メトセラの子ら
ロバート・A・ハインライン
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第一部
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1
「メアリイ、あのひとと結婚しないなんて、あんた、ばかよ!」
メアリイ・スパーリングは、負けた金額を計算し、小切手を書くと、それをわたしながら答えた。
「としがあんまりはなれすぎてるじゃない……あなたと賭けごとなんか、するんじゃなかったわ。あなたって、すごくカンがいいんだもの」
「なにいってんのよ! 話をそらそうってつもりなのね。あんた、もう三十に手がとどきそうなんでしょ……女って、そういつまでもきれいなままではいられないのよ」
メアリイは苦笑した。
「わかってるわよ!」
「ボーク・ヴァニングは、四十をそうはこしてないし、それにプラス市民よ。チャンスにはとびつかなきゃだめじゃない!」
「あなたこそ、どうぞ……もう帰らなくちゃ。|さよなら《サービス》、ヴェン」
「|さよなら《サービス》」
ヴェンはそう答え、メアリイ・スパーリングが出てゆくと締まっていったドアのほうに顔をしかめてみせた。彼女はどうして、メアリイが、ボーク・ヴァニングのような申し分のない相手と結婚しようとしないのか、知りたくてたまらなかった。それに、いったいメアリイはどこへなにをしに行くのか、ということにも興味をそそられたが、ひとのプライバシーを尊重する習慣からそれを追及することは断念した。
メアリイのほうは、自分の行く先をだれにも知られたくなかった。ヴェンのアパートを出ると彼女は〈|はずみ《バウンス》チューブ〉で地階までおりて、ロボット駐車場にいる自分の車を呼び出し、坂になった出口を登りきると、自動操縦装置を〈北岸《ノース・ショア》〉にセットした。すると車は、往《ゆ》き来《き》している車の洪水がとぎれるのを待ってから、高速道路にとびこんでゆき北にむかったので、メアリイは、うたたねをするために仰向けになった。
自動装置のセットが切れかかったとき、車は指示を求めてブザーを鳴らした。メアリイはその音に眼をさますと、外をながめた。ミシガン湖は、右手の暗闇のなかに、さらに黒い帯となってのびている。
彼女は交通管制所《トラフィック・コントロール》に、自分の車を、管制高速道路からはなして州道へ入れてくれと信号を送った。管制所はメアリイの車を選び出して、そこに入れ、あとは彼女が自分で手動運転するのにまかせた。メアリイは、計器盤についている物入れをまさぐった。
彼女の車が管制道路をはなれるときに、交通管制所が自動的に写しとった車体番号は、その車がいまつけている番号とはちがっていた。
メアリイは、管制されていない道路を何マイルか走らせてから、湖畔へ降りてゆく狭いほこりだらけの道にそれ、しばらくして車を停めた。彼女は明かりを消して耳をすまし、待ちうけていた。
南の方角に、シカゴの街の明かりが輝いている。数百ヤードむこうに、管制道路がうなっているが、ここでは、夜の暗闇に生きている小さな生きものたちの、かすかに立てる物音以外は、なにもしない。
メアリイは物入れに手をさしこむと、スイッチをひねった。計器盤がぱっと光り、そのうしろにある他のダイアルが見えた。彼女はそれをいろいろと調整しながらしらべ、レーダーにも見張られておらず、こちらにむかってちかづいてくるものもないとわかって満足した。それから彼女は、スイッチを切り、かたわらの窓をぴったりと閉ざして、また車を出発させた。
ありきたりの〈キャムデン・スピードスター〉のように見えていたその車は、音もなく上昇すると湖の上に出て、水面をかすめて走り──やがて水のなかに沈んでいった。
メアリイは、水面下五十フィートのところを走らせ、岸から四分の一マイルはなれるまで待ってから、ステーションを呼んだ。すると、すぐに声が聞こえてきた。
「答えは?」
「人生は短し……」
「……されど歳月はながし」
メアリイは答えた。
「ながからず。悪しき日々の来たらざるあいだは」
すると、話しかけてくる声は、ふつうの口調になった。
「ときどき、疑問に思うことがあるがね……オーケー、メアリイ。チェックしたよ」
「トミイなの?」
「いや……セシル・ヘドリックだ。操縦装置は、あけてあるかい?」
「ええ。やってちょうだい」
十七分のち、車は、人工洞窟のなかをほとんど占めているプールの表面に浮かび上がった。車が岸につくとメアリイは外に出て、守衛にハローと呼びかけ、トンネルのなかを通り、五、六十人の男女が席についている巨大な地下室にはいっていった。
彼女は時計が真夜中の十二時をさすまでおしゃべりをし、それから演壇に上がると、みんなのほうに向いた。
「わたしは、百八十三歳になります。もっと年上のかたはおられますかしら?」
だれも口をきかなかった。しばらく待ってからメアリイは言葉をつづけた。
「それでは、わたしたちの習慣にしたがって、わたしが開会を宣言します。議長を選びますか?」
「そのままやってくれよ、メアリイ」
と、だれかの声がひびき、ほかのものはだれも何とも言わないので彼女は話しはじめた。
「それでは……」
メアリイは、べつにその名誉を喜ぶでもなく、ほかの連中も彼女と同じようにのんびりとしている──あわてずさわがず、現代生活の緊張した空気から解きはなされている、のんびりとした態度だった。
「わたしたちが、いつものように集まったのは、わたしたちの幸福と、わたしたちの兄弟や姉妹の幸福を論議するためです。どこかの〈家族《ファミリー》〉代表のなかで、ファミリーからのメッセージを持ってこられたかたはおられますか? それとも、ご自分の意見を発表されたいかたは?」
一人の男がメアリイの顔をみつめて、発言した。
「アイラ・ウエザラル、ジョンソン家族《ファミリー》の代表です。われわれは、二カ月ほど前にも集まりました。評議員のみなさんには、理由がおありになるにちがいない。それを聞かせてください」
彼女はうなずいて、最前列の凡帳面そうな小男のほうにむいた。
「ジャスティン……よろしかったら、おねがいします」
その男は立ち上がると、ぎこちなくお辞儀をした。仕立ての悪い半ズボンから、ほそい足がつき出ている。その格好や動作からみると、こいつは相当な年の下っぱ役人のようだったが、黒い髪と、かたくひきしまった健康そうな皮膚の色つやが、働きざかりの年であることを物語っている。かれは、はっきりとした口調で言った。
「ジャスティン・フート、評議員を代表して報告します。ふつうの人間よりもながい寿命をもっている人間が、ふつうの人々のなかにいることを、世界に公開するという試みをファミリーが決定してから、もう十一年になります……」
なにも見ずにしゃべっているのだが、その男の口調は、まるで用意してある原稿を読み上げているようだった。かれの言っていることは、だれでも知っていることだったが、だれひとり、かれをせかそうとはしなかった。ここにいる聴衆には、ふつうの人間のようなせっかちな性質はなかったのだ。かれは、ものうげにしゃべりつづけた。
「通常の人類とわれわれが異っている特殊な面について、ながいあいた口をつぐみ隠してきた政策を、一八〇度転換することに決定したとき、ファミリーは、二、三の考慮すべき問題に直面していました。はじめのうち、なぜ隠蔽政策をとっていたのかという理由は、はっきり知っておかなければいけません。ハワード財団によって援助された結婚による最初の子供たちは、一八七五年に生まれました。かれらはなにも物議をかもしたりしませんでした。どこにも目につくような変ったところはなかったからです。同財団は、非営利法人団体でありまして……」
一八七四年三月十七日、医学生アイラ・ジョンソンは、ウインゲート・アルデン&ディームズ法律事務所のなかで、とんでもない提案に耳をかたむけていた。とうとうかれは、年上の相手の言葉をさえぎった。
「ちょっと待ってください! その女どものひとりと結婚させるために、あなたはぼくを|傭おう《ヽヽヽ》となさっている、と考えていいのですか?」
弁護士は、ぎくりとした。
「とんでもありませんよ、ジョンソンさん」
「でも、たしかにそう聞こえましたがね」
「いやいや、そんな契約は法律的に無効ですし、ふつうの良識にも反しますよ。われわれとしてはただ、信託財産の管理者として、もしかりに、あなたがこのリストにのっているわかいご婦人がたのひとりと結婚することになりますと、ここにはっきりと書いてあるとおり、その結婚によってできたお子さんのひとりひとりに学資をさしあげることが、われわれのうれしい義務になるのだ、ということをあなたにお教えしているだけなのです。しかし、われわれは何の契約もしませんし、あなたに何の提案もしません……あなたに、いかなることも絶対に強制はしません。ただ、そういう事実をお伝えしているだけなのです」
アイラ・ジョンソンは顔をしかめ、足をもじもじと動かした。
「いったい、どういうわけなんです? どうしてなんです?」
「それが、この財団の事業だからです。あなたのお祖父さんお祖母さんの希望されたことに、われわれは賛成したとでも申しましょうか」
「ぼくのことを、祖父母と相談されたのですか?」
ジョンソンの声にはトゲがあった。かれは、祖父や祖母に対して、すこしも愛情を感じていなかった。四人そろってにぎり屋ときていた──そのうちの一人でも、いいかげんに死んでさえくれれば、医学校を出る学資のことを、いまごろ心配しなくてもすむのだ。
「相談はいたしましたよ。でも、あなたのことについてじゃあありませんでした」
弁護士は、もうそれ以上話をつづけようとはせず、ジョンソンは、一度も会ったことのない女性ばかりのリストを、いやいやそうに受けとった。かれは、その事務所を出たら、すぐにそのリストを破ってしまうつもりだった。
ところがその晩かれは、それを破るかわりに、七回も書き直したあげく、やっと、故郷にいる恋人との仲を解消するのに適当な言葉を見つけだした。まだほんとうに結婚を申しこんでいなかったので、かれはちょっとほっとした──もし、そんなことをしていたら、問題はこじれてしまうところだったが。
かれは、リストのなかから選んだ一人と結婚したとき、妻のほうにも、かれと同じように、まだ元気いっぱいの祖父母が四人いるということを知った。それは珍しいことではあるが、そうおどろくほどのことでもないように思われたのだ。
フートは、話をつづけた。
「この財団は、非営利法人団体であり、健全な血統を有するアメリカ人どうしの結婚を促進するという目的は、その時代の慣習にぴったりとくるものでした。この財団のほんとうの目的については、つねに黙っているという簡単な方法をとるだけでたり、ときに狂乱時代《クレージィ・イヤーズ》と呼ばれることもある世界戦争期の末ごろまで、異常なまでの隠蔽手段をとることは、そう必要を感じられませんでした……」
一九六九年四月から六月にかけての、新聞見出しからの抜葦。
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ビル坊や、銀行を破産さす
当年二歳のよちよち坊や、テレビ・クイズで、百万ドルを獲得
ホワイト・ハウスからお祝いの電話
裁判所が、州議事堂の売却を命令
コロラド最高裁、養老年金局に全州財産の先取特権ありと裁定
ニューヨーク青年大会、市民権附与に制限を要求
わが国の出産率は、極秘事項、と国防省当局は言明
カロライナ州議員、ミスに選ばる
大統領候補指定に有利と、宣伝旅行出発に際して語る
アイオワ州、投票年齢を四十一歳に引き上ぐ
デ・モイン大学で暴動発生
土を食べる奇習が西進。シカゴの牧師、説教中に粘土のサンドイツチを食べる
原始にもどれ、と、同牧師は信徒に説く
ロス・アンゼルスの高校生、教育委員会に抗議
教師の給与引上げ、学習時間の短縮、宿題なし──先生を選ぶ権利をあたえよ、と。
自殺人口、毎年九分の一ずつ増加
原子委員会、死の灰説を否定
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「狂乱時代《クレージィ・イヤーズ》当時の理事たちは、文字どおり混乱と集団ヒステリーの当時にあって、少数派として孤立すると、迫害や、差別的な法律、ひいては暴徒の対象になる恐れがあると断定しました……現在のわれわれは、正しい断定であったと信じます。そのうえ、国家の財政状態が混乱していることと、とくに、信託財産が強制的に政府債と交換させられていたことが、財団の資力をおびやかしたのです。
そこで、二つの措置が講じられました。財団の資産を不動産にかえて、ひろくファミリー構成員のあいだに分散し、かれらを所有主として登記させ、いわゆる〈仮面政策《マスカレード》〉なるものが恒久的にとられるようになりました。また、社会的に見て不自然な年齢に達した人々は死んだとみせかけ、この国内のほかの地方で、新しい身許をあたえることになりました。
この、後者の政策が賢明であったことは、一部の人々には嫌われたにもかかわらず、〈預言者空位期《プロフェート・インターレグナム》〉にはいると、たちまちあきらかになりました。〈初代預言者〉統治時代の初期におけるファミリーの構成員のうち、その九七パーセントが、社会的には五十歳未満だと公認されていました。歴代預言者の秘密警察によって厳重に施行された市民登録は、身許の変更を困難にしました。もっとも、カバル党の助けによって、変更を遂行した例もすこしはありましたが。
このように、幸運と先見の明があったことの両方で、われわれの秘密は、洩れることなく保たれました。これはいいことでした……あの時代にあって、預言者の権力によっても没収し去ることのできないすばらしいものを持っているグループは、苦しい目にあったにちがいないと思われるからです。
〈第二アメリカ革命〉を誘発するにいたったいくつかの事件に、ファミリー自体は関係しませんでしたが、多くの家族員《メンバー》が参加し、カバル党の活動や、ニュー・エルサレムの崩壊にさきだつ戦闘に参加し、功績をあげました。われわれは、革命後の混乱に乗じて、目立つほどの高齢になってきた仲間の年齢を再調整しました。このときには、秘密結社のメンバーであり、再建委員会の重要ポストについていた仲間に助けられました。
二〇七五年、つまり〈誓約《コベナント》〉の年におこなわれたファミリーの会議で、市民としての自由がふたたび確立されたのだから、われわれはもう身分をあきらかにするべきだという意見が、多数の人によって提議されました。
そのときには、過半数が不賛成でした……おそらく、ながいあいだの、秘密を守り警戒する習慣が、すっかりしみこんでいたからでしょう。でも、つづく五十年間の文明復興、寛容と良識のたゆまない成長、教育の文字どおり健全な方向づけ、プライバシー尊重の習慣と個人の尊厳に対する敬意の増大……こうしたことによって、われわれは、自分たちの正体をあらわしても、社会における奇妙ではあるが尊敬されるべき少数派として、安全に正当な位置についておられる時代がついにやってきたのだ、と信じこんでしまったのです。
そうしなければいけなかった事情も、いくつかはありました。われわれのなかに、新しいより良い社会のなかで、〈仮面政策〉を保っていることには我慢できなくなった連中が、次第に増加してきたのです。数年ごとに、せっかくきずきあげてきた地盤を捨てて、また新しい土地をさがすというのが大変だっただけではなく、大部分の人々にとって、卒直な正直さと公平な取扱いが習慣となっている社会で、偽りの生活を送らなければならない、ということが耐えがたかったのです。それに加えて、多くのファミリーが力をあわせておこなった生物科学《バイオサイエンス》上の研究の結果、短命なわが同胞に大いに益するはずのことも、たくさん学びとっていました。われわれは、かれらを助けるためにも自由が必要だったのです。
こういったことが討議されました。しかし、身分証明書をみんなが携行する慣習が復活したことは、〈仮面政策〉を守らせにくくしました。健全で平和な生活を好む市民は、他のときならつねにプライバシーの権利を守るのに汲々としていても、新しい方針の適当な状況のもとでは、積極的な身分証明を歓迎するものです──だからわれわれは、あえて反対もしませんでした。下手に動くと、関心を呼びおこし、われわれは変なグループだということになって区別され、その結果、〈仮面〉をかぶっているという目的を破ることになるからです。
当然の推移として、われわれは身分証明にかぶとをぬぎました。十一年前の二一二五年に行なわれた会合のころには、公称の年齢に容姿がつりあわなくなった仲間がますます多くなり、新しい身許を偽造するのは極端に困難になってきました。
そこでわれわれは、全ファミリーの一〇パーセントを占めるグループから希望者をつのって、正体をあらわし、反応を見てみよう、ということに決定しました。ただし、ファミリー組織の他の秘密は、すべて守りつづけることにしてです。ところが残念なことに、その結果は、われわれの予想をうらぎったものでした」
ジャスティン・フートは話をやめた。その沈黙がしばらくつづいていると、背がっしりした身体つきの中の男が口をひらいた。このグループのなかでは異常なことだが──その男の髪には白いものがまじっており、顔は宇宙焼けしている。メアリイ・スパーリングはその男を見て、だれだったかしら、と思った──その生き生きとした顔と豪放な笑いかたには、関心をおぼえる。しかし、ファミリーの会議には、だれが出席してもかまわないのだ。だから彼女は、それ以上考えるのはやめた。その男は言った。
「しゃべれよ、兄弟。きみの報告はなんだい?」
フートは議長にむかって答えた。
「先任の応用心理学者《サイコメトリシャン》に、報告を補ってもらわなければなりません。わたしの報告は前置きのようなものですから」
すると、白髪まじりの見知らぬ男は叫んだ。
「いったい……兄弟、きみはそこにつっ立って、われわれがとうに知ってることを並べたてていればそれでいい、とでもいうつもりなのかい?」
「わたしの報告は、基本報告だったのです……それからわたしの名はジャスティン・フート、兄弟じゃありませんよ」
メアリイ・スパーリングは、きびしい口調でその男に言った。
「ファミリーに話をされるなら、ご自分の名前を名乗ってください。残念ながら、わたしはあなたを存じあげません」
「これはどうも。ぼくはラザルス・ロングといいます」
メアリイは、くびをふった。
「まだわかりませんわ」
「すみません──いまのは、初代預言者のころの仮面名《マスカレード・ネーム》でした……こいつが気に入りましてね。わたしの家族名《ファミリー・ネーム》はスミス……ウッドロウ・ウィルスン・スミスです」
「ウッドロウ・ウィルスン……おいくつですの?」
「え? ああ、ちかごろは数えたことがないんでね。百と……いや、二百と、十三か。そう、そうです、二百十三歳です」
不意に場内はしずまりかえった。それからメアリイは静かにたずねた。
「さきほど、わたしより年長者のかたはおられないかと、おたずねしましたのに?」
「聞きましたよ。でも、あんたはうまくやってましたよ。ぼくは、一世紀以上も、ファミリーの会合には出席したことがなかったんでね。だいぶ変りましたな」
「いまから、あなたにやっていただきます」
「だめですよ!」
演壇からおりようとする彼女に、かれは抗議した。だがメアリイは見向きもせずに、席にすわってしまった。かれはあたりを見まわし、肩をすくめてあきらめた。それから、議長テーブルの片隅にお尻をのせると、かれは言った。
「よろしい、つづけよう。つぎはだれです?」
シュルツ家のラルフ・シュルツは、応用心理学者というよりも、銀行家のような男だった。かれはべつに恥ずかしがりもせず、あがりもせず、威厳のある、淡々としたしゃべりかたをした。
「わたしは〈仮面政策〉をやめろと提案したグループの一人でした。わたしは間違っていました。われわれの同胞市民の大多数は、近代的な教育をうけているのだから、過度に感情的な狼狽はおこさずに、どのような事態にも対処できるはずだ、とわたしは信じていたのです。少数のアブノーマルな人々は、われわれをきらい、憎みさえもするだろうし、多くの人々はわれわれをねたむだろうがと、わたしは予想していました。
人生をたのしむものは、だれしも長生きをしたがるものです。しかしわたしは、まさか深刻なトラブルがおきようとは考えてもいませんでした。現代のモラルは、人種間の摩擦をなくしてしまいました。人種的偏見をいまだに持っている人間は、それを口に出すことを恥じるようになっています。わたしは、この社会は寛容だから、短命人種と平和に、わけへだてなく暮していけると信じていたのです。
わたしはまちがっていました。
かつて、肌の色がちがうという理由で、黒人にあたえられない特権を白人が享受していたあいだ、黒人は白人を憎み、ねたみつづけました。これは自然で正常な反応でした。差別がとりはらわれたとき、問題はおのずから解決し、文明の同化が始まりました。短命人種が長命人種をねたむのは、それと似ています。だから、われわれの特性は、われわれの遺伝子に負っている……われわれの罪でも徳でもなく、ただ祖先の運がよかったからだということが、いったん明らかにされてしまえば、さきほどいった予想されうる反応も、大多数の人々にあっては、なんら社会的な重要性を持つことにならないだろう、とわれわれは思っていたのです。
この考えは、単に、希望的観測にしかすぎませんでした。いまから考えると、情報に対する数学的分析を正しく適用しておれば、ちがう答が出ただろうし、誤った類推であることがあきらかにされたはずだ、とすぐわかります。わたしは、判断を誤ったことの弁解はいたしません。弁解の余地もないことです。われわれは、希望のあまりに迷わされていたのです。
実際におこったことはこうでした。まずわれわれは、人類の望みうる最大の贈り物のことを、短命な従弟《いとこ》たちに教えました……それから、それがけっしてかれらのものにはならないことを話しました。
ここでかれらは解決のできないジレンマに直面しました。かれらは、この我慢のできない事実をはねつけ、われわれを信用しようとしないのです。かれらの嫉妬は憎悪とかわり、われわれがかれらから、その権利を剥奪している……故意に悪意をもって剥奪していると、そう感情的に思いこんでいるのです。
そのような、大きくなる一方の憎悪は、名乗り出たわれわれの仲間すべての福祉を、いや、生命をさえおびやかす大洪水にまでふくれあがっています……このことは、裏がえしていえば、その他のわれわれにとっても、この上もなく危険なことです。危険はきわめて大きく、きわめて切迫しつつあるのです」
かれは、とつぜん腰をおろした。みんなはその話を、ながい年月のあいだに身についてきたのんびりとした態度で、静かに受け入れた。やがて、女性の代表者が立ちあがった。
「クーパー家のイブ・バーストウです。ラルフ・シュルツさん。わたしは百十九歳ですから、たぶんあなたより年上でしょう。わたしには数学や人間の心理についての、あなたの持っておられるような才能はありませんが、たくさんの人々を知っています。人間はもともと、善良で、やさしくて、親切なものですわ。ええ、むろん弱点はありますが、たいていの人は、すこしでもチャンスをあたえてあげれば、とても行儀よくふるまいます。わたしが長生きしているという理由だけで、あの人たちがわたしを憎んだり、殺そうとしたりするなんて、とても信じられません。あなたがそんなことをいわれる理由はなぜなんですの? あなたは間違いをおかされたことをひとつ認められましたわね……どうして、二度と間違いをおかさないといえますの?」
シュルツは彼女を静かに見つめて、半ズボンのしわをのばした。
「あなたの言われるとおりです、イブ。わたしが誤りをまたおかすことは、大いにあり得ます。そこが、人間の心理の厄介なところです。あまりにも複雑な問題。知られていないことがあまりにも多いこと。うるさいほどの相互関係。そういったことのために、あとからおこった多くの事実にひきくらべると、われわれの最善の努力が、往々にして、ばかばかしく思われることがあります」
かれはまた立ち上がると、みんなのほうに向いて、淡々とした威厳のある口調でしゃべりはじめた。
「しかし、いまのわたしは、遠い将来の予想をお話しているのではありません。事実について語っているのであって、いかなる推測も希望的観測も述べてはおりません……それらの事実から、床にむかって落下しつつある卵を見て、割れるぞと予測するように、ごく近い将来のことを予測しているだけです。
しかしイブは正しい……いま彼女が言われたかぎりにおいては、です。個人的には、人はみな、たしかに親切で慎しみ深いものです……個人として、他の個人にたいしては。イブは、彼女の隣人や友人から危害を加えられることはありませんし、わたしも、自分自身の隣人や友人から危害を受けることはないでしょう。しかし彼女は、わたしの隣人や友人からは、危害を加えられるのです……そしてわたしは、彼女の隣人や友人から危害を受けるのです。
群衆心理は、単に個人心理の寄せ集めではありません。これは社会精神力学《ソシアル・サイコダイナミックス》の第一定理です……わたしだけの意見ではありません。この定理に於ては、いまだかつて、例外の見出されたためしはないのです。それは、軍事、政治、宗教の指導者によって、広告業者、予言者、伝道布教者によって、野次馬煽動者、役者、ギャングの親玉によって、そういうことが数学的な符号で公式化されるより何十年も前から、知られており使われてきました。これは、社会的な大衆行動のルール、集団ヒステリーの法則なのです。実際にそのとおりになるのです。いまも、その法則が動きつつあるのです。
同僚とわたしは、数年前から、われわれに対する集団ヒステリーの傾向がたかまりつつあるのではないかと、疑問に思いはじめました。ただ、なんの証拠もなかったので、われわれはこの疑問を、動議として会議に提出することはしませんでした。そのころわれわれの観測していたものが、どんなに健全な社会にも存在する、少数の狂人たちの世迷い言にすぎないということも考えられたからです。そういった動きは、はじめのうちは、あまりにも小規模なものだったために、はたしてそれが存在するのかどうかさえ、確信がもてぬほどでした。
なぜなら、あらゆる社会的傾向は、皿に盛られたスパゲッティのように、たがいにもつれあい、からみあっているからです……いや、スパゲッティどころじゃありません。なにしろ、社会的な多くの力の相互作用を数学的に説明するには、十やそこらあっても不思議ではないぐらいの、抽象的な位相幾何学的多次元空間を必要とするのですから。この問題の複雑性は、いくら強調してもしすぎることはないのです。
そこでわれわれは、心配しながら機会を待ち、統計学的サンプルを見つけてきては、細心の注意をはらって、われわれの統計学的な世界を作りあげていきました。
われわれにはっきりしてきたときには、あやうくあとの祭りになるところでした。社会心理学的な動きは、〈酵母菌成長法則《イースト・グロウス・ロー》〉、複雑な力の法則によって、生まれたり消えたりします。われわれは、他の有利な要因……共生学《シンピオティクス》におけるネルスンの業績、木星の衛星への移民開始による莫大な公益……が、そういった動きを逆向きにさせるだろうという希望を持ちつづけました。短命人種に対して生命を伸ばし希望をあたえるような大きな発見があれば、われわれに対して、ぶすぶすとくすぶっている怒りにも、たちどころに終止符がうてるはずでした。
ところが、くすぶりは炎と化し、手におえぬ山火事となりました。われわれの測定し得たかぎりでは、過去三十七日間に、その規模は大きくなり、その速度そのものも加速されつつあります。これから、それがどこまで、どんなに速くひろがってゆくものか、わたしには見当もつきません……そんなわけで、われわれはこの緊急会議を要求したのです。いつ、たいへんなことになるか、わからないからです」
かれはそう言い終ると、つかれたような様子で、がっくりと腰を落とした。
イブはもう、かれと言い争おうとはしなかった。ほかの連中も同じことだった。ラルフ・シュルツが、その専門分野でのエキスパートであることははっきりしているだけでなく、だれもが、それぞれの立場から、ファミリーの一族であると名乗り出た同胞たちに対して作られていきつつある重大な状況を知っていたからだ。
しかし、問題の重大さを認める点では、だれもが同じだったが、さてそれにどう対処すべきかということになると、意見は、会議に出席した者の数と同じくらい、さまざまにわかれた。
ラザルスは、二時間ばかり議論が沸騰するままにまかせたあとで、片手をあげて言った。
「どうも結論が出ませんな。今夜結論を出すのは無理なようだ。ひとつ全体の状況をながめてみて、要点をまとめてみましょうか」
と、かれは指を折って、いろいろのプランをならべはじめた。
「まず……何もせずにがんばりつづけ、成行きを見ていること。
〈仮面政策〉を完全に放棄し、全員が名乗り出て、政治的にわれわれの権利を請求する。
あくまでも現状にふみとどまり、われわれの組織と金の力で、名乗り出た仲間を保護し、そのうちにかれらを〈仮面政策〉のもとに引きもどす。
全員が名乗り出て、われわれだけで生活できる植民地を要求する。
あるいは、その他の方法もとれます。ぼくはみなさんが、以上、四つの主な考えかたによって、それぞれのグループにわかれるよう提案します……むこうの右手の隅から、時計の針が進む方向に、それぞれ四つの隅にかたまり……各グループごとに計画をねり、会議に提出できるようにするのです。それから、この四つのどれにも賛成できない人は、部屋の中央に集まって、めいめい自分の考えを検討するんです。ええと、反対意見がないようですから、明晩の真夜中まで、この会議の休会を宣言しようと思います。いかがですか?」
だれも口をきかなかった。ラザルス・ロングの見事な議事進行ぶりに、みんなはちょっとばかり気をのまれてしまったのだ。かれらは、ひとつの意見にはっきりとまとまってくるまで、長々と暇をかけて討論をつづけるというやりかたに慣れていた。物事をさっさとかたづけるというのは、いささかおどろくべきことだったのだ。
しかし、この男の個性が強烈なうえ、その年齢が威厳をそえ、しゃべりかたにちょっと古風なところがあるのが、かれの元老的な権威を増していた。だれもかれに反対を唱える者はいなかった。
「よろしい」
ラザルスはそう言うと、両手をぽんと一回たたいた。
「明晩まで、閉会」
かれが演壇からおりると、メアリイ・スパーリングがちかづいて、顔をのぞくようにして話しかけた。
「おちかづきになりたいわ」
「ええ、こちらこそ」
「あなたも討論に加わられますの?」
「いや」
「わたしの家へいらっしゃいません?」
「よろこんでお伴しますよ。べつに急ぎの用事もありませんから」
「では、参りましょう」
彼女は、ラザルスの先に立って、ミシガン湖へつづいている地下プールまで、トンネルを歩いていった。かれは〈にせキャムデン〉を見て眼をみはりはしたが、水中に沈むまでなにも言わなかった。
「いい車を持っているんですね」
「ええ」
「変ったところがあるしね」
メアリイは微笑した。
「ええ。とりわけ、爆発するんですのよ……こっぱみじんに……だれかが調べようとでもしますとね」
「すごいんだな、あなたは設計技師なの、メアリイ?」
「わたしが? とんでもない! すくなくともここ一世紀はちがいますわ。それに、もうそんなことには興味もありませんの。でも、こんな車が欲しければ、ファミリーをとおしてすぐ改造させることができますわ。話すさきは……」
「いいんですよ。べつに欲しくもないから。ぼくはただ、設計された目的どおりに仕事をやる、それも静かに能率的にやってのける機械類が好きなんでね。こいつには、そうとう頭使ったことでしょう」
「ええ」
そのとき彼女は、水面に出て、レーダーでしらべ、注意をひかれずに岸へつくのに忙しかった。
ふたりがメアリイのアパートに着くと、彼女はタバコと酒をかれのそばに置いてから、奥の部屋にゆき、外出着を脱ぎすてて、ゆったりとした部屋着をまとった。それを着ると彼女は、これまでよりも小柄でわかく見えた。こうして、またラザルスのもとへ帰ってくると、かれは立ち上がり、タバコに火をつけて彼女にわたしながら、不作法に口笛を大きく吹いた。
メアリイはちょっと笑ってタバコを受けとると、大きな椅子に腰をおろし、両脚を引きよせた。
「ラザルス、あなたのおかげで自信がとりもどせそうよ」
「鏡を持ってないのかい?」
そうたずねると、彼女はじれったそうに答えた。
「そのことじゃないのよ……あなた自身のことなの。あなたもおわかりのように、わたし、わたしたちの仲間の平均寿命を通りすぎてるわね……死ぬ覚悟もできているし、あきらめてもいたわ、ここ十年というものは。でもあなたは……わたしよりずっと年上だわ。あなたは、わたしに希望をあたえてくださったのよ」
かれは、まっすぐに坐りなおした。
「きみは、死ぬ覚悟をしてるって? これはおどろいたね……もう一世紀は、元気でいられるように見えるがなあ」
メアリイは、つかれたような身ぶりをした。
「うれしがらせないでよ。外から見た格好には関係がないってこと御存知のくせに。ラザルス、わたし、死にたくないのよ!」
ラザルスは、まじめな顔をして答えた。
「からかったわけじゃないよ。どうみてもきみは、屍体になる候補者には見えないからさ」
彼女は優雅な身ぶりで肩をすくめてみせた。
「生体技術《バイオ・テクニック》の問題だわ……わたし、三十そこそこの顔つきに保っているのよ」
「ぼくに言わせれば、三十前だな。ぼくはどうも、最近の技術にくわしくなくてね、メアリイ。さっきも言ったように、ぼくはここ一世紀以上、会合に出たことはなかったんだ。実際、そのあいだはファミリーの連中とは、完全につきあいを絶っていたんでね」
「ほんとう? 理由を聞かせてくださらない?」
「長ったらしい、退屈な話さ。要するにぼくは、ファミリーの連中にいやけがさしたんだ。昔はぼくも、年次総会の代議員だった。でもみんな、古くさくて、勝手なことばかり言っていた……すくなくとも、ぼくにはそう思われたんだ。それでぼくは脱落した。空位期間《インターレグナム》中は、だいたい金星にいた。誓約が調印されたから、しばらくしてもどってきはしたが、それからの三年のあいだ、地球にばかりいたわけじゃない。ぼくはあっちこっちと引越すのが好きでね」
メアリイの眼は輝いた。
「まあ、それを聞かせてくださらない! わたし、宇宙には一度も出たことがないのよ。月世界市《ルナ・シティ》にいっぺん行っただけなの」
かれはうなずいた。
「いいとも、いつかね。でもぼくは、きみの容姿のことをもっと聞かせてほしいんだ。きみ、ほんとに、実際の年には見えないよ」
「そうでしょうね。もちろんわたしにはわかっているの。でも、その方法は、あまりくわしくお話できないわ。共生学、分泌腺療法、心理療法……なんだか、そんなことなのよ。その総合された結果として、ファミリーの人々は、老化現象が引きのばされ、すくなくとも、美容上の老化は停止させることができるの」
メアリイは、しばらくのあいだ物思いに沈んでから言葉をつづけた。
「不老不死の秘密、ほんとうの青春の泉≠フ手がかりがつかまえられたように思われたことが前にあったわ。でも、それはまちがいだったの。老化現象のおこる時期が引きのばされただけ……短縮されただけだったのよ。最初のはっきりとした兆候があらわれてから約九十日後に……老衰による死が来るの」メアリイは、ぶるっと身体をふるわせた。「もちろん、たいていの人は待ってやしないわ……数週間、診断をたしかめてみてから、安楽死をえらぶのよ」
「なんてこった! ぼくならそんなことはしないな。ぼくのところに死神のやつがやってきたら、ぼくを引きずっていかなきゃいけないだろう……引きずられながら、ぼくは死神の爺さんを、蹴っとばしたり、眼の玉をえぐり出したりして抵抗してやるよ!」
メアリイは、ゆがんだような微笑を浮かべた。
「そんな言いかたをなさるのを聞いていると、元気が出るわ。ラザルス、わたし、年下のだれにも負けたくないの。でもあなたって実例を見ていると、勇気が出てくるわ」
「ぼくたちは、だれよりも長生きするさ。メアリイ、こわがることなんかないんだ。ところで今夜の集りのことだが、ぼくはニュースにもぜんぜん注意してなかったし、地球へ来たのもごく最近なんだ……あのラルフ・シュルツって男には、自分の言ってることがわかっているのかい?」
「わかってるはずよ。あの人のお祖父さんは頭のきれる人だったし、父親もそうだわ」
「きみはシュルツをよく知ってるってわけだね」
「すこしはよ。わたしの孫のひとりですもの」
「そいつはおもしろいな。かれは、きみより年上に見えるがね」
「ラルフは、外見を四十ぐらいに見えるようにしておくのがいい、と思ってるだけのことだわ。あの子の父親は、わたしの二十七番目の子よ。ラルフは、ええと……そう、すくなくとも、わたしより八十か九十わかいにちがいないわ。それでも、わたしの子供たちのうちでは、年をとっているほうなの」
「きみは、ファミリーのために、ずいぶんつくしてきたんだね、メアリイ」
「ええ。でも、みんなもわたしに、よくしてくれたわ。子供をつくるのは楽しかったし、わたしの三十何人かの子供たちに対する信用はたいへんなものよ。わたしには、どんなぜいたくもできるのよ。だから、わたしおじけづいてるんだわ……生きているのが楽しすぎて」
と、メアリイはまた身ぶるいした。
「やめろよ! ぼくというたしかな見本、子供っぽいぼくの笑いを見れば、そんなつまらない考えは治ってしまったと、思ったがなあ」
「ええ……だいぶ、ほっとしたわ」
「うん……ねえ、メアリイ。きみはどうしてもう一度結婚して、騒々しいおチビさんたちをもっと作らないんだい? くよくよ悩むヒマなどなくなってしまうよ」
「なんですって? わたしの年で? まさか、ラザルスったら!」
「きみの年には、どこも悪いところはないよ。きみはぼくよりわかいんだぜ」
彼女はラザルスを、しばらくじっと見つめていた。
「ラザルス、あなた、プロポーズなさってるおつもりなの? もしそうなら、もっとはっきりおっしゃって」
かれの口がひらき、ごくんと咽喉がなった。
「ちょっと待ってくれ! そうあわてるなよ! ぼくは、一般的な意味で言っていたんだ……ぼくは、家庭的な人間じゃないんだ。ぼくが結婚した相手はみんな、数年とたたぬうちに、ぼくの顔を見るのもいやがりはじめたよ。ぼくはなにも……つまりだね、きみはとてもきれいな娘だから、男はかならず……」
メアリイは、いたずらっぽく笑いながら、身体をのり出して、手をラザルスの口におしつけて、おしゃべりをやめさせた。
「あなたをびっくりさせるつもりじゃなかったのよ……それとも、そのつもりだったのかしら……とにかく、男のひとって、罠にかかりそうになったのを知ると、ひどくおかしなことを言いはじめるものね」
「そりゃあね……」
かれは、苦虫をかみつぶしたような顔つきで言った。
「もうお忘れになってちょうだい。ねえ、みんなは、どんなプランに結局おちつくとお思いになる?」
「今晩のことかい?」
「ええ」
「もちろん、だめさ。結論は出ないだろうね。メアリイ……委員会ってものは、胴は百もあるが、頭は一つもないっていう、唯一の生命形態なんだ。しかし、いつかは、だれか自分の意志を持ったやつが現れて、否応なしに自分のプランをみんなに押しつけることになるだろう。どんなプランかはわからないがね」
「じゃあ……あなたは、どんな行動に出ることに賛成なさるの?」
「ぼく? なんにもないよ。メアリイ、ぼくが過去二世紀ほどのあいだに学んだことがすこしでもあるとすれば、それはこうだ。こういったことは、いずれとにかく通り過ぎてゆくってことさ。戦争も不景気も、預言者も誓約も……みんな通り過ぎてゆくんだ。要は、それを生きぬいてゆくことだね」
メアリイは、考えこんだような顔をしてうなずいた。
「あなたのおっしゃるとおりだと思うわ」
かれは立ち上がると背のびをした。
「そうとも、ぼくの言うとおりさ。人生っていいもんだな、とさとるにも、数百年はかかるものなんだ。ところでこの、育ちざかりの坊やは、おねんねしたいんだがね」
「わたしもだわ」
メアリイのアパートは最上階にあって、空を見上げられるようになっていた。彼女は居間にもどってくるときに、部屋の明かりを暗くし、天井の日除けをたたみこんでおいた。だから二人は、透明なプラスチックの板をとおして、降るような星空の下に坐っていたのだ。ラザルスが背のびをしてくびをあげたとき、かれの眼はふと、かれの好きな星座にとまった。
「へんだな……オリオンの三つ星が四つになったらしいぞ」
オリオン座のベルトは、三つの星から成っているのだ。メアリイはかれの声に空を見上げた。
「あれは、第二次ケンタウリ遠征隊の大宇宙船にちがいないわ。動いているって思うんだけど……」
「機械もなしじゃあ、わからないよ」
「そうね……でもあの船を、宇宙空間で建造するなんて、頭がいいわね?」
「ほかに方法がないからさ。地球で組み立てるにはでかすぎるし……ぼくはここで寝てもいいよ、メアリイ。それとも空いた部屋があるかい?」
「あなたのお部屋は、右から二つめのドアよ。欲しいものが見つからなかったら、怒鳴ってね……おやすみなさい」
彼女は顔を上げると、すばやくラザルスにおやすみのキスをした。
かれはメアリイのあとについてゆき、自分の部屋にはいった。
あくる朝、メアリイ・スパーリングは、いつもの時間に眼をさました。彼女はラザルスをおこさないように、静かに起きあがると、活力賦与機《リフレッシャー》にとびこみ、シャワーを浴び、マッサージをしてから、睡眠代行剤《スリープ・サロゲイト》を一粒のんで短い夜をおぎない、それから、彼女のウエストが太らないだけの朝食をいそいで摂った。そして、前夜は面倒だから聞かないでおいた電話のスイッチを入れた。受話器は、彼女がすぐに忘れてしまう二、三の電話をくりかえしたあと、ボーク・ヴァニングの声がひびいてきた。
「ハロー。メアリイ、こちらはボークだ。二十一時に電話している。明日の朝、十時に寄るよ。湖でひと浴びしてから、どこかで昼飯にしよう。きみのほうから連絡がなければ、これは約束だよ。じゃあ、|さよなら《サービス》」
「|さよなら《サービス》」
メアリイは、われ知らずそうくりかえした。なんてうるさい男なんだろう! あの男にとっては、ノーというのは返事にならないのだろうか? メアリイ・スパーリング、おまえは情ない女よ──自分の四分の一の年しかない男なのに、うまくあしらえないなんて。
この男に電話して伝言を──だめ、おそすぎるわ。もう、いつやってくるかわからないもの。うるさい男ね!
