C・W・ニコルの野性記
C・W・ニコル 著
竹内和世 訳
も く じ
PART1
若者よ、
野生の炎を忘れていないか
こころ――自分との出会い
Kokoro
私のネバー・ネバー・ランド
Never-never land
自然の色、人の色
Color
二十歳《はたち》――新しい始まりを迎える人へ
Twenty――a new beginning
谷あってこそ山があるのさ
Without Valleys you can't have Mountains
学 校
School
PART2
私のフィールドワーク
ビンに入れて持って帰ろうよ!
Take it Home in a Jar
太古からの契約
The Ancient Contract
冒険と食べ物
Adventure and Food
フィールドワークの重要性について
On the Importance of Field Work
私の春・夏・秋・冬
Spring, Summer, Autumn, Winter
PART3
多くの仲間へ 友情をこめて
植村直己――少年のように輝いていた
Uemura Naomi
宮澤賢治――イーハトーヴへの旅
Miyazawa Kenji
東京、光と影
Tokyo, Light and Shade
町――歩く場所
Machi
海の仲間たちよ!
Shipmates
私の人生と空手
My Life and Karate
病めるドキュメンタリー番組
――テレビで見たんだもの、ほんとうのはずさ……?
Doctoring Documentaries――it must be true,
I saw it on television…?
あとがき
汚れた靴下とすてきな靴たち
Dirty Socks and Fancy Shoes
C・W・ニコルの野性記
PART1
若者よ、野生の炎を忘れていないか
こころ――自分との出会い
Kokoro
私にはおじが何人かいるが、そのなかのひとり、母の妹の亭主だった男を、私はこのうえなく恐れ、そして憎んでいた。このおじは昔、イギリス陸軍でボクシング・チャンピオンだったこともあり、乱暴で、やきもち焼きで、気が短く、容赦のないところがあった。母が病気になって、長いこと患っていた間、私はウェールズの祖父母に預けられた。そのころ、そこにはおばたち一家もいっしょに住んでいた。おばといとこ、それに例の大嫌いなおじの三人だ。おじは私にいろいろな仕事をさせてこき使った。仕事がつらいのがいやだったのではない。私が憎んだのは、おじという人間だったのである。
ある土曜日の朝のことだった。私はおじに呼ばれて、裏の台所から熱いお湯をバケツに二杯くんでくるよういいつけられた。おじのそばには、初めて見る男がふたり立っていた。おじがいつものように、私がやせっぽちだとか何だとか意地悪くからかうと、いっしょにいた男たちもげらげら笑った。
熱いお湯をはだしの足にだらだらこぼしながら、台所から重いバケツを持って戻ってきたとき、台の上には豚が縛りつけられていて、三人の男たちがナイフでそののどをかき切っている最中だった。豚はキイキイ声をはり上げて鳴いていた。恐怖のあまり、私はその場に立ちすくみ、やがてしくしくと泣きはじめた。私はその豚をとてもかわいがっていたし、豚のほうも私が耳のうしろをなでてやったりすると、ひどくうれしそうにするのだった。
おじは私から、熱湯の入ったバケツをひったくると、まだ悲鳴を上げている豚の上にザアッとぶちまけた。それから、向き直り、平手で私の顔をぶん殴った。
「この泣き虫野郎。お湯を半分もこぼしやがって。少しばかり血を見たからって、赤ん坊みたいにメソメソしやがってよ」
男たちがどっと笑った。私はその場を逃げていきながら、いつか大きくなって強くなったら、おじをテーブルの上に縛りつけ、ナイフでのどをかき切ってやるからと、心に誓った(しかし、ありがたいことに、その誓いは守られないですんだ)。
私は裏口の階段に座り込み、向こうに見える丘を眺めた。
「なぜ、ぼくだけ、こんな目にあうんだろう」と、私は思った。
「あの恐ろしい男にいじめられるのが、なぜぼくで、ほかの子じゃないんだろう」
そのとき、ふいに、すばらしい疑問が心にわき起こった。それまで思いも浮かばなかった疑問だ。そのおかげで、自分の境遇のみじめさもすっかり忘れるほどだった。それはひどく単純な疑問だった。
「なぜ、ぼくはぼくなんだろう?」私は声に出して、自分に聞いてみた。「なぜ、ぼくはほかのだれかじゃないんだろう?」
それから二、三日して、私の誕生日がきた。いとこたちのほかに、十人を超える子供たちが集まり、ケーキやゼリー、ジャムのタルトやアイスクリーム、それにレモネードなどのごちそうを食べた。あのおじでさえ、その日は親切だった。
私が祖父に尋ねたのはそのときだった。
「おじいちゃん、なんでぼくはぼくで、ほかの子じゃないの?」
祖父は笑った。
「それはだね、お前にしかやれないことがあるからさ。お前がやらなくちゃならないこと、それをやれるのはお前だけなんだからね」
そのときの私には、この答えはあまり納得のいくものではなかったけれど、あとになって、繰り返し考えてみるたびに、この言葉の意味は私にとってますます大きなものとなっていった。
それは私が八歳の誕生日を迎えた日のことだった。
もちろん私にも、「自分がやらなくちゃならないことをやる」というのが、ひどくあいまいで、どうにでもとれる言葉だということはわかっていた。それでも私はいつも、自分の心が語りかける言葉に耳を傾けていれば、たとえ私のとる行動が他人の目にはどんなに奇異に映ろうとも、それほどまちがった方向に進むはずがないと考えていたのである。
それにしても、あの日の私のように、幼い腕で煮えたぎったお湯を運ばされ、かわいがっていた動物ののどがかき切られて血がほとばしるのを見せつけられ、あげくに顔に平手打ちをくうというような経験をしたことのある人間が、どれくらいいるだろうか。もう、四十年も前のことである。
ぼくは、ぼくなんだ。そう、いまはもうこの私も、自分がなぜ自分なのか、なぜここにいるのか、問いかける必要はなくなっている。
私のネバー・ネバー・ランド
Never-never land
だれでも、どこかに、自分のネバー・ネバー・ランド(Never-never land『ピーター・パン』のなかの架空の国。現実にはない理想の国の意)をもっていると私は信じているのだが、はたしてそれが想像が作り上げた場所なのか、それとも人間の魂のなかにある場所なのか、私にはまだ確信がもてないでいる。
ごく幼いころ、私は父を亡くした。後年、母がいまの父さん≠ニ再婚するまでの間、私は夜ベッドに入ってからもしばらくは目を覚ましたまま、自分がいま、巨大な森のなかで父と暮らしているのだと想像していた。森にはすばらしい野生の動物たちがいっぱいいて、しかもその動物たちはほとんど私の友達なのだった。キップリングの書いた『モーグリ』(日本語訳ではジャングルブック。オオカミに育てられた少年の物語である)を私が読んだのは、これよりずっとあとになってからのことである。その森のなかで、私と私が想像で作り出した父は、大きな木の上の家で暮らしていた。土曜日の午前中などに六ペンス出してはよく見に行ったあのターザン映画のように。
私が大きくなるにつれて、そのネバー・ネバー・ランドもまた、どんどん大きくなっていった。てっぺんにお城のある山々には湖があり、澄んだ川が流れ、広大な海には潮吹く鯨が泳ぎ、魚たちは私の釣り針にかかった。そのころには想像のなかの父も――もちろん忘れはしなかったが――私の母が結婚した、強い、親切な、海軍の軍人と入れ替わっていた。
このネバー・ネバー・ランドのなかで、私はアパッチのようにあるいはモンゴル兵士のように、馬に乗って疾走し、悪者を相手に戦争をしたり、決闘をしたりした。夜、暗い部屋の片隅や、ベッドの下や、大きな古い木の洋服ダンスのなかから浮かび上がってくる恐ろしい幽霊たちに、私は弓、槍《やり》、剣、短剣、ムチ、ピストル、ライフル、それに手榴弾《てりゆうだん》などを用意して、立ち向かったものだ。
十一歳になるころには、私のイマジネーションはこのうえなく生き生きとしたものとなっていたから、ベッドにもぐり込んで、母が明かりを消すが早いか、天井の上に動く絵の数々を描き出すことができた。それはまるで私の心がそこに投影するかのようだった。じっとじっと眺めていくうち、私もまた宙に浮かび上がって、その絵のなかに入り込んでいく。そこには私の馬や、私の象や、私の巨大なウルフハウンド犬や、ペットのライオンたちが私を待っていて、彼らもまた冒険の旅に連れていってくれるのを楽しみにしているのだった。
なかば目覚め、なかば眠りながら、私は長い時間そうした夢を見て過ごした。睡眠不足になってしまった私を、母は医者のところに連れていった。医者は睡眠薬を処方してくれたが、私はそれを飲むのがいやで、無理に飲まされると、いつもそれを舌の下に入れておき、水を飲まされたあとで、そっと吐き出していた。
思い出してみて、私はほんとうについていたと思う。それは、ウェールズとイングランドの間をしょっちゅう行き来しては、山々や森や|ムーア《湿原地》を歩き回り、ウェルシュ・ポニーを乗り回し、川や海で泳いだりできたということばかりではない。
十五歳のときには、交換留学生としてフランスに行き、フランス人の家族といっしょに暮らしたし、十七歳のときには、初めての北極遠征行に出かけたのだ。私が本で読んだこと、想像したことは、こうして現実の世界で体験した驚きによって、さらにいっそう生き生きしたものとなった。私たちの世界がどんなに多様性に満ちたものか、私は身をもってその不思議を知ったのである。
私のなかの宇宙のかなたにある
完全な惑星
いまでもまだ、私は自分のネバー・ネバー・ランドをもっている。一年に五回か六回、それは私のもとに訪れる。それが現れるのは、きわだってはっきりした夢のなかだ。起きてからも、その鮮やかな色彩まで覚えているほどである。不思議なようだが、そうした夢のなかでは、私はピーター・パンのように空を飛べるのだ。
一度、カナダのユーコン・テリトリーでも、ことに野性味の残る荒涼たる地域をヘリコプターで飛んでいたとき、私はふいに激しいデ・ジャ・ビュ(既視感《きしかん》)に襲われた。前にも一度ここに来たことがある、と私は感じた。巨大な川が、眼下の険しい峡谷の間を轟音《ごうおん》を上げながら流れており、その両側には、黒々とした山々が連なっていた。大きな、年をとったハイイログマが、ハコヤナギや地衣類の茂ったなかを歩いていた。たしかに私は以前ここに来たことがある。けれどもこの肉体で来たのではない。
私の本のなかでとても評判のよかったものに、『風を見た少年』というのがある。この物語は、私の夢のなかに訪れたものだ。ここで描いた国々は、私の想像の世界からか、あるいは魂の世界からか、直接やって来たものなのである。この世界の地理も、植物も、動物も、そして歴史も、私はすっかり知りつくしている。作家としての私の願いは、やがて書くべきものをすべて書き終えたとき、この世界へと移り住み、その姿を紙の上に描き出せたら、ということなのである。
ときどき日中でも、瞑想していると、ごく短い時間ながら、この世界に入り込むことができる。まず目を閉じ、心のなかの、あのきらきら輝く紫色の部分を探し出す。そこが見つかれば、あとはそれがオーロラのように揺らめきながら、大きく、大きくなっていくのを待てばよい。やがてその瞑想のなかに深く入り込むにつれ、私もまた、渦に巻き込まれる漂流物のように、その紫のなかにひきずり込まれていく。そして私は飛びつづけ、広い宇宙のなかに入り込む。星に違いない、きらきらした光に満ちたその広大な宇宙をどんどん飛びつづけていった末、やがて地球にひどくよく似た、ひとつの完全な惑星にたどりつく。網目のような白い雲で覆われた、青い水の惑星だ。
一見、まるで地球のようだ。だがこの星には汚染はなく、工業化もあまりされていない。戦争はあるものの、ごくまれにしか起こらず、核戦争や、細菌戦争、化学戦争などの脅威もない。
動植物も地球上のそれときわめてよく似ている。ただ地球と違って、植物や動物の多くは、絶滅の危険にさらされることもなく、終わりなき進化の歴史のなかで生きつづけている。この星の人類は、自分たちもまた自然のなかの、そうした大きな進化の実験の一部だということをよく知っているのである。もしかすると、私のネバー・ネバー・ランド(名前はあるけれど、いまはまだいいたくはない)は、人が天国と呼んでいるものなのだろうか?
前にどこかで、人が死ぬとき、脳は最後にひとつだけ輝きに満ちた光を発し、その人が果てしない闇の世界へと旅立つのを助ける、ということを読んだことがある。恐らくそうなのだろう。ただ私はまだ、それほど確信はもてないのだけれども。いずれにせよ、その国があることだけは確かである。紫に輝く、あの雲の向こう側に……。
自然の色、人の色
Color
英語では、悲しいときとか憂うつなときなどによく、「ブルーな気分だ」という。ひどく腹を立てたりすると、闘牛が赤い布を見て興奮するところから、「|赤を見る《シー・レツド》」なんていういい方をすることもある。そのほか少しばかりエロチックなものを称して「ピンク」という一方で、ハードコアのポルノは、「ブルー」と呼ばれたりもする。王室や皇室の色は紫だし、これは万国共通でもある。ファラオの時代のエジプトでもそうだったし、さらには異国の鳥たちの多くもまた、紫の羽根を誇示しては連れ合いを引きつけている。こうした例をあげれば切りがない。あらゆるところに色はあり、そうした色を正しく読むか、読み違えるかによって、人の人生は大きく支配されるわけだ。
イギリス生まれで三十歳を過ぎた人間なら、ほとんどがそうであるように、私もまた身の回りにはどちらかといえば地味で落ち着いた色を置きたがるほうだ。私のお気に入りといえばツイードの上着であり、木であり、はたまた石であり、染める前のウールでもある。私が赤や青の派手な色のシャツを着たところなど、だれも見たことがないだろう。それでいながら私は、鮮やかな明るい色も、それが自然のものであるかぎりは大好きなのである。黄金色をしたキンポウゲ、フラミンゴの下羽の色、北極の日没、サンゴ礁の上を泳ぐ熱帯の魚たち……。あるいはまた、ひとり黙想にふけり、考えをまとめようとするときなど、私は目をぎゅっとつぶり、そこに現れるさまざまの色彩の渦を見つめるのだ。精神状態が不安なときは赤や緑の色彩が勝っている。そんなとき、私は心に念じて、深い、夜の紫をそこにもち込もうとする。この色は私にとって、心の平静を表す心象の色なのである。その深い暗紫色がうまく入り込み、しだいに広がって、やがては内部の全視野を覆うにいたると、脳波は深く沈静して、アルファ波へと移っていく。さらに深く深く、この紫のなかに沈潜していくと、自分が無数の星たちの爆発のなかを通り抜け、無限に向かって飛び進んでいくのが感じられてくる。
南氷洋で捕鯨船に同乗していたとき、たくさんの氷山が浮かんだ海域を抜けながら進んでいったことがあった。清浄な氷で造られた、この巨大な城壁には、数多くのトンネルがあいていた。氷山がまだ、巨大な氷の岩棚の一部だったとき、夏の雪解け水がそこに穴をあけた跡である。これらの氷のトンネルの色ときたら、まったく信じられないほどのすばらしさだった。あくまで深く、天上のものともいえるようなロイヤルブルー。私にとって、それはまさに驚異であった。氷の色はと聞かれて、だれがこのような色を想像しえよう。ほとんどの人が白とか透明とか、答えるはずである。
ここで私がいいたいことは、要するに、一見色のないものであっても、目を凝らして深く見つめたならば、そこに隠された豊かな色彩が見つかるだろうということなのだ。たとえば、スズメひとつをとっても、ほんとうにじっくり見つめてみれば、その羽毛の色彩のすばらしさには、ただもう舌を巻くばかりのはずだ。この鳥の色合いの複雑さ、微妙さ、美しさは、極楽のどんな鳥のそれよりもはるかに勝っていよう。ただし、それがわかるためには、よほど深く、そして長いこと見つめていなくてはならない。
人々を「発見」すること、これこそ、私がこれまでの長い人生で手がけてきた|わざ《アート》でもあった。人々のなかに私が見つけようとするもの、それは彼らの色である。色といっても、もちろん白とか黒とか茶色とかの肌の色のことではない。そんなものはあくまでも表面の色にすぎないからだ。彼らが身にまとう衣服とか、身の回りに選ぶ色彩とかは、いく分かはヒントになるかもしれない。けれども、ここで私の指しているのはそれではないのだ。生命それ自体のエッセンスともいうべき、深く、また力強くきらめく色彩のことだ。人々のなかにこの色さえ見つけられたなら、私はそのとき、その人がだれであろうと――男であれ女であれ――自分の兄弟として受け入れることができるのだ。ただしそのためには、よほど深く、そして長いこと目を凝らして見つめる必要があるのだけれど。
二十歳《はたち》――新しい始まりを迎える人へ
Twenty――a new beginning
これまで、そしていまも、私は大勢の人と会っている。世界各地から来た人たちだ。ここ四年か五年は、一年のうちに千人ぐらいの違った顔ぶれが黒姫のわが家を訪れている。ほとんどは人間的に魅力もあり、いっしょにいて楽しい人たちなのだが、そうでもない人もなかにはいるのである。悲しいかな、だいたいにおいてそうした退屈で魅力のない人というのは、若い人々、ことに二十代の若者に多いのだ。
退屈な人物とか、魅力のない人というのはどんな人のことをいうのかって? 私にいわせれば、それは自分の考えというものをもたない人、何事にもほんとうの興味を抱くことがなく、熱意も、また大きな志なるものももたない人のことである。背筋はしゃんとせず、前かがみで、目には輝きがなく、皮膚は年寄りのようにくすんで鉛色を呈している。口ごもったり、顔をしかめたり、作り笑いをすることでしか、自分を表現できないような人――要するにデートのお相手なんかまっぴらごめんというような、そんな人たちのことだ。
私の知人のなかで、最高に魅力的だと思う婦人のひとりに、もう八十歳を超える未亡人がいる。イギリス生まれの彼女は六十年前、日本人と結婚してこの国にやって来た。以来、たいへんな辛酸《しんさん》をなめ、太平洋戦争中はほかの日本人とともに苦しみを分かちあったのである。
いまは東京から二時間の距離のところにひとりで暮らしているが、パーティーに招かれればちゃんと出席し、楽しんだあとは最終列車で家に帰る。たいがいの男の人よりは酒が強いけれども、それでいてけっして酔ったりはしない。彼女はいつもパーティーの中心になるし、若い人たちは彼女の周りに集まってくる。何ヵ国語もあやつり、ユーモラスなところもあるうえ、厳しいと同時にやさしい人柄である。彼女を知る男たちはみんな彼女を崇拝してやまない。若いころはさぞや活力にあふれた、ダイナマイトのような女性であったに違いない。
もうひとり、じつに魅力的な婦人がいる。六十歳代前半の女性で、女性編集者たちだけの会社のボスである(彼女たちはじつに優秀な仕事をしている)。ふだんは上質のユーモアと生き生きした熱意にあふれんばかりの女性だが、いざ仕事とか仕事になりそうな話になると、目には獲物をねらうワシのような光が宿る。彼女がわが家に来るときは、いつも山のような食べ物とか飲み物を抱えてくるので、私は「クリスマスおばさん」とあだ名をつけている。
このふたりの魅力的な婦人の話をするにあたって、彼女たちの容貌についてここで全然触れていないことにお気づきだろうか。ほんとうのところ、そんな必要はまるでないのである。その人が魅力的な人間ならば、おのずと見た目も魅力的になるからである。若い女性や男性の多くはこのことをまちがっていて、その逆だと思い込んでしまっている。
たとえどんなにすばらしいスタイルをもち、みごとなバストに長い脚、セクシーなヒップに恵まれた女性でも、背筋がピンとしていなければまるで薄ぎたなく見えるし、運動や栄養が足りなければ皮膚は荒れて、メーキャップで塗りつぶさなくてはならなくなる。
大多数の若者にとって大きな障害となっているのは、彼らにのしかかる教育という名の重苦しい重圧だと思う。学校へ行き、学校から塾へ行き、塾から家へ帰り、あとはたぶんテレビを見て、それから寝るという繰り返し……いまでは子供たちは外で遊ぶことがない。実際、彼らは自分で遊ぶすべさえ失ってしまったようである。遊びまで規則でまとめ上げられ、組織化されなくてはならないのだ。いまの教育システムはこうやって、想像力のない、頭でっかちの、そして退屈で鈍感な弱虫たちを、何世代にもわたって作り出しているのだ。
冒険に、そして恋に
いつでも積極的であれ
これは君たちの罪ではない。それに君たちはもう学校から塾へという生活から脱却してきたではないか。これからは自分を発見することである。子供のころ、あるいはもっと以前から、君たちには夢が――あこがれに似た空想が――あったのではなかったか? 自分を変えることだ。そして自分が変わることに対してあくまで利己的であれ。人にはかまわず、あくまで自分自身の幸せを積極的に追いかけるのだ。自分が幸せなら、周りの人たちも幸せになる……そして人々は君の周りにいることを好むだろう。
何に対してでもよい、情熱を注げる対象が人生にありさえすれば、人は変わるのだ。君たちは以前よりずっと寛大になり、心が広くなるだろう。
どうして君たちは、ほかの人がだれもしていないこと、できないことをやろうとしないのか? それが少し冒険的すぎるというのなら、では自分がこれまでにしたことのないことをすればいいではないか。出世競争から抜け出して、スペインでもケニアでも、どこでもいいから一年ぐらい、いや一週間でも、行ったらよい。妻にいわせると、サイパンで四日間過ごすのにかかる費用は、東京のそれよりもはるかに安いそうである。日本を、韓国を、フィリピンを、そしてミクロネシアを探検しに行きたまえ。しかも、ひとりで行くことだ。そうすればきっと友達ができる。グループツアーを利用して行く場合でも、できるかぎりグループは組まないように。
自分自身に目標を作りなさい。たとえその目標が、日記を欠かさずつけることとか、毎日二十分ずつ運動を続けるとか、それとも健康的なすてきな日焼けをするといった、ごくごく小さな、簡単なものだってかまわないのだ。
最後に――これがとても大切なことなのだが――恋をすることを恐れてはならない。こういったからといって、すぐさまふたりでベッドに飛び込めというわけではない。もちろんそれはそれで、相手さえまちがっていなければじつに楽しいことには違いないけれど。人を恋するということは、自分以外の他人を自分よりもよけいに思うようになるということなのである。相手の関心を引こうと思えば、その人を喜ばせようとして一生懸命に努力するだろう。君たちの心の中で、ほんとうにだれかを喜ばせたいという情熱がわき、必要が感じられたならば、その感情はその特別なひとりに対してだけでなく、あらゆる人々、あらゆる状況に対して降り注がれることになる。そうすれば、そしてたぶん、あと二、三の努力をこれにつけ加えるならば、君たちは、以前よりもはるかに魅力的になるはずだ。だれかにほほえみかけてごらん。相手もきっとほほえみ返してくれるから。
谷あってこそ山があるのさ
Without Valleys you can't have Mountains
ある大学の情報誌に、エッセイを書く機会に恵まれたが、学生たちに向かって何かアドバイスをするなんて、いったいこの私にどんな資格があるというのだろう? 私はただのひとりの幸せな男だ。住みたいところに住み、生きたいように生き、自然と友人に囲まれ、愛する女性《ひと》とともに暮らし、人生いかなるときにも歌と笑いと、はたまた怒りと涙とを忘れないで生きてきた男だ。私の資格といえばそれしかない。
この私が、いまのようになったのは、けっして単なる偶然のせいでもなければ、運がよかったからでもない。すべては私が十三歳のとき、自分がもつふたつの夢に気がついた瞬間から始まったのである。ひとつは北極探検家になることであり、いまひとつは日本へ行って武道を修め、黒帯をとることだった。この夢を実現させるためにはどうしたらよいか、どうやって学び、どうやって働くべきか、そのときから私は必死で模索しはじめた。夢は、ほうっておけばやがてしぼんで、気まぐれな空想のままに終わってしまう。私はまず、体を鍛えはじめた。射撃の練習を始め、野外キャンプやカヤックの練習に励んだ。北極探検のことを書いた本は残らず読破したし、おびただしい量の資料や地図、図面などを集めた。柔道とレスリングのけいこをやり、週に三回はウエイトリフティングに通ったものだ。
こうして、ふたつの夢は、私にふさわしいもの、似つかわしいものになったのである。
そのころの私には、大学に行こうなどという気持ちはさらさらなかった。だから、十七歳になって両親にどうしても大学に行けといわれたとき、私は家出して北極へ出かけていったのである。十二回に及ぶ北極探検行のうちの最初の旅であった。
二十二歳になったとき私は日本に渡り、二年後には、空手の黒帯をとっていた。ウェールズ人としては最初の、そしてイギリス人としても二人目の快挙であった。
この私が大学というものに初めて通い出したのは、三十歳を過ぎてから、しかも行ったのは日本の大学であった。専攻は漁業学である。
正直なところ、そこで見た学生たちの態度は私に大きなショックを与えた。授業中におしゃべりはする、ぶらぶらうろつき回る、頭のなかはからっぽときている。三十歳にして大学に通い出した私がともに学んだ学生たちというのは、そろってみんな夢をもたない連中だった。野心はあったかもしれない。けれどもそれは夢ではなかった。
私が、エチオピアで国立公園を造るために山中で過ごした二年間のこととか、何度も経験した北極探検のこと、あるいはまた捕鯨の旅のことなどを話したりすると、彼らはただ、私のことをラッキー≠ネ男だというのだった。ラッキーだって? ふざけるんじゃない! 私は自分の夢を育て、それを実現するために、どれほど必死になって働き、そして学んできたことだろう。
わずか十代の少年だったころ、初めて北極に行ったときだって、その費用は全部自分で稼いで貯めた金でまかなったのだ。黒帯をとるために日本に渡ったときも、その費用はやはり自分の力で稼ぎ出したものだったし、そのあと漁業の勉強をするために戻ってきたときだって、同じようにして資金を捻出《ねんしゆつ》した。カナダやイギリスで勉強するほうがはるかに楽だったろうが、私はこの日本で、そして、日本語で授業を受ける道を選んだ。私の選択した分野では、日本語で技術や知識を学んだほうが、自分にとってずっと役に立つと考えたからである。そして、実際そのとおりであった。
ウェット・ブランケット人間を
情熱の炎で乾かしてしまおう
大学とは、人生を銀の皿に乗せて差し出してくれるところではない。ただ、もし望むならば、学ぶための方法は教えてもらうことができる。学生たちが自分の夢を育てていくために必要なあらゆる機会を、大学は与えてくれるのだ。ただそのためには、絶えずみずからに向かい、自分が夢というものをもっているのかどうか、もっているとすれば、はたしてそれが自分にふさわしいものであるかを問わなくてはならない。
