宇宙の孤児
ロバート・A・ハインライン
目次
第一部 大宇宙
第二部 常識
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第一部 大宇宙
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二一一九年、ジョーダン財団に後援されたプロキシマ・ケンタウリ探険は、記録に残っている限り、この銀河系において地球の近くにある恒星へ到達しようとした最初の試みであった。その運命がどのように不幸なものになったかは、推測してみるほかないのであるが……
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[#地付き](フランクリン・バック著、『近代宇宙ロマンス』からの引用)
「気をつけろ! ミューティがいるぞ!」
その叫び声にヒュウ・ホイランドは、さっとしゃがみこんだ。卵ぐらいの鉄の玉が、かれの頭をかすめ、隔壁にあたってグアーンと音を立てた。まともにあたれば頭蓋骨を粉砕したにちがいない勢いだった。あまり急いでかがみこんだので、かれの両足は床の鋼板から浮きあがった。身体《からだ》がゆっくりと甲板《デッキ》にもどる前に、かれは背後の隔壁に両足を押しつけて蹴飛ばした。かれは、ナイフを抜いてかまえたまま、通路を真横になって矢のように飛んでいった。
空中で身体をよじったかれは、ミューティが攻撃してきた通路の曲がり角で、両足を向こうがわの隔壁にあててとめ、ゆっくりと通路におり立った。通路にはだれの姿も見えなかった。かれの二人の仲間は、臆病そうに床の鋼板をすべってきた。
「行っちまったかい?」
アラン・マホーニイの言葉に、ホイランドはうなずいた。
「ああ……ハッチから降りてくるところをちらりと見たんだ。女みたいだったぜ。それに足が四本あったようだった」
三番目の男は言った。
「二本足か四本足か知らないが、もうつかまえられないよ」
「だれがハフの名において(こん畜生の意味)、あんなもの、つかまえたがるもんか……ぼくは厭だね」
マホーニイはそう言いかえしたが、ヒュウ・ホイランドのほうは違っていた。
「ぼくはつかまえたいな……ジョーダンにかけて(危ないところでの意味)、もし狙いがもう二インチ近ければぼくは〈転換炉《コンバーター》〉行きだったんだからな」
三番目の男はどうも気にくわないというふうに、口を出した。
「きみたち、神聖な言葉を使わずにしゃべれないのかい? もし〈船長〉に聞かれでもしたら、どうするんだい?」
こいつは、船長と言うときに、うやうやしく自分の額に手をふれた。
ホイランドはすぐに言った。
「おい、ジョーダンにかけて(頼むからの意味)、そう堅苦しいことを言うなよ、モート・タイラー。きみはまだ科学者になっているわけじゃないんだぜ。ぼくだって、きみと同じくらいに信心深いんだ……ときどきは、感情に吐け口を作ってやっても、大した罪じゃないさ。科学者だってやってるよ。聞いたことがあるんだ」
タイラーは、忠告しようと口を開きかけたが、やめておいたほうがいいと思いついたらしい。
マホーニイはホイランドの腕をつかんで頼んだ。
「なあヒュウ、ここからもう離れようよ。ぼくら、いままでこんなに高いところまで来たことがないだろ、ぼくはこわいんだ……ちょっとは、足に重さが感じられるところまで、もどりたいよ」
ホイランドはナイフの握りに手をかけたまま、かれを殺そうとしたものが消えていったハッチのほうを、いまいましそうに眺めていたが、やがてマホーニイのほうに向いてうなずいた。
「わかったよ、坊や……とにかく、下までは長い旅だからな」
かれは、三人が現在いる階へやってきたハッチのところへ用心しながらもどってゆき、二人はそのあとに従った。それから、よじのぼってきた梯子は使わずに、かれは十五フィート下にある甲板まで、ゆっくりと漂うように降りていった。タイラーとマホーニイは、すぐそのあとに続いた。そこから二、三フィートずれたところにあるハッチに入り、また下の甲板へ落下してゆく。下へ、下へ、下へ、まだまだ下へ三人は落下していった。
何十階もの、無言の、薄暗い、神秘的な甲板《デッキ》。そのたびごとに三人の落ちかたは速くなり、すこしずつ着陸のショックは強くなっていった。マホーニイは、ついに文句を言った。
「もうあとは歩こうじゃないか、ヒュウ。さっき飛びおりたとき、足が痛かったよ」
「ようし。でも時間はかかるぜ。もうあと、どれぐらい行かなくちゃいけないんだ? だれか勘定していたかい?」
タイラーは答えた。
「農場の国へ着くまで、ほぼ七十階ほどだ」
マホーニイは、おかしいなというようにたずねた。
「どうしてわかるんだ?」
「勘定しておいたからさ、馬鹿。それで、一階おりるたびに一つずつ引いていったんだ」
「嘘つけ。科学者でなけりゃ、だれもそんなふうに勘定したりできるもんか。おまえ、読み書きを習ってるからって、なんでも知っているつもりなんだろ」
ホイランドは、それが喧嘩になる前に口をはさんだ。
「やめろよ、アラン。やつにはできるのかも知れないぞ。そういうことには、すごく頭がいいからな。とにかく、七十階ほどありそうな感じだな……だいぶ重くなっているから」
「やつは、おれのナイフの刃でも勘定したいんだろう」
「やめろったら。村の外で決闘するのは禁じられている。それが〈規則〉なんだぞ」
三人はだまって、軽々と階段を走りおりていったが、下の階になるにつれて重さはしだいにふえ、普通の歩きかたにしなければいけないようになっていった。それからとつぜん三人は、ひどく明るく照明されており、前の階よりも天井までの高さが二倍もある階に達した。そこの空気はじっとりとして暖かく、おい繁った植物が視界をさえぎっていた。
「やっと降りてきたな……この農園は知らないよ。どうやらぼくたち、昇っていったときとは違った道を降りてきたらしいぞ」
ヒュウがそう言うと、
「農夫がいるぜ」
タイラーはそう答え、両の小指をくわえて口笛を吹いてから呼びかけた。
「おーい! |船乗り仲間《シップ・メイト》よう! ここはどこなんだーい?」
その農夫は三人のほうをゆっくりと眺め、もぞもぞと短い言葉で、三人の村へ行く大きな通路の方向を指さした。
一マイル半ほど行くと、だいぶ通行人の多い広いトンネルにやってきた──旅行者、荷物運び、ときどき通る手押車、強そうな四人の付添人にかつがれた駕籠《かご》に乗って偉そうな科学者が揺られてゆく、その前を護衛が歩いて一般の船員《クリュウ》を通り道から追いはらっている──このような通路を歩いて三人は自分たちの村へもどった。高さは三階分あり、横はその十倍はあろうという広いところだ。
かれらはそこで別かれ、ヒュウは候補生《キャデー》宿舎──両親といっしょに住まない若い独身者たちの宿舎の自室へ行った。かれはそこで身体をあらってから、伯父の部屋へ行った。かれは、伯父のところで働いて食べさせてもらっているのだ。伯母はヒュウが入ってきたので顔をあげたが、女らしく何も言わなかった。伯父のほうはヒュウに話しかけた。
「やあ、また探険かい?」
「|いい食事を《グッド・イーティング》、伯父さん。はい」
鈍感だが、話のわかるヒュウの伯父は、寛大な微笑を浮かべた。
ヒュウの伯母は静かに部屋から出てゆき、夕食を持ってきて、かれの前に置いた。ヒュウはそれに飛びついた──彼女に礼を言うことなどは考えもしなかった。かれは、もぐもぐと口を動かしてから答えた。
「上です。ぼくら、重さがほとんどない階まで昇ったんですよ。ミューティがひとり、ぼくの頭を割ろうとしました」
伯父は笑い声をあげた。
「おまえはそのうち、通路で死ぬような目にあうぞ、ヒュウ。わしが死んで、おまえの前から姿を消す日のために、もっとわしの仕事を大切にしたほうがいいんだがなあ」
ヒュウは知らん顔をした。
「伯父さんには、ぜんぜん好奇心ってものがないんですか?」
「わしにかい? わしだって小さいころには、よくやったもんだよ。わしは中央通路をどこまでもどこまでも行って、ぐるりとまたこの村までもどってきたりしたもんだ。暗い場所へも行ったよ、ミューティにあとをつけられてな。この傷がわかるだろう?」
ヒュウはお座なりに、それをちらりと眺めた。その傷ならこれまでに何度も見させられ、うんざりするほどその話を聞かされているんだ。
ぐるりとまわってきただって──ちぇっ! かれは、あらゆるところへ行ってみたいんだ。あらゆる物を見て、なぜかということを知りたいんだ。さっき行ってきた上の階──もし人間がそこへ行ってはいけないのなら、なぜ〈ジョーダン〉は、そんなところを創りだしたのだ?
だがヒュウは、自分の考えは胸にしまって、食事のほうに専念した。伯父は話題を変えた。
「わしは証人さまのところへ行く用があるんだ。ジョン・ブラックが、わしに豚を三匹貸してあるちゅうんでな。いっしょに来るかい?」
「え、いや、ぼくは……待って……行きますよ」
「じゃあ、いそぐんだな」
ふたりは候補生宿舎により、ヒュウが用事で出かけることを告げた。〈証人〉は、そこから公共広場を横切ったところにある変な匂いのする狭い部屋に住んでおり、その才能を必要とする者は、だれでも会えるようになっているのだ。
〈証人〉は入口のところに坐って、指の爪で歯をつついており、そのうしろには、ひどい近眼でにきびだらけの青年がうずくまっていた。〈証人〉の助手だ。
ヒュウの伯父は話しかけた。
「|いい食事を《グッド・イーティング》……」
「あんたにも|いい食事を《グッド・イーティング》、エダート・ホイランド。仕事で来られたのかい、それとも、老人と暇つぶしかね?」
「両方なんですよ」
ヒュウの伯父は、お世辞だろうがそう答えてから、用事を説明した。
〈証人〉は言った。
「そうかい。でも……契約のほうは、このとおりはっきりしているんだよ。
ブラック・ジョンは
からす麦十ブッシェルを渡し
支払いに子豚二頭を求めたり。
エドはその雌豚に産まさんと
連れ行きたり。
その豚大きくなりたるとき、
ジョンはその支払いを得ん。
ところで、その豚は、どれぐらい大きくなったんだね、エダート・ホイランド?」
ヒュウの伯父は答えた。
「だいぶ大きくなりました……でも、ブラックのやつ、二頭じゃなくて三頭よこせっていうもんでね」
「頭でも洗えって言ってやるんだな……証人さまはかく語られたりってね」
老人は、かんだかい声で笑った。
ふたりはしばらく噂話を続け、老人が根ほり葉ほり聞きたがるのを満足させようと、エダート・ホイランドは、ちかごろ経験したことを詳しく話した。ヒュウはふたりが話しているあいだじゅう、行儀よくだまっていたが、伯父が帰ろうとすると、口をひらいた。
「ぼくはもうすこしいますよ、伯父さん」
「え? 好きなようにするさ、|いい食事を《グッド・イーティング》、証人さま」
「|いい食事を《グッド・イーティング》、エダート・ホイランド」
伯父が、声の聞こえないところまで去ってゆくと、ヒュウは言った。
「贈り物を持ってきましたよ、証人さま」
「見せてくれ」
ヒュウは、宿舎のロッカーから持ってきた一包みのタバコをさしだした。〈証人〉は何とも言わずに受け取ると、それを助手のほうに投げた。
「中へおはいり」
〈証人〉はそう言ってから、助手に命令した。
「おい……候補生に椅子を持ってきておやり」
ふたりが腰をおろすと、老人は話しかけた。
「さあて坊や……ちかごろ、どんなことをやっているのか話しておくれ」
ヒュウは話し、ちかごろやった探険で起こったことを全部、詳しく繰り返してくれと言われた。そしてそのあいだじゅう、老人はヒュウが見たことの全部を、正確に憶えていないと文句を言うのだった。
「おまえたち若い者はだめだな。能力がないからだな、能力がな。あののろまだって……」
老人は助手のほうに顔を向けて続けた。
「能力がないんだ。といっても、おまえよりはずっとましだがね。こんなことが信じられるかね……あいつは一日に千行も暗記できないくせして、わしが死んだら、あとを継ぐつもりなんだからな。わしがだね、見習をやらされていたころなんて、眠る前に千行、やすやすと暗誦したもんだ。穴だらけの入れ物で、漏れっぱなし……それがおまえたちだね」
ヒュウは、そう言われても反対せず、老人が文句を言うままにまかせて待った。
「わしに何かたずねたいことがあるんだな、坊や?」
「まあそうです、証人さま」
「そうかい……じゃお言い。そうのんびりしないで」
「あなたは、重さのないところまで昇って行かれたことがありますか?」
「わしが? もちろんないとも。わしは〈証人〉だったからね、わしより前の証人すべての文章を憶えなくちゃいけなかったんだ。子供らしい遊びをする暇はなかったんだよ」
「そこまで行けば何があるのか教えていただけると思ったんですが……」
「ほう、そうかい、そうなるとまた話は違ってくるよ。わしは一度も昇ったことはない。だが、おまえには考えられないぐらい大勢の、昇っていった男たちのことを知っているんだからな。わしは年寄りだ。おまえのお父さんのお父さんの、そのまたお父さんも知っているんだ。おまえはいったい、何が知りたいんだね?」
「つまり……」
知りたいのは何のことだったのだろう? 胸の中に、ただぼんやりえ浮かんでいるだけのことを、どう質問すればいいんだ? でも……
「いったい何のためなんでしょう、証人さま? なぜわたしたちの上に何階もあるんですか?」
「え? どうしてまた? ジョーダンの名において、坊や……わしは〈証人〉で、〈科学者〉ではないんだよ」
「はい……あなたなら知っておられるに違いないと思ったんです。すみません」
「ところが、わしは知ってるんだよ。おまえの求めているものは、〈創世の詩句〉だね」
「前に聞いたことがあります」
「もう一度お聞き。すべての答はその中にあるからね。それを見わけるだけの知恵がおまえにあればだが。さあお聞き。いや……そうだ、助手がどれぐらい勉強しているかを見せるいい機会だ。おい、おまえ! 〈創世の詩句〉だ……リズムに気をつけるんだぞ」
見習は唇をなめて、暗誦しはじめた。
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「はじめにジョーダンありき、
その孤独なる想いをひとり考うる人。
はじめに、暗闇と、形なきもの、
死せるもの、そして、
知られざる〈人〉ありき。
孤独より計画は生まれ、
計画より決意ぞ生まれたり……
ジョーダンの手あがりて
そこに〈船〉は生まれぬ!
心地よき小部屋は
幾マイルも連なり、
黄《こ》金色《がねいろ》のきびのため
タンクは並びぬ。
階段、通路、ドア、ロッカー
未だ生まれざるものの求めに合わんと。
かれ、みずからの仕事を眺め、
良しと喜びたまう。
未だ現れざる人々に適したりと。
かれ、人を思いたまう、
人生まれ、かれの心を探り、
鍵を求めたり。
慣らされざる人は、創造主を恥ずかしめ
従わざる人は〈計画〉をそこなわん。
さればジョーダン、〈規則〉を作り
それぞれの守るべきことを定めぬ。
かれらのうかがいおよばざる目的のため
それぞれの仕事、
それぞれの部署をきめたまう。
ある者は試し、ある者は聞く……
秩序は階級によりてきまりたり。
かれ船員を創りて部署につかしめ
科学者を創りて〈計画〉を導かせしむ。
その上にかれ、〈船長〉を創りて、
〈人〉の種族を裁かしめたり。
さればそれらみなすべて
黄金時代のことなりき!
ジョーダンは完全にして、
その下なるすべては、
その行ない完全なることなし。
嫉視、強欲、おごれる魂は、
その種子をとどむべき心を求めたり。
それらをとどめたる者の名は……ハフ
呪われたるかれこそ、最初の罪人なりき!
その罪ぶかきたくらみ
謀反の心をさわがせ
いまだなき疑いの心を植えたり。
殉教者の血、甲板を染め、
ジョーダンの船長は〈旅〉を続けぬ。
闇黒は美徳をのみこみ……」
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老人は手の甲で、見習の青年の口を、ぴしゃりと叩きつけた。
「もう一度やりなおせ!」
「最初からですか?」
「いや! おまえが間違ったところから」
その青年はちょっとためらっていたが、やがて思い出し、あとを続けた。
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「闇黒は美徳をのみほし、
罪なるものは〈船〉をおおい……」
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青年の声は、単調に続いていった。詩句から詩句をくりかえし、詳細を欠いてはいるものの、古い古い罪と、反乱と、暗黒時代の物語を。いかに知者が最後に勝利をおさめ、反乱を指導した者の死骸が〈転換炉〉に入れられたか。いかに謀叛人の何人かが〈旅〉をすることから逃がれて生き続け、ミューティを生むことになったか。いかにして、祈りといけにえのあとで、新しい〈船長〉が選ばれたか。
ヒュウは落ち着けず身じろぎし、足を動かした。それらは〈聖句〉なのだから、そこにかれの質問に対する答があることは間違いなかった。だが、ヒュウには、それを理解するだけの知恵がないのだ、なぜだ? このすべては、何を述べているのだ? 人生には、食べて寝て、長い〈旅〉に行くこと以外、ほんとうに何もないのか? ジョーダンは、それをわからせようとしたのか? では、この胸の痛みはなぜだ? いい食事をとっているにもかかわらず、執拗に迫ってくるこの飢餓感は?
朝食をとっていると、当番が伯父の部屋の入口にやってきて、ぺらぺらとしゃべった。
「科学者さまが、ヒュウ・ホイランドに来るようにと求めておられます」
ヒュウには、その〈科学者〉とはネルスン中尉だとわかっていた。ヒュウの生まれた村をふくむ船内の、精神と身体の健康を管理する人なのだ。かれは急いで朝食の残りをかきこみ、使いの者のあとについていった。
「ホイランド候補生です!」
かれがそう言うと、〈科学者〉は食事をやめて顔をあげた。
「やあ、おはいり、坊や。さあ坐って……食事はしたかい?」
ヒュウは、すませたと答えたが、その眼は珍しそうに、上官の前におかれている変った果物を見つめた。ネルスンはその視線を追った。
「このイチジクをためしてごらん。新しい突然変異でね……いちばん遠いところから持ってきたんだ。お食べ……きみの年ごろでは、いつだって詰めこめるもんだからな」
ヒュウはその言葉に従ったが、ひどく恥ずかしかった。これまで一度だって、〈科学者〉の前で物を食べたことなどなかったからだ。
年老いた中尉は椅子にそりかえり、シャツで指をふくと、髭をなでてから言いだした。
「ちかごろは、おまえと話をすることもなかったな、坊や。どんなことをしていたか、話してくれないか」
ヒュウが話そうとする前に、中尉は言葉をつづけた。
「いや、言わなくてもいいよ……わたしから言おう。そのひとつは、おまえが、探険したり昇っていったりしていたことだ。禁制の地区だっておかまいなしにな。そうじゃないのか?」
中尉は若者の眼をじっと見た。ヒュウが答えようと口ごもりかけると、中尉はまた口をひらいた。
「かまわん、わたしにはわかっているんだ。そしておまえも、わたしが知っているってことに気がついている。わたしだって、そう気を悪くしているわけじゃない。だがそのことでだな、わたしは、おまえがこれからさき何になるつもりかを決めるべき時だと考えたんだ。何か計画していることはあるのか?」
「ええ……いえ、べつにはっきりしておりません」
「あの娘のことはどうなんだ……エドリス・バクスターだったかな? おまえはあの娘と結婚するつもりなのか?」
「いえ……わかりません。してもいいですし、彼女の父親も、そうしてほしいのだろうと思います。ただ……」
「ただ、なんだね?」
「つまり……かれは、ぼくに、そこの農場の見習をやれというんです。それも悪くない考えだと思います。かれの農場とぼくの伯父の商売をくっつけると、ちょっとした財産を作ることができるでしょうから」
「だがおまえは、はっきりとは決めていないんだな?」
「つまり……わからないんです」
「そのとおりだ。おまえは、そんなことには向いていないよ。わたしには別の考えがあるんだ。
わたしがなぜおまえに読き書きを教えたか、考えてみたことがあるかね? もちろんあるはずだ。だが、おまえはそれを、自分の心にしまっておいた。いいことだよ。
さて、よく聞くんだぞ。わたしは、おまえが小さな子供のころから注意をはらってきた。おまえは、ふつうの連中よりずっと想像力があり、好奇心も元気さもある。それに、生まれついての指導者だ。おまえは、赤ん坊のころから変っていた。たとえば、おまえの頭はあまりにも大きすぎ、生まれたとき、すぐにおまえを〈転換炉〉に入れろと主張したものもいるくらいだった。だがわたしは、その連中をおさえた。わたしは、おまえがどんなふうに成長していくか見たかったのだ。
おまえのような男には、農夫の生活は向いていない。おまえは、科学者になるべきなんだ」
老人は話を中断して、じっとヒュウの顔を見つめた。かれが面くらって何も言えないでいると、ネルスン中尉はあとを続けた。
「ああ、まったくそのとおりだとも。おまえのような性格の男にたいしてとるべき方法は二つだけだ。管理するがわの一人にするか、〈転換炉〉に送ってしまうかだ」
「つまり、中尉殿、ぼくはそれに対して、一言も文句を言えないと言われるのですか?」
「はっきり言ってほしければ……そのとおりだ。優秀な人間を〈船員〉の階級にのこしておけば、異端者を生むことになる。わたしたちは、そういうことをさせるわけにはいかん。かつてそういうことをしたとき、人類はほとんど滅亡してしまうところだった。おまえは、き分のなみはずれた才能のために、目立った存在となった。これから、おまえは正しい考えかたで教えられ、神秘的なことの初歩を教えられて、面倒なことの原因となったり中心となったりする反対に、われわれを維持してゆく力とならなければいけないのだ」
当番が荷物をかついできて、床の上におろした。ヒュウはそれをちらりと見るなり、大きな声を出した。
「あれ、それはぼくのだ!」
ネルスンはうなずいた。
「そうとも……わたしが取りにやらせたんだ。これからおまえは、こごで寝起きするんだ。あとでおまえと会って、勉強を始めさせる……それも、おまえにもっとほかの考えがあれば別だが」
「いえ、中尉殿、ありません。すこしはびっくりしましたが……それでこれは、つまり、わたしに結婚しないほうがいいということを……」
ネルスンは、興味がなさそうに答えた。
「ああ、そのことか。もし好きならもらうさ……もうあの父親には抗議できないからな。だが忠告しておくが、おまえはあの娘にあきあきしてくるにきまっているよ」
ヒュウ・ホイランドは、かれの指導者が読むのを許してくれた古い本をむさぼり読み、何日も何日も、上の階へ昇っていきたいとも、ネルスンの部屋から出てゆきたいとも思わなかった。
幾度となく、かれは秘密に近づいたことを感じたのだ──まだ、それとははっきりせず、質問もはっきりとはできない状態ではあるが──だがかれは、またも、これまで以上に混乱してくるのだった。科学者として持つべき知恵に達することは、かれが想像していたよりも、はるかにむずかしいことだったのである。
ある日、ヒュウが奇妙にねじくれた昔の文字を苦労して読み、その変な言いまわしかたや、耳なれない言葉を解こうとしていたとき、ネルスンがかれの小さな部屋に入ってきて、父親のように肩に手をかけてたずねた。
「どんな具合だね、坊や?」
ヒュウは、本を横において答えた。
「はい、まあまあだと思います、中尉殿。中にはすこし、はっきりしないところがありますが……正直に言えば、ぜんぜんわからないところが」
老人は静かに答えた。
「それは、わかっていたことなんだよ……最初のうちは、自分ひとりで苦労するようにさせておいたんだ。生まれたまま持っている知恵では、ひっかかってしまうワナに気がつくようにとね。いまは何をやっているんだい?」
老人は本を取りあげてちらりと見た。それには〈現代基礎物理〉と書かれてあった。
「そうか? これは、聖なる書物の中でも、もっとも価値のあるもののひとつだ。だが教えてもらわなければ、たぶん役に立てることはできまいな。まず理解しなければいけないことはだな、われわれの祖先は、精神的な面では完成していたといっても、現在のわれわれのような物事の見かたはしなかった、ということだね。
かれらは、われわれのように純粋な理論主義者ではなくして、救いがたいほどロマンチックな人々だったんだな。そこで、かれらがわれわれに伝えた真理というものは、まちがいなく真実ではあったが、しばしば寓話的な言いまわしをしていたということだ。例えば、おまえは〈引力の法則〉のところまで読んだかい?」
「読みました」
「おまえは、それが理解できたかい? いや、理解できなかったことはわかるよ」
ヒュウは、言いわけをするように答えた。
「ええ……何の意味もないのじゃないでしょうか。馬鹿げたことみたいです。ごめんなさい、中尉殿」
「わたしの考えたとおりだよ。おまえはそれをだよ、書かれている言葉どおりの意味で考えたというわけだ。同じ本の中のどこかに書かれていることだが、電気的な道具を支配する法則の場合と同じようにな……二つの物体が、おたがいに引きつけあう強さは、その質量に比例し、その距離に反比例する……それは簡単な自然の事実のように思えるだろうな? ところが、そういうものじゃないんだ。それはだよ、昔の人が、愛情というものを司る親近性の法則を説明するのに使った詩的な言いまわしなんだ。そこにいわれている物体《ボディ》というのは人間の身体《ボディ》のことであり、質量とは愛情の量なんだよ。若い連中は、年寄りよりも愛情の量が大きい。それで、いっしょにされると愛しあうようになるが、引きはなされると、すぐに忘れてしまう……去る者は日々にうとし……というわけだ。こういうふうに簡単なことなんだよ。だがおまえは、もっと深い意味を求めているんだろうな」
ヒュウは、にっこりと笑った。
「そんなふうに考えてみたことなど、まったくありませんでした。ぼく、これからひどく助けていただかなくてはいけないようですね」
「いま、そのほかに何かわからないものがあるかい?」
「はい、たくさんあります。すぐには思いだせませんが、でもひとつは……教えてください。ミューティは、人間と考えてもいいのですか?」
「おまえが、つまらぬ話ばかり聞かされていたということはわかるよ。それに対する答は、イエスとノーの両方だ。ミューティたちが、もともと人間から生まれたものであることは本当だが、かれらはもはや〈船員〉の一部ではない……かれらはもう、人類の一部とは考えられないんだ。〈ジョーダンの法律〉を嘲笑したんだからね」
中尉はそのことを説明し続けた。
「これは大きな問題なんだよ。〈ミューティ〉という言葉のもともとの意味についてさえ、いろいろと疑問があるんだ。たしかに、かれらの先祖の中に、反乱のときに死を免れて逃げた謀叛人《ミューティニア》がいることは確かだ。だがそれと同時に、かれらの血液には、暗黒時代のあいだに生まれた多くの突然変異人《ミュータント》の血がまじっているんだ。その時代に生まれた子供をぜんぶ、罪の印《しるし》がないかどうかを調べ、突然変異《ミューテイション》だとわかったものはみな〈転換炉〉に送りこむという、現在われわれが使っている賢明な規則ができたことは、もちろんおまえにも理解できるだろう。暗い通路には、奇怪な恐ろしい物がうごめき、人が住まなくなって久しい階に出没しているんだよ」
ヒュウは、そのことをしばらく考えてからたずねた。
「どうして、現在でもわれわれ人間のあいだに、そんな突然変異が現われるのでしょう?」
「それは簡単なことだ。罪の種子は、いまだにわれわれの中にあるんだ。ときどきそれは姿を現わす、再生するんだ。そういった怪物を殺すことによって、われわれは血統を清め、〈ジョーダンの計画〉の頂点に近づけるんだ。〈旅〉の終りに〈遠いケンタウリ〉という、われわれの天国の家にね」
ホイランドの眉は、またひそめられた。
「それも、わからないことの一つなんです。そういった昔の書物の多くには、〈旅〉を、なにか本当に動くもの、どこかへ行くもののように書いてあります……まるで〈船〉そのものが手押車かなにかと変らないみたいに。それはなぜなんです?」
ネルスンは笑い声をあげた。
「実際、なぜなんだろうね? ほかの動く物のすべてにたいして背景となるもの、それがどうして動けるのだろう? もちろん、その解答も簡単なことだ。おまえはここでも、日常生活で使うふつうの言葉と、寓話的な言葉とを混同してしまっているんだ。もちろん、物理的な意味においては、〈船〉は固体で動き得ない。どうして、全宇宙が動くなどということがあり得るのかね? だが、精神的な意味においては、船は動くのだ。すべての正しい行動とともに、われわれは〈ジョーダンの計画〉の神聖な目的地に近づいてゆくんだよ」
ヒュウはうなずいた。
「わかったような気がします」
「もちろん。ジョーダンが世界というものを、〈船〉以外の形に作り得たことも考えられるよ、その目的に合うものなればね。人間がもっと若く、もっと詩的だったころ、聖人たちはみな、ジョーダンが創りだしたかも知れない幻想的な世界を競って発明したものだ。ある人は、どこまで行っても果のない宇宙というめちゃくちゃな世界のような、まったくの神話も作りだした……針でつついたほど小さい光と、実体のない神話的な怪物をのぞいては、まったく何もないという……かれらはそれを、〈船〉のはっきりした現実性と対比するかのように、天国の世界とか天国とか称したんだ。かれらは、そういうことを想像してみることに、けっして飽きなかったのだね。その詳細を発明し、かれらが想像するものはこうだという絵も作ったんだ。わたしの考えでは、かれらはそれを、ジョーダンの偉大な栄光を讃えるためにやったんだ。かれもまた、それらの人々の夢を喜ばれたのではないだろうか? だが、この現代において、われわれは、もっと真面目な仕事をしなければいけないんだよ」
ヒュウは天文学には興味がなかった。教え導かれていないかれの心にも、それが現実ばなれし誇張しすぎていることは、わかっていたのだ。かれはもっと手近な問題に移った。
「ミューティたちが悪の種子なら、どうしてかれらを一掃しようと努力しないんですか? それが〈計画〉を速める行動となるのじゃないでしょうか?」
老人は、しばらく考えてから答えた。
「そいつはなかなか良い質問だから、はっきり正直に答えなくてはいかんな。おまえは科学者になるのだから、その答を知らなくちゃいかん。こういうふうに考えるんだ……〈船〉が養える〈船員〉の数には制限がある。われわれの数が制限なくふえてゆけば、われわれ全部には良い食事のあたらない時がやっでくる。われわれの数がふえ、おたがいが食料を求めで殺しあうようになるよりは、何人ずつかが、ミューティとの戦いで死んでいったほうがましだとは思わないかね? ジョーダンのやられることは、はかり知れないものだよ。ミューティでさえも、その〈計画〉の一部なんだからね」
それは合理的だと思われたが、ヒュウには、確信が持てなかった。
ところで、ヒュウが〈船〉を操作する下級科学者として実務に移されてみると、ほかの意見もあることがわかった。いままでの慣例で、かれはある期間〈転換炉〉に勤務することになった。
その仕事は面倒ではなく、村々から荷運び人たちによってもたらされる廃物をしらべ、かれらの寄付したものを帳面につけ、第一段階投入口に、利用できる金属が入れられないかどうかを確める仕事だけだった。
だが、そこでかれは、ビル・エルツと知りあいになった。機関長補で、かれよりずっと年上の男だ。かれは、ネルスンに習った多くの事柄を議論し、エルツの態度にショックを受けた。
エルツは言うのだ。
「はっきり憶えておけよ、小僧……これは、実際的な男がやる実際的な仕事なんだ。そんな夢みたいな無意味なことは、ぜんぶ忘れるんだ。〈ジョーダンの計画〉だと! そんな代物は、百姓どもをおとなしくさせておくにはぴったりだ。だがな、おまえ自身がそんなものにひっかかっちゃだめだよ。〈計画〉などというものはないんだ……われわれ自身がつくる計画以外にはな。〈船〉は、調理と灌漑のために、照明、熱、動力を必要としているんだ。そういったものがなければ〈船員〉はやっていけないからこそ、われわれが〈船員〉のボスとなっているんだ。その、ミューティ対策のなまぬるさってことについては、そのうち変化が起きるよ! だまっておれたちについてくるんだ」
かれは〈科学者〉のあいだの若い年代のグループを信頼しろといわれているのだと、強く感じた。そのグループは、組織の内部にあってまた一つ作られた固く団結した組織であり、現実的な考えをするしっかりした連中からできていて、〈船〉全体の状態を、かれらの気に入るように改善しようとしているのだった。そのグループが強く団結しているのは、そういった物の見方をしない見習生は長続きしないからだった。試験に合格しないと、たちまち百姓の階級に落とされ、もっと多いのは、ちょっとした不運なことがあると、〈転換炉〉に投げ入れられてしまうことになるからだった。
そしてホイランドは、かれらの正しいことがわかりはじめた。
かれらは現実的だった。〈船〉は〈船〉だ。それは、説明を要しない事実なりだ。ジョーダンについては──だれか、見た者は、会った者はあるのか? このぼんやりとした〈かれの計画〉とは何なのか? 人生の目的は、生きることだ。人は生まれ、その人生を生きてゆき、そして〈転換炉〉に入るのだ。それほど簡単なことで、謎はなく、神聖な〈旅〉もなく〈ケンタウリ〉もないのだ。それらのロマンチックな物語は、人類が、理解力を持ち、事実に直面する勇気を持ちあわせていなかった、幼年時代からの遺物にしかすぎないのだ。
かれは、尊敬し、あがめよと教えられた天文学、神秘的な物理、そのほか多くの神話に頭を悩ますのをやめた。それでもかれは、大なり小なり、〈創世の詩句〉や、〈地球〉に関しての多くの古い物語がおもしろかった──だいたい、〈地球〉とは何だろう──だがいまや、そういったことは、子供や馬鹿者だけが真剣に考えることだとわかったのだ。
それに、するべき仕事があった。若い者は、年寄りたちの持つ名義上の権威に従ってはいたが、かれら自身の計画があった。その第一は、組織的なミューティの絶滅である。その先は、若いグループの目的はまだはっきり定まってはいなかったが、かれらは、上の階をも含めて、〈船〉の資源を充分に使おうと考えていた。
年寄りの科学者たちは、〈船〉の規則にはそううるさくなかったので、若い連中は年寄りと仲違いをすることなしに、自分たちだけの計画をすすめることができたのだ。現在の〈船長〉はあまり肥えすぎたので、自分の船室から出ることはほとんどなく、〈船長〉の助手は、若い連中の組織の一員であり、かれにかわって仕事をしているのだった。
ホイランドは、たった一度、純粋に宗教的な〈着陸操作〉の儀式のとき見た以外、〈機関長〉の姿を見たことはなかった。
ミューティを一掃するには、上の階の偵察を組織的におこなうことが必要だった。そういった偵察をやっていたとき、ヒュウ・ホイランドは、またもミューティに襲われた。
このミューティの使ったパチンコは、ずっと正確だった。ホイランドの仲間は、数におされて退却を余儀なくされ、かれは死んだものとしてあとに残していったのである。
ジョウ=ジム・グレゴリイは、自分たちだけでチェッカーを楽しんでいた。さきほどまでトランプをいっしょにやっていたのだが、右がわの頭のジョウは、左がわの頭のジムがインチキをしたと疑った。そのことで二人は口論をして、やめてしまったのだ。
つまり二人とも、ずっと以前から、一つの肩に二つの首がのっているのだから、なんとかしてうまくやっていく道を見つけなければならないと、覚っていたのである。
チェッカーのほうが、ましだった。二人とも盤面が見られるのだから、インチキは不可能だったからだ。
部屋のドアが叩かれて金属的な音が大きくひびいたので、ゲームは中断された。ジョウ=ジムは、投げナイフを鞘から抜いて、いつでも使えるように持った。
「入れ!」
ジムが怒鳴った。
ドアがひらき、ノックしたやつが後ろ向きになって入ってきた──だれでも知っていることだが、これが、ジョウ=ジムのところに入るただ一つの安全な方法なのだ。こいつは、立っていても、うずくまっているように不格好な姿で、力は強そうだが、四フィートたらずの背たけだった。ぐったりと意識を失った男をひとり、肩にかついで、片手でおさえている。
ジョウ=ジムは、ナイフを鞘にもどした。
「そいつをおろせ、ボボ」
と、ジムのほうが命令すると、ジョウはつけ加えた。
「それからドアを閉めるんだ……さて、こいつは何だ?」
それは若い男だった。死んでいるようだが、傷はどこにもない。ボボは、そいつの太ももをたたいた。
「食べる、か?」
ボボは物欲しそうにそうたずねた。よだれが、まだぼんやりとあけている唇から流れた。
ジムは答えた。
「たぶんな……おまえが殺したのか?」
ボボは、ひどく小さな頭を振った。ジョウはほめてやった。
「うまいぞ、ボボ……どこにあてたんだ?」
「ボボ、ここあてた」
頭の小さな男は、太い親指を、あお向きになっている男の臍と胸の骨のあいだにあてた。
「うまくあてたな……ナイフでは、おれたちでも、そううまくはできないよ」
小人は大きくうなずいて、どうだというようにパチンコを引っぱってみせた。
「ボボ、あてるのうまいぞ……見たいか?」
ジョウは、わりあいに優しく言った。
「黙っとれ……見たくない。それより、こいつに口をきかせたいんだ」
「ボボ、やるよ」
小人はそういって、あっさりと乱暴にはじめようとした。ジョウ=ジムは小人をたたいてどかせ、痛くはあるが、小人よりはましな方法を使った。若い男はみじろぎして眼をみひらいた。
「食べるか?」
ボボがそうくりかえすと、ジョウはたずねた。
「いや……おまえ、この前いつ食べた?」
ボボは首をふって胃をさすり、その身ぶりで、ずっと前だということを示した。ジョウ=ジムはロッカーのところへ行き、そこをひらいて肉のかたまりを引っぱり出した。かれはそれを持ちあげ、ジムが匂いをかぎ、ジョウは鼻にしわをよせ、むっとしたように顔をそむけた。ジョウ=ジムが、それをボボに投げあたえると、小人はうれしそうに空中で受けとめた。ジムは命令した。
「さあ、出ていけ」
ボボは急いで出てゆき、ドアを閉めた。ジョウ=ジムは、捕虜のほうを向き、足でつついた。ジムは言った。
「しゃべれ……おまえはだれだ?」
若者は身ぶるいをし、片手で頭をおさえてから、とつぜんまわりの物に焦点があったようだった。そいつはあわてて起きあがり、この階の重さのすくない状態のために、不格好な動きかたをしながら、ナイフをつかもうとした。だがナイフはベルトになかった。ジョウ=ジムは、自分たちのナイフをふりまわした。
「おとなしくしていれば、怪我をしないですむんだ。やつらはおまえのことを、何と呼んでいるんだ?」
若者は唇をなめ、その眼は部屋の中を急いで見まわした。
「話せ」
ジョウがそう言うと、ジムはたずねた。
「なぜこいつにかまうんだ? こいつは肉になるだけだぜ。ボボを呼んだほうがましだぞ」
「いそがなくてもいいさ……こいつと話してみたいんだ。おい、おまえの名前は何というんだ?」
捕虜は、ナイフのほうを見てつぶやいた。
「ヒュウ・ホイランド」
ジムはうながした。
「それだけでは何もわからんな。おまえのやっていることは? おまえの村はどこなんだ? おまえは、ミューティの国で何をしようとしていたんだ?」
だが、ヒュウはむっつりと黙っていた。肋骨にナイフを突きつけられても、かれは唇を噛むだけだった。
ジョウは言った。
「ちぇっ、こいつはただの馬鹿な農夫さ。もうやめろよ」
「殺しちまおうか?」
「いや、いまはいかん。閉じこめておこう」
ジョウ=ジムは、小さな押入れのドアをあけると、ナイフでつっついてヒュウを中に入れた。
それからドアに鍵をかけると、ゲームにもどった。
「おまえの番だぞ、ジム」
ヒュウが入れられたところは、まっくらだった。なめらかな鋼鉄の壁にふれてゆくと、かたく鍵がかけられたドアのほかには何もなかった。まもなく、かれは床に横たわって、いろいろと考えはじめた。
時間はたっぷりあった。考え、眠りに落ち、一度ならず眼をさますほど。そして、時間がたつにつれ、腹がひどくすき、非常に咽喉《のど》が乾いてきた。
ジョウ=ジムが捕虜のことを思いだして押入れのドアをあけたとき、ヒュウは、すぐには気がつかなかった。かれは、ドアがひらかれたらどうしようと、何度も計画をたてたのだが、その時が実際に来てみると、あまりにも身体が弱って半死半生になっそいた。ジョウ=ジムは、かれを引きずり出した。
あたりの気配にヒュウは意識をとりもどし、すわり直してまわりを見た。
「しゃべるか?」
ジムはそうたずね、ヒュウは口をひらいたが、声か出てこなかった。
「こいつ、あまり咽喉が乾いて、しゃべれないのがわからないのか?」
ジョウは相棒にそう言ってから、ヒュウにむかってたずねた。
「もし水を飲ませてやったら、しゃべるか?」
ヒュウはぼんやりしていたが、すぐあわててうなずいた。
ジョウ=ジムはすぐ、水を入れたコップを持ってきた。ヒュウは急いで飲み、ひと休みすると、気を失いそうになった。
ジョウ=ジムは、その手からコップを取った。ジョウはたずねた。
「いまのところは、それだけだ……おまえのことを話せ」
ヒュウは話した。ときどきうながされながら、細部にわたって。
ヒュウは、奴隷という境遇になったことを事実として受け入れ、別に抵抗も良心の呵責も感じなかった。奴隷という言葉は、かれの語彙《ごい》にはなかったが、その状態そのものは普通のことで、かれの知っているあらゆるものに存在していたからだ。常に、命令を下す者と、それを実行する者がおり──かれには、それ以外の状態、そのほかの種類の社会組織というものは考えられなかったのである。それは、自然というものの事実だったのだ。
とはいってももちろん、かれは逃げることを考えた。
しかし、かれにできることは、それを考えることだけだった。ジョウ=ジムはかれの考えを察して、はっきりとそのことを口に出した。ジョウは言ったのだ。
「つまらんことを考えるなよ、若いの。ナイフがなければ、ここから三階下までだって行けやしないぜ。おれたちからナイフを盗むことができたとしても、重さのひどいところまでは行けないよ。それに、ボボがいるんだからな」
ヒュウはしばらくしてから言った。
「ボボ?」
ジムは、にやりと笑って答えた。
「おれたちはボボに言ったんだ。もし、おれたちといっしょじゃなしに、この部屋からおまえだけが首を出しでもしたら、殺してもいいってね。だからあいつは、ドアの外で眠るし、できるだけいつも、そこにいるようにしているよ」
ジョウはそれに言葉を加えた。
「そうでもしなきゃあな……おれたちが、おまえを生かしとくと決めると、あいつはがっかりしたんでな」
「おい、ちょっと遊んでみないか?」
ジムは兄弟のほうを向いてそう言ってから、ヒュウのほうに向きなおった。
「おまえ、ナイフを投げられるか?」
「もちろんです」
と、ヒュウは答えた。
「では試してみるか、ほれ」
ジョウ=ジムは、かれに自分のナイフをわたした。ヒュウは受けとって、バランスをはかってみた。
「おれぐらいにやれるかどうか、試してみろ」
ジョウ=ジムは、部屋のはしにブラスティクの的を置いた。ヒュウはそれをねらって、眼にもとまらぬほど速く腕を動かした。かれは、刃のほうを指にはさんだ下手投げを用いた。
ナイフは的にあたって震えた。ジョウ=ジムがいちばんうまくあてたときと同じく、まん中にあたったのだ。
ジョウは叫んだ。
「うまいぞ! どう思う、ジム?」
「こいつにナイフをやって、どこまで逃げられるか見てみようじゃないか」
ジョウは答えた。
「いや、おれは反対だ」
「なぜ?」
「もしボボが勝ったら、おれたちには召使がいなくなる。もしヒュウが勝ったら、おれたちはボボとこいつの両方を失うんだ。むだなことだぜ」
「ああそうか……おまえの言うとおりだ」
「うん。ヒュウ、ナイフをかえせ」
ヒュウはその言葉に従った。かれは、そのナイフをジョウ=ジムに向けることなど考えもしなかった。主人は主人なのだ。召使いが主人を襲うことなど、道徳感にそむく不愉快なことであるばかりでなく、あまり途方もない考えなので、まったくかれの胸に浮かびもしなかったのである。
ヒュウは、自分が科学者として学んだことに、ジョウ=ジムが強い印象を受けることを期待していた。だが、事態はそういう具合には進まなかった。ジョウ=ジム、特にジョウのほうは議論するのが好きだった。ヒュウは侮辱されたように感じた。なんといっても、かれは科学者だったのではないか。読み書きができたはずではないか?