2
ベッドにはいるとき、ラザルスは半ズボンをぬぐと、衣裳ダンスのほうに投げた──タンスは半ズボンを受けとめるとさっと広げ、きれいに吊りさげた。
「ナイス・キャッチ」
かれはそう言ってから、自分の毛脛をちらりと見おろして苦笑した。半ズボンは、一方の脛に熱線銃《ブラスター》、一方の脛にナイフをしぼりつけてあるのを隠していたのだ。個人が武器を携帯することはいやがられる現在の平和な習慣を、かれはよく知ってはいたが、武器がないと、すっ裸のような気がしてならないのだった。とにかくそういった習慣はナンセンスだった。婆さん連中の世迷い言だった──〈危険な武器〉などというものは存在しない。あるのは、危険な人間にすぎないのだ。
活力賦与機《リフレッシャー》から出ると、ベッドに横たわるまえに、かれは武器をいつでも手にとどく場所に置いた。
かれは、両手にそれぞれの武器をにぎって、ぱっと眼をさました──それから、自分がいまいる場所を思い出してホッとし、どうして眼がさめたのだろうと、あたりを見まわしてみた。
それは、通風管をとおして聞こえてくる、ひそひそ声だった。防音装置があまり良くないな、とかれは思った。メアリイが、客に応対しているのにちがいない──そうなら、いつまでもベッドに寝ていてはいけないな。かれは活力賦与機《リフレッシャー》で元気を回復し、最良の友を両膝のうしろにくくりつけ、それから女主人《ホステス》をさがしに出かけた。
居間のドアが、かれの眼の前で音もなく大きくひらき、話し声は大きく聞こえるようになった。居間はL字型をしているので、かれの姿はかくれている。かれは、ちょっとためらったが、図々しく耳をすませた。これまでにも、盗み聞きをしたおかげで、命びろいをしたことが二、三度あったのだ。だから、かれはすこしもやましくは感じず、楽しい気分で盗み聞きをした。
男の声がしている。
「メアリイ、きみはまったく理屈にあわないことを言うじゃないか! わしがきらいじゃない、わしと結婚することはきみの身のためにもなる、とはっきりわかっているのなら、なぜそうしないんだね?」
「いま言ったじゃないの、ボーク。年の違いよ」
「ばかげたことだ。きみは何をお望みなんだ? 青春のロマンスかい? わしはたしかに、きみほど若くはない……しかし、女というものには、尊敬できて、安心させてくれる年上の男が必要なのだ。わしは、きみにとって年よりすぎるなんてことはない。わしは、いま男ざかりなんだ」
ラザルスはもう、この男を虫の好かないやつだと決めこんでいた、うっとうしい声だ──
メアリイは返事をしなかった。男はまたしゃべりだした。
「とにかく、その点については、きみをびっくりさせるようなニュースがある。今それを話せたらいいんだが……まあ、それは国家の秘密でね」
「それなら、お話にならないで。どのみち、わたしの決心を変えることはできませんもの、ボーク」
「いや、そんなことはないよ! うん、話してあげよう……きみは、信用できる人間だからね」
「ねえ、ボーク。あなたは買いかぶってらっしゃるわ……」
「かまわないよ。いずれにしろ、あと、二、三日すれば発表されることだから。メアリイ……わしはもう、年をとらないですむんだよ!」
「どういうことなの、それは?」
ラザルスの耳に、彼女の声がとつぜん、不審そうになったのがわかった。
「いま言ったとおりだよ、メアリイ。永遠の若さの秘密が発見されたんだ!」
「なにをですの? だれが? どうして? いつのことなの?」
「おや、きみは関心があるんだね? よし、話してあげよう。きみは、ハワード・ファミリーと称している、例の長生き人間のことは知っているだろう?」
「ええ……聞いたことはあるわ、もちろん。でも、それがどうしたの? あの人たちはインチキよ」
彼女はゆっくりとそう言った。
「とんでもない。わしは知っているんだよ。政府は、あの連中の主張していることを、内密に調査していたんだ。連中のいく人かは、まちがいなく百歳以上でね……そして、いまだに若々しいんだよ!」
「そんなこと、とても信じられないわ」
「でも、それが真実なんだ」
「じゃあ……どうしてなの?」
「ああ、問題はそこなんだ! やつらは、それを単に遺伝の問題だといい、長生きするのは、長生きの家系だからだと主張している。しかし、それは矛盾もはなはだしい。厳然たる事実とくらべて、科学的に考えられないことだ。政府がきわめて厳密に調査した結果、はっきりした答が出たよ。あの連中は、若さを保つ秘密をにぎっているんだ」
「そんなこと断言できないじゃない」
「おいおい、メアリイ? きみはいい娘《こ》だが、世界一の科学的頭脳を持った専門家の意見をうたがってみてもだめだよ。ところで、秘密の部分はここなんだ。われわれは、まだ、あの連中の秘密を手に入れていない……しかし、まもなく手に入れられるんだ。一般にはどんな騒ぎもおこさずに、連中をつかまえて泥をはかせるんだ。その秘密は手にはいる……そして、きみもわしも、これ以上年をとらないですむようになるんだ! どう思う、きみは?」
メアリイは、きわめてゆっくりと、ほとんど聞きとれないぐらいの声で答えた。
「だれもが長生きできたら、すてきなことね」
「え? そうだね。しかしとにかくどんなことになろうと、きみとわしは、その治療を受けることになるんだよ。われわれのことを考えるんだ、メアリイ。来る年も来る年も、幸福な、わかわかしい夫婦生活。一世紀以下ではないよ。たぶんひょっとすると……」
「ちょっと待って、ボーク。この秘密≠フことだけど、だれもがその恩恵を受けるんじゃないの?」
「それはだね、まあ……そいつは高度な、政策上の問題なんだ。現在でも、人口過剰は、そうとう厄介な問題になっているんだよ。実際上、その治療は、重要人物と……その配偶者にかぎる必要があるかもしれないね。でも、そんなことで、きみのかわいい頭を悩ますことはない。きみとわしは受けられるんだから」
「つまり、あなたと結婚しさえすれば、わたしも受けられるっていうことなのね」
「うーん……そいつは言いかたが悪いよ、メアリイ。わしはきみのためなら、どんなことでもするよ……なぜなら、きみを愛しているからなんだ。でも、わしと結婚してくれるとなれば、ことはまったく簡単だ。だから、結婚すると言ってくれ」
「そのことを、いまは言わないで。あなたは、この秘密≠どうやってかれらから手に入れるつもりなの?」
ラザルスは、その男がはげしくうなずく音さえ聞こえてきたように思った。
「ああ、やつらは白状するさ!」
「話してくれなかったら、かれらを収容所へでも追っぱらってしまうつもりなの?」
「収容所へ? メアリイ、きみには事情がまるでつかめていないんだよ。これは単に小さな社会的犯罪じゃあすまされないものだ。これは裏切りだ……人類全体に対する裏切り行為なんだ。われわれはどんな手段でもとるよ! 預言者≠スちの使った手段をね……もしやつらが、進んで協力しようとしなければ」
「それ本気なの? まあ、それは誓約≠ノ違反することよ!」
「誓約なんか、どうだっていいんだ! これは生きるか死ぬかの問題なんだよ……たかが紙切れ同様の誓約などで、われわれが躊躇するとでも思うのかい? 人間が生きてゆくための根本的な問題のためには、くだらぬ法律などにはかまっていられないんだ……死を賭しても手に入れなければいけないもののためにはね。そして、これはまさしくそういうことなんだよ。やつらは……底意地の悪い悪人どもは、生命そのものをわれわれから隠そうと企んでいるんだ。こんな非常事態のときに、われわれが慣習≠ノ頭を下げているとでも思うのかい?」
メアリイは、おし殺した、恐怖に満ちたような声で答えた。
「あなたはほんとに、議会が誓約を破るとお思いなの?」
「思うかって? 議会は非常事態令を昨夜出したんだ。われわれは行政長官に、全面指揮権をあたえたよ」
ラザルスは、ながい沈黙のあいだ、ずっと耳をそばだてていた。やがてメアリイは口をひらいた。
「ボーク……」
「なんだい、メアリイ?」
「あなたは、なんとかこれに手を打たなきゃあいけないわ。どうしても、そんなことは、やめさせなくちゃいけないのよ」
「やめさせる? きみは、自分の言っていることがわからないんだ。そんなことはできないね……できても、やるものか」
「でも、しなくちゃいけないのよ。議会を説得しなくちゃいけないわ。みんな、たいへんな間違いを犯そうとしているのよ。あのかわいそうな人々を迫害してみても、なんの利益もないわ。秘密なんてないのよ!」
「なんだって? きみは興奮しているんだね、メアリイ。きみは、地球で最高の地位にあり、最上の知恵を持った人々に反対しようとしている。信じてくれ、われわれは何をやろうとしているのか、ちゃんと承知しているんだ。手荒な手段をとりたくないのは、われわれもきみと同じだよ。だが、大勢の人の幸福のためなんだ。ここでこんな話をしたのはまずかったね。きみは優しくて、気持の暖かい人だ。だからこそ、わしもきみが好きなんだ。どうして、わしと結婚して、政治問題などに頭を悩ますのはやめないんだね?」
「あなたと結婚? とんでもない!」
「メアリイ……きみは気が動転《どうてん》しているんだね。じゃあ、はっきりした理由を、ひとつだけでいいから言ってくれるかい?」
「言ってあげるわ! なぜなら、わたしも、あなたが迫害しようとしている人たちの一人だからよ!」
ちょっとまた沈黙がつづいた。
「メアリイ……きみは気分でも悪いのかい?」
「気分が悪い? わたしが? わたしは年相応に元気よ。よく聞きなさい、おばかさん! わたしには、あなたの年の倍にもなっている孫があるわ。わたしは〈初代預言者〉がこの国を支配したときから、ここにいるのよ。ハリマンが、最初の月ロケットを飛ばしたときから、ここにいるのよ。あなたなんか、赤ん坊にもなってなかったわ……あなたのおじいさん、おばあさんが、まだ顔をあわせてもいなかったころ、わたしは一人前の女として結婚したのよ。それを、あなたって人は、わたしや仲間を追いかけまわすだの、拷問するだのとまくしたてているのね。あなたと結婚するですって! わたしの孫とでも結婚したほうがましだわ!」
ラザルスは片方の足に体重をうつすと、右手を半ズボンの内側にしのびこませた。かれは、すぐにも騒動がおこるだろうと考えたのだ──女ってやつは、とんでもないときに頭にくるから厭になるよ、とかれは思った。
かれは待った。ボークの返事は冷たかった。経験豊かな権力者らしい声が、感情を動かせることもなくひびいた。
「気分を楽にするんだよ、メアリイ。坐りなさい。わしがきみの面倒はみてあげる。まず鎮静剤を飲んでほしいな。それからこの町の……いや、この国最高の精神分析医を頼もう。すぐによくなるよ」
「わたしに、さわらないで!」
「さあ、メアリイ……」
ラザルスは、部屋のなかに進み出ると、熱線銃《ブラスター》の狙いをヴァニングにつけた。
「このトンマ野郎が、きみにうるさくしてるってわけだな!」
ヴァニングは、ぎくっとしてくびをまわした。
「きみはだれだ? ここで何をしてるんだ?」
激怒した声にはかまわず、ラザルスはメアリイにたずねた。
「ひと言いってくれ、こいつをばらばらにしてやるよ。隠すのに都合がいいようにね」
すると、いまは落着きをとりもどした彼女は言った。
「いけないわ、ラザルス。でも、感謝するわ。そのピストルをしまってちょうだい。そんなことは、おこしてほしくないのよ」
「オーケイ」
ラザルスは熱線銃《ブラスター》をホルスターにしまったが、その手は握りにかかったままだった。ヴァニングは、また言った。
「きみは何者だ? ここへとびこんできて、どうしようというんだ?」
ラザルスは、おだやかに言った。
「それはこっちで聞きたいね、兄弟。まあ、それもよかろう。ぼくは、きみたちがさがしている長生き人間のひとりだよ……ここにいるメアリイみたいにね」
ヴァニングは、するどくラザルスを見つめ、メアリイをふりかえった。
「まさか……そんな馬鹿なはずはない。しかし……きみの話をしらべてみても、損にはなるまい。どのみち、きみを拘引する理由は充分あるし、こんなにはっきりした反社会的先祖返りは見たことがない……」
かれはそう言いながらテレビ電話にちかづいた。
「電話から離れていたほうがいいぜ!」
ラザルスは、いそいでそう言ってから、メアリイにむかってつけ加えた。
「ピストルにはさわらないよ。ナイフを使うから」
ヴァニングは立ちどまると、いらいらした口調で言った。
「よろしい。その高周波ナイフをしまってくれ。ここからは電話しないから」
「よく見ろ。これは高周波ナイフじゃないんだ、鋼鉄さ。安物だよ」
ヴァニングは、メアリイ・スパーリングのほうを見た。
「わしは帰るよ。きみに分別があるなら、わしといっしょに来るほうがいいな」
彼女がくびをふると、かれは当惑したような顔をし、肩をすくめてみせ、ラザルス・ロングのほうに向いた。
「きみのほうはだね、その野蛮な態度から、たいへん面倒なことにまきこまれたわけだ。きみはそのうち逮捕されることになるよ」
ラザルスは天井の日除けを見上げた。
「ぼくをつかまえたがっていた金星都市《ヴィナス・パーク》の総督を思い出すよ」
「それがどうした?」
「その男より、ぼくのほうがずっと長生きしてるってことさ」
ヴァニングは答えようとして口をあけたが──とつぜんふりむくと、外側のドアが満足に開かないうちに、いそいで出ていった。ドアがぴったりと閉まると、ラザルスは物思いに沈みながら言った。
「あんなわけのわからない男には、めったに会えないな。あいつは、消毒していないスプーンなど、一度だって使ったことがないと賭けてもいいね」
メアリイは、おどろいたような顔をしてから、くすくすと笑った。ラザルスは彼女のほうを見て言った。
「元気らしくて何よりだ、メアリイ。びっくりしてしまったんじゃないかと思ったよ」
「びっくりしてしまったわ。あなたが聞いてるとは知らなかったし、その場その場を、思いつくままにしゃべっていなければいけなかったんですもの」
「邪魔したかい?」
「いいえ。はいってきてくださってうれしかったわ……ありがとう。でも、わたしたち急がなくちゃあ」
「ぼくもそう思うよ。やつは本気で言ってたからな……すぐに警官《プロクター》がぼくをさがしにやってくるだろう。たぶん、きみのほうもね」
「わたしもそう思うわ。さあ、ここから出ましょう」
メアリイが出発の準備をするのは、数分もかからなかったが、二人が廊下から広間へ出たとき、腕章と注射器《ハイポ・キット》のホルスターから警官とわかる男と、ぱったり出くわした。そいつは話しかけてきた。
「|こんにちは《サービス》。わたしは、市民メアリイ・スパーリングといっしょにいる人をさがしています。場所はどこでしょうか?」
「ええ、彼女の住まいはあそこですよ」
かれは廊下のむこうを指さした。治安官《ピース・オフィサー》がそちらをながめたとたん、ラザルスは、そいつの後頭部を、熱線銃の握りで注意ぶかく叩き、ぐったりと倒れかかった男の身体をささえた。
メアリイは、ラザルスが、そのあつかいにくい肉塊を彼女のアパートに運びこむのを手伝った。かれは警官のうえにかがみこむと、そいつのホルスターから充填した注射器をとり出して、男に注射した。
「さあ、これで何時間かは眠っていてくれるだろう」
それからかれは、考えぶかげに注射器入れを見て、それを警官のベルトから取りのけた。
「こいつは役に立つかもしれないからね。とにかく、持っていっても邪魔にはならないだろう」
それからかれは、警官の腕章もはずすと、自分の物入れに収めた。
二人はまたアパートを出ると、駐車階《パーキング・レベル》へ降りた。坂道をあがると、ラザルスはメアリイが〈北岸〉へ装置をセットするのに気がついた。
「どこへ行くんだい?」
「ファミリーの会議場よ。探し出されないですむところは、ほかにないわ。でも、夜までは、どこかに隠れていなくちゃあ」
車が北にむかう電波管制道路にはいると、メアリイは数分間眠りたいと言った。ラザルスのほうも、数マイルのあいた景色をながめていたが、やはり眠りこんでしまった。
非常警報がうるさく鳴る音と、スピードスターが減速して停止するのとで、二人は眼を覚ました。メアリイは手をのばすと、警報装置を切った。
「全車は、ローカル管制下に入れ。二十マイルのスピードで最寄りの交通管制塔に行き、検車を受けること。全車は、ローカル管制下に入れ。二十マイルの……」
彼女はそれも切った。ラザルスは陽気な声で言った。
「ぼくたちのことだな。なにかいい考えはあるかい?」
メアリイは答えなかった。彼女は窓の外をのぞいて、あたりをしらべてみた。二人の車が走っている高速管制道路と、管制されていないローカル交通路とをへだてる鋼鉄の垣根《フェンス》が、右のほう約五十ヤードのところに平行して走っていたが、前方すくなくとも一マイルまでは、そちらへ垣根《フェンス》を横切ってゆく坂道はなかった──それがある場所には、むろん、検車を受けるように命令されている管制塔があるのだ。
彼女はまた車を発車させ、手動操縦をしながら、とまったりゆっくり動いたりしている車の群れを縫って、スピードをあげていった。車が垣根《フェンス》にちかづくと、ラザルスは自分の身体がクッションにおしつけられるのを感じた。車は大きくゆれて浮かび上がり、垣根《フェンス》をすれすれに飛び越えた。メアリイは車を、道路の向こう側に着陸させて走らせた。
北から近づいてきた一台の車の行く手を、かれらの車は、さっと横切った。向こうの車は九十マイル以下のスピードだったが、その運転手はあっけにとられた──見通しの利く道路の上に、どこからともなく一台の車が現われてぶつかりそうになるとは、思いもかけないことだったからだ。メアリイは左にかわし右に行き、またもとにもどらなければならなかった。車はぐぐっと回転して、後車輪で立ち上がり、ジャイロがしっかりと車をにぎって、もとに戻そうとするのに逆らって身悶えした。ガラスをこすりつけるようなひどい音を出しながら、後車輪が手がかりを求めるのにあわせて、メアリーは車の安定をとりもどそうと躍起になった。
ラザルスは、顎の筋肉をゆるめて、ほーっと大きく息を吐き出した。
「もう二度と、いまみたいなのはご免だね」
メアリイはにやっと笑って、かれのほうに視線を投げた。
「女が運転するといらいらする?」
「いやいや、ちっとも! ただ、いまのようなことがまたおこりそうになったら、さきに教えてほしいと言ってるだけさ」
彼女はうなずくと、心配そうに言った。
「わたしにもわからなかったのよ。これからどうしたらいいのか、さっぱりわからないわ。夜になるまで郊外にかくれていられると思ったんだけど……あの垣根《フェンス》を飛び越えるのに、ちょっと派手なところを見せなくちゃいけなかったから、いまごろはもう、だれかが塔に報告していることでしょうからね」
「なぜ夜まで待つんだい? なぜこのいかさま機械で湖まで飛んでいって、もぐっちまわないんだい?」
彼女はいらいらと答えた。
「そんなことしたくないのよ。もうずいぶん注意をひきつけてしまったわ。地上車に見せかけた水陸空三用車は便利なものだけど……もしだれかが、水にもぐるのを見つけて警察に知らせたら、だれかがすぐにその答を見つけてしまうわ。それから連中は釣りをはじめるでしょう……地震計だの音響測深機だのと、あらゆるものを動員して」
「しかし、会議場《シート》には、防禦遮蔽装置がついているんだろう?」
「もちろんよ。でも、あんなに大きいものなら、すぐ見つかるわ。もし連中が探す目的を知っていて、探しつづけたら」
ラザルスもゆっくりとうなずいた。
「もちろん、きみの言うとおりだ。ぼくらはぜったい、うるさい警官どもをファミリーの会議場《シート》へは案内したくないな。メアリイ、いっそきみの車をめくらめっぽうに走らせて、道に迷ってしまったほうがいいんじゃないか、どこか会議場《シート》じゃないところに」
かれが顔をしかめてそう言うと、メアリイは鋭く答えた。
「いいえ、会議場《シート》には行かなくちゃあ」
「なぜ? もしきみが狐を追いかけているときに……」
「ちょっとだまってて! やってみることがあるわ」
ラザルスはだまっていた。メアリイは片手で運転しながら一方の手で計器盤の物入れをまさぐった。
すると声が聞こえてきた。
「答えは?」
「人生は短し……」
メアリイは答えた。かれらは合言葉を話し終った。彼女はいそいで言った。
「聞いて、面倒なことになったの……わたしにあわせていて」
「オーケイ」
「プールには潜水艇がいる?」
「うん」
「よかった! わたしのほうによこしてちょうだい」
彼女は話を中断すると、ラザルスに泳げるかどうかをたずねてから、やってほしいことをくわしく話した。
「それだけよ。でも、急いで! 数分しかないかもしれないのよ」
「そのままで、メアリイ!」と、その声は抗議した。「昼間には潜水艇を出せないってことを知っているだろう。とくになぎの日には。そんなことをするとすぐに……」
「やってくれるの、それとも、やってくれないの!」
もうひとりの声が割ってはいった。
「聞いていたよ、メアリイ……アイラ・バーストウだ。きみをひろい上げるよ」
「でも……」
と、最初の声が反対した。
「だまってろ、トミイ。きみの無電装置をしっかり見つめていて、ぼくをうまく迎え入れてくれりゃあいいんだ。じゃああとでね、メアリイ」
「わかったわ、アイラ!」
メアリイは、会議場《シート》と話をしているあいだに、速度も落とさず、めくらめっぽうにローカル交通路から、一昨日の夜にとおった舗装していない道へと折れた。ラザルスは、歯をくいしばって座席にしがみついていた。二人は、ありきたりの紫色のウマゴヤシ草のなかに立てられて雨風にさらされた掲示板のそばを走りすぎた。〈放射能汚染地域──これよりさき危険〉ラザルスはちらりとそれを見ると肩をすくめた──かれには、自分たちの危険がどうして中性子のようなもので増大するのか、わからなかったのだ。
メアリイは、見捨てられたような道路のそばの、まばらの木立ちのなかで車を急停車させた。
湖は、低い崖のすぐ向こう、かれらの足元にひろがっていた。彼女は安全ベルトをはずし、タバコに火をつけて、ほっとした。
「さあ、もう待つだけよ。どんなにアイラががんばっても、ここまで来るには、すくなくとも三十分はかかるでしょう。ラザルス、わたしたちが、こちらへ曲がるところ、見られたと思う?」
「ほんとのところを言うとね、メアリイ、ぼくはあんまりいそがしくって、見る暇もなかったんだ」
「そう……でも、だれもここへは来ないでしょうね。腕白小僧以外は」
それに、おてんば娘もだ、とラザルスは心のなかでつぶやいてから、声を出した。
「放射能の掲示板が見えたが、カウントはどれぐらいなんだい?」
「ああ、あれのこと? あなたがここに家を建てでもしなけりゃ、心配することなんか、なにもないわ。|熱い《ホット》のは、わたしたちのほうよ。通信装置のそばにいなくていいのなら、わたしたち……」
通信装置が声をあげた。
「オーケイ、メアリイ。きみのまん前だ」
彼女はびっくりした。
「アイラ?」
「話しているのはアイラだが、まだ会議場《シート》にいる。エヴァンストンの修理ドックにいるピート・ハーディが役に立った。かれをきみのところに送る。このほうが早いから」
「オーケイ……ありがとう!」
彼女がラザルスに話そうとふりむいたとき、かれはメアリイの腕にふれて言った。
「うしろを見ろ!」
ヘリコプターが一機、百ヤード足らずのところに着陸するところだった。三人の男がとび出してきた。みんな警官の服装をしている。
メアリイは車のドアをはげしくひらくと、ガウンをするりと脱ぎすてた。そして片手を車のなかにつっこみ、計器盤のボルトをゆるめてもぎとると、ラザルスに叫ぶなり走り出した。
「いそいで!」
ラザルスは、半ズボンをいそいで脱ぐと、彼女のあとを追って崖のほうへ走った。メアリイは踊るように崖をかけおりてゆき、かれは、とがった岩をののしりながら、そのあとにつづいた。車は爆発し、二人は爆風でよろめいたが、崖のおかげで助かった。
二人は同時に水のなかへ飛びこんだ。
小さな潜水艇の気閘《ロック》は、一度に一人はいるのがやっとの大きさだった。ラザルスはメアリイをはじめに押しこんだが、彼女が抵抗したので、ひっぱたこうとし、水の中では平手打ちがきかないことを悟った。それから、無限につづくのかとも思われる時間がたち、かれは、水を呼吸することはできないものだろうか、と思いはじめていた。〈魚がやれるのに、おれにはできないというのか〉と、心のなかで言ったとき、手元の掛金が動き、かれはそのなかへもぐりこむことができた。
気閘の排水に、ながい十一秒がかかり、そのあいだにラザルスには、水のおかげで自分の熱線銃《ブラスター》にはどんな故障がおこったかをしらべるチャンスがあった。
メアリイは、熱心に艇長に話しかけていた。
「聞いてよ、ピート……警官が三人、うしろにいて、ヘリコプターを持ってるのよ。ちょうどわたしたちが水に飛びこんだとき、わたしの車は、その三人の眼の前で爆発したわ。もしあの連中がみんな死ぬか負傷するかしなかったら、わたしたちの行くところは……水のなかしかないと考える利口な者もいるでしょう。連中が離陸する前に、ここから離れなくちゃあいけないのよ」
ピート・ハーディは、操縦装置を動かしながらこぼした。
「そううまくゆけばいいが……たとえ肉眼でさがされるにしたところで、むこうが高度をとるよりはやく、見えない圏外に逃がれなくちゃいけないんだ……それが、できないときているんだからな」
だが、小さな潜水艇は、三人を安心させるように突進していった。
メアリイは、潜水艇から会議場《シート》を呼んだものかどうかと迷ったが、呼び出さないことに心を決めた。呼び出せば、潜水艇と会議場《シート》自体の両方に危険が増すだけだからだ。そこで彼女は、二人がはいるにはあまりにもせま苦しい客室に小さくなって、気分を落ちつかせながら待った。ピート・ハーディは水中ふかくにもぐらせ、湖底すれすれに走って、マスケゴン・ゲアリーの湖底ビーコンを捕捉し、それから盲目操縦にはいった。
会議場《シート》のなかのプールに浮上するまでに、彼女は、うまく遮蔽された装置はあるが、物理的な通信手段はとらないことに心を決めていた。そのかわりにメアリイは、そこで看護されているファミリーのなかの精神感応人《テレパス》に、すぐ役立ってくれるものがいればと願ったのだ。そういったことのできる人間は、この国の全人口のなかにもほとんどいないように、ハワード・ファミリーの健康な人々のなかには、ほとんどいなかった。
しかし、かれらの異常な長寿を保ち強化してきた先天性そのものが、良い遺伝子と同じく悪い遺伝子をも保存し強化してきていた。だから、かれらのなかには異常に高いパーセンテージで、肉体的精神的な不具者が存在していた。ファミリーの遺伝管理局は、良い血統を保持する一方、悪い血統を除去する問題にじっくりと取りくんでいた。だが長い年月のあいだに、ファミリーは、自分たちの長寿を埋合わせるために、不具者の数がふえてゆくことを我慢していかなければいけなかったのだ。
しかし、これらの不具者のほぼ五パーセントが、精神感応の面で鋭敏だったのだ。
メアリイは、これらの連中の何人かが保護されている本部の看護所《サンクチュアリ》へまっすぐに行った。ラザルス・ロングは、そのすぐあとにつづいた。彼女は婦長を緊張させた。
「リトル・ステファンはどこなの? かれが必要なのよ」
婦長は怒ったように言った。
「声を低くして。休養時間なの……できません」
メアリイは言いはった。
「ジャニス、かれに会わなくちゃいけないのよ。待ってなんかいられないことなの。わたし、ファミリーの全員に伝えなくちゃいけないことがあるのよ……いますぐに」
婦長は両手を腰においた。
「通信室へ持っていってよ。いつだって、子供たちの邪魔をしに来てはいけないわ。そんなことさせません」
「ジャニス、おねがい! 精神感応《テレパシー》以外は、なにも使えないのよ。必要でなかったら、わたしがこんなまねをする人間じゃないって、わかってるでしょ。さあ、ステファンのところへ連れてって」
「連れてっても同じことよ。リトル・ステファンは、今日ひどく具合が悪いんですもの」
「では、なんとかやれるいちばん強い精神感応人《テレパス》のところへ連れてって。いそいで、ジャニス! みんなの安全がそれにかかっているのよ」
「評議員がここへあなたをよこしたの?」
「ちがうわ! 時間がなかったのよ!」
婦長は、まだ疑いぶかそうにしていた。ラザルスが、女をぶんなぐってから、どれぐらいになるかなと思い出そうとしているあいだに、婦長は折れた。
「わかったわ……ビリーに会わせましょう、こんなことしちゃいけないんだけど。でも、つかれさせちゃだめよ」
なおもぶつぶつ言いながら、婦長はふたりを廊下にみちびき、にぎやかに騒いでいる部屋をいくつか過ぎてから、そのなかの一つにはいった。ラザルスは、ベッドのうえにいる物を見て、眼をそむけた。
婦長は戸棚のところへ行くと、皮下注射器を持って引返してきた。
「かれは、催眠状態で働くのかい?」
ラザルスがたずねると、婦長は冷やかに答えた。
「いいえ、わたしたちに気づかせるために、興奮剤を打たなければいけないんですよ」
彼女は、その大きなかたまりの腕を消毒して注射した。
「さあ、どうぞ」
と婦長はメアリイに言うと、むっつりとした表情をして、だまりこんだ。
ベッドのうえの人物は身じろぎをした。その眼はだらしなくぎょろぎょろと動き、それから何かを認めたようだった。そいつは、ニッと笑って言った。
「メアリイおばさん! ビリー・ボーイに何か持ってきてくれたの?」
彼女はやさしく答えた。
「いいえ、こんどは持ってこられなかったの。メアリイおばさんは、すごくいそいでたからなのよ。このつぎね? すごいのを、それでいい?」
「いいよ」
そいつは、おとなしく答え、彼女は手をのばしてその髪の毛をなでた。ラザルスは、また眼をそらした。
「いい子なのね……ねえ、ビリー・ボーイは、メアリイおばさんを助けてくれる? だいじな、だいじなことなのよ」
「うん、いいよ」
「お友だちと話せる?」
「うん、話せるとも」
「みんなによ」
「うん。たいてい、みんな何も言わないけれどね」
「みんなに呼びかけて」
ほんの短かいあいだ沈黙がおとずれた。
「みんな聞いてるよ」
「すごいわ! さあ、よく気をつけて聞いてね、ビリー・ボーイ……ファミリー全員に、緊急警告! こちらは長老のメアリイ・スパーリング。議会の非常事態宣言にもとづいて、行政長官は、姿をあらわしたすべての人々を逮捕しようとしています。議会は行政長官に、全面指揮権を発動するように指令しました……わたしの見解では、かれらは誓約を無視し、どのような手段を使っても、わたしたちの、いわゆる〈長寿の秘密〉を白状させようとしています。かれらは、預言者時代、審問官たちによって生み出された拷問をすら使おうと考えています」
彼女はちょっと声をとぎらし、それからまた声をふりしぼって言った。
「さあ、いそいで! みんなを見つけ出し、注意し、かくまってください! みんなを助けるのに、ほとんど時間は残っていないんです!」
ラザルスが彼女の腕にふれてささやくと、メアリイはうなずいてつづけた。
「もし、仲間のだれかが逮捕されたら、どんな手段を使っても、救い出してください! 誓約に訴えようとしてはいけません、正義を論じて時間を消費しないでください……助け出すのです! さあ、行動をおこしてください!」
彼女は話し終り、ぐったりとなってはいたが、やさしくたずねた。
「みんな聞いてくれたかしら、わたしたもの言ったこと、ビリー・ボーイ?」
「うん」
「ほかの人に話してる?」
「うん。馬のジミーのほかはみなね。あいつはぼくに腹をたてているんだよ」
そいつは、そうつけ加えた。
「馬のジミー? かれはどこにいるの?」
「うん。あいつが住んでいるところさ」
すると婦長が口をはさんだ。
「モントリオールです。そこには、ほかにもうふたり、精神感応人《テレパス》がいます……あなたのお話は通じましたわ。もうすみましたの?」
メアリイは不安げに言った。
「ええ……でも、べつの会議場《シート》に、いまの伝言を復唱してもらったほうがいいのじゃないかしら」
「だめよ!」
「でも、ジャニス……」
「そんなこと許しません。あなたがメッセージを送らなければいけなかったことはわかりますが、ビリーにはもう解毒剤を与えたいんです。ですから、もう出ていってくださいな」
ラザルスは彼女の腕をとった。
「行こう、メアリイ。通じようと通じまいと、きみはできるかぎりのことをやったんだ。りっぱだったよ」
メアリイは、本部の事務長にくわしい報告をするため、そのまま去っていった。ラザルスは、自分の仕事をしようと彼女からわかれ、あまりいそがしくなくて手を貸してくれそうな人間はいないかとさがしながら、もとの道を引き返していった。すると、最初に出くわしたのは、プールの入口にいた守衛たちだった。
「|今日は《サービス》」
そう話しかけると、そのなかの一人が答えた。
「|今日は《サービス》。だれかをさがしているんですか?」
その男は、ふしぎそうな眼つきで、ほとんど裸同然な格好のロングをちらりと見たが、すぐに眼をそらした──他人がどんな服装をしていようと、なにも着ないでいようと、それは個人的な問題なのだ。
「まあ、そういうところだ。ねえきみ、半ズボンを貸してくれそうな人を知らないかい?」
ラザルスがそうたずねると、その守衛は、陽気な声で答えた。
「眼の前にいますよ……ディック、ちょっと交代してくれ。すぐにかえってくるからな」
その男は、ラザルスを独身男子の宿舎へ連れていって、支度をととのえてくれ、かれが財布と中身をかわかすのを手伝い、そして、毛深い太ももにくくりつけてあった武器については何も言わなかった。
年上の者がどういう行動をとろうと、それは知ったことではなかったし、それに年上の連中のほとんどは、ほかの人々よりも、プライバシーの問題については敏感なのだ。かれはメアリイ・スパーリング伯母が、水に飛びこむためか裸になって到着したのを見たが、アイラ・バーストウがピートに水中救助を命令しているのを前もって聞いていたので、べつにおどろきもしなかった。そして彼女とともに、この年上の相手が、金物で重みをつけて湖に飛びこんだことはかれをびっくりさせはしたが、行儀作法を忘れさせてしまうほどではなかった。
「ほかになにか必要なものはありませんか? その靴は合いますか?」
「ぴったりだよ、ありがとう、きみ」
ラザルスは借りた半ズボンをなでた。かれにはちょっと長すぎたが、これでほっとできた。バンドもちょうどいい──これが金星にいるのだったら、とかれは考えてみた。だがかれは、金星の習慣をそう気にしたこともなかったのだ。どうだっていいんだ、人間は着ていさえすれば気がすむもんだ。
「これでほっとした、もう一度礼を言うよ。ところで、きみの名は?」
「エドマンド・ハーディです。フート家の」
「そう? きみの出は?」
「チャールス・ハーディとエヴリン・フートです。エドワード・ハーディ=アリス・ジョンソンとテレンス・ブリッグス=エレノア・ウエザラル。オリバー……」
「それで充分だ。そんなところじゃないかと思ったよ。きみは、ぼくのひいひい孫の一人だね」
するとこの男は愉快そうに答えた。
「わあ、そいつはすごいや。ぼくらのあいだには、血縁関係のひとが十六人……まっすぐ数えただけでもあるってことですね。お名前はどうおっしゃるんですか?」
「ラザルス・ロング」
ハーディはくびをふった。
「なにかの間違いでしょう。ぼくの家系じゃありません」
「じゃあ、ウッドロウ・ウィルスン・スミスはどうだい。ぼくの最初の名前はそれだよ」
「ええ、あの人! ええ、たしかに。でも、たしかあなたは──」
「死んだ? ところが、ぼくは死ななかったんでね」
「いえ、そんなつもりで言ったんじゃないんです」
ハーディは、無骨なアングロ・サクソンなまりで、顔を赤らめながら、すぐにあとをつけ加えた。
「あなたにお会いできてうれしいです、おじいさん。ぼくはいつも二〇一二年のファミリー会議の真相を聞きたいと思っていたんです」
ラザルスは、しわがれ声で答えた。
「きみが生まれるより前のことだよ、エド。それからぼくをおじいさん≠ネんて呼ぶのはやめてほしいな」
「すみません……ラザルス。なにがほかにすることはありませんか?」
「機嫌を悪くしたりしてすまなかったね……ああそうだ。どこで朝食にありつけるね? 今朝はひどくいそがしかったんだ」
「いいですとも」
ハーディはかれを、独身宿舎の食堂へ案内し、自動調理機を動かして、守衛仲間と自分のコーヒーを出して去っていった。ラザルスは、かれの〈ひと口ほどの朝食〉をとった──約三〇〇〇カロリーある、じゅうじゅう音を立てているソーセージ、玉子、ジャム、あたたかいパン、クリームを入れたコーヒーだ。というのは、燃料を再補給する機会をつかむまでに、どれほど遠くまで飛ばなくてはいけないかわからないから、つねに自分の補助タンクはいっぱいつめておくという主義で、かれはいつも動いていたからだ。
やがてかれは、背のびをするとおくびを出して皿をかきあつめ、焼却器におしこむと、ニュース・ボックスをさがしに出ていった。
それは、独身者用娯楽室のそばの図書館にあった。その部屋には、外見から見たラザルスの年格好と同じくらいな男のほかには、だれもいなかった。似ているのは年齢の点だけだった。その男はほっそりとしていて、やさしそうな顔立ちをしており、ラザルスの白髪まじりのもじゃもじゃ頭とは似てもつかず、きれいに梳かれた赤毛だった。そいつは両眼を〈マイクロ・ビュウワー〉におしつけて、ニュースを見ようとしていた。
「やあ」
ラザルスが大きなせきばらいをして、そう言うと、その男はいそいで顔をあげて叫んだ。
「えっ! ごめんなさい……びっくりしたもんで。勤務ですか?」
「ニュース・ボックスをさがしていたんです。そいつをスクリーンに映写してもいいですか?」
「どうぞどうぞ。なにかとくにおさがしになっているものでも?」
小さいほうの男は立ちあがると、巻きもどしたボタンを押し、それから映写装置をいじくった。ラザルスは答えた。
「われわれの……ファミリーについてのニュースがあったら見たいと思いましてね」
「ぼくもそれをさがしていたんです。サウンド・トラックに見つけさしたほうがいいですね」
「オーケイ」
ラザルスはうなずいて、音声のほうに装置を切りかえた。
「略号は何です?」
「メトセラ」
ラザルスはボタンをおした。機械はスピードをあげてトラックを走り読み、すっとばし、ぺちゃくちゃしゃべっていたが、やがてスピードを落とすと、勝ち誇ったようにカチリと音をさせて読み上げはじめた。
「デイリー・データ社。全国主要通信社と契約している中西部唯一のニュース・サービス。月世界市《ルナ・シティ》へビデオ・チャネルを中継。太陽系いたるところに通信員を配置。最初で迅速、最大……ネブラスカ、リンカーン発……大学者も年寄りを公然と非難しています! ブライアン学会の名誉総裁ウイットウエル・オスカーセン博士は、ハワード・ファミリーと称する同族グループに対する公式再審議を要請しています。
博士はつぎのように言っています……これらの人々が、おそらくは永久に人間の寿命を引き伸ばす問題を解決したことはあきらかである。そのことでは、かれらはほめたたえられるべきだ。それは価値あり、偉大な成果をもたらした業績だからである。しかし、その解決法は、遺伝によるものにすぎないというかれらの主張は、科学と常識を無視しているものだ。確立された遺伝学の諸法則を有するわれわれの新しい知識は、確信をもって、かれらが大衆から、なにか秘密な技術か、そういった結果をもたらす技術をかくしていると推論できるのだ。
科学知識が、少数の人々の独占するものとなることを許すのは、われわれの慣習に反している。そういった知識をかくすことが生命そのものに対する打撃となるとき、そういった行為は人類に対する叛逆罪となるのだ。わたしは一市民として、政府が強力にこの問題に対処されるよう要求する。またこの事態は、誓約を作り、われわれの基本的慣習を法制化した賢人たちによっても、予測されなかった種類のものであることを、かれらに忠告する。いかなる慣習も人為的なものであり、したがってそれは、無限な相互関係を限定する有限な試みなのだ。だから、昼のあとには夜が来るごとく、いかなる慣習にも必ず例外があることは明白なことなのだ。新しい事態に直面して、それらに拘束されることは……」
ラザルスは停止ボタンをおした。
「こいつのは、もう充分でしょう?」
もう一人の男は溜息をついて答えた。
「ええ、もうそのことは聞いてました。ぼくはこんなに、言葉の持つべき厳密な意味がまるっきり欠けている話は、いままでに聞いたこともありません。びっくりしましたね……オスカーセン博士は、過去には、りっぱな仕事をした人なんですがね」
ラザルスは、機械をまた動かしながら言った。
「もうろくしたんだね。自分の欲するときに、自分の欲するものを求める……そして、それが自然の法則に合致すると考えるんだな」
機械は、うーんとうなり、またカチリと音をたててしゃべり出した。
「デイリー・データ社。全国主要通信社と契約している……」
「このコマーシャルをなくしてしまうことはできないんですか?」
ラザルスがそう言うと、もう一人の男は装置をちらりと見た。
「そんな装置はついていないようですね」
「カリフォルニア、エンセナダ発……ジェファースとルーシー・ウエザラル夫妻は今日、一群の市民がかれらの家へ押し入り、かれらに個人的な侮辱を加え、非社交的な行為を犯したと申し立て、特別な当局の保護を要求しました。ウエザラル夫妻は、自ら認めたところによりますと、かの悪名高いハワード・ファミリーの一員であり、申し立ての事件は、その事実に由来するものだと主張しています。同|地方公安官《ディストリクト・プロポースト》は、かれらがその証拠を提出しないことを指摘し、同問題を熟考しています。今夜、同町民大会が開かれることが発表され、その模様は……」
その男はラザルスのほうへ向いた。
「あなた、聞かれましたね。この二十年間にはじめての、利己的な集団暴行のケースです……ところが連中は、まるで天気予報器の故障ぐらいに知らせているんですよ」
ラザルスはむっつりと言った。
「そうでもないな。ぼくらのことを述べるのに使われた言葉には、言外の意味がどっさりあったからね」
「ええ。そのとおりですが、うまく使っていましたよ。あの知らせのなかに、一つでも、一・五より高い感情指数を示す言葉が使われていたでしょうか? ニュースの放送には、二・〇まで許されているということは御存知でしょう」
「きみは応用心理学者ですか?」
「いえ、ちがいます。自己紹介するべきでした。ぼくはアンドリュウ・ジャクソン・リビイです」
「ラザルス・ロング」
「存じています。昨夜の集会に出ましたから」
「リビイ……リビイとね。ファミリーのなかにいたかな、聞きなれた名前なんだが?」
「ぼくの場合は、あなたのとちょっと似ています……」
「空位期間《インターレグナム》に変えたのかい?」
「そうでもあり、そうでもないんです。ぼくは第二革命のあとに生まれました。でもぼくの家族は新十字軍《ニュー・クルセード》に入れられ、ファミリーとは別かれて名前を変えました。ぼくは、自分がその一員だと知ったときは、もう大人になっていました」
「なんということなんだ──そいつはおもしろい……どうして、きみはつきとめられたんだい……そんなことをたずねてもいいなら、教えてくれないか?」
「それは、ぼくは海軍にいたんですが、上官の一人がですね……」
「わかった! わかったよ! きみは、字宙飛行士じゃないかと思っていたんだ。きみはミスター・計算器こと計算尺《スリップ・スチック》リビイだ」
リビイは、恥ずかしそうに微笑した。
「そう呼ばれてきましたよ」
「そうだ。ぼくが最後に操縦した宇宙船には、きみの超重力修正器《パラグラビディック・レクティファイア》が備えられていたよ。それから制御盤には、操舵ジェット用に極小差動装置を使った。だがぼくは、そいつを自分で据えつけたんだ……きみの特許を借りたようなもんだ」
リビイは、この盗難事件には心を乱されなかったようだ。それどころか、かれの顔は明るく輝いた。
「あなたは、記号的論理学《ジンボリック・ロジック》に興味をお持ちですか?」
「実用になるときだけだがね。でも、あれ、きみの十三次方程式において消去されたものから引出したあの妙案に、ぼくはちょっと変更をくわえた……これにはこういう利点があるよ。かりにきみが、密度Xの空域を、コースに対してN角度で巡航しているとする。そうしてきみは、全飛行を自動装置によって選択し、ベクトル量〈ロー〉に釣合うランデブー地点Aへむかう最適コースにセットしたいと思う。するとだなあ、もし……」
二人は、地球上に住んでいる素人が使っているふつうの言葉から、まったくはなれてしまっていた。そばのニュース・ボックスは、求められたニュースをさがしつづけ、三度ばかり告げはじめたが、そのたびにリビイは、それに気もつかずに〈拒否《リジェクション》〉のボタンをおすのだった。
かれはしまいに言った。
「あなたの論点はわかります。ぼくはそれに似た変更を考えましたが、それは経済的にむずかしく、あなたのように熱心な人以外には、だれにも高価すぎると結論を出したんです。でも、あなたの解決法は、ぼくのよりも安上りですね」
「どうして、そんなことがわかるんだい?」
「どうしてって、データからはっきりしていますよ。あなたの装置には六十二の可動部分がありますね。そしてもしわれわれが、標準的な製造工程をとるとすれば、それは……」
リビイは、しばらくのあいだ、その問題を実際に計算しているかのようにためらっていたが、やがてあとをつづけた。
「それは最適条件にあるオートメーション工程において、五二一一個所の操作部分が必要ですが、ぼくのは……」
ラザルスは、心配そうに口をはさんだ。
「きみ、頭は痛くないかい?」
リビイはまた、おどおどした格好にもどって抗議した。
「ぼくの才能に異常なところはないと思いますが……正常な人ならだれでも、それを伸ばすことは理論的に可能なことです」
ラザルスは同意した。
「そうだとも。そしてきみは、一度ふみつけたら蛇にだってタップダンスを教えることができるだろう。気にするなよ、ぼくはきみとひょんなときに会えてうれしいんだ。ぼくは、きみがずっと昔、子供だったころの話も聞いたことがあるぜ。きみは、宇宙建設隊にいたんだったね?」
リビイはうなずいた。
「地球・火星第三中継点でした」
「そうだ、そうだったな……火星の連中ときたらホラがうまいよ。乾いた水のうえの貨物船とかね。ぼくは、きみの母親のおじいさんも知ってるよ。頑固な頓馬野郎だった」
「そうだったでしょうね」
「まったくそうだったよ。ぼくは二〇一二年の会議のとき、やつと激論をかわした。あいつは言葉をたくさん知っていたよ」ラザルスは、ちょっと眉をひそめた。「おかしいことだな、アンディ……ぼくは、はっきりと思い出すよ。ぼくは記憶力がよかったんだな……だが近頃は、物事をはっきりおぼえておくのが次第にむずかしくなってきたようだよ。とくにこの一世紀ほどは」
リビイは言った。
「避けることのできない数学的必然です」
「ほう? なぜなんだい?」
「人生経験は一次的な付加物ですが、記憶印象の関連性は無限の広がりです。もし人類が千年も長生きするんでしたら、はっきりと年代に関連させるために、まったく異なった記憶法を考え出すことが必要でしょう。でなければ、人間は自分の知識の豊かさに、どうにもならなくなってまごつくでしょう。評価することもできなくなって。気がちがうか、精神薄弱になってしまいますよ」
ラザルスは、とつぜん困ったような表情になった。
「そうかね? じゃあ、はやいとこその仕事をはじめようじゃないか」
「ええ。その解決はまったく可能なことです」
「そいつをどんどんやろう。途中でだめにならないようにな」
ニュース・ボックスがまた注意をうながした。こんどはブザーが鳴り、臨時ニュースの明かりが輝いた。
「データ社をお聞きください。速報《フラッシュ》です! 高等議会は誓約を一時停止しました! 誓約の緊急事態条項にもとづき、異例の議会命令が本日発表され、行政長官は、いわゆるハワード・ファミリーの全員を拘留し、訊問するよう指令されました! いかなる手段によってもです! 長官は、これからお伝えする声明を、すべての公共報道機関が発表することを許可しました。
誓約における市民権の一時停止は、ハワード・ファミリーと称せられる集団にのみ適用されるが、情勢によって、非常事態令に抵触する者を速やかに逮捕することを必要とする場合、政府官憲は強制行動をとる権限を与えられる。市民は、このことによって惹起する些細な不便には耐えることを勧告される。市民のプライバシーは、可能なるかぎりあらゆる手段で尊重される。自由行動の権利は一時的に犯されるかもしれないが、完全な経済的補償がおこなわれることになるだろう。
さて、市民のみなさま。以上の指令の意味することはなにか? みなさまのすべてにとって? デイリー・データ社は、おなじみの解説者、アルバート・ライフスニーダーに登場させました。
今日は、みなさん、ライフスニーダーです。おどろかれることは何もありません。一般の自由市民にとって、この非常事態は、天候予測器にとって荷がかちすぎる低気圧ほどには迷惑のかかることでもないでしょう。あわてずに、のんびりしていてください! 求められた場合は警官に協力し、それ以外のときは、自分の仕事だけをやっていてください。不便なことがあっても、これまでの慣習を固執しないでください……官憲にご協力ください!
今日のところは、以上のような意味です。明日は、明後日は、何を意味することになるのでしょう? 来年は? それは、あなたがたの公僕が、より長くより楽しい人生の恩恵をみなさんにあたえようとして、先見の明がある行動をとったということを物語るのです! あまり大きな希望は持たないでください……しかし、それは新しい時代の夜明けが訪れたようにも思われます。まさにそうなのです! 利己的な少数の人々の油断なく警戒された秘密はやがて……」
ラザルス・ロングは眉を上げるとリビイを見つめ、それからスイッチを切った。
「これは、ニュース報道における、事実の逸脱の典型じゃないですか」
リビイが苦々しそうに言うと、ラザルスは返事をするまえに、タバコ入れを出した。
「おちつくんだよ、アンディ。悪い時もあれば、良い時もあるんだ。悪い時がやってくるのが、われわれにはおそすぎたんだ。人々はまた行進しはじめたんだ……こんどは、われわれにむかってね」
3
全ファミリーの会議場とされている洞窟は、時間がたつにつれて混雑してきた。人々はひっきりなしに三々五々と流れこみ、ほうぼうの州から多くの道筋を通って到着した。日が暮れるがはやいか、地下プールの入口はひどく混雑した──スポーツ用潜水艇、メアリイが持っていたような地上車にみせかけたもの、見たところ水上艇だが改造して潜水できるようにしたボート、どの船も、半ば窒息しかけた避難者でいっぱいだった。こっそりと忍びこむ機会を待っているあいだ、一日じゅう深い湖底にひそんでいたためだ。
いつもの会場は、大勢の人々を収容するにはあまりにもせますぎた。そこで本部の幹部は、いちばん大きい部屋である食堂をかたづけ、隔壁を動かしてロビイから切りはなした。ラザルスはその真夜中に、臨時の演壇にのぼった。
「オーケイ。しずかにしてください。そこの前にいるきみ、ほかの人が見えるように腰をおろしてください。わたしは一九一二年生まれだ。だれか、もっと年上のかたは?」
かれは、しばらく間をおいてから言った。
「議長の指名だ……言ってください」
三人が指名された。四人目が名指されるまえに、推薦されたうちの最後の男が立ち上がった。
「ジョンソン家のアクセル・ジョンソンです。わたしの名前は撤回していただきたい。みなさんもわたしにならうよう提案します。ラザルスは昨夜、収拾のつかなくなった状態をうまく解決しました。かれにやってもらおう、もはやファミリーの政策をどうこう言っている時ではないんです」
ほかの名前も撤回された。もう、だれの名前も提案されなかった。ラザルスは言った。
「それがみなさんの望む方法なら承知した。討論にはいるまえに、主席評議員から報告をお願いしよう。どうだい、ザック? われわれの仲間に逮捕された者がいるかい?」
ザッカー・バーストウは、自分の名前をはっきりさせる必要はなかった。かれはただ口をひらいた。
「評議員を代表してお話します。この報告は完全ではありませんが、まだどのメンバーも逮捕された知らせはありません。九二八五人の正体をあらわしていたメンバーのうち、十分前にわたしが通信部を出たときまで、九一〇六人が、ほかのファミリー会議場や、かくれている他のメンバーの家や、その他のところにかくれ終ったという報告がありました。議会命令の非常事態令が実施されるまでいかに短時間であったかを考えると、メアリイ・スパーリングの警告は、おどろくべき成功でした。しかしまた、正体をあらわした一七九人の仲間が報告されていません。おそらく、これらのほとんどは何日かのうちにやってくることでしょう。たぶん安全であるでしょうが、まだわれわれと連絡がとれません」
ラザルスはうながした。
「要点を言ってください、ザック。一人のこらず無事にやってこれるチャンスは、合理的に考えてどうです?」
「まったくありません」
「なぜ?」
「そのうち三人は、地球と月とのあいだの公共輸送機関に、正体をあらわしたまま乗っているとわかっているからです。われわれにわかっていない連中で、同じような苦境にあるものもいるはずです」
「質問!」
前のほうにいた生意気な小男が立ち上がって主席評議員を指さした。
「いま危険にさらされている人々は、みな、催眠注射で保護されていますか?」
「いや。一人も……」
「なぜそうしなかったのか、説明を求めます!」
ラザルスは大声を出した。
「だまりなさい! きみは邪魔をしているんだぞ。だれもここで裁かれているのじゃない。それに、つまらぬことに時間を費していることはできないんだ。つづけてください、ザック」
「ええ。でも、いまの質問には、この程度には答えましょう。催眠手段によってわれわれの秘密を守るという提案は、〈仮面政策〉をゆるめようという会議のときに否定されました。いま異議をとなえられたかたは、そのとき否決のほうに賛成されたとおぼえているんですが」
「それは嘘だ! わたしは主張する……」
「だまれ!」
ラザルスは、その野次馬をじろりとながめて言った。
「きみを見ていると、財団は、長寿よりも頭脳のほうを育てるべきだったという、はっきりした証拠だと感じるね」
ラザルスはつぎにみんなを見まわした。
「諸君はみな、自分の言いたいことを発言できる。だが、それは議長の認める秩序にしたがってだ。いまの男がまた口をはさんだら、ぼくはそいつの歯をたたきおってしまう……ぼくが進行するやりかたに賛成されないかたは?」
おどろきと肯定とがいりまじって、ひとしきりざわざわとしたが、だれも反対しなかった。ザッカー・バーストウはあとをつづけた。
「ラルフ・シュルツの忠告にもとづいて、評議員は、この三カ月のあいだ静かに、正体をあらわしたメンバーの人々に、催眠指示を受けるよう説得をつづけてきました。われわれはほとんど成功をおさめました」
かれはしゃべるのをやめ、ラザルスはうながした。
「つづけてください、ザック。われわれは秘密を完全に守れる体勢になっていたんですか、いなかったのですか?」
「いませんでした。逮捕されるだろうメンバーのうち、少なくとも二人は、そういう催眠指示をうけていませんでした」
ラザルスは肩をすくめた。
「残念ですがみなさん、遊びはもう終りです。腕に強制自白剤《バブル・ジュース》の注射を一発、それで仮面も終りです。新しい事態です……数時間のうちにはそうなるのです。それにどのように対処するか提案はありますか?」
南まわりの大陸間ロケット旅客機〈ワラビー号〉の操縦室ではテレコンがうなり、生意気に舌を出すように、ポンと音がして紙片がとび出た。ジャイロ座席に坐っていた副操縦士は前に身体をかがめて、その通信文をひきちぎった。かれはそれを見ると、また読みかえした。
「機長、たいへんだ」
「事件か?」
「読んでくれよ」
機長はそれに眼を通すと、ヒュッと口笛を吹いた。
「なんてことだ! おれはまだ、人を逮捕したことなんかないんだ。逮捕されるところを見たこともないんだぜ。どうやればいいんだ?」
「機長の権限に潔く脱帽するよ」
機長はいらいらとした口調で言った。
「そうか、脱帽はいいから、うしろへ行って逮捕してきてくれ」
「え? ぼくが言ったりはそういう意味じゃないんだ。あんたが権限のある親分《プローク》なんだからね。操縦のほうは交代させてもらいますよ」
「おれの言うことがわからないのか? おれは権限を委任すると言ってるんだ。命令どおりやれよ」
「ちょっと待った、アル。ぼくはそんな契約なんかしなかったぜ……」
「命令されたとおりやるんだ!」
「はい、はい、機長殿!」
副操縦士は後部へ行った。ロケット旅客機は大気圏への再突入を完了したところで、するどい音をたてながら、目標へ近接するためのながい滑空をおこなっていた。だから、かれは歩くことができたのだ──自由落下《フリーフォール》状態での逮捕とはどんなものだろう、とかれは思った。昆虫採集の網ででもひっかぶせてやるのか? かれは座席番号を照らしあわせてその乗客をつきとめ、その腕にふれた。
「お邪魔いたします。書類の書きまちがえがございましたので、切符を拝見させていただきとうございますが」
「どうぞ」
「予備客室のほうへおこしいただけませんでしょうか。静かですし、二人いっしょに腰かけられますから」
「いいですよ」
その個室にはいると、すぐ副操縦士はそのお客に腰かけるようすすめてから、こまったような顔をした。
「なんてへまなことを……操縦室にリストをわすれてきました」
かれはふりかえって出て行った。ドアがしまると、その客の耳には、まさかと思うようなカチリという音が聞こえた。とつぜんいぶかしく思い、かれはドアをあげてみようとしたが、鍵がかかっていた。
メルボルンでは、二人の警官がかれを待っていた。その二人に護衛されて空港を出てゆくとき、かれは、好奇心にあふれ、また、おどろくほど敵意をもった群衆の叫び声を耳にした。
「あの連中の片われがやってきたぞ!」
「あいつかい! なんだ、ほんとうに年寄りには見えないぞ」
「できそこない野郎が!」
「じろじろ見るんじゃないよ、ハーバート」
「なぜいけないんだ? やつには、これぐらいじゃすませられないはずだぜ」
かれは、地方公安官のところへ連行された。そいつは、いやに丁寧に、ちょっとなまりのある鼻声で、腰をかけるようにとすすめた。
「さて、それでは、あなたの腕にちょっと注射をさせていただけると、ありがたいんですがね……」
「どういう目的ですか?」
「あなたは、社会に協力的でありたいと思われるでしょう。べつに痛くはありませんよ」
「要点からはなれていますね。説明していただけませんか。ぼくは合衆国の市民ですよ」
「そのとおりです。でも、世界連邦はどの国家にも共通した司法権を持っており……わたしは現在、その権限によって行動しているのです。さあ腕を出してください、どうぞ」
「おことわりします。ぼくは、自分の市民権を主張します」
「つかまえていろ、みんな」
いうことをきかせるのに、四人必要だった。注射器がその皮膚にさわるかさわらないうちに、その男の顎は落ち、とつぜん苦悶するような表情が顔に浮かんだ。そして、警官たちが、薬の効果があらわれるのを待っているあいだに、かれは静かにものうげになっていった。やがて公安官は、男のまぶたをゆっくりとひっくりかえしてから言った。
「もう用意はいいぞ。こいつは百四十ポンド以上はなさそうだ。だからいやにはやく効いたんだな。あの質問のリストはどこにある?」
公安官補がそれをわたすと、かれはたずねはじめた。
「ホーレス・フート、聞こえるか?」
男の唇がひきつったように動いた。話そうとしているようだった。その口がひらくと、血が胸にほとばしり落ちた。
公安官は大声で叫び、逮捕した男の頭をつかんで、いそいでしらべた。
「医者を呼べ! こいつは、ほとんど何も考えられなくなっているのに、舌を噛み切ったぞ!」
月世界市《ルナ・シティ》近距離ロケット船〈ムーンビーム〉号の船長は、手にした命令書に顔をしかめ、三等航宙士をじろりとながめた。
「いったいこれは、どういうことなんだ、え、きみ」
三等航宙土は、眼の前にのばされたものを見つめた。ぷりぷりしながら、命令書を腕いっぱいに伸ばした船長は、その文面をのぞいて大声で読んだ。
「……できうるかぎり、前記の人々が自殺をはかることを制止し、かれらに警告することなく、無意識状態におとし入れて引渡すことを命令する」
かれは、そのうすい紙片を荒々しくひっこめた。
「やつらは、おれが何を動かしていると思っているんだ……おれの船に乗りこんでいるおれに、この船の乗客をどう始末しろだと? おれはやらないよ……誓うとも、やるもんか! おれにそんなことを要求する規則はないんだ……あるかい、きみ?」
三等航宙士は、だまって船のなかを見つめつづけていた。
船長は動きまわるのをやめた。
「事務長! 事務長! あいつは、おれに用があるとき、どうしていつもいないんだ」
「ここにいます、船長」
「おそいじゃないか!」
「ここにずっといました」
「おれに文句を言うな。さあ……これをやるんだ」
かれは事務長に緊急命令書をわたすと去っていった。
事務長、船体係士官、医官に監督されて、整備員は、船室へ通じている空気調節用《エア・コンディショニング》のパイプにちょっと細工を加えた。そして、二人の心配していた乗客は、生命に危険はおよぼさない睡眠ガスによって意識を失った。
「べつの報告が参りました、閣下」
「おいていってくれ」
と、行政長官は、つかれきった声で言った。
「それから、ボーク・ヴァニング議員が来られて、お会いしたいと言われますが」
「残念ながら多忙だと伝えたまえ」
「ぜひお会いしたいと言っておられるんですが」
フォード長官はがみがみと答えた。
「それなら、ヴァニングさんに、この役所で命令を下すことはできないんだぞ、と伝えろ!」
秘書は何も答えなかった。行政長官は、指を額におしつけて、ゆっくりとあとをつづけた。
「いや、ゲリー、そうは言うな。外交的にやってくれ……だが、やつをここへ入れるなよ」
「はい、長官」
ひとりになるとフォードは報告書をつまみ上げた。かれの眼は、公文書の見出し、日附け、綴り番号などは飛ばして読んだ。
条件付き追放市民アーサー・スパーリングとの面接概要。全記録添付。面接の状況。当人はさきに気化ヒプノタールの若干量を吸入したりした、ネオスコポリン常量をあたえられた。解毒剤は──″
このくどくどしい部下たちを、いったいどうすればたたき直せるというのだ。官僚式な繁文縟礼を固執する官公吏の心のなかは、いったいどうなっているんだ? かれはずっと下のほうへ飛ばしていった。
──姓名は、フート家のアーサー・スパーリングで、年齢は百三十七歳と陳述。(当人の外見年齢は四十五歳前後、添附の身体検査報告書参照)当人は、ハワード・ファミリーのメンバーたることを認め、ファミリーの全数は十万人をやや越えると陳述。かれはこれを修正するよう求められ、正確な数字は一万程度ではないかと暗示されたが、最初の陳述を固執した″
行政長官は、ここで眼をとめて、この部分を読みかえした。そして、重要な部分を求めて、下へと読み飛ばしていった。
──当人の長寿は先祖からうけついできたものであって、そのほかに原因はないと主張。外見の若さを保持するため人為的手段がとられたことは認めたが、その長寿は遺伝によるものであって、後天的に与えられたものでないと強く主張した。年上の親族が、かれの寿命を伸ばすため、若いとき、当人が知らぬうちに治療を受けさせたのではないかとたずねると、当人もその可能性は認めた。そのような治療をおこなった者、あるいは、おこなっている者の氏名を述べるよう強制されると、そのような治療法は存在しないという当初の陳述にもどった。
当人は氏名をあげた。その組織の方法にはおどろくべきものがあり、かれの親族グループの二百人にちかい住所のうちには、当局の記録に前以て登録されていなかった者が多い。(一覧表添附)当人の力は、この骨の折れる訊問がつづけられるうちに衰えてゆき、まったくの無反応状態におちいり、予測し得る当人の忍耐力の限度内では、いかなる刺激剤によっても、それからおきあがることはできなかった。(反応検査報告表参照)
迅速分析法、すなわち、ケリー・ホームズ近似法による結論──当人は調査目的を知らず、信じてもいない。その目的事象を経験しておらず、誤解している。本調査目的に関する知識は、二十人ほどの小グループに限定される。このトップ・グループの一人は、三回連続削除調査をおこなうほどのこともなく、発見できることであろう。仮定し得る可能性。第一に位相数学的社会空間は継続的であって、西欧連合の地理的空問にふくまれること。第二に、逮捕されたち人とトップ・グループの間には、すくなくとも一つの経路が存在すること。いずれの仮定も、当記述においては立証され得ないが、第一の仮定は当人より聴取され、これまでハワード・ファミリーのメンバーとは思われていなかった人々のリストを統計学的に分析することによって正当なるものと判明されるであろうと思われる。この分析はまた、当人が想像する全集団の大きさをも正しいものと確信させる。つぎに第二の仮定は、否定的にとられた場合、調査目的を知っているトップ・グループが、不合理なことではあるが、接触する社会空間を有せずにそれを実現できたということを示している。
調査に要する時間。七十一時間プラスマイナス二十時間。この予測は見込時間でなく、審理局により与えられた。見込時間は──″
フォード長官は、古い机につみかさねられている書類の山に、その報告書をたたきつけた。この馬鹿野郎ども! 役にも立たぬ報告だとわかっていないとは──しかも連中は、自分たちを精神分析学者だと称している!
