてもおれは、三、四十人の人間が身体をくっつけあった温かさというものが、どんなに気持ちのいい贅沢なものであるかということを、しみじみ思い知らされることになった。というのは、十二週間後、おれはまったくの素裸でカナディアン・ロッキー山脈の処女地にほっぽりだされ、山のなかを四十マイル歩きとおさなければいけなかったのだ。おれはやりとおした──だが、途中の一インチごとに軍隊を呪ったものだ。
それでも、指定地にたどりついたときのおれの格好は、それほどみじめったらしいものではなかった。おれみたいにすばしっこくないのろまな兎を二匹つかまえたので、それほどひもじい思いはしなくてすんだし……丸裸で通さなくてもよかった。おれは兎の脂肪と泥をねって身体にぬりつけていたので温かかったし、足には毛皮を巻きつけていた──兎の毛皮にそれ以上の使い道はないのだ。もしそんな破目になるとしたら、岩のかけらでも持ってさえいたら、どれはどのことができるかおどろくほどのものだ──おれたちの先祖である穴居人たちは、おれたちがふつう考えているほど間抜けではなかったはずだ。
ほかの兵隊たちもやりとおした。まだやってみようと残っており、そんなテストを受けるぐらいならやめようなどと言いださない連中だ──だが、ふたりの仲間がこの訓練中に死んでしまった。そこでおれたちは全員、山の中へもどり、十三日かかってかれらを発見した。ヘリコプターが頭上からおれたちを誘導し、流言をくいとめるため最高の通信機械が動員され、コマンド・スーツを着た教育係が監督したのだ──なぜなら、機動歩兵は、どんなにわずかでも希望のかけらがあるかぎり、見捨ててしまったりすることはないからだ。
おれたちはふたりの遺体を「これぞわが祖国」の旋律とともに、最大の敬意をこめ、二等兵の位をおくって葬った。おれたちの訓練部隊でそんなに高い階級へあがった最初の男たちだった──カプセル降下兵は生き永らえることを期待したりできない。死ぬことも商売の一部なのだ……だが、新兵がいかに死ぬかということについては、上の連中もよく考えてあるようだった。顔をあげ、きびきびと、努力を続けているあいだに死ななければいけないということだ。
そのふたりのうちのひとりは、ブレッキンリッジだった。もうひとりは、おれの知らないオーストラリア出身のやつだった。しかし、訓練中に死んだ兵隊は、そのふたりが最初でもないし、最後でもなかった。
[#改ページ]
あん畜生、悪いことしたに
ちげえねえ
さもなきゃ、こんなとこへ
くるもんか!
右舷の砲……射てえ![#「射てえ!」はゴシック]
大砲射ちなんか
あん畜生にゃもったいねえ
いまいましい野郎は
ほうり出しちまえ!
左舷の砲……射てえ![#「射てえ!」はゴシック]
[#地付き]──その昔、礼砲を発射するとき、間をとるのに使ったはやし歌
いろいろなことが、つぎつぎと始まった。そのほとんどは戦闘訓練──戦闘教練、戦闘演習、戦闘機動作戦で、何も持たない素手素足から始まり、模擬核兵器に至るすべての武器を使うものだった。おれはこれほどまで多種多様な戦闘のやりかたがあるとは知らなかった。まず第一に両手と両足だ──こんなものは武器ではないと思うやつは、ズイム軍曹と大隊長フランケル大尉が両手両足を使っておこなうフランス式拳闘の模範試合を実際に見たことがないからだ。それとも、小男のスズミが両手を使い歯をむきだして相手になれば、だれにだってすぐにそうだとわかることだ──ズイム軍曹はすぐ格闘術の教官としてスズミを任命し、おれたちにスズミの命令に従うよう要求した。だがおれたちが、この小さな教官に対して敬礼もせず、サーなどと敬称をつけなくてよかったのは当然だ。
おれたち新兵の数が少なくなっていくにつれ、ズイム軍曹は分列行進のときを除くと、ならびかたがどうのというようなうるさいことを言うのはやめてしまった。そのかわりに、教育係伍長たちを助けて個人教育に費やす時間のほうは、しだいしだいにふえてきた。かれは何を武器に使おうが一瞬のうちに相手を殺せる死神だったが、中でもナイフが気に入っているようだった。それで、官給品だって完全に優秀なんだが、それを使わずに自分用のバランスのとれたのを作っていた。個人教授というものは、まったくいやになるか、さもなければ辛抱できなくなるものだが、かれは実に円熟した教師であり、馬鹿げた質問に対してもまったく辛抱強かった。
あるとき、毎日の日課のあいだにまばらにおかれている小休止のときだが、新兵のひとりでテッド・ヘンドリックという男がたずねたものだ。
「軍曹どの、このナイフ投げは面白いと思うんでありますが……どうして自分たちは、これをおぼえなければいけないんでありますか? なにかましな使い道があるのでありますか?」
ズイムは答えた。
「そうだな……かりにきさまの持っているのがナイフ一本だけだとしたら? それとも、一本のナイフさえ持っていなかったらどうだ? おまえはどうする? あっさりお祈りでもして死んでしまうのか? それとも、がむしゃらにつっこんでいって、どうでもこうでも、眼にものみせてやるというのか? いいか、これは実戦のためのものなんだ……まったくだめだとわかったら、参ったといえるチェッカー・ゲームみたいなものじゃないんだぜ」
「軍曹どの、自分の言いたいのもそこなんであります。ぜんぜん武装していないとすると、どうなりますか? あるいはこの長いナイフだけしか持っていなかったら? そして相手にする敵のほうは、あらゆる種類の危険な武器を持っていたとしたらどうします? 手のつけようはまったくありません。敵はいっぺんにこちらを殺してしまうでしょう」
ズイムはまったく静かに答えた。
「きさまは、ぜんぜん勘違いをしているよ。危険な武器なんてものはないのだ」
「ははあ? 軍曹どの?」
「危険な武器などというものはないのだ。危険な人間だけがいるということだ。おれたちはきさまらを、危険な人間に仕立てあげようと教育しているのだ……もちろん敵にとってだ。一丁のナイフさえ持っていなくても、危険きわまりない男にな。おまえらにまだ片手か片足が残っており、虫の息でも生きているかぎり、敵にとっては恐ろしい男になるんだ。もしきさまが、おれの言ってることがわからなければ『橋上の勇士ホラティウス』か『ボノム・リシャールの死』を読めばいい。どちらもキャンプの図書館にある。だが、おまえが最初に言った場合をとりあげてみよう。おれがおまえだったとする。身につけているものは一本のナイフだけだ。おれのうしろにある的……おまえがあてそこなった三番目のやつだ……そいつは歩哨で、水爆以外のあらゆるもので武装しているとする。おまえはそいつを殺さなければいけないんだ……音をたてずに、それも一瞬のうちにだ。そいつに助けを呼ばせないようにだ」
ズイム軍曹はちょっとふりむいた──ぐさっ──かれはナイフなど持ってもいなかったはずなのに、一本のナイフが三号標的のまん中につきささってふるえていた。
「わかったか? ナイフは二本持っていたほうがいいが……おまえはなんとしてでも、歩哨を殺さなくてはならんのだ……素手であってもな」
「はあ……」
「まだなにか迷っているのか? 言ってみろ。おれがここに来ているのは、おまえたちの質問に答えるためなんだからな」
「はい、わかりました、軍曹どの。あなたは、歩哨が水爆を持っていなかったといわれましたが、持っているとします。それが問題なのです。もし自分たちが歩哨なら、少なくとも水爆を持ちます……自分たちがぶつかる歩哨はどいつも水爆を持っていそうです……自分は歩哨だけのことを言っているのではなくて、そいつか属している敵のほうがという意味ですが……」
「おまえの言いたいことは、わかった」
「そこで……おわかりですか、軍曹どの? もし自分たちが水爆を使用できるのなら……そして軍曹どのが言われたように、チェッカー・ゲームじゃないんで、現実の戦闘であり、冗談でやるわけにはいきません……だとすると、草むらのなかなんかをはいつくばって行き、ナイフを投げたり、そのため投げた本人はたぶん死んでしまうというようなことは、馬鹿げたことではないでしょうか……へたをすれば戦争に負けてしまうかもしれません……本当の武器を持てたときこそ勝利を得るために使えるのではないでしょうか? たったひとりの教授タイプの男が、ただボタンを押すだけで、より以上の効果があげられるという時代に、時代遅れの武器を持った大勢の兵隊たちが自分の生命を危険にさらすということに、どういう利点があるのでありますか?」
ズイムは即答しなかった。それはまったく、かれらしくないことだ。やがて軍曹は静かに言った。
「きさま、機動歩兵部隊にいて幸福か? ヘンドリック? 除隊だってできるんだぜ、知っとるんだろうな?」
ヘンドリックは口のなかで、なにかぶつぶつ呟いた。
「大きな声で言え!」
「自分は除隊したくてむずむずしているのではありません、軍曹どの。自分は頑張って軍務を務めあげるつもりでおります」
「わかった。ところで、おまえのたずねた質問は、軍曹のおれなどには実際に答える資格のない性質のものだし……またおまえもたずねるべきではないのだ。きさまらは入隊する前から、わかっていることになっているんだ。それとももちろん、知っておるべきことにな。おまえの学校には、〈歴史と道徳哲学〉の授業はなかったのか?」
「え? もちろんありました……軍曹どの」
「それなら答は聞いているはずだぞ。だが、おれ自身の……非公式な見解をこれから教えてやろう。いいか、もしおまえが赤ん坊をしかろうと思ったら、そいつの首をはねてしまうか?」
「えっ……とんでもありません、軍曹どの!」
「もちろん、そんなことはせんだろう。ピシャリとたたきつけるだけだろうな。敵国の都市を水爆で攻撃するなんてことは、赤ん坊の頭を斧でたたっ切るのと同じように、実に馬鹿げたことだというような事情のときもあるんだ。戦争とはそう単純な暴力と殺戮《さつりく》ではない。戦争とは、目的を達成するための、抑制《よくせい》できる暴力なんだ。戦争の目的とは、政府の決定したことを力によって支持することだ。その目的は、決して殺すだけのために敵を殺すことではなく、こちらがさせたいと思っていることを相手にさせることだ。殺戮ではなく……抑制され、目的を持った暴力なのだ。だが、この目的を決定することは、おまえの仕事でもなく、おれのでもない。いつ、どこで、どうして……また何のために……戦うのかなどを決めるのは、絶対に兵隊の仕事ではない。それは政治家と将軍連中に属していることなのだ。政治家がこれこれしかじかで、どれぐらいと決定する。将軍たちはそれを引き継ぎ、おれたちに、どこで、いつ、どのようにという命令を出すのだ。おれたちは暴力を供給し、そのほかの連中……いわゆる、お年寄りとお偉《えら》がたの面々……が、抑制のほうを引き受けるのだ。これがそうあるべき姿なんだ。以上が、おまえに教えられる最高の返事だ。もしこれで納得できなかったら、連隊長どののところへ行って話しあえるように報告してやろう。そしてもし連隊長どのがおまえを納得させられなかったら……そのときは家へ帰って民間人になるんだな! なぜなら、そんなことになるようなら、おまえは絶対に兵隊なんかにはなれっこないからだ」
ズイム軍曹は飛びあがって叫んだ。
「おれに長話をさせてサボるつもりだったのか……立て、みんな! いそげ! 標的にむかってならべ……へンドリックおまえが最初にやれ。こんどはナイフを、おまえの南にむかって投げてみろ。南だぞ、わかったな? 北じゃない。標的はおまえの真南にあるんだから、少なくともだいたい南の方角へ飛ばすようにしろ、的にあたらんことはわかっているが、おまえがほんの少しでも相手をこわがらせられるかどうか見たいのだ。自分の耳をそぎ落とすなよ。とんでもないところに投げてうしろにいるやつを傷つけるな……おまえの持っている、小さな脳味噌を、南のほうだということに集中するんだ! 目標にむかって、構《かま》えっ! 投げろ!」
ヘンドリックは、またも当てそこなった。
おれたちは棒を使う訓練をし、針金の訓練もした。針金が一本あれば、ぞっとするようなことをいっぱい考えだせるもんだ。それからおれたちは、本物の最新兵器をどう使うかということも、手入れについても勉強させられた──模擬原子兵器類、歩兵用ロケット、さまざまな種類のガス、毒物、焼夷弾、大型破壊爆弾などだ。そのほかの物については、たぶん言わないほうがいいだろう。しかしおれたちは、たくさんの〈旧式〉な武器類のことも学んだ。例えば、銃剣をつけた模擬銃。それに模擬でない銃だが、それは二十世紀の歩兵銃とほとんど同じものだった──狩猟のときに使うスポーツ用の銃によく似ていたが、ちがうところといえば、おれたちの発射するのは、かたい散弾、合金でおおわれた鉛の弾丸だけということだ。その両方を、距離をきめておかれた標的と、白兵戦訓練のときひょっこり現われてびっくりさせるように仕掛けてある標的の両方に使うのだ。これは、おれたちが、どんな武器でも使いこなせるようにすることと、おれたちに気合いを入れ、油断をなくさせ、何物に対してでもすぐ相手になれるように仕込むためのものであって、まったくそれは効果をあげたのである。
おれたちの演習には、これらの小銃が、多くのより致命的な、より恐ろしい目的を持った武器の代用に使われた。演習には、たくさんの模擬兵器が使われたし、そうしなければいけなかった。物あるいは人間に対して〈爆発〉する爆弾もしくは手榴弾が、ちょうどてごろなぐらいの黒い煙をふきだすように爆発するのだ。また別の種類のは、ガスを噴出し、くしゃみをさせ、涙をこぼれださせる──これはおれたちが戦死してしまったか、麻痺してしまったことを意味する──そしてこれはまったく気色の悪いことだが、対ガス予防についてくれぐれも注意をおこたらぬようにさせようというためのものなのだ。もしこいつにとっつかまろうものなら、どれほどこっぴどく文句を言われるかは、いうまでもない。
おれたちの睡眠時間はますます切りつめられていった。赤外線暗視鏡だのレーダーだの聴音器だのを使ってやる演習の半分以上は、夜間におこなわれたのだ。そして、おれたちに向けて発射される小銃には、五百発の空包のなかに、いつ飛んでくるかわからないが実弾が一発入れられていた。危険かって? イエスでもありノーでもある。生きているだけで危険はつきまとっているんだ──爆発しない小銃弾では、頭とか心臓とかに命中しないかぎり、あるいは命中しても、死にやしないだろう。それでも五百発に一発の実弾がこもっているというのは、おれたちに、地形を利用して身体を隠す訓練に対する関心を大いに深めることだった。まして、それらの小銃のいくつかは、名射手の教育係がまじめにおれたちをねらって射つのだし──もしその一発が空包じゃなかったら、えらいことだ。教育係たちは、故意に新兵の頭をぶちぬいたりするつもりはないとうけあってはいたが──もののはずみということもあるのだ。
この親切にうけあってくれたことは、あまりあてにはならなかった。その五百発に一発の実弾は、退屈な演習を大がかりなロシア式ルーレツトに変えてしまった。実弾の最初の一発が、小銃の発射音が聞こえるよりさきに、こちらの耳のそばをビューンとかすめた音を聞いたその瞬間から、ぼんやりしているわけにはいかなくなってしまったのだ。
だが、それでもおれたちがたるんでくると、そんなに気合いがこもらないのなら、五百発に一発を百発に一発の割合にし、それでもまだたるんでいるんだったら、五十発に一発に変更すると、上のほうから言ってきた。実際にそう変更されたのかどうか、おれには見当がつきかねたが、おれたちがまた緊張したことは確かだ。というのは、となりの中隊の新兵が、その本物の一発を尻にくらって、眼もあてられないほどむごたらしいざまになってしまったのだ。おれたちはみな大笑いをしたが、またしても地形地物を利用しての隠れかたに深い関心を持たざるを得なくなってしまった。おれたちは、この男が尻をやられたことを笑ったが、それが頭であることだってあり得るのだし──そいつのではなくて自分の頭であったかも知れないということも、よくわかっていたからだ。
小銃を射っていない教育係たちは、遮蔽物にかくれてなどいなかった。白い上衣を着て指揮棒を持ったかれらは、まっすぐ立って歩きまわっていた。新兵なんかが故意に教育係を射ってきたりはしないだろうと、確信しているように悠々《ゆうゆう》としていた──これは、おれたちのうちの何人かに対しては自信がありすぎることだったろうと思うが。
それにチャンスは五百発に一発というのであってみれば、ぶち殺してやろうとくわだてて一発射ってみたところで、どうなるものでもないのだ。そのうえ、新兵なんかが小銃をそれほどうまく射てるはずはないので、安全度はもっと高くなるのだ。小銃というのは、使いやすい武器ではない。こいつには目標を追いかけてゆく能力なんかぜんぜんない──おれには、戦争がまだこの小銃で戦われ、それによって勝敗が決められていた昔のころだって、こいつはそれこそ何千発もぶっぱなして、やっとひとりの兵隊を殺せるぐらいだったということがわかっている。あり得ないことのように思われるかもしれないが、これは数多くの戦史によって裏付けられているのだ──あきらかにほとんどの鉄砲玉は、実際にはねらわれていなかったもので、単に敵兵をはいつくばらせ、射撃を妨害させるぐらいの働きをしただけなのだ。
どんな場合だって、教官たちが小銃で怪我をしたり殺されたりしたことはなかった。同じく、新兵だって小銃弾で死んだりしたやつはいなかった。死ぬのはみな、ほかの武器か、べつの物によったのである──そういった物のうちのあるものは、おれたちが歩兵操典にないことをすると、とつぜん襲いかかって噛みついてくるのだ。そういえば、ある新兵は、教育係連中がかれをめがけて射ちはじめたとき、あまり夢中になって遮蔽物にとびこもうとしてその顎を析った──弾丸はかすりもしなかったのだが。
しかしながら、この小銃弾のことと遮蔽物での事件のことは、その連鎖反応として、キャンプ・キューリーでの訓練中でおれを最低にげっそりさせてしまった。まず第一におれは仮の下士官章を取り上げられてしまった。それもおれがやったことではなく──おれの班のだれかがやったことで、それもおれがその場にいもしなかったときのことが原因でだ──それをおれは指摘したんだ。
ブロンスキーは黙っていろと言ったが、おれはズイム軍曹のところへこの一件を話しにいった。すると軍曹は冷やかになにごとによらず班員のしたことはおれに責任があると言い──ブロンズキーの許可なくこの一件を軍曹に洩らしたということでおれをぶんなぐったほか、六時間の超過勤務をおしつけた。そのころ、おれはひどく心をかき乱される手紙を受けとった。お袋がやっとのことで書いてきた初めての手紙だった。それからおれは、強化防護服をつけてやる最初の訓練で肩をくじいてしまった。教育係の連中が、無線を操作して思いどおりに防護服に事故をおこさせるように演習用スーツを整備しておいたのだ。そのためにおれはひっくりかえって肩をくじいてしまった。
そのためおれは軽い勤務につかされ、おかげでいろいろと考える時間が多くなってしまい、自分自身がとても哀れっぽく思えてならないようになったのだ。
軽勤務の仕事で、おれはその日、大隊長室の当番兵となった。おれは大隊長室へなど来たこともなかったので、はじめはおれもずいぶん張りきり、良い印象をあたえようとしていた。ところが、フランケル大尉は、おれが熱中することなどは求めておらず、ただじっと坐って物を言わず、邪魔にさえならなければいいのだということがわかった。それでまたおれは、居眠りするわけにもいかないので、自分がかわいそうに思える時間ができたのだ。
ところが昼食がすんだすぐあと、おれもまだ睡《ねむ》気《け》を催してなかったとき、とつぜん、三人の兵隊をつれてズイム軍曹が入ってきた。軍曹はいつものとおりきちんとしており、きびきびしていたが、その表情はまるで、青ざめた馬にのった死神のようであり、その右眼は──もちろん、あり得ないことだが──まるでだれかになぐられたような黒いあざになっていた。
三人の兵隊のうち、まん中にいるのはテッド・ヘンドリックだった。かれは、ほこりまみれだった──そう、中隊は野戦訓練をしていたのだ。かれらは荒原の土や泥をはらい落としてこなかったので、しばらくは、ほこりとおつきあいするほか仕方なかった。ヘンドリックの唇は切れて顎には血がこびりつき、上衣と帽子はつけていなかった。そして血走った眼をしていた。
両側の兵隊は新兵で、ふたりとも小銃を持っていたが、ヘンドリックは持っていなかった。ひとりはおれの班のレイヴィーという男で、興奮し面白がっているように見え、だれも見ていないとき、おれにこっそり眼くばせした。フランケル大尉はおどろいたようだった。
「どうしたというんだ、軍曹?」
ズイム軍曹は凍りついたような直立不動の姿勢のまま、まるで何かを棒読みするような調子で言いはじめた。
「大隊長どのへ、H中隊中隊長より懲罰の件につき申告いたします。第九一〇七条、戦闘訓練中における戦闘指揮命令の無視。第九一二〇条、同じ状況における命令の不服従であります」
フランケル大尉は判断に苦しむといった顔つきだった。
「それをわたしのところへどうして? 軍曹、公式にというわけか?」
ズイムは苦りきった表情をしていてしかるべきだったが、それでいてその顔にも声にもなんらの感情も現わさないようなことが、よくできるものだと、おれは感心した。
「大隊長どの、申しあげます。この男は処罰を拒否し、どうしても大隊長どのに会わせろと言ってきかないのであります」
「なるほど、軍法のなまかじりだな。よろしい。わたしにはまだよくわからないんだが、軍曹、それはともかく法的には兵隊の権利ではあるわけだ。戦闘命令と、その命令無視とは何だね?」
「凝固《フリーズ》の命令無視であります、大尉どの」
やったな、とおれは思いながらヘンドリックをちらりと見た。やれやれだ。ひとたび凝固《フリーズ》≠フ命令が出されたら、即座に何かの遮蔽物を見つけて地面に身体を伏せ、凍りついたようになるのだ──そして、命令が解けるまではぴくりとも動かず、眉毛をゆるがせてもいけないのだ。すでに遮蔽物のなかに入っているときは、そのまま凍りつくのだ。凝固中に敵弾にあたり──うんともすんとも言わず、もちろん動きもせずに、そのままゆっくりと死んでいった兵隊の話を、おれたちは聞かされていた。
フランケル大尉は、ぴくりと眉をあげた。
「第二の違反事情はなんだ?」
「同じであります、大尉どの。凝固を破ったのち、また凝固にもどれという命令に服従しなかったのであります」
フランケル大尉は苦々しい顔をした。
「名前は?」
ズイムが答えた。
「T・C・ヘンドリック……最下級新兵七九六〇九二四号であります」
「よし、ヘンドリック。すべての権利を剥奪《はくだつ》し、テント内に三十日間の禁鋼を命じる。勤務と食事の時間、および衛生上やむを得ざる場合のほかは外に出てはならぬ。なお毎日、衛兵伍長の監視のもとに、起床ならびに消燈前および昼食時間に各一時間、合計三時間の特別勤務を科する。夕食はパンと水だけとする……パンはいくら食べてもよろしい。毎日曜日には十時間の特別勤務……ただし本人に教会の礼拝に出席する希望があれば、そのように勤務時間を割り当てることを許可する」
(うえっ、終身刑みたいなもんだ、とおれは思った)
フランケル大尉はつづけた。
「ヘンドリック。おまえがこのように軽い処分ですんだのは、軍法会議をひらかないかぎり、わたしにはこれ以上の処罰を科する権限がないからだ──それに、おまえの中隊の記録に汚点をつけたくもないからでもある。終わり」
大尉は机においてあった書類に眼を落とした。この事件はもう忘れたといわんばかりだ──そのとたん、ヘンドリックは叫んだ。
「自分の言い分を聞いてもくれないのですか!」
大尉は顔をあげた。
「え、そうか。おまえにも言い分とやらがあるのか?」
「もちろんであります! 軍曹は自分を絞って絞って絞りぬいてきました。自分がここへきてからずっとです! あげくのはてに……」
大尉は冷やかに言った。
「それが軍曹の仕事だ……おまえは、ふたつの違反事実を否定するのか?」
「そうではありません。でも軍曹は……自分が凝固で伏せたところが蟻の巣の上だったということを黙っています!」
フランケル大尉は、ほとほと愛想がつきたというような顔になった。
「なんだと。おまえは、たかが二、三匹の蟻のために、自分はおろか戦友までも犠牲にするつもりなのか?」
「たかが二、三匹……とんでもありません。何百匹もです。刺すやつです」
「だからどうした? いいか、はっきり言ってやる。凝固の命令が出されたら、たとえおまえがガラガラ蛇の巣の上にいたところで、じっとこらえて凝固していなければいかんのだ」
大尉はちょっと言葉を切ってから、またあとを続けた。
「なにかほかに自己弁護をすることがあるのか?」
ヘンドリックの口は大きくひらいた。
「大ありです! 軍曹は自分をなぐりました。手をかけたんです! 下士官連中ときたら、あのいまいましい指揮棒を持ってうろうろ歩きまわり、のべつまくなしに、自分たちの尻や眉を、めったやたらとぶんなぐり気合いを入れろ!≠ニ馬鹿のひとつ覚えです……自分はずっとこらえてきました。でも、こんどはちがいます。軍曹は手でなぐってきたんです……自分をいきなりなぐり倒しておいてから、凝固だ! この馬鹿野郎!≠ニきたもんです! いったいこれでいいんですか?」
フランケル大尉は自分の両手を見おろしてから、ヘンドリックの顔を見あげた。
「おまえは民間人に非常にありがちな思い違いをしている。おまえがいうように、上官は部下に手をかけることを許されていないとでも思っているようだが、単にふつうの社会的状態にあっては、それは事実だ……いいか、もしわれわれがたまたま劇場とか店などで出会ったとする。おまえがわたしの階級に対して充分な敬意をはらってくれているかぎりは、おまえがわたしをひっぱたいたりできないのと同じに、わたしもおまえの横っ面をひっぱたいたりする権利などはこれっぽっちもありゃしない。だが、任務遂行中となると、その規則はまったくちがってくる……」
大尉は椅子をぐるっとまわして、ルーズリーフの書類を指さした。
「そこにあるのは、おまえたちがそれによってくらしている軍の法律だ。おまえはその綴込みのなかから、軍法のあらゆる項目、あらゆる軍法会議の判例を探しだせる。だが、おまえの上官が任務遂行中におまえに手をかけたり、あるいはどんなやりかたにしろ、任務遂行中に兵隊をなぐることは許されていないというようなことを、意味するか、あるいは述べられている言葉は、ただの一語も見つからないのだ。ヘンドリック、わたしはおまえの顎をたたきつぶすことだってできるのだぞ……だがわたしは単に、その行為がなぜ必要であったかということについてだけ、わたし自身の上官に責任を負わなければいかんだけだ。しかし、おまえに対しては、なんの責任もないのだ。わたしはそれ以上のことでも、おまえに対してできるのだ。命令されようとされなかろうと、上官は待ったなく、また警告することもなく、自分の下にある士官あるいは兵隊を殺すことが、許されているだけでなく、求められてもいる状況があるのだ……それで処罰されるどころか、賞讃されるのだ。例えば、敵前での臆病な行為に断を下したということでな」
大尉は机をたたいた。
「いいか、それにこの指揮棒だが……これにはふたつの使い道がある。第一にこれは、権威の象徴だ。第二にこれは、おまえたちに対して使うものだ。兵隊をたたいて気合いを入れるためだ。こんなもので、いま使っているようなやりかたでは、怪我などするわけがない。ひどくて、ちょっとぴりりとするぐらいのところだ。だが指揮棒は百万言にまさる。いいか、おまえが起床するとき、いそいで寝台から出られないとする。もちろん当直伍長は甘い言葉であやすこともできる……どうぞたくさん砂糖をお入れあそばせ、とな……おまえに今朝はベッドで飯を食べたいのかとたずねたあとでだ……だが、おまえをあやしてやるほど伍長はあまっとらん。だから伍長は寝袋をピシャリとひっぱたいて離れていく。必要なベッドのところでは、適当に気合いをかけて剌激しながらな。もちろん、伍長はおまえを蹴とばすほうが簡単だ。これは合法的でもあるし、いちばん効果的だ。しかし、新兵の教育訓練を担当している将軍は、伍長にとっても、おまえにとっても、権威の象徴であるこの棒でねぼすけ野郎をたたきおこすほうが、もっと威厳があっていいと思っているんだ。わたしやおまえが、このことについてどう考えるかということではなく、これが軍のやりかたなんだ」
フランケル大尉は溜息をついた。
「ヘンドリック。わたしはおまえに、いろいろなことを話して聞かせた。というのは、なぜ自分が罰せられるのかわからない者を罰しても無意味だからだ。とにかくおまえは、悪い子≠セった……子供というのは、もちろんわれわれはもっともっと鍛えあげるつもりだが、おまえがまったくまだ大人ではないからだ……現在の訓練段階では、おまえはおどろくほかないほど悪い子だ。おまえが言ったことでは、自分を弁護するどころか、情状酌量の役にもたたん。おまえは、兵隊としての自分の任務がどういうものか、ぜんぜんわかっておらんようだな。それならば、なぜ自分が不当に扱われていると感じるのか、自分の言いたいことを言ってみろ。おまえのことを、はっきり知っておきたいもんだからな。ひょっとするとあるいはおまえを正当化するような事実があるのかも知れん……といって、どんなことやら、わたしにはさっぱり見当もつかんのだが」
おれは大尉がしゃべりつづけているあいだに、ヘンドリックの顔を一、二度ちらりと盗み見た──なぜかその静かな穏やかな言葉遣いは、ズイム軍曹がおれたちをがみがみどやしつけるのより一層気味が悪かった。ヘンドリックの顔は、怒りから、ポカンとしたおどろきの表情へ、ふくれっ面にと変わっていった。
「話すのだ!」
と、フランケル大尉は鋭く言った。
「ええと……凝固の命令が出て、自分が地面に伏せたとたんそこが蟻の巣だったことに気がつきました。そこで膝をついて二フィートばかり移動しようとしましたら、うしろからなぐり倒され、どなりつけられました……そこで自分が飛びあがって一発なぐりつけると、軍曹は……」
「待て!」
フランケル大尉は椅子から立ちあがった。大尉の背丈は、おれとどっこいどっこいぐらいなのに、十フィートもあるように見えた。大尉はヘンドリックをにらみつけた。
「きさまは……なぐっただと? 自分の隊長をか?」
「え? そうですとも。軍曹がさきになぐったんです。うしろからでした。見もしないうちにです。そんなことは、だれであろうと、がまんできません。それで自分がなぐりかえすと、軍曹がまた自分をなぐり、それから……」
「だまれ!」
ヘンドリックはだまってから、つけ加えた。
「こんな小汚い服は脱ぎたいもんです」
フランケル大尉は冷やかに言った。
「よろしい。そのとおりにしてやろう。それも急いでな」
「紙をください。除隊願を出しますから」
「ちょっと待て。ズイム軍曹」
「はい、大尉どの」
ズイムはずっとだまっていた。かれは不動の姿勢で前をにらみ、彫像のように身動きせず、ただ顎の筋肉だけをピクピクひきつらせていた。おれがよく見ると、まぎれもなく見事なあざだった。ヘンドリックは実にうまく、ぶちかましたものだ。しかし軍曹はそのことには一言もふれず、フランケル大尉もたずねなかった──たぶんかれは、ズイムがあとでその気になれば、ドアにでもあたったとでも言うだろうと思っているようだった。
「軍法の罰則規定を、命令どおり中隊に告示したか?」
「はい、大尉どの。毎日曜日の朝、告示ならびに掲示いたしました」
「わかっている。わたしはただ、記録にとどめるためにたずねているだけだ」
毎日曜日、教会の礼拝が始まる前に、おれたちは整列させられ、軍の法律と罰則の条文を読んで聞かされた。さらにそれは、中隊事務室テントの外の掲示板にも貼られた。だが、だれもあまり気にかけて聞いてはいなかった──これがまた別な意味での訓練であり、そのあいだじゅう静かに立ったまま居眠りをしていられるのだ。おれたちが気にとめたものといえば──強いて気にとめるとしたらだが──いわゆる〈三十一の大罪《クラッシュ・ランド》〉ぐらいのものだった。とにかく教育係たちは知っておくべき規則のすべてを、いやというほどおれたちみんなが憶えてしまうように気をつけていたんだ。〈衝突着陸《クラッシュ・ランド》〉とは、〈|起床ラッパのおべっか《レヴァリー・オイル》〉とか、〈|天幕上げ《テント・ジャック》〉といったような使いふるされた冗談口だった──それらが三十一の大きな罪だったのだ。ときどきだれかが、三十二番目のやつを発明したと自慢したり、怒ってみたりしたが──常にそれはとんでもなく馬鹿げたことであり、そのほとんどが猥褻《わいせつ》なものだった。
「上官をなぐりつけるとは……!」
とつぜん、面白がるどころの騒ぎではなくなり、あたりはしーんとしてきた。ズイムをなぐった? そのことで絞首刑にでもされるのだろうか? そんなことって? 中隊のだれもかれもがズイムになぐりかかっていったものだし、おれたちのうちの何人かはたたきつけもしたんだ──軍曹がおれたちに素手の格闘を教えているときはだが。ズイム軍曹は、ほかの教育係がおれたちをしぼりあげ、おれたちがもうふらふらになって、もう結構と思いはじめると、そのあとを引き受け磨きをかけるんだ。おれは一度、スズミがやつをノックアウトしたのさえ見た。ブロンスキーがやつに水をかけて息を吹きかえさせると、ズイムは起きあがって微笑しながら握手し──それからスズミを宙天高く投げ飛ばしたのだった。
フランケル大尉はちょっと見まわして、おれをまねいた。
「おいきさま、連隊本部を呼びだせ」
おれは大急ぎでやり、スクリーンに士官の顔が浮かびあがると、同時にあとへさがった。
「連隊副官」
と、スクリーンの顔は言った。
フランケル大尉は、きびきびした口調で言った。
「第二大隊長より連隊長へ。戦時軍法会議の判士として、しかるべき士官を派遣ねがいます」
スクリーンの顔が言った。
「いつ派遣して欲しいのかね、イアン?」
「できるだけ早く」
「わかった。ジェイクが司令部にいるはずだ。違反条項と姓名は?」
フランケル大尉は、ヘンドリックの姓名と条文の番号を告げた。スクリーンの副官はヒューと口笛を鳴らし、顔をしかめた。
「すぐ行かせるよ、イアン。ジェイクがつかまらなかったらわたしが行く……親父《オールドマン》に報告したらすぐに」
フランケル大尉はズイムのほうへ向きなおった。
「この付添いの兵は……証人か?」
「はい、大尉どの」
「この兵の小隊長も見ていたのか?」
ズイム軍曹は、ちょっとためらってから答えた。
「そう思います、大尉どの」
「その男も呼べ。演習場にだれか防護服を着ている者がいるか?」
「はい、大尉どの」
ズイムが電話で演習場に連絡をとっているあいだに、大尉はヘンドリックに言った。
「おまえの弁護をしてくれる証人を呼びたいか?」
「えっ? 証人なんかいりませんよ! 軍曹が自分でやったことは知っているはずです! なんでもいいから、早く紙をください……自分はここから出ていきますから」
「手続がすんでからだ」
おれには、あっというほど早く思われた。五分もたたないうちにコマンド・スーツを着たジョーンズ伍長がマハマド伍長を抱いて飛んできた。かれはマハマドをそこへおろし飛んで帰っていったのと同時に、ジェイク・スピークスマ中尉が到着した。
中尉は言った。
「やあ、大尉。被告と証人はそろっていますか?」
「ああ、ぜんぶそろっている。はじめてくれ、ジェイク」
「録音の用意は?」
「よろしい」
「では……へンドリック、前へ」
ヘンドリックは面くらった顔をして前へ出た。まるで神経がばらばらになってしまいそうにみえた。スピークスマ中尉は明快に言った。
「アーサー・キューリー基地、第三教育連隊長F・X・マロイ少佐の命により、地球連邦軍軍法軍規に従い、訓練・軍律司令官により発せられたる総司令部命令第四号にもとづく戦時軍法会議をはじめる。原告……第三連隊第二大隊長イアン・フランケル機動歩兵大尉。判士……第三連隊第一大隊長、ジェイク・スピークスマ機動歩兵中尉。被告……最下級新兵七九六〇九二四号、シオドア・C・ヘンドリック。告発事項……第九〇八〇条違反。罪状……非常事態下に於ける地球連邦内での上官殴打」
裁判がてきぱきとすばやく進行してゆくのに、おれはすっかり感心してしまった。いつのまにか、おれまで〈廷吏〉に任命されて、証人を〈退出〉させたり〈召喚〉したりする役をやらされていた。ズイム軍曹がもし〈退出〉したがらなかったら、どうすればおれの力で〈退出〉させられるかと気をもんだが、ズイムはマハマド伍長と新兵たちをじろりと見ただけだったし、みんなは聞こえないところへ出ていった。ズイムはほかの証人とは隔離されて、ひとりきりで待っていた。マハマド伍長は腰をおろして煙草を巻いていたが──巻いた煙草を消さなければいけなかった。かれがはじめに呼ばれたからである。二十分とたたないうちに三人の証言は終わってしまった。どの証言もヘンドリックが話したのとほとんど同じようなものだった。ズイム軍曹はぜんぜん呼び出されなかった。
スピークスマ中尉がヘンドリックに言った。
「被告は証人に反対尋問する意志があるか? もしあれば、当法廷はそれを許可する」
「ありません」
「軍法会議で発言する場合は、不動の姿勢をとり、判士どのと言うように」
「ありません、判士どの」
ヘンドリックはつけ加えた。
「弁護士をつけてください」
「戦時軍法会議で弁護士をつけることは許可されていない。被告自身が弁護のために証言する意志はあるのか? これまでの証拠によれば、必ずしもその必要はない。しかしもし被告が証言する場合には、それが被告に不利な証拠となるかもしれず、再反対尋問の対象となることを警告しておく」
ヘンドリックは肩をすくめた。
「何も言うことはありません。言ったからって、なんの意味があるんです?」
「当軍法会議はもう一度たずねる。被告は自らを弁護するために証言する意志があるか?」
「ありません、判士どの」
「よろしい。では当軍法会議は、被告に裁判手続上の質問をする。被告が今回の違反行為を犯す前に、その条文がおまえに対して告示されたかどうか? イエスかノーか、あるいは黙っていることで意思を表示してもよろしいが、被告の答は、第九一六七条に規定された偽証に関する条文の対象となることを忘れないように」
被告は沈黙で答えた。
「よろしい。では当軍法会議はもう一度その条文をここで読みあげ、被告に再度質問をする。いいか……第九〇八〇条。軍隊にありては何人たりといえども、その上官を殴打し、もしくは暴力をもって襲い、また同上の行為を試みたる者は……」
「ああ、それならたぶん告示されたでしょうよ。毎日曜日の朝、いやというほど聞かされました……こうしちゃいかん、ああしちゃいかんという長ったらしいやつを……」
「それでは、この条文第九〇八〇条の条文は読んで聞かされたか、聞かされなかったのか?」
「ああ……はい、判士どの。聞きました」
「よろしい。それでは、被告は証言することを放棄してしまったが、特に情状酌量、もしくは減刑を求めるために、何か申し立てることはないか?」
「はあ?」
「軍法会議に対して、何か申し立てたいと思うことはないのか? 被告が、これまでにおこなわれた証言に何か影響を及ぼすかも知れないと考えるような事情はないのか? それとも、何か減刑の根拠となるようなことを? 例えば病気であるとか、あるいは薬物に影響されていたとかだ。今度の場合に限り宣誓はしないでよろしい。被告が有利になると思うことは何を言ってもよろしい。要するにこの軍法会議が知ろうとしていることは、被告が何か不当に扱われていると感じていることがあるかどうかだ。もしあるならば、言ってみよ」
「え? もちろん大ありです! 何から何まで不当です! 軍曹がはじめになぐったんだ! 証言を聞いたでしょう! 軍曹がさきになぐってきたんです!」
「ほかにないか?」
「え? ありませんとも、判士どの。それだけで充分じゃないですか?」
「よし。裁判を終了した。被告シオドア・C・ヘンドリック起立」
スピークスマ中尉は、裁判のあいだじゅう直立不動の姿勢をとりつづけていた。このとき、フランケル大尉も起立し、法廷には一瞬、冷たいものが流れた。
「ヘンドリック新兵。おまえは告発された罪状について、有罪と認められた」
おれは胃の腑のあたりがねじくりかえるようだった。やつらは、やるつもりなんだ──テッド・ヘンドリックを〈絞首刑《ダニィ・ディーバー》〉にするつもりなんだ。たった今朝がた、いっしょにならんで朝食を食ったテッドを。
おれの胃袋の痛みには関係なく中尉はつづけた。
「当軍法会議は刑を宣告する。被告を十回の鞭打ちと、非行による兵籍剥奪に処する」
ヘンドリックは、ぐっと息をのみこんで叫んだ。
「自分は志願を取り消したいのであります!」
「志願の取消しを認めることはできない。一言つけ加えておくが、被告の今回の罰は軽いのだ。というのは、当軍令法廷はこれより重い罪を科する権限を持っていないからだ。被告を告発した上官は戦時軍法会議と特に指定してきた──どうしてそうなったか、当法廷は詮索しないことにしよう。しかしもし被告が一般軍法会議にかけられていたら、これまでに明らかにされた証拠からして、軍法会議は絞首刑を宣告したであろう。おまえは非常に幸運だった……この取計いをしてくれた上官たちの温情に感謝しなくてはならん」
スピークスマ中尉はちょっと言葉を切ってから続けた。
「刑の執行は、軍法務当局がこの判決を審査し、妥当と認定しだい速かにとりおこなう。閉廷。被告を退出させ禁鋼せよ」
最後の言葉はおれをさして言われたのだが、実際には何をする必要もなかった。ヘンドリックが引っ立てられて退出するとき、おれはただ衛兵テントに電話し、かれが連れ去られるとき受領証をもらっただけだった。
午後の病気点呼のとき、フランケル大尉はおれを当番兵から解除して、医者のところに行かせ、医者はおれを普通勤務にもどした。おれは整列直前に隊へもどり、分列行進に加わった──そしてズイム軍曹から、軍服にしみがあるとこづきあげられた。軍曹だって片方の眼のまわりに大きなしみをつけていたのだが、おれはべつにそのことを言ったりはしなかった。
副官室のちょうどうしろにあたる営庭の一隅に、大きな柱が立てられた。命令伝達の時間がくると、毎日の内務班日程とか、ほかのこまごました命令にかわって、ヘンドリックの軍法会議の件が伝達された。
それからヘンドリックは、武装した兵隊ふたりにはさまれ、両手を前に組んで手錠をかけられ、柱のところまで行進させられていった。
おれはこれまでに、鞭打ちの現場をただの一度も見たことがなかった。娑《しゃ》婆《ば》での鞭打ちは、もちろん公衆の面前でおこなわれるのだ──それは連邦ビルの裏でもおこなわれたが、おれは親父に、絶対そこへ近寄ってはいけないと命令されていたのだ。でもおれはたった一度だけ親父の言いつけに背いて行ってみたが──執行は延期になり、おれは二度とふたたび見にいこうとはしなかった。こんなものを見るのは一度こっきりでも多すぎる。
衛兵たちがヘンドリックの両手を上げさせて、手錠を柱の高いところにある大きな鉤《かぎ》にひっかけた。そしてシャツをはがした──はじめから、すぐはぎとれるように着せてあったのだ。ヘンドリックは下にはなにも着ていなかった。副官は鋭く命令した。
「軍法会議の宣告どおり、刑を執行せよ」
ほかの大隊に所属している教育係伍長が鞭をひっさげて進み出た。衛兵軍曹が数をかぞえた。
ゆっくりした数のかぞえかただった。ひとつ鞭打つごとに五秒の間隔をおいたが、それよりもはるかに長く感じられた。テッドは三回目の鞭打ちのときまで音《ね》をあげなかったがやがて悲痛な泣き声をあげはじめた。
そのつぎおれが気がついたのは、ブロンスキー伍長を見あげていたことだった。伍長は平手でおれの顔を叩き、じっとおれをのぞきこんでいた。かれは叩くのをやめてたずねた。
「気がついたか? よっしゃ、列にもどれ。駆け足、分列行進がはじまるぞ」
おれは分列行進をしてから、中隊テントにもどった。その晩、おれは夕食もろくろく食えなかったが、ほかの連中もみな同じことだった。
おれが気絶したことを、だれもなんとも言わなかった。あとでわかったことだが、おれだけではなくて──ほかの二十人ほども気を失ったのだった。
[#改ページ]
[#ここから4字下げ]
あまりにもたやすく手に入るものを、われわれはともすれば軽く評価しがちなものである……〈自由〉ほど高貴なものを、もし高く評価しないことがあるとすれば、まさに奇怪も極まれりと言うべきであろう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──トーマス・ペイン
キャンプ・キューリーでおれが最低のスランプに達したのは、ヘンドリックがほうり出された日の夜だった。眠ることもできなかった──訓練期間中の機動歩兵部隊の新兵がそんなことになるというのは、よっぽどのことなのだが、これは新兵生活を経験した者でなければ想像できないだろう。その日は一日じゅう、なにひとつ訓練はしていなかったので、肉体的には疲れていなかったが、平常の勤務にもどれと命じられたとはいえ、肩はまだずきずき痛んでいた。それに、お袋からきた歎きの手紙の文句も頭にこびりついていたし、眼を閉じるたびに、あのビシッという鞭の鴫る音が聞こえてきたし、柱にだらんとぶらさがったテッド・ヘンドリックの姿が眼の前に浮かんでくるのだった。
おれは階級章を失ったことなどなんとも思っていなかった。どうせ除隊しようと思い、その決心がついていたから、もうどうなろうと問題じゃなかったのだ。そのときが真夜中でなく、ペンと紙が手許にあったら、おれはさっさと除隊願を出してしまうところだったのだ。
テッドは、ほんの一瞬にひどい間違いをしでかしてしまったが、それはまったくへまな失敗だったものだ。なぜなら、かれは軍隊を嫌悪してはいたが(だれも軍隊など好きなやつはいないだろうが)、なんとか頑張って任期を務めあげ、市民権を獲得しようと努力していたことは確かだった。かれは除隊したら政治家になるつもりで──市民権をとったら、大改革をしてみせるから、まあ見ていてくれ≠ニ、よく言ったものなんだ。
それにしてもヘンドリックはもう、公職につくことはできないのだ。たった一度の失敗のために、五本の指を失ったも同然で、かれの一生は終わってしまったのだ。
ヘンドリックにあんなことが起こったからには、同じことがおれに起こらないとは限らないのだ。もしおれがしくじったとしたらどうだ? それも、あくる日か、その次の週かも知れないんだ。おれは志望の取消しさえ認められず……背中を鞭打たれ、太鼓のとどろくなかをほうり出されていくことになるかも知れないのだ。
おれが間違っており、親父が正しかったのだと、いまこそ認め、あのたった一枚ですむ除隊願を書いて、家へこっそり帰り、心を入れかえてハーバード大学へ入り家業をつぐつもりだと親父に言うべきではなかろうか──まだ親父が許してくれるならばだが。明日の朝になったらすぐズイム軍曹のところへ行って、「結構です、もう堪能《たんのう》しました」と頭をさげるべきときではないだろうか──いずれにしても、明日の朝までは、どうすることもできないのだ。非常事態であると確信できることでなければ、ズイム軍曹を起こすことはできない──そう、絶対にだめなのだ! やつはまったく処置なしの男だ。
ズイム軍曹──
そうだ、ズイム軍曹には、テッドの裁判と同じように悩まされた。軍法会議が終わり、テッドが連れ去られると、ズイムはあとに残ってフランケル大尉に言ったのだ。
「大隊長どのにちょっとお話ししたいことがあるのですが」
「結構だとも。おれのほうからおまえに残ってもらって、聞きたいと思っていたぐらいだ。まあ坐ってくれ」
ズイムはおれのほうを見たし、大尉もおれをにらんだので出ていけと言われるまでもなく、おれは出ていった。外側の事務室にはふたりの民間人の事務員のほか、だれもいなかった。おれは、大尉がもしかすると呼ぶかも知れないので、あえて戸外までは出ず、書類棚のかげにあった椅子に腰をおろした。
おれが仕切壁に頭をもたせかけると、ふたりの話が聞こえてきた。大隊本部の建物は、テントに毛が生えたぐらいのもので、恒久的な通信機械と録音装置を入れるために建てられたものだが、なんといっても小屋同然であり、必要欠くを得ざる最低限の施設だった。それで、仕切壁にしても粗末な薄っぺらいものだったのだ。ふたりの事務員は録音レシーバーを耳にあててタイプにかがみこんでいたから聞こえなかったろうと思うが──それに、かれらには関係のないことだったのだ。おれは別に、盗み聞きするつもりはなかった。いや待てよ、やっぱりそうだったのかも知れない。
ズイム軍曹は言いだした。
「大尉どの、自分を戦闘部隊に転属させてください」
フランケル大尉は答えた。
「なにを言ってるんだ、チャーリー。そんなことを聞く耳は持っていないよ」
「真剣に申しあげているのです、大尉どの。この仕事は自分の任ではありません」
フランケルはちょっと怒ったように答えた。
「不平不満を言うのはやめろ、軍曹。少なくとも現在の任務を完了するまでは待て。いったい、どうしたというんだ?」
ズイムはこわばったような口調で言った。
「大尉どの。あいつは十ぐらいの鞭打ちでは追いつきません」
「もちろん、そうだとも。だれが手加減をしたか、わかっているだろう……おれにもわかっている」
「はい、大尉どの。わかっております」
「そうか? おまえは、現在の段階における新兵たちが、野獣のような状態だということを、おれよりもよく知っているはずだ。やつらに背を向けていても安全な場合と、そうでない場合のけじめも、ちゃんと心得ているはずだぞ。おまえは、第九〇八〇条の言っていることをはっきり心に刻みつけてあるのか……この条文を犯す隙など、絶対に兵隊どもに与えてはいかん。機会さえあればと狙っている兵隊もなきにしもあらずだからな……また、それぐらい攻撃的でなければ、ロクな機動歩兵にもなれんはずだ。やつらは基地では御しやすい。やつらが、食事をしていたり、眠っていたり、疲れて腰をおろしていたり、講義を聞いているあいだは、背中を向けていても安全だ。だがひとたび戦闘訓練か、これに類した演習に入った場合は、やつらはとてつもなく興奮し、アドレナリンをいっぱい出し、鉄帽いっぱいに入れたニトログリセリンみたいに爆発しやすくなる。おまえたち教育係は、それぐらいのことはわきまえているはずだ……そしておまえたちは、そういった徴候を監視し、そんなことが起こる以前に嗅ぎわけるように訓練されているはずだ。どうしてあんな青くさい新兵に黒あざなんか眼につけられたのか説明してほしいもんだ。あんなやつに手をかけさせては絶対にいけなかった。あいつがそうしかけたとき、すばやく察知してなぐりつけ、完全に気絶させてしまうべきだったのだ。なぜ気合いを入れていなかったのだ? おまえは、たるんでいるのじゃないのか?」
ズイムはゆっくりと答えた。
「よくわかりませんが……そうかも知れません」
「ふーん! それが本当だとすると、戦闘部隊への転属など思いもよらんことだぞ。だが、そうじゃないだろう。三ヵ月前におれといっしょにやったときは、そんなふうじゃなかったぞ。どうなってしまったのだ?」
「あの兵隊を、安全な連中のひとりと盲信していたのかも知れません」
「安全な兵隊などというものが、あってたまるものか」
「そうでした、大尉どの。しかし、あいつは熱心で、試練にたえてやり抜く覚悟でありました──これといって特殊な才能はありませんでしたが、やる気は充分で……自分も無意識のうちに、やりとおすのではないかと……」
ズイムはちょっと黙ってからつけ加えた。
「内心、あいつに好感を持っていたのではないかと思います」
フランケル大尉は面白くないことを聞いたというように言った。
「教官が新兵に好感を持つなど、もってのほかだ」
「わかっております、大尉どの。だが、好感を持っていたことは事実です。いいやつらです。いまになってわれわれは、すべてこの下らぬ男のために、汚点をつけられてしまったのです……のろまさ加減は別にしても、ヘンドリックの最大の欠点は、自分が何から何まで解答を知っていると考えていたことだったのです。自分は気にしませんでした。自分があの年ごろにはやはりそうでしたから。くだらん兵隊は帰郷し、残ったやつは全員熱心で、喜んでやろうとし、気合いのこもっている者ばかりです……コリーの仔犬みたいな可愛らしい新兵たちであります。あの連中のほとんどが、いい兵隊になると思います」
「なるほど、それがおまえの弱点なんだな。おまえはあの兵隊が好きだった……だから、さきに除いておくことができなかった。それで裁判沙汰となり、鞭で打たれ、あげくのはては、不名誉な兵籍剥奪となったわけだ」
ズイムは熱のこもった口調で答えた。
「代わってやれるものなら、自分が鞭打ちを受けてやりたいと思いました」
「おまえの番もそのうちまわってくるだろう。だが、さっきおれがどう思っていたか、わかっているのか? おまえが黒いあざをこしらえてここに入ってきたのを見たときから、おれがどれほど心配していたのか、わかっとるのか? おれは隊内処分でもみ消してやろうと最善をつくしたのに、あの馬鹿者はそうさせなかった。あいつはほんとの馬鹿だ。まさか自分の口から上官をなぐったなどと、ぬけぬけ放言するようなそんな間抜けだとは、夢にも考えておらなかった……おまえも、あんなことになる何週間か前に志願を取り消してやるべきだった……あいつが間違いを起こすまで、ちやほやしていたからいかんのだ。しかしいずれにしても、あいつがはっきりと証人のいる前で、おれにそう言ったからには、おれとしても公式に報告しないわけにはいかなかった……おれたちはなめられたのだ。こうなっては、犯罪事実を頬かぶりすることも、軍法会議を開かずにすませることもできはせん……もう、荒涼とした困難のまっただ中を突き進んでゆくより仕方なかった。嫌でも我慢しなければいかんのだ。そして、とどのつまりが、おれたちを死ぬまで憎みつづける民間人をまたひとり作りあげてしまった。あいつは鞭打ちの刑を受けなければいけなかった。たとえ非はおれたちのほうにあったにせよ、おれもおまえも、そうするほかなかったのだ。第九〇八〇条に抵触するやつがいたとなると、連隊としてはとことん見極めなければならん。おれたちの手落ちには違いないが……それにしても、馬鹿者めか!」
「なにもかも自分の責任であります、大尉どの。だからこそ転属させてくれと頼んでいるのです。それが大隊のためにもいちばんいいことであります」
「いいことだと……え? おれの大隊にいちばんいいと思うことは、おれがきめるんだ、軍曹。チャーリー、お前を教育係としてここへ引っぱったのはだれだと思う? そして、なぜだ? 十二年前のことを思いだしてみろ。おまえは伍長だったよ。覚えているのか? そのころ、おまえはどこにいた?」
「ここであります。大尉どのも御存知のとおりです。まさしくここ、神に見捨てられたこの荒野であります……ああ、こんなところへ二度と帰ってきたくはありませんでした!」
「だれだって同じだ。ところが、ここの仕事は軍のなかでももっとも重要であり、また気苦労の多い任務ときている……尻の青い、甘やかされた餓鬼どもを、一人前の兵隊に仕上げるんだからな。ところで、あのころおまえの隊で、いちばん甘やかされていた餓鬼はだれだった?」
ズイムは口ごもりながら、ゆっくりと言った。
「それは……大尉どのが、いちばん程度が悪かったとまでは申しませんが」
「ほんとうにかね! まあいい。しかしそうたずねられてもおまえはほかの名前を思いだすのに苦労するだろうが? おれはおまえを憎んだよ、ズイム伍長」
ズイムはちょっとおどろき、いささか心外だというように答えた。
「そうだったのですか、大尉どの? 自分は大尉どのを憎んではいませんでした……どちらかといえば好感を持っていました」
「そうだったか? まあいい憎しみ≠ニいうことも教育係には許されていないもうひとつの贅沢行為だということも言っておこう。おれたちは兵隊を憎んではならんし、好きになってもいかんのだ。おれたちは兵隊を仕込むだけだ。しかしそのころ、おまえがおれに好感を持っていたとすると……ふふん、そうか、それにしてもおまえの好意の現わしかたはちょっと風変わりだったな。いまでもおれに好感を持っているか? いや、これは答えんでよろしい。おまえがどう思っていようと、おれはなんとも思わんからな……というより、どちらにしても知りたくないんだ。気にするなよ。とにかく、あのころのおれときたら、おまえが憎くてたまらず、なんとかして伍長をこっぴどい目にあわせてやりたいと、あけてもくれてもそればかり考えていた。だがおまえはいつも張りきっていて、第九〇八〇条におれが違反して軍法会議にかけられるような機会は与えてくれなかった。もっともそのおかげでおれは今日《こんにち》こうしていられるわけだが……そのころおまえは新兵だったおれに、馬鹿のひとつ覚えみたいなきまり文句をひっきりなしに浴びせたものだ。おれは、おまえが言ったりしたりすることの何よりもまして、それがいまいましくてたまらなかった。覚えているか? その言葉をいま、おまえにたたきかえしてやる。いいか! 気合いを入れるんだ、兵隊! つべこべ言わずに気合いを入れろ!」
「はい、大尉どの」
「まだ行くなよ。今日の糞面白くもない大騒ぎは、決して無駄ではないのだ。いずれにせよ、おたがいにわかっていることだが、どこの新兵教育連隊も、第九〇八〇条の意味について苦《にが》い教訓を必要としているんだ。やつらはいまだに考えようとすることさえ覚えていないし、読む気もなく、一生懸命聞こうともせん……だがそれでも、やつらは眼で見ることはできる……ヘンドリックの不幸が将来、あいつの戦友のだれかを……絞首台で首をくくられて死んでしまうことから救うことになるかも知れん。しかし、おれの大隊から実地教育の見本が出たことは残念だし、そんな手合がまたおれの隊から出るのは御免だ。教育係の連中を集めてよく注意しておけ。二十四時間ぐらいは、新兵たちもショックでがっくりしているだろう。だがすぐにやつらはぶつぶつ言いだし、不平不満を持ちだすのだ。木曜か金曜にでもなったら、ヘンドリックが受けた刑は、酔っぱらい運転に対する罰の鞭打ちよりも数が少ないなどと思いはじめるやつが出てくるもんだ……そしてそいつは、罰を覚悟で、いちばん憎らしい教官を一発ぶんなぐってやろうという気をおこすかもわからんのだ。いいか軍曹……そのときこそ、絶対になぐられたりしてはいかん! わかったか?」
「わかりました、大尉どの」
「いいか、教育係の連中を、これまでより八倍も気をつけさせろ。兵隊との距離を充分にあけておくんだ。背中にも眼をつけておくようにな! 勢ぞろいした猫の前を横切る鼠のように、一瞬たりとも気を許してはならん! ブロンスキー、あいつには特に言っておけ。どうもあいつは、兵隊を甘やかす傾向がある」
「ブロンスキーに気合いを入れさせます、大尉どの」
「注意しているんだぞ。もしこんどなぐりかかるような兵隊がいたら、ぶっ倒さなければいかん……今日のようなヘマをするな。その兵隊を完全に気絶させてしまうのだ。教育係に一指たりとも触れさせてはいかん……さもなければ教育係に無能であった責任をとらせるぞ。みんなによく言っておくんだぞ。いいか、第九〇八〇条に違反することは、ただ高くつくばかりでなく不可能だということを、新兵たちにたたきこまなければいかんのだ……ちょっとその気配でも見せれば、即座になぐりつけられ、得るところはバケツの水をあびせられることと、はれあがった顎の痛みしかないんだとな……」
「わかりました、実行します。大尉どの」
「実行しなくてはいけないことだ。おれは、教育係が失敗をすれば、それを処罰するだけでなく、おれも個人的にその教育係を荒野へ連れだしてたたきのめしてやる……おれは二度と教育係の間抜けさ加減のために、部下をもうひとりあの鞭打ち柱にぶらさげるわけにはいかんからだ。これで終わりだ」
「はっ、|失礼いたします《グッド・アフタヌーン》。大尉どの」
「あれにも|いい《グッド》かな、チャーリー?」
「は、大尉どの?」
「今晩いそがしくなかったら、運動靴と防具を持って将校クラブヘ来ないか? 久しぶりにマチルダのワルツでもどうだ? 八時ごろがいい」
「はい、大尉どの」
「命令ではないぞ、これは。御招待申しあげるのだ。おまえが本当にたるんできているのなら、おまえの肩甲骨をたたき折れるかもしれんよ」
「ははあ、いくら賭けてみられますか、大尉どの?」
「え、こうやって回転椅子に坐っているおれを相手にか? おあいにくさまだ! おまえが片足をセメントのバケツにでもつっこんで戦うのを承知しない限りは、賭けたりはせんよ。まったくのところ、チャーリー、今日はひどい日だったが、こいつはよくなるどころか、もっとひどいことになってしまうぞ。だがふたりで汗をかき、おたがいにすこしこぶでもつくれば、あの甘やかされたやつのことも吹きとんで、ぐっすり眠れるというもんだ」
「きっと伺います、大尉どの。夕食をあまりお食べにならぬように願います……二重の手間がかかりますからな」
「夕食は食べん。この半期の報告書をすませてしまわなければいかんからな……連隊長どのが夕食後、眼をとおしたいと楽しみにしておられるのだ……それに、名前は言えんが、ある人のためにもう二時間ばかり遅れてしまってな。そんなわけで、おれたちのワルツには、四、五分おくれるかも知れん。もう行ってよろしい、チャーリー。邪魔しないでくれ。またあとで会おう」
ズイム軍曹があまりとつぜん出てきたので、おれはかがみこんで靴の紐をむすび、かれが外側の事務室を通っていくときに、書類棚のうしろにいるのを見つけられないでいるようにする暇もほとんどなかった。そして、もうその瞬間、フランケル大尉がどなっていた。
「当番! 当番! 当番! 三度も呼ばなければいかんのか? 名はなんという? きさまは完全装備で一時間の超過勤務だ。E、F、G各中隊長を見つけて、閲兵分列の前におれのところへこいとつたえろ。それから、おれのテントヘ走ってゆき、洗濯してある制服、帽子、拳銃、略綬リボン……勲章はいらん……ここへ持ってこい。それから、午後の病気点呼にいけ……おまえがその手でぼりぼりひっかいていたところを見ると、おまえの肩なんざ大したことじゃあるまい。病気点呼までまだ十三分ある……いそげ!」
おれはやってのけた……ふたりを上級教官シャワー室でつかまえ(当番兵はどこでも入りこめるのだ)、あとのひとりは事務室でつかまえた。おれたちが受ける命今に不可能なものはない。ただ不可能に近いもののように見えるだけなのだ。病気点呼のラッパが鳴ったとき、おれはフランケル大尉の閲兵分列用の軍服をならべていた。大尉は、おれのほうを見もしないでうなるように言った。
「よし。超過勤務は取りやめにする。帰ってよろしい」
そこでおれはテントにすっ飛んで帰り、あわやというところで間にあったが、超過勤務をやらされに帰ったようなものだった。「服装不良、二時間超過勤務」と。それが、機動歩兵部隊におけるテッド・ヘンドリックの処刑日の吐き気のする幕切れだった。
それやこれやで、その晩のおれは眠れなかったから、考えることが山ほどあったのだ。おれは、ズイム軍曹が忙しく働いていることはわかっていたが、その本人が自分のやっていることについて、完全に自己満足し、ひとりよがりをしていたわけではないということなどは、まったく思いもつかなかった。あの男はそれほど傍若無人《ぼうじゃくぶじん》で、思いあがり、自分とそのまわりの世界について満足しきっているように見えていたのだ。
天下無敵のロボットのようなズイム軍曹が、失敗したと感じ、よその土地へ逃げだして、知らない連中のなかへ身を隠したいというほど、人間なみの屈辱感にひしひしと打ちひしがれ、あまつさえ自分が出ていくことが「部隊のために最上のことだ」というようなことを言おうとは、テッドが鞭打たれるのを見たことよりも、おれにとってはショッキングなことだった。
またフランケル大尉が、ズイムの失敗の重大さを本人の前であからさまに認め、譴責し吊るしあげるにおいてやである。そう! まったくおどろいたことだった。軍曹連中は、しぼられはしない。軍曹というものは、しぼるほうなのだ。それが自然の法則なのだが。
ズイム軍曹がやられ、それを当然のこととして認めたことは、まったく不面目極まりなく、みじめな気分にされるものであって、あれにくらべると、おれがそのころまで軍曹にどなられたことなどは、ラブ・ソングみたいなものだった。しかも大尉は、声を荒らげもしなかったのだ。
この一件は途方もなく信じられないことだったので、おれはだれかほかの連中に話したいなどという気になど、まったくならなかった。
また、フランケル大尉自身にしてもそうだ──おれたちが士官を見かけることなど、ほとんどなかった。士官は夕方の閲兵分列のときにちょいと顔を出し、最後に敬礼を受けるだけで、汗みどろになっておれたちを働かせることなどは、なにもしなかった。かれらは週にいっぺんおれたちを点検して、下士官連中に個人的な意見をちょっと言っただけだ。その意見たるや、千年一日のように同じ意味合いのもので、だれかに対する遺憾の念なのである。そして士官連中は、どの中隊が連隊旗護衛の栄誉をになうかということを毎週決めるのだった。そのことは別にしても、士官連中はときどき、不意討ちの点呼最中にひょっこりと現われてくるのだ。ピンと折目のついたズボンをはき、こざっぱりとして、かすかにコロンの香りを漂わせて──そしてまた去っていくだけである。
ああそれから、長距離行軍のときには、ひとり以上の士官がいつでもついてくる。そんなときフランケル大尉が二度ばかりフランス式拳闘の妙技を見せたことがあった。しかし士官連中は働いたりはしない。本当の仕事はやったりしないのだ。下士官連中がかれらの上にではなくて下にいるから、かれらには心配事などなかったのだ。
ところが、フランケル大尉は夕食までぬかすほど忙しく仕事をしており、何かの仕事であまりいつも忙しいので運動不足になるほどであり、まだそのうえ、自分の自由時間までも汗をかくだけの目的でつぶそうとしているのだ。
それに心配事のほうだって、ヘンドリックに起こったことでは、大尉のほうがズイム軍曹よりも痛切に案じているようだった。それもついさっきまでは、ヘンドリックを見たこともないというのに。かれはその名前を聞かなくてはいけなかったぐらいなのだ。
おれ自身が住んでいる世界というものの本質を、完全に間違って理解していたのだと、おれはなにかもやもやとした割り切れない気分だった。まるで世界のあらゆる部分が、現実にそう見えている姿とはなにかしら全然かけはなれているような──ずっと昔から見慣れてきた実の母親が、これまで会ったこともないだれかであり、ゴムの仮面をかぶった異邦人であったことを発見したような。
しかし、ひとつだけはおれにも、はっきりしていた。それは機動歩兵というものが、実際には何なのかを見極めたいなどと、おれは思わないということだ。おれたちにとって神様のように見える下士官や士官にしてからが、それほどまで苦しみに満ちたものだとしたら、このジョニーにとってあまりにも苦しすぎることは当然だ! 何が何やら自分自身でもわからない環境の中で、どうやって間違いを未然に防ぐというのだ。
おれは首をくくられて殺されるのなど、まっぴらだ! 鞭打たれるような危険に近づくことだって御免こうむる──たとえ医者が万全の用意をして待機し、一生残るような傷害を与えないようにしてくれてもだ。おれの家系には鞭打ちを受けた者なんかいない。(もちろん、学校の教鞭は別だ。あんなものは鞭などといえるものではないのだ)おれの家系には、父方にも母方にも犯罪者はいなかった。犯罪の告発を受けた者だっていない、誇り高い家系なのだ。ただひとつ我が家に欠けているものといえば市民権だったが、親父はそれをくだらない無益なもので、本当の名誉などとは思っていなかった。しかし、おれがまかりまちがって鞭打ちの刑でも受けようものなら──きっと、おそらく親父は心臓の発作を起こすだろう。
ヘンドリックがまだ何もしでかさないうちは、おれだってそんなことを何度も何度も考えたことなどはなかった。なぜおれは考えなかったのだ? きっと臆病だったのだろう。教育係のやつらは、どいつもこいつもおれをしぼりあげたが、それでもおれは歯をくいしばり、じっとこらえて、あんなことをしようとはしなかった。腹ができていないんだ、ジョニー。少なくともテッド・ヘンドリックは腹ができていたということだ。おれにはなかった──そして、腹のすわっていない男なんて、最初から軍隊には用事がなかったのだ。
それに加えて、フランケル大尉はこの事件をヘンドリックの過失と考えようともしていなかった。おれが弱気だったために第九〇八〇条にひっかかりはしなかったものの、いつ第九〇八〇条とはまた別のやつにひっかかるかもしれないのだ。それもおれ自身の落度ではなくて──そして鞭打ちの柱に息もたえだえにぶらさがって。
逃げだすのは今だぞ、ジョニー。先はまだまだ長いのだ。
お袋からの手紙も、おれの決心を固めさせる以外のなにものでもなかった。親父とお袋がおれを避けつづけているかぎり、おれは両親に対して心を強く持っていることもできた──だが両親が気《き》弱《よわ》になったいま、おれはがまんできなくなったのだ。少なくともお袋は気弱になったのだ。その手紙はこうだった。
[#ここから2字下げ]
ママはこんなことを書きたくないのですが……お父さまは、まだあなたの名前を口にすることをお許しになりません。でもジョニー、それが泣きたくても泣けないお父さまの悲しい気持ちのあらわしかたなの。わかってくれるでしょう、わたしのかわいいジョニー。
お父さまは御自分の命より……ママよりも……あなたを愛しているのですよ……そのお父さまの心に、あなたは深い傷を負わせてしまったのです。お父さまはだれにでも言ってます。あなたはもうりっぱな一人前の大人で自分で分別のつく年頃なんだ、あなたを誇りにしているって……でもそれはお父さま自身の誇りが言わせることで、いちばん愛しているものに深く心を傷つけられてしまった誇り高いお父さまの苦しい言葉です。わかるでしょうね、ジョニー。お父さまがあなたのことを口に出さず、手紙を書きもしないのは、そうできないからです……まだだめ。悲しみが治まるまではだめでしょうね。でも、そのときがきたら……ママにはわかりますものね。ママがとりなしをして……またみんないっしょにくらしましょうね。
わたしのこと? どんなことをしたって、母親をほんとに怒らせる子供なんていやしませんよ。わたしを傷つけることはできても、そのためにジョニーを愛せなくなったりはできないことよ。あなたかどこにいようと、なにをしていようと、ママにとってはいつだって、膝小僧をすりむき、甘ったれて抱っこされにかけこんでくるかわいい坊やでしかないのですよ……ママの膝も頼りなくなってしまったけれど、というより、あなたのほうが大きくなりすぎたのね……ママはそう思ったことなんかないけれど……いつだってその気になったときは、あなたが抱っこされにくるのを待っているのですよ。坊やにとってママの膝がいらなくなることなど決してないでしょう……そうね。ジョニー、ママに抱っこされたいって書いてちょうだいね。
でも、ずいぶん長いあいだ手紙をくれないんだから、エレノア伯母さん気付でよこしてくれるほうがいいかもしれないわね。伯母さんがすぐまわしてくれることになっているの……こうすれば面倒がなくてすむでしょ。わかったわね?