ジムはかれに言った。
「だまれ……読むなんてのは簡単なことなんだ。おれなんか、そんなことは、おまえの親父が生まれる前からやれたんだぞ。おまえは、おれにつかえることになった最初の科学者だとでも思っているのか? 〈科学者〉だと! ちぇっ、馬鹿者のかたまりなんだぞ!」
いい気になって、自分が知的なことを示そうと、ヒュウは若い科学者たちの理論を話した。すべての宗教的な解釈をはねつけ、〈船〉を、そのあるがままに受けとろうとする、純粋に事実に基づいたハードボイルド・リアリズムだ。かれは、ジョウ=ジムが、そういった見方に賛成することと確信していた。かれらの気性にぴったりだったからだ。
だが、二人は大笑いした。ジムは、笑うのをやめると、きっぱり言った。
「まったく、おまえたち若い連中は、それほど馬鹿ばかりなのか? おまえたちは、年寄り連中よりも程度が悪いんだな」
ヒュウは、自尊心を傷つけられたような口調で抗議した。
「でも、あなただって、たったいまさっき言ったところでしょう……われわれが教えこまれている宗教的な考えは、みな、たわいもないことだって。それと同じように、ぼくの友だちも考えているんです。みんなは、昔からのナンセンスな考えかたを、ぜんぶ捨て去ろうとしているんですよ」
ジョウは口をひらこうとしたが、その前にジムがしゃべった。
「どうしてそいつにかまうんだ、ジョウ? そいつはまるで望みなしだぞ」
「いいや、こいつはそうじゃない。おれは面白いんだ。これまで長いあいだおれが話した相手で、真実を見る値打があるのは、こいつが初めてかもしれないよ。こいつの肩の上についているのは、いったい頑なのか、それとも、ただ耳をぶらさげておくところか、しらべてみたいんだ」
ジムはうなずいた。
「わかったよ……だが、静かにやってくれ。おれはひと眠りするからな」
左がわの頭は眼をつぶった。そしてまもなく、いびきをかきはじめた。ジョウとヒュウは低い声で議論を続けた。
「おまえたち若い者の困ったことはだな、一つのことをすぐに理解できないと、それが真実であるはずはないと考えることだ。おまえたちの年寄りの厄介なことはといえば、理解できないことは何でも、ほかの意味に解釈しなおして、それがわかったような気になることだよ。おまえたちのどちらも、本に書かれているとおりを信じ、それをもとにして理解しようとしないってことだな。おまえたちは、あまり賢すぎるんだな……その場で理解できないと、そんなことはあり得ない……何か、ほかのことを意味しているに違いないと言うんだ」
「どういう意味なんですか?」
ヒュウは、わけがわからないというようにたずねた。
「そうだな……たとえば〈旅〉だ。おまえには、どういう意味にとれる?」
「え……ぼくには、なんの意味も感じられませんね。農夫に信じこませる、ただの無意味な言葉にきまっています」
「では、みんなが信じている〈旅〉の意味はなんだ?」
「それは……死んだときに行くところです……というより、死んだときにすることと言ったほうがいいかも知れません。〈ケンタウリへの旅〉をするんです」
「それで、ケンタウリってのは何だい?」
「それは……言っときますが、ぼくはただ一般的な答を言っているだけで、別にこんなことを信じてはいないんですよ……それは、〈旅〉をしたときに行き着くところです。すべての人が幸福で、いつもおいしい食事ができるところです」
ジョウはふきだした。ジムは規則的ないびきを中断し、片眼をあけると、ぶつぶつ文句を言ってからまた居眠りにもどった。ジョウは、ささやき声にもどった。
「おれが言ったとおりだ……おまえは、頭を使っちゃいない。おまえは、〈旅〉というのは、古い本にのっているとおりのことだということを、一度も考えてみたことはないのか……〈船〉と〈船員〉の全部が、実際にどこかへ行っている、動いていると?」
ヒュウは、そのことを考えてみた。
「ぼくに、あなたの言われたことを真剣に考えろと言われるんですか? 物理的に、そんなことは不可能です。〈船〉はどこへも行けません。〈船〉そのものがすでに、あらゆるところなんです。ぼくらはその中を旅行することができます。でも〈旅〉は……それに意味があるものとすれば、それは精神的なものにちがいありません」
ジョウは、助けてくれというように、ジョーダンの名前を出して言った。
「よく聞けよ……このことを、その悪い頭にしっかり叩きこむんだぞ。〈船〉よりもずっと大きな場所を考えてみろ、ずっと大きな、その中に〈船〉がいるもの……その中で〈船〉が動いているもの……わかるか?」
ヒュウは考えてみた。一生懸命考えてみた。そして首をふった。
「そんなこと、意味がありませんよ。〈船〉より大きなものなど、どこにもあるはずがありません。そういう場所は存在しないのです」
「聞くんだ! 〈船〉の外がわってこと、それはわかるか? あらゆる方向に、まっすぐ甲板を進んでいって突き抜けるんだ。そこの何もないところ。おれの言うことがわかるか?」
「だって、いちばん下の階には、それより下はありません。だから、そこが、いちばん下の階なんです」
「なあ、もしおまえがナイフを持って、いちばん下の階の床に穴をあけはじめるとだな、どこへ出ることになるんだ?」
「でも、そんなことはできません。かたすぎます」
「だが、かりに穴があけられたとしたら、その穴は、どこへ通じるんだ? そのことを考えてみろ」
ヒュウは両眼を閉じて、いちばん下の階に穴をあけているところを想像してみようとした。掘るのだ……まるで柔かなもののように……チーズのように柔かい……。
かれは何か、おぼろげな可能性をつかみかけな。不安な、魂をゆさぶられるような、もしかしたらということ。かれは落ちてゆく、穴の中へ落ちてゆく、かれが掘った穴の下には何もない。
かれは急いで眼をあけると、大きな声で言った。
「そんなおそろしい! そんなこと信じません」
ジョウ=ジムは立ちあがると、恐ろしい口調で言った。
「おまえに、そのことを信じさせてやる……おまえの首をへし折ってもな」
かれはドアのところへ大股に歩いてゆき、ドアをひらいて叫んだ。
「ボボ! ボボ!」
ジムの頭が、ぱっと起きあがった。
「どうしたんだ? 何事だ?」
「おれたちは、ヒュウを重さのないところへ連れてゆくんだ」
「なんのために?」
「こいつの馬鹿な頭に、すこしはましな考えを叩きこんでやるんだ」
「またいつかにしろよ」
「いや、いまやるんだ」
「わかった、わかった……怒鳴らんでもいいよ。とにかく、もう眼は覚めたんだから」
ジョウ=ジムは、かれの、もしくは、かれらの身体同様に、頭脳がとびぬけて素晴らしかった。どんな環境にあっても、かれはみんなを支配する人間だったろう。ミューティの中にあって、かれがみんなに君臨し、命令し、みんなに奉仕されて暮してゆくのは当然のことだった。権力を持とうとする意志さえ持っておれば、ミューティを組織だてて、〈船員〉たちと戦い屈服させられただろうということも考えられることだった。
だが、かれには、そういう推進力が欠けていた。かれは生まれついての性格として、知的な傍観者であり観察者だったのだ。かれは、〈いかに〉とか〈なぜ〉とかいうことに興味があった。だが、行動を起こそうとするほうの意志は、気楽なこと手軽にすませることだけで満足していたのだ。
もしかれが、二人の正常な双生児として〈船員〉のあいだに生まれていたら、生きてゆくという問題に対する、もっとも容易で、もっとも満足できる解答として、科学者の身分になり、おだやかな会話の仲間入りをし、行政の仕事にたずさわっで自ら楽しんだことだろう。だが、現在の境遇に生まれたので、精神的な意味での仲間はできず、三世代ものあいだ、部下に盗んでこさせた本を、くりかえして読んで過ごしてきたのだった。
一つの身体に二つの頭があるこの二人は、かれらの読んだものを議論しあい、たいていの場合、歴史的および物理的世界での筋の通った理屈に一致するのだった──だが、ただひとつ、小説というものの概念は、かれらにはまったく異質のものであり、かれらはジョーダン探険隊に用意されていた小説類を、教科書や参考書の類と、まったく同じようにあつかったのである。
これが、二人のあいだに、ただひとつの大きな意見の違いを作っていた。ジムは、この世の中でもっとも偉大な男はアラン・クォーターメンであるとし、ジョウは、ジョン・ヘンリイだとしていたのである。(どちらもイギリスの冒険小説家ハガードの名作『ソロモンの洞窟』に出てくる主人公の名前)
かれらは二人とも、ひどく詩が好きだった。二人は、キブリングを何頁も何頁も暗誦することができたし、同じように、盲目の宇宙詩人ライスリングも好きだった。
ボボが後ろ向きに入ってきた。ジョウ=ジムは親指をヒュウのほうに曲げ、ジョウは言った。「おい……こいつは出ていくぞ」
「いま?」
ボボはうれしそうに笑顔になり、よだれを流しながらそう言った。
ジョウは、握り拳でボボの脳天をたたいて言った。
「なんて胃袋なんだ! いや、こいつを食べるんじゃない。おまえとこいつは……血をわけた兄弟だ。わかったか?」
「こいつ食わない?」
「ああ。こいつのために戦え。こいらも、おまえのために戦う」
小さな頭は、仕方がないというように肩をすくめてみせた。
「わかった……兄弟。ボボ、わかった」
「ようし。さあいまからおれたちは、だれでもが飛ぶところへ、上がってゆく。おまえは先に行って見張りをしろ」
四人は一列になって昇っていった。小人は、様子をしらべに先に立って走ってゆき、ヒュウ・ホイランドはそのあとに続き、ジョウ=ジムが最後だった。二つの頭は、それぞれ反対のほうを向いており、ジョウは前方を、ジムは後方を注意している。
上へ上へとかれらは昇ってゆき、甲板を一つずつ過ぎてゆくごとに、ほとんど感じられぬぐらいだが、重さはしだいに減っていった。そして四人はついに、それより上には出入口がなくて先へ進めない階に達した。
そこの甲板はゆるやかに彎曲しており、その場所の真の形は巨大な円筒であるということを暗示していた。だが、頭上で同じように彎曲してひろがっている金属の天井が、その先を見るのを邪魔していて、甲板がカーブを描いて元へもどってきているのかどうか、わからないようになっていた。
そこには普通の隔壁はなく、不必要なまでに丈夫そうな、巨大なずんぐりした支柱が、まわりにたくさん立っていて、甲板と天井を同じ間隔で分けていた。
重さはほとんど感じられなかった。もし、同じ場所にゆっくりとどまっていれば、わからないほど残っている重力が、ゆっくりと身体を床のほうへ下げてゆくのだが、〈上〉とか〈下〉とかは、その意味が大きく欠けてきた言葉となっていた。ヒュウは厭だったが、なんとか我慢しなければいけなかった。しかしボボは、それを喜んでいるようであり慣れているようでもあった。かれは空中を、まるで奇怪な魚のように動きまわり、支柱や甲板や天井を、実に便利よさそうに飛び移るのだった。
ジョウ=ジムは、内側と外側の円筒の共通の軸に平行するコースを取った。順序よくならんだ支柱で形づくられた通路だ。その通路には手すりがついており、その一つにつかまって、かれは、糸の上の蜘蛛のように進んでいった。そのスピードはひどく速かったので、ヒュウはそのあとについてゆくのがやっとだった。
だがそのうち、かれは、力のいらぬ容易な引っぱりかたのコツをおぼえた。邪魔になるのは、空気の抵抗と、ときどき踵や手が床にふれることだけだった。だが、あまり忙しかったから、みんながとまったとき、どれぐらい進んできたものやら見当がつかなかった。何マイルにもなっているに違いない、そう思いはしたが、さっぱりわからなかった。
かれらが止まったのは、通路が行きづまりになっていたからだった。固い隔壁が左右へ続いていて道をふさいでいる。ジョウ=ジムは、探りながら右のほうへ動いていった。
かれは探していたものを見つけた。人間ほどの大きさのドアで、閉まっており、その存在は、輪郭の細い線と、表面にうねうねとついている幾何学的な模様とでわかるだけだった。ジョウ=ジムはこれを眺めて、右がわの頭をかいた。二つの頭はささやきあい、ジョウ=ジムは、困ったように手を上げた。
「だめ、だめだ!」
ジムはそう言った。
「どうして?」
二人はまたささやきあい、ジョウはうなずき、ジョウ=ジムは手を伸ばした。
かれは、ドアの模様を、手はふれずにたどっていった。人さし指をドアの表面から四インチほど離した空中を動かしていったのだ。その模様の線をたどる指の動く順序は、簡単なようだが、はっきりはしなかった。
それが終ると、かれは掌《てのひら》を隣りに続く壁におしつけて、ドアから漂いながら離れて待った。
すぐに、ほとんど聞きとれないぐらい静かに、空気の洩れる音がして、ドアは外がわにむかい、ほぼ六インチほど動いて止まった。ジョウ=ジムは面くらったようだった。かれは用心深く、ひらいたところに両手を伸ばして引っぱった。だが何もおこらなかった。かれは、ボボを呼んだ。
「ひらけ」
ボボは、額から頭のてっぺんまで、しわを寄せるような顔つきになって、ドアの状態をながめた。それから両足を隔壁にあて、片手でドアをつかんで身体を支えた。それから両手でドアのはしをつかみ、両足をしっかり押しつけると、身体を曲げ、力を入れた。
ボボは、息をつめ、背をそらせた。胸は引き締まり、その力一杯の努力に、汗が流れはじめた。首筋から太い血管が浮きあがり、頭は形の悪いピラミッドのようになった。ヒュウの耳には、この小人の関節が、ぽきぽきと音を立てるのが聞こえてきた。あまり愚かなので、途中でやめることも知らず、この仕事のために死んでしまいそうだった。
だが、金属のこすれる音とともに、ドアは急にひらいた。ドアは、ボボの指からすべってはなれ、思いがけないときに力を抜かれたので、ボボは、つっぱっていた足の力のため、隔壁から勢いよく離れて、通路を矢のように飛んでゆき、夢中になってつかまるところを探した。だがかれは、すぐにもどってきた。痙攣をおこしたふくらはぎをなでながら、不格好な姿で空中を漂ってきたのである。
ジョウ=ジムは中にはいり、ヒュウはそのすぐあとに続いた。
「この場所は、何だい?」
ヒュウはそうたずねた。好奇心のあまりに、召使としての礼儀を忘れていたのだ。
「主操縦室《メイン・コントロール・ルーム》」
と、ジョウは答えた。
主操縦室!
〈船〉の中で、もっとも神聖であり禁忌《タブー》になっている所だ。その実際に存在する場所も、忘れ去られて久しい謎となっていたのだ。若い連中は、存在しないものと決めていたが、年寄りの科学者たちは、聖なる書物に書かれていることは、すべて正しいものと受けとる者と、神話的信仰とする者とに分かれているのだ。主操縦室! そこは実に、ジョーダンの魂そのものが住んでいるところだと言われているのだ。
かれは立ちどまった。ジョウ=ジムは足をとめ、ジョウはふり向いてたずねた。
「来いよ……どうしたんだ?」
「あの……ええ……ええ……」
「しゃべるんだ」
「つまり……ここには幽霊が……ジョーダンの……」
ジョウは、やりきれないなというように怒鳴った。
「ジョーダンもへったくれもあるか! おまえは、若い連中はジョーダンなんか信じていないと言ったはずだぞ」
「はい。でも……でも、これは……」
「やめないか。ついてくるんだ。名もないと、ボボに引きずってこさせるぞ」
ジョウ=ジムは前に向きなおった。ヒュウは、いやいや足場を昇ってゆく男のように、そのあとに続いた。
かれらは、二人がならんで手すりをつかむことができるだけのせまい通路を通っていった。通路は大きく九十度に弧を描いてカーブし、操縦室に口をひらいていた。ヒュウは、ジョウ=ジムのひろい肩ごしに、おずおずと、だが好奇心に燃えて、中をのぞきこんだ。
そこは、巨大な、直径が二百フィートもありそうな、明るく照明された部屋だった。そして、大きな球の内側を見るように丸くなっていた。その球面には何もなく、つや消しの銀色だった。この球の幾何学的中心に、十五フィートほどの幅の機械があった。はじめて見るヒュウには、まったく何だかわからなかった。そして、説明されなくても、それは支えもないのにちゃんと浮いているようだった。
通路から、球の中心に浮いているものにむかって、通路と同じ幅の金属の網でできたチューブが伸びていた。それが、通路からのただひとつの出口なのだ。ジョウ=ジムは、ボボのほうを向き、通路で待っていろと命じてから、チューブの中に入っていった。
かれは手を交互に伸ばして、梯子のようになっている網の棒をつかんで上っていった。ヒュウはそのあとに続き、球のまん中を占めている装置のところへ出た。近くから見ると、操縦室の道具は、こまかいところまではっきりしてきたが、それでもヒュウには何のことやらわからなかった。かれは、まわりにひろがっている球の内側の表面をちらりと眺めた。
眺めたのはまずかった。球の表面は、何もない銀色なので、遠近がまったくわからなかった。何百フィート離れているのかわからず、千フィートかも、何マイルにもなるのかもわからなかった。
ヒュウはこれまでに、二つの甲板《デッキ》のあいだよりも長い高さとか、村の広場よりも広い場所を見たことがなかったのだ。かれは恐怖にとらわれ、生きた心地もなかったが、それより恐ろしいのは、自分が何を恐れているのかわからないということだった。だが、長く忘れ去られてきたジャングルに住む祖先たちの幽霊がかれにとりつき、落ちるという原始的な恐怖とともに、かれの胃を凍らしてしまった。
ヒュウは操縦装置にしがみつき、ジョウ=ジムにしがみついた。
ジョウ=ジムは、掌《てのひら》で激しくかれの口を叩き、ジムは怒鳴った。
「いったい、どうしたというんだ?」
ヒュウは、やっと落ちついてきた。
「わかりません……でも、ここは嫌いです。ここから出ましょう!」
ジムは眉をひそめてジョウを眺め、うんざりしたように言った。
「そうしようじゃないか。この弱虫は、おまえの言うことなど、何ひとつ理解できないんだ」
ジョウは首をふった。
「いや、大丈夫だよ……ヒュウ、その椅子に坐れ……そう、そいつだ」
しばらくののち、ヒュウの眼は、中央操縦装置《コントロール・センター》に続くチューブに落着き、通路のドアまでたどっていった。球の大きさは、とつぜんちぢまったようになって、かれの眼は焦点があい、ひどい恐怖はすぎ去った。かれはまだふるえてはいたが、その命令に従うことができた。
中央操縦装置《コントロール・センター》は、がっしりした骨組や、操縦員の坐る椅子、連続した計器、信号の出るパネルなどからできており、椅子に坐った人の膝あたりの高さにまとまっていて、すぐに見ることができ、それでいてまわりの眺めを邪魔しないようになっていた。椅子にはそれぞれ肘掛けのようなものがついており、ヒュウはまだ気づいていなかったが、その上には、当直についている各士官用の操縦装置がついていたのだ。
かれは計器盤の前の座席へすべりこみ、それにしっかりと抱かれたような安全感をおぼえて、ほっとした。その椅子はなかば身体を伸ばした状態で、足置きから頭までぴったりと合っていた。
ジョウ=ジムの前の盤には、何かがおこっていた。それがちらりと見えたので、ヒュウはそちらに顔を向けた。その計器盤の上のほうに、まっ赤な文字が輝いた。
〈|二等航宙士・在席《セカンド・アストロゲーター・ポステッド》〉
それが何の意味なのか、かれにはわからなかった……だがそのときヒュウは、自分の前の計器盤のいちばん上にはってあるラベルが〈二等航宙士〉であることに気づいた。ということは、かれ、もしくはそこに坐るべき男がそうだということにちがいない。ヒュウはしばらくのあいだ不安になった。本物の二等航宙士が入ってきて、自分の席に他人がいるのを見つけたらと思ったのだ。だがかれは、すぐそんな考えをふり捨てた──そんなことがあるはずはないのだと。
だが、いずれにしても、二等航宙士とは何のことなのか?
