動乱2100
ロバート・A・ハインライン
目次
地球の脅威
もしこのまま続けば
疎外地
不適格
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地球の脅威
わたしの名前は、ホーリイ・ジョーンズ、十六歳。頭脳《あたま》はとてもいいのだが、なりそこないの天使みたいな、面白味のない顔が災いして、どうもそうは見えないらしい。
わたしは生粋のルナ・シティ生まれ。そういうと、地球生まれの人たちにはショックらしい。ほんとうに、わたしは月で生まれた三世なのだ。祖父は、いま記念塔の建つ第一地区《サイトワン》を切り拓いた月植民の一番手だった。家は、第五|気密帯《プレッシュア》の、新しくできた共同居住区アルテミス・アパートで、両親といっしょに住んでいる。けれども、わたしは、あんまり家にいない。とても忙しい身だからだ。
午前中はいつも、技術高校に行き、午後はパートナーのジェフ・ハーデスティと一緒に勉強か、それともフライをしにゆく──または、観光宇宙船が着いたとなれば、地ネズミたちのガイドをする。地ネズミ、つまり地球生まれの連中のことだ。ちょうどこの日も、月船グリプスホルム号が正午に着陸していたので、学校を終えるとまっすぐ、アメリカン・エキスプレスにむかったのだった。
観光客の先頭の一団が、かしましくしゃべりたてながら検疫所からこぼれ出てきたが、わたしはがつがつしなかった。支配人のミスタ・ドーカスはわたしが最上のガイドだということを知っているからだ。ガイドなんて、もちろん腰かけにすぎないが(ほんとはわたしは、宇宙船のデザイナーなのだ)、ガイドをやっているときは、最良のガイドたらんと志すのがわたしの主義だ。
ミスタ・ドーカスは、わたしを見つけた。「ホーリイ! こっちへ来てくれ。ミス・ブレントウッド、これが、あなたのガイドのホーリイ・ジョーンズです」
「子供なのね!」と女客はいった。「おもしろいこと。あなた、本職のガイドなの?」
わたしは地ネズミたちには我慢づよいほうだ。親友のうちにも、地球生まれが何人もいる。父さんがいうように、月で生まれたのは運のせいで、判断の結果じゃない。それに地球生まれの人たちは、生まれながらに、地球を離れられない身体なのだ。キリストだって、シャカだって、アインシュタインだって、結局は地ネズミの一人だったのだし。
それにしても、彼らは神経をいらだたせる。ハイ・スクールの生徒がガイドをやらなければ、いったい誰がやるというのだ?「許可証にそう書いてあるわ」とわたしはてきぱきいって、むこうがこっちを見るように、頭の先から爪先まで、じろじろ見返してやった。
彼女の顔には、どこか見おぼえがあった。たぶん、地球で出版された雑誌によく出ているグラビア写真かなにかのなかで見たことがあるのだろう──金持ちの有閑ガールのろくでなしの一人。くやしいけれど、憎たらしいほど綺麗だった。ナイロンのように滑らかな肌、ふさふさと波うつプラチナ・ブロンドの髪──見ているうちに、自分がマッチ棒かなんかのように感じられてくるような姿態、ひくく、やわらかく、親しみをこめた声音、そして、女ならば、悪魔に魂を売ってでも、と思わずにはいられなくさせるあれこれが、すべて、彼女には備わっていた。でもわたしは気にはならなかった。どんな美人でも、地ネズミは地ネズミ。地ネズミは計算に入らないのだ。
「シティ・ガイドはみな女生徒なのです」とミスタ・ドーカスが説明した。「ホーリイは、そのなかでも、一番のガイドです」
「そうでしょうね!」と、彼女はすばやく答えてから、観光客のお定まりの台詞NO・1にとりかかった。まず、ホテルを探すのにガイドが必要だなんて思いもしませんでしたわ、にはじまり、タクシーがないことに驚きの目を見張り、おなじく赤帽がいないといった驚き、最後に、〈地下都市〉を女二人きりで歩いてゆくんですかと、眉根をつりあげるところまで判で押したよう。
ミスタ・ドーカスは辛抱づよくそれを聞きおわって、最後にいった。「ミス・ブレントウッド、ルナ・シティは、全太陽系中で女が安心して独り歩きできる、おそらく唯一の安全な都市なのです。暗い露地もなければ、人気のない淋しい通りもない──要するに犯罪的要素のなにひとつない都会なのですよ」
わたしは聴いてはいなかった。料金カードを差し出して、ミスタ・ドーカスにスタンブを押してもらうと、すぐに彼女の鞄を取りあげた。ガイドは、ふつう、客の荷物ははこばない。それに客も、携帯許容重量の三十ポンドが、この世界ではたった五ポンドの重さしがないことを経験するのだから、むしろ喜んで荷物を持とうとする。しかしわたしは、早く彼女に出発させたかったのだ。
わたしたちは外へ出て、トンネルに差しかかった。わたしがスライドベルトに一歩足をかけたとたん、彼女が立ちどまった。
「忘れものしたわ! 地図がほしかったのに」
「地図はありません」
「まあ、ないの?」
「シティに一枚しがありません。ですから、ガイドがいるんです」
「だって、なぜ地図ぐらいこしらえないのかしら? あなたがたが失業するからかしら?」
ほら、ごらん。
「ミス・ブレントウッド。ルナ・シティでは、労働力が極端に足りないのです。猿の手でも借りたいぐらいなんですよ」
「じゃ、なぜ地図を刷らないのよ?」
「ルナ・シティは平面的ではないからです、地──」わたしは、あわてて、あとの言葉をのみこんだ。「地ネズミの都市みたいに」というところだったのだ。
「地球の都市みたいに。地表に見えているのは、すべて、流星の防護壁です。その下に、シティは四方八方に延びて、地下数マイルに達する十二の気圧層にわかれているのです」
「ええ、それは知ってるわ。でも、それならなぜ各層ごとに一枚ずつの地図をつくらないのかしら?」
地ネズミたちの十八番《おはこ》の、「ええ、それは知ってるわ、でも──」がはじまった。
「のちほど、シティの全図をお見せします。高さ二十フィートのステレオ地図ですが、それでも、はっきり見えるのは、マウンテン・キング・ホールとか、水耕農園とか、コウモリ洞窟のような大きなものだけです」
「コウモリ洞窟って──」と、彼女がおうむ返しにいった。「あの、フライをするところでしょ?」
「ええ。フライ場に使ってます」
「ンまあ、すてき! 早く見たいわ!」
「かしこまりました。さきにそこへいらっしゃいますか、それとも地図の方に?」
けっきょく彼女は、まずホテルに行くことに決めた。
チューリッヒへ行く正規のルートは、スライドベルトをあがりグレイ・トンネルを通って火星大使館を過ぎ、モルモン寺院で降りて、あと気圧ロックに乗り換えて、ダイアナ・ブールヴァードへ降りるのがいい。けれども、わたしは近道を知っていたので、メイシー・ギムベル・アッパーで降り、そこから、ホイストで降下することにした。きっと、おもしろがると思ったのだ。
ところが、いよいよそこへ来て、降りてきた吊り手につかまるように、といったら、彼女はまっ青になった。はるか下のシャフトをのぞいてみて、後しざりしながら、「冗談いわないで」という。
やっぱり彼女には無理らしい。正規のルートへ連れて帰ろうと思ったとき、顔見知りの人が、ホイストで降りてきた。
「今日は、ミセズ・グリーンバーグ」と、わたしが挨拶すると、彼女も、「今日は、ホーリイ。みなさん、お元気?」と言葉を返す。
グリーンバーグ夫人は、たいへんなふとっちょだ。その彼女が、吊り手をつかんだ手にデイヴィッド坊やを抱き、片手に〈デイリイ・ルナチック〉を持って、読みながら降りてきたのを見て、ミス・ブレントウッドは唇を噛んだ。「どうすればいいの?」
「両手をお使いなさい。鞄はわたしが持ってあげます」わたしは鞄の手をハンカチでしばって、先に降りた。
底へついたとき、彼女はがたがた震えていた。
「おそろしいわ──ホーリイ、あなた、どうして我慢できるの? ホームシックにはならないの?」
観光客の質問NO・6だ。わたしは、「地球へ行ったことはあります」とだけ答えた。二年前、母がわたしを、オマハにいる伯父のところへ、旅行させてくれた。思い出してもぞっとする。みじめだった。暑いと思えば寒いし、汚ないし、ムズムズブンブンいやらしい虫がいるし──身体は一トンもあるような気がして、節々が音をたてて痛んだ。それなのに伯母は、朝から晩まで、外へ出て運動なさいといってわたしを追い立てる──浴槽に飛びこんで、おとなしく水に浸っていたいというのが、わたしの唯一の望みであることも知らないで──。おまけにわたしは、藁熱にかかってしまった。地球人には想像もつかないことだろうけれども、地球の空気には、わたしたちを好きなバクテリアがいすぎるのだ。
わたしは、寄宿制の女子ハイ・スクールに行くはずになっていた。でもたまらなくなったわたしは、父に宇宙電話をかけて、家へ帰して、とお願いした。地ネズミたちが、どうしても判らないことは、彼らが、それは野蛮な生活をしていて、それに気がつかないでいるということなのだ。地ネズミは地ネズミ、月人は月人、たがいに、所詮はなさぬ仲と、流行歌にもあるとおりなのだ。
高級ホテルはみんなそうだが、チューリッヒも第一気圧層にあったので、地球を眺めることができた。わたしはミス・ブレントウッドが、ロボ・クラーク相手に宿帳をつけるのを手伝い、部屋を探してあげた。部屋には独立の窓があった。彼女はまっすぐそこへ行って地球の姿を眺めると、さっそく「おお!」「まあ!」を連発した。
わたしは彼女の肩越しに地球を見やって、十三時ちょっと過ぎなのを知った。もう一人客をつかまえる時間はある。「もう、ご用はありませんか」とわたしはきいた。
それには答えず、彼女は心底感動した音声でいった。「ホーリイ、あなた、こんなに美しい景色が、ほかにあると思う?」
空に地球がかかっていなければ、こちら側の眺めは単調で退屈なのだ──しかし地球は、観光客が、まずきまって眺めるものなのだ。いまそこを離れてきたばかりだというのに。それにしても、たしかに地球は美しかった。移り変る気候は、その中にいるのでなければ、なかなか楽しいものではある。
「すばらしいわ」と彼女はいった。
「ええ」わたしは逆わなかった。「これからどこかへご案内しますか? それとも、カードにサインしてくれますか?」
「え? ごめんなさい、わたくし、夢でも見てたのかしら。いますぐは、どこへも行きたくな……行きたいわ! ホーリイ、外へ、外へ出たいわ! どうしてもよ! 時間あるかしら? あと、どのくらい明るいの?」
「日没まではあと二日あるわ」
彼女はショックを受けた様子だった。
「おもしろいのねえ、ホーリイ。ねえ、宇宙服を手に入れられない? わたくし、どうしても外へ出てみたくて!」
わたしはひるまなかった。観光客の勝手気ままなおしゃべりには馴れていた。気密服も、宇宙服もごっちゃなのだ。「わたしたち女は、外に出る許可がもらえないのです。でも、友人がいますから、電話してあげます」
ジェフ・ハーデスティは、宇宙船デザイナーとして、わたしのパートナーだった。だから、仕事を、彼にまわしてやろうと思ったのだ。ジェフは十九で、もうゴッダード大学の学生だった。でも、わたしは彼に追いつくために一生懸命がんばっていた。ちかい将来、ジョーンズ&ハーデスティ宇宙船設計事務所≠開くつもりだったからだ。わたしは数学が得意だったが、これはいうまでもなく宇宙船の設計に必要不可欠なものである。一日も早く学位をとって、二人して画期的な宇宙船を設計するのだ。
ジェフは、学校の授業時間を調節して、火曜と木曜には市外ガイドをやっていたから、いまごろは、シティの西ロックにいるはずだった。わたしはロック・マスターにテレビ電話をかけ、ジェフをスクリーンに出してもらった。「やあ、ミス・スケール・モデル、なにが用かい?」
「やあ、ミスタ・減量。いま、お客さん、とれる?」
「うん──家族づれの客が来る予定なんだが、遅刻してるんだ」
「キャンセルして。ミス・ブレントウッド、スクリーンの前へいらして。こちらが、わたしのお友達、ミスタ・ハーデスティです」
ジェフの眼が、びっくりしたときの癖で、大きく見開かれた。わたしは、ちょっと嫌な気がした。ジェフが、地ネズミの女なんかに、誘かれるなんて──それは、男っていうものは、セックスの問題となると、理性ではどうしようもない、肉体組成のロボット奴隷になるということは判っている。それに彼女が、特別にセックス・アピールのあることもわかる。でもジェフが、出来はどんなにいいにしろ、地ネズミの女の魅力なんかに誘かれるとはもってのほかだ──わたしは、ジェフを、どうのこうのと思っちゃいない。わたしたちは、単なるパートナーだ。それだけに、ジョーンズ&ハーデスティ設計事務所の将来に影響を与えそうな問題には、無関心ではいられないのだ。
西ロックで彼と会ったとき、わたしは恥ずかしくなった。生まれてはじめて、彼のことが心配になった。ジェフはまるで、発情期の羊みたいにまごついて、ぶきっちょで醜態なのだ。
しかし、ミス・ブレントウッドは、ジェフの態度を気にかけないようだった。ジェフは生まれつき大きな図体のところへ、気密服を着ているので、まるで、神々の黄昏≠フなかの巨人みたいに見えた。彼女はジェフに微笑みかけて、スケジュールを変更していただいて、と礼をいった。ジェフは、いっそう、ばかみたいにまごまごした。
わたしも、気密服を、西ロックに置いてある。だからジェフは、一緒に散歩しないかと誘ったっていいはずだ。ところが彼は、プラチナ・ブロンドのオバケを見たとたんから、わたしにはろくに話しかけようともしない。でもわたしは、我慢して、彼女のために気密服を一着えらんでやり、着替え室に連れていって、ぴったり合うように着せてやった。こういうレンタルの気密服は、注意して着ないと、外の真空へ出たとたんに、皮膚のやわらかい部分に喰い入って、痛い目に合うことがあるからだ。
ところが、そうしてわたしが、彼女と一緒に、自分は気密服を着ないで出てきても、ジェフはなぜ着てこないのかともいわないで、彼女の腕をとるとエア・ロックの方へ、さっさと出ていこうとした。わたしは二人の間に割りこんで、カードにサインさせなければならなかった。
つづく何日かは、わたしの一生涯でもいちばん長い日々になった。その間、一度きりしかジェフに会わなかった。彼は、ダイアナ・ブールヴァードのスライドベルトを、反対方向にすれちがっていったのだ。彼女と一緒に。
会ったのは一度きりだったが、そのあいだジェフが何をしていたかはよく知っていた。彼は学校の授業をサボッて、三晩もつづけて、ダンカン・ハインズの地球展望室へ彼女を連れていったのである。もちろん、そんなこと、わたしの知ったこっちゃない。ジェフは自由市民だし、その気なら、学校をどんなにサボッて、飾りたてた地ネズミを追っかけまわし、どんなに睡眠不足になろうと、どんな馬鹿なことをしようと自由だ。しかし、わたしたちの共同の仕事を──将来の事務所の仕事をサボるなんてことは、ぜったい許せない。
ジョーンズ&ハーデスティ宇宙船設計事務所は、大変な大計画をかかえていたのだ。恒星宇宙船プロメテウス号の設計である。この計画のために、わたしたちはすでに一年あまりもすべてを犠牲にして働きつづけていた。好きなフライを、週二度に切りつめていたのもそのためなのだ。
もちろん、動力の問題が解決しないかぎり、プロメテウス号を、いま建造することは不可能だ。でも、父は、近い将来、かならず技術的な革命がおきて、いままでのそれとは比較にならない大出力を出す物質転位エンジンができる、といつもいっている。宇宙航空ルナ支社の技師長であると同時に、ゴッダード大学の教授でもある父がそういうのだから、まちがいはない。だからジェフとわたしは、その日を期して、自給自足式の恒星宇宙船の設計をしていたのだ。
それだからこそ、わたしはジェフが、あんなつまらない女のために、貴重な時間をむだにしていることが我慢ならなかったのである。わたしたちには、むだにする時間なんか一分だってないはずなのに。いつもは、家へ帰って夕食をすませ、学校の宿題をやり終えると、すぐに、プロメテウス号の仕事にとりかかって、おたがいに計算をたしかめあったり、デザインの細部にわたって、はげしく議論を戦わせたり、それは、楽しかった。それなのに、わたしがあのアリエル・ブレントウッドを紹介したその日から、彼は姿を現わさなくなってしまったのだ。ちょうどそのころは、動力室の隔壁に、大胆な改良を加える研究をしていたところだったのに、いつまでたっても姿を見せない。イライラしていると、ジェフのお母さんがテレビ電話をかけてきた。
「あら、ホーリイ、いまジェフがこちらへ電話して来てね、今夜はなにかお客さまと夕食することになったから行けないって、言伝してくれと頼まれたのよ」
ハーデスティ夫人がわたしを見つめている。わたしは、わざと驚いた顔をした。「あら、ジェフがそんなことをいったの? わたし今夜は約束してなかったのに、きっと、デイトをとり違えたのね」
夫人が、わたしの言葉を信じたとは思えない。あんまりあわてて、わたしの言葉にうなずきすぎた。
その週の末には、わたしは、わたしの意志に反して、ジョーンズ&ハーデスティ設計事務所はけっきょく発足しないうちにつぶれてしまいそうだ、と思うようになっていた。ジェフは木曜にも連絡して来なかった。いつもなら、フライに行く日なのに、彼は、あの雌地ネズミを、フィンガル洞窟の、アイス・スケート場に案内していたのだ。
わたしは家で、プロメテウスの仕事を続けた。でも、なぜか、計算ちがいばかりするし、いつもならすぐ思い出せる数字が、計算尺を使わないと出てこない──いつもジェフと一緒に考える習慣がついていたので、一人だと、頭脳が働かなくなっていたのだ。
ふとわたしは、使っていたシートのネームを見た。ジョーンズ&ハーデスティ≠ニ刷ってある。わたしは、胸に呼びかけた。
──もうお終いよ。ジェフは誰かさんに参ってしまったのよ──
──だって、まさか、地ネズミと……
──だって、ちゃんとそうなってるじゃないの。このぐらいの現実に直面できないなんて、あんた科学者といえるつもり? 彼女は美人で金持ちよ。きっと彼女は、ジェフに、地球の仕事を世話するわ。わかる? 地球のよ! だから今のうちに、別のパートナーを見つけなきゃ。それとも、決心して、自分ひとりでやってゆくか。
わたしは、ジョーンズ&ハーデスティ≠消して、ジョーンズ&カンパニイ≠ニ書き、それを見つめた。そして、またそれを拭き消したが、跡がかすかに残ってしまった。涙が一粒、落ちてにじんでしまったからだ。ああ、なんてばかげてるの!
あくる火曜日のお昼は、珍らしいことに、父も母も、みな顔をそろえた。父はいつも、宇宙空港でお昼をたべるのだ。それで父に、わたしが、料理機にサラダしかオーダーしないのを知られてしまった。おまけにそのサラダにも、ほとんど手がつかなかったのだ。
「おまえの皿は八百カロリー不足だね、ホーリイ。燃料なしには発射できんぞ。どこか悪いのとちがうがい?」
「なんでもないのよ」とわたしは澄まして答えたが、父は追求の手をゆるめない。
「このごろ、おまえはどうもふさぎこんでいるようだ。一度、診察を受けたらどうだ?」
「診察なんか、必要ないわ! それに、ふさぎこんでなんかいやしない。女はおしゃべりしてなくちゃいけないって法律はないでしょ」でも、お医者にあれこれつつかれては耐らないからつけ足した。「ほんとは、今日はフライに行くから、軽い食事にしただけよ。なんなら、ビフテキとじゃがいもをたいらげて、家で昼寝しててもいいわよ!」
「そうムクレるんじゃないよ、お嬢さん。干渉するつもりはない。まあ、せいぜいフライでもやっておいで。ジェフによろしくいっておくれ」
「ええ、いうわ」
引っこみがつかなくなって、コウモリ洞窟へ出かけたが、その間も、わたしのお腹の中はカッカしていた。ジェフと一緒でないとフライにも行かないと思ってるんだわ! と思ったとたんに、わたしは突然ハッとした。わたしは、ジェフのことで、嫉妬しているんじゃないかしら?
そんなこと! わたしは、浮わついたロマンチストじゃない。女流実業家が望みなのだ。ジェフは今まで、わたしのパートナーであり友だちでもあった。そして、わたしの指導を受ければ、将来は偉い宇宙船デザイナーにもなれる人だ──でも、わたしたちの仲は、飽くまでスッキリしているのだ。おたがいにおたがいの才能を尊敬しあってこそおれ、恋の愛のと甘ったるいことは感じたこともない。女流実業家にはそんな余裕も時間もないからだ。
とんでもないわ。嫉妬だなんて! わたしはただ、自分の年来のパートナーが、地ネズミの女に引っかかるのを見ているのが嫌なだけだ。ジェフは、女のことにかけては子供も同然だし、だいいち地球へ行ったことがないから、地球に誤った憧れを抱くおそれもある。そうなったら、ジョーンズ&ハーデスティ設計事務所もプロメテウス号も見果てぬ夢となってしまう──。
この暗澄たる結論に達した時、わたしはコウモリ洞窟についていた。とてもフライをする気分ではなかったが、ここまで来れば習慣だ。ロッカー・ルームへ行って、ウイングを取ってきた。
コウモリ洞窟という名前のために、ここはよくひとに誤解されているが、実は、どこの植民地にもある、空気の貯蔵タンクのひとつにすぎない。ただ、コウモリ洞窟の場合は人工の構築物ではなく、クレーターになり損ねた火山活動の名残りの自然の大空洞で、さしわたし二マイルあまりもある。そこで、フライができるのだ。
地球の人はよく、われわれ月の住人には、水泳ができないで気の毒だという。わたしはオマハでやってみたが、鼻に水が入るやらなにやらで、一度でこりごりしてしまった。水は飲むものであって、その中で遊ぶものではない。フライのほうが、よっぽどいい。
わたしは靴とスカートを脱いで、ロッカー・ルームに置くと、ウイングをつけてジッパーを引き、ストラップを締めた。わたしのは既製ではなく、ストーラー・ガルズで特別にあつらえた特製品だった。いままでは、父に買ってもらっていたのだが、これだけはガイドをしてためたわたしのお金で買ったのだ。
わたしは、このウイングが自慢だった──鳥の骨のように軽く、丈夫なチタン合金の支柱、強化補修をほどこした手首や翼端、肩関節部、自由操作のきく小翼、失速防止のオートマチック・アクション装置──ウイングだけでも、飛んでいきそうな、すばらしいものなのだ。
わたしはウイングをたたんで、気閘《ロック》へ入っていった。軽い唸りをあげて回転するあいだに、左のウイングの調子をためしてみる。この前飛んだとき、すこし横すべりの癖があったことを思いだしたのだが、調子は悪くない。この前は、すこしコントロールがオーバーだったのだろう。ドアにみどり色の信号燈がともって開いた。わたしは外へ出た。胸をそらして、ふと、地球人が気の毒になった。あたりまえの体重の六倍もの重さに圧しつけられて、フライなんて思いも及ばない地ネズミたちが。
両のウイングをひろげて、二、三歩走り、上昇姿勢をとって大きく羽ばたく──脚をちぢめて、空に浮いた。
わたしは軽くウイングをあおって、床の中央にある空気取入れ口の方向へ滑空していった。取入れ口の上空には上昇気流がいつも流れていて、ウイングを使わないでも、約一マイル上の洞窟のルーフあたりまで上昇させてくれるのだ。
二百フィートほど上昇して、わたしは周囲を見まわした。洞窟はほとんどからといってよかった──せいぜい二百人ほど、そのうち飛んでいるのは半分で、あと半分はどこかにとまっているか、フロアに降りていた。
滑空をやめて飛行に移る。指先と、前腰と、肩の力を使ってウイングをはばたたかせると、おもしろいように身体が飛ぶ。これに要する力は、地球で、ボートを漕ぐのとおなじくらいだそうだけれど、わたしはボートを漕いだことがないから、はっきりは比較できない。ただ、ボートが、フライほど快適でないことだけは、確かだと思う。
方向や角度を変えるのは、脚につけたテール・ウイングの操作ひとつだ。説明はしにくいが、やってみればわけのないこと。要するに烏が飛ぶのとおなじ理屈なのだ。鳥は利口とはいえないが、赤ん坊でも飛ぶことを習う。習いおぼえてしまったら、息をするのと同じぐらいやさしく、おまけにこれ以上楽しいことはない! わたしは六つのときおぼえた。
ウイングに力をこめ、ぐいぐい上昇してルーフに達し、そこからまた滑空に移った。下を見おろすと、南壁にちかい床《ルーフ》では、観光客が滑空ウイングの練習をしている。西壁の展望台には、大勢の観光客が群れて、がやがやおしゃべりしているのが見えた。ジェフと例のおひきずりもきっとあの中にいる。行って、見つけてやろう。
わたしは急降下の姿勢を整え、展望台めがけて猛烈なダイヴィングをした。展望台の横に沿って、超スピードで飛ぶ──二人の姿は見えなかった。見落としたのかと、スイングしたとたん、反対側から飛んで来た一人のフライヤーと、もうすこしで空中衝突するところだった。あわやという寸前に、わたしは失速テクニックで相手の下へ落ちた。五十フィート落ちて、コントロールを取り戻したものの、わたしは恥ずかしくなった。これは、右側追越という飛行規則を破ったわたしの責任なのだ。
展望台の地ネズミたちが、指さしてなにかいっている。わたしは急にカッとした。前方にほかのフライヤーがいないことを確かめて急上昇し、昇りつめると、展望台にむかってウイングをなびかせ、いっきに直滑降にうつった。ついで、石塊が落ちるような落下《フォール》!
わたしは展望台の数十フィート上で反転した。テール・ウイングを下げ両のウイングに空気をはらむと、ぐいと水平を取り戻す。地ネズミたちが、眼をまんまるに見開き、歎息を洩らす様を横目に、わたしはななめに滑空した。
そのとたんだ──だれかが、恐ろしい迅さでわたしに襲いかかってきた。ざざざっとブレーキをかける。巻き起こった突風のために、わたしはあやうくバランスを崩されるところだった。傾斜して、横に切れながら、だれが悪戯したのかと見まわした。黒と金色のウイング──マリ・ミューレンブルグ、女の子ではわたしの、一番の親友だった。彼女は、みるみる迫ってくると、ウイングの端で旋回しながら、「脅かして悪かったわね、ホーリイ!」
「おどろくもんか! それより、気をつけないと、監督に見つかって、一カ月の禁翼を喰うわよ!」
「お生憎さま、監督はコーヒー飲みにいってるよ!」
マリはもう一旋回すると、後ろから来てウイングをならべた。「とまらない?」
「とまる」わたしは同意した。マリは、おもしろいゴシップをいつもふんだんに持ち合わせているし、わたしも一息つきたかった。二人はいつものとまり木の方へ飛びはじめた。ほんとは、とまり木でなくルーフについたフラッド・ライトの支柱なのだが、とまり心地がよかったので、いつも拝借するのだった。
マリはわたしの前を飛んで、ブレーキをかけ、ざっとストップする。見事な完全着陸だ。わたしはちょっと横すべりしたが、マリがウイングを支えてくれた。とまり木にとまるのは、必ずしもやさしくないのだ。一年前、一人前のフライヤーになったばかりの男の子が一人、とまり損ねてウイングを支柱にぶつけ、小翼を飛ばして、二千フィート下のフロアへ、きりきり舞いしながら落ちて、首の骨を折った。たとえもっと大きな損傷を受けても、あわてさえしなければ、助かったはずなのに──その子には、冷静を取り戻すだけの余裕がなかった。男の子は、ギリシャの昔のイカルスのように、なすこともなく落ちて、無残に死んだ。
ウイングをたたんで、一息つくと、マリがいった。「ジェフが探してたよ」
見ると、うすら笑いが浮かんでいる。お腹の中がむかっとしたが表面はあくまで冷静に、「あらそう? ジェフがここへ来てるの、知らなかった」
「あそこよ」マリはいって、右のウイングの先で観光客の群を指してみせた。そして、ちらりと横目を使うと、「でも、ボクがキミならほっとくね」
「あら、どうして?」
「どうしてって、彼、今日もあの地球産の魔女ご同伴よ。ハチ合わせしちゃ、気づまりじゃない」
「マリ……あんた、なにいうつもりなの?」
「よしてよ、ホーリイ。ボクのいう意味、よくわかってるくせに」
「わからないわ」わたしは精一杯ひややかに答えた。
「やれやれ! 知らぬはホーリイばかりなり、か。キミがジェフに首ったけなことはルナ・シティじゅうが知ってるよ。そのジェフを、あの女にカッぱらわれて、キミが嫉妬に狂ってることもさ」
マリは大の親友だが、いつか、生きながらからだの皮を剥いでやろう。
「マリったら! あんた、なにくだらないこというの? どうしてそんなこと考えたの?」
「ちょっと、ごまかすことないじゃない。ボクはキミの味方なんだぜ」マリは、気安げに、ウイングでわたしの肩をたたく。わたしは肘で、マリをとまり木からさらい落とした。
マリは、百フィートほど落ちて、しゃんと立ちなおると、たちまちまた舞い上がってきて、わたしの横にとまった。その頬に、まだにやにやと薄笑いがのこっていた。
「マリ、はっきりいっておくわ。第一に、わたしは誰にも首ったけじゃない。ましてや、ジェフとはお門違いよ。彼とわたしはただの友だち。したがって、嫉妬のなんのというのはナンセンスもいいとこよ。第二に、ミス・ブレントウッドはレディだから、他人のものをカッぱらう≠ネんてことはしない。第三に彼女はジェフのお客さんよ。ご同伴は商売だからあたりまえね」
「そうそう」と、マリが急に低姿勢になった。「これはボクがあやまった。取り消すことは取り消すけど……」
「けど、なんなの?」
「うん。ボク考えたんだ……キミは、どうして、ボクがミス・ブレントウッドのことをいってたのがわかったんだろうって。ボクは一言も名前をいわなかったんだから」
「あら! いったじゃないの!」
「いいません」
わたしは、必死で言いわけを考えた。
「いわなかったかしら……それにしたって、当り前じゃないの。彼女は、わたしがジェフに紹介してあげたんだから。だからわたし、彼女が、あなたのいう観光客だなって思ったんだわ」
「あらそうお。でもボクは観光客ともいわなかったよ。まあ、それはいい。それはいいけど、そんならなぜその後ジェフが彼女をシティじゅう連れ歩いてて、キミは彼女のガイドをやめちゃったの?」
「ジェフがしてるものを、あたしが口出すことはないわ」
「なるほどねえ! でも、ここらでひとつ、彼に手を貸してやったら、ホーリイ? 彼女、フライ滑空をおぼえたがってるよ」
「わたしに手を貸してほしいなら、ジェフがそういってくればいいのよ。それより、マリ、わたしにはわたしのすることがあるわ──あんたを、こらしめてやることよ!」
「おっとあぶない」マリは、答えるが早いか飛びのいた。「キミのためを思ってるのに!」
「ありがた迷惑とはこのことよ!」
「それじゃ、迷惑にならないように、ボクもわが道をいくとするか!」マリは、ずずっと頭から突っこんで、急降下して行った。まっすぐに、旅行者用のスロープの方へ行って、見えなくなった。
しばらくのあいだ、わたしはそこに坐りこんで、ウイングをだらりと下げたまま、ぼんやり考えこんでいた。マリのいったことの大半はヨタだが、正しいこともなくはない。ジェフがあの雌地ネズミにすっかり參ってしまったことだ。とすれば、遅かれ早かれジョーンズ&ハーデスティ設計事務所はお流れになるのだ。
でも……わたしが、宇宙船デザイナーになろうと思ったのは、ジェフとパートナーになる、ずっと以前からのことだ。わたしは、誰にも頼ってはいない。一人で立派にやってゆける。
そう思うと、ずっと気分が良くなった。わたしは失楽園のなかのルシファ≠フように、冷たい牢固たる誇りが胸中に湧きあがるのを感じた。
赤と銀色のウイングが、こっちを目指してやってくるのが遙か遠くから見えた。一瞬わたしは、素知らぬ顔で逃げだそうかと思ったが、追いつかれるのは判りきっている。(冷静におなり、ホーリイ。わざとお上品に振舞うのよ)
ジェフが、ひらりと着陸した。「こんちは、コンマ以下嬢」
「こんにちは、ゼロさん」
ジェフは意外そうに眉をひそめたが、「ホーリイ、きみ、ぼくに腹を立ててるんじゃないのかい?」
「あら。またどうして?」
「うん──。マリの放送局のやつが……」
「マリがいったの? あんな人のいうこと本気で聞いたらだめよ。半分は嘘で、半分はふざけてるんだから」
「ほんとだな。じゃ、怒っちゃいないんだね?」
「もちろんよ。なに怒る理由があるの?」
「べつにないけど……ここんところ、ぼく、プロメテウスの仕事に行けなかったし──すごくいそがしかったんだ」
「そんなことなら、気にしないでいいのよ。わたしも、すごくいそがしかったの」
「そうか。ところで、ねえ、サンプル嬢、ちょっと手を貸してくれないかな。ぼくの友だち──って、客なんだけど、彼女が滑空をならいたいっていってるんだ」
わたしは考えるふりをした。「だれかわたしの知ってる人?」
「知ってるとも! きみが紹介してくれた人だよ。ほら、アリエル・ブレントウッドさ」
「ブレントウッド? どの人だったかしら……ああ、背の高い、金髪で綺麗な人かな?」
ジェフが、馬鹿みたいに嬉しそうな顔をしたので、もう少しでとまり木から突き落としてやるところだった。「そうそう、その人さ」
「思い出したわ。でも、あの人なら、べつに面倒ないんじゃない? 頭脳《あたま》もよさそうだし、バランスをとる勘も筋がいいらしいし」
「そうなんだ! 筋はほんとにいいね。実をいうと、ぼくの本当の考えは、きみたち二人に仲良しになってもらいたかったのさ。いい人だぜ、ほんとに個性のある……とにかく、少し知ってくれれば、きっときみも好きになるよ。いい機会だと思うんだけどな」
わたしは不覚にもめまいを覚えた。「そりゃいいけど、でも、彼女のほうで、わたしと友だちになりたいと思ってるとはかぎらないわ。あなただって、地ネズミってものを知ってるでしょ」
「ところが彼女は、普通の地ネズミとは、ぜんぜんちがうんだ。それに、彼女自身が、ぼくにそういったんだよ」
あんたに、いい含められてね! わたしは心の中で怒鳴りつけたが、こんな破目になったのも、もとはといえば、こっちが作戦を誤ったからなのだ。最初からお上品に出ずに、「勝手にするがいいわ、この真空掃除器! あんたの地ネズミの恋人なんかに、興味はないわよ!」とでもいってやればよかったのだ。が、もう遅い。わたしはやむなく、「いいわ、ジェフ」といって、彼の後について滑空していった。
こうして、わたしは、憎っくきアリエル・ブレントウッドに、フライを教えてやることになってしまった。
おなじフライでも、初心者用のグライダーといって、翼面積がうんと広く、操作もずっと簡単で、ただ低空を滑走するためだけのものだ。とても鳥のように飛ぶ≠ニいうわけにはいかないが、地ネズミたちは地球へ帰ると、鼻たかだかと、空中を自由自在に飛びまわったような顔をする。それが、地ネズミというものなんだ。
とはいえ、アリエルが、勘のいい生徒であったことは、わたしも認めないわけにはいかない。かなりずけずけと欠点を指摘してやっても、決して怒らず指示どおりやり直すし、飲みこみが早いし、一生懸命なので、もっとも性質のいい生徒だった。コーチに専心している限り、わたしは決して不愉快でなく、彼女が好ましくさえなった。それに、バレーの経験があるせいか、バランスのとりかたは上達が早い。午後三時ごろまでには、滑走のこつはすっかり覚えこんでしまった。これ以上やるとなれば、本物のウイングをつけて、フライするしかない。アリエルもそれをいいだした。が、わたしはかぶりを振った。
「まあ、やめたほうがいいわ」
「あら、どうして?」
「あんたにはまだ危ない。グライダーとちがって、下手すれば怪我もするし、死ぬことだってあるのよ」
「そしたら、あなたが責任を問われる?」
「いいえ。責任は自分持ちよ。ここへ入る前に、書類にサインしたでしょう」
「じゃ、自分の責任ね。お願いしたいわ」
わたしは唇をかんだ。もし彼女が一人で勝手にフライして勝手に首の骨を折ったのなら、わたしは涙ひとつこぼさないだろう。しかし、自分の手で危険の中に彼女を連れこむのは嫌だった。
「強いてというんなら止めはしないけど、わたしはコーチはお断りよ」
こんどは、アリエルが唇をかむ番だった。「それならいいわ。でも、わたくしはどうしても習いたい。だれかに──ジェフにでも頼むわ」
「そうするがいいわ。ジェフが、そんな大馬鹿なら、あなたのいうなりになるでしょうよ!」
アリエルが顔色を変えた。が、なにもいい出さないうちに、ジェフがわたしたちのところへ飛んできたのだ。
「なに議論してるんだ?」
アリエルとわたしがおたがいに自分の話を聞かせようと躍起になったため、かえってジェフを混乱させてしまった。そして事もあろうに、わたしがアリエルをそそのかしたと誤解した。彼は、頬をふくらまして、わたしに喰ってかかりはじめたのだ。気が狂ったのかい? アリエルに怪我させたいのかい、ホーリイ、きみにゃ常識ってものがないのかい?
「うるさい!」思わず怒鳴りつけてから、わたしは癇癪を鎮めて、「ジェフ、わたしはあなたがあなたのお友だちを教えてくれといったから、そうしたのよ。いまさら余計な口出しはやめてちょうだい。さあ、行って! わたしたち、ウイングを取りにいくんだから」
「ぜったいいけない。許さんぞ」
ひとつふたつと、五つ数えるあいだ沈黙が続いた。それから、アリエルが静かにいった。「行きましょう、ホーリイ」
わたしたちは、ジェフを置き去りにして、アリエルのためにウイングを借りにいった。適当なのを見つけて、着せつけてやりながら、わたしはもう一度いった。「ねえ、アリエル、わたし、やっぱり賛成じゃないのよ」
「わかってるわ。でも、男の人が、女を自分のものみたいに考えるままにさせてはおけないわ」
「そう……ね」
「ほんとは、女は、男のものよ。でも、男にそう思わしとく手はないわ」アリエルは、美しい微笑を浮かべると、尾部のコントロールに触れてみた。「これで操作するのね?」
「そう。でも、飛んでるあいだはそれに触れちゃだめ。いいこと、アリエル。はっきりいうけど、あんたはまだフライする準備ができていないのよ。今日は、滑空だけにしておくの。約束する?」
彼女はじっとわたしの眼を見つめた。「あなたのいいつけどおりにするわ」
「オーケイ。じゃ、用意はいい?」
「いいわ」
「行こう!」
わたしたちは旅客用スロープに戻り、滑空の練習をはじめた。彼女は上手にウイングをこなした。ジェフがわたしたちの上空を、8の字を描いてぐるぐる飛んでいたが、わたしたちは無視していた。しばらくして、わたしは彼女の横に着陸した。「堪能した?」
「まだまだ気がすまないわ」
「でも、疲れない?」
「ちっとも」彼女は、ウイング越しに、フロア中央の空気取入れ口を見つめていた。十人あまりのフライヤーが、上昇気流の中を、ゆっくり、ウイングを休めてのぼってゆく。
「一回でいいから、あれやってみたいな。すばらしいでしょうね」
わたしは考えぬいでから、答えた。「ほんとをいうと、高くのぼればのぼるだけ安全なのよ」
「じゃ、なぜいけないの?」
「そうね……、心得がありさえすれば、という条件つきでの安全なんだ。上昇気流に乗るのは、滑空の要領と同じだから易しい。半マイルの高さまで、じっとしてるだけでのぼる。降下も、必ずしも、難かしくない。要領は同じで、壁に沿ってゆっくり旋回しながら降りてくればいい。ただ、その間に、必ず、何かやってみたい誘惑にかられるのよ。ウイングを強くはばたたかせてみたり、はねてみたり」
アリエルは真剣な面持で首を振った。「そんなこと、決してしないと約束するわ」
「まだあるの。高さは半マイルだけど、旋回して降下すると五マイルはある。着陸するまで、少なくとも三十分はかかるのよ。あなた、それだけ、腕がもつ?」
「もつ自信はあるわ」
「……まあ、疲れたら、時どき腕を曲げればいいんだし──とにかく無理をやらなければ危険はないんだけど」
「無理しないわ」
「オーケイ。ついてきて」わたしはウイングを拡げて先に飛び上がった。まず軽く左に、それから右にバンクして上昇気流に乗った。アリエルがついて来れるように、うんとゆっくりウイングを漕ぐ──空気取入れ口の三十フィート上で、うまく乗った。
「アリエル!」
「なあに、ホーリイ?」
「あんたの上よ。首をのばさないで。わたしが見張っているから、大丈夫。あんた、なかなか好調よ」
「気分も好調だわ!」
「ちょっとねじって、堅くならないで。ルーフまでは遠いのよ」
「アイ、アイ、キャプテン!」
「疲れない?」
「とんでもない! すてきだわ……わたくし、生き甲斐を感じる!」アリエルは嬉しげに笑った。
「ママがわたくしを叱るときいつも、あんたは天使になれませんよっていったっけ!」
わたしは答えなかった。その時、赤と銀色のウイングがわたしを追い越して、ふいにブレーキをかけ、わたしとアリエルのあいだに立ち塞がったからだ。ジェフの顔は、ウイングの色に劣らず真赤だった。「いったい、なんのマネたい、これは!」
「そこをどいて!」わたしも、叫んだ。
「おりろ! おりるんだ、きみたち、二人とも!」
「どきなさいったら。規則を忘れたの?」
「アリエル!」ジェフが咆えた。「旋回をやめて、滑降するんだ。ぼくが後ろについている」
「ジェフ!」わたしは猛然と喰ってかかった。「三秒のうちにどかないと、あなたの違法行為を委員会に報告するわよ。いい? 一、二」
ジェフは、なにがわめいたが、つぎの瞬間、レフトのウイングをすぼめて、傾めに編隊を脱落して行った。バカな人!
「アリエル、大丈夫?」わたしがいった。
「大丈夫よ、ホーリイ。ごめんなさいね、ジェフは怒ったらしいわ」
「あとで機嫌をなおすでしょ。それより、疲れたらわたしにいうのよ」
「疲れてないわ。頂上まで行きたいんだもの。いま、どのくらいの高度なの?」
「四百フィートぐらいでしょう」
ジェフはしばらくわたしたちの下を飛んでいたが、やがて急上昇して上を飛びはじめた。遠くから、見張っている。余計な口出しをしない限り、わたしにとってもこの方がよかった。彼女の状態を、二人して監視していられるからだ。
ジェフは前へ、後ろへと往復しながら飛んでいた。その間わたしたちは、上へ上へと上昇をつづけた。ルーフまで半分ほどの高さまできたとき、わたしはふいに、がっくり力が抜けてくるのを感じた。お昼を食べなかったせいで、空腹が、いまごろからだに響いてきたのだ。「アリエル、あんた、疲れない」
「いいえ」
「わたし、疲れちゃった。よかったら、もう降りない?」
アリエルは逆わなかった。恐らく、彼女も疲れていたのだ。「いいわ。どうすればいいの?」
わたしは方法を教えた。洞窟の壁に沿って、ゆっくり滑空にうつった。ジェフはと見ると、かなり上空に、ちいさく見える。ジェフもこっちを見つけたのか、急に、ぐんぐん近寄ってきた。わたしはアリエルを振りかえった。
いない! アリエルがいない!
つぎの瞬間わたしは彼女を見つけていた。約百フィートほど下に、ウイングをバタバタさせ、完全にコントロールを失って墜落してゆくアリエルを!
どうしてそんなことになったのか、わたしには判らない。前へのめりすぎて横すべりし、あわててもがきでもしたのだろうか。だが、理由を詮索している余裕などない。わたしは恐ろしい恐怖に、がっしりつかまれて、その空間に、しばし凍りついたように浮いていた。落ちてゆくアリエルを、ただ呆然と見守りながら。
しかし、それは瞬間のことだったのだ。気がつくとわたしは、猛然とダイグしていた。
だが……落ちない。わたしの身体が、どうしても落下してゆかないのだ。わたしは、両のウイングを一杯にすぼめた。それでも落ちない。そしてアリエルは、みるみる遠のいてゆく。
もちろんこれは錯覚なのだ。人間が飛べるほどの低い重力の中では、落下ははじめ、ごくのろい。石を落としたって、最初の一秒は、ものの一メートル落ちるかどうかなのだ。
その一秒が、無限に長く感じられたのだった。つぎの瞬間、わたしは、落ちはじめたのを知った。風が耳もとで唸りだした。でもおそい!
ちっともアリエルに近づかない……。
彼女の足掻きも、きっと、落下のスピードをセーヴしていたにちがいない。一方わたしは、ウイングを精一杯ひき、頭上にかざして、あらん限りのスピードで落下していたのだ。落ちてゆきながら大声で叫んで、アリエルの気持を鎮め、一度ダイヴさせて、滑空姿勢に戻らせることはできないものかと、狂おしく考えた。
白昼夢は、なん時間も続いたような気がした。
もちろん、実際は、落ちきるまでに、あってせいぜい二十なん秒かぐらいの時間しかなかったはず。二千フィートを落ちるにはそれが精一杯だった──だが、二十秒は長かった……わたしのした、いった、あらゆる愚かしいことどもを侮い、われわれ二人のために最後の祈りを捧げるには充分なほど、長かった。心の中で、わたしはジェフにさよならをいった。まだ時間はあった。床が、こちらめがけて突進して来て、早く彼女に追いつかなければ、二人ともそこへぶつかって粉砕されてしまうのだと、考えるぐらいの時間は。
わたしは上をちらと仰いで、ジェフが頭上すぐそこまで来ているのを見た。すぐに下をむいた……追いついた……アリエルの下へ、わたしはかいくぐった!
ついでわたしは、渾身の力をふりしぼってブレーキをかけた。ウイングがひきちぎれそうに張った。空気ががばっと音をたて、わたしは宙に踏みとどまった。水平飛行に移る間もなく、わたしは必死で羽ばたいた。一度、二度、三度、アリエルを下から突き上げた。二人の身体がぶつかって音をたて──
そして、床が、わたしたちをたたきつけた。
力が抜けて、夢心地の満足感があった。薄暗い部屋に、仰向けに寝かされていたのだ。母がそばについているのがわかった。父も一緒だった。鼻がむずむずして、掻きたいのに、腕がいうことをきかなかった。そしてまた、深い眠りに落ちていった。
わたしは空腹を感じてはっきり目覚めた。病院のベッドの上で、両腕はまだ動かなかった。両方ともギブスをはめられていたのだから当り前だ。看護婦が盆を持ってきて、「お腹すいた?」と訊いた。
「飢え死にしそう」
「なおしてあげるわ」看護婦はいって、赤ん坊みたいに、食べさせてくれた。
三さじで、わたしは口をきく暇を見つけた。「わたしの腕どうなった?」
「たいしたことないのよ。単純骨折が三カ所だけど、あんたの年なら、あっという間になおってしまう。内出血を警戒するために入院してもらってるの」
「わたし……またフライできる?」おそるおそるの質問だった。
「もちろんよ。もっともっとひどい怪我して、平気でフライしてる人もいるわ」
「ありがとう! ねえ、看護婦さん、あのひとはどうして? 彼女どこか──」
「ブレントウッドさん? やっぱりここに入院してるわ」
「ここに来てるわよ」アリエルの声が、戸口でした。「入ってもいい?」
顎が、がくんとなった。「ええ、いいわ。入って」
「あまり長くはだめよ」看護婦はそういうと、出ていった。
「お坐んなさい」
「ありがとう」アリエルは、歩くかわりにぴょんぴょんと跳んだ。片脚が繃帯に包まれている。ベッドの横に、腰をおろした。
「脚を怪我したのね」
アリエルは肩をすくめた。「なんでもないのよ。捻挫と、筋をちがえたのと、肋骨に二本ひびが入っただけ。死んでいたかもしれないのに。なぜ死ななかったか、知ってる?」
答えないでいると、彼女は、そっとその手をわたしのギブスの上に置いた。「このおかげよ。あなたがわたくしの落ちるのをとめてくれて、わたくしはあなたの上に落ちたのよ。あなたはわたくしの生命を助け、わたくしはあなたの腕を折ったの」
「そんなにお礼をいわれることはないわ。だれのためにだって、わたし、ああしたはずだから」
「あなたならきっとそうしたわね。わたくしも、お礼をいってるんじゃないの。生命を助けてくれた人に、お礼ですませられるものじゃないわ。わたくし、ただあなたの行ないを、わたくしが知っていることだけをいいに来たのよ」
答えようがなくて、わたしはほかのことをいった。「ジェフはどこ? 彼は大丈夫?」
「ジェフも、もうすぐここへ来るわ。彼は怪我をしなかったの。もっともわたくし、彼が踵をくじかなかったのが不思議だわ。わたくしたちのそばに、あんなにひどく降りてきて……でもホーリイ、わたくしの大事な大事なホーリイ……わたくし、彼が来ないうちに、彼のことを話そうと思って急いで来たのよ」
わたしは、あわてて話題を変えた。「でもアリエル、あのとき、いったいどうしてああなったの? あのときはとても上手に飛んでたのに。いきなり、落ちはじめたのね」
アリエルは恥らいを顔に浮かべた。「わたくしがいけなかったのよ、あなたに降りようっていわれて、思わず下を見たの。そしたら……それまでは、上にのぼることばかり考えていたのね。床が、あんなに下に見えるとは思ってもいなかった。見たとたんにめまいがして怖くなって、めちゃめちゃになってしまったの」肩をすくめて、「あなたのいうとおり、わたくしには、まだ心の準備がなかったのよ」
わたしはちょっと考えて答えた。「そうだったの。でも心配はいらないわ。この腕がなおったら、また連れてってあげる」
アリエルはわたしの脚に触れた。「優しいホーリイ。でもわたくし、もうフライすることもないでしょう。もとの古巣に帰るのよ」
「地球へ?」
「ええ。水曜日のビリー・ミッチェル号で」
「まあ。残念だわ」
アリエルは軽く眉根をしかめた。「そう? ホーリイ、あなたわたくしが好きじゃないんでしょう?」
わたしは、口もきけないほどびっくりしてしまった。こんなことを訊かれて、なんと答えようがある? とくに、本当のことだとしたら?「ええ──でも、嫌いというわけじゃないわ、ほんとはあなたをよく知らないのよ」
アリエルはうなずいた。「わたくしも、あなたをよく知らないわ。というより、知らなかったわ。あのほんの数秒間で、心の底まで知るまでは。ねえ、ホーリイ、聞いてちょうだい。怒らないで聞いて。ジェフのことよ。この二、三日、彼のあなたに対する態度はよくなかったわ。つまりわたくしがいる間。でも、彼を責めないで。わたくしは去っていくんだし、そうすればなにもかももとどおりになるわ」
こういわれた以上、わたしも、黙っているわけにはいかなくなった。でないと、彼女が、誤解したまま行ってしまう。わたしは、すべてを説明することにした。女流実業家として生きようとするわたしの希望から、かりにわたしが取り乱していたとすれば、それはただ年来の目論見だったジョーンズ&ハーデスティ設計事務所がだめになるのが悲しかったからだということ、わたしはジェフを愛してはいず、ただパートナーとして、友だちとして価値を認めていたにすぎないこと──「だからね、アリエル、ジェフを諦めることはちっともないの。もし感謝の気持から諦めようというんなら、そんなことさっぱり忘れてちょうだい。そんな必要ぜんぜんないのよ」
アリエルがまばたきした。その目に、涙がいっぱいたたえられているのを見て、わたしはとても驚いた。「ホーリイ……ホーリイ、あなたは何もわかってないのね」
「わかってるわ。わたしもう、子供じゃないもの」
「子供じゃないわ。りっぱな一人前の女よ。ただそれに、自分で気がついていないだけ」彼女は指を一本立てた。「第一に、ジェフはわたくしを愛していません」
「信じないわ」
「第二。わたくしも、ジェフを愛してません」
「それも信じない」
「第三。あなたは彼を愛してないといったけど……その前に、答えてちょうだい。ホーリイ、あなた、わたくしを綺麗と思う?」
「え?」
「わたくしは綺麗かって訊いたのよ」
「自分でいちばんよく知ってるくせに」
「そう──。わたくし、歌と踊りがちょっぴりできるの。でも、もし顔が綺麗じゃなかったら、きっとろくな役はもらえなかったわ。なぜかというとね、わたくしは三流の女優だからよ。だから、綺麗じゃなきゃならないの。ホーリイ、わたくし、いくつだと思う?」
わたしは、ようやくのことで飛びあがりかけた自分を抑えた。「ジェフが思ってるよりは上でしょうね。すくなくとも二十一か……二十二かしら?」
アリエルは吐息をついた。「ホーリイ、わたくしはあなたのお母さんぐらいの年なのよ」
「そんなこと!」
「そう見えなければ、嬉しいわ。でも、だからこそ、ジェフがどんなにいい人でも、わたくしが彼と恋のできない理由があるのよ。でも、わたくしがどう思ってるかは問題外。大事なのは、彼があなたを愛してることよ」
「なんですって! そんな馬鹿なことがあるものですか! そりゃわたしを好きかもしれない。でもそれだけのことよ」わたしは息を呑みこんだ。「わたしだって、そのほうがいいわ。でも、それも終りよ。彼がわたしになんていったか、聞いたでしょ?」
「聞いたわ。でも、あの年齢の男の子は、思ってることがいえないの。きまりが悪くなるのよ」
「だって──」
「待って、ホーリイ。わたくしは、あなたが気を失って見なかったものを見たのよ。わたくしたちが床にぶつかった直後に何がおきたか知っている?」
「いいえ」
「ジェフが、復讐の天使のように、ほんの一秒のなん分の一かで舞いおりて来たのよ。彼は着陸の直前にウイングを脱ぎ捨てて、手を自由にしていたわ。そして、わたくしなんか見むきもせず、わたくしを飛びこして、あなたを両腕でかかえあげると、眼をとびだしそうにむきだしながら、夢中でゆすぶっていたわ」
「ほんと?」
「ほんとうよ」
わたしはねぶりかえすようにそのことを考えた。するとやっぱりあの大男さんは、わたしのことを、少しは好きだったのかしら。
アリエルは言葉を続けた。「だからね、ホーリイ、たとえ彼を愛してなくても、あなたは彼に優しくしてあげなきゃいけないわ。彼はあなたを愛してるんだし、もしあなたがつらくあたれば、彼はとても悲しむのだから」
わたしは一所懸命かんがえようとした。
ロマンスは、やっぱり、女流実業家として避けなければならないものだ……けれども、もしジェフがほんとにそんな気でいるのなら──そうだ、彼を倖せにするために彼と結婚するくらいには、わたしの理想を曲げてもいい。その程度の妥協なら、二人の事務所をやっていく上にも許されるのじゃないかしら?