わたしの坊やへ
千ものキスをこめて
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]ママより
おれにはよくわかった──親父が泣きたくとも泣けないとしても、おれにはできた。おれは寝床のなかで声を忍ばせて泣いた。
おれがやっとのことで眠りこんだと思ったら──とたんに非常呼集でたたき起こされた。おれたちはすぐ爆撃演習場に緊急集結し、全連隊は爆薬なしで模擬戦闘訓練をがっちりとさせられた。おれたちはイヤホーン・レシーバーを含む防護服なしの武装で、散開したとたんに例の凝固≠フ命令が出たのだ。
おれたちは少なくとも一時間は凝固≠続けた──息をひそめて、じっとしていたということなのだ。二十日鼠が抜き足さし足で通りすぎていったとしても、とてつもない音がしたことと思う。おれのそばを何かがさっと通り、おれの上を走りすぎていった。たぶんコヨーテだったのだろう。それでもおれは、ぴくりとも動かなかった。この凝固≠ノは、みんな寒さにちぢみあがってしまったが、おれはなんとも思わなかった。どうせこれが最後だと思っていたからだ。
おれは起床ラッパの音にも眼が覚めなかった。この何週間に初めてのことだが、おれは寝袋からたたきだされ、やっとのことで朝の体操にならぶことができた。まず第一段階としてズイム軍曹に会わなければいけないので、朝食前に除隊願を出すことはどうしてもできないことだった。ところがズイム軍曹は朝食にも姿を見せなかった。おれはブロンスキー伍長に、中隊長に会う許可を求めた。するとかれは、「いいとも、勝手にいけよ」と言うだけで、理由を聞こうともしなかった。
だが、いもしない男に会うことはできない。それに朝食がすむと、すぐ長距離行軍がはじまったが、それでも軍曹の姿は見つからなかった。休みなしに歩きつづける強行軍で、ヘリコプターから昼食を投下してもらったのは、まったく考えてもいなかった贅沢だった。だいたい、出発前に野戦食糧の給与がなかったときは──何か食糧をくすねて隠し持っているのは別として──常に飢餓訓練を意味していたからだ。そして、おれは何も持ってこなかったのだ。考え事が多すぎたのである。
食糧といっしょにおりてきたズイム軍曹は、手紙の束を持っていた──こっちのほうは予期しない贅沢ではなかった。このことは機動歩兵のために一言しておこう。機動歩兵は、食事であれ水であれ睡眠であれ、なんでもおかまいなく警告なしに削り取られてしまうが、個人宛の郵便物だけは事情の許すかぎり、一分といえどもとどめておかれたことはなかった。手紙はおれたちのものであり、利用できるかぎりの輸送手段を利用して届けられるので、作戦中であっても小休止があり次第、読むことができるのだ。だが、おれには大して重要なことなどなかった。というのは、カールからの二通の手紙は別にして、お袋が手紙をよこしてくれるまでは、おれにはがらくたの手紙さえこなかったからだ。
おれは手紙をわたしているズイム軍曹のそばへも寄っていかなかった。キャンプにもどるまでは言うべきでないとわかっていた──おれの一件が現実に司令部へとどけられるところへいくまでは、ズイム軍曹に眼をつけられる理由を作ってしまうことに何のプラスもないからだ。ところが軍曹はおれの名前を呼び、一通の手紙をさしあげた。おれは飛んでいって受けとった。
おれは二度びっくりした──手紙は、おれの高校時代の〈歴史と道徳哲学〉の教授デュボア先生からだったのだ。おれは、サンタ・クロースからの手紙を受けとったほうがおどろかなかったろう。
おれは何度も表の宛名と差出人の住所氏名を確かめ、まさしくおれに宛てて先生が書いたものであることを納得した。
[#ここから4字下げ]
親愛なるジョニー
わたしは、きみが軍隊に志願しただけではなく、かつてのわたし自身が選んだ兵科をも選択したことを知って、わたしの感じた喜びと誇りを伝えるため、もっと早く手紙を書くべきだったかもしれない。でもそれは、わたしがおどろいたことを伝えるためのものではない。おどろくのはきみのほうだろう……機動歩兵を選んだことはたぶん、きみの人間形成の上にプラスになったはずだ。これはそうたびたび起こることではないが、一介の教帥の努力がむだにならなかったことを示す、いわば任務の完了といったものだ。われわれはひとかたまりの天然金塊を得るために、大量の小石と砂を取り除かなければならない。だが、金塊はその仕事の報酬ではないのだ。
もっと早く手紙を書かなかった理由は、もうはっきりわかっていることと思う。多くの青年たちが、必ずしも非難すべき過失にもよらずに、新兵教育期間中に落伍していくものだ。わたしは、ある情報入手のルートを通して、きみが難関を克服するのを待っていた。その難関がどれほど大変なことなのかは、わかりすぎるほどわかっている! そしてさまざまな事故や病気をも乗り越えて、きみが訓練期間と任務を完了することをはっきり知りたいのだ。
きみはいま、軍隊生活を通して最大の難関にさしかかろうとしている。それは肉体的に最も困難なとの意味ではなく……きみはもう肉体的な困難などにはへこたれないだろうし、もう限界もわかったことだろう……精神的に最も困難なことと戦っているのだ。素質のある一市民を一人前の兵士に変貌させるためには、心を奥底からひっくりかえす再調整と再評価が必要なのだ。それともむしろこう言ったほうがいいかも知れない。きみは最大の難関をすでに越えたものの、行手には限りない試練と多くの障碍物《ハードル》が待ちかまえており、その障碍物はひとつごとに高くなり、それをきみは飛び越えなければいけないのだ。しかし問題となるのは、その〈難関《やま》〉なのだ……きみのことを知っておればこそ、難関をきみが乗り越えられたと確信できるまで、わたしは長いあいだ待ったのだ……そうでなければ、きみはもうとっくに家へ帰っていたことだろう。
その精神的な山頂にさしかかると、きみは何かを感じるはずだ。いままでにない新しい何かだ。たぶん、どう表現していいかわからないだろう。わたしも新兵のときにそうなった。だからきみもたぶん、この年とった戦友にその言葉を言わせることを許してくれると思う。支離滅裂な言葉でも、ときには救いになることだってあるのだからね。簡単なことなのだ──人間として耐え忍ばれる最も崇高な運命は、愛する祖国《ホーム》と戦争の荒廃とのあいだに、その身命を投げ出すことなのだ。
もちろんこれが、わたしの言葉でないことは、きみも知っていることと思う。だが、根本的な真理というものは変えることができないものであり、ひとたび洞察力のある偉人が口に出した真理は、たとえ世界がどう変わろうと、それを言い変える必要はまったくない。この金言は時と場所の如何を問わず、あらゆる人間と国家に対して不朽の真理なのだ。
きみの貴重な眠る時間のすこしをこの老人にさくことができたら、どうかそのときにはわたしにも便りをくれないか。それからもし、わたしの昔の戦友に出会うことがあったら、わたしからくれぐれもよろしくとつたえてほしい。
幸運を祈る、戦士よ!
わたしはきみを、心から誇りとする。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]機動歩兵中佐(退役)
[#地付き]ジャン・V・デュボア
最後のサインは、手紙の文句と同じくらいショックだった。あの老いぼれのうるさやが中佐だったって? なんとまあ、おれたちの連隊長だって少佐でしかないというのに。デュボア先生は、学校で昔の軍隊での階級をひけらかしたりは決してしなかった。おれたちは、よくいって先生は伍長どまりの下士官だろう、手を失って除隊し、あの課目を教えるようなやさしい仕事をあてがわれたのだと想像していた──だってあの課目は、試験に通らなくていいんだし、教えるなんてものではなく、ただ聞いているだけでいいのだから。もちろんおれたちは、先生が退役軍人だということは知っていた。〈歴史と道徳哲学〉、市民権を持っている市民でなければ教えられないことになっているからだ。だが、機動歩兵だったとは? 先生はそんなふうには見えなかった。がみがみ屋で、ちょっと人を小馬鹿にしているようで、ダンス教師のタイプだ──おれたちモンキー野郎の類《たぐい》ではない。
しかし、かれが自分で署名したのはそうだったのだ。
おれはキャンプヘの長い行軍のあいだずっと、そのおどろくべき手紙のことを考えつづけた。手紙には、かつてデュボア先生が教室で講義したようなところは、まったくないように思われた。いや、おれは先生が教室で言ったことと反対の内容だったといっているのではない。それはただ、まったく違う調子だったのだ。だいたい中佐が一新兵に「戦友」なんて呼びかけるものだろうか?
かれがただの「デュボア先生」だったころ、そしておれが先生の授業に出なければいけない子供のひとりだったとき、先生がおれに注目しているふうにはまったく見えなかった──たった一度だけ、おれには金がありすぎるがセンスがないとあてこすられたときは別としてだ。
(うちの親父は、おれたちの学校を買い占めて、それをおれのクリスマス・プレゼントにくれることができるくらいの金持ちだった──それが罪悪だろうか? これはまったくかれには関係のないことなのに)
そのときデュボア先生は〈価値〉についてマルキストの理論とオーソドックスな〈効用〉の理論との比較を講義していた。
「むろん、マルクスの価値定義は馬鹿げている。人間がそれに加えるいかなる労働にしろ、泥の団子を焼リンゴに変えることはできるもんじゃない。あくまでも、泥団子は泥団子として残る、価値はゼロだ。当然な結果だが、不手際な労働は容易に価植を減少してしまうものだ。下手なコックは、そのままでもすでに価値のあるうまそうな団子や新鮮なリンゴを、食えもしない代物に変えてしまう、価値はゼロとなるのだ。これを逆に、腕のいいコックは、同じ材料でも、ふつうのコックがふつうの味につくりあげる手間もかけずに、ありふれた焼リンゴよりはるかに価植のある菓子に変えることができるのだ。
このように料理を例にとってみても、マルクスの価値理論や、共産主義根本理念のまったくけばけばしいばかりのインチキさは、崩壊してしまうし、常識的な定義が、その効用の面からみても真実であることを指摘できるのであって……」
デュボア先生は切株のような腕をおれたちに向けた。
「それにもかかわらず……おい、起きんか、そのうしろの生徒! このもったいぶったいかさま師のカール・マルクスがものした仰々しいこじつけの、めちゃくちゃで気狂いじみ、非科学的で支離滅裂な、資本論の筋のとおらぬ色あせた神がかり的な言葉には、非常に重要な真理がちょっぴり含まれているのだ。もしもだ、マルクスに分析的な心があったなら、価値観念について、最初の完璧な定義を下せたかもしれないのだ……そして、この地球は無間地獄のような悲しみから救われたかもしれんのだ……もしくは、それと反対になったかもしれんが」
デュボア先生はつけ加えた。
「おい! きみ!」
おれは反射的に起立した。
「きみは聞きたくもない様子だが、それぐらいならみんなに言えるだろう。価値というものは、相対的なものか、それとも絶対的なものなのか?」
おれは聞いていたんだ。ただ、眼をつぶり背中をゆっくりくつろがせたまま聞いていてはいけないという理由はない、と思っていたのだ。だがこの質問はちんぶんかんぶんだった。予習をしていなかったので、おれはあてずっぽうに答えた。
「絶対的……なものです」
デュボア先生は冷淡に言った。
「まちがっているね。人間との関連性なしには、いかなる価値も無意味だ。物の価値は、常に特定の人間に関連し、完全に個人的なものであり、その人その人によって、その量が異なるものであり……市場価値なんてものは絵空事だ。それは、個人的な価値の平均値を大ざっぱに推量したものにすぎない。そのすべてが量的に違わなければならず、さもなければ、売買など不可能となる」
親父が〈市場価値〉は絵空事だなどというのを聞いたら、なんて言うだろうと、おれは思った──たぶん、軽蔑して鼻を鳴らすことだろう。
「この非常に個人的な関連性を持つ価値は、人間に対して二つの要素を持っている。まず第一には、それによって人間は何ができるかということ、その効用であり……二番目は、これを得るために人間が何をしなくてはいけないか、その代価である。昔の歌に、はっきりこう言っているのがある……この世で無料《ただ》よりいいものはない……だがこいつは、嘘だ! まったくのでたらめだ! この悲劇的な盲信こそ、二十世紀民主主義の堕落と崩壊をもたらしたものなのだ。この崇高な実験が失敗したのは、そのころの人間が、お好みのものはなんでもただ投票さえすれば手に入るものと信じさせられていたからだ……苦労もせず、汗を流しもしないで、涙もなしに、手に入るものとな。
まず、価値あるものが無料であることはないのだ。呼吸でさえも、たいへんな努力と苦痛をともなう出産を経なければ手に入れられないのだ」
デュボア先生はまだおれを見つめながら続けた。
「もしきみたちが玩具を手に入れるのに、生まれたばかりの赤ん坊が生きてゆくために精いっぱい手足を動かすように、自ら努力して得なければいけないとしたら、きみたちは、はるかに幸せに……もっと豊かになれるだろう。その点、きみのような金持ちが持つ貧困さは気の毒に思う。きみ! わたしがいまきみに、百メートル競走の一等賞のメダルをあげたとする。きみはうれしいか?」
「はい、そうだろうと思います」
「はっきりしたまえ。きみはメダルを獲得するんだぞ……よし、カードに書いてやろう、百メートル競走優勝メダル、と……」
デュボア先生はおれの席へやってきて、本当にカードをおれの胸にピンでとめた。
「さあどうだ! うれしいだろう? 値打ちもんだ……そうだろ?」
おれはむくれた。はじめは金持ちの子供≠ニ汚いからかいかたをされ──貧乏人のきまり文句の皮肉だ──こんどは道化にされたのだ。おれはそのカードをむしり取って投げかえした。
デュボア先生はおどろいたような顔をした。
「メダルをもらって、うれしくないのか?」
「ぼくが四着だったことは、よく御存知でしょう?」
「そのとおりだ! 一着のメダルは、きみにとっちゃあなんの価値もない……それは、きみが本当に走ってかちとったものでないからだ。だが、四等は四等なりに、きみはそれなりの満足をおぼえたはずだ。自分でかちとったんだからな。わたしはこのクラスの夢遊病者たちのうち何人かは、きっとこの他愛ない教訓劇をわかってくれたことと信じる。わたしは、浮世でいちばんいいものは、金を積んでも買えやせぬ、という歌を思いだす。この歌そのものはくだらないが、その意味するところは真実だ。人生で最善のものは、金銭を越えたところにあるんだ。その代価は、苦しみと汗と献身だ……なかんずく、人生におけるすべてのもののうちで最も貴重なものは、その代価として、人生それ自身、生命を求めるのだ……完全な価値に対する最高の価格なのだ」
おれはキャンプヘむかう行軍のあいだ、ずっとデュボア先生──デュボア中佐の言ったこと、そして先生からきた意外な手紙のことを何度も考えなおした。それからおれは考えるのをやめた。軍楽隊がおれたちのそばへやってきたからだ。おれたちはしばらくフランスものの軍歌を歌いつづけた──「マルセイエーズ」は言うにおよばず、「マデロン」「苦闘と冒険の子ら」「外人部隊」「アマンティエールから来たマドモアゼル」などだった。
楽隊の演奏を聞くのはいいものだ。荒原で顎を出し足を引きずっているときでも、こいつを聞くと奮いたってくる。はじめおれたちの連隊には罐詰音楽しかなくて、それも閲兵分列か点呼のときだった。やがて適性検査によってメンバーが選抜され、楽器がわたされて、軍楽隊が編成された──指揮者も大太鼓もおれたちと同じ新兵だった。
でもそれは、何かをサボれるということではない。まったくちがう! かれらの自由時間にやることを許され奨励されただけなのだ。タ方とか日曜に練習したんだ──その上、気どって歩かなければいけなかったし、ときには後向きで行進を続け、分列行進では自分の分隊にかえって整列するかわりに引立役をやらなければいけなかった。おれたちがやった多くのことは、そんなふうにしたのだ。例えば、おれたちの従軍牧師も同じ新兵だった。そいつはおれたちのほとんどより年をくっており、聞いたこともないような、どこかの怪しげな小宗派から牧師に任命されていたのだった。おれにはそいつの神学が本物かどうかは知るよしもなかったが、とにかくそいつは、説教することになみなみならぬ情熱を持っていた。それに、この牧師がおれたちの悩みをわかってくれる位置にあったことは確かだ。そして、讃美歌を歌うことは楽しかった。というのは、日曜日といったところで、朝の兵営掃除から昼食までのあいだには、どこへも行くところがなかったからだ。
軍楽隊員も次々と減っていったが、どうにかやりくりして演奏がつづけられていった。また、キャンプには四組のバグパイプとスコットランド風の制服がいくつかあった。これはカメロン派長老会のロシェル氏の寄贈によるもので、その息子さんがこの荒原で訓練中に死んだのだそうだ──そのうち、おれたち新兵のうちのひとりが、以前|笛吹き《パイパー》だったことがわかった。その新兵は、スコットランドのボーイスカウトで習ったそうだ。まもなく、四人の笛吹きができた。うまいとは言えなかったが、音は大きかった。はじめてバグパイプってやつを聞くと、ひどく変に感じられるし、歯が浮きあがってしまいそうになる──そして、吹いているやつの格好とくると、まるで腕に猫を抱き、その尻っ尾を口でくわえ喘みつづけているようだ。
だがこいつはしだいに好きになってくるものだ。はじめておれたちの笛吹き連中が楽隊の正面におどり出て、「アラメインの死者」の曲をひゅうひゅう金切声で吹き鳴らしはじめたときには、おれの頭の毛は一本残らずピンと逆立ってしまい、帽子を持ちあげてしまうほどだった。こいつはおれたちの心にくいいり──涙を流させるのだ。
もちろん長距離行軍のときに、軍楽隊を別にすることはできなかった。そんな特別な許可は与えられていなかったのだ。軍楽隊員だってみんなと同じ完全武装をしなければいけなかったから、チューバだのバスドラムなどはテントに残してこなければいけなかった。だから自分たちの荷物に加えられるだけの小型楽器が携行できるだけだった。そのために機動歩兵部隊には、どこにも見られないような楽器があった。例えば、ハーモニカぐらいの大きさしかなくて、それでいて大きなホルンにあきれるほどそっくりな音を出せる電子音響楽器などだ。そして、地平の彼方にむかって行軍中、楽隊集合の号令がかかると、楽隊員は行進をつづけながら装具をはずし、同じ分隊の戦友にわけて持ってもらい、それから駆け足で軍旗中隊の先頭について演奏をはじめるのだった。
これは何よりの救いだった。
楽隊はやがて列の後尾のほうへ位置を移動してゆき、ほとんど聞こえなくなり、おれたちは歌うのをやめた。つまり、あまり楽隊が遠くへ去ってしまうと、おれたちの声でその拍子が聞こえなくなってしまうからだ。
おれはとつぜん、爽快《そうかい》な気分になっていることに気づいた。
なぜだろう、この爽快な気分はと、おれは考えてみた。あと二時間もたてば、おれが志願取消しを願い出ることができるからか?
いや、ちがう。確かにおれが除隊しようと決心したときは、事実ある程度の安らぎを与えてくれ、おれのいらだたしい気持ちをおさえて眠らせてくれた。しかし、これはちがったものだった──説明はつかないが、はっきりとちがうとわかっていた。
それからおれは、愕然として覚った。おれは難関を乗り越えたのだ!
おれは、デュボア中佐が手紙に書いてよこした〈難関《やま》〉を越えたのだ。おれはたしかにそれを乗り越え、楽にとっとと降りてゆきはじめたんだ。おれたちが歩いている荒原はホットケーキのように平坦だったが、実のところ今までのおれはずっと苦しみながら上り坂を登ってきていたのだ。そして、いつどこでか──たぶんおれたちみんなが軍歌を歌っていたあいだと思う──おれはその難関を越えて、下り坂にさしかかったのだ。おれの装具は急に軽くなり、もはやなにも思いわずらうことはなかった。
やがてキャンプにもどったとき、おれはもうズイム軍曹に話しかけなかった。もうその必要はなくなっていたのだ。ところが、解散すると、おれのほうから話しかけるかわりに、ズイムのほうがおれを呼んだのだ。
「はい、軍曹どの?」
「これは個人的な質問だから……もしその気にならなければ答えなくてもよろしい」
軍曹は言葉を切った。さては昨日、大尉に油を絞られるところを盗み聞きしていたのを勘づかれたかと、おれはふるえあがった。
ズイムは続けて言った。
「今日の郵便受領で、おまえ、手紙を受け取ったな? おれは何気なくちらっと見てしまったんだ……差出人の名前をな。ある土地ではありふれた名前だろうが……いいか、個人的な質問だから、答えたくなければ仕方ないが……ひょっとすると、あの手紙を書いたかたは、左手のない人じゃないか?」
おれは、ぽかんと口をあけた。
「どうして知ってるんですか、軍曹どの?」
「おれはその手紙の主が負傷されたとき、その場にいたんだ。やっぱりデュボア中佐どのだな? そうか?」
「そうです。自分が高校時代、〈歴史と道徳哲学〉を教えてもらった先生です」
ほんのちょっとでも、おれがズイム軍曹に印象をきざみつけたことは、あとにもさきにもこのときだけだったろうと思う。ズイムは八分の一インチほど眉をあげ、眼をわずかにひらいた。
「そうだったのか? いい先生に教わって、おまえはまったく幸せなやつだ」
それから軍曹はつけ加えた。
「返事を出すとき……もしさしさわりなければ……ズイム軍曹からよろしくとつけ加えてくれないか」
「はい、軍曹どの。あ……デュボア先生からも軍曹どのに伝言が……」
「なんだと?」
「いや、はっきりそうだとは言いきれませんが……」
おれは手紙を取り出して、その部分だけを読みあげた。
「……もし、わたしの昔の戦友に出会うことがあったら、わたしからくれぐれもよろしくとつたえてほしい……これは、軍曹どののことではないでしょうか?」
ズイムの視線は、おれをつきぬけて、どこか遠くを見つめているようだった。
「え? うん、そうだ。とりわけておれのことを……まことにありがとう」
かれはとつぜんシャンとして、きびきびした口調にもどった。
「閲兵分列まであと九分。シャワーと着がえをサボるなよ。いそげ、新兵!」
[#改ページ]
[#ここから4字下げ]
わかい新兵は馬鹿なもの
首をくくろか口《くち》んなか射とか
つらけりゃすぐに死にたがる
度胸も糞もおきわすれ
うろうろあたりをはいまわり
誇りなんざあどこへやら
ところが日がたち月がすぎ
こわい古兵さんにどやされて
ちったあましになるのやら
やがてある朝眼がさめる
びっくりしゃっくりおどろいた
しゃっきりこんと気がついた
いつのまにやらえらいもの
眼のまえ明るく晴れわたり
もたもたするなあいやなこと
そうさおいらは兵隊よ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──ラドヤード・キプリング
もうこれ以上、新兵教育のことを話すつもりはない。要するにそれは、根《こん》かぎり動きまわり学ぶことだけだ。おれは追いまくられてきた──それだけなのだ。
だが、強化防護服《パワード・スーツ》のことはすこしつけ加えておきたい。ひとつには、おれ自身こいつにはいささか魅せられ夢中になってしまったし、またひとつには、こいつのために厄介な目にあわされてしまったことがあるからだ。といっても、不平を言っているのではない──おれがそんな目にあったのは、あたりまえなのだ。
機動歩兵部隊の兵士が強化服といっしょに生きていくのは、K9部隊の連中が、ネオドッグを相棒として生きてゆくのと同じようなものだ。おれたちが、われわれ自身を、ただの〈歩兵〉とは呼ばずに〈機動歩兵〉と称している理由の半分は、この強化服のせいなのだ。あとの半分というと、おれたちを乗せてゆく宇宙船と、降下のときに身を託すカプセルだ。強化服はおれたちに、よりよく見える視力、よりよく聞こえる聴力、より丈夫な背中(より強力な重火器と弾薬を運搬できるようにするため)、より強い脚力、よりましな知力(軍隊における知力とは、強化服を着ている男は、ほかのだれよりも馬鹿であってかまわないが、そうならないはうがいいという意味だ)、より多い耐久力、よりましな防御力、などを与えてくれるのである。
強化服は宇宙服とはちがう──とはいえ、それと同じように使えもする。また、もともとは鎧ではない──しかし、円卓の騎士が着ていた鎧など、これにくらべると、まるで情けないものだ。強化服は戦車ではない──だが、まぬけな戦車隊があって機動歩兵に襲いかかってくるようなことがあれば、たったひとりの機動歩兵だけで戦車の一集団をひきうけ、独力で全滅させてしまうことだってできるのだ。強化服は船ではないが、少しぐらいなら飛ぶこともできる──その反面、宇宙船であろうが大気圏飛行機であろうが、強化服を着た兵隊がいる区域に対しては、局部的な集中爆撃を浴びせかける以外に、太刀打ちできない。まるで、たった一匹のノミを殺すのに家一軒まるごと焼き払ってしまうようなものだ! そしておれたちは、船にも飛行機にも潜水艦にも宇宙船にもできない多くのことを、やってのけられるのである。
各種の宇宙船やミサイルを使って、冷酷無惨に敵をみな殺しにする方法は何十通りとなくあるが、そのために破壊は拡大し、無差別爆撃を続けることによって敵国もしくは惑星は消滅してしまい、戦争は終わりを告げてしまう。おれたちのやりかたは、それとはまるっきりちがう。おれたちのやる戦争は、いわば相手の鼻に一撃を加えてなぐり倒すといった個人的なやりかただ。おれたちは、もっとも効果的な個所を選択し、もっとも効果的な時に、必要とする圧力を正確に加えるのだ──おれたちは、特定の地域に降下して敵をみな殺しにせよとか、そこにいる左ききで赤毛の男をぜんぶ捕虜にせよ、などという命令を受けたことなどは一度もない。だが、もし命令とあれば、おれたちにはできる。おれたちはやるのだ。
おれたちは、攻撃開始時間に特定の場所へ降下し、指定された作戦地域を占領し、そこに足を踏んまえ、敵を地下の穴から追い出し、ぎゅうぎゅうしめあげ、降伏か死かをおしつける。おれたちは血なまぐさい歩兵だ。アヒルのようにトコトコ歩く歩兵なのだ。敵のいるところならどこまでも歩きつづけ、自分自身で敵とわたりあう歩兵なのだ。おれたちはずっとそうやってきた。兵器のほうは変わったが、おれたち歩く商売のほうは、すこしも変わらなかった。少なくともサルゴン大王の歩兵たちがシュメール人に「降参だ!」と叫ばせた五千年の昔から何ひとつ変わってはいないのだ。
いつの日にかは、おれたちなしに戦争をするようになるかもしれない。どこかの額が馬鹿でかくて近眼の|狂った天才《マッド・ジューニアス》がその|人間とは思えないよう《サイバネティック》な心を駆使して新兵器を考えだす。その機械は穴をのこのこ降りていって敵をつまみだし、死か降伏かを強制する──それでいて、穴の底につかまえられているおれたちの同胞は殺されないというようなことになるのかもしれない。おれには、どうなるともわからない。おれは天才などではなくて、機動歩兵なんだ。とにかく、その機械が発明されておれたちがお払い箱になる日まで、おれの戦友たちは兵隊稼業をやめるわけにはいかんし、おれもまた、すこしはその助けとなれるだろうというものだ。
おそらくいつの日にかは、なにもかもうまく片がつき、「戦争のことなんかもう結構、もう考えなくていいのよ」なんて歌を歌うことになるんだろう。たぶんだ。たぶんその日にはヒョウだってその毛皮についている斑点をひっぺがして、ジャージー種の牛と同じ仕事をもらうようなことになるんだろう。だが、またくりかえすことだが、おれにはわからないことだ。知りたくもない。おれは宇宙同化政策の教授なんかじゃない。機動歩兵の一員なんだ。政府がきめれば、おれはどこへでも行く。そのあいだは、ぐうぐう眠っていられるってわけだ。
まだおれたちの代わりになる機械は作られていないが、連中はたしかにおれたちを楽にしてくれる素敵なものを、いろいろと考え出してくれたのだ。特に、この強化服がそうだ。
こいつがいったい、どんな格好をしているかは、ことあらためて述べることもないだろう。今までにもたびたび写真にとられてきた通りだから。こいつを着ると、外観は大きな鋼鉄製のゴリラで、ゴリラ・サイズの兵器で武装されている。
軍曹が口をひらけば必ずとびだしてくる例の「モンキー野郎!」は、ここらあたりからきたのかもしれない。とはいっても、シーザー麾下の下士官たちだって同じような言葉を聞いたはずだとは思うが。
さて、強化服はゴリラよりはるかに強い。もし強化服を着た機動歩兵のだれかがゴリラと抱きあいでもしようものならゴリラはぐしゃりとつぶされて死んでしまう。機動歩兵のほうは強化服とも、しわひとつよりやしない。
擬筋肉組織《スード・マスル》とでもいおうか、強化服の〈筋肉〉については周知の通りだが、この最大の長所は、その動力《パワー》ぜんぶの制御装置だ。このアイデアの真に天才的なところは、おれたちが強化服を制御する必要などまったくないということだ。こいつは、おれたちの服のようにただ着ればいいので皮膚みたいなものなんだ。例えば船などはどんな型であれ操縦法をおぼえなければ乗りこなせないし、これには相当な時日を必要とする。まったく新しい反射動作、異なった技術的な考えかたを必要とする。自転車だって、歩くのとは大いに異なった技術を身につけることが要求される。まして宇宙船ともなれば──助けてえ! おれはそうまで長くは生きちゃあいない。宇宙船というのは、数学者でもあるアクロバット選手用のものだ。
ところが強化服となると、ただ着るだけでいいのだ。
完全装備にすると全重量はほぼ二千ポンドになるが、はじめて身につけたその瞬間から、とっとと歩きまわり、走り、飛び、かがみこみ、落ちている卵すら割らずに拾いあげ(もっともこれにはちょっと練習がいるが、どんなことだって練習すればうまくなるもんだ)、ジルバを踊り(そりゃあ強化服を着ていないときにジルバを踊れるならばだが)──隣りの家を飛びこえて羽根のようにふんわりと着陸することだってできる。
その秘密は逆フィードバックと増幅にある。
強化服の回路を説明しろなんていわれても、おれにはできない。どこの優秀なコンサート・ヴァイオリニストだってヴァイオリンそのものを作ることはできないのと同じだ。おれだって、野戦での手入れや応急修理、三百四十七個所を点検して〈風邪ひき〉程度の故障からなんとか着られるようにすることはできる。それぐらいのことは、どんなにまぬけな機動歩兵でもやってのけられることだ。だが、強化服が本当にいけなくなったら医者を呼ぶ──科学(つまり電子機械工学)の医者だ。この医者は海軍士官で、ふつう中尉であり(おれたちの階級でいえば大尉だが)宇宙輸送船の掌砲士官をつとめている──かれは心ならずもキャンプ・キューリーの連隊本部付与として任命されていたのでらる。海軍さんとしては、戦死するよりも運が悪いというわけだ。
しかし、この強化服についての印刷物、立体写真、あるいはその機能についての図式的解説に本当に興味があるというなら、どこでもいいからかなり大きな公立図書館へ行けば、機密に属さない部分のほとんどは見ることができる。機密になっているほんの少しの部分が見たいというなら、信用のおける敵がたのスパイにでも聞くほかないだろう──信用のおけるというのは、スパイというものはまったく油断のできない代物だからだ。まず、図書館から無料で入手できる資料を売りつけられるというのが、まあ落ちだろう。
さて、図式的なことは省いて、強化服の働きを説明しよう。強化服の内部には何百もの圧力伝達装置《プレッシャー・リセプター》がある。腕なら腕の運動でそれが押されると、伝達装置がその圧力を増幅し、強化服を着ている本人と同じ運動をおこすように強化服に命令する。非常に複雑なことに聞こえるが、逆フィードバックというものをはじめて聞いたときは、だれでも面くらうものなのだ。要するにおれたちが、ただじたばたもがく以外なにもできない赤ん坊でなくなってから、ずっとやっていることなのだ。赤ん坊連中はいまもそれをおぼえつつあるところだ。それが赤ん坊の動きが不器用な理由なのだ。
青年と成人は、そんなことを勉強したなどとは気づきもせずに操作できる──パーキンソン病にかかっていた男は強化服の回路をこわしてしまった。
強化服のフィードバックは、その服を着ている者の動きをどんなことでも正確に伝えるが、その力はおそろしいほど強くなるのだ。
制御された力──なにも考えなくても、力は制御されるのだ。きみが飛べば、重い強化服も軽々と飛ぶ。それも普通の人間が飛ぶよりはるかに高く飛ぶ。力いっぱい跳躍すると、強化服のジェットが噴射する。服の脚にある〈筋肉〉の力を増幅する三基のジェットが働き、その圧力の軸はちょうどきみのマッスの中心を通ることになる。そこできみは、隣りの家の屋根をかるく飛びこえ、飛びあがったのと同じスピードで降下着陸する──強化服は、着地接近開閉装置(近接信管に似た簡単なレーダーの一種)を使って、なにも考えなくても着地の衝撃を柔らげるだけのジェットを正確に噴射するのだ。
強化服の素晴らしい点はここだ──考える必要がないというところだ。運転などの必要はまったくない。飛ばせることも操縦することも操作することも、まったく不要なのだ。ただ着さえすれば、きみの筋肉から直接に命令をキャッチして、筋肉がやろうとしていることをやってくれるのだ。強化服のことなど考えもせず、全精神を武器の操作と、きみの周囲で起こっていることに注意することだけに向けておけばいいのだ──このことは、ベッドの上で死にたいと思う歩兵にとって、最高に重大なことなのだ。もし気をつけていなければいけない道具をたくさん持たされていようものなら、もっと簡単な装備をしているだれかが──例えば、石斧を持っているやつが──こっそり忍びより、計器を見ようとでもしている兵隊の頭をたたきつぶしてしまうからだ。
強化服の〈眼〉も〈耳〉も、着ているものの注意力をそらさずに役だつよう作られている。たとえば、普通襲撃用の強化服には、三通りの聴覚回路《オーディオ・サーキット》ついている。作戦上の秘密を守るため、周波数管制は複雑を極めている。各回路にはいかなる信号に対しても二つ以上の周波数が必要であり、何千万分の一秒の誤差もなくあわせたセシウム時計で管制され、つぎつぎと異なる周波数に変調しつづけながら使われるのだ。といっても、こんなことはみな、なんの面倒でもない。分隊長を呼び出すA回路を使いたければ、歯を一回噛みしめる──B回路なら二回噛みしめる──と、そんな具合だ。マイクは咽喉《のど》にはりつけられており、ホーンは耳の穴につまっていて、ころげだすことなんかない。ただ普通に話せばいいのだ。そのうえ、ヘルメットの両側に外をむいてついているマイクを通じて、まわりの雑音も裸でいるときと同じように聞こえてくるし──うるさいと思ったら物音は消すことができるし、小隊長の命令を聞き洩らしたくなかったら、そのほうへちょっと頭を向ければそれですむのだ。
頭は、強化服の筋肉を動かす圧力伝達装置の機能が及ばない部分なので、頭をうごかし──顎の筋肉、顎の先端、首すしなど──両手を自由に戦えるようにしておいたまま、いろいろなもののスイッチを動かすことができる。顎の先はすべての視覚用器具を操作し、これと同じように顎のスイッチは通信用《オーディオ》のほうを切りかえる。頭上と背後で戦闘がどのようにおこなわれつつあるかは、すべて額の前にある鏡に投影される。こんなわけで、ヘルメットのまわりにはゴタゴタと装置がつけられているので、まるで脳水腫にかかったゴリラのように見えるが、有難いことに、敵兵のほうはおれたちの格好を見て腹を立てるほど長くは生きていられないのだ。まったく便利な仕掛けになっている。いくつものレーダー装置が知らせるさまざまな映像は、テレビのコマーシャルを避けるためにチャンネルを切りかえるよりもすばやく変えられるのだ──距離と位置を知り、上官の場所をつきとめ、両翼の戦友を認識するといったようなことだ。
もし馬が蝿をうるさがってするように頭を上にむければ、赤外線暗視鏡は額にあがってしまう──もう一度ふれば、暗視鏡はさがってくる。ロケット弾発射筒は、手をはなすだけで、いざ鎌倉というときまで格納されてしまう。そのほか飲料水の呑口、空気補給、ジャイロなどは言うまでもないことだ──すべてこれら装備の目的は同じだ。おれたちを商売、大殺戮だけに専念させてくれるということである。
むろん、これらは練習を必要とするし、正しい回路を選択する動作が、歯をみがいたり顔を洗ったりするのと同じぐらい自動的《オートマチック》になるまで、くりかえして練習させられるのだ。だが、単に強化服を着て動きまわるだけのことなら、ほとんど練習する必要はない。跳躍の練習をする理由は、完全に自然な動作のまま、より高く跳び、より速く、より遠く──かつ、より長時問空中にとどまっていられるようになるためだ。この最後のひとつをとってみても、新しい環境適応《オリエンテイション》が必要である。空中にいる何秒間かだって使える──この何秒間は、戦闇中にあっては値段もつけられぬほど貴重な宝石なのだ。ひとたび跳躍して大地を離れるや、距離と方角を見きわめ敵を捕捉し、無電で話し聞き、火器を発射し、装填し自動装置の働くままに着地せず、もう一度ジェットを吹かせて飛びつづけるかどうかを決める。これらのぜんぶが、練習すればいっぺんの跳躍のあいだにできるようになるのだ。
だが一般には、防護強化服は練習を必要としない。強化服自体が、おれたちがやろうとするのとすっかり同じに、それよりうまく、やってくれるのだ。だがたったひとつ欠点はある──かゆいところをかけないということだ。もし肩甲骨のあいだをかかせてくれる強化服がみつかったら、おれはそいつと結婚してもいい。
機動歩兵の強化服には、大別して三種類の型がある。攻撃、指揮、索敵の三つだ。索敵用はスピードが速く長距離を飛ぶが、武装は少ない。指揮用は動力が強く、スピードもあり、跳躍力も大きく、ふつうの強化服の優に三倍もの通信機器、レーダー類をつけており、慣性装置による位置探知器を備えている。攻撃用のは、眠そうな顔をしたおれたち兵隊──死刑執行人のものだ。
いろいろと言わせてもらったが、おれは最初のときに肩をくじいてしまったものの、強化服にぞっこん惚れこんでしまった。そのとき以後、おれの班が強化服をつけてやる訓練の日はいつも、うれしくて仕方なかった。さて、おれがそのまぬけなことをしでかした日というのは、おれが仮の分隊長として臨時に軍曹の記章をつけてもらい、模擬原爆ロケット弾を装備し、闇のなかという想定のもとに仮想敵と戦ったときだ。こいつが|へま《ヽヽ》のもとだった。なにからなにまで仮想だったことなのだ──それでいて、現実にそうなっているのと同じように行動しろと命令されていたことだ。
おれたちは撤退に移っていた──〈後方へ前進〉ということだ──教官のひとりが無線操作で強化服を着ているおれの部下のひとりの動力源を切り、動けなくなった負傷者に仕立てあげた。機動歩兵の操典により、おれは当然のこととしてその負傷者の救出を命じた。おれは、分隊長補佐が助けに飛びださないうちに何とか命令を下したことをちょっとばかり自《うぬ》惚《ぼ》れながら、次にしなければいけないことをやろうとした。つまり、おれたちに襲いかかってくる仮想模擬原爆ロケット弾をぶっぱなすことだ。
おれたちの翼《フランク》はまわりこみはじめていた。おれは、敵さんをやっつけられるほどの近さにぶちこむことが必要だが、それでいておれの部下を原子爆発にやられないだけの間隔をあけて斜めに発射しなければいけなかった。それももちろん、急いでだ。この荒野での行動と、それに伴う問題は、前もって講義討論されてあった。おれたちがまだ新米だったからだ──違っているのは、負傷者がでていることだけだった。
操典によれば、おれはレーダー・ビーコンで、原子爆発にやられそうな部下の位置を〈正確に〉つかまなければいけないことになっていた。このすべてを迅速にやらなければいけないのだが、おれはあの小さなレーダー画面を読みとるのはそううまくなかった。そこでおれは、ほんのちょっとばかりインチキをやったんだ──おれは赤外線暗視鏡をはねあげ、見わたした。肉眼ではなんのことはない白昼なのだ。まわりは広々とあいていた。だが、畜生! 爆発に影響をうける兵隊はたったひとり、半マイルさきにいやがった。そして、おれの持っている高性能火薬ロケット弾は、ただもくもくと煙をはくだけのちっぽけな代物なんだ。そこでおれは肉眼で狙いをつけ、ロケット発射筒の引金をひいた。
それからおれは何秒とは無駄にしなかったといい気になって、いそいで跳躍した。
とたんにおれは空中で強化服のエネルギーを切られてしまった。別にこれで怪我をするわけではない。遅発作動とでもいうか、着地してから完全に切れるようになっているのだ。おれは着地し、その場に擱《かく》坐《ざ》してしまい、しゃがみこみ、ジャイロでまっすぐになってはいるものの、びくりとも動けないのだ。動力源を切られて擱坐した一トンの金属にとじこめられては、動くなといわれるまでもない。
おれは自分自身に悪態をついた──馬鹿なことをしようものなら、自分も負傷者にさせられてしまうのだということをおれは考えてもみなかったのだ。なんということだ!
おれは、ズイム軍曹が当然、モニター装置で分隊長を監視していることを知っておくべきだったのだ。
ズイムはすぐおれのそばへ飛んでくるなり、面とむかってぼろくそにののしった。おれなんか、間抜けすぎて不器用で汚れた皿も洗えないほど不注意だから、床掃除でもしているほうがいいのだなどと毒づいた。それから、過去現在未来と耳をふさぎたくなるほどいろいろ並べたてた。ズイムは最後の締めくくりを抑揚のまったくない口調でこう言った。
「デュボア中佐がこのていたらくを見られたら、なんと思われるだろう?」
ズイムはおれを置きっぱなしにしてそのまま行ってしまった。おれは演習が終わるまでの二時間、かがみこんだままで待っていた。ついさきほどまでは、鳥の羽根のようにかろやかで、お伽話に出てくるひと飛び二十マイルの長靴が現実のものとなったようだったスーツが、いま〈鉄の処女〉のように感じられるのだった。やっとズイム軍曹はもどってきて、スーツにエネルギーを通し、最高速度で大隊本部へおれを連行した。
フランケル大尉の言葉は、口数こそ少なかったものの、よりいっそう骨身にこたえた。
それから大尉はひと区切りつけ、軍刑法の条文を引用するとき士官たちが使う単調な声でたずねた。
「軍法会議にかけられることを望むか。どうだ?」
おれはゴクリと唾を飲みこんで答えた。
「いいえ、大隊長どの!」
その瞬間までおれは、自分がそれほどまで面倒なことにまきこまれていようとは、まったく気づいていなかったのだ。フランケル大尉は、わずかにほっとしたようだった。
「よし、それでは、連隊長どのの御意向をうかがってみることにしよう。軍曹、犯人を護送しろ」
おれたちはいそいで連隊本部へ行き、おれははじめて連隊長と顔を合わせた──そのころになると、おれは何がどうなろうと軍法会議まちがいなしと信じこむようになっていた。テッド・ヘンドリックが声をからして抗議していたことをはっきりと思い浮かべた。おれは何も言わなかった。
マロイ少佐がおれに言ったのは、二言《ふたこと》か三《み》言《こと》だけだった。ズイム軍曹の報告を聞いたあとで連隊長は三人に言った。
「まちがいないな?」
おれは答えた。
「まちがいありません、連隊長どの」
おれの言うことはそれでおしまい。
連隊長はフランケル大尉にたずねた。
「この兵が、ましになる見込みは?」
フランケル大尉は答えた。
「あると信じます、連隊長どの」
フロイ少佐は言った。
「では連隊内処分ですませることにしよう」
それからおれのほうに向いた。
「鞭打ち五回」
とにかく、連中はおれを絞首台にぶらさげはしなかった。十五分後におれはもう、軍医に心臓の検査を受け、衛兵司令の手で例の特別のシャツ──背中がジッパーでひらくので両手をぬかなくてもいいやつを着せられた。そのときちょうど連隊集合のラッパが鳴りだした。何か遠くはなれた現実でない出来事のようだった……これは、心の底から恐ろしくなったときのひとつの感じかたなのだ。悪夢のなかで幻を見ているような……
ラッパが鳴り終わったとき、ズイム軍曹が衛兵所のテントにはいってきた。そして衛兵司令ジョーンズ伍長をちらりと見た。すると伍長は外へ出ていった。ズイムはおれのそばに近づき、おれの手に何かすべりこませて、低くささやいた。
「こいつを噛みしめていろ……かなり効果がある。おれには覚えがあるんだ」
それは白兵戦の訓練のとき、歯を折らないために使うゴムのマウスピースだった。おれはそれを口におしこんだ。それから連中は、おれに手錠をかけ、歩調をとって連れ出していった。
命令が読みあげられた。
「模擬戦闘中、もし実戦なりせば必ずや戦友の死を招きたる重大な怠慢行為により……」
それからおれはシャツを引き裂かれ、手錠を柱の鉤にひっかけて吊り下げられた。
さてここで、ひとつ奇妙なことがある。それは、鞭打ちというものが、はたで見るほど本人にとって辛くないということだ。もちろん、ピクニックみたいなもんだと言っているわけではない。痛さときたら、生まれてこのかた経験したことのないほどひどかった。しかし、鞭で打たれること自体よりも、つぎの鞭打ちを待っているあいだのほうが、いっそう耐えられないのだ。でも、マウスピースのおかげで、たった一度あげかけた悲鳴も、口からは出さずにすんだ。
もうひとつ奇妙なことがある。刑が終わってからも、だれひとりとしておれにそのことを言ったり、あざけったりしなかったことだ。新兵仲間でさえだ。おれの見るかぎり、ズイム軍曹もほかの教育係も、おれに対する態度は以前とすこしも変わらなかった。軍医が傷の手当をしてからおれに勤務にもどれと命令したその瞬間から、罰は完全に終わってしまったのだ。その晩の食事にしたって、少しは咽喉《のど》を通ったし、おれは虚勢を張って雑談の仲間に進んで加わりまでしたのだ。
隊内処分の特色がもうひとつある。それは、経歴に永久的な汚点を残さないということだ。新兵教育期間が終わると同時に、この記録は抹消され、白紙に還って再出発できるのだ。その効果はただひとつしかない。
本人が、その鞭打ちのことを決して忘れないということだ。
[#改ページ]
[#ここから4字下げ]
子を道の初めに教えよ
さらばその老いたるときも
これを離れじ
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──旧約聖書・箴言第二十二章六節
ほかにも鞭打ちを受けた者はいたが、極めて少数だった。おれたちの連隊で、軍法会議の結果、鞭打ちの刑に処せられたのは、ヘンドリックただひとりだった。ほかはみな、おれがやられたような隊内処分ですんだ。鞭打ちを決定するにはどうしても連隊長のところまでいかなければいけないのだ──そこで部下の指揮官が気まずい思いをしながら、おずおずと申し出る。その時ですらマロイ少佐は、鞭打ちの柱を組むよりは、その兵隊を〈好ましからざる人間として追放〉させてしまいそうだった。ある意味で、隊内処分の鞭打ちは、最も寛大なお世辞みたいなものだ。つまりそのときには、罰を受ける当人が駄目に見えても、いつかは一人前の兵隊となり市民権を持つ人間になれるだけの恨性があるかもしれないと、上官たちがかすかな望みをかけているということを意味しているのだ。
隊内処分で最高の刑を受けたのは、このおれひとりだった。ほかに三つ以上の鞭打ちを受けた兵隊はいない。おれのように、もうすこしのところで、民間人の服を着せられそうな破目になりながら、危ういところでまぬがれた者はひとりとしていなかった。これはある意味で社会的に目立ったことではあるが、推薦できることではない。
それから、別の事件がもちあがってしまった。これは、おれやテッド・ヘンドリックのものよりずっとひどいことだった──実際気が滅入ってしまうようなことだった。ただ一度だが、絞首台かつくられたのである。
だが、はっきり憶えておいて欲しい。実のところこの事件は、軍とはまったく何の関係もないことなのだ。この犯罪はキャンプ・キューリーで発生したものではなく、この犯人を機動歩兵に入れた人事係士官は、辞表を提出するべきだった。
この男は、おれたちがキャンプ・キューリーに到着してからたった二日後、逃亡してしまった──なぜこの男は志願取消願を出さなかったのだろう? もちろん、脱走は〈三十一の大罪〉のひとつではあるが、たとえば〈敵前における逃亡〉であるとか、この脱走というすこぶる非公式な除隊を黙過することができない何かをしでかしてしまったというような特別な状況ではないかぎり、軍当局はこれに死刑を求めることはないのだ。
軍は脱走兵を見つけだして連れもどそうと努力したりはしない。これがかえって最高にきびしい観念をつくりあげるのだ。おれたちはみな、志願兵なのである。おれたちは機動歩兵だ。おれたちはなりたくてなったのであり、機動歩兵であることを誇りに思い、機動歩兵部隊もおれたちを誇りにしている。もしそんなふうに感じない兵隊がいるとしたら、そんな兵隊なんか──足先のタコから毛の生えた耳にいたるまで──面倒なことがおこったとき、おれの両翼にはいてもらいたくない。おれがやられたときは、おれのまわりにいる戦友たちに助けてほしい。それは、そいつらが機動歩兵であり、おれが機動歩兵であり、おれの身体はかれら自身の身体と同じように大切なものと思う連中だからだ。激しい戦闘に出くわしたとき、尻尾をまいて逃げかえるような代用品の兵隊なんかまっぴらだ。徴兵され甘やかされて訓練され、兵隊でございといっているようなのが両翼に入ってくるよりも、欠員のままにしておいてくれたほうが、ずっと安全なのだ。だから、もしそんなやつらが逃亡するなら、逃亡したままにしておけばいいんだ。そいつらを連れもどすのに金や時間をかけるのは無駄というものだ。
もちろん、そういう連中の大半は、何年もかかるかもしれないが、いつかはもどってくる──その場合、軍は絞首刑などにはせず、うんざりしながらではあるが、そいつらに五十回の鞭打ちをくらわせて放り出すのだ。警察が見つけ出そうとしないでも、自分以外のすべての人が市民であるとか、合法的な居住者であるとかいう状態で、孤独な逃亡者になっているということは、人間の神経をくたくたにすりへらすにちがいないと、おれは思う。〈追跡する者がいない哀れな逃亡〉なのだ。そいつはやがて自分の愚かさを覚り、逆もどりしたい誘惑にかられ、ほっと気楽に息をつきたいという気持ちに耐えきれなくなってしまうのだ。
だがこの男は、自分でもどってはこなかった。こいつは四カ月も出ていったままだった。こいつのいた中隊の連中が、こいつのことを覚えているかどうか怪しいものだ。とにかく中隊にいたのは二日間にすぎなかったからだ。こいつはたぶん顔のない名前だけの男であり、来る日も来る日も点呼の時になると、無断不在者として「ディリンジャー行先不明」と報告されていたのだ。
そのあげく、こいつはいたいけな少女を殺害したのだ。
こいつは地方の裁判所で公判に付され刑を宣告されたものの、身許を調べた結果、まだ除隊していない兵隊であることがわかった。司法当局は軍に通告し、総司令官はただちに交渉に入った。軍の法律と裁判権は一般人の法律に優先する建前から、ディリンジャーは隊にかえされてきたのだ。
なぜ将軍はわざわざそんな面倒なことをしたのだろう? なぜ民間の保安官に任せて、その仕事をさせなかったのか?
われわれを教育するためなのか?
そんなことではない。いたいけな少女を殺さないようにするため、おれたち兵隊のひとりでも吐き気を催させる必要があるなどとおれたちの将軍が考えたりしなかったことは太鼓判をおしていい。いまにしておれは考えるのだが、将軍はその光景をおれたちと分かちあいたかったのだ──これは考えられることだ。
そのときには、これも口に出して言う者はいなかったが、おれたちはひとつの教訓を得たのだ。そしてそれは、第二の天性として心の奥底までしみこむには、長いあいだかかるものだった。
つまりそれは──たとえどんなことであろうと、自分のことは自分で片をつけるということだ。
ディリンジャーは機動歩兵に所属していた。そのときまでおれたちの名簿に載っていたのである。たとえおれたちのほうで、あんなやつが欲しくなくても、あんなやつを二度と受け入れたくなくても、あいつを前もって放り出すことができたら幸いだったとしても、とにかくディリンジャーはやはりわが連隊の一員だった。軍はあいつを兵籍から消し、千マイルもはなれたところにいる保安官に始末させることはできなかった。もしやらなければいけないとなったら、男なら──本当の男なら──自分の飼犬を自分自身で射殺しなければいけない。失敗するかもしれない代理人などは雇わないものなのだ。
連隊の記録は、ディリンジャーがおれたちの一員であると言っている。だからこいつの始末をつけることは、おれたちの義務だったのである。
あの晩、おれたちはゆっくりとした歩調で練習場へむかって行進した。一分間に六十の歩調だった。百四十で慣らされていたので、足並をそろえるのは難かしかった。そのあいだじゅう、軍楽隊は〈哀悼する者とていない男のための葬送曲〉を演奏した。それから、おれたちと同じ第一装の軍服を着せられたディリンジャーが連れてこられた。軍楽隊が〈ダニイ・ディーバー〉を演奏しつづけるなかを、係の兵隊があいつからあらゆる記章やボタン、帽子までむしりとり、もはや軍服とはいえない栗色とライト・ブルーの服だけにしてしまった。太鼓は低く鳴りつづけ、すべては終わりを告げた。
おれたちは閲兵をすませ、駆け足で内務班にもどった。気を失ったやつはひとりもいなかったと思うし、ひどく気分が悪くなったやつがいたとも思わないが、おれたちのほとんどは夕食をそんなに食べなかったし、食事テントがこんなにひっそりとしていたことは、それまでに一度もなかった。そのすごさといったらどうにも表現できないものだったのだ。死刑を見たことは、おれにとっても、ほかの連中のほとんどにとっても、初めてのことだった。それは、テッド・ヘンドリックが鞭打ちを受けたときのショックの比ではなかった──つまり、ディリンジャーの立場に自分を置いてみることなんかできやしないということだ。それが自分だったらどうか、というような感じを味わえることはないということだ。脱走についての専門的な考えは別にしても、ディリンジャーは少なくとも四つの大きな犯罪を犯していた。ほかの三つのうちのどれひとつでも──誘拐、身代金の要求、犯罪的遺棄などのために、やつはダニイ・ディーバーの死の舞を踊らなければいけなかっただろう。
おれはやつに同情などしなかったし、今でもそうだ。古い言葉だが「すべてを理解することは、すべてを許すことである」というのは、実につまらぬ言葉である。ある種の事柄では、理解すればするほど、よりその相手を憎悪するようになるものだ。おれの同情は、見たこともないバーバラ・アン・インスウェイトと、ふたたびわが子を見ることもできない彼女の両親にのみ注がれた。
その晩、軍楽隊が楽器を片づけてしまうと、おれたちは軍旗に黒の喪章をつけ、バーバラの死をいたみ、おれたちの不名誉を歎くために、閲兵分列のときにも軍楽隊はなく、長距離行軍にも軍歌を歌わないという、三十日間の喪《も》に服した。ただ一度だけおれは、だれかが文句を言ったのを聞いたことがある。すると新兵のひとりがすぐにたずねたもんだ。あの馬鹿野郎が好きなのかと。たしかにあれは、おれたちの罪ではなかった──だがおれたちの任務は女の子を守ることで、殺すことではない。おれたちの連隊は名誉を傷つけられたのだ。おれたちはそれを回復しなければならなかった。連隊は汚名を着せられたのだ。そしておれたちは、辱しめられたことを骨身にこたえて感じていた。
その夜おれは、どうしたらこんな出来事を起こさないようにすることができるか、考えてみようとした。もちろん、現在ではもう起こらないだろうが──ただ一度起こっただけでも〈多すぎる〉ことなのだ。おれはついに、満足できる答にたどりつくことはできなかった。ディリンジャー──ほかのだれとも変わりのない男であり、その振舞いといい経歴といい、そうおかしいはずはなかった。そうでなければ、最初からキャンプ・キューリーに入ってくるわけがない。おれは本で読んだことがあるんだが、病的な性格を持ったひとりではなかったかと思う──そんなやつらを見分けるすべはないのだ。
それはそうと、こんな事件がたったの一度にしても起きるのを防ぐ方法はなかったとしても、二度と起こさないようにする確実な方法はただひとつだけあった。それを、おれたちは使ったのだ。
かりにディリンジャーが、かれ自身、いったい何をしでかしているのかわかっていたとすれば(どうもそれは信じられないことだが)当然やつは、どうなるかわかっていたはずだ──ただ恥ずかしく思えるのは、あいつが幼いバーバラ・アンの苦しんだほどは苦しまなかったということだ──実際には、まったくやつは苦しい目をしなかったのだから。
しかし考えてみると、よりありそうに思えることは、やつはすっかり狂っていたので、自分が何か悪いことをしているということを、まったく感じていなかったのではないかということだ。そんなときには、どうすればいいのだ?