長官は、つかれきり、まったく失敗してしまって、両手に顔をうずめた。
ラザルス・ロングは、熱線銃《ブラスター》の握りを槌のかわりに使い、かたわらのテーブルをドンとたたいてどなった。
「話の邪魔をしないで……つづけてください。だが手短かに話してください」
バートラム・ハーディは、そっ気なくうなずいた。
「わたしはもう一度申します。われわれの周囲に見られるこれらのうるさい連中は、われわれのファミリーが尊重すべき権利は有していません。われわれは、隠密、狡猾、術策によって、かれらと取引きすべきなのです。そして、結果的にわれわれの立場を強固にするときは……力によることです! 猟師が獲物に警告を発する必要がないのと同様、われわれがかれらの繁栄を尊重する義務はありません……」
会場のうしろから野次がとんだ。ラザルスはふたたび、秩序をたもつためにドンとテーブルをたたいて野次をとばしたものはだれなのか見つけようとした。ハーディは、しっかりとあとをつづけていった。
「いわゆる人類と称されるものは二分されました。それを認める時が来たのです。一方はわれわれ長命人種《ホモ・ビベンス》……もう一方は、短命人種《ホモ・モリチュルス》です! 大とかげ、剣歯虎、野牛などとともに、かれらの時代は終ったのです。われわれが猿と混血しないのと同じく、かれらとわれわれが混血することはできません。かれらと一時的に妥協し、どんな話でもして、かれらを青春の泉に潰けてやるとうけあってやり……この、生まれながら敵対する運命の両人類が、避けることのできない戦いをまじえ、勝利がわれわれのものとなるように、時を稼ぐべきだ、とわたしは申します!」
拍手はおこらなかったが、大勢の顔に動揺する色が浮かぶのを、ラザルスは見た。バートラム・ハーディの考えは、ながい年月のあいたおとなしく暮しつづけてきた考え方とは、まるで正反対だったが、その言葉には、避けられぬ運命のひびきがあるように思われた。ラザルスは運命など信じなかった。かれの信じるのは──いや、そんなことはどうでもいい──だが、あのバートラムが、両腕を失いでもしたら、どういう考えかたをするだろうか、と考えてみた。
イブ・バーストウが立ちあがって、にがにがしい口調で言った。
「バートラムさんの言われた方法が、適者生存ということでしたら、わたしは強制収容所へ行ってくらすつもりです。でも、かれは一つの計画を提案しました。わたしは、かれの計画には反対ですから、別の計画を提案します。わたしは、かわいそうな命短い隣人を犠牲にしてわれわれが生きながらえてゆくような計画には、どんな形でも反対いたします。それからまた、わたしたちが単に存在していること、つまりわたしたちが長寿の遺伝を豊かにうけついでいるという簡単な事実が、わたしたちのかわいそうな隣人の心を傷ませているということも、わたしにははっきりわかります。わたしたちがより長い年数と、より豊かな機会を持っていることが、かれらのはらっている大きな努力をむだだと思わせています……定められた死に対する望みのない闘いです。わたしたちが単に存在しているということが、かれらの力を次第に弱らせ、判断力を損わせ、死の恐怖にとりつかれてしまうのです。
ですから、わたしは一つの案を出します。わたしたちを明るみに出し、すべての真相を話し、わたしたちが離れてくらせるせまい場所を、この地球の上のどこかにほしいと要求しようではありませんか。もしわたしたちのかわいそうな友人たちが、収容所《コペントリイ》をとり巻いているような大きな防壁でかこもうと欲するなら、そうさせようじゃありませんか……わたしたちがおたがいに顔をあわせないのはいいことでしょう」
何十人かの疑問をいだいていたような表情が、賛成の色に変った。ラルフ・シュルツが立ち上がった。
「イブの基本的計画を偏見なく批判しますと、彼女が提案している心理学的な孤立は、そうたやすくできることではない、というのがわたしの専門家としての意見であると言わなければなりません。われわれがこの惑星にいるかぎり、かれらはわれわれのことに関心をはらわないではいられないでしょう。現代の通信手段は……」
「では、ほかの惑星へ移ったらいいじゃありませんか!」
と、彼女は言いかえし、バートラム・ハーディはたずねた。
「どこへ? 金星? これだったら、蒸し風呂にでも住んだほうがましだ。火星? やつれはて、無価値なところだ」
「再建することはできますわ」
彼女はそう言いはった。
「あんたやわたしの一生にはできないよ。イブ、あんたのやさしい心は聞こえはいいが、意味をなさないよ。この太陽系に、われわれが住むのに適した惑星は一つしかないんだ……われわれがいま立っているところだ」
バートラム・ハーディの言葉を聞いていると、ラザルス・ロングの頭のなかになにかひびいてくるものがあった。そして、その考えは消え去っていった。何かが……ほんの一日か二日まえに耳にしたなにかだ……それとも、ずっと以前のことだったのか? なぜかそれは、一世紀もすぎた昔、かれがおこなった最初の宇宙旅行にも関係があるように思われるのだ。畜生! こんなに自分の記憶がぼんやりしているのは腹が立つことだ。
それから、かれの頭にその考えがぱっと浮かんだ──恒星宇宙船《スター・シップ》だ! かれらが、地球と月とのあいだで最後の仕上げをおこなっている恒星宇宙船だ。かれはゆっくりと言った。
「みなさん。この、ほかの惑星へ移住するという考えを棚上げしてしまうまでに、すべての可能性を考えてみましょう」
ラザルスはみんなが注目するまで待った。
「惑星の全部が全部、この一つの太陽のまわりをまわっているのではない、ということを、じっくり考えたことがありますか?」
ザッカー・バーストウが静けさを破った。
「ラザルス……きみは本気で提案しているのか?」
「大まじめだ」
「そうとは思えないよ。説明したほうがいいんじゃないか」
ラザルスは聴衆を見つめた。
「するとも。この空に宇宙船が一隻浮かんでいます。広々としたもので、恒星間飛行のために造られたものです。われわれがそれをもらって、自分たちのものになる土地をさがしに行くのはどうでしょう?」
バートラム・ハーディが、われにかえった最初の人間だった。
「わたしは議長が、別に皮肉なことを言って、この憂鬱な状態を和らげようとされているのかどうかは知りませんが、かれが真面目だとするなら言いましょう。わたしは火星に行くことにも反対するが、この荒っぽい計画にはもっともっと反対します。あの船に乗組もうとしている向う見ずな馬鹿者たちは、およそ一世紀をかけてその飛行を達成しようとしているらしい……が、それでも、その孫たちが何かを発見することができるかどうか。いずれにしても、わたしには興味はありません。鋼鉄のタンクに一世紀とじこめられるのはいやだし、そんなに長く生きているともおもわれません。わたしはそんなことには反対します」
「ちょっと待った……アンディ・リビイはどこにいる?」
ラザルスの言葉に、リビイは立ち上がりながら答えた。
「ここです」
「前のほうへ来てくれ。計算尺《スリップ・スチック》、きみは新しいケンタウルス船の設計には、なにか関係したかい?」
「いいえ。これにも、最初のにも関係しませんでした」
ラザルスは群衆に話しかけた。
「それできまった。もしあの船が、推進装置の設計に計算尺《スリップ・スチック》の手を借りていないのなら、いくら大勢でやっていたところで、充分な速さは出ない。計算尺《スリップ・スチック》、その問題にとりくんだほうがいいよ。それを解決することが必要になりそうだからね」
「でもラザルス、そんなことを仮定してみるのは……」
「理論的な可能性はないのかい?」
「それは、あなたは、あることがわかっておられるが、でも……」
「じゃあ、きみのその赤い人参頭《にんじんあたま》を、それに使うんだね」
「それは……わかりました」
リビイは、その髪の毛と同じくらいに顔を赤くした。
「ちょっと待った、ラザルス」
ザッカー・バーストウだった。
「ぼくはこの提案が気に入った。ぼくらはそれを充分に討論するべきだと思う……バートラムが気に入らないからといって、みんながおそれることはない。もしリビイが、より良い推進手段を発見できないとしても……はっきり言うと、うまくゆくとは思えないが。ぼくは|場の理論《フィールド》についてちょっと知っているんでね……でも、一世紀かかるといっておどろいたりはしないよ。人工冬眠と船の勤務を交互におこなえば、ぼくらのほとんどは、べつの恒星まで飛べるのだ……」
「ともかく、あの連中がわれわれをあの船に乗せると考えるあなたの根拠は何ですか?」
バートラム・ハーディは詰問し、ラザルスはつめたく言った。
「バート。発言したいときは議長にことわるんだ。きみはファミリーの代議員でもないんだ。これが最後の警告だぞ」
バーストウはあとをつづけた。
「ぼくが言っていたように、われわれ生命の長いものが恒星を探検することには妥当性がある。神秘論者は、これこそわれわれの真の天職だと呼ぶかも知れない」
かれはしばらく考えにしずんだ。
「ラザルスが言った宇宙船については、おそらくかれらはわれわれに所有させはしないだろう……しかし、ファミリーは裕福だ。もし恒星宇宙船が一隻必要なら……数隻でも……われわれは建造できるし支払うこともできる。かれらがわれわれにそうさせるよう望んだほうがいいとおもう……というのは、われわれ自身が死に絶えることなく、このジレンマから逃れる道は、このほかにないはずだからだ」
バーストウは大きな悲しみをこめて、この最後の部分をゆっくりと話した。それは、じっとりとした冷気のようにみんなの胸にくい入っていった。大多数の者にとって、この問題は耳新らしすぎて、現実のこととは考えられなかった。短命人種の者にとって満足できる解決を発見できなかった場合、こうなるかもしれないということを話した者はだれもいなかったのだ。年長の評議員が、まじめに、ファミリーが絶滅されるかもしれない──狩りたてられ殺されるかもしれない──という恐怖を卒直に話したことが、ひとりひとりの胸に、描いてみたこともない幻影をかきたてたのだ。
ラザルスは、静けさが苦しいまでになってきたとき、てきぱきと言った。
「さて、このアイデアを検討してみる前に、ほかにだれかプランを提案されるかたはありませんか。発言してください」
メッセンジャーが一人かけこんできて、ザッカー・バーストウに話しかけた。かれはおどろいて、もう一度くりかえして言うようにたのんでいるようだった。かれはそれから演壇を横切ってラザルスのところへいそぎ、ささやきかけた。ラザルスもおどろいたようだった。バーストウは、いそいで出ていった。
ラザルスはふりかえって聴衆のほうを見ると、口をひらいた。
「休憩します。ほかの計画について考える時間にしましょう……それから足をのばしてタバコを吸う時間です」
かれはそう言うと、自分のタバコ入れに手をのばした。
「なにがおこったんです?」
だれかが叫び、ラザルスは、タバコに火をつけてふかく吸った。
「待ってみなくてはいけないんだ。ぼくにはわからない。だがすくなくとも、今夜提案された六つの計画に投票するようなことはしなくてもいいようになるだろう。また事態が変ったんだ……どの程度か、それはわからないが」
「どういう意味です?」
ラザルスはゆっくりと答えた。
「いますぐ行政官がザック・バーストウに話したいそうだ。かれはザックを指名した……それにかれは、われわれファミリーの秘密通信回路を使って連絡してきたんだ」
「え? そんなことは不可能です!」
「そうだ。ところがそうしたってわけだよ、坊や」
4
ザッカー・バーストウは電話室《フォーン・ブース》にいそいではいりながら、気分を落ちつけようとした。
テレビ電話の回路の一方の端では、行政長官スレイトン・フォードが、同じようなことをやっていた──落ちつこうとしていたのだ。かれは自分を低く評価してはいなかった。長年のあいだ、議会と、西部統治誓約下の行政長官として、輝かしい公的な生活を送って来たフォードは、自分の優れた能力と、くらべるものもない経験に自信を持っていたから、ふつうの人間を相手にして取引をおこなうときには、不利なことを感じることはなかった。
だが、今回はちがっていた。
ふつうの人間の一生の二倍以上も生きてきた男というのは、どんなものなんだろう? それより悪いことは──フォード自身がおくってきた大人の経験の、四倍も五倍も経験をつんできた男なのだ。スレイトン・フォードは、かれ自身の意見でさえ、子供のときから変りに変ってきたことを知っていた。そして、かれの子供のころも、優秀な青年であったころも、現在のかれが到達している成熟した大人らしさには、まったく太刀打できないということがわかっていた。
そうなると、このバーストウというのは、どんな男なのだろう? 考えてみると、フォード自身よりもずっとたくさんの経験をつんでいる連中ばかりのグループのなかでも、もっとも有能であり、もっとも抜目のない男にちがいない──どうしてこんな男の価値や意図や、思考の方法や、その能力などを推察してみることができるだろう?
フォードにわかっていることは、たった一つだった。マンハッタン島を二十四ドルとウイスキー一箱で交換したりはしないし、人類の生得権《バース・ライト》をスープ一杯と引き換えにもしないということだった。
かれは、電話にあらわれたバーストウの顔を見つめた。りっぱな顔をしており、強そうだった──この男をおどかそうとしても無駄だろう。そして、この男は若く見える──なんということだ、フォード自身よりも若く見えるではないか! 行政長官の意識下にあった、頑固でなだめることもできない祖父のような幻影は消えてゆき、緊張はやわらいでいった。かれはしずかに言った。
「きみが市民ザッカー・バーストウだね」
「はい、長官閣下」
「きみは、ハワード・ファミリーの最高指揮者なのか?」
「わたしは、ファミリー財団の評議員長です。ファミリーの各人に対して、命令権があるというよりは、責任のある立場にあります」
フォードはその言葉を聞き流した。
「きみの位置は、指揮権がともなっているものとぼくは考えるね。十万人もの人間とは相談できないからな」
バーストウは、まばたきもしなかった。政府がすでにファミリーの正確な人数を知っており、それを度外視していることが、はっきりしたのだ。ファミリーの秘密司令部はもはや秘密ではなくなり、それ以上おどろくべきことには、政府がファミリーの秘密の通信網に割りこむ方法を知っている、というようなことを知らされてもおどろかないように、バーストウは心の準備をととのえた。このことは、同志の一人、あるいはそれ以上が逮捕され、強制されてしゃべらされたということを示しているのだ。
だからいまは、当局がすでに、ファミリーについてのあらゆる重要な事実を知っていることは、ほとんど確実なことなのだ。
そうすると、おどしをかけることは役にたたないし──同じく、どんな情報をも引出されてはいけない。かれらがこんなに早く、すべての事実を知ってしまったとはかぎらないのだ。
バーストウは、気づかれるほどの間隔はおかずに答えた。
「閣下が、わたしと話されたいと言われるのは、どんなことなのでしょう?」
「きみたちのグループにたいする政府の方針だよ。きみ自身と、きみの血筋の人々の幸福だね」
バーストウは肩をすくめた。
「何をご相談できると言われるのです? 誓約は廃棄され、あなたは好きなようにやれる力をあたえられています……われわれが持ってもいない秘密を無理にでも出させようとなさる。われわれとしては、慈悲をねがって祈る以外に、なにができるのです?」
「おねがいだ!」長官は、こまったようなそぶりを見せた。
「なぜぼくにあたられる? われわれには問題がある、きみとぼくにだ。卒直に話しあって、解決の方法をさがそうじゃないか?」
バーストウはゆっくりと答えた。
「そうしたいと思います……あなたも、そうされたいと思っていられることは信じます。ですが、問題は、まちがった推測にもとづいていることです。われわれハワード・ファミリーが、どうすれば人間の寿命をのばすことができるかを知っているという……われわれは知らないのです」
「では、そんな秘密はないということを、ぼくも知っていると言えば?」
「それは……あなたを信じたいと思います。ですが、そのことと、わたしたちの仲間を迫害していることを、どう一致させるおつもりです? あなたがたは、われわれを鼠を追うようにしていられますが……」
フォードは、顔をしかめた。
「古い古い話だが、神の慈悲ということと、幼児が死ぬということとを、どうつじつまをあわせるか、とたずねられた神学者があった。その男は説明したよ、神は、その公的な立場において、そのことをなすことが必要であるとされたが、その個人的な立場においては悲しまれているのだ≠ニね」
バーストウは微笑した。
「それから類推してみろというわけですか。ほんとにそれは適切なことでしょうか?」
「そうだと思うね」
「では、あなたは最高の地位にある人として謝罪をするためだけに、わたしに電話されているのではないということですか?」
「いや、そんなつもりじゃない。きみは政界と接触を保っているだろうね? きっとそうしていると思う。きみの立場なら必要なことだからね」
バーストウはうなずき、フォードはながいあいた説明した。
フォードの政権は、誓約の調印以来、もっとも長期にわたった政権で、そのあいだに議会は四回も変っていた。だが、かれの統制力は現在あまりにもぐらついてきているので、信任投票を強行するような危険をおかすことはできなかった──とくに、ハワード・ファミリーの件に関しては。この問題に関しては、かれの率いる名目上の多数派は、すでに少数派になっていた。もしフォードが、議会の決定を拒否し、むりに信任投票に持ちこんだりすれば、かれは政権から追われ、現在の少数派の指導者が、次の行政長官となるだろう。
「わかるかね? ぼくは、自分では賛成できない議会の指示に制約されながら、この問題にとりくむこともできるし……政権をはなれて、ぼくのあとを継ぐものにまかせることもできるんだ」
「あなたは、わたしの忠告を求めておられるわけではないでしょうね?」
「いや、とんでもない! この問題についてはちがう、ぼくは心を決めたんだ。議会で決議された非常事態令は、どんな場合でも遂行されるはずだ。ぼくであろうと、あるいはヴァニング氏であろうと……だからぼくは、決議どおり実行することに決心した。問題はだね、きみの助力を得られるか、それとも得られないかだ」
バーストウはしばらくためらい、すばやく、フォードの政治経歴をふりかえってみた。フォードのながい政権のはじめの部分は、政治家的手腕を発揮した黄金時代だった。賢明で実行力のある男、フォードは、ノヴァークが誓約の言葉のなかに示した人間の自由の原則を、実際に使える規律として具体化したのだ。それは善意に満ち、はなやかな発展と、礼儀をわきまえた一時期であり、永久につづき、すたれることがないように思われた。
だが、つまずきがおこったのだ。バーストウには、すくなくともフォードがわかる程度には、その理由がわかった。一部の市民が、ほかの市民を排斥するという論争に決意をそそぐときは、つねに事態は、ならず者、煽動家、野心家たちの好餌になるものである。ハワード・ファミリーは、うかつにも、何年も前に、短命人種たちに自分たちの存在を知らせるという行動を自分からとって、公衆道徳のなかに一つの危機を作り出し、それによって現在、自分らが苦しんでいるのだ。秘密が存在しないということは、まったく問題にならず、道徳感をくつがえす結果が残ったのである。
フォードは、すくなくとも、真の事態を理解したのだ──バーストウは、とつぜん答えた。
「お手伝いしましょう」
「ありがたい。どういうことをきみは提案するかね?」
バーストウは唇を噛んだ。
「この非常手段を避ける方法は何かないのでしょうか、誓約自体に違反していることを?」
フォードはくびをふった。
「もうおそすぎるよ」
「公衆の面前で、顔をつきあわせて、あなたが知っておられることを……」
フォードは、かれの言葉をさえぎった。
「ぼくの政権は、その話を終わるまでももたないだろう。また、信じられもしないだろう。それに……はっきり理解してほしい、ザッカー・バーストウ……ぼくが、個人的には、きみやきみの仲間にどれほど同情を寄せていても、たとえそんなことがやれたところで、ぼくはやらないよ。この問題全体は、われわれの社会の核心に喰いこんだ癌《がん》なんだ。けりをつけなければいけないことだ。ぼくは自分の権力にものをいわせてきた。ほんとうに……だが、あとにもどることはできないんだ。解決まで強引におしすすめていかなくてはいけないんだ」
すくなくとも一つの点で、バーストウは賢明な男だった。相手の男は自分に反対はするだろうが、ならず者ではないということがわかっていたのだ。だがかれは抗議した。
「わたしたちは迫害されているのですよ」
フォードは力をこめて言った。
「きみたちは、全人類の一パーセントの十分の一の、まだそのなかのごく少数にしかすぎない……だがぼくは、すべての人々のための解決を見出さなければいけないんだ! ぼくがきみに電話したのは、きみに、すべての人々のためになる解決策があるかどうかを聞くためなんだ。あるかね?」
バーストウはゆっくりと答えた。
「確信はありません……かりに、あなたがわたしたちを逮捕し、違法な手段で訊問するというような汚ないやり方をすることは、やむを得ないことだと認めてみても……」
フォード長官は眉をひそめた。
「きみにもあきらめてもらわなければいけないし、ぼくもほかにやりようはないんだ。しかしぼくは、やれるかぎり人道的にやっていきたいとは考えているよ──だが、ぼくは、自分の思いどおりにやれる立場じゃないんだよ」
「ありがとうございます。ですが、あなたがご自身で民衆の前に立つことは無益なことだろうとおっしゃっても、あなたには、自由に使える大きな宣伝手段がおありになる。わたしたちが時をかせいでいるあいだに、民衆に真実を信じこませる運動をおこなうことは不可能なことでしょうか? かれらに、そういうような秘密は存在しないと証明してみせてやることは?」
フォードは答えた。
「きみ自身にたずねてみるんだね。そんなことをやって、利き目があるだろうか?」
バーストウは溜息をついた。
「おそらくはだめでしょう」
「もし利き目があるとしても、それが解決法にはならないと思うよ! 大衆は……ぼくの信用しているまわりの者ですら……青春の泉ということを信じ切っている。それが与えられなかったときのことを考えるのは、あまりにもおそろしいからだ。かれらにとってどういうことを意味するかは、わかるだろう? かれらが赤裸々な事実を知ることは?」
「つづけてください」
「ぼくにとって、死は耐えられるものだ。すべての者を平等にあつかう〈偉大な民主的代物〉だからね。だがいまや〈死〉はえこひいきをやっている。ザッカー・バーストウ、きみは、きみたちを見つめるふつうの人間の……五十歳の男としようか……そういった男の、はげしい嫉妬を理解できるかね? 五十年だよ……そのうちの二十年間は子供だ。自分の職業に熟練するまでに三十年は過ぎてしまうんだ。地位が確立し尊敬されるようになるまでに四十年かかる。五十年のうちの最後の十年足らずだけが、何かを本当にやれるんだ」
フォードはスクリーンをのぞきこむようにして、はげしい口調で言った。
「そのうえ、ゴールについたときに、与えられるほうびはなんだというのだ? 視力はおとろえ、若い時代のあの元気さはなくなってしまっており、心臓も肺も、昔のようではなくなっているんだ。といって、まだ老衰しているのではない……だが、初霜のうすら寒さを感じるのだ。なにが前途に待ちうけているかがわかっているんだ。よくわかっているんだ!」
「でも、それはどうしても避けられないことだし、だれもがそれに従うほかないことを知っているのですよ」
「だが、そこへ〈きみたち〉があらわれたんだ」と、フォードは苦々しそうにつづけた。「きみたちは、かれらの弱点を笑い、子供たちの前でかれらを侮辱する。かれらは将来の計画をたてることもできない。きみたちは、五十年……いや百年間でも実を結ばない計画をゆうゆうと樹てる。かれらがどんなに成功しようと、どんなに優秀なものになったところで、きみたちは追いつき追い越して……かれらよりも長生きするんだ。かれらが弱点とするところに、きみたちはあわれむのだ。かれらが、きみたちを憎悪しても、なんの不思議があるかね?」
バーストウは、つかれたように顔を上げた。
「あなたは、わたしをにくみますか、スレイトン・フォード?」
「いやいや。ぼくには、だれもにくむなどということはできない。しかし、こうは言えるよ」フォードは、いきなり言った。「もし秘密があるとしたら、きみを八つ裂きにしても、口を割らせるだろうよ!」
バーストウはしばらく考えこんだ。
「ええ、わたしにもそれはわかります。わたしたちハワード・ファミリーの者にできることは、ほとんどありません。われわれがこんなふうに計画したのではなくて、われわれの先祖が計画したことです。でも、わたしたちが提供できることは一つあります」
「というと?」
バーストウは説明した。そして、フォードはくびをふった。
「医学的に、きみの言うことは可能性がありそうだ。きみたちの遺伝に片足をつっこめば、われわれの寿命がのびるだろうということは疑わない。だが、たとえわれわれの女性が、きみたち一族の男性の性細胞質をよろこんで受け入れるとしても……受け入れるだろうとは思えないがね……他のすべての男性にとっては、精神的な死となるだろう。人類を破誠におとしいれることになる不満と憎悪がまきおこるだろう。いや、どんなことをわれわれが希望しようと、われわれの習慣はかわらない。動物と同じように、人間を産んでいくわけにはいかないんだ。そんなことに人類は耐えられないだろう」
バーストウはうなずいた。
「わかります。しかし、わたしたちが提案できるのはそれだけです……人工授精によって、わたしたちの財産を分配することだけです」
「そうだ。きみに感謝すべきだろうが、ぼくは感謝したいとはおもわないし、感謝もしないよ。もっと実際的な話をしよう。個々の人間としては、きみたち年よりは、たしかに立派で愛すべき人々だ。だが、グループとしてみた場合、きみたちは疫病を媒介するもののように危険な存在だ。だから、きみたちは隔離されなければならないんだ」
バーストウはうなずいた。
「わたしたもの仲間やわたし自身も、すでにその結論に達しているのです」
フォードは、ほっとしたようだった。
「きみが、物わかりのいい人間で、ありがたいよ」
「われわれ自身も、そのほか方法はないんです。そうでしょう? 隔離された植民地ですか? われわれ自身の収容所となると、どこか遠くはなれた土地ですか? たぶん、マダガスカル? それとも英国諸島をもらって、そこを再建しなおし、放射能がなくなってゆけば、そこからヨーロッパへとひろがってゆくのですか?」
フォードは、くびをふった。
「不可能だね。そんなことをしても、われわれの孫たちに、解決すべき問題を残すだけのことになる。そのころまでに、きみたちは強力に成長しているだろうし、われわれを破滅させるようなことになるかもしれない。だめだ、ザッカー・バーストウ。きみや、きみの同族は、この地球から完全に立ち退かなければいけないんだ!」
バーストウは、うちひしがれたような表情になった。
「そういう結論になるだろうとわかっていました。でも、どこへ行けばいいと言われるのです?」
「太陽系のなかで選ぶんだ。どこでも好きなところを」
「しかし、どこを? 金星はぱっとしないところですし、よしんばそこにしたところで、受け入れてくれるでしょうか? 金星の連中は、地球からの命令に従いはしないでしょう。そのことは、二〇二〇年にきまったことです。かれらは現在、四惑星間協定にもとづいて、厳重に審査された移民だけを受け入れています……地球においておくのは危険すぎると決定した十万もの人間を、かれらが受け入れてくれるでしょうか? うたがわしいものです」
「ぼくもそう思う。ちがう惑星をえらんだほうがいいね」
「どの惑星をです? 太陽系全体に、人間の生命を、そのままの姿で維持してくれる星はほかにありません。無限の費用と、現代工学の最善をつくしたところで、生存に適するようなところにするのには、超人間的な努力を必要とするでしょう」
「その努力をするんだ。われわれは援助を惜しまないよ」
「そうしてくださることは、うたがいません。しかし、ながい眼でみた場合、地球上の一地域をわたしたちに与えてくださるよりも、そのほうが、よりよい解決となるでしょうか? あなたは、宇宙旅行を禁止してしまわれるおつもりなのですか?」
フォードは不意に立ち上がった。
「ああ、きみの考えていることは分った。理屈はあまりはっきりつかめなかったが、そのことを考えてみよう。なぜだめなんだ? この事態を公然の戦いに持ちこんでしまりより、宇宙旅行を断念してしまったほうがよくはないだろうか? 以前にも一度はあきらめたことがあった」
「そうです。金星人たちが、不在地主を追い出してしまったときのことでした。しかし、宇宙旅行はまた始められ、月世界市《ルナ・シティ》は再建され、その以前にくらべると、十倍も多くの船舶が空を航行しています。それをとめられますか? できたとしても、禁止されたままでいるでしょうか?」
フォードは心のなかで、くりかえしくりかえし考えてみた。だが、宇宙旅行を停止してしまうことは不可能なことだった。いかなる政府にもできないことだ。そして、これらの人々が送りこまれる惑星がどこであるにせよ、そこに、航行停止を命ずることができるだろうか? それで効果があるだろうか? 一世代、二、三世代たてば……どのような違いになるというのだ。古代の日本がこういうふうな解決法を試みたことがあった。だが、外国という悪魔はともかくも船でやってきた。文明というものは、永久に孤立させておくことはできないものだ。そして、それらがいったん接触すると、強いほうが弱いほうにとって変るのだ。それが自然の法則なのだ。
永久的で、しかも効果のある隔離などということは不可能な話なのだ。そこには、ただ一つの解答だけが残る──醜悪な解答だ。
しかしフォードは、しっかりした精神の持主だった。かれは、必要なものは受け入れることのできる男なのだ。かれはスクリーンにバーストウがうつっていることなど忘れて計画を練りはじめた。かれが地方公安官にハワード・ファミリーの本部所在地を知らせたが最後、一時間かせいぜい二時間で占領されてしまうだろう。かれらが、異常なまでの防禦手段を持っていない以上──だが、どの道、それは時間の問題なのだ。本部で逮捕される者から場所を聞き出し、かれらグループの残りの者をぜんぶ逮捕してしまうことは可能なのだ。うまくゆけば、全員を二十四時間から四十八時間以内に逮捕してしまうことができる。
かれが心を決められずにいる唯一の原因は、かれら全員をぜんぶ殺害してしまうか、それとも単に断種してしまうか、ということであった。どちらも、決定的な解決策になるだろうし、第三の解決策はないのだ。しかし、どちらのほうが、より人道的だろうか?
フォードには、これで自分の政治家生活は終りになるだろうということが、はっきりとわかっていた。かれは、不名誉な立場のままに政権の座から追われ、ひょっとすれば、収容所にさえ入れられるかもしれないのだ。しかし、かれは、そんなことには心をとめなかった。かれは、自分の公務についての観念に反して、自分自身の利益などはおもんばかることのできない性質だったのだ。
バーストウは、フォード長官の心のなかを読むことはできなかったが、フォードがある決意に達したことはわかった。そして、その決意が、自分やファミリーの者にとっていかに不利なものであるか、ということも、はっきり分っていた。かれは、いまや最後の切札を出すときだと決心した。
「長官閣下……」
「え? ああ、すまん! 夢中になっていたんでね」
ひどく控え目な言葉だった。フォードは、自分がたったいま死刑の宣告をおこなった相手の男と、まだ向かいあっていることに気づいて、ひどく面くらったのだ。かれは、服でもなおすように、外見をとりつくろおうとした。
「ありがとう、ザッカー・バーストウ、話をしてくれて。ほんとうに残念だが……」
「閣下!」
「なんです?」
「わたしは、わたしたちをこの太陽系から完全に追い出してしまわれることを提案します」
フォードは眼をしばたいた。
「なんだって? きみは本気で言っているのか?」
バーストウは、いそいで説得するような口調で、むずかしいところをとばしたり、利点を強調したりして、ラザルス・ロングの考えかけていた計画をくわしく説明していった。
フォードは、ゆっくりと答えた。
「できるかもしれないな。きみの言わなかったところに、いくつか困難な点はある。政治上での難点と、時間がおそろしくかかるという危険だ。だが、できるかもしれない」
そう言うとフォードは立ち上がった。
「みんなのところに帰っていてください。だがこのことは、まだみんなに話してはいけないよ。あとでまた話をしよう」
バーストウは、ほかの者にどう話したらいいだろうと思案しながら、ゆっくりと歩いていった。みんなは完全な報告をもとめるだろう。規約上では、それを拒絶する権利はないのだ。だがかれは、有利な結果をもたらすチャンスがすこしでもあるかぎり、行政長官に協力しようと心を決めていた。そして自分の事務室にはいると、すぐラザルスを呼んだ。
ラザルス・ロングは、はいってくるなり言った。
「やあザック、会談はどうだった?」
バーストウは答えた。
「良し悪しさ。まあ聞いてくれ……」
かれは短かく正確に、なりゆきを説明した。
「会場へもどって、みんなをおさえておくだけの話ができるかい?」
「うん……できると思うがね」
「じゃあ話をしてから、いそいでここへもどってきてくれないか」
みんなは、ラザルスのごまかしには納得しなかった。そして、静かにしていようとも、会議を延期しようともしなかった。
「ザッカーはどこにいるんだ?」
「報告をしてもらおう!」
「なぜ秘密にしておくんだ!」
ラザルスは大声でどなって、みんなをだまらせた。
「ぼくの言うことを聞け、この馬鹿野郎ども! ザックは時がきたら話す……かれの邪魔をするな。かれは自分がやっていることは、はっきりわかっているんだ」
うしろのほうにいた男が立ち上がった。
「おれは家へ帰る!」
ラザルスは愛想よく言った。
「帰りなさい。警官たちによろしくな」
そいつは、ぞっとしたような顔になって腰をおろした。
「ほかに家に帰りたいものは? 引き止めはしない。だがきみたち愚かな馬鹿者どもも、法の保護はもう受けられないようになったと悟るべきときがきたんだ。きみたちと警官のあいだでうまくやってくれるのは、行政長官にうまく話すザッカー・バーストウの腕だけなんだ。好きなようにしたまえ……会議は延期とする」
二、三分後、ラザルスは言った。
「おい、ザック。ここんとこをはっきりしておこう。行政長官のフォードは、やつのたいへんな権力を使って、われわれが大きな宇宙船にのりこみ逃走するのを助けてくれようとしている。そうなんだな?」
「かれは、そうはっきり言ったんだ」
「ふーん……するとやつは、自分がやることはぜんぶ、おれたちから秘密をしぼり出すために必要な手段なんだ、というようなふりを議会に対してしながら、やつらを裏切ろうとしているということになる。そうなのかい?」
「そんなに先のことまでは考えていなかったよ、ぼくは……」
「だが、そのとおりなんだろう?」
「さあ……うん、きっとそうにちがいない」
「よし。さて、われらが少年フォードくんは、自分がどんなことをやらかそうとしているのか、わかっているほど頭がよく、それをやり通せるほどタフなのかい?」
バーストウは、フォードについて知っていることをふりかえり、会見の印象から、はっきりとつけ加えた。
「そうだ。かれはわかっているし、それに面とむかってゆけるほど強い男だよ」
「そうか。では、きみのほうはどうなんだ? きみも耐えられるかい?」
ラザルスの声は、非難しているようだった。
「ぼくが? どういう意味なんだ?」
「きみも、きみ自身の大衆をだます計画をたてているんだ。そうじゃないのか? 事が面倒になったとき、その計画を最後までおし通してゆくだけの勇気はあるのかい?」
「きみの言うことはわからないよ、ラザルス。ぼくはだれもだまそうと思ってなんかいないよ……すくなくともファミリーのメンバーは」
バーストウが、困ったようにそう言うと、ラザルスは容赦なくつづけた。
「きみの手の内をもう一度ふりかえってみたほうがいいな。この取引きで、きみがやらなければいけないことは、すべての男や女、子供を、この脱出に加わるようにすることな。きみはその考えを、それぞれ個々に売りこみ、十万人もの人間に賛成させるつもりかい? きみはみんなに、同じようにヤンキー・ドードルを歌わせることはできないだろう?」
バーストウは抗議した。
「しかし、みんなは賛成しなければいけないんだ。ほかに選びようはないんだからね。われわれは、移住するか、それとも当局につかまえられて殺されるか、のどちらかだ。ぼくには、フォードがやろうとしていることは、それだとはっきりわかるんだ。かれは、きっと実行するよ」
「じゃあ、なぜきみは会議の席へ行って、みんなにそのことを言わなかったんだい? なぜぼくに、ごまかすようなことをさせた?」
バーストウは眉のあいだをかいた。
「わからない……」
「理由を言おうか。きみは、ほかの連中が一生懸命に考えることより、ずっとうまいことを勘で判断できるんだ。きみは、ぼくに話をさせた。みんなに本当のことを話したところで、なんにもならないってことがよくわかっていたからだ。もしきみが、逃げ出すか、それとも、殺されるかのどちらかだと、みんなに話したら、ある者はおじけづくだろうし、ある者は手に負えなくなるだろう。しかも、婆さん連中のなかには、家へ帰って、誓約の権利を主張しようと決心するものもいるだろう。それから、政府は、どんなことでもやりかねないのだとわかりはじめるまでに、この計画を洩らしてしまうだろう。そうじゃないのかね?」
バーストウは肩をすくめて、みじめな笑いを浮かべた。
「きみの言うとおりだ。ぼくは、そういうことを計算に入れてはいなかったが、きみの言うことは、まったく正しいよ」
「だがきみは、それも計算ずみだったんだ。きみには正しい答が分っていたんだ。ザック、ぼくもきみの勘は買うよ。ぼくがきみに協力する理由は、それなんだ。きみとフォードは、この地球上のあらゆる男が、眼を丸くするようなことをやらかそうと企てているんだ……もう一度たずねるがね、やりとおすだけの勇気はあるかい?」
5
ファミリーの連中は、あちこちとかたまって立って怒っていた。本部の記録係は、心配そうにまわりにあつまっている人々に話していた。
「わたし、わけがわからないわ。主席評議員が、わたしの仕事に干渉したことなどなかったのに……でも、わたしの部屋にラザルス・ロングをつれて飛びこんでくると、わたしに出ろって命令したのよ」
聞いている連中の一人がたずねた。
「かれは何と言ったんだい?」
「ええ。わたし、たずねたのよ……何か御用ですか、ザッカー・バーストウって……すると、かれったら言ったわ……うん、友だちをつれて、ここから出ていってくれだって……礼儀も何もあったもんじゃなかったのよ!」
「きみは、いやというほど文句を言うべきだね」
もう一人が、憂鬱そうにつけ加えた。主任通信技師で、ジョンソン家族《ファミリー》のセシル・ヘドリックだった。
「ぼくのところへも、ラザルス・ロングがちょっとやってきた。やつはまったく無礼だったぜ」
「何をしたの?」
「やつは通信室へ入ってくると……おれがここを引き継ぐ。ザッカーの命令だって……ぼくに言うんだ。ぼくは言ってやったよ……ほくや、部下の技術者以外の者には、だれにも手は出させない。だいたい、どういう権利があって、そんなことをするんだって……やつはどうしたと思う? 信じないだろうがね、あいつは熱線銃《ブラスター》をぼくにつきつけたんだぜ!」
「そんなばかなこと!」
「ほんとなんだ。言っとくがね、あの男は危険だよ。やつは精神病の治療を受けるべきだ。ひどい隔世遺伝だね!」
ラザルス・ロングの顔が、フォード長官の前にあるスクリーンにうつった。
「ぜんぶ記録しましたか?」
フォードは机の上にある電送複写機《ファクシミュレーター》のスイッチを切って、はっきりと言った。
「ぜんぶとった」
「そうですか、じゃあ切りますよ」
ラザルスの映像は消え、フォードは内線の回路にむかって話しかけた。
「公安局長に、すぐぼくのところへ出頭するように……身体を運んでくるんだぞと言ってくれ」
社会の安寧秩序を司っている親玉《ボス》は、しわのよった顔に、規律に服しながらも困惑したような表情をあらわに浮かべて出頭した。この男は、現在の職について以来、もっとも多忙な毎日を送っていた。それなのに〈おやじ〉は、自分自身でやってこいと命令したのだ。テレビ電話ってやつは、なんていまいましいやつなんだと、かれはぷりぷりしていた──どうしてまたおれは、警察畑の仕事なんかにくびをつっこんでしまったんだ──かれは、形式ばって、不必要に冷たく敬礼することで不服に思っているところをあらわした。
「お呼びですか、閣下」
フォードは、そんなことは無視した。
「うん、ありがとう。さあこれだ」
長官はボタンを押した。すると一巻のフィルムが、電送複写機《ファクシミュレーター》からポンと飛び出した。
「これは、ハワード・ファミリーの完全なリストだ。かれらを逮捕しろ」
「はい、閣下」
公安局長は、そのフィルムを見つめて、それがいったいどうして手にはいったのかを、たずねたものかどうかと考えた──たしかに、おれの役所を経由して来たもんじゃない──〈おやじ〉は、おれが知らない情報網を持っているのだろうか?
長官はあとをつづけた。
「アルファベット順になっていて、地名別に出るようになっている。地区毎に指令したら、送ってくれ……いや、ぼくのところへ持ってきてくれ。催眠訊問は中止していい。連中を連行して、おさえておくだけだ。きみには、あとからさらに指令をあたえる」
公安局長は、いまは好奇心を示すときではないと心を決めた。
「はい、閣下」
かれは直立して敬礼すると去っていった。
フォードは、机の上の指令装置へくるりと向きなおると、土地資源局と交通統制局の局長にすぐ会いたいと言い、あとから思いついて、補給輸送局の局長をもつけ加えた。
ファミリーの本部では、評議員の残りで会議がひらかれていた。バーストウはいなかった。アンドリュウ・ウエザラルが発言していた。
「そんなのは気に入らないな。ザッカーがみんなに報告をすることを遅らそうと決心したのはわかるが、それは、われわれに前もって話をしたかったからだとばかり思っていた。ぼくはかれが、われわれには相談してくれるものだとばかり思っていたんだ。きみはどう思う、フィリップ?」
フィリップ・ハーディは唇をかんだ。
「分らない。ザッカーだって、分別のある人間さ……だが、われわれのところへ来て、いっしょに相談すべきだったと、ぼくは考えるね。きみには話したかい、ジャスティン?」
「いや、話さないよ」
ジャスティン・フートは冷やかに答えた。
「さて、どうしたらいいかね。かれをいまの地位から追放する覚悟をきめないかぎり、ここへ呼びつけて説明を求めることはできないし、そしてかれがこばめばどうなる。そんなことにはどうも気のりがしないな」
警官たちが到着したとき、かれらはまだその問題を議論しあっていた。
ラザルスは混乱を耳にすると、はっきりとその意味をつかんだ──みんなが知らない情報をにぎっていたからだ。かれはおだやかに、人眼をひくように捕えられるべきだと考えていた──いい手本になるためだ。だが、昔からの性質というものは、なかなかなくならないものだ。かれは近くにあった男性用|活力賦与機《リフレッシャー》にもぐりこんで、しばらく必然の運命を引きのばすことにした。
そこは行きづまりだった。かれは空気導管《エア・ダクト》をながめた──だめだ、小さすぎる。考えながらかれはバッグに手を入れてタバコをさがした。すると変なものが手にふれた。ひき出してみると、シカゴの警官から〈借りてきた〉腕章だった。
本部のこの地区を受け持った一隊の警官が、その活力賦与機《リフレッシャー》に頭をつっこんでみると、べつの〈警官〉がすでに来ていた。
ラザルスは言った。
「ここにはだれもいないよ、おれがしらべた」
「いったい、どうしておれの先に着いたんだ?」
「横から来たんでね。ストーニイ・アイランドのトンネルから、ここへ通じている吸気管を通ったんだ」
ラザルスは、本当の警官なら、そんなトンネルなど存在しないことには気づかないはずだと思った。
「タバコはどうだい?」
「え? タバコなんか飲んでるときじゃないぜ」
「ちえっ、おれの上官は、一マイルも遠くにいるんだ」
ラザルスがそう言うと、その警官は答えた。
「そうか。でもおれの上官は、すぐうしろにいるんだ」
「そうか。そんなことはどうだっていいや……とにかく、おれには報告することがあるんだ」
ラザルスは出てゆこうとしたが、その警官はどこうとしなかった。そいつはふしぎそうにラザルスの半ズボンをながめていた。裏がえしにはいた半ズボンは、警官の青い制服によく似ていた──ちかよってしらべてみなければの話だが。
「どの署から来たんだって?」
そいつはたずねた。
「ここだよ」
と、ラザルスは答えて、その警官の胸の下のほうに、ちょっと突きを入れた。ラザルスに格闘法を教えたコーチは、みぞおちへの一撃は、あごへの一撃よりも、身体をかわすのが困難だと説明してくれたものだった。コーチは一九六六年の道路ストライキのときに死んだが、かれの技術はまだ生きつづけている理屈だった。
ラザルスは制服の半ズボンをはき、左の腕の下に麻酔弾の弾帯をつるして、ずっと本物の警官らしい気分になった。そのうえ、その警官の半ズボンは、それまではいていたものよりぴったりとしていた。
外の通路を右にゆくと看護所《サンクチュアリ》へ通じているが、どんづまりになっていた。かれは、意識を失ってのびている恩人の上官のもとへ行くと分っていたが、仕方なく左のほうへ行った。その通路は広間へつづぎ、大勢の警官にかりたてられたファミリーの人々で埋まっていた。ラザルスは、自分の仲間には眼もくれず、困りはてている監督の警部をさがしだした。
「警部殿、向うに病院のようなものがあります。担架が五、六十必要ですが」
と、かれはきちんと敬礼して報告した。
「困ったことを言うな。きみの上官に言ってくれ、おれたちは手一杯なんだ!」
ラザルスはそれには答えなかった。群衆のなかにメアリイ・スパーリングがいることに気づいたのだ──彼女はラザルスを見つめたが、すぐに眼をそらした。かれはわれにかえって答えた。「だめです、警部、ちかくにいません」
「では、外へ行って、救急班に言うんだ」
「わかりました」
かれは、両手の親指を半ズボンのベルトにかけて、ちょっといばった格好をしながら去っていった。ラザルスが、ワーケガン出口にむかう横断トンネルに通じる通路まで達したとき、うしろから叫び声が聞こえ、警官が二人、かれに追いつこうと走ってきた。
ラザルスは、横断トンネルの入口のアーチの下で立ち止まって二人を待ちうけた。
「どうしたんだ?」
かれは二人がやってくると、おちついてたずねた。
「上官が……」
その一人が言いはじめたが、それ以上は言えなかった。麻酔弾が一発、そいつの足もとに金属的な音をたてて転がり、ぽんと破裂したからだ。とび散ったガスがその顔の表情をびっくりしたように変え、連れの警官はそいつのほうに倒れていった。
ラザルスは、アーチのうしろで十五秒まで数えながら待った。
「第一噴射管発火! 第二噴射管発火! 第三噴射管発火!」
かれは、麻酔ガスが確実に放散してしまうまで待とうとして、もう二回くりかえした。かれは思ったよりうまくやってのけた。だが、そうはやくは逃げられなかったので、ガスにちょっとふれた左足がちくちくしていた。
それからかれは調べてみた。二人は意識をなくしており、ほかにはだれも見えなかった。かれは横断ベルトに乗った。ひょっとするとこの二人は、べつにかれの正体を知って探していたのではなかったのかもしれないし、だれもかれを売ったりはしなかったのだろう。だがかれは、そんなことをたしかめるために、うろうろとはしていなかった。ラザルスは自分に言い聞かせたのだが、はっきりと確信のもてることは、たとえだれかが自分のことを洩らしたのだったにしても、それはメアリイ・スパーリングではないということだった。
外へ出るのに、さらに麻酔弾二発と、二百語もの出まかせが必要だった。外に出て、だれからも見られないところにゆくと、かれは、腕章と残った麻防弾をバッグに入れ、弾帯は樹々の繁みのなかにかくした。それからラザルスは、ワーケガンにある衣服店をさがした。
かれは購買用個室《セールス・ブース》にはいり、半ズボンの符号をダイアルした。そして、スクリーンに布地の柄をうつし出させ、説得口調のカタログ説明の声は無視した。どうみても軍隊調ではなく、青色ではない見本があらわれると、かれはそれ以上見るのをやめて、自分の寸法を送りこんだ。それから値段を見ると、札入れからクレジット・カードをちぎって機械につっこみ、スイッチを押した。
仕立てがおこなわれるあいだタバコをふかしていたラザルスは、十分後、その部屋の廃品処理機に警官の半ズボンをおしこみ、さっぱりとした身なりになって立ち去った。
過去一世紀のあいだ、かれはワーケガンに来たことはなかったが、うろうろたずねまわって人眼につくようなことはせず、中ぐらいの値段のモーテルをさがし、記帳盤のダイアルをまわして、ふつうの部屋をたのみ、そこにおちつくと、ぐっすり七時間のあいだ眠った。
かれは、部屋のなかで朝食をとり、ニュース・ボックスに聞くともなく耳をかたむけ、軽い気持で、ファミリーの手入れについて、どんな報道がおこなわれているかに興味を持った。だがそれは、超然とした関心だった。かれはもう、心のうちでは、そんなことからはなれてしまっていたのだ、いまとなってみると、ファミリーのところへもどって、また接触したことは誤りだったとわかっていた──現在の身分証明書のままで、騒動とはまったく無関係に遠ざかっていられるのは、すばらしいことだった。
ふと、一つの文句がかれの注意をひきつけた。
……それは、一族の長と申し立てているザッカー・バーストウをふくんでいます。
囚人たちは、ハリマン記念公園の東約二十五マイルにあるオクラ・オーリンズ市の廃墟にちかいオクラホマの一指定保護地に輸送されています。公安局長はそこを〈小疎外地《リトル・コベントリイ》〉と呼んで、全航空機にその十マイル範囲内に近接することを禁じました。行政長官からの発表は得られませんでしたが、政府内のある信頼すべき筋は、大量逮捕がなしとげられたため調査はスピードアップされ、ハワード・ファミリーの秘密、無限に生命をのばすかれらの技術は政府の手に入るものと期待していいと言っています。
これらの不法なグループの全員を逮捕し輸送するという思い切った行為は、社会の合法的な要求にたいするかれらの指導者たちの反抗を沈黙させるのに、大きな効果があるものと期待されています。これは、善良な市民に享受される市民権は、背後に社会全体を害する行動の仮面として使われてはならぬということを、かれらにはっきりとわからせることでしょう。この犯罪的陰謀を企てたメンバーの財産と所有地は、財務局の管轄下におかれると宣言され、監禁中は、その出先機関によって管理されることになっています……
ラザルスはスイッチを切った。
「ちくしょう! どうにもならないことだ、くよくよするな」
もちろん、かれは自分も逮捕されるつもりでいた……ところが逃げてしまったのだ。それはそれ。いまから出頭したところで、ファミリーのためには、何にもならないだろう──しかもかれは、ファミリーにこれっぽっちも面倒にはなっていないのだ。
とにかく、かれらはうまいぐあいに、みんな逮捕され、早いところ監視下におかれるようになったのだ。これがもし、かりに一時に一人ずつかぎ出されたとしたら、どんなことがおこるかわからないのだ──リンチや虐殺すらも。ラザルスは、苦い経験から、やさしい文明人も一皮むけば、リンチや集団暴行をおこなうものだということを知っていた。ザックと相談してこの計画をたてたのは、そのためだった──そのためにこそ、ザックや行政長官は、ファミリーを一つのまとまったグループにまとめて、三人の計画を実行する見込みがあるようにしなければならなかったのだ。かれらはうまくやったのだ……まったくやすやすと。
だがかれは、ザックがどうやっているだろうかと思った。それに、ラザルスがいなくなったことをどう思っているだろう。それに、メアリイ・スパーリングはどう考えただろう──かれが警官になりすまして現れたとき、彼女にはショックだったにちがいない。かれはメアリイに真相を話せたらなあと思った。
だれがどう思おうと、そんなことは問題ではない。かれらはみな、まもなく光年の彼方へ去ってしまうか──死んでしまうか、のどちらかなのだ。事は終ったのだ。
かれは電話のところへ行って郵便局を呼び、自分の郵便番号を教えた。
「アーロン・シェフィールド船長です。ゴダード・フィールド郵便局にこのまえ登録しましたが、こちらへ郵便を送ってくれませんか……」
かれは身体をまげて、部屋の郵便受のコード番号を読んだ。
「わかりました、すぐお送りしますよ、船長」
と、局員の声が答えた。
「ありがとう」
郵便が届くまでに二時間はかかるだろうと、かれは考えた……半時間は飛んでくるために、その三倍の時間は、いろいろとくだらぬことに。ここで待つのがいい……もちろん、かれの捜索は途中でわからなくなってしまったにまちがいないが、このワーケガンには何の用もない。郵便が来たら、貸しジェットではやいとこ立ち去ろう──
だが、どこへだ? 何をしようというのだ?
かれはいろいろと考えてみたが、自分の本当にやりたいと思うことは、この太陽系のはしからはしまで何もないということに、やっと気がついた。
かれはちょっとおそろしくなった。かれは、生きることに興味を失うことが、同化作用《アナポリズム》と異化作用《カタポリズム》のあいだの争いに真の分岐点──老齢を画するものだということを聞いたことがあり、それを信ずるようになっていたのだ。
ラザルスはとつぜん、ふつうの短命人種たちがうらやましくなった──すくなくとも、かれらは子供たちの邪魔物になることができる。子としての愛情は、ファミリーのメンバーのあいだでは習慣となっていなかった。一世紀やそれ以上ものあいた血縁関係を保っていることは不可能だったからだ。しかも、メンバーのあいだ以外の友情というものは、つかのまの過ぎ去るものと見なければいけなかった。かれが会いたいと思うものは、だれひとりいないのだ。
待てよ……金星のあの開拓者はだれだった? たくさんの民謡を知っていて、飲むとおもしろくなるあの男は? しらべてみよう。たのしい飛行になるだろうし、金星が厭なところだけに、いっそうおもしろいだろう。
それからかれは、そいつにながいあいた会っていなかったことを思い出して、ひやりとした──どれほどになるだろう? どのみち、あいつはもうきっと死んでいるにちがいない。
長命人種には新しい型の記憶方式が必要だ、と、リビイが言っていたことは正しかった、とかれは憂鬱になって考えこんだ。ラザルスは、自分が指を折って数えるはめになるまえに、あの男が研究をすすめて解答を出してくれたらなあと思った。かれは一、二分、このことを考えてみたが、リビイにはもう二度と会えそうにないのだということを思い出した。
郵便はとどいたが、大切なものは何もなかった。かれはおどろきもしなかった、個人からの手紙を待っていたわけではないのだ。広告のスプールは廃棄回路に流れ、ラザルスは一つの郵便を読んだだけだった。それは汎地球宇宙船修理会社《パン・テラ・ドッキング・コーポレーション》からの手紙で、かれの軽宇宙船《コンバーティブル・クリューザー》〈アイ・スパイ〉の修理が終り、パーキング・ドックにうつされ、駐船料が積算しはじめられたと書かれていた。指示されたとおり、同船の操縦制御装置には手をふれなかったが、まだそのご指示のままでいいのだろうか、とも。
かれはあとで船を受けとり宇宙へむけて出発しようと決心した。地球にすわりこんで、ろくでもないことにかかわりあっているより、よほどましだった。
勘定をすませ、貸ジェットをやとうのに二十分とかからなかった。ラザルスは離陸してゴダード・フィールド基地にむけ、飛行計画《フライト・プラン》どおりに管制されている高度にはいるのはやめて、低空のローカル航路を飛んだ。意識的に警察を避けているわけではないのだ。かれらが〈シェフィールド船長〉をさがしていると考えられる理由は、まったくないからだ。これは習慣にすぎないし、それでもすぐにゴダード・フィールドに着けるのだ。
だがそこへ到着するよりずっと前、東部カンサス上空を飛んでいるとき、かれは着陸しようと心を決め、実行した。
かれは、警部がいそうにもない小さな町の飛行場を選び、その近くの電話ボックスにはいった。なかにはいって、かれはためらった。どうすれば、全連邦の最高首脳者を呼びだし──そして話をすることができるだろう。単にノヴァーク・タワーを呼んで、行政長官のフォードと頼んだりすれば、かれにつないでくれないばかりか、この電話は公安官のほうに切りかえられて、税金の手続き同様に、ありがたくもない質問をあびせられるのがおちだ。
さて、これに打ち克つ方法はただ一つしかない。それは公安局自体を呼び出して、どうかして公安局長をスクリーンに出させることだ──それからあとは、一か八かやってみるのだ。
「公安局です……」と、声がした。「ご用件は?」
「やあ。こちらはシェフィールド船長だ。長官をたのむ」
ラザルスは、宇宙船の船長が命令するときのような声で言った。生意気には聞こえないが、ただ服従を要求するようにひびかせるのだ。
しばらく沈黙がつづいた。
「どういうことでしょうか?」
「ぼくは、シェフィールド船長だと言ったんだが」
こんどは、ラザルスの声は、いらいらとしたのをおさえつけたような声だった。
またちょっととぎれた。
「次官室におつなぎします」
その声は疑わしげだった。こんどは、スクリーンが明るくなった。次官はラザルスを見ながらたずねた。
「なんです?」
「長官をねがいます……いそいで」
「どういうことです?」
「たのむ……長官につないでくれ! おれはシェフィールド船長だ!」
次官が、この男の電話をつないだことは、許されなくてはいけない。かれは、この二十四時間のあいだ一睡もしておらず、手のつけられないほど面倒なことがつぎからつぎへとおこっていたのだ。
公安局長がスクリーンに現れると、すぐにラザルスは言った。
「ああ、やっと出ましたね! あんたがたのうるさい手続きを切りぬけるので、いまいましいほど時間がかかりましたよ。おやじをたのみます、さあ! 秘密回路を使って」
「いったい何のことだ? きみはだれなんだ?」
ラザルスは、おだやかだが、怒ったような口調で言った。
「聞いてください……ぼくはこんな面倒な事態じゃなかったら、あなたのくそおもしろくもない公安局を通したりしなかったのですよ。おやじにつないでください……ハワード・ファミリーに関することなんだ」
公安局長は、それを聞いたとたん仰天した。
「報告するんだ」
「ねえ」とラザルスはちょっとうんざりしたように言った。
「あなたが、おやじの権威をふりかざしたいのはわかっていますが、そんなことをしているときじゃないんです。もしあなたが妨害するので、ぼくがそこへ出頭して報告しなければならなくなり、二時間をむだにさせるつもりなら、そうしましょう。だが、おやじは、その理由を知りたがるだろうし、あなたが、きれいな囚人服一式を着るようなことになるのはうけあいだ。ぼくがおやじに話しますから」
公安局長は、一か八かやってみようと決心した──この男を三チャンネル通信回路につなぐんだ。それでもし〈おやじ〉が三秒ほどのうちに切らなかったら、用心ぶかくやったし、幸運だったことになる。もし〈おやじ〉が切ったら──それは、混信のせいにすればいい。かれは線をつないだ。
フォード長官は、スクリーンにラザルスの姿が現れて、めんくらったようだった。
「きみか? いったいどうしたんだ……ザッカー・バーストウは……」
「秘密回路にしてください!」
ラザルスは長官の言葉をさえぎった。
公安局長は、自分の前のスクリーンが消えて静かになったので、眼をぱちくりさせた。やはり〈おやじ〉は、局外に秘密機関を持っていたんだ──おもしろい──だが、忘れてはいけないことだ。
ラザルスは長官に、自分がどうして捕まらなかったかを、かいつまんで正直に話し、それからつけ加えた。
「おわかりでしょうが、ぼくはかくしおおせて、完全に逃げることもできたんです。ほんとうのところ、いまだってできます。だが、ぼくはここんとこを知りたいんです。われわれを移住させるというザッカー・バーストウとの約束はまだ生きているんですか?」
「そうだ」
「あなたは、自分の手をわずらわせずに、十万もの人間をどうやって〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉に押し込めるか、考えられたことがありますか? 自分の部下をも信じられないのに……そのことはご存知でしょう?」
「わかっているよ。現状は、それをやりとげるまでの一時的なことだ」
「ぼくだけが、この仕事をやれる男なんですよ。ぼくがやらなくちゃいけないんだ。あなたが信じることができて、自由に動けるものはぼくだけだからです。聞いてください……」
八分たつと、フォード長官は、ゆっくりとうなずいて言った。
「できるかもしれんな。とにかくきみは、準備にかかってくれたまえ。ぼくはゴダード・フィールドで、銀行の信用状がきみの手にはいるようにしよう」
「その経路をかくすことができますか? ぼくが、長官のふりだした信用状を見せびらかすことはできません。みんなに疑われますからね」
「ぼくにも考えがあるから信用したまえ。きみの手もとにとどくころには、ふつうの銀行取引に変っているよ」
「すみません。それから、ぼくが必要な場合、どうすればあなたに直接電話できますか?」
「ああ、そうだ……この|暗号組合せ《コード・コンビネーション》をおぼえたまえ」フォード長官は、ゆっくりとその番号を言った。「それでぼくの机にすぐ通じる。いや、書くのはよすんだ。おぼえておいてくれ」
「それから、ザック・バーストウにはどうすれば話せます?」
「ぼくのところに電話したらつないであげる。きみが直接かれのところにつなごうとしても、すごく感度のいい装置を用意しなければだめだ」
「できるにしたって、そんなものを持ち歩くことはできませんよ。じゃあ……切ります」
「幸運を祈る!」
ラザルスはおちついて電話ボックスを出ると、傭ったジェットのところへ、いそいで引き返した。かれは、近頃の警察のやりかたはあまり知らなかったから、長官にかけたこの電話を、公安局長が追跡しようとしたかどうか判断できなかった。かれはただ、自分がその立場にあったらそうしただろうと思っただけだった。だからいまごろは、どこか近くにいる警官がおそらく追いかけはじめているだろう──はやく行動するのだ。ちょっとばかりあとをくらましてやるのだ。
かれはふたたび離陸し、管制されていない低空を西にむかって飛び、西の地平線をさえぎっていた密雲のところに達した。それから方角を変え、スピードを注意ぶかく制限以内にして、ローカル交通規則が認めている低空をカンサス・シティにむかった。
カンサス・シティにつくと、かれはジェットを賃貸ジェット代理店へかえし、手をふってタクシーをとめると、管制道路をジョプリンへ走らせた。そこでラザルスは、さきに切符を買わずに、セントルイスからくるローカル線のジェット・バスに乗った。そうすれば、バスの運行記録が西海岸に回送されるまでは、かれの行動が記録されないことになる。
心配するかわりに、かれは計画を練って時間をすごした。
平均重量が一人百五十ポンドで十万人──いや、一人百六十ポンドとすると千六百万ポンド──八千トンだ。〈アイ・スパイ〉は、それだけの重量を一Gに逆らって押し上げることはできるだろうが、焼いた豆みたいなことになってしまうだろう。とにかく、これは問題にならない。人間を貨物のようにつめこむようなことはできないのだ。〈アイ・スパイ〉はそれぐらいの重量を持ち上げることはできるだろうが──〈死〉がかれらを待ち受けている言葉となるのだ。
かれには輸送方法が必要だった。
ファミリーの連中を、地球から、建造軌道を飛んでいる〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉まで運搬するのに、充分な大きさの旅客用宇宙船を購入するのは困難ではなかった。四惑星間旅客輸送会社《パフォー・プラネット・センジャー・サービス》は、よろこんでそんな船を、適当な値段で処分してくれるだろう。旅客輸送競争がはげしくなっていたので、かれらは旅客に人気のなくなった古い宇宙船を処分して赤字を切りつめようと躍起になっていた。だが、旅客用宇宙船ではためだ。そんな船をどうするのだろうと変な好奇心を持たれるばかりではなく──しかもこのことは、はっきりしているが──一人だけでは操縦できないのだ。〈新宇宙旅行危険防止法《リバイズド・プレコーショナリイ・アクト》〉にもとづいて、旅客用宇宙船は、非常の場合、自動安全装置が人間の判断にとって代れないという理由から、手動操縦に作られていることを要求されていた。
貨物用宇宙船を使用しなければいけないということになる。
ラザルスは、貨物船を探すのにいいところを知っていた。月植民地を社会生態学的に自給自足させようとする努力はつづけられてはいたが、月世界市《ルナ・シティ》はいまなお、輸出を上廻る莫大な貨物を輸入していた。地球のほうではこのため、〈空船がもどってくる〉結果になったが、宇宙輸送においては、貨物用宇宙船を空船のまま積み重ねておいたほうが安上りの場合もあった。とくに月では、空《から》の貨物船など、地球で建造するときにかかった費用より、金属としての価値のほうが高いのだ。
かれはゴダード市でバスをおりると、宇宙空港へ行き、代金を支払って〈アイ・スパイ〉を手に入れ、月へむかってなるべくはやく出発できるように申込んだ。かれが指定されたのは二日後だったが、ラザルスはべつに心配もしなかった。かれは修理会社《ドッキング・カンパニイ》にもどって、出発時刻を交換してくれるときは、よろこんでその代金を支払うと言った。二十分後に、かれはその日の夕刻に月へ出発できるという保証を口頭で受けていた。
残された数時間は、惑星間飛行出発許可のため、癪にさわるほど面倒な手続きに費された。かれはまず、フォードが約束した信用状を受けとって現金に変えた。ラザルスは、別な宇宙船の出発時刻と交換してもらうために(まったく合法的に)金を払ったように、自分の手続きをはやくしてもらうためなら喜んで大枚の現金を使うつもりでいた。だが、そんなことはできないことがわかった。
二世紀にわたって生きてきたおかげで、賄賂をおくるときには、誇り高い婦人に対していんぎんに話しかけるように、上品にしかも遠まわしに申し出なければいけないことはわかっていた。だがラザルスは、市民の道徳感や公僕の正直さということが、度を過ぎて存在しているという憂鬱な結論に達した──ゴダード基地の役人たちは、心づけや収賄の観念をまったく知らないのか、形通りの処理をおこなう場合に、金銭がなめらかにことを運ぶ効果などまったく知らないようだった。かれは、その清廉さを賞讃した。そんなことを好まなければいけないということはなかったが──特に、ろくでもない書式に記入するために、〈|空の玄関《スカイ・ゲート》〉ですばらしいご馳走を食べようと思っていた時間をあてなければならないときは。
かれは〈アイ・スパイ〉にもどって、二、三週間まえ、地球に到着したとき予防接種をしたことを示す紙片をひっぱり出してくるようなこともせず、また予防接種を受けた。
それでも、変更された出発時刻の二十分前になると、かれは〈アイ・スパイ〉の操縦席に横たわった。バッグは、スタンプを押した書類でふくらんでいたが、腹のほうは、どうにか手に入れたサンドイッチだけではふくらまなかった。かれは、自分が飛ぶことになった〈ホーマン・S弾道〉を調べ、その答を自動操縦装置《オート・パイロット》に入れた。基地管制塔が秒読みをはじめるとまばたきはじめる明かり以外、船内の明かりはぜんぶ緑色になった。ラザルスは、噴射をはじめるまぎわにいつも全身をつつむあたたかい幸福感をおぼえながら待機した。
それからかれは、ひょっこりあることに気がついて、胸部安全ベルトをはずして起きあがり、〈テラ・パイロットと交通の危険〉紙の最近号を手にとった。ほう……
〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉は、地球の中心から約二万六千マイルの距離に、赤緯ゼロ、子午線一〇六度面を保って、ちょうど二十四時間の円形軌道にのっていた。
あそこに寄ってみて、構造を偵察してみたらどうなんだ?
