デリラと宇宙野郎たち
ロバート・A・ハインライン
目次
生命線
光あれ
道路をとめるな
爆発のとき
月を売った男
デリラと宇宙野郎たち
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生命線
議長は槌音を大きく響かせて、静粛を求めた。守衛役を買って出た連中が、頭に血かのぼっている何人かを説得して席につかせると、野次や不満の声は、しだいにおさまっていった。
議長のそばで演壇についている男は、その騒ぎに知らんぷりをしていた。その落ち着いて、かすかに傲慢さをたたえた顔は、平然としている。
議長はその男のほうにむき、怒りと困惑がほとんど隠されていない声で話しかけた。
「ピネロ博士……」
博士という言葉は、かすかに強調されていた。
「……あなたが話されている最中に、見苦しい騒ぎがおこったことを、わたしは謝罪しなければいけませんな。同僚諸君が、科学にたずさわる人間のふさわしい尊厳さを忘れて、発言者の邪魔をするとは、驚きました。どのような……」かれは一息つき、口を固く結んだ。「たとえ、その挑発がどのようにひどいものであったとしてもです」
ピネロは笑いを浮かべた。何かはっきりと人を馬鹿にしているような笑顔だ。
議長は癇癪をおさえているところをありありと見せて、言葉を続けた。
「わたしは、このプログラムが何とかうまく、整然と終わるようにしたい。あなたの発言を最後まで続けていただきたいと思いますが、慎んでいただかなければいけないのは、教育のある人間ならだれでも虚偽とわかるような考えで、われわれの知性を侮辱することです。どうか、あなたの発見だけに限定してください……もし、発見されたことがおありならですが」
ピネロは、掌を下にして、太った白い手を広げた。
「まず最初にあなたがたの錯覚を取り除かないで、どうしてぼくが、新しいアイデアをあなたがたの頭に入れられるのです?」
聴衆はざわめき、ささやきあった。だれかが、ホールの後ろからさけんだ。
「そのいかさま師を放り出せ! もうたくさんだ!」
議長は槌をたたいた。
「諸君、お静かに!」ついで、かれはピネロのほうにむいた。「思い出していただかなければいけませんかな、あなたかここのメンバーではなく、またわれわれがあなたをお招きしたのでもないことを?」
ピネロの眉が、ぐいと上がった。
「そうですか? ぼくはアカデミーのレターヘッドがついた招待状を覚えていますが」
議長は下唇を噛んでから答えた。
「そのとおり。わたし自身で、その招待状を書きました。でもそれは、理事のひとりの求めによるものでした……立派な、公共心あふれる紳士ですが、科学者ではなく、アカデミーの会員でもないかたです」
ピネロはその、人をいらつかせる笑みを浮かべた。
「ほう? ぼくも、気がついてしかるべきでしたな。アマルガメイト生命保険のビッドウエル老ですか? 自分の息がかかっている訓練した手先を使って、ぼくを詐欺師だとすっぱ抜きたい。そうですな? ぼくが、人の死ぬ日をいいあてられるなら、だれもかれの結構な保険などには入りませんからね。しかしですよ、まずぼくの話を聞こうともしないで、どうしてぼくの正体をあばくことができるんです? たとえ、ぼくのいうことを理解できるだけの頭が、あなたがたにあったとしてもですよ。馬鹿なことを! ライオンを倒すのにジャッカルどもをよこすようなもんです」
かれはわざと、聴衆に背中をむけた。おおぜいのささやき声が高まり、険悪な様子になってきた。議長が静粛にとさけんでも、無駄だった。そのとき、前列でひとりの男が立ち上がった。
「議長!」
かれはそのきっかけをつかんで、さけんだ。
「諸君! ヴァン・ラインシュミット博士が発言します」
騒ぎは静まった。
博士は咳ばらいすると、みごとな白髪をかき上げ、洒落た仕立のズボンのサイド・ポケットに片手を入れた。婦人会むきのポーズを取ったのだ。
「議長、科学アカデミー会員のみなさん、われわれは寛容さというものを、持とうではありませんか。たとえ殺人犯といえども、国家がその犯罪事実を宣告する前に、いいたいことをいう権利があります。われわれがそれ以下であって、いいものでしょうか? たとえ、宣告が知的な意味で、もうはっきりしているとしてもです。わたしはこの権威あるアカデミーが、会員でない他のいかなる同僚に対しても与えるべき配慮を、ピネロ博士にも与えることに賛成します。たとえ……」
かれは、ピネロのほうに軽く頭を下げた。
「……かれに学位を与えた大学というのが、われわれの知らないところであってもです。たとえかれの話されることが嘘であっても、われわれには何の害もありません。もし話されることが真実なら、われわれはそれを知るべきです……」
かれの円熟した教養のある声がひびき、皆をなだめ、落ち着かせていった。
「……もしこの傑出した博士のマナーに、われわれの好みとはいささか異質なところがあるとすれば、そのような些細な問題にはあまり気を使わない土地あるいは階層から、博士は出てこられたのかもしれないと考えるべきです。いま、われわれの良き友人であり後援者である人物が、かれの話を聞き、そのいわれるところの値打を慎重に評価するよう依頼してこられたのです。威厳と礼節をもって、あたろうではありませんか」
かれは嵐のような拍手のうちに腰を下ろしながら、知的指導者としての自分の名声をさらに高めたことを気持ちよく意識していた。
明日の新聞にはまた、アメリカでいちばんハンサムな大学総長≠フ良識と説得力のある人柄についての記事が出るだろう。ひょっとすると、ビッドウエル老は、あのプールの寄付金を出してくれるかもしれない。
拍手が終わると議長は、小さな丸い腹に両手を組み、すました顔をして坐っている、騒ぎの中心人物のほうに向きなおった。
「お続けください、ピネロ博士」
「なぜ続けなければならんのです?」
議長は肩をすくめた。
「あなたは、そのために来られたのですぞ」
ピネロは立ち上がった。
「確かに、そのとおりです。しかし、ぼくがここへ来たのは賢明だったのでしょうか? 顔を赤らめることなく、むきだしの事実を見つめられるだけの広い心を持ったかたが、ここにおられるでしょうか? そうは、思いませんな。
ぼくのいうことを聞こうと求められた実にハンサムな紳士にしても、すでにぼくを判断し、有罪判決を下してしまっておられる。かれが求めたのは、秩序であって、真理ではない。もしも、秩序にそむく真実であっても、かれはそれを受け入れるでしょうか? どうです? だめでしょうな。
それでもぼくが話さなければ、約束不履行で、あなたがたの勝ちになるでしょう。世間のつまらん人間どもは、あなたがたつまらん連中が、ぼくの正体をあばいてしまったと思うでしょう。このピネロは、山師だ、いかさま師だとね。
それでは、ぼくの計画にそぐわない。話しましょう。
もう一度、ぼくの発見をくりかえします。簡単な言葉でいうと、ある人間がどれぐらい生きられるかわかる、一つの技術を発見したということです。
死の天使の請求書を前もってお渡しできるのです。死者を迎える黒いらくだが、いつあなたの家の入口に膝をつくかを、教えてあげられるのです。ぼくの装置を使えば、五分以内でだれにでも、あなたがたの砂時計にあと何グレインの砂が残っているのか、教えてあげられるのです」
かれは黙り、胸の上に両腕を組んだ。しばらく、だれも口をきかなかった。聴衆は落ち着かなくなってきた。やっと議長が、口をはさんだ。
「まだ、おすみになっていないのでしょうな、ピネロ博士?」
「ほかにまだ、何かいうことがありますか?」
「あなたの発見が、どんなふうに働くかを、まだ話されていませんよ」
ピネロの眉がぐいと上がった。
「ぼくの研究の成果を、子供の玩具として渡してしまうべきだ、といわれるのですな。これは危険な知識なんですぞ。ぼくは、それを理解している男、自分だけに留めておきます」
かれは、胸をたたいた。
「あなたの途方もない説に、何か根拠があると、われわれにどうしてわかるのです?」
「実に簡単ですな。委員会をよこして、ぼくが実験するのを見ればいいのです。それでうまくいけば、結構。あなたがたはそれを認めて、世間にそういう。うまくいかなければ、ぼくは信用を失って、謝罪する。たとえ、このピネロでも、謝りますよ」
ホールの後ろのほうで、ほっそりした、猫背の男が立ち上がった。議長がそれを認め、男は口を開いた。
「議長、その立派な博士がどうして、そんなことを提案されるのでしょう? だれかが死んで、博士のいわれたとおりだと証明されるまで、われわれが二十年あるいは三十年のあいだ待っているとでも、思っていられるのでしょうか?」
ピネロは議長を無視し、直接答えた。
「はっ! 何という馬鹿なことを! あなたはそんなにまで無知なのですかな? おおぜいの人間が集まっていれば、少なくとも一人は、近い将来に死ぬ人がいるということを知らないなんて。ひとつ、提案しましょう。この部屋にいるみなさんをひとりひとりテストさせてもらえば、二週間以内に死ぬ人の名前を示しましょう。そう、その人の死ぬ日と時刻をも」
かれは鋭く部屋の中を見まわして尋ねた。
「承知されますかな?」
別の男が立ち上がった。でっぷりした男で、一語一句に気をつけて話した。
「わたし個人としては、そのような実験に好意を持つことはできませんね。医学に携わる人間としてわたしは、悲しいことながら、われわれの同僚で年配の方々の多くが、深刻な心臓障害の徴候をはっきりと見せておられることに気づいています。もしピネロ博士がその徴候を知っておられたら、まあ知っておられるのでしょうが、その上でかれが、おおぜいの中からひとりを犠牲者に選ばれるなら、選ばれたその人物が予測どおりに亡くなることはあり得ます。このご大層な発言者の機械的ゆでたまご時間測定器が、役立つかどうかは別にしてです」
すぐにもうひとりが立って、かれを支持した。
「シェパード博士のいわれるとおりです。なぜわれわれは、ヴードゥー教のいかさまに、時間をつぶさなければいかんのです? わしの信じるところ、このみずからをピネロ博士と名乗る人物は、わがアカデミーを使い、かれの説に権威を持たせようとしているのですぞ。こんな道化芝居の片棒をかつげば、われわれはかれに踊らされたことになります。かれの職業が何かは知らないが、その企みの宣伝にわれわれを利用する方法を何か考えているのは、賭けてもいいことです。議長、定例の議事進行をされることを提案します」
この動機は歓声で迎えられたが、ピネロは坐らなかった。
「静粛に! 静粛に!」
という叫び声の中で、かれは乱れた髪を聴衆にむかってふりたてながら、いうべきことをいったのだ。
「野蛮人どもが! ろくでなしが! 愚かな間抜けどもが! 大昔から、偉大な発明を認める邪魔をいつもしてきたのが、きさまたちのようなやつらだ。墓の中のガリレオをきりきり舞いさせようとするそんな馬鹿な下衆どもは、もう結構だ。そこで鹿の歯のお守りをいじくりまわしている太った阿呆が、医学に携わる者だと! インディアンのまじない医者だといったほうが、ぴったりだぞ! そこの小さな禿げ頭のできそこない……きみだよ! きみは哲学者づらをして、自分勝手なごたくをならべているんだろう。人生と時間をきちんと分けてな。だが、そのどちらかについて、いったい何を知っているんだ? チャンスがあっても真理を検討しようとしないで、どうして学ぶことができるんだ? 馬鹿らしい!」
かれは、演壇に唾をはいた。
「きみたちは、こんなものを科学アカデミーと呼んでいるのか! ぼくなら、葬儀屋会議と名づけてやろう。ご先祖さまの生きいきとしたアイデアを、後生大事にミイラ化して取っておくことしか興味がないんだからな」
ひと息ついたかれは、壇上にいた委員の二人に両側からつかまれ、舞台の袖からおっぽり出された。報道席から記者が何人かあわてて立ち、あとを追った。議長は休憩を宣言した。
かれが楽屋口から出るころ、新聞記者たちが追いついた。軽く踊るように歩き、口笛で何かの曲を吹いている。すこし前に見せた怒りは、もう跡形もない。かれらはピネロを取り巻いた。
「……インタビューをお願いできますか、博士?」「現代の教育をどうお考えでしょう?」「まったく、はっきりいわれましたねえ。死後の生についてのご意見は?」「帽子を取って博士《ドック》、はい、カメラを見て」
かれはみんなに、にやりと笑った。
「きみたち、一度にひとりずつにしてくれ。それに、そう急がないで。ぼくも前に、新聞記者をやったことがあるんだ。どうだい、うちへ来て、ゆっくり話すことにしたら?」
数分後、かれらはピネロの散らかった寝室兼用の居間で腰を下ろすところを見つけようとし、かれの葉巻を取って火をつけていた。
ピネロはみんなを見まわして笑顔になった。
「きみたち、どちらにする? スコッチか、バーボンか?」
その世話がすむと、かれは仕事にかかった。
「さて諸君、何を知りたいんだね?」
「正直なところを話して欲しいんですがね、ドック。あなたは、何かつかんでいるんですか? それとも、つかんでいないんですか?」
「ぼくはまったく確実につかんでいるのさ、きみたち」
「では、それがどんなふうに働くのか話してください。あなたが教授たちにぶつけた馬鹿話では、どうにもなりませんからね」
「頼むよ、諸君。あれはぼくの発明だ。あれでぼくは、多少の金を得るつもりなんだ。くれといった最初の人間に、それをやってしまうべきだというのかい?」
「ねえ博士、朝刊にすこしでも書かせるつもりなら、何か話してくれなきゃあだめですよ。何を使うんです? 水晶球ですか?」
「いや、まったく違うよ。ぼくの装置を見たいかい?」
「もちろん。これですこしは、はっきりするというもんです」
かれはみんなを隣の部屋に連れていき、手をふった。
「それだよ、諸君」
かれらの目に映った大きな装置は、どことなく医者の診察室にあるX線装置に似ていた。電力を使うものであり、ダイアルのいくつかは馴染のある目盛りだという明らかな事実以外、ざっと見ただけでは、実際の使いかたの手がかりもつかめない。
「どういう原理です、ドック?」
ピネロは口をすぼめて、ちょっと考えた。
「生命とは、その本質において電気的なものだという公理を、きみたちはみな、当然知っているだろうな? まあ、それはどうでもいいんだが、この原理がいかなるものかを知る助けとはなるだろう。それに、時間が四つめの次元だということも聞いているだろう。それを信じるかどうかは別としてね。あまりにいわれすぎて、何の意味もなくなってしまった。口先だけの連中が、馬鹿どもを感心させるために使っている決まり文句にすぎないよ。だがぼくはいま、それをきみたちの目の前にありありと見えるようにしたいし、気分的にも味わってほしいのさ」
かれは、記者のひとりに歩みよった。
「きみを例にたとえてみよう。きみの名前はロジャーズだったね? よろしい、ロジャーズ、きみは四つの方向にのびている時空間的存在だ。きみは六フィートたらず、幅はおよそ二十インチ、厚みは十インチほどだな。時間では現在の時空存在より過去へたぶん一九一六年ごろまでのびており、そこではここで時間軸と直角になる断面を見ると、現在のものと同じ太さだ。いちばん端は赤ん坊だ、すえたミルクの匂いをさせ、その朝食でよだれかけを濡らしている。反対側の端には、たぶん一九八〇年代のどこかに老人が横たわっている。
われわれがロジャーズと呼ぶ時空存在を、長いピンク色の芋虫と考えてもらおう。長い歳月にわたって存続し、一端は母親の子宮に、反対側の端は墓場に入っているものだとね。それはここでわれわれの知覚できる範囲をこえて広がっているので、われわれは断面を単一の分離した個体と理解する。
しかし、それは幻覚なんだ。このピンクの芋虫には物質的連続性があり、長い年月にわたってのびている。実のところ、この意味では、全人類に物質的連続性がある。ピンクの芋虫は、別のピンクの芋虫から分かれているのだからな。
この観点から考えると、人類は枝々が入り組み、若い枝がでてくる蔓草のようなものだ。その蔓草の一断面だけを見て、小枝のひとつひとつを、それぞれ独立した個体のように思ってしまうという愚をおかすんだ」
かれはひと休みして、かれらの顔を見まわした。かれらのひとり、陰気で頑固そうな男が口を出した。
「そいつはまた立派なもんですな、ピネロ、もし本当ならです。しかし、それでどうなるというんです?」
ピネロは、怒りもせずに笑顔をむけた。
「もう少し我慢してくれ。ぼくはきみたちに、生命を電気のようなものと考えてくれといったな。こんどは、このピンク色の芋虫を電気の導体と考えるんだ。きみたちもたぶん、大西洋横断海底ケーブルの切れた場所を、電気技師たちがある方法を使って、海岸を離れもせずに正確にいいあてられると聞いたはずだ。ぼくもピンクの芋虫に、それと同じことをやるんだ。この部屋で、その断面をぼくの装置にかけることで、それが切れるところを告げられる。つまり、いつ死亡するかをだ。それとも、接続を逆にして、生まれた日をあててもいい。だが、それは面白くも何ともない。きみたちは、もう知っているんだからな」
陰気な男は、せせら笑った。
「あなたのいわれることは、わかりましたよ、ドック。もしあなたがいった人類はピンクの芋虫の蔓草だってことが本当なら、誕生日をあてることはできませんよ。つまり、人類という種属とのつながりは、誕生のときも連綿としてあるわけでしょう。あなたのいう電気導体は、母親を通じて人間の最も遠い先祖にまでつづいているんですからね」
ピネロの顔が輝いた。
「そのとおり、賢明だな。だが、きみはその類推《アナロジー》をあてはめすぎているよ。電気導体の長さを測るときとそっくり同じじゃあないんだ。ある意味では、長い廊下の距離を、その端からはねかえってくる音の反響で測るというほうに、ずっと似ているな。誕生のときは、その廊下にねじれのようなものが残るので、きちんと計算すれば、そのねじれからの反響を測れるんだ。ただひとつだけ、はっきり測定できない場合がある。女性が妊娠している場合、その女性の生命線と、まだ生まれていない子供の生命線とは、区別がつけられないんだよ」
「証明してほしいですね」
「いいとも、わが友。きみが実験台になるかね?」
ほかのひとりが口をはさんだ。
「ルーク、きみは挑戦されたんだぞ。受けるか、それとも黙るかだな」
「受けよう。どうすればいいんです?」
「まず、生まれた日を紙に書いて、仲間のだれかに渡しておきたまえ」
ルークはそのとおりにした。
「次は?」
「上に着ているものを脱いで、そのはかりに乗ってくれ。ところできみは、以前、いまよりずっと痩せているとか、太っているとかしたかい? そんなことはない? 生まれたときの体重は? 十ポンド? 立派な大きい赤ちゃんだな。ちかごろでは、そんな大きいのはいないからね」
「この無駄話は、何のためなんです?」
「ぼくは、この長いピンクの導体の平均的断面の近似値を出そうとしているんだ、ルークくん。さあ、ここに坐ってくれないか。それから、この電極を口にくわえるんだ。いや、痛い目にあったりはしないよ。電圧はごく低い。一マイクロ・ボルト以下だ。しかし、接続はきちんとしておかなければいけないんでね」
博士はルークから離れて装置の裏へ行き、頭の上のフードを下げ、制御装置に手をふれた。ダイアルのいくつかが生きかえり、機械が低い音を立てはじめた。その音がとまると、博士はその小さな隠れ場からひょっこり出てきた。
「一九一二年二月の何日かだとわかったよ。生まれた日を書いた紙はだれが持っている?」
それが出され、開かれた。持っていた男が読み上げた。
「一九一二年二月二十二日」
そのあとに続いた静けさは、小さなグループの端にいた男の声で破られた。
「ドック、もう一杯もらっていいですか?」
緊張は解け、何人かがいっせいにしゃべり出した。
「ぼくを試してください、ドック」「ぼくを先に、ドック。ぼくは孤児だもんで、本当に知りたいんですよ」「どうです、ドック? われわれみんなに、ひととおりやってみてくれませんか?」
かれは笑って承知し、穴から出入りするリスのように、フードの下に入ったり出たりした。かれらがみな博士の手腕を示す紙を二枚ずつ受け取ると、ルークが長い沈黙を破った。
「死の予告をどうやるか、やってみませんか、ピネロ?」
「望みとあれば。だれがやる?」
だれも答えなかった。何人かがルークを前に押し出した。
「やれよ、賢いの。おまえがいい出したんだぞ」
かれは仕方なく椅子に坐った。ピネロはスイッチのいくつかを切り換えて、フードの下に入った。低い音がやみ、両手をごしごしこすりあわせながらピネロが出てきた。
「さて、諸君。お見せするのは、これまでだ。記事のネタには充分だろう?」
「ねえ、予告のほうはどうなんです? ルークはかれの最終版を、いつうけとるんです?」
ルークもかれのほうに向いた。
「そう、どうなんです? どういう答えです?」
ピネロは苦しそうな顔をした。
「諸君、きみたちには驚くねえ。その情報は料金を取って渡すんだよ。それにこれは、職業上の秘密だ。依頼主のほか、だれにも話せないね」
「わたしはかまいませんよ。さあ、みんなにいってください」
「まことに残念だが、本当にこれは、断らなければいけないんだ。ぼくは、どうやるかを見せることは承知したが、結果を教えるとはいわなかったよ」
ルークは煙草の吸殻を、床でおしつぶした。
「みんな、今までのことは嘘なんだ。これをやるための用意に、この町の新聞記者全員の年齢を調べておいたんだろう。その手はくわないからね、ピネロ」
ピネロは悲しそうに、かれを見つめた。
「きみは、結婚しているかい?」
「いや」
「だれか、きみを頼りにしているものはいるかい? 近い肉親は?」
「いや。なぜです、わたしを養子にでもしたいんですか?」
ピネロは悲しそうに首をふった。
「非常に残念だがね、ルーク、きみは明日を迎えないうちに死ぬよ」
学会、大混乱に終わる
大学者は馬鹿ばかりと予言者がいう
死がタイムカードをおす
博士の予想どおり記者死す
学会議長〈いかさま〉と決めつける
……ピネロの奇妙な予言から二十分とたたぬうちに、ティモンズは勤務先のデイリー・ヘラルド社にむかってブロードウェイを歩いている途中、落ちてきた看板にあたった。
ピネロ博士は意見を述べるのは避けたが、かれのいうクロノヴァイタメーターでティモンズの死を予知したという話は認めた。ロイ警察署長は……
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[#地付き]マジェスティック・ビル、七百号室
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私、ウインスロップ・ウインスロップ・ディマース&ウインスロップ法律事務所のジョン・キャボット・ウインスロップ三世は、当市在住のヒューゴー・ピネロより合法的な合衆国通貨にて金一万ドルを委託され、私の選ぶ取引銀行に左記の条件指示証書ともに条件つき預金として寄託するよう指示されたことを公告します。
ヒューゴー・ピネロおよび/あるいは時の砂社の依頼人にして、ヒューゴー・ピネロの予告した寿命より一パーセント以上生きのびた者、あるいは同じ率にて予告された寿命にいたらなかった者の遺族に対し、いずれの場合も時間の点で先におこった最初の場合に、保証金全額を寄託者から没収の上、支払われること。
さらに私はここに本日、右記の指示に従い、当市のエクイタブル・ファースト・ナショナル銀行に、条件指示証書とともに保証金を寄託したことを公告します。
[#地付き]宣誓署名
[#地付き]ジョン・キャボット・ウインスロップ三世
一九五一年四月二日
宣誓署名
アルバート・M・スワンソン
合衆国および当州の公証人
委託期間一九五一年六月十七日まで
「今晩は、ラジオを聴いているみなさん。ニュース・フラッシュの時間です! どこからともなく現われた奇蹟の男、ヒューゴー・ピネロは、千人めの死の予言をしました。そして、予言がはずれたらどんな相手にも支払うといって寄託した金には、まだひとりの請求者も現われていません。
依頼人のうち十三人はすでに死亡しているところから、かれが大鎌を持った死神の本部オフィスと秘密の回線を持っていることは、数学的にも立証されつつあります。
あらかじめ知らせてほしくないニュースというものもあるものです。全国にわたるニュースをお伝えするわたしも、予言者ピネロの依頼人にはならないことを……」
判事の気の抜けたバリトンの声が、法廷のかびくさい空気の中でひびいた。
「ウイームズさん、本題にもどろうではありませんか。本法廷は、原告の仮処分申請を許可しましたが、いま原告はそれを永久的禁止処分にしろといわれる。それに対してピネロ氏は、あなたがたの申請には根拠がないと申し立て、禁止命令を解除し、ピネロ氏のいう簡単な合法的事業を妨害するような試みを、あなたの依頼人にやめさせるよう命じてくれと求めている。ここでは陪審員にむかって話しているのではないのですから、詭弁はやめて、なぜ被告の申請を本法廷が認めてはいけないのかを、はっきりした言葉で説明していただきたい」
ウイームズ氏は神経質に顎をふり、のど首のぶよぶよした灰色のたるみを、糊のきいた高いカラーの上にはみ出させて話した。
「当法廷がお許しくださいますならば、わたしは公衆を代表して……」
「ちょっと待ってください。あなたは、アマルガメイト生命保険の代理人だと思っていたが」
「形式的には、そうです、裁判長閣下。広い意味ではわたしは、ほかにもいくつか、大きな保険会社、信託会社、金融機関の代理でもあり、その株主、契約者たちは、市民の大多数を形作っているのであります。加うるに、われわれは、特定の組織に入っておらず、表だってものもいえない、ほかに守るすべを知らぬ全国民の利益を守っているものと考えております」
判事はにべもなくいった。
「公衆を代表しているのは、わたしだと思いますよ……あなたのことは、残念ながら、記録にあるとおりあなたの依頼人の代理と考えなければいかんでしょう。しかし、話を続けてください。あなたの論旨は何なのです?」
年配の弁護士は、のどぼとけを呑みこむようなそぶりをしてから、また話を続けた。
「裁判長閣下、われわれがなぜこの禁止処分を永久的なものにしなければいけないのかを主張する理由は二つあります。その理由の一つをもってしても禁止処分の対象になると思われます。
第一に、この人物は、民法ならびに法令によって禁止されている職業、占い師を業としています。かれは大衆のだまされやすさを食い物にする、ありふれた占い師であり、流れ者の詐欺師であります。かれは、そこいらのジプシーの手相見や占星師あるいは叩音降霊術師《テーブル・タッパー》などよりは頭がいいが、それだけに危険です。
近代の科学的方法をかたって、自分の魔術に見せかけの威厳をそえようとしているのです。われわれはこの法廷に科学アカデミーの指導的代表者数人を招いており、かれの主張の馬鹿らしさに対する専門家としての証人になってもらいます。
第二に、この人物の主張が真実であったとしても……議論を進めるために、こんな馬鹿げた仮定を認めるのですか……」
ウイームズ氏は、うす笑いを浮かべて、言葉を続けた。
「かれの行動は、公衆全体の利益に反し、特にわたしの依頼人の利益に不法な損害を与えているものであると、主張します。この人物が公衆に対して、生命保険のはかり知れぬ恩恵を捨てることをすすめ、かれらの福利に多くの損害を与え、わが依頼人に経済的打撃を与える言説を直接間接に発表しておりますことを、法の番人各位に証明していただくため、われわれは数多くの証拠を提出する用意がございます」
ピネロがかれの席で立ち上がった。
「裁判長閣下、ひとこと、いわせていただいていいでしょうか?」
「何をです?」
「わたしにちょっと分析させていただければ、状況を簡単にすることができると信じますので」
ウイームズが口をはさんだ。
「裁判長閣下、これは実に異例なことであります」
「待ってください、ウイームズさん。あなたのほうの利益も保護しましょう。この問題に関しては、単純明快さが望ましく、雑音は少ないにこしたことがないのでしょうか。いまピネロ博士が発言して、審議を短くできるのなら、そうさせるつもりでおります。続けてください、ピネロ博士」
「感謝します、裁判長閣下。まず、ウイームズ氏の論点の最後を取り上げますが、わたしが自分の説を公表したとかれがいわれたことは、はっきり認めるつもりです……」
「ちょっとお待ちなさい、博士。あなたはご自分が弁護士になる方法を選ばれた。それで自分の利益を守るに充分だと確信しているのですか?」
「わたしは運を天にまかせる覚悟でおります、裁判長閣下。ここにお並びのわれわれの友人諸君も、わたしが認めたことは、容易に立証できるのです」
「よろしい。続けてください」
「その結果として、多くの人々が生命保険契約を解約したことは認めますが、そのことにより、かれらのうちのだれかが損失や打撃をこうむった実例はあるのかと、わたしは原告側に異議を申し立ていたします。わたしの活動によってアマルガメイト生命保険会社が損をしたことは事実ですが、それはかれらの保険契約を、弓矢のごとき時代遅れのものにしてしまったわたしの発見による、当然の結果です。
それを根拠として、営業停止が認められるのであれば、わたしは石油ランプ工場を作り、ついでエジソンとゼネラル・エレクトリックの両社が白熱電球を作るのを禁じさせる訴えをおこします。
わたしが死の予告をするのを事業としていることは認めますが、わたしが魔術を使っているなどということは否定します。黒、白、あるいは虹色、何色のものであろうとです。
もし科学的に正確な方法での予告をおこなうのが法にふれるのであれば、ある程度の人数における正確な死亡率を毎年予測してきたアマルガメイトの保険数理士は、何年も前から法にそむいているわけです。
わたしは小売で死の予測をし、アマルガメイトは卸売で予測しているのです。もしかれらの行動が合法であるなら、どうしてわたしのが合法でないといえるのです?
いっているとおりのことが、できるかできないかによって、違いが出てくるのは、わたしも認めます。で、はっきり申し上げますが、科学アカデミーのいわゆる専門家の証人たちは、わたしにはそんなことができないと証言するでしょう。ところが、かれらはわたしの方法を何ひとつ知らないのですから、これについて本当に専門家としての証言はできるはずがありませんし……」
「ちょっと待ってください、博士。ウイームズさん、あなたがたの専門家の証人がピネロ博士の理論と方法に精通していないというのは、本当なのですか?」
ウイームズ氏は心配そうな表情になった。かれはテーブルの上をこつこつたたき、答えた。
「法廷はしばらくの猶予をお許しくださいますでしょうか?」
「どうぞ」
ウイームズ氏は、仲間と急いでこそこそ打ち合わせてから、判事席のほうに向いた。
「裁判長閣下、審議手順について提案がひとつございます。もしピネロ博士が証人台に立ち、その理論を説明し、かれのいう方法を実演してみれば、ここにおられる有名な科学者の方々も、かれの主張の正当性について法廷に助言できることになりましょう」
判事は尋ねるようにゼネロを眺め、かれは答えた。
「それに同意するつもりなどありません。わたしの方法が本物であれ嘘であれ、これが阿呆や山師どもの手に入ると、危険なことになりましょう……」
かれは、前列にならんでいる教授たちのグループにむかって手をふってみせ、ひと息つき、意地の悪い笑顔を見せた。
「……そこの紳士がたがよく御存知のとおりにです。さらに本当に当たるのかどうかを証明するために、そのプロセスを知る必要はありません。めん鶏が卵を生むのを知るために、生物学的再生産の複雑な奇蹟を理解することが必要でしょうか?
わたしの予言が正確であることを証明するために……みずから知識の管理者と名乗っているこの組織全体を再教育し……かれらの自意識過剰の迷信を晴らしてあげることが、わたしにとって必要でしょうか?
科学において意見を形作る方法は、二つだけです。一つは科学的な方法。もう一つは学者的なものです。人は実験で判断するか、あるいは盲目的に権威者のいうところを受け入れてしまうかです。
科学的精神の持主にとっては、実験による証拠が何よりも大切で、理論は説明のためのものにすぎず、合致しなくなれば捨て去るべきものです。アカデミックな精神の持主にとっては、権威がすべてであり、権威によって敷かれた理論に合致しなければ、事実が捨て去られてしまうのです。
歴史の中であらゆる知識の発展を妨げてきたもの……それこそ、この考え方なのです……反証を上げられない理論に、牡蠣のようにしがみつくアカデミックな心です。
わたしは、実験によって自分の方法を証明する用意ができています。どこかの法廷におけるガリレオのように、わたしはそれでも、動くのだ!≠ニ、主張します。
前に一度、このみずからを専門家だと称する同じ団体に、わたしはそのような証拠を見せようと申し出ましたが、かれらはそれを拒否しました。わたしは、もう一度提案します。わたしに、科学アカデミー会員の寿命を測定させていただきたい。その結果を判定する委員会は、かれらに任命してもらいます。
わたしは調べた予測を二組の封筒に入れて、封をしておきましょう。それぞれの封筒の外には会員の名前を書いておき、中には死の日付を入れておきます。もう一組には、中に名前を、外に日付を書いておきます。
委員会が封筒を金庫に保管し、そのときどきに合った封筒を開くのです。あれだけの人数の組織ですから、アマルガメイトの保険数理士が信用できるものであれば、一、二週間ごとに死者が出ることは予想できます。それで、ピネロが嘘つきかどうかを証明する資料が、すぐにまとまるでしょう」
かれは話すのをやめ、小さな胸を、その小さな丸い腹に追いつくほどに張ってみせた。かれは、汗をかいている学者たちのほうをにらみつけた。
「どうです?」
判事は眉を上げて、ウイームズの目を見た。
「受けますか?」
「裁判長閣下、わたしはこの提案をまことに不適当な……」
判事はかれをさっとさえぎった。
「警告しておきますが、もしこの提案を受けられないか、あるいは同程度に筋の通った、真実を明らかにする方法を提案されないと、わたしは、あなたがたに不利な裁定を下すことになりますぞ」
ウイームズは口を開きかけたが、考えなおし、証人の学者たちの顔を眺め、判事席のほうに向きなおった。
「提案を受けます、裁判長閣下」
「よろしい。細かいことは、双方のあいだで詰めなさい。営業停止の仮処分は解除され、ピネ口博士が事業を進めることは何者も妨害できません。永久的禁止への訴えに関する決定は、証拠がまとまるまで、既得権を侵すことなく保留します。
ウイームズさん、休廷する前に、あなたが依頼人の受けた損失といわれたときの考え方について、ひとつ申し上げたい。
この国のある種の集団のあいだでは、ある人間あるいは法人が長い年月にわたって公衆から利益を得ていたがために、状況が変わり、それが公衆の利益にならなくなった場合にも、政府と裁判所に将来にわたってその利益を保証する義務を負わせよう、というような考え方が育ってきています。制定法でも判例法でもそのような奇妙な考え方を支持することはありません。個人にしろ法人にしろ、その個人的利益のために、法廷において、歴史の時計をとめろとか逆にまわせとかいう権利はありません。それだけです」
ビッドウエルはいらだちのあまりうなっていた。
「ウイームズ、何かもっといい手を考え出さなければ、アマルガメイトは新しい主任弁護士が必要になるぞ。きみが、あの営業停止の裁判に負けて十週間になるが、あのちび野郎はばかすか金を儲けているぞ。それにくらべて、わが国の保険会社はどこもみな、破産しかけているんだ。ホスキンズ、うちの欠損率はどうだ?」
「いいにくいですが、ビッドウエルさん、日ましに悪くなっています。今週は大口の保険金を十三口支払いましたが、これがみな、ピネロが活動を始めてから契約した連中ですからね」
痩せぎすの小男が口を出した。
「なあビッドウエル、うちのユナイテッドでは新規の契約は受け付けないことにしているんだ。調査に時間をかけて、客がピネロに相談していないことが、はっきりするまではな。科学者たちが、あいつの正体をあばくまで待つわけにはいかんのかい?」
ビッドウエルは、ふんと鼻を鳴らした。
「何という楽天家なんだ! あいつらに、やつの正体をあばけるものか。オルドリッチ、きみは事実に直面できないのか? あのちびでぶの水ぶくれ野郎は、何かをつかんでいるんだ。それが何か、わしにはわからんがね。これは、食うか食われるかの闘いなんだぞ。わしらがぐずぐずしていたら、負けてしまうんだ」
かれは葉巻を痰壺に投げこむと、新しい葉巻の端を荒々しく噛みちぎった。
「出ていってくれ、きみたち、みんなだ! わしは自分のやりかたでやる。きみもだ、オルドリッチ。ユナイテッドは待てばいいさ、だがアマルガメイトは待たないんだ」
ウイームズは、心配そうに咳ばらいした。
「ビッドウエルさん、方針に何か大きな変更があるときは、わたしに前もって相談してくださるものと思っていますよ」
ビッドウエルはうなり声をあげ、みんなはぞろぞろ出ていった。かれらがみな出ていき、ドアがしまると、ビッドウエルはインターフォンのスイッチをいれた。
「OK、かれを入れてくれ」
外に通じるドアが開き、こざっぱりした男がちょっと戸口で立ちどまった。その小さな黒い目が、入る前にすばやく部屋の中を見まわした。ついで、足音を立てずにビッドウエルのそばに近づいた。そいつは、感情をこめない平板な声で話しかけた。目は生き生きした動物のようなのに、顔は無表情のままだった。
「あっしに、話があるそうですな?」
「そうだ」
「どんな相手なんです?」
「坐ってくれ、話すから」
ピネロは、奥のオフィスの戸口で、若い夫婦を迎えた。
「さあさあ、お入りください、あなたがた。坐って、楽にしてください。さてと、ピネロにどんなご用ですかな? これほど若い方々が、最後のお迎えのことなど知りたいはずはないでしょうからね」
青年の若くて正直そうな顔が、ちょっととまどいを見せた。
「それが、つまり、ピネロ先生、ぼくはエド・ハートレイで、これは家内のベティです。ぼくらはその……つまり、ベティに子供ができたんで、その……」
ピネロは、にこやかな笑顔をむけた。
「わかりました。それで、お子さんにできる限りの用意をしてあげるために、どれぐらいまで生きていられるのか知りたいというわけですな。実に賢明なことです。ふたりとも見て欲しいんですか、それとも、きみだけ?」
女のほうが答えた。
「あたしたち、ふたりともと思っているんですが」
ピネロは彼女に笑いかけた。
「そう、そのほうがいい。あなたの寿命の測定には、いまのところ技術的な問題が多少ありますが、すこしなら話してあげられるし、赤ちゃんが生まれたあとで、もっと詳しくということにしましょう。では研究室へどうぞ、始めましょう」
かれは二人の病歴を聞き出し、装置の前へ連れていった。
「まず、ミセス・ハートレイから、どうぞ。そのスクリーンのむこうへ行って、靴と下着以外の着ておられるものを脱いでくださらんか。わたしは年よりだし、医者に診てもらうような気持ちでね」
かれはふりむき、装置をいろいろと細かく調整した。エドがうなずいてみせると、彼女はスクリーンのむこうに隠れ、ほとんどすぐ、あるかなきかの絹の下着を着けた姿になって現われた。ピネロはちらりと見ただけで、彼女の若さにあふれた美しさと、かすかに漂う恥じらいの色に気づいた。
「こちらへどうぞ。まず、体重を測らなければいけないんでね。それです。そこに乗って。電極を口にくわえてください。いや、エド、電気が通っているあいだは、奥さんにさわってはいけません。一分とかからないから。じっとして」
かれが機械のフードの下にもぐりこむと、いくつかのダイアルがぱっと生きかえった。すぐにかれは、心配そうな顔をして出てきた。
「エド、きみは奥さんにさわったかい?」
「いいえ、先生」
ピネロはまたもぐりこみ、こんどは前よりちょっと長いあいだそこにいた。次に出てくるとかれは、女性に台から下りて服を着るようにといった。そして、良人のほうにむいた。
「エド、用意をして」
「先生、ベティの結果はどうだったんです?」
「ちょっと難しいんでね、まずきみのテストをやりたいんだ」
その青年の測定をして出てきたときのかれは、前よりも心配そうな顔をしていた。
エドがどうしたのかと尋ねると、ピネロは肩をすくめ、唇に笑いを浮かべた。
「あなたがたには関係のないことですよ。機械の調整がちょっと狂っているらしい。測定結果を今日、お渡しすることはだからできませんね。機械をオーバーホールする必要があります。明日もう一度来ていただけますか?」
「まあ、それはできると思いますが。あの、機械のことはお気の毒ですが、ひどくなければいいですね」
「ひどくはないですよ、大丈夫。オフィスにもどって、ちょっとゆっくりしていきませんか?」
「ありがとう、先生。どうもご親切に」
「でも、エド。あたし、エレンに会わなければいけないのよ」
ピネロは自分の持てるかぎりの魅力を彼女にふりまいた。
「すこしでいいから、時間をわたしに割いていただけませんか、若くて素敵な奥さん? わたしは年よりなんで、若い人たちと一緒のときの活気が好きなんです。めったに、そんな機会はないんですよ。どうぞ」
かれは二人を穏やかにオフィスに招き入れ、坐らせた。それからレモネードとクッキーを持ってこさせ、かれらに煙草をすすめ、葉巻に火をつけた。
四十分後、博士がフエゴ島における青年時代の冒険話をくりひろげていると、エドは夢中になって聞いていたが、ベティはそわそわして、帰りたそうなそぶりを見せていた。博士が葉巻に火をつけなおそうとひと息つくと、彼女は立ち上がった。
「先生、あたしたち本当にもう帰らなければいけないんです。お話の残りは、明日聞かせていただけませんか?」
「明日? 明日は、時間がないでしょうな」
「でも、今日だってお忙しいですわ。秘書のかたがもう五へんも電話してこられましたもの」
「もう何分かでいいですから、時間を割いていただけませんかな?」
「きょうは本当にだめなんです。先生。約束していますの。待っている人がいますから」
「いくら口説いてもだめなんですね?」
「残念ですが。行きましょう、エド」
かれらが出ていくと、博士は窓際によって街をじっと見下ろした。やがてかれは、そのオフィス・ビルから出ていく二人の小さな姿を見つけた。かれは二人が街角へ急ぎ、信号が変わるのを待ち、通りを横切るのを見守っていた。
かれらが半ばまで歩いたとき、かん高いサイレンの音が聞こえてきた。二つの小さな人影はためらい、もどりかけたがそこで立ちどまり、ふりかえった。
そこへ一台の車がつっこんできた。その急停車した車の下からかれらの姿が見えた。だがもはや人影ではなく、形もわからなくなった衣服のかたまりでしかなかった。
しばらくして博士は窓から離れた。それから受話器を取り上げたかれは、秘書にいった。
「今日これからの予約は取り消してくれ……いや……だれだろうとだめだ……かまわん。取り消してくれ」
かれは椅子にへたりこんだ。葉巻の火は消えていた。だいぶ暗くなってからも、かれはまだ火をつけないまま、それを持っていた。
ピネロは夕食のテーブルにつくと、目の前にならべられた美食家垂派のご馳走を見ながらしばし瞑想した。この料理をかれは特に念を入れて前から注文していて、充分に味わおうと、すこし早めに帰宅したのだった。
それからしばらくして、かれはフィオリ・ド・アルピーニの数滴を舌の上でころがしながら、のどごしにたらしこんでいた。強く甘い香りが口の中で温められ、それが名づけられた元の小さい高山植物を思い出させた。かれは溜息をついた。いい食事だった。凝った料理で、エキゾチックなリキュールによく合っていた。
かれの考えごとは、玄関での騒ぎに破られた。年を取ったメイドの声が怒って高くなった。太い男の声が、それをおさえる。騒ぎは廊下を移動し、食堂のドアがおしあけられた。
「やめて! 入ってはだめですよ! 旦那さまはお食事中なんですからね!」
「いいんだ、アンジェラ。この人たちに会う時間はあるよ。下がっていいからね」
ピネロは、おし入ってきた連中の代表者らしいむっつりした男のほうにむいた。
「わたしに用があるようだね、え?」
「そうともよ。まともな紳士がたは、おめえのくだらねえたわごとは聞きあきたってよ」
「それで?」
そいつは、すぐには答えなかった。もっと小柄ですばしこそうな男が、そいつの後ろから出てきて、ピネロを見つめた。
「始めてもいいだろう」
と、委員長は小型金庫に鍵をさしこみ、それをあけた。
「ウエンツェル、わしを手伝って、今日の封筒を見つけてくれないか?」
そういったかれは、腕に手をかけられて、邪魔された。
「ベアード博士、あなたにお電話です」
「よろしい。受話器をここへくれないか?」
運ばれてきて、かれは受話器を耳にあてた。
「もしもし……はい、わたしですが……何ですと? いや、こちらはまだ何も聞いていない……機械は壊され……死んだですと! いいや! 発表することはない。まったく何もない……あとでまた電話してください……」
かれは、たたきつけるように電話をおき、それをむこうへおしやった。
「どうしたんです? こんどは、だれが死んだんです?」
ベアードは片手を上げた。
「どうか静かに、諸君! ピネロが、いましがた自宅で殺された」
「殺された?」
「それだけではない。同じころ、暴漢どもがかれのオフィスへおし入って、かれの装置を破壊したんだ」
最初はだれも口をきかなかった。委員会のメンバーたちは、おたがいの顔を見まわした。だれも、最初に意見を述べたいとは思っていないようだった。
やっと、だれかが口を開いた。
「出そう」
「何を出すって?」
「ピネロの封筒をさ。それも、そこにあるんだ。わたしは見たんだ」
ベアードはそれを見つけて、ゆっくりと封を切った。
「それで? 読んでくれ!」
「午後一時十三分……今日だ」
みんなが、黙ってそれを受けとめた。
その劇的な静けさが破られた。ベアードとテーブルをはさんだ席にいた委員が、金庫に手をのばしたのだ。ベアードは、その手をおさえた。
「どうするつもりだ?」
「わたしの予想を……そこにある……われわれみんなのが、そこに入っているんだ」
「そうだ、そうだ。われわれみんなのがあるんだ、見てみよう」
ベアードは、両手を金庫にかけた。かれは、前にいる男をじっと見つめたまま、何もいわなかった。かれは唇をなめた。両手がふるえた。それでもまだ何もいわなかった。前の男は、緊張を解いて椅子に坐りなおした。
「もちろん、あなたが正しいな」
と、その男はいった。
「あの屑入れを持ってきてくれ」
そういうベアードの声は低くて張りつめていたが、しっかりしていた。
屑入れを受け取ったかれは、その中身をカーペットにぶちまけてしまった。それから、ブリキの屑入れを、テーブルにのせた。かれは、半ダースほどの封筒を破り、マッチで火をつけ、屑入れに落としていった。ついで、こんどは一度に十枚ぐらいを破り、確実に燃やしていった。
煙でかれは咳こみ、目がしみて涙が流れ出した。だれかが立ち上がり、窓をあけた。全部終わると、かれは屑入れをおしやり、テーブルを見下ろして、口を開いた。
「すまないが、このテーブルの表面をだめにしてしまったな」
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光あれ
理学士にして哲学博士、理学博士アーチボルド・ダグラスは、迷惑そうな顔をかくしもしないで電報を読んだ。
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コンヤツク」ムネツコー(無熱光)ニツキ二二ジ ソチラノケンキューシツデ アイタシ
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[#地付き]ドクター・M・L・マーチン
なんて野郎だ? どういうつもりなんだ? この研究室をなんだと思ってるんだ? ホテルだとでも思ってるんだろうか? しかもこのマーチンというやつは、電報代をもってる何の太郎兵衛さんなら、だれでも彼の時間を思いどおりにできると思っているのか? いんぎん無礼な返事で出鼻をくじいてやりたい気分だったが、そこで電報の発信が中西部のある空港なのに気がついた。よろしい、勝手に来さしてやれ。ダグラスはそんな男に会うつもりは全然なかった。
しかし、もって生まれた好奇心から、彼は科学人名辞典をとりだし、その無礼者をさがしてみる。いたいた、M・L・マーチン、生化学者にして生態学者、PDQ、XYZ、NRA、CIO──ひとりで六人前もの学位をもっている。ふーん、グッゲンハイムのオリノコ河動物区系調査隊長か──著書は『玉ぞう虫の同胞同腹』等々……記事はこまかい活字で三インチもつづいている。この親《おや》爺《じ》は、どうやらヘビーウェイト級らしい。
やがてダグラスは、研究室の洗面所の鏡で自分の姿をながめていた。汚れた研究室用上っぱりをぬぐと、チョッキのポケットから櫛《くし》を出し、つややかな黒い髪を丹念になでつける。擬った仕立てのチェックの上着に、ふちの裁ち落としになった流行の帽子で、街に出る準備完了。浅黒い頬の肌に、型置き刷りしたみたいな青白い傷痕を指先でなでる。傷痕はあっても、そう悪い男前ではないなと、彼は考えた。これで鼻の骨がつぶれてなければ、男ぶりは満点なのに。
彼が食事をしたレストランは、客は少ししかはいっていなかった。劇場がはねるまでは活気は出ないのだが、ダグラスはホットなスイング・バンドとうまい料理を喜んでいた。食事がおわりかけたころ、若い女が彼のテーブルのわきをとおって、ひとつ先のテーブルにこっちに向いて腰をおろした。彼は気をつけてその女を値踏みした。なかなかいいぞ! ダンサーのようなからだつき、コーン色のふさふさした髪、肌の色もいいし、すごく大きなやさしい目。どっちかというとまぬけ面《づら》の感じだが、当たり前なことだろ?
彼はその女をさそって一杯飲もうと思った。場合によっては、マーチン博士なんか悪魔にくれてやっちまってもいい。メニューの裏に走り書きで伝言を書くと、給仕に合図する。
「レオ、あれはだれだい? ダンサーかい?」
「いえ、ちがいます。はじめて見る顔ですね」
ダグラスはくつろいで結果を待った。顔を見たとき、おいでおいでというような顔つきに気がついたし、うまくいくことは自信があった。女は伝言を読んで、かすかな笑顔で彼のほうにちらっと目を向けた。彼も興味をもって笑顔をかえす。女は給仕から鉛筆を借りて、メニューに何か書きつけた。すぐにレオがそれを彼に渡す。
「残念ですが、それにご親切なおさそいはありがたいのですが、ほかに約束がありますので」と書いてあった。
ダグラスは勘定をすますと研究室に帰った。
彼の研究室は父親の工場の最上階にあった。マーチン博士がくると思ったので、外のドアはあけっぱなしにし、エレベーターも下におろしておいたが、やがて彼の遠心分離機の耳ざわりな震動のもとをさぐる仕事に夢中になっていた。ちょうど十時に、エレベーターのうなる音が耳にはいった。外側の戸口に出ていくと、ちょうど客がついたところだった。
目の前に現われたのは、彼がレストランで引っかけようとした蜜のような色の髪をしたお姐《ねえ》ちゃんだった。
彼はすぐにカッとなった。「どうやってここへきた? つけてきたのか?」
彼女もすぐにぎくっとなった。「わたし、ダグラス博士にお目にかかる約束です。わたしがきたと取り次いでちょうだい」
「とんでもない話だ。これはいったいなんのいたずらなんだ?」
彼女は自分を押えていたが、その顔には苦心の色が浮かんでいる。「ダグラス博士に聞けば、いちばんよくわかると思うわ。わたしがきたといって──すぐによ」
「目の前にいるさ。ぼくがダグラス博士だ」
「あんたが! 信じられないわ! あんたはまるで──ギャングみたいだわ」
「しかし、ぼくがそうなんだ。さあ、道化はいいかげんにして、どんな用事か話してもらおう。きみの名は?」
「わたし、M・L・マーチン博士です」
彼は完全にあっけにとられたような顔をしたが、こんどはおもしろくなって叫んだ。「まさか冗談じゃないだろうね? 田舎のいとこをだますようなまねはしないだろうね? じゃ、さあどうぞ博士、なかへどうぞ」
彼女は、はじめての場所にはいりこんだ犬みたいに、疑い深く、挑発にはいつでも反撃するという構えでついてきた。すすめられた椅子のところへ行くと、また彼に向かっていう。「本当にあんたがダグラス博士?」
彼はにやりと笑って見せた。「正真正銘この肉体にまちがいなし──証拠を見せてもいい。きみのほうは? ぼくはまだ、これは何か新手の押売りの一種みたいな気がするんだが」
彼女はまたからだをこわばらした。「では何を見せろというの──出生証明書でも見せろというの?」
「きみはマーチン博士をエレベーターのなかで殺し、爺さんの死骸をエレベーターのシャフトに落としてきたのかもしれない」
彼女は腰をあげた。手袋とバッグをまとめると、出て行こうとする。「こうやって会うために、千五百マイルの旅をしてきたんだけど、わざわざきて損をしたわ。さよなら、ダグラス博士」
彼はすぐになだめにかかった。「いや、そう怒らないで──ちょっとからかっただけなんだから。有名なマーチン博士がこんなにマリリン・モンローみたいな姿をしてると思ったら、ただうれしくなっちまってね。さあ、また腰をおろして」そっと彼女の手から手袋を引きはなす。「さっきはことわられたけど、一杯ごちそうさせてもらいたいな」
彼女はまだ怒ろうとしているみたいにためらっていたが、やがて生まれつきの人柄のよさが彼の味方をして、彼女もくつろいだ。「いいわ、しょうがない」
「そのほうがいい。何にする? スコッチかバーボンか」
「バーボンにして──あまり水をいれないでね」
飲みものの用意ができて、たばこに火がついたころには、緊張はほぐれていた。「ねえ、こうして来てくれたのは、ぼくになんの用事?」彼は切りだした。「生物学のことはぼくは何も知らないんだ」
彼女は煙を輪に吹くと、紅く爪を染めた指で煙の輪を刺した。「四月号の『物理評論』にあんたが書いた論文、おぼえてるわね? 無熱光の論文で、無熱光を作る可能性を論じたものよ」
彼はうなずいた。「電子無熱光対化学無熱光だ。生物学にはあまり関係はないけど」
「でも、わたしも同じ問題に取り組んでたのよ」
「どういう角度から?」
「発光する昆虫がどういう方法でやっているのかさぐりだそうとしていたのよ。南アメリカのほうでとてもよく光るのを見て、考えるようになったのよ」
「ふーん──何かつかんだのかもしれないな。何がわかったの?」
「これまでにわかってること以外、大したことはないわ。あんたも知ってるでしょうけど、螢というのは、まるで信じられないくらいむだのない発光源なのよ。少なくとも九十六パーセントは光に変えてるわ。ところで、ふつうの町で売っているタングステン白熱電球は、どのくらいの効率だと思う?」
「せいぜい二パーセントをこえないな」
「そんなとこね。それをばかな小さな虫が、なんの苦労もしないでその五十倍もの効率をあげている。人間もだらしがないと思わない?」
「あまりえらくはないね」彼も認めた。「その螢の話をもっと聞こう」
「ええ、螢はおなかのなかにルシフェリンという、黄燐に似たとても複雑な能動的有機体をもってるのよ。これが触媒のルシファラーゼのあるところで酸化すると、酸化によって生じる全エネルギーがグリーンの光に変わる──熱は出ないのよ。水素だけ残って、それがまたすぐに活用される。実験室でどうすればいいのかわかったわ」
「なんだって! それはおめでとう! それならぼくは必要ない。この研究室は閉鎖してもいいな」
「そう早合点しないで。まだ商売になるほどじゃないのよ。あまりやっかいなことが多すぎて、それに強い光は出せないのよ。それで、協力してもらえないかと思ってきたのよ。おたがいの知識をあわせて、何か実際的な方法を生みだせないかと思って」
三週間後、夜明けの四時にM・L・マーチン博士──親しい人間にはメアリー・ルー──は、ブンゼン灯でフライド・エッグを作っていた。ショーツとセーターの上に、長いゴムの研究室用のエプロンをかけている。長い蜜色の髪は、乱れた波に垂らしていた。格好のいい脚を伸ばしているところは、何か甘ったるい婦人雑誌の口絵から出てきたみたいだった。
彼女は、ダグラスが力つきただらしのない肉塊のようにひっくりかえっている肘掛椅子のほうにふりかえった。「ねえお猿さん、パーコレーターが煮えくりかえってるようだけど。コーヒーはその分留器でわたしがいれるの?」
「分留器には蛇の毒をいれたんじゃないかな」
「そうよ。でも洗っといたわ」
「おどろいた女だ! そんなことして、危ないじゃないか? きみだけじゃなく、ぼくにとってもだよ」
「何いってるの──蛇の毒は飲んだって平気よ。あの安ウィスキーで胃癌にでもなってたら別だけど。元気を出しなさいよ!」
彼女はエプロンをわきにほうりだすと、腰をおろして膝を組んだ。
「メアリー・ルー、なぜきみは、研究室でもう少し何か着るものを身につけないんだ? ぼくのロマンチックな根性の目をさまさせるじゃないか」
「ばかいってるわ。そんな根性はありもしないくせに。さあ、問題をおさらいしてみましょう。どこまでいったのかしら?」
彼は髪を片手でひっかくと、唇を噛んだ。「石の壁にぶつかったようなものらしい。これまでやってみたところでは、まだなんの見こみもないな」
「問題は本質的には、なかにこもっている放射エネルギーのどれかが目に見える周波をもってるってことらしいわね」
「いやにかんたんそうにいうね、お利口さん」
「皮肉はやめて。だけど、ふつうの電灯のむだな損失というのは、そこなのよ。芯線が白熱されて、二パーセントだけが光になり、あとは赤外線と紫外線になってしまうのよ」
「おみごと。たしかにそのとおりだよ」
「まじめに聞いてよ、犬猿さん。あんたが疲れてるのは知ってるけど、ママのいうことを聞きなさい。その波長をぐっと変える方法が何かあるはずよ。ラジオでやってる方法はどう?」
彼は少し元気が出てきた。「この場合は使えないな。目に見える範囲の自然反響波長の自己誘導回路ができたとしても、個々の発光装置に部品がかかりすぎるだろうし、ちょっとでも狂ったら光は全然出なくなるからね」
「波長を制御する方法はそれしかないの?」
「そう──まあ実際的にはそれだけだな。ラジオ放送で、とくにアマチュアだが、特殊な形に切った水晶の結晶体を、それ自身の天然の波長を管制する性質から、鉱石検波器として使っているところがある」
「だったら、なぜ水晶を、天然の波長が目に見える光と合うように切れないの?」
彼はいやにまっすぐからだを起こした。「そうだ、そうだよ! きみはいいとこ当てたらしいぞ」
立ち上がって、大股に歩きまわりながら、しゃべりつづける。
「連中はふつうの波長にはふつうの水晶を使い、短波放送には電気石を使ってるんだ。震動周波は、水晶の切り方ひとつで変わるんだ。かんたんな数式なんだが──」口をつぐむと、厚いインディアン・ペーパーのハンドブックを出した。「ふーむ──あった、これだ。水晶は結晶の厚み一ミリごとに百メートルの波長を出す。もちろん波長と周波数は相関的なものだ。電気石も、ちょっと短い波長で同じような式になっている」
彼は読みつづけた。「この結晶体は荷電を受けるとたわむ特性をもち、逆にたわみを受けると荷電する。このたわみの周期は結晶体の本来の属性で、その形体の比率に左右される。ラジオ発信器回路に接続するには、その結晶体に適当なひとつの──ただひとつの周波数に合うような結晶体でなければならない。つまり、これだよ、きみ! いま、もしぼくたちが目に見える光の波長で震動するように切りとれる結晶体を見つければいいんだ──電気エネルギーを熱による損失なしに光にかえられるんだ!」
メアリー・ルーは感心したように口を鳴らした。「いい子ちゃんね! ママには、坊やがやってみさえすればできると、わかっていたのよ」
それから六カ月近くたって、ダグラスは成果を見てもらうため父親を研究室に招いた。おだやかな銀髪の老紳士である父親を、この聖域の奥の院に案内して、メアリー・ルーにシェードをおろすように合図をする。それから、天井を指さした。
「それですよ、おとうさん、無熱光──ふつうの照明のほんの何分の一という経費の電灯ですよ」
父親は上を見上げ、天井から吊った大きさも型もカード・テーブルぐらいのグレイのスクリーンをながめた。そこでメアリー・ルーがスイッチをいれる。スクリーンが煌々と輝いたが、まぶしさはなく、真珠母貝のような虹色の光だった。部屋はとくに目立つようなまぶしさのない強い白光に照らし出された。
若い科学者は、頭をなでられるのを待つ小犬みたいに、うれしそうに父を見てにやりとした。「どうです、おとうさん? 百燭光ですよ。ふつうの電球だと百ワットかかるのに、これは二ワットですよ一四ボルトで二分の一アンペアを流してるだけですよ」
老人はこのはなやかな見ものを、ぼんやりと見つめていた。「とてもいいな、うん、まったくよくできた。おまえの仕事が完成して、わしもうれしいよ」
「ねえ、おとうさん──あのスクリーンがなんでできてるか知ってますか? ただのありふれた粘土ですら珪酸アルミナの一種で、粘土からでも鉱石からでも、アルミを含んでいるものからなら、なんでも安上がりにかんたんに作れるんです。ボーキサイトでも水晶石でも、なんでもたいていのものは使えるんですよ。連邦内のどの州でも、パワー・ショヴェル一台でいくらでも原材料は集められるんです」
「それで、工程はすっかり完成して、特許をとる準備はできたのかね?」
「そりゃもう、できてると思いますよ」
「だったら、おまえの事務所へ行って腰をおろそう。おまえと相談したいことがあるんだ。そのお嬢さんにもくるようにいってくれ」
若いダグラスは、いわれたとおりにした。父親のおごそかな態度に、ちょっと気分が沈む。三人が腰をおろすと、彼は口を開いた。
「おとうさん、どうかしたんですか? ぼくで役に立つことなら……」
「アーチー、できることならおまえに力になってもらいたいんだが、だめらしいな。わしはこの研究室を閉鎖してくれと、おまえに頼まねばならなくなるだろう」
息子は眉をひそめずにこの言葉を聞いた。「それで、どういうことなんです?」
「おまえも知ってるとおり、わしはおまえの仕事を得意に思ってきたし、おまえのママが死んでからは、おまえの研究に必要な金と資材をあたえてやることが、わしの大きな目標になってきていた」
「とても気前よくしてくれましたね」
「そうしたかったんだ。だが、とうとうこの工場も、これ以上おまえの研究をささえてやれなくなる時期がきた。実際のところ、この工場も閉めてしまわなければならんだろうな」
「そんなにひどいんですか? この四半期も受注増だと思ってました」
「注文はいくらもある。だが、商売としてみると利益が上がらんのだよ。議会のこの前の会期に、公益事業法というのが通ったことで、おまえに何か話したのをおぼえてるかね?」
「ぼんやりおぼえてますが、知事が拒否権を発動するだろうと思ってました」
「知事はそうしたんだが、拒否権を押して通してしまったんだ。この州はじまって以来の大胆不敵な疑獄事件だよ──圧力団体が両院の議員を、身も心も買収しきってしまったんだ」老人の声はやりばのない怒りにふるえた。
「それで。それがこっちにどんな影響があるんです?」
「この法律は、うわべは情況にあわせて電力料金を公平にするというんだが、実際は委員会に需要者側のなかでこれはと思う相手に差別扱いをさせることを許したようなものだ。委員会がどんなものかは知ってるだろう──わしはいつも、政治的には損なほうの側にまわっていた。いま、あの連中は電力料金でわしを窮地に追いつめ、対抗できなくさせているんだ」
「しかし、そんなむちゃな──そんなことをさせとく法はありませんよ。裁判にかけたらいいんだ!」
「この州でかい?」白い眉毛が上がる。
「いや、だめだろうな」彼は立ち上がって、部屋のなかを歩きまわりはじめた。「なんとかする手があるはずだ」
父親は首をふった。「わしが本当にこれで腹が立つのは、やつらが本当は国民のものである電力をたねに、こんなことをやれるということだ。連邦政府の計画で、安い電力がふんだんに使える見こみができて、おかげで国も富もうというのに、あの地方自治体に巣食う海賊どもがそれをかっかじめて、自由な国民を手も足も出ないようにする棍棒がわりに使うんだ」
老紳士が帰って行くと、メアリー・ルーがすっとダグラスのそばにより、肩に手をかけて顔をのぞきこんだ。
「かわいそうな坊や!」
彼の顔には、父親にはかくしていた狼狽の色が現われていた。「ちきしょう! ねえメアリー・ルー、これからうまく行こうというときにこんなことになるなんて! ぼくは、何よりもまず父のためにと思ってやってきたんだ」
「そうよ、わかってるわ」
「それを、ぼくにはこれについては何ひとつしてやれない。政治のことなんだ。しかも、あの太鼓腹のやくざどもが、この州を乗っとっちまってるんだ」
彼女は当てがはずれたように、ちょっと眉をひそめた。「なぜよ、アーチー・ダグラス、あんたって大きな意気地なしの|おねしょ《ヽヽヽヽ》たれね! そんなやつらにそんな勝手なまねをさせて、戦いもしないで見のがすつもり?」
彼はぼんやりとメアリー・ルーを見上げた。「いや、もちろん、ただではずませないさ。戦うよ。だが、負けることは目に見えている。ぼくにとっては場ちがいの戦場だからね」
彼女はぷいと部屋の向こう側へ行ってしまった。「あんたにはあきれたわ。発電機の発明以来の最大の発明をしたくせに、あっさり負けちまうなんていうんだから」
「きみの発明のことだろ」
「ばかね! あの特殊な分子構造を見つけだしたのはだれよ? それをまぜ合わせて、光線の全波長をまとめたのはだれなの? それに、あんたにとっても場ちがいの戦場じゃないわ。間題はなんなのよ! 電力じゃないの! 向こうは電力を締めてきてる。あんたは物理学者よ。そんな連中から買わないで、電力を作りだす方法を何か考えなさいよ」
「何から作ったらいいんだ? 原子力かい?」
「現実的におなりなさい。あんたは原子力管理委員会の委員じゃないのよ」
「屋根に風車を立てるか」
「そのほうがましよ。でも、それじゃだめ。さあ、その背骨のてっぺんについてるかたまりを、せっせと動かせなさい。わたしはコーヒーでもいれるわ。今夜はまた徹夜仕事よ」
彼はにやりと笑韻を見せた。「わかったよ。扇動家キャリー・ネーション二世。賛成!」
彼女はうれしそうな笑顔を向けた。「そう、その意気よ」
彼は立ち上がってそばによると、片腕を彼女の胴にまわして接吻した。彼女はゆったりと彼に抱かれていたが、唇が離れると彼を押しのけた。
夜明けの最初の光がふたりの顔を青白く病人じみた色に照らしたころ、ふたりは二枚の無熱光スクリーンを向かいあわせに立てていた。アーチーが、間隔が一インチになるように調整する。「さあよし──たしかにこれで、こっちのスクリーンの出す光がもう一枚のに当たるはずだ。こっちのスクリーンに電気をいれてくれよ、お色気姫」
彼女がスイッチをいれる。最初のスクリーンが光に輝き、第二のスクリーンに光を浴びせた。
「さあ、われらがみごとな理論が正しいかどうかを見るんだ」電圧計を第二のスクリーンの微少につなぎ、電圧計の下の黒い小さなボタンを押す。針がピョンと二ボルト以上はね上がった。
彼女が熱心に彼の肩ごしにのぞきこむ。「どう、成績は?」
「うまくいったぞ! まちがいないよ。このスクリーンは両方の働きをするんだ。電流を流せば光を出す。光を当てれば電気を出す」
「アーチー、電力の損失は?」
「ちょっと待った」電流計をつないで、目盛りを読むと、計算尺をとりあげる。「えーと──損失は三十パーセントぐらいだな。大部分はスクリーンのまわりからもれた光になったんだろう」
「お日さまが上がってきたわよ、アーチー。そっちのスクリーンを屋根の上にあげて、日光でためしてみましょうよ」
数分後、ふたりは第二のスクリーンと電気計器を屋上にあげていた。アーチーがスクリーンを天窓から出して、昇ってくる太陽に向け、その端子に電圧計をつないで目盛りを読む。針はまた二ボルトのところへピョンと上がった。
メアリー・ルーがこおどりする。「うまくいくわ!」
「そのはずさ」アーチーがいった。「向こうのスクリーンの光で電流が出るなら、日光でだって出るはずだよ。電流計をつないでみてくれ。どのくらいの電力がとれるか見よう」
電流計は十八・七アンペアを示した。
メアリー・ルーがその成果を計算尺で計算する。「十八・七掛ける二だから、三十七・四ワット、あるいは百分の五馬力ぐらいということね。大したことはないみたいね。もっと出るかと思ったわ」
「そりゃそうだよ。目に見える光だけしか使ってないんだから。光源としての太陽の効率は十五パーセントぐらいで、あとの八十五パーセントは赤外線と紫外線なんだ。その計算尺を貸してくれ」彼女が計算尺を渡す。「太陽は地球で太陽に直面した一ヤード平方ごとに、一馬力半あるいは八分の一キロワットのエネルギーをそそいでいるんだな。大気による吸収が、サハラ砂漠の白昼でも三分の一ぐらいある。だから、一ヤード平方で一馬力だろう。日が昇ったばかりでは、この一ヤード平方では三分の一馬力以下だろうね。その十五パーセントの効率だから、約百分の五馬力だ。ぴったりだ──証明おわり──何をそう陰気な顔でにらんでるんだい?」
「だって──屋上からこの工場を動かせるだけの太陽エネルギーをとれると心頼みにしてたのに、一馬力をとるのに二十平方ヤードもいるんでは、だめだわ」
「元気をだせよ、かわい子ちゃん。ぼくたちは目に見える光の波長帯だけに震動するスクリーンを作ったんだ。のっぺらぼうの、どんな波長にも応じるやつを作ることはできると思うよ。そうすれば、そいつはぶつかってくるあらゆる放射エネルギーを受けて、また電力に変えてくれる。この屋根で、白昼には千馬力も出せるかもしれない。そうなったら、曇った日や夜業のために電力を貯えておけるように、貯蔵蓄電池をずらりとならべなきゃならないな」
彼女は大きな青い目をむいて彼を見た。「アーチー、あんたの頭って、頭痛を感じたことないの?」
二十分後、彼はデスクにもどり、予備的な計算に没頭していた。メアリー・ルーはその間に、即席のありあわせの朝食の用意。
彼は顔をあげた。「マーチン博士、めんどうな料理なんかほっとけよ」
彼女はふりかえって、フライパンを彼の上にふりかざす。「お殿様、なんでもおおせのとおりにいたします。だけどアーチー、あんたって人生の高級なことにはなんの感情ももたない、教育を受けすぎたネアンデルタール原人みたいな人ね」
「その点では議論はしないよ。だけど、こいつを見てくれ。答えがつかめた──あらゆる波長に応じるスクリーンだよ」
「冗談じゃないでしょうね、アーチー?」
「冗談じゃないんだよ。これまでの実験ですでに見当はついてたはずなんだが、こっちはいいかげんな波長には応じないスクリーンを作ろうとして夢中になってたから、見落としちまってたんだ。それに、ほかにもえらいことにぶつかったよ」
「さあ、なんでもママにおっしゃい!」
「無熱光を出すスクリーンと同じに、ぞうさなく赤外線を放射するスクリーンが作れるんだ。わかるかい? どんなサイズにでもどんな形にでもなる便利な暖房装置だ。経済的で、強い電力も食わず、過熱で火事の危険や子供たちに危ない思いもしなくてすむんだよ。こう考えてくると、いろんなスクリーンが設計できるな」彼はひとつずつ指を折りながらいった。「第一に、ほぼ百パーセントの効率で太陽のエネルギーを吸収するもの。第二は無熱光を出すもの。第三は熱。第四は家庭電力用。それを必要な電圧ごとにそろえてたくわえておけるんだ。直流でも交流でもお望みのままにいっしょにたくわえておけるし、この電力は完全にただなんだ。設備費用だけでね」
彼女は立ち上がると、口を開く前に、しばらく彼の顔をだまって見守った。「それもみんな、安い電灯を作ろうとしてできたものね。スタインメッツ電気大博士、朝ご飯にいらっしゃい。あんたたち男は、おかゆなんかを食べてては仕事はできないわよ」
ふたりはだまって食事をした。めいめい新しい考えに頭のなかがいそがしい。やっとダグラスが口を開いた。「メアリー・ルー、こんどのこれが、どんな大きなことかわかるかい?」
「いま、それを考えてたのよ」
「すごく大ごとだよ。ねえ、これで手にいれられるエネルギーは、信じられないくらいなんだ。太陽は地球につねに二百三十兆馬力以上を降りそそいでいて、われわれはそれをほとんど使っていないんだからね」
「そんなにたくさんなの、アーチー?」
「自分で計算してみても信じられなかったんで、リチャードソンの天文学の本を見たんだ。そうだ、どんな都市の一画でだって、二万馬力以上のエネルギーを回収できるんだよ。これがどういうことか、わかるかね? 無料のエネルギーだ! 万人の富なんだ! 蒸気機関以来の最大の発明だよ」急に彼女の暗い表情に気がついて、口をつぐむ。「どうしたんだい? どこかぼくのいうことにまちがいがあるかね?」
彼女は返事をする前に、しばらくフォークをひねくりまわしていた。「そうじゃないのよ、アーチー──あんたのいってることに、まちがいはないわ。わたしもそれを考えていたのよ。都市の分散、万人に労力を省く機械を、ぜいたくを──なんでも可能なのよ。だけど、なんだかわたしたちが、いまからとんでもないやっかいなことにまきこまれるような気がするのよ。損害賠償会社って聞いたことない?」
「なんだい? つぶれた会社の救済でもする会社?」
「長い目で見ると、そうじゃないのよ。あんたも『アメリカ物理学会報告』以外にも、何か読むべきよ。たとえば、ジョージ・バーナード・ショオのものなんか。『メトセラへ帰れ』の前書に書いてあったけど、産業会社が力をあわせて、自分たちの配当を脅かしかねない変化には何にでも抵抗するところを嘲笑的に書いていたわ。あんたは全産業機構を脅かすのよ。身の危険がせまっているわけよ。原子力がどういうことになったと思う?」
彼は椅子をうしろに引いた。「まさか! きみはただ、疲れて神経が立ってるだけだよ。産業は発明を歓迎する。そうだろ、大会社はどこでも、国中の一流の人間を集めて、研究部門として働かせているじゃないか。それに、もうみんな原子力には夢中だよ」
「たしかにそうよ──それに、頭のいい若い発明家なら、だれだってそういうところに雇ってもらえるわ。そのうち、会社の人質になって、発明は会社のものになる。それに、陽の目を見るのは会社につごうがいい型の発明だけよ。あとはみんなお蔵いり。その連中が自由な立場のあんたに、何億ドルもの投資をひっくりかえさせるようなまねをさせると思って?」
彼は額にしわをよせたが、やがてくつろいで笑った。「まあ、忘れちまえよ、そんなこと。それほど深刻な問題じゃないよ」
「あんたがそう思ってるだけよ。セラニーズ・ボイルって聞いたことある? 知らないでしょうね。合成繊維の布地で、シフォンの代用になるのよ。ただ、この人絹の紗のほうが保ちがよくて洗濯もきくし、原価は一ヤードたった四十セントぐらいなのよ。本当のシフォンはその四倍もかかるのにね。でも、それはもう手にはいらないのよ。
「それに、剃刀《かみそり》の刃を考えてごらんなさい。うちの兄は五年ばかり前に、研がなくてもいいのを一枚買ったわ。いまでもそれを使ってるけど、もしそれをなくしたら、また昔のようなのを買わなきゃならないのよ。その刃は市場から追い出されてしまったのよ。
「ガソリンより安くていい燃料を発見した連中のことを聞いたことある? 四年ばかり前にそういう男が現われて、自説を証明してみせたのよ──でも、二週間後にその男は、水泳事故で死んだわ。その男が殺されたんだとはいわないけど、その男の発見した合成法がとうとう見つからなかったというのが、ずいぶんへんだわ。
「それに、いまの話で思いだしたけど──前にロサンゼルス・デイリー・ニューズの切り抜きで読んだことがあるわ。サン・ディエゴで、ある大型の標準車を買った男が、ガソリンをいれてロサンゼルスまで走らせたのよ。ところが、二ガロンしかかからなかった。それから、アグア・カリエンテへ行ってサン・ディエゴに帰っても、三ガロンしかかからなかった。一週間ばかりして、車の販売店の連中がその男を見つけて、お金をたんまりやって車をとりかえたんだって。うっかり売り物じゃない車を売ってしまったというのよ──特殊な細工をしたカーピュレーターのついてる車なのよ。
「大型車で一ガロンで七十マイル走れる車なんて聞いたことある? 考えられないわよ──損害賠償会社が世間を支配している間はね。でも、この話はいいかげんな話じゃないのよ──新聞のとじこみを見れば見つかるわ。
「それに、自動車が保ちがいいように作られていないことは、もちろんだれでも知ってるわ。車は保たないように作られているし、だからみんな新しい車を買うのよ。やっと売れる程度のひどさに作っているだけなのよ。蒸気船のほうが車よりずっと酷使されてるけど、船は三十年やそれ以上も保ってるわ」
ダグラスは笑いとばした。「やさしいパイ子ちゃん、暗い考えはよせよ。きみは被害妄想にかかってるんだ。もっと明るいことを話そうよ──たとえば、きみとぼくのこと。きみはコーヒーをいれるのがすごくうまい。どう、いっしょに暮らす許可証というやつをもらわないか?」
彼女はその言葉を黙殺した。
「ねえ、かまわないだろ? ぼくは若くて健康だよ。もっとひどいやつにぶつかるかもしれないぜ」
「アーチー、南アメリカで土人の酋長にいいよられた話したかしら?」
「おぼえがないな。そいつがどうした?」
「わたしと結婚しようというのよ。そのときいた十七人の妻をみんな殺しちまって、婚礼のごちそうに出してもいいとまでいってくれたわ」
「それが、ぼくのプロポーズとなんの関係があるんだい?」
「あの人にきめとけばよかったわ。ちかごろでは、女はいい条件の話はことわってはいられないのよ」
アーチーは、はげしくたばこを吹かしながら、研究室のなかを行ったりきたりしていた。メアリー・ルーは実験台の上に腰かけて、心配そうに彼を見つめる。彼が吸いさしのたばこから新しいたばこに火をつけようと足を止めたとき、彼女はその注意を引いた。
「ところで大先生、いまの情況はどうごらんになります?」
彼はたばこに火をつけると、手をやけどして、単調に悪態を吐《つ》いてから答えた。「ああ、きみのいうとおりだったよ、女予言者殿。こんなやっかいなことがあろうとは思いもかけなかったような窮地に落ちたよ。最初は、太陽光線のエネルギーをとって走らせる電気自動車を、歩道のはしに止めておいたら、だれかが上から灯油をかけて燃しやがった。そのくらいのことなら平気だが──これは向こうのほんのおまけだったんだ。売れという申し出をことわったら、やつらはありとあらゆるでたらめな訴状でこっちを訴え、こっちを疝《せん》気《き》になった坊やみたいに身動きもできなくさせた」
「向こうには、何も法的根拠はないのよ」
「わかってるよ。だが、向こうには金は無尽蔵にあるし、こっちには金がない。向こうは何カ月でも──何年でも裁判をつづけられるだろうが、あいにくこっちは、そこまでもたない」
「次にはどんな手を打つの? きょうの約束、出かけるの?」
「行きたくないなあ。また金で買い取ろうというんだろうし、凝ったやり口で脅迫もするだろうな。親父さえいなければ、消えて失せろとどなりつけてやるとこなんだがねえ。親父のうちにももう二回もだれか押しいってるし、親父も年だからそういうのには耐えられないんだよ」
「工場のあの労働問題でも、おとうさんはすっかり頭を悩ましてるんでしょうね」
「もちろんそうだよ。それに、もめはじめたのが、このスクリーンを商品として作りはじめたときからだから、これもきっと敵の工作の一部にちがいないね。親父はこれまで、労働問題なんかで悩まされたことがないんだよ。いつもちゃんとユニオン・ショップ制の組合を作らせて、部下を家族の一員のように扱ってきたんだからね。親父が気が弱くなってきたのも責められないな。ぼくだって、どこへいっても尾行につけられてるのには、うんざりしてきた。ビクビクもしてくるよ」
メアリー・ルーはたばこの煙の雲を吹き上げた。「わたしもこの二週間ばかりつけられてたわ」
「なんだって! メアリー・ルー、もう肚はきまったよ。きょうこそ、話をつけてやる」
「売っちまうつもり?」
「とんでもない」デスクのところへ行くと、わきの引出しをあけて、三八口径自動拳銃を出し、するっとポケットにいれた。メアリー・ルーは実験台からとびおりて、彼に走りよる。両手を彼の肩にかけ、不安の色を見せてじっと彼を見上げる。
「アーチー!」
彼はやさしく答えた。「なんだい?」
「アーチー、無鉄砲なことはやらないでね。あんたの身にもしものことがあったら、……あたしがまともな男の人といっしょにやっていけないのはわかってるでしょ」
彼はその髪を軽くたたいた。「いまのせりふは、ここ何週間にぼくが聞いたいちばんいいせりふだよ」
ダグラスは午後一時ごろ帰ってきた。メアリー・ルーはエレベーターのところまで迎えに行く。「どうだった?」
「あいかわらずの同じ歌と踊りさ。勇ましい約束をしてったけど、どうにもならなかったよ」
「向こうは脅かしてきた?」
「正確には脅迫とはいえないな。生命保険はいくらはいってると聞いてたよ」
「なんていってやったの?」
「全然はいってないとね。ハンカチを出すとき、拳銃をもってることを見せつけてやった。そのおかげで、向こうはやろうと思っていたさし当たっての計画を引っこめたらしいよ。それっきり、話はこわれたみたいな形になって、ぼくは帰ってきてしまった。例のとおり、あのメリーちゃんの小羊がずっとうちまでつけてきたがね」
「きのう尾行してた、あのへんな顔をしてたやつでしょ?」
「あいつだ。さもなければ、あいつの双子の兄弟だな。もっとも、考えてみれば、あいつに双子の兄弟がいるとは思えないな。あんなすごい顔してたら、生まれたとたんに相手の顔を見て、ふたりとも引きつけて死んじまってるだろうよ」
「ほんと。お昼はすました?」
「まだだ。実験室の食堂でのんびりして、カン詰でも食べるか。頭を悩ますのはあとまわしにしてもいいよ」
食堂はガランとしていた。ふたりはあまり話はしなかった。メアリー・ルーの青い目は、彼の頭の上をぼんやり見つめている。二杯目のコーヒーを飲むとき、彼女が手を伸ばして彼の手にふれた。
「落ちついて──そうよ、それこそわたしたちがやらなければならないことだわ」
「おいおい、わかるような言葉で話してくれよ」
「いまやり方を話すわよ。わたしたちはなぜ責め立てられてるの?」
「向こうのほしいものをもってるからさ」
「全然ちがう。わたしたちは、向こうがかくしてしまいたいものをもってるのよ──それをほかのだれかに渡したくないものなのよ。だから向こうは、買いとってしまおうとしたし、脅かしてやめさせようとするのよ。それがうまくいかなければ、もっと強い手を打とうとしてくるわ。いま、あんたは向こうの連中にとっては危険な存在で、しかもあんたが秘密をもっているから、向こうがあんたにとって危険なのよ。これが秘密でなくなったらどうなる? もし、みんながこれを知ったら?」
「向こうはすごく怒るだろうね」
「そうよ。でも、何をするかしら? 何もしやしないわよ。ああいうおえら方は、なかなか勘定高いのよ。あんたが自分たちのふところにもう役に立たないとなったら、あんたを責めたてるために小銭一枚使いやしないわ」
「それで、どうしようというんだい?」
「秘密を公開しちゃうのよ。世間に、どういう発明をしたか発表するのよ。電力スクリーンと照明スクリーンを、作りたい人にはだれにでも作らせるのよ。まぜ合わせて加熱する工程はかんたんだから、やり方さえ話してやれば、どこの薬剤師にだってまねできるわ。それに、戸口にころがってるような材料から、いまの機械ですぐにこれを作れる工場は、少なくても千はあるはずだわ」
「おいおいメアリー・ルー、しかしそれじゃこっちは見殺しにされちまうようなもんだぜ」
「損なんか何もないはずでしょう? これまで工程を秘密にしていて、わずか二千ドルばかりしかはいってこなかったわ。これを公開すれば、特許はまだあんたがもってるんだから、わずかな特許使用料を取り立てるのよ──使う側でごたごたを起こすのもめんどうだと思うくらいの少額、作ったスクリーンの一ヤード平方につき十セントでもいいわ。最初の一年に何百万平方ヤードものスクリーンが生産されるだろうから、最初の一年だけでも何十万ドルよ。それに、一生大金がころがりこんでくるわ。この国でいちばんりっぱな研究室だって作れるわよ」
彼はパタンとナプキンをテーブルにおいた。「ああ、きみのいうことを信じるよ」
「忘れないでよ、あんたのやることはお国のためにもなるんだっていうことをね。南西部一帯にわっと工場が建つわ──陽当たりのいいところは、どこでもそうよ。無料の電力! あんたは新しい解放者になるわ」
彼は目を輝かして立ち上がった。「やろう! 親父にこの決心を話すのに三十秒かかるが、それから町じゅうに大さわぎを起こしてやろう」
二時間後、全国の通信社のテレタイプが、この話をカチカチと流していた。ダグラスは、公表するということを条件に、発表に技術的な詳細を加えると主張したのだった。彼とメアリー・ルーが連合通信のビルから出たころには、町には最初の号外が出ていた。
「天才科学者、無料エネルギーの公開を許す」
アーチーはその号外を買って、尾行していたごつい男を呼んだ。
「こいよ、色男。もう消火栓に化けるようなまねはやめてもいいんだぜ。使いを頼みたいんだ」まぬけな男に号外を渡す。男は気味悪そうに受けとった。これまでの長い不快な人生経験で、尾行していてこれほど紳士的にあつかわれたときのエチケットは知らなかったのだった。「この号外を親分のとこへもってっていってやれ。アーチー・ダグラスからのラブレターだとな。いつまでも目をむいてぼくを見てるんじゃない! そのまぬけな面《つら》をぶち割られないうちに、とっとと行け!」
男が人ごみにかくれるのをアーチーが見送っていると、メアリー・ルーがそっとその手に手をかけた。「ちっとはせいせいした?」
「すごくね」
「心配ごとはすべて片づいた?」
「ただひとつを残してね」彼はメアリー・ルーの肩をかかえると、ぐるっと向きなおらせた。
「きみとけりをつけたい議論があるんだ。来てくれ!」彼女の手首をつかむと、十字路にぐんぐん引っぱって出ていく。
「いったい、どうしたのよ、アーチー! この手を離して」
「離せないね。向こうの建物が目にはいらないかい? あれは裁判所。犬の鑑札を出してる窓口のすぐとなりが、結婚許可証をもらえるところだよ」
「あんたなんかと結婚しないわよ!」
「いや、結婚するさ──さもないと、この通りのまんなかで大声を立ててやるから」
「そんな、脅迫だわ!」
ふたりが目ざす建物にはいるとき、彼女はまだ引きずられるように引っぱっていかれたのだが──それほどひどい引っぱり方ではなくなっていた。
[#改ページ]
道路をとめるな
「だれが道路を|動かし《ロール》ているんだ?」
弁士は演壇に静かに立ち、聴衆が答えるのを待った。群衆の不気味な、不満のざわめきを突き抜けて、あちこちからさけび声が返ってきた。
「おれたちだ!」──「おれたちだ!」──「そのとおりだ!」
「|路線の下《ダウン・インサイド》で汚れ仕事ばかりやっているのは、だれなんだ? 世間のどいつもが、のんびり運ばれるようにしてやっているのは?」
こんどは、ひとつの大きな叫びだった。
「おれたちだ!」
弁士はここぞとばかり、奔流のようにしゃべりまくった。かれは群衆のほうへ体を乗り出し、その目は、言葉をたたきつける相手を選び出そうとしていた。
「商売を成り立たせているのは何だ? 道路だ! かれらが食べるものは、どうやって運ばれているんだ? 道路だ! かれらはどうやって仕事に行くんだ? 道路だ! かれらはどうやって女房のところにもどるんだ? 道路だ!」
効果を増すためにかれはここでひと息つき、こんどは声を低めた。
「おれたちみんなが、道路を動かすのをやめたら、世間はどうなる? 何もかもお手上げだし、だれだってそれは知っている。だが、やつらは感謝しているか? とんでもない! おれたちは、多くを求めすぎたか? おれたちの要求は不合理なものだったか? いつでも、いやになったらやめる権利≠ヘ、ほかの職種であれば、どんな労働者にも認められていることだぞ。技師と同じ給料≠ナ、なぜいけないんだ?