でも、もし結婚したら、ジョーンズ&ハーデスティでなくて、ハーデスティ&ハーデスティになってしまうけど……。
アリエルは、まだ喋っていた。「──いつかはあなたも彼を愛するようにならないとは限らないわ。きっとそうなる。そして、もしそうなったとき、もし彼を追い返してなどいたら、あなたはきっと侮むわよ。どこかの女の子に彼をとられてしまってね。彼はそれはいい人なのだから」
「だって──」いいかけて、わたしは口を閉ざした。ジェフの足音が聞こえたからだ。彼の足音はいつでも、すぐに判るのだ。彼は戸口で立ちどまって、わたしたちを見てにっと笑った。
「こんちは、アリエル」
「こんにちは、ジェフ」
「どうだい、骨折嬢?」彼はわたしを見やっていった。「おやおや、また惨倣たる姿だな」
「あんただってあまりゾッとしないわよ。扁平足になったっていうじゃない?」
「昔っからさ。きみこそ、腕にそんなものをくっつけて、どうやって歯を磨いてるんだ?」
「歯なんか磨かないわ」
アリエルはそっとベッドから滑りおりると、片脚で身体のバランスをとった。
「さ、行かなきゃ。またあとで会いましょ、お二人さん」
「さよなら。アリエル」
「ご機嫌よう、アリエル。お見舞い、ありがとう」
ジェフは彼女の去った後のドアをそっと閉めると、ベッドへ戻ってきて、ぶっきらぼうにいった。「静かにしてろよ」
そして、両腕をわたしの身体にまわしたと思うと、キスした。
両腕とも折れていて、わたしに逆らいようがあったろうか? わたしは、声も出ないほど驚いた。だってジェフはそれまで勘定に入らない誕生日のキスやなにかを別にすると、一度だってキスなんかしてくれなかったからだ。でも、わたしは、喜んでいるのを伝えるためにキスを返そうとした。
そしたら──病院がどんな薬を飲ましていたのか知らないが、急に耳なりがし、またもやくらくらとめまいがした。
彼が、おおいかぶさるようにして、「チビさん。ずいぶんぼくを悲しませてくれたな」と、恨みがましくいった。
「あんただってあんまり愛想がよくはなかったわ、扁平頭さん」わたしは威厳をもって答えた。
「かもしれない」彼はわたしを悲しげな眼で見やった。「何を泣いてるの?」
泣いていたことに、気がつかなかったのだ。
「わたしの大事なウイング──めちゃめちゃになっちゃったわ」
「もっといいのが買えるじゃないか。元気だせよ。もう一度キスするよ」
「いいわ」
ジェフはキスした。されながら、わたしはふと考えた。ハーデスティ各ハーデスティ設計事務所か──ジョーンズ&ハーデスティよりもリズムがいいじゃないの。
ほんとに、とっても語呂がいい。
[#改ページ]
もしこのまま続けば
城壁の上は寒かった。おれは凍える手を暖めようとたたいてみたが、預言者の眠りを妨げてはいけないと気づいて、あわててやめた。その夜、おれはかれ個人の住まいのすぐ外側で立哨についていた──警備兵訓練部隊できちんとうまくやろうと、並の倍は注意を払って手にした部署だ──しかし、いまは人の注目を引くようなことはしたくなかった。
そのころのおれは若かったし、そう賢明なほうでもなかった──ウエスト・ポイントを出たての少尉で、現人神《あらひとがみ》預言者の親衛隊である主の天使隊≠フ一員だった。生まれるとすぐ、母はおれを教会に捧げた。十八歳のとき、下級監察官だった伯父のアブソロムが司教評議会に嘆願して、おれを陸軍士官学校に入校させたのだ。
ウエスト・ポイントはおれの性に合っていた。いや、確かにおれも同級生間の不平不満に加わった。すべての軍隊生活につきものの、ほとんど慣習的な不満だったが、正直にいっておれは僧院的な日課が楽しかった──朝五時に起床、二時間の祈祷と瞑想、ついで軍事教育についての果てしない授業や講義、戦略と戦術、神学、群集心理学、奇蹟学の初歩。午後は、渦動銃と熱線銃の操作実習、戦車の操作訓練、それに運動で体を鍛えること。
卒業時の成績順位があまり良くなかったから、申しこんではいたが、主の天使隊に配属されることなど、実際には期待していなかった。だが、神学はつねに最高点を取っていたし、実習科目はほとんどがかなりいい成績だったので、その点を買われて選ばれたのだろう。
おれはまるで罪深いまでの誇らしさを覚えた──そこは、預言者の軍隊の中でもっとも神聖な精鋭連隊であり、そこでは最下級兵士でも任官した将校で、その司令大佐は預言者の鉄の凱歌=Aつまり全軍の総司令官が兼任していた。
主の天使隊員だけが持つ金色の楯と槍を授けられた日、大尉に昇進すると聖識者になる資格ができるので、そうなったらすぐにそのための勉強ができるよう申請しようと、おれは心に誓った。
しかし、それから何カ月もたった今夜、楯はまだ燦然と光っていたが、おれの心には一点の錆が生じていた。ニュー・エルサレムの生活は、おれがウエスト・ポイント時代に想像していたようなものではなかった。
王宮にも神殿にも、権謀術数が渦巻いていた。僧正、女助祭、大臣、王宮役人などのほとんどすべてが、預言者の手に握られている権力と恩恵を求めての争いに加わり、各派閥がたがいに反目していた。おれ自身の部隊の将校でさえも、その争いに巻きこまれ、買収されている者も少なくないようだった。自分のためでなく、神のために≠ニいうおれたちの誇らしいモットーでさえも、おれの口には苦く感じられるようになっていた。
そうはいうが、おれ自身もまったく罪を犯していないとはいえなかった。おれは、そんな醜い争いになど何としても加わらなかったが、それ以上に悪いと心の中で認めるほかないことをしていた。それは、神に捧げられた女性を恋していることだった。
自分でもわかっていなかったのだが、おれが体だけ一人前でも経験は幼児なみだったことを、頼むからわかってほしい。
母親が、それまでにおれのよく知っている、ただひとりの女性だった。ウエスト・ポイントに入る前の神学校時代のおれは、女の子を何か恐ろしいもののように思って近づかなかった。おれの関心はもっぱら、授業と母親と教区のケルビム少年団にむけられていた。おれはその少年団のパトロール隊長で、木工から聖典の暗記にいたるまで、あらゆる科目に賞状をもらった真面目な優等生だった。もし女に関する科目があれば、おれはそれでも優等賞をとっていたことだろう──だが、もちろんそんなものはなかった。
陸軍士官学校では、女性の姿などまったく見かけなかったし、告白しなければいけないほどの邪悪な想念はぜんぜん浮かばなかった。おれの人間的な感情の多くはまだ眠ったままで、ときたま見る不安な夢も、悪魔のよこした誘惑にすぎないと考えた。
しかし、ニュー・エルサレムはウエスト・ポイントと異なり、天使隊員は、結婚することも女性と真面目な交際をすることも許されていた。仲間のほとんどが、結婚の許可を求めなかったのも本当だが、それは結婚が普通の連隊への転属を意味するのと、その多くが軍人聖職者になることを夢見ていたからだ──だが、禁止されてはいなかったのだ。
神殿や王宮のまわりに家を持っている在家の修道女《シスター》も結婚を許されていた。しかし、そのほとんどはおれの伯母を連想させるようなみすぼらしい年寄りばかりで、ロマンチックな感情の対象にはなりえなかった。
おれは回廊の周辺でときたま彼女たちと話をしたが、そのことで別に害はなかった。若い修道女《シスター》に対しても、特別な感情を抱いたことはなかった──シスター・ジュディスに会うまでは。
一カ月以上前、おれはいま現在いるこの場所で当直についていた。預言者の住まいの外で立哨につくのは初めてだし、配置された最初は不安だった、そして、そのときのおれは衛兵隊長が巡察にまわってくることにすこし緊張していた。
その夜、前方の回廊のずっと奥から明るい光が洩れ、人々の足音やざわめきが聞こえてきた。腕時計をちらりと見ると──そう、あれは預言者に仕える処女≠スちだろう……おれの知ったことではない。毎晩十時に、その当直が交替するのだ──警備勤務≠ニ、おれは呼んでいたが、その儀式を一度も見たことがないし、見ることもないだろう。それについて知っているのは、これから二十四時間の勤務につくその連中が、現人神である預言者という聖なる存在に個人的に奉仕するという特権を手に入れるため、そのたびに籤引をするということだけだった。
おれはちょっと耳を澄ましてから、すぐ視線をもどした。それから十五分ほどすると、黒い外套に身を包んだ、ほっそりした姿の女性が、そばを通り過ぎ、胸壁の前に立つと、星々を見た。おれはすぐ熱線銃を取り出したが、相手が修道女だとわかり、ちょっと照れ臭い気持ちで、それを元にしまった。
これはたぶん在家の修道女だろうとおれは思った。誓っていうが、彼女が聖修道女かもしれないなどということは考えてもいなかったのだ。彼女たちが外に出てくるのを禁じる規則などおれの勤務規則にはなかったが、そんなことをする者がいるなど聞いたこともなかった。
話しかけるまで、彼女はおれに気づかなかったらしい。
「平和があなたにありますように、シスター」
と、声をかけると、彼女は飛び上がり、そして悲鳴を上げるのをかろうじておさえ、それからやっと品位を取りもどして答えた。
「あなたにも同じことを、小さなブラザー」
おれはそのとき初めて、彼女の額に、預言者の家紋であるソロモンの紋章≠ェついているのを見た。
「失礼しました、エルダー・シスター。見えませんでしたので」
「かまいませんのよ」
彼女は、おれと話をしたがっているようだった。彼女と個人的に会話をかわすのは良くないことだと、知ってはいた。彼女の魂は神のものであり、同時に肉体を預言者に捧げている身だが、おれは若く孤独だったし──彼女も若く、あまりにも美しかった。
「あなたは今夜、聖なる方にお仕えになるのですか、エルダー・シスター?」
彼女は首をふった。
「いいえ、その名誉には逃げられました。籤がはずれましたので」
「あの方に直接お仕えするのは、偉大で素晴らしい特権なのでしょうね」
「もちろんそうでしょうが、わたしはまだ自分の知識としては何も存じません。まだ、籤に当たったことがございませんので」彼女は、衝動的につけ加えた。「わたしはそのことで、すこし不安なのです。ここへ来てから、まだ日が浅うございますので」
地位からいうと彼女のほうが上だったが、彼女の女性らしい弱々しさがおれの心を動かし、親近感を覚えさせた。
「いや、あなたなら、きっと立派にお役目をはたせますよ」
「ありがとう」
おれたちは、それからなおしばらく語り合った。彼女がニュー・エルサレムへ来たのは、おれよりもあとで、つい最近のことだそうだ。彼女はニューヨーク州北部の農場で育ち、オルバニー神学校時代に、預言者に仕えることを定められた。おれはお返しに、中西部で生まれたことを話した。初代の預言者が降誕した真理の泉≠ゥら五十マイルと離れていないところだと。それから、おれの名前はジョン・ライルだといい、彼女はシスター・ジュディスだと答えた。
おれは、衛兵隊長が巡察にくることをすっかり忘れ、一晩じゅうでも語り合いたい気持ちになっていたが、やがて腕時計が十五分刻みの音を発した。シスター・ジュディスは小さくさけんだ。
「まあ! 早く部屋へもどらないと叱られるわ!」彼女は急いで駆け出そうとしたが、ちょっと足をとめた。「わたしのこと、だれにもいわないでくださいましね……ジョン・ライル」
「ぼくが? 決して!」
おれは立哨についているあいだ、ずっと彼女のことを考えつづけた。そのせいもあって、衛兵隊長が巡察に来たときには、緊張もすこしゆるんでいた。
これのどこが不品行だ、え? だが、ほんのすこしの酒でも、禁酒主義者にとっては過度の量となる。おれは、心の中からシスター・ジュディスを払いのけることができなかった。
あのときから一カ月のあいだに、六回ほど彼女に出会った。あるときは、エスカレーターですれちがった。おれは上って行く途中で、彼女は下りてくるところだった。どちらからも話しかけたりはしなかったが、彼女はおれに気づいて微笑した。その夜おれは夢の中で、一晩じゅうそのエスカレーターに乗ったが、そこから下りて、彼女に話しかけることはできなかった。
またあるときは、「ジョン・ライル!」と、低く呼びかける彼女の声にふりかえると、頭巾をかぶった姿がおれの肘をかすめて、近くのドアを通っていくところだった。彼女が堀の中の白鳥に餌をやっているところを見かけたこともあった。そのそばに行く勇気はなかったが、彼女はおれに気づいていたようだった。
神殿布告《テンプル・ヘラルド》には、おれや彼女たちの勤務表が掲載される。おれは、五日に一度の当直についていた。処女たちは一週間に一度、籤を引く。それで、おれたちの当直がふたたびぶつかるのは、ちょうど一カ月後となった。おれは彼女の名前を見つけた──それで、おれはその夜の警戒勤務には必ずつき、預言者ご自身の住まいの前という名誉な立哨位置につくぞと誓った。
ジュディスが胸壁にいるおれを探すだろうと考える理由は何もないのだが──彼女がそうするという確信はあった。ウエスト・ポイントにいるときだって、こんなに身仕度に時間を使ったことはなかった。楯を髭剃り用の鏡に使うことさえした。
そして、いまはもう十時半になろうとしているが、ジュディスの姿は見えなかった。十時きっかりに回廊の奥で、処女たちが集まる物音は聞こえたのだが。おれの精一杯の努力の結果は、王宮中のもっとも寒い場所で立哨するという哀れな特権だけだった。
もしかすると、彼女は機会あるごとに宿所を出て、立哨中の衛兵とたわむれる浮気な女なのかもしれないと、おれは陰気に考えた。もともと、女はみな好奇心のかたまりで、アダムとイブの堕落以来ずっとそうなのだという話を、苦々しく思いかえした。
それなのに、彼女がおれだけに特別な友情をよせていると思いこむなんて、おれは、なんという馬鹿な男なんだ! たぶん彼女は、今夜は寒すぎるので、たわむれる気になれないんだろう。
足音が聞こえ、おれの胸は喜びに躍った。だがそれは、巡察中の衛兵隊長だった。おれが拳銃をかまえて誰何すると、かれの声が返ってきた。
「衛兵、今夜はどうだ?」
おれは機械的に答えた。
「地には平和を……寒いです、エルダー・ブラザー」
かれはうなずいた。
「秋の空気だ、神殿のなかでも冷えるよ」
拳銃と麻酔弾の弾帯が防護服にあたる音をさせながら、かれは去っていった。さばけた老人で、いつも立ちどまって親しげに会話をかわすのだが、今夜は急いで暖かい衛兵詰所に帰りたかったのだろう。おれはまた、わびしい想いにもどった。
「こんばんは、ジョン・ライル」
おれは飛び上がってしまうところだった。アーチになった通路を入ってすぐのところの暗がりに、ジュディスが立っていた。おれは近づいてくる彼女にむかって、やっと声を出した。
「こんばんは、シスター・ジュディス」
彼女はおれに注意した。
「しーっ! だれかに聞こえるといけないわ。ジョン……ジョン・ライル……ついに来てしまったの。籤があたってしまったの!」
「え?」おれはそういい、もごもごとつけ加えた。「おめでとう、エルダー・シスター。あなたの聖なるお役目で、神がかれのお顔を輝かせますように」
彼女は急いで答えた。
「ええ、ええ、ありがとう。でも、ジョン……でもわたし、あなたとちょっとお話ししたくて抜け出してきたの。でもだめだわ……わたし、着付け室へ行って、今夜の作法を教わるのとお祈りを、ほとんど同時にしなければいけないの。急がなければ」
おれは彼女が長くいられないことに失望し、彼女がその名誉を与えられたことを喜び、彼女がおれを忘れていなかったことに有頂天だった。
「急いだほうがいい……神が、あなたとともにありますように」
「でも、わたし、選ばれたことをあなたにいわずにはいられませんでした」彼女の目の輝きをおれは聖なる喜びと解釈した。彼女の次の言葉で、おれは仰天した。「わたし、恐ろしいの、ジョン・ライル」
おれは初めて小隊を指揮したとき、どんなふうに感じ、声がどんなにかすれたかをとつぜん思い出した。
「え、恐ろしい? 大丈夫ですよ。元気が出てきますよ」
「そうだといいんですけれど! わたしのために祈ってね、ジョン」
そういい残して、彼女は暗い通路を去っていった。
おれは彼女のために祈りを捧げ、彼女がいまどこでどうしているのかを、あれこれ想像してみようとした。だが、おれが預言者個人の部屋の中で何がおこなわれるかについて知っていることというと、雌牛が軍法会議について知っていることとどっこいどっこいだったから、想像してみるのはすぐにやめ、ジュディスのことだけを考えることにした。
それから一時間かそれ以上たったころ、王宮の奥のほうからとつぜん響いた高い悲鳴で、おれの夢想は破れた。続いて、あわただしい足音やざわめきが聞こえた。おれははじかれたように内部通路を走り、預言者の居住区画の正面入口のまわりに女たちが群がっているのを発見した。その中の二、三人が、だれかを入口から運び出し、通路の床に下ろした。
「どうしたんだ?」
おれは拳銃を見えるように引き抜いて詰問した。
年長の修道女がおれの前にやってきた。
「何でもありません。あなたは部署におもどりなさい、少尉」
「悲鳴が聞こえましたが……」
「あなたに関係ありません。若い修道女が、聖なる方からご奉仕を要求されたとき、気を失ってしまったのです」
「それはだれです」
彼女は肩をすくめた。
「あなたってずいぶんうるさいのね、小さなブラザー……それが問題かしら、シスター・ジュディスですよ」
「助けなきゃあ!」
おれは考えもせずに、いうだけいって前に進もうとした。彼女はおれをさえぎった。
「あなた、気でも狂ったの? 同僚のシスターたちが部屋に運びます。いったいいつから、天使隊員が心を乱した処女≠フことに口出しをすることになったの?」
その女を指一本でおしのけることもできた。しかし、彼女のいうとおりだったので、おれはすごすごと自分の部署にもどった。
それから数日のあいだ、おれは心の中からシスター・ジュディスを払いのけることができなかった。当直がないとき、おれは彼女の姿が見られるかと思って、王宮内の自由に立ち入れる場所をあちこちと歩きまわった。彼女は、病気なのか、それとも規律の重大な違反者として、自分の部屋に監禁されてしまっているのだろうか。いずれにしても、彼女の姿はまったく見られなかった。
同室のゼバディア・ジョーンズが、おれの浮かない顔に不審をいだいて、どうしたんだと尋ねた。ゼブはおれの三年先輩で、ウエスト・ポイントでは最上級生と最下級生という関係にすぎなかったが、現在では、おれのもっとも親しい、秘密を打ち明けられるただ一人の友人だった。
「ジョニイ、おまえまるで歩く死人みたいだぞ。何を悩んでいるんだ?」
「え? 何でもないよ。腹の具合が悪いだけだろう」
「ほう? さあ、散歩に行こう。空気にあたると体にいいから」
おれは、さそわれるままに外に出た。見られる危険もなければ聴音装置もない南の塔がある広いテラスに登るまで、かれは当たりさわりのないことしか話さなかった。あたりに人影がないことを確かめると、かれは低い声でいった。
「さあ、話せ」
「ほっといてくれ、ゼブ。他人に相談できるようなことじゃないんだ」
「なぜだ? 友達は、何のためにあると思っている?」
「しかし、きみはショックを受けるだろうからな」
「それはどうかな。この前、最後にショックを受けたのは、エースのスリー・カード相手に、おれがフォア・カードを引いたときだったよ。おれはそれで、奇蹟への信仰を取りもどしたし、それからというものは、ショックにはわりと免疫になっているんだ。さあ……これは、ごくごく内輪だけの会話ということにしようじゃないか……年長者の忠告だとか、そういうくだらないことは抜きにしてさ」
おれは、かれの説得に屈した。驚いたことにかれは、おれが聖なる修道女に関心を持つようになったことを知ってもショックを受けなかった。そこでおれは、これまでのいきさつを何もかも話し、さらにニュー・エルサレムでの勤務につくようになった日から心の中に育ってきた疑惑や不安、そして心もとなさを、かれに打ち明けた。
ゼブはあっさりとうなずいた。
「おまえをよく知っているから、それがどう影響するかわかるよ。ところで、おまえはまだそのことを懺悔などしていないだろうな?」
「していない」
おれはちょっと当惑しながら、首をふった。
「では、懺悔はしないことだ。そっと、胸にしまっておいたほうがいい。バグビー少佐は肝っ玉の太い男だから、驚きはしないだろうが……上官にそれを伝える必要があると考えるかもしれないんでね。たとえおまえが石膏のように潔白でも、異端審問にかけられたくはないだろう。自分が潔白なときは特にだ……おまえは、そうなんだからな。しかし、だれしも、ときには邪念に取りつかれることはある。ところが、異端審問官は最初から、罪を犯していると決めてかかってくる。もし罪を発見できなければ、つつき続けるんだ」
異端審問にかけられるかもしれないといわれて、胃袋がねじれるような気分になった。ゼブが静かに話を続けたので、おれはそれを顔に現わさないように努力した。
「ジョニー、おまえの敬虔さや潔癖な生きかたは、非常に立派だとは思うが、羨ましいとは思わないよ。敬虔さもその度が過ぎると、ときには、少なすぎるときよりも大きなハンディキャップとなる。国一国を統治するには、賛美歌の合唱とならんで政治が必要だということに気づいて、おまえはショックを受けているんだな。おれを見ろ。おれは初めてここへ来たとき、同じ物事に気がついた。だが、おれは別に違ったことを期待はしていなかったから、ショックも受けなかったよ」
「でも……」
おれは黙りこんだ。かれの言葉はひどく異端者的に響いたからだ。それで、おれは話題を変えた。
「ゼブ、ジュディスが預言者に仕えた夜、悲鳴を上げて気絶したのは、どうしてだったんだと思う?」
「え? おれにどうしてわかるんだ?」
かれはちらりとおれを見て、それから顔をそむけた。
「そう、きみなら知っているかもしれないと思ってね。きみは、王宮の中の噂話には何だってくわしいからな」
「そりゃあ……いや、やめておこう。いずれにしろ、たいした問題じゃないからな」
「じゃあ、知っているんだな?」
「そうはいわんよ。おおよその見当はつけられるがね。しかし、おまえは想像を聞きたいわけじゃないだろう? だから、忘れろ」
おれは、ぶらぶら歩くのをやめて、かれの前に立った。
「ゼブ、何でもきみの知っていることだけでいい……いや、想像でもいい……聞かせてくれ。これは、おれにとって大切なことなんだ」
「落ち着け! おまえはおれにショックを与えるのを恐れたが、おれだっておまえにそうしたくないんだぜ」
「どういうことなんだ? 話してくれ!」
「落ち着けったら、おれたちは散歩しているんだぞ、この世の面倒なことからは解故されて、蝶のコレクションのことを話し合ったり、今夜の食事はまたビーフ・シチューかなと想像したりしているはずなんだ」
おれはまだカッカしながら、かれとならんで歩いた。かれは、静かな口調で話を続けた。
「ジーン、おまえは地面に耳をおしつけて物事を知ろうとするタイプじゃあないらしいな……だいたいおまえは、内なる秘跡についてはまだ何も習っていないんだろう?」
「習わなかったことは知ってるだろうが。心霊学の教官が、なぜかおれには、その講義を省略してしまったんだ」
「じゃあ、おれが借りていたあいだに、全集の一部をおまえに読ませてやればよかったな。いや、あれはおまえが卒業する前のことだったかな。実に残念だよ、おれには使い方がわからないほどの微妙な言葉で、物事を説明しているし……そのすべてを徹底的に正当化しているからな。おまえが、宗教理論の弁証法に関心があるならだが。ジョン、おまえは処女≠スちがどんな任務を帯びているのか知っているかい?」
「そりゃあ、かれに仕えて、かれの食事を作ったり、その他もろもろのことをするんだろう」
「そう、その他、もろもろのことをね。そのシスター・ジュディスは……おまえの話からするとその人は、純朴な田舎の少女らしいな。信心深い、そうだろうな?」
おれは何よりもまず、彼女の敬虔な姿に心を引かれたんだとややぎごちなく答えた。たぶん、そう信じていたのだ。
「すると、彼女は預言者と、そう、大会計官とのあいだで交わされたちょっと皮肉で俗っぽい会話を立ち聞きして、ショックを受けただけかもしれないな……税金と教会への献金とか、農民を絞り上げる最上の方法とかをね。そういうことかもしれないが、そんな会談の書記にまったくの処女が初めての仕事として仕えるはずはない。いや、それはまず間違いなく、その他もろもろのこと≠セな」
「はあ? 何のことだか、おれにはわからないな」
ゼブは溜息をついた。
「おまえはまったくおめでたいやつだな。おまえは知っていても、頭が信心でこり固まっているから受け入れられないんだ。だがなあ、天使隊員でも処女たちとよろしくやっているんだぞ、預言者には用ずみになった連中とな。僧正たちと修道女とはもちろんのことだ。いつだったか、おれが覚えているのは……」かれはおれの表情を見て、とつぜん話をやめた。「そんな顔をするのはやめろ! だれかに怪しまれたいのか?」
頭の中は、もうまるで、めちゃくちゃだったが、落ち着こうとした。ゼブは静かに話しつづけた。
「おれの想像するところ、おまえにとって大切なことだろうが、友達のジュディスは、おそらくまだ精神的なだけではなく、純粋に肉体的な意味からも、処女≠フ称号にふさわしい状態を保っているんだろう。彼女はそのままでいられるかもしれない。もし聖なる方が、たぶん考えられるとおり、彼女に怒っておられるとすればね。たぶん彼女はおまえと同じように勘が鈍くて、与えられた象徴的な説明を理解できなかったのだろう……それで、どうしても理解しなければならなくなった瀬戸際になって、彼女は頭が半分いかれてしまい、かれは彼女を蹴り出した。驚くことはない!」
おれは、自分が知っているとは思ってもいなかった聖書の文句をつぶやきながら、また立ちどまった。ゼブも立ちどまり、冷笑するように、辛抱強く笑顔を見せた。おれはまるで、哀願するようにいった。
「ゼブ……なんという恐ろしいことだ。恐ろしい! きみがそれを、是認しているなんていわないでくれよ?」
「是認する? いや、これはみな神の計画なんだ。おまえがもっと学問をすればわかることだろうが、まあ取りあえず概要を教えてやろう。神は浪費せずさ。そうだな?」
「そいつは、教義みたいだぜ」
「神は人間に、その能力を越えたことを要求されない。いいか?」
「ああ。でも……」
「黙って聞け。神は人間に多産であることを命じられる。現人神預言者は、特に聖なる方だから特に多産であることを要求される。以上が要点だ。細かいことは、勉強するうちにわかってくるだろう。とにかく、そういうわけだから、預言者がご自分の明白な義務を履行されるために、人間界に身を落として肉の交わりをおこなわれたところで、文句をいう筋合じゃあないだろう? 答えてみろ」
おれはもちろん答えられず、黙って歩きだした。かれの論理は実に整熱としており、その結論が神が示された教義から作られたものであることを認めるほかなかった。問題はおれがその結論に反発を覚え、何か毒でも飲まされたかのように吐き出してしまいたかったことだった。
やがておれは、ジュディスが傷つけられなかったとゼブが信じていることを考えて、自分を慰めた。すこし気分がよくなって、心の中でつぶやいた。ゼブのいうとおりだ、聖なる現人神預言者に対して倫理的批評を加えるのは、おれのやることではない、絶対におれのやることではないのだと。
だが、心は悩みはじめていた。ジュディスのことでほっとしたのは、おれが彼女に対して邪な考えをいだいていたからで、おれは特定の修道女に対して、他の修道女とは異なった規則をあてはめようとしていたのではないか、と。おれはまた不幸な気分になりかけた──そのとき、ゼブがとつぜん立ちどまった。
「あれは何だ?」
おれはテラスの胸壁に駆けよって、城壁の下を見下ろした一南の城壁は市街地まで張り出している。その城壁に通じる坂道を、五、六十人の群衆が駆け登ってくる。かれらのちょっと前を、長い服を着た男が一人、後ろをふりむきふりむき、宮殿の門にむかって走っている。
ゼバディアは下を見て、ひとりごとをいった。
「騒ぎはあれだったのか……またならず者たちが、最下層民に石を投げるんだ。あいつは五時を過ぎてからたぶん、強制居住区《ゲットー》を離れるようなうかつなことをしてつかまったのだろうな」かれは見下ろし、首をふった。「逃げられそうにないな」
ゼブの予告はたちまち的中した。大きな石がそいつの背中にあたり、男は前のめりに倒れた。群衆はすぐに追いついた。もがきながら立ち上がろうとしたかれに、石がいくつもたたきつけられ、男はうずくまった。そいつは服のひだで、黒い目とたくましいローマ人型の鼻を覆った。
それから一瞬ののちには、石の山と、足蹴にする無数の靴だけしか見えなくなった。そいつはびくりと動き、そして静かになった。
おれは吐き気をもよおして、顔をそむけた。ゼバディアはおれの表情に気づいた。おれは、自分を弁護するようにいった。
「あの最下層民たちは、なぜ異教に固執するのだろう。それ以外には、何の罪もない善良な人々らしいが」
かれはおれを見て、片方の眉を上げた。
「かれらにとっては、異教じゃあないんだろうよ。あの男が、たったいま神に身をゆだねたのを見なかったのか?」
「しかし、それは本当の神じゃないぜ」
「かれはそうとしか思ってなかったんだろうな」
「けれど、かれらはよく知っているはずだぞ。おれたちは口を酸っぱくして説いてきたんだから」
かれがあまり苛立たしげな笑顔を見せたので、おれはつっかかった。
「きみがわからないな、ゼブ……理解に苦しむよ。十分前には正しい教義をおれに説いていたかと思うと、こんどは異教を弁護しようとしているみたいだ。矛盾しているぞ」
かれは肩をすくめた。
「そう、おれは悪魔の擁護者を演じることだってできるんだ。ウエスト・ポイント時代に、おれが討論チームを作ったことを覚えているだろう。将来きっと、偉大な神学者になるだろうと思うよ……それまでに宗教裁判所に引っぱり出されなければの話だがね」
「それは……とにかく、邪教を信じる者に石を投げるのは正しいことだと、きみは考えるんだろうな? そうは思わないか?」
かれは話題をとつぜん変えた。
「さっき、だれがいちばん先に石を投げたか気がついたか?」
おれは気づかなかったので、そう答えた。女や子供でなく、田舎者みたいな服装の男だったと思うが、それ以上のことは覚えていなかった。
ゼブの口もとがゆがんだ。
「スノッティ・ファセットさ」
おれは、ファセットを実によく覚えていた。かれは二年先輩で、おれの最下級生時代を忘れてしまいたいものにさせた男だった。おれは、ゆっくりと答えた。
「そういうことだったのか……ゼブ、おれはどうも情報関係の仕事って気にくわないな」
かれはうなずいた。
「おとりのスパイとしては、そうは思わんだろうがね……しかし、評議会は、ときどきこんな騒ぎを起こすことを必要としているらしい。カバル党の噂もいろいろと流れているしな」
おれはこの最後の言葉に飛びついた。
「ゼブ、きみは本当に、このカバル党には何かあると考えているのか? 預言者に対して組織的な謀叛を企てている者がいるなんて、ちょっと信じられないが」
「そう……西海岸で何かの騒動があったのは確からしいぜ。まあ、忘れることだ。おれたちの仕事は、ここを警備していればいいんだからな」
だがおれたちは、それを忘れることを許されなかった。二日後に、王宮警備隊は二倍に増強された。おれには本当に危険があるなどとは思えなかった。王宮は史上かつてないほど堅固に作られた要塞で、その深奥部は原子爆弾にも耐えられるのだ。そのうえ、王宮に入る人間は、たとえ王宮警備隊の者であろうと、預言者ご自身の住まいの外で警備にあたっている天使隊員のところに達するまでに、十回以上も誰何され、身元を確かめられるのだ。それでも、上層部の連中はいやにびくびくしはじめていた。これにはきっと何かあるのだ。
ゼバディアと組んで歩哨勤務につくことになったとわかって、おれは嬉しかった。警備につく時間が二倍になったことも、そのあいだかれと話ができることでほとんど埋め合わせがついた──少なくとも、おれには。ゼブにとっては、いい迷惑だったのだろう。というのは、長い夜の歩哨についているあいだじゅう、ニュー・エルサレムでの軍隊生活に対する不平不満やジュディスのことを際限なくしゃべり続けていると、しまいにゼブは怒ってしまったのだ。
かれは、一年生のおれをどやしつけるような調子でいった。
「おい、この軟弱男! おまえは、その女に恋しているのか?」
おれはごまかそうとした。というよりも、彼女に対する関心が彼女の幸せを願う以上のものなのかどうか、自分自身はっきりわからなかったからだ。かれはピシッといった。
「どっちなんだ、はっきりしろ。もし恋をしているのなら、もっと実際的なことを話そうじゃないか。恋していないのなら、そんな女の話はいっさいやめろ!」
おれは息を深く吸い、思いきっていった。
「恋をしているのだと思うよ、ゼブ。不可能なことだとは思うし、罪悪だともわかっているが、どうしようもないんだ」
「ちぇっ、たわけたことを。しかし、おまえに気のきいたことをいえといっても仕方がないな。オーケイ、おまえは彼女に恋をした。次は何だ?」
「え?」
「おまえはどうしたいんだ? 結婚するのか?」
おれはそのことを考えると、落胆のあまり、両手で顔を覆った。
「もちろん、そうしたい……だが、どうすればできるんだ?」
「そのとおり。おまえにはできない。ここからほかへ転属しないかぎり、結婚はできない。彼女はその任務上、まったく結婚できない。そして、彼女がその誓いを破る方法もない。すでに、神との結婚式をすませているのだからな。しかし、おまえが顔を赤らめずに、むきだしの事実に直面できるなら、やれることはいくらでもある。おまえたち二人はとても親しい仲になれるだろう……それにはまず、おまえが妙に清教徒的な考えかたから脱却しなければな」
一週間前のおれなら、かれがいわんとしていることを理解できなかったろう。しかし、いまは違った。そして、かれがそんな不名誉な、そして罪深い考えをいいだしたのに、心から怒ることもできなかった。かれは、うまいいいかたをした──そして、そういった不純な考えかたは、おれ自身の魂の中にもひそんでいるのだ。おれは、首をふった。
「そういうことはいってくれるな、ゼブ。ジュディスはそんな種類の女性じゃないんだ」
「オーケイ。じゃあ、そのことは忘れろ。彼女のこともな。もうしゃべるな」
おれはぐったりと溜息をついた。
「そうつっかからんでくれ、ゼブ。本当に、どうしていいのかわからないんだから」
おれはあたりを見まわし、ままよと、胸壁に腰を下ろした。おれたちは、聖なる方の住まいの近くではなく、東の城壁の警戒についていた。おれたちの隊長のピーター・ヴァン・アイクは太りすぎで、一回の当直に一度以上そんな遠いところまで来ることはなかったから、おれは一か八かと坐りこんだ。近頃あまり眠っていなかったために、すっかり疲れていたのだ。
「すまんな」
「怒らないでくれ、ゼブ。そういうことは、おれ向きじゃないし、間違いなくジュディス向きでもない……シスター・ジュディス向きではな」
おれたちに何がふさわしいかは、わかっていた。自分が育ったような、百六十エーカーほどの小さな農場だ。豚に鶏、それに幸せで泥だらけの顔の裸足の子供たち。おれが畑から帰ってくると、ジュディスは顔を輝かせ、おれが接吻できるように急いでエプロンで顔の汗をふく……日曜日の集会と教区税以外は、教会や預言者とは関係のない世界だ。
しかし、そんなことはできないだろう。決してできないことなんだ。おれは、それを心の中から追い払って、言葉を続けた。
「ゼブ……ただの好奇心から聞くんだが……きみは、この王宮内の出来事やさまざまな情報にくわしいな。どうして知っているんだい? おれたちは、まるで金魚鉢に住んでいるようなものだから、わかるはずはないと思うんだがね」
かれが馬鹿にしたような笑いを浮かべたので、引っぱたいてやりたくなったが、声にそんな調子はなかった。
「そうだな、たとえば、おまえ自身の事件だが……」
「問題外だよ!」
「たとえばといったろ、おれは。シスター・ジュディスは、いまのところ預言者の役には立たない。監禁されているからな。しかし……」
「え? 彼女は逮捕されたのか?」
おれは審問とゼブがいった異端審問官のことを狂おしく考えた。
「いやいや、そうじゃない! 彼女の部屋には鍵もかけられていないよ。そこに入っていろといわれただけだ。祈りとパンと水だけが相手だがね。かれらは、彼女の心を清め、霊的なお勤めによって教化しようとしている。物事を正しい光の中で見るようになれば、彼女はまた籤を引くことになる……そしてこんどは、気を失ったり、無知な思春期の少女みたいに暴れたりはしないだろう」
おれは、最初の反応をおさえて、冷静に考えようとした。
「いや……ジュディスは絶対にそんなことはしないだろう。たとえ、永久にその部屋の中から出られなくても」
「そうかな? おれは、そういうことには確信が持てないんでね。かれらは非常に説得がうまいんだ。交替で祈りを捧げられたりしたらどうだ? だが、話を終えられるように、彼女はその光を見るということにしてくれ」
「ゼブ、どうしてそんなことを知っているんだい?」
「おいおい! おれはここに三年もいるんだぞ。情報網がないとでも思っているのか? おまえは彼女のことを心配している……そしていってよければ、まったくどうしようもない困った存在になっている。それでおれは、女連中に聞くってわけだ……それで、さっきの続きだ。彼女がその光を見て、籤を引き、預言者への神聖な奉仕を果たしたとする。そのあとも彼女は、ほかの連中と同じように週に一度呼ばれ、月に一度ぐらいは籤があたるだろう。一年以内に……預言者が彼女の魂の中に、何かごくまれな美しさを見つけ出されないかぎり……かれらは、彼女を籤引リストに載せることをまったくやめてしまう。いや、そんなに長く待つ必要はないかもしれん。そうはっきりとはいえないだろうが」
「すべてが、なんて恥知らずなんだ!」
「そうかな? ソロモン王も、そんな制度を使わなければいけなかったんじゃないかと想像するよ。かれは、この聖なる方より大勢の女性をかかえていたというからな。そこでだ、もしおまえが、そんな処女≠ニ何かの相互理解に達することができれば、あとはよく知られている習慣に従えばいいだけだ。まず主席修道女へ贈り物をしなければいけない。それは、状況の変化に応じて更新する必要がある。そのほかにも、袖の下を贈るべき相手は何人かいるが……それは教えてやるよ。それから、この巨大な石造建築には、暗い裏口階段がたくさんある。これは暗黙に認められている習慣だから、おれが当直でおまえが非番の夜なら、いつだっておまえはベッドで暖かい体を抱けるんだぞ」
その思いやりのかけらもない話しぶりに、おれの心は爆発しそうになったが、すぐに矛先をかえた。
「ゼブ……きみが、本当のことをいってないということが、いまやっとわかったよ。おれをからかっているだけなんだ。そうだろう? おれたちの部屋には、どこかに目や耳がある。たとえそれを見つけようとし、取り除いてしまっても、三分後には秘密警察官がドアをたたいているだろう」
「だから、どうだっていうんだ? そりゃあ、この王宮内のどの部屋にも目や耳はあるさ。そんなものは無視すればいいんだ」
おれはぽかんと口をあけたままだった。
かれは言葉を続けた。
「無視するんだ……なあ、ジョン、ほんのちょっとした男女の私通など、教会にとっては脅威でもなんでもない……反逆や異端の教えとは違ってね。だから、それはおまえの身上書類に記入されるだけで、黙認されるわけさ……ただし、あとで何か本当に重大な事件でおまえを逮捕したとき、直接その罪で告発するのがまずい場合に、それを利用しておまえを処刑する手もあるわけだ。だから、かれらはむしろ、そんな軽犯罪がたくさん調査書に記入してあることを喜ぶんだ。そのほうが安全度を増すからな。おそらくかれらは、現在のおまえを警戒しているだろうよ。おまえは立派すぎる。そんな男は危険なんだ。おまえが高度の教育課程に、けっして進ませられなかったのは、たぶんそのせいだろう」
おれは、その言葉に意味された複雑な目的、歯車の中の歯車という考えかたを、心の中ではっきりさせてみようとしたが、断念した。
「どうもわからないな。ゼブ、きみがいったことはみんな、おれとは何の関係もない……ジュディスにもだ。だが、しなければいけないことはわかっている。なんとかして、彼女をここから連れ出さなければいけないんだ」
「ふーん……一途な男だな、おまえは」
「しようがないさ」
「よし……おれは、おまえを助けたい。彼女に伝言を渡してやるぐらいはできるかもしれないな」
と、かれは心もとなげにいった。
おれは、かれの腕をつかんだ。
「やってくれるか、ゼブ?」
かれは溜息をついた。
「すこし待ってくれるといいんだが。いや、それは助けにはならないな。おまえの心にあるロマンチックな気持ちを考えるとね。だが、いまは危険だ。ずいぶん危険なんだぞ、預言者の命令で彼女が懲罰を受けているところだからな。おまえは、軍法会議場のテーブルにおかれた自分の槍を眺めるといった、ぶざまなことにはなりたくないだろうが」
「その危険だって冒してみるよ。たとえ、異端審問だってさ」
かれは、おれ以上の危険を冒さなければいけなくなるわけだが、それは口にせず、こういっただけだった。
「ようし、伝言の内容は?」
おれはちょっと考えた。なるべく短いほうがいいだろう。
「彼女が籤を引いた晩に会ってその話をした警備隊員が、彼女のことを心配しているといってくれ」
「ほかに何か?」
「そうだ! おれは彼女の忠実な僕《しもべ》だといってくれ」
いまから考えるとそれは気障ないいかただ。間違いなくそのとおりだったが──だが、おれの感じたとおりだったのだ。
あくる日の昼食のとき、自分のナプキンに一枚の紙がはさまれているのを発見した。おれは急いで食事をすませ、部屋にもどってそれを読んだ。こう書かれていた。
「あなたの助けを必要としています、心からありがたく思っています。今夜お会いできるでしょうか?」
署名はなく、王宮の内外のどこででも、一般に使用されている伝言用紙にタイプされていた。
ゼブがもどってくると、おれはそれを見せた。かれはちらりと見ただけで、のんびりした口調でこういった。
「ちょっと散歩に出ようか。飯を食いすぎたせいか、眠たくてしようがない」
見晴らしのいいテラスに出て、見られたり聞かれたりする危険から解放されると、かれはあきれはててものもいえないといった口調で、おれを罵倒した。
「おまえは、まったく陰謀家になれない男だな。食堂にいた連中の半数は、おまえがナプキンの中から何かを見つけたことを感づいたにちがいないんだぞ。いったいなぜ、あんなに急いで飯をかっこんで飛び出していったりしたんだ? それに、あろうことか、あれを部屋でおれに渡すとは? おまえにもわかっているだろうが、部屋の目があれを読んで、証拠写真を撮ってしまったはずだ。どういうつもりなんだ、この警戒が厳重になってきたときに?」
おれは弁解しようとしたが、かれはそれをさえぎった。
「忘れろ! おまえが、おれたち二人を絞首刑にさせるつもりでなかったことはわかっているんだ……だが、裁判で検察判士が罪状を読み上げるときは、善意も悪意も問題じゃあないんだぞ。いいか、よく覚えておけよ。陰謀を企てるときの第一の鉄則は、どれほど危険がないように見えても、異常な行動をするのを絶対に見られてはいけないってことだ。いつものパターンからほんのすこし外れたことでも、訓練された分析家の手にかかると意味のあることになるのは、信じられないぐらいなんだぞ。おまえは、いつもの時間だけ食堂に留まって、そのあといつものとおり廊下をぶらついて仲間と雑談し、それから安全に読めるようになるまで待つべきだったんだ。あれはいまどこにある?」
おれは惨めな気持ちで答えた。
「胴着のポケットの中だ……心配ないよ、噛んで、飲みこんでしまうから」
「そう急ぐな。ここで待っていろ」
ゼブは去り、数分でもどってきた。
「あれと同じサイズと形の用紙を持ってきたんだ。これをそっとおまえに渡す。すりかえて、それから本物のほうを食べるんだ……ただし、すりかえるところとか、本物を食べるところを見られるんじゃないぞ」
「わかった。それで、もうひとつの紙は何だい?」
「さいころ賭博で勝つ秘訣が二つ三つ書いてあるんだ」
「え? だが、それも御法度じゃないか」
「もちろんさ、この石頭野郎。つまりだ、おまえが賭け事をしているという証拠をかれらに握らせれば、かれらは安心してしまい、それ以上の犯罪容疑をかけなくなるってわけだ。最悪の場合でも、隊長に説教をくらって、四、五日分の給料を罰金として取り上げられるぐらいのもんだろう。いいか、ジョン、もしおまえが何かの容疑をかけられたら、それよりも軽い犯罪の証拠をわざと見せてやるんだ。けっして、自分の潔白を証明しようとするんじゃないぞ。人間性というものがいまのままなら、おまえのチャンスはまだまだあるさ」
ゼブのいったとおりだった。おれが正装に着替えて閲兵に出ていったあとで、制服のポケットが調べられ、証拠写真が撮られたにちがいない。そのあと三十分ほどすると、おれは副官室に呼ばれた。副官はおれに、若い士官のあいだで賭博がおこなわれているらしいので、それとなく監視していてくれと頼んだ。賭博は違法行為でもあるし、若い士官がそんな悪習に染まるのは好ましくないからだといった。そして、別れぎわにおれの肩をたたいた。
「ジョン・ライル、きみは優秀だ。しっかりやるんだぞ」
ゼブとおれはその夜、王宮南門の夜半直警備についた。当直が半分終わってもジュディスの姿は見えず、おれはよその家にもらわれた猫のように落ち着けず、ゼブは厳重に任務を遂行させることでおれを落ち着かせようとした。
長い時間がたったあと、ついに内側の回廊のほうからかすかな足音が聞こえ、通路に人影が現われた。ゼバディアはおれに歩哨を続けていろと合図して、調べに行った。かれはすぐにもどってきて、唇に手をあてながらおれを招いた。おれは震えながら通路に入った。だが、暗がりの中で待っていたのはジュディスではなく、おれの知らない若い女性だった。話しかけようとすると、ゼブはおれの口を手でふさいだ。
その女はおれの腕をとって、回廊の奥へ連れていった。後ろをふりかえると、おれたちの背後を守るようにして玄関口に立っているゼブの姿がシルエットで見えた。やがて、おれの案内者は急に立ちどまり、まっ暗な壁の窪みにおれをおしこめ、衣のひだの中から何か小さな物体を取り出した。小さなダイアルがその側面でかすかに光っていたから、おそらくポケット型電波探知器だろう。彼女はそれを四方八方にむけてから、スイッチを切って衣の中にもどした。
「さあ、あなたがた、話していいわ……もう大丈夫」
彼女が低くそういうと、去っていった。
おれは、袖にそっと触れられたのを感じて、ささやきかけた。
「ジュディス?」
「はい……」
彼女は答えたが、あまり声が低いので、ほとんど聞き取れないほどだった。
すぐにおれは彼女を抱きしめた。彼女は小さく驚きの声をあげ、ついでその両腕をおれの首にまわし、おれは彼女の吐息が顔にかかるのを感じた。おれたちは、ぎこちないが、まるで狂ったような激しさで接吻した。
それからおれたちがどんな話をしたか、説明する必要はないだろう。たとえそうしようとしても、筋道立った説明はできそうもない。おれたちの振舞いはロマンチックなたわごとか、無知と不自然な生活環境のために成熟が遅れた二匹の子犬がじゃれあっているようだ、といわれるかもしれない──子犬は成犬よりも傷つくことは少ないものだろうか? 好きなようにいって笑うがいい。だが、そのときのおれたちは、ルビーや黄金よりずっと貴重で、正気よりももっと望ましい、あの恍惚の狂気に浸っていたのだ。おれが話していることを一度も経験したことがなく、何のことかわからないなら、そいつは残念だなというほかない。
やがておれたちは、すこし興奮からさめて、やや理性的に話し合った。彼女は籤があたった夜のことを話そうとし、泣きだしてしまった。おれは彼女をゆすぶってなだめた。
「やめるんだ、マイ・ダーリン。それを話してくれることはない。ぼくは知っているんだから」
彼女はあえぎ、そしていった。
「ご存知のはずはないわ。そんなことわからないことですもの。わたし……かれは……」
おれはもう一度彼女をゆすぶった。
「やめろ。すぐやめるんだ。もう泣かないで。ぼくは、はっきり知っているんだ。そしてきみがまだどんな目にあうのかも知っている……きみをここから出さないかぎりはね。だから、泣いたり、悲しんでいたりする暇はないんだ。ぼくらは、計画を立てなければいけないんだ」
彼女は長いあいだ押し黙っていたが、やがてゆっくりといった。
「あなたは、わたしに……脱走しろとおっしゃいますの? わたしもそのことは考えました。恵み深き神よ、どれほどそのことを考えたことでしょう! でもどうすればできますの?」
「それはわからない……まだね。だが、ぼくらはその方法を考え出すんだよ。なんとしてでも」
おれたちは多くの可能性について語り合った。カナダの国境まで三百マイルと離れていなかったし、彼女はニューヨーク州北部の田舎のことをよく知っていた。というより、そこは彼女の知っている唯一の土地だった。
しかし、カナダ国境は他のどこよりも厳重に遮断されており、水路には無数の警備艇が配諏され、レーダー網が張りめぐらされているし、陸地は鉄条網や歩哨……そして軍用犬で警戒されている。おれは、そんな犬を訓練したことがある。最悪の敵だろうと、軍用犬をけしかけたくはない。
メキシコは遠すぎるというだけで不可能だった。もし彼女が南へ逃げたら、たぶん二十四時間以内に逮捕されてしまうはずだ。ベールを捨てた処女≠、それと知りながらかくまってくれる者はいないだろう。情け容赦ない法律のもとで、どんな善良なサマリア人だろうと、共犯ということになって、預言者に対する個人的反逆罪で有罪となり、死刑になってしまうのだ。
少なくとも北へ行くほうが距離は短いが、それでも夜は進み、昼間は隠れ、食べ物は盗むか空腹のままで行くしかない。オルバニーの近くにジュディスの伯母が住んでいる。その伯母ならきっと危険を冒してジュディスをかくまい、なんとかして国境を越えさせてくれるだろうと、彼女は確信していた。
「伯母はわたしたちを安全にかくまってくれますわ。きっと……」
「わたしたち?」
おれは、きっと馬鹿みたいな口のききかたをしたのだろう。彼女がそういうまで、おれは彼女を脱走させる問題だけに没頭していて、おれが一緒に逃げることや、彼女がそのつもりでいることを、まったく考えていなかったのだ。
「わたしを、ひとりだけで逃がすおつもりでしたの?」
「それは……そのほかのことは、何も考えていなかったんだ」
「いやです!」
「でも……ねえ、ジュディス。緊急の問題、すぐにやらなければいけないのは、きみをここから出すことなんだ。二人で旅をし、隠れようとするのは、一人の場合よりずっと見つけられやすいからね。そんな馬鹿なことをするのは……」
「いや! わたし、行きません」
おれは、そのことを急いで考えてみた。おれがまだ気づいていなかったのは、AはBを意味していること、つまり、彼女に任務を捨てて逃亡しろとすすめているおれ自身、もう心では彼女と同じ逃亡者だということだった。おれはいった。
「とにかくきみを先に逃がす、それが大切な問題だ。きみの伯母さんの住んでいるところを教えてくれ……そこで、ぼくを待つんだ」
「あなたと一緒でなければいやです」
「でも、そうしなければいけないんだ。早くしないと、預言者が……」
「あなたをいま失うぐらいなら、まだそのほうがましです!」
そのときのおれは、女というものがわからなかった──いまも、まだわからないが。二分前、彼女は聖なる方に体を捧げるより、死を賭けるほうを選んでいた。こんどは、おれからほんのいっとき離れることを我慢するより、身をまかせたほうがいいと、あっさりいいだしたのだ。おれには女が理解できない。女には論理というものが、まったくないのではないかと思うことがある。
おれはいった。
「いいかい、きみ、ぼくらはまだ、きみをどうやって王宮から出せるか、その方法も考え出せないんだよ。だから、二人が同時に脱走するなどというのはまったく不可能に近い。それはわかるだろう?」
彼女はかたくなに答えた。
「たぶんね。でも、わたしは気にいりませんわ。けれど、わたし、どうやって出られますの? それも、いつ?」
それはわからないと、またも認めるほかなかった。できるだけ早くゼブに相談するつもりではいたが、ほかのことは何も思いつかなかった。
だが、ジュディスのほうが提案した。
「ジョン、あなたをここに案内してくれた修道女をご存知かしら? ご存知ありません? シスター・マグダーリンよ。彼女には安心して相談できるし、喜んでわたしたちを助けてくれると思いますわ。すごく頭のいい人なんです」
おれはそうかなと、疑念を述べはじめたが、そのとき他ならぬシスター・マグダーリン自身にさえぎられた。彼女はそばに近づいてくるなり、鋭くいった。
「急いで! 胸壁にもどって!」
おれは走りだし、衛兵隊長に見つかるのをかろうじてまぬがれた。かれは、ゼブとおれとのあいだで誰何をかわし──それからこの馬鹿は、おしゃべりをしたがった。玄関の石段に腰を下ろして、自慢話を始めたのだ。先週のフェンシングでのつまらない勝ち試合についてだった。おれは当惑しながらも、夜間警備に退屈していたような態度で相槌をうった。
やがて、かれは立ち上がった。
「四十を過ぎて、ちょっと肉がついてきてしまったようだ。だが、手首と目は、きみたち若い者にまだまだ負けないことがわかって、正直なところ嬉しいよ」
かれはサーベルの鞘を立てて、つけ加えた。
「さてと、王宮をひとまわりしてくるとするか。最近はいくら注意してもしすぎるということはないからな。カバル党がまた活動を始めているそうだから」
かれは懐中電灯を取り出して、回廊のほうを照らした。
おれは凍りついた。もしかれが回廊を調べたら、壁の窪みの中にうずくまっている二人の女性を見落とす可能性はほとんどない。
しかし、ゼブはのんびりと静かに話しかけた。
「ちょっとお待ちを、エルダー・ブラザー。あなたが最後の試合で勝負を決められたという突き返しの手並みを、拝見させていただけませんか。説明だけでは、どうもぴんと来ませんので」
かれは餌に食いついた。
「おう、いいとも、坊や!」かれは石段を離れて、広い空間に出た。「きみも刀を抜け。かまえて! 第六の姿勢で刀を合わせる。わしの刀を払って、突いて出る。そうだ! その姿勢で。わしがゆっくり実演してみせる。きみの切っ先がわしの胸にせまる……」(胸ねえ! ヴァン・アイク大尉はカンガルーの腹みたいにふくらんでいたんだ!)「……わしは、刀の柄でこう受けて、二度目の突き返しできみの刀の上へおしつける。ここまでは、教科書どおりだ。だが、わしは、その突きを最後まではやらない。力を入れると、きみはかわすか、カウンターを狙ってくる。それで、わしは切っ先をこう下ろして、横からきみの刀身をたたく……」かれはそのとおりにやり、鋼鉄が鳴った。「……こうなれば、どこでも攻撃できる、顎から足首までな。さあ、わしを相手に試してみろ!」
ゼブはそのとおりにやり、二人は一連の型を続けていった。ゼブは完全に覚えたいから、もう一度やってもらいたいと頼んだ。こうして、かれらは何度もそれをくりかえした。その動きは次第に速くなり、大尉が一歩下がるたびに、ゼブの真剣の切っ先が大尉の胸をかすめた。
マスクも胸当てもなく、しかも真剣でフェンシングをすることは堅く禁じられていたが、大尉は実に優れた剣士であり……刀さばきは正確をきわめ、自分の技量を確信しており、あやまってゼブの目を突いたり、あるいはゼブの刀で傷を受けたりすることを気づかっている様子はまったくなかった。
内心いらいらしながらも、おれは魅せられたかのように見つめていた。それは、かつては実用的だった武術の見事な実演だったのだ。ゼブはますます激しく攻めたてた。
やがて玄関から五十ヤードほど離れたあたり、そのぶん衛兵詰所へ近づいたところで、かれらは練習をやめた。大尉の荒い息づかいが聞こえた。
「よかったぞ、ジョーンズ、なかなかの腕だ」かれはまた息をついて、いった。「真剣ではそんなに長くつづくことにはならないんで助かるよ。回廊は、きみに調べてもらうことにしよう」かれは衛兵詰所のほうへと向きを変えながら、陽気につけ加えた。「神の恵みを」
「神の恵みがあなたにありますように、サー」
ゼブはきちんと答え、刀の柄を顎のところまで上げて、捧げ刀の礼をおこなった。
大尉が角をまがると、ゼブは部署にもどり、おれは急いで壁の窪みに走った。二人の女性はまだそこにおり、奥の壁に小さくうずくまっていた。おれは安心させた。
「かれは行った……しばらくは心配ないよ」
ジュディスはシスター・マグダーリンに、ジレンマを説明し、おれたちはささやき声で相談した。彼女は、いますぐ結論を出そうなどとしないようにと強く忠告した。
「あたしは、ジュディスの教化係についているの。だから、たぶん彼女が籤を引くのを、もう一週間は引きのばせると思うわ」
「ぼくらは、その前に行動しなくちゃ!」
ジュディスは悩みごとをシスター・マグダーリンに引き受けてもらったので、いくぶん恐怖心から逃れられたようだった。彼女は低い声でいった。
「心配しないで、ジョン……いずれにしても、籤にはすぐ当たるわけじゃないんですもの。彼女の忠告どおりにしなければいけないわ」
シスター・マグダーリンは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「あなた間違っているわ、ジュディー、勤務にもどったらすぐ籤に当たることになるのよ。そして、心配なんかしなくなるわ。あなたがそれに耐えられたらだけど……あたしたちは、なんとか大丈夫だったわ。その心配がなければ……」彼女は急に話をやめて、耳を澄ました。「しーっ! 黙って」
彼女は、そっとおれたちのそばから離れた。
細い光線がさっとのび、窪みの外側に伏せていた人影を照らし出した。おれは、そいつが立ち上がるすきを与えずに飛びついた。おれも速かったが、シスター・マグダーリンも速かった。彼女は、倒れてゆくそいつの肩に飛び乗った。そいつはもがき、そして静かになった。
ゼバディアが駆けつけてきて、おれたちのそばで立ちどまり、緊張した声でささやいた。
「ジョン! マギー! どうしたんだ?」
おれは急いで答えた。
「スパイをつかまえたんだ、ゼブ……こいつをどうしよう?」
ゼブは懐中電灯を照らした。
「なぐり倒したのか?」
マグダーリンの落ち着いた声が暗闇の中から聞こえた。
「かれ、起きあがってはこないわ。脇腹に振動短剣《バイブロブレード》をおしつけたから」
「えっ!」
「ゼブ、そうするほかなかったのよ。短刀を使って床を血だらけにしなくてよかったわ。でも、これをどうしましょう?」
ゼブは低い声で悪態をつき、彼女はいいかえした。
「こいつをひっくりかえしてくれ、ジョン。見てみよう」おれがそうすると、かれの懐中電灯がまた光った。「おい、ジョニー……こいつはスノッティ・ファセットだぞ」かれは黙りこみ、おれは、かれの考えが手にとるようにわかった。「とにかく、こんな男に涙を流すことはないさ。ジョン!」
「ああ。それで?」
「外を見張っていてくれ。もしだれかが来たら、おれは回廊を調べていることにしろ。この死体をどこかに捨てなきゃいけないからな」
ジュディスが沈黙を破った。
「二階に焼却用のシュートがあるわ。わたしも手伝います」
「勇敢だな。さあ行け、ジョン」
おれは、女のやるべき仕事じゃないと反対したかったが、黙ってふりむいた。ゼブは死体の両肩を持ち、彼女は足を一本ずつ持って、ちゃんとやった。ふたりは数分でもどってきたが、おれには無限の時間のように思えた。間違いなくスノッティの死体は、ふたりがもどってくる前に原子に分解されてしまったにちがいない──おれたちは、うまく始末をつけたのかもしれない。本当に人を殺したんだろうか、そんな気がぜんぜんしない。やるべきことをした、忙しい仕事のひとつが片づいた、といったような感じだった。
ゼブはことを進めようとした。
「ひどいことになったな。おれたちの交替はあと十分でやってくる。それまでに考えをまとめなきゃあいかん。さてと?」
おれたちの提案は、馬鹿ばかしいほど非現実的なものばかりだったが、ゼブはそれを黙って聞いていた──それから、率直な意見をのべた。
「聞いてくれ、もう、ジュディスやきみを助けて、ここから抜け出させる問題だけを議論している場合じゃない。スノッティが行方不明とわかったとたんに、われわれ……われわれ四人みんなが……審問を受けることになるという恐ろしい危険に瀕しているんだ。そうだろ?」
「そのとおりだ」
と、おれはしぶしぶ同意した。
「しかし、だれにも計画がないんだな?」
おれたちのだれも答えなかった。ゼブは言葉を続けた。
「では、われわれには救援が必要だ……そして、それが得られるところが、一カ所だけある。カバル党だ」
「カバル党?」
おれは馬鹿みたいにその言葉をくりかえした。ジュディスはふるえ上がり、あえぎ声を洩らした。
「そんな……それは、わたしたちの不死の魂を汚すものですわ! かれらは悪魔を信仰しているのよ!」
ゼブは彼女のほうに向いた。
「おれは、そうは思わないね」
彼女はかれを凝視した。
「あなたはカバル党員なの?」
「いや」
「では、どうして知っているの?」
おれもいった。
「それに、どうやってかれらに救援を求めることができるというんだ?」
マグダーリンが答えた。
「あたしが党員よ……ゼバディアも知っているわ」
ジュディスは驚いて、マグダーリンから体をすくめるようにして離れたが、マグダーリンはこういった。
「あたしのいうことを聞いて、ジュディス。あなたの気持ちはよくわかるわ……かつては、あたしも、教会に反抗する人々がいることを考えただけでぞっとしたわ。それから、知ったのよ……あなたが知りかけているようにね……あたしが信じるように育ってきたこのごまかしの裏に、何が本当にあるのかを」彼女は若い娘に腕をまわした。「あたしたち、悪魔の信者でないし、神に反抗しているんでもないの。ただ、神の声になりすましているこの独善的な預言者に反抗しているだけなのよ。あなたもあたしたちのところへ来て、かれと戦うのに力を貸して……あたしたちもあなたを助けるわ。さもないと、その危険は冒せられないの」
ジュディスは、玄関からの薄明かりで彼女の顔をすかして見た。
「あなた、それは本当だって誓われます? カバル党は、預言者に反抗して戦うだけで、神そのものに反抗するわけではないと?」
「あたし、誓うわ、ジュディス」
ジュディスは、深く震えるように息を吸い、そしてささやいた。
「神よ、お導きを……わたし、カバル党に入ります」
マグダーリンは急いで彼女にキスしてから、男たちのほうに向きなおった。
「それで?」
おれはすぐに答えた。
「ジュディスが入るなら、ぼくも入る」そして、自分の心にささやいた。「神よ、わが誓いを許したまえ……こうするほかないのです!」
マグダーリンはゼブを見つめていた。かれは落ち着かなげに体をゆすり、腹立たしげにいった。
「だからいったろう? おれたちはみなまったくの馬鹿で、異端審問官に骨までばらばらにされてしまうんだ」
あくる日まで話し合う機会はなかった。おれが、異端審問とそれ以上にひどい悪夢から覚めると、浴室からゼブが髭を剃っている陽気な電気剃刀の音が聞こえていた。
かれは入ってくると、馬鹿げたことを陽気にしゃべりながら毛布をはいだ。おれは気分のいいときでさえ、ベッド・クロスをはぎ取られると腹が立つ。それに、朝食の前に陽気になるのも気にくわん。おれは毛布をかぶりなおしてかれを無視しようとしたが、かれはおれの手首をつかんだ。
「起きろよ、いいかげんに! 太陽の光がもったいないような、いい天気だぞ。王宮のまわりを二回ほど走って、それから冷たいシャワーを浴びるのはどうだ?」
おれはもし部屋の耳に聞こえたら、品行の点数を下げられそうな言葉でかれを罵りながら、手をふりほどこうとした。だが、かれは手を放さず、人差し指で微妙におれの手首をくすぐり続けた。ゼブは緊張のあまり気が狂いかけているのかと、思うところだ。ついで、かれが電信符号を打っているのだとわかった。
そのトン・ツーはこうだった。
「フツウノ・カオヲ・シロ……オドロイタ・カオヲ・スルナ……キョウノ・ゴゴ・ジユウジカンニ……オレタチ・ヨバレテ……シケンサレル……」
おれは驚きを見せないように努めた。そして、しゃべりまくるゼブに適当に応じ、それから起き上がって、今日一日のために体をしゃっきりさせるという憂鬱な仕事に取りかかった。しばらくしてから、おれは口実を見つけてかれの肩にふれ、指先で答えた。
「ワカッタ」
その日は不安で、単調で、惨めなものだった。閲兵のときに失敗までしたが、新兵兵舎に入って以来初めてだった。その日の勤務がやっと終わって部屋へもどると、ゼブはエア・コンディショナーの上に足をなげだして、ニューヨーク・タイムズのクロスワード・パズルを考えていた。かれは顔を上げて尋ねた。
「ジョニーちゃんよう……心が清らかなという意味で、六文字というと何がある?」
「きみが絶対知る必要のないことさ」
と、おれはつぶやき、腰を下ろして装具をはずし始めた。
「なんだと、ジョン、おれが天国に行くようになることを知らないのか?」
「そうだな……一万年ほど罪の償いをしたあとでならな」
そのとき、元気よくノックする音がしてドアを開き、古参隊員で名誉大尉のティモシー・クライスが顔を見せた。かれは咳ばらいすると、鼻にかかったケープ・コッド誂りでいった。
「おい、そこの二人、散歩に行かんか?」
まずいときに来られたもんだと、おれは思った。ティムは部隊でもっとも融通のきかない堅物で、几帳面で信心深い男なのだ。おれが言い訳を考えていると、ゼブが答えた。
「われわれもちょうど行くところでした。すこし買物をしたかったんです」
おれはゼブの返答に当惑しながらも、書類仕事があるからといって残ろうとすると、ゼブはさっとおれをさえぎった。
「書類がなんだ。今夜おれが手伝ってやるさ。行こう」
それで出かけることにしたが、かれはうまくやれるんだろうかと、不思議に思った。
おれたちは、地下トンネルを通って出ていった。おれは黙って歩きながら、もしかしたらゼブは町でティムをまいて、急いで帰るつもりなのかなと思った。やがて、道路の曲がり角に来たとき、ゼブと話し合いながら歩いていたティムは、話していたことを強調するようなそぶりで手を上げた。その手が顔の前をかすめたとき、おれは目にスプレーを軽く吹きかけられたのを感じた──そして、目が見えなくなった。
おれが声を上げるより先に、いや、そうしようという衝動をおさえつける前に、かれはおれの上膊部をつかみ、その間、一瞬の中断もなく会話を続けた。おれの記憶によると、その曲がり角は右へ曲がるようになっていたが、かれはおれの腕を引いて左へ曲がった。しかし、どういうわけか、おれたちは壁に衝突せず、それからまもなく目が見えるようになった。おれたちはティムをまん中にして腕を組み、さっきと同じトンネルの中を歩いているような気がした。かれは何もいわず、おれたちのどちらも何もいわなかった。
やがて、とあるドアの前にくると、かれはおれたちをとめた。クライスは、ドアを一度ノックし、耳を澄ました。
おれには中からの応答がわからなかったが、かれはそれに答えた。
「巡礼者を二人、予定どおり連れてきた」
ドアが開いた。かれはおれたちを中へ入れて、静かにドアをしめた。目の前には、マスクをし武装した衛兵が、熱線拳銃をおれたちに向けていた。ティムはその背後に行って、奥のドアをノックした。すぐに、最初のと同じように武装しマスクをした男がおれたちの前にやってきた。そいつは、ゼブとおれに別々に尋ねた。
「きみは、名誉にかけて心から誓うか? 友人にまどわされず、傭兵的な動機によらず、みずからの自由な意志によって、きみ自身をこの結社に捧げることを?」
おれたちは、それぞれ答えた。
「誓います」
「目隠しをし、用意しろ」
おれたちは、口と鼻以外すべてを覆う革のヘルメットを頭からすっぽりかぶせられ、顎の下で紐が結ばれた。それから、服と下着も全部脱げと命令された。おれは下着を脱ぎながら、鳥肌が立つのをおぼえた。急速に熱意がさめていった──男がパンツを脱がされるときほど無力感をおぼえることはない。それから、おれは注射針が腕に突きたてられる痛みを感じた。すぐに、目は覚めているが夢うつつの気分になり、いらいらはどこかに吹っとんでしまった。
続いて何か冷たいものが、背中の左の肋骨におしつけられた。まず間違いなく振動短剣らしい。スノッティ・ファセットと同じようにおれを殺すには、握りのボタンにふれるだけでいいんだ──だが、おれはまったく恐怖を覚えなかった。
それから、いろいろと質問がおこなわれた。おれは機械的に答えた。そうしたくても、嘘もつけず、ごまかすこともできなかったろう。そのところどころを覚えている。
「……きみ自身の自由意志からか?」「……大昔に決められた慣習に従って……」「……評判のいい、自由の身に生まれた男で、まことに好ましい者です」
それから長いあいだ、おれは冷たい床の上で震えながら立ち、まわりでは活発な議論かかわされた。おれが志願した動機が問題になっていたのだ。おれはそのすべてを聞くことができた。命はそこにかかっており、たった一言で冷たいエネルギーの刃が心臓に突き刺さるのだとわかっていた。しかも、議論はおれには不利なほうへ傾きつつあった。
ついでソプラノの声が討論に加わった。シスター・マグダーリンだ。彼女が熱心におれを弁護し、保証していることがわかったが、おれはまだ薬がきいていたのでどうでもよかった。ただ、懐かしい音のように彼女の声を聞いているだけだった。
やがて、振動短剣が肋骨から離され、また注射のチクッとした痛みを感じた。それはおれを、ぼんやりとした状態から急速に覚醒させた。祈りを捧げている力強いバスの声が聞こえた。
「力を与えたまえ、宇宙の万能なる神よ……聖なる神の御名において、愛と安らぎと真理をもたらしたまわらんことを。アーメン」
「さあれかし」
と、何人かが声を合わせた。
それから、おれはまだ目隠しをされたまま部屋の中を連れまわされ、また質問が続けられた。それらは象徴的な意味合いのもので、おれを案内している者が代わって答えた。それからおれはとまらせられ、この資格を得るために、厳粛な誓約をおこなうつもりがあるかどうかと尋ねられた。神・自分自身・家族・国家・隣人に対するおれの義務と、実質的になんら矛盾するものではないという説明を受けたあとで。
「はい」
とおれは答えた。
それからおれは、左の膝を折ってひざまずかされ、左に聖書を捧げ、右手に何か器具をのせられた。
その誓約は、偽りの口実のもとに結ぼうとするような愚か者がいたら、だれだろうとそいつの血を凍らさずにはおかないほど厳しいものだった。ついで、現在の状態で何がもっとも欲しいかと尋ねられた。おれは、答えろと教えられていたとおりに答えた。
「光を!」
すると、目隠しが外された。
おれが新入りの党員として受けた他の指示を、ここに記すのはつまらないし、必要もないだろう。それは長く荘厳で美しく、一般に噂されているような悪魔信仰の痕跡などほんのすこしも見られなかった。それとはまったく反対に、神への崇敬や同胞愛や正義感に満ちており、大昔からの名誉ある職業やそれの作業道具の象徴的意味合いについての訓話もふくまれていた。
ただし、腰が抜けそうになるほど驚いたことをひとつ、ここに上げておかなければいけない。目隠しが外されたとき、最初に見た人物、おれのまん前に、その職についている記章をつけ、まるで非人間的な威厳をそなえて立っていたのは、ピーター・ヴァン・アイク大尉、おれの上官、あのどこにでも姿を現わす太った衛兵隊長であり──それが、ここの支部隊長《ロッジ・マスター》だったのだ。
儀式は長く、残された時間は短かった。それがすむと、すぐに作戦計画になった。この結社の上級党員は、ジュディスを救出する方針だが、彼女の加盟はここしばらく承認されないと、すでに決定していた。彼女はメキシコへ連れていかれる予定だったし、そうなれば、必要のない秘密は知らないほうがいいのだ。しかし、ゼブとおれは王宮警備隊員であり、実際に役立つと考えられたので加わることを認められたのだ。
ジュディスはすでに催眠術による指示を与えられており、もし審問を受けることがあっても、彼女がすでに知っているわずかなことでも自白できないようにと期待されていた。おれは、待て、心配するなといわれた。ジュディスがこんど籤を引かされる前に、上級党員たちが彼女を危険から救い出すことになっている、と。おれは、それで満足しなければいけなかった。
それから三日間、ゼブとおれは午後の休憩時間に、そのたびにルートを変え、予防策を変えて、状況を報告に行った。王宮を設計した建築技師が、おれたちのひとりだということは明らかだった。その巨大な建築物には、公式の設計図にはない落とし穴や通路や扉がたくさん隠されていた。
三日目の終わりに、おれたちは古参党員と同じ資格を与えられた。そんなに速く資格を与えられるのは、危急の際だけだ。しかし、そのための努力は、頭がすりきれそうになるものだった。おれは、学校でもやったことがないほど勉強しなければいけなかった。一字一字完全に暗記することが要求されたし、暗記するべきことは驚くほどあった──それがたぶんよかったのだろう。そのおかげで、心配している暇もないくらいだったのだ。
スノッティ・ファセットの失踪が巻き起こすような噂のたぐいは、まったく耳にしなかった。公式な調査がおこなわれていないのは、ずいぶん不気味なことだった。
秘密警察官が姿を消し、その死亡が確認されないままに終わることはありえない。スノッティが移動調査任務についていて、毎日上官に報告することは要求されていなかったという可能性もないではないが、むしろ、おれたちのだれかが何かの疑いをかけられていて、かれがその尾行を命じられていたため、あの場所でおれたちに発見されて殺されたのだ、と考えるほうが妥当だといえる。
もしそうなら、かれらが沈黙しているのは、おれたちをしばらく泳がせて、その行動を心理技術者が分析していることを意味すると断定して間違いないだろう──そうなると、ここ数日間おれとゼブが休憩時間にふだんの場所にいなかったことは、当然重要なデータとしてかれらの調査表に書きこまれているだろう。もし連隊全部が同じように疑い始めているとすれば、おれたちの個人別カードは日を追っていっそう詳細にならざるを得ない。
しかし、おれはそのようなことをあまり気にとめず、深く考えようともしなかった。そして、その問題が党の集会所で論議され、事態が憂慮されていたにもかかわらず、日がたっても表だった騒ぎが起こらないので安心していたのだ。
おれは道徳の守護者≠フ名前さえ知らず、かれの秘密警察本部がどこにあるかも知らなかった──おれたちは、知らないことになっていたのだ。かれが存在しており、宗教裁判所長官とたぶん預言者自身の指令を受けていることを知っていたが、それだけだった。
カバル党が神殿や王宮内に、まるで信じられないほど深く浸透していたにもかかわらず、党支部の同志たちも、おれ以上のことは何も知らないのだった──道徳の守護者のスタッフの中に、ただひとりの党員も潜入していなかったからだ。
その理由は簡単だった。カバル党は、党員となるべき者の性格、人物、心理学的素質を非常に慎重に評価していたが、一方、軍隊のほうもまた、将来情報士官となるべき人材の選考基準をきびしくしていた──そして、この二つのタイプは、雁と山羊ほども違っていたのだ。
つまり、守護者は、カバル党の理想に魅力を覚えるようなタイプの人間は絶対に受け入れなかったし、おれの同志たちは絶対に──そう、ファセットのような男を合格させたりしなかったはずだ。
心理学的人物測定法が数理的科学になる以前は、重要人物の変心によってスパイ組織が壊滅することがあった──しかし、道徳の守護者にそんな心配はない。かれの部下である秘密警察官は、絶対に変心しない連中ばかりなのだ。一方、おれの同志たちも、粛清され、やってくる異端審問に備えて鍛えられた初期のころは、しばしば支部集会所の床を血で染めたものだそうだ──おれは、知らない。そんな記録はなくされてしまったのだ。
四日目、おれたちは集会所へ行かずに、ここ何日か顔を見せなかったことをかれらに気づかれていそうなところへその埋め合わせに行けといわれた。それで、おれが食堂のラウンジで雑誌をめくっていると、ティモシー・クライスが入ってきた。かれはおれを見てうなずき、書架の雑誌をあれこれ手に取って見ていたが、やがて不満げにいった。
「こんな古雑誌は、歯医者の待合室にでもおいておけばいいんだ。だれかおまえたち、今週のタイムを読まなかったかい?」
その口調は、ラウンジにいる全員に話しかけているようだったが、だれも返事をしなかった。すると、かれはおれをふりかえっていった。
「ジャック、おまえが尻の下に敷いているんじゃないのか。ちょっと立ってみてくれ」
おれはぶつぶついいながら腰を上げた。かれは、雑誌を探しているような格好で、おれに顔を近づけてささやいた。
「支部隊長が呼んでいる。集会所に出頭しろ」
おれは多少習練を積んできていたので、なにくわぬ顔で雑誌を読みつづけた。しばらくしてから雑誌をおいて背伸びをし、欠伸をしてから立ち上がり、ふらっと出て、便所のほうへ歩いた。だがその前を素通りし、数分後に支部集会所に入った。ゼブはすでにそこにおり、ほかに何人か党員もいた。かれらはピーター隊長とマグダーリンを取り巻いていた。おれは、部屋の中の緊張を感じた。
「お呼びになりましたか、|敬虔なる主人《ウォーシップフル・マスター》よ?」
おれがそういうと、かれはうなずいてマグダーリンをふりかえった。彼女はいった。
「ジュディスが逮捕されたのよ」
膝が抜けたようになったおれは、その場に倒れそうになった。気が弱いほうでもなく、人並みの勇気は持ち合わせているつもりだが、だれでも、家族や恋人が不慮の事故に見舞われると、思いのほかにこたえるものだ。おれはやっと、かすれた声で尋ねた。
「異端審問を?」
彼女の目は同情にかげった。
「そうだろうと思うわ。かれらは、彼女を今朝連れていったままで、それから連絡がないの」
ゼブが尋ねた。
「罪状は示されているのかい?」
「公表はされていないの」
「ふーん……どうもまずいな」
ピーター隊長は反対の意見をいった。
「そして良くもあるさ……これが、われわれの考えている問題だとすれば……ファセットのことだよ……もし、かれらがきみたちに関して証拠を何か握っていたら、四人ともすぐに逮捕されていたはずだ。少なくとも、それがかれらのやりかただ」
おれは性急に尋ねた。
「でも、いまわれわれはどうすればいいんです?」
ヴァン・アイクは答えなかった。マグダーリンはなだめるようにいった。
「いまのところ、あなたのやることは何もないわ、ジョン。彼女のところにたどりつくまで、いくつ警備されたドアがあることか……」
「でも、何もせずにはいられないでしょうが!」
支部隊長はいった。
「落ち着け、坊や。王宮の奥へ入れるのは、われわれの中ではマギーだけだ。彼女にまかせるほかないんだ」
おれは、また彼女のほうに向いた。彼女は溜息をついていった。
「ええ、でもあたしにできることはあまりなさそうよ」
それから、彼女は出ていった。
おれたちは待った。ゼブは、かれもおれも支部集会所を出て、いつものたまり場へ行ったほうがいいのじゃないかといった。ほっとしたことに、ヴァン・アイクはそれに反対した。
「いや。シスター・ジュディスの受けた予防催眠暗示が、拷問に耐えられるかどうかは確信が持てない。幸いなことに、彼女が知っているのは、きみたち二人とシスター・マグダーリンだけだ……だが、マグダーリンが何か見つけ出すまで、あるいは帰ってこられなくなるまで、きみたちは安全なここにいてほしい」
と、かれは考え深げにつけたした。
おれは思わずいった。
「でも、ジュディスがわれわれを裏切ったりすることは絶対ありません!」
かれは悲しそうに首をふった。
「坊や、審問にかかったら、だれであろうと何事であろうと白状してしまうのだ……予防催眠強制暗示が充分にきいていないかぎり。そのうちわかるだろう」
おれは自分だけの考えにふけっていて、ゼブにまったく注意をはらっていなかった。ところがとつぜん、かれは怒ったように話しだして、おれを驚かせた。
「隊長、あなたはわれわれをペットの鶏みたいにここにおいている……そして、たったいまマギーをもどして、罠の中に頭をつっこませようとしておられる。シュディスが音を上げたらとうなります? やつらはマギーをすぐ捕まえてしまうのですよ」
ヴァン・アイクはうなずいた。
「もちろんだ。これは利用しなければならないチャンスだ。彼女は、われわれの握っているただ一人のスパイだからな。だが、彼女のことは心配するな。かれらは絶対に彼女を逮捕したりはせん……彼女はその前に自殺するよ」
その言葉はおれを驚かせなかった。おれは、ジュディスの身に迫る危険のことで、頭がふらふらだったのだ。だが、ゼブはさけんだ。
「そんな馬鹿な! 隊長、あなたは、彼女をやるべきじゃあなかったんだ」
ヴァン・アイクは穏やかに答えた。
「規律を忘れるな、坊や。しっかりしろ。これは戦争で、彼女は兵隊なんだぞ」
かれは顔をそむけた。
それで、おれたちは待った……待った……待ちに待った。異端審問の恐怖のもとに生きた者でなければ、おれたちがどのように感じたかを伝えることは難しいだろう。詳しいことは知らないが、おれたちはときどき、拷問に耐えて生き残った不幸な人々を見たことがあった。たとえ異端審問官が死刑執行を命じなくても、犠牲者の心はたいてい傷つけられ、多くは粉砕されてしまうのだ。
やがてピーター隊長は、おれたちの気持ちをまぎらわせるためか、先任の党員に命じて、おれたち二人が儀式をどれぐらい暗記しているかのテストを始めた。ゼブとおれはむっつりと、いわれたとおりにし、断固たる思いやりによって複雑な修辞法に心を集中させられた。とにかくそうして二時間近くが過ぎた。
やっとドアが軽く三度ノックされ、タイラーがマグダーリンを中に入れた。おれは椅子から飛び上がって走りより、彼女に尋ねた。
「どう? どうでした?」
彼女は疲れたように答えた。
「落ち着いて、ジョン……あたし、彼女に会ったわ」
「彼女はどうでした? 大丈夫ですか?」
「思ったより元気だったわ。彼女の心はまだもとのままだし、あたしたちのことを話していないのもたしかよ。そのあとは……すこし傷跡を残すかもしれないけれど……でも、彼女若いし健康だから、すぐ回復するでしょう」
おれはもっといろいろ尋ねようとしたが、隊長がおれを押しとどめた。
「すると、やつらはすでに彼女を審問にかけたんだな? だとすると、どうやって彼女に会えたんだ?」
マグダーリンは肩をすくめて、こともなげに答えた。
「ああ、そのこと! 彼女を担当する異端審問官は、あたしの古い知り合いだったの。それで、あたしたち、愛情を交換する約束をしたってわけですわ」
ゼブが口をはさもうとしたが、隊長は鋭くいった。
「静かに! すると宗教裁判所長官が、直接取り調べにあたっているわけじゃないんだな。では、ファセットの失踪事件がカバル党と関係があるとは考えられていないわけか?」
マグダーリンが眉をよせた。
「その点はどうかわかりませんわ。ジュディスは審問のかなり早い段階で失神してしまったようですから、かれらはその可能性を追求する暇がなかったのでしょう。とにかくあたしは彼女を明日まで休ませるように頼みました。もちろん、彼女に、これからの訊問に耐えられる力をつけさせるためという口実です。かれらは、明日の朝早くから、またジュディスを責めるつもりらしいんです」
ヴァン・アイクは握りしめた拳で片方の掌をたたきつけた。
「もう一度やつらに始めさせてはならん……危険を冒してみよう。副隊長、来てくれ! 残りの者は出ろ! マギーは残れ」
おれは思っていたことを口にしないまま、部屋を出た。マグダーリンにいいたかったのだ、いつでも彼女が指を上げるだけで、ドア・マットがわりにおれの皮膚をあげるよ、と。
その晩の夕食は苦行さながらだった。牧師が長々と祝福を唱えたあと、おれは雑談に加わったが、のどに固い環でもはめられているようで、食べ物がろくにのどを通らなかった。おれの隣りに坐っているのは、スコットランド人とチェロキー族の混血、神の恵み<xアボーだった。かれはおれの同期生だが、友達ではない。これまでろくに話をしたこともなく、今夜のかれはあいかわらず無口だった。
食事の最中に、かれはおれの靴を軽く踏んだ。おれはいらいらして、足をのけた。だが、すぐにかれの足がふれてきて、爪先でおれの靴を軽くたたき始めた。それは、符号だった。
「……じっとしていろ、この馬鹿……きみが選ばれた……今夜歩哨についているあいだに……詳細はあと……食べながら、話せ……当直のとき、粘着テープを持っていけ……六インチ幅で一フィート……以上、復唱しろ」
おれは食事をしているようなふりをしながら、確認したことを何とかやっと打ち返した。
おれたちは真夜中に交替して、衛兵勤務についた。おれたちの部署から衛兵分隊が隊伍を整えて去っていくと、おれは夕食のときベアポーから伝えられたことをゼブに話し、あとで伝えるといわれた詳細な指示を、おれに知らせるように頼まれていないかと尋ねた。
かれは聞いていなかった。おれはこのことをもっと話し合いたかったが、かれはさっとさえぎった。おれよりも神経をたかぶらせているようだ。
それでおれは持場を歩き、警戒を厳重にしているようなふりをした。おれたちはその夜、西の城壁の北端に配備されていた。その位置についてから一時間ほどすると、暗い通路のほうから、しーっという声が聞こえた。用心深く近づいてみると、女の姿が見えた。マグダーリンにしては背が低すぎるし、いまになっても、どこのだれともわからないが、その女はおれの手に紙片をおしつけると、暗い回廊の中に消えてしまった。
おれはゼブのところにもどった。
「どうしよう? 懐中電灯をつけて読もうか? 危険すぎるが」
「開いてみろ」
そうしてみると、闇の中で光る細かい文字が紙面を埋めていた。おれにはかろうじて読めたが、いかなる電子の目でも見分けられないほど弱い輝きかただった。おれは読んだ。
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歩哨時間のちょうど半ばを告げる鐘の音で、これを受け取った通路から王宮に入れ。四十歩行くと、左側に階段。それを二階分登り、北へ五十歩進め。右側の明かりがついた通路は、修道女の居住区画に通じる。
その通路の扉の前に衛兵がひとり立っている。そいつは抵抗しないが、口実を与えるため、麻痺弾を使わなければいけない。目指す監房は、修道女居住区画の東西にのびる中央廊下のつきあたり。その扉には明かりがついており、監視の修道女が立っているはずだ。
その修道女はわれわれの同志ではない。きみは、その女を完全に動けなくしなければいけないが、殺したり傷つけたりしてはいけない。粘着テープを猿ぐつわと目隠しに使い、女の服で縛りあげよ。それから、女の鍵を奪って監房に入り、シスター・ジュディスを救出せよ。彼女はたぶん意識を失っているだろう。きみの部署まで運び出し、直属の衛兵隊長に渡せ。
きみは王宮内の衛兵を麻痺弾で倒したあと、できるかぎり急いで行動すること。明かりのついた通路を通るとき、隠された目がきみを発見し、非常警報を鳴らすかもしれない。
この手紙は飲むな。毒物だ。階段上の焼却用のシュートに入れろ。
神の加護を祈る。
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ゼブはおれの肩越しに、それを読んだ。
「おまえに必要なのは、意志の力で奇蹟を実現することだ。怖いか?」
おれはうなずいた。
「一緒に行ってやろうか?」
「いや、命令どおり、ひとりでやったほうがいいと思う」
「ああ、そうだろう……支部隊長はああいう人だからな。それに、おまえがいないあいだに、おれがだれかを急に殺す必要がおきるかもしれん。おまえの背後を守ることにしよう」
「わかった」
「じゃあ、黙って軍務に精励といくか」
おれたちは持場を歩きはじめた。
やがて歩哨時間の半ばを告げる鐘の音が二度低く鳴ると、おれは槍を城壁に立てかけ、軍刀や胴鎧やヘルメットその他の、身につけることを要求されている儀式的ながらくたを脱ぎ捨てた。ゼブは長手袋をしたまま、おれの手を固く握りしめた。それから、おれは出発した。
二、四、六……四十歩。暗闇の中を左側の壁にそって手探りしていくと、壁が切れて空間が開いていた。足でそこを探った。ああ、階段があった! おれは、王宮の中、これまで一度も入ったことのないところに足を踏みいれたのだ。
おれは闇の中を推測で進んでゆき、あの指令を書いたやつが熟知していたことを祈った。一つめの階段、二つめの階段──おれは、最後にもう一段あると思って足を踏み下ろし、あやうくつんのめってしまうところだった。
焼却用のシュートはどこだろう? それは手の高さにあるはずだし、指令には階段の上≠ノあると書いてあった。懐中電灯をつけるべきか、それとも手紙をこのまま持っていくべきかと狂おしく迷い始めたとき、左手がラッチにふれた。おれは安堵の溜息を洩らし、多くの同志を罪におとしいれかねない証拠品を穴の中に落としこんだ。そこから離れようとして、急に恐怖に襲われた。これは本当に焼却用シュートだったのか? 物品を上下に送るためのリフトの差入口だったということはないだろうか? おれはまた、暗闇の中を手探りして、それをあけ、手を中に入れた。
長手袋を通しても、焼けつくような熱だった。おれは安堵とともにはっと手を引っこめ、指令を信頼してもう二度と疑うまいと決めた。しかし、四十歩北へ進んだところで通路は急に曲がっており、そんなことは指令に書かれていなかった。おれは立ちどまり、その角から床にはらばいになって、そっと前方を偵察した。
二十五フィートほど前方に、衛兵と明かりのついた扉が見えた。かれは同志のひとりのはずだが、おれは気をゆるめなかった。すぐベルトから麻痺弾を取り出し、手触りで最低強度にセットし、点火ピンを抜き、至近距離なので五つ数えてから、衛兵めがけてそれを投げ、角に急いで隠れて、その光線を見ないようにした。
もう五秒待ってから顔を出した。衛兵は床に仰向けに倒れ、麻痺弾のケースの破片があたった額から、すこし血が流れていた。おれは足音を殺しながらも急いで駆け出し、かれを飛び越えて進んだ。修道女居住区画の中央廊下は青い終夜灯がともっているだけだが、なんとか見とおせた。おれは一気にそこを走り抜け、通路のつきあたりに達し──そして、急停止した。女の衛兵が、扉に背をもたせ、床に坐っていた。
その女は居眠りしていたらしく、すぐには顔を上げなかった。一呼吸してから、おれを眺めた。計画を立てる暇などなく、その女に飛びつき、左手で悲鳴をおさえつけ、右の手刀で首筋をたたきつけた──殺すほどではなかったが、優しくしているときではない。女はぐったりした。
おれは粘着テープの半分で、まずその女の口をふさぎ、残りの半分で目を覆い、それから、その女の服を引き裂いて手足を縛りあげた──急げ、急げ、大急ぎだ、秘密警察のやつがさっきの中央通路につけてある目でモニターしていたら、意識をなくしている衛兵をもう見つけているにちがいない。おれは女の腰につけてある鍵の束を見つけ、すまないなと心の中で詫びながら立ち上がった。その小さな体は、まるで子供のようだった。彼女はジュディスよりもかよわく見えた。
だが、感傷的になっている暇はなかった。おれは扉の鍵を見つけ、それを開いた──そして、おれの恋人を両腕に抱き上げた。
彼女はうなされながらも、ぐっすりと眠りこんでいた。薬を飲まされていたのだろう。抱き上げたときにうめき声を発したが、目を覚まさなかった。着ているものがはだけ、かれらにやられたところがちらっと見えた──おれは走りながらも誓いを立てた。それをやった男がそんなに長くもちこたえられたらだが、その七倍にも仕返しをしてやるぞと。
衛兵はまだ通路の扉の前にそのまま倒れていた。モニターされずに、だれも起こさず逃げ去ることができたと思いながら、かれをまたごうとしたとき、背後の通路からあえぎ声が聞こえた。どうして、女というのは夜になっても寝つかれないんだ? その女が寝る前にやっておくべきことを片づけにベッドから出たりしなかったら、おれが見つけられたりすることはまったくなかったんだ。
その女を黙らせてみても手遅れだから、おれは走るのに専念した。角を曲がると、ありがたい暗闇の中に入ったが、階段の下り口を通り過ぎてしまい、引き返さなければいけなかった──それから一段一段探って下りる。どこか背後で、さけび声やかん高い声が響いていた。
一階に下りて、向きを変え、前方に玄関の輪郭が夜空を背景にして見えたとき、すべてのライトがつけられ、警報が鳴り始めた。おれは最後の数歩を走り、ヴァン・アイク大尉の両腕の中に頭からつっこんだ格好になった。かれは一言もいわずに彼女をおれの腕からすくい取り、建物の角へ走っていった。
おれは呆然とかれを見送っていた。するとゼブがおれの胴鎧を持ってきて、両手におしつけ、われに帰らせた。かれはささやいた。
「ぼやぼやするな! あの非常警報はおれたちに向けられているんだ。おまえは、いま歩哨についているはずなんだぞ」
おれが胴鎧の止め金をかけているあいだに、かれはおれの軍刀を腰につけ、ヘルメットを頭にのせ、槍をおれの左手に持たせた。それからおれたちは玄関の前にもどり、拳銃の安全装置をはずしてかまえ、操典どおりの非常警戒態勢に入った。警報はおれたちの部署から出されたものではなかったから、命令が出されるまでは、それ以外の行動を取る必要もなければ、取ることを許されてもいなかったのだ。
おれたちは、何分かのあいだ彫像のように立ちつづけた。誰何の声やあわただしい足音が、あちこちから聞こえた。当直将校が夜着の上に胴鎧をつけて止め金をかけながら、おれたちの前を走って王宮の中へ入っていった。おれはそいつが誰何に答える前に、あやうく撃ってしまうところだった。交替の衛兵分隊が交替の衛兵隊長にひきいられて、大急ぎで駆け抜けていった。
しだいに興奮はおさまっていった。ライトはまだついていたが、だれかが警報をとめることに気づいた。ゼブはささやいた。
「いったいどうしたんだ? 何かへまをしたのか?」
「そうでもあり、そうでもなしさ」
おれは、寝つきの悪い修道女のことを話した。
「ほう! なあ、坊や、これで、勤務中に女といちゃついてはいけないってことがわかったろうが」
「とんでもない、その女といちゃついたりしていたんじゃないぞ。偶然、そいつが部屋から飛び出してきたんだ」
「今夜のことじゃあないよ」
と、かれは冷たくいった。
おれは黙った。
三十分ほどして、勤務時間が終わるよりずっと早く、交替の衛兵分隊が足音をたててもどってきた。交替時間までまだ一時間以上あったが、衛兵隊長はかれらをとめ、そこからおれたちと交替する二人が隊列から離れ、おれたちはその抜けたところに入った。おれたちは衛兵詰所へ行進していき、途中でもう二度とまり、交替を出し、おれたちの分隊の者を拾っていった。
おれたちは中庭でとまり、衛兵所の出入口にむかって並ぶと、気をつけの姿勢が取らされた。当直将校がひとりずつ調べてまわるあいだ、およそ五十分もの長いあいだ不動の姿勢で立っていなければいけなかった。後列にいた一人が、足の体重をちょっとかけかえた。いつもなら、たとえ預言者がいるときの閲兵の際だろうと見とがめられずにすんだのに、今夜はそうはいかなかった。当直将校はめざとくそれを見つけてどやしつけ、ヴァン・アイク大尉はそいつの姓名を手帳に書きとめた。
ピーター隊長はかれの上官と同じぐらい怒っているように見えた。かれはほかの数人にも罰点をいいわたし、おれにさえ軍靴をよく磨いていない≠ニいい、書きとめておけと、衛兵所の当番兵に命じた。おれがあの仕事をしていたあいだにこすったのでなければ、それはいいがかりにすぎなかった。おれは靴を見ようともせず、黙ってかれを見つめていた。かれは冷ややかににらみ返した。
かれの態度は、陰謀についてゼブが講義したことを思い出させた。ヴァン・アイクの態度はまさに、部下のために屈辱を受けた下級将校のそれだった。もしおれが、新生児のように潔白だったら、どんなふうに感じるべきだ?