〈アイ・スパイ〉の燃料タンクはいっぱいつまっており、貨物を入れる場所はからっぽだったので、予備噴射のための燃料は何マイル〈秒速〉分もあった。基地の出発許可は、あの恒星間宇宙船までではなく月世界市《ルナ・シティ》まで行くとしておいたのだ……だが、いまの月の相では、許可された飛行経路から離れても、ほとんどスクリーンにはうつらないだろうし、フィルム記録があとから分析されるまでは気づかれないだろう──そのときには、ラザルスは交通違反の件で出頭命令を受けとることになるだろうし、たぶん許可証も取り上げられるだろう。だが、呼び出しを心配したことはいままで一度もなかったし……しかも偵察するのは、たしかにそれだけの値打ちがあることだった。
かれはもう、その問題を航路計算機に開始させていた。〈テラ・パイロット紙〉で〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉の軌道要素を調べることを除けば、ラザルスは眠っていてもやれたはずだ。人工衛星接近競技大会は、どんな操縦士にも旧式な競技になっていたし、二十四時間軌道に用いる二重正接軌道は、操縦学生すら暗記していることだった。
かれは航路計算機の解答を、秒読みのあいだに自動操縦装置《オート・パイロット》に与え、三分間の余裕を残し、また安全ベルトをしめて、加速がはじまるとほっとした。船が自由落下にはいると、かれは、基地からの通報機からの指示によって位置とベクトルをしらべた。それに満足すると、かれは操縦装置をそのままにし、ランデブー地点に達すると警報がなるようにセットして眠りこんだ。
6
約四時間後に、警報が鳴ってラザルスは眼をさました。スイッチを切っても、まだ鳴りつづけている──スクリーンをちらりと見ただけでその理由がわかった。〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉の巨大な円筒状の船体が、接近しているのだ。かれは、レーダーの警報装置のスイッチを切り、航路計算機をつかわずに勘で、むこうの船にあわせていった。その操作を完了する前に通信警報が鳴りはじめた。スイッチをぴしゃりとたたくと、自動装置がむこうの波長をつかまえ、映像スクリーンが明るくなった。男が一人、ラザルスを見つめている。
こちらは新開拓者《ニュー・フロンティア》……どこの船だ?
「私有船、アイ・スパイ、シェフィールド船長です。そちらの船長によろしく。訪問したいのですが、乗船させていただけますか?」
連中は、お客をむかえることをよろこんでいた。〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉は、最終点検と試運転と引渡しをのぞけば、もう完成していた。建造にあたった大変な数の一団は地球へ帰ってしまっていたので、ジョーダン協会の代表と、協会のためにこの船を建造する目的で作られた会社にやとわれた技術者のほかには、だれもその船のなかに残っていなかった。これらの数少ない人々は、することもなくてうんざりし、おたがいにもあきあきしてしまい、指折りかぞえて、楽しい地球へ帰る日を待ちくたびれていた。だから、訪ねてくるお客は、ありがたい気晴らしになるのだった。〈アイ・スパイ〉のエアロックが、巨大なその船のエアロックにつながれると、ラザルスは主任技師にむかえられた──技術的にいうと、〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉はまだ建造中であって、だれの指揮下にもはいっていなかったから、その男が事実上の船長であった。
その男は自己紹介して、ラザルスを案内してまわった。二人は数マイルもある廊下を泳いでいき、実験室、貯蔵倉庫、数十万巻のリールを収めている図書館、食物を成長させて酸素を補充する数エーカーもの水耕用《ハイドロポニック》タンク、一万人もの乗組植民集団《クリュウ・コロニイ》を収容できる、居心地がよくて広々しており、ぜいたくでさえある部屋々々を見てまわった。
その船長・技師長は言った。
「ヴァンガード探検隊は、すこし人手不足だったように聞いています。ですが、社会力学者たちは、この植民団なら、現代の文明水準を維持できるだろうと考えているんです」
ラザルスは答えた。
「充分だとは思えませんね。専門分野となると、一万種以上もあるんじゃないんですか?」
「ああ、もちろんです! でもこの場合の考えかたは、すべての基礎的な学術と、欠くことのできない知識、そういったぜんぶの部門に専門家を配置することにあるんです。それからこの植民団が大きくなっていきますと、参考図書館の助けを借りて、それ以上の専門分野が追加されてゆきます……タップダンスから、つづれ織りの技術まで。わたしの専門じゃあありませんが、これが基本的な考えかたなんです。こういうことの好きな人々には、もちろん興味のある課題でしょうが」
「あなたは、やってみたいと思われませんか?」
そいつは、ひどくびっくりしたようだった。
「わたしが? わたしが、こんなことにくびをつっこみたいかと言われるんですか? わたしは技術者ですよ。そんな馬鹿じゃないんです」
「そいつはどうも」
「そりゃあわたしも、ちゃんとした理由があれば、ある程度の宇宙旅行をすることはなんとも思いませんよ……数えきれないぐらい何度も月世界市《ルナ・シティ》に行きましたし、金星へすら行きました。だがあなたは、メイフラワー号を建造した男がそれに乗っていったとは思われないでしょう? それに申しこんだ連中を、金星に到着するまでのあいだに気違いにさせないでおいたただ一つの理由は、連中が出発する前からみんな気違いだったというはっきりした事実だけですよ」
ラザルスは話題を変えた。かれは、人手を要しない完全自動式だとわかると、主推進機室や、巨大な原子力発電機を収容している装甲のあつい部屋をぶらついたりはしなかった。これらの各室に手で動かす部分がまったくないのは超静力学《バラ・スタティックス》の最近の進歩によって可能となったもので、この船内の仕事を、文化学術的な仕事だけに限らせ、ほうりっぱなしにしておくことができるのだった。ラザルスが見たかったのは操縦制御室《コントロール・ルーム》だった。だからそこにはいりこむと、数限りない質問をあびせかけ、しまいに接待役は、うんざりとしたところをまざまざと見せて、無礼にさえなっていた。
ラザルスは、とうとう口をつぐんだ。この技師長にうるさくたずねることが気になってきたからではなく、制御装置についての知識が充分得られたので、この船の指揮をとる機会がくればよろこんでやってみられるという確信ができたからだった。
かれは船を立ち去る前に、もう二つの重要なデータを手に入れた。
九地球日のうちに、この船の基幹要員《スケルトン・クリュウ》は地上で週末を送ろうと計画しており、それにつづいて引き渡しのため試運転がおこなわれることになっているのだ。そして三日間、この巨大な船は、たぶん、通信手をのぞくと空《から》っぽになるのだろう──ラザルスは、用心してその点はたずねなかった。だが船内に警備員はいないだろう。警備員の必要など考えられないからだ。たった一人では、ミシシッピー河を一人で見張っているのも同然だ。
もう一つのことは、内部からの助けを借りずに、どうしてこの船内へはいるかであった。かれがちょうど船を立ち去ろうとしていたとき、郵便ロケットが到着するところを見ることができたので、そのデータも入手できた。
月世界市《ルナ・シティ》では、ダイアナ飛行会社《フライト・ライン》の子会社、ダイアナ・ターミナル会社の代理人、ジョセフ・マックフィーが、ラザルスをあたたかく歓迎した。
「やあ! おはいり、船長。すわってくれよ。なにを飲む?」
こいつはそう言いながら、もう注《つ》いていた──かれが自分でつくった素人真空茶溜器製の、無税ペンキ落としだった。
「きみには……ずいぶんながいあいだ会っていないな。どこから上《あが》ってきたんだい? 下での噂話は何かないか? 新しいニュースは?」
「ゴダードからだよ」
ラザルスは、ある船長が重要人物について話していたことを言い、マックフィーは、自由落下《フリー・フォール》のときのオールド・ミスのことを話した。ラザルスは、その話はまだ聞いたことがないようなふりをしていた。政治の話になり、マックフィーはヨーロッパ問題に対する〈唯一の可能な解決策〉を述べたてた。それは誓約《コベナント》が、工業化されたあるレベル以下の文明にはひろげることのできない理由についての、マックフィーの複雑な理論にもとづく解決策だった。
ラザルスは、いいとも悪いとも言わなかったが、マックフィーをせかせるよりも、もっとうまい方法を知っていた。かれは、つぼつぼでうなずき、すすめられると、廃棄処分になったロケット用ジュースをもっと飲んで、要点を切り出すのにちょうどいい時間まで待っていた。
「いま売りに出ている会社の船はあるかい、ジョウ?」
「ここにか? 大声で叫びたいぐらいのもんだね。この十年来、こんなひどいことはないと思うほど、棚おろしもできない鋼鉄の山だ。むこうの原っぱはいっぱいになっているよ。さがすかい? きみにならいい値をつけてやるぜ」
「そうだな、それも、ぼくの欲しいのがあるかどうかによるんだ」
「言ってみろよ、ちゃんとあるぜ。こんなに景気の悪いことは知らないな。いつかは、小切手を金にかえることもできなくなりそうだな」マックフィーは眉をひそめた。「原因はなんだか知ってるかい。話してやろうか……あのハワード・ファミリー騒動なんだ。この結果がわかるまで、金を使うようなあぶないまねをしようと思うやつはいないんだ。十年の計画をたてるべきなのか、百年の計画をたてたらいいのかわからないときに、どうして計画をたてたりすることができるかね? ぼくの言うことをおぼえておくんだぜ。もし政府がなんとかして、あの赤ん坊どもから秘密を洩らさせることができたら、かつてないほどの長期の投資ブームになるだろう。だがもし失敗したら……そう、長期の株は、一ダース一ペソの値打ちもなくなるだろうし、食べて飲んで愉快にやろうぜ式の気違い沙汰になって、月世界の再建などお茶の会ぐらいのことに思われるようになるんじゃないかな」
かれはまた眉をひそめた。
「きみは、どんな種類の金属をさがしているんだい?」
「金属はいらない、船が欲しいんだ」
マックフィーのしかめっ面は消え、眉毛がぴくんとあがった。
「そうか、どんな種類だい?」
「はっきり説明はできないな。ぼくといっしょに見てまわる時間はあるか?」
二人は連れだって北トンネルからドームを出て、低い重力のためやすやすと大股になって歩きながら、地上に置いてある船のまわりをぶらついた。やがてラザルスは、必要とするリフトや容積のある船を二度見つけだした。一つは油槽船《タンカー》で、値段は安いが、頭のなかで計算してみると、乗客八千トンを収容するには、たとえタンクの床を含めても、甲板《デッキ》スペースが足りなかった。もう一隻のほうは、ぐらぐらするピストン型の噴射メーターをそなえた古い船だったが、一般貨物用には適していて、甲板スペースは充分あった。この船の貨物積載重量は、こんどの仕事に必要なものより大きかった。乗客の重量が、そのふさぐ体積にくらべると小さいからだ──そのことで船はより操縦しやすくなり、これが決定的に重要なこととなるかもしれないのだ。
噴射機《インジェクター》については、これをあやしながら使うことができるだろう──かれは、これよりもっとひどいオンボロ宇宙船のおもりをしたこともあったからだ。
ラザルスは、マックフィーと値段の交渉をはじめた。金を節約しようと思ったからではなく、そうしなければ、とんでもないことになるかもしれないからだった。二人はついに、複雑な三角取引を結んだ。マックフィーは〈アイ・スパイ〉を個人用として購入し、ラザルスはそれを担保に入れ、マックフィーの無担保の手形を受けとり、それから裏書きしたマックフィーの手形をかえし、それに現金を足して、その貨物用宇宙船を買った。マックフィーは、〈アイ・スパイ〉を月世界市《ルナ・シティ》の商業清算銀行に抵当として入れ、それに現金を足すか、自分の信用を使って、自分の出した手形をとりもどすのだ。
これはぜんぜん賄賂というものではなかった。ラザルスはただ、マックフィーがながいあいだ自分専用の船を欲しがっており、〈アイ・スパイ〉を仕事にも遊びにも理想的な独身者用の乗物だと思っている事実を利用しただけだった。ラザルスは、マックフィーが、この取引きをうまく処理できるところまで値段を下げただけのことだった。だがすくなくともマックフィーが自分の手形を買いもどせるようになるときまでは、この取引きのことはしゃべらないということは、はっきりとしている。
ラザルスはマックフィーに、タバコの仕入れでなにかいい掘り出し物があれば気をつけておいてくれと言って、かれの口から取引きの内容をより一層わからないようにした……マックフィーは、シェフィールド船長の神秘的な冒険は、そんな商品のただ一つの市場である金星にちがいない、と確信した。
ラザルスは、特別賞与と超過勤務手当をはりこみ、たった四日のうちに、その貨物船が宇宙に出発できる準備をととのえた。そしてついにかれは月世界市《ルナ・シティ》をあとに飛びたち、〈シティ・オブ・チリコーシ〉の船主兼船長となった。かれはながらく口にしていない大好きな料理チリに敬意を表して、心のなかではその名をちぢめて〈チリ〉にした──大きな赤い豆に、とんがらしをたっぷり、それに肉をいっぱい入れたやつだ──若い連中が〈肉〉だと呼んでいる合成肉なんかじゃない、正真正銘の肉だ。この料理のことを考えると、よだれがたまってきた。
心配ごとはまるっきりなかった。
かれは地球に接近すると、〈チリ〉を着陸させたくなかったので、交通管制局を呼び出して駐船軌道《パーキング・オービット》の指定を求めた。着陸させたりすると、燃料を消費するし、注意を引きつけるからだ。許可をとらずに軌道をまわっていることなどはちっともためらわなかったが、船をはなれているときに、難破船だと思われて、位置をつきとめられて調べられるかもしれなかったからだ。だから、合法的にやるほうが安全だったのだ。
軌道を指定されると、かれは船をそこにのせ、それていかないようにし、それから見失ってしまわないように〈チリ〉の識別ビーコンをつけ、搭載ボートのレーダーでつきとめられるようにしておいて、ボートを操縦し、ゴダードの小宇宙船用補助空港に着陸した。こんどは注意して、必要な書類はぜんぶそろえ、ボートを保税倉庫に入れておくことで税関を避け、宇宙空港をさっさと出ていった。ラザルスの心には、公衆電話を見つけて、ザックとフォードに連絡することのほかなかった──それに、時間があれば正真正銘の〈チリ〉をさがすことだ。かれは、宇宙から行政長官を呼び出したりすることはしなかった。宇宙船から地上へ通信するためには中継が必要であり、その交換手がハワード・ファミリーの話を聞けば、プライバシーを守る習慣などきっと破られてしまうにちがいないと思ったからだ。
ノヴァーク・タワーのある経度では真夜中だったが、長官はすぐラザルスの電話に答えた。フォードの両眼に黒いくまができているところをみると、長官は机にすわったままこの毎日をすごしているらしいことがわかった。
「やあ」と、ラザルスは話しかけた。「ザック・バーストウを入れて三人で話したほうがよさそうですな。報告することがありますからね」
フォードは荒々しく答えた。
「そうだろうよ。ぼくはきみが、逃げ出したもんだとばかり思っていた。どこにいたんだ?」
「船を買っていたんですよ……ご存知のはずです。バーストウを加えましょう」
フォードはむずかしい顔をしたが、机のほうに向いた。スクリーンは二つに分けられてバーストウの姿が加わった。かれはラザルスを見てびっくりし、あまり安心したようなふうは見せなかった。ラザルスは早口で話した。
「どうかしたのか? ぼくがなにをやろうとしていたか、長官は言わなかったのかい?」
「ああ、言ってくれたよ。だが、われわれには、きみがどこにいるのか、何をしているのかわからなかったんだ。時間はたってゆくが、きみは現れない……だからわれわれは、きみにはもう会えないのかと思っていた」
「ちえっ。ぼくがそんなことをやる男じゃないぐらいわかっているだろう。ともかく、ぼくはここにいるし、やってきたこともはっきりしているよ」
ラザルスは二人に、〈チリ〉のことや、〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉をしらべてきたことを話した。
「で、ぼくの考えはこうだ。今週の終り、〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉にだれも乗船していないあいだに、ぼくは〈チリ〉を保護強制収容地へ着陸させ、大いそぎで全員をのせて〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉につっぱしって占領し、さっと逃げ出す。長官、これにはあなたの大へんな援助が必要です。着陸して乗船させるあいだ、警官たちにはそっぽをむいてもらわなければいけないし、巡視宇宙艇をやりすごすといったことも必要になります。そのあと〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉に思いきったことをやるとき、宇宙海軍艦艇がいなかったらすごく好都合というわけです……もし通信手が残っていたら、われわれが黙らせるより前に、助けを求めることができるんですからね」
フォードはむっつりと答えた。
「ぼくにも考えがあるってことを、ちょっと信用してくれ。きみたちが〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉を持ち逃げするとき、邪魔になるものを牽制しなければいけないことはわかっているが、その計画は空想的すぎるよ」
ラザルスは反対した。
「ちっとも空想的じゃありませんよ。最後のどたん場のところで、あなたが非常権限をフルにつかってくださればですがね」
「やれるかもしれんな。だが、四日も待てないよ」
「なぜだめなんです」
「そんなに長いあいだもちこたえられるような事態じゃないんだ」
「わたしのほうもだめです」
と、バーストウが口をはさんだ。ラザルスは、バーストウを見、フォードのほうへ視線をうつした。
「ほう? どうしたというんです。なにかおこったんですか?」
二人は説明した。
フォードとバーストウは、ばかげたほどたいへんな苦労をつづけていた。ファミリー、大衆、議会のそれぞれにたいして、それぞれ違った面を見せるという複雑微妙な三重のごまかしをやってのけるということだったのだ。そしてどれも、手をつけられぬほど困難なことだったのだ。
フォード長官には、思い切って秘密を打ち明けられる人間はいなかった。もっとも信頼できる側近の者ですら、夢のような青春の泉#Mにかかっているかもしれなかったからだ──いや、かかっていないかもしれないが、この陰謀を打ち明けてみるほか、知る方法はなかったからだ。それにもかかわらず、かれは自分のとっている政策が、議会の求めている目的を達成する最善の政策であると、議会に思わせておかなければならなかったのだ。
それにくわえて、政府は、永久に生きながらえられる〈秘密〉を手に入れようとしている、ということを市民たちに確信させるため、かれは毎日ニュースを発表しなければいけなかった。日、一日、その発表は詳細にわたることが必要になったし、そのためには嘘がさらに巧妙になっていかなければならなかった。人々は、秘密を手に入れるのがおくれていることに不安になっていた。かれらは、文明という衣服をかなぐり捨てて、暴徒と化しつつあったのだ。
議会は、民衆の圧力を感じていた。二回にわたってフォードは信任投票に問われ、二度目などは、たった二票の差で勝利を得たにすぎなかった。
「つぎの投票では勝てないだろう……すぐ行動をおこさなければいけないんだ」
バーストウのほうの事情は異なっていたが、こまった点では変わらなかった。かれには、腹心の者が必要だった。自分の仕事が、十万ものメンバーに〈脱出《エクソダス》〉を覚悟させる下準備だったからだ。乗船の時が到来するまでに、静かに、しかも素早く出発できるかどうか知っておく必要があった。だがかれは、あまりはやく事実を打ち明けてしまうことはできなかった。こんなに大勢の人間のなかには、のろまで手のつけようもない連中もきっといるはずだったからだ──しかも、この計画をぶちこわすには、警戒にあたっている警官たちに事実を洩らす馬鹿者がたった一人いるだけでいいからだ。
かれは、信頼できる指導者を何人か、なんとしてでもさがし出し、その人々に納得させて、かれらがほかの人間に確信を抱かせることにたよるほかなかったのだ。かれは、その時が来たら、かならず全員を自分に従わせるために、千人もの信頼できる〈牧夫〉が必要だった。だが、かれの必要とする腹心がこんなに大勢であれば、そのなかには、弱気になる者もいることははっきりしていた。
それより悪いことは、かれには、さらに面倒な目的のために別の共謀者が必要だったのだ。フォード長官とかれは、時間を稼ぐため、どっちみちもろいものではあったが、一つの計画に意見が一致していた。二人は、ファミリーの者がやっている〈老衰の徴候を遅らせる技術〉を小出しにし、それらの技術を綜合したものが〈秘密〉であると見せかけたのだ。このごまかしをうまく演ずるためにバーストウは、ファミリーのなかにいる生化学者、腺治療学者、共生学や新陳代謝の専門家や、ほかのエキスパートたちの助力が必要だった。しかもこれらの人々自身に、ファミリーのなかで最も腕のいい応用心理学者《サイコ・テクニシャン》によって、警察の訊問に対抗する準備を施さなければいけなかった──くだらぬ〈おしゃべり薬〉の影響を受けても、そのごまかしをうまく演じとおすことができなければいけなかったからだ。このために必要な〈催眠術による偽の教えこみ《ヒュプノティック・フォールズ・インドクトリネーション》〉は、単純な愚か者の口を封じるために必要なそれより、途方もなく複雑なことだった。いままでのところは、このごまかしは利いていた──かなりうまく。だが矛盾は、日、一日と、言いのがれることがむずかしくなってきたのだ。
バーストウは、もうこんなことでだましてはおれなくなった。やむを得ず知らされていないファミリーの大多数は、外部の一般大衆よりも、手に負えなくなっていたのだ。かれらは、当然のことだが、自分たちが現在あっている目に腹を立てた。みんなは、権力のある者が何かやってくれることを期待したのだ──しかも今すぐにだ!
バーストウのファミリーに及ぼす力は、議会に及ぼすフォードの力と同じように、急速に消えはじめていたのだ。
「四日ではだめだ」とフォードはくりかえして言った。「十二時間ぐらいだ──外部に対しては二十四時間になる。明日の午後、議会がふたたびひらかれるんだ」
バーストウは困っていた。
「そんなに短い時間に準備することはできません。乗船させるのが大変です」
「そんなことにくよくよするな」
フォードは、かみつくようにそう言った。
「なぜです?」
フォードは、ぶっきらぼうに答えた。
「理由は……あとに残るものは殺されてしまうんだ、かならず」
バーストウは何も言わずに眼をそらした。これは、比較的被害の大きくない政治的なごまかしではなくて、大虐殺を回避するための絶望的で、ほとんど望みのない試みであるということを、二人がはっきりと認めたのはこれがはじめてだった──しかもフォード自身は囲いの両側にいるわけだった。
ラザルスは活発な口調でわりこんだ。
「さて、そう決めたのなら、どんどん進めようじゃないか。ぼくは〈チリ〉を保護地のなかに着陸させられる……」
かれは話すのをやめて、船が軌道のどこにいるか、それにあわせるのには時間がどれくらいかかるかを、すばやく見積った。
「……さて、グリニッジ標準時の二十二時までだ。安全をみて一時間ひいとくんだな。明日の午後、オクラホマ時間で十七時はどうだ? 実のところ、それは今日だ」
ほかの二人はほっとしたようだった。バーストウは賛成した。
「充分だ。できるだけいい状態にしておくよ」
「よろしい。はやければはやいほど事はうまく運ぶ」フォードも同意し、しばらく考えた。「バーストウ。ぼくはすぐ、現在保護地の構内にいる警官と政府職員をぜんぶ撤退させ、きみたちを外部と遮断する。門が閉まったら何でも話してくれ」
「ええ、最善をつくしてみます」
「切る前に何かないか?」ラザルスはたずねた。「ああそうだ、ザック……着陸する場所をえらんでおいてくれ。じゃないと、噴射でたくさんの生命をなくすことになる」
「うん、そうだ。西のほうから接近してくれ。標準着陸位置通信器《スタンダード・バース・マーカー》を用意しておくよ。いいか?」
「わかった」
「だめだ」と、フォードは言った。「感度のいい誘導電波を出さなくちゃいけないだろう」
ラザルスは反対した。
「とんでもない。ぼくは、ワシントン記念碑のてっぺんにだっておろせますよ」
「今度の場合はできないだろう。天気におどろくなよ」
ラザルスは〈チリ〉とのランデブー地点に近づくと、ボートから信号を出した。〈チリ〉の通信装置が、ほっとしたことに答えてくれた──かれは、自分で点検しなかった機械類にはちっとも信用しないたちだったのだ。しかも〈チリ〉をさがすために、ここで時間をかけたりしていたら、たいへんなことになってしまうのだ。
かれは相対動径《レラティブ・ベクトル》を計算し、ボートの速度を急に増し、それから急ブレーキをかけた──計算と三分ちがいですべりこむことができ、どんなもんだと思った。それからボートを船台に据えると、中にかけこんで、地球へむけて発進させた。
成層圏へはいり、地球を三分の二周するのに、考えていたほど時間はかからなかった。かれは、使い古したおんぼろの噴射機を節約しようとして、けちくさく操縦し、風圧を利用した。それから対流圏に降下し、危険でない程度に船体表面温度を上げて接近していった。
ほどなくかれは、フォードが天気のことを言った意味がわかった。オクラホマとテキサスの半分が、ふかくて厚い雲におおわれていた。ラザルスはおどろきはしたが、うれしいような気分もした。かれは、気象が管理されておらず〈経験〉されていたというべきころのことを思い出したのだ。気象管理技術者《ウエザー・エンジニア》が、どのように自然の力を管理するか知ったとき、人生はある程度香りを失ったというのがかれの見解だった。かれはこの惑星に──たのしく生き生きとした天候があったらな、と思っていたのだ。
それからラザルスは、そのなかに下降していったので忙しくてじっくり考えることができなかった。大きな図体をしているのに、この貨物宇宙船は、とびはねたり不平をこぼしたりした。ひゃーっ! フォードは、その時間をきめた瞬間にこのどんちゃん騒ぎを予測したにちがいない──しかもこのとき、気圧計は、このちかくが示し得られるかぎりの低圧地域であることを教えたのだ。
どこからか航路管制官が叫び声をあげていた。ラザルスはスイッチを切ってその声を消し、そいつが言ったことを、慣性表示計《イナーシャ・メーター》とくらべながら、接近レーダーと赤外線修正器のかすかな映像に全神経を集中した。船は、地表数マイルにひろがっている傷口──オクラ・オーリンズ市の廃墟をとびすぎた。ラザルスがまえに見たときは、活気にあふれて騒々しいところだったのだが。人類が自分たちに負わせた機械的な怪物のうちでは、この恐竜たちが容易に一等賞をとることだろうとかれは思った。
そんな考えは、制御盤の悲鳴でたちまち断ち切られた。船が誘導電波《パイロット・ビーム》をとらえたのだ。
船は旋回してさがり、地上をかすると最後の噴射を停止した。かれは、ずらりとならんだスイッチをぱたぱたと叩いていった。巨大な貨物積載口が音をたてて開き、雨がはげしくふきこんできた。
エレノア・ジョンソンは、嵐をさけてかがみこみ、左の腕にだきしめた赤ん坊を、しっかりと外套につつんでいようと努めていた。嵐にはじめて打たれると、子供はひっきりなく泣きさけび、彼女の胸ははりさけそうになった。泣き声はおさまったが、いつまたはじまるか安心はできないのだ。
彼女は顔に出すまいとつとめたが、自分も泣いた。二十七年間の生涯に、このような天気に身をさらしたことは一度もなかったのだ。それは──彼女の生活をひっくりかえし、気持をなごやかにさせる旧式な暖炉や、ぴかぴかみがいた台所や、他人に相談しなくても好みの温度にできるサーモスタットがある、なつかしい最初のわが家から、彼女を吹きとばしてしまった嵐を象徴するもののように思われたのだ──そのはげしい嵐は、彼女を二人のいかめしい警官のあいだに吹きおくり、哀れな精神病者のように逮捕させ、はげしい侮辱をあたえたあと、このつめたくべたつく赤粘土のオクラホマの広野におろしたのだ。
これは事実だったのだろうか? 事実のはずがあるだろうか? それとも彼女は、まだ赤ん坊を産んではおらず、妊娠中に見た別の不思議な夢なのだろうか?
だが、雨はひどくじめじめして冷たく、雷はおそろしい音をたてている。主席評議員が言ったことも本当なのだろう──きっと本当なのだ。彼女は、自分自身の眼で、宇宙船が着陸するところを見たからだ。嵐の暗闇のむこうが噴射で輝いたのだ。彼女はもう船を見ることはできなかった。まわりの群衆がゆっくりと前方へ動いているからだ。前方にいるのにちがいない。彼女は群衆のいちばん外がわだった。最後に乗りこむ者の一人になるのだろう。
どうしても乗船しなければいけないのだ──ザッカー・バーストウ長老は、乗船しない場合、みんなを待ちうけている事態について厳粛に物語ったのだ。彼女には、かれが本気で言っているとわかっていた。だが彼女は、どうしてそんなことが本当なのか不思議に思われてならなかった──彼女や、彼女の子供のように、罪もなく頼りないものを、殺そうとするような、そんなにひどい、そんなにおそろしい、ひどい人間など、いるものだろうか?
彼女は恐怖にうたれた──もし、船にたどりついたとき、はいる部屋がないとしたら? 彼女は赤ん坊をまた抱きしめた。子供は身体をしめつけられて、また泣きだした。
群衆のなかにいた一人の女が、近よってきて彼女に話しかけた。
「おつかれでしょう。しばらく赤ちゃんをだっこしましょうか?」
「いいえ、ありがとうございます。大丈夫です」
いなずまがきめらいて、その女の顔を照らした。エレノア・ジョンソンは彼女がだれだがわかった──メアリイ・スパーリング長老だった。
だがこの親切な言葉で、エレノアの気分は落ちついた。彼女は、いま何をしなければいけないかわかっていた。もし船がいっぱいで、それ以上積めこめないとわかったら、群衆の頭ごしに、手から手へと子供をわたしてもらわなければいけないのだ。彼女の赤ん坊のように小さいものに場所をあけてくれないはずはないからだ。
何かが暗闇のなかで彼女をこすった。群衆はふたたび前方へ動いていった。
バーストウは、乗りこみがもう二、三分のうちに終ると分ると、貨物入口の持場から去り、ねばっこい泥がはねるなかをいそいで通信室へ走っていった。フォード長官が、宇宙船を発進させる直前に知らせるようにと警告していたからだ。牽制をおこなうフォードの計画にそれが必要だったからだ。バーストウは、不格好な手動ドアをがたぴしとあけて、はしりこんだ。そして、フォードの机に直結する秘密番号をセットしてキーをおした。
すぐに返答はあったが、スクリーンに写ったのはフォードの姿ではなかった。バーストウは、眼の前の顔をはっきり見きわめる前にどなった。
「長官はどこだ? かれに話したい」
それは、みんなによく知られた顔だった──議会に於ける少数党の指導者ボーク・ヴァニングだった。
「きみは長官に話をしているよ」と、ヴァニングはそう言うと、冷やかにニタリと笑った。「新長官だ。いったいきみはだれだ、なんのために電話したんだ?」
バーストウは、顔を知っているのが片一方だけだったことを、過去現在のあらゆる神々に感謝した。かれはねらいもつけず、手をふりおろして連結を切り、建物をとび出していった。
二つの貨物入口はすでに閉められ、おくれた連中が別の二つの入口からはいっていた。バーストウは最後の人間にどなりながら中へ追いこみ、混雑のなかを操縦室にすすんでいった。
かれはラザルスにどなった。
「船を上げろ! いそいでくれ!」
「なぜそんなことをどなっているんだ?」
ラザルスはそうたずねはしたが、もうすでに貨物入口をかたく閉めていた。それからかれは加速度警報を吹き鳴らし、十秒ばかり待ち……そして、船を発進させた。
かれは六分後に会話の口調になってたずねた。
「さて、と……みんな横になっていてくれたかなあ。で、なかったら、骨の折れた連中もすこし出ているよ。きみが言おうとしていたのは何だい?」
バーストウは、フォードに報告しようとしたときのことをかれに話した。
ラザルスは眼をしばたいて、〈わらのなかの七面鳥〉の二、三節を口笛で吹いた。
「あぶなく、何分かのところで逃げ出したらしいな」
かれは口をつぐんで、注意を計器にむけた。片方の眼を弾道航跡に、一方を船尾レーダーに。
7
ラザルスは〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉の船体真正面に〈チリ〉を操縦してゆくことに忙殺された。計器類は酷使され、この小船は若駒のようにはねまわったが、ついにかれはやってのけた。磁気いかりがガンと音をたててくっつき、空気洩れのしない通路管がその位置にかかり、〈チリ〉の気圧と、巨大な先方の船の気圧があうと、みんなの耳はぽんと鳴った。ラザルスは操縦室甲板の降下穴にとびこみ、がむしゃらに手を動かして接触舷門《コンタクト・ポート》につっこんでいった。〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉の乗客用エアロックにたどりついてみると、|船長・技師長《スキッパー・エンジニア》がそこにいた。
技師長はラザルスを見ると、うなり声を出した。
「あんたかい、また。え? いったい、なぜわれわれの信号に答えなかったんだ。許可なしで、こちらの船につけてはいけないじゃないか。これは私有財産だぞ。どういうつもりなんだ?」
「きみたちが二、三日はやく、地球へ引きかえすということだ……この船でね」
「そんなばかな!」
ラザルスは、熱線銃を左手ににぎってつき出すと、おだやかに言った。
「きみ……あんなに親切にしてくれたあとだから、きみを傷つけたくないんだ……だが、いますぐ降服しなかったら、かならずやるぜ!」
技師長は、信じることができないような眼をして、ラザルスをじろじろ見ただけだった。数人の部下がそのうしろに集まっていたが、そのなかにいた〈空気中に住むまんぼう〉のような格好をした男が逃げようとした。ラザルスは銃の力を弱くしておいて、その男の片足を射った。そいつはぴくっとし、虚空をつかんだ。ラザルスは言った。
「さあ、この男をみてやるんだ!」
それでケリがついた。技師長は、乗客用エアロックの船内拡声装置をとおして乗組員を呼びあつめた。ラザルスは、やってくる乗組員を勘定した──二十一人。かれが最初に来たとき、注意しておいた数字だった。かれは、その一人一人に二人ずつつけて監視させ、自分が射った男の傷をしらべた。
「大した傷じゃないよ、きみ」
と、かれは簡単に判断をくだして、技師長のほうに向いた。
「きみたちをうつしたら、あの火傷に放射線軟膏を塗りたまえ。救急箱は、操縦室の隔壁のうしろにあるよ」
「海賊行為だ! このまま逃げられはしないぞ」
ラザルスは考えこんだような顔をして同意した。
「できないかもしれないな。だがやろうと思っているんだ」かれは、自分の仕事のほうに注意をむけ直した。「そこの連中、急げ! ぐずぐずするな、一日かかるぞ」
〈チリ〉は、ゆっくり空《から》になっていった。出口はたった一つしか使用することができなかったが、後方のなかばヒステリーのようになっている群衆の圧力が、二つの船を連結しているエアロックの隘路にあふれた人々を押しやっていた。かれらは、つつかれた巣の蜂のように、沸きたちながら出ていった。
たいていの者は、こんどの旅行までに自由落下を経験してはいなかった。だから、この巨大な宇宙船の広い空間におどり出ていくと、まったく自由がきかずに浮遊して、ひどくまごついた。ラザルスはゼロ重力のもとで、なんとか自分をあやつれそうな連中をみつけると、手あたりしだいにつかまえて秩序をたもたせようとし、その連中に、自由のきかない者を押しやって仕事のスピードをはやめるようにと命じた──どこへでもいいから、巨大なこの船の後方に押しやり、道をあけさせて、まだはいってこられない何千人もの人々に場所をあけるのだ。そのような牧夫たちを十二、三人あつめたとき、かれはバーストウが脱出座席にいるのを見つけ出したので、すぐにつかまえて監督にあたらせた。
「どんなふうにでもいいから、とにかく移動をつづけさせてくれ。ぼくは操縦室へ行かなきゃいけないんだ。アンディ・リビイを見つけたら、ぼくのほうへよこしてくれ」
一人の男が、人の流れからはなれてバーストウに近づいてきた。
「われわれの船に接触させようとしている船があります。舷窓から見たんです」
「どこだ?」
ラザルスはきつい声でたずねた。
その男には船の用語についての知識がほとんどなかったから、いやに面倒だったが、なんとか理解することができた。ラザルスはバーストウに言った。
「すぐもどる。移動をつづけさせてくれ……あの赤ん坊連中を一人も逃がすな……あそこにいるお客さんだ」
かれは熱線銃をつるし、隘路に渦巻いている群衆のなかをおしわけながら引き返した。
第三荷役口が、さきほどの男のいう窓らしかった。そうだ、何か見える。荷役口には防弾ガラスの円窓がついていたが、遠くに輝く星のかわりに、なにか明るくなっていた。船のような格好をしたものが、つながっているのだ。
その船に乗っている者は、〈チリ〉の荷役口を開けようとしないか、開け方を知らないかのどちらかだった。荷役口の内側には鍵がかかっていないから、手間どるはずはないのだ。気圧がいったんバランスをとれば、どちら側からも容易にひらくはずなのだ……そのことは、掛金《ラッチ》のそばで緑色の光を放っている自動表示器が示している。
ラザルスはとまどった。
交通管制局の船か、宇宙海軍の艦艇か、それとも何か別のものだとしても、船がここに現れたということは悪い知らせだった。だが、なぜドアを開けてはいってこないんだ? かれは内側から荷役口に鍵をかけ、大急ぎで残り全部の荷役口に鍵をかけ、移乗が終ったら逃げだしたくなった。
だが、先祖は猿だったのか、かれは好奇心にあふれた血筋に負けてしまった。納得できないものは放っておけない性質だったのだ。だから、荷役口を外側からは開かないようにしておく|かくし掛金《ブラインド・ラッチ》を蹴ってはめこむことで、自分に妥協すると、用心ぶかく丸窓のところに身体をすべらせていって、片眼でのぞきこんだ。
その眼の前に、スレイトン・フォードの姿があった。
かれは一方へ身体を寄せると、|かくし掛金《ブラインド・ラッチ》を蹴りあけ、ドアを開くスイッチを押し、手がかりにつま先をひっかけて、片手に熱線銃、片手にナイフを持って待ちうけた。
人影が現れた。ラザルスは、フォードだとわかったが、このお客から熱線銃ははなさず、ドアを閉めるためにまたスイッチを押し、掛金を蹴りこんで、たずねた。
「どうしたんです? 何をしているんです? だれかほかには? パトロール?」
「ぼくひとりだ」
「え?」
「きみたちといっしょに行きたいんだ……連れていってくれるならだが」
ラザルスはかれを見つめたまま何も答えなかった。円窓のところへ行って、見えるものをぜんぶしらべたが、フォードは本当のことを言っているらしかった。ほかにはだれの姿も見えないのだ。だが、ラザルスの眼をとらえたのはそんなことではなかった。
どういうことなんだ。その船はぜんぜん〈深宇宙用乗物《ディープ・スペース・クラフト》〉ではなく、エアロックもなく、より大きな宇宙船に連結できる出入口が、一つあるだけだ。ラザルスは、じっとその船体をながめていた。なにかに似ている──そうだ、〈|坊やの遊覧船《ジョイボート・ジュニア》〉だ。地球上の一点から一点へと弾道飛行をするか、よくいって、帰りの燃料を補給してくれる人工衛星のところまで行くのがせいいっぱいの、小さな自家用宇宙ヨットだ。
ここには、わけてやる燃料などない。凄腕のパイロットなら、動力がなくても、このブリキの玩具を着陸させ、そのあとで、船から出て歩いてゆくことさえできるだろう……表面温度の御機嫌をうかがいながら、大気圏へ出たり入ったり、ぴょんぴょん飛んでゆく技術を持っていればの話だが──だが、ラザルス自身そんなことをやってみるのは、まっぴらだった。とんでもない! かれはフォードのほうに向いた。
「もしわれわれがあなたを地球へかえすとしたら、どうやって帰るつもりだったんです?」
「そんなことは考えてもみなかった」
と、フォードの答は簡単だった。
「ふーん……わけを話してください、いそいで。分秒をいそいでいるから」
フォードは背水の陣をしいたのだった。数時間前、役所を出ることになったとき、すべての事実が明るみに出ると、かれはいちばんうまくいっても収容所で終身刑に服することになるとわかっていた──もし暴徒のリンチや、気が狂ってしまうほどの訊問を避けることができればのことだが。
牽制をおこなってきたことは、かれにわずかばかり残っていた支配力をも結局は失わせてしまうことになったのだ。己れの行動についての説明は、議会を納得させられなかった。例の嵐を口実にして小疎外地から警官を引きあげさせたことは、ファミリーの士気を破壊しようとする思い切った積極的な行動だと弁明したが──それほどもっともらしくもなかった。〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉によりつかせまいとして、宇宙海軍艦艇にかれが命令したことは、だれから見ても、ハワード・ファミリーの事件に関係があるなどとは思われなかった。だがそれにもかかわらず、その命令の背後に、たしかな理由の存在しないことが、かれを破滅させる特別な武器として反対党ににぎられたのだ。かれらは、どんなことでもいいから、フォードを追い払う口実を求めていたのだ──議会では、行政長官の自由執量資金のなかから、アーロン・シェフィールド船長なる人物に対して間接的に支払われた若干の金について質問がおこなわれた。この金が、ほんとうに公共の利益のために使われたかどうかというのだ。
ラザルスは眼を見はった。
「ぼくのことに気づいていたというんですか?」
「はっきりとではなかったがね。それなら、あんたはここへ来られなかったはずだ。だが連中は、あんたのすぐうしろにせまっていたんだ。やつらは最後には、ぼくの味方の大勢の連中からも助力を得ていたにちがいないね」
「そういうことでしょうな。だがわれわれはうまくやってのけた。くよくよしないでくださいよ。さあこの船から大女《ビッグ・ガール》にみんな移ったらすぐ出発しなきゃあ」
ラザルスは向きを変えた。
「ぼくも行かせてくれるつもりか?」
ラザルスは前へ進もうとするのをやめ、身体をねじってフォードのほうに顔を向けた。
「ほかにどんな方法があるというんです?」
かれははじめ、フォードを〈チリ〉にのせて地球へ送ろうと考えていた。心を変えたのは、感謝からではなくて、尊敬の念からだった。フォードはその地位を失うと、ノヴァーク・タワーの北にあるハックスレー基地に直行し、保養衛星〈モンテ・カルロ〉への出港手続をして、かわりに〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉へむかって飛んだのだ。ラザルスは、そういうところが気に入った。〈|突撃、つっこめ《ゴー・フォー・ブローク》〉をやるには、ほとんどの人間が持ち合せていない勇気と性格が必要だった。いらぬことをしないで、ただ一つのことをやってのけることだ──ラザルスはのんびりと言った。
「もちろんあなたも来るんですよ。あなたはぼくと同じタイプの男だ、スレイトン」
〈チリ〉はもう半分以上|空《から》になっていたが、乗り移る場所のちかくは、まだ、気違いのようになった群衆でごったがえしていた。ラザルスは、必要もなく女子供を傷つけたりはしないように気はつけたが、そのために足どりをおくらせたりはせず、つきとばし押しわけながら進んだ。かれはバンドにフォードをつかまらせて連結エアロックをおしわけてゆき、通りすぎると、かたわらによけてバーストウの前に立ちどまった。
バーストウはラザルスから眼をうつしてうなずいた。
「そうか、かれだったのか」
ラザルスは言った。
「じろじろ見るなよ……失礼じゃないか。われわれと行動を共にするんだ。リビイを見たかい?」
「ここですよ、ラザルス」
リビイは群衆からはなれて、自由落下になれたベテランのように、やすやすと近づいてきた。その片方の手首には、小さなカバンをつないでいる。
「よし、近くで待っててくれ。ザック、みんなが乗ってしまうまでどれぐらいかかる?」
「だれにもわからないよ。勘定できないんだ。一時間かもしれん」
「はやくしてくれ。両側に丈夫な男をおけば、みんながやってくる速さよりもはやくひっぱりよせて通らせられる。人間にはできないほどはやく、ここから出発しなきゃあいけないんだ。ぼくは操縦室へゆく。みんなをこっちへ入れて、お客さんたちをここから出し、〈チリ〉を切りはなしたら、電話してくれ。アンディ! スレイトン! 行こう」
「ラザルス……」
「あとだ、アンディ。操縦室へ行ってから話をしよう」
ラザルスは、スレイトン・フォードを連れていった。ほかにかれをどうしていいかわからなかったし、かれをこの船に乗せてゆくもっともらしい口実が思い浮かぶまでは、見つけられないようにしておいたほうがいいとおもったからだ。いままでのところ、フォードを二度見たものはいないようだった。だが、落ち着いてくれば、フォードのよく知られた顔は説明を求められるだろう。
操縦室は、かれらがこの船にはいったところから半マイルほど前方にあった。ラザルスは、操継室に通ずる乗客用《パセンジャー》ベルトがあることは知っていたが、さがす時間はなかったので、前方に通じている最初の通路を進んでいった。フォードは、ほかの二人のようには、自由落下でうまく魚のように動きまわることはできなかったけれども、それでも三人は群衆からのがれると、すぐスピードをはやめることができた。
そこへつくとすぐラザルスは、この恒星間宇宙船の、ひどく精巧であり、これまでのものとはちがう操縦装置を、リビイに説明した。リビイはうっとりとなり、すぐさま〈擬似操作《ダミー・ラン》〉の練習をはじめた。ラザルスは、フォードのほうをむいた。
「あなたはどうです、スレイトン? セコンド・パイロットになってみては?」
フォードはくびをふった。
「説明は聞いていたが、なんのことやらわからなかった。ぼくはパイロットじゃないからね」
「ほう? ではどうしてここまで来られたんです?」
「ああ。許可証は持っているが、実際に練習する暇はなかったんだ。運転手がいつも操縦してくれたし、それに何年も弾道計算なんかしたことがない」
ラザルスは、かれの言ったことを無視した。
「それなのにあなたは、軌道接近《オービット・ランデブー》をやりとげたじゃないですか? 予備燃料もなしで」
「ああ、そのことか。しなければいけなかったからだよ」
「わかった。猫が泳ぎをおぼえるようなもんだな。そう、それも一つのやりかただ」
かれはリビイに話しかけようとしてうしろへ向いたが、バーストウの声がスピーカーから聞こえてきた。
「あと五分だ、ラザルス! わかったか」
ラザルスはマイクロフォンをさがし、その下のライトを片手でおおいながら答えた。
「わかった、ザック! 五分だな」
それからかれは言った。
「おやおや、まだコースすら選んでいないんだ。きみはどう思う、アンディ? 刑事さんたちの追跡をふり切るために、地球の反対がわへ直行するかい? それから目的地をきめるとして? どうです、スレイトン? それだと、あなたが宇宙海軍に命令したことと、うまくあいますか?」
「いや、ラザルス、いけません」
と、リビイは反対した。
「え? なぜいけないんだ?」
「太陽にむかって、まっすぐ進むべきなんです」
「太陽にむかって? いったいまた、なぜなんだ?」
「最初にお会いしたとき、話そうとしたんですが、あなたが開発しろと言われた宇宙空間推進装置《スペース・ドライブ》のためなんです」
「だがアンディ、まだ手に入れてないんだぞ」
「いや、できました。これです」
リビイは持ちまわっていたカバンをラザルスのほうへつき出した。
ラザルスは、そのカバンをあけた。
リビイが〈宇宙空間推進装置《スペース・ドライブ》〉だといったその仕掛けは、ラザルスの批判的な眼からは、あれやこれやと他の変な部分をよせあつめて作られており、科学者の実験室の所産というより、子供の工作部屋から生まれたもののような格好をしていた。そして、操縦室のみがきたてられ、技術的な完璧さにくらべると、不細工で、哀れになり、おかしいほど不釣合なものに見えた。
ラザルスは、試すようにつついてみてたずねた。
「こりゃなんだい? 模型かい?」
「いいえ。これがそれなんです。宇宙空間推進装置《スペース・ドライブ》です」
ラザルスは、同情しないのではないがというように、この年下の男をながめて、ゆっくりと言った。
「頭が変になったんじゃないのか?」
リビイはせきこんで言った。
「いいえ、とんでもない。あなたとおなじように正気です。これは、根本的に新しい考えなんです。だからぼくはあなたに、太陽のそばまで行ってほしいと言ってるんです。もし作動するとしたら、光圧のもっとも強いところが最高でしょうから」
「で、もし作勤しないとしたら、われわれはどういうことになるんだ? 太陽黒点にでもなるのかい?」
「太陽のなかへつっこむわけじゃないんです。ただ太陽にむかってすすんでください。データがとれたらすぐ、適当な航路へもどす修正をお知らせします。ぼくは金星の軌道のなかまで深くはいっていって、この船が耐えられるところまで光球に接近し、ゆるいカーブの双曲線で太陽を通過したいんです。どれくらい接近するかわからないんで、計算できないんですが、データはこの船のなかにあるでしょうから、進んでいるあいだに計算できる暇があるでしょう」
ラザルスは、眼がくらみそうな〈あや取り遊び〉の道具のようなこの装置をふたたびながめた。
「アンディ……きみの頭んなかの歯車が、まだかみあって動いているのが確かなら、一か八かやってみよう。二人ともベルトを締めるんだ」
かれは操縦席へついてベルトを締めるとバーストウを呼んだ。
「どうだ、ザック?」
いますんだところだ!
「しっかりつかまってくれ!」
ラザルスは、片方の手で、〈操縦制御盤《コントロール・パネル》〉の左側にある明かりの一つをおおった。加速警報が船内に鳴りわたった。またもう一方の手でべつの光をおおった。前方にあった半球スクリーンは、たちまち、星くずにちりばめられた大空にかわってゆき、フォードはあえいだ。
ラザルスはその半球スクリーンをしらべた。その二十度までが完全に、地球の夜側の暗黒体で見えなくなっている。
「もうすぐ、つっこむぜアンディ。テネシー偏差をちょっぴり使おう」
かれは乗客たちをすこしばかりゆすぶって用心させるために、まず四分の一Gをゆっくりと加え、地球の蔭から脱出させるために必要な方向へ、この巨大な宇宙船をゆっくりと歳差運動で進ませはじめた。かれは加速重力を二分の一Gに上げ、それから一Gにした。
黒いシルエットだった地球は、太陽の白い半円がうしろから顔を出したので、とつぜん、ほっそりとした銀色の三日月にかわった。ラザルスは緊張して言った。
「地球を千マイルばかりはなれてまわりたいんだ。計算尺《スリップ・スチック》、二Gで。現在のベクトルを知らせてくれ」
リビイはちょっとためらったあと、それを知らせた。ラザルスはふたたび加速警報を鳴らし、地球重力の二倍におしあげた。かれは速度を緊急全速にまでたかめたがったが、積荷が〈おか者〉ばかりだったので、それもできなかった。二Gでもながいあいたつづければ、なかには緊張に耐えられなくなるものもいるはずだ。ところが、この船を阻止するように命令を受けた宇宙海軍の追跡艇は、もっと速い高Gで前進できるだろうし、よりすぐった乗組員たちはそれに耐えることができるはずだ。だがこれは、一か八かやってみなければわからない……ともかく、宇宙海軍の船は、そう長くは高速をつづけられないはずだ。かれらの秒速は、リアクション・マス・タンクによってひどく制限を受けるからだった。
〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉のほうはそんな旧式な制限は受けなかったし、燃料タンクなどもなかった。その転換炉は、どんなものでも受け入れて、純粋な輻射《ラディアント》エネルギーに変えるのだ。どんなものでも役に立つのだ──その吸収磁界装置《スイーピング・フィールド》であつめられるものは、隕石でも宇宙塵でも浮遊原子でも、あるいは、船自体の塵芥、屍体、デッキのごみくず、何でもいいのだ。質量のあるものはエネルギーとなるのだ。屍体ですら、その苦悩にゆがんだ一グラムが、それぞれ九百万兆エルグの推力となるのだ。
弓形の地球はしだいに大きくふくらみ、半球状スクリーンの左端にむかって動いていったが、太陽のほうは前方に死んだようにとり残されていた。二十分をすこしすぎて、船がもっとも接近し、弓形の地球が半円となって半球状スクリーンから消えていくと、宇宙船間通信回路にぽっと灯がつき、怒ったような声がひびいてきた。
新開拓者《ニュー・フロンティア》! 軌道にとどまれ! 交通管制局命令だ!