ここでの本物の技師はだれなんだ? ベアリングをふいたり、回転軸《ローター》をジャッキで下ろしたりするのを学ぶには、まずおかしな小さい帽子をかぶった候補生にならなければいけないだと? そいつらの経費をかせいでいるのは、だれなんだ? 指令室にいる旦那がたか、それとも道の下のおれたちか?
そのほかに、おれたちは何を求めているんだ? おれたち自身の技師を選ぶ権利≠ェ、なぜいけないんだ? 技師を選ぶ適任者はだれなんだ? 道の下には一度も入ったことがなくて、ローター・ベアリングと磁界コイルの区別もつかない、どこかの馬鹿な試験委員会の連中か?」
かれはごく自然にペースを変え、ずっと声をひそめた。
「いいか、みんな。請願書を持って役にも立たない交通委員会まいりをするなんてことを、いまこそおれたちはやめて、ちょっとした直接行動を取るべきなんだ。やつらには、民主主義をいくらでもしゃべらせておいてやれ。そんなのは、やつらのごまかしだぞ……おれたちには、力がある、おれたちには、それだけのことができるんだ!」
弁士が熱弁をふるっているあいだに、ホールの後ろで一人の男が立ちあがっていた。弁士かひと休みすると、そいつは、のんびりした口調でいった。
「兄弟《ブラザー》議長……ひとこといわせてもらっていいかい?」
「発言を認めるよ、兄弟ハーヴェイ」
「おれが尋ねたいのは、いったい何のために騒いでいるのかってことだよ。おれたちの時間給はどんな職工組合にくらべても最高だし、保険も退職金制度もきちんとしているし、安全な労働条件で耳がおかしくなるような危険もない……」
かれは、騒音よけヘルメットを両耳の後ろへおしやった。まだ作業服を着たままで、見張り当直からもどってきたばかりのようだった。
「もちろん、勤めをやめるときには九十日前に予告しなければいけないが、そんなのは就職契約のときからわかっていることだ。道路は動いていなければいけないんだ……どこかの怠け者が仕事がいやになったからって、そのたびに道路をとめてしまうわけには、いかねえんだ……それをいま、ソーピイは……」
議長の木槌の音が鳴って、かれをさえぎった。
「……失礼、兄弟ソーピイは、ってことだ……かれはおれたちが、どれほど強いか、どんなふうに直接行動に出なければいけないかなんてことを、いい出している。馬鹿なことだ! 確かにおれたちは、道路をとめられるし、社会全体を混乱させることもできるよ……だが、そんなことはニトログリセリンの罐を持った気違いならだれにだってできることで、何も技手でなきゃあいけないってわけじゃない。
池の中にいる蛙は、おれたちだけじゃあないんだ。確かにおれたちの仕事は重要だが、おれたちだって農民がいなかったらどうなる? 鉄鋼労働者や、そのほか一ダースもの商売や商業の連中がいなかったら、どうなるんだ?」
かれの言葉は、前歯がつき出た青白い小男にさえぎられた。
「ちょっと、議長、ぼくは兄弟ハーヴェイにひとつ質問したいな」
そいつはハーヴェイにむき、陰険な口調で尋ねた。
「兄弟、あんたは組合にむかって話しているのか……それとも、自分のためだけに話しているのか? あんたは、組合を信じていないのかもしれないな? ひょっとして、あんたは」──そいつは口をとめ、ハーヴェイのひょろ長い体を上から下へと眺めまわした。──「まわし者じゃあないのかい?」
ハーヴェイはそう質問した男を、食べ物の皿に見つけた汚れのように見かえして、いった。
「この野郎……きさまがそんなチビでなきゃあ、その出っ歯をのどの奥に、たたきこんでやるところだぞ。おれは、この組合ができるときにも力を貸した。七六年のストライキにも加わった。七六年に、きさまはどこにいたんだ? スト破りどもと一緒にいたのか?」
議長の木槌が鳴った。
「もう充分だ。この組合の歴史をすこしでも知っている者なら、兄弟ハーヴェイの忠誠心を疑ったりする者はいない。議事を規定どおりに進行しよう」
かれは咳払いして、あとを続けた。
「ふつうわれわれの集会は部外者をいれないし、きみたちの中には、おれたちがその下で働いている技師の何人かを嫌っている者もいるが、おれたちがいつでも話を聞きたい技師が一人はいる。その人が、多忙な仕事から解放されるときは、いつだってだ。忙しいのは、かれがおれたちと同じく、爪に土がこびりつくような仕事しているからだろうと思う。とにかく、いまここでミスター・ショーテイ・ヴァン・クリークを紹介する……」
会場から上がった叫び声で、かれはさえぎられた。
「兄弟ヴァン・クリークだぞ!」
「OK……この道路都市の技師長代理、兄弟ヴァン・クリークだ……」
ゲストの弁士はきびきびと前に出ると、群衆にむかって大きく微笑し、みんなに受け入れられたことで喜びかこみあげてくるようだった。
「……ありがとう、兄弟。たぶん、議長のいうとおりだと思う。ぼくはいつも、このサクラメント区の組合ホールにいるほうが、気持ちが落ち着くんだ……つまり、技師のクラブハウスにいるよりはね……そういうのなら、どこの組合ホールでもだ。ああいう若造の技師候補生って連中が、気にさわってしょうがないんだ。
たぶんぼくは、もっとまともな見方ができるように、どこかの立派な技術系大学へ行っておくべきだったんだろう。道の下からはい上がってくる代わりにな。
ところで、交通委員会がいま突っ返してきたきみたちの要求のことだが……ぼくは、自由にしゃべっても、いいんだろうな?」
「いいともさ、ショーテイ!」──「おれたちを信じていいぞ!」
「ようし、もちろん、ぼくは何もいうべきじゃあないんだが、どうしても、きみたちがどう感じるかわかっちまうんだ。道路は近頃では大したものになっているし、それを動かしているのは、きみたちなんだ。きみたちの意見を聞き、希望をかなえられるようにするのが、自然な道理ってものだ。政治家だって、それがわからないほど、馬鹿じゃあないはずだ。ぼくは、ときどき夜中に目を覚まして考えるんだ、なぜぼくら技術者が乗っ取ってしまわないのか……」
「ゲイシズさん、奥さんからお電話ですよ」
「ああ」
かれは受話器を取り、映像スクリーンのほうにむいた。
「ああ、ぼくだ、約束はおぼえている。しかしだ……そう、まったくきみのいうとおりなんだがね、ダーリン。ワシントンから特別にいわれて、ぼくらはブレキンソップさんに、見たいというものは何でも見せることになったんだ。ぼくは、かれが今日着くことを知らなかったんだよ……いや、かれを部下にまかせることはできない。礼を失することになるからね。かれはオーストラリアの運輪大臣なんだ。きみにいったろ……ああ、ダーリン、礼がわが家に始まることはわかっているが、道路は動いていなければいけないからね。それはぼくの仕事だし、きみも結婚したときから、わかっていたはずだよ。これも、仕事の一部なんだ……それでこそ、いい奥さんさ。朝食はたぶん一緒に取れるよ。そうだ、馬の用意と朝食の弁当を注文しておいてくれ。ピクニックに行こう。きみとベイカーズフィールドで会おう……いつもの場所さ……ではな。ぼくの代わりにお休みのキスを坊やにしてやってくれ」
受話器を机にもどすと、美人だが怒りに燃えた妻の顔が、映像スクリーンから消えた。
若い女性がかれのオフィスに入ってきた、彼女がドアをあけたとき、ドアの外側の文字か、ちらりと見えた。〈ディエゴ−リノ道路都市、技師長室〉だ。
かれは、困ったような視線を投げかけた。
「ああ、きみか。技師とは結婚するなよ、ドロレス、芸術家と結婚するんだ。かれらのほうが、家にいる時間が多いからね」
「ええ、ゲインズさん。ところでブレキンソップさんがお見えになりました」
「もう? そんなに早く来るとは思わなかった。豪州路線《アンティボディーズ》の着陸が早かったんだな」
「そうですね、ゲインズさん」
「ドロレス、きみはこれまで感情というものを持ったことがないのかい?」
「もちろんありますわ、ゲインズさん」
「ふーん、信じられないね。でもまあきみは、間違ったことがないからな。ブレキンソップさんを入れてくれ」
「はい、ゲインズさん」
ラリイ・ゲインズは立ち上がって、客を迎えた。取り立てて印象深いところなどない小男だなと思いながら、かれは握手し、型どおりの挨拶をかわした。巻いた洋傘と山高帽子は、本当とは思えないぐらいぴったりだ。オクスフォードなまりが、その下にひそんでいる舌足らずの鼻にかかった平板なオーストラリア独特の話しかたをところどころ隠していた。
「おいでいただいて光栄です、ブレキンソップさん。われわれが、あなたのご滞在を楽しいものにできればいいがと思っております」
小男は微笑した。
「そうなるでしょうね。この素晴らしいあなたがたの国にきたのは、初めてです。でももう、自分の国にいるような気持ちがします。ほら、ユーカリの木に、茶色の丘と……」
「しかし、ご旅行の主な目的はお仕事でしょう?」
「そうなんです。わたしの第一の目的は、お国の道路都市を調べ、あなたがたの驚くべきアメリカ方式を、|わが国《ダウンアンダー》の社会問題に適用してみられるかどうかを、政府に報告することです。わたしがあなたのところへ派遣されてきた理由はそれだと、ご承知のことと思っていましたが」
「はい、大体のところは承知しています。ただ、あなたがお知りになりたい点が何なのかがわかりませんのでね。わが国の道路都市がどのようにしてでき、どう動かされているか、といったことは、もうお聞きおよびのことと存じますが」
「確かに、だいぶ文献を読みはしましたが、わたしは技術者ではありませんでね、ゲインズさん、技術にはうといんです。専門は社会と政治でして。わたしが見たいのは、この素晴らしい技術的変化が、どのような影響を市民に与えたかです。道路のことを、わたしがまったく知らないものとして、説明してくださるのはどうでしょう。わたしも質問させていただくとして」
「それは実際的なやりかたですな。ところで、あなたがたは何人でしょう?」
「わたしだけです。秘書はワシントンへやりました」
ゲインズは腕時計を見た。
「そうですか……そろそろ夕食の時間ですね。ストックトン通りへ出ましょうか。そこには、ぼくのひいきにしているいい中華料理屋がありましてね。一時間ほどですから、乗っているあいたに道路の動き具合もご覧になれますよ」
「結構ですな」
ゲインズが机のボタンをおすと、反対側にかかっている大きなスクリーンに映像が現われた。骨太だが痩せた青年が、半円形の調整デスクに坐っている。その後ろは複雑な計器盤だ。口の端に煙草をくわえている。
その青年は顔を上げて微笑すると、スクリーンから手をふった。
「これはどうも技師長、何のご用です?」
「やあデイブ、きみが夜の当直か。ぼくはこれから、ストックトン区へ夕食に行く。ヴァン・クリークはどこだ?」
「どこかの会合へ行きましたよ。どこかは、いいませんでした」
「何か報告は?」
「ありません。道路は|動いて《ローリング》おり、小市民のみなさんはわが家で夕食をと、せっせと運ばれていますよ」
「OK……動かし続けてくれよ」
「動き続けますよ、技師長」
ゲインズは電話を切って、ブレキンソップのほうに向きなおった。
「ヴァン・クリークというのは技師長代理なんです。政治より道路のほうに、もっと時間を割いてくれたらいいんですが。しかし、デヴィッドソンも仕事はできます。出かけましょうか?」
かれらはエスカレーターで下り、北へむかう時速五マイルの動路帯《ストリップ》と接した歩道に出た。〈南行きへの陸橋〉と記された螺旋階段式の動路をまわり、いちばん端の動路帯のそばで立ちどまった。ゲインズは尋ねた。
「これまで、コンベヤー式の動路帯に乗られたことはおありですか? 実に簡単です。ただ乗るときに、進行方向と反対のほうに向くことだけを覚えていてください」
ふたりは帰宅する人々の群れをかきわけるようにして、動路帯から動路帯へと移っていった。時速二十マイルの動路帯のまん中に、大きな天井にまで届きそうなグラサイトの仕切りがある。ブレキンソップ閣下はそれをみると、問いかけるように眉を上げた。
ゲインズはその無言の質問に、そこのパネル・ドアを引いて客をむこうへ通しながら答えた。
「ああ、あれですか……あれは風よけです。速度の違う動路帯の上の気流をなんとかして分けないと、時速百マイルの動路帯では、着ているものを剥ぎ取られてしまいますからね」
かれはブレキンソップのほうに頭を傾けて話した。道路表面に吹きつけてくる風、群衆のざわめき、動いている動路帯の下に隠れている駆動機械のこもった咆哮に、声を消されないようにするためだ。
これらの騒音のため、道路の中央に出ていくあいだ、会話はできなかった。時速四十、六十、八十マイルと順次つけられている風防スクリーンをさらに三つくぐると、とうとう最高速度、時速百マイルのところに出た。それは、十二時間でサンディエゴとリノを往復している動路帯なのだ。
ブレキンソップはその二十フィート幅の道路がもうひとつの仕切りに面していることに気づいた。目の前に明るく照明されたショウ・ウィンドウがあり、そこには、こう出ている。
ジェイクのステーキ・ハウス[#「ジェイクのステーキ・ハウス」はゴシック] 4号店
最高速の道路で、最高速の食事を!
飛びながら食べれば
何マイルだって、またたくま!
ブレキンソップ氏はいった。
「驚いたな! これは列車の中で食事をするようなものでしょう。ちゃんとしたレストランですかな?」
「一流の店です。そんなに洒落てはいませんが、堅実なところです」
「そうですか。どうでしょう、できたら……」
ゲインズはかれに笑いかけた。
「試してみたい、といわれるんですね、サー」
「あなたの立てられた計画を台なしにしたくはありませんが……」
「かまいませんとも。ぼくも空腹ですし、ストックトンはまだ一時間も先ですからね。さあ、入りましょう」
ゲインズは女性支配人に昔からの友達のように声をかけた。
「やあ、ミセス・マッコイ、今夜の景気はどうだい?」
「まあ、技師長さんじゃありませんか! ずいぶんお久しぶりですこと」彼女はふたりを、食事をしている通勤客の群れからすこし離れたブースに案内した。「それで、技師長さんもお客さまも、お夕食でしょうか?」
「そうだよ、ミセス・マッコイ……注文はまかせるとしても……きみのところのステーキは、忘れずに入れておいてくれよ」
「厚さは二インチ……幸せに死んだ子牛のステーキですのよ」
彼女の太った体は、驚くほどの優雅さで流れるように離れていった。
技師長に必要なものはわかっていますよと、彼女は優雅な気づかいをみせてポータブルの電話をテーブルにおいていった。
ゲインズは席の横にあるコンセントにプラグをさしこみ、番号をまわした。
「もしもし……デヴィッドソンか? デイブ、こちらは技師長だ。いまジェイクの食堂の4号店で食事中だ。電話は一〇のLの六六だよ」
受話器をおくと、ブレキンソップが丁寧に尋ねた。
「いつでも、連絡が取れるようにしておかなければ、いけないんですね?」
ゲインズは答えた。
「どうしてもというわけではないんです。でも、連絡が取れるようにしておくほうが、安心できるものでしてね。当直の上級技師が……いまはデヴィッドソンですが……困ったときには、ヴァン・クリークかぼくに、連絡できるようにしておくべきですから。もし、本物の緊急事態がおこったら、当然、ぼくは現場にいたいですからね」
「本物の緊急事態というと、どういうことでしょう?」
「基本的には、二つです。ローターにむける動力がとまると、道路はとまってしまう。何百万もの人々が、自宅から百マイルかそれ以上離れたところで立ち往生してしまうことになるでしょう。そんなことがラッシュ・アワーに起こりでもしたら、われわれはそれら何百万もの人々を、道路から立ちのかさなければいけなくなる……そう容易なことじゃあありません」
「何百万といわれたが?」
「ええ、そのとおりです。千二百万の人々がこの道路を頼りにしています。この道路に続いているか、あるいはその両側五マイル以内の建物に住んでいるとか働いているとかしてね」
エネルギーの時代は、ほとんど気づかれないうちに輸送の時代に移っていたが、その変化の標識ともいえる二つの出来事はきわ立っていた。安価な太陽エネルギーの供給と、最初の機械化道路の建設だ。
合衆国が持っている石油石炭というエネルギー資源は……ときどき思い出したように常識が叫ばれるのを別にすれば……二十世紀前半の発展で、恥ずかしくも浪費されてしまっていたのだ。
同時に自動車が、馬がいらない一気筒の車というお粗末な出発点から、時速百マイル以上出せる鋼鉄製車体の怪物にまで進歩した。これが、イーストが醗酵するように国中に広まっていった。
一九五五年には、合衆国の人口二人に一台の割合で自動車があった。
自動車はそれ自身、破滅の種子を内臓している。八千万台の鋼鉄製の殺人山車《ジュガーノート》が、完全無欠とはほど遠い人間に運転されて高速で走るのだから、戦争よりずっと破壊的だ。
前記の年度における自動車所有者の強制対人物損保険に支払われた掛金は、その年に自動車購入に支払われた金額を超過した。
交通安全キャンペーンが年中行事になったが、弱虫連中《ハンプティ・ダンプティ》を集めなおす敬虔な行事にすぎなかった。
そのように混雑した大都会で、安全に運転することは物理的に不可能になっていた。歩行者は皮肉にも二つのクラスに分けられることとなった、敏捷なのと、死ぬのと。
だが歩行者とは、駐車場を見つけることができた人とも定義できる。自動車は巨大都市を可能にしたが、やがてそのような都市を車の数が多すぎることで窒息させてしまった。
一九〇〇年にハーバート・ジョージ・ウエルズは、都市の大きさの臨界点は、その輸送能力から正確に予測できると指摘した。速度という点だけから見れば、自動車は直径二百マイルまで可能にしたが、交通の混乱と、高速で運転するさいにつきものの危険が、その可能性をなくしてしまった。
一九五五年、ロサンゼルスからシカゴまでの国道六十六号線、通称アメリカ大通り≠ヘ、時速六七マイル以下を禁じた自動車専用の超高速道路《スーパーハイウェイ》に変えられた。
これは重工業を刺激するための公共事業として仕出されたのだが、思わぬ副産物が生まれた。シカゴとセントルイスという二大都市は郊外住宅地をたがいに触手のように伸ばしあい、そのうちイリノイ州ブルーミントンのあたりでつながってしまった。母体になった両方の都市は、本当に人口が減った。
その同じ年、サンフランシスコ市は、古くならたケーブル・カーを動く階段に変えた。動力はダグラス=マーチン型太陽エネルギー吸収スクリーンによるものだ。
その同じ年一年間には、史上最多の自動車免許証が発行されたのだが、すでに自動車時代は先が見えており、一九五七年の国防法がはっきりとそれを警告していた。
委員会で激論の結果成立したその法律は、石油が戦争に必要不可決であり、量の限られたものだと宣言していた。軍がすべての石油に対して、地上、地下を問わず優先権を持ち、八千万台の民間人の車は高価で不足がちな割り当てを受けることになった。第二次世界大戦中に一時的に′ゥられた状態が、永久的なものになったのだ。
当時の超高速道路は、その全長を通じて市街地になっていた。サンフランシスコの丘に通じるいくつもの機械化道路も存在していた。切迫したガソリン不足は沸騰点にまで達した。ヤンキーの発明の才がこういった状況に組み合わさった。最初の機械化道路が一九六〇年、シンシナティとクリーブランド間に開通した。
予想はつくだろうが、それは、十年前の鉱石用コンベアー・ベルトを基盤にした、割に原始的な設計のものだった。
最も速い動路帯でも時速三七マイルにしかすぎず、幅もずいぶん狭く、動路帯自体の上に小売商店がならぶことになる可能性など、だれひとり考えてもみなかった。しかしそれこそ、そのあと二十年以内にアメリカの風景を支配してしまった社会形態の原型だったのだ……都市も田舎もなく両方に役立つ、速く、安全で、安くて、便利な輸送機関だった。
多くの工場───広くて、低い建物で、屋根は、道路を動かしているのと同じタイプの太陽エネルギー・スクリーンで覆われている──それらが、道路の両側にずらりとならんだ。
それらの後ろやあいだに、ホテル、小売店、劇場、アパートなどが散らばっている。この長細く、狭い道路のむこうには、広い田園地帯があり、そこに大勢の人々が住んでいる。かれらの家々が丘に点在し、小川のほとりにたゆたい、畑のあいだにはさまれている。かれらは都市≠ナ働いているが、田舎≠ノ住んでいる──そして、その二つは十分と離れていないのだ。
ミセス・マッコイは手ずから、技師長とその客にサービスした。すばらしいステーキにふたりは話すのをやめた。
この六百マイルにわたる路線のほうぼうでは、各管区当直技師がそれぞれの下部管区技手から定時報告を受けていた。
「第一下部管区……異常なし!」「第二下部管区……異常なし!」張力計の表示度、電圧、荷重、ベアリング温度、同調回転速度計の表示度──「第七下部管区……異常なし!」
百マイルの動路帯からじかに響きわたる咆哮、駆動回転軸のかん高い唸り、リレー・ローラーのきしりに満ちた道の下≠ナ人生の多くをすごす、作業服姿の鍛え抜かれた有能な男たちだ。
フレスノ管区の中央指令室では、デヴィッドソンがかれの前に広がっている道路の動く模型を調べていた。ミニチュアの百マイル動路帯のかすかな動きを見つめながら、かれは、ジェイクのステーキ・ハウス4号店が存在している場所の参照番号を、無意識のうちに考えていた。技師長はもうすぐストックトンにむかって着くだろう。定時報告が入ったあとで、かれに電話するつもりだった。万事異常なし。交通重量はラッシュ・アワーとしては正常だ。この当直が終わる前に眠たくなりそうだ。かれは当直技師候補生のほうにむいた。
「バーンズくん」
「イエス・サー」
「コーヒーを飲もうじゃないか?」
「いいですね。定時報告が入ったら、すぐ注文します」
制御盤の時計の長針が十二のところに達した。当直候補生がスイッチを入れ、きびきびと気取った口調でいった。
「全管区、報告せよ!」
映像スクリーンに、二人の男の顔が現われた。若い方が、つねに監督下にある者の態度で答えた。
「ディエゴ路線……運行中《ローリング》!」
すぐに別の二人が、それに代わる。
「ロサンゼルス路線……運行中!」
ついで、
「ベイカーズフィールド管区……運行中!」
そして、
「フレスノ管区……運行中!」
最後にリノ管区の報告がすむと、候補生はデヴィッドソンにむかって報告した。
「運行しています、サー!」
「よろしい……引き続き運行させろ!」
映像スクリーンが、また明るくなった。
「サンフランシスコ管区、追加報告」
「話せ」
「ゲンサー候補生は管区当直技師候補生として点検中に、下部管区技手候補生として当直中のアレック・ジーンズ候補生と、同じ下部管区の技手として当直中のR・J・ロス二等技手が、カードをやっているところを発見しました。かれらが担当下部管区の巡視をどれぐらいのあいだ怠っていたか、正確なところはまったくわかりません」
「何か事故は?」
「ローターがひとつ熱くなっていますが、まだ同調《シンクロ》しています。ジャッキで下ろして、交換しました」
「よろしい。会計にロスの時間給を支払わせ、身柄を当局に引き渡せ。ジーンズ候補生は逮捕して、おれのところに出頭させろ」
「はいっ」
「道路を動かし続けろ!」
デヴィッドソンは制御デスクにむきなおり、ゲインズ技師長の出先番号をダイアルした。
「ゲインズさん、道路で大きな事故をおこすものは二つあるといわれたが、ローターへの動力の故障しか話されていませんよ」
ゲインズは取りにくいサラダに悩まされたあと、答えた。
「二番目の大事故というのは、実際にはない……起こりそうもないんです。しかしながら……われわれはいま、時速百マイルで動いています。われわれの下の動路帯が切れたら、いったいどんなことが起こるか、想像がつきますか?」
ブレキンソップ氏は、不安そうに椅子の上で身じろぎした。
「ふーん……あまり気持ちのいい考えかたじゃないな、そう思いませんか? つまり、こんな居心地のいい部屋にいると、高速で動いていることなど、意識しなくなってしまいそうだ。その結果はどういうことになるんです?」
「心配しないでください。動路帯は切れたりしないんです。それは何層にもなっていて、十二倍以上の安全率を持たせてあります。何マイルにもわたるローターが一度にとまり、それにつながっている全線のサーキット・ブレーカーが駄目になりでもしないかぎり、動路帯が切れるほどの張力は加えられそうにありませんからね。
でも、前に一度、フィラデルフィア=ジャージイ・シティ道路でおこったことがあるんです。われわれには、忘れられそうにありません。それはごく初期の高速道路で、おびただしい人数の旅客以外に、重工業地帯だったので重い貨物も運んでいました。動路帯といってもコンベヤー・ベルトも同然の代物で、それが運ぶ重量をだれも予測していなかったんです。
それが起こったのは、当然高速道路が一番混雑していたときで、最大の荷重がかかっていました。切れたところから後ろの動路帯は、何マイルにもわたってねじれ曲がり、旅客を時速八十マイルで屋根にたたきつけました。
切れたところから前の部分は、鞭のようにしなり、旅客を緩行路線にこぼしたり、道路の下から剥き出しになったローラーやローターの上に落としたり、天井にたたきつけたりしました。
その事故ひとつで、三千人以上が死にましたし、動く道路を廃止しようという煽動がずいぶんおこりました。大統領の命令で一週間は閉鎖されもしましたが、かれも再開させるほかありませんでした。ほかに方法がなかったからです」
「本当に? なぜです?」
「国が、動く道路に、経済的に依存するようになってきていたからです。それが工業地帯での主要な輸送手段になっていましたし……経済的に重要な唯一の方法だったのです。工場は閉鎖し、食料は輸送されず、国民は飢える……それで大統領は、再開をやむなくされました。ほかには、どうしようもなかったのです。社会のパターンというものがひとつの形に固まってしまうと、それを一夜にして変えることはできません。工業化された莫大な人口は、大規模な輸送手段を必要とします。住民だけのためではなく、産業のためにです」
ブレキンソップ氏はナプキンをいじくりまわしながら、いくらか遠慮がちにいった。
「ゲインズさん、お国の偉大な国民が作り上げた天才的な成果に、けちをつける気はありませんが、経済全体をひとつのタイプの機械の機能に依存させてしまうというのは、ひとつの籠に卵をたくさん入れすぎることになりませんか?」
ゲインズは真面目にそのことを考えた。
「おっしゃることは、わかります。イエスでもあり……ノーでもありますね。どんな文明だろうと、村落共同体以上に発展すれば、何らかの中心的な機械に依存します。昔の南部は綿《わた》繰《くり》機《き》が頼りでした。イギリス帝国は、蒸気機関によって可能となったのです。
人口が増えると、生きてゆくために、動力、輸送、生産のための機械を持たなければいけません。機械がなければ、巨大な人口は維持できなかったことでしょう。それは、機械の欠点ではなく、長所でしょう。
しかし、莫大な人口が高度な生活を維持できるように機械を発展させると、こんどはその機械をなんとしてでも動かしておかなければいけなくなり、あるいはその結果に苦しむことになるのも、事実です。
しかし、そこにある本当の危険は機械そのものではなく、それらの機械を動かす人間にあるのです。これらの道路も、機械としては大丈夫です。丈夫で、安全で、設計されたとおりのすべてをやってくれます。そう、機械ではなくて、人間なんです。
住民がひとつの機械に依存すると、かれらは、その機械をあつかう連中の人質となります。もし、その連中の士気が高く、責任感が強ければ……」
レストランの表にいただれかが、ラジオのボリュームをまわして、大音量の音楽を響かせたので、ゲインズの声は消されてしまった。その音が、もっと我慢できるぐらいの音量に小さくなると、かれはこういった。
「あれを聞いてください。ぼくのいいたいことを説明してくれてます」
ブレキンソップは音楽に耳を傾けた。それは強いリズムのスイング風の行進曲で、現代的な編曲をしたもので、機械の咆哮と機械のガチャガチャという音がくりかえされている。
オーストラリア人の顔に、わかったという明るい笑顔が広がった。
「お国の野戦砲兵の歌ですな。弾薬車をとめるな≠ナしたな? どういう関係があるのか、わたしにはわかりませんが」
「おっしゃるとおり、弾薬車をとめるな≠ナしたが、いまはそれを、われわれの目的にあわせています。輸送候補生の道路マーチ≠ナす。待っていてください」
同じ行進曲のリズムが繰りかえされているうちに、それは足もとの道路の震動と混じりあいいただひとつのドラムに溶けこんだ。ついで、男性コーラスが歌詞をうたいはじめた。
[#ここから3字下げ]
その音を聞け!
その走るを見よ!
おお、われらが仕事は、はて知れず
われらの道路が動きつづけるために!
人は乗り
人は進み
われらは見守る、|道の下《ダウン・インサイド》で
道路のとまることなしと!
(さけぶ)いざ行けそれは、へい、へい、ほー!
われらはローターを動かす係……
管区を調べよ、声たからかに!
一! 二! 三!
どこへ行こうと、人は知る
道路は常に動きつづけることを!
(さけぶ)動かしつづけろ!
道路は常に動きつづけることを!
[#ここで字下げ終わり]
ゲインズはずっと元気な声になっていった。
「おわかりでしょう? いまのが、合衆国運輸士官学校《トランスポート・アカデミー》の本当の目的です。運輸技師はなぜ、規律のきびしい準軍隊的職業になっているのかという理由が、それです。われわれは、全産業、全経済生活にとっての瓶の首、必要不可欠なものなんです。
ほかの産業ならストライキもできます、それで一時的、部分的な狂いを起こすだけですから。生産性があちこちで低下すると、国は不況を迎えます。ところが、もし道路が動くのをやめれば、ほかのすべてがとまらざるを得ません。その結果は、ゼネ・ストと同じことになってしまうでしょうが……そこには、重大な違いがあります。
ゼネ・ストを起こすには、人口の大多数が、不満のあまり爆発する必要があります。ところが、現在道路を動かしているわずかな人間だけで、同じように完全な麻痺状態を作りだせるのです。
一度だけ七六年に、道路のストがありました。あれは当然のことだったと思いますし、それでいろいろと本当の弊害が修正されました……しかし、そういうことは二度と起こってはいけません」
「それで、ゲインズさん、それを二度と起こさないようにするのは何なのです?」
「士気……集団精神です。道路補修の技手たちは、かれらの仕事が神聖な責務であるという考えを絶えず吹きこまれています。そのほか、かれらの社会的地位を高めるために、われわれはあらゆる努力をしています。しかし、それよりもっと重要なのが、この運輸士官学校ですね。ここを卒業した技師候補生にわれわれは、アナポリス、ウエスト・ポイント、ゴダードなどが、卒業生に徹底的に教えこんだように、同じ忠誠心、同じ鉄の規律と社会に対する義務の遂行という決意を植えこもうとしています」
「ゴダード? ああ、ロケット基地でしたな。それで、あなたがたは、それに成功していると思われますか?」
「たぶん、完全とはいえないでしょうが、いずれそうなるでしょう。伝統を作るには、歳月がかかります。最年長の技師が十代で士官学校に入った男だという時代にでもなれば、われわれはのんびりして、問題は解決したものと考えられるでしょうが」
「あなたも、そこを卒業されたのですね?」
ゲインズは微笑した。
「これは嬉しいことを……ぼくはきっと、実際より若く見えるのですな。違います。ぼくは、陸軍から引き抜かれたんです。七六年のストライキ以後、三カ月ほどの再建期間中、国防総省が道路を動かしていました。給料を上げたり、労働条件を調整したりする調停委員会にぼくは配属され、それから任命されたのが……」
ポータブル電話のシグナルが赤く光った。ゲインズは受話器を取った。
「失礼……はい?」
ブレキンソップにも、かかってきた電話の声は聞こえた。
「技師長、こちらはデヴィッドソンです。道路運行、異常ありません」
「よろしい、動かしつづけろ!」
「サクラメント管区から、別の事故報告が入りました」
「またか? こんどは何だ?」
デヴィッドソンが答える前に、電話が切れた。ゲインズがつなぎなおそうとダイアルに手をのばすと、半分残っていたコーヒー・カップが膝に落ちた。
ブレキンソップはテーブルの端にぶつかりながらも、道路のうなりに不気味な変化かおこっていることに気づいた。
「どうしたんです、ゲインズさん?」
「わかりません。緊急停止です……いったい、どういうことなんだ?」
かれは狂おしくダイアルした。すぐに、受話器をもどす手間も惜しんで、放り出した。
「電話は切れている。行きましょう……あなたはここにいるほうが安全だ。待っていてください」
「そうしなければ、いけませんか?」
「では来てください。ぼくから離れないようにね」
かれは、オーストラリアの閣僚のことなど頭から追っ払って、さっとふりむいた。
動路帯はゆっくりと、とまるところだった。巨大な回転軸と無数のローラーが、はずみ車の役目をはたして、惨事を引きおこす急停止を防いでいるのだ。
すでに、夕食の邪魔をされた通勤客の小さな群れが、レストランのドアからむらがり出ようとしていた。
「止まれ!」
服従を強制し、従われることに慣れている人間の下す命令には、何かが存在している。それはある抑揚かもしれないし、調教師が猛獣をしこむことができるといわれているもっと神秘的な力かもしれない。しかし、それは確かに存在しており、服従の習慣がない人間に強制することまでできるのだ。
通勤客たちは、その場で足をとめた。
ゲインズは続けていった。
「きみたちを退避させられるようになるまで、レストランの中にいるんだ。ぼくは技師長だ。ここにいれば危険はない。きみ!」
かれはドアのそばにいた大男を指さして、いった。
「きみに指揮をまかせる。当局の指令がない限り、だれもここから出すな。ミセス・マッコイ、食事のサービスを続けてくれ」
ゲインズは大股にドアから出て行き、ブレキンソップがそのあとに続いた。外は、そんな簡単な方法ではおさまらない状況だった。百マイル動路帯だけが、とまったのだ。数フィート離れて、隣の動路帯は時速九十五マイルのまま飛ぶように動いている。その上の旅客は、現実離れした厚紙細工人形のように、ピューンと飛び去っていく。
事故がおこったとき、幅二十フィートの最高速度動路帯は混雑していた。それがいま、商店、食事スタンド、ほかの仕事の客、ラウンジやテレビ劇場に入っていた人々──みんなが何かがおこったのかと、いっせいに道路に群がり出てきた。
最初の惨事は、ほとんどすぐにおこった。
おしあいへしあいの群衆が、一人の中年女性を外側へおしたのだ。バランスを取りなおそうとした彼女は、飛ぶように走り去ってゆく九十五マイル動路帯の端に、片足をついた。これがぞっとするような間違いだと気づいた彼女は、その足がリボンに着く前に悲鳴を上げていた。
彼女は一回転して動いている動路帯にたたきつけられた。それは時速九十五マイル──秒速百三十七フィートの速力を、一瞬のうちに彼女に伝えようとして、その体をごろごろころがした。ころがる彼女は、草むらをはらう大鎌のように、厚紙人形のように見える人々を何人か、なぎ倒していった。
たちまちのうちに、彼女の姿は見えなくなった。彼女の身元も、怪我も、その運命がどうなったかわからないままに、遠くに運び去られたのだ。
だが、彼女の災難の影響はまだ終わらなかった。飛び去ってゆく厚紙細工の人形のひとつが、彼女の相対的運動量でなぎ倒され、百マイル動路帯にころげこみ、ショックにとらわれている群衆の中に、とつぜん生身の人間の姿となって現われた──骨が折れ、血を流し、すさまじい勢いで飛んできたかれを体で受けとめることになった運の悪い犠牲者たちの中に倒れこんだのだ。
それでもそれだけでは終わらなかった。惨事はその元から広がり、不運な人間|九柱戯《ナインピン》の一人一人が、他の者を倒す代わりに危険あふれる境界の方へ倒れこみ、反対方向に吹っ飛んでは、高い代償を払って物理的な釣合いをとった。
だが大災害の焦点は視界から飛び去り、ブレキンソップにはもう見えなかった。個々の人間から全体的な数を推察することに慣れているかれの機能的な心は、いま目撃した悲劇の結果と、千二百マイルの満員のコンベヤー動路帯にいる人数とを掛け合わせて、胃が冷たくなるのを覚えた。
ブレキンソップが驚いたことには、ゲインズが倒れた人間を助けようとも、恐怖に取りつかれた群衆を静めようともせず、無表情な顔をくるりとレストランのほうにふりむけたことだった。
かれが本当にまたレストランにもどろうとしているのを見て、ブレキンソップはその袖をつかんだ。
「あの気の毒な連中を助けないのか?」
それに答えた冷たい表情は、数分前までのにこやかで、どこか子供っぽいところもある、客をもてなす顔とはまったく似ても似つかぬものだった。
「いや。連中を助けるのは、野次馬でいい……ぼくは、道路全体を考えなければいけないんだ。邪魔しないでくれ」
ぺちゃんこになり、すこし腹も立ったが、政治家はいわれたとおりにした。理性的には、この技師長のいうとおりだとわかっていた──何百万人もの安全に責任がある者は、一人の人間を自分の手で助けるために義務から離れることはできない──しかし、そういう冷たく突き放した見方に、かれは反感を覚えた。
ゲインズはレストランの中にもどった。
「ミセス・マッコイ、きみのところの脱出口はどこだ?」
「食器庫《バントリイ》です」
ゲインズはそこへ急ぎ、ブレキンソップもあとに続いた。おどおどしたフィリピン人のコック見習いが小さくなって道をあけると、ゲインズは、カウンターの上に用意されてあったサラダの材料を無頓着に床へ払い落とし、そこに上がりこんだ。そのまっすぐ頭上の、手がとどくところに円形のマンホールがあり、釣り合い重りがついていて、まん中のハンドルであけるようになっていた。その端には短い鉄梯子があって、それはまっすぐ天井に平たくはねあがり、鉤でとめるようになっていた。
ブレキンソップは、ゲインズに遅れないように急いで梯子を登ろうとして、帽子を落としてしまった。かれが建物の屋上に出ると、ゲインズは懐中電燈で動路帯の天井を照らして、足元の屋根と天井とのあいだのわずか四フィートの空間を、体を二つに折って進んでいた。
かれは五十フィートほど離れたところで、求めていたものを見つけた──いま、下から出てくるのに使ったのと同じようなマンホールだった。
かれはロックのハンドルをまわし、上に顔を出すと、両手を穴のへりにかけ、しなやかな身のこなしで動路帯の屋根の上に一気に飛び出した。かれの連れは、もっと苦労してあとに続いた。
かれは闇の中に立った。しょぼしょぼした冷たい雨が、顔に感じられた。だが、足元と両側にどこまでも伸びている太陽エネルギー・スクリーンは、かすかに乳白色の蛍光を発していた。光輝く太陽のエネルギーを有効な電力に変える変換装置が、ごくわずかに残している非能率性の証拠である穏やかな蛍光だった。その光は、照明とまではいかず、星明りで雪の平原を見るような、気味悪い輝きとなっていた。
そのほの白い光が、かれらのたどらなければいけない通路を示していた。道路と隣接してならび、いまは雨に煙っているビルの壁まで達する通路だ。それが黒く細い筋となって、低くカーブした屋根のむこうの暗闇へ、弧を描いている。
かれらは、すべりやすい足場と暗さが許すかぎりの速さで、小走りにその通路を進みはじめたが、ブレキンソップの心はまだ、ゲインズの冷酷そうな、突き放したような見かけにこだわっていた。
たとえ鋭い知性に包まれてはいてもブレキンソップの性格は、人間に対する温かい同情心が基本になっていた。それがなければ、ほかの道徳的美点や欠点とは関係なく、どんな政治家もなかなか成功できないものだ。
そういう資質を持っていたのでかれは、論理だけに導かれる人間には、本能的に不信を抱いてしまうのだ。厳密な論理だけの立場からでは、人類の存続のための合理的状況などは作れないし、ましてかれの奉仕する人間的価値のためには何もできないことを、かれは心得ていた。
もしかれが、連れの男の熱中している心の奥底まで見抜けたら、安心できたはずだ。ゲインズのまれに見る知性的な心の表面は、電子計算機のように軽々と動きつづけていた──手元にあるデータを整理し、仮定をいくつも立て、必要なデータが入るまでは判断を保留し、どれを選ぶべきかを考えていた。
しかしその下の、心を働かせている表舞台とは厳しい自制心で隔離されたところでは、多くの感情が自責の嵐でかれを責めさいなんでいた。かれはいましがた見た惨事で胸が苦しかったし、その何倍もが動路帯のいたるところで起こっていることを、はっきりと知っていた。自分自身に何らかの手落ちがあったとは思わないが、それでも権限は責任とともにあるものだから、その失敗はまわりまわってかれのせいになるのだ。
かれは国王が負うべき超人的な重荷をあまりにも長いあいだになってきた──正気の人間なら軽々しくは運べないものだ──だからいまは、船長たちが船を下りようとするような心の状態に、近づきすぎていた。ただ、緊急の、建設的行動が必要だという意識だけに支えられていたのだ。
しかしこの心の葛藤は、かれの顔に現われてはいなかった。
ビルの壁には緑色の矢印が光り、それは左をさしていた。その上に、狭い通路の終わりに下り口≠ニいうサインが輝いていた。ふたりはそれに従い、ブレキンソップはゲインズのあとについて息をはずませた。下り口は壁にあいたドアで、その中は蛍光灯が一本だけついている狭い階段だった。ゲインズはそこをかけおり、ブレキンソップもあとに続いて、北行き路線に接している混雑した、やかましい、動かない歩行者道路に出た。
階段のすぐ右側に、公衆電話があった。グラサイトのドアをとおして、身なりのいい太った男が、映像スクリーンに映っている同じような女と夢中になってしゃべっているのが見えた。その外では、ほかにも三人の市民が待っている。
ゲインズはかれらを押しのけると、ドアを大きくあけ、あっけにとられ怒っている男の肩をつかんで、外に引きずりだし、その後ろからドアを蹴ってしめた。かれは手をさっと動かして、映像スクリーンの中年女が抗議をするまもなく切ってしまうと、緊急用のボタンを押した。
かれが専用電話の番号をまわすと、すぐに当直技師デヴィッドソンの困った顔が現われた。
「報告しろ!」
「ああ、あなたでしたか、技師長! よかった! いまどこなんです?」
デヴィッドソンのほっとした様子は、哀れなくらいだった。
「報告しろ!」
先任当直技師は感情をおさえ、簡潔な言葉で報告した。
「七:〇九PM、サクラメント管区二十号動路帯の総合張力計の表示度が急激に上昇。処置する暇もなく二十号動路帯の張力度は緊急レベルを突破。連動ブレーキが作動し、その動路帯への動力が切れました。
事故の原因不明。サクラメント指令室への直通電話も通じません。予備電話にも市中電話にも応答はありません。通信再開の努力は続けています。ストックトン下部管区から連絡員を出しました。
死傷者の報告はまだありません。一般放送回線で十九号動路帯には立ち入らぬよう警告放送。避難が始まっています」
ゲインズはさえぎった。
「死傷者は出ている。警察と病院に緊急手配。すぐやれっ!」
「イエッサー!」
デヴィッドソンは即座に答え、肩ごしに親指を曲げた──だが、当直の技師候補生がすでに飛び上がるようにして命令に従っていた。
「技師長、ほかの動路帯もとめましょうか!」
「いや。最初の混乱のあと、それ以上の死傷者は出そうにない。警告放送は続けろ。ほかの動路帯は動かし続けるんだ。さもないと交通が渋滞して、どうにもならなくなるだろう」
ゲインズは、荷重をかけたままで、動路帯を元のスピードまで上げることは不可能だと思った。そんなことがやれるほど、回転軸は強力ではない。
もし全部の道路をとめてしまったら、全動路帯から人を退避させ、二十号動路帯の故障をなおし、全動路帯を元のスピードに上げなおし、それから溜りに溜まったピークの負荷交通量を動かさなければいけなくなる。それまでに、足どめをくらった五百万をこえる人々が、どれほど大変な警察沙汰を引きおこすかわからない。それより、二十号動路帯の人間を屋根から退避させ、ほかの動路帯で家へ帰らせるほうが簡単だ。
「市長と知事に、ぼくが緊急指揮権を握ったと通告しろ。同じことを警察署長にも知らせて、かれをきみの指揮下に入れろ。候補生司令に、動かせる候補生全員を武装し待機させるよう、伝えろ。やれ!」
「イエッサー。非番の技手も招集しますか?」
「いや。これは機械の事故ではないぞ。計器を見ろ。全下部管区が同時に切れている……だれかが、故意にローターをとめたんだ。非番の技手は待機ということにするが……武器は持たさないし、路線の下にも入れるな。候補生司令に、使える上級候補生全員をストックトン下部管区十号事務所に急行させ、ぼくに報告するよう伝えろ。かれらの装備は、手榴弾、拳銃、それに麻酔ガス弾だ」
「イエッサー」
事務員がひとりデヴィッドソンの肩にかがみこみ、耳元になにかささやいた。
「技師長、知事があなたに話したがっていますが」
「できない……きみだってそうだ。きみの交替はだれだ? 呼んだか?」
「ハバードです……いま来ました」
「かれに話させろ。知事、市長、新聞……だれでも電話してきたやつにはな……たとえホワイト・ハウスからでもだ。きみはその当直場所から離れるな。電話を切るが、偵察車を見つけしだいそこから連絡する」
スクリーンが消える前に、かれは電話ボックスから出ていた。
ブレキンソップは口を出そうとはせず、かれについて北行きの二十マイル動路帯に乗った。そこでゲインズは足をとめ、息を切らしながらふりむき、静止歩道のむこうの壁を見つめた。かれは何かの標識かサインを見つけたらしく──かれの連れにはわからなかったが──フィギュア・スケートのような足取りで、その歩道に移った。あまりに速かったので、ブレキンソップは百フィートほど先まで行ってしまい、ゲインズがある戸口に飛びこみ階段をかけ下りていったときは、もうすこしで見失いそうになった。
かれは|路線の下《ダウン・インサイド》の、狭くて天井の低い通路に出た。あたり全体に満ちている轟音が、耳だけではなく、体にまで響いてくる。ブレキンソップはその迫りくる音の壁に耐えようと苦労しながら、ぼんやりとあたりを見まわした。
正面には、時速五マイルの動路帯を動かしている回転軸のひとつが、ナトリウム・アーク燈の黄色い単色光に照らされていた。その巨大なドラム型|電機子《アーマチェア》が、その芯にある固定磁場コイルのまわりで、ゆっくりとまわっている。ドラムの上面は動いている道路の下面にくっついて、その確固たる動きを伝えている。
左も右も百ヤード間隔で、さらに視界を越えるまで、同じ間隔でほかの回転軸が続いている。それらの回転軸のあいだを埋めて、もっと細いローラーが箱の中の葉巻のようにぎっしりならび、動路帯が回転する支えを常に得られるようにしている。それらのローラーは鉄骨のアーチで支えられており、アーチのすきまから、何列も何列もあきれるぐらい続いているのが見える。どの列の回転軸も、ここから離れていくほど回転が速くなっていた。
鋼鉄製支柱の列にそった細い通路とは別に、回転軸のむこう側に通路と平行して、舗装した浅い土手道《コーズウエイ》が走り、この場所で通路と傾斜路でつながっていた。
このトンネルの左右をのぞいたゲインズは、はっきりと困惑を顔に浮かべた。ブレキンソップは何に困っているのか尋ねかけたが、声が騒音の中に消されてしまっていることに気づいた。何千もの回転軸の咆哮と何十万ものローラーの悲鳴をおさえるほどの声は出せない。
ゲインズはその唇の動きを見て質問を察したらしく、両手でブレキンソップの右耳をかこって怒鳴った。
「車がない……ここで見つけられると思ったんだが」
このオーストラリア人は少しでも役に立とうと、ゲインズの腕をつかみ、機械のジャングルの奥のほうを指さした。ゲインズの視線はその方向を追い、夢中になっていたので見落としていたものを発見した──何列かむこうの動路帯の回転軸のまわりで六人ほどの男が作業していたのだ。回転軸を道路面から離れるところまでジャッキで下ろし、それをそっくり取り替える用意をしている。代わりの回転軸は、低い頑丈なトラックの上で待機している。
技師長は、感謝をこめて笑顔で答え、懐中電燈をその一団にむけた。光線が焦点を合わせ、細く強い光の針となる。技手のひとりが顔を上げた。ゲインズは不規則なパターンでその光を点滅させた。ひとりがその一団から離れ、こちらへ走ってきた。
それはほっそりとした青年で、作業服姿に、それには不似合いな耳覆いに金の線と徽章のついた底が浅くて平べったい帽子をかぶっている。かれは技師長に気づいて敬礼し、冗談めいたところのまったくない、子供のように真剣な表情になった。
ゲインズは懐中電燈をポケットにしまうと、両手ですばやく手真似を始めた──はっきりと無駄のない動きは、聾唖者の手話法のように意味のあるものらしい。ブレキンソップは人類学に関する聞きかじりから、これはアメリカ・インディアンの手真似言語に最も近く、それにフラダンスの指の動きをすこし加えたものだと見当をつけた。しかし当然のことながら、まったく奇妙な、特殊な専門用語がつけたされたものなのだ。
候補生も同じ方法で答え、上手道の端へ行くと、懐中電燈を南にむけた。かれはだいぶ離れたところの車を照らしたのだが、その車は猛然とこちらに接近しており、ブレーキをかけ、かれらの横にとまった。
それは小さな卵型の車で、中心線にある二つの車輪で立っていた。前部の七半分かぱっくり開き、これも候補生の運転手が現われた。ゲインズはその男に手真似で何か伝えると、ブレキンソップをせかして先に入らせ、狭苦しい客席に乗りこんだ。
グラサイトのフードをしめるとき、突風がかれらをたたきつけ、オーストラリア人が顔を上げると、追い越してゆくもっと大きな三台の車の最後がちらりと見えた。それらは北にむかい、時速二百マイル以下とは思えないスピードで走っている。ブレキンソップは三台の最後の窓に候補生の小さな帽子をいくつか見たと思ったが、自信はなかった、
発進はあまりに激しかったので、それを考え続けている余裕もなかった。ゲインズは加速の衝撃など無視し、すでに車の通信装置でデヴィッドソンを呼んでいた。車のフードがしめられると、さっきよりまだ静かになった。中継局の女性交換手の顔がスクリーンに現われた。
「デヴィッドソンを出してくれ……先任当直技師だ!」
「ああ! ゲインズさん! 市長がお話したいそうですが」
「かれのところにまわせ……ぼくにはなにがなんでもデヴィッドソンだ。急げ!」
「イエス・サー!」
「それから……ぼくがきみに自分で、切れというまで、この線はデヴィッドソンのところとつなぎっぱなしにしておいてくれ」
「はい」
彼女の顔が当直技師の顔と変わった。
「技師長ですね? やってます……順調です……変化はありません」
「よろしい。ぼくを呼ぶには、この線か、下部管区十号事務所だ。線はあけてある」
デヴィッドソンの顔が中継交換手に変わった。
「奥さんが呼んでおられます、ゲインズさん。おつなぎしますか?」
ゲインズは紳士的でないことを何かつぶやいてから答えた。
「ああ」
ゲインズ夫人の顔が電送写真《ファクシミリ》になって光る。かれは妻が口を開く前にまくしたてた。
「ダーリン、ぼくは大丈夫だ心配するな帰れるようになったら帰るいまは手が離せない」
それをひと息でいうと、かれはスイッチを切り、スクリーンは消えた。
かれらは下部管区十号監視事務所につづく階段のそばで、息をのむような急停車をし、急いで下りた。三台の大型トラックが駐車場にとめてあり、候補生の三個小隊がその横に落ち着かなげな列を作っていた。
ひとりの候補生かゲインズのところに走りよって敬礼した。
「当直技師候補生リンゼイであります、サー。当直技師が、技師長がお見えになったらすぐ指令室へお出でくださいとのことであります」
かれらが入っていくと、当直技師が顔を上げた。
「技師長……ヴァン・クリークからあなたに電話です」
「つないでくれ」
大きな映像スクリーンにヴァン・クリークが現われると、ゲインズは挨拶した。
「やあ、ヴァン。どこにいるんだ?」
「サクラメント事務所だ。いいか、聞くんだ……」
「サクラメントだと? それはよかった! 報告しろ」
ヴァン・クリークは、むっとしたような顔になった。
「報告だと、馬鹿らしい! おれはもう、おまえの代理じゃあないんだ、ゲインズ。いいか、おまえは……」
「いったい何をいってるんだ?」
「聞け。おれの邪魔をしなければ、わかるさ。おまえはもうおしまいだよ、ゲインズ。おれは、新体制の臨時管理委員会の委員長に選ばれたんだ」
「ヴァン、頭がおかしくなったのか? どういうことだ……その新体制とは?」
「そのうちにわかるさ。これはまあ……職能主義者の革命だな。おれたちが入り、おまえたちは追放だ。おれたちは、何ができるかをちょっと教えてやるために、二十号動路帯をとめたんだ」
職能主義運動の聖書ともいうべき『職務論=社会における自然法則について』は、一九三〇年に初めて出版された。この本は、社会の関係について科学的に精密に論じたものだと称していた。著者のポール・デッカーは、民主主義と人間の平等に基盤を置くエーロ古臭くて無力な″lえ方を捨て、人間が職能的に&]価されるひとつの体系を打ち立てた──つまり、それぞれが経済的関連において占める役割によって評価されるというのだ。
その底に流れる主張は、人間が他の人間に対して、その職能につきものの権力ならどんなものでも行使することは正当であり、それ以外の社会機構は愚かな幻想で、自然の法則≠ノそむくというものだった。
近代の経済生活にある完全な相互依存性を、かれはまったく見過ごしていたらしい。
かれの考えというのは、裏庭の鶏のあいだにできる序列を観察したり、有名なパブロフの犬に対する条件反射の実験などをもとにした、いい加減な機械的えせ心理学で|装いをこら《ドレスアップ》したものだった。かれは、人間が犬でも鶏でもないことに気づかなかったのだ。
パブロフ大先生もかれを完全に無視した。パブロフの、重要だが厳密に限定された実験の意味を、やみくもに非科学的な範囲にまで広げて独断を重ねた他の多くの連中を無視したように。
職能主義は、すぐに根を下ろしたわけではない──一九三〇年代には、トラック運転手から帽子預かりのクローク・ガールまで、ほとんどすべての人が、聖書日課をいくつか読むだけで世の中を正しくできると考えていたし、驚くべき割合でそのような考え方が公けにされていた。
しかし、職能主義はしだいに広がっていった。自分の仕事はほかの人間が代わってやることなどできない特別なものだから、自然の法則≠ノよって自分が最重要な人間になるのだと、自分自身を納得させるという考え方は、いたるところにいる、つまらない連中のあいだで、特にもてはやされた。実際には他人が代行できない異なった職能というものはあまりにも多いので、そんなふうに自分を考えるのは容易なものだ。
ゲインズは一瞬ヴァン・クリークの顔を見つめてから、ゆっくりと尋ねた。
「ヴァン……こんなことをして、無事にすむなどと思っているわけじゃあないだろうな?」
小男は胸を張った。
「なぜそう思っちゃいけない? もうやり終えてしまったぞ。こちらが許すまで二十号動路帯は動かせないし、必要なら、こちらは全動路帯をとめられるんだ」
ゲインズは、自分の相手が理屈も何もない自惚れきった人間だと気づいて、しだいに不愉快になってきたが、辛抱強く自分をおさえた。
「たしかにできるだろう、ヴァン……だが、この国の他の部分はどうなる? 合衆国陸軍が黙って、カリフォルニアをきみの独裁国にさせておくと思うのか?」
ヴァン・クリークは、ずるそうな表情になった。
「それはもう計画ずみさ──いまおれは、全国の道路技手に布告文を放送したところだ──おれたちのやったことを告げ、かれらに立て、立って権利を主張しろとな。国中の道路がとまり、国民が飢えてくれば、大統領も軍隊をこちらによこして紛争をおこす前に考えなおすだろうよ。
もちろんかれは、力ずくでおれをつかまえたり、殺したりすることはできるだろう……おれは死ぬことなどこわくないんだぞ! それに大統領だって、道路技手をじゅっぱひとからげに撃ち殺し始めたりはできないさ。国家はおれたちなしには、やっていけないんだからな……結局のところは、おれたちと手を握らざるを得ないんだ……こちらの条件でな!」
かれの言葉には、苦い真実がたくさんふくまれていた。
もし道路技手の蜂起が全国的になったら、頭が痛いからといって脳天を吹っ飛ばしたりできないように、政府だってそれを武力で制圧するような真似はできなくなる。しかし、この蜂起は全国的なものだろうか?
