C・W・ニコルの自然記
C・W・ニコル 著
竹内和世ほか 訳
も く じ
PART 1 ウェールズから黒姫へ
幸運をくれる山
The Mountain Brings Me Luck
私のウェールズ
My Wales
雪国の男
Snow Country Man
富士山がくれた贈り物
A Gift from the Mountain
私の特別な場所
My Special Place
PART 2 忘れえぬ味
ソバ粉のパンケーキ
Buckwheat Pancakes
北極の特製ハンバーガー
But no French Fries!
私のワイン修業
Wine
PART 3 ニコルのアウトドア教室
キャンプには行きたし……
So You Want to Go on a Picnic?
クリー族のシェルター
A Woodlands Shelter
夏の昼寝はハンモックで
Hammock
ドラム缶風呂
Drum Can Bath
インディアンのテント
Tipi
トイレはただの穴じゃない
Not Just a Hole in the Ground
PART 4 私のお気に入り
ナイフは語る
Knife
おの、マチェーテ、そしてなた
Axes, Machetes and Nata
私の銃
My Guns
犬に学ぶ
Dogs
まきストーブ
Wood Stoves
生命《いのち》の炎
Fire
水に恵まれる
Water
台所の宝物
Pots
PART 5 森が死ぬとき
いただきます!
Itadakimasu !
日本人と自然について
On the Japanese and on Nature
伝統が守るイギリスの自然
Britain
エチオピアでの無残な体験
Ethiopia
カナダで見た「水に流してしまえ」
Canada
黒姫からの手紙
A Letter from Kurohime
驚いてばかりはいられない話
Japan
森が死ぬとき
If the Forests Die, so Will We
あとがき
C・W・ニコルの自然記
PART 1
ウェールズから黒姫へ
幸運をくれる山
The Mountain Brings Me Luck
私の名字ニコルというのはスコットランド地方の名前で、父の家系はスコットランド、スカイ島の出身だ。
だが母はウェールズ人で、私もウェールズで生まれた。母方の親類縁者にはウェールズ語で詩を書く人が多かった。ほぼ全員例外なくロマンチストだった。先祖には悪名高き海賊モーガンと航海した者もいるし、ナイチンゲールといっしょにクリミア半島で従軍奉仕中、頭を撃ち抜かれたおおおばもいる。
母も詩に情熱を燃やし、何編かは出版されたこともある。ただ当人は「現代女性」を自認していた。確かに「現代的」だったのかもしれないが、私を妊娠しているときも母はほとんど毎日、ウェールズの山を歩いたという。出産の二週間前までだ。いつか私にくれた手紙に、その理由が書いてあった。母は、山の風が強い子を育《はぐく》むと信じていたのだ。
「山は人間にいろんなことを教えてくれるものよ」というのが、母の説だった。
四歳のときに、イングランド地方へ引っ越したが、私の心はウェールズを離れなかった。緑や紫の山々、ブルーベルが一面に咲き乱れ、うっとりするほど美しい小さな渓谷。ウェールズを思い出してはいつもホームシックになり、休みになると飛んで帰ったものだ。
まだ幼いころから私も山歩きを始め、山に行ったら最後、いつ戻ってくるかわからないような子供だった。山頂に登っては何マイルも何マイルもかなたを見つめ、風になぶられながら、胸の奥深くに満ちあふれる冒険と旅への夢を膨らませていた。
動物や野生の草木を愛するうちに、私の興味はだんだん生物学へ向かっていった。やがて北極探険をし、カナダ政府で働き、イヌイット(エスキモーという言葉は「生肉を食う人」という意味で、蔑称とされている。彼らは自らをイヌイットと呼ぶ)と暮らし、海洋|哺乳類《ほにゆうるい》や北極の生物を研究するようになった。ノルウェーや日本の捕鯨船に乗り込み、エチオピアで国立公園建設を手伝った。初めて日本へ来たのは一九六二年で、それ以来何度か戻ってきた。
だが、この間ずっと、私は自分の内面を表現しなければならないという思いに取りつかれていた。小説、戯曲、ノンフィクション、エッセイ、歌、詩、ポルノまで書いてみた。生まれながら私に与えられているはずの、歴史があって詩的なウェールズ語を失うことへの恐れが、私の内面で煮えたぎり、泡立ち、沸騰し、英語でそして日本語での代償を求めているんだ、とよく考えた。
故郷ウェールズの旗は、赤い竜だ。一九四〇年つまり昭和一五年、日本の十二支でいえば、私はタツ年に生まれている。竜の翼に乗って月日は流れ、私はここ黒姫にいる。そして私は書いている。それもかなりの人気作家のように。私の本は、イギリス、カナダ、アメリカ、メキシコ、そして日本で出版されている。日本語でも書いている。私は今、ふたつの言葉の中で暮らし、仕事をしているのだ。そしてそのどちらもウェールズ語ではない。
黒姫山が
私をとらえて離さない
ここは私の国ではないかもしれない。しかし、私はゆったりと心を広げている。ウェールズを出てからは、どこにいても、本当に落ち着いたことなんかなかった。
だからといって、私の旅が終わったということではない。黒姫に「落ち着いて」家を建ててからも、いろいろな所へ行ったし、いろいろなこともした。
なぜ、私はここにいるんだろう。
人生が私をここへ誘《いざな》った。そうとしかいいようがない。
私が黒姫にいる訳や黒姫が好きな訳はいろいろあるが、何度となく書き尽くしたし、答え尽くしたので、もう繰り返すのはうんざりだ。雪国が好きなんですよ。友人もいるし、家もあるし、幸福も見つけた。こんな答えが期待されているんだろうか。血わき肉躍る大旅行談だろうか。だがそんなものを書くつもりはない。私はあくまでナチュラリストであり小説家だ。それに、観光客やスキー客のことは私にはどうでもいい。この黒姫が軽井沢のようになってしまったらと思うとゾッとする。ハイキングやバードウォッチング? 人間がたくさん来るようになれば結果はわかりきっている。山野は荒廃し、平和は損なわれる。
なぜ、私はここにいるのか。
それは、ここが好きだから、黒姫山が私に幸運をもたらしてくれるからだ。
私は、黒姫に特別な感情を抱いている。そんなに大きな山じゃない。だが、私にとって黒姫山には存在感と力がある。エベレストやアンナプルナ、ベン・ネビス、ほかのどの山にもこんな愛情は抱かなかった。
黒姫山に見守られていると、ウェールズへの郷愁にとらわれることもあまりない。カッコウの鳴き声や、妻が階下のピアノで弾くウェールズ地方の旋律でふっとよみがえっても、それは、私の心に軽く羽毛が触れたような感触しか残さない。
私を取り巻くほかの山々に対しては、敬意と尊敬を払っている。書斎の窓から見える飯綱《いいづな》はクマのよう。妙高《みようこう》はごつごつと輝く峰。斑尾《まだらお》の巨体には親近感。戸隠《とがくし》の研ぎ澄まされたような美しさ。向こうで犬の歯並びのような起伏を見せているのは志賀高原。すべての連峰に、尊敬の念を抱いている。だが、忠誠を誓うのはわが黒き姫君にだけだ。
信州自体には、それほど特別な執着はない。確かにいい所だが、いい所はほかにもたくさんある。そうじゃなくて、私が黒姫にいるのは、ただただ、黒姫が私をとらえて離さないからだ。
こんな気持ちがよくわからないというのなら、それでもかまわない。私にはわかっているし、感じているし、享受している。そして、黒姫はこたえてくれる。
前にもいったように、この山は私に幸運をくれるのだ。
私のウェールズ
My Wales
ウェールズ人。ひとつの国家としてこの国がよその国や民族を征服したり、支配下においたり、あるいは植民地化したりしたことは一度もないにもかかわらず、民族としてはわれわれウェールズ人は常に、強力なイングランドが起こしたもろもろの戦《いくさ》や闘いにかり出され、前線で戦い続けてきた。われわれ自身もまた、数百年間にわたってイングランドの支配下におかれている。もっとも、すべてのイングランド王は、王位に就く前にまず、|ウェールズ公《プリンス・オブ・ウェールズ》の称号を名のらねばならないことになっているのだが……。
ケルト人、アングル人、サクソン人、ローマ人、ノルマン人、そして最後にイングランド人が、次々にウェールズに攻め込んだが、彼ら征服者はウェールズにとどまるうちに、この国の文化に吸収されていった。一方、世界中に広がっている英語――イングランド語――の勢力にも屈することなく、ウェールズの言語であるあの古代ケルト語は、今もなお、ウェールズの生活様式、ウェールズの誇りと同様、この国に脈々と息づいている。
私のウェールズというのは、実は生まれ故郷でもあり、母の故郷《くに》でもあるサウスウェールズのことだ。初めて外を歩くことを覚えて以来、私の記憶に染みついているのは、木々の茂った丘の斜面に咲き乱れるブルーベルの花の香りであり、カッコウやツグミ、クロウタドリのさえずりであり、ヒツジたちの単調な鳴き声だった。ここのヒツジたちときたら、とてつもなく荒々しくて、こいつらがだれかのうちで飼われている家畜だなどとは、とても信じられなかった。
初めて馬に乗ったのは八歳のころ。ウェルシュ・マウンテン・ポニーにまたがり、草に覆われた荒野を駆け巡る私の周り一面、アメリカの西部さながらに荒涼として人気《ひとけ》がなかった。
確かに荒涼とした丘の連なりではあるが、同時にここではいたるところで古代人の足跡に出くわす。ヨーロッパ中でウェールズほど、険しい古城の跡が見られる所はない。大部分は八百年以上もの昔にノルマン人が建てたもので、どっしりした石造りの巨大な砦《とりで》は、丘の人々――ウェールズ人――が執拗《しつよう》に侵略者に対して繰り広げたゲリラ戦に立ち向かうためなのであった。
二千年も以前にローマ人が造った道は、連なる丘やヒースの荒野を横切り、田園地帯では人の背丈ほどの高さの石の壁がヒツジやウシの放牧場を仕切っている。そう、ウェールズという国は、隣国イングランドよりもはるかに荒々しい土地なのである。海さえもずっと野性的だ。
私にとって最初の海のイメージは、ガウアーのあの岩の多い海岸、高い崖と広い砂浜の広がる険しい海辺であった。生まれたのはこの海岸から十八キロほど離れたニースという町だった。ここの潮汐は、なんと十二メートルにも及び、そのために恐るべき大波が起こって、無謀な海水浴客や不注意な船乗りを沖にさらっていくのだった。
干潮になれば、何キロにもわたって広い砂浜が現れる。ザルガイ、イガイ、アマノリの繁殖には絶好の条件だ。これらは皆、伝統的なウェールズ料理の材料になる。そう、イングランド人と違って、ウェールズではノリを食べるのだ。
ウェールズの大気には
魔法の香りが満ちている
それにしても、ウェールズのすべてが美と歌に彩《いろど》られているわけではない。サウスウェールズの石炭鉱山のひとつ、ロンダ渓谷は実にわびしい、寒々とした所だ。スレートぶきの小さな家々が肩を寄せ合うように険しい斜面の道沿いに並んでいる。十年ほど前まで、ここにはぼた山があり、すさまじい眺めを呈していた。石炭産業の全盛期にはウェールズの人口は倍になったものだし、ウェールズ産の無煙炭が世界中の汽船の燃料になっていた。私の祖父もまた石炭鉱夫であった。
今では炭坑も大部分が閉鎖され、ぼた山はブルドーザーでならされて、緑の牧草が育っている。
だが鉱夫たちの小さな住宅はまだそのままだ。屋根や壁にはペンキや水しっくいが鮮やかに施され、手入れも行き届いている。ウェールズの人たちは自分の住まいをとても誇りにしているからだ。たとえ、どれほど小さく、粗末なものであろうとも。
ウェールズにはまた、人の手が入っていない谷間が無数にある。石炭の鉱脈が発見されなかった所だ。険しい山の斜面に囲まれたその谷あいには、落葉樹の古木がうっそうと茂り、岩の多い川を流れる水晶のような水の上には、古い石の太鼓橋が架かっている。
こうした谷間はしばしば「|フェアリーランド《妖精の国》」と呼ばれている。英語でもウェールズ語でもそうだ。数多くの侵略をはじめ、鉱山採掘や工業化が残した傷跡にもかかわらず、ウェールズは今もなお古代の国である。この国に入り、目を閉じて風の音に耳を傾ければ、大気中に魔法の香りが満ちてくるのがわかる。
ウェールズが「歌の国」と呼ばれるのも不思議ではない。私の大好きなウェールズの歌にこんなのがある。
あの丘べに迎えの言葉をとどめよう
あの谷あいに迎えの言葉をとどめよう
この歌の国はまだ歌っているだろう
いつかふたたびウェールズに
君が戻ってくるそのときも
一九八四年、私もまた戻っていった。ふるさとのウェールズに、私のウェールズに。
雪国の男
Snow Country Man
私が初めて、本当に雪というものの魔力に触れたのは、一九四七年の冬のことだった。その年の冬は、イギリスではほぼ百年ぶりの大雪に見舞われるという記録すべき年だったのである。そのとき、私は七歳だった。
おばの一家がウェールズ山中に家を建てて住んでいた。ニース渓谷を見下ろし、はるかにマングルスの海岸を望む山の上である。その冬、おばの家は煙突のところまで雪に埋もれ、しかも戸と窓がすべて外側に開く式のものだったから、外には一歩も出られなくなってしまった。そのうえ、その地域の人々はそれまで、スキーや雪靴《かんじき》のようなものが必要だったことなど一度もなかったものだから、救援隊は腕の付け根まで雪の中にはまり込んでしまい、救助活動はえらく難航したのだった。ヒツジは何千頭も死に、人間にも死者が出た。だがおじとおば、それにいとこたちは大丈夫だった。おばのコテッジにようやくたどりついた救援隊は、まず煙突の穴から大声で下に向かって呼びかけ、それから食料と飲み物を入れた袋をロープにくくりつけて下ろしたのだった。雪を掘り下げ、ドアのところにたどりつくまでには、長い時間を要した。
子供だった私には、雪の恐ろしさや難儀なことがまるでわからなかった。私にわかったのはただ、灰色の石と暗い色のスレート屋根の町が、突然まっ白な包帯で覆われ、詰め物をしたみたいにふわふわになったことへの驚きだけであった。吐く息が白い雲みたいになってポッポッと口から出るのを眺めながら、雪を踏んで庭中を走り回ったり、トボガンぞりを駆って道を滑りまくった。通りはすっかり滑りやすくなっていて、車は一台も通れなかった。もちろんチェーンをつけるなんてだれひとり聞いたこともなかったのである。
祖父が私のために大きな雪だるまを作ってくれた。当時の私にとって、祖父はまるで巨人みたいに大きく感じられたけれど、雪だるまはその祖父よりもなお大きいくらいだった。目は黒光りのする石炭、鼻はにんじん、そして歯には石炭を使って大きく笑った表情を作った。首にはマフラー、大きな丸い頭には古い帽子をかぶせ、口にはパイプをくわえさせた。石炭のボタンまでついていた。この雪だるまがいつまでも解けないで残っていてほしいと、思ったものだった。
ウェールズは山の多い国だ。その冬、子供たちは学校へ行くのを嫌がり、家にいるのを嫌がった。私たちはひたすら外に出て、わめいたり、滑ったり、いろんな通りの子たちとの間で、すさまじい雪合戦を展開したのだった。はては、巨大な雪の砦《とりで》まで造り、あたかも城から出陣する騎士よろしく、その砦から出撃するなんてことまでやった。
雪。
本当にあの冬は、不思議な魔力に満ちていた。もちろん、手足の指は全部ひどい霜焼けにやられてしまった。火の前には、濡れたソックスやミトンが何列にもつり下げられて乾かしてあった。
だが私には、冷たかったという記憶はほとんどない。これを書いている今でさえ、目を閉じると、家の裏手の窓の外に、あの雪だるまが立っているのが見えてくる。暗い鉄灰色の空からは、大きくて柔らかな雪片が音もなく舞い落ちる中、まるで慈愛に満ちた番人さながら、笑みを浮かべてぬうっと立った大きな姿だ。
原始が支配する北極の冬が
生きる自信を与えてくれた
その後も、毎年のように雪は降ったけれど、一九四七年の冬のような、あんな雪は二度となかった。雪との体験で、二度目に忘れられない思い出となったのは、一九五八年の春、十七歳で初めて北極に出かけたときのことだ。DCV型機から降り立った私の目前に広がったのは、一面にキラキラと白く輝く雪に覆われた大地だった。カナダ北極地方の雪は、ウェールズのあの柔らかな雪とはまるで違っていた。
ここで私はイヌイットと暮らし、初めて犬ぞりに乗って疾走し、氷と雪の屋根に覆われた広い川や湖、沼地、はては海さえも横断するというスリルを味わった。
この旅は私の全部で十二回に及ぶ北極遠征のうちの最初のものだった。その後、高緯度北極圏《ハイ・アークテイツク》――デボン島――で越冬もし、冬の北極地方へも何回か短い旅をした。モントリオールやウィニペグにもしばらく住んだことがある。こんなわけで、私はカナダの雪についてはきわめて熟知するに至ったのだ。犬ぞり隊を率いる方法も学んだし、スノートラクターやモータートボガンの運転法、カナダインディアンの長いかんじきのはき方、クロスカントリースキーの方法も学んだ。北極と、そこに住む人々、そしてそこでの生活を心から愛するようになった私は、やがてカナダの市民権を取るまでになった。もっとも、私は一度も自分がカナダ人だという気がしたことはなく、むしろ北極人であると感じていた。私にはイヌイットの名前さえついていたのである。
私が北極を愛するようになったのは雪のためだけではない。夏の北極だってすばらしい。突如としてわき出る生命と、はじけるような色彩に北極の夏は満ちあふれているのだ。けれども、この宇宙を形づくっている生命と力に対して最も敬虔《けいけん》な気持ちを抱かせ、最も心を和ませてくれるのは、雪の季節の、あの原始がそのまま支配している世界だったのである。このような季節を生き抜いたことで、私は内的な自信を持つに至った。私は生き抜くことができたのだ。旅もできたし、狩だってできた。自分が自然の一部になったような気がした。イグルー(イヌイット狩猟民の使う伝統的な家で、雪の塊を切り出して造る)の建て方も習ったし、実際にひと冬、その中で暮らしもした。
友人の遺志を継いで
三度挑戦した冬の富士山
しかし、運命は私を日本に連れてきた。一九六二年に、空手の黒帯を取ろうという大望を抱いてやってきたのが最初で、そのときちょうど私は、四回目の北極遠征を終えたところだった。十九ヵ月にわたるデボン島遠征旅行である。
遠征でのつらい生活は私にとってよい効果をもたらした。三頭のホッキョクグマが襲ってきたときも、ひるむことなく彼らに立ち向かい、五メートルの距離で一頭を殺し、二メートルのところでもう一頭をやっつけた。海岸沿いの雪原を、あるいはアイスキャップ(極地高山の万年雪)を越えて、広大な距離を踏破もした。イグルーに住み、多くの冒険をし、そして全体として自分が本当に生きていることを実感していた。自慢めいた話になるが、当時の私は並外れて力が強かった。二百リットルのガソリンを満タンにしたドラム缶を胸まで持ち上げ、スノートラクターの後部に突っ込めるかというかけをやって勝ったこともある。そのころ私は二十二歳、脂肪のまるでない体は九十五キロもあった。
奇妙なことに、初めて日本に来たとき、この国が雪国であるという事実をまるで知らなかった。
デボン島遠征隊で、最も親しかった友人のひとりにイギリスの陸軍将校がおり、私が日本に行くのを始終うらやましがっていた。
「富士山に登るのが、昔からのぼくの夢なんだ」と彼はいうのだった。「いつか、冬の富士山の写真を見たけど、実にすばらしかったよ。夏の富士は歩きがきついだけだが冬登るのはものすごく難しいんだそうだ」
「風かい?」
「雪だよ、それに風とね。ほら、この山はひどく高いんだ、三千七百メートル以上もあるからね。冬の富士に登りたいなあ。たぶん来年の春になったら、君に会いに日本に立ち寄るよ。国に帰るときにね」
彼はこの遠征が終わるとすぐ、今度は南極での別の遠征に参加する予定だった。私たちはお互いにこれからも連絡し合って、いっしょに富士山に登ろうと約束をして別れた。二、三ヵ月後、東京にいた私の元に、彼の死を知らせる手紙が届いた。クレバスに落ちたのだった。深すぎて、遺体の回収すら不可能だったという。
冬の富士山に登りたいという夢を抱いて死んだ友人をしのんで、私は一九六三年の一月、ひとりで富士山に登るべく出発した。そしてまもなく、日本の冬山の風と雪がどんなに残酷なものになりうるかを知るはめとなった。三たび挑戦してやっと頂上に立つことができたが、今振り返ってみても運がよかったと思う。
あれから二十年以上たって、だいぶ年をとったし、また望むらくは前より賢くなったと思いたい。ひとりきりで未知の山に取り組もうなんて、今なら考えもしないだろう。
誇り高くそびえる黒姫山に
心を引かれて戻ってきた
一九七八年に、ここ黒姫を初めて訪れた私はすぐさまこの土地に心を奪われてしまった。
最初の印象の中で、際立って心に残ったのは、周辺の山々がきわめて誇り高く、それぞれが独立してそびえているということだった。日本の山々の大多数が、互いにひしめき合ってそびえているのとは大違いだ。しかも山と山との間隔は広くて明るく、閉所恐怖症にでもかかりそうな峡谷などは見られない。ほとんどカナダの山々に近かったけれど、それでいてなお、あくまで日本の山でもあった。
黒姫に来たのは、友人で詩人の谷川雁《たにがわがん》さんを訪問するためであった。彼の家でいろりを囲みながら、いっしょに仕事をする約束をした。谷川さんの書いた子供向けの古事記物語を、質のよい日英両語の本に仕上げようというのである。
この仕事を完成するために、その冬の間、私は森の中の大きな風格のある日本家屋を借りて、何週間か過ごした。十二月に雪が降り、周りには白い静寂に満ちた世界が現れた。私は再び、カナダにいたときの習慣に戻った。夜、ひとりでクロスカントリースキーをはいて外に出るのである。満月の夜、くっきりした影が雪の上に落ちるほどに外が明るいときなどだ……。またもや私は、雪国に対して、なにか魔法めいたものを、なにか不思議な驚きに満ちたものを感じるのだった。
その後、捕鯨についての歴史小説を書くための調査や取材で、和歌山県の太地《たいじ》という鯨捕りの町に住み込んだ。私は海も好きだ。しまいには日本の捕鯨船団に乗り込んで、南氷洋まで行ったほどである。
にもかかわらず、やはり心を引かれて戻ってきたのはここ黒姫であった。この山にはどこか独特の雰囲気があって、ウェールズよりも、あるいは最愛の北極にいたときよりも、ここにいるほうがはるかに心が休まるのだ。
ハンターたちとの友情が
冬の世界を広げてくれた
一九八〇年、私は結婚した。