ジョウ=ジムの前にある計器盤から文字が消え、左端に赤い点が現れて、そのままつきっぱなしになった。ジョウ=ジムは、右手で何かをした。するとその盤に文字が現れた。
〈加速度……ゼロ〉それから、〈主推進機《メイン・ドライブ》〉。その言葉は何度か明滅したあとで〈報告なし〉という言葉に変わった。その文字も消えてゆき、明るい緑色の点が右端に現れた。
「おどろくなよ、明かりが消えるからな」
と、ジョウは、ヒュウのほうを向いて話しかけた。
「明かりを消すなんて……」
「それも、おまえが消すんだぞ。左手のそばを見てみろ。小さな白い光が見えるだろう?」
ヒュウが、言われたところを見ると、椅子の肘かけの表面に、八つの小さな光の点がならんでいた。
ジョウは説明した。
「その一つが、それぞれ、半球の四半分にあたっているんだ。そいつを手でおおうと、明かりが消える……さあ、やってみろ」
いやいやながら、興奮をおぼえて、ヒュウは言われたとおりにした。かれは小さな光の上に掌を置いて待った。銀色の球面は、鈍い鉛色に変わり、もっと暗くなってゆき、計器盤から出ているわずかな明かりのほかは、完全にまっくらになってしまった。ヒュウは不安ながら、酔ったようなときめきをおぼえた。かれは掌を引いた。だが球面は暗いままで、八つの小さな光は、青に変わった。
ジョウは言った。
「さあ……いまからおまえに、星々を見せてやる!」
暗闇の中で、ジョウ=ジムの右手が、そちらの椅子にともっている八つの光の点をおおった。
天地創造。
宇宙の黒い深淵から実物が現れたように、宇宙展望室《ステラリウム》の壁面に、はっきりと神々しく、忠実に再製された星々が輝いて、かれを見おろしていた。宝石のような光が無数に、幻影の空に輝いていた。かれの前には、数えきれないほどの太陽があったのだ──かれの前に、かれの上に、かれの下に、かれの背後に、あらゆる方向に、かれはただひとり、宇宙の中心にぶらさげられていたのだ。
「ああああ!」
かれは、思わず息を深く吸いこみながら、そんな声を出した。そして、指の爪が割れそうになるほど椅子の肘かけをしっかり掴んでいたが、そのことに気づきもしていなかった。また、このときには恐怖もなかった。かれの心には、これまで、一つの感情しかなかったのだ。船の中の生活とは、苛酷さと平凡さとが交互に存在するものであり、ヒュウの胸に美しさというものを味わせることはなかった。だがいまや、生れてはじめて、かれは、純粋な美しさというものの耐えられぬほどの素晴しさを知ったのだ。それは、初めておぼえたときの性の恍惚感のように、ヒュウをゆすぶり、かれを突き剌したのだ。
だいぶたってからヒュウは、そのショックと、夢中になっていた状態からやっとわれに帰り、ジムの嘲けるような笑い声と、ジョウの乾いたような笑い声に気がついた。
「もう充分だろう?」
ジョウはそうたずね、返事もまたずに、その椅子の左がわにある装置を使って、明かりをもとどおりにつけた。
ヒュウは溜息をついた。胸は痛み、心臓の鼓動はひどかった。かれはとつぜん、自分が明かりの消えていたあいだずっと、息をつめていたことに気がついた。
「どうだ、かしこい小僧……納得がいったか?」
ヒュウはまた、何ということなく溜息をついた。明かりがついてみると、かれはふたたび、安全であり居心地よくなったように感じはしたが、個人的に何か失ったような感覚をおぼえたのだ。無意識のうちにではあったが、星々を見たことによって、二度と幸福にはなれないであろうということがわかったのだ。
いままで忘れ去られていた大空と星々という遺産にたいする、ぼんやりとしたあこがれが、胸の中に、鈍い痛みのように浮かんできはじめたのだ──とはいっても、それをはっきりと自覚するには、かれはあまりにも無知であったのだが。
ヒュウは低い声でたずねた。
「あれは何だったのですか?」
ジョウは答えた。
「あれが、あれだ……世界だ。あれが宇宙なんだ。あれが、おまえに教えこもうとしていたものだ」
ヒュウは、自分の何も知らなかった心を納得させようと、一生懸命に努力した。
「あれが、あなたの言われる外がわ≠ニいうことですか? あの美しい小さな光のすべてが?」
ジョウはうなずいた。
「そうだ……ただ、あれはみな小さなものじゃない。ずっと遠くに離れているんだからな……たぶん何千マイルもだ」
「何ですって?」
ジョウはなおも言った。
「そうとも……あそこは、すごく広いんだ。宇宙だ。大きいんだぞ。ああいった星のあるものは、たぶん〈船〉と同じぐらい大きいんだ……ひょっとすると、もっと大きいんだぞ」
ヒュウの顔は、あまりにも並はずれた想像に、痛ましくひきつったようになっていた。
「〈船〉より大きいですって? でも……でも……」
ジムは、頭をいらいらとふって、ジョウに言った。
「おれはおまえにどう言った? こんな薄のろを相手にしたって、時間のむだだよ。こいつには、それだけの頭がないんだ……」
ジョウはおだやかに答えた。
「あわてるなよ、ジム……こいつに、はいだせるようになる前に走れったって無理な話だ。おれたちだって長い時間がかかった。おまえだって、自分の眼が信じられるようになるには、だいぶゆっくりしていたじゃないか?」
ジムは不機嫌な声を出した。
「嘘をつくな……おまえのほうじゃないか、なかなか信じられなかったのは」
ジョウは譲歩した。
「わかった、わかった……そういうことにしよう。だがおれたち二人とも、はっきり納得できるようになるまで、ずいぶんかかったぜ」
ヒュウ・ホイランドは、二人の兄弟が話しあっていることには、あまり注意をはらわなかった。それは毎度のことだったからだ。ヒュウの心は、このあまりにも並はずれていることを考え続けていた。ヒュウはたずねた。
「ジョウ……ぼくらが星を見ていたとき、〈船〉はどうなっていたんですか? ぼくらが、〈船〉をつきぬけて見ていたのでしょうか?」
ジョウはかれに教えた。
「正確にはそうじゃない……おまえは、星を直接に見ていたんじゃなくて、その写真のようなものを見ていたんだよ。それは……つまり、鏡みたいなもんだよ。そのことが書いてある本を持っているよ」
そのときジムは、ついさっき不機嫌になったのを忘れて口をはさんだ。
「直接にだって見られるんだぞ……このさきに部屋があってな……」
ジョウは言った。
「ああ、そうだ、忘れていたよ。〈船長のベランダ〉といってな、そこは一方の壁がガラスなんだ。それを通して直接に見られるんだ」
「船長のベランダ? でも……」
「いまの船長じゃないさ。あいつなんか、ただの一度だって、この近くまでも来たことはないよ。その部屋のドアについている名前なんだ」
「ベランダって何のことですか?」
「知るもんか。そこの名前というだけだよ」
「そこへ、ぼくを連れていってくれませんか?」
ジョウはうなずきかけたが、ジムが口をはさんだ。
「またにしろよ。おれはもどりたい……腹がへったからな」
かれはチューブをもどり、ボボをおこして、長い道のりをもどっていった。
ヒュウが、ジョウ=ジムを説き伏せてまた探険に連れていってもらうことになったのは、それからずっとあとのことになりはしたが、それまでの時間はむだにはならなかった。ジョウ=ジムは、ヒュウがそれまで見たこともないほどたくさんの本を、自由に読ませてくれたのだ。
その中の何冊かは、ヒュウが以前に読んだものと同じだったが、それらにも新しい意味がくみとられるのだった。かれは続けざまに読み、心は新しい考えにひたされ、それらにつまずき格闘し、なんとかその意味をつかもうとした。かれは寝るのも惜しみ、息苦しくなって、横隔膜の痛みにそうと気がつくまでは、食べることも忘れていた。飢えが満足すると、かれはまた読書にもどり、頭が痛くなり、眼が焦点を結ばなくなるまで続けるのだった。
ジョウ=ジムが用事を言いつけることは、あまりなかった。ヒュウが、勤務につかなくていいことは絶対になかったが、そばにいて、呼ばれたらすぐ走り寄るかぎり、いくら本を読んでいても、ジョウ=ジムは怒らなかった。双生児のどちらかが気の進まぬときに、チェッカーの相手をするのが勤務のほとんどだったが、これもまったくのむだではなかった。というのは、その相手がジョウの場合は、たいていゲームから離れて議論になるのだった──〈船〉、その歴史、その機械と設備、〈船〉を建造し、初めて動かした人々、それらの人々の〈地球〉における歴史──地球とは信じられないほどのものだった。その奇妙な場所では、人々は|内がわ《ヽヽヽ》ではなく|外がわ《ヽヽヽ》に住んでいるというのだ。
ヒュウは、なぜかれらが落ちてしまわないのだろうと、ふしぎに思った。
かれはその問題をジョウに持ち出して、やっと〈引力〉の意味をすこしつかんだ。かれは、感情的にどうしても理解できなかった──それは、あまりにも途方もなく不合理なことだったからだ。だが、ずっとあとになってから、弾道学、宇宙航行技術、船の操縦といった科学を、初めて漠然とながら理解するとき、そういった考えを理性的な概念として受け入れ役立てることができたのだった。そして、これまで頭を悩ませてみたこともない〈船〉の中での重さということを考えてみるようになった。下の方へ行くほど重さがふえるということは、これまでのかれの心にとって、単に自然の性質であって、不思議なところはまったくなかった。かれは、パチンコに使われていることから、遠心力については良く知っていた。だが、これが〈船〉全体に用いられ、〈船〉そのものがパチンコのように振りまわされて重さを生じているとは、あまりにも途方もないことだったから、どうしても信じられなかったのである。
ジョウ=ジムは、かれをもう一度〈操縦室〉へ連れてゆき、操縦装置の操作と宇宙航行計器の読みかたについてかれらが知っていることは、実に少ないのだということを示した。
忘れ去られてしまったほどの昔、ジョーダン財団にやとわれた機械設計技術者たちは、その〈旅〉が、予定されていた六十年という長さを越えることがあっても、損耗してしまわないような──損耗しようがないような〈船〉を設計することを求められた。そしてかれらは、求められた以上のものをつくりあげた。主推進エンジンと補助機械を設計するときには、〈船〉の中で人々が生活していけるようにするため、ほとんどを自動的に動くようにし、完全に自動的にとはできない機械類を動かすために必要な操作装置の設計に当っては、動く部分があるという考えそのものがしりぞけられた。エンジンや補助機械は、機械的運動によらず、電気変圧器のような、純粋な力のレベルで動かされた。操縦装置などは、プッシュ・ボタン、レバー、カム、シャフトなどの代りに、静電場《スタティック・フィールド》のバランス、電子の流れの偏倚《バイアス》を使われ、回路は、光の上に手をかざすことで、切ったり結んだりされるようにと考えられた。
こういった仕事《アクション》においては、摩擦はその意味を失い、摩耗と腐蝕は姿を消した。そのため、反乱がおこって現場技術員がすべて殺されてしまったあとも、〈船〉はまだ光をともし、空気は新鮮で温度を保ち、エンジンはいつでも動くように待機しながら、宇宙を突進していたのである。だから、エレベーターやコンベヤー・ベルトが修理されなくなって使えなくなり、ついにはその機能が忘れ去られてしまったあとも、船の主要な機械類は、その無智な人間という荷物に自動的なサービスを続けながら、だれかその鍵を解けるほどに聡明な者の出てくるのを、静かに待っていたのである。
多くの天才が、その船の建造に参加した。地上で組み立てるにはあまりにも大きすぎるので、船は月よりも外の軌道で、部品を一つずつ組み合わされた。機械に故障ということが起こらず、永久に堅牢であるという問題が解決されるまで、船はその空間で、十五年のあいだ待ち続けたのだ。そして、まったく新しい亜質量作用《サブ・モラー・アクション》という分野がそのあいだに考え出され、研究され、征服されたのだ。
そして──
ヒュウが、まだ訓練されず謎を追い続けている手を、〈加速〉と印された光の列にかざしてみると、加速に関する言葉ではなかったが、すぐに反応があった。主操縦士の計器盤の上の赤い光が急速に点滅して、信号パネルに通信文が輝いた。〈主推進機……当直不在〉と。
かれはジョウ=ジムにたずねた。
「どういう意味ですか?」
ジムは答えた。
「知らないね……」
ジョウはつけ加えた。
「おれたちは、同じことを〈主推進機室〉でもやってみた……すると、〈操縦室不在〉と出るんだ」
ヒュウは、しばらく考えてからたずねた。
「どんなことが起こるんでしょう……もし、機械のあるところ全部に人がいて、そしてぼくがそんなことをやってみたら?」
ジョウは答えた。
「わからんね。そんなことは試してみられなかったからな」
ヒュウは何とも言わなかった。形は定まらないものの、解決が生まれかかり、かれの心の中で、決定という結晶にかたまりはじめたのだ。かれは、それに心を奪われていた。
かれは、自分の考えを持ち出す前に、ジョウ=ジムが二人とも穏やかな気分でいるときを見つけるまで待った。かれらが〈船長のベランダ〉にいたとき、ヒュウは時機は熟したと決めた。ジョウ=ジムは、腹いっぱい食べて、〈船長〉の安楽椅子にのんびりとすわり、厚い観測ガラスごしに、清らかな星々を見つめていた。ヒュウはそのそばに漂っていった。〈船〉の回転のため、星々はゆっくりと、壮大な円を描いているようだった。
しばらくして、かれは言いだした。
「ジョウ=ジム……」
「え? 何だい、若いの?」
答えたのはジョウだった。
「すばらしいですね」
「何が?」
「あのすべて、星々です」
ヒュウは腕をふってガラスの向こうにひろがっている眺めを示し、それから身体がうしろに回転しようとするのを止めようと、椅子をつかんだ。
「ああ、そうとも。いい気分になるだろう」
おどろいたことに、そう言ったのはジムだった。
ヒュウはいまだとわかった。かれは、しばらく待ってから言った。
「どうしてぼくらは、仕事をやりとげないんです?」
二つの頭が同時にふりむき、ジョウとジムの頭ごしに見ようと、ちょっとつき出した。
「仕事って?」
「〈旅〉ですよ。どうして主推進機関《メイン・ドライブ》を動かして、進もうとしないんですか? むこうのどこかへ」
ヒュウは、口をはさまれる前に言い終ろうと、いそいであとを続けた。
「地球のような衛星がたくさんあるでしょう……最初の船員たちが考えたように。それを見つけに行きましょう」
ジムはかれを見て笑い出し、ジョウは首をふって言った。
「坊や……おまえは自分の言っていることが、わかっていないんだ。おまえはボボと同じぐらい馬鹿なんだな。だめだ、そんなことはすべて過ぎ去ってしまい、終ってしまったことだ。忘れろ」
「なぜ、過ぎ去ってしまい終ってしまったことなんですか、ジョウ?」
「それは、つまりだな……あまりにも大きすぎる仕事だからだ。そんなことをやるためには、そういったすべてのことを理解し、〈船〉を操作するだけの訓練を受けた船員たちが必要だ」
「そんなに大勢必要でしょうか? あなたが見せてくれた場所は十カ所だけでしたよ。人間が機械のそばにいなくてはいけないところは。十人いれば〈船〉を動かせるんじゃないでしょうか……その全員が、あなたがたの知っていることを知っていれば」
最後のところを聞くと、ジムはふきだした。
「うまいところを突いたぞ、ジョウ。こいつの言うとおりだ」
ジョウは首をふった。
「おまえは、おれたもの知識を買いかぶりすぎているんだ。ひょっとして、おれたちが〈船〉を操縦することができたとしても、どこへも行けないだろうね。おれたちときたら、現在どの位置にいるかもわかっていないんだ。〈船〉は、何代ものあいだ、おれにもわからないほどの長いあいだ、漂流を続けてきているんだ。おれたちは、どこへ向かっているのか、どれくらいの速さで動いているのかも知らないんだぞ」
ヒュウは、哀願するように言った。
「でも……計器がありますよ。あなたは、ぼくに見せてくれました。その使いかたを勉強することは、できないものでしょうか? ジム、あなたが本当にやる気になれば、わかるようになれるんじゃありませんか?」
ジムはうなずいた。
「ああ、そのとおりだな」
「いばるなよ」
と、ジョウが言うと、ジムはすぐに言いかえした。
「いばってなんかいるものか……もし、解決できることなら、おれにはそれを解決することができるんだ」
「へええだ!」
その問題は微妙なことになった。ヒュウは、二人の意見を合わなくさせた──それが、かれの考えたことだった──それだけ、自分の立場を良くできるのだ。さて、この機に乗じて──
かれは急いで言った。
「ぼくに考えがあるんです……ジム、あなたといっしょに働く人間を集めるんです。もし、あなたがそいつらを訓練できればのことですが」
「どういう考えだ?」
と、ジムは疑いぶかそうにたずねた。
「ぼくが言ったことを憶えていられるでしょう。若い科学者の一団が……」
「そんな馬鹿者どもが!」
「ええ、そのとおりです……でもかれらは、あなたが知っておられるようなことは、知らないんです。かれらはかれらなりに、合理的になろうとしているんです。そこでもし、ぼくが向こうへ帰って、あなたに教わったことを教えたら、あなたといっしょに働けるだけの男を連れてこられると思うんです」
ジョウは口をはさんだ。
「おれたちをよく見てみろ、ヒュウ……何が見える?」
「え……あなたがたが見えますよ……ジョウ=ジムが」
「おまえの見ているのは、ミューティだ」
と、ヒュウの言葉の誤まりを正すように言ったジョウの声には、皮肉な響きがこめられていた。「おれたちはミューティなんだ。わかるかい? おまえたちの科学者とやらは、おれたちと働きたがったりするもんか」
ヒュウは反対した。
「いいえ、それは違います。ぼくの言っている連中は、農夫ではないんです。農夫にはわからないでしょう。でもかれらは科学者です。みんなの中で、いちばん頭がいいんです。かれらなら理解できます。あなたがたがしなければいけないのは、かれらにミューティの国を安全に通らせることだけです。それはできるでしょう?」
かれは、本能的に、話題をずっと実際的なことに変えた。
「そりゃ、もちろんだ」
ジムはそう答え、ジョウは首をふった。
「そんなこと忘れろよ」
「そうですか……でも、面白いと思いますがね……」
ヒュウは、ジョウが実際には、かれの言葉に心を動かされているのだと感じながち、二人からちょっとはなれた。
かれは、ジョウ=ジムが低い声で議論を続けているのを耳にしていた。だが、それに気がつかないでいるようなふりをしていた。ジョウ=ジムの大きな欠点は、二人がいっしょになっているということだった。それぞれ独立した個人というよりは、むしろ委員会のようだったので、すべての決定はどうしても、議論と妥協の結果となるのだ。だから、行動の人となるには向いていなかったのである。
だいぶたってから、ジョウの声が高くなるのが、ヒュウの耳に聞こえてきた。
「わかった、わかったよ……おまえの好きなようにしろ!」
それからジョウは大声をあげた。
「ヒュウ! こい!」
ヒュウは、隔壁を限って、ジョウ=ジムのそばへ飛んでゆき、船長の椅子の枠に両手をあててとまった。
ジョウは前置きなしに言いだした。
「おれたちは決めた……おまえを高重力のところへ帰して、やらせてみようとな。だが、おまえは馬鹿だ」
と、かれは、そっけなくつけ加えた。
ボボはヒュウを守って、ミューティのよく出る危険な階を通ってゆき、かれを、高重力の上の、だれも住んでいない地帯に残した。
「ありがとう、ボボ。|いい食事を《グッド・イーティング》」
ヒュウがわかれるときにそう言うと、小人はにっこりと笑い、頭を下げて、二人が降りてきた梯子を矢のように昇っていった。
ヒュウはふりむき、ナイフにさわりながら降りはじめた。そいつが身近にあるというのは、いい感じだった。といっても、それはもとのナイフではなかった。もとのは、かれが捕えられたときボボの褒美となったのだが、ボボはうっかりして、大きな相手につき刺したまま逃げられたので、ヒュウに返すことができなかったのである。だが、ジョウ=ジムが代りにくれたのは、同じぐらいバランスがよくて満足できるものだった。
ボボは、ヒュウの頼みとジョウ=ジムの命令で、科学者たちが使っている〈補助転換器〉の真上の地域までヒュウを送ってきてくれたのだ。
ヒュウは、〈機関長補〉のビル・エルツと、若い科学者たちのリーダーを見つけたいと思っており、かれらを見つける前には、あまり多くの質問に答えたくなかった。
かれは残りの階を急いで降りてゆき、見覚えのある中央通路に達した。それから左へ曲がり、二百ヤードほど歩くと、〈転換器〉のある部屋のドアだった。番人が一人その前にいた。ドアをおして入ろうとしたヒュウはとめられた。
「どこへ行くつもりだ?」
「ビル・エルツに会いたいんだよ」
「機関長のことか? かれなら、ここにはいないよ」
「機関長? 前の老人はどうしたんだい?」
ヒュウ・ホイランドは、すぐそう言ったことを後侮したが、もう口から出てしまったあとだった。番人は疑わしそうにかれを見た。
「え? 前の機関長? ずっと前に〈旅〉に出てしまったじゃないか……あんた、どうしたんだい?」
「なんでもないよ……まちがっただけだ」
「変なまちがいかただよ。とにかく、エルツ機関長なら、たぶん事務室にいるだろう」
「ありがとう。|いい食事を《グッド・イーティング》」
「|いい食事を《グッド・イーティング》」
ヒュウは、しばらく待ってからエルツに会うのを許された。ヒュウが入ってゆくと、エルツは机から顔を上げて話しかけた。
「ほう、帰ってきたのか、死んじゃいなかったんだな。これはおどろいた。われわれは、おまえが〈旅〉に出てしまったものとばかり思って、名簿から消してしまったよ」
「はい。そうだろうと思っていました」
「まあ坐って話してくれ……暇はあまりないんだが。おまえに会ってもわからなかったろうな。ずいぶん変ったな……白髪がだいぶできているからな。ひどく苦しい目にあったんだろう」
白髪だって? そんなになっていたのか? エルツもずいぶん変っている。太ってきたし、顔にもしわがふえている。どれぐらい行っていたんだろう?
エルツは、机をたたき、口をかたく結んだ。
「こいつは困ったな……おまえが、こんなふうに帰ってきたとなると。おまえを以前の仕事につけなわけにはいかんからな。モート・タイラーがそれについているんだ。でも、おまえの階級にあった仕事は見つけてやるよ」
ヒュウは、モート・タイラーのことを思い出しはしたが、あまり懐しくもなかった。気どったやつで、つねに規則がどうだ、どうするべきだ、というようなことばかり考えているやつだった。そのタイラーも科学者の身分になり、〈転換器〉のところでヒュウが以前にやっていた仕事をやっているのか。まあそんなことはどうだっていい。かれは話しだした。「そんなことは、別に何とも思っていません。それよりぼくは、あなたにお話ししたいことがあるんです……」
エルツは続けた。
「もちろん、それは上級の者のあつかう問題だ……たぶん評議会のほうで、そういうことは考慮してくれるだろう。わしは前例は知らんがね。われわれは、過去に、ミューティを相手として大勢の科学者を失った。だが、おまえはわしの知っているかぎり、生きて逃がれてきた最初の男だ」
ヒュウは口をはさんだ。
「そんなこと、どうでもいいんです……もっと大切なことをお話ししたいんですよ。ぼくは向こうへ行っていたあいだに、おどろくべきことをいくつか見つけました。ビル……あなたに知ってもらうことが、ひどく大切なことなんです。だからぼくは、まっすぐあなたのところへ来たんです。聞いてください、ぼくは……」
エルツはとつぜん緊張した。
「もちろんそうだろう! わしはぼんやりしていたな。おまえには、ミューティをしらべ、やつらの領土を偵察するすばらしい機会があったんだ。さあ、話してくれ! 報告を聞かせてもらおうじゃないか」
ヒュウは唇をなめた。
「それは、あなたが考えていられるようなこととは違うんです……ミューティについての報告などよりずっと大切なことです。もちろんかれらにも関係はありますが。実際、われわれは、かれらについての政策全体を変えなければいけないことになるでしょう……」
「さあ、話せ、さきを話すんだ! 聞いているんだぞ!」
「はい」
ヒュウは、言葉づかいに気をくばりながら、〈船〉の真実の姿について知ったおどろくべき発見をかれに話し、信じさせようと一生懸命になった。ヒュウは、この新しい観念にあわせて〈船〉を再編成することの困難さについてはあっさりと言い、それを先頭にたってひきいる男にあたえられる名誉と栄光のほうを強調した。
かれは話し続けながらエルツの顔に注意していた。〈船〉が、大きな外の空間の中を動いている物体だという、鍵となる考えを話したとき、かれのまったくおどろいたことは、エルツの顔に何の変化も浮かばなかったことであった。ただ、あなたは若い進歩的な科学者のリーダーだから、その仕事にもっとも適した男であるとヒュウが言ったとき、強い関心を寄せたらしいことがわかっただけだった。
ヒュウは話しおわって、エルツの返答を待った。エルツはしばらくのあいだ何も言わず、困ったときに机をたたく癖を続けるだけだった。やっとかれは口をひらいた。
「そいつは重要なことだ、ホイランド。あまり重大すぎるから、軽々しくあつかえないぞ。わしもとっくり考えてみなければいかん」
ヒュウはうなずいた。
「ええ、もちろんです……つけ加えておきたいんですが、重さのないところへ安全に行けるように約束をしてきました。あなたをそこへ連れていって、あなた自身で見てもらうことができるんです」
「もちろん、それがいちばんいいことだな。さてと……腹はへっていないか?」
「いいえ」
「じゃあ二人とも、明日までよく考えることにしようじゃないか。おまえは、わしの事務室の裏の部屋を使え。わしがよく考えてみるまでは、ほかのだれとも話すなよ。うまく用意をしておかずにこの話が洩れると、まずいことになるかもしれんからな」
「はい、あなたのおっしゃるとおりです」
「よろしい」
エルツはかれを事務室に続いた部屋へ連れていった。控室に使っているところだ。
「じゃあ、よく寝るんだぞ。あとでまた相談しよう」
ヒュウはうなずいた。
「ありがとうございます……|いい食事を《グッド・イーティング》」
「|いい食事を《グッド・イーティング》」
ひとりきりになると、ヒュウの興奮は徐々に冷めてゆき、自分が疲れきっており、眠たくてたまらなくなっていることに気づいた。かれは、作りつけの長椅子に身体を伸ばすと、すぐに眠りこんでしまった。
眼が覚めてみると、その部屋にあるたった一つのドアは、外から鍵がかかっていることがわかった。もっと悪いことは、ナイフも取られていることだった。
無限の時間が過ぎていったと思えるほど長いあいだ待たされたすえ、やっとドアの外で物音がした。ドアをひらくと、がっしりした男がこ人はいってきた。そのひとりは、笑顔も見せずに言りた。
「くるんだ」
その二人は、どちらもナイフを持っていなかった。そいつらのベルトから奪うことはできないわけだが、その反面、二人から逃がれることはできるかもしれない。
だが、事務室をながめると、ずっと離れたところに、恐ろしい顔をした男が二人いて、どちらもナイフを持っていた。ひとりは、いつでも投げつけられるように持っており、もうひとりは、近くから突き刺せるように握りをしっかりにぎっている。
ヒュウは、自分がどうにもならなくなっていることに気づいた。どう行動してもいいように手を打たれていたのだ。
だがかれは、避けられぬ運命には、平然と対する癖がついていたので、顔色も変えず、静かに歩きだした。表の部屋へ入ってみると、エルツが待っていた。この男が、ほかの連中を指揮していることは、はっきりしていた。かれは、おだやかに話そうと気をつけながら口をひらいた。
「やあ、ビル。いやに厳重ですね。何か困ったことでもおこったのですが?」
ビル・エルツは、ちょっと返答に困ったようだったが、すぐに言った。
「おまえは〈船長〉のところへ行くんだ」
ヒュウは答えた。
「ありがとう、ビル。でも、〈船長〉にあのことを話すのは、ほかの連中とちょっと打合せをしておいてからのほうが、いいんじゃありませんか?」
エルツは、ヒュウの頭があまり悪いことに、うんざりしたというように、大声で言った。
「おまえにはわからんらしいな。おまえが〈船長〉のところへ行くのは、裁判を受けるためなんだぞ……異端の罪でな!」
ヒュウは、そんなことは考えられないことだというように、おだやかな口調で答えた。
「まちがいじゃありませんか、ビル。起訴して裁判をするのが、いちばん手っとりばやいことでしょうが、ぼくは農夫じゃありませんよ。〈船長〉のところへ追いやって、それですむものではないでしょう。ぼくは〈評議会〉によって裁かれなくちゃいけないわけです、科学者なのですから」
エルツは低い声で言いかえした。
「いまもそうだと思っているのか? わしはそのことで注意されたんだがな、おまえは、とっくにリストからはずれているんだ。現在のおまえは、〈船長〉だけで決められることなんだぞ」
ヒュウは黙っていた。なにもかも分が悪いし、エルツと言い争ってみても益はない。エルツが合図すると、ナイフを持っていないほうの二人が、両方からヒュウの腕をつかんだ。かれは、いっしょに静かに歩いていった。
ヒュウは〈船長〉を見て、新たな興味をおぼえた。この老人は、あまり変わってはいなかった……ひょっとすると、またちょっと太ったか。
〈船長〉は、ゆっくりと椅子に腰をおろすと、机の上におかれていたメモを取り、いらだたしげにたずねた。
「いったい何ごとだ? わけがわからんな」
モート・タイラーが、ヒュウを起訴する係になってその場にいた。ヒュウは、こんなこととはまったく予期していなかったので、不安が増してきた。かれは、子供のころのことを思い出して、何かこいつの同情をひきつけることはないかと探したが、何もなかった。
タイラーは、咳ばらいをして言いはじめた。
「船長、この事件は、ヒュウ・ホイランドという、もとは下級科学者だった男の……」
「〈科学者〉だと? では、なぜ評議会にかけないんだ?」
「それは、かれがもはや科学者ではないからです、船長。かれはミューティの国へ行き、いまわれわれのところへ帰ってきましたが、異端の論をはき、あなたの権威を傷つけようと企んでいるのです」
〈船長〉は、自分の特権をねらっている者に戦いをいどむような顔になって、ヒュウを見た。
「そうなのか? おまえに何か言い分はあるのか?」
その大きな声にヒュウは答えた。
「嘘です、船長。ぼくの言ったことはすべて、昔からの教えが絶対的な真実であったと、より確信させるものです。ぼくは、われわれのよりどころである真実を疑ったりしたことはなく、いままでよりもいっそうつよく強調しただけなのです……」
〈船長〉は、首をふってさえぎった。
「まだわけがわからんな。おまえは、異端の罪で起訴されている。ところがおまえは、教えを信じているというのか。おまえに罪はないとすれば、なぜここに来ているのだ?」
「わたしが、はっきりできるのではないかと思いますが」
とエルツが言い出した言葉に、〈船長〉はうなずいた。
「やってくれ、聞こう」
エルツは、ホイランドの帰還とその奇妙な物語を、割合に正確ではあるが、ちょっとゆがめて話しはじめた。〈船長〉は、その顔に困惑の色をうかべて聞いていた。
エルツが話しおわると、〈船長〉はヒュウのほうを見た。
「ふーん!」
ヒュウは、いそいで話しだした。
「船長、ぼくが言いたい要点は……重さのないところの、ある場所へ行くと、〈船〉は動いているというわれわれの信仰が真実であることを、実際に見ることができ、〈ジョーダンの計画〉がおこなわれている有様を、実際に見られるということなのです。これは、信仰の否定ではなくて、より強めるものです。わたしの言葉どおりを受けとっていただけなくとも、ジョーダン自身が証明してくれることなのです」
〈船長〉が決めかねているのに気づいたタイラーは、口をはさんだ。
「船長。この信じがたい状況には、納得できる説明があり、それを申しあげるのが、わたしの義務だと心得ます。まず、ホイランドの途方もない話には、二つの解釈ができます……かれは単に、極端な異端の罪を犯しているだけなのか、あるいは、その心がミューティであって、あなたをかれらにつかまえさせる計画を考えているのかもしれません。ですが、三つめの解釈も考えられます。それは、もっと寛大な説明であり、わたしは、これこそたぶん真実であろうと感じるものです。
記録によりますと、ホイランドは出生検査にあたって、〈転換炉〉に入れられることを真剣に考慮されました。だがかれの異常さは、単に頭が大きすぎるというだけのことでしたので、かれは合格となりました。かれがミューティにとらえられてから受けた恐ろしい経験は、ついにその不安定な心をひずめてしまったのであろうと思われます。この気の毒な男は、自分の行動については責任がないのです」
ヒュウは、タイラーを見直した。無罪にすると同時に、ヒュウを確実に〈旅〉におくりこむ──なんと見事なものだ!