そう、おれたちは狂犬を射殺する。そうじゃないか?
そうだ。だが、あんなふうに変なのは病気なのだ──
おれには、二つの可能性しか考えられない。かれを正気にすることはできなかった──この場合は、かれ自身のためにも、ほかの人の安全のためにも、死んでしまうほうがよかったのだ──それとも、治療を受けさせて正気にもどすことができたか、そのどちらかだ。この場合(おれにはこう思えるのだが)、もしあいつが社会生活をしていけるだけの正気になれたとしたら──そして自分が、病気だったときにやったことを思いかえせば──自殺する以外に、かれにはいったい何が残っているというのか? どうやって平気で生きていくことができる?
そしてもし、あいつが全快する前に逃亡でもして、また同じことを繰り返したりしたら? そしてまたまた同じことを繰り返したりするようなことになったら? 子供を失った両親に対してなんといって申し開きがたつのだ? かれの犯罪記録を考えてみなかったのか?
おれには、たったひとつの解答しか考えられなかった。
おれは〈歴史と道徳哲学〉の授業でおこなった討論のことを、じっくり思いだし考えていたことに気がついた。デュボア先生は、北アメリカ共和国の崩壊に先んじて起こった二十世紀の無秩序さについて話していた。先生によると、共和国が崩壊する寸前のころは、ディリンジャーの犯したような犯罪は、犬の喧嘩のように日常茶飯事のこととなっていたのだそうだ。この恐怖は北アメリカだけのことではなく──ロシアとイギリス連邦諸島も、そのほかの国々と同じように、やはりそうだった。しかし、北アメリカでこれが最高潮に達したのは、あらゆるものがばらばらに分裂してしまう直前のことだった。
デュボア先生は言った。
「法律を守る人々は、夜になると公園へ行くようなことはしなかったものだ。そんなことをすることは、狼のような少年の一団に襲われる危険を犯すことだったんだな。その少年たちは、チェーンやナイフ、密造拳銃、棍棒などで武装しており……少なくとも傷つけられるのは確実だし、たいがいは金や物を強奪され、あるいは一生なおらぬほどの傷をおわされ、殺されまでもしたんだ。この状態は、露英米連合《ラッソ・アングロ・アメリカン・アライアンス》と中国《チャイニーズ》ヘゲモニーとのあいだで戦争がおこる間際まで何年ものあいだ続けられためだよ。殺人、麻薬常用、窃盗、暴行、そして破壊が、いたるところでおこった。公園だけが危険な場所ではなかったんだ……こういった犯罪が、白昼の路上でも、学校の校庭でも、ときには学校の建物内でさえ起こったんだ。そのうちでも公園は実に危険なところだと知れわたっていたので、善良な市民たちは、暗くなったら最後、公園に近づこうともしなかったのだ」
おれは、そのようなことが自分たちの学校に起こっている状態を、思い浮かべてみようとした。だが、まったく考えることはできなかった。おれたちの公園にしたって、そんなことは考えられない。公園は楽しむところで、怪我をするところじゃない。それも殺されるに至っては──
「デュボア先生、その人たちには警察がなかったのですか? 裁判所もなかったんですか?」
「そのころの連中は、現在のわれわれよりもずっと多くの警官をかかえていた。裁判所だってあった。そのすべてが、手がまわらないほど忙しかったのだ」
「どうも、見当がつきません……」
もしおれたちの町にいる少年のひとりが、その半分ぐらいでも悪いことをしようものなら……そう、その少年と父親はならべられて、鞭打ちをくらってしまうことだろう。だがそんなことは一度もおこらなかっただけのことだ。
デュボア先生はそのとき、おれを指した。
「青少年非行者《ジュブニール・デリンケント》という言葉を定義してみたまえ」
「ええ、善良な人々をよくなぐったりする……そんな連中のことです」
「まちがっているな」
「え? でも教科書に書いてありますが……」
「これは謝らなければいかんかな。教科書にそう書いてある。しかし、尻尾を足だと呼んでみたところで、尻尾はやはり尻尾だ……青少年非行者とは、言葉そのものにおいて矛盾しているものだ。これは、そのころの連中の抱えている問題と、連中がそれを解決することに失敗したことを示す糸口となるものだ。きみは仔犬を飼ったことがあるか?」
「はい、あります」
「トイレのしつけをさせたかい?」
「はい……最終的には」
犬は家の中に入るべからずという規則をお袋に作らせるようになったのは、おれがのろまだったからだ。
「ああ、そう。仔犬がおもらしをしたとき、きみは腹をたてるか?」
「いえ……だって、仔犬は何が良いことなのか悪いことなのか、ちっともわかりません。まだ仔犬なんですから」
「どうやったんだね?」
「もちろん、怒鳴りつけて、鼻を床にこすりつけてやり、たたいてやりました」
「仔犬には、きみの言葉など、まずわからないと思うがね」
「そりゃ、わかりません。でも、ぼくがプンプン怒っているのはわかるはずです」
「しかしきみは、怒ってなんかいなかったと、たったいま言ったばかりだぞ」
デュボア先生は、ひとを面くらわし、カンにさわらせるようなやりかたをよくしたんだ。
「怒ってなんかいませんが、ぼくが怒っていると考えさせようとしたんです。仔犬だって覚えなければいけませんから。まちがっていますか?」
「まあいい。しかしきみが、いけないということをその仔犬にはっきりわからせたのなら、どうして仔犬をひっぱたくような残酷なことができたんだね? きみは、ちっぽけな仔犬は、自分が悪いことをしたことなんかわからないと言った。それなのにきみは痛い目にあわせた。きみがそれでも正しいことを証明しろ! それともきみはサディストなのか?」
おれはそのころ、サディストが何であるか知らなかったが──犬っころのほうは知っていた。
「そうしなければいけないんです、デュボア先生。仔犬が間違ったことをしているとわからせるためには、怒鳴りつけてやらなければいけないんです。鼻っ先を、悪いことをしたところへこすりつけてやれば、何が悪いと飼主が言っているのかわかるのです。たたいてやったら、二度としないようになるんです。それもすぐその場でやらなければ駄目なんです! あとで罰したりしては、ちっとも利き目なんかありません。仔犬をまごつかせるばかりです。そんなことをしたって、仔犬は何も覚えないでしょう。だから、よく見張っていて、同じことをまたしたときにつかまえ、よりきびしくひっぱたくんです。そのうちすぐに仔犬は覚えこむはずです。でも、ただ仔犬をしかりとばすだけでは、まったく声をだすだけ無駄なことです」
おれはちょっと口ごもってからつけ加えた。
「先生は、仔犬なんか飼われたことはないんでしょう?」
「さにあらず……何度もあるよ。いまだって、ダックスフントを飼っている……きみと同じやりかたでね。さて、青少年非行者の問題にもどるとしよう。そのころにおける最も兇悪な少年たちの平均年齢は、ここにいる諸君よりいくらか若かった……そしてその連中はしばしば、そのような法に背く生活をもっと小さなころから始めたのだな。さっきの仔犬の話を忘れないでおこう……この少年たちは何度もつかまった。警察は毎日のように何組も逮捕した。少年たちは怒鳴られたか? もちろんだ。しばしばこっぴどくやられた。少年たちは鼻をおしつけこすられたか? めったにそんなことはされなかった。報道関係、警察当局はたいていその少年たちの名前を秘密にしておいた……多くの地方では、十八歳未満の犯罪者に対しては、法律がそのように要求していたんだな……少年たちはなぐられたか? そんなことは、まったくなかった! 多くのものは、小さな子供のときでさえ、ぶたれるようなことは全然なかったんだ。たたいたり、あるいは苦痛を伴うものは、どんな懲罰であれ、子供たちに一生残る心理的な傷を与えてしまう、ということが広く信じこまれていたんだ」
親父はこの理論を耳にしたことなんてなかったにきまっているなと、おれは反射的に考えた。
デュボア先生はあとを続けた。
「学校における鞭打ちは法律で禁止されていた……裁判所が宣告するとき鞭打ちが合法とされていたのは、わずかにひとつの地方だけだった。アメリカの東部にあるデラウェア州だけだ。そしてそこでは、鞭打ちが科せられる犯罪は少なく、実行されたことはめったになかった。それは残酷で異常な刑罰≠ニされていたんだ」
デュボア先生はちょっと考えてから、大きな声で言った。
「わたしには、残酷で異常な刑罰≠ノなぜ反対するのかその理由が理解できない。裁判官が在告を下すとき、その目的においては慈悲深くあるべきだが、同時にかれが下す裁定はその犯罪者にとって苦痛をおぼえさせるべきものでなければいけない。そうでなければ、刑罰が与えられないのと同じことなのだ……そして苦痛とは何かというと、何百万年もかかって進化を続けるあいだに、われわれ人間のなかに築き上げられてきた根本的なメカニズムであって、われわれの生存が何物かによって脅かされたとき、その苦痛という警告によって、われわれを保護するものだ……なぜ社会は、このような高度に完成された生存のメカニズムを使うことを拒否しなければいけないのか? とはいっても、その時代は、前科学的、擬心理学的なナンセンスという重荷を背負っていたんだな……異常な≠ニいう点では、刑罰というものは、必ず異常なものでなければいけない。さもなければ、刑罰はその目的にかなわないものになってしまうからだ」
デュボア先生は、切株のような手をあげて、ほかの生徒を指さした。
「もし仔犬が一時間ごとにひっぱたかれていたら、どんなことになると思う?」
「え……たぶん気が狂ってしまいます」
「たぶんそうだ。仔犬にはなにひとつ教えることもできないだろうな。この学校の校長がこのまえ生徒を鞭でなぐったときから、どれぐらいたったと思う?」
「え、ぼくにははっきりわかりませんが、二年ぐらい以前のことじゃないでしょうか。盗みをした生徒が……」
「まあどうでもいい。とにかくずっと前のことだ。ということはだな、そのような刑罰は、意義があり、生徒をおさえ、教育する、といったことには、あまりにも異常だということだ。さて、青少年非行者にもどるが……おそらくその少年たちは、赤ん坊のようにひっぱたかれはしなかった。そしておそらく、そういった犯罪をやっても鞭打ちされたりはしなかったんだ。普通の順序ではこうだ……初犯に対しては警告だ……裁判をおこなわずに叱責だけですますこともしばしばある。何回か犯罪が重ねられたあと、禁錮の宣告が言いわたされるが、その実行は一時延期されて、その少年は保護観察下に置かれる。その少年が実際に刑罰を受けるようになるまでには、何回となく逮捕され、有罪を宣告されることになるだろうが……しかもそうなったところで、ただ単に禁錮されるだけで、それもその少年と同じような連中といっしょになり、より以上犯罪的な習性をならい覚えてしまうことになるに過ぎないのだ。禁錮されているあいだに、もしその少年が大きな事件を起こさないでいると、普通の場合、その寛大な刑罰さえほとんど軽減されてしまい、保護観察ということになる……当時の独特な言葉を使うなら、仮釈放ということになるのだ。
この信じられないようなイタチごっこは何年ものあいだ続いてゆき、そのあいだにこの少年の犯罪はその頻度と兇悪さを増してゆき、そのくせ、楽しくはなくてものんきな禁錮のほかには、これといった罰も加えられないのだ。それからとつぜん、普通には十八回目の誕生日がくると、法律によってこのいわゆる青少年非行者≠ヘ、成人の犯罪者になってしまう……そして、ときにはわずか数週間か数カ月のうちに死刑囚独房で殺人罪による死刑執行を待つようなことになってしまうのだ。きみ……」
デュボア先生は、またおれを選びだした。
「きみが罰しもしないで、ただ仔犬を怒鳴ってばかりいたとする。仔犬に家の中で、したいほうだい大騒ぎさせておく──そしてときどき、戸外の犬小屋へ閉じこめるが、すぐに、いたずらしてはいけないよ、などと言い聞かせて家の中に入れてやる。そしてある日のこと、きみはその犬がもうすっかり成犬になっているが、まだ家の中でおもらしするのをやめないでいることに気がつく……そこで鉄砲を持ちだしてきて射殺してしまう。さあ、これに対する意見は?」
「そんな……そんな無茶苦茶な犬の飼いかたなんか聞いたこともありません」
「わたしも賛成だ。子供だって同じだろう。こうなったのはだれの失敗なんだね?」
「え……もちろん、ぼくだろうと思います」
「これも同感だ。ただしわたしは、だろうと思ったりはしないがね」
そのとき女生徒のひとりが、だしぬけに言いだした。
「デュボア先生……でもなぜなのですか? 必要なときに、なぜ子供をぶたなかったんですの? そんなことをした年上の子は、なぜ鞭で思いきりたたかなかったのですか……そんな場合のお仕置きは、子供にとって忘れることができないものになりますわ! 本当に悪いことをした子供のことですけれど。なぜ鞭でたたかなかったのですか?」
デュボア先生はきびしい口調で言った。
「わたしにもわからんが……それが長年かかってテストをくりかえされてきた方法ということだったんだな。社会美徳の尊重を若い者にじっくりしみこむように教えこむ方法というものは、自分で社会事業家《ソシアル・ワーカー》≠ニか児童心理学者≠ニか称している前科学的なえせ職業人クラスには共感をおぼえさせなかったということだね。明らかにこれは、かれらにとってあまりにも安易すぎることだったんだ。仔犬を仕込むとき必要な、忍耐と厳格さだけを使うことは、だれにでもできることだからというんでね。わたしはときどき、その連中は無秩序であることに興味を抱いていたのではないかと疑ってみたことがあるよ……そんなことは考えられないことだがね。大人というものは、ほとんどいつでも、かれら自身の振舞いがどうであろうと関係なく、意識的に最高の動機≠ネるものから行動するものなんだ」
その女生徒は言った。
「でも……なんてことでしょう! あたしだって、ほかの子供と同じように、たたかれたくはありませんでした。でもそれが必要はときには、ママはぶちましたわ。一度だけですけれど、あたしが学校で鞭でたたかれたときは、家へ帰ってからもう一度ぶたれましたわ……何年も前のことですけれど。あたし、裁判官の前にひっぱりだされて、鞭打ちの刑を宣告されるなんて、考えてみたこともありません。行儀よくさえしていたら、そんなことにはならないんですもの。あたしたちの方法のどこが悪いのか、あたしにはわかりません。でも自分の命が心配で表を歩くこともできないなんていうのより、よっぽどいいんじゃないでしょうか……そんなこと、恐ろしいことですわ」
「同感だな、お嬢さん。これらの善意の人々が起こした悲劇的な間違いは、かれらがこうやっていると考えていたことと対比させてみると、実に深いものなのだ。かれらは、道徳というものについての科学的な理論など持ってやしなかった。かれらはそれなりに、道徳についての理論を持っていて、これによって生きていこうとしてはいたものの(わたしはかれらの動機を馬鹿にするべきではなかったんだ)、かれらの理論は間違っていたんだな……その半分までは、ぼんやりした頭で考えた、かくあれかしという思考であり、あとの半分は屁理屈をつけた知ったかぶりだったんだ。かれらが熱心になればなるほど、より以上かれらを堕落させてしまうんだ。わかるかね? かれらは、人間というものには道徳的な本能があるものと臆測したんだよ」
「先生、そんなことって……人間はそうです! あたしだって持っています」
「いや、ちがうよ、きみ。きみは教育された良心を持っている。最も注意深く仕込まれたやつをだ。だが人間は、道徳本能など持ってはおらん。人間というものは、道徳意識を持って生まれてきはしないのだ。きみたちもそれを持って生まれてはこなかったし、わたしもしかり……仔犬も持ってはいない。われわれは行動するとき、訓練や経験を通じ、そして精神のきびしい修養の中から、道徳意識を得るのだ。それら不幸な少年犯罪者たちも、きみやわたしと同じように、なにもなしで生まれてきた。そしてかれらは、なにひとつ得るチャンスがなかった。少年たちの経験では、それを可能にするわけにいかなかったんだ。道徳意識≠ニは何なのか? これは、生きのびていこうとする本能が昇華洗練されたものだ。生存しようとする本能は、人間の天性そのものであり、われわれの個性のあらゆる面は、ここから生じてきているのだ。
生存本能の行為と相反することはなんであろうと、遅かれ早かれその個人を殺してしまうことだから、そのため、未来の世代にそのような性質が顔を出すことはない。これが真実であることは、数学的に論証できる。どこでも立証できるのだ。これはわれわれがおこなういかなることをも支配するたったひとつの、永遠で不可避なものなのだ」
デュボア先生はなおも続けた。
「しかし生きのびるための本能というものは……その人間が生きのびていこうとする盲目的な、動物的な衝動よりも、ずっと微妙で、遥かに複雑な動機に育成していくことができるものだ。そこの女生徒……きみが間違って呼んでいた道徳本能というものは、実のところ、真実ということについて先輩から徐々に教えこまれてきたものであり、それは生存というものが、きみ個人が生きのびていくことより遥かに強い命令だということなのだ。例を、きみの家族が生きのびるということにとってみよう。きみが子供を持った場合は、きみの子供のことだ。もしきみが努力してより高い段階まであがるなら、きみの祖国のことだ。このように上へ上へとあがっていく。道徳というものを科学的に立証できる理論は、個人の生きのびようとする本能に根ざしていなければいけない──そのほかのどこにもありはしない! そして、生存ということの各段階を正確に述べていなければいけないのだ。すべての段階における動機を注意し、すべての軋轢《あつれき》を解決しなければいけないのだ。
われわれには現在このような理論がある。いかなる段階の、いかなる道徳問題でも解決することができる。自分の利益、家族愛、祖国への義務、人類に対する責任……われわれはいまや、人間以外の生物との関係のための、正しい倫理をも開発しているのだ。しかし、すべての道徳問題は、ひとつの誤った言葉を引用することで描くことができる。すなわち仔猫をかばって死んでいく母猫よりも偉大な愛情を持っている人間はいない≠ニ。もしもきみたちが、この猫が直面した問題と、母猫がこれをどのように解決したかを理解したときには、それから自分自身を試験し、道徳の梯子をどれほど高いところまで登り得るものかを学ぶ用意ができたのだ。
これらの少年犯罪者たちは、最低の段階にあたっている。生きのびるという本能だけで生まれてきており、少年たちが到達した最高の道徳性などというものは、チンピラの一団、町のギャングに対するあやふやな忠誠心だったのだ。しかし社会改良家たちは、少年たちのより良くなろうとする性質に訴える≠ニか少年たちにとけこむため≠ニか少年たちの道徳感をかきたてるため≠ニかを試みたのだ。なんということなんだ! 少年たちがより良くなろうとする性質≠ネど持っているものか。自分たちがやってきたのは、生きのびるための方法だということを、かれらは体験から知っていたのだ。仔犬どもは一度もお仕置きを受けたことがなかった。だから、仔犬が思いどおり上首尾にやってのけたことは、すべて道徳≠ナあったにちがいないのだ。
すべての道徳性の基礎となるものは、義務である。自分の利益がその個人のものでなければいけないのと同じように、グループにとっても同じ関係のある概念だ。そのころの連中に、これらの少年たちが理解できるような方法で……つまり鞭打ちなどで、かれらに義務ということを教えこんだ者はだれひとりいなかった。そのうえ、かれらの属している社会は、のべつまくなしに少年たちの権利≠ニいうことを吹きこんでいたんだ。
人間というものは、どんな種類のものであれ、生まれついての権利など持っていることはあり得ないのだから、その結果は予言できたはずなのだ」
デュボア先生は話をとぎらした。だれかがその餌にとびついた。
「先生……では、生命、自由、幸福の追求≠ノついては、どうなのですか?」
「ええと、そうだ、奪うことのできない権利≠セな。毎年のように、だれかが、このりっぱな詩のような文句を引っぱりだしてくるな。生命か? 太平洋のどまん中で溺れかかっている男に、どのような生きる権利≠ェあるというんだね? 大海原は、この男の叫びなどに耳を傾けはしない。子供らを救うためには自分の命を捨てなければいけない父親にとって、なにが生きる権利≠ネのだ? もし、その父親が自分自身の生命を助けるほうを選ぶとしたら、権利≠ェあったからそうしたとでも言うのか? ふたりの男が餓死しかかっており、人肉を食べることだけが生存を意味するときには、どちらの人間の権利が奪うことのできないもの≠ネんだ? そしてこれが、はたして権利だろうか?
自由についていえば、重大な文書に署名した幾多の英雄たちは、かれらの生命で自由をあがなうことを誓約した。自由とは、断じて奪うことのできないものではない。これはときどき愛国者の血で新しく生まれ変わらせなければ、常に消え失せてしまうものなのだ。これまでに発明されてきたすべての、いわゆる人間本来の権利≠フうちで、自由は安価なものであったためしはなく、無料で手に入れられることなどは絶対になかったのだ。
三番目の権利は? 幸福の追求だったな? これもまったく奪うことのできないものではあるが、これは権利などではない。暴君だってとりあげることはできないし、愛国者も返すことのできない単なる普遍的条件なのだ。わたしを地下牢に放りこんでみるか、火あぶりで焼くも結構、それとも王侯中の王にしてみたまえ……それでもわたしの脳が生きているかぎり、わたしは幸福を追求する≠アとができる……だが、神であれ聖者であれ、賢者であれ、はたまた不可思議な薬であろうとも……わたしが幸福をつかむことを保証することはできないのだ」
デュボア先生はそれからおれのほうに向きなおった。
「わたしは青少年非行者≠ニは用語そのものが矛盾しているということをきみに話したな。
非行者≠ニは義務を怠る者≠フ意味なのだ。しかし、義務とは、成人の美徳だ……だからこそ、人間が義務という知識を獲得し、生まれながら持っている利己的な愛情よりもなお一層の愛情をこめて抱きしめるとき、そのときこそ、青少年が成人に達したときなのだ。青少年非行者≠ネどというものは存在せず、あり得ないものなのだ。しかし、すべての少年犯罪者には、つねにひとり、あるいはそれ以上、大人の犯罪者が混じっているものだ……義務を知らないか、それとも知っていながら失敗してしまったか、どちらかの、成年に達したものどもだ。
そしてこれが、多くの点で讃歎すべきものであった文化を破壊してしまった弱点だったのだ。街を年少者の愚連隊がのさばり歩いているのは、より大きな疾病が存在する徴候なのだ。その時代の市民たち(かれらはみなそのように称したのだが)、かれらは権利≠ニ称する神話を讃美した……そして、かれらの義務の進路を見失ってしまった。そんなことになってもまだ存続できるほどにまで組織された国家など、どこにもあり得ないのだ」
おれは、デュボア中佐なら、どんなふうにディリンジャーを位置づけるかしらと考えた。たとえ死刑にしなければいけなかったものの、かれは哀れみを受けるに足る少年犯罪者だったのだろうか? それともただ汚辱を受けるだけしか価値のない成人の犯罪者だったのだろうか? おれにはわからなかった。永久にわからないことだろう。おれにただひとつはっきりしていたことは、ディリンジャーは、もう二度と小さな女の子を殺したりしないということだ。
これでおれは満足した。おれは眠りに入っていった。
[#改ページ]
[#ここから4字下げ]
この艦に弱虫のいる場所はない。
われわれは、突進し勝利をつかむ
勇者のみを必要とするのだ!
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──ジョナス・イングラム提督
[#地付き]一九二六年
平原でやれるかぎりの新兵訓練をやってしまうと、おれたちはもっと激しい訓練を受けるために、けわしい山の中へ移動した──カナディアン・ロッキー山脈にあるグッド・ホープ山とワディントン山とのあいだだ。キャンプ・サージェント・スプーキー・スミスは、そのけわしい環境を別にするとキャンプ・キューリーと似たりよったりだが、ずっと小さかった。さて、そのころになると、第三連隊の兵員数は、すっかり縮小してしまっていた──二千人以上で始めたのに、四百人以下に減っていたのだ。H中隊はいまや、一個小隊として編成され、大隊の分列行進はまるで中隊みたいだった。だがおれたちは相変わらず「H中隊」と呼んでいたし、ズイム軍曹は「中隊長」であり、小隊長ではなかった。
実のところ、仕上げということは、個人教育がずっとふえたことを意味していた。分隊の数より多くの伍長教育係が配属され、ズイム軍曹の心は、始めたときの二百六十人からたった五十人になったおれたちに注がれ、その眼は、百もの眼を持つという巨人アルゴスのように、四六時中おれたちのひとりひとりにまつわりついていた──軍曹がその場にいないときでもだ。少なくとも、おれたちが何かへまをすれば、次の瞬間には必ずかれが背中のうしろに立っていたのだ。
しかしながら、おれたちの受けたしごかれかたは、恐ろしいやりかたではあったものの、まるで友情に溢れた内容だったと言っていい。というのは、連隊がその形を変えたように、おれたち新兵もまた大きく成長していたからである──ふるいにかけられて残ったのは、五人にひとりの割合であり、おれたちはもうほとんど兵隊と言ってもいいぐらいで、ズイムは落伍してゆく者などには眼もくれず、残ったおれたちをなんとか一人前にしようとしているように思えた。
またおれたちは、以前とは比べられないほどしばしばフランケル大尉の姿を見かけるようになった。大尉はもう、机に向かってなどいないで、ほとんどの時間をおれたちの教育にふり向けていた。そしてかれは、おれたちひとりひとりの名前と顔をすっかり憶えており、頭の中に調査カードでもしまってあるのか、兵隊のひとりひとりが、あらゆる兵器装備の取扱いにどれぐらいまで上達しているかを、実に正確に知っているようだった──そのカードの中に、超過勤務の状況、健康状態の記録、家族から最近手紙が来たかどうか、というようなことまで載っていることは言うまでもないのだ。
大尉は、ズイム軍曹のようにおれたちに対して厳格ではなかった。かれの話しかたは軍曹より穏やかであり、そしてその顔に浮かんでいる人なつっこい微笑を取り去るには、実に馬鹿げた離れ業でもやってのけなければいけなかった──だがその笑顔をなめてかかってはいけない。その微笑の下にはとんでもない鋼鉄の鎧があるのだ。おれはズイム軍曹とフランケル大尉と、はたしてどちらが優秀な兵隊なのかをつきとめてみたことはなかった──つまりおれの言うのは、階級章をとってしまい、ふたりともただの兵隊として比べてみた場合である。ひとつはっきりしていたことは、ふたりとも、ほかの教官たちよりはるかに優秀な兵隊だったということである──それにしても、どちらが優秀な兵隊だったろう? ズイム軍曹はあらゆることを、閲兵分列のときのように正確にめりはりをつけ格好よくやってのけた。一方、フランケル大尉のほうは、ゲームでもしているように、同じことをぶっつけ本番で楽しみながらやってのけた。結果はふたりともほとんど同じだった──だがそう見えたところで、フランケル大尉がそうだと思わせているほどやさしかったことは一度だってないのだ。
おれたちには大勢の教官が必要だった。前に言ったとおり、強化服を着て跳躍することは、平地では容易なことだった。たしかに強化服は、山岳地帯でも同じように高く、同じように容易に跳躍した──だが、花岡岩の切り立った絶壁に飛びあがったり、くっついて立っている二本のモミの大木の隙間を飛びぬけたりして、最後の瞬間にジェットをまた噴かせて飛びつづけたりしなければいけないのは、平地でやるのとは大変な違いになるのだ。おれたちがやった山岳地帯での強化服訓練中に、大きな事故が三べんおこり、ふたりは死亡し、ひとりは傷病除隊になった。
また、強化服なしで、ロープとピトンを持って岩壁をよじのぼることは、より一層むずかしいことだった。おれはカプセル降下兵にロック・クライミングの訓練がいったい何の役に立つものやら全く見当がつかなかったが、口をかたく閉じていたほうがいいことはすでに憶えていたので、おれたちに叩きこまれることを覚えこもうと努力した。おれはそれを学びとった。そしてそれは、それほど至難の業ではなかった。どんなにごつごつした岩の塊りであろうと、その岩壁がビルディングの単調な壁と同じように平面で垂直であろうとも、一挺のハンマーと馬鹿みたいな小さな鋼鉄のピンがいくつかと物干綱が一巻きあれば、おまえだって軽くよじ登れるんだなどと一年前にだれかがおれに言ったりしたら、おれはそいつを笑い飛ばしただろう──おれは平地をはいまわるタイプなんだと。訂正する。おれは平地をはいまわるタイプだったのだ。ちょっとした変更が加えられたのだ。
そのうち、どれぐらいおれが変わってきたのかということが、徐々にわかりかけてきた。キャンプ・サージェント・スプーキー・スミスでは、おれたちに自由が与えられた──町に出かけられるということだ。ああ、キャンプ・キューリーでも、最初の一カ月が過ぎると、おれたちには〈自由〉が与えられた。ということはこうだった。日曜日の午後、もし勤務小隊に入っていなかったら、庶務係のテントヘ行き、外出届を出してから、自分が行きたいだけ遠くまでキャンプから離れられた。ただし、夕方の点呼までには必ず帰営することを忘れないようにしなくてはいけないが。ところがあそこでは、キャンプから歩いていける範囲には、野ウサギを勘定に入れないと、全く何もないのだ──女の子なし、劇場なし、ダンスホールなし、何にもなしだ。
つまり、キャンプ・キューリーでも自由はあったものの、それはなんの役にも立たぬものだった。それでも時には、ひとりきりで遠くまで行けるということには、非常に重要な意味があったのだ。テントも、軍曹も、新兵仲間の親友の見あきた馬鹿|面《づら》さえ見られない──なにひとつ大急ぎでやる必要はなく、自分の心を取り出してじっくりと眺める時間を持てるということには。だがその特権だって、何段階にもわたって制限されることがあった。キャンプの中だけに制限されるとか──あるいは自分の中隊通路だけになってしまい、図書室へも、レクリエーション≠ネどというまぎらわしい名前で呼ばれていたテント(インドすごろくが何組かと、それなりの馬鹿騒ぎがあるだけ)へさえ行くことができなくなってしまうとか──あるいはもっと窮屈に制限され、自分がいることはどこからも求められていないのに、自分のテントの中だけにいるように要求されたりするようにもなったのだ。
この最後のことには、それ自体、大した意味などない。というのは、たいてい臨時勤務が追加されるので、なんとか眠る時間だけは帰してくれるものの、自分のテントにいる時間など全くなくなってしまうからだ。それはアイスクリームの上にちょこんと添えられた桜桃のような飾りであって、つまらぬヘマこそしでかさなかったものの、機動歩兵の一員として何かしら不似合いなところがあるから、その汚れを洗い落とすまでは、ほかの兵隊たちとつきあうことはよくないということを、当人と世界中にこれ見よがしに知らせるといった代物だ。
ところがキャンプ・スプーキーでは、町へ出ることが許された──勤務、素行状態などが許すかぎりだが。毎日曜日の朝にはバンクーバー行の往復バスが運転された。これは朝食後三十分にくりあげられた礼拝直後に出発し、夕食前とまた消燈ラッパ直前に帰ってくるのだ。教官たちは勤務の許すかぎり、土曜の夜を町ですごすこともできたし、伍長連中は三日間の連休だってとれたのだ。
おれは初めての休暇のとき、バスからおりるとすぐ、おれ自身が変わったことに気がついた。このおれ、ジョニーは、もはや一般の市民生活とはあわなくなっているということだ。おれにはすべてが、あきれかえるほどこんがらがっており、信じられないほど乱雑に思えたんだ。
おれはバンクーバーをくさしているのではない。あそこは素敵な環境に恵まれた美しい都市だ。道行く人々は魅力的だったし、機動歩兵が町を訪れるのに慣れており、それを歓迎してくれていた。下町には、おれたち兵隊のための社交クラブがあり、毎週おれたちのためにダンス・パーティをひらいてくれ、わかいホステスはすぐ踊ってくれるようになっており、ちょっと年上のホステスは、恥ずかしがり屋の兵隊を(おどろいたことに、それはおれのことだった──だが、何カ月というもの、女といえばメスの野ウサギしかいないところで、まるっきり女っ気なしに生活してみろ)女の子に紹介してくれ、パートナーの足を踏ませるようにしてくれていた。
だが、おれは、最初の休暇のとき、そのクラブヘは行かなかった。おれは、ぼんやりと立ちどまり、馬鹿面をして眺めていた──美しい建物や、不必要な物ばかりいろいろと飾り立ててあるショウ・ウィンドウや(その中には武器なんかひとつもない)走りまわっている人々、あるいはぶらぶら歩いている人、ふたりと同じような服は着ておらず、てんでに好きなことをしている人々を──それから、女の子をだ。
特に、女の子をだった。女の子とは、こんなにも素晴らしいものだとは、ついぞ知らなかった。男と女の違いは、ただ単に着ているものが違っているだけなんかじゃないということを、おれははじめて知ったのだ。女の子は男と違うということを知り、そして嫌いになるという、普通の男の子が通りすぎてくるはずの一時期を、おれはどうも通ってこなかったらしい。おれは、いつだって女の子が好きだったのだ。
しかしその日は、いままで女の子を軽く見ていたことに気がついた。
女の子はまったく素晴らしいものなのだ。ただぼんやりと町角に立って、彼女たちが行ったり来たりするのを見ているだけで楽しいことだった。女の子というものは、パッパと歩かないものだな。少なくとも、おれたちが歩くときとは、わけが違う。おれにはどう説明していいものやらわからないが、遥かに複雑で、まったく気持ちがいいものだ。女の子が歩くときは、足だけ動かすんじゃない。あらゆるところが、それぞれ異なった方向へ動いてしまうのだ──どこからどこまでも優雅なもんだ。
もし警官がやってこなかったら、おれはずっと立ち続けていただろう。その警官はおれたちのそばへやってくると言った。
「やあ、きみたち。楽しいかい?」
おれはすばやく、胸の略綬を見て、はっとした。
「イエス、サー!」
「おれにサーは必要ないよ。ここではそんなことはいらないんだ。それより、どうして社交センターに行かないんだい?」
警官は場所を書いてよこし、その方角を指したので、おれたちは、そっちへ歩きだした──パット・レイヴィー、仔猫《キトン》<Xミス、おれの三人だ。その警官は後から呼びかけた。
「楽しくすごすんだぜ、きみたち……面倒をおこさないようにな」
この言葉は、おれたちがバスに乗りこむとき、ズイム軍曹の言ったのと全く同じだった。
だがおれたちは、そこへは行かなかった。パット・レイヴィーは小さな子供だった頃シアトルに住んでいたことがあるので、故郷の町を一度たずねてみたいと言いだしたからだ。パットは金を持っていたし、おれたちふたりがいっしょに来てくれるなら、往復のバス代を持とうと言ったのだ。おれは別に異存がなかったから、話はすぐにまとまった。往復バスは二十分おきに出ていたし、おれたちの許可書はバンクーバーだけに限定されていたわけでもなかった。スミスもいっしょに行くことになった。
シアトルの町もバンクーバーと大きな違いはなかったし、女の子も同じように大勢いたから、おれはまったくうれしかった。しかしシアトルは、おれたち機動歩兵が町へやってくることには慣れていなかった。おれたちは晩飯を食べるところを探し、貧相なところを見つけた。そこはおれたちをあまり歓迎してくれそうもないところで──酒場兼食堂といった、波止場ちかくの場末だった。
言っとくが、おれたちは酒を飲んではいなかった。そう、仔猫《キトン》は一回だけ料理といっしょに飲むビールのおかわりをしたものの、いつもと変わらずにこにこしており、おとなしくしていた。ところで仔猫《キトン》って名前のいわれはこうだ。おれたちがはじめて白兵戦の訓練をしたとき、ジョーンズ伍長はかれにむかって、さもうんざりしたように言った。
「きさまのパンチなんかより、仔猫《キトン》のほうがよっぼどこたえるぞ!」
渾名はこうしてついたのだ。
その店で軍服を着ていたのは、おれたちだけだった。客のほとんどは商船の水夫連中だった──シアトル港は大変な量の船舶が出入りする。おれはそのころ、商船の水夫たちがおれたちを嫌っているということを知らなかったのだ。その理由の一部は、かれらの組合がその地位を地球連邦軍と同等にしようと何度も何度も試みたが、成功しなかったという事実に関係があるのだ──だがおれは、その原因のいくつかは、歴史を何世紀も前にさかのぼらなければいけないとわかっている。
さて、そこにはおれたちと同じ年頃のわかいやつも何人かいた──志願するのにぴったりの年齢だが、志願しないだけなのだ──髪の毛を長く伸ばし、いかれた、どことなく汚らしい表情だった。そうだ、顔つきといえば、おれだって入隊前はあんな顔だったのだろう。
そのうちおれたちは、うしろのテーブルにいるふたりのチンピラと、ふたりの商船の水夫(身なりからそう判断したんだ)が、なにかぶつぶつ、おれたちに聞かせようとしていることに気がつきはじめた。その言葉をここでくりかえそうとは思わない。
おれたちは何も言わなかった。ところがそのうちに、やつの話はおれたちをあてこすりはじめ、大声で笑いだし、店にいるほかの客は静かになって聞き耳をたてはじめた。仔猫《キトン》はおれにささやきかけた。
「もう出よう」
おれはパット・レイヴィーに眼くばせした。パットはうなずいた。勘定はもうすませてあった。その店はその都度現金で払う場所だったのだ。おれたちは席から立ちあがって出ていった。
そいつらは、おれたちのあとをつけて出てきた。
パットは低い声で言った。
「気をつけろよ」
おれたちはふり向きもせず、どんどん歩きつづけた。
やつらは、とつぜん襲ってきた。
おれはくるりとまわるなり、おれにかかってきたやつの首すじを叩きつけ、そいつがへなへなと倒れていくままにして、仲間を助けようと見まわした。だが、戦いはもう終わっていた。四人とも気を失っているのだ。仔猫《キトン》はふたりを片づけてしまい、パットはその相手をちょっとばかり力を入れて投げすぎたのか、そいつは街燈の柱を抱くような格好で伸びていた。
だれか知らないが、たぶん店の主人だろう、おれたちが店を出るやいなや警察に電話でもかけたものとみえる。おれたちがまだその場にいて、その馬鹿野郎どもをどうしたものかなどと考えているうちに、警官がふたりやってきた──そのあたりでは、そういうことになっているものらしい。
年上のほうは、おれたちに告訴したいかとたずねたが、おれたちは三人ともそんな気にはなれなかった。「間違いをおこすな」とズイム軍曹に言われていたのだ。仔猫《キトン》はぽかんとした表情で、十五も年とったような顔になって言った。
「この人たち、つまずいたのだと思います」
「そうらしいな」
警官は賛成し、おれにかかってきた男のひろげた手からナイフを蹴飛ばし、舗道のふちでその刃をへし祈った。
「さあ、兵隊さん、急いでこのへんから逃げたほうがいいよ……ずっと山手のほうへな」
おれたちは立ち去った。おれは、パットも仔猫《キトン》も、なにひとつ事をあらだてなかったところがうれしかった。民間人が軍の兵士を襲撃するということは、実に重大な問題だからだ。だが得点はどうだ? 貸し借りなしだ。やつらは飛びかかってきた、そしてこぶを作った。それだけのことだ。
だが、おれたちが休暇のとき武装して出たり絶対しないのはいいことだ──そして、相手を殺すことなく片づけてしまう訓練を受けてきたことも。ちょっとした動きにも、それは反射的にできてしまうのだ。やつらが飛びかかろうとしたときには、もうすべてが終わってしまっていたということが、おれには信じられないことだった。おれは、すべてがすんでしまうまで、なにひとつ考えたりしなかったのだ。
しかしこれは、おれがどれほど変化したかということを、初めて知ることができた出来事だった。
おれたちは停留所へ歩いてもどり、バンクーバー行のバスに乗りこんだ。
キャンプ・スプーキーに移動すると同時に、おれたちは降下訓練を開始した──順ぐりに一個小隊(一小隊全部──つまり中隊だ)が、ワラ・ワラ平原の北方地点へ行き、乗船し、宇宙へ上昇し、降下し、戦闘訓練をし、ビーコンで帰投する。それが一日の仕事だった。はじめのうちは八個中隊だったので、おれたちは毎週一回も降下することはできなかった。ところが損耗が続いたので、週に一回以上やることになった──山岳地帯へ、北極の氷上へ、オーストラリアの砂漠へ、そしておれたちが修了する前になると、月の地表へだ。そこではカプセルがわずか百フィートの高度におかれ、発射されるのと同時に破裂する──よく眼を見はっており、空気がないからパラシュートは使えず、強化服だけで着陸しなければいけない。下手に着陸すると、呼吸を断たれ、死んでしまうのだ。
損耗のいくらかは犠牲者──死者または負傷者によるものであり、いくらかはカプセルに入ることをどうしてもいやだと断った連中で──何人かはそんなことをやり、それで万事終わりだった。そいつらはなにひとつ文句を言われもせず、ただちょっとわきにどけられ、その晩、給料をもらって除隊させられてしまったのだ。何回も降下訓練をやった兵隊でも、臆病風に吹かれ、拒否しようかと思いたくなるものだが──教官たちは、その連中にもひどくやさしく、回復の見込みのない病気の友人に対するように接するのだ。
おれはカプセルに乗りこむことを拒否したことなど絶対になかったが──身ぶるいがしてくることだけは絶対におぼえた。おれは、いつだってそうなったし、そのたびごとに馬鹿馬鹿しいほどおびえてしまった。いまだにそうなのだ。
だが、降下をしないうちは、カプセル降下兵ではない。
だいぶ眉唾ものだが、こんな話がある。カプセル降下兵のひとりがパリ見物と洒落こんだ。その兵隊は廃兵院《レ・アンヴァリット》を訪ねたとき、ナポレオンの棺を見おろして、そこにいたフランス人の番人にたずねた。
「こいつはだれなんだい?」
そのフランス人はもちろん、腹をたてて言った。
「ムッシュウ、あんた知らないのかい? ナポレオンの墓だよ──ナポレオン・ボナパルト……史上最大の軍人ですがな!」
カプセル降下兵は何やら考えているようだったが、ややあってたずねた。
「そうかい? ところでこいつは、いったいどこへ降下したんだい?」
これが本当の話ではないということは、ほとんど確実だ。というのは、そこには大きな立札があって、ナポレオンが何者であるかは、はっきり書いてあるからだ。だが、カプセル降下兵が、降下のことをどのように感じているかということがよくわかる話ではないか。
そしてついに、教育終了の日がやってきた。
おれは、ほとんどすべてのことを省いてしまった。おれたちの兵器のことだって、そのほとんどを一言も説明しなかったし、何もかもおっぽりだして三日間ふっとおしで山火事と戦ったときのことも、終わってしまうまで本物とは気がつかなかった非常呼集の一件も、炊事テントが吹き飛ばされた日のことも、まったくここには述べなかった──特に天候のことは何ひとつ言わなかったが、天候、特に雨とぬかるみは、おれたち歩兵にとって大変なことなのだ。だが、天候は重要なことにちがいないが、ふりかえって考えてみると、どうも馬鹿らしいことのように思える。年鑑からどんな天気でもいい、何でもかでもその描写をぬきだして、それをどこへでもいいから入れてみる。それでぴったりあうことだろう。連隊は最初、二千九人の新兵で始まった。おれたち修了したのは、百八十七人で──そのほかのうち十四人は死に(そのうちのひとりは死刑を執行され、その名はおれたちにこびりついた)、残りは志願を取り消し、落伍し、転属し、傷病除隊を命じられたのだ。マロイ少佐は最後に短い訓示をおこない、各自に修了証明がわたされ、最後の閲兵分列行進をし、連隊は解散され、連隊旗はそれが必要とされる日までケースにしまわれた。三週間後、新しくやってくる二千の民間人に、かれらが野次馬の集団ではなくて軍人なのだと告げる日までだ。
おれは、兵籍番号の最初に〈RP〉でなく〈TP〉をつけるに値する〈訓練された兵士〉となったのだ。素晴らしい日だった。
おれの一生における最高の日だった。
[#改ページ]
10
[#ここから4字下げ]
自由の樹は、時おり
愛国者の血をもって
元気を回復されなければならぬ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──トーマス・ジェファーソン
[#地付き]一七八七年
おれは、配属された艦に出頭するまで、自分のことを一人前の兵隊≠セと思いこんでいた。だが、見当ちがいの意見を持つことを禁止する法律があるわけでもないだろう。
おれはまだ、どのようにして地球連邦が平和≠ゥら非常事態≠ノ、そして。戦争≠ヨ突入していったかということを話していなかったと思う。おれ自身、それほどまで事態が緊迫していたとは気づいていなかった。おれが入隊したときはまだ平和≠ネ、ノーマルな状態だった。少なくとも人々はそう考えていたんだ。どこに、それ以外のことを考えていたやつがいたろう。それからおれがまだキャンプ・キューリーにいるあいだに非常事態≠ノ入ったのだが、まだおれは気づいていなかった。そんなことより、おれの髪の刈りかたや、軍服、戦闘訓練や、装具のことなどを、ブロンスキー伍長がどう考えているかのほうが、ずっと重大だったし──とりわけそういったことをズイム軍曹がどう考えるかのほうが圧倒的に重大だったのだ。いずれにせよ、非常事態≠ニいうことは、まだまだ平和≠セってことなんだ。
平和≠ニは、軍事的損害が新聞の第一面を飾る目立った記事にならないかぎり、市民がまったく注意を払わない状態のことだ──その犠牲者のひとりが、その市民の身内であれば別だが。
だが、平和≠ニいうものが、これっぽっちも戦争のおこなわれていないことを意味するものだとしたら、歴史をひもといてみても、いまだかつてそんなときは一度だってあったためしがない。おれが最初に配属された〈ウイリー山猫《ワイルドキャッツ》隊〉つまり第一機動歩兵師団第三連隊K中隊に出頭し、その一員として〈ヴァリイ・フォージ〉に乗りこみ、例のいいかげんな修了証を装具といっしょに大事にかかえて空輸されたときには、すでに戦争状態に突入してからもう何年も経過していたのだ。
世の中の歴史家たちは、こんどの戦争を〈第三次宇宙戦争〉と名づけるべきか、あるいは〈第四次〉、それとも〈第一次恒星間戦争〉と名づけるほうがいいか、まだきめられないでいるらしい。おれたちは、戦争に名前をつけて呼んだりはしないが、どうしても呼ぶ必要があるときには、ただ〈クモ戦争〉と言っている。そして、いずれにしても歴史家たちは、戦争勃発の日は、おれが最初の隊に加わり、艦に乗りこんだ以後のことだとしている。それまでのすべて、そしてそのあとのしばらくを、すべてこれ事変∞前哨戦≠烽オくは警察行動≠セとしている。しかしながら、事変に片足をつっこんだかぎり、これは宣戦布告をした戦争に加わったのと同じことで、兵隊たちにとっては、どちらであろうとやられたら死ぬことなのだ。
しかし、実を言うと兵隊たちは、自分たちが直面している戦争の切れっぱしと、その日その日のことを別にすると、一般の市民より戦争に気をくばってなんかいない。兵隊たちはいつだって、睡眠時間のことや、下士官連中の気まぐれや、食事時間のあいだになにかウマイものをくすねておくチャンスなどのほうに、ずっと関心を持っているのだ。しかし、仔猫《キトン》<Xミスとアル・ジェンキンスとおれとが月基地で隊に編入されたときには、〈ウイリー山猫隊〉の兵隊たちはみな、すでに一度以上、実戦降下をやっていた。
ということは、やつらは兵隊だったが、おれたちはそうじゃなかったってことなのだ。だがおれたちはそんなことのために、いじめられたりはしなかった──少なくともおれは、そんな目に会いはしなかった──そして例の、胸に一物ある恐ろしい教官たちにくらべたら、この隊の軍曹や伍長連中は、びっくりするほどつきあいやすかった。
この下士官たちの比較的やさしい態度は単に、おれたちが、降下──戦闘降下をおこなったのち、おれたち新米がいま占領している寝棚のもとの主で、戦い、そして死んでいった本物の山猫たちのあとを、ひょっとしたら継げるかもしれないとわかるまでは、しぼりあげるだけの値打ちもないデクの棒にすぎないということを意味しているだけだ──ということがわかるまでには、ちょっと時間がかかった。
さて、おれがどんなに青二才だったかという話をさせてもらおう。〈ヴァリイ・フォージ〉がまだ月基地にいたときのことだ。おれはたまたま、おれの分隊長が第一装軍服に寸分の隙もなくめかしこんで下船しようとしていたところに出くわした。
かれは左の耳たぶに小さなイヤリングをつけていた。きれいに作られた小さな金の髑髏で、その下には昔から海賊旗の印になっている骨のぶっちがいのかわりに、ほとんど眼にもとまらないほど小さな金の骨がぶらさがっていた。
家にいたころのおれは、いつもイヤリングや宝石を身につけてデートに出かけたものだった──おれは素敵なイヤクリップも持っていた。これはもとお袋のおじいさんが持っていたもので、小指の先ほどもある大きさのルビーだった。おれは宝石類が大好きだったので、基礎訓練を受けに入隊するときには、私物として持ってくることはまかりならぬと言われて、いささか腹をたてたものだ──だがここでは、明らかに、軍服といっしょに身につけてもいい装身具があるのだ。おれの耳たぶには穴があけてなかったが──お袋が、男の子だからといってあけさせてくれなかったんだ──クリップに宝石をつけることはできたのだ。それにおれは、訓練が終了したときもらった給料が残っていたので、その金にカゼがはえるまでに使ってしまいたいと思っていたんだ。
「あの、軍曹どの……そんなイヤリングはどこで手に入るんですか? なかなか洒落ていますね」
軍曹はべつに腹をたてたような表情は見せず、そうかといって笑顔を見せたわけでもないが、こう言っただけだった。
「気にいったか?」
「ええ、すごく!」
金モールの軍服に、あっさり無垢の金で作った装身具をつけるのは、宝石なんかつけるよりよっぽど効果的だった。おれは、そのイヤリングを両方につけ、台座のごちゃごちゃがなくて、あっさりした骨のぶっちがいだけにしたら、もっといかすだろうな、などと考えていたんだ。
「この基地の売店で売っているんですか?」
「いや、ここの売店は、こんな物を売ってやせんよ」
それから軍曹はこうつけ加えた。
「少なくともここにいたんでは、いつまでたっても買えるとは思えんな……そう願いたいもんだ。だが、これだけは教えておいてやろう……おまえが、こいつを買えるところへ行ったら教えてやる。約束だ」
「はい、ありがとうございます」
「どういたしましてだ」
その後も、その小さな髑髏をいくつか見かけた。ぶらさがっている骨の数がもっと多いのもあり、少ないのもあった。おれの推察したことに間違いはなかった。これは少なくとも、外出するときには、軍服につけることを許された装身具だった。そしてそれからすぐ、おれにもそれを〈買える〉チャンスがやってきたが、そんなに簡単な装身具としては、その値段は間尺に合わないほど高いものだということを思い知らされたのだった。
それは、歴史の本によると、惑星クレンダツウにおける第一戦──いわゆる|虫の巣作戦《オペレーション・バグハウス》、またの名、精神病院作戦《オペレーション・マッドハウス》でのことで、ブエノス・アイレスが全滅してまもなくおこなわれた戦闘だった。ブエノス・アイレスを失ったことで、地球上の人間どもは、現在どんなことが起こりつつあるかということを悟った。というのは、一度も宇宙に出たことのない人間は、地球のほかにも生物の住む惑星があることなど、本当には信じようとはしなかったからだ。餓鬼のころから宇宙狂だったこのおれにしてからが、そのとおりだったのだから。
このブエノス・アイレス事件は、一般市民に大ショックを与え、各地に分散している全地球連邦軍を呼びもどして、蟻のはいこむ隙間もないように地球をとりかこみ、地球の占有する空間を守らせろと、人々は金切声でわめきたてた。
もちろんこんなことは馬鹿げている。攻撃なくして、防御だけで戦争に勝てるわけはない──歴史をふりかえってみれば、〈防衛省〉が勝利をおさめたことなどないのだ。ところが、戦争状態に入ったことを知るやいなや、防衛作戦がどうのこうのとがなりたてはじめるのが、標準的な市民反応というやつらしい。それから自分たちで戦争を動かしたがる──まったくの話が、緊急事態に乗客が操縦士の手からハンドルを奪い取ろうとするようなものだ。
といって、なにもそのとき、おれに意見をたずねたやつがいるわけじゃない。そういう話だということだ。全軍隊を地球へ引き揚げるということが、われわれの条約上の責任と、地球連邦の植民惑星や同盟惑星に対してどういうことになるかを考えてみても、まず不可能だ。それを別にしても、おれたちはクモどもを相手に、戦争をどうやるかということで、ひどく忙しかった。おれはブエノス・アイレスの潰滅を、一般の市民ほど気にしてはいなかったように思う。おれたちはすでに、チェレンコフ推進で二パーセクほど離れていたから、おれたちの艦がチェレンコフ推進からぬけたあとになってほかの艦から聞かされるまで、そのニュースを知らなかったのだ。
おれはそのとき、「畜生、やりやがったな!」と思ったことと、同じ艦に乗りこんでいたブエノス・アイレス出身の兵隊に同情したことをおぼえている。とはいうものの、ブエノス・アイレスはおれの故郷というわけじゃなかったし、地球はもうひどく遠くに離れており、それにすぐクモどもの本拠である惑星クレンダツウ攻撃が始まるというところだったから、おれは眼がまわるほど忙しかったんだ。そしてすぐおれたちは、ランデブーの時間まで、寝棚にしばりつけられ、動力を節約し、よりスピードをあげるため〈ヴァリイ・フォージ〉の艦内重力場を切ったまま、薬を飲み意識をなくして過ごすことになった。
ブエノス・アイレスの喪失は、おれにとってひどく大きなことを意味し、おれの人生を大きく変えることになったのだが、このことは何カ月もあとになるまでわからなかった。
いよいよ惑星クレングツウに降下ということになったとき、おれは員数外としてダッチ・バンバーガー一等兵につけられた。かれはその命令を聞いて喜んだことをなんとか顔に出すまいとしていたが、小隊軍曹が聞こえないところまで離れるとすぐ、おれに言った。
「よく聞け、新兵。おれのうしろにへばりついているんだ。邪魔などしたら承知しねえぞ。足手まといになりでもしたら、その間抜けな首をへし折っちまうからな!」
おれはただ、うなずいただけだった。こいつは訓練の降下ではないんだぞと、おれはようやく実感をおぼえはじめていた。
それからしばらくのあいだは、例の震えに襲われた。そして降下したんだ──
|虫の巣作戦《オペレーション・バグハウス》はむしろ、精神病院作戦《オペレーション・マッドハウス》と呼んだほうがピッタリなのだ。することなすことへまばかりつづいたのだ。だいたいこれは、敵を屈服させ、やつらが根城にしている惑星の首都とその主要拠点を占領して、戦争を終わらせるための、全力をあげての作戦として計画されたものだった。ところが結果は、敗戦寸前という惨惜たるものになった。
べつにおれはディアン将軍をくさしているわけじゃない。将軍が、もっと大勢の兵力ともっと強力な援護を要請したものの、宇宙軍総司令官に却下されたということが本当かどうかなどということは、おれにはわからない。一兵卒のおれが知ったことではないのだ。それにもましておれは、あとになってからああだこうだという小利口な連中が、事実をみな知っていたなどということは信用できない。
おれが知っているのは、とにかく将軍はおれたちといっしょに降下し、地上でおれたちの指揮をとり、状況がどうにもならなくなると、みずから先頭にたって牽制攻撃を敢行し、そのため、おれを含めたごく少数の兵隊だけが撤退でき──将軍はその戦闘で戦死されたということだけだ。将軍の屍《しかばね》は、いまやクレンダツウの放射能の塵の中にあり、軍法会議にかけるにしても手遅れすぎる。もうこの話はやめにしよう。
おれは、一度も戦闘降下をしたことのない机上の作戦研究家たちにひとつ言っておきたいことがある。さよう、クモどもの星を、地表が放射性のガラスで一面に塗りこめられてしまうまで、水爆で覆いつくしてしまうことだってできたではないかという説には賛成する。だが、それで戦争に勝ったことになるのだろうか?