ラザルスはスイッチを切って、愉快そうに言った。
「とにかく、やっこさんたちがおれたちをつかまえようとしても、太陽にとびこんでまでは追っかけたくないだろう! アンディ、もうこの航路に邪魔者はいないだろうし、それに修正する時間だと思うが、きみも計算するかい? それともデータをくれるか?」
「ぼくが計算しましょう」
と、リビイは答えた。かれは、すべての輻射線を完全に吸収する〈黒体《ブラック・ボディ》〉操作をふくむこの船の宇宙航行装置は、両方の操縦室からあつかえることを発見していたのだ。このことと、装置から出てくるデータをもとにして、リビイは太陽を通過しようとおもっている双曲線軌道を計算しはじめた。かれは、うんざりしながらも、この船の軌道計算機を使用しようとしたが、これにはまったくこまってしまった。かれには不慣れな設計で、外部に出ている制御装置にすら、およそ可動部分というものがなかったのだ。それでかれは、これでは時間の浪費だとあきらめると、おのれの頭のなかに宿る〈数字にたいする不思議な才能〉にたよることにした。かれの頭にも、もちろん可動部分はないが、それにはなれているのだ。
ラザルスは、自分たちの人気の程度をしらべてみようと思い、ふたたび宇宙船間通信回路にスイッチを入れた。ちょっと遠くはなっていたが、やはり腹をたててギャアギャアわめいていた。もう名前を知られているのだ──名前のうちの一つを──〈チリ〉の餓鬼どもが、いそいで交通管制局を呼び出したにちがいない。かれは〈シェフィールド船長〉の操縦免許証が停止をくったとわかると、さびしそうに舌うちし、宇宙海軍の周波数にあわせてみた──新開拓者《ニュー・フロンティア》という文句が一度ははっきりと聞こえたが、それ以外には暗号とスクランブルのほか何も聞きとれないので、スイッチを切った。
かれは、杖もて打たば、わが骨もくじけん──≠ニいうようなことをつぶやきながら、べつなほうをしらべてみようとした。遠距離レーダーと超重力探知機の両方を使えば、近くにいる船はわかるのだが、それだけではほとんど役にたたないのだ。このように地球に接近したところでは、船がいるのはあたりまえだし、それだけでは、公式に許可を得た非武装の貨客船か、怒ってこちらを追跡している宇宙海軍の巡視艇か、容易に識別できる方法はないのだ。
〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉は、あたりにいるものを解析する装置を、ふつうの宇宙船よりたくさん備えており、どのように変った状況でも、ひとりで処理できるよう特別に装備されていた。かれらが横たわっている半球状の操縦室はそれ自身、パイロットの好むままに、船の前方後方いずれの方向でも、星をちりばめた天空を映しだせる多層スクリーンの巨大なテレビ受信機だったのだ。だがそのほかにもずっと鋭敏な回路があり、レーダーのとどく範囲にあるものはどんな物体でも示すレーダー・スクリーンとしても、同時に、あるいは別個に作動することができるのだった。
だが、こんなことはほんの序の口であった。この船にある〈超人的知覚力〉は、微分解析をドップラー・データに適用し、その結果を眼に見えるものとして示すことができるようになっていた。ラザルスは左側の操縦制御盤《コントロール・パネル》をしらべ、教えられたことをぜんぶ思い出そうとつとめ、それから装置に手をふれた。
スクリーンにうつっていた星々や、太陽すらも光がうすれていき、一ダースばかりの光が明るく残っていた。
かれは制御盤に、それらの光の角速度をしらべるように命令した。まばゆい光はみな深紅色にかわり、ピンク色の尾をひく小さな彗星となって消えていった──白いまま残り、尾をひかない光のほかは。かれはしばらくほかの光をしらべていたが、それらの動量《ベクトル》が永久に関係のないものであるとはっきりわかると、この相変らず光っている光のスペクトル・ドップラーをしらべるよう制御盤に命令した。
この光はすみれ色に薄れていき、そのスペクトルの中途までゆくと、青緑色《ブルー・グリーン》のところでピタリととまった。ラザルスはしばらく考えて、この答から船自身の二Gの速度を減じた。するとそれはまた白色に変った。かれは満足し、こんどは船尾のレーダーで同じテストをやってみた。
「ラザルス……」
「ああ、リビイ?」
「いまぼくが修正値を言ったら、あなたがいまやってることの邪魔になりますか?」
「ちっとも。ちょっとしらべていただけなんだ。この〈魔法の提灯〉が物語っているとおりなら、やつらはわれわれのあとをおくれずに追跡してくることはできなかったということだ」
「よかった。さあ、これが数字です……」
「きみがやってくれないか? しばらく操縦してくれ。コーヒーとサンドイッチをさがしたいんだ。きみはどうだ? 朝食をたべたいだろう?」
リビイはぼんやりとうなずいた。すでに船の航路を変更する仕事にとりかかっていたのだ。フォードが真剣になって口をひらいた。このながいあいだに、はじめて言った言葉だった。
「ぼくにとってこさせてくれ。よろこんでやるよ」
かれはいたましいほど、役に立とうと望んでいるようだった。
「え……ちょっとした面倒をおこすかもしれないよ、スレイトン。ザックがどんな売込みをやったにしても、あなたの名前は、ファミリーのほとんどの者にとっては〈畜生!〉だろう。船尾に電話してだれかを呼び出そう」
「こんな状況では、だれにもぼくはわからないだろう。ともかく筋の通った仕事なんだ……説明できるよ」
ラザルスはその顔色から、この男の志気にとっても必要なことだと読みとった。
「よし、二Gのもとでうまく動けたらね」
フォードは、横になっていた加速度寝椅子から重そうに、やっと立ちあがった。
「ぼくの足は宇宙用にできてるさ。どんなサンドイッチがいい?」
「コンビーフがいいな。だがいまいましい代用食肉かもしれないぜ。チーズのもたのむ。もしあればウイスキーを入れ、からしもたくさんつかってくれ。それにコーヒー一ガロン。きみは何にする、アンディ?」
「ぼく? ああ、あるものならなんでも」
フォードは倍になった体重を重たそうに支えながら、立ち去ろうとしてつけ加えた。
「ああ……どこへ行けばいいか教えてくれたら、時間の節約になるんだが」
ラザルスは言った。
「スレイトン……もしこの船に充分食糧が積みこんでなかったとしたら、おそろしい過ちをおかしたことになるんだ。見てまわれば、何かあるだろう」
下へ、下へ、太陽にむかって下へ。毎秒ごとに六十四フィートの速度を増しながら船は進んでいった。下へ、なおも下へと、二Gの状態が、終りのないような十五時間つづいた。このあいだに船は千七百万マイルすすみ、その想像もつかぬ速度は毎秒六百四十マイルにおよんだ。この数字ではあまりはっきりしないが──ニューヨークとシカゴ間におきかえてみると、ロケット郵便でも三十分なのに、心臓の一鼓動で飛んでしまうのだ。
バーストウは、加重のかかるあいだつらい時間を送っていた。ほかの者にとっては、横になってぐったり眠ろうとつとめ、苦しそうに呼吸しながら、おのれの身体の重荷から逃がれて休める新たな場所を探し求める時間だったけれども、ザッカー・バーストウは責任感にかりたてられていた。かれは、シンドバッドの背中に何日もくっついてはなれなかった〈海の老人〉が、くびのまわりにまつわりついていたけれども、三百五十ポンドの体重をおこして歩きまわったのだ。
みんなのためにしてやれることは何もなく、ただつかれはてて、一つの部屋からあっちの部屋へとのろのろまわって、みんなの具合をたずねるのが関の山だった。高噴射《ハイ・ブースト》をつづけているあいだは何もできず、かれらの苦悩を緩和するための組織だても不可能だった。みんなは横になれるところに横たわり、男も女も子供も、手足をのばす場所すらなく、輸送される牛のようにひしめきあっていた。こんなに極端な多人数に対して計画された広さではなかったのだ。
疲れはてたバーストウは、これでもたった一つだけはいいことがあると考えた。それはみんながみじめすぎて、時間のたつこと以外は何も気にかけることができないということだった。みんな打ちのめされて騒動をおこせなかったのだ。もっと時間がたてば、逃げ出したことが賢明だったかどうかという疑問がかならず出るだろうし、この船にフォードがいることや、ラザルスの奇妙で、ときにはあやしかった行動や、自分の矛盾した役割について、いろいろと面倒な質問がおこなわれることだろうとかれは思った。だが、まだおこりはしていないのだ。
かれはしぶしぶ決心したのだが、面倒なことがおこらないうちに〈宣伝活動《プロパガンダ・キャンペーン》〉を作り上げなければならない。もしおこったら──それを相殺する動きをしなければ必らずおこるだろうが──とにかく、それが頼みの綱だ。きっとそうなるだろうから。
かれは眼の前にある梯子を見て、歯をくいしばりながらやっと次のデッキへ上がっていった。そこにいる人間の身体をよけて通っていると、子供をしっかりとだきしめた女を踏みつけそうになった。バーストウは、赤ん坊のおしめがぬれているのに気づくと、女はおきているようだったので、それをかえるように言おうと思ったが、そのままにしておいた──自分の知っているかぎりでは、百万マイル行っても、きれいなおしめ一枚ないからだ。あるいはこの上のデッキにいる一万の人々についても同じことだろうが──これらの人々はほとんど同じくらい遠くはなれているように思われるのだ。
かれは、その女に口をきかずにとぼとぼ歩きつづけた。エレノア・ジョンソンはかれに気がついていなかった。彼女は自分と赤ん坊が船のなかへ無事にはいれたことで、心から安心してしまい、自分の心配ごとは年長者たちにまかせてしまい、もはや感情の乱れや、のがれられない重力にすら無感覚になっていた。赤ん坊は、おそろしい重力がくわわると泣きわめいたが、やがて、静かに、まったく静かになってしまった。彼女はその鼓動を聴けるぐらい身をもたげたが、生きていることをたしかめると、また昏睡状態におちいってしまった。
十五時間たって、金星の軌道を四時間ほど離れたところでリビイは噴射を停止した。船は、太陽の変わらず増加してゆく引力のもとで、そのおそろしい速度をなおも増しながら、自由落下の状態をつづけていった。ラザルスは重力を感じなかったので、副操縦席をながめてたずねた。
「カーブする位置かい?」
「計算したとおりです」
ラザルスはかれをながめた。
「よしわかった。さあここを出て眠りたまえ。ほんとに、きみはくたびれたタオルみたいになっているよ」
「ここで休みます」
「言うことを聞くんだ。ぼくが操縦しているときも、きみは眠りゃしなかった。ここにいたら計器を見つめたり計算したりしてばかりいるだろう。だから、出ていくんだ! スレイトン、つまみ出してくれ」
リビイは恥ずかしそうに、にっこりすると出ていった。かれは操縦室のうしろに、浮遊している人々でいっぱいの空間を見つけたが、どうにか人のいない片隅を見つけだし、半ズボンのバンドをひっかけてすぐ眠りこんだ。
自由落下は、みんなにとって、気楽この上なしといった状態であるべきだったが、全員のうちの一パーセントの、そのまたひとかけらほどの経験をつんだ宇宙飛行士以外は、そうではなかった。船酔に似た〈自由落下酔い〉は、おこらないものにはお笑い草だが、その十万ものケースを述べるには、ダンテのような詩人を必要とするのだ。船には解酔剤があるにはあったが、すぐには見つからなかった。ファミリーのなかには医者がいるにはいたが、連中がまた病気ときているのだ。難儀はつづくばかりだった。
バーストウのほうは、自由落下には馴れていたが、悩んでいる連中になんとか安らぎをあたえようと、前方の操縦席へ浮動していった。
「みんなはたいへんなんだ。船に旋回をおこさせて、みんなにちょっとお休みをあたえられないかね? そうしてくれると、すごく助かるんだが」
「そうすれば、操縦のほうもむずかしくなるんだ。すまん、なあザック。危急の場合には、夕食が食べられないというより、はやく走れて、生命を助けてくれる船のほうがずっと有難いんだ。ともかく船酔で死ぬものはいないんだ……」
船は大陽にむかって落ちるにつれ、なおも速度を増しながら突進しつづけた。やれると思う僅かな人々は、病気になっている莫大な数の人々をのろのろと助けつづけた。
リビイは眠りつづけた。自由落下を楽しむことを心得た人々の、例のぜいたくな母の胎内に帰ったような眠りだった。かれは、ファミリーの者が逮捕された日から、ほとんどねむっていなかったのだ。かれのひどく活動的な心は、この間、ずっと新しい〈空間推進の問題〉を考えつづけてきたのだった。
この巨大な船は、歳差運動をつづけて進んでいた。かれはゆっくり動きまわっていたが眼をさましはしなかった。船は新しい飛行姿勢をとって安定していたのだが、加速警報が鳴ると、かれはすぐに眼をさました。かれは自分の位置をたしかめると、船尾よりの隔壁にべったりともたれかかって待ちうけた。ほとんど同時に重力がかかってきた──こんどは三Gだったので、なにかひどい間違いがおこったのだとわかった。かくれ場所をさがさないうちに船尾のほうへ四分の一マイルばかり行ってしまったが、やっと立ち上がり、成算はおぼつかないが、その四分の一マイルを登っていこうとつとめた──ラザルスの言うとおりに操縦室を出た自分を責めながら、リビイは本来の体重の三倍の重さでまっすぐにすすんでいった。
かれはこの旅のほんの一部をどうにかたどったのだが──男を両肩に一人ずつのせて、十階建のビルの階段を登るのに等しい雄々しい旅だった──やっと自由落下にもどって楽になることができた。かれは、巣にかえる鮭のように、のこりの道を元気よくすすみ、いそいで操縦室にはいった。
「なにがおこったんです?」
ラザルスはくやしそうに言った。
「進路を変えなくちゃいけなかったんだ、アンディ」
スレイトン・フォードは何も言わなかったが、気をもんでいるようだった。
「ええ、わかっています。でも、なぜなんです?」
リビイは、操縦席におのれをベルトでしめつけながら、もう恒星間位置をしらべはじめていた。
「スクリーンに赤い色がうつった」
ラザルスはその様子を述べて、位置とおたがいの動量《ベクトル》を教えた。
リビイは考えこんだようにうなずいた。
「宇宙海軍の船ですね。そんな軌道に貿易船はいないはずだ。機雷敷設の船でしょう」
「ぼくもそう考えたよ。だが、きみに相談する暇はなかった。連中がわれわれに追いつけないことがたしかなだけの秒速を使用しなければいけなかったんだ」
リビイは心配しているようだった。
「そのとおりです。ぼくは宇宙海軍の干渉からは、離れられたとばかり思っていましたが」
スレイトン・フォードが口をはさんだ。
「あれは地球の船じゃないな。ぼくが……ぼくがはなれてから、どんな命令が下されたかしらないが、あれは地球の船じゃないよ。金星人の船にちがいない」
ラザルスも同意した。
「そうだ。新しい長官が金星へわいわい騒ぎたてて助けを求め、金星の連中はやっこさんに援助をあたえたんだ……惑星間の善意を示す友好的なゼスチャーとして」
リビイはそれをほとんど聞いていなかった。かれはデータをしらべ、自分の頭のなかにある計算機にかけていたのだ。
「ラザルス……この新しい軌道は、あまりよくありません」ラザルスは悲しそうにうなずいた。「わかっているよ。もぐらなければいけなかったんだ……だからぼくは、連中があけてくれた唯一の方向へつっこんだんだ……太陽にむかってね」
「接近しすぎています……」
太陽はそう大きな恒星でもないし、そんなにすごい高熱でもない。だが人間にとっては、それから九千二百万マイルはなれたところで〈|熱帯の正午《トロピカル・ヌーンデイ》〉に注意を怠ると殺されてしまうほどは熱く、その光線の下で育てられているわれわれではあるが、直接それに眼をむけられないほどには熱いのだ。
二百五十万マイルの距離にあっても、太陽は、|死の渓谷《デス・バレー》やサハラ砂漠やアデンで耐えられたもっともひどいときの千四百倍もの輝く焔を吹き出すのだ。このような輝きは、熱とか光として認められるものではない。熱線銃が全力を出したときよりも、もっと突然に死がおそってくるのだ。太陽は自然に作られた水素爆弾なのだ。〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉は、その完全破壊の限界線をすすんでいたのだ。
船内は熱かった。ファミリーの者は、装甲壁によって、輻射熱による即死からは護られてはいたが、気温は上がりつづけた。みんなは自由落下酔いからは免かれてはいたが、熱い上に壁が狂ったようにななめになりつづけるので、倍も不快だった。立ったり横たわったりする水平な場所はなかった。船は、軸を中心にしてぐるぐるまわりながら加速されていたのだ。角と線の両方向に、同時に二つの加速度に加わって、外側と後方の隔壁の合わせ目の方向が〈下〉になるような運動は計算に入れられていなかったのだ。船は〈冷却面〉をしじゅう輻射エネルギーがあたるようにぐるぐるまわっていたのだ。前進加速のほうも同じく、必要があっておこなわれたものであり、近日点、すなわち最近接点ですごす時間を最少にとどめ、できるだけ太陽からはなれて迅速に通過する決死的な操縦だったのだ。
操縦室も暑かった。ラザルスですら、半ズボンも上衣もぬいで金星スタイルになった。金属はさわられないぐらい熱くなっていた。巨大な投映スクリーンには、暗黒の大きな円が太陽の位置を印していたし、受信装置は、ばかばかしいほどの入力に対しては自動的に切れていた。
ラザルスは、リビイの最後の言葉をくりかえした。
「近日点へ三十七分か。行けないよ、アンディ。船がもたないぜ」
「ええ。こんなに近くを通ろうなどとは、考えてもみませんでした」
「もちろんそうだろう。ぼくが操縦すべきじゃなかったかもしれん。ともかく機雷群は通りすごしたろう。では……」
ラザルスは肩をはり、リビイのやぼったい格好をした〈宇宙空間推進装置《スペース・ドライブ》〉に親指を向けた。
「ぼくには、きみの機械をためしてみるときだと思われるんだが、こいつをつなぎさえすりゃいいと言うんだね?」
「そういうぐあいに設計したんです。影響されるマッスのどの部分でもいいから、その導線《リード》をつないでください。もちろん、ほんとに作動するかどうかはわかりません。テストする方法がなかったんです」
「うまくいかなかったら?」
「おこる可能性は三つです」とリビイは秩序正しく答えた。
「第一の場合は、なにもおこりません」
「おれたちがフライになる場合だ」
「第二の場合は、おわかりのとおり、われわれと船は消えてなくなるんです」
「死ぬというわけだね。だが、らくな死にかたってわけだな?」
「ぼくもそう思います。死がどういうことか知りませんが……第三の場合は、もしぼくの仮定が正しいとすれば、われわれは光速のちょっと下のスピードで、太陽から遠ざかるでしょう」
ラザルスは装置をじっと見つめ、眉からながれる汗をふいた。
「あつくなってきたな、アンディ。つなぎたまえ……そのほうがいいんだ!」
アンディは装置をつないだ。ラザルスは言った。
「さあ……ボタンをおせ。スイッチを切れ。信号電波も切ろう、そうら行くぞ!」
「やりました」
と、リビイははっきりと言った。
「太陽を見てください」
「え? やあ!」
星のきらめく半球スクリーンに太陽の位置を印していた大きな黒い円が急速にちぢまっていた。動悸が十二うつあいだに、その直径は半分ちぢまり、二十秒後には、もとの大きさの四分の一になってしまった。
ラザルスは、ゆっくりと言った。
「うまくいったんだ……見たまえ、スレイトン! ぼくは頭でも変なのかな……うまくいったんだ!」
リビイはまじめに答えた。
「ぼくは、どっちかというと、うまくはたらくと考えていました。そうなるはずなんです」
「ふーん……アンディ。きみには、はっきりしたことかもしれないが、ぼくにはそうじゃないんだ。われわれは、どれぐらいの速さで走っているんだって?」
「何に対してですか?」
「うん……太陽にだよ」
「はかる機会がありませんでしたが、光速のちょっと下ぐらいのスピードでしょう。それよりおそいはずはありません」
「なぜなんだい? 理論的な説明は願い下げにして」
リビイは半球状スクリーンを指さした。
「まだ見えていますよ」
ラザルスはつくづく考えこんだようだった。
「そうだ、見えるよ……おい! そうはならないはずだぜ。ドップラー効果で消えてしまうはずだ」
リビイはぽかんとして、それからにっこりと答えた。
「でも、それが、まうしろでドップラー効果をおこしているんです。太陽に向いた面では、われわれは可視光線にまで広がった短い輻射線で見ているんです。その反対側では、光までにドップラー落ちをした電磁波のまわりの何かをひろっているというわけです」
「で、そのあいだは?」
「からかうのはよしてください、ラザルス。あなたもきっと、ぼくと同じように、動量《ベクトル》の増加を相関的に計算できるはずです」
ラザルスははっきりと答えた。
「きみが計算するんだ。ぼくはここにすわったまま、きみをほめたたえているよ。どう、スレイトン?」
「そうだ、まったくだ」
リビイは、けんそんぶかくほほえんだ。そして警報器をならして噴射をとめた。
「主推進装置《メイン・ドライブ》の質量《マッス》を浪費しないほうがましです……さあ、正常な状態にもどれるんだ」
そう言ってかれは、その機械をはずしにかかった。するとラザルスはせきこんで言った。
「そのままにしておけ、アンディーまだ金星軌道の外側にも出ていないんだ。なぜブレーキをかけるんだい?」
「なぜって? とまったりしませんよ。われわれには速度がついているんです。このままでゆきますよ」
ラザルスは頬っぺたをつねってかれを見つめた。
「ふつうなら、ぼくはきみに賛成するよ。運動の第一法則だからだ。だが、この見せかけの速度には確信が持てない。ただでもらって、その支払いはしていないんだ……エネルギーのことだがね、ぼくの言っているのは。きみは、慣性に関しては休日を宣言したようだったが、休日が終ったら、このただの速度は、もときたところへ帰るんじゃないのかい?」
「そうは思いませんね。この速度は見せかけってものじゃないんです。正真正銘のスピードですよ。あなたは言葉の上での〈神人同形同性的論理《アンスロポモルフィック・ロジック》〉を、不適当な分野にあてはめようとしているんです。あなたは、われわれが出発した低い引力のポテンシャルヘ、すぐに送りかえされるとは思っていないでしょうね?」
「きみが空間推進装置《スペース・ドライブ》をつないだところへかい? いいや、移動したからね」
「しかも移動をつづけているんですよ。われわれが太陽の近くで新しく得た引力のポテンシャル・エネルギーは、われわれの現在の速度という運動エネルギーのほかの何ものでもないんです。両者とも現実のことですよ」
ラザルスは面くらったようだった。こういう表現は、かれには向いていなかったのだ。
「きみには降参だ、アンディ。ぼくにはさっぱりわからないが、どこからかエネルギーを拾ってはいるようだな。だが、どこからなんだ? 学校に行っていたころ、連邦旗を尊重し、いい政党に投票し、エネルギー不滅の法則を信じるように教えこまれたんだが、きみはこれを犯したようだ。どうなんだい?」
「心配いりませんよ……いわゆるエネルギー不滅の法則は、全体の現象を述べるときに用いられる、証明もされず、証明もしがたい、実用的仮説にしかすぎなかったのです。その言葉は、世界の古い動的概念にのみ適用されます。静的な相互関連性しか有しないと考えられる空間では、この法則の侵犯は、たいしたこともない非連続的な機能にしかすぎないんです。ぼくがやったのはそのことなんです。ぼくは、慣性とよばれる質量エネルギーの様相の数学的形態に、不連続性を見つけたのです。この数学的形態は、現実の世界と同じものだとわかったんです。このことがほんとうに唯一つの冒険でした……やってみるまで、数学的形態が現実の世界と同じものだとはわからないんです」
「そうだ、まったくだ。食べてみるまでは、味はわからない……だがアンディ、ぼくにはまだ、どうしてこれがおこったのかわからないな!」かれはフォードのほうを向いてたずねた。「あんたはわかるかい、スレイトン?」
フォードはくびをふった。
「いや、知りたいが……理解できるかどうかわからないよ」
「あんたもぼくもだ。さて、アンディ?」
リビイは困ったような顔をした。
「でも、ラザルス。因果関係は現実の空間とは関係ないんです。事実は単に、そうだというわけです。因果関係は、科学発生前哲学の旧式な仮定なんです」
ラザルスはゆっくりと言った。
「そうだろう……ぼくは旧式だよ」
リビイは何も言わなかった。かれは装置をはずした。
暗黒の円盤は縮小しつづけていた。最大時の直径の六分の一ばかりにちぢまると、とつぜん暗黒からかがやく白色に変化した。太陽からの船の距離は、ふたたび人間にこの重荷を操縦させられるほど大きくなったのである。
ラザルスは、船の運動エネルギーを頭のなかで計算してみた──光速の二乗の半分(ちょっぴり差引いて修正したが)かける〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉の膨大な船荷だ。エルグとかアップルとか呼んでみても、この解答では慰めにならなかった。
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バーストウは口をはさんだ。
「まず第一に……あなたがたと同じように、現在われわれがおかれているおどろくべき科学的状況には、わたしもまったく面くらってしまっています。ですが、やらなければいけないことがあります。いそいで日常生活の規律を作りあげなければいけません。ですから、数学や物理のことは棚上げにして、組織だてることについて話しあいましょう」
かれが話をしている相手は、評議員の連中ではなくて、こんどの逃走を可能にした複雑な作戦をやりとげる鍵となった、かれ自身の副官といった人々だった──ラルフ・シュルツ、イブ・バーストウ、メアリイ・スパーリング、ジャスティン・フート、クリーブ・ジョンソン、そのほか一ダースばかりの人々だった。
ラザルスとリビイもいた。ラザルスは、スレイトン・フォードを操縦室の警備に残し、人が来たら追っぱらい、とりわけだれにも操縦装置には手をふれさせないよう命じてきたのだ。これは、〈働かせる〉という仕事であり、一時的な作業療法だというのがラザルスの考えであった。かれは、フォードが好ましくない精神状態にあり、おのれの殻のなかに引きこもっているように思われたのだ。かれは話しかけられると返事はしたが、ただそれだけだった。このことがラザルスには心配だったのだ。
バーストウはつづけた。
「指揮をとる人が必要です。当分のあいた、命令をくだし、それを実行させる、非常に大きい能力のあるだれかが。その人は決定をおこない、われわれを組織し、義務と責任をきめなければいけませんし、この船の内部経済をととのえなければなりません。むずかしい仕事ですが、みんなに選挙を、民主的にやってもらいたいのです。それまで待たなければいけませんが、いま命令をくだす人もいなければいけません。食糧は浪費していますし、船は……そうです、わたしが今日使ってみようとした食料還元装置をごらんになればいいと思うんですが」
「ザッカー……」
「はい、イブ?」
「しなければいけないのは、評議員にまかせることじゃないかしら。わたしたちには何の権限もないんですもの。わたしたちは、もうすんでしまったことをした非常事態のグループにすぎないんですもの」
「いやいや……」
ジャスティン・フートが口をひらいた。その顔のように、かさかさして形式ばった口調だった。「わたしはイブとは、ちょっとちがった意見です。評議員たちは、こんどの事件の背景ぜんたいを、はっきりつかめていません。判断をくだせるようになるため、ありのままの姿を理解させるには時間がかかることでしょう。そのうえ、わたし自身評議員の一人なんですが、組織された一つのグループとしての評議員会は、法的にはもう存在していませんから、司法権を有することはできないと、偏見なしに言うことができます」
ラザルスは興味をおぼえたようだった。
「どうしてそう考えるんだい、ジャスティン?」
「こうです……評議員会は、社会の一部、もしくはそれに関連するものとして存在した協会の保護者だったのです。評議員会は、決して政府ではなく、その唯一の義務は、ファミリーと社会との関係を処理することにありました。ファミリーと地球社会との関連が終ることによって、評議員会は、事実上、存在しなくなります。もう昔のことになったのです。この船にいるわれわれは、まだ一つの社会を構成しておらず、無政府状態の集まりです。この現在の会合には、ほかの部分的なグループと同じように、一つの社会をつくり上げる多くの……あるいはすこしの……権限があります」
ラザルスはよろこんで手をたたき、ほめそやした。
「ジャスティン、いまのはぼくがこの百年間聞いたうちで、いちばんうまい言いまわしだよ。いつかいっしょに、唯我論でも話しあおうじゃないか」
ジャスティン・フートは、こまったような顔をして、またはじめた。
「あきらかに……」
「いや、もう言うなよ! きみの言葉で自信がついた。それをだめにすることはないよ。そのとおりなら、はやいとこ動いて、進歩党といこう。きみはどうなんだ、ザック? きみは理屈にあった候補者に思えるがなあ」
バーストウはくびをふった。
「ぼくは、自分の限界を知っているよ。ぼくは技術者で、政治的な指導者じゃないんだ。ファミリーのことは、ぼくにとっては道楽だったんだ。ぼくらには、社会を管理する専門家が必要なんだ」
バーストウが自分の言葉をみんなに納得させると、ほかの名前がつぎつぎと提案され、その資格がながながと論議された。ファミリーほど大きな集まりになると、政治学を専攻した者や、役所につとめていた者もたくさんいた。
ラザルスはそれを聞いていたが、候補者のうちの四人はよく知っていた。ついにかれはイブ・バーストウを呼んで、ささやきかけた。彼女はびっくりし、それから考えこみ、最後にはうなずいたようだった。
イブは発言をもとめ、いつものやさしい口調で話しはじめた。
「候補者を一人提案させていただきたいと思います。この人は、ちょっと思いつかれないでしょうが、これまで提案されたどの人よりも、その性質、訓練、経験からいって、この仕事をするのに、比較にならないほどふさわしい人です。この船の民政長官に、わたしはスレイトン・フォードを指名します」
みんなは面くらってだまりこみ、それからがやがやとしゃべりはじめた。
「イブは気でも狂ったんじゃないか? フォードは地球にいるんだぞ!」
「いや、あいつは地球にはいないんだ。ぼくは見たよ……この船んなかで」
「そんな馬鹿なことがあるか!」
「やつだと? ファミリーのみんなが承知するまい!」
「そうかもしれないが、かれは、ぼくらの仲間じゃないんだぜ」
イブは、みんなが静かになるまで、がまんづよく待っていた。
「わたしの指名は、へんなものだとはわかっていますし、むずかしいことも認めます。でも、その有利なところも考えてくださいな。わたしたちはみな、スレイトン・フォードの名声と業績を知っています。あなたがたも、ファミリーのだれもが、フォードは、その方面では天才だということを知っているんです。この超満員の船のなかで、みんながくらしてゆく計画をつくりあげるのは、むずかしいことですわ。わたしたちが引き出せる最高の人でも充分ではないぐらいなんですのよ」
彼女の言葉はみんなの胸に強い印象をあたえた。フォードは歴史上まれにみる人物で、その真価は、生きているあいだに、ほとんど世界中にわたって認められた政治家であった。現代史の学者は、西欧連邦の発展途上において発生した危機を、すくなくとも二回は救った人だとかれを見なしていた。かれの政治的生命が、ふつうの方法では解決できない危機によってめちゃめちゃにされたのは、個人の失策というより、かれの不運だったのである。
ザッカー・バーストウが言った。
「イブ、ぼくはフォードを推すあなたの意見に賛成だし、ぼく自身も、よろこんでかれをわれわれの民政長官にしたいと思うよ。だが、ほかの連中はどうだろう? ここに出席しているぼくたち以外の……ファミリーのみんなにしてみれば、フォード長官は、みんなの受けた迫害の象徴だよ。ぼくはそのことから、かれを候補者にすることは不可能だと思うな」
イブはちょっと頑固だった。
「わたしは、そうとは思いませんわ。わたしたち、もうすでに、過去の何日問かにおこったたくさんの厄介なことを説明するための活動《キャンペーン》をおこなわなければいけない、ということに意見が一致しましたわ。なぜこれを徹底的に実行して、フォードは、みんなを救うために自分を犠牲にした殉難者だと信じこませないのです? 実際にも、あの人はそうなんですもの」
「うん……そう、かれはそうだ。もともと、ぼくらのために自分を犠牲にしたんじゃないが、かれの犠牲がぼくらを救ったことには、疑う余地はないね。だが、われわれにほかの連中を納得させることができようとできまいと、みんながかれを受入れて、かれの命令を聞くようにはっきり信じこませなければいけない……かれが、みんなにとっては悪魔みたいなものであるときにな……そりゃあ、ぼくもはっきりとは知らないがね。専門家の助言が必要だと思うよ。どうだい、ラルフ? できるかな?」
ラルフ・シュルツはためらった。
「一つの計画の真実さは、その精神力学とはほとんど、あるいはまったく、関係がありません。〈真実はひろがる〉という概念は、宗教にかこつけた願いにすぎません。歴史がしめしていないのです。フォードは、ほんとうにわれわれが感謝の気持をささげなければいけない殉難者であるということは、あなたがわたしに出された純粋に技術上の質問とは無関係です」かれは、ちょっと話すのをやめて考えた。「ですが、計画そのものには、広く受け入れられる強い反対案に直面しても、宣伝操作に役立つ、感傷的でドラマティックな面があります。そうです……わたしは、売りこめると思います」
「うまくやりとげるのに、どれぐらいかかる?」
「それは……ここの社会的空間は、わたしたちが使う専門語で言うと、〈すき間がなく〉しかも〈熱い〉んです。連鎖反応に、すごくはっきりした〈K〉の係数が使えるはずです……もしこれがうまくゆくとすればですが。だがこれは、まだ調べられていない分野ですし、船のなかにどんな噂が飛んでいるのかも知りません。もしあなたがこれをやろうと決心されているなら、散会するまでに、フォードの名誉を回復する噂を用意したんですが……それから、いまから約十二時間後、フォードが実際に乗船していること……かれは、最初からわれわれと運命をともにするつもりだったからだという別の噂を流します」
「ほう、ぼくはかれがそのつもりだったとは思わないよ、ラルフ」
「はっきり、そう言えますか、ザッカー?」
「いや、だが……それはだなあ……」
「おわかりですか? かれがもともと考えていたことの真相は、かれとかれの神のあいだの秘密なんです。あなたも知りませんし、わたしにもわかりません。だが、この案の力学とは別問題なんです。ザッカー、わたしの作った噂があなたのところへ三、四回かえってくるころには、あなたですら疑いはじめていますよ」
応用心理学者は、ほとんど一世紀のあいだ、人間のふるまいの数学的研究をつづけてきたことによってみがきのかかった直覚と相談するあいだ、話をやめて宙を見つめていた。
「ええ、これはうまくいきます。あなたがたみんながやろうと思われるなら、二十四時間のうちに公式声明をすることができるでしょう」
「ぼくは賛成だ!」
と、だれかが叫んだ。
しばらくのち、バーストウはラザルスに、フォードを集会場に連れてこさせた。ラザルスは、なぜかれの出席を求められたのか説明しなかった。フォードは、結果が自分に不利であることを確信している男が判決を受けにやってきたような格好で、部屋にはいってきた。態度はおちついていたが、希望は現わしておらず、その眼はみじめだった。
ラザルスは操継室にとじこもっていた長いあいだに、その眼に注意していたのだ。その眼は、ラザルスが長い生涯に何度も眼にした表情をあらわしていた。最後の控訴が棄却された死刑囚、充分考えたあげくの自殺者、むごたらしい鋼鉄のワナからのがれようと、もがき、つかれはてた毛のふさふさした小さな動物──これらのものがそれぞれ有する眼は、たった一つの表情を示していた。その生命の終りがやってきたという絶望的な確信だ。
フォードの眼がそうだった。
ラザルスは、それがより大きくなっていくのを見て、頭を悩まされていたのだ。たしかに、みんなは危険な場所にいるが、フォードだって同じことだ。それに、危険を感じているときは、みな生き生きした表情になるものだが、なぜフォードの眼は、死の兆候をとどめているのだ?
ラザルスはついに、フォードは自殺を必要とする行きづまりの精神状態に達したからにちがいないと結論を出した。だが、なぜなんだ? ラザルスは、操縦室でながいあいだ観察しながらそのことを考え、満足のいくまでにその論理をたて直していった。地球にいるとき、フォードは、かれ自身の種族、短命人種のなかでは重要だったのだ。最高の地位なるが故に、長命人種たちがふつうの人々にまきおこしたひどい劣等感には、ほとんど免疫だったのだ。だが今では、メトセラの人種のなかでは、ただひとりの短命人だったのだ。(メトセラは、ノア時代以前のユダヤの族長、九六九年間生きたといわれる)
フォードには、長老たちの経験はなかったし、青年たちが将来にかける期待もなかった。かれは両者ともにひどく段ちがいなこの種族に劣等感を持ちはじめたのだ。そのとおりかどうか、いずれにしても、かれは自分が、無能力な慈善の対象、役にもたたない年金生活者となったように感じていた。
フォードのように多忙ですばらしい前歴の持主にとって、いまの立場は我慢のならないものであり、その誇りと気性がかえって自殺へとかりたてていたのだ。
会議室へはいってくると、フォードの眼はザッカー・バーストウを探しだした。
「あなたが呼ばれたのですか?」
「そうです、長官閣下」
バーストウは、みんながかれに引き受けてもらいたいと思っている地位と責任を簡単に説明した。
「強制はしませんよ。しかしあなたがよろこんでやってくださるなら、われわれにはあなたの力が必要なんです。やっていただけますか?」
フォードの表情が驚きに変るのをながめていると、バーストウは気が楽になってきた。フォードはゆっくりと答えた。
「ほんとうにそう言われるのですか? わたしをからかっているのではないでしょうね?」
「ほんとにまじめです!」
フォードはすぐには返事をしなかったが、口をひらいたときのそれは、的はずれのものだった。「すわってもいいでしょうか?」
かれの坐るところがさがされた。フォードは椅子にどっしりと落ちつくと、両手で顔をおおった。しゃべる者はひとりもいなかった。やがてかれは顔をあげて、しっかりした声で言った。
「それがあなたがたのご意志なら、ご希望をかなえるため最善をつくしましょう」
船には、民政長官と同じく船長も必要だった。それまではラザルスが、実用的、海賊的な意味での船長だったのだが、バーストウが正式な資格を与えるべきだと提案すると、かれは身をかわした。
「へえ? ぼくじゃあだめだ。ぼくは、チェッカーをしてこの旅をすごすかもしれないよ。リビイがきみの言う男さ。まじめで、良心的で、前宇宙軍将校だ……この仕事にはうってつけのタイプだ」
リビイは眼をかれのほうへ向けると、顔を赤らめて抗議した。
「それは、たしかに、わたしが義務上から、この船を一時的に指揮したことは事実ですが、わたしの性に合うことじゃありません。性格からいって、わたしは参謀のほうなんです。司令官に似つかわしいとは感じません」
ラザルスは喰いさがった。
「逃げ口上をさがすんじゃない。きみは、はやくとべる機械を発明したし、それがどうして働くのかを理解しているのはきみだけだ。きみには仕事があるってわけだ」
リビイは訴えるように言った。
「でも、そのことはちっとも理由になりません。わたしは宇宙航海士によろこんでなりたいんです。それがわたしの才能にぴったりだからです。でも司令官の下では、よろこんで働きます」
そのときスレイトン・フォードが、すぐさまわりこんで話をすすめはじめたのを見て、ラザルスはひとりで喜んだ。病める男は姿を消し、ふたたび為政者にもどっていたのだ。
「個人的なより好みができる問題じゃないよ、リビイ司令官。われわれはみんな、自分のできることをしなければいけない。わたしは社会、民間の組織を指揮することは承知した。これがわたしのやってきたことに一致するからだ。だがわたしには、船そのものの指揮はできない。そんな訓練を受けていないからなんだ。でもきみは受けている。やらなければいけないのだよ」
リビイはさらに顔を赤らめて口ごもった。
「わたししかいなかったらやりましょう。だが、ファミリーのなかには何百人もの宇宙飛行士がいますし、そのうちの何十人かは、わたしよりきっと指揮の経験と才能を持っています。さがせば適任の人が見つけられるでしょう」
フォードは言った。
「どう思う、ラザルス?」
「うん、アンディには何かわけがあるんだろう。船長というものは自分の船に背骨を一本とおすものだ……場合によっては、だめな場合もあるだろうがね。リビイが指揮をとりたくないのなら、さがしたほうがいいかもしれないよ」
ジャスティン・フートは、極小縮刷名簿《マイクロ・ロスター》を持っていたが、手近にそれをかける走査装置がなかった。だが出席している一ダース以上の人々の記憶が、多くの候補者を生みだした。かれらはとうとうルーフス・〈|無情な《ルースレス》〉・キング船長ということに落ちついた。
リビイは、新しい司令官に、光圧推進の結果を説明していた。
「われわれの到達できる目的地の位置は、現在のコースにその頂点を接触させている一束の放物面にふくまれています。この船の正常な推進による加速はつねに加えられ、光速ちょっと下の現|動量《ベクトル》は永久につづけられることを示します。このためには船が操縦されるかぎり、ずっとゆっくり歳差運動することが必要でしょう。しかし、現在の動量《ベクトル》と、船に強制される操縦による動量《ベクトル》とのあいだに、膨大な違いがあるといってもおどろくことはありません。このことは大ざっぱにいって、われわれのコースに直角に加速しているのだと考えられるからです」
キング船長は口をはさんだ。
「そうだ、わかる。だがきみは、なぜ結果としておこる動量《ベクトル》が、つねにわれわれの現|動量《ベクトル》と等しくなければいけないと思うんだい?」
リビイは面くらったように答えた。
「なぜって、もし船長がそれ以外だと決定されるなら、その必要はありません。しかし、結果としておこる動量《ベクトル》を現在の速度以下におとす要素を用いれば、考えられる目的地の現在位置の範囲を増大させずに、すこし引き返す結果になるだけです。この結果は、われわれの飛行時間を、数世代、数世紀に増すでしょう。もし結果としての……」
「そうとも、そうとも! ぼくには基礎弾道学はわかっているんだよ。だがきみはなぜ、もう一方の側のほうを拒むんだい? なぜ速度を増さないんだ? なぜその気になっても、現在のコースにそって直接に加速できないというんだい?」
リビイは困ったような顔をした。
「もし船長がそう命令されるなら、やれます。しかしそうすれば、光速を越してみることになるでしょう。このことは不可能だと考えられてきました……」
「ぼくが言わせようとしていたのと、まったくおなじだよ。〈考えられているって〉ぼくはいつも、そんな仮定が正しいかどうか疑っていたんだ。いまはたしかめる絶好の時だと思うがな」
リビイはためらった。かれの義務感は、科学的好奇心に対するひどい誘感とたたかっていたのだ。
「もしこの船が調査船なれば、船長、わたしは試してみたいですよ。でもわたしは、光速をもし越えた場合、どういう状態になるかを心に描いてみることはできません。しかし、他の物体に関するかぎり、電磁スペクトルから完全に消えることと思われます。これでどうして航測ができるでしょう?」
リビイには理論以上に心配なものがあったのだ。いまは電子工学的な眼によって見ているので、船の軌道の後方にある半球体は大きな暗黒体だった。最も短い波長の輻射線でも、眼には長すぎて見えない波長にドップラー効果をおこしていたのだった。行手の方向には星々がまだ見えていたが、その可視光線は、船のはかりしれない速度によっておしこめられた最長のヘルツ波からできていたのだ。暗黒の電波星《ラジオ・スター》は一等級の明るさで輝いていた。電波に乏しい星はぼんやりと消えていった。見慣れた星座も変化して、容易に認められなくなっていた。星々が、ドップラー効果でゆがめられた映像によって見えていることは、スペクトル分析で確かめられた。フラウンホーフェル線は紫色の端へと位置を変えていっただけでなく、通り越してしまって見えなくなり、いままで知られていなかった模様がそれにとって変っていた。
キングは答えた。
「うん……きみの言ってる意味はわかったよ。だがぼくはやってみたいよ、どうしてやらずにすませるかだ! でも乗客に相談してみることは問題外だとは思うよ。よし、きみのいうトランペット型の花をした位置のなかで、そうは遠くないタイプGの恒星への、だいたいのコースを用意してくれ。まず最初の調査を十光年として」
「はい船長。ですが、その範囲では、Gタイプの星はありません」
「そうか? ここはさびしいところだというんだね?」
「十一光年の位置にはタウ・セチがあります」
「G5の? あまりよくないな」
「よくありません。ですが、正真正銘の太陽《ソル》型G2があります……カタログZD九八一七です。二倍以上も遠いですが」
キングは拳を噛んだ。
「長老たちに相談してみなければいけないな。どれぐらいぼくらは実質的な時間を得しているんだい?」
「わかりません」
「え? それなら計算してくれ! それともデータをくれ、ぼくがやるから。きみみたいに数学者だとは言わないが、そんなことは操縦学生ならだれでも計算できる。かんたんな計算だ」
「そうなんです。しかし、時間縮小方程式に代入するデータがありません……船の速度を測定する方法がないからです。紫色の移動では使い道がありません。その線が何を表わすのかわからないからです。もっと長い基線を持てるようになるまで、待たなければいけないんじゃないかと思いますが」
キングは溜息をついた。
「きみ、ぼくはときどき、なぜこんな仕事にくびをつっこんだのかと思うよ。最上の想像をやってみる気はないかい? 長くかかるか? 短かくてすむか?」
「ああ……長いですね、数年です」
「そうか? ぼくはもっとおんぼろ船で何年もひどい思いをしてきた。数年か? チェスでもやらないか?」
「やりましょう」
リビイは、好敵手がいないので、ながいあいだチェスをやることをあきらめてしまっていたとは言わなかった。
「やる時間はたっぷりありそうだ。キングの歩《ポーン》をキングの4へ」
「キングの騎士《ナイト》を僧正《ルーク》の3へ」
「オーソドックスな打ちかたじゃないんだね? あとから答えることにしよう。ながくはかかるが、G2を連中に売りつけてみたほうがいいと思う……それから、フォードに、コンテストか何かをはじめるように注意したほうがいいんじゃないか? みんなをぼろ船病にかからせるわけにはいかないからね」
「そうです。減速時間を言いましたか? 速度を恒星速度におとすのに、マイナスの一Gで、実質的に一地球年ちょっと足らずという計算になります」
「え? 加速した方法と同じ方法で減速しよう……きみの光圧推進装置《ライト・プレッシャー・ドライブ》を使って」
リビイはくびをふった。
「残念ですが船長。この光圧推進の欠点は、以前のコースや速度がどうであろうと、大した違いはないんです。ある星のそばに慣性なしに進むと、その星の光圧で、水をぶっかけられたコルクの栓のように蹴とばされるんです。慣性を取り消せば、以前の運動量も取り消されるんです」
キングは譲歩した。
「では、きみの計画に従ったほうがいいようだな。ぼくはまだきみとは議論できないよ。きみのその機械には、わからないところがまだあるからね」
「わたしにも、わからないところがたくさんあるんです」
リビイはまじめにそう答えた。
船は、リビイが空間推進装置《スペース・ドライブ》をとりつけてから十分とたたないうちに、地球軌遠のそばを通過した。ラザルスとかれは火星の軌道へすすむあいたずっと、その装置の深遠な物理面を議論していた──十五分とたたないあいだのことだったが。バーストウが会議を召集したとき、木星の軌道は、はるか遠くにはなれていた。だが、すしづめの船でみんなをさがしだすのに一時間もかかった。かれが、静粛にと呼びかけたころには、船は土星の軌道を十億マイルはなれたところにあった──〈そうら行くぞ!〉から一時間半とはたっていなかったが。
だが土星をすぎてから議論ははげしくなり、天王星に達したときも、まだ議論はつづけられていた。だが海王星の軌道に達する前に、フォードの名前は同意された。キングは船長に任命され、ラザルスがガイドになって指揮をとり、もう航海士と相談をはじめていた。このとき、船はもう冥王星の軌道を通過して、宇宙ふかく四十億マイルをつっこんでいた。だがまだ、太陽光線に吹き飛ばされてから六時間しかたっていなかった。
そのころでも、まだ太陽系から出てはいなかった。しかし船と星々のあいだには、太陽系の彗星《コメット》の冬の家々と、冥王星ちかくにあるかもしれない変光惑星のかくれ場所以外の何もなかった──太陽に選択権はあるが、自分のものだとも言えない宇宙だ。だが、もっとも近い他の恒星でも、なお数光年の彼方にあるのだ。〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉は光速に近い速度でそれらの星にむかってすすんだ──気候は寒く、そして、航跡は速く。
外へ、なおも外へ遠く……世界の姿が、ほとんど一直線で、重力にゆがめられない淋しい深淵にむかって、毎日、毎月……毎年……かれらは、すべての人間性からはなれて遠ざかっていったのだ。
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第二部
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1
宇宙船は突進した。闇の荒野をただひとり、すぎゆく光年はみな空白だった。ファミリーは、宇宙船のなかに、生きてゆく道を作りあげた。
〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉は、ほぼ円筒形をしていた。加速していないときの船は、軸を中心に回転して、船の外殻に近いところにいる乗客に、偽の重力をあたえた。外殻というか、低い°謇謔ヘ居住部分であり、内部というか、上の°謇謔ヘ荷物室やその他のものであった。その二つの区画のあいだには、工場や水耕農園などがあり、軸にそって前部から後部までに、操縦席、転換炉、主動力装置などがならんでいた。
設計そのものは、最近つかわれている大型の自由落下飛行惑星間船とおなじようなものだが、心にとめておくべきことは、そのサイズの巨大なことだった。船そのものが都市であり、二万人の植民団に充分なだけの空間はあった。これはプロキシマ・ケンタウリまでの長い航海に、計画された定員の一万人が倍にふえてもいいとするものだった。
だから、これほど巨大ではあったが、十万人以上のファミリーが乗りこんでみると、五倍にも混雑したのである。
みんなは、人工冬眠の用意をして切り抜けることにした。低い区画の娯楽用のスペースを倉庫に変え、その目的のために空間がしぼり出された。睡眠中の人間は、行動し生活している人間に必要な生活空間の約十パーセントしか必要としない。こうすれば、まだ目覚めている人間には充分な空間が船にできるのだ。
人工冬眠を志願する連中は、はじめのうちはあまり多くなかった──この連中は、その変った遺伝から、ふつうの人々が考えるよりも死をより大きく意識していた。人工冬眠はあまりにも最後の眠りに似ているように思えたのだ。しかし、極端な混雑からくる非常な不愉快さが、果しない航海からくる同じように極端な単調さと結びつき、みんなの心は急速に変化しはじめ、この〈小さな死〉に対して、ちょうどうまく収容できる程度に、とぎれることなく志願するようになっていった。
残って眼をさましている連中は、仕事をつづけてゆくためだけに努力した──船内の雑用をし、水耕農園や、予備の機械の手入れをし、眠っている連中の面倒を見た。生化学技術者たちは、加速度、周囲の温度、使用薬品、その他、同化年齢、身体容量、性別といった異った条件のもとでの、肉体の悪化と、そのとき必ず差引きして補充すべき方法、といったものを描き出す複雑な実験式を作り出した。
上部の、重さの少ない区画を使うことによって、加速で生じる悪化(身体の重さが増すことで、床《とこ》ずれがふえるといったようなこと)は、最小限にとどめられた。だが、冬眠している者の世話をすることは、すべて手でやらなければならなかった──ひっくりかえし、マッサージをし、血液中の糖分をしらべ、非常におそく動いている心臓を調べたり、すべての試験や手当は、極端に低下された新陳代謝が、死のほうへすべりこんでいかないようにたしかめてみるため、どうしても必要なことだった。船内病院の十二の部屋以外は、人工冬眠患者を収容するようになっておらず、自動診療装置は備えられていなかった。こうした、何万人もの眠っている人々を手当するという退屈な仕事はすべて人手によらなければならなかったのだ。
エレノア・ジョンソンは、九D食堂で友人のナンシイ・ウエザラルに出会った。この食堂は、それほどのことはないのだが、常連にはクラブ≠ニ呼ばれていた。ここによく現れるのは、若くてにぎやかな連中が多かった。ラザルスは、ここでよく食事をするただ一人の年寄りだった。かれは、さわがしいことが気にならず、それを楽しみにしていたのだ。
エレノアは、うしろから追いついて友人の頸すじに唇をおしつけた。
「ナンシイ! 目をさましたのね! 会えてうれしいわ!」
ナンシイはエレノアの腕をほどいた。
「ハロー……わたしのコーヒーをこぼさないでよ」
「ええ、でも、わたしに会って、うれしくないの?」
「そりゃうれしいわ。でも、あなた忘れてるのよ。あなたには一年になるんだけれど、わたしには昨日のことなの。それに、わたしまだねむたいのよ」
「ナンシイ、眼を覚ましてからどれぐらいになるの?」
「二時間ほどよ。あなたの坊やはいかが?」
「あの子、丈夫よ!」エレノア・ジョンソンの顔は輝いた。
「あなたには見わけがつかないわよ……この一年ですごく背がのびたの。もうわたしの肩ぐらいあるし、日がたつにつれてお父さんに似てくるわ」
ナンシイは話題を変えた。エレノアの亡くなった良人のことを口に出すまいとしたのだ。
「わたしが眠っていたあいだ、どうしていたの? まだ小学校で教えているの?」
「ええ。でも、ちがうといったほうがいいかしら。わたしのハーバートと同じ組の子を受け持ってるの。あの子、もう中学部なの」
「エレノア、あなたなぜ五、六カ月眠って、そんな面倒な仕事、一休みしないの? そんなことをつづけていたら、お婆さんになってしまうわよ」
「いやだわ」と、エレノアはことわった。「ハーバートが、わたしを必要としなくなる年になるまではだめよ」
「センチメンタルにならないで。女の志願者の半分は、小さな子供のいるひとたちよ。わたし、そのひとたち、すこしも悪いとは思わないわ。ねえ……わたしにしてみれば、この旅行はまだほんの数カ月たっただけよ。あのまま最後まで逆立ちしてもおられたのよ」
エレノアは頑固だった。
「いいえ、結構だわ。あなたにはそれで良かったのでしょうけれど、わたしは現在のままで楽しいのよ」
ラザルスは同じカウンターにすわって、サーロイン・ステーキの代用品にむかって、なんとか噛みつこうとしていた。
「彼女は、何かを失いはしないかと心配なんだ。ぼくは彼女を責めはしないね、ぼくも同じなんだ」
ナンシイは方針を変えた。
「じゃあエレノア、もうひとり子供をつくったら。そうしたら、きまりきった仕事からぬけられるわよ」
「それには、二人必要なのよ」
「面倒はないわ。たとえば、ここにラザルスがいるでしょ。この人なら、良いパパになるわ」
エレノアの頬にえくぼができ、ラザルスのあさぐろい顔に赤味がさした。
「本当のところはね」と、エレノアは淡々と言った。「わたし、彼氏に申こんで、ことわられたの」
ナンシイはコーヒーにむせて、すばやくラザルスからエレノアに視線をうつした。
「ごめんなさい、知らなかったわ」
「いいのよ。ただ、わたしが彼氏の孫の一人だったからなの、四等親のね」
「でも……」ナンシイは、人のプライバシーを守るという習慣から、言ってみたところで勝ち目がないと知りながらも言ってみた。「ねえ。それなら、血族でもさしつかえない範囲じゃないの。なにが気に入らないの? それとも、わたし黙っているべきかしら?」
「そうよ」とエレノアはうなずいた。
ラザルスは、おもしろくもなさそうに逃げ口上を言った。
「ぼくが昔かたぎだってことはわかってるさ。でも、ずっと昔に頭がかたまってしまったんだ。遺伝学とか何とか言わないが、とにかく、自分の孫の一人と結婚する気にはならないね」
ナンシイは、おどろいたような顔をした。
「ほんとに、昔かたぎだわ! それとも、ただ恥ずかしがりなのかよ。わたし、自分であなたに求婚して、どうなるかためしてみたいような気がするわ」
ラザルスは彼女をにらみつけた。
「やってごらんよ、そして、どんなにたいへんなめにあうか、みてみるんだね」
ナンシイは、すましてかれをながめながら考えた。ラザルスは彼女をにらみつづけようとしたが、やがて視線をおとした。