最初の冬に借りて住んだ家は、とほうもなく大きくて古いわらぶき屋根の農家だった。その冬、信濃町とその周辺の地域は何十年ぶりかの大豪雪に見舞われた。雪は地上二メートル以上にも積もった。こんなに深く、柔らかく、湿り気のある雪を見たのは初めてだった。雪は家の軒先まで埋め尽くし、窓は遮《さえぎ》られた。何度となく、窓の外の雪を掘り出そうとしたが、溝を掘るのが精一杯で、それもすぐに埋まってしまうのだ。
その冬には五回も屋根に登ってシャベルで雪を降ろさなければならなかった。「雪おろし」という、この妙な日本の風習は、一回やり終えるのに、丸二日の重労働を要する。家中が冷たく、暗かった。石油ストーブと、小さな「ルンペンストーブ」を燃やしても、その熱は高いすすけた天井に吸い込まれて、すぐに消えてしまう。外では太陽がさんさんと照っている日が多かったのに、冬中、穴ぐらの住人になったような気がしていた。
次の冬、私は別の家を借りた。この家は屋根が急勾配で、雪がひとりでに落ちていく仕掛けになっていた。生活はずっと楽になった。この冬の間、毎朝かんじきをはいて外に出、家から道路までの百五十メートルの道を足で踏み固めるのが、私の仕事になった。
私は冬の到来以前に、猛勉強をして、日本の狩猟ライセンスの試験に合格した。そんなわけで、その冬は銃を手に、かんじきかクロスカントリースキーをつけて森をうろつき回って過ごすことが多かったのである。
家の玄関からスキーで一時間ほどの範囲で、私はひとりで猟をした。ほとんどの場合、それは全然猟なんてものではなかった。白い沈黙の世界、青くみえるほどの深い白さの中を、ひとりさまよい歩く旅だった。雪の上に残されたたくさんの動物や鳥たちの足跡を見て、その意味を考えてみたり、こうした逃げ足の速い生き物たちの暮らし方に思いをはせたり、そしてまた、自分の心の中に平和と喜びを見いだす旅でもあった。
信濃町狩猟協会の新しい友人たちといっしょに猟をすることもあった。そんなときには家から遠く、周囲の山々まで出かけるのである。
その冬、私は一度も肉を買わなかった。野生動物の肉のほうがずっとうまいし、実際問題として、殺虫剤や抗生物質の薬漬けになっている飼育動物の肉なんぞよりも、確かにずっと健康的なのだった。
猟の楽しみ以上に、うれしかったのは、ハンターたちとの友情だった。彼らはどんな登山家よりも、はるかに山のことを知っている。彼らは私に、山々のこと、そこに住む生き物のことについて教えてくれ、冬の世界を広げてくれたのである。
私にとって、冬の世界は、家と道路と駅と店をつなぐ狭い範囲をはるかに超えたものとなった。それはまた、ラウドスピーカーから騒々しい音楽をがなりたてるスキー場のスロープなど及びもつかない世界でもある。山にやってくる本物のスキーヤーが心から求めるもの、それは山の静けさであるのに、それをいじくって、ほとんどわいせつ行為といえるほどに台なしにしてしまうのが、今のスキー場のやり口なのだ。
愛するものすべてが
自分のものになる黒姫での生活
私たちはここでしだいに深く生活の根を下ろしつつある。一九八二年九月六日、私と妻は「建前」に参加し、日本式に家を建てる場合の最初の段階をとくと眺めた。その家が自分たちのものだったことは、より一層胸の躍る経験となった。しかも、家の建築に加わっている男たちのほとんどは、私の友人でありハンターであった。この土地だって、ハンターたちの助けと紹介で手に入れたものだ。小さな、つつましい家だけれど、強く、丈夫で雪国向きに設計してある。
基本的にはスウェーデン風のデザインだが、がっしりした材木の組み方や作り方は日本の伝統にのっとっている。棟梁《とうりよう》は、合掌造りの専門家として知られた人だ。屋根は丈夫な急勾配のものにしているから、雪はそのまま落ちていく。
土台は二メートル以上の高さにした。これで雪の重みから保護するために窓を板囲いにする必要もない。この家からは、手入れの行き届いた森や広い草原、かなたの山々などが見渡せる。
よくこんな質問をされる。――どうして黒姫に住んでいるんですか? 答えの代わりに私は冬の黒姫の、一面の雪景色を見ることをおすすめしたい。クロスカントリースキーをはいて、広い草地や沈黙した森や林の中を歩き回ることを、そしてよく晴れた長い一日の終わり、骨の折れる仕事のあとで、地酒を飲むことをすすめたい。
私は日本をこよなく愛している。山と雪を、広いスペースを、そして自然から与えられる喜びを愛している。ここ黒姫では、これらすべてが自分のものになるのだ。
自分でも私は、かなり運のいい男じゃないかと思うのだ。
富士山がくれた贈り物
A Gift from the Mountain
子供のころ、私は本を読むのが大好きで、ある日、「フジヤマ」という高い火山のことが書かれている本を読んだ。それから日本に来るちょっと前、著名な世界旅行家(というふれこみだった)が書いた、もう一冊の本を読んだ。それには、日本人は富士山に対して非常な尊敬の念を抱いているので、人に呼びかけるように、「富士さん」とさんづけで呼ぶと書かれていた。
むろん、これは漢字の読み方を知らないための単純な勘違いだが、日本人が、最も高く最も完璧《かんぺき》なこの山に特別の敬意を払っているのは、周知の事実だ。
三回目の北極探険が終わりに近づいたころ、私は日本行きを考えていることを同僚に話した。すると彼は、富士山の写真は何度か見たけど火口の写真は見たことがないから、いつかこの目で火口をのぞき込んでやるんだ、といった。
私は一九六二年の十月に来日した。そして、その年の十二月、その友人が南極でクレバスに落ち、遺体も発見できなかったという知らせが届いた。「富士山に登るぞ」と私は新年の誓いを立てた。頂上に登って、彼の代わりに火口をのぞき込んでやるんだ。
一月三日、私は早速、実行に移した。北極帰りだから、防寒具は完備していた。富士吉田から五合目まで登って、五合目で気さくな老夫婦の管理している山小屋へ投宿した。若い登山客も、何人か泊まっていた。そのころの私は、日本語の単語を百くらいは使えただろうか。
風がうなり、寒気が山小屋の壁にくらいつくなか、こたつを囲んでいたときのことは、鮮明な記憶となって、私の脳裏に焼きついている。私は、山男の友情と、初めて口にする肴《さかな》と、あつかんをじっくりと味わっていた。すると、なんとも名状しがたい異臭が、こたつ布団の下から立ち上ってきた。突然足に痛みを感じて、私は掘りごたつから跳び出た。分厚い靴下をはいていたものだから、知らず知らずのうちに、つま先を火鉢の炭に突っ込んでいたのだ。くすぶっている私の足を見て、皆は腹をよじって笑った。
翌朝、天気は上々だった。意気揚々出発しようとすると、宿の主人が腕に手をかけて引き止め、私の登山靴を指さして、首を左右に振る。若い登山者たちが、ようやくわからせてくれた。アイゼンがないから、危険だというのだ。
がっかりはしたが、アイゼンを買ってから出直そうと心を決め、その日はいったん帰京した。そして二日後、私は再び五合目に戻った。
天候は悪化していたが、私は挑戦した。前回同様、今回も単独行だった。強い風にあおられて、ともすれば急斜面から吹き飛ばされそうになる。厚くたれこめた雲と舞い散る雪が視界をふさぎ、顔を刺した。北極ではべテランでも、結局、富士山には通用しなかった。
富士山の贈り物が
アイゼンに突き刺さっていた
足取りも重く、私はとぼとぼと富士吉田へ引き返した。まったく惨めだった。だが、帰りの電車賃しかないし、ほかにどうしようもない。町の外れに着くと、私はアイゼンを外すために腰をかがめた。すると、あろうことか、アイゼンに折り畳んだ千円札が突き刺さっていたのだ。落とし主に返そうにも、捜す術《すべ》がないじゃないか……。これは、富士山が私にくれた贈り物だった。
幸運に導かれるまま、私はとある小さな民宿の前に立った。そして、千円札を出して、有り金全部だということをたどたどしい日本語で説明した。主人は私を泊めてくれたばかりか、まるでどこかの国の皇太子でももてなすように、御馳走《ごちそう》してくれた。夜が更けるまで主人夫婦と酒を酌《く》み交わすうちに少しは気分が晴れた。また挑戦するさ!
次の朝、雨戸を開けた瞬間、私は息をのんだ。まさに、額にはめられた一枚の名画だった。窓に切り取られたどこまでも青く青く晴れ渡った空から、輝くばかりに完璧な富士山が、私にほほえみかけていたのだ。
その日は東京に帰らざるを得なかったが、私は再挑戦し、一九六三年の一月十五日、富士山の頂上に立った。火口をのぞいて、三六〇度に広がる日本のパノラマを見晴らし、夢を実現させる前に逝《い》ってしまった探険隊の仲間に短い祈りをつぶやいた。
今では日本に帰ってくるたび、私は飛行機の窓から、一生懸命下をのぞき込む。日本を愛する者をさし招く、危険で、惜しみなく、美しい山を一目でも見たい一心で……。
私の特別な場所
My Special Place
理由は説明ができないけれど、人にはだれでもそこなら完全に気持ちが落ち着くといった場所があるものだ。部屋の中でも、町中でも、あるいは国の中でもそうだ。そうした場所は、他の場所とはひどく違っていることもときにはあるが、たいていの場合、なんら変わったところは見られない。「特別な場所」といっても、別に安全だとか、気持ちがよい所だとか、居心地がいいとか、そんなたぐいのことをいっているわけではない。いや、私のいっているのは、人がある場所に対して心の中で感じる、なにか一種の超自然的な相性といったものなのだ。
これまでに広く旅をしてきて、本当に心から落ち着ける感じを持てた場所はふたつだけだ。両方とも山国である。ひとつはウェールズにあるおばの家だ。丘の中腹に建った古い石造りの小さな家で、そこからは私の生まれた家やニース川、そして南ウェールズの海岸を見渡すことができた。
もうひとつはここ黒姫である。訳を聞かれれば、いろいろな理由や説明を探し出せるけれど、この感情はそんなものでは説明できないほど深いものなのだ。
作家という私の立場からすれば、母国に帰り、生まれ故郷のウェールズに戻って暮らすほうが明らかに楽だろう。だが、私には別の強い感情がある。使命感とも呼べる、ある目的……、私の書くもの、私の生きざまを通して、東西間に横たわる深淵に橋を架けたいのだ。
長い間、私はこの目的を心に抱いていた。だが以前は、最も長くても二年半くらいしか、日本での生活には耐えられなかった。この期間を超えると、私は自分の精神衛生のために日本を出ていかなければならなかったのだ。私は群衆に耐えられなかった。日本国中どこに行こうと、われわれに投げつけられる「外人!」という言葉に耐えられなかった。ごくささいな事柄が私を悩ますのだった。低い出入り口に始終頭をぶつけることとか、小さな窓に切り取られた狭い眺めに圧迫されるような感じとか、小さなばかげたことなのである。
私はしんから海が好きだ。かつて、小さな捕鯨の町に一年ほど暮らそうと出かけたとき、ここなら自分の「特別の場所」が見つかるだろうと思ったものだ。だがそうではなかった。町に背を向けて海を眺めていると、心の中は平和で満たされてくる。だが振り返って町を眺めるや、またもや私は、狭い道や、ひしめく家々、そして日本の海岸沿いの村や町にあまりにもよく見られるあの窮屈な感覚が自分を取り巻いているのを知るのだった。人口五千人に満たないその町で私は一年間暮らしたけれど、その一年後でさえ、子供たちは町を歩く私を指さしては、クスクス笑いながら、「外人、外人!」と叫ぶのだった。
大してお金をかけずに
理想の生活に近づいている
今私の住んでいるここ黒姫では、窮屈な感覚もなければ、「外人!」の叫びもない。景色は広々として雄大だ。窓からは広い草地や森、かなたの山々が見渡せる。家から五十メートルほども行くと、あらゆる方角に山々が望める場所に立つことができる。飯綱、戸隠、黒姫、妙高、斑尾、志賀の山々だ。
冬にはクロスカントリースキーをはいて家を出れば、帰るその瞬間まで、スキーをぬぐことなく何時間も歩き回ることができる。
冬は私に、野生の食物を運んでくる。肉は主としてキジ、ハト、ノウサギ、タヌキ、ときにはクマなどだ。自分で撃たないものはハンター仲間からの贈り物だ。
家の近く、ちょうど六十メートル先に川が流れており、そこで取れたイワナやマスは、これまた私たちの食卓をにぎわす。
春と夏、ここではあらゆる野生の食物が手に入る。それらについて今少しずつ勉強しているところだ。フキノトウ、アザミ、タラの芽、ワサビ、ヤマイモなどなど、みな美味である。
家も自然流のまきの暖房だ。といっても別に「自然に帰れ」といった狂信的な信奉者ではない。まきを燃やすのは、英国から自分で輸入した現代風のまきストーブである。
このストーブは家全体にお湯を供給するとともにセントラルヒーティングをも賄う。オーブンがふたつついており、上は煮炊き用の広いスペースになっている。ストーブの置いてある所は、自分の背丈に合わせて私が設計したカウンターと流しのついたシステムキッチンだ。もう料理や皿洗いで背中を痛めることもない。
家は暖かく明るい。大きな二重窓からは太陽がたっぷり入り、眺めも最高だ。出入り口は広く高い。どこも断熱材が施され、高い土台の上に建っているため、屋根から落ちる雪が窓をふさぐことはない。この辺りの家はたいていがそうだが……。冬の暗さとも、あのばかげた雪おろしともおさらばだ。雪かきをしなければならないのは家の前の階段だけである。
私は作家だし、妻も作曲家だから、私たちの家は当然仕事場でもある。妻のグランドピアノは広い居間に置かれ、私の書斎は離れた二階の一室だ。机は広い南向きの窓に面し、木々の頂や草地、かなたの飯綱の山々が眺められる。
家の裏手の木立の中にサウナがある。自分で設計し、土地の大工さんに造らせたものだ。とても簡素で、しかも安くできた。杉材で、全体に断熱してあり、周りに川原の石を積んだ簡単な炉でまきを燃やすやつだ。いっぺんに六人は入れるが、二、三人が最適である。きのうのアルコールと今日の疲労を汗にして流し、新しくすがすがしい雪の中に飛び込む、それはまたなんたるぜいたくだろう。サウナのあとは家に入って冷たいビールを飲み、妻のピアノに耳を傾ける……。これ以上何を望めようか?
少しずつ、私は自分の理想とする生活に近づきつつある。たいして金はかからない。田舎に住んで、よい音楽とよい本、そしてよい友人を持つ。できるだけ自然の食物をとる。運動もできるだけする。けれどあまり夢中にならないように。サウナに入って自分の皮膚を目覚めさせ、仕事のプレッシャーをいくぶんか取り除く。われわれの国の間に愛情と理解を増していくようなものを一生懸命書いていく。たぶんいつまでも夢を追い続けて生きることはできないだろう。だが私は頑張っている。そして少なくとも、自分の「特別な場所」を見つけたし、それを分かち合える特別な人を見つけたのだ。
PART 2
忘れえぬ味
ソバ粉のパンケーキ
Buckwheat Pancakes
一九六五年、季節は二月。太陽は戻っていたが、毎日わずかに数時間、弱々しい光を放つだけで、寒さを追い払うにはほとんど用をなさなかった。私は、ジム・ジョンソンという名の科学者とふたりで、三週間前から、この凍りついた湖に出ていた。二メートル半もの厚さに張った氷の上にはトナカイの足跡が入り乱れ、あちらこちらに、押されて反り上がった氷の巨大な隆起が筋をなしていた。いわゆるプレッシャーリッジである。
けっして気楽にやっていたわけではなかったのだが、ふたりともタフにできていた。第二次大戦中、ジムは英海軍の砲艦を指揮して、ナチ占領下ドイツの沿岸を襲撃した男だ。彼はまたロッククライマーでもあり、二回にわたって長期の北極行を経験していた。もう四十代に入っていたが、彼の足取りは軽快だった。私のほうは二十五歳、体の調子はそれまでで最高だった。事実、ふたりとも調子がよくなくてはどうにもならないのだった。なぜなら私たちは、イヌもモータートボガンも使わずに、自力でそりを引いていたのだから。
そりに積んでいたのは、湖水と湖底沈澱物採取用のサンプリング機器類のほか、テント、燃料に食料、スリーピングバッグ、ランプ、スチール製の長い砕氷用のみ、シャベルなど、野外生活に必要なもろもろの道具類だ。
前の年、私たちは、ラジウムギルバート号という名の船に乗って、四ヵ月をこの湖で暮らした。ここは北米大陸で四番目、カナダ北部では最大の湖である。その名はグレートベア湖。北極圏にあって、面積は三万平方キロだ。そう、とにかく、とほうもなく大きい湖である。夏には船を二十四時間走らせて、その間一度も岸を見ないですむほどだ。
今は冬、私たちはポートラジウムの鉱山に向けて戻るところだった。食料はあと三日はもつだろう。燃料もだいたいその程度だ。だが食料や燃料の蓄えが減って荷が軽くなった分、何百個という凍った泥や氷のサンプルの重さが加わって差し引きゼロになるのだった。
胸と肩に食い込む引き具に逆らって前かがみに進むとき、吐く息はパッと吹き出る白い蒸気となってアノラックのフードのへりについたクズリの毛皮に凍りつき、ひげの先につららとなって下がる。
前の晩、空は晴れ上がり、雲の覆いが取れたため、気温は急に下がって氷点下四十度にまでなった。この寒さの中でそりを引いて仕事をするためには、肺が霜で凍傷にならないように口をマフラーで覆わなければならない。こうした低温下で体が酸素を消費するときには、莫大《ばくだい》なエネルギーが要求されるのだ。
怪物のほら穴の上で
寝てるようなもんじゃないか!
私たちの仕事はそりを引くことだけではなかった。精密に踏査し地図に書き込まれたルートをたどって湖を横断しながら、厚い氷に穴を開けていくのだ。カッカッカッ、ザクザクザク、のみで刻んではシャベルですくう。穴が開くと、底さらい機とウォーターサンプラー、それに水温やミネラルの含有量、酸素濃度などを計るセンサーなどの機械を、ウィンチに巻きつけた強いロープで下ろす。ウィンチも手で動かさなければならなかったし、湖の深さは場所によっては四百メートルもあったから、なみたいていなことではなかった。交代で作業したものの、腕も手首も疲労で燃えるようになった。
夜になると、その日最後に掘った穴のそばにテントを張り、粗末な食事を作る。体は食べ物に飢えているにもかかわらず、食べている途中で眠り込んでしまうことがしょっちゅうだった。それほどくたびれきっていたのである。
気温の変化とともに湖の氷が膨張し、収縮する。そして新しくひび割れができるのだが、そのたびに湖の氷はうめき、とどろき、シューシューとうなり声を上げ、ほえたける。
「怪物のほら穴の上で寝てるようなもんじゃないか!」ジムがスリーピングバッグの中で寝返りを打ちながらいった。湖を渡っていく風がテントを打った。ブーン! シュー!
寝ているすぐ下で、氷のひび割れるそんな音を聞くと、すでに海の氷の上を旅するのにはすっかり慣れていた私でさえ、やはりナーバスにならざるをえなかった。自分の真下に何百メートルもの氷の層があることを意識するのは、けっして気持ちのよいものではない。たとえその氷が、都市をひとつまるまる支えられるくらい厚く、丈夫だったにしても。
「あしたはポートラジウムに着けると思うかい?」ジムが聞いた。
「もちろんさ、ちょいとムチを鳴らして、ドッグビスケットをふたつみっつ投げてくれさえすりゃ、風みたいに飛んでってみせるぜ」
ジムはなにかブツブツいうと、ごろっと寝返りを打った。まもなく、おだやかないびきが聞こえてきた。
平和で清らかな湖が
ヒロシマで起こったことの源だった
私は横になったまましばらく眠らずに、私たちのいるこの場所について思いを巡らしていた。ヒロシマを破壊した原子爆弾製造に使われたウラニウムが掘り出されたのは、まさにここ、ポートラジウムの鉱山なのである。丘陵から掘り出されたその鉱石は、はしけで湖を越え、流れの速いベア川を下り、あの雄大なマッケンジー川に積み出された。マッケンジーからは北極海に出、その荒涼たる地域に夏だけ見られる海岸沿いの無氷海面を通り抜けて太平洋に入ったあと、そこからアメリカまで下っていったのである。
冬の恐ろしいほどの荒涼感とともに、夏にはかくも平和で美しく、清らかで魅力的になるこの湖が、ヒロシマで起こったあの出来事の源だったというのは、いかにも不思議に思われた。
この湖は漁師の天国だった。その夏、釣りざおとリールを使って、私は、十八キロほどもあるイワナを釣り上げたが、それだってこの湖ではけっして珍しいものじゃなかった。ここにはマス、レイクヘリング、大食いの巨大なカワカマス、ホワイトフィッシュ、それにベア川に注ぎ込む流れが急な所にはカワヒメマスがいっぱいいた。
私はこの湖で過ごしたあの暖かな夏の夕べを思い出した。ゴム製の小舟に乗って、エンジンを切り、漂うに任せながら、四十メートル以上の深さだって見えるほど澄みきった水を見下ろしていた。水はすばらしく透明だったから、まるで大気中を漂っているようで眼下の世界では、魚たちが高い崖から転がり落ちた岩々の間を飛んでいるといったところだった。
私はよく魚を捕まえ、岸に上がってからそれを棒切れに刺してあぶって食べたものだった。ここは西側北極圏で、森林が北極圏の上の方までずっと入り込んでいた。
夏も終わりごろになると、斜面には野生のラズベリー、ブルーベリー、フォックスベリー、それに甘くてレモンの味のするヤキリンゴベリーとか、ビタミンの豊富な野生のイヌバラの実などがたわわに実る。
私は銃を持って、独りもののカモやハリモミライチョウをしとめた。こうして仕事のないときのほっつき歩きに、もうひとつ楽しみが加わるのだ。
この湖の周りには、小さな湖や池がたくさんあった。そこにはジャコウネズミが泳いでいたり、寒さに強いビーバーを二、三匹見かけることさえあった。ホンドギツネやホッキョクギツネもいたし、クロクマや、またみごとに青いオオヤマネコさえ見られた。
ジムと私はよく、ここはさぞすばらしい国立公園になるだろうと話し合ったものだ。そして私は、もしカナダ政府が湖のこの地域を公園にするとしたら、この丘から掘り出した鉱石を主なエネルギーに使ったあの原爆地獄で死んだ人たちにとっては、この上ない慰霊碑になるだろうと思ったことだった。
ポートラジウムの鉱山では、もうウラニウムは採っていなかったが、そこには豊富な銀の鉱脈もあり、しかも銀の値段はよかった。
私たちは鉱山を基地にして、鉱山会社の建物の一部を、宿舎と研究室に使わせてもらっていた。
夏の時分ここがどんなだったかを思い出しつつ、日本とヒロシマに思いをはせ、そのコントラストと皮肉について考えながら私は眠りに落ちていった。
極端な寒さと重い積み荷のために
私の心は白昼夢の世界へさまよい出た
朝、コーヒーと熱いオートミールを作るのに、スリーピングバッグから出る必要はまったくない。テントの中は私たちの吐く息の霜で白くなっていた。寒かった。ものすごく寒かった!