〈船長〉は手をあげ、エルツに言った。
「もう充分聞いた……きみの勧告は?」
「はい、船長。転換炉です」
「よろしい……ときにエルツ、わしにはわけがわからんな。なぜこういうつまらんことに頭を使わなければいかんのか。おまえの局内のことは、わしの助けなしに、規則どおりやれるはずだと思うがね」
「はい、船長」
〈船長〉は、机から身体をうしろに引いて立ちあがりかけた。
「勧告を認める……閉廷」
あまりのいいかげんさに、ヒュウの全身を怒りが渦巻いた。かれらは、ヒュウが自分を弁護するただひとつの証拠を見てみようともしないのだ。かれは叫んだ。
「待ってくれ!」
〈船長〉は立ちどまって、かれをながめた。
「待ってください」ヒュウは話しだした。言葉は自然に流れ出ていくようだった。「あなたがたは、すベての答を知っているということに、あまりにも確信がありすぎるんだ。だから、あなたがた自身の眼で見てくれという当然な願いをも聞いてくれようとしない。それでも……それでも……〈船〉は動いているんだ!」
ヒュウは、転換炉用の電圧があがるまで一部屋に閉じこめられたので、考える時間はたっぷりとでき、自分の犯した間違いに気づくこともできた。
すぐエルツに話したこと──それが間違いの第一だった。いままで本当に親しくしたこともなかった男の友情にたよろうとするようなことはせず、待って、その人間と親しくしなおし、あたってみるべきだったのだ。
二番目の間違いは、モート・タイラーだった。かれの名前を聞いたとき、かれがエルツとどれぐらいの関係にあるのか、調べてみるべきだったのだ。昔のかれを知っているのだから、もっとよく知っておくべきだった。
とにかくいま、ミュータントと……あるいは異教徒と宣言されて、ここにいる。いずれにしても同じことだ。ミュータントはどうして発生したのかということを、説明すべきだったのだろうかと、かれは考えた。そのことは、ジョウ=ジムの持っている古い記録で学んだのだ。いや、そんなことをしても無駄だったろう。聞いている者が、〈外《そと》〉などというところは無いと信じているのに、〈外〉からの放射線がミュータントの発生を招いたなどと、どうして説明できるのだ? だいたい、〈船長〉のところへ連れていかれるようなことからして、失敗しているんだ。
自分の心を責めていたヒュウは、とつぜんドアの鍵がはずれる音に、はっとわれにかえった。そうたびたび出るわけでもない食事にしては、早すぎる。かれは、ついに連れていかれる時が来たのだと思い、だれかをいっしょに道連れにしてやろうと考えた。
だが、かれは間違っていた。やさしく、そして威厳のある声がした。
「息子よ。どうして、こんなことになったんだね?」
最初の教師、ネルスン中尉だった。以前よりずっと年寄りになっており、身体も弱っているようだった。
この会見は、二人ともに、がっかりするものだった。子供のなかった老人は、この被保護者に大きな望みをかけ、そのうち〈船長〉にもなってくれるかと願っていたのだ。だが、若い者をあまり高く評価することはよくないと信じて、自分の望みを代りにかなえてもらおうということは、伏せていたのだった。そして、ヒュウが行方不明になったとき、老人の心は傷ついたのだった。
いま、かれは大人になってもどってきた。だが、不名誉な状況でもどってきたのであり、死刑を宣告されているのだ。
この会いかたは、ヒュウにとっても悲しいものだった。かれはこの老人を愛し、かれなりに老人を喜ばせ、同意してほしかった。だが話してみると、ネルスンは、ヒュウの心が変になったからだとしか考えられず、教えを嘲笑しながら生かせておくより、すぐに〈転換炉〉で死を迎えて、水素に分解され、有益な動力と変わったほうがいいと思っているのだ、ということがわかったのである。
この点でヒュウは老人を誤解していた。ネルスンは情ぶかくはないが、〈科学〉に対する盲信ぶりは大したものだと。だが、ヒュウのためにこれは言っておこう──いま問題となっているのが自分だけの幸福にすぎなかったから、ヒュウは、恩人の胸を痛ませるより、自分の死を選んだであろうということだ──ロマンチックであり、ちょっと馬鹿げてはいるが。
やがて、老人は帰ろうと立ちあがった。訪ねてきたことが、おたがいに耐えられないことになってきたのだ。
「なにか、してあげられることはないかい? 食事はいいかね?」
「非常にいいです。ありがとう」
と、ヒュウは嘘をついた。
「なにがほかに?」
「なにも……ああ、タバコをちょっと送ってくれませんか。長いあいだやっていませんから」
「そいつはひきうけた。だれか会いたい者はいるかね?」
「え、面会は許されないんだと思っていましたが……ふつうの客は」
「そのとおりだ。でも、規則はゆるめられるだろうと思うよ。だが、おまえの異端の説を聞かせないと約束してくれなければいけないよ」
老人は心配そうに、そうつけ加えた。
ヒュウは急いで考えた。新しい可能性が生まれてくるかもしれない。伯父か? だめだ。伯父とはずっとうまくいってはいたが、心がぴったり会っていたわけじゃない……おたがいに他人同様だったのだ。ヒュウは、容易に友だちをつくらないたちだった。エルツは親しいほうだったが、いまはどうだ! そのうちかれは、村の友だちのことを思いだした。いまはどうだ! 子供のとき遊んだアラン・マホーニイ。ネルスンの見習いになったときから、ぜんぜん会ったことはないが、でも……
「アラン・マホーニイは、まだ村にいますか?」
「ああ。なぜ?」
「もし、来てくれるなら、会いたいんです」
アランは、心配そうに落ちつかない様子で現れたが、ヒュウに会えたのを喜び、そのうち、かれが〈旅〉をする宣告を受けたことを知って、ひどくおどろいた。ヒュウは、アランの背中をたたいて言った。
「きみは、きっと来てくれると思っていたよ」
「もちろん来たさ。きみのことを聞いたからな。だが、村の者はだれも知らないんだ。〈証人〉だって知らないと思うよ」
「とにかく、きみは来てくれた、きみのことを話してくれ。結婚したかい?」
「いや。ぼくのことを話したりして時間をむだにするのはよそう。とにかく、ぼくには何の変りもないんだ。いったい、ジョーダンの名において、どうしてまた、こんな面倒なことになったんだい、ヒュウ?」
「それは言えないんだ、アラン。ぼくは、ネルスン中尉と約束したんだ。口に出さないってね」「そんな約束がどうした……きみは面倒なことになっているんだぞ」
「ぼくが気づいていないとでも言うのか!」
「だれが、きみをこんな目にあわせたんだ?」
「え……幼友達のモート・タイラーは、別に助けてくれはしなかったよ。これぐらいのところは言ってもいいだろう」
アランは口笛をふいて、ゆっくりとうなずいた。
「それでだいぶわかるよ」
「なんだと? きみは何か知っているのか?」
「たぶんな、知らんかもしれん。きみが行ってしまったあと、あいつはエドリス・バクスターと結婚したんだ」
「そうか、ふーん……それでだいぶはっきりした」
かれは、しばらく黙っていた。
そのうちにアランは口をひらいた。
「なあ、ヒュウ。ここにじっと坐ったまま、待っているつもりじゃないだろうな? タイラーのやつが一枚かんでいるというのに……きみを何とかして、ここから外に出さなくちゃあ」
「どうやって?」
「わからん。襲撃でもするか。ナイフは手に入れられると思うよ……それから加勢してくれるやつも。みんないいやつだ、喧嘩は下手だが」
「それで、かたがつくと、ぼくらはみな〈転換炉〉ゆきか。きみも、ぼくも、きみの友達も。いや、そんなのはだめだ」
「でも、何とかしなくちゃあ。ぼんやりここに坐って、焼かれるのを待ってはおられんよ」
「それはわかっている」
ヒュウはアランの顔をながめた。こんなことを頼めるだろうかと。
「なあ……きみは、ぼくをここから出すためなら、どんなことでもやってくれるか?」
「そんなこと、わからないのか?」
アランの口調は、心を傷つけられたようだった。
「よし。じゃあ、ボボという小人がいるんだ。そいつを見つけるには……」
アランは、上へ上へと昇っていった。子供のころにヒュウが連れていったところよりも高く、向う見ずな危険の中へ。かれは昔にくらべると、ずっと年をとり、保守的になっていて、度胸もなくなっていた。何度も通ったことのある下の階から離れる危険そのものに加えて、道徳的な無知もあった。だが、それでもかれは昇っていった。
ここがその場所にちがいない──勘定をまちがえたのでなければ。だが、小人の姿は見えなかった。
ボボのほうが、かれを先に見つけた。パチンコの弾丸は、アランのみぞおちに命中した。それでもかれは叫んでいた。
「ボボ!」
ボボは、ジョウ=ジムの部屋へうしろ向きに入ってゆき、双生児の前に荷物を落として、誇らしげに言った。
「新しい肉」
ジムは無関心に答えた。
「そうだな……おまえのだ、持ってゆけ」
小人は、親指をねじまがった耳にあてて言った。
「おかしい……こいつ、ボボの名前知っている」
ジョウは、読んでいた本から顔をあげた──ブラウニング詩集、月世界出版三・五クレジット。
「そいつはおもしろい。ちょっと待て」
ヒュウはアランに、ジョウ=ジムの姿を見てもおどろかないように、教えてあった。わりあい短いあいだに、かれは話ができるようになった。ジョウ=ジムは何も言わずに聞いており、ボボはおもしろそうにしていたが、わけはわからないようだった。
アランが話しおわると、ジムは言った。
「ジョウ、おまえの勝ちだ。やつにはできなかった」
それからジムは、アランのほうに向いて言った。
「おまえがヒュウにかわるんだ。チェッカーはできるか?」
アランは、二人の顔をかわるがわるながめて言った。
「わからないんですか? あなたがたは、何もしようとしないんですか?」
ジョウは面くらったようだらた。
「おれたちが? なぜ?」
「あなたがたにやってもらわなければ……わからないんですか? ヒュウは、あなたがたに望みをつないでいるんですよ。ほかには頼む人がひとりもいないんです。だからぼくが来たんです」
ジムは、のんびり答えた。
「ちょっと待った。しっかりしろよ。かりに、おれがあいつを助けたいと思うとするよ……そんなことはしないがね……いったい、どうすれば助けられるというんだ? それを言ってみろ」
アランは、その馬鹿さ加減にあきれてどもった。
「そ、そんな……もちろん、救助隊を作って下へ行き、助け出すんです!」
「どうして、おまえの友達を助けるために戦って、おれたちが殺されなければいけないんだ?」 ボボは、耳をぴくりと動かし、勢いこんでたずねた。
「戦うか?」
ジョウは首をふった。
「いや、ボボ。戦わない、話すだけだ」
「へえ」
ボボは、つまらなそうに黙りこんだ。
アランは小人をながめた。
「もしボボとぼくを……」
ジョウは短く答えた。
「だめだ。そんなことは問題にならん」
アランは部屋の隅に坐り、絶望して両膝をかかえていた。ここから脱げ出すことさえできたら、下へ行って、すこしは加勢をかきあつめられるだろう。小人はどうやら眠っているようだ。といっても、あまり信用はできないが。ジョウ=ジムのほうも眠っていてくれれば。
ジョウ=ジムが眠る気配はなかった。ジョウは読書を続けようとしていたが、何度もジムが邪魔をした。二人の話していることは、アランには聞こえなかった。まもなく、ジョウの声が大きくなった。
「おもしろいからというのか?」
「ああ……チェッカーよりはましだろう」
と、ジムが答えた。
「そうかい? もしおまえが眼の玉を突き刺されたとしたら……おれは、どうなると思うんだ?」
「ジョウ、おまえは老いぼれてきたんだ。もうおまえには、ぜんぜん若さってものがないんだよ」
「おまえとおれとは同じ年なんだぞ」
「ああ。だがおれには、若々しい考えがあるんだ」
「おまえの言うことを聞いていると、くさくさするよ。好きなようにやれ……だが、あとでおれをうらんでみても知らんぞ。ボボ!」
小人はすぐに飛びおきて身がまえた
「うん、ボス」
「スクオッティとロングアームとビッグをつれてこい」
ジョウ=ジムは立ちあがって、ロッカーのところへゆき、ナイフを出しはじめた。
ヒュウの耳に、牢の外がわの通路で騒動がおこったのが聞こえできた。〈転換炉〉へ連れてゆく番人が来たのかも知れないが、それならこうも騒々しくはしないはずだ。それとも、かれには関係のない何かにぎやかなことなのかも知れない。あるいは、ひょっとすると……
そうだった。ドアが勢いよくひらき、アランが、かれの名を大声で呼びながら飛びこんできて、ナイフを両手に持たせた。ヒュウはベルトに二本をはさんでドアの外へ走り出ながら、さらにもう二本を受け取った。
外に出るとジョウ=ジムがいた。むこうは、すぐにはこちらを見なかった。まるで、自分の部屋で的にあてる練習をしているように、おちついてナイフを投げているのだ。ボボは首をさげ、傷から血を流しながらも、口を大きくあけて笑いながら、パチンコに弾丸をはさんでは飛ばしていた。ほかにも三人いた。その二人は、ヒュウの知っているやつだった。ジョウ=ジムが個人的にやとっている用心棒で、生れた場所のせいでミューティの仲間にはなっているが、奇型にはなっていなかった。
そのほかにも、通路には倒れて動かなくなっているのが何人かいた。
アランは怒鳴った。
「来い! すぐもっと来るぞ」
かれは右のほうへ通路を走っていった。
ジョウ=ジムはナイフを投げるのをやめて、そのあとに続いた。ヒュウは、左のほうへ逃げてゆく一人のほうへ、ナイフを投げた。ねらいはまずく、血を出させたかどうかを見る暇もなかった。みんなは通路を走っていった。ボボは、楽しみを捨てるのが厭だというように、いちばんうしろからやってきた。中央通路と横道が交叉するところへ達した。
アランはみんなを右のほうへ導いて怒鳴った。
「すぐ前に階段だ!」
そこに達することはできなかった。階段から十ヤード手前まで近づいたとき、めったに使われたこともないドアが音をたてて閉まったのだ。ジョウ=ジムの用心棒は、逃げ道を断たれて、とまどったように主人の顔をながめた。ボボはドアをこじあけようとして、太い爪を傷つけた。
うしろからは追手の声が、はっきりと聞こえてきた。
「進退きわまったな……ジム、気にいったかい」
ジョウは静かにそう言った。
ヒュウは、いま出てきた通路の角に、一人の男の頭が現れたのを見た。ナイフを投げたが、距離が遠すぎたので、ナイフは鉄板にあたって音をたてただけだった。その頭は姿を消した。ロングアームはその場所をねらって、パチンコをかまえた。
ヒュウはボボの肩をつかんだ。
「おい! あの電灯が見えるか?」
小人は、愚かそうな眼をしばたたいた。ヒュウは、通路の交叉点の天井についている螢光管を指さした。
「あの明かりだ。交叉しているところに命中させられるか?」
ボボは眼でその距離をはかった。この距離では、どんな状況でもむずかしいことだった。いつものところよりずっと重さがましていることも考えなくてはいけないのだ。
ボボは、何も言わなかった。パチンコがうなった音が聞こえ、ついでガラスのくだける音とともに、通路はまっ暗になった。
「さあ、走るんだ!」
ヒュウは叫んで、みんなを走らせた。交叉点にくると、かれは怒鳴った。
「息をつめろ! ガスだ!」
天井のこわれた螢光管から放射性のガスがゆっくりとながれ、緑色の霧のように通路にたちこめていた。
ヒュウは、照明用の回路を知っていたことに感謝しながら右へ走っていった。方向は間違っていなかった。前方の通路はまっ暗だった。ボボがこわした螢光管の向こうから、電流は来ていたのだ。まわりで足音がしていたが、仲間か敵かわからなかった。
みんな明るいところへ出た。そこに見えているのは農夫だけだったから、みなおどろいて逃げていった。急いで点呼を取ってみると、みんなそろっていたが、ボボがひどく苦しそうにしていた。
ジョウはかれを見た。
「ガスを吸ったらしいな。背中をたたいてやれ」
ビッグが力まかせにたたいた。ボボは、はげしくもどしてから、ニヤリと笑った。
「よくなるさ」
と、ジョウは断言した。
このすこしの遅れで、すくなくとも一人が追いついてきた。そいつは暗闇の中から、待ちかまえているものに気づかずにか、なんとも思わずに飛び出してきた。アランは、ナイフを投げようとしたビッグの腕をとめて怒鳴った。
「おれにまかせろ。やつはおれのだ!」
そいつはタイラーだった。
「決闘するか?」
アランはナイフをかまえて挑戦した。
タイラーは相手をひとりひとり眺めてゆき、決闘を承知してアランに飛びかかっていった。そこはナイフを投げるにはせますぎたので、二人はあいだをつめ、おたがいのナイフを避けて、つかみあった。
アランのほうが大きく、力も強かったが、タイラーのほうが抜け目がなかった。かれは膝でアランの急所を突きあげようとした。アランはそれをはずして、タイラーのもう一方の足を蹴り、二人は倒れていった。
すぐアランは、太ももでナイフをふきながら言った。
「行こう、おれはこわいよ」
みんなは階段に達し、いそいで昇っていった。ロングアームとビッグは先にたって各階とも両翼を守り、三番目の用心棒、スクオッティは、うしろを守っていた。ほかの者は、そのあいだにはさまれて進んでいった。
ヒュウが、やっと安全になったと思ったとき、叫び声がひびき、かれの頭をかすめて飛んできたナイフが、壁にあたって大きな音をたてた。上の階に達したところを、ねらわれたのだ。
三人の男が床に手をついていた。ロングアームは腕にナイフを突きたてられていたが、そう参っているようではなかった。そのパチンコはまだゆれており、ビッグはナイフがなくなったので、床に落ちているのを急いで集めていた。仕止めた相手がいた。二十フィートほど離れたところに倒れている一人の男は、太ももにナイフを刺されて血を流していた。
そいつが片手を隔壁にあてて起きあがり、ベルトを探ったとき、ヒュウはそいつがだれかわかった。
ビル・エルツだ。
かれは、自分の命をかけて、別の道からやってきて襲いかかったのだ。ボボはヒュウのうしろからやってきて、太い腕をのばした。ヒュウはその腕をつかんで言った。
「ボボ、かるくやってくれ。みぞおちを、かるくな」
小人はとまどったようだったが、言われたとおりにした。エルツは身体を二つに折って床に倒れた。
「うまくあてたぞ」
とジムは言い、ヒュウは命令した。
「そいつをかついでくるんだ、ボボ。まん中にいるんだぞ」
かれは階段のいちばん上にかたまった仲間を眺めた。
「よし。みんな……行こう! 気をつけろよ」
ロングアームとビッグは、つぎの階へ走ってゆき、ほかの者はあとに続いた。ジョウは妙な顔をしていた。いまはなぜだか……ジョウ=ジムが一行の指揮者であることは終りを告げ、ヒュウが命令をくだしているのだ。だがジョウは、文句を言っているときではないと考えた。そんなことをしていたら、みんな殺されてしまうのだ。
ジムのほうは、気にとめている様子もなかった。実際、かれは面白がっているようだった。
かれらは、それから十階のあいだ、組織だった抵抗も受けずに進んでいった。ヒュウはみんなに、不必要に農夫を殺すなと命令した。三人の刺客はその命令に従い、ボボのほうは、エルツという重い荷物をかついでいるので、それにそむくどころではなかった。ヒュウはもう三十階以上あがってきており、もう用心しなくてもいい無人地帯に達していることに気づいた。かれはそこでみんなにとまれと言い、傷を調べることにした。
深い傷は、ロングアームの腕と、ボボの顔だけだった。ジョウ=ジムはそれを調べて、出かけてくるときに用意してきた細帯を巻いた。ヒュウは傷の手当をしてもらうのを断って言った。
「もう血は出ていません。それにぼくには、することがたくさんあるんです」
ジョウは答えた。
「おまえには、のんびりするほか、もうすることはないよ。こんな馬鹿げたことは終りなんだ」 ヒュウは首をふった。
「いいえ。あなたがたは家へおかえりください。でも、アランとぼくとボボは、重さのないところへ昇ってゆきます……〈船長のベランダ〉へ」
ジョウはたずねた。
「無意味だな。なぜなんだ?」
「もしよければ、いっしょに来て、見てみられませんか。さあ、みんな、行こう」
ジョウは口をひらこうとしたが、ジムが黙っているので、やめにした。ジョウ=ジムは、ついてきた。
かれらは、ゆっくりとドアをぬけて、ベランダへ漂っていった。ヒュウ、アラン、ボボ、まだその肩にぐったりとしている荷物……そして、ジョウ=ジムだった。
「あれだ」
ヒュウは、すばらしい星々に手をふってアランに話しかけた。
「あれが、きみに話していたものだ」
アランは眺め、ヒュウの腕をつかんでうめいた。
「たすけてくれ! 落ちてしまうよ!」
かれはしっかりと両眼をつぶった。ヒュウはその肩をゆすぶって言った。
「大丈夫、眼をあけるんだ」
ジョウ=ジムは、ヒュウの腕にふれた。
「なんのまねだ? なぜおまえは、そいつをここへ連れてきたんだ?」
かれはエルツを指さした。
「ああ、かれですか……つまり、かれが眼をさましたら、星を見せてやるんです。船が動いていることを証明してやるんです」
「ほう? なんのために?」
「それから、かれを下に送りかえして、ほかの連中を信じこませるんです」
「ふーん……それでもし、おまえと同じように、うまくいかなかったら?」
ヒュウは肩をすくめな。
「つまり、そのときは……もう一度はじめから、やりなおさなければいけないだけですね。みんなを信じこませられるまで。ぼくらは、どうしてもやらなくちゃあ、ね」
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第二部 常識
ジョウ、ジョウ=ジムの右側の頭は、ヒュウ・ホイランドに話しかけた。
「わかったよ、かしこいの。おまえは機関長を信じさせた……」
かれはナイフの刃をビル・エルツのほうに向け、それから、ナイフの先でジムの歯をつつく仕事にもどった。
「それで? いったいどうなるというんだ?」
ヒュウ・ホイランドは、いろいろと答えた。
「そのことは説明しました……ぼくらは続けるんです。〈船〉の中にいる科学者のすべてが、船長からいちばん若い見習生までが、〈船〉は動いていることを知り、われわれで動かすことができるのだということを信じられるようになるまで。それからぼくらは、ジョーダンの意志のとおり、〈旅〉をやり終えるんです。ナイフは何本ぐらい集められます?」
「おい、ジョーダンの名において、よく聞け! おまえは、おれたちがその気道いじみた計画を助けるというような馬鹿げたことを、考えているとでもいうんじゃないだろうな?」
「もちろん。あなたがたは、どうしても必要ですよ」
「じゃあ、もっとほかのことを考えたほうがいいな。そのことはもう終りだ。ボボ! チェッカー盤を出せ」
「|OK《オーケー》、ボス」
頭がいやに小さな小人は背中を曲げたまま床の銅板におきあがり、ジョウ=ジムの部屋を横切っていった。
「待った、ボボ」
左側の頭のジムが言った。小人はぴたりと立ち止り、そのせまい額に皺をよせた。かれの二つ頭の主人が、ときどきボボのするべきことについて意見があわないことがあるのは、その静かながら血に飢えた生活に、いささか不安を感じさせるものであった。
ジムは続けた。
「やつの言いたがってることを聞こうじゃないか。面白いかもしれないぜ」
「面白いか! おまえの肋骨《あばら》にナイフを突きさされて面白いか。言っとくが、それはおれの肋骨《あばら》でもあるんだぞ。おれは不賛成だね」
「おまえに賛成してくれとは言ってないよ。おれは聞いてやれと言ってるんだ。それを面白がるだけでいないことが、おれたちの肋骨《あばら》にナイフを突きたてられないようにする、ただ一つの方法かも知れないんだ」
「どういうつもりだ?」
ジョウは、おかしいなというようにたずねた。すると、ジムは捕虜のほうに親指をむけて答えた。
「エルツの言ったことを聞いたろう……〈船〉の士官たちは、上のほうの階を一掃する計画をしている。おまえ、〈転換炉〉へ入れられたいのか、ジョウ? おれたちが水素に分解されたあとではチェッカーもできないんだぞ」
「ちぇっ! 船員がミューティをみな殺しになどできるものか……前にもやったことだ」
ジムはエルツのほうを向いた。
「どうなんだ、そのことは?」
エルツは、自分の立場が、上級士官から戦争捕虜に変わったことを、強く意識しながら、すこしおずおずと答えた。あまりにも多くのことが、あまりにも短時間に起こったので、かれはとにかく酔っぱらったようになっていたのだ。誘拐され、〈船長のベランダ〉に監禁され、そこで星々を見つめたのだ──恒星の群を。
かれのこちこちの合理主義には、そのような概念は含まれていなかったのだ。もし地球の天文学者が、地球が地軸を中心にして回転するのは、だれかがクランクをまわすからなのだということを、実際に実験してみせられたら、物事を判断するのがどんなに混乱してしまうかは、エルツの場合と同じようなものであるだろう。
それに、かれは自分自身が生きのびられていることも、微妙なバランスにのっていっていることも、強く感じていた。ジョウ=ジムは、かれがナイフとナイフで戦った相手以外に、上の階のミューティではじめて会った男だった。この男から、床をはいまわっているあの醜い小人にひとこと言われたら──
かれは言葉に気をつけながら言った。
「こんどは、船員が成功するだろうと思います。われわれ……かれらは、そのために編成しなおしました。われわれが考えているより、ずっとあなたがたの数が多く、より良く編成されていないかぎり、そのとおりになるだろうと思います。とにかく……つまり、その、編成したのは、わたしなのですから」
「おまえが?」
「そうです。評議員のほとんどが、ミューティを野放しにしておく政策に反対しています。それが、信心深い教義どおりなのか、それともそれに反するものか、それはわかりませんが、わたしたちは、子供をなくしたり豚がいなくなったりするのが、困るのです」
ジムは、噛みつくように言った。
「ミューティが何を食えばいいと思ってるんだ? 薄い空気か?」
「いや、そんなことは思いません。とにかく、新しい政策は、みな殺しにするというようなものじゃないんです。降伏し、みんなと協調できるミューティならだれでも、主人につけて、船員の一員として働かせようと、わたしたちは計画しました。それは、どんなミューティでも、その……つまり……」
かれはとまどったように話すのをやめ、前にいる二つ頭の怪物から眼をそらした。
ジョウは、気を悪くした声で言いだした。
「おまえは、おれのような肉体上の突然変異《ミューテーション》じゃないものならだれでも、と言いたいんだろう。そうだろう? おれたちのようなのは転換炉ってわけだな?」
かれは、ナイフの刃をいらいらと掌にたたきつけた。
エルツは、手をベルトのほうへ上げながらたじたじと離れた。だが、ナイフはなかった。かれはナイフなしでは、裸になったようで頼りなかった。かれは自分を守るような口調で言った。
「ちょっと待って、あなたがたが、わたしにたずねたんです。それがいまの状況ですが、わたしの手は離れました。わたしはただ、お話ししただけです」
「こいつのことは放っておけよ、ジョウ。こいつはただ、正直にありのまま言ってるだけなんだぞ。おれがおまえに言っていたのと同じことになるぜ……ヒュウの計画で進むか、それとも、狩り立てられるのを待つかだ。こいつを殺すなんてことを考えるなよ……おれたちには、こいつが必要になるんだからな」
ジムはそう言いながら、ナイフを鞘にもどそうとした。この双生児のあいだで、ほんのちょっとのあいだ、その右手の運動神経をどう司るかということについて、沈黙の争いがあった。肉体的な動きにはならない意志の衝突であった。ジョウはそれに負けた。
「わかったよ……でも、もしおれが転換炉へ行くことになったら、おれはこいつをいっしょに連れていきたいもんだな」
そう、いまいましそうに言うと、ジムは答えた。
「やめろよ。おまえには、おれって連れがあるじゃないか」
「なぜおまえは、こいつを信用するんだ?」
「こいつは、嘘をついたところで、べつにとくをしないんだからな。アランにたずねてみろ」
ヒュウの友達であり幼な馴染のアラン・マホーニイは、眼をまるくしてその口論に聞き入っており、口をはさまなかった。かれもまた、外の星々を見て、魂をゆすぶられるほどの恐ろしい経験をしたが、その無知な農夫の心は、機関長エルツのようにはっきりした意見は形作られなかった。エルツは、かれの計画や、かれの信じていたすべてのことを変えてしまう、〈船〉の外にある世界という存在そのものを、ほとんど一瞬のうちに理解することができた。だが、アランのほうは、ただ驚嘆するだけだったのである。
「アラン、ミューティと戦うというこの計画はどうなんだ?」
「え? ぼくは何も知りません。なんといったって、ぼくは科学者じゃないんですから。ちょっと待ってください……ぼくたちの村の科学者を手伝いに派遣された下級士官がありました、ネルスン中尉といって……」
かれは口ごもり、面くらっているような顔になった。
「それがどうした? 話せ」
「ええ、その人はぼくたちの村の候補生を編成していました。既婚者もです、そう多くではありませんでしたが。その連中に、ナイフとパチンコを練習させていました。でも、何のためなのかは、ぜんぜん教えませんでしたが」
エルツは両手をひろげた。
「おわかりでしょう?」
「わかったよ」
ジョウは憂鬱そうにそう答えて、うなずいた。
ヒュウ・ホイランドは、勢いこんでかれを見た。
「じゃあ、あなたがたは、ぼくに賛成ですね?」
「まあそういうところだな」
とジョウが言うと、ジムはすぐに言った。
「そのとおり!」
ホイランドはエルツをふりかえった。
「あなたはどうなんです、ビル・エルツ?」
「どちらを選ぶなんてことが、わたしにできるとでも言うのかい?」
「あなたに、心から賛成してほしいんです。計画はこうです……船員は入れません、われわれが信じこませなければいけないのは、士官たちです。星々と操縦室を見たあと、そうまで馬鹿でも頭が固くもなくて理解できる連中は残しておきます。そのほかは……」
ヒュウは、シュッとはげしい音を口で出しながら、咽喉《のど》もとを親指で横に切った。そしてあとを言った。
「……転換炉です」
ボボは、うれしそうに笑って、そのまねをし、同じような声を出した。
エルツはうなずいた。
「それから、どうするんだ?」
「ミューティも船員も、新しい船長のもとにかたまって、みんなで船を、迫がなるケンタウリへ動かすんです! ジョーダンの意志を成しとげるんです!」
エイツは立ちあがってホイランドと向きあった。いっぺんにつかむには、あまりにも大きく頭の痛い考えだった。だが、ジョーダンの名において! かれはそれが気にいった。かれはテーグルの上に両手をひろげて言った。
「きみの言うとおりやるぞ、ヒュウ・ホイランド!」
エルツの前のテーブルに、ナイフが落ちて音を立てた。ジョウ=ジムのベルトから抜かれたものだった。ジョウはおどろいた顔をして、兄弟に話しかけようとしたが、すぐによしたほうがいいと思ったようだった。エルツは、ほっとした眼つきになって、そのナイフをベルトにはさんだ。
双生児は、しばらくささやきあっていたが、やがてジョウが言いだした。
「ナイフにかけて誓ったほうが良さそうだな」
かれはもう一本のナイフを抜くと、その刃を親指と人さし指にはさんで切先だけを出し、左腕の上膊の部分を突き刺した。
「ナイフにかけて!」
エルツの眉はあがった。かれは、いまもらったばかりのナイフを抜き、同じ場所を切った。血がふき出て、肘のほうへ流れ出した。
「おたがいの血にかけて!」
かれはナイフを横に置き、血まみれの肩を、ジョウ=ジムの傷口に押しつけた。
アラン・マホーニイ、ヒュウ・ホイランド、ボボ──みんながそれぞれのナイフを出し、皮膚にまっ赤な血が流れ出すまで、おたがいの腕を切った。そしてみんなは寄り集まり、血の出ている肩をおしつけあったので、血はいっしょになって甲板《デッキ》へしたたり落ちた。
「ナイフにかけて!」
「血と血にかけて!」
「血をわけた兄弟だ……旅の終る日のために!」
脱走した科学者、誘拐された科学者、ただの農夫、二つ頭の怪物、白痴のような小人──ジョウ=ジムを一つと数えて五本のナイフ。ジョウ=ジムを二つと数え、ボボをゼロと数えて、五つの頭脳だ──すべての文化をひっくりかえすための、五つの頭脳と五本のナイフだ。
アランは両足をふり、頑固に言った。
「でもぼくは戻りたくないよ、ヒュウ……なぜここに、きみといっしょにいられないんだ? ぼくはナイフを使うのはうまいぜ」
「たしかにそうだ、アラン。だが、いまのところ、きみはスパイにしたほうが、もっと役に立つんだよ」
「でも、そのためには、ビル・エルツがいるじゃないか」
「そうだ、だがぼくらには、きみも必要なんだ。ビルは良く知られている。かれは、気づかれたり噂になったりせずに、抜け出して上の階へ昇っていったり出来ないよ。そこで、きみが必要になるんだ……きみは、エルツとの仲介者になるってわけだ」
「ぼくは、どこに行っていたのか説明するのに、ハフ(いや)というほど時間をとられるぜ」
「どうしても仕方がないことのほか、何も説明しないことだな。証人からは離れているんだぜ」 ヒュウはとつぜん、アランが年老いた村の歴史屋を欺そうと苦労しているところを思い浮かべたのだ。細かいところまで知ろうと、執念ぶかく問いつめる証人の姿を。
「証人から離れているんだ。あの老人は、きみをひっかけるだろうからな」
「かれが? きみの言ってるのは、年寄りのほうか……あの人は死んだよ。ずっと前に〈旅〉に出たんだ。新しく証人になったのは、ぜんぜんだめなやつさ」
「そいつはうまい。気をつけていれば、きみは安全だ」
ヒュウは大声を出した。「ビル! 下へ降りる用意はできたかい?」
「ああ、いいよ」
エルツは、のんびりと読んでいた本を横に置いて立ち上がった──挿画入りの『三銃士』、ジョウ=ジムが苦労して盗んできてできた図書室の一冊だ。
「ああ、これはすばらしい本だ。ヒュウ、地球は本当にこんなのかなあ?」
「もちろんだよ。そう、本の中に書いてないかい?」
エルツは唇を噛んで、そのことを考えた。
「家《ハウス》って、いったい何だい?」
「家《ハウス》? 家《ハウス》ってつまり……船室みたいなもんだろう」
「わたしも最初はそう考えたよ……だが、きみはいったいどうやったら、船室の上にまたかれる」
「え? いったいどういう意味なんだい?」
「つまり、この本のいたるところで、みんなが家々《ハウス》にまたがって、乗っていくんだ」
「ちょっと、その本を見せてみろ」
ジョウはそう命令し、エルツはかれに渡した。ジョウ=ジムはバラバラとめくった。
「なんのことかわかったよ。馬鹿だな! 連中は馬《ホース》に乗るんだ、家《ハウス》じゃない」
「え、馬《ホース》って何ですか?」
「馬というのは動物だ。大きな豚のような、それとも、牛のような。その背に乗り、運ばせるってわけだ」
エルツは考えた。
「あまり便利だとは思えませんね。だって……あなたが駕籠《かご》に乗ったときは、かついでいる男に、どこへ行きたいかを言うわけです。でもどうやって牛に、どこへ行きたいか伝えるんです?」
「そんなのは簡単だ。人夫に引かせたらいい」
エルツはその点を考えた。
「でも、落ちるでしょうね。あまり実用的じゃありませんよ。わたしなら、歩いたほうがいいですね」
ジョウは説明した。
「そこが難しいところだから、練習が必要になるんだ」
「あなたには出来ますか?」
ジムはくすくす笑い出し、ジョウは困ったような顔になった。
「船の中に馬がいないからな」
「まあそれはいいとして、これはどうです……この連中、アトス、ポルトス、アラミスたちが持っているのは、何か……」
ヒュウは口をはさんだ。
「そのことは、あとで議論できるよ。ボボは帰ってきた。きみは行けるんだね、ビル?」
「そう急ぐなよ、ヒュウ。これは大切なことなんだ。この連中は、ナイフを持っているんだ……」
「そう。それが?」
「ところがだね、それがわれわれのナイフより良いんだ。この連中の持っているナイフは、きみの腕ぐらいの長さ……ひょっとしたら、もっと長いんだ。われわれが船員の全部を相手として戦うのなら、こんなのがあれば、どんなにいいか考えてみるんだ」
「ふーん……」
ヒュウは自分のナイフを抜き、掌に置いて眺めた。
「そうだとしても、そんなのは、うまく投げられないよ」
「投げナイフも持てるじゃないか」
「それもそうだな」
双生児は何も言わずに聞いていたが、やがてジョウが口をはさんだ。
「かれの言うとおりだ……ヒュウ、おまえは、ナイフ使いを配置しろ。ジムとおれは、ちょっと読まなければいけないものがあるんだ」
ジョウ=ジムの二つの頭の両方が、二人の持っている他の本のことをいろいろと急いで考えていたのだ。敵の生命を奪うため、人類が使ってきた無限とも思われるほどいろいろある方法について、詳しく論じてある本だ。かれらはいま、陸軍大学に兵器の歴史的研究の科を創立しようとしているところだったが、別にそんなおかしい言葉でその計画を呼びはしないだけであった。
ヒュウはうなずいた。
「はい。でも、そのことをみんなに、あなたから言ってもらわなければ」
「よし」
ジョウ=ジムは、自分の部屋から通路に出ていった。そこにボボが、ミューティの中のジョウ=ジムの部下を二十人ほどあつめていたのだ。ヒュウの救出に手を貸したロングアーム、ピ<O、スクオッティのほかはみな、ヒュウ、アラン、ビルの知らない者ばかりで……その連中は、知らない者にはすぐ襲いかかろうとする者ばかりだった。
ジョウ=ジムは、下の甲板《デッキ》から来た三人に、そばへ来いと合図した。かれは三人をミューティの前で指さし、よく見ておき、忘れないようにしろ、と命令した──この三人はどこへも自由に行っていいのだし、守ってやらなければいけないぞ。それから、ジョウ=ジムのいないときは、この三人のうちのだれからでも命令を受けたら実行しなければいけないと。
みんなは、ざわざわと騒ぎだして、おたがいに顔を見合わせた。命令を受けるのは慣れていたが、ジョウ=ジムだけからなのだ。
坐っていた男たちの中から、大きな鼻をした男が立ち上がって話しはじめた。この男はジョウ=ジムを見てはいたが、その言葉は、みんなに向けられていた。
「おれは鼻のジャックだ。おれのナイフは鋭く、おれの眼はすばしこい。賢い二つ頭のジョウ=ジムが、おれの親分で、おれのナイフは、そのために戦うんだ。ジョウ=ジムだけがおれのボスで、重い甲板《デッキ》から来たよそ者じゃあだめだ。おまえたちどう思う、殺し屋たち? それが、きまりじゃなかったのか?」
かれは話しやめた。ほかの者は、心配そうに鼻のジャックの言葉を聞いて、ちらちらとジョウ=ジムを見るのだった。ジョウは何かをそっとボボにささやいた。
鼻のジャックは、あとを続けようと口をひらいた。そのとき、歯がくだけ、首の骨が折れる音がした。その口がしゃべりだすのは、パチンコの弾丸でとめられたのだ。
ボボは、またパチンコに弾丸をはさんだ。ジャックの身体は、まだ死んではいなかったが、ゆっくりと甲板《デッキ》に倒れていった。ジョウ=ジムはそのほうに片手をふり、ジョウが言った。
「|よい食事を《グッド・イーティング》! やつは、おまえらのものだ」
ミューティたちは、とつぜん呪縛から解放されたようにその身体に群がり集まった。その身体は、大声にざわめくミューティの群で、完全に見えなくなった。ナイフを抜き、なぐり合い、おしあいながら、一片の肉を奪いあったのだ。
ジョウ=ジムは、解体がすむまで辛抱づよく待った。そして、鼻のジャックがいたところが、甲板についたわずかなしみだけになってしまい、分け前をどうするかについてのちょっとした言い争いが静まると、かれはまた話しだした──ジョウが話したのだ。
「ロングアーム、フォーティ・ワン、それにアックスは、ボボ、アラン、ビルといっしょに下へ行け。残りは、ここで待つんだ」
ボボは、〈船〉の回転の軸に近いところの低い疑似重力のため、ひと飛びで遠くまで動きながら走っていった。ミューティの三人は、集団から離れて、あとを追った。エルツとアラン・マホーニイは、追いつこうと急いだ。
いちばん近い階段の穴のところへ達すると、ボボは走るのをやめずに宙に浮かんだまま、つぎの甲板《デッキ》まで遠心力にまかせて降りていった。アランとミューティたちはそのあとに続いたが、エルツはそのはしで立ちどまり、うしろをふりかえって叫んだ。
「ジョーダンのお恵みがありますように、兄弟!」
ジョウ=ジムはかれに手をぶり、ジョウは叫びかえした。
「おまえにもな」
ジムはつけ加えた。
「|いい食事を《グッド・イーティング》!」
「|いい食事を《グッド・イーティング》!」
ボボはみんなを四十階ばかり下まで案内し、ミューティも船員も住んでいない無人地帯に達すると、そこでとまった。ボボは、ロングアーム、フォーティ・ワン、アックスと、順に指さしていった。
「二つの賢い頭は、おまえらがここで番をしろと言ったぜ。おまえが最初だ」
かれはそう言って、またフォーティ・ワンを指さした。
エルツは説明した。
「こうなんだ。アランとわたしは、重い階へ降りてゆく。きみたち三人は、ここで番をしている、一度にひとりずつな。わたしが、ジョウ=ジムへ便りを送れるようにするためだ。わかったかい?」
「ああ、わかるとも」
ロングアームはそう返事した。
「ジョウ=ジムがそう言ったのならな」
フォーティ・ワンは、きっぱりとそう言い、アックスは、わかったというようなことをつぶやいた。
「OK」
ボボは、そう言った。フォーティ・ワンは階段に腰をおろし、両足をぶらりと下げて、左の腕にかかえてきた食物に注意を向けた。
「|いい食事を《グッド・イーティング》……」
ボボは、ニヤニヤ笑いながらそう言って、エルツとアランの背中をたたいた。
やっと息をつけるようになると、エルツは礼を言い、すぐにつぎの階へ降りていった。アランは、すぐそのあとがら続いた。かれらは〈文明〉のあるところへもどるまで、またたくさんの階を降りていかなければいけないのだ。
〈ジョーダンの船長〉の副長をつとめるフィネアス・ナービイは、機関長のデスクをひっかきまわし、ビル・エルツがそこに、不必要なはずの本を二冊隠しているのを見つけて、ニヤリと笑った。もちろんそれは、ふつうの聖なる本だった。とても貴重な『補助四段階転換炉の修理と維持』それに『恒星船バンガードの動力・照明・空気調節ハンドブック』だ。それらは、ジョーダン自身の押印がある第一級に〈聖なる〉本であり、法規上、機関長だけが保管できるものであった。
ナービイは自分を、無神論者であり合理主義者であると考えていた。ジョーダンに対する信仰はいいことだ──一般船員には。とは思っていても、その本の最初のページにある〈ジョーダン財団〉という文字を見ると、かれが科学者の身分になって以来感じたことのなかった宗教的な畏敬の思いが、心の中で騒ぎ立てられるのだった。
かれは、そんな感情は非合理的なものであるとわかっていた──たぶん、過去のいつか、ジョーダンと呼ばれるひとりの男か、数人の男がいたのであろう。ジョーダンというのは、〈船〉を動かすための常識と、まるで本能にもとづいただけのような規則を、成文化した初期の技術者か船長なのだろう。
それとも、もっと正しそうに思えることは、ジョーダンの神話が、いま持っているこの本よりもずっと古いものであって、この本の著者が、自分の著作に権威をつけるため、船員のあいだの無知な迷信を単に利用しただけなのかもしれない。
ナービイは、そういうことがどうして行われるかを知っていた──かれは、ミューティもまた同じジョーダンの子として扱ってやるという新しい政策を計画し、時機が来たらそれを実行に移そうと思っていた。
そう、秩序、規則、権威に対する信頼は、いいものだ──船員にとっては。合理的な、冷静な常識が、〈船〉の安寧を守る科学者の持つべき特質であることは当然なことである──常識と、事実以外の何物をも信じないという信念は。
かれは、自分が持っている本の各頁の正確な文字の綴りかたに驚嘆した。そういった昔は、たしかに優秀な書記がいたのだ──二つの言葉を同じに印刷することもできない、いまのへたくそな職人に我慢しなければいけないのとは大違いだ。
かれはこの貴重な二冊の、機関部のハンドブックを、エルツの後任者にわたす前にしらべておこうと思った。かれ自身が船長の地位についたら、機関長の言葉にあまり頼りすぎないようにするほうがいいからな、とかれは考えたのだ。