あのクモどもは、おれたち人間とは違う。この擬蜘蛛類《シュウド・アラクニック》は、昆虫のクモにさえ似ているわけではない。やつらは、気の狂った連中が考えるような巨大で知能のあるクモに、たまたま外見が似ているだけの節足動物だが、その構造はというと、心理、経済の面からは蟻ないし白蟻に酷似している。やつらは自治社会を作る存在であり、それぞれの巣では完全な独裁制をしいている。
やつらの惑星の表面を吹き飛ばすと、兵隊や労働者をぶち殺すことはできるだろう。だが、知識|階級層《カースト》や女王たちを殺すことはできないはずだ──地中推進式の水爆を使って直撃弾をくわえても、女王いっぴき殺せるかどうか疑わしいものだ。おれたちは、やつらがどの程度の深さまでもぐりこんでいるものやら、見当がつかないんだ。また知りたいとも思わない。とにかくあの穴をもぐっていった兵隊で、地上にもどって陽の目を見られたやつは、ひとりだっていないんだ。
だから、かりにクレンダツウの工業地帯にあたる地表を廃墟にしてしまったとしたらどうだ? それでもやつらには依然として、おれたちと同じように、艦もあり植民地もあり、他の惑星もある。そのうえ、やつらの司令部は健在だし──そういうわけで、やつちか降伏しないかぎり戦争は終わらない。そのころおれたちはまだノバ爆弾を持っていなかった。だからクレンダツウを完全爆砕することはできなかった。やつらが、てひどくやられて降伏しないかぎり、戦争は果てしなく続いたのだ。
だいたいやつらが降伏できるのかどうか──
やつらの兵隊にはできない。労働グモは戦えない。とにかくウンともスンとも言わぬ労働グモをボカスカ射ちまくって、時間と弾薬を無駄遣いするだけだ。そして兵隊階級となると、降伏するすべを知らないときている。だが、クモどもがあんな姿をしており、降伏することも知らないからといって、あのクモどもが、ただの阿呆な虫けらだと決めこむようなことをしては大変だ。兵隊グモは頭がよくて、訓練され、やる気充分だ──普遍的なルールからしてだが、クモどものほうから先に射ちだせば、おれたちより上手だ。足を一本、二本、三本と焼き飛ばしても、やつらはまだ攻撃してくる。片側の四本を焼きつくせば、ひっくりかえりはする──しかし、それでもまだ射ちつづけてくるんだ。脳味噌の入っている場所をぶっとばすほかに手はない──そうすると、やつらはめくらめっぼうに射ちまくりながら壁か何かにぶつかってつぶれるまで、おれたちのそばをとっとこ突っ込んでくるのだ。
降下は最初から混乱してしまっていた。五十隻からなるおれたちの艦が、一体となってチェレンコフ推進からぬけ、完全にタイミングを合わせた減速推進に入って軌道に乗り、あらためて編隊を整えるために惑星を一周することなく、整然と編隊を組んだまま予定降下地点におれたちを降下させることになっていた。これが大変なことだということはよくわかる。まったくそのとおりなんだ。だがもし失敗したときは、機動歩兵が大損害を受けるということになる。
おれたちはその点、運がよかった。というのは〈ヴァリイ・フォージ〉と、それに乗り込んでいた海軍の兵隊たちは、おれたちが地面に着きもしないうちにやられてしまったのだ。あのがっちりと組んだ高速編隊のまま(秒速四・七マイルの軌道速度は散歩ではない)〈ヴァリイ・フォージ〉は〈ワイプレス〉と激突し、両艦とも爆発してしまったのだ。チューブから出られたおれたちはまだ幸運だった──艦は衝突したとき、まだカプセルを発射しつづけていたのだ。だがおれは、それに気づかなかった。おれは〈まゆ〉の中にとじこめられたまま地面にむかって落下中だったのだ。おれたちの中隊長は、艦を失ったことを(そして山猫隊の半数も、それとともにだ)知っていたのだと思う。というのは、中隊長は、いの一番に出たのだし、指揮官用回路に聞こえていた艦長と、とつぜん連絡が切れたときわかったはずなのだ。
しかし中隊長に聞いてみるすべもない。なぜなら、かれもまた帰投できなかったからだ。おれにわかりかけていたのは、なにもかも滅茶苦茶になってしまったということだけだった。
それから続く十八時間は、悪夢のようだった。おれには何ひとつはっきり説明できない。ただ、とぎれとぎれに、恐ろしい場面がストップモーションで思い出されるだけで、ほかにはたいして覚えていることがないからだ。おれは、毒グモであろうとなかろうと、昔からクモが大嫌いだ。ただの家グモがベッドにやってきただけで、背筋がぞおっとしてしまう。タランチュラにいたっては、考えただけでも気が遠くなりそうだ。おれはエビ、カニ、そのほかそんな類のものはいっさい食べられない。
はじめてあのクモ野郎の姿にお目にかかったとき、おれの脳味噌は頭から飛び出してしまい、ガタガタ震えはじめたものだ。おれはすでにそいつを殺してしまっているから、もう射たなくてもいいのだと気がついたのは、何秒かたってからだった。そいつは労働グモだったと思う。兵隊グモだったら、はたしてそのとき、まともにわたりあって勝てたかどうかわからない。
しかし、それはそれとして、K9部隊にくらべたら、おれたちは、まだしも良かったほうなんだ。この部隊は、おれたちの全目標周辺に降下し(もし降下が完全に成功していたらの話だが)、ネオドッグは前進し、周辺部を確保する任務を帯びた牽制部隊に作戦情報をもたらすこととなっていたのだ。もちろん、それらカレブ(カレブはモーゼによりカナンにスパイとして送りこまれたヘブライ人指導者の名前)たちは、牙以外に武装なんかしていない。ネオドッグは、聞き、眺め、そして嗅ぎ、かれらが見つけたことを無電で相棒の兵隊に告げるようになっている。ネオドッグの携行するのは、無電と爆弾──重傷を負うか捕虜になった場合、かれ、もしくはその相棒がネオドッグを吹き飛ばしてしまえる自決爆弾だけなのだ。
これら可哀想な犬たちは、敵につかまえられるまで待ってなどいなかった。明らかに、これらの犬のほとんどは、敵と接触するや否や自殺してしまったのだ。ネオドッグたちは、おれがあのクモ野郎どもに感じたと同じに、いやもっとひどい恐怖をおぼえたのだ。近頃のネオドッグには、クモ野郎の姿を見たり、臭いを嗅いだだけでは、気が変になってしまわないで、観察し裏をかくように、仔犬のころから仕込まれているのがあるそうだ。だが、このときのは、そうではなかったのだ。
だが、まずくいったのは、それで全部ではない。どこの隊を取り上げてみたところで、どれもこれも大混乱になっていたのだ。もちろんおれは、何がどうなっているのやらわからなかった。おれはただダッチのうしろにピタリとくっついて、ちょっとでも動くものがあれば片っぱしから射つか焼き払い、穴と見れば間髪を入れずに手榴弾をぶちこんだ。まもなくおれは弾薬や燃料を無駄にしないで、クモどもを殺せるようになった。もっとも、無害なやつとそうでないやつとを見分けることはできなかったが。
兵隊グモは五十匹のうちたった一匹の割合で混じっていた──その一匹がほかの四十九匹を合わせたよりすごいのだ。そいつらが身につけている武器は、おれたちのものより重くなく、そのくせ同じぐらい致命的で──そのうえやつらは、おれたちの強化服を貫き、ゆで玉子を輪切りにするように、おれたちの身体を切り裂いてしまう光線を持っていた。それにやつらは、おれたちよりもずっとうまく協同して行動できるんだ──なぜなら、やつらの〈班〉のことをじっくりと考える脳は、おれたちの手が届かないどこかの穴の底深くに潜んでいるからだ。
ダッチとおれは、ずいぶん長いあいだツイていた。一平方マイルに及ぶ地域をしらみつぶしに歩きまわり、穴を爆弾でふさぎ、地上でうごめくやつは皆殺しにし、緊急事態に備えてできるかぎりジェットを節約しながら行動した。おれたちの目的は、目標全地点を確保し、増援部隊と重火器部隊を大きな抵抗なしに着陸させることにあった。これは擾乱襲撃ではなく、橋頭堡をうちたて確保し、新《あら》手《て》の部隊と重装備部隊に、この惑星全部を手中におさめ鎮圧させるための戦闘だった。
ただ、そうはいかなかったのだ。
おれたちの分隊はよく戦った。だが、場所が違っており、ほかの分隊と連絡がとれず──小隊長も軍曹も戦死してしまったので、おれたちは隊形をたて直すことができなかった。それでもおれたちは一歩も退かず、特殊火器班は強力な拠点を築きあげ、援軍部隊が姿を見せれば、ただちにおれたちの確保した場所を譲りわたす態勢ができていたのだ。
ただその連中は来なかっただけだ。連中は本来おれたちが降下していなければならぬ地点に降下して、手ごわいクモどもに出くわし、かれらなりに苦戦していたんだ。おれたちは連中の顔をいつまでたっても見られなかった。そこでおれたちは、その地点に踏みとどまり、その機会がやってくるたびに負傷者を救出した──そうこうしているあいだに、おれたちの弾薬も跳躍用燃料《ジャンプ・ジュース》も、ついには強化服を動かすエネルギーまで少なくなってきた。おれにはこの戦闘が、二千年も続くのではないかと思われた。
ダッチとおれは、救いを求める叫びに応じて、特殊火器班の位置をめざし、壁にそって走っていった。そのときだった。ダッチの眼の前の地面がとつぜんポッカリとあき、クモが一匹飛びだしたかとみるや、ダッチはばったりと倒れた。
おれはクモに火焔を放射し、手榴弾を投げこんで穴をふさぎ、それからダッチがどうなったかとふりかえってみた。かれは倒れてはいたものの、負傷している様子はなかった。ところで小隊軍曹は、小隊全員の健康状態を監視し、戦死者と、助けがなければ動きがとれず直ちに救出しなければいけない重傷者とを見わけられる。だがこれは、おれたち兵隊だって強化服のベルトについているスイッチを手で動かしてみて同じことができるのだ。
おれが怒鳴ってみても、ダッチは答えなかった。体温は三十七度で、呼吸、脈持、脳波はゼロを示していた──これでは全く処置なしだが、強化服がこわれただけで、中身のほうはひょっとすると無事かもしれない、おれは自分にそう言い聞かせた。やられたのが人間ではなくて強化服だったのなら、体温表示計が温度を示すわけがないということを忘れていたのだ。とにかくおれは自分のベルトから缶切りレンチをつかみだし、あたりに注意しながら、ダッチを強化服から出そうとしはじめた。
そのときおれは、ヘルメットの中に二度と聞きたくもない〈全員呼集《オール・ハンズ・コール》〉の声が響くのを聞いた。
「|逃げられる者は逃げよ《ソープ・キ・ヒュ》! 帰投《ホーム》! 帰投《ホーム》! 救助し帰投! どのビーコンでも聞こえるところへ。六分だ! 全員、戦友を救助。どのビーコンでも帰投! 逃げられる者は逃げよ……」
おれは仕事を急いだ。
ダッチの身体を強化服からひっぱり出そうとすると、頭がすっぽり抜けてしまい、おれはかれを放り出してその場から脱出した。もっとあとの降下だったら、ダッチの弾薬を回収するだけの頭があったろうが、そんなことを考えるにはあまりにもボーッとなっていた。おれはただ、その場から飛びあがり、目指す集合地点ヘ一目散に急行した。
集合地点につくと、もうすっかり撤退してしまったあとで、おれは取り残され捨てられてしまった感じにとらわれた。そのとき再集合音が聞こえてきた。聞こえてくるべきはずの集合音ヤンキー・ドードル≠ナはなくて、おれの知らないメロディシュガー・ブッシュ≠セった。なんでもいい、とにかくビーコンだった。〈ヴァリイ・フォージ〉からのではないだけだ。おれはそいつを聞くなり、残っていた跳躍用燃料をフルに使い──あわや発進というときに飛びのり、そのあとまもなく〈ヴァートレック〉に落ちついたが、あまりのショックで、自分の兵籍番号さえ思い出すことができない始末だった。
この戦闘が「戦略的勝利」と呼ばれるのを聞いたことがある──だが、おれはその場にいた。おれは、恐ろしい敗北を喫したのだと断言する。
おれは六週間後、六十も年をとったような気がしながら、サンクチュアリの艦隊基地で連絡艇に乗りこみ〈ロジャー・ヤング〉へ行き、ジェラル軍曹のもとへ出頭した。おれは穴をあけた左の耳たぶに、骨を一本ぶらさげたこわれた髑髏をつけていた。アル・ジェンキンスもいっしょで、おれと同じ髑髏を耳につけていた。(仔猫《キトン》はとうとうチューブから出られなかったんだ)
山猫隊のわずかな生き残りは、艦隊じゅうに、分散転属させられたのだ。〈ヴァリイ・フォージ〉と〈ワイプレス〉の衝突で隊員の半分を失い、なおまた地上のあの大混乱で死傷者は八十パーセント以上に達したので、軍首脳部は、生き残った隊員でもう一度部隊を再編成することは不可能と決め──解散して部隊記録を軍の公文書保存所に納め、新しいメンバーだが古い伝統のもとにK中隊(山猫隊)を再編成できる日まで待つことにした。
ほかの部隊にも、補充しなければいけない空白になった名簿がたくさんあったのだ。
ジェラル軍曹はおれたちを暖かく迎え、おれたちふたりは艦隊随一≠フ素晴らしい部隊に加わるのだと言ったが、おれたちの耳にさげている髑髏には、いっこうに気がついた様子を見せなかった。その日おそく、軍曹はおれたちを少尉のところへ連れていってくれた。少尉はどちらかというと、はにかみ屋のような微笑を浮かべ、親父のような態度でしばらく話相手になってくれた。おれは、アル・ジェンキンスが金の髑髏をはずしてしまっていることに気づいたが、おれだってそうだった──おれはそのころもう、〈ラスチャック愚連隊〉には髑髏をつけている兵隊なんかひとりもいないことに気がついていたからだ。
〈ラスチャック愚連隊〉の連中が髑髏をつけないのは、何回戦闘降下をやったとかやらないとか、どこに降下したかなどということは問題ではなく、愚連隊の一員であるか、そうでないかのどちらかが問題となるだけなのだ──そして、もしそうでなければ、相手がだれであろうと、かれらは全く問題にしなかったのだ。おれたちは新兵としてではなく、実戦を経験した古兵として加わったので、みんなは疑わしい点もすべて割引きして考えてくれ、ファミリーの一員でない客に対してだれもが示すあの形式ばったわけへだてをせずに、はじめからおれたちを歓迎してくれたのだ。
そして、一週間とたたないうちに、おれたちはみんなといっしょに戦闘降下をおこなった。そのときにはもう、おれたちは押しも押されもしない愚連隊のファミリーの一員で、おたがいの名前をファースト・ネームで呼びあい、時には血をわけた兄弟にも劣らぬ親しさで口喧嘩をしたり、気安く貸し借りもし、男同士のざっくばらんな話し合いや、馬鹿げた意見を完全に自由に言うことができるようになり、すっかり打ちとけてみんなをどやしつけたりできるようになっていた。おれたちは下士官でさえも、きびしい勤務中以外はファースト・ネームで呼んだ。もちろんジェラル軍曹はいつだって勤務中だったが、休暇のとき地上で出会ったりする場合はまた別で、こんなときには「ジェリー」であり、かれらが〈ラスチャック愚連隊〉で見せる神さまのような階級は、すっかり影をひそめてしまうのだった。
ただし、少尉だけはいつも「少尉どの」だった──絶対に「ミスター・ラスチャック」とも「ラスチャック少尉どの」とさえ呼ばなかった。直接に話しかけるときでも、かげで噂するときでも、単に「少尉どの」だった。少尉のほかに神はなく、ジェラル軍曹はその予言者だった。少なくとも、ジェラル軍曹が本人の意見として「ノー」と言ったときは、ほかの下士官たちにとって、その問題にはさらに論議の余地があるということなのだが、もしかれが「少尉どのは、それをお好みにならんだろう」と言ったら最後、もはや軍曹は権威《エクス・カシードラ》をもって話をしているのであり、その問題は二度とぶりかえされることはないのだ。本当に少尉がそれを好まないかどうかなどということを、だれひとり詮索しようとしたものもいない。〈みことば〉はまさに語られたのだ。
少尉は、おれたちに父のように接し、おれたちを愛し、おれたちを甘やかしたが、それにもかかわらず、艦に乗りこんだおれたちからは上陸したときでさえ──かけ離れた存在だった。降下によって土を踏んだときは別としてだが。でも、降下するときは──そう、いくら士官だって、百平方マイルの荒野に散らばった小隊のひとりひとりに気を配ることは、できっこないと思うだろう。ところが、かれにはできるのだ。少尉には、部下のみんなに細心の注意を払うことができるのだ。どうやって少尉がおれたち全員に注意していられるのか、おれには説明できない。だが大騒動の最中にかれの声は指揮官用回路からとどろくのだ。
「ジョンソン! 六班をしらべろ! スミティが困ってるぞ」
スミスの班長より先に少尉が注意するのを聞くと、まったくほっとするのだった。
それから、まったく絶対に確実なことは、おれたちが生きているかぎり、少尉はおれたち部下を置き去りにして、撤退ボートに乗りこんだりはしないということだ。あの〈クモ戦争〉で、捕虜はでたが、〈ラスチャック愚連隊〉からは、ただのひとりも捕虜になったものはいなかったのだ。
ジェラル軍曹は、おれたちの母親であり、おれたちの身近にあって、おれたちの世話をやき、そして決して甘やかしたりはしなかった。だからといって、おれたちのことを少尉に告げ口したりもしなかった──〈ラスチャック愚連隊〉には、軍法会議なんかあったためしはなく、鞭打ちの刑をくらった兵隊はひとりもいなかった。軍曹は、超過勤務をさえそうたびたびはさせなかった。かれは、おれたちをしぼりあげるのに、もっと効果のある方法を心得ていたのだ。軍曹は毎日の点呼のときに、おれたちを頭のてっぺんから足の先までじろじろながめて、ただこう言うだけなんだ。
「おまえも、海軍に入れば、ちっとはましに見えるだろう。どうして転属を申し出んのだ?」
これで、てきめんに利くのだ。というのは、海軍の連中は軍服のまま眠り、襟から下は絶対に洗ったことがないというのが、おれたちのあいだでの信念になっているからだ。
そうは言っても、ジェリーは兵隊たちにきびしい規律をおしつけようとはしなかった。なぜならかれは、ほかの下士官連中をしごきつづけ、かれらも同じようにすることを期待したからである。おれが加わったころの班長は赤毛《レッド》≠フグリーンだった。二度の戦闘降下も終わり、おれとしては、愚連隊の一員になれたことがうれしくてたまらないときだった。おれはうきうきし、新兵のくせにちょっぴり生意気になって、レッドに言いかえしたものだ。レッドはおれのことをジェリーに言いつけたりはせず、ただおれを洗面所の裏手に引っぱっていき、中ぐらいのこぶをいくつか作ってくれた。そしておれたちは非常に仲良くなったのだ。事実、かれはのちになって、おれを伍長勤務に推薦してくれたのだ。
おれたちは実際には、海軍さんが服を着たまま眠るのかどうか、知る由もなかった。おれたちは艦内のきめられた居住区域から外へは出ないし、むこうもこちらへはやって来なかった。任務があって来るほか、こちらの領分に現われたところで歓迎されるはずがないと感じるようにされていたからだ──つまり人間は、自分の身のほどを守る社会的規準というものを持っているからではないだろうか?
少尉は、艦内の海軍側居住区域にある男性士官居住区に専用室を持っていたが、おれたちは勤務以外でそこへ行ったことなどなかったし、用のあることもめったになかった。だが、歩哨に立つので向こう側に入ることはあった。なぜなら〈ロジャー・ヤング〉は男女混合艦で、艦長と操縦士官が女性であり、ほかの海軍の兵士にも何人か女性がいたからである。三十号隔壁から前は婦人居住区《レディズ・カントリー》で──武装した機動歩兵がふたり、そこのドアに夜も昼も立哨していた。もちろん戦闘配置につくと、そこのドアはほかのすべてのドアと同じくかたく閉ざされ、立哨要員といえども降下を免れることはなかったのだが。
士官たちは、勤務によるときは三十号隔壁の向こうへ行ける特権を与えられていたし、うちの少尉どのも含めてすべての士官は、その隔壁のちょっと向こうにある男女共用の食堂で食事をした。だが士官たちは長居したりはしなかった。かれらは食事をし、そして出るだけだ。ほかの小型輸送艦ではやりかたか違っていたかもしれない。だが〈ロジャー・ヤング〉でのやりかたはそうだった──少尉どのとデラドリア艦長はふたりとも、厳正な規律をもった艦を望み、それを得たのだ。
とはいうものの、立哨勤務はひとつの特権だった。腕を組み、足をひろげ、考えるともなくただぼんやりと例のドアのそばにつっ立っているのは楽なことだったし……たとえ、任務以外に女性と口をきいてはいけないとはいえ、いついかなる瞬間に女性が現われるかもしれないと、ほんわかした期待に胸をときめかせているのだ。おれも一度など、ずっと遠く艦長室まで呼ばれ、彼女に言われた──おれをまっすぐ見つめて、彼女は話しかけたものだ。
「これを機関長に待っていってちょうだい」と。
おれが輸送艦に乗っているときやる毎日の仕事は、洗濯掃除のほか、第一分隊長である〈神父《パドレ》=rミリアッチオの厳重な監督下で電子機械を手入れすることで、これはカールに見られながらよく仕事をしたときと全く同じだった。降下はそうやたらにあるわけじゃなかったが、だれもか毎日働いたんだ。何ひとつ取柄のないやつは、のべつまくなし隔壁を磨いていたが、ジェラル軍曹の気に入るように、すっきりときれいになったことは、ついぞ一度もなかった。
おれたちは、機動歩兵のルールに従ったんだ。だれしもが戦い、だれもが働くのだ。さて、おれたちの最初のコックは第二分隊長のジョンソンだった。ジョージア出身(西半球にあるやつで、もう一方のやつではない)の気のいい大男で、最高に腕のいいコック長だった。だがかれは、おれたちをうまく誘惑することも達者だった。間食が大好きで、ほかの連中だってそうしてはいけない理由はないと思っていたんだ。
神父がひとつの分隊を指揮し、コック長がもうひとつの分隊を指揮し、おれたちは身心ともに至れり尽くせりの世話を受けていたわけだ──だが、もしこのふたりのうち、どちらかがやられると仮定してみたら? どちらを選ぶんだ? 微妙な点だ。おれたちは、決して結着をつけようとはしなかったが、いつも話の種にできることだった。
〈ロジャー・ヤング〉は忙しかった。そしておれたちは数多くの降下をしたが、みな異なっていた。降下の方式《パターン》を敵に知られてしまわないように、降下は一回ずつ違っていなければいけなかったのだ。そしてもう協同した戦闘はおこなわれず、おれたちは単独行動で、偵察し、蹂躙し、不意討をくらわせた。真相はそのころ、地球連邦軍に大々的な戦闘をおこなう能力がなかったからだ。|虫の巣作戦《オペレーション・バグハウス》の失敗で、あまりにも多数の艦船と、それよりも痛い、大勢の熟練した兵隊を失っていたからだ。いまはただ、傷の癒えるのを待ち、新兵をもっと訓練するのに時間をかけることが必要だった。
そのあいだ、小型で足の速い艦、つまり〈ロジャー・ヤング〉やその他のコルベット艦は、すぐどこにでも出現し、敵を混乱させ、損傷を与え、撤退を続けていた。おれたちのあいだにも死傷者はあとを絶たず、カプセルを補給しにサンクチュアリ基地にもどっては、その欠員を埋めた。おれは降下のたびに、相変わらずあの震えがきたが、実際の戦闘降下はそうやたらにはおこなわれず、またそう長いあいだ降りていることもなかった──そしてそのあいだには、愚連隊員たちの艦内生活が何日も何日も続くのだった。
おれは自分ではっきり意識したことは一度もなかったが、このころが、おれの人生で最も幸福な時期だった──だれもかれもがやっていたように、おれも年がら年じゅう、ぶうぶう不平を言いながら、結構それを楽しんでいたのだ。
少尉どのが戦死されたときまで、おれたちは実際に傷ついてはいなかったのである。
ふりかえってみると、そのときは、おれの一生を通して最悪のときだったと思う。おれは、個人的な理由からも、すでにみじめな気持ちに打ちひしがれていた。あのクモどもが来襲してきたとき、お袋はブエノス・アイレスにいたことがわかったのだ。
それを知ったのは、カプセルを補給しにサンクチュアリにもどってきたときで、おれたちに郵便物が届いていたのだ──エレノア伯母さんからの手紙で、マークをつけるのを忘れたもんだから、無電ですぐ送られてこず、手紙そのものがやってきたのだ。そのうちの三行が、ひどいことだったのだ。なぜかエレノア伯母さんは、お袋の死をおれの責任のように責めているようだった。おれが軍隊にいるのに、その来襲を防げなかったからおれの罪だというのか、それともおれがいるべき家庭にいなかったので、お袋がブエノス・アイレスヘ旅をしたと思っているのか、どうもはっきりしない文面だった。伯母さんは、同じ言葉の中に、どちらともとれる意味のことを書いていた。
おれはその手紙を引きちぎって、忘れてしまおうとつとめた。おれは両親とも死んでしまったのだと思った──親父はそんな長旅に、お袋をひとりきりで発たせたりは決してしなかったからだ。エレノア伯母さんの手紙にそうは書いてなかったが、いずれにしたところで、書こうともしなかったろう。伯母さんの愛は、ひたむきに妹ひとりだけに向けられていたのだから。おれの勘は、ほとんど合っていたんだ──あとでわかったことだが、親父はやはりいっしょに行くはずだったのだが、何かの用事ができて、それをかたづけるのに一晩おくれ、あくる日追いつくことにしたのだ。しかし伯母さんの手紙はそのことには触れていなかった。
二時間ほどのち、おれは少尉に呼ばれて、艦が次の出撃をしているあいだ、サンクチュアリで休暇をとったらどうかとひどく優しく言われた──休暇がだいぶたまっているから、すこし使ったほうがよくないかと。どうして少尉がおれの家族のことを知っているのか見当はつかないが、とにかく少尉は、はっきり知っていたんだ。おれは、結構です少尉どの、と辞退した。おれは、戦友たちみんなと休暇をとれる日まで待つほうを選んだのだ。
おれはそうしたことがうれしい。もし休暇などとっていたら、少尉が戦死されたとき、いっしょにいられなかっただろう……そんなことはとても我慢のできないことだ。それは、あっというまに、撤退直前におこったのだ。第三班の兵隊が負傷して、重傷ではなかったが倒れ、分隊長補佐が救出に走りよった──そのとき、かれも小さいのを一発くらった。例によって少尉はすべての事態を同時に注視していたのだ──もちろん、遠隔制御《リモート》でふたりの身体状況をチェックしたことは間違いないが、いまとなっては知る由もない。少尉のやったのは、分隊長補佐がまだ生きているかどうかを、はっきりと確かめることだった。それから自分でふたりをかつぎあげた。強化服の両手にひとりずつ抱いたのだ。
少尉は最後の二十フィートのところで、ふたりを投げ、ふたりは撤退用小宇宙艇に入れられ──ほかの全員も収容されて、防御幕が消え、なんの遮蔽物もなくなった瞬間、かれは直撃弾をくらって即死した。
その兵隊と分隊長補佐の名は、意識してあげまい。少尉どのは、最後の息を引きとる瞬間まで、おれたち全員を助けだそうとされたのだ。だれであったかということは問題ではない。問題となるのは、おれたちのファミリーが、その頭を落とされてしまったということだ。その名前をおれたちの隊につけた家長を、現在のおれたちを作りあげたその父を、失ってしまったのだ。
少尉がおれたちから永久に去っていってしまったあと、デラドリア艦長は、ジェラル軍曹に、ほかの部門の長といっしょに前部の食堂で食べるようにと招待した。だが軍曹は丁寧に断った。かたくなな後家さんが、お父さんはちょっと出ていっただけで、いつもどってくるかわからないんだよというように振舞いながら、その家族をがっちりとひとつににぎっているのを見たことがあるだろうか? それがジェラル軍曹のやったことだった。かれはおれたちに対して、以前より心持ち厳格になった。そしてかれが、「少尉どのはそんなことをお好みにならんだろう」などと言わなければいけないときは、だれだって、いても立ってもいられない思いがしたものだ。だが軍曹は、やたらにその文句を使いはしなかった。
かれは、おれたちの隊の戦闘編成をほとんど変わらぬままに置いた。全員をあちこち動かしたりせず、第二分隊長補佐を名義だけ小隊軍曹の地位に引き上げ、分隊長たちはその必要とされるままの位置に──かれらの分隊に──残し、それからおれを伍長勤務の班長補佐から、正規の伍長で多分に飾り物的な分隊長補佐に昇進させた。そしてかれは、少尉どのはちょっと姿を消していられるだけで、自分はいつものように、少尉どのの命令を中継しているだけだ、というように振舞った。
それがおれたちの、せめてもの救いとなった。
[#改ページ]
11
[#ここから4字下げ]
血と労苦と涙と汗のほか
予は捧げるべき何物をも持たぬ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──W・チャーチル
[#地付き]二十世紀の兵士・政治家
おれたちが〈痩せっぽちども〉を襲撃してから艦にもどってくると──ディジー・フロレスが戦死し、ジェラル軍曹がはじめて小隊長として降下した戦闘だ──艦の砲手のひとりが、銃器の手入れをしながら、おれに話しかけた。
「どうだった?」
「いつもと同じさ」
おれはそう短く答えた。その砲手は親切気から声をかけてきたのだろうが、おれとしては、いろいろな気持ちがこんがらがっていて話をする気にはなれなかったんだ──ディジーのことを思うと悲しかったし、また、とにかくかれを救出したことはうれしかったし、その救出が無駄になったことを思うと胸がはりさけるようだった。そのすべてのことが、失敗したものの、また艦にもどれ、手足がまだ無事にそろっていて動かせるとわかったときの嬉しい気持ちと、こんがらがっていた。それに、一度も実際に降下したことのない相手に、どうやって説明するんだ?
砲手は言った。
「ほう……おめえときたら、まったく気楽でうらやましいよ。三十日間もぶらぶらしていてよ、たった三十分も働きゃ用が足りるんだからな。おれを見てくれ、三交替で当直だ、すぐ番がまわってくるんだぜ」
おれはうなずいて、そっぽをむいた。
「ああ、お察しするよ。おれたちは、生まれながら運がいいときてるんだ」
そいつは背後から言った。
「まあせいぜいのんびりしてろよ」
それにしても、その海軍の砲手が言ったことは、当たらずといえども遠からずなのだ。おれたちカプセル降下兵は、機械化された初期の戦争時代における飛行士に似ている。忙しい軍隊生活を長いあいだおくるうち、敵に直面して実際に戦闘するのは、わずか数時間。そのあとは、訓練、準備、出動──そしてもどってくると、やられたところを直し、次の出動準備をし、そのあいだは訓練、訓練、訓練だ。
それから三週間というもの、おれたちはただの一度も降下しなかった。別の恒星のまわりをまわっている別の惑星──つまり、クモ野郎どもの植民地へはなおさらのことだ。チェレンコフ推進によっても、恒星と恒星のあいだは遠く離れすぎているのだ。
そのあいだにおれは、ジェリーに任命され、デラドリア大尉の認証を得て、伍長の金筋をもらい、下士官の欠員を埋めることになった。理論上は、艦隊の機動歩兵部隊人事局がその欠員を埋めることを承認するまで、この階級は確定的なものではない。だが、犠牲者の割合がそんな有様だったので、欠員を埋められる生身の人間よりも、常に欠員のほうが多かったのだ。ジェリーがおれは伍長だといったときから、おれは伍長となったのだ。あとのことはお役所仕事っていうやつだ。
しかし、さっき砲手がおれたちのことを「ぶらぶらして」と言ったのは、当を得ていない。降下の合間には、火器・特殊兵器はいうに及ばず、五十三着の強化防護服の点検・手入れ・修理の仕事がある。時にはミリアッチオが強化服を詳しくしらべ、障害を見つけだしでもしようものなら、ジェリーがこれを確認し、艦の兵器係技術士官、ファーリー少尉が設備不足のために修理できないと決める──そうなると、新しい強化服が倉庫から引っぱり出されることになるのだが、これをコールド=Bホット≠ノするのには、こいつを着せる人間にあわせる時間を勘定にいれないでも、がっちり二十六|人時《マン・アワー》という実働時間が必要だ。
おれたちは忙しく働きつづけたのだ。
とはいっても、おれたちには楽しみもあった。〈|西洋すごろく《エーシーデューシー》〉から〈名誉分隊《オナー・スクワッド》〉まで各種の競技がいつもおこなわれていたし、ジョンソン軍曹のトランペットがりードする幾立方光年きっての(たぶん唯一の)最高のジャズバンドが、賛美歌やジャズを、柔らかにまた甘ったるく、場合によっては隔壁の鋼鉄をも引き裂かんばかりに演奏した。
あの|堂々とした《マスターフル》=iというより|洗練された《ミストレスフル》≠ニいうべきか)軌道計算ぬきの緊急撤退ランデブーのあとで、小隊の鍛冶エアーチー・キャンベル一等兵は、艦長のために〈ロジャー・ヤング〉の模型を作り、その台座に以下の文句とともに、おれたち全員の署名を彫刻した。
[#ここから3字下げ]
〈ラスチャック愚連隊〉一同より感謝をこめて、勇敢なる操縦士イベット・デラドリア艦長に贈る。
[#ここで字下げ終わり]
おれたちは彼女を晩餐に招待し、食事のあいだには愚連隊《ラフネックス》・ダウンビート・コンボが演奏し、それから、最年少の一等兵がそれをデラドリア艦長に捧げたのだ。艦長は涙ぐんでその兵隊にキスし──つぎにジェリーにもキスしてその顔を紫色に変色させた。
伍長の袖章をもらったあと、俺はどうしても、エースと片をつけなければいけないことになってしまった。というのは、ジェリーがおれを分隊長補佐としたからだ。これはうまくなかった。人はみな、順を追って昇進しながら、それぞれの職務についていくべきものなのだ。おれの場合は、伍長勤務の班長補佐から伍長で分隊長補佐に飛びあがったりせず、順番どおり班長を務めるべきだったのだ。もちろん、ジェリーは承知のことだし、おれもジェリーが、少尉の生きているときと出来るかぎり同じように小隊を編成しておきたがっているということは、完全にわかっていた──つまりそのためには、班長も分隊長も前のまま変えずに残しておくということだ。
だがこれは、おれにややこしい問題を残すことになったのだ。班長としておれの下に入ることになった三人の伍長は、事実おれより先任の下士官だった──それで、もしジョンソン軍曹が次の降下で戦死でもすれば、おれたちは素晴らしい腕のコックを失うばかりでなく、おれがその分隊を指揮するようになるということなのだ。そうだとすれば、戦闘中ではなくても、命令を出すとき、すこしの疑いもあってはいけない。おれはまた次の降下をすることにならないうちに、万一にも起こりそうなことは、すこしでも解決しておかなければいけなかったのだ。
エースが問題だった。かれは三人の伍長のうちで最先任者であり、年だっておれよりずっと上だったばかりでなく、職業軍人としての伍長でもあったのだ。もしエースが認めてくれさえしたら、あとのふたりの班長にはなんの問題もないのだ。
おれは乗艦以来、かれと何ひとつ面倒をおこしたことなどなかった。おれたちが力を合わせてフロレスの救出作業をやってからは、かれは心からおれに打ちとけてもいた。また、おれたちのあいだに、なにひとつ問題がおきるようなこともなかった。艦内の日課の仕事では、なんの面倒もない毎日の人員点呼と立哨勤務の時を別にすると、おれたちがいっしょになることもなかったのだ。だが、なんとなくわかるものだ。エースはおれのことを、命令を受ける上官としては扱っていなかったのだ。
そこでおれは、休み時間中にかれを訪ねた。エースは寝棚にねそべりながら本を読んでいた。『銀河系の宇宙遊撃隊』だ──なかなか面白い話だが、軍隊がそんなに多くの冒険をしながら、まずくいくことがほとんどないというのは、どうもわからない。とにかく艦には結構な図書室があったんだ。
「エース、用がある」
かれは顔をあげた。
「そうか? おれはいま艦にはいないのも同じさ。非番なんだぜ、おれは」
「ちょっと話があってきた。本を下に置けよ」
「なにをそういらいらしてるんだ? いま読んでいる章だけでも終わりまで……」
「おい、やめろよ、エース。やめないなら、おれがやめさせてやろうか」
「やってみろ。なぐり倒してやるから」
エースはそれでも本を置き、坐り直して話を聞こうとした。
おれは言い出した。
「エース、分隊の編成のことだが……あんたはおれより先任だ。あんたが分隊長補佐になったらいいんだ」
「ああ、またそんなことか」
「そうだ。あんたとおれで、ジョンソンのところへ行き、かれとジェリーとで、ちゃんとしてもらいたいと思ってるんだ」
「そうするってのか、おまえが、え?」
「そうだ。そうしなくてはいけないことだからな」
「そうか? おい、ちびっこ。はっきり言ってやる。おれはなにひとつ、おまえに楯つくつもりはないんだぞ。実のところ、おれたちがディジーを救い出したあの日、おまえは張り切っていた。そいつは認めるぜ。だが、班が欲しけりゃ、てめえの班をつくってみるんだな。おれの兵隊に眼をつけるな。いいか、おまえのために、おれの部下はイモの皮もむきやしねえぞ」
「言うことはそれだけか?」
「あとにも先にもこれっきりだ」
おれは溜息をついた。
「こんなことになるだろうと思っていたんだ。だがおれは念をおしてみたかった。よし、決まった。しかし、ひとつ考えたことがある。ちょっと気がついたが、洗面場の掃除をしなくちゃいけないとな……そこで、おれとあんたでやっちまったらいいと思うんだ。そこでと、本は横へおけよ……ジェリーが言ってるだろ、下士官に休みはないって」
エースはすぐにかっとなる男ではない。かれは落ちついてたずねかえした。
「どうしてもそれが必要だと思っているのか、ちびっこ? おれはさっきも言ったとおり、楯つく気なんか、これっぽっちもないんだぞ」
「そうらしいな」
「やれるつもりか?」
「やってみるとも」
「わかった。やってみるか」
おれたちは艦尾の洗面所へ行き、別に必要もなさそうなのにシャワーを使おうとしていた兵隊を追い出して、ドアに鍵をかけた。
エースはたずねた。
「何か条件でもあるか、ちびっこ?」
「そう……あんたを殺すつもりはない」
「よしきた。それに骨を折るなよ。とにかく、おれたちのどちらも次の降下にさしつかえるようなことはなしだ……もちろん、あやまってそうなったことなら、仕方ない。異存ないな?」
おれはうなずいた。
「ないとも。あ、ちょっと、シャツをぬいだほうが……」
「血で汚したくなかったらな」
エースは力をぬいた。おれはシャツを脱ぎはじめた。とたんに、エースはおれの膝めがけて蹴りつけてきた。ワインドアップなしに、全くの不意打ちだ。
ただ、おれの膝小僧がそこにはなかっただけだ──おれだって、訓練をつんでるんだ。
本当の戦いというものは普通、一秒か二秒のあいだ続くだけだ。ひとりの人間を殺し、あるいはノックアウトし、あるいはそいつが戦えなくなるような身体にしてしまうのに必要な時間はそれだけだ。しかしおれたちは、生涯なおらぬ傷を与えることは避けようという約束をしていた。このため事情がちがってきた。ふたりとも若いし、コンディションは最上で、高度の訓練をつんでおり、なぐられることには慣れている。エースのほうがでっかいが、おれのほうがちょっぴり手が速いらしい。こんな状態では、どちらかがもう続けられないほど叩きのめされるか──それとも、まぐれあたりでもないかぎり、この情けない仕事を続けなければいけない。だがふたりとも、まぐれ当たりなど出させはしなかった。おれたちは職業人《プロフェッショナル》だし、それに用心ぶかかったのだ。
そんなわけで、長いあいだ退屈な、そして骨の折れる時間が続いた。細かな点は言ってみても無意味だし、それにノートを取っている暇などはなかった。
しばらくたつと、おれは仰向けにぶっ倒れており、エースがおれの顔に水をかけていた。かれはおれをながめ、引っぱりおこして隔壁に押しつけ、じっと見つめてから言った。
「おれをなぐれ!」
「え?」
おれはぼんやりしており、眼の前のものがみなふたつに見えていた。
「ジョニー……おれをなぐれ」
エースの顔が、おれの前でゆらゆら空中にゆれていた。おれは目標をさだめ、どんな栄養不良の蚊でも叩きつぶせるほど、ありったけの力をふりしぼってなぐりつけた。エースの眼は閉じられ、床にくずれ落ちていった。おれもエースのあとを追って倒れてゆきそうになるのを、かろうして支柱につかまって避けた。やがてエースはゆっくりと立ちあがり、首をふりながら言った。
「OK、ジョニー。よくわかった。きさまはもう、おれにでかい口はきかせない……分隊中のだれにもだ」
おれはうなずいた。頭がずきずきした。
「握手するか?」
エースが言った。おれたちは手をにぎりあった。その手がまたなんと、ひどく痛かった。
戦局がどう進展しているかについては、おれたちは現実にその渦中に巻き込まれているものの、おそらくおれたち以外の連中のほうが詳しかったろう。もちろん、いまここで言うのは、クモどもが〈痩せっぽちども〉を通して地球の位置をつきとめて来襲し、ブエノス・アイレスを潰滅させ局地的紛争≠ゥら全面戦争に発展した後の時期のことであり、まだわが軍の態勢が整い〈痩せっぽちども〉が寝返りをうって、おれたちの事実上の同盟者になっていっしょに戦うようになる以前のことだ。月からはある程度有効な牽制作戦がおこなわれたが(おれたちの知らないことだった)、大局的に言って地球連邦は戦争に負けはじめていたのだ。
その事実だって、おれたちは知らなかった。またおれたちは、地球連邦に敵対する同盟をくつがえして、〈痩せっぽちども〉をおれたちの側に引き入れようとする工作が執拗におこなわれていたことも知らず、そのことについて知らされたというのに最も近い場合といえば、フロレスが戦死した出撃に先だって、〈痩せっぽちども〉にはほどほどにし、施設はできるだけ破壊するのだが、避けられない場合のほかは、なるべく住民を殺さないようにと訓示されたことだけだった。
たとえ捕虜になったところで、自分の知らないことを敵にしゃべれるわけはない。どんなに薬を注射され、拷問され、洗脳され、果てしない不眠状態に苦しめられたところで、もともと持っていない秘密をしぼり出すことは不可能だ。だからこそおれたちは、作戦の目的について知っておかなければいけないことだけを教えられるだけだった。
過去において、潰滅し、存在することをやめてしまった軍隊はいくつもあるが、その理由は、兵士たちが戦争の目的と理由を知らなかったからであり、そのために戦う意志がなくなってしまったからだ。だが、機動歩兵にこんな弱点はない。まず第一に、おれたちはみなそれぞれ、良きにつけ悪しきにつけ、各自が何かしらの理由を持った志願兵だ。そしていまは、おれたちは機動歩兵だからこそ戦っているのだ。おれたちは、軍人精神《エスプリ・ド・コール》を持ったプロだ。おれたちは〈ラスチャック愚連隊〉であり、よりすぐった精鋭の全機動歩兵部隊でもピカ一のすごい部隊なのだ。おれたちはカプセルに乗りこむ。それはジェリーが、そうする時だぞとおれたちに言うからであり、地上におりると戦う。それが〈ラスチャック愚連隊〉のやるべきことだからだ。
おれたちは、負けかかっているということを、丸っきり知らなかった。
あのクモどもは卵を生む。やつらは卵を生むだけじゃない。そいつを貯蔵庫に入れておいて、必要に応して孵化させるのだ。おれたちが兵隊グモを一匹──千匹、いや一万匹殺したとする。おれたちが基地に帰りつかないうちに、もうちゃんと代わりが孵化しているのだ。もしその気になるなら、想像してみるがいい。クモどもの人口調整係の監督かなんかが、穴ぐらの底のどこかへ急いで電話しているところを。
「ジョー、一万人分の兵隊をあたためてくれ。水曜日までに使えるようにして欲しいんだ……それから技術屋さんに言ってくれ。予備の孵化器も動かせるようにしろ、N、O、P、QとRをってな……注文はふえる一方らしいぜ」
本当にこのとおり連中がやっているかどうかは、あてにならないが、結果はどうせそういうことなのだ。だが、やつらが、蟻や白蟻のように、全く本能だけで行動していると考えるような過ちを犯してはいけない。やつらの行動ときたら、おれたちと同じぐらい知的だし(まぬけな種族は、宇宙艇を作ったりしないものだ)、おれたちよりずっと団結している。おれたちが、兵隊をひとり訓練し、戦友とうまく協同して戦えるようにするには、最低一年はかかる。ところが兵隊グモとなると、いとも簡単に孵化しただけで、こんなことはできるのだ。
おれたちが、機動歩兵ひとりの犠牲において千匹の兵隊グモを殺したときは、いつだって、クモどものほうがかけねなしに勝利を得ていることになる。全体的な共産主義というものが、進化により実際的に適応された人々によって使われたとき、どれほど効果的なものであるかということを、おれたちは高い代価を払って学んでいたのだ。クモの人民委員どもは、味方の兵隊グモを消耗することを、おれたちが弾薬を使うときに注意するほども、気にしない。おそらくクモどもについてのこういうことは、中国《チャイニーズ》ヘゲモニーが露英米連合《ラッソ・アングロ・アメリカン・アライアンス》に与えた痛恨事に注意することによって、前もって想像できたはずなのかもしれない。しかし〈歴史から学ぶ〉ことでの難点は、おれたちはだいたいが、こてんぱんに叩きつけられたあとになってから、そういったことをよく学べるということだ。
だがおれたちだって、だんだん利口になった。クモどもとのたびたびの戦闘によって、技術的な指示と新しい戦術要項が決定され、全艦隊に普及された。おれたちは、労働グモと兵隊グモを識別する方法をおぼえた。時間さえあれば、やつらの背中の甲の形で判断できるが、手っとり早い方法はこうだ──すなわち、そいつが向かってくるようなら、そいつは兵隊グモで、そいつか逃げだすようなら、そいつに背を向けても安全だ。
おれたちは兵隊グモに対してさえも、自衛のため以外には弾薬を浪費しないことをおぼえた。その代わりに、おれたちはやつらのねぐらを狙ったのだ。穴を見つけ、なによりもまずガス弾を投げこむ。そいつはゆっくりと数秒後に爆発して油性の液体を出し、これが気化しておれたちには無害だが、クモどもの神経に作用する空気より重いガスになり、どこまでも沈下してゆく──そこでおれたちは、次に高性能手榴弾で穴の口をふさいでしまうというわけだ。
ガスが果たして女王グモを殺せるところまで深く沈下していったかどうかは、未だにおれたちにはわからないが──やつらが、この戦術を嫌がっていることはわかった。この点は、おれたちの情報部が〈痩せっぽちども〉を通じ、あるいは、やつら自身の背後にもぐりこませてあるものから入手する情報の両方で、はっきりしていた。また、おれたちはこの方法で、やつらのシオール惑星植民地を完全に一掃してしまったのだ。やつらが女王や参謀どもを疎開させることはできたかもしれない──が、とにかくおれたちは、やつらを痛めつける方法を知りはじめたのだ。
だが愚連隊に関する限り、これらのガス弾攻撃は単にもうひとつの訓練にすぎなかった。命令により、機械的に、急いでおこなわれる訓練だ。
そのうちおれたちは、またカプセルを補給しにサンクチュアリ基地にもどらなければいけないことになった。カプセルは消耗品だから(そう言えば、おれたちだってそうだが)、なくなったら補給しに基地へもどらなければいけない。かりにチェレンコフ推進装置に、銀河系を二回もまわれる余裕があるとしてもだ。このすこし前に、ジェリーを、ラスチャックのあとを襲って少尉に進級させる旨の電報が来た。ジェリーはそれを伏せておこうとしたが、デラドリア大尉はそれを告示し、それから他の士官たちといっしょに前部の食堂で食事をとることを求めた。それでもジェリーは、それ以外の時間はもとどおり船尾ですごしたのだった。
そのころまでにもうおれたちは、かれを小隊長として何度も降下を経験し〈少尉どの〉なしでやっていくことに慣れてきた──少尉どののことを思うとまだ胸が疼いたが、しだいに当たり前のようになっていった。そしてジェリーが任官されたあと、おれたちのあいだでは、他の隊と同じように、もうそろそろおれたちの隊も、ボスの名前をつけるころではないかということが、しだいに話しあわれ相談されはじめた。
ジョンソンがいちばんの先任なので、その話をジェリーに言いに行った。かれは、元気をつけるためか、おれをいっしょに連れていった。
「何か用か?」
ジェリーは、唸るように言った。
「ええ、軍曹……いや、少尉どの、われわれは考えたんですが……」
「何を?」
「つまり、みんなが相談したんですが、つまりですな……その、われわれの隊名を……〈ジェリー豹隊《ジャガーズ》〉としたらどうかと……」
「そんなことか。ところでその名前に賛成したやつは何人だ?」
ジョンソンはあっさりと言った。
「全員です」
「なるほど。五十二人がイエスで……ひとりがノーだな。よし、ノーが有力、否決だ」
それっきり、だれもこの問題を持ち出そうとするやつはいなかった。
この一件のすぐあと、おれたちはサンクチュアリの周囲の軌道をまわっていた。おれはサンクチュアリに着いたのがうれしかった。機関長がへたにいじくりまわしたので、到着前のまるまる二日間というものは、艦内の擬重力場が断たれ、おれの大嫌いな自由落下の状態だったからだ。おれは絶対、本物の宇宙飛行士《スペースマン》にはなれそうもない。足の下に土を踏まえている感じのほうが好きだったのだ。全小隊は十日間の休暇とリクリエーションを過ごすことになり、基地の宿舎に移った。
おれは、サンクチュアリの座標も、名称も、その惑星がまわっている恒星のカタログ番号も名前も、一度だって教わったことがなかった──それは、知らないことを言えるはずがないからだ。その位置は、超最高秘密事項《ウルトラ・トップ・シークレット》で、わずかに艦長と操縦士たちが知らされているだけであり……その連中は、捕虜になることを免れるために必要な場合は、自殺するように命令され、しかもそのように催眠暗示をかけられているそうだ。だから、おれは知りたいとは思わない。月基地が奪われ地球自体が占領されてしまう可能性があるので、災厄が地球に及んでも無条件降伏しなくてもいいように、地球連邦は、できるかぎりサンクチュアリを太らせておこうとしていたのだ。
だがおれは、そこがどんな惑星だかってことを言うことはできる。地球に似てはいる、だが遅れたところだ。
文字どおり遅れている。十歳にもなるのに、やっとバイバイができるだけで、いつまでたってもみんなと遊戯ひとつできない子供のようなものだ。そこは、ふたつの惑星が似ているという限りでは、およそ地球によく似た惑星で、惑星学者によれば同じぐらいの年齢であり、その属する恒星も太陽と同じ年齢で同じタイプであると、天体物理学者は言っている。植物相も動物相も豊富だし、大気も地球のそれとそっくりだし、気候だって変わりがない。それに手頃な大きさの月もちゃんとあるし、地球独特の潮の干満もおきるのだ。
このように、あらゆる点で申し分ないのだが、まだまだ出発点から前進できないでいる。つまりそこには突然変異《ミューテイション》がほとんどおこらないのだ。地球のように、高度の自然放射能を享有していないからだ。
そこにある典型的な、最も高度に進歩した植物というと、非常に原始的な巨大な羊歯《しだ》である。最高の動物というと群体《コロニー》を作るまでには進歩していない原始的な虫けらに過ぎない。地球から移されてきた動物相、植物相は別だ──地球から来たそれらは、原生の動植物を押しのけて繁殖しつつある。
放射能の欠如と、それに伴う不健康なまでの低い突然変異率によって、その進化発達はおさえられ、サンクチュアリにもとからある生命形態は進化する機会もろくに与えられず、競争するのに適さない。かれらの〈種のパターン〉は比較的長いあいだ固定されていて融通がきかない──いいカードを手に入れる望みもなく未来永劫、何度も何度も同じトランプ遊びをくりかえすことを強制されているようなものだ。
原生の生物同士で競争しあっているかぎり、なんということはない──いうなれば、馬鹿の中に馬鹿がいるようなものだ。ところがひとたび、高度の放射能のある惑星で進化し激烈な生存競争をおこなってきた生物が持ち込まれると、原生の生物はまったく歯が立たないのだ。
さて、いままで述べてきたすべてのことは、高校程度の生物学でも完全にはっきりしていることだが……おれにこの話をしてくれた研究所のおでこが高く禿げあがった男は、おれの思いもよらなかったことを言いだした。
サンクチュアリに植民した人類はどうなのか、ということだ。
おれのような通りすがりの客ではなく、サンクチュアリに住んでいる移住者たちのことだ。その多くはそこで生まれ、その子孫たちはそこに住み、何代にもわたってそこで生活し続けるとしたら──そういった子孫はどうなるのか? 放射線にさらされなくても、人間にはなにひとつ害などない。それどころか、実際には少しばかりだが、より安全だ──白血病とある種の癌は、サンクチュアリではほとんどと言っていいほど見かけられない。それは別としても、実利的な面からいうと、これがまた現在のところでは、ことごとく好都合にいっているのである。かれらが畑に地球の小麦を植えると、雑草をとる必要さえないのだ。地球の小麦が原生の植物を駆逐してしまうからだ。
しかし、これら移住者たちの子孫は進化しない。するにしても微々たるものだ。この学のある男の説によると、他の原因──新しい移住者による新しい血の導入、すでにかれらが持っている〈種のパターン〉のあいだでの自然選択などによっての突然変異を通じて、多少の進化はあり得るだろう──だがその程度は、地球その他の普通の惑星における進化の率とくらべると、実に小さなものだ、ということである。すると、どういうことになるんだ? かれらは現在の状態のまま凍りついたようにとどまりつづけ、その間、人類のほかの連中はかれらを追い越し、とどのつまりは、宇宙船に乗せられたピテカントロプスのような場違いな生きた化石になってしまうというのだろうか?
それともかれらは、子孫の運命を恐れて、定期的にX線の照射を受けるとか、毎年計画的に、大量の汚れたタイプの核爆発をおこして、その大気を死の灰の貯水池にでもしようとするのだろうか? もちろん、かれら自身に直接及ぼされる危険は認めるものの、かれらの子孫の利益のために、突然変異の発生をうなかす適当な種の遺産を供給するのだ。
この男は、おそらくかれらは、何の手段も講じないだろうと予言した。人類はあまりにも個人主義的、自己中心的すぎて、遠い未来の世代をそんなに心配するようなことはしないというのだ。かれは言う。放射能の不足による遠い未来の世代の種の貧困など、現在の人間のほとんどが、まったく心配できないことだ。そして、もちろんこれはあまりにも遠い未来における脅威であり、地球上でさえも進化というものは実にゆっくりしたものだし、新しい種族の進化ということは、何万年もの年月がくりかえされるあいだのことだろうからというのである。
おれにはわからない。これからの一生だって、おれ自身何をするものやら見当もつかない。そのおれが、知らない連中ばかりの植民地がどうするものやら、予言できるはずはない。だがこれは確信できる。それは、サンクチュアリが、おれたち人類かそれともクモどもによって、りっぱに栄えていくだろうということだ。ひょっとすると、他の生物によってかもしれないが。それは、この世の楽園《パラダイス》となる条件を備えており、銀河系宇宙のはずれのほうにはほとんどない理想的な土地として、困難に立ちむかっていくだけの資格に欠けた原始的な生命形態の所有にまかせておくわけにはいかないということだ。
すでにサンクチュアリは楽しい場所になっており、何日かの休暇を過ごすには、いろいろな面で地球のほとんどの場所よりもましだ。二番目に、ここには百万人以上という大変な数の民間人が住んでいるが、民間人として見るかぎりは、悪い連中ではない。かれらは戦争中であることをよく知っている。その半数以上が、基地か軍需産業で働いている。残りの人々は、食べものを栽培し艦隊に売りつける。人はかれらが、戦争におざなりの関心しか持たないが、どんな理由があるにせよ、軍服に敬意を払い、それを着ているおれたちに敵意を持つようなことはしないと言うかもしれない。まったく反対だ。もしひとりの機動歩兵がそこにある一軒の店へ入ってゆくとする。店の主人は「さん」づけにして下にもおかない。本当に心からそう言っているように見えるが、ところがさにあらず、そのあいだに、主人は愚にもつかないものを、べらぼうな値段で売りつけようとするのだ。
それはそれとして、大切なことは、そこにいる住民の半数が女性だということなのだ。
これを心から楽しむためには、長い警戒飛行に出てこなくてはいけない。例の立哨勤務がまわってくる日を待ちこがれる必要があるのだ。六日に二時間、女の声らしい物音を聞くだけのために、背骨を三十号隔壁に押しつけ、聞き耳を立てながら、立ちつくすという特権だ。実際には、野郎ばかり乗りこんでいる艦のほうが楽だろうと思う……だが、それでもおれは〈ロジャー・ヤング〉をとる。おれたちが戦っているその究極の目的が、単に妄想による作りごとではなくて、現実に存在しているのだということを知るのは、楽しいことではないか。
そのうえ、民間人の素晴らしい五十パーセントに加えて、サンクチュアリにいる連邦軍の連中の約四十パーセントは女性だった。以上をすべて合わせると、これまで人類が開発してきた宇宙の中で、最も美しい風景が出現するということになる。
この比べものもない自然の利点を別にしても、兵隊たちのせっかくの休暇を無駄に過ごさせないように、たまげるようなことが用意されていた。たいがいの民間人たちは、仕事をふたつ持っているようだった。かれらはそれぞれサークルを作り、夜どおし起きていても兵隊たちの休暇を楽しいものにしてくれるのだ。基地から町に通じるチャーチル道路の両側には、とにかく使い道もなさそうな兵隊の金を、なんとなく痛痒も感じさせずに使わせてしまうような飲食、娯楽、音楽と三拍子そろったさまざまな施設がならんでいたのだ。
もしこれらのワナを素通りすることができれば──すべての貨幣価値を絞りとられてしまったあとのことだろうが、それでもまだ町の中には、それらとほとんど同じぐらい満足できる場所が方々にある(おれの意味するところは、女の子がいるってことだ)。そこは親切な一般市民が無料で用意してくれているところで──バンクーバーの社交センターのそれと非常によく似かよっているが、こちらのほうがより歓迎してくれるのだ。
サンクチュアリ、特にこの都市、エスプリト・サントは、この上もない理想的な場所に思われたもので、おれは、任期が終わったら、ぜひともここで現地除隊することを要求しようなどと空想したものだ──とにもかくにも、いまから二万五千年もあとのおれの子孫(もしできるとしたらだが)が、ほかの連中と同じように長い緑色の巻き毛を持っていようと、あるいは、おれがむりやり慣らされている装備と同じものしか持っていなかろうと、おれにはどうだっていいことだ。例の研究所に勤めている学者タイプの男が、放射能無しっていう人をおどろかせるような話をしたって、おれはおどろきもしない。おれには(おれのまわりを見まわしたところでは)、とにかく人類が究極にゆきつく頂点に達したとしか思えてならないのだ。
むろん紳士のイボイノシシだって、淑女のイボイノシシに対して同じように感じることは間違いない──だが、もしそうだとすると、おれたちふたりは非常に真面目だったわけだ。
サンクチュアリで命の洗濯をする機会は、ほかにもいろいろとあった。特に、あの痛快だった晩のことは忘れることができない。そのとき、おれたち愚連隊のテーブルは、隣りのテーブルに来た海軍の連中(〈ロジャー・ヤング〉の乗組員ではない)と、いつのまにか仲よく議論を始めた。その論争が白熱して、少々やかましくなった。ちょうどおれたちがいきりたって反撃しようとしたとき、基地のMPが入ってきて、おどかしのビストルをぶっぱなして、おれたちを引き離した。おれたちは家具の代金を払わせられるはめになったが、そのほかには別に何ということにもならなかった──基地司令官は、休暇中の兵隊が〈三十一の大罪〉のどれかを犯さないかぎり、ちょっとした自由は認めておくべきだという見解をとっていたのだ。
宿舎もまた結構な代物だった──おどろくほど素晴らしいものとはいえなかったが、居心地が良くて、一日、二十五時間《ヽヽヽヽヽ》いつでも食堂はひらいており、民間人がすべての仕事をやっていた。起床ラッパは鳴らないし、消燈の合図もない。本物の休暇中なのだから、宿舎へ無理には入らなくてもいいのだ。だがおれは宿舎に入った。清潔で柔らかいベッドが無料で手に入り、せっかくためた給料をもっと有効に使う方法がいくらでもあるというのに、ホテルなどに金を使うなど、まったく馬鹿らしいことのように思えたからだ。それに、毎日の余分の時間がまた申し分なかった。つまり、まるまる九時間を取ったところで、まだ一日ぜんぜん手をつけていないまま残っているのだ──おれはもっぱら|虫の巣作戦《オペレーション・バグハウス》からの睡眠不足をとりもどすことにした。
まったくホテルと同じように快適だった。エースとおれは下士官宿舎の一室をふたりだけで占領した。もう休暇も残念ながらそろそろ終わりに近づいていたある朝、といっても現地時間の昼ごろ、おれがちょうど寝返りをうったとき、エースがおれのベッドをゆすぶった。
「急げ、兵隊! クモの来襲だ!」
おれはエースに、クモにはどうしたらいいかを教えてやった。だがかれは、しつこく言った。
「さあ出かけようぜ」
「ノー・マネーだ」
おれは前の晩、研究所の化学者(もちろん女性で、チャーミングなことは言うまでもない)とデートしたんだ。彼女は冥王星でカールと知り合いになり、カールはおれに、もしサンクチュアリに行くことがあれば、彼女に会ってみたらどうかと手紙で言ってきたことがあるんだ。金のかかる趣味を持ったすらりとした赤毛《レッドヘッド》だった。
どうやらカールはおれのことを、額面以上に金のダブついている男のように彼女に吹きこんでいたとみえて、彼女は昨夜こそ、その地方のシャンペンを試してみる時だときめてしまったのだ。おれはカールの顔をつぶさないように、懐中にあるのは兵隊としての給料だけだってことは口に出さなかった。おれは彼女にシャンペンをおごり、そのあいだ、おれは新鮮なパイナップル・スカッシュと連中が称しているもの(実はそうじゃない)を飲んでいたのだ。あげくの果てが、おれはそのあと歩いて帰らなければいけない破目になった──タクシーは無料ではないのだ。それでも、それだけの値打ちはあった。とにもかくにも金がなんだっていうんだ。
エースはいった。
「くよくよするない……金のことなら任せてくれ。昨夜は運が良くてな、確率ってことを知らない海軍野郎をカモにしてやったんだから」
そこでおれは起きて髭を剃り、シャワーを浴びて食堂にならび──玉子半ダース、ポテト、ハム、ホットケーキ、その他といっぱい食べてから、またぞろ何かを食べに出かけた。チャーチル道路を歩いていったが、暑くてたまらないので、エースは酒場へ入っていった。おれもいっしょに入り、その店のパイン・スカッシュが本物かどうかを試してみた。やっぱりそうじゃなかったが、冷たかった。人間、なんでも手に入れるわけにはいかないものだ。
おれたちは、あれやこれやとお喋りをし、エースはビールのお代わりを注文した。おれは、ストロベリー・スカッシュを試してみた──が、同じことだった。エースはコップの中を見つめていたが、やがておもむろに言いだした。
「おまえ、士官になることを考えてみたことはないか?」
おれは言った。
「え? 気でも狂ったのかい?」
「いいや……なあ、ジョニー。この戦争はだいぶ長いあいだ続きそうだぞ。故郷《くに》のほうじゃあ、みんなにどんな宣伝をやってるか知らんが、おまえもおれも、クモどもはまだまだやめる気なんざないとわかっている。だとするとだな……おまえ、なぜ先のことを考えないんだ? そう、よく言うじゃないか。どうせ楽隊に入るなら、でかい太鼓をかかえて歩くより、棒ふりのほうがましだって」
おれは、いきなり話題が変わり、こともあろうにそんなことをエースの口から聞かされたのであっけにとられていた。
「あんたこそどうなんだ? 士官になるつもりなのかい?」
エースは首をふった。
「おれが? お門ちがいだぜ、坊や……おれには学がないし、おまえより十も年上だ。ところがおまえには、士官候補生の選抜試験を受けるだけの学歴はあるし、知能指数だって高いんだ。職業軍人《キャリアー》の志願をすれば、きっとおれよりさきに軍曹になれるし……それから、あくる日には士官学校ゆきだ」
「さては本当に気が狂ったな」
「おとっつぁんの言うことは聞くもんだ。言いたかないが、おまえときたら、まったく馬鹿で熱心で糞真面目で、部下だっておまえのあとを追っかけて苦しいところへはまりこんでゆくような士官になりそうだ。だがこちとらは……そうだな、生まれついての下士官野郎で、おまえみたいな連中の熱を冷ますのに頃合いな悲観的態度の持主だ。いつかはおれも軍曹ぐらいになり、二十年の現役をつとめあげて除隊し、ちゃんと用意してくれた仕事をもらう……たぶん警官ってとこだな……それから、おれととんとんの、趣味の悪いすてきに太った女房をもらって、鉄砲射ちや釣りでもしながら、なんということなく、くたばってしまうんだ」
エースは、口笛を吹こうとなめかけた唇をまたひらいて続けた。
「だがおまえは……軍隊に残って、おそらく相当な位までのぼり、華々しく戦死し、おれはそれを新聞で読み、えらそうにこう言うんだ……おれはこいつを知っていた。それどころか、おれはこいつに金まで貸してやったもんだ。おれたちは伍長仲間でな……どうだ?」
おれは、のろのろと言った。
「おれは考えてもみなかった……普通に任期だけ務めるつもりだったんだ」
エースは皮肉な笑いを浮かべた。
「志願兵がちかごろ除隊するところを見たとでも言うのか? 二年ですむとでも思っているんじゃないだろうな?」
エースの言うことにも一理あった。戦争が続くかぎり〈期限〉は終わらない──少なくともカプセル降下兵にそんなことはないのだ。少なくとも現在のところ、それは主として心構えの違いだけだ。おれたち〈期限つき〉の志願兵は少なくとも〈短期勤務者《ショート・タイマー》〉のように感じられたし、「このくだらない戦争が終わったときは」などと話しあえたものだ。ところが職業軍人はそんなことは言わない。退役には間があるし──戦死でもしないかぎり、どこへも行くところはない。
いっぼう、おれたちだって、別にどこへも行けるところがあったわけじゃない。だが〈職業軍人〉になり、二十年で終わらなかったとすると……つまり、軍隊にいたくもない男を飼っておく気はないにしても、いざ市民権のことになると、なんだかんだとしぶるかもしれないのだ。
おれはうなずいた。
「二年ではだめかもしれないな……だが、戦争が永久に続くわけでもないし……」
「続かんかい?」
「続くわけがないだろう?」
「それがわかってりゃ、しめたものだが。そんなことは、だれも教えちゃくれんからな。だが、おまえが気をとられているのは、そんなことじゃないだろう。ジョニー、待っている女の子でもいるのか?」
おれはゆっくりと答えた。
「いいや……いや、前にはいたんだが……彼女、このごろは親愛なるジョニーなんて書いてきやがるんだ」
これはいささかオーバーだったが、エースの気持ちをくんで話にアヤをつけてやったのだ。カルメンはおれの恋人ではなかったし、どんな相手にしろ待ってやるようなことはしない──だが、時たま彼女のくれる手紙が「親愛なるジョニー」で始まっていることは事実だった。
エースは分別くさそうにうなずいた。
「よくあるこった。そんな女は、民間人といっしょになって餓鬼でも生んで、日がな一日、ぶうぶう言ってりゃいいんだ。気にするんじゃないぜ、坊や……退役したら、いっしょになりたいって女は、掃いて捨てるほどあるんだから……それにその年ごろになると、おまえも今よりは女を扱うこつを憶えているさ。世帯をもつってことは、若いやつにとっちゃあ災難だが、年とった男にとっては慰めになるんだ」
エースは、おれのグラスを見つめた。
「おまえがその甘ったるい水を飲んでいるのを見ると、気分が悪くなってくるな」
「おれだって、あんたの飲んでいるのを見ると同じように感じるんだぜ」
おれがそう言いかえすと、エースは肩をすくめた。
「だから言ったろ。世はさまざまってこった。もう一度、よく考えてみるんだな」
「ああ」
エースはそのあとすぐ、カード遊びの仲間に加わり、おれにいくらか金を貸してくれ、おれはしばらく散歩することにした。考えをまとめてみたかったのだ。
職業軍人になれって? 例の、士官になるっていう雑音はぜんぜん別にしてもだ、だいたいおれは、職業軍人になりたいなどと思ったことがあったろうか? おれが今までのところやりとおしてきたのは、市民権を取るためではなかったのか。違うのか? それに、もしおれが職業軍人になったとしたら、選挙権を持つ特権からますます遠く離れてしまうことになる。それでは、まるで志願しなかったのと同じことだ……なぜなら、軍服を着ている限り、選挙をする資格はないからだ。もちろん、そうでなければいけない──なぜって、もし愚連隊員に投票などさせたら、どこかの馬鹿が降下をしないように投票するかもしれん。そんなことはできないのだ。
それにもかかわらず、おれは投票権を得るために志願をしてしまったのだ。
そうだったのか?