ひとりひとりの個性も、その夢につれてどんどん広がり、膨らんでいくことだろうが、まずは働き、議論し、考え、手探りし、そして何よりも情熱をもつことが必要である。機会あるごとに、頭のなかの抽象的な知識を具体的な行動や観察で、補強するよう努めることだ。
高校時代、そしてそのあとの受験地獄をくぐり抜けてきた学生たちの多くは、物事に対してシニカルな見方しかできなくなってきたのではないかと思う。それでもまあいい。ただし、そのシニシズムをたっぷりのユーモアで味つけしてもらいたいものだ。忘れないでいてほしい。大学での四年間、完全に自分だけのものであるこの自由な四年間こそ、学生たちの人生で最大の宝物になるだろうということを。
私がよく「ウェット・ブランケット(Wet blanket:何にでもケチをつけて座をしらけさせる人)」と呼ぶ人種には、けっしてならないでほしい。何に対しても皮肉で否定的な見方ばかりしている彼らのような人間は、自分たちだけでなく周囲の人たちの情熱の炎までも水をかけて消してしまうからだ。だからもし、仲間のだれかが、こうしたウェット・ブランケット人間だったなら、こちらの火で相手をすっかり乾かしてしまうぐらい情熱的であってほしいと思う。
これまで、学生たちは常に世の正義を求めるという役割を演じてきた。そのこと自体は正しいし、適切ではあるけれども、どうか暴力にだけは訴えないでもらいたい。暴力というのは事実、あらゆる悪の種子《たね》なのだ。いまの世代の学生たちに、こうしたアドバイスをするのは的はずれであるかもしれない……そうであってほしいと私は思う。それでもなお、これからも正義を求めてよりよき社会を夢みるのは、常に学生たちであろうし、またもし彼らが学業をおろそかにせず、みずからの情熱を消さずに抱きつづけることができるならば、現実によりよい社会を作ることができるのは、卒業したあとの、そうした学生たちなのである。
幸福を求めることは
何も利己的じゃない
もうひとつ、いっておきたいことがある。それは、よその国の言葉を、少なくともひとつは覚えるということだ。別にどこの国の言葉であろうとそれはかまわない。たいせつなのは、外国語を学ぶことによって、物事の本質が言葉そのもののなかにあるのではないということを知るためだ。それによって、言葉というものは単に本質を表すシンボルにすぎないのだということがわかるだろう。より深く、感情を込めて自己を表現するすべも学んでいけることだろう。いうまでもなく外国語を学ぶことは、自己の人生を広げ、興味深い人々と友達になり、自分の夢を育てあげていくための、思いつくかぎり最上の方法でもある。
最後に、自分自身に対してあくまでも忠実であれといいたい。自分だけの幸福を考えることは、それ自体、けっしてまちがってはいない。自分が幸せになろうとして努力していれば、当然の結果として周りの人たちも幸せになるのだ。幸福を求める道の途中には、むろん失意の瞬間はあるだろうし、絶望すら待っていることだろう。ただ、これだけは覚えておきたまえ。谷あってこそ、山が存在するのだということをね。
学 校
School
子供のころ、私は学校が好きではなかった。というより、むしろ憎んでいたといったほうがいいかもしれない。四十人もの知らない子供たちといっしょに、ひとつの部屋のなかに座りたくもないのに座らせられ、やりたくないことをやらされるというのが、どうにも我慢できなかったのだ。私がウェールズ生まれだということ、なまりがあっておかしいということ、それに性格的に内気なところがあったせいで、始終からかわれ、いじめられた。教師たちを、私はあからさまに軽蔑していたが、彼らもまた私をばかにしていたから、これはおたがいさまというものだった。文字を覚えたのは九歳になってからで、それも自分で覚えたのである。
これまでの人生を振り返ってみて、生物学者として、探検家として、猟区管理官として、あるいは作家として、私が学んできたほんとうにたいせつな事柄のうち、ひとつとして学校で教えられたものはない。生物学だけは多少、別かもしれないが、それは、私にその手引きをしてくれた教師自身が反逆児だったからである。
私は思うのだが、人の一生のうちでもとくに貴重な子供時代が、あまりにも学校教育という名のもとに浪費されすぎているのではないか。子供たちが潜在的にもつ才能も、学校によって窒息させられてしまうことが多すぎる。本来は偏見のない、心の広い、そして愛情深い子供たちが、学校のせいで誤解と偏見の小さな塊に変えられてしまっているのを、私はいく度となく見てきた。
外国で暮らした日本の子供たちが、完全に|二ヵ国語《バイリンガル》・|二文化《バイカルチユラル》併用人間となり、しかもよその国の胸躍るような話を山ほどかかえて帰国してくる……それが日本の学校へ行き出して一ヵ月もたたないうちに、周囲と違っているのが恥ずかしくなり、せっかく身につけた第二の言語を話さなくなる……こうしたケースもしばしば見てきた。
友人たちの子供たちが幼いころ、私はいつも彼らと仲よしだった。ところが、学校へ行きはじめたとたん、道で会ってもあいさつするのさえ恥ずかしがるありさまだ。私を怖がっているのではない。そうではないのだ。仲間たちにからかわれるのが怖いのである。
上級の学校では、英語に限らずどの外国語についても、まるで現実離れしたものを教えている。だから日本の学校の子供たちは、外国人に対して自然な態度であいさつすることさえできないのだ。出会ってから、百メートルも行きすぎたところで振り返り、「ハロー、ハロー!」などと怒鳴っては、たがいにクスクス笑い合ったりする。彼らがそうした失礼なふるまいを家で教えられるはずはない。ほとんどの子供たちが、学校に行き出してから一年もしないうちに口にするようになる、あの下品で乱暴なしゃべり方にしても、家で教わるわけではないのだ。
もしこの私が世界を治める王様だったとしたら、全世界に命令して、学校は一日に三時間以上子供たちを、束縛しないようにさせるだろう。入試のための「塾」に行かせることなど、絶対禁止する。私は子供たちが外で、子供たちどうし、そして大人たちといっしょに遊んでいるのを見たいのだ。私が王様なら、学校教育の第一年目から、外国語を覚えさせ、使えるようにさせよう。学校では、まず読み書き、絵や作図、道具の使い方などに重点をおこう。政府が手を入れた歴史を学ばせるなど、もってのほかだ。けれども、もちろん私は王様ではないのだから……。
うちにも小さな娘がいる。学校に上がるころまでに、この子は三つの言葉を話し、音楽を習いはじめているだろう。もう少し大きくなったら、私は彼女に護身の術を教えてやるつもりだ。自然界のさまざまな事柄についても教えることはたくさんある。彼女の血のなかに流れている祖先の人々の歴史――日本、スコットランド、ケルト、ノルマンの歴史もまた、教えようと思う。
学校だけが
学ぶ場所じゃない
私の考えでは、世のなかの親たちは、学校や教師にあまりにも多くを任せすぎている。子供たちは家庭で、音楽、本、会話、遊び、そしてチャレンジを与えられるべきなのだ。父親は家にいて、子供が夕飯を食べているときはいっしょに食卓についているべきだ。仕事だとうそぶいて、仲間と酒を飲むなど、とんでもない話である。
私自身、いつもひどく忙しいスケジュールに追われているのだが、家族との夕食の時間だけは神聖なものとしてとってある。どんなに忙しくても、夜の七時には仕事を終え、家族とともにテーブルに着く。毎日、私は娘にギターを弾き、歌をうたってやる。生後一週間のころから、私は彼女に物語を聞かせてきた。妻は毎日彼女に本を読み、ピアノを弾いて聞かせている。
法律は子供が学校に行くことを義務づけている。もちろん少数だがいい学校はあるし、人間的な、優れた教師もいるはずだ。それに、たしかに学校は子供がほかの子供たちと交わる場所でもある。
私もやはり娘を学校に行かせるだろう。ただ、どこの学校にするかは、十二分に気をつけて選ぶつもりだ。娘が家に帰ってきて、ちょうど私の友人の息子がやったみたいに、自分の父親を「外人」と呼ぶなどというのは、聞きたくもない。
昔カナダで、ある十歳の男の子が私に向かっていった言葉がいまでも忘れられない。自分は「ジャップ」が嫌いだ、なぜって「ジャップ」は少ししか残っていないシロナガスクジラを「殺してる」って学校で教わったから、というのだった。なんたるナンセンス!
もちろん、学校については、その全部が悪いわけではない。ただ、もし子供の教育をすべて学校に任せ、家庭で教育と愛情とを注ぐのをやめてしまうなら、あなた方の子供たちは何ひとつ優れたところのない人間に育ってしまうだろう。
PART2
私のフィールドワーク
ビンに入れて持って帰ろうよ!
Take it Home in a Jar
カナダのバンクーバー島と本土の間に小さな無人島がある。以前私はバンクーバーで環境保護官の仕事をしていたとき、暇になるとよくこの島でキャンプをして過ごした。内海にたくさんの島々が浮かぶこの辺一帯は、日本の瀬戸内海と多くの点でひじょうによく似ている。もちろん住んでいる人の数はずっと少ないけれども。
一九三〇年代、バンクーバーの南にある小さな湾でひとつの実験が行われた。養殖を目的として、日本のカキがここに植えつけられたのである。移植された翌年はたまたまカキの成長にとって最適な条件、水や気候がそろったため、カキはどんどん成育し、周辺水域にまで広がっていった。十年もしないうちに、湾内諸島とバンクーバー島の湾に面した全域がおびただしい数のカキで埋めつくされてしまったのである。こんなわけでいまから十年ほど前に、私が例の島でキャンプをしたころには、それこそたっぷりとカキのごちそうが楽しめたのだった。
潮が引いたあと、カキ用のナイフとレモン、それにウォッカのボトルを抱えて浜まで下り、具合のよさそうな岩を見つけて腰を下ろす。そのまま腰を落ち着けて手当たりしだい腕を伸ばしてはカキをもぎとり、それこそおなかが破裂しそうになるまでむさぼり食ったものだ。
この島ではほかにもいろいろうまいものが楽しめた。魚もふんだんに釣れたし、野生のキノコもいっぱい生えていた。水に潜れば、ウニの、しかもでっかいやつが山ほど捕れたものだ。熱いごはんにのせて食べるとじつにうまい、あの金色の卵塊だ。
この島に行くとき、私はいつも一ダースほどの大きな広口ビンを荷物のなかに入れていったものだ。そのビンのうち、ふたつはウニ用である。ウォッカと塩でウニの卵を漬け込むのだ。
ウニもよかったけれども、みんながとくに喜んだのは、私の作ったカキの酢漬け《ピクルス》であった。引き潮の浜で大袋にいっぱい捕ってきた数百個の殻つきのカキを、キャンプファイアの上の大きな網にのせて焼く。けっして焼きすぎないように、いまにも殻が開こうかというところまで火を通す。この程度でも、微生物は死んでしまうし、汁気はまだたっぷり残っているからだ。
よく洗ったビンの底に焼いたカキをしきつめ、スパイス類(粒コショウ、オリーブ、香草、トウガラシ少々など)とニンニクを振りかける。その上にまたカキ、さらにスパイスというふうに入れていき、最後に上等のワインビネガーか、アップルビネガーをビンのふちまでなみなみと注ぎ入れる。
こうやって作ったカキの珍味入りのビンを、私はバンクーバーの自宅まで持ち帰った。冷蔵庫に入れておけば三ヵ月はもったし、オードブルには最高だった。
日本では殻つきの生《なま》ガキが高すぎるうえ、量も少ないから、こんなふうに料理するのはちょっと無理だ。いやいや、私は殻つきのカキはそのまま生でいただくことにする。
ただ、殻のついていないパック詰めのカキは安く売っているし、カモのローストの詰めものに使ったり、鍋物《なべもの》にしたりするのだが、そのつど私はいく分余計に買うことにしている。それですばらしくおいしい珍味を作るのである。作り方はとても簡単だから、だれにでもできるはずだ。
お教えしましょう
簡単なピクルスの作り方
まずカキの水気を切る。フライパンに上等のバターを入れて熱し、つぶしたニンニクを加えていためる。これにさっきの水気を切ったカキを入れ、さっとかき混ぜていため、塩とコショウ(これにしょうゆを加えて中華料理に使うとじつにうまい!)を少々加える。くれぐれもいためすぎないように! バターソースを捨て、カキをビンに詰める。好みに応じてタマネギを加えるが、なくてもよい。あとはベイリーフと香草(私はオレガノとバジルを使うが、セージ、タイム、パセリなどでもけっこう)を加える。辛いのが好きならトウガラシをいくらか加えるとよい。スパイスとカキを交互に詰め終えたら、上等の酢をビンのふちまで注ぎ入れる。お酢はできればワインビネガーかアップルビネガーが望ましい。次の日には食べられるしスナックにも最高だが、冷蔵庫に入れておけば三ヵ月はもつ。
バターでいためるこのやり方だと、むしろ殻つきを使うよりパック詰めのカキのほうがずっと作りやすいようだ。これにチーズとパセリをそえ、大皿にのせてお酒といっしょにお客に勧めるのだが、とても評判がいい。
もうひとつ私の好きなのはニシンの酢漬けである。バンクーバーでは年に一度ニシン漁船が入港するのだが、そんなときは町の人たちは直接港に出向いてニシンを買うのである。バケツいっぱいのとりたての太平洋ニシンが、それこそ信じられないぐらいの安さで手に入るのだ。ニシンははらわたを抜いて塩漬けにするやり方もあるが、私は塩漬けの魚は好きではないので、もっぱら酢漬けにしていた。
これもごく簡単である。まずニシンのはらわたを抜き、うろこをとって水で洗い、ぶつ切りにする。清潔なビンにそのぶつ切りの魚を入れ、スパイスとベイリーフ、それにタマネギのうす切りと塩少々(多すぎないように)、それからトウガラシを加える。二、三時間で三十個以上ものビンがニシンでいっぱいになったものだ。これに上等の酢をビンの口まで注ぎ入れれば出来上がりである。
三十個ものビンはとてもうちの冷蔵庫には入りきらなかったから、私はぴったり密閉して冷所に保存していた。塩を入れすぎるとニシンはもちろん塩辛くなりすぎるうえ、身がしまりすぎて硬くなる。反対に塩を全然入れないと骨までやわらかくなるのだ。私はそっちのほうが好きなので、冬の間は一ヵ月で食べ切るつもりのものだけ、塩を入れないで作っていた。
ニシンを三枚におろして、くるくる巻いてようじで止めたのを酢漬けにする人も多いが、バケツに何杯ものニシンではとてもそれを作る時間はない。
ここ日本では、私はサンマとサケをこんなふうにして漬け込んでいる。両方とも安いし、どこでも手に入るからだ。酢漬けの魚はとてもおいしいのだが、どうも日本人のなかには小さな魚の切り身が酢漬けになっているのを見ると、いやに気にする人が多いようだ。要するにヘビみたいだというのである。私はヘビを酢漬けにしたことがないから、それがどんな味なのかわからない。私にいえるのはただ、この魚の酢漬けがとても簡単で手早くできる料理だということ、そのうえ経済的だということである。だいいち、酢は身体にとてもよいのだ! ニシンとかサンマなど脂の多い魚の場合は酢のなかに脂が浮き出してくるけれど、別に味も変わらないし、こだわることもあるまい。見た感じがいやだというのなら、テーブルに出す前にさっと冷水で洗って水気を切ればよいだろう。
これにオリーブをそえ、白ワインでもつけば、まさに最高だ!
野外《フイールド》の仕事に出るとき、そこが北極だろうと無人の海岸だろうと、私はいつも荷物のなかに二、三個の広口ビン(ふたつきの)を余分に加えて持っていったものだった。そのビンにはときにはウニが塩とウォッカに漬け込まれたし、ときにはホッキョクイワナやサケの卵が、やはり塩と酒に漬け込んで入れられ、またカキやニシンが酢で漬け込まれもした。このほかにも携帯用コンロと砂糖があれば、ふんだんに生えている野生のイチゴを摘んでジャムを作り、これもビン詰めにしたものだった。
西洋では酢漬けやビン詰めの種類がまことに多い。食品を保存するのにじつによい方法なのである。
おわかりだろうか、アウトドアクッキングというのは必ずしもキャンプファイアと煙だけにかぎったものではないのだということが。
もしこれが諸君の「サバイバル」なる観念にはそぐわないというのならよろしい、今度は自分で酢を作る方法をお教えすることにしよう……ただし私のやり方だと、まず最初に本物の強いアップルサイダー(リンゴ酒)を作らなくてはならないのだが、これは日本では法律で禁じられている。ま、この話は次の機会までとっておくことにしようか。
太古からの契約
The Ancient Contract
私たち人類と、そしてその人類が家畜化してきた動物たちとの間には、それこそ太古にまでさかのぼる契約がある。それは協定であり、盟約であり、約束であって、私たち人間が将来も種として生き延びるつもりならば、どうしても守っていかなくてはならないものなのである。もし彼らがいなかったなら、いままで人類はとうてい生き延びてこられなかったろうし、私たちが、かくも誇ってきた文明の建設も不可能であったはずだ。その古い約束は、私たちの思想や行動のパターンにまで大きく影響を与えてきた。このことを知らずにいるというのは、悲しむべきことであるばかりでなく、このうえなく愚かしい話なのである。
最近、私はスコットランドで一週間ほど過ごし、アカシカの狩猟を楽しんだ。たくさんの、いわゆる動物愛好家の人たちにとって、これは矛盾と感じられるだろうし、残酷で、悲しむべき行為だと思われることだろう。けれども、野生種としてのアカシカがスコットランドで生きていくためには、その狩猟を認めることがどうしても必要になってくるのである。野生生物の保護を担当しているスコットランドの省庁では、シカの生息数を二〇パーセント削減するよう要求している。こうしないと彼らは地域の草を食い尽くし、しまいには森林までも破壊することになるからだ。
もしシカたちの棲《す》む同じ地域に、オオカミのような自然の捕食者たちが生息しているのであれば、別に私などが入り込まなくても自然界のバランスは保たれることだろう。けれどもスコットランドにはもうオオカミはいない。絶滅してしまったのである。
だが、そうした大昔のオオカミの先祖たちは、犬に姿を変えていまも生き延びている。
原始の時代の人類にとって、オオカミやジャッカルを家畜化するのは難しいことではなかった。彼らと人間の暮らし方は、きわめて似通っていたからである。オオカミも人間も、ともにシカやほかの動物を追い、あるいは待ち伏せするなどして捕らえた。ともに洞穴などの安全な巣穴のなかで子を産み、たいせつに育てた。両者とも群れを作り、その支配権をめぐって争った。群れはいっしょに行動し、自分たちのテリトリーを守った。いま、私のいっているのは、人間と、大昔の犬の祖先のことである。人間と犬が協力して働いたとき、狩りはいっそう成果があがった。彼らが協力して行動することで、共通のテリトリーの安全はいっそう守られた。敵から子供を守ることもずっと容易になった。人間の子供と犬の子とは最高の遊び友達となり、彼らはいっしょに育ってたがいに愛し合い、尊敬し合い、相手をよく知るようになっていった。
私たち人間は犬からあらゆる自由を奪った代わりに、彼らを世話し、保護するという義務を負った。その約束を守ることは、私たちの、そして私たちの祖先の名誉にかかわる問題であった。そう、私たちは犬の自由を奪ったのだ。だが彼らのもつ性格や特質までを奪ったわけではなかった。どんなに体の小さいトイ・プードルでさえ、その心の奥深くではハンターである。テリトリーと子を守るためには猛烈に闘い、リーダーに忠実で、しかも最高の仲間なのだ。
人間は犬たちを交配してその外見を変え、さまざまな仕事に合わせて行動を特殊化させてきたけれども、彼らの性格の本質の部分はそのまま変わらずに残っている。
私は二匹のアイリッシュ・セッターを飼っている。雄と雌である。雄はモーガス、雌はメガンという。二匹とも私といっしょに狩りに行くのが何よりも好きだ。狩りに出ると、彼らは私のそばについて行動し、私の周りのテリトリーを受けもって、ノウサギやキジ、そのほかの獲物を隠れ場から飛び立たせる役割を果たす。だがおかしなことに、銃を持たずに山野を歩くだけのときには、二匹は私から離れ、自分たちで勝手に狩りをする。ほとんど、まったくとはいわないまでも、私など無視してしまっている。その昔、私の属する種――人間――と彼らの属する種――犬――とは狩猟の契約を結んだのであり、そのことを彼らはちゃんと理解しているのだ。
犬を常時つないでおかなければならない
日本の法律はあまりにも残酷だ
雌のメガンはこれまでにたくさんの子犬を産んだ。だから私の犬の子孫を飼っている人たちも大勢いるわけだ。ほとんどの人は、犬が幸せに過ごせるよう気をつけて飼ってくれている。だがそうでない人も、少しではあるがいるのだ。
いま、うちでは子犬を産ませていないし、今後も産ませるつもりがないのは、主にそのせいなのである。いやいや、私はモーガスに去勢手術なんぞ受けさせなかった。メガンのほうだって、卵巣を切りとるなどの避妊手術は受けていない。とんでもない話だ。私はただモーガスに精管切除の手術をしてもらったのである。簡単な手術なのだけれども、犬では珍しいケースのようだ。
避妊によって彼ら本来の性質を変えてしまうなんてことは、私にはとうてい我慢できない。去勢した犬は、去勢した他のすべての動物がそうであるように一種奇妙な存在となる。奇妙な、そして哀れをそそる存在だ。
犬を四六時中、二メートル以下の鎖につないでおくことを定めた日本の法律に、私は断固同意しかねる。それは残酷な法律だし、そんな法律に従うつもりは私にはない。二、三年前に、警官が私の家にやって来て、犬を鎖につないで飼えとの命令書を私に手渡したことがあった。そのとき私は彼に向かって、自分はそんなことをするつもりはないとはっきり言明したものだ。もし逮捕するのなら、おとなしく逮捕されるけれども、法廷に出て、その法律が正当かどうか決着をつけようじゃないかといきまいたのである。
犬を鎖につなぐ代わりに、私は多額の費用をかけて、千五百坪ある家の敷地の周囲全体をフェンスで囲った。土台はコンクリートで、そこに高さ二メートルのフェンスを据えつけたのである。そんなわけでわが家の犬たちの自由は、狩りに出たり湖で泳ぐときのほかはこの敷地内に限られているのだが、走ったり遊んだりするだけの広さは十分にある。こうして私は、彼らとの契約のうちの自分の分担をなんとか果たそうとしているわけなのだ。
うちの子犬をどうしても欲しいといって持っていった人のなかでひとり、うちよりも広い敷地なのにもかかわらず、法律どおりにその犬を始終鎖につないで飼っている男がいる。法律には従っているかもしれないが、これは自然に反した残酷な行為である。その犬がやせて、ノイローゼのようになっているのを見て、私はつくづくその男に犬を渡さなければよかったと悔やんでいるのだ。
「お前の犬と馬と女房にだけは
他人に指一本でも触れさせるな!」
何年か前、フェンスで敷地を囲んでしまう以前、犬が鎖をはずして家から脱走したことがあった。連絡を受けた保健所の役人が長野市からはるばる出かけてきて犬を捕まえ、連れていってしまった(ひどく簡単なことだった。うちの犬は人間が大好きだし、車にもすぐに飛び乗るのだから)。当時この地域でアイリッシュ・セッターを飼っているのは私の家だけだったのだが、私のところには何の連絡もなかった。たまたま運よく友人が長野市の野犬収容所にいるモーガスを見つけて救い出してくれた。その日は月曜日、翌日の火曜日にはモーガスは処刑されることが決まっていたのだった。
もしその役人が犬を処刑していたら、私は出かけていって彼を殴りつけて、重傷を負わせていたことだろう。空手は有段だし、元プロレスラーの私としては、そんなことは朝飯前なのだ。もちろんそうなったら、私は法律によって厳しく罰せられたに違いない。だがそれでも、子供のときからずっと男の名誉ということを教え込まれて育ってきた私としては、やはりそうするしかなかっただろう。
このことを最初に私に教え込んだのは祖父であった。子供の私に向かって、彼はこういったものだ。
「お前の犬と馬と女房に対してだけは、他人に指一本でも触れさせてはならんぞ……。犬、馬、女房と、その順でな。いいか、わかったな?」
そのとおりだと私は思った。犬と、それから飼ってさえいれば馬とは、妻や子供などよりも私に守ってもらう必要があるのだ。だからといって、妻や子供より犬や馬のほうがたいせつだといっているのではない。ただ、彼らを守らねばならないときには、妻や子供を守るのとほとんど同じように闘うだろうということなのだ。
実際には私の犬は助かったものの、私はその役人に電話をかけ、今後犬に近づくようなことがあったら腕をへし折ってやるといってやった。同じことを、警察にもいった。私は本気なのだ。
人間の言葉を理解し
そして娘アリシアにキスをした
娘のアリシアが生まれ、初めて彼女を黒姫の家へ連れて帰ってきたとき、私は犬たちとの対面式をとり行った。二匹は連れてこられ、シャンプーをしてもらい、足もきれいに洗ってもらった。私は犬たちを居間に呼び寄せ、そこに座るように命じた。それから赤ん坊を妻の手から抱きとると、犬たちに向かってこれがアリシアだよと教え、これからこの娘《こ》をよく世話してくれるよう頼んだ。これを読んでいる読者のなかで、自分が科学的であると思い上がるあまり、そんな話は人間しか理解できないはずだと考える人がいたら、その人は犬のことなど少しもわかっていないのだ。はっきりいってそんな連中にはくそくらえといいたい。彼らのような人間とは私は絶対に友人にはなれない。知り合いにはなるかもしれない。親戚になることもあろう。けれども断じて友人にはなるものか。
とにかく、二匹の犬はそこに座ったまま、私の言葉をじっと聞いていた。モーガスは片足をあげた。「|お願い《プリーズ》」するときのアイリッシュ・セッター独特のポーズだ。
私はアリシアを床にそっと置いた。「あいさつしておいで」と私は犬たちにいった。二匹の犬は進み出て、赤ん坊に近づき、においをかいだ。妻も私も、彼らを信頼していることを示すためにうしろに下がっていた。犬たちは赤ん坊に前足をかけようともしなかったし、顔の上によだれをたらしもせず、赤ん坊を泣かすこともなかった。モーガスはまるでキスをするみたいに、アリシアのほっぺたをちょびっとなめた。私は赤ん坊を抱きあげて妻に戻し、それから二匹の犬を思いきりかわいがってやった。
その二、三ヵ月あとのことだ。妻が二階にいて、私がトイレに入っていたとき、居間のほうから犬のうなり声が聞こえてきた。のどの奥から出る深い威嚇《いかく》のうなり声である。私はぎょっとしてトイレから飛び出した。居間にはアリシアが小さないすのなかにいたし、犬のメガンは長いすの上で眠っていたはずだ。居間に飛び込んだ私が見たものは、メガンに追いつめられて壁にはりついて動けないでいる隣人の姿だった。私の友人でもあるその人と赤ん坊の間に立ちふさがったメガンは、歯をむき出し、うなり声を上げて、いまにも飛びかかりそうな構えで威嚇しているのだった。
もちろん私のひと声でメガンは緊張をとき、友人のところへ行って「ごめんなさい」のしるしに手をなめた。けれども彼女は私たちと交わした約束どおり、群れの子供を、自分がアウトサイダーだと考えた存在――家の者以外の人――から守ろうとしたのである。
ふだんは二匹ともとてもおとなしい犬だ。だがアリシアに危害を加えようとする人間がいたら、その人こそ災難である!