ナービイは、技術者をあまり尊敬してはいなかった。それは主として、かれ自身が技術的な才能をもっていなかったからであるが。かれが始めて科学者の身分に達し、船員の精神的物質的幸福を守るように命じられ〈ジョーダンの教え〉を支持すると誓ったとき、かれはすぐに、転換炉の勤務についたり、動力関係で働いたりするより、行政や人事管理のほうが自分に向いていることを発見したのだ。かれは、書記、村の管理者、評議会の記録係、人事課員と勤務し、いまは〈ジョーダンの船長〉の副長となっている──そしてずっと、それぞれの地位にあったナービイの前任者たちは、不幸な、いささか奇妙な事故で、その命を失ってきたのであった。
新しい機関長が決まる前に、技術関係のことを調べておこうと決心したことで、かれの心には、新しい機関長を選ぶという問題が浮かんだ。ふつうなら、機関長が〈旅〉をしたときは、転換炉の主任監督士官が機関長になることになっている。だが今回は、そのモート・タイラーも同じ時に〈旅〉をしてしまったのだ──異端者ヒュウ・ホイランドを奪回したミューティの襲撃のあと、タイラーの、かたく冷たくなった死体が見つけられたのだ。そのため選択する相手は多くなり、ナービイは、だれを船長は推薦するべきかについて、ちょっと心を決めかねたのだ。
ひとつのことだけは、はっきりしていた──新しい機関長は、エルツのようにひどく進取の気象に富んだ男であってはいけないということだ。エルツが、ミューティ絶滅のために船員を編成することで、立派な仕事をしたことはナービイも認めていた。だがその腕の良さが、かれ自身を、もしものことがあれば船長の地位を継ぐ有力な候補者としたのだ。考えてみれば、エルツなんか選ばれるものかということに、ナービイは絶対に自信があるわけではなかった。だからこそ、現在の船長が必要以上に長生きしていることをも我慢してきたのではないか。
かれが考えたのは、いまこぞ、年老いた船長がその魂をジョーダンに捧げる良い機会かも知れぬということだった。あの太った馬鹿な老人は、役に立つことをするには、あまりにも長生きしすぎた。ナービイは、かれをおだてながら適当な命令を出させることに疲れていたのだ。もしいま、評議会が新しい船長を選ぶ必要に迫られたら、適当な候補者は、ひとりしかいないのだ──
ナービイは本を置いた、心は決まっていた。
年寄りの船長を殺そうと、あっさり決心したことは、ナービイの心に、汚辱や罪悪、あるいは不忠実といった感情などを、まったく起こさなかった。かれは嫌悪のほか軽蔑しか船長に対して感じなかったし、船長を殺すという決心を堕落した精神によって、くもらされもしなかった。ナービイの計画は、政治家としての尊い考えの上に立っていたのである。
かれは心から、その目的が全員の幸福のためであると信じていた──常識による行政、秩序と規則、すべての人への良い食事だ。そういった大切なことを達成するには、自分が最も適していると、はっきりしていればこそ、かれは自分を選んだのだ。こういったより大きな利益を得るために〈旅〉をしなければいけない人間、そういった者を、かれはすこしも惜しいとは思わなかったのだ。
「ハフの名において(いったいの意味)、わたしのデスクで、何をしているんだい?」
ナービイが顔を上げてみると、死んだはずのビル・エルツが、面白くなさそうな顔をして、そばに立っていた。かれはもう一度見なおし、ひらきかけた口を閉じた。かれはあまりにも確信していたのだ。あの襲撃のあとエルツが姿を現さなかったので、かれは〈旅〉をしたのであり、どう考えても、細《こま》切《ぎ》れにされて食べられてしまったのだと。そう信じこんでいたので、エルツが眼の前に立っており、けんか腰でピンピンしているのを見ると、心の中をぐいとひっかきまわされたように感じたのだ。だがかれは、やっと気分を落ち着かせた。
「ビル! ジョーダンのおかげだな、なんてことだ……きみは〈旅〉に行ったこととばかり思っていたよ! 坐ってくれよ、坐って、どんな目に会ったのか話してくれないか」
「わたしの椅子からのいてくれたら、話すさ」
エルツは鋭く、そう答えた。
「ああ……ごめんよ!」
ナービイは急いでエルツの椅子から離れ、別のを見つけた。
「さてと……なぜわたしの書き物を調べていたのか、説明してほしいもんだな」
エルツは、ナービイが明けた席に坐ると、そうたずねた。
ナービイは、心を傷つけられたようなふりをした。
「そんなこと、はっきりしているだろう? われわれは、きみが死んだとばかり思った。新しい機閣員が指名されるまで、だれかがきみに代って、きみの部を指揮しなければいけないんだからね。ぼくは、船長に代ってやっていたんだ」
エルツは、かれの眼を見つめた。
「ナービイ、このわたしに、そんな馬鹿なことを言うな。きみもわたしも、船長がしゃべるべき言葉を教えているのは、いったいだれか、よく知っているんだからな……われわれでよく計画したことじゃないか。わたしが死んだと思ったのだとしても、きみがわたしのデスクをひっかきまわすまでには、せめて一日以上待ってもよかったのじゃないかと思うがね」
「なあきみ……ミューティの襲撃のあとで、だれかがいなくなったら、その人は〈旅〉は出たと思うのが常識じゃないのかい」
「OK、OK、もういいよ。じゃあなぜ、当分のあいだモート・タイラーがやらないんだ?」
「かれは転換炉に入ったよ」
「殺された、ほう? でも、だれがかれを転換炉に入れろと命令したんだ? それだけの大きな量《マッス》は、たいへんな負荷になるんだぜ」
「ぼくが、ヒュウ・ホイランドの代りとしてやったんだ。このふたりの量《マッス》はほとんど同じだったし、きみから請求がでていたヒュウ・ホイランドの量《マッス》にたいする電力は、使われていなかったからね」
「ほとんど同じぐらいで、転換炉をあつかわれてはたまらないよ。しらべてみなくちゃあ」
かれが立ち上がろうとすると、ナービイは言った。
「そう興奮するなよ。ぼくだって、ぜんぜん技術のほうがわからんわけじゃない。きみがホイーランドのために用意した計画に基づいて、かれの量《マッス》を同じにけずるように命令したんだから」
「ほう……わかった、いまのところはいいとしておこう。でも、調べてはみなくちゃあ。いらん廃物が残っていてはだめだからな」
ナービイは、おだやかに言った。
「廃物といえば、きみのデスクに不必要なはずの本が二冊あったよ」
「それで?」
「そういうのは、動力用に使うべきものと決められているってことは、きみも知っているだろう」
「それで? 動力用に割当てられる物の管理者は、いったいだれなんだい?」
「きみさ。もちろん。しかし、なぜきみのデスクに入れてあったんだね?」
「はっきり言っておくよ、船長の一の子分さん。動力用の物資をどこに貯蔵するかは、まったくわたしの判断にかかっているんだ」
「ふーん、きみの言うとおりだと思うよ。ときに、もしいますぐあれが、動力計画に必要じゃなかったら、ぼくねあれを読ませてくれないか?」
「かまわないとも。ちゃんとすれば、貸し出すよ」
「ありがとう。昔の科学者の中には、生き生きした想像力を持った連中がいるんだね。もちろん、まったく気違いじみてはいるが、楽しみに読むには面白いよ」
エルツは二冊の本を出し、ナービイがサインする受取りを用意した。かれはこれを、ほかのことに気を取られながらやった。いつ、どうやってナービイにタックルするかという問題に心を奪われていたのだ。フィネアス・ナービイは、エルツとその義兄弟が企てた仕事での、鍵となるべき男だった。もしかれを、味方に引入れることができたら──
ナービイがサインすると、エルツは言った。
「ナービイ……わたしはどうも半信半疑なんだ。ホイランドの事件でわれわれの取った処置は賢明だったかどうかだね」
ナービイは驚いたようだったが、何も口に出さなかった。エルツは急いで、あとを続けた。
「いや、べつにあの男の話を信用したわけじゃないよ……だが、どうも機会を見過ごしたように感じるんだ。あいつを、ここ当分だましておくべきじゃなかったかな。あいつは、ミューティと接触があった。評議会の勢力下にミィーティの国を入れようとする、われわれの仕事で、最も障害となっているのは、われわれが連中のことをほとんど何も知らないという事実だ。われわれは、ミューティが果して何人いるのか、どれぐらい強いのか、どの程度まで組織されているのか、何も知らないね。それでいて、連中と戦わなければいけないというのは、たいへんな弱味だよ。上のほうの階がどうなっているのか、さっぱりわかっていないんだ。われわれがホイランドをしばらく相手にして、あの男の話を信じたふりをしていたら、多くの事を知ることができたかもしれないんだ」
「だがわれわれは、やつが話したことを信用するわけにはいかなかった」
ナービイはそう指摘した。
「そんな必要はなかったんだ。あいつは、重さのないところまで行って、見てくる機会を提供したんだよ」
ナービイは、胆《きも》をつぶしたようだった。
「きみは、真剣にそう言ってるんじゃないだろうな? 害を加えないというミューティの約束を信じたって、重さのないところまで昇れるもんか。〈旅〉をするだけさ……すぐにね!」
エルツは反対した。
「あまりそうとも思えないがね……ホイランドは、あいつの言ったことを信じていた……そのことは確かだ。そして……」
「なんだって! 〈船〉は〈動く〉ことができるのだっていう、あのまったく気違いじみたことをか。この、しっかりした船がだよ……だれも、そんなことを信じることはできないさ」
そう言いながらナービイは、隔壁をたたいた。
「あいつは信じたと言ってるんだ。やつは、狂信者だった……それはいいとしよう。だが、あの男は上で、何かを見たんだ。そして、あれが、かれなりの解釈だったんだよ。われわれは上へ昇ってゆき、あいつがわめきまわっていたことが、いったい何なのか見ることができ、ミューティを一掃する機会とすることができたはずなんだ、」
「そんな、向う見ずな!」
「わたしは、そうは思わないよ。あいつはきっと、ミューティのあいだで相当な影響力を持っていたにちがいない。やつらが、あの男を助けるためだけにやった、あの困難なことを考えてみろ。やつはわれわれに、重さのないところまで安全に行かせられると言ったんだ。そうできたんだと思うね」
「なぜそう急に意見を変えたんだ?」
「わたしの心を変えたのは、あの襲撃だよ。もしだれかが、ひとりの男の命を救うために、一団のミューティが高重力のところまで降りてくるぞと、わたしに伝えても、わたしはそんなことを信じなかったろうね。だが、そのとおりのことが起こったんだ。わたしは、どうしても、自分の意見を修正しなくてはいけなくなったよ。やつの話はさておき、あのミューティたちがやつのために戦い、たぶん、やつの命令を受けているのだろうってことは明らかだ。もしそれが事実なら、ミューティと戦わずにミューティを支配できるようになるんだから、あの男の宗教的な確信を利用することに値打はあったわけだ」
ナービイは肩をすくめて話をさえぎった。
「理論的には、きみの言うとおりかもしれん。だがなぜ、やれたはずだ、なんてことに時間を浪費するんだい? そんな機会があったとしても、われわれは見過してしまったんだ」
「どうかな。ホイランドは、まだ生きていてミューティのところにもどっているだろう。あいつのところへ便りを届ける方法を何か考え出すことができたら、まだその機会をつかむことができるかもしれないよ」
「どうやったらいいと言うんだい?」
「そうはっきりわかってるわけじゃない。子供を二人ほど選んで、昇らせてみたらどうかな。ミューティをひとり、殺さずにつかまえられたら、やれるかもしれないよ」
「確率はほとんどないな」
「その危険をおかしてみる値打ちはあるさ」
ナービイは、それをよく考えてみた。その計画全体がかれには、あまり見込みがなく、馬鹿げた推測に過ぎないと思われるのだ。それにもかかわらず、もしエルツがその危険を喜んで犯し、それが|うまく《ヽヽヽ》いったなら、ナービイの最大の希望は、いっそう実現に近づくことになるのだ。ミューティを力で征服することは、時間のかかる血なまぐさい仕事であり、ひょっとすると不可能なことだ。かれは、その困難さに、はっきりと気づいていた。
もしそれがうまくいかなかったとしても、失うものは何もない──エルツだけだ。さて、かれはもう一度考えてみた。この点、エルツは惜しくない。ふーん。
かれは口をひらいた。
「やってみろよ。きみは勇敢な男だ、やってみる価値のある冒険だからな」
エルツはうなずいた。
「OK……|いい食事を《グッド・イーティング》」
「|いい食事を《グッド・イーティング》」
ナービイは、エルツの言おうとしたことを感じて、そう答え、本を取って出ていった。かれはだいぶあとになるまで、そんなに長いあいだエルツがどこに行っていたのか言わなかったことを、思い出さなかった。
そしてエルツのほうは、ナービイが心から賛成したわけではないということに気づいていた。だが、ナービイの人がらを知っていたから、かれは驚かなかった。かれは、将来の行動に対する即席の提案が、そうまでうまく受け入れられたことを、ひどく喜んでいた。真実を言うことが、ずっと簡単であり、より効果的であったかもしれない、という考えは、まったく心に浮かばなかったのである。
エルツは、しばらくのあいだ、転換炉の検査や、上級監督士官をまわることにいそがしかった。そして機関部が、将来自分のいないときも大丈夫やっていけるとわかると、かれは従者に、村からアラン・マホーニイを呼んでくるように命令した。かれは駕籠を呼んで途中でマホーニイに会うことを考えたのだが、それはあまり目立つと思ってやめたのだ。
アランは熱狂的な態度で挨拶した。同期生がみな一家の主人であり、資産家となっているとき、まだ未婚の候補生であるかれにとって、自分が上級科学者と義兄弟であるということは、生まれてこのかた、もっとも重要なことであり、どうやったところでかれには理解する資格のない、ついこのあいだの冒険にもまさることであったのだ。
エルツはすぐにさえぎると、急いで機関部の事務室に通じるドアを閉め、静かに言った。
「壁に耳あり……書記にも耳があることは確かだし、口だってあるんだぞ。おまえは、ふたりとも〈旅〉に行かせたいのか?」
「ああ、そいつは、ビル……そんなつもりではなかったのに……」
「まあいいさ。ここから十階上の、わたしたちが降りてきた同じ階段のところで会おう。おまえ、勘定はできるかい?」
「ええ、それぐらい勘定できますよ。その倍でも勘定できるんです。一つと一つは二、もう一つで三、もう一つで四つ、もう一つで五つ、もう……」
「それで充分だ。おまえが勘定できることは、わかった。だが、おまえの数学的才能より、おまえの誠実さと、わたしよりナイフをうまく使えることのほうを頼りにしているよ。できるだけ早く、そこで会おう。見つからないようなところから上がっていってくれ」
ふたりがその場所へ着いたとき、まだフォーティ・ワンが見張りをしていた。エルツはパチンコや投げナイフの射程外の距離から、その名前を呼んだ。それは、まず何より先に武器を作って大人になった生き物を相手にするときの、当然な用心だった。そして、自分がだれだかはっきり認められると、かれはヒュウ・ホイランドを見つけてくれと命じた。かれとアランは、腰をおろして待った。
フォーティ・ワンは、ジョウ=ジムの部屋でヒュウ・ホイランドを見つけることができなかった。ボボは見つけたが、この小さな頭はあまり役に立たなかった。ボボは言った、ヒュウはだれでも飛ぶところへ上がっていったよと。そう言われても、フォーティ・ワンにはさっぱりわからない。生まれてから、重さのないところへは一度しか上がったことがないのだ。重さのない階というのは、〈船〉の全長にわたって伸びている。〈船〉の軸のまわりにある同心円の筒の最後にあたるものなのだ。そんなことがフォーティ・ワンにわかるはずはなかったが、とにかく、ヒュウが重さのないところへ行ったという知らせは、あまり役に立たなかったのである。
フォーティ・ワンは、まごついた。ジョウ=ジムの命令を無視してはいけないのだ。そしてエルツからの命令も、同じように守らなければいけないのだということは、かれのあまり聡明ではない心にも、はっきりわかっていたのだ。かれはまたボボを起こした。
「二つの賢い頭はどこだ?」
「ナイフ作りに会いに行ったよ」
ボボは、また眼を閉じた。
そのほうがましだった。フォーティ・ワンは、ナイフ作りがどこに住んでいるか知っていた。ミューティならだれだってあの女と取引きがある。彼女は、ミューティの国で、かけがえのない職人であり商人だった。その身体は必然的に傷つけてはいけないものとなっており、その店とその近所は、すべてのミューティにとって、中立地帯であった。かれはいそいで二階ほどあがっていった。
〈熱力学研究所……立入禁止〉と書かれたドアは、大きくひらいていた。フォーティ・ワンは文字が読めなかった。自分に関係のある名前でも命令でもだ。だが声を聞きわけることはできた。そのひとつは双生児兄弟のもので、もうひとつはナイフ作りのものだとわかった。かれは入ってゆき、話しかけた。
「ボス……」
「だまれ」
ジョウはそう言った。ジムはふり向きもせず、〈刃の母〉との議論を続けた。
「おまえは、ナイフを作るんだ、いらんことは言わんでもいい」
彼女は、そのごつごつした四本の手を、しっかりと大きな腰にあてて、ジムをじっと見つめた。その眼は、金属を熱する炉を見つめるため赤くなっていた。汗は、皺だらけの顔をつたって、上唇をなかばかくしているまばらな灰色の髭へ流れ、裸の胸へしたたり落ちていた。彼女は鋭く言った。
「ああ、わたしゃナイフを作るとも……正直なナイフをね。あんたが作れって言ってる豚殺しみたいなもんじゃないんだ。あんたの腕ぐらいの長さのナイフだって……へんだ!」
彼女は、炉のまっ赤な火にむかって唾をはいた。
ジムは平気な顔で答えた。
「まあ聞け、船員をたぶらかしてばかりいる婆さんよ。おれが言ったとおりのナイフを作るんだ。さもないと、おまえの足を、その炉につっこんで焼いちまうぞ。わかったか?」
フォーティ・ワンは、ふるえあがってしまった。だれだって、〈刃の母〉にむかって、口答えしたものなんかいないんだ。ボスはたしかに、権力者だ!
ナイフ作りはとつぜん、がっくりとなって、かん高い声で不平を言いはじめた。
「でも、それはナイフを作る正しい方法じゃないんだよ……そんなのは、うまくバランスがとれないからね。見てごらん……」
彼女は、作業台から二対のナイフをひったくると、部屋の向う端にある十字型の的にむかって飛ばした──連続してではない。四本の手をいっしょにふり、四本のナイフをいっぺんに空中に飛ばせたのだ。そのナイフは、十字のそれぞれの端に、音を立てて突き刺さった。
「ね? 長いナイフじゃ、こうはできないよ。釣合がとれなくて、まっすぐ飛ばないよ」
「ボス……」
フォーティ・ワンは、もう一度言いだしてみた。ジョウ=ジムは、ふりむきもせずに、手の甲でかれの口をたたいた。
ジムはナイフ作りに言った。
「おまえの言うことはわかった。だが、おれたちの欲しいナイフは、投げるためじゃない。近づいてから、切り、突き刺すために欲しいんだ。さっそく始めてくれ……おまえが、こんど食べるまでに、最初の一本を見たいんだ」
年取った女は、唇を噛んで、いまいましそうにたずねた。
「いつもの通りに貰えるね?」
「やるとも。ナイフの代金を払い終るまで、ひとり殺すたびに十分の一だ……それから、おまえが働いているあいだは、ずっといい食べものだ」
彼女は、その変な形になった両肩をすくめた。「OK」
彼女はふり向き、二本の左手で長くて平たい鋼鉄のかたまりを取り、炉の中につっこんだ。ジョウ=ジムは、フォーティ・ワンのほうを向いた。
「なんだ?」
と、ジョウはたずねた。
「ボス、エルツがヒュウを呼んでこいと、わしをよこしたんで」
「そうか、なぜそうしないんだ?」
「見つからないんで。ボボは、重さのないところへ行ったって言うが」
「ほう、行って見つけてこいよ。いや、だめだな……どこへ行ったら見つかるか知らないな。おれが自分でやらなくちゃいかんらしい。エルツのところへもどって、待っていろと言え」
フォーティ・ワンは、急いで去った。ボスはいいやつだ。だが、その前に長居しているのはまずいんだ。
ジムは、むっつり言った。
「さて、走り使いをさせられるってわけか……義兄弟になっているのは、どんな気分だ、ジョウ?」
「おまえがこんなことに引きずりこんだんだぞ」
「そうか? 血に誓うのは、おまえの考えだ」
「馬鹿な、おまえは、おれがなぜやったか、わかってるじゃないか。やつらは、真剣に受け取った。そしておれたちは、手に入れられる限りの助けが必要になるんだ、生きていられるためにはな」
「へえ? じゃあ、おまえは真剣にやったわけじゃないって言うのかい?」
「おまえは?」
ジムは皮肉そうな笑いを浮かべた。
「おまえとちょうど同じぐらいの真剣さだよ、おれの大事な欺し屋の兄弟よ。いまのところは、おまえもおれも、とことんまで約束を守っているほうが、ずっと身のためってわけだ……すべては目的のため、目的はすべてのためさ」
「またデュマを読んでいたんだな」
「いけないか?」
「いいさ。でも、あまり馬鹿追いするなよ」
「そんなことをするものか。ナイフのどちらに刃がついているかは知っているよ」
ジョウ=ジムは、スクオッティとビッグが、操縦室に通じるドアの外に寝ているのを見つけた。それでヒュウが中にいるにちがいないとわかった。かれがこのふたりを、ヒュウの個人的護衛として任命したのだからだ。とにかくこれは、最初からわかりきっていたことだった。もしヒュウが重さのないところへ昇っていったのなら、かれは主推進機《メイン・ドライブ》か操縦室のどちらかへ向かったはずだ──操縦室へ行く可能性のほうが多いにきまっている。
ここはヒュウにとって、ひどく興奮させられるところなのだ。ずっと前に、ジョウ=ジムが文宇通りかれを操縦室へ引きずってゆき、〈船〉とは全世界でなくて単に、より大きな世界に漂う乗物にすぎない。──操縦し動かすことのできる乗物だということを、無理にその眼で見させたとき──あのときから、ヒュウは〈船〉を動かすこと、操縦装置の前に坐って〈船〉を動かせるという考えにとりつかれていたのである!
そのことは、地球から飛び出る宇宙パイロットが意味のあることだと考えただろうことよりも、ずっとヒュウにとっては重要な意味があったのだ。最初のロケットが地球から月世界へ小さな跳躍をとげた時から、宇宙船のパイロットとは、すべての少年が見ならおうとするもっともロマンチックな英雄だったのである。
だが、ヒュウの大望は、そんなつまらぬものではなかったのだ──かれは、自分の〈世界〉を動かそうと望んだのだ。地球にジェットを装置して銀河系じゅうを突進させることを夢見るよりも、おくれた考えであったろうか。
この若いアルキメデスはテコを持った。そしてテコの支点を探していたのだ。
ジョウ=ジムは、〈操縦室〉を形成している巨大な銀色の宇宙展望用球面室《ステラリウム・グローブ》のドアのところに立って、中をのぞいてみた。ヒュウの姿は見えなかったが、照明が操作されているところから考えると、かれが〈一等航宙士〉の席にいて装置をさわっていることは確かだった。星々の映像が、球面のあちこちに、〈船〉の外側にある宇宙の幻影を作り出していた。その迫真性は、いまジョウ=ジムが立ちどまっているドアのところからは、さまでおどろくほどのものではなかったが、球体の中心からは、完全なものに見えるのだ。
ヒュウが、球体の中心にある操縦装置を操作するにつれ、壁面にうつっている星々の映像は、扇型につぎつぎと消えていった。そして、いちばん遠い反対側の扇型部分の星域だけが輝くままに残された。そこには、仲間にくらべると何倍も明るい巨大なきらめく星があって、ほかのところよりきわだっていた。ジョウ=ジムは見ているのをやめ、操縦席にむかって両手で引っぱり上がっていった。
「ヒュウ!」
ジムは声をかけた。すると、ヒュウは深い椅子から首をかたむけてたずねかえした。
「だれだい? ああ、あなたがたですか」
「エルツが、おまえに会いたがっている。そこから出てこいよ」
「OK。でも、ここへまず来てください。あなたがたに見せたいものがあるんです」
「なに言ってやがるんだ」
ジョウは兄弟に言った。だがジムは答えた。
「まあそう言わずに、見てみようじゃないか。そう時間もかからないだろう」
双生児の兄弟は操縦席に昇っていき、ヒュウの隣りの席に腰をおろした。
「どうしたんだって?」
ヒュウは、きらめくその星を指さして言った。
「あそこにある星です……あれは、この前にぼくがここへ来たときにくらべて、ずっと大きくなっています」
「なんだって? そのとおりだな。長いあいだに、ずいぶん明るくなってきた。おれが初めてここへ来たときには、ぜんぜん見えなかったからな」
「では、ぼくらは近づいたわけですね」
ジョウはうなずいた。
「もちろんそうだ。船が動いているということを証明したわけだよ」
「でも、なぜぼくに、このことを教えてくれなかったんです?」
「この、なんだって?」
「あの星のことです。あれが、このように大きくなり続けていたということです」
「どんな違いができるというんだ?」
「どんな違いになるですって! そんな、ジョーダンにかけて、ジョウ=ジム……あれがそうですよ。あれが、われわれの行くところです。あれが、|旅の終り《ヽヽヽヽ》なんですよ!」
ジョウ=ジム、そのどちらもが、ちょっとのあいだ驚愕した。かれら自身、自分たちの安全と楽しみのほかは、どんな目的にも関心がなかったから、先祖の失われた技術的成果を取りもどし、長く忘れ去られ、なかば神話的になった〈遵かなるケンタウリへの旅〉をやりとげるという、初めての目的がヒュウと、たぶんビル・エルツにも同じように出来たのだということを理解することは難しかったのである。
ジムは、われにかえった。
「ふーん……たぶんな。だがなぜおまえは、あの星が遥かなるケンタウリだと思うんだ?」
「ひょっとすると違うでしょう。どうだっていいんです。でもあれは、われわれにいちばん近い星であり、われわれはあれに向かって動いています。どの星がどの星だかわからないんだから、どれだって同じことでしょう。ジョウ=ジム、昔の人はきっと、星を区別できる方法を何か知っていたにちがいありませんよ」
ジョウはうなずいた。
「そのとおりわかっていたろう。だが、それがどうした? おまえは、おまえの行きたい星をきめた。さあこい、おれは下へ降りたいんだ」
「ええ」
ヒュウは、いやいやながら承知し、いっしょに長い道を降りていった。
エルツは、ジョウ=ジムとヒュウに、ナービイとの会見を説明した。
「そこでわたしの考えたことはこうだ……アランを重いところへもどらせてナービイに伝言させる。わたしがあなたとヒュウに連絡がとれたと伝えさせ、わたしが見つけたことを聞きに、どこか船員の国の上のどこかでわたしたちと会ってくれとすすめるんだ」
「なぜあっさりあなたがもどって、自分でかれを連れてこないんです?」
ヒュウがそう反対すると、エルツはちょっと恥ずかしそうな顔になった。
「それは、きみが前に同じことをわたしに試み……そして、うまくいかなかったからだよ。きみはミューティの国からもどってきて、わたしに、きみが見たというおどろくべきことを話したね。わたしは、きみを信じることができず、きみを異端の罪で裁判にかけた。もしジョウ=ジムがきみを救い出さなかったら、きみはとっくに転換炉に入れられていただろう。もしきみが、わたしを重さのないところへ担ぎあげて、無理にもわたし自身の眼で見させなかったら、わたしは絶対にきみを信用しはしなかっただろう。ナービイだって、わたしと同じだと、はっきり言えるよ。わたしはかれをここへ上げ、あの星々を見させたいんだ……もしできたら平和裡に、できなければ力ずくでもね」
ジムはたずねた。
「わけがわからんな。なぜあっさり、そいつの首をばっさりやってしまわないんだ?」
「それは面白いだろうが、あまり賢明とは言えないでしょう。ナービイはわれわれにとって、非常な助けになれるんです。ジム、あなたがもし、わたしと同じように船の組織を知っていたら、なぜだかわかるはずです。ナービイは、船にいるどの士官よりも評議会で力があり、船長に代って発言するんです。もしわれわれが、かれを味方に入れることができたら、われわれはたぶん戦わなくてすむことになるでしょう。もしそうできなかったら……どうなるかあまり確信がありませんね、戦わなくてすむのかどうか」
「そいつが上がってくるとは思えないな。そいつはワナだと疑うはずだ」
「それが、なぜわたしよりもアランをやらなければいけないかという、もうひとつの理由です。わたしにだったら、かれはいろいろとわずらわしい質問をして、その答に半信半疑となるでしょう」
エルツはアランのほうを向いて、あとを続けた。
「アラン、おまえはかれにたずねられても、わたしがいまから話すことのほかは、何も知らないんだよ。わかったか?」
「ええ、ぼくは何も知りません。何も見ませんし、何も聞いでいません」
心からの単純さで、かれはつけ加えた。
「生まれてこのかた。本当にほとんど何も知りませんよ」
「よし。おまえはジョウ=ジムなど見たことなどないし、星々のことなど聞いたこともない。おまえは、ただのわたしの使いで、護衛にとわたしが連れてきたナイフ使いだ。さて、これからが、かれに伝えてほしいことだ……」
かれはアランに、簡単だが刺激的な言葉で、ナービイに伝える言葉を教え、それからアランがはっきり憶えたかどうか確めた。
「ようし……さあ行ってくれ! |いい食事を《グッド・イーティング》」
「|いい食事を《グッド・イーティング》」
アランは、ナイフの握りをたたいてそう言うと、飛び去っていった。
農夫にとって、副長のところへいきなり飛びこんでいくことは不可能だ──ということをアランは知った。かれは、ナービイの部屋の外で番をしていた先任伍長にとめられ、どうしても入るといったので、ちょっと平手をたたかれた。伍長から聞いた書記は、退屈したような顔付きですこしの同情も見せず、アランの名前をひかえ、自分の村へ帰って、呼び出されるのを待てと言った。
アランはそこから一歩も動かず、機関長からナービイ副長に急いで伝えなければいけない重要な伝言があるのだと言い張った。書記はまた顔をあげた。
「その手紙をおれにわたせ」
「手紙はないんです」
「なんだって? そいつはおかしいじゃないか。どんなときでも文章にする、それが規則なんだぞ」
「機関長は手紙を書く暇がなかったんです。かれは口で伝えるように言われました」
「どういうことを?」
アランは首を振った。
「秘密で、ナービイ副長にだけ伝えるんだという命令です」
その書記は困ってしまった。だがまだただの見習士官だったから、この強情な田舎者を、すぐにひどく罰するのは見合せて、自分より上の士官にまかせたほうが安全だと思った。
主任書記は言葉少なく言った。
「その伝言を、わたしに言え」
アランは腹に力を入れ、生まれてからこのかた、科学者といえば、さっきのような見習士官にたいしてさえもやったことのない言いかたで答えた。
「ぼくのお願いしたいのは、エルツ機関長からナービイ副長にあてた伝言があるということを、副長に伝えていただきたいということだけです。もしこの伝言が伝えられなければ、わたしは、転換炉に行く人間にならないですむのかも知れません。それでも、ぼくはこの伝言を、副長以外の人々には伝えられないのです」
この士官は口をかたくつむり、上官にたずねてみようと決心した。
アランは、ドアのすぐ外にいる従兵に聞こえないようにと、低い声でナービイに伝言をつたえた。ナービイはかれを見つめた。
「エルツがわたしに、おまえといっしょにミューティの国へ来てくれと言ったと?」
「ミューティの国までずっと上がっていくわけではありません、剔長さま。そのあいだのところで、ヒュウ・ホイランドがあなたと会えるところまでです」
ナービイは大きな吐息をはいた。
「馬鹿なことを。わたしはナイフ使いを一隊やって、あいつをここへ引きずってこさせるよ」
アランは伝言の残りを言った。こんどは、外の従兵も、できれば他の人々にも声が聞こえるようにと、意識して大きな声を出した。
「エルツ機関長は、もしあなたが行くのが恐いのなら、ぜんぶ忘れてしまうことだ、と言ってくれとのことでした。機関長は自分で評議会に出るそうです」
アランがそのあとも生存することができたのは、ナービイが、暴力などより抜け目のなさで生きてゆく種類の男であったという事実によるのだ。ナービイのナイフは、そのベルトにはさまれていた。アランは自分のを先任伍長に預けさせられたことを、胸が痛くなるほど思い出していた。
ナービイは、その表情を変えなかった。かれは、眼の前にいる馬鹿者に対して、侮辱したと腹を立てるには聡明すぎたのである。だがかれは心の中で、いつかいい機会があれば、この馬鹿者にちょっと特別の注意をしてやろうと決心していた。立腹、好奇心、その顔をつぶされたこと、そのすべてが、その決心を作ったのだ。かれは荒々しく言った。
「おまえといっしょに行く。おまえが機関長の言葉どおり伝えたのかどうか、尋ねてみたいからな」
ナービイは、護衛をひとり呼んで同行させることを考えてみたが、それはやめておくことにした。そんなことをすれば、政治的な影響を判断する機会がくるまでに、この事件が全員に知られてしまうだけでなく、ただ行くのはやめる場合とほとんど同じぐらい顔をつぶすことになるだろうからであった。だがかれは、先任伍長のナイフを取り戻したアランに、心配してたずねた。
「おまえは、ナイフをつかうのはうまいのか?」
「ぼくよりうまいのはいません」
とアランは快活に答えた。
この男がうぬぼれているのでなければいいが──ミューティか──最近もっとナイフを使う練習をする時間があればよかったんだが、とナービイは思った。
ナービイはアランのあとについて低重力の階へ上がってゆくにつれ、次第に落着きをとりもどしていった。最初のころは何もおこらず、何のおどろきもなかった。アランは明らかに、用心深い有能な偵察員であり、騒々しい音を立てずに敏速に動き、立ちどまって慎重にのぞいてみてからでなければ、つぎの甲板《デッキ》に入らなかった。
もしアランの耳に聞こえたとおり、ナービイも聞いていたら、かれはもっと心配だったことだろう──巨大な薄暗い通路の奥から響くかすかな物音、すれるような音、それは二人の行く道の四方が待伏せられていることを示すものだったのだ。アランは、そういった種類の何かを予期してはいたものの、無意識のうちにおびえるのだった──かれは、ヒュウとジョウ=ジムの両方ともに、近づいてくる者の警戒を怠るようなことはしない用心深い隊長であると知っていた。あるべきはずの警戒を感じることができなかったら、かれはもっと心配だったろう。
いちばん上の文明社会の階から二十階ほど上の待合せ場所に近づくと、かれはとまって口笛を吹いた。すると別の口笛がそれに答えた。
「アランだ」
と、かれは叫んだ。
「ひとりだけで出てきてみろ」
アランは、それまでの用心ぶりを忘れずに言われたとおりにした。そして、友人であるエルツ、ヒュウ、ジョウ=ジム、ボボのほかはだれもいないとわかると、ナービイについてきてくれと手招きした。
ジョウ=ジムとボボの姿を見ると、ワナにかかったのだという感情に不意に襲われて、ナービイの落着きは破れた。かれはナイフに手をかけ、前を向いたまま階段をぎこちなくおりながら、向きを変えた。ボボのナイフは素早く抜かれた。だが、ジョウ=ジムはボボの顔をひっぱたいて、そのナイフを取り、甲板に落とすと、パチンコをその手に持たせた。
ナービイは全速力で逃げはじめ、ヒュウとエルツはそのあとから呼ぶだけだった。
ジムは命令した。
「つかまえろ、ボボ! だが怪我をさせるんじゃないぞ」
ボボは、肩をゆすって走り出し、すぐそのあとに追いついた。
「走るの、速いな」
そうかれは言い、ナービイをつぎの甲板に突き落とした。副長はじっと横たわったまま、息をとりもどそうとした。ボボはナービイのナイフをベルトから取り、自分の左腕にもじゃもじゃ生えている黒い毛をそって試してみた。
「いい刃だな」
そう言うと、ジムは命令した。
「それを返してやるんだ」
ボボはひどく驚き、物欲しそうにではあったが、その命令に従った。ジョウ=ジムはボボのナイフを返してやった。
自分の武器をもどされると、ナービイはボボと同じぐらい驚いたが、それをうまく隠した。そして、堂々とした態度で、ナイフを受け取りまでした。
エルツは、心配そうな口調で話しだした。
「おどろかせてすまなかったな、ナービイ。ボボはそう悪いやつじゃないんだ。ああしなければ、きみをつかまえられなかったんでね」
ナービイは自分の心と戦い、いつも世間を相手にしているときの冷静な落着きを取りもどした。糞! かれは心の中で呟いた、こんな馬鹿なことが、でも──かれはすぐにこたえた。
「もういいさ……ぼくはきみと会うつもりではいた。だが武装したミューティたちと会うつもりはなかったのでね。きみは遊び友達を選ぶのに変な趣味があるんだな、エルツ」
ビル・エルツは答えた。
「ごめんよ。きみに注意しておくべきだったな……」──ちょっとした偽りの外交辞令だ。「だが、みんないいやつなんだ。ボボ、もう知っているね。これはジョウ=ジムだ。かれは……なんというか、ミューティのあいだでの士官というところだ」
「|いい食事を《グッド・イーティング》」
と、ジョウは丁寧に挨拶した。
「|いい食事を《グッド・イーティング》」
と、ナービイは機械的に答えた。
「ヒュウは、知っていると思うんだが」
ナービイは、知っているとうなずいた。そのあとに、とまどったような沈黙が続いたが、ナービイがそれを破った。
「さて……ぼくにここまで上がってこいと伝言をことづけたのには、何か理由があったに違いないな。それとも、ただのいたずらかい?」
エルツはうなずいた。
「そいつはだな……どう切り出せばいいのか、わたしにもわからないんだ。なあ、ナービイ。きみは信じないだろうが、わたしはこの眼で見たんだよ。ヒュウがわれわれに話したことは、すべて真実だったんだ。わたしは、操縦室に入ってみた。わたしは、星々を見たんだ。わたしには、わかったよ」
ナービイはかれを見つめ、ゆっくりと言いだした。
「エルツ……きみは、気でも狂ったのか」
ヒュウ・ホイランドは、興奮して口をはさんだ。
「それは、あなたがまだ見ていないからです。動いているんです。船は動いているんです、まるで……」
エルツがその言葉をさえぎった。
「わたしにまかせろ。聞いてくれ、ナービイ。その重大な意味は、すぐきみ自身で決められるだろう。だが、わたしが自分で見たことを話しておこう。みんなはわたしを、重さのないところへ運びあげ、〈船長のベランダ〉へ連れていづた。そこはガラスの壁がある部屋なんだ。それを通して大きな暗い宇宙を見ることができる……巨大な……いかなるものよりも大きなものだ。船より大きいんだ。そして、そこに光の点がいくつもある。星々だ。昔の神話が言っているのとまったく同じなんだ」
ナービイは、あっけにとられ、馬鹿にしたような表情になった。
「きみの論理はどこへ行ったんだい、エルツ? きみは科学者だとばかり思っていたんだがな。船より大きいとは、どういう意味なんだ? それは変じゃないか、言葉そのものが矛盾しているじゃないか。定義によれば、船は船だ。そのほかのすべての物は、その部分にしか過ぎないんだよ」
エルツは、どうしようもないといったように肩をすくめた。
「そう思われるだろうとわかっていたよ。わたしには説明できない、そいつはすべての論理を否定することだからな。そいつは……ちぇっ! きみが自分の眼で見たら、わたしの言っている意味がわかるから」
ナービイは答えた。
「しっかりしろよ。馬鹿なことを言うな。物事というものは論理的でなければいけないものだ。ひとつの物が存在するためには、それはその場所《スペース》を占有しなければいけない。きみは、何かおどろくべきものを見た、それとも、見たとおもった。だが、それが何であるにせよ、それは、それが入っている部屋より大きいということはあり得ない。自然の持つ明らかな事実に矛盾するような物など、きみがぼくに見せられるわけはないさ」
「わたしは、説明できないことだと話しだよ」
「もちろん、そんなことはできないさ」
双生児兄弟はお互いに、軽蔑したようにささやきあっていたが、そのうち、ジョウが大きな声で言いだした。
「おしゃべりはやめろ。いまから行こうじゃないか、さあ」
エルツは勢いよくうなずいた。
「ええ。ナービイ、きみ自身で見るまでは、やめておこう。さあ行くんだ……長い昇りだ」
ナービイは言った。
「なんだって? いったい何のつもりだ? どこへ行くんだって?」
「船長のベランダと、操縦室へさ」
「ぼくが? 馬鹿なことを言うな。ぼくは降りてくよ」
エルツは首をふった。
「だめだ、ナービイ。だからわたしは、きみを呼んだんだ。きみは、見なければいけないんだ」「つまらんことを……見る必要なんかあるものか。常識が、はっきりした答えを与えてくれるからな。だが……きみがミューティたちと友好的関係を結べたことは祝福するよ。われわれは、おたがいに協力しあえる方法を何か考え出すべきだな。ぼくの考えでは……」
ジョウ=ジムが一歩足を踏みだして、単調な声で言った。
「おまえは時間を無駄にしている。おれたちは上がってゆく……おまえもだ。本気で言ってるんだぞ」
ナービイは首をふった。
「問題にならないな。またいつか、たぶん、われわれが協力の方法を考えだしたあとだ」
ヒュウは反対側から副長に近づいた。
「あなたはわかっていないようですね。あなたはいまから、行くんです」
ナービイは、反対にエルツのほうを見た。エルツはうなずいた。
「そのとおりだよ、ナービイ」
ナービイは内心、自分をののしった。|いったい何ということだ《グレート・ジョーダン》! だいたい、こんな立場に巻込まれることを、どうして考えたんだ? かれは本能的に、この二つ頭の男が、喧嘩をはじめるほうが手っとりばやいと思っていることを覚った。馬鹿な、なんて事態なんだ。かれはまた自分自身をののしったが、できるかぎり上品に、それをあらわさないようにした。
「そうか! 面倒をおこすよりは、行くよ。はやくすませよう。どちらなんだい?」
「わたしのそばに、いてくれ」
エルツはそう忠告した。
ジョウ=ジムは、大きく合図の口笛を吹いた。ミューティは、床の鋼板から、隔壁から、天井から、湧いてくるように思え、もう七、八人が一行に加わった。ナービイは、どれほど自分が不用心だったかということに、はっきり気がついて、とつぜん気持が悪くなった。一行は上へ昇っていった。
ナービイが昇ってゆくことに慣れていなかったから、重さのないところへ昇ってゆくのに長い時間がかかった。甲板《デッキ》から甲板《デッキ》へと昇ってゆくにつれて次第になくなってゆく重力のため、助けの手を借りなくてもよくなったが、それにつれて自分から重さが無くなってゆくのにつれて胃に吐き気を催すのだった。
かれは本当の宇宙病に襲われたわけではない──〈船〉の中で生まれたすべての人、ミューティでも船員でもだが、そういう人と同じで、かれはそれなりに少ない重力に慣れていた、だがかれは、向う見ずな青年時代以後、昇るということはほとんどやっていなかったのだ。みんなが〈船〉のもっとも内部の甲板《デッキ》に着いたとき、かれはひどく気分が悪くなっていて、もうすこしも前進できなかった。
ジョウ=ジムは、一行にあとから加わった連中を下へもどし、ナービイをかついでいけとボボに命令した。ナービイは手をふって、ボボを追っぱらった。
「わたしは、歩けるよ」
かれはそう抗議し、まったく頑固な意志の力で、無理に自分の身体を従わせた。ジョウ=ジムはそのかれを眺めて、命令を取り消した。長い距離を横に飛びつづけ〈操縦室〉の手前で直角に横切る隔壁のところまでやってきたとき、ナービイはだいぶ気分が良くなっていた。
一行は〈操縦室〉にまず立寄りはせず、ヒュウの計画に従って、〈船長のベランダ〉まで進んでいった。ナービイは、そこで何が見えるのだろうかと緊張した。エルツの混乱した説明だけでなく、旅の後半ずっと、ヒュウが元気よくそのことばかりしゃべり続けていたからだ。かれらが着いたころ、ヒュウはナービイにたいして好意を持ちはじめていた──だれか聞いてくれる人がいるということは、素晴しいことだったのだ!