怒りだ、とおれは考えた──怒りと自分にはなんの科《とが》もないとする態度だ。最初は興奮に刺激され、興味を持つが、そのうち初年兵のように不動の姿勢を取らされつづけていることに腹を立てるはずだ。かれらは、緊張して待たせることで抵抗力をなくさせようとしている。二カ月前のおれなら、どう感じたことだろう? 自分の美徳を独善的に信じているので、腹を立て屈辱を覚えたことだろう──食料配給カードをもらうため哀れに行列している最下層民のように、いつまでも立たされてと──スープで上着を汚したと報告書に書かれた候補生のようにと。
ほとんど一時間ほどたってから衛兵司令官がやってきたとき、おれは怒りに唇を白くしていた。そのプロセスは人為的だったが、感情は本物だった。
とにかく、おれは前からこの司令官がまったく好きになれなかった。こいつは背の低い、傲慢な小男で、部下の下級将校を見るときは、そこに存在していないかのような冷たい目つきをするやつだった。
いま、かれはおれたちの前に立ち、聖職者用のローブを両肩から後ろへはらい上げ、両手の親指を軍刀のベルトにかけていた。
かれは、おれたちをにらみつけた。
「神よ、われを助けたまえ。本当に主の天使隊がやったのか……」
かれは、死の沈黙の中で静かにそういい──そのあと、怒嗚った。
「どうだ?」
だれひとり答えなかった。
かれはさけんだ。
「白状しろ! おまえたちの中のだれかが知っているはずだ。答えろ! それとも、おまえたちはみな、審問にかけられるほうがいいのか?」
つぶやき声が列を走っていったが──だれも話さなかった。
かれの視線は、おれたちをまたたどっていった。その目と目が合い、おれはきつくにらみ返した。
「ライル!」
「はい、閣下?」
「おまえは、これについて何を知っておる?」
「はい、わたくしは腰を下ろしたいと思っているだけであります、閣下!」
かれは顔をしかめ、その目に冷笑の光を浮かべた。
「異端審問官の前に坐らせられるより、わしの前に立っているほうがいいだろうが」
だが、かれはおれをパスして、隣りの青年を詰問しはじめた。
かれはわれわれを際限なくいじめ続けたが、ゼブにもおれにも、ほかの者にくらべて特別な関心は持たなかったようだった。最後にかれはあきらめたらしく、解散しろと当直将校に命じた。だがおれはだまされなかった。おれたちのしゃべった言葉は残らず記録され、表情のすべてがフィルムに撮られ、おれたちが宿舎へもどりつく前に、分析官がそのデータを、おれたちそれぞれの過去における行動パターンと比較検討するのだ。
ゼブは芸が細かかった。一緒に部屋へもどる途中で、今夜の騒ぎについてのまことしやかな噂話をしてみせた。おれは適当に相槌をうち、今夜の取扱いに対しておれだったらこう反応するだろうというような応待をし、不平不満をいった。
「おれたちは士官であり、紳士なんだ……おれたちに何かの罪があると思うなら、かれは公式に告発すべきだよ」
おれはまだ不平を鳴らしながらベッドに入ったが、心配でなかなか眠れなかった。ジュディスは安全な場所にたどりついたにちがいない。そうでなければ、お偉方連中がそれを隠しているはずはないからなと、自分にいい聞かせようとした。いらいらしながらも、やがておれは眠りに落ちた。
だれかがおれの手にふれ、その瞬間、はっと目が覚めた。だが、それは同志の握りかただとわかってほっとした。聞き覚えのない声が耳にささやきかけた。
「静かに……きみを守るために、ある処置をほどこさなければいけないんだ」
注射針が腕につき刺さるのを感じ、数秒後おれはゆったりと、夢心地になった。その声はささやいた。
「きみは、今夜歩哨に立っていたとき、何も変わったことを見なかった。非常警報が鳴るまで、きみの部署にはまったく異常がなかった……」
おれは、その声がいつまでしゃべり続けていたのか知らない。
だれかに乱暴にゆさぶられて、おれはまたも目を覚ました。枕に顔を埋めておれはさけんだ。
「かまわないでくれ! 朝食は抜きにするから」
だれかが、おれの肩甲骨のあいだをたたきつけた。おれはころがって起き上がり、目をしばたたいた。部屋の中に武装した男が四人、全員熱線銃を抜き、おれに向けている。
「来るんだ!」
と、いちばん近くにいたやつが命令した。
かれらは天使隊員の制服を着ているが、部隊記章はつけていなかった。どいつの頭も黒いマスクで覆われ、目だけしか見えない──そのマスクをおれは知っていた。異端審問所長官直属の秘密警察官だ。
そんなことが実際に自分におこるなんて、信じられなかった。おれにそんなことが……いつも行儀が良く、教区の優等生で、母親の誇りであったこのジョニー・ライルに、そんなことが。嘘だ! 異端審問官は恐ろしいが、罪を犯した者にとって恐ろしいもので──ジョン・ライルにとってではなかった。
だがそのマスクを見たとたん、おれは身の毛もよだつような恐怖にとらわれた。おれはもう、死んでしまった男なんだ、とうとうおれの番が来たんだ、これは目覚めることのない悪夢なのだと。
だが、おれはまだ死んではいなかった。心のどこかから、怒りをよそおう勇気が出てきた。
「ここで何をしているんだ?」
顔のない声は同じことをいった。
「来るんだ」
「命令書を見せてくれ。好きなときにべッドから士官を引きずり出すなどということは、できんはずだぞ……」
指揮官が拳銃で合図した。二人がおれの両腕をつかんでドアのほうへ引きずり、四人目のやつは背後にまわった。だがおれはかなり腕力が強いほうなので、かれらにだいぶてこずらせてやりながら抗議した。
「少なくとも、服ぐらい着せてくれたっていいだろうが。どんな緊急事態にしろ、半分裸かで引きずりだす権利はないはずだぞ。おれには、階級に応じた制服で出ていく権利があるんだ」
驚いたことにその要求は受け入れられた。指揮官はとまった。
「わかった。だが早くしろ!」
おれは急いでいるようなふりをしながら、できるだけ時間をかけた──ブーツのジッパーを引っかけ、服を着るのにも手間どった。ゼブに何か伝言を残せないか? おれに起こったことを知らせる信号はないか?
やっとおれは思いついた。うまくはないが、いまやれる最上の方法を。おれは衣装だんすから手あたりしだいに衣順を取り出した。要るものも要らないものも、そしてセーターをいっぱい。着なければいけないものを選ぶあいだに、セーターの袖を、同志が遭難信号と受け取るだろうという形にした。それから、散乱した衣類を衣装だんすにもどそうとすると、指揮官はすぐ熱線銃をおれの脇腹につきつけていった。
「もういい。支度はすんだな」
おれはあきらめ、意味のない衣類を床に落とした。セーターは、読める者にとっては意味をなす形で広げられたままだ。連れ出されながら、おれはゼブがそれに気づく前に、部屋の当番兵がやってきて片づけて≠オまわないことを祈った。
王宮内部に着くとすぐ、おれは目隠しされた。それから階段を六階分下りたから、たぶん地下四階だったのだろう、地下牢のように息苦しく静まりかえった一室に入った。目隠しがはずされ、おれは目をしばたたいた。
「坐りなさい、若いの、坐って楽にしたまえ」
おれは、異端審問所長官自身の顔をのぞきこんでおり、その暖かくて親しげな微笑とコリー犬のような目を見ていた。
かれの穏やかな声は続いた。
「暖かいベッドから乱暴に引っぱり出したりしてすまないが、わしらの神聖な教会がある情報を必要としているんだ。話してくれ、若いの、きみは主を畏れているかね? ああ、もちろん畏れているな。きみが信仰心のあつい男だというのは、よくわかっている。朝食に遅れることになるが、このちょっとした問題で、わしを助けてくれないか。神の偉大な栄光のためにな」かれは、後ろでぶらついていたマスクと黒いローブ姿の異端審問官助手のほうをふり向いた。「かれの用意をしろ……頼むから、やさしくやってくれよ」
おれは手早く荒っぽく扱われたが、苦痛を与えられることはなかった。かれらはおれを、人間としてでなく、機械かなにかのように触れた。おれを腰のところまで裸かにし、いろんなものを取りつけた。右腕にはゴムのバンドを固く巻きつけ、両の拳には電極を握らせてテープでとめ、両手首にももう一組の電極を、三つめの一組をこめかみに、頸動脈には小さな鏡をつけた。
左側の壁の制御盤でひとりが何かを調整し、スイッチを入れると、反対側の壁におれの内部の働きが生き物のように投影された。
心臓の鼓動に合わせて小さな光が踊り、送像管の写しだすジグザグの線は、血圧の上下を示しており、それと同じようなのが呼吸を、そのほかおれには理解できないのがいくつかあった。おれは顔をそむけ、一から十までの自然対数を思い出すことに心を集中した。
「きみはわしらの方法がわかるな。能率と親切というのが、わしらの合言葉だ。さて、話してくれ……きみは彼女をどこへやった?」
おれは八の対数のところでやめた。
「だれをですって?」
「なぜ、きみはあんなことをしたんだ?」
「すみませんが、閣下。わたしがしたことになっているのは何なのか、わからないのですが」
だれかが後ろから、おれを強くたたきつけた。壁の光がみな、激しくゆらいだ。異端審問官はそれをじっと眺め、それから助手にいった。
「注射しろ」
ふたたび、注射針がおれの皮膚をつき刺した。それから、薬が利いてくるまで、しばらく休ませられた。おれはそのあいだ、対数を思い出す努力を続けた。だが、まもなくそれに集中できなくなってきた。眠たく、けだるく、何がどうなろうとかまわないというような気持ちになった。まわりのことに、穏やかな子供じみた好奇心を覚えたが、恐怖は感じなかった。やがて、異端審問官の低い声が、おれの夢想を破って質問してきた。それが何だったのかはまったく覚えていないが、おれがそのつど、最初に頭に浮かんだことをそのまま答えたのは確かだ。
それがどれぐらい長いあいだ続いたのかわからない。やがてかれらは別の注射を打って、おれを鋭い現実に引きもどした。異端審問官はおれの右腕の小さな打撲傷や小さな紫色のあざを調べてから、顔を上げた。
「これはどうしたんだ、若いの?」
「わたしにはわかりません、閣下」
そのときは、嘘をついてるつもりはなかった。
かれは残念そうに首をふった。
「馬鹿なことをいってはいかんよ、坊や……それに、わしを見くびっちゃいけない。ひとつ説明してあげようか。きみたち、罪を犯した者がどうしてもわからないのは、神がつねに、いたるところに存在しておられるということだ。わしらの方法は神の慈愛に基づいているが、石の落下と同じような確実さで、等しくあらかじめ定められた結末にむかって押し進むのだ。
まずわしらは、罪を犯した者を主に服従するよう求め、その心に残っている善によって答えさせる。もし、その思いやりのある方法が失敗した場合……つまり、きみのような場合……そのときは、神が与えてくださった方法で無意識な心を開くのだ。審問に関するかぎり、たいていこれで目的は達せられる……悪魔の使いがわしらより先に来て、心の聖なる住まいを荒らしている場合を除いてはな。
ところでだが、息子よ、わしはさきほど、きみの心の中をちょっと散歩してもどってきた。そこには立派なものもたくさんあったが、深い闇の中に、だれかほかの罪深き者が作った壁があるのも見つけた。そしてわしが求めているものは……教会が必要としているものは……その壁の裏にあるんだ」
たぶんおれが満足の意を示したか、あるいは壁の光がおれの心を見せたのかしたのだろう、かれは悲しげな微笑を見せ、そしてつけ加えた。
「悪魔のいかなる壁も、主を妨げることはできない。わしらが、そのような障碍を見つけた場合にはやるべきことが二つある。一つは時間をたっぷりとかけて、きみの心に何らの傷害をも与えずに、石をひとつずつ取っていって、その壁を静かに除去してしまうことだ。わしは時間さえあれば、本当にそうしたい。きみはもともと善良な青年だ、ジョン・ライル、そして犯罪者の部類に入るべき人間ではないのだからな……しかし、永劫は長いが、時間は短い。使えるのは、もう一つの方法だ。わしらは無意識の領域にある嘘でかためられた障壁を無視して、神の御旗を先頭に、意識のある領域にまっすぐ攻撃をかけるのだ」かれは、おれから視線をそらした。「かれの用意をしろ」
顔のない部下の一人が、おれの頭に金属のヘルメットをストラップでとめ、もう一人が制御盤を調節した。
かれは壁の図形を指さした。
「さあ、これを見ろ、ジョン・ライル……きみも知っていようが、人間の神経組織は、その性質がある程度、電気的なものだ。これは人間の脳の解剖図だが、この下のところが間脳で、このように皮膜に覆われている。そしてそれぞれの感覚中枢は、この図に示されたところにある。きみの電気力学的特徴はもう分析されているんだ。気の毒だが、これからきみの通常感覚に異なる周波数の信号を混合させることが必要になった」
かれは横を向きかけ、またふり向いた。
「ところで、ジョン・ライル、わしが直接きみの取り調べにあたったのは、現在のところ助手たちがわしよりも主の御業について経験が浅いために、ときに技術的判断を誤って、犯罪者を予期しない償いに送りこんでしまう結果になることがあるからだ。わしは、そういうことがきみに起こってもらいたくない。きみは迷える羊にすぎないのだから、助けてやりたいんだ」
「ありがとうございます、閣下」
「わしに礼をいうことはない。それより、わしが仕える主に感謝することだ」かれは眉をかすかによせて、言葉を続けた。「しかしながら、この心に対する正面攻撃は必要ではあるが、避けられないほど苦痛に満ちている。わしを許してくれるね?」
おれはほんの一瞬しかためらわなかった。
「当然です、閣下」
かれは壁の光を見て、皮肉な笑いを浮かべた。
「嘘をいっとるな。だが、その嘘は許してあげよう。悪意ではないからな」かれは沈黙している助手たちにうなずいてみせた。「始めろ!」
光がおれを盲目にした。爆発が耳の中でおこった。右足が焼けつくような痛みと一緒にびくりと動き、際限なく麻痺しはじめた。のどが急激に収縮し、呼吸ができなくなった。おれは窒息しそうになり、嘔吐しそうになった。何かが、みぞおちをたたきつけた。おれは体を二つに折り、息ができなくなった。「彼女をどこにおいた?」低く静かに始まった騒音は、しだいにしだいに高くなり、音程とデシベルが増えてゆき、千もの鋸の音に、百万もの鉄筆が石をひっかく音になり、何万人もの悲鳴となって、薄い理性の壁を打ち破った。「だれが、手伝った?」股間に焼けるような熱を感じた。それから逃げることはできなかった。「なぜ、そんなことをしたんだ?」全身が耐えられないほど痒くなった。皮膚をかきむしろうとした──だが、両腕が動かない。痒みは、痛みより苦しかった。かかせてくれるなら、痛みだって歓迎だった。「彼女はどこなんだ?」
光……音響……痛み……熱……直撃……寒さ……落下……光と苦痛……寒さと落下……嘔吐と音響。「きみは主を愛しているか?」焼けつくような熱と恐るべき寒さ……苦痛と頭の中をたたきつけられることで、おれは悲鳴をあげた──「彼女をどこへやった? ほかにだれが仲間だ? あきらめて、きみの不死の魂を助けろ」苦痛と外界に対する感覚の剥脱が無限に続く。
おれは失神したのだろうと思う。
だれかが、おれの両頬をたたいていた。
「目を覚ませ、ジーン・ライル、白状しろ! ゼバディア・ジョーンズはとっくにきみを裏切っているのだぞ」
おれはまばたきし、何もいわなかった。まだぼんやりした状態にある芝居をする必要はなかったし、そんなことはやれもしなかったろう。だがその言葉はおれにとんでもないショックを与え、おれの脳はなんとかギアを入れようとして走った。ゼブ! あのゼブが、かわいそうなゼブが! かれは予防催眠暗示を与えられる暇がなかったのだろうか?
そのときでさえ、ゼブが拷問だけでまいってしまったとは思わなかった。やつらがかれの無意識の心から引き出したんだろうと、あっさり考えてしまった。
かれはもう死んでしまったのかもしれない、かれの良識に反して、おれがこんどのことに引きずりこんでしまったのだと、おれは思い出した。かれの魂のために祈り、おれを許してくれとも祈った。
おれの頭はまたひどくなぐられて動いた。
「目を覚ませ! よく聞け……ジョーンズはきみの罪状を白状したのだぞ」
「何を白状したって?」
と、おれはぼんやり聞き返した。
異端審問所長官は部下をおれのそばからどかせ、体を乗り出すと、親切そうな顔に熱意をみなぎらせて話した。
「お願いだ、息子よ、これを主のために……そして、わしのためにやってくれ。きみは仲間の犯罪者たちを勇敢にかばって、かれらの愚かな行為を隠そうとしている。その心は確かにけなげではあるが、かれらがきみを見捨てた以上、きみの頑固な勇気はもはや何の意味もなさないのだぞ。きみはもう、良心にとがめられる必要などないんだ。告白するのだ。そして、罪の汚れを永遠に浄めるのだ」
「ということは、つまり、わたしはいずれにしろ殺されるという意味ですね?」
かれはちょっとためらった。
「そんなことはいっておらん。わしは、きみが死を恐れていないことを知っている。だが、きみが恐れるべきことは、心に罪を抱いたまま創造主の御前に出ることなのだ。心を開いて、告白するのだ」
「閣下、わたしには告白することが何もないのですが」
かれはふりかえり、低く穏やかな声で命令した。
「続行しろ。こんどは機械的にな。こいつの脳を焼いてしまいたくはない」
機械的に≠ニいう言葉の意味を説明しても仕方ないし、不必要なまでに陰惨さをつけ加えてみても仕方がないだろう。かれの方法は、中世やもっと近代にいたるまでも使われた拷問技術と、重要な点では大差なかった──ただ、人体の神経系統に関する知識が比較にならないぐらいに進歩し、行動心理学の進歩とあいまって、その技術をいっそう精巧にしていただけだ。それに加えて、かれとその助手たちは、サディスティックな喜びはまったく感じないようにふるまっていたから、冷静に能率的にことが運ばれた。
だが、詳細ははぶこう。
どれぐらい長いあいだ続いたのか、おれにはわからない。続けて何度も失神したにちがいない。はっきり覚えているのは、繰り返される悪夢のように、氷のような水を顔に一度ならず何度も何度も浴びせられ──そのあと必ず注射されたことだ。
目が覚めているときは、やつらに重要なことは何ひとつしゃべらなかったし、意識をなくしているあいだは、無意識下への催眠暗示がおれを守ってくれたのだと思う。おれは、犯したこともない罪をでっちあげようとしたような記憶もあるが、それでどうなったかは覚えていない。
一度なかば目が覚めた状態になり、こんな声を聞いたことをぼんやりと覚えている。
「もっとやれるぞ。こいつの心臓はとびきり丈夫だ」
おれは長いあいだ気持ちよく死んでいたが、やがて長い眠りから覚めるときのように、意識を取りもどした。体はこわばって、ベッドの中で体を動かそうとすると脇腹が痛んだ。おれは目をあけて、あたりを見まわした。小さくて窓はないが、こぎれいな部屋のベッドに寝ている。看護婦の制服を着た若くて可愛らしい顔つきの女が、さっと近づいてきて、おれの脈を測った。
「ハロー」
と、おれがいうと、女は答えた。
「ハロー……気分はいかが? ましになって?」
おれは反問した。
「どうなったんだ? すんだのか? それとも、これはただの中休みか?」
女はおれをたしなめた。
「静かにして……あなたはまだ体が弱っているから、話してはいけないわ。でも、もうおわったのよ……あなたはいま、同志のところにいて安全なの」
「おれは救出されたのか?」
「はい。さあ、静かにお休みなさい」
彼女はおれの頭をささえて、何か薬を飲ませた。おれはまた眠りにもどった。
体が回復し、出来事を知らされるまでには数日かかった。おれが目を覚ました病室は、ニュー・エルサレムにあるデパートの地下室の、そのまた地下にいくつかある部屋の一つで、そこと王宮下の支部集会所のあいだに、ある種の地下連絡通路がついていたのだ──それがどこで、どんなふうにかはいえない。そこを通ったことは一度もないのだ。意識のあるときには、という意味だが。
ゼブは、おれが面会を許されるとすぐ会いにきた。おれはベッドの中で体を起こそうとした。
「ゼブ! ゼブ……きみは死んでしまったものと思っていたよ!」
「だれが? おれが?」かれはかがみこんで、おれの左手を握った。「どうして、そんなことを考えたんだ?」
おれはあの異端審問官が罠にかけようとしていったことを話すと、かれは首をふった。
「おれは逮捕もされなかったんだ。おまえのおかげさ、相棒。二度と、おまえを馬鹿よばわりしたりしないよ。おれが読めるように、あのセーターで天才的な信号を残しておいてくれなかったら、おれたちは二人とも捕まって、どちらも生きていられなかったことだろう。おれは、あれを見てすぐ、ヴァン・アイク大尉のところへ飛んでいった。かれはおれに支部で隠れていろといい、それからおまえの救出を計画したんだ」
おれはどのようにして救出されたのかを聞きたかったが、その前にとつぜんもっと大切な問題が頭に浮かんだ。
「ゼブ、ジュディスはどこにいるんだ? 見つけられたら、ここへ連れてきて会わせてくれないか? 看護婦は笑って、休んでいろというだけなんだ」
かれは驚いた表情になった。
「きみはまだ聞いていないのかい?」
「おれが何を? いいや、おれは看護婦と医者以外にはだれとも会っていないし、その二人はおれをまるで低能あつかいするんだ。じらさないでくれよ、ゼブ。何かまずいことでも起こったのかい? 彼女は大丈夫なのか……違うのか?」
「ああ、大丈夫! だが、彼女はいまメキシコにいる……二日前に、秘密の報告が入ったところだ」
体が弱っていたためか、おれは泣きだしてしまいそうになった。
「行ってしまっただと! なんて汚いんだ! おれが彼女に、さよならといえるようになるまで、どうして待っていてくれなかったんだ?」
ゼブはあわてていった。
「おい、馬鹿なことをいうな……いや、おまえは馬鹿じゃない。だがなあ、おまえのカレンダーは狂っちまっているんだ。彼女は、おまえが救出される前に、いや救出できるかどうかわからないうちに出発してしまったんだぜ。いくら同志でも、おまえたちをいちゃつかせるために彼女を連れもどしたりはできないよ」
おれはそのことを考えて冷静さを取りもどした。まったくがっかりしたが、もっともな話だった。かれは話題を変えた。
「ところで、気分はどうだ?」
「ああ、ずいぶんいい」
「足のギプスは明日はずされると聞いたよ」
「そうか、おれは何も聞いていないが」おれは体をよじって、楽な姿勢になった。「このコルセットから抜け出したいほうが上なんだが、医者の言葉ではまだ何週間かは取れないそうだ」
「手のほうはどうなんだ? 指は曲げられるのか?」
おれは試してみた。
「かなりいい。しかし、当分は左手で書かなければいけないようだな」
「それにしても、おまえの体は死なないようにできているらしいな。ところで、これはおまえの気休めになると思うんだが、ジュディスを拷問したやつは、おまえを救出するときの襲撃であっさり死んじまったぜ」
「へえ? それは残念だな。おれは自分用にそいつを取っておきたかったのに」
「そりゃあそうだろう。しかしやつが生き残っていたら、おまえは列に並ばなきゃあいけなかったろうよ。やつをやりたいのは大勢いたからな。たとえば、おれもそうさ」
「だが、おれはそいつのために特別仕立てのことを考えていた……そいつに、自分の爪を食わせるつもりだったんだ」
「爪を食わせる?」
と、ゼブは面くらった顔になった。
「そいつの肘まで食わせちまうのさ。わかるかい?」
ゼブは苦笑した。
「ああ……どうもそこまでの想像力はなかったな。だが、やつは死んじまった。いまはどうしようもないな」
「悪運の強いやつだな。ゼブ、どうしてきみは、自分でそいつを捕まえるように細工しなかったんだ? それとも、事態が急テンポに進みすぎて、正攻法でしか仕事ができなかったのかい?」
「おれが? おれは、その救出作戦には加わらなかったんだ。王宮に帰ってもいなかったんだよ」
「へえ?」
「おれがまだ勤務についているとは思っていないだろうな?」
「そんなことを考えてみる時間はなかったよ」
「そうか、逮捕を免れるために脱走したんだから、おれはもちろん帰れなかったんだ。おれは、もう終わりなんだ。いや、相棒よ、おまえもおれも二人とも、合衆国陸軍からの脱走兵なんだぜ……国じゅうのお巡りや郵便局員がみな、おれたちを捕まえて懸賞金を稼ごうと目を光らせているんだぜ」
おれは軽く口笛を吹き、かれのいった言葉の意味を考えた。
おれは衝動的にカバル党に入ってしまった。ジュディスに恋をし、その結果おれの身に起こった事件の数々のために、考えをまとめる暇もなかった。理性的に考え、心を決めて教会に反逆したのではなかった。
もちろん、カバル党に加わることは、過去のすべての絆を断ち切ることだというのは、論理的にはわかっていたのだが、まだその実感がわいていなかったのだ。士官であり紳士である制服を二度と着られなくなったら、どんな気持ちがするだろう? おれは街を歩いたり、公衆の集まる場所に入るときなど、みんなに見られることを誇りにしていたのだ。
おれは、そのことを心の中から追い出した。すでに鍬はうねの中にあり、おれの手は鋤を握っている。もはや、引き返すことはできない。おれたちが勝つか、あるいは反逆の罪で焼き殺されるまで、おれはここにいなければいけないのだ。
おれはゼブが、問いかけるような目つきでおれを見ているのに気づいた。
「足が震えてきたか、ジョニー?」
「いや、気持ちを整理しているだけだ。物事の変化が速すぎるのでね」
「それはわかる。まあ、退職金やウエスト・ポイントの同期生のことなどは、もう関係がないものとして忘れることだな」かれは士官学校出身者の指輪を外して、ぽんと上へほうり上げ、それを受けとめるとポケットにしまった。「だが、やるべき仕事があるんだ、相棒よ、そしてここも軍隊組織だということが、いまにわかるさ……本物の軍隊だよ。個人的には、おれは心ゆくまで士官制服でめかしこんだし、歩調とれ≠セとか士官集合!≠サして歩哨、夜はどうだった?≠ネどという馬鹿みたいなことを、もう二度と聞けなくなってもかまわん。同志がおれたちの最良の才能をフルに使ってくれるだろう……そして、本当に大切なのは戦闘だからね」
ヴァン・アイク支部隊長は、二日ほどしてからおれに会いにきた。かれはベッドの端に腰を下ろし、太鼓腹の上で両手を組んで、おれを見た。
「だいぶ良くなったようだな、坊や?」
「はい。医者の許可さえあれば起きられます」
「それはよかった。人手が足りないので、訓練を受けた士官が病床についている時間は、短いほうがそれだけ助かる」かれはちょっと黙り、唇を噛んだ。「だが、坊や、きみをどうしたらいいのか、わしは迷っているんだ」
「え? 大尉どの?」
「率直にいって、もともときみはけっして入党を許されるべきではなかったのだ……軍隊組織は、恋愛問題などで混乱させられてはならんものだ。それは、動機を混乱させ、間違った決定を引きおこす。きみを入れたことによって、われわれは二度も出撃し、力を見せつけなければならなかった……これは、厳密な軍事的見地からすれば……けっして、おこなってはならぬことだった」
おれは答えなかった、答えようがなかった──かれのいうとおりだったのだ。おれはただ、当惑で顔を赤らめるだけだった。
「そのことは、あまり気にせんでいい」かれは優しくつけ加えた。「反対に、ときには反撃を加えるのが、同志の士気を高めるためにいいことなんだ。問題は、きみをどうするかだ。きみは勇敢だし堂々としている……だが、われわれがそのために戦っている自由とか人間の尊厳という理想を本当に理解しているのか?」
おれはほとんど躊躇せずに答えた。
「隊長……わたしは頭のほうはあまり良くないでしょうし、神かけて、政治のこともあまり考えたことがありません。しかし、自分がどちらの側に立っているかははっきり知っているつもりです!」
かれはうなずいた。
「それで充分だ。みんなにトム・ペインになれというのは無理な話だからな」
「トム・ペイン?」
「トーマス・ペインだ。ではもちろん、きみはかれのことを一度も聞いたことがないわけだな。機会があれば、われわれの図書室でかれのことを調べてみるといい。非常に、心を励まされる人物だよ。さて、きみの任務だ。きみを、ここでデスク仕事につけるのは簡単だが……きみの友達のゼバディアも、一日十六時間書類整理の仕事をしているんだ。しかし、きみたちを二人とも事務の仕事に使うのはもったいない。きみの得意な科目は何だ、きみの専門は?」
「わたしはまだ、専門の仕事についたことはありませんので、隊長」
「それは知っている。しかし、何か成績の良かったものがあるだろう? 応用奇蹟学とか群集心理学などはどうだったんだ?」
「奇蹟はかなりいい成績でしたが、精神力学のほうはぜんぜんだめで。弾道学がいちばんましな学科でした」
「ああ。全科目優秀というわけにはいかないものだからな。士気と宣伝の分野の専門家が欲しいんだが、できないものはできないからな」
「ゼブは学校で、群集心理学で優秀な成績をあげていました、隊長。司令官もかれに、聖職者をめざせと励ましていたぐらいです」
「それはわかっているし、われわれはかれを使うつもりだが、ここでではない。かれはシスター・マグダーリンに関心を持ちすぎているからだ。わしは、男女が組んで仕事をするのをあまり信用できないたちでね。いざというときに判断を狂わせる危険がある。ところで、きみのことだ。きみがいい暗殺者になれるかどうかだが……」
かれはその質問を、真面目にそしてこともなげにしたので、おれはそれをいっそう信じかねた。暗殺は、近親相姦とか神への冒涜と同じ言語道断な罪だとおれは教えられ──そう信じきっていた。おれはびっくりして聞きかえした。
「同志は暗殺者を使われるのですか?」
ヴァン・アイクはおれの顔を見つめた。
「え? もちろんだとも……わしは物忘れが激しいほうなんだがね。ジョン、きみは機会があれば異端審問所長官を殺すか?」
「それは、はい、もちろんです。しかし、わたしとしては正々堂々とした戦いでやりたいですね」
「きみ、そんなチャンスが与えられるとでも思っているのか? シスター・ジュディスがかれに捕えられた日にもどってみるとしよう。かりに、きみがかれを殺すことでそれをとめられたとする……だが、毒を飲ませるか、後ろからかれをナイフで剌すかのほか手段はない。きみはどうしたね?」
おれは荒々しく答えた。
「わたしはかれを殺していたことでしょう!」
「きみは、それに恥ずかしさや罪悪感を覚えたろうか?」
「いいえ!」
「よろしい。だが、かれはこの腐敗にいる大勢の中のひとりにすぎないのだ。肉を食らう者は肉を獲る者をあざ笑うことができない……司教、大臣、この専制政治によって利益を受けている者のすべてが、預言者自身さえも、異端審問官のおこなったあらゆる殺人行為に対して共同責任を負うべきなのだ。犯罪によって利益を得るためにその犯罪を容認している者は、その犯罪を犯した者と同罪だ。わかったかね?」
皮肉なことに、おれにはそれがわかった。それは、おれが教えられた伝統的な教養そのものだったのだ。おれは、その新しい形での応用を理解するのに少しばかり苦労した。ピーター隊長は、まだ話しつづけていた。
「しかし、われわれは復讐を楽しんでいるのではない……復讐は、まだ主の御手に属している。
きみの個人的な喜びを満たさんがために、異端審問官を殺しにやったりはしないよ。われわれは、罪を餌にして、人を誘惑するようなことはしたくない。われわれがいまやっていること、やろうとしていることは、すでに始まっている戦争の中の作戦行動なのだ……鍵となるべきひとりの人物は、しばしば一個連隊に匹敵するものだ。われわれは、そういう人物を選んで殺すのだ。ある教区の司教はそういう人物でも、その隣りの教区の司教は、現在の機構が生んだぼんくらの司教かもしれない。われわれは前者を殺すが、後者はそのまま生かしておく。こうして、敵側のもっとも優れた頭脳を次々に抹殺していくんだ。それで……」かれは、おれのほうにかがみこんだ。
「……きみは、そういう鍵となる連中を抹殺する仕事をやりたいか? これは、非常に重要な仕事なんだ」
おれには、この仕事は、避けよう避けようとしている事実におれを直面させるものに思えた。多くの人が日々の生活で、不愉快だと目をつぶり、そこから逃避しようとする事実に。
そんな任務を果たせるものだろうか? それを拒絶できるだろうか──ピーター隊長の口ぶりでは、少なくとも暗殺者になるのは志願によるもののようだ──いったん拒絶し、それがおこなわれていることを、そしてそれを心の中で認めていることを無視できるのだろうか?
ピーター隊長のいうとおりだ──肉を食べる者は、肉を獲ってくる者の仲間だ。それは道徳問題というより、潔癖な生きかたの問題だ──死刑に賛成しながら、自分の手で絞首刑の縄を死刑囚の首にかけたり、斧をふるうことをいやがる善良≠キぎる人間の矛盾がそこにある。戦争を必要やむを得ざるものと見なし、状況によっては道徳的行為であるとさえ主張しながら、自分で人を殺すのがいやだという理由から兵役を避けようとする人間の矛盾だ。
情緒的に小児である者、倫理的に低能な者の考えだ──左手は右手が何をやっているか知らなければいけないし、心はその両方に責任がある。おれは、ほとんど即座に答えた。
「ピーター隊長、わたしは任務につく用意ができています。それであれ、何であれ、同志の決定に従って最善をつくします」
「よくいったな!」
かれは、すこしくつろいだ口調になって話をつづけた。
「われわれのあいだでは、これは新人党員がみな提供される仕事なんだ。相手がよく理解しているのかどうかわからないときに。つまり、野球チームに入るようなことではなく、なんら顧慮することなく自分自身を捧げなければいけない大義だということを……自分の生命、財産、神聖な名誉を捨てることになってもいいのかということをな。われわれは、便所掃除をいやがり、命令ばかりしたがる人間には用がないのだ」
おれはほっとした。
「では、本気でわたしを暗殺者の仕事に選ばれたわけじゃないんですね?」
「え? いつもならそうだ。その任務に適している者は少ないからな。だが、きみの場合はきわめて真剣な話だ。なぜなら、きみがかけがえのない、非常にまれな資質を持っていることをわれわれはすでに知っていたからだ」
おれは自分のどこがそんなに特別なのかを考えてみようとしたが、だめだった。
「大尉どの?」
「つまりだな、きみはもちろん、いつかは捕まってしまうことになる。現在のところ、一人の暗殺者について、任務の成功は三・七回となっている……かなりの成功率だが、適任者があまりに少ないので、その率をよくしなければいけない。だがきみの場合、捕まって訊問されても、白状してしまわないことがすでにわかっているわけだ」
おれの顔に、感情がそのまま現われたにちがいない。訊問か! また? おれは最初にやられたやつで、まだ半分死んでいるというのに。ピーター隊長は優しくいった。
「もちろんきみは、また最終段階まで受けることはない。われわれはつねに暗役者を守る。楽に自殺できるようにも用意しておく。きみは心配しなくていいんだ」
信じられないかもしれないが、一度訊問で苦しんだおれにとって、かれの言葉は冷酷には聞こえなかった。むしろ、強い安心感を与えてくれた。
「どうやってですか、大尉どの?」
「え? いろいろ方法はあるさ。われわれのところの外科医は、きみの体に爆弾を仕掛けることもできる。だれかがきみを、非常に強く縛りあげたとき、意志の力で死ねるようにね。もちろん歯の穴の中にシアン化物とか何かをつめておくという昔からの方法もある……だが、秘密警察もなかなか賢くなってきて、口をあけて猿轡をかませたりするんだ。だが、方法はたくさんある。たとえばだな……」
かれは両腕を大きく開き、それを後ろに曲げたが、あまり後ろまでそらさなかった。
「……もしわしが、ある程度まで両腕を後ろに曲げると、よほど注意して見ていなければわからないのだが、肩甲骨のあいだにある小さなカプセルが破裂して、わしはこの世に別れを告げることになる。しかし、きみがわしの背中を一日じゅうたたき続けても、それが割れることは絶対にないのだ」
「ええと……あなたも暗殺者になられたことがおありなのですか、大尉どの?」
「わしが? どうしてわしにできるんだ、こんな仕事についていて? だが、発見される危険の多い立場の隊員はみな、つけているよ……かれらにわれわれがしてやれるのは、それが最小限のことだからな。そのほかにも、わしは腹の中に爆弾をかかえているんだ……」かれは太鼓腹をたたいた。「……必要となれば、部屋じゅうにいる連中を道連れにできるわけさ」
おれは意気ごんでいった。
「わたしも、それがあれば先週使えたんですが」
「きみは助かった、そうじゃないのか? 命を粗末にするものじゃないよ。必要になれば、きみにもそうしてあげるさ」かれは立ちあがり、出ていこうとした。「当分のあいだは、死刑執行人に選ばれたことをあまり考えないようにしろ。心理評価グループがまだきみを試験しなければいけないんだし、かれらは手ごわくて、なかなか信用しない連中だからな」
かれにそういわれても、おれはもちろんそのことを考えたが、気にするのはやめた。おれはそのあとすこしして軽い任務につき、「偶像破壊者」の校正刷りを何日か読まされた。それは、洒落た、ちょっと批判的で、内部から物事を改善しようとする少部数の新聞で、カバル党の宣伝布教の道ならしといったものだった。
これは、ごもっとも、しかし……℃ョの新聞で、表向きは預言者に忠誠を誓いながら、頑迷で偏狭な人々の心に疑問を起こさせるように編集されていた。その要点は、何が書かれているかではなく、いかに書かれているかにあった。以前おれは、それを王宮内でも読んだことがあった。
おれはまたそのあいだに、ニュー・エルサレムのカバル党地下司令部の驚くべき組織の一端を知ることにもなった。おれたちの上のデパートは、カバル党の元党首が所有しているもので、おれたちと外部世界とのあいだの極度に重要な連絡手段となっていた。店の陳列商品がおれたちに食事と衣服を与え、店が商売に使っているテレビ電話回路に中途接続することで外部と連絡できたし、モニターされても大丈夫なようないいまわしをするか、暗号を使えば、大陸横断通話をおこなうこともできた。
また、デパートの配送用トラックは、秘密司令部へ、もしくはそこから、避難者をこっそり運ぶことにも使えた──おれは、ジュディスもその方法で逃亡したのを知った。ゴム長靴というレッテルをはられた荷物としてだ。デパートの多様な商業活動は、おれたちの広範囲な活動に対する完全な、そしてもっともらしい隠れみのになったのだ。
革命を成功させることは、一大事業だ──間違いは許されない。現代の複雑な、高度に産業化された国家においては、見捨てられた廃墟の中に灯された蝋燭をかこんでささやきあう、ひとつかみの反逆者たちによって革命が達成されるものではない。それには無数の人員、補給品、近代的な機械や武器が必要だ。そして、それらの要素を効果的に運用するためには、忠誠心と秘密保特に優れた組織がなければいけない。
おれはずっと忙しかったが、仕事自体は、本来の仕事を待つあいだの臨時の仕事にすぎなかったので、図書室に潜りこむ時間はあった。おれはそこでトム・ペインを探し、そこからパトリック・ヘンリーやトマス・ジェファーソンそのほかの連中を知った──おれにとって、まったく新しい世界が開けてきたのだ。
しかし最初のうちは、そこで読んだものに書いてあることの可能性を認めることができなかった。警察国家が国民に対しておこなうあらゆる悪の中でも、歴史をゆがめるほど有害なものはなかろうとおれは思う。
たとえば、おれは初めて知ったのだが、以前のアメリカ合衆国は、血に飢えた悪魔の使徒に支配されていたのではなく、そして初代の預言者が怒りに奮起してそいつを追放したものでもなく──自由民の集まる共同社会であり、国民の平和な同意にもとづいて政治が決定されるところだったのだ。この最初の共和国が聖書どおりのパラダイスであったというのではないが、おれが学校で習ったようなものではまったくなかったのだ。
おれは、預言者の検閲官によって禁止されている書物を生まれて初めて読んだ。そして心に受けた衝撃はひどいものだった。ときどき、だれかがおれを見ているのではないかと後ろをふりむき、恐怖を覚えることがあった。
おれは、あらゆる専制政治のかなめが秘密主義であることを、かすかに感じはじめていた。権力ではなく、秘密主義……検閲制度だ。
どんな政府でも、その件に閲してはどの教会だろうと、人民に対して、どれを読んではいけない、これを見てはいけない、これを知ることは禁じる≠ニいうような政策を取るとき、どれほどその動機が神聖だろうと、結局は専制と弾圧をもたらすのだ。
心に目隠しをされた人間を支配するには、ほんのすこしの力があればいい。その反対に、強大な権力といえども、自由人、その心が自由である人間を支配することはできない。いかなる拷問でも、核爆弾でも、どのようなものでも、だめだ──自由人を支配することはできない。できるのは、せいぜいが殺すぐらいのところだ。
おれの思考は、形式的な論理にとらわれなかった。次々と新たな考えが、洪水のようにおれの頭を満たした。新しいものほど、その前のものより面白く思えた。
この世界ではまるで神話となっている惑星間旅行は、全能の神を冒涜するものとして初代預言者が禁止したためにおこなわれなくなったのではなく、財政的に赤字で、預言者の政府が補助金を与えようとしなかったために終焉をむかえたことを、おれは知った。
しかも、異端者たち=iおれは、まだその言葉を心の中で使っていた)は、いまなおときたま調査船を送り出していること、火星や金星にはいまも人類がいることが、暗に語られている文章もあった。
おれはそれを読んで興奮のあまり、みんなが陥っている苦境をほとんど忘れてしまうところだった。もし主の天使隊員に選ばれていなければ、おれはたぶんロケット学のほうへ行っていたことだろう。おれはそういうものが得意だった、数学や機械技術の知識と結びついた敏速な反射動作を必要とするものは何でも。ひょっとしたら、合衆国はまた宇宙船を持つようになるかもしれない。たぶんおれは……
だが、そのような想いは、次々と現われる新奇なものに消されていった。外国の新聞──なんということ、おれは異端者たちが読み書きできるのかどうかもはっきり知らなかったのだ。
ロンドン・タイムズは信じられないほどわくわくする読物を載せていた。英国人たちは、昔はどうであれ、いまは人間の肉を食べていないのだということを、おれはようやく納得する気持ちになった。かれらは驚くほどおれたちに似ているが、ただ、かれらが何でも好きなように行動できるのはショッキングなほどで──タイムズには、政府を批判する記事さえ、いくつも載っているのだ。そしてまた、かれら異教徒の教会の司祭が署名入りの記事もあり、それは教会での祈りに出席しない人々を批判していた。
そのどちらにおれはより当惑したか覚えていないが、とにかくこの二つは、開放的な無政府状態を示しているように思われる。
心理分析委員会はおれが暗殺者にむいていないという判定を下したことを、ピーター隊長はおれに知らせた。おれは安堵とともに怒りを覚えた。おれにどんな欠陥があって、その任務につかせられないというんだ? おれは、自分の人格を傷つけられたような気がした──そのときは。
ヴァン・アイクはあっさりといった。
「落ち着けよ……かれらは、きみの個性調査表にもとづいて、ダミーで実験したのだ。すると、きみが初めての任務で捕まる確率は五十パーセントだというデータが出た。われわれとしては、人員をそう早く失いたくないんだ」
「でも……」
「平和《ピース》を、坊や。おれは、きみを総司令部付きに送り出すことにした」
「総司令部? それはどこにあるんですか?」
「向こうに着けばわかるさ。すぐ、幹部変装係のところへ出頭しろ」
ミュラー博士が幹部変装係だった。おれは、どんな変装をするのかと博士に尋ねた。
「きみを調べてみるまでは、わかるはずがないだろう?」
かれはおれの寸法を測り、写真を撮り、声を録音し、歩きかたを調べ、それらの特徴をパンチカードに打ちこんだ。
「さて、これからきみの双子を探しだすわけだ」
おれは、カード選別機が何千枚ものカードを選り分けるのを見つめていた。どうもおれはきわめて特別な特徴を持っているがために、うまく変身できるほど似ている男はいないのかもしれないと思い始めたころ、二枚のカードがほとんど同時に飛び出した。機械がとまるまでに、合計五枚のカードが籠に入った。ミュラー博士は、それを見て微笑した。
「うまい組合せだ……合成が一人、生きているのが二人、死者が一人、もう一人は女性だ。われわれは女をこの仕事に使うことはできないが、これは心にとめておこう。きみの変装できる女性がいるということは、いつか何かの役に立つかもしれないからね」
「合成って、何ですか?」
と、おれは尋ねた。
「え? ああ、偽造の記録や経歴をもとにして、非常に慎重に作られた合成人間だ。かなりの危険がともなう……公文書に手を加えることも含まれているからな。実在しない人物の身元や経歴を完全なものにすることは実際上無理なので、なるべくなら合成は使いたくない。実在の人間の本当の経歴を利用するほうが望ましいのだ」
「じゃあ、なぜ合成を使うのですか?」
「そうしなければいけない場合があるんだ。たとえば、脱出者を急いで移動しなければいけないのに、その脱出者にぴったり合う実在の人間かいないというようなときだ。それでわれわれは、タイプが異なった非常に多くの合成を用意するように努力しているのだ。ところで……」博士はカードをめくりながら、つけ加えた。「この中から二つを選んで……」
おれはさえぎった。
「ちょっと待ってください、博士……死んだ人間を、なぜカードに入れてあるのですか?」
「かれらが、法律上は死んでないからだ。隊員の一人が死んでも、その事実を隠すことができる場合には、かれの公的な存在を将来利用できるかもしれないので、保留してあるのだ。ところで……きみは歌を唄えるかね」
「あまり上手じゃありませんが」
「すると、これは除外だ。バリトン歌手だからね。わたしは、きみのいろいろな面を変えられるが、きみをうまい歌手にすることはできないからな。選り好みはできないってわけだ……繊維製品の卸売りセールスマン、アダム・リーヴズはどうだ?」
と、博士は一枚のカードを取り上げた。
「ぼくでもやりこなせるとお考えですか?」
「やれるとも……わたしが最後まで仕上げればね」
それから二週間後、おれは自分の母親でさえ息子だとわからないだろうと思われるようになった。リーヴズの母親も、かれとおれの見分けがつかないだろうと思った。
二週目、リーヴズ自身も一緒に仕事ができるようになった。おれは調べていくうちに、かれが非常に好きになった。気性が優しく、おとなしい、内気なたちの青年なので、おれより小さく感じさせたが、身長・体重・骨格などは本当におれと同じだった。おれたちは、顔しか人工的に似させられていないのだ。
つまり、最初はってことだ。おれは簡単な手術によって、自然が与えたもうた形よりすこし耳を立てた。同時に耳たぶをすこし削った。リーヴズはすこし鷲鼻なので、おれの鼻梁の皮膚の下にワックスをすこし入れて、形を似せた。歯科医にいじられたかれの歯に合わせて、おれもほうぼうの歯にキャップをかぶせなければいけなかった。おれが本当に気にしたのは、それだけだった。おれの肌もすこし漂白しなければならなかった。リーヴズの仕事は、あまり太陽の下では行なわれないからだ。
だが、肉体的に似せることでもっとも難しい部分は、人工の指紋だった。不透明で軟らかい肉色のプラスティック剤を指先につけて、リーヴズの指紋から作った鋳型をその指にはめる。なかなか面倒な仕事で、ミュラー博士がいいというまでには、一本の指に七回以上もおこなわなければいけなかった。
それは、ほんの始まりにしかすぎなかった。いまや、おれはリーヴズを真似て動作することを学ばなければいけなかった──かれの足取り、かれの身振り、かれの笑いかた、かれのテーブル・マナーを。おれは、役者として生計をたてるのには向かないなと思った──おれのコーチはまったくだといわんばかりに同意し、そしてこういった。
「くそっ、ライル、まだわからないのか? きみの命がかかっているんだぞ。きみは、しっかり身につけねばならんのだ!」
「でも、ぼくはリーヴズそっくりに真似をするだけだと思っていましたが」
と、おれは弱々しく抗議した。
「真似だと! それこそ問題な点なんだ……きみは、リーヴズの真似をしている。それは、義足のように偽物だ。きみは、リーヴズにならなければいけないんだ。やってみるんだ。きみの売上げ実績を心配し、この前のビジネス旅行を考え、手数料や割引率や売上げ目標のことを考える。さあ、やってみるんだ」
おれは、暇さえあればリーヴズの業界の実情を調べた。実際にかれに代わって繊維製品を売らなければいけなくなるからだ。おれは商売全体のことを学ばなければならず、そこには見本を持ち歩き、小売商に選択させるだけでなく、ずっと多くのことがあるのを知った──おれは一デニールがいくらといったことさえ知らなかったのだ。この課程が終わる前に、おれは商売人に対して新しい尊敬を持つようになっていた。それまでいつも、売ったり買ったりするのは簡単な仕事だと考えていたが、おれはまたも間違っていた。
おれは古い録音講義を使い、ベッドの中でもイヤホンをつけていなければいけなかった。そのおかげでよく眠れず、朝になって目を覚ますと、頭が割れるように痛み、手術のあとのまだ治りきっていない耳が、腫れものができたようにうずいた。
しかし、そのすべてが役に立った。わずか二週間のうちに、おれは骨の髄まで、旅まわりのセールスマン、アダム・リーヴズとなった。
ピーター・ヴァン・アイク支部隊長は、おれにいった。
「ライル……リーヴズは、今日の午後、シンシナティ行きの〈コメット〉に乗ることになっている。用意はできているか?」
「はい、隊長」
「よろしい。命令を復唱しろ」
「わたしは、わたしの……つまり、かれの……ここから西海岸への販売計画を実行します。ユナイテッド繊維のサンフランシスコ支店に入ったあと、休暇をとって旅行に出かけます。アリゾナ州のフェニックスで、サウスサイド聖堂での礼拝式に出席します。そのあとそこでぶらぶらして司祭に会い、その説教に感銘を受けたと感謝します。その間に、わたしは党の決まったやり方で正体を知らせます。かれはわたしを総司令部に送り届けてくれるはずです」
「そのとおりだ。ところで、きみを転任させるついでにメッセンジャーの役を頼みたい。すぐに精神力学研究室へ出頭しろ。主任技術者がきみに教える」
「はい、隊長」
支部隊長は立ち上がり、机をまわっておれのそばにやってきた。
「では、ジョン、気をつけてな。神の御加護がきみにありますように」
「ありがとうございます、隊長。ええと、わたしが持っていくその伝言は、重要なものなのでしょうか?」
「非常に重要だ」
かれはそれだけしかいわず、おれはちょっと苛立たしくなった。あと数分でわかることを秘密にしておくのは、馬鹿げていると思ったのだ。だが、それは思い違いだった。精神力学研究室に入るとおれは、のんびり坐って、催眠暗示を与えられる態勢になれといわれた。
やがておれは、催眠術を解かれたあとのいつもの爽快な気分で目を覚ました。
「これで終わりだ。きみは命令を実行しろ」
と、おれはいわれた。
「しかし、ぼくが持っていくはずの伝言はどうなっているのでしょう?」
「きみは、もう持っているよ」
「催眠術で? しかし、ぼくが逮捕されて、調べにあたる心理訊問調査官になすがままにされるなんてことになったら!」
「いや、その心配はない。ある対をなす合言葉で鍵をかけてあるんだ。きみは、その言葉を聞くまで、絶対に思い出せない。調査官が二つの言葉を正しい順序で当てるというのは、まずありえないことだ。したがってきみは、眠っていようと起きていようと、その伝言を洩らす心配はないのだよ」
おれは、重要な伝言を頼まれるのなら、自殺用の処置≠ほどこされるのだと思っていた──もっとも、どのように処置されるのかは、そのときになるまでは知らなかった。毒薬ぐらいしか思いつかなかったし、警官が優秀であれば、それもほとんど役に立たない方法だ。でも、その伝言を洩らすことができないのであれば、なにも危険なことをする必要はない。おれは毒薬をくれとなどはいわなかった。おれはとにかく、自殺をするようなタイプではないのだ──悪魔がやってきたって、おれを引きずっていくしかないだろう……
ニュー・エルサレムのロケット空港は、多くの古い都市にあるものよりずっと簡単に行ける。おれたちの司令部が隠されているデパートのすぐ前に、チューブの駅があった。おれがあっさりと店から出て街路の歩道橋を渡ると、そこにロケット空港行き≠ニ表示された乗車場があった。
そこで空いたカートリッジが来るのを待ち、荷物を積みこみ、中に入って体をベルトでとめる。乗客係がカートリッジをしめた。すると、あっというまに空港に着いた。
おれは切符を買い、空港警察署の前にならんだ列の後尾についた。不安に襲われていたのは認めよう。おれの旅券が正当なものであることを確認してもらうのに、何も面倒がおこるはずはないし、それを担当している警官は、陸軍から脱走した士官ジョン・ライルを探しているにちがいないのだ。しかし、かれらはつねにだれかを探しているものだから、手配人のリストが長すぎて、おれを調べる余裕がふだんよりなくなればいいがと祈った。
列の進みかたはのろかった。悪い兆候に思われた──特に、何人かが列からつまみ出されて、警察署の手すりの後ろに待たされるのを見たときは。気分はくらくなり、荷立たしくなった。しかし、待たされること自体が、おれに自分をおさえる時間を与えてくれた。警官に書類をつき出すと、腕時計を見上げ、もう一度腕を見た。
警官はおれの書類を、のんびりと綿密に調べつづけた。やがて、かれは顔をあげて、いった。
「飛行機は心配いらんさ。われわれが乗客を調べ終わるまでは、出発できないんだから」そいつは、カウンターにおかれているパッドを、おしてよこした。「あんたの指紋をどうぞ」
おれは何にもいわずに、それを渡した。かれはそれを、おれの旅券の指紋とくらべ、ついでリーヴズが一週間前にここへ着いたときに残していった指紋とくらべ合わせた。
「結構です、リーヴズさん、いい御旅行を」
おれはかれに礼をいって離れた。
〈コメット〉は、それほど混んでいなかった。おれは、だいぶ前よりの窓際の席を選んで腰かけた。そして、神聖都市《ホーリー・シティ》紙の夕刊を開こうとしたとき、だれかがおれの肩をたたいた。
それは警官だった。
「ちょっと出ていただけませんか?」
おれは他の男性乗客四人とともに外に出された。その警官はごく丁寧な口調でいった。
「すみませんが、そちらの四人の方は、もう一度確認のために署のほうにおもどりください。荷物は運ばせますし、乗客名簿の変更もおこなわせます。切符は、次の便にも通用いたします」
おれは、さけび声を洩らした。
「でも、今日じゅうにシンシナティへ行かなくちゃいけないのに!」
かれは、ふりむいた。
「すみませんな……あなたはリーヴズさんでしたね? ええと……身長と特徴は合っているのですが……もう一度、旅券を見せてください。あなたは、先週ここに到着されたのでしたな?」
「そうです」
かれは、おれの旅券に目を通した。
「ああ、あなたは火曜日の朝、〈ピルグリム〉で着かれたのでしたね。すると、同じ時刻に二つの場所にいたはずはないのだから、嫌疑は晴れたことになります」かれは、おれに旅券を返した。「もう一度お乗りください。お手数をかけました。ほかの方はこちらへ来ていただきます」
おれは席にもどって、新聞をひろげた。数分後にロケットの轟音がひびき、西にむかって飛び立った。おれは心の動揺と安心感を隠すために新聞を読みつづけたが、そのうち記事そのものに興味を覚えはじめた。
今朝、トロントの新聞を地下で読んできたばかりのおれには、そのコントラストは驚くべきものだった。おれは、外部の世界がほとんど存在していない世界にもどってきたのだ。この世界で外国での出来事≠フニュースと呼ばれるものは、わが国から外国に出す使節団のバラ色の報告と、異教徒たちのあいだでおこった残虐な事件に関する報道からなっていた。
使節団を出すために毎年支出されているあれほど多額の金は、いったいどこへ行ってしまうのだろうと、おれは不思議に思った。ほかの世界の新聞を信じるなら、こちらの使節団が存在していることさえ気づかれていないようなのだ。
それからおれは、嘘だとわかる項目を飛ばしてその新聞を読み、読み終えたころ、〈コメット〉は電離層をつき抜けて、シンシナティへ降下しはじめた。おれたちは太陽に追いつき、ふたたび日没にめぐりあった。
おれの家系には、行商人がわんさといたのではないかと思う。とにかくおれは、シンシナティでリーヴズの受持ち区域を守ったばかりでなく、かれの割当を越える成績を上げたのだ。手堅い小売商人にヤールものの在庫をふやすべきだと説き伏せたときの喜びは、軍隊生活で味わえぬものがあった。おれは自分の変装に関する危惧をかなぐり捨て、繊維製品のことだけを考えた。商品を売ることは、単なる生計の道でなく、ゲームであり、楽しみでもあるのだ。
おれは予定どおりカンザス・シティにむかって出発し、警察署で旅券のビザを取るのに何の苦労もなかった。検問が厳しいのは、おそらくニュー・エルサレムだけなのだと、おれは考えた。ここから西では、元士官であり紳士であったジョン・ライルを捕えようと待ちかまえている者などだれもいないはずだ。かれは何千人もの尋ね人の一人であり、書類綴りの中に消えてしまっているのだ。
カンザス・シティへのロケットは相当混んでいた。おれは、三十代半ばの体格がいい男性旅客の横に坐った。腰を下ろすとき、たがいにちらりと相手を品定めしただけで、どちらもすぐ自分のことに専念した。
おれは折りたたみテーブルで、シンシナティでの多忙で有益な日々のあいだにたまった注文書その他の、書類の整理を始めた。隣りの乗客は体を後ろに倒して、前方の壁に取りつけてあるテレビ・タンクでニュース放送を見ていた。
十分ほどたったころ、おれは脇腹をこづかれて、あたりを見まわした。隣りの乗客がテレビ・タンクを指さした。そこには、群衆で埋められた大きな広場の光景が映しだされていた。金と深紅色の預言者旗と三角の司教旗が塔の上にひるがえっている壮大な神殿の石段にむかって、群衆が押しよせていく。見つめていると、群衆の最初の波が、神殿の石段にあたってくずれた。
そのとき、巨大な正門のわきの扉から、神殿警備兵の一隊が駆け出してきて、広い石段の上のテラスに三脚を据えつけた。次の瞬間、画面は別の視点に切り変わった。おれたちのほうにむかって押しよせてくる群衆の顔を上から見下ろしている──神殿の上のどこかに望遠レンズがあるらしい。
続いて映し出された光景を見て、おれはかつて自分が軍服を着ていたことがたまらなく恥ずかしくなった。神殿警備兵たちは、群衆を即死させずに、狙いを低くして、次々に群衆の足を焼きはらっていた。第一波が石段を駆け上がってきた──と思うと、倒れ、焼きつくされ、切株のようになった両足を痙攣させている。
ちょうど画面の中央に若い男女の二人連れが映っていた。二人は手を取り合って走っていた。熱線が横に動くと、かれらは一緒に倒れた。
彼女はそのまま動かなかった。男は、一瞬前まで両膝だったものの上にかろうじて上体をおこし、瀕死の歩みでもって二歩進んでから、彼女の上に倒れた。それから彼女の顔を引きよせようとする──そこで、画面は変わり、広角レンズによる広場の眺めとなった。
おれは、前部座席の裏側にかかっているイヤホンを取り、耳にあてた。
「……ミネソタ・ミネアポリスです。事態は完全に掌握されており、応援部隊の必要はないものと思われます。ジェニングス司教は戒厳令を宣言されましたが、悪魔の手先どもはぞくぞくと検挙され、秩序が回復されています。祈祷と断食の期間がすぐに始められるでしょう。
ミネソタ・ゲットーは閉鎖されていますが、あらゆる地区の最下層民は、将来の暴動を予防するため、ワイオミングとモンタナの居留地に移動させられることになることでしょう。こうした措置は、現人神預言者の神聖な規則に背こうとするいたるところの不定の輩に対する警告でもあります。
|雀は落ちない《ノー・スパロー・シャル・フォール》<jュース・サービスによるこの実況放送は、神の恩寵に包まれた最良の家庭用品販売者神の国の商業連盟≠フ提供でお送りしております。あなたの教区にも、暗闇の中で奇蹟のごとく輝く預言者の像を、ぜひおまつりください! 放送局気付けで一ドルをお送りくだされば……」
おれはイヤホンのスイッチを切り、元の場所にかけた。なぜかれらは、最下層民を目の敵にするのだろう? あの暴動は、最下層民が起こしたものではなかったのに。
しかし、おれは口をつぐんで、まず隣りの乗客に語らせた──そいつは激しい口調で話しかけた。
「当然の報いですよ、あのどうしようもない馬鹿者どもが! あんな堅固な陣地にむかって素手で突進するとはね」
かれは声を低め、おれの耳の中にささやきかけるようにした。
「なぜやつらは、暴動を起こしたんでしょうね?」
とだけ、おれは反問した。
「え? 異教徒のやることに理由も何もありませんよ。気が狂っているんですから」
おれは、しっかりうなずいた。
「まったくですね……それに、異教徒でも正気なら……そんな連中がいればの話ですが……政府がいい政治をやっていることはわかるはずですよ。景気はいいし」おれは幸せそうにブリーフ・ケースをたたいた。「少なくとも、ぼくにとっては、主の御名を讃えよです」
おれたちは、それからしばらく、景気やなんかについて話し合った。おれは、話をしながら相手を観察した。ちょっと見たところ、ありきたりで保守的な、社会の指導的な市民タイプだが、どこか心に引っかかるものがある。こちらのやましさのせいだろうか? それとも、追われている者が待つ、第六感みたいなものだろうか?
かれの手に視線が行ったとき、何かに気づいたような感じがした。だが、べつだん変わったところはない。
だが、しばらくするうちに、ごく小さなことがおれの注意を引いた。そいつの左手中指第二関節の皮膚が、全体にすこし硬くなっている。おれ自身もはめていたことのあるウエスト・ポイントのクラス・リングのような、ぶあつい指輪を何年もはめていた跡だ。
もちろん、印形のついたぶあつい指輪をはめている人は大勢いるから、それは何の意味もないことだといえる。現に、おれもそんなのをはめている──もちろんウエスト・ポイントの指輪ではなく、リーヴズのものだが。
だが、因習に染まったこの薄のろは、習慣としてはめていた指輪をどうしてはずしてしまったのだろう? 取るに足らぬことだが、おれは何となく気になった。追われる獣は、小さな兆候を敏感に覚ることによって生きのびるのだ。ウエスト・ポイントでおれは、心理学の成績があまりよくなかった。その学科がだめだったばかりに、候補生優等章をつけそこなったのだ。しかしおれの習ったものがたとえどれほど少なくても、いまはそれを使ういいチャンスだ……それで、かれについて気づいたことを心の中でくりかえしてみた。
かれが最初に述べた意見は、堅固な陣地にむかって突進していくのは無鉄砲きわまるというものだった。その考えかたには、軍人的な匂いがある。しかし、そうだからかれが士官学校出身者だ、ということにはならない。
その反対に、陸士出の男なら、四六時中その指輪をはめている。墓に埋められるときも、休暇で平服を着るときも……自分の身元を知られたくないという、はっきりした理由があるとき以外は。
かれとまた打ち解けて話し合いながら、不充分なデータをどのように評価すればいいかと心を悩ましていると、スチュワーデスがお茶を持ってきた。ちょうどそのとき旅客機は、宇宙の端から下りて空気を噛み始め、カンザス・シティへの長い滑走に入った。そのおかげで機体がすこし揺れ、彼女は熱いお茶をかれの太腿にこぼした。かれはさけび、低く、罵りの声を洩らした。彼女にその言葉がわかったかどうか怪しいものだ。
だが、おれにはわかった──おれはハンカチでかれを拭いてやりながら、狂おしく考えた。かれが洩らした「B・Jの薄ら馬鹿!」というのは、生粋のウエスト・ポイント・スラングだ。
となると、あの指輪のたこは偶然の一致ではない。かれは陸士出身の陸軍士官であり、民間人になりすましているのだ。当然、かれが何か秘密の任務についていることはまず間違いない。おれが、その任務の目的ではないのか?
おい、落ち着け、ジョン! かれの指輪は、宝石店へ修理に出しているのかもしれないじゃないか。三十日の休暇で家に帰るところかもしれないぞ。だが長話のあいだに、かれは言葉のはしばしに自分をビジネスマンだとにおわせていた。となると、かれは身分を隠している情報部員だ。だが、たとえおれを追っているのではないとしても、かれはおれの前で二度もまずい失敗をやった。たとえ、どれほど気のきかない(たとえば、おれ自身のような)新米でも、なりすますべき身分を保つのに二度も失敗したりはしない──そして、陸軍情報部は気のきかないようなことはしない。そこは、国内でもっとも鋭敏な頭脳が動かしているところだ。
よろしい、すると──あれは偶然の失敗ではなく、計算された芝居だ。それにおれが気づき、偶然だと思わせることが狙いなのだろうか。なぜだ?
おれが、かれの求めている男かどうかはっきりしないというような、単純なことではないだろう。それなら、人は無実であると証明されないかぎり有罪だという、昔からの便利な鉄則によって、かれはあっさりとおれを逮捕し、訊問にかけたはずだ。
では、なぜだ?