「では失礼させてもらわなくちゃあ」と、かれはいらいらとして言った。「仕事があるんでね」
エレノアはやさしく手をかれの腕にのばした。
「行かないで、ラザルス。ナンシイはおてんばで、悪気はないの。ナンシイに、着陸する計画のこと話してあげて」
「何ですって? わたしたち着陸するの? いつ? どこへなの?」
ラザルスは、よろこんでなだめられ、彼女に説明した。何年も前に進路を向けたG2型、あるいは太陽型といったらいいか、その恒星は、一光年より近くにある──七光月よりすこし多いだけだ──そして現在、位相差干渉法によって、この恒星(ZD九八一七、あるいは単にわれわれの″P星)には、ある種の惑星がいくつかあると推定できるようになったのだ。
もう一月して、その星が半光年のところにやってくれば、減速がはじめられる。船体の回転はやめられ、一年のあいだ一Gで後方に噴射がつづけられ、その恒星にちかづいたときに、恒星間速度でなく惑星間速度になっているようにする。そして、その惑星が人間の生命を維持するのに適しているかどうかの調査がはじめられる。その調査ははやく容易であろう。なぜなら、希望するただ一つの惑星というのは、地球から見る金星のように明るく輝いているものでなければならず、海王星や冥王星のように弱々しく光る寒い惑星には用はなく、また、母星の焔のスカートにつつまれて焼きつく燃え殼、水星のような惑星にも用はないからだ。
もし、地球のような惑星がなければ、みんなはその奇妙な恒星のすぐ近くまで接近しつづけ、また光圧ではねとばされて、別の故郷をどこかに探しはじめるのだ──今度は警察に悩まされることもなく、注意して新しいコースをえらぶことができるのだ。
ラザルスは説明した。〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉は、いずれの場合にも実際に着陸はしない。船は着陸するにはあまり大きすぎて、その自重で船体を破壊してしまうからだ。そのかわりに、もし惑星を見つけたら、滞空軌道にのって、探検隊は船に積んである小宇宙艇でおろされることになる。
顔をたておわると、ラザルスはすぐ二人の若い女からはなれて、ファミリーが新陳代謝と老衰学の研究をつづけている研究室へ行った。かれは、メアリイ・スパーリングがそこにいてくれればと思ったのだ。ナンシイ・ウエザラルとの小ぜりあいが、メアリイのそばにいたいとおもわせたのだ。かれは考えた、もし、もう一度結婚するようなことがあるとしたら、メアリイのほうがずっと好みの型なのだと。そのことを真面目に考えたというのではないが、なにかメアリイとの交際は、〈ラベンダーと古いレース〉といったような昔なつかしい香りがあるように感じたのだ。
メアリイ・スパーリングは、船に閉じこめられるとすぐ、人工冬眠という象徴的な死を受け入れることを望まず、長寿法について続けられている研究の助手に志願するという建設的な仕事のほうへ、死の恐怖を切り替えたのだった。彼女は教育を受けた生物学者ではなかったが、手先が器用であり神経がこまかく動くので、旅行のあいだの忍耐を必要とする何年間かのうちに、彼女は、研究主任ゴードン・ハーディ博士の大切な助手となっていた。
メアリイは、研究所員が〈ミセス・ホーキンス〉と呼んでいる、死を知らぬ鶏[#表示不能に付き置換え]の心臓の組織をあつかっているところだった。〈ミセス・ホーキンス〉は、多分ラザルスを除けば、ファミリーのだれよりも年寄りだった。それは、二十世紀にロックフェラー研究所からファミリーが手に入れたもとの組織が大きくなったものであるが、手に入れたときも、その組織は、二十世紀の初めからずっと生きつづけてきたものであった。ハーディ博士とその前任者たちは、もう二世紀以上にわたって、カレル・リンドバーグ・オシヤウ法を使って、それを生かしつづけ──現在まだ〈ミセス・ホーキンス〉は元気なのである。
ゴードン・ハーディは、逮捕されたときに、大事にしているその組織と器具を保護地に持ってゆくと言い張った。かれは、〈チリ〉に乗って逃げ出すときも、生きた組織を持ってゆくことに同じように頑固だった。こうして〈ミセス・ホーキンス〉は、〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉のなかでまで生き育ちつづけていた。五十五から六十ポンドほどで──盲目で、つんぼで、脳はなかったが、それでも生きていた。
メアリイ・スパーリングはすこしやせていた。
「ハロー、ラザルス……さがっていてよ。タンクをあけないといけないの」
かれはメアリイが、あまった組織を切りとるのを見つめた。
「メアリイ、その変なものを生かしておいているものは何なのだい?」
「その質問は、反対だわ」
と、彼女はラザルスの顔を見ずに答えた。
「正しいのはこうよ、なぜ死ななければいけないの? 永久に生きてはいけないというようなことがあるだろうか?」
「悪魔が殺してでもくれりゃいいんだ!」と、ハーディ博士の声が、うしろから聞こえた。「そうすりゃ、観察して、その理由を見つけられるからな」
「先生、その理由は〈ミセス・ホーキンス〉からは絶対見つけられませんわよ」メアリイは両手と両眼をまだいそがしそうに動かしながら、そう答えた。「その問題に対する鍵は、生殖腺にありますわ……これには何もないんですもの」
「ふーん! きみは、どういうことがわかってるんだい?」
「女の本能ですわ。先生はどれぐらいおわかりになっていますの?」
「ぜんぜん、絶対にわからんね! ということは、ぼくは、きみやきみの本能よりは、よくわかっているというわけだ」
「そうでしょうけど、すくなくとも」メアリイは、いたずらっぽくつけ加えた。「わたし、先生が家庭的な型に仕込まれたらすぐわかりますわ」
「典型的な女のおしゃべりってやつだな。メアリイ、あの筋肉のかたまりは、われわれのどちらもまだ生れぬ前に、コケコッコと鳴いて卵を生んでいたんだ。それなのに、何も知らないんだぞ」かれは〈ミセス・ホーキンス〉のほうに顔をしかめてみせた。「ラザルス、ぼくはよろこんで、あいつを二匹の鯉と交換するよ、雄と雌のな」
「なぜ、鯉と?」と、ラザルスはたずねた。
「鯉は死なないようだからさ。やつらは殺されるか、食べられるか、餓死するか、病気に負けるかはするんだが、われわれの知っているかぎりでは、死にはしないんだ」
「なぜなんです?」
「それだよ、ぼくがこのとんでもない旅に追い立てられたときに、見つけ出そうとしていたことは。こいつには、普通じゃない腸内菌相《インテスチナル・フローラ》があって、どうやらこれに何か関係があるらしいんだ。ぼくは、こいつがどうしても成長しつづけるのをやめない事実と関係があると思うんだ」
メアリイは何か聞きとれないことを言い、ハーディはたずねた。
「なにをぶつぶつ言ってるんだい? また別の本能か?」
「アメーバは死なない、って言ったの。あなたはおっしゃったわ。いま生きているアメーバはみな、五千万年やそこら生きてきているんだって。でも、無限に大きくはならず、腸内菌相《インテスチナル・フローラ》を持ってないことは、はっきりしているって」
「腸がないな」
と、ラザルスは言って、眼をぱちくりさせた。
「なんてまずい語呂あわせなの。でも、わたしが言ったことは本当よ。アメーバは死なないわ。かれらはただ分裂して生きつづけてゆくのよ」
「腸があろうとなかろうと」ハーディはいらいらとして言った。「組織的には同じようなものがあるんだろう。だがぼくは、実験材料がないんで弱っているんだ。それで気がついたよ、ラザルス。きみが来てくれてうれしいよ。たのみたいことがあるんだがね」
「言ってみろよ。ちょっとご機嫌がいいってところかもしれないからな」
「きみは承知しているだろうが、きみ自身が、興味のあるケースなんだ。きみは、われわれの遺伝の型を追っていない。ずっと先んじているんだ。ぼくは、きみの身体がだめになってほしくない、しらべてみたいんだ」
ラザルスは腹を立てたように言った。
「おれはいいさ。だが、きみの子分たちに言っといたほうがいいぜ、なにを探したらいいのかをな……きみはそうまで長生きしないだろうからな。おれの屍体をつつきまわしても何もわからないんでは、厭なんだろう?」
かれらが望んでいた惑星は眼の前にあった。緑で、瑞々しく、若く、地球とはまったくよく似ていた。その惑星が地球に似ているだけではなく、その恒星系そのものがほぼ太陽系の型に似ていた──この恒星のそばには小さな地球のような惑星がいくつかあり、遠くには木星のような大きな惑星があった。
宇宙論学者が太陽系の組立てを証明することは、いままでどうしてもできなかった。かれらは、確立することのできない起源についての論理と、そういった体系が最初にできあがったのではないというはっきりした$矧w的物理的な証拠≠フあいだを、行ったり来たりしていたのだ。だが、ここに、その撞着性は珍しいものではなく、普通のことなのだと暗示するようなものが存在していたのだ。
だが、この惑星に近づくにつれ、望遠鏡での観測で、もっとおどろくべき、もっと興奮すべき、そして明らかにもっと面くらわされるような、別の事実がわかったのだ。この惑星は生命を有していた……知的な生物だ……文化を持った生物だ。
その都市を見ることができた。その機械的な仕事ぶり、その形と目的は奇妙なものだったが、宇宙から地球のものを見るように、大きく見えていた。
だが、その惑星の住民もまたマホメット的逃走をおこなったということを示すことかもしれないが、そこに住んでいる種族は、利用できる生活空間で人口過剰になっているようには見えなかった。その広い大陸には、ファミリーたちの小さな植民を受け入れる余地はありそうだった。ただ、植民が歓迎されるならばだが。
「じつのところ」と、キング船長は、いらだたしそうに言った。「こんなことがあるなんて思ってもみなかったんだ。たぶん原始的な土人だろうし、猛獣もいるかもしれないが、ぼくは無意識のうちに、人類だけが文明を有する種族だと思っていたんだ。われわれは、充分注意しなくちゃいけないよ」
キングは、ラザルスを隊長とする探検隊を編成した。かれは、ラザルスの実際的な考え方と、生き続けようとする意志に、信頼を持つようになっていたのだ。キングは自分が隊長になりたかったのだが、船長としての義務を考えると、あきらめなければいけなかった。だが、スレイトン・フォードは行くことができる。ラザルスは、かれと、ラルフ・シュルツとその副官たちを選んだ。その他は専門家だった──生物学者、地質学者、社会生態学者、立体写真技師、それに、土人と話をするため何らかの方法を見つけるため、マックケルビイの通信構造理論を専攻した男をふくめて、心理学者と社会学者の何人かだった。
武器は携行しない──
キングは、武装することを禁じて、そっけなくラザルスに言った。
「探検隊は消耗品ですよ。どんな理由があっても、たとえ自衛のためであっても、住民と争いをおこすような危険をおかしてはいけないからです。あなたは外交官であって、兵士じゃあないんだ。それを忘れないでください」
ラザルスは自分の部屋へ帰り、またもどってくると、むっつりとキングに熱線銃をわたした。だが、もう一つがまだ服の下の足にくくりつけてあることは黙っておいた。
キングが隊員に、小宇宙艇に乗れ、と命令しようとしたとき、ジャニス・シュミットが口をはさんだ。彼女は、ファミリー内の先天的欠陥のある患者にたいする看護婦長だった。ジャニスは前に出てきて、船長に話を聞いてくれと言い出した。
キングは彼女をにらみつけた。
「どういうつもりなんだ?」
「船長、わたしの見ている子供の一人のことで、どうしてもお話をしなければ……」
「看護婦、きみは明らかに規則を乱している。出なさい……主任医師に報告してから、わたしの事務室に来るんだ。話すことがある」
ジャニスは両手を腰にあてた。
「たったいまお話できますわ。これは探検隊でしょう? 出発するまえに、ぜひとも聞いていただきたいことがありますの」
キングは、しゃべり出そうとしたが、心を変えて、ぽつりと言った。
「短かく言ってくれ」
彼女はその通りにした。ジャニスがみているなかの一人、ハンス・ウエザラルは九十歳ぐらいの若さで、胸腺の異常のため外観からはまだ子供のようだった。その精神状態は劣ってはいるが低能ではなく、ずっと何ごとにも感動することなく、神経と筋肉の障害から自分で食事をすることもできなかったが、精神感応《テレパシイ》には鋭い感受性を持っていた。
この患者はジャニスに、船がそのまわりをまわっている惑星のことを全部知っていると告げたのだ。その惑星にいるかれの友だちが話してくれ……みんながかれを待っているというのだ。
着陸用宇宙艇の出発は、キングとラザルスが調べるあいだ延期された。ハンスの伝えた情報は、少なかったけれども、そのかぎりでは正しかった。だが、その〈友だち〉についてはあまり助けにはならなかった。「ああ、ただの人間だよ」と、かれはみんながなにも知らないことに肩をそびやかしてみせながら言った。「故郷《くに》とよく似ているよ。いい人ばかりだよ。働きに行く、学校に行く、教会に行く。子供をつくって、楽しくくらしているよ。みんなも好きになるよ」
だがかれは一つの点では、実にはっきりとしていた。友だちが待っている、だからかれもいっしょに行かなくてはいけないというのだ。
その願いと判断を考えて、ラザルスは探検隊に、ハンス・ウエザラル、ジャニス・シュミット、そしてハンスのための担架を加えることにした。
探検隊が三日後にもどったとき、専門家たちの報告が分析され綜合されているあいだに、ラザルスは長い私的な報告をキングにおこなった。
「船長、ホームシックにかかるんじゃないかと思うぐらい、おどろくほど地球に似ているよ。だが、いっぽう、ぞっとするほど違ってもいるんだ……鏡のなかの自分の顔を見てみると、鼻なしの三つ眼が見かえすようなもんだ。落ち着かないぜ」
「土人のほうはどうなんだ?」
「うん、この眼でよく見ようと思ってね、昼間の側にまわったんだ。望遠鏡で見たとおりだった。それから、ぼくはハンスが言ったところに降りた、ある町のまんなかあたりの広場にね。ぼく自身できめるならそうはしないで、林のなかにでも降りて偵察するほうをえらんだんだがな。でも、きみはハンスの勘を役立てるように言ったからね」
「きみだけの判断でやってもらって結構だったはずだよ」
「うん。でも、とにかくそうしたんだ。技術屋が空気をあつめて、危険がないかしらべたころには、ぼくらのまわりに大勢あつまってきた。連中は……きみも、立体写真で見たはずだな」
「うん。信じられないほどのアンドロイドだ」
「アンドロイド……とんでもない! やつらは人間だよ。われわれと同じではないにしても、とにかくほんとの人間だ」ラザルスは眉をひそめた。「それがどうも気にかかるところなんだ」
キングは、議論しようとはしなかった。写真にうつっている姿は、二本足で、七フィートから八フィートほどの背丈、左右均斉で、骨格はちゃんとしており、形の良い頭に、はっきりした眼がついていた。その両眼はもっとも人間らしく、印象のふかいもので、大きく、澄んでいて、セント・バーナード犬のように悲しげな光をたたえていた。
その眼を見つめているほうがよかった。そのほかのところは耐えられないようなものなのだ。キングは、しまりのない歯なしの口や二またにわかれた上唇から眼をそらした。この生物たちを好きになれるまでには、きっと長い長い時間がかかるだろう、とかれは思うのだった。「つづけてくれ」とキングはラザルスに言った。
「ぼくはただ一人で外へ出た。ぼくは何も持たず、友人であり平和を欲しているように見せようと努めたんだ。連中の三人が前へ進み出た……待ちかねていたようにね。だがやっこさんたちはぼくにすぐ興味を失ってしまった、だれかほかの者が出てくるのを待っているように思えた。だからぼくは、ハンスを運び出すように命令したんだ。
船長、きみは信じられないだろうよ。連中はみんな長いあいだ会わなかった兄貴のようにハンスに甘えたんだ。王様が意気揚々と故郷に帰ってきたときのような、と言うほうがあたってるかな。無造作なやりかただったが、連中は残りの全員に丁寧だった、と言うもののハンスに対してはベタベタしすぎるくらいだった」ラザルスは口ごもってから、「船長? きみは輪廻《リインカーネーション》ってやつを信じるかい?」
「まあまあってとこかな。偏見は持っていないよ。もちろん、フローリング委員会の報告は読んだ」
「ぼくのほうは、ずっと今まで、そんな馬鹿な考えは、何の役にも立たないと思っていたんだ。だが、連中がハンスを迎えてくれたやりかたには、ほかのどんなことが考えられると言えるんだ?」
「ぼくにはわからないな。きみの報告で考えるよりほかないぜ。この星に植民することができると思うがい?」
「その点では、連中ははっきりしていた。ハンスはテレパシーで連中とほんとに話すことができるんだ。ハンスが言うのには、連中の神々は、われわれがこの星に住むことを許し、住民たちはすでにわれわれを迎える計画を立てているそうなんだ」
「え?」
「本当なんだ。連中はわれわれを欲しているんだよ」
「よかった! 安心したよ」
「そうかなあ?」
キングはラザルスの陰気な顔をながめた。
「きみはあらゆる点で満足できる報告をしてくれた。なぜふさいでいるんだい?」
「わからないよ。ぼくはただ、われわれだけの惑星を見つけたほうがいいんじゃないか、とおもっているだけなんだ。船長、何でもこんなに容易なことには、どこかに障害があるものだよ」
2
ジョッカイラ人たちは、(ザッカイラと呼ぶものもあったが)一つの都市をぜんぶ植民者たちに提供してくれた。
このようなおどろくべき協力と、それに加うるに、ハワード・ファミリーのほとんど全員が突然、その足に土を踏み、その肺に自由に空気を吸いこむことを恋いこがれていたことに気がついたことから、宇宙船を退去して地上に降りることはすごくはやめられた。その移動には地球年にして少なくとも一年はかかることと、冬眠している連中は下界におろされたらすぐに覚醒させられるべきだと考えられた。だが、いまや、それを制限する要素は、覚醒された十万の人々を移すための上陸用宇宙艇が足りないことだった。
ジョッカイラの都市は、地球人の欲求にあてはまるようには作られていなかった。ジョッカイラ人は人類ではなく、その肉体が必要とするものはすこし異っており、その工学技術にあらわされた文化的な欲求は、非常に異っていた。
しかし、都市は、どの都市をとってみても、|雨宿りの場所《シェルター》・食料の供給・衛生・通信と、はっきりした実際的な目的を達成するための機械であった。これらの根本的な欲求の内的な論理というものは、異る生物により異る環境に対して使われて、数え切れぬほどの解答をもたらしているものだ。
とはいうものの、いかなる種族であれ温かい血が通い、酸素を呼吸する人間に似た生物によって、ある特定の環境に対して使われた場合、その結果というものは、奇妙であるとはいえ、必然的に地球人が使えるようなものであった。
いくらかジョッカイラの都市は、超現実派《パラレアリスト》の絵画のようにとっぴなものに見うけられた。だが人類は、エスキモーの氷の家にも、藁ぶきの家にも、南極大陸の地下に精巧に作られた穴にさえも住んできたのだ。この地球人たちには、ジョッカイラの都市に移り住むことはでき──もちろん、すぐに、より適した形に作りかえようとしはじめた。
やるべきことがたくさんあるとはいっても、べつに困難ではなかった。建物はすでに建っていた──屋根のある隠れ場所、すべての人間の避難所の要求に対して基本的な人工の洞穴だ。そういった構造を、ジョッカイラ人たちが何のために使っていたかは問題ではなかった。地球人たちは、ほとんどあらゆることに、睡眠、遊び、食事、貯蔵、生産の場所として使うことができたのだ。ジョッカイラ人たちはわれわれよりもよく穴を掘っていたから、ほんとうの〈洞穴〉もたくさんあった。だが、地球人というものは、場合によっては、南極と同じようにニューヨークにおいても、容易に穴居人に変わるものなのだ。
飲むためと、ある程度までの洗濯用に、新鮮な飲用に適した水がパイプをつたって流れていた。大きな欠陥は配管工事にあり、都市には大規模な下水網はなかった。ジョッカイラ人は水浴をせず、かれらの家庭の給排水設備はわれわれとは異っており、異ったやりかたでおこなわれていた。
そこで、船の水浴設備を応急的にジョッカイラの排水設備に連結する、という大仕事をやらなければならなかった。最小限の必要度がきめられ、給排水がすくなくとも十倍の能力になるまでは、水浴は割当て制のぜいたくということになった。だが、水浴は本当に必要なものではなかった。
そういった模様替えをするための努力というものは、水耕農園《ハイドロポニック・ファーム》を作りあげるという最重要計画《クラッシュ・プログラム》にくらべると、とるにも足らぬことだった。というのは、冬眠をつづけている者のほとんどは、食料が確保されるまでは覚醒させることができないからだ。
すぐにもやろうという群衆は、〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉のなかにある水耕農園の器材のあらゆるものを、すぐにはずして下界におくり、建設をはじめ、その変換のあいだは貯蔵された食料にたよっておればいいといった。だが、もっと用心ぶかい少数の者は、船で食料の生産をつづけながら、試験農場《パイロット・プラント》だけを移動することを要望した。その連中は、この奇妙な惑星の上にあるかも知れぬ未知の細菌やビールスが、重大なこと──飢餓をもたらすかもしれないことを指摘したのだ。
この少数派は、フォードとバーストウに強力に率いられ、キング船長に擁護されて、他の者を説き伏せ、〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉の水耕農園の一つは排水されて、その機能を停止した。そしてその機械設備は上陸用宇宙艇につみこめるほど小さい部品に分解されてしまった。
だが、これさえも地上におろされはしなかった。この惑星の住民たちの農園でとれるものが地球人の食用に適していることがわかり、ジョッカイラ人たちはそれを与えようと夢中になったからだ。だがその努力は、ジョッカイラの食料品を補う意味で、地球人の慣れている種類の穀物をジョッカイラの土地に植えることに向けられた。ジョッカイラ人たちはやってきて、すぐにその労働をやりはじめた。かれらは秀れた生まれながらの#_民であり(その地味豊かな惑星に合成肥料の必要はなかった)、かれらの珍客が欲するものなら何でも育てようとすることに喜びを感じているようだった。
先発隊が必要とする以上の食料の供給が確保されるとすぐ、フォードはその民政本部をジョッカイラの町にうつしたが、キングは船のなかにとどまっていた。冬眠している連中は、諸設備の準備ができ、その労働が必要になるとすぐに覚醒されて地上に移された。食料、住居、飲料水が確保されたとはいえ、最小限の娯楽を手に入れ、上品な生活を行なってゆくためには、しなければいけないことはたくさんあった。
この、二つの文化は根本的に異っていた。ジョッカイラ人たちは、つねに底知れぬほどの助力を惜しまないように見えたが、ときには地球人たちがやろうとすることに、しばしば明らかに面くらうのだった。ジョッカイラ文化には、プライバシーの観念がないようだった。その都市の建物には、荷重をささえるのでない隔壁というものはなかった──ささえるためであれば、柱のほうを使おうとするのだ。連中は、地球人が何故に、広々としたすばらしい空間を小部屋や廊下に分割しようとするのか理解できなかったのである。かれらは単純に、なぜ個人が、どのような目的があるにせよ、ただひとりになりたがるのかがわからなかったのだ。
明らかに(といっても、抽象的な意志の疎通は、ある程度以上には達しなかったから、そう確実なわけでもないが)、かれらは、地球人にとって、孤独になることには信仰上の意味があるのだと決めたようだった。だが、いかなる場合にも連中は援助してくれるのだった。かれらは隔壁の形にできる薄い板材を供給してくれた──ところがそれは、連中の道具だけがその形をなおせるものだった。この資材は、地球人の技術者を、ほとんど心理的に参らせてしまうほどのものだった。
地球の工学技術が知っているどんな酸もきかず、ウラニウム混合体を操作するときに使われる丈夫な弗素プラスティックスを引き裂くことのできる化学反応でさえも、その資材にはなんの効果もなかった。ダイヤモンドの鋸はそれにかかるとこなごなになってしまい、熱も熔かすことはできず、低温もこわれやすくすることはできないのだ。その物質は光も音もさえぎり、設備のゆるすかぎり試みてみたあらゆる放射線をも透過させないのだ。その張力は、それが破壊できない以上、定義できるわけはなかった。ところが、ジョッカイラ人の道具は、地球人が使ったときにさえも、それを切り、形成し、くっつけ直すことができるのであった。
地球人の技術者たちはただ、そのようながっかりさせられることに慣れるよりほかはなかったのである。工学技術を通じての環境に対する支配の基準からは、ジョッカイラ人たちは地球人と同じぐらいに文明が進んでいた。しかしながら、その発達のしかたは、かれらなりの方向にそっていたのである。
この二つの文明のあいだに横たわる重要な差は、工学技術以上にもっと深いところで進んでいたのである。どこへいっても友人のようであり助力を借しまないとはいうものの、ジョッカイラ人は人間ではなかった。かれらの考えかたは異なり、その価値判断のしかたは違っており、その社会構造と言語構造は、その非人間的性質を反映し、その両方ともに地球人には理解できないものであった。
意思を交し得る言語を研究する責任のある語義学者のオリバー・ジョンソンは、ハンス・ウエザラルを通じての意思交換チャンネルによって、その急を要する仕事が、だらしなくも容易であることがわかった。
「もちろん」と、かれはスレイトン・フォードとラザルスに説明するのだった。「ハンスは実際には天才とは言えない。かれはもうすこしのところで低能となるのをまぬがれたぐらいのものだ。だから、かれを通して翻訳できる言語は、かれが理解できる概念までの範囲に限られているよ。だが、話を組みたてるための基礎的な単語はあたえられたがね」
「それで充分じゃないのかい? 八百語あれば、どんな考えでも伝えられるってことを聞いたことがあるような気がするがなあ」
フォードの言葉にジョンソンは答えた。
「それにもいくらかの真実はあるんだ。千語以下で、ふつうの状態ならすべてのことをつたえられる。ぼくは連中の言葉を、数や文章などで、とにかく実用できるだけの混成国際語となってくれる七百語足らずをえらび出したよ。だが、微妙な相違点とか、はっきりした区別とかは、連中をよく知り理解できるようになるまでは、待たなくてはいけないね。数すくない単語では、高度に抽象的なことはあやつれないよ」
「とんでもない」ラザルスは言った。「七百の単語で充分だぜ。ぼくのほうは、あの連中を口説くつもりはないし、詩を論じるつもりもないんだからな」
この意見は正しいと見られたようだった。ほとんどのメンバーは下界に輸送されてのち二週間から一カ月のあいだに、基礎的なジョッカイラ語をおぼえこみ、生まれてからずっと話していたかのようにジョッカイラの住民たちとおしゃべりをしはじめたのである。地球人のすべては、記憶術と語義学について、通常の基本的なことを知っていたから、必要に刺激され、また、練習する機会がいくらでもあるという環境のもとで、この数すくない単語による補助的言語を急速におぼえていった──もちろん、どこにでもあることで、〈土人〉のほうが英語を学ぶべきだと考える頭のかたい連中をのぞいてのことだが。
ジョッカイラ人たちは英語を学ぼうとはしなかった。最初から、そのうちの一人といえども、ほんの少しの興味も示さなかったのだ。それに何百万人といる住民のほうが、数千人しかいない連中の言葉を学ぶことを期待してみても、それは不合理なことだった。いずれにしたところで、ジョッカイラ人の上唇は割れているので、〈M〉〈P〉〈B〉というような発音はできなかったのだ。それと同じように、連中が使う軟口蓋音、歯擦音、歯音、舌打音というものは地球人の咽喉では出せない音だった。
ラザルスは、はじめにジョッカイラ人のことを悪く考えたのを改めなくてはならなかった。連中の容貌が奇妙に感じられることが薄らいでしまうと、連中を愛さないでいることは不可能だった。かれらはあまりにも、愛想がよく、寛大であり、親しみを示し、地球人をよろこばせようとつとめるのだった。
ラザルスは特に、ファミリーとジョッカイラ人とのあいだの渉外将校のような任務についているクリール・サールーにひきつけられた。サールーはその住民たちのなかで、簡単に訳せば、クリール族の〈酋長〉〈師父〉〈僧侶〉あるいは〈指導者〉といったような位置を占めていた。かれはラザルスを入植地からもっとも近いジョッカイラの都市にある自分の家へ招待した。
「わたしたちは、あなたがたにお目にかかり、あなたがたの皮膚の匂いをかぐことをよろこぶでしょう。それは幸福をつくりだすことであり、神々もよろこばれましょう」
こう言うサールーは、どんな文章を口にするときでも、連中の神々を引き合いに出さないで話すことが、ほとんど不可能なようだった。ラザルスは何とも思わなかった。他人の宗教に関して、かれはまったく無関心だったからだ。
「まいりますよ、サールー。ぼくにとっても、それは幸福なことになりますからね」
サールーはかれをジョッカイラでの普通の乗物にのせた。それは、スープ皿のような格好をした車輪のない乗物で、土地の表面を、しずかに急速にすべってゆくものだった。サールーがその乗物の速さを、ラザルスの眼が舞いだすほどにしたので、かれはその床にしゃがみこんだ。
「サールー」ラザルスは、風の音にまけまいと大声でたずねた。「これはどうして動くんだい? なにが動かしているの?」
「神々は呼吸をし……」サールーは、二人のあいだに共通する言葉にはない単語を使った。「……そして、これに場所を変える必要を生ぜさせるのです」
ラザルスは満足のいく説明を求めようとしはじめたが、すぐ口を閉じた。その答にはなにか憶えのあるようなものがあり、かれはそれに気づいたのだ。かれは以前、金星の水棲人の一人に、まったく同じような答をしたことがあるのだ。それは、初期の沼地用トラックに使われていたディーゼル機関のことを説明してくれと頼まれたときだった。ラザルスは神秘的であろうとしたのではない。かれはただ、不適当な共通語によって舌をしばられたのだった。
いずれにしろ、そこに近づく方法はあるのだ──
「サールー、この中がどうなっているかの画を見たいのだ」ラザルスは指さして言いはった。「画を持っていますか?」
「画は、神殿にあります。あなたは神殿に入ってはなりません」
サールーの大きな眼は、悲しそうにラザルスを見た。ジョッカイラ人の酋長《チーフ》が、友人の慎しみのなさを歎いていることは、ラザルスの胸に大きくひびいたので、かれは、いそいでその話題からはなれた。
だが、金星の住民のことを考えると、また変な気持になってくるのだった。水棲人は、金星の空に永遠にかかる雲によって、外界とは切りはなされているので、天文学はさっぱり信じないのだった。地球人がやって来たことは、かれらの宇宙観をすこし改めさせはしたが、その改善された説明には、いささかも真実にちかいところがなかった。
ラザルスは、ジョッカイラ人たちが、宇宙からやってきた訪問者のことをどのように考えているだろうかと不思議に思った。かれはまったくおどろいていないようだった──それとも、おどろいているのだろうか?
「サールー、きみは、ぼくの兄弟たちや、ぼくが、どこから来たか知っているかい?」
「知っている」とサールーは答えた。「あなたは、遠い太陽から来た……あまり遠いので、その長い旅行を光がしても、春や秋が何度となく過ぎてゆく」
ラザルスはちょっとおどろいた。
「だれがきみにそれを話したの?」
「神々がわたしたちに話した。あなたの兄弟のリビイもそのことを言った」
リビイがそのことをクリール・サールーに話すまでは、その神々とやらが知っていて教えたようなことはまずなかろう、とラザルスは言いたかった。だがかれは平和を保っていることにした。でもまだ、サールーに、空から来訪者がおりてきたのを見ておどろいたかどうか聞きたかったが、おどろきに相当するジョッカイラの言葉が考えつかなかった。かれは、サールーがまた話しだしたときも、まだその質問を組立ててみようとしていた。
「わたしたちの祖先は、あなたがたとおなじように空を飛んでいました。だが、それは神々の来る前のことでした。神々は、その聡明さにかけて、わたしたちにそのことを禁じました」
これこそ、いばってみせるだけの、大きな嘘っぱちだと、ラザルスは考えた。ジョッカイラ人が、これまでにこの惑星の表面をはなれた形跡はほんの少しもないのだ。
その夜、サールーの家でラザルスは、名誉ある招待客としてのかれを歓待しているらしいながい宴のあいだすわりつづけた。かれは、クリール家の広い集会室の、一段高くなった床のうえにサールーとならんでうずくまり、歌をうたっているらしいわめき声に、二時間ものあいた耳をかたむけた。ラザルスは、五十匹の犬のしっぽを踏みつけたほうが、いい音楽を作り出すだろうと感じたが、わざわざやってくれているのだから我慢していようとつとめた。
ラザルスはリビイが言いはったことを思い出した。ジョッカイラの連中が夢中になる、この〈|集団吠え声《マス・ハウリング》〉は、実際に音楽であり、地球人も、その間隔のおきかたを学べば、楽しめるようになるのだ、ということを。
だが、ラザルスには信じられないことだった。
そしてまた、かれよりもいくつもの点でリビイがジョッカイラ人のことを、くわしく理解していることは認めなければならなかった。リビイは、ジョッカイラ人がすぐれた数学者であることを発見してよろこんだものだ。特に連中は、リビイのすごい能力と同じくらいに、数の観念を把握することができ、かれらの計算は、ふつうの地球人には、信じられないほど複雑なものだった。一つの数は、いかに大きな数であろうと、小さいものであろうと、連中にとっては唯一の存在であり、それ自身として認識され、単に小さい数の集合としてつかまれるものではなかった。
リビイが、ジョッカイラ人とファミリーのあいだで、数学上の通訳として働くことができるのは、実に幸運なことだ、とラザルスは愉快になってきた。そうでなければ、ジョッカイラ人たちが示してくれる多くの新しい技術をつかみとることは不可能であったろう。
地球人がそのお返しに提供しようとする技術に、なぜジョッカイラ人が興味をしめさないのか、かれにはわからなかった。
吠えるような騒音は消えてゆき、ラザルスは自分のまわりのことに想いをもどした。食べものが運びこまれ、ジョッカイラ人たちが何をするときにも見せる同じ熱狂ぶりで、クリール家の連中は、おしあいへしあい食べものに手を出すのだった。ラザルスは考えた──威厳というようなことは、ここにはまったく存在しない考えなのだ。
直径が二フィートはたっぷりとあって、あふれんばかりに雑然と食べものをのせられた大皿が、クリール・サールーの前におかれた。十人をこえるクリールの家族はそのまわりにむらがり、長上のことなどかまわずにつかみとりはじめた。するとサールーはその数人をかるくひっぱたいてのかせ、皿に手をつっこむと、食べものをひとつかみとり、親指が二本あるその掌で、てばやくまるめた。それからそのボールをラザルスの口につきつけたのだ。
ラザルスはさほど潔癖なほうではなかったが、最初に、ジョッカイラ人の食物は地球人にも食べられるものであり、つぎに、すすめられたかたまりを試食してみないことには、何事をも得ることはできないのだ、ということを、考えてみなければならなかった。
かれは大きく口をあけてほおばった。うん……そう悪くはない……ちょっとねばねばしていてやわらかく、香りもべつにない。うまくはないが、のみこむことはできる。地球人の誇りを保つためにと言いきかせながら食べていったが、あとではちゃんとした食事をしようと考えていた。またつぎのをほおばりのみこむことは、身体のことでも外交的な面でも面倒なことをひきおこすかも知れないと感じたので、ラザルスはその逃げ道を考え出した。かれは大皿にちかづいて食べものを手につかめるだけとりあげ、大きなボールにこねあげてサールーにすすめた。
これは、つきあいをよくすることになった。食事のあいだ中、ラザルスは腕がつかれるほどサールーに食べものをすすめ、かれがもう食べられなくなるまでつづけた。
食事のあとでかれらは眠り、ラザルスはその家族といっしょに寝た。連中は、食事をしたところで、寝台もなく、道の落葉か犬小屋の小犬のようにおとなしく眠った。おどろいたことにラザルスは朝になるまで眼をさまさなかった。サールーはまだそばで眠っており、まるで地球人のようないびきをかいていた。ジョッカイラ人の子供はひとり、ラザルスの腹に頭をおしつけ、身体をまるくして眠っていた。
背中のほうで何かが動き、腰のあたりにふれたことに気がついて、ラザルスは注意ぶかくふりむいてみると、もう一人のジョッカイラ人──地球人で言えば六歳ぐらいか──がかれのホルスターから熱線銃をひきぬいて、珍しそうにその銃口をのぞきこんでいた。
ラザルスは、いそいで注意ぶかく、死の玩具を、はなしたがらない子供の指からもぎとり、安全装置がかかっていたことにホッとしながら、ホルスターにもどした。子供はラザルスを責めるような眼つきで見つめ、泣き出しそうになった。
「しーっ……おじさんをおこしてしまうよ。ここへおいで……」
ラザルスはそうつぶやくと、子供を左手にだきよせた。この小さなジョッカイラ人は、やわらかな唇を彼の頬におしつけてしがみつき、すぐに眠りこんでしまった。ラザルスは子供を見おろして、やさしく言った。
「このちっちゃな化物め。もしおまえの匂いに慣れることができたら、おまえを好きになることもできるんだがなあ」
二つの民族間でおこる出来事のいくつかは、もし将来に面倒がおこるようなことをふくんでいなければ、こっけいなことであったろう。たとえば、エレノア・ジョンソンの息子ハーバートの事件だ。このひょろながい青年は、歩道づくりの仕事をながめているのが好きだった。ある日、かれは二人の技術者、一人の地球人と一人のジョッカイラ人が、地球製の機械につかえるように、ジョッカイラの動力機関を直そうとしているのを見つめていた。そのジョッカイラ人は少年に興味をおぼえて、あきらかに親しみをこめて、かれをだきあげた。
ハーバートは悲鳴をあげはじめた。
息子のそばから遠くはなれたりは決してしないハーバートの母親が、その喧嘩に加わった。彼女は、そのジョッカイラ人をやっつけてしまおうと決心してはいたが、力にも技術にも欠けていた。大きな異星人はべつに怪我はしなかったが、いやな事態となった。
民政長官フォードとオリバー・ジョンソンは、懸命になって、おどろくジョッカイラ人にその出来事を説明した。幸福なことに、かれらは仕返しをするというよりは、歎き悲しんだようだった。
フォードはそれから、エレノア・ジョンソンを呼んだ。
「あんたは、自分の愚かさから、植民地全体を危険にさらしたんだよ──」
「でも、わたし……」
「黙りなさい! あんたがあの子を甘やかしてだめにしていなかったら、ひとりでちゃんとやっただろう。あんたが馬鹿な泣き虫じゃなかったら、手を出したりもしなかったはずだね。これからは、お子さんはきめられたとおりの進歩学級へかよわせ、あんたはあの子をひとりにしておくんだ。原地人のだれかに対して、あんたがすこしでも敵意をみせたりするようなことがあれば、二、三年間の人工冬眠をうけさせる。さあ、行きなさい!」
フォードは、ジャニス・シュミットにも、同じくらいきつい手段をとらなければならなかった。ジョッカイラ人たちがハンス・ウエザラルに対して示した興味は、精神感応《テレパシイ》を示す不具者ぜんぶにひろがっていった。原地人たちは、不具者たちがかれらと直接に交信できるということだけから、あがめたてまつるような状態になったようだった。クリール・サールーは、精神感応人《テレパス》たちを、地球人町にある疎開した神殿に住まわせている不具者たちから分離して住まわせ、ジョッカイラ人がかれらにつかえるようにしたいと、フォードに告げた。これは要望というよりむしろ命令だった。
ジョッカイラ人たちは、かれらがやってくれたすべてのことへのおかえしとして、そうすればよろこぶだろう、というフォードの主張に、ジャニス・シュミットはしぶしぶと従った。それで、ねたましく思っているジャニスの眼の前で、ジョッカイラ人の看護婦が、仕事を交替したというわけだ。
知能程度が半低能よりは高い水準にあるハンス・ウエザラルは、ジョッカイラ人につきそわれているあいだに、すぐ、自分から極端な精神異常状態になっていった。
それでフォードには、解決しなければならない頭痛のタネがもう一つふえたというわけだ。ジャニス・シュミットは、エレノア・ジョンソンよりも、もっとひどくて知的に執念ぶかかった。フォードは平和をまもるため、仕方なくジャニスに、彼女の愛する〈子供たち〉の世話から完全に身をひけとおどさなければならなかったのだ。
なやみつかれ、あきらかに心のそこからぐらついてきたクリール・サールーは、ジャニスと部下の看護婦たちがまたあわれな精神病者たちの世話をふたたびはじめ、ジョッカイラ人たちのほうは、低能およびそれ以下の水準の精神感応人《テレパス》たちの世話をつづけるという妥協案を承知した。
しかし、もっともむずかしい問題がおこった……家名だ。
ジョッカイラ人たちは、それぞれ個人の名前と家名を持っていた。
家名は、ファミリーのなかでも同じように、その数がかぎられていたが、原地人の家名は、その種族と崇拝する神殿に起因するものだった。
クリール・サールーは、フォードとこのことを相談した。
「ふしぎな兄弟たちの高き父親よ。あなたや、あなたの子供たちが家名をえらぶときがきました」
サールーの言葉を英語に翻訳することは、どうしても必然的な誤りを含むものだ。フォードは、このジョッカイラ人を理解することのむずかしさには馴れていた。
「兄弟であり、友人のサールー……あなたの言葉は聞こえますが、意味がわかりません。もっとたくさん話してください」
サールーはくりかえした。
「ふしぎな兄弟よ。時は来たり、時は去りゆき、熟する時があるものです。神々は、あなたがたふしぎな兄弟が、あなたがたの教育(?)において、種族を神殿を選ばなければならぬ時に達したと、われわれに告げられています。わたしは、ひとりひとりが、家名を選ぶための準備(儀式?)を、あなたと用意するために来たのです。わたしはこのことで、神々にかわって話します。だが、わたし自身のために言うなら、もし、わたしの兄弟フォードがクリールの神殿を選べば、わたしを幸福にするでしょう」
フォードは、どういう意味なのか理解しようとして、しばらく口ごもっていた。
「あなたがわたしに、あなたの家名をつけるよう希望されているのはうれしい。だがわたしのほうの人々は、もうすでにそれぞれの家名を持っているのです」
サールーは、唇をぴくっと動かしてその言葉を無視した。
「かれらの現在の家名は、言葉であって、それ以上の何ものでもありません。いまは、ほんとうの家名を選ばなければいけません。それぞれが崇拝する神殿と神の名前を。子供は生長し、もはや子供ではないのです」
フォードは、助言してもらわなければと心を決めた。
「いますぐおこなわなければいけないのですか?」
「今日ではありませんが、ちかい将来です。神々は忍耐強いのです」
フォードは、ザッカー・バーストウ、オリバー・ジョンソン、ラザルス・ロング、それにラルフ・シュルツを呼びあつめて、会見のことを説明した。ジョンソンは会話の記録をかけなおして、言葉の意味をつかもうと骨折った。かれはいくつかの、こうではないかという翻訳をつくってみたが、この件に新しい光をあたえてみることには失敗した。
「教会に加わったり、あるいははなれたりする場合と似ているな」
ラザルスはそう言い、ザッカー・バーストウは賛成した。
「そうだ、それがわかりやすい説明だ。ぼくは思うんだが、こいつはやってみてもいいんじゃないかな。みんなの幸福のために、原地人の神に対して口さきだけの信仰をすることさえ許さないほど、強烈な信仰上の偏見を持っているものは、われわれのなかにはほとんどいないよ」
フォードは言った。
「きみの言うことは正しいと思うよ。わたしは、個人としては、もしわれわれが平和にくらす助けになるのなら、自分の名前にクリールをつけて膝を折ることに反対はしない」かれは眉をよせた。「だが、われわれの文明が、かれらの文明のなかに沈んでゆくのは見たくないもんだな」
ラルフ・シュルツはかれに保証した。
「そんなことは忘れられますよ。かれらを喜ばせるために、われわれがどんなことをしなければいけないにしても、ほんとうに文化が同化する機会はぜったいにないのです。われわれの頭脳はかれらのものとは違います……はっきりどれぐらいちがうのか、わたしもちかごろ考えはじめたところです」
「そうだ、ちょっとちがっているからな」
そう言ったラザルスのほうをフォードは見た。
「それはどういう意味なんだ? なにをきみは心配しているんです?」
「なにも心配していないよ。ぼくはみんなが熱中するほど、この土地には感心していないだけでね」
みんなは、だれかがまず冒険をやり、その報告をするべきだ、ということに意見が一致した。ラザルスは、最年長者というわけで任務をものにしようとしたし、シュルツはそれを職業上の権利だと主張したが、フォードはみんなを制して自分を任命し、これは責任のある地位にあるものとしての義務だと主張した。
ラザルスは儀式のおこなわれる神殿の戸口まで、かれといっしょに行った。フォードは、ジョッカイラ人と同じように衣服を着ていなかったが、ラザルスは神殿にははいらなかったので、半ズボンをはいていることができた。植民者の多くは、何年もの船内生活で陽光に餓えていたから、ジョッカイラ人とおなじように、そのほうが都合がいいときには裸になって歩きまわった。だがラザルスは、そんなまねはしなかった。なかいあいだの癖で、どうもそんな気にはならないばかりでなく、むきだしの太ももの上では、熱線銃がいやに目立つからだ。
クリール・サールーは二人に挨拶し、フォードにつきそって中にはいっていった。ラザルスはそのあとから叫んだ。
「堂々と胸をはってくれよ、相棒!」
かれは待った。タバコに火をつけて吸い、歩きまわった。かれには、どれぐらいかかるものやら見当のつけようもなかった。だから、実際にかかったよりも、ずっとながいあいだかかったように思われた。
ついに戸口がひらいて、そのあいだから原地人の群衆が出てきた。かれらは妙に何かに興奮しているようで、その一人としてラザルスのそばへは近寄ってこなかった。大きな戸口になおもつづいている雑踏がわかれて通路が形づくられ、人影がそこをまっしぐらに走り出してきて戸外へ飛び出していった。
ラザルスはフォードだとわかった。
フォードはラザルスが待っているところでは止まらず、めくらめっぼうに走りすぎ、つまずいて倒れた。ラザルスはかれのところへ急いでいった。
フォードは立ちあがろうともしなかった。かれは顔を伏せて腹ばいになり、その肩ははげしく上下し、五体をふるわせてすすり泣いていた。
ラザルスはかれのそばにひざまずき、ゆりうごかしながらたずねた。
「スレイトン、なにがおこったんだ? どうしたんだ?」
フォードはすすり泣くのをちょっとやめ、涙にぬれ恐怖にうちひしがれた眼をむけた。かれは口に出さなかったが、ラザルスがわかったようだった。フォードはラザルスにとびついてしがみつき、それまでよりもはげしく泣いた。
ラザルスは身体をひねってはなれると、フォードをはげしくひっぱたいて、命令した。
「さっさとやめろ……どうしたのか、おれに話すんだ!」
フォードはたたかれると急に頭を上げて泣きやんだが、何も言わなかった。その眼はぼんやりしていた。ラザルスの視線に人影がうつった。かれはぐるりとふりむくなり熱線銃をかまえた。クリール・サールーは、数フィートはなれて立っていたが、近よって来ようとはしなかった──武器のせいではない。一度も見たことはないのだ。
「きみ! いったい……かれにどういうことをしたんだ?」
ラザルスは気がついて、サールーが理解できる言葉に切りかえた。
「ぼくの兄弟フォードに、なにがおこったんだ?」
サールーは唇をひきつらせて言った。「かれをつれて行け。これはわるいことだ。非常にわるいことだ」
「そんなことはわかっているんだ!」
と、ラザルスは言った。かれは翻訳するような面倒なことはしなかった。
3
前と同じような会議が、こんどは議長なしで、できるだけはやくひらかれた。ラザルスが事件を説明し、シュルツはフォードの容態について報告した。
「医者たちは、どこも悪いところを発見できないんです。わたしがはっきり言えることは、民政長官は診断できないほどひどい精神病にかかっているということです。こちらの言うことが通じないんです」
「ぜんぜんしゃべらないのかい?」
とバーストウがたずねた。
「食べものとか水とかいった簡単なことを、ひと言かふた言。病気の原因をしらべようとすると、わけのわからないヒステリーに追いこんでしまうんです」
「診断できないだって?」
シュルツは答えた。
「それは……もし、いいかげんな素人判断でいいと言われるなら、かれはおじけづいて気が変になっていると言えるだけです……わたしはこれまでにも恐怖症を見たことはありますが、これほどひどいものは一度もありませんでしたね」
ラザルスはとつぜん言った。
「ぼくはあるよ」
「え? どこで? どういう事情でした?」
「二百年ほど前、ぼくがまだ子供のころだった。大きな山犬をつかまえて閉じこめたんだ。ぼくはそいつを猟犬に仕立てあげることができるだろうと思ったんだ。だが、だめだった……フォードは、ちょうどその山犬と同じようなことをやるんだ」
不愉快な沈黙がつづいた。その沈黙をシュルツが破った。
「あなたの言われることは、どうもわかりませんが、どこが似ているんです?」
ラザルスはゆっくりと答えた。
「それは……ぼくだけの想像なんだ。ほんとうの答えを知っているのはスレイトンただ一人だが、かれは話すことができないんだ。しかしぼくの意見はこうだ……ほくらは最初からジョッカイラ人たちに、まったく間違われてしまっていたんだな。全般的に見て、かれらがぼくらに似ており、ほぼ同じ程度の文明を待っているというので、かれらを人間だと考えるという間違いをおかしていたんだ。あいつらはまったく、人間なんかじゃないんだな。連中は……家畜なんだよ。
ちょっと待った! そうあわてるな。この惑星には、ちゃんとした人間がいるんだ。ほんとうの人間がね。かれらは神殿に住んでいて、ジョッカイラ人たちは、そいつらを神と呼んだんだよ。かれらが、神々なんだ!」
ラザルスは、だれも口出ししないうちに、あとをつづけた。
「きみたちが考えていることはわかるが、まあだまっていてくれ。ぼくはなにも抽象論をやらかそうとしているんじゃない。ぼくは自分にできるかぎりの解釈をしているんだ。ぼくの言うのは、いずれにしても神殿には生きている何ものかがいて、そいつにはすごい魔力があり、神さまの代用にもなれるんだろう。だからそいつらを神々と呼んでもいいわけだ。そいつらが何であろうと、この惑星のほんとうの住民なんだ……この惑星の人間なんだ! そいつらにすれば、ジョッカイラ人だろうと、われわれだろうと、ただの動物にしかすぎないんだな。野生か飼馴らされているかのちがいだけで。この土地の信仰がただの迷信だと思っていたのは間違いだったんだ。迷信じゃないんだ」
バーストウはゆっくりと言った。
「それをきみは、フォードにおこったことの理由だと思っているんだね?」
「そうだ、かれはクリールと呼ばれるその一人に会った。そしてそいつがかれの気を狂わせたんだ」
「それに出会うと……その存在の前に出ると……だれでも気がちがうというのが、あなたの意見なのですね?」
シュルツの質問にラザルスは答えた。
「かならずしもそうじゃない。ぼくがもっとおそろしいのは、ぼくは気が狂わないかもしれないという恐怖なんだ!」
同じ日に、ジョッカイラ人たちは、地球人とのすべての交渉を断った。かれらがそうしてくれたことは好都合だった。でなければ、暴行がおこったことだろう。不安が町じゅうにたれこめた。それが死よりももっとひどい恐怖への不安であり、なにかおそろしく得体の知れない恐怖、それを知っただけで、人間を、打ちひしがれ心を失った動物に変えてしまう恐怖だった。ジョッカイラ人たちは、もはや、科学的な才能がありながらも道化のようにしていたころの無害な友だちではなくなり、〈神殿〉にひそむ眼に見えない強い存在への餌であり、操り人形であり、おとりであった。
投票してきめる必要などはなかった。燃えさかる建物からいそいで逃げ出す群衆のように、とりつかれたような気持で、地球人たちは、このおそろしい場所からはなれたがったのだ。ザッカー・バーストウが指揮をとった。
「キング船長をスクリーンに出し、すぐボートをぜんぶおろしてくれと言ってくれ。できるかぎり早くここを出るんだ」かれは心配そうに髪の毛をかきわけた。「一回で最高どれぐらい積めるんだい、ラザルス? 撤退に、どれほど時間がかかるだろうな?」
ラザルスはつぶやいた。
「なんて言った?」
「時間の問題ではなくて、われわれにむけられる意志の問題だ、と言ったんだ。神殿にいる例のやつらは、もっとたくさんの家畜を……われわれを欲しがるかもしれないからな!」
ラザルスは、ボートの操縦士としても必要だったが、群衆をさばくその才能がそれ以上にぜひとも必要とされた。ザッカー・バーストウがかれに、緊急警察の一団をあつめるよう話していたとき、ラザルスはバーストウの肩ごしに眼を走らせてどなった。
「おい、もうやめろ、ザック……遊びごとはもう終りだ」
ザッカーはいそいでふりむくと、会議室を横切って堂々とちかづいてくるクリール・サールーの姿が見えた。かれをとどめる者はひとりもいなかった。
みんなはやがてその理由がわかった。ザッカーはかれをむかえるために前にすすんだが、このジョッカイラ人から十フィートほどのところで立ちどまらせられたのだ。べつに理由はなかった。ただ──立ちどまったのだ。
サールーは言いはじめた。
「挨拶を申しあげる、不幸な兄弟よ」
「挨拶をおかえしする、クリール・サールー」
「神々はのたもうた。あなたがたの種族は永久に文明化(?)されることはない。あなたとあなたの兄弟は、この世界から立ち去らなければならないのだ」
ラザルスは、ほっとして大きく溜息をついた。ザッカーはまじめに答えた。
「立ち去るところなのです、クリール・サールー」
「神々は、あなたがたの去ることを求めておられる。あなたの兄弟リビイをここへつれてきなさい」
ザッカーはリビイを呼びにやり、またサールーのほうにむいた。だが、このジョッカイラ人は、もう話すことはなく、みんなが眼の前にいることには無関心なようだった。みんなは待った。
リビイはやってきた。サールーはかれをつかまえて長い話をかわした。バーストウとラザルスは容易に聞こえるところにいたが、二人の唇が動くのは見えるのに、なにも聞こえてこなかった。ラザルスはこの状態がひどく不安だった。おれの眼はどうかしているのかな。おれだってなにかちゃんとした機械があわば、こんないたずらをやれる方法はいくつか考えるんだが、どれも正しい答じゃないんだ──どこにも機械を使っているところは見えないからな。
無言の討論はおわり、サールーは別れの言葉も告げずに出ていった。リビイはみんなのほうにむいて話した。もうその声は聞こえるようになっていた。かれはまごついたように眉をよせて話しはじめた。
「サールーはわたしに言いました。われわれはここから、ええと三十二光年以上はなれたある惑星にゆくべきだと。神々がそう決定したんだそうです」
かれはそう言い終ると唇を噛んだ。ラザルスは言葉をそえた。
「くよくよするな。連中がわれわれを出したがっていることを喜ぶんだ。ぼくの考えでは、やっこさんたちは、いとも簡単にわれわれをぺしゃんこに押しつぶせたはずだよ。宇宙に出てから、ぼくらで目的地をきめようじゃないか」
「わたしもそう思います。だが困ったことに、この太陽系からわれわれが出発するべき時刻は、約三時間のちだとかれは言ったんです」
バーストウは抗議した。
「なぜだ。そいつはまったく無茶だ。不可能だよ。そんなにボートはないんだ」
ラザルスはなにも言わなかった。かれはもう意見を持つことをやめていたのだ。
ザッカーは、すぐに考えを変えたし、ラザルスは、経験から生まれた一つの考えをつかんでいた。乗船がすすんでいる野原のほうへみんなを追いやっているとき、かれは自分が地面からはなれて持ち上げられたことに気づいた。かれはもがいてみたが、腕も足も何の抵抗にもあわず、しかも地面は下へ落ちていったのだ。かれは眼を閉じ、ジェット噴射の合図を十ぺんかぞえ、また眼をひらいた。するとかれは、すくなくとも二マイルの上空にいた。
下のほうから、洞穴から出てくるコウモリのように、かぞえられないほどの点が町からわきあがってきて、太陽に照らされた地面が黒く見えていた。あるものは非常に接近していて、ファミリーの者、地球人だということがわかった。
地平線は沈んでゆき、惑星は球体と見えはじめ、空は暗黒に変った。だが呼吸は正常なようであり、血管は破れはしなかった。
かれらは、女王蜂のまわりにむらがる蜜蜂のように〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉のひらいた荷役口のまわりにむらがり吸いこまれていった。船内にはいると、ラザルスはこの身ぶるいさせられることを考えこみ、大きな溜息をついた。あの、はいってくるみんなを見てみろ──まるで蜜蜂だ!