犬がこれほど忠実になりうるのだとしたら、私もまたそうすることができるはずだ。忠実と名誉を重んずる心は、政府の規制に従う必要が生ずるよりもずっと昔から、私の祖先たちの血の一部でもあったのだ。
もし私の犬がそのテリトリー以外のところで他人を傷つけたり、あるいはその財産の安全を脅かしているとすれば、もちろんその人は自分と自分の財産を守る権利がある。当然のことだ。私の生まれたウェールズでも、父の出身地のスコットランドでも、農民たちは迷い込んできた犬が自分のところの羊を襲ったりすれば、ためらわずに発砲するし、よほどばかでないかぎり、これに文句をつける人はいない。イギリスでは、生まれつき、羊を襲う性質をもつ動物を飼うときは、必ずつなぐか、あるいは厳しい監督下においているが、それは当然の措置である。そしてもちろん牧羊犬は、自分の羊たちを守るためには、たとえ自分よりもっと大きい、もっと獰猛《どうもう》な動物たちが何匹相手だろうと、死をかけて闘うのだ。
何十回と犬にかまれたことがある
でも、それにはちゃんと理由があった
犬のことを怖いという人に対しては、たとえその人がほかの点ではどんなに立派であろうと、私はきわめて低い評価しか下せない。それはいかにも不自然で、臆病な心を示すものと思えるのだ。ありがたいことに、私は臆病者に費やすだけの時間も忍耐力ももち合わせていない。もちろん、警備犬としての性格や仕事をもった犬に対しては、こちらも慎重に対処すべきである。よく気をつけて行動すれば、その犬たちもかみつくことはない。万が一、犬が人を見たらすぐ攻撃する訓練を受けているような場所にたまたま遭遇した場合は、すぐさまそこから出て行くのが賢明だろう……それともこちらも闘う用意をするかな?
「ああ、でも子供のころ犬にかまれたことがあるんで……」
私なんかこれまでに何十回もかまれている。たいていはいっしょに遊んでいたときだ。しかし、それはたまたま偶然にかまれてしまっただけで、故意にかまれたことはめったにない。初めて私が犬にかまれたのは、二歳のときだった。おばの話によると、そのとき私はうちの牧羊犬の皿からえさをくすねたのだそうだ。犬は私に向かってうなり声を上げて威嚇したが、それでもきかないとなると、ほんのちょっとだが、私をかんだ。祖父はひどく怒った。犬にではなく、この私に対してである! 彼はひざの上に私をつまみ上げると、スリッパでおしりをいやというほどぶったたいたのだ。私は泣きわめき、その間犬は心配そうに眺めていた。その結果はどうなったかというと、その日以来、この誇り高い老コリーは、仕事をしていないときはいつも私を自分の特別な庇護《ひご》の下《もと》において守ってくれたものだ。そして私は、作業犬のえさを盗んではいけないこと、そして犬の警告を無視してはならないことを、身をもって学んだのだった。
理解されないで飼われる動物ほど
不幸なものはない
そんなわけで、私の犬たちはけっしてペットではない。彼らは仲間であり、パートナーである。幼いころからいままで、犬たちは私の人生をほんとうに豊かなものにしてくれた。
ここではもっぱら犬について書いてきたが、私のいっていることは犬だけでなく、人間を信頼していっしょに暮らすことのできるすべての生き物に対しても同じようにあてはまる。私たちはそれらの生き物の本質を、彼らの心を、その性格を理解してやらなければならないのだ。
牛の場合、彼らを訓練して猟に使うことはできないが、乳を与えてくれるし、車を引くこともできる。馬は狩猟に使うことができる。駆け足が大好きだし、集団のリーダーである人間の意志に反応してくれるからだ。猫は自分で狩りをし、人間の家や納屋や、麦芽製造場などからネズミなどの害獣を退治してくれる。だが彼らは人間といっしょに狩りに出かけて、キジを飛び立たせるなんてことはとうていやりそうもない。猫の本性は孤独な狩人だからだ。彼らはまた人間のいうことを何でも聞く動物ではない。猫の間には群れのリーダーなる存在がないからである。たいせつなのは、動物を理解し、人間という種がそれぞれに異なる動物たちの種との間に結んだ契約を守っていくことだ。そうすれば裏切られることはけっしてないだろう。
理解してもらえずに人間に飼われた動物たちは不幸である。彼らは惨めな暮らしを強いられ、ノイローゼになり、恐らくは人間にとって危険な存在にまでなることだろう。
スペイン語で「紳士」という言葉は、「馬に乗る人」という意味でもある。この言葉の由来は古いのだけれども、私の思うに紳士の条件としてこれはいまの時代にもあてはまるのではないだろうか。ある人が、土地の広さとか財産といった問題ではなく、精神的に馬を飼うことができないとすれば、ほんとうの意味でその人は紳士とはいえないだろう。
世界の多くの地域で、馬はいまや自動車にとって替わられた。けれども石油の時代が終焉《しゆうえん》を迎えたとき、必ずや人間はまた馬を必要とすることになるはずだ。少なくとも、私はそう確信している。人間が自分自身と、ほかの動物たちとの間にかわしてきたこの契約を理解するようになるまで何千年もの歳月を要した。彼らの力を借りて私たちは文明を作り上げてきたのである。今後、私たちがまた新しくやり直さざるをえなくなったとき、一から始めなくてもすむようにしておきたいものである。そうとも、古い古い契約があるではないか。少なくとも、私はそれを忘れないつもりである。
冒険と食べ物
Adventure and Food
私は十一歳のころから、冒険と探検について書かれた物語に夢中になり、手当たりしだいに読みあさるようになった。現代の、歴史上の、あるいは実在とフィクションとを問わず、世界をまたにかけて旅する英雄たちの行動の一挙一動に私の胸は躍ったし、珍しい食べ物の記述を読めば思わずつばを飲み込んだものだ。ある北極探検家が、「ムクトゥク」のこりこりした風味のことを描いている箇所を読んだときには、いつかはきっと自分もそれを味わってみせるぞと心に誓った。また、アラビアのロレンスが、砂漠の民とともに食べた祝宴の描写を、私はおおいに楽しんだものだ。そこに描かれている山のような米やマトンのごちそうが目の前に見えてくるようだったし、においまでかげるような気がした。漂流者や、難破船の乗組員たちのことを書いた本を読んでは、当時のイギリスでは手に入らない果物――マンゴー、パパイヤ、パンの実――などの名前を見つけ、胸を躍らせたものだ。
食べるという行為は、冒険家や探検家だけでなく、普通の人間でも毎日やっていることである。アフリカや、北極や、あるいは熱帯の島々でのスリリングな出来事のなかには、本で読んで想像して楽しむだけで、現実にはけっして体験することのないような行動がたくさんある。サメと闘うとか、吹雪のなかを疲れ切って犬ぞりをひっぱるとかいった冒険がそれだ。しかし、食べ物だけは違う。だれでも経験できるすばらしい冒険なのだ。
だがもし、読者のなかで、食べ物なんて冒険のうちに入らないなどと思う人がいたら、どうぞご勝手に。はっきりいって、そんな連中は冒険なんてわめかずに家にいたほうがよいのである。
私が家出をしてイギリスを去り、初めて北極遠征に旅立ったのは十七歳のときであった。このときを含めて、北極遠征は十二回を数える。この最初の遠征の間に、私はイヌイットとともに暮らし、旅をし、猟をし、初めて「ムクトゥク」なるものを味わった。イヌイットたちが二頭の|ベルーガ《シロイルカ》をしとめて、岸にひいてきたのである。まず|ブラバー《脂皮》と、肉の部分が切りとられ、すぐにみんなは口に入れてかみはじめた。こりこりした、白い脂皮――「ムクトゥク」だ。本で読んでいたよりもずっとおいしい、と私は思った。これがイヌイットたちの好物なのもなるほどとうなずけた。何ともいえない風味があるし、イカかアワビのような感じだ。しかもビタミンに富んでおり、多量の炭水化物を要求するこうした厳寒下の人体にとって、この脂肪はきわめて貴重なのである。その後、冬の季節に遠征した折、冷凍した年代物の「ムクトゥク」をずいぶんたくさん食べたものだ。夏よりもずっと必要とされるからである。
エチオピア、南氷洋、そしてミクロネシア……
食べ物、人との交流こそが冒険である
二十七歳のとき、遠征と遠征の間の二年間を、私はエチオピアの山のなかで新しい国立公園の建設に従事して過ごした。パトロールの間、私と部下たちはよく、羊やヤギや鶏を、スパイスをきかせてあぶり焼きにし、これにキビの一種の粉で作ったパンケーキを添えて、野外の宴会を楽しんだものだった。特別な場合は、生の牛肉を食べもした。あるときなどは、こちらは座ったまま、奴隷が震える両手で捧げ持つ生の牛肉の塊をナイフでこそげて食べるという経験もした。山岳部族の族長の家での宴会でのことである。まさにアラビアのロレンスをほうふつさせるシーンだった。この生の牛肉は、トウガラシのソースにつけて食べるのである。それを、甘い、ホップのきいたミード酒(ハチミツ酒)でのどに流し込む。
この宴会には、五十人の武装した部族民が同席していた。ただひたすら肉を捧げて、ほかの人たちが切り分けて食べるのを見ているだけのこの奴隷には気の毒だったけれども、それでも族長を怒らせないためには、いわれたとおり食べるよりしかたがなかった。私としてはせいぜい、たっぷり肉を切りとって、それをソースにつけ、奴隷の口に入れてやるぐらいのことしかしてやれなかったのである。エチオピアでは、この風習は「グルシャ」と呼ばれて、客に対する愛情と尊敬を表すものとされている。それを断るのはたいへんな侮辱なのだ。道路もなく、警察の力も及ばないそうした山のなかでは、相手を侮辱したり、怒らせたりするのはひどく危険なのである。ここはまさに別世界であった。しかもこのとき私はそこに単身乗り込んで、野生の動物を殺すのはやめるよう、ワリア・アイベックスやヒョウを保護するのを手伝ってくれるよう、頼みに出かけていたのである。
太平洋と大西洋で捕鯨船にも乗った。ノルウェーと日本の船だ。しとめたのは、ナガスクジラ、イワシクジラ、マッコウクジラ、ミンククジラである。日本の捕鯨船団に同乗して、南氷洋まで出かけたこともあった。南極大陸の氷原やギザギザした黒い山々の見えるキャッチャーボートの食堂で、私は酒を飲みながら、一ダースもの異なった鯨料理に舌つづみを打った。なかには鯨捕りしか食べないような料理も多かった。尾のつけねのところの脂肪の多い霜降りの肉は、「オノミ」と呼ばれて、きわめて高価なものだ。背からとれる暗赤色の肉。巨大な心臓の肉は、やわらかだけれども、とてもきめが細かい。「ノドチンコ」と呼ばれているこりこりした歯ごたえのあるやつ。これはほんとうは鯨の退化した長い喉頭《こうとう》なのである。レバーもあった。それと、北極での「ムクトゥク」。
こういったものは、すべて生で、ショウガじょうゆか、ニンニクじょうゆをつけて食べるのだ。ほかの肉は、鉄板焼きにしたり、「鯨すき」にして食べる。
寒さと危険に満ちた氷山の海に乗り出していく鯨捕りたち。自分と同胞のための食料を賄っているのだという誇りと使命感が、どの男たちの表情にもうかがえた。彼らこそまさに、男のなかの男といえた。
どんな食べ物にも、そのなかには何代も続く人間の物語と、私自身の思い出が詰まっている。生きて、泳いでいる鯨の、あの壮観さ! 二百頭ものミンククジラが一列になって、両側に氷山の連なる灰色の海を泳いでいったあの光景は、目に焼きついて離れない。南極の冷気のなかで、彼らの吹く潮が、まるでカーテンのようにたちこめていたっけ。
今年の九月に、私はミクロネシアのポナペの島々へ出かけた。これまた、冒険と食べ物の旅であった! 私たちは船の外に浮き木をとりつけたカヌーでサンゴ礁にわけ入り、伝統的な魚の追い込み漁に参加させてもらった。漁も終わりになるころには、カヌーのなかは宝石のように、色鮮やかな魚たちであふれんばかりだった(それにしてもサンゴの美しかったことといったら!)。その日、私たちが食べたのは、ライムで作った魚の切り身のマリネ、魚のロースト、ココナッツミルクで作った魚のスープ、そして刺身であった。
野生のシカを狩りに、ポナペの山に入ったときのことだ。ここで私は木からとれたばかりの緑色をしたココナッツの汁を初めて飲んだ。わずかに泡のたつ、木陰のような冷たさをもつジュースだ。熟れたマンゴーも摘んで食べた。シュロの一種と思われる木の髄をサラダにして食べもした。パンの実も焼いて食べた。少年の日、これらの食べ物を本で読んだときの、あの興奮が洪水のように私の胸に押し寄せてきた。
ポナペのなかの無人島に出かけたときは、生まれて初めてヤシガニを捕らえ、料理し、食べた。ロブスターに劣らず、じつにおいしかった。
こんなふうに食べ物の話をしているときりがないのだが、要するに私のいいたいのは、私にとって冒険とは食べ物であり、食べ物とは冒険だということなのである。私は何でも食べるし、たいていは何でもおいしいと思う。それだからこそ、これまで世界中を巡ってきて、どこの土地に行っても、その土地の食べ物や飲み物、そして人々との交流を楽しむことができたのである。
そんな私に向かって、こんなことを聞く日本人がいる……「あれ? ニコルさん、ごはん食べられるんですかあ?」。
フィールドワークの重要性について
On the Importance of Field Work
まず最初に、私が「フィールドワーク」というとき、それは何を意味するかということから始めよう。そもそも「フィールド」とは何なのだろうか?
この言葉を辞書で引けば、それこそおびただしい定義やら説明やらが目に飛び込んでくる。これではやたら混乱するだけだし、それだけでどんな|ワーク《仕事》だってやる気がしなくなるし、ましてフィールドワークなんかはね。
「フィールド」という言葉を私なりに簡単に定義させてもらえば、こういうことになろうか――人がそこで自分の能力を育て、理解し、優越できるだけの力を得るために、肉体的にも知的にも精神的にも努力をしなくてはならない広い領域のことである。家畜とか奴隷でないかぎり、人は自分たちの意志で、働きたい、もしくは遊びたい「フィールド」を選ぶ――私自身はふたつのフィールドを選んだ。生物学と歴史である。
七歳ぐらいのときから、私は花、甲虫、アリ、蝶、鳥、動物たちに夢中になっていた。育った環境にも恵まれていた。ふるさとのウェールズでは、山の上に|ムーア《湿原地》が広がり、緑濃い谷間があり、遊べる池も海岸もあった。学齢期になって移り住んだイングランドには大きな川があったし、たくさんの池と、それにブナやオークの茂るみごとな森があった。祖父も母も私のコレクションをほめ、励ましてくれた。十歳のころには私の部屋はまるで博物館のようになっていた。
あの当時、テレビもパソコンも、テレビゲームもなかったことも幸いした。家に帰るのは食事をしたり、眠ったり、宿題などをやっつけるときだけだったし、よほど天気が悪くないかぎり、家のなかで遊ぶことはめったになかった。
こうした「アウトドア」というか「フィールド」で過ごした経験のすべて、遊びのすべてが、いつか北極を探検し、そこでフィールドワークをやろう、という私の夢に道を開いたことはまちがいない。
私の熱狂的な北極へのあこがれが
学校の恩師をも動かした
十四歳になった私は、熱狂的に北極にあこがれ、いつかその地を踏むことを熱望していた。私のノートは北極に棲《す》む鳥や動物たち、フィールド機材および技術、昔の探検家たちのルートなどに関するメモやらスケッチやらでいっぱいだった。
私はカヤック(もちろんこれはイヌイットの技術だ)をはじめ、射撃、バックパッキングなどを習いはじめた。さらに体を強健にすべく、ウエイトトレーニングと柔道も始めていた。
北極に対する私の傾倒ぶりはすさまじく、ついには私の恩師である生物教師までもそれに影響されてしまった。
彼は学校教師の職を辞めてカナダに渡り、大学院に入り直して博士論文作成のための勉強を始めたのだ。
論文のテーマとして亜北極地域の鳥であるケワタガモを選んだ彼は、遠征に同行する助手になるよう私に依頼してきた。元の生徒で、いっしょに行きたがる連中は何百人もいたであろうに、彼が選んだのはこの私だった。
八ヵ月に及ぶこの最初の長期フィールド旅行で、私は、フィールドワークにとって|不可欠な要素《エッセンシャルズ》の多くを学んだ。フィールドで価値ある仕事をするためには、恐らくは生き残るだけのためでも、これら不可欠の要素を知り、それに留意して行動できなくてはならない。
フィールドで自分たちがどういった種類の仕事をすることになるのか? 活動する状況はどんなものか? 事故や物資、輸送、援助の不足など最悪の状況に対する準備はできているのか? 機材、物資などはどんなものが必要か? 物資の量は十分か? 機材の状態はよいか? 防水など、梱包はきちんとできているか? そうしたことを自分でチェックしたか? 他人に任せた場合、その人の言葉をほんとうに信用できるか? 仕事についている期間はどのくらいか? ほかの人々とうまくやっていく自信はあるか?
このほかにも、すべてのフィールドワーカーが自分に問いかけるべき質問、チェックすべき問題をあげろといわれれば、何ページでも埋めることができる。
長期間にわたる荒野でのフィールドワークやその準備というのは、極端なケースかもしれない。だがそれによって私が得た教訓はきわめて重要なものであった。肉体的な面でのサバイバルというだけでなく、いかにして自分の精神と生活とを組み立てるかという点において、それらは不可欠の教訓でもあった。
フィールドでは記憶に頼らない
正確なデータを記録することがたいせつ
ある風の激しい日、ハドソン湾の海上には三角波がたっていたが、そのなかを私たちは船を出して仕事をしていた。船の周りでは氷ができつつあった。すでにシーズンの終わりに近く、とても寒かったことを覚えている。いっしょに仕事をしていた科学者は経験を積んだ探検家で、優秀な学者であり、人間としても立派で、要するに仕事仲間としては最高の人物だった。私たちは氷の底の泥や水のサンプルをとり、温度、塩分、そのほかのデータを集めていた。連れは私よりも年上で(当時私は十九歳だった)、経験も豊富であり、その彼が機材を扱い、私のほうは船を操る一方でノートをとり、サンプルにラベルを書くなどの仕事をしていた。
突然、強い突風が襲ってきた。ちょうど機械が水底から上がってきたときで、私は船のバランスをとったり、引きずられるアンカーを相手に悪戦苦闘しなくてはならなかった。アンカーと機械のロープがからまる恐れもあった。
「機械を持ち上げて、数字を大声で読んでみてよ。ぼく覚えとくから」と私は叫んだ。連れは首を振った。
「船のことだけ考えていてくれ。そっちの用意ができしだい、数字を読むから」
私は船と格闘し、波のなかにうまく乗せてから、やっとノートと鉛筆を手にした。
彼が数字を読み、私はそれを記録し、サンプルにラベルを貼り、封をし終えると、彼は私に向かっておだやかにいったものだ。
「フィールドではね、データに関するかぎり、記憶には頼らないんだよ。たいせつなのは正確なデータだけなんだ。データをきちんととれるだけの時間があるか、それとも初めからあきらめるかのどちらかしかないのさ。それと、いつでも、どんなことでも記録しなくてはいけないんだ」
長い年月の間に、私はこのときの彼の言葉こそが、フィールドワークにとってきわめて重要な忠告だったということに気づいた。いま現在、あるいは明日ぐらいなら記憶していられるかもしれない。だが来週とか来年、さらには十年後ではどうだろうか。そのとき記録できる状態にいるならば、重要なことは何ひとつもらさず書き留めることだ。
機械を通してより
目と心の記憶のほうが鮮明なときもある
テープレコーダーなどの電気機材もあまり信頼しすぎないようにしてほしい。数年前、ある雑誌の対談で、仲間のアウトドア作家と黒姫のわが家で話をすることになった。
編集者の希望で私たちは外のたき火のそばに座って、カモやサケを焼きながら話すことになった。そのとき、私と編集者の間にちょっとした議論が起こった。彼のほうは、写真写りがよいように勢いよく燃えさかるたき火がほしいといい、私は静かな勢いのおき火を主張した。こちらのほうがずっと自然だし、料理をするにはこれしかないからである。だが結局編集者の主張が通り、私と友人とは燃えさかる炎の前で三時間話し合ったのだった。
次の朝、私のもとにあわてふためいた電話がかかってきた。炎がバチバチとぶ音で、私たちの会話は何ひとつ録音されていなかったという。
友人も私もひどく忙しい体だったけれど、ふたりとも結構人がよいところがあるから、もう一度だけ、朝のコーヒーを飲みながら、話をしてみようということになった。そんなわけで私たちは、新たにまた二時間しゃべるはめになったのである。
その後編集者は東京に戻り、テープレコーダーを回して気づいた――機械がこわれていたのである。またもや何ひとつ録音されていなかった。
まったくの徒労に終わった旅であった!
好きであればそうした機械を使うのもいいだろう。ただし、そんなときでも自分でノートをとって、機械の援護をすることだ。人が何かを記録しようとするときの肉体的、精神的努力のせいで、記憶のほうもまたずっと鮮明になる。車を運転する人が、ただ乗っているだけの人よりもよく道を覚えているのも、それと同じ理屈である。
北極やアフリカへの旅にしろ、あるいは会社内で会議室にちょっと出向くだけにしろ、自分の機材がちゃんと機能する状態になっているか、自分に課された宿題ができているかどうか、確認する必要がある。
プロフェッショナルと呼ばれるには
それなりの努力が必要なのだ!