だいたいおれは、選挙権のことを気にかけたことなどあったろうか? それは、見栄であり、誇りであり、社会的地位だ……市民であるということの。
いや、そうだったのか?
おれは嘘も誇張もなしに、なぜおれが入隊を志願したのか思いだせなかった。
いずれにしても、それは市民であるがための選挙権を手に入れる過程ではなかった──少尉どのは、投票箱に票を入れるほど長く生きていられなかったが、言葉の最も真実な意味での市民だった。少尉どのは、降下するたびごとに〈投票〉をしておられたのだ。
おれだって、そうだったんだ!
デュボア中佐の声が、おれの心の耳に聞こえた。
「市民であるということは、全体は部分より偉大であって……その部分が、全体が生きていけるためには、自らを犠牲にすることを謙虚に誇りとするべきであるという態度であり、心の状態であり、|情緒的な信念《エモーショナル・コンビクション》である」
おれは、自分のただひとつきりの肉体を、「愛する祖国《ホーム》と戦争の荒廃とのあいだに」いさぎよく横たえたいと熱望しているかどうかは、いまもってわからなかった──相変わらず降下のたびごとに震えがきたし、その〈荒廃した〉気分といったらひどいものだった。しかしともかくおれは、最終的にはデュボア中佐の言わんとしていたことを理解した。機動歩兵はおれのものであり、おれは機動歩兵のものでもあるのだ。それが退屈さを破るために機動歩兵がやったというのなら、おれがやったことでもあるのだ。愛国心という言葉の意味は、おれにはちと神秘的すぎるし、スケールが大きすぎる。しかし機動歩兵は、おれの所属するおれの仲間だ。かれらはみな、おれがあとに残してきた自分の家族と同じであり、おれには一度も持つことのできなかった兄弟であり、親友だったカールよりも親しい友人なのだ。機動歩兵から離れたら、おれは迷子になったも同然だ。
だとしたら、それを職業とするのに何をためらうことがある?
わかった、わかった──しかし、士官になるためにあくせく働くという馬鹿らしさはどうだろう? それはまた別のことだった。おれには、エースが言ったように、二十年を軍隊生活に注ぎこんだあとで、やれやれとばかり胸に勲章の略綬をつけ、足にはスリッパをはいているところが眼に見えるようだった……あるいは、晩になると退役軍人会館《ベテランズ・ホール》で同じような連中と昔話にふけるところが。
だが、士官学校か? そのことで仲間たちが集まってざっくばらんな話をしたとき、アル・ジェンキンスが言った言葉が聞こえてくるようだった。
「おれは兵隊だ。兵隊のままでたくさんだぜ! 兵隊でいるあいだは、だれも大して期待をかけたりはしないもんな。士官になりたいやつなんかいるのか? 軍曹にでもだ? 同じ釜の飯を食い、同じところへ行き、同じ降下をやるんだ。だが、心配はなしだ」
アルの言うことには一理あった。こぶのほかに──階級章がおれに何をくれたというのだ? それでもおれは、もし軍曹の階級を与えられるなら、やはり受け取るだろうということがわかっていた。拒絶はしない。カプセル降下兵は、どんなことであれ、決して拒絶したりしない。前進し戦いとるだけだ。士官になることだって同じことだぞ、とおれは思った。
そんなことになるというのではない。ラスチャック少尉がそうであったのと同じような士官に、おれがなれるだろうかと考えるとは、おれはいったい何様《なにさま》のつもりなんだ?
いつの間にか、おれはべつに来るつもりはなかったはずなのに、士官候補生学校のそばまで歩いてきていた。一団の士官候補生たちが練兵場に出ており、まったく基礎訓練の新兵そっくりにかけ回っていた。日射しは暑く、〈ロジャー・ヤング〉の降下室で勝手な議論をするような快適さとはほど遠いように思えた──だがおれは、基礎訓練を終えてこのかた三十号隔壁の向こう側へ自由に歩いていったことはないのだ。
おれはちょっと見物していた。かれらの軍服をとおして汗がにじみ出ていた。かれらが絞られている声が聞こえていた──また軍曹たちにだ。むかしのおれたちと同じことだった。おれは首をふり、そこから歩き去った──
おれは宿舎にもどり、独身将校宿舎へ行き、ジェリーの部屋を見つけた。
かれは部屋の中にいて、両足を机にのせて雑誌を読んでいた。おれはドアのふちをたたいた。かれは顔をあげて唸った。
「え?」
「軍曹……いや、少尉どの……」
「用を言え、用を!」
「少尉どの、自分は職業軍人を志願します」
ジェリーは足を床におろした。
「右手をあげろ」
かれはおれに宣誓させ、机の引き出しに手を入れて書類を引っぱりだした。
すでに、サインだけすればいいように書類は作ってあったのだ。おれはこのことをエースに言いもしなかった。これはどうだ?
[#改ページ]
12
[#ここから4字下げ]
士官が有能であるべきは当然のことである……士官はまた、洗練された作法、細心の礼儀、優秀なるユーモアを持ち、自由なる教育を受けた紳士であらねばならぬ……その賞がたとえ一言の承認であろうとも、部下の功績ある行為を見逃すべきではなく、その反対に、いかなる部下であろうと、些細な過失とて盲目であることは許されぬ。
われらがいまや戦いつつある政治原則が真実であれ……艦艇自体は絶対専制のもとに支配されなければならぬ。
余はいま諸君に非常なる責任のあることを明らかにしたと信ずる……われらは現在、われらの持てるものにて最善を尽くさなければならぬ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──ジョーン・ポール・ジョーンズ
[#地付き]一七七五年九月十四日
[#地付き]海軍反乱参加者委員会に宛てたる手紙よりの抜萃
〈ロジャー・ヤング〉は、カプセルと兵員の両方を補充するため、ふたたび基地へ帰還した。救出を掩護するときにアル・ジェンキンスが戦死し──そのとき神父≠烽竄轤黷スんだ。そのうえ、おれも転属することに決まっていた。おれはミリアッチオのあとをおって、まっさきに軍曹の階級章をつけたが、おれが退艦すると同時にエースが代わってそれをつけるような予感がしていた──それらはたいてい、お飾り的性質のものだということは、おれにもわかっていた。おれの昇進も、士官学校に入校を命じられたおれに対するジェリーのはなむけだったのだ。
とはいえ、それでもおれの晴れがましい気持ちをおさえることはできなかった。艦隊基地につくと、おれは鼻たかだかと風を切って出口の門を通ってゆき、転属命令書にスタンプを押してもらいに検疫係のデスクヘ行った。これがすむのを待っていると、上品な礼儀正しい声が、背後から聞こえてきた。
「ちょっと伺いますが、軍曹どの。いま入ってきたあのボートは……〈ロジャー・ヤング〉からの……」
おれは、話しかけてきたやつのほうへふりむき、小柄でちょっと猫背気味な男の袖をちらりと見て、伍長だとわかった。きっと、おれたちの艦に配属されるひとりに──
「お父さん!」
伍長はおれにとびついてきた。
「ジュアン! ジュアン! ああ、わしのジョニー!」
おれは伍長にキスし、抱きついて泣きだした。たぶん、検疫係の窓口にいた民間人の事務員も、下士官がふたりキスしあうのを見たのは初めてのことだったろう。そいつが眼をむきでもするのに気がついたら、おれはそいつを伸ばしてしまったことだろう。だがおれは、そいつのほうを見もせず、上の空だった。検疫係はおれに、命令書を受け取っていくよう注意した。
そのときには、もうおれたちは鼻をかみ、みんなの見世物になるのをやめていた。おれは言った。
「お父さん、どこか隅のほうへ行って、坐って話しましょう。聞かせてほしいんです。何もかも!」
おれは深く息をして言った。
「お父さんは、てっきり亡くなられたものだとばかり思っていたんです」
「いや。だが、死にかけたことは、一、二度あったがね。ところでおまえ……じゃない。軍曹どのだったな……わしは本当に、さっき降りてきたボートのことを教えてもらわなくちゃあいかんのだ。つまり……」
「ああ、あれですか。あれは〈ロジャー・ヤング〉からきたボートですよ。ぼくはたったいま……」
親父はひどくがっかりしたようだった。
「じゃあ、わしは急がなくちゃいかんな。申告しなきゃあいかんから」
それから親父は、たたみかけるようにたずねた。
「だが、おまえもすぐ帰艦するんだろう、ジョニー? それとも、休暇でももらったのかい?」
「いいえ、そうじゃないんです」
おれはいそいで考えた。まあよりにもよって、なんということになっちまったんだ!
「大丈夫ですよ、お父さん。ぼくはボートの発着時間を知っていますからね。少なくとも、一時間ちょっとあります。あのボートは、そう急いで帰りはしないんです。ボートは、ロジャーがちょうどいいところへまわってきたとき、最小限の燃料でランデブーをすることになっているんです……もしパイロットがつぎにまわってくる時間まで待たなくていいのだとしたら。まず積荷を先に載せなければいけないわけですよ」
親父は半信半疑で言った。
「わしの受けた命令には、とにかく、いちばん初めに降りてきた〈ロジャー・ヤング〉のボートのパイロットヘ、ただちに出頭しろと書いてあるんだ」
「お父さん! どうしてそう規則一点ばりになっていなければいけないんです? お父さんがボートにいますぐ乗りこもうと、ドアが閉まるまぎわに飛びこもうと、あの山のような仕事をさばいている女の子は、何も気にしちゃいませんよ。どっちにしたって、ここにあるスピーカーが、出発の十分前に放送してくれるんですからね、乗りそこなうことなんかないですよ」
親父はおれを、がらんとした隅のほうへ連れていった。ふたりが腰をおろすと、親父はまた言いだした。
「おまえも同じボートに乗るんだろう、ジュアン? それともあとからかい?」
「ええと……」
おれは親父に命令書を見せた。話を打ち明けるには、これがいちばん手っとり早い方法だと思えたからだ。ロングフェローのエヴァンジェリンの話と同じように、会うは別れの始めか──畜生、なんてことなんだ!
一読するなり、親父は眼に涙を浮かべたので、おれは急いで言った。
「ねえ、お父さん。ぼくは艦にもどってくるようにやってみます……愚連隊以外の部隊に行く気はないんです。しかもこんどは、お父さんといっしょなんですからね……がっかりされるのは、よくわかりますが……」
「がっかりなどしていないよ、ジョニー」
「え?」
「うれし涙だよ。わしの息子が士官になるんだ。わしの小さなジョニー坊やが……いや、正直のところ、がっかりもしたな。わしは今日のこの日を待っていた。しかしこうなりゃ、もうすこし待てんこともない……」
親父は泣き笑いのような顔になった。
「おまえは大きくなった。りっぱな若者だ。それにすっかり一人前だよ」
「ええ、そりゃそうでしょうよ。でもお父さん。ぼくはまだ士官じゃないし、ほんの二、三日、ロジャーを留守にするだけかもしれないんですよ。つまり、学校に入っても、すぐに放り出されて帰隊する連中があるって……」
「だまれ!」
「え?」
「やりとおすんだ。放り出されるなんて話は、やめてくれ」
とつぜん親父は、にっこり笑った。
「軍曹にむかっで、だまれと言ったのは、これが初めてだよ」
「うん……ぼく、やってみますよ、お父さん。そしてもし任官できたら、〈ロジャー・ヤング〉に乗組みを志願するけれど、万一……」
言葉はとぎれてしまった。
「いいとも、わかっているさ。欠員がなけりゃ、おまえがいくら望んだって、それは通るもんじゃない。気にするな。もしふたりでいられるのが、いまだけだとしたら、できるだけ有意義にすごそう……わしの血肉をわけたおまえを、どれほど誇りに思っているか……これまでどうだった、ジョニー?」
「うまくやってきましたよ」
おれは、すべてがまずくいってるわけじゃないと考えていた。親父は、ほかのどこの隊へ行くより愚連隊に入るのがいちばん良いんだ。戦友たちはみんなで親父の面倒をみてくれ、死なせないようにしてくれるだろう。そうだ、エースに電報を打たなくちゃあ──親父はおれの身内だってことをみんなに知られたくないだろうが。
「お父さんは、入隊してからどれぐらいたつんですか?」
「一年とちょっとだよ」
「それなのに、もう伍長ですって!」
親父は苦笑いした。
「ちかごろは進級が早くなったんだよ」
理由は聞くまでもなかった。犠牲者だ。次から次へと欠員ができ、それを補充する熟練兵が払底しているのだ。おれは話題を変えた。
「ああ……それはそうとお父さん……そのなんです、兵隊としてはちょっと年がいきすぎてるんじゃないんですか? つまり、海軍とか兵站部とかのほうが……」
親父はちょっと力をいれて言った。
「わしは機動歩兵を志願し、そのとおりになったんだ! それにわしは下士官連中のなかで、特に年寄りというわけでもない……事実、わしより年寄りの連中だって大勢いるんだ。いいかい、わしがおまえより二十二歳年上だからといって、それだけの理由で、わしを車椅子に乗せることはできんのだ。それに、亀の甲より年の功ということだってあるだろう」
そういえば、それもそうだ。ズイム軍曹も、新兵の中から仮の伍長を選ぶときには、いつだって年長者の順に試してみたものだ。そして親父は基礎訓練中に、おれがやったようなヘマはやらなかったに違いない──鞭打ちなんかされなかったんだ。親父はたぶん、訓練終了前からすでに下士官要員としてマークされていたのだ。軍は、中堅幹部に、本当の意味で大人の兵隊を大量に必要としているのだ。軍隊は温情主義的な組織なのである。
おれは親父に、なぜ機動歩兵を志願したのか、また、なぜどういうふうにして、おれの乗っていた艦に配属されるようになったのかも、たずねなかった──おれはただ、そのことを心暖かく感じ、これまで親父がおれに与えてくれたどんな褒め言葉よりも、身にしみてうれしかった。またおれは、親父がどうして軍隊に志願する気になったのかも聞かなかった。おれにはよくわかる気がした。お袋のことだ。親父もおれもお袋のことにはふれなかった──あまりにも苦しいことだったからだ。
そこでおれは、だしぬけに話題を変えた。
「話はもどりますが、お父さんは、これまでどこにいて、どんなことをされてきたんです?」
「ええと、わしはキャンプ・サン・マルタンで訓練を受けて……」
「えっ? キューリーじゃなかったんですか?」
「新しくできたところだ。しかし、規模や設備は変わりないそうだよ。ただ、期間は二カ月ちぢめられた。日曜も休みなしでね。それからわしは、〈ロジャー・ヤング〉に配属を志願した……だが許可されず……マックスラタリー志願兵小隊に入った。いい隊だよ」
「ああ、ぼくも知ってますよ」
その隊も、頑強で不死身で始末に負えず──ほとんど愚連隊に劣らぬ定評だった。
「まったく素晴らしい隊だった、と言うべきだろうな。わしも何回となく降下し、戦友が何人も戦死し、しばらくしてこれをつけるようになった」
親父は階級章を見つめた。
「シオールで降下したとき、わしは伍長になっていたんだが……」
「あそこにいたんですって? ぼくもいたんですよ!」
おれはとつぜん、生まれてこのかた、かつて味わったことのないほど暖かい感情におそわれ、しみじみと親父を身近に感じた。
「知っている。少なくともおまえの隊があそこに参加していたことは知っていた。わしに考えられたかぎりでは、わしはおまえから五十マイルほど北にいた。わしたちは、洞穴から飛びだしてくる蝙蝠みたいに、地面から湧き出してくるクモどもの反撃を、まともにくらったんだ」
親父は眉をすくめて、あとを続けた。
「そこで、戦闘が終わってみると、わしは所属する隊のない伍長になっていた。まともな隊を再編成できるだけの人間は生き残っていなかったんだ。それでわしは、ここへ転属させられてきた。すんでのところで〈キング|アラスカ熊隊《コディアックベアーズ》〉へまわされるところだったのだが、ちょっと人事係曹長に頼みこんでみたら……まるで打ち合わせたみたいに、〈ロジャー・ヤング〉が伍長の欠員をひとりかかえてもどってくるというじゃないか。そこで、ここへ来たってわけだ」
「それで、お父さんは、いつ入隊されたんですか?」
おれは口に出してしまってから、まずい質問をしてしまったもんだと、すぐに気がついた──だがおれは、マックスラタリー志願兵小隊のことから、なんとか話題を離さなければいけなかったのだ。死の部隊にひとり残されてしまった孤児のことは、一刻も早く忘れてしまいたいものなのだ。
親父は静かに言った。
「ブエノス・アイレスがやられた直後だったよ」
「ああ、そうでしたか」
親父はしばらくのあいだ、口をつぐんで何も言わなかった。それから穏やかな口調で言った。
「わしは、おまえにわかってもらえるかどうか確信がないんだが……」
「え?」
「ええと……説明するのは容易じゃないが。やはり、おまえのお母さんを失ったことに大きな関係があった。だがわしはお母さんの復讐のために志願したんじゃない……心の底でそんなことを思っていたかもしれないが。そのことは、おまえがずっとよく考えてくれたことだろうし……」
「ぼくが?」
「ああそうだよ、坊や。わしはいつだって、おまえがやっていることを、お母さん以上にわかっていたんだよ……お母さんが悪いんじゃないがね。お母さんは、小鳥が泳ぎを理解できないのと同じように、おまえを知る機会がなかっただけのことなんだ。わしはあのとき、おまえが自分のやっていたことを理解していたかどうか疑わしかったと言わせてもらうが、それでも、わしには、おまえがどうして入隊しようとしたのかは、たぶんわかっていたんだろうよ。少なくとも、おまえに対して怒った半分は、馬鹿げた反惑だったんだ……それはね、わしの心の奥底で、わし自身がやらなくてはいけないとわかっていたということなんだよ。だが、そうはいっても、わしの入隊した原因は、おまえのことじゃなかった……おまえは単に、わしが入隊しようとするふんぎりをつけさせてくれ、選ぼうとする兵科を決めるのを助けてくれただけなんだ」
親父は、ひと息いれて続けた。
「おまえが入隊したころ、わしは健康状態が思わしくなかった。催眠精神分析医にしょっちゅうかかっていたんだよ……おまえは考えてもみなかったろうが。そうだろ? とにかくわしがひどく満足していない、ということだけがはっきりわかっていた。おまえが出ていってから、わしはすべてをおまえのせいにした……だが、本当の原因はおまえではなく、そのことはわしにもわかっていたし、精神分析医にもわかっていた。たぶんわしは、本当に困難な時代が近づいていることを、ほとんどの人よりも早く嗅ぎつけていたんだろう。わしたちは、非常事態宣言が発せられるまるひと月前に呼ばれて軍需の仕事の入札をさせられたんだ。われわれは、おまえがまだ新兵教育を受けているあいだに、すでに全生産を軍需に切りかえてしまっていた……そのころは、わしも具合が良くなっていた。なにしろ死に物狂いで働いたし、催眠分析医にかかることもできないほど多忙だった。だが、しばらくすると、まずますわしの具合はひどくなってきたんだ」
親父は笑った。
「おまえ、民間人がどんなものだか、わかっているかい?」
「そうですね……同じ調子じゃ話せませんね。ぼくにはわかります」
「そのものずばりの言葉だよ。おまえ、リュートマンの奥さんをおぼえているかい? わしが基礎訓練を終えたあと、数日間の休暇をもらって家へ帰ったときだった。何人かの友だちに会って別れの挨拶をした……その中に彼女もいたんだよ。あの奥さんがおしゃべりをやめて何と言ったと思う……ではほんとに行っておしまいになるのね? よくって、もしファラウェイに行かれることがあったら、あたしの親しいお友だちのリガト夫妻にお会いになってね、きっとよ……わしは彼女に、できるだけやさしく言ってやった……だめでしょうな。ファラウェイは、とっくにクモどもに占領されているんですからな……だがあの奥さん、ちっとも困った様子もなく……ああ、それならご心配いりませんわ。あのひとたち、民間人なんですもの……と、ぬかすんだ」
親父は皮肉そうな笑顔を見せた。
「ええ、よくわかりますよ」
「だが……話を進めさせてもらうよ。ますますわしの具合が悪くなっていったってことは話したね。おまえのお母さんが亡くなったことは、わしに本当にやるべきことを気づかせてくれたんだ……わしとお母さんは、世の中のたいていの夫婦よりも心がかよいあっていたが、それでも、そのことでわしは、何をやろうと自由な身になったんだ。わしは事業をモラルにまかせて……」
「あの年寄りのモラルさんに? あのひとにやれるんですか?」
「できる。というのは、やらなきゃいかんからだ。やれるという自信がなくたって、現に大勢の人がやりとおしているんだ。わしは相当な割合の株をあの男にやって……そう、昔の諺に、豚に真珠という言葉はあるが……わしは残りをふたつにわけ、半分は慈善団体へ、半分はおまえにと信託した。おまえが除隊したくなって事業をやろうというときは、いつでもやれるようにな。その気になればだが。まあそんなことはどうでもいい……わしはやっと、自分の身体の具合が悪い原因がわかったんだ」
親父はちょっと休んでから、ひどく優しい声になって言った。
「わしには、信念に基づいた行為をすることが必要だったんだ。自分が男であることを証明する要求に迫られていたのだな。ただ物を生産し消費する経済的な動物ではなくて……男であるってことを」
そのとき、おれが答えようとするより早く、壁のスピーカーが軍歌をながしはじめた。
「その名ぞ誇り、その名ぞ誇り、われらのロジャー・ヤング!」
そして女のアナウンサーの声が続いた。
「艦隊兵員輸送艦〈ロジャー・ヤング〉の乗員は、ただちにボートに乗船してください。H発進場です。あと九分」
親父はとびあがり、荷物袋をつかんだ。
「わしの艦だ! 気をつけてな、ジョニー……試験には通るんだぞ。そうじゃないと、まだ一人前じゃないってことだ」
「やるよ、お父さん」
「またもどってきたら、会おう!」
親父はそそくさとおれを抱き、急いで走り去った。
司令室の外にある事務室で、おれはボウ軍曹に瓜ふたつの曹長に申告した。片腕がないところまでそっくりだった。けれども、ずっとむっつりしている。おれは言った。
「ジュアン・リコ軍曹、命今によりただいま到着いたしました」
相手は時計に眼をやった。
「おまえの艦は、七十三分前に着いたはずだな? そうだろ」
そこでおれは理由を話した。曹長は唇をひきしめて、おれをためつすがめつじっと見つめた。
「おれは、これまでに、あの手この手の言い訳を聞いてきたが、また新しい文句がふえたな。おまえの親父、本当の親父さんが、おまえが下艦するのと入れちがいに、いままでおまえが乗っていた艦に配属されたというのか?」
「はい、本当です。曹長どの、調べてみてください……エミリオ・リコ伍長です」
「ここでは、士官候補生の申し立てたことを、確かめてみたりはしない。もし嘘だとわかったら、即座に退校させるまでだ。わかった、すこしぐらい時間が遅くなっても、父親を見送るくらいの思いやりのない男だったら、どのみちろくなやつじゃないからな。いいだろう」
「ありがとうございます、曹長どの。では、司令官に申告させていただけますか?」
かれは人名表に印をつけて言った。
「申告はもうすんだ。たぶん、もうひと月したら、十二、三人いっしょに呼んで、会われるだろう。これがおまえの部屋割だ……まず、軍曹の階級章をとれ。だが、とっておくんだぞ。あとで要るようになるかもしれないからな……だが、ただいまから|あなた《ヽヽヽ》は軍曹ではなく、士官候補生となる」
「はい、曹長どの」
「|どの《ヽヽ》をつけるのはやめなさい。|どの《ヽヽ》をつけるのは、わたしのほうだ。|あなた《ヽヽヽ》は好かんだろうが」
おれは士官候補生学校《オフィサー・キャンディデーツ・スクール》について、詳しく説明するつもりはない。それは新兵訓練に似ている。だが、それに本を加えて二乗も三乗もしたものだった。午前中、おれたちは一等兵と同じになって、基礎訓練のときやったのと同じことをやらされ、同じ戦闘訓練をやり、同じように絞られた──またも軍曹連中にだ。午後になるとおれたちは、候補生諸氏であり、〈紳士〉になって、果てしもない学課を勉強し、教えこまれた。数学、理科学、銀河系天文学、稀有元素学、催眠術学、兵站学、戦術及び作戦学、通信学、軍法、地形学、特殊兵器学、統率心理学、そのほか、兵隊の世話や食事のことから、クセルクセスがなぜギリシャ遠征に破れたかの理由まで、ありとあらゆる問題にあたっていた。中でもとりわけ重要なのは、五十人の兵隊のことを絶えず念頭におき、いたわり、愛し、導き、助け──なおかつ決して甘やかさないという至難な仕事を、たったひとりでやってのける方法だった。
おれたちはベッドを与えられてはいたが、横になる暇などほとんどなかった。居室とシャワーと室内の洗面台もあった。四人の士官候補生に民間人の使用人がひとりつけられ、ベッドのあげさげ、部屋の掃除、靴磨き、着るものの整理、走り使い、何から何までやってくれた。これは贅沢のためではなく、新兵教育を受けた者ならだれでも完全にできるのに決まっている雑事から候補生を解放して、絶対不可能にみえるようなことを可能にすることのほうに、より時間を集中させることを目的にしていたのだ。
六日のあいだ働きて
汝のすべての業をなすべし
七日目もまた同じ
あるいは、陸軍聖書といったものがあれば末尾はこう結ばれるだろう──また厩《うまや》を清掃することを忘るべからず──このようなことが、いかに長い長い世紀のあいだ続けられてきたことかわかるだろう。おれたちがぶらぶらしているなどと思いこんでいる民間人のうちから、ひとりひっつかまえてきて士官候補生学校にぶちこみ、とっくりひと月おくらせてやることができたらなとおれは思う。
夜は夜もすがら、日曜日だって一日じゅう、おれたちは眼がやけつき、耳がずきずきしてくるまで勉強し、それから(眠られたらの話だが)、催眠教育スピーカーを枕の下で鳴らしなから眠った。
おれたちが行進するときの軍歌も、おれたちにふさわしいダウン・ビートースタイルだった。たとえば、「嫌じゃありませんか軍隊は! 嫌じゃありませんか軍隊は! いっそ鉄砲投げだして、わたしゃなりたい百姓に!」とか、「兵隊ごっこは願い下げ」、あるいは「可愛い伜を兵隊にゃさせぬ、母は涙のすすり泣き」とか──だれもが大好きな──懐《なつか》しのメロディ「道に迷った子羊」のコーラスがついた「兵隊あがりの旦那衆」にいたっては、「ああ神さま、われらをなぐさめたまえ、メエメエメエ」ときたもんだ。
それでもおれは、自分を不幸だと感じた記憶などない。あまりにも忙しかったからだろう、と思う。士官候補生学校では、新兵訓練でだれもがぶつかるような、乗り越えなければいけない〈心理的な峠〉に相当するものはなかった。ただ、放り出されるのではないかという心配がいつもつきまとっていただけだ。おれの頼りない数学の基礎は、特に悩みの種だった。おれと部屋が同じだった金星植民地出身の〈エンゼル〉というへんてこだがピッタリの名前の男が、幾夜も徹夜でおれに個人教授をしてくれたものだ。
教官たちの大半、とりわけて士官たちは戦傷者だった。おれが思い出せるかぎりでは、手足から視力、聴力などすべてが完全に揃っている者といったら、下士官の戦闘訓練教官だけで──それも全部が全部そうではなかった。おれたちの白兵戦の教官は、プラスチック製の人口咽喉をつけ、首から下は完全に麻痺しており、動力椅子に腰をおろして教えるのだ。だがその舌は麻痺しておらず、それに眼ときたらカメラのレンズのように精密で、あらゆるものを見逃さずに分析し批判する容赦ない言葉は、身体の|わずかな《ヽヽヽヽ》障害を補って余りあるものだった。
はじめおれは、どう考えても傷痍除隊ができ軍人恩給の全額受給資格者たちが、なぜそれをもらって家でのうのうと暮らさないのかと、いぶかしく思ったが、やがてそんな疑いは消し飛んでしまった。
おれが士官候補生学校にいたあいだのクライマックスといえば、コルベット艦〈マンネルハイム〉の当直士官兼見習操縦士のイバニェス海軍少尉の訪問を受けた時だった。純白の海軍服を、信じられないくらい小意気に着こみ、文鎮ほどの大きさで、黒い眼をしたカルメンシータが、夕食点呼に整列したおれたちのクラスに現われ──おれたちの前を通りすぎてゆくにつれ、みんなの眼玉がクリクリ動くのが聞こえるようだった──そして彼女は、当直士官のところへまっすぐ歩いていき、よく通る澄んだ声で、おれの名前を言ったのだ。
当直士官のチャンダー大尉は、自分の母親にさえ笑顔を見せたことがないというもっぱらの噂だったが、おどろいたことに相好をくずして小さなカルメンにほほえみかけ、おれのいる場所を教えた……すると彼女は長く黒い睫《まつ》毛《げ》をしばたいて、実は自分の艦は間もなく出撃することになっているのだが、その前になんとかおれを食事に連れ出すことを許していただけないかと、たずねたものだ。
そんなわけで、いつのまにかおれは、極めて変則的で、まったく前例のない三時間の外出許可をもらっていることに気がついた。きっと海軍は、まだ陸軍には教えていない新しい催眠術の方法を発明したのだろう。それとも、彼女が用いた秘密兵器は、それよりもっと昔からある代物で、機動歩兵では使っていないものかのどちらかなんだ。いずれにせよ、おれは素晴らしい時間を得たばかりでなく、クラスメートのあいだで、それまであまり高くなかったおれの名声は、がぜん、おどろくべき高さに舞いあがったのだ。
とにかく栄光に満ちた夜で、あくる日の授業ふたつぐらい糞くらえと思ってしまうだけの価値はあった。しかしこの楽しい宵も、おれたちふたりがカールのこと──あのクモどもが冥王星にあるわが軍の研究所を破壊したとき、戦死した──を聞いていたという事実のため、すこしは暗くなったのだが、しかしおれたちはもう、なんとかそういった状況のもとで生きていくことを憶えていたのだ。
ひとつおどろいたことがあった。カルメンが席でくつろぎ食事になって帽子をぬいだのを見ると、彼女の漆黒の髪がきれいさっぱりなくなっていたことだ。だが、海軍にいる女性の多くが頭を剃っているということは、おれも知っていた──いずれにしろ、軍艦の中で長い髪の毛の手入れをするのは実際的じゃないし、とりわけ、自由落下の状態で、長い髪がふわふわそのへんに漂いまわったり、眼の前にきたりするような危険を、パイロットは犯すわけにはいかないのだ。おれのほうはというと、なぜどたまを剃ってしまったかの理由は、ただ便利なのと清潔さだけからだった。しかしおれの心に描いている小さなカルメンは、あくまでも豊かな波うつ黒髪の持主だった。
だが、女の坊主頭も、慣れてしまえばなかなか可愛らしいものだ。だいたいが眼鼻立ちのいい子なら、頭をつるつるにしたって、やはりいいもんだ──そのうえに、それは海軍の女性をそのへんにいる民間人のミーハー族から一線を画すことができる──たとえば、それは戦闘降下でもらう黄金の髑髏のようなもんだ。それはカルメンをきわだたせ、尊厳さを与え、はじめておれに、彼女が実際に士官であり戦闘員であり──ずばぬけた美人であることを、まざまざと知らせてくれたのである。
おれは眼に、キラキラと星の光をやどし、そこはかとない香水の移り香を漂わせて、兵舎へもどった。
士官候補生学校での授業課目の中で、ただひとつおれが言い足しておこうと思うものは〈歴史と道徳哲学〉だ。
おれは授業課目の中にこれを見つけてびっくりした。〈歴史と道徳哲学〉は、戦闘や、小隊をどのように指揮するかということとは、なにひとつ関係がない。強いてこれが戦争に関連しているものといえば、なぜ戦うのかということだけにある──こんなことは、候補生ならだれでも士官候補生学校に入校するずっと以前に、百も承知のことなのである。機動歩兵が戦うのは、かれが機動歩兵以外の何者でもないからである。おれはこの課目など、学校で習わなかった何人か(たぶんおれたちの三分の一ぐらい)の便宜のために復習するのだろうと決めこんでいた。おれたち士官候補生の二十パーセント以上が地球から来たのではなく(軍隊に志願する比率は地球の人々より、植民地出身者のほうがずっと高い──びっくりするだろうが)、残りの四分の三かそこらが地球出身者であり、属領やその他の所からきた何人かは、〈歴史と道徳哲学〉を教わらなかったかもしれないのだ。そこでおれは例の苦手な授業──小数点以下何位などというやつ──から少しは気分転換させてくれる気楽な課目だろうとたかをくくっていた。
また大違いだった。これは、おれの高校時代の授業とは大違いで、とにかく合格しなければいけないのだ。もっとも、試験によってではなかったが。授業そのものが試験であると見なしてもよく、宿題や討論やらがあったものの採点はしなかった。通らなければいけないことは、おれたちが任官するのにふさわしいかどうかという教官の意見だったのだ。
もし教官に成績不良を指摘されると、審判会議がひらかれ、単に士官になれるかどうかというだけのことではなく、どのような階級にあろうと、兵器を使うのがどれほどすばやかろうと──それ以上の追加指導を与えるべきか、それとも軍から放り出して民間人にしてしまうべきかどうかを決定するのだ。
〈歴史と道徳哲学〉は、遅発信管爆弾のように作用するのだ。夜の夜中にひょいと眼ざめて、とっくりと考えこむ。さてと、教官の言っていたことは、いったいどういう意味だったのだろう? これは、おれの高校時代の授業でさえそんなものだったが、おれはただ、デュボア中佐の話していたことが何のことやらわからなかっただけなのだ。子供のころのおれは、この課目を科学の部門に入れるのは馬鹿げていると考えたものだ。これは物理や化学とはまったく違う。なぜこれを本来属するべきところの、わけのわからぬ学科に入れておかないのだろうかと。ただひとつおれが興味を持った理由は、あんなに面白い討論がついていたということだけである。
おれはずっとあとになって、とにもかくにも戦う意志ができたときまでは、〈ミスター〉デュボアが、なんのために戦うのかということを、なぜおれに教えこもうとしていたのか、さっぱりわからなかった。
よろしい、なぜおれは戦わなければいけないのか? おれのやわらかい肌を、敵意を持った見知らぬやつらの暴力の前にみすみすさらすなんて、そんな不合理なことはないではないか? とりわけ、いかなる階級であろうと、給料をもらったところで、その金を使えることはほとんどなく、その生活はおそろしいものであり、しかも労働条件はひどいものではないか? そんなことは、おれが家でのんびり坐っているあいだに、そんなゲームを楽しむような愚鈍なお脳の連中にまかせておけばいいのではないか? 特に、おれが戦う相手となる見知らぬ連中というものが、おれがのこのこ顔をだして、その連中のお茶道具をひっくりかえしはじめるまでは、おれに対して個人的になにひとつしないというのに──いったいこれは、なんという無意味なことだろう!
おれが機動歩兵の兵隊だから戦うって? おいおまえ、パブロフ博士の飼犬みたいに涎《よだれ》をたらしているじゃないか。そんなことはやめて、そろそろ考えはじめろ。
おれたちの教官のレイド少佐は、盲目だというのに、候補生をまっすぐ見つめてその名前を呼び、おれたちをへどもどさせる男だった。おれたちは、一九八七年におこった露英米連合《ラッソ・アングロ・アメリカン・アライアンス》と中国《チャイニーズ》ヘゲモニーとの戦争のあとにおこった出来事を復習していた。しかもその日はおれたちが、サンフランシスコとサン・ジョアキン・バレーが潰滅したというニュースを聞いた日だったのだ。おれは少佐が、元気づける話をしてくれるだろうとばかり思っていた。とどのつまりこうなっては、民間人でさえも事態を理解できなければいけないのだ──つまり、クモどもか、おれたちか。戦うか、死かということを。
レイド少佐は、サンフランシスコについて言及したりしなかった。少佐はおれたちモンキーのひとりに、ニューデリー条約を要約させ、いかに戦争捕虜が無視されたかを論じ……そして、その条項が永久に脱落されたことを暗に示した。そのときの一時停戦は膠着状態になり、捕虜たちはそのままの場所に取り残された──一方の側ではだ。ところがもう一方のほうでは、捕虜たちは釈放され、その無秩序状態に乗じて故郷に帰っていった──帰りたくないものは、そのまま残った。
レイド少佐に指名された哀れな犠牲者は、釈放されない捕虜たちのことを言いだしていた。つまり、英国パラシュート降下部隊二個師団の生存者と、何千人かの民間人であり、かれらの多くは、日本、フィリピン諸島、ロシアで捕虜になったもので〈政治的な犯罪者〉として有罪を宣告されていたのだ。
「それ以外にも、戦争中、もしくはその以前に捕えられた軍人捕虜が大勢いました……」
と、レイド少佐の犠牲者は話しつづけた。
「戦争の初めごろにつかまえられた大勢の捕虜は、絶対に釈放されなかったという噂もありました。釈放されなかった捕虜の総計は、全くわかっておりません。最上の推定は、この数を六万五千とふんでいます」
「最上のとはなぜか?」
「ああ、それは教科書にのっている推定数であります、少佐どの」
「言葉を正確に使うものだ。その数字は、十万より多いのか少ないのか?」
「ええと、わかりません、少佐どの」
「だれだってわからん、千人より多かったのか?」
「おそらくそうです、少佐どの。ほとんど確実だと思います」
「まったく確実なのだ……それは、多数の捕虜が逃亡してわが家へたどりついており、その名前が確認されているからだ。きみは教科書を上の空で読んでいたらしいな……ミスター・リコ!」
こんどは、おれが犠牲者だ。
「|はい《イエス》、|少佐どの《サー》」
「千人のいまだに釈放されていない捕虜は、戦争を開始し、あるいは再び戦争を続けるのに充分な理由になるか? いいか、もし戦争になるか、もしくは再開されたとすると、なんの罪もない人々が何百万と死ぬかもしれない、ほとんど確実に死んでしまうのだということを、心にとめておくんだぞ」
おれは躊躇《ちゅうちょ》しなかった。
「はい、少佐どの! 充分すぎるぐらいの理由であります」
「充分すぎるかね、結構。では、たったひとりだけ敵に釈放されない捕虜がいるとする。戦争をはじめ、再開するのに充分な理由となるか?」
おれは躊躇した。おれは機動歩兵の解答なら知っていたが──それが少佐の期待しているやつかどうかはわからなかったのだ。少佐は鋭く言った。
「さあ、さあ、きみ! 千人という高いほうの限度はわかった。それならば、最低限度のひとりという場合を考えてほしいのだ。しかしきみは、一ポンドから千ポンドのあいだのどこか、と記入してある約束手形を支払うことはできないというのか……そして、戦争をはじめることは、くだらない金を支払うことよりもっとずっと厳粛なことなのだと言うのか。ひとりの男を救うために、一国を危険にさらす……実際には、ふたつの国となるんだぞ……それは犯罪ではないのか? 特にその男に、それだけのことをしてやる値打ちがないときは? それとも、そのうちに死んでしまうとでも考えているのか? 何千人という人間が、毎日のように事故で死んでいる……だとしたら、なぜひとりの男ぐらいのことで躊躇するんだ? 答えろ! イエスかノーか答えるんだ……きみは、授業をとめているんだぞ」
少佐はおれを、すっかりいらだたせてしまった。おれは、カプセル降下兵としての答をたたきつけた。
「イエス、サー!」
「どういうイエスだ?」
「千人だろうと、たったひとりだろうと、関係ありません、少佐どの。戦いあるのみです」
「ほう! 捕虜の数など問題にならんというんだな。よろしい。それでは、きみの答が正しいことを立証してみろ」
おれは、ぐっとつまってしまった。おれには、それが正しい解答であるとわかっていた。ところが、なぜかということは、わからなかったのだ。少佐はおれをせめたてた。
「言いたまえ、ミスター・リコ。これは厳正な科学なんだぞ。きみは、数学的な解答をだした。きみは証明しなければいけないのだ。だれかが、きみの断言したことに対してケチをつけるかもしれんぞ。いいか、こじつけて考えれば、ジャガイモ一個は、ピタリ千個のジャガイモと同じ値段ということになる。ちがうか?」
「ちがいます、少佐どの!」
「なぜちがうのだ? 証明せんか」
「人間はジャガイモではありません」
「よろしい、よろしい、ミスター・リコ。きみのくたびれた脳味噌を、一日には多すぎるほど緊張させてしまったようだな。明日、教室へ、わしの質問に対するきみの答を、記号論理学《シンボリック・ロジック》で書いた証明にして持ってきたまえ。きみにヒントをあげよう。今日やった章の参照《リファレンス》七の項を見るんだな。ミスター・サロモン! 現在の政治組織は、いかにしてその無秩序時代からぬけ出て発達したのか? またそれを、道徳的に正当化するものは何であるのか?」
サロモンは、しょっぱなからへどもどした。しかし、世界連邦がどのように現われてきたものかを、正確に述べることができる者はひとりもいないだろう──連邦はただそのように育ってきただけなんだ。二十世紀の終わりに、各国の政府が崩壊したので、その真空状態をなんらかの形で埋めなければいけなかった。そしてその多くの場合、それは復員軍人の手にまかされたのである。戦争に敗けたあと、ほとんどの人は職もなく、ニューデリー条約の条件について、大勢の人がひどく腹を立てていた。負傷した戦争捕虜は特にだ──そしてかれらは、いかに戦うかの方法を知っていた。しかしこれは戦ではなかった。それは、一九一七年にロシアでおこっなことのほうによく似ていた──すべての機構が潰滅した。そしてほかのだれかが行動をおこしたのだ。
最初におこったケースとして知られているのは、スコットランドのアバディーンでおこったものが典型的である。何人かの復員軍人が、暴動と掠奪を防ぐために自警団を組織し、何人かの人々を絞首刑にしてしまい(この中には、復員軍人もふたリ含まれていた)、そして、かれらの委員会には、復員軍人のほかはだれも入れないということを決定した。最初は気ままなものだった──かれらはお互いを少し信じたが、他の人間を信じなかった。これは非常手段として出発したことだったが──一世代か二世代のうちに、憲法にもとづいて実施されることになったのだ。
おそらくこれらのスコットランドの復員軍人たちは、たとえ何人かの復員軍人を絞首刑にする必要を見つけはしたものの、その処刑を断行することによって、いかなる〈流血騒ぎ、不法利得、闇行為、超過勤務に二倍の賃金を払うこと、兵役忌避、|不潔な書物《アンプリンタブル》〉等を野放しにさせることを許さず、民間人がこれについて文句を言うことを禁ずると決定したのである。かれらは、言われたとおりにやれ──そのあいだは、おれたちモンキー野郎どもが物事をきちんと片づけるってわけだ! これはおれの想像だ。というのは、おれだって同じように考えるだろうからだ……そして、一般民間人と復員兵士たちとのあいだに存在した敵意は、おれたちが今日考えるよりも激しいものだったと、歴史家も認めている。
サロモンは、教科書を見ながら言ったのではなかった。やっとレイド少佐はサロモンをとめた。
「明日、その要約を書いて持ってきたまえ。三千語だ。ミスター・サロモン。理由が述べられるか──歴史的にでもなく、論理的にでもなく、実際的にだ──なぜ市民権は今日、退役軍人だけに許されているのか?」
「あー、それは、選り抜かれた男たちだからであります、少佐どの。ほかの人々より賢明だからです」
「とんでもないことだ!」
「は、少佐どの?」
「この言葉では、長すぎたのか? わしは、馬鹿げた意見だと言ったのだ。軍人たちは民間人より賢明ではない。多くの場合、民間人のほうが、はるかに優れた知能を持っている。そんなことは、ニューデリー条約が結ばれる直前におこったいわゆる〈科学者の反乱〉と呼ばれるクーデターを正当化しようとした銀メッキにしかすぎん。つまり、賢いエリートたちにすべてをまかせれば、理想郷《ユートピア》ができるというんだ。もちろんこれは、その間抜け面のままひっくりかえってしまった。なぜならば、科学を追求することは、その社会的な恩恵にもかかわらず、それ自体、社会的な美徳ではないからだ。これらの科学者たちは、あまりにも自己中心的であり、社会的な責任感が欠けていた連中だったのだろう。わしはきみにヒントをあげた。意味がわかるかね?」
サロモンは答えた。
「はあ、軍人はきびしい規律に鍛えられているということであります、少佐どの」
レイド少佐は、サロモンにやさしい声で言った。
「残念だな。人の胸に訴えかける理論だが、真実に裏づけされておらん。きみもわしも、軍隊にいるかぎり、投票することは許されていないし、軍隊の規律はひとたび軍隊から出た場合、自分をまたしばらせられるものかどうかは、立証されないんじゃないかな。退役軍人が犯罪をひきおこす率は、民間人のそれと同じなのだ。それにきみは、平和な時代におけるわかい退役軍人のほとんどは、非戦闘補助部隊から除隊したものであり、軍隊における規律の真の厳正さというものを体験してきておらん、ということを忘れている。かれらは単に、追いまくられ、民間人よりも長時間働き、そして危険にさらされてきただけなのだ……だが、それでもかれらには選挙権があるのだ」
レイド少佐は微笑を浮かべた。
「ミスター・サロモン、わしはきみに引っかけるような質問をした。われわれの政治機構が存続している実際的な理由は、どんなものであろうと継続してゆくものに存在するのと同じ、実際的な理由なのだ……つまり、申し分なく運営するということだ。
それでもなお、その細部にわたって観察してみることは有益なことだ。歴史を通じて、人々は神聖な公民権を手に入れるため、いろいろと苦しんできている。そして、全体の利益のために、この権利を充分に擁護し賢明に行使してきた。初期の試みは、絶対君主制であり、これは〈神聖な王権〉として熱烈に擁護されたのだ。
ときには、神の手に委ねておくばかりが能ではないと、賢明な君主を選びだす試みがなされたこともあった。たとえばスウェーデン人たちが、フランス人のベルナドット将軍を起用して、統治者に迎えたようなときだ。これに対する反対は、ベルナドットが与えてくれるものは限られているということだった。
歴史上に現われている例は、専制君主制から絶対的無政府主義にまで及んでいる。人類は何千もの方法を試みたし、それ以上多くのことが提案されてきた。その中には……共和国などというまぎらわしい名称のもとに、プラトンにはっぱをかけられた蟻のようだとでも言おうか、共産主義などという珍妙|極《きわ》まりないものもあった。しかしそれでも、もともと意図したものは、常に道徳的なものであり、安定した慈悲深い政府を持つためだったのだ。
すべての機構《システム》は、公民権を正しく行使できるだけの知恵があると信じられている人々に対してのみ、この権利を与えるということによって、これを達成しようとしてきた。くりかえして言っておくが〈すべての機構〉においてだぞ。たとえ〈無制限民主主義〉などと呼ばれているものでさえも、年齢、出生、人頭税、前科、その他の理由のために、その国の全人口の少なくとも四分の一には、公民権を与えなかったのだ」
レイド少佐は皮肉そうに笑った。
「わしには、三十歳になる精神薄弱者が、十五歳の天才よりも、いかに賢明に投票できるものなのか、どう考えてみてもわからない……しかし、それは〈一般人の神聖なる権利〉の年齢だったのだ。気にすることはない。かれらは、その馬鹿さ加減に対して、それだけの代償は払ったのだからな。
この神聖な公民権は、あらゆる種類の規則に従って与えられてきた……出生地、家族の血統、人種、性別、財産、教育、年齢、宗教、その他もろもろのことにだ。すべてこれらの機構は実行されたものの、どれひとつとしてうまくいったものはなかった。多くの人々はこれらのすべてを暴虐政治とみなし、このすべては結局、潰滅してしまうか、転覆させられてしまったのだ。
さて、現在われわれはまた、別な機構《システム》に従っている……そして、われわれの機構は非常にうまくいっている。不満は多いにしても、革命はおこらず、すべての人の個人的自由は、歴史の中でも最も大きい。法律は少なく、税金は安く、生活水準は生産力の許すかぎり高く、犯罪の発生は史上最低に減少している。なぜか? われわれの有権者が、他の時代の人々よりも利口だからではない。われわれはすでに、そのような論議は片づけてしまった。ミスター・タマニー、現在の機構がなぜ、われわれの先祖によって用いられたいずれのものよりも、うまく運営されているのか、説明できるかね?」
どこでクライド・タマニーがその名をつけられたのか、おれは知らない。おれはかれを、ヒンズー教徒だとばかり思っていたのだ。タマニーは答えた。
「え──、これは自分の想像でありますが、それはつまり、有権者が少数グループであり、その人々が、決定することはかれら自身にかかっていることをわきまえているからであり……そのため、かれらが問題をよく研究するからであります」
「想像はやめにしてほしいな。これは、正確な科学なのだ。それにきみの想像はまちがっている。他の時代の、多くの他の機構における支配階級の貴族たちも、かれらの重大な権力を充分に認識している小さなグループだったのだぞ。それ以上に、われわれの特権を与えられた市民たちが小さな集団になって、至るところにいるわけではないのだ……知っているだろうが、知っていなくてはいかんことだが、成人のあいだで公民権を持っている人々のパーセンテージは、イスカンダーにおける八十パーセントを越えるものから、地球上のいくつかの国々における三パーセントそこそこの率までわかれている……それにもかかわらず、政府はどこでも、ほとんど同じようなものだ。投票者が人間を選ぶのでもなく、かれらにその神聖な仕事をするについての特殊な知識や、本能、訓練などがあるわけではない。そうだとすれば、われわれの有権者たちと過去における公民権の支配者とのあいだに、どんな相違があるのだろうか? われわれは充分な推測をしてみた。わしは、はっきりしていることを述べる。つまりわれわれの機構の下では、あらゆる有権者および公務員は、個人の利益に優先してグループの福祉を考え実行するという困難な職務を自発的におこなう人間なのだ。
そしてこれこそ、実際的な相違だ。
そいつは知識が足りないかもしれないし、市民の美徳について心得違いをしているかもしれない。だが、歴史上のいかなる支配者たちのそれよりも、そいつのふだんおこなっていることのほうが、はるかにすぐれているのだ」
レイド少佐は、昔風な時計の表面にちょっと手をふれて時間を|読み《ヽヽ》ながら言った。
「授業時間もほとんど終わりだ。さて、われわれ自身の統治が成功していることの道徳的理由について、われわれはまだ結論をくだしておらん。いいかね。現在も続いている成功は、単なる偶然の所産ではない。よく心に刻みつけておくことだ、これは科学であって、かくあれかしという考えかたではないのだ……宇宙は現在あるがままの姿なのであって、われわれが、こうであってほしいと望んでいるものではないのだ。投票するということは、権威を使用することである。これは最高の権力ともいうべきもので、ほかのあらゆる権力はここから発生する……一日一回、諸君の人生をみじめにするわしのようなものだ。いうなれば、それは暴力なのだ! 公民権は力である……裸であり、生《なま》の〈棍棒と斧〉なのだ。よしんばこれが、十人の男によって使われようと、あるいは十億人によって使われようと、いずれにせよ、政治的権力というものは、力なのである……しかし、万物は表裏背反の二元性から成立しておる。権力の反対はなんであるか? ミスター・リコ」
少佐は、おれが答えられるやつを言ってくれた。
「責任であります、少佐どの」
「見事だ。実際的な理由であり、かつまた数学的にも説明できる道徳的理由でもある。権威と責任は、等しいものでなければならぬ……さもなければ、潮流がポテンシャルの等しくない二点のあいだを流れるのと同じぐらい確実に、バランスを取りもどそうとすることが起こるのだ。無責任な権威を容認することは、災害の種をまきちらすことである。その本人が制御できないことに対して責任をとらせるということは、盲目的、白痴的な振舞いである。無制限民主主義とは、不安定なものであった。というのは、その機構のもとにおける市民たちが、かれらの神聖な権力を振う方法に対して、責任を持たなかったからだ……歴史における悲劇的な論理を通しても、これ以外にはない。われわれの支払わなければならぬユニークな〈人頭税〉は、そのころ知られていないものだった。かれらの文字どおり無制限な権力について、投票者たちが社会的に責任があるかどうかを決めようとする試みはなされなかった。もし、かれらが不可能なことを投票すれば、その代わりに悲惨な事態が起こってしまう……それから責任がいやおうなしにまつわりつき、ついにはかれらと基礎のない神殿をともに亡ぼしてしまったのだ。
皮肉なことに、われわれの機構も、ほんのすこし違っているだけだ。われわれの民主主義は、人種、皮膚の色、主義、出生、財産、性別、あるいは前科などで制限されてはいない。だれであろうと、普通、短期間のそれほど難儀でもない期間を軍隊ですませてくれば、その神聖な権力をつかむことができる……なんということはない、われわれの先祖である穴居人のちょっとした検定みたいなものだ。しかしこの僅かな相違は、運営されている機構のなかにあるものなのだ。というのは、それが事実にあうように、そして先天的に不安定なものとして作られているからだ。この神聖な公民権は、人間の持つ権力の究極のものであるから、われわれはそれを行使するすべてが、社会的な責任において、その究極のものを引き受けることを確約する……われわれはその祖国に対する支配力を行使しようとする人間のすべてに、その命を賭け……必要とあれば、その命を捨て……祖国の危機を救うことを求めるのだ。ひとりの人間が受け入れることのできる最大の責任は、ひとりの人間の使うことのできる究極の権力と、そんなわけで同等なのである。陰《イン》と陽《ヤン》は、完全に同等なのだ」
少佐はつけ加えた。
「われわれの機構において、なぜ一度もこれまでに革命が起こらなかったのか、はっきり言うことのできる者はおらんか? 歴史上のどの政府にも革命があった、という事実にもかかわらずだ。現在も不平不満の声はあがり、絶えることがないという悪名高い事実にもかかわらずだ」
年かさの候補生のひとりが、さっと答えた。
「少佐どの、革命は不可能です」
「そうだ。しかし、なぜだ?」
「つまり、革命とは、武装して蜂起するのでありますから、不平ばかりではなく、攻撃的《アグレッシブ》であることを必要といたします。革命家は、みずから進んで戦い命を捧げようとするものでなければいけません……さもなければ、ただのだらしない急進派であるだけになってしまいます。攻撃的気質を持っている連中を切り離して牧羊犬《シープドッグ》にしてしまえば、あとの羊は決して面倒を起こしたりいたしません」
「うまいことを言うもんだ! 類推《アナログ》とは常に疑わしい推定だが、こいつは事実に近い。明日、それの数学的な証拠をわしに提出したまえ。さて、質問をうける時間だ……諸君がたずね、わしが答える。だれかおらんか?」
「あ、少佐どの。なぜやらないのでしょうか……なぜ、制限があるのですか? 全部の者に軍隊に入ることを要求し、すべての人に投票させては?」
「きみは、わしの視力をもとにもどすことができるかな?」
「少佐どの、それは無理であります!」
「ところが、社会的責任といったようなものを、持っておらず、持とうともせず、重荷をおしつけられるとすぐ腹をたてる連中に、そういった道徳的な美徳を吹きこむことよりも、わしの眼玉を治すことのほうが、ずっと容易であることは、すぐに理解できるだろう……これが、兵役につくことがそれほどまでに困難であり、やめてしまうことが実に容易であることの理由なのだ。家族、あるいは種族全部といった単位以上の社会的責任ということには、想像力が必要になってくる──献身、忠誠心、その他もろもろの高度の美徳……そういったものは、自分自身で開拓しなければならないものだ。それらを無理やりに押しつけられたなら、やつらは吐き出してしまうのだ。そんなことは、過去においてすでに、徴兵制度をとった軍隊が試してしまっておる。図書館へ行き、一九五〇年ごろの朝鮮戦争と呼ばれているものの、洗脳された捕虜についての精神病医の報告書を探してみるがいい……メーヤー・リポートだ。こんどの授業に、それの分析を持ってくるんだ」
少佐は時計にさわった。
「解散」
レイド少佐はおれたちをてんてこまいさせた。
しかし面白かった。少佐が何げなくひょいひょいと言いつけた修士論文のような研究課題のひとつに、おれは取り組んだ。おれは、十字軍がほとんどの戦争とは異なっていたことに論及し、細かく分解し、戦争と道徳の完全さは、同じ発生学的な遺伝から派生したものであるということを証明した。
短く言えばこうだ。すべての戦争は、人口の圧迫から起こる。(そうだ。十字軍でさえも、それを証明するためには、通商ルート、人口増加率、そのほかの多くのことを、徹底的に探究しなければいけないのだ)道徳──すべての正しい道徳律──は、生きのびるための本能から生してくる。道徳的行動は、個人的水準の上にある生存のための行動である! 例えば、自分の子供を救うために死ぬ父親のようなものだ。しかし人口の圧力は、ほかの人々をおしのけて生存していくための過程《プロセス》に起因するものだから、そこで戦争が、人口の圧力から、遺伝された同じ本能にもとづいて起こり、これは人類にふさわしいすべての道徳律を作り出す。
証明の検討──人口を生産資源に応じて制限するという倫理規定《モラル・コード》を設定することによって、人口の過密による圧力を和らげ、戦争を無くしてしまう(こうして戦争に伴う歴然とした害毒を追い払う)ことは、可能だろうか?
計画にもとづいて両親となることの倫理性や有効さなどを論議しなくても、これは観察によって立証できることであろう。すなわち、どんな種族であろうと、その人口増加にストップをかけるものは、膨張を続ける種族によって押しのけられてしまう。地球の歴史にあっても、ある国の人々はそのとおりにし、そしてほかの種族が移り住んできて、かれらを併合してしまった。
それにもかかわらず、人類が太陽系にある惑星にちょうど適合するだけに出生と死亡のバランスをとり、そこで平和になるようにしたと仮定してみよう。
たちまち(次の金曜日ぐらいに)クモどもが侵入してきて、「戦争ごっこはもう結構」などと言っている種族を殺してしまい、全宇宙はおれたちを忘れてしまう。このことは、現在でも起こり得ることなのだ。おれたちが拡大していってクモどもを一掃してしまうか、それともクモどもが拡大してきて、おれたちを片づけてしまうか、そのどちらかしかないのだ──なぜなら、両方の種族ともにタフで抜け目がなく、同じ領土を求めているからである。
人口増加がいかに速く、全宇宙でおれたちが肩をつきあわせてしまうほどにふくれあがってしまうものか、知っているだろうか? この返事はきみをあきれさせてしまうだろうが、わが民族の現代の言葉でいえば、それこそほんのまばたきする間なのだ。
計算してみたまえ──これは複利で膨張することなのである。
しかし人間は、宇宙に拡大してゆく何か〈権利〉のようなものでも持っているのだろうか? 人間は現在あるがままのものであり、生存しようとする意志と、いままでのところはだが、あらゆる競技に勝ちぬく能力を持った野獣なのだ。人間がこの事実を受け入れないかぎり道徳、戦争、政治──その他なんでも──について何を言ってみたところで、それは笑止千万なことである。正しい道徳は、人間の何たるかを知ることから生じてくるのであって──空想的社会改良家とか、気のいいネリー伯母さんが、そうなってほしいと望んでいることからではないのである。
全宇宙はおれたちに教えてくれるだろう──もっとあとになってからだが──人間が宇宙に伸びてゆく権利といったものを持っているのかいないのかということを。
それまでのあいだは、機動歩兵が張り切って堂々と、わが種族の側に立って、宇宙へ伸びてゆくのだ。
終わりに近づいたころ、おれたちみんなは、経験豊かな戦闘指揮官の下で働いてみるため送り出されることになった。これは準最終段階《セミ・ファイナル》の試験であり、艦にのりこんだ教官が、おれたちは必要とする資格を持っているのかいないのかを決定できるのだ。それに対する再審査を要求することはできるのだが、そんなことを要求したやつがあったとは聞いたこともなかった。かれらは、優の成績をもらってもどってくるか、あるいは、二度と顔を見ることがないかのどちらかだった。
その何人かは落第したわけではない。単に戦死してしまったということなのだ──というのは、その試験とは、まさに戦闘任務につく艦に配属されることだったからだ。おれたちは、荷物袋をまとめておくように言われた──一度など昼食のとき、おれの中隊にいる候補生士官の全員が命令を受け、みんなは飯も食わないで飛びだしてしまい、おれはそのまま候補生中隊の指揮官になってしまっているのに気がついた。
新兵のとき仮につけられる下士官の階級章と同じで、これはあまり気持ちのよくない名誉だったが、二日とたたないうちに、おれ自身の呼び出し命令がやってきた。
おれは荷物袋を肩にひっかつぎ、誇らしい気分になって、司令官の部屋へすっ飛んでいった。おれは、夜おそくまで勉強しつづけたために眼がずきずきし、どうしても追いつけないので、クラスの中でも馬鹿みたいに見えるやらで、気分が悪かった。戦闘部隊で陽気な仲間と何週間かを送ることは、まさにおれジョニーが必要としていたものだったのだ!