リビイは船内にはいり元気をとりもどすと、キング船長をさがしだしてサールーの伝言をつたえた。
キングは決心がつかないようだった。
「わからないな。ぼくは地上におりたことはほとんどないから、きみのほうがずっとぼくより、原住民のことを知っているんだろう。ここだけの話だがね、あの連中がぼくの船客を送りかえしてきた方法を考えていたんだ。あんなすばらしい機動演習はいままで見たこともないね」
リビイはまじめに答えた。
「経験してみるのもすばらしいことでしたよ、船長。わたし個人としては、スキーのジャンプのほうをえらびますがね。船の荷役口をあけてくださって助かりました」
キングはぶっきらぼうに答えた。
「ぼくがあけたんじゃない。ひとりでに開いてくれたんだ」
二人は操縦室へゆき、噴射をはじめて、追いたてをくらった惑星から遠くはなれようとした。それから行先とコースのことを考えるのだ。
「サールーがきみに話したという惑星だが、そいつはG型の恒星に属しているのかい?」
リビイはうなずいた。
「ええ、太陽型の恒星に属している地球型の惑星です。座標が分っていますから、星図から見わけることができました。でも気にしなくてもいいんです、すごく遠いんですから」
「そうか……」
キング船長は、天体映像装置を働かせた。それからながいあいた二人とも、何も言わなかった。天体の映像が、かれら自身の行手を物語っていたのだ。
キングの命令もなく、操縦制御装置に手もふれないのに、〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉は、それ自身の意志でも持っているかのように船首をむけて、またながい旅についた。
リビイは何時間かあとに、キング、ザッカー・バーストウ、ラザルス・ロングに打ち明けた。
「あまりはっきりはしないんですが……われわれの速度が光速を越える以前は、あの神々が命じた目的地だとクリール・サールーが名前をあげた星にむかって進まされているのだという考えと、われわれの船のコースは一致しているとわかりました……すくなくとも、そう思えました。ですがわれわれは加速をつづけ、星々は消えていったのです。わたしにはもう、宇宙旅行をする上での座標がまったくありません。ですから、われわれがいまどこにいるのか、どこへ進んでいるのか、申しあげることができないのです」
ラザルスは助言した。
「のんびりするんだ、アンディ。推測してみるんだよ」
「そうですね……宇宙がわれわれの考えているとおり、そう変な断面を持っていないものだとすれば……そうだとしてもわたしにはデータがないんですが……クリール・サールーがわれわれの行くところだと言ったPK三七二二の恒星の近くに到着できるでしょう」
「ほう!」
ラザルスはキングのほうに向いた。
「きみは、速度を落とそうとしてみたかい?」
キングは短く答えた。
「ええ。でも、制御装置がきかないんですよ」
「ふーん……アンディ、そこへはいつ着くんだ?」
リビイはどうしようもないというように肩をすくめてみせた。
「よりどころになる座標がありません。空間との関連がなければ、時間は無意味ですよ」
時間と空間は、切りはなせない一つのものなんだ──と、リビイは三人が去ったあと、ながいあいた考えていた。たしかに、船そのものには、その構造上の空間があるから、必然的に船内の時間というものはある。船内の時計はカチカチと音をたてるなり、あるいはブーンとうなって、淡々と進んでいる。人々は空腹になったり、食べたり、疲れたり、休息をとったりしている。放射性物質は崩壊してゆき、物理化学的なプロセスは、より大きなエントロピーにむかって動いており、自分自身の意識は、時間の経過を認めている。
だが、人間の歴史上の時間がことごとくはかられてきた恒星という背景は消え去ってしまったのだ。かれ自身の眼や船内の装置に関するかぎり、宇宙の他の部分とは関係がなくなってしまったのだ。
どういう宇宙なんだ?
宇宙はないのだ。無くなってしまったのだ。
動いているのだろうか? 通りすぎていくものがなにも無いところに、動きがあり得るだろうか?
だが、船の回転によって得られている、みせかけの重力は存在しているのだ。何に対しての回転なんだ、とリビイは考えた。例の古典的なマイケルソン・モーレイの実験がたしかめることに失敗し、ながく見すてられてきた〈エーテル〉を仮定するのとおなじく、空間がそれ自体、ほんとうに絶対的な、関連性のない組織を保っているというようなことがあり得るだろうか? いや、それよりもっと──それが存在するという可能性そのものをも否定しているのだろうか?
──その点に関するかぎり、光より大きな速度の存在する可能性は否定されてきたのだ。船の速度は、実際に光速を越えたのだろうか? この船は、乗客という名の亡霊をのせた棺であり、時間からもはなれ、行く先もなく、さまよっているのだろうか?
だが、リビイは肩甲骨のあいだがむずがゆくなったので、ひっかいた。左足は無感覚になっていたし、腹は食べ物をしつこくせがみはじめていた──もしこれが死であるのなら、生きていることと、本質的には変らないようだとかれは考えた。
平静さをとりもどすと、かれは、この新しい現象をも包含する新しい数学をひねりだすという仕事にとりくみながら、操縦室を出て、お気に入りの食堂へむかっていった。
ジョッカイラ人の不可解な神々が、ファミリーの連中を地上から船へ思念輸送《テレポート》した神秘的な方法については、かれはもうあきらめていた。意味のあるデータ、すなわち〈測定された〉データを手に入れる機会はなかったのだ。認識論的なきびしさで、まじめな科学者にできる最上のことは、事実を記録し、それは説明できないと述べたノートを出すぐらいのことなのだ。しばらく前、あの惑星にいたかれは、いまここにいるということが事実なのだ。いまでもシュルツの助手たちは、あのひどい経験で精神的に参ってしまった数千の人々に鎮静剤を飲ませようと重労働をつづけているのだ。
リビイにはその説明ができなかったし、資料がないので、やってみようという気にもならなかった。かれがやりたいと思ったのは、物理学界の基礎的な問題である空間における世界の姿ととりくもう、ということだったのである。
数学へのたいへんな愛情という点を除けば、リビイは単純な人間だった。かれは、ラザルスとはちがった理由で、〈クラブ〉すなわち9D食堂の騒々しい雰囲気が好きだった。自分よりも若い連中がいたのでかれは元気づいた。気楽にできる年長者はラザルスだけだった。
クラブでは、食べ物が、すぐには手に入らないことがわかった。食料管理委員たちは、このとつぜんの変化に対して、まだ大いそがしだったのだ。しかしラザルスはいたし、知っている連中も来ていた。ナンシイ・ウエザラルが音をたてて席をあけて話しかけた。
「わたしが会いたいと思っていたのは、あなたなの。ラザルスったら、すごく頼りになるのよ。こんどはどこへ行こうとしているの? いつそこへ着くの?」
リビイは、できるだけうまくこの窮地を説明した。ナンシイは鼻にしわをよせた。
「りっぱな予想だこと! かわいいナンシイを、また苦しめさせてくれるっていうわけなのね」
「どういう意味です?」
「冬眠している連中の世話をしたことがあって? もちろんないでしょう。あきあきすることよ。ころがし、腕をまげ、あんよをひねって、頭をうごかし、部屋を閉めてつぎの部屋へ進むの。わたし……人間の身体にうんざりしてきたから、貞節の誓でもたてたくなったわ」
「そこまで言うなよ」
ラザルスは口をはさんだ。
「なぜ心配するの、オンボロ眼覚しさん?」
エレノア・ジョンソンは言った。
「わたしはまた船に乗れてうれしいわ。あのぬらぬらしたジョッカイラ人……いやねえ!」
ナンシイは肩をすくめた。
「あなたは偏見を持ってるのよ、エレノア。ジョッカイラ人は、あれなりにまともなのよ。たしかに、あの連中はわたしたちとそっくりじゃないわ。でも、どちらも犬じゃないのよ。あなた犬が嫌いじゃないでしょ?」
ラザルスは落着いた声で言った。
「やつらはそうなんだ……犬だよ」
「へえ?」
「連中が、あらゆる意味で犬に似ているというんじゃないんだ……漠然といっても犬ではない。やつらはたしかにわれわれと同等で、ある点ではおそらく、われわれよりもすぐれているだろう……だが、連中はやはり犬なんだ。やつらが神々≠ニ呼ぶものは、ただ単に、連中の主人であり所有者なんだ。ぼくらは飼いならされはしなかった。だから、所有者たちはわれわれを追いだしたんだ」
リビイは、ジョッカイラ人……あるいは、その主人たち……が用いた不可解な思念動力《テレキネシス》のことを考えていた。かれは考えこんで言った。
「もし、かれらがわれわれを飼いならすことができたら、どういうことになっていただろう? かれらは、すばらしいことをたくさん教えてくれたでしょう」
ラザルスは鋭く言った。
「忘れるんだ! 所有物にされてしまうところは、人間の土地じゃないんだ」
「人間の土地とは、どういうところなんです?」
「人間が、本来の姿のままにあるのが、人間の仕事なんだ……しかも格好よくな!」
ラザルスは立ちあがった。
「行かなきゃいけないんでね」
リビイも出ていこうとしたが、ナンシイがとめた。
「行かないで。あなたにたずねたいの。地球ではいま、何年になっているの?」
リビイは答えようとしたが口を閉じた。かれはもう一度答えようとして、やっと言った。
「その質問には、どう答えればいいのか、ぼくにはわからないんだ……どれぐらい高いところにいるかという質問と同じだからね」
「たぶん、まちがったことを言っているってことはわかっているの……わたし、基礎物理学はあまり得意じゃなかったけれど、時間は関連性のあるもので、同時性ということは、同一の機構において接近する二点にのみ適用する考えだ、というふうに概念をつかんだわ。でも、やはり何か知りたいわ。わたしたち、これまでのだれよりもずっとはやく、ずっと遠くまで旅行したんでしょう? 時計はおくれはじめていないの? それとも何かが?」
リビイは、素人が非数学的な言葉を使って物理学のことを話そうとするとき、いつでも数理物理学者が示す、あのまったく途方にくれたような表情になった。
「あなたは、ロレンツ・フィッツジェラルド収縮のことを言ってるんです。でも、勘弁してくれるなら、このことを言葉で言いあらわすことは、どうしても無意味なんだな」
「なぜなの?」
と彼女は言い張った。
「理由は……そう。言葉はふさわしくないからだね。漠然と収縮って呼ばれる結果を述べるためにもちいられる公式は、観察者が現象の部分であることを前提としているんだ。だが言葉の上での言いまわしでは、われわれが全体の成行きの外に立って、進行するものを見守っているという仮定を暗に含んでいるんだね。ところが、数学的な言葉では、こういった外部から傍観できるという可能性をも否定するんだよ。観察している者は、それぞれの世界観をもっているから、絶対的な観点には立てないんだね」
「でも、かりにぬけ出たとしたら? かりにわたしたちがいますぐ地球を見ることができたら?」
リビイはみじめになって言った。
「もとにもどるけれど……ぼくはこのことを、言葉で説明しようとしたんだが、混乱を増すばかりだった。連続体において、二つの事柄が分離されている場合、絶対的な意味では時間をはかる方法はないんだ。はかれるのは隔たりだけなんだね」
「隔たりって? たくさんの空間と、たくさんの時間?」
「いやいや! ぜんぜんそんなものじゃないんだ。隔たりは……つまり、隔たりなんだよ。ぼくはその公式を書いて、どういうふうにそれを使うかということをしめすことはできるが、言葉では定義を下すことができないんだ。ほら、ナンシイ、あなたは、交響曲の総譜を言葉で書けるかい?」
「いいえ。そうね、ひょっとしたら書けるかもしれないけれど、もとの長さの数千倍もかかるでしょうね」
「そして、音楽家はそれを楽譜にもどさなくちゃあ演奏できないだろう。ぼくが、言葉はふさわしくないといったのは、そのことなんだよ。ぼくは前にも一度、光圧推進のことを述べようとして、これと同じように困難な目にあったんだ。この推進は、慣性の損失に依存しているのに、なぜ船内のわれわれは慣性の減損を感じないのかとたずねられたんだ。言葉では、答えようがなかったよ。慣性というのは言葉じゃないんだ。空間の、数学的な、ある状況に用いられる数学上の概念だからね、困ったよ」
ナンシイはとまどっていたが、なおも頑固に言い張った。
「わたし、正しくは言いあらわせなかったとしても、わたしの質問にはまだ何かの意味があるわよ。あなた、わたしに、さあ行って遊んできなさいなんで言えないわ。かりにわたしたちが向きを変えて、まったく同じ旅行だけど逆方向に、ちと来た道を地球へずっと引き返していったら──いままでかかった船の時間のちょうど倍だけど、そうしたら、わたしたちがたどりつくのは、地球では何年になっているの?」
「それはね……待てよ、さてと……」
リビイの頭のなかではほとんど自動的な作用で、加速度、距離、変型運動の信じられぬほど大きく複雑な問題が、すらすらと読みはじめられていた。かれが、数学的な瞑想をつづけ、解答に近づいたとき、その問題は、とつぜんばらばらに砕け落ちてしまった。かれは、この問題には、一様に妥当な答えが数限りなくあるということを漠然と悟ったのだ。
だが、そんなことは不可能な話だった。数学の幻想的な世界でなく、現実の世界では、そのような立場をとることは馬鹿げていた。ナンシイの質問には、独自で、しかも現実的なたった一つの答えがなければいけなかったからだ。相対性の美しい構造は、その全体が不合理なんだろうか? あるいは恒星問距離を引きかえすなどということが、科学的に不可能だという意味なのだろうか?
「その質問はちょっと考えなければいけないな」
と、リビイはいそいで言い、ナンシイが文句を言わないうちに出ていった。
だが、一人になって熟考してみても、この問題の手がかりは何も得られなかった。数学的な能力に欠けているからではなかった。どんなことであろうと、どんな事実の集まりからでも、かれは数学的な説明をひねり出すことができると知っていたのだ。かれの困難さは、事実がすくなすぎることにあったのだ。だれかが、光速に等しい速度で恒星間距離を横断し、〈出発した惑星へ帰ってみる〉までは、答が出ないのだ。数学だけでは不充分で、解答をあたえないのだ。
リビイは、故郷のミシシツピイの丘が、また緑につつまれているのか、森にけむるもやの香いが、秋の木立ちに立ちこめているのだろうかと考えこんでいたが、この質問は、自分が知っているどんな法則に照らしてみても意味がないと思いはじめた。かれは、宇宙建設隊にいて、最初のながい宇宙飛行をした青年のころ以来、おぼえたことのないホームシックにおそわれたのだ。
この疑惑と頼りない気持、空しさと郷愁の念は船内にひろがった。この旅のはじめのうちこそ、ファミリーのみんなには、大平原を横切って幌馬車をのろのろ進ませる動機があったのだが、いまではどこへも進んでおらず、日は、一日一日とたってゆくだけだった。かれらが長命であることは、意味のない重荷になっていたのだ。
アイラ・ハワードは、その私財でハワード財団を設立した人だが、千八百二十五年に生まれ、千八百七十三年に──老齢で亡くなった。かれは、サンフランシスコで金を掘る連中相手に食料品を売っていたが、南北戦争のとき大がかりな従軍商人となり、悲惨な再建設のあいだに、その財産を何倍にもふやしたのだ。
ハワードはひどく死を恐れていた。かれは、自分の寿命をひきのばそうとして、同時代最高の医者をやとったが、老齢がかれをもぎとってしまったのだ。かれの遺書には、その遺産が〈人間の寿命を伸ばすために〉使われるようにと指示してあった。
財団の理事たちは、長生きの先天的素質を示す家系の人々を探し出し、かれらを説得して、同類の者で繁殖させていくよりほか、その希望を遂行する手段はなかった。この方法はバーバンク(ルーザー。一八四九−一九二六、米国の植物改良家)の仕事に先んじるものだった。かれらが、グレゴール・メンデル修道士(一八二二−八四、オーストリアの生物、遺伝学者)の名声をたかめた研究を知っていたかどうかはわからないが。
メアリイ・スパーリングは、ラザルスが部屋にはいってくると、読んでいた本を下に置いた。かれはそれをとりあげた。
「なにを読んでいたんだい? 伝道の書≠モーん、きみが信心ぶかいとは知らなかったな」
かれは声をあげて読んだ。
「しかり、かれ千年生くるとは、言い古されしことなれど、かれ善きものは見ざるなり。すべては、ひとつところに行かざるか……いやなことだな、メアリイ。もっと楽しいのはさがせないのかい? 伝道の書のなかでも?」
かれの眼は下のほうへと飛ばしていった。
「こいつはどうだ……生ける者すべてに結ばれる者に望みあり……ふーん、愉快なところはあまりないな。こいつはどうだ……それ故に、汝の心より悲しみをとり除き、汝の肉体より悪しきことをしりぞけよ。幼時と青春は空しきことなればなり……こいつはぼくのことを言ってるようなもんだ。超過勤務手当をもらっても、二度と若くはならないからな」
「わたし、なれるわ」
「メアリイ、なにを心配しているんだ? きみはここにすわりこんで、死とか葬式以外のことは何ものっていない、聖書のなかでもいちばん憂鬱なところを読んでいる……なぜなんだ?」
彼女は、つかれたように、片手で眉のあいだをなでた。
「ラザルス、わたし年をとってきたわ。ほかにどんなことを考えろっておっしゃるの?」
「きみが? なんだい、きみは雛菊のように若々しいぜ!」
彼女はラザルスをながめた。かれが嘘をついていることはわかっていた。鏡が白髪まじりの髪や、たるんできた皮膚をうつしているのだ。彼女は、そのことを骨身にしみて感じていた。それなのにラザルスは、彼女より年上なのだ……メアリイは長生きの研究を手伝っているあいだに、生物学で学びとったことから、ラザルスが現在のように老齢になるまで長生きしてこれたはずはないのだが、ということを知っていたのだ。かれが生まれたとき、計画はたった第三世代に達したばかりだった。あまりにも世代数が少ないので、それより永続性のない血筋をとりのぞけないのだ──遺伝子をごまかすというおぼつかないチャンスによらなければ。だが、かれという存在が眼の前につっ立っているのだ。
「ラザルス、あなたはどれぐらい生きられるとお思いなの?」
「ぼくが? 妙な質問だ。まったく同じ質問をある男にしたとき、ぼくも死期のことを気にかけたことがあるんだ……そいつのことじゃなくて、ぼく自身のことをね。ユーゴー・ピネロ博士のことを聞いたことがあるだろ?」
「ピネロ……ピネロ……ええ、大ぼら吹きのピネロ……」
「メアリイ、かれはほら吹きじゃなかったんだよ。ほんとうにできたんだ。嘘じゃない。人がいつ死ぬか、正確に予言できたんだ」
「でも……つづけて、かれがなんて言ったの?」
「ちょっと待った。かれがいかさま師じゃなかったと知っておいてほしいんだ。かれの予言は寸分たがわずピタリと当ったんだ……かれが死ななかったら、生命保険会社は破産させられただろう。きみが生まれる前のことだが、ぼくは生まれていたし、知ってるんだ。ともかく、ピネロはぼくを診たが、こまったようだった。だからもう一度やった。それからぼくの金をかえしたんだ」
「かれは何と言ったの?」
「ひと言も聞き出せなかった。ぼくを見つめたり機械を眺めたり、ただ眉をひそめてだまりこんでいただけさ。だから、きみの質問にはまともに答えられないんだよ」
「でも、あなたは、そのことをどう思うの? ラザルス、永久に生きつづけるとは考えていないんでしょう?」
かれはやさしく言った。
「メアリイ。ぼくは死ぬことなんか計画のうちに入れていないんだ。ぜんぜん考えていないんだよ」
沈黙が流れた。とうとう彼女は言った。
「ラザルス、わたし、死にたくないわ。でも、長生きの目的は何なの? 年をとるにつれて賢くなるとは思えないわ。わたしたちの人生はもう過ぎてしまったというのに、ただすがりついているだけなの? どんどん出ていってしまわなければいけないのに、幼稚園をうろつきまわっているの? わたしたち、死んでまた生まれてくるべきじゃないの?」
ラザルスは答えた。
「わからない。見つけ出す方法もないんだ……そんなことをくよくよすることに、意義などあってたまるものか。きみもだよ。ぼくは、この生命にできるだけ長くしがみついて、できるだけたくさん学ぼうと思っているんだ。おそらく、叡智と理解は、後世のためにあるもので、ぜんぜんわれわれのために存在しているのではないのかもしれない。いずれにしても、ぼくは生きていること、それを楽しんでいることに満足なんだ。かわいいメアリイ、そんなつまらんことは忘れてしまうんだ……馬鹿なことなんだよ」
船は、最初のころの退屈な飛行中にとられたのとまったく同じ、単調な日常生活にもどった。たいていの者が人工冬眠にはいり、それ以外の者はそれらの人々の世話をしたり、船や水耕農園の番をした。冬眠をしている者のなかにはスレイトン・フォードもいた。冬眠は、精神異常に対する最終療法だったのだ。
PK三七二二番恒星への飛行は、船内時間で十七カ月と三日を要した。
船の士官たちには、この旅行が始まるときと同じように終るときにも、まったく選択権はなかった。到着する数時間前に、星々の映像が半球スクリーンによみがえり、船は急速に惑星間速度へ減速していった。減速はすこしも感じられなかった。かれらの上にかかっている魔法の力は、どんなものにも全物体に等しく作用していたのだ。〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉は、その太陽から数億マイルはなれた鮮かな緑色の惑星をかこむ軌道へすべりこんだ。そしてまもなくリビイはキング船長に、安定した駐船軌道《パーキング・オービット》にはいったと報告した。
キングは出発以来きかない操縦装置を用心ぶかく試してみた。船はゆらいだ。幽霊の支配はもう終っていたのだ。
リビイは、あの犬と等しい人々の〈神々〉は、空間を力だけが作用する静的なものと見なしているのではないかと考えた。残念ながら、わからないことばかりだと思う間もなく、追放は既成の事実となっていたのだ──だが、適当な言葉はなかった。不適当でしかも不正確だが、言葉になおしてみると、かれの考えは、正常な宇宙から走り去り、そのなかへまたもどってくるという、かれらなりに形づくられた宇宙の断面〈宇宙のカム〉の概念だった。船はその〈カム〉の終点に達したとき、正常な操縦にもどったのだ。
かれはこの考えをラザルスや船長に説明しようとつとめたが、うまく言いあらわせなかった。データがなかったし、それに、その数学的説明にみがきをかけて、りっぱなものにする暇もなかったのだ。かれらにもかれ自身にも満足できるものではなかったのだ。
キングもラザルスも、その点をよく考える時間はなかった。バーストウの顔が船内通信スクリーンにあらわれて、さけんだ。
「船長! 船尾の七号エアロックに来てくれませんか? お客さまがたが来られたよ!」
バーストウは大げさに言ったが、たった一人だった。その生き物を見ると、兎の扮装をする仮装服を着た子供のことを、ラザルスは思い出した。この小さな生き物はどうあっても哺乳動物ではなかったが、ジョッカイラ人よりはもっと人間に似ていた。着物は着ていなかったが裸ではなかった。その子供っぽい身体は、短かいつややかな黄金の毛で、美しくおおわれていたからだ。その眼は輝いており、快活でもあり知的でもあるように思われた。
だがキングは、うっとりさせられてしまって、そんな細かいことには気づかなかった。声が、思考なのだが、頭のなかでリンリン鳴っていたのだ。その声は言っていた。
……あなたがみなさんのリーダーですか……ようこそわれわれの世界へ……あなたがたをお待ちしていたのです……(空白)……は、あなたがおいでになると言ったのです……
精神感応《テレパシイ》を自由にやれるのだ──
この生き物、この種族は、非常におだやかで気品があり、敵を持たず、危険や争いごとはまったくないので、自分たちの考えを他の者と分ちあう余裕があるのだ──かれらの考え以上のものも。この生き物たちはごく優しくて寛大なので、自分たちの惑星に人間が住むようにすすめていた。使者がやって来たのはそのためだった。この申し出を行なうために。
キングの考えでは、このことはジョッカイラ人が提供した懸賞によく似ているようだった。かれは、この申し出にどんなワナがあるのだろうと考えた。
使者はかれの心を読んだようだった。
わたしたちの心のなかをのぞいてください……あなたがたに対して悪意など持っていません……あなたがたの生活に対する愛情を共にわかち、あなたがたの生活を愛します……
「感謝します」
と、キングは形式ばって答え、それからあとをつづけた。
「協議しなければいけないかな?」
かれはバーストウに話そうと身体の向きを変えながら、ちらりとふりむいてみた。使者は去っていた。船長はラザルスにたずねた。
「かれはどこへ行ったんです?」
「え? ぼくにたずねても知らないよ」
「でも、あなたはエアロックの前にいたんですよ」
「自動表示器を調べていたんだ。このエアロックの外にくっついているボートはいない……表示器がそう示しているよ。狂っているんだろうかと思っていたんだが、ちゃんと動いているんだ。あいつはどうやって、この船にはいってきたんだろう? あいつの船はどこにあるんだい?」
「どういうぐあいに、かれは出ていったんだろう?」
「ぼくのところは通らなかった!」
「ザッカー、あいつはこのエアロックからはいってきたんだね?」
「知らないんだ」
「だが、ここから出ていったのはたしかだ」
ラザルスは否定した。
「いいや、このエアロックはひらいていなかった。宇宙船の出入口は、ちゃんとしているよ。自分でたしかめてみたらいい」
キングはたしかめ、それからゆっくりと言った。
「透過できるとは考えられないな……」
ラザルスは言った。
「ぼくをじろじろ見るなよ。このことについちゃあ、ぼくもなんにも知らないんだ。回路を切ったら、電話の映像はどこへ行くんだい?」
かれは口笛を吹きながら去っていった。キングにはその曲がわからなかった。ラザルスの歌わなかった文句は、こうはじまるのだ。
ゆうべのことだった
階段のいちばん上に
小さな男がいるのを見たよ
そこにはいない小男なんだ
4
その申し出に、策略などはなかった。この惑星の人々は──かれらには口に出してしゃべる言葉がなかったので、名前はなかった。だから地球人たちは、ただ〈|小人たち《リトル・ピープル》〉と呼んだのだが──この小さな生き物たちは、ほんとうに地球人たちを歓迎し手助けをした。ジョッカイラとのあいだにあったような意志伝達の悩みがなかったので、かれらはこのことを容易にファミリーのみんなに納得させたのだ。小人たちは、どんなに微妙な考えでも、地球人に直接知らせることができたし、また、自分らにむけられたものは、どんな考えでも正確に理解することができたのだ。かれらは、自分たちにむけられていない思考は、顧みないか、読めないかのどちらかだったようだ。かれらとの意志交換は、話す言葉と同じように制御されていたのだ。
この惑星は、ジョッカイラ人の惑星よりも、ずっと地球によく似ていた。地球よりはすこし大きかったが、表面の重力はすこし低く、平均密度の低さを暗示していた。また小人たちは、文明の程度をあらわすことになるはずの金属を、すこしも使用していなかった。
この惑星は、軌道にまっすぐ立って浮かんでいた。地球のように気どって煩いてはいないのだ。その軌道は円に近く、遠日点と近日点の差は一パーセントないのだ。理由はべつになかった。
大洋と組打ちし、地殻の平衡をみだす、地球が持っているような大きい月もなかった。丘は低く、風はおだやかで、海はないでいた。ラザルスのがっかりしたことには、この新しい住居には、生き生きした気候がなかった。気候などぜんぜんないのだ。お天気はあったが、カリフオルニアを愛する連中が、よその地方の者に、おれたちの地方にはあるんだぞと信じさせる類のものだった。
だが、小人たちのこの惑星には、それがほんとうに存在しているのだ。
かれらは地球人たちに着陸の場所をしめした。海にむかっておりている海岸の広い砂浜だった。その背後は、灌木や樹々がまばらにはえた林でくぎられて、緑したたる草原が何マイルもつづいていた。その風景には開墾した形跡はなかったが、計画された公園でもあるかのように、手はかけられていないが整然としていた。
使者が、最初の偵察隊に、自由にくらしてくださいと言ったのはここだった。
小人たちのだれかが、手前けが必要になるといつも現われてくるようだった──ジョッカリア人のように、よってたかって、逃げられないほど過剰な手助けをするということではなく、電話とか、ポケット・ナイフとかいったものを、ひかえめにいつでも手渡すといった程度の手助けだった。
最初の偵察隊に同行した小人は、ときどき、以前に会ったことがあり、かれらを船に訪ねたことがあるようなぶりをして、ラザルスとバーストウを面くらわせた。そいつの毛は、黄金色というより濃いマホガニー色だったので、バーストウは、この連中はカメレオンのように変色できるのかもしれないと思ったが、ラザルスは自分の判断をさしひかえた。
バーストウは、地球人が建物を建てる場所と方法は、ほしいままにできるものかどうかと、この案内人にたずねてみた。船からおこなった予備調査によると、都市はまったく発見できなかったので、この質問をしたものかどうかと考えていたのだ。この現住民たちは地下でくらしているようだったが──もしそうなら、連中が貧民窟のように思うものを建てるなどという間違いをおかすことは、避けようとおもっていたのだ。
バーストウは案内人にむかって、声をあげてしゃべった。現住民が確実に思考を受けとってくれるためには、これがいちばんいいとすでにわかっていたからだった。
この小動物が送りかえしてきた返事には、おどろきの色がふくまれていた。
……あなたがたは、邪魔なものを建てて、美しい田園を汚さなければいけないのですか……どういう目的で、建物をつくらなければいけないのですか?……
バーストウは説明した。
「いろいろな目的のために、建物が必要なのです。雨露をしのぎ、夜寝る場所として必要ですし、食糧をつくり、これを食べ物とするためにも建物が要ります」
かれは水耕農業の方法、食品加工、料理のことを説明してみようと考えたが、ついに断念し、精神感応の微妙な感覚にたよって、この聞き手を理解させることにした。
「そのほかのいろいろな用途や、通信に用いる機械を入れる仕事場や実験室とか、日常生活でのほとんどあらゆるものに建物を必要とするのです」
思考はかえってきた。
……わたしを許してください……あなたがたの習慣をほとんど知らないからなのです……しかし……あんなもののなかで寝るほうがいいのですか?
かれは、地球人が乗りこんで降りてきたボートのほうを身ぶりで示した。低い堤のうえに船体が見えていたのだ。小人たちがボートを表現するのに使った思考は、強烈すぎて、一つの言葉にまとまっては受取られなかった。死んだような、せまくるしい空間──一度そのなかにはいったことのある牢獄、悪臭をはなつ公衆電話ボックス、といったような思考としてラザルスの心にはいってきたのだ。
「わたしたちの習慣なのです」
この生き物は、かがみこんで芝をぱたぱたとたたいた。
……ここは、眠るのにいい場所じゃないですか……
ラザルスはそうだと思った。地面は、やわらかで弾力性のある芝生でおおわれていた。草のようだが、草よりもきれいでやわらかく、もっと平らであり、しかも、草よりぎっしりと生えているのだ。ラザルスは靴をぬぐと、足の指をひろげたり動かしたりして、素足の感触をたのしんだ。芝生というより、ぶあつい毛皮の敷物に似ているな、とかれは思った。
案内人はつづけた。
……食べ物のことなら……この結構な土地が、惜しみなく与えてくれるので、働くことはありません……いっしょに来てください……
かれは、牧草地を横切って、背の低い樹々がたれさがっている、まがりくねった小川のところへ地球人たちをつれていった。〈葉〉が、この樹々の実なのだが、人間の手の大きさほどあって不規則な形をしており、厚みは一インチかそれ以上あった。小人は、その一つをもぎとると、うまそうにすこしずつかじった。
ラザルスは、つまみとってしらべてみた。上手に焼いたケーキのように容易に割れるのだ。中身はクリームがかった黄色で、海綿状だが歯切れがよく、しかもマンゴーを連想させるような芳しい香りがした。
バーストウが注意した。
「ラザルス、食べるな! まだ分析されていないんだぞ」
……毒にはなりませんよ……
ラザルスはまた匂いをかいだ。
「ぼくがすすんで試験台になるよ、ザック」
バーストウは肩をすくめた。
「注意したんだぞ……どっちみち食べるんだろうが」
ラザルスは食べた。その身は妙に口にあい、歯ざわりはちょうどいいほどの固さで、とらえどころのない風味だが、ここちよくぴりっとしており、ぐあいよく胃のなかに落ちついていった。
バーストウは、ラザルスの結果がはっきりするまでは、ほかの者にその実を食べさせようとはしなかった。だからラザルスは、危険にさらされてはいるが、特権的な立場を利用して充分な食事をしたのだ──この数年間とったことがない最高の食事だ、とかれは思った。
……あなたがたの食事の習慣を聞かせてくださいませんか……
と、この小さな友人は要求した。バーストウは返事をしようとしたが、この生き物の思考にさえぎられた。
……あなたがたみなさん……そのことを考えてください……
しばらくのあいだ、それ以上の思考は伝わってこなかったが、しばらくしてその小人は言った。
……それで充分です……わたしの妻たちが、その世話をするでしょう……
ラザルスは、その意味が〈妻たち〉という複数をあらわしているのかどうか確信は持てなかったが、とにかく、それに似た近親関係のことを指しているのだ。小人たちが両性体──なのかどうかということは、まだたしかめられていなかったのだ。
その夜、ラザルスは、星明かりの下で眠り、そのきよらかな光りを浴びて、船の閉所恐怖症を洗い落とした。つめたく青いヴェガや、オレンジ色に光るアンタレスは見わけがつくと思ったが、ここから見る星座はゆがんでいて、容易に識別できなかった。はっきりしているのは、地球から見るのと同じく、中天をよぎって雲のようにアーチを散りばめている天の川だけだった。太陽がどこにあるのかわかっていても、肉眼では見えないということは、かれにはわかっていた。その低い絶対光度は、数光年を越えてはとどかないのだ。かれは睡魔におそわれながら、アンディをつかまえてその位置をしらべ、機械を使って見わけなければいけないと考えた。そして、なぜこんなに気にかかるのだろうかとふしぎに思いはじめるころには眠りこんでしまっていた。
夜にも雨露をしのぐ場所が要らなかったので、探検隊はできるかぎり迅速にボートを往復運転して地球人たちを着陸させた。群衆はこの親切な土地に大挙して降ろされ、植民地が組織化されるまでは、まるでピクニックのように休養することを許された。
はじめのあいた、かれらは船から運んだ貯蔵食糧を食べていたが、ラザルスが良好な健康状態をつづけていたため、現地でとれる自然食品を危険をおかして食べてはいけないという規則は、やがて緩和された。それ以後、かれらは、土地の植物が提供する贈物をふんだんに食べ、船からの食糧は献立に変化をあたえるためにだけ用いられた。
地球人の最後の者が着陸した数日後、ラザルスは野営地からすこしはなれたところを、ひとりで踏査していた。かれは小人の一人に出あったが、その原住民はみんながしめすのと同様に、以前から知っているという素振りをしてかれに挨拶し、野営地からもっと遠くにある背のひくい森に、かれを案内した。そしてその小人は、ラザルスに食べてほしいと言った。
ラザルスは、べつに空腹ではなかったが、こういった親切は、うまく応待しなければいけないと思ったので、つみとって食べてみた。
かれは、びっくりして息がつまりそうになった。つぶしたジャガイモに茶色の肉汁だ!
……悪かったんでしょうか……
と、心配そうな思考がやってきた。
ラザルスは、しかつめらしく言った。
「きみ……どういうつもりでいるのか知らないが、こいつはほんとにすばらしい!」
心からの喜びの色が、さっと小人の心をおそったようだった。
……そのつぎの樹をためしてみてください……
ラザルスは、はやる心をおさえて、用心ぶかくそのとおりにした。できたてのパンにおいしいバターがまざっているようであり、少量のアイスクリームが、どこかに入りこんでいるようだった。だからかれは、三番目の樹が、その先祖に、きのこと木炭の火で焼いたビフテキの両方を持っているという、はっきりした形跡を示しても、もうおどろかなかった。
……わたしたちは、あなたがたの心像をほとんどそっくり用いました……それは、あなたがたの奥さんたちのより、はるかに強力でしたよ……
と、この友だちは言ったが、ラザルスは、自分が結婚していないとわざわざ説明はしなかった。小人はつけ加えた。
……あなたがたの思考が示す外観や色あいをまねる暇はありませんでした……これは、たいへん気にかかるところでしょうが……
ラザルスは、ほとんど関係はないと、まじめに請合った。
本部にもどってから、かれは、自分の報告が本当だとほかの者に納得させるのに、だいぶ骨を折った。
この新しいすみかの、気楽で夢の国のような性質から、大いに恩恵を受けているのは、スレイトン・フォードだった。かれは、クリールの神殿で経験したものが何であるか思い出せないという点を除けば、冬眠から眼をさまして、急病からはっきり回復していたのだ。ラルフ・シュルツは、これを耐えがたい経験に対する健康な反応だと考え、かれを患者としてはあつかわなくなった。
フォードは、参ってしまったとき以前より、若くて楽しそうだった。かれはもはや、ファミリーのあいたでは肩書きを持ってはいなかった──実のところ、政府らしいものはもうほとんど存在していなかったのだ。ファミリーのみんなは、この恵まれた惑星で、ほがらかでのんきな無政府状態になってくらしていたのだ──だが、かれはまだ従来の肩書きで呼ばれていたし、ザッカー・バーストウ、ラザルス、キング船長、そのほかの者といっしょに、その助言が求められ、その判断に敬意がはらわれる長老としての扱いをつづけて受けていた。
ファミリーの者は、生活年齢にはすこしも注意をはらわなかった。親しい友人も、一世紀のへだたりがあれば意見がちがうものだ。数年のあいだ、みんなはフォードの巧みな行政のおかげでやってきたのだ。その三分の二は、かれよりも年をとっていたが、かれらはフォードを年長の政治家としてあつかいつづけているのだ。
果しないピクニックは、数週間、数カ月に及んだ。ながいあいた眠っているか働くかして船内に閉じこめられてきたあとのことなので、長い休暇をとろうとする気持が非常に強くて阻止できなかったし、禁ずる理由とてなかった。
食糧はふんだんにあって、いつでも食べられ、たやすく手にはいり、どこにでもあるのだった。おびただしい数の小川の水は、澄みきって飲料に適していた。衣類は、着ようと思えばふんだんにあるのだが、実利的というより美的な必要から着られていた。この理想郷の気候が、着物を保護のために用いるのは、水泳するときに着物を着るのと同じことのように、馬鹿らしく思わせていたのだ。着物の好きな者は着ていた。腕輪や首飾りや髪にさす花は、たいていの人が持っていた。海にひと潜りしてみるときでもなければ、そう迷惑なものでもなかった。
ラザルスは半ズボンをはなしはしなかった。
小人たちのやりかたは微妙なので、その文化や文明の程度をただちに理解することはむずかしかった。地球の表現をかりれば、かれらには、高度な科学的発達を示すしるしは、外部には出ていなかったので──大衆な建物も、複雑な輸送機械も、震動する動力装置もなかった──かれらを、エデンの園に住む、母なる自然の子供たちとまちがいやすかった。
氷山は、その八分の一のみを水上に出すのだ。
かれらの自然科学的な知識は、植民者たちのそれに劣ってはいなかった。信じられないほどまさっていたのだ。かれらは、ひかえめに興味を示してボートを飛ばせたが、なぜ〈こういう〉ふうにせず、〈ああいう〉ふうになっているのかと尋ねて、案内するものを手こずらせた──しかもその方法たるや、地球の技術より評価できないほど簡単なうえ効果的なものだったのだ──こうして、胆をつぶした人間の技術者は、かれらがどういうつもりなのかを理解しはじめた。
小人たちは、機械や装置が意味するものは、ことごとく理解していたのだが、必要がほとんどないだけだったのだ。かれらが通信に機械を必要としないことはあきらかだったし、輸送にもほとんど必要としていなかった──その完全な理由は、すぐには明らかにならなかったけれども──とにかく、どういう活動をおこなうにしても、ほとんど機械は必要としなかったのだ。しかし、機械が特に必要になると、考案して作りあげ、一度つかっただけで破壊するのは朝飯前であり、しかも人間のそれとはまったく異った円滑な協力態勢をととのえて全部をやりとげるのだった。
生物学においてのかれらの優越性は、おどろくべきものだった。小人たちは、生命の形状を巧みにあやつる名人だったのだ。何日かで、風味ばかりでなく栄養価も倍加する実を結ぶ植物を創りあげるので、人間たちが利用している食物は、奇蹟ではなくて、小人たちの生物技術者ならだれでも処理できる簡単な問題だとわかった。かれらは、地球の園芸家が、花の色や形の一定した品種を改良するよりもたやすくこんなことをやってのけるのだった。
だが、かれらの方法は、いかなる人間の植物学者の方法とも異っていた。かれらが自分たちの方法を説明しようとしたところで、説明だけではわからないのだ。
われわれの表現を借りれば、かれらは植物を、自分たちののぞむ形や性質になるようにと〈考える〉ことを要求するのだ。かれらの言っていることがどういうことであろうと、人間という生徒たちにわかる方法で、ふれたり、それをどうにかしたりせず、眠っている苗木をとりあげて、二、三時間後に花を咲かせたり芽をふかせたりして成熟させることができるのは、たしかな事実なのだ──親本にはなかった新しい特性を持って──しかも、その木は、それ以後、類型に固定するのだ。
小人たちは、科学的な成果については、程度だけが地球人たちと異なっていた。そして、まったく根本的な意味において、かれらは、人間とは種類が異なっていたのだ。
かれらは、個人にわかれていなかったのである。
現住民の一個の身体は、分離した個人を宿してはいなかった。かれらは多数体であり、集団の〈心〉を持っていたのだ。かれらの社会の基本単位は、数多くの部分からなる精神感応《テレパシイ》の交信集団なのだ。一個人の有する肉体と頭脳の数は、九十かそれ以上であり、三十より少ないことは決してなかった。
植民者たちが、まったく面くらっていた多くの事がらを理解しはじめたのは、この事実を知ってからであった。小人たちは、地球人も同様にふかしぎなものであり、その存在様式は他人にも映し出されているにちがいない、と信じていたと思うべき理由はたくさんあった。おたがいのがわの真実をついに発見したことが、個人ということについての相互の誤解をもたらし、小人たちの心のなかに恐怖をよびおこしたようだった。かれらは、ファミリーの居留地のちかくから退いて、数日のあいだ姿を見せようとしなかった。
だがついに、使者が野営地にやってきて、バーストウをさがし出した。
……あなたがたを避けたりして申し訳ありません……あわてて、あなたがたの運命は、あなたがだが悪いからだと間違えたのです……あなたがたを助けてあげたい……あなたがたが、わたしたちと同じようになるようお教えしましょう
バーストウは、この気前のいい申し出に、どう返事をしたものかと考えた。そして、やっと言った。
「わたしたちを助けたいという御希望はありがたいのですが、われわれの不運だとお呼びになるものは、わたしたちの体質の欠かせない一部だと思われます。わたしたちの生きていきかたは、あなたがたのとはちがいます。あなたがたのやりかたを理解できるとは思いません」
かれのもとへもどってきた思考は、ひどく困っていた。
……わたしたちは、争いごとをやめさせるために、空と地上の動物たちを助けてきました……だが、わたしたちの援助をお望みにならないなら押しつけはしないつもりです……
使者は、困りはてたザッカー・バーストウをあとに残して去って行った。長老たちと相談する時間もかけず、その返事をかれはいそいでしたのだ。精神感応《テレパシイ》は、決して馬鹿にできるような贈物ではなかった。おそらく小人たちは、人間としての個性を損うことなく、みんなに精神感応《テレパシイ》をあたえることができたのだろう。だがかれは、ファミリーのなかの感応人《テレパス》のことを知っていたので、そういった願いは強くおきてはこなかった。かれらのなかには、一人として、感情の健全な者はいなかったし、大多数は、精神的に欠陥のあるものでもあったのだ──だから、人間にとって安全な道だとは思われなかったのだ。
のちほど討議してみようとかれは決心した。いそぐ必要はないのだ。
〈いそぐ必要はない〉ということは、居留地全体をおおった気分だった。あわてなければならぬ必要はなかったし、しなければいけないこともほとんどなかったのだ。太陽はあたたかく気持がよく、来る日も来る日もほとんど変わらず、その次の日もまた同じだったのである。遺伝によって、物事を長い眼で見ることに慣れていたファミリーの者は、永久という観点で考えようとしはじめた。
もはや時間は問題とならなかった。かれらが継続してやってきた長寿の研究ですら、あまり考えられなくなってきた。ゴードン・ハーディは、その実験を棚上げにして、小人たちが持っている生命の木質についての知識を学ぶというもっと有利な仕事に従事した。かれは、この仕事をゆっくりおこなうようになり、新しい知識の消化に、長い時間をかけた。時が流れてゆくに従って、黙想の時間が以前より長くなっており、積極的な研究に奮発する度合いが、これまた少くなっていることに、かれはほとんど気づかなかった。
かれが学ぶことのできた一つのこと、しかもそれにふくまれた意味は、まったく新しい思考の分野をひらいた。小人たちが、ある意味では死を征服しているということだ。
かれらの自我は、それぞれ多くの肉体に割り当てられていたので、一つの肉体の死では自我の死とはならないのだ。その肉体の経験による記憶はそっくりそのまま残り、その肉体に関連する人格は失われず、しかも肉体的な損失は、若い現住民をそのグループに〈結婚〉させることによって補われるのだ。だが、地球人に話しかける人格の一つである一グループの自我は、それが宿っている肉体をぜんぶ破壊しなければ死なないのだ。かれらは、ただ生きてゆくだけなのだ。明らかに、永久に。
〈結婚〉すなわち、グループへの同化時期までのかれらの子供には、人格というものがほとんどなく、未熟な、本能的な精神作用を有するだけのようだった。年長者たちは、人間がまだ胎内にいる子供に期待しないのと同じく、知的なふるまいという点では、子供たちに期待はしなかった。どんな自我のグループにも、こういう不完全な者が常に大勢くっついていた。かれらは、地球人の眼にはかれらの大人たちと同じくらい大きくて、あきらかに成熟していたけれども、かわいい大切なペットか、たよりない赤ん坊のように世話をされていた。
ラザルスは、大多数の従弟妹《いとこ》たちよりもはやく楽園に退屈した。かれはきれいな草のうえに寝そべっているリビイに愚痴をこぼした。
「年がら年中、お茶の時間だなんてことがあるもんか」
「なにを心配してるんです、ラザルス?」
「べつに……」
ラザルスは、ナイフを右腕におき、もう一方の手ではじいて、その刃が土にめりこむのをながめ、あざけるようにぶつぶつ言った。
「この土地が、放し飼いの動物園を連想させてくれるだけなんだ。これからも同じだよ。まったくひどいところさ」
「でも、特になにが心配というわけなんです?」
「べつにないよ。それが悩みのタネさ。まったくの話、アンディ。きみはこんなぐあいに、牧草地へおっぽり出されているというのに、不都合な気はしないのかい?」
リビイは恥ずかしそうにニヤッと笑った。
「山男の血統のせいなんですね……雨がふらなきゃ、雨漏りゃしない。雨がふりだしゃ、始末におえぬ……わたしには、うまくいってるように思えるんですが、なにが気に入らないんです?」
ラザルスの青い眼は遠くを見つめた。かれはナイフをもてあそぶのをやめていた。
「そう……ずっと昔のことさ。わかいころ、南太平洋である島にのりあげたんだ……」
「ハワイ?」
「いや、もっと南のほうだ。いまはどう呼ばれているか知るもんか。ぼくは金に困った。ひどく困ったんで、六分儀を売りとばしたんだ。やがて……しばらくたってからだったかな……ぼくは土人として通用するようになったよ。ぼくは土人の生活をした。大した問題はないようだったんだが、ある日ぼくは、自分の姿を鏡にうつしてみたんだ」
ラザルスは、ふーっと溜息をついた。
「ぼくは、その島からぬけ出すために、生皮をつんだ貨物船にもぐりこんだよ。ぼくがどんなにおびえ、夢中になっていたかわかるだろう?」
リビイは何も答えなかった。
「きみは、自分の時間をどうしているんだ、リブ?」
「わたし? いつもとおなじことです。数学のことを考えたり、われわれをここへ到着させたような推進装置の新しい型を考えてみたり……」
「上首尾かい?」
ラザルスはとつぜん緊張した。
「まだなんです。暇をください。それか、雲が一つにまとまるのを眺めているだけです。気をつけていると、いたるところに、おどろくべき数学的な関連性があるものです。水面のさざ波や、胸の形にも……美しい五次元の作用があるものです」
「へえ? 四次元のことだろう?」
「五次元です。可変性の時間を見落していますよ。ぼくは五次元の方程式が好きです……魚にも見つかりますよ」
リビイがそう、夢を見るように言うと、ラザルスはとつぜん立ち上がった。
「おやおや! きみにはそれがぴたりとくるのかもしれないが、ぼくの商売じゃないんでね」
「どこか行かれるんですか?」
「散歩にね」
ラザルスは北に向って歩いた。かれはその日ずっと歩き、その夜はいつものように地面に眠り、夜があけると起きあがってなおも北へと進んだ。あくる日もこういう一日が続き、翌々日も同じことだった。歩行は楽で、公園をぶらつくようなものだった。ラザルスの意見によれば、あまりにも楽すぎるのだ。火山か、ほんとうにりっぱな滝をながめるためなら、よろこんで一ドルを払いもし、逆立ちもやるよ、とかれは思うのだった。
食物のなる植物は、ときどき勝手がちがったが、豊富で申し分なかった。かれは、ときたま、せっせとふしぎな仕事をしている小人の一人か数人に会った。かれらは決してうるさがらせもせず、なぜ旅行しているのかとたずねもせず、ただ、以前から知っている仲だといったいつもの素振りをみせて挨拶するだけだった。かれは新顔を求めはじめた。監視されていると感じたのだ。
やがて夜は寒くなり、昼間も以前よ肌は爽やかでなくなった。それに、小人たちの姿も以前にくらべて少なくなった。とうとうまる一日、一人も見かけなくなると、その夜は野宿し、翌日もそこに留まり──自分の気持をじっくりとしらべてみた。
この惑星や住民たちに、理由のつけられる過ちを見つけることはできないと認めなければならなかった。だがこいつはまったく趣味にあわなかった。いままで耳にしたり読んだりしてきた哲学は、人間の存在について、もっともな目的を与えておらず、妥当な行為に対してもなんら合理的な理由を与えていないのだ。日光浴をすることは、ほかのことと同様、その生命には結構なことかもしれない──だが、かれのためにあるものではなかった。どうしてそうだとわかるのか、はっきりはしなかったが、ちゃんとわかっていたのだ。
逃げ出してきたことはまちがっていたんだ。たとえ権利を主張しながら死ぬとしても、留まってそいつのために戦うのが、もっと人間的で、もっと賢明で、しかも、男らしいことだったのだ。ところがそうはしないで、降りる場所をさがしながら宇宙を半分(ラザルスは、物の大小に無頓着だった)飛び越してきたのだった。結構なところをさがすのはさがした──だが、人間などがまんできぬといった優れた生物に占有されていたのだ。だがそいつらは、人間にたいする自分たちの優越性にきわめて無関心だったので、わざわざ絶滅せずに、ここへ連れてきたのだ──このみがきあげられすぎたカントリー・クラブへ。
だが、そのこと自体が、耐えられない侮辱なのだ。〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉は、五百年の科学研究の結果達せられた極致であり、人間が作りうる最良のものだったが──人が雛鳥を巣に返すように、思いがけなく宇宙の深淵をこえてはじき飛ばされたのだった。
小人たちは、追い出そうとは思っていないようだったが、かれらなりに、ジョッカイラの神々と同じく人間たちにはまごついているのだ。なかには白痴もいるかもしれないが、グループとしてみた場合、それぞれの霊交《ラポート》グループは、人間たちがさしむけられる最高の人間をも打ち負かす天才だった。アンディすらもだ。裏町の工場が、オートメ工場とはりあえないように、人間はこんな形式の生物体とはりあおうと望むことはできなかった。しかも、こういうグループとしての人間を形づくるとすれば、できるとは思えないが、〈人間〉を形成しているものがなんであれ、もう人間であることは断念しなければならないだろうとラザルスははっきりと感じた。
ラザルスは、自分が人間の肩をもつためにひがんでいるせいだと認めはした。かれは、人間だったのだ。
かれが自分を悩ませていること──最初の猿人が意識というものを持ちはじめたとき以来、同族の魂を悲しませてきた問題、勇気をふるいおこしてみたところで、りっぱな機械を使ったところで決して解決されない問題を、一人で議論しているあいだに、日は数えることもなく過ぎていった。そして、果しない静かな日々は、先祖の人々の霊魂の探究と同じように、最後の解答は与えてくれなかった。なぜだ? 人間に利益をもたらすものは何なのだ? 答はかえってこなかった──おれは、この永遠に気楽な隠れ家に来るつもりもなく、すすんで来もしなかったんだ、という理屈にあわない確信以外は。
かれの困りはてた黙想は、小人の出現で破られた。
……今日は、古いお友だち……あなたの奥さんのキングが家へ帰ってこられるよう望んでおられます……あなたの助言が必要なのです……
「どうしたんです?」
と、ラザルスはたずねた。だがこの小さな動物は、話すことができないか、話そうとしないのかどちらかだった。ラザルスは、バンドをしめなおして南へむかった。
……ゆっくり行く必要はありません……
と、思考があとを追ってきた。
ラザルスは、森のむこうのひらけたところへ、みちびかれるままについていった。そこには、側面にドアが一つあるきりの、平凡な六フィートほどの卵型の物体があった。現住民はドアを通ってその中へはいった。ラザルスは、そのあとがら大きな図体をおしこんだ。ドアが閉まった。
ほとんど同時にドアがひらき、ラザルスたちは、人間の宿営地の真下にある海岸にいた。これはすばらしい仕掛けだと認めないわけにはいかなかった。ラザルスは、海岸にとめてある、キング船長とバーストウが、この共同体の本部と称しているボートへ急いだ。
「あんたがぼくを呼んだのかい、船長、どうしたんだ?」
キングのきびしい顔つきが重苦しくなった。
「メアリイ・スパーリングのことなんだ」
ラザルスはとつぜん、背筋にぞくっとしたものを感じた。
「死んだのか?」
「いや、ちょっとちがう。小人たちのところへ身を投じたんだ。そのグループの一つと〈結婚〉したんだ」
「なんだと? だが、そんなことは不可能な話だ!」
ラザルスはまちがっていた。地球人と現住民とのあいだに交配の可能性はすこしもないとしても、同情というものが存在していれば、かれらの一霊交グループにとけこみ、多人数の自我に自分の個性を沈めてしまうという人間に障壁はなかったのだ。
自分の死が切迫していることを確信して動揺したメアリイ・スパーリングは、不死の自我に活路を見出したのだ。生死についての永遠の問題に直面して、無我をえらぶことによって、その問題から逃避したのだった。彼女は、すすんで受け入れてくれるグループを発見し、そちらにうつったのだ。
「これは、多くの新しい問題なひきおこすことだ。スレイトンとザッカーとぼくは、あんたがここにいてくれるほうがいいと考えたんだ」
と、キングは話し終った。
「そう、もちろんだとも……だが、メアリイはどこだ?」
ラザルスはそうたずねると、返事も待たずに部屋からとび出していった。かれは宿営地のなかを、挨拶をする連中も、ひきとめようとする連中もかまわず、走りぬけていった。しばらく走ったところで、かれは一人の現住民に出会った。かれはつんのめってとまった。
「メアリイ・スパーリングはどこだ?」
……わたし、メアリイ・スパーリングよ……
「そんなばかな……きみなもんか!」
……わたしがメアリイ・スパーリングで、メアリイ・スパーリングは、わたしなのよ……あなた、わたしがわからないの、ラザルス?……わたしはわかるわ……
ラザルスは手をふった。
「ちがう! ぼくみたいに……地球人の格好をしているメアリイ・スパーリングに会いたいんだ!」
現住民はためらった。
……じゃあ、あたしについてきて……
ラザルスは宿営地《キャンプ》から遠くはなれたところで彼女を発見した。彼女がほかの植民者を避けていたことは明らかだった。
「メアリイ!」
彼女は、心対心で答えた。
……心配してられるのはお気の毒ですけれど……メアリイ・スパーリングは去ってしまって、わたしたちの一部になっているだけなのですわ……
「やめてくれ、メアリイ! そんなたわごとはごめんだ! きみはぼくがわからないのか?」
……もちろん知ってますわ、ラザルス……わたしを御存知ないのはあなたのほうなのよ……あなたの眼の前にいるこの身体を見て、なやんだり悲しんだりしないでください……わたし、あなたがたの一人じゃないんです……この惑星の者なんです……
「メアリイ、そんなことやめろ。そこから出てこなくちゃいけないんだ!」
彼女はくびをふった。顔がもはや人間の表情をとどめていないので、妙な身ぶりだった。人間でないものの仮面だった。