考えられる理由はただ一つ、かれらはおれをしばらく自由に泳がせ──おじけづいて、隠れ家へ逃げこむのを待ち……それで、仲間の反逆者たちを一網打尽にするのだ。これはだいぶ飛躍した仮説だが、すべての事実にあてはまる説明はそれだけのようだった。
隣りの乗客がおれを尾行している情報部員にちがいないという結論に達したとき、船酔いにもたとえられる、冷たい、胃のねじれるような恐怖にとらえられた。だが、かれらの動機はだいたいお見通しなんだと思うと、すこし落ち着いた。
ゼブならどうするだろう? 陰謀を企てるときの第一原則は、異常な行動を絶対にしないことだ……≠カっと坐って、黙っていろ。もしこの警官がおれを尾行したいなら、カンザス・シティのあらゆるデパートの中を引きずりまわして──おれが繊維製品を売りつけるところを見せてやる。
それでも、カンザス・シティで飛行機を降りたとき、おれの胃袋はねじくれた。顔を殴りつけられるよりもっと恐ろしい、肩をそっとたたかれるはめになるのではないかと予想していたのだ。だが、何ごともおこらなかった。
かれは、おざなりに神の恵みを≠ニ挨拶して追い越していき、おれがまだ旅券にスタンプを押してもらっているあいだに、タクシー乗り場へのエレベーターへ向かっていった。だからといって、おれは安心しなかった。かれが交替者におれを示す方法はいくらでもあったはずだ。だがおれは、できるだけのんびりとチューブで、ニュー・ミュールバッハまで行った。
それからおれは、カンザス・シティで快適な一週間を過ごした。仕事の割当量をこなし、かなり大きな得意先を一つ獲得した。
そのあいだ、怪しい人影にたえず気をくばっていたが、いまにいたるまで、本当に尾行されていたのかどうかはわからない。もし尾行している者がいたら、そいつはひどく退屈な一週間を送ったことだろう。
一週間前の出来事は結局のところ、おれの妄想と不安な神経がかきたてたにすぎないと思いながら、デンヴァー行きの旅客機に乗った。あのときの乗客の姿が見えないのを確認して、やっと心の平安を得た。
旅客機は、デンヴァーから何マイルも離れたオーロラのすぐ東にある新しい空港に着陸した。警察は形式的におれの書類と指紋を調べた。そして、おれが紙入れをポケットにしまおうとしたとき、デスクの警部補がとつぜんいった。
「すみませんが、左の腕をまくってください、リーヴズさん」
おれは、ほどよい当惑と苛立ちを見せながら、袖をめくり上げた。白衣の衛生兵が検査用の血液を取った。警部補はいった。
「ただの予防検査です……いま公衆衛生局は、斑点熱を撲滅しようとしていますのでね」
おれ自身は公衆衛生法をみっちり学ばされていたから、それが怪しげな口実なのはわかっていたが──繊維製品を扱うセールスマンのリーヴズは、そんなことを知るわけもなかろう。しかし、口実がいくら怪しかろうと、血液検査がおこなわれているあいだは警察署の一室で待てといわれた。おれはいらいらしながら坐り、十ccの血液で、いったいどんな危害がおれの身にふりかかるのかを考え──それがわかったら、どう対処すればいいのかを考えた。
考える時間はたっぷりとあった。状況はてんで明るくなかった。坐っているあいだに、おれの持ち時間はどんどんなくなっていく──だが、おれを引きとめている口実が理屈にかなっているので、抗議を申し入れて逃げ出すこともできない。へたにあがけば、敵の思うつぼだ。じっと緊張して坐っていると、冷汗がにじみ出てきた。
その建物は仮設建築で、おれがいる部屋と警部補がいる事務所を仕切る壁は、プラスチックの薄板だった。話の内容はわからないまでも、その壁ごしに隣りの部屋の話し声は聞こえた。壁に耳をあてれば、かれらの話を盗み聞きできそうだったが、見つかったらどうしようと躊躇していた。その反面、やるしかないという気もしていた。
そこでおれは、椅子を壁ぎわに移して腰かけ、体重をうしろにかけて、肩と首のあたりが壁にぴたりとくっつくようにした。部屋にあった新聞を顔の前にひろげ、壁に耳をあてた。
こんどは、話し声がはっきりと聞き取れた。警部補は部下を相手に、道徳監督官が聞いたらすぐ逮捕され一カ月の謹慎処分にするような話をしゃべっていた──しかし、いくらか表現があかぬけているとはいえ、同じたぐいの話を王宮の中でも聞いたことがあったから驚かなかった。それに、他人の道徳問題に関心を持てるような状態でもなかった。ほかにもいくつか決まりきった報告や、男子用便所を見つけられないどこかの薄ら馬鹿が質問してきたこともあったが、おれ自身のことはまったく語られなかった。不自然な姿勢で壁にもたれかかっているため、首がしびれてきた。
おれの真正面の窓は開けはなされていて、ロケット空港がよく見わたせた。小型飛行機が空に現われ、ノーズ・ユニットでブレーキをかけ、四分の一マイルほど離れた地点にきれいに着陸した。パイロットは空港ビルにむかって滑走させ、窓から二十五ヤードと離れていないところにとめた。
それは〈スパロー・ホーク〉の緊急発進で、離陸用補助ロケット噴射装置を備えたラム・ジェット機のうちもっとも小型でスマートなものだった。その飛行機のことはよく知っていた。それとそっくり同じものを操縦して、陸軍の空中ポロ・チームの二番ポジションで活躍したことがあった──海軍とプリンストンを破って、おれたちが優勝した年だ。
パイロットは降りて、どこかへ立ち去った。おれは、その機体との距離を目算した。イグニションがロックされていなかったらいいが──くそっ! されていたらどうだというんだ? ショートさせることだってできるだろう。おれは開いている窓を眺めた。高圧電流が仕掛けてあるかもしれない。もしそうでも、やってみなければわからないわけだ。だが、それらしい電線や制御装置などは見あたらないし、こんなちゃちな作りの建物では、それらを隠すのは難しいだろう。たぶん、さわれば鳴りだす警報装置ぐらいはあるだろうが、セレニウム回路などは使ってないだろう。
おれがそんなことを考えているとき、隣りの部屋でまた声がした。おれは壁に耳をあてて神経を集中した。
「血液型は何だった?」
「一型です、警部補」
「それで合うのか?」
「いえ、リーヴズは三型です」
「ええっ! 中央研究所へ電話しろ。あいつを町へ、網膜検査に連れていかなければいかんぞ」
おれは凍りつき、それと知った。かれらは、おれがリーヴズでないことをはっきりと知ったのだ。かれらが、どちらかの目の網膜を走る血管パターンを撮影し、その写真を道徳調査局に電送したら、すぐにおれがだれかはっきりとわかる──その写真が、おれの指名手配とともにデンヴァーそのほかいたるところに送ってあれば、もっと早くにだ。
おれは、窓から外へ体を躍らせた。
両手で着陸したおれは、ボールのように回転し、ひらりと立った。警報装置を鳴らしてしまっていても、夢中で走っているおれには聞こえなかった。飛行機のドアは開いたままで、イグニションはロックされていなかった──まさに、苦しむ者への天の助けだ! おれは機体を所定の位置に移動したりする手間をかけず、追跡者がロケットの火炎で焼け死のうとどうなろうとかまうもんかと、いきなり噴射させた。その可愛らしい小型機は地面を激しくゆれながら突進し、おれはジャイロで機首を上げ、西にむかって飛び去った。
おれは、ラム・ジェットがうまく働く高度と速度を求めて、上昇を続けた。すばらしい飛行機に乗っていたし、あの警官たちからも遠く離れたので、すっかりいい気分になっていた。だが、ジェットで飛ぶための水平飛行に移ると、そんな馬鹿げた楽天的気分は消し飛んでしまった。
猫が犬に追われて木の上に逃れたら、犬が立ち去るまで下りられない。おれは、それと同じ状態にあるのだが、おれの場合、その犬は立ち去ろうとしないし、こっちもいつまでも空中に留まってはいられない。
いまごろはもう警報が出され、数分のうちに、いや数秒のうちに、おれの背後の四方八方で、警察のパイロットが飛行機を離陸させるだろう。おれが追跡されていることはまず間違いない。いくつものスクリーンに映っているこの飛行機のレーダー・ブリップは、コンピューターにデータとして入れられ、おれがどちらへ方向を変えようが突きとめるのだ。そのあとは──そう、命令に従って着陸するか、撃墜されるかだ。
おれの奇蹟的な脱走は、あまり奇蹟的ではなかったように思われてきた。それとも、あまりに奇蹟的すぎたというべきだろうか? だいたい、容疑者を窓からすぐ逃げられるような部屋にほうりっぱなしにしておくほどいい加減な警察署が、かつてこの国にあったろうか? おれの操縦できるジェット機をわざわざ窓のそばにとめ──イグニションのロックもせずに──おいていったのは、はたして偶然だったのだろうか? それにあの警部補が大声でしゃべったのは、おれが必ずそうするようにと仕向けるためではなかったのか?
おそらくそれは、おれをパニックにおとし入れようとする第二の、そしてドンピシャリの試みだった。たぶんだれかが、おれが〈スパロー・ホーク〉のこの型の操縦ができることを知っていたのだ。そいつの目の前に、おれの一件書類が大きく広げてあって、本人と同じぐらいおれの空中ポロの記録に詳しかったのだろう。
そうだとすれば、かれらはおれをすぐ撃墜してしまったりはしないだろう。おれが、かれらをまっすぐ同志たちのところへ案内することを期待しているからだ。
あるいは、ひょっとすると可能性は少ないが、これは本当の脱走かもしれない──うまく利用できれば。いずれにしても、おれは二度と捕まえられるつもりはないし、かれらを同志のところへ案内するわけにもいかない──死ぬのもだめだ。おれは重要な伝言を運んでいるのだから(と、おれは自分にいい聞かせた)。いまここで死んで、かれらを喜ばせる暇なんてない。
おれは受信装置を警察と航空機の波長に合わせて、耳を澄ました。デンヴァー空港とどこかの輸送機とが交信していたが、着陸しなければおれのパンツを吹っ飛ばしちまうぞと怒鳴る声は、まだしていなかった。もうすこしあとだ、たぶん──おれはスイッチを入れたまま思案をめぐらせた。
推定位置は、デンヴァーから七十五マイルほどのところで、西北にむかって進んでいる。離陸してからまだ十分とたっていないことに気づいて驚いた……アドレナリンの過剰分泌で興奮し、時間感覚が狂っていたのだ。ラム・ジェットのタンクはほぼいっぱいだ。経済的巡航速度を続ければ、ほぼ十時間、約六千マイル飛べる──もちろんそんな速度にすると、かれらはおれに石をぶつけることもできるだろう。
おれは一つの計画を考えついた。馬鹿げた、不可能に近い、絶望しなけりゃ出てこないようなものだが、それでもぜんぜん計画がないよりはましだ。おれは大圏コース指示計を読んで、ハワイ共和国へのコースをセットした。おれのジェット機は機首をわずかに南西へむけた。
それからおれは、燃料速度距離相関グラフを、ざっと計算した──ほぼ三千百マイル、時速約八百マイルで行けば、タンクは空になり、ロケット燃料とノーズ・ユニットでジェット燃料がなくなった機体を着陸させなければならない。危険だ。
それが気になるというのではない。地上のどこかで、おれが指定したコースと速度に自動操縦装置をセットしたらすぐに、サイバーネットワークにつながる分折機が人間の係員に知らせていることだろう。おれが、ハワイ自由州にむかって逃走中であること、これこれのコース、これこれの高度、その距離での最高速度で、と……そして、迎撃されなければ、六十分ほどするとサンフランシスコとモンテレーのあいだで太平洋岸を通過するだろうと。
だが、迎撃されるのは確実だ。いまのところ、敵は猫が鼠をもてあそぶようにしているが、そのうちサクラメント渓谷から地対空ミサイルが飛び上がってくることだろう。たとえそれが外れても(絶対ありえないことだが!)、おれのジェット機と同じか、あるいはそれより速度の速い有人飛行機が、燃料を満載して、航続距離など頓着せずに飛び立ち、その海岸上空でまちかまえていることだろう。その挑戦を避ける望みはまったくない。
いや、おれはそれを避けるつもりもなかった。むしろ、かれらがおれの乗っているこの小型機を攻撃し、空中でこっぱみじんにしてくれることを願っていた──なぜならそうなったとき、おれは搭乗しているつもりなどさらさらなかったからだ。
できそこない作戦のお次の段階は、この代物からどうやって脱出するかだ。推進飛行中のジェット機からの脱出は、慎重な技術者たちによってすべてが考案されている。脱出レバーを引いて、神に祈るだけでいい。あとは自動的にやってくれる。まず生存用カプセルが体を包んで密閉し、機体の外へ発射する。それから適当な気圧とスピードに達すると、減速用パラシュートが開き、搭乗者は非常事態用の酸素マスクをつけたまま、懐かしい神の大地にむかって快適に降下してゆくという仕掛けだ。
ただし、まずいことが一つだけある。カプセルと見捨てられた飛行機が同時に無電信号を送り始めることだ──カプセルは点を、飛行機は線を。それに、カプセルにはレーダー・ビーコンまで取りつけられている。
つまり、そんな脱出方法では、教会の中の牛みたいに目立つということだ。
おれは親指を噛み、前方を見つめた。そこは、これまでよりも荒涼とし、暗澹としているように見えた──もちろん、おれ自身の気分のせいだ。下では毎分十三マイルで地面が後方へ飛び去っている、いまこそ帽子を見つけて家に帰るべき絶好のときなのに。
もちろん、すぐそばにはドアがある。いつでもパラシュートをつけて飛び出せるが、飛行中にラム・ジェット機のドアをあけることはできない。かといって、脱出装置を使うこともできない。そんなことをすれば、飛行機は蹴飛ばされた子犬みたいな反応を示してしまう。時速八百マイルの微風は、たとえ六万フィートの高空でも無視できない。へたに飛び出したら、おれの体はドア・フレームでバターのように切れてしまうだろう。
その解答は、この小型機の自動操縦装置がどれぐらい優秀かということにかかっていた。優秀なロボット・パイロットなら、賛美歌を唄う以外は何でもやってのける。安物だと、コースと高度と速度を維持することはできるが、それが機能のすべてだ。おれが特に知りたいのは、この自動操縦装置が、ファイア・アウト≠フ際に対処する緊急回路を備えているのかどうかだった。なぜなら、おれはこのジェット機をとめ、外へ出て、飛行機自体はそのままハワイの方向にむかって飛びつづけさせたいからだ──もし、そうできるならだが。
ラム・ジェットは高速時以外は作動しない。ラム・ジェット機がロケット・モーターを併用しているのはそのためだ。それがなければ、まったく離陸できない。ジェット・エンジンを臨界速度以下に落とすと、噴射《ファイア》はとまってしまい、それをふたたび作動させるにはロケット・モーターか、あるいは、急降下して速度を増すしかない。これはなかなか厄介な問題で、これまでにもかなりの数のラム・ジェット・パイロットが、予期しないファイア・アウト℃膜フで昇天しているのだ。
〈スパロー・ホーク〉のこの型でのこれまでの経験は、何も教えてくれなかった。空中ポロ競技には、自動操縦装置を使わないからだ。信じてくれ、そんなものは使わないのだ。それでおれはダッシュ・ボードの中に指示マニュアルはないかと探してみたが、見つからなかったので、操縦装置自体を調べてみた。そのデータ・プレートには、何も書いてなかった。ねじまわしと時間の余裕があれば、それを開いてみて、回線を調べ、その能力をつきとめただろう──まあ、一日半ぐらいかければ。そういった自動操縦装置は、トランジスターとスパゲッティーをまぜあわせたかたまりなのだ。
おれは脱出装置から人間用のパラシュートを引っぱり出して、もぞもぞと着こみながら話しかけた。
「おい、おまえの回路の中に肝心の仕掛けが入っていたらいいんだがなあ」
オートパイロットは答えなかったが、答えたとしてもおれはさほど驚かなかったろう。それからおれは操縦席にやっともどり、自動操縦装置をおさえて、手で操縦した。もうあまり時間がなかった。すでに砂漠盆地を過ぎて、右前方にソルト・レイクの湖面が夕陽に輝いているのが見えた。
まず、おれは高度をすこし下げた。六万フィートでは空気が薄すぎるし、寒すぎる──人間の肺に酸素をおくる分圧も足りない。それからおれは、彼女の翼が折れたり、おれ自身も一時的な意識喪失状態に陥らないようにと、なだらかなカーブを描いて上昇しはじめた。おれは彼女を相当な高度まで持っていかなければいけなかった。ロケット・モーターを完全にとめ、彼女を急降下させて速度をつけ、そのジェット・エンジンに点火させるのが狙いだったからだ。彼女が垂直になってとまったとき、ファイア・アウト≠おこさせ──そのときに急いで脱出するのだ。別れを告げるとき、ロケット・モーターにだけは点火したくないはっきりした理由があった。
おれは彼女を上昇させつづけ、やがて地球を背にして横たわり、空をまっすぐ見ているようになった。おれはゆっくりとスロットルを絞ってゆき、三万フィートでファイア・アウトさせて、とまらせたかった──空気はまだ薄いが、呼吸できるところまでひと飛びの距離だし、おれと別れた彼女が急降下に入り、それでもユタ高原に墜落しないためには、それだけの高度が必要だった。
約二万八千フィートのあたりで、操縦装置が故障してきかなくなったときに感じる、ちょっと理屈にあわない絶望感を覚えた。とつぜん計器盤に赤いライトが光ったかと思うと、エンジンが両方とも停止した。脱出すべきときが来たのだ。
おれは座席の酸素ボンベを持ってゆくのを、あやうく忘れるところだった。あたふたと口にマウスピースをつっこみ、鼻にノーズピースをつけながら、おれはもう一方の手でドアをあけようとした──機体もおれも自由落下に近い状態にあるので、何もかもうまくいかなかった。失速しつつある弾道の頂点ではわずかな空気抵抗しかなく、おれの重さは数オンスといったところだ。
ドアは開こうとしなかった。おれはぎりぎりのところで、スピル・バルブをたたきつけることを思い出した。さっとドアは開き、おれはまるで引っぱられるように外に出た。おれはそこに、一、二秒ぶらさがり、頭上では大地が狂ったように回転していた。そのうち、ドアがたたきつけられるようにしまり、掛金がかかった──おれは、機体を蹴って遠ざかった。飛んだわけではない──おれたちは一緒に落ちていた、おれはただ蹴った。
頭を翼にぶつけたのだろう。一瞬意識を失い、気がつくと、機体から二十五ヤードほど離れた空中に坐っていた。ジェョト機はきりもみ状にゆっくりと回転しており、大地と空はおれのまわりでものうげに旋回していた。希薄な冷たい風が落下しているおれをなでていたが、まだ寒さは感じなかった。おれたちはしばらくのあいだ、じっと一緒に並んでいた──もしくは、何時間も。時間が停止していたのだ──それから、彼女はまっすぐ急降下に入り、おれから離れていった。
おれは目で追おうとし、落下に巻きおこる氷のような風に気がついた。目が痛かった。何かで読んだ眼球の凍傷を思い出し、両手で目を覆った。それでだいぶ楽になった。
とつぜんおれは恐ろしくなった。飛び出すのが遅すぎ、砂漠にたたきつけられようとしているのではないかというパニックに襲われたのだ。両眼を覆っていた両手をずらして、のぞいて見た。
いや、地面はまだずっと遠い。二、三マイルは離れているようだ。下はすでにだいぶ暗くなっているので、おれの推測はそう確かではなかったが。飛行機の姿もうまく見つけられなかったが、とつぜんジェットの火炎が見え、それとわかった。おれは目が凍りついてもいいやとばかりに、じっとそれを見つめ、心が高揚するのを覚えた。あの自動操縦装置にはやはり、ファイア・アウト≠フ際の緊急回路が組みこまれていたのだ。すべては計画どおり進んでいる。
その小さな恋人は機体を水平にもどし、機首をコースどおり西へむけ、いわれていたとおりの高度を取ろうと上昇しはじめた。おれは彼女が撃墜などされず、うまく飛びつづけ、清らかなる太平洋で最後をとげるようにと祈った。
おれは彼女のテイルパイプの光が視界から消えるまで見つめていたが、そのあいだも落下しつづけていた。
小型ジェット機の勝利が、恐怖を忘れさせた。おれは脱出するとき、パラシュートをできるだけ遅く開くようにしなければいけないことを知っていた。乗ってきたジェット機を追跡しているスクリーンに、脱出するおれ自身の体が第二のブリップになるかもしれない。だからそれを見ている者に、ジェット機が本当の緊急事態、ファイア・アウト≠起こしたのだと確信させるためには、できるだけ早く機体から離れ、降下してゆくところを見つけられないことだ。つまり、急速に降下して画面から消え、地面近くになって、肉眼では暗闇の中、地上レーダーでは、死角に入るまでは、リップ・コードを引かないことだ。
しかし、おれは一度もそんな遅延開傘降下《ディレイド・ジャンプ》をしたことがなかった。普通の降下ですら二度しかやったことがない。それは降下教官の指導のもとにおこなうやさしい訓練降下で、卒業のために全候補生に課せられるものだった。
目をつぶっているかぎり、特に気分が悪くなることはなかったが、早くリップ・コードを引きたいという思いは高まってきた。手はそのハンドルにのび、握りしめる。それから手を放せと自分の心にいったが、そうすることができなかった。おれはまだずいぶん高いところにいたから、その大きな目につきやすいこうもり傘を広げてのんびり降下していったら、間違いなく見つかってしまうのだ。
おれは、地上千フィートから五百フィートのあいだの高度でパラシュートを開くつもりだったが、神経がどうかなってしまい、そんなに待つことはできなかった。ほとんど真下に大きな町があった──ずっと上空から見たときの地形から判断すると、ユタ州のプロヴォだ。その町のまん中に着陸しないためにも、いまのうちにリップ・コードを引かなければいけないと思った。
そのときやっと、酸素マスクを外すことを思い出した。そうしなければ、歯をぜんぶ折ってしまうところだった。おれはボンベを体にくくりつけず、ずっと左手に抱いたまま落下していたからだ。それをしっかり体につけるだけの時間を取ることはできたろうが、実際にやったのは、畑とおぼしい方角にむかってそれを投げることだった。どこかの善良な市民の脳天に落ちるより、耕された土地に落ちてくれと願ってのことだ。それから、ハンドルを引いた。
恐ろしい一瞬、おれはパラシュートが間違った包まれかたをしていたのかと思った。ついで、それは開き、おれをノック・アウトした──それとも、恐怖で失神したのか。気がつくと、おれは装具でぶら下がり、地面が下のほうで揺れ、ゆっくりと回転していた。まだ高度は高すぎ、プロヴォの灯のほうへ流されているようだった。おれは深く息を吸った──罐入りの代物のあとの、本物の空気はうまかった──それから、パラシュートの紐を両手にいっぱい集めて、風をすこし抜いた。
おれは急速に降下しはじめ、着陸の際最大の浮力を得られるように加減した。地表は夕闇に覆われてよく見えなかったが、近くに迫っていることはわかった。おれは教本にあるとおり両膝を抱きかかえるようにした。だしぬけにたたきつけられ、ころがり、倒れてパラシュートに巻きつかれた。地上十四フィートの高さから、何もつけずに飛び下りたときの衝撃に等しいといわれるが、おれの場合はもっと大きかったように思えた。
おれは、砂糖大根の畑の中にあぐらをかいて坐り、左の足首をもんでいた。
スパイは必ずパラシュートを地中に埋めるから、そうすべきだったかもしれない。だが、そんなことをする気にはなれなかったし、それに道具が何もなかった。それで、畑の端で道路の下を走っている暗渠を見つけ、そこにつっこんでから、その道をプロヴォの明かりのほうへむかってとぼとぼと歩きだした。
鼻と右の耳から血が流れ、それが乾いて顔にこびりついていた。全身泥まみれで、ズボンがあちこち裂けていた。帽子はどこへ行ったかわからない──デンヴァーか、それともネヴァダのあたりか──左の足首はすこし捻挫しているようだし、右手はひどく皮がすりむけていた。だが腕白小僧がけがしたぐらいのもので、おれは爽快な気分だった。
歩きながら口笛を吹かずにはいられないほど気分がよかった。確かにおれはまだ追われている身分だが、預言者の監視員たちは、おれがまだ空高くにいて、ハワイに向かっているものと思っているのだ。少なくとも、かれらがそう信じてくれてることを望んでいた。いずれにしても、おれはまだ、自由で、生きており、ほとんど何のけがもしていない。
そして、追われている者にとってユタほどいいところはない。ここは初代預言者のモルモン教会迫害以来、異教徒と分離教派の集まる中心地だった。おれが、預言者の警察に直接見つけられさえしなければ、土地の者が密告することはまずないはずだ。
だが、トラックや地上車がやってくるたびに、溝の中に平たくなった。そして、市街地に入る前に道路から離れ、また畑の中に入った。おれは大きく迂回して、明かりの少ない裏通りを歩いて町に入った。消灯の鐘が鳴る時刻まで二時間しかなかった。夜間のパトロールが現われる前に、計画の最初の部分を実行する必要があった。
おれは、人に出会うのを避けながら暗い住宅地を一時間ほどさまよい歩き、やっと探していたものを見つけた──盗み出せそうな飛行車を。見つけたのは、フォードの自家用スカイカーで、空地にとめてあった。その隣りの家は人がいないようだった。
おれは陰のところをつたって、それに近づき、ドアをこじあけるのにペンナイフを析ってしまった──が、どうやら開けられた。イグニションはロックされていたが、おれもそんな幸運が二度も続くことを期待してはいなかった。おれは税金による実用一点ばりの教育を受けていたが、それにはICエンジンについての詳しい知識が含まれていたし、今回は急いでいるわけでもなかった。暗闇の中で、ロックを避けてショートさせるのに二十分かかった。
通りをすばやく偵察してから、おれは乗りこみ、補助の電気モーターを動かして静かに道路へすべり出ると、角をまわってから車のライトをつけた。それからは町での祈祷集会から帰る農夫のように堂々と車を走らせた。
それでも、町の境界にある警察の検問所にぶつかるのがこわいので、家がまばらになると、すぐ最初の広い野原に車を入れ、道路からだいぶ離れたところまで進んだ──とつぜん車輪が灌漑用の溝に落ちた。それが、おれの離陸地点を決定した。
咳きこみながらも主エンジンがかかった。ローターがキーキーと大きな音を立てて、その回転翼を広げた。溝にはまっているので離陸はぎごちなかったが、地面は下に離れていった。
おれが盗んだ車は旧式のおんぼろで、手入れも悪く、エンジンがいやなバルブ・ノッキングをおこしているし、回転翼の震動はどうも気にくわぬものだった。だがどうにか飛んだし、燃料はタンクに半分以上あるから、フェニックスまで飛ぶには充分だ。文句はいえない。
最悪なのは、航路を決めるのに必要な器具がまったくないことだった。旧式な、補正されていないスペリー・ロボットと、大きな石油会社がばらまく地図の去年の分の束があるだけだ。ラジオはあるが故障していた。
まあいい、コロンブスはもっとわずかな道具で新大陸にたどりついたのだ。フェニックスはここからほとんど真南の方向、約五百マイルの地点にある。目をつぶり、祈りながら風向きを推定し、ロボットの航路を設定して、五百フィートの実高度を保てと指示した。それ以上の高さではサイバーネットワークにひっかかる恐れがあるし、それ以下では地方の警官にとがめられる危険があるからだ。おれは、交通違反で切符を切られては困るときだから、航行ライトをつけておくほうがつけないでおくより安全だと考え、弱≠ノスイッチを入れた。それから、あたりを見まわした。
北のほうには追跡の気配がまったくなかった──明らかに、さきほど車を盗んだことは、まだ気づかれていないようだ。最初の盗難については──そう、あの愛らしい小型ジェット機は、もう撃墜されているか、それとも太平洋を遠く出たところだ。
考えてみれば、母親っ子だったおれとしてはずいぶん派手な犯罪歴を持つようになったものだ──殺人の事前および事後従犯、異端審問所長官に対する偽証、反逆、変装、二度にわたる大窃盗罪。それでもまだ、放火、なんだかわからないが聖職売買、それに強姦といったところが残っている。強姦は避けられると思うが、聖職売買のほうは、その意味がわかればやれるかもしれない。鼻はまた血を流していたが、おれはいぜんとして気分爽快だった。
神聖な修道女と結婚することは、制定法上の強姦かもしれないと思うと、おれはいい気持ちになった。それまでは、何ひとつ失いたくない。
プロヴォの南百マイルの地点を過ぎるまで、おれは操縦席に坐り、自動操縦装置をおさえて、町々を避けた。そのあたりから南は、グランド・キャニオンを越えて、昔の66%ケ路都市の廃墟に達するまで、人家はほとんどまれだった。思いきって、すこし眠ってみることにした。それでおれは、八百フィートの対地高度を指定し、森林や断崖を警戒するよう厳重に告げてから、後部座席へ行って横になり、すぐに眠りにおちた。
異端審問所長官が、目の前で血のしたたるロースト・ビーフを食べてみせておれの勇気をくじこうとしている夢を見た。かれはその一切れをほおばりながら、いった。
「のんびりするんだ。生のところをどうだ、それとも端のほうを切ろうか?」
おれはたまりかねて白状しようとし、そして目が覚めた。
冴えざえとした月明かりのなか、車はグランド・キャニオンにさしかかっていた。おれは急いで操縦席につき、高度についての指令を変更した──起伏の激しい丘陵や頂きが、とてつもない規模で続くところで、対地高度八百フィートを保たせようとすれば、その単純で小さなロボットは神経衰弱になり、涙のかわりに蓄電した電気容量を放電しはじめるかもしれない。
おれはしばらく景色に見とれていて空腹を忘れた。グランド・キャニオンを見たことがない人には説明しても仕方がないが──おすすめは、月夜に空からそこを見ることだ。
二十分ほどでそこを通過すると、また自動操縦に切り換えてから、計器盤の物入れやロッカーをあさりまわった。アーモンド・チョコレート・バーとピーナッツがすこし見つかったが、スカンクの生肉にでもしゃぶりつきたい気持ちのおれには、すばらしい御馳走だった……この前に食べたのは、カンザス・シティでだったのだ。それを平らげ、後ろへ行って寝た。
ロボット・パイロットに目覚ましをかけておいた記憶はないが、日の出直前に起こされたところをみるとそうしておいたにちがいない。砂漠の夜明けも観光客には貴重な見物だが、おれは航法計測に忙しくて、ちらりとしか見られなかった。おれは、数分のあいだ機体を風にむけて直角にまわし、南にむかってかなり強く吹いている風速を測り、道路地図の端にすこし計算してみた。運が良く、風についての推測も正しければ、フェニックスはあと三十分ほどで見えてくるはずだった。
運はついてた。凹凸のひどい地形がかなり長く続いてから、とつぜん右前方に灌漑のゆきとどいた畑地の緑におおわれた広い平坦な峡谷が現われ、その中に大きな都市が見えた──太陽の峡谷とフェニックスだ。おれはソルト・リバー峡谷に通じる水の涸れた狭い川床に、下手くそな着陸をした。車輪が一つはぎ取られ、回転翼が壊れてしまったが、おれは意に介さなかった──重要なのは、それとおれの指紋が……リーヴズの指紋が、ということだが、すぐに見つかるはずはない。三十分後、おれは巨大なサボテンやそれより大きな丸石のあいだを縫って、その峡谷とフェニックスに通じるハイウェイに出た。
フェニックスまではまだかなり遠く、足首をくじいているのでふだんよりもっと苦労しそうだったが、とおりがかりの車を拾うのは危険すぎる。だから最初の一時間ほどは、車の姿が見えるたびに急いで路傍の遮蔽物に身を隠した。しかし、やがて隠れる場所もない直線コースで、一台の大型貨物輸送車につかまった。おれはやむを得ず岩壁に体をおしつけて、運転手にさりげなく手をふり、無頓着なふりをした。相手は重い車をなめらかに急停車させた。
「乗るかい、兄さん?」
おれは急いで決心した。
「ああ、ありがとう!」
かれはジュラルミンの梯子を広いステップに下ろして、おれを運転台に登らせた。それから、おれをしげしげと眺めまわして、感心したようにいった。
「驚いたな! マウンテン・ライオンかい、それとも熊かい?」
自分がどう見えるのかをすっかり忘れていたおれは、あらためて自分を見なおして、おごそかに答えた。
「両方さ……両手に一頭ずつつかんで、首をしめてやったよ」
「信じるとも」
「実はな……おれは一輪車に乗っていて、道から外れて落ちたんだ。幸いなことに、高いほうだったが、一輪車は壊れてしまったよ」
「一輪車でね? この道路でかい? まさか、グローブからずっと乗ってきたとでもいうんじゃないだろうな?」
「ときどきは下りて、押さなければいけなかったがね。でも、落ちたのは、下り坂でだったよ」
かれは首をふった。
「まあ、ライオンと熊に会ったことにしておこう。そのほうが面白いや」
かれはそれ以上、質問しなかった。そのほうがよかった。口から出まかせの作り話が、相手の詮索する意欲をそいでしまったのだろう。おれは、グローブからの道を通ったことなど一度もなかったのだ。
大型貨物輸送車に乗ったのも、それが初めてだった。その運転室の中が陸軍の地上巡航車《サーフェス・クルーザー》の操縦室と非常に似ていることに興味を覚えた──両側の軌道輪をコントロールする両方のユニバーサル・オレオ・スピード・ギアも同じだし、エンジン回転速度、両側モーターの速度、回転率、その他を制御する計器盤もほとんど同じだった。これは、おれでも運転できそうだった。
おれはあまりしゃべらず、相手が話すように仕向けた。
「こんな大型のに乗ったのは初めてなんだ。どんな動かしかたになっているのか、教えてくれないか?」
それでかれはしゃべりだし、おれは耳の半分でそれを聞き流しながら、フェニックスへどうやって行くかを考えた。かれは二本の操縦桿をそれぞれ左右の手で握り、それを傾けるだけで、左右の軌道輪に力を伝え、方向変換をおこなえることを実演し、そして両側に必要な力を供給しながら平均した速度で走らせるのが、ディーゼル燃料の経済効率にぴったりだということを説明した。
おれは、かれに話しつづけた──まず必要なのは、入浴と髭剃りと服を着替えることだ。それは間違いない。さもないと、見つけられたとたんに浮浪者としてつかまってしまうだろう。
やがておれは、かれが質問したことに気づいて答えた。
「わかったような気がするよ……つまり、ウォーターベリィが軌道輪を動かすんだね」
かれは話した。
「イエスでもありノーでもあるね……これは電動ディーゼル式で、ウォーターベリィはギアの働きをするだけさ。実際は、その中にギアなど一つもないんだがね。水圧を使っているんだ。わかるかい?」
おれは、わかった気がすると答えた(本当は、その構造図を書けるぐらいだったが)──そして、心の中に思いついた考えをしまいこんだ。もし、カバル党が至急に地上巡航車の操縦手を必要とする場合は、大型貨物輸送車の運転手を集めれば、短期間に訓練できるだろうと。
峡谷を出てからもゆるい下り坂がつづき、あっというまに何マイルかが過ぎた。やがて運転手は道路からそれると、レストラン兼ガソリン・スタンドの前に車をとめて、いった。
「さあ、下りるんだ……おれたちには朝飯、輸送車《ゴー・バギー》には燃料《ゴー・ジュース》さ」
「嬉しいね」
おれたちはそれぞれ、山盛りのベーコン・エッグと甘くて大きいアリゾナ・グレープフルーツを平らげた。かれは、おれにおごらせず、おれの分まで払おうとした。車にもどったとき、梯子の下でかれは足をとめ、おれをしげしげと見た。
かれは低い声でいった。
「四分の三マイルほど先に、警察の検問所があるそうだ……どこも同じで、かなりうるさいらしいぜ」
かれはおれを眺め、顔をそらせた。
「そうか……では、あとは歩いていくことにしよう、腹ごなしにね。乗せてくれて、ほんとにありがとう」
「いいんだよ。ええと、二百ヤードほどもどるとわき道がある。それは南に迂回して、それからまた西にむかい、町に入るようになっている。歩くにはいいぜ。車も少ないしな」
「ああ、ありがとう」
そのわき道にむかってもどりながら、だれの目にもおれは犯罪者だとわかるのかなあといぶかしく思った。一つはっきりしているのは、町へ入る前に服装を直しておかなければいけないということだ。そのわき道は、いくつかの農場のあいだを縫ってのびており、おれは何軒かの農場住宅の前を通ったが、立ちよる勇気はなかった。
だが、やがて子供と犬というありふれた構成のスペイン系インディアン家族が住む小さな家の前にさしかかった。おれは心を決めた。この地方の住民の多くは、隠れたカトリック教徒だということをおれは知っていた。したがってかれらは、おれと同じように、預言者の警官どもを憎んでいるにちがいないのだ。
女主人《セニョーラ》が家にいた。丸々と太り、親切で、顔立ちは純粋のインディアンに近い。おれのスペイン語はまったくの学校スペイン語なので、おれたちはそんなに話すことはできなかったが、水《アグァ》が欲しいといってアグァをもらい、飲み、かつ体を洗うことができた。
彼女はおれのズボンのほころびを縫ってくれ、そのあいだおれはショーツだけの恰好で馬鹿みたいにつっ立ち、子供たちは何かとはやし立てた。彼女は服にブラシをかけ、亭主の剃刀まで貸してくれた。代金を支払おうとするとこばまれたが、断固として受け取ってもらった。おれは、まあまあ見られる姿になってその家を出た。
あの運転手がいったとおり、その道路はぐるりとまわって町に入っていた──そして、警察の世話になることもなかった。そのうちに、郊外住宅街のショッピング・センターを見つけた。その中に小さな仕立屋があった。おれはそこで、自分の姿をなんとかもっと見られるものにするために、時間をつぶした。服の汚れは落とされ、きれいにプレスされ、シャツと帽子を新調し、おれはふたたび街なかを歩き、警官と出会っても落ち着いた目で会釈できるようになった。
電話帳でサウスサイド聖堂の所番地がわかり、仕立屋の壁にはってある地図が、だれにも道を聞かずにそこへ行く道筋を教えてくれた。それは、歩いていける距離だった。
急いで通りを歩いてその教会に着いたとき、ちょうど十一時の礼拝が始まるところだった。おれは安堵の溜息を洩らしながら後ろのほうの座席に腰を下ろし、まさかと思うかもしれないが礼拝を楽しんだ。背景に何があるのか知らなかった、遠い子供のころに帰って。平和と安全さを肌に感じた。やっとくぐり抜けてきたことが、あんなにもあったのに。懐かしい音楽が胸にしみいるのを覚えながら、あとで司祭に会っておれの正体をあかし、しばらくかれに面倒をかけるときがくるのを、待ち遠しく思った。
正直にいうと、おれは説教のあいだ居眠りをしていた。しかし、ちょうど終わったときに目を覚ましたので、だれも気づかなかったようだ。しばらくぶらぶらして司祭に話しかけるチャンスをうかがってから、かれに会って、説教に感心したといった。かれが手をのばしてきたので、おれは同志であることを知らせる合図の握手をしてみせた。
だが、かれはぜんぜんそれに答えなかった。おれはあまり驚いたので、かれの話していることをあやうく聞き逃すところだった。
「ありがとう、お若い方。新米の司祭には、説教を褒めていただくほど嬉しいことはありませんからね」
おれの顔色が何かを語っていたらしい。かれは、こうつけ加えた。
「どうかなさいましたか?」
おれはどもりながら答えた。
「いえ、あの、神父さま。ぼくは、このへんの者ではありませんので。すると、あなたはベアード神父さんではないのでしょうか?」
おれは、冷たいパニックを覚えていた。ニュー・エルサレムを離れたいま、ベアードは頼るべき唯一の同志だった。かくまってくれる者がいなければ、何時間かのうちに捕まってしまう。おれは司祭に答えているあいだも、その夜、もう一度飛行車を盗み、国境警備隊の目をかすめて、メキシコへ逃げるという狂気じみた計画を立てていた。
かれの声がずっと遠方からのように、おれの心の中に入ってきた。
「ええ、残念ながら、わたしは違います。あなたはベアード神父にお会いになりたかったのですか?」
「ええ、別にたいした用事じゃないんです、神父さん。その人は、ぼくの伯父の友人でして。こちらに来たついでに、ちょっとご挨拶をと思ったものですから」
あの親切なインディアンの女なら、暗くなるまでおれをかくまってくれるかもしれないな?
「それは難しいことではありませんよ。司祭はこの町におられるのですから。寝ておられるあいだ、わたしが代理を勤めているのです」
おれの心臓は、十二Gほどで完全な宙返りをした。おれは、それを顔に出すまいとした。
「ご病気でしたら、お邪魔しないほうがいいでしょうね?」
「いや、とんでもない。足の骨を析ったのです……お話し相手は歓迎されるでしょう。では」かれはガウンの下から紙と鉛筆を取り出して、所番地を書いた。「通りを二つ越えて、ブロックを半分行ったところです。すぐわかりますよ」
もちろんすぐにはわからず、おれはそのへんを二、三度まわってからやっと見つけた。蔓草におおわれたニュー・イングランド風の古い家だった。大きな、手入れがあまりされていない庭の奥まったところに建っている──ユーカリ、綜櫚、さまざまな灌木、草花、そのすべてが心地よい乱雑さで生えている。
おれが通話機のボタンをおすと、旧式のカメラが低くうなり、スピーカーの声が尋ねた。
「はい?」
「ベアード神父にお会いできればと思って来た者です」
短い沈黙のあいだに、相手はおれを観察したらしい。
「自分でお入りになってください。家政婦があいにく買物に出かけているんです。まっすぐ通り抜けて、裏庭に出てください」
ドアかかちりと音を立て、ひとりでに大きく開いた。
おれは暗がりの中でまばたきし、中央の廊下をまっすぐ進み、裏口のドアから外に出た。ひとりの老人が揺り椅子に横たわっていた。片足は枕の上に乗せている。おれが近づくと、かれは本をおき、眼鏡ごしにおれをのぞいた。
「わたしに何かご所望かな、お若い方?」
「光を」
一時間後、おれはすばらしい挽肉巻《エンチラーダ》の最後の一片を、冷たいミルクで飲みこんでいた。それから、二房のマスカットに手をのばしたとき、ベアード神父はおれに対する指示を終えた。
「だから、暗くなるまでは何もすることがないわけだ。何か質問は?」
「別にありません、神父さん。サンチェスがぼくを町から連れ出し、同志のほかの連中に引き渡し、その連中の案内で総司令部に行く。ぼくのほうは、簡単なものです」
「そうだ。しかし、楽ではないかもしれんよ」
おれは小型の野菜運搬トラックのあげ底の中に隠れて、フェニックスを出発した。まるで貨物のようにおしこまれ、トラックの床にぴったり鼻をつけたままでいなければいけなかった。トラックは町はずれの警察の検問所で停められ、警官らしいぶっきらぼうな声に、サンチェスがスペイン語でまくしたてるのが聞こえた。だれかが、頭の上をごそごそかきまわした。あげ底の板のあいだから光が洩れてきた。
ひとりの男がいった。
「もういいだろう、エズラ。こいつはベアード神父のところの下男で、毎晩のように神父の農場へ出かけているんだ」
「そうか、なぜこいつはそういわないんだ?」
「こいつは興奮すると、英語がしゃべれなくなるんだよ。いいぞ、行け、チコ。ヴァーヤ・ウステッド・コン・ディオス」
「グラシアス・セニョーレス。ブエナス・ノーチェス」
ベアード神父の農場で、おれはヘリコプターに移された。こんどはおんぼろではなく、新型でエンジンの音も静かで、装備もよく整っていた。搭乗員は二人で、かれらは挨拶がわりの握手をし、客席に入って、そこに留まっていてくれといっただけで、ほかには何もいわなかった。おれたちは、すぐに離陸した。
客席の窓は閉ざされ、どこへ飛んでいるのか、どのぐらい遠くまでかということもわからなかった。荒っぽい飛ばしかたで、パイロットは飛んでいるあいだじゅうヒナギクの花をつみ取っていこうと固く決心しているようだった。レーダーを避けるための当然な警戒だとはわかるが、かれが自分のやっていることがわかっていることを、おれは折った──おれなら、たとえ真昼でもそんなヘリの飛ばしかたはしたくなかった。かれはコヨーテの多くをこわがらせたにちがいない──かれは確かに、おれをこわがらせた。
やがて、着陸用誘導電波の音がひびいた。ヘリコプターはそれに沿って飛び、ホバリングし、静かに着陸した。外に出たおれは、三脚にすえられた熱線砲の砲口をのぞきこんでいた。そのむこうには緊張した男が二人、疑い深そうに身構えている。
おれを護送してきた連中が合言葉をいうと、警傭兵はそれぞれ別々におれに質問し、おれたちは確認のための合図を交換しあった。かれらは問題がなかったことに、ちょっと落胆しているような印象を受けた。恐ろしいまでに気合がかかっているのだ。やっと満足すると、おれの頭の上から目隠しをかぶせ、案内していった。ドアを通り、五十ヤードほど行くと、小さな部屋に詰めこまれた。その床がとつぜん落ちた。
胃袋が体から飛びだしそうだった。おれは心の中で文句をいった。エレベーターだと、ひとこといっておいてくれたらいいのに。だが、口には出さなかった。エレベーターから出ると、またすこし歩き、こんどはプラットフォームのようなものにこづいて乗せられ、席に腰を下ろしてつかまっていろといわれた──とたんに、おれたちは首の骨が折れそうなスピードで動きだした。ローラーコースターに乗っているような感じで──目隠しをされて乗るのは、あまり気分のよくない代物だった。そのときまで、おれは本当に恐ろしくはなかった。かれらはおれに警告しておけたはずだから、これはわざといじめているのだなと思いはじめた。
それからまたエレベーターで下り、さらに数百歩行ったところで、目隠しを外された。おれはそこで初めて総司令部なるものを見た。
そんなものだとは思えなかった。おれは、あえぎ声を洩らしただけだった。連れてきた警備兵の一人が微笑し、そっけなくいった。
「みな、おんなじことをするんだ」
その石灰岩の洞窟はあまりに広すぎて、地下というよりも戸外にいるような感じだった。その形状も実に壮麗で、美しいお伽の国の地の精の王様の宮殿を思わせた。エレベーターで下りたことから、地下だとは推測されたが、見たかぎり、それらしいところはまったくなかった。
九十六年に大地震で崩壊する以前のカールズバッド大洞窟《キャバーンズ》の写真を、見たことがある。総司令部はだいたいそんなようなものだが、カールズバッドの洞窟はこの半分も大きくも壮麗でもなかったろうと思う。
おれは最初のあいだ、自分が立っている部屋の広大な面積がどれくらいあるものか見当もつかなかった。地下なので、尺度になるものが何もない。人間の二つの目からなる距離測定機能は、五十フィートより遠くを見た場合、その距離に尺度になるものがないと用をなさなくなる──家、人間、樹木、地平線といったものがないと。天然の洞窟の中には、見慣れたものがないため、人間の目はその大きさを測れないのだ。
だから、自分のいるこの部屋は大きいものだとわかりながらも、どれぐらい大きいのか推定することができなかった。おれの脳はそれを、これまでの偏見にあてはめて縮尺していたのだ。おれたちは、部屋の端のメイン・フロアより一段高いところに立っており、部屋全体がやわらかい照明の光に包まれていた。おれは首を長くのばし、ふーんとかホーッとかいいながら遠くを見渡した。下のだいぶ離れたところに玩具の村が見えた。建物はみな小さくて、一フィートぐらいの高さしかないように見えた。
ついで、建物のあいだを歩いている小さな人々の姿が見えた──そして、とつぜん、すべてが決まった尺度の中にあてはまった。玩具の村は、少なくとも四分の一マイル向こうにあった。部屋全体は奥行きが一マイル以上、高さは数百フィートある。
洞窟に入ると、普通なら閉じこめられたことでの恐怖に襲われるはずだが、おれはその反対にもうひとつの恐怖、広々とした場所での、いわゆる広場恐怖症に襲われた。おれは、臆病な鼠のように、壁のそばにこそこそ逃げていきたくなった。
おれに話しかけたガイドが、腕を軽くさわった。
「見物の時間は、あとからいくらでもある。さあ、行こう」
赤ん坊の指ほどの小さいものから、エジプトのピラミッドぐらいの大きさのものまで、さまざまの形の石笥のあいだを、一本の道が曲がりくねってつづいていた。おれたちはそこを進んでいった。天然石が睡蓮の葉のような彩りを添えている黒い池のほとりを行き、人類がまだ新参者だった古い時代の暗い湿ったドームを通過していった。その上には、漆黒・ばら色・深い緑色をした、鐘乳石の半透明のカーテンが垂れていた。おれの驚くという能力には過負荷がかかったらしく、まもなく何を見ても驚かなくなった。
おれたちは、コウモリの糞が散乱している平坦な地面に出て、思ったより早く町に着いた。近づくにつれて、そこの建物は普通に戸外に立っているような意味では建物ではなく、防音に使われる蜂の巣状プラスチックの壁で仕切ってあるだけのものだとわかった──能率的に便利に、空間を仕切っただけのものだ。そのほとんどに屋根がなかった。
おれたちは、その囲いのいちばん大きなものの前で立ちどまった。ドアの上の看板には管理部≠ニ記されている。おれたちはその中に入り、おれは人事課に案内された。その部屋は、郷愁をそそるものだった。ぶかっこうで能率的な設備が、あまりに軍隊そのものだったのだ。しかもそこには、シーザーの時代からこんな事務室につきものの、神経質に眉をよせた年配の事務官さえいた。かれの机の上にはR・E・ジャイルズ准尉≠ニ記された名札が立ててあり、明らかに勤務時間が過ぎたあと、おれのためにこの事務室にもどってきたようだった。
「よく来られました、ミスター・ライル」
かれはそういい、握手をし、確認の合図をかわした。それから、鼻をかき、鼻水をぐすぐすすすった。
「あなたは予定より一週間ほど早く到着されたので、宿舎の準備ができていません。すみませんが今夜は、独身将校宿舎のロビーで寝袋に寝ていただけますか? 明朝には、用意を調えますから」
おれが、それですっかり満足だというと、かれはほっとしたようだった。
10
おれはここへ到着すると、凱旋将軍のような歓迎を受けることを期待していた。新しい戦友たちが、おれの控え目に語るかずかずの冒険や危機一髪の脱走についての説明を、かたずを飲んで聞き、おれの重要な伝言が無事に届けられたことをみんなで偉大な創造主に感謝するのだ、と。
おれは間違っていた。朝食をろくに終えないうちに人事係副官に呼ばれたが、おれはその副官にさえ会わなかった。ジャイルズ氏に会っただけだった。おれはいささかむっとして、かれの言葉をさえぎり、司令官のところに公式な表敬訪問するのはいつごろがいいのかと尋ねた。
かれは、ふんと鼻を鳴らした。
「ああ、そうですな。そう、ミスター・ライル、司令官からよろしくとのことでした。そして、表敬訪問はもうおこなわれたものと考えてほしいとのことです。かれだけでなく、各部の長に対しても同じです。われわれはいま、かなり時間に追われているのです。暇ができたら、呼ばれるでしょう」
将軍がおれにそんな伝言をよこしたわけではないし、人事係は単にこれまでに作られた原則に従っているだけだというのは、はっきりしていた。おれの気分はいっこうに晴れなかった。
だが、おれにできることは何もない。おれは、そういう機構に受け入れられたのだ。正午までに決まった宿舎を割り当てられ、健康診断がおこなわれ、そして今までのことを報告した。そう、おれが話す機会は与えられた──録音機械に対してだ。生身の人間がおれの持ってきた伝言を受け取ってくれたが、おれ自身は面白くもなんともなかった。伝言を授けられたときと同じように、そのときも催眠術をかけられておこなったのだ。
これにはたまりかねて、おれは伝言を聞き出す処置をおこなった心理技術者に尋ねた。すると、かれは堅苦しく答えた。
「伝書使に、持ってきた伝言の内容を教えることは許されていない」
かれの能度は、おれの質問などもってのほかというようだった。
おれはすこしかっとなった。かれは制服を着ていないので、上官なのかどうかわからなかったが、おれは頓着しなかった。
「いったい、これはどういうことなんだ? 党はおれを信用していないのか? おれは命をかけて……」
かれは、ずっとおれをなだめるような態度になってさえぎった。
「違う、違う、まったくそんなことじゃないんだ。きみを保護するためなんだよ」
「え?」
「原則さ。必要のないことはできるだけ知らないほうが、捕まったとき、余計なことを話さずにすむ……それが、きみのためにも、みんなのためにも、より安全だ。たとえば、いまきみはどこにいるか知っているかね? 地図で指さすことができるか?」
おれは首をふった。
「いや」
「おれも知らん。知る必要がないので、教えられていないんだ。しかし……きみが何を運んできたのか、おおざっぱなところを教えるのはかまわんだろう……ただの事務的報告さ。そのほとんどは、感覚通信回路ですでに得ているものの確認だ。きみがここへ来るんで、かれらはそんな代物をいっぱいつめこんだわけさ。スプールを三本も使ったよ」
「ただの事務的報告? でも支部隊長は、おれが非常に重要な通信を運んでいるといった。あのでぶが、ふざけやがって!」
技術者はちょっと微笑した。
「そいつは、ちょっと……ああ!」
「え?」
「かれのいった意味がわかったよ。きみは、非常に重要な通信を運んできた……きみにとってね。きみは、催眠暗示できみ自身の信任状を運んできたんだ。でなければ、きみは二度と目を覚ますことを許されなかったかもしれないよ」
いうことがなくなってしまった。おれは静かにそこを離れた。
医務部、心理部、補給部などを順にまわるうちに、この基地の大きさがだいたいわかってきた。最初に見た玩具の村≠ヘ、管理部門各局の事務所にすぎなかった。発電所、ユニット原子炉は別の洞窟にあり、何ヤードもの岩壁が二次遮蔽物になっていた。
結婚した連中は好きなところに住んでおり──おれたちの三分の一が女性で──たいていが、かれらの家(もしくは、囲い)を、中央グループからだいぶ離れたところに持っていた。
兵器工場と弾薬庫は、事務所や宿舎から安全な距離をおいた横の通路に作られていた。
かなりの硬水だが新鮮な水は豊富にあり、その地下水路が、換気にも役立っているようだった──少なくとも、空気は濁っていなかった。華氏六十九・六度、相対湿度三十二度を、冬も夏も、夜も昼も、保っているのだ。
昼食までにおれは早くも組織に組みこまれ、昼食が終わるとすぐ、臨時の仕事ながら忙しく働いていた──兵器工場で、熱線銃、拳銃、小銃、短機関銃などの修理や調整をやらされた。本来なら兵器係下士官の仕事で、それをやってくれないかと頼まれたり、あるいは命じられたりすれば、おれは困惑してしかるべきだった。だが、ここ全体が最低限の礼式で運営されているのだから──たとえば、おれたちは食堂で自分の皿を洗うのだ。
そして、本当のところ、兵器工場の作業台の前に心地よくのんびりと坐り、測径器や精密ゲージや穿孔機を操作するのはいい気分だ──楽しい、有益な仕事だった。
その日の夕食時すこし前、おれが独身将校宿舎のロビーへ行って、空いている椅子を探していると、後ろから聞き覚えのあるバリトンの声が呼んだ。
「ジョニー! ジョン・ライル!」
ふりむくと、急いでやってくるのはゼバディア・ジョーンズだった──懐かしい、あのゼブが等身大そのままで、ぶこつな顔が割れんばかりの笑みを浮かべている。
おれたちは、たがいの背中をたたきあい、罵りの言葉をいいあった。おれはやっと尋ねた。
「きみは、いつここへ着いたんだ?」
「え? 二週間ほど前さ」
「ほんとか? おれが出発したとき、きみはまだニュー・エルサレムにいた。どうしてそんなことができたんだ?」
「どうってことはないよ。おれは死体になって運ばれた……深い昏睡状態でね。棺の中に密封され、伝染病とラベルをはられていたんだ」
おれはかれに、ひどい目にあった旅のてんまつを話した。ゼブは感銘を受けたらしく、それでおれの士気はすこし高まった。それからおれは、かれがいま何をしているか尋ねた。
かれは答えた。
「心理宣伝局にいるんだ……ノヴァーク大佐の下でね。いまちょうど預言者や側近たち、それに仕えている聖職者たちの私生活について、おそれ多い記事を書いているところさ。かれらにどれだけの数の召使いがおり、王宮を維持するのにどれぐらいの費用がかかるか、豪華な儀式や祭典いっさいがっさいといったものだ。
もちろん、すべてが完全に真実で、忠義づらして書いていく。だが、それに強い濃淡をつけるんだ。宝石類に純金の装飾品にどれぐらいの費用が使われているかを強調する。そして大衆につねに話しかけるんだ、いったいどんな特権があってそんな虚飾に金を支払うことを許されるのか、この地上における神の代弁者の世話をやらされていることに、かれらがどんなにいい気になっているか、といったところをね」
おれは、眉をよせていった。
「どうもおれにはわからないな……一般の人々は、ああいうサーカスみたいな賑やかさが好きなんじゃないかな。ニュー・エルサレムに来る観光客が、神殿の儀式を見る切符を争って買っているありさまを見るとね」
「確かにそうだ……しかし、われわれはこういう記事を、休日にニュー・エルサレムへやってくる人々に売りつけようとしているんじゃないよ。ミシシッピー渓谷や南部諸州やニュー・イングランドの山奥の田舎で発行している小さな地方紙と提携して記事を配給しているんだ。つまり、われわれはもっとも貧しく、もっとも清教徒的要素の濃い人々にむけて、貧乏と美徳は同じものだと思っている人々にむけてそれをばらまいているわけさ。それがかれらの心に食いこみ、そのうちにほぐして、しだいにかれらを疑わせはじめるんだ」
「そんなちゃちなもので、革命をおこせると真面目に思っているのかい?」
「ちゃちじゃあないさ。論理レベルの下にある感情に直接働きかけるんだからな。大衆を動かそうとする場合は、理性に訴えるよりも偏見に訴えるほうが早いものだ。それは必ずしも重要な問題についての偏見でなくてもいいんだ。ジョニー、おまえ、暗示指数の利用法を知っているだろう?」
「イエスともノーともいえるな。それが何かは知っているよ。言葉の感情効果を数値で表わしたものだろう」
「まあ、そういうことだがね。しかし、言葉の指数といっても一フィートが十二インチに分けられるようにちゃんとしたものではない。前後の関係、対象になる者の年齢、男女の別、職業、その他さまざまな要素によって、作業は複雑に変化する。しかし、ある特定の言葉が、ある特定の読者に特定の組合せで使われた場合、それが好ましい影響を与えるか、好ましくない影響を与えるか、それともまったく影響しないかということを、判断する基準を与えてくれる。
理論的には、特定の対象に対する固有の測定値を、あらゆる分野の科学技術と同じように、数学的に正確にはじき出すことができるはずだが、実際問題としては必要なデータをぜんぶ揃えることは不可能なので、そこは技術によって補わなければいけない……しかし、実地調査にフィードバック&式を採用しているので、われわれの技術はかなり正確だといっていい。その意味で、いまおれが書いている記事は、つねに前のものにくらべてすこしずつ巧妙になるんだ……そして、読者には絶対にわからないだろうな」
「いいように聞こえるが、しかしうまくいくかどうかな」
「ひとつ、きみをテストしてみようか。どちらがいい? 上等の、厚くて、肉汁がたっぷりの、やわらかいステーキと……若い去勢牛の死体から切り取った筋肉の断片とでは?」
おれは苦笑した。
「そんなのには引っかからないさ。おれはどちらの名前でも食べるさ……あまりウェルダンにされなければね。もうそろそろ食事の知らせをしてくれないかな。腹ぺこだよ」
「きみは前もって備えているから、そんな言葉の違いには影響されないと思っている。だが、もしどこかのレストランがそんな言葉を使ったら、すぐに店はつぶれてしまうぜ。もうひとつ例をあげてみよう。小さないたずらっ子が壁に落書きするようなアングロ・サクソンの単音節語だ。それを上品な相手に使えば腹を立てられるが、しかしそれとおなじ意味の婉曲な表現は、どこでも使われるんだ」
おれはうなずいた。
「そうだろうね。確かに、言葉が人々に大きな作用を与えるってことはわかる。だが、個人的にいうと、おれはそういうことに鈍感らしいんだ。どれほどタブーになっている言葉でも、おれは何とも感じない……といっても、他人の感情は害さないようにと、人並みの注意は払っているけれどもね。とにかくこれでも、おれは教育を受けているんだよ、ゼブ……杖や石はわたしの骨をくだくことができるだろうが≠ウ。しかし、きみが無知な連中に影響を与えられることはわかったよ」
おれはゼブに対して、ここで気を許すべきではなかうた。これまでかれが、おれを引っかけたことは何度もあるのに。かれは静かに微笑すると、タブーになっているような言葉をいくつか含んだ短い文句をいった。
「おれの母親のことは引き合いに出すな!」
おれはそうさけんで、攻撃にうつった犬のように椅子から飛び上がった。ゼブはそれを正確に予期していたらしい。しゃべっているあいだに体重を移し変えていたのか、拳が顎をとらえるより早くおれの手首をつかみ、もう一方の腕をおれの体にまわして抱きとめ、闘いが始まる前にとめてしまった。
「落ち着け、ジョニー……謝る。心から謝り、きみの許しを請うよ。信じてくれ、きみを侮辱するつもりはなかったんだ」
と、おれの耳にささやいた。
「よくいうな!」
「ああ、心からいうよ。許してくれるね?」
冷静さを取りもどしたとき、いまの騒ぎがずいぶん人目を引きつけたことに気づいた。話をするためにおれたちは静かな隅を選んでいたのだが、ロビーにはすでに十数人がいて、夕食の知らせを待っていた。おれは、あたりが静まりかえったのと、ほかの連中が仲裁に入るべきかどうかと迷っている気配を感じた。怒りより困惑に顔が赤らんでくるのを覚えた。
「わかった。放してくれ」
かれは放し、おれたちはまた腰を下ろした。おれはまだ腹の虫がおさまらず、ゼブの無礼な発言を許す気持ちにはあまりなれなかったが、とにかく危機は過ぎていた。だが、ゼブは静かに話した。
「ジョニー、おれは本当に、きみの家庭を侮辱するつもりなどなかったんだ。信じてくれ。あれは、暗示の力学を科学的に証明してみせようとしたものにすぎないんだ」
「そうか……しかし、あれほど個人的な取り上げかたをする必要はなかった」
「いや、そうせざるを得なかったんだ。おれたちは感情の心理力学について話していた……感情というものは、個人的なものだ。経験して初めて理解できる主観的なものだ。きみは教養がある人間として、こんな形の攻撃には免疫性があると思いこんでいた……それでおれは、だれにもそんな免疫性はないのだということをきみに証明してみせるために実験をしたんだ。ところで、おれはきみに、何をいったんだ?」
「きみは……もういいよ。実験なら実験でいいが、くりかえすのは勘弁してくれ。きみの勝ちだよ。おれは気に入らんが」
「しかし、いったいおれが何をいったというんだ? 要するに、きみが合法的な婚姻によってできた合法的な子供だということをいっただけなんだよ。そうだろう? それがどうして侮辱になるんだ?」
「しかし……」おれは口ごもり、かれのいった腹の立つ侮辱的な汚らしいことを心の中でふりかえってみた──すると、まったくかれのいったとおりのことでしかなかった。おれは、苦笑しながらいった。「きみのいいかたが悪かったんだ」
「まさに、そのとおりだ! 専門的にいえば、おれはこの状況とこの対象にとってもっともマイナス指数の高い用語を選んだというわけだ。われわれの宣伝活動にも、その方法が利用されている。ただし、感情的指数が小さければ小さいほど、疑惑を生むことが少なく、したがって検閲官の目をごまかしやすい……腹を蹴りつけるよりもゆっくりとあとから利いてくる毒物だ。おれたちが書いている代物はみな、預言者をこれでもかこれでもかと賛美している……そうすることによって、読者の中に起きる苛立ちはかれのほうへ転嫁される。読者の意識の奥深く切りこんで、潜在意識の中にはびこっているタブーや盲目的崇拝に働きかけるんだ」
おれは、自分が理由もなく怒ってしまったことを恥ずかしく思い出した。
「よくわかった。まるで、呪術医の薬みたいなもんだな」
「そう、そのとおりなんだ。言葉の中には魔法が住んでいる、黒魔術だ……それをどうやって引き出すかを知っていればね」
夕食後、おれはゼブと一緒にかれの仕切り部屋へ行って、また雑談を続けた。おれの心は温まり、すっかり満ち足りた気分になった。おれたちが革命に参加しているのだという事実、その計画には成功の公算が少なく、二人とも戦死するか、反逆罪で火あぶりになるか、いずれにしろ死ぬのにちがいないということを、おれはまったく気にとめなかった。なんていいやつなんだ、ゼブは! おれのガードをかいくぐって、いちばん痛いところにパンチをくらわせたが、それがなんだ! かれはおれの家族≠セ──おれに残された家族のすべてだ。いま、かれと一緒にいると、母親が台所でクッキーと牛乳を食べさせてくれたころに感じたようなものを感じさせられるのだ。
あれこれと語り合っているうちに、おれは組織のことをもっと学ぶこととなり、そして知ったのは──知って大いに驚いたのは──同志のすべてがみな党員であるわけではない、ということだった。つまり、秘密結社の兄弟では、という意味だ。
「それで危険じゃないのかい?」
「危険でないものがあるかい? 何を期待していたんだい、きみは? おれたちのあいだでもっとも貴重な同志の中にも、党に加入できない者がいる。かれら自身の宗教信仰がそれを禁じているんでね。だが、専制政治を憎み、自由を愛することに、おれたちは独占権を持っているわけじゃない。おれたちはできるだけ多くの助けを必要としている。おれたちの方向に進んでいる者はだれでもみな、旅の仲間なんだ」
おれはそれを考えなおしてみた。その考えかたは論理的だが、どことなく漠然といやなところがある。おれは急いでそれを飲みこんでしまうことにした。
「そうだろうな。最下層民でさえ、すこしは役に立つんじゃないのかな。戦闘ということになったらさ。たとえ、正規の党員になる資格はないとしても」
ゼブは、おれにはおなじみになった目つきで、おれを見た。
「困ったもんだな、ジョン! いつになったら、おしめをはずせるんだい?」
「何だって?」
「まだはっきりわかっていないようだな。最下層民≠ネどという概念自体、あらゆる専制政治が必要とする贖罪の山羊的なメカニズムだということを」
「ああ、でも……」
「黙れ。人々からセックスを奪う。それを邪悪なものとして禁止し、儀式的な繁殖に限定する。無理にそれをフィード・バックさせて、抑圧したサディズムにぶつける。そして、民衆に贖罪の山羊を渡して、憎ませる。民衆の鬱積した感情を解放させるために、ときどき贖罪山羊をかれらに殺させる。そのメカニズムは昔からあったものだ。何世紀も昔、心理学≠ニいう言葉がまだ発明されていなかったころ、多くの専制君主たちはそれを使ってきたんだ。うまく効果を発揮するんだよ。きみ自身を見てみろ」
「なあ、ゼブ、おれは最下層民に対して何も差別感など持っていないぞ」
「そうあってほしいね。この本部には、その連中が何十人もいるんだからな。ところで、その最下層民≠ニいう言葉は忘れろ。それは、マイナス指数の非常に高い言葉なんでね」
かれもおれも黙った。考えを整理する時間が欲しかった。理解してほしいのだが──自由な世界で育った者は自由を身につけるのも容易だろうが、そうでないものにとっては容易ではないのだ。動物園の虎は、檻から逃げ出しても、また檻の中の平和で安全な世界の中へもどってくることが多い。もどってこられない場合でも、檻がまったくないところで、それと同じ広さの空間をぐるぐる歩きまわっているという。おれもまた、自分が条件づけられたパターンの中を歩いていたのだ。
人間の心は、きわめて複雑なものだ。当人は気づかずにいるが、その中にはさまざまな小部屋がある。おれはとっくに心の大掃除をして、小さいころから信じこむようにと教えこまれた忌まわしい迷信のたぐいをすべて取り除いたつもりでいた。
だが、その大掃除はせいぜい絨毯の下のほこりを掃いた程度のことにすぎなかったのが、いまやっとわかってきた──徹底的な掃除をして、各部屋に理性という新鮮な空気が送りこまれるまでには、まだ何年もかかるのだ。
ようしと、おれは自分の心に話しかけた、もしその最──いや、同志≠ノ会ったら、挨拶をかわし、丁寧にしていよう──ただし、相手がおれに対して丁寧にしていたらだ! おれは、そのとき、そんな留保をつけることが偽善的だなどとはまったく考えなかったのだ。
ゼブは横になってタバコを吸い、おれをいらいらさせた。おれはかれがタバコを吸うのを知っていたし、かれはおれがいやがっているのも知っていた。だが、それほどたいした罪悪でもないので、王宮の兵舎で一緒の部屋にいたときも、そのことを上司に報告しようとは思ってもみなかった。そして、部屋つきの従僕が密売人であることも知っていた。
「こんどは、だれがタバコを密売してくれるんだ?」
おれは話題を変えようとして、そう問いかけた。
かれは、その汚らわしい箱を取り出して、眺めた。
「え? 冗談じゃない、もちろんPXで買うのさ……このメキシコ・タバコは、おれには強すぎる。たぶん、このほうが本物のタバコで、おれがこれまで吸っていたのは道ばたのごみかなんかだったんだろうな。吸ってみるかい?」
「え? とんでもない、いらないよ!」
かれはゆがんだ笑いを浮かべた。
「さあ、いってくれ、いつもの説教を。そうすれば、きみも気が晴れるだろう」
「おい、ゼブ。おれはきみを批判しようとはしてないよ。むしろ、これもおれの多くの間違いの一つだったんじゃないかと思っているぐらいだ」
「いや、そうじゃない。汚い、不潔な癖だ。のどを痛め、歯を汚くし、最後には肺癌でおれを殺すかもしれん」かれは一息ふかく吸いこんで、口の端から煙を静かに吐き出し、満足げに目を細めた。「しかし、おれは汚くて、不潔な癖が好きなたちなんだ」
かれはもう一服吸った。
「しかし、これは罪悪じゃないが、毎朝口の変な匂いで罰を受けているよ。創造主も、これについては地獄で文句もいわんだろう。わかるかい? かれは、目もくれないさ」
「罰当たりなことをいう必要はないぜ」
「そんなことはしていないさ」
「そうかい? もっとも根本的な……たぶん、根本的なもの……宗教上の仮説を、きみは嘲弄していた。神はなんでも見守りたもうという、必然のことを!」
「だれが、それをきみに教えたんだ?」
おれは一瞬、どもってしまった。
「なんだって、そんなこと必要ないじゃないか。それは自明の理じゃないか。それは……」
「くりかえすぞ、だれがきみにそういったんだ? いいか、おれは前言を撤回する。たぶん、全能の神は、おれがタバコを吸っているところを見ておられるだろう。たぶん、それは道徳的な罪悪であり、おれはそのため、未来永劫にわたって火あぶりにされるかもしれない。ひょっとするとだよ。だが、だれがきみに教えたんだ? ジョニー、きみは喜んで預言者を追い出し、高い高い木にかれを吊そうというところまで理解したんだろう。それなのに、きみは自分の宗教的確信を人におしつけ、おれの行動を裁くものさしにそれを使おうとしている。だから、おれはくりかえすんだ。だれがきみに教えた? 光明が天国から下りてきてきみを照らしたとき、きみはどこの丘に立っていた? どの大天使が、そのメッセージを運んできたんだ?」
おれは、すぐには答えなかった。答えられなかったのだ。しばらくしてから、おれはショックとさむざむとした孤独感とともに答えた。
「ゼブ……やっときみがわかったような気がするよ。きみは……無神論者なんだ。そうだろ?」
かれはさびしそうな顔でおれを見ると、ゆっくりと答えた。
「おれを無神論者などと呼ぶな……痛い目にあいたくないならな」
「すると、そうじゃないんだね?」
おれはほっとしたが、依然としてかれがわからなかった。
「ああ、そうじゃないとも。それに、きみの知ったことでもない。おれの宗教的信仰は、おれとおれの神のあいだのプライベートな問題だ。おれの内なる信念がどういうものかは、行動によって判断してもらうほかないんだ……そのことについて、とやかく質問されたくないからね。おれはそれをきみに説明しないし、それを正当化もしない、だれに対してもだ……隊長にも……異端審問所長官に対しても……そういうことになればね」
「しかし、きみは神を信じているんだろう?」
「おれはそういったつもりだがね。よけいなお節介だな」
「すると、きみはほかのものも信じているんだね?」
「もちろんだとも! 人間は弱い者に慈悲深くし……愚かな者には忍耐強くし……貧しい者には気前よくする……といった義務を負っていることを、おれは信じている。必要となれば、兄弟のために命を捧げることも義務だと思う。しかし、そうしたことのどれをも理論づけようとは思わない。それらは、理論を越えたものなんだ。そして、同じように信じろと、きみに要求もしないよ」
おれは吐息をついた。
「満足したよ、ゼブ」
嬉しそうな顔をする代わりに、かれは答えた。
「ありがとう、兄弟、ほんとにありがとう! すまん……おれは、皮肉ないいかたをするべきじゃなかった。おれは、きみに同意してもらうつもりもなかったんだ。きみはおれをつついて……偶然にというのは、はっきりしているが……おれが議論したいなどとは思ったこともない問題に引きずりこんだ」
かれは、その臭いタバコにもう一本火をつけるのをやめ、もっと静かに話を続けた。
「ジョン、おれはどうも依怙地で、ひどく心の狭い人間なんだな。おれは、信仰の自由ということを非常に強く信じているんだが……自由をもっともうまく表明すると、沈黙を守る自由ということになるんだろうな。おれの見るところ、公然と表明された信心の大半は、鼻もちならぬ自惚れだよ」
「えっ?」
「全部がそうだとはいわない……本当に敬虔で善良な信者もいることは知っている。だが、偉大な創造主のお考えを知っているというようなやつはどうだ? 神の内々の計画に関与しているというやつは? それは神に対する最高に冒涜的な自惚れだと思う……こういうやつはたぶん、きみやおれ以上に主のみもとに近づいたことなど一度もないんだ。しかし、全能の神と親しい間柄だということで、かれらはいい気分になり、自我を作り上げ、きみやおれに法律を押しつけるようになるんだ。ひどいものさ!