「どうして、全国のほかの技手たちが、きみの指揮に従うと思うんだ?」
「どうしてだと? これが自然の法則ってもんだ。いまは機械の時代だ。どこだろうと本当の力をもっているのは技術者だが、みんなが古ぼけたキャッチ・フレーズに騙されて、その力をふるえないようにされている。しかも、技手階級すべてのうちで、最も重要で、絶対に欠くことのできないのが道路技手だ。これからは、おれたちが支配する……それが、物事の自然法則だ!」
かれはちょっと横をむくと、前のデスクの書類をがさがさやってから、つけ加えた。
「いまのところはこれだけだ、ゲインズ……おれはホワイト・ハウスに電話して、大統領にどんな事態かのみこませてやらなきゃあいけないからな。おまえは仕事を続けるんだ、おとなしくしていれば、怪我をしないですむぜ」
ゲインズは、スクリーンが消えてから何分間か、黙りこんで坐っていた。これで事情がわかった。ほかのところの道路技手たちに、ストライキをおこせとヴァン・クリークが呼びかけたことで、もし何らかの反響があるとすれば、それはどんなものになるだろうかと、かれは考えた。
反響はないだろう──しかし、それにしても、自分の部下の技手たちの中からこんなことが起こるなど、かれは考えてみたこともなかった。道路関係者以外の者と話し合う時間を取ることを拒絶したのは、間違いだったのかもしれない。いや──もし、仕事の手をとめて知事や新間記者たちの相手をしだしたら、いまでもまだ話を続ける羽目になっていただろう。まだ──
かれはデヴィッドソンの番号をダイアルした。
「デイブ、ほかの管区で何か事故は?」
「ありません、技師長」
「どこかほかの道路では?」
「報告はありません」
「きみは、ぼくとヴァン・クリークとの話を聞いたか?」
「はい……傍受しました」
「よろしい。ハバードに大統領と知事に電話させ、暴動がこの道路に限られているあいだは、軍隊の介入にぼくは強く反対すると伝えさせろ。援助を求める前に、介入するようなことがあれば、ぼくは責任を取れないというんだ」
デヴィッドソンは心もとない顔になった。
「それが賢明だとお考えですか?」
「そうとも! もし、ヴァンやその熱狂した連中をかれらのいる場所ごと吹っ飛ばすような真似をしようとしたら、それこそ本当に全国的規模で暴動を起こすことになりかねないんだ。それだけではなく、あいつは、どうにも修復できないぐらいまで道路を壊してしまうこともできるんだ。いま、道路の荷重はどれぐらいだ?」
「夕方のピークから五十三パーセント下がっています」
「二十号動路帯はどうなっている?」
「ほぼ退避ずみです」
「よし、できるだけ急いで、その道路を空《から》にしろ。新しい通行人を入れないよう、警察に頼んで、すべての入口を警備させたほうがいい。ヴァンがいつほかの動路帯をみなとめてしまうかわからないし……ぼく自身がそうする必要が出てくるかもしれん。
ぼくの計画はこうだ。これからぼくは、武装した候補生たちを連れて、|路線の下《ダウン・インサイド》に入る。北にむかって進み、出会った抵抗はすべて制圧する。
きみはぼくらのすぐあとから、当直技手連中と補修要員を集めてついてくるようにしてくれ。その連中で、回転軸をひとつずつ切り離し、ストックトンの指令室に接続するんだ。これは応急処置で、安全連動装置もつかないから、事故を未然に防げるように見張りの技手を充分に配置しろ。
この計画がうまくいけば、ぼくらはサクラメント管区の管制をヴァンの足元からそっくりさらい取ってしまえるし、やつのほうは腹がへって道理がわかるまで、サクラメントの指令室に閉じこもっていればいい」
かれは電話を切って、下部管区当直技師のほうにむいた。
「エドマンズ、ヘルメットをくれ……それと、ピストルだ」
「イエッサー」
かれは引出しをあけ、ほっそりしているが、死の匂いが漂う武器を渡した。ゲインズはそれをベルトにつけ、ついでヘルメットを受け取るとぐいと頭にかぶったが、耳覆いは上げたままだった。ブレキンソップは咳ばらいして、尋ねた。
「ええと……わたしにも……そういうヘルメットをひとつ貸してもらえませんか?」
ゲインズはさっと注意をむけた。
「何ですって? ああ……あなたには必要ありませんよ、ブレキンソップさん。あなたは、連絡するまで、ここに残っていただきたいんです」
「しかし……」
オーストラリアの政治家は何かいいかけたが、思いなおして黙った。
ドアのところから、当直技師候補生が技師長を呼んだ。
「ゲインズさん、ここに、どうしてもあなたに会いたいといっている技手がいます……ハーヴェイという男です」
「だめだ」
「サクラメント管区からきたのですが、サー」
「ほう! 入れてくれ」
ハーヴェイはゲインズに急いで、その日の午後、組合の集会で見聞したことを話した──
「おれはいやになっちまって、やつらがまだ騒いでいるうちに出てきたんです。二十号動路帯がとまるまでは、それについてなにも考えてはいませんでした。ところが、サクラメント管区が騒動を起こしていると聞いて、あんたに会おうと思ったんです」
「これは、いつごろからくすぶっていたんだい?」
「だいぶ前からだと思います。どんなものだかは、知っておいででしょう……どこにも、不平屋ってのはいるもんで、その多くは職能主義者なんです。だが、そいつか政治的に自分とは違う意見を持っているからといって、一緒に働くのを断わることはできません。自由の国ですからね」
「ハーヴェイ、もっと早くぼくのところに来てくれりゃよかったのに」ハーヴェイは頑固そうな表情になり、ゲインズはその顔をまじまじと見た。「いや、きみのいうとおりだ。きみの仲間に気をつけていなければいけないのは、ぼくの仕事で、きみじゃあない。きみのいうとおり、ここは自由の国だからな。それで、まだほかに何か?」
「ええ……いまそれをいおうとしていたんで。あんたが首謀者を見つけるのを助けられるかもしれないと思いましてね」
「ありがとう。ぼくといっしょに来てくれ。ぼくらはいまから路線の下に入って、この騒動を片づけるんだ」
とつぜん、オフィスのドアが開き、技手と候補生がふたりがかりで何かをかかえて入ってきた。かれらはそれを床に下ろして待機した。
それは若い男で、明らかにもう死んでいるようだった。作業服の上着の前が血に染まっている。
ゲインズは当直技師を見た。
「これはだれだ?」
エドマンズは、見つめていた視線をそらして答えた。
「ヒューズ候補生……通信が途切れたので、わたしがサクラメントに出した使いです。それが報告してこないので、そのあと、マーストンとジェンキンズ候補生をやりました」
ゲインズは何かつぶやいてふりむいた。
「来てくれ、ハーヴェイ」
下で待っていた候補生たちの雰囲気が変わっていた。子供っぽく勢いこんで興奮していたのが、何かもっと険悪なものに変わっていることに、ゲインズは気づいた。さかんに手話がやりとりされ、ピストルの装填を確かめている様子のものが何人かいた。
かれはみんなを集めると、候補生司令に合図した。短い信号の交換があり、候補生は敬礼すると、部下のほうにむいて手話で短く合図し、手を格好よく下ろした。全員が列を作って上へむかうとだれもいない待機室へ入り、ゲインズもそのあとに続いた。
中に入り、騒音から切り離されると、かれはみんなにいった。
「諸君は、ヒューズが運びこまれるところを見たろう……あんなことをした野郎どもを殺してやりたいと思っている者はどれぐらいいる?」
すぐ三人の候補生が反応を示し、列を離れて大股に前に出た。ゲインズはかれらを冷やかに眺めた。
「よろしい。きみたち三人は武器を返して、宿舎に帰れ。ほかにも、これを個人的に復讐するためとか、狩猟に行くようなつもりでいる者がいたら、かれと一緒に帰れ」
かれは、短い沈黙が訪れるのを待ってから、話をつづけた。
「サクラメント管区が、その権限を持たない連中によって占領された。ぼくらは、それを取り返しに行く……できれば、どちらの側にも人命の損傷がないようにしたいし、道路もとめたくない。|路線の下《ダウン・インサイド》をこちらのものにする計画だ、回転軸《ローター》をひとつずつ確保してはストックトンに接続を切り換えてしまうのだ。
この部隊の任務は、路線の下を北にむかって進み、その途中にいるすべての人間を見つけ次第制圧すること。きみたちが逮捕する連中のほとんどは、おそらく何も知らない人間だろうということを忘れんようにしろ。だから、麻酔ガス弾は使っていいが、射殺するのは最後の手段とすること。
候補生司令、部下を十人ずつの班に分け、それぞれ班長をつけろ。路線の下に入ったら各班は偵察隊型をとり、それぞれ黄金虫《タンブルバグ》に乗り、時速十五マイルで北にむかう。各偵察班の間隔は百ヤードとする。どこであろうと人間を見つけたら、第一波の全員でそいつをかこんで逮捕し、輸送車に入れて最後尾にまわる。きみたちをここへ運んできた輸送車を、捕虜用に使え。運転手には、第二波の偵察班とならんで進めと命令しておけ。
下部管区指令室を奪回するための攻撃部隊を決めておけ。ただし、下部管区の回転軸をストックトンに接続しおわるまでは、どこの指令室も襲撃しないこと。そのつもりで、連絡を取っておくこと……何か、質問は?」
ゲインズは青年たちの顔を見わたしていった。だれも口を開かないので、かれは候植生司令のほうを見た。
「よろしい、司令。命令を実行しろ!」
配置が完了するまでには、後続の技手部隊も到着し、ゲインズはその部隊を指揮している技師に命令を下していた。
候補生たちは、それぞれ用意のできた黄金虫のそばにいつでも乗馬できる姿勢でならんでいる。候補生司令は命令をというようにゲインズを見た。かれがうなずくと、候補生は腕をさっと下ろし、第一班はまたがり、出発した。
ゲインズとハーヴェイも黄金虫にまたがり、候補生司令とならんで進んだ。第一波の二十五ヤードほど後ろだ。
技師長がこの馬鹿げた格好の小さな乗物に乗ったのはずいぶん昔のことで、変な感じだった。黄金虫というのは、大きさも格好も台所の腰掛《スツール》みたいなもので、ジャイロ安定装置による一輪車だから、乗っている人間には威厳はまったくない。しかしそれは、機械で一杯の路線の下の迷路をパトロールしてまわるには完全なまでに適している。なぜかというと、人間の肩幅ぐらいの幅ならどこでも通り抜けられるし、操作は簡単で、乗っている人間が下りると、そこでじっと待っていてくれるからだ。
小さな偵察車がゲインズのあとから距離をおかずに、回転軸のあいだを出たり入ったりしながら、くねくねとついてくる。その中のテレビとオーディオの通信機が、ゲインズのほかにいくつも抱えている責任との中継をはたしていた。
サクラメント管区の最初の二百ヤードは何事もなかったが、ついで偵察班のひとりが、回転軸のそばに黄金虫が一台とめてあるのを見つけた。それに乗ってきた技手は、回転軸の下にある計器を点検しており、かれらが近づくのに気づかなかったらしい。武器は持っておらず抵抗もしなかったが、驚いて腹をたて、同時にひどく困惑もしていた。
第一波の班が後尾にまわり、次の班が先頭に立った。
もう三マイル行くあいだに、逮捕した人数は三十七人、死者はなかった。候補生の二人が軽傷を負い、離脱を命じられた。捕虜のうち武器をもっていたのは四人だけで、そのひとりは首謀者のひとりだとハーヴェイが確認できた。ハーヴェイは場合によったら、暴動をおこした連中と談判しに行きたいといっていたし、ゲインズもいちおう同意していた。かれは、ハーヴェイが組合指導者として長い立派な経歴を持っていることを知っていたし、暴力行為を最小限におさえて成功する見込みがあるなら、どんなことでもやってみるつもりだった。
それからすぐあと、第一波が別の技手を見つけた。そいつは回転軸のむこうにいたので、すぐそばへ行くまで見えなかったのだ。その男は武器をもっていたが抵抗しなかったので、もしそいつか、回転軸の下の電話さしこみに消音電話《ハッシャ・フォン》をつないでしゃべっていなかったら、その事件は別に記録する値打などなかったろう。
逮捕がおこなわれたころ、ゲインズはその場に着いた。かれは電話の軟らかいラバー・マスクをそいつの顔からむしり取った。あまり手荒くやったので、そいつの歯のあいだで骨伝導の受話器がガリッと響いたのが感じられたぐらいだった。捕虜は折れた歯を吐き出してにらみ、尋問しようとしても無視した。
ゲインズの迅速な行動にもかかわらず、もう奇襲攻撃の有利さをなくしてしまったことは大いに考えられることだった。その捕虜が、地下からの攻撃がおこなわれていることを報告してしまったと、考える必要がある。警戒を厳重にして前進しろという命令が伝えられた。
ゲインズの悲観的な考えどおりだったことが、すぐにわかった。まだ数百フィートは離れているが、一団の連中がかれらにむかってやってきた。少なくとも二十人はいるが、正確な兵力はわからない。回転軸のかげに隠れて進んでくるからだ。ハーヴェイがゲインズを見ると、かれはうなずいて、候補生司令にとまれと合図した。
ハーヴェイは出ていった。武器を持たず、両手を頭上に高くあげ、体重のバランスをうまくとって運転していく。暴徒の一団は、確信がなさそうにその速度を落とし、やがてとまってしまった。かれらのひとり、指揮者らしいのが手話で話しかけ、ハーヴェイもそれに答えた。
かれらは遠く離れていたし、頼りない黄色の光の下なので、何を話し合っているのかはわからなかった。それが何分か続いたあと、とまった。その指揮者は、どうしたらいいのか自信がないようだった。仲間のひとりが前に出てきて、拳銃をホルスターにおさめ、指揮者と話し合った。指揮者は、そいつの激しい手真似に首をふった。
そいつは改めて議論を続けたが、やはり断られた。とうとう不愉快そうにそいつは両手をふってあきらめ、拳銃を抜くと、ハーヴェイは腹をおさえて、前にかがみこんだ。そいつはもう一度撃ち、ハーヴェイはビクンとすると、路面に滑って倒れた。
候補生司令はゲインズより抜くのが速かった。人殺し野郎は、弾丸をくらうと顔を上げた。まるで狐につままれたような顔をし──そうと気づく前に死んでいた。
候捕生たちも射撃に加わった。第一班の人数は相手の半分以下だったが、敵の士気がどちらかというと低下していたことに助けられた。最初の激しい一斉射撃が終わると、人数は互角に近くなっていた。最初の卑劣な銃撃から三十秒とたたぬうちに、暴徒側は全員が、死ぬか負傷するか逮捕されていた。ゲインズのほうの損害は、死者二名(殺されたハーヴェイをふくむ)と負傷者二名だった。
ゲインズは状況の変化に合わせて、作戦を修正した。いまや隠密行動の利点はなくなり、速度と攻撃力が最重要となった。第二班は、第一班のすぐ後ろにつけと命令された。第三班は、第二班から二十五ヤード以内のところに前進。
この三個班は、武器を持っていない連中は無視して第四班に逮捕をまかせるが、武器を持っている人間は見つけしだい撃てと命令された。
ゲインズは、なるべく殺さずに、負傷させるだけにして撃つようにと注意したが、そんな警告を守るのはまず無理だとわかっていた。当然、殺し合いになるだろう。とにかく──かれはそんなことはしたくなかったが、ほかに選択のしようはないと感じていた。武器を持った暴徒はだれもが、いつ人殺しになるかわからない──部下に制約をおしつけすぎるのは、自分の部下に対して片手落ちというものだ。
新しい進撃態勢ができあがると、かれは候補生司令に前進を合図し、第一班と第二班が黄金虫の出せる限りの速度で──時速十八マイル足らずだが──同時に出発した。ゲインズもそのあとに続いた。
かれはハーヴェイの死体をよけて通ったが、そうしながら無意識のうちにそれを見下ろしていた。顔は、ナトリウム・アーク燈の光で醜い黄疸のような黄色をしていたが、死者のたくましい性格がそのままにうかがえる、男らしい美しさの感じられる死顔だった。その顔を見て、射撃を命令したことにそれほど後悔を覚えなくなったが、自分の個人的名誉はこれで失われたという哀惜の念は、これまでにまして強くなった。
それからの数分間に何人かの技手に出会ったが、撃ち合いになることはなかった。ゲインズが、流血をある程度にまでおさえて勝利できるかもしれないとかすかに希望を抱き始めたとき、ヘルメットのぶあつい騒音よけの耳覆いを上げてみると、回転軸とローラーが余韻を響かせながらゆっくりととまってゆくところだった。
道路がとまったのだ。
かれは候補生司令にむかってさけんだ。
「きみの部下をとめろ!」
その声は、現実のものとは思われない静けさの中で、うつろにこだました。
かれが回れ右して、駆け出すのと同時に、偵察車の上部が開き、その中から候補生がさけんだ。「技師長! 交換台が呼んでいます」
映像スクリーンの女性は、ゲインズの顔を認めるとすぐ、デヴィッドソンと変わった。デヴィッドソンはすぐに話だした。
「ヴァン・クリークが、あなたを呼んでいます」
「道路をとめたのはだれだ?」
「あいつです」
「ほかに何か、状況の大きな変化は?」
「ありません……かれがとめたとき、道路はほとんど空っぽでした」
「よかった。ヴァン・クリークを出してくれ」
暴動の首謀者の顔は、ゲインズを見ると、ひどい怒りをむき出しにして、しゃべり始めた。
「そうかい! おまえは、おれが冗談をいっているとでも思っていたんだな、え? いまはどう思っているんだ、ゲインズ技師長さまよう?」
ゲインズは、どう思っているかを正確に話したい衝動をやっとおさえた。特に、ヴァン・クリークに対して感じていることを。この小男の態度は何もかも、キーキーひびく石盤用の石筆みたいに痴にさわる。
しかし、胸のうちをぶちまける贅沢は許されなかった。かれはやっとの思いで、相手の虚栄心をなだめる、媚びるような口調を、その声に取りもどした。
「ヴァン、この作戦は、きみの勝ちだと認めるほかないな……動路帯はとまったよ……しかし、ぼくがきみの言葉を真面目に考えなかったなどとは思うなよ。きみの仕事ぶりを、ずいぶん長いこと見てきたから、見くびったりはしなかった。きみのいうことは、本気だとわかっているよ」
ヴァン・クリークはこのお世辞に喜んだが、それを顔に出すまいとし、怒りの声を上げた。
「だったら、どうして賢くなって、降参しないんだ? そちらに勝ち目はないんだぞ」
「そうかもしれんな、ヴァン。だが、ぼくがなんとかしなければいけないことは、きみもわかっているだろう。それに……なぜ、ぼくに勝ち目がないんだ? きみ自身がいったぞ、ぼくが合衆国陸軍全部を呼びよせられることを」
ヴァン・クリークは勝ち誇ったように笑い、長い接続コードがついた梨の形の押しボタンをさし上げて見せた。
「これが見えるか? これを押したら、地下通路もろとも動路帯は吹っ飛んじまうんだ……天国までドーンとな。おまけにおれは斧を取って、出ていく前に、この指令室をぶちこわしていくからな」
ゲインズは心から、もっと異常心理学を勉強しておけばよかったと思った。だが──最善をつくして、かれにかなった答え方をするよう、自分の常識を信じるほかないのだ。
「そいつはまったく思い切ったやりかただがな、ヴァン、だからといって、なぜこちらがあきらめられるんだ?」
「そうかな? もう一度考えなおしてみたほうがいいぞ。おまえに無理じいされて、おれが道路を吹っ飛ばしてしまうようなことになったら、一緒に吹っ飛ばされてしまう人間は、どうなるんだ?」
ゲインズは狂おしい気持ちで考えた。ヴァン・クリークがその脅迫を実行するだろうことを、かれは疑わなかった。「おまえに無理じいされて……」という口ぶりそのものの子供じみた怒りは、かれの精神作用が危険なほど変調をきたしていることを示している。
それに、人口の密集したサクラメント管区のようなところなら、どこで爆破をやられても、アパートの一軒あるいはそれ以上がやられるだろうし、二十号動路帯の当該地区にいる商店の人々を間違いなく殺してしまい、偶然に通りかかった第三者も死ぬことになる。まったくヴァンのいうとおりだ。事情を知らない第三者の生命を危険にさらすことはできないし、そんな危険はおかせられなかった──たとえ、道路が二度と動かなくなるとしても。
そのことをいうのなら、道路自体に大きな被害が出る危険など、かれはまったくおかしたくなかったが──かれを何よりも絶望的にしたのは、無辜《むこ》の人命が危険にさらされるということだった。
ひとつの調べが、かれの頭をかすめた──
その音を聞け!
その走るを見よ!
おお、われらが仕事は、はて知れず……
どうすればいいんだ? どうすればいいんだ?
人は乗り
人は進み
われらは見守る……
このままでは、どうにもならない。
かれはスクリーンに向きなおった。
「なあ、ヴァン、きみだって、どうしてもというときにならなければ、道路を吹き飛ばすようなことはしたくないだろう。ぼくだってそうだ。ぼくが、きみの本部へ行って、ぼくらでこのことを話しあってみるのは、どうだ? 分別のある男が二人で話しあえば、解決策も出るはずだぞ」
ヴァン・クリークは疑い深かった。
「それは何かの策略じゃないのか?」
「なぜそんなことができる? ぼくはひとりで、武器を持たずに行く。ぼくの車が出せるだけの速さでそちらに行くんだ」
「おまえの部下は?」
「ぼくが帰ってくるまで、いまのところで待機している。確かめるために、そちらから監視員をだせばいい」
ヴァン・クリークはしばらく返事をためらい、罠ではないのかという不安と、元の上司が自分のところに和解条件を願いに来るというお楽しみのあいだで、迷っていた。かれはやっと、しぶしぶ同意した。
ゲインズは指示をつたえ、デヴィッドソンにこれからやろうとしていることを話した。
「ぼくが一時間以内に帰ってこなかったら、あとはきみの考えでやれ、デイブ」
「気をつけて、技師長」
「そうするとも」
かれは偵察車から候補生の運転手をおろし、それを傾斜路から土手道へ入れ、北にむけると吹っ飛ばした。いま時速二百マイルで走らせながら、かれはやっと考えをまとめられるようになっていた。
この計画に成功しても──まだいくつか、変更を加えなければいけないことがある。二つの教訓が、うずく親指のようにはっきりと浮かび上がっている。
まず、どの動路帯にも、横に連結した安全ロックをつけなければいけない。ある動路帯の速度が隣と危険なほど違ってきたら、隣接した動路帯の速度が遅くなったり、あるいはとまったりするように。二十号動路帯での事故を、二度とくりかえしてはいけないのだ!
しかしそれは、基本的な、単に機械的な細部にすぎない。本当の失敗の原因は、人間の中にあったのだ。道路関係職種では良心的な信頼できる人間しか雇わないように、心理学的分類テストを改善しなければいけない。
しかし、冗談じゃあないぞ──現在の分類テストはその点、疑問の余地がないはずだといわれていたではないか。かれの知っている限り、改善されたハム・ワズワース・バートン法による失敗は、これまで一度もなかった──今日のサクラメント管区まではだ。
いったいヴァン・クリークは、気質的に大丈夫と分類された一管区の男たち全員を、どうやって暴動に参加させたのだろう?
どうも筋が通らない話だった。
雇用されている人間は、理由もなく常軌を逸した振舞いをしたりしない。ひとりなら、予測できなかったということもあるだろうが、数が多くなればそれだけ、機械や数字と同じように信頼できるものとなる。かれらは、測定され、試験され、分類できるのだ。
かれの内なる目は自動的に、書類キャビネットが何列もならんでいる人事部を思い浮かべた──わかった! あいつだ! 技師長代理のヴァン・クリークは、全道路の人事部長を兼務していたのだ!
これが、すべての事実をあてはめられる唯一の解釈だ。痛んだリンゴを選び出して、ひとつの樽につめこむ完全な機会を持っているのは、人事部長だけだ。
何年にもわたって、不正がおこなわれていることなど、何ひとつ疑いを抱かずに、ゲインズは気質分類テストを信じこんできた。そしてその間ヴァン・クリークは、かれが必要とする人間の記録を改竄《かいざん》したあと、慎重にかれらを転属させていたのだ。
ここでまた別の教訓が与えられる──幹部にはよりきびしいテストが必要であり、きびしい監督と監査なしには、人選を幹部にまかせないこと。その点では、かれ、ゲインズ自身でさえも、監視されるべきだ。クィ・クストディエト・イプソス・クストデス? 監督者自身を監督するのはだれだ? ラテン語は時代遅れかもしれないが、古代ローマ人は馬鹿じゃあなかった。
かれはやっと、自分がどこで失敗したのかわかり、それがわかったことで、憂鬱な喜びを味わった。監督と監査、点検と再点検、それが解答だ。厄介で、非能率的だろうがしょうがない、どうも適切な安全措置というものは、なんらかの能率低下をもたらすようだ。
ヴァン・クリークのことも、かれをもっと知るまで、あれほどの権限を与えてしまうべきではなかったのだ。そう、いまも、かれのことをもっと知らなければいけない。
ゲインズは緊急停止のボタンを押し、くらくらするほどの急停車をした。
「交換台! ぼくのオフィスを呼び出せるかどうか、やってみてくれ」
ドロレスの顔がスクリーンに現われた。
「まだいたのか……よかった! もう帰ってしまったかと思っていたが」
「また出てきたんです、ゲインズさん」
「いい子だ。ヴァン・クリークの人事ファイルを出してくれ。かれの資格分類記録を見たい」
彼女は例外的なまでに手早くもどってきて、そこに記された記号とパーセンテージを読みあげた。かれは自分の勘があたっているデータに出会うたびに、いちいちうなずいた──内向性を隠している──劣等感。ぴたりだ。
ドロレスは読み続けた。
「人事委員会の注……総合人格曲線では、AとDで最大の不安定さの可能性を示しているが、それにもかかわらず、委員会はこの幹部社員が職務に適格と確信する。かれの経歴は抜群であり、部下の掌握にきわめて優れている。よって、同人の留任ならびに昇進を勧告する」
「そこまででいい、ドロレス、ありがとう」
「はい、ゲインズさん」
「いまからぼくは、決着をつけに行く。成功を祈っていてくれ」
「でも、ゲインズさん……」
フレスノでは、ドロレスが消えたスクリーンを、目を丸くして見つめていた。
「ぼくをヴァン・クリーク氏のところに、連れていってくれ!」
そう話しかけられた男は、ゲインズの胸につきつけた拳銃をはなした──いやいやながらだったな、とゲインズは思った──そして、技師長に、先に立って階段を登れと示した。ゲインズは車から下りて、いわれたとおりにした。
ヴァン・クリークは、管理者用オフィスではなく、管区指令室に坐っていた。かれとともに、武装した男たちが六人いた。
「今晩は、ヴァン・クリーク委員長」
偽りの地位の名でゲインズに呼ばれると、この小男は目に見えるほど胸をふくらませ、わざと何げなさそうな顔で答えた。
「ここでは、肩書などあまり気にしないんだ……おれをヴァンと呼ぶだけでいい。坐れ、ゲインズ」
ゲインズはそうした。ほかの連中を追い出す必要がある。かれは、うんざりしているような笑顔でかれらを見た。
「ヴァン、きみは、武器も持っていないたったひとりの男を、ひとりで扱うこともできないのか? それとも、職能主義者というのは、おたがいを信頼していないのかい?」
ヴァン・クリークの顔に困惑の色が現われたが、ゲインズの臆したところのない笑顔は変わらなかった。とうとう小男は机から拳銃を取りあげ、ドアのほうへふった。
「出ていってくれ、諸君」
「しかし、ヴァン……」
「出ていけと、いってるんだ!」
二人だけになると、ゲインズが映像スクリーンで見た押しボタンをヴァン・クリークは取り上げ、かつての上司に拳銃をむけて怒鳴った。
「ようし……変な真似をすこしでもしてみやがれ、これをぶっぱなすからな! そちらの提案は何だ?」
ゲインズのじらすような笑顔が、もっと大きく広がった。ヴァン・クリークは眉をよせて尋ねた。
「何がそうおかしいんだ?」
ゲインズは答えてやった。
「きみだよ、ヴァン……正直なところ、これはおかしいぜ。きみは、職能主義者の革命を始めたが、その職能の力を見せつける唯一の方法が、きみたちの肩書を正当化する道路そのものを爆破することだけというんだからな。教えてくれ……きみはいったい何を怖がっているんだ?」
「何もおれは怖がってなどいないぞ!」
「怖がっていない? きみが? こんなところに坐りこんで、そんな玩具の押しボタンで、いまにもハラキリをやろうとなどしていて、それでも怖がっていないというのか? きみの仲間だって、自分たちがそのために戦っているものを、きみがいまにも吹き飛ばしてしまいそうだと知ったら、すぐにきみを射殺しちまうだろう。きみは仲間をも恐れている、そうだな?」
ヴァン・クリークは押しボタンをおしやって、立ち上がった。
「おれは怖がってなどいないぞ!」
かれは金切り声でそういうと、机をまわってゲインズのほうにむかってきた。
ゲインズは坐ったままで、笑った。
「だが、きみは怖がっているさ! いま現在、きみはぼくを恐れている。仕事でこんなことをしてと、ぼくに怒鳴り飛ばされるのを、恐れている。きみは、候補生たちがきみに敬礼しないだろうと恐れている。みんなに後ろ指をさされて笑われるのを恐れている。夕食のときにフォークの使い方を間違えやしないかと恐れている。きみは、人々に見られるのを恐れている……そして、世間がきみに注目しなくなるのを恐れているんだ」
かれはいいかえした。
「おれは恐れてなどいないぞ! きさまぁ……この、うす汚い、威張った気取り屋が! お上品な学校へ行ったからというだけで、だれよりも偉いような気分でいやがる」かれは喉がつまりそうになり、怒りの涙をおさえつけようとして、ますます支離滅裂になった。「きさまと、きさまの汚らわしいへなちょこ候補生どもが……」
ゲインズは注意深く、かれを見ていた。この男の性格にある弱点は、いまやはっきりしていた──なぜ、もっと前に気づかなかったのか不思議だった。いつか複雑な計算に手を貸そうといったとき、ヴァン・クリークがどれほど嫌な顔をしたかを、かれは思い出した。
問題はいま、かれの弱点につけこみ、頭をそれでいっぱいにさせて、危険あふれる押しボタンのことを忘れさせてしまうことだ。かれの毒気にゆがんだ考えを、ゲインズだけに向けさせ、ほかのことを考えられなくしてしまうのだ。
しかし、あまり無造作に突つきすぎてもいけない。部屋のむこう側から一発喰らえばゲインズは一巻の終わりになって、道路の管理権をめぐるむなしい流血惨事を避ける機会も永久になくなってしまう。
ゲインズはくすくす笑っていった。
「ヴァン……きみは、哀れなちびさ。それが、まぎれもない正体だな。ぼくは、きみを完全に理解したよ。きみは三流さ、ヴァン。これまでずっときみは、だれかに正体を見抜かれないか、そして最下層のクラスに追い返されないかと、そればかり心配していた。委員長だと……あきれるねえ! 職能主義者たちが出せるクマの中できみが最高だというんなら、ぼくらはかれらをあっさり無視できるな……自分自身のあまりの無能さで、いずれは自滅しちまうさ」
かれはぐるりと椅子をまわし、わざと背中をヴァン・クリークとその拳銃にむけた。
ヴァン・クリークは、かれを責め立てている相手にむかって進み、数フィート離れたところで立ちどまると、さけんだ。
「きさま……思い知らせてやる……きさまに弾丸をぶちこんでやる。そうしてやるからな!」
ゲインズはくるっとふりむきざまに立ち上がり、しっかりした足取りで、かれにむかって歩いた。
「自分が怪我をする前に、その豆鉄砲を捨てろ」
ヴァン・クリークは一歩後退し、金切り声をあげた。
「そばによるな! そばによるな……さもないと、撃つぞ……本当に撃つぞ!」
いまだ! ゲインズはそう考えて、タックルした。
拳銃が耳のそばで火を吹いた。だが、それは当たらなかった。ふたりは床にころがった。ヴァン・クリークは、小男でつかまえにくい。拳銃はどこだ? あった! ゲインズはそれをつかみとると、さっと離れた。
ヴァン・クリークは立ち上がらなかった。床に手足を投げ出して横たわり、閉じた両眼から涙を流しながら、欲求不満のかたまりの子供みたいにぶつぶついっている。
ゲインズは哀れみらしきものを目に浮かべてかれを眺めたが、拳銃の握りでその耳の後ろを注意深くなぐりつけた。かれはドアのところに行き、ちょっと耳を澄ませてから、用心して錠を下ろした。
押しボタンのコードは制御盤につながっていた。かれは接続を調べ、慎重にはずした。それが終わると、調整デスクの映像スクリーンに向いて、フレスノを呼んだ。
「いいぞ、デイブ、みんなに攻撃させろ……頼むから、急いでくれ!」
そういい終わるとかれは、スクリーンを消した。当直技師に自分がどれほど震えているか、見られたくなかったからだ。
あくる朝、フレスノにもどったゲインズは、その胸にかなりの満足感を覚えながら中央指令室の中を歩きまわった。道路は動いていた──まもなく、もとの速度にもどるだろう。長い夜だった。技師はみな、使える候補生もみな、サクラメント管区を一インチきざみに点検してまわるために必要だったし、かれはそうすることを要求したのだ。それからかれらは、壊された二カ所の下部管区制御盤の配線を、接続しなおさなければいけなかった。だが、道路は動いている──床をとおして、そのリズムが感じられた。
かれは、げっそりやつれて不精髭を生やしている男のそばで立ちどまった。
「どうして家へ帰らないんだ、デイブ? あとはマクファーソンがやれるよ」
「あなたこそどうなんです? どうにも見られた格好じゃあないですよ」
「ああ、もうしばらくしたら、ぼくのオフィスでひと眠りする。家内には電話して、行かれないと伝えた。彼女のほうから、ここへ会いにくるよ」
「怒っていましたか?」
「それほどでもないさ。女ってそんなもんだろ」
かれは計器盤のほうをふりかえり、六つの管区からのデータを集める|世話やき《ビジイ・ボディ》≠ェカチカチ音を立てているのを見つめた。
サンディエゴ環状線、エンジェルス管区、ベイカーズフィールド管区、フレスノ管区、ストックトン──ストックトン?
ストックトン! これは大変! ブレキンソップ! かれは、オーストラリアの閣僚を、ストックトンの指令室にまる一晩、ほうりっぱなしにしてしまったのだ!
ゲインズはドアにむかって走りだしながら、ふりむいてさけんだ。
「デイブ、車を呼んでくれ! うんと速いやつだ!」
デヴィッドソンが命令を復唱するまもなく、かれは廊下を横切り、自分のオフィスに首をつっこんだ。
「ドロレス!」
「はい、ゲインズさん」
「家内に電話して、ぼくはストックトンに行かなければいけなくなったと伝えてくれ。もううちを出かけていたら、ここで待たしておいてくれ。それからドロレス……」
「はい、ゲインズさん?」
「家内をなだめておいてくれ」
彼女は唇を噛んだが、その顔は冷静だった。
「はい、ゲインズさん」
「いい子だ」
かれは外に出ると、階段をかけおりた。道路の階に達すると、動いている動路帯が目に入った。心がぬくもり、陽気といっていいほどの気分になった。
そっと口笛を吹きながら、大股に〈地下〉と記されているドアに向かった。そのドアをあけると、|路線の下《ダウン・インサイド》からの轟き咆哮するリズムが、かれの口笛の音を消してしまいながらも、あの曲をかなで始めるようだった。
へい、へい、ほー!
われらはローターを動かす係……
管区を調べよ、声高らかに!
一! 二! 三!
どこへ行こうと、人は知る
道路は常に動きつづけることを!
[#改ページ]
爆発のとき
「そのレンチを下ろせ!」
そういわれた男はゆっくりとふり向き、声の主と顔を合わせた。そいつの表情は、グロテスクなヘルメットで隠れている。全身がカドミウム鉛の防護服で覆われているが、答えた口調は不安そうな苛立ちを見せていた。
「いったいどうしたというんだ、博士《ドック》?」
かれは問題の工具を置こうとしなかった。
かれらは、面をかぶった二人の剣士がきっかけをつかもうと、油断なく向かい合っているようだった。
かれのマスクの背後から、最初に話しかけてきた声は、音程がすこし高く、かなりの命令口調だった。
「聞こえたろう、ハーパー。そのレンチをすぐに下ろし、その引金≠ゥら離れろ……エリクソン!」
防護服を着た三人目が、制御室のつきあたりからやってきた。
「なんか、用、ドック?」
「ハーパーの当直は交替させる。きみが当直技術者になるんだ。控えの技術者も呼んでくれ」
「了解」
かれの声と態度は冷静で、事態を何の無理なく受け入れた。たったいま当直から外された原子力技術者は、相手からもうひとりへと視線をむけ、それから注意深くレンチを棚にもどした。
「いわれたとおりにするよ、シラード博士……だが、きみの交替も呼ぶんだな。ぼくは、いますぐ審問がおこなわれることを求めるぞ!」
鉛入りのブーツで床の金属板を踏み嗚らしながら、かれは怒って出ていった。
シラード博士は、それからの二十分間、かれ自身の交替がやってくるまで、みじめな気持ちで待った。たぶん、かれは急ぎすぎたのだろう。あるいは、かれの考えたことは間違いだったのかもしれない──世界中で最も危険な機械、核増殖炉をあつかう緊張下にあってハーパーがついに参ってしまったのだと考えたことは。
しかし、かれが問違ったのだとしても、安全な方に間違わなくてはいけなかったのだ──この仕事で事故がおこってはいけない>氛氓ネんらかの事故がウラニウム−238、U−235それにプルトニウムの十トンほどによる核爆発を引き起こすかもしれないときには。
かれはそれが何を意味することになるのかを思い浮かべようとしたが、できなかった。聞かされているのは、ウラニウムには潜在的にTNTの二千万倍もの爆発力があるということだった。そんな形での数字は無意味だ。かれはその原子炉を、一億トンの高性能爆薬か千発のヒロシマ型として考えてみた。それでも、何の意味もなさなかった。
かれは前に一度、原爆が落とされるところを見たことがあった。空軍で人間の感受性分析をやっていたときだ。かれは、そのときの爆弾千発分の爆発を想像することなどできなかった。頭がそれを考えるのを拒否したのだ。
たぶん、ここにいるような原子力技術者には想像できるのだろう。たぶん、かれらの数学的能力と、核分裂室内で実際に何かおこなわれているかを人より知っていることで、かれらは、あの遮蔽物のむこうに閉じこめられている心も粉砕されるほどの恐怖を、いくらかでもはっきりと見られるのだろう。そうなら、かれらが爆発させたがるのも不思議ではない──
かれは溜息をついた。エリクソンは調整を加えていた線型共振加速器の制御盤から、こちらへ視線をむけた。
「何か面倒なことでも、ドック?」
「何も。ハーパーを交替させなければいけなかったのが、気になってね」
シラードは、大柄なスカンジナビア人の鋭い視線を感じた。
「あんたのほうが、いらいらしているんじゃあないだろうね、ドック? あんたたち、心理学者も、頭がいかれてしまうことがあるんだから……」
「ぼくが? そうは思わないね。ぼくは、あの中にある代物が恐ろしい……そうでなければ、ぼくは気違いさ」
「ぼくも同じだよ」
エクリソンは真面目な声でそういい、加速器制御盤の仕事にもどった。
加速器の本体は、別の遮蔽壁のむこうにおかれている。その末端は、それと原子炉のあいだにある最後の障壁の中に消えており、すさまじく加速された原子より小さい弾丸の絶え間ない流れを、炉自体の中にあるベリリュームの標的にぶつけている。いたぶられたベリリュームは中性子を生み出し、それはウラニウムの固まりの中をあらゆる方向にむかって飛ぶ。これら中性子のいくつかはウラニウム原子核を直撃し、それを二つに分裂させる。砕片は新しい元素になり、どのような比率で各原子が割れたかによって、バリウム、クセノン、ルビジウムとなる。これらの新しい元素はふつう、不安定な同位元素であり、連鎖反応的な放射性崩壊によって壊れ、一ダース以上の元素となる。
しかしこのような二度目の変換は比較的安全だ。重要であり危険なのは、ウラニウム原子核の最初の分裂であり、それを結びつけていた畏怖を覚えるほどのエネルギーを解放することだ──二億電子ボルトという信じられないほどのエネルギーだ。
中性子をぶつけることでウラニウムは他の燃料を増殖させるが、その分裂自体がもっと多くの中性子を作り出し、それが順番に他のウラニウム原子核にぶつかり、それらを分裂させる。
この種の漸進的に増加する核反応に対して条件があまりに好都合であると、それは制御できなくなり、測ることもできない一マイクロ秒の何分の一かのあいだに、完全な核爆発へと進んでしまうかもしれない──原爆を小銃に見せてしまうほどの爆発へと。これまでの人類の経験をはるかに越えたところに存在するものは、自分の死がわからないようにまったく理解できないものなのだ。恐れることはできても、理解することはできない。
しかし、完全な爆発をおこす一歩手前のレベルで、ひとりでに継続していく核分裂が、増殖炉の稼動にはぜひとも必要だ。ベリリュームから出る中性子で最初のウラニウム原子核を分裂させるには、その原子の死がさしだすエネルギー以上のものを必要とする。核増殖炉を稼動させつづけるためには、ベリリューム標的からもたらされる中性子の核分裂がより多くの分裂をおこすことが、どうしても必要だ。
この連鎖反応が常に弱まり、なくなってゆくようにすることも、同じように必要だ。高まっていってはいけない。そうなると、どんな方法でも観測できないほどの短時間にウラニウムの塊りは爆発してしまう。
観測するにもだれひとりと残らないことになってしまう。
原子炉で当直についている原子力技術者は引金≠使ってこの反応を制御できる。その引金とは、原子力技術者が線型共振加速器、ベリリューム標的、カドミウム制御棒、それに続く制御装置、計器盤、電力源をふくめて使う用語だ。
つまり、ベリリューム標的への爆発量を変えることで原子炉の稼動レベルを増減でき、カドミウム制御棒で原子炉の有効量≠変えられ、内部の反応が落ちたことを──というより、一瞬前に落ちたことを、計器で知ることができる。原子炉内でいま現在実際に何が起こっているかを知ることは、とてもできない──原子以下のもののスピードはあまりに大きく、時間の間隔はなきに等しい。後ろ向きに飛んでいる鳥みたいなものだ。それまでいたところは見られるが、どこへ向かっているかは、まったくわからない。
それにもかかわらず、原子炉を高い効率に保つだけでなく、その反応がぜったいに臨界点を越えて大爆発に進まないように気をつけるのは、その当直者の、かれだけの責任なのだ。
だが、それは不可能だ。確実ではあり得ない。絶対に確実などということは、あり得ない。
当直者は最良の専門教育による技術と学習を仕事に持ちこみ、その危険を数学的に最も低い確率にまで下げることもできるが、原子以下のものの行動を規定している盲目的偶然の法則がかれに対抗してロイヤル・フラッシュを出し、かれの最も熟練した腕を破るかもしれない。
そして原子力技術者がみな、そのことを知っている。自分自身の命だけではなく、他の無数の人々の命をも、賭けているのだということを。たぶん、この惑星にいる全人類の命をも。そのような爆発が何を引き起こすかをはっきり知っている者は、だれもいないのだ。
ひかえめな見積りで、工場と従業員を完全に破壊殺戮し、その上、北に百マイル離れた人口・交通量ともに大きいロサンゼルス・オクラホマロード・シティまで大きな穴をあけてしまうと、なっている。
原子力委員会によってその工場が認可されている公式かつ楽天的な見解は、数学に基づいている。それほどの量のウラニウムは、それ自体が分子単位で崩壊してしまうから、連続的に加速された核爆発がマッス全体に及んでいく以前に、破壊地域は制限されると数学的には予測されている。
原子力技術者たちは、概して、公式見解を信用してはいない。かれらの判断するところ、価値のある理論的、数学的予測など、実験で確かめられるまで、まったく何の意味もないのだ。
しかし、公式見解をあてはめてさえ、当直についている各原子力技術者は、かれら自身の命だけではなく、他の多くの人命をその手に握っていることになる──どれほどの人数かは、考えないほうがいい。
これまでどんなパイロットも、将軍も、外科医も、大勢の他人の生命に対して、これはどの、逃れられない、恒常的に存在している責任の重荷を毎日担ったことはない──この技術者たちが当直につき、制御棒にふれたり、ダイアルを見たりするたびに、担っている重荷を。
かれらが選ばれたのは、その知性と技術教育だけではなく、それと同じぐらい人格と社会に対する責任感によってなのだ。感受性が必要だ──まかせられた責任の重大さを完全に理解できる男たちが──ほかの種類の連中ではだめなのだ。だがその責任の重荷は大きすぎ、感受性のある人間がいつまでも耐えられるものではない。
それは、どうしても、心理的に不安定な状態だ。狂気は職業病なのだ。
カミングス博士が現われた。放射能洩れに備えて着ている防護服のストラップをはめながら。
「どうしたんだ?」
と、かれはシラードに尋ねた。
「ハーパーを交替させるほかなかったんだ」
「そういうことか。かれとすれ違ったが、ひどく腹を立てていた……ぼくをにらみつけただけだったが」
「わかっている。かれはすぐ審問をやれといったよ。それで、きみを呼んだんだ」
カミングスは不平を洩らし、体をぜんぶ防護服に包まれてだれだかわからない技術者にむかってうなずいた。
「ぼくは、だれに当たったんだ?」
「エリクソン」
「結構。のろまは気が狂ったりできないからな……え、ガス?」
エリクソンはちょっと顔を上げ、それから「それは、きみの問題さ」と答えると、自分の仕事にもどった。
カミングスはシラードのほうに視線をもどし、そしていった。
「精神科医は、ここじゃあどうも人気がないみたいだな。OK……きみと交替するよ」
「了解」
シラードは、制御室を取り巻いている外部シールドの中のジグザグ通路を歩いていった。そこを出ると、ロッカー室で邪魔な防護服を脱ぎ、エレベーターのほうへ急いだ。
かれは、地下のチューブ駅でエレベーターを下り、人の乗っていないカプセルはと見まわした。それを見つけるとかれはストラップをかけ、気密ドアをしめ、加速慣性用のクッションに後頭部をつけた。
五分後、かれは、二十マイル離れた所長事務所のドアをノックしていた。
核増殖炉発電所本体は、アリゾナ高原の砂漠丘陵にある窪地の中にある。発電所を稼動させるのに直接必要でないものはすべて──管理事務所、テレビ用施設、その他は──丘陵を越えたかなたにある。これら補助機能を入れている建物は、技術専門家が考えられる限り最も堅牢な構造になっている。だが、もしその日≠ェ来たとき、そこの住人の生存率は、ナイアガラ瀑布を樽に入って落ちる人間とほぼ同じと考えられている。
シラードはもう一度ノックした。かれは男性秘書スタインケに迎えられた。シラードは、かれの病歴を思い出した。以前は若い技術者の中でも最も優秀だったのだが、数学の運算ができなくなる病気にかかった。明らかな遁走=i記憶喪失)の例だが、その哀れな男にできることは何もなかった──かれは、他の面ではまったく正気で、仕事を続けたくてたまらなかった。かれは事務屋として復職したのだった。
スタインケはかれを所長の個人用事務室に案内した。ハーパーが先に来ており、かれの挨拶に冷ややかな丁寧さで答えた。所長は暖かく迎えたが、一日二十四時間緊張しっぱなしはえらく疲れるものだろうなと、シラードは思った。
「入って、ドック、入ってくれ。坐って。さあ、どういうことなのか話してほしいな。わたしは、いささか驚いているんだ。ハーパーは、うちの連中の中でも最もしっかりしている男だと思っていたんでね」
「かれが、そうではないとはいいませんよ、サー」
「ほう?」
「かれは完全にまっとうなのかもしれません。だが、あなたの指示は、いかなる危険も犯すなですから」
「そのとおりだ」
無言のまま椅子に固くなって坐っている技術者にむかって、所長は困ったような視線をむけ、ついで注意をシラードにもどした。
「では、どういうことか話してくれるか」
シラードは深く息を吸った。
「制御室で心理分析監督係として当直についているあいだに、ぼくはこの当直技術者が何かに心を奪われ、いつもより刺激に対する反応が少なくなっていることに気がつきました。当直以外のときでも、過去数日のあいだに、かれの注意力はしだいに減少しているように見うけられました。たとえば、コントラクト・ブリズンをやっているとき、いまのかれは何度も、せり高はいくらかと尋ねます。それは、以前の行動パターンと逆です。
同じようなデータは他にもあります。手短かにいうと、きょうの三時十一分、当直についているとき、ぼくはハーパーが何もはっきりとした目的なしに遮蔽用水のバルブをあけるときだけに使われるレンチを取り上げ、引金に近づくのを見ました。ぼくはかれを当直からはずし、制御室から出しました」
「ボス!」ハーパーはいくらか自分を落ち着け、言葉を続けた。「もしこの呪術医《ウイッチドクター》に、レンチとオッシレーターの区別がつくなら、ぼくが何をしようとしていたかもわかったはずです。レンチは、間違った棚にありました。ぼくはそれに気づき、それを取って正しい場所に置こうとした。その途中、立ちどまり、計器を見ようとしたんです!」
所長は問いかけるようにシラード博士のほうを見た。
精神科医はがまん強くいった。
「たぶん本当かもしれない……それが本当であることを認めても、ぼくの診断は変わらない。きみの行動パターンは変わった。きみの現在の行動は予測がつかないし、完全な検査をしない限り、きみが責任のある仕事につくことは認められない」
キング所長は机をたたいてから、溜息をついた。ついでかれは、ゆっくりとハーパーにむかって話した。
「カル、きみはいい男だ。それに信じて欲しいが、わたしには、きみがどんなふうに感じているかわかる。だが、避ける方法はない……きみは精神測定を受けなければいけないんだ。そして、委員会がどう処分しようと、それを受け入れなければいけない」
かれは話を中断したが、ハーパーは無表情なまま沈黙を保っていた。
「なあきみ……何日か、休暇を取ったらどうだ? それでもどってきたら、委員会の前に立つもよし、爆弾から離れて他の職場に移るもよし、どちらもきみ次第だ」
かれが承認を求めて視線をむけると、シラードはうなずいた。
だがハーパーは腹を立てて、抗議した。
「いいや、ボス……それでは、だめです。どこがまずいか、わからないんですか? この絶え間ない監視なんですよ。だれかが常に人の後頭部を見つめ、そいつか気が狂うのを待っている。ひとりで髭を剃ることもできない。われわれは何でもない行為にびくびくしている。自分も半分気がふれている頭医者がそれを見て、われわれがいかれかけていると決めるのが恐ろしくてね……まったく、何をしているつもりなんだ!」
かれは感情のおもむくままにいったが、ようやく最後に皮肉らしきものをいう余裕をみせた、もっともうまくはなかったが。
「OK……拘束衣《ストレイト・ジャケット》はいりません。静かに出て行きますから。それでも、あなたはいい人でしたよ、ボス……あなたの下で働けたのは幸福でした。さようなら」
キングの目には苦渋が浮かんでいたが、声には現わさずに呼びかけた。
「待ってくれ、カル……きみは、ここで用なしになったわけじゃない。休暇のことは忘れろ。わたしはきみを、放射能研究所へ転属させる。きみはとにかく研究員なんだ。トップの連中が不足していなければ、わたしは最初からきみを割いて当直にまわしたりしなかったんだ。
絶えまない心理的観察に関しては、きみと同じく、わたしもそれを憎悪している。きみは知らないと思うが、きみたち当直技術者を監視するより二倍もきびしく、かれらはわたしを監視しているんだ……」
ハーパーは驚いた表情になり、シラードは真面目にそうだとうなずいた。
「……だが、われわれはこの監視体制を持たなければいけないんだ……きみは、マンニングを覚えているか? いや、かれはきみよりずっと前の人間だな。そのころ、われわれは心理分析監視係をもっていなかった。マンニングは才能があり優秀だった。その上、かれは朗らかだった。かれは、なんにも心をわずらわしていないようだった。
わたしはかれが核増殖炉についてくれたのを喜んでいた。かれはいつも機敏で、そこで働くことに心配そうな気配はまったく見せなかった……実際、かれは制御室の当直が長くなるにつれて、より楽天的で陽気になった。わたしは、それが非常に悪い兆候であることを知っているべきだった。だが、わたしは知らず、そうだと教えてくれる観察者もいなかったんだ。
ある夜、同僚の技術者がかれをなぐり倒さなければいけなくなった……かれはカドミウム制御装置の安全ロックを外しかけているところを見つけられたのだ。気の毒にマンニングはそこから抜け出せなかった……それからずっと、かれはひどい狂気のままだ。マンニングがやられてしまったあと、われわれは、当直ごとに資格のある二人の技術者に監視係を一人という、現在のシステムを考え出した。それだけしかないと思われたんだ」
「そうでしょうね、ボス」ハーパーは考えこんだ。その顔はもう不機嫌そうではなかったが、みじめなままだった。「でも、同じようにひどい状況ですよ」
所長は立ち上がって、手をのばした。
「それは穏やかないいかたさ……カル、きみがどうしても辞めるというのでなければ、明日、放射能研究所で会おう。もうひとつ……わたしは、いつもこれをすすめはしないんだが、今夜は酔っぱらうといいかもしれんよ」
キングはシラードに、その青年が出ていったあとも残っていろと合図した。ドアがしまると、かれは精神科医のほうにむいた。
「また一人出ていった……それも、最高の連中の一人がだ。ドクター、わたしはどうしたらいいんだ?」
シラードは頬を引っぱって、答えた。
「わかりません……たまらないのは、ハーパーが絶対に正しいことです。監視されていることを知ると、かれらの緊張は増します……それでも、かれらを監視しなければいけません。それに、精神科スタッフが、万事順調過ぎるわけでもないのです。あの大きな爆弾≠フまわりにいることは、われわれをも不安にさせます……理解できないだけに、余計そうなのです。そして、現在のわれわれのように、憎まれ軽蔑されることが、われわれ自身にとっての緊張になっているのです。そんな状況では科学的な仕事は無理です。ぼく自身びくつきかけていますよ」
キングは床の上を歩きまわるのをやめ、医師のほうにむき、いいはった。
「でも、なにか解決の方法があるはずだ……」
シラードは首をふった。
「ぼくの手には負えませんよ、所長。心理学の見地からは、解決法はなしです」
「ない? ふーん……ドクター、きみの分野で最高の人はだれなんだ?」
「え?」
「こういったことを扱うことにかけてナンバー・ワンだと認められている人物はだれなんだ?」
「そいつは、難しいですね。世界中で、たったひとり飛び抜けた精神科医がいるわけじゃあないですから。専門分野がたくさんありすぎるんです。でも、いわれる意味はわかります。あなたが求めているのは、産業界での最上の感情測定学者ではなくて、病変によらない環境刺激因子による精神病者が専門の、何でもやれる最高の人物ですね。それなら、レンツでしょう」
「続けてくれ」
「では……かれは、環境的精神調整の全分野をカバーしています。かれは、最適緊張度理論とコージブスキイが経験的に発展させた緊張緩和技術を関連づけた男です。かれは、実際にも学生のとき、コージブスキイ自身の下で働いたのです……それが、かれの唯一の自慢話です」
「ほう? すると、かれはだいぶ年だな。コージブスキイが死んだのは……何年にかれは死んだんだ?」
「ぼくは、かれの記号論における業績を知らなければいけないと、いいかけていました……概念とそれをステートメントにするときの計算法と、そういったことすべての理論です……その機械工学と理論物理への応用という観点からです」
「あのレンツか……ああ、もちろんだ。だがわたしはかれを精神科医だなどとは、一度も思ったことがなかったよ」
「ええ、そうでしょう、あなたの分野ではね。それでもわれわれは、かれをそう考えるようになっています。かれが狂乱時代≠ノ流行したノイローゼを調べ、他のだれよりも、いま生き残っているだれよりも多く、それを減らしたことです」
「かれは、どこにいるんだ?」
「え、シカゴでしょう。大学に」
「かれをここへ呼んでくれ」
「え?」
「かれをここへ呼ぶんだ。そのテレビ電話で、かれのいるところをつきとめろ。それからスタインケにシカゴ港を呼び出させ、かれが乗る成層圏車《ストライカー》を待機させておくんだ。わたしはかれに、なるべく早く会いたい……日が暮れる前に」
キングは、また状況を自由にできるようになったというように、坐ったまま背筋をのばした。かれは、ひとつのことを決定したときに感じる満ちたりた、好ましい気分にひたっていた。苦悩の表情は消えていた。
シラードはあっけに取られて、忠告した。
「でも所長、ただの事務員か何かのようにレンツ博士を呼ぶことはできませんよ。かれは……かれは、レンツなんです」
「そのとおり……だからこそ、かれが必要なんだ。だがわたしは、同情を求めているノイローゼの社交婦人でもない。かれは来るよ。必要ならワシントンからの圧力をかけろ。ホワイトハウスから話させるんだ。だが、かれをすぐここへ呼べ。さあ、やるんだ!」
キングは事務室から大股に出ていった。
エリクソンは当直が終わると、尋ねまわって、ハーパーが町へ出て行ったのを知った。それでかれは基地での夕食はとりやめ、飲むときの服≠ノ着替えると、チューブでパラダイスにむかうことにした。
アリゾナのパラダイスは、こじんまりした|俄作りの町《ブームタウン》で、原子力発電所に寄生して存在していた。そこは、発電所従業員の法外なまでの給料をぶんだくるという真剣な仕事に、すべてを捧げていた。その価値ある目的のために、町は発電所従業員たちから大きな協力を受けていた。かれらは、これまでに他のどんな仕事でもらった額より二倍から十倍多い額を給料日にもらっているし、老齢に備えて貯金しようなどという心がけの者はいなかった。それに、会社は従業員のために減債基金をマンハッタンに用意している。だから、なぜけちけちする?
ニューヨーク市で手に入れられるどんな娯楽でも贅沢でも、パラダイスで買えるといわれており、それはある程度まで事実だ。ここの商工会議所は世界最大の小都市≠ニいうネバダ州リノのスローガンを盗用している。リノの熱狂的支持者はそれに報復して、これほど核増殖炉発電所に近ければどんな町でも死という概念に否応なくさらされるのだから、今後は地獄の門≠ニいう名前をつけるのがもっとよかろうと述べたてた。
エリクソンは、ひと回りしてみることにした。パラダイスの大通りに面した六|区画《ブロック》に酒類免許を持った店が二十七カ所ある。かれはハーパーはそのどこかにいるだろう……相手の癖と趣味から、最初にあたってみる二、三軒で見つけられると考えていた。
かれは間違っていなかった。デランシーのサン・スーシ酒場≠フ隅に、ひとりでテーブルに坐っているハーパーを見つけた。デランシーは、かれらのどちらもがお気に入りのバーだ。そこのクローム鋼板のカウンターと赤いレザーの家具にはオールド・ファッションの心地良さがあり、ごく最新式の見事な設備の場所よりずっとしっくりくるのだ。デランシーは保守的で、間接照明と静かな音楽に固執しており、ホステスは夜でもきちんと衣装を身につけていることが求められていた。
ハーパーの前におかれた五分の一ガロンのスコッチは、まだ三分の二入っていた。エリクソンはハーパーの顔の前に指を三本つきだして鋭い声を出した。
「数えろ!」
ハーパーは答えた。
「三本……坐れよ、ガス」
エリクソンはうなずいて、大きな体を低い椅子にすべりこませた。
「合っていたな。いまのところはいい……どういう結果になったんだ?」
「飲めよ。このスコッチがいいってわけでもないがね。どうやらランスのやつ、水を混ぜたらしいな。おれは、まったくの完敗さ」
「ランスはそんなことしないよ……そんなことを信じていたら、道端にのびてしまうことになるぞ。どうして降伏しちまうことになったんだ? きみはやつらの頭か、少なくとも肩ぐらいは、ぶんなぐるつもりだと思っていたが」
ハーパーは、うめくように答えた。
「そのつもりだったが、だめだ、ガス。ボスは正しい。脳職人《ブレイン・メカニック》がだれかをいかれているといったら、かれはその意見をバック・アップして、そのだれかを当直リストから外さなければいけないんだ。ボスは、危険を冒してみることなどできないんだからな」
「ああ、ボスは正しい。だが、われらの大切な精神科医を愛する気にはなれないな。こういうのはどうだ……おれたちで、やつらの一人を見つける。そして、かれらが、痛みを感じられるかどうかを見てみるんだ。きみがなぐるあいだ、おれはおさえておくよ」
「ああ、もういいよ、ガス。飲めったら」
「有りがたいお言葉……でもスコッチじゃあないぞ。おれはマティーニを飲む。おれたち、すぐに食事だからな」
「おれも一杯つきあうぜ」
「いいね」エリクソンは金髪の頭を上げて、さけんだ。「イズラフェル!」
大きな黒人が、かれの肘のところに現われた。
「ミスタ・エリクソン! イエッサァ!」
「イッジイ、マティーニを二つ。ぼくのは、イタリーので頼む」かれはハーパーのほうに向きなおった。「それで、これからどうするんだ?」
「放射能研究所さ」
「ほう。そいつは、そう悪くないな。ぼく自身、ロケット燃料をやってみたいんだ。すこしアイデアがあるんでね」
ハーパーはちょっと興味を覚えた表情になった。
「宇宙旅行用の核燃料のことかい? その問題は、だいぶ悲惨なことになっているな。何かロケットよりましなものを考えつかない限り、電離層が限界になっている。もちろん、宇宙船に原子炉を乗せ、その出力の一部を推力に変える応急装置を考え出すことはできるだろう。だが、それでどういうことになる? それでもなお、遮蔽壁のせいでひどく質量比が落ち、一パーセントだって推力に変えることもできないのは明らかだ。それも、何らの利益配当もないことに会社が原子炉を貸してくれるかどうかの問題を無視してだ」
エリクソンは、がっかりした表情になった。
「きみがすべての選択肢をカバーしたとは思わないよ。われわれにあるのは何だ? 初期のロケットを作った連中は、月まで飛べるだけのロケットが作れるようになるまでには、それを飛ばせられるだけの燃料が完成すると信じて、よりよいロケットを作ろうと前進した。
そしてかれらは、そうできるだけのロケットを作り上げた……地球を半周できるだけの航空機なら、どんなものでも月へ飛ばすものに改造できる……それに適した燃料さえあれば。だが、かれらは、それを手に入れていない。
なぜだめか? われわれが、その期待に背いているんだ。それが理由さ。
原子炉がここに足元にあるというのに、かれらがいまだに分子エネルギーに、化学反応に、頼っているからだ。それは、かれらの罪ではない……あのD・D・ハリマンはロケット・コンソリデーテッド社に、南極ピッチブレンドの最初の全量を引き受けさせた。濃縮ロケット燃料を作る過程で、われわれが何か有用なものを生み出せるのではないかと期待してのことだ。そうできたか? とんでもない! 会社は目先の商業的開発に夢中になり、原子力ロケット燃料はまだできていないといったざまだ」
ハーパーは抗議した。
「だが、きみははっきりいわなかったな……利用できる原子力には二つの形、放射能と核分裂しかないってことを。前者は遅すぎる。そこにはエネルギーがあるが、出てくるのを何年も待ったりできない……ロケット船の中ではね。後者については、大きな発電所でしかやれない。そういう困った状態……ゴルフでいうスタイミーだ」
エリクソンは答えた。
「われわれは本当に試してみたわけじゃない……力はそこにある。われわれはかれらに、|好ましい《ディーセント》燃料を与えるべきだよ」
「どういうものを、きみは好ましい燃料というんだ?」
エリクソンは的確にそれを述べた。
「エネルギーの全体もしくはそのほとんどが、反応物質《リアクション・マッス》によって熱に変えられ得るだけの小さな臨界量……おれは、反応物質をふつうの水にしたいね。遮蔽壁は鉛とカドミウムのジャケットぐらいにしておかなければいけない。それで、その代物全体がうまく操作できるようにするんだ」
ハーパーは笑った。
「天使の翼でも注文して、もうあきらめるんだな。そんな燃料をロケットの中に貯えることなどできないよ。それはジェット燃焼室に達する前に爆発してしまうさ」
エリクソンが、スカンジナビア人らしい頑固さから、議論にもう一度飛びこもうとしたとき、給仕が飲物をもってやってきた。かれはそれを、誇らしげに元気よくおいた。
「お待たせを、サー」
ハーパーは問いかけた。
「それを賭けてみるかい、イッジイ?」
「よろしければ」
その黒人は革のダイス・カップを取り出し、ハーパーはころがした。かれは組み合わせを注意して選び、三回ふってフォア・エースとジャックを出した。
イズラエルがそのカップを取った。かれは手首を後ろへひねる儀式ばったやりかたでふった。そのスコアはファイブ・キングで、かれはうやうやしく六杯分の値段を受け取った。
ハーパーは、彫りこんであるダイスを人さし指でつついて尋ねた。
「イッジイ……これは、おれがころがしたのと同じダイスかい?」
「なんと、ミスタ・ハーパー!」
その痛ましげな表情にハーパーは負けを認めた。
「忘れろ……おまえと賭けをやるのは気をつけなければな。六週間に一度も勝てないんだから。きみは何をいいかけていたんだっけ、ガス?」
「おれがいいかけていたのは、エネルギーを取り出すのに、もっとましな方法があるはずだということを……」
だが、かれらはまた邪魔をされた。こんどは、色っぽい体にイブニング・ガウンをまとった非常に魅力的な女性によって。若くて、せいぜいが十九か二十だ。椅子にすべりこみながらかれらに尋ねる。
「あなたがた、淋しくなくて?」
「尋ねてくれたのは嬉しいが、淋しくはないね」エリクソンは辛抱強く丁寧に断り、部屋の端にひとりで坐っている男にむけて親指をしゃくった。「ハニガンに話しかけてみろよ。かれは忙しくないから」
彼女はその仕草を目で追い、かすかに嘲笑するような口調で答えた。
「かれ? かれはだめよ。三週間もあんな調子なんだから……だれとも話さないの。まあ、かれはいかれかけているってとこね」
かれは、あたりさわりのない返事をした。
「そうかい? さあ……」五ドル札を出して、女に渡す。「きみの酒でも買うんだね。あとで声をかけるかもしれないよ」
金はドレスの下に消え、彼女は立ち上がった。
「ありがとう、あなたがた。エディスをって呼んでね」
ハーパーは、ハニガンの血走った目と無表情な態度を見て、いった。
「かれは、ひどい格好だな……それに、あのかれが、近頃はずいぶんよそよそしくしている。かれのことを報告するべきだとは思わないか?」
エリクソンは忠告した。
「そんなことを心配しないことだ……その仕事には、いまもお目付け係がいるさ。見ろよ」
ハーパーは相棒の視線を追い、精神科スタッフのモット博士に気づいた。かれはカウンターのいちばん端にもたれかかり、保護色がわりの高いグラスをちびちび飲んでいる。しかし、かれの視界には、ハニガンだけではなく、エリクソンとハーパーも入るような姿勢を取っていた。
ハーパーはうなずいた。
「ああ、それにかれはわれわれにも注意しているな……くそっ、あいつらを見るだけで、どうして背筋が寒くなってくるんだろう?」
その質問は譬喩的なものだったから、エリクソンはそれを無視して、いった。
「ここを出て、どこかで夕食にしようぜ」
「OK」
デランシー自身が、出てゆくかれらを見送り、二人に去られたのでは、店を開いておく理由がなくなるといった口調で話しかけた。
「こんなに早くお帰りで、紳士がた? 今夜は、すばらしいロブスター・テルミドールがございますが。お気に入らなければ、お支払いもご無用ですよ」
かれは明るい笑顔を見せた。
ハーパーは答えた。
「今夜は海の料理の気分じゃないんだ、ランス。教えてくれないか……なぜきみは、ここにへばりついているんだ? いつかは、原子力発電所にやられてしまうかもしれないというのに」
酒場の経営者の眉は、ぐいと上がった。
「原子力発電所が恐ろしいですって? そんな、あれはわたしの友達ですよ!」
「きみに儲けさせてくれるってことかい?」
かれは内緒話でもするように、二人のほうに体を傾けた。
「いえ、そんな意味じゃあありませんよ……五年前、わたしはここへ、家族のために取るものも取りあえず金を作ろうと思ってやって来ました。ええ、胃癌で死んじまう前に。ところが病院でわたしは、あなたがたがあの大きな爆弾の助けを借りて作った素晴らしい放射性物質を使われて、治りました……わたしは、ふたたび生きているんです。そのわたしが原子力発電所を恐れるわけはありません。あれは、わたしのいい友達です」
「もし、あれが爆発したら?」
「もし全能の神がわたしを必要とされるなら、呼ばれましょう」
かれは、急いで十字を切った。
二人は歩き出し、エリクソンは低い声でハーパーに感想を述べた。
「あそこにきみの答えがあるよ、カル……われわれ技術者全員がかれの信仰を持てば、仕事にやられないですむんだ」
ハーパーは心を動かされずに答えた。
「わからんね……おれは、あれを信仰とは思わない。あれは想像力の欠如だ……それと、知識のね」
キングの確信にもかかわらず、レンツはあくる日まで現われなかった。
この客の外見に、所長は無意識のうちに、すこしばかり驚かされた。かれはこの心理学者を、豊かな頭髪で、常々とした押しだしの、突き剌すような黒い両眼の持ち主というふうに想像していたのだ。
だがこの男はそれほど背は高くなく、がっしりした骨格で、そのうえ肥えていた──でぶ、といっていい。肉屋の親父というところだ。小さくて丸く、淡い青色の目が、濃く茂ったブロンドの眉毛の下から、楽しそうにのぞいている。いやに大きな頭蓋のどこにも、眉毛のほかは一本の毛もなく、猿のような顎は、つるりとして、桃色だ。
かれの着ているものは、漂白していない麻の、くしゃくしゃになったパジャマだ。ひっきりなしに長いシガレット・ホルダーをくわえている大きな口は、笑うとさらに大きく広がり、生活や人々がどれほど悲惨なものになっても、悪意を持たずに楽しむすべを持っている人につきものの雰囲気を漂わせていた。かれには、あふれるほどの活気があった。
キングは、かれが実に話しかけやすいことを知った。
レンツの提案で、所長はまず原子力発電所の歴史から話し始めた。
一九三八年十二月にオットー・ハーン博士によるウラニウム原子の分裂が、原子力運用への道を開いたこと。ドアはわずかに開いたにすぎなかった。自己継続性を持ち、商業的にも使えるプロセスは、そのころの全文明世界に知られているより遙かに莫大な知識を必要とした。
一九三八年世界中で分離されたウラニウム−235の量は、ピンの頭ほどもなかった。プルトニウムは名前も聞かれなかった。原子力は難解な理論であり、研究室の中だけでおこなう秘密の実験だった。第二次世界大戦、マンハッタン計画、ヒロシマが、それを変えた。
一九四五年の暮れごろとなると、予言者たちは、一、二年のうちに原子力がすべての人にとって安価な、ほとんど無料に近いエネルギーになるという予言を大急ぎで活字にしていた。
だが、そんなふうにはいかなかった。マンハッタン計画は、ただひたすら、兵器を作るという目的だけのためにおこなわれており、原子力の技術はまだ未来に属していたのだ。
遠い未来、のように思えた。原子爆弾を作るのに使われたウラニウム原子炉は、商業的電力のためとなると文字通り何の役にも立たなかった。その原子炉は、エネルギーを無用の副産物として捨ててしまうように設計されており、ひとたび動かされると、炉の設計を変えることはできなかったのだ。
経済的な、商業電力用原子炉の設計は──紙の上では──できたのだが、深刻な障害が二つあった。
第一に、そのような原子炉は大変な強さでエネルギーを放出するのだが、それを商業的に満足できるレベルで運転すると、そのエネルギーを受けとめ、利用するための方法がわからなかったのだ。
この問題は最初に解決された。ダグラス=マーチン型太陽エネルギー・スクリーンの改良だ。もともと太陽(それ自体、天然の原子炉だ)の放射エネルギーを、直接、電力に転換するのに使われていたものを改良して、ウラニウム分裂で飛び出すエネルギーを受けとめ、電流として運び出すのだ。第二の障害は、大した障害には見えなかった。強化した′エ子炉──天熱のウラニウムにU−235かプルトニウムが加えられたもの──は、商業電力用として実に満足すべきエネルギー源だった。どうすれば、U−235とプルトニウムを手に入れられるかもわかっていた。それが、マンハッタン計画の最初にやりとげたことだった。
いや、本当にわかっていたのだろうか? ハンフォードの工場はプルトニウムを作り出した。オーク=リッジではU−235を抽出した、そのとおりだ──だが、ハンフォードの原子炉は自分たちが作り出すプルトニウムより多くのU−235を使い、オーク=リッジは何も作り出さず、天然ウラニウム中のU−235の十分の七を分離しただけだった。捨てられたU−238の中にまだ閉じこめられている九十九パーセント以上のエネルギーを放棄≠オていた。
商業的にも経済的にも、とんでもないロスであり、驚くべきことだ!