以前、ある大きな出版社から出ている雑誌の取材で、ひとりのレポーターがカメラマンを連れて黒姫の私の家にやって来たことがある。そのために、私は四時間あけて待っていた。
私たちが腰を下ろすと、レポーターの女性はさっそく質問を始めた。最初のうち、質問はどれもこれも、私がこれまでのインタビューで文字どおり何百回となく聞かれてきたものだった。すでに私は、少々いらいらしてきていた。そのとき、彼女がこう尋ねた。
「ニコルさん、あなたのお仕事は何ですか?」
私は彼女をまじまじと見つめた。
「つまり、暮らしを立てていらっしゃるお仕事は何かってことなんですが」と彼女はたたみかけた。
「ぼくは作家です」と私は答えた。
「あら、本を書いていらっしゃるんですか?」
「おたくの出版社からも三冊出てますよ」と私はいった。それから立ち上がって戸口のところまで行くと、少しばかり嫌味をいって彼らを送り出した。インタビューは終わった。始まってから十分間もたっていなかった。
もちろん私は、だれもかれも私が何者かとか、何をしているかとかを知っているべきだといっているのではない。けれども、少なくとも会社の金を使ってわざわざ私に会いに来るほどの人間なら、自分の会社から私の本が三冊、しかもかなり売れ行きのよい本が出ていることぐらいは承知しているべきだと思うのだ。アマチュアの無知はいつの場合にも許せるけれども、プロが努力をしなかったために無知を暴露した場合、当然それは無能と解釈されてしかるべきなのだ。
どんなときでも自分に課された宿題をやりとおすことである。
ただし、レポートを準備したり、インタビューをしたりする場合に、事前に情報を求めていろいろ尋ねることを遠慮してはならない。いや、むしろそうすべきなのである。
私は日本語を読むのはまだ苦手である。だから、これまでにも日本でたくさんの有名人と話をしたり、「対談」をしているけれど、事前にその人たちのことを聞いているだけで、作品を読んでから会うということはめったにない。その代わり、会うことが決まると、できるだけ相手についての情報を集めるようにはしている。その場になってから、「あなたのお仕事は?」などと尋ねるようなことは絶対にない。そういうのは無知であると同時に無礼であり、みんなの時間をむだにするだけである。
まず第一歩を踏み出すこと
自信と情熱、そして十分な準備を怠らず
何かについて理解できないからといって、恥ずかしがってはいけない。科学にしろ歴史にしろ、これらはすべて自分が理解できないことをけっしてごまかさずに直視し、一生懸命理解すべく努力を重ねた人々によって、明らかにされてきたのである。
ほかの人たちが断言したからといって、それを疑ってみるのをやめてはいけない。疑いをもったら、まず自分で調べてみることだ。恐らく、君たちの疑いは正しかったことがわかるだろう。たとえ、その疑いがまちがいだったとしても、それで自分自身を、そして必要なら他人をも、安心させることができるのだし。
「疑え」といっても、もちろん愚かであってはいけない。だれかが毒だといったものをチェックする場合には十二分に注意が必要だし、銃に弾が込めてあるといわれて、それを他人に向けるばかはいないはずだ。
それにしても、世のなかにはいわゆる「ウェット・ブランケット」がいかに多いことか。彼らは何でもかんでも不可能だとか、価値がないとかいってケチをつける。自分たちがやれなかったこと、あるいはやらなかったことに、他の人たちが成功するのを見たくないからなのである。
要するに、君たちがどのフィールドを選んだとしても、まず出ていくことだ。自信をもって、熱中してことに当たり、積極的に動くことだ。精神と肉体と、そして機材の用意を怠るな。仲間を探し、敵には気をつけ、いつでも対抗できるように。
別に君たちは北極探検家になりたくはないかもしれない。だが、たとえば何かの用事で冬の北海道に出かけるとき、コートも着ず、薄手の夏の靴下で、しかも千歳空港から札幌までの所要時間を調べもせずに、飛行機に飛び乗るなんてことはしないように願いたいものだ。
世界は君たちを待っている
チャンスを逃すな!
いま、作家としての私にとって、フィールドワークは内外ふたつの面をもっている。外的なフィールドワークには、スコットランドで雄ジカを得ることから、モンゴルの人たちと相撲をとったり、古い銛《もり》を持ち上げることまで、さまざまな行動が含まれるだろうし、内的なフィールドワークには、書かれた資料を調べ、人と会い、メモをとることなどがある。
真実を消化し、自問し、再吟味し、考えるために自分だけの時間を確保するというのも、ことにたいせつな内的フィールドワークなのだ。
英語のことわざにこういうのがある――All work and no play makes Jack a dull boy.
さて、私の場合、仕事・学習《ワーク》はすなわち|遊び《プレイ》でもある。だから、このことわざのなかのジャックが退屈《ダル》な人間になったのだとしたら、彼はたぶん自分の仕事そのものを退屈なものにしていたからだと思う。もし彼がフィールドワークにもっと熱心にとり組んでいたならば、そうはならなかったはずだ。
仕事や学習は、夢中になれるようなものでなければならない。それは本来楽しいものであるべきなのだ。たとえ、退屈で繰り返しばかりのように思われる学習であっても、人はそんなときいつだって自分の精神の一部を解放し、高揚することができる。
私にとって薪《まき》を割るのは楽しい仕事である。私がその仕事に集中し、肉体を十分に使っているとき、いつもは意識の下に潜んでいる精神がはっきりと姿を見せてくるのが感じられるのだ。
君たちが自分の選んだ仕事やフィールドでトップになりたかったら、どんな労働もいやがってはならない。いろいろなことをより深く、より広く経験することができるなら、それだけいっそう成果も上がるというものである。一流のホテルやレストランを経営している人でも、トイレ掃除とかタマネギの皮むきを一度もしたことがなかったなら、私はその人を信用しない。
チャンスをとらえることだ! まず出て行って、それをやってみるのだ! 世界は君たちを待っているのだから!
私の春・夏・秋・冬
Spring, Summer, Autumn, Winter
私にとって、春とはいったい何だろうか。春という言葉が私にもたらすイメージはそれこそたくさんある。記憶にある最初の春、それはイギリスの春だ。長い灰色のイギリスの冬。その冷たく暗い季節のあとで、私たちのもとに訪れるのが、この春なのだ。しだいに日が長くなってきたと思っているうちに、突然、猛烈な勢いで三月の嵐が吹き寄せてくる。「三月はライオンのように訪れ、子羊のように去る」ということわざがある。たしかに三月の始まりに吹き荒れる強風は、骨も凍らすほどの寒さだが、月も終わりころになると吹く風も暖かく、森には|スノードロップ《ユキノハナ》やクロッカスなどが芽をのぞかせてくる。
丘の牧場や|ムーア《湿原地》には、生まれたばかりの子羊たちが遊びたわむれている。メエメエ鳴き声を上げながら、母さん羊のそばに駆け寄っては、乳首に頭をすり寄せて、おっぱいをせがんでいる。すでに、あたり一面に、春が早足にやって来ているのがわかる。
原っぱ全体が、色彩ではじけんばかりだ。土手のふち、溝のへり、刈り込んだ生け垣や古い石の壁の割れ目などにも、さまざまな色がのぞいている。かわいらしい薄黄色のプリムローズ、黄金色のキンポウゲやフキタンポポ、紫色のスミレ、数えきれないほどのかれんな野の花たち。そのなかでも私にとっていちばん美しい眺めは、ブルーベルの青いじゅうたんである。何万、何億という数の青い花が、森の草地を埋めつくしているのだ。そして野生の水仙が、背の高い古いオークやブナの森かげの草むらに、ひっそりと美しく咲いていたのを思い出す。
子供のころ、私は野の花の収集が好きだった。見たことのない花を見つけると、胸をときめかせてそれを摘み、家に持ち帰って、本でその名を調べ、押し花にしてから、きちんとラベルをつけてアルバムに整理したものだ。
日本の野山を歩きながら、私はいまも花の名を調べるけれども、もう野の花を摘む気にはなれない。
子供のころのもうひとつの趣味は、鳥の巣を探すことだった。ふるさとのウェールズのムーアや野山を歩き回り、木に登り、やぶに分け入って、日が暮れるまで探し回るのだ。新しい巣を見つけたときの胸の躍るようなうれしさといったら! それこそ隠された宝物でも見つけたような気がしたものだ(ただ私は巣を見つけ、その観察をするのがうれしかっただけで、けっして壊したり、傷めたりすることはなかった)。少年の手のひらで、卵たちはいかにも温かく、いろいろな色合いの青や、緑や、灰色や、それに黒い斑点模様がきらきらと光って、まさに本物の宝石さながらであった。
もっと大きくなると、私が見つけて喜ぶ対象は花や鳥の巣から、沖の島々にまで広がった。十九歳のときには、実際にイングランド南西部のランディ島で半年暮らし、がけの上に営巣している何千羽もの海鳥を観察し、数を数え、標識をつける仕事をしたものだ。
カナダ北極圏で過ごした十二回の忘れられない春。その一回目は、十七歳のときのアンガバ湾遠征行であった。とてつもなく広く、冷たく、白一色の世界――風のうめきと流氷のきしみ以外は、物音ひとつない静寂の世界のなかに、ある日突然、小鳥と水のさざめきが、歌と音楽がわき上がってくる。湖の周りの水路がみるみる幅を広げ、海岸を水の輪がとりまく。ホンケワタガモたちは求愛のディスプレイに身を焦がし、上り調子の声でクウクウと鳴き交わす。アビのむせぶような鳴き声が空中をつんざいて聞こえてくる。湖や池では、コオリガモの雄がわがもの顔に泳ぎ回り、妻を求めてヨーデルのような声を上げる。ハコヤナギのやぶのなかでは、白いホッキョクコットンと小さな紫のユキノシタの群落の間から、ユキホオジロやラップランド・ツメナガホオジロなどのさえずりが聞こえてくる。海岸には、カモメ、チドリ、アジサシ、ガン、アイサなどが群れ集い、騒々しく鳴き声をたてる。まるで何か祝い事の集会かのように集まっている。北極の春はほんの何日かの間にみるみる姿を現してくる。そしてそのまま夏へ、真夜中の太陽の季節へとなだれ込んでいくのである。
日本の春もこれまでに十二回、経験している。最初はいまから二十三年も前の春だ。初めての日本の春の印象は、桜の花と酒であったが、いまでは私にとっての日本の春のイメージはもっと膨らんだものになっている。ここ黒姫の春は、雪に覆われた土手で初めて見かけるフキノトウのつぼみから始まる。その薄い黄緑色のつぼみはまた、最初の春の味覚でもある。まもなく、わが家の居間の大きな窓の外に植わっているネコヤナギも、ふわふわの花粉をいっぱいにつけた長い花穂をのばし、その花粉に吸い寄せられた小さなハエをついばみに、ヒヨドリが集まってくる。野生の山桜も咲きはじめる。書斎の窓から見ると、鳥居川の流れはすでに冬の静けさを捨て、白く泡立つ雪解けの水がごうごうと音をたてて激しく流れていく。激流に川のなかの大きな石までがごろごろ転がって、川はいま、巨人が歯ぎしりでもしているかのようなすさまじい騒々しさである。
一晩中、薪《まき》のストーブをつけっぱなしにしておく必要もなくなる。まもなくウグイスのさえずりも聞こえてくるだろう。
春。この言葉のもつ無数のイメージ、無数の記憶。春とは何かという問いに、私はこう答えたい――春、それは生命なのだと。
これまでにたくさんの国で暮らし、働き、旅をしてきて、季節というものに対する私の概念は、けっして単純なものではなくなっている。もし生まれ故郷のウェールズにずっと住んでいたならば、季節についてもごく素直な見方で終わっていたことだろう。それはあたりまえのことなのだ。一定の場所にずっと住んでいる人々は、自分のバイオリズムのなかに、きわめて正確な季節時計を作り上げており、それ以外の見方で季節を考えることなどできなくなっているからだ。ウェールズに住んでいるおばには、自分のおい、つまり私のいとこが夏にクリスマスを祝っているなどといっても、頭から信じようともしない。しかし、実際に、いとこはそういう生活を送っているのだ。彼はオーストラリアで暮らしているのだから。
これを書いているいま、私は中央アフリカで一ヵ月を過ごして帰ってきたところである。赤道下のあの地域はほんとうに暑かった。頭上で燃える太陽は、強烈な日差しをぎらぎらと降り注いでいた。私たちはヨーロッパの八月の猛暑にも耐えるような、薄い夏服を着ていったが、それでも私にとって、季節は夏だとは思えなかった。実際、私たちはモンスーンが始まる時期にいたのである。
夏が暑さや太陽や、薄い服といったものではないとすれば、それでは夏というのは何なのであろうか。私の愛するオーストラリアを引き合いに出すまでもなく、夏は必ずしも六月に始まって、八月に終わるものでもないのである。
では夏とはいったい何か。
私の感じでは、夏というのは、明るい時間、つまり昼の時間が長い季節だと定義できる。イギリスの真夏の夕方、夜の十時を過ぎてもあたりは昼の明るさが続いている。そんな時刻は、子供にとっては、まさに冒険と遊びに満ちた魔法のひとときだった。時間を忘れて、いつまでも眠らずに外で遊びほうけてはしょっちゅうしかられていた子供のころの夏休み。少年となり、若者になって、北極で十二回の夏を過ごすことになってからも、夏のもつこの「長い明るさ」という特徴は、ますます際立ったものとなった。イギリスでも北極地方でも、それぞれの夏は、明るい光のなかでの冒険と、小鳥の歌と、野生の花にあふれ、海や川や湖でのさまざまな活動や経験に満ち満ちていた。
けれどもそうした夏は、必ずしも暑いとはかぎらなかった。暖かいとさえいえないこともあった。いまでも忘れられないのは、氷山が巨大な白鳥のように浮かぶ夏の海の上を、カヤックでこぎ渡ったときの、あの突き刺すような寒さである。いつだったか暗黒の冬のさなかに、氷の上を犬ぞりとともに走ったことがあったが、そのときよりも、こちらのほうがはるかに寒かった。
では、夏は暑くないというわけか? たしかに、北の地方ではそうもいえるだろう。
だが、日本の夏、これは暑い……かな? これについても私は一概にそうだとはいえない。日本でもすでに私は十二回の夏を経験している。たしかに東京の夏の暑さは信じられないほどだ。うだるような、焼けつくような、コンクリートの照り返しによる暑さだ。屋上のビアガーデンで、二、三時間、ほっと一息入れていると、まるで自分が天国の玄関口で待っているような気がしてくる。一方、沖縄の夏はまた、ぎらぎらした明るい砂を連想させる。熱すぎて、はだしではとても歩けないような砂浜、日焼け、七色のサンゴ礁の海に潜って過ごす魅惑の数時間。では、いま住んでいる黒姫の夏はどうか。暑すぎるというのではない、暖かい感じの毎日。野尻《のじり》湖での泳ぎ。夕方のサウナのあとの冷水ぶろ。窓を開けっ放しにして飲む冷たいビール。軽いセーターが必要なくらい、夜になって急に冷え込む気温。そんな夜、ヨタカやアマガエル、セミ、コオロギなどの鳴き声がうるさいほど聞こえてきて、こっちもそれに負けまいと、音楽で対抗したりする。
さまざまな私の夏。それらに共通して流れるテーマは何だろう? 砂、海、暑さ、冷たいビール? それらももちろん、夏を特徴づける音色のなかのいくつかだが、けっしてそれがすべてではない。私の夏のメインテーマ、それは生長するものたちの、茶や青や紫にうつろいゆく緑のものたちの、空を飛び、うたい、走り、泳ぎ、潜るものたちの、そのすべてを包むイメージである。生長、成熟、あこがれ……そして、必然的に哀《かな》しみが訪れる。通り過ぎる夏を両手でがっちりとつかまなくては、永久に逃《のが》してしまいそうな気持ち。いまの夏があたかも自分たちにとって最後の夏であるかのように……。私たちにはわかっているのだ。この夏、私たちにこんなにも喜びを与えてくれた多くの生き物たち、草や花、そして虫たちにとって、夏がただ一回しか来ないものだということを。そう、私たちは知っている。そしてそのことを、この輝かしい日々のなかにも、はっきりと見ているのだ。
長い明るさの季節、それが私にとっての夏だ。そしてその明るさのなかに、さみしい気持ちで私が見ているのは、いまを盛りと咲き誇っている生《せい》そのものなのである。
秋は公園にいる。土曜の朝の歌のレッスンの帰り、いつも寄り道するあの公園に。そこら中、カサカサした茶色や赤の枯れ葉がいっぱい散らばっている。ところどころに落ち葉の山が、男の子の背丈ほどの高さに積んである。枝をいっぱいに広げたブナの巨木の下にある落ち葉の山は、目を奪うような美しい色彩だ。男の子はその山のなかに潜り込む。森に覆われた丘の地面に巣穴を掘り進むアナグマのように、少年は枯れ葉のなかをかき分けて、奥深くに入り込み、そこにじっと隠れている。ひっそりとしたやわらかな落葉の香りに包まれて、友達が来たら飛び出して脅かしてやろうと、待ち構えているのだ。
秋はトチの実とともにやって来る。トチノキの木々の下に無数に散らばっている、丸い、きらきらしたトチの実。子供たちはそのトチの実を拾い集め、家に持って帰ると、よく気をつけていちばん硬そうなやつを選び、穴をあけて糸を通す。そのトチの実をたがいに打ち当てて、どちらが先に相手の実を割るか、その勝ち負けを競うのだ。このコンカー(トチの実)遊びのおかげで、この季節、イギリス中の学校の校庭はトチの実のかけらだらけになったはずである。
秋の夕方は、日が落ちるのが早い。火床にはまた火が入り、薪《まき》が割られ、石炭がひっぱり込まれ、煙突が掃除され、真鍮《しんちゆう》の石炭入れがみがかれる。秋はまた、おばあちゃんの手編みのセーターの季節だ。おばあちゃんの編むセーターは、どれもそで口がとても長くて、手首のところで二、三回まくらなくてはならなかったっけ。着るとチクチクして、まだ少しだけ羊の脂のにおいがした。
ウェールズ。イングランド。秋はあっという間に過ぎて、気がつくともう、夢のように楽しいクリスマスのシーズンになっている。
タイガ(北方針葉樹林地帯)とツンドラ(凍土帯)が出会うカナダの北の地域。いじけたクロトウヒ(エゾマツの一種)の陰気な暗緑色だけが唯一の色彩だった風景のなかに、ふいに燃えるような色のきらめきが輝きだすと、それが秋である。
ラズベリーのやぶは赤い炎のようだし、ヤナギの葉は黄色に燃えたつ。南に面した小さな岩だらけの谷間には、あらゆる種類の低い灌木《かんぼく》が実をつける。ブルーベリー、フォックスベリー、ベアベリー、ベイクアップルベリーなどの木イチゴやコケモモの類。それに、カラスノエンドウやスゲなどの植物が、岩や地衣類の間に、さまざまな色合いのまじり合ったじゅうたんを織りなす。女や子供たち、それに若い探検家たちも、バケツを持ち出しては、それをベリーでいっぱいにする。
もっと北の地方では、カモやガンをはじめとする鳥たちの大群が渡りのために集まってくる。まもなく、空は彼らの隊列と鳴き声でいっぱいになる。彼らが去ったあと、湖は凍りつく。灰色の海岸の周りには、帯状の氷が形成される。冷たい大気のなかで、川の水も凍りつき、流れを止める。
秋は、南へ移動するカリブーの狩りをする季節だ。この時期、カリブーの皮は厚く、毛皮も光沢が出ているから、上着にしても、寝具にしても、このうえなく暖かだし、しかもやわらかい。
小さな浮氷が動きはじめる大河の岸辺には、産卵を終えたサケが打ち上げられ、クマやワシがそれを腹いっぱいに食べては、太りかえる。ワタリガラスさえ、盗みや食い物争いをしなくなる。やがて雪のスコールが激しい突風をともなって襲ってくる。ちょうどホッキョクグマの前足が、アザラシの頭を激しくたたきつけるように。
いままでの水の世界に、急に屋根ができてしまったワモンアザラシは、呼吸用の穴がふさがってしまわないように、ひっかいたり、かじったり、懸命の努力を続ける。しだいに濃さを増してくる闇のなかで、彼らはこの作業を春まで続けなくてはならないのだ。
そりの旅がまたできるようになる! オーロラが地平線から地平線までの夜空を横切って、きらめき、広がり、うつろいながら、揺れるカーテンのように、踊りを踊る。
秋、それはドラムと歌と、精霊のお話の季節である。
ここ黒姫も、秋になるとイギリスやカナダと同じように、木々の葉が赤や黄に燃えたち、山々や野尻湖畔をまるで色とりどりのキルトのように染め上げる。小さなシジュウカラが山から降りて来て、わが家の窓の外でさえずりを始める。オナガの群れがやって来ては、騒々しい鳴き声をたてる。
秋はキノコとりの季節だ。黒姫はキノコの宝庫である。ここに来てから、ずいぶんと、これまでに知らなかったキノコに出会った。人々はこれをとってきては炭火で焼いたり、みそ汁の具にしたり、バターでいためたりして楽しむ。山の上のほうではすでに霜が下りている。長野の酒「松尾」の熱かんが、はらわたにしみとおる。そろそろ銃を掃除して、犬たちを連れて猟の下見にでも行ってみようか。散歩かたがた、キジやノウサギの跡をつけてみよう。池にも出かけて、マガモの到来の具合も調べておかなくては。
秋、ナフタリンのにおいとともにタンスからセーターがとり出される。世界中で求めたセーターたちは、すでに私にとって第二の皮膚のように肌になじんでいる。私はセーター人間である。おばあちゃんが生きていて、いまの私に着られるような、そして一生大事にできるような、そんな大きなセーターを編んでくれたら……心のずっと奥のほうで、私はいつもこんなことを考えている。けれども、おばあちゃんは死んでしまった。おばあちゃんの編んだセーターも、それを着た男の子ももういない。もはや私は、トチの実を集めて糸に通して遊ぶ子供ではない。
今年、私は山に登って、わずかに残っている古代の森を訪れるつもりだ。何百年も前からそこにそびえる大きな木々の下に立ち、いなくなったクマたちのために祈ろうと思う。チェーンソーやブルドーザー、近視眼的な政策、それに人間のあさましさ、こうしたものさえなかったなら、いまでも山はクマたちの棲《す》みかであったはずである。
足もとで触れる落ち葉。胸がいっぱいになる。目を上げて、私は空気中にただよう雪のにおいをかぐ。冬の訪れが間近なことを知らせる、あの特有の青灰色を帯びたにおいだ。目が涙でチクチクするのは、秋の微風が冷たすぎたためだったろうか。
私にとって、冬というのは雪あってこそである。だから雪の降らないウェールズやイングランドの冬などには、ほとんど魅力を感じないし、郷愁なども覚えないというのがほんとうのところだ。風が吹きすさび、霧雨が煙る灰色の日々……これがイギリスの冬の普通のイメージなのである。ただ、一九四七年のあの冬は別だった。いま思い出しても、あの冬はすべてが魔法にかかっていたような、そんな気がする。あれは私が七歳のときだ。記録的な大雪がイギリス全土を覆ったのである。丘や小道を風を切って飛ぶトボガン(リュージュ用そり)のうなりに混じって、右や左に傾きながら猛烈な勢いで坂を滑り下りていく男の子たちの歓声が、いまでも私の耳にこだましている。それからあの雪合戦! 待ち伏せあり、小競り合いあり、追撃戦あり、奇襲作戦あり、最後は女の子まで交えた本格決戦になって、子供たちは大喜びでわめきながら、たがいに雪の玉を投げ合ったものだ。そこここで涙の場面もあっただろうが、そんなのはすぐに忘れ去られ、次々に投げられる雪玉の砲弾とともに涙などは吹き飛ばされてしまうのだった。濡れて縮んだ手袋はポケットに押し込まれ、真っ赤になった両手で次々に雪をつかんでは握り、ミサイル弾に丸めていく。戦いの喜びで、どの子の顔も輝いていたっけ。
そうそう、つららもまたすてきだった。つららを折って、レモネードのなかに入れ、コップのなかできらきらと光るのを見るのが、私は大好きだった。氷のなかに、少しぐらいゴミだとかコケだとかが浮いていたって、かまうものか。
あの一九四七年の冬はしかし、大人たちにとっては厳しい冬でもあった。ウェールズのおばの家などは、屋根まで雪で埋まってしまい、何日間もそのまま閉じ込められるはめになった。数日してやっと救援隊が来たときも、ドアまではたどりつけず、しかたなく大きな煙突から食べ物を降ろしたのである。ウェールズでは普段、大雪など降らないし、雪靴もスキーも用意がなかった。そのうえ、ドアは内側にではなく、外側に開く方式だったから、どうにも外に出られなかったわけである。
北極地方では冬はさらに厳しいものとなる。だが、私たちは万全の用意をしてそれに耐えた。太陽のない、寒い季節。けれども北極では、冬は旅の季節なのである。湖も、川も、沼も、ツンドラも、そして海も、すべてが凍りついてしまうから、人間はその上をそりで旅することができるのだった。月のさえわたった冬の冷たい夜など、あたり一面、何もかもが明るく輝いて、それこそ文字まで読めるほどだった。
思い出すのは、真冬のグレートベア湖を人力でそりを引いて越えたときのことだ。気温が下がり、表面の氷の層が収縮して裂け目ができると、下のほうから、まるで怪物クラーケンが目覚めるときのようなうめき声が響きわたる。ジェット機の通過音にも似たものすごい轟音《ごうおん》なのだ。ピラミッド・テントのなかでダウンの寝袋にすっぽりとくるまって横になり、こうした氷の音を聞いていると、仲間のたてるいびきよりもずっと気になって眠れなくなってしまうのだった。
海の上では、氷山が水晶の寺院のようにきらきらと輝いていた。オーロラが、まるでざるのなかでくねっているウナギのように、地平線から地平線へとうねうねと動き、そのしま模様のベールやカーテンを通して、星がきらめくのが見えた。デボン島で越冬調査隊に参加したときのことである。私たち越冬隊員は、夏になってからやって来る研究者たちのために、冬の間に、方々の場所に食料・燃料貯蔵所を設営する仕事をしていた。ウェールズよりも大きな島の上に、私たち越冬隊の五人だけが生活していたのである。出かけるとき、私たちは必ず二人ずつ組むことにした。ひとりはいつもライフルを構え、いつ襲ってくるかわからないホッキョクグマを見張っていたのである。
カナダの町々では、クリスマスが近づくと、家のなかも外の木々も、すべてクリスマス用の明かりがとりつけられる。家々の前庭には塀がないから、郊外全体が雪国の陽気な妖精の公園のようになってしまう。それにまた、カナダの真冬のパーティーのものすごさといったら! 外が寒ければ寒いほど、家のなかはよけい暖かく、よけい陽気になるのだった。
それにしても、これまで私が経験したもっとも寒い冬のいくつかは、東京で過ごした冬だった。木枯らしの吹き抜ける街角、すきま風が入り込む安アパート。けれどもいま、ここ雪深い黒姫の里で、私たちは理想的な冬を送っている。
大きな二重窓の断熱効果のおかげで、私たちの家はとても暖かく、明るい日差しがいつも差し込んでいる。家の土台は、二メートルの雪が積もっても平気なように高く上げてある。イギリス製の薪のストーブは、台所を暖め、七面鳥を焼くばかりでなく、ここで沸いたお湯が家中を巡ってセントラルヒーティングの役目を果たしている。トイレまで暖かくて快適なので、つい本を持ち込んでは読んでしまうほどだ。
「黒い王女」の名をもつ黒姫山は、銀色の女王に姿を変える。一日一日、世界は真っ白く塗り替えられる。その真新しいページの上に、毎日私はノウサギやキツネ、タヌキ、テン、イタチ、そしてキジたちの物語を読むことができるのだ。夏の間は、厚く茂った下草のためにとても通り抜けられなかった森のなかも、いまは雪にすっかり覆われて、クロスカントリースキーをはけば自由にそこに入り込める。人っ子ひとりいないまったくの孤独の世界が、すべて私のものとなる。
私は物書きだし、自然を愛する人間だから、時々はひとりだけで過ごす時間がどうしても必要になるのだ。そしてこんなふうに孤独を楽しみ、体も心も爽快になったあとは、また家の暖かさに、ウイスキーとワインに、サウナのあとの冷えたビールに、そしてピアノの周りの歌声に戻っていくことができるわけだ。
冬は何かって? 冬――自然が活動をやめ、毛布の下で休息に入っている季節……けれどもいつか必ず、自然は眠りから覚め、私たちのもとへ春をつれて来てくれる……その確信こそ、まさに冬のイメージではなかろうか。
そうだとしたら、この季節、陽気に騒いでいけないわけはないだろう?