私は体を起こし、石油コンロにポンプで空気を送り込み、バーナーを暖めるためにアルコールを少し注いで火をつけた。まもなくコンロは気持ちのよいうなりを立てはじめ、ポットの氷は溶けはじめた。前の晩に開けた穴からくんでおいた水が凍ったのだ。氷がお湯になるまで、うたた寝するだけの時間はある。あと十分か十五分、貴重な時間だ。
私たちは寝たままコーヒーを飲んだ。そして、時々身を乗り出してオートミールをかき混ぜた。
「ああ、卵はひとつ、目玉焼きにしてよ」とジムがいった。
「いやあ、卵六個分の目玉焼きではどうですかな」と私がいった。
カナダに来るまで、私は自分の皿の上に卵を二個以上のせるようになろうとは夢にも思わなかった。しかし、カナダ人たちときたら、食べることにかけては名人なのだった。
「あと、ベーコンはどう? ようく焼いたやつ。カリカリで、でも焦がしてないの」
私はオートミールのおかゆは好きだが、やはり、来る日も来る日もそれだけでは、少しばかり飽きてしまう。鉱山に戻ったら、コックに頼んでベーコンを食べさせてもらえるんじゃないかな? 卵を一個か二個つけて。
たっぷりだけど、オートミールだけの朝食を食べ、コーヒーをもう何杯か飲んだあと、その日一日の活動を始めるべく、スリーピングバッグからはい出した。私が真っ先にやったのはテントの外に出て、きのう開けた穴に張った新しい氷を砕き、前の晩に下ろしておいた夜釣り糸を調べてみることだった。糸には豚の脂身をつけておいた。重かった。動いている。歓声を聞きつけて、ジムがテントからはい出してきた。「かかったかい?」私は糸を両手でたぐり上げていた。やがてすばらしく太ったレイクトラウトが穴から上がってきた。四、五キロかそこらはあるだろう。
私は手早くそれを洗った。魚はもう凍りはじめていたが、さらに水に何回か浸して全体を氷の被膜で覆った。味が落ちるのを防ぎ、魚肉を乾燥させないためだ。私はひそかにほくそえんだ。コックにやるわいろとして、この魚はまさにぴったりだ。
その日の行程は、これまでにも増して厳しかった。おそらく、極端な寒さと、積み荷のサンプルの重みのせいで、私たちのエネルギーの蓄えは枯渇しはじめていたのだろう。そんなとき、私の心は白昼夢の世界へとさまよい出る。重い足どりで一歩、また一歩、右、左、右、左、と歩を進めながら……。
ポートラジウムに着いた翌朝
ごちそうの中にあったのがソバ粉のパンケーキだ
ポートラジウムの町の灯は、何時間も前から見えていたが、少しも近くならないように思えた。暗闇の中を歩き続けやっとたどりついたころには、夕食どきをはるかに過ぎていた。ああ、熱い風呂に入って、二、三杯酒をひっかけ、暖かい部屋で柔らかなベッドにもぐり込むのが、なんたるぜいたくだったことか。あの魚は、まっすぐコックのところに持っていき、あげるよといっておいた。
次の朝、私たちはコックに招かれ、銀鉱の鉱夫食堂で朝食をごちそうになった。食堂には百人くらいの男たちがいて、コーヒーだ、朝飯だとわめいたり、給仕をからかったり、互いに軽口をたたいたりしていた。彼らはタフで、働き者の男たちだったけれど、その彼らでさえ、私たちの食べる量には目をむいていた。私が平らげたのはステーキ二枚、卵十二個、山盛りのベーコン、フライドトマト(男たちの大好物だった)、トースト四切れ、コーヒー五杯、グレープフルーツ、オレンジジュース、それにソバ粉のパンケーキだった。
あのソバ粉のパンケーキときたら、なんとなめらかにのどを通り抜け、腹の中に消えていったことか。軽く、胃にもたれず、作り方も簡単で、手早くできる。このパンケーキはカナダの荒野にキャンプを張り、採鉱や伐採にいそしむ人々の主食なのである。
その昔の開拓者たちはこのパンケーキの種《たね》をバケツ一杯作り、発酵するまで放置しておいたものだった。こうすれば少しの酸味が加わり、適度の発泡のせいでパンケーキは軽くフカフカになるのだ。
カナダ人がいちばん好きな食べ方は、これにバターを少しのせ、メープルシロップとカリカリのベーコンを添えるやり方だ。私はこれがひどく気に入ってしまい、種が発酵するまで待つかわりにヨーグルトを加えることで、開拓者のパンケーキの味をそっくりまねする方法を考えついた。
ソースとしては、メープルシロップがなければ、どんなものでもいいから新鮮な果物を刻んだもので十分だ。私が好きなのは、赤砂糖を温めてキャラメル状に煮溶かし、バターとラム酒を入れ、刻んだリンゴやベリーの類をすばやく混ぜ合わせてつくるソースだ。
簡単でおいしいものとしては、パンケーキに赤砂糖を振りかけ、レモン半個分を絞りかけるのもよい。
ここ黒姫は、グレートベア湖の上ほど寒くはない。だが私の作るソバ粉のパンケーキは子供にも大人にも人気があるのだ。ひとつ試してみてはいかが? ソバ粉のパンケーキ
● 材料
ソバ粉七、小麦粉三の割合
プレーンまたはナチュラルヨーグルト
卵(パンケーキ三個に卵一個を使う)
牛乳
ベーキングパウダー
塩少々
● 作り方
材料を合わせ全体がなめらかになるまでかき混ぜる。スプーンですくうと、ゆっくりたれてくる程度になるように牛乳の量を調節する。バターひとかけらをフライパンに入れて熱する。おたまじゃくし一杯分の種を注ぎ入れる。
表面にブツブツ泡が立ってきたら、裏返してよいだろう。あまり強火にしすぎないこと!
● フルーツソース
バターをひとかけら、水少々と赤砂糖大さじ一杯を鍋に入れる。砂糖が溶け、水分がなくなって、砂糖とバターがキャラメル状になるまで熱し、火を止める。よく刻んだ果物をこれにすばやく混ぜ入れ、ラム酒かブランデーを少量注ぐ。パンケーキに添えて、熱いうちに食べる。
北極の特製ハンバーガー
But no French Fries!
私たちは調査船カラナス号に乗り組んでいた。カナダはバフィン島の南、カンバーランド・|サウンド《海峡》の氷の海を、船は右に左に氷をよけながら進んでいく。この氷のおかげで、私たちはさんざんな目に遭っていた。六人とも三日近く眠っていなかったし、交代で高いマストに登り、そこに座って船の行く手を見張っていなければならなかった。
カラナス号はナンセンの船を模倣して造られたらしい。氷の中を航行できるように設計されており、造りは頑丈だし、しっかりしている。弾力のあるオーク材で作られた船体は、万一氷に挟まれても、理論上はちゃんと氷の上に飛び出るような構造になっていた。ちょうど指でレモンを絞ったときに種が飛び出すのと同じ理屈だ。それにしてもレモンの種の上にのっているというのは、思っただけでもあまりぞっとしない話だった。
私たちは疲れきっていた。四六時中、進路を探りつづけ、海をにらみつづけていると、目はかすみ、涙がにじんでくる。氷は絶えず位置を変えており、その割れ目や水路《リード》にしても、開いたかと思うとすぐさま閉じてしまうのだった。岩の多いゴツゴツした岸辺には、クマの歯のように、山の連なりがぼうっと浮かんで見えた。氷山はきらめく大寺院さながらに海岸を点々と彩《いろど》っている。こうした氷山のうちのどれひとつにぶつかっても、船は木っ端みじんになるだろう。
そのうえ、ここでは潮位は十メートルを超え、フィヨルド(氷河によってできたU字形の谷が沈降した狭長な入り江)は四十キロの深さで海峡に入り込んでいる。そのせいで、潮の満ち引きとともに、すさまじい激流が流入し、また逆流するのだった。
船の右舷《うげん》方向に山が薄黒い姿を見せている。海図に書かれたその山の名前を見て、私は声を立てて笑ってしまった。ウーシューアルク山と書いてある。海図製作者にこの山の名を教えたイヌイットのガイドが、どこのだれなのか知らないが、奴はまんまと相手をかついだのである。そんな名前があるものか、「ウーシュー」というのはイヌイット語でペニスということだし、「アルク」は大きいという意味を表す接尾語なのだ。
岸に沿ってしばらく行くと目的地のクリアウォーターフィヨルドへの入り口に出る。今いる最後の氷海の所で時間を取られすぎさえしなければ、潮が変わる前にフィヨルドに入れるだろう。船には強力なロールスロイスのエンジンがついてはいたけれど、こうした激流と氷に加えて、岩だらけの危険なフィヨルドの入り口を抜けるという状況下では、潮の時間に合わせて正確に動くことがなんとしても肝要なのだった。少しの手違いでもあれば、とたんに船腹に穴が開いてしまう。そんなことになったら、北極の冷たい海の中では、人はほんの数秒しか生きていられない。
私はマストの上にいた。遠征隊の隊長で船のキャプテンでもあるアーサー・マンスフィールド博士が舵《かじ》をとっている。タテゴトアザラシの小さな群れが水面を滑っていったかと思うと、やがて急角度で左舷に向きを変えた。私は彼らを目で追った。そのうち彼らは右に向きを変える。水は見えなかったけれど、ギラギラとまぶしい白い浮氷の上を、彼らの銀色の背中がひらりと動くのが見える。私は双眼鏡で彼らのあとを追う。やがてアザラシの群れは岸近くの開けた水面へ飛び込んでいった。アザラシたちにあれだけ自信があるのなら、私たちもそうでなくちゃ。彼らだって危険なのは私たちと同じなのだから。
船が入り江に到着すると
茶色い顔の狩人たちがやって来た
「面舵《おもかじ》! 左舷方向クリア!」
と私が叫ぶ。
アーサーはニヤッと笑うと手を振ってよこし、舵をぐっと左に回した。
私たちは氷を抜けきった。小さな船は、あっというまに切り立った岩壁の前を走り抜けていった。ウミガラスやケワタガモがびっくりして騒ぎ立てる。小さな浮氷が船のわきでクルクルと回転したり、つま先旋回したりして踊っている。そのいたずらな指でこづかれると、船はちょうどベースドラムのような共鳴音を響かせるのだった。
「ようやく入れたぞ!」
へさきでデイブが歓声を上げる。
機関士のダグが頭を突き出した。私は上から奴に手を振ってやった。双眼鏡をのぞくと、フィヨルドのとっぱなの所に、白いテントがごちゃごちゃと集まっているのが見えた。船はそちらに向かってにぎやかにエンジン音を響かせ、てんでに口笛で呼びかけた。陽気な音はこだまとなって返り、それがまたこだまを呼んだ。
そこには広くて浅い入り江があり、底は柔らかな砂で、なだらかな傾斜になっていた。入り江の外に比べ、ここでは水も温かく、危険も少ない。|ベルーガ《シロイルカ》が子を産みに来るのもここだし、年に一度イヌイットたちもこの地を訪れて狩りをする。フィヨルドのあちこちで、小さなクジラの雪のように白い背中が目につく。浮上して潮を吹くときの、羽毛を散らしたような水しぶきも目についた。
私たちがここに来たのは狩りが目的ではなく、調査のためだった。
深度計の目盛りが十五メートルを指したところで、船はエンジンを止め、アンカーを下ろした。体中がこわばり、疲れきったエテ公よろしくマストから降り立った私は、コーヒーでももらおうと、厨房《ちゆうぼう》兼食事部屋のある船尾へと足を運んだ。ダグにコーヒーを入れてもらっていると、イヌイットの|運搬用カヌー《フライター》がエンジンを切って船に横づけする音が聞こえてきた。お客さんたちの到来だ。茶色い顔の、満面に笑いを浮かべた狩人たちが、私たちにあいさつし、いっしょにコーヒーを飲もうとやって来た。中のひとりは私の友達で、いっしょにアザラシ猟をしたことのあるイピーリーという男だ。イピーリーと仲間たちが室内にどやどやと入ってきた。私たちはイヌイット語と英語のチャンポンで、旅のこと、氷のこと、タテゴトアザラシのこと、シャチのこと、そして昔からの友人たちのことを話し合った。
弾と交換で手に入れた
ベルーガの赤肉とムクトゥク
「ニック、あんた弾持ってるかね」
当時、イヌイットたちはいつも弾を欲しがっていたものだ。
「どんなのがいいんだ?」
「〇・二二口径のやつ。30―06のも欲しいな」
「よし、30―06なら五十個あげられるよ。それで全部だ」
と私はいった。
「〇・二二のやつを一箱やるよ」
とデイブがいう。
私には考えがあった。ここ二週間というもの、船では缶詰の肉と塩漬けのベーコンぐらいしか食べていなかったのである。
「ベルーガの肉、少しもらえるかい、イピーリー?」
彼はオーケーのゼスチャーをした。
「取りに来な。ムクトゥクもやるから」
ムクトゥクというのは、イヌイットのごちそうのうちでも最高の珍味である。その後何年もたって、私は南氷洋で日本の捕鯨船上でムクトゥクを食べることになるのだが、このときはベルーガではなくて、ミンククジラのムクトゥクだった。日本の鯨捕りたちはこれをホンカワと呼んでいた。だが、ベルーガのムクトゥク――皮と脂肪の部分――ときたら、中でもいちばん風味に富み、しかもうまいのだった。
「ぼくもいっしょに行くよ、ニック。少し鯨の計測もやりたいし」
アーサーと私は自分たちのカヌーを水に下ろした。カヌーに降り立った私は、まず、ガソリンタンクと船外エンジンをチェックする。ここからイヌイットのキャンプまではじきだった。だれも彼も、女も子供も、犬までも駆け下りてきて私たちにあいさつした。満潮線より上の所には一ダースほどの鯨の骨が肉をそがれてころがっていた。猟はうまくいったのだ。
アーサーと私は頭と背の骨を計測し、年齢を知るために歯を採取した。殺したクジラの性別を狩人たちに尋ね、私たちのやっている仕事のことを説明する。いつものように彼らは手伝ってやるよといってくれた。
イピーリーがベルーガの切り身を持ってきた。巨大な厚切りが二枚、それと、一辺が二十五センチはあるキラキラ光る白いムクトゥクの塊。アーサーと私はさっそく端を切り取って口に入れた。だが私は船に帰ったら、これを使ってもっとずっとおいしいものを作るつもりだった。しばらく日本に暮らしてからというもの、私は刺身の味を覚えてしまい、以来北極へ行くときはいつでもしょうゆの大缶と粉末わさびを携えていくことにしていた。イヌイットの流儀で食べるムクトゥクもうまいにはうまいけれど、しょうゆとわさびで食べるほうがずっとおいしくなる。
上等なベルーガの肉を
どうやって連中に食べさせようか
だが船に戻ってみると、薄くスライスしたムクトゥクとベルーガの肉に手を出そうとする者は、私とアーサーのほかにはひとりもいなかった。全員白人で、アングロ・サクソン系のカナダ人である彼らは、火を通したベルーガの肉さえも食べようとせず、ひたすら缶詰の豚肉と豆の料理を食べているのだった。
「こっちを食やあ、力もつくし栄養ばっちりなんだぜ。そんなもん食べてたら、よぼよぼの駄馬みたいにへが出るだけじゃないか」
私は連中に向かって毒づいてやった。
次の日は私が料理当番に当たっていた。まだたっぷり残っているあの上等な赤い肉を、なんとしてでも使いきってやらなくては。むだにするなんてとんでもない。しかし、どう料理したらいいだろう。シチューにするか? |ポットロースト《鍋焼き》か? ステーキがいいだろうか? なにを作ったって、連中はベルーガの肉だってことに気がついて文句をいうに決まっている。
ひとつだけあった。北米の男たちなら、よほどの変人でもないかぎり、だれだって大好物の料理……。そう、ハンバーガーだ。
たまねぎが一箱だけ、まだ残っていたっけ。芽が出ちまってはいるけれど、たまねぎであることには変わらない。それに、塩気の効いた、ベーコンの厚切りもある。私は肉ひき機を取り出し、山のようなベルーガの肉をひきはじめた。次にべーコンをひく。ベルーガとべーコンの割合は四対一だ。たまねぎとにんにくを刻んで、こしょう、セイジ、タイム、オレガノなどの香辛料を加える。奮発してケワタガモの卵(私が密猟してきたやつ)をこれに割り入れ、シップス・ラムをちょっぴり注ぎ入れる。最後に全部の材料をまとめ、パン粉といっしょによく混ぜ合わせてから、素敵な丸いハンバーグを形づくる。このハンバーグがレンジの上でジュージューと音を立てはじめるころには、自家製ならぬ自船製のハンバーガー・バンズは焼き上がってオーブンから出すばかりになっていた。
連中が船に戻ってきて、テーブルに置かれたあつあつのハンバーグの山、半分に切ってバターを塗ったバンズの大盛り、たまねぎの薄切りとプロセスチーズを入れた皿、そしてもちろんケチャップのびんを見、こうばしいにおいをかいだときの顔といったら……。目玉が飛び出さんばかりだった。このほか、めいめいに船で作ったビールの大ビンが二本ついている。フィヨルドの冷たい水でよく冷やした、強くて泡立つ酒だ。
みんな腹がペコペコだったせいか、それとも缶詰料理に飽き飽きしていたためか、あるいは本当に料理がうまかったのか、それはわからない。だが、あとにも先にも、このときほど私の料理がほめそやされたことはなかった。文字通りかけらひとつ残さなかった。
「ほんとにこれがベルーガなのかい?」
あごに肉の脂とケチャップをつけたまま、デイブが尋ねる。
奴ときたら腹をすかした金魚よろしく、夢中で口を動かしている。私はうなずいた。
「そんじゃ、中に混ぜたベーコンが効いたんだな。こりゃあ最高のハンバーガーだぜ!」
「マクドナルドでも、ベルーガ・ベーコン・バーガーを売り出すべきだよな」
機関士のダグがビールをあおりながらいった。
「これになにが足りないか、やっとわかったぜ。フレンチフライさ、付け合わせのフレンチフライがないんだよ!」
ジョンが叫んだ。
少しムッとして私は奴に向かい、船にはじゃがいもが切れているんだぜといってやった。
「おれたち北極にいるんだからね」
ここでアーサーが私たち一同に対し、今日だけは割り当て分のラムをいつもの倍飲んでいいことにすると告げた。
「そうだよな、マクドナルドじゃあオーバープルーフラム(北極地方で飲む九十パーセントのラム)なんて出ないもんな」
と私がいった。
私のワイン修業
Wine
クリスマスだった。大人たちは陽気に酒を飲み、気が大きくなっていた。私が生まれて初めてワインを口にしたのはこのときである。ほんの子供だった私に、おじが自分のグラスから甘口のシェリーを一口だけすすらせてくれたのだ。実にうまかった!
十五歳のとき、私は交換留学生としてフランスに渡り、この地で生活そのものの一部になっているワインを知るに至った。アヒルのひなが水に慣れるように、私はワインに慣れていったのである。私が住み込むことになった家は田舎の小さな平家だった。場所はボルドーの外れ、ソーテルヌ地区のスロンという小さな町の近くだ。家は質素で、家具はごくわずかしかなかったが、彼らの食事には、ちょっと信じられないほどのぜいたくな雰囲気があった。着いた最初の晩、私を預かったフランスの「お母さん」は、裏庭で枯れたぶどうのつるを燃やし、ガロンヌ川で取れたばかりの鮭を焼いて食べさせてくれた。ほかにも生ガキにエスカルゴ、ありとあらゆる野菜、スパイスの効いたソース添え子牛肉のカツレツ、チーズに果物というごちそうだった。最初の晩も、その後も、毎晩テーブルには赤と白のワインが置かれていた。ボトルにはラベルなどはってなかった。ムッシュー・ニッフルが、近くのワイナリーにボトルを持っていき、ワインを詰めてもらっていたからである。彼はワインが大好きだったけれどけっして酔っ払うことはなかった。いつでも、まずスープを半分飲んで、それにワインを加え、ワインとスープを半々に混ぜて飲むのだった。
故郷《くに》のイギリスでは、クリスマスにしかワインを飲まなかったから、私がワインと料理との味のコンビネーションについて基礎知識を学んだのは、このフランス滞在中のことだった。「鮭やカキには軽い辛口のワイン、子牛肉にはもっとコクのある赤ワインが合う」といった調子である。
ブドウ園巡りにも連れていってもらった。ソーテルヌには有名なブドウ園が数多い。そこで私は、ムッシュー・ニッフルの一週間分の収入がパーになるんじゃないかと思えるほど、ワインをガブ飲みした。
しかしそのころ、すでに私の味覚は、私自身の性格とかなり似かようほどに成長してきていた。素朴で順応しやすいけれど、どちらかというと頑固で、俗っぽいことは大嫌いといった具合にである。
つまり、私にとっては、ここのワインなんかより、ラベルのはってないニッフル家のワインのほうがずっとおいしく思えたのだ。
私はイギリスに戻った。「ボトルド フレンチサンシャイン(びんに詰めたフランスの日光)」と私自身が名付けた二びんのワインをリュックに詰め込んで……。
当時イギリスでは、輸入ワインはとても高価だったから、帰ってからはほとんど飲ませてもらえなかった。それにイギリス人はフランス人と違って子供にはあまり気前がよくないのだ。私はまだ十六歳にもなっていなかった。
十七歳のときに、私は野生生物の研究と保護の道に足を踏み入れることになった。私の最初の北極遠征旅行がその年だったのである。北極ではワインはほとんど飲まなかった(そこの気候はあまりぶどう作りには向いていないようだから)。
きわめてえり抜き、特別な
アジスアベバのなぞのレストラン
一九六九年、エチオピア北部の高山地域に新しい国立公園が計画され、私は最初の猟区管理官に選ばれた。まずロンドンに飛んでパブに飛び込み、ビールとポークパイをしこたま腹に詰め込み、次はローマに立ち寄ってビストロでの赤ワインとパスタで口直し。そしていよいよアジスアベバに乗り込んだ。
既設の国立公園で働いているベテランの管理官が、一夜、私を町に誘ってくれた。彼は、きわめてえり抜きの、かつ、きわめて特別なレストランで、まず食事をしようじゃないかというのである。
私たちはタクシーで郊外に出た。背の高いユーカリの木々が、ひんやりした夜の微風に揺れていた。家々でたいている香《こう》の匂いと木々の香りが、混じり合い、空中にたゆたっていた。頭上ではトビがさえずっている。「レストラン」に着く。外観は、エチオピアの都市部でよく見られるイタリアンスタイルの、ごく普通の家。私たちはドアをノックした。看板もなにもかかっていない。まばゆいばかりの白いシャーマを着たエチオピア少女が現れ、私たちを招き、居間に案内した。レースのカバーのかかった深い肘《ひじ》かけ椅子にゆったりと身を沈めて待つことしばし、例の少女がアペリティフを運んできた。今まで味わったこともない飲物だ。
「こりゃなんです?」
私は尋ねた。
ベルモットのようでもあったが、その味はヒースの香りを思い起こさせた。
「ここの主人、ルイジの手製だよ。ワインになにか山地の香草を仕込むんだ」
私は部屋を見回し、壁に掛っているハイレ・セラシエ皇帝の大きな肖像画に向かってグラスを差し上げた。メニューはあるかと聞くと、友人はニヤッと笑って首を振った。
アペリティフを二杯お代わりして、三十分以上も私たちはそこで待っていた。やっと主人が入ってきてお辞儀をし、遅くなったことをやたらに詑びた。私たちは食堂に通された。食堂はとても小さく、テーブルは二つしかなかった。片方のテーブルには赤と白の格子のテーブルクロスが掛けられ、上等な陶器、どっしりした銀器、キャンドル、それに赤と白のワインが入った大きなデカンターが二本並んでいた。
最初にスープが出た。次にティラピア(アフリカ産の熱帯魚)が運ばれてきた。主人の話では、これはリフトバレイにある湖で取れたもので、氷詰めにしてトラックでここまで運んできたものだそうだ。炭火であぶり焼きしたこの魚は、むろん白ワインといっしょに、腹に収めた。
続いてフランコリン(キジ科の鳥)の登場。まるのままあぶり焼きにして、二つに切ってある。これまた白ワインがよく合う。
密猟した大型ガゼルの料理を食べながら飲んだ
天才ルイジの十五年もの秘蔵ワイン
メインコースをひと切れ口に入れてみる。それは、これまで味わったこともない肉を風味よくあぶり焼きにした料理だった。
「ムム……、うまい。シカの肉ではないし、カリブーでもない。イノシシじゃあないし……」
友人は笑った。
「君は今アフリカにいるんだよ。ルイジ、この肉はなんだい?」
「ウォーターバックです、お客様」
「ウォーターバック?」
私は聞き返した。
その大型ガゼルは、保護の対象になっていたんじゃなかったのか? 私はもうひと切れ取って、赤ワインでのどに流し込んだ。
「ほかにはどんな肉が出るの、ルイジ?」
私に片目をつぶって見せると、友人が尋ねた。
「クズー、オリックス、ディクディク、クリップスプリンガー、ブッシュバック、それにガゼルならどの種類でもありますし、あと鳥も全部そろってます……。お客様、私のカモ料理を召し上がらなくては……。時々はカバも出ますし、ワニだって手に入りますよ。もちろん味はあまり上等な代物じゃあないですが」
友人はルイジの方を向いてニヤッと笑った。
「ルイジ、この人がなんの仕事をしているかわかるかね」
ルイジは笑みを浮かべたまま、私を見た。
「なにをしておられるんで? お客様」
「猟区管理官だよ」
と私が答えた。
かわいそうにルイジは笑い出した。だが私は真面目な顔で、本当のことなんだよと教えてやった。私の仕事は野生生物の保護なのだ。ルイジの顔は、オリーブ色の皮膚の下で青ざめた。友人はゲラゲラ笑いだした。まさにすごいジョークだった。
「なあ、悪党のルイジ旦那よ。私は二年以上前から、ここをひいきにしてるね。お前さん、私の仕事を知らないんだろうな?」
不安げな様子で、ルイジは首を横に振った。
「猟区管理官なのさ!」
友人は汁気の多い肉をひと切れ、フォークに突き刺すと、グレービーに浸した。
「お前がこれほどの料理の天才じゃなかったら、何年も前に捕まえていたぞ。密猟者から肉を買ってるのを、私たちが知らないとでも思っていたのかね? そうだとしたら、ちょっとばかり甘いね。だけど気をつけろ。国立公園には手をつけるんじゃないと、やつらにいっとけよ、さもないと……」
彼はワインの入ったグラスを持ち上げ、深いルビーレッドの液体に、ろうそくの炎のきらめきをとらえた。
「なあニック、ぼくは天才の仕事の邪魔はしないでおくよ。それに、皮や角だけのために、さんざん獲物を殺してる密猟者がたくさんいるんだからね。このルイジはワインまで自分でこしらえるんだ。アスマラからトラックでぶどうを運んできてね」
ルイジはお辞儀をして部屋から出ていった。私は頭が混乱してしまった。なにしろ、猟区管理官の仕事は初めての経験だったのだから。しかし、ワインと肉とは、確かに文句のつけようもないほどの絶品であった。ルイジが地下の貯蔵室からボトルを取り出し、ほこりをぬぐいながら部屋に入ってきた。
それは彼が十五年間秘蔵していたワインだった。私は、この件に関して自分がわいろを受け取ったとは思いたくない。その証拠に私たちは食事代として、飛び切り高い料金をちゃんと払ったのだから。そのワインときたら、バラの花びらのごとく、軽やかだった。そして、私は確信した。天才の邪魔をするなんて、やはり愚かしいことなんだ。ルイジのように、野生動物の肉と香草とスパイスと、そしてワインとを絶妙に組み合わせることができるのは、まさに天才のなせる技なのだ。
真っ赤に焼けた火かき棒を突っ込んで作る
特製かんワインを飲めば雪男だって溶ける!?