そんなふうにして、ひとりの無能力者が登場した。声が大きく、知能指数九十前後、髪は耳の上までかぶさり、汚れた下着、山のような野望。あまり怠け者だから農夫にはなれず、あまり愚かなので技術者にはなれず、あまり信用ならないので銀行勤めもできない……だが、驚いたことに、祈ることはできたんだ! かれはしばらくして、かれほどの生き生きした創造力や確信がなく、全能の神に直接すがれるという考えが大好きな、他の無能力連中を集めた。ついで、この男はネヘミア・スカダーではなくなり、初代の預言者となったんだ」
おれはショックを受けながらも、むしろ楽しい思いでかれの話に同調していた。かれが、初代預言者の名前を出すまでは。たぶん、そのときのおれの精神状態は、初代預言者の素朴な追随者≠フそれに似ていたといえるだろう──つまり、おれは現人神預言者が悪魔そのものであり、かれのなすことすべてが悪であると確信しているのに、その確信は、おれが母親から学んだ信仰の基礎に影響を及ぼしていないのだ。なすべきことは、教会を粛清し、改造することであって、破壊することではない。そのことをここに記すのは、そうしたおれ自身の問題が、のちに起こる非常に深刻な軍事問題と似かよっていたからだ。
ゼブはおれの顔をじっと見つめていた。
「また、きみの気にさわるようなことをいったかい、相棒? そんなつもりはなかったんだが」
「いや、そんなことはないさ」
おれはぎごちなく答えてから、現在の教会を支配している悪魔どもの罪深さは、けっして真の信仰を無価値にするものではないというおれ自身の意見を述べた。
「きみがどう考えようが、冷笑しようが、教義とは論理的必然性の問題だ。現人神預言者や側近どもがそれを曲げて悪用することはできても、破壊してしまうことはできない……初代預言者が汚い下着を着ていようといまいと、なんの関係もないよ」
ゼブは疲れきったような溜息をついた。
「ジョニー、きみと宗教についての議論など始めるつもりはまったくなかったんだ。おれは攻撃的なタイプじゃないんだ……きみが知っているとおりね。カバル党に入るのでも、尻を押してもらわなければいけないぐらいだったんだから」かれは、ちょっと間をおいた。「きみはさっき、教義とは論理の問題だといったな?」
「きみ自身が、その論理を説明してくれたんだぜ。それは、完全で不変の構造を持っているんだ」
「そのとおりだ。ジョニー、神を権威として引用することのいいところは、証明したいものを何でも証明できるところにある。つまり、適当な仮説を選び、その仮説は神のお告げ≠セと主張すれば、それで通ってしまうわけだ。間違っていることを証明できる者はいないのだから」
「初代預言者は、神のお告げを受けたのではないと主張したいんだな」
「おれは何も主張しないさ。知ってのとおり、おれこそ初代預言者その人なんだ……神殿から、神を冒涜するやからをつまみだすためにこの世にもどってきたんだ」
「いいかげんにしろ……」
おれが腹を立てかけたとき、ドアをノックする音がした。おれは黙り、ゼブは答えた。
「どうぞ!」
それはシスター・マグダーリンだった。
彼女はゼブにうなずいてみせ、口をぽかんとあけているおれに優しく微笑みかけた。
「いらっしゃい、ジョン・ライル」
修道女のローブ以外の服装をした彼女を見たのは、これが初めてだった。彼女は、以前よりもずっと美しく、若く見えた。
「シスター・マグダーリン!」
「いいえ、二等軍曹アンドリューズよ。友達にはマギーっていうの」
「でもどうしたんです? どうして、ここにいるんです?」
「いまここにいるわけは、夕食のとき、あなたが到着したことを聞いたからなの。あなたの部屋へ行ってもいなかったから、きっとゼブと一緒だろうと思ったの。そのほかのことは、あなたやゼブと同じように、もどれなくなってしまったからよ……それに、ニュー・エルサレムの隠れ家は満員なので、こちらへ移されたってわけ」
「そう、とにかく会えて嬉しいよ!」
「あたしもあなたに会えて嬉しいわ、ジョン」
彼女はおれの頬を軽くたたいて、にっこりと微笑した。それからゼブのベッドの上に登り、あぐらをかいて坐るとき、かなり大胆に足をのぞかせた。ゼブはタバコに火をつけて彼女にさし出した。彼女はそれを受け取り、肺の奥まで煙を吸いこんでから、まるでずっと昔からタバコを吸っていたような仕草で静かに吐いた。
おれは女がタバコを吸うところを見たことがなかった──一度もだ。ゼブはじっとおれを見ていた、こん畜生!──おれは、まったく意識していないようにそれを無視し、にっこり笑って、いった。
「これで懐かしい顔ぶれが揃ったわけだ。ただひとつ……」
マギーはうなずいた。
「わかるわ……ジュディスさえここにいればね。彼女からまだ便りはないの、ジョン?」
「彼女からの便り? どうしてぼくが?」
「そうね、あなたは受け取れるはずがなかったわ……今まではね。でももう彼女に手紙を出せるわよ」
「へえ? どうやって?」
「いま、手元にコード・ナンバーがないからわからないけれど、あたしのデスクで出せるわ──あたし、G2にいるの。手紙に封をしないでね。私信はみな検閲され、書き替えられることになっているの。あたしも先週、彼女に手紙を出したんだけど、まだ返事が来ないの」
おれはすぐ部屋にもどって手紙を書こうかと思ったが、かれら二人と久しぶりに会うのが楽しくて、中座する気になれなかった。それで、寝る前に書こうと決めた──旅行中は自分の任務に忙しくて、少なくともデンヴァーに着いてからいままで、ジュディスのことを考える暇もなかったことを思い出し、少々驚きながら。
しかし、その夜遅くなっても、ついに彼女には手紙を書かずじまいになった。十一時過ぎ、マギーが早朝の起床ラッパのことを説明していると、当番兵がやってきて告げた。
「司令官閣下の命により参りました。閣下が、いますぐライル少尉にお会いしたいとのことであります」
おれはゼブの道具を借りてすばやく髪をとかした。初めて司令官のところに出頭するのに、こんなくたびれた平服より、何かまともなものが着られたらなあと思いながら、急いで行った。
お偉方のいる本部は人影がなくて暗く、ずっと奥に事務室の灯が見えているきりだった──ジャイルズ氏さえもデスクにいなかった。おれは中へ入っていき、ドア・フレームをたたいて室内に入り、踵を鳴らして敬礼した。
「ライル少尉であります。司令官閣下のお呼びにより参りました」
おれのほうに背をむけて大きな机にむかって坐っている年配の男が、顔をあげてふりむいた。おれは相手の顔を見て驚いた。かれは立ち上がっておれに近づき、手をのばした。
「やあ、ご苦労、ジョン・ライル……ずいぶん久しぶりだなあ」
それは、おれが候補生だったときの応用奇蹟学主任教官ハックスレー大佐で──当時の士官たちの中ではもっとも親しい、ただひとりの友人ともいえる人だった。日曜日の午後はたいていかれの宿舎を訪れ、くつろいで、きびしい訓練から解放されたひとときを楽しんだものだった。
「大佐……いや、閣下……あなたは亡くなられたものと思っていました!」
「大佐は死に、将軍として生きかえったわけさ。いや、ライル、わしは地下に潜ったときに、死亡者としてリストにのったがね。士官が失踪すると、かれらはたいていそうするんだ。そのほうが格好がいいからね。きみも死んでいるんだ……そのことを知っていたか?」
「え、ああ、知りませんでした。そんなことはどうでもかまいません。お会いできて素晴らしいです、閣下!」
「結構」
「でも……いったいどうして閣下は……つまり……」
おれは口ごもった。
「どうしてわしがここに現われ、指揮を取ることになったのか? わしはきみの年頃から党員だったんだよ、ライル。だが、そうしなければいけなくなるまで地下に潜らなかった……わしらのだれもがそうだ。わしの場合は、聖職者の仲間入りをしろという圧力が、ちょっと強すぎるようになったからだ。非聖職者の士官が物理や化学のより難解な分野を知りすぎるようになることに、士官学校長は不安でたまらなくなったんだな。それで、わしは短い休暇を取り、そして死んだ。まことに悲しいことだ」
かれは微笑して、言葉を続けた。
「まあ、坐れ。わしは一日じゅうきみを呼びたかったのだが、忙しくてね。みんながそうなんだ。きみの報告の記録も、つい先ほどまで聞く時間がなかったんだ」
おれたちは腰を下ろして語り合い、おれは大きな喜びに胸をふくらませた。おれが、これまでその下で仕えたどの士官よりも尊敬していたハックスレー。かれがここにいるというだけで、おれの心にあったかもしれない疑念をすべて吹き飛ばした──もしカバル党がかれにとって正しいものなら、おれにも正しい。教義の難解さなど、どうでもいいことだ。
やがてかれはいった。
「こんな遅い時刻にきみを呼んだのは、もちろん雑談するためではないんだ、ライル。やってもらいたい仕事がある」
「はい、閣下」
「すでに気づいていると思うが、ここにいる義勇軍は未熟なものだ。これは内輪の話で、わしは別に同志たちを批判しているのではない……かれらはみな、わしらの目的に対して命を捧げると誓った。きみやわしと違って、かれらにはずっと難しいことだ。しかもかれらは、軍規のもとに置かれている。これは、もっと難しいことだ。だが、安心して物事をまかせられる訓練された兵士は少ない。かれらは一所懸命にやろうとしているが、この組織を能率的な戦闘機械に変えるには、あまりにもハンディキャップが多すぎる。わしは、管理運営の細かい仕事に追われている。わしを助けてくれないか?」
おれは立ち上がった。
「わたくしは閣下にお仕えするのを光栄と思い、最善をつくします」
「結構! しばらくは、きみをわしの個人副官としよう。今夜はそれだけだ、大尉。朝会おう」
おれはドアから出かけたとき、大尉と呼ばれたことにふと気づいた──そして、いい間違いだろうと思った。
だが、そうではなかった。あくる朝、おれに割り当てられた事務室へ行ってみると、そこにはライル大尉≠ニいう札がかかっていた。職業軍人としての立場からいえば、革命にはいいことが一つある。急速な昇進が多いことだ──よしんば、給料が不規則になりがちだとしても。
その事務室はハックスレー将軍の続き部屋で、おれはそれから、ほとんどそこで毎日を過ごした──しまいには、机の後ろに簡易寝台を据えつけた。最初の日は、机の上の書類籠に次々と入れられる書類の山と夜の十時まで戦った。籠の底が見えたら、ジュディスへ長い手紙を書こうと心に誓っていた。だが、その最後の書類は、おれ個人にあてられた短い覚書だった。
それはJ・ライル少尉≠ノ宛てられており、それからだれかが少尉≠消して大尉≠ニ書きなおしていた。その内容は……
新しく着任した全員に対する覚書[#「新しく着任した全員に対する覚書」はゴシック]
主題[#「主題」はゴシック]──個人の転向報告
[#ここから3字下げ]
1 貴下が、われわれの自由を求めての戦いに参加する決意をうながすにいたった事件、考え、研究のすべてについて、できるかぎり完全に書き、提出すること。その内容は、できるだけ諭細かつ主観的でなければならない。その報告が乱雑であったり、簡単すぎたり、あまりに表面的すぎた場合は、書きなおし、もしくは訂正を命じられ、あるいは催眠調査を受けなければいけないことになる。
2 この報告書は機密書類として扱われ、その全部もしくは一部を、本人の要求として極秘事項に指定することもできる。もしそのほうが書きやすければ、文中の人物の本名を頭文字ないしは数字で代用してもいいが、報告は完全なものでなければならない。
3 この報告書を作るために、正規の勤務時間をいっさいあててはいけない。これは最優先の時間外勤務として扱うこと。報告書の提出期限は……(ここに、だれかが、そのときから先四十八時間足らずの日付と時刻を書き入れていた。おれは思わず罰当たりなつぶやきを洩らした)
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]司令官の命令により
[#地付き](署名)M・ノヴァーク大佐
[#地付き]合衆国陸軍
[#地付き]心理学部長
おれはこの要求にすっかり当惑し、とにかくまず、ジュディスへの手紙を書いてからのことにしようと考えた。しかし、その手紙もそう簡単にはいかなかった──もうひとり見知らぬ人間に読まれ、おまけに心をこめた言葉を書き替えられるというのでは、ラヴレターなど書けるものか。
しかも、ジュディスへの手紙を書いていると、初めて彼女に会ったあの夜の王宮城壁の光景が心によみがえってきた。そして、知ったかぶりのノヴァーク大佐のいわゆる転向の動機ないしそのきっかけとなった事件というのは、それだったように思えた──たとえおれの疑惑がそれ以前に始まっていたとしても。やっと、なんとかその手紙を書き終えると、ベッドには入らず、すぐにそのいまいましい報告書にかかった。
しばらくして、おれは午前一時になっていることに気づいたが、まだ秘密結社に加入を認められたところまでしか書けていなかった。おれはちょっと不承不承にそこでやめ(興味を覚え始めていたのだ)、それを机に入れて鍵をかけた。
あくる朝、食事のとき、おれはゼブの隣りに行き、例の覚書を見せて尋ねた。
「これはどういうつもりなんだ? きみは、このお偉方の下で働いているんだから知ってるだろう? おれたちをまだ疑っているのか、ここへ入れたあとも?」
ゼブはそれをちらりと見た。
「ああ、それか……とんでもない、違うよ。かりにスパイがここまで潜入することができたとしても、その個人報告が意味分析にかけられたら捕まってしまうことになるとつけ加えておいてもいいが、それほど長くて、複雑な嘘をつくことはだれにもできないよ」
「では、どういう目的なんだ?」
「何を心配しているんだ? 書けばいいんだ……ただし、洗いざらい書くことだぜ。そして、それを出すんだ」
おれはちょっとかっかしてきた。
「どうもすっきりしないな。まず、将軍に尋ねてみよう」
「ぐずの大馬鹿野郎と思われたいなら、そうすればいいさ。だが、ジョン、きみの書いたくだらない文章を読む心理数学者は、個人としてのきみにはまったく関心を持だないのさ。きみが、どこのだれかを知ろうとも思わないだろうな……まず、女の子がきみの報告に目を通して、きみ自身の名前をふくめたあらゆる人名や代用の数字を削除してしまう……分析家へ見せる前にだぜ。要するにきみはデータにすぎないわけだ。チーフは何やら大がかりな計画を進めているらしいんだ……おれ自身も知らないことだぞ……そのために必要な統計資料を集めようとしているんだ」
おれはすこし気持ちがやわらいだ。
「ほう、それならそうと、なぜいわないんだ? この覚書はまるっきり命令じゃないか……いまいましい」
ゼブは肩をすくめた。
「それは、意味分析班で用意したからだ。もし広報班にやらせていれば、たぶんきみは早く起きて、朝食前にそれを仕上げていたことだろう」かれは、ちょっとあいだをおいて、いった。「ところで、きみは昇進したそうだな。おめでとう」
「ありがとう」おれは冗談めかした笑いを浮かべた。「おれより階級が下になった気分は、どうだい?」
「へえっ、きみはそんなに上へ飛んでしまったのかい? 大尉だという話だったが」
「そうだ」
「じゃあ、こちらもいわせてもらおうか……おれは少佐だぞ」
「え? それはおめでとう」
「だが、どうってことはないぜ。ここでは少なくとも大佐にならなきゃあ、自分で自分の床を敷かなきゃあいけないんだからな」
おれは忙しすぎて、自分のベッド・メーキングをすることすら少なかった。半分以上は事務室の簡易寝台に寝たし、週に一度も入浴しないことがあった。
カバル党が想像していた以上に大きく、はるかに多くの分岐を持っていることや、さらにそれは急速に規模を拡大しつつあることが明らかになってきた。読後焼却を要する第一級の機密書類以外のものはすべておれの机を通るのだが、おれは木々に近すぎて、森が見えなかった。
おれはハックスレー将軍を書類の山で窒息させないためだけに努力した──そのために、自分が窒息しそうだった。おれは、かれに時間があればやるだろうことを察知して、それを代わりにやることにした。幕僚ないし司令部員としての要領を訓練されている者なら、それができる。簡単にいうと、日常の決まった執務において、ボスの心と同じように自分の心を働かせ、そして日常業務と、ボス自身がやるべきことを、瞬時に識別できるようになることがこつなのだ。おれは自分なりにへまをやったが、首にならなかったところを見ると、そんな過ちがさほど多くなかったのだろう。
三月目には、主任幕僚という素晴らしい肩書きを持つ少佐に任じられた。もちろんそれはウエスト・ポイント出身であることに負うところが多い──職業軍人は非常に有利なのだ。
つけ加えておくと、ゼブはそのころ下っ端の大佐で、広報宣伝部の主任となり、前の主任はおれが暗号ジェリコとだけ知っている地方基地司令部へ転任していった。
話を進めよう。ジュディスの返事は約二週間後に来た──気持ちのいい手紙だったが、書き替えのためにエキスが抜けてしまっていた。おれはすぐ返事を書くつもりだったが、実際には一週間遅れてしまった──何を書いていいかわからなかったからだ。元気で忙しく働いているということ以外に、何のニュースも書けないし、彼女を愛していると一つの手紙に三度書いても、とんまな暗号係が、それにパターン≠ェあると考えて調べ、一つも見つけられないので、全面削除してしまうかもしれないのだ。
その郵便は、長いトンネルを通ってメキシコへ送られる。人工のところもあるが、ほとんどが天然のもので、国境の真下を通っているのだ。鉱山で使われているような小さな電気鉄道がそのトンネルの中に走り、公用の書簡というおれの毎日の悩みごとだけでなく、多くの貨物をおれたちのちょっとした大きさの町へ輸送しているのだった。
アリゾナ州にあるこの総司令部の国境側には、十を越える出入口があるのだが、それらがどこにあるのか、ひとつもおれは知らなかった──そんなことは、おれの仕事じゃない。
古生代のぶあつい石灰岩層が基地の全域を覆っており、それはカリフォルニアからテキサス一帯に蜂の巣状にひろがっているらしい。総司令部のある地域は、逃亡した同志の隠れ家として二十年以上も使われていた。おれたちのいる洞窟がどこまで伸びているのか、だれも知らなかった。おれたちはただそこに明かりをつけ、必要な部分を利用しているにすぎない。まるで穴居人ごっこをしているようなもので、事実そこに永住している者は穴居人≠ニ呼ばれていた。
ついでにいうと、短期間の滞在者はこうもり≠ニいう。夜になると飛ぶからだ──おれたち穴居人は|蜂の巣探し《スペリング・ビー》≠ヨ行くのを好んだ。ちょっとした素人洞窟学をかねてまだ調べられていないところへピクニックに行くことだ。
規則上は許されていたが、やっとというところで、安全のための厳重な規制が加えられていた。そういった洞穴の中では、実に容易に足を折りやすいからだ。だが必要上許可されていた。おれたちのあいだでやれるレクリエーションはそれだけで、一部の者は何年も日光を見ていなかったのだ。
おれも行けるときには、ゼブやマギーと一緒に、何度もそんな遠足に出かけた。マギーはいつも、もうひとり若い女性を連れてきた。最初おれがそれに反対すると、彼女はゴシップを防ぐために必要なのだと指摘した……おたがいの付き添いだ、と。そういうことだから、ジュディスが知っても気にしないだろうと、おれを安心させた。
連れてくる女性は、そのたびに変わった。その女性にゼブはつねに大変な関心をよせ、そのあいだおれはマギーと話していることになった。おれは一時、マギーとゼブは結婚するものと思っていたが、疑わしくなってきた。かれらはおたがいが、ハムと卵みたいにぴったりみたいなのだが、マギーは嫉妬しているように見えず、ゼブのほうは、正直いって恥知らずとしかいえない──つまり、マギーが気にするものと、もしかれが考えていたとすれば。
ある土曜日の朝、ゼブはおれの懲罰監房《スエット・ボックス》に首をつき出していった。
「スペリング・ビー。二時。タオルを持ってこい」
おれは書類の山から顔を上げて答えた。
「行けるかどうかわからないな……それに、どうしてタオルが?」
だが、かれは行ってしまった。そのあとで、マギーがおれの事務室を通って毎週の総合情報報告をおやじのところへ届けに行ったが、おれは彼女に尋ねようとはしなかった。勤務時間中のマギーは仕事一途──完全な庶務係軍曹だ。
おれは昼食をデスクで食べ、仕事を終わらせてしまいたかったが、できないとわかっていた。二時十五分前ごろ、ある書類にハックスレー将軍の署名をもらいに行った。その夜、催眠暗示による伝書使がだされることになり、その伝書使を急いで心理部へやって処置を受けさせる必要があったのだ。かれはそれをちょっと見て、サインし、それからいった。
「アンディ軍曹に聞いたが、きみはデートがあるそうだな」
おれは固くなって答えた。
「アンドリューズ軍曹の思い違いです……まだ、ジェリコ、ノッド、エジプトからの週間報告を整理しなければいけません」
「それをみなわしのデスクにおいて、出かけろ。これは命令だぞ。働きすぎで、体をこわしてはいかんからな」
かれ自身は一カ月以上まともなところで寝ていないことを、おれはいわなかった。おれは外に出た。
ノヴァーク大佐のところにメッセージを届けてから、いつも待ち合わせる女性用食堂の近くに、急いで行った。マギーは、べつの女性とそこにいた──補給所売店の係をしている金髪のミリアム・ブースだった。顔は知っていたが、話したことは一度もなかった。ふたりはおれたちのピクニック・ランチを持ってきており、おれが紹介されていると、ゼブがやってきた。かれはいつものとおり、場所を決めるときに使う携帯用の投光用照明灯《フラット・ライト》と敷物とテーブルがわりに使う毛布を持ってきていた。かれは尋ねた。
「タオルはどうした?」
「本気だったのかい? 忘れていたよ」
「走って持ってこいよ。おれたちはアッピア街道ぞいに行ってるから。追いつけるよ。さあ、きみたち、行こう」
かれらはそのまま出発したので、おれはいわれたようにするほかなかった。部屋へ帰ってタオルを取り、かれらの姿が見えるところまで小走りに駆け、それから息をあえがせながら速度をゆるめて歩きだした。デスク・ワークばかりしているせいか、息が苦しかった。かれらは足音を聞いて立ちどまり、おれを待った。
おれたちはみな同じ服装だった。女もズボンをはき、それぞれが腰に命綱を巻き、ベルトに懐中電灯をつけている。女が男の服装をするのは気に入らないが、いつのまにか慣れてしまっていた──それに何といっても、スカートをはいて洞穴の中を上り下りするのは不便でもあり、あまりに不謹慎でもある。
おれたちは明るく照明されている地域を離れて曲がったが、道は行きどまりの壁にぶつかったように見えた。ところが、よく隠されているが、楽に通れる大きさのトンネルに続いていたのだ。ゼブはおれたちの命綱を結び、はっきりとマークが記されている通路から離れると、服務規定で求められているとおり、その綱を繰り出しはじめた。ゼブはつねに、肝心なことについては慎重なのだ。
そこから千歩ほどのあいだ、ほうぼうに目じるしや、ほかの者が前にこの道を通ったことを示すものがあった。狭いところを、だれかが大槌で壊して広くした跡なども残っている。それからおれたちは、はっきりした道からそれて、衝立のような岩壁にぶつかった。ゼブは投光照明灯を下ろし、それをつけた。
「懐中電灯を吊せ。これを登るんだ」
「どこへ行くつもりなんだ?」
「ミリアムが知っている場所さ。ちょっと尻をおしてくれ、ジョニー」
それほど高い崖ではなかったから、おれとゼブはだがいに手を貸して簡単に登った。女たちも同じようにして登れたろうが、おれたちは安全を考えて、綱で引き上げた。それから、荷物をかつぎ、ミリアムが先頭に立ち、それぞれが懐中電灯をつけて続いた。
その岩の向こう側に下りると、そこに別の通路があった。まったく隠れたところにあるので、一万年ものあいだ、だれにも気づかれなかったろう。おれたちは一度立ちどまり、ゼブがまた命綱をつないだ。それからまもなく、ミリアムはいった。
「ゆっくり歩いて、みんな。ここらへんなの」
ゼブは懐中電灯であたりを探り、ついで投光照明灯を下ろしてスイッチを入れた。かれは口笛を吹いた。
「やあ! ここだ、間違いない!」
マギーは静かにいった。
「きれいなところね」
ミリアムは得意げに微笑んでいるだけだった。
おれは、かれらみんなに同意した。そこは幅が八十フィートほどで奥行きはもっと長い、小さくてまん丸な天井の洞穴だった。奥行きはどれくらいか、おれにはわからない。ゆるやかに曲がって暗闇の中へ続いている。だが、この場所の特色は、床の大部分が静かな、インクのように黒いプールになっていることだ。おれたちの前には、小さな本物の砂浜があり、それは百万年も前からそこにあったのかもしれない。
おれたちの声は、天井からぶら下がっている鐘乳石やカーテンで割れてはひずみ、その部屋の中で朗らかに、またちょっと不気味にも反響した。
ゼブは下の水際へ歩いていき、しゃがみこむと、手ですくって味を試し、それからいった。
「そう冷たくないよ……ようし、最後に入るやつは警察のスパイだぞ」
おれは昔、いい泳ぎ場所で同じような言葉を聞いたのを思い出した。それを聞いたのは子供のころだったが、こうだった。ようし、最後に入るのは、汚い最下層民《バリアー》だぞ=Bだが、ここがそうだとは信じられなかった。
ゼブはもう、シャツのボタンをはずし始めていた。おれは急いでそばへ行き、ささやいた。
「ゼブ! 混浴かい? 冗談だろう?」
ゼブは、おれの顔をじっと見た。
「ぜんぜん……なぜいけないんだ。きみには、何か都合の悪いことでもあるのか? だれかに懺悔でもされるのを心配しているのか? もうそんな心配はないんだぞ。みな過ぎ去ってしまったことなんだ」
「でも……」
「でも、何だ?」
おれは答えられなかった。答えるとすれば、教会で教えられた言葉でしか語れないだろう。そうしたら、ゼブはおれを嘲笑するに決まっている──女たちの前で。たぶん、彼女たちも笑うだろう。かれらは前から知っており、おれは知らなかったのだから。おれはいいはった。
「でも、ゼブ……おれには、できないよ。きみは何もいわなかった……それに、おれは水泳パンツも持っていないんだぜ」
「おれだってそうさ。きみは、子供のころ裸かで水遊びしたことがないのかい……それで、ぴしゃりとやられたことは?」
かれは、この大それたことにおれが答えるまで待たず、女たちをふりかえっていった。
「お嬢さんたち、何をぐずぐずしているんだ?」
マギーが近づいてきながら答えた。
「あなたたちの議論が終わるのを待っているのよ……ゼブ、あたしとミミーは、あの岩の蔭で支度しようかしら。いい?」
「オーケイ。だが、ちょっと待ってくれ。飛びこみはだめだよ。きみたち二人とも、わかったかい? それから、監視係がひとり、岸にずっと残っている必要があるな……おれとジョンが交代でやろう」
ミリアムが答えた。
「平気よ! この前来たとき、わたし飛びこんだわ」
「おれと一緒じゃあなかったな、それははっきりしている。飛びこみはなし……さもないと、きみのパンツのいちばんきついところを、ぴしゃりといくぞ」
彼女は肩をすくめた。
「はい、わかりました、気むずかし屋の大佐どの。行きましょう、マグ」
彼女たちは、家の半分ほどある大きさの岩のほうへ行った。ミリアムが途中で立ちどまって、おれをふりかえり、指をうごめかして、いった。
「のぞいちゃだめよ!」
おれは耳のつけねまで赤くなるのを感じた。
彼女たちは岩の蔭に消えた。くすくす笑う声が聞こえるだけだ。おれは急いでいった。
「おい、きみは好きなようにしてくれ……きみなりの考えかだがあるだろうからな。だが、おれは入らないよ……ここに坐って、監視している」
「じゃ、つごうのいいほうに。どちらが先に見張番になるか争うつもりだったが、だれも無理じいしたわけじゃないからな。だが、いつでもロープを投げられるようにしておいてくれ。それが必要になるというんじゃないがね。彼女たちは、どちらも泳ぎが達者だから」
おれは絶望したようにいった。
「ゼブ、こんな地下の池で泳ぐことを、司令官は許可していないと思うが」
「だから、きみにいわなかったんだよ。司令官のことを、むやみに心配するな=c…紀元前千四百年ごろの、ヨシュアの軍隊における服務規定だ」
かれは手早く服を脱ぎはじめた。
ミリアムがなぜ、のぞいてはいけないといったのか、おれにはわからなかった──おれが、そうしたというのではない──なぜなら、彼女は服を脱ぐと、岩蔭から悠々と姿を現わしたからだ。おれたちのほうへではなく、池のほうへだが。照明灯の光が彼女をくっきりと照らしだしていたし、ほんの一瞬、彼女はおれたちのほうにむいて、こうさけんだ。
「マギー、早く! 急がないと、ゼブに負けるわよ」
おれは見たくなかったが、彼女から目をそらせることができなかった。おれは生まれてこのかた、ほんのすこしでもそれに以たものを一度も見たことがなかった──ただ一度、絵でみたことはあった。教区の小学校の男の子がもっていた絵で、おれはそれをちらりと見ると、すぐ先生にいいつけたものだった。
ゼブはミリアムを水の中に追いこんだ──彼女は何とも思わないようだった。かれは勢いよく水の中に入っていき、飛びこみを禁じた自分自身の命令を破りそうだった。水面での飛びこみといえそうな派手なやりかたで水のなかに走りこみ、競泳のようなスタートを切ったのだ。池の奥にむかって泳いでいたミリアムに、かれは力強いクロールですぐに追いついた。
ついでマギーが岩蔭から出てきて、水の中に入った。彼女は、ミリアムがやったようなわざとらしい動作はせず、ただ足早に歩いていき、静かにしとやかに水の中に入った。腰の深さまでになると、前にむかって体を沈め、平泳ぎで力強く進み出ると、クロールに変わり、二人のあとを追っていった。かれらの声は聞こえても、その姿はほとんど見えなくなっていた。
またもおれは、目をそらせられなかった。おれの永劫の魂が、それだけに支配されているように。女の肉体のどこが、この地上でこれほどまでに美しいものとなっているのだろう? だれかがいったように、おれたちが神の意志に従って地に満ちるための必要不可欠な本能にすぎないのだろうか? それとも、それは何か未知の、もっと素晴らしいものなのだろうか?
おれはいつのまにか口ずさんでいた。
「ああ愛よ、もろもろの快楽《たのしみ》の中にありてなんじは如何に美しく如何に喜ばしき者なるかな! なんじの身のたけは綜《しゅ》櫚《ろ》の樹に等しく、なんじの乳房は葡萄の房のごとし」
ついでおれは、それが聖書の雅歌にあるソロモンの歌で、何の関係もない清純で神聖な寓話であることを思い出し、恥ずかしくなって口ずさむのをやめた。
おれは砂の上に腰を下ろし、心を落ち着かせようとした。しばらくするとだいぶよくなり、胸の鼓動はそれほど強く打たないようになった。
かれらがゼブを先頭にし、ミリアムは競泳しながらもどってくると、おれは微笑をむける余裕さえできていた。もはやそれはあまり恐ろしいものではなくなっていた、水の中にいるかぎり女たちの体がショックを与えるほど露出していないせいもあった。いや、たぶん邪悪なものは本当に、見る者の目の中にあるのかもしれない──とすれば、それを心の中から追い出しておくことだ。
ゼブが声をかけた。
「交替しようか?」
おれはきっぱりと答えた。
「いや。そのまま遊んでいてくれ」
「よしきた」
かれはイルカのように反転し、いま来たほうへ引き返していった。ミリアムがそれに続いた。マギーは浅いところになってくると、指先を底につけて、おれのほうに向いた。象牙色の両肩から上だけが暗い水面上に出ており、腰まである長い髪が、そのまわりに漂っていた。
彼女は優しくいった。
「かれいそうなジョン。あたしが出て、交替するわ」
「いや、いいんだ」
「ほんと?」
「本当だとも」
「そう。じゃあ、行ってくるわ」
彼女はふりむき、はじけるようにして二人を追った。そのかすかな、魔法のような一瞬、彼女の体の一部が水の上に出た。
マギーは十分ほどすると、洞窟のこちら側にもどってきた。
「寒いわ」
彼女は短くそういって水から上がり、急ぎ足で岩蔭に身を隠した。なぜか彼女は裸かではなく、イブのように衣服をまとっていないだけだった。そこには違いがあった──ミリアムは裸かだったのだ。
マギーが水から上がり、おれたちのどちらも話さなかったので、おれは初めて、ほかの物音がまったくしていないことに気づいた。洞窟の中ほど静かなところはほかにない。ほかのところはどこでも、なんらかの雑音があるものだ。しかし、地下での完全なゼロ・デシベルとなると、そこにいる人がじっとしていて何もいわないと、とても異様なものだ。
つまりゼブとミリアムの泳いでいる音が聞こえるべきだったのにいということなのだ。水泳はうるさくする必要などないが、洞窟そのもののように静かにはできない。おれはいきなり立ち上がり、前に進み出ようとした──そして、すぐまた同じようにとつぜん立ちどまった。マギーの化粧室に闖入するわけにはいかない。あと十数歩のところだが。
だが、おれは本当に心配で、どうするべきかわからなかった。綱を投げるか? どこへ? 裸かになってかれらを探すか? 必要ならば。おれは小声で呼びかけた。
「マギー!」
「なあに、ジョン?」
「マギー、ぼくは心配なんだ」
彼女はすぐ岩の蔭から出てきた。もうズボンをはいていたが、腰から上はタオルで隠しているだけだった。髪をふいていたような印象を受けた。
「なんで、ジョン?」
「黙って、耳をすましてごらん?」
彼女はそうした。
「なんにも聞こえないわ」
「それさ。聞こえて当然だろう。きみたちが、ずっとむこうの見えないところで泳いでいたときでさえ、音は聞こえていたんだぜ。ところかいまは、物音がしない。水のはねる音すら。ひょっとしたら、あの二人が同時に底に頭をぶつけたんじゃないかと思ってね」
「まあ。心配するのはやめてよ、ジョン。二人は大丈夫」
「でも、ぼくは心配なんだ」
「二人はきっと休んでいるだけよ。むこうに、これの半分ぐらいの小さな砂浜がもうひとつあるの。そこにかれらはいるわ。あたし、かれらとそこに上がってから帰ってきたの。寒かったから」
おれは、慎み深さから、自分の明白な義務を怠っていたことに気づき、心を決めた。
「向こうをむいてくれ。いや、岩の蔭に入ってほしいな……ぼくは服を脱ぎたいんだ」
彼女は下がろうとしなかった。
「なんですって? そんな必要はないっていってるのよ」
おれはさけぼうとして口を開きかけた。だがそれより早く、マギーは手をのばしておれの口をおさえた。それで彼女のタオルがずれて、おれたちはどちらもどぎまぎした。彼女は鋭い声でいった。
「お願い! その大きな口を閉じておいてよ」
彼女はさっとふり向いて、タオルをかげんした。こちらに向きなおったとき、タオルをストールのようにして、押さえずに体の前面をうまく隠すようにしていた。
「ジョン・ライル、ここへ来て坐って、あたしのそばに坐ってほしいの」
彼女は砂の上に坐り、そばの地面をたたいた──その口調は実に厳しかったので、おれはいわれたようにした。
彼女はなおもいった。
「あたしのそばへ……もっと近くによって。大きな声は出したくはないもの」
おれは、袖が彼女のあらわな腕にさわるところまで、しぶしぶにじりよった。彼女は、うなずき、洞窟に反響しない程度に声を低めて話しかけた。
「そのほうがいいわ……よく聞いて。あの二人は自分たちの自由な意志で、あそこへ行ったわけなのよ。かれらは完全に安全なのよ……わたし、見たんだもの。それに二人とも、泳ぎがとてもうまいし。あなたが守るべきことはね、ジョン・ライル、自分のことだけを考えて、邪魔しようという汚い気持ちをおさえることよ」
「なんのことだかわからないよ」
実のところ、おれにはわかっていたんだ。
「まあ、驚いた! ねえ、ミリアムはあなたにとって何か大切な人なの?」
「いや、別に何でもないよ」
「そうでしょうね。出発したときから、彼女とろくに口もきいていないもの。いいわ……すると、あなたには嫉妬する理由はないのだから、かれらが二人だけになろうとしているとき、どうして首をつっこもうとするの? これで、わかった?」
「ああ、そうだね」
「だったら、静かにしていることね」
おれは静かにした。彼女は動かなかった。おれは、彼女が裸かであることを痛いほど意識していた──覆ってはいるが、いま彼女は裸かなのだ──そして、そう意識していることを彼女に気づかれないようにと祈った。おれは、自分がなんだかわからないが、あることに加わっているのも同じだということも、痛いほど意識していた。まるで道徳監視官のように、最悪のことを勘ぐる権利などだれにもないのだぞと、自分の心に腹立たしくいいきかせた。
しばらくして、おれはいった。
「マギー……」
「ええ、ジョン?」
「どうもきみが、わからないんだがな」
「どうしてわからないの、ジョン? わからなくちゃいけないというわけではないんだけど」
「あの、ゼブがミリアムと向こうにいるのに、きみはぜんぜん気にならないようだから……二人だけでいるのに」
「あたしが、それを気にしなければいけないの?」
女め! どうしてこうひねくれたいいかたをするのだ!
「だって……きみとゼブは、いつか結婚するつもりでいるのじゃないのかい? そんな印象を受けていたんだが」
彼女は低く、ちょっと陽気に笑った。
「あなたが、そんな印象を受けたのは当然かもしれないけれど、でも信じて、その問題はもう片がついてしまったのよ」
「え?」
「誤解しないで。あたしいまでも、ゼブが大好きだし、かれも同じようにあたしが好きなんだけど、でも心理学的には、どちらも支配者型なの。あたしの側面図を見たらわかるわ……まるでロッキー山脈みたいよ! そんな二人は結婚するべきじゃないでしょ。そんな結婚は、ろくなことにならないに決まってるわ! 幸運なことに、あたしたちはそれを事前に発見したのよ」
「そう……」
「そう、ほんとよ」
それから、なぜあんなことになったのかよくわからない。彼女がたとえようもなく淋しげに見えた──気づいたら、おれは彼女に接吻していた。彼女はおれの両腕の中に身を横たえ、信じられないほどに熱のこもった接吻を返していた。おれはというと、頭がぶんぶん鳴っており、目の玉がぶつかりあい、千フィートの地下にいるのやら、閲兵式に出ているのやら、わけがわからなかった。
やがて、それが終わった。彼女は見上げ、ちょっとのあいだおれの目を見つめて、ささやいた。
「やさしいジョン……」
それから彼女はとつぜん立ち上がり、おれにもたれかかると、タオルのことなどかまわず、おれの頬を軽くたたいて、いった。
「ジュディスって、本当に幸せな娘だわ。彼女、そのことに気づいているのかしらね」
「マギー!」
と、おれはいった。
彼女はふりむき、こちらを見ずにいった。
「あたしは、ほんとに服を着てしまわなければ。寒いわ」
彼女の姿は、おれには寒いとは思えなかったのだが。
まもなく彼女は、服をきちんと着て、タオルで髪を拭きながら出てきた。おれは乾いたタオルで、それを手伝った。自分からそういいだしたのではなく、自然に手が出たのだ。彼女の髪はふさふさとして美しく、そうするのが楽しかった。全身がぞくぞくするような興奮を覚えた。
そうしているうちに、ゼブとミリアムがこんどは競争せずに、ゆっくり泳いでもどってきた。まだ姿が見えないうちに笑い声が聞こえた。ミリアムはゴモラの町の娼婦のように、恥ずかしげもなく水から出てきたが、おれはほとんど目を向けなかった。ゼブはおれを見つめて、そそのかすようにいった。
「さあ、泳いでもいいぜ!」
おれは、その気になれないといい、タオルがすでに濡れてしまっていることの言い訳をしようと思ったが──そのとき、マギーがおれを見つめているのに気がついた──何もいわずに、見つめているだけだ。おれはそれに答えて、さけんだ。
「ああ、もちろん! きみたちは、長すぎたよ……ミリアム! 岩の蔭から出てきてくれ! そこを使いたいんだ」
彼女はくすくす笑って、服を直しながら出てきた。おれは、落ち着き、威厳をもって、そのむこうへ行った。
そこから出てくるときも、おれは威厳を保っていようとした。どっちにしろ、おれは歯をくいしばってそこから出ると、水の中にまっすぐ入った。水は最初、身を切るように冷たかったが、それもほんのちょっとのあいだだけだった。おれは、代表選手にこそならなかったが、クラス・チームの選手だったし、新年の初めにハドソン川に入ったこともあった。この暗い水面のプールの入るとすぐ、そこが気に入った。
向こう岸まで泳いでいくほかなかった。確かにマギーがいったとおり、そこには小さな砂浜があった。おれはそこには上がらなかった。
もどってくるとき、試しに潜ってみたが、底まで達することはできず、二十フィート以上の深さがあるようだった。おれはそこが気に入った──暗くて、まったく静かだ。息ができるとか、鰓《えら》があるとかしたら、そこは留まっているのにいい場所のようだった。預言者、カバル党、書類整理、悩みごと、おれには複雑すぎるさまざまな問題、などから離れて。
あえぎながら水面に出ると、おれはピクニックの砂浜にむかって勢いよく泳いだ。女たちはすでに食べ物を広げており、ゼブが早くこいと声をかけた。おれが水から上がるとき、ゼブとマギーは顔を上げなかった。ミリアムがおれを横目で見ていることに気がついた。おれは顔を赤らめなかったと思う。もともと、金髪女というのがどうも好きになれないのだ。魔女リリスは、やはり金髪だったにちがいない。
11
各部局長、ハックスレー将軍、ほか数名の幕僚による最高会議は、将軍に対する助言や意見の交換や現地情報の検討をおこなうため、毎週あるいはもっと頻繁に開かれていた。
地下のプールでのやや常軌を逸した遊びから約一カ月後、その会議が開かれたとき、おれはそこに出た。メンバーとしてではなく、記録係としてだ。おれの助手が病気で休んだので、極秘事項に近づく資格のあるマギーをG2から借りて、音声文章化装置《ヴォイスライター》を操作してもらった。
基地ではつねに有能な人材が非常に不足していた。たとえば、参謀長の肩書を持つペノイヤー空将は、おれの名目上の上司だったが、兵器局長を兼ねていたため、かれと顔を合わせることはほとんどなかった。実のところ、ハックスレーは自身で参謀長を兼任し、おれはその輝かしい副官──見習士官、水夫長の子分、船長のボート漕ぎ≠セった。おれはハックスレーが胃腸薬を規則正しく飲む面倒まで見たんだ。
こんどの最高会議は、いつものより規模が大きかった。ガース、カナン、ジェリコ、バビロン、エジプトからは各地区司令官自身が、ノッドおよびダマスカスからは代理として副司令官が出席した──エデンを除く合衆国の全カバル党支部との間の指令中継のために、われわれはルイスヴィルに感応通信士《センシティブ》をおき、その通信士も理解できない暗号を使って通信していた。ハックスレーはおれに一言も洩らさなかったが、何か大きなことが迫りつつあるのが感じられた。その場所は秘密にされたから、鼠一匹、入ってこられなかったはずだ。
まず、通常の報告がながながと続けられた。現在の正規党員の数は八千七百九人であることがきちんと記録された。支部に属する同志や、試験され、並行して存在している軍隊組織に属したメンバーかのどちらかだ。その数に十倍する者が志願して指示を受けており、預言者に対して蜂起するときには頼りにできる仲間となるのだが、かれらには実際の陰謀についての知識は与えられていなかった。
その数字自体は、勇気の出てくるものではない。われわれはつねにジレンマをかかえていた。つまり、ひとつの大陸を占有する国家を征服するとなると、十万人でもひと握りの数にすぎないのに、陰謀自体に加わる人数は九千人以下でも、秘密保持のためには多すぎるのだ。
だから、われわれはやむを得ず、古い細胞組織の知恵にならい、だれも必要以上のことは知らされず、どこかの異端審問官がそいつに何をしようと、多くを知られてしまわないようにしてあった──たとえ、そいつがスパイであってもだ。しかし、現在の消極的抵抗の段階でも、われわれは毎週なにがしかの損失をこうむっていた。
四日前に、シアトルで支部が会議中に襲われ、出席者全員が逮捕されるという事件がおきた。重大な損失だったが、致命的な知識を持っていたのは三人の幹部だけで、かれらはいずれも自殺に成功した。今夜は大集会でかれらのための祈りが捧げられることになっているが、ここでは通例の報告事項として、事務的に処理された。その週には暗殺者を四人失ったが、二十三人の暗殺がなしとげられた──その中には、ミシシッピー渓谷下流全域の上級異端審問官がふくまれていた。
通信部長は、全国のラジオ・テレビ放送局の九十一パーセント(視聴者人口に換算して)を、同志によって無能力化する用意ができていること、さらに襲撃部隊の援助があれば、ニュー・エルサレムの|神の声《ボイス・オブ・ゴッド》放送局を除く、ほとんどすべての局の機能を麻痺させられると報告した──ニュー・エルサレムは特別なのだ。
戦闘工兵部長は、四十六の大都市の電力供給をストップさせる用意ができたことを報告した。ただし、これまたニュー・エルサレムは別で、そこには神殿の地下に自家用原子力発電所があるのだ。そこですら、もし作戦本部が充分な兵力を派遣できれば、その配電機能の大半を麻痺させることができる。また、主要な地上輸送ルートは、現在の計画と動員数で平常の輸送力の十二パーセントまで減少させることができる。
報告は次々とおこなわれた──新聞、学生活動グループ、ミサイル発射場の奪取および破壊工作、水道、暴動の煽動、対敵情報活動、長期天候予測、武器の配置と。
革命にくらべると、戦争は単純だ。戦争は、歴史の中で実験され確立された諸原理に基づく応用科学である。古代の石弓から水爆にいたるまで、各種兵器についての各時代の対応策には、多くの共通点があるのだ。しかし、革命は一つ一つがきまぐれな、突然変異体で、怪物だ。しかもそれを運用するのは、素人や個人主義者なのだ。
マギーがデータを記録すると、おれはそれを整理し、分析のために計算室へ送る。おれは忙しすぎて、頭のなかでざっとそれを評価してみることもできなかった。分析家がプログラミングを終わり、それを頭脳≠ノかけるあいだ、しばらく待ち時間がある──ついで、おれの前のリモート・プリンターが短くさえずったかと思うと、とまった。ハックスレーはかがみこみ、おれより先に手をのばし、テープをむしり取った。
かれはそれに目を通し、咳払いして、場内が静まりかえるのを待って話しはじめた。
「兄弟ならびに同志諸君……われわれはずいぶん前から、行動原則について同意しておりました。予測しうるあらゆる要素を計算し、ありうる誤差をさし引き、他の重要な要素との相関関係を考え、総合的に算定した結果、危険率が二対一でわれわれに有利になったとき、われわれは決起するのだ、と。今週のデータを変数におき換えた確率計算の本日の答えは、二・一三と出ました。したがってわたしは、いよいよ決行の時刻を決めることを提案します。いかがでしょう?」
それは、じっくりとあとからきいてくるショックであり、だれひとり何もいわなかった。希望の実現をあまりにも長いあいだ待たされていたので、現実を信じることが困難になっていたのだ──この人々はみな、何年も待っていたのだし、ある者はその一生のほとんどを待ちつづけたのだ。
一瞬おいて、かれらは立ち上がり、口々にさけび、むせび泣き、怒鳴り、おたがいの背中をたたき合った。
ハックスレーは奇妙な微笑を浮かべて、かれらが静かになるまでじっと坐っていた。それからまた立ち上がって、静かにいった。
「どう考えるかは、投票で決めるまでもないようです。その時刻を決めるのは……」
「将軍! お待ちください! わたしは同意いたしません」
それはゼブの上司で、心理部長のノヴァーク少将だった。ハックスレーは話すのをやめ、そのあとの沈黙は痛いぐらいだった。おれは、ほかの連中と同じように唖然としていた。
ついで、ハックスレーは静かにいった。
「この会議は、満場一致で議決することになっている。この日付を決める方法は、ずいぶん前に決定されたことだ……だが、わしはきみが正当な理由なく反対するはずはないと考える。では、ノヴァーク兄弟の話を聞くことにしよう」
ノヴァークはゆっくり前に進み出て、当惑し、敵意すら浮かべているみんなの顔に目を走らせた。
「同志諸君……あなたがたはわたしをご存じでしょう。わたしが、こんどのことをあなたがたと同じように待ちかねていたことを。わたしは過去十七年間、そのために邁進してきた……これがために、家庭も家も犠牲にした。だが、時機尚早だとはっきりわかりながら、黙ってあなたがたをそのまま進めさせるわけにはいかない。わたしが思うに……いや、わかっているのです。革命の機が熟していないことは、数学的に確実だということが」
かれは待ち、両手を上げて静粛を求めた。かれらは、話を聞きたがらなかったのだ。
「聞いてください! すべての軍事的計画の準備が整っていることは認めます。われわれがいま蜂起すれば、全土を掌握できる可能性が大きいことも認めます。だが、まだその時機ではないのです……」
「なぜだ?」
「……なぜなら、国民の大多数がいまだに既成宗教を信じ、預言者の神格的権威を信奉している。われわれは権力をつかむことはできるが、それを保ちつづけることはできない」
「そんな馬鹿なことがあるか!」
「聞いてくれ! いかなる国民も、国民自身の同意がなければ長いあいだ服従はしていない。三代にわたってアメリカ国民は、揺り籠から墓場まで、世界でもっとも賢明でもっとも徹底した心理技術者によって条件づけされてきた。かれらは、信じきっているのだ! もし諸君が、適当な心理学的準備処置をほどこさずにかれらをいま解放すれば、かれは元の鎖にもどっていくでしょう……焼けている納屋にもどっていく馬のように。われわれは革命には勝てるが、そのあとに長い血なまぐさい内戦が続く……そして、われわれは負けるのです!」
かれは話をやめ、ふるえる手で目をこすり、ハックスレーにむかって、いった。
「以上です」
何人かが、すぐに立ち上がった。ハックスレーはテーブルをたたいて静粛を求め、ついでペノイヤー空将にむかってうなずいてみせた。
ペノイヤーはいった。
「兄弟ノヴァークに、すこし質問したいことがある」
「どうぞ」
「国民の何パーセントが心から預言者を信奉しているのか、心理部はつかんでおられるのか?」
ノヴァークの助手として出席していたゼバディアが顔を上げた。ノヴァークがうなずくと、かれは答えた。
「六十二パーセント、プラス・マイナス三パーセントです」
「それから、われわれが志願させるさせないに関係なく、政府に対してひそかに敵意を抱いている者のパーセントは?」
「二十一パーセントで、誤差は前と同じです。この数字は、信奉者とみなされていても実際には信じておらず、現状に満足しているだけの者も含んでいます」
「どのような手段でそのデータは得られたんだね?」
「典型的タイプの人々を選んで、こっそりと催眠調査いたしました」
「一般的な傾向について説明できるか?」
「はい、閣下。現在の不景気が始まった最初のころの何年かは、政府にたいする信頼が急激に減少しましたが、その後、そのカーブは横ばいになりました。ついで新しい教区税や、ある程度までは浮浪罪の布告などが国民の反感をそそり、それからまたもそのカーブは下のレベルで横ばいになりました。そのころ景気はやや持ちなおしてきたのですが、それと相前後してわれわれの宣伝キャンペーンが強化され、それ以来十五カ月間、ゆっくりとではありますが着実に、政府の人気は後退を続けております」
「その第一の導関数は、何を示しているんだね?」
ゼブはためらった。ノヴァークが代わり、緊張した声で答えた。
「それは第二の導関数を計算に入れなければいけないが……その率は加速度的に増加している」
「それで?」
心理部長は、いいにくそうな口ぶりながらはっきりと答えた。
「外挿法によって計算すると、われわれが決起できるのは三年八カ月後になる」
ペノイヤーはハックスレーのほうに向きなおった。
「閣下、わたしの解答を申しあげます。ノヴァーク将軍の慎重にして科学的な研究調査に対しては、深甚なる尊敬を払うものでありますが……しかし、われわれは、勝てるうちに戦うべきであります! 次のチャンスはもうないかもしれないのですから」
かれの賛同者は次々と現われた。
「ペノイヤーのいうとおりだ! 待っていれば、われわれは裏切られてしまうだろう」──「こういう組織を、いつまでも保っていることはできません」──「おれは十年間、地下に潜っていた。ここに埋もれてしまうのはいやだ」──「まず勝つ……そして、通信報道機関を支配したとき国民を改宗させることを考えるんだ」──「いま、決行すべきだ! いま、決行だ!」
ハックスレーは無表情なまま、かれらが勝手に意見を述べるのを許していた。発言するにはあまりに地位が低いから、おれは黙っていたが、やはりペノイヤーの意見に賛成だった。あと四年も待つ必要があるとは思えなかった。
ゼブはノヴァークと熱心に話し合っていた。議場の混乱をよそに、二人だけの議論に熱中しているように見えた。
しかし、やがてハックスレーが手を上げて静粛を求めると、ノヴァークは席を立ち、急ぎ足でハックスレーのそばへ行った。将軍はしばらくかれの話に耳を傾けたが、とまどった表情を見せ、心を決めかねている様子だ。ノヴァークに手招きされると、ゼブは走りよった。こんどは三人で何やらささやきあい、そのあいだ会議は進行をとめていた。
やがてハックスレーは、また一同のほうに向いた。
「ただいまノヴァーク将軍から、ひとつの計画を提案されました。それは状況全体を変えるかもしれないものです。会議は明日まで延期とします」
ノヴァークの計画(というよりゼブのだったらしいが、かれは絶対にそれを認めない)というのは、毎年おこなわれる顕現の奇蹟≠フ日まで、二カ月近い延期を求めるものだった。というのは、その提案の狙いが、神が実体化される奇蹟そのものを妨害することにあったからだ。そういわれてみると、確かにそれはきわめて明白な、まことに当然な戦略だった。
つまり、独裁者の権力とは銃によってではなく、国民がかれによせる信頼によって支えられているからだ。これは、シーザー、ナポレオン、ヒトラー、スターリン、いずれの場合についてもいえる。したがってわれわれは、まず預言者の権力基盤をたたきつぶすことが必要だった。かれが、神そのものの権威によって統治しているのだという国民の信仰を。
顕現の奇蹟≠ェ、宗教的信仰と政治権力にどれほど重大な関係があったかを、後世の人々が理解しえないであろうことは間違いない。それをたとえ知的に理解しようという場合でも、まず次の事実をしっかりと心にとどめておく必要がある。初代預言者は毎年一度、実際に肉体的に、天国からもどってこられ、かれが神の名において指名した後継者の執務ぶりを見そなわし、その執務室で再確認されるのだと、国民が本当に信じていたことを。
人々はそれを信じていた──ごく少数の懐疑派も、文字どおり手足をばらばらにされるのを恐れて、そのことを口に出そうとはしなかった……おれがいっているのは、舗道を血で染める八つ裂きの刑のことで、言葉の綾ではない。国旗に唾を吐きかけることのほうが、ずっと安全だったろう。
おれ自身も、子供のときからずっとそれを信じていた。そうした基本的な信仰に疑いをはさむ気持ちなど一度もおこらなかった──おれはいわゆる教育のある人間で、ずっと小さな奇蹟ではあったが、その秘密を教えられ、それを作り出す訓練を受けたのに。おれは、それを信じていた。
それからの二カ月は、すでに射程距離に入って射ちかた、始め!≠フ命令を持っているときの、際限なく時間がのびていくような緊張に包まれていた──だが、おれたちは多忙をきわめていたので、毎日毎時間が短すぎた。奇蹟≠より以上奇蹟的に妨害するための準備に加えて、われわれの通常兵器をよりいっそう鋭利にするために時間を割かなければいけなかった。
ゼブとかれのボス、ノヴァーク少将は、ほとんど即座に派遣された。ノヴァークの命令書にはこうあった──ビューラランド(安息の地)に急行し、基盤作戦の指揮を取ること≠ニ。おれは事務員にはまかせず、自分でそれを打ったのだが、ビューラランドが地図のどこにあるのかはだれも教えてくれなかった。
ハックスレー自身もかれらが出発したときに、ペノイヤーを司令官代理として残して出ていき、一週間以上帰ってこなかった。もちろんかれは、なぜ出ていくのか、どこへ行こうとしているのかを何もいわなかったが、おれには推察できた。
基盤作戦は心理学的な戦法だが、その方法は物理的なものでなければいけない──そしておれのボスは以前、ウエスト・ポイントの応用奇蹟学科の主任教官だったし、おそらく全カバル党内でもっとも優秀な物理学者だろう。とにかくかれは、その方法が妥当か、その技術が絶対確実なものかどうか、少なくとも自分自身の目で見たいのだとおれは確信を持って推測した。おれの考えるところ、かれはその一週間、みずからハンダごて、ねじまわし、電子マイクロメーターを手にして働いていたにちがいない──将軍は、手を汚すことを厭わない人なんだ。
おれはハックスレーがいなくて淋しかった。ペノイヤーはつまらぬことでおれの決定をくつがえし、かれとおれの時間をむだ使いするのだ。そんな細かなことに司令官が気を使うべきでなく、そもそもできもしないことに対して。そしてかれは、そのあいだにもしばしば所在不明となった。出入りが激しく、一度などはあとを追いかけて自分が司令官代理であることを思い出させ、おれが頭文字だけを書いておいたところにサインしてもらったこともあった。内部の決まりきった事務書類には、おれができるかぎり判読できないような走り書きで名無しの権兵衛、合衆国空相だれそれに代わり≠ネどと書いたのだが──だれも気づかなかったことと思う。
ゼブが出ていく前に、ある事件がおきた。それは合衆国の国民やかれらの自由回復のための戦いとは、本当のところ何の関係もないが──おれ個人の恋愛事件と密接なつながりがあるので、ここに書きとめておこう。ひょっとすると個人的な見かたのほうが、本当に重要なのかもしれない。
確かに、この日誌を始めるもととなった命令は、それを個人的≠ナ主観的≠ネものとすることを求めていた──しかしながら、おれはそのコピーをひとつ作り、それに書き加えていった。
なぜかというとそれがおれ自身の混乱した考えを整えるのに役立ち、そのあいだにおれは、イモ虫から蛾になるような強烈な変貌をとげたのだ。おれはたぶん何億もの大衆の典型で、その物事に鼻をつっこんではじめてわかるというタイプの人間で、一方、ゼブやマギーやハックスレー将軍は、自由な魂をもともと自然に持っている少数エリートで……生まれついての考える人、指導者なのだ。
おれはデスクでいつものとおり書類の洪水を懸命に処理していると、ゼブのボスから、都合がつきしだい急いで来てほしい、という呼び出しを受けた。かれはすでに派遣命令を受けている身なので、おれはハックスレーの当番兵にそういい残し、急いで出向いた。
かれは前置きを省いて、いきなり話しだした。
「少佐、きみあての手紙が来ている。通信部から、書き替えるべきか破棄するべきか、分析して決定してくれといってこちらへ回送してよこしたのだが、うちの課長のひとりが熱心にすすめるので、わたしの責任によりそのままの形できみに読ませることにした。ここで読んでもらうほかないがね」
「はい、閣下」
おれはなんだろうととまどいながら、そう答えた。
かれはその手紙を、おれに渡した。かなり長いもので、普通の暗号通信の六倍はあったと思う。書き替えによる意味暗号でもだ。おれはその大部分を覚えていない──覚えているのは、おれに与えた衝撃だけだ。それはジュディスからだった。
親愛なるジョン……わたしはいつまでもあなたを懐かしく思い出し、わたしにしてくださったことを永久に忘れないでしょう……おたがいに、そのつもりがなかったとしてもです……メンドーサさんは、とても思いやりがあり……あなたはわたしを許してくださると思います……かれはわたしを必要としています。わたしたちが引き合わせられたのは、きっと運命だったのだと思います……もしもあなたが、メキシコ・シティに来られるようなことがあれば、わたしたちの家をあなたの家とお思いになってください……わたしはいつまでもあなたを、強くて賢明なお兄さまと思い、いつまでも妹としてあなたを慕い……
同じような意味のことが長々と続いていたが──要するに、それは約束の破棄をほのめかしている手紙だった。
ノヴァークは手をのばして、それをおれの手から取った。
「これを記憶する時間をきみに与えたくないんだ」かれはあっさりとそういって、すぐ机の横の焼却装置に投げ入れた。「坐ったほうがいいんじゃないか、少佐。タバコを吸うかい?」
おれは坐らなかったが、頭がひどくぐるぐるまわっていた。タバコを受け取って、かれに火をつけてもらった。たちまち煙にむせてしまい、肉体的な気持ちの悪さに、現実に引きもどされた。おれは、かれに礼をいって外に出ると──まっすぐ自分の部屋にもどり、事務室に電話して、将軍の用事が本当にあるとき以外は連絡するなと伝えた。おれは秘書に、急に気分が悪くなったので、できることならそっとしておいてくれといったのだ。
おれはそこに一時間ぐらいいたのだろう──どうかわからないが──ベッドにうつぶしたまま何もせず、考えることすらせず、横たわっていた。ついでドアを低くたたく音がし、おし開かれた。ゼブだった。かれはいった。
「気分はどう?」
「何も感じない」
と、おれは答えた。かれがあの手紙のことを知っていようとは思ってもいなかった。そのときのおれは、そのままおれに読ませるようにとノヴァークにすすめた課長≠ェいたことを、すっかり忘れていたのだ。
かれは入ってくると、椅子に体を投げ出すようにしておれを見つめた。おれはころがりでて、ベッドの端に坐った。かれは静かにいった。
「あんなことに負けるな、ジョニー……男は死に、虫に食われるものさ……だが、恋のためにではないぞ」
「きみには、わからないんだ!」
かれは静かにいった。
「ああ、わからん……男はみな、自分自身の囚人だ。人生の独房に閉じこめられているんだ。だが、この問題についてはかなり信頼できる統計調査があるんだ。ためしに、おれのいうとおりにやってみろ。心の中でジュディスの姿を思い浮かべるんだ。顔形を、声を思い出してみろ」
「え?」
「やってみろ」
やってみた、本当に努力してみた──ところがどうだ、できなかったんだ。彼女の写真を持ったことが一度もないせいか、彼女の顔は、おれの心から消えてしまっていたのだ。
じっとおれを見つめていたゼブは、はっきりといった。
「きみはすぐよくなるよ……いいか、ジョニー……きみに前もって話しておくべきだったかもしれないが、ジュディスはきわめて女性的なタイプの女性だ。生殖ホルモンがすべてに作用して、頭では考えない。そして、きわめて魅力的だ。ほうっておくと、発生した酸素がすぐ他のものと結合してしまうように、彼女はすぐに男を見つけてしまうのだ。だが、惚れている男に、こんな話をしても無駄だろうな」
かれは立ち上がった。
「ジョニー、おれはもう行かなくちゃあいかん。そんな状態のきみをこのままおいて出ていくのは気がかりだが、時間がない。おれはもうチェック・アウトしたし、ノヴァークじいさんは出発の用意ができているんだ。こんなに待たせたことで、かれにがみがみいわれるだろう。だが、出ていく前にひとつだけ忠告するが……」
おれが待っていると、かれは続けた。
「いいたいのは、おれがいないあいだに、マギーとしょっちゅう会うようにしろってことだ。いい慰めになるよ」
かれは立ち去ろうとした。おれは素早く呼びとめた。
「ゼブ……きみとマギーはどうなったんだ? これと同じようなことがあったのかい?」
かれは足をとめ、きびしくおれを見た。
「え? いや、そんなことじゃない……ぜんぜん違うんだ。それは……いや、同じじゃない」
「わからないな、きみたちが……おれには人間がわからないってことだろうな。きみはマギーとしょっちゅう会えというが……彼女はきみの恋人だと思っていたんだ……きみは嫉妬を感じないのかい?」
かれはおれを見つめ、笑っておれの肩をたたいた。
「いいか、彼女は自由な市民なんだぞ。もしきみが、マギーを苦しめるようなことをしたら黙っちゃいないぞ。きみの首を引き抜いて、それで死ぬまでぶったたいてやるからな。きみがそんなことをするとは思わないがね。だが、嫉妬するって? いや、そんなことはおこらない。彼女はまれに見る偉大な女性だとは思うが……しかし、彼女と結婚するくらいなら、むしろアメリカ・ライオンと結婚するよ」
かれはそういって去り、またもぽかんと口をあけているおれをあとに残した。だが、おれはかれの忠告に従った、というより、マギーがおれのためにそうしてくれたのだ。マギーはこのことをみな知っていた──ジュディスのことを、という意味だ──それで、おれはゼブが彼女に話したのだろうと思った。かれは話していなかった。ジュディス自身が、おれより先に彼女に手紙で知らせていたらしかった。
とにかく、おれのほうからマギーを訪ねるまでもなく、彼女がその日の夕食後おれを訪ねてきた。おれはしばらく彼女と話し合い、元気を取りもどし、おれの事務室へ行って、失った午後の時間のつぐないをつけた。
その後、マギーとおれは、夕食後散歩に行くのが習慣となった。おれたちはもう、蜂の巣探し≠ノは行かなくなっていた。最後の決戦に備えて時間がなかっただけではなく、おれたちのどちらもゼブかいなくなっては、別の四人組を作ろうとする気になれなかったからだった。ときによるとおれは、二十分かそれより短い時間しか割けず、そのあと自分のデスクにもどらなければいけなかった──だが、それは一日における最高の時間だった。おれは、それを楽しみにしていた。
明るく照明された中央洞窟や、マークがつけられている通路から離れなくても、素晴らしい散歩道がたくさんあった。もし一時間も余裕があれば、とびきりお気に入りの場所へ行けた──|大きな部屋《ビッグ・ルーム》の北、建物群から半マイルほどのところだ。
その道は、石灰岩のきのこ、巨大な柱、ドーム、名前はないが見る者の気分によって悶え苦しむ人間のように見えたり、異国の花のように見えたりする幻想的な形のもののあいだを縫っていくものだった。中央洞窟の床から百フィートほど高いところ、公認の道からわずか数フィートしか離れていないところに、天然の岩のベンチがあった。おれたちはそこに腰かけ、玩具の村を見下ろしながら話し合い、マギーはタバコを吸う。おれはゼブのやりかたにならって彼女のタバコに火をつけてやる。そんな些細な心づかいが彼女を喜ばせたし、おれはタバコの煙にむせたりしなくなった。
ゼブが出発してから約六週間後、そしてM時間のわずか数日前、おれたちはそうしていた。革命のあと世の中がどう変わり、おれたちはどうするのかと話し合っていた。おれは、もし正規軍といったものが何らかの形で残され、そこに入れるならそうしたいといった。
「きみはどうするんだい、マギー?」
彼女はゆっくりと煙を吐きだした。
「そんな先のことまで考えたことがないのよ、ジョン。あたしは専門的な職業知識を何ひとつ持っていないんだもの……つまり、あたしがこのあいだまでついていた職業を、あたしたちは廃物にしようとして全力をつくしているわけだし」彼女は皮肉な笑いを浮かべた。「役に立つようなことは何ひとつ教育を受けていないのよ。でも、お料理や裁縫に家事なら少しできるから、家政婦になろうかしら……有能な家政婦というのは、いつの世の中でも少ないらしいわよ」
勇敢で機知縦横のシスター・マグダーリン、いざとなれば振動短剣《バイブロブレード》を抜く手も見せずにふるう彼女が、食べるために召使いの職を求めてあちこちと職業紹介所を歩きまわるなど、おれにとっては想像するだけでもぞっとすることだった──家事一般と料理のできる方、住込み、休日は木曜日の夜と、隔週日曜日、要身元保証人>氛氓サれをマギーが? ためらいもせず、代償も求めず、おれの、たいした価値のない命を少なくとも二度助けてくれたマギーに、そんなことをさせても許されるだろうか? だめだ!
おれはたまりかねていった。
「ねえ、きみはそんなことをしないでいいんだよ」
「だってそれが、あたしの知っていることだもの」
「それはそうだが……それなら、ぼくのために料理や家事をやってくれないか。たとえぼくが万年少尉に逆もどりしても、二人で暮らすぐらいの金は稼げるだろう。たいしたことはできないかもしれないが……とにかく、そうしてくれたら嬉しいよ!」
彼女は顔を上げた。
「まあ、ジョン、あなたって親切なのね!」彼女はタバコをもみ消して、わきに投げ捨てた。
「そういってくれるのは嬉しいけれど……でも、うまくいかないわ。この前みたいに人の噂が広まって、あなたに迷惑がかかるだろうと思うの。あなたの大佐だって黙っていないわ」
おれは顔を赤らめ、ほとんど怒鳴るようにして、いった。
「ぼくがいったのは、そんな意味じゃないんだ!」
「え? では、どんな意味なの?」
おれは言葉を口から出すまで、はっきりと自覚していなかった。
いまそれがわかったが、どう表現していいかがわからなかった。
「それは……ねえ、マギー、きみだってぼくが好きらしいから……うまくやっていけると思うんだ。つまり、ぼくらは……」
彼女は立ち上がって、おれと向きあった。
「ジョン、あなた結婚を申しこんでいるの……あたしに?」
おれはぎごちなくいった。
「ああ、だいたいそういうことだね」
彼女を前に立たせておくと落ち着けないので、おれも立ち上がった。
真面目な顔でおれをじっと見つめていた彼女は、慎しい口調で答えた。
「あたし、光栄だわ……嬉しいし、ほんとに感激よ。でも……ああ、だめよ、ジョン!」
涙が彼女の目から流れはじめ、そして声をあげて泣きはじめた。だが、彼女はすぐに泣きやみ、袖で顔をふくと、のどをつまらせながらいった。
「あなた、あたしをとうとう泣かせたわね。もう何年ものあいだ、泣いたことがなかったのに」
おれは彼女に両手をまわそうとしたが、彼女はおれを押しかえした。
「だめよ、ジョン! まず、あたしの話を聞いて。あなたの家政婦になるという仕事は引き受けるわ。でも結婚はしません」
「なぜなんだ?」
「なぜって? ああ、あたしのいとしい、いとしい人……あたしは年を取り、疲れた女だから。それが理由よ」
「年を取っているって? ぼくより二つか、せいぜい三つしか年上じゃないよ。そんなこと問題じゃない」
「あたしは、あなたより千年も年上だわ。考えてごらんなさい、あたしがどんな女で……どこにいて……どんなことをしてきたかを。最初は、いってみれば預言者の花嫁≠セったのよ」
「きみの罪じゃないよ!」
「そうかもしれない。でもあたしは、あなたの友達のゼバディアの情婦だったわ。そのこと知っているの?」
「それは……察しはついていたよ」
「それで全部じゃないの。ほかにも男がいたわ。あるときはどうしても必要で……女の提供できる賄賂ってほかにないんですもの。あるときは、孤独さから、退屈だったからのときもあるわ。預言者が飽きてしまった女なんて、何の価値もないのよ。自分でもそう思うわ」
「ぼくは気にしない。気にしないよ! そんなことは問題じゃあないんだ!」
「いまはそうおっしゃるけれど、あとできっと問題になってくるのよ。恐ろしいまでにね。あたし、あなたって人がわかっているつもりなの」
「そんなことをいうのは、ぼくを知らないからさ。ぼくらは、新しく始めなおすんだ」
彼女は深く溜息をついた。
「あなたは、あたしを愛していると思っているの、ジョン?」
「え? ああ、そうだと思うよ」
「あなたはジュディスを愛していたわ。そして、いまあなたは傷ついている……それで、あたしを愛していると思っているのよ」
「でも……ああ、愛が何なのかぼくにはわからないよ! ぼくは、きみと結婚して一緒に住みたいってことしかわからないんだ」
「あたしにも、よくわからないわ」
彼女は、ほとんど聞きとれないほどの低い声でそういった。それから、まるでずっとそこで暮らしていたかのように、自然にすんなりと、おれの腕の中に入ってきた。
おたがいに接吻しおわると、おれはいった。
「じゃあ、きみは結婚してくれるね?」
彼女は首をのけぞらせ、おびえたようにおれを見つめた。
「まあ、だめよ!」
「え? でも、ぼくは……」
「だめよ、あなた、だめ! あたしは、あなたの家の中を整え、料理を作り、ベッドをしつらえ……その中で寝るわ、もしあなたがそうさせたいなら。でも、あたしと結婚する必要はないわ」
「でも……そんな馬鹿な! マギー、そんなふうにはできないよ」
「できない? そのうちわかるわ」おれが放したわけではないのに、彼女はおれの両腕から外に出た。「今晩、会いにいくわ。一時ごろ……みんなが寝たあとで。あなたのドアのラッチを外しておいてね」
「マギー!」
と、おれはさけんだ。
彼女は飛ぶような勢いで、道を駆け下りていった。おれは追いつこうとして、石灰岩の上で足をすべらせて引っくりかえった。起き上がったとき、彼女の姿はもう見えなくなっていた。
不思議なことが一つあった──おれはそれまでいつも、マギーをかなり上背のある、おれと同じぐらいの身長の、立派な体格をしていると思っていた。だが、おれの両腕に抱いたときの彼女は、小さかった。彼女に接吻するのに、かがみこまなければいけなかったのだ。
12
奇蹟≠フ当夜、残っていたわれわれはみな、中央通信室に集まった──おれのボスとおれ、通信部長とその技術部員たち、数人の参謀たちだ。そこに入りきれなかったひとつかみの男たちと数十人の女性は、大食堂にすえつけられたテレビの前におしかけた。
われわれの地下都市は、いまやゴースト・タウンと化し、司令官のための通信機能を維持する基幹要員しか残っていなかった。ほかの者は、戦闘用基地に移動してしまっていた。残っている少数の者は、現在の段階では戦闘部署もなかった。
戦略はすでに決定され、決行の時刻も奇蹟によって定められるのだ。大陸全土にわたる戦術決定を総司令部から個別に指令を出すことは不可能だし、ハックスレーほどの優秀な将軍がそのようなことをするはずもなかった。全土に配置された各部隊の指揮は、それぞれかれの部下である指揮官に一任されていた。かれにできることは、待ち、祈ることだけだった。
われわれにしても同じだった──おれは爪を噛むにも、噛む爪が残っていなかった。
正面におかれている大スクリーンには、神殿の内部が、あざやかな色彩と完全な遠近感を持って映しだされていた。その儀式は、朝からずっと一日じゅう放送されていた──連祷行列、賛美歌合唱、祈祷につぐ祈祷、いけにえ、跪拝、詠唱、はてしなく単調に続けられる華やかな儀式だ。おれがかつて勤務していた親衛連隊も整然と二列にならび、ヘルメットが光り、槍が一対の櫛の歯のようにつらなっていた。おれの支部隊長だったピーター・ヴァン・アイクが、胴鎧をつけた腹をふくらませ、かれの小隊の前に不動の姿勢で立っているのが見分けられた。
おれは機密報告を扱っていたので、われわれがぜひ手に入れなければならなかったフィルムのコピーをピーター隊長が盗んだことを知っていた。かれがこの儀式に参列していることは心強かった。もしかれの盗みが覚られていたら、それだけでもわれわれの計画は頓挫していただろう。しかし、そこにかれはいた。
通信室の他の三方の壁には、一ダースもの小型テレビ・スクリーンが、多くの大都市からの実況放送を映していた──リッテンハウス広場の黒山のような人だかり、満員のハリウッド・ボウル、各地の神殿の前に集まっている群衆。どこの群衆の目も、われわれがいま見ているのと同じ大神殿内部の光景を映している巨大なスクリーンを食い入るような目つきで見つめていた。
アメリカのいたるところで、同じことがおこなわれているのだ──全国の人々が、それぞれどこかのテレビの前で目をこらして──顕現の奇蹟を待ちつづけているのだ。
われわれの後ろで心理技術者が、催眠術をかけられて働いている感応通信士の上にかがみこんだ。十九歳ほどのその少女は、みじろぎし、何かをつぶやいた。技術者はかがみこんだ。
かれは、ハックスレーと通信部長のほうに向いた。
「神の声放送局を掌握しました、閣下」
ハックスレーはうなずいただけだった。おれは、膝が抜けたようになっていなければ、とんぼ返りを打ちたい気分だった。それは鍵となる作戦で、しかも奇蹟≠フ数分前までは実行できないはずのものだったのだ。テレビ放送は、見通し線かそれ自体の特別ケーブルだけを利用しているので、この全国放送を妨害する唯一可能な道は、そのお膝元の放送局をおさえるほかなかったのだ。おれは、かれらの成功を聞いて狂喜した──そして同じように同時に深い悲しみに襲われた。かれらのだれひとり、その夜を生き抜くのは望めないことがわかっていたからだ。
やむを得ない──もしかれらが、あと数分間そこを持ちこたえられれば、かれらの死は大きな価値を持つのだ。おれは、かれらの魂が創造主に召されることを祈った。われわれには、必要ならばそういう仕事もする男たちがいた。その妻が異端審問官の手にかかった同志たちがほとんどだった。
通信部長はハックスレーの腕に軽くふれた。
「いよいよです、閣下」
画面はゆっくりと神殿の奥に移り、祭壇を越え、その向こう側の上にある象牙色のアーチ型通路にクローズアップされた──それは、至聖所への入口で、厚い金色の垂れ幕で閉ざされていた。
カメラは、その垂れ幕で覆われた入口が画面いっぱいになるようにして固定された。
「もういつでも切り換えられるはずです、閣下」
ハックスレーは心理技術者のほうをふりかえった。
「あれはわれわれのか? 神の声からまだ報告はないのか調べてくれ」
「まだです、閣下。報告があればお知らせします」
おれは、スクリーンから目をそらせられなかった。果てしない待ち時間のあと、垂れ幕がゆれて、ゆっくり左右に分かれ、両端に引きよせられた──そしてそこに、われわれのすぐ前に、まるで画面から抜け出してくるかと思われるほどリアルに姿を現わしたのは、ほとんど等身大の現人神預言者だった!