PART3
多くの仲間へ友情をこめて
植村直己――少年のように輝いていた
Uemura Naomi
ほんとうはこんな原稿なんか書きたくない。そんな気分じゃないし、ときには黙って胸にしまっておいたほうがいいこともある。
初めて植村直己に会ったのは一九七六年だった。彼は例の犬ぞりでの遠征を計画中で、コースの大部分はカナダ領だったため相談に来たのだ。一年のそれぞれの時期によって変化する海氷の状態や、どこのベースから物資を空輸したり買ったらいいか、カナダ政府のだれに会えば許可や協力が得られるか、そんなことをアドバイスした。
初対面は簡単ながら、打ち解けたものだった。彼をひと目見たとき、私は実直で過酷なまでのエネルギーを感じて、ああこれなら北極に行ったって大丈夫だ、尊敬に値する友として迎え入れてもらえるだろう、と確信した。いっぺんに大好きになった――だがそのとき、私はマスコミがこぞって記念の旗の取材合戦を繰り広げているなんて、ついぞ知らなかった。私にとって、彼は冒険にとりつかれた仲間にしかすぎなかった。そして、冒険を愛する者たちの結びつきには国境なんかない。山頂に旗を立てるだのなんだのというばかげたことには、まったく無関係なんだ。
五年後に私たちは再会した。二度目だというのに旧知の友人のようだった。私と彼とは、ほかの人たちがもち合わせないひじょうに多くのことを分かち合っていた。すし屋で話は弾んだ。刺身と、殺したてのフイリアザラシ(ワモンアザラシ)の心臓やアザラシの脂肪で熟成させた海鳥の肉の味比べをした。扇形、アラスカ式二頭縦列、マッケンジー式一列縦隊、そのほか、さまざまな犬ぞりの隊形を比較して、それぞれの長所を論じ合った。サストゥルギ(波状雪)の固い波を単調なリズムで打つコマティク(イヌイットのそり)≠フ滑走板の音、犬たちの規則的なあえぎ。春になると海氷の上に現れる蜃気楼《しんきろう》の幻想! デボン島の北の沖合いに浮かんでいる氷山は、まるで光り輝く大聖堂をそのまま凍らせたような美しさだ!
それにオーロラ。見渡すかぎり光のカーテンがひかれたようで、それがバケツにまとめて放り込まれたウナギみたいにうごめいて、ゆらめいて、広がって、縮まって、踊って……。話はとどまるところを知らなかった。そうだ、北極ではどんな食べ物が気に入ったか、どうすれば犬がいちばんハッスルするかも話した。そして、植村直己の目はますますきらめいていた。
ほかのどの探検にも増して、彼は北極とイヌイットの生活に引きつけられていたと私は信じている。過酷だったが、彼は喜びを味わった。もっともっと北極で犬ぞりを走らせたかったに違いない。もっと高く、もっと冷たく、もっと遠く、もっと未知なるものへと突き進んでいくことが必要だったとしてもだ(ほんとうに必要だったのだろうか)。
彼にいちばん合った北極でのサバイバルや旅の方法を教えたのは、イヌイットだ。だが、イヌイットは、冬に北極の山に登るようなことはしない。狩りをしようにも、罠《わな》を仕掛けようにも、釣りをしようにも、獲物がいない。それに伝統的なイヌイットは、冬の山が邪神のすみかで、ただの人間には禁制の場所だと信じている。
植村直己は英雄であり、小さな巨人だ。だが人間なんだ。ちゃめっ気があって、思わずこちらまで引き込まれてしまう少年のような笑いを目にした人は、みんなよく知っているはずだ。だいいち、彼は自分が人間以上だなんて思ってはいなかった。いつももの静かで、控えめで、整然として、生きることへの情熱にあふれていた。
強い意志、確固たる決意、チャレンジ精神、勇気、そしてこれらが日本の若者たちにとって何を意味するか、いや意味すべきなのか、こんな議論なんかくそくらえだ。私たち西洋人は、あなた方日本人より北極とのつきあいが長い。そしてイヌイットは、私たちよりもっとよく北極を知っている。その西洋人とイヌイットは植村直己が大好きだ。私たちのほうが、彼のある部分をより深く理解できるからなんだろう。彼は常に仲間の英雄とともに、あの顔にあふれんばかりの笑みをたたえて、私たちのそばに立っている。
北極のイヌイットたちに
もっとも愛された日本人
かつて、イヌビックに向かう飛行機で、こんな会話を耳にしたことがある。
「グリーンランドからアラスカまで、犬ぞりで走った男のこと、聞いたかい? それもひとりで」
「ああ、雑誌で写真を見た。たいしたもんじゃないか、え?」
「まったくだ。名前なんだったかな? ウェイマラだかなんだか、とにかくそんな日本語だったな」
「日本? てっきりエスキモーだと思ってたよ」
北極の人たちでも、植村直己がエスキモー、またはイヌイット(彼らはそう呼ばれるほうを好む)だと思っている者は大勢いた。それを彼は誇りに思っていた。そういわれるたびに顔がほころんだ。なんといったって、イヌイット――人々――は何千年も北極を旅して生きつづけてきた人たちなのだから。そして、植村直己のように心の大きい人間は、いつでも心から歓迎してくれる。
もし彼が行方不明になっていると聞いたら、イヌイットはまずこういうだろう。「マミエナ」……まずいな。
もし彼が絶望的だと聞いたら、肩をすくめていうだろう。「アヨーナマット」……しかたないさ。
だが、胸の奥で彼らは「アクチュナイ」……友を結ぶ、長い長い精神の銛綱《もりづな》……を感じるのだ。
そうとも、植村直己が帰ってこないときには、日本の友人と同じくらい悲しむ友人たちが北極にもいる。
日本人よ、このことをよく肝に銘じておいてくれ。
宮澤賢治――イーハトーヴへの旅
Miyazawa Kenji
今までに私は観光旅行なるものを楽しんだという経験がまるでない。というより観光客であったことはただの一度もないというのがほんとうのところだろう。たしかに普通一般の人よりは、旅行の回数はずっと多いのだけれども。
今回、北は花巻まで出かけたのも、宮澤賢治の弟である宮澤清六氏を訪問することが目的であり、私にとってこの威勢のよい老紳士と会った記憶のほうが、町そのものの印象よりも生き生きとしているのだ。あの若き天才、詩人であり小説家であり理想家であった賢治の死後、この町自体、決定的な変容をとげている。
この町でイーハトーヴが見つかるだろうと、期待していたわけではない。もっとも私たちは「イギリス海岸」まで出かけてはみた。だがちょうどそのとき、そこは大水の出たあとで、泥の川のほかは、見るべきものとてなかった。
町も川も、日本のよその田舎《いなか》町となんら異なるところはなく、すべてがごく平凡であった。だがいずれにせよ、別に私は変わったものを見ることを期待してはいなかったのである。いや、もちろんどんなところでも、その土地土地の際だった特色があるわけで、花巻にしろ、盛岡にしろ、それは同じだと思う。
私たちは宮澤賢治記念館を訪れたが、ここは詩人の「実の世界」を私に暗示してくれたという点で、はるかに興味深いものだった。
ここでいう詩人の「実の世界」とはどんな意味だろうか? 私の目と心のなかに映った賢治の世界というのは、身近なもの、自然なもの、日常的なものに対する深い共感のそれである。黄昏《たそがれ》どきの樺《かば》の木肌の色合い、柏《かしわ》の木の香り、フクロウの羽音。風に舞う雪が屋根の上をふぶき、駆け抜ける、そんな雪の山に賢治は目を凝らし、やがてそこを魔法の国に――雪オオカミの、危険の、そして救いの世界に――変えていくことができた。私が賢治を愛するのもそこなのだ。
「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻灯《げんとう》です」で始まり、川底で暮らす父と子の三匹のサワガニ、カワセミとの出会い、やまなし≠ニいう思いがけない贈り物を描いた魅力的な散文詩を織りなす『やまなし』にひどく心を打たれた私は、地元の行きつけの焼き鳥屋で出される、こんがり揚げたサワガニのつまみさえ、もう食べられなくなっている。
滝と山の小道、議論好きなどんぐりたち、そしてもちろん山猫本人……それらのすべてが、なんと生き生きと躍動していることだろう。
あてもなく林のなかを歩きながら、木々を見、虫を見、花や鳥を見、そして岩や砂の粒子を見つめて長い時を過ごしている、そんな賢治の姿を想像するのが私は好きだ。
イーハトーヴが作り出されたのも、これらのものたち、こうした単純なものたちからであり、そして賢治自身の共感と、そのナンセンスに満ちたユーモア感覚からであった。少なくとも私にはそう思われる。
さっきもいったように私にとって花巻は、ほかの土地と比べて、特別なところはまるでなかった。しかしそうはいいながらも、自分でもこれがきわめて浅い見方だということがわかっているのだ。いろいろな土地を訪れたなら、深く目を凝らし、凝視を重ねて、賢治の心と同じ心で、周囲にあるすべてを感じとらねばならない。今度また行くときには、私もやってみよう。
ところで、今のところ私がイーハトーヴを見いだすのは、自分の住んでいる小さな田舎町の川や道端や、山々である。けれども前にもいったように、これまで私は、一度も観光客であったことはないのである……。
東京、光と影
Tokyo, Light and Shade
このとき、私はちょうど十九ヵ月に及ぶ北極での完全な隔絶状態から、やっと解放されたばかりだった。カナダ北極圏でもさいはてのデボン島での、雪と氷に閉ざされた遠征行に別れを告げ、私たちはまずヘリコプターで砕氷船に運ばれた。それからレゾリュートまでまる二日、浮氷塊に阻まれた海面をぬって進むのだ。レゾリュートで一日待機し、最後は飛行機に長時間乗って、やっとモントリオールに着く。さて、それからがたいへんだった。一週間というもの、来る日も来る日も絶え間ないパーティーの連続で、その間私たち五人の越冬の英雄たちは、バーからレストラン、友人の家々、それからまたバーへと、幸せなアルコールの霧に包まれて行ったり来たりしていた。
そしてそのあとは?
「なあニック、お前はほんとうに日本に行くのか?」
「うん」
「いつ」
「最初の便がとれしだいすぐさ」
「それじゃ、いつかまた北で会おうな。そら、もっとシャンパン飲めよ」
懐中にはこつこつ貯《た》め込んだ六千ドル余り、胸には日本の武道、特に柔道と空手を習いたいという熱意を抱いて、こうして私は日本にやって来たのだった。一九六二年十月のことである。このとき私はまだ二十二歳になったばかりだったが、すでに北極遠征は三回を数えるベテランだった。
羽田空港に着いたとたん、すっかり圧倒されてしまった。そこにぎっしり詰め込まれている黒い髪の人たちは、見たところイヌイットに似ているみたいだったけれど、歩きぶりや動作、話している言葉や服などはイヌイットとはまるで違っていた。戸惑ったまま、私は税関を通り、外へ出た。ポーターがやって来て私のカバンを持ち上げようとする。このカバンのなかにはまだノートや日記の類がごっそり詰まっており、ほかにも北極用ブーツにアノラック、セーター、小物類などであふれかえっていた。文明国の旅に不慣れだった私は、この大荷物で百ドル以上もの超過料金をとられてしまった。しかも中身は大部分がガラクタときている。そのカバンを運ぼうとポーターがさっきから涙ぐましい努力を続けているのだが、どうしても持ち上げられない。私が片手でそいつを肩の上にかつぎ上げるのを、彼はぽかんと口をあけて見とれていたが、急に何かしゃべり出すと、急いでタクシーを見つけに行ってくれた。
「おいしい」という日本語を覚えたのは
小さな一杯飲み屋でのことだった
タクシーは私を乗せて猛スピードで走り出した。連れていかれたのはまさに万華鏡の世界だった。目まぐるしく動き、とどろき、ほえたてるネオンの夜だ。そのすさまじいばかりの混雑ぶりは、それまでの私には想像すらつかないものだった。日本に来るまでいろいろ本を読み、人口などの数字を覚えたりもしたのだが、現実ははるかに予想を超えていた。それまでの私の世界はたちまち小さく縮んでしまった。もはやここは、開けた大地に風の吹きしく、野性的で自由なあの北極空間ではない。あそこではだれもがみんな友達だった。代わりにいま私がいるのは、見知らぬ他人どうしがひしめき合っている、せわしくも小さな東京という町の平面なのだ。
おびただしいばかりの印象や光景が、一挙に私をおそった。そのなかでもっとも楽しく、また刺激的で、しかもひどく心をかき乱されたのは女性たちだった。あの遠征行には女性はひとりもいなかったのに、いまでは至るところ女ばかりじゃないか! エキゾチックで、アーモンド形の目をした小柄な女性たち――長い髪の子もいればショートヘアの子もいる。スタイルのよいの、やせたの、太ってずんぐりしたの、お高くとまっているの、感じの悪いの、感じのよいの、キュートなの、魅惑的なの、悩ましいの……。ほんとうの話、私はすっかり悩ましい気分になってしまった。それまで一年半というもの、ひとりも人間の女性を見ないできたのである。モントリオールでのあのアルコール漬けの一週間は別だが、あのときは朝から晩まで酔っ払いつづけだったから、女の子の区別なんかできる状態じゃなかった。
それからまた、食べ物のすばらしさといったら! 北極では、アメリカ陸軍のC°煙R用食と、自分たちで撃ったわずかなアザラシやガン、カモなど、それにツンドラの湖でとれるホッキョクイワナとで食いつないでいた。遠征を終えて帰ってきた私たちには、ゆで卵さえ美食のきわみと思えたほどである。ここ東京には味わうべきものが何百何千種とあるうえ、その多くは私にとってまったく新しい経験だった。
いまでもまざまざと目に浮かぶのは、東京に着いて三日目の晩、ふたりのドイツ人の友人に連れていってもらった目黒の小さな一杯飲み屋での光景である。私が食べられるかどうか試してみようと、そこのママさんが次々と目の前にごちそうの皿を並べる。まず、焼き鳥。次に鳥の臓物をトウガラシとショウガ、それにしょうゆで煮たもの。小魚の干物をあぶったやつ。納豆にネギを刻み入れ、卵の黄身を混ぜたもの。とろろ芋。塩辛。焼きナス。薄切りの冷たいトマト。スルメをあぶってマヨネーズを添えたもの。これらは私にとってまったく新しい味の冒険であり、大いに楽しんで全部平らげた。母よりも年上の、愛想のよい店の女主人が次々と杯に注《つ》いでくれる酒もまたよかった。私を王侯か何かのようにもてなしてくれるこのママさんも私も、ふたりともおたがいのいっている言葉はひと言もわからなかったけれど。「おいしい」という日本語を初めて覚えたのもこのときだった。
つぎからつぎに、新しい味に挑戦していったが、結局私のいちばんの好物はすしと焼き鳥に落ち着いた。ギョーザと焼きそば、すき焼きがすぐそのつぎに続く。
景色のない騒音だけの世界で
研ぎ澄まされた五感がまひしていく
遠征隊という小さな社会と、はるか極北の果てしない眺望から一転して、私はいまや地上でもっとも忙しく、もっとも大きな社会のひとつの一員となった。柔道や空手の道場でも新しい友達ができた。みんなおおらかで、心が広く、親切な人たちばかりで、一生懸命私を案内してくれるのだった。それでもやはり、時折やり切れないほどの孤独を感じるのはどうしようもなかった。景色というものがまったくなく、あるものはただ混沌《こんとん》とざわめきと、そして騒音だけの世界のなかで、絶えずすさまじい刺激にさらされた結果、北極で研ぎ澄まされた私の五感はすっかりまひし、脳みそはもうろうとなった。
日本に来てからしばらくの間、私は講道館に泊まっていた。だが夜の十時になると戸にかぎがかかって閉め出されてしまうのだ。夜遅く酔って帰ってきて、四階の自分の部屋まで窓伝いにじりじりとはっていくという、まさに死ぬ思いを何度か経験したあとで、ここはどうも出ていったほうがよさそうだと考えるようになった。
運よくちょうどそのころ、私はドン・ドレイザーと知り合った。彼はアメリカ人で、武道研究家であると同時に歴史家であり、作家でもあって、そのあともずっと私のよき友人だった。いまから数年前に彼が死んだときは、ほんとうに悲しかった。その彼が市ヶ谷の古い大きな家に住んでいて、私にそこの部屋を使わないかといってくれたのである。市ヶ谷の家はいろいろな武道を習いに世界中からやって来た人たちでいっぱいだった。こうした「先輩」たちの忠告やら手引きやらのおかげもあって、そのとき初めて私のぼんやりした頭のなかにようやく東京という町が整理されはじめてきた。
持ってきた蓄えは、あっという間に底をつきはじめた。私は浴びるほど飲み、かつ食っていたし、しかもえらく気前がよかった。混んだ電車に乗るのが怖くてずっとタクシーを使っていたし、暇さえあれば地方に旅していた。それからもちろん、ガールフレンドたちともつきあっていた。
当時の多くの外国人と同じように私もまた、金を稼ぐのにいちばん手っとり早い方法は英会話を教えることだということに気づいた。東京オリンピックの前のことで、当時は英会話の学校がそれこそ雨後のたけのこみたいにそこら中に出来つつあった。
最初のうちは、英会話を教えることさえ新鮮で刺激的に感じられた。この機会を通じて、私はあらゆる階層、あらゆる職業の日本人とたくさん巡り会えたのである。生徒の多くは私より年長だったから、みんな一種保護者的な感じで、いろいろ新しいところに連れていってくれたものだ。
空手道場でも、何人か、のちに終生の友となるような友人たちができた。彼らは私を家に招き、祭りに呼び、結婚式に、歌舞伎に、相撲見物に招待してくれた。
もはや私は、前みたいに混んだ地下鉄におびえることもなくなった。電車に乗る前に、立ち止まって壁や柱にもたれ、しっかり深呼吸してから勇気を奮い起こすような必要は、もうない。
人の足を踏みつけたり、その上を歩いていったりすることもなくなった。すでに習性となっていたブーツを履いて荒野を大またに歩く、あの長い歩幅を改め、都市の住民らしく、小刻みに滑るような歩き方をマスターした。人を突き飛ばさずに群衆の間をぬっていくための、あの奇妙なジグザグの動きも身につけた。
そしていまではもうこの私も、かわいい娘さんが自分に笑いかけてくるたびに、すぐさま恋に落ちるということもなくなったのである。
そのころの私の日常は、すべて習慣のままに動いていた。朝は空手をやり、そのあと冷たいシャワーを浴びる。それから二、三人の友人といっしょに喫茶店のモーニング・サービスの終わる寸前に滑り込み、コーヒー、ゆで卵、トースト、それにサラダ少々といった朝食をとる。その喫茶店はクラシック音楽を専門に流しており、この種の店では四谷で最高の店のひとつだったと思う。そのあとは、どこかに和食か中華の安い昼飯を食いに行ったはずだ。それもたぶん、ビールを飲みながら……。午後は、電車に少し乗って渋谷まで出る。坂を上って東京日本語学校、ナガヌマ・スクールにたどりつく。ここで二時間ほど日本語と格闘するわけだ。
……「エントツカラ ナニガ デテイマスカ」
「ケムリガ デテイマス」……
これがすむと、夕方三時間、池袋の英会話学校で教師を勤める。ここでも同じようなばかげた会話を、今度は英語でやるわけだ。そのあとは悪友たちと一杯飲むか、それとも家に帰って夕食を食うかする。晩にはふろにゆっくりとつかる。たしかにこの日本式ふろおけときたら、まさに人類にとってもっとも文明的な贈り物のひとつだと、いまもつくづく思うのだ。
離れてはまた戻るをくり返し
ついに作家として日本での活動が始まった
こうして二年半がたち、空手の黒帯をとった私は、日本を去り、カナダへ、北極へと向かった。そのあと二年間、エチオピアのハイレ・セラシエ皇帝のもとにシミアン国立公園長として仕える。このころやっと、長い間の私のもうひとつの夢が実現しようとしていた。ニューヨークの出版社が私の書いたものを受け入れてくれたのだ。その出版社が出してくれた前渡金で、私はまた日本へ戻った。今度の目的は日本と日本の漁業の勉強である。そのとき私は二十九歳、心も体も鍛えられて、やや尊大な若者になっていた。
東京に戻った私は、もっぱら書くことと勉強することに没頭した。なんとか暇を見つけては古い友達に会ってはいたが、空いた時間はほとんどなかった。英語も少しの間教えていたけれど、まもなくそれも辞めた。東京イングリッシュ・センターで谷川雁《がん》さんのために子供向けの物語を書いていて、そっちのほうが忙しくなったからである。
食べ物については、やがて私は新しいお気に入りの店を開拓した。渋谷の、力道山ジムがあったところから坂をちょっと下った場所である。店内は煙とにおいが充満し、いつも男たちで満員で、ひどく騒々しかった。この店では客の前のテーブルに丸く盛り上がった鉄板が置かれ、そこで客はめいめい、マトンや心臓やレバーなどをたっぷり焼いて食べるのである。そう、「ジンギスカン」スタイルの焼き肉である。
安くて、人気のある店だったが、私がその店に通ったのは恐らく、たぶんにノスタルジアがあったからだと思う。ここにいると、エチオピアの山々でのパトロールがつい思い出されてくるのだ。あそこではよく、自分と部下のレンジャーたちのためにヤギか羊を一頭買い、そいつを殺して肉を処理し、たき火の上に渡した棒であぶったものだった。この店に充満する煙と、あぶり肉と脂のにおい、それにニンニクや肉の味などが、私をあのころのエチオピアの夜に連れ戻すのだった。はるか遠くを眺めても一点の町の灯すら見えず、黒いビロードのような夜空に星がまるでクリスタルのような輝きを放つそんな夜、フクロウがホーホー鳴き、ハイエナがほえ声を上げるのを背に聞きながら、私たちは飽くことなく物語を語り合ったものだった。
そのころの私は結婚して子供がいたから、当然若い父親の目で東京をとらえていた。高い学費や、住む場所を探す難しさ、勘定を支払うためのやりくりなど、それはたしかにたいへんな二年間だった。
北極が私を呼んだのも当然の結末だった。こうして私はカナダへ帰った。続く数年間、それぞれ短期間ながら二、三回、私は東京を訪ねた。その間に、この町はすっかり変わっていった。高速道路が延び、高層ビルが林立し、車は十倍以上にも数が増えた。人々はより豊かになり、娘たちの足はより長くなり、そして若者は背が高く、たくましくなった。私が初めて日本に来たころ、混んだ電車に立っていると、一面黒い頭の海が目の下に見渡せたものだが、いまではもうそんなことはなくなっていた。私と同じくらい、いや私より背の高い人々がいっぱいいるのだった。すし屋や焼き鳥屋、一杯飲み屋などはまだ健在で、古い友達同様、私を温かく迎えてくれた。
水島で石油流出事故があったとき、カナダ政府は私を日本に派遣して事故処理の視察にあたらせた。その後、国際海洋博のときには沖縄に派遣され、八ヵ月間カナダ館の仕事を受けもったのである。
そうこうするうち、ついに私は作家として独立できるめどが立つようになり、再度日本に戻って歴史小説の取材に専念しようと決心した。やって来てから最初の一年間は、東京には住まなかったけれど、しばしば上京したものだ。私の書いた本は日本でも発行されており、編集者や出版社の人たち、それに有名人の友達が、今度は銀座に私を連れていってくれた。三ヵ月ほど東京プリンスホテルに泊まり込んで五木寛之の小説を翻訳したりもした。彼の弟とはそれ以後、よき友人になった。
こんなふうに華やかな世界で飲んだり食べたりしたものの、私はやはり小さな飲み屋とか、愛想のよい母親らしい笑顔のママさんや、騒々しい煙っぽい焼き鳥屋のほうがずっと気に入っていた。
気がついてみるとすでに四十歳に近く、それまでに過ごした世界のどこよりも、東京で過ごした時間のほうが長くなっていた。
東京を知るなんてできようか
この町はあまりに巨大で複雑すぎる
いま、私は田舎《いなか》に住んでいる。長野県の黒姫だ。妻と私がここに家を建てて、住みついてからもう六年になる。自然と接した生活こそ、自分にいちばん合った暮らしなのだということが私にはよくわかっているのだ。
それでいながら大阪とか京都とか、神戸、札幌、仙台、博多、福岡、那覇、新潟などといった大都市のこともずいぶんよく知っている。これらの町に住むたいていの日本人よりは、私のほうがはるかによく知っているだろう。
なかでもいちばんよく行くのが東京だ。一ヵ月に一度、東京を訪れ、講演をし、テレビ、ラジオに出演し、そして出版や編集の人たちと会う。
東京という町を、私はほかのどの町よりもよく知っているのだが、しかもそれでいて東京のことは何も知らないというのも事実である。
だいたい、東京を知るなんてことができるのだろうか?