……できない相談だわ……メアリイ・スパーリングは死んだのよ……あなたと話しているのは、脱げ出られないわたしで……あなたがたの同族じゃないのよ……
メアリイ・スパーリングだった生物は、きびすを返すと歩み去った。
「メアリイ!」
かれは叫んだ。かれの心は、数世紀をこえて、母親の亡くなった夜へと飛んでいった。顔を両手でおおうと、子供のように、なぐさめようもないほど、かれは泣き悲しんだ。
5
ラザルスがもどってくると、キングとバーストウが待ちかまえていた。キングは、かれの顔を見ると、まじめに言った。
「話すこともできたんだが、あんたは待とうとしなかった……」
ラザルスは、むっとして言った。
「もう忘れてくれ。こんどは何だ?」
「ラザルス、相談する前に見てもらわなければならんものがある」
と、ザッカー・バーストウが答えた。
「わかった。何だ?」
「ちょっと来てみたまえ」
二人は本部として使用されているボートのー室にかれをつれていった。ファミリーの習慣に反して、その部屋には鍵がかけられていた。キングが二人を中に入れた。その中にいた一人の女は、三人を見ると黙って引きさがり、出ていくときにまたドアに鍵をかけた。
「そいつを見てみたまえ」
と、バーストウは言った。
保育器に入れられた生き物だった──子供は子供だったが、いまだかつて見たこともないような子供だった。ラザルスはじっとそれを見つめ、それから怒ったように言った。
「こいつはいったい何なんだ?」
「自分でしらべたらいい。だきあげてみろよ、傷つけもしないだろうから」
ラザルスは最初のあいだは用心ぶかく、それから興味がましてきたので、ふれてみることにもひるまず、そのとおりにした。そいつが何であるのか、かれにはわからなかった。人間ではなかった。たしかに小人たちの子供でもなかった。この惑星にも、前の惑星のように、思いもよらない人種がいるのか? 人間に似てはいるが、人間の子供ではなかった。赤ん坊が持っているぽっちゃりした鼻はなかったし、外へ出ている耳もなかった。それぞれの通常の場所に器官はあったけれども、頭蓋骨と同一平面にあって、骨の隆起で保護されていた。手には多くの指があり、桃色の虫がかたまったような手首のそばに、特に大きな指が一本あった。
幼児の胴のまわりには妙なものがあったが、ラザルスにははっきりわからなかった。だがほかにはっきりと目立つことが二つあった。足は人間の足の形ではなく、指のない切妻形──ひずめで終っていた。しかもこの生き物は両性動物だった──奇形ではなく、健全な発育をしている両性具有者だったのだ。
「こいつは何だ?」
と、くりかえすかれの心には、鋭い疑惑がいっぱいだった。
「三週間前に生まれたマリオン・シュミットだ」
ザッカーはそう言った。
「え? どういうことなんだ?」
「小人たちは、植物をあつかうのもうまいが、まったく同じように、人間をもあつかえるっていうことだ」
「なんだと? だがやつらは、おれたちをそっとしておくことに同意したしゃないか?」
「まあやつらを責めるのは待ってくれ。われわれが招いたことなんだ。連中の考えは、ちょっと改良しようというところだったんだ」
「改良だと! こいつは、ぞっとさせられるほどみにくいもんだぜ」
「そうでもあり、そうでもなしだ。こいつを見なければいけないときは、いつだってむかむかするよ……だがほんとうにこいつは超人間《スーパー・ヒューマン》なんだ。そいつの身体構造は、もっと大きな能率を発揮するよう設計しなおされ、人間にあるむだな猿の残存物は省かれ、器官はもっと合理的に配置しなおされたんだ。人間じゃないとは言えないよ。改良されたモデルなんだから……手首のところにある余分な添え物を見てみたまえ。そいつは別の手なんだ……顕微鏡的な眼がついている小形の手だ。この考えに慣れたら、そいつがどんなに有益かわかるよ……だが、ぼくはおそろしいんだ」
バーストウはそれを見つめた。ラザルスも言った。
「だれたっておそろしいさ。改良なのかもしれんが、くそっ、人間なもんか!」
「いずれにしろ、こいつが問題を作り出しているんだ」
ラザルスはまたそれを見た。
「そうだとも! きみは、そのちっぽけな両手に、もう一組の眼があると言ったね? そんなことがありうるのか?」
バーストウは肩をすくめた。
「ぼくは生物学者じゃない。だが、身体の細胞は、ことごとく染色体をたっぷり含んでいるんだ。その染色体中の遺伝子を操作する方法がわかれば、好きな場所に、眼でも骨でも、どんなものでも育てられると思うんだ。やつらはその方法を知っているんだな」
「ぼくは、操作されたくないよ!」
「ぼくだってそうさ」
ラザルスは堤の上に立って、広々とした砂浜にあつまったファミリー全員を見わたした。
「わたしは……」
かれは形式ばって述べはじめたが、それから困ったような顔をした。
「ちょっとここへ来てくれ、アンディ」
かれはリビイに耳打ちした。リビイは心配そうな顔になってささやきかえした。ラザルスは途方にくれたようになり、また耳打ちした。それからかれは背をのばすとはなしはじめた。
「わたしは二百四十一歳です……すくなくとも……ぼくより年長の者はいるかい?」
かれは形式抜きで言いはじめた。自分が最年長者であることはわかっているのだ。かれは、実際の年より倍も年をとっているように感じた。ボートの拡声装置に助けられて、その大きな声が浜にとどろきわたった。
「集会をひらくが、議長はだれにする?」
「そのまま進行」
群衆のなかからだれかが叫んだ。
「よろしい、ザッカー・バーストウだ!」
ラザルスのうしろにいた技師が、バーストウに指向性マイクロフォンを向けた。かれの声がひびいた。
「わたしはザッカー・バーストウです。この惑星は、居心地のいいところではありますが、住みつくところではないと信ずるようになった人もいます。みなさんはメアリイ・スパーリングのことを知っていられるし、マリオン・シュミットの実体をごらんになってもいます。ほかにもいろいろありますが、くわしく述べたくはありません。しかし、ふたたび移住するのには、もう一つ問題があります。どこへ行くかという問題です。ラザルス・ロングは、地球へもどることを提案しています。こういう場合は……」
かれの言葉は、群衆のざわめきでかき消された。ラザルスはどなって、みんなを黙らせた。
「だれも立ち去れと強いられてはいない。船を占有することが合法的になるほど、大勢のみなさんが、ここから立ち去りたいと思われるなら、そうすることもできるんだ。ぼくは地球へもどる立場をとっているんだが、別の惑星をさがすべきだという人もいる。票決をとらなくてはいけないんだ。だがまず……ぼくが主張するとおり、ここを立退くことに賛成のかたは、どれぐらいおられるんだろう?」
「賛成!」
という叫び声が大勢からはねかえってきた。ラザルスは最初に答えた男のほうを見つめると、肩ごしに技師を見て指示した。
「話したまえ、ほかの者は静かに」
「名前はオリバー・シュミット。ぼくは、だれかがこのことを言い出すのを何カ月も待っていました。ファミリーのなかで不平をいう者はぼく一人だけだと思っていたのです。ぼくには立ち去る理由はそうありません……メアリイ・スパーリングの事件や、マリオン・シュミットのことはおそろしくありません。そういうことの好きなひとは、むこうへ行けばいいんです……もちつもたれつ生きていけるわけです。だがぼくは、シンシナティをもう一度見たいと心の底から思っているのです。この土地にうんざりしているんです。安逸生活者《ロータス・イーター》なんてあきあきです。いまいましい。ぼくは、自分の生活のために働きたいんだ! ファミリーの遺伝学者に言わせると、ぼくはすくなくとももう一世紀は大丈夫だそうです。そんなにながいあいだ、陽の光を浴びて寝そべったり、白日夢を見たりして送るのはとんでもないことです」
その男が黙ると、すくなくとももう千人の人間が発言しようとした。ラザルスはどなった。
「静かに! 静かにするんだ! みながみな意見を述べたいと思うなら、家族の代表者の方々に述べてもらうつもりだが、二、三、実例をひろってみよう」
かれは別の男をえらぶと、しゃべってくれと言った。
「オリバー・シュミットの意見に賛成だから、わたしのほうは長くはかかりません。わたし自身の理由を述べてみたかったのです。みなさんのなかに、月がないことを淋しく思う人はいませんか? 地球では、あたたかい夏の夜、よくバルコニーに出てすわり、タバコをふかしたり月を眺めたりしたものです。そういうことが大切だとはわかりませんでしたが、大切でした。わたしは、月のある惑星がほしいんです」
つぎの演説者はこう言っただけだった。
「メアリイ・スパーリングの事件は、ぼくをいらいらさせる。ぼく自身がそうなる悪夢を見るんだ」
議論はずっとつづいた。ある者はこう指摘した。地球を追い払われたんだ。どんな理由で帰ることを許されるだろうと考えるのだ? ラザルスは、それには自分で答えた。
「ぼくらは、ジョッカイラ人から多くのことを学び、こんどは小人たちから、たくさんのことを学んだ……地球の科学者たちが夢にまで見たどんなことよりも、われわれはずっと先に進んでいる。いつでも戦える用意があるので地球へもどれるのだ。われわれは権利を要求できる状態にあるし、それを守れるほど強力なんだよ」
「ラザルス・ロング……」
もう一人の声がした。
「はい。そこのきみ、話してください」
「わたしは年をとりすぎているので、星から星へさらに、飛行することはできません。それに、老人だから、そういう飛行の終りに戦うこともできません。ほかのみなさんがどうなさろうと、わたしはここに残ります」
「その場合は討論する必要もないね?」
「わたしは発言する権利があります」
「よろしい。きみはしゃべってしまったんだ。だれかほかの者に機会を与えるんだね」
日は沈み星は顔を出したが、討論はなお続いた。ラザルスは、自分がけりをつけなければ、いつになっても終らないだろうと思った。
「よろしい」と、かれはなおも発言しようとする大勢の人々を無視して叫んだ。「たぶん、この問題はファミリーの審議会にかけなければいけないことになるだろうが、試しに投票してその結果を見てみようじゃないか。地球へもどりたいと思う人はみな、ぼくの右手に移動してください。ここに残りたいと思われる人は、みな浜をおりてぼくの左手のほうへ動いてください。別の惑星を探検してみたい人は、みなぼくの前にあつまってください」
ラザルスはうしろにさがると音響技師に言った。
「足をはやめるために音楽をかけてくれ」
技師はうなずいた。〈悲しきワルツ〉のホームシックな調子が海岸にむせび泣くように流れた。そのあとに〈地球の緑の丘〉がつづいた。ザッカー・バーストウはラザルスのほうをむいた。
「きみがあの曲をえらんだんだな?」
ラザルスはすまして答えた。
「ぼくが? ぼくが音楽を解する人間じゃないって知っているだろう、ザック?」
音楽をかけても群衆が分離するのには長い時間がかかった。不朽の名曲〈第五〉の終楽章が終ってから長いあいだかかって、群衆はとうとう三つのグループにわかれた。
左手には総数の十分の一ばかりが集まった。居残る意向をあらわした人々だ。もう寿命がつきようとしている老人や、つかれはてた人々だった。そのなかには地球を見たことのない若者が二、三おり、別な年齢層のものがちょっぴり混じっていた。
まんなかは、三百人を越えないたいへん小さなグループで、だいたい男たちと、若い女性がすこしだった。さらに新しい辺境へゆこうと投票した人々だ。
だがラザルスの右手には大集団が集った。かれは、これらの人々の顔に新しい生気を見た。それはかれを元気づけた。自分だけがたった一人立ち去ろうと思っているのではないかと、ひどく恐れていたからだった。
かれは、いちばん近くにいる小さなグループをふりかえると、この人々にだけ拡声器をつかわずに言った。
「きみたちは、投票数で破れたようだね。でも、気にすることはないんだ。チャンスはあるんだからな」
かれは待った。まんなかのグループは、ゆっくりと散りはじめた。一人ずつ、二、三人ずつとかれらは動いていった。残留組にずるずる加わっていった者は非常に少数で、たいていの者は右手のグループに合流した。
二回目の分類が終ると、ラザルスは、左手の小さいほうのグループに、やさしく話しかけた。「さあよろしい、あなたがた……年寄りがたは、牧草へもどって寝てください。残りのぼくらは計画をたてなければいけませんからね」
それからラザルスはリビイに発言させ、帰りの旅行は、先に地球からおこなった飛行や、退屈な二度目の飛行のように面倒な旅ではないと、多数側の群衆に説明させた。
リビイは、帰還飛行が容易におこなわれることは、ぜんぶ小人たちのおかげだと言った。かれらは、光速を越える場合の速度について困っているリビイをあっさりと助けたのだ。小人たちがその問題がよく判っているとして──リビイは、かれらにはよくわかっていると確信していたのだが──リビイが〈超越加速〉と呼ぶことにきめたものには、制限がないようだった──〈超越〉とは、リビイの光圧推進のように、全体の質量にひとしく作用し、引力とおなじく感覚器官に感知されないからであり、船が正規の宇宙を〈直行せず〉、むしろ、まわるか、あるいは〈それる〉から、〈超越〉なのだ。
「船の推進の問題ではなくNプラス一の可能性を有するN次元の超越空間における適切可能な平面を選択することです……」
ラザルスは、きっぱりと口をはさんだ。
「そいつはきみの専門分野だ。みんな、その点は信用しているよ。ぼくらには、そんな細かい点を議論する資格はないんだ」
「わたしはもうすこしつけ加えようと思っていただけなんですが……」
「わかっているよ。だがぼくがストップをかけたとき、きみはもう、われわれの世界から外に出ていたんだ」
群衆のなかから、だれかがもう一つの質問をあびせた。
「いつ着くんですか?」
「わかりません」とリビイは言って、この質問は、ずっと前にナンシー・ウエザラルがした質問みたいだと考えた。「西暦何年になるのかは言えません……だが、いまからだいたい三週間のうちになるようです」
準備に数日かかった。立ち退き組を乗船させるために、本船のボートを何回も往復旅行させる必要があったからだった。あとに居残る者が、立ち去る者を避ける傾向があったので、儀式ばった訣別は、おどろくほど目立ちはしなかった。冷たいものが二つのグループのあいだに芽生えていた。海岸での分離が友情を裂き、結婚すらわかち、多くの悪感情や解きがたい悲しみをひきおこしていた。分離の望ましい姿は、奇形児マリオン・シュミットの両親が、あとに残るほうをえらんだことぐらいだったろう。
ラザルスは、最後に出るボートの指揮をとった。発進させようと考えていたとき、肘にだれかさわったのを感じた。わかい男だった。
「すみませんが……ぼくの名前はハーバート・ジョンソンです。いっしょに行きたいんですが、母親が興奮するんで、むこうにいてやりたいんです。ぎりぎりになって顔を出しても、行けますか?」
ラザルスは青年を見つめた。
「きみはぼくにたずねなくても、決心できる年頃に見えるがね」
「おわかりじゃないんですね。一人っ子なんで、母親がつきまとうんです。気づかれないうちにこっそりもどってこなければいけないんで、どれほど時間があるかと……」
「このボートは、どんな人間のためにも待たせはせん。ボートに乗るんだ」
「でも……」
「いそげ!」
青年は、土堤のほうを心配そうに一度ふりかえり、その言葉に従った。体外発生には言い分が大いにあるとラザルスは考えた。
〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉の船内にはいると、ラザルスは操縦室のキング船長に報告した。
「ぜんぶ乗船したかい?」
「うん。どっちともふんぎりのつかなかった連中がすこしと、ぎりぎりの瞬間にもう一人……エレノア・ジョンソンという御婦人だ。さあ行こう!」
キングはリビイのほうをむいた。
「さあ行こう、旦那!」
星々は、またたいて消えた。
かれらは、リビイが持っている船を導く独特な才能だけを頼りに、めくらめっぽうに飛んだ。黒一色の別な宇宙を導く自分の能力には疑念を抱いても、かれは自分だけのことにしておいた。船内日で二十三日目、超越減速十一日目に、星々はふたたび現れた。
ぜんぶ昔から見なれた連なり方をしていた──北斗七星、巨大なオリオン、一方に傾いた南十字星、美しいプレアデス星団、そしてこれらのむこうに、霜のような銀河を背景にして死んだように輝いている黄色の光があった。太陽にちがいなかった。
ラザルスは眼に涙を浮かべた。ひと月に、二度目の涙だった。
かれらはそう簡単に地球に降りてゆくわけにはいかなかった。まず駐船軌道《パーキング・オービット》をきめて、それにのせ、まず帰ってきたことを明らかにしなければならなかった。その上、まず今がいつなのかを知る必要があった。
リビイは、もっとも近い星々の固有運動から、すぐに西暦三千七百年にはなっていないとわかった。精密な観測機械がなかったので、それ以上こまかく述べようとはしなかった。だが太陽系の惑星が見えるほど接近すると、時間を読むもう一つの時計があった。惑星そのものが九つの針を持った時計になっているのだ。
どの惑星周期も、ほかの惑星と正確に同じではないので、どんな日付けでも、この〈針々〉には、独特な配置があるのだ。冥王星は二百五十年の〈時間〉を画し、木星は十二年という一宇宙〈分〉をカチカチきざみ、金星はだいたい九十日という〈秒〉をならす。ほかの〈針〉は、これらの時間を読むことにみがきをかけることができる──海王星の局期は、冥王星の周期と意地悪くちがっているので、両者は七百五十八年にただ一回、ほぼ同じ住置につくのだ。この巨大な時計は、時代がいつであっても、求めるままの正確さで読むことができるのだが──読むのは容易なことではないのだ。
リビイは、太陽系惑星がえらび出されるとすぐ読みはじめた。かれはその問題をつぶやき、ラザルスにこぼした。
「冥王星を見出すチャンスがありませんでした。海王星もどうかと思います。内部の惑星は、無限につづく近似値を与えます……わたしと同じようにあなたも、無限というものが、問題を投げかける言葉だとご存知ですね。厄介ですよ!」
「きみは、むずかしく考えすぎてるんじゃないのか? 実用的な答は出せるだろう。でなきゃあ、こちらへまわせよ。ぼくが出すから」
リビイは気むずかしく言った。
「もちろん実用的な答を得ることはできます。そいつで御満足なら。しかし……」
「しかし、しかしの連発はごめんだよ……何年なんだ、きみ!」
「え? こういうぐあいに考えましょう。船内の時間比と地球上での経過は、三回関連性がなくなりました。しかし今では結果的にまた同じになっています。そこで、われわれが立ち去ってから七十四年とすこしたっているということです」
ラザルスは溜息をもらした。
「なぜそう言わなかったんだい?」
かれは、地球が認められないようになっているかも知れないと気をもんでいたのだ──ニュー・ヨークとか、そういったものが引き裂かれてしまったかもしれないと。
「ちえっ、アンディ。きみはぼくをそんなにこわがるべきじゃないんだぞ」
「ええ……」
リビイにとっては、もはや興味のないことだった。明らかに両立しない二グループの事実、すなわち、マイケルソン・モーレーの実験と〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉のことを、うまく言いあらわす数学を考え出すという、ひどく楽しい問題が残っているだけだ。かれは楽しそうにとりかかった。ううん……一束の肯定的な仮定を用いて、増加した空間をふくめるために必要欠くことのできない超越次元《パラ・ディメンション》の最小数とは何だ──
このことがかれをかなりな時間──もちろん主観的な時間だが、満足させていた。
船は黄道面に正常な動経を保って、太陽から五億マイルはなれた一時的な軌道におかれていた。こんなふうに、平べったいパンケーキのような太陽系に対して、直角に、しかもはるかな外部にとまっていたから、発見されるような気づかいはまったくなかった。飛行中に、本船のボートが一隻、〈ネオ・リビイ推進装置〉をつけられ、交渉団が派遣された。
ラザルスは同行しようと望んだが、キングが拒んだので、ラザルスは不機嫌になった。キングは、そっけなく言ったのだ。
「なあ、ラザルス。これは攻撃隊じゃなくで、外交使節団なんだ」
「おい、なあ。ぼくだって、まともなときには外交もうまいもんだぞ」
「もちろんそうだろう。だが、われわれは、風呂へ行くときも武器を持っていったりしない連中を派遣したいんだ」
地球では精神力学的要素がいちばん重要だったので、ラルフ・シュルツが一団を率いたが、かれは法律、軍事、技術の専門家たちに補佐されていた。ファミリーが、生きてゆく場所を求めて戦わなければならぬ場合、どのような科学技術、どういう種類の武器を相手に戦わなければならないか知る必要があったからだ──だが、平和な着陸が準備されるかどうかを見きわめるのが、それよりもっと必要だった。シュルツは長老たちから、ファミリーが、人口の少なく退化したヨーロッパ大陸へ移住する案を提出する権限を与えられていた。だが、放射性半減期の点から考えて、かれらがいないあいだに、そういうことがすでにもうおこなわれていた、ということもおそらくありうるのだ。状況によって、なにかほかの折衷案を、シュルツはすぐに立てる必要があるだろう。
また、待つ以外にはすることかなくなった。
ラザルスは、いらいらした不安に耐えていた。ファミリーは科学的に非常に有利だから、地球がさしむける最高のものでも戦いを交えて打ち負かすことができるのだと、かれは公然と主張した。自分では、こんなことは詭弁だとわかっていたし、そのことを判断できるだけの能力のある連中も、それはわかっていた。
知識だけでは戦争に勝てないのだ。ヨーロッパ中世紀の無知な狂信者たちは、比較できないほど高いイスラム文化を打破したし、アルキメデスは一兵卒に殺害されたし、野蛮人たちはローマを略奪したのだ。リビイか、それともだれかが、ファミリーの得た大量の新知識から、敵するもののない武器を考え出すかもしれないし──考え出さないかもしれない。四分の三世紀のうちに、地球で軍事技術がいったいどのような進歩をとげたか、だれが知っているというのだ?
戦術の訓練を受けていたキングは同じことを心配し、いっしょに働かなければならない兵員のことでさらに悩んだ。ファミリーは、訓練された軍隊などではないのだ。この気むずかしい連中をはげまして、規律正しい戦争道具に似たものにすることを考えると、かれは眠ることもできなかった。
キングとラザルスは、このような疑念と不安を、ふたりのあいだですら語らなかった。そういったことを話せば、船内に不安という害毒を広げるだろうとおそれていたのだ。だが心配していたのは、二人だけではなかった。船の乗組員の半分は、弱いかれらの立場を悟っていたが、どんなにしてでも帰ろうという悲痛な決心が、危険にも立ちむかおうとさせているのでだまっていたのだ。
ラザルスは、シュルツの一隊が地球へむかってから二週間して、キングに言った。
「船長……連中が新開拓者《ニュー・フロンティア》そのものを、どう思うか考えてみたことがあるかい?」
「え? どういう意味なんだ?」
「横取りしたんだ、海賊行為だぜ」
キングはびっくりしてしまったようだった。
「えっ、そんなことをやったのか! ずっと昔のことだから、ぼくの船じゃなかったなんてことを考えるのはむずかしいんだ……海賊行為をやって、これに乗りこんだとはなあ」かれは考えこんでいたが、やがて憂鬱そうに微笑した。「隔難所は、いまどんな状態なんだろう?」
ラザルスは答えた。
「食糧の割当は、ひどくすくないだろうな。だが力をあわせてどうにかするさ。心配するなよ……まだつかまえられてはいないんだから」
「スレイトン・フォードは、この事件にむすびつけられるかな? ここまでやってきたのに、たいへんだぜ」
ラザルスはぶっきらぼうに答えた。
「ぜんぜん困ったことなんかないだろう。この船を手に入れたやりかたは不法なんだが、そいつが建造された目的……星々を探検するためにわれわれは使用してきたんだ。しかも、連中が如何なる結果も予期できたはずもないうちに、そっくりそのまま返すんだ。それからうまく考えた新しい宇宙推進装置というおまけまでつけて。連中には期待もできなかったほどの儲けさ。だから、きれいさっぱり忘れて、大歓迎してくれるだろうよ」
「そうだといいんだが」
と、キングは疑いぶかそうに答えた。
偵察隊は二日おくれた。超越空間から通常空間へ通信する方法がまだ考案されていないので、会合の直前、かれらが正常な宇宙時間に現れるまで信号は受信されなかったのだ。かれらが会合のために操縦しているとき、ラルフ・シュルツの顔が、操縦室のスクリーンにあらわれた。
「もしもし、船長! まもなく報告のため帰船します」
「いま、かいつまんで話してくれ!」
「どこから始めたらいいか、わからないぐらいです。でも大丈夫です……われわれは帰れるんです!」
「ほう? それはどういう意味なんだ? くりかえしてくれ!」
「万事、申し分ありません。われわれは、誓約《コベナント》に復帰させられるんです。もう、変ったところはぜんぜんないんです……いまでは、あらゆる人間が、ファミリーのメンバーになっているんです」
「どういう意味なんだ?」
キングはそうたずねた。
「連中はものにしたんです」
「なにをものにしたって?」
「長寿の秘密です」
「え? はっきり話してくれ。秘密なんてないんだぞ。ぜんぜん秘密なんかなかったんだ」
「われわれはなんの秘密も持っていませんでした……でも、連中は、ぼくらが持っていると考えていたんです。そこで、それを発見したというわけです」
「説明してくれ」
キング船長は、なおも言い張った。ラルフ・シュルツは抗議した。
「船長、船へもどるまで待ってもらえませんか? わたしは生物学者じゃありません。政府代表の方をおつれしています……わたしのかわりに、その方に質問してください」
6
キングは、地球の代表を自分の船室に迎えた。かれはザッカー・バーストウとジャスティン・フートに、ファミリーを代表して出席するよう通知し、そのおどろくべきニュースの性格は生物学者の仕事だったから、ゴードン・ハーディ博士を招いた。リビイは、船の一等航宙士として出席し、スレイトン・フォードは、クリールの神殿での発作以来、ファミリーのなかでは公の役職を持ってはいなかったが、独特の身分から招かれた。
ラザルスは、断固として個人的資格で出たいとのぞんだので出席した。かれは招かれなかったのだが、キング船長ですら、この最年長者が持つ、なんともいえぬ特権に口出しするのはちょっと遠慮していたのだ。
ラルフ・シュルツが地球の大使を、あつまった一同に紹介した。
「こちらはキング船長、われわれの司令官です……こちらは連邦議会を代表されるマイルズ・ロドニイ氏です……全権公使および特派大使とお呼びできると思います」
「特派ということには同意できても、そんなものではありません。こんな立場は、まったく先例がないからです。あなたとお眼にかかれるのは光栄です、船長」
「あなたを本船におむかえできて光栄です、閣下」
「こちらは、ハワード・ファミリーの評議員を代表するザッカー・バーストウと、評議員会事務総長のジャスティン・フートです……」
「よろしく」
「どうぞよろしく、みなさん」
「……一等航宙士アンドリュウ・ジャクソン・リビイと、老齢と死因の研究についてのわれわれの主任生物学者ゴードン・ハーディ博士です」
「お役に立つことがあれば光栄です」
ハーディは形式ばって言った。
「こちらこそ。あなたが主任生物学者の方ですか……あなたが、全人類に奉仕できる時がありました。そのことをお考えください……物事がいかに異なっていたかということを。でも、幸いなことに、人類はハワード・ファミリーの助けを借りずに、生命を延ばすという秘密を苦心して解明することができました」
ハーディは困ったような顔になった。
「どういう意味でしょうか? その気になれば、わたしたちには、伝えられるだけのふしぎな秘密があるという錯覚に、あなたがたはまだ悩んでいるとおっしゃっていられるのですか?」
ロドニイは肩をすくめ、両手をひろげた。
「実際、いまとなっては、真似をしている必要はないんじゃないでしょうか? あなたがたのやりとげたことは、地球でも作りあげたのですから」
キング船長は口をはさんだ。
「ちょっと待ってください……ラルフ・シュルツ。連邦は、まだわれわれの長生きには、なにか秘密があるという気持を持っているのか? きみは話さなかったのかい?」
シュルツは面くらったようだった。
「ああ……こいつはおかしい。その問題はほとんど話に出てこなかったのです。かれらは自身で制御される長寿法ということを達成したのです。もうその点では、われわれに興味はありません。われわれの長生きが、遺伝からではなくて操作に由来するものだという信念がまだ存在しているのは事実ですが、わたしは、そういった考えを訂正しました」
「マイルズ・ロドニイがたったいま言われたことから考えると、充分ではなかったようだな」
「充分じゃなかったようです。そのことにはあまり努力しませんでした。死んだ犬をたたくようなものでしたから。ハワード・ファミリーや、その長生きのことは、地球ではもはや問題ではありません。一般大衆と官憲の関心は、われわれがうまく恒星飛行を成しとげたという事実に集中しているのです」
マイルズ・ロドニイも同意した。
「そのことは保証できます。太陽系の全官憲、新聞社、市民、科学者、そのすべてが、このうえもなく熱心に〈新開拓者《ニュー・フロンティア》〉の到着を待っているのです。最初の月世界旅行以来の、もっとも偉大で、もっともセンセーショナルなことです。あなたがたは有名になっています。みなさん……あなたがた、ぜんぶがです」
ラザルスは、ザッカー・バーストウを横にひっぱり出して耳うちをした。バーストウは狼狽したようだったが、やがて思慮ぶかげにうなずいて、キングに言った。
「船長……」
「なんですか、ザック?」
「ラルフ・シュルツの報告を聞くあいだ、お客さまに失礼させていただいたら?」
「なぜ?」
バーストウはロドニイのほうをむいた。
「わたしたちの代表から話を聞けば、もっとうまく検討できると思います」
キングはロドニイのほうを向いた。
「失礼させていただけますか?」
ラザルスが口をはさんだ。
「心配するなよ、船長。ザックは善意はあるんだが馬鹿丁寧すぎる。同志ロドニイにも、いていただいたらいい。そうすりゃ、もっとはっきりするだろう。これはどうです、マイルズ。われわれと同じくらいに長生きする方法を、あなたがたが考え出されたという証拠を何かお持ちですか?」
ロドニイは唖然としたようだった。
「証拠? なぜそんなことをたずねられるんです……あなたはどなたなんですか?」
ラルフ・シュルツがなかにはいった。
「すみません……ご紹介する機会がありませんでした。マイルズ・ロドニイ、こちらはラザルス・ロングです、長老の」
「はじめまして……なんの長老です?」
ラザルスが答えた。
「長老というだけのことです、年月の上での。わたしは最年長者です。その他の点では、ただの一市民にすぎません」
「ハワード・ファミリーの最年長者! これはこれは、あなたはいま生きている人のうちでの最年長者にちがいない……考えてごらんなさい!」
「あなたが考えるんですな。わたしは二世紀前に、そういうことにくよくよするのはよしました。わたしの質問のお答えのほうはどうです?」
「でも、感動を受けないわけにはいきません。あなたはわたしを、幼児のように感じさせるのです……しかも、わたしは青年ではありません。この六月で、わたしは百五歳になります」
「それがあなたの年だと証明がおできになれば、わたしの質問に答えられるわけです。わたしはあなたが四十歳ぐらいだと申しましょう。いかがです?」
「おやおや、こんなことをたずねられるとは考えてもみませんでした。わたしの身分証明書をごらんになりたいのですか?」
「からかわないでください。わたしはわかいころ、五十いくつもの身分証明書を持っていました。みんな偽の生年月日が書いてあったんです。ほかに何をお出しになれます?」
キングが口をはさんだ。
「ちょっと待った、ラザルス。きみの質問している目的は何なんだ?」
ラザルス・ロングは、ロドニイから視線をはなした。
「こうだよ、船長……ほかの田舎者たちは、われわれが永遠に生きる方法を何か考え出したと思い、どうせみんなを殺さなければいけないのなら、われわれからそれを絞り出そうとした。だからわれわれは命からがら太陽系からいそいで逃げ去った。ところがだな、今では、万事が甘ったるくて、あけっぴろげとおっしゃる……ところがたよ。連中がわれわれを平和のタバコを飲みあうために送ってよこした鳩は、まだわれわれが、その秘密とやらを持っていると確信しているなんて、滑稽千万じゃないか。
ぼくは、そこんところがふしぎだと思うんだ。
かりに連中が、老齢で死ぬことからまぬかれる方法を考え出しておらず、まだわれわれが秘密を持っているという考えに固執しているとしたらどうなんだ? 例の質問をまたおこなうためには、連中の望む場所にわれわれをつれてゆくまでは、長寿の方法を有しているというよりほかに、ぼくらを静まらせ、怪しませないようにしておく方法はないんだ」
ロドニイは声をはりあげた。
「途方もない考えだ! 船長、わたしはこんなことをがまんするために訪問させられたはずじゃあないんですよ」
ラザルスはつめたく見つめた。
「はじまりは、つまらんことだったんだよ、きみ……だが、おっぱじまったんだ。火傷した子供ってのは、物おじしやすいものだからね」
キングは言った。
「ちょっと待ちたまえ、お二人とも。ラルフ、どうだね? いっぱいくわされたのだろうか?」
シュルツは、いらいらと考えて言った。
「そうとは思いません……口で言うのはちょっとむずかしいですね。外見だけからは判断できないでしょう。われわれのファミリーの連中を、普通人の群衆のなかからよりわけられないのと同じことです」
「だがきみは心理学者だ。もしあるとしたら、詐欺のしるしをきっと発見できただろう?」
「わたしは心理学者かもしれません。しかし、奇跡をおこなう人間でもなければ、精神感応人《テレパス》でもありません。わたしは詐欺なんてさがしてはいなかったんです」かれは恥ずかしそうに、にっと笑った。「もう一つ要素がありました。わたしは故郷へかえっていることであまり興奮しすぎていましたから、もしおかしなところがあったとしても、それを認めるもっともいい感情状態にはなかったのです」
「じゃあ、きみは確信が持てないというのかい?」
「いいえ。感情的には、マイルズ・ロドニイは、真実を話していると確信しています……」
「そうだ!」
「……しかもわたしは、二、三の質問で、そのことは明らかになると信じています。かれは百五歳だと言いましたね。テストできますよ」
キングはうなずいた。
「わかった。ふーん……きみが質問するかい、ラルフ?」
「ええ。許していただけますか、マイルズ・ロドニイ?」
「やりたまえ」
と、ロドニイは無表情に答えた。
「われわれは、地球時間では七十五年ちかくいませんでしたから、われわれが地球を立ち去ったとき、あなたは三十歳ばかりだったにちがいありません。その事件をおぼえていらっしゃいますか?」
「はっきりとね。わたしは当時、ノヴァーク・タワーにつとめていました。行政長官の役所に……」
スレイトン・フォードは、議論のあいたずっと目立たないところにいて、注意を引くことは何もしなかったが、ロドニイの返事を聞くと立ち上がりた。
「ちょっと待ってください。船長……」
「え? 何ですか?」
「たぶん、その質問をちぢめることができるでしょう。かんべんしてくれるかね、ラルフ?」
かれは地球代表のほうを向いて言った。
「わたしはだれです?」
ロドニイはまごついたようにかれを見た。その表情は、変な質問をされておどろいたといった表情から、まったく信じられないといった困惑に変った。
「あ、あなたは……あなたはフォード長官です!」
7
キングはどなった。
「一人ずつだ! 一人ずつだ! みんなが同時にしゃべってはいかん。つづけてください、スレイトン。あなたに発言権がある。この方を知っていますか?」
フォードはロドニイをじろじろと見た。
「いいや、存じあげているとは言えないな」
「では、これは何かの企みだな」
キングはロドニイのほうを向いた。
「あなたは、歴史の立体記録《ステレオ》からフォードとわかったんですな……そうでしょう?」
ロドニイは、いまにも泣き出さんばかりになっていた。
「ちがう! わたしにはかれだとわかるんだ。変ってはいるが、わたしはかれを知っていたんだ。長官閣下……どうぞ、わたしをごらんください! わたしを御存知ないのですか? あなたの部下だったんです!」
「かれが知らないのは明白なようだね」
キングはそっけなく言った。
フォードはくびをふった。
「そんなことは、なんの証明にもならないんだよ、船長。役所には二千人以上もの公務員がいたんだから。ロドニイはそのうちの一人だったかもしれないが、かれの顔はあまり見覚えがないようだ。といっても、たいていの顔がそうなんだが」
ゴードン・ハーディ教授が話した。
「船長……わたしが、マイルズ・ロドニイに質問してよければ、かれらが実際に、老齢と死の原因について新しい事実を発見したのかどうか、意見が述べられると思いますが……」
ロドニイはくびをふった。
「わたしは生物学者じゃない。すぐ揚足をとられるだろう。キング船長、できるだけ速かに、わたしを地球へ帰す準備をととのえてください。これ以上こんな目にあわされたくありません。もう一つ言わせてください。あなたがたや……あなたがたのすてきな乗組員が、文明にもどれるかどうか、わたしはもうすこしも気にかけはしませんよ。わたしは、あなたがたを助けるためにここへやってきましたが、まったくあいそがつきました」
かれは立ち上がった。
スレイトン・フォードが、かれのほうへ歩いていった。
「おちついてください、マイルズ・ロドニイ! がまんして、この人たちの身にもなってください。この人々がやってきたことを、あなたもやってくれば、まったく同じように用心ぶかくなるでしょう」
ロドニイはためらった。
「長官閣下、あなたはここでなにをしてらっしゃるのですか?」
「ながくて、こみいった話になりますよ。あとで話しましょう」
「あなたは、ハワード・ファミリーのメンバーですね……それにちがいありません。そうすれば、たくさんの妙なこととつじつまがあいます」
フォードはくびをふった。
「いや、マイルズ・ロドニイ、ちがうんだ。たのむから、あとにしてください……説明しますから。あなたは、わたしの部下だったと言われるが……いつのことです?」
「二千百九年から、あなたが、ええと、姿を消されるまでです」
「仕事は何でした?」
「二千百十三年の危機当時、統制部経済統計課の書記補でした」
「部長はだれでした?」
「レスリイ・ワルドロン」
「年寄りのワルドロン。え? 髪は何色でした?」
「髪の毛? |せいうち《ワルラス》は、卵みたいにつんつるてんでした」
ラザルスは、ザッカー・バーストウにささやいた。
「ぼくがまちがっていたようだよ、ザック」
バーストウはささやきかえした。
「ちょっと待ちたまえ。まだ、徹底した下準備があったとも考えられるからな……フォードが、ぼくらといっしょに逃亡したと知っていたかも知れないからね」
フォードはつづけていた。
「聖なる人……というのは何です?」
「聖なる……長官、そんな出版物があることなど、あなたはご存知じゃなかったはずです──」
フォードはそっけなく言った。
「わたしの情報機関も、すこしは役に立っていたことを認めたまえ。わたしは毎週その写しを手に入れていたんだ」
「それは何だったんです?」
と、ラザルスはたずねた。
「手から手へとわたされる、役所の漫画やゴシップをのせたパンフレットです」
ロドニイはそう答えた。
「上役、とくに、わたしをからかうことに専念したものだ」
と、フォードは、つけ足して、ロドニイの肩に腕をまわした。
「みなさん、うたがうこどはありません。マイルズとわたしは、同じ職場の仲間でした」
「わたしはまだ、その新しい回春法を知りたいのですが」
と、しばらくののちハーディ教授は言いはった。
「みんなもそうだと思います」キングは大使のワイン・グラスに酒をつぎながら同意した。「話していただけませんか、閣下?」
マイルズ・ロドニイは答えた。
「やってみましょう。でもハーディ教授には、わたしにがまんしていただかなくてはと申しあげておきます。これは一つだけの操作ではなくて、いくつかをあわせたものなんです……一つの基礎的なプロセスに、数十の他の処置を加えたもので、そのうちのあるものは、特に女性用としての、純粋な美顔術です。そしてまた、基礎的なプロセスというのも、ほんとうには回春法ではありません。老齢がやってくるのをくいとめることはできますが、それを逆行させることは、ほんのすこしもできないのです……よぼよぼの老人を子供にはもどせないというわけです」
ハーディはうなずいた。
「ええ、ええ。もちろんです……でも、その基礎的なプロセスというのは?」
「そのほとんどは、ぜんぶの血液を、新しい若い血ととりかえるということです。わたしの聞いたところでは、老齢というのは、原則的にいうと、新陳代謝による老廃した毒が漸進的に累積する結果だそうです。血液がそれらを運び去るはずですが、血液が毒で邪魔されて、掃除する作用が正しくおこなわれなくなります。そうですね、ハーディ博士?」
「ちょっと変な言いかたですが、でも……」
「わたしは生物学者じゃないと言いましたよ」
「……原則的には正しいですね。それは拡散圧不足の問題です……細胞壁の血液側のそれは、相当急な勾配を保つようになっていなければいけません。でないと、それぞれの細胞では徐々に自己中毒がはじまるのです。でもわたしは、ちょっとばかり失望したと言わなくてはいけませんな、マイルズ・ロドニイ。老廃物質をうまく掃除してしまうことによって死をくいとめるという基本的な考えは、新しいものではありません……わたしのところには鶏[#表示不能に付き置換え]の心臓があって、同じような技術を使い、二世紀半のあいだ生きてい、ます……ええ、それは利くわけです。わたしは実験動物の血を変えることで、ふつうの寿命の倍はのばしました」
そう言うと、かれは困ったような顔になった。
「それで、ハーディ博士?」
ハーディは唇を噛んだ。
「わたしは、その研究の線はやめたのです。一人がそれ以上年をとらないという利益を得るためには、数人のわかい献血者を必要とするからです。そして、献血者のそれぞれに、小さくはありますが、測定できるほどの悪影響がありました。民族ぜんぶがやることは自滅の道をたどることです。そうなると、閣下、この方法は、ある少数の限られた人々にかぎられるということになりますね?」
「いえ、ちがいます! わたしは、はっきりご説明できなかったようです、ハーディ教授。献血者はないのです」
「ほう?」
「新しい血液が、だれにも充分わたるように、身体の外で作られています……公衆衛生長寿局は、どんな量でも、どんな型のものでも供給できるのです」
ハーディはびっくりしてしまったようだった。
「われわれもずっとそのちかくまで来ていましたが……それでしたか。われわれは試験管のなかで骨髄の組織培養をやってみようとしました。もっと追及すべきだったのです」
「そんなにがっかりされることはありませんよ。何十億もの資金と何十万人もの技術者が、ちょっとした結果が出るまでにも、この計画に従事したのです。このために使われた努力は、原子力工学技術の開発に使われたよりも大きなものだったと聞いています」
ロドニイは微笑して、フォードのほうに向いた。
「つまりですね、どうしてもその結果を生み出さなくてはいげなかったのです。政治上の必要でした……そのため、すべてのものを犠牲にして努力がつづけられました。ハワード・ファミリー逃亡のニュースが大衆に知れたとき、長官、あなたの大切な後継者を、暴徒の手から守らなければいけませんでしたよ」
ハーディは、補助技術について質問をつづけた……歯を生えさせること、成長の抑制、ホルモン療法、そのほか多くのことを……そして、ついにキング船長がロドニイを助けだした。この訪問の主要な目的は、ファミリーが地球へもどる細部を打ち合せることなのだと、指摘したのだ。ロドニイもうなずいた。
「仕事にとりかかるべきですね。船長、わたしの了解したところでは、みなさんの大部分は、いま低温下強制睡眠にあるというわけでしたね?」
なぜ〈冬眠〉とあっさり言わないんだ、と、ラザルスはリビイにささやいた。
「ええ、そのとおりです」
「では、当分のあいだ、その状態のままにとどまっておいていただくことに、不都合はないわけですね」
「え? なぜそうおっしゃるのです、閣下?」
ロドニイは両手をひろげた。
「行政府は、ちょっと困った事態だと見ているんです。はっきり言いますと、家屋の不足です。十一万人のかたがたを吸収することは、一晩でできることではありませんからね」
またキングは一同を制しなければならなかった。かれはザッカー・バーストウにうなずいてみせ、ザッカーはロドニイに話しはじめた。
「どうも理由がのみごめませんが、閣下。北アメリカ大陸の現在の人口はどれぐらいなのです?」
「約七億です」
「それであなたがたは、その人口の一パーセントの七十分の一を入れる場所がないとおっしゃるのですか? そんな不合理なことがありますか」
ロドニイは答えた。
「お判りじゃないようですね。人口の圧力は、われわれの主要な問題になりました。それと同時に、個人がその自室で、あるいはアパートで、だれにも邪魔されずにくらすという権利は、すべての市民権のなかで、もっとも頑固に守られるものになったのです。あなたがたに適当な住宅を見つけるためには、わたしたちは、砂漠かどこかに、用意をはじめなければいけないんです」
ラザルスは言った。
「わかりました。政策ですな。あなたがたは、みんなが心配してギャアギャア言わないようにしたいわけだ」
「それはどうも適当な表現ではありませんね」
「ちがう? 総選挙がもうすぐあるというわけですか?」
「実のところそうですが、それは、この問題とはまったく関係ありません」
ラザルスは鼻をならした。ジャスティン・フートは口をひらいた。
「どうも、政府は、この問題を変なふうに見ているようですね。われわれは家のない移民ではないのです。もちろんご存知のことでしょうが、ファミリーは裕福で、たいへんな資産もあります。そして、はっきりした理由から、なが持ちするように家を建てたものです。そういった建物がまだぜんぶ残っているのはたしかだと思いますが」
ロドニイはうなずいた。
「まちがいありません。でも、それらには人がはいっているのです」
ジャスティン・フートは肩をすくめた。
「われわれの知ったことではないでしょう? 不法にわれわれの家を占有することを許された人々と話をつけるのは、政府の問題です。わたし自身は、できるだけはやく上陸し、いちばん近くの法廷から退去命令を出してもらって、自分の家をとりもどしますね」
「そう簡単にはできませんよ。卵からオムレツはつくれますが、オムレツから卵は作れません。あなたがたは、法律上、ずっと昔に死亡したことになっています。みなさんの家屋に現在はいっている人々は、合法的なのですよ」
ジャスティン・フートは立ちあがって、政府の代表をにらみつけた。その格好は、まるで〈鼠を追いつめた〉ようだとラザルスは考えた。
「法律上、死んでいるんですと! だれがやったんです? わたしは尊敬されていた弁護士だった。だれひとりとして傷つけず、静かに正しく自分の職業をつづけていた。それを理由もなく逮捕され、すべての生活を棄てるよう強制された。そしていまわたしは、自分の財産は没収され、個人として、また市民としての法的存在をも、あの出来事のため奪われてしまっている。これは、なんという名の正義なんです? 誓約《コベナント》はまだ生きているんですか?」
「あなたは、わたしを誤解していられる。わたしは……」
「わたしは何も誤解していませんよ。もし正義が、便利なときだけに使われるというなら、誓約《コベナント》は、それが書かれている紙片だけの価値もないわけです。わたしは自分をテスト・ケースにしましょう。ファミリー全員のテスト・ケースです。わたしの財産が、ぜんぶ、ただちにもどされないかぎり、それを妨げるあらゆる官憲に対して訴訟をおこします。わたしはそれを評判の裁判事件にしてみせますよ。わたしはながいあいだ、不便なことに耐え、人格をそこなわれ、危険にさらされてきました。口先で追っぱらわれはしませんよ。わたしは屋根の頂上に立ってどなりますとも」
かれがちょっと息をつくと、スレイトン・フォードは、静かに口をはさんだ。
「かれの言うとおりだ、マイルズ。政府は、この件をいそいで処理できる何か適当な方法を考え出さなければいけないよ」
ラザルスはリビイと視線をかわし、だまってドアのほうへ動いた。二人は外へすべり出た。
「ジャスティンのやつ、これから一時間はたっぷり、連中をきりきり舞いさせるぜ。クラブへ行って、ちょっとカロリーをつめこもうよ」
「わたしたちは、あそこからはなれてもいいと、ほんとうに考えられるのですか」
「のんびりしろよ。もし船長がおれたちに用があるなら、怒鳴るだろう」
8
ラザルスは、サンドイッチを三つ、アイス・クリームを二杯、それにクッキーをちょっとたいらげ、リビイのほうはそれより少な目で満足した。ラザルスはもっと食べられたのだが、クラブにいる常連から、やたらとたくさんの質問を受けて、それに答えなければならなかったのだ。
かれは三杯目のコーヒーをつぎながら不平を言った。
「食堂の連中はまだ正気にもどっていないようだな。小人たちが、あまり楽な生活をさせたからだ。アンディ、きみはチリは好きかい?」
「いいですね」
ラザルスは口をぬぐった。
「ティファナに一軒のレストランがあってね、そこのチリはすごくうまかった。いまでもあるかな?」
「ティファナってどこなの?」
と、マーガレット・ウエザラルがたずねた。
「地球はおぼえていないだろうね、ペギイ? そこはね、南カリフォルニアにあるんだよ。カリフォルニアはどこだか知っているだろう?」
「地理をならったこと知らないのね? そこは、ロス・アンゼルスのなかにあるのよ」
「それにちかいな。きみのほうが正しいかな」
船内の拡声装置が大声を出した。
「一等航宙士……操縦室の船長のところへいそいでください!」
「ぼくのことだ!」
リビイはそう言うと、いそいで立ち上がった。
呼び出しはくりかえされ、それから文句が変わった。
「全員……加速用意についてください。全員……加速用意についてください!」
「さあ、出発だぞ、坊やたち」
ラザルスは立ち上がり、半ズボンをはたくと、口笛を吹きながらリビイのあとにつづいた。
カリフォルニア
わが故郷《ふるさと》よ
出でし土地に、いざ帰りなん
船は動きはじめ、星々は消えた。キング船長は、お客の地球代表をつれて操縦室をはなれた。マイルズ・ロドニイは強い印象を受けたので、酒がいりそうな様子だったのだ。
ラザルスとリビイは操縦室に残った。することは何もなかった。ほぼ、船内時間で四時間ほどたつて、地球ちかくの通常空間に達するまで、船は超越空間にいるのだ。
ラザルスはタバコをくわえた。
「もどったら、何をするつもりだ、アンディ?」
「まだ考えていませんが」
「考えはじめたほうがいいぜ。だいぶかわってるだろうからな」
「しばらくは家へ帰っていますね。ミシシツピーの山々が、そう変っているとは思えませんよ」
「そりゃ、丘は同じに見えるだろう。だが、人は変ってるかもしれないよ」
「どのようにです?」
「ぼくが言ったことをおぼえてるかい? ぼくはファミリーにはうんざりしちまって、一世紀ほど関係を断っていたことを? とにかく、みんなが、ひとりよがりになっているんでがまんできなかったんだ。いまや、すべての人が永久に生きられるつもりなんだから、みんな、そういうふうになっているんじゃないかな。長期の投資だ、雨のときにはレインコートをかぶるんだ……そういうことだね」
「そんなこと言われても、あなたには影響ないでしょう」
「ぼくの考えはちがうんだ。ぼくは永久に生きてゆくことの真の理由など、一度も考えたことはなかった……コードン・ハーディが言ったように、ぼくは、ハワード計画では、三代目の成果にしかすぎないんだ。ぼくはこれまでのんきにくらしてきて、そんなことを心配したりしたことはなかったよ。だが、それはふつうじゃない。マイルズ・ロドニイを見てみろ……慣例をひっくりかえしたりすることはおそろしく、新しい事態に立ちむかっていくことなどは、死ぬほどこわがっているんだ」
リビイはくすっと笑った。
「ジャスティンがあいつに向かっていったときはおもしろかったですね。ジャスティンにあんなことができるとは知りませんでしたが」
「ちっちゃな犬が、大きな犬に、とっととおれの庭から出て失せろと言っているところを見たことはないのかい?」
「ジャスティンは勝つと思われますか?」
「必ず勝つよ、きみの助けを借りてな」
「わたしの?」
「きみがぼくに教えてくれたほか、だれが超越推進《パラ・ドライブ》のことを知ってるんだ?」
「記録にくわしく吹きこみましたよ」
「だがそれをマイルズ・ロドニイにわたしてはいない。地球はきみの恒星船推進法を必要としているんだ、アンディ。ラルフはぼくに言ってたぜ。きみは赤ん坊を作る前には、政府の許可をうけなければいけないようになっているってね」
「そんな馬鹿な!」
「事実だ。移住していくいい惑星があれば、たいへんな移民がはじまるにきまっているよ。そこへ、きみの推進《ドライブ》が登場ってわけだ。それで、星々へひろがってゆくことが、ほんとうに実用的になるんだ。やつらは妥協しなけりゃいけなくなるよ」
「ほんとうは、わたしの推進《ドライブ》じゃありませんよ。あの小人たちが考えだしたことです」
「そう謙遜するなよ。きみにはそいつがわかっている。そしてきみは、ジャスティンを応援してやりたいだろう?」
「ええ、もちろん」
「じゃあ、そいつを取引きに使おうじゃないか。ぼくが個人的にやることになるかな。でも、それは大事なところしゃない。大規模の移住がはじめられる前に、だれかがちょっと探険をしておかなきゃあいけないんだ。なあアンディ、ほんとうの不動産業をはじめようじゃないか。銀河系のこの片隅からぼくらはぬけ出して、宇宙があたえてくれるものを見ようよ」
リビイは鼻をかいて、そのことを考えてみた。
「おもしろそうですね……家へちょっと帰ってみたあとにしますが」
「いそぐことはないさ。ぼくは、すばらしい、きれいな小さいヨットを見つけるよ。一万トンぐらいのね。それにきみの推進装置をつけるんだ」
「金のほうはどうします?」
「あつめるさ。ぼくは両親協会ってやつを作るよ。なんでも好きなようにやれる法人団体さ。いろいろな目的のために、娘協会もつくるさ。それから……」
「うまくいきそうですね、ラザルス。おもしろいことになると思いますよ」
「本部の事務所で、帳簿や法律関係のことを心配してくれるやつをだれか見つけよう……ジャスティンみたいなやつをね。ジャスティン自身がいいかな」
「ええ、それならいいですよ」
「きみとぼくは、あばれまわって、どんなところがあるか見まわるんだ。たしかに、こいつはおもしろいぜ」
二人はながいあいだ黙っていた。話しあう必要もなかったのだ。やがてラザルスは言った。
「アンディ……」
「え?」
「きみはこの、古い血を新しい血にってやつをやるつもりかい?」
「ええ、そのつもりですが」
「ぼくはそのことを考えていたんだ。ここだけのことだが、ぼくは、百年前にくらべると丈夫じゃない。たぶんぼくの寿命はそろそろ終りなんだろう。ぼくはこの新しい方法を聞かなかったら、この本当の不動産業の冒険をやろうという計画をたてはしなかった。これで新しい見通しができたんだ。ぼくは自分が何千年もさきのことを考えていることに気がついたんだ……いままでは、一週間以上さきのことを心配したことはなかったんだがな」
リビイはまた笑い声をあげた。
「どうやらあなたも大人になってきたようですね」
「もうその時期になってもいいころだと、だれかに言われるだろうね。アンディ、ほんとうに、ぼくのいままではそうだった。いうなら、これまでの二世紀半は、ぼくが成熟してきた時期なんだ。ぼくはながいあいだぼんやり生きてきたが、ほんとうに大切な答、最後の答というやつを知らないという点では、ペギイ・ウエザラルとまったく同じなんだ。人は……われわれの種類の人間、地球人は、重要な質問に取り組むだけの時間を充分に持ったことなど一度もないんだ。能力は充分ありながら、それをうまくつかうだけの時間がなかったんだ。重要な問題にゆきあたると、ぼくらはまだ猿と大差はないんだ」
「その重要な問題にどういうふうに取り組まれるつもりなんです?」
「どうしてぼくにわかる? もう五百年もしたらまた聞いてくれ」
「それで違いが出てくると思われますか?」
「うん。とにかく、そこらへんをうろつきまわり、いろいろとおもしろい事実をつかんでくるだけの時間があるんだからな。かりに、あのジョッカイラの神々にしても……」
「あれは神さまなんかじゃあるもんですか、ラザルス。そんなふうに呼ぶべきじゃないですよ」
「もちろん、そうじゃない……と、思うね。ぼくの考えでは、連中は、ちょっと真剣に考えるだけの時間をたっぷり持つことができた生物なんだ。いつか、いまから千年あとでも、ぼくはクリールの神殿に威勢よくはいっていって、まっすぐそいつを見つめて言ってやりたいよ……やあ、兄弟。ぼくの知らないことを知ってるかい?……ってな」
「あまり健康によくなさそうですね」
「とにかく、はっきりはするだろう。あそこでの結末には、ぼくはぜんぜん不満なんだ。この宇宙全体のなかで、人間が鼻をつっこんでいけないというようなものは、あるべきじゃないんだ……そういうふうにぼくらは作られているんだし、それには理由もちゃんとあると思うよ」
「なんの理由もないかもしれません」
「うん、ただのすばらしくでかい冗談かもしれないな」
ラザルスは立ち上がり、背のびをすると、脇腹をかいた。
「だがこれは言えるよ、アンディ。答はどうであろうと、ここに一匹の猿がいてね。そいつはのぼりつづけるんだ。そして、まわりを見まわして、自分の見られるかぎりのものを見るんだな、樹の枝がもつかぎり」