その後二年間、私は高山地帯に住んだ。いちばん近い道路からも四十キロはある所だ。ワインはラバの背につけて運んでくる。アスマラで作られる一種のキャンティワインで、安くておいしいばかりか、その空ボトル一本で、大きな鶏一羽と交換できるという貴重品だ。私が自分で建てた小屋の脇には、高木性エリカとオトギリソウの木立が茂っており、わき水が流れ出していた。このわき水で冷やして飲むワインは格別だった。
パトロールの間は、のどを焼くような「アラキ」か、土地の「タラ」ビールのどちらかを携えていく。家では、スパイスの効いたエチオピアの「ワット」ミートソースに、「インゼラ」パンケーキ、それに「テジ」というはちみつで作った甘いワインを合わせる。週に少なくとも三回は肉を焼いた。まずバター、ニンニク、ダナキル砂漠で採れた塩、練りとうがらし、山地に生える野生のタイムなどで下味をつけ、ホイルに包む。これを、暖炉の火床に残った灰の中に深く埋め込んで焼くのである。肉が焼けるのを待っている間、わき水で冷えた赤ワインをすすりながら、日誌をしたためたり思いにふけったりする。この赤ワインのなんと深く心に沁《し》みていったことか。
小屋は海抜三千メートルもの高さにあったため、毎晩のように凍りついた。しかも、道路からはひどく遠く、訪れる人は一日がかりだった。闇のとばりが下り、気温も下がっていくころに、ようやくたどり着いた客たちは、みな冷えきって疲労こんぱいといったありさまだった。
そんなとき、私は炉の中に鉄の火かき棒を突っ込む。親指ほどの太さのやつだ。まきが炎を上げて燃え、私はしろめ製(すずと鉛などの合金)のマグに赤ワインをなみなみと満たしておく。ワインには土地のはちみつ少々、クローブを少し、それにシナモンスティックを加える。
火かき棒の先端が真っ赤に焼けたら、これをワインの中に突っ込む。シュー! ジュ、ジューッ! 熱い鉄のせいで、中の糖分はキャラメル状になり、ワインは熱せられて、ちょっと熱すぎるかん酒ぐらいの温度になる。芳香が部屋中に満ちる。この特製かんワインをマグに一杯も飲めば、雪男だって溶けてしまうに違いない。
ワインは、自分に合うものを選び
料理や気分と上手に組み合わせて楽しむこと
話を日本に移そう。私は今、この原稿を書く手を休め、夕暮れどきの雪の妙高の峰に目をやる……。すると、二十年も昔の東京でのことが思い出されてくる。あるとき、私の前に「ワイン」とラベルのはられた飲み物が出されたのである。そのワインたるや、ひどく甘くて、胸の悪くなるほどの代物だった。それ以来、つい数年前まで、私は二度と日本のワインを試して見る気など起こさなかったのである。だから本物のワインが日本にあるということを知ったときのうれしさといったら……。ユニークで質もすぐれ、しかもかなり安いときている。
現在私は山の中に住んでいて、日本の狩猟ライセンスも持っている。ルイジのような天才ではないが、とにかく、野生の肉の変化に富んだ味がなによりも好きなのだ。野生の肉にはたくましい健全さといったものが備わっている。何年にもわたって、私は自分なりの料理のやり方と、ワインとの組み合わせ方について、研鑽《けんさん》を積んできた。野生の肉を本当にうまく料理するにはワインがどうしても必要なのだということを、ルイジは知っていたし、フランス人もイタリア人も、スペイン人、ドイツ人、そのほか多くの国民は知っていた。そしてこの私もそれを学んだ。
別に高いワインである必要などない。たいていの肉の場合、安いワインに含まれる酸のほうが、肉を柔らかくする作用にすぐれている。たとえばクマの肉を料理するときには、店で売っている中で一番安いワインに一日漬け込んでおく。そのあと、漬けておいたワインを捨て、肉汁を絞って別の皿に移し、香草、スパイス、ニンニク、ブランデー、それに、食事用の赤ワインをグラス一杯加えて煮る。
カモやハトの場合には、少し長めにマリネしておき、そのあと漬け汁のまま煮込むか、おきの上でホイルに包んでローストする。これらの鳥には、やや辛口の赤ワインを合わせるのが私は好きだ。
キジとヤマドリには、特有のデリケートな味があって、とてもおいしいから、マリネの必要はないと思う。
野生のノウサギにはいろいろな料理法がある。赤ワイン、たとえばポートワインなどで、そのままマリネしておくやり方もある。香草とスパイスを加えて、ゆっくりとトロ火にし、肉が柔らかくなり、ワインが蒸発しておいしいソースになるまで煮込む。これには白ワインかロゼが合う。どちらもよく冷やすことだ。
別なノウサギ料理に、ヒレ肉の網焼きがある。まずウサギの長い背肉を切り取り、オリーブ油、ごま油、ニンニクをつぶしたもの、とうがらし、パプリカ、オレガノ、塩を混ぜたものを、肉にこすりつける。それから鍋で手早くいため、油にまみれたヒレ肉を取り出して炭の上で網焼きにするか、ガスグリルで焼く。こんがりと焼けたら、ごく薄く切って食べるのだが、まずは絶品のオードブルになる。妻もそうだが、女の人はたいがい、これにロゼを合わせるのが好きだ。しかし私自身は、冷やした赤ワインが一番好きだ(そう、これが常識外れだってことはよく承知している。でも、このやり方が、私にはおいしいのである)。
ときには、私もヨーロッパのワインを楽しむ。だが、ごく正直なところ、最高級のヨーロッパワインならともかく、それ以外だったら、日本のワインでもヨーロッパのと同じくらいか、あるいはもっとうまいくらいだ。
まず自分に合ったワインを選ぶことだ。そして、それをそのときの料理なり気分なりと正しく組み合わせて、楽しむことが大切なのである。
ワインはビールのようにガブ飲みするものではないし、日本酒のように人に強要するものでもない。
ひとつだけ、個人的な問題で、今悩んでいることがある。私は「タヌキ汁」が好物で始終食べているのだが、いまだに、これに合うワインを見つけられないのだ。実際のところ、これには地酒が一番だという気がしているのだが……。どなたか「タヌキ汁」によく合うワインをご存じの方はいないだろうか。もしいらしたら、ぜひ黒姫のニコルまでお教え願いたい。
PART 3
ニコルのアウトドア教室
キャンプには行きたし……
So You Want to Go on a Picnic?
キャンプには行きたし、さりとて、いざとなるとなにから始めればいいのやら……。こういう人は、結構多いんじゃないだろうか。
日本のように美しく、しかも変化に満ちた景観に恵まれた国は、めったにない。ところがひとたび自然の中に立つと、日本人ほどおそろしく破壊的なちらかし屋である国民も、これまた珍しい。それに、膨大な人口をかかえる先進国にしては、ちゃんとしたキャンプ場が信じ難いほど少ないのも驚きだ。だが、こういう悪条件にもかかわらず、友や家族がみんなでいっしょに楽しむにはうってつけのレジャーとして、キャンプの人気は高まりつつあるようだ。
そこで、私はまず、キャンプ協会のような団体に加入することをおすすめしたい。そうすれば、どんな物を用意して、どこへ行けばいいのか教えてもらえるはずだし、それに、これは私の経験からだが、そういった会のメンバーには概してマナーを心得た行儀のいいキャンパーが多い。
キャンプ場には、火をたくことを禁止している所が結構ある。だから、それは皆さん自身で探してもらうとして、ここでは、火をたいてもいい場所でどんなことができるか、二、三書いてみよう。
とりあえず気持ちのいい野外で、簡単な料理をしようじゃないか。次のリストの品がそろっていれば、まる一日、のんびりと自然の雰囲気を、心ゆくまで満喫できるはずだ。
なたかおの 一丁
伐採に使うような手のこ 一丁
シャベルのような、土を掘る道具 一丁
ロープと丈夫なワイヤー
大きめのブリキ缶 一個
小さめのブリキ缶 一個
石炭
鍋とやかん 一個
人数分の割れないコップ、お椀、皿
ナイフ、フォーク、スプーン
肉や魚をローストするためのグリル(頑丈ならば金網、本格的鉄格子、どちらでも)
アルミホイル
建設現場で使っているような大きいビニールシート(大抵派手なオレンジ色か青で、金物屋で手に入る)、または、既製のテントか日よけ
救急用品一式
ごみ袋(他人が残したごみは不快なものだ。必ず持って帰ろう)
百円ライター 二個
明るい懐中電灯、石油ランプもあればなおよい
ござのような敷き物
ふきん、食器洗いなど
これが要るとかあれが要らないとか、人によって違うだろうが、だいたいこんなところだ。もちろん、泊まりがけならば、もっと必要なものが出てくる。
私が使っているグリルは、鉄製の頑丈なもので、かなり大きなたき火にも、ゆったり架け渡すことができる。洗いものなどに使う水を、バケツいっぱいに入れて置いても、十分重みに耐えるのでとても重宝している。例の四角いブリキの石油缶は、ワイヤーを取っ手代わりに付けて水を運んだり、魚をスモークしたりするのにちょうどいい。残飯入れにもなるし、木の枝から吊るせばネズミの心配もない。それに、火をたいてはいけない場所でも、缶の中で燃やすぶんには差し支えない。私は工夫してネズミ捕りにも使うことがあるが、これが非常に効果的で、とにかくあると便利だ。
野外で火をたくときには
守るべきルールがいろいろある
さて、いよいよ、どこか火をおこしていい場所に着いたとしよう。だが、あらかじめかまどが設置されていない場合はどうするか。
海辺ならば大して問題ないのだが、草地はちょっとやっかいだ。まず火をおこす場所の芝草を四角く切ってはがし、わきにどけておく。帰るときには、水を十分かけて火を消し、切り取った芝を元の所へ並べること。必ず!
また、火をたくには、万が一にも燃え広がる恐れのない場所を選ばなければならない。上方に木の枝が伸びていると、熱で枝がやられてしまうから、それにも気をつけよう。
次にどちらから風が吹いているか調べ、それを遮るようにリフレクター(反射板)を建てる。海辺では、適当な流木が簡単に見つかるはずだ。なければ、枯れ木を切るか適当な大きさの石を探してくるしかない。たき火で暖もとりたければ、リフレクターの高さは六十センチは必要だ。もっとも私が話しているのはたき火のことで、キャンプ初心者がよくやる、すごく大きいかがり火のことは忘れてほしい。あんなに火をおこしたのでは、料理する前に、こちらが料理されてしまう。
料理用グリルは両側から支えるようにする。平らな石で、幅を十分に狭くすることができると、鍋そのほかを置けるのだが、そんな幸運はあまり期待しないほうがいいだろう。
もうひとつは、しっかりした支柱になるような木を集めて片側を束ね、即席の三脚を作る方法だ。私はよく、安物の犬の鎖で鍋をぶらさげるが、ワイヤーでもいけるし、枝のまたを利用してつり具を作る人もいる。鍋にうまく熱が伝わらないときには、三脚とつり具で調整しよう。火をつける前にもうひとつ。もしもに備えて、必ず水を入れたバケツをそばに用意しておくこと。
さて、火をつけるにも、実にいろいろなやり方がある。日本では、私はスギの枯れ枝やヤナギの外皮、乾いたクマザサの葉などを愛用している。枯れ枝のなかでも、木ならまだ生えているもの、枝ならまだ幹についているもののほうが、地面にころがっているものより乾燥しているようだ。カラマツだと、たいてい手の届く範囲に枯れ枝が交じっている。枯れ枝はポキッと簡単に折れるのですぐわかる。しなればまだ生きている証拠だから、そのまま残しておこう。しかし料理をするときにはたき火の炎より、石炭のほうが向いているのでこれも用意しておこう。
帰るときには、細心の注意を払って
キャンプ地を元通りにすること
食べられる野草も探してこなければならない。タンポポの若い葉やゴボウ、ギシギシ、そしてタラの芽を、レタスやトマトなど(こっちは野原にはないので、店で買って持参する)とミックスする。
灰ができ石炭が赤くなったら、ジャガイモを洗ってアルミホイルで包み、大きい釘を突き刺す。こうすると、熱が内部まで伝わって早く出来上がるのだ。さて、たき木をどけて、ジャガイモを灰の中に埋め、二、三センチ土か砂で覆い、その上で再び火をたく。
次はトリだ。まず家で下ごしらえをしてくる。ニワトリかアヒル、キジの腹に、ゆでた米、レバーや心臓《ハツ》などのサイの目切り、ミンチ、タマネギを混ぜて詰め込む。スパイスは、セージにタイム、塩、こしょう。皮と肉の間にも赤ワイン、しょうゆ、刻みニンニク、塩、こしょう、そしてバターを少々。全部詰め終わったら、中身が出ないようきちんとタコ糸で縫い合わせ、慎重にアルミホイルで包む。
当日は、このトリを熱い石炭の上に架けたグリルにのせ、金属製のバケツか石油缶を逆さにかぶせる。即席オーブンだ。
同時進行ではんごうで米を炊き、ニジマスやマッシュルーム、ピーマンをあぶる。火を見つめ、料理が出来上がっていく音に耳をすましながら、これをつまみに、ビール、もしくはワイン、もしくは酒をすする。
一、二時間のうちには、酒の肴《さかな》もあらかた片づいているだろう。そのころになると、はしを突き刺せば、トリとジャガイモのでき具合がわかるはずだ。ジャガイモには塩とバター、これが一番。トリの味は保証付きだが、詰めものはそれよりもっとうまい。
こうしてピクニックが終わったら、水をかけて火を消し、芝草を元通りにする。どこかから運んできた石があったら、それも元の場所へ戻す。細心の注意を払って、ごみやくずをひとつ残らず回収する。忘れ物がないか、全員にしかと念を押す。イギリスやカナダならば、この後、牛が入り込まないように、必ずキャンプ場へ出入りする門を閉めておかなければならないが、これはこの国では関係ないことだ。
では楽しいキャンプを!
クリー族のシェルター
A Woodlands Shelter
今までに私は何度となくテントの中で生活したことがあるが、そのうちいちばん長期に及んだのは、エチオピアのシミアン山中で経験した八ヵ月のテント暮らしだった。このほかにも六ヵ月間テントで暮らした経験が四回ほどある。イヌイットの雪の家イグルーの中で寝起きしたこともあり、カナダ北極圏のデボン島では四ヵ月もの間、イグルーがねぐらだった。私が原始的¥Z居の中で暮らした時間を足していったら、八年ほどにはなるだろう。要するにそんじょそこらの週末キャンパーとはけたが違うのだ。
いずれにせよ、人間がこの地上に姿を現して以来、今日まで、ほとんどの期間にわたって、人は住居《シエルター》を造って生活してきた。それぞれの種族には生活や旅の様式、環境に合わせた、独自の住居造りのやり方があったし、現在に残るものもある。モンゴルのパオ、北米の平原インディアンのティピ、あるいはアフリカのいくつかの種族でみられる優美なロンダヴェルを見るがよい。これらはみな美しく、実用的なうえ、そこに住む人が真の自由を味わえるようにできている。
ここ黒姫には森もあるし、雪の深い土地でもあるというわけで、ここにカナダの森林地帯に住む種族の使う差し掛け式のテントを作ってみることにした。クリー族の猟師が旅をする際に使うものだ。このほかにも彼らの住居としては、もちろん丸太小屋や大テント、一人用テントなどがあるが、ここで造ったテントは、造り方も簡単なうえ、雨風をよくしのぎ、六人の人間が楽に休めるだけの広さがあるものだ。
クリー族というのは、北方の森林に住むインディアンの一種族である。冬場は深い雪と過酷な寒さ、夏場は、それこそ無数の蚊やユスリカに悩まされる。ただ、ここ黒姫同様燃料にするまきだけはたっぷりある。黒姫には間引きの必要なカラマツがたくさん植えられた、友人の数百坪の林があり、そこをキャンプサイトとすることに決めた。
携帯した道具はベルトナイフ、なた、カナダおの、大きいビニールシート、ロープ、百円ライター、やかん、鍋、それにスリーピングバッグだ。
ハドソン湾会社《ベイ・カンパニー》がカンバス地を持ち込むまでは、森のクリー族たちがシェルター用に使っていたのはムースの皮だった。カンバス地は優秀な素材だが、重いし、高価でもある。
前面開放式テントならば
寝袋にもぐったまま周囲の自然を楽しめる
場所を決めると、やせたカラマツを三本切り倒した。その二本から、同じ長さの棒を六本とり、それぞれに切り込みを入れロープで縛って、三脚を二台作る。あと、てっぺんのはり材が一本、フロントのひさしにする横材一本、それにテントの背の勾配部にあてる支えの横材を二本とる。次に、三脚の前部にあたる脚二組を短く切って、テントの高さとフロントの勾配を調節する。最後にシートを縛りつけ、骨組みの上にかぶせ、ペグにひもでとめつける。冬期なら、サイドの周囲に雪を積んで壁を作ることもできる。雨のときには、サイドと後ろぐるりに溝を掘る必要がある。
このテントは三方向からの風を防ぐことはできるが、風向きが変わったらシートをほどいて、テントの向きを移さなければならない。しかし、この作業は男二人で五分もあれば十分だ。
今度はベッドである。ウイスキーをやりはじめる前に、ベッドの確保だけは忘れないように。カナダの森に住む種族の多くは、まず丸太で台を作り、草やこけをかぶせたあと、そこにカリブーやオオカミ、クマなどの獣皮を敷いて寝たものだった。
ここでは簡単なカナダの猟師のやり方を試してみよう。手早く出来るうえに、寝心地よく、地面が濡れていようと雪が積もっていようと関係ない。
まず常緑樹の大枝を両腕にたっぷり抱えてくる。小指よりも細いくらいの小枝をそこから切りとる。スギの木なら申し分ないが、マツでも悪くない。切った端を地面にやや斜めにすき間なく刺し込むと、密な緑のじゅうたんが出来上がるというわけだ。弾力ある小枝のじゅうたんがクッションになって、下に敷くシートや毛布、スリーピングバッグを地面から離す役目をする。もちろん、小枝をケチるなど手を抜かなかったらの話だが。柔らかく、こうばしい緑のベッドはたき火の雰囲気にまことに合うし、なにか食べたりするとき、とくに上等のキャンプフードなどにぴったりだ。
一週間かそこらは緑もあせず、しばしば根づくこともある。
シートが小さくて、サイドにすき間があくようなら、木の枝を切って地面に刺し、間に小枝やススキなどを通してやるとよい(インディアンはおそらくワラビの大きくなったものやシラタマノキなどを使ったものと思われる)。
実をいうと、私がこうした前部開放式《オープンフロント》テントを好きなわけは、スリーピングバッグにもぐったままで雨や風も気にせずにたき火を眺めていられるし、ウイスキーをすすり、空を見上げ、あるいはまた、周囲の森のたてるさざめきに心ゆくまで耳を傾けていられるからなのである。
夏の昼寝はハンモックで
Hammock
ハンモックという言葉は、西インド諸島の原住民の言葉「ハマカ」からきている。事実、この地域と南アメリカでは、ハンモックが日常、ごく一般的に使われている。
だが、北アメリカの人間にとって、ハンモックといえば、夏のイメージだ。ものうげな、けだるい夏の午後、高い木の陰で冷たい飲み物をすするといった連想である。
私は、ハンモックと聞けばすぐに、英国海軍にいたころの生活を思い出す。デッキの間にハンモックが何列もつられて、海の動きに合わせて揺れていた。
英国海軍では、その初期からつい最近に至るまで、寝だなで眠れるのは将校だけだった。兵隊はハンモックで眠ったものだ。ハンモックは、夜は簡単につり下げられるし、朝は朝で簡単に片づけられるというわけだ。
うまくできたハンモックで眠るのは楽しいものだ。床から高いので湿気も届かないし、地面をはい回る虫も避けられる。蚊帳、防水布、プラスチック・シート、雨ガッパなどを上からかければ、簡単にミニ・テントが出来上がる。
私が作るハンモックは一時間少々しか、かからない。しかも構造は実に簡単だ。本来は、自分でロープをより継ぎして、編み上げるのが私の好みだ。そのほうが格好よく仕上がる。しかし、サバイバルにおいては、すばやく簡単にが正しい規準である。
まず、長さ八十センチほどの、丈夫な棒を二本用意する。野外では大工道具を持っていないことが多いが、次の工程は、ドリルがあった方が都合がよい。
諸君が森にいて、ドリルは持っていない、でも太い針金のようなものは持っていたと仮定しよう。こんなときには針金を熱して、木を焼けば穴を開けられる。もしこれもできないというなら、ロープを棒に直接結びつければよい。
ドリルを使うか、焼くかして、棒の両側に穴を開けてから、両サイドのロープを通す。滑らないように、両端に結び目を作っておくとよい。
次に、両サイドのロープの間に、横にロープを何本も結びつけていく。私がやったのは、とても簡単な巻結びの変型だ。少なくとも、私は簡単だと思う。しかし日本の若者はこの結び方をマスターしようとして、ひどく骨を折るらしい。私は大勢の日本人に苦言を呈したい。なぜ諸君は子供のころ、基本的な結び方を習わなかったのだろう? もし習ったことがないのなら、ヨットの操縦法かボーイスカウトのマニュアルを手に入れて習いたまえ。手早く結ばなければならないような状況では、ふだんから実際に指を使って、体に覚え込ませておいた結び方しか役に立たない。考えながらやるようではだめである。
それはさておき、普通の巻結びに比べてこの変型の結び方は、よく締まってロープをかむので、網の目がずれることはない。
横のロープが結べたらあとは縦に数本結んでいけばよい。縦のロープの数だけ棒に穴を開けてロープを通す手もある。しかし、熱した針金で穴を開けるのは、かなり時間がかかる。
あとはハンモックの両端に、丈夫なロープを結んでつるせばよい。できるだけ高くつるすこと。というのはロープが伸びるからだ。
ハンモックに乗るには少しばかりこつがいる。しかし一度中でくつろいでしまえば、戸外で昼寝することの楽しさをわからないやつが来て、ひっくり返さない限り、落ちるようなことはない。
ついでながら網の目が小さければ小さいほど、居心地はよいけれど、作るのに時間もかかるし、ロープもたくさん必要になる。
まずは実際に結んでみたまえ! そして気持ちよく居眠りしたまえ!