だが、いくぶん強化した天然ウラニウムを使う高エネルギーで減速しない原子炉を用いて、プルトニウムを増殖させる別の方法があった。百万電子ボルトかそれ以上でU−238は分裂する。もうすこし低いエネルギーで、それはプルトニウムに変わる。
この方法の原子炉はそれ自身の火≠供給し、自分が使うより多くの燃料≠作り出す。それは、ふつうに減速される方法をとる他の多くの原子炉に供給する燃料を増殖させられる。
だが、減速しない原子炉とは、はっきりいって原子爆弾と変わらない。
炉《パイル》≠ニいう言葉そのものが、マンハッタン計画のそもそもの始まりであるシカゴ大学の狭い中庭に作られた黒鉛煉瓦とウラニウム棒を|積み上げ《パイル》たものに由来しているのだ。そのような黒鉛もしくは重水で減速された原子炉は、爆発できない。
減速しない高エネルギー原子炉がどんなことをするのかは、だれひとり知らなかった。それは大量のプルトニウムを増殖する──だが、それは爆発するだろうか? そのような激しさでの爆発は、ナガサキに落とされた爆弾を小銃のように思わせるだろうか?
だれも知らなかった。
とかくするうちにも、合衆国の電力を求めてやまないテクノロジーは、さらに要求を重ねていった。ダグラス=マーチン型太陽エネルギー・スクリーンは、石油があまりに乏しくなり燃料として浪費できないという直接的な危機にぴったりのものだったが、太陽電力は平方ヤードあたり約一馬力と限られているし、なにしろお天気まかせだった。
原子力が必要とされ──要求された。
原子力技術者たちは、あれかこれかと断定できない苦悶に取りつかれていた。増殖炉は制御できるのだろうか。あるいは制御できなくなっても、ばらばらに爆発してしまい、それ自身の火を消すことになるだけなのかもしれない。もしかすると能率の悪い原子爆弾が数個合わさったような爆発をおこすのかもしれない。だが、ひょっとすると──ほんとに、ひょっとするとだが──何トンものウラニウム全量がいっぺんに爆発し、その過程で人類を絶滅させてしまうかもしれない。
ここにひとつの昔話がある。現実の話ではないが、スイッチを入れると世界を一瞬にして破壊してしまう機械を発明したと信じている科学者の話だ。かれは、自分が正しいのかどうかを知りたがった。それで、かれはスイッチを入れた──結果は永久に、見出せなかった。
原子力技術者たちは、そのスイッチを入れるのを恐れていた。
キングは話を続けた。
「そのジレンマから抜け出る道を教えてくれたのは、デストゥリイの微小力学でした……かれの方程式は、次のようなことを予言していました。つまり、そのような核爆発がひとたび始まると、それをかこみこんでいる全体のマッスはあまりに急速に崩壊するので、その破片の表面を通り抜けるさいにロスする中性子の割合のせいで核爆発の進行はゼロにまで低下し、完全な爆発にはいたらなくなる。原子爆弾の中では、そんな緩衝が実際に起こります。
原子炉の中でわれわれが使うマッスから計算すると、かれの方程式は、起こりうる爆発の力を、完全な爆発の場合の一パーセントの十分の七と予測しています。もちろんそれだけでも、理解できないまでに破壊的なものとなるでしょう……国のこちら側を破滅させてしまうほどのものです。個人的には、起こりうることがそれですべてだと思ったことは、一度もありませんが」
レンツは尋ねた。
「では、どうしてあなたは、この仕事を引き受けられたのです?」
キングは答えるまでに、机の上にあるものをいろいろといじくった。
「わたしは断れなかったのです、博士……断れませんでした。わたしが断れば、だれかが引き受けるでしょう……そして、それは物理学者にとって一生に一度あるかどうかの機会だったのです」
レンツはうなずいた。
「そしてたぶん、それほど有能でない者を選んでいたろう、ということでしょうな。キング博士……あなたは、科学者の真理の親和性≠ノ犯されていますな。たとえ殺されようと、データが見つかるところへ行かなければいけないというやつだ。だがこの男、デストゥリイですが、ぼくはどうもかれの数学ってものが気に入りませんな。かれは、あまりに多くを仮定しすぎますよ」
キングは驚いて顔を上げ、ついでこれが概念を計量化する計算法を洗練させ、正確さを与えた男だったことを思い出して、うなずいた。
「それだけが引っかかります……かれの業績は輝かしいものですが、わたしはかれの予測が、それらの書かれている紙以上の値打があるのかどうか、どうもわかりません。いや、明らかに」かれは苦々しそうにつけ加えた。「ここの技術者たちもです」
かれはその精神科医に話した。職員に関する難問を、最も慎重に選んだ男たちが遅かれ早かれ、緊張のためつぶれていく有様を。
「最初、わたしは、遮蔽壁をつき抜けて洩れてくる中性子放射能の悪影響かもしれないと思い、遮蔽物と職員用の防護服を改良しました。だが、それは役に立ちませんでした。新しい遮蔽物が取りつけられたあとで入ってきた若い男がある夜興奮し、ポーク・チョップが爆発しかけているといいはりました。かれが狂ったとき、原子炉での当直についていたら、どんなことが起こっていたろうと考えると、ぞっとしますよ」
絶えず心理的観察を続けるシステムを始めてから、当直技術者が変になるという火急的な危険の割合は大いに減少したが、キングはそのシステムが成功しなかったことを認めるほかなかった。これが実施されてから現実に、はっきりとノイローゼが増えているからだ。
「そういうことなのです、レンツ博士。時を追って悪くなっているのです。わたしにもそれは取りついています。絶えまない緊張はわたしに大きく影響を及ぼしています。夜も眠れず、判断力はかつてのように良くないし……心をまとめたり、何かを決定しようとするのが、いまのわたしには大変なことなのです。われわれのために何かしていただけるでしょうか?」
だがレンツも、その心配ぶりに対して、すぐにも安心させるようなことはいえなかった。かれはいった。
「そう急がないでください、所長……あなたはぼくに背景を話してくださったが、まだほんとうのデータはもらっていません。ぼくはしばらく見てまわらなければいけませんな。自分で事態を嗅ぎ出し、あなたの技術者たちと話し、できればかれらと酒でも飲み、近づきになるんです。それは可能ですな? 何日かすれば、どういうことか、たぶんわかるでしょう」
キングは同意するほかなかった。
「それに、ぼくがなぜここに来ているか、若い連中は知らないほうがいいでしょう。ぼくはあなたの旧友で、遊びに来た物理学者だということにしては?」
「え、いいですとも……もちろん。その話が伝わるようにしてみましょう……しかし……」キングは、シラードが初めてレンツの名前を出したときから気になっていたことを、ふたたび思い出した。「個人的な質問をしてもいいですか?」
楽しそうな目は、落ち着きを失わなかった。
「どうぞ」
「わたしは驚かずにいられないんです、一人の人物が、心理学と数学といった非常に違った二つの分野で卓越した名声を占められていることが。そしていまは、あなたが物理学者として通じる能力をお持ちだということも信じています。それが、どうもわからないんです」
笑顔はもっと面白がっているように広がり、まったく偉ぶりも怒りもせずにかれは答えた。
「同じテーマですよ」
「え? どうして、そうだと……」
「というより、理論物理学と心理学は、どちらも同じテーマである記号論の一分野です。あなたは専門家だ。別にあなたが、そのことに気づかれる必要もないでしょうが」
「まだ、お話がわかりませんな」
「そうですか? 人は概念の世界に住んでいます。どの現象もあまりに複雑で、その全体をつかむことはできそうにありません。人は、与えられた現象からある特徴をひとつの概念として抜き出し、ついでそれを記号として提出します。それが言葉であれ、数学的記号であれです。人間の反応は、ほとんどが完全に記号への反応であり、現象自体にたいしては、取るに足らぬものでしかありません。実際にも……」
かれはシガレット・ホルダーを口からはなし、じっくりと話しだした。
「……人間の心が、記号を使ってのみ考えられることは論証できるのです……われわれは考えるとき、記号を他の記号に対して、ある決まった形で作用させます……論理の規則もしくは数学の規則によってです。
もしその記号が、それの表わしている現象に構造的に類似したものであるように抽象化されていたなら、そしてその記号の働き方が、現実世界での現象の作用と構造と秩序において類似したものであるなら、われわれは正気で考えているといえるのです。
もしわれわれの論理数学が、あるいはわれわれの言語記号が、哀れな選ばれ方をしておれば、われわれは正気でない考えかたをしているのです。
理論物理学であなたは、あなたの記号論を物理現象に適合させることに関心がおありだ。精神医学でぼくはまさに同じものに関心がある。ただしぼくがもっと直接的に関心があるのは、その人間が考えている現象より、それを考えている人間なのです。だが、同じテーマです、常に同じテーマなのです」
「これでは、どこにも行きつきそうにないぞ、ガス」
と、ハーパーは計算尺をおいて、眉をよせた。
エリクソンはしぶしぶうなずいた。
「そうみたいだな、カル……でも、癪だな……問題を解く何らかの合理的な方法があるはずだがなあ。おれたちは何を必要としている? ロケット燃料用に濃縮された、制御しやすいエネルギーだ。いまのわれわれに何がある? 核分裂による大量すぎるエネルギーだ。そのエネルギーを瓶に詰め、必要とするときまで貯蔵しておく方法がきっと何かあるよ……そして、その答えは、放射性系列のどこかにあるんだ。それは、わかっているんだ」
かれは、鉛をはさんだ壁のどこかに答えが書かれているんじゃないかと、研究室の中を見まわした。
「そうがっかりするなよ。きみはおれに、解答があると確信させた。どうやれば見つけられるのか、考えてみよう。まず、自然の放射性系列三つはだめだ。そうだな?」
「ああ……少なくともわれわれは、それらはこれまでにたっぷり試されていることに、意見が一致した」
「OK、これまでに調査した連中は、かれらがやったと述べているとおりにやったものと考えなければいけない……そうでなければ、アルキメデスから現在までのすべてのものを調べ直さなければいけないことになる。それも大切かもしれないが、メトセラ自身だって、そんな仕事はやりとげられないだろう。さて、われわれに何が残されているんだ?」
「人工放射性物質だ」
「そのとおり。それのリストを作ってみよう。これまでに作られたものと、将来作られる可能性がありそうなものを。それをわれわれのグループ、もしくは領域と呼ぼう。定義ということに、きみが衒学的《ペダンティック》になりたければな。そうすればそのグループに入るものと、組み合わせの結果入るものそれぞれを扱えばいいだけになる。作るんだ」
エリクソンは、奇妙なややこしい計算法を使って、それをやった。ハーパーはうなずいた。
「ようし……広げてくれ」
エリクソンはしばらくすると、顔を上げて尋ねた。
「カル、その展開にはどれぐらいの数が含まれるか知っているか?」
「いいや……何百、ひょっとすると何千だろうな」
「きみは保守的だよ。それは、出てくるだろう新しい放射性物質を考えに入れなくても、四桁に達しているんだ。そんな調査研究は一世紀かけてもできないよ」
かれは鉛筆をおき、陰気な表情になった。
カル・ハーパーは不思議そうに、だが同情をこめてかれを見ると、静かにいった。
「ガス、きみも、仕事にいかれかけているんじゃないだろうな?」
「そうは思わないが、なぜ?」
「きみが、これまで何事だろうと、そうあっさりあきらめてしまうところは、見たことがないからさ。当然、おれたちはそんな仕事は永久にやりとげられないが、最悪の場合でも後の者のためにたくさんの間違った答えを除いてやったことになる。エジソンを考えてみろ……一日二十時間、六十年間の実験、それでもかれはいちばん知りたかったものを、どうしても見つけられなかった。かれに耐えられたのなら、われわれにもできるさ」
エリクソンは落ちこみからだいぶ回復して、うなずいた。
「そういうことだな……とにかく、われわれは、数多くの実験を同時におこなうテクニックを考え出せるかもしれないしな」
ハーパーはかれの肩をたたいた。
「その意気さ。それに……われわれは、満足できる燃料を見つけるために、その調査あるいは、そういったことを、最後までやりとおさなければいけないことはないんだ。おれの見るところ、正しい答えはたぶん、一ダースか、百というところだろう。いつ、その一つにぶつかるかもしれないんだ。とにかく、きみが当直以外の時間に手を貸してくれるというんだから、どんなことになろうと、とことんやるぜ」
レンツは工場と管理センターを数日間ぶらついて、全員と顔見知りになった。かれは朗らかにふるまい、質問をした。かれはまもなく、害にならない邪魔者で、所長の友達だからしようがないじゃないかということになった。かれは工場の商業発電側へまで鼻をつっこみ、放射能から電力までのつながり具合を詳しく説明してもらった。
このことだけでも、かれが精神科医かもしれないという疑惑をなくすには充分だった。なぜなら、スタッフの精神科医は、電力転換装置についているこちこちの技術者になど、まったく注意を向けなかったからだ。
その必要はなかったからだ。かれらの側に精神的不安定があろうとなかろうと、原子炉に影響はないし、かれらも社会的責任の殺人的緊張には、さらされていないのだ。かれらのは単に個人的に危険の多い仕事というだけで、たくましい男たちが密林このかた鍛えられてきたタイプの緊張なのだ。
いつものぶらぶら歩きの途中、かれはカルビン・ハーパーが使うようになっている放射能研究所の一室に立ちより、ベルをおして、待った。ハーパーがドアに現われ、対放射能ヘルメットを顔から、変わった日除帽子のように後ろへ落とした。
「何か? ああ……あなたですか、レンツ博士。わたしにご用でしょうか?」
年上の男は答えた。
「ええ、はい。それに、いいえでもありますな……ぼくはいま、実験施設を歩きまわっていて、あなたがここで何をしておられるのかと思ったんで。お邪魔でしょうか?」
「とんでもない。どうぞ、入ってください。ガス!」
エリクソンは、かれらの引金へのエネルギー・リード──共振加速器というより改良されたベータトロン(電子加速装置)──相手に大騒ぎしていたところから立ち上がった。
「ハロー」
「ガス、こちらはレンツ博士……ガス・エリクソンです」
「もう、会っているよ」と、かれはいい、長手袋をぬいで握手した。町で二度ばかりレンツと酒を飲みかわし、いい爺さん≠セと考えるようになっていたのだ。「ちょうど、ショウのあいだにこられましたね。でも、しばらくしたら、別のテストをやります……ここには見るものが、あまりないってわけじゃあないんです」
エリクソンが準備を続けているあいだに、ハーパーはレンツを案内して研究室を歩きまわり、かれらがやっている研究ラインを説明した。双子を見せびらかす父親のように幸せそうに。
精神科医はそれを聞き、適当な相槌を打ちながら、この若い科学者について聞かされた不安定さが、記録すべき徴候を示すかどうかに気をつけていた。
ハーパーは、自分に向けられている関心には気づかずに説明した。
「つまり……われわれは、原子炉の中で起こっているような核分裂を、小さな、ほとんど顕微鏡的なマッスで起こせないものかどうかと、放射性物質をテストしているんです。もしそれが成功すれば、増殖炉を使って、ロケット用の……いや、何にでも使える安全で、便利な、核燃料を作り出せます」
かれは、二人の実験予定を説明し続けた。
レンツは丁寧にいった。
「それで……それで、いまはどんな元素を調べているんです?」
ハーパーは話した。
「でもこれは、ひとつの元素だけを調べるテストではないんです……われわれは、アイントープUを終わったところで、結果はだめでした。次は、同じ実験をアイントープXでおこなう予定です。こういうやつです」
かれは鉛のカプセルを出し、そのラベルをレンツに見せると、エリクソンが開いたベータトロンの標的をかこう遮蔽壁《シールド》のところへ急いで行った。
レンツが見ていると、かれはまずヘルメットを下ろし、カプセルをあけ、きわめて慎重に長いはさみ棒で何かの操作をおこなった。ついでかれは、標的の遮蔽壁を閉じ、掛金をかけた。
「OK、ガス? ころがす用意はいいか?」
と、かれは呼びかけた。
「ああ、いいぞ」
エリクソンはそう答えると、巨大な装置の後ろから現われ、二人に加わった。かれらは、その装置を直接の視界から遮る厚い鉄とコンクリートの遮蔽壁の背後にかたまった。
「ぼくは防護服を着ないでいいのかい?」
と、レンツが尋ねると、エリクソンは安心させた。
「ええ……われわれが着ているのは、こいつのまわりに昼も夜もいるからです。あなたはこの遮蔽壁の後ろにいるだけで、大丈夫です」
エリクソンがちらりと見ると、ハーパーはうなずき、遮蔽壁の後ろに取りつけてある計器盤を注視した。レンツは、エリクソンが計器盤のトップにあるボタンを押すのを見た。ついで、遮蔽壁の向う側にあるいくつもの継電器《リレー》が嗚るのを聞いた。そのあと短い沈黙が訪れた。
床が何か信じられないほどの力で、かれの両足をたたきつけた。
耳を襲った衝撃はあまりに強く、それを音として記録できる前に聴神経が麻痺してしまったようだった。空気を伝わった震動は、かれの体の全表面を、突き刺し、無力にするほどの強さでたたきつけた。
かれは立ち上がりながら、どうしようもないほど震えていることに気づき、初めて自分が老人になりかけていることを悟った。
ハーパーは床に坐りこみ、鼻血を流していた。
エリクソンは立ち上がっていたが、頬を切っていた。かれは片手でその傷にふれ、その場につっ立ったまま、面くらった表情で指先の血を眺めていた。
レンツはぼんやりと尋ねた。
「怪我をしたね? どうしたんだ?」
ハーパーが口をはさんだ。
「ガス、おれたちは、やったんだ! やったんだ! アイントープXが鍵だったんだ!」
エリクソンはまだ、ぼんやりとしていた。かれは、馬鹿みたいにいった。
「X?……でも、あれはXじゃあなかった。あれはアイントープUだった。おれが、自分で入れたんだから」
「きみが入れた? おれが入れたんだ! 間違いなく、あれはXだったぞ!」
二人はおたがいを見つめて立ち、まだ爆発にぼんやりとしたまま、わかりきったことをなぜ相手がわからないのだろうと、どちらもいささか困惑していた。
レンツは遠慮がちに口をはさんだ。
「ちょっと、きみたち……たぶん、理由があるんだろう……ガス、きみは二番目のアイントープを受け器に入れたんだな?」
「ええ、そう、間違いなく。おれは前のテストに不満だったから、それをチェックしたかったんだ」
レンツはうなずき、申し訳なさそうに認めた。
「これはぼくの失敗だよ、諸君……ぼくがやってきて、きみたちの手順を狂わせた。それで、きみたちは両方とも受け器に入れたんだ。ぼくはハーパーが入れたのを知っている……かれがアイントープXを入れるのを見たからね。すまない」
ハーパーがわかったというように顔を輝かせ、年上の男の肩をたたいて笑った。
「すまながらないで……いつでもその気になったときは、われわれの研究室にやってきて、間違いを犯すのを助けてください……そうだな、ガス? これが解答なんです、レンツ博士。これなんです!」
精神科医は指摘した。
「だが、どちらのアイントープが爆発したのか、わからないでしょうが」
「どちらだっていいんです」ハーパーは補足説明した。「あるいは、両方が、一緒になってのことだったのでしょう。だが、われわれには、そのうちわかります……この仕事は、めどが立ちました。すぐに、はっきりします」
かれは嬉しそうに、破壊のあとを見まわした。
キング所長の心配にもかかわらず、レンツは事態に対する判断を性急に下すことを拒絶した。そのため、かれがやっとキングの事務室に姿を現わし、報告する用意ができたというと、キングは嬉しい喜びとともに、ほっとした。
「ほう、嬉しいですな……お坐りください、博士、どうぞ。葉巻はいかがです。それで、どうすればいいのでしょう?」
だがレンツはかれの永劫なるシガレットに固執し、急がされるのは拒絶した。
「ぼくはまず、ある情報を教えてもらわなければいけないんですがね……あなたがたの工場で作られる電力は、どれぐらい重要なんです?」
キングは、それが意味するところを、ただちに理解した。
「もしあなたが、ある一定期間以上にわたって工場を閉鎖することを考えていられるなら、それはできませんね」
「なぜでしょう? ぼくに与えられた数字が正確なものなら、あなたがたの作り出しておられる電力は、この国で使われている電力量の十三パーセント以下ですが」
「さよう、そのとおりです。しかし、われわれはまた、ここで増殖しているプルトニウムを通じて二次的に、もう十三パーセントを供給しています……そして、差引勘定を合わせている項目について、あなたはまだ分析されていない。消費電力のうちの多くは家庭用電力であり、それぞれの家庭が、屋根においた太陽スクリーンから得ています。もうひとつの大口は、動く歩道用の電力で……これもまた太陽電力です。
われわれがここで直接あるいは間接に作り出している量は、ほとんどの重工業に供給するのに必要な電力です……鋼鉄、プラスチック、岩石系、あらゆる種類の製造加工業のです。人間から心臓を切り取ってしまうようなもので……」
レンツは食い下がった。
「だが食料産業は、基本的にあなたがたに頼ってはいないのでしょう?」
「ええ……食料は、根本的に電力を食う産業じゃあないんです……とはいえ、われわれは、その加工に使われる電力の何パーセントかを供給しています。あなたのいおうとされている点はわかりますし、それをつきつめてゆけば、輸送は、つまり食料の分配はですな、われわれなしにでもやっていけるということは認めます。
ですが、どういわれようと博士、原子力発電をとめると、この国はこれまで経験したこともない最大の恐慌に見舞われますよ。原子力は、われわれ産業システム全体のかなめなんです」
「この国は、これまでにも何回かの恐慌を生き抜いてきています。そしてわれわれは、石油不足をうまく切り抜けました」
「ええ……太陽エネルギーと原子力が、石油に代わって現われたからです。あなたは、これが何を意味することになるのか、おわかりになっていないようだ、博士。これは、戦争よりも悪いものになるでしょう。われわれのシステムにあっては、一つのものは他のものに依存します。もし重工業を全部一度に切ってしまうと、ほかのあらゆるものも、止まってしまうのです」
「それでも、原子炉をとめたほうがいいんですよ」
原子炉内のウラニウムは融け、その温度は摂氏二千四百度以上になっている。原子炉の停止が求められたときは、それをいくつかの小さな容器にあけることができる。どの容器に入るマッスも、連鎖的な核分裂を続けるには小さすぎるものとなるのだ。
キングは、事務室の壁に取りつけてあるガラス箱の中のリレーを無意識に見た。それを使ってかれは、当直技術者と同じように、必要とあれば原子炉をとめられるのだ。
「だが、わたしにはできません……というより、もしそうしても、工場はとまったままではいません。重役たちは、わたしをだれかと替えるだけです。運転を続ける者にです」
「もちろん、あなたのいわれるとおりです」レンツはしばらくのあいだ黙って事態を考え、それからいった。「所長、シカゴへ帰るのに飛行車を呼んでいただけますか?」
「帰られるのですか、博士?」
「はい」
シガレット・ホルダーを離したかれの顔からは、オリンポスの神々のような超然としたところが初めて、完全に消え失せた。その態度全体は、真剣で、どことなく悲しみに沈んでいるようでさえあった。
「原子炉をとめられないなら、あなたの問題に解決法はありません……まったく、何もないのです! 説明を全部しなければいけませんな……」
かれは、しばらくして言葉を続けた。
「あなたはここで、状況性精神神経症の続発に直面しておられる。ざっというなら、その徴候は不安神経症として現われています。あなたの秘書、スタインケの部分的健忘症は、後者のいい例です。かれはショック療法で治療できたかもしれませんが、それが親切であるかどうかはわかりません。なぜならかれは、耐えられない緊張のかなたへ自分をおくことで、確固たる適応をなしとげたのですから。
もうひとりの青年ハーパーの爆発は、あなたがぼくを呼ばれた直接の原因となりましたが、これは不安の例です。その不安の原因がかれの気質から取り去られると、かれはすぐ正気を取りもどします。しかし、かれの友達、エリクソンには細心の注意を払っていることです……
しかしながら、ぼくらがここで関心を持っているのは、はっきりと示されている形より、むしろ状況性精神神経症の原因であり、予防です。かみくだいていうなら、状況性精神神経症になんでもあてはめて考えるのは、簡単なんです。つまり、人を耐えられないほど心配な環境におくと、そのうち人は、どんな形であれ、爆発するということです。
それがまさに、ここでの状況です。感受性の鋭い聡明な青年たちを連れてきて、かれらの犯すただ一度の失敗で、あるいはかれらの手がとどかぬ予想外の状況による失敗でさえも、どれぐらいの数の他人が死ぬかは神のみぞ知る結果になるということを信じこませ、そしてなおかつ、かれらに正気でいることを期待しておられる。これは、途方もないことだ……不可能なことだ!」
「しかし、お願いだ、博士! 何か、解答があるはずだ……きっと!」
かれは立ち上がり、部屋の中を歩きまわった。レンツはそれを見て気の毒に思った。キング自身が、かれらの議論しているその状態の危なっかしいふちを歩んでいるのだ。
レンツは、ゆっくりといった。
「いや、ありませんな……説明させていただきましょうか。あなたは、感受性も、社会的良心もあまり持たない連中に、ここの管理を委ねることはできません。それは、心を持たぬ白痴に管理をまかせるのも同じだからです。そして、状況性精神神経症には、二つの治療法があるだけです。
一つは、環境の評価を間違っていたことからくる神経症に対してです。その治療は、意味論的再調整を必要とします。患者を助けて環境を正しく評価させるのです。不安は消えます。なぜかというと、環境自体には不安の理由などもとからなく、間違った意味づけは患者の心が勝手に描いていただけだからです。
もう一つのケースは、患者が状況を正しく評価しており、極端な不安の原因をそこに見つけているときです。かれの不安は完全に正気で適切なものですが、それにいつまでも耐えることはできず、かれを狂気に追いやります。唯一可能な治療法は、状況を変えることです。
ぼくはここに滞在して、それがここの状況だと確信するようになりました。あなたの技術者たちは、この代物の当然起こりうる危険を正しく評価しており、それは恐ろしいほど確実に、あなたがた全員を発狂させることになります! 唯一の可能な解決法は、原子炉をとめることです……そして、とめたままにしておくことです」
キングは不安そうに歩きまわり、まるで部屋自体がかれのジレンマの檻であるかのようだった。いまかれは立ちどまり、もう一度精神科医に訴えた。
「わたしにできることは、なにもないのですか?」
「治療するためなら、ありません。軽減するためなら……それは、まあ」
「どうするのです?」
「状況性精神病は、アドレナリンの消耗から生じます。不安な緊張下にあると、副腎はその分泌を増して、緊張に対する埋め合わせをします。その緊張が大きすぎ、長く続きすぎるときは、副腎はその仕事に耐えられず、その人は参ってしまいます。その状況がここにあるのです。アドレナリン療法は精神的崩壊を食いとめるかもしれませんが、間違いなく肉体的崩壊を早めるでしょう。だが、公共福祉の見地からは、そのほうがより安全ですな……たとえそれが、物理学者は消耗品だという仮定に立っていてもです!
もう一つ思いついたことがあります。新しい当直技術者を選ばれるとき、懺悔告白をおこなう教会の信徒からにされると、かれらの役立つ期間を伸ばせるでしょう」
キングが驚いたのは、明らかだった。
「おっしゃることが、わかりませんな」
「患者は自分の不安の大半を聴罪司祭にぶちまけますが、相手は実際にその状況に直面しているわけではないので、それに耐えられます。しかしながら、これは単に、改善に役立つだけです。この状況では、いつか発狂にいたることは避けられないと、ぼくは確信します。
でも、この懺悔ということには、いいところがいっぱいありますね……それは、人間の基本的欲求を満たします。それこそ、なぜ初期の心理分析が、その知識が限られていたにもかかわらず、あんなに驚くほど成功したかという理由です」
かれは、しばらく黙っていたあと、つけ加えた。
「成層圏車《ストラトキャップ》を呼んでいただけるとありがたいのですが……」
「そのほかに提案していただけることは、ないのでしょうか?」
「ありません。緩和するためには、心理分析スタッフのたずなを緩めることですな。かれらは優秀な連中です。かれらの全員が」
キングはスイッチをおし、スタインケとちょっと話した。かれはレンツのほうにふりむいて、いった。
「車がくるまで、ここでお待ちになりますか?」
レンツはキングがそう望んでいるのだと正しく解釈し、承知した。
キングの机の上の空気伝送器がピーンと鳴った。所長は小さな紙を受け取った。名刺だ。かれはそれを見てちょっと驚き、レンツに渡して、尋ねた。
「なぜかれが、わたしに会いに来たのかわからないが……かれに、お会いになりたいですか?」
レンツは目を通した。
トーマス・P・ハリントン
合衆国海軍
大佐(数学)
海軍天文台長
かれはいった。
「ぼくは、かれを知っていますよ。かれに会うのは、非常に嬉しいですな」
ハリントンは、何か考えこんでいるようで、スタインケがかれを案内してから、外の事務所へ出ていくと、ほっとしたようだった。かれは、キングより近くにいたレンツのほうに向きなおるなり話し始めた。
「あなたがキング? おや、レンツ博士! ここで何をしておられるんです?」
レンツは握手して、正確だが全部はいわずに答えた。
「ちょっと訪ねていたんだ……こちらがキング所長だよ。キング所長……ハリントン大佐です」
「始めまして、大佐……お会いできて嬉しいですよ」
「ここへ来られてありかたく思います、所長」
「お坐りになりませんか?」
「ありがとう」かれは椅子に腰を下ろし、ブリーフケースをキングの机の端においた。「所長、なぜこんなふうに、わたしがおしかけて来たかの理由を説明しなければいけませんが……」
「そうされると嬉しいですな」
実際、形式ばった礼儀作法は、キングの痛めつけられた神経にとっては鎮痛薬だったのだ。
「そうやっていただけるのはご親切なことですが……わたしをここへ連れてきてくれた秘書の方ですが、かれにわたしの名前を忘れてくれとあなたから伝えていただくわけには参らないでしょうか? これは変に聞こえるでしょうが……」
「よろしいですとも」
キングは不思議な思いを抱いたが、科学の分野で傑作した同僚の、わけがありそうな依頼なら、何でも喜んで聞こうとした。かれは構内テレビ電話でスタインケをよび、その命令を伝えた。
レンツは立ち上がり、出て行こうとしたが、ハリントンと目を合わせた。
「きみには内密の話があるようだな」
キングはハリントンからレンツに視線を移し、またハリントンにもどした。その天文学者はしばし心を決められず、首をふった。
「わたし自身は別にかまいません。キング博士しだいです。実のところ……あなたに加わっていただければ、非常にいいでしょう」
キングはいった。
「あなたがわたしに会われたい理由が何なのか、わかりませんが……大佐、レンツ博士はすでにここへ内密の立場で来ておられるのです」
「結構! それで決まりです……わたしはすぐ、本題に入りましょう。キング博士、あなたはデストゥリイの微小力学をご存知ですね?」
「当然です」
レンツはキングにむけて眉をぐいと上げたが、相手はそれを無視した。
「ええ、当然でしょうな。定理六と、方程式十三と十四のあいだの変換を覚えておられるでしょうか?」
「そう思いますが、見なければね」
キングは立ち上がり、本棚のところへ行こうとした。ハリントンは手でそれをとめた。
「いいですよ、ここに持っていますから」かれは鍵を出し、ブリーフケースをあけ、大きな、手垢がついたルーズリーフ・ノートを取り出した。「これです。あなたもどうぞ、レンツ博士。あなたは、これの展開をよくご存知でしょうか?」
レンツはうなずいた。
「ぼくは、それを読んでみる機会がありましたのでね」
「結構……では、十三と十四のあいだのステップが全体の鍵であることは同意見だと思います。さて、十三から十四への変化は、完全に正しいように見えます……そう、ある分野においてはそうでしょう。だがもし、これを広げて、この問題にあるすべての考えられる相を、推論の鎖にあるすべてのリンクを見るとしたらどうでしょう」
かれはページをめくり、同じ二つの方程式が九つの中間方程式に分解されたものを見せ、数学記号のつながったあるグループの下を指でおさえた。
「これが、おわかりでしょうか? これが何を意味するのかを?」
かれは、心配そうに二人の顔をのぞいた。
キングはそれを調べた、唇が動いている。
「ええ……わかったと思います。変ですな……これまで、そんなふうに見たことはなかったが……わたしはこれらの方程式を夢にみるまで調べたものだったのに」かれは、レンツのほうに向いた。「あなたも同意されますか、博士?」
レンツはゆっくりとうなずいた。
「そう思います……ええ、そういえると思いますよ」
ハリントンは嬉しそうにして当然だった。だが、そうではなかった。かれはまるで、怒っているようにいった。
「わたしが間違っていると、あなたがたがいってくださればと、望んでいました……だが、残念ながら、そこにはもう疑いがありません。デストゥリイ博士は分子物理で有効な一つの推論をされたが、それに対して核物理では、何の保証もまったくないのです。これがあなたにとって、何を意味するかおわかりでしょうな、キング博士?」
キングは、かすれた声でささやいた。
「ええ……ええ……その意味するところは、あそこにある大きな爆弾がもし爆発するとなると、デストゥリイが予測した形ではなくて、そのすべてが全部同時に爆発するものと考えなければいけない……神よ、人類を助けたまえ!」
ハリントン大佐は咳払いして、それに続いた沈黙を破った。
「所長……理論的予測の解釈が違うだけのことであれば、わたしはここに、おうかがいなどしませんでした……」
「まだ、ほかにいわれることが、おありなのですな?」
「イエスでもあり、ノーでもあります。たぶんみなさんは、海軍天文台を天文暦と潮汐表だけにかかわっているところだと、お考えでしょう。ある意味では、そのとおりです……ですが、予算に食いこまない限り、われわれはまだ研究に費す時間を持っています。わたしの特別な関心は常に月に関する理論にありました。
月の軌道についてではありません……わたしがいっているのは、その起原と歴史についての、ずっと興味深い問題です。わたしの輝かしい前任者T・J・J・シー大佐と同じく、若いときのダーウィンが格闘した問題でもあります。わたしの考えるところ、月の起原と歴史の理論はどれも、月表面の形を考慮しなければいけないのは明らかです……特に、山脈、クレーターと、月の表面をあれほどはっきりとしるしづけているものをです」
かれはしばらく黙りこみ、キング所長は口をはさんだ。
「ちょっと待ってください、大佐……わたしは馬鹿か、それとも何か聞き逃がしたかですな……われわれが議論していたことと、月に関する理論のあいだに、なにか関係があるのですか?」
ハリントンは詫びた。
「しばらく我慢していただけませんか、キング博士……関係はあります……少なくとも、あることを、わたしは恐れています……ですが、わたしの結論を出す前に、要点を順序立ててお見せしたいのです」
かれらは緊張した沈黙でそれを受けとめ、かれは話を続けた。
「われわれは月の噴火口《クレーター》≠ニいう習慣がありますが、それらが火山性の噴火口でないことを知っています。表面的にもそれらは、外観も分布も地球の火山の法則にはまったくしたがっていないし、一九五二年にルッターが火山の力学についての論文を出したとき、かれはかなり決定的に、月のクレーターはわれわれの知る火山活動などでおこったものではあり得ないと証明しました。
それで、最も単純な仮定として、爆撃説が残りました。見たところはそのとおりで、泥の固まりの中に小石を数分間投げこんでみれば、月のクレーターは落ちてくる隕石によって作られ得るものだと、だれも納得させられます。
だが、難しい点があります。月がそんなに繰りかえしてたたかれたのなら、どうして地球はそうならなかったのか? 指摘するまでもないでしょうが、エンディミオンやプラトーといった噴火口を作るほどの大きさの質量に対しては、地球の大気は何の防御にもならないのです。
そしてもし、隕石は月が死の世界になった後で落ちたものであり、そのあいだ地球はまだ充分に若かったので、その表面を変え、爆撃の跡を削り取ってしまったのだとするなら、なぜそれらの隕石は、われわれが海と呼んでいる月の大きな乾いた盆地をあれほど完璧なまでに避けたのでしょう?
短くはしょりましょう。ここにあるわたしのノートで、そのデータと数学的研究はご覧いただけます。
隕石爆撃説には、もうひとつ大きな欠陥があります。ティコから広がっている巨大な線条は、月のほとんど全表面にわたっています。それは月を、ハンマーでなぐられたガラスのボールのように見せています。衝撃が外部からであることは明白ですが、困った点があるのです。
たたきつけた質量、仮定上の隕石は、現在のティコ・クレーターより小さかったに違いないが、あの天体全部にわたってひび割れさせるだけの質量とスピードを持っていなければいけなかったことになります。
ご自分で計算してみてください……矯星の中心部をくり抜いてくるか、太陽系の中では一度も見られたことのないようなスピードといったものを、仮定しなければいけないことになります。そういうことは、考えられるとしても、あまりに途方もない説明です」
かれはキングのほうに向いた。
「博士、ティコのような現象にあてはまるようなことを、何か思いつかれませんか?」
所長は椅子の肘掛けをつかみ、ついで両の掌をちらりと見た。かれはふるえる手でハンカチをとり、掌をふいた。そして、聞こえないほどの声でいった。
「続けてください」
「よろしい、では……」
ハリントンはブリーフケースから、大きな月の写真を出した……リック天文台で作った美しい満月の写真だ。
「……この月を、過去のいつかのものだと想像していただきたい。われわれが海≠ニ呼んでいる暗い部分は、本当の海洋です。ここには大気があり、たぶん酸素や窒素より重いガスもある。何か考えうる形の生物が呼吸し、エネルギーを与えられるガスです。
これは居住可能の天体であり、住んでいるのは知的生物で、かれらは原子力を発見し、それを開発できる連中なのです!」
かれは写真の南端に近い、ティコの緑っぼい白の円を指さした。その信じられない、千マイルもの長さに輝く条痕は、そこから外へ外へと広がり、つき進んでいっている。
「ここ……このティコに、かれらの主要な原子力発電所があったのです」
かれは指を、赤道に近い、子午線のすこし東へ動かした──三つの大きな暗い地域、雲の海、雨の海、嵐の大洋が混じり合う点だ──そして、二つの明るい斑点を示した。同じような条痕にかこまれているが、もっと短く、それほどはっきりしておらず、ゆらいでいる。
「そして、ここ、コペルニクスとケプラーに、大洋の真中の島に、補助の発電所があったのです」
かれはいったん口をつぐみ、落ち着いた声で話し続けた。
「かれらは、その危険に気づいていたのかもしれないが、エネルギーをあまりにも必要としていたので、自分たち種族の命を賭けることにしたのですな。ひょっとすると、かれらの小さな機械の破滅的な可能性について無知だったのかもしれないし、かれらの数学がそんなことは起こり得ないと保証したのかもしれない。
だが、われわれには永久にわからない……だれにも、わからないのです。それが爆発し、かれらを殺し……かれらの天体を殺してしまったからです。
それは包んでいた大気を払いのけ、外宇宙へ吹き飛ばしてしまった。大気の中で連鎖反応を起こしたのかもしれない。それは、この天体の地殻の大きな固まりを吹き飛ばした。そのいくつかは、完全に大気から脱出してしまったのでしょうが、脱出速度に達しなかったもののすべては、しばらくすると落ちてきて、地上に巨大な環状のクレーターを作ったのです。
大洋が、そのショックをやわらげました。大きな破片だけが、水をつき抜けてクレーターを作ったのです。それらの大洋の海底には、まだ生物が残っていたかもしれません。もしそうなら、かれらは死にゆく運命にありました……大気圧によって守られていなければ、水は液体のままに留まっていることができず、いつかは必ず外宇宙へ飛び散っていくほかないからです。生命の血が抜け出ていったのです。あの天体は死にました……自殺によって死んだのです!」
かれの哀願するような表情の目と、黙って聞いていた二人の暗い目とが、合った。
「おふたりに申し上げるが……これは理論にすぎないと思います……ただの理論、夢、悪夢だと……だが、あまりにも長いあいだ、これのおかげで眠れぬ夜がつづいたので、どうしてもここへ来て、そのことを話し、あなたもわたしと同じように考えられるかどうか、知らなければいけなくなったのです。その力学については、すべてその中に、わたしのノートにあります。
どうぞ、調べてください……あなたがたが、そこに誤りを見つけられることを、わたしはせつに祈っているのです! しかし、わたしの調べたこの理論だけが、知られているすべてのデータを含み、そのすべてとぴったり合うのです」
かれの話が終わったらしいなと見て、レンツは口を開いた。
「大佐、もし、われわれがあなたの計算を調べて、誤りがないとわかったとします……すると、どうなります?」
ハリントンは両手を広げた。
「それを知りたくて、わたしはここへ来たのですぞ!」
レンツがその質問をしたのだが、ハリントンはキングの方に訴えかけた。所長は顔を上げ、天文学者と視線を合わせ、ためらい、また下をむいて、ぼんやりといった。
「やれることは何もありません……まったく、何もないんです」
ハリントンは、はっきりと驚きの色を浮かべて、かれを見つめ、そして大きな声でいった。
「でも、そんなことは! わからないのですか? あの原子炉をばらばらにしてしまわなければいけないのです……すぐに!」
冷水を浴びせるように、レンツの穏やかな声がひびいた。
「落ち着いて、大佐……そして、気の毒なキングに、あまり強くあたらないで……これは、あなたよりも、かれのほうが心配していることなんです。かれのいうところは、こうです。われわれのぶつかっている問題は物理学ではなくて、政治と経済の状況だと。
こんなふうに、いいましょうか。キングが発電所をとめられないのは、ベスビアス山の斜面に葡萄園を持っている農夫が、いつか爆発するからというだけで、自分の財産を見捨てて家族を貧乏にすることなどできないようなものです。
キングはあそこの発電所を所有しているわけじゃない。かれは、管理人にすぎない。もしかれがそこを、法的な所有者の意志に反してとめると、かれらは、あっさりかれを追い出し、もっと従順なものを任命するだけです。そう、われわれは、所有者たちに信じこませなければいけないのです」
ハリントンは提案した。
「大統領なら、かれらを信じさせられるはずです……わたしは大統領に伝えられます……」
「まちがいなく、あなた自身の局を通じて、そうできるでしょう。かれを信じこませることさえもできるでしょう。でも、かれはそれほど役に立つでしょうか?」
「え、もちろんですとも。かれは、大統領なのですぞ!」
「ちょっと待って、あなたは海軍天文台の台長だ。かりにですよ、あなたが大きなハンマーを持ち出して、そこの大望遠鏡をたたきこわそうとする……どこまで、やれます?」
ハリントンは認めた。
「そう大したところまでは、できませんな……われわれは、あの大きな代物をずいぶん厳重に警備していますから」
レンツは主張した。
「大統領も勝手気ままには行動できません……かれは、無制限な権力を持った君主ではないのです。法律によらずに、かれがこの発電所を閉鎖すれば、連邦裁判所がかれをがんじがらめにしてしまうでしょう。議会が無力だとは思いません。原子力委員会はそこから命令を受けているのですから。しかし……あなたは、議会のどこかの委員会に、微小力学の講義をおこなう気になれますか?」
ハリントンはすぐに要点をはっきりさせ、指摘した。
「でも、別の方法があります……議会は、大衆の意見には反応します。われわれがやる必要があるのは、あの原子炉がすべての人にとって脅威であると、大衆に信じこませることです。これは、高度な数学用語で事態を説明しようとしなくても、やれるはずです」
レンツはうなずいた。
「確かにそれはできるでしょう……あなたはそのことを放送し、すべての人を死にそうなほど脅かすことができます。あなたは、このいささかグロッキーに近い国が、これまで経験したこともない最悪の恐慌を作り出せるでしょう。いや、結構です。わたし個人は、われわれが作り上げている文化を破壊してしまうほどの集団精神病をもたらすより、みんなが静かに死んでゆく機会を与えられるほうがいいですね。狂乱時代は、一度味わっただけで充分です」
「そう、では、あなたは何を提案されるのです?」
レンツはちょっと考えてから、答えた。
「ぼくに見えるのは、はかない望みだけです。ぼくらは重役会に働きかけ、かれらの頭にすこしでも理性をたたきこんでみるのです」
疲れ落胆してはいたが、その議論を注意して聞いていたキングは、口をはさんだ。
「それを、どんなふうにやられるつもりですか?」
レンツは白状した。
「わかりません……すこし考えてみなければいけませんな。しかし、それが最も成果の上がりそうなアプローチだと思えます。それがうまくいかなければ、いつでもハリントンのいう大衆へのアピールにもどれます……ぼくは、自分の価値観を満足させるために世界が自殺することなどに固執しませんよ」
ハリントンは腕時計を見た──大きな代物だ──口笛を吹いていった。
「驚いたな……時間を忘れていた! 公式には、フラッグスタッフ天文台にいなければいけないんです」
キングは、大佐が見た時計の時刻表示を無意識のうちに記憶していた。
「でも、そんな遅い時刻のはずはありませんよ」
かれが反対したので、ハリントンは面くらった表情になったが、笑いだした。
「違いましたな……二時間ほど。ここはプラス七の時間帯で、これはプラス五の時間帯の時刻表示です……ワシントンのマスター時計と電波で直接シンクロしているんです」
「電波でシンクロといわれましたか?」
大佐は見てくれと、腕をのばした。
「ええ。見事なものでしょう? わたしは、テレクロノメーターといっています。現在のところは、これひとつです。わたしの甥が作ってくれましてね。賢いやつですよ、そいつは。相当なとこまでいくでしょう。つまり……」かれの顔は暗くなった。短い幕間が、かれらの上にのしかかっている悲劇を強調する役にしか立たなかったというかのように。「……そんなに長生きできればの話ですが」
キングの机でシグナル・ライトが光り、スタインケの顔が通話スクリーンに出た。キングはそれに答えてから、いった。
「あなたの車が来ましたよ、レンツ博士」
「それは、ハリントン大佐に使ってもらってください」
「すると、あなたはシカゴにもどられないのですか?」
「ええ。事態は変わりました。もしお望みなら、一蓮托生といきましょう」
次の金曜日、スタインケは、レンツをキングの事務室に案内した。キングは嬉しそうな顔つきで握手した。
「いつ着陸されたんです、博士? まだ一時間やそこらは、もどってこられないものと思っていましたが」
「ついいましがたです。シャトルを待たないで、キャブを雇ったもんですから」
「何か、いいことは?」
と、キングは尋ねた。
「なしです。同じ答えを、かれらはあなたに出しましたね……会社は、個々の専門家によってデストゥリイ力学が正当であることは保証済みだから、従業員のあいだにヒステリー状態を促進させる理由はないものと信じる……ですよ」
キングは、どこを見るでもない目つきで、机の表面をこつこつとたたいた。それから、レンツのほうにまっすぐ向くと、尋ねた。
「あなたは会長が正しいと考えますか?」
「どのようにです?」
「われわれ三人、あなたとわたし、それにハリントンが、どこか深いところで間違い、精神的におかしくなっていると?」
「いいえ」
「確信がありますか?」
「間違いなしにね。ぼく自身も、あの会社に雇われていない個々の専門家を探して、ハリントンの仕事を調べてもらいました。合っていましたよ」
レンツは、現在のキングが精神的に安定してるかどうかうけあえないこともあって、そうしたのだということを、わざといわないでおいた。
キングは元気よく立ち上がると、手をのばしてボタンをおし、説明した。
「もう一度やってみます……。ディクソンの石頭に恐怖をたたきこめないものかと」かれは、送話器にむかって話した。「ミスタ・ディクソンをスクリーンに出してくれ」
「はい、所長」
二分ほどで、テレビ電話のスクリーンは明るくなり、ディクソン会長の姿を映しだした。かれは、自分のオフィスではなく、ジャージー・シティの電力連合会議室から話していた。
「ああ……何だね、所長?」
かれの態度は、いらつきと人あたりの良さとが奇妙にまじっていた。
キングは話しだした。
「ミスタ・ディクソン……わたしは、会社が重大事だということを信じていただきたく電話をさしあげました。わたしは自分の科学者としての評判を賭けて申しますが、ハリントンの証明したことは、完全に正しく……」
「ああ、そのことか? ミスタ・キング、きみもわかっていると思っていたが、あれはもうすんだことだ」
「しかし、ミスタ・ディクソン……」
「所長、聞いてくれ! 恐れるにたる何かちゃんとした原因があるなら、わたしがためらうと思うか? 知ってのとおり、わたしには子供もいれば、孫たちもいる」
「それこそ、われわれの……」
「われわれは、会社を理屈の通った知恵と公共の利益から動かそうと努めている。しかしわれわれには、他の責任もある。何十万、何百万の小株主がいて、かれらはその投資に見合うだけの利子を求めている。きみが占星術に夢中になっただけのことで、十億ドル企業をわれわれが捨ててしまうことなど期待してはいけないよ。月理論だと!」
かれは鼻を鳴らした。
「結構でしょう、会長……」
キングの口調はこわばっていた。
「そんなふうに取らないでくれ、ミスタ・キング。電話をもらってよかった……取締役会は、いま特別会議を終えたところだ。かれらはきみの引退を認めることを決定した……もちろん、現役給のままだ」
「わたしは、引退など申し出ていませんぞ!」
「わかっているよ、ミスタ・キング。だが、取締役会の感じるところは……」
「わかりました、お別れします!」
「ミスタ・キング……」
「さようなら!」かれはスイッチを切り、レンツのほうに向くと、いましがた聞かされた言葉をくりかえした。「……現役給でか……これで残りの一生を好きなように楽しめるわけだ……死刑囚監房にいる男のように幸せにだ!」
レンツはうなずいた。
「そのとおり……さて、ぼくらはやるだけのことはやった。どうやらハリントンに電話して、政治と大衆の操作をやらせるべきですな」
キングはぼんやりと承知した。
「そのようですね。あなたはもうシカゴへ帰られるのですか?」
「いや……ロサンゼルス行きのシャトルをつかまえ、オーストラリアへの夜のロケットに乗ろうと思いますよ」
キングは驚いたようだったが、何もいわなかった。レンツは、かれが口にしなかった言葉をいった。
「たぶん、地球の反対側では、いくらかは生き残るでしょう。ぼくは、ここでやれることはみなやりました。シカゴで死んだ精神科医になるよりも、オーストラリアで生きている羊飼いになっているほうがいいですからね」
キング以勢いよくうなずいた。
「それが常識《ホース・センス》ってものです。何が何でも、いますぐ原子炉をとめて、あなたと一緒に行きたいところですが」
「馬《ホース》のセンスじゃあありませんよ、あなた……馬は燃えている厩舎の中へでも走ってもどりますが、それこそぼくがやるまいと考えていることです。あなたも、一緒に来られたらどうです。そうされたら、それは、ハリントンがかれらを死ぬほど脅かすのを助けることになりますよ」
「そのとおりです!」
スタインケの顔がまたスクリーンに現われた。
「ハーパーとエリクソンがここへ来ていますが、ボス」
「わたしは忙しいんだ」
「ふたりは、どうしてもお会いしたいといっています」
キングは疲れた声で答えた。
「おう……よろしい、入れてくれ。かまわないから」
二人はハーパーを先頭にして、勢いよく入ってきた。かれは、所長が何かに心を奪われて陰気な態度でいることには気づかず、すぐに話し始めた。
「やりました、ボス、手に入れたんです! それに、小数点以下どこまでも、全部チェックしてあります!」
「何を手に入れたって? はっきり話せ」
ハーパーはにやりと笑った。かれは勝利のときを楽しんでおり、それを引きのばして楽しもうとしていた。
「ボス、数週間前のことを覚えておられますか、ぼくが追加予算を頼んだときのことを……どう使うか、特定しない特別な予算を?」
「ああ。続けて……要点をいってくれ」
「あなたは最初それを蹴ったが、あとでやっと認めてくださった。覚えていますね? さて、その見返りにお目にかけるものができました。赤いリボンで結んだ贈り物です。それは、ハーンが原子核を分裂させて以来の、放射能研究における最大の業績です。核燃料ですよ、所長、核燃料です。安全で、濃縮されていて、制御しやすいんです。ロケットに、発電所に、使おうと思うどんなものにでも適しているんです」
キングは初めて強い関心を見せた。
「きみのいうのは、原子炉を必要としないエネルギー源か?」
「いえ、違います、そうはいいません。その燃料を作るのに増殖炉を使いますが、それからその燃料をどこでも好きなように使えます。エネルギーの九十二パーセントを取りもどせるといったところで。でも、そうしたければ、エネルギー連鎖を断ち切れます」
キングの、ジレンマから抜け出せるかという最初の熱烈な希望はくじかれたが、かれはどうやら落ち着いた。
「それで……どんなことか、話してくれ」
「はい……人工放射性物質に関することなんです。あの特別な研究予算を求めた直前、エリクソンとぼく……それにレンツ博士も若干関係がありますが」かれは、精神料医におわかりでしょうというように、うなずいて見せた。「おたがいに反発し合うようなアイントープを二つ見つけました。つまり、両方を同じところに入れて刺激すると、どちらも潜在的に持っているエネルギーを全部一度に放出し……大変な爆発を起こすのです。重要な点は、ぼくらが使ったのはどちらの質量もゼロに近いほどの量だったことです……その反応を持続させるのに量は必要ありません」
キングは首をふった。
「わからないな……どうしてそんなことが……」
「ぼくらも、はっきりとはわかりません……だが、それはうまく反応するのです。ぼくらは、確信が持てるまで、やり直し、ぼくらの持っているものを調べ、他に一ダースほどの燃料を発見しました。たぶん、どのような目的のためにも別誂えの燃料を作れるようになるでしょう。でも、まずこれです」かれは、腕にかかえていた一束のタイプしたノートを渡した。「それは、あなたの分のコピーです。目を通してください」
キングは読み出した。レンツもそれに加わった。黙ってその許可を求めるように視線をむけると、エリクソンが初めて口を開き、「もちろんです、どうぞ、博士」といったあとで。
読みすすむうちに、重大な悩みをかかえこむ管理者といった態度がキングからぬぐいさられていった。かれを個性づけるもの、つまり科学者としての性格が、表に出てきたのだ。かれは、感情に左右されずに、わかりにくい真実を探し求めていくという、落ち着いた知的エクスタシーを楽しんだ。興奮した視床からもたらされる感情は、大脳皮質の中で冷たく燃えあがる炎に対する官能的なオブリガードをかたちづくるだけに限られていた。こういうときのかれこそ、いかなるときにも、多くの人々が達しえなかったほどの正気さ、ほとんど完璧なまでの正気さを有していた。
長いあいた聞こえるのは、ときどきのつぶやき声、ページをめくる音、同意のうなずきだけだった。やっと、かれはそれを置いた。
「間違いない……きみらはやったんだ。大したものだ。わたしは、きみたちを誇りに思うよ」
エリクソンは顔を明るい桃色に染め、唾を飲みこんだ。
ハーパーの小さな緊張しきった姿は、褒めてもらったときのフォックス・テリアが嬉しそうにしている様子を連想させた。
「嬉しいですよ、ボス。ノーベル賞をもらうより、あなたにそういっていただけるほうが」
「たぶん、きみたちはそれをもらうことになるだろう。しかし……」──かれの目の中に浮かんでいた誇らしげな光が消えていった──「この問題に関して、わたしは何の行動も取らないことになる」
「なぜです、ボス?」
その口調はとまどっていた。
「わたしは引退するからだ。わたしの後任者が、近い将来、ここを引き継ぐだろう。管理者が変わる直前に始めるにしては、この問題は大きすぎる」
「あなたが引退されるですと! いったいどういうことです?」
「わたしがきみを当直から外したのと同じ理由さ……少なくとも、重役たちはそう考えている」
「でも、そんな馬鹿な! ぼくを当直リストから外されたのは、正しかった。ぼくは、びくつきかけていましたから。でも、あなたは違います……ぼくらみんなが、あなたを頼りにしているんです」
「ありがとう、カル……だが、そういうことで、どうすることもできないんだ」かれはレンツのほうにむくと、苦々しい口調でいった。「こいつは、事態を純粋な喜劇に仕立てあげるのに必要な、最後の皮肉なタッチといったところですな……これは、いまの段階でわれわれが推量できる範囲をはるかに越えたことだ……それなのに、わざと避けなければいけないんですからな」
ハーパーは勢いよくいった。
「でも、やるべきことはわかっています!」かれはキングの机に大股で近づくと、その原稿を取り上げた。「あなたが、この開発を監督するか、会社がぼくらの発見なしにやっていくかです!」
エリクソンも喧嘩腰で、同意した。
レンツは口を開いた。
「ちょっと待った……ハーパー博士……あなたはすでに実用的なロケット燃料を完成したのですかな?」
「ぼくは、そういいましたよ。ぼくらは、それをいま手近なところにもっているんです」
「脱出速度になる燃料をですか?」
かれらはレンツの省略された言葉を理解した──地球の重力から離れてロケットを上昇させられる燃料だ。
「そのとおりです。クリアバー型のロケットならどれでも、ちょっと改造すれば、月の上で朝食ができるんです」
「よろしい。では、ちょっとごめん……」
かれはキングから紙を一枚もらうと、何か書き始めた。かれらは、狐につままれたように、いらいらしながら見つめていた。かれは、ほんのときたましかためらわずに、元気よく書き続けた。やがてかれは書きやめ、その紙をキングのほうに向けて、こう頼んだ。
「それを解いていただきましょうか!」
キングはその紙を調べた。レンツは記号のそれぞれに実に多くの要素を現わす役目を与えていた。あるものには社会の、あるものには心理学的な、あるものには物理学の、あるものには経済的なものを。かれは、ステートメント計算の記号を使って、それらを一つの構造的な関係式に投げこんでいた。キングはそれらの記号で示されている数学をある面で越えた演算を理解したが、理論物理における記号や演算ほどには、慣れていなかった。かれは計算式をたどっていき、唇を動かし、無意識のうちに声を出していた。
かれはレンツから鉛筆を受け取り、その解法を完成した。もう何行か、数式がもうすこし必要になり、それらを消したり、あるいは作り直したりして、最終的な解答ができたのだ。
かれはこの解答を見つめたが、そのうちに困惑の表情は去り、理解と喜びが面に浮かんできた。
キングは顔を上げ、大きな声でいいだした。
「エリクソン! ハーパー! われわれはきみたちの新しい燃料を使うぞ。大型ロケットを改造し、増殖炉をその中に据え付け、地球の周回軌道に、遠く宇宙へ送り出す。そこでわれわれは、もっと多くの燃料を、安全なやつを作るのにそれを使うんだ、地上で使うために。大きな爆弾が持つ危険は、実際に当直についている技術者たちだけに限られるんだ!」
拍手かっさいは起こらなかった。そういったたぐいのアイデアではなかったのだ。かれらの心はまだ、複雑な想念のあいだをゆれ動いていた。
ハーパーはやっといった。
「でも、ボス……あなたの引退はどうなるのです? そのことで戦わないのですか?」
キングは安心させた。
「心配するな……それらはみなこの中に、計算式の中に暗黙裡に含まれているんだ。きみたち二人、わたし、レンツ、重役会……やらなければいけないのは、この式を完成することだけだ」
「時間の問題を除いたすべてがだよ」
と、レンツは警告した。
「え?」
「わかるだろうが、きみの解答に現われている経過時間は、まだ決定されていない未知のものだ」
「ああ……ああ、もちろんだ。われわれは賭けてみなければいけないんだ。さあ、忙しくなるぞ!」
ディクソン会長は、取締役会に静粛を求めて、説明した。
「これは特別な会合だから、議事録や報告書は省略することにしよう……招集に先立ってわれわれが同意したのは、引退する所長に二時間という時間を与えることだ」
「会長……」
「どうぞ、ミスタ・ストロング?」
「その問題はかたがついたと思っていましたが」
「そのとおりです、ミスタ・ストロング。だが、キング所長の長い間の傑出した仕事ぶりを考慮すると、かれが聴聞会を求めるなら、喜んでそれを認めようということになったのです。どうぞ、キング博士」
キングは立ち上がり、簡潔に述べた。
「わたしに代わって、レンツ博士が話します」
かれは坐った。
咳払いや椅子を動かす音に、レンツはしばらく待たなければいけなかった。重役会が外部の人間を好ましく思っていないことは明らかだった。
原子炉の中の爆弾が、将来的に引き起こす全地球的災害についての、今までいわれてきた議論を要点よく、レンツは手短かに述べた。かれはすぐに、その爆弾をロケット船にのせるべきだという代替提案をおこなった。便利な距離、まず一万五千マイルといったところで、地球のまわりの自由軌道に飛ばす人工の小さな月にのせる──そして、地上では二次的な発電所が、爆弾で作られた安全燃料を燃やすのだ。
かれはハーパー=エリクソン技術の発見を発表し、それが商業的に何を意味しているかを説明した。どの点もが、かれの持つ力強い個性をフルに使って、できる限りの説得力を持って提出された。ついでかれはひと休みし、聴き手が緊張をほぐすのを待った。
かれらは口々にいいだした。「夢のような……」「まだ証明されていない……」「事態における基本的な変化はない……」その実態は、新しい燃料ができたことは非常に嬉しいが、それほど感銘をうけてはいないということだった。
完全にテストされ、商業的に証明されたあと、まああと二十年ぐらいすれば、大気圏外に別の増殖炉を据えつけることを考えてみてもいい。それまでは、別に急ぐことはないのだ。一人の重役だけがこの計画を支持したが、それで評判が一度に落ちたのは明らかだった。
レンツは辛抱強く、丁寧に、かれらの反対意見に応対した。かれは、技術者たちのあいだで職業病といえる精神神経症が増加していることと、旧来の理論下でもあの爆弾の近くにいるすべての人に対しては大変な危険があることを強調した。かれは、保険と賠償債券の費用、それに州の政治家に支払っている手数料≠フことを思い出させた。
ついでかれは口調をがらりと変え、かれらに対して直截に、情け容赦なく話しかけた。
「みなさん……ぼくらは命を賭けて戦っているものと信じています……ぼくら自身の命、ぼくらの家族、地球上のすべての命をです。もしあなたがたがこの妥協案を拒絶されるなら、ぼくらは猛烈に戦います。それも、追い詰められた動物と同じく、フェアプレーなどまったく考えずにです」
ここでかれは、攻撃の最初の手を打った。
それはまったく簡単なものだった。かれは、全国的規模での宣伝キャンペーンのアウトラインを、かれらに見てくれとさしだした。大きな広告会社ならどこでも日常的にやっているようなものだ。それは、細部にいたるまで完全なものだった。テレビ放送、ラジオのスポット、新聞雑誌に売りこむ論説、ダミーの市民による委員会=Aそして──もっとも重要なのは──それを支える口コミのキャンペーンと議会へ手紙を出すための組織だ。
そこにいるすべての実業家が、そういう物事が成功することを、経験から知っていた。
だがその目的は、アリゾナ原子炉の恐怖をかき立て、その恐怖でパニックをあおるのではなく、取締役会に直接怒りをたたきつけ、その大きな爆弾を外宇宙へ移す行動を原子力委員会に取らせよと求めることにあった。
「これは脅迫だ! われわれは、きみをとめるぞ!」
レンツは穏やかに答えた。
「だめでしょう……あなたがたは、新聞のいくつかからぼくらを締め出すことはできるでしょうが、残りをとめることはできませんよ。ぼくらを放送から締め出すこともできません……連邦通信委員会に尋ねてごらんなさい」
それは本当だった。ハリントンは政界工作を行ない、その仕事をうまくやりとげていた。大統領は納得したのだ。
四方八方で癇癪が破裂していた。ディクソンはテーブルをたたいて、静粛を求めなければいけなかった。かれは自分の癇癪を無理矢理おさえて話しかけた。
「レンツ博士……あなたは、われわれ全員を、汚らわしい悪漢に見えるように計画されている。他人の生命をふみしだき、個人的利益のほか何ひとつ考えない悪漢に。それが真実でないことを、あなたはご存知だ。ただ単に、何が賢明かについての意見の相違でしかないのに」
レンツはあっさりと認めた。
「ぼくは、それを真実だとはいいませんでした……だが、あなたがたが計画的な悪党だと大衆に信じこませるのは、簡単だとおわかりでしょう。意見の相違という点に関しては、あなたがたはだれも核物理学者ではありません。この問題について、あなたがたは意見を持つ資格がないのです」
かれは冷淡に続けた。
「実際のところ……ぼくの心の中にある唯一の疑問は、議会が強制収用権を発動して、あなたがたの貴重な発電所を取り上げてしまう前に、怒り狂った大衆があそこを破壊してしまうかどうかなのです!」
かれらが、反駁のための議論とかれの上をいく方法を考え出す前に、かれらの憤慨が冷めきって頑固な抵抗が始まる前に、レンツは次の手を打った。
かれは、別の宣伝キャンペーンのレイアウトを出した──まったく違う種類のものを。
今回の取締役会は、引きずり倒されるものではなく、かつぎ上げられるものだった。すべて前と同じテクニックが使われていた。人間的興味あふれる、真相はこうだ式のノンフィクション読物で会社の機能を述べ、そこは実業界でも愛国的な、無私の指導者たちによって管理されている偉大な公共企業であると描写する。
そのキャンペーンの適当な時機に、エリクソン=ハーパー燃料が発表される。それは、二人の従業員が独創的におこなった偶熱の結果ではなく、取締役会の確固とした政策下におこなわれてきた数年来のシステマティックな研究の期待されてきた成果だと述べられるのだ。その政策は、たとえほんのまばらにしか人が住んでいないアリゾナの砂漠であろうと、爆発の脅威を永久に取り除いてしまおうというかれらの人間性ある決定から当然のごとく導かれる。
全地球をすっぽり包みこんでしまうほどの大災害については、言及しないことにする。
レンツはそれを論議した。恩恵を受ける世界からかれらに贈られることになる感謝を、力説した。かれは高貴な犠牲を払うという方向に心を動かし、微妙な言いまわしで、かれらが自分たちを英雄のように思わせた。かれは意識して、類人猿の本能に最も深く根づいているものの一つを剌激した。ふさわしかろうとなかろうと、同族から承認されたいという望みだ。
そのような演技を続けているあいだじゅう、かれは、てごわい相手、抵抗する心から、別の相手へと注意を向けていった。かれはなだめすかし、おだてては、個人的弱点につけこんだ。臆病で家庭的な男たちのために、かれはふたたび、苦しみと死と破壊の図を描き、証明もされていないし非常に疑問のあるデストゥリイ力学の予測に、それと知っていながら頼っていることからおこる結果となるかもしれないと告げた。
ついでかれは、明るい世界を詳細に描いてみせた。ほとんど無限のエネルギーを、ほんの小さな譲歩でかれらのものとなる発明から得られる安全なエネルギーを与えられた、不安のない世界を。
それが利いた。みんなが一度に態度を変えたわけではないが、提案された宇宙船発電所の可能性を調査するための委員会が指名された。
レンツが図々しくもその委員会に入るべき人の名前を何人か提案すると、ディクソンはそれを承認した。とりたててそうしたかったからではなく、不意をつかれ、その名前の人たちを侮辱せずに断わる理由が考えつけなかったからだ。レンツは注意深く、そのリストに自分を支持してくれた人物を入れたのだ。
キングのさしせまっていたはずの引退は、どちら側からも口に出されなかった。ひそかにレンツは、それは永久に口にされないだろうと確信した。
すべてうまくいったが、やるべきことがたくさん残った。委員会での勝利のあと、最初の数日間、キングは押しつぶされるほどの不安から解放されるという早期的展望に、心がぐんと高揚するのを覚えた。かれは、錯綜する新規の管理業務からの要求に嬉しい悲鳴をあげていた。
ハーパーとエリクソンはゴダード実験場に派遣され、そこのロケット技術者に協力して、燃焼室、噴射管、燃料の積込み、燃料の計測、そういったものの設計にあたった。
核燃料を作るために原子炉をできるだけ多く利用したいが、それに割くのはどれぐらいまで可能かについて、営業部門とスケジュールを調整しなければいけないし、地上の原子炉がとめられてから、小さな発電所が方々に建設されて商業需要が満たされるようになるまでのあいだ必要な、核燃料のための巨大な燃焼室を設計し、原子炉自体を移す命令を下さなければいけない。とにかく忙しかった。
最初の忙しさが一段落し、原子炉の閉鎖と外宇宙への移動は未決定のまま、新しい作業手順に落ち着くと、キングは感情面での反動に苦しんだ。ゴダード実験場の連中が欠陥を直していき、宇宙へ出せるだけのロケット船を作るまでのあいだ、待ち、原子炉のお守りをしている以外、何もすることがないのだ。
ゴダードでは、困難を克服するたびに、さらに多くの困難が立ちふさがった。かれらはそれまで、それほど高い反応速度のものを扱ったことがなかった。効率のいい噴射管の形を見つけるまでに、多くの実験が必要だった。それが解決され、成功は目前と思われたが、地上でのタイム・トライアル・テストで、噴射口が燃えつきてしまった。その手づまりに、何週間か膠着状態がつづいた。
ロケットの問題とは切り離しても、別の問題があった。衛星ロケットに再設置された増殖炉で作りだされるエネルギーをどうするか? それは思い切った方法で解決された。原子炉本体を遮蔽せずに人工衛星の外におき、その放射エネルギーをむだに捨ててしまうのだ。ごく小さな人工の恒星となって、宇宙の真空の中で輝くだろう。一方では、そのエネルギーをつかまえなおし、それを地球にビーム・バックする方法についての研究が進められる。だが、浪費されるのは、そのエネルギーだけで、プルトニウムと新しい核燃料は回収され、地球へロケットで送り返されるのだ。
発電所に話をもどすと、キング所長は爪を噛みながら待つほか、することが何もなかった。かれは、ゴダード実験場へ走って行き、研究の進行状況を見るための休暇を取ることさえもできなかった。心からそうしたかったのだが、それよりも強く、原子炉を注意していなければいけないという圧倒的な強迫観念を覚えるのだ。そうしなければ──胸をかきむしられる思いで──最後の瞬間に爆発してしまう、と。
かれは制御室に入りびたるようになった。やめなければいけないことだったが。この不安自体が当直技術者に伝染するのだ。一日のうちにかれらの二人がいかれてしまった──一人は当直についているときに。
事実に直面しなければいけない──監視下における待機姿勢が始まったときから、技術者たちのあいだでの精神神経症は容易ならぬ上昇をしめすようになっていた。最初、計画の主要な事実は機密扱いにしようとされていたが、どこからか洩れてしまった。たぶん、調査委員会の何人かのメンバーからだろう。
かれはいまになって、それを秘密にしようとしたことなど間違いだったと認めた──レンツは反対していたし、切り換えのとき実際に担当しない技術者たちも何がおこっているのか知っているべきだった。
かれはついに、技術者全員に秘密保持の誓いを立てさせたあと、その秘密を明かした。それは一週間かそこらのあいだ励みになった。そのあいだ、かれがそうだったように、その知識で、みんなが精神的な高揚を与えられたのだ。
だがやがてそれは消えていき、反動が入りこみはじめ、心理観察者はほとんど毎日のように、当直につく技術者たちの資格を剥脱していった。
かれらは大変な頻度で、おたがいを精神的に不安定だと報告しさえした。この事態が進行すると、精神科医まで足りなくなるような目に会うぞと、かれは苦々しくもおかしい思いにかられた。
技術者たちはすでに、十二時間おきに四時間の勤務についていた。あともう一人が脱落すると、かれ自身が当直につくことになる。実のところ、かれ自身にとって、それは助けになるといえた。
どういうわけか、まわりにいる民間人の一部や技術部門ではない従業員たちも、その秘密を知り始めていた。それが進行してはいけない──それ以上広がると、全国的な恐慌になるかもしれない。だが、いったいどうすれば、それを止められるのだ? かれには、できなかった。
かれはベッドの中で寝返りをうち、枕をなおし、もう一度眠ろうとした。だめだった。かれの頭は痛み、両眼は苦痛のしこりとなり、脳は溝にひっかかったレコードのように、役にも立たぬことを何度も何度も、終わることなく繰りかえすのだ。
畜生! これではたまらない! かれは、自分がいかれかかっているのだろうかと疑った──もうすでに、いかれてしまっているのか、と。かれが危険に気づき、できる限り忘れようとしていただけのときより、ずっと、何倍も悪い。
原子炉が何か変わった状態にあるというのではない──ただ、休戦五分前という感じ、カーテンが上がるのを待つ不安、何ひとつできないままに時間とレースしている感じなのだ。
起き上がり、ベッド・ランプをつけ、時計を見た。三時半。あまりよくない。かれは立ち上がり、浴室へ行って、ウイスキーに水を同量わったグラスに睡眠薬をとかした。それを急いで飲みほし、ベッドにもどる。やがて、眠りに落ちた。
かれは走っていた、長い廊下を逃げていた。その端にいけば安全になれる──それはわかっているが、あまりに疲れきっているので、その競走を最後までやりとげられるかどうか怪しいものだった。追いかけてきているものは、近づきつつある。かれは、鉛のように重く、疲れた両足を無理にも働かせた。背後に迫るものはそのペースを速め、実際にかれにふれた。かれの心臓は一瞬とまり、ついでふたたび脈打った。自分が、あまりの恐怖に悲鳴を上げ、さけんでいることに、気づきだしていた。
だが、かれはその廊下の端にたどりつかなければいけないのだ、自分自身よりもっと多くのものが、その行為ひとつにかかっている。そうしなければいけない。そうしなければ──そうしなければいけない!