ヒュウはみんなの先頭になってドアを通って漂ってゆき、空中できれいに回転し、片手を船長の安楽椅子の背についてとまった。そして、もう一方の手で、かれは巨大な観測窓とその向こうに星のきらめく大空を示した。
「あれです! あそこです。見てください……素晴しいでしょう?」
ヒュウは大喜びでそう言った。
ナービイの顔には何の変化も現れなかったが、長いあいだ熱心に、素晴しい眺めを見つめていたがやっとうなずいた。
「素晴しい……たいへんなものだ。これに比べられるものは、まだ見たことがないよ」
ヒュウは言いかえした。
「|素晴しい《リマーカブル》では足りません。|驚くべき《ワンダフル》が、ぴったりした言葉でしょう」
ナービイは同意した。
「OK……|驚くべき《ワンダフル》ものだ。あの輝いている小さな光……きみはあれが、昔の人の言っている星々だというのか?」
ヒュウは、何ということなく、ちょっとまごつきながら、うなずいた。
「ええ、そうです。ただ、あれはみな小さくないんです。あれはみな、〈船〉のように、大きな、巨大なものです。あまり遠く離れているので、小さく見えるだけです。非常に明かるいのが見えるでしょう。左下のほうの、あの大きなやつです。あれは、ほかのより近いから大きく見えているのです。ぼくはあれが〈遥かなるケンタウリ〉だと思います……でも、確信があるわけではありませんが」
かれは非常に率直にそう言った。
ナービイは、ちらりとヒュウを見たが、また大きな星のほうに視線をもどした。
「どれぐらい離れているんだね?」
「知りません。でも調べてみます。〈操縦室〉には、そういったものを計測する機械があるんですが、ぼくはまだ全然その意味がわからないんです。でも、それは問題ではありません。それでも、あそこへわれわれは着くんですから!」
「え?」
「そうです。旅を成しとげるんです」
ナービイは、あっけにとられたようだったが、何も言わなかった。かれは慎重で、高度に論理的な、秩序立った心の持主だった。かれは有能な副長であり、必要なときには急速に決断を下すことができた。だがかれは、集まったデータを吟味し評価できる時が来るまで、できるかぎり、自分の意見を出さずに控えておくほうを選ぶ性質だったのである。
かれは〈操縦室〉に入ると、もっと無口になった。耳を傾け、眺めはしたが、ほとんど質問はしなかった。ヒュウは別に気にしなかった。これはヒュウの玩具であり、機械であり、赤ん坊だったのだ。まだこれを一度も見たことがないものを見せ、そして自分の言うことを聞いてくれさえすれば、それで満足だったのである。
エルツのすすめで、一行は下へもどる途中、ジョウ=ジムの部屋に立ち寄った。ナービイをかれらのところへ連れてきた計略が成果をあげるためには、その行動を達成するために義兄弟の誓や計画をしなければいけなかったように、ナービイをどうしても同じ計画のコースにのせなければいけなかったのである。ナービイは、思いもかけずミューティの国へ突入することになった、この休戦の現実性を認識するようになっていたから、いやいやではなく、その部屋へ立ち寄ることに同意した。かれはエルツがみんなの考えていることを説明しているあいだ、黙って聞いていた。そして、エルツが話し終ったときも、まだ黙ったままだった。
「どうだい?」
やがてエルツは、その沈黙があまり長引いていらだたしくなって、そうたずねた。
「きみは、ぼくに何か意見を言わせたいのかい?」
「うん、もちろんだ。きみは何か考えたはずだろう」
ナービイはそのとおり考えもしたし、返事が期待されていることもわかっていた。だがかれは、答えるのを引きのばしていたのだ。ナービイは口をかたく閉じ、両手の指先をつきあわせた。
「では……ぼくには、この問題が二つの部分に分かれているように思えるんだ。ぼくの見るところではだな、ヒュウ・ホイランド……きみが目的としている、昔の〈ジョーダン計画〉を達成しようということは、船全体が平和になり、ひとつの規律のもとにまとまるまでは実現できないね……きみの目的のためには、船員の国から操縦室まで、はっきりした秩序と規則が必要だ。そうじゃないかね?」
「そのとおりです。ぼくらは主推進装置を動かさなければいけませんし、そのためには……」
「ちょっと待った。はっきり言って、ぼくは、ついいましがた見た物事を理解する資格はないし、それを学ぶ機会もなかった。この計画で、きみが成功するかどうかの見込みについては、ぼくは機関長の意見に従いたいと恐うね。きみの問題は第二の段階だ。きみが第一の段階に関心があるとしても、それは行きがかり上、仕方がないからのように思えるな」
「もちろんです」
「では、第一段階だけを相談しようじゃないか。それには、大衆に対する政策と行政の問題が含まれる……ぼくは、そういった問題のほうが、ずっと得意なんだ。たぶん、ぼくの忠告することは役に立つんじゃないかな。ジョウ=ジム、あなたがたは、ミューティと船員たちのあいだに平和をもたらせる機会を求めているんだと思う……平和と|いい食事を《グッド・イーティング》? そうですな?」
ジムはうなずいた。
「そのとおりだ」
「よろしい。それは、ずっと長いあいだのぼくの目的だったし、船の士官の多くが望んできたことでもある。はっきり言って、ぼくはこれまで、力ずくでやるほかに、それが達成できる方法があるとは考えもしなかった。長いあいだ、困難な血なまぐさい戦いを続けてきたことで、われわれは冷酷無関心になっていたんだ。いちばん古い証人の記録は、その前任者から受けついだもので、あの神話的な〈反乱《ミューティニィ》〉の時代まで逆のぼっているものだが、それには、ミューティと船員のあいだの戦闘のほか、何ものっていない。でも、これはより良い方法だ……ぼくはうれしいな」
エルツは叫んだ。
「じゃあ、きみもわれわれの味方だな」
「おちつけよ……たくさんのことを考えなければいけないんだからな。エルツ、きみとぼくはわかるな。ホイランドもわかるはずだ、船の士官のすべてが、われわれに同意するとは限らないんだ。それはどう思う?」
ヒュウ・ホイランドは口をはさんだ。
「そんなのは簡単ですよ……みんなを順番に重さのないところへ連れてきて、星々を眺めさせ、真実を学ばせるんです」
ナービイは首をふった。
「きみに言ったとおり、この問題には二つの段階がある。ある男に理解できることを納得させなければいけないときに、そいつが信じないようなことを信じこませようとするのは無意味だ。〈船〉が団結したあとのほうが、士官たちに操縦室や星々を見させるより簡単だろうな」
「でも……」
エルツはさえぎった。
「かれの言うとおりだ……さしあたっての問題が大切なときに、信仰についでの問題を山ほど出して騒ぎ立てても仕方がないよ。〈船〉を平和にする目的のためなら、われわれの味方になる士官は無数にいるが、その同じ連中に最初に〈船〉は動くという考えをぶつけようもんなら、どんな大騒ぎを起こすかもしれないからね」
「でも……」
「もう、このことで、|でも《ヽヽ》は無しだよ。ナービイの言うとおりだ。それが常識だからな。さて、ナービイ……信じこませられないかもわからぬ士官たちの問題だが……こういう考えはどうだろう。まず、できるかぎり多くの者に賛成させるのが、きみとぼくの仕事だ。われわれに反対するものはだれでも……とにかく、転換炉はつねに腹をへらしているってわけだ」
ナービイは、殺人を政策とする考えにまったく平気で、うなずいた。
「それが、いちばん安全な方法だろう。でも、すこしは困難なことがあるんじゃないかな?」
「そこでジョウ=ジムが登場するわけだ。われわれの後押しをしてくれるのは、〈船〉のなかでいちばんナイフを使うのがうまい連中だ」
「うん、そういうことだな。ジョウ=ジムは、ミューティ全部のボスというわけだからな」
「なぜ、そんなことを考えるんだ?」
ジョウは、何ということなく腹を立てて、うなるように言った。
「なぜって、わたしはたぶん……そうだとばかり……」
ナービイは口ごもった。だれも、ジョウ=ジムが上の階の王だとは言っていない。かれはジョウ=ジムの姿からそう思ったのだが。かれはとつぜん非常に不安になった。かれは無益な交渉を続けていたのだろうか? ミューティの代表でなければ、この二つ頭の怪物と協定を結んだところで何の役に立つのだ?
エルツは大急ぎで言った。
「はっきりしておくべきだったな……ジョウ=ジムは、新しい指揮系統を生みだすのにわれわれを助ける。それからわれわれは、ナイフ使いたちとかれを。バックアップして、ミューティの残りをなだめることができるというわけだ。ジョウ=ジムは、すべてのミューティのボスではない。だが、かれは最大最強のミューティ族を部下に持っている。われわれの助けで、かれはすぐに全部のミューティのボスになるでしょう」
ナービイは、自分の心をすぐ新しいデータにあわせた。船員の侯補生のすこしの助けだけで、ミューティとミューティに戦わせるのが、うまい方法だとかれには思えたのだ。それに考えてみれば、すぐ徹底的な休戦をするより、そのほうがいい……すべてが終ったとき、統治すべきミューティが少なくなることになるから、また反乱がおこる機会がなくなるわけだ。
「わかった。それで……きみは、そのあとの状態を考えてみたかい?」
ナービイの言葉にホイランドはたずねた。
「どういう意味なんです?」
「いまの船長が、この計画を実行できると思うかい?」
エルツは、ナービイが何を言おうとしているのかわかった。ホイランドも、漠然とわかった。「続けてくれ」
エルツがそう言うと、ナービイは、じっとエルツを見つめてたずねた。
「だれが、新しい船長になるんだ?」
エルツは、こうまで徹底的に考えてはいなかった。だがかれはいま、もしクーデターを、権力をめぐっての血なまぐさい争いに移らせないものにするためには、ナービイの質問が非常に適切なものであることに気がついたのである。エルツも、自分がいつかは、船長に選ばれることを夢見たことがあった。だがかれは、ナービイもまたそれを目指していることがわかっていた。
エルツは、ホイランドと同じく、〈船〉を動かすというロマンチックな考えに、心から打たれていたのだ。かれは、自分の昔からの望みが新しい希望を邪魔していることを覚り、ちょっとばかり残念ではあったが、昔からの望みのほうを断念した。
「きみが船長になるべきだよ、ナービイ。喜んでなってくれるね?」
フィネアス・ナービイは、上品にそれを受諾した。
「ああ、そうきみが望むならね。きみだって、りっぱな船長になれるのに、エルツ」
エルツは、ナービイの完全な協力がこの点にかかっていることが、はっきりとわかっていたから、首をふった。
「わたしは機関長を続けるよ……わたしは、旅のために主推進機を操作したいんでね」
ジョウが口をはさんだ。
「ちょっと待て! おれは賛成しないぞ。なぜこいつが船長にならなきゃいけないんだ?」
ナービイはジョウを見た。
「あなたが船長になりたいんですか?」
かれはできるかぎり皮肉に聞こえないように用心した。ミューティが〈船長〉だと!
「ハフの名において(とんでもないの意味)……ノーだよ! だが、なぜおまえになるべきなんだ? なぜエルツなりヒュウではいけないんだ?」
ヒュウは手をふった。
「ぼくはいやだね。ぼくには、行政にむける時間などないよ。ぼくは航宙士なんだからな」
エルツは説明した。
「心から言うんだが、ジョウ=ジム……この中でナービイだけが、船の士官たちから必要なだけの協力を引き出せる男なんだ」
「馬鹿な……その連中が協力しないなら、おれたちでそいつらの咽喉をぶった切るだけさ」
「ナービイを船長にすれば、その咽喉を切らなくてもいいんだよ」
「どうも気に入らないな」
ジョウがうなり声を出すと、ジムがなだめた。
「なぜそんなことに興奮するんだい、ジョウ? ジョーダンにかけて、おれたちは責任を取りたいわけじゃないだろう」
ナービイは、おだやかに言った。
「あなたがたの不安は、よくわかります……だが、心配することはありませんよ。もちろん、ミューティを統治するためには、わたしはあなたがたに頼るほかありません。わたしは下の階を治めます、これまで慣れている仕事ですからね。あなたがたは副船長になられてはどうです。ミューティのために働いてくださるのならね。その習慣も何も知らない人々が住んでいる部分を、わたしが直接統治しようというのは、馬鹿げたことでしょう。そういうやりかたであなたが助けてくださるというのでなければ、わたしも船長の責任を引き受けるわけにはいきませんな。やっていただけるでしょうか?」
ジョウは首をふった。
「おれは、ぜんぜんそんなことにはなりたくないね」
「残念です。ではわたしも船長になることは断らなければいけません……それぐらいあなたがたが助けてくれないとなると、引き受けられませんからな」
ジムは言った。
「いいじゃないか、ジョウ。引き受けろよ……少なくとも、当分のあいだは。この仕事は、完成されなければいけないんだ」
ジョウは降参した。
「わかったよ……でも、気はすすまないがね」
ナービイが船長の地位につくことにジョウ=ジムがはっきり同意したのではないということを、ナービイは気にもとめず、そのことをそれ以上口に出そうとはしなかった。
手段と方法を決めることは、退屈であり、くりかえす必要はなかった。そして用意ができるまで、エルツ、アラン、ナービイの三人はみな、元の住み家と職業にもどるべきだということになった。
ヒュウは護衛に三人を高重力のところまで安全に送ってやれと命令し、みんなが行こうとしたとき、ナービイに話しかけた。
「用意ができたら、アランを上へ寄越してくれますね?」
ナービイはうなずいた。
「そうするが、すぐに寄越すとは思わないでくれ。エルツとぼくには、みんなの意向を探る時間がどうしても必要だ……それに、年寄りの船長の問題もある。ぼくはかれに、船の全士官の集合を求めさせなければいけない……あの男はそう簡単に動かせないしね」
「とにかく、それはあなたの仕事です。|いい食事を《グッド・イーティング》!」
「|いい食事を《グッド・イーティング》」
〈ジョーダンの船長〉の下にあって、〈船〉をおさめる長老科学者の全員がそろう数少ない機会には、かれらは文明世界の階のもっとも奥の〈船〉の事務所のすぐ上にある大きなホールに集まることになっていた。
忘れ去られた何代もの過去、この船の冶金工《メタル・スミス》ロイ・ハフに率いられた反乱の以前には、そのホールは体育館であり、娯楽と体育訓練の場所であった。この巨大な恒星船の設計者がそう考えて作ったものだったが──現在そこを使っている者は、まったくそんなことを知らなかったのである。
ナービイは、〈船〉の士官たちが到着するにつれてその名前に印をつけている当直の書記をながめ、温和な顔つきはしていたが、心の中では心配していた。もうあとやってくるのは数人に過ぎない。もうすぐに、集会の用意ができたことを〈船長〉に知らせなくてはいけなくなる──だが、ジョウ=ジムとホイランドからは、何の知らせもないのだ。あの馬鹿なアランは、知らせに上へ昇ってゆく途中、とうとう殺されてしまったのだろうか? 落ちて、あのろくでもない頸を折ったのだろうか? ミューティのナイフを腹に突き刺されて死んでしまったのだろうか?
エルツが入ってきて、局長たちのあいだの席を見つける前に、〈船長〉の椅子の前に坐っているナービイのところへやってきた。
「どういう具合だい?」
かれは低い声でたずね、ナービイは答えた。
「いいよ……だが、まだ返事がないんだ」
「ふーん……」
エルツはふりむき、みんなの中で自分を支持してくれる者がどれぐらいいるか見わたしてみた。ナービイも同じことをやった。こういった過激な事では、多数、ある程度の多数ということは問題ではない。だが──大事な点は、投票によるものでないということなのだ。
当番書記はかれの腕にふれた。
「全員出席です、副長。病気で欠席する者と、転換炉の当直についている一名のほかは」
ナービイは、何かまずいことが起こったのだという厭な感じをおぼえながら、〈船長〉に知らせろと命じた。〈船長〉はいつものように、他の者の気持や都合などにはまったく無関心で、出てくるまでに時間をかけた。ナービイは、その遅れがうれしかったが、それを我慢しているのがみじめな気持だった。
やっとこの老人が、従兵に両側からつきそわれて、よたよたと入ってきて、どしんと椅子に腰をおろすと、またいつものように、会合が早く終らないかといらいらするのだった。かれは他の者に坐れと手をふり、ナービイをうながした。
「ようし、ナービイ副長、議題を聞こう……議題があるんだろう?」
「はい、船長。議題はあります」
「では、それを読ませろ、副長、読ませるんだ──なぜぼやぼやしている?」
「はい、船長」
ナービイは、朗読書記のほうを向いて、書物の綴りを渡した。その書記はそれを見て面くらったようだったが、ナービイはそのまま何とも声をかけないので、読み始めた。
「評議会と船長に対する請願……第九区域の村を管理するブラウン中尉は、健康がすぐれぬことと老齢のため、あらゆる勤務より解かれ退役することを希望している……」
書記は続いて、関係する士官と局の勧告文を読み始めた。〈船長〉は椅子でいらいらと身をよじっていたが、ついに朗読をやめさせた。
「いったいこれは何だ、ナービイ? きみは、きまりきったことを、こんな馬鹿げたことをせずには裁けないのか?」
「最近同様なことを決めましたとき、船長はお喜びにならなかったと思います。わたしは、船長の大権を侵害する意志はありませんので」
「馬鹿なことを! 規則をわしに読んでくれんでもよろしい。評議会に決めさせ、その決定をわしに見せてもらおう」
「はい、船長」
ナービイは書記から文書を取って、別のを渡した。書記は読んだ。
それもまた同じようにつまらぬ問題だった。第三区域の村は、その水耕農場が正体不明の害虫によって被害を受けたので、救済と課税の中止を請願した。〈船長〉は、このほうにはもっと我慢できないようで、すぐに中止させた。ナービイは待ちかねていた知らせがちょうどその時に到着しなかったら、会合を続けるためには、どのような口実でも無理に使ったことであろう。その知らせは小さな羊皮紙の一片で、かれの部下のひとりがホールの外から持ってきたものだった。それにはただ〈準備完了〉とだけ書いてあった。ナービイはそれを眺めると、エルツにうなずいてみせ、〈船長〉に向かって言った。
「船長、あなたが船員たちの請願を聞かれる意志を持たれぬ以上、わたしは直ちに、この会合での主要な議題に移りましょう」
その言葉の裏にかくれた無礼さに、〈船長〉は信じられないようにかれを見つめたが、ナービイは続けた。
「何代ものあいだ、次々と証人が変ってくるあいだ、船員はミューティたちの略奪に悩まされてきました。われわれの家畜、われわれの子供、われわれ自身さえも、絶えず危険にさらされてきたのです。〈ジョーダンの規律〉は、われわれの住んでいる階より上では尊ばれておりません。〈ジョーダンの船長〉自身、船の上層の階を自由に旅行することはできないのです……その先祖の罪に子孫が血をもって償う、そうジョーダンが定められたというのが、信仰個条でした。それはジョーダンの意志であった、とわれわれは教えられてきたのです……ですがわたしは、この、〈船〉の質量《マッス》が絶えず減っていることをあきらめたことは一度もありません」
かれはひと休みした。
老船長は、自分の耳がなかなか信じられなかった。だがやっとかれは、言い出す文句を見つけ、指をのばして、かん高い声を出した。
「きみは、教えに異議を唱えるのか?」
「唱えません。ミューティを規律の外に放任しておけと、教えはわれわれに命じていない。そんなことは絶対に言っていないと主張するのです。わたしは、かれらを規律の下に引っぱってくるべきだと要求します!」
「きみ……きみは……きみを免職する、副長!」
「いや、わたしが言い終るまでは駄目です」
と、ナービイは答えた。その無礼さは、もうはっきりとしでいた。
「こいつを逮捕しろ!」
船長の従兵たちはすぐに立ちあがったが、何もせず、あわれな表情だった──ナービイ自身が、そいつらを選んだのだ。
ナービイは、おどろいている評議員たちのほうをふりかえり、エルツと眼をあわした。
「よし、いまだ!」
エルツは立ちあがり、ドアのほうへ急いだ。ナービイはあとを続けた。
「きみたちの多くは、わたしと同じように考えているが、そのためには戦わなければいけないのだろうと、われわれはいつも考えていた。ジョーダンの加護により、わたしはミューティと交渉し、休戦することに成功した。かれらの指揮者がいまここへ、われわれと相談するためにやってくる。さあ!」
かれはドラマチックに、ドアを指さした。
エルツが再び現われた。そのあとに続いて、ヒュウ・ホイランド、ジョウ=ジム、そしてボボがやってきた。ホイランドは壁にそって右へ曲がり、みんなのまわりを廻った。そのうしろには、ミューティが一列縦隊に続いていた──ジョウ=ジムの選り抜きの殺し屋たちだ。左のほうでは、同じような列が、ジョウ=ジムとボボのうしろに続いていた。
両翼のジョウ=ジム、ヒュウ、それにもう六人ほどは、腰の下まで伸びている不格好な鎧で覆われていた。その上部は鋼線を編んで作った不格好な兜になっており、あまり視界をさえぎられることなく頭部を保護するようになっていた。それら鎧を着ている全員と、他の数人とは、聞いたこともないナイフを携えていた──人間の腕ほども長いのだ!
もし前もって警告され統率をとられていたら、おどろいた士官たちも、かれらが入ってきた狭い通路のところで、その侵入をくいとめたことだろう。だがかれらは、ばらばらで無力になっていたし、それに、最も強力な指導者たちが、それら侵入者たちを招き入れたのだ。みんなは椅子に坐ったまま、もじもじと身体を動かし、ナイフに手を伸ばして、お互いに心配そうに顔を見合せた。だがだれも、大流血を引き起こす最初の動きは見せなかった。
ナービイは〈船長〉のほうに向いた。
「どうです? この代表団と平和裡に会見しますか?」
老齢と太りすぎとで、〈船長〉は口もきけないようだった。だがかれはやっと、きしるような声を出しはじめた。
「そいつらを、ここから追い出せ! 追い出すんだ! おまえは……おまえはこれで〈旅〉に行くことになるんだぞ!」
ナービイはジョウ=ジムのほうをふりかえると、親指を上に向けてみせた。ジムはボボに話しかけた──すると、ナイフが船長のつき出た腹に根元のところまで突き剌さった。
かれは、悲鳴をあげるというより、むしろ、があがあというような声を出し、その顔に、まるっきりとまどったような表情がひろがっていった。かれは、本当にあるのかどうか確めてみるように、おずおずとナイフの柄《つか》を引っばってみた。
「反乱だ……反乱……」
その言葉は、かれが椅子にくずおれていくのにあわせて消えてゆき、やがてかれは、顔を下にして床へどしんと倒れていった。
ナービイは、それを足で蹴とばして、二人の従兵に命令した。
「外へ運びだせ」
二人は、することができ、命令される相手ができたことに、ほっとしたような顔で、その命令に従った。ナービイは黙って見つめている全員のほうをふりかえった。
「だれかほかに、ミューティと手を結ぶことに反対する者は?」
遠くはなれた村で、一生を裁判官と宗教的助言者としてのんびり過してきた年寄りの士官が、その白い髪を威厳たっぷりにふるわせて立ちあがり、細い指をナービイにつきつけた。
「ジョーダンは、おまえを罰するはずだ! 反乱と罪と……ハフの心だ!」
ナービイは、ジョウ=ジムにうなずいてみせた。その老人の声は咽喉でつまり、刃の先がいっぽうの耳の下から突き出た。ボボは、それを楽しんでいるようだった。
ナービイは声高く言った。
「おしゃべりはもうたくさんだ。いま少しの血を流すことのほうが、あとで多くの血を流すよりもましだろう。この件でわたしに賛成する者は、立ちあがって前に進んでほしい」
エルツはまっさきに、前へ大股に進み出ると、確実に自分を支持してくれると信じられる連中に前へ出るようにとうながした。そして部屋の前へ達すると、かれはナイフを抜いて切先を上にあげた。
「フィネアス・ナービイ、ジョーダンの船長、万歳!」
かれの支持者はすぐに声をあおせた。
「フィネアス・ナービイ、ジョーダンの船長!」
ナービイ一味の強そうな若者たち──科学者、僧のあいだで意見を異にする理性主義者の集まりの背骨《バックボーン》となっている連中は、ひとかたまりになって前へ進み、ナイフを高くあげて、新しい船長の万歳を叫んだ。心の決らない連中や日和見主義者たちは、刃のどちらがよく切れるのかに気がつくと、急いでそれに加わった。それが終ると、もとのままの位置に残っている士官は数えるほどしかおらず、そのほとんどは年寄りか、狂信者だけだった。
エルツは、ナービイ船長がその連中を見まわし、それからジョウ=ジムに眼で合図したことに気づいた。エルツはナービイの腕にふれて言った。
「数も少ないし、ほとんど何もできない連中だ。武装解除して、隠退させたらどうなんだい?」 ナービイはかれを、冷やかな表情で見つめた。
「やつらを生かしておいて、反乱をおこさせるつもりか。わたしは自分だけで、なんでも決定できるんだよ、エルツ」
エルツは唇を噛んだ。
「わかりましたよ、船長」
「そのほうがいいね」
ナービイはジョウ=ジムに合図した。
長いナイフは、すぐに片をつけた。
ヒュウは、その殺載からあとに退がっていた。かれの昔の教師であり、かれの才能を認め、かれを科学者の身分に選んでくれた、村の科学者ネルスン中尉も、そのひとりだったのだ。これは、かれが予期していなかった要素であった。
世界の征服──そして、統一。信頼か、刃か。ジョウ=ジムの殺し屋たちは、ナービイ船長に供給された血の気の多い若い候補生たちに手伝われて、中ほどの階と上部の階を一掃していった。ミューティたちは、個々別々なままでいることを好む性質の連中であり、かれらの小さな群の指揮者よりも上の者に忠誠をつくすことなどを知らなかったから、ジョウ=ジムの計画性のある統率ぶりに反抗することはできず、かれらの武器とても、体勢を整えるさきに切りつけてくる奇妙な長いナイフにはかなわなかった。
〈二つの賢い頭〉の率いる集団に、だまって降参するほうがましだ──降参した者にはいい食事が与えられ、降参しない者は死を免れるわけにいかぬ、という噂が、ミューティの国にひろがっていった。
だがそれにもかかわらず、その進みかたは長くのろのろしていた──あまりにも多くの甲板があり、何マイルも何マイルもの暗い廊下があり、再編人後の事態に満足しないミューティが隠れているかもしれない船室が、無数にあったのだ。そして、攻撃隊がミューティたちを一掃するとすぐ、それぞれの区域に、甲板に、階段に、ジョウ=ジムは警官のパトロールや歩哨を置こうとしたので、その進展ぶりはなおのこと遅くなった。
ナービイががっかりしたことに、この二つ頭の男は、その戦闘では殺されなかった。ジョウ=ジムは、自分たちの持っている本から、将軍というものは、直接の戦闘に自分をさらさなければいけないことはないのだ、ということを学んだのだ。
ヒュウは、〈操縦室〉にこもりきっていた。複雑な操縦装置の、如何に、何故、ということと、それに平行して恒星船弾道学の複雑さを学ぶという困難な問題のほうに、ずっと興味を持っていただけでなく、ネルスン中尉のことから、血の粛清のすべてが、かれには厭なことだったからである。暴力と死は、かれにとってお馴染みのことだった。それは、低い階でも普通のことだったが──あの老人の死んだことは自分の個人的な責任だと、はっきり考えたわけではないが、あの事件のために、かれは何となく不幸な気分になったのだ。
かれはただ、あんなことが起こらなければよかったのにと思ったのである。
だが、操縦装置──ああ! そこには、何か男が、その心を注ぎこめるものがあった。かれは、地球人なら不可能だとしてはねつけるような仕事をやろうとしていたのだ──恒星船の操縦操作は非常に困難な仕事であって、可能なる限りの操縦についての経験が豊富にあることが、この仕事に必要とされる極度に専門化された知識の基礎に、やっとなり得るだけということを、地球人なら知っていたことであろう。
ヒュウ・ホイランドは、そんなことを知らなかった。そこでかれは突進し、なんとかやってのけたのだ。
それをやるとき、かれは設計者の天才に助けられた。ほとんどの機械の構造は、単純な一組、ストッブ・ゴー、押す・引く、上げる・下げる、入れる・出す、つける・切る、右・左、そういったもののどちらかを使うか、その組合せで考えられるようになっていた。本当に困難なことは、手入れ、補修、調整、部品交換なのだが、恒星船〈バンガード号〉の操縦装置と主推進機は、手入れ、補修などを必要としないものだったのである。
その複雑さは、それとわかるほどのものにはなっておらず、動く部分はなく、摩擦もないので、調整が必要になるようなことはなかった。ヒュウがあつかう機械を理解し修理することが必要であれば、それは不可能なことであったろう。
十四歳の子供も、家庭用|飛行自動車《スカイカー》にまかせて、付添いなしでも安全に一晩千マイルも飛んでいけるものだ。その乗物をまちがって操作したり壊したりする方法を見つけることよりも、その旅行中に食べすぎることで身体をこわすことのほうが余計心配だ。だがもし飛行自動車の調整具合が悪くなって、勝手に着陸し、修理員を呼ぶ信号を出したら、その修理員はどうしても必要になる。子供はそれを自分で直せないからだ。
〈バンガード号〉は修理員を必要としなかった──移動ベルト、エレベーター、自動マッサージ器、食堂サービス機械、そういったような本質的にはさまで必要でない補助機械のほかは。どうしても動く部分を使っていたそういう機械類は、最初の〈証人〉の時代より前に壊れてしまった。そして、使い物にならなくなった質量《マッス》は、補助転換器に入れられてしまうか、他のもっと簡単な目的に転用されたのだ。
ヒュウは、そのような機械類があったことなど気づきもしなかった。ほとんどの部屋の、不必要なものを取り去られた状態は、かれにとって、自然というものの持つ単純な事実であり、疑惑を生む原因とはならなかったのだ。
理解し探求しようとするヒュウは、他の二つの事実に助けられた。
第一に、宇宙船の弾道飛行学は非常に単純な問題であり、運動の第二法則を|逆二乗法則の場《インバース・スクエア・フィールド》に適用したものに過ぎなかったことだ。この言いかたは、われわれが普通に信じていることとは反対だが、それが真実なのだ。ケーキを焼くことは、無意識であっても、より大きな技術知識を必要とする。セーターを編むことは、はるかに複雑な数学的関係をつかむことを必要とする。編物における位相数学──まあいつかあなたも自分でやってみたらいい!