ドラム缶風呂
Drum Can Bath
ドラム缶風呂なるものに私が初めて入ったのは――それも自分で作ったのだが――一九七八年、カナダはユーコン準州の辺地で三ヵ月間キャンプ生活をしたときのことだ。季節は夏、ちょうど数ヵ月後に日本に向けて発つ予定で、それまでの間、日本の地質学者のパーティーに同行して当地に来ていたのだ。一行はこの美しい無人の山々で銅資源の調査を行っていたのである。
私たちのキャンプは流れの速い川のそばにあった。澄みきった水が勢いよく流れ、一メートル足らずの深さの淵を、小さなサケが矢のように泳ぎ抜けていく。川底は丸い玉石だ。
この地域は高山タイガ地帯だった。パステル・グリーン、黄色、つややかな灰色など、地衣類が燃えるような色彩をみせる夏のツンドラのそこかしこに針葉樹の林が散在している。カリブーやムース、オオカミ、クズリも見かけたし、クマの足跡もよく目についた。ここまで来るにはヘリコプターのやっかいにならなければならない。
そんなわけで、このキャンプには風呂の設備などというものはなかった。川の水はふだんの入浴には、少々冷たすぎた。ではどうしたらいいか。
そういえば確か以前に、ドラム缶風呂のことを聞いたことがあった。そこで私はひとつ、そいつを作ってみることにした。
作り方はまことに簡単だ。ドラム缶を一個用意して、氷のみとハンマーでふたを切り取る。縁のギザギザは、よく注意して滑らかにしよう。風呂の出入りで体を切ったりしたら大変だ。すんだらこれを岩の上に据え、岩の踏み台をドラム缶の隣につける。缶の半分より少し上まで水を入れ、下から火をたく。
ドラム缶の底はひどく熱くなるので、足をのせる木のすのこを作って、底に敷く必要がある。でなければ、げたをはいて入ってもよいだろう。
しゃがんでいるお尻の周りから、熱いお湯がたっぷりと沸き上がっていく、その楽しさといったらない。これがこんなに気持ちのよいものだとは、それまでついぞ知らなかった。風呂につかったまま眺める周りの景色、傍らを過《よ》ぎる急流のせせらぎ、それらがこの湯あみを一層うれしいものにしてくれる。下を向いていれば煙も気にならない。たっぷり温まったら、お湯から出て、冷たい流れの中に身を横たえる。熱いお湯と冷たい川の水に、こうして交互につかっていると、ブヨやユスリカ、蚊などに刺された跡も治り、筋肉の痛みばかりか、頭痛までも取れていくのだった。
私が作ったこの風呂に、日本人の地質学者らも大喜びで入りはじめた。何ヵ月、あるいは何年間もカナダ暮らしの続いていた彼らは皆、こうして熱い湯の中に首までとっぷりつかるという、贅沢《ぜいたく》に飢《かつ》えていたのだった。今流行している屋外に置く式の風呂桶(これを据えつけるには何千ドルもかかる)は、当時まだカナダでは見受けられなかった。
私の体は相当でかいほうだ。身長一八一センチメートル、体重は九十キログラムもあるが、それでもこのドラム缶風呂には入れる。ひざが缶の内側の壁にこすれるけれど、日本式便所でしゃがむ要領で、かがんでいれば大丈夫。ただ、もし私があと一センチ背が高かったら、とてもこの姿勢はとれなかっただろう。普通の日本人体格ならそんな心配はない。入り心地は満点のはずだ。
運よく君が、川のそばにこのドラム缶風呂をしつらえることができたなら、入る前に必ず缶ビールを流れの冷たい場所で冷やしておこう。ただし、ビールを飲んだあとは、空き缶、ふた、びん、その他全部残らず持ち帰ることを忘れずに。あのユーコンのキャンプのときでさえ、あらゆるものをヘリコプターで運ばなければならなかったにもかかわらず、私たちは景色を損なうようなごみの類は何ひとつ残さなかった。
わが家の近くにも美しい川が流れている。その鳥居川の岸辺を散歩するたび、釣り人の残したごみに出くわすことの、いかに多いことか。
もうひとつ、川に飛び込んで冷水浴をするなり、お湯で頭を洗うなりするときに、使ったせっけん水は必ず流れを避けて、岸の上に空けるように。川の中でせっけんを使ってはいけないのだ、わかったかい?
インディアンのテント
Tipi
ティピとは北米インディアンの伝統的なテントのことである。形は円錐形《えんすいけい》、樹皮をはいだ支柱を先端近くで結んだフレームに、天幕をかぶせたものだ。てっぺんのふたつの垂幕《フラツプ》は、煙出しのため、開閉できるようになっている。昔はバツファローかムースの皮で作られていたものだが、今ではカンバス地が使われている。
北米では、高価な住宅の代用品として、このティピが次第に人気を呼んでおり、二階建てのティピまであるそうだ。居心地よく調度がしつらえてあり、暖をとるにはまきのストーブを使う。年間を通じて居住できるということだ。
私は今まで一度もティピで暮らしたことがない。これ以外のテントならほとんど全部、熱帯から北極に至るさまざまな気候の土地のものを経験ずみなのだが。その私がティピを作ろうと思いたった主な理由は、なんとかして避難所が欲しかったからである。文明生活の痕跡をとどめるすべてのものから逃れ、「山への話しかけ」をするためだ。
時期としては、ちょうどすれすれのところで間に合った。というのは、その日から雪が降り始めたからである。友人に手伝ってもらって、まずたき火用の穴を掘り、川から取ってきた石をたっぷり敷きつめる。そのあとティピを組み立て、最後に茅《かや》の葉を床に広げて終わりだ。完成した次の日からはもう、ジープでそこに行くのは不可能となり、かんじきをはいて歩いていかなければならなくなった。雪が固まったら、クロスカントリー用のスキーを使って、楽しく出かけることもできる。
今のところ、ここ黒姫の深い雪にティピがはたして適しているかどうかは、私にも確信が持てない。テントの構造自体は十分しっかりしているのだが、カンバス地を伝ってしたたり落ちる結露の問題は、かなりやっかいである。そのほか、乾いたまきを使っても、ティピの中で火をたくと非常に煙たいことがわかった。そこで石炭をしょって運び込み、たき火用の穴を日本のいろり風にして使うことにした。
私は現在、犬を連れてここを訪れ、ハンティング用の基地として利用している。使い心地はまずまずではあるが、結露は確かに問題だ。だがこれも解決は無理としても、裏張りをすることで、ある程度改善することはできた。支柱の内側にもう一枚カンバス地をつるすのだ。ただ、私のティピは小さいうえに、裏張りは場所ふさぎになりすぎて、取り外さざるをえなかった。
今度は、このティピを山のもっと上まで移し、暖房用には煙突つきの安いマキストーブを買おうと思う。
このところ、大雪が続いている。これを書いている今も、ティピの建っている所では雪はすでに二メートルの深さに積もっている。石炭を袋にいっぱい詰め込み、スリーピングバッグと鉄砲を持って、明日、あそこに行こう。一晩をティピの中で過ごし、狩猟を楽しむのだ。
トイレはただの穴じゃない
Not Just a Hole in the Ground
確かにネパールは雄大な国ではあるが、そこをトレッキングするとなると、しばしばきわめて不愉快かつ不衛生な目にあわざるをえない。これはひとえに、キャンプサイトの周辺にトイレがないためである。
山野を旅して、ほんのひと晩そこにとどまるつもりなら、シャベルを抱えて、茂みの中にもぐり込むだけで用は足りる。
だが、もっと長時間、たとえば一週間かそこら、荒野で野営しようというのなら、いちばんよいのはトイレを作ることだ。
最も簡単なトイレは、地面に穴を掘って作る。必ず最初に芝土を取りのけておき、ここが用済みになったら、元通りに埋め込んで芝を置き、それから出発するように。私がこのタイプのトイレを考え出したのはエチオピアでのことだった。そこのシミアン国立公園の猟区管理官を二年間務めていた私は、公園内にボックス型のトイレを置くというのが気に入らなかった。景観が台なしになるし、しかも、きわめて限られた予算でそれを作らなければならなかったからである。
さて、掘る穴の深さはキャンプの人員と期間とによって異なる。一メートルの深さがあれば、四、五人のキャンプで一週間はもつだろう。もちろん、深ければ深いほど結構だ。
場所を選んだら、トイレの汚物が水源まで染み込んでいかないか確かめよう。それと、いうまでもないことだが、においを運んでくる風のことも十分気をつけられたい。
ともかく、まず穴を深く掘り、穴のそばの一定の場所に、掘り出した土を積み上げておく。ここがきわめて大切なところだ。シャベルか板切れなどを土のわきに置いておき、用のすむたびにそのほぐれた土をすくって穴の中に振りかけておかなければならないからである。こうすれば悪臭も防げるし、汚物の分解も早まり、ハエがよりつかないから不衛生になる心配もなくなるというわけだ。
次に掘った穴の上に丸太を渡す。丸太の台つきのトイレは、それのないトイレよりもずっと深く穴を掘ることができるのだ。口をすっぱくしていっていることだが、切るべきでない樹木は決して切らないように。
このトイレはもうひとつ特徴がある。トイレの真ん前に、土中深く叩きこんだ丈夫な木の棒だ。これを「ふんばり棒」という。トイレに入って大きいほうを出したいとき、この棒を両手で握るのだ。試してみたまえ、すばらしく楽だから。
エチオピアで作ったトイレの周りには、丈夫な杭《くい》を立て、小枝を編み込んだ格子作りの柵《さく》で目隠しが作ってあった。だが一時的なキャンプのトイレには、そんなに凝る必要もない。木の枝を切り取り、ひらがなの「の」の字の形にトイレの周りの地面に刺し込んでいくやり方でよいだろう。特に、木の根元から生えている枝が最適だ。おそらく枝の多くは根づくだろうが、そのキャンプサイトに戻ることもないのなら、最終日の朝のキャンプファイアーは、このトイレの目隠しでやれるというものだ。清潔で、簡単で、においのないトイレがあるのとないのとでは、キャンプ生活はだいぶ違ったものになる。このトイレなら、最後に目隠しを燃やし、穴を埋め、取りのけておいた芝土を戻してやれば、来たときそのままの状態でキャンプサイトをあとにすることができる。
トイレに入るときは、財布やナイフを穴に落っことさないよう気をつけよう。エチオピアでは、ペットとして飼っていたライオンが、いちばん深いトイレの穴に落ち、その結果さんざんな目にあわされた経験がある。
穴に落ちたライオンが、うなったり、吠えたり、ひっかいたりの大騒動のすえ、引き上げられてきたときの姿を見、においをかいだ私としては、あれと同じ役割を演じるなどまっぴらである。
諸君もようく気をつけたまえ。
PART 4
私のお気に入り
ナイフは語る
Knife
私にとって初めてのナイフは、ちょうど十歳のとき、祖父からもらったナイフだ。重い船乗り用の古いジャックナイフで、折り畳み式の刃と、ロープを組み継ぎ《スプライス》するためのスパイクがついていた。祖父は仕事場にしている納屋の中で、オイルストーン(油|砥石《といし》)の上でそれを研ぐこつを伝授してくれ、ついでにこんなことも教えてくれた。だれか、ある人間の性格が知りたかったら、その男のナイフを見るがよい。ナイフがなまくらで汚れていたら、持ち主のほうもたぶん、だらしなくて退屈で、しかも薄汚ない人間だろうよと、祖父はいうのだった。
そのうち私は、半年分の小遣いをためて、最初のハンティングナイフを手に入れた。両刃のシースナイフ(さや入りナイフ)でバランスがよく、投げやすくて、いかにもコマンドたちが持っていそうな、かっこうのいいやつだ。私はこれをとても自慢にしてはいたが、ふだんナイフを使う必要のあるときはたいていもとの古いジャックナイフを使っていた。その古いナイフで、私は弓や矢を作ったし、森の中にいくつも隠れ家を建てた。操り人形の頭を彫り、鉛筆を削り、果樹を剪定《せんてい》し、ウサギのはらわたを抜き、そしてまた鉛筆を削る。十八歳のときにどこかでなくしてしまうまで、長いこと、それは私にとって片時も離せない存在だった。
ところで両刃のシースナイフだが、北極ではあまり役に立たないことに、すぐに気がついた。刃の部分のカーブが適切ではないし、北極での日常に耐えるほど強くもないのだ。アザラシやカリブーの皮をはぐには、刃先の部分がカーブしている強い片刃のナイフ――ボウイナイフの原理をもとに作ってあるやつ――が必要だった。その後ずっとたって、エチオピアで暮らすようになったとき私が使ったのは、やはり同じ種類のボウイナイフスタイルのものだった。これはスウェーデン製のシースナイフで、さやの部分に砥石がついていたので、時間があるときにはいつでもそれで刃先を研いでいたものだ。切れ味がカミソリのように鋭いこのナイフで、私は野生のブタやヒツジ、はてはウシとか、さらにはヒヒやヤギまでも屠殺し、皮をはいだ。
エチオピアでの仕事はきわめて危険なものであり、武装した密猟者を相手にしなければならなかったから、私はもうひとつ、特別製のさやに入れたナイフを背中からつるして隠しておいた。バランスのよい投げナイフである。敵に出くわして銃をつきつけられたとき、両手を上げたように見せかけてそのままナイフを取り、相手にさっと投げつけるためだ。心臓ほどの大きさの的を木に釘で打ちつけ、この体勢から、しかも切っ先が七、八センチ食い込むほど強くナイフを投げられるように練習に練習を重ねた。運よく、この練習の成果は人間に対しては使わずにすんだけれども、たった一度だけ、これで手負いのヒヒを倒したことがあった。
私がナイフを武器として考えたのは、エチオピアでのあの時期だけであった。私にとって、ナイフとはあくまで道具であった。もちろん戦いにおけるナイフの使い方、そして敵のナイフに対しての身の守り方については、十分に知っていた。事実、私にはそれをたっぷりと知る必要があったのである。これまで私は、たとえピストルを持っているときでも、それで人間を脅したり、狙いをつけたりしたことは一度もない。自慢ではないが、それでいてエチオピアでの二年間で二百人以上もの人間をこの手で捕まえるという成果を上げたのである。しかも彼らの多くは銃やナイフ、こん棒や板切れ、あるいはおのやかまなどで武装していたのだ……。
私の持つナイフには
確かに私の性格が表れている
ここ黒姫で、私がどこに行くにも離さないものに小さなシースナイフがある。あつらえてもらった片刃のナイフで、製作者の名前Y・AIDAと一八二番という製造番号が彫ってある。投げナイフとしてこそ適さないが、私がこれまでに出会ったナイフの中では最高のものだ。すでにこれは私の手の一部になっている。これで六十キロのブタを屠殺したこともあるし、足に刺さったとげを取るといった細かな仕事にも向いているのだ。刃先は、銃刀法に定められているとおり短くなってはいるが、それでもナイフの持つ、ものを切るという機能のほとんどをこなせるだけの大きさと強さを備えている。
私にはもうひとつ、大切なナイフがある。「スキャン・デュー」といって、スコットランドのニコル家に伝わる伝統のキルトを身に着けるときに、右の靴下に差すナイフである。ナイフを着けないと正装にはならないのだ。美しいナイフで、刃先は長く、敵の心臓をひと突きにできるほど鋭いものだが、料理した肉と「ハギス」という名のスコットランドの大きな太ったソーセージを切るときに使っただけだ。
もちろん、台所には包丁類がしまってある。全部で一ダース以上はあるが、どれもよく研いであり、切れ味はよい。いちばん新しいのは、このあいだ信濃町の町長さんからもらった長い刺し身包丁だ。今夜は上等の新鮮なサケがあるから、さっそくこの包丁を使ってみよう。
そんなわけで、私にとってナイフは常に生活に欠くべからざるものであったし、同時にまた、私の性格そのものをみごとに映し出してみせる道具でもあるのだ。
おの、マチェーテ、そしてなた
Axes, Machetes and Nata
十歳になったときから、私には居間の暖炉の火をたきつけるという仕事が割り当てられていた。冬の間は、毎日これをやらなければならない。火をおこすには、たきつけが必要だったから、まきを割ってこれを作るのもまた私の仕事だった。そんなわけで、私は十歳にしてすでに、ものを切ったり、割ったりする道具を使いはじめていたわけで、そのまま現在に至っているのである。
うちには父がアフリカから持ち帰った重い長刃の「パンガ刀」、いわゆるマチェーテ(中南米などでサトウキビの刈り取りや下草刈りに使う大なた)があって、私はこれを使うのが大好きだった。時々、私はこれをこっそり納屋から持ち出しては森の中に持ち込み、仲間といっしょにいくつもの隠れ家を建てたものだ。このマチェーテを手にしていると、なんだか自分がいっぱしの探検家になって、茂ったジャングルを切り開きながら進んでいるような気がしてくるのだった。
もちろん、うちにはおのもあったけれども、木を切り倒すことはめったになかったから、当時はその使い方について、あまりよく知るには至らなかった。おのを使いこなすようになったのは十七歳のとき、カナダに渡ってからのことである。このときの、私にとって初めての遠征行のキャンプサイトは、樹木限界線の端ぎりぎりの所だった。私たちは木を切り倒し、枝を落とし、キャンプサイトに運び込み、それからその木と岩を使って自分たちの住む小屋を建てた。
何年かして、カナダ北西部のイエローナイフから北に水上機で二十分行った湖畔の地に遠征をしたとき、隊のみんなで丸太小屋、桟橋、防波堤、ボートハウス、サウナなどを、すべて現地の木を使って建てたことがあった。このとき、私は自分用のおのを買い入れた。目の玉が飛び出るほど高かったが、バランスのいい上等なおので、私はとても大切にしていた。だれかがこのおのを使おうものなら、私は怒り狂ったものだ。もちろん電動のこぎりもあったけれど、そうした騒々しい道具を使って木を切り倒すのは、どうもどこかまちがっているような気がしてならなかった。ほかの連中にどんなに笑われようが、私はひとり木のために祈りを唱え、それから昔ながらのやり方で、おのを振り上げて木を切り倒すのであった。
そんなわけで、私にはナイフがあればちょっとした小屋が建てられるし、おのと木さえあれば、ほかになにも使わなくても家を建てられるのだ。
今、私の持っているおのは全部で三本、一本はアメリカ製の伐採用おのであり、二本は少々重いまき割り用の日本のおのだ。黒姫の敷地の中にある私の住まいと、ジム兼仕事部屋になっている建物、それにサウナとはどれもまきの暖房だから、毎年秋までには山のようにまきを割っておかなければならない。まき、とくにリンゴの木のような堅くて扱いにくい木を割る仕事が、私は大好きである。積まれてある一本一本の木を、私は自分自身へのチャレンジとしてみなし、正確に、そして満身の力を込めておのを振り下ろす。空手の「気合い」を入れることもしばしばだ。
伐採用のおのは、一度災難に遭ったことがある。だれかがこれを使って、えらく堅い丸太を割っていたとき、スチールのV字形の刃の部分がはまり込んでしまったのである。このときの私の怒り狂いようといったらなかった!