閃光が見え、かれは敗れたことを覚った。まったき絶望とまったき敗北感とともに、それを覚った。かれは失敗した、原子炉は爆発してしまったのだ。
閃光は、自動的につくベッド・ランプだった。七時だった。かれのパジャマは汗でびっしょりと濡れ、心臓はまだ激しく打っていた。疲労した全身の神経が、解放を求めて悲鳴を上げていた。このような動揺をおさえるには、冷たいシャワー以上のものが必要だ。
かれが事務所に出てゆくと、掃除婦がまだ中にいた。二時間後、レンツがやってくるまで、かれは何もせず、そこに坐っていた。その精神科医が入ってきたとき、かれはちょうど机の中の箱から小さな錠剤を二粒取りだしたところだった。
レンツはゆっくりといった。
「まあまあ、落ち着いて、きみ……何を持っているんだ?」
かれは机をまわり、そっとその箱を取った。
「ただの鎮静剤さ」
レンツは、その表の注意書を読んだ。
「きみは今日、何錠飲んだ?」
「いままでに、二錠だけさ」
「きみはバルビタールなど必要としないよ。必要なのは、新鮮な空気の中での散歩だ。さあ、ぼくと一緒に散歩しよう」
「きみはいい話相手だよ……火をつけてないタバコを吸っているよ!」
「ぼくが? え、そのとおりだ! ぼくらは二人とも、その散歩が必要なんだ。行こう」
かれらが出ていって十分もたたないうちに、ハーパーがやってきた。スタインケは、外の事務所にはいなかった。かれはそこを通り抜け、キングの個人用事務室のドアをたたき、かれと同行してきた男とともに待った──ゆったりとした自信を漂わせているがっしりした青年だ。スタインケが、かれらを中に入れた。
ハーパーはのんびりと挨拶して、かれのそばを通り抜けたが、部屋の中にほかにだれもいないのを見て、立ちどまった。
「ボスはどこです?」
かれは尋ねた。
「外です。すぐもどってきますよ」
「待たせてもらうよ。ああ……スタインケ、こちらはグリーン。グリーン……スタインケだ」
かれらは握手した。
「どうしてもどってきたんだ、カル?」
と、スタインケはハーパーのほうに向きながら、尋ねた。
「それは……きみに話してもかまわないと思うが……」
通話装置《コミュニケーター》スクリーンがとつぜん明るくなり、その話は中断された。だれかの顔が、画面いっぱいに現われた。カメラに近づきすぎているせいか、ずいぶん焦点がずれている。そいつは、苦しそうな声でさけんだ。
「所長! 原子炉が……!」
人影がスクリーンをさっと横切り、ドサッと鈍い音が聞こえ、顔がスクリーンの外へすべり出ていった。そいつが倒れると、背後の制御室が見えた。だれかが床に倒れている。何ともいいようのない形だ。もうひとりがカメラの視界を横切って走り、姿を消した。
ハーパーはすぐ行動を起こした。かれはさけんだ。
「あれはシラードだ! 制御室へ! 来るんだ、スタインケ!」
かれはもう走りだしていた。
スタインケはまっ青になったが、瞬時しかためらわなかった。かれはハーパーのあとについて、猛烈に走った。グリーンは呼ばれなかったが、そのあとに続き、落ち着いた走りかたで、楽にかれらにペースを合わせた。
かれらはチューブ駅で、カプセルが人を下ろすのを待たなければいけなかった。それから三人全部が二人乗りのカプセルに乗りこもうとした。カプセルは出発するのを拒絶し、ほんのちょっと時間をむだにしたが、すぐにグリーンが出て、別のカプセルを探した。
急加速の四分間か、いつまでも続くのろのろ旅行のように思えた。ハーパーがこのシステムは壊れてしまったのだと信じかけたとき、おなじみのカチッという音と溜息が、原子炉の下の駅に着いたことを告げた。かれらは、同時に飛び出そうとして、ぶつかりあった。
エレベーターは上に上がっていた。かれらは待たなかった。賢明な策ではなかったが。それで時間を得したわけではなかったし、制御室の階につくころにはいいかげん息を切らしていた。それでもかれらは、最上階につくとスピードを上げ、狂おしく外の遮蔽壁のまわりをジグザグに走り、制御室に飛びこんだ。
ぐにゃりとなった男がまだ床に横たわっており、もうひとり同じような動かない姿がそのそばにあった。
三人目の男は引金の上にかがみこんでいた。ふたりが入ってくると、かれは顔を上げ、突進してきた。ふたりはかれを一緒になぐりつけ、三人はころがった。二対一だったが、おたかいが邪魔になった。ぶあつい防護服が、なぐりあいから、そいつを守っていた。かれは、凶暴に闘った。
ハーパーは、鋭い痛みを感じた。右腕から力が抜け、役に立たなくなった。防護服を着た姿は、暴れまわり、ふたりをふり払った。かれらの背後のどこかから叫び声が響いた。
「動くな!」
かれは目の隅で閃光を見た。耳をつんざく音が走り、密閉された場所で痛いほど反響した。
防護服を着た姿はよろめいて両膝をつき、そこでバランスを取り、顔を下にしてずしーんと倒れていった。グリーンが入り口に立ち、その手に軍用拳銃を握っていた。
ハーパーは立ち上がり、引金のところへ行き、出力レベルを低く調整しようとしたが、右手がいうことをきかず、左手は不器用すぎた。かれは呼びかけた。
「スタインケ、来てくれ! 代わってほしいんだ」
スタインケは急いでやってくると、うなずき、計器の値を見るなり、忙しく仕事を始めた。
数分後に走りこんできたキングは、そうやっているかれらを見た。かれは、急いで見まわして事態を把握しながら、さけんだ。
「ハーパー! どうしたんだ?」
ハーパーが手短かに話すと、かれはうなずいた。
「わたしはオフィスから、なぐりあいの終わりの部分を見た……スタインケ!」かれは、だれが引金のところにいるのかに、初めて気づいたようだった。「かれは、制御装置をあつかえないんだぞ……」
かれは急いでそこへ行った。
スタインケは近づいてくる所長を見上げて、呼びかけた。
「ボス! ボス! ぼくの数学が、もどってきました!」
キングは面くらった表情になり、ぼんやりとうなずくと、かれをそのままにした。所長はハーパーのほうにむきなおった。
「どうして、きみはここにいることになったんだ?」
「ぼくが? ぼくは、ここへ報告に来たんです……ぼくらは、やりとげたんです、ボス!」
「え?」
「ぼくらは成しとげたんです、全部やりました。エリクソンは残って、大型船に原子炉工場を据えつける仕事を完成させようとしています。ぼくは、地球と大型船、原子炉工場のあいだのシャトルに使う船で、やってきました。それに乗って、ゴダード実験場からここまで、四分です。あそこにいるのが、パイロットです」
かれはドアのほうを指さした。そこでは、グリーンのがっしりした姿がレンツを半ばおおい隠していた。
「ちょっと待った。船の中に原子炉を据えつける用意が、何もかもできたというのか?」
「そのとおりです。あの大型船がわれわれの燃料で、もう飛んだのです……軌道ステーションに達するために飛ばなければいけない距離よりも、長く、もっと速く。ぼくは、その中にいました……宇宙へです、ボス! ぼくらは、用意ができたんです。何もかもです」
キングは、計器盤のいちばん上におかれている、ガラスに覆われた停止スイッチを見つめた。かれは、そこにいるのが自分ひとりだけで、ひとりごとでもつぶやくように、話した。
「燃料は充分にある……何週間分もの燃料がたっぷりあったんだ」
かれはそのスイッチのところへさっさと歩くと、拳でガラスをわり、それを引いた。
部屋は低い音とともに震動した。何トンもの融けた、金より重い、大量の金属が、いくつもの通路を流れてゆき、バッフルにぶつかり、何十何百もの流れになって、突進してゆき、鉛の容器の中へ落ちつくのだ──遠い宇宙で組み立て直されるまで、安全に、無害に、たゆたうのだ。
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月を売った男
「きみだって、信じなきゃいけないんだぞ!」
ジョージ・ストロングは、共同経営者のきっぱりした口ぶりに、ふんと鼻を鳴らした。
「ディロス、なぜ、あきらめないんだ? 同じことばかりくりかえして、もう何年にもなるぞ。それは、いずれはだれかが月に行けるかもしれない。わたしは疑問だと思うがね。いずれにしても、きみもわたしも、それを見るまでは生きてはいないよ。エネルギー衛星を失って、その問題はわれわれの世代にはできない相談になってしまったんだ」
D・D・ハリマンはまだぶつぶついう。「こうやってぬくぬくとおさまりかえって、そういう日のくるような努力を何もしなければ、その日を迎えることはできないさ。しかし、できるようにさせられるんだ」
「第一の質問は、どうやって? 第二は、なぜそんなことをするかということだ」
「なぜだって? なぜなんて質問をするのか? ジョージ、きみの魂には、手形割引と株の配当以外には何もないのか? きみは気持のいい夏の宵、女の子とならんですわって月を見あげ、あそこには何があるだろうなどと考えたことはないのか?」
「あるよ、一度だけな。おかげで風邪をひいた」
ハリマンは全能の神に向かって、なぜこんな男はペリシテ人《びと》の手にくれてやってしまわなかったのかと訴える。やがてまたジョージに向きなおった。「なぜそんな努力をするか、話してやることはできるよ。本当の理由をね。だが、きみには理解できないだろう。きみが知りたいのは、現金《げんなま》という形での理由だ。そうだろ? ハリマン・ストロング&ハリマン産業がどうやって利益をあげられるかということを知りたいんだ。そうだろ?」
「そのとおり」ストロングも認めた。「それに観光事業だとかお伽《とぎ》話みたいな月の宝石のばか話はやめてくれよ。耳にたこができてる」
「全然新しいタイプの企業を数字を出して説明しろというんだからな。そんなこと、できないのは承知のくせに。まるでライト兄弟が、いつか飛行機を作れるようになったら、カーチス・ライト社がしかじかの大金をもうけると見積りして、キティ・ホークに出資を求めるようなもんだぜ。ほかにもいいようがある。プラスチック住宅の仕事に手を出すときも、きみはいやがっていた。そうだろ? もしきみがきみのやり方でやってたら、われわれはまだカンサス・シティで、牛の牧草地をこまかく仕切って、地代の一覧表でも作っていることになったろう」
ストロングは肩をすくめた。
「新世界住宅≠ナは、いままでどのくらいもうかった?」
ストロングは彼が共同経営者になり上がれた才能をふるう間、ぼんやりした顔になる。「そうだなあ……一七二、九四六、〇〇四・六二ドル。前年度末の税別利益だ。その後の業績見積りは──」
「いいよ。そのうちこっちの取り分は?」
「そうだなあ、先にきみがひとりでもっていてあとからわたしに売った株の分を除いて、ふたりが共同で取る分は、新世界住宅からその期間に所得税別にして、一三、〇一〇、四三七・二〇ドルだ。ディロス、この二重課税というやつをやめさせなければいかんな。この微罰的な酷税で、わが国の産業は確実に──」
「そんなことはどうでもいい。スカイブラスト運送とエンティポディーズ運輸のあがりはどのくらいになってる?」
ストロングは金額をいった。
「そんなにもうかってるのに、きみは力ずくで脅しをかけなければ、このインジェクターの特許を買おうというわたしの企画に、十セント玉一枚出さんというんだからね。ロケットは時代おくれだときみはいっていた」
「これまで運がよかっただけだ」ストロングが抗議する。「きみだって、オーストラリアで大きなウラニウム鉱山が出るとは、思いもよらなかったはずだ。あれがなければ、航空路線グループは赤字だったろうね。そういえば、新世界住宅社だって、道路都市が伸びて建築規準法にしばられないところに販路がひらけるような事実がなかったら、やっぱり失敗におわってたろうな」
「いまの議論は、両方とも話にならんよ。早い輸送は採算がとれる──これはいつだっていえることだ。それに、新世界住宅社だって、新しい住宅を求めている所帯が一千万あり、安く売ってやれれば彼らは買うさ。建築規準法なんかにじゃまされるものか。いつまでもそんなものに押えられてはいないよ。われわれは確実性に賭けたんだ。考えてみろよ、ジョージ、われわれの冒険で、損をしたのが何で、もうかったのが何だ? わたしの無謀な考えというのが、ひとつ残らず金になってるじゃないか。そうだろ? それに資本《もと》をすっちまったのは、保守的ないわゆる優良投資というやつに注ぎこんだときだけだ」
「しかし、保守的な取引きでももうかってるものもあるよ」ストロングも抗弁する。
「そんなもの、きみのヨット代にも足らないさ。しかし、公平にいって、ねえジョージ、アンデス開発社も積分縮写器の特許も、みんなわたしのむちゃな計画できみを引きずりこんだんだが──みんな黒字だよ」
「黒字にするために、わたしだって血の汗を流してがんばったんだ」ストロングは不平そうにいった。
「だからおたがいに手を握っているんじゃないか。わたしが山猫のしっぽをつかまえ、きみがそいつに繩をかけて動かせる。こんどはわれわれは月に手を出すんだ──きみはその事業でも黒字にしてくれるよ」
「われわれなんていわないでくれ。わたしは月になんか手は出さんよ」
「じゃ、わたしがやる」
「ばかばかしい! ねえディロス、きみの勘による投機でわれわれが金持になったことは認めるとしても、いつまでも山ばかりはっていると、きみだってすってんてんになっちまうというのが、厳とした事実だよ。あまり井戸に通いすぎる水差しは、しまいにはこわれてしまうという古い諺《ことわざ》があるよ」
「勝手にしろ、ジョージ、わたしは月に行くよ! きみが協力しないなら、きみとの関係も清算しよう。わたしはひとりでやる」
ストロングはデスクの上を指先でトントンやっていた。「おいおいディロス、何もきみに協力しないとはだれもいってないぞ」
「魚を釣りあげるか餌をとられるかだ。いまがチャンスなんだし、わたしの腹はきまっている。わたしは月の男になるんだ」
「とにかく……そろそろ出かけよう。会議におくれるよ」
ふたりの共同の事務室を出るとき、いつもこまかいことにもきちょうめんなストロングは、丹念に部屋のあかりを消した。ハリマンはそうするところを、これまでに千回も見てきているが、きょうは口を出す。「ジョージ、部屋を出たら自動的にあかりが消えるスイッチというのはどうだろう?」
「ふーむ──しかし、もしだれかが部屋に残っていたら?」
「そうか……じゃあ妥協して、だれかが部屋にいる間だけついてるようにしたら──人体の副射熱でスイッチがつくような仕かけでもいいな」
「金がかかりすぎるし、複雑すぎるよ」
「そんな必要はないさ。このアイディアをファーガソンにやって、ちょっとつつかせてみよう。現在のスイッチより大きくなく、一年間に節約できる電気料でまかなえるくらいの安いものにしなきゃいけないな」
「どういう機構で動くものにする?」ストロングがたずねた。
「そこまでは、わたしにわかるはずがないだろ? こっちは技術屋じゃないんだから。そういう仕事はファーガソンや技術屋の教育を受けたほかの若い連中の仕事さ」
ストロングは反対した。「商売としてはよくはないな。部屋を出るときあかりを消すというのは気質の問題だよ。わたしにはそういう気質があるが、きみにはない。そういう気質のない人間に、そんなスイッチに興味をもたせることはできないな」
「電力の割り当て制がこのままつづくとすれば、関心をもたせることはできるよ。現にいまも電力不足なんだ。もっと大きな不足が生じてくるだろう」
「ほんの一時的にね。きょうの会議で、そこんとこがはっきりするよ」
「ジョージ、この世には一時的な緊急事態というやつほど恒久的にあるものはないんだぜ。このスイッチは売れるよ」
ストロングは手帳と尖筆を出した。「あす、そのことでファーガソンを呼ぼう」
ハリマンはそんなことはそれっきり忘れてしまって、二度と考えようとはしない。ふたりは屋上に出た。ハリマンはタクシーを呼んでから、ストロングにふりかえる。「道路都市とベルト運輸社と、そう、新世界住宅社もいれて、われわれの持株を手放したらいくらぐらい金が集まる?」
「なんだって? 気でも狂ったのか?」
「たぶんね。しかし、わたしのためにきみが作ってくれられる現金が、金部必要になってくるんだ。道路都市とベルト運輸はもうだめだよ。もっと早く手放してしまえばよかったんだ」
「本当に気がふれちまったんだな! きみの出資している本当に地道な企業といえば、それだけなんだぞ」
「しかし、わたしが出資したときは、あれは地道な投資とはいえなかったよ。本当だよジョージ、道路都市はもう下り坂だ。ちょうど昔の鉄道がそうだったみたいに、もう死にかけているよ。百年とたたないうちに、このアメリカ大陸に道路都市はひとつもなくなってしまうだろう。ジョージ、金を作る定石《じょうせき》はなんだ?」
「安く買って高く売るさ」
「それは定石の半分にすぎない……きみのうけもつほうだ。われわれは情勢の移り変わりを推理し、そのあと押しをして、自分たちが新しい事業の要所を占めるようにしなければならないんだ。つまらんものは清算しちまえよ、ジョージ、わたしは次の仕事に金がいるんだ」タクシーが屋上におりてきて、ふたりが乗りこんで飛び立つ。
タクシーはふたりを西半球エネルギー・ビルの屋上に運んだ。ふたりは、地面からいま着陸した屋上までの長さよりも深い地下にあるエネルギー・シンジケートの会議室までおりていった。当時は長年平和がつづいていたにもかかわらず、おえら方はあいかわらず比較的原爆に強い場所に落ちついているのだった。部屋は地下退遊壕とは見えなかった。会議テーブルの議長側にある見晴らし窓≠ェ、屋上から中継のステレオ式映像で市を高いところから見おろしているように思わせるので、豪奢な屋上住宅の一室にいるみたいだった。
ほかの重役たちはすでに集まっていた。ふたりがはいって行くと、ディクソンが会釈してちらっと指輪時計をのぞいていった。「さて諸君、われらが悪童もやっと現われたことだから、はじめてもいいでしょう」議長席につくと、テーブルをたたいて静粛を求める。
「この前の会議の詳細は、例のとおり諸君の前のメモ帳にあります。用意がよろしければ合図してください」ハリマンは目の前の一同をちらっと見まわして、すぐにテーブルの上のスイッチをいれた。彼の席の小さなグリーンの電灯が輝く。ほかの重役たちもほとんどが同じことをする。
「だれだい、進行を止めてるのは?」ハリマンがあたりを見まわしてたずねた。「なんだ、きみか、ジョージ。早くしろよ」
「この数字を調べてるんだ」ストロングは気短に答えてから、パチンと自分のスイッチをいれた。そこでディクソン議長がボタンを押すと、ひとまわり大きなグリーンのあかりがその前につく。その前にテーブルから一、二インチ上に透きとおった文字で「記録中」というのが現われた。
「運営報告」ディクソンがいって、別のスイッチに手をかける。どこからともなく女の声が聞こえてきた。ハリマンは席にある書類の二枚目を見ながら報告を聞いた。十三個のキュリー式原子炉が現在操業中で、この前の会議のときより五個ふえている。サスケハンナとチャールストンの原子炉は、それまでアトランティック道路都市から借りていた動力のあとを引きつぎ、アトラブティックの道路の速度もいまでは正常にもどっている。シカゴ=アンジェルズ道路も、今後二週間以内に速度をとりもどす予定。エネルギーの割り当て制はまだつづくだろうが、危機は乗りこえた。
いずれもたいへん興味のもてる報告ではあったが、ハリマンにとって直接関心のあることではなかった。エネルギー衛星が破裂してしまって生じたエネルギー危機が、満足のいくようなおさまりを示した──たいへんけっこう。だが、この事実に対してハリマンの抱いている関心は、実はそのおかげで惑星間飛行の開発に回復不可能かもしれない頓挫をきたしたことだった。
三年前にハーパー=エリクソン式アイントープ人工燃料が開発されて、おまけに、手のつけようもないほど危険ではあるが全大陸の経済生活に絶対必要だというこのエネルギー源の矛盾が解決され、惑星間飛行を可能にする容易な手段が発見されたのだった。
アリゾナにあった原子炉が、地球の裏まで飛べるようなエンティポディーズ・ロケットの最大なもののひとつにそっくり積みこまれて、ロケットは自身の積んだ原子炉の作るアイントープ燃料により発射され、そっくりそのまま地球をめぐる軌道に乗ったのだった。もっとずっと小さいロケットが、このエネルギー衛星と地球の間をたえず往復し、原子炉に必要な資材を運んでは、エネルギーに餓えた地球上の工業技術に必要な人工放射能燃料をもち帰ったのだった。
エネルギー・シンジケートの重役としてエネルギー衛星を支持したハリマンには、ひそかな魂胆《こんたん》があった。彼は月ロケットの燃料がエネルギー衛星によって作ってもらえると思って、すぐにも最初の月への旅行ができるようになると考えたのだった。彼は居眠りしている国防省の目をさますようなまねすらしなかった。政府の補助なんかほしくない、かんたんな仕事だと思ったのだ。だれにでもできることだから、このハリマンがやるんだと。彼には月ロケットはできていた。すぐに燃料は手にはいるはずだった。
月へのロケット宇宙船は、彼自身のエンティポディーズ航路のロケットを一台、合成燃料機関を改造して翼をとって用意してあった。いまちそのロケットは、燃料さえあれば飛び出せるように待っている──サンタ・マリア号≠ニ命名されてブリスベーン市の近郊に。
しかし、燃料がなかなか手にはいらなくなってきた。燃料は衛星との往復に使うロケットに優先されていたし、次には割り当て制で制限されるようになる──エネルギーの需要がエネルギー衛星の作る燃料では追いつかないくらいの早さで増大していったのだ。無益な′似キ行などに供給するゆとりはないというのだった。シンジケートは、ふえるいっぽうのエネルギー需要をおぎなうため、もっとエネルギー衛星を作って上げるかわりに、より安全だが能率の悪い、低位のウラニウム塩と重水を使った、ウラニウムを直接燃料とするキュリー型原子炉にとびついたのだりた。
不幸なことにキュリー型原子炉では、人工衛星に打ち上げて作った原子炉のように、原子力ロケットに必要なアイントープ燃料を作れるほどのはげしい力はない。ハリマンはしぶしぶ、サンタ・マリア号に必要な燃料に優先権を得るため、政治的な圧力を使わなければならないと考えるようになってきたのだった。
その矢先に、エネルギー衛星が破裂してしまったのだった。
ハリマンは、ディクソンの声で、ぼんやりした考えごとから呼びさまされた。「運営報告では、万事うまくいってるらしい。諸君、異議がなければ報告は承認されたことにしますが。あと九十日で、エネルギー生産量は、われわれがやむをえずアリゾナ原子炉を閉鎖した前の状態にたちもどれることがわかるでしょうな」
「しかし、将来の需要に見合う準備がない」ハリマンがいった。「われわれがこうやっておさまりかえっている間にも、新しい需要がどんどん生まれてきているんだ」
「D・D、それはこの報告を承認することに対する異議かね?」
「いや」
「よろしい。ではPR報告に移ろう──諸君、この第一項に注意していただきたい。担当副社長より、エネルギー衛星の職員ならびにシャロン号のロケット操縦士──補遺cを見ていただきたいが──これらの遺族に対して年金、社会保障給付、奨学金その他の計画が出ている」
ハリマンの向かい側の重役、食料トラストクィズィーン社≠フ会長フィニアス・モーガンが異議を申したてた。「エド、これはどういうことだ? もちろん、この連中が人工衛星の爆発で死んだのは気の毒だが、連中にはばか高い給料を払って、生命保険もいっぱいに掛けていたんだ。なぜそれ以上に慈善じみたまねをするんだ?」
ハリマンが口を出す。「払ってやれよ──わたしは賛成だな。はした金じゃないか。穀物を運ぶ牛の口をしばるようなまねはするなというじゃないか」
「わたしにとっては、九十万ドル以上の金ははした金とはいえんね」モーガンもやりかえす。
「ちょっと諸君──」口を出したのは、やはりこの重役会議の一員のPR担当副社長だった。「モーガンさん、明細を見てもらえば、充当金の八十五パーセントは贈る金の宣伝に使うということがわかるんですがね」
モーガンはすかすようにして数字を見た。「ああ──そんならそうと、なぜいわないんだ? とにかく、この贈与金は必要経費として認められると思うだろうが、悪い前例を作るな」
「それがないと、宣伝材料が何もないんですよ」
「それはそうだろうが、しかし──」
ディクソンが器用にテーブルをたたいた。「ハリマン君が賛成されたが、諸君の賛否を示してください」記録盤がグリーンのあかりで輝いた。モーガンまで、ちょっとためらってから、この支出に賛成した。「次に、これと関連した項目で」ディクソンがいう。「えーと、ガーフィルド夫人という人から弁護士を通じて、四番目の子供の先天的不具は、われわれの責任だといってきてます。その子供が生まれたのがちょうどエネルギー衛星の爆発したときで、ガーフィルド夫人は当時、衛星の経線下に当たるところにいたらしいというんです。五十万ドルの補償金案を法廷に訴えている」
モーガンはハリマンの顔を見た。「ディロス、あんたは示談にしろというんだろうな」
「ばかいいなさんな。戦うよ」
ディクソンはびっくりして一同を見まわした。「なぜだ、D・D? わたしの勘では一万か一万五千で示談になるんだし──わたしはそういう意見を出そうとしてたんだ。法律顧問部から表沙汰にしちまえといわれて、わたしもびっくりしているんだ」
「理由はわかりきってる。この問題は恐ろしい爆発力をもっているが、いくら悪い宣伝材料になってもかまわないから、戦うべきだ。これが最後とは思えない。相手はガーフィルドとその餓鬼《がき》じゃないんだ。それに、生まれた赤ん坊に放射能でしるしをつけることができないことぐらい、どんなばかだって知っている。少なくとも親の代の細菌におかされた血のせいにしなければならないな。第三に、こんなことをほっといたら、これから黄味がふたつある卵が生まれるたびに、こっちが裁判に引き出されることになる。防衛のためにどうどうと予算をとって、示談なんかには一セントも出すべきでないな」
「すごく金がかかるかもしれん」ディクソンがいった。
「戦わなかったら、もっと金を食われることになる。やむをえなければ判事の買収でもすべきだ」
PR担当重役がディクソンに何かささやいてからいった。「わたしもハリマン氏の意見を支持します。わたしの部の意見としてです」
この件は賛成ということになった。「次の項目は」ディクソンはつづける。「エネルギー危機の間に電力を割《さ》いたため、道路都市の道路の速度低下による訴えがひと束出ている。商売上の損失とか時間の損失、なんだかだと、被害はいろいろいい立てていますが、みんな同じ論拠によるものです。いちばん痛いのは、道路都市会社の株主の訴えだな。このシンジケートと結びついているから、電力を道路のほうの株主の利益にならないほうに割《さ》いたという。ディロス、これはきみの仕事だ、何かいいたくはないかね?」
「ほっとけよ」
「なぜ?」
「散弾銃をぶっぱなすみたいに、当たればめっけものという訴えにすぎんのだから、このシンジケートには責任はない。道路会社が進んで電力を売ったのは、こんなことは予期していたからさ。それに、重役が腐れ縁でくっついているということもないさ。少なくとも書類の上ではない。だからこそ、ロボット重役を作ったんだ。ほっとけばいいさ──こっちを訴えてる一件について、道路会社のほうは一ダースの割で訴えられてるよ。そんなもの片づけてやるさ」
「なんでそう確信がもてるんだね?」
「そうだなあ──」ハリマンは椅子にそりかえって、片膝を椅子の腕にかけた。「ずいぶん昔のことだが、わたしは西部連合電信柱の配達をやっていた。事務所で待っている間、手当たり次第になんでも読んだものだが、電報の申込用紙の裏にある申込契約書というのも読んだ。おぼえてるかね? 昔は黄色い紙をメモ帳みたいにつづったもので、表の欄に電文を書けば、裏の細かい文字で刷ってある申込契約ができるというやつ──ただ、たいていの人にはあの契約内容はわからなかった。あの契約で、会社はどんな責任を負うのか知っているかね?」
「電報を打つんだろう」
「そんなことは約束していないんだ。会社は電文を届けるようにやってみましょうといってるだけさ。ラクダの隊商か蛇の背中か、何かそんなような、つごうさえよければ小川に流してもいいというようなやり方でね。ただ、うまく届かなかったとしても、会社は責任は負わないというんだった。あのこまかい印刷文字を、わたしは肝に銘じるまでくりかえし読んだね。あんな美しい散文にお目にかかったのははじめてだった。それ以来、わたしの作る契約書はすべて同じ方針で言葉をつづってきた。道路都市会社を訴える人間は、会社が時間の点で訴えられるなんてことはありえないのに気がつくだろう。時間は会社の仕事では必要条件になっていないんだ。完全に機能を果たさなくなって──まだそんなことは一度もないが──はじめて道路会社は経済的責任を負うが、運賃とか道路を利用する個人の買った切符の代金だけだよ。だから、ほっといていいんだ」
モーガンがいずまいをただした。「D・D、もしわたしが今夜|田舎《いなか》の家へその道路に乗って行こうとして、何かの事故であすまでにつけなかったら? 道路会社はなんの責任も負わないというのかね?」
ハリマンはにやりと笑った。「道路会社は、たとえあんたが途中で餓死したって、責任は負わない。ヘリコプターを使ったほうがいいよ」ディクソンにふりかえる。「こんな訴えははぐらかしておいて、道路都市会社にまかしておくことを提案します」
「いつもの議題はこれでおわる」ディクソンがしばらくたっていった。「われらが同僚ハリマン君に、彼自身の選んだ議題で話す時間を割り当ててある。前もって議題をリストにいれてないのだが、解散のときがくるまで話を聞きましょう」
モーガンがにがい顔でハリマンを見た。「わたしは解散を提案するな」
ハリマンがにやりと笑う。「わたしも賛成して、あんたを好奇心で死ぬほど悩ましてやりたいがね」モーガンの提案は賛成者がいないので否決。ハリマンが立ち上がった。
「議長ならびに同志諸君──」ここでモーガンを見て、「それにこの席にいられる諸君。ご承知のとおりわたしは宇宙旅行に興味をもっています」
ディクソンが鋭い目を向ける。「ディロス、むしかえしはだめだ! わたしが議長でなかったら、この会議は解散するように自分から提案するところだぞ」
「むしかえしにちがいない」ハリマンも認めた。「いくらでもむしかえすさ。聞くだけ聞いてもらいたい。三年前、われわれが先を争ってアリゾナ原子炉を宇宙に衛星として上げてしまおうと動議したとき、衛星間旅行という形でおまけがつきそうだった。ここにいる諸君のなかでも、実験、探検および開発のために、宇宙航路会社の結成に加わった人もいる。
「宇宙は征服された。ロケットが地球のまわりに軌道を抜けるようになれば、これを月に向けることもできた。さらに月からどこへでも行かれる! あとはただ、実行に踏み切るだけだった。残された問題は財政面と、それに政治的な問題だけだった。
「実際、宇宙旅行の本当の技術的問題は、第二次大戦以後には解決されていた。宇宙制覇は長いこと金と政治だけの問題だったんだ。ところが、ハーパー=エリクソン方式によって、地球一周ロケットと文字どおり経済的なロケット燃料の生産というおまけができ、とうとう宇宙旅行も目前の現実問題になってきたのだった。まったく、エネルギー衛星でできるアイソトープ燃料の初期の割り当てを産業動力にまわすのに、わたし自身が異議もとなえなかったくらいだった」
彼は一同を見まわした。「あのとき、だまっていたのがいけなかった。大声でわめきたて、圧力をかけ、諸君がわたしを追っぱらうために燃料を割り当ててしまうくらい、わたし自身が強引なやっかいものになればよかったのだろう。いまでは、われわれは最大のチャンスをのがしてしまったわけだからね。エネルギー衛星は破裂してしまったし、われわれは一九五〇年のころに逆もどりしてしまったんだ。だからこそ──」
またひと息ついていう。「だからこそ──宇宙船を作って月に飛ばそうと提案するんだ」
ディクソンが沈黙を破った。「ディロス、きみは頭がおかしくなったのか? そんなことはもうできなくなったといったばかりだぞ。それをいまになって、また建造するという」
「不可能だとはいわなかった。最大のチャンスをのがしたといっただけだ。宇宙旅行の機は熟しすぎている。この地球は、日に日に混みあってくる。技術の進歩はあっても、この地球での日々の食料摂取量は三十年前なみに低下している──しかも、いまも毎分四十六人の赤ん坊が生まれているんだ。日に六万五千人、年に二千五百万人だ。わが人類はいまやこの地球からあふれてほかの星に行こうとしている。われわれが先に立ってやれば、神はわれわれに美味を思うままにあたえたもうだろう!
「そう、たしかにわれわれは最大のチャンスはのがした──だが、技術的にこまかい点は解決できる。本当の問題は、だれが金を出すかということだ。だからこそわたしは、諸君に相談するんだ。現にこの部屋は、この地球の経済的な首府のようなものだからね」
モーガンが腰を上げた。「議長、シンジケートの用件がすっかりすんだんだったら、わたしは失礼したいんだが」
ディクソンがうなずき、ハリマンはいった。「さよなら、フィニアス。別に引き止めはしないよ。ところで、いまいったとおり、問題は金であり、こここそ金のあるところだ。月への旅行に出資を提案する」
この提案は別に特別な興奮もまき起こさなかった。この席の人間はハリマンを知っていたからだ。やがてディクソンがいう。「D・Dの提案に賛成の人は?」
「ちょっと、議長──」両大陸娯楽会社の社長ジャック・エンテンザが口を開いた。「ディロスに聞きたいことがある」ハリマンに向きなおっていう。「D・D、あんたが宇宙飛行の会社を作ったとき、わたしも協力したのをおぼえてるだろう。安い冒険だったし、教育や科学という面での値打がでるかもしれんと思ったからだ──わたし自身は惑星間定期航路なんて夢はもたなかった。絵|空事《そらごと》だからな。ただ、ある程度ならあんたの夢につきあってもいいと思うんだが、月にどうやって行こうというんだね? あんたもいうとおり、こんどは燃料不足だからな」
ハリマンはまだにやにやしていた。「ジャック、ふざけっこなしにしようよ。あんたがなぜ協力してくれたかわかってるよ。別に科学に興味があったわけじゃないし、あんたは科学のためなんかには小銭一枚出したこともない男だ。あんたの魂胆は、月の映画とテレビを自分のチェーンで独占しようというだけだった。まあ、協力するなら独占させるよ──さもなければ、わたしはリクリエーション社≠ニ契約するさ。向こうはあんたに一杯くわせるためだけにも金を出すだろうからね」
エンテンザはうさんくさそうにいった。「それで、わたしはいくら出せばいいんだ?」
「着がえのシャツからその金歯、奥さんの結婚指輪までさ──リクリエーション≠ェもっと出すといえば別だがね」
「ちえっ、ディロス、きみは犬の後脚よりも根性曲がりの悪党だぞ」
「ジャック、きみにそういわれるのは、ほめられてるようなもんだぜ。おたがい事業をやるんだからね。ところで、どうやって月へ行くかというんだが、これは愚問だな。ここには機械のことは、ナイフとフォークの扱いより複雑になったら何もわからない人間ばかりなのに。左きき用の自在スパナと反動エンジンのちがいも説明できないくせに、宇宙船の青写真を見せろというんだ。
「とにかく、どうやって月に行くか説明しよう。まずちゃんとしたブレインになる人間たちを雇って、必要なものをすっかりあたえ、使えるだけの金を不足なくあたえて、うまく口説いて長時間労働をやらせる──あとはよけいな口出しはしないで、連中の作るものを見守るだけだ。マンハッタン計画と同じやり方でやるつもりだ──ここにいる人間は、大部分が原爆の仕事をおぼえてるだろう。そうだ、ミシシッピー計画をおぼえてるのもいるかもしれなかったな。マンハッタン計画では、責任者になってた人間はニュートロンとアンクル・ジョージの区別も知らなかったのだが、成果はおさめたよ。例の四方トリックというやつを解決したんだ。だからこそわたしも、燃料のことなんか心配しない。燃料は手にはいるさ。いろんな種類の燃料を作り出せるだろう」
ディクソンがいった。「もしうまくいったら? どうもわたしには、きみが現実的になんの価値もない探検──純粋な科学のためというのは別にして、ただ一回の興味本位の探検のためにこのシンジケートを破産させようといってるみたいに聞こえるな。別にきみに反対するわけじゃないが──わたし自身も、このりっぱな冒険に一万や一万五千はつぎこんでもいいと思うが──しかし、事業計画としては認められないな」
ハリマンは指先をついてテーブルにもたれかかり、長いテーブルを見つめていた。「一万か一万五千のはした金か──ダン、あんたには少なくとも二百万ドルは出させるつもりだった。それでも事業がおわる前に、もっと株をよこせとせっついてくるだろうがね。これはローマ法王が新大陸を分割して以来の、最大の不動産投機なんだ。いくらもうかるかなんて聞かないでくれ、対象資産を目録にするわけにいかないんだから。だが、まるまる売れるんだ。売るものは天体ひとつ──まるごとひとつの天体なんだよ、ダン、だれも手をつけたことのない対象なんだ。それに、それから先の天体もまだまだある。これだけのうまいお膳立てで、ちっとは金をつかむことを思いつかないんだったら、おたがいに生活保護でも受けて暮らすようになったほうがいいな。まるでマンハッタン島を二十四ドルとウィスキーひと箱で買わないかといわれているようなものだぜ」
ディクソンがいった。「生涯に一度のチャンスみたいな口ぶりだな」
「生涯に一度どころか! 史上空前の最大のチャンスだ。スープの雨が降ってきて、勝手にバケツで受けろというみたいなもんだ」
エンテンザのとなりの席は、トランス・アメリカほか半ダースばかりの銀行の重役をやっているギャストン・P・ジョーンズだった。この部屋にいるなかでも最大の金持のひとりで、用心深く葉巻の二インチにもなった灰を落とすと、冷ややかにいう。「ハリマン君、月に関するわたしの利益を、現在のものも将来のものも、すべてを五十セントできみに売ろう」
ハリマンはうれしそうな顔をした。「買った!」
エンテンザはそれまで下唇を引っぱりながら、考えこんだような顔で聞いていたが、いま口を開いた。「ちょっとジョーンズさん──そいつはわたしが一ドルで買おう」
「一ドル五十セント」ハリマンも応じる。
「二ドル」エンテンザがゆっくり答えた。
「五ドル!」
たがいに競《せ》りあって、十ドルでエンテンザはハリマンにゆずってすわりなおした。まだ考えこんだような顔をしている。ハリマンは楽しそうに一同を見まわした。「油断のならないこの連中のなかには、弁護士はいないかね?」こうたずねたのは、言葉のあやにすぎない。十七人の重役のうち、ふつうの割合で──つまり正確にいうと十一人が弁護士だった。「おいトニー」ハリマンはつづけた。「いますぐ証書を作ってくれ。この取引きが、たとえ最後の審判の前でもこわれないようにね。ジョーンズ氏の利益、権利、称号、天然資源による利益も将来の利益も、直接利益あるいは、現在所有または将来所有する持株によって得られた間接利益も、そのほかしかじかの月によって得られる利益全部というやつだ。ラテン語をうんと使ってしかつめらしくしてくれ。大筋は、ジョーンズ氏が現在あるいは将来手にいれるかもしれない月の利益のすべてはわたしが買って──代金の十ドルは現金で即金で払ったとね」ハリマンはビシャリと紙幣をテーブルにおいた。「いいですね、ジョーンズさん?」
ジョーンズはちらっと笑顔になった。「いいともきみ」紙幣をポケットにいれる。「これは孫のために額にいれてやろう──金をもうけるのはどんなにかんたんか教えてやるためにね」エンテンザの目が、すっとジョーンズからハリマンに飛んだ。
「いいでしょう!」ハリマンはいった。「諸君、ジョーンズ氏はいま、われわれの衛星である月の利益の個人の分に値をつけた。地球には約三十億の人間がいるから、月の値段は三百億ドルということになる」彼は札束をぽいと投げ出した。「ほかにカモはいませんかな? 売りたい人の株は全部買おう。ひと口十ドルでね」
「わたしは二十ドル払う」エンテンザがテーブルをたたいていった。
ハリマンは彼を悲しそうに見る。「ジャック──そんなまねはよせよ! きみとは同じ仲間だ。ひと口十ドルで、いっしょに買おう」
ディクソンがテーブルをたたいて静粛を求めた。「諸君、そういう売り買いは会議がおわってからにしてもらいたい。ハリマン氏の動議に賛成の人は?」
ギャストン・ジョーンズがいった。「わたしは偏見なしの立場をとらなければならんので、ハリマン君に賛成する義理ができたかな。票決でいきましょう」
だれも異議はなく、票決になった。十一対三でハリマンの負け──ハリマンとストロング、エンテンザが賛成で、あとは反対だった。ハリマンは、だれかが散会の動議を出す余裕をあたえず、さっと立って、いった。「こうなることは予期していた。本当の狙いはここだった。シンジケートはもう宇宙旅行には関心がないんだから、現在ここで握っている特許や工法、施設なんかで、宇宙旅行には必要だが地球上でのエネルギー生産には関係ないもののうち、わたしに必要になるかもしれないものを譲ってもらえないだろうか? エネルギー衛星との短かった蜜月旅行の名残りが残っている。それを使わしてもらいたいんだ。別に格式ばったことをやることはない──シンジケートの本来の利益とぶつからない方法なら、シンジケートはわたしの仕事に協力するという方針を票決してくれればいい。どうです諸君? そうすれば、わたしは二度とうるさいことをいわないから、みんなもせいせいするだろうが」
ジョーンズはまた葉巻の先を見つめた。「彼と仲よくやっていっていかんという理由はないな……それに、わたしは完全に無関係な側のひとりとしていうんだが」
「ディロス、それはできると思うな」ディクソンも同意した。「ただ、きみに何かを売りたくはない、貸すことにしよう。そうすれば、もしひょっとしてきみが大当たりをすれば、シンジケートはやはり利益を得る。だれか異議はありますかな?」部屋全体に向かって彼はいった。
だれも異議はなかった。この件がシンジケートの方針として記録に残り、会議は散会。ハリマンは残って、エンテンザとひそひそやって、とうとうあとで会う約束をした。ギャストン・ジョーンズは戸口のそばに立って、ディクソン議長と内証話。彼はハリマンの共同経営者のストロングを呼んだ。「ジョージ、ひとつ個人的な質問をしていいかね?」
「返事をすると保証はできませんがね。どうぞ」
「あんたのことは、いつも分別のある人だと感心しているんだが──どうしていつもハリマンとくっついてるのか、わけを聞きたいな。なぜだね? あの男はまったく気違いみたいに狂ってるのに」
ストロングは照れくさそうな顔をした。「彼の友だちだから……そうじゃないというべきだろうが、やはりいえないんですよ。しかし、そんなことはともかく、ディロスのむちゃな思いつきは、いつも本物になるんですよ。いっしょにくっついていたくはないし、いつもはらはらさせられるんだが、ほかの人間のまともな署名入り経理報告書より、彼の勘のほうが信用できると思うようになっちまったので」
ジョーンズはピクリと片方の眉を上げた。「すべてを黄金にする指をもった、ギリシアのミダス王みたいにかな?」
「そうもいえますかな」
「しかし、ミダス王が最後にどうなったか思いだすんだな──長い目で見るんだね。では、諸君さよなら」
ハリマンはエンテンザと別れてきた。ストロングがいっしょになる。ディクソンはいやに分別くさい顔をして、ふたりをじっと見つめていた。
ハリマンの家は、できる人はみんな疎開して地下にもぐった時代に建てられたものだった。地表に出ているのは、申し分ないケープ・コッドの別荘だし──装甲壁は板羽目でかくしてある──世にも楽しくうまい地の利をしめた景色のところを占領している。地下は地上の部分の四、五倍の建坪で、直撃弾でもうけなければびくともしないし、外界と随絶しても千時間はもつだけの空気補給装置がついていた。狂気の時代に敷地を囲うありきたりの塀を、外見は同じようなものだが、戦車でももってこなければ破れないような塀に変えてあったし、門もその場合弱点にはならないようになっていた。門の機構はよく仕こまれた犬のように主人に忠実にできている。
この家は城砦のような性格にもかかわらず、住み心地はよかった。それに、維持に恐ろしく金がかかった。
ハリマンはこの経費のことは気にしなかった。シャーロッテはこの家が気にいって、おかげですることがあって退屈しない。ふたりが結婚した最初のころは、八百屋の上のせま苦しいアパートで、彼女は愚痴もいわずに暮らしたのだった。いまそのシャーロッテが、城のような屋敷でままごと遊びを楽しんでいるとしても、ハリマンには気にならない。
しかしいま、彼はまた危ない綱渡りのような冒険をはじめたのだった。家計費に当たる数千ドルという金でも、なり行きによっては、成功と保安官の執行吏に監視される身になるかのわかれ目になるかもしれない。その晩の夕食で、召使たちがコーヒーとワインを運んでから、彼は話を切りだした。
「なあ、前から考えていたんだが、フロリダへ四、五カ月行ったらどうだね?」
妻は目を丸くして彼を見た。「フロリダ? ディロス、どうかしてるんじゃないの? このシーズンにフロリダなんて、辛抱できませんよ」
「じゃあ、スイスだ。どこでも好きなところを選ぶさ。本当の保養に行くんだよ、いくらでもすきなだけね」
「ディロス、何かたくらんでるわね!」
ハリマンはため息をついた。「何かたくらんでいる」というのは、アメリカの男性がひと言で起訴され、裁かれ、有罪とされ、判決を下されてしまうような、口に出せない許すべからざる犯罪を意味しているのだった。人類の半分を占める男性が、きびしい先生の前の鼻たれ小僧みたいに、いつも女性の規則、女性の論理にあわせて行動しなければならないほど、がんじがらめに馬具をつけられてしまったのはどうしてだろうと、彼にはふしぎだった。
「ある意味ではそうかもしれん。おたがいにこの家は、ちょっともてあましものだということには同感なはずだ。この家をたたんで、土地も売ってしまってもいいと思ってるんだ──買ったときより値が出ているよ。それに、考えてみたら、もうこれほど防空壕くさくないもっと近代的な家を建ててもいいと思うんだ」
ミセス・ハリマンは、一時的にだがはぐらかされた。「そうね、わたしもほかに家を建てたらいいだろうとは思ってましたわ。ディロス──山奥に引っこんだ小さな山小屋なんかどうかしら──そう大げさでなく、召使も二、三人程度ですむ山小屋よ。でも、そっちができるまで、ここを引きはらうのはいやだわ──とにかく、どこか住むところは必要なんだから」
「いますぐ建てようと思ってるわけじゃないぞ」彼は用心して答えた。
「なぜ? ディロス、わたしたち、もう若くはないのよ。もし人生のいいところを楽しもうというんなら、ぐずぐずしないほうがいいわ。あなたには心配かけない、わたしが万事やってみせるわ」
ハリマンは、彼女を忙しくさせておくために家を建てさせることもいいのではないかと考えなおす。もし彼女に「小さな山小屋」のための現金を割り当ててやっておけば、彼女はそれを建てるときめた土地のそばでホテル暮らしをして──しかも彼は、いまおさまっているこの怪物のような屋敷を売りはらうことができる。ここも近くの道路都市から十マイル足らずになってしまったし、土地もシャーロッテの新しい家にかかるよりも高く売れるだろうし、月々|財《さい》布《ふ》からどんどん大口に出ていくものも食い止めることができるだろう。
「いいかもしれんな」彼は同意した。「しかし、もしすぐに建てるとしたら、きみもここに住みたくはないだろうし、新しい家のこまかいところまで監督しなければなるまい。ここは売りはらうべきだな。税金や維持費や毎月の経費で金を食ってかなわん」
彼女は首をふった。「ディロス、それは全然問題外だわ。ここはやっぱりわたしのうちよ」
彼はほとんど吹かしていない葉巻をもみ消した。「気の毒だがシャーロッテ、両方というわけにはいかないよ。新しくうちを建てたら、ここには住めない。もしここに住むんなら、あの地下の迷路みたいなところは閉めきってしまい、どこへ行ってもでくわす一ダースもの寄生虫どもを首にして、地表の小屋だけで暮らすんだ。経費を切りつめるんだ」
「召使を首にする? ディロス、ちゃんと人手をそろえずに、わたしがあなたのための家庭をちゃんと作るのを引きうけると思って? ちょっと考えて──」
「よしてくれ」彼は立ち上がってナプキンを投げすてた。「家庭をちゃんとするのに、召使の一分隊もいるもんか。結婚したころは召使なんかいなかったぞ──きみはいやな顔ひとつしないで、シャツの洗濯やアイロンかけをやっていた。だけど、あのころだってちゃんと家庭になっていた。ここじゃまるで、きみのいうあの召使どものうちみたいじゃないか。とにかく、あいつらは追っぱらう。料理人と使い走りの男をひとり残して全部だ」
彼女は夫の言葉は耳にはいらないみたいだった。「ディロス、腰をおろして、あなたらしくちゃんとしなさい。ところで、家計費を切りつめるって話は、これはいったいどういうこと? 何か困ったことにでもなったの? そうでしょ? 返事をして!」
彼は力なく腰をおろして答えた。「むだな経費を切りつめるのは、何か困ったことがなければできないことなのかね?」
「あなたの場合はそうだわ。さあ、どうしたの? はぐらかそうなんてしないで」
「いいかいシャーロッテ、われわれはずっと前に、仕事のことは事務所だけで、家庭にはもちこまないと約束したね。この家のことだが、われわれにはこんな大きな屋敷は必要ないってだけのことさ。まるでこのうちに子供がいっぱいいるみたいで──」
「まあ! またそのことでわたしを責める!」
「まあ聞くんだ、シャーロッテ」彼はまたうんざりしたように口をひらく。「わたしはきみを責めたことはないし、いまだってきみを責めてるんじゃない。いっしょに医者に診てもらって、どこが悪くて子供ができないのか調べてもらおうといっただけだぞ。しかも、この二十年間、きみはわたしのそのひと言のつぐないをさせつづけてきている。しかし、それももうすんだことで、いまさらどうということはない。わたしはただ、ふたりで二十二室は使いきれないといってるだけなんだ。新しい家に、きみが望むならかなり金をかけてもいいし、家計費もたっぷりやるよ」いくらと額をいいかけたが、いわないことにした。「それとも、ここを締めきって地上の小屋だけで暮らしてもいい。わたしはただ、むだに金をばらまくのはやめようとしてるだけだ──当分の間だがね」
彼女はこの最後の言葉に食いついた。「当分の間? ディロス、何があるの? 何にそのむだなお金を注ぎこもうというの?」夫が返事をしないと、彼女はつづけた。「いいわ、あなたが話してくれないなら、ジョージに電話するから。あの人が話してくれるわ」
「いかん、シャーロッテ。いっておくが、そんなことをしたら──」
「どうするのよ!」彼女はじっと夫の顔を見た。「ジョージに聞く必要はないわよ。あなたの顔を見ればわかるわ。前に、あの気違いじみたロケットにうちの全財産を注ぎこんだと、うちに帰っで話してくれたときと同じ顔よ」
「シャーロッテ、そのいい方はひどいな。スカイウェイズ社は黒字になったんだよ。あれで大金もうけができたんだ」
「それは問題が別ですわ。あなたがどうしてそんなおかしなそぶりをしてるかわかってるわ。また昔からの月旅行熱にとりつかれたのよ。とにかく、わたしは反対よ、聞こえて? 止めてみせるわ。わたしがそんなのに辛抱する必要はないわ。朝になったらすぐケーメンズさんに会いにいって、あなたを正気にもどすのにどうすればいいか聞いてくるわ」彼女の首の筋が口をきくたびにピクピク動いた。
ハリマンは待った。口を開く前に癇癪を押える。「シャーロッテ、きみが何も苦情をいうようなことはないんだよ。わたしがどういうことになろうと、きみの将来のことは考えてあるんだから」
「わたしが未亡人になりたがってると思うの?」
分別くさく妻を見て、彼はいった。「そいつはどうかな」
「まあっ──なんという冷酷な──けだもの」彼女は立ち上がった。「もうその話はおことわりよ。いいわね?」返事も待たずに彼女は部屋から出ていった。
彼が自室に行くと、彼付きの従僕≠ェ待っていた。ジェンキンズはあわてて立ち上がって、ハリマンの風呂を汲みにかかる。「出ていけ」ハリマンはどなった。「服ぐらい自分で脱げるぞ」
「今夜はもうご用はございませんか?」
「何もない。だが、出て行きたくなかったらいてもいいんだぞ。すわって一杯やれ。エド、おまえは所帯をもってどのくらいになる?」
「それでは遠慮なしに」召使は勝手に酒を注ぐ。「この五月で二十三年になります」
「こんなことを聞いてなんだが、どんなぐあいだ?」
「悪くはありませんね。もちろんたまには──」
「わかるよ。エド、おまえはわたしのところへこなかったら、何をしてた?」
「さいですなあ。女房とよく話しあったんですが、小さな料理屋を開こうなんて──別に見栄張った店ではないが、いい店を作ろうというんでした。ちゃんとした紳士が、静かにうまい料理を味わえる店ですね」
「殿方専門というやつか?」
「いえ、そういうわけでもないんで──しかし、殿方専門の店もあってもいいですね。ウェイトレスもおかずに、給仕もあたしが自分でやるんです」
「エド、場所をさがしといたほうがいいな。本当にその商売をはじめることになるぞ」
ストロングは翌朝、いつものとおり九時きっかりにハリマンと共用の部屋にはいった。ハリマンがすでにいるのでびっくりする。ハリマンが遅刻してくるのは当たり前のことで、彼が下級事務員を出しぬいて現われるというのは意味深長だったからだ。
ハリマンは地球儀と本で──最新の航海暦だったが──せっせと何か調べているのがストロングにもわかった。ハリマンはろくに顔も上げずにいう。「おはよう、ジョージ。なあ、ブラジルにはわれわれはどんな伝手《つて》があったっけ?」
「なぜ?」
「ポルトガル語のしゃべれる腕のある弁護士が何人か要る。理由はそれだけさ。それに、スベイン語のできるのもほしいな。この国にも、あっちこっちに三ダースや四ダースの弁護士が必要なことはいうまでもないがね。おそろしくおもしろいことに気がついたんだ。見てくれ……月の動きのこの表によると、月の軌道のぶれは二十八度ぐらい、つまり赤道を中心に南北に二十光度たらずの間だけなんだ」鉛筆をとると地球儀に当てて、ぐるりと地球儀をまわす。「こうなんだ。これで何かわからないか?」
「別に。六十ドルもする地球儀にきみが鉛筆でしるしをつけてるってだけだな」
「昔は不動産屋だったきみがねえ! 土地を一区画買ったら、その人間が所有するものはなんだ?」
「そいつは契約によるな。たいていの場合は、地下の資源採掘権と地表の諸権利に──」
「まあいい。もし権利を保留したりしないで採掘権をすっかり買ったら、どこまでがその男のものだ? どこまで所有できる?」
「そうだなあ、地球の中心までくさび型に深く所有することになる。石油採掘権の貸借問題から、斜めに掘ったドリルや分枝ドリルなんかの問題はきまっている。理屈からいえば、土地の上の空間もやはり無限に所有しているわけだが、商業航空路ができるようになっていろいろと裁判があって、修正されたんだ。われわれにとっても、これはけっこうなことで、さもなければオーストラリアにロケットを飛ばすたびに、通行料を払わされることになってたろうね」
「ちがう、ちがってるよジョージ、きみはあの判例をちゃんと読んでいないんだ。空の通行権は認められたが、地主のその上の空間に対する所有権は変わらない。それに、通行権だって絶対なものじゃなかった。飛行機にしろロケットにしろ何にしろ、そいつがいつも通過している自分の土地の上空に、千フィートの塔を建てることもできるんだ。向こうはなんの反撃も加えることができずに、それからはその上を飛びこえなければならなくなる。ヒューズ飛行場で、アプローチに高い建物を建てさせないために、上空の権利を借りなければならなかったのをおぼえているだろう?」
ストロングは分別くさい顔になった。「おぼえてる。きみのいうことはわかる。昔からの土地所有権の原理は、そのままだな──地球の中心まで、上は無限にだ。しかし、それがどうなんだ? 純粋に法律上の技術的な問題だよ。まさか、きみがいつもいってる例の宇宙船を飛ばすのに、通行料を払おうなんて考えてるわけじゃあるまい?」自分の機知にしぶしぶ笑顔を見せる。
「きみの考えの枠《わく》のなかで考えてることとはちがうんだ。全然ちがう話だよ。ジョージ──月はだれのものだ?」
ストロングは文字どおり口をあんぐりあけた。「ディロス、それは冗談だろう」
「ちがう。もう一度聞こう。もし畑の持主が上空の空をくさび型に無限に所有していると根本的な法律がきわめているなら、月はだれのものだ? ちょっとこの地球儀を見て答えてくれ」
ストロングは地球儀を見た。「しかしディロス、そいつは意味のないことだぜ。地球の法律は月には適用されない」
「だが、この地球で適用されているし、わたしが考えてるのはそこなんだ。月はいつも北緯二十九度線と南緯でも同じ線をさかいとした、まんなかの地球の一部の上空にあるんだ。もしだれかが、地球のその帯状の地帯──大ざっぱにいって熱帯だが──そっくり所有してしまえば、その男は月をも所有することになる。そうだろ? われわれの裁判所が敬意を払っている不動産所有権についてのあらゆる理論によってだ。しかも弁護士好みの論理からいうと、その帯状地帯の土地の所有者は、それぞれ月に対する不動の所有権をもつことになる。全部の人間がまとまってということだがね。この権利の分割がちょっとはっきりしないという事実も、弁護士は別に気にもしないだろう。連中は遺言状によく出る、そういうような所有権分配で、ふところを肥しているんだから」
「夢みたいな話だ!」
「ジョージ、夢みたいな話なんていう言葉は、弁護士は口にしようともしないということを、きみはいつになったら悟るんだ?」
「まさかその熱帯地方をすっかり買おうというんじゃあるまいな──どうしてもそうしなきゃならんなどといって」
「いや」ハリマンがゆっくりいった。「しかし、その権利を買うというのは悪い考えではないかもしれない。月の権利と利益を、その地帯を支配している各国から買うということにするんだ。こっそり値段を吊り上げさせずにやれそうなら、やってもいいがね。だれだってなんの値打もない、相手が分別をとりもどす前に売りつけてしまいたいと思うようなものなら、ばかに安く買うこともできる。
「しかし、計画はそうではないんだ」ハリマンは言葉をつづける。「ジョージ、わたしはそういう国にひとつずつ会社を作りたいんだ。それぞれの地元の会社だよ。各国の議会に、その地元の会社に月の探検開発その他の特権を認めさせ、国家のために月の領土権をあたえる──もちろん無条件で、こんなことを考えた愛国団体に銀の盆にのせてさあどうぞというぐあいにね。それに、これはすっかり内証に工作したいんだ。袖の下の相場が上がらないようにね。もちろん、われわれがその会社は乗っとってしまうのだが、だから、腕のいい弁護士が大勢必要なんだ。月の持主をめぐって、いずれははげしい争いになるだろうが、こっちはどうころんでも絶対負けないように手を打っておきたい」
「ディロス、そいつはばからしいくらい金がかかるぞ。それに、月に行けるかどうかもまだわからないし、よしんば月に行っても、何か値打があるかどうかはなおのことわかっていないんだぜ」
「月には行くんだ! この権利をちゃんと確保しておかないと、もっと金がかかることになるだろう。とにかくそう金をかける必要はない。袖の下というのは、うまく使えば同種療法みたいなもので──触媒に使うだけさ。前世紀のなかばごろの話だが、四人の男がカリフォルニアからワシントンへ四万ドルもってきた。それが全財産だった。数週間後、この四人は無一文になったが、議会はこの四人に十億ドルの値打のある鉄道敷設権をあたえた。買収のこつは相場を吊りあげないことだよ」
ストロングは首をふった。「いずれにしても、きみのいうその権利はなんにもならんよ。月は一カ所にとどまってやしない。たしかにその土地の上をとおるが──そういえば渡り鳥だってそうだ」
「しかも、だれも渡り鳥の所有権はもっていない。きみのいうことはわかるよ──しかし、月はいつでもそのひとつの地帯の上にいるんだ。自分の庭で丸石をひとつ動かして、その石の所有権を失うかね? その石はやはり不動産のうちだろ? 所有権の法律に守られているだろ? ジョージ、これはミシシッピの浮き島をめぐる一連の不動産裁判の問題に似ているよ──河が新しく流れを変えるたびに、土地は動いてしまう。しかし、だれかがいつもその土地を所有しているんだ。こんどの場合、わたしはいつもそのだれかになるのをわれわれにしようという計画なんだ」
ストロングは眉にしわをよせた。「その島と河岸の問題は、どっちつかずの判決だったような気がするな」
「こっちにつごうのいいほうをとるのさ。弁護士の女房がミンクのコートをもってるのは、そのおかげなんだよ。さあジョージ、忙しくなるぜ」
「なんで?」
「金を集めるのでさ」
「ああ」ストロングはほっとしたような顔をする。「わたしはまた、きみがわれわれの金を使うつもりかと思ったよ」
「そのつもりさ。だが、それだけじゃ足りそうもない。こっちの金はもっと大きなところでことを進めるために使うんだ。それまでは、金がどんどんころがりこんでくるように工作しなければならん」彼はデスクのスイッチを押す。ふたりの法律関係のことを主になってやっている、ソール・ケーメンズの顔がぱっと現われた。「おいソール、ちょっと話があるんだが、すぐにこられるかい?」
「なんだかしらないが、ノー≠フ一点ばりでがんばるんだぜ。話はわたしがつけてやる」弁護士は答えた。
「よし。すぐきてくれ──相手がひどい動きを見せてるんで、こっちにはどうしたらいいかわからない問題の重荷が、しょっぱなから十も重なってるんだ」
ケーメンズが彼なりの早さでかけつけてきた。数分後には、ハリマンは月に乗りこむ前に月の所有権を手にいれようという考えを説明しおわっていた。「そのカイライ会社のほかに、寄金者になんの経済的利益も認めない寄金を受けつける機関が必要だな──ちょうど、ナショナル地理学協会《ジェオグラフィック・ソサエティ》みたいな機関だ」
ケーメンズは首をふった。「あの協会を買いとるわけにはいかないよ」
「ばかな、だれがそんなことをするといった? 自分たちでそういうのを作るんだ」
「わたしもそれをいおうとしてたんだ」
「よろしい。やっぱり少なくともひとつは、税金のかからない、まともな連中を表立たせた法人が必要だということだ──もちろん、票決による主導権はこっちでつかんで放さないようにするがね。ひとつではなくて、もっと必要かもしれんな。必要に応じていくつでも作ればいい。それから、新しいふつうの会社──税金のかからない法人ではないが、こっちの態勢がととのうまでは利益をあげない会社を作らなければならない。つまり、この考えは、利益をあげない法人に名声とか宣伝とかのすべてをまかせておいて、もうひとつのほうが、いよいよとなったら利益はごっそり取ってしまう。われわれはそのふたつの間を器用に渡り歩いて、われわれの使う経費はその利益をあげない法人から出させるように完全に合法的な筋をとおす。考えてみると、ふつうの会社のほうは少なくともふたつは作っておいたほうがいいな。いよいよというとき、必要とあればあと腐れのないようにそのひとつを破産させてしまうことができるようにね。だいたいの筋書はそんなとこだ。さあ、急いですべてが合法的になるように片をつけてくれ。いいね?」
ケーメンズはいった。「なあディロス、銃をつきつけてやるほうが、よっぽど正直なやり方だぜ」
「弁護士がわたしに正直の説教か! いいんだよソール、わたしは別にだれひとりだまそうというわけじゃないし──」
「へえ、どうだか!」
「それに、わたしは本当に月旅行をやるつもりなんだからね。みんなが金を出すのも、そのためなんだし、ちゃんとその成果は得られるわけさ。さあ、法律にはずれないようにお膳立てをしてくれよ、頼むぜ」
「ヴァンダービルト法律事務所の上のほうの弁護士が、親《おや》父《じ》さんにこういうような情況のときにいったせりふを思い出すよ。やり方はみごとなもんだ。それを、なぜ合法的になんかやろうとして汚ならしくしてしまうんだろう≠ニね。わかったよ、同じ穴のむじな殿、あんたの罠を作って進ぜよう。ほかに何か?」
「もちろん、まだあるさ。ここにいてくれ。そっちにも何かいい知恵があるかもしれん。ジョージ、モンゴメリーにくるようにいってくれないか?」ハリマンの宣伝担当の主任モンゴメリーは、ハリマンの目にはふたつの長所をもっているように見えた。ハリマンに対して個人的にも忠誠を示していたことと、第二にはだかで馬に乗ったという伝説のあるサクソンのゴーディヴァ夫人がそのときに実は愛撫印コルセット≠つけていたとか、ヘラクレスが朝食にクランチーズ≠食べて力をつけたというような話を大衆に信じさせてしまう宣伝作戦の手腕をもっていたのだった。
彼は大きな紙ばさみを小脇にかかえてきた。「社長、呼ばれてちょうどよかったですよ。こいつができて──」紙ばさみをハリマンのデスクにひろげて、下絵と割りつけをひろげはじめる。「キンスキーの仕事です──熱がはいってますよ!」
ハリマンは紙ばさみをとじた。「こいつは、どの企業のだ?」
「えっ? 新世界住宅社のですよ」
「見たくないよ。新世界住宅社は売っちまうんだ。待てよ──そう喧嘩ごしになるな。みんなには仕事はつづけさせたほうがいいな。株を売っぱらっちまうまで、相場を維持させておきたいからな。だが、ほかの話だ、耳の穴をかっぽじって、よく聞けよ」手短に新しい事業を説明する。
やがてモンゴメリーはうなずきながらいった。「いつはじめて、金はいくら使えるんです?」
「いますぐだ。金は必要なだけ使っていい。費用のことでびくびくするな。これはわれわれのぶつかる最大の仕事なんだ」ストロングがビクリと身をすくめた。ハリマンは話をつづける。「今夜はこの問題で不眠症になってもらおう。あすの朝、こまかいことは相談する」
「ちょっと待ってください。その権利を月の諸国──つまり月が上をとおる諸国から買い占めようというのは、いっぽうで月旅行のことや、それがみんなにとってどんなに大きなことかなどと大宣伝戦をしながら、どうしてやれるんです? まさか、あんたが手も足も出なくなったから助けてくれという描き方をするわけじゃないでしょ?」
「わたしがそんなにばかに見えるかい? その権利はきみがそんな埋め草まで出す前に手にいれちまうんだ──それもきみの仕事、きみとケーメンズの仕事だよ。最初の仕事だ」
「ふーむ……」モンゴメリーは親指の爪をかんだ。「まあ、いいでしょう──方法はいくつか見つかる。買い占めはいつまでにやるんです?」
「六週間やる。それでできなきゃ、辞表を郵便で送ってよこせ。尻の皮に書いてな」
「いますぐ書きますよ。鏡をもっててうつしてくれれば」
「ばか。モンティ、六週間でできないのはわかってるよ。だが、早いとこやるんだぜ。その権利の買い占めがすむまでは、金が出るばかりで一セントもはいらないんだからな。ぐずぐずしてると、みんな干ぼしになっちまう──それに、月へも行かれなくなっちまう」
ストロングが口を出した。「D・D、かびくさい熱帯諸国なんかばかり相手に、なぜそんな頼りない権利をとろうとするんだ? 本当に月に行く腹なら、ファーガソンを呼んで話をつけようじゃないか」
「ジョージ、きみのそのまともな説は気にいったよ」ハリマンはいいながら眉をひそめた。「えーと、一八四五年だが六年に、がんばり屋で出しゃばりのある合衆国将校がカリフォルニアでつかまった。州政府がそれをどうしたか知ってるかね?」
「いや」
「送り返したんだな。いわば二塁ベースにタッチしなかったようなもんでね。だから、数カ月後にはもう一度そこを占領する苦労をしなければならなくなったんだ。いま、わたしもその二の舞いはしたくない。月に到着して領土宣言をするだけではだめなんだ。地球の法廷で宣言をして、びくともしないものにしなければならない──さもないと、ゴマンとやっかいなことが起こってくる。そうだろ、ソール?」
ケーメンズがうなずいた。「コロンブスがどうなったか思い出してみるんだな」
「そのとおりだ。コロンブスみたいにだまされないようにしなければならない」
モンゴメリーは、かじった爪を吐き出していった。「しかし、そんなバナナ諸国の権利なんて、こっちでまとめてしまったら、二セントの値打もなくなってしまうことはわかってるでしょうに。なぜ国連から権利を手にいれて話をつけないんです? まぬけな議員さんたち二ダースを抱きこむぐらいなら、よろこんでそっちにぶつかってみてもいいですがね。実はもう考えが浮かんでるんですよ。まず安保理事会をとおして働きかけて──」
「その線も努力しておけよ、あとで使うことになるから。だがモンティ、その計画のカラクリをそのままうけいれてはいかんよ。もちろん、熱帯諸国からまきあげる権利はなんの値打もない──あとのやっかいをはぶくというだけだ。しかし、これが何よりも肝腎なことなんだ。いいかい、われわれは月に到達する。あるいはいまにも到達するように見える。そうなったら、熱帯諸国はみんなさわぎだす。彼らが認めたカイライ法人をとおして、こっちがつつくからね。ところで、連中はその主張をどこへもって行く? もちろん国連だ。ところで、この地球の富と力をもった大国はみんな北半球の温帯にある。そういう諸国は、熱帯諸国のいい分の根拠を聞いて、あわてて、地球儀を見る。たしかに月はそういう大国の上はとおらない。なかでも最大の国ロシアは、北緯二十九度以南にはひとすくいの土地ももっていない。そこで、熱帯諸国の権利を認めないことになる。
「それとも、認めるだろうか?」ハリマンはつづけた。「合衆国がロシアに反対するからね。月はフロリダとテキサス南部の上をとおるからだ。ワシントンは興奮するよ。熱帯諸国の宣言を支持して、伝統的な土地の権利の理論をとるか、それとも月は全人類のものという考え方を力ずくで押し進めるべきか? あるいは、実際に月に最初に到達したのがアメリカ人だったことを見て、すべてはアメリカのものと主張すべきか?