おれは、新しく入ってきた候補生たちのそばを通っていった。そいつらは、かたまって教室へ急いでおり、どいつも、ひょっとしたら士官になれない破目になる失敗をしでかすのではないかということに、すべての士官候補生が気づいたときの、苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。おれはいつのまにか歌をうたっていた。そして、司令官の部屋から聞こえそうな距離まで近づくと口を閉じた。
ほかのふたりはもう来ていた。ハッサンとバード候補生だった。暗殺者《ザ・アサシン》<nッサンは、おれたちのクラスで最年長者で、漁師が壺から出したばかりの魔物みたいな顔をしていた。一方、バードのほうは、雀より大きいとは思えず、同じようにおどおどしていた。
おれたちは、神聖な奥の院へ案内された。司令官は車椅子に腰をおろしていた──土曜日の検閲と分列行進のときを除くと、司令官、校長閣下が車椅子からおりているところを見たことはなかった。歩くと痛いのだろうと思う。だがそれは司令官の姿を見かけないという意味ではなかったのだ──黒板の前に立って問題を解いていたとする。そして、ふりかえってみると、車椅子はちゃんとうしろにあり、ニールセン大佐は、解答の間違っているところを、ちゃんと見てしまっているという具合なのだ。
大佐は決して邪魔をしなかった──「気をつけえ!」と怒鳴らなくてよろしいという規則になっていたのだ。だが、こんなことになると、へどもどしてしまう。まるで大佐が、六人もいるようだった。
司令官は、終身元帥という水久的な階級を持っていた(そう、あのニールセンがだ)。二回目の退役までを、この学校の校長になっているため、臨時に大佐という階級になっているだけなのだ。おれは一度、主計官にこのことについてたずねてみたことがあり、規則が言おうとしていることを知った。つまり司令官は、大佐としての給与を受けるだけである──しかし大佐がもう一度退役しようと決めたその日から、元帥の給与に復帰されるのだということだった。
ほんとにエースが言ったとおり、世の中にはいろんなことがあるものだ──候補生たちを追いまくる特権だけのために給与を半分にするほうを選ぶなど、おれには考えられないことだ。
ニールセン大佐は顔をあげて言った。
「おはよう、諸君。楽にしたまえ」
おれは腰をおろしたが、楽にするどころじゃなかった。大佐はコーヒー沸し機のところへ車椅子をころがしていって、カップを四つ引っぱりだした。ハッサンが大佐を手伝ってコーヒーをくばった。おれはコーヒーなんざ欲しくもなかったが、候補生が司令官の御接待をことわるわけにはいかぬ。
大佐は、ひと口すすって言いだした。
「わしはきみたちに命令を与え、臨時に任官させることにした。しかしわしは、きみたちが身分をわきまえてくれるものと確信する」
おれたちは、とっくにこの件について教えられていた。教育と試験のためだけに、おれたちは士官となるのだ。〈員数外で、見習いで、臨時〉なのだ。いちばん新米であり、まったく無駄な存在で、いつもきちんとかしこまっていなければならず、そしてひどく|はかない《ヽヽヽヽ》ものだった。おれたちはもどってくるとすぐ、もとの候補生にもどるのだし、おれたちを試験する士官たちによって、いつ放り出されてしまうかわからないのだ。
おれたちは〈臨時三等少尉〉になるのだ──この階級の必要度といえば、魚の足程度であり艦隊軍曹と本物の士官とのあいだに、ほんの髪一筋ほどに割りこんだものなのだ。このように候補生の得る階級は、可能なる限りの最低であり、なおかつそれでも〈士官〉と呼ばれるものだ。もしだれかが三等少尉に敬礼したとしたら、光線の具合がどうかしていたのにきまつている。
「諸君は、三等少尉に任官されることになっている……だが給与はもとのままであり、肩書は引きつづいてミスターと呼ばれる。軍服でただひとつ変わることは、肩章が候補生のそれよりもまだ小さくなることだけだ。諸君が士官となるに適しているかどうかは、いまだに決定されておらんので、教育は続けられる」
大佐は微笑を浮かべた。
「では、なぜ三等少尉と呼ぶのか?」
おれは前にもこれを不思議に思った。なぜこの、本物の任官でもない〈士官任命〉に大騒ぎをするのだ?
もちろんおれは、教科書の答なら知っていた。
司令官は言った。
「ミスター・バード?」
「ええ……われわれを命令系統の列に置くためであります、大佐どの」
「そのとおり!」
大佐は、一方の壁にはってある編成表のところへすべっていった。編成表は、命令系統の鎖がずっと下まで続いている普通のピラミッド型になっていた。
「これを見たまえ……」
大佐は、かれ自身の名前に、水平の線で結ばれている枠を指さした。それには〈司令官補佐、ミス・ケンドリック〉と書いてあった。
大佐はあとを続けた。
「諸君……ミス・ケンドリックがいなかったら、ここを動かしてゆくわしの仕事は多大の支障をきたしてしまうことだろう。彼女の頭脳は、ここで起こるすべてのことを迅速にファイルしてしまう能力を持っているのだ」
大佐は椅子についているボタンをさわってから、空中にむかって話しかけた。
「ミス・ケンドリック、バード候補生は最終学期の軍法に、何点をとったのか?」
彼女の答は、たちどころに帰ってきた。
「九十三点です、司令官どの」
「ありがとう……わかったか? ミス・ケンドリックがその頭文字を記したものなら、わしはなんだってサインする。彼女がどれぐらいたびたびわしの名前をサインし、わしがそれを見ることさえないのか、調査委員会に見つけさせなければいけないかと思うほどだ。教えてくれないか、ミスター・バード……もしわしがいま、とつぜん死んでしまったら、ミス・ケンドリックは、続いて仕事をやっていくのかどうか?」
バードは面くらったようだった。
「ええとそれは……決まりきった仕事で、必要なことはするでしょうが……」
大佐の雷のような声がひびいた。
「彼女は、たったひとつだって仕事はせんのだ! チョンセイ大佐が彼女のするべきことを言うまではな……かれなりのやりかたでだ。彼女はたいへんに賢明な女性であり、きみが明らかに知っておらんことを、はっきり理解しているからだ。すなわち、彼女は命令系統の中に入っておらず、従って何の権力もないということをだ」
大佐は続けた。
「命令系統とは、単なる飾り文句ではないのだ。横っ面をひっぱたくのと同じように、はっきりしておることだ。もしわしがきみに、候補生として戦闘するよう命令したとする。きみのできることで最大のことは、きみ以外のだれかの命令を次にまわすことぐらいだ。もしきみの小隊長が戦死し、きみがそれから兵隊に命令を与えたとする……分別のある賢明な、りっぱな命令をな……きみは間違っておるし、もし兵隊がそれに服従したら、その兵隊もまた間違っておるのだ。なぜなら、候補生が命令系統の中に入ることはできないからだ。候補生は、軍隊内に実在しているのではない。階級はなく、だからといって兵隊でもないのだ。これから兵隊になるか士官になるか、それとも、もとの階級に逆戻りするか……そのいずれかになる生徒にすぎん。陸軍の規律下にあるからといって、陸軍の中にいるわけではない。その理由は……」
ゼロだ。なんの飾りもないゼロだ。
もし候補生が陸軍に入ってさえいないとなると──
「大佐どの!」
「え? 言ってみろ、ミスター・リコ」
おれは口を出してしまったことに、自分自身びっくりしてしまった。
「しかし……自分たちが陸軍に入っていないとすると……自分たちは機動歩兵でもないのでありますか、大佐どの?」
大佐はおれを見て、まばたきをした。
「心配かね?」
「自分にはどうも、そんなことは気に入らないのでありますが、大佐どの」
おれは丸っきり気に入らん。すっ裸にされたみたいだ。
大佐は別に、気を悪くしたようではなかった。
「わかった……きみはこの問題を、宇宙弁護士がどういうか、わしに気をもませるんだな」
「しかし……」
「それは命令だぞ。きみは法律的には、機動歩兵ではない。だが、機動歩兵はきみを忘れてはおらん。機動歩兵は、自分の兵隊がたとえどこにいようとけっして忘れたりはせん。もしきみがこの瞬間に死んでしまったら、きみは機動歩兵部隊の二等少尉ジュアン・リコとして灰にされる……」
ニールセン大佐はちょっと中断した。
「ミス・ケンドリック、ミスター・リコの艦は?」
「〈ロジャー・ヤング〉」
「ありがとう……機動歩兵第一師団、第三連隊、ジョージ中隊の戦闘チーム、第二小隊に割り当てられた機動歩兵輸送艦〈ロジャー・ヤング〉所属としてだ……愚連隊だったな」
大佐はまったくたずねてみもせずに、おれの隊名を思い出して、おもしろそうに口にした。
「優秀な部隊だぞ、ミスター・リコ……誇り高く、荒っぽい部隊だ。きみの最後にもらう命令は、消燈ラッパを聞きに、懐しい戦友たちのもとへ帰ることだ。こうして、きみの名はメモリアル・ホールの中に納まる。これがわれわれが常に、死んだ候補生を士官に任命する理由だ……その候補生を、戦友たちのもとへもどしてやれるようにな」
おれは、ほっと救われたような気持ちになり、ホームシックを感じて、すこし大佐の言葉を聞き逃した。
「……わしが話をしているあいだは、口を閉じていろ。きみが所属しておった機動歩兵部隊へは、ちゃんと帰してやるからな。諸君は、訓練出撃のあいだ臨時士官にならねばならん。なぜなら、戦闘降下に無賃乗車の客をのせる空席はないからだ。諸君は戦う……そして命令を受け……命令を与える。正当な命令だぞ……なぜなら諸君は、その階級を持っており、その戦闘部隊のために尽くすことを命令されているからだ。ということは、諸君が、与えられた義務を遂行する際に諸君の与える命令は如何なるものであろうと、これは直ちに最高司令官がサインした命令と何ら変わらないものとなるのだ……」
司令官は続けた。
「それにもまして、ひとたび諸君が命令系統に入れば、諸君は即座に、より高い指揮権を引き継ぐことのできる態勢にならなければいかんのだ。もし諸君が、一個小隊編成の部隊に配属されたとする……戦争の現段階では大いにおこりそうなことだが……諸君が小隊長補佐だったとき、小隊長が戦死したとすれば……そのとき……諸君は……それなのだ!」
大佐は首をふった。
「いいか、そのときは、臨時の小隊長ではないんだぞ。指揮をとる候補生ではない。教育中の最下級士官でもない。とつぜんに諸君は、歴戦の親父、ボス、まぎれもない指揮官となるんだぞ……そして、仲間の人間どもが、何をなすべきか、いかに戦い、どうやって任務を遂行し、生き抜くかを、言ってもらうのを、きみひとりだけに頼っているということを知り、胸が悪くなるまでのショックをおぼえるというわけだ。兵隊たちは、確信を持った命令の声を待ちあぐんでいる……そのあいだにも、カチカチと秒は流れてゆく……その声、決断を下し、正しい命令を下すのは、きみだけにかかっている……そして、正しいだけではなく、冷静であり、心配などしていない口調でなければならん。
なぜなら、諸君の隊は、困難なことになっているからだ……大変な困難だぞ! 恐怖におそわれた変な声など出そうものなら、銀河系内最優秀の戦闘部隊も、指揮官のいない、無秩序な、恐怖に気が狂ってしまった暴走の集団に化してしまうのだ。
まったく無慈悲な重荷が、警告なしにやってくるのだ。諸君は、ただちに行動しなければいけないし、諸君の上にいるのは、神だけなのだ。だが、戦術の細部を神が埋めてくれるなどと期待してはならん。それは、諸君の任務なのだ。諸君がきっと自分の声に感ずる恐怖と混乱から、神が守ってくれたとしたら、兵士の望める権利のすべてを、神はやってくれているということだ」
大佐はひと息ついた。おれは落ちついていた。バードはひどく生真面目で、丸っきり子供みたいな顔をしており、ハッサンはしかめっ面をしていた。おれは、〈ロジャー・ヤング〉の降下室にもどって、そうたくさん階級章をつけていない連中といっしょに、食事後のざっくばらんな話し合いをにぎやかにやっていられたらなと思った。
分隊長補佐の仕事にも文句を言われることは山ほどあったが……頭を使うよりも、死んでしまうほうが、ずっと楽なのだ。
司令官は続けた。
「これは、真実の重さだ。諸君、残念ながら軍事科学には、本物の士官と、両肩に記章をつけただけのおっちょこちょいの偽者を区別する方法は、戦火の試練を経ることのほか何物もないのだ。本物の士官はやりぬくか、あるいは勇敢に戦って死ぬ。偽者は、だめになってしまうのだ。
ときには、だめになったまま、この士官のできそこないは戦死してしまう。しかし、悲劇は、他の人間の損失にあるのだ……優秀な部下、軍曹、伍長、兵隊たちだ。かれらにただひとつ欠けていたものは、無能力な者の指揮下にあったということを、そのときに至るまで見抜けなかったということなのだ。
軍はこれを防ぐことに努めた。まず最初に、候補生のすべては、砲火にさらされてきた訓練された兵士であり、戦闘降下の経験者でなくてはならぬということを、われわれの破るべからざる鉄則とした。歴史をふりかえってみても、これに近いものは少しはあったが、これほどまでにきびしい規則に従った軍隊は存在しない。過去におけるもっとも偉大な士官学校……サンシール、ウエスト・ポイント、サンドハースト、コロラド・スプリングス……は、こういった規則を作ろうとさえしなかった。これらの学校は、一般民間人の子弟を受け入れて、訓練し、士官に任官させ、戦闘の経験もなしに部下を指揮する人間として送り出した……そして、ときどき、この若くて賢いはずの士官が、馬鹿で、へなちょこで、ヒステリックであったことを、まったく手遅れになってから発見するようなことになったのだ。
少なくともわれわれは、そのような不適格者を持っておらん。われわれは、諸君が優秀な兵士であり……その勇気と手腕が戦闘で証明されていることをよく知っておる……そうでなければ、ここへ来ることはできなかったはずだ。諸君の知能と教育は、最低限満足すべきものである。最初をここから始めることによって、われわれはまったくの非適格者をできるかぎり大量に取りのぞき……かれらの能力以上のことをむりに押しつけて、あたら優秀な降下兵をだめにしてしまわぬうちに、できるだけ早くもとの階級へもどしてしまうのだ。この課程《コース》は非常に困難である……というのは、諸君があとになってからぶつかると予想されるものは、なお一層困難なものだからだ。
そのうち候補生の集団は、かなり有望とみられる小さなグループとなる。試験されずに残されている判定規準は、ここでテストできないことなのだ。はっきりできない何かとは、戦闘における指揮官と……単に肩章をつけているだけでその資質がないものとの相違だ。そこでわれわれは、そのことについて実戦テストをやるというわけなのだ。
諸君! 諸君は、この線まで到達した。宣誓を受ける覚悟はできているかな?」
沈黙の一瞬だった。
すぐ暗殺者《ザ・アサシン》<nッサンが、きっぱりと答えた。
「はい、大佐どの」
それからバードとおれも声をそろえて言った。
大佐は渋い顔をした。
「わしは諸君がいかに素晴らしいかを言ってきた……身体は完璧であり、知能も機敏であり、訓練を重ね、規律に従い、実戦の経験もある。まさに賢明な若い士官の、りっぱなモデルとでも……」
大佐は鼻を鳴らした。
「ナンセンスだ! 諸君は、いつかは士官になるだろう。わしもそう願いはするが……われわれは、金と時間と努力を浪費するのを憎むばかりではなく、もっとはるかに重要なことだが、諸君のような生《なま》焼《や》けの未熟な士官をひとり艦隊におくるたびに、わしはふるえているのだ……りっぱな戦闘部隊にわしは、まるでフランケンシュタインの怪物のようなやつを放りこんだのかも知れないぞとな。もし諸君が、いったい何に直面しているのかわかっているなら、どうかとたずねられた瞬間に、あれほど元気に宣誓できなかったかもしれないぞ。宣誓を取り下げ、わしはむりやり諸君を、もとの階級にもどさせてもかまわん。しかし、きみたちにはまだわかっておらんことだ。
そこでもう一度ためしてみよう。ミスター・リコ! きみは一個連隊を全滅させたかどで軍法会議にかけられたら、どんな気持ちになるものか、考えてみたことがあるか?」
おれは馬鹿みたいにおどろいた。
「そんな……もちろんありません、大佐どの」
軍法会議にかけられるなど──いかなる理由があるにせよ──下士官の八倍もたまらないことだ。兵隊なら放り出される程度の(鞭打ちの刑があるかもしれず、ひょっとすると、それさえないかも)犯行が、士官では死刑になるのだ。生まれてこなかったほうがましだった!
大佐は、きびしい声で言った。
「考えてみたまえ……わしが、諸君の小隊長が戦死するかもしれないとほのめかしたとき、わしは当然、軍隊が蒙る損害の最大の場合を想定していたのだぞ。ミスター・ハッサン、一回の戦闘で、指揮官クラスが戦死した最大の数はいくらか?」
暗殺者≠ヘ、ますますうかない顔になった。
「たしかではありませんが、大佐どの。|虫の巣作戦《オペレーション・バグハウス》において、ソベ・キ・プーで、ある少佐が旅団を指揮したときではありませんか?」
「そのとおりだ。その少佐の名は、フレデリックスだ。かれは勲章と昇進を受けた。第二次世界大戦までさかのぼれば、一下級海軍士官が、旗艦を指揮し、敵と応戦したばかりでなく、あたかもかれが提督であるかのように命令を送信したという事例《ケース》が見つけられる。その命令系統には、負傷さえしていないかれより先任の士官も大勢いたのだ。それにもかかわらず、かれが正しかったことは立証された。特別な状況……通信設備の故障だ。しかし、わしがいま考えているのは、六分間のうちに四人の士官が全滅してしまった場合のことだ……まるで小隊長がまばたきしていると、自分が旅団を指揮しなければいけないことになっていた、というようなものだ。だれか、これを聞いた者はおらんか?」
死のような沈黙だった。
「よろしい。これは、ナポレオン戦争がおわるころにおこった奇襲作戦のひとつだ。この若い士官は、ある軍艦に乗り組んでいた最下級士官だった……もちろん海面をはしる海軍であり、じつに、風を動力とするものだった。この若い士官は、きみたちクラスの大半の者と同じくらいの年頃で、まだ正式に任官しておらず、臨時三等少尉≠フ肩書を持っていた……よく憶えておくんだぞ、これこそ諸君が持っていこうとする肩書なのだということを。かれには、実戦の経験がなかった。かれの命令系統には四人の上官がいた。戦闘が始まると、指揮官が負傷した。この若い士官は指揮官を助けあげて、砲火のとどかぬ安全な場所へ運んだ。それだけのことなのだ……戦友を救出したのだ。しかしこの若い士官は、持場を離れる命令を受けることなくやったのだ……かれが、こんなことをしているあいだに、ほかの士官はぜんぶ戦死した。そしてかれは、指揮官としての義務がある持場を、敵前で放棄した≠ゥどで軍法会議に付せられ、有罪となり、追放された」
おれは息がつまった。
「そのことでですか、大佐どの?」
「いけないとでも言うのか? 事実、われわれも救出はする。しかし、海水に浮かぶ海軍の戦闘とは異なった状況において、救出の命令に従ってやるんだ。救出は、敵前で戦闘を中断する言い訳には絶対ならんのだ。この若い士官の家族たちは、一世紀半ものあいだ、かれの有罪を取り消そうと試みつづけた。もちろん、運も悪かった。その状況には、いささか疑いの余地もあるが、命令なくして戦闘中に持場を離れたという事実に疑いはない。たしかにその士官は青二才だったが……絞首刑にならなかっただけでも幸運だったのだ」
ニールセン大佐は、冷たい眼でおれを見つめた。
「ミスター・リコ……きみにもし、こんなことが起こったらどうする?」
おれは唾をのみこんだ。
「起きないことを望みます、大佐どの」
「この訓練出撃中において、こういったことがどのように起きるものか言わせてもらおう。全連隊が一斉降下する全艦総合作戦に入ったとする。もちろん、士官たちがまっさきに降下する。これには有利な点もあり不利な点もあるが、われわれは、士気をふるいたたせる理由でこうするのだ。士官なしで敵惑星の地表へおりた降下部隊など、いまだ存在せんのだ。クモどもが、このことを知っていたと仮定する……事実そうなるかもしれんが……やつらが、これらのまっさきに着陸する連中を一掃してしまうため、なんらかの手を打ち、それに成功したとする……だが、全降下部隊を全滅させてしまうまでにはいかなかった。さて、きみは員数外だからというので、第一波とともに射出されるかわりに、空いているカプセルに乗りこまなければいけなかったので死ななかったと仮定する。さて、きみはどういうことになるのだ?」
「は、はっきりわかりません、大佐どの」
「きみは、まさしく一個連隊の指揮権を継承したのだ。きみはその指揮権を、どのように使うつもりか? はやく言いたまえ……クモどもは、持ってくれんぞ!」
おれは、教科書の中からぴったりした答を引っぱりだしてきて、おうむがえしに言った。
「ええ……自分は指揮をとり、自分の判断する戦術的状況に応じて戦います」
大佐はむっつりと言った。
「ふうん、やれるかな? そして、きみも戦死してしまうんだな……そういう混乱した状況では、だれにできることも、それが関の山だ。だがわしは、きみがはりきってやってくれることを望む……兵隊たちにわけがわかろうとわからなかろうと、ほかの者に対して命令を叫ぶのだ。われわれは、仔猫が山猫と戦って勝てるなどと期待してはおらん……ただ、やることを期待しているだけだ。よろしい、起立。右手をあげたまえ」
大佐は、車椅子をがたがたさせて立ちあがった。三十秒後、おれたちは士官になっていた。〈臨時で、見習いで、員数外の〉。
おれは大佐が、肩章の星をくれて放免してくれるものと思っていた。おれたちは、肩章は買うわけにはいかぬ……それが現わしている仮任官のように、それらは貸してもらえるだけなのだ。大佐は、うしろによりかかり、人間にだいぶ近い顔つきになった。
「わかったか、諸君……わしは、どんな困難なことになるかをすでに話した。わしは諸君にそのことを悩んでほしいのだ。まえもってそれをやり、諸君にふりかかってきそうな、いかなる悪い知らせの組みあわせにたいしても、どのような手を打てばいいのか考えておき、よくわきまえておくのだ……諸君の命は、みんなのものであり、自分だけのものでないということを充分に認識し、栄光のもとへ自殺的に突進して命を捨てられるような諸君だけの命ではないが、諸君の命はまた、事態が要求するときには、捧げなければならぬものでもあるということを。わしは、戦闘の火蓋が切られたときにあわてないですむように、降下する以前にうんと悩んでおいてほしいのだ。
もちろん、不可能なことだ。ひとつのことを除けば。重荷があまりにも大きすぎたときに、諸君を助けてくれるたったひとつの要素はなんだ? だれか?」
だれも答えなかった。
ニールセン大佐は腹を立てたように言った。
「ああ、だれか言わんか! 諸君は新兵ではないんだぞ。ミスター・ハッサン!」
暗殺者≠ヘ、ゆっくりと答えた。
「先任軍曹です、大佐どの」
「明白なことだ。軍曹はおそらく諸君より年長だろうし、より多く降下もしているし、隊のことは、諸君が知っている以上にはっきり熟知している。軍曹は、最高指揮官のあの恐るべき、しびれるような重荷を背負っておらんから、諸君よりもはっきりと物を考えることができるのだろう。かれの助言を求めるのだ。そのことだけに使うために、きみたちには専用の回路を与えてあるんだ。
これで諸君に対する軍曹の信頼が減少したりはせん。かれは相談されることに慣れている。もし相談しなければ、かれは諸君を、馬鹿な、のぼせあがった知ったかぶりだと決めるだろう……そして軍曹が正しいのだ。
しかし、軍曹の助言を取りあげなければいけないということではない。かれの計画を使おうと、ほかの違った計画がひらめこうと……諸君が決断をくだし、命令をすぐに出さなければならぬ。ただひとつ、ひとつだけ重要なことはだ! 優秀な小隊軍曹の胸に恐怖をぶちこむことのできるものは、決断をくだすことのできないボスのもとで働いているということを、かれが知ったときなのだぞ。
機動歩兵部隊ほど、士官と兵がお互いに信頼しあっている軍隊は、これまで絶対になかった。そして軍曹たちは、われわれを膠《にかわ》のようにぴったりと結びつけるものなのだ。そのことを、絶対に忘れるな」
司令官は、車椅子を机のそばにある戸棚のほうへ動かした。その戸棚には、小さな箱の入っている仕切りが、何列も何列もついている。
大佐は、そのひとつを引っぱりだしてひらいた。
「ミスター・ハッサン」
「はい、大佐どの」
「この肩章は、テレンス・オーケリー大尉が訓練出撃につけたものだ。これをつける気になるかな?」
「は……」
暗殺者≠フ声はきしるようであり、おれはこの大男ののっぽが泣きだすのではないかと思った。
「はいっ、大佐どの!」
「ここへ来たまえ」
ニールセン大佐は、その星をとめてから言った。
「これを、大尉がやったように雄々しくつけていろ……しかし、ここへもどすのだぞ。わかったか?」
「はい。大佐どの。最善を尽くします」
「きみがそうするものと、わしも確信しておる。屋上にエアカーが待っており、きみの乗るボートは二十八分後に発進する。命令を遂行せよ、少尉!」
暗殺者≠ヘ敬礼して立ち去った。
司令官はふりかえって、別の箱を取り出した。
「ミスター・バード。きみは迷信深いか?」
「いいえ、大佐どの」
「本当か? わしもそうだ。きみは、五人の士官がつけた肩章をつけるのを嫌だなどと言わんと思うが、どうだ? その五人はみな戦闇中に戦死した」
バードは、ほとんど躊躇しなかった。
「いえ、大佐どの」
「よろしい。これら五人の士官は、十七もの勲章を集めた。連邦勲章から|傷ついた獅子章《ウーンデッド・ライオン》に至るまでだ。ここへこい。この茶色に変色したほうの星章は、常に左肩につけておけ……磨いたりしてはいかんぞ! 同じような印しをまたつけないようにしろ。必要のないかぎりはだ。それが必要なときは、わかるが。これが、前に着用した者のリストだ。きみの輸送艦が出発するまで、まだ三十分ある。メモリアル・ホールに飛んでいき、その五人の記録を見てこい」
「はい、大佐どの」
「きみの命令を遂行せよ、少尉!」
大佐は向きなおり、おれの顔を見ると、きびしい声を出した。
「何か言いたいことがあるのか? 言いたまえ!」
「あ……」
おれはつい、口をすべらしてしまった。
「大佐どの、例の臨時三等少尉……追放になった士官のことであります。どうしてそんなことになったのか、どうしたら調べられるでしょうか?」
「ああ、わしは何も昼間からきみをおどかすつもりはなかった。わしはただ眼をさましてやろうとしただけだ。その戦闘は、一八一三年の六月に、米国軍艦チェスアピークと英国軍艦シャノンとのあいだでおこった。海軍百科事典を見ろ。きみの軍艦に備えてあるはずだ」
大佐は、肩章の星が入っているケースのほうに向きなおって、顔をしかめ、それから言いだした。
「ミスター・リコ。わしは、退役軍人であるきみの高校時代の先生から手紙をもらった。その手紙には、かれが三等少尉のときに着けた星章を、きみに支給して欲しいとあった。残念だが、ノーと言わなければなちん」
「え、大佐どの?」
おれは、デュボア中佐が未だにおれのことを心配してくれているのを知って嬉しくなった──そしてまた、非常に失望もした。
「なぜなら、それは、わしにもできないことだから。わしは、その星章を二年前に支給してしまった……そして、永久にもどってこんのだ。まったくの真実だ」
大佐は、箱をとりだしておれを見た。
「きみは、別の一組をつけることになる、その金属が大切なのではない。その依頼のもっとも重要なところは、きみの先生が、きみが星章を獲得することを願っているという事実にある」
「大佐どのの言われるとおりであります」
かれは、両手で箱をゆすぶりながら言った。
「あるいは……きみが、これを着けられるかどうかということだ。この星章は、過去五回使われてきた……そして、これをつけたあとの四人の候補生は、ぜんぶ任官できなかった……不名誉なことではないが、厄介な不運につきまとわれたんだ。きみは自ら進んで、この不吉なジンクスを打破する元気があるか? 幸運の星に転じることができるか?」
おれは鮫でも可愛がったほうがましだった。だがおれは答えた。
「わかりました、大佐どの。自分はやってみます」
「結構」
大佐はおれにその肩章をとめて言った。
「ありがとう、ミスター・リコ。いいかね、この星はわしのだった。わしが初めに着けたものだ……きみが、この不運続きを打ち破って持ち帰り、なおも前進し、卒業することができれば、わしにとってこれに過ぎる喜びはない」
おれは、十フィートも背が伸びたような気がした。
「やります、大佐どの!」
「わしも、きみはやりぬくものと思っとる。さてきみにも、命令を遂行してもらいたい、少尉同じエアカーが、きみとバードをはこぶ。ちょっと待て……数学の教科書を袋につめたか?」
「え? 大佐どの、つめておりません」
「持ってゆきたまえ。きみの艦の重量検査長は、きみの余分な荷物をのせる許可を通告されておる」
おれは、きびきび敬礼し立ち去った。
大佐が数学のことにふれたとたん、おれはすっかり、もとどおりの大きさに縮んでしまっていた。
おれの数学の教科書は、毎日の宿題用紙といっしょに紐でゆわえて荷造りしてあり、部屋の机に置いてあった。どうもニールセン大佐は、何事であろうと無計画なままでやる人ではないという印象を受けた──だが、だれでもこれは知っていることだった。
バードは、屋上のエアカーのそばで待っていた。かれは、おれの数学の本をちらりと見て、ニヤリと笑った。
「ついてないんだな。まあいいだろう。もし同じ艦だったらおれがコーチしてあげるよ。どの艦だい?」
「〈ツール〉」
「残念、おれは〈モスクワ〉だ」
おれたちはエアカーにのり、操縦装置をしらべた。エアカーは離着陸湯にプリセットされていることがわかり、おれはドアを閉め、車は飛びあがった。
バードは言った。
「きみだけがついていないわけじゃないよ。暗殺者≠ヘ、数学だけでなく、ほかの二課目まで持たされたぜ」
バードは確かに知っていた。そしておれにコーチしようと申し出たときでも、ひけらかすようなところはなかった。かれもまた兵隊であるということを証明する略綬を除けば、かれは学者肌の男だった。
数学を習うかわりに、バードはこれを教えるほうだった。毎日の一定時間、かれは教官のひとりだった。小さなスズミが、キャンプ・キューリーで柔道を教えたようなものである。機動歩兵は、なにひとつ無駄にはしない。そんなことをしている余裕はないのだ。バードは、十八歳の誕生日に数学の学士号を取ったのだ。かれが教官としての臨時任務を受けたのは当然のことである──しかし、このことがあったからといって、かれがほかの時間にしぼられなかったわけではない。
かれが人一倍しぼられたということでもない。バードは、すばらしい知能、しっかりした教育、常識、胆力を、珍しく兼ね備えた男であり、そのうち将軍になれる候補生だとマークされていた。おれたちは、かれが三十になったときには、旅団を指揮しているだろうと考えていた──戦争も続いていることだし。
しかし、おれの野心は、それほど高く舞いあがりはしなかった。
「もし暗殺者《ザ・アサシン》≠ェ落第でもすれば、まったく残念というほかないな」
そうおれは言ったものの、考えてみると、おれが落第したって、まったく残念なことに変わりはないんだ。
バードは愉快そうに答えた。
「かれは落第しないさ……やっこさんを催眠教育小屋に放りこんで、チューブで食べものをやらなくてはいけなくなっても、連中は最後までかれにやってのけさせるよ。いずれにしても……ハッサンは落第したって、そのために昇進するだけなんだ」
「はあ?」
「知らなかったのかい? 暗殺者《ザ・アサシン》≠フもとの階級は、中尉だったんだ……もちろん、野戦での任官だが。ハッサンは落第すれば、その階級に復帰する。規則を知ってるだろう?」
おれもその規則は知っている。もし、おれが数学に落第したら、おれは最下級軍曹に格下げになるんだ。とにかく考えてみれば、ぬれた魚で横っ面をひっぱたかれるよりも、そのほうがましだな……おれは、問題でへとへとになったあと、夜寝られず、そんなことをよく考えたものだった。
だがこの場合は違う。おれは抗議した。
「ちょっと待ってくれ……ハッサンはもともとの階級……中尉を放棄したんだろう……そしていま、臨時の三等少尉になった……少尉になるためというのかい? きみの頭が狂っているのか? それとも、ハッサンがおかしいのか?」
バードは微笑した。
「おれたちふたりを、機動歩兵にするのにちょうど手頃なくらいにな」
「だが……どうもわからないよ」
「はっきりしていることさ。暗殺者《ザ・アサシン》≠ヘ教育がないので、機動歩兵であまり昇進できなかった。かれは実戦になると、優に一個連隊を指揮できるし、また実に整然とその任務を全うするだろうことは間違いない……だれかが、その作戦をお膳立てさえしてくれればな。しかし戦闘における指揮は、士官の任務の中では僅かな一部分にしか過ぎないんだ。特に、上級士官ならなおさらのことだ。戦闘を指揮するためには……あるいは、局地戦闘を計画し作戦を開始することさえも、勝負の理論、作戦の分析、象徴的論理、悲観論的綜合、そのほか一ダースの頭脳的問題を必要とするんだ。これらは基礎さえ知っていれば自分だけで苦労しながらも解決することができる。しかし、それを知っていないことには、決して大尉の上になり、おそらく少佐にさえもなれないんだ。暗殺者《ザ・アサシン》≠ヘ自分が何をやっているのか、よくわかっているよ」
おれはゆっくり言った。
「そうだろうな……バーディ。ニールセン大佐は、ハッサンが士官だったことを……事実、現に士官だということを、知っていたはずだな」
「え? もちろんさ」
「大佐は、そのことを知っているようなしゃべりかたはしなかったな。おれたちはひっくるめて同じお説教を聞かされたわけだ」
「そうでもないさ。司令官が特別な解答を欲する質問をしたときは、いつも暗殺者《ザ・アサシン》≠ノたずねていたことに気づかなかったかい?」
おれは、そのとおりだったと思った。
「バーディ、きみの本来の階級は、なんだったんだい?」
エアカーはちょうど着地したところだった。
バードは片手をハッチにかけて微笑した。
「一等兵だよ……落第するわけにはいかないな」
おれは大声で言った。
「そんなことになったりするものか。きみが落第することなんか、あり得ないよ!」
おれは、バードが伍長にもなっていないことにおどろいたが、バードほど賢明で高度の教育を受けた男なら、かれが戦闘で役に立つことを証明したとたん──戦争が続いているかぎり──十八回目の誕生日のあと数カ月だろうと、士官候補生学校に入るのは当然だと思った。
バードは、まだ朗らかな微笑を浮かべていた。
「また会おうな」
「きみは卒業するよ。ハッサンとおれは、心配しなければいけないが。きみは大丈夫だ」
「そうかな? ミス・ケンドリックに嫌われたらどうだろう?」
かれはドアをあけて、びっくりしたような顔をした。
「おい! おれの集合音が鳴っている。さようなら!」
「また会おう、バーディ」
しかしおれは、二度とかれに会うことはできず、かれは卒業もしなかった。バードは二週間後に士官に任命された。そして、かれの肩章は、十八個目の勲章といっしょにもどってきた──死後に贈られた|傷ついた獅子章《ウーンデッド・ライオン》だった。
[#改ページ]
13
[#ここから4字下げ]
おまえたち、この消えてしまった兵隊どもは、まったくくそいまいましい野郎どもだと思うだろう。ところが、そうじゃないんだ!
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──紀元前二九四年、トロイ城の前でギリシャ人の伍長に言われた言葉
〈ロジャー・ヤング〉は一個小隊を輸送するだけで、ぎっしり混みあってしまうが〈ツール〉は六個小隊を輸送し──まだゆったりとしている。〈ツール〉は全兵員をいっぺんに降下させられるだけの発射管と、その二倍の兵員を輸送するのに充分なだけの余分の船室も持っていて、二回目の降下をさせることができる。これで艦はいっそう混雑してしまい、食事も交替制となり、通路や降下室にまでハンモックを吊る始末で、飲料水も割当になり、呼吸するのだって代わりばんこ、ほかのやつの肘で眼玉をつつかれるほどぎっちりになるのだ! おれがこの艦に乗ったとき、二倍乗せてくれなくて、まったくほっとした。
だがこの艦は、こうまでぎゅうぎゅう詰めの兵隊たちを戦闘準備を整えたまま、地球連邦宇宙圈のいずれの地点であろうと、クモどもの宇宙圏のほとんどの場所であろうと、運ぶことができるスピードと運搬力を持っていた。チェレンコフ推進によって、艦はマイク四〇〇か、それ以上を出せる──たとえば、太陽からカペラまでの四十六光年の距離を、六週間以下で飛行するのだ。
もちろん六個小隊の兵員輸送艦は、軍艦や定期宇宙船にくらべたら、そう大きくはない。これらの艦はちょうど、中ぐらいといったところだ。機動歩兵は、どんな作戦においても融通性のあるスピードの速い一小隊用の小型コルベット艦のほうを望むものだ。これを、もし海軍に任せきりにしておいたとすると、おれたちは単なる連隊用の巨人輸送艦に乗せられてしまうことになる。一隻のコルベット艦を走らせるためには、一連隊用の巨艦を走らせるのとほとんど同じ数の海軍の兵員を必要とするのだ──もちろん、より以上の手入れや拭き掃除といった家事の仕事が必要になってくるが、それは兵隊たちにやらせておけばいい。つまり、これらの怠け者の降下兵は、寝ること、食うこと、馬鹿話のほかには何ひとつしないんだから──こいつらに毎日決まった仕事をほんの少しでもやらせるのは良いことだと、海軍さんは言っているのだ。
実際の海軍の意見は、もっと極端なものでさえある。すなわち、陸軍なんかは時代遅れだから撤廃してしまうべきだと。
海軍はこんなことを公式に言ったわけではないが、慰労休暇中のうぬぼれた海軍士官と話してみろ、嫌というほど聞かされるから。海軍は、どんな戦争であろうと、自分らで戦い勝利をおさめることができ、そのあと外交団が引き継ぐまで、占領した惑星をつかんでおくために少数の海兵を降ろしておけばいいなどと考えているのだ。
おれだって、海軍の持っている最新型の玩具が、どんな惑星だって吹っ飛ばしてしまえることは認める──見たことはないが、信じている。たぶんおれは、恐竜と同じくらい時代遅れなのかもしれない。だが、おれ自身は時代遅れだと思ってはいないし、おれたち陸軍のモンキーは、あの御自慢たらたらの艦にはできないことをやってのけられるのだ。もし政府が、そんなことをしなくていいとでも思っているのなら、疑いもなく政府がおれたちにそう言うことだろう。
たぶんそれは、海軍にしても機動歩兵にしても、決め手となるものはまだ持っていないということだろう。どんな男だって、自分で一個連隊と巨艦の両方を指揮しないかぎり──機動歩兵をやって苦しい坂を乗り越えてから海軍の士官になるか(あの若いバードは、このことを良くわきまえていると思う)、あるいは最初に航宙士《アストロゲーター》・操縦士《パイロット》になり、そのあとキャンプ・キューリーで鍛えられる以外には──宇宙軍司令官に反対することなどできないのだ。
おれは、この両方をなしとげたやつなら、どんな男の言うことでも、謹んで従おう。
ほかのほとんどの輸送艦と同じように〈ツール〉は、男女混合艦だ。おれにとって最もおどろくべき変化は〈三十度線の北〉へ行くことを許可されたことだった。女性の居住区画と、髭を剃る荒っぼい連中を分ける隔壁は、必ずしも三十号である必要はないのだが、どの混合艦でも伝統に従って〈三十号隔壁〉と呼ばれているのである。士官室はこの隔壁のすぐ向こうにあり、残りの女性用区画は、はるか前方にあった。〈ツール〉では、士官室は同時に女性下士官用の食堂と兼用されており、その女性たちは、おれたちが食事をする直前に食事をとるのだ。そしてこの部屋は、食事時間を除くと、女性下士官用の娯楽休養室と女性士官用のラウンジに、間仕切りで分けられていた。男性士官たちはというと、カード室と呼んでいるラウンジを、三十号隔壁の船尾側に持っていた。
降下と撤退には、最優秀のパイロット(つまり女性の)を必要とするというはっきりした事実は別にしても、なぜ女性士官たちが輸送艦に乗り組む任務を与えられるかには、非常に強い理由がある。つまり、カプセル降下兵の士気に良いからである。
しばらくのあいだ、機動部隊の伝統については話さないでおくことにしよう。ところで、自分が宇宙船の外へ射出され大怪我をするか、いっぺんに死んでしまうことになるなどというより以上に、馬鹿げた話を考えることができるだろうか? しかしながら、もしだれかがこの間抜けた離れ業をしなければならぬとしたら、そいつか喜んでそんなことをしようとする点まで士気を高めておくのに最も確実な方法は、なぜ男は戦うのかというただひとつの立派な理由は、現に生きて呼吸をしている現実そのものにあるということを、そいつに絶えず思い知らせておくことなのだ!
男女混合の艦で、カプセル降下兵が降下直前に聞くこと(もしかすると、かれの聞く最後の言葉だ)は、かれらの好運を祈る女性の声である。もしこれを大したことではないなどと思うやつがいるなら、たぶん人類であることを放棄したほうがいいのではないか。
〈ツール〉には十五人の海軍士官が乗り組んでおり、女性は八人、男性が七人である。機動歩兵の士官は、おれも含めて(そう言えるのはうれしいことだ)八入だ。おれは別に〈三十号隔壁〉が士官候補生学校入りを望ませたなどというつもりはないが、女性たちといっしょに食事ができる特権は、なまじっか給料が上がることなどよりずっと魅力的であった。
艦長が食事のときの会長《プレジデント》だった。おれのボスであるブラックストーン大尉は副会長《バイス・プレジデント》だったが、これは階級のためではない。三人の海軍士官がかれと同じ階級だった。しかし、ブラックストーン大尉は、攻撃部隊の指揮官として、事実上、艦長を除くほかのだれよりも上級者だったのだ。
食事は常に礼儀正しくおこなわれた。おれたちは時間がくるまでカード室で待機し、ブラックストーン大尉が入ってゆくあとに続き、自分の椅子のうしろに立つ。それから艦長が女性士官たちを引きつれてお出ましになり、正面テーブルに到着すると、ブラックストーン大尉は頭をさげてこういうのだ。
「マダム・プレジデント……レディス」
すると、彼女がそれに答えるきまりになっている。
「ミスター・バイス……ジェントルメン」
こうして、男性士官たちは、それぞれの右側にいる女性士官たちの椅子をひいて着席させるのだ。
この儀式は、士官たちの会議ではなく、社交上の出来事としてきめられていたのだ。そのあとは階級か肩書かが使われるのだが、最下級の海軍士官と、機動歩兵ではおれだけが「ミスター」あるいは「ミス」と呼ばれた──これが、おれを馬鹿にしたただひとつの例外であった。
艦に乗り組んではじめての食事のとき、おれは、ブラックストーン大尉が「少佐《メジャー》」と呼ばれるのに気がついた。だが、かれの星章が「大尉《キャプテン》」であることは、だれの眼にもはっきりしている。あとになっておれは、そのことを教えられた。海軍の艦艇に、艦長《キャプテン》をふたり置くことはできない。そこで、ひとりの、たったひとりの君主のために用意されてある肩書でかれを呼ぶなどという考えられない過ちを犯すよりも、陸軍の大尉《キャプテン》のほうを、社交上、一階級おしあげることにしたのだ。もし海軍の大尉《キャプテン》が艦長《キャプテン》以外に乗艦してくれば、艦長がもし最下級の少尉であろうと、かれもしくは彼女は〈司令官《コモドア》〉と呼ばれるのだ。
機動歩兵は、士官室ではなるべくその必要がないようにしたが、艦内の自分たちだけの区画では、この馬鹿げた習慣など、一顧だに与えない。
艦長がテーブルの正面に坐り、攻撃部隊の指揮官が反対側の正面に坐り、テーブルのそれぞれの端から、先任者の順にならぶので、最年少者の海軍少尉候補生がかれの右になり、おれは艦長の右側となった。おれはその少尉候補生のそばに坐れたらひどく幸運だったろう。彼女は素晴らしい美人だったのだ──だがこの配置はよく考えられた組み合わせであり、おれは彼女のファースト・ネームさえ知ることができなかったのである。
おれは、自分が男性士官たちの中での最下級者として、艦長の右側に坐ることは知っていた──だが、彼女の椅子を引いて坐らせてあげることになっているとは知らなかった。最初の食事のとき、彼女は待ち、ほかのだれも坐らなかった──三等機関士補がおれを肘でつつくまで、ジョーゲンセン艦長は何事もなかったかのように振舞ってくれたものの、おれは幼稚園での非常に不幸な出来事からこのかた、こんなにきまりの悪い思いをしたことはなかった。
艦長が立ちあがると食事は終わりになる。彼女はいつもタイミングがいいのだが、食事が終わっても、二、三分立ちあがらなかったことが一度あった。すると、ブラックストーン大尉は、いらいらして、立ちあがるなり呼びかけた。
「艦長……」
「なんですの、少佐?」
「士官たちとわたくしが、カード室でくつろぐよう命令を出してくださいますか?」
艦長は冷たい声で答えた。
「もちろんですわ、少佐」
それからおれたちは、カード室へ行ったが、海軍の士官たちはひとりも加わらなかった。
次の土曜日、艦長は、乗りこんでいる機動歩兵を検閲する特権を行使した──これは、輸送艦の艦長として、ほとんど前例のないことだった。しかし彼女はなにひとつ文句をつけるわけではなく、列の前をただ歩いていっただけだった。彼女は事実、やかまし屋ではなく、機嫌の悪くないときには、いつもにこやかに微笑を浮かべていた。ブラックストーン大尉は、おれに数学をみっちり仕込むために〈しわがれ声〉グレアム少尉をおれの教官に任命した。どういうものか彼女はこれを探りだし、ブラックストーン大尉に、おれを毎日、昼食後一時間、彼女の部屋へ出頭させるようにと言った。その部屋で彼女はおれに数学を個人教授し、おれの宿題が完全でないときは、どなりつけるのだった。
おれたちの六個小隊は二個中隊に編成され、端数大隊《ランプ・バタリオン》となっていた。ブラックストーン大尉は、D中隊──〈ブラッキー|ならず者隊《ブラックガーズ》〉を指揮し、同時に端数大隊の指揮もとった。編成表によるおれたちの大隊長は〈ツール〉の姉妹艦である〈ノルマンディ・ビーチ〉に搭乗しているA・B中隊といっしょにいるクセラ少佐で──たぶん、宇宙の半分ほども遠いところにいるはずだ。クセラ少佐は、全大隊がいっしょに降下するときだけ、おれたちの指揮をとった──そのとき以外は、ブラックストーン大尉が、報告書や手紙などを送ったのだ。さまざまの問題は、艦隊、師団、あるいは基地に直行した。ブラックストーン大尉は、それらのことをてきぱきと処理してしまう素晴らしい才能の艦隊軍曹を部下に持っており、いざ戦闘になるとその軍曹は、大尉が端数大隊と中隊の両方をひきいるのを助けたのである。
何百隻という宇宙艦が、何光年ものあいだに散らばっている陸軍では、行政上の細かいことは単純なものではない。さきの〈ヴァリイ・フォージ〉〈ロジャー・ヤング〉そして現在の〈ツール〉にしても、おれは同じ連隊にいたことになるのだ。すなわち、第一機動歩兵師団〈北極星《ポラリス》〉第三連隊〈甘ったれペット〉である。ほうぼうの部隊からかきあつめられてきた二個大隊は|虫の巣作戦《オペレーション・バグハウス》で第三連隊と呼ばれたのだが、おれは自分の連隊を見たことがなかった。おれが見たものはただバンバーガー一等兵と無数のクモどもだけだったのだ。
おれは〈甘ったれペット〉で任官し、その中で年をとり、除隊することになるかもしれないが──それでも自分の連隊長と顔を合わすことなど決してない。〈ラスチャック愚連隊〉にも中隊長はいたが、かれもまたほかの小型輸送艦で第一小隊〈スズメ蜂隊〉の指揮を兼任していたのだ。だからおれは士官候補生学校派遣の命令書を見るまでは、中隊長の名前すら知らなかったのである。
その小型輸送艦が任務から離れたとき、慰労休暇を与えられた〈失われ小隊〉に関する伝説がある。そこの中隊長は昇進したばかりで、そのほかの小隊はどこか別のところに作戦上つけられていた。おれは、この小隊長にいったい何が起こったのかは知らないが、休暇は士官を派遣するときと決まっているし──理論的には、交替される要員が派遣されたあとになるのだが、交替要員はいつでもほとんどいないのだ。
この小隊は、だれかが行方不明に気がつくまで、チャーチル道路に沿った楽しい飲食料理店で、まるまる一年間を楽しんでいたのだと言われている。
どうもおれには、そんなことは信じられない。だが、そういうことも起こり得るのだ。
士官の慢性的な不足は〈ブラッキー|ならず者隊《ブラックガーズ》〉でのおれの勤務にひどく影響した。いかなる陸軍の記録の中でも、機動歩兵における士官の数は、最低の比率だった。そしてこの要素こそ、機動歩兵の独特な〈師団のくさび〉だったのである。〈師団のくさび〉は軍隊だけの特殊用語だが、その趣旨は簡単なものだ。すなわち、一万人の兵隊がいるとしたらそのうちの何人が戦うのだろうということだ。そのうち何人がジャガイモの皮をむくだけであり、トラックを運転し、墓石を数え、書類をめくるのか?
機動歩兵では、一万人が戦うのだ。
二十世紀の大戦争では、時に、一万人を戦わせるために、七万人(事実だ!)を必要としたのである。
おれたちを戦う場所へ運ぶために海軍がいることは認める。しかし、機動歩兵攻撃隊員は、小型輸送艦に乗っていても、輸送艦乗組員より、少なくとも三倍は多い。機動歩兵はまた、おれたちに補給しサービスさせるための民間人を雇っている。おれたちの一割は常に休暇中であり、またおれたちのうちで最優秀な連中の何人かは、新兵訓練場の指導要員として交替勤務している。
事務をとっているごくわずかの機動歩兵を見れば常にわかることだが、かれらには、手や足や、その他の何かが欠けていることに気がつくだろう。この人たちは──たとえばホウ軍曹、ニールセン大佐──退役することを拒否し、そして、攻撃精神を必要とするが五体の完全であることは必要としない仕事を自分らがやれば、戦える機動歩兵をそれだけふやすことができるのだと、二度の務めをしようとしているのだ。かれらは、民間人にはできない仕事をやっている──そうでなければ、機動歩兵部隊は民間人を雇う。民間人は豆のようなものだ。単に技術と勘の良さだけを必要とする仕事なら、それに向いた人間など欲しいだけ買えるのだ。
だが、攻撃精神を買うことはできない。
これは、めったにないものなのだ。だからおれたちは、徹底的にこれを使い、全く無駄にしない。機動歩兵は、その守る人口の大きさに比べると、歴史に現われたうちで最も小さな軍隊である。機動歩兵を買うことはできず、徴発してくることもできず、強制することもできない──もし、機動歩兵が立ち去りたいと言ったら、引きとめておくことだってできはしないのだ。機動歩兵は、降下三十秒前に中止することだってできるし、頭が変になり、カプセルの中に入らないですませることもできる。そんなことを起こしたもののすべては、給料を払われて追いたされ、二度と投票できなくなるのだが。
士官候補生学校で、おれは歴史に現われた軍隊の中で、ガリー船の奴隷のようにかりたてられた連中のことを学んだ。しかし、機動歩兵は自由人なのだ。おれたちをかりたてるのは、すべて心の中から出てくるものである──なわち、自尊心と、戦友を尊敬する必要と、自分がみんなの一員である誇りが、士気を、あるいは軍人精神《エスプリ・ド・コール》をふるいおこすのだ。
おれたちの士気の根源は〈全員が働き、全員が戦う〉ことである。機動歩兵の兵隊は、やさしい安全な仕事を得ようとして小細工したりはしない。そんなやつは、ひとりだっていないのだ。もちろん兵隊が、自分のやれることから、うまく逃げ出すことだってある。それ相当に勘のいい兵隊なら、だれだって音楽を聞きながらぐずぐずして、なぜ部屋を掃除しないとか、装備の手入れをしないとかの理屈を考えだせる。これは兵隊が昔から持っている権利なのだ。
しかし〈やさしい、安全な〉仕事のすべては、民間人がやってくれる。怠け者の兵隊でも、ひとたび自分のカプセルに乗りこんだら最後、上は将軍から下は一兵卒にいたるまで、間違いなくかれといっしょにやるのだということを、確実に知っているのだ。何光年離れていても、違う日であれ、あるいは一時間かそこらあとであろうと──それは問題ではない。問題となるのは、全員が降下することである。かりに、本人がそのことを意識していなくとも、これが、かれのカプセルに入る理由なのである。
もしおれたちが、このことから逸脱するようなことがあれば、機動歩兵はばらばらになってしまうことだろう。おれたちを、しっかりと団結させておくものは、ただひとつの観念だけである──それは、鋼鉄よりも強く縛りつけているものであり、その魔力とは、そのことが少しも変わらずに続いているということにあるのだ。
これがつまり、機動歩兵部隊にいつも士官を足りなくさせる〈全員が戦う〉原則なのだ。
おれは、自分が望む以上に、このことについてはくわしく知っている。というのは、おれは〈軍の歴史〉について馬鹿な質問をしてしまい、ド・ベ口・ギャリコから清朝の古典である〈黄金政権の崩壊〉に至る書物を調べあげる仕事を押しつけられてしまったのだ。
理想的な機動歩兵師団を考え出せ──紙の上でだ。つまりそんなものはどこにも見つかるわけがないからである。士官は何人が必要になってくるのだろう? ほかの部隊から配属されるものは考えなくていい。そういう連中は騒ぎのあいだじゅう、いないかもしれず、機動歩兵の士官とはちがう──兵站部隊と通信部隊に所属している特殊な才能のある連中もみな士官ということになっているのだ。それがもし、記憶力のずばぬけた男、精神感応者《テレパス》、または超感覚者《センサー》、それともおれが喜んで敬礼できる幸運な男などであれば、おれも全くうれしい。そいつはおれの存在よりもっと値打ちがあるだろうし、もしおれがあと二百年も生きられるとしても、そいつに代われるものではない。それともK9部隊をとってみよう。この部隊は半分が士官だ。もっとも、残りの半分はネオドッグだが。
この連中はひとりとして、おれたちの命令系統の中に入っていない。そこで、おれたちモンキー野郎だけのことを研究し、それがどういうことになるか考えてみよう。
この想像上の師団は、一万八百人の兵隊で、二百十六個の小隊を作り、小隊にはそれぞれ少尉が一人ずつついている。三小隊で一中隊だから七十二人の大尉が必要になり、四中隊が一大隊になって、十八人の少佐か中佐が必要となる。六人の大佐がついた六連隊は、二ないし三個の旅団を編成でき、これにはそれぞれ少将がくっつき、これにプラスして、トップのボスに中肉中背の将軍が必要になるというわけである。
すると、すべての階級を含めた一万一千百十七人の中から三百十七人の士官が必要となって 全く余分の部隊はなくて、士官のすべてがそれぞれひとつの部隊を指揮している。士官の数は、全体の三パーセント──これは現在の機動歩兵と同じだが、すこしその配置は異なっている。実際のところ、多くの小隊は軍曹に指揮されており、多くの士官は〈ひとつ以上の帽子をかぶって〉どうしても必要な参謀の仕事をしているのだ。
小隊長でさえも〈参謀〉を持たなければいけない──小隊軍曹だ。
だが小隊長は、軍曹がいなくてもやっていけるし、軍曹だって同じことである。ところが、将軍には絶対に〈参謀〉がいなくてはだめなのだ。将軍の仕事は、ひとりの頭だけで考えるには、大きすぎるのだ。そこでかれには、大勢の参謀要員と、少数の戦闘要員が必要となってくる。
ところが、充分な数の士官がいたためしは全くないので、将軍の乗る旗艦輸送艦に乗りこんでいる戦闘部隊指揮官は、その参謀要員としても働く。かれらは機動歩兵での最優秀な数学的論理家が引き抜かれたものであり──それからかれらは、そこについている戦闘部隊とともに降下するのだ。将軍は、そのそばについている小さな戦闘要員プラス、機動歩兵の中で最も荒っぽい気合いのこもった兵士たちの小戦闘部隊とで降下するわけだ。かれらの任務は、将軍が戦闘を考えるあいだに、無作法なお客様に邪魔されるのを防ぐことだ。時々かれらは、成功をおさめることがある。
参謀の仕事が必要となってくるので、小隊より大きな部隊は、副指揮官を持たなければいけなくなる。しかし、士官の数が充分あるなどということは決してないので、おれたちは現在の士官たちだけでやりくりをつけなければならぬ。それぞれの必要な戦闘任務を満たすため、ひとつの任務をひとりの士官に任せるとすれば、士官の比率は五パーセントが必要となる──だが、現実におれたちのところにいるのは、ぎりぎりで三パーセントなのだ。
五パーセントという最適の状態に、機動歩兵が到達したことはなかった。過去における多くの軍隊は、総数の十パーセントの士官を配属させていたし、あるいは十五パーセント──時にはおどろくなかれ、二十パーセントなんていうのもあった! お伽話のように聞こえるだろうが、特に二十世紀では、事実だったのである。伍長の数よりも士官の数のほうが多い軍隊など、いったいどんなものだろう? そして、兵隊よりも下士官たちの数のほうが多いときては!
戦争に負けるために組織された軍隊みたいなものだ──もし、そのような歴史に何か意味するところがあるとしたら、そんな軍隊はつまり、大部分が組織そのものであり、官僚的であり、頭でっかちであり、その〈兵隊〉のほとんどは、決して戦うことがなかったということだ。
だとすると、戦闘する部下を指揮しない〈士官たち〉は、いったい何をしていたのだろう。
ぶらぶらしていたことは間違いない──つまり、士官クラブ付士官、士気涵養係士官、体育係士官、広報係士官、慰安係士官、酒保係士官、輸送係士官、法務士官、隊付牧師係士官、副牧師士官、副々牧師士官、考えることのできるかぎりのありとあらゆる何々係士官──子守係士官か!