理解するにはこの町は巨大すぎるし、あまりにもとりとめなく、そしてあまりにも複雑すぎる。若いころから中年に至るまで、人生のさまざまな局面で、この巨大都市を探検してきたけれど、この町の絶対的な大きさに比べて、私の足どりたるや実験室のネズミのごとく狭くて、制限されている。いかにも単純で、あたりまえの道すじしかたどってこなかったようなのだ。
東京のまだ見ぬ顔を求めて
いざ出発
そんなわけで、今度、よき友人で俳優の渡辺文雄さんといっしょに朝から夜まで一日中東京を探ってみるという企画を聞いたとき、私はとても興味をそそられたのだった。東京生まれの渡辺さんは、この町のことはほんとうによく知っているし、私たちふたりで東京を歩き回り、さまざまな対照を見せるこの町の顔のいくつかを――これまで私が一度も見たことのない顔を――なんとか見つけられたらと思ったのだった。
私たちふたりは朝、赤坂のアークヒルズから出発することにした。ここを造った人々は、少なくともほかの空間よりは緑を多くとり入れ、オープンスペースを広く組み込もうとしたようだ。
「あれ、小鳥を観察する場所まであるよ……」
これに先だって、二週間ほどスコットランドを回り、そのあとスペインのガリシアでやはり二週間を過ごして帰ってきたばかりの私だったが、はたして新鮮な目で東京を眺められるだろうか?
どういえばいいのだろう。そう、たしかに小さな木立や、灌木《かんぼく》の茂みはたくさんあったし、広いオープンスペースもいくらかはあった。だが、ロンドンの公園や広場と比べたら、まるでお粗末だったし、スペインの広場《プラザ》を見てきた目には、いかにも貧弱で、退屈きわまりないしろものだった。小鳥観察用の庭にしても、広さときたら私の家の裏庭ぐらいしかない。たしかにヒヨドリやスズメのやかましいさえずりが聞こえてはいたが、その小鳥たちのうちどれほどが、つい目と鼻の先の古い教会のうっそうたる樹木の庭からやって来たのではないといえるだろう? 努力のあとはうかがえるものの、小鳥を見るのだったら皇居のお堀端か、明治神宮に行ったほうがはるかによい。
「Birds Watching」と刻まれている石の標識を見て、私は思わず笑ってしまった。これだと「鳥たちが見ている」ことになり、「人間が鳥を見る」という意味にはならない。たぶん「Bird Watching」とするつもりだったのだろう。私は、なるほど、このミニ庭園は鳥が人間を見るために造られたわけなのかと、ジョークをとばした。
昼飯は、ファッショナブルなベトナム風フランス料理のレストランでとった。店内は黒と白の室内装飾で印象的な効果を出し、ウエイターは礼儀正しく、サービスもなかなかよかった。そして料理は……そう、ひどく少量で、味はまことに退屈であった。いわゆるパリ風東京式料理とどっこいどっこいのお粗末さだ。誤解しないでほしい。私は本物のフランス料理は好きだし、本物のベトナム料理も好きだ。だが、優雅で小柄なミスたちのための、変に気どった小ぶりのフランス料理なんてものは、昔、交換留学生としてフランス人の家族のもとで数ヵ月暮らした私の記憶には、断固ないのであった。
これをベトナム料理と呼ぶにしても、そのベトナムらしさというのはチリペッパーがひと振りかかっている点だけのようだった。本物のベトナム料理が食べたかったなら、ベトナム人の経営している店を探すことだ。けっしてファッショナブルなものに目を引かれてはならない。ファッションという言葉が、私はもっとも嫌いである。
つぎの目的地は原宿の、これまたファッショナブルな通りであった。あまりにもファッショナブルすぎて、通りは若い人々で身動きできないくらいに埋め尽くされ、彼らは群衆の流れに沿ってただひたすらのろのろと動いて行くのだった。
このあと、別の「ファッショナブル」なランジェリーを扱う店に入った。私たちが興味をそそられたのはせいぜい一分ほどだったろうか。まさにばかばかしさの極みであった。
つぎに行ったところは、いままでよりもずっとおもしろいところだった。佃島《つくだじま》である。古い東京のささやかな歴史と、その名残とが、いまだに息づいている地域である。狭い路地には古い店が立ち並び、波止場には漁船がつながれている。私たちは有名な佃煮の店で行列して佃煮を買い、路地から路地へとおしゃべりをしながら歩き回った。あの恐ろしい大空襲でそのほとんどを破壊し尽くされる前の東京で、幼いころを過ごした渡辺さんにとって、ここは自分の子供時代を思い出させてくれるところのようだった。
この日、私たちは朝早く起きなかったから行くのはとうてい無理だったのだが、じつをいうと東京での私のお気に入りの場所のひとつは築地の魚市場なのである。朝の遅いこの私でさえ、時々は早く起きて出かけて行くほどだ。市場のなかをあちこち歩き回って、信じられないほどおびただしい種類の魚や海産物をつばを飲み込みながら眺めていく。そして最後はどこよりもうまいここのすしをつまんで帰るのだ。
この日は目先を変えてすし屋には行かず、その代わりに、駒形《こまがた》の有名なドジョウ料理の店へ入った。このドジョウもまた、私の大好物のひとつだ。いまから二十年以上も前、東村山の小川で、小さな男の子たちがドジョウをとるのを手伝ってやったことがある。初めて「ドジョウ鍋」を経験したのは二十三年前、早稲田大学の探検家クラブの連中に誘われたときのことだった。あの晩、私たちはおおいに飲み、食い、にぎやかなドンチャン騒ぎをやらかしたものだ。最後は私が連中全員を引き連れて、渋谷にくり出し、食用ガエルの中華風をみんなに食べさせてやったのだ。畳の上に座り、タマネギやゴボウと煮たドジョウを食べ、ビールを飲む。このスタイルが私にはいちばん合っている。
ファッション・ヘルス?
ナイーブなぼくはただ驚くばかり
つぎの予定地は新宿で、いわゆる「ファッション・ヘルス」クラブと呼ばれているところに連れていかれるはずだった。じつをいうと、日本語を読むのはまだ私には少々努力がいるし、そんな努力をしてまで読む価値のある週刊誌なんてほとんどないものだから、ある種の情報には私は完全にうとい。だからそんな場所のことは、聞いたこともないのだった。
「ファッション・ヘルス」というからにはたぶん、すてきに室内装飾を凝らした、ちょっとしゃれたジムみたいなところなんだろう、優秀なインストラクターがついて、渦巻水流のふろやサウナのある、要するに運動したりくつろいだりできる場所なんだろうなと思っていたのである。
ところが、実際はまるっきりそんなものではないのだった! 編集者の説明によれば、店のなかには裸に近いような格好をした女たちがいて、それを別の部屋に入った男がミラー(一方からしか見えないやつ)ごしにのぞいて品定めし、番号で女を選ぶ。それから室内電話で彼女に話しかけ、その女と部屋に行ったあとは、体を洗ってもらい、刺激してもらって、マスタベーションまでもっていく。ここはそれを目的とした場所なんだと聞かされて、私は一瞬あっけにとられた。編集部では、私がそんなところに入るなんて、しかも入るだけでなく、それを雑誌にれいれいしく掲載させるなんて、ほんとうに思っていたのだろうか?
私は別に紳士ぶっているわけでもないし、聖人君子なわけでもない。だが、これだけはノー・サンキュー、お断りだ。渡辺さんと私は、関係のない立場でそこの女の子たちふたりと会って話してみるということに、意見が一致した。
私たちは照明の明るい喫茶店で会った。テーブルを隔ててふたりの娘たちと向き合う。このふたりは姉妹で、姉は二十歳、妹は十八歳、とてもきれいな娘たちだった。いったいどう考えたらよいのだろう。この子たちはごく普通の、ちゃんとした娘のように見えた。言葉づかいもきちんとしており、趣味のよい、高価な洋服を着込んでいた。家から通っていて、家には離婚した母親とふたりの弟がいるという。家の人たちは彼女らが何をしているか全然知らない。電話の交換手をしているとみんなにはいってある。
目の前の、一見きちんとしたようすのこのふたりの娘たちが、見知らぬ客たちのマスタベーションの手助けをしてお金をもらっているのかと思うと私は唖然《あぜん》としてしまい、インタビューは全部、渡辺さんに任せてしまった。
渡辺さんが質問を始める。
――尊敬する人は? いつかその人みたいになりたいなって思う人いる?
「お母さん」
――何をやりたいの? 何のためにお金を貯めているんだい?
「ファミリーレストラン」
――仕事のことでうそをいってだれかに迷惑かけてないの? 自分たちも困ることないの?
「いいえ」
――お客さんはどう? よい人がいる?
このときに初めて妹のほうが、いかにもいやそうなしかめっ面を見せた。自分たちが相手をする男たちのだれに対しても好きになったり、尊敬したりなどできない、と彼女たちははっきりというのだった。
やがて娘たちは喫茶店を出て仕事に戻っていった。二、三分の間、私は唖然として座ったままだった。もし私の娘がこんなことをしていることがわかったら、どんな気持ちだろう? それにまた、このセックス産業なるものがこれほどの巨大な利益を上げながら、税金を払っていないことが、私の怒りをかき立てた。私たちを含め、まじめに働いた金で社会を支えている人々にとって、これはどう考えても不公平だ。
「渡辺さん飲みに行こうよ」
私たちは近くのホテルのバーに入った。古い英国調のそのバーは、趣味のよい室内装飾がほどこされて、なかなかすてきな雰囲気だった。私たちは話しているうちに、グレンリベットをひとビン空けてしまった。ただどういうわけか、若くて美しいウエイトレスが私のところに酒を注ぎにくるたびに、どうにも不愉快でたまらなくなるのだった。たぶん私は、自分が初めて日本に来たとき、いかにナイーブな若者だったか、そしていまもなお、なんともナイーブな四十六歳だということに気づいて、いささかやりきれない気分になっていたのだろう。
だが、やがてその滑らかな上等のウイスキーは、私の血のなかの気難しいケルト気質を消し去り、いつのまにか私はまた、東京での古きよき時代の思い出を懐かしんでいるのだった。
そんなわけで、私の東京は、二、三軒のバーとすし屋、焼き鳥屋、レストラン、それに一、二の公園と友人たちの家、あと時折のコンサートか絵の展覧会、それとテレビやラジオなどの仕事にかぎられているのだが……それはそれで、結構じゃないかと思う。そうとも、私の東京は小さいのだ。この巨大都市のなかのごくちっぽけな一部にすぎない。小さな、けれども輝きに満ちた――それが私の東京なのだ。
町――歩く場所
Machi
この夏、スペインはガリシア地方にあるパニョンという小さな町を散歩していたときのことだ。同行していた友人で彫刻家の池田宗弘が私に話しかけた。
「すてきじゃないかい?」と彼はいうのだった。
「ほら、奥さんと手をつないで歩いている、あの老人を見てよ。ここじゃ、夫婦や家族がみんないっしょに外を歩いているんだよね! 日本に帰って、何が物足りないかっていうと、これなんだよ。散歩できる場所がないってことがね」
たしかにそのとおりだ。日本の町は、自動車大王とばかばかしく高い地価に乗っとられて、にっちもさっちもいかなくなっているのだから。
私の住んでいる長野県の信濃町は人口一万二千人、このうえなく美しい自然の景観に恵まれているにもかかわらず、人々には歩く場所がないのである――少なくとも町中《まちなか》では。大通りではトラックが轟音《ごうおん》をあげて通りすぎ、ほかの通りでもひっきりなしに車が疾走していく。神社などに、昔の美しさや歴史の名残はわずかながら残されてはいるものの、それを除いたらこの町はいかにも醜く、しかもそのことに、もはやだれひとり気づきもせず、注意を払おうともしないようなのだ。町の中心部に、一ヵ所だけ大きく開けた空間があるが、ここはバスの駐車場に使われている。イギリスではどんな町にもある町中の公園や川べりの散歩道、立ち止まっておしゃべりのできるいくつもの場所、木々やパブの立ち並ぶあの通り――こういったものが、いまの私にはひどく懐かしい。スペインの町の広場《プラザ》が、なんとも恋しい。
かつて私が一年ほど住んでいた、ある日本の町は、いわゆる町の性格というものをもっていた。それは、むしろスペースが絶対的に不足しているという点から作り出された性格ともいえた。この町というのは古い捕鯨の町、和歌山県の太地《たいじ》である。人口およそ五千人の太地は、海と真っ向から向き合っており、その海辺の、昔、鯨捕りたちが鯨を解体していた場所に面して小さな神社が建っていた。道幅は極度に狭く、ほとんどが車も入れない道ばかりだった。太地には、カナダやブラジル、ハワイなどの移民帰りの人たちが多数暮らしており、そのせいでここの古い小さな家々は、ひどく派手な色彩が施されているのだった。ちょうど町全体が、日本のデザインと、イタリアの色彩を併せもっているようであった。
最近、悲しいことに、あの海辺の神社の真ん前に、大きな醜い建物が建てられた。神社に祭られている神様はもう、これまでのように海を遠く眺めては帰る船の無事を守ってやることもできなくなった。どこか別の場所に建てることはできなかったものだろうか。
ただ、この小さな町には博物館と水族館がある。残念ながら、図書館はない(いま、私の住んでいる信濃町は、小林一茶の生まれた町だが、ここにも図書館はないのだ!)。
太地はやや内向的な性格の町だ。ただ私は、この町の狭い通りを散歩したり、丘をぶらぶら上っては、あの捕鯨見張り台まで歩いていったり、あるいはまた、水族館の前から新しく造られた小道をたどって岩の多い海岸に至り、そこの小さな美しい入り江沿いに植物園のところまで歩くのが、とても好きだった。太地にはまた、本物の捕鯨キャッチャーボートが展示されており、だれでもなかに入ることができる。ガンデッキに登れば、自分もまた南氷洋船団の砲手になった気分になれる。そこは多くの砲手たちが巨大な鯨の背を目がけて銛《もり》撃ち銃の照準を合わせたところだ。
太地が性格をもった町だというのには、ふたつの大きな理由があると思う。ひとつは町の古い地域では特に道が狭く、車が入れないということだ。もうひとつは、鯨捕りたちの誇りとその経済力とであろう。
全体として、日本の町で魅力的なところはごく少ないし、私自身あまり日本の町が好きではない。ただし、大都会ともなれば話は別だ。好きな都会は札幌と博多である。ともに開放的でおおらかな生気にあふれ、しかも飲んだり食べたりするにも、魅力的な場所がいくらでもある。どんなに豪華なレストランに行くより、私には博多の「屋台」のほうが好ましい。
ただ、前にもいったように、歩く場所がないこと、これだけはつらい……私がわざわざ町中をはずれ、山の近くに住んでいるのもそのためなのである。
海の仲間たちよ!
Shipmates
高度一万メートルの上空からでさえ、眼下に散る雲の切れ目を通して海上を白波が走るのが見える。まるで白い馬が疾走でもしているかのようだ。下はきっと荒れているのだろう。昔、海軍にいた父のいいぐさを借りれば、船は「シビンのなかのくそのかたまり」みたいに揺れに揺れているに違いない。船体の長さは四十五メートル、バウスプリット(遣《や》りだし)などを含めると六十五・八メートルである。このサイズの船だと、大洋では相当激しく波の影響を受けることになる。大波は船の鼻先を持ち上げ、かと思うと今度はしりをねらってぐいと押し上げて、果てはへさきを水のなかに突っ込ませる。三本のマストやら、艤装《ぎそう》やらのせいで、その揺れはよけい勢いがつき、船はまるで飼い葉おけのエサをかっ込む豚のようにつんのめりながら波のなかを進んでいく。上がっては沈み、上がっては沈む。へさきの船首像は、トランペットを口にあてた半裸の女神像だが、それに向かって白波が突進しては砕け散る。それにしてもすてきなおっぱいだ。ビスケー湾で遭遇した嵐のため片腕とトランペットとを失ったとはいえ、この荒波にもよく耐えている。
波にもまれる船の動きは、まるで求愛中のケワタガモの雄のようだ。雌のカモに向かっておじぎをしているようだ。そういえば船乗り仲間でいうなぞなぞに、こんなのがあったっけ――「アヒルのしりの穴はどのくらい|締まって《タイト》いるか」答えはもちろん「ウォータータイト」――水が漏れて、アヒルがおぼれたらたいへんというわけだ。
飛行機の旅は速くて快適だったし、いまいったように、眼下に見る海はひどく荒れているようだったけれど、それでも私は仲間たちといっしょにあの船の上にいたかった。別に好きで船を降りたのではなかった。船長が命令したわけでもない。ましてトラブルを起こして追放されたのでもないのだ。とんでもない。私が台湾に置き去りにされたのは、日本の運輸省のくだらん規則のせいなのである。ここでちょっと大きな声でいわせてほしい――運輸省のくそばか野郎!
よほど密航者としてそのまま乗っていこうかとも思ったし、隠れるのにぴったりの場所だってちゃんとあった。それにいったん外洋に出れば、船は引き返すことはできないのだし。けれども、そんなことをしたら日浦船長にどんな迷惑がかかるだろう。友人として、シップメイトとして、私にはとてもできなかった。だいいち、日本の運輸省ときたら、ユーモアのセンスも、歴史のセンスも、これっぽっちももち合わせていないのだから。
そんなわけで、私はいま、飛行機のなかでビールを飲みながら、同じビールなのになんで、熱帯の夕暮れどきに、船の上で飲む冷たいビールの半分もおいしくないのだろうと考えているのだ。
幕末の激動のなかに生きた若者たちの目が
広い海の向こう側へと注がれはじめた
かつて「スンビン号」という名で呼ばれていた昔の「観光丸」は、水夫や軍人を含め、二百人以上もの人間を乗船させることができた。この船は沿岸警備船として、現在はインドネシアとなっている海域一帯に配属され、海賊の掃討に当たっていたのである。ここの海域では、現在でも海賊がのさばっている。当時、そこは「バタビア」と呼ばれ、オランダの植民支配下におかれていた。
二百六十八年だったか、とにかくそのぐらいの長い鎖国の間、日本との接触を許された唯一の紅毛南蛮人はオランダ人であった。この状況を変えたのがペリーの強力な黒船艦隊である。黒船の渡来は将軍の幕府を悩ませたばかりでなく、オランダ政府をも慌てさせた。それまで日本に対してもっていた力を失うのを恐れて、オランダ政府は盛んに幕府にごまをすりはじめた。スンビン号を贈ったのもその一環である。この船はインドネシアから長崎まで航行し、観光丸と名を改めて日本海軍初の練習船となった。船は三本マストの帆船で、石炭による一五〇馬力の蒸気機関を備え、二個の外輪を動かすようになっていた。ちょっとした向かい風が吹いても、船は前に進めなくなってしまったことだろう。
けれども当時は、海軍にとっても政治にとっても、そしてまた船舶そのものにとってもきわめて重大な時期であった。外輪というのは非能率的ではあったが、蒸気機関が船に使われた結果、船の運航技術は一八〇〇年以前には考えられもしなかったほどの進歩を遂げたのだ。ペリーも蒸気機関を船に使うことを盛んに主張したひとりであった。事実、彼の日本遠征の目的には、蒸気機関の威力のデモンストレーションも含まれていたのである。
かつてのスンビン号は日本で観光丸と改名され、勝海舟、榎本武揚、坂本竜馬といった若者たちを訓練する実践の場となった。この国の外には広い広い大洋があるという事実に、日本の侍たちの目を向け、そして心を開くという意味で、この船はまちがいなく大きな役割を果たした。不格好な木の樽《たる》が歴史を変えたわけである。だがいまではそのことを知っている人はほとんどいない。咸臨《かんりん》丸や戦艦|三笠《みかさ》のことは、みんな知っている。だが観光丸は記憶にないのだ。私にはこのことが不思議でならない。この船が幕府の船であって、皇軍の船ではなかったからか? どうもなぞである。
私の心を奪った観光丸
そしてすばらしいシップメイトたちよ
新しい観光丸はそれほど簡単には忘れられないはずだ。ご先祖の船と同じく、この船もまたオランダで建造された。これも歴史的な事件である。オランダが日本のために船を造ったのは、幕末以来百三十年の間で、今回が初めてのことだ。この船を見ていると、歴史をワープしているような気がする。たしかにこれは歴史を再生したものなのだ。どうしようもなく醜い船、帆とエンジンのやっかいな混ぜ合わせ、あばずれ、ピエロ……それでいて、同時にたとえようもなく美しく、いかついており、頑丈で、強引なまでに耐航性に富み……そう、私はこの船に恋をしてしまった。この一月、命名式に出かけたオランダで、初めて甲板に足を踏み入れた瞬間から、この船は私の心を奪ってしまったのである。
木造にすることを日本の運輸省が頑強に反対したため、この船は鋼鉄製である。けれども船体は巧みに木の外装が施されているため、見た感じはほとんどわからない。まあ、鋼鉄の船ならば、木造の船ほど船底汚水《ビルジ》も入らないですむというものだ。もうひとつ、新しい観光丸には石炭を燃やす蒸気機関はついていない。石炭を燃やすとなると船はどうしようもなく汚れてしまうし、それに燃料庫がすこぶるスペースをとるからである。新しい船は一対の三四〇馬力ディーゼル・エンジンを備えていて、これでふたつの外輪を動かすだけでなく、はるかに能率のよいスクリューをも動かしている。
実際のところ、この新しい船は前の船よりもずっと安全なのである。それなのに許される乗員がずっと少ないというのはどういうわけなのか。日本の法規では、十六人しか乗せられないというのである。とんでもなくばかげた話ではないか。だが、まあ、規則は規則というわけだ。こうして私は、役人なんてみんな地獄にでも行きやがれなどと、ちょっとばかり捨てばちな文句を吐きながら台湾で下船したのである。
それにしても、私はつくづく自分が運のいい男だと思ってしまう。観光丸のような船に恋ができ、しかもジャカルタから高雄《カオシユン》までのわずかな間でも、しばらくはこの船に乗せてもらい、すばらしいシップメイトといっしょに航海できたのだもの!