複雑な問題といえば、神経学や触媒だってそうだ……だが弾道飛行学は違う。
第二に、設計者たちは〈バンガード号〉が目的地に到達するのは、出発後二代(一代は約三十年)より早くはないということを、はっきり心に刻んでいた。そこでかれらは、恒星船が到着するときに操縦することになる〈未だ生まれていない操縦者たち〉のため、事を容易にするよう勉めたのだ。もちろんかれらは、実際に起こった技術知識の脱落といったようなことは予期しなかったが、かれらは、操縦装置を簡単な、説明を要しない、過ちが起こり得ないものとするために最善をつくしたのだ。先に引用したこまちゃくれた十四歳の少年がもし、宇宙旅行の概念を植え込まれていたならば、そういったことを疑いもなく、数時間のうちに考えついたであろう。だが〈船〉が全世界であると信じるような文化の中で育てられたヒュウは、そういう早い仕事をすることはできなかったのである。
かれは、|深い宇宙《ディープ・スペース》と測定時間《メトリカル・タイム》という二つの妙な概念に悩まされた。自分のやっていることの結果が何を意味することになるのかわかる前に、〈バンガード号〉のため特に設計されたディレイド・アクション、ロング・ベース、パララックス型の距離計(相当長時間長距離をおいて観察し、その視差角度から距離をはかるものだろう)を操作することをまなび、二ダースばかりの天体についての表示数《リーディング》を見なければいけなかったのである。
その示数は天文単位《パーセク》であり、感覚的に無意味なものであった。〈聖なる書物〉の助けを借りて、その示数を線型単位《リネア・ユニット》に変える試みは、かれが確かに間違っていると感じ、明らかに不合理であると感じた数字を理解することになった。長いあいだ考え続け、検討に検討を重ねた結果、かれは不本意でも天文単位ということをおぼろげに理解させられたのである。
その概念は、かれを驚かせ面くらわせた。幾就寝時間《セベラル・スリープ》ものあいだ、かれは操縦室から離れ、無益なことをしているのだ、負けたのだという感情に襲われるのにまかせた。かれは手に入れられる女を分類してみることに時間を費した。かれがずっと以前、ジョウ=ジムにつかまってからのち、この問題を考える気分と機会の両方を持つことができたのは、これが始めてのことであった。
候補者は無数にあった。村の娘たちがいままでどおりの数だけいるのに加えて、ジョウ=ジムの作戦行動で、うれきった年代の寡婦が大勢できたからである。ヒュウは、〈船〉の新しい機構で、自分が指揮者のひとりであるという地位を利用して、二人の女を選んだ。最初のは未亡人で、丈夫で有能な女であり、男に家庭的なくつろぎを与えることに熟練していた。かれはその女を、ずっと上の重さの少ないところにあるかれの新しい部屋に住まわせ、メイドをひとりつけ、クローというもとの名前にもどらせてやった。
もうひとりは娘で、訓練されておらず、ミューティのように野性的だった。ヒュウは自分でも、なぜこの女を選んだのか説明できなかった。たしかに彼女には何の取得もなかった、だが──この女はかれに興味をおぼえさせたのだ。かれがこの女をしらべていると、女はかれに噛みつぎ、かれはもちろん女をたたきつけた。それでこの問題は終りとなるはずだった。だがかれはその後、女の父親に娘を連れてこいと伝言したのである。
かれはこの女に名前をつける暇もなかった。
測定時間《メトリカル・タイム》は、天文学的距離と同じぐらいかれの心を混乱させはしたが、感情的におどろきはしなかった。またも困ったことは、〈船〉の中にその概念が欠けていることであった。船員たちは、位相数学的時間《トポロジカル・タイム》の考えは持っていた。かれらは、〈現在〉〈前〉〈後〉〈してしまった〉〈なるだろう〉とか、長い時間とか短い時間とかの考えでも理解できたが、〈測定された時間〉という考えは、その文化から脱落してしまっていたのである。
地球にある文化なら最低のものでも、測定された時間についての考えは何かある。たとえそれが、日と季節に限られていてもだ。だが、地球における測定時間の概念のすべては、天文学的現象から発している──〈船員〉のほうは、敷えられないほどの世代のあいだ、すべての天文学的現象から遮断されていたのである。
ヒュウの前にある操縦装置盤《コントロール・キャビネット》には〈船〉の中でただひとつ動いている時計がいくつかあった──だが、それが何のための物であり、その道具についている目盛りが何であるかをかれが知るまでには、長い長い時間がかかった。だがそれを知るまで、かれには〈船〉を操縦することはできなかったのだ。速力、その派生物である加速と|ひずみ《ヽヽヽ》とかはみな、測定された時間を基礎にしているものなのだ。
だが、これら二つの新しい概念がついに把握され考え直され、これらの概念のもとで古代の本が再読されると、非常に制約され論理的な意味においてではあったが、かれはひとりの航宙士となっていたのである。
ヒュウは、質問してみようとジョウ=ジムを探した。ジョウ=ジムの心は、自分で努力しようと思うときは実に明晰《めいせき》であるが、そう考えることはほとんどないので、浅薄な知識のままの趣味人のままでいたのである。
ヒュウは、ナービイがちょうど去ろうとしているところだとわかった。ミューティの鎮定戦争を実行するために、ナービイとジョウ=ジムは頻繁に会談しなければいけなかった。そのおたがいが驚いたことは、かれらが一緒にうまくやっていけたことであった。ナービイは有能な行政官であり、権力を委任することができ、つまらぬ小細工を弄しなかった。ナービイはそれまで自分が持ったいかなる部下よりも、ジョウ=ジムのほうがずっと有能であることに、驚きもし喜びもした。かれらは好きあってはいなかったが、おたがいの知性とよく似通った強い利己心を認めあったのである。
「|いい食事を《グッド・イーティング》、船長」
と、ヒュウは丁寧にナービイに挨拶した。
「ああ、ハロー、ヒュウ」
ナービイはそう答えてから、ジョウ=ジムのほうをふりむいた。
「じゃあ、報告を待ってるよ」
ジョウはうなずいた。
「そうするよ。もう数十人しか面倒をおこすやつはいない。おれたちはその連中を、狩り出すか、餓えさせるかするよ」
「お邪魔ですか?」
ヒュウはそうたずねた。
「いや……わたしはもう帰るところだ。偉大な仕事はどうだい?」
かれは、いらだたしい微笑を浮かべた。
「うまくいってます、ゆっくりですが。報告しましょうか?」
「急がないよ。ああ、ついでに言っとくが、操縦室と主推進装置を、いや、無重力の階全部を、全員にタブーとする。ミューティも船員も同じようにだ」
「え? おっしゃる意味がわかるような気がしますよ。士官以外は、あそこへ上がってゆく必要はありませんからね」
「きみはわかっていないようだ。全部へのタブーだ。士官にも同様に適用される。もちろん、われわれは別だがね」
「でも……でも……それでは、うまくいかないでしょう。士官連中に真実を確信させる唯一の効果的な方法は、かれらを上へ昇らせて、星々を見せることです!」
「そこなんだよ。わたしが自分なりの行政を徹底させるあいだに、部下の士官たちの考えを混乱させ、まごつかせるわけにはいかんからね。そんなことをすれば、信仰心をぐらつかせ、規律が保たれなくなるからだ」
ヒュウは、あまりに驚いたので、すぐには返事ができなかった。だが、やっとかれは口をひらいた。
「でも……でもそれが大切なところでしょう。それだからこそ、あなたが船長にされたんですよ」
「船長としてわたしが、政策の最終的な決定者とならなければいけないわけだ。この問題はもう決定した。わたしがいいと思うまで、きみはだれをも操縦室へも、無重力のどの場所へも、連れていってはいけない。きみは待たなければいけないのだ」
「そいつは、いい考えなんだぞ、ヒュウ! おれたちに、いまやらなければいけない戦いがあるあいだは、物事を混乱させるべきではないよ」
ジムはそう意見を言ったが、ヒュウはなおも主張した。
「はっきりしておきたいんですが、あなたはこれを、一時的な政策と言われるんでしょうね?」
「そう考えていいよ」
ヒュウは譲歩した。
「では……いいです。でも待ってください……エルツとぼくは、すぐに助手を訓練しなければいけないんですが」
「よろしい。わたしに名前を言ってくれ、わたしから伝えるから。だれがいいと思っているんだい?」
ヒュウは考えた。かれは実際に助手を必要としているわけではなかった。〈操縦室〉には、加速椅子が六つあったが、主航宙士の椅子に坐ったひとりで〈船〉を操縦できるようになっていた。おなじことが、〈主推進機室〉にいるエルツにも、ひとつの点だけを除いて、あてはまった。
「エルツのほうはどうでしょう? かれは質量を主推進機に運ぶのに荷運びの助手が必要ですが」
「よろしい。その文書にわたしはサインするよ。以前ミューティだったものから荷運びを使うようにするんだな……だが、前に行ったことのある者以外は、だれも操縦室へは行かないことだ」 ナービイはうしろを向き、もう用は終ったというように去っていった。
ヒュウは、かれが立ち去っていくのを見つめて言った。
「どうも、気に入りませんね、ジョウ=ジム」
ジムはたずねた。
「なぜいけないんだ? 理屈に合ってるよ」
「たぶんそうでしょう。でも……ええ、くそっ! ぼくにはどうしても、真実はだれにたいしても──いつでも開放されるべきだと思えるんです!」
かれは、当惑し絶望したように、両手を上げた。
ジョウ=ジムは、変な顔をしてかれを眺めた。そして、ジョウは言った。
「なんて、妙な考えかたなんだ」
「ええ。常識じゃあありませんが、そうであるべきだと思えるんです。ああ、もう忘れてください! あなたに会いにきたのは、そのためじゃあないんですから」
「いったい何を考えているんだ、ヒュウ?」
「どうしてわれわれは……ねえ、われわれは〈旅〉を終えるんでしょう? でも船は惑星にこんな具合に当りますよ……」
かれは両方の拳を合わせた。
「うん、それで……」
「つまり、そうなったとき、われわれはどうやって船の外へ出るんです?」
双生児兄弟は面くらったようで、ふたりのあいだで議論しはじめた。しまいにジョウは、兄弟をさえぎった。
「ちょっと待てよ、ジム。このことには論理的になろうじゃないか。われわれが外へ出ることになっていだとすれば……ドアがあるということだ。そうじゃないか?」
「ああ。そうだな」
「上のこのあたりにドアはない。高重力の下のほうに違いないよ」
ヒュウは反対した。
「でも、そうじゃないんです。あの国は全部、知られています。ドアは全然ありませんよ。上のミューティの国にあるはずです」
ジョウが、そのあとを続けた。
「それなら、ずっといちばん先へ行ったところか、いちばん船尾にあるんだろうよ……そうでなければ、どこにもないわけだからな。船尾ではない。主推進機《メイン・ドライブ》の裏には、固い隔壁しかないんだから。すると、前部でなければいけないことになる」
ジムが意見を述べた。
「そんな馬鹿な! 操縦室と、船長のベランダがあるだけだぜ」
「そうかい? 鍵のかかった船室はどうなんだい?」
「ドアなんかないさ……とにかく外部《ヽヽ》へ通じるものなんかないよ。あの隔壁のうしろは操縦室さ」
「いいや、馬鹿。そういったドアに通じているかも知れないさ」
「馬鹿だと、え? そうだとしても、おまえ、どうやって開けるつもりなんだ……そいつを答えてみろよ、頭の良いの?」
ヒュウはたずねた。
「鍵のかかっている船室って何のことです?」
「おまえ、知らないのか? 七つドアがあるんだ。主操縦室へのドアと同じ隔壁の中央シャフトに、大きく間隔をあけてな。おれたちが、そこを開けることは一度もできなかったがね」
「ほう、するとそれが、われわれの求めているものかも知れませんね。行ってみましょう!」
「時間の無駄だぜ」
ジムはそう言いはった。
だが、かれらは行った。
ボボは、それらのドアで怪力を試してみるために連れていかれた。だがかれが筋肉を、木の瘤のようにふくれあがらせても、ドアを動かすためにあるらしいレバーを、ほんのちょっと動かすこともできなかった。
「どうだ? わかったろう?」
ジムは兄弟を嘲笑した。ジョウは首をかしげた。
「OK……おまえの勝ちだ。下へ降りよう」
ヒュウは頼んだ。
「ちょっと待って。むこうの二つ目のドアですが……ハンドルがちょっとまわせそうです。もういっぺんやってみましょう」
「だめだと思うがなあ」
ジムはそう言ったが、ジョウは違った。
「いいとも、どうせここまで来たんだからな」
ボボはまた試してみた。その肩をレバーの下に入れて両膝で押し上げたのだ。レバーはとつぜん上がったが、ドアは開かなかった。
「壊しちまったんだな」
ジョウはそう言い、ヒュウはうなずいた。
「ええ。どうもそうらしいですね」
かれはドアに手をのばした。
ドアは軽く開いていった。
そのドアは、外側の宇宙へ通じてはいなかった。そうであっても三人は平気だったのだ、というのは、これまでの経験には、外の真空の恐ろしさを警告するものなど何もなかったからである。そのかわりに、非常に短く狭い廊下が、かすかに開いている別のドアに向かって通じていた。そのドアは蝶番でとまっており、わずかに開いていることが、他のどこかにくっついてしまうことを防いでいた。たぶん、それを使った最後の男が、金属の表面が凍ってくっついてしまわないようにと、開いたままにしておいたのであろう──だが、いまとなっては、だれにもわからないことであろうが。
ボボの荒々しい力は、そのドアを容易に開いた。もうひとつのドアが六フィート向こうにあった。
「どうも、わけがわからないな……ドアばかり続いているのは、どういう意味なんだ?」
ボボが三つ目のドアで力を入れはじめると、ジムはそう文句を言った。だが、かれの兄弟は忠告した。
「まあ待って見るんだな」
三番目のドアの向こうには、もう別のドアはなくて、部屋が、いくつもの部屋があった。変なのや、小さいのや、見たこともない形のものが、ごたごたとくっついているのだ。ボボは、ナイフを口にくわえて前方へ飛び出してゆき、その場所を探険した。その醜い身体は飛んでいると、まるで優雅だった。ヒュウとジョウ=ジムはもっとゆっくり進んでゆき、その場所の奇妙さに気づいた。
ボボはもどっできて、その勢いをうまく隔壁にあてて殺し、歯のあいだからナイフを取ると報告した。
「ドアなし。どこにも、もうドアない。ボボ見た」
「あるはずなんだ」
ヒュウは、自分の望みをなくした小人にいらいらして、そう言い張った。
「ボボ見た」
白痴はそう言って肩をすくめた。
「ぼくらも見るよ」
ヒュウと双生児兄弟は、別々の方向へ動いてゆき、偵察するところを違えた。
ヒュウはドアを見つけはしなかったが、見つけたものは、それよりも興味をおぼえさせるものだった──あり得ないことのようなものだった。かれがジョウ=ジムの名を叫ぼうとしたとき、自分の名前が呼ばれるのが聞こえた。
「ヒュウ! こっちへ来い!」
しぶしぶかれは発見したものから離れ、双生児兄弟を探し、すぐに言いだした。
「ぼくの見つけたものを、来て見てください」
ジョウはすぐに、かれをさえぎった。
「いいから、あれを見てみろ」
ヒュウは見た。|あれ《ヽヽ》とは、転換炉《コンバーター》だった。非常に小さいが、まぎれもない転換炉だった。ジムは怒ったように言うのだった。
「わけがわからないじゃないか、これぐらいの大きさの部屋に、転換炉は要らないよ。これなら、〈船〉の半分に、動力と照明を与えられるだろう。おまえどう思う? ヒュウ?」
ヒュウはそれを調べ、首をふった。
「わかりません……でも、これを変だと思うなら、ぼくの見つけたものも見てください」
「いったい何を見つけたんだ?」
「来て、見てください」
双生児はかれのあとについて行き、小さな部屋を見つけた。その一方の壁はどうもガラスでできているらしく──闇黒で、その向こうはぼんやりと何も見えないようだった。その壁に面して、二つの加速椅子が並んでいた。肘かけと、膝にまわってくるデスクの上には、〈主操縦室〉の椅子にある操縦用光点《コントロール・ライト》と同じ種類の、小さな光の点の組合せが輝いていた。
ジョウ=ジムは最初のあいだ何も言わず、ジムが低く口笛を吹いただけだった。かれは椅子の一つに腰をおろして、操縦装置《コントロール》を用心ぶかく試験しはじめた。ヒュウはその隣りに坐った。ジョウ=ジムは、右側の肘かけの一群の白い光を覆った。すると、部屋の照明が消えていった。その手を上げると、小さな操縦用光点《コントロール・ライト》は、白のかわりに青となっていた。照明が消えた時、ジョウ=ジムもヒュウも驚きはしなかった。そこにある操縦装置は、〈操縦室〉にあるものと同じだったので、かれらはそのことを予期していたからである。
ジョウ=ジムはいろいろと試してみて、前にあるまっ暗なガラスに宇宙の幻影を作り出す装置を見つけようとした。そういう装置はなく、ガラスの壁が、展望スクリーンではなくて本当に肉眼で見る窓であり、〈船〉自体の船体でぼんやり見えなくなっていることを、かれがわかる道理はなかったのである。
だがかれは、それに続く位置にある操縦装置を働かそうとした。それらのところには〈発射〉と書かれていた。ジョウ=ジムはその意味がわからなかったので、それを無視した。それを作動させてみても、別におどろくような結果は生まれなかったが、赤い光の点がはげしく点滅し、その文字の下にある透明な部分が作動した。そこには〈エアロック・オープン〉と現れていた。
ジョウ=ジム、ヒュウ、ボボにとっては、非常に幸福なことであった。というのは、もしかれらが背後のドアを閉め、あの小さな転換炉の中に動力と変わる質量がほんの数グラムでも入れてあったら、かれらは、旅行の用意も整えられていない〈船〉のボートに乗り、その操縦装置も〈操縦室〉にあるものとの類推だけでしか理解できないまま、とつぜん宇宙のただ中へ発射されていたことに気づいたはずだからだ。たぶんかれらは、そのボートをもとの格納庫にもどすよう操縦できたかもしれないが、そうやるときに衝突しこわしてしまうほうが起こりそうなことだ。
だがヒュウとジョウ=ジムは、かれらの入った〈部屋〉が宇宙艇であるとは未だ気がついていなかった。〈船〉にボートがのせられていることは、まだかれらにとって考えられないことであったのだ。
「明かりをつけてください」
ヒュウはそう頼み、ジョウ=ジムはそうした。
ヒュウはあとを続けた。
「さあ? どう思います?」
ジムは答えた。
「はっきりしているようだな。これはもうひとつの操縦室だぜ。おれたちはあのドアをあけることができなかったから、ここにこんなのがあると気がつかなかったんだ」
ジョウは反対した。
「そいつはおかしいじゃないか。なぜひとつの船に、二つの操縦室が必要なんだ?」
かれの兄弟は言った。
「なぜひとりの男に二つの首がある? おれの見地からいうと、おまえは明らかに員数外だがね」
「それとこれとは違うよ。おれたちは、こういうように生まれたんだ。だが、これは偶然にそうなったわけじゃない──〈船〉は作ちれたんだからな」
ジムは反対した。
「それがどうした? おれたちはナイフを二本持ってるぜ、そうじゃないか? おれたちはナイフを持って生まれたわけじゃない。余分のを持つってのは、いい考えだぜ」
ジョウは首をふった。
「だが、ここから〈船〉を操縦することはできないぞ。ここからは何も見えないんだからな。もしおまえが二つ目の操縦装置が欲しいとなったら、それを置くところは、船長のベランダだな。あそこでは星々が見えるんだから」
「あれはどうなんだ?」
ジムは、ガラスの壁を指さしてたずねた。
かれの兄弟は知恵をつけた。
「頭を使えよ。あれは反対を向いてるんだ。あれは〈船〉の中を見るんだ、外じゃなしにな。それに〈操縦室〉のとは違う、星々をうつす装置は何もないんだからな」
「ひょっとしたら、おれたちがまだ、それに使う操縦装置を見つけていないからかもしれないぞ」
「そうだとしてもだ、おまえはひとつ忘れていることがあるぞ。あの小さな転換炉はどうなんだね?」
「あれがどうだって?」
「あれには何か意味があるにきまっている。間違ってここに置かれたもんじゃない。おれは誓うよ、ここにある操縦装置は何かあの転換炉と関係があるんだ」
「なぜ?」
「なぜ違うんだ? もし何の関係もないなら、なぜここにかたまっているんだ?」
ヒュウは、面くらって沈黙していたのをやめた。この双生児が言ったことはみな理屈に合っているようだ。反対のことでもだ。全部が実に妙だ。だがあの転換炉、あの小さな転換炉──かれは、勢いよく口をひらいた。
「ねえ、考えてごらん」
「何を考えるんだ?」
「こういうのはどうです……〈船〉のこの部分はひょっとしたら〈動ける〉のではないかと考えられませんか?」
「当然だ。船全体が動いているんだからな」
ヒュウは首をふった。
「いや、違うんです。ぼくの言うのは、全体のことじゃなくて、これだけ動くのではないかということ。ここにある操縦装置と、あの小さな転換炉……ここが〈船〉から離れて動けるのだとしたら……」
「そんな途方もない」
「そうかもしれません……でも、それが本当だとしたら、これが外に出る方法ですよ」
ジョウは言った。
「ふーん? 馬鹿な。とにかくここには外へ出るドアがないんだぞ」
「でももし、この部屋が〈船〉から離れるんだとしたら……ぼくらが入ってきた道は!」
二つの頭は、同じ糸でぐいと引っぱられたように、同時にかれのほうを向いた。それからふたりはおたがいに顔を見合せて、議論をはじめた。ジョウ=ジムは、操縦装置で実験をくりかえした。ジョウは言った。
「な? 発射だ……これは何かを出す、何かを押し出すことを意味してるんだ」
「じゃあ、なぜそうならないんだ?」
「エアロック・オープンだ。おれたちの通ってきたドアだ……そのことに違いないぞ。ほかの全部を閉めるんだ」
「じゃあ試してみよう」
「まず、あの転換炉を動かしてみなければいけないだろう」
「OK」
「そう急ぐなよ。外へ出て、もし帰ってこられなかったらどうだ。飢え死にしちまうぞ」
「ふーん……じゃあ、しばらく待とう」
ヒュウはその議論を聞きながら、操縦盤《コントロール・パネル》をしらべ、何のためのものか知ろうとした。膝にくるデスクの下には物を入れるところがあった。かれはその中に手を入れ、何かにふれて、それを引っぱり出した。
「ぼくの見つけたものを!」
ジョウはたずねた。
「何だい? ああ……本か、そんなのはたくさん、転換炉のとなりの部屋にあるよ」
ジムは言った。
「ちょっと見せてみろ」
だがヒュウは自分で開いて読みはじめた。
「順星船バーガード航宙日誌……二一七二年六月二日、これまでと同じように巡航……」
ジョウは叫んだ。
「何だと! そいつをおれに見せろ!」
「六月三日、巡航、変りなし。六月四日、巡航、変りなし。船長の賞罰会議を二二〇〇時にひらく。行政管理表を見よ。六月五日、巡航、変りなし……」
「おれに貸せ!」
ヒュウは答えた。
「待って! 六月六日。〇四三一時に反乱発生。当直はテレビ装置でそれに気づいた。二等冶金工のハフは、司令室を遮断し、自分を〈船長〉と称して、当直士官に降伏を要求。当直士官はかれに、逮捕されることを警告し、船長室に通報した。応答なし。
〇四三五。通信不能。当直士官は三名を派遣し、船長に伝え、主任弁護士を呼んでハフの逮捕に協力させようとした。
〇四四一。転換炉の動力切れ、自由飛行《フリー・フライト》。
〇五〇二。当直士官の連絡員として、下に行った三人のひとり、二等船員のレーシイは、ただひとり司令室に帰還。かれは口頭で、他の二人、マルコルム・ヤングとアーサー・シアーズは殺され、かれは、当直士官に降伏を勧告するため帰ることを許されたと報告した。反乱者たちは〇五一五を最終期限とした」
そのあとに続く記入は、別の筆蹟となっていた。
「〇五四五。わたしは、他の場所と船の全士官と連絡をつけようと、あらゆる努力をしたが、成功しなかった。この状況のもとで、わたしは交代の来ない司令室から離れ、下の階の秩序を回復しようとすることが、自分の義務であると考える。われわれは武装していないから、わたしの決心は間違っているのかもしれない。だがわたしには別の道は残されていないのだ。
ジーン・ボールドウィン。三等航宙士、当直士官」
ジョウはたずねた。
「それで全部なのか?」
ヒュウは首をふった。
「いや……二一七二年十月一日(推定)わたし、セオドア・モーソン、元二等倉庫管理係は、本日付をもってバンガードの船長に選出された。この航宙日誌のこの前の記入から、たいへんな変化があった。反乱は鎮圧された。もっと正確に言えば、消えていったのだが。悲しい代償を伴ったのである。すべての航宙士官、すべての技術士官は死亡した。あるいは死亡したと信じられる。その資格がある人間が残っておれば、わたしが船長にえらばれることはあり得なかったであろう。
乗組員の約九十パーセントが死亡した。その数の全部が、最初の暴動勃発の際に死んだのではない。反乱以後、作物は植えられていない。食料の貯蔵はとぼしくなった。降伏しなかった反乱者たちのあいだには、人肉を食べているという証拠がはっきりあるようだ。
わたしの直ちにやるべき仕事は、乗組員のあいだに秩序と規律らしいものを回復することだ。作物を植えつけなければいけない。われわれが熱と光と動力を依存している補助転換炉に規則的な見張りを置かなければいけない」
つぎの記入には、日が書かれていなかった。
「わたしは、あまりにも忙しすぎて、この日誌をきちんと記入することができなかった。実際のところ、わたしは正確な日付けさえも知らないのだ。船内の時計はどれも、もう動いていない。それは、補助転換炉の操作を誤まったために起こったものか、外の宇宙からの放射線の影響によるものかもしれない。主転換炉が動いていないため、われわれはもはや、船のまわりに対宇宙線シールドを作っていない。機関長は主転換炉を動かすことはできると言うが、航宙士の仕事ができる者がひとりもいない──わたしは手近にある本で航宙法を独学しようとしたが、それに必要な数学が非常に難解すぎる。
新しく生まれる子供二十人のうちひとりは、不具者である。わたしはスパルタ式の憲章を作った──そのような子供は、生きることを許されない。後味の悪いことだが、必要なことなのだ。
わたしは非常な年寄りになり、弱くもなっているから、わたしの後継者を選ぶことを考えなければいけない。わたしは、地球で生まれた乗組員のうち最後の人間だが、そのわたしでさえも、地球のことをほとんど憶えていない──わたしは、両親が乗り込んだとき五歳だった。わたしは自分の年齢もわからないが、間違いない兆候がこう告げる──わたしが転換炉への旅につかなければいけない時期は、そう遠くのことではないと。
わたしの部下の教育には、奇妙な変化が見られる。惑星の上に住んだことが一度もないので、時が経過するにつれてかれらには、船に関係のないものは如何なることも理解しにくくなってきたのだ。わたしは、かれらにそのことについて話そうとするのはやめた──そんなことは、かれらを暗黒から導き出せる希望がわたしにない以上、親切なこととは思えないからだ。かれらは生きていくのがやっとのことなのだ。かれらは作物を育てるが、まるで、未だに上の階に大勢いる無法者たちに奪われるためのようだ。そんなかれらに、もっとましなものがあるのだと話すのは無意味なことだ。
わたしはこれを後継者に渡すかわりに、できるなら、脱走した反乱者が残したただ一隻の〈船〉のボートの中に隠しておこうと決めた。そうなれば、長いあいだ安全だろう──さもなければ、どうしよりもない馬鹿が、これを転換炉の燃料にしようとするかもしれないからだ。わたしは、当直していた男が、地球百科大事典《エンサイクロベティア・テレストリアーナ》のセットの最後の一巻を燃料にしているところをつかまえた──金では買えぬ貴重な書籍なのに。この馬鹿者は、まったく読み書きを教えられたことがなかったのだ! 書籍についての何らかの規則を作らなければいけない。
これがわたしの最後の記入だ。わたしは、この日記を安全なところに保管しようとする試みを延ばしてきた。それは、低い階より上に上がることが非常に危険だからだ。だが、もはやわたしの命には何の価値もない。わたしは、真実の記録が残されたことを知って、死んでいきたいのだ。
[#地付き]船長、セオドア・モーソン」
ヒュウが読むのをやめたあと、双生児兄弟さえも長いあいだ黙っていた。やがてジョウは大きな溜息をついて言った。
「そう、そういうぐあいに起こったのか」
ヒュウは静かに言った。
「かわいそうな男だ」
「だれが? モーソン船長か? なぜ、そう?」
「いや、モーソン船長じゃないんです。もうひとりの男、航宙士官のボールドウィン……その男があのドアを通って出てゆき、ハフが反対側にいるところを考えてごらんなさい」
ヒュウは身ぶるいした。かれは心が明るく照らし出されはしたが、無意識のうちにハフの姿を描いていたのだ。〈呪われたるハフ、最初の罪びと〉それは、ジョウ=ジムより二倍も背が高く、ボボより二倍も力が強く、歯のかわりに牙を生やしているのだ。
ヒュウはエルツから二人の荷運び人を借りた──戦闘で死んだ者の塩づけ屍体を主転換炉へ燃料用に運ぶためにエルツが使っていた荷運び人──それを使って、〈船〉のボートの用意を整えたのだ。水、バン、塩づけ肉、転換炉への質量《マッス》など。かれはそのことをナービイに報告せず、ボートその物の発見も報告しなかった。かれは別にこれといった理由はなかったのだが──ナービイには、いらいらさせられたからである。
かれらの目的地である恒星はしだいに大きくなり、はっきりと円盤の形に見えるまでにふくれあがり、長いあいだ見つめているには、まぶしすぎるようになった。その位置は、恒星としては急速に変ってゆき、宇宙展望室ドームの背景を横切ってゆくのだった。操縦されないまま、〈船〉はそのまわりを大きな双曲線を描いてまわってゆき、闇黒の深淵の中へ再び後退してゆくのだ。その弾道を計算するのに、ヒュウは数週間に相当する時間を費した。エルツとジョウ=ジムが、その数字を調べて、かれら自身その途方もない答が正しいのだと納得できるまでには、もっと長い時間がかかった。そして、宇宙でランデブーする方法は、行こうとするところから反対の方向へ押し離す力を加えるのだということをエルツに信じこませるには、もっと長い時間がかかったのである──それは、両の踵を前に出してブレーキをかけると、惰性が殺されるというようなものであったのだ。
実際、かれにその考えを納得させるためには、重力のない階で自由飛行しながらの実験を何度もしなければいけなかった──さもなければ、かれは最高のスピードでその恒星に頭からつっこんでゆくという簡単な方法で〈旅〉を終るほうを有難がったであろうからだ。そのあとヒュウとジョウ=ジムは、〈バンガード号〉の速度を殺し、その恒星のまわりの楕円軌道に入れるために、加速をどう使うかということを計算した。そのあと、惑星を探すのだ。
エルツは、惑星と恒星との違いを理解するのにちょっと困り、アランはまったく理解できなかった。
ヒュウはエルツに知らせた。
「ぼくの計算が正しければ、もういつだって加速を始めるべきなんだよ」
エルツはかれに言った。
「OK。主推進機は用意よし……二百人以上の屍体と、ごみくずが山ほどある。何を待っているんだ?」
「ナービイに会って、始める許可をもらわなくちゃあ」
「なぜやつに頼むんだ?」
ヒュウは肩をすくめた。
「かれが船長だ。知りたがるだろう」
「よし。ジョウ=ジムを見つけて、そうしよう」
かれらはヒュウの部屋を離れて、ジョウ=ジムの部屋へ行った。ところが、ジョウ=ジムはそこにいなくて、アランもかれを探していた。
「船長の事務所へ降りていったと、スクオッティが言ってるよ」
アランはそうかれに告げた。
「そうか、そいつは、ちょうどいい……そこでおれたちも会おう。アラン、知ってるかい?」
「何を?」
「時は来たんだ。おれたちやるんだぜ! 船を動かすんだ!」
アランは眼を丸くした。
「えっ! いますぐにかい?」
「船長に知らせたらすぐにだ。よければ、いっしょに来ないか」
「もちろんさ! おれの女に知らせるまで待ってくれ」
かれは近くにある自分の部屋へ飛んでいった。
「やつは、あの女をあまやかしてるよ」
エルツがそう言うと、ヒュウは、遠くを見るような眼つきで答えた。
「ときには、どうしてもそうなることがあるさ」
アランは、きれいな下着にとりかえるのに時間をかけたことは確かだったが、急いでもどってきた。
「OK、行こう」
アランは胸を張って船長の事務所へ近づいていった。自分はいまや重要な男なのだと、かれは喜び勇んでいた──かれは友だちといっしょに、番人が敬礼するあいだを通っていけばいいのだ──もう、つつきまわされるようなことはないのだ。
だが、ドアの番人は、入口をふさぐようにし、敬礼はしたが、横にどこうとはしなかった。
「どかないか、貴様!」
エルツは声荒く言った。しかし番人は動きもせずに答えた。
「はい、武器をどうぞ」
「何だと! わたしを知らないのか、この馬鹿者! わたしは機関長だぞ」
「はい、機関長。どうか、あなたの武器をおわたしください。規則です」
エルツは片手をその男の肩に置いで、ついた。番人は立ちはだかったまま動かなかった。
「すみませんが、機関長。だれも武器を持って船長に近づくことはできません。だれでもです」
「ほう、何というやつだ!」
ヒュウは低い声で言った。
「かれは、前の船長に起こったことを憶えているんだ……賢いやつだな」
かれは自分のナイフを抜くと、番人のほうへ投げた。そいつは鮮かに柄のところで受けとめた。エルツはそれを見、肩をすくめ、自分のを手渡した。アランは、ひどくしょげて、番人が命も縮まるほどの想いをした眼つきで、自分の二本のナイフを渡した。
ナービイは話していた。ジョウ=ジムは、その両方の顔をしかめていた。ボボは、いつも肌身はなさず持っていたナイフとパチンコがないので、頼りなげに面くらっていた。
「この問題はこれで終りだ、ジョウ=ジム。これがわたしの決定だ。わたしは、理由をきみたちに説明してやったが、きみたちの気に入ろうと入るまいと、それは関係のないことだよ」
「なにをもめているんです?」
ヒュウはそうたずねた。
ナービイは顔を上げた。