以前にはこのほかにとても鋭利なマチェーテが一本あった。ところがある日、カメラマン助手の男が、戸外でたき火をするのに必要なまきを切るからといってこれを使った際、なんと石の上に直接まきを置いて割ろうとしたため、刃はボロボロ、ついでに彼に対する私の評価もメチャメチャになってしまった。十歳の私がそんなことでもしようものなら、祖父にいやというほどお仕置きされ、少なくとも一週間は、腰かけることもできないほど腫《は》れたお尻を抱えていたことだろう。
山で働く男たちにとって
最高の道具は日本のなただ
優秀なおのということになると、カナダとアメリカのおのにはちょっとかなうものはない。スウェーデン製がそれに次ぐ。
だが森の中での仕事に役立ち、持ち運びに便利な道具となれば、日本の質のいいなたの右に出るものはないだろう。私自身、なたは三本持っている。重い「作業用なた」が二本、それと、とても軽くて狩りに出るときにいつも携帯するやつが一本だ。山の仕事や猟をする男たちの道具としては、日本のなたは最高のもののひとつである。よいなたを使えば、男の人の首くらいに太い木の枝でも、数分で切り落とせるし、枝を払ったり、形を整えて丸太にするのにも、これは実に便利だ。
シチュー鍋に入れるオックステールを刻まなければならないときにも、私はこのなたを持ち出してくる。
けれども、なたの刃の構造には特徴があって、片面が平らで、もう片方のエッジが傾斜しているため、これを扱う人間は、その使い方をよく知る必要がある。まちがった方向に力を入れると、刃先が回転して外れてしまうことがあり、きわめて危険である。
私の会った日本の若者たち、特に都会の連中の大多数は、なたの使い方を知らないばかりか、それを教わろうにも、手首の力が弱すぎてどうにもならなかった。これはまさに悲しむべき現実だと、私は思う。
私の銃
My Guns
銃というものに対する人々の見方は一様でない。
身を守るための武器として、あるいはよき食糧確保のための道具として、射撃などのスポーツ用具として、あるいはアンティークとして、はたまた歴史の一部として、それこそさまざまな見方が可能である。
これまでの人生を振り返ってみると、私の周りには常に銃があったということに気づく。
祖父もおじたちも、始終銃を持って出かけては、アナウサギやノウサギ、ハトなどを持ち帰り、シチューにして楽しんでいたし、私自身も同じように十二歳のときから銃を使いこなしてきた。
しかし私がそれより以前に初めて持った銃は、アンティークのものであった。ひとつはロンドンのノックス社製で超大型の重い前装式乗馬用ピストルで、十八世紀初頭に作られた火打ち石銃だった。もうひとつは、それよりはるかに古く値打ちがあり、南スペインで作られたものである。長い銃身のついたムーア風の狩猟ピストルで、狩りの風景を描いた銀の浮き彫りが施されていた。そのほかに、アメリカ独立戦争で使われたタイプで、「ブラウン・ベス」と呼ばれる英陸軍マスケット銃も持っていた。
十二歳のとき、私は通っていた学校から海軍教練隊に加入させられ(当時、十二歳になると生徒は全員海・陸・空軍のいずれかの教練隊に強制的に加入させられることになっていた)、英陸軍の〇・三〇三ボルトアクション式リー・エンフィールドライフルを肩に担いで、行進練習や演習教練に励むことになった。
そればかりではない。なんとも胸躍る経験だったが、実際の射撃演習地にも連れていかれ、最初はボルトアクション式〇・二二ライフル、次はもっと重い〇・三〇三のやつ、それからブレン式軽機関銃、ルイス式軽機関銃、ステン式九ミリサブマシンガンなど、そして最後に米国製〇・四五口径のトンプソン機関銃を使って実地の射撃を教え込まれた。ほかにも海軍の小型甲板砲である五ポンド砲を使った演習もやったし、一度などは、四砲身のエリコン高射砲を撃つことまでやらされたものだ。
射撃練習というものの、その内容は単に銃の撃ち方にとどまらず、分解と掃除、組み立て方などのほか、さらにそれぞれの用途と威力、短所、そしてその歴史を学ぶことまで含まれていたのである。
教練での体験とは別に、十二歳の私はすでにエアライフルを手に入れており、おおいに自慢していた。暇なときはたいていこれを持って野原や森をうろつき回っていたものだ。
そんなわけで、十七歳のときに初めてカナダ北極地方に出かけるころには、すでに銃の使い方についてはかなり熟達しており、その腕前で荒野での食糧調達をやりとげたのであった。このときの遠征では、私のお気に入りの〇・二二ライフル、それときわめて優秀なイギリス製二連式十二ゲージのショットガンを携行した。
全部で十二回に及ぶ北極遠征行で、私はさまざまなライフルを使い、数えきれないほどの猟をした。アザラシ、セイウチ、シロイルカ、イッカク、カリブー、ホッキョクウサギ、オオカミ、ライチョウ、ガン、カモ……。ホッキョクグマに襲われ、これを撃ち殺したことも三度ある。少年時代に受けたあの訓練は、確かに私の身を助けたのであった。
北極にいたころ、しばらくの間、ホッキョクグマの来襲に備えて眠る間もピストルを手放さないでいた時期があった。銃はルガー〇・四四マグナム式リボルバーである。これは実地には一度も使わずにすんだけれど、日夜練習だけは怠らなかったし、この強力な大型ピストルの手ごたえをいつだっておおいに楽しんだものだ。
エチオピアでは、ワルサーPPK、例の「ジェームズ・ボンド」ピストルを携行した。これまた練習こそ熱心に続けたものの、犯人を逮捕したり、攻撃から身を守るときなどに実際に使ったことは一度もなかった。飛び道具より自分の素手を使って戦うほうがむしろ私の性にあっていたからである。
現在、私が所有している銃は、日本製のセミオートマティック、三ショット十二ゲージのショットガンと、英国製のきわめて強力かつ正確な〇・二二エアライフルのふたつである。
こんな具合に、私は少年のころから今まで絶えず銃というものと身近に接してきたのだが、それでいてその銃を人間に向けたことは一度としてない。この事実と、それから私がいわゆるガンマニアでもないことは、ここではっきりいっておきたい。
銃というものに対する私の姿勢の根本は、ハンティングとスポーツの道具としてみる見方である。
ただ、今の世の中を見てみると、一方では国際テロの激化があり、また他方では警察国家的な統制がいよいよ厳しくなりつつある。今こそ各国の政府は自国の青少年に対して、銃の使用と安全性についての早期教育を徹底させることを考えるべきではないだろうか。
スイスのようなきわめて平和な国でさえ、成年男子はすべてライフルと機関銃の訓練を受ける義務がある。ひとたびスイスが攻撃されたなら、スイス国民はひとり残らず手に武器を取って戦うであろう。それでいながら、この国で銃による暴力事件が頻発するという話は聞かないのである。
軍事訓練と防衛というものに対するスイスの考え方とその方法を、日本はもっとよく学ぶべきではないだろうか。日本のような国にとっていちばんふさわしいのはスイスのようなシステムではなかろうか。たとえ銃を携帯していても適切な訓練さえ受けていれば、よほど凶暴な人間でないかぎり、ほかの人間を撃とうなどとは決して思わないはずだ。私にいわせれば、この国では台所に転がっている厚手の包丁のほうがよほど頻繁に犯罪に使われているではないか。だからといって、包丁の使用まで禁止するわけでもあるまい?
私自身は、この日本で銃を所持する許可を得ており、そのことをとても誇りにしているのである。
犬に学ぶ
Dogs
先日、友人の飼っている犬が地元のハンターに撃たれるという事件があった。このアイリッシュ・セッターの血が半分入った犬のことは私もよく知っていた。父親はうちのモーガスだし、わが家で生まれた子犬たちのうちの一頭だったからである。
事の起こりはつまり、「ベア」という名のこの犬が、丘を登ってくるハンターたちの一行を見つけ、仲間に入ろうと喜び勇んで駆け出していったということなのである。ところがハンターのほうは、犬が自分たちのほうに向かって走ってくるのを見て、あわてて銃を構え、彼に向けて発砲したのだった。
日本人の大多数は、女性ばかりか男性までも、犬のこととなると実に臆病になる。これは悲しいけれども本当のことだ。犬の飼い方にしても、日本人の評判がきわめて悪いのは、これまた悲しむべき事実である。朝から晩まで鎖につなぎっぱなしで、しかもそれが毎日毎日続くのだ。とにかく法律でそう決められているからというわけか。
だが、私は断固、法律を無視する。わが家のアイリッシュ・セッター犬、モーガスとメガンの二頭は、ふだんは広い囲いの中で飼っている。家の中にもしょっちゅう入ってくるし、狩りに出るときにはむろんひもをはずしてやる。二頭とも、生まれたばかりの私の娘を熱愛しており、人でもものでも彼女を傷つける恐れのあるものに対しては、死を賭して戦うことだろう。それでいてなお、彼らはあくまで穏やかであり、あらゆる人間に対して人なつこいのだ。
けれども、ここの人たちの多くは彼らをひどく怖がっている。ちょうどあのハンターたちのように。いつだったか私は、大のおとなが、生後六ヵ月のふざけまわる子犬を見て、まるで傷ついたウサギのように悲鳴を上げるのを見たことがある。「子供のころ、犬にかまれたことがあるもんで」というのが、共通の言い訳である。かまれたって? それがどうだというのだ。
私など、二歳のころから犬にかみつかれている。台所に忍び込んで、牧羊犬の皿からえさをかっぱらったときのことだ。老犬はうなり声をあげて私を威嚇し、それでもきかないとなると、私のほおに少しばかりかみついたものだ。ほんのかすり傷だったが、私がギャーギャー泣きわめくと、祖父は私をつまみ上げ、思いきりお尻をひっぱたいた。ちょっかいを出したおまえが悪いというわけである。そのとき以来、この老コリー犬は自ら私の保護者をもって任じ、死ぬまで私を守ってくれた。犬には正義というものがわかるのだ。正義が行われたとき、彼らはちゃんとそれを知り、評価する。反対に、不正については彼らは心底憎んでいるし、とうてい理解できないものなのだ。
それにしても、自分の子供が犬を怒らせて、かみつかれたからといって、その子のお尻をぶつ親が、あるいは祖父母が、日本にはたしてどれほどいるだろう?
こんなふうにして、赤ん坊のときから私は牧羊犬や猟犬といっしょに育てられ、物心ついてからはいつも傍らに自分の犬がいたものだ。
北極に行くようになってからは、オオカミに似た、力の強いイヌイットのソリ犬を操ることを覚えた。私はこの犬たちがとても好きだった。十五頭の犬ぞりチームの中で猛烈なけんかが起き、引き革をかみ砕いたり、からみ合ったりして、収拾のつかない状況になったときでも、私は少しも怖くなかった。むちを手に彼らの間に分け入り、ブーツと両方のこぶしを使ってけんかを鎮めたものだ。私が犬たちに対して敬意にも似た感情を抱くようになると同時に、彼らもまた私を尊敬するようになったのだ。
私が、ここ黒姫でアイリッシュ・セッターを飼っているのは、この種の犬が人間に対してこの上なく人なつこく穏やかだからである。アイリッシュ・セッターが人を傷つけたなどという話はまず聞かない。英国やカナダ、オーストラリア、それにアメリカでも、この犬のことはみんな知っており、怖がる人などひとりもいやしない。賢いうえに愛情深いこの犬は、訓練すれば優秀な猟犬になる。
ただし、彼らにとってどうしても必要なものがある。運動と愛情のふたつであり、これこそ私がたっぷり与えてやっているものなのだ。
私の小さな娘がはいはいをするようになったとき、この二頭のセッターと子犬たちは彼女にとって理想的な遊び友達になるだろう。犬から彼女は、勇気、信頼、正義、責任、ほかの生きものに対する愛情、そのほかたくさんの大切なことを学ぶだろう。
実のところ、男でも女でも犬を怖がる人間を、いまひとつ私は信用できないのだ。彼らは人間としての基本的な教育を十分に受けていないわけで、そんな人たちが危機(どのようなものでも)に直面した場合、はたしてどんなことになるかわかったもんじゃないというのが、私の確たる持論である。
大きな犬たちが遠くから私を認め、大喜びで駆けてくるといった情景は、幼いころから私にはごく親しいものであった。犬のほうで私に対して近づくなというサインを出しているときには、私のほうでもちゃんとそれがわかるし、そんなときには犬の怒りをできるだけ少なくするよう気をつけてやる。
犬が相手の戦い方だって私は知っている。相手が大型犬であっても、素手で彼らと戦えるし、ときには殺すことさえできる。これまでに私は二度、飢えた野生のハスキー犬と戦って、相手を死に追いやったことがある。だからこそ、いつかクマが向かってきたときも、あくまで冷静でいられたのだし、確実な射程距離から撃つこともできたのだ。あのときの私には、相手が私を殺したがっていることがはっきりわかっていたし、同時にまた自分が相手を殺せるということもわかっていた。
だから、もし犬が怖いというのなら、まずその恐怖心を克服しなければならない。さもないと一生臆病者のままで死ぬことになるし、それに第一、臆病者を好きになってくれる人がどこにいる?
まきストーブ
Wood Stoves
現在、私の家にはまきのストーブが三台ある。一台目は英国から取り寄せたすばらしいボスキー社のストーブで、日本でこれを使っているのはわが家だけである。伝統的な英国のカントリーストーブを近代的にしたもので、重さ三百キロ、本体は丈夫な鋳鉄《ちゆうてつ》で出来ており、ごくモダンな鋼鉄製の縁と熱よけ板とがついている。ストーブにのっているレンジ台には、鍋やフライパンが八個も置けるし、大きなオーブンもついている。去年のクリスマスにはこれで七面鳥を二羽、同時に焼き上げたものだ。大型の温水がまもついており、家中の給湯とセントラルヒーティングのお湯はこれで沸かしている。燃料はまきか石炭である。イギリスをはじめ、ヨーロッパの多くの地域で広く使われているこの種のストーブ――効率的だし、見かけはいいし、日本のようにまきが簡単に手に入る国では経済的でもある――がなぜこの国で使われないのか、私には理解できない。
書斎兼ジム兼バーになっている建物では、デンマーク製の鋳鉄製ストーブを使っている。頑丈な扉が二個、火の前で閉じるようになっていて、部屋に人がいないときなど、まことに安全である。このストーブが置いてあるのは書斎の真下、バーのある部屋だ。煙突は絶縁してあり、二階の書斎をまっすぐに通してある。おかげで書斎は四六時中快適な温度に保たれているというわけだ。ゆっくりしたくなったらバーに下りていき、ストーブの扉を開けて火を眺めればいい。そうこうするうちに気持ちはすっかり落ち着いて、脳波はまもなくゆったりした「アルファ波」を描きはじめるのだ。
あとひとつ、外の森の中に建てたサウナには安くて簡単なまきストーブが置いてある。これは日本の雪国で広く使われている、あのルンペンストーブの改良型である。ルンペンストーブそのものは、この近所のどこの荒物屋でも三千円ほどで売っているが、私が使っているのはそれよりも大型で、丈夫なスチールで出来ており、値段は一万円であった。このストーブは輸入品の高価なサウナストーブと比べても、すべての点で遜色《そんしよく》がない。サウナに使う小石は近くの川から集めてきたものだが、こちらのほうもまことに具合がよい。
だが、ストーブで一番重要なのは煙突の長さと勾配である。絶縁材料で覆った煙突ならば、一層安全だし、これだと内側のタールを燃やしきるから熱効率もずっと高くなる。たとえ世界一のストーブでも、煙突がおそまつならば、うまく燃えないだろう。
まきのストーブには当然ながらまきが必要である。このまきは納屋などの屋根の下で二、三年乾かしておかなければならないが、一年もののまきでも、細く割った堅木のものならば使うことができる。まきが使えるかどうかを見分けるには、切り口の断面を見るとよい。小さな割れ目が放射状にたくさん広がっているものならば、もう使える状態になっている。よいストーブならば、大きな丸太のまきでも燃やせるが、そのまきを置くための熱い火床を作るには、細かく裂いて乾燥させたたきつけが必要である。なによりも大切なことは、空気の通り具合を加減し、そうやって燃える速さを調節することがひとつ、それとまきの火が下火になりかかったとき、その感触がわかるようになることのふたつである。
まきのストーブにしろ、暖炉にしろ、石油ストーブよりもはるかに手がかかる。だから多くの人たちがこの手間を嫌がるのだ。だが冬の間、まきのストーブのおかげで家全体が穏やかな優しい暖かさで包まれることを考えたら、それだけの手間をかける値打ちは十分にあるのではないだろうか。今、私は書斎に座って書き物をしている。外は一面の雪だけれど、下のバーはスープみたいに暖かくなっているし、この書斎もほかほかとまことに暖かい。それもみな、私が手間を惜しまずに、一時間おきぐらいに立ち上がってはまきを一本ストーブにくべているからなのである。
まきといえば、わが家でまきに使っているリンゴ材のほとんどは、雪でだめになった枝や、病害にやられてしまった木、剪定《せんてい》で地上に落とされた枝など、いわばスクラップの木なのだということをここでいっておきたい。うちが使わなければ、いずれは外で燃やされてしまうような木ばかりである。庭の木を刈り込まなければならないこともあるが、このときに落とした枝もまた立派なまきになる。燃えたあとの灰は木の根元にまき、ミネラルを土に帰してやればよい。
確かに、まきを割ったり、運んだりするのは時間のかかる仕事だけれど、それはそれでとてもよい運動になる。木々の中に蓄えられた太陽の光のおかげで、私は本当に心地よく過ごさせてもらっている。これは木というものに対する、感謝に満ちた、しかも効率的な利用の仕方ではないだろうか。
生命《いのち》の炎
Fire
これまで私はさまざまな状況下で火をおこしてきたが、なかでもいちばん困難をきわめ、しかも最も貴重な火であったといえるのは、漂う海氷の上でのそれであった。灰色の雲が一面に低くたれこめ、雪の吹きつける中、木やそれに類したものは一切なく、テントも寝袋さえ持たず、氷の上に取り残されたときのことである。
場所はカナダ東部、セントローレンス湾に浮かぶ海氷の上であった。時は二月、タテゴトアザラシの大群が子を生み、交配に集まってくる時期で、私たちの仕事というのはそのアザラシの子供たちにナンバーを打った標識票をつけることであった。アザラシ猟のために、年間どれくらいのアザラシが殺されているか調べるためである。
朝のうちにヘリコプターで発った私たちは、標識票の包み一袋、ペンチ、ノート、照明弾、昼食用にサンドイッチ少々とコーヒーひとびん、それと浮氷から浮氷へ飛び移るときに使う長いさお一本とからなる荷物といっしょに氷の上に降ろされたのである。
この日は張り詰めた海氷全体の動きがふだんよりずっと速く、夕方近くには私たちは岸から何キロも流されてしまっていた。そろそろヘリコプターが迎えに来るころだった。照明弾を打ち上げたものの、遠すぎてパイロットは気がつかなかった。こちらからはヘリコプターの音が聞こえたのだが……。
あたりはもう暗くなりはじめていた。持参したサンドイッチは全部平らげてしまっていたし、コーヒーももう残っていなかった。雪は横なぐりに吹きつけていた。私たちは小高くなった氷稜《アイスリツジ》の陰に身を寄せて風をよけることにした。そのときふと、私はある老イヌイットのハンターが話していたことを思い出した。
気分のいいものではなかったけれど、私は太った若いアザラシを選んで、そいつの頭をこぶしで殴りつけて殺した。それからベルトナイフを取り出して皮をはいだ(ほら、いつでもナイフは持っていなければね!)。雪に小さなくぼみを掘り、その中に毛皮と脂皮を置く。毛の部分を下にして、その上に厚さ十五センチもの脂皮を重ね、さらに脂肪を何片かそいで、穴の真ん中に積み上げる。これをすませてから私は残っていたふたつの照明弾のうちの一個を取って中身を切り開き、中の火薬とマグネシウムを脂皮の上に振りかけた。あとは火をつければいい……。そうら!
何分かすると、アザラシの脂肪はパチパチと陽気な音を立てて燃えはじめた。溶けた脂肪はくぼみの中に流れ落ち、これが炎となって燃えるのだ。明るい黄色い炎はめらめらと燃え上がり、青みがかった一面の白い氷の上には厚い黒煙の幕が広がっていった。
友人はアザラシの肉を切り取って火にあぶり、焦がして食べていたが、イヌイットといっしょに暮らしたことのある私のほうは、生のままの温かい心臓と肝臓を細かく刻んで口に入れ、じっくりと味わっていた。
アザラシ皮で作ったこうしたたき火は、一度ちゃんとたきつけておけば、あとは何時間でも燃え続ける。「クズルー」と呼ばれるソープストーンランプ(何千年もの昔からイヌイットたちが使っていたもの)の原型がこのアザラシ皮のたき火なのだ。
パン! パン! パ、パ、パーーン! ヘリコプターのローターが近づいてくる音を耳にしたのは、あたりがほとんど完全に闇に包まれてからのことであった。何キロも離れた所から、黒い煙と、黄色い炎が認められたのだという。私たちは再びヘリコプターに積み込まれ、帰途に就いた。暖かい部屋と酒の二、三杯が向こうで待っているはずだ。ありがとう、アザラシ。ありがとう、火よ……。お前たちが私たちの生命を救ってくれたのだ。
黒姫では冬の山歩きで、火をおこすのが実に簡単である。まず、雪の上から姿をのぞかせているカラマツやスギの木を選び、幹についたまま枯れてしまっている枯れ枝を集める。冬の野山にはこうした木がふんだんにあるし、乾いているから折るのも簡単、それによく燃えるのだ。いくら折ったからといって、木そのものにはなんの害も及ばない。外側の樹皮や、油を含んだ紙のように薄いシラカバの木肌、それに枯れたスギの葉先などでたきつけを作り、火をおこす。雪や雨の中でも、これらは実によく燃える。ただ、緑の枝には絶対に手を出してはいけない。そんなことをしても時間の浪費だし、森を傷つけることになる。火が完全に燃えてきたら、倒れている丸太の類をくべてもいいし、立ち枯れのカラマツの木を切り倒してもいい。
夜の間中火を燃やしていたいときには、まず、今のような立ち枯れの木を切り倒し、一メートルほどの長さに切ってから、足で踏み固めた雪の中に積み上げて火床を作るといい。その上に火をおこしてやるのだ。
どのような状況下に置かれても火をおこすことができるというのは、人間にとって欠くことのできない技術である。同時にその際、周囲の環境をできるだけ傷つけることなく、しかもむだを出さないように心がけることこそ、人間として最も大切なモラルなのだ。
さあ、暖まってごらん!
水に恵まれる
Water
一度でも本当にのどが乾いた経験のある人ならば、水というものが世界でいちばんおいしい飲み物だということがわかるだろう。澄みきった、冷たい水のおいしさといったら……。
夏の間、疲れた私の精神をいやしてくれるのは、書斎の窓の下を流れる鳥居川のせせらぎの音だ。マスやイワナの泳ぐ、小さな美しい川である。火と同様、水の流れもまた、その音と動きの両方で人の心をくつろがせ、落ち着かせる働きを持っているようだ。今、窓から見下ろす川の面は、陽光を受けて刻々と色合いを変え、その流れは絶えることなく、常に冷たく、常に人生を語りかけている。
事実そうなのだが、日本という国をひとつの生命体とみた場合、こうした小さな山の泉や小川たちは毛細血管にたとえられる。これらはやがて静脈や動脈と合流し、最後には日本の大動脈へと注ぎ込んでいく。人々や木材、塩など、このユニークで活気あふれる文化を作り上げているあらゆる物資の補給を賄う大規模河川がそれである。
日本が豊かなのは、そうした清らかな水の流れがきわめて豊富なせいであると私は思う。そしてその澄んだ水をもたらすのが日本の山であり森なのだ。山は雪を降らせ、雨を降らせる。木々の根が深くからまりあった森の土壌は、フィルターとなり、スポンジとなって、年間を通じてその貴重な水を蓄え、ゆっくりと、穏やかに地表に放出していく。
だからこそ、私は今この国の天然樹林保護のキャンペーンを続けているのであり、また、だからこそ、あまりにも多くの日本人が、都会の人ばかりでなく田舎の人までも、清らかな水の流れという自然の恵みの価値を知らず、それを喪失することが自分たちになにをもたらしつつあるかを認識していないのを見て、しばしば絶望的な気持ちに駆られるのである。
清らかな水は健康の源ではないだろうか。毎日天然樹林を歩き、川辺に座り、清らかなその水を飲んでいれば、病気にかかることなどないだろうし、病人ならば確実に回復に向かうことだろう。私は今、心の底からそう信じている。
世界には水に恵まれない地域がある。水がないか、あっても汚い、あるいは味の悪い水しかない、それは広大な地域である。そのような場所にしがみついて生きていかなければならない人々が作り上げてきた文明をよく見るがいい。それと今度は、本物の日本人ならだれでも持っている、あの正直で、陽気で、個性に富み、しかも平和を愛する国民性とを比べてみるがいい(イギリス人や北欧人についても同じことがいえる)。鍵となる答えは、「水」である。
四面を水に囲まれながら、脱水症状を起こして死ぬこともある。飲み水もなく海上を漂うボートの人々。凍《い》てついた北極で飲み水もなく、雪を溶かすだけの燃料も暇もない旅人たち。北極のような極寒の地では、生き延びるためには普通の場所よりも、水ははるかに必要不可欠な存在なのだ。
脱水症状は、北極探検家にとってはきわめて危険である。たとえば零下四十度以下の空気中に含まれる水分は、サハラ砂漠でのそれに比べてはるかに少ない。体が空中の酸素をとり入れ、炭酸ガスを排出するためには、その空気を体温と同じ温度にまで温めなければならず、そのためには大量のエネルギーと体の水分の消耗とが必要になるのである。こうしたわけで、北極探検家は、普通の場合よりもずっと多量の水分をとらなければならない。同じ水分でも、排尿を促進するようなもの、たとえばあまり濃くないお茶のたぐいが望ましいのだ。水分をとらないでいると、脱水症状が起こり、体内の老廃物が血液中に蓄積されて、体がだるくぼんやりとしてくる。当然判断力も鈍くなるはずだ。多くの登山家や探検家がそのために死亡しているし、冬に犬ぞりで旅するイヌイットたちがいちばん気をつけているのも実はこのことなのである。一時間かそこら走ると、彼らはすぐにそりを止め、ひと休みしてお茶を沸かして飲む。それがどれほど大切なことかわかっていないよそ者の目には、イヌイットのこの習慣は往々にして腹立ちの種になるのである。
雪を溶かした透明な水で沸かしたお茶に砂糖を入れ、そりの陰にカリブーの毛皮を広げて、座ってそれを飲む。いつだって、それは本当においしかった。
今の私は、おいしい水にふんだんに恵まれている。そしてその水でたてたおいしいお茶、酒、米、料理、スープ、さらにはウイスキーに入れる上質の氷までも、大いに楽しませてもらっている。どれもこれもあの飯綱山と黒姫山、この私を養子として受け入れてくれたあの誇り高い山々のおかげなのだ。
水は生命《いのち》である。大切にしていこうではないか!