「ここでわれわれが顔を出すんだ。月ロケットは国連の依嘱によるある法人が所有し、経費もそこから出ているらしいと──」
「待った」ストロングが口を出した。「国連がそんな法人を作れるとは知らなかったぞ」
「すぐにわかるさ」ハリアンは答えた。「そうだろ、ソール?」ケーメンズはうなずく。ハリマンは話をつづけた。「とにかく、すでにわたしはそういう法人をもってるんだよ。何年も前に作っておいたんだ。教育とか科学に関係することならたいていのことはできる、利益はあげない法人組織なんだ──それに、こいつはたいていのことはやれる。ところで、さっきの問題にかえるが、この法人──つまり国連が作ったものが──親である国連に月はいかなる国にも属さない、国連の保護下にある領域にしてくれと申請する。最初のうちはことをややこしくしないため、われわれの表立った資格は要求しない──」
「ややこしくしないためだって!」モンゴメリーがいった。
「そうさ。新しいこの領土は、事実上月のすべてを領土とした独立国で、よく聞けよ──売るのも買うのも法律を作るのも、土地の権利書を発行するのも、どんな独占企業を作るのも、関税を取るのも、何もかも無制限にできるんだ。しかも、それがわれわれのものなんだ。
「われわれがこういうやり方をするのは理由がある。国連のおもな国は、熱帯諸国のとなえる権利みたいに合法的らしく聞こえるいいぶんは思いつかないし、むちゃな力ずくでぶんどりあおうとしてもたがいに話はつきそうもないし、そうかといって、ほかの大国がアメリカがひとり占めずるのをだまって見ているとも思えないからだ。みんな安易な道をとって、国連に権利をもたせるという顔をしてこの矛盾を解決するだろう。だが本当の権利、全経済法律関係の権利はわれわれのものになる。モンティ、これでわたしの狙《ねら》いはわかるな?」
モンゴメリーはにやりと笑った。「必要とあれば、なんだってわかっちまいますよ。だけど、気にいったなあ。みごとですよ」
「しかし、わたしはそうは思わんな」ストロングがぶつぶついった。「ディロス、きみがこれまでややこしい仕事をこねあげるのはさんざ見てきたし、なかにはへどが出るほど曲がりくねったやり方もあったが、それにしてもこんどのはいちばんひどいな。だれかが一杯くわされるような怪しげな仕事を作って、それに引っかからずにぬけ出ることを楽しみに仕事をしているみたいだ」
ハリマンは答える前に葉巻をはげしくふかした。「ジョージ、なんといわれても平気だよ。ごまかしだろうとなんだろうと、いいたいことをいえよ。わたしは月に行くんだ! そのために百方人をだまさなければならないとしても、わたしはやるよ」
「しかし、そこまでやる必要はない」
「ほう、じゃどうやる?」
「わたしだったらかい? わたしなら、まともな法人を作る。議会に話をつけて、わたしの法人を合衆国の月探検の選ばれた機関とさせ──」
「買収してか?」
「その必要はない。顔と圧力だけで充分だ。それから、金を集めてロケットを飛ばす」
「それで、月は合衆国のものにするのか?」
「当たり前さ」ストロングはちょっと頑固にいった。
ハリマンは立ち上がって歩きまわりはじめた。「きみにはわかっていないんだな、ジョージ、わからないんだなあ。月は一国で持ってはいけないんだよ、たとえアメリカ合衆国でもだ」
「きみが所有するんでなければいけないというんだろうさ」
「そう、もしわたしのものになったら──たとえ短い期間でも──月を誤った用途に使わないし、人にも誤った使い方をさせないようにできる。冗談じゃないよ、国家主義なんてものは、成層圏までで止めなきゃいけないんだ。もし合衆国が月を所有すると宣言したら、どうなるかわかるかね? ほかの国は、そんな宣言を認めないよ。安保理事会の永遠の議論の種になるし、やっと何年かに一度はかならずあった戦争にじゃまされずに仕事の計画が立てられるように立ちなおってきたばかりだというのに。当然のことだけど、そうなったら、ほかの国はアメリカを死ぬほどこわがることになるだろう。毎晩空を見上げれば、アメリカの最大の原爆ロケット基地が首筋をにらみおろしているのが目にはいるわけだからね。そんなのに辛抱しているだろうか? どういたしまして──向こうも月の一画を自国のために使おうと占領しようとする。月はそっくり占領して防衛するには大きすぎるからね。当然ほかの国の基地もできて、やがてはこの地球はじまって以来の最悪の戦争が起こり──しかもその責任はわれわれということになる。
「だめだよ。みんなが手を出せないような形にしなければならないし、あらゆる面から考えてこの計画にしなければならなかったのもそのためなんだ。それに、計画が実際にうまくやれるような立場になるまで、曲がりくねったやり方もしようがないんだ。
「とにかくジョージ、もし月を合衆国のものにさせたら、われわれの事業家としての立場はどうなるかわかるかね?」
「運転手といったところだろうな」ストロングは答えた。
「わかりきったことだ! このゲームはうまくしてやられちまうよ。国防省にごくろうさん、ハリマン君。ごくろうさん、ストロング君。あとは国家の保安のためにわれわれが引きつぐ。きみたちはもう帰ってもいいよ≠ニいわれるさ。それに、こっちはそうするよりしようがなくなるのさ──おうちに帰って、次の原爆戦を待つだけだ。
「ジョージ、わたしはそんなやり方はしないぞ。軍部のおえら方なんかに割りこませたりしない。月に植民地を作り、それがひとり立ちできるまで育てあげるんだ。いっとくがね──みんなにいっとくが、この仕事は人類が火を発見して以来の最大の仕事なんだ。うまくやれば、新しい、よりはなやかな世界がひらけてくる。へたすれば、世界最後の大戦争への片道切符になってしまうんだ。われわれが手を出そうと出すまいと、その日がくる、すぐ目の前にきているんだ。だが、わたしは自分が月の男になるつもりで計画を立てている──うまくこの間際を処理できるように、自分を捧げているんだ」
ひと息つくとストロングがいった。「その説教によってかね?」
「いや、ちがう」ハリマンはむっとしていった。「きみにはこれがちゃんとわかっていないんだ。月に行って何が見つかるかわかってるか?」天井に大きく腕をふっていう。「住民だ!」
「月にかい?」ケーメンズがいう。
「月にだって、いないとはいえないでしょ?」モンゴメリーがストロングに声をひそめていう。
「いや、月じゃないんだ──空気のない月の地表を掘って、だれかを見つけたら、少なくともわたしもびっくりするよ。だが、月はもう死んだ天体だ。わたしがいうのはほかの星──火星や金星や木星の衛星のことだ。いや星の外にもいるかもしれない。もしわれわれがその宇宙の住民を見つけたらどうだろう? それがわれわれにどういう意味があるか考えてみてくれ。われわれは孤独だったんだ。われわれの知ってるただひとつの世界で、ただひとつの知性種族として孤独だったんだ。われわれは犬や猿と話しあうことすらできなかったんだ。犬や猿の応答を、われわれは見すてられた孤児みたいに、われわれなりの考え方で解釈しなければならなかったんだ。だが、もし星の世界の住民を見つけたら、彼らなりの思考をする知的な住民を見つけたらどうだろう。われわれはもう孤独ではなくなるんだ。星を見上げて、もう畏怖《いふ》を感じることはなくなるんだ」
しゃべりおわって、ちょっと疲れたような、内証ごとを急にだれかに見られたように、いまのはげしい言葉がちょっと恥ずかしいというような顔をする。一同に向かいあって、さぐるように顔を見まわす。
「しめしめ」モンゴメリーがいった。「いまのは使えますよ。いいでしょ?」
「おぼえていられるつもりか?」
「その必要はないんで──あんたのデスクの無言秘書≠フスイッチをいれたから」
「ちぇ、してやられたな!」
「ビデオで撮《と》って、劇に仕組みますよ」
ハリマンはまるで子供みたいな笑顔。「わたしは芝居なんかに出たことはないが、ちっとでも役に立つというんなら、出てもいいよ」
「と、とんでもない、あんたじゃないんですよ」モンゴメリーはぎょっとしたような口調で答えた。「あなたではタイプがちがいますよ。ベイジル・ウィクス=ブースを使おうと思うんです。あのオルガンみたいな声と、みごとな大天使のような顔で、お客は本当に夢中になりますよ」
ハリマンは自分の腹のたるみをちらっと見おろして、邪険な声でいう。「よし──仕事の話にもどろう。ところで金のことだ。最初はまず非営利財団法人のひとつに寄金を集めさせる。ちょうど、大学が寄金を集めるようにだ。高額所得者を狙うんだな。税金の控除が本当に意味をもってくるような連中だ。この手でどのくらい集まると思う?」
「ほんのわずかだな」ストロングが考えていった。「その牝牛のミルクはからからにしぼりあげられている」
「税金に取られるより寄付したほうがいいと考える金持がいるかぎり、この線のミルクが涸《か》れることはないな。月の噴火口に自分の名前をつけてもらえるとしたら、どのくらい出すだろう」
「噴火口のあとは、全部名前がついてると思ったが」弁護士がいう。
「大部分はついてないよ──それに、月の裏側には全然手がついてないんだ。きょうはその見積りはやめとくが、リストだけは作っておこう。モンティ、それから学校にいってる子供たちから小銭を吸いあげる手もほしいな。四千万の子供なら、ひとり頭十セントでも四百万ドルだ──使いでがあるぜ」
「なぜ十セントで止めるんです?」モンティがたずねた。「子供が本当に関心をもてば、一ドルぐらいはまとまりますよ」
「そう、しかし子供に何をやる? 高貴なる冒険に協力した名誉とかなんとかいうだけのほかに何かあるか?」
「ふーむ……」モンゴメリーはまた親指の爪と相談。「十セントと一ドルと二本立てでやったらどうでしょう。十セントのほうには、月光クラブの会員証カードをやる──」
「いや、ジュニア宇宙人クラブがいいな」
「いいですよ、月光クラブは女の子だ──それに、ボーイ・スカウトやガール・スカウトと結びつくことも忘れられないな。子供には一枚ずつカードをやって、次の十セントを払った子にはカードにパンチをいれてやる。一ドルになるまでパンチをいれて、一ドルで賞状をやる。額縁にいれるのにいいような、名前と特殊印刷か何かで刷った、裏に月の絵を刷った賞状で──」
「絵は表だ」ハリマンがやりかえす。「片面印刷にしろ、そのほうが安上がりで見てくれもいい。ほかにもやるものがあるな。鋼鉄ケースに月の少年探検隊員名簿≠ニいうのをいれてやるんだ。同じものを最初の月ロケット着陸地点に建てる記念碑におさめる──もちろんマイクロフィルムにしてだがね、重量のことは気をつけなければならんからな」
「いいですね!」モンゴメリーも同意した。「もっと大口でぶんだくる手があるけどどうです? 寄金が十ドルになったら、本当の金メッキの流星型のピンをやって、クラブの何かの投票権や何かをもたせて上級探検隊員ということにするんです。その子たちの名を記念碑の外がわに、白金の帯にマイクロフィルムで文字を彫りこむというのは?」
ストロングは、レモンをかじったようなすっぱい顔をしていた。「百ドルになったらどうするつもりだ?」
「いいですよ、そうなったら、別のカードをやって最初からやりなおしをすればいい」モンゴメリーは楽しそうにいった。「心配いりませんよ──子供の寄金がそれほどになったら、それだけのことをしてやるから。ロケットの離陸前に見物に招待してもいいし、ただでその前に立ってる写真をやってもいい。写真の下にパイロットの署名を女事務員にでも書かせてやれば」
「子供からだましとるのか! あきれたな!」
「とんでもない」モンゴメリーは気分をこわしたような口調で答える。「だれもが売れるいちばん正直な商品こそ、わからんもんですよ。これは喜んで金を払って買うだけの値打がいつまでもあって、痛んでだめになることもない。墓場まででももっていけるんですからね」
「ふん!」
ハリマンが、にやにやしながらだまってこのやりとりを聞いていた。ケーメンズが咳ばらいする。「この国の子供たちを食いものにするきみたち食人鬼の議論がおわったら、わたしにはひとつ考えがあるんだが」
「聞こう」
「ジョージ、あんたは切手の収集をやってるね?」
「ああ」
「月に行って帰ってきた切手というのは、どのくらいの値打になるだろう?」
「ふん? しかし、そんなことは不可能なことじゃないか」
「月ロケット船のなかに、合法的な郵便局の出張所を作ることは大してめんどうでもないと思うんだ。どのくちいの値打になる?」
「うん、そいつは稀少価値次第だな」
「最大の利益をあげるちょうどいい枚数というのがあるはずだ。計算できるだろ?」
ストロングは遠くを見つめるような目つきをしていたが、やがて旧式な型の鉛筆を出して数字をならべはじめる。ハリマンは話をつづけた。「ソール、ジョーンズから月の権利を買ったささやかな成功から思いついたんだがね。月の敷地を売るというのはどうだ?」
「ディロス、話はまじめなことだけにしよう。月に到達してからでなければ、そんなことはできないよ」
「わたしはまじめだよ。きみが、一丸四〇年代の土地を売るにはちゃんと境界をきめて正確に図面にしなければいけないという古い法律のことを考えているのはわかる。だが、わたしは月の土地を売りたいんだ。合法的に売る方法をきみが考えるんだ。できたら月のすべてを売るよ──地上権も地下の埋蔵物の権利も何もかも」
「もしそういう連中がそこにがんばりたいといったら?」
「けっこう。ますますおもしろいね。これもはっきりさせておきたいんだが、われわれは自分の売ったものに税金をかける立場になるんだ。向こうが月の権利を買って、使わないで税金も納めなかったら、その権利はこっちに帰ってくる。だから、きみは牢屋にいれられるようなことにならずに売る方法を考えればいいんだよ。外国で宣伝してから、国内で個々に売ってまわるという計画もあるな。アイルランドの闇馬券みたいにね」
ケーメンズは分別くさい顔をする。「パナマに会社を作って、メキシコからテレビとラジオで宣伝することもできるな。だけど、本当にそんなものが売れると思うかね?」
「グリーンランドの、雪だるま式寄金だってやれてるんですからね」モンゴメリーが口を出す。「やり方次第ですよ」
ハリマンがつづいていう。「ソール、フロリダの土地ブームの話を読んだろ? 見たこともない土地を買った連中が、一度も行って見ないうちに三倍もの値段でその土地を売っちまったりしたんだ。ときにはひとつの土地が一ダースもの人手を渡ったあげく、だれかが見にいって十フィートの水の底にある土地だと気がついたりしている。われわれの売ろうというのは、これ以上はないお得な買物だぜ──湿地でないことは完全保障つきの土地だし、日当たりのいい土地が一エーカー十ドルぐらいでいいんだ──いや、一エーカー一ドルで一区画千エーカーにするかな。こんな有利な買物をだれがことわる? ましてや月にウラニウムがいっぱいあるという噂でもひろがったらね」
「本当か?」
「知るもんか! ブームが下火になったら、こっちは月にルナ・シティを作る場所をきめたと発表する。ちょうどそのまわりの土地はまだ分譲できますというぐあいにやるんだ。心配いらんよ、ソール、土地の売買ということなら、ジョージとわたしにはなんとでもできるさ。そういえば、オザークスでなんか、われわれは急な傾斜で突っ立ってる土地は、いつも同じ土地を両側にそれぞれ分けて二重に売ったもんだ」ハリマンは考えこんだような顔になる。「鉱物の権利は保留しといたほうがいいな──本当にウラニウムが出るかもしれないからね」
ケーメンズは笑った。「ディロス、あんたは心から子供みたいだな。ばかでかく成長しすぎた、かわいい不良少年だよ」
ストロングがすわりなおす。「わたしなら、五十万ドルにするな」という。
「五十万ドルって、何が?」ハリマンがたずねた。
「月へ行ってきた切手さ。その話をしてたんだぜ。わたしの見積りでは数は五千にしぼるのがいちばんいい。熱心な収集家と業者にはめこめる数だ。それにしても、どこかの協会に割引き値段で引き受けさせて、ロケットが本当にできて月旅行の可能性が見えてくるまで押えておく必要があるな」
「よかろう」ハリマンが同意した。「そっちはきみにまかせる。きみが最後までにその五十万ドルだけよけい金策するのを当てにできることだけおぼえておくよ」
「わたしには歩合はもらえんのかね?」ケーメンズがいった。「発案者はわたしだよ」
「一同の感謝の決議を受けるさ──それに、月の十エーカーとね。ところで、ほかにぶつかってみられる収入源は?」
「株も売ろうというんじゃなかろうな?」ケーメンズがいった。
「いまその話をしようとしてたんだ。もちろん売るさ──だが、優先株じゃない。乗っ取りをやられたくないからね。普通株だよ、投票権のない──」
「なんだかこれも、熱帯諸国に作る法人の話みたいだな」
「当たり前さ──ただ、いくらかはニューヨーク証券取引所に上場させたいんだ。そうできるように、きみが証券取引委員会になんとか運動しなきゃなるまい。だが、あまり株は公開しないよ──つまり、われわれのショー・ウィンドみたいなつもりで、株価も活気をつけてたえず吊り上げなきゃならない」
「わたしにヘリの荒海でも泳ぎ渡らせたほうがいいんじゃないか?」
「そういうなよソール。この仕事は救急車のあとをついて走ってるようなもんだよ。そうだろ?」
「そんな自信はないな」
「とにかく、それだけはやってもらいたいんだ──ワッ!」ハリマンのデスクのスクリーンがパッとついた。女がいう。「ハリマンさん、ディクソンさんがおみえになってます。お約束はないそうですが、あなたのほうでもお会いしたがってるだろうとおっしゃってます」
「こいつは切っといたつもりだがなあ」ハリマンはつぶやいて、スイッチを押していう。「とおしてくれ」
「はい、かしこまりました──あ、ハリマンさん、いまちょうどエンテンザさんもおみえになりましたが」
「ふたりともとおしておくれ」ハリマンはスイッチを切ると仲間にふりかえった。「みんな、口をつぐんで、そいから財布に気をつけるんだぞ」
「だれに向かってそういうむだなお説教をするんだね?」
ディクソンがエンテンザをしたがえてはいってきた。腰をおろして見まわし、口を開きかけて患い止まってしまう。もう一度まわりを見まわしたが、とくにエンテンザを見る。
「ダン、話を聞こう」ハリマンがうながす。「ここにいるのは、われわれ青二才だけだよ」
ディクソンは腹をきめた。「D・D、あんたのとこへこようと思ったのは、こんなことをしてやったと誠意を見せるためだ」ポケットから公正証書らしい書類を出して見せる。月の権利の売買契約書で、フィニアス・モーガンからディクソンにあてたもの。文言はジョーンズがハリマンにあたえたものとそっくりそのままだった。
エンテンザがびっくりしたような顔をして、内ポケットに手をつっこむ。同じようなエネルギー・シンジケートの重役三人の売渡証書が三通出てくる。ハリマンは眉毛を片方ピクリとあげて見せた。「ジャックがあんたに張りあって、二通よけいにとってきた。この勝負はあきらめるかね?」
ディクソンは残念そうな笑顔。「ちょうど張りあえるだけだ」あと二通出して、にやりと笑ってエンテンザに手をさしのべる。
「引き分けらしいな」ハリマンはデスクの引出しに鍵をかけておさまっている七通の録音テーブによる売渡証書のことは何もいわないことにした。前の晩ベッドにはいってから、真夜中ごろまで電話でせっせと集めたものだった。「ジャック、これにいくら払った?」
「スタンディッシが千ドルだとがんばったが、あとのは安かった」
「ばかな! 値を吊り上げるなといっといたのに。スタンディッシが吹聴するぞ。ダン、そっちはどうだった?」
「思うとおりの値で買った」
「それで、値段はいいたくないのか? まあいい──ところで諸君、この仕事にはどの程度本気だね? いくら金をもってきたかということだ」
エンテンザがディクソンの顔を見る。ディクソンが答えた。「いくらかかるんだ?」
「そっちはいくら集められる?」ハリマンは高飛車にたずねる。
ディクソンは肩をすくめた。「こんなことをいっててもしようがないな。ズバリ金額でいこう。十万ドル」
ハリマンが鼻で笑った。「あんたの本当の願いは、第一回の月定期ロケットに客席をひとつ予約することぐらいなんだろう。その値段で席をゆずるよ」
「いいあいはやめよう。ディロス、いくらなんだ?」
ハリマンは落ちつきはらった顔はしていたが、頭のなかははげしく回転していた。まだろくに何もはっきりしていないうちに、不意を襲われてしまったのだ──まだ主任技師と数字のからんだ話しあいもしていない。ちくしょう、なんだって電話を切っておかなかったんだ? 「ダン、前にも釘をさしておいたとおり、この仕事は仲間に加わるだけでも少なくとも百万ドルはかかるだろうな」
「そうだろうと思った。それで、ずっと仲間として仕事をつづけていくには、いくらかかる?」
「あり金すべて」
「ばかいえ、ディロス。わたしはあんたよりもってるんだぞ」
ハリマンは葉巻に火をつけた。これが彼の興奮を示すただひとつのしるしだった。「では、あんたたちもわれわれと同じ金額を出して、対でいくことにしよう」
「そうすると、株の四分の二をとれるわけか?」
「いいよ、いいよ、そっちは馬車におさまって声をかけてるだけで、金を出せばいいんだ──同じ率でね。だが、引っぱっていくのはわたしだ」
「運営はあんただよ」ディクソンも同意する。「よろしい、いま百万ドル出して、あとは必要に応じてあんたと同額だけ出そう。もちろん、わたしの監査役を出すことに異議はないだろう」
「ダン、あんたをだましたことがあるかい?」
「これまでもないし、これからだまされる必要もないからな」
「勝手にしろ──ただ、口の堅い男をよこすようにうんと気をつけてくれよ」
「口は固いよ。わたしはそいつの心臓を壺にいれてうちの金庫にしまってあるんだ」
ハリマンはディクソンの資産がどのくらいか考えていた。「ダン、いずれはこっちの株もあんたに買わせることになるかもしれないよ。とにかく、この仕事は金がかかるだろう」
ディクソンは左右の指先を丹念に合わせる。「その話はそのときでよかろう。資金不足で仕事をだめにするとは思わんからね」
「よろしい」ハリマンはエンテンザに向きなおった。「ジャック、ダンの話は聞いたろう。あんたの条件は?」
エンテンザの額は汗でぬれていた。「そんなに早く百万ドルは作れないな」
「それはいいんだ、ジャック。何もけさ必要だとはいってない。一筆書くだけでいい。現金にまとめる暇はかけていいよ」
「しかし、百万ドルはほんの手はじめだといってた。わたしには、とことんまであんたと張りあうことはできないな。限度をつけてくれなくては。妻子のことも考えなきゃならんからね」
「ジャック、終身年金は用意してないのか? 引き出せない信託にした|おぜぜ《ヽヽヽ》というのがないのかい?」
「その点は問題ないんだ。それより、あんたたちにしぼりあげられ──あげくのはてにおっぽり出されるんじゃないかと」
ハリマンは、ディクソンが何かいうのを待った。やっとディクソンがいう。「ジャック、あんたをしぼりあげるようなことはしないよ。手もちの財産をちゃんと注ぎこんでることがわかる限りはね。あんたのことは、投資に応じた比例制で仲間にいれておくよ」
ハリマンもうなずいた。「そうだよ、ジャック」彼はもしエンテンザの割り当てが小さくなってくれば、ストロングとふたりで明らかに株主権の多数を握ろうと思っていた。
ストロングも何かそんなようなことを考えていたらしく、いきなり口を出す。「これはどうも気にいらないな。四人が平等に権利をもつんでは、すぐに行きづまりになりかねない」
ディクソンが肩をすくめた。「そんな心配はことわるよ。わたしがこの仕事に乗りだしたのは、ディロスが利益をあげられるということに賭けたからなんだ」
「ダン、月には行けるんだぞ!」
「そうはいってない。月に行けようが行けまいが、あんたが利益をあげるだろうというほうに賭けてるんだ。ゆうべわたしは、あんたの会社のいくつかを公式記録で調べたよ。とてもおもしろかった。その行きづまりの問題は、ディロス、あんたを専務社長にすれば片づく。こんがらがったら話をつける権限をあんたにまかせばいいんだ。異議ないだろ、エンテンザ?」
「ああ、もちろん」
ハリマンは気にはなったが、いまはそれを表に現わさないようにした。たとえ贈りものをくれても、ディクソンという男は信じられない。彼はだしぬけに立ち上がった。「もう行かなければ。諸君の相手はストロング君とケーメンズ君にまかせるよ。モンティ、いこう」ケーメンズがたとえ名目上の完全な仲間に対してでも、先走ったことをしゃべってしまわないことは確信がもてた。ストロングに関しては──このジョージは、右手に指が何本あるかを左手にも知らせないくらいの人物だとわかっている。
部屋を出ると、ドアの前でモンゴメリーを帰らせて、彼は廊下の向かい側に行った。ハリマン産業の主任技師アンドリュー・ファーガソンは、彼がはいって行くと顔をあげる。「やあ社長。そうそう、ストロングさんがけさ、電灯のスイッチのおもしろいアイディアをくれましたよ。最初は実用的とは思わなかったが──」
「よせよせ。そんなものはだれかにやらせて、忘れちまえ、きみは、われわれがいまやりかけてることを知ってるだろう」
「噂がありましたね」ファーガソンは用心深く答えた。
「その噂をもってきたやつを首にしちまえ。いや──チベットに特別の任務で出張させて、仕事がすむまで向こうにとじこめとけ。とにかく、こういう話なんだ。わたしはきみに、できるだけ早く月ロケットを作ってもらいたいんだ」
ファーガソンは片脚を椅子の肘にかけると、ペン・ナイフを出して爪をけずりはじめる。「なんだか、秘密の建造命令みたいな口ぶりですね」
「当たり前だろ? 理屈からいえば、一九四九年からこっち、そんなものに使える燃料はないことになってる。きみはチームをまとめて設計し、人手を集めて建造すればいいんだ。きみが作る──金はわたしが払う。こんなかんたんなことはないだろ?」
ファーガソンは天井をにらんだ。「ロケット用燃料か──」夢のようにつぶやいた。
「そうさ、数字の上では水素も酸素も、月へロケットを飛ばして帰ってくるのに足りる──問題はただ、適切な設計だけだ」
「適切な設計だってさ」ファーガソンは同じようなおだやかな口調でいうと、いきなりふりかえって傷だらけのデスクにナイフを突き立てて叫んだ。「適切な設計だなんて、あんたは何を知ってるんです? 鋼鉄はどこから手にいれりゃいいんです? ロケット頭部の裏金には何を使ったらいいんです? 手もちのエネルギーをむだにしないように、毎秒何トンと消えちまうそのばからしい混合燃料を、いったいどうやって試燃させてみるんです? 一段式ロケットのまともな燃料混合比はどうやったらわかるんです? いったい、なんだって燃料があるうちにまともなロケットを作らせてくれなかったんです?」
ハリマンは相手がおさまるのを時っていった。「アンディ、どういうことなんだ?」
「うーん……ゆうべも床のなかで考えてたんですよ──それに、うちの婆さんもあんたのことをすごくうらんでますよ。ゆうべはとうとう長椅子で寝なきゃならなかった。まず第一に、ねえ社長、この問題にまともに取り組むには、国防省の研究割り当てを手にいれることですよ。それから、あんたが──」
「ばかな。アンディ、きみは技術面だけやってればいい。政治的なことや金はこっちにまかせろ。きみの意見はほしくないよ」
「そんな! 頭がおかしくなったんじゃないかな! わたしが話してるのは技術面のことですよ。政府はこれまでのロケットに関する研究をすっかり握っている──すっかり分類整理してね。政府とのひっかかりがなければ、そいつをのぞき見することもできないんですよ」
「どうせたいしたことはあるまい。スカイウェイ社のロケットにできないことで、政府のロケットに何ができる? きみだって、連邦政府のロケット研究はもうたいしたことはないと、その口でいってたぞ」
ファーガソンはもったいぶった顔つきをした。「あいにくしろうとにわかる言葉で説明できないと思うんですがね。とにかく、その政府の研究報告がどうしても必要だってことは、だまって認めてもらわなければならんでしょうな。すでにできてしまっている成果を、何千ドルも使ってやりなおすことは無意味ですよ」
「何千ドルでも使えよ」
「何百万ドルになるかもしれない」
「何百万でも使え。金を使うのをこわがることはないぞ。アンディ、わたしはこの仕事を軍の仕事にしたくないんだ」この決意の裏にからんだ政治的な背景を、技師に説明しようかどうしようか周到に考えたが、思い止まった。「その政府の資料というのは、実際はどの程度なくては困るものなんだ? 政府の仕事をしてた技術者を雇えば、同じ成果は得られないか? それとも、現にいま政府の仕事をしている人間を引き抜いたらどうだ?」
ファーガソンは口をすぼめた。「あんたがいちいち横槍をいれるというのに、どうしてわたしがその成果を手にいれられると思うんです?」
「わたしは何も横槍なんかいれてないぞ。ただ、これは政府の仕事ではないといってるだけだ。その条件でやってみる気がないというなら、いまそういってくれ。だれかやる気のある男をさがすことができるようにな」
ファーガソンはデスクの上を的《まと》にナイフ投げをはじめた。もう少しで完全にまっすぐ突き立ちそうになったが、そこで失敗して、彼は静かにいった。「ホワイト・サンズの政府の基地で働いてた男のことが頭にあるんですがね。たしかにとても切れる坊やだったし、そこの課の設計主任をやってたんですよ」
「きみのチームの主任にできるというのか?」
「そういうことです」
「名前は? どこにいる? どこに勤めているんだ?」
「それが、ちょうど政府がホワイト・サンズを閉鎖したとき、そんな腕のいい坊やを失業させるのはもったいないと思ったんで、わたしがスカイウェイ社にいれたんです。いまカリフォルニアで整備主任をやってますよ」
「整備? 創造的な男に、なんて仕事をやらせるんだ! しかし、それじゃその男は、いまうちの会社にいるというんだな? すぐテレビ電話で呼べ! いや、カリフォルニアに連絡して、特別ロケットでこっちに送らせろ。いっしょに昼食をとろう」
「それが、たまたま」ファーガソンは静かにいった。「ゆうべおそくわたしが起きて彼に電話をかけ──それでうちのかみさんが怒っちまったんですがね。彼はいま、部屋の外で待ってますよ。名前はコスター──ボブ・コスターですよ」
ゆっくりとハリマンの顔に笑いがひろがった。「アンディ! おまえは腹黒い老いぼれ悪党だな。なんだってあんな気の進まないようなまねをしたんだ?」
「別にそんなつもりはなかったですよ。ハリマンさん、わたしはここが気にいってる。あんたがじゃまさえしなければ、これでも自分の仕事はつとめていくつもりですよ。ところで、わたしのいいたいことはこうなんです──つまり、若いコスターをこんどの仕事の主任技師にして、彼を大将にするんです。わたしもあいつの足を引っぱるようなことはしたくないから、報告書を読むだけにします。あとはすっかりまかせておく。聞いてるんですか? 腕のいい技術者を何よりも悠らせるのは、小切手帳をもった何も知らない阿《あ》呆《ほう》が、ああだこうだと仕事の指図をすることですよ」
「よかろう。それに、わたしもその男の仕事を渋滞させるような、一文惜しみの阿呆にはなりたくない。きみもそいつのじゃまをしないように気をつけろ。さもないと、きみだって容赦しないで引っくりかえしてやるからな、これでおたがいに、話はわかったわけだな?」
「そうでしょうな」
「では、その男を呼んでくれ」
ファーガソンが「坊や」というのは三十五ぐらいをさすらしく、ハリマンもコスターの年はそのくらいだと思った。背が高くてやせた、静かな熱意をもった人柄だった。ハリマンは握手がすむとすぐにハッパをかける。「ボブ、月まで行けるロケットをきみに作れるか?」
コスターは目ばたきひとつせずにこの質問を受けた。「X燃料の材料はあるんですか?」とやりかえす。ロケット・マンに特有の、もとエネルギー衛星で作ったアイントープ燃料をつづめていう略語を使っていた。
「ない」
コスターはしばらく完全にだまりごくっていたが、やがて答えた。「月面に無人通信ロケットを到達させることならできます」
「それだけじゃだめなんだ。わたしは月に行って着陸し、帰ってきたいんだ。こっちへ着陸するのは、動力によっても大気圏によるブレーキによっても、そこは大した問題じゃない」
コスターという男は、なんでもすぐには返事をしないらしい。ハリマンは、この男の頭のなかで歯車のまわっているようすが目に浮かぶような気がした。「そいつは、とても金のかかる仕事になりますね」
「経費がいくらかかるか、そんなことは聞いてないぞ。できるのか?」
「やってみることはできます」
「やってみる? 冗談じゃない! できるとは思わないのか? そいつにすべてを賭けようという気にはならんか? その計画に首まで賭けてもいいと思わないか? 自分自身を信じられないようでは、きみ、いつだって失敗ばかりしてなきゃならんぞ」
「あなたはどれだけ賭けるんです? この仕事は金がかかるといったんですよ──どのくらいの金がかかるか、あなたには見当がついてるとも思えないけど」
「それをわたしは、金のことは気にするなといってるんだ。いるだけ使え、金を払うのはわたしの仕事だ。やれるのか?」
「やれます。いくらかかるか、期間がどのくらいかかるかは、あとで知らせます」
「よろしい。すぐに部下を集めにかかってくれ。アンディ、場所はどこがいいかな?」彼はファーガソンに向きなおってつけ加えた。「オーストラリアはどうだ?」
「だめです」答えたのはコスターだった。「オーストラリアではだめです。山を使ったカタパルト方式にしたい。そうすれば、第一段ロケットの分が節約できる」
「どのくらいの山だね?」ハリマンがたずねた。「パイクス・ピークではどうだ?」
「アンデスのなかでなければだめですね」ファーガソンが反対する。「高さも高いし、赤道に近いから。それに、あすこならこっちの施設──つまりアンデス開発社の施設もそろってるし」
「ボブ、きみのいいようにやってくれ」ハリマンはコスターにいった。「わたしはパイクス・ピークのほうがいいんだが、きみにまかせるよ」彼は地球の宇宙港第一号をアメリカ合衆国にきめることは、宣伝上たいへんな役に立つと考えていたのだった。それに、パイクス・ピークからの月ロケットの発射が、東側何百マイルのあらゆる人間に見られるという宣伝上の有利さが目に浮かぶ。
「あとで連絡します」
「ところで、給料のことだが、いままでもらっていた額は考えるなよ。いくらほしい?」
コスターは文字どおり手をふって、その話をはらいのけた。「仕事に必要なのは、コーヒーとケーキ」
「ばかいえ」
「まあおわりまで聞いてくださいよ。コーヒーとケーキと、もうひとつあるんです。わたしも月に行くということ」
ハリマンは目ばたきした。「そうか、その気持はわかるな」ゆっくりという。「それまで、きみの給料は当座預金にふりこんでおこう」最後につけ加える。「ところで、きみがロケットの操縦ができるんでなかったら、三人乗りに設計したほうがいいな」
「操縦はできません」
「では三人乗りだ。だって、わたしもいっしょに行くんだからな」
「ダン、あんたも仲間にはいることになってよかったよ」ハリマンがいっていた。「さもなければ、あんたは失業ということになっちまったかもしれないんだ。こんどの仕事が完成するまでに、エネルギー・シンジケートもひどい大打撃を受けることになるからね」
ディクソンはロール・パンにバターをつけた。「へえ? そりゃどうして?」
「アリゾナに作ったような高温原子炉を、ちょうど人工衛星で破裂しちまったやつみたいに、月の向こう側のすみずみにいくつも作るからさ。リモート・コントロールにしてね。こんどは爆発しても大丈夫なようにさ。そうすれば、いまシンジケートが三カ月がかって作る以上のX燃料を一週間で生み出すことになる。別に個人的な恨みでやるわけじゃない、ただわたしとしては惑星間定期便のための燃料がほしいだけだがね。ここで充分な資材が手にはいらなければ、月で作るよりしようがないからね」
「おもしろいな。しかし、六つもの原子炉に使うだけのウラニウムを、どこから手にいれるつもりだ? このあいだの話では、原子エネルギー管理委員会は、向後二十年間の予定供給額を割り当てずみにしてしまっているそうだ」
「ウラニウムだって? ばかいいなさんな、月から掘り出せるさ」
「月から? 月にウラニウムがあるのか?」
「知らなかったのか? 知っているからこそわれわれの仲間に加わったんだと思ったが」
「いや、知らなかった」ディクソンはゆっくりいった。「ウラニウムが出るというどんな証拠がある?」
「わたしにそんなこと……科学者じゃないんだからね。だが、よく知られている事実だぜ。分光学とかなんとかいったがね。専門家のだれかに聞いてみたまえ。ただ、あまり関心を見せすぎないようにしろよ。まだ、こっちの手のうちは公開はしてないんだから」ハリマンは立ち上がった。「さあ、もう出かけないと、ロッテルダム行きのロケットに乗りおくれる。ごちそうさま」帽子をつかんで出ていった。
ハリマンは腰を上げた。「どうぞご随意に、ミンヘール・ファン・デル・ヴェルデ。わたしはただ、あなたやその仲間に賭けの危険を避けるチャンスをあたえようというだけですからね。地質学者もダイヤモンドが火山活動によってできることはみんな認めている。向こうへ行って、何が見つかると思います?」月の大きな写真を、オランダ人のデスクの上に落とした。
ダイヤモンド商人は、冷ややかに写真の大きな火口の痕が千もあるあばた面《づら》の天体をながめた。「あんたがそこに行かれればね、ハリマンさん」
ハリマンはさっと写真をとりあげた。「行きますよ。それに、ダイヤモンドも見つける──もちろん、大きな鉱脈にぶつかるまでに、二十年かあるいは四十年もかかるかもしれないってことは認めますよ。わたしがここへきたのは、社会共同体の一員としていちばん悪いやつは、新しい企画をそれまでの世間と平和的に調整して行こうとしないで、いきなり新しい経済的な大事件を引き起こす人間だと信じているからです。恐慌さわぎというのはわたしは好かんのでね。しかし、あなたにはこれだけ警告する以外に何もしてあげられんらしい、それではさよなら」
「おかけなさい、ハリマンさん。わたしはいつも、人がわたしのためになるという話をしてくれると混乱してしまってね。どうです。どうすればあなたに得になるかといういい方で説明してくれませんか? そうすれば、おたがいに月からのダイヤの急なインフレに対して、世界市場を守る方法を相談できる」
ハリマンは腰をおろした。
ハリマンは低地諸国と呼ばれるこのオランダやベルギーが好きだった。犬に牛乳の車を引かせて、若い主人が本物の木靴をはいているのを見つけて、彼は大喜びだった。胸おどらせて写真を撮り、子供にたっぷりチップをやって、これが旅行者目当てのお芝居だということには気がつかない。彼はほかにも何軒かダイヤモンド商人を訪れたが、月の話はしなかった。いろいろと買物をしたなかに、妻のシャーロッテへのブローチもあった──仲なおりのための贈り物だった。
それから彼は、タクシー・ヘリコプターでロンドンに飛び、ロンドンのダイヤモンド・シンジケートの代表にも話を吹きこみ、ロンドンにいる彼の弁護士を通じてロンドンのロイド保険会社に保険契約をする。架空名義で月ロケット失敗にそなえての保険だった。それから国の事務所に電話。いろいろな報告を聞いて、とくにモンゴメリーの関係したほうの報告を聞いて、モンゴメリーがニュー・デリーにいるのを知った。ニュー・デリーの彼に電話して長話のあげく、急いで空港にかけつけてやっと乗るべきロケットに間にあった。翌朝には彼はコロラドにいた。
コロラド・スプリングスの東のピーターソン基地では、彼はゲイトをとおるのに手を焼いた。いまではここは借り切ってしまっているので、彼の領地みたいなものだったし、もちろんコスターを呼び出せばすぐに話はつくのだが、彼はコスターに会う前に見てまわりたかったのだ。さいわい警備主任が彼の顔を見て気がついてくれたので、彼はなかにはいり、自由に歩きまわれるしるしの三色のバッジを上着にピンでとめて、一時間以上もぶらぶらと見てまわった。
機械工場はどうやら忙しそうに動いていたし、基礎作りのほうもまあまあだったが……工場のほとんどは人影もなかった。ハリマンは工場を出て、技術部の本館にはいっていった。製図室と倉庫はかなり活気があり、計算課も活気はある。だが、建設部のデスクには空《あ》いている席がいくつもあり、金属グループととなりの冶《や》金《きん》研究所は、教会みたいにひっそりしていた。化学部と資材部の別館に渡ろうとしたところで、急にコスターが現われた。
「ハリマンさん! 来ていらっしゃるといま聞いたんですよ」
「いたるところにスパイありか」ハリマンはつぶやいた。「きみのじゃまをしたくなかったんだ」
「どういたしまして。部屋へ行きましょう」
部屋におさまってしばらくすると、ハリマンはたずねた。「ところで──調子はどうだね?」
コスターは眉をひそめた。「まあ、いいといえるでしょうね」
ハリマンはこの主任技師のデスクの篭が、デスクにあふれるくらい書類でいっぱいになっているのに気がついた。ハリマンが何もいう間もなく、コスターのデスクの電話にあかりがつき、女の声が甘ったるくいう。「コスターさん、モーゲンスターンさんから電話です」
「いま忙しいといってくれ」
ちょっと待って、女は困ったような口調でいう。「ちょっとひと言ですむというんですが」
コスターは困ったような顔をした。「ちょっと失礼──よし、つないでくれ」
女が男にかわって、男の声がいう。「ああ、いたんですか──なんでこう待たせるんです? ねえ主任、例の輸送のことで動きがつかんのですよ。チャーターしたやつは、どいつもみんな分解検査の必要のあるやつばかりで、しかもいまになってホワイト・フリート社は何もしないというんです──契約書のこまかい文字を盾にしてましてね。どうもあたしの感じでは、この契約は解消して、ビーク・シティ運送と取引きしたほうがよさそうですよ。あっちの機構なら、あたしにもよさそうに見えますよ。向こうはちゃんと保証して……」
「自分でなんとかしろ」コスターは噛みつくようにいった。「きみが契約したんだ。解約する権限もきみにあるよ。わかってるだろう」
「ええ、しかし主任、こいつは主任がじかにやりたがることじゃないかと思って。問題は契約書がからんでくるし──」
「なんとか始末をつけろ! わたしのほうは必要なときに輸送力がそろいさえすれば、あとのことは知っちゃいないんだ」スイッチを切る。
「いまのはだれだ?」ハリマンがたずねた。
「だれって? ああ、モーゲンスターンですよ。クロード・モーゲンスターンです」
「名前じゃない、何をやってる男だ?」
「助手のひとりです──建物と土地と輸送のことをやってます」
「やめさせちまえ!」
コスターは強情そうな顔をした。返事をする前に秘書がはいってきて、書類を一枚もってしつっこくつきまとって彼のうしろに立つ。コスターは眉をひそめて書類に頭文字のサインをすると、秘書を追いはらった。
「いや、わたしは何も命令してるわけじゃないよ」ハリマンはつけ加えた。「だが、まじめな忠告のつもりだ。わたしほきみのうしろに控えて命令をするようなつもりはない──だが、ちょっとわたしの忠告を聞いてくれるな?」
「もちろん」コスターはぎごちなく同意した。
「その……きみはひとつの仕事の最高のボスになったのは、これがはじめてだろう?」
コスターはためらってから認めた。
「わたしがきみを雇ったのは、きみが月ロケット船を成功するように建造できそうな、いちばんいい技術者だとファーガソンが信じていたからだ。それ以来、わたしの気持を変えるような理由はまだ何もないよ。ただ、最高の管理業務というのは技術者の仕事ではないし、もしきみが聞くというなら、ちょっとこつをいくつか見せてやることもできるだろう」返事を持つ。「何もきみを批判してるわけじゃないんだ」とつけ加える。「最高責任者の仕事というものは、セックスと似ている。実際にやってみるまではわからんものなんだ」ハリマンは腹のなかで、もしこの若い男が忠告をいれようとしなかったら、たとえファーガソンがなんといおうと、首にしてしまおうと心をきめた。
コスターはデスクをトントンたたいていた。「どこが悪いのか自分でもわからないけど、それは事実ですね。まるで、何かの仕事をだれかにやらせて、まともにやらせるということが、全然できないみたいなんです。まるで流砂のなかで泳いでるみたいな気分ですよ」
「近ごろは、技術的な仕事もあまりできないな?」
「やろうとはしてるんです」すみの別のデスクのほうに手をふる。「そこで、夜おそく仕事をするんです」
「そいつはよくないな。わたしはきみを技師として雇ったんだ。ボブ、ここの機構が全然よくないんだ。各部が活発に動いてなければいかんのに──動いてない。きみの部屋は墓場のようにひっそりしてなければいかんのだ。それが、きみの部屋ばかりにぎやかで、各現場は墓場みたいだ」
コスターは両手で顔をおおってしまったが、やがて顔を上げる。「わかってます。なんとかしなければいけないとわかってるんです──しかし、わたしが何か技術的な問題と取り組んでいると、阿呆なとんちきがやれ輸送の問題だ、やれ電話だなんだかだと、つまらんことでわたしに決定を求めてくるんです。すみません、ハリマンさん。自分ではやれると思っていたんですが」
ハリマンはうんとやさしくいった。「負けてはいかんよ、ボブ。きみは近ごろ、あまりよく眠っていないな? いいことがある──ファーガソンのやつをびっくりさせてやろう。わたしが四、五日そのデスクにがんばって、きみがそんなつまらんことから守ってもらえるような態勢をととのえよう。わたしが求めているきみの頭脳は、反動ベクトルとか燃料効率、設計荷重などということを考える頭脳で、運送契約なんかを考える頭じゃないからな」ハリマンは戸口に歩みより、控えの部屋を見まわし、秘書課長だかなんだかわからない男を見つけた。「おい、きみ──来てくれ」
男はびっくりして腰を上げ、戸口にきていう。「なんでしょう?」
「そのすみのデスクとその上のものを、この階の空いてる部屋に運んでもらいたい。すぐにだ」
男は目を丸くした。「それで、こんなことをうかがってなんですが、あなたはだれです?」
「ばか!」
「ウェーバー、いわれたとおりにしろ」コスターが口を出した。
「二十分以内にやるんだ」ハリマンがいう。「早くせんか!」
彼はコスターのもうひとつのデスクにふりかえると、電話のスイッチをいれ、すぐにスカイウェイズ本社と話す。「ジム、そっちのジョック・バークリーはいるか? やつの仕事をはずして、すぐにこっちへよこしてくれ。ピーターソン基地だ、特別機ですぐにだぞ。この電話が切れてから十分以内に離陸させたいんだ。彼の荷物はあとから送れ」ハリマンはちょっと相手のいうことを聞いてから答えた。「いや、そっちはジョックがいなくなってもバラバラになんかならんよ──もしそうなったら、われわれはとんでもない男に最高の給料を払ってたってことになるぞ……よし、よし、いつか機会があったら、わたしにしっぺがえしをさせてやってもいいが、とにかくジョックをよこしてくれ。じゃ、また」
コスターともうひとつのデスクが別室に引っこすのを監督して、そっちには電話がつながらないようにし、ちょっと考えてから、思い出したようにソファも一脚運びこませる。「投影器と製図器と本箱みたいなガラクタも今夜そろえよう」彼はコスターにいった。「いるものはなんでもリストにしでおけばいい──技師としての仕事にいるものだよ。それに、何かほしいものがあったら、わたしに電話するんだ」ハリマンは名目だけの主任技師室にもどると、どういう機構にしたらいいか、どこが悪いのかつきとめようと、楽しそうに考えていた。
四時間ばかりたって、彼はバークリーをコスターに会わせにつれていった。主任技師はデスクにつっ伏して腕を枕に眠っていた。ハリマンが出ていこうとしたが、コスターは目をさました。「あっ、すみません」赤くなっていう。「つい居眠りしちまったらしい」
「だから長椅子をはこばせといたんだよ」ハリマンはいった。「長椅子のほうが休まるよ。ボブ、ジョック・バークリーを紹介しよう。彼はいま、きみの奴隷だ。きみは主任技師で最高のだれにも制約されない責任者のままだよ。ジョックはいわば、ほかの仕事を引き受ける摂政殿下だな。これからは、きみは全然何にもわずらわされることはないよ──ただ、月ロケットを作る細部の問題は別だがね」
ふたりは握手した。「コスターさん、ひとつだけお願いがあります」バークリーがまじめにいった。「あんたは技術的なことをやってかなきゃならないんだから、なんならわたしを飛ばして、じかにだれと連絡をとってくれてもけっこうです──ただ、後生ですから、わたしにも進行状態がわかるように記録しておいてください。あんたのデスクに、わたしのデスクに組みこんだレコーダーがまわるようにスイッチをつけますから」
「けっこうですとも!」コスターはすでに若がえったようだとハリマンは考えた。
「それから、技術的なこと以外で何か必要があったら、自分ではやらないでください。スイッチをいれて口笛を吹けば、あとはわたしがやりますからね」バークリーはちらっとハリマンを見た。「社長はあんたと本当の仕事について話したいといってますから、わたしはこれで失礼して、向こうの雑用を片づけます」彼は出ていった。
ハリマンが腰をおろし、コスターもそれをまねて「すごいなあ!」といった。
「気分はよくなったかね?」
「あのバークリーという男、気にいりましたよ」
「よかった。これからはきみたちふたりはふたごの兄弟みたいなもんだ。もうつまらんことで頭を悩ますなよ。わたしも前にあの男は使ったことがある。きみは、うまくいってる病院に住みこんでるつもりでいるんだね。ところで、きみはどこに住んでる?」
「スプリングスの下宿屋です」
「ばかげてるな。しかも、ここには眠るところもないのか?」ハリマンはコスターのデスクに手を伸ばし、バークリーを呼び出す。「ジョック──コスター君にブロードモア・ホテルのつづき部屋をとってくれ。仮名でだ」
「はい」
「それから、この部屋につづけて、アパートふうな設備をそろえてくれ」
「はい。今夜までに」
「ところでボブ、月ロケットの件だが、どの程度まで進んだ?」
ふたりはそれからの二時間、気のすむまでその問題のくわしいところを、コスターがくりひろげる報告をもとに話しあった。この基地を借りてから、ほとんどなんの進捗《しんちょく》も見られなかったことはわかっていたが、コスターは理論的な問題と数学上の成果は、事務的なこまごました仕事を山と押しつけられる前にかなりやりとげていたことがわかった。ハリマンは技術者ではなかったし、数学の問題は金のからんだ原始的な算数以外は何も知らなかったが、宇宙飛行についてわかるだけのことは長い間熱心に勉強したので、コスターの示すことの大部分はついていけるのだった。
「きみのいう、山を利用したカタパルトというのが、どこにも出てこないようだが」やがて彼はいった。
コスターは困ったような顔をした。「ああ、あれか──ハリマンさん、どうも早計だったらしいんですよ」
「えっ? どうして? モンゴメリーの部下たちに、定期航路ができるようになってからのようすを、きれいな絵に描かせているんだぜ。コロラド・スプリングスを宇宙船の世界第一の中心地にするつもりなんだ。もう、古い歯型レールの鉄道の権利も手にいれちまったくらいだ。どこがまずいんだ?」
「それが、時間と金の問題なんです」
「金のことなんか忘れちまえ。そっちはわたしの仕事だ」
「では、時間です。いまでもわたしは、化学的合成燃料によるロケットには、最初の発進は電力銃方式によるのがいちばんいいと思ってます。こうなんです──」手早くスケッチを描きはじめる。「こうすれば、多段ロケットにしても第一段をはぶけます。これが、ロケットのほかの部分すべてを合わせたより大きくて、しかもこういう燃料ではひどく効率が悪いですからね。しかし、ほかにどうしたらいいでしょう? 塔を建てるわけにはいきませんよ。高さが二マイルもあって、発進の力に耐えられるなんて塔は、作れない──とにかく、年内に作れったってむりです。そこで、山を作らなければならない。パイクス・ピークだってどこだっていいんです。パイクス・ピークなら、少なくとも地の利はいいですよ。
「ところが、その山を使うのにどうしなければならないか? 第一に、山腹に洞穴を掘らなきゃならない。マニトウから山頂の真下まで、宇宙船を積んだ台車が通れるくらいの穴です──」
「てっペんからおろすようにしたら」ハリマンが意見を出した。
コスターが答える。「それも考えました。装備した宇宙船を二マイルの高さからおろすエレベーターは、ロープを垂らすだけでできるもんじゃありませんよ。実際、そこらでかんたんに手にはいるもので作れるものじゃない。たしかにカタパルト用の加速コイルを逆にして、仕事のつど変えられるようにすればいいんですが、ハリマンさん、それは全然別な技術的な大きな問題ができてくるんですよ──ちょうど宇宙船の上に大きな鉄道線路を引いてくるような問題ですよ。それにまだある。カタパルト用の穴を掘らなければならないという問題ですよ。ロケットみたいな小さい穴ですむわけじゃない、鉄砲の銃口とちがいますからね。かなり太い穴でなければならないんです。二マイルの長さの空気の柱を無事に圧縮しちまうことはできませんからね。そうたしかに山のカタパルト式発射基地は作れますよ、しかし十年か、あるいはもっとかかるかもしれない」
「だったらあきらめるんだな。将来建造するとしても、こんどの発射にはだめだ。そう、待てよ──山の側面のカタパルトはどうだ? 山腹を削って、端までカーブさせて行くのは?」
「正直いって、そんなような形が結局使われることになると思うんです。しかし、現在の場合は、それは新しい問題が出てくるばかりですよ。最後のカーブをうまく曲がれるように電気銃方式を発明できたとしても──これも現在ではできないんですが──こんどはロケットの側面にかかる恐ろしい力を考えて設計しなければならなくなり、われわれの第一の目的から考えると、ロケットの設計によけいな重荷になるんです」
「それでボブ、きみの解決法というのはなんなのだ」
コスターは眉をひそめた。「これまでにわかってるやり方に帰るわけです──第一段ロケットを作ることです」
「モンティ──」
「はい、なんでしょう?」
「この歌を聞いたことがあるか?」ハリマンが鼻歌で調子をつけてから、「月はみんなのもの。この世で何よりいいものは、ただで見られて──」とひどい調子はずれで歌った。
「聞いたことがあるとはいえませんね」
「きみたちより前の時代の歌だ。こいつをまた掘り出したいんだ。リバイバルさせて、いやというほど聞かせ、みんなが口ずさむようにしたい」
「いいですよ」モンゴメリーはメモ帳を出した。「流行のやまはいつにもってきたいんです?」
ハリマンは考えた。「そうだな、三《み》月《つき》ぐらいうちにだな。そこでこの歌の最初の句をとって、宣伝スローガンに使いたい」
「お安いご用ですよ」
「ところでモンティ、フロリダのようすはどうだ?」
「州議員を全部買収しなきゃならないと思ってたんですが、そこでロサンゼルスがロサンゼルス市境界標≠月に立てたのを宣伝写真に使わせる契約をしたという噂がひろがりましてね。みんなこっちの味方になりました」
「よかった」ハリマンは考えた。「なあ、そいつも悪い考えじゃないな。それで、ロサンゼルスの商工会議所は、その写真にどのくらい出すだろう?」
モンゴメリーはまたメモをつけた。「当たってみます」
「それで、フロリダが片づいで、こんどはテキサスにかかる準備はできたんだろ?」
「ほとんどできてます。先に少しまがいものの噂を流してます」
ダラス・フォート・ワース・バナー紙の見出し──
「月はテキサスのものだ!!」
「──それで締め切りは今夜です。空箱の蓋を送るか、蓋といっしょの規定どおりの電送写真に限ります。念のために──一等には月の一千エーカーの農場、無料でさら地を進呈。二等は六フィートの月ロケットの模型、さらに、三等五十人の方には馴らしたシェトランド種小馬を進呈。「なぜわたしは月に行きたいか」の百語の作文は、まじめさと創意を基準に判断し、文学的価値によっては選考いたしません。おじさんあめ°箱の蓋の送り先は──オールド・メキシコ、ブァレスの私書函一二四」
ハリマンはモカコーカ(「モークだけが本当のコーク」「元気を出してコーラを飲もう」)の会社の社長室に案内された。ドアのところで足を止める。社長のデスクから二十フィートばかり離れていたが、そこで手早く二インチばかりの大きなバッジを衿にビンで止めた。
パターソン・グリッグスは顔を上げた。「いよう、これは光栄至極、D・Dのご入来か。さあ、どうぞこち──」ここで清涼飲料会社の社長は急に口をつぐんで顔色を変えた。「いったい、そこにつけてるそいつはなんだ?」噛みつくような口調だった。「わたしをおこらせようというのか?」
「そいつ」というのは二インチの丸いバッジだった。ハリマンはそいつをはずしてポケットにしまう。セルロイドの丸い宣伝用のバッジで、べったりと黄色い地に一面に大きく黒く刷りこんであるのが6+というモカコーカのただひとつの本格的商売仇のマークだった。
「いや」ハリマンは答えた。「もっとも、あんたがおこるのもむりないと思うがね。この国の小学生の半分が、このばかげたバッジをつけてるのを見て知ってるよ。しかし、きょうここへきためは、おこらせるためでなく、友だちとしてちょっと耳にいれてやることがあって、きたんだ」
「それはどういう意味だね?」
「わたしが戸口に立ち止まって衿にこのバッジをつけたとき、このバッジの大きさが──あんたがデスクのところで立ったところから見た大きさだが──庭に立って満月を見上げたときの月の大きさと同じだ。このバッジの柄はなんのぞうさなく見えたね? それはわかってる、いきなりどなりだしたくらいだから」
「それがどうしたんだ?」
「だから、この六プラスという文字が子供のセーターのかわりにお月様の表面に大きく描かれたら、あんたはどう思うか──あんたの会社の売上げにどうひびくかというんだ」
グリッグスは考えてからいった。「D・D、つまらん冗談はやめてくれ。わたしはきょうは参ってるんだ」
「冗談じゃないんだ。わたしがこの月ロケットの企業に資金を出してることは、取引所あたりの噂でおそらく聞いてるはずだ。ここだけの話だが、ねえパット、いくらわたしにでもなかなか金のかかる大仕事なんだよ。三日前にある男がわたしのところへきてね──名前は伏せさしてもらっとくが、あんたには見当がつくだろう。とにかくその男は、月の宣伝利用権を買いたいという人間の代理としてきたんだ。こっちの仕事が必ず成功するかどうかは知らないが、危険は承知でやるというんだそうだ。
「最初はわたしにもなんの話か見当もつかなかったが、ずばりと切りだされてね。こんどは向こうが冗談をいってるのかと思ったよ。ところが、ここでギョッとした。これを見てくれ──」ハリマンは大きな紙を出して、グリッグスのデスクにひろげた。「ほら、この装置を月のまんなかあたりのどこへ置いてもいいのはわかるね。十八発の花火式ロケットを十八の方向に発射する。軍のスポークみたいにね。ただ、距離は克明に計算してあるんだ。そいつが落ちて、運んでいった爆弾が破裂して、こまかく分けたカーボンをそれぞれ計算した距離に飛び散らす。月には空気がないだろ──こまかい粉でも投げ槍のように軽く飛ぶだろう。結果はこうだ」紙を裏がえす。裏にはうすく焼きつけた月の写真があって、その上に黒くべッタリと6+と描いてある。
「じゃあ、あの会社か──あの毒虫めが!」
「いや、ちがうよ、そうはいってないぜ! しかし、これで狙いはよくわかるはずだ。6と+はただの字型にすぎない。月の表面に読めるくらいの大きさでひろげることもできる」
グリッグスはこの恐るべき宣伝資料をにらんだ。「うまくいくとは信じられん!」
「信用できる花火屋が、やれると保証したよ──わたしがその装置を月まで運ぶことができればね。結局、パット、月では花火式ロケットでもずっと遠くまで飛ぶんだ。そう、あんだだって野球のボールを二マイルも投げられるんだぜ──ほら、重力が少ないからさ」
「世間がだまってないだろう。冒涜だ!」
ハリマンは悲しそうな顔をした。「あんたのいうとおりならいいんだが。しかし、世間は飛行機雲の描く文字の宣伝にもだまってるし──それに、テレビのコマーシャルもそうだ」
グリッグスは唇を噛んだ。「だったら、なんでわたしのところにそんな話をしにきたのか、わけがわからん!」どなりだす。「うちの商品の名前が月に描けんことぐらいは、百も承知のはずだ。うちの文字では、小さすぎて読めんようになってしまう」
ハリマンはうなずいた。「だからこそ、あんたのとこへきたんだよ。パット、こんどのことはわたしにとってただの商売じゃないんだ。わたしの心、わたしのたましいなんだ。だれかが月の表面を実際に宣伝に使うなんて、考えただけでも胸がむかつく。あんたのいうとおり、冒涜だよ。ところが、どうしたことかあの禿鷹《はげたか》どもが、わたしが金につまっているのをさぐりだしたんだ。ちょうどこっちが向こうの話を聞かなければならない潮時を見て押しかけてきたんだ。
「そのときは、あいつらをはぐらかして、木曜には返事する約束をした。それから帰って、床にはいっても考えると眠れなかった。しばらくしてから、あんたのことを思いだしてね」
「わたしのことを?」
「そうさ。あんたとこの会社のことさ。結局あんたもいい品物を作っているし、そのための適切な宣伝費は計上する必要がある。そこでふと考えたんだが、月を宣伝に使うことは月をそんな台無しにするより、まだいろいろと方法はある。そこで、あんたの会社が同じような宣伝の権利を買い、だが公徳心から月に文字を描くようなことをしないと約束してくれないかと思ったんだ。それを記事にして広告に使ったらどうだろう? 男の子と女の子が月の光の下で、一本のモークを分けて飲んでる写真を使ったら? モークは最初の月ロケットに積みこまれた唯一のソフト・ドリンクだったとしたら? しかし、そうするためにはあんたにどう話をもってったらいいかわからないんだ」ちらっと指輪時計をのぞく。「いや、もう行かなければ。この話はあんたをせきたてたくないんだ。もし話にのりたいんだったら、あすの昼までにわたしの事務所にひとこといってよこしてくれれば、うちのモンゴメリーをおたくの宣伝部長に連絡とるようにさせるよ」
大きな系列を握った新聞社の会長も、ハリマンのことはどこかの大君か閣僚なみにしか待たせなかった。ここでもハリマンは、大きな会長室の戸口で足を止めると、衿に丸いバッジをつける。
「やあディロス」新聞社の主《ぬし》はいった。「グリーンのチーズ玉のようすは、きょうはどうだね?」ここでバッジを見て眉をひそめる。「おいおい、冗談にしても、趣味が悪いぞ」
ハリマンはバッジをポケットにいれた。彼の見せたバッジは六プラスのではなく、ハンマーと鎌のバッジだった。
「いや、冗談ではないんだ。いわば悪夢みたいなものでね。大佐、あなたとわたしは、この国でも共産主義がまだ脅威であることを理解している数少ない人間のうちですよ」
しばらくすると、大佐の系列の新聞が月ロケットの壮挙には最初から一度もじゃまなどしなかったみたいに、ふたりは仲よく話しあっていた。会長はデスクのほうに葉巻をふっていう。「ところで、その計画というのはどこで手にいれた? 盗んだのかね?」
「ただの写しですよ」ハリマンはきわどいところで嘘をつかずにすむ。「しかし、こんなものは問題じゃない。問題は、先に月に到達すること。月に敵のロケット基地を作らせるわけにはいきませんからね。何年も前から、よく夢に見てうなされるんだが、朝、目がさめて見ると、ロシアが月に到達して月ソヴィエトを建設したという大見出しを見る夢ですよ。そう、男十三人女ふたりの科学者からなる一団で、ソ連邦に参加の請願を出して、もちろんソ連の最高会議でもその請願は喜んで受理する。この夢からさめると、わたしはいつもからだがふるえていた。向こうが実際に月の面にハンマーと鎌を描くかどうか知らないが、向こうの心理作戦にはぴったりだな。ほら、いつもぶら下げているあのばかでかいポスターを見てもわかる」
新聞社の会長は葉巻をぐいと噛みしめた。「われわれに何ができるか考えよう。出発を早める手だては何かあるのかね?」
「ハリマンさん?」
「なんだ?」
「ルクロアという方がまた見えましたが」
「会えんといってくれ」
「はい──あ、ハリマンさん、この前いうのを忘れたけど、ロケット・パイロットの方だそうです」
「スカイウェイズ社にまわせ。ここではパイロットは雇わん」
男の顔がスクリーンに割りこんできて、ハリマンの受付の娘とかわる。「ハリマンさん──わたしはレスリー・ルクロア、シャロンの交替用パイロットだったんです」
「だれだが知らんが、たとえガブリエル天使だろうと──なんだと、シャロンだって?」
「シャロンですよ。それで、お話があるんです」
「はいりたまえ」
ハリマンは、はいってきた男に挨拶をすると、たばこをすすめてから興味をもってじろじろとながめた。シャロンというのは、なくなってしまったエネルギー衛星と地球の間を往復していたロケットで、世間で目にした宇宙船の最後のものだったのだ。そのパイロットは、衛星とシャロンが破談されたときの同じ爆発で死んでしまったが、ある意味では、そのパイロットは来たるべき宇宙人の先駆者ともいえるものだった。
ハリマンは、なぜシャロン号に交替要員のパイロットがいたことを、自分が気がつかなかったのかとふしぎだった。もちろん、いることは知っていたはずだが──どういうわけか、その事実は勘定にいれるのを忘れていたのだった。エネルギー衛星もそれとの連絡ロケットも、それに関するすべても、過去のものとあきらめて考えようともしなかったのだった。彼はいまルクロアをふしぎそうにながめた。
目にうつったのは小柄なキリッとした男で、細い知的な顔に騎手のような大きな器用そうな手をしている。ルクロアは別に恐れげもなくさぐるような視線をかえした。落ちついて完全な自信をもっている男のようだった。
「それで、ルクロア機長、話というのは?」
「月ロケットを作ってるそうですね」
「だれに聞いた?」
「月ロケットは建造中ですよ。あなたが黒幕だと、みんながいってますよ」
「それで?」
「そのパイロットになりたいんです」
「なぜ、きみにしなければならないんだ?」
「わたしがいちばん適格だからですよ」
ハリマンはひと息ついて、たばこの煙を吹き上げた。「それが証明できれば、きみにやらせよう」
「いいでしょう」ルクロアは立ち上がった。「名前と住所は外の受付にいっておきます」
「ちょっと待ちたまえ。それが証明できればといったんだよ。話しあってみよう。この月飛行にはわたしも行くつもりだ。きみに命を託す前に、もっときみのことを知りたいな」
ふたりは月飛行、惑星間飛行、ロケット学、月に行って何が発見できるかというようなことを話しあった。だんだんにハリマンも熱を帯びてきた。まるですばらしい夢にとりつかれた、自分と同じタイプの人間を見つけたような気がした。意識下では、彼はすでにルクロアを受けいれているのだった。話はだんだん、ふたりで共同の冒険のことを話しているような口ぶりになってきていた。
長い話しあいのあとで、ハリマンがいった。「レス、おもしろい話だったが、わたしはまだきょうじゅうに片づけなければならない雑用がいくつかあるんだ。こいつを片づけないと、月へ行けなくなるからな。きみはピーターソン基地に行って、ボブ・コスターと会ってくれ──こっちから電話しておく。ふたりがうまくやっていけるようだったら、契約の相談をしよう」伝票を書くとルクロアに渡した。「これを帰りにミス・パーキンスに渡したまえ。給料をくれるよ」
「そいつはあとでいいですよ」
「人間は食わなきゃならんからな」
ルクロアは伝票を受けとったが、出て行かなかった。「ハリマンさん、ひとつだけわからないことがあるんですが」
「なんだね?」
「なぜ化学合成燃料を使おうとするんです? 別に反対するわけじゃないし、わたしにはそれでもやれますがね。ただなぜやっかいな道を選ぶのか? シティ・オブ・ブリスベーン号をX燃料を使うように作ったのは知ってますし──」
ハリマンは目を丸くして見た。「レス、気でも狂ったのか? なぜブタに翼がないかと聞くようなもんだぞ──X燃料なんて全然ないし、月へ行って自分たちで作るんでなかったら、手にはいる見こみもないんだ」
「だれがそういいました?」
「それはどういうことだ?」
「わたしの聞いたところでは、原子エネルギー委員会はX燃料を、条約にもとづいていくつかの外国に割り当てています──しかも、それを使うお膳立てのできてない国もあるんですよ。しかし、それでもそういう国は割り当てを受けている。その分はどうなったんです?」
「あっ、そうだ! たしかにレス、中南米の小さい国がいくつか、政治的な理由から分け前を要求していた──使い道もないくせにだ──しかもけっこうなことには、われわれが買いもどして、さしせまったエネルギー不足の緩和に使っているありさまだ」ハリマンは眉をひそめた。「もっとも、きみのいうとおりだな。あいつを手にいれればよかったんだな」
「全部売りきれてるのはたしかですか?」
「そりゃもちろんさ。わたしだって──いや、そうともいえんぞ。調べてみよう。さよなら、レス」
ハリマンが連絡した相手は、すぐにX燃料の行く先を一ポンド残らずつきとめたが──コスタリカに割り当てた分だけが残った。この国は人工衛星爆発のころには、X燃料に合う発電炉が完成近いというので、割り当て分の買いもどしに応じなかったのだった。さらに調査をつづけて、その発電炉はとうとう完成しなかったことがわかった。
モンゴメリーはそのときにもマナガにいた。ニカラガの政権が変わって、モンゴメリーはそこの月探検法人の特殊な地位が保護されるように確証をとりつけようとしていたのだった。ハリマンはサン・ホセに暗号電報を打ち、燃料の行くえをつきとめ、いくら高くてもいいから買って送りもどせと命じた。ハリマンはそれから、原子力委員会の委員長に会いにいった。
委員長は彼に会うのがうれしいらしく、愛想よくしようと努めているようだった。ハリマンの話が、アイソトープ──正確にいってX燃料の実験的使用の認可をほしいという説明になる。
「ハリマンさん、それは正規の手続きで申請すべきですな」
「そうしますよ。これはただ、さぐりのようなもんでね。そっちの出ようを知りたいんですよ」
「結局、委員はわたしひとりではないんだし……それに、たいていの場合、うちの技術部からの意見に従ってます」
「カール、そうはぐらかさないでさ。あんたが委員会の多数を握って支配していることはわかってるくせに。ここだけの話、あんたの意見ではどうですかね?」
「それがD・D、ここだけの話ですが、X燃料はあんたの手にはいらないんだから、なんで認可が必要なんです?」
「そこんとこはまかしといてくれればいいんですがね」
「ふうむ……X燃料は大量殺人の兵器に使われる恐れのあるものという区分にいれられなくなってから、X燃料のミリキュリーまで、行くえをいちいちつきとめるという法律はなくなったが、同時にごらんのようなありさまになった。使うべきX燃料が全然ないんです」
ハリマンはだまったままだった。
「第二に、X燃料の使用認可はもらえますよ。もし、ロケット燃料以外に使いたいというならね」
「なぜそんな制約が?」
「あなたは月ロケットを作っている。そうでしょ?」
「わたしが?」
「D・D、わたしの目はごまかせませんよ。そういうことを知るのは、わたしの仕事なんだから。あなたは、よしんばX燃料を見つけたをしても──見つけられないだろうが──ロケットに使うことはできませんな」委員長はデスクのうしろの金庫に行って、四つ折り判の本をとってくると、ハリマンの前に置いた。題名は『ラジオアイソトープ燃料数種の安定性に関する理論的研究──付・シャロン・エネルギー衛星災害について』表紙には通しナンバーがついていて、「秘」のスタンプが押しであった。
ハリマンは本を押しのけた。「こんなものは見てもしようがないし、見てもわからんでしょうな」
委員長はにやりと笑った。「よろしい、では内容を話しましょう。D・D、わざとあなたの手をしばるようなことになるが、あなたを信じて国防秘密保護法にふれる内容を──」
「けっこう、聞きたくないといってるんです!」
「D・D、宇宙船にX燃料を使おうとなんかしなさんな。たしかに、燃料としてはいいものだが、宇宙に飛び出したら花火みたいにいつ爆発するかわからないんですよ。この報告書はその理由をあげています」
「ばかな! シャロンだって、三年近くも無事に往復していた!」
「あれは運がよかったんです。これはまだ完全な秘密ということになってますが、当局の公式な見解は、エネルギー衛星がシャアンを爆発させたのでなく、シャロンが衛星を爆破させたのだということです。われわれも最初はその逆を考えていたんですが、もちろんその可能性もあった。しかし、レーダーの記録によると、それではまずい事実が現われてきたんです。どうも宇宙船のほうが、衛星より何分の一秒か早く爆発してるらしいんです。そこで、本腰をいれた理論的調査をやったんです。X燃料はロケットには危険すぎます」
「そんなばかな! シャロンで一ポンドの燃料を使う間に、地球上の発電炉では少なくとも百ポンドの燃料を燃していた。どうしてそれが爆発しないんです?」
「遮蔽度の問題です。ロケットの場合は通常固定発電炉より防護壁がうすい。しかし、いちばんまずいのは、宇宙に出て動くということです。惨事が起こったのも、最初の口火を切ったのは宇宙線だったと推定されています。よかったら説明のため、数理物理学者を呼びましょう?」
ハリマンは首をふった。「そういう専門語がわからんのは知ってるでしょう」ちょっと考えて、「では、ほかにどうしようもないんですな?」
「そのようです。本当にお気の毒です」ハリマンが立って帰りかける。「あ、D・D、もうひとつ──あなたはわたしの下僚のだれかに近づこうなんて考えてないでしょうね?」
「もちろん。そんなことするわけがないでしょうが?」
「それを聞いてほっとしました。ねえハリマンさん、うちの連中には世界で一流の科学者とはいえない連中もいますが、一流の科学者を政府機関に喜んで仕事をする状態で引きとめておくことはとてもむずかしいんですよ。しかし、ひとつだけ確信できることがある。彼らはみんな、絶対に買収されないってことです。それがわかっているから、だれかがうちの連中に力ずくで何かやらせようとしたりすると、わたしはそれを侮辱と受けとって──わたし自身に対するひどい侮辱と受けとることにしてるんです」
「それで?」
「そうなんですよ。ところで、わたしはこれでも大学時代にはライト・ヘビー級でボクシングをやってましたからね。いまでもやってますよ」
「ふーむ……とにかく、わたしは大学にはいかなかった。しかし、ポーカーはかなりやってますよ」ハリマンは急ににやにやしだした。「カール、あんたの部下にへんなまねはしません。餓えてる人間に袖の下を使ったら、金がかかりすぎる。ではまた」
事務所に帰るとハリマンは、秘書のひとりを呼んだ。「モンゴメリー君のところへ、また暗号電報を打ってくれ。例のものをアメリカではなく、パナマ市に送れというんだ」コスター宛てに別な電報で、すでにコロラド高原で空に向かって骨組をそそり立たせているパイオニア二号の仕事をやめ、もとのシティ・オブ・ブリスベーン号であるサンタ・マリア号のほうに仕事を移せという命令を口述しはじめた。
彼はそこで考えなおす。離陸は合衆国の外にしなければならない。原子力委員会が固いことをいうと、サンタ・マリア号を移動させようとするのはまずい。手の内が見えすいてしまう。
それに、化学合成燃料用に改造してからでなければ動かせない。だめだ。ブリスベーン級のを機関部をぬきにしてもう一台作り、そいつをパナマに送って、あとでサンタ・マリア号の動力炉をはずして送ることならできる。コスターなら、新しい宇宙船を六週間以内に作る準備ができているだろう。もっと早くできるかもしれない……そうすれば、彼とコスター、ルクロアは月に出発できるんだ!