「ああ……きみが来てくれてうれしいよ。きみのミューティの友だちは、だれが船長であるかについて疑いの心があるようなんだ」
「どうしたというんです?」
ジムは、親指をナービイに向けてうなるように言った。
「こいつは、すべてのミューティを武装解除しようと思っているらしいんだ」
「ほう。戦いは終ったんでしょう?」
「同意してのことじゃないんだ。ミューティたちは、船員の一部になろうとしていた。ミューティからナイフを取り上げたら、船員はすぐにみんなを殺してしまうよ。公平じゃない。船員はナイフを持ってるんだから」
ナービイは予言するように言った。
「連中も持たなくなる日はいずれ来るよ。だが、わたしは自分なりのやりかたで、自分の好きな時にやるんだ。これが最初の段階だ。それで、わたしに会いたいという用は何だい、エルツ?」「ヒュウにたずねてみるんですな」
ナービイはヒュウのほうを向き、ヒュウは丁寧に言いはじめた。
「報告に参りました、ナービイ船長。われわれはいま主転換炉をスタートさせ、船を動かそうとしているところです」
ナービイは驚いたようだったが、まごつきはしなかった。
「残念だが、それは延期してもらわなければいけないな。わたしはまだ、士官たちに無重力のところへ昇ることを許可する用意ができていないんでね」
ヒュウは説明した。
「その必要はありません……エルツとぼくは、最初の操作をふたりだけでやれます。だが待つことはできません。船がいますぐ動かされなければ、〈旅〉はわれわれの生きているあいだには終らないですよ」
ナービイは平気な顔で答えた。
「では、どうしても待たなければいけないな」
ヒュウは怒鳴った。
「何だって? ナービイ、あんたは〈旅〉を完成したくないんですか?」
「わたしは別に急がないよ」
エルツは言った。
「これは何という馬鹿げたことなんだ? どうしたというんだ、ナービイ? もちろんわれわれは船を動かすよ」
ナービイは答える前に、机の上を大きく叩きつけた。それからかれは口をひらいた。
「どうもここには、だれが命令を下すかについて、いささか誤解があるようだから、きみたちに、はっきり言っておいたほうがよさそうだ。ホイランド、きみの暇つぶしが〈船〉の管理行政について干渉しないかぎり、わたしはきみがひとりで楽しむのは許しておくつもりでいた。きみはきみなりに非常に役に立ってくれたから、喜んでそうするつもりだったのだ。だが、きみの気違いじみた信念が、士気の腐敗の原因となり、〈船〉の平和と安全にたいする危険となるのでは、わたしはそれを叩きつぶさねばならん」
そうナービイが言っているあいだ、ヒュウは何度か口を開けたり閉じたりした。そしてやっとの思いでかれは言った。
「気違いじみた? 気違いじみたと言いましたね?」
「ああ、そう言ったよ。この固い〈船〉が動くなどと信じている者は、気が狂っているか、それとも無知な狂信者だ。きみたちはふたりとも、科学者としての訓練を受けているんだから、気が狂ったものとしか思えないね」
ヒュウは言った。
「いったい何ということを! 自分の眼でみた、あの不滅の星々を見たくせに……それでも、ここに坐りこんで、われわれを気違いだと言うのか!」
エルツは冷やかにたずねた。
「これはどういうことなんだ、ナービイ? なぜ馬腹騒ぎをするんだ? からかっているつもりなのか……きみは操縦室へ行った、きみは船長のベランダへ行った、きみは船が動いていることを知っているはずだ」
ナービイはエルツをじろじろと眺めながら答えた。
「面白いことだな、エルツ。わたしは、きみがいったい、ホイランドの妄想に調子を合わせているのか、それとも、きみ自身もそれを信じているのか、どちらだろうと迷っていた。もういまは、きみも気が狂っているとわかったがね」
エルツは怒りを押えつけた。
「説明してみろ。きみは操縦室を見た。それで、船が動いていないなどと、どうして言えるんだ?」
ナービイは微笑した。
「きみは見かけよりは上等の技術者だとばかり思っていたんだがな、エルツ。操縦室はたいへんなまやかしものだよ。きみ自身も、あの光がみなスイッチで点滅されることを知っている……すばらしくうまい技術作品だな。わたしの考えはこうだ、あれは迷信深い者の心に恐れをいだかせ、古代の神話を信じこませるのに使われたのだよ。だがわれわれはもう、あれは必要としない。船員はみな、あんなものはなくても信じているのだから。いまとなっては、あれは狂気の源泉となる……わたしはあれを破壊し、ドアを封印してしまうつもりだ」
この言葉でヒュウはまったくわれをなくし、とりとめもないことを口走り、エルツがとめなければ、ナービイにつかみかかるところだった。
「おちつくんだ、ヒュウ」
エルツはそう忠告し、ジョウ=ジムはその二つの顔を石の仮面のようにしたまま、ヒュウの腕をつかんだ。
エルツは静かに続けた。
「きみの言うことが本当だとしよう。主転換炉と主推進機も格好だけの物で、われわれが絶対に動かせない物だとしよう。だが、〈船長のベランダ〉はどうなんだ? きみはあそこで星々を見た。ただの機械で作りだした幻影の見世物じゃないよ」
ナービイは笑った。
「エルツ、きみは思っていたよりずっと馬鹿なんだな。あのベランダで見た眺めで、わたしは最初あっけにとられたことは認めるよ……あれをそっくり信じたってわけではないがね! だが、あの〈操縦室〉が手ががりを与えてくれたよ……あれは幻影だ、非常に見事な技術作品さ。あのガラスの背後には別の部屋があるのさ、同じ大きさで、照明されていないところがね。その闇黒にたいして動くあの小さな光の点が底知れない穴のような効果を作り出しているんだ。それは本質的に、〈操縦室〉で使われていたものと同じやりかたさ。そんなことは、はっきりしていることだ」
かれは続けた。
「きみにそれがわからなかったとは、驚いたね、はっきりしている事実が、論理と常識に反対しているときは、その事実を正確に解釈することに失敗しているのだということは明白だ。自然界においてもっとも明白な事実は、〈船〉自体の現実さだよ、固く、不変な、完全であるものだ。それに反するように見えるいわゆる事実なるものは、どんなものであっても、幻影にきまっているんだ。それがわかっているからこそ、わたしはあの幻影の背後にある仕掛けを求め、それを見つけたんだ」
エルツは言った。
「待ってくれ。きみは、〈船長のベランダ〉にあるガラスの向こう側へ行って、きみが言っている仕掛けの光とかを見たと言うのか?」
ナービイは首をふった。
「いや。そんな必要はないさ。そうすることは実に楽なことだが、そんな必要はない。ナイフが鋭いかどうか知るために、自分の身体を切ってみることはないからな」
「そうか……」
エルツは話すのをやめ、しばらく考えてから、あとを続けた。
「きみと取引きしよう。ヒュウとわたしがわれわれの信ずるところに従って気違い同様としよう。われわれが口を閉じているかぎり、何の害も与えないわけだ。われわれは〈船〉を動かしてみよう。もしわれわれが失敗すれば、われわれが間違っているのだし、きみが正しいんだ」
ナービイは、はっきりと答えた。
「船長は取引きなどしない。だが……そのことは考えてみよう。それで終りだ。もう帰ってもらおう」
エルツは不満足ではあるが、ちょっと気がぬけ、ふり向いて出て行こうとした。だがかれはジョウ=ジムの顔に気がつき、またあとへもどって言った。
「もうひとつ……この、ミューティについてのことはどうなんだ? なぜきみはジョウ=ジムを乱暴にあつかうんだ? かれとかれの部下がきみを船長にしたんだ……きみは、この点には、きれいにやらなくてはいけないじゃないか」
ナービイの、微笑を浮かべた優越感は、その瞬間にくだかれた。
「干渉するな、エルツ! 武装した野蛮人が大勢いることは我慢できないことだ。これが最後の言葉だぞ」
ジムは言った。
「おまえはどうでも好きなとおりに、捕虜をあつがうことはできる。だが、おれの部下はナイフを持ちつづけるよ。やつらはおまえのために戦ったら、永久に|いい食事を《グッド・イーティング》約束されたんだ。やつらはナイフを持ちつづける。これが最後の言葉だ!」
ナービイはかれを上から下へと眺めて言った。
「ジョウ=ジム、わたしはずっと前から、良いミューティなどあるとすれば死んだミューティだけだと信じてきた。おまえたちは、わたしの意見をよく裏付けしてくれたよ。こう聞かされるとさぞ面自がるだろうな。もういまごろは、おまえの部下は武装解除されているんだ……もしくは、そのあいだに殺されているね。それがおまえを呼んだ理由だ!」
合図をしたのか、前もって用意されていたものか、それはわからなかったが、兵士たちが乱入してきた。裸足で、裸で、武器もなく襲われ、みんながかたまろうとする前に、五人の背後にはそれぞれひとりの兵士がついた。
「こいつらを連れて行け」
ナービイはそう命令した。
ボボはうめき、どうすればいいのだというようにジョウ=ジムを見た。ジョウはその顔と視線をあわせた。
「上へ、ボボ!」
この小人は、自分の背後にあるナイフのことなど気にもかけず、ジョウ=ジムを逮捕した男に飛びついていった。注意力を割かれて、その男は致命的な半秒を失った。ジョウ=ジムはそいつの腹を蹴とばし、そのナイフを奪った。
ヒュウは甲板に出ていて、相手の男と組み合って身動きできなくなっており、その手はナイフを握った手首をつかんでいた。ジョウ=ジムはそいつを突き刺し、格闘は終った。二つ頭の男はあたりを見まわし、四つの身体がもつれあっているのを見つけた。エルツとアランと、ほかの二人だ。ジョウ=ジムは、その顔と身体が合うように気をつけながら、判断よろしくナイフを使った。すぐにかれの友人たちが現れた。
「そいつらのナイフを取るんだ」
かれは命令したが無駄だった。かれの言葉は、かん高く響いた苦悶の悲鳴にかき消されたのだ。まだナイフを取っていないボボは、自分のもっとも大切な武器に向かっていっていたのだ。かれをつかまえた男の顔は血みどろで、半分くいちぎられていた。
「そいつのナイフを取るんだ」
ジョウはそう言ったが、ボボは申し訳なさそうに首をふった。
「手がとどかない」
その理由は、はっきりしていた──ボボの右肩甲骨の真下の肋骨のあいだに、ナイフの握りが突き立っていたのだ。
ジョウ=ジムはそれを調べ、そっとさわった。それは動かなかった。
「歩けるか?」
「うん」
ボボはうなり、ニヤリと笑った。
「そのままにしておくんだ。アラン! おれのそばへ。ヒュウとビル……うしろを守れ。ボボはまん中だ」
「ナービイはどこだ?」
エルツは頸の傷をふきながらたずねた。
だがナービイはいなかった──かれのデスクの背後にあるドアをぬけて逃げ出したのだ。そして、そのドアには鍵がかけられていた。
外の事務室では書記どもが、かれらの前を逃げまどった。ジョウ=ジムは大声をあげながら、外のドアにいた歩哨を突き剌した。かれらはそれぞれ自分の武器を取りもどし、それに奪ったものを加えた。かれらは上へ走っていった。
二階上の人が住んでいる階で、ボボはつまずいて倒れた。ジョウ=ジムはかれを抱きおこした。
「大丈夫か?」
小人は唇から血を出し、黙ってうなずいた。二十階ほど上がってゆくと、みんなが交代してかれをうしろから押しても、ボボがもうそれ以上昇れないことははっきりしてきた。だがそのころ重さはだいぶ少くなっていた。アランは元気をふるいおこし、動かなくなった身体を赤ん坊のようにかつぎあげ、昇っていった。
ジョウ=ジムがアランと代った。かれらは昇り続けた。
エルツがジョウ=ジムと代った。ヒュウがエルツと代った。
かれらは住み家の階に達した。それからむこうに部下の部屋もあるのだ。ヒュウはその方向へ曲がった。そのときジョウが命令した。
「そいつを降ろせ……いったいおまえ、どこへ行くつもりだ?」
ヒュウは怪我人を甲板《デッキ》に置いた。
「家へ。そのほかどこへ?」
「馬鹿! そこが、やつらの最初におれたちを探すところだぞ」
「どこへ行くんです?」
「どこもない……船の中にはな。おれたちは、船の外へ出るんだ!」
「え?」
「船のボートだ」
エルツは賛成した。
「かれの言うとおりだ。もう船全体が、おれたちの敵だ」
「でも……でも……」
ヒュウはやっとうなずいた。
「うまくいくかどうか……でも、やってみましょう」
かれはまた、みんなの家の方角へ向かった。ジムは怒鳴った。
「おい! そっちじゃないぞ」
「おれたちの女を連れてこなくちゃいけないんだ」
「女などハフだ(糞くらえ)! つかまるぞ。そんな暇はないんだ」
だがエルツとアランは、何も言わずにそちらへ走りはじめた。ジムはうなった。
「ああ……いいよ! でも急げ! おれはボボといる」
ジョウ=ジムは腰をおろし、小人の頭を膝にのせて、注意ぶかく調べた。その皮膚は青ざめ、べとべとしていた。右肩から血潮が長く尾を引いているのだ。ボボは血の泡をふきながら溜息をつき、その頭をジョウ=ジムの太ももにこすりつけた。
「ボボ、つかれた、ボス」
ジョウ=ジムはその頭をなで、ジムは言った。
「がまんしろよ。これはちょっと痛むぞ」
怪我人をちょっと持ちあげると、かれは慎重にナイフを動くようにし、傷口から引き抜いた。血は自由に流れ出した。
ジョウ=ジムはそのナイフを調べ、その鋼鉄の刃の数死傷を与える長さに気づき、傷口とくらべてみた。
「もう助からないよ」
ジョウはそう呟いた。ジムはその顔を見た。
「それで?」
ジョウは、ゆっくりうなずいた。ジョウ=ジムは、たったいま傷口から引き抜いたナイフの刃を、自分の太ももで試してみて、それを捨て、かわりに自分の剃刀のようによく切れるナイフを抜いた。かれは左手で小人の顎をおさえ、ジョウは命令した。
「おれを見ろ、ボボ!」
ボボは上を見て、答えたが、何も聞こえなかった。ジョウはじっとボボの顔を見つめた。
「いいボボ! 強いボボ!」
小人は、それが聞こえ理解したかのように微笑したが、答えようとはしなかった。かれの主人はちょっとボボの首を横に引いた。ナイフは気管にふれないようにして、深く頸静脈を切断した。
「いいボボ!」
ジョウはそう繰りかえした。ボボはまた微笑んだ。
その眼から生気がなくなり、呼吸が疑いもなくとまると、ジョウ=ジムは、ボボの頭と肩を膝から落として立ち上がった。かれはその屍体を足で通路の端へ押しやり、それからみんなの立ち去った方向をのぞいた。もう帰ってこなければいけないころだ。
かれは取りもどしたナイフをベルトにはさみ、すべての武器をすぐ使えるようになっているかどうかを確めた。
みんなは死にものぐるいで走ってきた。ヒュウは息せききって説明した。
「スクオッティは死んだ。あんたの部下はだれもいない。たぶん死んだんだ……ナービイは本気でああ言ったんだろう。さあ……」
かれは長いナイフと、ジョウ=ジム用に作られた鎧をわたした。その大きな鋼鉄の籠は、二つの頭を覆うようになっているのだ。
エルツとアランは、ヒュウと同じように鎧を着ていた。女たちは着ていない──女たちのためには、ひとつも作られなかったのだ。ジョウ=ジムは、ヒュウの若いほうの妻の唇がふくれあがっているのに気がついた。まるでだれかが彼女を強い手で叩いたようだった。彼女の態度は素直だったが、その眼は怒りに燃えていた。年上のほうの妻クローは、事態を当然のことのように受け取っているようだった。エルツの妻は低い声で泣いており、アランの女は、主人の困惑ぶりをそのまま反射していた。
「ボボはどう?」
ヒュウは、ジョウ=ジムの鎧を着せながらそうたずねた。
「旅をしたよ」
ジョウはそう答えた。
「え? それは、それは……行きましょう」
一行は、重さのない階でちょっととまり、ゆっくり進んでいった。女たちが無重力のところで飛ぶことに慣れていなかったからだ。そして、〈操縦室〉と〈ボート格納庫〉を船体から区切っている隔壁のとごろへ達すると、上へ昇っていった。ジョウは、ある甲板《デッキ》に近づいたとき、頭がひとつ現れたように思ったが警報も鳴らず、待ち伏せもなかった。かれはそのことを兄弟に告げたが、他の者には言わなかった。
ボート格納庫へ通じるドアは閉じられており、それをあけるボボはいなかった。男たちはつぎつぎと、その固さに汗を流しながら試してみた。ジョウ=ジムは二回目に試すとき、おたがいが邪魔しあわないように、ジョウはのんびりし、ジムにふたりの筋肉を使うのをまかせた。ドアはひらいた。すぐにジムは叫んだ。
「そいつらを中へ入れろ!」
ジョウも叫んだ。
「急げ! やつらが来たぞ」
かれは、兄弟が頑張っていたあいだ、見張りをしていたのだ。うしろからの叫び声がその報告をよりいっそう強めた。
双生児兄弟がうしろからの追手を引きうけようとふり向いているあいだ、男たちは四人の女を突き入れた。アランの縮れ頭の女は、その瞬間に自制心を失い、泣き叫びながら走り出そうとしたが、無重力のために身体がいうことを聞かなかった。ヒュウは彼女をつかまえ、頭で中へ押しこみ、足で蹴とばした。
ジョウ=ジムは、追ってくる連中をくいとめようと、遠い距離からナイフを一本投げた。それは目的どおり役立ち、六人ほどの敵は、進んでくるのをやめた。だが、だれかの合図で同時に六本のナイフが空気を切った。
ジムは何かが当ったように感じたが、痛みは憶えなかったので、鎧のおかげで助かったのだと思って叫んだ。
「あたらなかったよ、ジョウ」
答えはなかった。ジムは兄弟を見ようと首をまわした。かれの眼から数インチのところで、一本のナイフがヘルメットの鉄棒のあいだを通り、ジョウの左眼に深く突き剌さっていた。
かれの兄弟は死んだのだ。
ヒュウはドアから首をつき出して叫んだ。
「来てくれ、ジョウ=ジム。みんな入ったぞ」
ジムは命令した。
「中へ入れ。ドアを閉めろ」
「でも……」
「中へ入れったら!」
ジムはふり向くと、ヒュウの顔を中にむかって突き飛ばし、同時にドアを閉めた。ヒュウは、そのぞっとした瞬間に、ナイフと、それが突き刺されている息絶えた顔を見た。それから眼の前でドアは閉まり、レバーがまわる音が聞こえてきた。
ジムはふりかえり、敵にむかっていった。奇妙に重い両足で隔壁を押して突進し、大きな腕ほどの長さのナイフ、剣というよりは大形ナイフというような物を両手ににぎって飛んでいったのだ。何本ものナイフが飛んできて、胸板に当って音を立て、両足にささった。かれは大きくナイフをふり敵のひとりに当て、そいつをほとんどまっ二つに切りはなした。
「これはジョウの分だ!」
つぎのナイフが、かれをとめた。かれは空中で向きを変え、体勢を整えると、またふりまわした。
「これはボボの分だ!」
みんなは、かれに迫ってきた。かれは、ナイフが当りさえすればどこでもかまわず、荒々しくふりまわし続けた。
「これはおれの分だ!」
ナイフが一本、かれの太ももに突きささった。それさえも、かれの勢いをゆるめはしなかった。足は無重力のところでは無くてもすむのだ。
「みんなのために!」
そのとき、ひとりがかれのうしろにまわっていた──かれはその気配を感じることができた。
だが──前にも、もうひとりいたのだ。かれはナイフをふりまわしながら怒鳴った。
「みんなの目的の……」
その言葉は途中で消えていったが、ナイフはその目的を達した。
ヒュウは、顔の前にたたきつけられたドアを開こうとした。だが、だめだった──あけられる方法があるとしても、かれにはそれを見出すことができなかった。かれは耳を鋼板に押しあてて耳をすませた。だが、エアロックのドアは、すこしの物音も響かせなかった。
エルツはかれの肩にふれて言った。
「こいよ。ジョウ=ジムはどこなんだ?」
「かれはあとに残った」
「何だと! ドアをあけろ……かれをこちらへ」
「だめだ、ひらかない。かれは自分からあとへ残るつもりだった。自分で閉めたんだ」
「だがかれを連れてこなくちゃあ……ぼくらは、血に誓ったんだ」
ヒュウは、とつぜん気がついて言った。
「そうだ……それでかれは、あとにとどまったんだ」
かれはエルツに、自分が見たことを言った。
「とにかく、かれにとって、あれが旅の終りだった。もうあきらめて転換炉に質量《マッス》を入れよう。動力がいるんだ」
かれらは〈船〉のボートに乗りこみ、ヒュウはエアロックになっているドアを閉めた。そしてかれは叫んだ。
「アラン! 出発するぞ。そのろくでもない女どもに、邪魔させないようにしてくれ」
かれはパイロットの椅子に坐り、明かりを消した。
暗闇の中でかれは緑色の光の点に手をかざした。膝のデスクの透明なところに文字が輝いた。〈推進機よし〉
エルツがその部署についているのだ。行くぞ! かれはそう思い、発射の組合せに手をかざしていった。ちょっとのあいだをおいて、短く、胸が悪くなるような|かしぎ《ヽヽヽ》かた──|ひねり《ヽヽヽ》だ。かれは恐怖をおぼえた。発射用トラックが、〈船〉の普通の回転と相殺するようにネジを切られていたことを、かれが知っている道理はなかったからだ。
かれの前にある展望窓のガラスは、星々にきらめいた。それらは自由に──動いているのだ! だが、宝石のように光る無数の点のひろがりは切れず、ベランダから見たときや、〈操縦室〉の壁に映写されたものを見たものと変らなかった。そして、かれらが突入した恒星系の太陽の光に照らされて、巨大な、ずんぐりした、不格好な形のものが、ぼんやりと輝いていた。最初かれは、それが何かわからなかった。だがそのうち迷信的な恐れが押しよせてくると同時に、かれは自分の見ているものが、〈船〉自体であることに気づいた。外部から見た本当の〈船〉なのだ。長いあいだ理性の上では、〈船〉の真実の性質に気づいていたかれも、その姿を外からながめる姿を考えてみることはできなかったのだ。恒星、よろしい──惑星の表面、かれはその概念をつかむのに苦闘した──だが、〈船〉を外から見た表面、それはだめだった。
それを見たとき、かれはショックを憶えたのだ。
アランは、かれにふれた。
「ヒュウ、あれは何だい?」
ホイランドは説明しようと努力した。アランは首をふり、眼をまばたいた。
「わけがわからないよ」
「いいさ。エルツをここへ連れてきてくれ。女たちもな……連中にも見せてやろう」
「いいよ、でも」アランは、健全な本能からつけくわえた。
「女たちに見せるのは間違いだな。きみは連中をひどく恐がらせるよ……やつらは星を見たこともないんだから」
幸運、堅実な技術設計、そしてわずかたる知識。素晴しい設計、それに十倍する幸運、そして貴重なわずかの知識。惑星系を有する恒星の近くに〈船〉が置かれていた幸運。ヒュウが補助乗物で相殺できるほどの遅いスピードで〈船〉がそこへ到達していた幸運。みんなが餓死したり宇宙の深淵に行方不明になってしまったりする以前に、どうやらヒュウが操縦できるようになった幸運だ。
この小さな乗物に、たいへんな動力の貯蔵量とスピードを与えたのは、素晴しい設計だった。設計者たちは、開拓者《パイオニア》たちが、ひとつの太陽系の遠く散らばった惑星を探険する必要があるかもしれないことを予期したのだ。かれらはそのために、〈船〉のボートを設計するとき、大きな安全率を備えたのだ。ヒュウはその安全率を、極限まで利用したのである。
かれらを惑星運動の面《プレーン》ちかくに置いたのは幸運であり、ヒュウがこの小さな発射体を閉軌道《クローズド・オービット》に噴射させたとき、その軌道が惑星系の回転と同じ方向であったことも幸運だった。
かれが成就した離心楕円で、大きな惑星の上へゆっくり近寄っていくことになり、そのためかれが、どうしても眼で見て、そのことを確認できたのは幸運だった。
さもなければかれらは、多くの恒星から見わけられるほどにはひとつの惑星の近くまで寄ることもできずに、すぐ迫ってくる飢餓はないものとしても、みんなが年を取って死んでしまうまで、その恒星のまわりを回転しつづけたことであろう。
地球中心であり、自然を擬人化して考える、地球にいる大多数にとって共通の、誤まった考えがある。それが惑星系を立体鏡的に想像させるのだ。心の眼は、多くの恒星の背景から遠く離れたひとつの太陽を見、それが回転するいくつかのリンゴに取り巻かれているのを見る──惑星だ。あなたの家のバルコニーへ出て見てごらん。恒星と惑星を区別できるか? 楽にあなたは金星を指せるかもしれない、だが前に教えられていなかったら、カノープスと区別できるだろうか? あの小さな赤い点は……あれは火星か、それともアンタレスだろうか? もしあなたがヒュウ・ホイランドほどに無智だったら、どうしてわかるだろう? それが惑星であると信じてアンタレスへ噴射しようものなら、あなたは永久に生きのびて孫を持つことはできないのだ。
はっきり肉眼で円形に見えるまで、かれらがゆっくり近づいていった巨大な惑星は、木星よりも大きかった。それは、われわれの太陽よりもいくらか若く大きい恒星にがっちりと附随した仲間で、相当な距離を保ってその周囲をまわっているものだった。ヒュウは逆噴射し、幾睡眠時間にもわたってスピードを殺し、ボートを惑星のまわりの軌道に近づけた。その作業でかれは、その惑星についている幾つかの衛星《ムーン》が見られるほどまで近づいた。
またも幸運が、かれを助けた。かれは、いけないなどということは知らなかったから、巨大な惑星に着陸しようと考えていた。もしかれがそうすることができたら、かれらは、エアロックを開くあいだぐらいしか生きていられなかったことだろう。
だが、まっさかさまに恒星のまわりを双曲線で突進し、そして通り過ぎていく進路からボートを引きもどし、その恒星をまわる閉軌道へ進路を変え、それから巨大な惑星のまわりの従属軌道に入れるという、すごい仕事のあとで、かれには質量《マッス》が不足していたのだ。
かれは大昔の本を何冊も熱心に読みかえし、動く天体の法則について古代の人々が書き残した方程式に何度も入れ、計算し計算しなおし、クローのおだやかな忍耐心さえも真似してみようとした。
もうひとりの、まだ名前をつけていないほうの妻は、歯を一本失ったあと、まったくとつぜん、かれの眼につかぬところに隠れているようになっていた。
だがかれは、すくなくとも、貴重なかけがえのない昔の書籍の何冊かを燃料に使わなくてすむような答を得ることはできなかった。そのとおり、みんなが着物をぬいで裸になり、ナイフだけになっても、何冊かの本の質量はまだ必要だとされたのだ。
かれは自分の妻のひとりを無しにしてすませるほうがいいとも思ったのだ。かれは、いくつかの衛星のひとつに着陸しようと決心した。
またも幸運だった。信じられないほどのおどろくべき偶然ながら、その月は人間という地球上の生命に適したところだったのだ。まずそういった惑星を作り出すための状況の組合せは、同じ順序のものが必要なのだということ──そんなことはどうでもいい、飛ばしてしまおう。われわれ自身の立っているこの惑星だって、〈そんな変な動物なんかいるものか!〉といわれるほど稀なものなのだ。それは不思議なほどあり得ない惑星なのだ。
ヒュウの幸運は、不思議なほど考えられないことだったのである。
素晴しい設計が、その次の段階を受け持った。肘を動かせるだけの余地しかない場所で、かれはこの小さな〈船〉を操縦することを憶えはしたが、着陸はまったく別のむずかしい問題だった。かれは〈バンガード〉の設計以前に作られた宇宙船ならどんな種類のものでもこわしてしまったことだろう。だが、〈バンガード〉の設計者たちは、〈船〉の補助乗物が、すくなくとも探険家たちの二代目によって操縦され着陸させられるであろうということを知っていた──素人のパイロットたちが、だれの助けも借りずに着陸させなければいけないのだ。かれらはそれを計算に入れていたのだ。
ヒュウは宇宙艇を成層圏に入れ、かれら全員を必ず殺してしまうことになるコースへ、凱歌をあげてまっすぐ落下させていった。
自動操縦装置がそこで交替したのだ。
ヒュウは怒りわめき、窓から外を眺めているアランの注意と讃歎を横道にそらせるような言葉を口にした。だがどうやってみたところで、かれはその乗物を自由に操ることはできなかった。それは勝手なコースに落着き、地形がどう変っても関係なしに、千フィートの高度を保って水平に飛び続けたのだ。
「ヒュウ、星がみえなくなったぞ!」
「わかってるよ」
「でもジョーダン! ヒュウ! 星はいったいどうなったんだ?」
ヒュウはアランをにらみつけた。
「おれは……知るもんか……それに……おれは……どうだっていい! おまえはうしろの女どものところへ行って、つまらんことを尋ねるのはよすんだ」
アランは、その星の表面と明るい空を名残り惜しそうにふりかえりながら、しぶしぶ別れていった。それは面白い眺めだったのだ。だがかれは、そう驚きはしなかった──かれの驚く能力は極限まで使いきられてしまっていたのだ。
それから数時間後、ヒュウはいままで無視していた|操縦用の光点《コントロール・ライト》が、事態が変ってゆくのにあわせて連続した変化を見せているのは、自動操縦装置が〈船〉を着陸させるのだろうということに気がついた。かれはそのことを事実が起こってしまってから知ったので、自分ではっきりと着陸場所を選んだのではなかった。だが、自動操縦装置の瞬きもせぬ立体眼鏡《ステレオ・アイ》は、そのデータを〈脳〉に入れ、その亜質量的機構《サブモーラー・メカニズム》は選択し拒否し、〈船〉はゆっくりと、木立ちのそばに起伏する高原に着陸した。
エルツは前方へやってきた。
「どうしたんだ、ヒュウ?」
ヒュウは展望窓にむかって手をふった。
「ついたんだ」
かれは、くわしく説明するには余りにも疲れすぎていた。疲れすぎ、感情的にも消耗しつくしていたのだ。かれの数週間にもおよぶ苦闘は、なんとなく飢えと、ついさきほどからの咽喉のかわきを覚えさせたのだ──何年ものあいだ続いてきた望みのあとに、いまは、そのゴールがやってきたとき、それを喜ぶだけの力がほとんど残されていなかったのである。
だがかれらは着陸した、かれらは〈ジョーダンの旅〉を完成したのだ。かれは不幸なのではなかった。むしろ平和になり、そしてひどく疲れていたのだ。
エルツは外を見つめた。
「ジョーダン!」
かれはそう呟き、やがて言った。
「外へ出よう」
「ああ」
ふたりがエアロックを開きかけると、アランがやってきた。女たちがそのあとにくっついていた。
「ついたの、船長?」
「だまれ」
と、ヒュウは言った。
女たちは、だれもいなくなった展望窓にかじりついた。アランは外の景色を、重々しく、そして不正確にではあるが説明した。エルツは最後のドアをひらいた。
みんなは、空気の匂いをかいだ。
「寒いな」
エルツはそう言った。確かに温度は、〈船〉の中のきまりきった一本調子の温度よりたぶん五度は低かった。だがエルツは、始めて気候というものを経験していたのである。
「馬鹿な……あんたの想像にしかすぎないよ」
ヒュウは、〈かれの星〉にすこしでもいけないところがあろうとはと、ちょっと心を乱されてそう言った。
「そうかも知れないよ」
エルツはそう答え、ちょっと不安そうに口ごもってから言った。
「外に出るかい?」
「もちろんさ」
ヒュウは自分の不安な気持をおさえつけ、かれをちょっと押しのけて、地面まで五フィートを飛びおりた。
「こいよ……気持がいいぞ」
エルツはかれにくわわり、そのそばに立った。ふたりとも〈船〉のすぐそばにとどまっていた。エルツは驚いたような声で言った。
「大きいもんだな!」
「ああ、そうだろうと思っていたよ」
ヒュウは、同じように何かを失ったような気分に心を乱されて、鋭くそう言った。
「おーい! おれも降りていいかい? 大丈夫か?」
アランは、おずおずとドアのところからのぞいた。
「こいよ」
アランはそこから慎重に飛びおりてきて、ふたりに加わった。そしてあたりを見まわし口笛を吹いた。
「うえーっ!」
最初の出撃でかれらはみな〈船〉から五十フィートはなれた。
かれらは黙ってかたまりあったまま、この奇妙に平坦でない甲板《デッキ》でころばぬように、足もとに気をつけていた。何事もないままに過ぎていったが、やっとアランが地面から顔を上げて、生まれてはじめて、自分のそばに何もないのだということに気がついた。かれは、目まいと鋭い広場恐怖症に襲われ、うめき、両眼を閉じて倒れた。
「いったい?」
エルツはそう言って、見まわした。すると同じものがかれを襲った。ヒュウはそれと戦った。それがかれを両膝を落とすように引っばったが、かれはそれと戦い、片手を地面について身体を支えた。だがかれは、無限とも思われるあいだ展望窓から外を見つめていただけ有利だったのだ──アランもエルツも臆病者だったわけではない。
「アラン!」
かれの妻は、ひらいたドアのところから金切声をあげた。
「アラン! 帰ってきて!」
アランは片眼をあけて、〈船〉に焦点を合わせようとしたが、ゆっくりと腹ばいになりはじめた。
「アラン! やめろ! 起きるんだ」
ヒュウの命令に、アランは途方にくれた男のようにおずおずと従った。
「眼をあけるんだ!」
アランはおっかなびっくり従ったが、また急いで閉じた。
「静かに坐っていろ。そのうちよくなるから……おれはもう大丈夫だぞ」
ヒュウはそれを証明するように立ち上がった。かれはまだ目まいがするようだったが、やりとげた。エルツは起きあがった。
太陽は空をだいぶ横切った。充分に食べている人間が腹をすかせるほどの時間が過ぎたのだ──そしてかれらは、ろくに食物を与えられていなかったのだ。女たちでさえも外に出ていた──それは、船にもどって引きずり出すという単純な手段でできたことだったが。女たちは船のそばから離れようとせず、船にかじりつくようにして坐っていた。だが男たちのほうは、ひとりで広い草原を歩くことまで覚えた。アランは、船の影から五十ヤードも離れて気どって歩くことなど思いもよらなかったが、そのうち女たちの見ている前で、一度ならずそうしたのだった。
そうした旅行のとき、その星にいた小さな動物が、その用心より好奇心に負けた。アランのナイフがそいつを倒し、足をぴくぴくさせるままに残した。アランはそこへ走ってゆき、その太った獲物の片足をつかみ、誇らしげにヒュウのところへもどった。
「なあ、ヒュウ、見ろよ! |いい食事だ《グッド・イーティング》!」
ヒュウはそれを眺めてうなずいた。かれの、この場所にたいする最初のうちの奇妙な恐怖は通り過ぎてしまい、暖かい胸にしみこむ感情がとって代ったのだ。ついに、長いあいだ夢見てきた故郷へやってきたのだという感情だ。それは吉兆のように思えた。かれはうなずいて言った。
「そうだ……|いい食事だ《グッド・イーティング》。これからは、アラン、いつだって|いい食事だ《グッド・イーティング》な」