乗組員はオランダ人のクルーが七人と、日本人のクルーが五人とから構成されている。船長はオランダ人と日本人の各一名だ。あとはふたりのテレビスタッフに、世界中の海を航海して写真を撮り続けている海洋写真家の中村|庸夫《つねお》、それに私の旧友で冒険家の堀江謙一とが加わる。
オランダ人のボブ船長はタフでしなやかで、人なつこい笑顔の船乗りだった。気持ちのよい深い声で話し、きつい手巻きタバコの煙をしょっちゅう立てていた。タバコだけじゃなく、ホウレンソウもずいぶんたくさん食べているんだと思う。オランダにいるときは、彼は家族といっしょに帆船のなかで暮らしている。海上ではこのうえなく有能で、いかにもくつろいでいるくせに、いったん陸の上の堅苦しいレセプションか何かに出ると、とたんに居心地が悪そうになる。奥さんは美しい人で、料理の名人でもある。彼女もまたコックとして観光丸に乗り込み、どんな荒天のときでもいつもおいしくて栄養のあるオランダ料理やインドネシア料理を作ってくれた。日本人のクルーのためには、ごはんやみそ汁といったものまで用意してくれたものだ。
オープンなオランダ人と内向的な日本人
たがいに多くのことを学び合った
船長の息子のデニスもこの船に乗っていた。初めは非公式の乗員だったけれども、結局この若者は一人前の水夫そこのけの働きをしたのだった。年は十八歳、商船学校の学生で、オランダから日本までのこの航海のために、三ヵ月間学校を休学して参加したのである。ハンサムで、背が高く、日焼けして、勤勉で、りっぱな船乗りである。日本にしばらくいたら、女の子たちが夢中になってアタックしてくること請け合いだ。あるとき、私が見るともなく見ていると、彼は中村さんに片手でもやい結びを作る方法を教えてやっていたが、そのあと、操舵《そうだ》室での当直までまだ時間があると知ると、気軽に立ち上がって船のトイレ掃除をやりにいったものだ。見ていても気持ちよいほど、屈託なく陽気にやってのけるのである。じつにいい若者だった。
父親に、息子にこんなに長いこと学校を休ませて問題はないのかと聞くと、船長はいつものように快活に答えたものだ。
「とんでもない。校長に会いには行ったがね。やっこさん、ぼくの古い船乗り仲間なんだよ。校長室で三時間しゃべったんだが、そのうちこのドラ息子の話はたったの一分さ」
彼は息子のほうにうなずいて見せ、息子はニヤッと笑い返した。
「連れてけよ、いいことだ、ってなもんだ。たしかにそのとおりさ」
私もそう思う――まったくそのとおりだと。それにしても、もしこれが日本の学校だったら、いったい何人の校長が同意するだろう? というか、学校の規則で同意を許してもらえるだろうか? この航海で、デニスは船舶や航海に関する技術を磨いたばかりではなく、日本人の船長やクルーから日本語を一生懸命学ぼうとしていた。ローマ字をノートに書き留め、ひらがなを習い、日本語のあいさつを覚えては、うれしそうにそれを口に出すのだった。
船上での彼の相棒は、金髪の大男でパイエット・アーソンという名前の二等航海士だった。背丈は二メートルもあり、たくましい体をして、すこぶる強かった。彼が人なつこくて助かった! この男についてのエピソードを、あるときチーフ・エンジニアが話してくれた。いつだったか、仲間どうしでバーに飲みに出かけたときのこと、バーにいた小生意気な野郎が、パイエットの友達である小柄な男をからかいはじめたのだそうだ。
「バン!≠トなもんだったぜ。あっという間に、その生意気な野郎は床の上にのびていたんだ。パイエットのやつ、ひと言もいわずに、たったの一発殴っただけなんだ」
ふむ。私はパイエットに向かって、「万が一、私を殴りたくなったら、事前に必ずそういってくれよ、こっちは急いで寝に行っちまうから」と頼んだものだ。彼はそうすると約束してくれ、私たちは堅い握手を交わした。
デニスと大男のパイエットとは、いつもボクシングのスパーリングとかレスリングとかをやっていたが、たいていは若いデニスのほうの旗色が悪くなっていた。
日本人とは違って、オランダ人のほうは、親しみをおおっぴらに表す。傍観者として興味深く観察していると、日本人のほうも何ヵ月かの船の暮らしでどんどんオープンになっていくのに気がついた。オランダ人もまた、日本人のシップメイトたちから、言葉に表さないコミュニケーションとか、内省的な態度について、学ぶことが多かったはずである。小さな船のなかに閉じ込められて過ごす、長い、ゆっくりした海の旅だったが、みんなが仲よくやってこられたのも、たぶん両者の間のこの違いのせいだったかもしれない。
こうしたことや、ほかにもたくさんの事柄を学んで、デニスは学校に戻っていくはずだ。すでに少年ではなく、自信にあふれた若者として。彼は死ぬまで、観光丸と、そのシップメイトのことを忘れないだろう。
海上でタイムスリップ?
スイスのタンカーでは大さわぎ!
それで、海はどうだったかって? 旅はどうだったかって? そう、何を書いたらいいだろう。へさきのところで遊んでいたイルカのことでも書こうか。右舷《うげん》の向こうで潮を吹いていた鯨のことでも? それとも船が海賊に襲われるのではないかと心配だったことでも書いてみようか(私の心配に対してボブ船長は、攻撃に対してはこれしかないと断言した――空きビンにガソリンを入れ、砂糖と、導火線代わりにボロ切れを詰めたものを、二、三本用意するか、それとも、パイエットに頼んでその生意気な連中を一丁片づけさせるか、のどちらかだと)。
私のいた間、大半は晴天で、平穏な航海が続いたが、最後の二日間は相当強い向かい風に見舞われた。船にはツバメや羽に二本の帯模様のある競技用ハト、グンカンドリ、カツオドリ、それに豪華な金色の冠毛のあるアカショウビンなどがつぎつぎと訪れた……そのとき船は、陸からなんと三〇〇マイルも離れていたのである。
ベトナムの沖合では灰色をした大型のソ連の高速スパイ船が、スピードをゆるめて近寄ってくると、汽笛の合図もなく、まして手を振るなどのあいさつもなしに、傍若無人にそのケツの穴を見せて私たちの船のへさきを突っ切っていった。昔のスンビン号に備えてあった大砲のひとつでもあったらなあ、と私はつくづく思ったものである。
ばかばかしいといわれそうだが、そのとき私の胸には一九六六年の同じ記憶がよみがえったのである。
カナダのニューファウンドランド沖合、そのころはまだ十二海里だった領海のすぐ外側で漁をしていた日本のキャッチャーボートに、私も乗り合わせていたときのことだ。外見はごっついトロール船のように見せているものの、アンテナをハリネズミのように林立させたソ連船が一隻、ものすごいスピードで近づいてくると、あいさつもなく船の周りを三回旋回して行ってしまったのだ。
そのころの私はいまよりも若くてワイルドだったから、日本人の船長にどうか私に九〇ミリ砲を使わせてくれ、そして砲弾つきの銛《もり》(だが銛綱はついていないやつ)を一発、あのソ連船のおしりめがけてぶち込ませてほしいと頼んだものだ。もちろん船長はそんなことをやらせてはくれなかった。もし、そうなっていたら、カナダは第三次世界大戦を始めていただろう。
それにしてもソ連のスパイ船というのは実際、傍若無人で、生意気で、どうしようもないやからである。
今回の航海で、それと完全に対照をなしていたのが、スイスのタンカーだった(そう、珍しいでしょう……これには、私もびっくりした)。そのタンカーは私たちの船にさっと近寄って横に並ぶと、手を振り、写真を撮り、無線で話しかけ、もうたいへんな興奮ぶりだった。たしかに私たちの船は異様ではあった。二十世紀の航路に十九世紀の船が走っているのだから。
なんてすてきなあばずれなんだろう!
だれもがきっと恋するに違いない
今度の航海に関しては、もちろんたくさんの思い出や話があるけれども、観光丸のことを思うとき、まずいちばんに心に浮かぶのは、船の上で仲間たちとおしゃべりや冗談をいって過ごした長い時間と、それからもうひとつ、夕食前の氷のように冷えた|ジェネバ《オランダ・ジン》とビールである。
ボブ船長から私に課せられた仕事のひとつは、彼らオランダ人が聞いたことのないジョークを毎日必ずひとつずつ話して聞かせることであった。ジョークか、エロ歌か。そして私はちゃんと義務を果たした。
けれども、今度の航海の間、最高に受けたジョークのひとつは、船長が自分でいったものだった。
そのときの話題は入れ墨の話だった。私の父は海軍に入った十六歳のときに、腕にイカリの入れ墨を彫っていたことを話し、日本人たちはヤクザと、そのみごとな入れ墨のことを話した。私はエチオピアの美人が彫っている手や首の入れ墨の話もした。そのとき、ボブ船長が自分にも入れ墨があるといい出した。
「どこに?」
「おしりだよ。クマの入れ墨なんだ」
私たちは驚いて彼を見た。彼は続けた。
「前に一度、ある男がその入れ墨を見せろというんでね、ズボンを脱いでやったんだ。そしたらクマなんか見えないっていいやがるんだ。だからいってやったね。そりゃ、見えっこないさ、冬なんだから。クマは冬眠して穴のなかに入っちまったのさってね」
一同が笑い転げている最中、私がつけ加えた。
「そいつが信用しなかったら、クマのいびきを聞かしてやりゃいいじゃないか。耳をつけさせて、そこんとこにどんと一発おならをぶちかましてやるのさ」
ボブ船長はさっそく私にビールを一本おごってくれた。
けれども私たちは冗談ばかりいっていたわけではなかった。私たちは人生について、海について、歴史について語り合った。この船が元の観光丸同様、若い日本人たちを教える学校になるためには、運輸省の法規類にどう対処したらいいかについてもまじめに知恵を絞った。学校の名はすでに決まっている。「大航海塾」というのである。いささか壮大すぎるかもしれないが、けれどもこの船の建造計画だって、日本への航海だって、やはり壮大な夢から始まったのではなかったか。
日本は島国であり、食料にしろ燃料にしろ、その必需物資のほとんどは海に依存していた。にもかかわらず、悲しいかな、この国の海洋文化はいま、急速に失われつつあるのだ。海を知っているのは、職業として航海に携わっている人たちと、堀江謙一のようなひと握りの本格的なヨットマンたちだけになってしまった。国民の大部分にとって、海のイメージは単なる遊び場である。もちろん、海と遊びたわむれることはすてきなことだ――自分たちのしていることがわかっている場合には。
けれども海はけっしてそれだけではないはずだ。地球という私たちの星は海で囲まれているし、その海はたがいにひとつにつながっている。ジェット機で世界中を飛び回っていれば、この事実についても、そして大洋の広大さについても、つい忘れがちになってしまう。そのジェット機に、私も乗って台湾から帰ってきたのだが……。
この原稿を書いている間も、私の心は観光丸の船上にある。たったいま、電話で連絡が入り、観光丸が沖縄の沖でひどい嵐にあい、長崎到着が遅れることを知った。船の仲間たちはどうしているだろう。ほんとうに心配だ。ここは東京のホテルの一室である。窓の下は満開の桜が美しい。けれども、こうしてくつろいでいても、心は慰められない。私もまた、彼らといっしょに大波にもまれ、うねりに揺れる船の上にいたかったと思う。いまごろ、日浦船長は無言のまま心を痛め、ボブ船長は陽気に毒づいていることだろう。けれども大丈夫、あれはりっぱな船だもの。一度でもあの船に乗ったことのある人なら、だれだってそう思うはずだ。まったく、なんて美しいあばずれなんだろう!
勝海舟や榎本武揚をはじめ、多くの若者たちがかつてそうだったように、私もまたこの船に恋い焦がれてしまっている。あなた方だってきっとそうだ――血のなかにまだ少しでも若さと生気が残っている人ならね。
ではよい航海を、私のシップメイトたちよ!
私の人生と空手
My Life and Karate
私は山のなかに暮らしている。森や林の木々が葉をすっかり落とす冬の間、私の書斎の窓からは、山々の美しい姿が一望のもとに見わたせる。机に座れば正面の大きな窓からは飯綱《いいづな》山が見えるし、右の肩ごしには別の窓から黒姫山の姿が望める。けれども夏になって、木々の葉が濃く茂ってくると、山々は姿を隠してしまう。家の近く、それこそ石を投げれば届くほどの距離には、鳥居川が音をたてて流れている。ここはほんとうに美しいところだ。つくづく、私は自分が幸せ者だと感じる。
私の仕事部屋は、母屋から小道を百メートルほど行ったところにある別棟の建物にあり、二階が書斎になっている。壁は木で、書棚が天井から床までぎっちり並んでいる大きな部屋だ。その真下の部屋が、私専用の小さな居間兼バーである。私はここでひとりくつろいだり、編集者と会ったり、インタビューやそのほか仕事関係の人と会う。この部屋に置いた大きな鉄製のデンマーク製|薪《まき》ストーブは、火口が前についているから、炎の色を眺めながらくつろぐことができるわけである。
こうした仕事用のスペースよりも面積をずっと広くとってあるのが、隣の大きな部屋である。天井は高く、床は木張りにしてある。ここは私の道場だ。もちろん私は空手を教えているわけではない。弟子もとってはいないし、またとる気もない。四十七歳にして一応作家として名をなし、日本でもっとも美しい土地にひっそりと暮らすこの私にとって、この道場で自分のけいこ着に着替え、すり減って色のさめた黒帯を中年太りの腹に結び、ひとりけいこに励む時間がどうしても必要なのである。
空手というものが私の人生の欠くべからざる一部となってから、すでに四半世紀もの歳月が流れた。私はけっして上手ではないし、動きが敏速なわけでもない。型は忘れるし、いつも、そう、いつだって相手と組み合ってしまう。けれども、私にとってはそれが大事なのだ。私には闘いが必要なのだから。
私が初めて日本の土を踏んだのは一九六二年の十月であった。目的は武道の習得である。当時のイギリスには、資格のある空手教師はいなかったから、そのころ空手というものについて私のもっていた知識はすべて本を読んで得たものだった。十四歳の年からずっと柔道とレスリングは続けていたが、空手についてはその必殺の一撃がいかに強力かということ以外、実際のところは何もわかっていなかったのである。
空手は動く禅である――けいこに汗を流し
すっきりした気分でタイプに向かう
私のなかには半分ケルトの血が流れている。ひどく感情的で、カッとなりやすいのもこのためだ。あとの半分はノルマン・バイキングの血である……論理的で計算高いところのある民族だ。日本に来て、これから生涯学ぶことになる空手の流派を選ぶに際して、私はこのふたつの性格を十分に発揮することにした。
結局、私は松濤館流の日本空手協会を選び、四谷の古い道場でけいこを始めた。ほかの流派もいくつか見学し、そのどれにも感銘を受けた。とくに和道流、剛柔流、それに極真会などはすばらしいと思ったし、それぞれの特長や性格はひどく私の心をとらえるものがあった。しかし、松濤館流のもつ、あのどちらかというと直線的な性格、正確ですっきりした、しかも深い構えをとった動きが、心の琴線に触れたのだった。日本に来てほんの二、三ヵ月のころだったろうか。
ただ、正直なところ、最初のうち、ほんとうにおもしろいと思ったのは、巻藁《まきわら》を突くけいこだけだった。せめて緑帯ぐらいの力があったのなら、もっと楽しめただろうが、まったくの初心者だった私には、例の「イチ! ニ! サン! シ! ゴ! ロク!」と単純な動作をくり返すだけのけいこは、あまりおもしろくはなかった。昔、私が通っていたイングランドのひどく保守的な学校での行進とライフルの演習を、どうにも思い出してしまうのである(私はウェールズで生まれたが、教育はイングランドで受けた)。それでも少しずつ、ごくわずかながら、上達していった。一九六四年、初段をとるころになると、型のけいこは私のいちばん好きなものになっていた。
かつて高木正朝先生が、私にこんなことをいわれたことがある――「空手は動く禅である」と。けれども、この言葉の真の意味を理解できたのは、私が日本を去るほんの数ヵ月前のことだった。黒帯の資格をとるために、集中的にけいこに励んでいたあの時期である。それは別に、空手のルーツ――哲学的ルーツ――を禅になぞらえたということではないのだ。先生がいいたかったことはただ、空手のけいこそのものを通じて、禅の瞑想によって得られる無心の境地と同じ心の状態に達しうるということなのであった。
このことは、いまの私にとってきわめて重要な意味をもっている。健康増進のための運動とは別に、私は黒姫にいる間はほとんど毎日空手のけいこをしているが、そうすることによって私の頭のなかのクモの巣がとり払われるのである。すっきりした私は、ふたたびあの恐るべき白いタイプ用紙の前に座り、プロの作家であることに伴う毎日の精神的な「組み手」にとり組めるというわけだ。
エチオピアで命を救ってくれたのは
ライフルではなく空手だった!
私にとって空手というのは、いつだってほかならぬ「自分」のためにやってきたものなのである。空手でお金をもうけようという気持ちもなかったし、またその必要もなかった。カナダのマニトバ大学で空手を教えたことがあったが、それも自分の暇な時間にただで教えていたのである。
けれども空手によって生命を救われたことはある。仕事のうえのことだ。二年間、私はエチオピアのシミアン高原国立公園で、公園長の職についていた。私がボスで、その下に助手がひとり、それに二十人のエチオピア人のレンジャーがいた。山の全域から追いはぎや密猟者を一掃すべく、彼らといっしょに全力を尽くして闘った。その二年間で、私が直接に手を下した逮捕者は二百人を超えた。その大部分は武装していたが、それでも私は一度として銃を突きつけたことはなかった。敵はナイフで、鎌で、おので、そしてこん棒で私にかかってきた。ライフルを突きつけられ、撃つぞと脅されたことも何回かあった。こうした状況のなかで、空手から学んだことが大きく役立ったのである。空手が私に教えてくれたのは愚かしい蛮勇のようなものではなく、一種の受容の姿勢――危険な状況を落ち着いて受け入れ、恐れることなく行動に出るための姿勢――なのであった。私の仕事はもちろん密猟者を逮捕することであった。その仕事ができないのならば、武装した部下たちに命令する権利もなければ、だいいち、そこにいる権利もないわけだ。私は自分の仕事をした。そして道場で、自分よりもはるかに強い空手家の攻撃を受け入れるのと同じように、喜んで弾丸をも受け入れようとしたのである。
自慢しているなどと思わないでほしい。若い空手家にとって、人生におけるこの種の受容の姿勢を目ざすことはたいせつなのだ。受容については積極的であってほしい。けれどもそれはやたらに従順であることとは違うのだ。エチオピアで、目をぎらぎら燃やし、怒りの叫びを上げてかかってくる男たちとの対決は、私にとっては死を、そして彼らにとっては絞首台のロープをかけたものなのだった。私は落ち着いて危険に直面し、しなくてはならないときには反撃に出た。
ただ一度だけ、いまでも後悔していることがある。ある晩、現地の町でふたりの男に鉄を装着したこん棒で殴りかかられ、その結果、ひとりを殺し、ひとりに重傷を負わせたのである。そのとき私は酒を少し飲んでいたし、暗闇で待ち伏せされていたこともあって、首のうしろでこん棒が風を切るのを感じるまで、攻撃に気づかなかった。私はブーツを履いていた足で、相手の肋骨の下の部分に回し蹴りを命中させ、とどめをさしたのだった。結局は、私の空手が未熟であったため、相手の攻撃をかわし、その攻撃能力を失わせるだけにとどめておくことができなかったのである。彼らは密猟団の一味で、私を殺しに来た男たちであった。
それ以来、私は組み手よりも型のほうをはるかに好むようになった。もちろんこのふたつがたがいに密接につながっていることは承知しているのだけれども。
言葉もまた人を傷つける
すべては自分自身との闘いだ
もうひとつ、私にとって空手がたいせつなのは、それが「蒸気を抜いて」くれるからである。これまでの人生で、私は常に環境問題にかかわってきた。ただ、これが肉体的な闘いを意味したのはエチオピアでの二年間だけである。カナダでも、またここ日本でも、それは常に調査と情報収集と、そして言葉の闘いであった。だが言葉もやはり人を傷つける。私もまたしばしば傷つけられるのだが、そんなとき、私は無性に暴れたくなるのだ。怒りが心のなかで膨れ上がり、私はだれかに向かって突進しないではいられないような、子供じみた衝動にかられる。この衝動を抑えるには、空手がじつに有効なのである。道場で一時間ほど汗を流したあとは、自分がただの中年の作家兼ナチュラリストであって、スーパーマンでもキングコングでもないことに気がつくのである。
最後に、武道のけいこを通じて得た仲間たちの存在がある。世界中に散らばる仲間たちだ。男(あるいは女)が互いに道場で闘って汗を流し、その対決のなかで相手の魂の奥深くまで踏み入った場合、その相手のことは一生忘れないものだ。だからこそ、私はあえて若い元気な諸君にいいたいのだ――負けることもあるだろう、だがけっして恥じるなよ! と。
これまで私は一度もプロの空手家になったこともないし、ほんとうにあまり上手でもない。だがふだんから常に空手をけいこしつづけてきたことで、私の人生はいっそうゆるぎないものに、そしていっそう豊かなものとなった。人生の終わる日まで、そうありたいと願っている。
結局はすべて自分との闘いなわけである。ひとりのやさしい人間となるための……。
病めるドキュメンタリー番組
――テレビで見たんだもの、ほんとうのはずさ……?
Doctoring Documentaries――it must be true,
I saw it on television…?
私は以前、あるテレビ局の正月の二時間「スペシャル」番組のレポーターのひとりとして、その一部に出演したことがある。全国ネットで流されたこのフィルムは、北海道の洞爺《とうや》湖に浮かぶ四つの島で撮影された。この島々に導入されたエゾシカが、いまや大群となって生息しており、私はそれをレポートしたのである。
いろいろな理由から、私はこの仕事に強い興味を覚えた。ひとつにはいまを去る二十七年前、イギリス南西部の海岸沿いのランディ島で半年ほど自然保護官の助手をしていたことがあったが、そこでもやはり日本からもち込まれたシカが七十頭ほど生息していたからであった。ランディ島のシカは、数が増えすぎて樹木に被害が出ないよう、全体で七十頭以下に抑えられていた。増えすぎたシカは殺され、その肉は島のホテルで売られ、あるいは料理に出されるなどしていたが、まことに結構な味だったのを覚えている。
テレビの制作会社が黒姫を訪れ、洞爺湖の島々に棲《す》むシカのことを聞かされたとき、私は直観的に、どうしても科学的な|選り分け《カリング》(淘汰)が必要だと感じた。そしてそのことがひどく興味をそそったのである。
札幌で開かれたセミナーでいくつか話をしてから、私は現地に向かった。番組のスタッフ全員と会い、シナリオを見せられたのはこのときである。この時点で初めて、番組のこのセクションをレポートする人間が私ひとりではないことを知った。若くて美しい歌手兼女優の娘さんと組んでレポートするわけなのだ。相手はとても魅力的で、頭もよい女性だったけれど、しかしもし最初からこのことがわかっていたら、私は断っていただろう。過去に何度も、こうした物知りの男と美しい女性の組み合わせでレポートした番組を見てきたけれど、それらはみな例外なく薄っぺらなドキュメンタリーだったからである。
この最初の打ち合わせで、私たちはシナリオを渡された。ざっと目を通した私は、そのなかで、この私がシカの泳ぐところを見て、息も止まらんばかりに驚き、大声で叫ぶというシーンがあるのに気がついた。交配のシーズンが終わると、若い雄ジカのなかには、大きな島に雌ジカと子ジカを残したまま、近くの小さい島々に泳いで渡っていくものがいるのである。小さな島のほうが食糧となる植物をめぐるシカどうしの競争がより少ないからであろう。
「こんなことはいえませんよ、ばかばかしくて。シカが泳ぐのはあたりまえでしょう。|ムース《ヘラジカ》や|カリブー《トナカイ》だって泳ぎますよ! カモシカだって、馬だってね」
プロデューサーとディレクターは困ったような顔をした。私に対して脅しめいたことをいったりもしたが、相手にしなかった。いまさら辞めろといっても遅すぎる。
私たちは島々に渡り、そこで草食動物が増えすぎたことから起こる慢性的な自然破壊のあとを見た。かつて二年間を過ごしたエチオピアでの経験以来、これは最悪の例のひとつだった。地上に生えている食べられる草という草は残らず食べ尽くされていた。そればかりか落葉樹の樹皮までがはがされてシカのえさとなり、枯死の原因になっていた。
「ここにあなた方のドラマがありますよ」と私はいい、カメラに向かってシカの生態をはじめ、限界を超えたその生息数、考えられる解決の方法などについて説明した。シナリオでは、発情が終わるとすべての雄ジカは大きな島に雌ジカと子ジカを残して、小さな島々に泳ぎ渡るという筋書きになっていた。やがて雄ジカに性衝動が起きると、また泳ぎ帰るというのである。なんともばかばかしいでっちあげだ。これがナンセンスだということは、大きな島で雄ジカの頭から落ちた枝角を見つけたことからも証明がつく。雄ジカの枝角が落ちるのは、繁殖期が終わってからあとのことなのである。
この撮影の間、私は自分なりにかなりうまくレポートをやってのけたと思っていた。いろいろな事実をあげ、シカの生息数が増えすぎたことから生じるドラマと、そのジレンマを説明できたことに、自分でも満足であった。
島を立ち去る前、ディレクターは私を湖岸に立たせ、小さな島々を指さしてその名をあげているところをビデオに収めた。
番組が放送されたとき、私は自分の話したシカの生態に関係ある部分はすべてカットされていることを知った。シカの生息数が増えすぎたことから来る絶望的なジレンマは完全に無視され、当初のくだらないシナリオに戻って、私のいおうとしなかったことはすべてナレーターを使っていわせているのだった。私が湖岸に立って指さしながら、小さな島々の名をいっているシーンは、シカが水面から出て来る場面に組み合わされていた。連中はこれをでっちあげるのにフェリーの発着所近くの芝生周辺にうろついている人慣れしたシカをまず湖に追い込み、そのシカが水から上がってくる場面を作り出して撮影したのであった。
私は激怒した。そしてマネージャーを通じて、このテレビ会社に対し、今後いっさい接触はお断わりする旨を通告したのである。
以前のドキュメンタリーはさんざんだった
今度は念押ししたから大丈夫だろう!?