台所の宝物
Pots
ここ最近の私のお気に入りは、楕円形《だえんけい》をしたフランス製の鍋である。鋳物《いもの》の重い鍋で、ふたも同じ鋳鉄《ちゆうてつ》である。ふたのいちばん上には、コップ一杯分の水が入るくぼみがあり、くぼみの底には小さなイボイボがびっしりついている。キジでもニワトリでもあるいはアヒルでも、オーブンで焼く以外にまるごと料理するには、最高の逸品だ。最初にまず鍋の内側に軽く油を塗る。このときニンニクをつぶして入れることもある。それからトリの外側に軽い焼き色をつけて、皮を固めてしまう。鍋に入れたトリ(詰め物をしておくことも多い)にワインか酒をコップ一杯ほど加え、ふたをして弱火にする。雪をひと固まりか、冷たい水を一杯、ふたのくぼみの中に注いでから、一時間ほどそのままにしておく。焦げるようなことは絶対にない。中の水蒸気がくぼみの部分の冷えた底に当たり、水滴となって小さなイボイボに付着し、そこから肉の上に滴《したた》り落ちる仕掛けである。こうして、完璧な料理がいつも出来上がるというわけだ。
ただ、この鍋は野外で使うには少々重すぎるから、外のキャンプ、ことに冬などにはもっぱら日本製の鋳物鍋を使っている。かなり重い、丸底の鍋で、木のふたがついており、キャンプなどにはもってこいである。ウサギの肉やじゃがいも、蔬菜《そさい》類、米、ニンニク、たまねぎなど、ありとあらゆる材料をこの中に放り込んで、たき火の上でぐつぐつ煮込むのだ。この鍋ならば洗うのも楽だし、焦げつくこともあまりない。
北極で働いていたとき、ことに犬ぞりの旅に出るときなど、私はよく小さな圧力鍋を携帯した。あとになってからは、かなり大きい圧力鍋まで持っていったりもした。それじゃ重いんじゃないかと聞く人がいるかもしれない。だが現実には圧力鍋を使えば持参すべき燃料の重量がはるかに少なくてすむのである。どんなに堅いじいさんセイウチの肉でも、これで十分間も煮たら、見事に柔らかくなっている。高い山で仕事をするときにはむろん、この圧力鍋が最高の威力を発揮する。圧力鍋の内側にもうひとつ小さな鍋を入れて、小麦粉とベーキングパウダー、粉末卵、粉ミルク、それにジャム少々とドライフルーツといった材料で、みごとな蒸しプディングを作ることもできる。私の作ったこのプディングは、寒さと飢えに凍《こご》え切った男たちの目によく涙を誘ったものだし、町の子供たちにもこれは大好評であった。
この私が初めて鍋というものを自分の持ち物に加えたのは十二歳のとき、三個でセットになっているやつで、伝統的なボーイスカウトのキャンプ鍋だった。全体は丸くて軽く、ぴったりはまるふたには、折り畳み式の取っ手がついていた。最も大きな鍋のふたはフライパンになったし、二番目のふたは小型のソースパンに、そしていちばん小さなものはお茶を飲む茶わんに使えた。このいちばん小さな鍋の本体の中には、塩や砂糖、茶、ろうにつけたマッチなどの常備品が入れておけた。これらの鍋類は、エアライフルや、小型テント、リュック、自転車、ナイフ、双眼鏡などとともに、当時私の自慢の宝物になっていた。
キャンプで料理をしたあとは、鍋類をこけや木の灰で洗うことも、頑固な汚れは川の砂でこすり落とすことも、私はいつのまにか覚えていた。木の枝や針金でいろいろな仕掛けを作って、火にかけた鍋の高さを調節することも覚えた。
こうしたことは当時、だれからも教わらなかったけれど、ただ小さいときから私は祖母の傍にくっついて台所に入り、彼女が鍋を扱うところや、まきや石炭を火にくべるやり方などを見て育ったのである。台所の火の傍には重くて光沢のある鉄製のとレンガ製、それに真鍮《しんちゆう》製のオーブンが並んでいた。十二歳のときには早くも私は、ニワトリやアヒルだけでなく、キジ、ハト、アナウサギ、ノウサギの羽毛をむしり、皮をはぎ、はらわたを抜くなどの下ごしらえから料理までやってのけたものだ。男子厨房に入るべからずなどという育てられ方をしなかったことを、私は今心から感謝している。
料理のできない男というのは、一種の無能の阿呆者なんじゃないかと私は思う。万一そんな男と私が道連れになって、運悪く荒野なんかで道に迷ったりしたら、そいつはできるだけ早く料理を覚えたほうがいい。でないと私はその男なんか放っておいて先に行ってしまい、相手がどこで野たれ死にしようと気にもかけないだろうからね。
それにしても思い出すのは、私が子供のころ家にあったあの鍋類のみごとさだ。丸底の鉄の大鍋にはスープがグツグツと煮立っていたし、フライパン類はどれも、とても厚くて重かったから、それを持ち上げるのに、祖母は両手を使ってふんばらなければならなかった。そのフライパンで焼いたフワフワの黄金色のパンケーキが目に浮かぶ。ピカピカに磨き上げた銅のソースパンにはポテトや庭で採れた緑の豆が湯気を立てていたっけ。これに農場で作ったバターを落とし、そこに黒こしょうをひいて振りかけるのだ。派手なふたのついた重い陶器製のパイ鍋もあった。土曜日になるといつもこの鍋はオーブンに仕込まれ、やがてありとあらゆるおいしそうな料理をのせて私の目の前に現れるのだった。
このように、私は本当に鍋が大好きな人間だ。鍋を宝物のように慈《いつく》しんだことのない男なんて、食べ物のことなど大してわかっていないはずだ。まったくかわいそうな男だと思う。
PART 5
森が死ぬとき
いただきます!
Itadakimasu !
あるとき、私は東京でNHKのテレビドラマに出演をしていた。昼の休みに俳優さんたちといっしょに弁当を食べながら、話題はいつしか食べもののことになっていた。ご飯と鰯《いわし》、鶏肉、漬物の弁当にはしをつける前に、皆で「いただきます」といったのはむろんである。
私のことをよく知らない日本人と食事をすると、決まって日本食が食べられるかと聞かれる。なんだって好きだし、寿司や刺身、くさや、ほや、納豆など大好きだというと皆びっくりする。そこでわが家での食生活の話に花が咲くわけだ。私は山里に住んでおり、狩猟が好きときているので、当然、野生の食物《ワイルド・フード》を多くとることになる。
「野生の食物?」きれいな若い女優さんが尋ねた。私は説明した。春には山菜やマス、イワナなど、秋冬にはキジ、ハト、ヤマドリ、カモなどたくさんあるんですよ。
年配の女優さんが、東京でも戦時中はノウサギやキジやハトが買えたものだと教えてくれた。彼女の母親がよく買ってきては料理してくれ、キジなど大好物だったそうだ。イギリスでは今でも羽がついたままの上質のキジが肉屋で売られており、それは美しい眺めだと私はいった。
若い女優さんは気持ちの悪そうな顔をした。そのうちほかの人たちが庭を駆け回っていたニワトリを殺して食べるとどんなに旨《うま》いかなどと話しはじめると、彼女の顔は嫌悪の表情に変わった。羽や毛をつけたままの肉ですって! 気持ち悪い!
そこで私は娘さんに苦言を呈した。ラップされた肉だけしか買ったことのない人は、命を失った動物に対して感謝することは絶対にできないだろう。始終ニワトリを食べていながら、死んだニワトリの姿を想像するだけで、気持ちが悪いなどというのは恥ずかしいことだし、偽善ですらある。極論すれば、ニワトリの羽もむしれないような人間はニワトリを食べる資格がないほどだ。魚も同じことだ。
もちろん、大多数の人が肉屋で肉を買い、生きた姿を見たことがないことくらいは、私も知っている。だが、それは世の中がどこか狂っている証拠ではないかと思うのだ。私たちの体は、私たちが食べ、かつ飲むものから出来ているのである。
私たちは自然の一部である。それを意識することこそ、満足と幸福を得るための最善の方法だ。この自然との一体感こそ、きわめて日本的な感覚であったはずである。近年、都市部の若者が急速にこの認識を失いつつあるのを見て、私はこの国の未来に不安を覚える。ここでいう未来とは、文化的未来と同時に生物学的意味での未来をも指す。
ものを食べ、かつ飲むとき、自然と生命に対して感謝を忘れなければ、反自然的なもので自らの肉体を滅ぼすことも、自らを支える世界を滅ぼすことも少なくなるだろう。
私は食べることが大好きだし、ありがたいことになんでも食べられる。ある種の食べ物が食べられない人もいるのだ。ただ、だれにしろ、食べ物のことを「気持ち悪い」というのを聞くと、悲しいし、ときとして腹も立つ。そんな人は私の眼には無礼な人間として映るのだ。
礼儀正しくほほえみながら、「いえ結構です」というほうがずっといいけれど、はるかに気持ちがいいのは「いただきます」という言葉を聞くときだ。「いただきます」という日本語はすばらしい言葉である。私にとってこの言葉は、生命を分かちあえる喜びと感謝とを表しているのだ。では、自然と、そして生命とに向かって……。
「いただきます!」
日本人と自然について
On the Japanese and on Nature
まず最初に、自然とはなんだろうか? しょっぱなから、言葉の泥沼にはまってしまったようだ。だが私自身は哲学者などではなく、単に物書き兼博物学者にすぎない。自然とはなにか、日本人の本質《アイデンテイテイ》とはなにかについては、それぞれの人が、自分なりの見解を持っているのだから、このテーマに触れるためには私も自分が十四歳のころ、柔道を習いはじめ、日本への興味を持ちはじめたころのことから、話を始めねばなるまい。京都竜安寺の石庭を初めて写真で見たのもそのころのことだ。それは私を魅惑し、心をとらえてはなさなかった。熊手ではいた砂利とわずかな石によって造り出された自然の姿、凝縮された中に宇宙を写し出す小さなその空間。
江戸時代の末、ペリー率いる遠征艦隊で日本を訪れた士官たちは、日本は箱庭のようだといった。だが、私の住んでいる雪深いこの地方では、夏になると山々は庭というよりもさながらジャングルとなる。
西洋の作家たちは往々にして、日本の「自然」なるものの移ろいの激しさ、その急激で、しばしば猛威をふるう極端な変化こそ――地震、津波、台風などを含め――一方では、日本人をきわめてストイックにし、また他方では、盆栽、生花、庭園などの伝統芸術にみられるように、自然をコントロールし、ミニチュア化しようとする試みを生んできたのだと論ずることが多い。しかし、それはあまりにも単純な見方というものだ。
私はこれまで北海道から沖縄まで、さまざまな場所を訪れ、暮らしてきた。沖縄には八ヵ月、和歌山の太地には一年、そしてここ黒姫には一九八〇年以来住んでいる。日本国内ばかりでない、大西洋、太平洋、インド洋、カナダ北部、エチオピア、インド、ネパール、フランス、イギリス、それに南極大陸でも、私は多くの日本人と会い、彼らを観察してきた。その結果私は、「日本人の自然観」なるものを一般論で述べるなどということは至難のわざだという結論に達したのである。
「自然」に深くかかわっている人さえも
日本各地で進む破壊に対しては無力だ
たとえば私の友人で猟仲間の風間義夫という人間は、ユニークでバランスのとれた自然観の持ち主である。彼はものを育て、自分の周囲に生息するあらゆる鳥と動物のほか、植物についてもそのほとんどに通じている。特に詳しいのは山と川だ。彼は空を見上げ、その日の天気を予測する。そういう点で彼は、私のイヌイットの友人たちときわめて共通するところがあるといえる。だからこそ、たとえばアフリカのオオミミギツネを紹介したテレビ番組を見たとしても、彼は必ずそれをなにかと関連づけ、意味をつかみ取ることができるのだ。
一方、私は仕事をしていて多数の人間に会う。彼らの多くに私は腹を立て、「シティボーイ」と呼んでいるのだが、彼らときたら生物学ないし生態学についてのなんら基礎的な理解すらなく、ムクドリとツグミの区別もつかなければ、火をたきつけることもできない。しかもそれでいて、自分たちが「大自然」と呼ぶところのものについてはロマンチックな幻想を抱き、それを求めてアラスカやアフリカに出かけることを夢みている。哀れな連中だ。ここ日本で、冬山に置き去りにされたなら、生き残るすべも知らないだろう。
もちろん、これまでに私は、「自然」を研究し、理解しようと、一生を打ち込んでいる多くの日本人に会うことができた。けれどもこうした人々が取り組むのは、特定の細目に限られる。彼らは特定の動物もしくは特定の分野を選択する。友人のひとりに、アフリカの野生生物を何年間も撮影し続けている男がおり、また別の友人に、野生の動物を何百種も育てている男がいる。鯨捕り、漁師、ハンター、こうした人々も私の友人だ。彼らはそれぞれ自分の周りに展開される生活の営みについて、そしてそこに適応していく方法について、さまざまに異なった、しかしきわめて健全な見解を持っている。
ところが、こうしたすばらしい人々が、埋め立て、汚染、沈泥等による日本の沿岸地域の大規模な破壊に対して、なんら防ぐ力を持たないでいるのはなぜなのか。森林がこれほどまでに徹底的に姿を変えられ、広汎《こうはん》な浸食が猛威を振るうようになったのはなぜか? なぜ、日本の野生生物がこんなに減少しているのか? 環境庁の予算があれほどしみったれているのは、一体なぜなのか?
なぜだ?
自分に最も身近な
自然界の事物を知ること
私のような外国人、頑固で、しかも猛烈に個性が強く、エキセントリックでもあるこんな人間が、「日本人と自然について」というとらえどころのないテーマでものを書けと頼まれるとは、一体どうしたことなのだ? 私はむしろ、ツキノワグマの絶滅や、沖縄のサンゴ礁の破壊について書きたいのだ。
考えてもみたまえ、北に海氷原が広がり、南にサンゴ礁を持つ国が、ほかにあるだろうか? これを書いている今も、雪は家の屋根から滑り落ち、居間の窓の外側に三メートルもの高さの山を造る。机から目を上げると、雪の木立の中に、エナガの小さな群れが見える。いつもなら広い草地と、そのかなたには山が見渡せるのだが、降る雪にさえぎられて、今は見えない。これを読んでおられる読者の場合はどうか、なにが目に入っているのだろうか。世界中どこへ行っても、日本ほどさまざまな答えを聞くことのできる国はまずないであろう。
だが、現代の日本には危険な傾向が見られる。多数の人々が、「自然」というものの概念を、マスコミによって与えられるままに受け入れていることだ。こうして彼らはきわめて博学にはなるものの、手際よく操られて、その結果、ごく身近に迫っている環境破壊の問題に対して盲目となっていくのである。
あの小さな庭や盆栽や、生花などは外部の世界を閉め出すためのものではなく、世界の象徴としての役割があった、と私は信しる。
マスコミを通してのみ、自然に近づくようなことを続けていけば、自然に対して無感動な人間が出来上がるだけだ。
ひとつ、話したいことがある。あるとき、私はテレビ関係者と、ある番組の可能性について議論していた。かつて私は二年間、エチオピアの山中に暮らし、国立公園建設にあたっていたが、それをテーマに番組を作ったらどうかという話が出たのである。シナリオの作成にあたってどうしても抜くわけにはいかないと思ったものに、ノネズミの爆発的な生息数増大があった。この事態はエチオピア中に広がる飢餓を悪化し、森林伐採、浸食、砂漠化からなる悪循環に結びついていく。そしてこのすべてが、今度はタカ、フクロウ、ジャコウネコ、サーバルキャット、ジャッカルの個体数減少につながるのだ。さらにヒョウの絶滅がこれに加わって、農作物を荒らすヒヒの生息数が爆発的に増大していく。百メートルを超す壮大ながけを背景に、誇り高くも立派な顔だちの男たちを登場させて、私はこの話を書くつもりであった。
「そう、そうなんですがね、大衆は面白がらないんですよ。もっとレベルを落として、視聴者の興味を引かないとね。そこにゾウはいないんですかね……?」
「自然」を理解するのに、マスコミに任せきってはいけない。彼らの多くは机上の知識しかない「シティボーイ」なのだ。視聴率のことを気にするあまり、彼らは真面目さとか素直な部分を馬鹿にする傾向にある。まず、自分たちに最も身近な自然界の事物を知ることだ。それも日本人が昔からやってきたやり方がよい。アリはゾウと同じくらい面白いし、重要な観察対象である。スズメはコンドルに劣らず、すばらしい存在だ。アリにしろ、スズメにしろ、見たところ小さな生き物たちについて、心配する人々の数が十分に達したそのときにこそ、私たちを取り巻く環境もまた救われるであろう。
伝統が守るイギリスの自然
Britain
私はイギリスに生まれ、そこで育った。五歳のとき、すでにバードウォッチャーであった私は、八歳から十五歳までは野の花、昆虫、化石の収集に熱中した。ショットガンを使いはじめたのは十四歳のとき、獲物はアナウサギとハトであった。自然が、私の成長に手を貸してくれた。自然とは保護すべきものであると同時に、また楽しむべきもの、そして敬意をもって接すべきものなのだということは、私にとってあくまで自明の理であったし、ついぞ疑うことすらなかった。
二十四年間、故国を離れていた私だが、数年前に雑誌とテレビの仕事で三ヵ月間イギリス国内を回る機会を得た。旅を続けるうち、私は胸をつかれ、思わず考え込まされてしまった。なぜこの国には、緑の美しい土地がかくも豊かに広がり、険しくも荒涼たる史跡がそのままに保存されているのか、さまざまな野生の生き物をこれほど身近に多数見ることができるのは一体なぜなのだろうか。
町々の中央を貫いて流れる川の水は、水晶のように透きとおり、くっきりとサケの魚影を映している。町から五分も車を走らせれば、そこはもう高地ムーア《湿原地》の広がる荒涼たる山の高みだ。ムーアのそこかしこに点在する自然の池では、餌をついばみ、ディスプレイを行う野生の水鳥たちの姿が何百羽となく見られる。車の窓から見えるキジ、ヤマウズラ、アナウサギ、ノウサギなどの、あまりの数の多さに、黒姫の雪の中を八時間歩いて、結局鍋に入れる一羽の鳥にもノウサギにも出くわさなかったことを思い出し、なんとも気が滅入ってくるのだった。
ジュラ島では、わずか二、三時間のうちに二百頭を超える野生のアカシカが見られたし、ホイ島では、私の立っている場所から十メートルの所まで、野生のアザラシを呼び寄せることができた。
鳥や動物たちの数はそれこそおびただしく、見るたびに私は大声を上げて同行のカメラマン氏を悩ませたものだ。
「ほら、見ろよ! タカだよ」
しかもそれがしょっちゅうのことなのだ……。
イギリスは小さな国で、人口密度も高い。しかし、国民の大部分は大都市に集中していて、スコットランドやウェールズの居住人口は、実際きわめて少ない。そのうえ、イギリスの農業は日本の農業よりも労働集約度が低いから、野生生物にとってもそれだけディスターブ《妨害》されずにすむわけだ。さらにこの国で飼われている牛や羊の数は日本よりはるかに多いし、牧草地も広いから、家畜以外の動物たちも当然そのスペースの恩恵にあずかれることになる。アナウサギにしろヒバリにしろ、こうした草地は大のお気に入りなのだ。
封建時代の昔から、地方の領主たち、それにイギリス国王自身も、自分たちの狩猟用に広大な土地を取りおき、その保護には厳しく注意してきた。近年は金持ちと政府とが彼らにとって代わってこうした土地を手に入れ、狩猟用に、あるいは国立公園用に使用している。換言するならば、この国での野生生物の保護は、常に国家の中枢にいる人々の政策だったのである。
そのうえ、都市部の若者たちの過激な振る舞いとはうらはらに、イギリス人は本来きわめて保守的で、古い建物や遺跡を眺めるのを好む国民である。政府環境局は非常に力の強いところだし、その意義もよく理解されている。ここでしている仕事は、市民の日常生活の中にはっきりと形となって表れており、あえて啓蒙のための運動をする必要はない。良識ある市民たちが彼らを支持しており、これに非協力的な政治家の立場は、きわめて悪くなるからである。だが、つきつめて考えれば、イギリスの自然は、ほかでもないハンターと放牧業者によって保護されてきたというのが、的確な見方というものだろう。
イギリスの少年らしく、私はあらゆる鳥と動物の名に通じ、馬を乗りこなし、狩りをし、大きな犬を飼った。キジの毛をむしり、アナウサギの皮をはぎ、ブタの屠殺をも手伝った。これが平均的な日本人だと、たとえ田舎に住んでいる人でも、山菜のことならいろいろ知っているのに鳥についてはなにもわかっていないというのがふつうだ。彼らは犬を怖がり、なんであれ動物を屠殺することなど、聞いただけでおぞけをふるう。もちろん、単純に割り切れる問題ではないし、どちらがよいといっているわけでもない。ただ、野生生物の数だけは、イギリスのほうがはるかに多いのは確かなのだ。
エチオピアでの無残な体験
Ethiopia
一九六八年のことである。私はエチオピアの首都アジスアベバで、当局が約束しながら未払いになっていた資金をなんとか回収しようとしていた。
その五ヵ月前から、私はアジスアベバの北八百キロの所にある人里離れた山中に住み、新しい国立公園建設をめざして働いていたのである。
エチオピア帝国政府野生生物保護局では、長官のギザウ・ゲドレギオルギス少佐が机の前に座ったまま、私の持参した五部の月間報告書の束に手を振ってみせた。
「ミスター・ニコル、森林を救うなどと騒ぎ立てて、時間を無駄にするのはやめるんですな。あなたの仕事は動物保護なんで、樹木の救済とは違うんだから」
激しい怒りで、思わず吐息の出るのを抑えて、私はまた説明をやり直そうとした。
ごく簡単な理屈だった。今のように、山腹に広がる森や林を伐採し、あるいは焼き払ったあとの薄い土壌を耕して、段々畑にするほどの手間もかけずにそのまま大麦畑に変えるようなことをしていけば、モンスーン期の到来とともに土壌は浸食と流出を重ね、あとには裸の石ころのほか、なにも残らなくなるだろう。
ジャイアント・ヒースなどの樹木が生い茂る高地の森林の奥、地面に染み入る早朝の露のしたたりを集めて、乾期の間中流れ出ていた多くの泉もまた、消えうせるだろう。新しい国立公園どころか、出現するものはほかならぬ砂漠であろう。要するに、森林の保護は今、絶対に必要なのであった。
しかし、相手はどうしてもわかろうとはしなかった。
私の体には今もなお、あの当時密猟者や不法伐採者から受けたナイフやこん棒による古い傷あとが残っている。二年間、私は彼らを相手に闘いつづけた。
だが、新しい国立公園にとって、主要な敵は彼らではなかった。それは無知であり、文盲であり、農村および山岳地帯における救いようのない貧困であり、はたまた都市部における信じがたいほどの無気力と腐敗なのであった。
一九七二年にニューヨークとロンドンで出した『アフリカの屋根から』(『FROM THE ROOF OF AFRICA』)という本の中で、私はエチオピアという国が深刻な干ばつと飢餓とに向かって進んでいること、そしてクーデターと社会主義革命が起きるのは避けがたかろうと予言した。当時、ハイレ・セラシエ皇帝のエチオピアは、米国にとって緊密な同盟国であったから、私の言葉は、どう見ても一般から好意をもって受け取られたとはいえなかった……。