預言者は顔をまわし、その視線を端から端へと移動させ、ついでまっすぐおれのほうを見た。かれの両眼は、まっすぐおれを見た。おれはどこかに隠れたくなり、息をのみ、思わず声を上げた。
「あれを複製できるといわれるのですか?」
通信部長はうなずいた。
「ミリ単位のところまでな、保証するよ。われわれのもっとも優秀な整形外科医の手で、もっとも優秀なものまね役者を変装させたんだからな。あれはもう、われわれの側のフィルムかもしれないよ」
「本物としか思えませんが」
ハックスレーは、おれをちらりと見た。
「すこし静かにしてくれないか、ライル」
かれがおれを叱るのは、まったく珍しいことだった。おれは黙ってスクリーンに見入った。あの力強い、まったく傍若無人な面構え、燃えるような視線──あれが俳優だと? 違う! おれは、あの顔を知っている。さまざまな儀式で何度も見てきた。きっと、何か手違いがあったのだろう。とにかくそれは、本物の現人神預言者自身だった。冷汗が出てくるのを感じた、いやな恐怖の冷汗を。もしかれがそのスクリーンからおれを名指しで呼んだら、おれは自分の反逆行為のすべてを告白してかれの慈悲を請うにちがいない。
ハックスレーは不機嫌にいった。
「ニュー・エルサレムとはまだ連絡が取れないのか?」
心理技術者は答えた。
「まだです、閣下。すみません」
預言者は祈祷を始めた。
人の心をゆり動かす、オルガンのような朗々と響く声で、荘重な名文が唱えられた。ついでかれは、来たるべきこれからの一年も国民に永遠の神の加護がありますようにと祈願した。かれは話すのをやめ、おれたちのほうをふたたび眺め、ついで両眼を天にむけ、両手を上げ、初代預言者に対する請願を始めた。お慈悲をもって国民のために生身のお姿をお見せいただき、お言葉を賜るようにと願い、その目的のための道具として現在の預言者の肉体を提供することを申し出た。かれは待った。
変容は始まった──おれの項《うなじ》の毛が逆立った。おれはついに敗れたことを知った。どこかで何かがまずかったのだ……そして、その間違いのために、どれほどの数の立派な男たちが死んでいったかは、神のみぞ知ることなのだ。
預言者の顔形が変わり始めた。身長が一インチか二インチのびた。かれの高価な衣裳が黒ずんでいった──ついで、そこに立っているのは、過ぎゆきし時代のフロック・コートを着た初代預言者にして新十字軍の創設者、ネヘミア・スカダー師だった。
恐怖と畏敬に胃がしめつけられるのを感じ、おれは教区の教会で初めてそれを見た子供のころにかえっていた。
かれがまずわれわれに話したのは、国民に毎年同じように贈る、愛と関心をよせた挨拶だった。しだいにその声は熱をおびてきて、その顔に汗がにじみ、かれは、かつてミシシッピー渓谷のキャンプで千回もの集会に聖霊を呼び下ろしたときのような身振りで、両手を握りしめた。おれの心臓は鼓動を速めた。かれは、あらゆる形での罪を戒めた──口が蜜のように甘い売春婦、肉の罪、心の罪、金貸し。
その熱情が最高潮に達したとき、かれは新しい話題に移り、おれを驚かせた。
「しかしながら、余がいま、この日に諸君の前にもどってきたのは、つまらぬ人々の取るにたらぬ罪について語るためではない。違うのだ! 余は、実に恐るべき事実を諸君に知らせ、武器を取って戦うことを命じに来た。アルマゲドンは、諸君の上に迫っているのだ!
立て、余の勇士たちよ、主の聖なる戦いを始めよ! 悪魔が諸君の上にいるのだ! かれはここにいる! ここに、諸君のあいだにいる! 今夜、ここに、人間の姿に化けている! 蛇の悪知恵を持って、かれは諸君のあいだに来たり、主の代表者の姿を取っているのだ! そのとおり! かれが変装しているのは、あろうことか現人神預言者の姿なのだ!
かれをたたきつぶせ! かれの家来どもをたたきつぶせ! 神の御名において、かれらをみな滅ぼしてしまうのだ!」
13
心理技術者は静かにいった。
「神の声からブリューラーです……局はいま放送をやめており、約三十秒後に破壊される。建物が吹き飛ぶ前に、撤退を試みる。幸運を……通信はこれでおわりです」
ハックスレーは何かつぶやき、暗くなった大スクリーンの前から離れた。国じゅうの様子をモニターしている小型スクリーンに映る光景は混乱していたが、元気づけられるものだった。
いたるところで戦闘や暴動かおこっていた。おれはまだ呆然としたままそれを見つめ、どちらが敵でどちらが味方かを見分けようと努めた。
ハリウッド・ボウルでは、群衆がわっとステージへおしよせ、そこに坐っていた役人や牧師たちに襲いかかり、圧倒的な数でたたきのめし、おしつぶした。ボウルの周辺および内部には大勢の警備兵が配置されていたから、そのようなことが起こるはずはなかったのだが。それでも、当然予想された凄惨な掃射はおこなわれず、わずかに、ステージから北東の山腹にすえられていた三脚からほんの一瞬だけ照射されたが、その警備兵はすぐに射殺された──明らかに、他の警備兵によって。
預言者に対するきわめて冒険的な大芝居《ツール・ド・フォース》は、みんなが期待していた以上の成功をおさめているようだった。ハリウッド・ボウルでのように、政府軍がいたるところで統制を失ってしまえば、仕事は戦闘ではなく、既成事実を重ねるだけになるのだ。
ハリウッドからのモニターは消え、おれはオレゴン州ポートランドからのスクリーンに目を移した。まだ戦闘が続いていた。大勢の人が白い腕章をつけているのがわかった。それは、われわれがM時間のために用意した唯一の制服だった──だが、暴力のすべてが腕章をつけたわれわれの同志によるわけではなかった。武装警官が、素手の人々によって倒され、立ち上がらなくなってしまうところが見られた。
テスト・メッセージと報告が入り始めていた。いまやわれわれ自身のラジオを使えるようになった──長い長いあいだ待ったわれわれの手の内を見せるときがやってきたのだ。おれは見るのをやめ、もどって、ボスが各地の報告を整理するのを手伝った。
おれはまだぼんやりとしていた。心の中で、あの信じられないほどの預言者の顔を思い浮かべることができた──二人の預言者の顔を。おれの感情がこんなにゆり動かされたのなら、一般の人々はどう考えたことだろう? 敬虔な信者たちは?
試験的な連絡通信ではなく、最初のはっきりした報告が入ったのは、ニューオーリンズからだった。
「シティ・センター、発電所、通信機関を掌握した。掃射部隊は各警察署を占拠しつつあり。当地の連邦軍は立体テレビ放送によって士気を失っている。警備兵同士のあいだで戦闘が散発的におこっている。組織的抵抗はほとんどない。戒厳令のもと、秩序は回復しつつあり、以上のとおり報告する……ルーカス」
続いてほうぼうから報告が流れこみはじめた。カンザス・シティ、デトロイト、フィラデルフィア、デンヴァー、ミネアポリス──すべての大都市からだ。状況は違っていても、大筋は同じだった。われわれが合成した預言者の武器を取って立ち上がれ≠ニいう呼びかけ、それに続く正規の手段によるすべての通信の途絶によって、政府軍は首のない体となり、混乱して同士討ちをくりかえすようになった。預言者の権威は迷信と欺瞞の上に成り立っていたのだ。われわれは迷信をかれに向け返し、かれを滅ぼしたのだ。
その夜の結社支部集会は、おれがこれまでに出席したうちでもっとも盛大なものだった。残留者が通信室にぎっしりとつめかけ、通信部長は秘書役になり、通信が入るたびに、それを東部支部長として坐っているハックスレー将軍に届けた。おれも、席に着くようにと求められた。副理事という、これまでに得たことのない名誉だった。将軍は帽子を借りなければいけなくなり、それは滑稽なほど小さかったが、そんなことは問題ではなかった──おれは後にも先にもこれほど立派な儀式は見たことがなかった。われわれはみな、初めて口にするように、古くから伝わる言葉を話した。その儀式の厳かな進行が、たとえルイスヴィルがわれわれのものになったという報告で妨げられても、それ以上すてきな妨害のされかたはなかった。われわれは新しい建設に乗り出していた。果てしないほど長い机上計画のあと、われわれはついに公熱と建設にかかったのだ。
14
臨時首都はセントルイスとされた。そこがアメリカのほぼ中央に位置していたので。おれはハックスレーをそこへ、自分の操縦で運んだ。われわれはそこにあった預言者の秘密警察基地を接収し、ジェファーソン兵営という古い名前を復活させた。また、そこの大学も接収し、ワシントンという名前を返した。たとえ国民がそうした名前の本当の意味をもはや覚えていなくてもすぐに思い出すだろうし、ここはそれを始めるのにいい場所だ(おれは初めて、ワシントンがアメリカ人だったことを知ったのだ)。
しかしながら、軍人知事としてのハックスレーがおこなった最初の行動──かれは臨時大統領≠ニ呼ばれることすら許さなかった──は、カバル党と自由合衆国陸軍とのあいだの公式な関係を断ち切ることだった。
秘密結社組織はその目的に役立ち、自由な人々という希望を生きながらえさせてきた。いまはその組織を昔の姿にもどし、公的なことがらはすべて公的に処理すべきときだ。もちろんわれわれの秘密結社は三世代にわたって完全に秘密のベールで覆われていたため、一般の国民はわれわれについての正しい知識がなかったので、その命令は公表されなかった。だが、各支部にはすべてその命令書が張り出され、おれの知るかぎりでは、すべてのところでそれが守られた。
必然的な例外が一つあった。ニュー・エルサレムにあるおれの出身支部と、それと協力関係にあり、マギーがその一員だった修道女の組織だった。われわれは全国をほぼ制圧していたが、ニュー・エルサレムだけはまだ掌握していなかったのだ。
これは、口でいう以上にすこぶる重要な問題をはらんでいた。われわれは全国を軍政下におき、通信情報センターのすべてを手中におさめ、連邦軍は崩壊して、その大半が解体もしくは武装解除され、あるいは捕虜になったけれども、われわれはまだ国家の心臓部を手に入れていなかった。人口の半数以上がわれわれに同調していなかった。かれらはただ驚き困惑し組織だっていないだけで、預言者が生きているかぎり、あるいは大神殿が再挙の拠点として残っているかぎり、預言者がわれわれから勝利を奪い返す可能性は依然として残っているのだ。
われわれが用いたような欺瞞は、一時的な効果しかなかった。国民はふたたび、古い習慣的な考えかたに逆行した。預言者とその側近たちも馬鹿ではない。かれらは、この疲弊した惑星上でもっとも賢明な応用心理学者の何人かを味方につけていた。
われわれの対スパイ作戦部は、かれらがその地下活動を急速に広げ、まだ根強く残っている預言者信奉者や、信じているいないにかかわらず、古い制度の下でぶくぶく太っていたが新体制にうつって甘い汁をすえなくなってきた連中などに強く働きかけていることを知り、その対策に苦しんだ。
残念ながら、われわれはそのような反革命運動を阻止できなかった──預言者側もわれわれの宣伝活動を阻止できないことは同じだが、われわれはかれらよりもはるかに大きなハンディキャップを背負っていた。
預言者側のスパイは地方の小さな町や田舎で、ほとんど公熱と工作活動ができた。われわれのほうは、全国のテレビ放送局などの警備に必要な人員の補充にすらこと欠くありさまだった──すべてのテーブルの下に盗聴装置を仕掛けることなど、まずできないのだ。
まもなく、初代預言者のアルマゲドンの呼びかけはわれわれの欺瞞の演出だったことが、公然の秘密となった。その事実は、これまでおこなわれてきた顕現の奇蹟のすべてが欺瞞──テレビのトリックにすぎなかったことを物語っているわけだ。
おれがそのことをゼブにいうと、そんな見かたは素朴すぎると笑われた。国民は信じたいことを信じるだけで、理屈はどうでもいいのだとかれはいった。この場合も、かれらは母親の膝の上で習い覚えた古い信仰にすがりたがっている。そのほうが、かれらの心に安心感を与えるからだと。おれもそれに共感でき、よくわかった。
いずれにしろ、ニュー・エルサレムは陥落させなければならない──われわれは時間と競争していたのだ。
われわれがこうした事態を苦慮していたさなかに、大学の大講堂で臨時憲法制定会議が開かれた。ハックスレーは開会の挨拶をおこない、満場一致で提案された大統領の称号をふたたび拒否した──ついで、ネヘミア・スカダー大統領の就任以来、すべての法律が空文化してしまったこと、それ以前の憲法と基本的人権に関する宣言がいまも有効であり、その確立こそが臨時軍政府に課せられた急務であると簡潔に語った。唯一の目的は、昔の自由かつ民主主義的なプロセスを復活させるための効果的方策を立てることであり、憲法上の恒久的な改革は、必要があっても自由選挙の後にするべきだと述べた。
それからかれは、議長の席をノヴァークに譲って出ていった。
おれは政治問題に首をつっこむ時間などなかったのだが、重大な戦闘が始められる日が近いことをゼブに知らされ、関心をそそられていたので、仕事から抜け出して、午後の会議の模様をのぞいてみようと、後ろの席にもぐりこんで耳を澄ました。ノヴァークの部下で若い優秀な男が、ある映画を見せていた。おれはその終わりのほうしか見なかったが、それはアメリカの歴史を解説し、市民の自由や自由な民主主義のもとにおける市民の義務を解説した教育映画らしかった──預言者統治下の学校でみられるような種類のものではないが、昔はいたるところの学校で使われていたのと同じテクニックを使ったものだった。
映画が終わると、その秀才面をした青年が──どうしても、そいつの名前は思い出せない。たぶん、おれはそいつが嫌いだったからだろう。ストークスだったろうか? とにかくストークスと呼ぶことにしよう。ストークスは話しだした。
「この再教育用映画は、もちろん大人を転向させるのにはまったく役立ちません。大人の慣習的なものの考えかたは、このような単純なものでは影響されないほどしっかりと固まっているからです」
「では、なぜそんなものでぼくらの時間を浪費したんだ?」
と、だれかがさけんだ。
「お聞きください! そうであっても、この映画は大人のために作られたものなのです……すなわち、大人がある程度の感受性の鋭敏な心理状態におかれている場合には有効なのです。では、プロローグをお見せしましょう……」
スクリーンがまた明るくなった。それは単純な美しい田園風景で、実に心安まる音楽があわせて流れてきた。おれには、かれの狙いが何なのかわからなかったが、とにかくそれは非常に気分を安らげた。おれは、過去四日間あまり眠っていないことを思い出した──そういえば、ここ数カ月間満足に眠ったことはただの一度もないような気がした。そして、体をだらりと後ろに傾けてくつろいだ。
おれは、画面が風景から抽象的な模様に変わったことに気づかなかった。音楽はずっと続いていたように思うが、いつのまにか優しい、なだめるような低い単調な声が、それに加わっていた。その模様がゆっくりゆっくり回転してゆき、おれはしだいに……画面を……見ている……のに……退屈して……
そのときノヴァークが椅子から離れ、いまいましそうな声を洩らして、映写機のスイッチを切った。おれはあやうく悲鳴をあげそうになったほどの恐ろしいショックを覚えて、さっと目を覚ました。ノヴァークは静かな、しかし鋭い声でストークスに話しかけていた──そのあと、かれはおれたちのほうに向いて命令した。
「起立! さあ、気分を変えて、体をほぐそう。深く息を吸って。隣りの人と握手する。そいつの背中を強くたたけ!」
おれたちは、その号令に従った。おれは馬鹿ばかしく感じ、同時に心が苛立たしくなるのを覚えた。ついさきほどまでいい気分でいたのに、いまは仕事が山と溜まっているのを思い出したからだ。今夜マギーと十分間会うためには、さっそく仕事にかからなければいけない。おれが出かけようとしたとき、また秀才面が説明を始めた。
「ノヴァーク博士のご指摘どおり……」かれは、心もとなげな口ぶりで話しつづけた。「……みなさんには再教育の必要がないのですから、このプロローグをお見せする必要はありませんでした。しかしこのフィルムは、技術的な準備と、場合によっては少量の催眠用薬品を併用することによって、一般大衆の八十三パーセントに楽天的な政治感覚をもたらすことができます。これは信頼できる実験グループによって証明されているのです。
このフィルムそのものも、われわれの組織に加わったほとんどすべての人々が……もちろん、ここにお集まりのみなさんも含めてです!……まだ地下に潜っておられた当時の転向報告をもとにした、数年間の分析研究の結果を示すものなのです。無関係な要素を取り除き、本質的要素のみを抜き出してあります。したがってこれは、預言者の熱烈な信奉者を自由な人間に転向させる力を持つものですが……それには、これを見る人が暗示に敏感な状態にあることが必要であります」
なるほど、おれたちがみな、魂をむきだしにすることを求められたのはこのためだったのだ。それは理屈にかなっているように思えた。われわれはいまや時限爆弾の上に坐っているようなもので、愚かな国民のひとりひとりが修道女に恋をし、それが契機となって鋳型から抜け出すのを待っている時間はないのだ。
しかしそのとき、おれの知らない一人の老人がホールの反対側で立ち上がった。
「議長さん!」
「はい、同志。あなたの氏名と出身地区をいってください」
「わしの名前は知っているだろう、ハックスレー……ヴァーモントから来たウインターズだ。あんたは、この計画に同意しているのか?」
「いいや」
それは、きっぱりとした宣言だった。
「だが、かれはあんたの部下だろうが」
「かれは自由な市民です。もちろんわたしは、このフィルムそのものの制作や、その基礎となる研究調査を監督していました。無音声暗示技術をこれに応用するという着想は、かれを長とする研究班が考え出したものです。わたしはその提案に不賛成でしたが、それを発表するようにスケジュールを調整することには同意しました。くりかえしますが、かれは自由な市民であり、あなたとまったく同じく、自由に話す権利も持っているのです」
「わしはいま話していいかね?」
「どうぞ、話してください」
その老人は壇上に登り、胸をはった。
「では話そう! 紳士……淑女……同志諸君! わしは四十年以上にわたって、党とともに生きてきた……そこにいる若僧が生きてきたより長い年月をだ。わしにはひとり、兄がいる。わしと同じように善良な男だが、何十年にもわたって口をきいたことがない……かれは既成宗教を正直に信奉しており、おれを異端者ではないかと疑っているからだ。ところで、この頭でっかちの青年は、いまの光がぐるぐるまわる映画でわしの兄を政治的に信頼できるもの≠ニするために、かれを条件づける≠ニいう」
老人は黙り、喘息ぎみに咲きこみ、また話を続けた。
「自由な人間とは、条件づけられた≠烽フではない! 自由な人間とは、強情で、悪たれをつき、自分なりの形で偏見に達することを選ぶからこそ、自由なんだ……みずから心の修理屋と名乗る者が、かれらを下手にいじりまわすのはやめておいたほうがいい! 動機がいくら立派でも、単にボスを変えるためだけにわしらは戦ってきたのではないし、同志たちが血を流し、死んでいったのではないのだ。
いっておくが、わしらが現在の混乱した状態に陥ってしまったのは、これと同じような心の修理屋どもの努力によってなのだぞ。かれらは、人間にどうやって鞍を乗せ、どう乗りこなすかということを何年も研究した。かれらは宣伝、広告、そういったことから始めて、ついにはどんなセールスマンでも使う単純で正直なごまかしだったものが数理科学となるところまで完成させ、普通の人間を手玉にとれるようになった」かれはストークスを指さした。
「いいかねきみ、アメリカ市民は、何事からも守ってもらう必要はない……そういうふうな連中を除いてはだ」
ストークスは、やや声をかん高くして、鋭くいった。
「それはおかしい……あなたも、高性能爆薬を子供の手に渡したりしないでしょう。現在における参政権がそれなのです」
「アメリカ国民は子供ではない」
「そんなものですよ! そのほとんどは」
ウインターズは議場を見まわした。
「これでおわかりかな、友人諸君? かれも、預言者がそうだったように神の役割を演じようとしている。だからこそ、わしはアメリカ国民に自由を与えよと、声を大にしていいたい。かれらに人間としての、自由な人間としての、神の子としての、はっきりとした権利を与えよといっているのだ。もしかれらが、それをまた混乱させるなら、現にそうしつつあるのだが……そうだからといって、わしらにかれらの心を勝手に操作する権利はないのだ」かれは話を中断し、また息をつごうと苦労した。ストークスは軽蔑の目でそれを見た。「わしらには、この世界を子供にとって安全なものにすることはできない。大人に対してもだ……そして神は、わしらにそんなだいそれたことをしろとはおっしゃっていないのだ」
ノヴァークは静かにいった。
「終わりですか、ウインターズさん?」
「終わりだ」
「きみもすでに発言したな、ストークス。席にもどれ」
もうおれは出ていかなければいけなかったので、こっそりと出ていった──それで、本当に劇的な出来事を見そこなった。そういうものを見たい人間ならだが。おれは、そうじゃない。おれが外の階段を降りかけていたころ、ウインターズ老人は急死したのだ。
ノヴァークは、そんなことがあったからといって休会にはしなかった。かれらは二つの決議を採択した。催眠術もしくはその他の心理操作技術は、その技術にかけられる者の文書による同意がなければいかなる市民に対してもおこなってはいけないこと。そして、第一回の総選挙にあたっては、参政権の行使に対しいかなる宗教的ないし政治的テストもおこなってはいけないということだった。
おれには、だれが正しいのかわからなかった。もし民衆が一団となって、おれたちを支持しているとわかっておれば、それからの数週間、間違いなくやりやすくなったのだが。おれたちは一時的な支配者だったかもしれないが、夜間六人以下の集団が制服姿で通りに出ていくことはまずできなかった。
ああそう、おれたちはいまや制服を持っていた──それぞれ一人にほぼ一着ずつ、最低の品質に、軍隊の標準寸法なので、大きすぎるか小さすぎるかのどちらかばがり。おれのは、きつすぎた。それらは、カナダ国境を越えて備蓄されていたものであり、われわれはできるだけ急いで制服を支給した。腕にハンカチを巻いただけでは充分でなかった。
われわれの簡素な淡青色デニムのほかに、いくつかの制服があった。国外からの志願兵大隊とアメリカ現住民部隊。モルモン教徒大隊の連中は、かれら独自の衣服にみな同じように髭を生やし──長いあいだ禁止されていた〈聖者よ、来たれ!〉を歌いながら、戦闘に入っていった。聖者たちがかれらの愛する寺院を取りもどしたので、ユタはわれわれが心配しないでいい安定した州となった。カトリック軍団は、かれらがほとんど英語を話さなかった当時の、独特な制服を着ていた。進めキリストの兵士たち≠ヘ、われわれと異なる服装をしていた。かれらはライバルの地下運動組織であり、われわれのクーデターにどちらかというと反対だったからだ──もっと待つべきだった、というのだ。北西部の最下層民指定保留地からの(それに世界じゅうからの志願兵による)ヨシュアの軍団は、風変わりなとしかいいようのない服装をしていた。
ハックスレーはこれら全部の戦術指揮にあたっていたのだが、それらは軍隊ではなく烏合の衆に近かった。
ただ一つ望みが持てるのは、預言者側の兵力がさほど大きくなく、二十万そこそこで、軍隊というより国内警察的なものであり、その中から王宮警備隊を補強するためにニュー・エルサレムに集結させられた兵力はごくわずかだということだった。それに、合衆国は過去一世紀以上対外戦争を経験していないので、預言者は残っている信者の中から予備役軍人を招集することもできなかった。
しかし、こちら側にしても事情は同じだった。われわれの実動兵力は、国じゅうの通信機関その他の重要施設警備にあてるだけでやっとで、それすら充分な数はあてられなかった。ニュー・エルサレム攻撃をおこなうには、それこそ樽の底を引っかきまわさなければいけなかった。
山のような書類仕事におしつぶされ、昼のあいだは静まりかえり、何の騒ぎもなさそうに見える古い総司令部の中で、われわれは準備をすすめていたのだ。
いまやおれは三十人の部下を持っていたが、会の半分が何をやっているのかは知らなかった。協力を申し出てくる有力な市民たちをハックスレーに会わせないようにすることで、おれの時間のほとんどを食われてしまっていた。
そのころのある出来事が記憶に残っている。たいしたことではないが、日常の決まりきった出来事ではなかったし、おれにとっては重要なことだった。おれの主任秘書がひどくけげんな表情で入ってきた。
「大佐、あなたの双子の兄弟の方がいらっしゃいました」
「え? ぼくに兄弟はいないよ」
「リーヴズ軍曹という方ですが」
と、彼女は強い口調でいった。
かれは入ってきて、おれたちは握手し、つまらぬことをいいあった。おれはかれに会えて、本当に嬉しかった。かれに代わって注文を取りながら、それをだめにしてしまったことを話した。悪かった、これも戦争という非常事態のせいだからといって、それからつけ加えた。
「新しい得意先がカンザス・シティにできたよ……エメリー、バード、セイヤーの三軒だ。いつか行ってみてくれ」
「そうするよ。ありがとう」
「しかし、きみが軍人だったとは知らなかったな」
「いや、ほんとうはそうじゃないんだ。だが、ぼくの旅券が、ああ……だめになってしまってからは、そうなってしまっているんだ」
「それは気の毒なことをしたな」
「かまわないよ。いまでは、熱線砲の使いかたも覚えたし、手榴弾投げもうまくなった。それでストライクアウト作戦にも加わることになってるんだ」
「え? だが、その暗号は極秘になっているんだぜ」
「そうか? じゃあ、みんなにいっておいたほうがいいな。だれも、そのことを知らないらしいからな。とにかく、ぼくはそれに入っているんだ。きみはどうだ? それとも、そんなことは聞くべきじゃないのかな?」
おれは話題を変えた。
「それで、軍人稼業はどうなんだ? ずっと続けるつもりかい?」
「まあ、悪くもないが……良くもないな。だが、そういうきみはどうなんだ、大佐?」
「え?」
「戦争が終わったあとも、軍隊に残るつもりかい? きみはたぶんその方面で出世できるだろうな、経歴がいいんだから……ところがぼくなんか、このどたばたが終われば、拭き掃除の仕事もやらせてくれるかどうか怪しいものだ。しかし、もし何かの都合で軍隊から出る羽目になったら、繊維関係の仕事をやってみるつもりはないかい?」
おれはびっくりしながらも答えた。
「そうだな、確かにあの商売は面白かったよ……少なくとも、売って歩くのはね」
「そいつはいい。もちろんぼくの前にいたところの仕事はなくなってしまったんだが……自分で仕事を始めようかと真剣に考えているんだ。仲買いとメーカーの代理店をね。パートナーが欲しいわけさ。どうだい?」
おれは考え、ゆっくりと答えた。
「さあね……どうするか、まだわからないな。ぼくはストライクアウト作戦より先のことを考えたことがなかったんで……このまま軍隊に残っていてもいいが……軍人稼業も昔ほどは魅力がなくなってしまった……こんなに書類整理の仕事に追われてばかりじゃねえ。正直なところ、いまの望みは、わが家のブドウとイチジクの木の下で、のんびり坐っていることだけだな」
かれは、そのあとをしめくくった。
「……しこうして、なんじらを恐れしむものなかるべし……か。いい考えだ。しかし、そこに坐っているときに、布地を何本か広げてみるのも悪くないだろう。考えておいてくれ」
「ああ、そうする。そうするとも」
15
マギーとおれは、ニュー・エルサレム攻撃の前日に結婚した。そしておれの事務室の外にある非常階段の上で手をつなぎ、二十分間だけの新婚旅行をした。それからすぐ、ハックスレーを攻撃開始地点まで運んだ。そして攻撃中、おれはずっと司令官機の中にいた。ロケット・ジェット機の操縦士として戦闘に加わりたいと頼んだが許されなかった。
「何のためにだ、ジョン? これは、空中で勝負するものではない。地上で片がつけられることになるんだぞ」
いつものことながら、かれは正しかった。おれたちの飛行機は数少なく、信頼できる操縦士はもっと少なかったが、預言者側も航空兵力の一部は破壊工作によって地上で壊され、他の大部分はカナダその他に逃げて、拿捕されてしまった。それでおれたちは、数少ない空軍力で王宮や神殿に定期的な爆撃を加え、敵の頭をおさえつけておくことができた。
だが、そんな方法でたいした損害を与えられないことは、敵味方ともに知っていた。王宮は華麗な姿で地上高くそびえ立っていたが、これはおそらく史上最強の耐爆撃建造物だった。核爆弾の直撃を受けてもそれに耐え、その最深部のトンネルにいる人員に被害をおよぼさないように設計されていた──もちろん、預言者がその地下室で日々を送っていることは確かだ。地上の部分も、われわれが使う通常の高性能爆弾ではほとんど歯が立たなかった。
われわれは三つの理由から、原子爆弾を使っていなかった。まず、われわれはそれを持っていなかった。第三次世界大戦後のヨハネスブルク条約によって、アメリカはそれをいっさい保有しないことになっていた。
われわれは、外国から手に入れることもできなかった。もしわれわれがアメリカの合法的政府であると認められていたら、同盟国にその爆弾を二発ほどもらう交渉をすることができたかもしれないが、われわれを承認したのはカナダだけで、イギリスも北アフリカ連邦も承認していなかった。ブラジルはどちらとも決めかねて、とりあえずセントルイスに代理公使を派遣してきていた。いずれにせよ、たとえ同盟諸国がわれわれを承認したとしても、国内の秩序回復のために大量殺人兵器の使用が認められるかどうかはきわめて疑問だった。
最後に、もしそれが手に入ったとしても、使うことはできなかっただろう。いや、われわれが鶏同様に臆病だというのではない。だが、正確に王宮の真上で原子爆弾を爆発させたら、それは間違いなく、その周囲の善良な市民何十万人をも殺してしまうだろうし──おまけに、預言者自身を殺すことができないのはほとんど確実だったからだ。
したがってわれわれは突入して、地下にもぐりこんでいる穴熊のように、かれを引きずりだすことが必要だった。
集結地点はデラウェア川の東岸と定められた。深夜十二時を一分過ぎたとき、われわれは東へ移動した。地上巡航戦車《ランド・クルーザー》三十四両、うち三十両は新式の戦車だが、残りは小型のおんぼろ軽戦車だ──どれも、預言者麾下の強大な東ミシシッピー機動部隊から捕獲したものだ。残りは、当時の敵指揮官によって爆破されてしまった。
重戦車は城壁の破壊に使い、軽戦車は、十両の装甲輸送車に乗った電撃部隊の護衛にあたることになった──全国から選りすぐった五千人の兵士からなる電撃部隊だ。その一部は相当な軍隊教育を経験しており、その上に過去数週間われわれが与えられるかぎりの訓練を受けていた。かれらはみな、市街戦に加わった経験があった。
出発してから間もなく、ニュー・エルサレムを爆撃する音が──ドドーンという鈍い音、鳥肌が立つような衝撃波、地鳴りのように地面を走ってくる音響が聞こえてきた。その爆撃は、過去三十六時間続けられていた。王宮の中にいる連中が最近まったく眠っていないことを、われわれは願った。それにくらべて、攻撃部隊のほうは十二時間の強制睡眠が終わったところだった。
司令官車として設計されている戦車はなかったので、われわれは司令塔のすぐ後ろに間に合わせの戦闘指揮所を作った。戦闘追跡集中表示装置を入れる余裕を生み出すために、長距離テレビ電話を取り外した。おれは応急に取りつけた追跡装置の調整に汗を流しながら、戦闘が始まったとき、間に合わせのショック・アブゾーバーがうまく働いてくれることを天に祈った。
おれのすぐ後ろには、心理技術者とその部下の感応通信士たちが、ぎっしりとつめこまれていた。若い女性が八人、神経症にかかっている十四歳の少年が一人だ。緊急の場合、かれら一人で四つの回線を受け持たなければいけないのだが、はたしてできるかどうかおれは心配だった。一人の痩せた金髪女は慢性的な咳をしており、甲状腺肥大のためか喉に包帯を巻いている。
おれたちはジグザグにゆっくりと接近していった。ハックスレーは蝸牛のように落ち着いて、指揮所と通信室のあいだを往復し、おれの肩ごしに通信を読み、スクリーンに映っている前進状況を見つめたりしていた。
おれの横に積まれる通信報告が、しだいに増えてきた。ケルビム号は右側の軌道が故障し隊列を離れたが、三十分以内に復帰できる見込みだという。ペノイヤーは、車両間隔をのばし、展開の準備を完了したことを報告してきた。
指揮能力を持った人材が極度に不足しているため、われわれはかなり大ざっぱな指揮系統を有する組織を形作っていた。ペノイヤーは左翼と自身の戦車の指揮にあたり、ハックスレーは全兵団指揮官で、右翼指揮官で、自身の指揮官車の車長だった。
一二:三二、テレビ電話が壊れた。敵がこちらの周波数変化パターンを分析し、こちらに合わせ、回路にあるすべての電子管を吹き飛ばしてしまったのだ。それは理論的に不可能だったが、かれらはやってのけたのだ。一二:三七、無電機もだめになった。
「光線電話回路に切り替えろ」
ハックスレーは動揺の色を見せず、そういっただけだった。
通信士官たちは、それを予期していた。われわれの通信回路はいまや各車間の赤外線にかかっていた。それからの一時間、ハックスレーはおれの肩ごしにおおいかぶさって、位置表示ラインがのびていくのを見つめていた。やがてかれは口を開いた。
「そろそろ展開させようか、ジョン。操縦士の何人かは、どうも落ち着いていないようだ、位置についてから落ち着くための時間を与えてやらなければな」
おれはその命令を伝えてから、追跡装置の回路を十五分だけ切った。こんな高速でこれほど多くの変数を扱うようには作られていないので、過負荷をかけておくのは無意味だった。
十九分後、最後の輸送車からの連絡が電話で入ると、おれは予備の調整をおこない、スタートのスイッチを入れ、修正データを組みこんだ。二分ほどのあいだ、おれはデータをバランスさせるのに忙しく、両手はノブとキーの上を走った。機械はそれ自体の予測に満足し、おれは報告した。
「追跡完了しました、閣下」
ハックスレーはおれの肩の上にかがみこんだ。ラインはちょっとでこぼこしているが、おれはかれらを誇らしく思った──それらの操縦士の何人かは、三、四週間前までは貨物輸送車の運転手だったのだ。
午前三時、われわれは警告信号を出した。
「射程距離に近づきつつあり」
砲塔に装弾される音がした。
三:三一、ハックスレーは命令を下した。
「集中計画第三号、射ちかた始め!」
おれたちの大型戦車が発射した。その第一発はほこりをいっぱいまきあげ、おれの目に涙を流させた。発射の反動で戦車は後ろにもどり、おれはあやうく座席からころげ落ちそうになった。これまで大口径|爆速砲《ブースター・ガン》搭載戦車に乗ったことがないので、そんなすごい反動は予期していなかったのだ。その大戦車砲には、砲身の先のほうに二番目の燃焼室があり、砲弾の進行と電子的にシンクロナイズする。これはずっと最大圧力を維持し、初速と貫通力をより高くする。だが同時に骨をゆさぶるような反動をも作り出した。だが、二発目は心構えができていた。
ハックスレーは砲撃と砲撃のあいだに潜望鏡をのぞいて、砲撃の効果を見ようとしていた。ニュー・エルサレムもこちらの砲撃に応えたが、まだわれわれを射程距離内に入れることはできなかった。われわれには、固定目標を、一メートルの誤差もなく正確に距離を知って砲撃できる有利さがあった。だがその反面、大型巡航戦車といえども、王宮の華やかな外装の下に隠されている堅固な装甲は備えていないのだ。
ハックスレーは潜望鏡からふりむいて、いった。
「煙幕だ、ジョン」
おれは通信士官のほうにむいた。
「感応通信士《センシティブ》、待機せよ。全車!」
その司令は伝達されなかった。おれがそういっているあいだにも、通信士官は通信が切れたことを報告した。だが、心理技術者はすでに忙しく働いていた。すべての車両で同じことがおこっているのだろう。被害が生じたときに取る当然の処置だ。
おれの車にいる九人の感応通信士のうち三人──少年と二人の女性──は完全覚醒型で、あとの六人は催眠型だった。技術者はまず少年をペノイヤーの車にいる相手と連絡させた。その少年はほとんどすぐに精神感応を樹立し、ペノイヤーは報告をよこした。
「煙幕は展開した。左翼は感応通信に切り替えた。接続方式は? ペノイヤー」
「リレー方式」
と、おれは答えた。テレパシー通信には普通二つの形式がある。リレー方式は、指令を目的のところへ達するまで、順ぐりに伝達していくやりかただ。コマンド・メッシュ方式は、指揮官車から麾下の各車へ直接通信すると同時に隣接の各車とも通信する方法だ。前者の場合、各感応通信士は、ただ一つの回路を受け持つだけでいい。つまり、他の車のテレパスと交感するだけでいいが、後者の場合は四回路も受け持たなければいけないことがある。おれは、できるかぎり長いあいだ、かれらに過重な負担をかけたくなかったのだ。
技術者は、他の二人の覚醒型感応通信士を戦列にある両側の車と連絡させてから、その注意を催眠型の連中にむけた。かれらのうち四人は注射を必要とし、あとの二人は暗示で感応状態に入るのだ。まもなくわれわれは、輸送車隊や第二戦列の車と連絡がつき、同時に爆撃機や着弾観測のロケット・ジェット機とも連絡がついた。
ジェット機は視界がゼロで、レーダーでもはっきりしたものは何もつかめないと文句をいってきた。おれは、そのまま待機していろと指示した。朝のそよ風で、まもなく煙幕が消えてしまうだろう。
とにかく、ジェット機の観測に頼る必要はなかった。われわれの位置はわれわれ自身が一インチのところまで正確に知っていたからだ。われわれはある基準点から出発し、車長のだれかが地図に示されている陸標を確認したときはただちに報告し、全戦線にわたって位置推算航法がチェックされることになっていた。それに加えて、無限軌道で動く巡航戦車の位置測定装置は、驚異的に正確だった。軌道が通過していく地面を文字どおり一ヤード一ヤード測定し、小さな差動装置が軌道とくらべて進行方向に気をつけるのだ。
だから、煙幕はなんら妨げにならず、たとえレーダーがだめになっても、われわれは正確な砲撃を続けることができた。それに反して王宮指揮官は、煙幕をはられると、かれ自身レーダーだけに頼ることになるのだ。
そのレーダーは支障なく動いているらしい。砲弾がわれわれのまわりに落ちはじめた。おれの車に命中こそしなかったが、すぐそばで爆発するたびに衝撃を感じたし、報告のいくつかはかんばしくないものだった。ペノイヤーは殉教者《マーター》号の被弾を報告してきた。砲弾が、右側機関室を破壊したのだ。車長は交差接続をして半速で前進しようとしたが、変速装置がやられているので、戦列から脱落するのは避けられない。また大天使《アークエンジェル》号は砲身が過熱した。したがって、戦列には加わっているが、砲術長が修理を終えるまでは戦力にならなかった。
ハックスレーはE隊形に移れと命令した。これは速度を変えながら各車が見たところでたらめなコースを取るものだ──が、衝突を避けるために綿密に計算された規則に従って進むものだった。これはもちろん、敵の砲撃の照準を混乱させるためのものだ。
四:一一、ハックスレーは爆撃機隊を基地へもどらせた。われわれはいまや市内に入っており、王宮の城壁はすぐそこに迫っていた──爆撃目標に接近しすぎており、われわれ自身が味方に爆撃されることになるからだ。
四:一七、おれたちの車が砲弾をくらった。左側上部軌道ケーシングが裂け、砲塔も損傷を受けて砲が動かなくなり、司令塔は後部表面に亀裂を生じた。操縦士は操縦席で戦死した。
おれは心理技術者を手伝って催眠型感応通信士たちにガス・マスクをつけさせた。ハックスレーも床から体をおこし、自分のガス・マスクをつけ、ついで砲弾があたった瞬間にとまった戦闘追跡装置の表示を調べた。
「祝福《ベニスン》号が三分以内にこの地点を通るはずだ。かれらに速度を落として前進し、指揮官車の右側につけてわれわれを収容しろと伝えろ。それから、わしが指揮官車を変えることをペノイヤーに伝えろ」
おれたちは首尾よくベニスン号に乗り移った。ハックスレー、おれ、心理技術者、感応通信士たちだ。感応通信士の一人は、砲弾の破片を受けて戦死した。もう一人は深い昏睡状態に入っていて起こせなかった。おれたちは彼女を、行動不能になった戦車内においていくことにした。彼女は、そこにいるかぎりまず安全だった。
おれは追跡装置から最新の図表をはぎ取って持っていった。それには、E型隊形の予定時刻配置表がついていた。われわれは、それでなんとかやっていかなければいけなかった。追跡装置を移すことはできないし、いずれにしてもたぶん応急修理はできそうになかった。ハックスレーはしばらくその図表をしらべてから、いった。
「全力通信メッシュに切り替えろ、ジョン。まもなく突撃をおこなうからな」
おれは心理技術者を手伝って、通信回路を整理した。マーター号が戦列から完全に脱落したこととペノイヤーの補助通信士にはリレー方式で連絡することで、われわれは感応通信士二人の損失を補った。かれらはいまやみんなが四回路を受け持っていた。ただし、少年は五つを、咳をしている娘は六つを担当していた。心理技術者は心配していたが、どうすることもできなかった。
おれはハックスレー将軍のほうをふりかえった。かれは坐っていたので最初、考えこんでいるのかと思った。ついで、意識を失っているのだとわかった。かれを起こそうとしたが答えず、血が椅子の支柱をつたって流れ、床を濡らしているのにも気づいた。おれはかれを静かに動かした。鋼鉄の破片が背骨に近い肋骨のあいだから突き出ているのが見えた。
肘に何かがふれた。それは心理技術者だった。
「ペノイヤーからの報告、あと四分で突撃可能範囲に着く。隊形変更の許可を求め、かつ突撃の時刻を聞いています」
ハックスレーはもうだめだ。死ぬか負傷か、いずれにしてもこの戦闘は戦えない。すべての規則からみて、指揮権はペノイヤーに移ったわけで、おれはすぐにでもかれに伝えるべきだ。しかし、時間があまりにも切迫しているし、それは態勢の急激な変化をもたらす上に、ペノイヤーを感応通信士三人だけで戦闘に入らせることになる。そんなことは物理的に不可能だ。
どうするべきか? ベニスン号の車長に指揮権を渡すか? おれはその男を知っていた。実直で、想像力のない、生まれついての砲手だ。かれは司令室にはいず、砲塔の射撃管制室に行って射ちまくっていた。ここへ呼べば、事態を理解するだけでも何分もかかるだろう──そして、間違った命令を下すのだ。
ハックスレーが脱落した以上、おれには実権など一オンスもない。おれはつい数日前、少佐から特進したにわか仕立ての大佐であり、正しくはまだ少尉だ。このあいだまでと同じ、ハックスレーの下男なんだ。指揮権をペノイヤーに渡すべきだろうか──そして、軍規を杓子定規に守って、戦争に負けるのか? もしハックスレーが決断を下せるなら、かれはおれにどうさせるだろ おれは、その問題を一時間も考え悩んだように思った。しかし時計は、おれが答えを出すまで十三秒だったことを示していた。
「自由に隊形を変更せよ。六分以内に突撃の信号を送る。待機せよ」
その命令を出してから。前部救護班に将軍の看護をしろと伝えた。
おれは右翼を突撃のための梯団に変え、ついで輸送車|甘い花馬車《スイート・チャリオット》号を呼び出した。
「秘密作戦D、隊列を離れて所定の任務を始めよ」
心理技術者はおれをちらりと見たが、何もいわずにすぐその命令を伝えた。秘密作戦Dとは、五百人の軽歩兵を支部との連絡通路があるデパートの地下から王宮へ入らせるものだった。かれらは支部から各分隊に分かれて、割り当てられた任務を遂行する。電撃部隊は、全員が王宮の平面図すべてを頭の中にたたきこんでいた。これらの五百人は、どこへ行き、何をすべきか、特別の訓練を受けていたのだ。
かれらのほとんどは死ぬだろうが、突撃のあいだに混乱を作り出せるはずだ。ゼブがかれらを訓練し、いまはその指揮を取っていた。
用意はできた。
「全部隊、突撃用意! 右翼部隊は右|稜堡《りょうほ》の右側を、左翼部隊は左稜堡の左側を攻撃する。非常事態用全速力で、突撃地点までジグザグに前進、集中砲撃隊形に展開し、一斉射撃を加えたあと、突撃する、以上。確認せよ」
確認の報告が入りはじめ、おれは突撃命令を出すべきときを教えてくれる時計の秒針を見つめていた。感応通信士の少年が突然、ある報告の途中で中断して、体をふった。心理技術者はかれの手首をつかんで脈を測った。少年はかれの手をふり払った。
「だれかよくわかりませんが、新しい相手からです」
かれはそういい、ついで歌を唄うような調子で話しはじめた。
「支部隊長ピーター・ヴァン・アイクから司令官へ……全兵力で中央稜堡を突破されたい。小官は牽制作戦をおこなう」
おれは反問した。
「なぜ中央を?」
「そこの損傷がもっとも大きいからだ」
もしそれが本当なら、きわめて重大かつ貴重な情報だが、おれは疑った。もしピーター支部隊長がその正体を見破られていたら、これは罠だ。それにどうして、かれの立場にある者が、戦闘の最中に感応通信回路を作り上げることができたのだろう?
「合言葉をいってくれ」
と、おれはいった。
「いや、そちらからどうぞ」
「いや、いえない」
「綴りをいう、それとも半分ずついうか」
「では、綴りを」
おれたちはいい合い、おれは納得した。
「さきほどの通信を取り消す。重戦車隊は中央稜堡にむかって突撃する。左翼はその左側を、右翼はその右側を。奇数番号の予備戦車は左右の稜堡に牽制突撃を行なえ。偶数番号は輸送車とともに待機。以上、確認せよ」
十九秒後、おれは突撃を命令し、われわれは突進した。まるで、整備不良の噴射管が過熱したロケット機に乗っているようなものだった。石の壁を突き破っていく。回転するときは気味が悪いほど傾き、何かの大きな建物の破壊されたあとの地下室に突入したときは、もうすこしで転覆するところだったが、それからまたのそのそと外に出ていった。すべてはもうおれの手を離れ、各車長にまかされていた。
おれたちの車が砲撃の姿勢に入ったとき、おれは心理技術者が少年の瞼を裏返しているのを見た。かれは無表情な声でいった。
「残念だが、死んだらしい……最後の通信のとき、ひどい過負荷を押しつけてしまったからな」
ほかに二人の女性感応通信士が気を失っていた。
おれたちの大きな戦車砲は斉射を始めた。無限とも思える時間を待った──全部で十秒ほどを。それから、おれたちは前進し、しだいに速度を上げていった。ベニスン号は王宮の城壁に猛然とぶつかっていき、おれは車体が壊れたかと思ったが、平気だった。だが操縦士はぶつかると同時に、全部の水圧ジャッキを下ろし、戦車は前部をゆっくりと上げていった。そしてあまりに角度が急になり、裏返しにひっくりかえると思われたとき、軌道が足場をつかみ、おれたちの車は前進して壁の裂け目を通り抜けた。
おれたちの砲はまた火を吹いた。至近距離から、王宮内部へ直接に。おれの心の中にある思いが走った──ここは、初めてジュディスに目をとめた場所だった。おれは、めぐりめぐってここにまいもどってきたのだ。
ベニスン号は暴れまわり、その重量で破壊しまくった。おれは最後尾の戦車が王宮に入るまでの時間を待って、命令した。
「輸送隊、突撃せよ」
それが終わると、おれはペノイヤーに連絡し、ハックスレーが負傷したので、かれが指揮を取るべきことを伝えた。
おれの仕事はみな終わった。いまは何の仕事も、戦闘部署さえもなかった。戦闘はまわりで熾烈におこなわれていたが、おれはその一部ですらなかった──二分前までは、全指揮権を不当に行使していたこのおれが。
おれはひと休みしてタバコに火をつけ、どうしようと考えた。一服深く吸いこんで心が静まるとタバコを消し、砲塔の射撃管制室へ登っていき、後ろの覗き穴から外を見た。微風が吹き、煙は晴れつつあった。輸送車ヤコブの梯子号が、城壁の裂け目から姿を現わした。その両側面が開き、歩兵部隊が熱線銃をかまえて飛び出してきた。まばらな銃火がかれらを迎え、何人かが倒れたが、ほとんどは射ちかえし、王宮内に突入していった。ヤコブの梯子号が裂け目から出てしまうと、そこに箱舟《アーク》号が入ってきた。
アーク号の歩兵隊指揮官は、預言者を生きたまま捕えよとの命令を受けていた。おれは急いで砲塔の梯子を下り、機関室のあいだの通路を駆け抜け、ベニスン号の後部にある床の脱出ハッチを見つけた。おれはその止金をはずして蓋をあけ、下に首をつき出した。無限軌道の向こうを男たちが走っていくのが見えた。おれは熱線銃を抜くと、地面に飛び下り、大きな軌道のあいだから走り出して、かれらのあとを追った。
かれらは間違いなくアーク号に乗っていた連中だった。おれはその小隊に加わって、一緒に王宮の奥へ突入した。
だが戦闘はすでに終わっていた。おれたちは組織的な抵抗にまったく会わず、下へ、下へと降りていき、やがて預言者の爆撃退避所を見つけた。扉は開いていた。そして、かれはそこにいた。
だが、おれたちはかれを逮捕しなかった。修道女たちが先にかれのところにたどりついていたのだ。かれはもはや、傲岸には見えなかった。彼女たちは、検屍のときにかれだとわかる程度のものすら、ほとんど残さなかったのだ。
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疎外地
「判決を申しわたされる前に、被告は何かいいたいことがあるかね?」
老裁判長の穏やかな目が被告の顔を見つめた。その質問に応えたのは、むっつりとした沈黙だった。
「よろしい……被告は、誓約にもとづいて合意された基本的慣習を破り、それによって他の自由な市民に損害を与えたと、陪審は判定した。また、被告はそれが違法行為であることを知っており、しかも自由な市民に損害を与える可能性のあることに気づきながら、それを犯したというのが陪審の意見であり、当裁判所の意見でもある。したがって当裁判所は、被告に二者択一の刑を宣告する」
目のこえた者なら、これまで裁判に対して無関心をよそおっていたこの青年の表情に、ちらりと狼狽の色が浮かんだのに気づいたろう。狼狽するのは、わけのわからないことだった。かれの犯した罪から考えると、その宣告は避けられないものだったのだ──しかし、わけのわかる人間ならこんな宣告を受けることもない。
適当な間をおいて、裁判長は廷吏のほうに向いた。
「かれを連れていきなさい」
囚人はとつぜん椅子を倒して立ち上がった。かれは、そこに集まっている人々を荒々しく見まわしてから、吐き出すようにさけんだ。
「待て! おれには、その前にいいたいことがあるんだ!」
その粗暴な態度にもかかわらず、追いつめられた野獣が見せる高貴ともいえる威厳があった。かれは激しく息をつきながら、まわりにいる人々を、自分を引きずり倒そうとしている猟犬であるかのようににらみつけた。
かれは怒鳴った。
「どうなんだ? え? おれはしゃべっていいのか、悪いのか? 刑をいいわたされた男が、最後にいいたいこともいえないってのは、いかにもこの喜劇のたわけた落ちにふさわしいだろうがな」
老裁判長は、判決をいいわたしたときと同じ、ゆったりとした口調で答えた。
「発言してよろしい……デイヴィッド・マッキンノン、きみは好きなだけ長く、そしてどんな形であろうと好きなように話してよろしい。たとえ誓約を破った者であろうと、その自由に制限はない。レコーダーにむかって話したまえ」
マッキンノンは顔のそばにあるマイクロフォンをいまいましそうに見た。しゃべった言葉は何であろうと記録され分析されるのだと思うと気勢がそがれ、かれは無遠慮にいった。
「録音してくれとは頼んでやしないぞ」
裁判長は辛抱強く答えた。
「だが、われわれはそうしなければいけないのだよ……われわれがきみを、公正に、誓約にもとづいて取り扱ったかどうかを他の者が判定できるように。どうか、それに従ってくれ」
「ちぇっ……しょうがないな!」
かれはその要求を粗野な態度で承知し、マイクにむかって話しだした。
「しゃべったって仕方がないんだろうが……とにかく話すから、聞いてくれ……あんたらは大切な誓約≠、まるで神聖なものか何かみたいにいう。おれはそれに同意しないし、従いもしない。あんたらはそれを、まるで天国から一筋の光とともにもたらされたみたいに扱う。おれの祖父さんたちは、第二革命で戦った……だが、かれらは迷信をなくすために戦ったんで……羊の心を持った愚か者たちに新しい迷信を作らせるために戦ったんじゃないんだ……そのころには、人間がいたんだぞ!」
かれは軽蔑するようにまわりを見た。
「いまは、何が残っているんだ? 用心深く、妥協的で安全≠ネ、血管に水が流れている弱虫ばかりだ。あんたらは世の中全体をあまりにも注意深く計画して、そこから楽しみも夢中になるようなこともなくしてしまった。だれひとり飢えないし、だれひとり傷つきもしない。乗り物は壊れないし、穀物は不作にならない。天候さえおとなしく飼い馴らし、雨はしとやかにしか降らない……真夜中を過ぎてからな。なぜ真夜中まで待たなきゃいかんのか、おれにはわからない……あんたらがみな九時に寝てしまうからか!
もしあんたら安全無害な国民の一人が、何か不愉快な感情を持つとしよう……とんでもないことだな!……すると、あんたらはすぐもよりの精神力学病院へ行き、そいつのちっぽけで従順な心は再調整されてしまう。ありがたいことに、おれはそんな馬鹿げた習慣についぞ負けたりはしなかった。どんなに苦々しくとも、おれは自分自身の感情を保っていくんだ。
あんたらは、心理技術者に相談しないと恋もできない……彼女の心は、自分と同じように平凡でありきたりだろうか? 彼女の家族の中に感情的に不安定な者はいないだろうか? そんなのは、男にくつわをはめるのも同じなんだぞ。
女を獲得するために戦ったとすると……そんなことをする勇気のあるやつがいたらだが、二分以内に警官につかまり、無気力にするのにいちばん便利なところを探されたあげくに、いやになるほど卑下した態度で尋ねられるんだ、お助けさせていただけますでしょうか?≠ニね」
廷吏がマッキンノンのそばににじりよった。かれはそいつを見ていった。
「引っこんでろ。話はまだ終わっちゃいないんだ」
かれは向きなおって、話を続けた。
「あんたは、おれに二つのうちのどちらかを選択しろといった。その選択は、おれには難しいことじゃない。降参して治療されるぐらいなら、あんたらのこぢんまりとしたきれいな、安全で居心地のいい再教育ホームへ行って、おれの心を、おおぜいの柔らかい指をした医者たちにいじくりまわされるくらいなら……何だろうとそんなことをされるぐらいなら、その前にきれいさっぱり死んだほうがましだ。とんでもない……おれが選択するのはただ一つで、二つではない。おれが選ぶ道は、疎外地《コベントリイ》へ行くことだ……それも、喜んでさ……二度と合衆国など見たくないよ!
しかし、行く前に、ひとつだけ聞きたいことがある……そもそも、あんたらはなぜ生きていようとしているんだ? あんたらはみな、そんな馬鹿げた無益な生活を、よくも飽きずに続けていられるもんだ。死んだほうがましじゃないのか。これで全部だ」
かれは廷吏のほうをふりかえった。
「おい、行くぞ」
老裁判長は手を上げてとめた。
「ちょっと待ちなさい、デイヴィッド・マッキンノン……きみの話は聞いた。慣習上その必要はないのだが、わしはきみの陳述の一部に答えようと思う。聞いてくれるかね?」
気は進まなかったが、これほど筋の通った要求をむげに断って野暮なやつだといわれるのもいやだったので、青年は同意した。
裁判長は教壇にこそふさわしい、穏やかで学者的な言葉で語りはじめた。
「デイヴィッド・マッキンノン、きみは、自分で間違いなく賢明だと思っている論法で話した。しかし、きみの言葉は荒けずりで、話をはしょりすぎている。わしは、きみの明らかな事実誤認を訂正しておきたい。誓約は迷信なんぞではなく、きみがさっきいった革命家たちが実用的な理由のために取り決めた、簡単な一時的契約なのだ。かれらは、すべての人に可能なかぎり最大の自由を保証することを望んだのだ。
きみ自身もその自由を享受してきた。いかなる可能な行為も、いかなる様式の行動も、他人に損害を与えないかぎり、禁じられることはない。法律によってはっきり禁じられている行為でも、もしその行為そのものが特定の個人に損害を与えたり、損害を与える明白な危険を惹起したことがはっきりと実証されないかぎり、きみはそれによって罰せられはしない。
また、ある個人が故意に他人に損害を与えた場合ですら……きみがやったようにだ……国は道徳的判断を下したり、罰したりはしない。われわれはそんなことができるほどの知恵を持っていないし、そうした道徳的強制は必ず多くの不公平さをもたらし、みんなの自由を危うくするものだ。
したがって、犯罪者は、他人に危害を及ぼしたがる性格を矯正するための心理学的更生療法を受けるか、さもなければ国はかれから手を引いて……疎外地送りにするか、そのどちらかを選ぶことになっている。
きみは、われわれの生活様式が単調でロマンチックでないと文句をいい、われわれが、きみに許されてしかるべき刺激を奪っていると非難した。われわれの生活様式に対して審美学的な意見を持ち、それを表現するのはきみの自由だが、われわれが、きみの好みに合った生きかたをすることを期待してはいけない。もし望むなら、危険や冒険を求めるのは自由だ。ほうぼうの実験研究所には、まだ多くの危険がある。月の山岳には冒険があり、金星のジャングルには死すらある……しかし、われわれをきみの性質にある暴力にさらす自由はないのだ」
マッキンノンは軽蔑したように抗議した。
「なぜそんな大げさないいかたをするんだ? おれが人殺しでもしたようないいかただな……おれは、ひどい侮辱を加えやがった男の鼻にパンチを食らわしただけだぞ」
裁判長は静かに話しつづけた。
「わしは、その人物についての、きみの審美学的判断については同意するし……きみが、かれにパンチを食らわせたことについても、個人としてはむしろ満足している……しかしながら、きみの心理傾向測定テストによると、きみはほかの市民を道徳的に判断できると信じており、自分の唇でかれらの欠陥を正したり罰したりするのは正当だと思う傾向のあることがわかっている。デイヴィッド・マッキンノン、きみは危険人物なのだ。こんどはどんな危害を及ぼすことになるかわからないがために、われわれみんなにとって危険な存在だ。社会的見地からすると、きみは妄想によって、さかりのついたウサギのように狂っているのだ。
きみは矯正処置を拒否した……したがってわれわれは、きみと絶縁し、われわれの社会からきみを締め出す。きみは、疎外地へ行くのだ」かれは廷吏のほうに向いた。「かれを連れていけ」
マッキンノンは胸の興奮をおさえながら、大型輸送用ヘリコプターの前部丸窓からのぞいた。あそこだ! あれにちがいない──遠くに黒い帯が見える。ヘリコプターが近づくにつれて、防壁《バリアー》を見ているのだという確信が強まってきた──合衆国と疎外地と呼ばれる保留地とを分けている神秘的な、破ることのできない壁なのだ。
護衛官は読みかけていた雑誌から顔を上げて、かれの視線を追い、朗らかな声でいった。
「つい、そこだ……もうすぐだな」
「早く着かないかなあ!」
護衛官は不思議そうに、だが寛大な目でかれを見た。
「そんなに行きたいのか、え?」
マッキンノンは胸を張って答えた。
「こんなにあの門をくぐり抜けたがっている男を連れてくるのは、初めてだろう!」
「ああ……たぶんな。だが、みなそういうんだぜ。自分の意志に反してあの門を通る者はいないんだからな」
「おれは本当に行きたいんだ!」
「みなそうさ。それでも引き返してくるやつが多いんだぜ」
「なあ……あの中はどうなっているのか、ちょっと教えてくれないか」
護衛官は首をふった。
「残念だが、それは合衆国も、その官吏も関与すべきことじゃないんでね。どのみち、すぐにわかることだ」
マッキンノンはちょっと眉をよせた。
「変だな……いろんなやつに聞いてみたが、あの中のことを知っているやつは一人もいなかった。ところがあんたの話によると、かなりの数が引き返しているという。きっと、だれかが話していそうなもんだがなあ……」
護衛官はにやりと笑った。
「簡単なことさ……かれらの再教育には、経験について語らないようにする潜在意識的強制が含まれているからな」
「そいつはつまらない小細工だぜ。おれみたいな人間に、これからどういうところへ行くことになるのか教えないでおこうなんて、なぜわざと政府はたくらむんだろうな?」
護衛官は、いささかむっとした口ぶりで答えた。
「なあ、兄さん……きみは、われわれなど地獄へ行っちまえといった。われわれがいなくても、やっていけるといった。きみは、この大陸でも最上の土地のどこかに、たっぷりとした広さの居住空間を与えられているんだし、きみの所有しているもの、あるいはきみのクレジットで買えるもの、それを何もかも持っていくことも許されている。いったいそのほかに何を期待しているんだ?」
マッキンノンは強情な表情をくずさなかった。
「むこうにおれの住める土地が残っているのかどうか、どんな保証があるんだ?」
「そいつは、きみの問題さ。人の住める土地がどっさりあるように政府は考えているよ。それをどう分割するかは、きみたち乱暴な個人主義者が自分たちで決めるべきことさ。われわれのやりかたでの社会的協力を拒否した以上、どうしてわれわれの組織による安全保護を期待するんだ?」
護衛官は読書にもどり、かれを無視した。
かれらは一面に何もない黒い防壁のすぐ近くにある小さな飛行場に下りた。見たとこみ、門らしいものもなく、飛行場の横に警備兵詰所があるだけだった。乗客はマッキンノンだけだった。護衛官がその詰所に行っているあいだに、かれは客室から出て荷物室のほうにまわってみた。乗組員が二人で荷物出入口からランプを下ろしているところだった。かれが姿を現わすと、ひとりが気づいて声をかけた。
「ようし、これはきみの荷物だ。自分でやってくれ」
かれはその仕事を目分量で測って、いった。
「ずいぶんあるな、助けがいるよ。手を貸してくれないか?」
話しかけられた乗組員は、のんびりとタバコに火をつけてから答えた。
「それはきみの荷物だ。欲しけりゃあ、出すんだな。おれたちは十分後に離陸するぜ」
二人は、かれの横を歩いて、またヘリの中に入った。
「おい、この……」
マッキンノンは黙り、怒りの大半を自分の心に注ぎこんだ。無愛想な田舎者め! 文明との訣別を後悔する一抹の痕跡も吹き飛んでしまった。見せつけてやるとも! おれが、あいつらなしでもやれることを。
しかし、やっと荷物を積み上げたそばに立ってヘリコプターが離陸するのを見送ったのは、それから二十分以上たってからだった。さいわい、操縦士は時間にはわりとルーズなほうだったのだ。マッキンノンはふりむいて、鋼鉄の亀に荷物を積み始めた。
遠い昔のロマンチックな古典文学の影響で、かれはロバを何頭か連れていきたかったのだが、ロバを売ってくれる動物園が見つからなかったのだ。そのほうが良かった──かれは、その役に立つ動物の習性や欠点や病気や扱いかたを知らず、そのうえ自分の無知なことも自覚していないのだから、主人と召使いがおたがいに我をはって、相手を不幸にしたかもしれない。
かれが選んだ乗り物は、ロバの代用品としてみれば理屈に合わない代物ではなかった。恐ろしく頑丈にできていて、操作は簡単、馬鹿な間違いなどできないようになっている。低い、カーブした屋根に取りつけてある太陽電池スクリーンから動力を取り、それで出力の一定したエンジンを動かすか、停まっているときは、曇天や夜間の走行に備えてバッテリーに蓄電される。ベアリングは永久的な耐久力があり、無限軌道と操縦装置以外のあらゆる可動部分が、未熟な修繕工が手をつけないように、全部密封されている。
平坦な舗装道路では、時速六マイルの一定した速度で走る。坂や険しい地形に出くわしても停まらないが、一定した出力がその仕事量と等しくなるまで速度が落ちるだけだ。
その鋼鉄の亀はマッキンノンに、ロビンソン・クルーソー的な独立感を与えた。それが何十万人もの市民による労力と知的協力の所産であることには、考え及ばなかった。生まれてこのかた、それよりはるかに精巧な機械の狂いのない奉仕に慣れていて、その鋼鉄の亀など、木こりの斧か猟師のナイフと同じような原始的な水準のものだと考えていた。かれはこれまでもっぱら文芸批評に才能を注ぎこんでいたので、工学には暗かったが、この亀と同じものぐらいは、持って生まれた知性と参考書の二、三冊もあれば、自分で簡単に作れるさと決めこんでいるのだった。
鉄鉱石が必要なことは知っていたものの、それも探鉱、採鉱、精錬といった難しい過程に関するかれの知識は、ロバに関する知識と同様に大ざっぱなものだったから、さまたげにならなかった。
荷物は、その小型の乗り物にぎっしり詰めこまれた。かれはそのひとつひとつを目録と照合し、満足そうにそのリストを見なおした。過去のいかなる探険家や冒険家も、これだけの装備を見たら羨むにちがいないと思った。ジャック・ロンドンに組立式のかれの小屋を見せてやるところを想像できた。見ろよ、ジャック、こいつはどんな天候にも耐えるんだぜ──完全に絶縁された壁と床だ──しかも、絶対に腐らないんだぞ。それでいてひどく軽いから、五分で組み立てられるんだ。おまけに非常に頑丈だから、世界じゅうでいちばんでっかい灰色熊が入口で鼻をくんくん鳴らしていたって、平気で眠れるんだ。
するとロンドンは頭をかいていうだろう……デイヴ、すごいなあ。おれがそんなのをユーコン川で持っていたら、楽だったろうになあ!