機動歩兵部隊では、そのような仕事はみな、戦闘士官にとっての余分の任務だった。もしそれが本当に必要な仕事なら攻撃部隊の士気を低下させることなく、民間人を雇うことによって、よりうまくより安くやりとげてしまえるのである。だが、二十世紀の一時期においては、事態はひどく混乱してしまい、主要兵力である戦闘する男たちを指揮する本物の士官たちには、特別の記章が与えられて、回転椅子に坐っている大勢の士官たちとは違うことを明確にさせたものである。
戦争が長びくにつれ、士官数の不足は、ますます悪化の一途をたどっていった。というのは、犠牲者の比率となると、常に士官のほうが高かったからである──それに機動歩兵は単に欠員を埋めるために士官を新しく任命することはしなかったのだ。長い間には、それぞれの新兵連隊は、そこで必要とするだけの士官たちの仕事を自らで満たさなければいけないが、その比率は、連隊の水準を下げることは許されないのに、上げることはできないのだ。〈ツール〉の攻撃部隊は、十三人の士官を必要とした──六人の小隊長、二人の中隊指揮官、二人の副官。そして、副官と補佐のひとりずつを参謀とした攻撃部隊指揮官だ。
ところが実際にいるのは六人……そして、おれだ。
[#ここから太字]編成表[#太字終わり]
端数大隊・攻撃部隊
ブラックストーン大尉
(第一参謀)
〈艦隊軍曹〉
C中隊〈ワレン穴熊隊《ウルブラインズ》〉 D中隊〈ブラッキー|ならず者隊《ブラックガーズ》〉
ワレン中尉        ブラックストーン大尉
(第二参謀)
1小隊          1小隊
ベイヨン中尉       (ジルバ中尉・入院)
2小隊          2小隊
スカルノ少尉       コロシェン少尉
3小隊          3小隊
ウンガム少尉       グレアム少尉
おれはシルバ中尉の指揮下に入ることになっていたのだが、かれはひどいひきつれかなんかで、おれが出頭した日に入院してしまった。しかしこれは、必ずしもおれがジルバ中尉の小隊を指揮することになるといった意味のものではない。臨時の三等少尉の価値など考慮に入れられてなかったのだ。ブラックストーン大尉は、ベイヨン中尉指揮下におれを置き、軍曹にかれ自身の第一小隊を指揮させるよう配置するか、あるいはおれを〈第三参謀〉とでもして、自分で小隊を指揮することだってできた。
実際には、大尉はその両方をしたのだが、それにもかかわらず、おれを〈ブラッキー|ならず者隊《ブラックガーズ》〉の第一小隊指揮官に任命した。大尉は〈ワレン穴熊隊《ウルブラインズ》〉の優秀な最下級軍曹を借りて大隊付要員とし、それからかれについていた艦隊軍曹を、第一小隊の小隊軍曹にした! これは、その最上級軍曹の階級より二階級も下の仕事なのだ。それから大尉は、おれに頭がちぢみあがってしまうようなお説教をしながら、一語一語説明した。つまり、おれは小隊長として編成一覧表にのることはのるが、大尉自身と軍曹が小隊を指揮するというのだ。
おれが行儀よくしてさえいれば、なんとか作戦行動についてやっていけるのだ。それにおれは、小隊長として降下することさえ認められた──だが、小隊軍曹から中隊長ヘ一言でも言われたら最後、|くるみ割り《ナット・クラッカー》の顎は閉じられるのだ。
これは、おれにぴったりだった。おれがうまく指揮できるあいだは、おれの小隊なのだし──もしおれにはできないとしたら、早いところお払い箱になるほうが、みんなのためにもいいってことだ。それに、みんなの神経がやられるという点では、戦闘の最中にとつぜん破滅がくるよりも、さきにそうなっておくほうが、ずっと軽くてすむ。
おれは任務に、真剣にとり組んだ。おれの小隊だからだ──編成表にもそう書いてある。だがおれは、一週間ほどというものは、権威を委任するということを知らなかった。おれは、戦闘部隊にとって好ましくないことになるほど長い時間を、兵隊たちの国で過ごした。すると、ブラックストーン大尉は、とうとうおれをかれの部屋へ呼んで言った。
「若いの、おまえはいったい何をやらかしているつもりなんだ?」
おれは、自分の小隊をいつでも戦闘できる状態にしておこうと努めているつもりだと、しゃちほこばって答えた。
「そうか? さて、そうだとすると、おまえのやっているようなことは、間違っているんだぞ。おまえは、兵隊たちを蜂の巣みたいにひっかきまわしている。わしがおまえに、艦隊きっての最優秀な軍曹をつけてやったのは何故だと思っとるんだ? 自分の部屋へもどったら、洋服掛にぶらさがって、そのままじっとしていろ! 戦闘準備の合図が鳴り出すまではな。きっと軍曹がおまえに、ヴァイオリンのように調子のあった小隊をわたしてくれるだろうからな」
「大尉どののおっしゃるとおりにいたします」
おれはむっつりとそう答えた。
「それからもうひとつ、話は変わるが……おれは、面くらった候補生みたいにふるまう士官には我慢がならん。その、馬鹿みたいにおれのことを他人行儀に呼ぶのはやめろ……そんなことは、将軍や艦長むけにとっとくんだ。肩をいからせ、踵をカチカチさせて歩きまわるのはやめろ。士官というものは、のんびりしているように見えるべきものなんだ」
「そうであります、大尉どの」
「それから、この一週間おれにむかって言いつづけているどの≠ヘ、もうそれで最後にしろ。敬礼にしても同じだ。そんな憂鬱な候補生面はやめて、ちょっとはニッコリしたらどうなんだ」
「はい、大尉ど……オーケー」
「そのほうがましだ。ちょっと壁によりかかってみろ。顎でもかいて欠伸をするんだ。鉛の兵隊がやること以外なら、なんだっていいから」
おれはやってみた……だが、習慣を破るのは容易なことではないとわかり、照れくさく苦笑を浮かべるほかなかった。よりかかるのは、直立不動の姿勢よりもきつい仕事だった。ブラックストーン大尉は、つくづくとおれを見つめて言った。
「練習しろ……士官というものは、怯えたり、緊張した顔を見せてはいかんのだ。伝染するからな。さてジョニー、おまえの小隊が欲していることを言ってみろ。どんなつまらんことでもいい。といって、ロッカーの中にある靴下の員数がそろっているかどうか、なんてことには興味は持っとらんが」
おれは急いで考えた。
「ええ……シルバ中尉が、ブランビーを軍曹に昇進させようとしていたことを知っておられますか?」
「知っとるが。おまえの意見は?」
「ええと……記録によると、かれは過去二カ月のあいだ、分隊長をやってきたとあります。かれの能力は優秀です」
「わしは、おまえが推薦《すいせん》するのかどうかをたずねているんだぞ」
「はあ、大尉ど……失礼。自分はなにぶん、かれが地上で戦闘をしているところを見たことがありませんので、はっきりこうだという意見は持てません。降下室の中では、だれだって兵隊になり得るものです。しかし、自分の見たところ、かれの地位を落とし、班長をその上に置くには、かれはあまりにも長いあいだ軍曹の仕事をやりすぎています。ブランビーは自分たちが降下する前に三本筋をもらうべきです……さもなければ、自分たちが帰還したとき、転属させるべきです。もし宇宙勤務での転属するチャンスがあれば、早いほうがいいと思います」
ブラックストーン大尉は文句を言った。
「わしの、|ならず者隊《ブラックガーズ》の弱味を、よくまあ言ってくれるな……三等少尉のくせに大した気っぷだぞ」
おれは赤くなった。
「同じことで、それは自分の小隊での弱点でもあります。ブランビーは、昇進させるか、転属させるべきです。自分は、ブランビーが、もとの仕事にもどるが、ほかのだれかが昇進していて、がれの上になっているなんてことは嫌です。かれだって面白くないでしょうし、自分としても、さらにまずい弱点を持つことになってしまうでしょう。もしかれが、もう一本金筋をもらえないなら、連隊本部へでも行くべきです。それなら、かれにしたって恥をかくこともないでしょうし、正々堂々と別の隊の軍曹になる機会だってできます……この部隊に残って、行きづまりになっている代わりに」
大尉は真剣な顔になった。
「ほんとにそうかな……おまえがそこまでうまく分析できるのなら、その推理能力を生かして、なぜシルバ中尉は、三週間前に、おれたちがサンクチュアリに到着していたとき、ブランビーを転属させなかったのか言ってみろ」
おれだって、そのことをおかしく思ってはいたのだ。兵隊を転属させる時期は、その男を行かせようと決定したら最後、できるだけ早くするべきだ──事前に知らせもせずにだ。そのほうが転属する軍人にとっても、隊にとってもいいことなのである──教科書には述べてある。おれは、ゆっくりと答えた。
「シルバ中尉は、そのころすでに病気だったのですか、大尉?」
「そんなことはない」
もうすべての状況は申し分ない。
「大尉、自分はブランビーをすぐ昇進させることを推薦いたします」
大尉のまぶたかあがった。
「おまえはついさっきまで、かれのことを無能だとこきおろしかけていたではないか」
「え……そんなわけでもありません。自分は、こうするか、それともこうしなければと言いました……どちらか、わからなかったのです。いまはわかっていますが」
「続けろ」
「ええと、これらのことから、シルバ中尉は卓越した士官であると思われ……」
「ふーん! それでは、参考までに言っておこう。いそがし屋<Vルバは優秀……昇進を推薦≠フ長い紐の持主だ……ただし、〈三十一の大罪〉のだぞ」
おれはあくまで言った。
「だが自分は、かれが優秀な士官だったということがわかりました……というのは、自分が、非常に優秀な小隊を引き縫いだからです。優秀な士官は、兵隊を昇進させないときがあるでしょう……いろいろな理由によってです……それでも、その心配を文書に残したりはしません。ですが、この場合、もしシルバ中尉がブランビーを軍曹に推薦することができなかったのだとしたら、かれを隊にそのまま置いてはおかなかったでしょうし……できるだけ早い機会に退艦させたことでしょう。しかし中尉はそうしませんでした。こんなわけで自分は、中尉がブランビーを昇進させようとしていたのだとわかりました」
おれはちょっとつけ加えた。
「しかし自分は、ブランビーが休暇中に三木目の金筋を受けられるよう、なぜ中尉は三週間前にやらなかったのだろう、という点がわからないのですが」
ブラックストーン大尉は、にやりと笑った。
「それはおまえが、わしの能力を信用しておらんからだ」
「大尉ど……どういうことでしょうか?」
「ああ、おまえはあのいい兵隊の昇進を、だれが否決したのか証明した。それにわしは、まだ湯気が出ているような候補生に、トリックをぜんぶ知られてしまうとは思ってもみなかった。だが、よく聞き、よく学ぶんだぞ、若いの。この戦争が続くかぎり、基地へ帰還する直前に、兵隊を昇進させたりするもんじゃないぞ」
「え……どうしてですか、大尉?」
「おまえは、もしブランビーが昇進されないのなら、人事課へやるべきだと言った。だが、もし三週間前にかれを昇進させておいたら、そここそかれの行ったところだろう、ということなんだ。おまえは、本部でどれほど下士官が不足しているか知らんのだ。命令書をひっかきまわしてみたら、連隊本部へ軍曹をふたり補充してくれというのが見つかるよ。小隊軍曹は士官候補生学校に派遣され、最下級軍曹は欠員ときているんで、こっちのほうこそ頭数が足らんとことわられたんだ」
大尉はすごそうな笑いを浮かべた。
「やりにくい戦争だぞ、若いの。おまえだって気をつけていないと、仲間にこっそり、最優秀な部下を引きぬかれてしまうんだ」
大尉は引き出しから二枚の書類をとり出した。
「これだ……」
一枚はシルバ中尉からブラックストーン大尉にあてた手紙で、ブランビーを軍曹に推薦しているものであり、ひと月前の日付になっていた。あとの一通は、軍曹になるについてブランビーを保証する書類だった──その日付は、おれたちがサンクチュアリを出発したあくる日になっていた。
「納得できたか?」
「え? ああ、もちろんです!」
「わしは、おまえが自分の隊の弱点を見つけだし、わしに何をなすべきか話してくれるのを待っていたんだ。わしは、おまえが見つけてくれたことを喜んではいるが……まあまあといったところだ。というのはだな、経験の豊かな士官なら、編成表と勤務記録をちょっと見ただけで、たちどころに分析してしまうことだろうからだ。まあいい。こうしておまえも経験を積んでいくんだ。さて、これがおまえのやるべきことだ。シルバのように、おれに手紙を書くんだ。昨日の日付にしてだぞ。それから、おまえの小隊軍曹に話して、やつの口から、おまえがブランビーを三本筋に昇進させると言わせるんだ……シルバ中尉がやったことなど言うんじゃないぞ。おまえが推薦状を書いたときは、シルバの一件など知らなかったことにするんだ。おれたちも黙っとる。わしがブランビーに宣誓させたとき、わしの口から、ふたりの士官がそれぞれ別々に推薦したんだということを知らせてやろう……そのほうが、やつの気分を良くするだろうからな。いいか……ほかには?」
「ええと……シルバ中尉がナイジを昇進させて、ブランビーの後任にするつもりだったとしますと……この場合には、一等兵をひとり伍長代理に昇進させることができます……すると、現在、欠員が三人ありますから、四人の新兵を一等兵に昇進させたらどうでしょう。編成表をがっちりしておくことが、あなたの政策かどうか、自分にはわかりませんが」
ブラックストーン大尉は、おだやかに言った。
「新兵の何人かは、楽な思いをする日が少なくなるってわけだな。しかし、これだけは肝に銘じておけよ。実戦に参加してきたあとでなければ、わしは絶対に兵隊を一等兵にはしない……〈ブラッキー|ならず者隊《ブラックガーズ》〉では、絶対にせんのだ。おまえの小隊軍曹と相談してから、わしに知らせてくれ。急ぐことはないぞ……今晩の就寝時刻より前ならいつでもいい。さてと……ほかに何かあるか?」
「ええ……大尉、強化服のことが心配なのですが」
「わしもそうだ。全小隊のやつがだ」
「ほかの小隊のことは知りませんが、五人の新兵に合わせてやらなくてはいけませんし、それに加えて、四組はこわれて部品を交換されましたし、さらに二組は先週に故障が見つかって倉庫のと換えられました……自分には、クンハとナバレが、いったいどうやれば、あれだけ多くの強化服をウォーム・アップし、ほかの四十一着の定期テストをやり、予定日までにぜんぶ間に合わすことができるのかどうか、わからないのですが。たとえ、故障の程度が大きくならないとしても……」
「故障はいつだって大きくなるものだぞ」
「そうです、大尉。しかし、ただウォーム・アップと、身体に合わせるのだけで、二百八十六|人時《にんじ》かかり、それに定期テストをするのに百二十三時間が加わるのです。こいつが必ずといっていいくらい、もっと時間をくいます」
「よし、どうしたらいいと思っとるんだ? もしほかの小隊が時間内に終えてしまえば、応援してくれるだろうが、まず無理だな。穴熊隊に応援を頼みこんだりしてはいかんぞ。むしろこっちから応援を出すようなことになりそうだ」
「ええ……大尉。あなたは自分に、兵隊の国から離れていろと言われましたから、このことをどう思われるかわかりませんが……自分は伍長のとき、兵器・強化服係軍曹の助手をしておりました」
「続けて話してみろ」
「はい。そして最後にはとうとう自分が兵器・強化服係軍曹になっていました。しかし、自分はただほかの連中の見よう見まねだけで……正式に教育された兵器・強化服専門の修理工ではありませんが……自分では、非常に優秀な助手だったつもりです。そこで、もし許可していただけるなら、新しい強化服のウォーム・アップか、定期テストのどちらかをやることができます……そこで、クンハとナバレに、故障を直す時間をもっと与えられることになります」
ブラックストーン大尉は、うしろによりかかってニヤリと笑った。
「ミスター、わしは気をつけて規則をしらべてみたが……士官はその両手を汚すべからず、なんていうところは、どこにも見つけられなかった……なぜそんなことをしたかというと、わしのところへ配属された若い紳士諸君の何人かは、どうもそんな規則を読んでいたらしいからだ……ようし、菜っ葉服を引っぱりだしてこい……両手といっしょに制服まで汚すことはないからな。さあ、艦尾へ行って小隊軍曹を見つけ、ブランビーのことを話し、編成表のギャップを埋めるため推薦書を用意しろと命令するんだ。わしがその推薦を認めるのは当然のことだと言ってな。それから、おまえはこれからの全時間を、強化服に注ぎこむからと言え……そして、かれには他のあらゆることをやってくれとな。もし何か問題があったら、兵器庫へ会いにこいと言ってやるんだぞ。わしに相談したなどと言うなよ……ただ命令するだけにする。わかったな?」
「はい、大尉どの……じゃない、大尉、やります」
「よし、うまくやってくれ。それからカード室の前を通るとき、すまんが、ラスティにわしからよろしくと言ってな、その怠け者の身体をここまで引っぱってくるようにつたえてくれ」
それからの二週間ほど忙しかったことは、生まれて初めてだった──新兵訓練場だって、こうまでひどくはない。兵器・強化服の修理工として一日十時間働くのが、おれのやったすべてではない。もちろん、数学だ──艦長の個人教授から逃げる手はなかった。食事──これが一日に一時間半かかった。生きながらえるための修理工にプラスして──髭剃り、シャワー、軍服のボタンつけ、それに海軍の先任衛兵伍長を追いかけまわし、点呼十分前に洗濯室の鍵をあけさせて、洗濯済の軍服を探しだすのだ(いちばん必要なときになると常にそういった施設の鍵はしまっているというのが海軍の不文律である)。
それに、衛兵勤務、閲兵、検査、小隊勤務に最低限必要な仕事なので、一日のうちもう一時間がとられた。それ以外におれは〈ジョージ〉だった。どこの部隊でも〈ジョージ〉をひとり持っている。〈ジョージ〉には、その部隊で最下級の士官がなり、余分な仕事をみなやらされる──体育係士官、文書検閲係、各競技の審判、学科士官、通信教育課程士官、軍法会議の検察官、厚生相互貸付資金の会計係、記録印刷物の管理者、倉庫係士官、兵員食堂係士官等で、げっぷがでそうなほど際限なく続く。
うれしそうにこの仕事をおれに押しつけるまで、かれ、ラスティ・グレアムが、この〈ジョージ〉だった。おれが、サインしなければいけないあらゆる品物の在庫品調べを主張すると、かれはあまりうれしそうな顔をしなかった。ラスティは、もしおれに、先任士官がサインした在庫表を受けとるだけの分別がないのなら、直接命令を出して、おれの態度を変えさせることだってできるんだぞと、ほのめかした。そこでおれもぶすっとして、その命令を文書にしてくれ──おれが在庫表のオリジナルを保管し、コピーを中隊長に出せるようにしてくれと言った。
ラスティは腹を立てながらも、その主張をとりさげ──そんな命令を文書にするほど間抜けの少尉などいないものだ。ラスティはおれの同室者《ルームメイト》でもあり、またおれに数学を教える係でもあったので、おれも気が滅入りはした。だがおれたちは、とにかく在庫調べをやった。おれはワレン中尉から、馬鹿げたおせっかいをしてと絞られはしたが、かれは金庫をあけて、記録印刷物をチェックさせてくれた。ブラックストーン大尉は、何も言わずにあけてくれたので、おれが在庫調べをすることが正しいと認めてくれたのかどうかは、はっきりしなかった。
印刷物のほうは良かったが、隊に備えつけてあるはずの物品に至っては処置なしだった。かわいそうなラスティだ! かれは、前任者の勘定をそのままうのみにしていたのだ。そして、現在はまるっきり員数が足りないのだ──前任者の士官は、ただやめてしまったというのではなく、戦死してしまったのだ。ラスティは眠れない一夜をおくり(おれだって同じことだ)、それから大尉のところへ行って、真相をぶちまけた。
ブラックストーン大尉は、ラスティを絞りあげ、それから無くなっている品目を数えあげると、その大半に〈戦闘中に紛失〉という名目をこじつけてしまった。これでラスティの被害は、四、五日の給料分にまで減った──だが、ブラックストーン大尉は、そのままかれにその仕事をやらせておくことにしたので、現金精算は無期限に延びることとなった。
〈ジョージ〉の仕事のすべてが、そんなに頭痛を引きおこす種となったわけではない。軍法会議などはなかった。優秀な戦闘部隊に、そんなものがあるはずはない。また、艦はチェレンコフ椎進ですっ飛んでいるのだから、検閲するにも手紙が届くわけはない。同じ理由から、厚生資金貸出しの仕事もない。体操のほうはブランビーに委任したし、審判にいたっては〈もしやるとしても、いつのこと〉だった。降下兵の食堂は素晴らしいものだった。おれは献立にサインし、ときには炊事場を点検し、兵器庫での仕事が遅くなったりしたときは、菜っ葉服を着たままで、ちょいとサンドイッチをくすねたりした。通信教育課程には盛りだくさんに事務的な仕事があったが、戦争があろうとなかろうと、そんな勉強を続けているやつはそう多くないので、おれは小隊軍曹にまかせ、かれの書記である一等兵がその書類を保管した。
こうまでしたが〈ジョージ〉の仕事で毎日、二時聞かとこは吸いとられた──それほど多いというほどでもないが。
これであとに、どのぐらいの時間がおれに残されるかわかるだろう──スーツに十時間、数学に三時間、三度の食事に一時間三十分、個人的なことに一時間、軍隊の雑用に一時間、〈ジョージ〉が二時間、睡眠に八時間、合計すると二十六時間三十分、艦はすでにサンクチュアリの一日二十五時間を使用してもいないのだ。ひとたび出発すれば、おれたちはグリニッジ標準時間と万国暦を使用する。
本当にのんびりできるのは、眠っているあいだだけなのだ。
ある朝、といっても夜中の一時、おれはカード室に坐りこんで数学相手に悪戦苦闘していた。そこへ、ブラックストーン大尉が入ってきた。
「こんばんは、大尉」
「おはよう、じゃないのかね。いったい、何を苦しんでいるんだ、坊や? 不眠症か?」
「え、そんなわけでもありません」
大尉は、つみ重ねてある紙の山から一枚を取りあげながら言った。
「おまえんところの軍曹は、書類をあつかえきれんのか? ああこれか、わかった。寝たまえ」
「しかし、大尉……」
「まあすわれ、ジョニー。おまえに話したいと思っていたことがあるんだ。わしは、おまえが夕方、このカード室にいるのを、ついぞ見たことがない。おまえの部屋の前を通れば通ったで、おまえは机に向かっておる。さておまえの相棒が寝たとすると、おまえはここへやってくる。いったい、どうしたというんだ?」
「はあ……自分は、ただ、どうも追いつけないらしいだけなのです」
「そんなことができるやつなど、いるものか。ところで、兵器庫の仕事のほうは、はかどっているのか?」
「うまくいっております。もうすぐ完了すると思います」
「わしもそう思うよ。よろしいか、坊や。おまえは、物事をほどほどにするという観念を持たなきゃいかんぞ。おまえには、根本的に大事な義務がふたつある。第一は、自分の小隊の装備に万全を期することだ……これはいま、おまえがやっているとおりだ。小隊それ自体のことは、案じなくてもいい。これは前に言ったな。第二はというと……これも同じように重要なことだ……おまえ自身が、いつでも戦闘できる態勢になっているということだ。こいつをおまえは、やりそこなっているぞ」
「用意はできております、大尉」
「よせ、馬鹿馬鹿しい。聞く耳なんか持たんぞ……おまえは体操もしとらんし、睡眠不足になっとる。そんなことが、降下のために身体を鍛えることなのか? おまえが小隊を指揮するときはだな、坊や、最高に張り切っておらなきゃいかんのだぞ。いまから毎日、十六時三十分から十八時まで、体操をしろ。おまえは、二十三時の消燈には、寝床に入っておらなくてはいかん……そして、もし、二日つづけて十五分以内に眠られなかったら、治療を受けに、軍医のところへ出頭しろ。これは命令だぞ」
「はい、大尉……」
おれは、隔壁がおおいかぶさってくるような気がした。それで、絶望したような声を出した。
「大尉……どうすれば二十三時までに寝床に入れるのかわかりません……それまでに、何もかもやらなくてはいけないのだとしますと」
「では、やらないでおくだけのことさ。いいか、坊や。おれが言ったとおり、ほどほどにするということを考えなければいかん。おまえは、どんなふうに時間を使っとるのか、言ってみろ」
おれは説明した。すると大尉はうなずき、おれの数学の〈宿題〉をつまみあげて、おれの眼の前に投げた。
「思っていたとおりだ……たとえばこれだ。たしかにおまえは勉強をしたいんだろう。だが、おれたちはこれから戦闘をしようというのに、なぜそうまで一生懸命に勉強しなければならんのだ?」
「え、自分は考えたのですが……」
「へたな考え休むに似たりだぞ。いいか、ここに四つの可能性がある。これらの仕事をやりとげることによっての結果はただひとつだ。第一は、おまえが戦死してしまうかもしれぬこと。第二は、負傷し、名誉任官を受けて退役することかもしれん。第三は、すべてがうまくいったとしても……検査官つまりわしによって、〈三十一の大罪〉にふれたと、落第点をつけられるかもしれん。これは、現在おまえの一生懸命やっていることだ……どうだ、坊や。わしはな、もしおまえが寝不足でまっ赤な目をし、宿題のやりすぎで、ぐにゃぐにゃの身体で現われやがったら、降下なんかさせないんだぞ。四番目にくる可能性はというと、おまえがしっかりして……この場合は、わしがおまえに小隊長を任せるときだな。おまえがトロイ戦争で、アキレスがヘクターを殺して以来のすばらしいショウを見せたとしよう。この場合だけだぞ……おまえがこの数学の仕事をやりとげなければいかんのは。だから、そんなことは、帰りの旅行でやるんだ。そうすればとりもどせるし、万事、かたはつけられる……わしが艦長に話しておいてやる。そんな余分の仕事からは、たったいま解任だ。数学のほうは帰り道に、おまえの好きなだけ時間を使うんだ。帰れるかどうかわからんが。しかし、最初にやるべきことを、まずやっておくべきことを知らなければ、なんにもならん。さあ、寝ろ!」
一週間後、艦は、チェレンコフ推進から抜け出て、光速以下にスピードを落として巡航しながら、信号を交換しあい、艦隊は集結した。おれたちは、状況説明、戦闘計画、各隊の任務と命令を受領した──長篇小説ほどもある長い文句であり──そして、カプセル降下はするなというものであった。
ああ、おれたちは作戦の中にいるというのに、紳士のようにのんびりと、撤退用小宇宙艇に乗りこんで降りていった。すでにその表面は、地球連邦軍によって確保されていたから、おれたちもそんなことができたのだ。すなわち、第二、第三、第五機動歩兵師団がやってくれたのだ──そして、それだけの代価を払ったのだ。
それだけの代価に相当するほど値打ちのある場所ではなさそうだった。〇・七の表面重力を持つ惑星は、地球より小さく、ほとんど北極のように寒い海と岩からできており、苔のような植物があるだけで、これというような動物はいない。その惑星の大気は、亜酸化窒素とオゾンがたくさんありすぎるので、長いあいだ呼吸できるものではなかった。この星にあるひとつの大陸は、オーストラリアのほぼ半分ぐらいで、これに、なんの値打ちもない島がたくさんくっついている。おれたちがここを使えるようになるまでには、金星でやったと同じぐらい、地球型に変える工事を必要とすることだろう。
とはいえ、おれたちは、そこに住むための地所を買おうとしているわけではなかった。おれたちがそこへ行ったのは、クモどもがそこにいたからであり──そして、やつらがそこにいたのは、おれたちを相手にするためだと、参謀連中は思っていた。かれらはおれたちに言った──惑星は、未完成の前進基地(おそらく八十七プラスマイナス六パーセント)であり、われわれに対抗するために使用されるものだと。
その惑星は大したものでないのだから、このクモどもの基地を片づけてしまうおきまりの方法というと、安全な距離まで離れたところから海軍さんに、この醜悪な球体を、人間にもクモどもにも生存できないものにさせてしまうことだ。ところが、最高司令官は、別の考えを持っていたのである。
その作戦というのは、奇襲だった。何百隻もの宇宙艦と何千人もの犠牲者を出す戦闘を〈奇襲〉と呼ぶのは信じられないようなことだ。特に、そのあいだには、海軍と多数のほかのカプセル降下兵が、惑星への敵の増援を遮断するため、クモどもの宇宙圏へ何光年も入りこんでひっかきまわしているというのに。
しかし最高司令官は、兵隊を無駄死にさせようとしているのではなかった。この大がかりな奇襲は、一年先か三十年先かわからないが、どちらが戦争に勝つかを決めるものだったのだ。おれたちには、クモの心理状態をもっともっと学ぶ必要があった。おれたちは、クモというクモを全部、この銀河系から一掃してしまわなければいけないのであろうか? それとも、やつらをなぐりつけて、平和を押しつけることが可能なのだろうか? われわれには、白蟻族を理解している程度にしか、やつらのことがわかっていなかった。
やつらクモどもの心理を学ぶには、かれらと意志を交わしあい、やつらの動機を学び、なぜかれらは戦うのか、そして、どのような条件であれば、かれらは戦争をやめるのかを見つけなければいけなかった。このために、心理作戦部隊は、捕虜を必要としたのだ。
労働グモをつかまえるのはやさしい。だが、労働グモは、動いている機械以上のものではない。兵隊グモはというと、動けなくなるまで手足を焼きはらってしまえば、捕虜にすることができた──ところが、こいつらは指揮者かいないと、労働グモとほとんど同じぐらいに馬鹿なのだ。そんな捕虜からでも、おれたちの教授タイプの連中は、重要な事実を知った──やつらを殺しはするが、おれたちは殺さないあの粘っこいガスの開発は、労働グモと兵隊グモの生化学的分析からできたのだ。また、そのような研究から、おれがカプセル降下兵だった短時日のあいだに、別の新しい兵器も作りだされたわけだ。
しかし、なぜクモどもは戦うのかということを探り出すためには、やつらの頭脳階級《ブレイン・カースト》の連中を調べることが必要だった。
そしてまた、おれたちは、捕虜を交換することものぞんだのだ。
それまでに、おれたちが、頭脳グモを生きたままつかまえたことは一度もなかった。おれたちは、シオールなどでやったように、地表からかれらの群落を一掃してしまうか、あるいは(あまりにも多くの場合、このケースだったが)、攻撃隊員はやつらの穴の中へ降りてゆき、そして帰ってこなかった。このようにして、大勢の勇敢な男たちが死んでいったのだ。
それ以上の男たちが、撤退時の失敗で失われた。ときには地上にいる戦闘部隊が、空にいる艦艇に吹き飛ばされてしまったこともあった。そのような部隊は、いったいどうなったのか? おそらく最後の一兵まで戦って死んだのかもしれない。だがもっと考えられることは、パワード・スーツの動力と弾薬がなくなってしまうまで戦い、それから、生き残りの兵隊たちは、まるでひっくりかえっているカブト虫のように、むざむざとつかまってしまったのだろうということだ。
同盟国となった〈痩せっぽちども〉を通じておれたちは、大勢のカプセル降下兵が捕虜になって生きているということを知った──何千人もが生きていることを、おれたちは願っていたものの、何百人かは確実だろうと考えていた。その捕虜たちは、常にクレンダツウヘ連れていかれるものと、わが情報部は信じていた。クモどもは、おれたちがやつらに感じているのと同じように、人間を奇妙に思っていたのだ──あの巣を作って群棲する生物にとって、都市、宇宙船、軍団を作りあげることができる個々の生物が集まった種族というのは、おれたちにとってのやつらよりも、ずっと不可思議なものであったのかもしれない。
それからおれたちは、できることなら、この捕虜たちをとりかえしたいと願っていた。
宇宙のきびしい論理のなかでも、これはたぶんひとつの弱点であろう。その一員を救けるような面倒なことは決してしない種族なら、この人間の犠牲心を利用しておれたちを一掃しようとするかもしれない。〈痩せっぽちども〉は、このような犠牲心をほんのわずかしか持っていないし、クモどもときたら、全く持っていないようだ──ほかの仲間が負傷しているからといって、そいつを助けにきたクモなど、一匹だって見た者はいない。かれらは戦うときには完全に協力するが、もはや利用価値がないとなった瞬間に、その結びつきは消え失せてしまう。
おれたちのやりかたは違う。こんな見出しを新聞でいかによく見かけることか? 〈溺れかかった子供を救おうとして二人死す〉。もし、ひとりの男が山の中で行方不明にでもなろうものなら、何百人もが捜査に出かけ、しばしば、その捜索隊員に、二人か三人の死者が出る。それでもまたつぎに、だれかが行方不明になると、前と同じように、大勢の志願者が現われる。
下手な算術だ──だが、非常に人間的ではないか。これはおれたちの至るところの昔話に、すべての人間の信仰に、われわれの文学のすべてを通じて流れているものであり──ひとりの人間が救けを必要とした時には、算盤ずくではなく、他の人々が乗り出していくというのが、われわれ民族の信念なのだ。
弱点か? これこそ、銀河系をおれたちのものとさせた独特な力かもしれない。
弱点であれ、力であれ、クモどもはそんなものを持っていない。その戦士をおれたちの戦士と交換する見込みなどないのだ。
だが、巣を作る多頭政治体では、その中のいくらかの階級《カースト》が貴重だ──いずれにしても、わが心理作戦部隊の連中は、そうであれかしと望んでいた。もしおれたちが頭脳グモを、生きたまま無傷で捕虜にできたら、いい条件で交換することができるかもしれないというのだ。
そして、かりに女王グモを捕虜にできたらどうだろう!
女王一匹の交換価値はどれぐらいなのか? カプセル降下兵の一個連隊か? だれにも、そんなことはわからなかった。いかなる犠牲を払っても、クモどもの〈王族〉、すなわち頭脳グモと女王グモを捕虜にしろというのが、おれたちに命令された戦闘計画だった。おれたちが、そいつらを人類と引換えにできないかというギャンブルだったのである。
〈王族捕獲作戦《オペレーション・ローヤルティ》〉の第三の目的は、方法を研究開発することだった。つまり、どうやって、やつらの穴へ降りていくか、いかにしてクモどもを地上へ追い出すか、全惑星破壊兵器のようなものを使用せずに、どうやって勝利を得ることができるかなどだ。カプセル降下兵対兵隊グモ、それならおれたちはもう、やつらを地にで撃滅することができる。宇宙艦対宇宙艦でも、おれたちの海軍のほうが強力だ。だが、いままでのところ、おれたちがやつらの穴へ降りていこうとしたときうまくいったことはない。
もしおれたちが、いかなる条件であろうと捕虜を交換することに失敗したとしても、それでもおれたちは、やらなければいけない。
(一)、戦いに勝つ。(二)、おれたち自身の仲間を救出するチャンスを戦闘中につかむような方法で、それをやる。それとも、(三)、──認めておいたほうがいいだろう──そうしようと試みながら死に、そして、戦争に負ける。その惑星は、どうすればクモどもを根絶できるかを学べるかどうかを決める野戦テストの場だったのだ。
状況は兵士のすべてに説明され、兵士は、催眠学習によって、睡眠中にもう一度それを聞かされた。そこでおれたちはみな、〈王族捕獲作戦《オペレーション・ローヤルティ》〉は、そのうちにおれたちの戦友を救出するための基礎的な仕事となることであると知ると同時に、その惑星は、これまで一度も攻撃されたことがないので、人間の捕虜はいないことも知った。だから、人間として戦友を救出するのだという熱烈な希望のために、勲章をもらおうと張り切る理由は、すこしもなかった。それは、いつもと同じクモ掃討作戦なのだが、大兵力と新しい技術を使ってやるだけなのだ。おれたちは、クモどもを一匹残らずほじくりだしたとわかるまで、その惑星をタマネギのようにひんむいてやろうとしていた。
海軍は、無数の島々と、あの大陸の非占領地帯を、地表が放射性のガラスみたいにとけてしまうまで猛烈な爆撃を加えた。これでおれたちは、背後を心配することなく、クモと戦うことができるのだ。海軍はまた、惑星のまわりの軌道を低く、毛糸玉のように間隔をせばめて哨戒し続け、おれたちを守り、輸送艦を護衛し、地表のすべてにわたってきびしく偵察を続け、あの地表をガラスと変えた猛爆にもかかわらずクモどもがおれたちの背後に出てきたりしないように、厳重に警戒していた。
戦闘計画によると〈ブラッキー|ならず者隊《ブラックガーズ》〉に与えられた命令というのは、命令が下されるか、機会が現われたときには、占領地域にある他の中隊と交替し、その地域にある他の師団の部隊を守り、おれたちのまわりの機動歩兵部隊と連絡を緊密にとりながら、最重要任務を支援し──そして、醜悪な顔をのぞかしてくるクモどもを、片っぱしから叩きつぶしてしまえということだった。
というわけでおれたちは、抵抗を受けることなく楽々と着陸した。おれは小隊を、スーツの速足で前進させた。ブラックストーン大尉は、交替する中隊の指揮官を見つけ、状況を把握し、地形を知るため、おれたちより先に進んでいった。地平線に向かって跳躍してゆく大尉の姿は、おびえた野ウサギのようだった。
おれは、自分の警戒地域の最前線両側を見つけるため、クンハに、その第一分隊を偵察に出させ、おれの小隊軍曹を左のほうへ出し、第五連隊からくる偵察隊と連絡をつけさせることにした。おれたち第三連隊は、幅三百マイル、深度八十マイルの地域を確保することになっており、おれの持場は、深度四十マイル、幅十七マイルの長方形で、最左端地区の最左翼だった。〈ワレン穴熊隊《ウルブラインズ》〉はおれたちの背後にあり、コロシェン少尉はおれの右側であり、その向こうをラスティが進んでいた。
おれたちの師団の第一連隊は、すでに、おれたちの前にいる第五師団の連隊と交替し、おれのいる隅と前方に、〈煉瓦の壁〉のように重なって配置されていた。〈前方〉〈背後〉〈右翼〉〈左翼〉は、各指揮官服の位置探知装置の戦闘計画の碁盤目に合わせて作られた位置のことだ。おれたちにとって、本当の前線はなく、ただその地域があるだけであり、現在の戦闘はというと、おれたちのいう右翼と背後へ数百マイル離れたところでおこなわれている。
そちらの方向のどこか、たぶん二百マイルほど離れたところに、第三連隊、第二大隊、中隊の第二小隊──ふつう〈ラスチャック愚連隊〉と呼ばれている部隊がいるのだ。
それとも愚連隊は、四十光年も離れたところにいるのかもしれない。戦術上の編成が、編成表とあっていることは、絶対といっていいほどない。戦闘計画によっておれが知っていることは、〈第二大隊〉と呼ばれるものが、おれたちの右翼にいる〈ノルマンディービーチ〉から来た兵隊たちの向こうにいるということだけだった。だが、その大隊は、他の師団から借りてきたものかもしれない。宇宙軍総司令官は、チェスをやるそき、その手駒に相談したりはしないのだ。
とにかくおれは、愚連隊のことなど考えているべきではなかった。おれは〈ブラッキー|ならず者隊《ブラックガーズ》〉の一員として、できるかぎりのことをしなければいけない。おれの小隊は現在のところオーケーだ──敵の惑星にいて、そう安全といえるわけもないが──だがおれには、クンハの第一分隊がいちばん端に到着するまでに、やっておくべきことが山ほどあった。必要なことというと──
[#ここから2字下げ]
1 おれの地域をいままで掌握してきた小隊長を見つける。
2 持場の地区をはっきりときめて、分隊長ならびに班長に確認させる。
3 おれのまわりと四隅にいる八人の小隊長と連絡をつける。このうちの五人はすでに所定の位置にいるはずだ(第五、第一連隊からの連中だ)。そして、ほかの三人(ならず者隊のコロシェン、穴熊隊のベイヨンとスカルノ)は、現在、その位置に向かって移動しているのだ。
4 おれの部下を、最短コースで、できるかぎり早く、きめられた地点に散開させること。
[#ここで字下げ終わり]
最後のは、何よりも先にしなければいけないことだった。というのは、おれたちが上陸したときの散開縦列ではあぶないからだ。ブランビーの最後の班は、左翼に展開しなければいけない。クンハの先頭班は、すぐ前方から左斜めに展開することが必要だった。ほかの四分隊は、そのあいだに扇形に散開しなければいけないのだ。
これが標準とされている方形展開であり、おれたちは降下室で、どうしたらこの隊形へ迅速に展開できるかということを勉強しておいたのである。おれは、下士官用回路を使って大声で呼んだ。
「クンハ! ブランビー! 散開の時間だぞ」
「諒解、第一分隊!」
「第二分隊、いいか!」
「各分隊長、進め……各新兵に注意しろ。おまえたちは、天使隊の連中のそばを通る。まちがって射ったりするなよ!」
おれは、個人用の回路を使って言った。
「軍曹、左翼と連絡ついたか?」
「はい、少尉どの。つきました」
「よし。連絡点標識信号《アンカー・ビーコン》がわからないが……」
「行方不明です」
「それなら、位置探知《ディー・アール》で、クンハに教えてやれ。尖兵斥候にもだ……ヒュージだぞ……ヒュージに、新しいビーコンを置かせろ」
おれは、第三連隊か第五連隊が、なぜ連絡点標識記号《アンカー・ビーコン》を新しく置かなかったのか、ふしぎに思った──おれの前方左翼の隅は、三個連隊がいっしょになるところだというのに。
言ってみたところで仕方がない。おれはあとを続けた。
「位置探知、チェック。きみは、二七五。マイル、十二」
「少尉どの、逆方向から、九六。マイル、十二弱」
「近いな。おれはまだ、反対がわの数字を見つけていないんだ。だから、これから最高速度で前進する。気をつけろよ」
「わかりました、ミスター・リコ」
おれは、士官用回路に合わせながら、最高速度で前進した。
「|四角・黒・1《スクエア・ブラック・ワン》。応答しろ。ブラック・ワン。チャンの天使……聞こえるか? 応答しろ」
おれは、交替に向かっている小隊長と話したかった──お座なりの「貴隊と交替します」などと言うためではない。飾りっ気のないところを聞きたかった。
おれが見たものは、気に入るようなものではなかったのだ。
おれたちは圧倒的な兵力で、小さな、まだ完全にできてもいないクモどもの基地に向かったのだから、楽なことだと将軍連中が信じていたのか──それとも〈ブラッキー|ならず者隊《ブラックガーズ》〉には、屋根がくずれ落ちてきたような地点を与えられたのかの、どちらかだ。おれは、艦から出てすぐ、もう六組ほどの強化防護服が地上に散らばっているのを見つけた──おそらくは戦死しているのだろうが、空《から》であればと願った──だが、どう見たところで、あまりにも多かったのだ。
そのうえ、おれの戦術レーダーの映像には、位置につこうと移動しているおれ自身の小隊が見えてはいるが、交替地点に向かってばらばらに散らばっているだけのことで、かれらの行動に統制がとれているとは思えなかった。
おれは、六百八十平方マイルにわたる危険な荒野の責任を持たされていた。そしておれは、自分の属している班が、そのまっただ中に入ってしまう以前に、できるかぎりのことを見つけだそうと、苦しくなるほど望んでいた。戦闘計画は、がっかりさせられてしまうほどの新しい戦術要項を命令していた。つまり、クモどもの穴をふさぐな、ということだ。ブラックストーン大尉は、この命令をあたかも自分で考えた喜ぶべき名案であるかのように説明したものの、かれ自身だってこれを喜んでいたかどうか疑わしいものだ。
作戦は簡単なものだった。そして、論理的であったとも思う──もし、死傷者を出してもかまわないということでさえあればだ。クモどもに地上へ上がってこさせろ。そして、やつらが出てきたところを殺してしまえ。どんどんやつらを上がってこさせろ。やつらの穴に爆弾なんか投げこむなよ、穴の中ヘガスを送りこんでもだめだ──やつらを外へ出させるのだ。しばらくしてから──一日、二日、一週間か──おれたちがもし、本当に圧倒的な兵力を持っているのなら、やつらも上がってくるのをやめるだろう。作戦参謀が推定していたこと(なぜかってなど、おれに聞かないでくれ!)は、兵隊グモの七十パーセントから九十パーセントまでを失ってしまったら、やつらは、地上からおれたちを一掃しようとするのをやめるだろう、ということだ。
それからおれたちは皮むきを始める──生き残っている兵隊グモをぶち殺しながら穴へ降りてゆき、〈王族グモ〉を生きたままつかまえるんだ。おれたちも、頭脳階級《ブレイン・カースト》どもがどんな格好をしているのかは知っている。やつらの死骸は写真で見ていたし、やつらが走れないということも知っている──足はほとんど使えず、そのふくれあがった身体は、ほとんどが神経組織だ。女王グモとなると、こいつを見た人間はいないが、生化学戦部隊の連中は、そいつらがどのような格好をしているはずであるかという想像画《スケッチ》を作りあげていた──それによると、馬よりも大きな汚らわしい怪物で、まるっきり動くことができないという代物だ。
頭脳グモと女王グモ以外にも、ほかの〈王族階級《ローヤルティ・カースト》〉がいるかもしれない。おそらく──兵隊グモを勇気づけ、穴から出して戦死させたやつが。だから、兵隊グモと労働グモ以外のやつは、どんなものでも、生きたまま捕虜にしろってことだ。
紙の上でのことなら、これは必要な計画であり、はなはだ結構なことだ。しかし、おれにとっては、十七×四十マイルもの地域を持たされ、そこには入口をふさいでいないクモどもの穴が謎ときのようにあるかもしれないぞということだった。おれはみんなが、お互いにうまく力をあわせることを心から望んだ。
その穴があまりにも多すぎるようなら──まあおれは、誤まってそのいくつかをふさいでしまい、部下にはその残りに警戒を集中させることにしようと思っていた。攻撃用スーツを着た兵隊は、広い地域をカバーすることができるが、といって、いっぺんに見ることができるのは、ただ一個所だけだ。兵隊というものは、スーパーマンではないのだ。
おれは天使隊の小隊長をまだ呼びつづけながら、第一班の何マイルか前へ急ぎ、天使隊の士官はだれでもいいから答えろと、符号を考えながら呼びつづけ、呼出信号を知らせつづけた(ツー・トン・ツー・ツーだ)。
答はなかった──
とうとうおれは、ブラックストーン大尉からの返事を受けとった。
「ジョニー! 雑音を立てるな。協議用の回路で答えろ」
おれはそうした。ブラックストーン大尉は、おれにきっぱりと、スクエア・ブラック・ワンの天使隊指揮官を探そうとすることなどやめろと言った。そんなものは、もういなくなっているというのだ。ああ、どこかにひとりぐらい下士官が生きているのかもしれないが、命令系統の鎖は切れてしまったのだ。
操典によると、だれかが常にその地位につくことになっている。だがこれは、あまりにも多くの命令系統が切られてしまったときに、起こることなのだ、とニールセン大佐はかつておれに警告した。いつごろだったかはっきりしないが……もう、ひと月も前のことだったろうか。
チャン大尉は、三人の士官とともに戦闘に突入した。そしていまは、そのひとりだけが残っていた(おれの同期生、エイブ・モイズだ)。ブラックストーン大尉は、かれから状況を探り出そうとしていた。だがエイブは、あまり役に立たなかった。協議用の回路に加わったおれが自分がだれだかを言うと、エイブはおれをやつの大隊長とでも思ってしまったのか、まったく胸がはり裂けそうな詳しさで報告しはじめた。それも、ひどく支離滅裂なものだった。
ブラックストーン大尉は口をはさみ、おれにもとの任務を続けろと言った。
「交替命令のことは忘れろ。事態は、おまえの見たとおりだ……かきまわせ、そして、よく見るんだぞ」
「諒解、ボス!」
おれは、できるかぎりの速度で、はるか前方の連絡地点に向かって自分の地区を横切りながら、回路を切りかえた。
「軍曹! ビーコンはどうした?」
「あの地点には標識を立てる場所がありません、少尉どの。新しい火口が現われました。スケール・6ぐらいです」
おれは、ピューッと口笛を吹いた。スケール・6の穴というと〈ツール〉がすっぽりと入ってしまうほどの大きさだ。これは、おれたちが地表で攻撃しているとき、やつらの使う戦法のひとつで、地下にいるクモどもが、地雷を爆発させるのだ(やつらは、宇宙船からのは別にすると、ミサイルを使うことは絶対にないようだ)。もしおれたちが、その地点のそばにいると、大地の衝撃でやられてしまう。もしおれたちが空中にいたとき、そいつが爆発すると、その衝撃波でジャイロがこわれ、強化服は操作不能になってしまうのだ。
おれはスケール・4より大きな火口を見たことがない。やつらは、あまり大きすぎる爆発を起こさせることはしない。というのは、堅固な防壁を作っていたとしても、穴居動物としてのやつらの棲息地に、損害がふりかかってくるからだろう。
おれは軍曹に言った。
「かわりの標識を置くように、分隊長と班長に知らせろ」
「知らせました、少尉どの。角度一一〇。マイル、一・三。ツー・トン・トン。そちらにも聞こえると思います。方角は少尉どのの現在地点から、三三五」
かれの声は、軍曹教官が演習指導でもしているように、冷静そのものだった。おれのほうが金切声を出していたかもしれない。
おれは、左瞼の上にある映像で見つけだした。
「オーケー。クンハの第一班が、ほとんどその位置に近づいている。あの班をとめて、火口を警戒させるんだ。あの地域全部を調べる……ブランビーに、もう四マイル前進させろ」
おれは、うんざりしながら考えた。どの兵隊もすでに十四平方マイルを注意してこなければいけなかったのだ。バターをごく薄く塗るとしても、兵隊ひとりについて十七平方マイルということだ──そしてクモどもときたら、たかだか五フィートの幅もない穴からでもはいだしてくることができるのだ。
おれはつけたしてたずねた。
「火口の熱さは、どれぐらいなんだ?」
「はしのほうは琥珀《アンバー》がかった赤《レッド》です。その中にはまだ入っていませんが、少尉どの」
「離れていろ。おれがあとで調べてみる」
琥珀がかった赤にかかっては、無防備の人間などひとたまりもないが、スーツを着けた兵隊なら、かなりの時間、持ちこたえることができる。もし、火口のはしに大量の放射能があるとすれば、底のほうは疑いもなく眼玉をフライにしてしまうほどの地獄だろう。
「ナイジに言って、マランとビヨルクを琥珀地帯《アンバー・ゾーン》まで引きかえさせろ。そして、ふたりに、地中聴音器をすえつけさせるんだ」
五人の新兵のうち二人までが、第一班にいた──そして新兵は、仔犬みたいなものだ。ひとつの事に鼻をつっこんだら最後、後生大事にそいつにしがみついているのだ。
「おれが気にかけているのは、ふたつだとナイジに言ってくれ。火口内部の動きだ……それから、回りの地面の下だと」
おれたちは、そんな火口を兵隊たちに通らせたりはしない。相当な放射能があると、その穴へ近づいただけで、兵隊たちは、死んでしまうかもしれないからだ。ところが、クモどものほうは、そこを通っておれたちに近づけるとなると、そのとおりやるのだ。
「ナイジに報告させろ。きみとおれにという意味だぞ」
「はい、少尉どの……ちょっと申しあげたいことが……」
と、小隊軍曹はつけ加えた。
「言ってくれ。この次から、許可を求めるために、話をとめるな」
「ナバレは、第一分隊の残りを指揮できます。クンハ軍曹がその班を火口へ連れてゆき、ナイジを残して、地下聴音の番をさせておいたらどうでしょうか」
おれは、かれの考えていることがわかった。伍長になりたてほやほやのナイジは、地上戦闘で班を指揮したことなど、これまでただの一度もなかった──スクエア・ブラック・ワンで最も危険だと思われるものを引き受けられるような男ではない。小隊軍曹は、おれが新兵たちを呼びもどしたのと同じ理由から、ナイジを呼びもどしたがっているのだ。
おれが考えていたことを、かれは知っていたのだろうか? あの|くるみ割り《ナット・クラッカー》め──やつは、ブラックストーン大尉の大隊参謀として使っていた防護服を着ているのだ。そいつには、おれのよりもひとつ回路が余分についている。ブラックストーン大尉へ個人的に通じる回路だ。
ブラックストーン大尉はおそらく、そいつをつなぎ、その余分な回路を通じて聞いているんだ。おれの小隊軍曹が、現在の小隊配置に賛成していないことは、はっきりしている。もしおれが軍曹の助言を受け入れなかったら、次に聞こえてくるのは、たぶん大尉の声ということになるのだろう。
「軍曹、小隊の指揮をとれ。ミスター・リコ、きみは交替だ」と。
しかし──こん畜生め! 自分の班を指揮することも認められない伍長など、伍長とは言えない……それに、自分の小隊軍曹のあやつり人形にしかすぎない小隊長だなんて、空っぽのスーツみたいなものじゃないか!
おれはくよくよ考えたわけではない。おれは頭の中でさっと考えたことを即座に答えてやった。
「ふたりの新兵を子守《こも》りする伍長の余裕などないぞ。同じく四人の兵隊と伍勤《ランス》だけを指揮する軍曹もな」
「しかし……」
「やめろ。火口監視は、一時間ごとに交替させたい。最初のパトロールは迅速にやるんだ。各班長は、どんな穴でも見つけたら報告し、標識を立てさせろ。分隊長、小隊軍曹、小隊長が到着したとき、すぐ調べられるようにな。もし、その数がそう多くなかったら、そのひとつひとつに監視を置く……おれがあとから決める」
「はい、少尉どの」
「二回目のパトロールは、ゆっくりやる。一回目の偵察で見落とした穴を見つけるために、できるかぎり念入りにやるんだ。班長補佐はそのとき、赤外線暗視鏡を使用する。各班長は、地上にいるいかなる兵隊でも強化服でも、その位置をつかんでおけ。天使隊が生きている負傷者を置き去りにしているかもしれんからな。だが、おれが命令するまでは体調メーターを調べてみるためでも、だれも停止してはいかん。おれたちは、なによりも先に、クモどもの状況を知らなければいけないからだ」
「はい、少尉どの」
「ほかに何か提案は?」
「ひとつだけ……偵察班は、最初のときから赤外線暗視鏡を使用すべきだと思いますが」
「よろしい。そのとおりにさせろ」
かれの意見は筋が通っている。地表の温度は、クモどものいるトンネルの中より、はるかに低い。偽装された換気孔は赤外線で見ると、まるで噴水か羽根飾りのように見えるのだ。おれはレーダーの映像を見つめた。
「クンハの兵隊は、ぎりぎりのところまで行っている。きみの出番だ!」
「わかりました、少尉どの!」
「切るぞ」
おれは広域回路にまわして、会員に耳をすまし、小隊軍曹が最初の計画を修正するのを聞きながら、火口にむかって急行をつづけた──軍曹は、一個班を切りはなして火口へ出発させ、第二分隊は最初の計画どおり、その深度を四マイルふやして円を描くようにして掃討させておき、そのあいだに、第一分隊の残りを二個班にして後退させはじめた。こうして各分隊を動かしながら後退させ、|連絡地点の火口《アンカーコーナー・クレーター》へ集結してくる第一班を掌握し、かれらに指示を与え、それからたっぷり時間をとって各分隊長のところへもどり、かれらが交替する場所にある新しいビーコンの場所を教えた。
かれは、分列行進のときの軍楽隊長のような見事なまでの正確さでそれをやってのけた。それもかれは、おれがやるよりも、はるかに速く、言葉数はもっと少なくして、やってのけた。小隊が何十マイルも荒野にひろがってやる散開戦闘は、分列行進を正確にやってのけることなどより、ずっと困難なことだ──だが、これは正確でなければいけないのだ。さもなければ、戦闘中に戦友の首を吹き飛ばしてしまうことにもなりかねないし……あるいは、この場合のように、荒野の同じ部分を二度も掃討しながら、ほかの部分を見過ごしてしまうことになってしまうからだ。
しかし、訓練係教官は、その小隊の展開ぶりをわずかにレーダーの映像で見られるだけだ。肉眼では、そばにいるものだけを見られるだけなのだ。おれが聞いているあいだ、おれは自分のヘルメット内にうつる映像を見つめていたのだが──それは、ホタルの幼虫が、はっきりした線になって、顔の前をはっていくだけだった。〈はっていく〉というのは、さしわたし二十マイルもの広さに展開した小隊を、ひとりで見られるレーダー映像面に圧縮すると、いくら時速四十マイルで走っているといっても、ゆっくりとはっているだけにしか見えなくなってしまうからだ。
おれはすぐ、全員に耳をすました。というのは、すべての班の兵隊が、どんなおしゃべりをするか聞きたかったからだ。
ところが、何ひとつ聞こえてこなかった。クンハとブランビーは、二度目の命令を与えてしまうと、沈黙してしまった。伍長連中は、班の変更が求められたときだけしか叫ばなかったし、分隊と班のうるさがたも、間隔とか列をときどき直すときだけしか声を出さず──兵隊にいたっては、まったく静まりかえっていた。
おれは、五十人の兵隊たちが呼吸するこもった音を、海岸にうちよせてくる波のように聞いていた。その音は、必要やむをえざる命令の場合に限り、できるだけ切りつめた言葉で破られた。ブラックストーン大尉は正しかった。小隊はそれこそ、〈ヴァイオリンのように調子を合わせて〉、おれに渡されていた。
兵隊たちには、おれなんか要らなかったのだ! おれが家へ帰ってしまっても、小隊は、おれがいるときと同じようにうまくやっていけるのだ。
ひょっとすると、そのほうが良くなるのかも──
おれが火口を警戒するためにクンハを向けることを拒否したのは正しかったかどうか、おれには確信が持てなかった。もしそこで面倒なことがおきて、兵隊たちがまにあうように到着できなかったら、〈操典にもとづいて〉やった、などとおれが弁解してみたところで、まったく無意味だ。もしまかりまちがって戦死するか、あるいはほかのだれかが殺されでもしたら、〈操典にもとづいて〉などは、ほかの方法と同じように永久に何もならぬことになってしまうのだ。
おれは、〈ラスチャック愚連隊〉が、最下級軍曹に場所をあけて待っていてくれるだろうかと考えた。
惑星の〈|四角・黒・1《スクエア・ブラック・ワン》〉の大半は、キャンプ・キューリー周辺の平原と同じように平坦であり、そしてずっと不毛の土地だった。これはありかたいことだった、というのは、そのおかげで、クモどもが地中からはいあがってくるのを見つけ、こちらからさきにやっつけることができる唯一のチャンスを与えてくれるからだ。
さておれたちは、あまりにも広い地域に散開していたから、兵隊たちの間隔を四マイルあけ、およそ六分ごとに迅速な掃討の波をくりかえすことが、おれたちにとって、できるかぎりの緊密な警戒行動《パトロール》だった。これだって充分なほど緊密《タイト》とはいえない。どこか一個所だって、パトロールの間に三、四分は、観察がおろそかになってしまうかもしれない──そして、この三、四分のあいだに、無数のクモどもが、ちっぽけな穴からはい出してこられるのだ。
もちろん、レーダーは肉眼より遠くまで見ることができる。だが、肉眼よりはっきり見えることはまったくない。
そのうえおれたちは、近距離で目標を確実に選択できる兵器のほかは、どんなものも使う気になれなかった──おれたちの戦友が、まわりのあらゆる方角に散開していたからだ。もしクモどもが飛び出し、おれたちが何か致命的な効力のあるものを発射したとすると、そのクモ野郎の向こう側の、さまで遠くないところにカプセル降下兵がいることは間違いない。このために、きわどいところまで距離は制限され、それをおもんぱかるため、あえて強力な武器は使用できないのだ。
この作戦では、士官と小隊軍曹だけがロケット弾を持っていたが、それでもおれたちは、そんなものを使えることは期待していなかった。もしロケット弾が目標を捕捉しそこねたら、こいつは相手をつかまえるまで追跡を続けてゆくという始末に負えない性質を持っていた……そして、果たして敵味方の区別かつくものやら、だれにもわからない。人工頭脳を小さなロケットに詰めこめるなど、まったく馬鹿げたことだ。
おれは、まわりに機動歩兵が何千人もいるこの警戒行動を、たった一個小隊でやる攻撃とでも喜んで交換する。ただしそれが、味方の連中はどこにいるのかわかっており、それ以外はみな、敵目標だとわかっている場合ならだが。
おれはくよくよ文句を言ったりして時間を無駄にしたりはしなかった。おれは地面を監視しレーダーの画像を同じように注意しながらも、|連結地点の火口《アンカーコーナー・クレーター》にむかって跳躍してゆくことをやめはしなかった。おれはクモの穴をひとつも発見しなかったが、クモどもがいくらかは潜伏することができそうな、ほとんど渓谷といってもいいほどの、乾からびた盆地を飛びこした。おれは、それを調べようとしてとまったりはしなかった。おれはただ、この座標を小隊軍曹に知らせ、だれかにあとで調べさせろと命令しただけだった。
その火口は、おれが想像していたより、はるかに大きかった。〈ツール〉だって、この中にはまれば、わからなくなってしまうだろう。おれは、放射能カウンターを向けて底と側面の強度を見た──目盛に赤の線が現われたかと思うと、みるみるうちにまっ赤にひろがり、すぐ目盛いっぱいになってしまった。たとえ強化防護服を着ていても、長くさらされていると非常に危険なことになる。おれは、ヘルメットについている距離測定器で、火口の幅と深さを測った。それから周囲の様子をうかがい、地下へ通している穴の入口はないかと見わたした。
なにひとつ見つからないまま、おれは隣りに来ている第一、第五連隊の小隊が置いた火口監視哨のところへ飛びこんだ。おれはすぐそこの監視兵たちに、それぞれ扇形区画《セクター》を分けて見はらせ、この連合した監視隊は、これらの属する三小隊すべてに救いを求めることができるようにした。このように各隊の兵を協力させる仕事は、おれたちの左翼にいた〈首狩族隊《ヘッド・ハンターズ》〉のド・カンポ中尉を通じてできた。それからおれは、すべてをボスと小隊軍曹に報告し、ナイジのところにいる伍長勤務上等兵とその班の半分(新兵を含む)を引きぬいて小隊に帰らせた。
おれはブラックストーン大尉に言った。
「大尉。いまのところ地面の震動は、まったくありません。自分は内側へ降りていって、穴がないかどうか調べてみます。メーターによりますと、放射能を大量に受けることは、まずないだろうと……」
「若いの、その火口から離れていろ」
「でも大尉、自分はただ……」
「だまれ。そんなことをやっても、役に立つことは、なにひとつ手に入れられないんだ。離れていろ」
「はい、大尉どの」
それからの九時間は、退屈そのものだった。おれたちは、強制睡眠、血糖濃度増加、催眠確信などで、連続四十時間(惑星Pの二回転分)を任務につくように前もって調整されていたのだし、もちろん強化服には、個人的な必要を満たすための自給装置もついてはいる。強化服をそんなに長時間連続して使うことはできないのだが、どの兵隊も余分のパワー・ユニットと再充填用のスーパー・エア・カートリッジを携行してきたのだ。それにしても、戦闘のないパトロールは退屈なもので、ともすれば馬鹿なことをやってしまいがちだ。
おれは自分に考えられることを実行にうつした。クンハとブランビーを指導下士官《ドリル・サージェント》にし(これで小隊軍曹とほかの分隊長、班長は自由に動きまわれる)、掃討警戒任務《スイープ・パトロール》を決して同じやりかたでおこなってはいけないと命令した。こうすればどの兵隊も常に新しくぶつかる部分を調べることになるからだ。組み合わせを変えてゆけば、与えられた地域全部を調べるのに、無限のパターンができるわけだ。そのほかに、おれは小隊軍曹と相談して、最初に穴を確認し、最初にクモどもを殺した名誉ある分隊に対しては、ボーナス特典を与えると発表した──これは、新兵キャンプでよく使うトリックであるが、常に警戒を怠らないでおくということが、生きていることを意味するのだから、退屈を防ぐことは何でもしなければいけないのだ。
やがておれたちのところへ、特殊任務班《スペシャル・ユニット》の連中がやってくることになった。ふたりの戦闘工兵士官が野戦用エアカーで、ひとりの特殊才能者《タレント》を護衛してくるのだ──空間超感覚者《スペイシャル・センサー》を。
ブラックストーン大尉は、この連中が来ることも前もって知らせてきた。
「かれらを護衛し、希望どおりにしろ」
「はい、大尉どの。かれらは何を必要とするのでしょうか?」
「わしが知っているわけなど、ないだろう。もしランドリー少佐がおまえに、皮をひんめくって、骨だけでダンスをしろと言ったら、そのとおりやってやれ!」
「はい、わかりました。ランドリー少佐ですね」
おれはこの命令を部下につたえ、ボディガードをひとり選びだした。そして一行が到着すると、おれはすぐ迎えにいった。珍しかったからだ。特殊才能のある男が働いているところなど、一度も見たことがなかったのだ。連中はおれたちの右翼に着陸して、エアカーから出てきた。ランドリー少佐とほかのふたりの士官は、強化服をつけ、携帯火焔放射器を持っていたが、タレント氏は防護服も武器も持っていない──ただ、酸素マスクをつけているだけだ。そいつは何の記章もついていない、くたびれた軍服を着こんでおり、あらゆることに、ひどくうんざりしているような様子だった。おれはタレント氏に紹介されもしなかった。かれは一見十六歳の少年みたいだったが──近くへ寄ってみると、その疲れきった眼のまわりには皺が網の目のように走っていた。
タレント氏はエアカーから出てくるなり、その酸素マスクをはずした。おれは思わずぞっとして、ラジオを使わず、少佐のヘルメットにおれのヘルメットをあてて話しかけた。
「少佐どの……ここの空気は汚染されております。そのうえ注意されているのですが……」
少佐は言った。
「だまっとれ……かれは知っとる」
おれは口を閉じた。タレント氏は下唇をかみしめて、そのあたりをぶらぶら歩きまわった。その両眼は閉じられ、ひとつの考えにひたっているようだった。
だがタレント氏は眼をあけて、いらいらしながら言った。
「そのへんに馬鹿みたいな兵隊が飛びまわっていて、仕事ができるとでもいうのか?」
ランドリー少佐は鋭く言った。
「おまえの小隊を伏せさせろ」
おれは息をのみ、文句を言おうとしかけた──が、すぐに全員回路でがなりたてた。
「第一小隊、伏せ、凝固!」
おれに聞こえてくる音のすべてが、その命令の班までくりかえされていく声で、こだまのように二重に反響していくものだけだったことは、ジルバ中尉にもうまくやったと伝えられることだろう。
おれはたずねた。
「少佐どの、地上の兵隊を動かすことはいけませんか?」
「いかん。それから、おまえも黙っとれ」
やがて、超感覚者《センサー》は車の中にもどって、マスクをつけた。おれの乗りこむ場所はなかったが、つかまることを許され──事実は、命令されたのだ──それから、二マイルほど引っぱられて移動した。超感覚者《センサー》はまたマスクをはずして、歩きまわった。そしてかれは、別の戦闘工兵士官のひとりに話しかけた。その士官は、うなずきながら、ノートにスケッチを書きはじめた。
この特殊任務班は、おれの受持地域に十ぺんほど着陸し、そのたびに同じような、明らかに何もならないように思える決まりきったことをくりかえした。それから連中は、第五連隊の碁盤目の中へ移動していった。連中が立ち去る直前に、スケッチをしていた士官が、立体地図製作箱《スケッチ・ボックス》の底から紙を一枚ひきぬいて、おれにわたした。
「これは、地下の地図だ。きみの地区にあるクモの大通りはこの太い赤線のところだけだ。ここまで入りこむには、千フィート近く降りなければいかんが、こいつは、きみの左翼後方に向かってずっと登り坂になっており、ここで、ほぼマイナス四百五十フィートとなっている。薄青色の網の目は、クモどもの大きな町で、ここだけが、地上から百フィート以内のところだ。きみは、わが軍がそこまで入っていってどうにかできるときまで、そこの地上に聴音探知兵を何人か配置したほうがいいな」
おれは地図をじっと見つめた。
「この地図は信頼できるのですか?」
工兵士官は、ちらりと超感覚者《センサー》のほうを見てから、非常に静かな声で言った。
「もちろんだ、この馬鹿野郎! どういうつもりなんだ、おまえは? あの人をまごつかせたいのか?」
おれが地図を調べているあいだに、連中は去っていった。その地図を書いた工兵士官は、二重のスケッチを作り、それとスケッチ・ボックスをひとつに合わせて、地面から千フィート下までの立体図面《ステレオ・ピクチャー》に仕上げたのだ。
おれはその地図にまるっきりおどろかされてしまったが、やっと小隊全員を凝固から解除することを思いだした──それからおれは、火口の聴音探知兵を撤退させ、各班から二名ずつを出させて、その地獄の地図によって位置を教え、クモどもの大通りに沿った地点と町の上で、地中の音に耳をすまさせることにした。
おれはこの一件をブラックストーン大尉に報告した。おれが座標によってクモどものトンネルを示そうとしはじめると大尉はおれをさえぎって言った。
「ランドリー少佐は、わしにも写しをよこしてきている。おまえの置いた聴音地点の座標だけを知らせろ」
おれが言われたとおりにすると、大尉は言いだした。
「まあまあというところだ、ジョニー。だが、わしが望んでいるほど完璧ではないな。おまえは、その地図に書いてあるトンネルの上に、必要以上の数の聴音兵を配置している。いいか、兵隊を四人、クモどものハイウェイに沿ってならばせろ。それからもう四人を、やつらの町の上へ、ダイヤモンド形に配置しろ。それで四人残る。ひとりを、おまえの右翼後方の隅と中央トンネルでできた三角形の上に置け。あとの三人は、トンネルの反対側にある広いほうの地区へ行かせろ」
「わかりました……大尉、この地図は、あてになるんですか?」
「なにが心配なんだ?」
「はあ……まるで魔術みたいですから。そう、黒魔術ってところです」
「ああ。いいか坊や、宇宙軍総司令官からおまえに特別メッセージが来ている。その地図は公式なものだと、おまえに伝えておけというんだ……しかも、司令官はそのほかのことは全部心配してやるから、おまえは、時間を全部自分の小隊のために使えってな。わかったか?」
「わかりました、大尉」
「だが、クモのやつらは、穴掘りとなると実に速い。そこでだ、おまえは、トンネルの端においた聴音兵へ特に注意しろと命令するんだ。その四個所のトンネルの端から、蝶がどなるより少しでも大きな音が聞こえたら、直ちに報告しなければいかん、どんな物音だろうとお構いなしにだとな」
「はい、大尉どの」
「やつらが穴を掘るときは、ベーコンをフライにするような音をたてる……おまえは、そんなのを聞いたことがないかもしれんから言うんだが。さて、おまえがいまやっている警戒掃討を中止しろ。ひとりだけを火口に残して、肉眼で監視させるんだ。小隊の半分は二時間眠らせ、そのあいだ、残りの半分は、交替で耳をすまさせるんだ」
「はい、大尉どの」
「おまえは、また何人か、戦闘工兵士官に会うことになるだろう。新しく訂正された計画はこうだ……工兵隊が、地表にもっとも近接している主要トンネルを爆破し、密閉することになっている。おまえの左翼か、あるいは〈首狩族隊《ヘッド・ハンターズ》〉地区のはずれか、どちらかだ。それと同時に、別の工兵隊が同じことを、おまえの右翼へおよそ三十マイル離れた、第一連隊の領分にあるトンネルの支線でやる。コルク栓がつめられてしまうと、やつらの長い幹線道路と大きな町とは、断ち切られてしまう……これに呼応して、同じようなことが、あっちでもこっちでも、いっせいに始まる。そこで……どうなるかわかる。クモどもが地表まで穴を掘って出てきて、おれたちと一戦を交えるか、それともやつらが動きがとれなくなり、おれたちのほうから、やつらを追って降りてゆくかだ。いっぺんに一区画ずつな。そのどちらかってわけだ」
「わかりました」
おれはどうも、本当にわかったのかどうか、あまりはっきりしなかったが、とにかく自分のやることはわかった。つまり聴音地点を配置しなおし、隊の半分を眠らせることだ。それからクモ狩りだ──運が良ければ地上で、仕方がなければ地下でだ。
「工兵隊が来たら、左翼に連絡をつけさせろ。もし必要とあれば、工兵隊を助けてやるんだぞ」
「わかりました、大尉」
おれは心から賛成した。戦闘工兵は、機動歩兵に勝るとも劣らない優秀な部隊だ。かれらといっしょに行動することは喜びでもある。危機があっても、かれらは戦う。上手にではないだろうが、勇敢に戦うのだ。かれらは自分の仕事に突進し、そのまわりで戦闘が凄愴をきわめていても、頭すらあげようともしない。戦闘工兵隊には、非公式の、非常に皮肉な、とてつもない昔から続いたモットーがある。それは〈まずおれたちは掘る、そして、その中で死ぬ〉というのであり、これは連中の公式なモットー〈なせばなる!〉を補足したものである。このモットーは、どちらも文字どおり真実である。
「やれよ、坊や」
聴音地点が十二個所あるということは、それぞれの地点に一個班の半数を置くということになる。伍長もしくは伍長勤務上等兵に三人の兵隊を加え、それから、それぞれ四人のグループのうちの二人を眠らせておくあいだ、あとの二人が交替で耳をすませるということだ。ナバレと、分隊のうるさがたか火口の監視と就寝を交替にやるあいだ、各分隊長は交替で小隊の指揮をとるのだ。
ひとたびおれが計画を説明し、軍曹たちに位置を指示すると、再配置は十分とかからなかった。それほど遠くまで移動しなければいけない者はひとりもいなかった。おれは全員に工兵隊に注意していろと警告した。各分隊から聴音地点についたと報告が届くやいなや、おれは全員回路にカチリと合わせた。
「奇数番号! 横になれ、眠る用意……一……二……三……四……五……眠れ!」
強化服はベッドではないが、その役目を果たす。戦闘のために催眠準備をしておくことのひとつの利点はこうである。休むどころの騒ぎではないときであっても、前もって催眠暗示をうけている命令が、だれかの口から発せられると、たとえそれが催眠術師でないものでも、兵隊たちを一瞬のうちに眠らせることができる──そして、同じように、一瞬のうちに眼を覚まさせ、機敏にいつでも戦闘できる態勢に置くことができるということだ。これは、命を救うものだ。なぜなら、兵隊は、戦闘でくたくたに疲労してしまうと、ありもしない目標を射ちまくったり、戦うべき相手は見えないというようなことになるからである。
しかし、おれ自身は眠るつもりなどなかった。おれは眠れとも言われなかったし──眠らせてくれとたのみもしなかった。何千匹ものクモどもが、わずか何百フィートしか離れていないところにうようよといるということがわかったとたん、眠るなどということを考えただけで、おれの胃はでんぐりかえってしまうようになったのだ。たぶん、あの超感覚者《センサー》の言ったことは確実であり、おそらくクモどもは、おれたちの聴音兵に気づかれずに接近してくることはできないのだろう。
たぶん──しかし、そうなるかどうか試してみるなどはまっぴらだった。
おれは個人用回路に合わした。
「軍曹……」
「はい、少尉どの?」
「きみも寝たほうがいい。おれが監視をしているから。横になれ、眠る用意……一……二……」
「ちょっと、少尉どの。申しあげたいことが……」
「え?」
「訂正された計画から考えますと、これから四時間は、戦闘がないことになっています。少尉どのは、いまならねむれます。それから……」
「おれのことははっといてくれ、軍曹! おれは眠るつもりなどない。聴音地点をまわり、工兵隊を待つ」
「わかりました、少尉どの」
「おれは、ここにいる間に三号を調べる。きみはブランビーとここにいて、すこし休め……」
「ジョニー!」
おれは中断した。
「はい、大尉?」
親父は聞いていたのかな?