宇宙線のことなんか気に病《や》むことはないぞ! シャロン号だって三年も活躍したじゃないか! 月に行ってみて、無事にやりとげられることを証明して見せてから、もっと安全な燃料が必要だったら、つづいてそいつを掘りだせばいいんだ。肝腎なのはやりとげること、月に到達することだ。コロンブスだって、もっとちゃんとした船が手にはいるのを待っていたら、われわれはまだヨーロッパにいたことになったろう。男はチャンスをつかまなければ、何もできやしないんだ。
満足そうに彼は新しい計画を実行するような電報を書きはじめた。
秘書にさまたげられる。「ハリマンさん、モンゴメリーさんから電話です」
「えっ? もう暗号電報を受けとったのか?」
「わかりません」
「とにかくつなげ」
モンゴメリーは二度目の電報は受けとっていなかった。しかし、ハリマンに知らせることがあったのだ。コスタリカは、X燃料はイギリスの動力省に衛星爆発の直後に売ってしまったというのだった。コスタリカにもイギリスにも、X燃料はもう一オンスも残っていない。
モンゴメリーがスクリーンから消えてから、しばらくはハリマンはすわりこんだまま汗をふいていた。やがてコスターに電話する。「ボブか? ルクロアはいるか?」
「ちょうどここに──いっしょに晩飯に行こうとしてたとこです。いまここにいますよ」
「どうだ、レス。レス、きみの話はいい思いつきだったが、だめだったよ。肝腎なものをだれかに先どりされちまった」
「えっ? はあ、わかりました。すみません」
「わびごとに時間なんかつぶすな。最初の計画どおりに進めるんだ。どうしても向こうに行くんだぞ!」
「もちろんですとも」
「ポピュラー・テクニック」六月号には──「月に有望なウラニウム鉱埋蔵地──目前にせまる重要産業についての真相記事」
「ホリデイ」誌より──「月でハネムーンを──あなたの子供たちを楽しませる奇蹟の行楽地についての討論──本誌旅行担当記者記」
「アメリカン・サンデー・マガジン」より──「月にダイヤモンドはあるか? ──月噴火口痕になぜダイヤモンドが小石のようにごろごろしているか、世界の一流科学者の解説」
「もちろんクレム、わたしは電子工学のことは何も知らんよ。しかし、こういうふうに説明してもらっているんだ。つまり、近ごろではテレビ放送のビームは一度ばかりのせまい示向性にして送れるんだって。そうだろ?」
「ああ、それだけの大型リフレクターを使えばね」
「だったらずいぶん楽なものになるぜ。地球は月から見たら、宇宙に対する二度ぐらいを占領しているんだ。もちろん、距離はずいぶんあるが、発信にはエネルギーの損失もないし、まったく完全にして不変の状態を得られるんだ。設備さえできてしまえば、地球の高い山の上から放送するより別に金がかかるわけでもないし、いまみたいにいつも全国いたるところでヘリコプターを飛ばしておくやり方より、ずっと金はかからないぜ」
「ディロス、夢みたいな計画だな」
「何が夢みたいだ? 月に行くのは、わたしにまかせてくれればいい。そっちで心配することはないよ。月に行きさえすれば、地球へ月からテレビ放送してくることになる。これは全財産を賭けてもいいことだぜ。直接視線による通信装置を作ることは、当たり前なことだよ。きみが興味がないなら、だれか興味をもちそうな相手をさがそう」
「興味がないとはいってないぞ」
「ほう、だったら腹をきめろよ。それからまだあるよ、クレムーきみの商売に鼻面をつっこみたくはないが、リレー局に使っていたエネルギー衛星がなくなって、いろいろと困ったことが出てるんじゃないかね?」
「答えなくてもわかってるだろうに、いやなことをいうなよ。注ぎこんだ金が経理にちっとも効果を見せないで消えてしまったんだ」
「わたしのいってるのはそのことじゃない。検閲はどうなんだい?」
テレビ会社社長はさっと両手を上げた。「その言葉を口にするな! 全国のありとあらゆるつまらん婦人団休なんかに、われわれが聞かせていいもの悪いもの、見せていいもの悪いものを、いちいち丹念に調べるなんていわれて、この商売がやっていかれると思うのかい? もうお手あげだよ。だいたい、根本的な考え方からしてまちがってるんだ。まるで、赤ん坊にステーキが食えないからといって、大の男にスキム・ミルクをあたえろといってるようなもんだぜ。あのけったくそ悪い、本当の腹のなかは淫乱でいやらしいくせに、もっともらしいことをぬかしやがるあいつらを、この手でとっつかまえてひねりつぶして……」
「まあ落ちつけよ! 落ちついてくれ!」ハリマンが口をはさんだ。「月からの放送だったら、だれも手も出せないということを考えたことはないのかね? 地球上の検閲機関は月にはどっちにしても手はとどかないと」
「なんだって? もう一度いってくれ」
「ライフ月へ行く<宴Cフ・タイム社は、ライフ誌読者をしたしくわが衛星たる月への第一回旅行にご案内できる手配が完了したことをお知らせするのを誇りとしております。毎週のライフ、パーティに行く≠フ記事にかわり、最初の月ロケットが帰還に成功した直後に──」
「新時代への保障」
(北大西洋相互保険会社の広告より抜粋)
「──シカゴ大火より、サン・フランシスコ大火より、さらに一九一二年の大戦以来のあらゆる惨害より、つねに未来を望んで契約者をお守りしてきた小社では、現在ではたとえ月における損害のような不慮の事態にまで保険の手を伸ばし──」
「技術のはて知れぬ尖兵」
「月ロケット、パイオニア号が焔のはしごを空に昇るとき、その内臓の二十七の欠くことのできない装置を動かすのは、とくに設計されたデルタ印バッテリーなのです──」
「ハリマンさん、基地にきてもらえますか?」
「どうしたんだ、ボブ?」
「問題が起こって」コスターはかんたんにいった。
「どんな問題なんだ?」
コスターは口ごもっていた。「テレビ電話では話したくないんです。こられないなら、レスといっしょにそっちへ行ったほうがよかったかな」
「今夜、そっちにつくよ」
ハリマンが行って見ると、ルクロアの無表情な顔に苦《にが》いものがかくれていたし、コスターもふてくされたような顔をしている。コスターの仕事部屋で三人きりになるのを待って、ハリマンは口を開いた。「さあ、なんだね?」
ルクロアはコスターの顔を見た。技師のほうは唇を噛んでいった。「ハリマンさん、設計がおわるまでの経過は知ってますね」
「多少はね」
「この前はカタパルトで飛ばす考えをあきらめなければならなかった。それがこんどは──」コスターはデスクの上を引っかきまわして、四段ロケットの鳥瞰図を引っぱりだした。大きいがかなり優雅な型をしている。「理論的にはこれで行けるんですが、現実的には内容をあまり切りつめすぎてしまったんです。構造力学の連中や補給の連中、操縦装置の連中なんかがいろいろつけ加えたので、とうとう仕方なしにこういうことになったんです──」彼は別のスケッチをほうり出した。基本的には最初のものと同じなのだが、もっとずんぐりと太って、まるでピラミッドのような形だった。「四番目のロケットのまわりに、環みたいに第五のロケットを加えたんです。第五のロケットをコントロールするのに、第四のロケットの装置をほとんど共用することにして、これでもいくらかの重量を節約したんです。それに、格好は無細工でも、部分的比重というやつは、大した障害なしに大気圏を突破できるくらいになったんです」
ハリマンはうなずいた。「なあボブ、月への定期航路をとおす前に、この多段式ロケットという考えは捨てなければならなくなるな」
「しかし、どうやって化学合成燃料ロケットをやめることができるのかわからないな」
「ちゃんとしたカタパルトがあれば、一段式の化学燃料ロケットでも地球のまわりの軌道に打ちあげることができる。そうだろ?」
「もちろん」
「そうするんだよ。その軌道に乗って燃料を補給する」
「昔の宇宙ステーション的なお膳立てだな。たしかに筋はとおるだろうし──実際、それはわかってますよ。ただ、このロケットは燃料補給をしないで、そのまま月に行くんですからね。経済的に考えれば、月に降りずに月のまわりをまわる別の宇宙ステーションまで、そこから飛んで行く特別なロケットを作ればいいんだな。そうすれば──」
ルクロアがおよそ彼には珍しい短気なところを見せた。「いまそんなこといっててもしようがない。ボブ、話をつづけろよ」
「そうだな」ハリマンも同意した。
「それが、この型でできるはずだった。ちくしょう、やっぱりこの型でなければだめなんだ」
ハリマンはあっけにとられた。「しかしボブ、これはいい設計だ、そうだろ? この基地に、この型で現に三分の二まで作ったんだ」
「そうなんです」コスターはなぐられたような顔をする。「ところが、だめなんです。これじゃいけないんです」
「なぜだ?」
「むだな重量をあまりに積みこまなければならなくなったからです。ハリマンさん、あなたは技術者じゃないから、燃料や発電機以外のものをロケットにごたごた積みこまなければならなくなったら、実験はすぐに失敗になってしまうということは、見当もつかないでしょう。たとえば、この五番目の環状ロケットの降下装置を見てください。このロケットは一分半しか使わないで、すぐに切り離すんです。ところが、そいつがウィチタやカンサス・シティに落ちる危険をほっとくわけにはいかない。そこでパラシュートを内蔵させなければならなくなる。それでもまだ、その部分が落ちるところをレーダーで追い、人のいない地方であまり高くないところに行ったら紐を切るように、ラジオによる制御装置を考えなければならない。つまり、パラシュートのほかにもっと重量がふえるということです。すっかり計算してみたら、その段のロケットで正味秒速一マイルの加速も得られないんです。それでは足りません」
ハリマンはすわったまま尻をもじもじさせた。「アメリカから発射させようとしたのがまちがいだったらしいな。どこか人の住んでいないところ、たとえばブラジルの海岸からでもやれば、補助推進装置《ブースター》は太平洋に落とせる。そうすれば、どのくらい助かる?」
コスターは遠くを見つめるような顔をしていたが、やがて計算尺を出した。「うまくいくかもしれません」
「いまの段階で、ロケットを運ぶというのは、どのくらいやっかいな仕事だね?」
「そうですねえ……完全な分解はどうしても必要だろうな。いますぐ経費を見積ることはできませんが、ずいぶん金がかかりますよ」
「期間はどのくらい?」
「そう……だめだハリマンさん、いますぐ答えられやしませんよ。二年か──うまくいって一年半。基地の用意をしなければならないし、工場を作らなければならない」
ハリマンは、心のなかでは自分の答えはわかっていたが、もう一度考えてみた。糧道のもとが、いくら大きいとはいえ、すでに危険なところにまできていた。あと二年間も、話だけで会社をでっちあげつづけることはできない。月旅行に成功して見せなければならないし、それもすぐにだ──さもなければ、砂上の楼閣のようなこの企業体は瓦壊してしまう。「だめだな、ボブ」
「そうだろうと思ったんです。とにかく、第六の補助ロケットまでつけようとしてみたんです」彼はもう一枚のスケッチを出した。「この怪物を見てください。とうとう限界点に達しちまったんです。このできそこないの窮極の出力は、五段ロケットより低いんです」
「ボブ、するときみの負けというわけか? 月ロケットは作れないというのか?」
「そうじゃないんですが──」
ルクロアがだしぬけにいった。「カンサスを立ち退かせればいいんだ」
「なんだって?」ハリマンが聞きかえした。
「カンサスと東コロラドの人間を、ひとり残らず立ち退かせればいいんですよ。第四と第五の補助ロケットを、その地域のどこにでも落とせる。第三のは太平洋に落ちるし、第二のは永久軌道に来る──宇宙船自体は月へ行く。第五と第四の補助ロケットにパラシュートをつけるむだな重量を加えることなしにやれる。ボブのいうとおりにすれば」
「ボブの? どういうことなんだね、ボブ?」
「いまいったことなんですよ。この計画がだめだったのは、付随的な重荷を課せられたからで、基本的な設計にはまちがいはないんです」
「ふーむ……だれか世界地図をくれ」ハリマンはカンサスとコロラドをながめて、何か大ざっぱな計算をやった。ちょっとの間、びっくりしたように宙をにらんでいる。コスターがさっき自分の技術的な問題を考えていたときのような目つきだった。やっと口をひらく。「できんな」
「なぜです?」
「金だ。わたしはきみたちに、金のことは心配するなといった──この月ロケットのためにはね。しかし、これだけの地域の人間をたとえ一日だけでも立ち退かせるには、六、七百万ドル以上の金がかかる。それに、手に負えないようなゴネ得《どく》の連中とも裁判で話をつけなければならなくなるし、こっちはそれまで持てん。それに、どうしても動かせないがんこ者も出るだろう」
ルクロアが乱暴にいった。「気違いの阿呆が立ち退かなかったら、勝手に危ない思いをさせてやりゃいいんだ」
「きみの気持はわかをよ、レス。しかし、この計画はこっそりやるには大きすぎるし、動かすにしても大きすぎるんだ。野次馬を守るようにやっておかなければ、法廷の命令で力ずくで中止させられちまう。ふたつの州の判事を全員買収しちまうことはできないな。買収に応じないのもいくらか出てくるだろうからね」
「レス、いい考えだったんだがなあ」コスターがなぐさめた。
「それさえできれば、われわれ三人にとって文句のない解答になると思ったんだがね」パイロットが答えた。
ハリマンがいう。「ボブ、何かほかにも解決法があるような口ぶりだったな?」
コスターは困ったような顔をした。「ほら、月ロケット本体の設計は──三人乗り、三人前の空間と補給品を積むようにしてましたね」
「ああ。きみは何がいいたいんだね?」
「三人行く必要はないんですよ。本体を二分して、ひとり乗りの最小限の大きさにちぢめ、あとは噴射燃料を積みこむんです。この基本的設計を生かすには、それ以外には方法は見つかりません」別のスケッチを出す。「ほらね? ひとりの人間と一週間足らずの補給物資です。気閘《エアロック》もなしで──パイロットは気圧服を着たままにする。船室もなければ寝棚もない。ひとりの人間がせいぜい二百時間生きていかれる最少限です。これならできます」
「できるだろう」ルクロアがコスターの顔を見つめておうむがえしにいった。
ハリマンは、妙な吐き気のようなものを胃の腑《ふ》におぼえながら、スケッチをながめた。そうだ、これならまちがいなく月に行けるだろう──しかも、企業の目的としては、月に行って帰ってくるのはひとりでも三人でも問題はない。ただ、実行さえすればいいのだ。一度成功さえすれば、あとは実用的な乗客を乗せる月ロケットに発展させる資金ができるまで、金がころがりこんでくることを彼は信じて疑わなかった。
ライト兄弟のスタートの条件はもっと悪かった。
「それで辛抱しなければならんというなら、そうすることになるだろうな」彼はゆっくりいった。
コスターは生気をとりもどした。「よかった! しかし、もうひとつ問題があるんですよ。わたしがこの仕事にかかると引きうけたとき、わたしも行くんだという条件をつけたことをおぼえてますね。いま、レスは自分の契約書をわたしの鼻先にひらつかせて、パイロットは自分でなければいけないというんですよ」
「それだけじゃない」ルクロアがやりかえした。「きみはパイロットじゃないんだぜ、ボブ。その牛みたいな強情のおかげで、きみ自身の命を落とし、この計画をすっかりだめにしちまうことになる」
「飛び方ぐらい習うさ。とにかく、自分で設計したものなんだからね。ねえハリマンさん、あなたを相手にしたくはないし、レスはあなたを相手に裁判にかけてもいいといってるけど、わたしの契約書は彼のより先にできてるんですからね。契約書を盾にとりますよ」
「ハリマンさん、彼のいうことを聞いちゃだめですよ。勝手に訴えさせればいいんだ。わたしならこのロケットを飛ばして、帰ってくる。彼にやらせたら破壊しちまいますよ」
「わたしが行くか、さもなければロケットは作らない」コスターがにべもなくいった。
ハリマンはふたりにだまるように手をふった。「落ちつくんだ、ふたりとも落ちついてくれ。それで気がすむなら、ふたりともわたしを契約違反で訴えたらいいだろう。ボブ、ばかなことをいうな。この段階になったら、仕上げにほかの技術者を雇うこともできるんだぞ。いまきみは、ひとりしか乗れんといったな」
「そうですよ」
「乗る人間は、きみたちの目の前にいるよ」
ふたりは目をむいた。
「いつまであんぐり口をあけてるんだ!」ハリマンが鋭くいった。「何がおかしい? わたしが本気なことは、きみたちも、知ってるはずだ。わたしがさんざ苦労をしてきたのは、きみたちふたりを月に行かせるためだけだと思うか? わたし自身が行くつもりなんだ。わたしがパイロットになってどこが悪い? からだは健康だし、目もいい、まだ習うべきことは習えるだけの頭もある。そんなうば車みたいなもの、操縦しなけりゃならんのなら、操縦してやる。わたしはだれにだって負けんぞ。いいか、だれにだって道慮なんかせんぞ!」
コスターが先に口を開いた。「ハリマンさん、自分でいってることがわかってないんだなあ」
二時間後、三人はまだいい争っていた。ハリマンはほとんど強情にだまりこくったまま、ふたりのいうことに返事もしないのだった。やっと、月なみないいわけをしてちょっと部屋を出る。もどってくると、彼はいった。「ボブ、きみの体重は?」
「わたしですか? 二百ポンドちょっとです」
「二百二十ポンドに近そうだな。レス、きみの体重は?」
「百二十六ですよ」
「ボブ、正味百二十六ポンドの人間を乗せるロケットを設計しろ」
「えっ? ちょっと待ってくださいよ、ハリマンさん──」
「うるさい! わたしが六週間でパイロットの技術を身につけられないとすれば、きみだってむりだ」
「しかし、数学だとかロケットの基礎的な知識は──」
「だまれといってるんだ! レスは、きみがきみの専門を勉強したぐらいの長い間、この専門の勉強をしてきてるんだ。彼が六週間で技師になれるか? そう考えてみたら、どうしてそれだけの期間できみが彼の仕事を身につけられるなんて思うんだ? きみの増長した自我を満足させるために、わたしの月ロケットをこわさせることはない。とにかく、設計の問題を論じながら、きみがこの決定の本当の鍵をあたえてくれたようなものなんだ。真の限定されるべき要素は、乗る人間あるいは人間どもの重量だ。そうだろ? すべてが──あらゆる部分がそのひとつの重量と比例をなしてくる。そうだろ?」
「それはそうですが──」
「わたしのいってることは、正しいのかまちがってるのか、どっちなんだ?」
「それは……ええ、正しいです。ただわたしは──」
「小さい男のほうが、少ない水で少ない空気で生きられるし、空間もとらない。レスが行くんだ」
ハリマンはコスターのそばに歩みより、肩に手をかげた。「なあ、くさるなよ。きみも辛いだろうが、わたしだって辛いんだ。このロケットは成功させなければならない──つまり、きみもわたしも、月へ一番乗りという名誉はあきらめなければならん。しかし、これだけは約束しよう。もれわれは二度目のロケットで行くんだ。そのときは、レスはわれわれのお抱え運転手だぞ。多くの旅客ロケットのなかでの一番乗りだよ。なあボブ──きみもいま辛抱してくれれば、この仕事では大ものになれるぞ。最初の月植民地の技師長というのはどうだい?」
コスターはやっと笑顔を作った。「そう悪くもありませんね」
「気にいるよ。月に住むということは、技術的な問題になってくるだろう。前にもその話はしたな。きみの考えを実行に移してみたらどうだ? 最初の都市を作るんだろ? 大きな展望台をそこに建てるんだろ? そこから見晴らして、これが自分の仕事だとながめるんだろ?」
コスターもすっかり調子を合わせてきた。「あなたの口にかかると、とても楽しそうに聞こえますよ。そうだ、あなたは何をするんです?」
「わたしか? そうだな、ルナ・シティの初代市長になってもいいな」これはハリマンにとってもはじめての思いつきで、その考えを味わうように考えめぐらす。「ルナ・シティ市長ディロス・デヴィド・ハリマン閣下。そうだ、気にいったな! なあ、わたしはこれまで何も公職についたことはなかったんだ。なんでも手にいれてしまうばかりでね」ふたりの顔を見くらべる。「万事話はついたんだな?」
「そうらしいですね」コスターがゆっくりいった。いきなりルクロアに手をつきつける。「レス、きみが飛べ。ロケットはわたしが作る」
ルクロアはその手をつかんだ。「よしきた。それから、きみも親爺さんもぐずぐずしないで、すぐ次の仕事の計画にかかってくれよ──三人がそろって行けるような大きいやつだぜ」
「よしっ!」
ハリマンはふたりの手の上に手をかさねた。「そう、そういう口のきき方が好きだな。われわれはいっしょだ、力を合わせてルナ・シティを建設するんだ」
「ハリマン市と名前をつけるべきだと思うな」ルクロアが真顔でいった。
「とんでもない、わたしは子供のときから、ルナ・シティと思っていたんだ。ルナ・シティにしようよ。ただ、そのまんなかの広場をハリマン広場と名づけてもいいな」ハリマンはつけ加えた。
「設計図にそう書いときますよ」コスターも同意した。
ハリマンはすぐに部屋を出た。話はついたのだが、彼はひどく気がめいって、ふたりの仲間にそれを見せたくなかったのだった。古代ギリシアのピリック大王ではないが、勝利の犠牲は大きかった。企業の命は救ったが、彼は罠からのがれるために自分の脚を食いちぎったけもののような気分だった。
ストロングがハリマンと共用の事務室にひとりでいるとき、ディクソンから電話がかかってきた。「ジョージ、D・Dをさがしてるんだが、そっちにいるかね?」
「いや、またワシントンに行ってる──何か証明書のことでね。もう帰ってくるだろうと思うんだが」
「ふーむ……エンテンザもわたしも、彼に会いたいんだ。いまそっちへ行く」
ふたりはすぐに現われた。エンテンザは、何かでこれまでにひどく頭にきているようすをありありと示していたが、ディクソンは例のとおりたくみに無表情をよそおっている。挨拶がすむと、ディクソンはちょっと待ってから口を開いた。「ジャック、きみは何か渡すものがあるんだろ?」
エンテンザがとび上がった。やがて、ポケットから手形を一枚つかみ出す。
「そうだっけ! ジョージ、やっぱり小口の比例配分にはしたくないからね。これがきょうまでのわたしの分担金の金額だよ」
ストロングはそれを受けとった。「ディロスが喜ぶよ」手形を引出しにしまう。
「ところで、その受取は書かないのか?」ディクソンが鋭くいった。
「ジャックが受取がほしいというならね。支払いずみの手形が返るから、それが受取の役はするだろうに」そうはいっても、ストロングはそれ以上何もいわずに受取を書いた。エンテンザがそれをもらう。
三人はしばらく待った。やがてディクソンがいう。「ジョージ、あんたはこの仕事に、かなり深くはいりこんじまってるんだろ?」
「まあね」
「自分の賭け金に、損を防ぐ予防措置を打っておかないか?」
「どうやって?」
「まあ、ざっくばらんにいって、わたしも自分の身を守りたいんだ。きみの持ち株の一パーセントの半分を売らないか?」
ストロングは考えてみた。たしかに彼も心配だった──胸が悪くなるくらい心配だった。ディクソンの代理として監査役が乗りこんでいるので、事業はやむなく現金を集めてやらなければならない──ストロングだけが、この四人の共同経営者をつなぐ繩がいまにも切れそうだと承知しているのだった。「なぜ、そんなものがほしいんだね?」
「いや、ディロスの仕事のじゃまをするような使い方をするつもりはないよ。われわれが彼を選んだ以上、彼の尻押しをするさ。だが、もし彼がわれわれに払いきれないような何かをやってしまおうとしかけたら、待ったをかける権利を握っていたほうがずっと安心できるだろう。きみもディロスのことは知ってるはずだ。あれはどうしようもない楽天家だよ。何かの形のブレーキをもつべきだな」
ストロングは考えてみた。彼がおもしろくないのは、自分がなんでもディクソンのいったことに同感だったということだった。彼もこれまで、長年苦労して築きあげてきた自分とディロスのふたつの財産を、ディロスが湯水のようにばらまいてしまうのをだまって見てきたのだった。ディロスはもう、財産のことなんかなんとも思ってないようだった。そういえば、ついけさのことだが、H&S家庭用自動電気スイッチの報告書を見るのもいやだといっていた──すっかりストロングに押しつけてしまって……
ディクソンは前に乗りだした。「ジョージ、値をいってくれ。気前よく払うぜ」
ストロングは猫背の肩を張った。「売ろう──」
「よしっ!」
「ただし、ディロスがいいといったらね。それでなければ売れない」
ディクソンが何かつぶやき、エンテンザがふんと鼻を鳴らした。話がこじれて、もっときびしいやりとりになるところだったが、ここでハリマンがはいってきた。
ストロングにもちかけた話については、だれもなんともいわない。ストロングが出張の成果を聞くと、ハリマンは親指と人差指をあわせてうまくいったという合図。「万事順調だよ。ただ、ワシントンへ日参するのに、ますます金がかかってくるな」ほかのふたりにふりかえる。「どういうわけだね? 何か特別に集まる理由でもあるのかね? 重役会議かい?」
ディクソンがエンテンザにふりかえった。「ジャック、いえよ」
エンテンザはハリマンに向きなおった。「テレビの権利を売るのはどういうつもりだ?」
ハリマンはビクリと片方の眉を上げた。「ほう、いけないかね?」
「テレビの権利はわたしによこす約束だったからだ。最初の契約だぞ、こっちは書類にしてもってるんだぞ」
「ジャック、契約書をもう一度読んだほうがいいな。中途はんぱな読み方はいかんよ。きみのもっているのは、ラジオ、テレビ、その他の娯楽手段ならびに特別読物を、第一回の月探検に関して開発する権利だけだ。いまでも、その権利はもってるわけだよ。ロケットからの放送も含めてね。ただ、放送ができればの話だが」ここでハリマンは、重量の問題からこのあとのほうの件はすでに不可能になっているのを、いまは話す時期ではないと思った。パイオニア号には、宇宙旅行に必要なもの以外、いかなる電子装置も積まないだろう。「それに、わたしが売ったのは、あとで月にテレビ局を建てる権利だけだ。それはそうと、これは独占権ではないんだよ。クレム・ハガーティはそう思いこんでいるがね。もし、きみも買いたいんだったら、ゆずってもいいよ」
「買えだと! どうしてこのわたしに──」
「そうか! 無料で使用してもいいわけだ。ディクソンとジョージが、きみにやらせると同意したらね。わたしだって、けちじゃないよ」
ディクソンが口をはさんだ。「ディロス、いま、どこまでいってるんだ?」
「諸君、パイオニア号は予定どおり、次の水曜に発射できると思っていい。そうそう、失礼だが、もうピーターソン基地に出かけてなきゃならない時間だ」
ハリマンが出て行くと、三人の仲間はしばらくだまってすわりこんでいた。エンテンザはぶつぶつひとりごとをつぶやき、ディクソンは何か考えこんでいるらしく、ストロングはただ待っているだけだった。やがてディクソンがいった。「ジョージ、さっきの端株の話はどうだ?」
「ディロスに相談していいこととはあんたも思ってないみたいだったが」
「なるほど」ディクソンは丹念にたばこの灰を落とした。「変わった男だよ、あの男は、ね?」
ストロングは「そう」とはぐらかした。
「彼と知りあってどのくらいになる?」
「えーと──彼がわたしのところへ勤めにきたのが──」
「あんたに雇われてたのか?」
「数カ月だがね。そこでいっしょに、われわれの最初の会社を作ったんだ」ストロングはそのころのことを思い出していた。「あの男は、当時から権力コンプレックスを抱いていたんだろうな」
「ちがうな」ディクソンが仔《し》細《さい》らしくいった。「ちがうよ、あれは権力コンプレックスなんてもんじゃない。メシア・コンプレックスよりひどいくらいのもんだ」
エンテンザが顔をあげた。「腹黒い悪党だよ、あいつはそういう男だ」
ストロングがおだやかに彼を見た。「彼のことをそういういい方はしてもらいたくないな。とくにあんたにそういういい方はしてもらいたくないよ、本当に」
「やめとけよ、ジャック」ディクソンが命令する。「ジョージがきみをなぐらなければならなくなるかもしれんぞ。彼の身についた奇妙なことのひとつに、まるで封建君主みたいに忠誠心を人に抱かせることができるというところがある。たとえばあんた自身だ。ジョージ、あんたが全財産をはたいてしまったことは知ってるよ──しかも、あんたはわたしの助けの手も受けつけない。これは理屈ではないな。人柄というやつだな」
ストロングはうなずいた。「奇妙な男だよ。いわゆる泥棒男爵といわれる人間の末裔《まつえい》じゃないかと思うことがある」
ディクソンは首をふった。「末裔じゃないな。泥棒男爵の末裔はアメリカの西部を開いた。彼は新しい泥棒男爵の先駆だよ──あんたもわたしも、その先のことは見られない。カーライルを読んだことがあるかね?」
ストロングはまたうなずいた。「英雄論のことだろうと思うが、わたしは必ずしも同意はしないな」
「しかし、何か関係があるよ」ディクソンは答えた。「本当のところ、わたしもディロスが自分で何をやってるか承知しているとは思わない。彼は新しい帝国主義の基礎を作っているんだ。きれいに片づく前に、悪魔のしっぺがえしを食うだろうな」彼は立ち上がった。「われわれは、もっと待てばよかったのかもしれないな。彼が失敗するまで待てばよかったのかもしれない──もし、待つことができたらね。しかし、もう乗りかかってしまったんだ。おたがいに、もうメリー・ゴー・ラウンドに乗っていて、いまさらおりるわけにもいかないんだ。みんなが楽しく乗れることを祈るだけだよ。行こう、ジャック」
コロラド大草原は夕闇に包まれてきた。日は山のかげにかくれ、丸い満月の大きな白い顔が東から昇る。ピーターソン基地のまんなかに、パイオニア号が空に向かってそびえていた。ロケットの基部から四方に千ヤードの間隔をとって、有刺鉄線の柵が群集をさえぎっている。柵のすぐ内側では、警備員が休みなくパトロールをつづけていた。群集のなかにも、もっと大勢の警備員がばらまかれている。柵の内側の柵のすぐそばに、カメラや録音装置やテレビ装置のトラックやトレラーが止めてある。そこから出た無数のケーブルは、ロケットの四方八方に遠く離したり近くよったりして置いたリモコン装置の集音器につながっていた。ロケットのそばにもほかのトラックが何台かいて、組織だった作業の活気を見せている。
ハリマンはコスターの部屋で待っていた。コスター自身は基地に出ていたし、ディクソンとエンテンザもふたり用の部屋をあてがわれていた。ルクロアは眠り薬で、コスターの仕事用の居住区にある寝室で眠っていた。
ドアの外に、さわがしい音と文句をいう声が聞こえる。ハリマンはドアを細目にあけた。「また新聞記者だったら、だめだとことわってくれ。向こうのモンゴメリー氏のところへやれ。ルクロア機長は非公式のインタビューはできないんだ」
「ディロス、わたしだ! いれてくれ」
「ああ──なんだ、ジョージか。はいれよ。記者どもに追いかけまわされて死にそうなんだ」
ストロングがはいってきて、ハリマンに大きなずっしりする手提袋を渡した。「これだ」
「なんだ?」
「切手協会の、月へ行って帰ってくる切手だ。忘れてたろう。これだけで五十万ドルになるんだぞ、ディロス」愚痴《ぐち》っぽくいう。「きみのロッカーのなかにあるのを見つけたからよかったが、さもないとえらい目にあうところだったんだぞ」
ハリマンは表情をとりもどした。「ジョージ、きみは石頭だな。そういう男だよ、きみは」
「自分でロケットに積みこもうか?」ストロングが心配そうにいった。
「えっ? いや、いいんだ。レスがもっていくよ」ちらっと時計をのぞく。「もう起こしてもいいころだな。こいつはわたしが責任をもつよ」ハリマンは袋を受けとってつけ加えた。「いまははいってこないでくれ。出発の挨拶は外でもできるからね」
ハリマンはとなりの部屋に行き、なかにはいるとドアをしめて、眠り薬で眠っているパイロットに、看護婦が反対の刺戟薬を注射するのを待ち、看護婦を追い出した。起き上がって目をこすっているパイロットのほうにふりかえる。「レス、気分はどうだ?」
「上乗ですよ。じゃ、いよいよ?」
「そうだ。それに、みんながきみに声援してるぞ。そろそろ、出てって一、二分みんなに顔を見せなきゃいかんな。万事準備はととのってる──だが、ふたつばかりきみに話しておくことがあるんだ」
「なんです?」
「この袋を見てくれ」ハリマンはそれがなんで、どういう意味をもっているものか手早く説明する。
ルクロアはあわてたような顔をした。「しかし、そいつはもちこめませんよ。重量は最後の一オンスまですっかり計算ずみなんだから」
「だれがもちこめといった? もちろん、こいつは積めんよ。六十ポンドから七十ポンドはあるからな。わたしはこんなもののことはすっかり忘れちまってたんだ。ところで、こうすることにしよう。こいつは当分、ここにかくしておくだけだ」ハリマンは袋を衣類戸棚の奥深くつっこんだ。「きみが帰ってきたとき、わたしはすぐにロケットに乗りこみ、きみのそばにくっついておりてくる。そこで、ちょっとした手品をやってのけ、きみがこいつをロケットから取りいだすという寸法だ」
ルクロアは残念そうに首をふった。「負けた。とにかく、いまさからって文句をいうような気分じゃないですからね」
「文句をいわないでくれて助かるよ。さもなければ、こっちはたかが五十万ドルのために牢屋行きになるんだ。その金はもう使っちまってるからね。とにかく、どうということはないさ。このことを知ってるのは、きみとわたしだけだろう──切手マニアは値段相応のものをちゃんと手にいれるんだからね」彼はぜひ賛成してもらいたいというように、自分より若いパイロットの顔色を見る。
「わかりましたよ」ルクロアは答えた。「切手マニアがどうなろうと、こっちの知ったことじゃないや──今夜ですね? 行きましょう」
「もうひとつ」ハリマンは小さな布の袋を出した。「これはもってってくれ──こいつの重量は計算にはいっているんだ。ちゃんとそう手配しといたからね。ところで、こいつをどうするかということだが」彼はくわしく、いやに熱心に指示をあたえた。
ルクロアはけげんな顔をしていた。「聞きちがいはしてないでしょうね? つまり、こいつをだれかに見つけさせる──それから、正直にありのままの話をするんですか?」
「そのとおり」
「いいでしょう」ルクロアは小さな袋をオーバーオールのポケットにいれてジッパーをしめた。「外に行きましょう。もう発射時刻二十一分前ですよ」
ルクロアがロケットに乗りこみ、ストロングが管制室になっている防護屋のハリマンのところへくる。「積んだのかね?」ストロングは心配そうにたずねた。「ルクロアは何ももってなかったが」
「ああ、もちろんさ」ハリマンがいった。「先に積みこましておいたよ。席についてたほうがいいぞ。準備完了ののろしはもう上がったよ」
ディクソンにエンテンザ、コロラド州知事と会衆国副大統領、それにまる一ダースばかりのおえら方が、すでに管制室の屋上のバルコニーのすき間からのぞいたペリスコープの前に陣どっていた。ストロングとハリマンも梯《はし》子《ご》に登り、残っていたふたつの椅子を占める。
ハリマンは汗をかきはじめ、からだがふるえているのに気がついた。目の前のペリスコープでロケットが見え、下から神経質に出発基地の各報告を点検するコスターの声が聞こえる。そばのスピーカーから、この景観を放送するニュース・アナウンサーのこもったような声が、たえまなく聞こえてくる。ハリマン自身は──とにかく、この作戦では自分が司令官だなと思いながらも──これ以上何も手出しできることはないのだった。ただ待って、ながめて、祈ろうとするだけだ。
二発目ののろしが空に上がり、パッと赤とグリーンに割れる。あと五分。
一秒一秒がじわじわとすぎて行く。二分前になると、ハリマンは小さなのぞき窓から見ているのに耐えられないと、自分でも悟った。外に出て、自分もその場にひと役買わずにいられない──そうしないではいられなかったのだ。梯子をおりると、防護屋の出口に急ぐ。コスターがふりかえって、びっくりしたような顔をしたが、止めようとはしなかった。どんなことがあっても、コスターはその持ち場を離れることはできないのだった。ハリマンは警備員をかき分けて外に出た。
東のほうに、満月を背にほっそりとしたビラミッドのような鋭い黒い影を浮かべて、ロケットは空に向かって立っていた。ハリマンは待った。
さらに待った。
どうかしたんだろうか? 出てきたとき、時間はもう二分足らずしかなかった。その点ははっきりしている──しかも、ロケットはまだ黒々と音もなく身じろぎもしないで立っている。音ひとつしない。遠くの柵の向こう側で、見物人に警告する遠いうなりをあげた。ハリマンは心臓が止まるような気がして、呼吸で喉がカラカラになった。何かまずくいったんだ。失敗だ。
防護屋の上から、一発打ち上げ花火が上がった。ロケットの下に、焔が舌を出す。
焔が広がって、ロケットの基部が白い火の上にのったみたいになった。ゆっくりと、まるで巨休をゆるがすようにパイオニア号は上昇する。一瞬、宙で止まって、火の柱の上で調子をとっているように見えたが──やがてあっという間に頭上高く昇ってしまうくらい、巨大な加速度で空に上がってしまった。頭上の天頂へ、まばゆい焔の環となって。目の前にいたのがあまり早く頭上に行ってしまったので、まるでロケットが弧を描いて頭上に倒れかかり、まちがいなく自分の上に落ちてくるように見えたくらいだった。ハリマンは反射的に、むだなことだが、片手をさっと顔の前にやった。
音が彼のところまできた。
音としてではない──白い騒音、音波、亜音波、超音波、あらゆる波長のすべての轟音で、ぐっと胸にひびくほどの信じられないエネルギーをもったものだった。耳だけでなく、歯と全身の骨で聞く音だった。思わず膝を曲げて、耐えられるように踏んばる。
音につづいて、ハリケーンのくるときのようなかたつむりの歩みのようなのろさで、ロケットの爆風の波。爆風はハリマンの服をはためかせ、口もとから呼気を奪い去る。目がくらんであとずさりし、コンクリートの建物の風下にはいろうとして、吹き倒されてしまった。
息を切らして咳きこみながら、立ち上がって空を見上げることを思いだす。ちょうど真上に遠ざかっていく星。その星の姿が消えた。
ハリマンは防護屋にはいっていった。
なかは高度の緊張と意味深長なさわがしさに泡立っていた。まだガンガンしているハリマンの耳に、スピーカーの叫び声がはいる。「第一観測所! 第一観測所から管制室へ──第五ロケット予定どおり離脱──本体と第五ロケットの別の映像がはいり──」つづいてコスターのかん高い怒ったような声が割りこむ。「第一追随観測所を呼べ! 第五段ロケットをまだ見つけてないのか? 追ってるのか?」
その背景には、まだ精いっぱいの大声でわめき立てるニュース・アナウンサーの声が流れていた。「偉大なる日です、皆さん、偉大なる日です! たくましいパイオニア号は、焔の剣《つるぎ》を手にした主の天使のように天に登り、いまなおわれらが姉妹の天体に向かって栄光の道をたどっています。大部分の方はその離陸をスクリーンでごらんになったでしょうが、ここで見た光景をお伝えしたかった──夜空に弧を揃いて、貴重な荷を抱いて上昇した──」
「そいつを切れ!」コスターが命じてから、展望壇上の来賓にいった。「それから、そっちの連中もだまってくれ! 静かに!」
合衆国副大統領は、はっとまわりを見まわして口をつぐんだ。彼は笑顔を見せることを思い出す。ほかの来賓たちもだまったが、またひそひそと声をひそめてしゃべりはじめた。女の声が静けさを破った。「第一追随観測所より管制室へ──第五段ロケットを高空で追跡中。高度プラス二」すみのほうでざわめきが起こった。大きなカンバスの蔽いが厚いプレキシグラスの板を直射光からさえぎっていたのだった。板はまっすぐ立ててあり、まわりにあかりがついている。その上には細い白い線で、コロラドとカンサスの河州の地図が描いてあった。都市は赤く輝いている。農村でも立ち退きしてないところは、小さな赤いランプの警戒点がついていた。
その透明な地図のうしろの男が、色鉛筆でしるしをつける。第五段ロケットの報告されてきた場所が赤く光った。この地図スクリーンの前には、若い感じの男がナシ型のスイッチを手に椅子に静かにおさまっている。その親指は、軽くスイッチのボタンにかかっていた。この男は空軍から借りてきた爆撃手で、彼がスイッチを押すと、無線装置で第五段補助ロケットのパラシュートの紐が切れ、地上に落下させるのだった。彼はレーダーの報告だけを頼りに、爆撃照準用の奇妙に流れて行く地上の光景などを相手にせずにやるのだった。彼はただ直観だけを頼りにしているようなものだった──直観というより、商売柄意識下に積みあげられた知識というべきかもしれない。目の前に現われる心細いデータを、頭のなかの複雑な条件とからみあわせて、第五段ロケットの何トンという巨体を、いつどの瞬間にスイッチをいれて落とすかきめるのだった。彼は別に心配そうな顔もしていない。
「第一観測所より管制室へ!」また男の声。「第四段ロケットも予定どおり離脱」すぐに追いかけるようにもっと太い男の声がひびきわたる。「第二追随観測所、第四段ロケットを捕捉、瞬間高度九五一マイル、進路予定どおり」
だれもハリマンには目もくれなかった。
蔽いの下では第五段ロケットの観測結果が光る赤い点で示される。予定経路の点線と重なってはいなかったが、その近くだった。それぞれの観測結果の点から、直角に線が引かれて、その位置での高度が示される。
その動きを見ていた静かな男が、いきなりスイッチを力強く押した。そこで立ち上がって伸びをしていう。「だれか、たばこもってない?」それに答えるように、「第二追随観測所!」という声が応じた。「第四段ロケット、最初の衝撃徴候──南カロライナ、チャールストンの西方四十マイル」
「くりかえせ!」コスターがどなった。
向こうは息もつかずに、もう一度大声でどなる。「訂正、訂正します──東へ四十マイル、東です」
コスターはため息をついた。このため息は次の報告でさえぎられる。「第一追随観測所より管制室へ。第三段ロケットが予定より五秒前に離脱」さらにコスターの管制デスクのスピーカーが叫ぶ。「コスターさん、コスターさん──パロマ天文台から電話です」
「消えて失《う》せろといえ──いや、待たせとけ」すぐにまた別の声。「第一追随観測所フォックス連山補助監視所より──最初の補助ロケットはカンサス州ダッジ・シティの近くに落ちました」
「近くって、どのくらいだ?」
返事はなかった。やがて第一追随観測所のほうから応答がある。「落下地点はダッジ・シティの南西十五マイルぐらいの地点だそうです」
「死傷者は?」
第一追随観測所が答える前に、第一観測所が割りこんだ。「第二段補助ロケット離脱、第二段補助ロケット離脱──ロケットはいま本体だけになりました」
「コスターさん──ねえ、コスターさん──」
ここで全然これまでに出なかった声がいう。「第二観測所より管制室へ──いま本体を追跡しています。距離方向を報告しますから用意してください。用意してください──」
「第二追随観測所より管制室へ──第四段ロケットはまちがいなく太平洋に落下します。予想落下地点、チャールストンの東〇五六マイル、方向〇九三。くりかえします──」
コスターはいらいらしたようにまわりを見まわした。「このブタ小屋には、どっかに飲み水はないのか?」
「コスターさん、お願いです──パロマ天文台からちょっとひとことでいいからと電話なんですが」
ハリマンはそっとドアのほうによって、外に出た。急にすっかり参ってしまったような気がする。完全に力がぬけて、ぐったりしてしまったようだった。
ロケットのなくなった基地は、異様なながめだった。輝いているロケットをこれまでながめてきたのに、いま急にそれがなくなっている。月はさらに高く昇り、忘れてしまえといっているみたいだった──宇宙旅行も少年時代と同じに遠い夢のように思われる。
ロケットの立っていた噴射を受けるエプロンの一帯に、小さな人影がいくつかうろつきまわっている。記念品でもあさっているんだろうと、彼はばかにしたように考えた。だれかが暗がりを彼のほうにやってくる。「ハリマンさん?」
「なんだね?」
「ホプキンスです、APの。何かひとことどうです?」
「えっ? いや、いうことはない。疲れてるんだ」
「そんな、ひとことでいいんですよ。最初の月ロケットの成功──成功すればですが──成功の尻押しをして、どんな気分です?」
「成功するさ」ちょっと考えてから、疲れはてた肩をいからしていった。「これは人類の最大の世紀のはじまりなんだと伝えてくれ。だれでもが、ルクロア機長のあとにつづいて、新しい天体をさぐり、新しい地に家を作ることを望みうるんだとな。これはつまり、新しい開拓時代にはいったことであり、繁栄へ手がとどくところへきたということだ。これは……」ひと息でいって、息が切れてしまう。「今夜はこれだけにしておこう。疲れたよ。ひとりにしておいてくれんかね?」
やがてコスターも出てきて、来賓もそれにつづく。ハリマンは、コスターのところへ行った。「万事うまくいってるね?」
「もちろん。うまくいかないはずがないでしょ? 第三追随観測所が、限界の外まで追跡して観測しましたよ──万事順調です」コスターはつけ加える。「第五段の補助ロケットが落下のときに牛を一匹殺しました」
「ほっとけ──朝飯にステーキにして食ってやるよ」ハリマンはそこで、州知事と副大統領と言葉をかわし、彼らの乗って帰るロケットまで送らなければならなかった。ディクソンとエンテンザも、これほど丁重に送られなかったが引きあげていった。やっと、コスターとハリマンだけになる。あとは緊張も感じないですむようなしたっぱの連中と、彼らを群集から守る警備員だけになる。「ボブ、きみはどこへ行く?」
「ブロードモア・ホテルヘ行って、一週間ばかり眠りますよ。あなたは?」
「よかったら、きみのアパートに泊まりたいんだ」
「どうぞ。眠り薬は浴室にありますよ」
「眠り薬はいるまい」ふたりはコスターの部屋でいっしょに酒を飲み、とりとめもない話をしてから、コスターがヘリコプターを呼んでホテルに行く。ハリマンはベッドに行って、起き上がって一日おくれのデンヴァー・ポスト紙を読んだ。パイオニア号の写真があっちこっちに出ている。やっと彼は新聞を投げだすと、コスターの眠り薬を二錠飲んだ。
10
だれかがゆすぶっていた。「ハリマンさん、起きてください──コスターさんが電話のスクリーンに出てますよ」
「えっ? なんだって? ああ、よしよし」彼は起き上がって、とことこと電話のところへいった。コスターは髪をもしゃもしゃにして、気負いこんだような顔をしている。「ああ、親爺さん──やつはやりましたよ!」
「あ? なんのことだ?」
「パロマ天文台からいま電話があったんですよ。彼の出したしるしが見えたそうで、いまではロケット自体も見つけたそうですよ。彼は──」
「ちょっと待ってくれ、ボブ。ゆっくりいってくれ。彼がまだ着くわけがないぞ。ゆうべ出発したばかりなのに」
コスターは当惑したような顔になった。「どうしたんです、ハリマンさん? 気分はいいですか? 彼が出発したのは水曜ですよ」
ぼんやりとハリマンにも、いまの自分がわかってきた。そうだ、出発はゆうべではなかった──それから山へ行って、まる一日、日光のもとで寝てくらして、何かパーティのようなことをやって飲みすぎたのをぼんやりと思いおこす。きょうは何日だっけ? 彼にはわからなかった。ルクロアが月に着いたというなら、きょうは──そんなことはどうでもいい。「大丈夫だよ、ボブ、半分寝ぼけてたんだ。たぶん、またロケットの出発の夢でも見てたんだろう。ところで、ニュースを聞こう。ゆっくりたのむよ」
コスターはもう一度話しはじめた。「ルクロアが、アルキメデス火口跡のちょっと西に着陸したんですよ。パロマの天文台からロケット自体が見えるんです。そう、カーボン・ブラックで着陸地点にしるしをつけるというのは、大した名案を思いついたもんだといってますよ。レスはそれで二エーカーも蔽ったにちがいありませんね。パロマの大望遠鏡《ビッグ・アイ》で見ると、まるで看板みたいに光って見えるそうです」
「行って、見せてもらうべきかもしれんな。いや、あとにしよう」ハリマンはいいなおした。「忙しくなるぞ」
「ハリマンさん、これ以上何ができるか、わたしにはわかりませんよ。これでも一流の軌道専門家を十二人も集めて、可能性のあるルートの全部を計算してるんですからね」
ハリマンはもう十二人集めろといいかけたが、かわりにテレビ電話のスクリーンを切った。彼はまだ、スカイウェイ社のいちばんいい成層圏ロケットを外に持たせて、ピーターソン基地で持っていた。ルクロアが地球上のどの地点に着陸しても、そのロケットが彼を現場に運ぶはずだった。ルクロアはまだ上部成層圏にいたし、二十四時間以上もそのままなのだった。パイロットはゆっくりと用心深く、ロケットの最終速力を落とし、衝撃波と放射熱という形で信じられないくらいの運動エネルギーを放散しているのだった。
地球上ではレーダーにより、地球をまわる彼のあとを追っていた──何回も何回も──しかし、パイロットが、どこでどういう形の危険な着陸法を選ぶかは、知るよしもない。ハリマンはたえずはいってくるレーダーの報告に耳を傾けながら、ロケットにラジオを積むだけの重量も節約するようなやり方をしたことを呪っていた。
各地のレーダーの数字がだんだん近いものになってくる。いきなり声がして、また叫びはじめた。「着陸滑降にはいりました!」
「基地に準備しろと伝えろ!」ハリマンは叫んだ。息を殺して持つ。無限にも思える数秒がたっで、また別の声がはいってきた。「月ロケットは着陸にかかります。オールド・メキシコのチファファの西の陸地でしょう」
ハリマンはドアのほうにとびだした。
途中もラジオにしがみついていたハリマンのロケットのパイロットは、砂漠の砂地に信じられないくらい小さなパイオニア号を見つけた。こっちのロケットを、みごとな着陸ぶりでそのすぐそばに止める。ハリマンは完全に止まりきらないうちに、キャビンのドアに手をかけていた。
ルクロアは地面に尻をついて、ロケットの着陸用の橇《そり》によりかかり、短い三角の翼の日陰にのんびりしていた。田舎者の羊飼いがひとり、その前に口をあんぐりあけて向かいあって立っている。ハリマンがとびだして、どたどたとかけよると、ルクロアはたばこの吸い殻を捨てて立ち上がっていう。「やあ、親爺さん」
「レス!」年かさのほうが若いほうを両腕で抱きかかえた。「帰ってきてくれてよかった!」
「また会えてよかったですよ。このペドロには、こっちの言葉は通じないんですよ」ルクロアはまわりを見まわす。ハリマンのロケットのパイロット以外には、あたりにだれもいない。「連中は? ボブはどこです?」
「待たずに来たんだ。もうすぐくるだろう──ほら、きたきた!」別の成層圏ロケットが着陸態勢にはいるところだった。ハリマンはつれてきたパイロットにいった。「ビル──迎えに行ってやれ」
「えっ? だまってても来ますよ、心配はいりませんよ」
「いわれたとおりにしろ」
「そりゃ、命令とあればね」パイロットは砂地を歩いていったが、その背中はおもしろくなさそうな表情を示していた。ルクロアはふしぎそうな顔。「レス、早く──こいつを手つだってくれ」
「こいつ」というのは五千枚の月へ行って帰ってきたことになっている切手をはった封筒だった。ふたりはその袋をハリマンの成層圏ロケットから月ロケットに移し、空《から》になった食料品戸棚にいれた。ふたりがその仕事をしている間、あとからきた連中からは成層圏ロケットのでっぱった部分のかげになっていて見えない。「ふーっ!」ハリマンがいった。「危ないところだった。五十万ドルだからな。レス、それだけの金も必要なんだよ」
「もちろんですよ。しかしねえハリマンさん、ダイヤも──」
「しーっ! ほかの連中がくる。もうひとつのほうはどうした? 芝居の用意はできてるな?」
「ええ。しかし、いま話そうとしたのは──」
「だまって!」
集まってきたのは仲間ではなくて、ロケットいっぱいの記者、カメラマン、録音係、アナウンサー、放送技師などだった。わっとふたりのまわりに群がる。
ハリマンは快活に一同に手をふった。「さあ諸君、勝手にしてくれたまえ。写真もいくらでもとってくれ。月ロケットに乗りこんでもいいよ。自由にやってくれ。なんでも見たいものは見てくれ。ただ、ルクロア機長はそっとしといてやってくれよ──疲れてるんだからね」
またロケットが着いた。こんどはコスターとディクソン、ストロングだった。エンテンザは別に専用の貸切りロケットで来て、テレビやカメラ、ラジオの連中に親分風を吹かせる。途中で、彼が許可してないカメラマンたちとつかみあいになりそうになったくらいだった。大型輸送ヘリコプターが着陸して、カーキ色の服を着たメキシコの兵隊が一小隊ばかりもおりてきた。どこからともなく、まるで砂のなかから湧きだしたみたいに、何ダースもの現地の百姓が現われる。ハリマンは新聞記者たちから離れて、土地の軍隊の指揮官に手早く金のかかる談合をやってのけ、きわどいところでパイオニア号がバラバラに略奪されてしまうのをまぬがれるような命令を出してもらった。
「手を出すなというんだ!」パイオニア号のなかから、ルクロアの声だった。ハリマンは耳をすまして待つ。「きみたちの知ったことじゃない!」パイロットの声は大きくなる。「それに、そいつをもどしといてくれ!」
ハリマンが月ロケットの戸口に人をかきわけていった。「レス、どうしたんだ?」
せまいキャビンはテレビ電話のボックスの大きさもないくらいだったが、三人の男が立っている。ルクロアと新聞記者がふたりだった。三人とも怒ったような顔をしている。「どうしたんだ、レス?」ハリマンがくりかえしたずねた。
ルクロアはからっぽらしい小さなきれの袋をもっていた。彼と記者たちの間のパイロット用の角度の変わる椅子の上に、にぶく輝く小さな石がいくつか出ていた。記者のひとりがその石をひとつもって、光にすかしている。
「この連中は、関係のないものにまで鼻をつっこむんですよ」ルクロアがぷりぷりしていった。
石を見ていた記者がいった。「ハリマンさん、なんでも見たいものは見ろといったでしょ?」
「ああ」
「このパイロットは──」親指をルクロアのほうにつき出して、「われわれがこれを見つけるとは思わなかったらしい。これを椅子のクッションの間にかくしといたんですよ」
「なんだねそれは?」
「ダイヤモンドですよ」
「どうしてそう思う?」
「ダイヤモンドにまちがいないから」
ハリマンは口をつぐんで葉巻の紙を破った。やがて口を開く。「きみが見つけたダイヤモンドは、そこにあるはずだよ。わたしがそこにいれたんだからね」
ハリマンのうしろでフラッシュが光り、声がかかる。「ジェフ、その石をもっと高くもち上げてくれ」
ジェフと呼ばれた記者は、いわれたとおりにしてからいった。「そいつはおかしなことをしたもんだな、ハリマンさん」
「ダイヤモンド原石が宇宙の放射能にあってどうなるか知りたかったのさ。わたしの命令で、ルクロア機長がダイヤモンドのその袋を月ロケットに積んだ」
ジェフは分別くさく、ヒューッと口を鳴らした。「ねえハリマンさん、その説明がなかったら、あたしはルクロアが月でダイヤを見つけて、あんたに内証にかくしておこうとしたんだと思いますがね」
「そんなことを記事にしたら、名誉毀損で訴えられるよ。ルクロア機長には、わたしは全幅の信頼をかけているんだ。さあ、ダイヤモンドをよこしたまえ」
ジェフは目を丸くした。「しかし、こんなものを内証でかくしておかせるほど信頼はしてないでしょ?」
「よこしたまえ。そして、出てってくれ」
ハリマンはルクロアをできるだけ早く記者たちから引きはなし、自分の乗ってきたロケットにつれこんだ。「いまのところは、これだけ」記者や写真の連中にいう。「ピーターソン基地で会おう」
ロケットが飛び立つと、彼はルクロアのほうにふりかえった。「レス、みごとに仕事をやりとげたね」
「あのジェフという記者は、なんだか頭が混乱したみたいでしょうね」
「えっ? ああ、あれか。わたしがいったのは、月旅行のことだよ。やりとげたんだ。きみはこのわれらが天体の先駆者だよ」
ルクロアは肩をすくめて受け流した。「ボブがいいロケットを作ってくれたから、なんでもなかったんですよ。ところで、例のダイヤモンドのことだけど──」
「ダイヤモンドのことなんか忘れちまえ。きみは自分の役割をやってのけた。月ロケットにあの石を仕こんだのはわれわれで、こっちは誰にでもそういってる──これ以上正直ないい方はできないというくらいにね。だから、世間がそれを信じなくても、こっちのせいじゃない」
「しかしハリマンさん──」
「なんだね?」
ルクロアはオーバーオールのポケットのジッパーをあけると、袋みたいにしぼった泥まみれのハンカチを出した。ハンカチをほどくと──ハリマンの手に月ロケットのなかで見せたのよりも多くのダイヤモンドをあける。もっと大きくて、もっとりっぱなダイヤモンドだった。
ハリマンは目を丸くしてそれを見た。げらげら笑いだす。
やがてそれをルクロアに押しかえす。「とっておくんだね」
「われわれみんなのものだと思うけど」
「うん、だったら、みんなのためにあずかっておいてくれ。それから、そのことはだまっているんだぞ。いや、待てよ」彼はふたつ大きな石をつまみ出した。「このふたつを指輪に作らせよう。ひとつはきみに、ひとつはわたしにだ。だが、だまってるんだぜ。さもないと、これが記念品以外のなんの値打もないものになっちまうからな」
たしかにそのとおりだと、彼は考えていた。ずっと前に、ダイヤモンド・シンジケートはもしダイヤがいくらでも出てくるものなら、工業的用途以外にはガラス同然の値打になってしまうと悟っていたのだった。地球に必要以上のダイヤモンドがあれば、宝石扱いすることはなくなってしまう。もし月のダイヤモンドが文字どおり「砂利みたいにごろごろしている」のだったら、ダイヤモンドはそれだけのもの──砂利にすぎないのだ。
地球に運んでくるだけの経費も出ない。
しかし、ウラニウムはどうだろう。もしたくさん出れば──
ハリマンは深々と席に沈みこんで、白昼夢にふけっていた。
やがてルクロアがそっという。「ねえ親爺さん、向こうはすばらしいですよ」
「えっ? どこが?」
「なんだ、もちろん月ですよ。わたしもまた行きますよ。行かれるようになったらすぐに行きます。新しい月ロケット建設に早くかからなきゃ」
「もちろん、そうだとも! それに、こんどはみんなで行けるような大きいのを作るんだ。こんどは、わたしも行くぞ!」
「そうですとも」
「レス──」ハリマンはまるでいいにくそうに口を開いた。「月から地球を見たら、どうだった?」
「えっ? そう、まるで──なんといったらいいか──」ルクロアは言葉を切った。「ちぇ、親爺さん、説明のしようがありませんよ。すばらしいの一語につきますね。空はまっ黒で──とにかく、撮《と》ってきた写真を見るまで待ってください。いや、自分の目で見るまで待ったほうがいいな」
ハリマンはうなずいた。「だがねえ、それまで待つのが辛いよ」
11
「月にダイヤモンド埋蔵地帯!!」
「月ロケットのスポンサー、ダイヤの話を否定──ダイヤは科学的理由から宇宙に持ち出してみたという」
「月ダイヤ──嘘かまことか?」
「──しかし、聴取者の皆さんも考えてみてください。月にダイヤをもって行くなんて、なぜでしょう? 月ロケットとその荷物は、一オンスにいたるまで計算されているのです。理由なくダイヤをもって行くはずはありません。科学の権威たちの多くは、ハリマン氏ののべた理由はばかげているといっています。ダイヤが月にあったように見せかける目的でもっていったと──つまり、このダイヤは地球のもので、月にダイヤがあると信じこませるための細工だったと臆測することはかんたんです。ところが、ハリマン氏もパイロットのルクロア機長も、この計画に関係したすべての人が、最初からこのダイヤは月から出たものではないといっているのです。しかし、月ロケットが着陸したとき、ダイヤがロケット内にあったことは絶対まちがいありません。聴取者の皆さんがどう思われるかはとにかく、この記者は月ダイヤモンド鉱山の株をできたら買うつもりです──」
ハリマンがはいって行くと、例のとおりストロングはすでに事務所にいた。どっちかが口を開く間もなく、テレビ電話のスクリーンが「ハリマンさん、ロッテルダムから電話です」
「チューリップでも植えてろといってくれ」
「ファン・ダル・ヴェルデさんがお待ちになってますが」
「よし、出よう」
ハリマンはオラング人にしゃべりたいだけしゃべらせてからいった。「ファン・デル・ヴェルデさん、わたしの声明はまったくそのとおりですよ。新聞記者がロケットのなかで見たというあのダイヤは、離陸前にわたしがいれといたんです。この地球で掘りだしたものですよ。実は、この前あんたのところへ行ったとき買ってきたもので、証明できますよ」
「しかしハリマンさん──」
「どうとも勝手に考えてください。月にはあんたにあつかい切れないくらいダイヤがあるかもしれない。だが、そんな保証はしませんよ。しかし、新聞記者がさわぎたててるダイヤが地球のものだってことは保証します」
「ハリマンさん、なぜダイヤを月にもっていったんだね? われわれを一杯くわせようとしたんだろう。ちがうかね?」
「勝手にしたらいいでしょう。ただ、わたしはこれまでずっと、あのダイヤは地球のものだといいつづけてきてるんですからね。ところで、あんたは手付けを──というより、手付けを打つ選択権をもってるわけですが、それに従ってあとの支払いをして権利に実効をもたせたいなら、契約書に明記してあるとおり、日限は木曜日のニューヨーク時間の九時ですからね。腹をきめてくださいよ」
スイッチを切ると、ストロングが苦い顔をして見ているのに気がつく。「何を怒ってるんだ?」
「ディロス、そのダイヤモンドのこともおかしいと思ったよ。だから、パイオニア号の重量明細に目をとおしてみたんだ」
「技術のことに興味があるとは知らなかったな」
「数字ぐらいは読めるからな」
「それで、ちゃんと出ていたろ? F一七Cの二オンスがわたしの個人的なものに割り当てられている」
「それは見つかった。怪我した親指が突き出てるみたいにはっきり目立つからね。ただ、ほかのが見つからなかった」
ハリマンは胃のあたりにぞっと冷たいものをおぼえた。「なんだね?」
「月に行って帰ってくる封筒の重量が計算のなかにはいってない」ストロングは彼をにらんだ。
「あるはずだよ。その重量割り当て計画表を見せてくれ」
「ないよ、ディロス。ほら、ルクロアをひとりで迎えに行くといいはったとき、おかしいなと思ったんだ。どうしたんだ、ディロス? あんたがこっそり、着陸したロケットにはこびこんだんだろ?」ハリマンがたじたじとなっても、彼はじっとにらみつづけていた。「これまでにも、おたがいにきわどい仕事はいくつもやってきた──だが、ハリマン・アンド・ストロング社が詐欺をやったといわれるようなことをしたのは、こんどがはじめてだ」
「ジョージ、詐欺だろうが嘘をつくことだろうが、泥棒でも乞食でも買収でも、なんでもやるぞ。この仕事をしとげるためにはね」
ハリマンは立ち上がって部屋のなかを歩きまわった。「あの金はどうしても必要だった。あれがなければ、ロケットは飛ばせなかった。われわれはすっからかんになっていたんだ。わかるだろ?」
ストロングはうなずいた。「しかし、あれはやはり月にもって行くべきだった。そうすると契約したんだからね」
「忘れてたんだ。そのうちに、あの重量を割りこませるには手おくれになったんだ。しかし、そんなことはどうでもいい。月旅行が失敗して、ルクロアがへまをやれば、そんなものがどうなったかだれにもわからないし、まただれも気にしないだろうと思ったんだ。それに、成功さえすれば、やはりなんでもないことだ。金はいくらでもはいる。しかもジョージ、金ははいってくるんだぜ!」
「あの金は返さなければならないな」
「いまか? わたしに時間をくれよ、ジョージ。いまのままで、みんな満足してるんだ。賭けた金がもどるまで待ってくれ。そうなったら、そいつを一枚残らず買いもどすよ──わたしのふところからその金は出す。約束するよ」
ストロングはすわりこんだままだった。ハリマンはそのまん前に立ち止まる。「ジョージ、ひとつ尋ねるが、これだけの大規模な事業をただの理詰めな考えだけからだめにしていいのかい?」
ストロングはため息をついていった。「買いもどしのときになったら、会社の金を使うんだな」
「その意気だ! だが、金は自分のを使うよ、約束する」
「いや、会社の金だ。いっしょにやってる以上、責任もいっしょだ」
「よかろう、そうしたいというなら、そうしてくれ」
ハリマンは自分のデスクに向きなおった。しばらくはどちらも口をきかなかった。やがてディクソンとエンテンザが来たという知らせ。
「やあジャック、ちっとは機嫌がなおったかね?」ハリマンがいった。
「あんたのおかげじゃないよ。あれだけ放送に流すのに苦労した──しかも、あんなもぐりにもしてやられてる。ディロス、月ロケットにテレビの録画装置を積みこむはずだったんだぞ」
「そう怒るなよ。前にもいったように、今回はその重量の余裕が作れなかったんだ。だが、この次ということもあるし、そのまた次もあるさ。あんたの利権は金の山になるだけの値打はあるよ」
ディクソンが咳ばらいした。「ディロス、その話でこうやって会いに来たんだ。あんたの計画は?」
「計画? このまま前進さ。レスとコスターとわたしで、第二回の月旅行に行く。向こうに永久基地を作るんだ。コスターが向こうに残るかもしれない。第三次のロケットで、本当の植民地を作れる顔ぶれを送る──原子技術者、鉱夫、水耕法の専門家、通信技師なんかだ。ルナ・シティを建設するんだよ、他の天体で人類はじめての都市だ」
ディクソンは分別くさい顔になった。「それで、この事業のとりいれはいつはじまるんだ?」
「とりいれとはどういうことだ? 資金をかえしてもらいたいのか、それとも投資した金の利益をそろそろ見たくなってきたというのかね? どっちにしても、話に応じてもいいがね」
エンテンザが投資した金を返してもらいたいといいかけたが、ディクソンが先に口を出した。「もちろん利益さ。注ぎこんだ金は、もう注ぎこんでしまったものだ」
「よろしい」
「だが、わたしにはあんたがどうやって利益を当てにできるのかわからんな。たしかにルクロアは月に行って無事に帰ってきた。われわれみんなの名誉にはなる。しかし、それによってできるいろんな権利はどうなったんだ?」
「ダン、実《みの》りには時間がかかるよ。わたしが、心配そうに見えるかね? われわれの資産はどうだ?」ハリマンは指を折りながらいう。「映画化権、テレビ権、ラジオ権──」
「そんなものはジャックのものになってる」
「契約書を見てくれ。彼がもってるのは優先権だけで、彼も会社に支払うんだ──つまりわれわれみんなにその使用権料を払うんだ」