かれはもう一度、リストを調べなおした。六カ月分としては充分な濃縮乾燥食料品。それだけの月日があれば、水耕式温室農園を作って栽培を始めることができるだろう。医薬品──必要ないかもしれないが、用心するに越したことはあるまい。あらゆる種類の参考書。小型の猟銃──製造年代は前世紀。かれはそれを見て、ちょっと顔を曇らせた。国防省は携帯用熱線銃をいくら頼んでも売ってくれなかった。一市民としてかれにも共有継承権があるはずだと主張すると、かれらはいやいやながら設計図と仕様書をわたし、自分で作れといった。いいとも、暇ができしだい、それを作るのだ。
ほかはみな、計画したとおりだった。マッキンノンは運転席に入って、二本の操縦桿を握り、鉄の亀の鼻先を衛兵所へ向けた。ヘリコプターが着陸してからずっと無視されたままのかれは、早く門をあけてもらい、出ていきたかった。
詰所のまわりには数人の兵士がいた。マッキンノンは、キルトに銀色の縞がついている将校を見つけて、そいつに話しかけた。
「出発の用意ができた。門をあけてくれないか?」
「よろしい」
その将校は、あっさりした灰色キルトの戦闘服を着た兵隊のひとりにむかって、いった。
「ジェンキンズ、動力室に開けといえ……三号ぐらいのあけかただとな」
そいつは、亀の大きさを目測してそうつけ加えると、マッキンノンのほうに向きなおった。
「これはおれの義務としていうんだが、きみはいまでも、ノイローゼの治療に同意すれば文明社会にもどれるんだぞ」
「おれはノイローゼなんかじゃない!」
「そうかい。将来いつか気持ちが変わったら、きみが入っていったところへもどってくるんだ。そこに警報機があり、門をあけてくれと衛兵に合図できるからな」
「そんなことを知っておく必要があるとは思えないね」
将校は肩をすくめた。
「たぶん、そうだろう……だが、おれたちは年じゅう、避難民を隔離所に送り返しているんでな。もしおれが規則を作るのなら、二度ともどってこられないようにしてやるのだが……」
そのとき警報ベルが鳴り、話はさえぎられた。近くにいた兵士たちは、ベルトから熱線銃を抜き、敏捷に走りだした。衛兵所の屋上に据えつけられた熱線砲の醜い砲口がつきだし、防壁のほうに向けられていた。
将校はマッキンノンの顔に浮かんでいる疑問に答えた。
「動力室の用意ができたってことさ」かれはその建物にきびきびと手をあげて合図してから、マッキンノンを見た。「門があいたら、まん中を運転していくんだ。非常に高圧の電力を使って静止状態を保っている。ちょっとでも端にふれたら、おれたちは、ばらばらになったきみを拾い集めなければいけなくなるんだ」
かれらが待っている場所の正面の黒い防壁の下に小さな明るい点が現われた。その穴は、真黒で何もない壁面に半円を描いて、みるみる大きくなっていった。やがてそれはアーチ型になり、向こう側の景色が見えだした。マッキンノンはそれをじっと見つめた。
通路はしだいに大きくなり、二十フィートの幅になってとまった。黒い防壁に縁取られて見えるのは、荒涼とした禿山の風景だった。かれはそれを見て、将校にくってかかった。
「騙されたぞ! あれは、人間が住めるようなところじゃないじゃないか」
将校はかれにむかっていった。
「あわてるな。あのむこうに、いい土地があるんだ。それに……きみは入っていかなくてもいいんだ。しかし、行きたければ、行くんだな!」
マッキンノンは顔を赤らめ、二本の操縦桿をぐいと後ろに引いた。軌道は地面を噛み、亀は疎外地への門にむかってゆっくり動いていった。
門を出て数ヤードしてから、かれは後ろをふりかえってみた。黒い防壁が背後にそびえ立っているだけで、通路は跡形もなかった。いま通り過ぎてきた地点のすぐそばに薄い金属板の小屋があった。将校がいった警報装置はその中にあるのだろうと思ったが、別に興味がなかったので、かれは向きなおって運転を続けた。
前方には、岩だらけの丘をくねくねと、名ばかりの道が続いていた。舗装はおろか、長年修理されたこともないようなでこぼこ道だが、ゆるやかな下り坂になっているので、亀はかなりのスピードを保つことができた。かれはそこを下りつづけた。そこが気に入ったわけではなく、自分か思い描いていたのとは明らかに異なる土地から出ていく道路が、それだけだったからだ。
その道路を行く者はほかになかった。かれにとっては、願ったりかなったりだ。どこか気に入った土地を見つけて腰を落ち着け先取権を確保するまでは、だれにも出会いたくなかったのだ。だが、この丘陵地帯に生き物がいないわけではなかった。何度かかれは、岩のあいだを駆け抜けてゆく小さな黒い影を見たし、ときどきはぎらぎらした丸い目が自分を見返したのにも気づいた。
かれの姿を見てすばやく物蔭に隠れるそれらの臆病な小動物が、貯蔵食料の補充になるかもしれないという考えは、最初のうちまったく思い浮かばなかった──それらがいるというだけで、楽しく、心が暖かくなるのだった。食料になると思いついたときさえも、最初はその考えに嫌悪を覚えた──|気晴らし《スポーツ》のために殺すというような習慣は、かれの時代のずっと前から廃れてしまっていた。それに加えて、前世紀後半の安価な合成蛋白質の発達が、食肉用の家畜繁殖産業を経済的破滅に追いこんでしまったから、かれが生まれてこのかた動物の肉を食べたことがあるかどうかも疑わしかった。
しかし考えてみると、そうするのは合理的なことだった。かれは、これから人里離れた田舎で暮らすつもりだ。ここ当分の食料はたっぷりあるが、現地で手に入る食べ物を使って、保存食料の消費をできるだけ少なくするほうが賢明だろう。かれは、審美眼的嫌悪と倫理的不安をおさえて、機会がきたら動物を射とうと決心した。
それでライフルを取り出し、弾丸をこめて、手元においた。ところが、これが世の中のいやなところで、それから三十分以上も獲物はまったく姿を見せなかった。しかし、岩の露頭の小さな肩をまわったとき、やっと見つけた。
そいつは小さな丸石の蔭からかれをのぞいていた。くりっとした目は警戒していたが、こわがってはいなかった。かれは亀をとめ、ライフルを運転席の横の窓枠にのせて、慎重に狙った。獲物は都合よく飛び出てきて、全身を視野にさらけ出した。
目を細くして狙っているうちに、筋肉が緊張し、無意識に引金をひいてしまった。当然、弾丸はそれて、右上に飛んだ。
だが、かれに弾丸の行方を見ているような余裕はなかった。全世界が爆発したような感じがした。右肩がしびれ、口がうずき、そこを蹴飛ばされたような感じで、耳が不快な音でガンガン鳴った。かれは小銃がちゃんと自分の手におさまっており、見たところ何ともなっていないのを知って驚いた。
かれはそれをおいて車からやっと下りると、小さな動物がいたところへ急いだ。そいつの姿はどこにもなかった。そのまわりを探したが見つからなかった。騙されたような気持ちになったかれは、ライフルがどこか故障しているのだろう、こんど射つ前にはじっくりと調べてみる必要があると考えながら車にもどった。
かれの標的となった動物は、銃声に驚いて逃げこんだ隠れ場所から、注意深くかれの行動を見守っていた。マッキンノンに劣らず火器に慣れていないそいつは、その驚くべき出来事に同じぐらいあっけに取られていたのだ。
亀をふたたび出発させる前に、ずきずき痛む上唇を調べてみた。紫色にはれあがり、深い引っかき傷ができたところから血が出ている。それを見て、かれは銃が故障しているのだという確信を深めた。愛読してきた十九世紀および二十世紀のロマンチックな文学作品には、その場で人間を倒せるほどの重い銃を射つ場合、右手の親指とその爪が反動で口にあたるような形に銃を握ってはいけないと注意しているものはなかったのだ。
かれは消毒薬をつけて手当てをしたあと、ややがっかりした気分で車を走らせた。入りこんだ峡谷の左右はしだいに広がり、丘の緑は深くなっていった。そして、急なカーブの道をまわると、とつぜん目の前に肥沃な平野がひらけた。平野ははるかかなたまで広がって、その向こうは暖かい日中の霞にかすんでいる。
平野の大部分は耕され、人が住んでいるところも見分けることができた。かれは複雑な感情を覚えながら進んでいった。住民がいるのは困難がそれだけ少なくなることを意味していたが、新しい土地を見つけて所有権を確保するというのは、思っていたほど容易でないような気がしてきた。しかし──疎外地は広いのだ。
道が峡谷の床に出たあたりで、二人の男がかれの進路に立ちふさがった。かれらは、何かの武器をかまえている。その一人がかれを呼びとめた。
「とまれ!」
マッキンノンは車をとめて、のっそりと近づいてくるかれらに話しかけた。
「何か用かい?」
「税関検査だ。あの事務所の前に車をつけろ」
そいつの指さしたほうを見ると、道から数フィート引っこんだところに小さな建物があった。マッキンノンは男のほうに視線をもどしたとき、腹の中に何か理屈のつかない熱いものが、ゆっくりと燃えてくるのを覚えた。それが、かれの非常に不安定な判断をいっそう誤った方向へ押しやった。かれは鋭くいった。
「いったい何のことだ? 邪魔だ、どいてくれ」
黙っていた男が武器を上げて、マッキンノンの胸につきつけた。もうひとりの男がそいつの腕をつかみ、武器をおしのけて苦々しくいった。
「こんな間抜け野郎など射つんじゃねえよ、ジョウ。どうもおまえは心配症だな」男はマッキンノンのほうに向きなおった。「てめえ、法律にたてつくつもりか? さあ来い……早くしろ!」
「法律だと?」
マッキンノンはいらだたしげな笑いを洩らし、かたわらの座席にあったライフルをつかんだ。だが、肩までも届かなかった──かれと話し合っていた男が、ろくに狙いを定めずに、無造作に射った。マッキンノンのライフルは手からすっぽ抜けて空中に飛び、亀の後方の道ばたの溝の中に落ちた。
黙っていたもうひとりの男は、あまり興味もなさそうにマッキンノンの銃の行方を追って、いった。
「うまいぞ、ブラッキー。この野郎にぜんぜんさわらなかったぜ」
相手の男は、その世辞に嬉しそうな笑いを浮かべて答えた。
「まぐれあたりよ。でも、怪我をさせなくてよかった……報告書を書かずにすんだな」
そいつは、官史的な態度にもどり、しびれた手をこすりながら呆然と坐っているマッキンノンに話しかけた。
「どうだ、勇ましいの? おとなしく行くか、それとも、おれたちがそこに上がって引きずり下ろそうか?」
マッキンノンは降参した。かれは亀を指定された場所へ運転し、そこでむっつりと命令を待った。
「出て、荷物を下ろせ」
と、かれはいわれた。
かれは、やむなくそれに従った。貴重な所有物を次々と地面に下ろすと、ブラッキーと呼ばれた男がそれを二つの山に選り分け、ジョウがその品目を決まった書式の紙に書きこんでいった。マッキンノンはまもなく、ジョウが一方の山に選り分けられた品物だけを記帳していることに気づいた。やがてブラッキーは、そのほうの荷物を亀に積んでよろしいとマッキンノンに告げてから、もう一つの山に積まれた荷物を自分で事務所の中に運びはじめた。マッキンノンは抗議しかけた──
ジョウはいとも冷静に何の憎しみもなくかれの口をなぐりつけ、マッキンノンは倒れたが、すぐ立ち上がって向かっていった。かれはあまりの怒りに目がくらんでいたから、たとえ相手が突進してくる犀であろうと、めちゃめちゃに飛びかかっていったことだろう。ジョウは冷静に間合いを取り、ふたたびかれをなぐった。こんどのかれは、すぐには立ち上がれなかった。
ブラッキーは事務所の隅の洗面台のほうへ行った。かれは濡れたタオルを持ってもどってくると、マッキンノンのほうへ投げた。
「それで顔を拭いたら、車に乗れ。おれも同行しなきゃいけないんでな」
ブラッキーを乗せて町へ行くあいだ、マッキンノンにはいろいろと真剣な考えごとをする時間がたっぷりあった。行先についてのマッキンノンの質問に対して「捕獲裁判所だ」と短く応答した以外、ブラッキーは何もしゃべらなかったし、マッキンノンも情報をいろいろ聞きたがったが、無理じいはしなかった。続けて殴られたために口が痛く、頭はずきずきし、下手なことをいって相手の行動をうながすのはもうこりごりだった。
どうやら疎外地は、かれが期待していたような無政府的開拓地ではないようだった。政府らしいものはあるようだが、それはこれまでかれが馴染んできたものとはまるっきり違うらしい。かれは、おたがいに充分な距離をおいて尊敬しあう、高貴な、独立精神の持主たちの国を想像していた。もちろんならず者もいるだろうが、そんな連中は悪い性質を発揮すると、すぐに簡易裁判所に送られ、たぶん死刑にされる。かれは、無意識のうちに、美徳が勝利をおさめるという推定をしていたのだ。
かれは政府というものを、生まれてこのかた当然のこととしてきたパターンどおりで考えていた──公平で、良心的で、きわめて能率的で、市民の権利と自由にいつも気をくばっているものだと。政府がつねにそのようなものだとは限らないことをかれは知っていた。だが、これまでそんなものを経験したことが一度もなかった──そんな考えは、食人習慣とか奴隷制度といったものと同じように、途方もない、遠く離れたものだった。
じっくりと考えてみたら、疎外地の公僕が性格的に公僕に向いているかどうかを決める心理学的テストなど受けたりしているはずがないことに気づいていたはずだ。それに、ここにいる全住民が──かれと同じように──基本的慣習にそむき、性格治療をこばんだ連中ばかりなのだから、そのほとんどが気まぐれで自分勝手な人間ばかりだというのは、わかりきったことなのだが。
かれは、裁判所へ行くということに希望をかけた。裁判官に事実を訴える機会をつかむことだけが望みのすべてとなった。
かれが司法手続きに頼ろうとするのは、組織化された政府なんか信頼するもんかといってきた最近のかれの態度と矛盾するようだが、口で政府と絶縁するとはいえても、今までの人生でかれをとり囲んでいた環境から抜けだせるものでもなかった。かれは、二者択一の刑を宣告して自分に屈辱を強いた法廷を呪ったが、それでもかれは法廷が正義を守ることを期待した。かれは徹底した自己の独立を主張したが、それはまわりの人々がみな誓約に拘束され、誓約を行動の基準にしていることを前提としていた──そうでない人間と会ったことがなかった。つまりかれは、自分の過去の歴史を捨てることも、それに慣れた自分の体を脱皮させることもできなかったのだ。
しかし、かれはまだそのことに気づいていなかった。
裁判官が法廷に入ってきたとき、マッキンノンは立ち上がるのを忘れていた。法廷の守衛が急いで起立させたが、すでに判事席から怒りの視線を向けられたあとだった。その裁判官の風采や態度は安心感を与えてくれなかった。栄養たっぷりで、赤ら顔の男で、サディスト的気性が顔つきや動きかたににじみ出ている。マッキンノンは、その裁判官がほかの数人の取るにたらぬ犯罪者を強引に裁くあいだ待たされた。聞いていると、マッキンノンには何をやっても法律に背くことになるように思えた。
それでも名前が呼ばれるとほっとした。そして、立ち上がるとすぐさま事実を説明しはじめた。裁判官は木槌をたたいて、かれの言葉をさえぎった。
裁判官は不機嫌そうに顔をしかめた。
「なんだ、この事件は? 酒に酔っての乱暴に決まっているな。若者のあいだのこんなたるんだ行為は断固としてやめさせるぞ。そのためにわしの力を最後の一オンスまで使うことになってもだ!」かれは書記をふりかえった。「前科は?」
書記はかれの耳元でささやいた。裁判官は当惑と疑惑の入り混じった表情をマッキンノンに向けてから、税関の警備兵を呼びよせた。ブラッキーは法廷で証言することに慣れているらしく、気楽な態度ですらすらと事件のいきさつを物語った。マッキンノンの罪状は、かれの公務執行を妨害したということにあった。かれは同僚が作成した積荷目録を提出したが、それを作る前に抜き取った大量の荷物については一言もふれなかった。
裁判官はマッキンノンのほうに向いた。
「おまえは、何かいいたいことがあるか?」
かれは勢いこんでいい始めた。
「ありますともさ、先生……あいつは一言もいわなかったが……」
バーン! 木槌がかれをさえぎった。守衛がかれのそばに駆けよって、法廷での正しい言葉遣いについて説明しようとした。その説明はかれを混乱させた。これまでの経験によると、裁判官≠ニは当然、医師的性格のものだ──社会問題に通暁している精神科医だ。それに、法廷に適した特別な話しかたがあるなど聞いたこともなかった。しかしかれは、指示されたように言葉遣いを直した。
「裁判長閣下に申し上げますが、この男は嘘をついています。かれは仲間とともに、わたくしを襲い、荷物を強奪したのです。わたくしはただ……」
裁判官は嘲笑した。
「密輸業者は一般に、税関吏に捕まると強奪されたように思いがちなものだ。おまえは、税関の検査を拒否し抵抗したことを否認するのか?」
「いいえ、閣下、しかし……」
「もうよろしい。所定の関税に加えて、その五十パーセントの罰金だ。書記に払いたまえ」
「でも、閣下、わたくしには払えません……」
「払えないだと?」
「お金をまったく持っていないんです。あるのは持ってきた荷物だけです」
裁判官は書記をふりかえった。
「そうか……判決。被告の荷物を没収。放浪罪で十日。こういう文無しの移住者がのさばり歩いて、法を守る市民が迷惑するようなことを社会は許しておけないからな。では次!」
かれらはマッキンノンを引き立てていった。かれは背後で、鉄格子の扉に錠が下ろされる音を聞いて、自分が窮地に陥ったことに気づいた。
「おう、兄弟、外の天気はどうだい?」
拘置所の監房には、小柄でがっちりした体格の先客がいて、一人占いのカードから顔を上げてマッキンノンに話しかけた。そいつは、カードをならべたベンチにまたがったまま、屈託のない大きな目を輝かせて新入りを見つめた。
「外はいい天気だが……法廷は嵐さ」
と、マッキンノンは答えた。相手と同じ冗談めかした口調で答えようとしたが、あまりうまくいかなかった。口元が痛くて、ゆがんだ微笑になった。
相手は片足でベンチをまたぐと、身軽な足取りで近づき、かれの口を調べていった。
「ほう、ギヤ・ボックスにでも顔をつっこんだのか? 痛むかい?」
「ひどいもんだ」
と、マッキンノンはうなずいた。
「そいつをなんとかしなきゃあいかんな」かれは監房の扉のところへ行って、それをがたがたいわせた。「おーい! レフティ! 火事だ! 急いで来てくれ!」
看守がぶらぶらやって来て扉の前に立ちどまると、何の関心もなさそうに尋ねた。
「何の用だ、フェイダー?」
「おれの小学校時代のぽんゆうがよう、レンチで顔を殴られたんだ。凄く痛いらしい。ちょっと医務室まで行って、絆創膏と鎮痛薬《アノダイン》を五グラムほど持ってきてくれねえか。あんたが天国へいける権利を獲得するチャンスだぜ」
看守は、あまり気が進まない表情だった。囚人は悲しそうな口調でいった。
「どうしたんだ、レフティ……こいつは、ささやかな慈善をほどこす絶好の機会じゃねえか。あんたは、こんな機会を逃す男じゃねえと思っていたんだがなあ」かれは、ちょっと間をおいてからつけ加えた。「じゃあ、こうしよう……そうしてくれたら、アンは何歳?≠チていう例のパズルの解きかたを教えてやるよ、それでいいだろ?」
「先に教えろ」
「時間がかかりすぎるよ。それは書いて渡すからさあ」
看守が薬を持ってくると、かれは優しく器用な手つきでマッキンノンの傷を手当てしながら話しかけた。
「おれはフェイダー・マギーっていうんだ。おまえの名前は、兄弟?」
「デイヴィッド・マッキンノンだ。すまないが、きみのファースト・ネームがよく聞き取れなかったんだ」
かれはにやりと笑って答えた。
「フェイダーさ……おふくろのつけてくれた名前じゃねえんだがね。いうならおれの、恥ずかしがりで、でしゃばりじゃあない性格を褒めた、職業上の愛称さ」
マッキンノンは面食らったような表情になった。
「職業上の愛称? きみの職業は何だい?」
マギーは傷ついた顔をした
「なあ、デイヴ……おれは、そんなことを聞きはしなかった。しかし、おまえだって同じじゃねえのか……おたがいのためさ」
マギーは同情的な聞き手だったし、マッキンノンも自分の災難を打ち明ける相手ができて嬉しかった。かれは、判決に屈伏するかわりに疎外地へ行こうとしたことや、到着したとたんに荷物を強奪されたあげく、裁判所へ突き出されてしまったいきさつを話した。マギーはうなずいて、いった。
「驚きはしねえな……そいつは、最初から強盗向きの性格をしてたんだ。そうでなきゃあ税関吏になどならねえさ」
「おれの荷物はどうなるんだ?」
「競売にして、税金にあてるのさ」
「おれの分は、どれぐらい残るだろうな?」
マギーは唖然とかれを見つめた。
「残る? 何にも残らねえよ。残るどころか、判決の不足分を払わなきゃあいけなくなるだろうよ」
「えっ? どういうことなんだ、それは?」
マギーは、ちょっとわかりにくいことを簡潔に説明した。
「罰金ってやつは、そういう仕組みになっているんだな……おまえの場合、十日間の拘留期間が過ぎても、まだ裁判所に借りが残っているってわけよ。だから、おまえは懲役囚になるんだな、相棒。そして、一日一ドルで働かされて、それを返すことになる」
「フェイダー……冗談だろう?」
「見ていろ、そのうちわかるから。これからおまえが学ぶことは山ほどあるんだ、デイヴ」
疎外地というのは、マッキンノンがこれまでのことでわかった以上に複雑なところだった。マギーの説明によると、それは三つの主権国に分かれ、それぞれ独自の司法制度をしいていた。かれらが入れられている拘置所は、ニューアメリカと呼ばれている区域内にあった。そこはいちおう民主主義政体をとっているけれども、実際の政治のやりかたは、マッキンノンの受けた待遇がいい見本だった。
「ここだって、自由州とくらべたら天国みたいなものなんだぞ。おれは、そこにいたことがあるんだが……」
マギーは説明を続けた。自由州では完全な独裁政治がおこなわれている。統治している派閥のトップが解放者≠ノ指名される。かれらのスローガンは義務と服従であり、独断的な規律が厳格なまでに強制され、意見を述べる自由などはまったく許されない。その政治理論は古い機能心理学の学説をなんとなく真似ているようだ。国家は単一の頭と、単一の頭脳と、単一の目的を持った、単一の有機体であるという考えかただ。強制的に定められたこと以外はすべて禁じられている。マギーはいった。
「まったくやりきれなかったぜ。あそこでは、ベッドに入ろうとするとシーツのあいだから、必ずいまいましい秘密警察官がひとり出てくるんだからな」
かれはさらに話した。
「しかしそれだって、天使どもの国に住むよりはましなんだぜ」
「天使どもだって?」
「そうさ。まだ、そういう連中がいるんだ。革命後に疎外地へ行くことを選んだ、死んでもという頑固な信者どもが、二、三千人いたらしいんだな……そのことは知ってるだろう。いまでも北の山ん中に植民地を作り、現人神預言者とその御業もみな揃っているんだ。かれらは悪人の集まりじゃないが、おまえがそのために死ぬことになろうと、天国へ行くまで祈りつづけるんだ」
これら三つの州には、共通した奇妙な特徴が一つあった──そのどれもが、合衆国全体の唯一の合法的な政府であると主張しており、将来いつか失地回復の日が来ることを信じ、待ち望んでいるのだ。天使どもにいわせると、それは初代預言者がふたたびかれらを指導するため地上にもどってきたときおこる。ニューアメリカでは、それは便利なキャンペーン用のスローガンでしかなく、選挙がすめば忘れられてしまう。だが、自由州ではそれが不変の政策になっていた。
その目的を達成するために、自由州とニューアメリカのあいだではしばしば戦争がくりかえされた。解放者≠ヘ、ニューアメリカがもともとかれらの領土であること、そしてかれらの立派な文化を外部に広げる前にニューアメリカを自由州の統治下に併合することが必要だと、きわめて論理的に説いていた。
マギーの説明は、防壁のこちら側に無政府的ユートピアを見出そうとするマッキンノンの夢を粉砕してしまったが、かれは自分の好きな幻想が消え去ってしまうのを黙って見送っていられなかった。
「だが、フェイダー……こういう腹立たしい干渉にわずらわされず、ひとり静かに住める場所がどこかにないのかい?」
フェイダーは考えた。
「ないね……ない……山奥に隠れて暮らすのなら別だがね。それなら大丈夫だろう、天使どもに見つからないようにさえすれば。しかし、そんな山奥に引っこんでしまったんではつまらねえだろうな。そんなことをやってみたことがあるのか?」
「いや……本当にはない……だが、古典をいろいろと読んで知っているんだ。ゼーン・グレイとかエマーソン・ハフとか、その他の作家の書いた小説でね」
「ほう……ま、やってやれないことはねえだろうな。もし、本当に出かけていって山奥の隠者になりたいんなら、外側でやったほうがいいんじゃないのか、こんなに邪魔が多くないところでさ」
マッキンノンはたちまち強情になった。
「いや……だめだ、そんなことは絶対にしないよ。独りにしてもらうためだけに、心理学的順応療法を受けるなんてできるもんか。二カ月前だったら……つまり、おれか警察に捕まる前だったら……ロッキー山中へ行くこともできたろうし、どこかで見捨てられた農場を探すこともできたろう……しかし、あの屈辱的な診断を受けさせられ……おれの性格を小心翼々とした小さな型にはめて焼きなおさなければ社会に適応できないなどといわれたあとじゃあ、とうてい我慢できないよ。つまり、療養所へ送りこまれたあとなどということではな……」
マギーはうなずいた。
「ああ……疎外地へ行きたいが、あの防壁で向こうの世界と完全に遮断してしまわれることを望んでいるわけでもないってことだな」
「いや、そういうわけじゃないが……そう、ある意味ではそうかもしれないな。しかし、だからといって、おれを付き合いにくい男だとは思わないでくれよ」
マギーはにやりと笑って保証した。
「おまえはいい男に見えるよ……だがおれも疎外地にいるんだ、覚えておくんだな。人のことをとやかくいえる資格はないんだ」
「その話しぶりだと、あまりここが気に入っているようじゃないな。なぜきみはここに来たんだ?」
マギーは気をつけろというように、そっと指を口にあてた。
「しーっ! そいつは絶対ここに住んでいる人間に聞いちゃあならねえ質問なんだ。だれもがここはいちばんいいと思って来たんだと、決めてかかることだな」
「でも……とにかく、きみは気に入っていないみたいだが」
「好きじゃないとはいってないよ。好きさ。面白味があってな。でたらめなところに愛嬌があるんだ。それに、やつらが熱をかけてきたら、いつでも門の向こうへもどって、ほとぼりがさめるまで気持ちのいい静かな病院で休んでいられるんだからな」
マッキンノンはまた面食らった。
「熱をかけるって? ここでは、暑すぎる気候にしたりするのかい?」
「え? ああ、気象調節のことじゃあねえんだ……ここには、そんなものは何にもねえ。外から洩れてくるもの以外はな。おれは、昔風ないいまわしを使っただけよ」
「どういう意味なんだ?」
マギーは苦笑した。
「そのうちわかるさ」
夕食のあと──パン、金属皿に入れたシチュー、小さなリンゴ──マギーはマッキンノンにクリベッジの秘訣を教えた。運よくマッキンノンは金をもっていなかったので、損はしなかった。やがてマギーはカードを切らずにおいて尋ねた。
「デイヴ、おまえはこの施設の待遇に満足しているかい?」
「まさか……どうして?」
「出ていこうと思うんだがね」
「いい考えだ。しかし、どうやって?」
「そいつを、いろいろと考えていたんだが……下手をすると、痛めつけられたおまえの顔がもう 一発食らうことになるかもしれんが、いいか?」
マッキンノンはそっと顎をなでた。
「まあな……必要なら我慢するさ。どっちみち痛めつけられた顔だ」
「それでこそ男ってもんだ! 聞け……看守のレフティはあまり利口じゃない上に、自分のご面相のことではかなり敏感なんだ。明かりが消えたら、おまえは……」
「ここから出してくれ! おれを、ここから出してくれ!」
マッキンノンは鉄格子をたたいてわめきたてた。返事はなかった。かれはヒステリックに声をはりあげて、わめきつづけた。レフティがぶつぶついいながら調べにきた。
「いったいどうしたというんだ?」
かれは格子のあいだからのぞきこんで尋ねた。
マッキンノンは泣きながらの嘆願に切り替えた。
「おお、レフティ、お願いだ、ここから出してくれ。頼む! おれは暗闇がこわいんだ。ここは暗い……たのむから、ひとりにしないでくれ」
かれは鉄格子に飛びついて泣きじゃくった。
看守は罵りの声をあげた。
「また、いかれぽんちょが入ってきやがって……おい、黙って寝ろ、さもないとそこへ入っていって、痛い目にあわせるぞ!」
かれは離れていきかけた。
マッキンノンはすぐに、すさまじく悪意に満ちた怒りを爆発させた。
「何を、この汚らわしいゴリラ野郎が! ネズミみたいな面をした馬鹿め! その鼻はどこで拾ってきたんだ?」
レフティは怒りに顔をふるわせてふりむいた。口をひらこうとしたかれを、マッキンノンはさえぎり、悪たれ小僧のようにはやしたてた。
「やあい、やあい、馬鹿! レフティのおふくろは、イボイノシシにおどかされて……」
看守は、扉の鉄棒のあいだにおしつけていたマッキンノンの顔をめがけてなぐりかかった。マッキンノンは顔を下げると同時にその手をつかんだ。空をついてバランスを失った看守は前につんのめり、片手を鉄棒のあいだにつっこんだ。マッキンノンの指はすばやくその腕をすべってゆき、レフティの手首をがっちりつかんだ。
かれは体を後ろへたおして、看守を引きずり、レフティは鉄格子の扉にぶつかって、片腕が中に入った。その手首にマッキンノンは溶接されたようにしがみついた。
レフティがあげかけた悲鳴は、のどのところでとまってしまった。マギーがもう行動をおこしていたのだ。闇の中から、死のように音もなく、しなやかな両手を格子のあいだから出し、看守の肉づきのいいのどにくいこませたのだ。レフティはもがき、腕を引きちぎっても離れようとしたが、マッキンノンは全身の力をこめてつかんでいる腕をねじり、骨も折れよとおさえつけた。
マッキンノンはこの妙な恰好の戦いを永遠に続けなければいけないかと思った。耳が動悸でがんがん鳴り、その音をほかの連中が聞きつけてレフティの救援にやってこないかと心配になった。やっとマギーがささやきかけた。
「もういい……かれのポケットを探してくれ」
長いあいだ力を入れていたために両手がなえたようになって震え、鉄棒のあいだから手をのばして行なう仕事は思うようにいかなかった。だが、やっと鍵束に手が触れた。最後に探したポケットにあったのだ。マギーは看守を床に落とし、鍵を受け取った。
マギーはそれですばやく仕事をした。扉は耳ざわりな音をさせて開いた。デイヴはレフティの体をまたいだが、マギーは膝をつき、看守のベルトから警棒をはずし、それでレフティの後頭部をなぐりつけた。
「殺したのか?」
と、尋ねると、マギーは低い声で答えた。
「とんでもねえ。レフティはおれの友達なんだぞ。さあ、行こう」
かれらは監房のあいだの薄暗い廊下を拘置事務所に通じるドアに向かって急いだ──出口はそれだけだった。レフティがそのドアをきちんとしめておかなかったらしく、隙間から光が洩れている。だが、そこに近づいたとき、向こう側から重い足音が聞こえてきた。デイヴは急いで隠れるところを探したが、監房ブロックと壁でできた隅に隠れるほかなかった。かれはマギーの姿を求めて見まわしたが、もう姿を消したあとだった。
ドアがさっと開いた。男がひとり入ってきて立ちどまり、あたりを見まわした。ブラック・ライトを手に持ち、その付属装置である矯正眼鏡をかけている。マッキンノンはそれを見て、暗闇に隠れることはできないと気づいた。ブラック・ライトが自分のほうにむけられ、かれは飛びかかろうと身がまえた──
その瞬間、ドスッと鈍い音がした。同時に看守は低くうめき、体がゆっくりとゆれ、崩れていった。マギーがいつのまにかその後ろに足音を忍ばせて立ち、自分のもたらした一撃の効果を見守りながら、警棒のさきを左手で愛撫していた。
「これでいいだろう。さあ、行くか、デイヴ」
かれは返事を待たずに、ドアを通り抜けていった。マッキンノンはすぐそのあとに続いた。明かりのついた廊下は右に祈れ、その端に通りに面して両開きのドアがあった。その左手前に、それより小さなドアがあけっぱなしになっている。事務所だ。
マギーはマッキンノンを招きよせた。
「あそこには、巡査部長のほかだれもいねえような気がするんだ。だから、そいつに気づかれねえように、そっとあの前を通って、ドアから外に出りゃあいい……」
かれはついてこいとデイヴに合図して、事務室のドアに忍びよった。ベルトのポケットから小さな鏡を取り出すと、床に横たわり、ドア・フレームに顔を近づけると、その小さな鏡をその端から一、二インチむこうにつき出した。
マギーは即席の潜望鏡による偵察に満足した様子でうなずき、両膝をついた位置にもどり、マッキンノンのほうに顔を向けると、唇の動きだけでわかるようにして話しかけた。
「大丈夫だ、ひとりしか……」
そのとき二百ポンドの制服姿の強敵が、かれの肩に飛び乗ってきた。警報ベルがけたたましく廊下に鳴り響いた。機先を制され、虚をつかれたマギーは、戦いながらも倒されていった。かれはやっと首をおこしてさけんだ。
「逃げろ、デイヴ!」
マッキンノンはどこからか走ってくる足音を聞いたが、目の前で格闘している二人しか目に入らなかった。かれは目がくらんだ動物のように頭と両肩をふり、それから戦っているうちの大きいほうの顔を蹴飛ばした。そいつは悲鳴をあげて、手を放した。マッキンノンは小さな相棒の後ろ襟をつかみ、乱暴に引きずり立たせた。
マギーの目は、陽気なままだった。二人で通りへ飛び出していきながら、かれはきびきびといった。
「よくやったぞ、坊や! 公明正大とはいえなかったが……どこでサバトを習ったんだ?」
マギーの右へ左へと追手をまきながこの急な進みかたに、マッキンノンはついていくのが精一杯で、返事をする暇などなかった。かれらは通りをつっ走って横切り、露地に入り、二つの建物のあいだを進んだ。
それからの数分間、いや数時間は、マッキンノンにとって混乱の連続だった。どこかの屋根の上を渡ってから、中庭の暗闇にしばらくうずくまっていたことを覚えているが、どうやって屋根に登ったのかはまったく思い出せなかった。かれはまた、これ以上いやな匂いはないといった臭気でいっぱいのごみ箱の中にひとりで隠れることもやった。はてしなく続く時間や、そのごみ箱に足音が近づき、すき間から懐中電灯の光がさしこんできたときの恐怖などを、断片的に覚えているにすぎない。
どこかでガラスの割れるような音が響き、そのあと足音が急に遠のいてしまったので、フェイダーが追手をまこうとしているのだとわかった。しかし、やがてフェイダーがもどってきたとき、いきなりごみ箱の蓋をあけられたので、マッキンノンはあやうくかれを絞め殺してしまいそうになった。
きびしい追跡をふり切ってから、マギーはかれを連れて町を横切り、裏道や近道に関する詳細な知識を見せ、隠れ場所をさっと見つける天才的才能を発揮した。市の中心地から遠く離れた町はずれの、あばら家が多い地域まで来ると、かれは立ちどまり、デイヴにいった。
「ここでそろそろ行き詰まりだな、坊や……おまえ、この通りをまっすぐ行けば、すぐに開けた田舎に出るよ。それが求めていたことだろ、ちがうか?」
「まあな」
マッキンノンは不安げな声で答え、通りを見た。ふりかえって、マギーに話しかけようとした。
だが、マギーはいなくなっていた。暗闇の中に|消えてしまって《フェイダウエイ》いた。かれの姿も足音もなかった。
マッキンノンはいわれた方向へ、重い気持ちで歩きだした。マギーが一緒にいてくれることを期待すべき理由は何もなかった。看守の顔を蹴ってマギーを助けたことだって、利子をつけて返してもらっている──だがかれは、この見知らぬ土地で見つけたただひとりの付き合いのいい仲間を失ってしまったのだ。淋しく、心もとない想いだった。
かれはたえず警官かもしれない人影に気をつけながら、蔭のところを選んで歩きつづけた。何百ヤードか歩いて、開けた田舎まであとどれぐらいなのだろうと心配しかけたころ、暗い戸口から低くしっという声が聞こえ、かれは驚きに鳥肌が立った。
パニックに陥った心を静めようと、かれは懸命になった。警官があんなことをして呼びとめるはずはないと心にいい聞かせたとき、暗闇から人影が現われて、かれの腕をたたいた。
「やあ、デイヴ」
と、そいつは低い声でいった。
マッキンノンは、子供のようにほっとし、嬉しくなった。
「フェイダー!」
「気が変わったんだよ、デイヴ。明け方までには警察につかまっちまう。おまえは要領が悪いからな……それで、もどってきたんだ」
デイヴは嬉しくなるのと同時に、むっとなって抗議した。
「何をいってるんだ、フェイダー……おれのことなら心配しなくていいんだ。ひとりでなんとかやっていくから」
マギーはかれの腕を荒っぽくゆさぶった。
「馬鹿なことをいうな。世間知らずなんだから、おまえはすぐ基本的人権がどうのとわめきたてて、またなぐり飛ばされるに決まっているんだ。だから……これからおれの仲間のところへ行って、おまえがこの土地の習慣に慣れるまでかくまってもらおうと思うんだ。ただし、そいつらは法律とは反対の側にいるんだ。わかるな? だから、おまえには完全な聖なる三匹の猿になってもらう必要がある……見ざる、聞かざる、いわざるだ。やれると思うか?」
「だが、しかし……」
「しかしは無用だ。じゃあ、行こうか!」
入口は、ある古い倉庫の裏にあった。小さくくぼんだ穴の中に階段が続いている。この地下の勝手口から──積み重ねられたごみのあいだを通って──その建物の黒い壁にあいたドアにぶつかった。マギーは軽く、規則的にノックして待ち、耳を澄ました。やがて、かれはささやいた。
「おい! フェイダーだよ」
ドアはさっと開き、マギーはたちまち二本の太った大きな腕に巻きつかれた。その腕の持主がかれの頬に大きな音を立ててキスするあいだ、かれの足は宙に浮きっぱなしだった。その女はさけんだ。
「フェイダー! 大丈夫かい、坊や! いなくて淋しかったよ!」
マギーは、やっと自分の足で立てるようになってから答えた。
「ちゃんとした歓迎の挨拶だったな、マザー……ところで、友達を紹介するぜ。マザー・ジョンストン、こいつはデイヴィッド・マッキンノンだ」
「どうぞ、よろしく」
デイヴは自動的に礼儀正しく挨拶したが、マザー・ジョンストンの目は、すぐに疑惑の表情にきびしくなり、彼女はピシッといった。
「この人、組合に入っているのかい?」
「いや、マザー、こいつは新しい移住者なんだ……だが、おれが保証する。いっしょに脱獄したんだ。で、しばらくかくまってもらおうと思って連れてきたんだよ」
「あら、そう……」
彼女はすこし声をやわらげていった。
マギーは彼女の頬をつねった。
「いい子だ! いつおれと結婚してくれるんだい?」
彼女はかれの手を払いのけた。
「たとえあたしが四十歳若くたって、あんたみたいなやくざ者と結婚するのはごめんだよ!」彼女は続けてマッキンノンにいった。「さあ、おいで。あんたがフェイダーの友達ならかまわないわ……といっても、そんなのが信用状になるわけじゃあないんだけどね!」
彼女は先に立って階段をおり、下のドアの前で部屋の中の連中に声をかけた。
その部屋の照明は薄暗く、めぼしい家具は長いテーブルと椅子がいくつかあるだけだった。そこに坐った数人の男が、酒を飲みながら雑談している。その光景はマッキンノンに、没落以前の古いイギリスの酒場を描いた絵を思い出させた。
にぎやかな声がマギーを歓迎した。
「フェイダー!」──「かれだぞ!」──「こんどはどうやったんだ、フェイダー? 下水溝にでももぐったのか?」──「酒だ、マザー……フェイダーがもどってきたんだ!」
かれは熱烈な歓迎に手をふって答え、ついでマッキンノンのほうに向いた。騒がしいみんなの声の中に、かれの言葉がひときわ高く響いた。
「みんなにデイヴを紹介するぜ……おれの親友でな、あわやというときに看守を蹴飛ばしてくれたんだ。デイヴがいなかったらここへ帰ってこられなかったろうよ」
デイヴはテーブルに坐っている二人のあいだに席をすすめられ、そう不器量ではない若い女性が、かれの手にビールのジョッキを握らせた。礼をいおうとしたが、彼女は急に殺到した注文をさばこうとしているマザー・ジョンストンを手伝いに急いで行ってしまった。
かれの真向かいには、やや陰気な感じの青年がマギーに歓迎の言葉をかけようともせず黙りこんで坐っていた。かれは右の目をほとんど数秒おきに痙攣するように引きつらせる以外、まったく無表情な顔でマッキンノンを見つめていた。
「おまえの商売は何だ?」
と、そいつは尋ねた。
マギーはすばやく、だが人なつこい声で口をはさんだ。
「そっとしておいてやれよ、アレック……こいつはここにたどりついたところなんだ。そういったろ。だが、こいつは大丈夫だ」かれはほかの者にも聞こえるように声を高めた。「やつはこの土地に来て二十四時間もたっていないってのに、税関の野郎二人を相手に格闘し、裁判官のフライシャッカー老人を法廷でこっぴどくやりこめ、そのあげく脱獄してきたんだ。忙しい一日だったんだぜ」
デイヴはそうだそうだという声に取りまかれた。だが、顔面神経痛の青年は執拗だった。
「そいつは結構なこった。だがおれは、あたりまえのことを聞いたんだぜ。やつの商売は何だってね? もし、おれのと同じなら、おれは我慢してねえぜ……いまでも、混みすぎているんだからな」
「おめえんとこはいつも売り手市場だろうが、だがこいつは違うんだ。やつの商売のことは忘れろ」
アレックは疑わしげにいいかえし、なかば立ち上がった。
「なぜ、そいつ自身に答えさせねえんだ? そいつが組合に入っているとは思えねえが……」
マギーは細いナイフの先で爪を削りながら、顔を上げずにいった。
「アレック、黙っててめえのグラスに鼻をつっこんでろ……さもないと、おれがそいつをちょん切って、そのグラスの中にぶちこんでやるぞ」
相手の青年は、手に持ったものを神経質にいじくっていた。マギーはそれに気づかないように見えたが、無造作に話しかけた。
「おれがナイフを使うよりも速く、てめえがバイブレーターでおれをやっつけられると思うのなら、やってみろよ……面白い実験になるぜ」
かれの前の男は、しばらくのあいだ片目を休みなしに痙攣させながら、落ち着かない様子で立っていた。マザー・ジョンストンは後ろからやってくると、かれの両肩をおしつけて坐らせていった。
「まあ、まあ! 何をやっているんだねえ、それもお客さんの前でだよ! フェイダー、その豚つつきをしまいなさいよ……あたしゃあ、おまえさんが恥ずかしいよ」
かれの手からナイフが消え、にやりと笑った。
「あんたはいつも正しいな、マザー……おれのグラスにもう一杯注ぐように、モリーに頼んでくれ」
マッキンノンの右側に坐っていた老人がアルコールでかすんだ目で、そのこぜりあいを眺めていたが、要点の一部しかのみこめぬらしく、やがて、やにのたまった目をマッキンノンに向けて尋ねた。
「おい、若えの。おめえ、組合に入っているのか?」
かれは体をよせかけ、酒くさいすえた息をマッキンノンに吹きつけ、節くれだったふるえる指を突きつけて、質問を強調した。
デイヴはマギーのほうをふり返り、目で助言を求めた。マギーはかれに代わって答えた。
「いや、入ってやしないよ……マザー・ジョンストンに知らせておいたとおりだ。こいつは隠れ家を求めてここへ来たんだ……それをかなえてやるのは、おれたちの仁義だろうが!」
異様なざわめきが部屋の中を走った。モリーは給仕の手を休めて、はっきり聞き耳を立てた。だが、老人は満足したようだった。かれはうなずくと、もう一口飲んだ。
「そうとも……そのとおりだ……隠れ家を求められたら、与えてやっていい、たとえ……」
かれの舌はもつれ、あとはむにゃむにゃとわからなくなってしまった。
緊張した空気がゆるんだ。そこにいる大半の者がその老人の意見に従い、やむをえず逃げこんできた者を喜んでむかえいれる雰囲気となった。
マギーはデイヴのほうに向いた。
「おまえが知らなかったことで、おまえもおれも、傷つけられることはないと思ったとおりさ……だが、問題は明るみに出てしまったな」
「でも、かれのいったことはどういう意味だったんだ?」
「爺さんは、おまえが悪党仲間に仁義を切っているのかと尋ねたんだ……おまえが、掏摸《すり》、かっぱらい、強盗、殺し屋などの、古い名誉ある組合のメンバーなのかどうかだよ!」
マギーはサディストのような微笑を浮かべて、デイヴの顔を見つめた。デイヴはマギーから他の連中へと呆然と目を向けた。かれらはたがいに視線をかわしあい、かれがどう答えるかを待ちかまえていた。アレックがその沈黙を破り、にやにやしながらいった。
「何を待っているんだ? さあ、やつに聞けよ……それとも、偉大なフェイダーのだち公なら、挨拶なしにこのクラブを自由に使えるってのか?」
フェイダーは平静な声で答えた。
「黙れといったと思うがなあ、アレックよう……それに、おまえは必要なことを抜かしているぜ。ここにいる仲間がみんなでその質問をするかどうかを、まず決めなきゃあいけねえんだぜ」
しょっちゅう心配そうな目つきをするもの静かな小男が答えた。
「それはちょっと違うと思うぜ、フェイダー。そいつが自分で来たのなら、あるいはおれたちの手に落ちてきたのなら……そういう場合は、イエスだ。だが、おまえがそいつを連れてきたんだ。やつが質問に答えるべきだとおれはいうし、みんなもそういうものと思うぜ。だれも反対しないなら、おれがやつに尋ねてやろう」
かれは何かいわれるのをしばらく待ったが、だれも口を開かなかった。
「ではいいな……デイヴ、おまえはあまりに多くを見すぎたし、聞きすぎた。いますぐ出ていってくれるか……それともここに留まって、おれたちの組合の誓いを立てるかい? 断っておかなくちゃあいけねえが、一度組合に入ったら一生抜けられねえぜ……仲間を裏切った場合の罰は一つだけだ」
かれはのどのところに親指をあてて、昔からつたわる殺しの身ぶりをしてみせた。爺さんはひくっとのどを嗚らし、うまい具合に音響効果を入れ、面白そうに笑った。
デイヴは見まわした。マギーの顔は何の助けも与えてくれなかった。かれは一時逃れの質問をした。
「おれはどんなことを誓わなければいけないんだ?」
この議論は、外のドアを激しくたたく音でとつぜん終わりを告げた。閉じられた二つのドアと階段にさえぎられて、こもったさけび声が聞こえてきた。
「おーい、下のやつ、ここを開けろ!」
マギーは足どりも軽く立ち上がり、デイヴを呼んだ。
「おれたちを探しに来たんだ、坊や。こっちへ来い」
かれは壁につけておいてあった旧式で大きな電気蓄音機のところへ急ぎ、その下に手をのばして、ちょっといじくった。すると、それの片側のパネルが大きく開いた。デイヴが見ると、ちょうど人間がひとりもぐりこめるように機械装置がうまいように配置替えされている。マギーはかれをその中におしこんで、パネルを閉じ、そこから離れた。
かれは、サウンドボックスの前面を隠すために作られた細い格子飼に顔をぴったりつけて、外の様子をうかがった。モリーはテーブルから余分のグラスを二つ片づけ、そこに飲みかけのビールをさっと流して、グラスの跡を消した。
マッキンノンはフェイダーがテーブルの下にもぐって、手をのばしたのを見た。と思ったとたん、その姿は見えなくなっていた。明らかにかれは、どんな形でか、テーブルの裏側にへばりついたのだ。
マザー・ジョンストンは、大げさな芝居をしながらドアをあけに行った。まず、下のドアを大きな音をたててあけ、大きな声で不平をいい、苦しそうに咳きこんて立ちどまったりしながら、ゆっくりと階段を登った。やがて、外のドアの掛金をはずす音が聞こえた。
彼女は抗議した。
「堅気の人がこられる時間じゃありませんよ! やっていることを五分ごとにやめなきゃいけないんでは、あと片づけも勘定づけもできやしないし……」
男の声が答えた。
「いいかげんにしろ、婆さん……下へいくだけだ。おまえに用があるんでな」
「どんな用なの?」
と、彼女は反問した。
「免許証なしに酒を売っていることといいたいが、そうじゃあないんだ……こんどはな」
「そんなことはしていませんよ……ここは会員制のクラブでね。メンバーの方たちのお酒を注いでさしあげるだけです」
「そういうことにしておこう。おれが話したいのは、そのメンバーなんだ。さあ、そこをどいてくれ、早くするんだ」
かれらは、依然としてしゃべりまくっているマザー・ジョンストンを先頭にして、どっと部屋へなだれこんできた。代表になっているのは、巡査部長で、パトロール警官を二人連れていた。そのあとから制服姿の男が二人ついてきたが、これは軍人だった。マッキンノンは、かれらのキルトについている記章から、伍長と一等兵だろうと判断した──ニューアメリカの軍人の階級章は、合衆国陸軍のそれとよく似ていた。
巡査部長はマザー・ジョンストンに目もくれずに、いきなり命令した。
「ようし、みんな……一列にならべ」
かれらは不機嫌な顔ながらも、すぐ命令に従った。モリーとマザー・ジョンストンはよりそって成行きを見守っていた。巡査部長は呼びかけた。
「ようし、伍長……指揮してくれ!」
調理場で洗いものの手をとめ、目を丸くして見つめていた少年が、グラスを落とした。それは固い床ではね、静けさの中で鐘のような音を立てた。
デイヴに質問した男が口を開いた。
「いったいこれは、どういうことなんだ?」
巡査部長は嬉しそうににやりとして答えた。
「徴兵だ……ま、そういうことなんだな。おまえたちはみな、しばらくのあいだ兵役に服するんだ」
「強制徴募隊か!」
それはだれからともなく無意識に洩れたあえぎ声だった。
伍長はきびきびと前に出て命令した。
「二列にならべ」
だが、心配そうな目つきの小男はそれに従わず、抗議した。
「どうもわからねえな……三週間前に自由州と停戦協定を結んだばかりじゃねえか」
巡査部長はいいかえした。
「そんなことは、おまえの心配することじゃあねえよ……おれのでもねえが。おれたちは、重要産業に従事しているものを除くすべての五体健全な男を徴集しているんだ。さあ、来い」
「じゃあ、おれを連れていくことはできねえな」
「なぜだ?」
かれは手首から先がない片腕を上げてみせた。巡査部長は伍長と顔を見合わせた。伍長はしぶしぶうなずいた。
「わかった……だが、明日の朝、徴兵事務所に出頭して手続きしろ」
伍長に引率された列が動きはじめると、アレックが列から飛び出し、壁を背にしてさけんだ。
「おれにそんなことはできねえぞ! おれは行かねえからな!」
かれの手に小さな恐ろしいバイブレーターが現われ、顔の右半分が激しく痙攣し、引きつれて、歯がむきだしになった。
「つかまえろ、スティーブ」
と、伍長は命令した。その兵隊は足をふみ出したが、アレックがバイブレーターをふりかざしたのを見て立ちどまった。かれは肋骨のあいだに振動短剣《バイブロブレード》をつっこまれたくなかったし、このヒステリックな男を相手にすれば、なにが起こるかわからないのは明らかだった。
伍長は冷静に、まるで退屈しているような表情で、小さなチューブの先をアレックの頭上の壁に向けた。デイヴは低くシュッというかすかな金属音を聞いた。アレックは数秒間、まるで見えぬ力に対して意志の限界まで頑張っているように顔をいっそう緊張させて立っていたが、それから静かに床にくずれた。顔のひきつりがとまり、疲れて小生意気な、ひどく面食らった少年のように見えた。
伍長は命令した。
「おまえたち、二人ずつ交替でそいつを運べ……さあ出発だ」
巡査部長がしんがりについていった。ドアのところでかれは後ろをふり返り、マザー・ジョンストンに話しかけた。
「近頃、フェイダーに会わなかったかい?」
彼女は面食らったように聞き返した。
「フェイダー? いいえ、だってかれ、牢屋にいるんでしょ?」
「ああ、そう……そうだったな」
かれは出ていった。
マギーは、マザー・ジョンストンのさし出した飲物を断った。
デイヴは、かれが初めて心配そうにしているのを見て驚いた。
「どうもわからねえな……」マギーは、なかばひとりごとのようにつぶやいて、片手のない男に話しかけた。「エド……最近はどうなっているのか教えてくれ」
「おまえがつかまってからあまりニュースはないよ、フェイダー。停戦協定はその前だし。新聞で見たかぎりじゃあ、物事は初めてうまくいきだしたみたいに思えたがなあ」
「おれもそう思っていた。だが、総動員令を出したところを見ると、政府は戦争する腹だぜ」かれは立ち上がった。「もっとデータを集めなくちゃな。アル!」
調理場の少年が顔を出した。
「何か用かい、フェイダー?」
「外へ行って、五、六人の乞食としゃべってこい。やつらの王様≠ノも会うんだぞ。あいつが店を張っているところは知っているな?」
「うん……公会堂のそばだよ」
「なぜ騒がしくなっているのかを探ってきてくれ。おれに頼まれたってことはいうなよ」
「わかった、フェイダー。いうもんか」
少年は張りきって出ていった。
「モリー」
「なあに、フェイダー?」
「きみも外へ行って、夜の女たちから情報を聞き出してきてくれないか。彼女らがお客から聞いた話を知りたいんだ」
彼女はうなずいた。かれはつけ加えた。
「ユニオン広場を縄張りにしているあの小さな赤毛の女にも会ってくれ。彼女は、死人からでも話を聞き出す才能があるからな。ちょっと待て……」かれはポケットから札束を取り出し、その数枚をモリーに渡した。「こいつを持っていったほうがいい……あの地域から出てくるときは警官に鼻薬をかがさなきゃいかんかもしれないからな」
マギーはあまり話をしたくないらしく、デイヴにすこし眠れといった。かれは疎外地に来てから一睡もしていなかったので、すなおに従った。前に眠ったのは、はるか遠い昔のことのようで、かれは疲れきっていた。マザー・ジョンストンは、同じ地下の暗くて風通しの悪い部屋に簡単な寝床を作ってくれた。そこには、かれがこれまで慣れてきた衛生的な気持ちの良さはまったくなかった──冷暖房設備、静かな音楽、水圧式マットレス、防音装置など──それに、いつもの体をもみほぐしてくれる風呂や自動マッサージもなかったが、それを気にするには疲れすぎていた。かれは生まれて初めて、服を着たまま寝床に入った。
目が覚めてみると、頭痛がした。口の中が苦く、不快なものがつまっていて、何か恐ろしい災厄が迫っているような感じがした。最初はどこにいるのかわからなかった──まだ、外側の拘置所にいるような気がした。まわりは、何とも形容しがたいほどむさくるしいところだった。ベルを鳴らして係員を呼び、文句をいってやろうと思ったとき、昨日の出来事を思い出した。起き上がったが、体のふしぶしが痛く、そして──もっと悪いのは──かれが、いつもの標準からすると不潔なまでに汚れていることだった。あちこちが痒かった。
広間へ行ってみると、マギーがテーブルに坐っていた。かれはデイヴに声をかけた。
「やあ、坊や。そろそろ起こそうと思っていたところだ。おまえは、ほとんど一日じゅう寝ていたぞ。話すことがいっぱいできた」
「オーケイ……ちょっと待って。浴室はどこ?」
「そのむこうだ」
そこはデイヴの考えていたような浴室ではなかった。床はぬるぬるしていたが、かれはなんとか出来の悪いシャワーを使うことができた。そこには体を乾かすための温風装置もなかったから、自分のハンカチで体をふいて我慢するほかなかった。もちろん着替えもなかった。脱いだ衣服を着るのがいやなら裸かで出るほかないのだが、疎外地では、たとえスポーツをするときでも上半身裸かになった姿は見られなかった──間違いなく、習慣が違うのだ。
かれは服を着なおした。だが、一度使った布の感触に皮膚がむずむずした。
しかしマザー・ジョンストンはおいしい朝食をかれに作ってくれた。かれはマギーと話をしながら、コーヒーで元気を取りもどした。フェイダーの話によると、深刻な情勢になっていた。ニューアメリカと自由州はたがいの差違をこえて妥協し、同盟を結んだ。かれらは、敢然と疎外地から囲みを破って外に出て、合衆国を攻撃することを計画したのだ。
マッキンノンは、その言葉に顔を上げた。
「そいつは馬鹿げているな。違うかい? 兵力の差がありすぎる。それに、防壁をどうするつもりなんだ?」
「それは知らん……まだな。しかし、かれらには防壁を突破できると考える何らかの理由があるんだ……何か知らんが、それは武器として使えるものだという噂もある。だから、少数の兵力でも合衆国全土を征服してしまえるらしいんだ」
マッキンノンはとまどった表情になった。
「自分が知らない武器について意見があるわけじゃないが、あの防壁については……おれは理論物理学者じゃないが、防壁を破るのは理論的に不可能だということをつねに聞かされていた……つまり、あれはまったくの無≠ナしかなく、それに触れる方法はないんだと。もちろん、その上を飛び越すことはできるが、それでもそれは生命にとって致命的なものらしい」
マギーはいった。
「やつらが防壁の効果を防ぐ方法を、何か見つけたとすればどうだ? しかし、おれたちにとってはどうでもいいことだ。問題はやつらが、同盟を結んだこと、自由州が技術と士官の大半を提供し、それよりずっと人口の多いニューアメリカが兵士の多くを提供することになったことだ。おれたちはどこにも顔を出せなくなっちまった。さもなきゃ、すぐ軍隊に入れられてしまうんだ。
それで、こうすることにした。暗くなったらすぐおれはここからこっそり出て、門へ急ぐ。まごまごしていると、抜け目のないやつが探しに来て、テーブルの裏に目をつけるかもわからねえからな。おまえもたぶん一緒に来たがると思ったんだ」
マッキンノンは正直なところ、ぞっとした。
「心理学者どものところにもどるっていうのかい?」
「そうとも……なぜいけない? 別に損はないだろうが? このろくでもない土地全体が、二、三日のうちに、自由州みたいになっちまうんだぞ……そうなったら、おまえのような気性のやつは、しょっちゅう困ったことになるぜ。騒ぎがおさまるまで、気持ちのいい静かな病室でのんびり隠れているほうがましじゃねえのか? 心理の連中など、相手にしなきゃあいいんだ……やつらがおまえの部屋をのぞくたんびに獣みたいな吠えかたをしてやるんだ。しまいには、やつらもあきらめてしまうよ」
デイヴは首をふり、ゆっくりといった。
「いや……そんなことはできないよ」
「じゃあ、どうするんだ?」
「まだわからない。山の中に入るかもな。いざとなれば、天使たちと一緒に暮らすさ。おれの心をひとりにしておいてくれるなら、おれの魂のためにいくら祈ってもかまやしないよ」
二人はしばらく黙っていた。マギーは、理屈に合った自分の提案を拒否するマッキンノンの頑固一徹さに、いささか腹を立てていた。一方、デイヴのほうは、焼いたハムをほおばりながら自分の立場を考えていた。かれはもう一切れを口に入れてから、その気まずい沈黙を破った。
「うん、こいつはうまい……こんなうまいものを食べたのは初めてだよ……まったく!」
「何だって?」
と、マギーは頭を上げ、マッキンノンの顔に浮かんでいる感心した表情を見て尋ねた。
「このハムさ……これは合成かい、それとも本物の肉?」
「え、本物さ。それがどうした?」
デイヴは答えなかった。かれは便所へ急ぎ、食べたものを吐くのにやっと間に合った。
出ていく前に、マギーはデイヴに山へ行くための必需品を買う金をやった。マッキンノンは断ろうとしたが、フェイダーはそれをたしなめた。
「馬鹿なことをするのはやめろ、デイヴ。どうせニューアメリカの金は外部じゃ使えないんだし、ちゃんと装備を整えなければ山で暮らすことはできないんだぞ。まあ、何日かここにじっとしていて、アルかモリーに必要な品物を買ってもらい、チャンスをうかがうことだな……気が変わって、おれと一緒にくるのなら話は別だが」
デイヴは首をふり、その金を受け取った。
マギーが出発したあとは淋しくなった。クラブには、マザー・ジョンストンとデイヴしかおらず、空っぽの椅子が印象的な男たちのことを思い出させた。爺さんか、片手のない男が来てくれるといいのだがとかれは思った。あの底意地の悪いアレックだって、話し相手にはなってくれるだろう──あいつは、徴兵に抵抗した罪で処罰されたのだろうか?
マザー・ジョンストンは、目に見えて落ちこんでいるかれを慰めようと、チェッカーの相手に引きずりこんだ。かれは彼女の優しい企みをありかたく思ったが、心はあちこちとさまよった。
あの老裁判長は、やろうと思えば惑星探険もできるじゃないかといった。それはいいが、そんな仕事につけるのは技師や技術者だけだ。かれも、文学でなく科学技術を専攻するべきだったのかもしれない。そうすれば、制服姿のならず者の目から隠れている代わりに、いまごろは金星にいて自然の力を相手に強烈な冒険を楽しんでいたことだろう。これはフェアじゃなかった。いや……自分をごまかしてはいけない。各惑星の自然のままの開拓地に文学史の専門家が行く余裕はない。それは人間界の不正ではなく、自然がもつ厳粛たる事実であり、それにきちんと立ち向かうべきだったのだ。
かれは、自分が鼻をたたきつぶして疎外地に追放される原因となった男のことを、苦々しく思い出した。結局のところかれは表面を飾りたてるだけの寄生虫≠セったのだろう──だが、その文句を思い出したことで、この災難をもたらす羽目になった怒りがまたこみあげてきた。あの何とか野郎をぶんなぐってやってよかった! 人をあざ笑い、あんなことをいってまわる権利など、あいつには何もなかったんだから。
かれは自分が、父親が持っていたような執念深い心で考えているのに気づいた。その関係は説明しづらかった。表面的には明らかではなかったのだ。父は嘲笑したり悪口をいったりするところまではいかなかったからだ。かれの父は逆に、いつも優しい微笑を浮かべ、愛撫するような調子で愛と光明にのっとって、へどの出そうな言葉を引用した。
デイヴの父は、愛情と親切という仮面をつけて家庭を支配する、もっともたちの悪い専制君主だった。父親は怒るよりも悲しみ、人を懲らしめるより自分自身を責める人間であり、一生のあいだかれなりの愛他主義的合理主義をつらぬいていた。かれはつねに自分の正当性を絶対視して、息子の意見をまったく尊重したことがなかった。あらゆる面で息子を支配していた──つねに、高邁な倫理的動機によって。
かれの父は、息子に二つの大きな影響を与えた。家庭で踏みにじられた少年の独立心は、ほかの場所で遭遇するあらゆる訓練、権威、批判に対して盲目的に反抗した。批判を許されない父親の権威とそれらを無意識的に同一視した。次には、長年のあいだにデイヴは父親のもっとも危険な社会的悪徳を──つまり、他人の行為に対して自分のことは棚にあげて道徳的判断を加えるということを真似るようになってしまったのだ。
デイヴが基本的慣習を破って逮捕されたとき、すなわち隔世遺伝ともいえる暴力だったのだが、かれの父は、息子を立派な人間≠ノしようと最善の努力を重ねてきたのだから、息子が父親の教育を生かすことはできなかったと責められる理由はないといって、息子との関係を断った。
かすかなノックの音が聞こえ、二人は急いでチェッカー盤を片づけた。マザー・ジョンストンは、ちょっとためらってから答えた。
「ノックの仕方が違うの……でも、そう強くもたたいていないわね。隠れる用意をしていて」
マッキンノンは昨夜の隠れ場所のそばで待ちかまえ、マザー・ジョンストンは調べに行った。外側のドアの掛金がはずされる音が聞こえた。ついで、彼女が低いが緊張した声で呼んだ?
「デイヴ! 早く来て、デイヴ……急いで!」
それはフェイダーで、点々と血痕をあとに残して、意識を失ってたおれていた。
マザー・ジョンストンはぐったりしたかれの体を抱きおこそうとした。マッキンノンは体をおしこみ、二人ががりでかれを階下へ運び、長いテーブルの上に寝かせた。手足をのばしたとき、かれはちょっと意識を取りもどし、あの屈託のない笑いをうっすらと浮かべてささやいた。
「おお、デイヴ……だれかに、おれの切り札を見抜かれてしまったよ」
「黙って!」
マザー・ジョンストンは鋭くたしなめてから、デイヴに低い声でいった。
「かわいそうに……デイヴ、かれをなんとかしてドクターのところに運ばなければ」
フェイダーはつぶやいた。
「でき……な……かった……門へ……行かなければ……」
その声はとぎれた。マザー・ジョンストンの指はそのあいだじゅうずっと、何か別の知性を備えているかのように忙しく動いていた。その大きな体のどこかに隠していたのか、小さな鋏で服を切り裂き、表面に見えている傷をみな露出させた。彼女は傷口をじっくりと調べた。
「とてもあたしたちの手には負えないよ……かれを運ぶあいだ、眠らせておかなくちゃあ。デイヴ、浴室の救急箱から注射の道具を持ってきて」
マギーは驚くほど激しく、はっきりした声でいった。
「だめだ、マザ──それより、気付け薬をくれ……」
「でも、フェイダー……」
かれは彼女を短くさえぎった。
「おれはドクターのところまで、ちゃんと行かなくちゃあな。だが、歩けなければどうやって行くんだ?」
「あたしたちで運んであげるわよ」
かれはもの柔らかな口調になっていった。
「ありがとう、マザー……そうしてくれるのは、わかっているよ……だが、警察がおかしいと思うだろう。おれにあの薬をくれ」
デイヴは彼女のあとをついて浴室へ行き、救急箱の中を探している彼女に尋ねた。
「なぜ、医者を呼ばないんです?」
「信頼できる医者は一人しかいないのよ。その一人がドクターなのさ。それに、ほかのはどれも殺してみても仕方がないようなやつばかりでね」
かれが部屋にもどってみると、マギーはまた気を失っていた。マザー・ジョンストンはかれが意識を取りもどし、目をしばたたき呪いの声を上げるまで、頬をたたきつづけた。それから、薬を飲ませた。
ただのコールタールから作られたものとは思えないほど強力な気付け薬は、すぐ効き目を現わした。外見だけからすると、マギーは健康な人間とほとんど変わりなくなった。かれは起き上がり、自分で左手首の脈を測った。
「メトロノームみたいに正確だ……この薬なら老人の心臓だって大丈夫だな」
かれはマザー・ジョンストンが傷口に殺菌布を当てるまで待ってから、別れを告げた。マッキンノンがマザー・ジョンストンを見ると、彼女はうなずいた。
かれはフェイダーにむかって、いった。
「おれも一緒に行くよ」
「どうして? 危険がふえるだけだぞ」
「きみはひとりで旅行できるような体じゃないよ……気付け薬があろうとなかろうとさ」
「馬鹿な。おれのほうが、おまえの面倒を見なければいけなくなるよ」
「おれはきみと一緒に行く」
マギーは肩をすくめ、そして降参した。
マザー・ジョンストンは顔の汗をふき、かれら二人にキスをした。
町からかなり外に出るまでのかれらの進みかたは、マッキンノンに昨夜の悪夢のような逃亡を彷彿とさせるものだった。その後二人は、山麓にむかって北北西に走っているハイウェイにそって行き、まばらに往来する車を避けるのに必要なときだけ道からそれた。
一度かれらは、警察のパトロール・カーに不意打ちを食らうところだった。そいつはブラック・ライトを備えて、ほとんど見えないようにしてやってきたのだ。だがフェイダーは危ういところでそれを感じ取り、道路に続く畑との境になっている低い壁のむこうに隠れた。
デイヴは、どうしてパトロールが近づいているのがわかったんだと尋ねた。マギーは笑って答えた。
「知るもんか……だがおれは、兵隊の中に警官がまぎれこんでいても嗅ぎ出せるんだ」
夜がふけるにつれて、フェイダーはしだいに口数が少なくなった。薬の効力が薄れてきて、いつもの屈託がなさそうな顔に皺が増え、年を取って見えた。デイヴには、この見慣れない表情のほうが、この男の内なる性格をよりはっきり見せているような気がした──その苦痛の仮面は、マギーがいつも習慣的に世間に見せている心配事などなさそうな姿よりも、かれの真実の顔なのだと。
フェイダーが裁判所に引き出されて反社会的な狂人であると宣告された原因は何だったのだろうと、これまで何度も覚えた疑問がまた浮かんできた。
その疑問は、疎外地で会ったすべての人間に対して、かれの心にいちばん先に浮かぶことだった。ほとんどの場合、その答えは明白だった。不安定な性格がすぐに現われたからだ。ただ、マザー・ジョンストンの場合は謎だったが、それは彼女自身が説明した。彼女は良人について疎外地にやってきたのだ。いまは未亡人だが、馴染みになった友達や風俗習慣のもとに留まるほうを選び、たぶんもっと退屈になっているであろうもとの土地にもどる気がしないのだそうだ。
マギーはついに道端に坐りこんで弱音を吐いた。
「もうだめだ、坊や……歩けない」
「しっかりしろ。おれがかついでいってやる」
マギーは力なく微笑した。
「いや、おれは本気だ」
デイヴはいい張った。
「あとどれぐらいなんだ?」
「二、三マイルというところだろう」
「おぶされ」
かれはマギーを背負って歩きだした。最初の何百ヤードかは、それほど辛くなかった。マギーはかれより四十ポンドほど軽いからだ。それ以後は余分の重みを背負っていることがこたえ始めた。マギーの両膝を支えている両腕がしびれてきた。重みとそれの不自然なかかり具合に背骨が悲鳴をあげた。マギーの両腕がかれの頸に巻きついて、呼吸を困難にした。
あと二マイル──いや、もっとかもしれない。体重を前にかけろ。そうすれば、足が自然に前へ出る。そうしないと倒れてしまうぞ。自動的にいけばいい──力を抜いて自動的に。一マイルとは、どれくらいの長さだ? ロケットならゼロに等しいし、|娯楽用の車《プレジャー・カー》なら三十秒、鋼鉄の蝸牛なら十分で這っていき、訓練を積んだ歩兵部隊の調子がいいときなら十五分だ。最初から疲れていた男が、男をひとり背負ってでこぼこ道を行くとしたら、どれぐらいの遠さだ?
五千二百八十フィート──無意味な数字だ。だが、一歩ごとに二十四インチずつ減っていく。残りがいくらかわからないが──無限だ。それを勘定しろ。気が狂うまで数えるんだ──その数が頭の外で響きだすまで……ザッ!……ザッ!……ザッ!……と、すっかり萎えてしまった足の立てる音が、脳をたたきつけるまで。それを逆に数えていけ、一歩ごとに二を引くんだ──いや、それはまずい。残っているのは、まだ手の届かぬ、考えられもしないほどの数字なのだから。
世界は閉ざされ、歴史を失い、未来を失った。何もない、何もなかった。足を上げ、それを前に踏み出す苦痛に満ちた必然性以外には、まったく何もなかった。その無意味な行為を達成するために必要な、うんざりするような意志の消耗以外に、何の感情もなかった。
かれは、自分の頸にからませていたマギーの腕が、いつのまにかぐったりと垂れていることにとつぜん気づいた。前にかがみこみ、片膝をつき、背中の荷を落とさないようにし、それをゆっくりと地面に下ろした。かれはちょっとのあいだ、フェイダーが死んだのかと思った──脈拍が感じられなかったし、生気のない顔とぐったりして動かない体は、まるっきり死人のようだった。しかし、胸に耳をあててみると、しっかりした鼓動が聞こえ、ほっとなった。
かれはマギーの両手首をハンカチで結び合わせ、輪にした両腕のあいだに自分の首を入れた。だが疲れきっているので、ぐったりとした体を背中におぶうことができなかった。マッキンノンがもがいていると、マギーが意識を取りもどした。最初にこういった。
「あわてるなよ、デイヴ。どうしたんだ?」
デイヴが説明すると、フェイダーはいった。
「手首をほどいてくれ……しばらくは歩けると思うから」
三百ヤードほど行くと、また、あきらめるほかなくなった。すこし息をととのえてからかれはいった。
「なあデイヴ……あの気付け薬をすこし持ってきたかい?」
「持っているよ……だが、もう飲めないよ。死んじまうから」
「ああ、それはわかっている……そういう噂だからな。だが、おれの考えは違うんだ……おまえがひとつ飲んだらどうかと思ったんだ」
「ああ、なるほど! なんともなあ、フェイダー、おれもどうかしていたな」
マギーが薄いコートのように軽く感じられ、明けの明星がずっと明るく輝き、かれの力は無尽蔵に思えた。かれらがハイウェイからそれて、山の麓にあるドクターの家へ通じる田舎道に入ったころも、歩きつづけるのは我慢できたし、背中の荷物もさまで重すぎはしなかった。
薬が肉体組織に働きかけて、正常な余力がなくなってしまってもまだ活動させていること、またその無理な消耗を回復するのに何日もかかるだろうことを、かれは知っていたが、まったく気にかけなかった。
そして、ついにドクターの家の門に──自分の二本の足で立ち、背負ってきた男が生きていてしかも意識がある状態で、たどりついたときの喜びは、何物にも換えがたいほどに大きなものだった。
マッキンノンは四日間、マギーと会うことを許されなかった。そのあいだかれ自身も、二日二晩で消耗した二十四ポンドの体重を回復し、昨夜酷使した心臓の疲れを癒すために、半病人の生活を余儀なくされた。高カロリー食、日光浴、休息、平穏な環境、それに生まれつき健康な体質があいまって、急速に体重と体力を回復したが、かれはその半病人生活≠ずいぶん楽しんでいた。ドクターと──パースフォンがそばにいてくれるからだ。
パースフォンは暦のうえの年齢は十五だった。デイヴは彼女を、自分よりずっと年上と考えるべきか、ずっと年下と考えるべきか、まったくわからなかった。彼女は疎外地の中で生まれ、ドクターの家で暮らしてきた。彼女の母親は、同じ家の中で出産のときに亡くなったのだ。
彼女は外側の文明社会での経験がなく、ときたまドクターの患者と会う以外は疎外地の住民と会う機会も少なかったので、多くの面でまったく子供のようだった。だが彼女は、世間をよく知り変幻自在な心を持つ科学者の所蔵している多くの書物を、何の制約もなしに読むことを許されていた。それでマッキンノンは、彼女の持っている学問的で科学的な知識の広さに、たえず驚かされることになった──かれの知識をずっとこえているのだ。だから、年を取って何でもよく知っている女家長と話をしているような感じがしたかと思うと、外の世界についてまったく世間知らずの素朴な考えを述べられて、彼女が本当のところ何の経験もない子供にすぎないのだと気づかされ、はっとわれに帰るのだった。
かれは彼女のことで、ちょっとロマンティックな気分になった。もちろん、彼女がまだ結婚適齢期に達していないことを考えると、そう真剣なものではなかったが、彼女に会うのは楽しいし、かれは女性の話し相手に飢えていたのだ。かれ自身まだずいぶん若くて、男と女のあいだの精神的肉体的な違いに絶えざる興味を持つ年頃だった。
したがって、彼女がかれを頭が正常でないので助力と同情を必要としている気の毒で不幸な人間だと考え、疎外地にいる他の住人と同類に見なしていることを知ったときは、追放判決を受けたときと同じほど痛烈にプライドを傷つけられた。
かれは腹を立て、一日じゅうむっつりとひとりでふくれていたが、自己を正当化し、それを認めさせたいという人間本来の欲望から、彼女に会って弁解を試みることになった。かれは、裁判にいたるまでの事情や判決の内容を注意深く正直に説明し、かれ自身の哲学と評価方法でそれを飾り立て、彼女が同意してくれるのを確信をもって待った。
だが、そうはならなかった。彼女は答えた。
「あなたの考えかたかわからないわ……相手の鼻をたたきつぶしたのに、相手はあなたに何らの危害も加えなかったのでしょう? それでも、自分が正しいと認めさせるつもり?」
かれは、抗議した。
「でもパースフォン……きみは、かれがぼくに非常に無礼なことをいったという事実を無視しているよ」
「その関係がわからないの……かれは口で騒ぎたてた……言葉で決めつけたわけね。それがあなたにあてはまらなければ、無意味よね。で、もし、本当なら……あなたがいわれたとおりの者なら、だれにどういわれようと、それ以上でもそれ以下の者でもないわ。つまり、かれはあなたに危害を加えなかったわけよ。
ところが、あなたがやったことは、それとはまったく違うわ。あなたは、かれの鼻をたたきつぶした。それは危害を加えたってことよ。社会のほかの人々は、自己防衛のためにあなたを見つけ出し、あなたが将来他人に危害を加える可能性がありそうなほど不安定な人間かどうかを、決めなければいけなかったってわけね。もしそうならば、あなたを隔離して治療するか、社会から追い出すかね……どちらをあなたが選ぶにしてもよ」
かれはなじった。
「きみは、ぼくを気ちがいだと思っているんだね?」
「気ちがい? いいえ、あなたがいうような意味の気ちがいじゃないわ。脳梅毒も脳腫瘍も、そのほかドクターに発見できるような機能障害は何もないもの。でも、そのような語義的反応を示したことから考えると、あなたは魔女を焼き打ちする人間と同じくらい、社会的には正気じゃないわ」
「おいおい……そんなの公正じゃないよ!」
彼女は遊んでいた小猫を抱き上げた。
「正義って何なの? わたし、もう家の中に入るわ……寒くなってきたもの」
彼女は家の中へ入っていった、芝生の上を音もなく素足で歩きながら。
もし語義学(もしくは意味論)という科学が、心理力学やその道具となる群集心理学および宣伝技術に劣らず急速な進歩をとげていたなら、合衆国はけっして独裁政権に支配されるようなことはなかったろうし、したがって第二次革命を起こす必要もなかっただろう。革命直後に起草された誓約に盛りこまれた科学的原理のすべては、すでに二十世紀初頭に系統立てて述べられていたものだ。
語義学の先駆者、C・K・オグデン、アルフレッド・コージブスキイ、その他の人々の業績はひと握りの研究者にしか知られていなかったが、心理力学は、たび重なる戦争と白熱的な商業戦争に刺激されて飛躍的発展をとげていた。
意味の意味≠研究する語義学は、日常生活のあらゆる行動に初めて科学的方法を適用することとなった。語義学は、話された言葉や書かれた言葉を人間行動の決定的な相として把握研究しようというものなので、多くの人は、ただ単なる研究にすぎないと誤解し、コピイ・ライターか語源学の教授といった言葉を操る者にしか用のないものだと思った。少数の進取の気性にあふれた精神科医が、それを個々の人間の問題に応用しようと試みたが、かれらの業績は、ヨーロッパを破壊し、合衆国を暗黒時代に逆行させた流行性のマス・ヒステリーの波によって抹殺されてしまった。
誓約は、人間によって作られた最初の科学的社会的文書であり、その功績は、起草者であり、革命のさい心理学における参謀として活躍したノヴァークと同一人物であるマイカ・ノヴァーク博士に帰せられなければいけない。革命家たちは、最大限に個人の自由を確立したいと願った。それを、数学的可能性の最大限にまで確立するにはどうしたらいいのか?