そんなわけで先日、ザイールを取材して別の「スペシャル」番組を作らないかという話がもち込まれたときはひどく慎重にならざるをえなかった。実際のところ、私はザイールに行きたくてたまらなかった。ことに友人のマイケル・スタンレーがスチールカメラマンとしてビデオ隊の一行に加わるとなれば、その思いはいっそう強かった。
「オーケー、でもやらせ≠ヘ絶対いやですよ。でっちあげのドラマも、写真もね。それと、あの『われわれスタッフ一行は……』といった式の、大げさなセリフもいっさいなしということならね」と念を押した。
この番組は夜のゴールデンアワーに放送される予定のもので、私はこれまでこの局がこの時間に放送していたどうしようもないインチキ番組をさんざん見ていたからである。
プロデューサーは背の高い、当たりのやわらかな、教養のある男で、いかにも誠実このうえなしといった人柄に思われた。彼は英語をじつに巧みに話したし、私の日本語のほうも、大学などで講演を頼まれるほどのものだったから、ふたりの間にコミュニケーションの障害は全然なかった。じっくり話し合った末、番組のなかからくだらない、ばかげたものはいっさい締め出すことにしようと意見が一致したのである。
ザイールに着いてから、マイケルと私は用意されているシナリオがあまりにもニーラゴンゴ火山にのみ比重を置きすぎていることに気がついた。この火山はいまにも爆発しかねないという予告がされているものの、いつもは静まりかえっているのである。このすばらしい国で一ヵ月取材するのだから、シナリオに描かれているよりもはるかにみごとな番組が作れるはずだと、私たちは考えた。このシナリオを作ったのは、ニーラゴンゴの火山はもとより、アフリカにも一度も足を踏み入れていない人々なのである。
私たち一行の最初の仕事は、マウンテンゴリラの撮影だった。ヨーロッパ、アメリカ、そしてアフリカから集まった生物学者やレンジャーたち、少人数のグループがたゆまぬ努力を続けた末、ようやく人間の存在に慣れさせることに成功したゴリラのグループである。ビデオに収められたゴリラの群れのリーダーはマルセル≠ニいう名の|銀色の背《シルバーバツク》をもつ雄の成獣であった。マルセルの支配下にあるグループは、十四頭の雌と若者、それに子どもたちからなっている。
だれでも、申し込みをしてガイドといっしょに出かけさえすれば、私たちと同じ経験が味わえる。担当の生物学者が見物人を六人までにしぼり、マルセルの近くまで連れていってくれる。ほんとうにごく近くなのだ。ゴリラは胸を両手でたたいたり、恐ろしいうなり声を上げたり、あるいは威嚇《いかく》して突っかかってきたりするだろう。それでもガイドの指示に従い、こちらが逃げたりしなければ、ゴリラは突進するのをやめ、熱心な目つきでこちらを眺めはじめる。服をクンクンかいだり、つまんだりするかもしれない。そしてゆっくりと何事もなかったかのように歩み去るのだ。何ひとつ危ないことはない。もちろん、マルセルが許してくれる以上には進めないし、もしゴリラのほうで人間の存在がうるさくなれば、立ち去ってしまうだろう。
ごくごくまれに、ゴリラでも暴力をふるうことがある。動物園に売るためにゴリラの子を生け捕りに来る密猟者が相手のときなどだ。そして、子を守ろうと立ち上がったシルバーバックは悲しいことに結局は密猟者の銃に撃たれてしまうのだ。しかし、ガイドに率いられた観光客にとっては、危険なことは何もないのである。
ピグミーたちとの魔法の夜が台なしだ
またもや安っぽいやらせじゃないか
つぎの撮影地はイトゥーリの森であった。ラッキーなことに、優秀なコーディネーターのおかげで、私たちはこの森で自然そのものの生活を送っているピグミーの一団と接触することができた。マイケルも私も大喜びだった。ふたりとも、このまま予定どおり、一ヵ月の撮影スケジュールを続けるより、もっと森の奥に入って、彼らとしばらく暮らしてみたいと話し合ったものだ。
だがすでに私たちふたりと、ビデオの一行、プロデューサーやディレクターたちとの間には亀裂が生じていたのである。ピグミーと出会ってから二日間、撮影に取材にすばらしい時を過ごしたあとで、私はピグミーの人たちにこちらでごちそうしたいと考え、そのことをマイケルとプロデューサーに話してみた。私がヤギを一頭買い、屠殺《とさつ》から料理まで全部自分でやって、みんなにふるまってやりたいのだといった。
「ぼくがもう一頭買うよ」とマイケルが即座に応じた。
「会社も一頭買いますよ」とプロデューサーがいう。
「あと鶏が一ダースほどいるよ」と私がつけ加えた。
宴会を開くのは、一日分の撮影が終わったあとの時間にしようと、私たちは話し合った。日中は宴会の準備など、カメラで写しまくってよい、けれども一日の終わりには、カメラはしまい、私たち外部の人間と森に住む小さな人々とがいっしょになって特別な時を過ごせるような、そんな夜にしようじゃないかというのが私の気持ちだった。私はこの点を強調し、三人で約束の握手を交わして別れた。そう、撮影はいっさいなしだ。
問題の夜が来た。撮影なしの話はディレクターやスタッフたちにもくり返してある。日が落ち、ヤギが焼きぐしの上でジュウジュウと音を立てはじめたころ、ピグミーの村の全員が集まってきて、ぐるりと地べたに座り込んだ。マイケルは約束どおりカメラを片づけてから、私の傍らに腰を下ろした。昔、私はイヌイットと暮らしていたし、エチオピアの山の男たちともカナダインディアンたちとも生活した経験があったから、まず静かに座って、ことを始めるのを待つというこのやり方は心得たものだった。
「これから私の故郷の狩りの歌をうたいます」
通訳を通して私がこういうと、ピグミーの人たちの間からいっせいに拍手が起こった。私はそれを聞きながら、これから歌と物語に満ちた魔法の夜が、いままさに始まろうとしているのだと感じた。
そのとき、突然ライトの洪水が一同の頭上に浴びせられた。
「マイケル、そこどいてよ、邪魔だから」
プロデューサーが叫んだ。私たち三人の約束を、彼は平然と踏みにじったのである。
このとき、その場でけんかになるのではないかと思った。マイケルがひどく怒っていたからである。不快な気持ちで私は立ち上がり、その場を離れて光の外へ出ていった。
彼らを激しくののしりながらも、やり場のない怒りを抱いたまま、私たちふたりは片隅に座って、目の前でディレクターが火の周りからピグミーたちを立たせ、輪を作って単調なダンスを踊らせているのを見守っていた。なんたるいかさま……私は吐き出すようにつぶやいた……またもや安っぽいやらせじゃないか!
そのあと小屋に戻ってから、マイケルと私はプロデューサーとディレクター、それにカメラマンに向かって、自分たちが彼らのことをどう思っているかをはっきりいった。ふたりとも、その場で番組を降りることを考えたほどであった。彼らは約束を破り、魔法の夜を台なしにしたのである。しかも、日本人のスタッフのうち、だれひとりとして、あれほどうまいヤギのロースト肉をひと切れも食べようとしなかったのだ。
森の住人はおとなしく、陽気で幸せな人たちだった。彼らの生活のなかに、私は心を奪われるようなすばらしいものをいくつも見、そして聞いた。私を感動させたもののひとつに、ドライブハント(駆り立て猟。犬などを使って獲物を空き地に駆り立てて猟をするやり方)をする前にピグミーたちが行った儀式がある。
この猟を撮影すべく、私たちはピグミーの一団について、森のはずれまで歩いていった。ここから猟を始めるのだ。
年寄りたちが小さなたき火をおこし、香り高い香草をその上に置いた。草が燃え、薄青い煙が立ちのぼる。大寺院を思わせるような静まりかえった森の緑のなかを、その煙はたゆたいながら、陽《ひ》の光を透かしつつ流れていく。日本人が正月、神社や寺の前で線香の煙を体につけるように、ピグミーたちも祈りの言葉をつぶやきながら、その青い煙を体に吹きよせるのだった。私は彼らといっしょにたき火の周りに座っていた。彼らがたき火のおきのなかから灰をひとつまみとり、つばと混ぜて額に印をつけるのを見て、同じように真似をした。これはインディアンやネパールの人たちのなかにある風習と同じである。
これが狩りの儀式なのだと、前もって私がディレクターやカメラマンに話しておいたのにもかかわらず、彼らはまったく興味を示さなかった。そう、たしかにこの儀式は見たところ少しもドラマチックではない。荒々しい叫びもなければ、踊りがあるわけでもない。女たちの揺れる乳房もないのだから……。
狩りはうまくいかなかった。ビデオの機材を抱えた男たちが、目の前で何が行われているのか意味がまったくつかめないまま、狩りの進行についていけずに、「ちょっと待って、ちょっと待って」と連発して走り回っていたからである。狩りは全員が参加するドライブハントではあったけれど、しまいに女や老人はあきらめてしまったらしく、そこらでキノコなどを摘みはじめた。
まもなく村のチーフであるノフェが立ち止まって私たちを呼びとめ、からかうような口調で笑いながら、「あんたたちといっしょじゃなんにも獲物は捕れないよ」といった。あたりまえだった。
だが獲物はいるのだった。四頭の、ディクディク(|小形のレイヨウ《アンテロープ》)か、これに似た小さなガゼルを、この目で見たし、木々の高いところでは、サルたちが枝のてっぺんからてっぺんへと飛び移っては逃げていく姿が見えた。
それにしても、自分自身ハンターであり、十一歳のときから狩りをしているこの私には、ノフェのいうことはよくわかった。森や林に詳しいスチールカメラマンでも、ひとりそばにいるだけで狩りなんてできなくなるものなのだ。まして、都会育ちの大勢のテレビスタッフたちにまとわりつかれては……。
どこの国に国歌に敬意を払わない
人間がいるだろうか?
私たちは旅を続けた。
やがて一行は、流れの冷たいセムリキ川を眼下に見下ろす、美しい場所にキャンプをはった。この澄み切った川辺に私たちはたくさんのカバや水鳥の群れを見ることができた。まさにここはアフリカの楽園であった。
これまで何度もいってきたように、今度もまた私は、このドキュメンタリーにはアフリカやアフリカ人についての小さな、けれどもやさしく、美しい事柄をも含めるべきだと強く主張した。そしてこのとき日本人スタッフは私の意見に賛成したのである。
私たちは鳥を撮影し、美しい昆虫を撮った。アフリカの子供たちが川のそばでうたったり、踊ったりして遊んでいるところもカメラに収めた。一行がおいしい食事と冷えたビールを楽しんだロッジの中庭では、何百羽というハタオリドリの群れが撮影できた。全体的に見て、私は自分たちが取材できたものについて満足であった。やさしいゴリラたち、笑い好きで陽気な森の住民たち、さまざまな色彩、美しい水の流れ、鳥、それに蝶たち。
そして撮影の間中、私はこうしたいくつものシーン全部をひとつのものにまとめ上げるべく、語りつづけたのだった。私はアフリカで暮らし、その地で闘い、国立公園を造り上げた男だ。自分で何を話しているか、ちゃんとわかっているつもりだし、内容には自信があった。
けれどもここでまた、私はスタッフたちと大げんかをしてしまったのである。
ザイールの子供たちが国歌をうたっているところを、撮るべきだといい出したのは私だった。もちろん校舎の外でだ。私たちの得ていた取材許可には、学校内での撮影は禁ずる旨、明記されていたが、校舎の外で子供を撮るのならかまわないと思ったわけである。
この場合に備えて、私は上着とタイに着替えておいた。
一行は小さな田舎《いなか》の学校に出かけ、そこの教師に撮影の目的を説明して、同意をとりつけた。子供たちは一列に並んだものの、最初はカメラの前でうたうのをいやがった。教師にうながされて、やがて子供たちはうたいはじめた。いかにもアフリカらしい元気にあふれた歌声だ。いっておくが、彼らがうたったのは国歌なのだ。歌の間、私は子供たちのうしろに気をつけの姿勢で立っていたが、プロデューサーとディレクターはそこらを歩き回っていた。子供たちがうたい終わると、カメラマンは渋い顔で、いまのはあまりよくなかったから、もう一度やらせようといった。この間ずっと、連中の態度ときたら、無礼きわまるものだった。もし日本の学校で生徒たちが君が代をうたっているときに、アフリカ人の一団が同じようなことをしたとしたら、いったいどんなことになっていただろう。
その前の晩に、私たちはスタッフどうしのミーティングで、教室の内部の撮影が禁じられていることを、再確認した。ところが見ていると、そんなことは忘れたかのように日本人たちが校舎内に入り込んでいく。私は不愉快になってその場を離れたが、あとでプロデューサーに向かい、あなたの部下たちは紳士ではないし、絶対に紳士にはなりえないけれども、少なくとも、ときに応じて紳士であるふりをしたほうがよいといってやった。
約束を破ること、よその国の国歌をそこの子供たちがうたっているとき、これに対して敬意を払わないこと、こうしたことは私の考えではけっしてまともな行為とはいえないのだ。
ウソでまとめた四流番組に
またまた大ショック!!
こんなふうに、いろいろあったにせよ、なんとか私たちは一ヵ月を乗り切った。この間、私が不機嫌になるたびに、態度の穏やかなあのプロデューサーが私をなだめるのが恒例になっていたけれども。
旅の最後に、私たちはニーラゴンゴ火山に登り、四百フィート下の火口を見下ろした。底のほうでかすかに噴煙が上がっているのが見えた。私たちの登ったのと同じ日、ほかの観光客が二十人ほど、それと約二百人のザイールの高校生の一団が登ってきていた。
眺めはすばらしかった。登る途中、高度によってめまぐるしく変わる動植物相の変化もまた、みごとなものがあった。
意見の食い違いはあったにせよ、全体として、この一ヵ月で取材できた材料ですばらしいドキュメンタリーができたのではないか、と私は確信していた。
そんなわけで打撃もまた、大きかった――。
私はその放送を見た。ありとあらゆるシーンに、ばかげたナレーションが流されていた。ずっと昔に撮影されたニーラゴンゴ火山のフィルムが画面いっぱいに流れている。この山がいまも噴火を続けており、このうえなく危険な火山なのだということを印象づけるためだ。ナレーションでは、私たち一行は決死の覚悟をしてゴリラに会いに行ったことになっていた。連中がピグミーたちを立たせて、火の周りで踊らせたあのいかさまダンスのシーンが映され、ピグミーの狩りの踊りだと紹介された。ライオンが|ヌー《ウシカモシカ》をしとめるシーンもあった。そんなところは私たちは一度も見ていない。あたりまえだ、ザイールにはヌーはいないのだから。彼らはこのヌーのシーンを流したあとで、私がライオンの食べ残した残骸を見て話している場面を映した。ザイールで私たちが撮影できたのは、ライオンが殺したコーグ(大形のレイヨウ)を食べているところだけで、殺しているところは撮っていないのである。そして私が説明していた肉の残骸のシーンも、このコーグのものなのだった。雌のライオンが獲物に忍び寄るところを撮ったすばらしいフィルムもあったのだが、彼らはこれを使わなかった。ハタオリドリのシーンもカットされたし、子供たちがうたったり踊ったりしていたところも映っていなかった。
私がヒヒと遊ぶシーンがあった。ヒヒたちが私を追いかけ、私のほうはその追いかけっこをやめさせようと大きなヒヒになったふりをする。このときナレーションは、私が危険なまちがいをおかしたのだといっていた……。この間、私が笑いどおしだったにもかかわらず。
ニーラゴンゴ行を映したテレビの画面では、万一の場合に備えて一行はできるだけ身軽な装備で出かけたと、ナレーションは述べたてていた。私たちが身軽だったのは、ポーターたちが荷物をいっさいがっさい運んだからなのだ。ナレーションによると、道中、一行は噴出する溶岩に襲われる危険がいちばん少ない道を選んだということだが、選ぶにも何も、道はひとつしかないのである。あの日出会った二百人の高校生を含め、みんな、この道を登ったのだった。
彼らはあのやさしいゴリラたちを、恐ろしい猛獣に変えてしまった。番組の間中、画面には借りもののフィルムからとった、赤々と燃えるマグマの噴出するさまが映りつづけていた。あのとき、連中が実際校舎内に入り込んで撮影したことも、テレビを見て初めて知った。教室で教師にニーラゴンゴ火山のことを教えさせるというおまけつきだ。またもややらせだ。じつにお粗末なこの日本語をあえて私が使うのは、「いやらしい」という言葉の響きと通じるものがあると思うからだ。
ナレーションが事実と異なっていたところは数十ヵ所もあった。明らかに故意のうそも何ヵ所かあった。あくまでも彼らは、出発前に東京で書かれたシナリオに固執していたのだった。アフリカで起こったことは何ひとつ、彼らを変えなかったのである。小さな、美しい事柄はいっさい無視され、番組全体の雰囲気はまさに典型的な日本の四流番組のそれであった。海外になどとうていもっていけないようなお粗末なドキュメンタリーだ。
私個人としても、じつに不愉快であった。今後、彼らのうちのだれひとりともいっしょに仕事をすることは絶対にあるまい――マイケルと、コーディネーター氏は別として。
なぜ日本のテレビ局は、世界中どこにでも行けるだけの余裕をもちながら、それでいて世界に通用するドキュメンタリーを作れないのか。テレビ局の人々は(NHKは別だ。私がここで攻撃しているのは民放各局である)日本人視聴者一般の知性がそんなに低いと信じているのだろうか。日本は、世界中の人が楽しめるすぐれた番組を、それも世界の先頭に立って供給できるだけの立場にある。それなのに、そうした番組を作ることなく、ビデオやテレビの機械だけをせっせと生産しているのはどういうわけなのだ……。
世界中の人たちがこのことについて理解に苦しんでいるといったら、読者は驚かれるだろうか? 日本に住み、日本を愛しているこの私でさえ、なおこれは理解できないことのひとつなのだ。
あとがき
汚れた靴下とすてきな靴たち
Dirty Socks and Fancy Shoes
私はずいぶん旅をするけれども、たいていの場合、旅の道中そのものを楽しんでいることはほとんどない。ここ八年間というもの、月に少なくとも一度は黒姫と東京の間を往復しているし、そのほかは北海道から、南は西表《いりおもて》まで、日本全国をくまなく旅している。本書に収められているエッセイの多くは、過去何年かの間に方々の雑誌などに書いてきたものだが、その間、汽車や飛行機、自動車のなかで過ごしてきた時間は膨大なものになるはずだ。乗り物のなかで過ごすこうした時間を、私はあまり楽しめないでいる。私にすれば、黒姫のわが家にいるほうがどんなにいいかわからないのだから。
ただ私は遠征に出るのは好きだ。遠征の場合は、自分で移動の手段を決定できるからであり、それに旅をするところも無人の荒野なのだから、それは楽しいはずである。船の旅も気に入っている。実際の話、船の上では、ほとんどの都市生活者には想像もつかないほどの自由を味わえるのだ。空港、駅、タクシー、ホテル……どれもこれも、なぜあんなに退屈なくらい同じなのだろう。
旅に出るたびに――遠征ではない――私は汚れた靴下をごっそり持ち帰る。たいていはきっちり丸めて、においがしないようにビニール袋に詰めてあるのだが、それにしてもみごとなまでの汚れ物のコレクションである。だが、これをそのままにしておくわけにはいかない。家なり、基地なりに戻れば、ちゃんと洗って始末する必要がある。私が洗うと、ちぐはぐになったり、穴があいたり、もっとひどいときは、私の足のサイズである二十七センチから、三歳児のサイズにまで縮んでしまったりするのだけれども。
先月、私はほとんど家を空けていた。ジャカルタに飛んで、船に乗り込み、十二日間の航海のあと台湾南部に入港し、台北に赴き、それから東京に戻る。翌日には長崎に出かけて、ふたたび東京、黒姫、また東京、香港、また台湾、大阪。またまた長崎、東京、そして黒姫に帰るという慌ただしい日々だった。
こんな具合だから、当然汚れた靴下のコレクションもたいへんな量にのぼるわけで、私以外の人がスーツケースを開けようものなら、それこそ悲劇だ。事実、この汚い靴下コレクションのおかげで、どこの税関でも係官はすばらしいスピードで通してくれるのである。
人生という旅を続けていくうちに、人は心のなかにおびただしい数の汚れた靴下をため込むことになる。そうでなくてはならないのだ。感情の靴下にしろ、実際の靴下にしろ、いつまでもはきつづけるわけにはいかないのだから。そして時々は、思い切ってそれを新しいものに替え、たまった汚れ物は洗うなり、捨てるなりして片づけなくてはならない。本書のエッセイのなかにも、そうしたたぐいのものがいくつかあるはずだ。
それではすてきな靴のほうはどうだろうか?
家にいるとき、私は丈夫なゴムの長靴を何よりも愛用している。汚れても簡単に洗えるし、パッと履けるし、足を保護してくれる点では最高だ。ただ、どう見ても、これはファッショナブルというには程遠いようだ。北極にいるとき愛用していたのは、アザラシの皮で作った「カミク」というブーツだった。イヌイットの友達の奥さんたちが作ってくれたもので、私の足の大きさにぴったり合わせて、手で縫ってある。堅い靴底はアゴヒゲアザラシの皮革を使ってあるが、甲の部分はアゴヒゲアザラシやタテゴトアザラシの光沢のある毛皮である。銀色、灰色、それに黒の模様がじつに美しい。内側は、乳白色の地に鮮やかな色の刺繍《ししゆう》を施した暖かいラシャ地の長い靴下になっている。軽くて、暖かくて、実用的で、しかもファッションの極致といえるものである。
それにしても、いわゆる原始的な生活を営んでいる人たちというのは、その伝統的衣装を身にまとったとき、どうしてあんなに立派で、すてきに似合うのだろう。樹皮の腰布をまとい、葉の羽をつけた毒矢を矢筒に差し、弓を手に、そして手首を保護するために、何かの動物の皮に草を詰めた当てものをつけて立つピグミーのハンターたち。髪に花を挿し、顔をほほえみでほころばせたあの人たちのすてきだったことといったら。それからまた、正装に身を包んだ平原インディアンの酋長《しゆうちよう》たち。上っぱりをつけ、キャップをかぶり、ブーツを履いたウェールズの漁師たち。ばかげたペンギンスーツに身を包んだ私などより、彼らのほうが堂々として立派に見える。このペンギンスーツはつい最近、台湾で買ったものである。正式の席のために、ニコル・クランのタータンでキルトの正装をするのはいいのだが、あまりにもかさばって、持ち歩くのがたいへんなのである。
エチオピア以来、いまも山を歩くときに、好んで履くものに、頑丈で、いかにも頼もしいブーツがある。がっちりして、山登りにも十分耐える一方、登山靴のように重くもなく、堅すぎもせず、楽に走ることすらできる。エチオピアで密猟者を追う仕事を続けていたとき、こうしたブーツを四ヵ月から六ヵ月ごとに履きつぶしていたものだ――しかもこれはたいへん高価なのだ。
靴といえば、そう、ほかにも氷の上でも滑らないウォーキング・シューズがあるし、それからスーツやなんかを着るときにどうしても必要だからと妻にいわれて買った、ばかげたピカピカの靴がある。この靴が、私は大嫌いだ。あと、ランニングのときに履く靴、それと、外で空手のけいこをするときに履く軽い靴がある。砂利の上や草の上、ときには砂浜などでこれを履いて型の練習などやるのだ。室内でけいこするときは、もちろんはだしである。
このほかにも手元には、履く気もなければ、履くこともできないような靴がある。デザイン過剰だったり、しゃれすぎて、私にはまるで向かないやつだ。こうした靴は、車に乗ってブレーキやアクセルを踏んだり、歩道やタイルばりの床、あるいはじゅうたんの上をちょっとは歩くものの、だいたいは机の下でぶらぶらさせているだけの足どものためにあるのだ。私の足は違う。
私のブーツや靴は、たしかにすてきだし、しゃれたものかもしれない。けれども、たとえしゃれていようと、そうでなかろうと、まず第一に機能的でなくては話にならないのだ。
西洋にこういう言葉がある……「ある人を理解しようと思ったら、その人のブーツを履いて一マイル歩いてみろ」。この言葉を、私はこれまでずっと守ってきたし、これからももちろん守っていくつもりだ。あと二、三年もしたら、この私にも、恐ろしくもすばらしい五十代がやって来るのだけれど、それでも妥協はしないつもりだ。考え方ひとつ、やり方ひとつにも、自分がますます頑固になってきているのに気づいている。
そんなわけで、これらのエッセイのなかで、私は自分がためこんだ山のような汚れた靴下を洗わせてもらった。できれば読者のみなさんには、このなかの靴やブーツのいくつかを履いて、二、三マイル歩いてもらえたらと思う。
エッセイの場合、人はたいてい、そのときそのときの自分の心に浮かんだことを書くものだ。長い時間をかけて練り上げられた小説とはおのずから違うのもそこなのである。けれども、エッセイ集を読めば、その著者が何を感じ、何を考えているかが、小説よりもずっと冷静に、ずっと大胆に、洞察できるというのも事実である。
そんなわけだから、もし読者のなかで、私の靴下がくさくてたまらなかったり、靴やブーツがきつすぎたり、あるいはぶかぶかすぎたりだと文句をいう方がおられても、勘弁してほしい。
つきあってくれて、ほんとうにありがとう!
一九八八年五月八日 黒姫にて
C・W・ニコル
この作品は一九八八年七月、実業之日本社より刊行されたものです。
講談社文庫版は一九九一年七月刊。
本電子文庫版は、講談社文庫版を底本とし、写真・解説は割愛いたしました。