ディクソンは、エンテンザが口を開く間をあたえず、「ジャック、きみはだまってろ!」といった。やがてつけ加える。「ほかに何がある? そんなものでは赤字から脱け出せんぞ」
「うまい汁はいくらも保証されてるよ。モンティの部下たちがいまそれにかかっている。最大のベストセラーの印税もはいってくる──現にいまも、ルクロアに代作者と速記者がくっついてまわってるようにしてあるんだ。唯一にして最初の宇宙定期航路設立権──」
「どこからとる?」
「手にいれるさ。ケーメンズとモンゴメリーが、いまパリに行ってその工作にかかっている。わたしもきょうの午後、彼らのとこへいくんだ。それに、その権利を向こう側から地球にくる権利と結びつける。どんな小さなものでも、月に永久的な植民地を作れたら、すぐにその手は打てる。国連の保護下にある月の独立した国家になるからね。それに、どんな宇宙船も許可なしに月に下りることも月から飛び立つこともできないんだ。それに、ほかにもいろいろな目的をもつ一ダースもの会社の権利をもつんだ──そういう会社に税金もかける──ルナ国の法律にもとづく月の都の司政を握る会社を作れば、すぐにそれができるんだ。真空以外はなんでも売れる──いや、真空だって実験目的のために売れるだろう。しかも、忘れないでもらいたいな──われわれはまだすごくまとまった不動産をもってるんだからね。だれにも制約をうけない、われわれの国家としての領土で、しかもまだ売ってないんだ。月は大きいよ」
「ディロス、その考え方も大きいな」ディクソンが冷ややかにいった。「ただ、現実に次はどうなるんだ?」
「まずその権利を国連に認めてもらう。安保理事会がいま秘密会で協議中で、今夜総会が開かれる。ことがはでになってきて、だからわたしも向こうへ行くんだ。国連で月の本当の権利は国連自身の例の営利的でない法人だけのものと話がきまれば、当然そうなるだろうが、わたしは忙しくなる。金も力もないちっぽけなその法人は、いろんな権益をどっかの心から正直な会社に何から何まで認めてやることになる──研究所や天文台や月の地理研究所など、そういう法人にふさわしいもうけ目当てでない機関設立に協力してくれたおかえしにね。月に独自の法律をもつ永久的な植民地ができるまで、われわれは過渡的にそういうやり方をして、いつかは──」
ディクソンはいらいらと手をふった。「ディロス、そんな法律なんかのたわごとはどうでもいい。そういう点ではあんたが頭が切れることは、長年のつきあいだからわかってる。問題は、現にこれから何をしなければならんかということだ」
「えっ? もう一台、もっと大きな月ロケットを作らなければならないな。柄だけ大きいんじゃなくて、実用的な大きいやつだ。コスターは、もう地表のカタパルトの設計にかかっている。マニトウ・スプリングスからパイクス・ピークのてっぺんまでつづくことになるだろう。それさえあれば、ロケットを地球のまわりの無重力軌道にまで飛ばせる。それから、ほかのロケットに燃料を補給するようなロケットを使う──例のエネルギー衛星みたいに、宇宙ステーションにまで大きくするんだ。そうすることによって、化学合成燃料を使っても、ロケットの九割までを途中でほうりだすようなまねをしないで、月にまで行けるんだ」
「金がかかりそうだな」
「かかるだろう。だが心配はいらない。採算ベースに乗せるまでも、二ダースばかりの金のはいってくるつまらん仕事があるからね。軌道に乗ったら、株を売るんだ。前にも売ったが、こんどは前に十ドルで売ったのを千ドルぐらいで売るんだ」
「それで、企業全体として採算ベースに乗ってくるまで、やりとおせると思うのかね? ディロス、全体として採算がとれるというのは、地球と月をロケットがたえず往復して、運賃や乗客の料金を計算して黒字になるようになるまではだめだという事実に直面して考えろよ。つまり、現金のお客さんということだ。月に行って見るような何がある? だれがその料金を払う?」
「ダン、何かあるということを信じないのか? もし、何もないと思うなら、なんで仲間にはいった?」
「ディロス、わたしは信じてるよ──というより、あんたを信用してるんだな。ただ、そっちの計画はどうなんだ? 予算は? 何がもってこられる見こみなんだ? それに、ダイヤの話はやめてくれ。あの冒険はわたしにもわかってるつもりだよ」
ハリマンはしばらく葉巻を噛んでいた。「すぐにでも運んでこられる貴重なものがひとつある」
「なんだ?」
「知識」
エンテンザが鼻で笑った。ストロングはけげんな顔。ディクソンはうなずいた。「買おう。知識というものは、いつでも何かの値打はある──それをどう開発するかを心得てる人間にとってね。それに、月が新しい知識を見つけだす場所だということも同感だ。たぶん次の月旅行でそれだけの利益はあげられるだろう。予算はどうなんだ? それに、時間的な予定は?」
ハリマンは答えなかった。ストロングがその顔色をしげしげとさぐる。彼にとっては、ハリマンのポーカー・フェイスも大文字ではっきり書いてあるみたいに見とおしなのだった。ハリマンが窮地に立たされていることは、彼には読みとれたと思った。いらいらと、だがいざといえばハリマンの芝居に調子を合わせようと、ストロングは待った。ディクソンは言葉をつづける。「ディロス、いまの口ぶりからすると、次の段階の資金はないものと判断したよ。どこで手にいれるか、あてもないんだ。ディロス、わたしはあんたを信じているんだ──最初からわたしは、新しい事業を貧血で行き倒れにしたくないといっといた。この事業の五分の一に当たる資金をあらためて出資する用意はできてるよ」
ハリマンは目を丸くした。「おいおい」と乱暴にいう。「ジャックの分ももう手にいれてるんだろう?」
「そうはいわない」
「そうだよ。顔に書いてある」
エンテンザがいった。「それはちがう。わたしは別個の四分の一の株主だ。わたしは──」
「ジャック、嘘がへただなあ」ハリマンが熱のない口調でいった。「ダン、あんたはいま二分の一を握っているんだ。いまの割合だと、こっちは拒否できるから、ジョージがわたしについているかぎり、こっちのもんだ。ところが、もしあんたがもう一口出資したら、五分の三ということになり、あんたが大将だ。あんたの狙いはそこだね?」
「ディロス、前にもいったが、わたしはあんたを信頼してるんだよ」
「しかし、その手に鞭を握ったほうが気持がいいんだろう。とにかく、そんなのはいやだな。そのくらいなら、宇宙旅行をこの手で開けるまで──きちんと定期的な本当の宇宙旅行をこの手で開発できるまで、あと二十年待ったほうがましだ。このままみんな破産させて、こんどわたしが自分でやれるまで、ただの栄光だけで生きてたほうがいい。そっちは別の計画を考えなければならなくなるだろう」
ディクソンは何もいわなかった。ハリマンが立ち上がって歩きまわる。彼はディクソンの前で足を止めた。「ダン、もしあんたが本当にこの仕事を理解しているのなら、あんたに支配権をゆずるよ。だが、あんたにはわかってない。あんたはただ、ほかの仕事で金と力をつかむのと同じに考えている。わたしは本当にあんたたち禿鷹を金持にしてやろうと思っているんだ──だが、支配権はわたしがもつ。わたしはこの事業が、発展するようにして行くんだ。利益をしぼるだけじゃないんだ。人類は星に向かっている──しかもこの冒険には、くらべてみると原子力が子供の玩具に見えるくらいの大きな問題が含まれてくる。すべてを慎重にやらないと、台無しになってしまうんだ。ダン、あんたにこの決定権を握らせたら、台無しになってしまうんだよ。あんたにはわかっていないからだ」
ひと息ついて話をつづけた。「たとえば安全という面から見てくれ。なぜわたしが、自分で行かないでルクロアに行かせたかわかるかね? わたしが、こわがったと思うかね? とんでもない! わたしはロケットを帰還させたかったんだ──無事にね。宇宙飛行にまた後退のうき目を見せたくなかったんだ。なぜわたしが、少なくとも数年は独占しておきたいのか、わけがわかるかね? いま、月ロケットが可能とわかり、有象無象がみんな月ロケットを作りたがるからだ。大洋横断飛行の初期のころをおぼえているだろう? リンドバークが成功して、飛行機に乗れるかぎりの有象無象がみんな海上飛行に飛びたった。なかには子供までつれてったやつがいる。しかもほとんどが海に落ちた。飛行機は危険だという評判が立った。数年後には航空会社は過当競争で金に餓え、墜落の見出しがない新聞が見られないくらいになった。
「宇宙旅行にその二の舞いをさせたくない! そんなことはさせない。宇宙ロケットは大きくて金もかかるんだから、これが危険だという噂を立てられるくらいなら、われわれはベッドから出たいほうがいい。とにかく、わたしがやる」
ハリマンは口をつぐんだ。ディクソンは次を待っていたが、やがていった。「ディロス、あんたのことを信じてるんだといったろう。いくら金がいるんだね?」
「えっ? どういう条件で?」
「あんたの一札でいい」
「借用証か? わたしの借用証でいいんだって?」
「もちろん担保はほしいな」
ハリマンが舌打ちした。「そこに罠があるのはわかっていたよ。ダン、わたしのものはすべてこの仕事に注ぎこんで、担保になってるのは知ってるだろう」
「保険がある。かなり多額の保険にはいってることはわかってるよ」
「ああ、だがそいつは、全部女房が受取人になってるよ」
「ジャック・エンテンザに、あんたがこんなようなことでいってたのを聞いたような気がするぞ。さあ、ぐずぐずいわずに──税金にとっつかれたようなあんたの正体に、わたしの見こみが狂ってなければ、少なくとも引き出せない信託預金や払い込みずみの年金か何かを奥さんが養老院に行かずにすむように用意してあるはずだな」
ハリマンは熱っぽく考えてみた。「それで、借用証の期限は?」
「やさしくこの世にバイバイという日までさ。もちろん、破産宣告してもだめだという条項をいれてもらいたいな」
「何いってるんだ? そんな条項はいれても法的には効力がないぞ」
「あんた自身に対して効力がある。そうだろ?」
「む……そうだな。そう、ある」
「では、証書を出して、どのくらいの額まであんたが掛けられたか見せてもらおう」
ハリマンは彼の顔を見て、ぷいとふりかえると金庫のところへ行った。長い厚い紙の袋のかなりな山をもってくる。いっしょに計算してみると、当時としては驚くばかりの額になった。ディクソンがそこでポケットから出したメモを見ていう。「ひとつ足りんようだな──かなり大口のやつだ。北アトランティック相互保険のだろう」
ハリマンは彼をにらんだ。「わたしの部下の秘書をみんな首にしなきゃならんのか?」
「いや」ディクソンがおだやかにいった。「この情報はあんたの部下から仕入れたんじゃないよ」
ハリマンは証書をとりに金庫にもどり、ほかの証書の山に加える。ストロングが口を出した。「ディクソンさん、わたしのもいるかね?」
「いや、その必要はない」ディクソンは答えた。証書をポケットにしまいはじめる。「こいつはあずかっておくよ。掛金も払っておく。もちろん、あとで請求するがね。受取人変更の書類は事務所に送ってくれればいい。さあこれがそっちの手形だ」別な紙をポケットから出す。手形で、保険金の総額の金額が書きこんであるのだった。
ハリマンはそれを見てゆっくりいった。「ときどき、どっちがあやつられてるのかわからなくなるよ」手形をストロングのほうにほうってやる。「よし、ジョージ、こいつを頼む。わたしはパリに行くよ。幸運を祈ってくれ」まるでフォックス・テリアみたいにはしゃいだ足どりで大股に出ていった。
ストロングはしまったドアからディクソンに目を向け、手形に視線を落とした。「こいつを破いてしまうべきだな!」
「よせよ」ディクソンがいった。「なあ、わたしは本当にあの男を信じてるんだ」つけ加えていう。「ジョージ、カール・サンドバーグのものを読んだことあるかね?」
「あまり本は読まないんでね」
「いつか読んでみろよ。地獄で石油を掘り当てたって噂をいいふらしたやつの話だ。すぐにみんなが地獄に押しよせて、ブームになった。噂をいいふらした張本人は、みんなが行くのを見て、頭をかいて、やっぱりこれは何か出るのかもしれないぞとつぶやいた。それで、当人も地獄へ出かけたというんだ」
ストロングは神妙に聞いていたが、最後にいった。「どうも話のポイントがわからない」
「要点はジョージ、わたしはただ必要とあれば自分を守れるようにしておきたいというだけのことさ。あんただってそうだよ。ディロスは自分でひろめた噂を信じこむようになりかけたらしい。ダイヤモンドか! 行こうジャック!」
12
それからの数カ月は、パイオニア号(いまはスミンニアン研究所に名誉の隠居をしている)の発射前と同じ忙しさだった。技師グループがひとつと、大勢の人夫の群れがカタパルトの仕事にかかっていた。ほかにもふたつの技師グループが、新しい二台の月ロケットの建造に忙しい。一台はメイフラワー号、一台はコロニアル号で、三台目はまだ製図の段階だった。ファーガソンがこのすべての技師長になっていて、コスターはまだジョック・バークリーに緩衝器の役割をさせながら、好きなところへ勝手に出ていって顧問技師の役割を果たしていた。コロラド・スプリングスはブーム・タウンの様相を示していた。デンヴァー=トリニダッド道路都市の住宅地区がスプリングスにひろがっていって、とうとうピーターソン基地をとりかこんでしまう。
ハリマンは尻尾がふたつある猫みたいに忙しかった。たえず爆発的な発展を示すいろいろな新規開発事業やそれまでの企業のおかげで、一週間にまる八日分も時間がほしいくらいだったが、ケーメンズとモンゴメリーをすりへってしまうほどこき使い、自分も夜の目も寝ずにがんばって、コロラドにかけつけてコスターといろいろ打ち合わせする機会はちょくちょく作りだしていた。
ルナ・シティはすぐ次のロケットがついたときに建設することになっていた。メイフラワー号は、七人のお客さんだけでなく、そのうち四人が次のロケットのつくまでもちこたえるだけの空気と水と食料を積む予定だった。四人は月のゆるい土壌の下に埋めた、密封して気圧を上げたアルミ製のかまぼこ型の小屋に、次の連中に救出されるまで暮らすはずだった。
この予定になかった四人の乗客の選択で、またコンテストがあり、それがまた宣伝になり──またしても株が売れる。ハリマンはあらゆる科学団体の一致した反対を乗りきって、この四人はふた組の夫婦にすると主張した。結局その四人が科学者ばかりでも、それぞれ結婚したふた組であればいいということで、意見はやっと一致したのだった。おかげで、あわてて結婚した連中がどっと何組もできたし、コンテストがおわってから離婚する連中がいく組も見られた。
メイフラワー号は、カタパルトの力と自分のロケットの噴射で、引力圏外に出られるだけの計算された最大の大きさになっていた。メイフラワー号の発射前に、同じくらいの大きさのロケットが四台発射されるはずだった。ただ、これは宇宙船といえるようなものではなくて、燃料用のタンカーにすぎず、名前もついていなかった。ロケット発射の計算でいちばんむずかしく発射精度を要求されるのは、この四台を同じ軌道の同じ地点に上げることだった。そこでメイフラワー号がタンカーとランデヴーして、タンカーに残っている燃料を受けとる。
すべての計画でここがいちばんきわどいところだった。四台のタンカーが近くにまとまっていてくれれば、ルクロアは小さな逆噴射装置を使って、ロケットをそっちに近づけることができる。それができなかったら──とにかく、広い宇宙でひどく寂しいことになる。
タンカーにそれぞれパイロットを乗せて、しかたがないからタンカーのひとつの燃料から脱出用の翼のある救命ボートみたいなものにいくらか割《さ》こうかということも真剣に考えられた。速度を落として大気に突入し、着陸にブレーキの役を果たす翼のある小型ロケットだ。しかし、コスターがもっと経済的な方法を見つけた。
近接爆発信管を遠い祖先とし、誘導ミサイルの落下点に使われる装置の子供ともいうべき、レーダーによる誘導装置がタンカーを集める役をすることになった。最初のタンカーにはその装置はつけないが、二台目のタンカーがそのロボット装置により最初のタンカーをさぐり出し、小さなロケット・エンジンでごくわずかな誘導電波に導かれて、その上にくっつく。三番目のロケットも先のふたつにくっつき、四番目のも集まってグループになる。
ルクロアにはなんの造作もいらないはずだった──計画どおりに行きさえすればかんたんなはずだった。
13
ストロングはハリマンに、H&S家庭用自動スイッチの売上げ報告を見せたかった。ハリマンは報告書をわきに押しのける。
ストロングは報告書をまた彼の鼻先につきつけた。「ディロス、こういうものにも関心をもつようにしたほうがいいな。この部屋でも、だれかが金がはいってくるように考えたほうがいい時期だ──われわれだけの金、個人的な金だよ。さもないと、町角でりんごを売るような身になるぜ」
ハリマンは椅子にそりかえって、頭のうしろで手を組んだ。「ジョージ、こういう日にどうしてそんな口のきき方ができるんだ? あんたの心には詩はないのかね? さっきはいってきたときいったことが耳にはいらなかったのか? タンカー・ロケットのランデヴーがうまくいったんだぞ。一号タンカーと二号タンカーが、シャムの双生児みたいにぴったりくっついたんだ。一週間以内に月ロケットを飛ばせるんだぞ」
「それはそうかもしれんが、仕事だってつづけなければならんよ」
「そっちはまかせるよ。わたしは約束があるんだ。ディクソンはいつくるといってたんだ?」
「もうくるころだ」
「ようし!」ハリマンは葉巻のはじをくわえて、話をつづけた。「なあジョージ、最初の月ロケットで行かれなかったことを、もうくやしがってはいないよ。やっぱりこんど行けるんだからね。まるで花婿になったみたいに期待にわくわくして──それに楽しいんだ」鼻歌を歌いだす。
ディクソンが、エンテンザを連れずにはいってきた。四分の一の株しかもっていないという仮面がはげてからは、そういう立場を示しているのだった。握手をすますと、ハリマンがいう。「ダン、ニュースは聞いたかい?」
「ジョージから聞いた」
「いよいよだぞ──というより、もうすぐだ。いまから一週間かそこらで、わたしは月に行ってるんだ。信じられないくらいだよ」
ディクソンはだまって腰をおろした。ハリマンはつづける。「祝いの言葉もかけてくれないのか? おいおい、きょうは偉大なる日なんだぞ」
ディクソンがいった。「D・D、あんたはなんで月に行くんだ?」
「えっ? ばかな質問はよしてくれ。そのために苦労してきたんじゃないか」
「ばかな質問ではないな。どういう理由で月に行くのか聞いてるんだ。向こうに残る四人にははっきりした理由があるし、それぞれが選び出された専門の調査員だ。ルクロアはパイロットで、コスターは永久的な植民地を設計する人間だ。だが、なぜあんたが行くんだ? どういう役割なんだ?」
「役割? きまっているさ、すべてをまとめる役だ。よしてくれ、わたしは向こうに行ったら、市長としてすべてをまとめるんだぜ。やあきみ、葉巻をどうだい──わたしの名前はハリマン。市長選挙のときは清き一票をお忘れなく」ハリマンはにやりと笑った。
ディクソンはにこりともしなかった。「向こうに残るつもりとは知らなかったな」
ハリマンは小さくなっていった。「いや、それはまだきまっていないんだ。大急ぎで壕舎が作れれば、次のロケットがくるまで、わたしがいわば穴ごもりみたいにしていられるだけの余裕が残るかもしれん。そのくらいのことは許されるだろ?」
ディクソンは彼の目を見つめた。「ディロス、だいたいあんたを行かせるわけにはいかんのだ」
ハリマンはあまりびっくりして、しばらくは口もきけない。やっと口を開いた。「冗談じゃないぜ、ダン。わたしは行くよ。あんたに止めることはできない。だれだろうと、わたしを止めることはできないぞ」
ディクソンは首をふった。「ディロス、あんたを行かせてやれないよ。この事業には、わたしも金を注ぎこみすぎてる。あんたが行って、もしものことがあったら、元も子もなくしちまうからね」
「そんなばかな。ジョージとふたりでやってけぱいいんだ。それだけのことだよ」
「ジョージに聞いてみろよ」
ストロングには何もいうことはなかった。ハリマンと目を合わせたくないようだった。ディクソンが言葉をつづける。「ディロス、ごまかそうとしてもだめだ。この事業はあんた自身で、あんたが事業そのもののようなものだ。あんたが死ねば、何もかもおしまいだ。宇宙旅行がだめになるとはいってないよ。あんたのあと釜にもっとつまらん人間がはいっても、もう宇宙旅行はやっていけるとあんたもたしか高言していたと思う。だが、この事業──われわれの会社はおしまいだ。ジョージもわたしも、一ドルを半セントぐらいの安値で手放して、清算しなければならなくなるだろう。いろんな特許権まで売ってしまわなければ、それだけにもなるまい。有形資産というものは大して値打はないんだ」
「冗談じゃない、われわれが売ってるのは、手にとることのできないいわば無形資産だ。あんたも最初からそれは知ってるはずだ」
「ディロス、無形資産というのは、あんた自身なんだよ。あんたが金の卵を生む鷲鳥《がちょう》なんだ。本当に金の卵を生むまで、あんたにはそばにいてもらいたい。この事業が利益のあがる軌道に乗って、ジョージやわたしのような一人前の支配人に以後運営して行けるようになるまでは、あんたは宇宙旅行なんかに首を賭ける危ないまねをしてはいけないんだ。ディロス、わたしは本気でいってるんだよ。あんたにおもしろ半分の月旅行をやらせて危ない思いをするには、わたしは金を注ぎこみすぎているからね」
ハリマンは立ち上がって、デスクのへりをぐっと指先で押えた。荒い息づかいをしている。「わたしを止めることはできないぞ!」ゆっくりと力をこめていう。「わたしが本気で月に行きたがったことは、最初から知ってたはずだ。いまさら止めようとしてもだめだ。神様と悪魔が力を合わせたって、わたしを止めることはできないぞ!」
ディクソンは静かに答えた。「気の毒だがディロス、あんたを止めることはできるし、止めるつもりだよ。あのロケットを差し押えることもできるんだ」
「やってみろ! こっちにだって弁護士は大勢ついてるんだ──それも、ずっと腕のいいのがね」
「アメリカの法廷では、あんたも以前みたいな人気がなくなってるのがわかるだろうよ──月が全然合衆国のものにならないとわかったときからね」
「やってみろといってるんだ。あんたを負かして、その持ち株まで取りあげてみせる」
「落ちつけよ、ディロス! あんたがわたしやジョージとは別に、その気になればこれまでも、あんたのもとの会社の権利で金を作る計画が何かあるのは疑わんよ。だが、そんな必要はないな。それに、ロケットを差し押える必要もないんだ。わたしだって、あんたと同じくらいにあの月旅行は実現させたい。ただ、あんたはあのロケットには乗れないんだ。自分で、行くのはやめようと思うからね」
「自分でやめるだって? そこから見て、わたしは気が狂ってるように見えるかい?」
「いや、その反対だな」
「だったら、なんでわたしが行かなくなる?」
「わたしの握ってるあんたの借用書のためさ。こっちは金を返してもらいたいからね」
「なんだって? 期限はなかったはずだぞ」
「期限はない。だが、返済は確実にしてもらいたいからね」
「なぜだ、ばかだな。もしわたしが死ねば、ずっと早く回収できるのに?」
「そうだろうか? 考えちがいをしているな、ディロス。あんたが月旅行で死んだら、こっちには一文もはいってこないんだよ。わかってるんだ。保険会社のあんたの契約条項をひとつ残らず調べてみた。ほとんどが、昔の飛行機時代にさかのぼる実験的な乗り物に乗った場合という逃げを打った条項がついている。どの保険もみんな、あんたが月ロケットに一歩でも踏みこんでいたら、契約解除になり、法廷で争うことになるな」
「そんなことまで考えたのか!」
「落ちつけよ、ディロス。血圧が上がって破裂しちまうぞ。たしかにそこまで調べたが、これは自分の利益を守るための合法的な調査だよ。もちろんわたしは、あんな借用証の金を取り立てたくはない──少なくともいま、あんたの死によって取り立てたくはない。あんたがかせいだ金で返してもらいたいんだ。ここにいて、事業が安定するまで会社のめんどうを見てね」
ハリマンはろくに吸っていないがひどく噛みちらしている葉巻を、屑篭に投げつけた。屑篭にはいらなかった。「あんたが金を取りそこなったって、こっちは知らないよ。あんたが連中をつつき立てるようなことをしなければ、向こうだって何もいわずに払ったはずだ」
「しかしディロス、これはあんたの計画の弱いところを明るみに出してくれたよ。もし宇宙旅行が成功するものなら、保険会社は手をひろげて、どこにでも保険をかけさせるだろう」
「ちぇ! 少なくとも一社はやってる──北アトランティック相互保険だ」
「あすこの広告は見たし、あの会社が出してくる条件にも目をとおしたよ。あれはただのウィンドの飾りみたいなもので、例のとおり逃げ道になる条項があるね。だめだよ、保険はすっかり書きなおさなければだめだ。あらゆる種類の保険をね」
ハリマンは考えこんだような顔になった。「ジョージ、調べてみるよ。ケーメンズに電話してくれ。自分たちの会社を作らなければならないかもしれんな」
「ケーメンズなんかどうでもいい」ディクソンが反対した。「問題は、あんたがこんどの月旅行には行かれないってことだ。そういう調べたり計画を立てたり育てあげたりしていくこまごました仕事がありすぎるからね」
ハリマンはそっちにふりかえった。「ダン、その考え方を頭から追い出せないのか! わたしはどうしても行くんだ! できるものならロケットを差し押えしてみろ。そっちが保安官どもにロケットを取りかこませたら、こっちはそいつらを追い払うごろつきどもを集めるからな」
ディクソンは悲しそうな顔をした。「ディロス、これだけはいいたくなかったんだが、わたしがたとえこの場で死んじまっても、あんたの月旅行は止められちまいそうなんだよ」
「どうやって?」
「奥さんさ」
「家内がなんの関係があるんだ?」
「奥さんは、いますぐにでも別居手当を請求する訴えを出す用意をしているよ。この保険の件に気がついちまったんだ。こんどの計画を聞いたら、きっとあんたを法廷に引き出して、あんたの財産の清算をせまるよ」
「家内をたきつけたんだな!」
ディクソンはためらった。エンテンザがハリマン夫人にすっかりぶちまけてしまったのは──それも悪意からぶちまけたのは、彼も知っていた。しかし、この上、個人的な遺恨まで積み上げることはなさそうだった。「奥さんだって利口だよ。自分の財産を調べるぐらいはするさ。奥さんと話しあったことは否定しないが、向こうから呼び出してきたんだからね」
「家内だろうとあんただろうと、束にして相手にしてやる!」ハリマンは重い足どりで窓ぎわに行き、外をながめた。本当の窓だった。ハリマンは空を見るのが好きだった。
ディクソンがそばに来て、肩に手をかけながら静かにいった。「ディロス、そんなふうに考えないでくれ。だれもあんたから夢を取りあげようとしてるわけじゃない。ただ、まだ行ってもらっては困るんだ。われわれを見捨てられては困るんだよ。これまでわれわれはあんたにくっついてきた。だから、あんたも仕事がうまくいくまで、われわれのそばにいる義理があるよ」
ハリマンは答えなかった。ディクソンが話をつづける。「わたしに対してそれだけの誠意がもてないんだったら、ジョージのことを考えたらどうだ! 彼はわたしにさからってもあんたについた。自分は痛手を受けるし、あんたのおかげで身の破滅になると思っていたときにもだよ。それに、あんたがこの仕事を最後までやりとげなかったら、たしかにそういう結果になってしまったろう。ディロス、ジョージのことを考えたらどうだ? 彼のことも見捨てるつもりか?」
ハリマンはディクソンを無視して、くるりとふりかえって、ストロングと向かいあった。「ジョージ、どうなんだ? わたしはここに残っているべきだと思うか?」
ストロングは両手をこすりあわせ、唇を噛んだ。やっと顔をあげる。「ディロス、わたしはかまわんよ。いちばんいいと思うことをやってくれ」
ハリマンは長い間、彼の顔を見つめていた。その顔がいまにも泣き出しそうになる。やがて、かすれた声でいった。「いいよ、ちくしょうめ! わかったよ。残ることにするよ」
14
空が雷できれいにぬぐわれたあとの、パイクス・ピーク界隈ではよく見られるすばらしい夜だった。カタパルトの軌道が山腹を一直線にはい登っている。直線になるように、山の肩に当たる部分が削り取られているのだった。建設したばかりでまだあらあらしさが残っているこの仮設宇宙空港では、ハリマンが来賓の名士たちといっしょに、メイフラワー号の乗客や乗組員に別れの言葉をかけていた。
群集はカタパルトのレールのすぐそばにまで来ていた。彼らをロケットから遠ざける必要はない。ジェットは山頂をこえて高く上がるまで噴射しないからだった。装備されているのはロケットだけ、ロケットと光るレールだけだった。
ディクソンとストロングは、たがいに話し相手となってもたれあうようにして、乗員や幹部のいるロープで仕切ったなかのうしろのほうに引っこんでいた。ハリマンが出発する連中に陽気に話しかけているのを見守る。
「元気でな博士。ジャネット、だんなさんから目を離しなさんな。月の女性をさがしに出かけさせたりしてはだめだよ」
彼がコスターとひそひそ話をして、さらに若い男の肩をたたくのが見えた。
「元気にやってるようだな」ディクソンがささやいた。
「やっぱり行かせてやるべきだったかもしれない」ストロングが答える。
「えっ? ばかな! あの男がいなくなっては困る。それに、彼の名が歴史に残ることは、どっちにしてもまちがいないよ」
「歴史に残るなんてことは考えてもいないんだ」ストロングはまじめに答えた。「ただ、月に行きたい一心なんだな」
「とにかく、冗談じゃない──彼も月には行かれるんだぜ……この仕事がすめばね。結局、これは彼の仕事だよ。彼がやった仕事だ」
「わかってる」
ハリマンがふりかえってふたりを見つけ、ふたりのほうに歩み出した。ふたりが口をつぐむ。「何を小さくなってるんだ」ハリマンは陽気にいった。「いいんだよ。わたしは次のロケットで行くよ。それまでには、会社がほっといてもうまくいくように計画を立てる。見ていろよ」メイフラワー号のほうにふりかえる。「どうだい、いいながめだろ?」
ロケットの外側のドアがしまった。準備完了の電灯が、軌道にそって、さらに管制塔にもついた。サイレンがひと声。
ハリマンは一、二歩前に出た。
「行ってこい!」
これは群集みんなからの叫びだった。巨大なロケットはゆっくりと静かに軌道を登り、速度をまし、遠くの山頂に矢のように向かう。上に向かってカーブを抜き、パッと空に飛び出したころには、ロケットはすでに小さく見えていた。
一秒の何分の一か、山の上の宙に浮かんだと見えたが、やがて尾部からバッと明るい火を吐く。噴射がはじまったのだ。
やがて、ロケットは夜空の輝く光となり、火の玉となり、そのうちに──無になってしまう。ロケットは行ってしまったのだ。上へ、地球の外へ、タンカーの群れとのランデヴーに。
ロケットが山頂にはい登る間に、群集は壇の西のはずれのほうに押しよせていってしまった。ハリマンはそのままの位置に残り、ディクソンとストロングも群集のあとを追わなかった。三人だけになったが、ハリマンはだれかがそばにいるのも気がつかないので、いちばん孤独だった。
彼は空を見つめていた。
ストロングはそのハリマンを見守る。やがてストロングは、聞こえないようなささやき声でディクソンにいった。「聖書を読むかね?」
「いくらかは」
「彼はモーゼがあんな顔をしてたろうと思えるような顔をしてるよ。モーゼが約束の地を見わたしているときのような顔だ」
ハリマンは空から視線を落としてふたりに気がついた。「なんだ、まだいたのか? 行こう──やってしまわなければならん仕事がある」
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デリラと宇宙野郎たち
そう、宇宙ステーション一号を作るときに面倒があった──だが、その面倒とは人間だった。
二万二千三百マイル離れた宇宙で、ステーションを建設するのは、容易なことだというのではない。これはパナマ運河やピラミッド──あるいはサスケハンナ原子力発電所などよりも、技術的にずっとすごい離れ業だった。タイニイ<堰[センが作ったのだ──そして、タイニイが取り組むものは完成するのだ。
おれが初めてタイニイを知ったのは、かれがセミプロのフットボール・チームでガードをやりながらオッペンハイマー工科大学に通っていたころだ。そのころから卒業するまで、かれは夏になるとおれのところで働いていた。そして、ずっと建設事業の仕事をつづけ、ついにおれのほうが、かれのもとで働くようになってしまった。
タイニイは技術面に満足しなければ、仕事に手を出そうとしなかった。ステーションには、宇宙服を着た大人のかわりに、六本も手がある猿を必要とするように設計されたところがあった。タイニイはそのようなうんざりするところを見つけると、仕様や図面が気に入るまでは、一トンの材料といえども宇宙に送らせなかった。
ところで、おれたちに頭痛をもたらしたのは人間だった。既婚者もすこしはいたが、あとは、高給と冒険に引かれた荒っぽい青年たちだった。あるものはお払い箱になった宇宙船乗組員。あるものは、電気技術者とか機械技術者といった専門家。半分ほどは、圧力服を着て働くことに慣れた深海潜水夫だった。潜函土工、整備工、熔接工、船舶艤装工、それにサーカスでアクロバットをやっていたのも二人いた。
おれたちは、かれらの四人を仕事のときに酔っぱらっていたことで首にした。タイニイはそのひとりが首を承知する前に、その馬鹿野郎の腕をへし折ることまでしなくてはいけなかった。おれたちが心配したのは、かれらがどこから酒を手に入れるのかだった。これは、船舶艤装工が、まわりの真空を使う無熱蒸溜器をこしらえたということがわかった。かれは食料倉庫からかっぱらってきたジャガイモでウオッカを作っていたのだ。おれはこいつを首にするのが嫌だったが、こいつは頭が良すぎるので仕方がなかった。
二十四時間の円軌道で自由落下が続き、すべてのものが無重力で漂っている状態で、骰子《さいころ》をふることなど不可能だと思われるだろう。だが、ピーターズという無電の技術者が、鋼鉄の骰子と磁場を使って代用品を考え出したのだ。ついでに、偶然の要素もなしにしてしまったので、こいつも首にした。
おれたちはこいつを、次の補給船〈RS・ハーフムーン〉で送り返そうとした。おれたちが、タイニイの事務室にいたとき、その船はおれたちの軌道に合わせようとして噴射した。タイニイは観測窓へ泳いでいって口を開いた。
「ピーターズを呼んでくれ、おやじ……それから、やつを放り出せ。やつの交替はだれだ?」
おれはかれに答えた。
「G・ブルックス・マックナイってやつだ」
その船から、一本の綱がうねりながらやってきた。タイニイはいった。
「こちらとうまく合っているとは思えんな」
かれは通信室を呼び、そのロケット船のステーションに対する相対運動を尋ねた。その答が気に入らなかったので、かれはハーフムーンを呼び出せと告げた。
タイニイはテレビ・スクリーンに、そのロケット船の船長が現われるまで待った。
「おはよう、船長。どうしてこちらに綱をかけたんだい?」
「もちろん、貨物のためさ。あんたんとこの飲んだくれをもらったら、蔭に入るまでに出発したいもんだな」
ステーションは毎日、約一時間と十五分のあいだ、地球の蔭を通過する。おれたちは十一時間ずつの二交替制で働き、作業用の照明と電熱服を不用にするために、暗い期間を作業時間から抜かしている。
タイニイは首をふった。
「きみがこちらに、コースとスピードを合わせるまではだめだ」
「合ってるよ」
「規定どおりにはなっていないぞ、こちらの計器ではな」
「頼むよ、タイニイ! 動かすための燃料が足りないんだ。たった何トンかのくだらん貨物のために、ちょっとばかり修正しようとして、こちらの船全体をひねくりまわしたら、ずっと遅れちまって、第二空港へ下りなくちゃあいけなくなるんだ。それどころか、エンジン停止の状態で着陸をしなければいけなくなるかもしれないんだぜ」
そのころの船にはみな、着陸用の翼があったのだ。
タイニイは鋭くいった。
「おい、船長……きみが上がってきた唯一の目的は、そのくだらんたった何トンかのために、軌道を合わせるってことなんだ。こちらはみな、きみが竹馬に乗って、南極のリトル・アメリカへ下りようがどうしようが、いっこうにかまわないんだ。ここへ来た最初の荷物は、ちゃんと気をつけて正しい軌道に合わせたんだ。それから、ほかの荷物もみな、全部合わせているんだ。その幌馬車を、ちゃんと溝に入れろ」
「わかった、監督さん!」
と、シールズ船長は、堅い声で答えた。するとタイニイは、優しい声を出した。
「気を悪くしないでくれよ、ドン……ときに、ここへの乗客は乗せてきたのかい?」
「ああ、乗せてきたとも!」
シールズの顔は、にやりと笑いにくずれた。
「そうか、その男は、荷物を下ろすまで積んどいてくれ。まだ蔭までには、間に合わせられるかもしれんぞ」
「そいつはありがたい! それはそうと、なぜぼくはあんたに、面倒をふやさなければいけないのかなあ?」
船長は、おれのボスを面くらわせたままにしておいて、スイッチをきった。
おれたちには、かれの言葉をいぶかしく思っている時間はなかった。シールズは、ジャイロを使って一、二秒ふかし、あっというまにその船をぴたりと着けた──それも、ぶうぶういっていたくせに、燃料はほんのすこししか使わなかった。おれは割けるかぎりの男たちを集めて、地球の蔭に入るまでに、荷物を全部出してしまおうとした。貨物をあつかうとき、重さがないというのは信じられないほど有利なものだ。おれたちはハーフムーンの中身を全部──それも、手だけを使ってだ──五十四分間につかみだした。
荷物は、中身のつまった酸素タンク、それを保護するアルミニウム反射板、外殻用パネル──チタニウム合金板でフォーム・ガラスをはさんだサンドイッチ──それから、居住区画を回転させるためのジャトー・ロケットの箱だった。
そういったもの全部を外に出し、貨物綱にくくりつけると、おれは同じ綱で男たちを元にもどした。──おれは、どれほど宇宙に慣れたと思っているやつでも、綱を使わずに外で働かせたりはしなかった。それからシールズに、乗客をよこして飛んでいけといった。
その小さな男は船のエアロックから出てくると、船に張ってある綱にフックをかけた。そいつは宇宙に慣れた男の身のこなしで、足をそろえて飛び、フックにはなんの抵抗もかけず、のびている綱にそっとまっすぐにやってきた。
おれは急いでもどり、その男についてこいと身振りで示した。タイニイ、その新しい男、それにおれは、エアロックに同時に着いた。
普通の貨物用エアロックのほかに、おれたちのところにはGEクイックロックが三つあった。
クイックロックというのは、中に大きな釘がついていない鉄の処女で、宇宙服を着た男の体にぴったり合い、自動的にぐるりとまわって、ほんのちょっぴりの空気を外に逃がすだけだ。交替のときに、すごく時間を節約してくれる。おれは中型のやつを通り抜け、タイニイはもちろん大型のを使った。その新しい男はためらいもせずに、小型の中に入った。
おれたちはタイニイの事務室へ行った。タイニイはストラップをはずし、ヘルメットをうしろにおとして、話しかけた。
「さてと、マックナイ。来てくれて嬉しいよ」
新しい無電技師はヘルメットを開いた。おれの耳に、低くて感じのいい声が聞こえてきた。
「ありがとう」
おれは見つめたまま、何もいわなかった。おれのいたところからは、その無電技師が髪にリボンを結んでいるのが見えたのだ。
おれは、タイニイが爆発してしまうのではないかと、思った。その髪のリボンを見るまでもなく、ヘルメットを上げただけで、その新しい男≠ェミロのヴィーナス同様に女であることは、はっきりわかったのだ。
タイニイはぶつぶついい、宇宙服をぬぐと観測窓へ飛んだ。かれは怒鳴った。
「おやじ! 通信室を呼べ。あの船をとめろ!」
だがハーフムーンはすでに、遠くの火の玉となっていた。タイニイは呆然としていた。
「おやじ、このことは、ほかにだれが知っているんだ?」
「だれも、おれの知っている限りではね」
かれはちょっと考え、彼女のほうを見ようとせずにいった。
「彼女を見つけられないようにしなければいけないな。そうだ……閉じこめて、次の船が来るまでは、隠しておくんだ」
「いったい、何のことをいってらっしゃるの?」
マックナイの声はかん高くなり、もはや感じのいいものではなくなっていた。
タイニイはにらみつけた。
「きみのことさ。きみは何だい……密航者なのか?」
「馬鹿なこといわないで! わたしはG・B・マックナイ、電子工学技師よ。わたしの書類を見なかったの?」
タイニイは、おれのほうに向いた。
「おやじ、これはきみの失敗だぞ。だいたい、こん畜……失礼、お嬢さん……どうしてきみは、女を送らせたりしたんだ? 彼女の身上調査書を読みもしなかったのか?」
「おれが? おい、この石頭野郎! ああいう書類に性別は書いてないんだぞ。仕事に関係のあるとき以外、公正雇用委員会はそんなこと許さないんだ」
「ここでの仕事には関係がないって、ぼくに教えてくれるつもりかい?」
「職種の分類では関係ないね。地球では、女の無電技師やレーダー係がいっぱいいるからな」
「ここは地球じゃないぜ」
かれにも一理はあった。外の仕事に群がっている二本足の狼どものことを、かれは考えていたのだ。それにG・B・マックナイは美人だった。八カ月ものあいだぜんぜん女っ気抜きだったことが、おれの判断を狂わせていたかもしれないが、それにしても彼女は相当なものだった。おれは意地悪くつけ加えてやった。
「女のロケット・パイロットのことだって聞いているぜ」
「女の大天使がいると聞いたことがあっても、いっこうにかまわないよ。ここでは、女は使わないんだ!」
おれがいらいらとしていたとすれば、彼女のほうはすっかり感情を害していた。
「ちょっと待って! あなたは工事の総監督さんだったわね?」
「そうだ」
と、タイニイはうなずいた。
「では、なぜわたしの性別がおわかりになるのかしら?」
「きみは、女だということを否定しようというのかい?」
「とんでもない! わたし、そのことを誇りに思ってますわ。でも公式には、G・ブルックス・マックナイの性別がどちらか、あなたはご存じないわけよ。グロリアのかわりにGを使うのはそのためなの。お情をかけられるのは嫌ですものね」
タイニイはいらいらといった。
「そんなものは、ぜんぜんかけたりしないよ。どうしてきみが潜りこんだのか、ぼくにはわからないが、これだけははっきりしておこう。マックナイ、それともグロリアか、なんでもいい……きみは首だ。次の船に乗って帰るんだ。それまでは男どもに、女を乗せたってことを気づかれないようにしておこう」
おれは、彼女が十まで勘定するのがわかった。彼女はやっと口に出した。
「わたしにもいわせてもらえるかしら……それとも、ブライ船長ともなると、そこまで干渉なさるの?」
「いいたいことがあるなら、いってくれ」
「わたし、潜りこんだりしなかったわ。わたしは、ステーションの正式なメンバー、首席通信技師よ。自分からここの空席を志願したのよ、ここの機械は、作られたときから知っていたわ。わたし、いつかはここに住むんだから、いまから始めていけないって理由はないでしょう」
タイニイはごめんだというように手をふった。
「男も女もここに来るだろうよ……いつかは。子供もね。だが、いまのところは野郎ばかり。これでいくんだ」
「えーえ。まあそれはともかく、あなたにもわたしを首にはできないわ。無電技師は、あなたの部下じゃあないんですもの」
彼女はポイントを稼いだ。通信士とそのほか何人かの専門技術者は、ハリマン産業が請負業者のファイブ・カンパニーズに用立てているのだ。
タイニイは、ふんと鼻っ先で笑った。
「きみを首にすることはできないかもしれないが、送り返すことはできるさ。要求された人員は、請負人にとって満足すべきものであらねばならない=c…請負人とは、ぼくのことだよ。M項の第七だ。その項は、ぼくが自分で書いたんだ」
「では、ご存じでしょうね、要求された人員が理由なく拒絶されたとき、請負人は、その送還費用を負担するってこと」
「きみを送りかえす費用を払う損ぐらいはかまわないが、きみをここにおいておくようなことはしないよ」
「あなたって、ほんとにわけのわからない人ね!」
「たぶんそうだろう。だが、仕事のために何が最上かってことは、ぼくが決めるんだ。ぼくの部下のまわりを女の子に嗅ぎまわられるよりは、麻薬商人に来てもらうほうがいいよ!」
彼女は息をのんだ。タイニイもいいすぎたと気づいて、つけ加えた。
「ごめんよ、お嬢さん。だがそういうわけだ。きみを厄介ばらいできるまでは、隠れていてもらうからね」
彼女が答える前に、おれは口をはさんだ。
「タイニイ……後ろを見てみろ!」
窓からのぞきこんでいたのは、労働者の一人で、そいつの目は飛び出しそうになっていた。そこへまた三人か四人が浮かび上がってきて、その男に加わった。
するとタイニイは窓のところへすっ飛んでいき、連中は小魚のように散っていった。かれは連中を、服から飛び出させてしまいそうなほど、おどかしたのだ。おれは、タイニイが拳骨で石英ガラスをつき破ってしまうのではないかと思った。
かれは打ちのめされたような表情になってもどってくると、指さしながらいった。
「お嬢さん、ぼくの部屋で待っていてほしいな」
彼女が行ってしまうと、かれは言葉を続けた。
「おやじ、ぼくらはどうすりゃあいいんだ?」
「もう決心したとばかり思っていたがなあ、タイニイ」
かれは腹を立てたように答えた。
「したとも……検査主任に来てくれるようにいってくれないか」
これで、どれくらいかれが頭に来ているかわかった。検査の連中は、おれたちのほうではなくて、ハリマン産業に属しており、タイニイはそいつらを邪魔になるだけだと見なしていたのだ。そして、タイニイはオッペンハイマーを出ているが、ダルリンプルはMITの出身なのだ。
やつは、せかせかと陽気に入ってきた。
「おはよう、総監督。おはよう、ウイザスプーンさん。御用って何でしょう?」
憂鬱そうにタイニイは事の次第を話したが、ダルリンプルはすましたものだった。
「彼女が正しいですよ、大将。あんたは彼女を送り返せるし、それに男の交替をよこせとはっきり指定してやることもできますよ。でもいまのところ、ぼくははっきりした理由で≠ニは、裏書きできませんな」
「馬鹿いうな、ダルリンプル。おれたちは、ここに女をおいておくわけにはいかないんだ」
「討議の余地はありますな。契約書にはないことだって、わかっているでしょう」
「きみんところが、彼女の前にあんな賭博師をよこしていなかったら、こんな面倒にはならなかったんだぞ!」
「まあまあ、血圧に悪いですよ。裏書きのところは空白にしておいて、費用のほうは仲裁裁判で決めるとしたらどうです。これでいいじゃないですか?」
「そうだな、ありがとう」
「どういたしまして。だが、ここんとこは考えてくださいよ。あんたは、新しく来た者に会う前に、ピーターズを追っ払ってしまった。自分で、通信士を一人きりにしてしまったわけです。ハモンドが一日二十四時間仕事をするわけにはいきませんよ」
「通信室で眠れるよ。目覚ましで起こすようにして」
「そいつはまずいですよ。本社と宇宙船の周波数は、いつも合わせておかなければいけませんからな。ハリマン産業は、資格のある通信士を供給したんです……しばらくのあいだ、彼女を使わなくちゃあいけないと思いますがね」
タイニイは、ほかに仕様がないとわかれば、いつでも飲みこみの早い男だ。かれは静かにいった。
「おやじ、彼女には早番をやってもらう。その勤務時間には、所帯持ちをつけたほうがいいぜ」
それから、かれは彼女を呼び入れた。
「通信室に行って、引き継ぎを始めてくれ。ハモンドがすぐに休めるようにな。かれのいうことはよく聞いてくれ。いい男だよ」
グロリアはぶっきらぼうに答えた。
「知ってますわ……わたしが、かれを教育したんですもの」
タイニイは唇を噛んだ。検査主任はいった。
「総監督は、つまらんことには気を使われないんでね……ぼくはロバート・ダルリンプル、検査主任です。たぶんかれは、助手も紹介しなかったでしょうな……ウイザスプーンさんです」
「おやじと呼んでください」
おれがそういうと、グロリアは微笑んで答えた。
「よろしくね、パパ」
おれは、ほのぼのとした気分になった。彼女はダルリンプルにむかって言葉を続けた。
「わたしたち、いままで会わなかったの、変ね」
タイニイは口をはさんだ。
「マックナイ、きみはぼくの部屋で寝てくれ……」
彼女は眉をあげ、タイニイは怒ったようにあとを続けた。
「ああ、ぼくはすぐに、自分の荷物を出すよ。それから、これは覚えておいてくれ……勤務以外のときには、部屋の鍵をかけておくんだ」
「こまかいことをいわれなくとも、そうするわよ」
タイニイは顔を赤らめた。
おれは忙しすぎて、ミス・グロリアに会う暇がほとんどなかった。しまう貨物があるし、新しいタンクを据えつけて、絶縁しなければいけなかった。それから、いちばん面倒な仕事が残っていた──居住区画に回転を与えることだ。どんな楽天家でも、ここ何年かのうちに惑星間交通がそう繁盛するようになるものとは思っていなかったのだが、それでもハリマン産業は何か活発な仕事が入りこんでくることと、その巨額の投資に対して、賃貸料を得ようと求めたのだ。
国際電信電話公社は、極超短波中継局のためのスペースを借用契約した──テレビだけで、年に数百万ドルだ。気象局は半球統合気象台を設置したくてやっきになっていたし、パロマ天文台はもう使用権を持っていた(ハリマン産業が、そのスペースを寄付したのだ)。安全保障理事会も何か極秘の計画を持っていたし、フェルミ物理学研究所とケタリング研究所も、それぞれのスペースを持っていた──一ダースもの借家人が、なるべく早いところ引っ越してきたがっていた。たとえ、おれたちが旅行者や観光客のための設備を完成することができなくてもなのだ。
ファイブ・カンパニーズとその協力者には、早くできればできただけの特別手当が出ることになっていた。だからおれたちは、居住区画に回転を与えることを急いでいたのだ。
地球をこれまで離れたことのない人々には──少なくとも、おれはそうだった──宇宙の自由軌道で、重さの感覚がなく、上も下もないということから、頭が変になるという面倒がおこる。地球は、まん丸く、美しく、たった二万マイルすこし離れたところに、いうなれば服の袖がふれそうな近くに、見えている。そいつが引っぱっていることはわかっているが、重さというものは感じない、絶対にない。ただ、浮かんでいるだけだ。
浮かんでいることは、ある種の仕事にはいい。だが、食べるとか、カードをするとか、入浴するとかのときには、両足に重さを感じているほうがいいものだ。晩飯がじっとしてくれていると、ずっと自然に感じるものだ。
ステーションの写真を見られたと思うが──大太鼓のような巨大な円筒で、その胴に、宇宙船が鼻をつっこむくぼみがついている。大太鼓の中で、くるくる回転している小太鼓を想像してほしい。それが居住区画であり、遠心力が重力の代用をするというわけだ。ステーション全体を回転させることもできるのだが、ぐるぐるまわっているところに宇宙船を着けることはできないのだ。
そこで、回転部分を、人間が楽に住めるところにし、外側の静止している部分を、船の着くところ、タンク、倉庫、そういったものに作り上げた。一方から他方へ行くときには、輪の中心を通るのだ。ミス・グロリアがおれたちに加わったときには、内側の部分は密閉され、気圧がかけられていたが、そのほかは骨組みの骸骨のままだった。
それでもすごく美しかった。光り輝く支柱や梁の大きな骨組みが、黒い空と星々を背景にしている──軽くて、強く、腐食しない、チタニューム合金一四〇三だ。ステーションは、ロケット噴射の衝撃に耐える必要はないので、宇宙船にくらべるともろいものだ。激しい力を用いる方法で回転を与えることはできないってことだ──というわけで、ジャトー装置を使うことになったのだ。
|JATO《ジャトー》──ジェットの力に助けられた離陸──は、飛行機に強い推力を与えるために発明されたロケット装置だ。現在、制御された力を必要とするときは、どこでもそれを使っている。たとえば、ダム工事で泥の中からトラックを引っぱり出すときなどだ。おれたちが、居住区画の枠のまわりに、こいつを四千個すえつけ、電線をつなぎ、点火するばかりになったとき、タイニイが心配そうな顔をして、おれのところにやってきた。
「おやじ、ほかのことは全部やめて、コンパートメントのD一一三を完成してしまってくれ」
「オーケイ」
と、おれはいった。D一一三は回転しない部分にあるんだ。
「エアロックを取りつけて、そこへ二週間分の必要物資を入れるんだ」
「すると、回転に対する質量分布を変えることになるね」
と、おれはいった。
「次の暗黒時間に計算しなおすよ。それからジャトーを入れ変えよう」
ダルリンプルはそのことを聞くと、すっ飛んできた。これで、賃貸スペースを使えるように作りあげるのが遅れることになるからだ。
「どういうつもりなんです?」
タイニイはかれを見つめた。ふたりは近頃、以前にくらべるとよそよそしくなっていた。ダルリンプルは何とかかんとか口実を見つけては、ミス・グロリアを探しまわっていた。彼女の臨時の部屋に行くには、タイニイの事務室を通らなければいけなかったのだが、タイニイはついにダルリンプルに、出ていけ、入ってきてはいかんと、いったのだ。
「こういうつもりだ……家が燃えたときに備えて、小さなテントを張っておくんだ」
と、タイニイはゆっくりといった。
「なぜなんです?」
「もしジャトーに点火したとき、構造にひびが入ったらどうなる? 宇宙船が通りかかるまで、宇宙服を着て、ぶらぶらしていたいのか?」
「馬鹿な……加えられている力は、すっかり計算されているんですよ」
「橋が落ちたときに、そういった男がいたってよ。ぼくらは、ぼくのやりかたでやるんだ」
ダルリンプルは、荒々しく去っていった。
グロリアを閉じこめておこうとするタイニイの努力は、涙ぐましいものだった。まず、無電技師の最大の仕事は、当直のときに、宇宙服の携帯通信機を修理することだった。そういった故障が──彼女の勤務時間に──やたらとおこったのだ。おれは交替の時間割をいくらか変え、修理品のいくつかは有料として、工場にまわしもした。自分のアンテナをわざと壊すなんていうのは、使い方が普通とはいえないからだ。
ほかにもいろいろと徴候が現われた。髭を剃ることが流行になってきたし、男たちは居住区画でシャツを着はじめ、入浴がふえてきたので、水の蒸溜器をもうひとつ作らなければいけないかなと思うぐらいだった。
D一一三ができあがり、ジャトーの再調整が終わった。おれは神経質になっていたといっていい。全員、居住区画を離れ、宇宙服をつけるようにと命令された。みんなは、梁のまわりに乗って待機した。
宇宙服を着た男はみな、同じように見えるものだ。そこでおれたちは、番号と色彩別の腕章をつけた。監督はアンテナを二つつけている。一つは全員の波長に合わせたもの、一つは監督同士で聞こえるものだ。タイニイとおれの第二アンテナは、通信室を通じて連絡され、全員の波長で放送される。
監督たちが、それぞれの部下が花火装置から離れたと報告してきたので、おれがそれをタイニイに伝えようとしたとき、危険地帯にある骨組みの中をよじ登ってきた者がいた。命綱も腕章もなく、アンテナは一つだ。
もちろん、ミス・グロリアだった。タイニイは彼女を噴射区域から引っぱり出して、自分の命綱につないだ。かれの声が荒々しく、おれのヘルメットの中で響いた。
「何さまのつもりなんだ? 野次馬の監督か?」
彼女の声がした。
「わたしに、何をしろとおっしゃるの? 星の上にでも坐っていればいいの?」
「ぼくはきみに、工事からは離れていろといったじゃないか。命令に従えないなら、きみを監禁するぞ」
おれはタイニイのところへ行き、自分の通信スイッチを切ってから、ヘルメットをくっつけた。
「ボス、ボス! みんなに聞こえているんだよ!」
「え……」
かれはそういいかけてスイッチを切り、彼女のヘルメットに頭をくっつけた。
まだ彼女の声は聞こえた。彼女はスイッチを切らなかったのだ。
「何いってんのよ、このわからずや。あなたが、みんなを外へ出すために捜索隊を出したから出てきたのよ……どうしてわたしが、命綱の規則について知っているわけがあるの? あなたは、わたしを閉じこめっぱなしにしていたのよ」そして、最後に、「いまに見てらっしゃい!」
おれがタイニイを引き離すと、かれは主任電気技師に、やれと命令した。おれたちは喧嘩のことを忘れた。これまで見たことのない美しい花火が始まったからだ。まわり一面にロケットが噴射している巨大なセント・キャサリンズの輪だった。宇宙では、まったく音がないが──くらべもののないほど美しかった。
噴射が終わると、居住区画は、はずみ車そっくりに回転していた──タイニイとおれは、ふたりとも、ほっと安堵の溜息をついた。おれたちはみな、重さというものがどんな感じのするものかを見に、中に入っていった。
妙な感じのものだった。おれはシャフトを通り、梯子を下りていったが、端のほうに近づくにつれて、自分の体にまた重さがもどってきたことを感じた。おれは、初めて無重力を体験したときと同じように、船酔いを覚えた。うまく歩けず、ふくらはぎが引きつった。
おれたちは、くまなく調べてから事務室にもどって、腰を下ろした。いい気持ちだった。端のほうの三分の一の重力は、ぴったり具合のいいところだった。タイニイは、椅子の肘掛けをさすって笑っていた。
「D一一三に閉じこめられているよりましだな」
ミス・グロリアが入ってきて、話しかけた。
「閉じこめられていることですけれど……ミスタ・ラーセン、ちょっとお話できますかしら?」
「え? もちろんいいとも。ほんとのところ、きみに会いたかったんだ。きみに謝らなくてはいけないと思ってね。ミス・マックナイ、ぼくは……」
彼女はタイニイの言葉をさえぎった。
「いいんです……あなたは、いらいらしてらしたもの。でも、これ知っておきたいんです。いつまであなたは、わたしの付き添いのような馬鹿げたことを続けられるおつもりですの?」
かれは、じっとグロリアを見つめた。
「そう長くはないよ。きみの交替が来るまでだね」
「そう? ここでの職場代表はだれかしら?」
「艤装工のマックアンドリューズという男だが、きみはかれを使えないよ。きみは職員なんだからね」
「わたしがしようとしていることでは違うわ。わたし、その人に話してみます。あなたはわたしを、差別待遇してらっしゃるわ。それも自由時間のときに」
「そうだろうな。だが、ぼくにその権限があることは、わかっているだろう。法的には、この仕事をやっているあいだ、ぼくは船の船長だ。宇宙における船長は、大きな差別権限を持っているんでね」
「では、大いに差別待遇にお使いになるといいわ!」
タイニイはにやりと笑った。
「ぼくはそうしていると、いったばかりだったがね?」
職場代表からは何も聞かなかったが、ミス・グロリアは、自分のやりたいようにやり始めた。彼女は次の非番のときに、ダルリンプルと映画会に姿を現わした。タイニイはその途中で出て行った──ニューヨークから中継した〈リズ、町へ行く〉といういい映画だったのに。
彼女がひとりでもどってくると、タイニイは、おれにも立ち合わせておいて、彼女を呼びとめた。
「ええと……ミス・マックナイ……」
「はい?」
「きみは知っておくほうがいいと思うんだ。つまり、その……検査主任のダルリンプルは所帯持ちなんだ」
「あなたは、わたしのしたことが、よくないことだったっておっしゃりたいの?」
「いや、でも……」
「じゃあ、ご自分のことだけ考えてらしたら?」
かれが答える前にグロリアは言葉を続けた。
「これ、興味がおありになるかしら。あの人が、あなたの四人のお子さんのことを話してくれたってこと」
タイニイはどもった。
「な、なんだって……ぼくは、結婚もしていないのに!」
「そうなの? じゃあ、なお悪いわね。そうでしょ?」
彼女はさっさと離れていった。
タイニイは、彼女を部屋に閉じこめておこうとするのはやめたが、出て行くときには必ず、かれに知らせてからにするようにといった。グロリアに気をつけていることで、かれは忙しくなった。おれは、ダルリンプルに代わってもらえばどうかといおうと思ったが、遠慮しておいた。
だが、タイニイが彼女をやめさせる命令を出せといったときには、おれも驚いた。おれはてっきり、そんなことは忘れてしまうとばかり思っていたからだ。
おれは尋ねた。
「理由は何だい?」
「反抗だ!」
おれが黙っていると、かれはいった。
「とにかく、あの女は命令に従わないんだ」
「彼女は、自分の仕事をちゃんとやっているぜ。きみは、男には命令しそうにもないことを、彼女にいいつけているよ……男ならいうことを聞かないことをね」
「きみは、ぼくの命令に賛成しないんだね?」
「それは問題じゃあないんだ。きみは、理由を証明することができないだろう、タイニイ」
「じゃあ、女だからだめだとしてくれ! それなら証明できるだろう」
おれは何もいわないでいた。すると、かれはうまく丸めこもうとしはじめた。
「おやじ、きみは、どう書けばいいか知っているじゃないか……ミス・マックナイに対する個人的悪意はなきも、政策上感じられることは、どうとかこうとか……」
おれはそれを書いて、ひそかにハモンドに渡した。通信技師は秘密を守る誓約をしているが、おれは、腕のいい金属工のオコンナーに呼びとめられたときも、驚きはしなかった。
「なあ、おやじさん。ボスがブルックシーをやめさせるって、ほんとかい?」
「ブルックシーって?」
「ブルックシー・マックナイだよ……彼女はブルックスと呼んでくれといってるんだ。ほんとかい?」
おれはそれを認め、嘘をついておくべきだったかなと思いながら、歩いていった。
地球から宇宙船が上がってくるには、約四時間かかる。ミス・グロリアの交替を乗せて〈北極星《ポールスター》〉がやってくる前の勤務時間に、タイムキーパーがおれのところに離職願を二通持ってきた。二人ぐらいは何でもなかった。宇宙船がやってくるたびに、いつももっとあったのだ。一時間後、かれは監督回路を使っておれに連絡し、タイム・オフィスまで来てくれと頼んだ。おれは、そとの輪のところにいて熔接工事を検査していたので、だめだといった。
「お願いです、ミスタ・ウイザスプーン……来てもらわなくちゃあ困るんです」
そうかれは懇願したのだ。男たちのうちのだれだろうと、おれをおやじ≠ニ呼ばないときは、何かあるということだ。おれは行ってみた。
かれの部屋のドアの外に、郵便を受け取るときのような行列ができていた。おれが入っていくと、かれはドアをしめ、両手にいっぱいの離職願の用紙を渡してよこした。
「いったいこの夜中に、どうしたというんだ?」
「もっと何十枚もありますが、まだ書き上げる時間がないんです」
どの用紙にも、はっきり理由はなく──ただ本人の希望により≠セけだった。
「おい、ジミー……どうなってるんだい、これは?」
「わからないんですか、おやじ? おれもその一人になろうと思っているんですぜ」
おれは自分の想像を話し、かれはそのとおりだといった。そこでおれはその書類を取り、タイニイを呼んで、何はともあれ、すぐかれの事務室に来てくれといった。
タイニイは考えこみ、唇を噛んだ。
「だがおやじ、やつらは、ストライキなどできないんだ。あらゆる種類の労組の承認ずみで、ストライキなしの契約になっているんだぜ」
「タイニイ、これはストライキじゃないよ。やめるという連中をとめることはできないんだ」
「連中は、帰りの旅費を払わなければいけないんだぞ」
「よく考えてみろ。ほとんどは、ただで乗れるようになるまで、長いあいだ働いてきたんだよ」
「急いで代わりのものを雇わなければいけないな。期日に遅れるぞ」
「それより悪いさ……タイニイ、できあがらないよ。次の暗黒時間までには、補修要員までいなくなってしまうさ」
「ぼくはこれまで、部下に逃げられたことはないんだ。連中に話してみよう」
「だめだ、タイニイ。きみは、手にあまるほど強いものに逆らっているんだ」
「おやじ、きみもぼくに反対なのか?」
「タイニイ、きみに反対したことはないよ」
かれはいった。
「おやじ、ぼくを、わけのわからんやつだと思うだろうが、ぼくは正しいんだ。何百人という男の中に、女を一人だけおいておくことはできないよ。みんな、頭が変になるからなあ」
おれは、おまえも同じように変になったな、とはいわなかった。
「まずいかねえ?」
と、おれはいった。
「もちろんだ。一人の女を満足させるために、仕事をだめにしてしまうことはできないよ」
「タイニイ、きみは近頃、工程進行表を見たことがあるかい?」
「時間がぜんぜんなくてね……それがどうかしたのかい?」
おれには、なぜかれに時間がなかったのか、わかっていた。
「きみは、ミス・グロリアが仕事の邪魔になったということを証明しようとしても、むづかしいぜ。おれたちは、予定よりはかどっているんだからな」
「え?」
かれが工程表を調べているあいだ、おれは腕をかれの肩にまわした。
「なあ、坊や……セックスは、長いあいだ、おれたちの惑星上に存在していたものだ。地球はそれから逃れられたことはないが、それでも相当でっかい仕事を成しとげているんだ。たぶん、ここでもおれたちは、そいつと一緒に暮らしていくことを学ばなければいけないんだろうよ。実のところ、きみは一分前に、その答を出したんだぜ」
「ぼくが? ぼくは、ぜんぜん気がつかなかったが」
「きみはいったよ……何百人という男の中に、女を一人だけおいておくことはできないよ、ってね。わかったかい?」
「え? いや、わからんな。いや、ちょっと待った! わかるような気がする」
「ジュウジュツをやったことがあるかい? 力を抜いたら勝つことがよくあるんだ」
「勝てないときは、仲間にするか?」
「そう、そう!」
かれは通信室を呼んだ。
「マックナイ、ハモンドに交替してもらって、ぼくの事務室に来てくれ」
かれはうまくやってのけた。立ち上がって演説をしたのだ──間違っていた、わかるまでに長い時間がかかった、悪く思わないでくれ、とか何とかだ。かれは地球の本社に、女性の手ですぐやれる仕事が、どれぐらいあるか調べてくれと連絡した。
おれは穏やかに口をはさんだ。
「夫婦づれも忘れるなよ……それから、年配の女連中もすこしは呼んだほうがいい」
タイニイは同意した。
「そうするよ……ほかに何か忘れているかい、おやじ?」
「ないだろう。住むところを作らないといけないが、時間はあるさ」
「うん。北極星《ポールスター》に、すこし待てというよ……グロリア、そうすれば、こんどの便で、何人か送ってこられるからね」
「すごいわ!」
彼女はほんとに嬉しそうだった。
かれは唇を噛んだ。
「何か忘れているような気がするんだ……いや……わかったぞ。おやじ、連中に伝えてくれないか。できるだけ早く、ステーションに牧師を送れって。新政策のもとでは、いつ必要になるかもしれないからね」
おれもそう思った。