まずかれらは、正義≠ニいう概念を破棄した。語義学的に調べると、正義≠ネる言葉は、指示する対象をまったく持っていなかった──時空連続体の中で観察され、これが正義だ≠ニ指摘できるような現象がまったくないのだ。科学は、観察し測定しうるもののみを対象とする。正義は、そんなものではない。したがって、他のものと同じ意味を持たせることはできない。それに関して語られるあらゆる雑音≠ヘ、混乱を招くだけだ。
しかし、肉体的もしくは経済的な損害≠ヘ、指摘し、測定することができる。市民たちは誓約によって他人に損害を与えることを禁じられた。そしてまた、特定の人間に対して肉体的もしくは経済的な損害を与えるにいたらぬ行為は、すべて合法的であるとされた。
かれらは正義≠ニいう概念を捨てたので、懲罰の合理的基盤が何もなくなってしまった。刑罰学は、人間を狼にする魔術やその他の忘れられていた魔法と同じことになった。それでも、危険の原因が社会に留まることを許すのはまずいので、反社会的な行為を犯す者は調査され、そういったことをくりかえす可能性のある者は次のどちらかを選ぶことになった。心理的再調整を受けるか、その社会から離れる──疎外地行きか、だ。
誓約の初期の案では、反社会的で正常でない者は当然のこととして病院に入れられ、再調整されるようになっていた。そのころの精神医学が、非疾患性の精神病者はすべて治療でき、疾患性の精神病者は治療もしくは症状を軽くするところまで進歩していたからだ。しかし、ノヴァーク博士はそれに断固として反対した。
「だめだ! 政府は二度とふたたび、本人の承諾なく、いかなる市民の心もいじくることなど許されるべきではない。さもないと、われわれはこれまで以上に強力な独裁君主を育てることになるだろう。すべての人間は、たとえわれわれから見て精神異常者であろうと、誓約を受け入れるのも拒否するのも、自由でなければいけないのだ!」
デイヴィッド・マッキンノンがその次にパースフォンに会ったとき、彼女はひどく取り乱していた。かれは、自尊心を傷つけられたこともすぐに忘れて話しかけた。
「どうしたんだ、いったい?」
しばらくしてかれは知った。マギーとドクターが話をかわすとき彼女はその場にいて、合衆国に対する軍事行動が切迫していることを初めて聞いたというのだ。かれは彼女の手をぽんと軽くたたいて、ほっとしたようにいった。
「何だそんなことか……ぼくは、何かきみ自身のことかと思ったよ」
「そんなことかですって……デイヴィッド・マッキンノン、あなたそこに平気でつっ立って、そのことは知っていたし、心配するだけの価値もないというつもりなの?」
「ぼくが? なぜぼくが心配しなきゃいけないんだ? それに、ぼくには何ができるというんだ?」
「あなたに何ができるかですって? 外側へ行って、みんなに警告できるじゃない……それが、あなたにできることだわ……なぜ心配しなければいけないかなんて……デイヴ、あなたって、どうしようもない人なのね!」
彼女はわっと泣きだし、部屋から走り出ていった。
かれはあっけにとられて彼女の後ろ姿を見つめ、それから遠い祖先の言葉を借りて、どうも女ってのはわけがわからんなとつぶやいた。
パースフォンは昼食に姿を見せなかった。マッキンノンはドクターに、彼女はどこに行ったのかと尋ねた。
ドクターは口いっぱいにほおばったまま答えた。
「先に昼食を食べてから、防壁の門へ行くといって出ていったよ」
「なんですって? なぜそんなところへ行かせたんです?」
「自主的に行っちまったんだよ。どっちみち、わしがとめてみたって聞かんだろう。しかし、あの子は心配ないよ」
デイヴは最後まで聞かずに部屋から飛び出し、家から走り出た。そして、彼女が小さな一輪車を小屋から後ろむきに引っぱり出しているのを見た。
「パースフォン!」
「何か用なの?」
彼女はその年には似つかわしくない冷ややかな威厳をこめて尋ねた。
「そんなことをしてはいけないよ! あそこはフェイダーが怪我をしたところなんだぞ!」
「あたし行くわ。そこをどいて」
「じゃあ、ぼくも行くよ」
「なぜ、そんなことを?」
「きみを守るためさ」
彼女はふんと鼻を鳴らした。
「あたしに指一本でもふれる元気のある者がいるかしら?」
彼女がいったことは、ある程度の真実があった。ドクターとかれの家にいる者はみな、疎外地にいる他のいかなる住民も持たない個人的治外法権を有していた。疎外地ができた理由の当然の結果として、かれらは有能な医師をほとんど持っていなかった。反社会的侵犯行為をおこなう医師は少ないし、その中から精神病理学的治療を拒否する者が現われる率は、ごくわずかしかない。そして、そのわずかな数の疎外地行き希望者は、ほとんどが医者として通用しないような者ばかりだった。
しかしドクターは生まれついての治療者で、患者がもっとも多いところで腕をふるう機会が得られるだろうと志願して移住してきたのだ。かれは無味乾燥な研究生活にまったく関心がなかった。かれが求めたのは患者だった。それも重病のものほど歓迎し、それを治すことに生き甲斐を感じたのだ。
かれは慣習も法律も越えた存在だった。自由州では解放者≠ェ、糖尿病による迫りつつある死を、かれのインシュリン注射で食いとめていた。ニューアメリカでも、政治権力を持つ者の多くがかれの世話になっていた。主の天使たちのあいだでさえ、預言者自身がドクターの言葉には反論もせずに従うのだ。
しかし、マッキンノンは安心しなかった。どこかの馬鹿者が、彼女の大切にされている地位に気づかず危害を加えるかもしれない。かれにはそれ以上抗議するチャンスがなかった。彼女はだしぬけに一輪車を走り出させ、その進路からかれは飛びのくほかなかった。バランスを取りもどしたとき、彼女はもう小道の遠くに去っていて、追いつくことさえできなかった。
彼女は四時間とたたぬうちにもどってきた。予期していたとおりだった。フェイダーのように機敏な男でさえ、それも夜間だったのに、門へはたどりつけなかったのだから、若い娘がそんなことを白昼できるはずもない。
最初は単純にほっとした。それから彼女と話をする機会を胸をときめかせて待った。彼女が留守のあいだ、かれはあれこれと考えつづけていたのだ。彼女が失敗することはわかりきっていた。かれはその機会を利用して、彼女の目の前で名誉挽回をおこなおうと考えた。つまり、彼女が熱中している計画に手を貸すのだ──かれ自身が外部にその警報を運ぶんだ!
たぶん彼女はそんな助力を求めてくるだろう。実際、そういう雲行きだ。彼女がもどってきたときにはきっとそう頼まれるものと、かれは思いこんでいた。かれは同意する──あっさりと、威厳をもって──そしてかれは出ていく。負傷するかもしれないし、殺されるかもしれない。だが、たとえ失敗したとしても英雄になれるのだ。
かれは自分を無意識のうちに白い騎士シドニイ・カートン、手紙をガルシア将軍に届けた男と──ダルタニアンをちょっぴり混ぜたもののように思い描いていた。(カートンはディケンズの『二都物語』の登場人物、手紙を届けた男は、合衆国情報部員ローワン中尉。一八九八年のキューバ革命に活躍)
だが彼女はかれに頼まなかった──話をかわす機会さえ与えてくれなかった。
彼女は夕食に現われなかった。夕食のあとは、ドクターと書斎に閉じこもった。やっと姿を現わしたかと思うと、まっすぐ自分の部屋に行ってしまった。かれは結局、自分も寝ようと思った。
寝て、眠って、朝になればまた考えればいい──だが、ことはそう簡単ではなかった。部屋の壁が冷淡にかれを見返し、心の中の批判分子が、夜の間ずっとかれをつつき続けた。馬鹿! 彼女がおまえに頼んだりするものか、そんなことをするはずがないだろう? フェイダーにないものを──あるいは、もっといいものを──おまえは、何か持っているとでもいうのか? 彼女から見ればおまえなんか、そのへんにうようよしているやつのひとりにすぎないんだ。
でも、おれは気ちがいじゃない!──他人の命令に従わなかったからといって、おれを狂人あつかいすることはできないぞ。でも、はたしてそうか? ここにいるほかのやつはみな、頭がいかれたやつなのに、どうしておまえだけがそう特別なんだ? みんながみんなじゃあないぞ──ドクターはどうだ、それに──馬鹿いえ、相棒、ドクターとマザー・ジョンストンは、それぞれ理由があってここへ来たんだぞ。かれらは判決を受けて来たんじゃないんだ。そして、パースフォンはここで生まれたんだ。
マギーはどうだ?──かれは確かに理性的だ──あるいはそう思えた。かれは自分がマギーのはっきりと安定した人柄に理屈にあわないほどの激しさで反発を感じているのに気づいた。なぜかれが、残りのおれたちと違っていなけりゃいけないんだ?
残りのおれたち? かれは自分を疎外地にいる他の住民と同じに見ていた。わかった、わかった、それを認めろ、この馬鹿──おまえはほかのみんなと同じなんだ。まともな人々に見放されたんだ──あまりにも頑固で、治療が必要なことを認めなかったんだ。
だが、治療のことを考えるとかれははっとなり、またも父親のことを思い出した。なぜあんなふうにならなければいけなかったんだ? かれは、二日前にドクターがいった言葉を思い出した。
「きみに必要なのは、坊や、父親を面とむかって非難してやることだな。両親にむかってくたばりやがれといえない子供は、かわいそうなもんだ!」
かれは電気をつけて本を読もうとしたが、だめだった。なぜパースフォンは、外側の人間がどうなるかということをあんなに気にするんだろう?──彼女はその人々を知らない。そこには、彼女の友達もいない。おれがその連中に何の義理もないとしたら、彼女が心配する理由は何もないはずだ。義理はないか? おまえは長い年月、無事に安楽な生活を送ったぞ──かれらが求めたのは、行儀を良くしろということだけだった。そういうことをいうのなら、もしドクターがおまえに義理があるかどうかなどと考えだしたら、おまえはいまごろどうなっていたと思うんだ? かれがまんじりともせず苦々しい自己審問を続けているうちに、朝の最初の寒い白々とした光が部屋に洩れてきた。かれは飛び起きて、ローブをはおり、足音を忍ばせてマギーの部屋へ行った。ドアがかすかにあいていた。かれは首をつっこんでささやいた。
「フェイダー……起きているかい?」
マギーは静かに答えた。
「どうしたんだ? 寝られないのか?」
「ああ……」
「おれもさ。坐れよ、どちらも同じってわけだな」
「フェイダー、おれはやることにしたよ。外へ行く」
「ほう? いつ?」
「いますぐだ」
「危ない仕事だぞ、坊や。もう何日か待てよ、そしたら一緒にいけるから」
「いや、きみが良くなるのを待ってはいられない。おれは出ていって、合衆国に警告するんだ」
マギーは目をちょっと大きく開いたが、声は変わらなかった。
「まさか、あの細っこい子供に引っかけられでもしたんじゃないだろうな、デイヴ?」
「いや。ほんとに違うよ。おれは、自分のためにやろうとしているんだ……これは、おれがやらなきゃならないことなんだ。なあ、フェイダー、例の兵器ってどういうものなんだ? かれらは本当に合衆国を脅かせるようなものを持っているのかい?」
マギーはうなずいた。
「残念ながらそうらしい……詳しいことは知らないが、熱線砲など哀れに見えるものらしい。射程距離ももっと長い……かれらが防壁をどうするつもりか知らないが、おれは射たれる前にかれらが高圧電線を張っているのを見たんだ。ああ、おまえがほんとに脱出できたら、この人に会ってみるといい。いや、そうするべきだな。影響力のある人なんだ」
マギーが紙片に何か書き、折りたたんで渡すと、マッキンノンは何も考えずにそれをポケットに入れて、話を続けた。
「門はどれくらい厳重に警備されているんだい、フェイダー?」
「おまえが門を通ることはできないよ。問題にならん。こうする以外にはないね……」
かれはもう一枚紙を破り取り、略図を書き、説明しはじめた。
出ていく前にデイヴはマギーと握手した。
「おれの無事を折ってくれるね? それから、ドクターに礼をいってくれるかい? だれも起き出さないうちに、こっそり出ていきたいんだ」
「もちろんだ、坊や」
と、フェイダーは受けあった。
マッキンノンは灌木の蔭にうずくまり、醜くみすぼらしい教会へ一列になって入ってゆく天使たちの一団を用心深くのぞいていた。恐怖と氷のような朝の空気のせいで、かれは身ぶるいした。だが、かれの生理的要求は恐怖より強かった。この狂信者たちは食べ物を持っている──かれはそれを手に入れなければいけないのだ。
ドクターの家を出てから最初の二日間は楽なものだった。そう、地面に寝たことでかれは風邪を引いた。肺までやられて行動がにぶくなった。だがいまのかれは、この信心深い連中が教会に入ってしまうまで、くしゃみや咳をおさえておくことができれば、ほかの何もかまわなかった。かれは見つめた──陰気な顔つきの男たち。スカートを地面に引きずり、労働に皺だらけになった顔をショールで覆っている女たち──子供が多すぎるためか顔色が悪い。かれらの顔からは明るさがなくなってしまっている。子供たちですら陰鬱だった。
最後の一人も中に入ってしまい、あとには教会の庭で何か仕事をしている下男一人が残った。それから果てしなく思われるほどの時間をマッキンノンが上唇を指でおさえてくしゃみを必死にこらえているうちに、下男はやっとその陰気な建物の中に入って、ドアをしめた。
マッキンノンは隠れていた場所からはい出て、あらかじめ目をつけておいた教会の建物からかなり離れた空地の端にある建物へ急いだ。
犬がうさん臭げにしていたが、かれはそいつを黙らせた。建物には錠が下ろされていたが、裏のドアはこじあけられた。食べ物を見つけたとき、ちょっと目がまわりそうになった──固いパンに、山羊の乳から作った強い匂いのする無塩バターだ。
二日前、かれは足をすべらせて谷川に落ちた。その事故自体はたいしたことではなかったが、持っていた固形食料がみな糊状になってしまった。その日はそれを食べたが、そのあとかびが生えたので、捨ててしまったのだ。
こんどのパンはもう三晩のあいだもったが、バターは溶けて運べなくなり、かれはそれをできるだけたくさんパンにしみこませて、残りはなめた。そのあとかれは、ひどくのどかかわいた。
最後のパンがなくなって何時間かたって、かれは最初の目標に達した──川の本流だ。疎外地の他の川はみなこれの支流なのだ。下流のある地点で、その川は防壁の黒いカーテンの下をくぐり抜けて海にむかう。門が閉じられ警備を固められているのなら、助けもなしにひとりで出ていける可能性があるのはそこだけだった。
それに、水だ。のどの渇きがまたぶりかえし、風邪はもっと悪くなっていた。しかし、水を飲むのは暗くなるまで待たなければいけなかった。土手に人影が見えたのだ──何人かは制服姿のようだった。その一人は、小さなボートを桟橋につないでいた。かれはそれにつばをつけたつもりになって、やきもきしながら見つめていた。それは、太陽が沈むときもまだそこにあった。
早朝の太陽が鼻をくすぐり、かれはくしゃみをして、はっきりと目を覚ました。顔をあげてあたりを見まわすと、かれが手に入れたボートは川の中ほどを漂っていた。オールはなかった。もともとオールがなかったのかどうかは思い出せなかった。流れはだいぶ速かったので、夜のあいだに防壁に達して当然だと思っていた。それとも、もうその下を通ってしまったのだろうか──いや、そんなことはあるはずがない。
それから防壁が見えた。一マイルほど離れたところに、黒く不気味にそびえている──だが、この何日かのあいだに見たうちでもっとも嬉しい眺めだった。かれは衰弱し、熱のためもあって、それを素直に喜ぶにはほど遠い状態だったが、それでも前進を続けようと決意がよみがえってきた。
小さなボートがその底をこすった。川がカーブしているところで、流れのために岸へ運ばれたのだとわかった。かれがおぼつかない足取りでボートから出ると、体のふしぶしが不平をいうのが聞こえた。それからボートのへさきを砂の上に引っぱりあげたが考えなおし、こんどは逆に押しかえし、力いっぱい川の流れの中へつき放すと、ボートが曲がりくねった流れに乗って見えなくなるまで見つめていた。上陸した場所を宣伝することはないのだ。
かれは日中の大部分を寝て過ごした。暑くなりすぎたので途中で日蔭に入ったが、太陽はかれの骨から風邪っ気を追い出してくれ、日没時にはずっと気分がよくなっていた。
防壁は一マイルたらずのところにあったが、岸にそってそこまでたどりつくのにほとんど一晩かかった。水面から上がっている水煙で、そこに防壁があるのがわかった。
太陽が上がると、かれは状況を考えた。防壁は川を横切ってのびているが、防壁と水面の接点は渦巻き噴き上がる蒸気に隠れて見えない。どこか、水面の下に──どれくらい下かは知らないが──どこかその下で防壁は終わり、むきだしの端がふれる水を蒸気に変えているのだ。
ゆっくり、いやいやながら、そしてもっとも英雄らしからず、かれは着ているものを脱ぎはじめた。そのときは来たったが、嬉しくはなかった。かれはマギーに渡された紙片を見つけ、調べてみようとした。だが、山の小川にうっかりはまったときに濡れてぐしゃぐしゃになってしまったらしく、まったく読めなかった。かれはそれを捨ててしまった。大切なものとは思えなかった。
太陽は暖かかったが、ためらいながら岸に立っていると体がふるえた。しばらくして、決心がついた。向こう岸に偵察隊の姿が見えたのだ。
むこうはかれを見たかもしれない、見なかったかもしれない。かれは水に飛びこんだ。
下へ、下へ、力が続くかぎり遠くまで。下へ底につくまで、そしてあの煮えたぎる死の防壁基部から離れるようにするのだ。両手が泥に触れた。さあ、あの下を泳ぐのだ。ひょっとすると、あの下を通るのは上と同じように死ぬことかもしれない。だが、方角はどちらだ? 下では方向がわからない。
かれは肺がもちこたえられなくなるまで下にいた。それからちょっと浮き上がると、顔に煮えたぎる湯を感じた。いいようのない悲哀と孤独感が無限とも思われるほどのあいだ続き、かれは熱と水のあいだで──防壁の下で罠にかかってしまったのを覚った。
二人の兵士が防壁の下にある小さな舟着き場で、のんびりと噂話をしていた。その下から吹き出している川には何の関心もなかった。そこの警備についてから、あきあきするほど長い時間いつも見ているのだ。だが、背後で鳴った警報にかれらははっとして警戒を強めた。
「どの地区だ、ジャック?」
「この岸だ。あそこだ……見ろ!」
二人がかれを引き上げて桟橋の上に横たえたとき、警備隊の軍曹が到着して尋ねた。
「生死はどうだ?」
そうがんばりもせず人工呼吸をおこなっていた男が答えた。
「死んでいると思います」
軍曹は舌打ちし、そのいかつい顔には不釣合な態度でいった。
「残念だな、救急車を呼んだのに。とにかく救護所に運ぼう」
看護婦は静かにさせようとしたが、マッキンノンがひどい声で怒鳴るので、当直医師を呼ぶほかなかった。
「おい、おい! いったいどうしたというんだ?」
医師は叱り、脈拍をはかろうとした。デイヴは、話を聞いてもらうまでは静かにならないし、睡眠薬の注射も拒否するということをやっと納得させた。医師は妥協し、マッキンノンは話すことを許された──「だが、短くするんだぞ、わかったな!」──そして、医師は自分の上司に言葉を伝え、そのかわりデイヴは注射を承知した。
あくる朝、医師は、身分のわからない男を二人連れてきた。かれらはマッキンノンの話のすべてに耳を傾け、詳しく質問した。その午後、かれは救急車で軍団作戦地域司令部に移された。かれは急速に体力を回復してきたが、その煩雑で形式ばった取り調べにまったくうんざりしてしまい、自分の警告が真面目に取り上げられることの保証を求めた。訊問にあたった最後の男が、デイヴにうけあうようにいった。
「落ち着け……きみは今日の午後、司令官に会うんだぞ」
感じのいい小柄な男で、小鳥のようにきびきびした動作をし、まったく軍人らしからぬ風貌の軍団作戦地域司令官は、マッキンノンがこれで五十回目かと思う話をくりかえすあいだ、じっと耳を傾けた。デイヴィッドが話し終わると、かれはそうかとうなずいた。
「あとのことは安心してくれ、デイヴィッド・マッキンノン、必要な措置はすべて取ってあるからな」
「でも、かれらの兵器はどうなのです?」
「そのことも考えてある……それから防壁のことだが、われわれの隣人が考えているほど、突破するのは容易じゃないかもしれんよ。だが、きみの努力には感謝する。何かしてあげられることはないかね?」
「あの、これは……ぼくのことではありませんが、むこうに友達が二人いまして……」
かれはマギーの救出に何かやってもらえないか、それからパースフォンが望むなら出てこられるようにしてあげられないかと頼んだ。
将軍は答えた。
「わたしもその女の子のことは知っている……彼女と連絡を取ろう。いつだって彼女が市民になりたいと希望したら、それは用意できる。マギーのことはとなると、話は別だな……」かれはデスクの上のテレビ電話のボタンにふれた。「ランダル大尉をよこしてくれ」
合衆国陸軍大尉の制服を着たきりっとした男が、軽い足取りで入ってきた。マッキンノンはかれをなにげなく、他人行儀な態度で見た。だがすぐに、その表情はくしゃくしゃになった。
「フェイダー!」
かれらのかわした挨拶は、司令官専用のオフィスにはまったくふさわしくないものだった。だが将軍は気にしていない様子だった。二人がやっと落ち着くと、マッキンノンは、まっさきに心に浮かんだ疑問をぶつけた。
「でも、フェイダー、どうもわけがわからないな……」かれはちょっと黙り、見つめ、それから非難するように指をつきつけた。「わかった! きみは、秘密情報部員なんだな!」
フェイダーは楽しそうに笑った。
「合衆国陸軍があんな悪疫の発生源を監視もせずに放っておくとでも思っていたのかい?」
将軍が咳ばらいをした。
「これからどうするのか、何か計画があるのかい、デイヴィッド・マッキンノン?」
「え? ぼくに? 何も計画はありませんが……」かれはちょっと考え、それから友達のほうに向いた。「フェイダー、ぼくは結局のところ心理学的治療を受けさせられることになるんだろうと思うんだ。きみは外にいて……」
将軍は穏やかに口をはさんだ。
「その必要はないと思うよ」
「はあ? なぜですか、閣下?」
「きみが自分で治したからだ。気づかなかったかもしれないが、四人の心理技術者がきみをインタビュウしたんだ。かれらの報告は一致している。それで、もし希望するなら、きみの自由市民としての身分は回復していることを、わたしはきみに告げる権限を持っているんだがね」
将軍とフェイダー<宴塔_ル大尉は、気をきかしてそれでインタビュウを終わりにした。ランダルはそれから友達と連れだって救護所に歩いてもどった。デイヴは一度に千もの質問をしたい気分で尋ねた。
「ではフェイダー……きみはおれより先に脱出したらしいね」
「一日か二日前にね」
「すると、おれの仕事は必要なかったんだ!」
ランダルは反対した。
「そうはいえないね……無事に脱出できなかったかもしれん。実のところ、司令部の連中は、おれの報告以前に詳しい情報を手に入れていたんだ。ほかの者もいるからな……とにかくさ」かれは話題を変えて、話を続けた。「きみは帰ってきた。これから何をする?」
「え? 帰ってきたばかりで何ともいえないが……古典文学じゃないことだけは確かだ。数学があんまりひどくなかったら、いまからだって惑星旅行をやってみたいけどね」
「そうか、じゃあ、今夜その話をすることにしよう」フェイダーはそういって、腕時計をちらりと見た。「急いで行かなくちゃいけない仕事があるんだ。だが、あとでよるよ。それから夕食を食べに食堂へいこうぜ」
かれは、あの姿賊たちの台所を思い出させるような身のこなしで出ていった。見送っていたデイヴは、とつぜんいった。
「おーい! フェイダー! おれだって入れるんじゃないのか、秘密情報……」
だが、フェイダーは行ってしまい──かれは、自分に尋ねてみるほかなかった。
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不適格
惑星資源の開発と利用、そして、地球青
年に有益かつ健康な職業をあたえるため
(宇宙建設隊を作りだしたHR
七一一八権能付与令より抜萃)
「点呼!」
宇宙海兵隊古参軍曹の練兵場できたえた大声が、ある空模様の悪い朝、ニュージャージイの濃い霧雨の中にひびいた。
「名前が呼ばれたら、はいと答え、荷物をかついで乗船しろ。アトキンス!」
「はい!」
「オースチン!」
「はいっ!」
「アイレス!」
「はい!」
一人また一人、かれらは列からはなれ、携帯してゆくことを許された百三十ポンドの私物の荷物を肩にせおって、舷側の階段を上っていった。かれらはみな若かった。二十二歳以上のものはいない。そのうちのある者は、荷物のほうが本人の目方よりも重かった。
「カプラン!」
「はい!」
「ケイス!」
「はい!」
「リビイ!」
「はい!」
ひょろながい金髪の男が、いそいで鼻をこすると荷物をつかんで列からはなれた。そいつは肩に大きな帆布の袋をかつぎ、つり合いをとると、片手でスーツケースを持ち上げた。そして、ちょっとよろよろしながら昇降階段のほうに向かった。
そいつがタラップに足をかけると、スーツケースが膝にぶつかった。よろめいてぶつかった相手は、宇宙海軍の淡青色の制服を着た背の低いがっしりした男だった。力強い指がかれの腕をつかみ、倒れるのをくいとめた。
「しっかりしろ、坊や。まあそうあわてるな」
もう一方の手が、帆布の袋をささえた。
「あ、失礼しました。ああ……」
まごついた青年は、自分でも気づかぬうちに、流れ星の下に銀色の線が四本入っているのを勘定していた。
「艦長《キャプテン》、わたしは……」
「しっかりつかまって昇るんだ、坊や」
「はい、艦長《キャプテン》」
輸送艦の艦内通路は暗かった。この青年の眼が慣れてくると、衛兵伍長の腕章をつけた砲術員が、ひらたい気密扉《エアタクト・ドア》に手をかけている姿が見えた。
「そこへ入るんだ。おまえのロッカーを見つけて、そこで待っていろ」
リビイは、いそいでその言葉に従った。中に入ると、天井の低い大部屋の中に、荷物の山と男たちがいた。壁と天井に照明管《グロー・チューブ》が走り、頭上で交叉している。換気装置の鈍い響きが、仲間たちの話し声の背景となっていた。
かれは、積み上げられた荷物のあいだを通ってゆき、舷側に近いいちばん端に、自分のロッカー七一〇番があるのを見つけた。その組合せ錠の封印を破って、番号をながめ、それからロッカーをあけた。いやに小さなロッカーで三段になっているもののまん中だった。かれが、その中に何を入れたものかと考えていると、ラウドスピーカーが鳴りはじめ、まわりで話していた連中は静まりかえった。
「よく聞け! 全員位置につけ。船は十二分後に離陸する。気密扉を閉めろ。離陸二分前に換気装置をとめる。建設隊員に特に命令する。すべての荷物を甲板に置き、赤の信号灯がつけば横になれ。許可が出るまでそのままにしていること。衛兵は、命令が守られているかどうかしらべろ」
砲術員は飛びこんでくるなり、あたりを見まわして、すぐ荷物をどうかたづけるかを指示した。手きびしい言葉が雨のように降り、ロッカーのドアが閉められた。みんなの場所がきまると衛兵伍長は、よしというようにうなずいた。照明管《グロー・チューブ》が赤色に変わり、ラウドスピーカーががなり立てた。
「全員、発進に待機! 加速スタンバイ」
衛兵伍長は、いそいで二つの帆布袋によりかかり、部屋の中を見わたした。換気装置が溜息をついてとまった。そのあとに、死のような沈黙が二分つづいた。リビイは、心臓が激しく打ちはじめるのを感じた。その二分は、果てしもなくつづくようだった。やがて甲板はふるえ、高圧蒸気の洩れるような咆哮がかれの耳を打った。とつぜん、ひどく重くなり、胸と心臓に重量がかかってきた。無限と思われる時間が流れたのち、照明管は白く光り、スピーカーが嗚った。
「全員荷物の整理にかかれ、通常勤務」
換気装置は生き返り、衛兵伍長は立ち上がって尻をさすり、両腕をたたいてから口をひらいた。
「ようし、みんな」
伍長は歩きだし、通路にゆく気密扉の掛金をはずした。リビイは立ち上がり、なかば落ちるようになって、隔壁の中へ酔っぱらったように進んでいった。かれの質量はそうたいしたものではないとしても、少なくともその半分が抜けてしまったようで、びっくりするほど軽く感じられた。とはいえ、手足はまるで眠ってしまったようなのだ。
それからの二時間はあまりに忙しくて、ものを考えることもホームシックになることもできなかった。スーツケース、箱、バッグはみな、角速度加速に備えて下の倉庫におろされ、格納されなければならなかった。かれはまた、水を使わない便所の場所を知り、その使いかたをおぼえた。それから自分の寝棚を見つけ、自分がそこを使えるのは二十四時間のうち八時間だけで、ほかの二人が残りの時間にそこを使うということを知った。三つの班がそれぞれ三交替で食事をすることになっていた──船内炊事室《ギャレイ》のそばのせまい部屋におしこめられて、長いテーブルに二十四人の青年と衛兵伍長がすわるのだ。
昼食のあと、リビイはロッカーの整理をした。その前に立って、ロッカーのドアの内側に張ろうと思っていた写真を見つめていると、大きな声が部屋の中にひびきわたった。
「気をつけ!」
気密扉のそばに、衛兵伍長を従えて艦長が立っていた。艦長は話しはじめた。
「休め。坐ってよろしい。マッコイ、司令室《コントロール》に、この部屋を喫煙換気にしろと言ってくれ」
伍長は隔壁についている通話器に走ってゆき、低い声で話した。すると、すぐに換気装置の音が半音階ほど高くなり、そのままの状態になった。
「タバコを吸ってもよろしい。いまから話すことがある。
きみたちは、生涯のうちでいちばん大きな仕事にぶつかっていこうとしている。これから、人類がこれまで取り組んだことのない、もっとも困難な仕事を相手にするんだ。われわれに課せられたことは、より大きな計画の一部だ。きみたちは、ほかの何万人もの者と同じように、開拓者として出てゆき、人類がよりよく利用できるように太陽系を固めるのだ。
同じように大切なことだが、きみたちは、連邦の有益にして幸福な市民となる機会をあたえられている。いろいろな理由によって、きみたちは、地球においては幸福に適応できる状態ではなかった。ある者は、訓練を受けてきた仕事が新しい発明によってなくなってしまった。ある者は、つくりだされた余暇をもてあまして、面倒を引きおこした。いずれにしても、きみたちは環境にあわない者だった。たぶんきみたちは、不良青年と呼ばれ、ずいぶんと罰点をもらっていたことだろう。
だが現在、きみたちはみな平等になって出発するのだ。この船にあるきみたちの記録といえば、きみたちの名前だけで、あとは白紙だ。そこに何が書きこまれることになるかは、きみたち自身にかかっている。
さて、われわれの任務についてだが──われわれは、週末はルナ・シティで快適に過ごせるというような月世界での簡単な補修再調整作業などにはまわされなかったし、また、ちゃんとした食事をとれて、しかも食ったものが胃に落ちついていてくれるような重力の大きい惑星にもまわされなかった。そのかわり、われわれは小惑星《アステロイド》HS5388におもむき、それを宇宙ステーションE・M3に作り上げなくてはならないのだ。そこには大気はまったくなく、重力は地球表面の二パーセントしかない。そこで少なくとも六カ月は、人間のハエ同然に暮らさなければならない。デートする女の子も、テレビも、きみたち自身で考案できる何の遊びもない。毎日くるしい仕事があるだけだ。きみたちは宇宙病《スペース・シック》にかかり、ホームシックと広場恐怖症《アゴラフォビア》を味わうことになるだろう。注意を怠れば、宇宙線火傷にもなるだろう。胃も腸もあばれだし、こんなことに志願するんじゃなかったと、神に祈るようになるだろう。
だが、もし忠実に仕事をやり、経験のある宇宙士《スペースマン》のいうことに従えば、きみたちは、銀行に多少の預金もでき、地球上では四十年かかっても手に入れられない知識と経験をふんだんに持って、強く健康な体になってこられるんだ。きみたちは、ほんとうの男になるんだ。
最後に言っておく。そういったことに不慣れな者には非常に不愉快なことになるだろう。仲間には、少しでいいから思いやりを持て。そうすればうまくゆく。もし何か不満ができ、ほかに解決のしようがないときは、わたしに会いに来い。それだけだ。何か質問は?」
青年の一人が手を上げて、おずおずと言った。
「艦長《キャプテン》?」
「話してよろしい。まず名前を言いたまえ」
「ロジャーズです、艦長。家から手紙は来るでしょうか?」
「来るが、そうたびたびではない。一月に一回かそこらだ。従軍牧師《チャプリン》が郵便を運ぶ。それに監督船と補給船もだ」
ラウドスピーカーが、がなりたてた。
「全員に告げる! 十分後に慣性飛行に入る。重力消失にスタンバイ」
衛兵伍長は、つかみ綱のとりつけを指揮した。ほうり出されていた荷物はぜんぶしっかりとくくりつけられ、小さなセルローズの袋がみんなに渡された。それが終わったか終わらないかのうちに、リビイは足がいやに軽くなったのを感じた──急行エレベーターが上昇している途中で急にとまったときのような感じで、その感覚がそのままつづき、しだいに強くなってゆくようだった。最初は愉快だったが、すぐに不愉快なものに変わった。耳の中で血管が脈打ち、足はねっとりと冷たくなった。唾液はとめどもなく流れ出た。かれは飲みこもうとしたが、のどがつまり、咳きこんだ。それから胃がひどくふるえ、激しく苦痛を伴って痙攣《けいれん》するようにねじまがり、とつぜん、どうしようもないほど気持ちが悪くなった。最初のつらい発作のあとで、マッコイのどなっている声が聞こえてきた。
「おい! おれの言ったとおり救急袋《シック・キット》を使え。そんなものを換気装置に入れるんじゃないぞ」
ぼんやりとリビイは、その怒鳴り声が自分にも向けられているのだと気づいた。かれは、つぎの発作が起こりはじめたとたん、セルローズの袋にうろうろと手をのばし、嘔吐がはじまる直前にやっと、その袋を口にあてることができた。発作がしずまったとき、かれは自分が天井の近くを、床に顔を向けて漂っていることに気づいた。最先任衛兵伍長が扉のところへすべってきて、マッコイに話しかけた。
「どんな様子だ?」
「まあまあです。失敗した連中もすこしはいますが」
「よし。掃除しとくんだ。右舷のロックを使ってくれ」
そういうとかれは泳いで出っていった。
マッコイはリビイの腕をつかんだ。
「おい、ピンキイ。あの蝶々をつかまえるんだ」
かれはリビイにぼろ布をたくさんわたし、自分もいっぱいつかむと、部屋じゅうに漂っている汚物の小さな球を、ひとつひとつつかみはじめた。
「おまえの救急袋をしっかりつかんでるんだぞ。気持ちが悪くなったら、すぐじっとして、すむまで待ってるんだ」
リビイは、できるだけ伍長のまねをした。数分ののち、見るからに気持ちの悪くなりそうな状態だった部屋の中は、またもとにもどった。マッコイはあたりを見まわしてから言った。
「さあ、その汚い袋を取って、新しいのに替えろ。おまえたち二、三人、汚れたのをぜんぶ、右舷のロックに運べ」
右舷の宇宙気閘《スペース・ロック》に救急袋は入れられ、内側のドアが閉められると、外側のドアがひらかれた。そして、つぎに内側のドアがひらかれたときには、袋は消え失せていた──飛びでる空気とともに、宇宙に吹き飛んでしまったのだ。リビイは、マッコイにたずねた。
「汚れた服も捨てなきゃいけませんか?」
「あ……いや、そいつはちょっと真空掃除をするだけでいい。そいつをロックに入れて、壁の鉤にかけろ。しっかりかけるんだぞ」
こんどは、ほぼ五分ほどロックのドアは閉めたままにしておかれた。内側のドアがひらかれたとき、服は完全に乾いていた──ぬれていたものはぜんぶ、宇宙の真空によって蒸発してしまったのだ。不愉快な汚物の残りは、ぜんぶ、殺菌ずみの粉末となっていた。マッコイはそれを見てうなずいた。
「これでよし。部屋に持って帰るんだ。それから、ブラシをかけろ……排気ファンの前で強くかけるんだぞ」
それからの数日は、本当にみじめな状態がつづいた。いやになるほどひどい宇宙酔にかかってしまって、ホームシックなど感じる暇はなかった。艦長は、九回の食事ごとに十五分ずつ微加速させたか、その休息は苦痛をなおのこと増すのだった。リビイは食事のたびに、ひどく弱りはて、そのくせすごく空腹になっていくのだった。その食物は、自由落下にもどるまでは落ち着いているのだったが、それからまた宇宙酔にすっかりやられてしまう。
四日目、かれが壁にもたれて、食事時間のあとに数分残ったありがたい重力感にひたっていたとき、マッコイが入ってきてそばに坐った。この砲術員は、顔にスモーク・フィルターをあててタバコに火をつけ、ふかく吸いこんでからしゃべりはじめた。
「どうだい、若いの?」
「ええ、もう大丈夫だと思います。宇宙酔ってやつは……ねえ、マッコイさん、どうやってこれに慣れるようになったんです?」
「おまえもすぐに慣れるよ。身体ってものは、新しい条件反射というやつをおぼえるらしいな。一度、のどにつかえずに飲みこめるようになったら、あとはすぐに慣れる。この感じが好きにさえなるぜ。のんびり休めるしな。四時間眠るだけで、十時間寝たのと同じになるんだ」
リビイは悲しそうにくびをふった。
「慣れそうには思えませんよ」
「いや、大丈夫だ。とにかくよくなるよ。この小惑星ってやつには、連中が言ってるほどの表面重力もないんだ。操舵長の話だと、地球の二パーセントもないそうだぜ。とにかく宇宙酔をなおしてくれるほどはないとさ。それに、飯のために加速もできないんだからな」
リビイは身ぶるいをして、両手に顔をうずめた。
何千もの小惑星の中からめざす一個を見つけることは、ロンドンでトラファルガー広場を見つけるようなわけにはいかない──特に銀河系の無数の星々が背景にちりばめられているところでは。地球から秒速約十九マイルの軌道速度で離脱する。そして、高速で移動している小さな天体軌道を切る複雑な要素を持った円錐曲線に入るだけでなく、正確なランデブーを成しとげなくてはいけないのだ。小惑星HS5388は、太陽から二・二天文単位のところに横たわっている。約二億マイルとちょっとだ。輸送艦が太陽の反対側から出発したときには、三億マイルを越える。ドイル艦長は航行長に、約三億四千万マイルの太陽をまわる基本楕円軌道に乗って、自由飛行に入るよう指示した。これに使われる理論は、猟のときに鴨を飛んでる方向に合わせてねらうのと同じだ。だが射つとき、まっすぐ太陽に顔が向いてて、立っているところから鳥が見えないとしよう。そして、最後に見たときその鳥がどちらへ飛んでいたかという古い報告だけをもとにしてねらわなければならないとしたら、どうなるか。
旅がはじまって九日目、ドイル艦長は星図室に行き、大きな電子計算機のパンチング・キーを押しはじめた。それからかれは従兵をやって、星図室に航行長を来させた。数分後、大きながっしりした男がドアを通って泳いできて、つかみ綱につかまり、艦長に敬礼した。
「おはようございます、艦長」
「おはよう、ブラッキー」
親爺《オールド・マン》は、ストラップでつながれた計算機の席から顔を上げた。
「きみの、食事時間加速に対する修正をしらべていた」
「地球の弱虫どもが大勢乗っているのは困りものですな、艦長」
「そうだ。だが、あの連中にも食事のできる機会をあたえてやらなければな。そうでないと、むこうへ着いたときに連中は働けなくなっているよ。さて、わしは、艦内時間の十時ごろに減速をはじめたい。八時の速度と座標はどうなっている?」
航行長は、上衣から手帳を出した。
「秒速三百五十八マイル。コース赤経十五時間八分二十七秒、傾斜マイナス七度、三分。太陽からの距離一億九千二百四十八万マイル。本艦の角位置はコースより十二度上、赤経コースは正確です。太陽座標も必要ですか?」
「いや、いまはいい」
艦長は計算機にかがみこんで装置を動かしながら、しかめっつらをして唇を噛んだ。
「88の軌道の内側、ほぼ百マイルのところで、加速を切ってほしい。燃料を浪費するのはいやだが、小惑星帯はゴミでいっぱいで、あのろくでもない岩はひどく小さいから、捜索カーブをとらないといけないだろう。二十時間を減速に使い、八時間後、左舷にコースを変えはじめる。ふつうの漸近線接近を使え。88に円軌道で接近、明朝六時にむこうの軌道に平行しろ。わしは三時に起こしてくれ」
「アイアイ、サー」
「計算がすんだらすぐ見せてくれ。命令簿《オーダー・ブック》はあとで届けさせる」
輸送艦は、予定どおり減速された。三時をすこし過ぎたとき、艦長は操縦室に入ってきて、その暗闇の中で眼をちょっとしばたたかせた。太陽はまだ輸送艦の艦腹にさえぎられていて、暗夜のような暗さを破っているのは、計器ダイアルの鈍い青色の光と星図覆いの下から洩れている光だけだった。航行長は、聞き慣れた足音にふりむいた。
「おはようございます、艦長」
「おはよう、ブラッキー。まだ見えないか」
「まだです。岩を六個ほど見つけましたが、どれも合いません」
「近いものはあるのか?」
「あぶないほどではありません。ときどき、小さな砂粒にはあたりますが……」
「そんなものでは傷もつかないさ。こんな早さではな。小惑星というのが、計算できるスピードで、きまった方向に移動しているということさえ知っていれば、だれも泣くような羽目になったりはしないよ」
かれはタバコに火をつけるあいだ言葉をとぎらせた。
「人はみな宇宙が危険だという。たしかに昔はそうだった。だが過去二十年のあいだ、そういった事故が、不注意によるものではなかったというような事件は知らないな」
「そのとおりです、艦長。ときに……星図覆いの下にコーヒーがありますが」
「ありがとう。いま下で一杯飲んだところなんだ」
かれはステレオスコープとレーダー・タンクのところにいる監視員のそばに行って、星々のきらめいている闇黒の中を見つめた。三本目のタバコが終わったとき、いちばん近くにいた監視員がさけんだ。
「光が見えます!」
「どこだ?」
そいつは、ステレオスコープのダイアルの目盛りを読んだ。
「ブラス〇・二、艦尾一・三」
そいつはレーダーのほうへ眼をうつしてつけ加えた。
「距離七九〇四三」
「形は合うのか?」
「そうらしいです、艦長。むこうの形はどうなんだ?」
航行長のこもったような声が、星図覆いの下から聞こえてきた。第一監視員は、いそいでダイアルをまわした。だが艦長はその男をわきに押しやった。
「わしがやるよ」
艦長は、顔を眼鏡覆いにあてて、銀色に輝く小さな月を見つめた。そしてかれは、注意ぶかく二本の細い輝線を動かし、それを小さな月の上下にきっちりとあわせた。
「いまだ!」
その読みが記録されて航行長に伝えられた。かれはすぐ星図覆いの下から、くびを出した。
「あれがわれわれの|赤ん坊《ベイビィ》です、艦長」
「よし」
「肉眼三角測量をやりましょうか?」
「当直士官にやらせろ。きみは下へ行って、ちょっと眠るんだ。わしが、光学測距儀を使える近さまで持ってゆく」
「ありがとうございます」
数分のうちに、88が見えたというニュースは艦内にひろがった。リビイは、興奮した大勢の仲間といっしょに右舷甲板に出て、覗き窓から、かれらのこれからの家を見つけ出そうとした。マッコイはみんなの興奮に水をさした。
「あの岩が、肉眼でそれとわかるほど大きくなったときには、もう着陸待機姿勢に入っているんだ。むこうは、厚さがたった百マイルしかないからな」
そのとおりだった。数時間後に、艦内のスピーカーが鳴った。
「全員、着陸待機。気密扉をぜんぶ閉めろ。シグナルがなったら換気装置を切れ」
マッコイは、それからつづく二時間のあいだ、みんなをむりに横にならせた。ロケットの短い噴射がもたらす衝撃と、気持ちの悪い無重力状態が交互におこった。それから換気装置がとまり、艦はしばらく慣性飛行し、最後の短い噴射につづいて五秒ほど落下し、そして、短く、軽い衝撃が感じられた。喇叭の号音がちょっとスピーカーから聞こえ、換気装置が低くうなりはじめた。
マッコイは、軽々と漂うように立ち上がり、爪先でふらふらとゆれながら止まった。
「みんな出るんだ……旅は終わりだぞ」
背が低くてずんぐりした、いちばん若そうな男が、それをぎごちなく見ならって、ドアのほうへ飛んでゆきながら叫び声をあげた。
「さあ来い、みんな! 外へ出て、探険するんだ!」
衛兵伍長はそいつをだまらせた。
「そう急ぐな、坊や。外に空気がないっていうのがどうでもいいことなら、さっさと行くさ。おまえは凍傷と火傷で死んで、熟れたトマトみたいに爆発するよ。分隊長は六人に宇宙服を持ってこさせろ。残りの者はここにとどまって待機しているんだ」
六人はまもなく二十四個のかさばる包みを持ってもどってきた。リビイは運んできた四個の荷物をはなし、それがゆっくりと甲板に漂いながら落ちてゆくのをながめていた。マッコイは一つの包みのジッパーをはずして説明した。
「これは標準作業用タイプ、四型で、改良ずみのやつだ」
かれが宇宙服の肩をつかんでふったので、それはまるで長い冬に備える下着のようにぶらさがり、その肩のところでヘルメットが頼りなくゆれた。
「これには八時間外に出ていられるだけの酸素が備えられている。それに窒素タンクと、炭酸ガス・水蒸気のカートリッジ・フィルターもついている」
かれは単調に、訓練課程で教えられる説明をそのままくりかえしていた。マッコイは、これらの宇宙服を、舌が自分の口の中を知っているのと同じぐらいよく知っていた。その知識そのものが、一度ならずかれの生命を救ったのだ。
「宇宙服は、非揮発性アスベストセルタイトで破覆されたガラス繊維で織られている。この繊維は曲げることができ、非常に強く、すべての光線・放射線を、水星の軌道より外の太陽系宇宙では無害にする。おまえたちの服の上に着るとき、主要なつなぎ目のところの、鋼鉄線をあみこんだアコーディオン式ひだに注意しろ。これは、手足を曲げても、内部の容積をほとんど同じに保つように設計されているんだ。さもないと、内部のガス圧が、曲げられていないところで膨張し、宇宙服を着てなにか行動しようとしてもひどく不便になってしまう。
ヘルメットは透明シリコンで成型され、光線があまり透過しないよう、鉛をふくませ、偏光処理を施してある。これはどんなタイプのバイザーでも、必要とあれば付けられる。ここではナンバー2の茶色より薄いものはつけるなという命令だ。つけ加えていえば、鉛の板が頭蓋骨を覆い、宇宙服のうしろに伸びて背骨を完全にカバーしている。
宇宙服には二方向通信可能の通話器が備えられている。もしおまえたちの無線が聞こえなくなったら──よくおこるんだぞ──ヘルメットをくっつければ話しあえる。何か質問は?」
「その八時間のあいだに、どうやって食べたり飲んだりするんですか?」
「八時間のあいだ食事はしなくていいんだ。ヘルメットの中にある容器に砂糖の塊りを入れてゆくこともできるが、おまえたちはいつも基地で食べることになっている。水のほうは、ヘルメットの中の口のそばに乳首がある。頭を左へまわせば届く。備えつけの容器にとりつけられているんだ。だが、宇宙服を着ているときは、やむを得ぬ場合以外水は飲むなよ。宇宙服には排水装置はないんだからな」
宇宙服がひとりひとりに渡され、マッコイはその着かたを説明した。甲板の上に仰向けにひろげ、首から股までつづいたジッパーを広く開け、その中に坐りこむ。そして、下肢部分を長いストッキングをはくように引っぱりあげる。それから両腕をつっこみ、ぶあつい伸縮自在の手首の部分をぴったりとあわせる。最後にゆっくりと首をうしろに伸ばし、肩を曲げて、ヘルメットを頭にかぶせるのだ。
リビイは、マッコイの動作をまねしながら、宇宙服を着こんで立ち上がった。そして、服を開閉する唯一のジッパーを調べてみた。二つのやわらかいガスケットが重なるようなっていて、それがジッパーで接合され、内部の気圧が密封されるのだ。ヘルメット内部の呼吸された空気はマウスピースを通じてフィルターにつながっている。
マッコイは動きまわり、全員の装備をしらべ、あちらこちらとベルトを締め、外部装置の使いかたを教えた。満足すると、かれは司令室に自分の班が基礎教育を終わり、外へ出る用意ができたことを報告した。そして、みんなを慣らすために、三十分間外へ連れ出す許可が出た。
マッコイは一度に六人ずつ連れて、エアロックからこの小惑星の表面に出た。リビイは、岩が面くらうほど陽の光に輝いているので、眼をぱちくりさせた。太陽は二億マイルも遠くに離れ、ここには母なる地球を照らしている日光の五分の一しか届いていないのだが、それでも大気がないので、眼を細めなければならぬほどまぶしいのだ。かれは、茶色のバイザーで保護されていることがありがたかった。太陽はちっぱけなサイズにちぢみ、それぞれがまた太陽でありまばたきもしない恒星の密集した暗黒の空から、照りつけていた。
リビイのイヤホーンに、仲間の声がひびいてきた。
「すごいな! あの地平線はぐっと近くに見えるぜ。一マイルとは離れていないと賭けてもいいよ」
リビイは、平たい荒野を見わたし、無意識にそのことを考えて答えた。
「三分の一マイルもないよ」
「なぜそんなことがわかるんだ、ピンキイ? それに、だれも聞いてなんかいやしないよ」
リビイはたじたじとなって答えた。
「実際は千六百七十フィートさ。ぼくの眼が地上五フィート三インチにあるところから見てね」
「なに言ってやがるんだい、ピンキイ。おまえはいつでも、自分の物知りぶりを自慢してみせたいんだな」
リビイは抗議した。
「いや、そうじゃない。でも、この惑星が厚さ百マイルで、見たとおり丸いとしたら、どうしたって地平線はそれぐらいの距離になるはずなんだ」
「何をいってやがる」
マッコイが口をはさんだ。
「うるさいぞ! リビイのいうほうが、おまえよりずっと当たっている」
別の声が入ってきた。
「かれはきわめて正確だ。おれは操縦室をはなれる前に、航行長にいわれてはかったんだよ」
またマッコイの声がした。
「そうか? もし操舵長が、おまえのいうとおりだというなら、リビイ、おまえは正しい。どうして知っていた?」
リビイは情けなさそうに顔を赤らめた。
「ぼ……ぼくにはわかりません。それ以外には考えられないからです」
砲術員と操舵長はかれを見つめたが、もうそのことは口に出さなかった。
その日の終わりまでに(艦内時間でだ。というのは、88の一日は八時間と十三分だったのだ)、仕事は順調に進みはじめた。輸送艦は低い丘のそばに着陸していた。艦長は、丘の中にある、長さ千フィートあまり、幅はその半分ぐらいの、お椀のような形をした窪みを選んで、そこに永久基地を作ることとした。ここに屋根がはられ、密閉され、空気が入れられるのだ。
艦と谷間のあいだにある丘は、いろいろな用途のために掘られることとなった。宿舎、食堂、士官宿舎、病院、娯楽室、事務室、倉庫などだ。丘にトンネルを掘って、それぞれの部屋をつなぎ、艦の左舷エアロックと、十フィートの気密金属チューブで連絡しなければならなかった。そして、チューブとトンネルの両方とも、人員と荷物を運ぶため自動コンベヤー・ベルトをつけられるのだ。
リビイは、屋根をつくる任務につけられた。かれは熔接工がポータブル原子力ヒーターを持って丘をまわるのを手伝った。それは八百ポンドの質量のため取り扱いが厄介なのだが、目方はここではただの十六ポンドだった。屋根ふきの仕事の残りは、この小さな谷間の〈空〉となる巨大な半透明テントを、手で運んで用意を整えることだった。
熔接工は、谷間の内側のスロープにつけられた目印を見つけると、ヒーターをセットし、水平の穴や階段を岩に深く切りはじめた。かれらはそれをぜんぶ、岩壁につけられたチョークの印にそって、同じにそろえるのだ。リビイは、なぜこの仕事がそう速く測量されるかをたずねた。
「やさしいことさ。補給係の連中が二人、トランシットをかついで先に行き、谷の底からちょうど五十フィート上のところをはかる。そしてサーチライトを照らす。すると、もう一人がまわりを大急ぎで走りまわり、光線のあたる高さにチョークで印をつけるんだ」
「この屋根は、ちょうど五十フィートの高さになるのですか?」
「いや、平均はたぶん百フィートになるね。まん中のあたりは空気の圧力でふくれるからな」
「地球と同じの?」
「地球の大気圧の半分さ」
リビイは、ちょっと考えてから、面くらったような顔をした。
「でもねえ……この谷は長さ千フィートで、幅は五百フィート以上あるでしょう。平方インチあたり七・五ポンドかかるし、屋根のふくらみを考えると十一億ポンド以上になりますね。こんな負荷にどんな材料が耐えられるっていうんです?」
「くもの巣さ」
「くもの巣?」
「ああ、くもの巣だよ。世界でいちばん強い材料なんだ。最上の鋼鉄より丈夫な、合成のスパイダー・シルクさ。おれたちが屋根に使っている太さのものは、一インチあたり四千ポンドの|ひっぱり強度《テンシル・ストレングス》があるんだ」
リビイはしばらくためらったのちに答えた。
「わかりました。約百八十万インチのまわりで、ひっぱられる最高の強度は、インチあたり約六百二十五ポンドということですね。安全係数はまだたっぷりあるってわけだ」
熔接工はヒーターによりかかってうなずいた。
「そういうところだ。きみはすごく計算がはやいんだな!」
リビイはびっくりしたようだった。
「ぼくはただ、物事をはっきりさせたがるだけなんですよ」
二人はスロープのまわりで手ぎわよく作業をつづけてゆき、クモの巣をとめて密封するきれいな洞穴を切っていった。白熱した熔岩は排出管からほとばしり出て、ゆっくりと丘の斜面を流れていった。茶色の蒸気が熔けた岩の表面から上がり、数フィートあがるとすぐに真空の中で白い粉となって、地表に落ちた。熔接工はその粉を指さした。
「こいつはそのままにしておくと、あとでおれたちが吸いこんで、珪肺病をおこすんだ」
「では、どうするんです」
「空気調節装置の換気ダクトを使って、吸いこませてしまうだけだよ」
リビイは、この答えでまだべつの質問をはじめた。
「ミスター……?」
「おれの名前はジョンスンさ。ミスターは要らないよ」
「では、ジョンスン、この谷ぜんぶに要る空気をどこから手に入れるんです、トンネルは別にしても? どうしても二千五百万立方フィートかそこら必要ですよ。われわれの手で作り出すんですか?」
「いや、そんな面倒なことはしないよ。持ってきてある」
「輸送艦で?」
「ああ、五十気圧でな」
リビイはちょっと考えた。
「そうですか……では、両側に八十フィートのスペースをとることになりますね」
「実際は、特別に作った三個の倉庫……というより巨大な空気ボンベだ。この輸送艦は空気をガニメデに運んだこともあるんだよ。おれはそのときもいたんだ……新兵だったがね。そのときから空気係の作業員だ」
三週間のうちに永久基地は、そこに住む準備ができ、輸送艦はその荷物を移した。倉庫は工具や物資でふくれあがった。ドイル艦長は、その指揮所を地下に移し、自分の指揮権を一等航行士に渡し、つぎの任務につく許可をあたえた──この場合は、基幹要員とともに地球へ帰ることだ。
リビイは、輸送艦が去ってゆくのを、丘のよく見える場所から見送った。ひどいホームシックがかれの心をゆさぶった。家へ帰れるようになるだろうか? かれはそのとき、母親とベティにそれぞれ三十分ずつ会えるなら、残りの一生と交換してもいいとさえ心から思ったものだった。
かれは丘を下りてトンネルの入口にむかった。すくなくとも、あの輸送艦はみんなに手紙を届けてくれる──うまくいけば従軍牧師が地球からの手紙と一緒にすぐにやってくるだろう。だが、明日からは、楽しみはまったくなくなるのだ。かれは空気作業班で働くことが楽しみだった。だが明日は、自分の分隊に帰るのだ。分隊の連中はみないいやつだが、自分にはどうもなじめないように思えるのだ。
宇宙建設隊のこの部隊は、大きな仕事を開始していた。ドイル艦長は、この百マイルの岩の塊りである小惑星88にロケット噴射管をつけて、現在の軌道からはずし、地球と火星のあいだの新しい軌道にうつし、宇宙ステーションとして使おうとしているのだ──難破船や救命ボートの避難所、燃料補給所、宇宙海軍基地として。
リビイは、堅穴《ピット》H−16のヒーターの任務につけられた。かれの仕事は、慎重に計算された穴を掘ることだった。それに爆破班が爆薬を仕掛けて、掘削《くっさく》の大部分を終わらせるのだ。二分隊がH−16につけられ、年配の海兵砲術員が指揮を取っていた。その砲術員は竪穴のそばに坐って、計画をすすめ、ときどき首につるした円形の計算尺で計算をしていた。
リビイが、三段階爆破用の手間のかかる掘繋をやり終わって、爆破を待っていたとき、ヘルメットの無線に、砲術員が爆薬の量について指示している声が入った。かれはすぐ送話器のボタンを押した。
「ミスター・ラーセン! あなたはまちがってます!」
「だれだ、そんなことをいうやつは?」
「リビイです。あなたの爆薬計算はちがっています。もしそのまま爆破させたら、この竪穴をそっくり吹きとばしてしまいますよ、ぼくらもいっしょにです」
海兵隊砲術員ラーセンは、返事をする前に、その計算尺のダイアルをまわしてみた。
「何をつまらんことをいっているんだい、坊や。爆薬の量は正しいよ」
リビイはいい張った。
「いえ、そんなことはありません。あなたは割るべきところを掛けているんです」
「おまえは、こういう仕事にすこしでも経験があるのか?」
「いえ、ありません」
ラーセンは、爆破班につぎの命令をくだした。
「爆破しろ」
みんなは、それに応じようとした。リビイは息をのみ、唇をなめた。やらなければいけないことはわかっていたが、恐ろしかったのだ。かれはぶきっちょに二度飛んで、爆破班員のそばに着陸した。かれは連中のところに押し入って、起爆装置の電極をひきちぎった。そうしていると近くに人影が動き、ラーセンが漂いおりてきた。リビイの腕をその手がつかんだ。
「そんなことをするべきじゃなかったな、坊や。悪質な命令違反だ。おまえのことは報告しなければならん」
かれはそういって、起爆回路を連結しはじめた。
リビイはまごついて頭の中がこんがらがっていたが、それでも必死に勇気をふるい起こして答えた。
「そうしなければいけなかったからです。あなたはまだ間違っています」
ラーセンは手をとめて、その頑固そうな顔をながめた。
「ほう……時間のむだだが、おまえが恐ろしがっている爆破のそばに立たせておくのもいやだ。いっしょに計算をやりなおしてみようか」
ドイル艦長は、自分の居室で、机に両足をのせて坐り、ほとんど空になったタンブラーを見つめた。
「いいビールだ、ブラッキー。なくなったら、もうすこし作れるかい?」
「わかりませんな、艦長。イーストは持ってきたでしょうか?」
「見つけ出してくれよ、なあ」
艦長は、三つめの椅子に坐っている大きな男のほうに向いた。
「さて、ラーセン、ひどいことにならなくてよかったな」
「こちらにうかがったのは、なぜあんな間違いをやったのか、ということであります、艦長。わたしは二度計算しました。あれがニトロ爆薬でしたら、すぐに自分の間違いがわかったはずですが。もしその若者にあのカンがなかったら、そのまま爆破させてしまったはずです」
ドイル艦長は、古顔の下士官の肩をたたいた。
「もう忘れるんだ、ラーセン。おまえは、だれも殺しはしなかったろうからな。そういうことがあるから、わたしは、どんな小さな爆破でも竪穴から全員を退避させろと言っているんだ。このアイソトープ爆薬というやつは、ひどく危険だからな。A−9の竪穴でどうなったか考えてみろ。十日間の作業が一発でだめになった。そのくせ、砲術士官が自分でオーケーを出していたんだ。とにかくわしは、その青年に会いたい。なんという名前だって?」
「リビイ、A・J・リビイです」
ドイルは、机のボタンを押した。ノックがドアのところでひびいた。
「入れ!」
その声に、日直下士の腕章を巻いた隊員が入ってきた。
「リビイ隊員をここへよこせ」
「アイアイ、サー」
数分後に、リビイは艦長の部屋に連れてこられた。かれはあたりを心配そうにながめ、ラーセンが来ていることを知ったが、それでも安心できなかった。かれは、ほとんど聞こえないぐらいの声で言った。
「隊員リビイであります」
艦長はかれを見つめた。
「さて、リビイ。今朝、ラーセンと意見を異にしたと聞いたが、そのことを聞かせてほしいな」
「わ……わたしはべつに悪気はありませんでした、艦長」
「もちろんそうだろう。きみはべつに困った立場にいるんじゃない。みんなのために今朝いいことをしてくれたんだ。教えてくれないか、どうしてあの計算が間違っているとわかったんだ? 何か採鉱のことで経験でもあるのかね?」
「いえ、艦長。ただ、間違った答えを出されたとわかっただけです」
「でも、どうして?」
リビイは落ちつかぬように身体をゆすった。
「それは、艦長、ただ違うように思えて……数値が合わなかったんです」
「ちょっと待ってください、艦長。わたしがこの青年に二、三、質問をしてよろしいでしょうか?」
そう言ったのはブラッキー・ロード大尉だった。
「いいとも、さあ尋ねたまえ」
「きみはみんながピンキイと呼んでいる男かい?」
リビイは顔を赤らめた。
「そうであります」
「わたしはこの男について、ちょっと噂を聞いております」
ロードは大きな身体を椅子から起こすと、本棚のところへ行き、ぶあつい本を取った。かれはそれをめくってから、ひらいた本を前に置いて、リビイに質問をはじめた。
「九五の平方根は?」
「九・七四七」
「立方根は?」
「四・五六三」
「その対数は?」
「何のことでしょうか?」
「なんとまあね。こんなのを知らずに近ごろは学校を出られるのかい?」
リビイの困惑は、もっとひどくなった。
「わたしはあまり教育を受けられませんでした。わたしの家族は、父が死ぬまで誓約《コベナント》を受けませんでしたので、仕方がなかったのです」
「わかった。対数というのは、底《ベース》と呼ばれる数に乗ずる数の名前だ。ある数は底の何乗かというのが対数だ。わかったかい?」
リビイは考えこんだ。
「どうもはっきりしませんが」
「もう一度やってみよう。もし、一〇を底とし、それを二乗する。すると一〇〇になるね。そこで、一〇の底に対する一〇〇の対数は二だ。同じように、一〇の底に対する一〇〇〇の対数は三だ。さて、九五の対数は?」
リビイはしばらく眉をひそめた。
「はっきり出ません。はんぱです」
「それでいいよ」
「では、一・九七八……ぐらいです」
ロードは艦長のほうに向いた。
「これでわかると思いますが、艦長」
ドイルは考えこんだようにうなずいた。
「うん、この青年は、数学的なことが本能的にわかるらしいな。そのほかになにができるのか知りたいね」
「残念ながら、はっきり知るためには、地球に送り返さなくてはならんでしょう」
リビイは、最後の言葉を聞きつけた。
「おねがいです。わたしを送り返したりしないでください。母がすごく怒るでしょうから」
「いやいや、そういうことではないんだ。この仕事が終わったら、きみを精神測定研究所で調べさせてほしいんだ。そのあいだは、給料をけずられても、きみを離さないよ。まずタバコをやめるかな。とにかくほかにどんなことができるか教えてくれ」
それから艦長と航行長はリビイのいうことを聞いた。まず、ピタゴラスの定理が推論された。つぎには、あたえられた条件をもとにして、ニュートンの法則とケプラーの法則を引き出した。三つめには、肉眼で長さ、広さ、量を判断し、間違いを犯さなかった。かれは、相対性と非直線時空連続体《ノン・レクティリネア・スペース・タイム・コンティニュア》の考えに飛びこみ、口にするのがもどかしいぐらいに、四つめの考えを述べはじめた。そのとき、ドイルは手を上げた。
「もうこれまでにしでおこう。きみが熱を出すといけないからな。今晩はもう寝て、明朝わしのところへ来てくれ。きみを野外の作業からはずす」
「はい、艦長」
「ときに、きみのフル・ネームは?」
「アンドリュウ・ジャクソン・リビイであります」
「ほう、きみの家族が誓約《コベナント》に署名しなかったはずだな。おやすみ」
「おやすみなさい、艦長」
かれが去ったあと、二人の男はこの発見を話しあった。
「どう考えられます、艦長?」
「うん……もちろん、あいつは天才だ……ごくまれに姿を現わすという超能力《ワイルド・タレント》を待ったやつというところかな。あの男にわしの本を自由に読ませてやって、どうなるか見てみたい。ちらりと見ただけで一ページ読めてしまうとしても、わしはそうおどろかないよ」
「こういう青年が、一人として地球では、まったく認められていなかったんですかね」
ドイルはうなずいた。
「そこが、この青年たちの困った問題なんだな。かれらは、自分が必要とされていると思ったことがないんだ」
88は、太陽のまわり、はるか数百万マイルのあたりを漂っていた。その顔のあばたは深くなり、(ふつう)平均して核分裂をおこすことになっている奇妙な密封された代物〈デュライト〉がならべて配置された。それから88は、まっすぐコースをきめられて、何度かゆっくりと押されることとなった。数週間のうちに、このロケット噴射の効果は現われ、88は太陽にむかう軌道に飛びこんでいった。
88が、太陽から地球の軌道までの距離の一・三倍のところに達したとき、また何度か噴射をおこなって円軌道にうまく乗せてやらなければならないのだ。これからはE・M3──つまり、地球=火星間宇宙ステーション第3号となるのだ。
何億マイルもはなれたところで、他の宇宙建設隊が、別の小惑星二個を、もとの古い住み家からはなして、地球と火星のあいだへすべらせてゆき、88と同じ軌道に乗せようとしていた。一つは、88から百二十度前方に、もう一つは、百二十度後方で、同じ軌道に乗るのだ。E・M1、E・M2、E・M3がすべて位置につくと、もはや地球=火星間航路を行くものが、大地から遠くはなれ、避難するところもないといったことはなくなるのだ。
88が太陽にむかって慣性飛行をつづけている数カ月のあいだ、ドイル艦長は、全員の作業時間を減らし、ホテルの建設とか、小さな屋根のついた谷間を庭園にするといった比較的軽い労働に就かせた。岩はくだかれて土となり、化学肥料があたえられて、嫌気性のバクテリア培養菌が植えつけられた。それから、ルナ・シティの低重力下で三十何世代かへてきた植物が植えられ、やさしく育てられた。重力が低いことを別にすると、88は家《ホーム》のように感じられはじめたのだ。
だが88が、E・M3の仮定された軌道の接線に近づくと、部隊はまた作戦行動にもどり、当直がつづけられ、艦長はブラック・コーヒーだけで命をつなぎ、作戦室で仮睡する生活にもどった。
リビイは、作戦室を大きくふさいでいる三トンの思考金属、弾道計算機に配属された。かれは、この大きな機械を愛した。主任計算技師が、リビイに、機械の調節と手入れの方法を教えてくれた。リビイは無意識のうちに、それを人間として──かれと同じ種類の人間として考えていた。
接近する最後の日には、噴射は立てつづけに行なわれた。リビイは、計算機の右側のサドルに坐って、つぎの噴射の予報を単調に口に出しながら、機械が計算している正確さを喜んでいた。ドイル艦長はいらいらと歩きまわり、ときどき航行長の肩ごしにのぞきこむのだった。もちろん数字は正しい、だが、もしうまくゆかなかったらどうなる? だれもいまだかつて、こんなに大きな質量のものを動かしたことはないのだ。もしこれが、どこまでも、どこまでもまっすぐつっこんでいったとしたら。馬鹿な! そんなことは、ありえない。とにかく臨界速度を越えられたらうれしいのだが。
従兵がかれの肘にふれた。
「旗艦から通信であります、艦長」
「読め」
「旗艦より88へ。私用通信。ドイル艦長、きみがそいつを連れこむのを見ているよ……ケアニイ」
ドイルは微笑した。やっぱりいい老人だ。これがちゃんと定位置についたら、提督を晩餐に招待して、公園を見せてやろう。
つぎの噴射がおこなわれた。いままでのどれよりも強かった。部屋は激しく震動した。すぐに、地上観測員の報告が入りはじめた。
「九番噴射!」
「十番噴射!」
だが、リビイの声はとぎれた。ドイル艦長はかれのほうに向いた。
「どうしたんだ、リビイ? 眠っているのか? 両極監視所を呼べ。視差を知りたい」
「艦長……」この青年の声は低く、ふるえていた。
「話せ!」
「艦長……機械は計算していません」
「スパイヤーズ!」
主任計算技師の禿頭が計算機の背後から現われた。
「もうはじめています、艦長。すぐお知らせします」
かれはまたもとにもどった。長い数分が過ぎたのち、かれはまた姿を現わした。
「ジャイロがこわれました。直すのに少なくとも十二時間かかります」
艦長は何もいわずに、ふり向くと、部屋の端へ歩いていった。そのあとを航行長の眼が追った。艦長はクロノメーターをながめ、航行長に話しかけた。
「さてと、ブラッキー。七分以内に噴射のデータを手に入れないと、終わりだ。なにか考えは?」
ロードは無言でくびをふった。
リビイは、おそるおそる口をひらいた。「艦長……」
ドイルはいそいでふり向いた。
「うん?」
「噴射データは、十三番管七・六三、十二番管六・九〇、十四番管六・八九です」
ドイルはかれの顔を見つめた。「間違いないか?」
「間違いありません、艦長」
ドイルは、静まりかえって立っていた。こんどはロードを見ずに、まっすぐ前を見つめている。それからかれは、ゆっくりとタバコを吸い、灰を見て、落ち着いた声を出した。
「データを入れろ。ベルで噴射!」
四時間後、リビイはまだ噴射データをつぶやいていた。その顔は灰色で、両眼は閉じられていた。一度かれは気を失ったが、みんながかれを介抱して気をとりもどさせると、また数字をつぶやきはじめた。ときどき艦長と航行長は交代したが、リビイには交代がないのだ。
噴射の間隔は短くなったが、ショックはずっと軽くなっていた。
続く小さな噴射のあとで、リビイは顔を上げ、天井を見つめていった。「これで終わりです、艦長」
「両極監視所を呼べ!」
報告はすぐに帰ってきた。
「視差変わりません、恒星太陽レート変わりません」
艦長は椅子にどっかりと坐った。
「ブラッキー、やったぞ……リビイのおかげだ!」
それからかれは、リビイの顔に、心配そうな考えこんだ表情がひろがってゆくのに気がついた。
「どうしたんだ、リビイ? どこかまちがったのか?」
「艦長、この前、公園に地球と同じ重力があればなあ、といわれましたね?」
「ああ。それがどうした?」
「貸してくださった重力に関する本が本当なら、わたしは、それを作り上げる方法を見つけたと思うんですが」
艦長は、はじめてかれに会ったようにリビイを見つめた。
「リビイ、もうきみに驚くのはやめにしたよ。でも、提督といっしょに食事をするあいだだけは、そういう話はやめてくれるかい?」
「艦長、そいつはすてきです!」
通信室からの肉声回路が、リビイの声に割って入った。
「旗艦からの通信です……よくやった、88」
ドイルはまわりのみんなを見まわして微笑した。
「こいつはうれしいおほめだね」
スピーカーがまた嗚った。
「旗艦からの通信です……前の通信を取り消す、訂正通信にスタンバイ」
おどろきと心配の色がドイルの顔に流れた──そして、スピーカーはあとをつづけた。
「旗艦からの通信です……よくやった、E・M3」
[#改ページ]
未来史
A.D.
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この期間にはかなりの技術的発展を見たが、それにともないその他の教育的社会的施設は立ちおくれ、60年代には集団異常心理という形で現われ、空白時代を招いた。
狂気の時代
1966年のストライキ
人工夜明け(1960〜70)
生命線
光あれ
道路をとめるな
(ワード・エッジワイズ)
[#ここで字下げ終わり]
1975
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空白時代につづく時代は、再建の時代で、ヴーリス財政援助により一時的な経済安定と再建の機会をあたえられた。この時代のおわりに、新フロンティア運動がはじまり、19世紀経済にもどる。
最初の月ロケット(1978)
ルナ・シテイ建設
宇宙保護法
ハリマンのルナ社
帝国主義的探検時代(1970〜2020)
リトル・アメリカの反乱
惑星間探検と開発
米濠合併
爆発のとき
月を売った男
デリラと宇宙野郎たち
宇宙操縦士
鎮魂曲
果てしない監視
坐っていてくれ、諸君
月の黒い穴
帰郷
犬の散歩も引き受けます
サーチライト
[#ここで字下げ終わり]
2000
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南極、合衆国、金星の三回の革命により短い宇宙帝国主義の時代はおわった。宇宙旅行は2072年まで中断。
宗教的過激主義台頭
新十字軍
金星植民地の革命と独立
合衆国の宗教的独裁
宇宙での試練
地球の緑の丘
(下方の火!)
帝国の論理
地球の脅威
(蝕)
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2025
[#ここから1字下げ]
この期間には研究も技術的発展もごくわずか。極端なピュリタニズム。聖職者階級によりある種の精神測定学、精神力学、集団心理学、社会支配などが発展。
(石のまくら)
[#ここで字下げ終わり]
2050
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市民の自由が再建。科学研究のルネサンス。宇宙旅行再開。ルナ・シティ再建。社会科学は意味論の否定的根本命題にもとづくものになる。認識論が力を得る。国際連盟。
もしこのまま続けば
[#ここで字下げ終わり]
2075
[#ここから1字下げ]
疎外地
[#ここで字下げ終わり]
2100
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太陽系統一はじまる。
最初の人類文明
不適格
大宇宙(序章)
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2125
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太陽系以外の星への最初の探検。
メトセラの子ら
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2600
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内乱。つづいて人類少年期文化がおわり、最初の成人としての人類の文明がはじまる。
大宇宙
常識
(ダ・コポ)
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