サハラ以南のアフリカ諸国のうち、いちばん最後まで国立公園を作らなかった国はエチオピアだった。そして、やっと公園建設が具体化したのも、国連からの強力な圧力によるものだったのである。
この国の人々にとって、公園建設の目的は、観光客の落とす金であった。私のような人間が、今後のエチオピアのために自然を保護すべきだと主張しても、役人たちからはただ、エキセントリックな連中のたわごととみなされるばかりであった。
森林が切り開かれ、過度の放牧が行われ、あげくに浸食によって傷めつけられて、この国は砂漠と化しつつあった。ヒョウを多数殺したことから、ヒヒの生息数が爆発的に増え、森林の消滅は、彼らを農作物の襲撃へとかりたてた。止まり木や営巣のための樹木が失われたことは、タカやフクロウの消滅を意味し、それはまたノネズミの大繁殖と、それによる被害を招来した。劣悪な農業経営によって国土は破壊され、生態学者が見れば目を覆わんばかりの惨状に変わりつつあった。
今日のエチオピアを見るがいい。かつてはアフリカで最も肥沃な国土のひとつに数えられていたこの国では今、何百万人もの国民が飢えに苦しみ、そのために外国にまで食糧援助を求めている。
当時に比べて年もとり、だいぶ穏やかになった私ではあるが、それでも野生生物保護の意義を無視する愚かな連中を見ると、いまだになぐり倒したい衝動にかられる。野生生物、森、水、これらはすべて、ひとつの生命体系をなす一環である。
このことを忘れてはならない。
カナダで見た「水に流してしまえ」
Canada
面積でいえば、カナダは世界で二番目に大きな国だ。
海岸線は三つの大洋に面し、その長さは世界第一位である。人口は約二五〇〇万人と少なく、そのほとんどが、ハリファックス、ケベック、モントリオール、トロント、ウィニペグ、カルガリー、エドモントン、バンクーバーなどの南部の都市に集中している。
日本人の多くは、カナダというと決まり文句のように天然資源の豊かさを持ち出すが、この国の広大な無人の地域や、気候の厳しさについてはまるで無知である。
カナダの国民は確かに膨大な天然資源に恵まれているのだが、大部分の国民にとってはそれは遠い存在である。西海岸の処女林やツンドラを目にする人さえごくわずかに過ぎない。にもかかわらず、自然の美と資源を保護すべく、この国が取り組んでいる計画とその努力は、実に大がかりなものである。
数年前、日本政府のある役人が私にひそかにこんなことをこぼした。日本の環境庁の年間予算が、なんとカナダ環境省の予算の四百分の一にすぎないというのである。日本とカナダの両国で暮らした私には、これまで目にしたすべてがこの言葉を裏付けているように思える。
一九六五年、私がカナダ政府内に初めて職を得た当時、フィールドワークを行う科学者にとって、状況は実に厳しいものであった。限られた予算の中で、私たちは孤立した荒野のテントに住み、もっぱら自分たちが取ったアザラシや魚を食べて命をつないだ。超過勤務手当とか、自分たちがくつろぐための設備などあるわけもなかった。ただ、荒野と冒険と、その胸おどる刺激だけが、私たちをそこに引き寄せたのだった。
西海岸地区環境災害処理官としての仕事を最後に、カナダ政府職員を辞した当時、私がおかれていた状況はどうだったか。快適なオフィスに秘書、超過勤務手当、そして必要な設備はすべてそろっていた。ヘリコプターが使いたければ受話器を取り上げるだけで事足りた。
当時も私は北極研究にかかわっていたが、これまた、昔とは大違いだった。北極で働く科学者も技術者も、フィールドワークの期間がほんの二、三ヵ月にすぎなくとも、ぜいたくなトレーラー、個室、ステレオ、それに風呂まで提供されていたのである。いくつもの部局が次々に作り出され、職員の増え方はまさに想像を超えていた。実におびただしい数の環境保護官の群れではあった。
このつけを払うのはもちろん、納税者である国民の側である。
どうしてこんなことになったのか。ひとつにはこの国の人々が環境保護の必要をきわめて痛切に感じている事実がある。
逆説的に聞こえるかもしれないが、豊かな自然に恵まれているにもかかわらず、カナダの国民の大多数は都市部に居住している。そしてそれらの都市はほとんどが、基幹河川や港湾に接し、しかもそこは水産資源の宝庫となっている。パルプ製造場、諸工場、鉱山、都市の下水処理場はどこも同じで、自分たちの出す廃棄物はいちばん安く、手っとり早い方法で処理しようとする。水に流してしまえ! と、こうなるわけである。
したがって、カナダの汚染状況は、ヨーロッパと同じくらい、日本と比べてもほとんど差のないほど深刻化している。周知のとおり、カナダもまたミナマタ病を抱えているのだ。こうした状況を正常化するには膨大な費用と時間が必要となる。
荒野についても、すべてが順調にいっているわけではない。ライフルが持ち込まれて以来、カリブーの群れは激減したし、それまで人間の踏み入ることのなかった渡りの水鳥の営巣地も、モーターボートで簡単に近づけるようになった。
公費の乱用は問題とすべきことではあるが、その底流に流れる大きな動きは、称賛に値しよう。国土の広大さ、過酷な気候、集落間の距離がすこぶる大きく、各地域が孤立している現実。こうした条件が、この国の環境保護行政をきわめて困難なものにしている。
それにしても、自然保護と汚染防止という重大な問題に知恵をめぐらすとき、そのおおもととなるのが自分たちの家の台所の流し、洗濯機、風呂場、トイレの処理にあるという事実を私たちひとりひとりがもっと頻繁に思い起こす必要があるのではなかろうか。問題の解決は、私たち自身の意識と、財布から始まるのだから。
黒姫からの手紙
A Letter from Kurohime
今から二週間前、私はテレビの仕事で多摩川とその水源地域を四日間歩きまわった。七月の初旬のことである。このテレビ番組が計画されたのは、東京の水不足の脅威が深刻になるずっと前のことだった。
多摩川の源流地域に踏み入って、そこに野生がまだ残され、しかも水があくまで清澄なのを見て、私はとてもうれしかった。東京都の水道局の人たちが水源となる森や山を大切にし、保護しようとする、その健全な姿勢にも感銘を受けた。そのうちの何人かは私と会って話すことを喜んでくれたようだ。これまで私がずっと、公共の場で、あるいは文章を通じて、政府の近視眼的な森林政策は、この国の水資源を深刻に損なうことになるだろうと警告してきたことについて、彼らは共感を覚えてくれたのだ。
山々に健全な天然の雑木林が存在するということは、これを言い換えれば、そこに泉があり、川があり、そのことによって自然の猛威がやわらげられるということを意味している。文明がこのことを無視するならば、その文明はやがてはしっぺ返しとしての災害に見舞われ、苦しみ、はては消滅という運命をたどることになるだろう。
川や水の保護はすべての人にとっての関心事でなくてはならない。水道の栓をひねるとき、そこから流れ出てくるのはまさに山そのものなのだ。このことを私たちはいつも心にとめている必要がある。
ひとりのエゴイストのために
川の浄化がはばまれている
ここ黒姫でペンションを経営している人たちの中にも私の友人が何人かいる。都会の人々をここに惹《ひ》きつけるのはスキー場やテニスコートだけではなく、豊かな自然そのものでもあることを、賢い人たちは十分に承知しており、その恩恵を大切にしている。しかし先日、ペンション竜の子のオーナーである中原英次さんが教えてくれた話は私を激怒させ、かつ悲しませた。
黒姫のペンション村を流れる小さな川がある。先ごろ、十八軒のペンションが協同でその川の浄化に乗り出すことを決め、それを実行に移した。川はごみで汚れきっていたが、その多くは農民たちの投げ込むビニールの肥料袋のようなものである。ペンションの人たちは協力して川をきれいにし、ビニールのごみが流れをはばんでいたために生じた腐敗物をすっかり取り除いた。まもなくこの川にはホタルが見られるようになった。
だが、川は完全に浄化されるには至らなかった。一軒の民家が、台所などの生活廃水を直接川に流し込んでいたからである。化学物質や洗剤をたっぷり含んだこの汚水のせいで、浄化に励む人々の努力がはばまれているのだった。
友人はその家へ行き、なんとかしてくれと頼み込んでみた。返事はひどいものだったらしい。
「うちではずっと前からこうやってきたんだ。いちいち文句をつけるなんて、あんたはいったいどこの何様のつもりなんだね」
そのエゴイストは地元の人間である。そのうち私はやつに面と向かって、エゴイストの大馬鹿者と言ってやるつもりだ。
ペンショングループが今考えているのは、その家が廃水を流しているすぐ下流のところに、木炭の堰《せき》でフィルターを作ろうというものである。こんなことをするより、その家の廃水を簡易式浄化槽に流し込んでもらうようにしたほうがよほど簡単だ。浄化槽設置の費用はペンション側で持つといっているのだから、そうやってもその家には一銭も負担がかからないのである。川が浄化され、ホタルが戻り、トンボやほかの虫たちが戻ってきたら、訪れる人はどんなに喜ぶことか。
実際、この国のほとんどの地方で、「地元」の人間の多くは、こと廃水の処理ということになるとまるっきりこれを無視し、こちらの主張に対してはせせら笑う。彼らの吐くせりふは決まってこうだ。
「そういうあんた方はいったいだれなんだ。よそもんじゃないか!」
こうした態度は罪悪といえるほど傲慢《ごうまん》であり、いかにも近視眼的であると私には思われる。傷めつけられている自然を保護し、回復するためには、安上がりの効果的な方法がいくつもある。私たち人間を取り巻く自然の質が改善されるなら、当然、私たちの生活そのものの質もまた良くなるのである。
だが、今いったようなことを述べるのは、どうもタブーなようである。「地元」がいちばんよく知っているのだし、いちばんよくやっているじゃないか、これが日本人のいつもいう常套句《じようとうく》だ。確かにそういう場合もあろう。けれども、そうでない場合もあるのだ。
わが家に日曜ごとに手伝いにくるおばあさんがいる。彼女がいつか私にこういったことがある。
「ホタルだって虫だよね。殺虫剤をかけて殺さなくちゃ。虫はみんな退治しなくちゃだめなんだよ」
私が退治したいのは、人々のエゴイズムと傲慢さ、無知、そして真実を話すことを禁ずるタブーである。ああ、そうそう、ホタルやトンボが戻ってくるのを喜ぶ私たちの仲間は、ちゃんといくつもの税金を払って、地域に貢献している人々である。第一、私たちのなかには自然を汚すような人はだれひとりいないのだから。
驚いてばかりはいられない話
Japan
日本の環境保護について書くのは、どうも気が進まない。この国で私は客人であり、客が文句をいうのは好かれないものなのだ。だが、もしその客が友人である場合には、思うところをはっきり述べても許されるだろう。私は日本で十年間以上暮らしており、いいたいことは山ほどあるのだが、ここではごく基本的なことで、気がついたところだけを少々記すにとどめよう。
二十年前に初めて日本を訪れたとき、私はこの国の大気と水の汚染のひどさにショックを受け、しかもそれが明らかに悪化する一方なのを知って震え上がった。捨てられるごみの量は私をぎょっとさせた(今でもこれには慣れることができない)。
このことを日本の友人に話しても、少しも興味を示さないばかりか、なかには私の不安ぶりを馬鹿にする人々もいた。汚染が人体をむしばむことへの恐怖に人々が突然気づくようになったのは、それよりずっとあとのことであった。こうして、結局は人間の生命さえ侵されていったのだ。いやはや……。
当時、日本のいたるところで小さな河川が死にかかっていた。今は少しはよくなったとはいえ、しかし依然……。
とどまるところを知らない土地の埋め立てが私には恐ろしい。日本人は昔からきわめて変化に富んだ海の幸を楽しみもし、尊重もしてきた。その大部分が沿岸水域で取れたものだ。日本の大陸棚はきわめて狭い。その浅い海域こそはこの国の漁業の要《かなめ》であるはずだ。これを埋め立てたら、とんでもないことになる。それでも埋め立て計画は進められていく。今の日本に、自然の海岸線ははたしてどれくらい残っているのだろう。
山に目を転じてみよう。そこでは天然の落葉樹林が針葉樹の植林にとって代わられ、国立公園さえも例外ではなく、多数の動物や鳥たちにとって生態学上のバランスは崩れる一方である。
私の住んでいる黒姫山麓の信濃町では、毎年クマを罠《わな》で捕らえ、射殺している。子供を連れた雌グマまでもだ。クマがトウモロコシ畑を荒らすからというのだが、クマがそうするのは、自分たちの自然の食物であった樹木やかん木の類が林野庁の指導で伐採されてしまったからなのである。
日本の山野を歩けば、いたるところに地滑りや浸食の跡が見られるが、その大部分は不適切な森林政策の所産である。浸食は河川を沈泥でふさぎ、鉄砲水の原因となり、道路や橋を破壊するなど、計り知れない損害を与える。
環境庁は必死で頑張ってはいるものの、いかにも非力である。今必要なのは金と人員を注入することだ。
ささいな例を挙げよう。私は、銃を肩に犬を連れて、黒姫の山麓あたりをよく歩き回るのだが、今までただの一度も野外でチェックされたことがないのだ。日本には狩猟監督官なるものが存在しないのだから仕方がない。私たちハンターが多額の税金を納めているにもかかわらず、である。
しかし、日本の野生生物がかくも急速に激減しているのは、ハンターのせいではない。鳥の激減ぶりが特に著しいのだが、それに不安を抱くのは、ごく少数にすぎない。心配しているのは双眼鏡とノートを携えた、私のようにエキセントリックな人間だけだ。
しかし、日本人がいったん腰を上げ、なにかに取り組むとなると、そのエネルギーと熱中ぶりたるや、常に目を見張らんばかりとなる。そのよい例を、私は一九七四年の水島石油流出事故の浄化作戦にみた。
あなた方日本人は、自然について無関心であるか、それともロマンチックで神秘的なイメージを抱いているかのどちらかであるように思われる。さまざまな要素が絡み合った複雑な存在である自然というものに対して、日本人は今まで、その知と技とを活かすことがあまりにも少なかった。
しかし、ひとたび日本人が動きはじめ、自然保護がいかに大切かを理解しはじめたときには、まちがいなくこの国は浄化され、はぐくみ養われて、やがては北は流氷原から南はサンゴ礁まで、世界で最も美しく変化に富んだ国土によみがえることだろう。私でよければ、喜んで手を貸したいと思っている。
森が死ぬとき
If the Forests Die, so Will We
一九七二年、私はニューヨークとロンドンで本を出し、その中で、エチオピアには軍部によるクーデターが起こり、おそらく社会主義政権が誕生するだろう。また、深刻な水不足が生じ、飢えと病が長期にわたって悪化するだろう、と書いたことはすでに述べた。
私は、予言者ではない。ただのナチュラリストだ。かつては、アフリカ諸国の中で孤高を保っていた美しい国エチオピア。その北部に建設された国立公園で、当時、猟区管理官の任務に就いていた。
だが、エチオピアでは、急速に森林が破壊され、その結果、土壌の浸食と砂漠化が起こっていた。
憂慮すべき事態を、なんとかくい止めようとした人々はわずかだった。それでも、私たちは、目先の利益のため、たかが数キロの麦のために、すべてを破壊し失いつつあることを、どうにか人々に理解させようとした。とりわけ、大切なのは水だ。
「木の根は、神の手なんだ。土をしっかりつかんでくれている。その神の手を殺したりすれば、必ず罰が下って災いが起こり、土が浸食されてしまう。露や雨、土や岩を、いったいなにがつかんでおいてくれる? 君たちが破壊した谷を見てみたまえ。以前には、森や泉や小川があり、蜂が蜜を作り、木陰ではウシやヤギが草を食べていたのを、覚えているだろう」
口先だけではなく、私は自分の身を賭して、密猟者や違法の森林伐採と闘った。体には今も、こん棒やナイフやかまの傷あとが残っている。逮捕した人数は二百人を超える。ところが、私が日本で勉強するためにエチオピアを去って、わずか半年のうちに、国立公園の六十パーセントの木が切られてしまった。武装した農民の狂気の沙汰におじけづいて、公園の役人たちは、手をこまねいて見ていたのだ。
エチオピアは、果実とはちみつとパンの木の宝庫、アフリカの食糧源だった。険しくそびえる山々に生い茂っていた森は、過去二百年、ことにこの二十年間に目まぐるしい勢いで破壊されてしまった。急斜面のうえ、切りっぱなしでなんの策も講じなかったので、五年ほど後には土壌はすべて流出して砂漠と化した。
エチオピアには、八ヵ月の乾期があるが、昔は水に困ることはなかった。低地から吹き上げる熱風が、気温の下がる夜間に結露するのだ。アフリカ・アルプス独得の木々、見事な花を咲かせるジャイアント・エリカやオトギリソウ、高く高く育ったスギ、これらが露の形で水分を確保していた。国立公園の森を早朝歩くと、こずえから滴り落ちる露で、ぐっしょりと濡れたものだ。
露が無数の泉を作り、泉は流れとなり滝となり川となり、ふもとの高原はみずみずしい緑の大地となった。人々はこの水で家畜を育て、自慢の風味豊かなビールと甘いはちみつ酒を作った。
緑の茂みは、むき出しの岩や砂のようにどんどん熱くなることはない。そのうえ、光合成を行って水蒸気と酸素を吐き出すから、森や丘や谷の温度を下げる効果がある。
局地的な気候の変化が、最終的には広い地域での気候の異変へとつながり、国全体を苦しめるのだ。
だが、エチオピアの惨状を、よその国のことだとたかをくくってはいられない。とりわけ、日本のさまざまな文化は、森林の豊かさと多様性に直接結びついているのだから。
エチオピアでの悲劇が
ひと事ではない日本の現状
あなたが空中から現在の日本の国土を見下ろしたら、きっと、どこもかしこも醜い傷あとだらけで、ぎょっとするはずだ。スキー場や土壌の浸食や地滑りばかりがやたらと目につき、緑は失われ、流れは寸断され、豊かな色彩の自然林は、画一的に植林された針葉樹の濃い緑一色に塗りつぶされている。
もちろん、針葉樹も大切だが、現在のような針葉樹一辺倒はまちがっている。
森林の性格を変えると、空気や水を含む環境全体までもが異なったものとなる。気をつけないと、日本でもそのうち、動物園でしかクマやシカを見られなくなるだろう。春が来ても、自然はひっそりとして、ついには沈黙してしまうかもしれない。そして、スキー場のラウドスピーカーがまき散らす騒音だけが、山々にこだまするのだ。
日本の文化は、木と木からつくりだす製品の上に成り立っている。だから、木を切ったあとに木を植えるのは当然なことだが、落葉樹も等しく植林すべきだ。落葉樹は概して硬質で、品質が優れ長持ちする。経済的な理由からは生長の速い針葉樹が便利でも、これだけは絶対にただす必要がある。
この原稿を書いている書斎の窓から見晴らす木立には、クリやブナ、野生のサクラ、ナラ、シラカバが混生している。強くて丈夫そうな木がよりよく育つように、私が手を入れた。刈り込んだ枝は、冬の間わが家を暖め、キノコを育ててくれる。春には野生のサクラが、甘い小さなサクランボをつけ、鳥たちがついばみに集まってくる。
春と夏は、鳥のさえずりがあふれる喜びの季節だ。
森のおかげで、私の住まいは夏は涼しく冬は暖かい。森は、果実やキノコを与えてくれる。森の中でノバトやキジやノウサギが暮らし、私がそれを取って味わう。森は流れを守り、そこから私たちは魚と清水をもらう。森は私に、安らぎと清浄な大気と歌をくれる。
森はあらゆるものが複雑に絡みあった、ひとつの豊饒《ほうじよう》な総合体として息づいている。私は、森の一部だ。
森が死ぬときには、私たちも死ぬだろう。
あとがき
私はものを書いて暮らしている人間である。このことは当然、仕事時間の大半を世間に背を向け、椅子には尻を向けて過ごしているということを意味するだろう。ただ、私の書くものは、その材料がすべて人生からきているのであり、しかもその人生たるや、今までも、そして今も、ひどく活動的なものなのだった。たとえばこの原稿も、アフリカに旅立つ前の日に書いている。明日から一ヵ月間、ザイールの荒野を巡り、火山や湖や人々や、それからまたゴリラやカバなどを見て歩いて、その成果をテレビのドキュメンタリーにまとめる予定なのだ。
きのうはきのうで、長野、新潟の地域担当の営林署のお役人が私の書斎を訪れ、二時間ほど話していった。林野庁が黒姫の森の古い大木をほとんど切り倒しているのはなぜなのかを説明に来たのである。これも日本の森と野生の生物を救おうとして私が始めた積極的なキャンペーンのせいなのだった。
今、わが家にはアイリッシュ・セッターの成犬が二頭、ひどく活発な子犬が九頭、クマ一頭、妻、住み込みで手伝いをしてくれる順子、それに生後六ヵ月になる娘のアリシアが暮らしている(アリシア、この子の笑い声はいつだって私の憂鬱を吹き飛ばしてくれる)。かなりのにぎやかさである。そのうえわが家を訪れてくる人々の数も相当なものだ。地元の友達はいうに及ばず、ほかにも去年一年間で千人を超えるお客があった。
そんなわけで、仕事の間こそ世間に背を向けてはいても、残りの生活までそうだということではけっしてないのだ。両手で人生をつかむ――これが私の生き方である。
私は自分のことを小説家だと考えているし、事実何冊も小説を書いているが、先日私の友人でもあり師とも仰ぐ谷川雁さんから、私の本領はエッセイにあるといわれた。そういえば、昔学校で、エッセイではいつも最高点をとっていたものだし、自分でも書くのが楽しかったことを覚えている。
この本に収められたエッセイは、七年間にわたって、さまざまな時期、さまざまな気分のときに書いてきたものである。読者のなかにも、このうちのひとつふたつ、いろいろな雑誌で読まれた方もいるだろう。だがこれを全部読んだ人は、翻訳者以外だれもいないのだ。雑誌で悲しいことのひとつは、今月の雑誌が翌月にはごみになるということである。
私はこれらのエッセイのなかに自分の人生そのものを投入してきた。自分の人生がごみになるのを喜ぶ人がどこにいるだろうか。だから、これを全部まとめるという話を聞いたとき、私はとてもうれしかったし、ありがたいと思っている。
この広いすばらしい世界に住む、未知の友人たちの多くが(大勢であってほしいけれども……)、本書を通じて、ほんのひとときでも私といっしょになり、私の人生をともに楽しんでもらえたらと思うのだ。
さて、そうそろ終わりにしなくては。この古いタイプライターにカバーを掛け、いつものリュックサックを押し入れから出して、アフリカ行きの支度をしなければならない。
日本の雪国から、赤道の国へ――行ってきます!
一九八六年二月 黒姫にて
C・W・ニコル
この作品は、一九八六年五月、実業之日本社より単行本として刊行されたものです。
本電子文庫版は、講談社文庫版(一九八九年五月刊)を底本とし、写真・解説は割愛いたしました。