「おまえの配置はぜんぶ終わったか?」
「終わりました、大尉。奇数番号の兵隊は目下眠っております。自分はこれから、各聴音地点をしらべにいきます。それから……」
「それは軍曹にやらせろ。おまえは休んでくれ」
「しかし、大尉……」
「横になれ。命令だぞ。眠る用意……一……二……三……、……ジョニー!」
「大尉、お許しねがえれば、自分はその前に各地点を点検しておきたいんです。それから休みます。自分としては起きていたほうが……」
耳の中でブラックストーンの馬鹿笑いが鳴りひびいた。
「いいか、坊や。おまえはもう一時間十分、眠っていたんだぞ」
「え?」
「時計を見ろ」
おれは言われたとおりにした──そして、馬鹿になったみたいな感じを覚えた。
「おまえ、眼が覚めているんだろうな?」
「はい、大尉どの。そのつもりです」
「きょう日はなんでもスピードアップしてるんだ……奇数番号をたたき起こし、偶数を眠らせろ。うまくいけば、みんな一時間ほど眠られるだろう三叉替させ、おまえは持場を点検し、おれに報告しなおせ」
おれはそうして、小隊軍曹には一言もいわずに巡回をはじめた。おれは、軍曹とブラッキー、中隊長に、うんざりしていた。おれの意志に反して眠らせるとはと、腹を立てていたのだ。小隊軍曹だって同じだ。もしかれが本当のボスでなくおれ自身も看板だけの少尉でなかったら、そんなことはしなかっただろうと、いやな感じがしていた。
しかしおれが三号と一号(どちらの地点もクモ地区の中へ入っていたが、どんな物音もしなかった)を調べ終わると、おれの気持ちは落ちついてきた。とどのつまり、大尉がやったことを、軍曹に──艦隊軍曹としても──八つ当たりするなど、馬鹿げたことだった。
「軍曹……」
「はい、ミスター・リコ?」
「きみは、偶数番号の兵隊といっしょに昼寝をしたくないか? 兵隊たちを起こす一、二分前にきみを起こしてやるが、どうだ?」
軍曹は、ほんのちょっとためらった。
「少尉どの、自分は聴音地点を点検したいと思うのですが」
「まだしてなかったって?」
「まだです、少尉どの。この一時間、眠っていました」
「え?」
軍曹の声は困っているみたいだった。
「大尉どのが、そうしろと言われたのです。ブランビーが臨時の小隊指揮官にされ、少尉どのが休まれた直後に、自分も眠らされたのです」
おれは答えようとしたが、その前にわけもなく笑いだしてしまった。
「軍曹、どうだ? きみとおれと、どこかへずらかって寝なおそうじゃないか。時間の無駄だぜ。ブラックストーン大尉がこの小隊を指揮しているんだからな」
軍曹は固い声で答えた。
「自分にはわかっています……あのブラックストーン大尉には、何をやるにも必ず理由があるはずです」
おれは、聴音地点から十マイル離れてしまっていることも忘れて考えこみ、そしてうなずいた。
「うん、きみの言うとおりだ。大尉には、いつだって理由がある。ふーん……大尉がおれたちふたりを眠らせたってことは……おれたちふたりは、いま、眼を覚まして気をつけていなければいけないということだな」
「そのとおりでしょうな」
「ふーん……なぜかわかるかい?」
小隊軍曹はいくぶん手間どってから、ゆっくりと言った。
「ミスター・リコ……もしわかっているとすれば、大尉どのはわれわれに言うはずです。大尉どのが情報を隠しておいたためしは一度だってありません。ですが、ときどきは、なぜかって理由を説明できないままに、何かやられることがあります。大尉どのの勘とでもいいますか……いつのまにか、自分はそれを大したものだと思うようになりました」
「そうか? 各班長はみな偶数番号だ。みんな眠っているな」
「はい、少尉どの」
「各班の上等兵に知らせろ。だれもまだ起こしはせん……だが、起こしたときは、一秒一秒が重要なことになるかもしれんとな」
「すぐやります」
おれは、残っている前方の聴音地点を調べた。それからクモどもの町をおおっている四個所をまわり、各聴音兵とならんでおれの聴音器を押しつけた。おれは、自分の心も押しつけて、無理にも耳をすませようとしなければいけなかった。なぜなら、下のほうで、クモどもがおたがいにしゃべりあっているのが、聞こえていたからだ。おれは逃げだしたかった。そして、おれにできたのは、その様子を外に現わさないことだけだった。
おれはあの特殊才能者《スペシャル・タレント》がただ、信じられないほど鋭い聴力を持っているだけの男ではなかったのかしらと思った。
さて、あの男がどうやったにしろ、クモどもは、かれがいると言ったところに、ちゃんといた。話は士官候補生学校にもどるが、おれたちは録音したクモどもの音というのを聞かされたことがあった。ここにある四つの地点では、大きなクモの町にある典型的な音が聞こえつづけていた──そのさえずるようなのはクモどもの話し声かもしれない。(でも、やつらがみな頭脳階級《ブレイン・カースト》に遠隔操作されているのなら、なぜしゃべる必要などあるのだろう?)木の枝と枯葉がこすれあっているようなカサカサという響き、その背後で大きく鳴っているような音、それは常にクモどもの町から聞こえるものであり、機械の音であるにちがいない──おそらく、やつらの空気調節装置だろう。
クモどもが岩を切りひらくときに立てるジューッという音は聞こえてこなかった。
クモどものハイウェイに沿った物音は居住地のそれとはちがっていた──低くこもったような騒音が、何秒かたつうちに咆哮といえるまでにたかまり、まるでひどくたくさんの車が通過しているようだった。おれは五号聴音地点で耳をすました。そこで、ひとつの考えが浮かんできた──クモどものトンネルに沿った四つの地点でそれぞれ耳をすましている兵隊に気をつけさせ、その唸り声がもっとも大きくなるごとに「いまだ!」と、おれにむかって叫ばせるのだ。
おれはすぐに報告した。
「大尉」
「なんだ、ジョニー?」
「このクモの大通りに沿った交通は、ぜんぶ一方に向かって動いています。自分のほうから、そちらのほうへです。速度約百十マイル。およそ一分間に一度ずつの割で通っています」
大尉は同意した。
「ほとんどピタリだ……おれの計算では百八マイルで五十八秒だ」
おれは、がっかりして、話題を変えた。
「ああ……まだ工兵隊を見ませんが」
「連中は来ない。工兵隊は、首狩族隊《ヘッド・ハンターズ》地区の後方中心部に場所をきめた。すまなかったな。おまえに言っておくべきだった。ところで、ほかには?」
「ありません、大尉どの」
おれは回路を切った。気分はだいぶましになっていた。ブラックストーン大尉でさえ、忘れることがあるのだ……それに、おれの考えに何ひとつ間違っているものはなかった。おれはトンネル地帯を離れ、クモどもの右と後にある十二号聴音地点を調べにいった。
ほかのところと同じように、そこではふたりが睡眠中で、ひとりが聞き、ひとりが警戒していた。おれは警戒しているほうにたずねた。
「何かあったか?」
「ありません、隊長」
聴音中の兵隊、おれの隊にいる五人の新兵のひとりが、おれを見あげて言った。
「ミスター・リコ、どうもこの聴音器は調子が悪くなったのじゃないかと思いますが」
「おれが調べてみよう」
おれはそう言い、新兵がどくと、そいつの聴音器をおれの強化服につないで耳をすました。
〈ベーコンのフライ!〉
あまり大きな音なので、匂いがしてくるぐらいだった!
おれは全員回路に急いであわせた。
「第一小隊、起きろ! 起きろ、点呼し、報告せよ!」
つづいておれは士官用回路にあわせた。
「大尉! ブラックストーン大尉! 緊急事態!」
「落ちつけ、ジョニー。報告しろ」
「ベーコンのフライ音です、大尉」
おれはなんとか落ちついた声を出そうと必死になりながら続けた。
「スクエア・ブラック・ワン、|東方9《イースター・ナイン》の座標、十二号聴音地点です」
「|東方9《イースター・ナイン》だな……音の大きさは?」
おれは急いで聴音器のメーターをのぞいた。
「わかりません、大尉。最高のところを飛びこしています。まるで、自分の足の裏にいるような音です」
「良いぞ!」
大尉はほめてくれた──いったいどうして、そんなふうに感じられるんだろう。
「今日聞いたうちで、いちばん良いニュースだ! さあ聞け、坊や。兵隊をたたき起こすんだ……」
「起きています、大尉どの」
「上出来だ。聴音兵を二組ひきあげ、十二号のまわりのチェックをさせろ。どこからクモどもが突破して出てくるか、考えてみるんだ。それから、その場所から離れていろ! わかったな?」
おれは用心しながら答えた。
「聞こえました、大尉……ですが、わかりません」
大尉は溜息をついた。
「ジョニー、おまえはわしを白《しら》髪《が》にしてしまうつもりか。いいか、坊や、おれたちはやつらを外へ出させたいんだ。多けりゃ多いほどいいんだ。やつらが地面に出てきたとき、トンネルを爆破する以外には、やつらをやっつけるために火力を使用したりしてはいかん……これだけは絶対にやってはならんことだぞ! もしやつらが大挙して出てきたら、一連隊ではどうにもできん。しかしこれが将軍の欲していることだ。将軍は、重火器を装備した旅団を軌道にのせ、そのときのために待機させてある。だからおまえは、クモの突破口を見つけたら、退いて観測を続けるんだ。もし、クモどもがおまえの地区に主力突破口をつくるほど、おまえが幸運だったら、おまえの偵察報告はずっと上のほうまで、総司令官のところまで行くんだ。わかったな?」
「はい、大尉どの。突破口を見つけ、後退し、接触を避け、監視し、報告します」
「すぐやれ!」
おれは、クモ大通りの中央地区から、九号、十号の聴音兵を引き揚げ、座標|東方9《イースター・ナイン》の右から左へと移動させ、半マイルごとに停止して、〈ベーコンのフライ音〉が聞こえないか耳をすまさせた。同時におれは、十二号を引き揚げて、おれたちの後方へ移動させ、その音が低くなっていく程度を調べさせた。
一方、おれの小隊軍曹は、クモの町と火口とのあいだの前方地域内にいる小隊を再編成していた──地下に耳をすませている十二人の兵隊以外の全員をだ。おれたちは攻撃するなという命令を受けていたので、軍曹は、兵隊たちがお互いに助けあうにも、小隊をあまり広く散開させすぎていることを心配していたのだ。そこで軍曹は、ブランビー分隊を左翼にして、よりクモ町に近く、五マイルの長さに密度をつめて兵隊を配置しなおしたのだ。この配置によって、兵隊の間隔は三百ヤードそこそことなった(カプセル降下兵にとって、この距離は、ほとんど肩を並べているのと同じことだ)。そして、いまだに聴音地点にいる九人を、おれたちの両翼から応援できる距離内においた。おれといっしょに働いている三人の聴音兵だけが、すぐ助けられる距離外だった。
おれは、〈ワレン穴熊隊《ウルブラインズ》〉のベイヨンと〈首狩族隊《ヘッド・ハンターズ》〉のド・カンポのふたりに、こちらはもう警戒掃討をしていないこと、およびその理由を知らせ、ブラックストーン大尉に、隊の再配置を報告した。
大尉はうなるような声で答えた。
「好きにやったらいいだろ。クモどもの突破口は見当がついたか?」
「どうも|東方10《イースター・テン》のあたりへ集中してくるように思えますが、大尉。はっきり指摘するのは困難です。その地区の直径三マイルほどで、音が非常に大きいのです……それに、だんだん広がっていくようであります。自分は、音響レベルがメーターから飛びだすか、ださないかのところを測って、円を描いてまわってみます」
おれはつけ加えてみた。
「やつらは、地表からすぐ下に、新しい水平トンネルを掘っているのではないでしょうか?」
大尉はおどろいたようだった。
「それは考えられることだな。そうじゃないほうがいいが……とにかくわがほうとしては、やつらに出てこさせたいのだ……音の中心部が移動するようだったら、すぐ教えろ。気をつけているんだぞ」
「はい、大尉どの。そのう……」
「え? 言ってみろ」
「大尉どのは、クモが出てきても攻撃を仕掛けてはいかんと言われました。もし、やつらが出てきたとします。自分たちは、いったいどうするんです? ただの見物人ですか?」
長いあいだ返事が遅れた。十五秒か二十秒ほどもだ。大尉は〈お偉方〉と相談したのかもしれない。やっとかれは言った。
「ミスター・リコ。おまえは|東方10《イースター・テン》の地点、およびその近くでは、攻撃してはいかん。そのほかのところなら……クモどもを退治しろ」
「はい。大尉どの。クモを退治します」
大尉は鋭く言った。
「ジョニー! クモどものかわりに勲章をせしめる了見だとしたら……おれが見つけてやる……おまえは〈三十一の大罪〉にひっかかって、泣きっ面をかくことになるんだぞ!」
おれは真剣に旨った。
「大尉……自分は勲章をせしめようなどと考えたことは、ただの一度だってありません。要はクモを退治するかしないかであります」
「そのとおりだ。もうおれの邪魔をするのはやめろ」
おれは小隊軍曹を呼び出して、おれたちが行動する新しい限界を説明し、この命令を伝達するように言い、各自の強化服に、空気とエネルギーが充填されたかどうか、確認するよう命令した。
「たったいま、やり終わったところです。少尉どの、自分は、あなたのところにいる兵隊たちを交替させたらどうかと思いますが」
かれは交替させる三人の名前を言った。
それは当然なことだった。というのは、おれのところにいる地中聴音兵たちには、再充填する時間がなかったからだ。そして軍曹が名をあげた交替要員はみな、捜索兵だった。
おれは無言のまま、自分の馬鹿さ加減を呪った。捜索兵用強化服は、指揮官用強化服と同じぐらいスピードが速く、攻撃用の二倍は速い。おれは何かしら手を打たなければいけないことを、そのままにしているのではないかと、チクチクするような感じをおぼえていた。そしてそれは、いつもクモどものことばかり心配して神経かいらだっているせいだと思っていたのだ。
もうおれにはわかっていた。おれは三人の部下とともに、小隊から十マイル離れたところにいる──兵隊はみな攻撃用強化服をつけている。クモどもが現われてこようものなら、部下たちがおれの指揮官用強化服の猛スピードについてこられないかぎり、おれはとんでもない決断を下さざるを得ない破目になってしまう。
「結構だが……もうおれには三人は要らん。ヒュージをすぐよこしてくれ。ナイバーグと交替させる。ほかの三人の斥候には、最前線の聴音地点と交替させろ」
小隊軍曹は疑わしそうな声を出した。
「ヒュージひとりですか?」
「ヒュージひとりで充分だ。おれたちふたりで、この地点をつかんでおられる。おれたちには、やつらがいまどこにいるか、わかっているからな……ヒュージを急いでここへよこせ」
それからの三十七分間というものは、何事もおこらなかった。ヒュージとおれは、|東方10《イースター・テン》周囲の地区前後の円弧にそって、前へ前へと跳躍し、一度に五秒間ずつ聴音しながら移動しつづけた。もう聴音器を岩にさしこむ必要はなかった。〈ベーコシのフライ音〉は、地面にふれてみるだけで強く、はっきりと聞こえてくるのだ。音の聞こえてくる地域は広がっていたが、その中心は変化しなかった。一度おれはブラックストーン大尉を呼び出し、音がとつぜんとまってしまったと言い、そして三分後には、また音がもとどおりになったと報告した。それとは別に、おれは斥候回路を使って、小隊軍曹に小隊と小隊近くの聴音地点を掌握させた。
これが終わったとたん、すべてがいっぺんに突発した。
斥候回路でひとりが叫んだ。
「ベーコンのフライ、アルバート・二!」
おれは回路をまわして呼びかけた。
「大尉! アルバート・二、ブラック・ワン、ベーコンのフライ!」
おれはつづけて回路をまわし、周囲にいるほかの小隊へ連絡した。
「至急連絡! アルバート・二、スクエア・ブラック・ワンに、ベーコンのフライ!」
すぐにド・カンポからの連絡が入ってきた。
「アドルフ・三、グリーン・十二、ベーコンのフライ!」
おれがこれをブラックストーン大尉に中継してから斥候回路にもどすと、大声が聞こえてきた。
「クモだ! クモだ! 助けてくれ!」
「どこだ?」
応答はない。回路を切りかえる。
「軍曹! クモだと言ってきたのはだれだ?」
軍曹は叩きつけるように答えた。
「やつらが町から出てきました……バッコック・六のあたりです」
「攻撃しろ!」
おれはブラックストーン大尉に報告した。
「バッコック・六、ブラック・ワンにクモ。攻撃します」
大尉は冷静に返事した。
「おまえのその命令は、聞いた……|東方10《イースター・テン》のほうはどうなんだ?」
「|東方10《イースター・テン》は……」
足もとの大地がくずれ落ち、おれはクモどものどまん中に落ちていった。
いったいおれはどうなったのか、わけがわからなかった。おれは怪我してはいなかった。まるで木の枝の繁みの中を落ちてゆくのと、ちょっと似ていたが──その枝々が生きていて、おれを押しまくり続け、おれのジャイロはうめき声をあげながら、おれの身体をまっすぐにしようと働きつづけるのだ。おれは十フィートか十五フィートぐらい落下してしまった。深くて日光も見えないぐらいだ。
すると、生きている怪物どもが押しよせ、おれを日光の中へ押しもどした──すると、訓練が物を言った。おれはすっくと立ちあがり、話すのと戦うのを同時にやっていた。
「|東方10《イースター・テン》に突破口……いや|東方11《イースター・イレブン》自分がいまいるところです。大きな穴で、クモどもがぞくぞくあがってきます。何百、いや、それ以上です」
おれは両手に小型火焔放射器を持ち、報告しながら、やつらを焼きはらった。
「そこから出ろ、ジョニー!」
「了解!」
おれは跳躍しようとした。そして、中断した。あわやというときに跳躍をやめ、焼き払うのをやめて、はっきり見ようとした──おれはとつぜん、死んでいて当然だったのに、なぜまだ生きているんだと気づいたのだ。
「訂正します!」
おれはあたりを見まわしながら、ほとんど信じられないように言った。
「|東方11《イースター・イレブン》地点の突破口は偽装作戦《フェイント》。兵隊グモなし」
「くりかえせ」
「|東方11《イースター・イレブン》地点、ブラック・ワン。この地点の突破口は、いままでのところ、ぜんぶ労働グモ。兵隊グモはいません。自分はクモにとりかこまれており、クモはいぜんとしてどんどん出てきますが、一匹も武装しているやつはいませんし、自分のすぐそばにいるクモは、労働グモの典型的な形をしています。自分は、攻撃されておりません……大尉、これは単なる牽制作戦だと思われませんか? 突破口をどこかほかの地点にするためではないでしょうか?」
「そうかもしれんな……おまえの報告は、師団にまわされた。考えるのは連中にまかせろ。もうひとふんばりして、おまえが報告したことを調べてみろ。やつらがぜんぶ労働グモだなどと決めてかかるなよ……とんでもないことになるかもしれん」
「わかりました、大尉」
おれは、無害のクモどもとはいえ、胸の悪くなる怪物どもの大群から抜け出そうと、高く大きく跳躍した。
岩だらけの平原は、どこもかしこも、むずむずしてくるような黒いクモどもで覆われてしまった。おれはジェットを思いきり噴かせて跳躍距離を伸ばしながら叫んだ。
「ヒュージ! 報告しろ!」
「クモです、ミスター・リコ。何千億も! 自分はやつらを焼き払っております!」
「ヒュージ、近くからそのクモどもをよく見てみろ。一匹でも戦いをいどんでくるやつがいるか? ぜんぶ労働グモじゃないのか?」
「あっ……」
おれは地面に着き、また跳躍した。
ヒュージは続けて言った。
「そのとおりです、少尉どの! どうしてわかったんです?」
「分隊へもどれ、ヒュージ」
おれは回路をまわした。
「大尉、数千匹ものクモが、数えきれないほどの穴から、このあたりへはいあがってきました。まだ自分は攻撃されておりません。くりかえします。自分はまだ全然攻撃されておりません。もし、やつらの中にいくらかでも、兵隊グモがいるとすれば、やつらは射撃を封じられ、労働グモをカムフラージに使っているんです」
大尉は返事をしなかった。
極端に明るい閃光が、おれの左翼のはるか彼方で輝いた。そしてすぐ、全く同じような閃光が、右翼前線のもっと遠い地点で輝いた。おれは機械的に、その時間と方角を頭にきざみこんだ。
「ブラックストーン大尉……応答ねがいます!」
おれは跳躍のいちばん高いところから、大尉のビーコンをつかもうとしたが、地平線はスクエア・ブラック・ツウの低い丘陵でさえぎられていた。
おれは回路をまわして叫んだ。
「軍曹! 大尉に中継できるか?」
そう怒鳴った瞬間、小隊軍曹のビーコンがぴたりと消えてしまった。
おれは、強化服をできるかぎりの速さにして、その方向へすっ飛んでいった。おれはレーダー面をそう気をつけて見つめてはいなかった。小隊軍曹が小隊をにぎっていたのだし、おれ自身も忙しかったのだ。初めのうちは地中聴音をしなければならず、そしてそのあとたったいままでは、何百匹ものクモだ。おれは、下士官標識にそう気をつけていられないほど夢中だったのだ。
おれは輪郭だけ見えている映像から、ブランビーとクンハを選び出した。
「クンハ! 小隊軍曹はどこだ?」
「軍曹はクモの穴を偵察中です、少尉どの」
「おれは小隊にもどるところだと、かれに伝えろ」
おれはその返事を待たずに回路をまわした。
「|ならず者隊《ブラックガーズ》、第一小隊より第二小隊へ……応答ねがいます」
「どうしろと言うんだ?」
コロシェン少尉がうなり声を出した。
「大尉と連絡がつきません」
「つかないよ、不通だ」
「戦死?」
「いや、動力切れで不通だ」
「ああ、ではあなたか中隊長ですね?」
「そう、そのとおり。それがどうした? 救援が欲しいのか?」
「え……いや、少尉どの」
「それなら、黙ってろ……救けがいるときまではな。おれたちは、手がまわらないほど忙しいんだ」
「オーケー」
おれもとつぜん、しなければいけない仕事が山ほどあることに気づいた。コロシェン少尉に報告しながら、自分の隊にほとんどすれすれまで近づいていたおれは、全域受像にして近距離にあわせた──すると、いま、おれの第二分隊が、ひとりずつ消えてゆくのを見たのだ。ブランビーのビーコンがまっさきに消えかかっている。
「クンハ! 第二分隊はどうしたんだ?」
かれの声は緊張していた。
「みんなは、小隊軍曹について降りていくところです」
もし操典の中に、これにあてはまるものが何かあるとしても、おれにはどんなものなのかわからない。ブランビーは、命令なしに行動したのか? それとも、おれの聞いていない命令を受けていたのだろうか? 見ろ、兵隊はもうクモどもの穴へ降りてしまっており、見ることも聞くこともできなくなっている──これは軍法会議にかけることだろうか? いや、そんなことは明日になってからのことだ。もしおれたちのだれかに明日があるとすればのことだが──
「よし、おれはもどった。報告しろ」
おれは最後の跳躍でやつらのまん中に飛びおりた。おれは右にクモが一匹いるのを見つけ、着地する前に仕止めた。こいつは労働グモではない──動きながら射っていたんだから。
クンハは、あえぎながら答えた。
「三人戦死しました。ブランビーのほうの損害はわかりません。クモどもは三個所からいっぺんに出てきました……犠牲者を出したのはこのときです。しかし自分たちはやつらを掃討し……」
おれがふたたび跳躍しようとしたとき、すさまじい衝撃波がぶつかってきて、おれを横ざまにたたきつけた。三分三十七秒──三十マイルほどだ。これはわが工兵隊の〈クモども封じ込め〉だったのだろうか?
「第一分隊! 次の衝撃波に気をつけろ!」
おれは三、四匹のクモのうえへ、だらしなく着陸した。やつらは死んだのでもなく、戦うのでもなかった。ただピクピクとうごめいているだけなのだ。おれはそいつらに手榴弾をお見舞いし、また飛びあがって叫んだ。
「さあ攻撃だ! やつらはグロッキーだぞ。気をつけろよ、つぎの……」
おれがそう言っているうちに二回目の爆発がおこった。こんどのはそれほど強烈ではなかった。
「クンハ! おまえの分隊を点呼しろ。それから全員気合いを入れて敵を掃討するんだ」
点呼はばらばらで、暇がかかった──おれが映像で見るかぎり、あまりにも大勢が欠けていた。しかし掃討は正確で迅速だった。おれも端のほうを飛びまわって六匹のクモをやっつけた──そのうちの最後のやつは、おれが火焔を浴びせかける直前になってから、突如として活発になった。なぜ衝撃波は、おれたちよりもクモどものほうをぼんやりさせてしまったのだろう? やつらが強化服を着ていないせいだろうか? それとも、そいつらの頭脳グモが、ずっと遠い地下のどこかで、へたばってしまいでもしたからか?
点呼は、現在員十九人を示し、戦死二名、負傷二名、そして強化服故障のため戦闘不能が三名とわかった──この三人のうち二名は、ナバレが負傷者と戦死者の強化服から動力装置をむりやりはずして修繕していた。三番目の強化服の故障は、ラジオとレーダーだったので修繕のしようがなかった。そこでナバレは、そいつに負傷者を守らせ、おれたちの交替がくるまで、やれるかぎりの救出をするよう命令した。
その問、おれはクンハ軍曹と、クモどもが地下の巣からつき破って出てきた三個所を調べていた。地下の地図と比べあわせてみると、どうも、トンネルの地表にいちばん近いところで、やつらは出口を切りひらいたものらしい。
穴のひとつはふさがっており、岩のかけらが山のようになっていた。二番目の穴には、クモの活動は見られなかった。おれはクンハに、上等兵と一等兵をひとりずつ配置し、一匹のクモでも殺してしまえと命今し──もしぞろぞろ出てくるようなら爆弾を投げて穴をふさげと命令した──これは総司令官を怒らせて、穴をふさぐなと怒鳴らせるようなことにもなりそうだったが、おれのほうは机上の空論なんかじゃなくて、実戦における状況判断ってやつのほうが大切なんだ。
それからおれは、三番目の穴を見た。この穴は、おれの小隊軍曹と小隊の半分をのみこんでしまったやつだ。
ここには、クモの通路が地表から二十フィート以内のところまで来ており、やつらは単に屋根を五十フィートほど取り除けただけだったのだ。やつらが作業しているときに〈ベーコンのフライ音〉をたてさせた岩石はどこへ行ってしまったのか、おれにはわからなかった。岩の屋根は跡形もなく、穴の両側は斜面になってえぐられた溝の跡がついていた。地図を見ると、ここで起こったに違いないことがわかった。つまり、ほかのふたつの穴は、小さな支線トンネルから上ってきたものであり、このトンネルはやつらの主要な迷路の一部分だ──だから、ほかのふたつの穴は牽制するためのものであり、やつらの主要な攻撃は、この第三の穴からおこなわれたのだ。
クモどもは、固い岩盤をとおして見ることができるのだろうか?
第三の穴の中には、クモも人間も、なにひとつ見えなかった。クンハは、第二分隊が消えていった方角を指さした。小隊軍曹が穴の中に降りていってから、もう七分四十秒たっていた。ブランビーがそのあとを追って穴に入っていってからは、七分ちょっとだ。おれは暗闇の中をのぞきこんだ。腹の中が煮えくりかえっていた。
「クンハ、分隊の指揮をとれ」
おれは元気のあるようなぶりをして続けた。
「救けがいるようなときは、コロシェン少尉を呼び出すんだ」
「命令ですか、少尉どの?」
「いや、そうじゃない。空からもやってこないかぎりはな。おれはこれから降りて、第二分隊を見つける……だから、しばらくのあいだは、連絡が中断するかもしれん」
そういうなり、おれはすぐ穴の中へ飛びこんだ。神経がいらいらしていたのだ。
おれのうしろで叫び声が聞こえた。
「一班! 二班! 三班!」
「各班ごと! おれにつづけ!」
クンハもまた飛びこんできたのである。
こんなわけで、そう寂しくはなくなった。
おれはクンハに、背後を守らせるため、穴の入口に兵隊をふたり残し、ひとりはトンネルの底に、ひとりは地面の高さに配置させた。それから兵隊をつれて、第二分隊が進んでいったトンネルを、できるかぎりのスピードで降りていった──といっても、トンネルの天井が頭すれすれだったので、そう速いわけでもなかったが。強化服は、足をあげなくてもスケートをするような動きかたで進んでいけるのだが、これは簡単でもないし、自然なやりかたでもなかった。強化服を着ていないほうが速く進めるぐらいだった。
すぐ赤外線暗視鏡が必要になった──そこでおれたちは理論づけられていたことを確認した。つまり、クモどもは赤外線をとおして見るということだ。赤外線暗視鏡で見るとまっくらなトンネルも、明るく照明されていた。いままでのところ、変わったことはおこっていなかった。単に磨かれた岩の壁が、すべすべした平らな床の上で弧をえがいているだけのことだ。
おれたちは、進んできたトンネルと交叉しているトンネルのところへ出た。おれは、ちょっと立ちどまった。地下における攻撃部隊の配置はどのようにするべきであるかという作戦要領があるが──いったい、そんなものが何の役にたつというのだ? ただひとつ確実なことは、この作戦要領をでっちあげた当の本人は、自分でやってみたわけではないということだ──というのは、〈王族捕獲作戦《オペレーション・ローヤルティ》〉以前には、どんなことが効果があり、どんなことはだめだと言ってくれるにも、もどってきた兵隊はひとりもいなかったからだ。
ある規則では、おれがいまとまどっているような交叉点では、かならず警戒兵を置けと要求している。しかしおれはすでにふたりの兵隊を使って、おれたちが脱出する入口を守らせている。もしおれが各交叉点毎に、兵力の十パーセントを残していったとすると、まぎれもなくじりじりと、十パーセントずつ死に近づいてゆくということだ。
おれは、みんなをいっしょに固めておくことに決めた……ひとりだって捕虜にはさせないのだ。クモなんかにつかまえられて、たまるものか。そんなことになるぐらいなら、きれいさっぱり死んしまったほうが、ずっとましだ……この決心は、おれの心から重荷を取り除き、もう何も心配することはなくなってしまった。
おれは注意ぶかく交叉点の中をのぞきこんで両方を見た。クモはいない。そこでおれは、下士官回路で呼びだした。
「ブランビー!」
この結果は、おどろくべきものだった。強化服のラジオを使うときに、自分自身の声が聞こえてくることなど、ほとんどない。出力側の音は強化服で遮断されるからだ。だが、この地下にあるすべすべした通路網の中では、おれの電波ははねかえってくるので、まるで全部がひとつの大きなかたまりになって、ぶつかってくるようだった。
「ブラララランビビビイ!」
おれの耳はがんがんした。それからもう一度つづいてがんがんした。
「ミスター・リリリリコココ!」
「そう大きな声を出すな」
おれは、できるかぎりやんわり話すようにしてたずねた。
「おまえはいま、どこにいるんだ?」
ブランビーは、こんどはそれほど耳をつんざくようには言わなかった。
「少尉どの、わかりません。道に迷いました」
「よしっ。落ちつけよ。おれたちはおまえを救いにきたんだ。そう遠くじゃあるまい。小隊軍曹は、いっしょにいるのか?」
「軍曹はいません。われわれは……」
「待て……」
おれは個人用回路をまわした。
「軍曹……」
「聞こえます、少尉どの」
小隊軍曹の声は落ちついているようだった。そしてかれはボリュームを下げていた。
「ブランビーと自分は、ラジオで連絡はついていますが、まだおち合えないでいます」
「きみの場所は?」
かれはちょっとためらった。
「少尉どの、あなたは、ブランビーの分隊とおち合い……それから地上へもどられたほうがいいと……」
「おれの質問に答えろ」
「ミスター・リコ。あなたが一週間、この中を探しまわっても、自分を見つけることはできないでしょう……自分は動きがとれないのです。あなたは……」
「やめろ、軍曹! 負傷しているのか?」
「ちがいます、少尉どの、しかし……」
「じゃあ、なぜ動けないんだ? クモか?」
「たいへんな数です。いまのところは、やつらにも、どうもできませんが……自分も抜け出せません。ですから、あなたはいま自分が……」
「軍曹、時間を無駄にするな! きみは、どの角を曲がったのか、はっきり知っているはずだ。さあ言え、きみの位置を。おれは地図を見ているから。これは命令だぞ!」
かれは正確、簡潔に報告した。おれは頭の上のランプをつけ、赤外線暗視鏡をはねあげ、地図の上をたどっていった。やがて、おれは言った。
「よし……きみはほとんど、おれたちの真下、二階下だ……どこを曲がればいいかわかった。第二分隊をつかまえたら、すぐそこへ行く。がんばれよ」
おれは回路をまわした。
「ブランビー」
「ここです、少尉どの」
「おまえが、はじめての交叉点にぶつかったとき、右へ曲がったか、左か、それともまっすぐ進んだのか?」
「まっすぐです、少尉どの」
「オーケー。クンハ、兵隊をつれてこい。ブランビー、クモに困っているのか?」
「いまはおりません、少尉どの。だが、やつらのために道を迷いました。山はどのクモとぶつかって……終わったときにはだいぶやられていました」
おれは犠牲者のことをたずねようとしたが、悪いニュースは、あとまわしということに決めた。おれは小隊をまとめて早いところここから出たかったのだ。クモどもの町で、クモの子一匹見かけないということは、やつらと鉢合わせするよりも、ずっと気が落ちつかないものだった。ブランビーは、次に出くわすふたつの廊下のことを教えた。そこでおれは足がらみ爆弾を、通らないほうの道路に投げこんだ。〈足がらみ爆弾〉というのは、おれたちがこれまでの対クモ作戦で使ってきた神経ガスから派生したもので、クモどもを殺してしまう代わりに、やつらの足がひどく震えだして麻痺状態にさせてしまうのだ。おれたちはこの作戦に、この爆弾を装備していた。おれは、こんなものの一トンより、本物の爆弾数ポンドのほうが欲しかった。でも、これがいまだにおれたちを守ってくれていたのかもしれないが。
長く伸びたトンネルの中で、おれとブランビーの連絡が、とつぜん途切れた──電波の反射に何か変なことがおこったのだろうと思う。というのは、次の交叉点で、また連絡がついたからだ。
しかし、どちらへ曲がっていいのか、かれにはわからなかった。そこが、クモどもに襲われた場所だったのだ。あるいは、その近くだったのだ。
そしてまた、この同じ場所で、クモどもはおれたちにも襲いかかってきたのである。おれには、そのクモどもが、どこからやってきたのかわからなかった。一瞬、すべてがひっそりと静まりかえった。それからとつぜん、背後の列から叫び声が聞こえた。
「クモだ! クモだ!」
おれはふりかえった──すると、クモは至るところにいた。このなめらかな壁は、見てくれほど固くないらしい。そうでなければ、クモどもがとつぜん、おれたちのまわり、おれたちのあいだに出現してきた方法は説明がつかなくなる。
おれたちは、火焔放射器も使用できなかったし、爆弾も使えなかった。おれたちが同士討ちしてしまいそうだったからだ。しかもクモどもには、おれたちのひとりを捕虜にできるかどうかなどと考える必要はなかったのだ。でもおれたちには、両手と両足があった。
戦闘は一分と続かなかったのだろう。とつぜんクモは一匹もいなくなっていた。床の上に、やつらのばらばらになった身体が散乱しており、四人のカプセル降下兵が倒れていた。
そのうちのひとりは、ブランビー軍曹で、死んでいた。騒動のあいだに、第二分隊が加わってきたのだ。連中はそう遠くに離れておらず、迷路の中で、それ以上迷ってしまうのを避けるために、ぴったりと固まりあっていると、戦闘の物音が聞こえてきたのだ。ラジオではおれたちの位置を見つけられなかったが、その音を耳で聞いて近づいてきたのだ。
クンハとおれは、味方の犠牲者が実際に戦死していることを確認してから、第二分隊を四個班のひとつとして、また下へ降りていった──そして、おれたちの小隊軍曹を包囲しているクモどもを見つけだしたのだ。
この戦闘は、少しも時間がかからなかった。なぜなら軍曹が、待ちかまえているもののことをおれに警告しておいてくれたからである。軍曹は一匹の頭脳グモを捕虜にして、このふくれあがった身体を楯に使っていた。軍曹は、脱出することができなかったが、クモどものほうは、自分の脳味噌をぶつけて自殺するほか、かれに襲いかかることはできなかったのだ。
こちらには、そんなハンディキャップはありやしない。おれたちは、やつらをうしろから叩きつぶした。それからおれたちは、軍曹がつかまえている身の毛もよだつようなものを眺め、味方に戦死者は出ていたものの、得利の気分を味わっていた。ところがとつぜん、例の〈ベーコンのフライ音〉が近づいてきた。と思うと、大きな天井のかたまりがおれの頭にくずれ落ちてきて、おれに関するかぎり、〈王族捕獲作戦《オペレーション・ローヤルティ》〉は終了した。
おれはベッドの上で眼を覚まして、士官候補生学校にいるものと思い、いやに長ったらしく混みいったクモの悪夢を見ていたのだと思った。しかし、おれは士官候補生学校にいるのではなかった。おれは、輸送艦〈アルゴンヌ〉の臨時病室にいたのだ。そしておれは本当に、おれ自身の小隊を十二時間近くも指揮していたのだった。
しかし現在のおれは、たくさんいる患者のひとりにしか過ぎなかった。亜酸化窒素中毒と、撤退前に一時間以上もスーツをぬがされたままでいたための放射能|過被《かひ》曝《ばく》、それに肋骨骨折と、おれを戦闘不能にさせてしまった頭部の打撲傷だった。
おれが〈王族捕獲作戦《オペレーション・ローヤルティ》〉についてすべてをはっきりと知ったのは、ずいぶんあとになってからだったし、そのうちのいくつかは、永久にわからないことだろう。例えば、なぜブランビーは部下を連れて地下にもぐっていったのかだ。ブランビーは戦死し、ナイジもそれに続いて戦死した。何ひとつ計画どおりいかなかった惑星Pでのあの日、かれらふたりが昇進し、その階級章をつけたことを、おれは単純に喜んだものだったが。
おれはそのうち、なぜ小隊軍曹が例のクモの町へもぐっていこうと決心したのかということを知った。軍曹は、クモどもの〈主要突破口〉が、実際は労働グモを地上に追い上げて殺させるだけの偽装作戦でないかという、おれのブラックストーン大尉への報告を聞いたのだ。本物の兵隊グモが、軍曹のいた地点に飛びだしてきたとき、軍曹はクモどもが絶望的な反撃をしかけてきたに違いない、さもなければ、単におれたちの砲火を引き受けさせるためだけに、労働グモを消耗してしまうはずはない、と断定したのだ。これは正しかったし、参謀連が同じ結論に達するより何分開か早かったのである。
軍曹は、やつらが反撃してきたことから、クモの町にある兵力はそう大きいものではないと考え、敵は大量の予備軍を持っていないのだと判断した──そして、この黄金のごとき瞬間に、単独行動をとることだけが、〈王族〉をおそい、発見し、そして捕虜にするチャンスをつかめることかもしれないのだと決断したのだ。忘れてはいけない。これが、この作戦における最大の目的だったのだ。
おれたちは惑星をまるごと消毒してしまうほどの巨大な兵力を注ぎこんだが、その目的は、王族階級《ローヤルティ・カースト》をつかまえて、クモどもの穴へ降りていくときはどうすればいいのかということを知るためだったのだ。そこで軍曹は、その一瞬をつかんで試してみた──そして、この考えは見事に成功したのである。
|ならず者隊《ブラックガーズ》第一小隊によって、その使命は達成された。何千何百もの小隊の中で、そういえる小隊はそう多くない。女王グモはつかまえられなかった。クモどもは、最初に女王グモを殺してしまったのだ。頭脳グモが六匹だけだった。六匹のうちで交換されたものは一匹もなかった。やつらはあまり長いあいだ生きていなかったからだ。しかし、心理作戦研究所の連中は、生きた標本を手に入れることができたのだから、この〈王族捕獲作戦《オペレーション・ローヤルティ》〉は成功だったのだ、とおれは思う。
小隊軍曹は、野戦任官を受けた。おれにはそんな口などかかってこなかった(受けとりもしなかったろうが)──だがおれは、軍曹が士官になったということを聞いても、別におどろきもしなかった。ブラックストーン大尉はおれに〈艦隊で最優秀の軍曹〉を持つんだと言っていたのだし、大尉の意見が正しいということを、おれはほんのちょっぴりも疑ってみたりしなかった。ずっと前から小隊軍曹を知っていたからだ。|ならず者隊《ブラックガーズ》のほかの連中が、このことを知っていたとは思わない──おれの口から聞かされるわけはないし、間違ってもかれが言うことはない。ブラックストーン大尉自身だって、知っていたかどうかは疑わしい。だがおれのほうは、新兵になったあの最初の日から、小隊軍曹のことは知っていたのだ。
かれの名は、ズイムである。
〈王族捕獲作戦《オペレーション・ローヤルティ》〉でのおれの役割は、おれ自身としては、成功だったように思えなかった。おれは〈アルゴンヌ〉にひと月以上もいた。初めのうちはひとりの患者であり、艦がおれとほかの二、三十人の兵隊をサンクチュアリに届ける前には員数外の兵隊としてであった。
これはおれに、考える時間をたっぷりと与えてくれた──ほとんどは、戦死者のことと、おれが小隊長として短い一時期を地上でやってのけた支離滅裂な仕事ぶりについてだった。おれは、ラスチャック少尉どのがいつもやっていたように、何もかもうまくやってのけるなどということは、全くできなかった──だいたいおれは、仕事の真最中に、怪我をするような馬鹿げた真似までしてしまったんだ。岩のかたまりを頭で受けるようなことを。
そして死傷者は──どれぐらい出たものやら、見当もつかなかった。おれにわかっていたのは、最初、六個班の編成で出発したものが、わずか四個班しか残っていなかったということだけだ。〈ブラッキー|ならず者隊《ブラックガーズ》〉が救援され撤退する前に、ズイム軍曹がみんなを地上へつれだしたとき、いったい何人ぐらい兵隊がいたのやら、おれは知らないのだ。
おれは、ブラックストーン大尉が、いまだに生きているのかどうかということさえ、知らなかったし(大尉は生きていた──事実、おれが地下にもぐっていったころ、ふたたび指揮をとりはじめていた)、もし候補生が生きていて、その試験官が戦死でもしてしまったら、どんな手続になるのやらも知らなかった。しかしおれは、〈三十一の大罪〉で、間違いなくまた最下級軍曹に引き下げられることだろうと感じていた。おれの数学の本が、別の艦に置いてあるなんてことは、まったく重要なことには思えなかった。
しかしおれは、〈アルゴンヌ〉でベッドから起きられるようになった最初の一週間に、一日ぶらぶらしたり、くよくよ考えこんだりした後、下級士官のひとりから数学の本を何冊か借りて、勉強にとりかかった。数学はむずかしい学問でほかのことなど考えていられない──階級が何であろうと、できるかぎり勉強しても別に痛くもかゆくもない、いかなる重要なことも、すべては数学に基づいているのだ。
おれがやっと士官候補生学校にもどり、肩の星章を返納したとき、おれは軍曹になっておらず、また候補生にもどっているのだということを知った。たぶんブラックストーン大尉が善意に解釈してくれたためであろう。
おれと同じ部屋のエンゼルは、おれたちの部屋で机の上へ足を投げ出していた──その足の前には、おれの数学の本が置いてあった。かれは顔を上げ、びっくりしたような表情を見せた。
「おい、ジュアン! てっきりきみは戦死したものと思ってたぜ!」
「おれがかい? クモは、おれのことをあまり好きじゃないらしいんだな。ところで、きみはいつ出ていくんだ?」
「なんだって? おれだって行ってきたよ……きみが出ていったあくる日出撃して、三回降下し、一週間でもどってきた。いったいなぜ、こんなに長いあいだかかったんだ?」
「帰り道が長かったんだ。ひと月というものは、お客扱いでね」
「ついているやつもいるんだな。降下はどうだった?」
「降下なんか、ぜんぜんしなかったよ」
かれはじろりとにらんだ。
「ついてるやつってのは、まったく運がついてまわるんだな!」
たぶんエンゼルの言うとおりだったのだろう。やがておれは卒業した。しかし、かれだって、その幸運のいくつかをおれにくれたんだ──辛抱強い個人教授というやつで。おれの〈幸運〉は、いつだって人々のおかげだったと思う──エンゼル、ジェリー、少尉どの、カール、デュボア中佐、そしておれの親父、ブラックストーン大尉、ブランビー、エース……それと、いつだってズイム軍曹だ。現在、名誉大尉であり、中尉の終身官位を持っておられる。だいたい、かれよりも階級が上になっていたなんてことは、とんでもないことだったのだ。
同期生のベニー・モンテスとおれは、卒業のあくる日、いっしょにならんで、艦隊着陸湯で乗艦の迎えのボートがくるのを待っていた。おれたちは少尉になりたてのほやほやだったから、敬礼されるたびに落ちつかず、サンクチュアリの軌道に集結している艦艇の表をながめて、それをかくすことにした──長い長い表であり、何か大きなことが起こりつつあることは明らかだった。それについておれたちに教えるのはまだ早いと連中は思っているのだろう。おれは興奮した。おれの願いは、ひと包みに入れたふたつの願いは、思いどおり満たされていた──父がまだそこにいるあいだに、もとの隊へ配属されることだ。いずれにせよ現在のおれは、ジェラル中尉のもとで、何かの重要作戦に加わり、磨きをかけられようとしているのだ。
おれはあまりにも胸がいっぱいになっていたので、そのことを口に出すこともできず、リストをにらみつづけているだけだった。なんとまあ、これほどたくさんの艦があるものだ! 艦名は型式によって分けられていた。そうでもしないと多すぎて見つけだすこともできないからだ。おれは兵員輸送艦の名を読みはじめた。機動歩兵にとって関心のある唯一の艦種だ。
〈マンネルハイム〉もあった! カルメンに会う機会があるだろうか? たぶんないだろう。だが、電信で照会してみることはできる。
大型艦は──ニュー・ヴァリイ・フォージ、ニュー・ワイプレス、マラトン、エル・アラメイン、イオウ、ガリポリ、レイテ、マーン、ツール、ゲティスバーグ、ヘェイスティングス、アラモ、ウォータールー……そのすべてが、幾多の戦争に歩兵がその名を輝かせた地名だった。
小型艦は、歩兵の勇士そのものの名をつけていた──ホレーシャス、アルヴィン・ヨーク、スワンプ・フォックス、ロジャーもあった。その名に祝福あれ。コロネル・ボーウィ、デバルゥー、ヴァーサンジェトリクス、サンディノ、オーブリイ・コーセン、カメハメハ、オーディ・マーフィー、クセノフォン、アギナルド──
おれは言った。
「マグサイサイって名前もあってもいいと思うな」
ベニーが言った。
「何だって?」
おれは説明した。
「ラモン・マグサイサイだよ。偉大な人物……偉大な軍人……今日生きていたら、たぶん心理作戦部長ってところだ。きみは歴史を勉強しなかったのか?」
ベニーはうなずいた。
「まあね……おれが知っているのは、ジンモン・ボリバルがピラミッドを築き、無敵艦隊を撃破して、最初の月世界旅行をしたってことぐらいだよ」
「クレオパトラと結婚したってことを忘れてるぜ」
「ああ、そうだっけ。とにかくどこの国だって、それぞれの歴史があるからなあ」
「そうだとも」
おれはそう言い、それからぶつぶつ独《ひと》り言《ごと》をつぶやくと、ベニーはたずねた。
「何て言ったんだい?」
「すまん、ベニー。おれの国で昔から言いならわされた諺さ。翻訳すればつまりこんなことしゃないかな……故郷とは心のあるところだ……」
「いったいどこの言葉なんだ?」
「タガログ語……おれの母国語さ」
「きみの生まれたところでは、標準英語を使わないのかい?」
「ああ、もちろん使うとも、商売とか学校とかではな。それでも、家の中では今でも昔の言葉をすこし使うんだ。伝統とでも言うのかな。わかるだろ?」
「ああ、わかるさ。おれのうちの者だって、同じようにスペイン語をしゃべるからな。しかしきみは……」
スピーカーが〈牧草地帯《メドウ・ランド》〉を奏ではじめた。ベニーは、にやりと相好をくずした。
「艦とデイトがあるんでね! 気をつけろよ、相棒……またな!」
「クモに気をつけるんだぞ」
おれはまた艦の名前を読みはじめた──パル・マレター、モンゴメリー、チャカ、ジェロニモ……
そのとき、世界中でいちばん甘ったるい旋律が流れはじめた。
「……その名を輝かしめよ、ロジャー・ヤングの名を……」
おれは装備をひっつかんで急いだ。故郷とは心のあるところだ。おれは、故郷へ帰るところだったのだ。
[#改ページ]
14
[#ここから4字下げ]
吾あに我が弟の守りならんや?
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──創世記・第四章九節
[#ここから4字下げ]
なんじらいかに思うか? 百匹の
羊を持てる人あらんに、
もしその一匹まよわば、
九十九匹を山にのこしおき、
ゆきてまよえるものをたずねぬか?
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──マタイ伝・第十八章十二節
[#ここから4字下げ]
人は羊より優るることいかばかりぞ?
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──マタイ伝・第十二章十二節
[#ここから4字下げ]
神の御名により、徳行と慈悲と……
だれにしあれ人の命を救いたるものは、
人すべての命を救いたるに同じ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]──コーラン・第五章三十二節
年ごとにおれたちは少しずつ勝っていった。ほどほどにやっていくという観念を持たなければいけないのだ。
「時間です、少尉どの」
おれの指揮下で見習中の候補生、もしくは〈三等少尉〉とも呼ばれるベアポウが、ドアの外に立っていた。顔も声もひどく若々しく、かれの先祖である頭の皮をはぐ民族みたいにすこぶる他愛のない男だった。
「よし、ジミー」
おれはすでに強化服をつけていた。おれたちはいっしょに船尾の降下室に行った。
「一言いっておく、ジミー。わたしのそばから離れず、邪魔をしないようにな。せいぜい愉快にやって、おまえの弾薬は使ってしまうんだ。だがもし、わたしが戦死するようなことがあれば、おまえがボスだ……だが頭がよければ、命令の伝達は小隊軍曹にまかせることだな」
「はい、少尉どの」
おれたちが入ってゆくと、小隊軍曹はみんなに不動の姿勢をとらせて敬礼した。おれは答礼して、みんなを休ませ、第一分隊の点検をはじめた。そのあいだ、ジミーは第二分隊をしらべていた。それからおれは、第二分隊もしらべ、全員の装備を丹念にしらべた。小隊軍曹はおれよりずっと慎重なので、もとより異状のあるはずはない。そんなことは絶対になかった。しかし、〈親父〉がすべてに眼を通してくれるということは、兵隊たちの気分を良くするものだ──それに、そうすることがおれの仕事でもあるのだ。
それからおれは中央に進み出た。
「いいかみんな、またクモ狩りだ。知ってるだろうが、今回のは今までのとはすこし違っている。やつらは味方を捕虜にしているから、クレンダツウにノバ爆弾を使うことができない……そこで、われわれは降下し、頑張って、確保し、奪い返す。撤退用のボートは来ない。爆薬と食糧を補給してくれるだけだ。もしおまえたちが捕虜になるようなことがあっても、堂々と胸を張って規則にしたがえ……おまえたちの背後には、全軍団がついている。おまえたちのうしろには、全地球連邦がついているんだぞ。われわれは、かならず助け出す。スワンプ・フォックス隊、モンゴメリー隊の連中も、それを期待して頑張っているのだ。まだ生きている連中は、われわれが顔を見せることを信じて待ちつづけているんだ。さあ、行って、戦友を救い出そう。
われわれのまわりには、味方がひしめいていること、頭上には大勢の援軍がいることを忘れるな。われわれが気をつけなければいけないことは、ひとつだけだ。これまでに訓練を重ねてきたとおりにやるってことだ。
最後に一言。わたしは出撃直前にジェラル大尉どのからお手紙を受け取った。新しい脚の具合はとてもいいと書いてこられた。しかし大尉どのは、おまえたちのことだけを考えておられる……そして、おまえたちの名を輝かすことを期待しておられるのだ! わたしもそうだ。従軍牧師に五分間だ」
おれは、自分が震えはじめているのがわかった。ふたたび「気をつけ」を命じることができて、ほっとした。おれはつづいて言った。
「分隊ごとに……右舷、左舷……降下用意!」
ジミーと小隊軍曹に片側をまかせ、おれはもう一方の側のカプセルにはいる兵隊を、ひとりずつ点検した。そのあいだは、おれも大丈夫だった。それから、ジミーを中央発射管の第三カプセルに封じこめ、その顔が隠れてしまうと、おれの身体は本格的にがくがく震えはじめた。
小隊軍曹は、両腕をおれの強化服の肩にまわした。
「演習と同じことだよ、坊や」
おれの震えは、いっぺんにとまった。
「わかっていますよ、お父さん。待つ間だけです」
「わかってるさ、あと四分、われわれもカプセルに入りましょうか、少尉どの?」
「お急ぎなさい、お父さん」
おれは急いで親父を抱きしめ、それから海軍の降下補助員がおれをカプセルに封じこめてくれた。もう震えはしなかった。すぐにおれは報告できた。
「ブリッジ! 〈リコ愚連隊〉……降下用意よろし!」
「あと三十秒よ、少尉」
彼女はつけ加えた。
「武運を祈っていますわ、みなさん! こんどは、いよいよ占領するのね!」
「そうです、艦長《キャプテン》」
「たのむわ。待ってるあいだ、音楽でもいかが?」
彼女はスイッチを入れた。
「とこしえに栄光みつる歩兵よ。その名を輝かしめよ、ロジャー・ヤングの名を……」
[#改ページ]
歴史的補遺
ヤング、ロジャー・W/一等兵、百四十八歩兵大隊、三十七歩兵師団(オハイオ栃木《とちのき》隊)。一九一八年四月二十八日、オハイオ州ティフィンに生まれ、一九四三年七月三十一日、南太平洋、ソロモン群島のニュー・ジョージア島で、敵の機関銃陣地を単身攻撃爆破し、戦死した。
かれの小隊は、その陣地からの熾烈な銃火に釘付けにされていた。ヤング一等兵は最初の斉射で負傷したが、機関銃陣地に匍匐前進し、二度目の負傷をしたが、小銃を射ち続けながら前進を続けた。かれはその機関銃陣地に肉迫し、手榴弾を以て攻撃破壊した。だがそのため三度目の負傷をし戦死した。不可能にも思える状況での、その大胆にして勇敢な行動により、その戦友たちは損害を受けることなく脱出できた。かれは死後、名誉勲章を贈られた。